「姫さま、地球があんなに大きくなってきました」 「本当ね」 二人を乗せた船が、月の連絡港を発ってから6時間。 月の王都から毎日見上げていた地球が、今ではもう窓いっぱいに広がっていた。 「初めてなので、少し不安です」 荷物は、最低限必要なものをまとめたトランクひとつ。 月-地球往還船での旅も、残り数十分だ。 「そろそろね」 「は、はいっ」 船室内の表示に従い、ベルトをする二人。 「どきどきしてきました」 「そうね。 私も」 「えっ」 「わたしと比べると、姫さまは落ち着いてると思ってました」 「そんなことないわ」 ちらっと窓の外に目をやるフィーナ。 「前に来たのは、まだまだ小さい頃だったから……」 「あの時のことはほとんど覚えてないの」 「そうなんですか」 ミアは、窓の外を食い入るように見つめている。 「姫さま、あの青いところが海なんですよね、全部水なんですよね」 「そうよ」 「すごいです……」 何度目か分からないため息をつくミア。 「ふふ、私も本当にどきどきしてきたみたい」 「ああっ、見えなくなっちゃいました」 「次に窓が開く時には、もう大気の中よ」 「姫さまは連邦政府の首都、見えましたか?」 小さく首を横に振るフィーナ。 「あっちの方に見えるかと思ったんですけど……」 「やっぱり、地図と丸い地球は違いますねっ」 がっかりしているような、喜んでいるようなミア。 そんなそわそわしている様子を、フィーナは優しい目で見守っていた。 「今はまだいいけど、地球に降りたらあまり浮足立たないようにね」 「あ……は、はいっ」 「すみませんでした……」 「ミアはこれまで通り、私の側に仕えていて頂戴」 「……でも」 「私が学院に行ってる間、地球を観光してみるのもいいかもしれないわね」 しょんぼりしていたミアも、フィーナのフォローで顔が明るくなる。 「いえ、私は一生懸命姫さまの身の回りのお世話をします」 「掃除・洗濯……」 「料理は、月と同じ材料があるか不安ですけど、なんとかしますねっ」 「あまり最初から張り切っていると大変よ」 「家事については、先様の都合もあるでしょうし、話し合いが必要でしょうね」 「はい」 ……。 「姫さまは、ホームステイされるお家の方を、ご存知なんですか?」 「ええ……そうね」 「月に留学に来ていたこともある方が家主よ」 「そうなんですかー」 「でしたら、安心ですね」 「あっ、窓が開きますよっ」 ミアは、ベルトさえ無ければ、窓に貼り付かんばかりの勢いだ。 「わあぁぁ……」 「遠いようで、近いのね……」 「菜月、ほら菜月」 ペンの背で突つく。 「次、当てられるぞ」 「あ、うんうんっ、起きてるよ」 菜月は起きていようと頑張っているが、時々船を漕いでいる。 「大丈夫、大丈夫」 「では次、86ページから……鷹見沢読んでくれ」 「えっ、あ、はいっ」 間一髪。 「えーと、満弦ヶ崎(みつるがさき)中央連絡港市は、現在ほぼ鎖国中の月王国との交流拠点として……」 午後の授業は、どうしても体の機能が昼ごはんの消化に集中してしまう。 宮下先生の抑揚の無いトークもあって、仮眠には格好のチャンスとされている。 「……現在、連邦政府内で唯一大使館が置かれている都市である満弦ヶ崎は……」 ……。 ほんわかとした春の日。 普段は受験勉強に精を出している菜月も、この科目だけは睡眠時間にしていることが多い。 「……今後の交流の進展は予断を許さない状況である」 「そこまで」 「あー……今のところで出てきた『月-地球往還船』というのが……」 「達哉、ありがと」 「ん、ああ」 「またうとうとしてたら、よろしくね」 「月学概論ってさ、受験に関係無いからどうしても眠くなっちゃう」 「俺はそんなことないけど」 「好きだからでしょ」 「まあ、そうか」 ……。 ここ『満弦ヶ崎大学附属カテリナ学院』には、連邦内でも珍しい月関連の授業がある。 満弦ヶ崎中央連絡港市。 文字通り、この街が月王国との玄関口になっているからだろう。 「あー……では、今日はここまで」 教科書やら出席簿やらを脇に抱える宮下先生。 「お前たちも3年だから、外部受験する者は他の科目の勉強をしてても構わんが……」 「いびきをかくのは、迷惑だからやめておけよ」 「寝てると分かりません」 「無理です」 などのブーイングを背に、教室を出て行く宮下先生。 ……。 今日の授業が終わった。 「……じゃ、行こっか」 「だな」 席を立つ俺たち。 ……。 引退を間近に控え、最後の大会に向けて部活に向かうクラスメイト。 掃除を始めている当番たち。 そんな連中の間を抜けて、俺と菜月は昇降口へ向かった。 「あ」 「麻衣かな?」 ……。 中庭から校舎内に響きわたるフルートの音色。 よく耳を澄ませば、校舎内のあちこちから楽器の音は聞こえてくる。 が、そのフルートの音色だけは、何となく聞き分けることができる。 俺と菜月は、中庭経由で昇降口へ向かうことにした。 「やっぱり麻衣だね」 「ああ」 そこには、フルートを吹いている麻衣がいた。 ……。 吹奏楽部に所属する妹の麻衣は、放課後よくここで練習している。 校舎のあちこちで吹奏楽部員がパートごとに練習しているが、フルートパートは中庭らしい。 「……あ、お兄ちゃん」 ちょうど区切りが良かったのか、麻衣が近寄って来る。 「練習中じゃないのか?」 「今は自主練だから」 「……お兄ちゃんたちは、これからバイト?」 「ああ」 「金曜だから、少し忙しいかな」 「そだね」 「菜月ちゃん、今日も行くからね」 「はい、お待ち致しております」 ぺこりと、菜月がお辞儀をしてみせる。 「今日は何時くらいになりそうだ?」 「んーと」 「あそこにいる、新入部員の上達次第かな?」 俺たちより一つ下、2年生の麻衣。 先輩がみんな受験で引退し、パートリーダーを務めている。 さて、どうするかな。 「……でね、お兄ちゃんと同じクラスの遠山先輩が、クラリネットのリーダーなの」 「遠山先輩って……遠山翠か」 「意外だな」 「なんだ、達哉知らなかったんだ」 「いつもクラリネットは廊下の一番奥で練習してるんだよ」 「屋上で練習してるのはトランペットだっけ?」 ……。 吹奏楽部事情に、少し詳しくなった俺。 「菜月、時間分かる?」 「ん? ……ああっ」 「菜月ちゃん、大丈夫?」 「急がないとっ」 「麻衣、じゃあなっ」 「う、うん。 急いでね」 俺と菜月は、昇降口を駆け抜け、校門を駆け抜け、川原まで走ることとなった。 ……。 …………。 「はぁ、はぁ……」 「ふぅ……もう大丈夫かな」 「おお、ホントだ。 急げば何とかなるもんだな」 「ま、急がずに済むのが一番いいんだけど」 「そーね」 息を整えながら、二人で川原を歩く。 「じゃあ左門で待ってるから」 「うん」 「頑張ってね」 「菜月ちゃんもね」 何度か振り返りながら、練習の輪に戻る麻衣。 俺と菜月は、背中にフルートの音色を聞きながら、昇降口から校門へ向かった。 ……。 菜月とは、家も隣でクラスも同じ。 そして菜月の家が営んでいるイタリア料理屋『トラットリア左門』は、俺のバイト先でもある。 「達哉さ」 「……今月も、ずいぶん働いたんじゃない?」 「まあ、先月と同じくらいかな」 「私は自分ちだからいいけどさ」 「達哉って、何か買いたいものでもあるんだっけ?」 「ん? あー、まあ……秘密」 「なーにが『秘密』よ、もー」 そう言って笑う菜月。 「でもさ、麻衣みたいに部活に打ち込む青春! ってのも良かったんじゃない」 「トラットリア左門部、じゃ駄目かな」 「ビミョー」 「でも、バイトで勉強になることは多いし、楽しいからさ」 菜月はため息をひとつ。 「まあ、そう……とも言うかな」 学院からうちまでは、歩いて15分くらい。 うちの周りが商店街ということもあり、歩いていて飽きることはない。 その商店街の真ん中あたりに、トラットリア左門がある。 菜月の父親がシェフを勤め、兄も働いていて、二階が住居部分。 菜月と俺は、フロア担当として働いている。 ……ちなみに、左門というのは、菜月の父親の名前だ。 「じゃ、店で待ってるね」 「すぐ行くよ」 店の裏手にある玄関へ消えていく菜月。 そのすぐ隣が俺の家だ。 ペペロンチーノ「わんっわんっ」 カルボナーラ「わふわふわふっ」 アラビアータ「わう」 「わっ、こらっ」 ……家に帰ると、まずはこの犬たちの洗礼を受けなくてはならない。 三匹とも俺が拾ってきた犬だけど、名前はみんな菜月がつけている。 ペペロンチーノ「わんわんっわんっ」 カルボナーラ「わふわふわふっ」 アラビアータ「わう」 「ごめんごめん。 散歩はまた夜にな」 イタリアンズ(犬たち)は不満そうだが、仕方無い。 ……なおも追いすがるカルボナーラを引きはがし、やっと玄関に入れた。 「ただいまー」 制服から着替え、カバンを部屋に放り込み、トラットリア左門へ向かう。 からんからん「いらっしゃいませーっ」 既に接客態勢に入っていた菜月。 「……なーんだ、達哉か」 「悪い、ちょっとイタリアンズに絡まれてて遅れた」 あと十分ほどでディナーの部が開店する。 そろそろ、気の早い客が来てもおかしくない時間だ。 「おうタツ。 来たな」 研ぎ終えた包丁を眺め、その輝きを確かめているおやっさん。 「今日もよろしく頼むわ」 「はい」 「じゃあ達哉は、観葉植物に水やっといてくれる?」 「分かった」 店の中にある緑に水をやる。 ついでに外にも。 ……。 ん?店の前に出してあるメニュー黒板に『本日のおすすめ~満漢全席280円』と書いてある。 「なんだこりゃ?」 「僕が書いた」 振り向くと、仁さんが立っている。 「これなら、お客さんが来るだろう?」 「いや、嘘ですから」 「だいたい注文が入ったらどうするんですか?」 「売り切れ、でどうかな?」 しれっと言ってのける。 「一度も売ったことがないものを、売り切れって言うんですか?」 「でもね、達哉君」 「お客さんが来ないと、君の給料も出ないのだよ」 「この看板見て入って来る人は、お金を払ってくれないですよ」 「そこで達哉君のウェイター能力が問われるのさ」 「『満漢全席はございませんが、代わりにエビのリゾットはいかがでしょうか?』」 「素直に今日のおすすめをエビのリゾットにしといて下さい」 「達哉君は遊びゴコロが分かってないなぁ」 「遊んでないで、さっさと仕込みに戻れ」 「ッス」 「タツ、黒板は直しといてくれ」 「分かりました」 仁さんは、おやっさんに引きずられるように店内へ。 「そうだ達哉君」 「はい」 「君が拾ってたショール、今日のランチタイムに持ち主のお姉さんが来てさ」 「大事なもんだったとかで、むっちゃくちゃ感謝してたよ」 「へえ。 良かったじゃない」 「だからゴミじゃないって言ったじゃないですか」 「どう見てもボロ布だったんだけどなぁ」 「……そうそう。 お礼を言ってた持ち主、綺麗なお姉さんだったよ」 「兄さん……」 「おい仁、エビの背わたがまだ残ってるからな」 「ッス」 厨房では、二人が食材の下ごしらえを続けている。 CLOSEDの札をOPENにひっくり返す菜月。 トラットリア左門、ディナータイム開店の時間だ。 ……。 …………。 からんからん「ありがとうございましたー」 9時になり最後のお客さんが帰ると、店内の緊張感が少し和らぐ。 菜月は、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、コップに注ぐ。 美容と健康のために、菜月はいつも野菜ジュースを飲んでいた。 「今日もご苦労様」 「最後にもうワンオーダーありますな」 「そうだな。 今日は久し振りに仁に任せてみるか」 「いいかな、タツ」 「……いいですよ」 「達哉君、今の間は何かな?」 「無いです、間なんか無かったですってば!」 ……。 閉店後のトラットリア左門では、おやっさんか仁さんが「まかない」 を作り、皆で食べている。 今日は、仁さんが作ることになったようだ。 からんからん「ただいまー」 「おかえり」 「いいタイミングだね麻衣ちゃん。 今日は俺が腕によりをかけるよ」 「そうだ、食後にはアイスクリームをつけよう」 「わあっ、楽しみにしてますね」 「達哉君、これが世間の評価だよ」 「麻衣の好物で釣ってるじゃないですか!」 「はっはっは。 まあ結果を見ていたまえ」 「いいから、早く作ってよ。 さっきからお腹が鳴ってるのを隠すのが大変なんだから」 仁さんが、大げさにため息をつく。 「ウェイトレスとして、それはどうなのかね」 「ウェイトレスも人間ですもの」 「……まあいいだろう。 任せておきたまえ」 ……。 定休日の水曜と週末以外は、うちの家族も一緒にまかないを食べさせてもらっている。 吹奏楽部の練習で遅くなる麻衣。 一緒にバイトをしている俺。 そして……。 からんからんガンッ「た、ただいま~」 「なんか今、思い切り扉にぶつかってなかった?」 「そんなこと、ないですよ?」 思い切り嘘だ。 「あ、でも間に合ったみたいね。 良かった良かった」 少し息を切らせて入って来たのが、さやか姉さん。 「あ、お帰りなさーい。 まだ食べ始めてませんよー」 「お疲れさま、お姉ちゃん。 今日も遅かったね」 「ほんと、もうお腹空いちゃって空いちゃって」 「そういう方にもご満足頂けるメニューをご用意いたしております」 「あ、仁くんが今日の担当なのね」 気取ったポーズで、仁さんに注文を出すフリをする。 「本日のお勧め料理は何かしら?」 「僕の気まぐれカルパッチョだよ、さやちゃん」 「仁くんの気まぐれは、打率3割くらいだからなぁ」 そう言って笑うさやか姉さん。 ……さやかさんは、うちに同居してる俺の従姉だ。 月に留学したことのある数少ない地球人で、その後、月王立博物館に勤めている。 「じゃ、やろうよ」 「おーう」 店の一番奥のテーブルに手をかける。 「せーのっ」 息を合わせてテーブルを持ち上げ、隣のテーブルにつなげる。 これはおやっさんの提案だ。 全員が座れる大きなテーブルを作り、みんなで一緒にご飯を食べること。 麻衣や姉さんが早く帰れた日も、この時間まで夕食を待つことにしている。 ……。 菜月が、全員分のグラスを持って来て、テーブルに並べ始めた。 「達哉」 「ああ、水な」 ……厨房からは、おやっさんが、仁さんの手つきを指導する声が聞こえる。 しばらくして出てきた料理を皆で囲み、いつも通りの夕食となった。 ……。 …………。 「ごちそうさまでしたー」 「ごちそうさまでした」 「仁の料理、どうだった?」 「美味しかったですよ」 「麻衣ちゃん、もう少し具体的に」 「んーと、白身魚のカルパッチョがさっぱりしてて美味しかったです」 「さやちゃんは?」 「そうね……」 「シーフードのペペロンチーノは、もう少しガーリックが効いてても良かったかな」 「うむ」 「最初にフライパンでにんにくを炒める時、もう少しきつね色になった方がいいんだ」 「うーん、やはりそうか」 「仁さん、この前は焦がし過ぎたから警戒したんですよね」 「はっはっは、指摘されなくても自分で分かってる」 「ガーリックの炒め方は、イタリアンの根っこだからな。 精進、精進」 ……。 料理人としては修行中の仁さん。 よく、こんな風にまかないで練習をしている。 それだけではなく、夜中や朝にも一人で練習してるみたいだけど、あまり本人は口に出さない。 「……よし、じゃあ片づけるか」 おやっさんの一声でみんな席を立ち、皿を運んだりテーブルを元の配置に戻したり。 仁さんは皿を洗い、残りの人はざっと片づけをする。 ……。 …………。 「おやすみなさい、おじさん」 「ああ。 おやすみ」 「おやすみなさーい」 「おやすみー」 「仁さん、料理修行……頑張って下さいね」 「僕の料理無しでは生きていけないようになってから、泣きべそをかかないようにね」 「そこまでの腕になってくれたら、泣いてもいいです」 ……。 ……今、朝霧家に住んでいるのは、麻衣とさやか姉さんと俺。 「ただいまー」 「ただいまー」 ……。 返事が無いのは分かっていても、一応ちゃんと挨拶する。 親父は5年前に出て行ったまま行方不明、母さんは3年前にこの世を去った。 さやか姉さんが支えてくれているこの残された家に……今は、三人で何とか暮らしている。 「ん、んーっ」 ベッドに上半身を起こしたまま、背伸びをする。 今日は土曜で学院も無いから、二度寝しても何も問題無い。 が。 「わんわんっ」 「しょうがないなぁ。 よっ」 と、元気な犬の鳴き声に背中を押されるように、ベッドから起き出した。 ……。 姉さんや麻衣はまだ寝てるのだろう。 二人を起こさないように、そっと階段を下りる。 ドッグフードの入った大きな紙箱を手に、リビングから、サンダルを引っかけて庭に出る。 からからペペロンチーノ「うぉんっ」 カルボナーラ「わふわふわふっわふっ」 アラビアータ「をん」 ちぎれんばかりに尻尾を振り、俺にじゃれついてくるイタリアンズ。 「待て、待てってば」 三匹それぞれの餌入れに、ドッグフードをざらざらと流し込む。 一応行儀よく待ってはいるが……その「お座り」 の格好とは裏腹に、瞳には期待が満ち溢れ、呼吸は荒い。 「よしっ」 三匹は一斉に、ドッグフードに顔を埋めた。 ……。 それぞれの餌が無くなると、少し静かになる。 ……と思ったら。 「ぅおん?」 通りの方を見て、不審な動きを見せるイタリアンズ。 「あれ、気づかれちゃった」 「菜月か……わっ」 ペペロンチーノ「うわんっうぁんおんっ!」 カルボナーラ「わふわふわふわふわふっ」 アラビアータ「おんおんっ」 「きゃっ、こら、あははっ」 大人気だ。 「菜月はモテモテだな」 「動物は純粋だから、いい人を本能的に嗅ぎ分けるの」 「言ってろ」 「……でも、こんなに朝早くどうした?」 「嬉しそうな鳴き声が聞こえてきたから、目が覚めちゃった」 「そっか。 悪かったな」 「べつにー」 「ほらほら、わしゃわしゃしゃしゃ」 菜月が、一番大きいカルボの首に腕を回し、首輪の下を掻いてあげる。 「おんっ♪」 あーあ、あんな嬉しそうな顔しやがって。 ……。 イタリアンズは菜月に遊んでもらうのが大好きで……菜月が来る度にこのありさまだ。 「菜月から、犬に好かれる匂いでも出てるのかな」 「こっちから『大好きオーラ』を出してれば、普通は犬も好きになってくれるよ」 「そのくらいじゃなきゃ、獣医なんて目指さないって」 菜月はそう言うが、それだけじゃなくて、何か生まれつきの才能があったりするのかもしれない。 もしそうなら、菜月が目指してる獣医は、天職かもな。 ……。 からから「おはよー」 「おはよう」 「おはよう、麻衣」 「ん? 寝癖、寝癖」 菜月が後頭部を撫でるジェスチャーで教える。 「え……あっ、ほんとだ」 ぱたぱたとキッチンへ向かう麻衣。 「えーと、寝癖がどうしたの?」 麻衣の後ろから現れた姉さん。 しかし……麻衣とは比べ物にならないくらい、ぴょんぴょんと髪が跳ねている。 「ほらほら。 おいでおいでー」 「おんっうぉんっ」 カルボが、先陣を切って姉さんに甘える。 「おぉんっわんっおんっおんっ」 「ぅおんっ、おんっ」 「もう、さやかさんが来ると、アラビまで甘えん坊になっちゃうんだから」 「姉さん、パジャマに毛がついちゃうよ」 「まあまあ」 「あ、お姉ちゃんばっかりずるいー」 戻ってきた麻衣が加わる。 しかし……姉さんの寝癖は気になるなぁ。 どうしたものか。 改めて姉さんの頭を見る。 ……。 姉さんは朝に弱い。 しかし、それも一家を支えるためなんだよなぁ。 そう考えると、この寝癖もありがたい物のような気がしてきた。 「あ」 「お姉ちゃん、すごい寝癖だよ」 さらりと指摘してしまう麻衣。 「本当?」 さわさわ「それより姉さん……」 「すごいことになってるよ、頭」 「うんうんうんうん」 菜月も、ものすごい勢いで首を縦に振る。 「え?」 手で頭の周りをふわふわと触ってみる姉さん。 みるみる顔色が変わる。 「ね?」 「……ひゃあぁぁ」 姉さんは、真っ赤になって洗面所へ駆けていった。 ……。 今日は学院も休みだし、午前中はちょっとのんびりできる。 春の暖かい風。 平日と違ってかまってくれる人が多いから、イタリアンズもごきげんだ。 ……。 麻衣が淹れた濃い目の緑茶を飲むと、姉さんはすっかり目が覚めたようだ。 「いただきます」 「いただきまーす」 「どうぞ、召し上がれー」 ……だいたい、うちで食事をする時は、麻衣が料理をする。 姉さんは仕事で遅かったり早かったりするし、俺もバイトに出ていることが多い。 そんな中で、何となく麻衣が料理担当みたいになって、今に至る。 「お、麻婆豆腐か」 「はずれでーす」 「これは、キャベツね?」 「そうでーす」 「正解は、麻婆ロールキャベツでしたー」 「ん、意外と合うな」 「ほんとね」 「それに、私が間に合うように、手早く作ってくれたのもすごいわ」 「でも、ロールキャベツは冷凍のだし」 「ありがとう、麻衣ちゃん」 「いえいえ」 麻衣が、嬉しそうに照れる。 その頭を、姉さんが撫でた。 「よしよし」 「あはは」 姉さんに褒められ、ほわわん、となる麻衣。 ……。 味噌汁を飲み終えると、箸を置いて手を合わせた。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまー」 「お粗末さまでした」 深々と頭を下げて一礼。 「じゃ、行ってきますね」 「いってらっしゃーい」 ……姉さんは現在、博物館の「館長代理」 だ。 館長はどこか遠くの偉い人らしく、名前を貸しているだけ。 つまり、姉さんが博物館の実質トップなのだ。 俺と麻衣は、そんな姉さんのことをこっそり誇りに思っている。 ……。 「じゃ、片づけよっか」 「皿、流しに運ぶよ」 学院が休みなので、土曜日は家の中を掃除することが多い。 夕方からは、左門のバイト。 まる一日休みじゃないぶん、遊びに行くより掃除したくなったりする。 「今日は洗濯物も乾きそう」 「ああ、いい天気だな」 麻衣が洗濯物を干し、俺は掃除機をかける。 「洗濯ものに、触っちゃだめだからね」 「わんっ」 「後で遊んであげるから」 「わぅんっ」 「はい、じゃああっちで遊んでてね」 「くぅぅん~」 菜月はイタリアンズにすごく好かれている。 姉さんはいつも甘えられている。 でも、麻衣は言うことを聞かせるのが一番上手いような気がする。 「……ふう、終わったよー。 お兄ちゃんは?」 「もう少し」 「えーと、風呂だけ頼める?」 「うん、分かった」 庭からサンダルを脱いでリビングに上がり、洗面所へ駆けていく麻衣。 ……麻衣が所属している吹奏楽部は、平日の練習を遅くまでやる代わりに、土日は休みだ。 おかげで、土曜日はこうして家事を分担することができる。 ……。 「どう?」 風呂の掃除を終えた麻衣が、こっちの様子を見に来た。 「ああ、あとここで終わり」 「じゃあ、終わったら行こう?」 「はいはい」 麻衣は、フルートパートのリーダーになってから、土日も自主練習することが多い。 きっと、パートリーダーとして恥ずかしくないように、と思っているんだろう。 俺は掃除機をしまい、ジャケットを羽織って外に出た。 「わぅぅー」 カルボの相手をしながら、麻衣が出てくるのを待つ。 「待って待ってー」 「ちゃんと鍵かけろよ」 「うん、えと……えいっ」 「おっけー」 たたたっと駆け寄って来る麻衣。 「じゃあ、行くぞ」 「うん」 フルートケースを持ってやる。 「ずいぶんボロボロだな」 「入部してからずっと使ってるし、先輩たちも代々使ってたから」 これから練習に向かうのは、いつもの川原だ。 ……。 「今日はあったかいなぁ。 ジャケットいらなかったかも」 「そうだね」 「……あ、帰りに食材買っていこうかな」 「金持ってきてる?」 「あはは、小銭入れだけ」 「貸してくれる?」 「ああ、いいよ」 東満弦ヶ崎駅から伸びる商店街。 その中にトラットリア左門とうちがある。 左門もうちも、日常的な買い物はほとんどこの商店街で済ませていた。 「お、麻衣ちゃん。 今日は春菊が安いよ!」 商店街のいろんな店から、声がかかる麻衣。 麻衣も、にぱっと笑顔で応えている。 「ありがとうございます、帰りに寄りますー」 「あら、麻衣ちゃん。 今日は早くも鰹が入ったから見てってよ!」 「あ、初鰹ですね。 帰りに寄りますー」 ……。 「麻衣、まるで主婦みたいだな」 「お兄ちゃんひどーい」 「近所づきあいは大切だし、家計にも優しいのに」 「なるほど。 確かに」 「お兄ちゃんもわたしを見習ってよ」 得意気に、少し胸を反らす麻衣。 「さ、着いたぞ」 弓張川の河川敷。 登下校でも、毎日通っているところだ。 「じゃあ……今日もお願いします」 「任せとけ」 と言っても。 実際には、座ったり寝っ転がったりしながら、麻衣のフルートを聴くだけだ。 麻衣に言わせれば「聴いてる人がいるだけで緊張感のある練習ができる」 そうだけど。 「ではでは」 ……。 …………。 俺じゃなくてもいいんじゃないか? と聞いてみたこともある。 が、知らない人に聴かせるのは恥ずかしいそうだ。 ……。 放課後、学院の中庭で麻衣が吹いてるのと同じ曲。 練習用の課題だとか。 ……。 うちの学院の吹奏楽部が、地区大会上位の常連だったりするわけではない。 それでも、学院の中では真面目に活動してる部だと思う。 麻衣から聞く限り、けっこう体育会的なところもあるみたいだし。 ……。 春のぽかぽかした日差し。 川面を渡る風。 その風に乗って流れる、麻衣が奏でるメロディ。 ……。 …………。 「お兄ちゃん」 「あ、ああ」 「……寝てたか?」 「うん」 「そっか。 ごめんな」 「いいよ。 いてくれるのに意味があるんだから」 「……じゃなくて、そろそろバイトの時間かなって」 時間を確かめると、4時半。 「そうだな。 助かった」 「じゃ、帰ろっか」 「買い物していくんだろ?」 「うん」 「じゃあこれ」 財布から、何枚かお札を渡す。 「足りるか?」 「うん。 十分」 「じゃ、バイト頑張ってね」 「ああ。 フルートは持っていくよ」 「わあ、助かるー」 フルートケースを、麻衣から受け取る。 「手入れは?」 「うん、買い物が終わって帰ったらやる」 「……それじゃ行くねっ」 魚屋の人だかりの中に消えていく麻衣。 俺は、フルートケースを持って、家へと向かった。 ……。 ん?誰かいたよな、今。 角を曲がり、うちの方を見る。 ……。 あれ。 こっちに曲がって行ったはずなんだけど。 ……?「わん」 「わふ?」 「おんっ」 「よしよし。 帰ったよ」 ……ま、いっか。 土曜日は家で食事を取る日。 麻衣が作ってくれたご飯を、姉さんと三人で食べる。 「今日は回鍋肉(ホイコーロー)でーす」 「ん、うまそうだな」 「味噌汁よそうわねー」 「じゃ、お茶淹れるわ」 いつもの週末、いつもの朝霧家の食事風景。 ……。 そして、いつものように食べ終わったあと。 「二人とも、ちょっといい?」 「なに、お姉ちゃん?」 「風呂ならまだ洗ってませんごめんなさい」 「お風呂は……洗っておいてね」 「はい」 「二人にお知らせがあります」 なんだろう。 口調はいつも通りだけど、改まった話のような気がする。 「急な話なんだけど」 「私たちに、家族が増えることになりました」 「えっ……?」 家族が増える。 家族が……増える!?「ど、どうやって?」 「お姉ちゃん、もしかして」 「子供ができたとか?」 「結婚するの?」 まさに青天の霹靂。 俺と麻衣は動揺しまくりだ。 「えっ?」 「えええええっ?」 ぽかんとしていた姉さんの顔が一気に赤くなる。 「ちちち違いますっ」 「ご、誤解ですからねっ結婚の話なんてカケラも無いし子供なんてこここ子供っ!?」 わたわたと手を振っている姉さん。 俺たちを数段上回る混乱っぷりに、ちょっと冷静になる。 「ええと、ちゃんと説明してください」 「うんうん」 「そっ、そそそうね」 「すーはー、すーはー」 深呼吸。 俺も、こっそり深呼吸する。 「ええとですね」 「明日からなんだけど、うちで、ホームステイを受け入れることになりました」 「ホームステイ」 「はあ」 「ホームステイというと、あのホームステイ?」 「ええ、多分そのホームステイです」 俺は、ひとつ大きなため息をつくと、きっと姉さんの方を向いた。 「びっくりしたじゃないかっ」 「そういうことなら、ちゃんと最初からそう言ってくれないと」 「うんうん」 「ごめんなさい」 しゅーんとなってしまう姉さん。 「……で、どんな人なの?」 「知り合い……といえば知り合いなんだけど」 「男の子? 女の子?」 「歳は?」 「どこの人?」 「ええとね」 「知ってるかな。 月の国……」 「スフィア王国」 ?一瞬、何を言われてるか分からない。 「そりゃまあ」 「一応、知識としては知ってますけど」 「まさか……」 「月から?」 「ぴんぽーん」 「……ほ、本当なの?」 うなずく姉さん。 「す……」 「すごーい!」 椅子からぴょんと飛び上がりそうな麻衣。 俺はといえば、想像もしていなかった出来事に、頭の回転がついていかなかった。 ……。 …………。 そりゃそうだ。 スフィア王国と言えば、神秘のベールに包まれた国。 地球に住んでいる全ての人類にとって、ほんとうに唯一の『異国』なんだから。 「お姉ちゃん、性別は? 歳は?」 「あのね、驚かないでね」 「もう何言われても驚かないよ」 「月の人が来るってだけでもう、ここ一年分くらい驚いた」 「ホームステイしに来る人って……」 「スフィア王国の、お姫さまなの」 ……。 …………。 「麻衣、しっかりしろ麻衣っ」 「お兄ちゃん……」 麻衣の肩を掴み、前後に激しく揺する。 「いいい今、お姉ちゃんが言ったこと、わたしよく聞こえなかった」 「そうそうそう、実は俺もそうなんだ」 「姉さん、もう一度言ってくれる?」 姉さんは、にこにこ頷く。 「うちに、明日から、ホームステイしに来るのは、」 「月の、スフィア王国の、お姫さまよ」 ……。 …………。 「ってことは」 「うちは召し上げられてしまって、俺たちは追い出されるということ?」 「もう、一緒に住むって言ってるでしょ」 少し頬を膨らませ、怒って見せる姉さん。 「たっ、大変っっ!」 「住んでもらう部屋が無いよっ」 「それより麻衣、口に合うものを作れるのかっ!?」 「だめだめだめだめだめだめ、絶っっっっ対にムリ!」 「ああ、でも料理人とか来るよなきっと来るさそうだそうだよ当たり前だよな」 「お供は一人だけって聞いてるけど」 ……。 「あのね姉さん」 「いくら月に留学したことがあるからって、そんなあり得ないこと言って俺たちが信じると思ってる?」 「困りましたね……」 「だってそんな、護衛の人だって、外交やら何やらの関係者だって、たっぷり来るはずだろ?」 「たった二人で来るなんて……」 「うん」 俺と麻衣で、姉さんをじっと見つめる。 「……」 ……。 …………。 「……本当なの?」 「ええ。 本当よ」 「本当に?」 「本当に」 ……。 「部屋、片づけないとね」 「そーいう問題か! いや、そういう問題でもあるんだけど」 「家族にとって、大切な問題を姉さん一人で決めちゃうなんて、珍しいっていうか」 「ちょっと……納得いかないっていうか」 「……」 こんないびつな家族だからこそ、大事なことは、みんなで話し合って決める。 そうやってきたはずだ。 ホームステイ自体をどうこう言うつもりは無いけど、相談されなかったのは……少し寂しい。 麻衣も無言で同調してくれている。 俺の発言のせいだけど、少し重い空気。 ……姉さんが、軽く頷いて口を開く。 「……そうね」 「今回の件を、一人だけで受けちゃったことは謝ります」 「ごめんなさい」 「お姉ちゃん、いいよ」 「うん……」 「でも、さっきまで言ってたことは、全部本当なの」 「明日から、月のスフィア王国のお姫さまが、うちにホームステイに来るわ」 ……。 「うちに来ることになるまでにも色々あって、あまり相談することもできなかったの」 「今さら言っても、後付けの言い訳になっちゃうけど……」 「うん。 姉さん、もういいよ」 「ありがとう」 ……なでなで。 姉さんは、いつもと同じように、俺の頭を撫でてくれた。 「さて」 「どの部屋を使ってもらうことにするの?」 「うーん」 「一階の客間を使おうと思うんだけど」 「そうだね」 「母さんが使ってた机くらいは、運んでおいた方がいいかな」 「姉さん、お姫様が来るのって何時くらいなの?」 「日中だとは思うんだけど、詳しい時間までは分からないの」 「明日は、朝から家具を運ばないとね」 「じゃあ、今日は掃除だけでもしておこうよ」 ……。 三人で、手分けして掃除をする。 月のお姫さまに、埃のたまった部屋を使ってもらうわけにもいかない。 ……久しく使っていなかった客間の掃除は、かなりばたばたと進められた。 しかし、手を動かしながら俺は……。 多い時は5人が暮らしていたこの家に、久し振りに人が増える。 その事実に、少しわくわくしていた。 ベッドに入ってからも、しばらく眠れなかった。 きっと、これまで繰り返してきた変化の少ない日々が、変わっていく予感のせいだろう。 寝返りを何度も打つ。 ……。 …………。 だめだ。 寝よう寝ようと思うと、余計に焦って目が冴えてくる。 ……こういう時は。 散歩するに限る。 イタリアンズの散歩をしようかと思ったけど、連中が大喜びすると、姉さんや麻衣を起こしてしまう。 しょうがない、一人で夜の街をふらふらするか。 ……。 昼は汗ばむくらいに暖かいけど、まだこの時期は夜が涼しい。 見上げれば月。 あの月から、うちに人が来るなんて、まだ全然実感が湧かない。 いったい、どんな人なんだろう。 お姫さまなんて人種には会ったことも無いし、映像を見たことも無い。 姉さんは「気負わなくていい」 って言ってたけど、そもそも何に対して気負えばいいのかもよく分からない。 ……あれこれ考えているうちに、俺は公園まで来ていた。 丘の向こうからは、波の音も聞こえる。 ……。 …………。 この街は地球の月に対する玄関口だけあって、月の大使館があったりもする。 月人居住区もあるけど、普段は近寄りがたい雰囲気が漂っていた。 ……。 そもそも、月のお姫さまなんて生活レベルも違うだろう。 うちみたいな庶民と一緒になんて暮らせるのかな。 ……そんなことを考えながら歩いていると、物見の丘の頂上付近まで来ていた。 そこから海を眺める。 ……。 崖の下には海があり、静かにしていると、ここまでかすかに波の音が聞こえて来る。 ほとんど明かりも無いはずの場所を、明るく照らす月。 今日は、少し白くにじんでいる。 ……。 38万キロという、地球から月までの距離。 実際どれくらいのものなのか、実感もできない。 地球が確か一周4万キロだったから、9周半くらいかな。 結局、よく分からない。 「遠いよなぁ」 思わず口をついた独り言。 すると、ふと周囲が明るくなったような気がした。 振り返ろうとしたけど……何か、振り返っちゃいけないような気がして、足がすくむ。 ……。 なんだろう。 月明かりでできた俺の影が、足元から伸びる。 波の音が、遠くから聞こえる。 少し湿った風が、頬を撫でる。 ……。 …………。 俺は、思い切って、振り返った。 そこには人が立っていた。 非常に場違いな服に身を包んだ、しかし、とても綺麗な人。 風が止む。 この人は、どこかで──月に対して逆光なため、顔はよく見えない。 でもなぜか会ったことがある……気がした。 「……」 「……」 彼女が、微かに口元を動かした。 何か喋ったのかもしれないけど、よく聞こえない。 ……。 互いに、互いの瞳をじっと見つめている。 俺が目を逸らしちゃいけないような気がして──向こうも、同じように視線を逸らさず。 長い間。 ずっと長い間──……。 …………。 どれくらいの時間が経ったのか、分からなくなってきた。 凪いでいた空気が、ふっと二人の間を吹き抜けた。 「あ」 思わず、一瞬だけ目を閉じてしまう。 ……。 再び目を開いた時。 たった今まで見つめていた女の子が、いなくなっていた。 今のは……?夢や幻を見ていたのでなければ、まだ近くにいるはずだ。 俺は、すぐに周囲を見渡した。 が。 人の姿とおぼしきものは見当たらなかった。 「寝ぼけてたか?」 わざと、少し大きめの声で自問する。 その声も、海から崖を駆け上がる風にかき消された。 ……。 …………。 「体調が悪いなら言ってね」 「だいじょーぶだいじょーぶ」 ……。 結局、昨日は散歩したことで余計眠れなくなった。 少しだけうとうとできたのが、明け方近くなってから。 おかげで、ちょっと眠い。 「今日は家具も運ばないといけないしな」 「うん」 「今日は、久し振りに私が朝御飯を作ったのよ」 「へえ、そうなんだ」 「腕が落ちてないといいんだけど」 「大丈夫、味見したら美味しかったよ」 姉さんの料理は、いつも大皿にたくさん盛ってあり、みんなで取り分ける。 この朝も、みんなでアスパラの肉巻きやオムレツを分けながら食べた。 「いただきまーす」 「いただきます」 ……。 …………。 「さて、やりますか」 「お母さんの机を客間に運ぶんだよね」 「母さんの私物が残ってたらどうしようか?」 「琴子さんのものは、千春さんの書斎にしまっておいてね」 「親父の書斎か……」 親父の名前が朝霧千春で、母さんが琴子。 姉さんにとっては叔父叔母にあたるので、名前で呼んでいる。 「カーペットは今のままでいいかな?」 「そうね」 親父と母さんの部屋だったところを、今は姉さんと遺品で使っている。 そして親父の書斎だけは、手つかずで残されていた。 「あっ」 「はい、穂積です。 はい……はい」 ……。 電話を切った姉さんは、少し眉間に皺を寄せていた。 「大使館にお迎えに行くことになっちゃった」 「ごめん、その間お迎えの準備をお願いね」 「急だね」 「結局、月の料理を覚える時間もなかったなぁ」 ……。 急いで着替えた姉さんは、ぱたぱたと家を出て行った。 俺と麻衣は、とりあえず姉さんの部屋に入ってみる。 「さて、まずは……」 「大きい方から運ぼうよ」 「机だな」 ……。 …………。 麻衣と二人で、机と椅子を一階の客間へ運び込む。 お客さん用に元からあるのがベッド・ドレッサー・ソファ。 一応、観葉植物も運び込んでみた。 ……とりあえず、今できることはこれくらいだろう。 「ねえお兄ちゃん」 「お姫さまって、どんな人なんだろうね」 「さあなぁ」 「ほとんどの地球に住んでる人にとっても、謎の存在だし」 「第一、そんな偉い人となんて会ったことも話したこともないからな」 「うん。 でね、そういう人に……」 「この部屋で、いいのかな?」 「う……」 ……。 なんの変哲もない、長いこと使われていなかった客間。 「確かにな」 「でも、『郷に入りては郷に従え』って言うからさ」 「俺たちがそんなに気を遣うことも無いだろ」 「従わなかったら?」 「気に入らないなら、もっとちゃんとしたホテルとか、月の大使館とかに行ってもらえばいいさ」 「地球の文化を学んでもらうためにも、普段通り、どーんと構えてようぜ」 「……うん、そうだよね」 「ありがとうお兄ちゃん。 気が軽くなった」 「よし」 なでなで。 姉さんの真似をして、麻衣の頭を撫でる。 「……」 ……。 「じゃあ、出てきた母さんの私物を書斎に運ぶか」 「うん」 ……。 俺も麻衣も、久しくこの部屋には入っていなかったが……前と変わらず、かすかに胸が痛くなった。 「……」 雑然と積まれた本。 小さなテーブルには、読みかけの本まで残されたまま。 この部屋は、親父が出て行った朝から何も変わっていない。 否応なく、俺にあの頃を思い起こさせる。 「大掃除……した方がいいのかな?」 麻衣が、少し沈んだ声で言った。 「ここは、お客様が帰るまで封印ってことで」 「りょーかい」 麻衣は、部屋の片隅に荷物を置いた。 「それじゃわたし、キッチンの掃除するね」 「ああ」 ……。 全体に、薄っすらと埃を被っている書斎。 ぼんやりと室内を見回すと、積まれた本の中に、紙飛行機の本が乗っているのに気づく。 「ふーん」 研究が行き詰まった時、よく紙飛行機を作っていた親父の背中を思い出す。 が、すぐに頭を振って、その姿をかき消した。 ……。 月の研究にかまけ、ほとんど家にいなかった親父。 ロクに収入も無いのに、あちこち飛び回ってばかりいた。 その頃のことは……あまり思い出したくない類の記憶だ。 ……。 俺は、ギリギリまで麻衣の掃除を手伝った後、いつものようにバイトに行くことにした。 「何か見えるの、達哉?」 「いや、別に」 窓の外ばかり見ているのを菜月に問いただされる。 集中しよう、集中しようと思うほど、いま一つ身が入らない一日。 大きくて黒い自動車が通る度に、窓の外に視線を持って行かれていた。 「タツ、これ4番さんに」 「……あ、は、はいっ」 「達哉君、しっかりしてくれないと困るんだけどねえ」 「体調が悪い……って顔色じゃないわね」 「すみません」 ……。 …………。 からんからん「ありがとうございましたー」 何度かミスしつつ、何とかこぎつけた閉店時間。 「お疲れさま、達哉」 「何だか今日は気が散ってたね。 さっぱりする野菜ジュースでも飲む?」 「いや、その……そろそろ帰ろうかなって」 「菜月、達哉君は何か家の方に心配事でもあるようだよ」 「そうなんだ」 仁さんには、俺の視線を見られていたのかもしれない。 「言ってくれれば良かったのに」 「ああ、ええと、まあ……」 言っていいものかどうか、ちょっと悩む。 「困ったことがあるなら、遠慮なく言えよ」 「一応、困ったりはしてないんで」 何となく笑顔で答えつつ。 「それじゃ、お先です」 からんからん何となく後ろめたくて、逃げるように左門を出た。 ……。 左門の中から時々窺っていたけど、別にそれらしい車が来ていた様子は無かった。 もしかして、まだ来てないのだろうか。 「ただいまー」 ……。 ……?靴が……。 見慣れない靴がある。 もう、来てるのか?「ただい……ま……」 「お帰りなさい、達哉くん」 「お兄ちゃん、お帰りー」 「……で、これが唯一の男手の『達哉』です」 「はい」 ……。 姉さんが話しかけてる相手が見えない。 「あの、姉さん?」 その『相手』は、姉さんの後ろにいた。 「はじめまして、ミア・クレメンティスと申します」 「こ、こちらこそはじめまして。 朝霧達哉です」 ……。 …………。 ずいぶん小さいお姫様だ。 それに、着ている服が、その、何というか、あまり……お姫様らしくないような。 「えっと、その、こちらが……?」 助けを求めるように、姉さんを見る。 「ミアさんは、フィーナ姫のお供でいらっしゃったの」 「あっ、すみません」 「わたしは、フィーナ様のお側に仕えさせて頂いております」 そう言って、ぺこりと頭を下げるミアさん。 「あ、そうでしたか」 「てっきり……」 「お兄ちゃん、お姫さまなら」 「?」 麻衣の言葉が終わらないうちに、庭に立つ人影に気づく。 背筋が伸びた人。 その人が……静かに、振り向いた。 ……。 …………。 !「っ!」 「……ええと、こちらが、月の王女のフィーナ様」 「あ」 「……御挨拶が遅れまして、失礼致しました」 「スフィア王国の王女、フィーナ・ファム・アーシュライトと申します」 「本日よりこちらにお世話になりますので、どうぞよろしくお願い致します」 晴れやかな笑顔。 長いドレスの裾をつまみ上げ、優雅に、深々とお辞儀する。 「あ、朝霧達哉と申します」 「こちらこそ、何のおもてなしもできませんが」 緊張のあまり、口を突いて出てくる言葉の意味が分からない。 「くすくす……」 「お兄ちゃん、わたしと同じこと言ってる」 「本当ですね」 自分で分かるほどに、首から上に血が集まる。 きっと、俺の顔は真っ赤になっていることだろう。 「どうぞ、お構いなく」 笑顔を崩さない姫。 庭から、リビングに上がろうとする。 が。 一瞬、土足のまま上がりそうになり、そこで止まる。 「……」 気づくと、全員の視線がフィーナ姫の足元に集まっている。 ……。 そして、お姫様は、足を戻して靴を脱いだ。 「地球のことも、ちゃんと勉強して来ましたから」 何事も無かったかのように、リビングに上がる。 ……。 …………。 微妙におちゃめだ。 「これから、よろしくお願いします」 「はい、こちらこそ」 何となく……何となくだけど、上手くやっていけそうな気がしてきた。 「……とまあ、フィーナ様がいらっしゃる間の注意事項はこんなところです」 「分かりましたか?」 「はいっ」 「それだけですか?」 姉さんが説明したのは、本当に基本的なことばかりだった。 ……しかも、そんなことやらないってば、みたいな内容。 プライベート時の写真を撮って売るなとか、喋るのを録音して売るなとか。 こんなに簡単でいいんだろうか。 「大使館から送られてきた事項はこれだけでしたが……」 「フィーナ様もよろしいですね?」 「はい」 「その他に迷うようなことがありましたら、私に尋ねて頂ければと思います」 「プライベートと、そうじゃない時の区別はどうやってつければいいんですか?」 「ナイトドレスを着ている時がプライベートだと思って下さい」 「ナイト……?」 「寝る時に姫さまがお召しになる服です」 「パジャマ、ですね」 「それ以外の時は、ずっと今のドレスなんですか?」 「はい。 そのつもりでおります」 さすがお姫様だ。 「疲れませんか?」 「そうですよ、もっと楽な格好をなさってもよろしいのでは」 「このドレスは着慣れておりますし……」 「気持ちが引き締まるので、私はこの服が好きなんですよ」 「すごいですね……」 「でも、この家にいらっしゃる時は、ご自分の部屋のつもりでくつろいで下さいね」 「ミアさんも」 「お心遣い、ありがとうございます」 「ありがとうございます」 「あの……」 「はい?」 「外出の時も、そのドレスですか?」 「そのつもりですが」 「さすがに……目立ちすぎると思うんですが」 「ねえ、姉さん」 「そうですね……」 「人が集まってきちゃうよ」 「確かに」 本気で、ずっとドレスで過ごすつもりだったようだ。 ……。 「フィーナ様」 「今回のご留学では、姫たってのご希望で、護衛官や補佐官をお断りになったと聞き及んでおります」 姉さんが、珍しく毅然とした態度で語る。 「はい、その通りです」 「外出される際、今お召しのドレスのままでは『月の姫ここに参上』と看板を掲げているようなもの」 「どうか、お着替え下さい」 「……」 「そうですね。 サヤカの言う通りだと思います」 「外に出る時は、着替えることにしましょう」 「一緒に、新しい服を買いに行きましょうよ!」 「ええ、お願いしますね」 「サヤカも、ありがとう。 私の身を案じてくれて」 「いえいえ、お褒め頂く程のことでは……」 すっかり、いつもの調子に戻っている姉さん。 博物館ではきっと、さっきみたいに毅然とした態度で仕事をしているのだろう。 ……。 「……最後に、満弦ヶ崎大学附属カテリナ学院への留学についてです」 「ええっ!?」 「ええっ!?」 「これも、学院の方への手配は済んでいます」 「制服もご用意致しました」 「ちょちょちょっと待ってよ姉さん!」 「学院に留学!?」 「はい」 「カテリナ学院の3年で、学ばせて頂くことになりました」 「3年ってことは……」 「お兄ちゃんと同じ学年だね」 「達哉くんがいるので、同じクラスになるようにお願いしておきました」 「いや、今日は初耳の情報が多過ぎますから」 「って言うか、手際良すぎでしょ姉さん!」 この若さで博物館の館長代理になるくらいだから、仕事ができる人なのは分かってた。 しかし、まさかこんな形で知ることになろうとは。 「ありがとうございます、サヤカ」 「お知り合いの方がいらっしゃるなら、安心ですね」 「そりゃそうだろうけど」 「お兄ちゃん、お姫様とクラスメイトなんて、ものすごくレアな体験だよ」 「しっかりしないとね」 「お願いね」 姉さんや麻衣まで、畳みかけるような攻勢。 そして視線も俺に集まる。 「……」 「まあ……」 ちらっと姉さんを見ると……姉さんは、微笑んで頷いた。 「状況は理解しました。 最善を尽くしたいと思います」 「ありがとうございます」 「よろしくお願いします」 「お兄ちゃん、しっかり」 ……。 こうして、俺はフィーナ姫を学院までご案内するという大役を仰せつかった。 「では、まずお二人に家の中をご案内しましょう」 「お願いします」 立ち上がった姉さんに続き、みんなぞろぞろと家の中を練り歩く。 「ここがキッチンです。 食事を作ります」 「……」 「機能的ですね」 「ミアさんは料理をするんですか?」 「あ、はいっ、一通りは」 「月の料理、ですよね」 「? はい」 「月の料理、教えてくれると嬉しいです」 「……」 「は、はいっ」 「地球のお料理も教えて下さいね」 「もちろんっ」 ふむ。 あの二人は料理という共通言語を持っているようだ。 「ここが洗面所です」 「奥がお風呂なので、ここで服を脱いで入って下さいね」 「洗濯物は、このカゴに入れておいてください」 「あの」 「私達の分は、私が洗おうと思うのですが」 「どうしようか?」 「ローテーションでやればいいんじゃないの?」 「でも、ほら……」 麻衣が俺を肘で突っ付く。 「ええと、俺がローテから外れますので」 「じゃあ、達哉くんはその分お風呂掃除を多くお願いしますね」 「りょーかいです」 「何か、私にもお手伝いできることがあれば……」 「では、フィーナ様がこちらの暮らしに慣れて、落ち着いた時にはお願いしますね」 「ええ、分かりました」 笑顔になるフィーナ姫。 「二階には、私たちの寝室があります」 「あの扉が達哉くん、隣が麻衣ちゃん、こっちが私の部屋です」 「あとは物置みたいなものですから」 「あははは……」 「?」 流石に、埃が積もった書斎はお目汚しだ。 二階の紹介はあっさりと終わり、またぞろぞろと階段を降りる。 「そして、ここが……」 「お二人に過ごして頂くつもりの部屋です」 客間に、長期滞在用に机と椅子を運び込んだ部屋。 部屋の広さもそれなりだ。 「わざわざご用意して頂き、ありがとうございます」 「窓が広くて良い部屋ですね」 「あの、ミアさんもここで寝られるように、お布団を運んできますので……」 「そっか。 忘れてたな」 「申し訳ありません、お願い致します」 「あの、姫さま」 「どうしたのミア?」 「姫さまと同じ部屋に住まわせて頂くことは……」 ミアさんが、何か言い辛そうに口ごもる。 「あの、さやかさま、リビングのソファを使ってもよろしいでしょうか」 「ミア、それはわがままよ」 「いえ、こればかりは」 二人の身分の違いとか、細かい事情は知らないけど。 どうやらミアさんの決意は相当固いようだ。 ……。 …………。 その後も、しばらく押し問答が続いた。 「リビングのソファ、寝相悪いとすぐに落ちちゃうんだよ」 「……それはお前の寝相が悪いだけ」 「むー」 「それより、客間に仕切りを作ったらどうかな?」 「ええと、ええと……屏風を置くとか」 「そんなもの無いよ」 「どうしましょうか」 姉さんも困り顔だ。 「いえ、だからその、皆様お気遣いなく……」 「本当に、ソファだけで大丈夫ですから」 「そんなわけないでしょう」 「こっちもそれじゃ申し訳無いですし」 ……。 困った。 かといって個室は全て埋まっているし、書斎はモノが多すぎる。 「お兄ちゃん」 「屋根裏部屋はどうかな?」 「……ああ、あったな」 「でもあそこは荷物が置いてあるし、狭いし、何より天井が低くて頭をぶつけるぞ」 と反論しつつミアさんを見る。 ……この子なら大丈夫かも。 なんて。 「そこがいいです!」 「え?」 「でも本当に狭いのよ」 「お願いしますっ」 頭を下げるミアさん。 「フィーナ様……」 「……」 困り顔のお姫様。 「……本当に申し訳ありませんが、一度、見るだけということで」 「ごめんなさい……」 ……。 「じゃあ、見るだけ見てみようよ」 「ほら、実際に見ないと狭さも分からないし。 ね?」 「そうするか」 「狭いですよね」 「狭いよね」 「この人数だし」 物置に使っている屋根裏部屋。 部屋というよりは、単に『二階の天井と屋根の間のスペース』と言った方がいいくらいだ。 物置と言っても、梯子を使わないと登れないので、あまり大きな荷物は運び込めないけど。 「ミア、私は一緒の部屋でも全然……」 「ここでお願いします」 「本当に?」 「梯子はさすがに不便すぎるし、エアコンも無いし」 「どうしましょう、フィーナ様?」 「……ミア」 「はい」 「あなたのわがままで、こちらの皆さんにご迷惑をおかけしているのですよ」 「……はい」 「私が構わないと言っているのですから、先程の部屋に一緒にお世話になりましょう」 「これくらいのことが分からないあなたじゃないでしょう?」 「……」 ……。 「ミア?」 「フィーナ様」 「迷惑なんかじゃありませんよ」 「ねえ?」 「うん」 すがるような眼差しで俺を見るミアさん。 「そうだね」 「そしたら、ずっと手つかずだったここも、掃除してもらえるかも」 わざと、ミアさんに振ってみる。 このあたりで、話の落としどころを作っておこう。 「……は、はいっ」 「お掃除しますっ、ここも、家の中も全部っ」 「ということでいかがでしょうか、フィーナ様」 「……ふう」 ため息をひとつ。 「仕方無いわね」 「ミア、ちゃんと皆さんのお役に立つんですよ」 「はいっ」 ほっとした顔になるミアさん。 「お掃除やお洗濯、お料理もがんばります」 「ふふ……」 固い表情のお姫さまが相好を崩す。 「では皆さん、ミアはこき使ってあげて下さいな」 「そうしますね」 「月の料理もたくさん教えてもらおうかな」 「はいっ!」 ばたばたした一日がやっと終わり、家の中も静かになる。 ……。 あのあと、ミアさんは屋根裏部屋を片づけ、フィーナ姫は持ってきた荷物を整理していた。 俺たちもそれを手伝い、やっと一段落。 ……今は、静けさが家を包んでいた。 こんこんん?窓ガラスが軽く叩かれる音。 ……菜月か?こんこん「達哉、もう寝ちゃった?」 「ちょっと待ってくれ」 からから、と窓を開ける。 「聞いたよー」 「な、何を?」 とぼける。 「月のお姫様が来たんだって?」 「ぶほっ」 思わず肺の中の空気が外に飛び出す。 「な、な、なんでそれを?」 「さっき、さやかさんがうちに来て、ざっと説明してたよ」 「そっか」 ……。 「面白そう? それとも大変?」 「どっちも」 「そりゃそうか」 「これからどうなるのか、全然想像できなくてさ」 「明日から、学院にも来るって」 「うん」 「……明日、左門のバイトどうする?」 「おやっさん、何か言ってた?」 「お姫様の案内があるなら、バイト休みにしてもいいって」 「兄さんも、張り切ってたよ」 「左門にも連れて来いだって」 「仁さんらしいな」 「そだね」 ……。 「じゃあ、一応お願いしておこうかな」 「何があるか分からないし」 「おっけー。 言っとくね」 「頼む」 「明後日からは復帰するからさ」 「うん、分かった」 「頑張ってね」 「おう」 「達哉が何かしでかしたせいで、大変なことになったりして」 「プレッシャーをかけないでくれ」 「『風呂覗き戦争』とか、勘弁してよね」 「はいはい」 「……それじゃ、おやすみ」 「おやすみ」 からから……。 ベッドに入り、天井を見つめる。 ……今日は、とてもとても、長く感じる一日だった。 明日からどうなるんだろう。 ……。 …………。 月王国のフィーナ姫。 ああ。 物見の丘公園で会ったのは、幻だったのかな。 それとも。 ……。 …………。 いつもより少し早起きして、ちゃんと準備をした。 焦らなくて済むように、家を出るのも少し早めの時間に設定。 朝食もさっさと食べ終えた。 初登校があまり目立たないよう、麻衣も一緒に行くことにしてある。 ……。 「もう少しだって」 「なんだか、どきどきするね」 「そうだな」 「……なんで俺たちがどきどきしてるんだろう」 「フィーナ様のこと、よろしくお願いしますね」 学院の案内、学院内でのボディーガード、行き帰り。 その全てに責任があるような気がしてきた。 「せ、責任重大だね……」 「そんなに気負わないで」 「ちょっと様子を見てきたらどうかしら」 「分かりました」 こんこんフィーナ姫の部屋の扉をノックする。 「どうですかー?」 「達哉さまですか? どうぞー」 「失礼しまー……」 ……。 「いかがですか?」 ……。 「失礼しまーす」 「わぁ……」 「キレイですね……」 「達哉様?」 「あ、と、とても似合ってると思います」 「そうですか? 良かった」 「良かったです」 「ミア、ありがとう」 「本当にお似合いですよ、とても」 「このスカートは、少し短くはありませんか」 「私も同じくらいですし」 「みんなそれくらいですから、慣れ……なんだと思います」 「そうなんでしょうね」 ……。 微かに恥じらいを見せるフィーナ姫。 正直、ちょっと見とれてしまった。 ドレス姿しか見たことが無かったフィーナ姫に、これほどまで制服が似合うとは。 「そろそろ行きましょうか?」 「はい」 「姫さま、こちらが鞄です」 「ありがとう。 行ってきますね」 と、鞄を持ちかけたところで、こちらを振り返る。 「達哉様、ひとつお聞きしたいことがあるのですが」 「なんでしょう?」 「カテリナ学院は、携帯電話を持って行って良いのでしょうか?」 「授業中に使ってない限り、大丈夫だったと思いますよ」 「わたしも持ってますよー」 「携帯なんてお持ちなんですね」 「緊急用にと、渡されたものがありまして……」 「私だけ特別扱いされるのは、申し訳無いですから」 「大丈夫ですよ、みんな持ってますから」 「じゃ、行きましょうか」 「はい」 「昨日は、車でいらしたんですか?」 「いいえ」 「ミアと二人で、大使館から歩いて参りました」 「実際に歩いてみるのが、初めての街を知るには一番いいから、と」 「迷いませんでしたか?」 「ええ」 「……緑が多くて、綺麗な街ですね」 5月のさわやかな風に、フィーナ姫の髪が揺れる。 「川が……流れてますね」 「川って、月では珍しいんでしたっけ」 「人工的なものはありましたが……規模が全く違います」 「水は、貴重なものでしたから」 「雨が降ったりすると、堤防まで水が来るんですよ」 「やはり、実物を見ると違いますね」 そう言って川面を見つめるフィーナ姫。 「さあ、着きましたよ」 「はい」 「ここがカテリナ学院です」 「最初は、職員室ですよね」 「ええ、そう言われております」 「じゃあ、行きましょうか」 ……。 職員室に案内し、俺は教室へ。 さて。 フィーナ姫が紹介されたら、どんな騒ぎになることやら。 「今日は早かったみたいね」 「ああ。 遅刻してもまずいし、人が少ないうちにと思って」 「一足先に会えるかと思ってたのに、さやかさんが『もう出たわよ』って」 「もうすぐ来るさ」 「そりゃそうだけどー」 「なになになに? 誰か来るの?」 俺たちのヒソヒソ話が聞こえたのか、翠が寄ってきた。 「来てのお楽しみ、ってことで」 「ちょっと、驚くかも」 「何で二人はそれを先に知ってるのよぅ」 翠のツッコミと同時に、宮下先生が一人で教室に入って来た。 「ほら、席につけー」 ……。 朝のホームルームでは、まずフィーナ姫についての説明があった。 そして、本人の希望として『特別扱いしないでほしい』旨が伝えられる。 「ま、普通の転校生だと思って接するように」 「外交問題に発展しない程度にな」 笑えないギャグを宮下先生が飛ばす。 教室はさざ波のようにざわめいた。 「じゃあ、どうぞー」 がららっクラスメイト達が息をのむ。 すらりと伸びた背筋──艶やかな髪──優雅な所作──そのひとつひとつに、皆が魅了されていた。 ……。 …………。 ……静かな緊張感のある教室。 その一時間目の授業が終わり、休み時間になった。 普通の転校生だったらありそうな、「質問攻め」 は始まらない。 その代わり、みんな遠巻きにこちらを窺っている。 ……それもそうか。 気持ちは分かる。 「……」 笑顔を崩さないフィーナ姫も、どことなく手持ち無沙汰のようだ。 「なあ菜月」 「なに?」 「先陣を切ってくれよ」 「わ、私!?」 「ああ」 「うん、ええと……」 「じゃあ、翠、一緒に行こう」 隣にいる、クラスメイトに声をかける菜月。 「お、おっけー」 何となく、誰かが口火を切らなくてはいけない雰囲気は、みんなが感じていた。 菜月と、元気さでは菜月と双璧の遠山翠。 二人がフィーナ姫に近づいていく。 微妙な空気の打破を期待するクラスメイトたち。 その数十個の瞳が、二人に集まる。 「こ、こんにちは」 「ど、どうもー」 お前は漫才師か。 「こんにちは」 ……。 見ているこっちがハラハラしてしまうのはなぜだろう。 「私は鷹見沢菜月でしゅ」 噛んでるから。 「わたしは遠山翠といいます」 「ち、地球の学院はいかがですか?」 「そうですね……」 「まだ来たばかりなので、これから色々と教えて頂ければと思っています」 来たばかりでは、感想も何も無いだろう。 「えと、では……地球には、いついらっしゃったんですか?」 「一昨日です」 「今は、月大使館にお住まいなんでしたっけ」 ……。 フィーナ姫が、一瞬だけ、俺の方を見る。 「達哉んちにホームステイしてるんですよね?」 ……。 おいこら。 ……。 …………。 クラス中が怒号と悲鳴に包まれるまでの一瞬で、俺は平穏な日々が終わることを覚悟した。 「なんだ、バレたのか朝霧」 えー先生知ってたんですかー、等のブーイングが散発的に上がる。 二時間目、担任の宮下先生による月学概論。 「ま、そんなに騒がんでやってくれ」 「フィーナ姫」 「はい」 「ま、しばらくすれば落ち着くから。 少しの辛抱だ」 「分かりました」 「それでは……今日は教科書の89ページから。 遠山、読んでくれ」 「えっ、あ、はい」 ……。 超特大のニュースを軽く流し、いつも通りの授業を始める宮下先生。 さっきまでの大騒ぎを思い出すと、そのマイペースぶりに救われた気がした。 「……最後に月への入植が行われたのが、今から約660年前、ギアナのクールー宇宙基地を……」 「達哉様、申し訳ありませんが、もう少し教科書をこちらに寄せていただけませんか?」 「あ、すみません」 ……フィーナ姫は、席まで隣だ。 「……そして、国交断絶の2年後、第一次オイディプス戦争を迎えることになる」 「そこまで」 「遠山、オイディプス戦争は第何次までだ?」 「あ……えぇと……」 「第三次」 「座ってよし。 第四次までだ」 「……これくらいは覚えておけよ」 「では当時、月との断交を決断した時、連邦の外相だったのは?」 しかも、ずいぶんマニアックな問題だ。 「フィーナ姫」 「はい」 かた立ち上がって答える。 「セルゲイヴィッチ・フィッツジェラルド外相です」 「さすがだ」 「でだな、この外相が……」 教科書にも載ってないようなことまで、すらすら答えたフィーナ姫。 宮下先生以外は、教室中が静まり返ってしまった。 ……流石に王族らしく、歴史関係には強いらしい。 「学生食堂で食べるんですね」 「この時間だともう席が埋まってるから、テイクアウトしてきます」 「私達は、ここで待ってましょう」 「達哉、私の分もね」 「おー」 昼休み。 放っとくと質問責めに合いそうな姫を、教室から連れ出した俺と菜月。 まずは腹ごしらえだ。 ……。 …………。 「おまたせ」 「ええと、これは?」 「こっちから順に、月見ソバ、きつねソバ、天ぷらソバ」 トレーに載せて、三人分のソバを運んできた。 「きつねはうどんじゃないの?」 「ソバとうどんが混じると、ソバが伸びるから」 「あ、そっか」 「フィーナ姫、お好きなのをどうぞ」 「はい。 ええと……」 「月見は卵、きつねは油揚げ、天ぷらは……なんだろ。 天ぷら?」 「説明になってないから」 「それでは、月見を頂きます」 「……この卵を、地球から見た月に例えているのですね」 「そうそう!」 「じゃあ、これが箸です」 「ありがとうございます」 ……。 「……あの」 もしやフィーナ姫。 ソバを食べたことが……。 いや、下手すると麺類自体食べたことがないのかもしれない。 「菜月、見本っ!」 「あ、うんっ」 菜月が天ぷらソバを手にする。 「姫、見てて下さい」 ずずーっ菜月が、ソバをすする。 「あちち」 猫舌の菜月。 「こ、こうかしら」 つるつる「姫、もっと勢いよくすすってもいいんですよ」 「しかし、それは食事のマナーとして」 「これは、ずるずる音を立てるのがマナーの食べ物です」 ずずずーっっ……俺も、少し大げさにやってみせる。 「もしかして、お箸使うのは初めてですか?」 「はい、ほとんど使ったことがありませんでした」 つるつる「食事の時に、なるべく音を立てないのをマナーにしている文化もありますが」 「ソバは、音を立ててすするのが文化です」 「こういう諺があります。 『郷に……』」 「『……入りては郷に従え』ですね」 「分かりました。 達哉様の仰ることはもっともです」 ずずーだいぶマシになったかな?「そうそう。 粋に行きましょう」 「だいぶコツがつかめてきました」 「……もし達哉様が月にいらっしゃることがあったら、今度は音を立てずに麺を食べて下さいね」 フィーナ姫はにこっと笑いながら、ソバをずずずっとすすった。 昼食を食べ終え、校舎の案内をしつつ教室に戻る。 と。 緊張のほぐれたクラスメート達による質問責めが待っていた。 「月の重力は地球の6分の1だから、6倍ジャンプができるんだよね?」 「水が貴重で、同じ重さの銀と同じくらいの値段だとか」 「筋力が弱ったり、背が高くなったりはしないんですか?」 etc.etc.本当はみんな、興味津々だったんだ。 ただ、きっかけが無かったというか。 菜月と遠山に先陣を切ってもらう作戦は、一応成功を収めたようだ。 「重力が制御されているので、人が暮らしているエリアでは6倍のジャンプはできません」 「水は確かに貴重ですが、銀と比べると100分の1くらいかしら」 「都市エリアは重力があるので、筋力も身長も、地球の皆さんと変わりませんよ」 月学の授業を受けてれば分かるような質問にも、一つ一つ丁寧に回答していくフィーナ姫。 「へえ」 とか「ほぉ」 とか、いちいち人垣が反応する。 フィーナ姫は、案外楽しそうだった。 ……。 …………。 授業が終わり、掃除の時間となる。 座席で、縦の列ごとに班を作っているが、フィーナ姫の班は教室の掃除担当だ。 「では、私も掃除をします」 「適当に時間を潰して待ってますから」 「そうだ菜月、おやっさんと仁さんによろしく」 「うん。 そっちも頑張ってね」 「っていうかさ」 「朝霧君も、待ってるなら手伝ってよ」 「だな」 俺もフィーナたちの班に混ざって掃除開始。 菜月はトラットリア左門へと帰って行った。 ……。 ホウキで床を掃き、ゴミを集める。 「姫、ちりとりを」 「これですね」 フィーナ姫は、他の人をちらっと見つつ、ちりとりを構えた。 俺が、そこにゴミを掃き集めていく。 さっさっさっ……しかし。 「すみません、少し引いてもらえますか」 「こうですか」 さっさっどうもちりとりと床の間に隙間があるらしく、なかなか上手くいかない。 「……姫、代わりましょう」 「?」 ちりとりとホウキを交代する。 「ええと、ではどうぞ」 「はい」 俺は、普通にちりとりを床につけ、少しずつ引いていく。 さっさっさっ「……」 さっきまで俺があんなに悪戦苦闘していたゴミが、あっという間にちりとりの中に収まる。 「もう一度、お願いします」 「ええ、どうぞ」 姫自ら志願し、再度ちりとり役を担当する。 「では」 「はい」 さっさっさっ……俺の動きをちゃんと観察して、コツを掴んだらしい。 それをすぐに実践に移すあたり、もしかしたら負けず嫌いなのかもしれないな。 というより、これはプライドのなせる技か。 「ふう」 「綺麗になりましたね」 「ええ」 「遠山、そっちはどう?」 「うん、終わった。 二人ともありがとー」 満足げな顔の姫。 ……お役御免となった俺たちは、昇降口へ向かった。 「フィーナ姫は、部活には入るんですか?」 「今のところ、他にやりたいことがあるので、入らないつもりなんですが……」 「入った方がよろしいでしょうか?」 「あ、いえ。 そういうことじゃなくて」 「俺も入ってないんで、案内できないなぁと」 ~♪……。 風に乗って、微かに聞こえるメロディ。 「あそこに、ちょうど麻衣がいます」 「麻衣は吹奏楽部なんですよ」 「吹奏楽……学院には、ブラスバンドがあるんですね」 「ええ」 興味深げな顔をする姫。 「学生同士で音楽をするのは、楽しそう」 ……こちらのやりとりに気づいた麻衣が、何か後輩に指示を出した後に、こちらへ駆け寄って来る。 「お兄ちゃんたち、もう帰るの?」 「ああ、初日だしな」 「麻衣はいいよ、いつも通り練習してて」 「うん」 「じゃあ」 「麻衣さん、お先に失礼します」 吹奏楽部のパート練習に戻りかけていた麻衣は、こっちに一度ぺこっと頭を下げた。 ……。 朝、登校する時に川に興味がありそうだったっけ。 まだ日も高いし、少しくらい寄り道しても大丈夫だろう。 「フィーナ姫、川原に降りてみますか?」 「え……」 「で、では、少しだけお願いします」 二人で、流れる水に触れるくらいまで川に近づく。 「もう、水もずいぶん温かくなりました」 「触ってみても大丈夫ですか」 「ええ」 「あ、川原の石は滑りますから気をつけて下さいね」 ……。 …………。 恐る恐る、水に触れてみるフィーナ姫。 なんでも……こんなに大量の水が流れている川は、月には無いそうだ。 ……。 …………。 ちょっとだけ寄り道したつもりの川原。 だけどフィーナ姫は、石を投げてみたり、川の中程で跳ねる魚を見つけたり。 些細なことで、とても喜んでいた。 ……凛とした雰囲気を纏うフィーナ姫。 でも少しだけ、同い年らしい無邪気な面を見れたような気がした。 ……。 「……では、そろそろ行きましょうか」 「またいつでも来れますから」 「はい」 土手をのぼり、商店街に向かう。 「朝はほとんどの店が閉まってましたから、ゆっくり見て回りましょうか」 「そうしましょう」 街路樹や街灯、タイルなどが整備された商店街。 おしゃれな店も多いが、普通に野菜や魚も売っている。 「あれは書店ですね」 「寄ってみますか」 「はい」 ……。 そうして入った書店では、立ち読みしている人を見て、なんとも行儀が悪いと苦言を呈すフィーナ姫。 しかし、風習は体験してみないと……と言いながら漫画雑誌を読みふけったりして。 俺も一緒に立ち読みして、姫が気が済むのを待っていた。 「ち、違うんです。 立ち読みというものを」 「はい、やはり文化には触れてみないと、ですよね」 「達哉様っ」 「はははっ、すみません」 ……。 …………。 「あらあらあら、たっちゃんが美人連れじゃない」 「ホントだ、うちの大根といい勝負かな」 「アンタも失礼だねー」 どうやら、商店街にはまだ噂は広まってないらしい。 「いつも麻衣がお世話になってる、八百屋さんと魚屋さんです」 「こんにちは」 笑顔で会釈するフィーナ姫。 「こんにちは。 礼儀正しい子だね」 「このじゃがいもで肉じゃがを作れば、家庭的なところをアピールできるぜ」 煮物の具をアピールしてくる八百屋のオヤジをよそに、魚に見入っている姫。 「おや、魚に興味があるのかい」 「あまり、こうして近くで見たことがないものですから」 なるほど。 ……しかし。 興味を持って見ているというよりは、なんて言うか……怖いもの見たさのような表情だったような。 ……。 …………。 「……すっかり長居してしまいました」 「いろんな魚がいましたが、あのお店に置いてあるということは……」 「?」 「全部、食べるためなんですよね」 「そりゃまあ……」 「食用として売ってるわけで、鑑賞用ではありません」 「そうですか。 そうですよね」 ……。 魚屋で見たものを反芻するように、考えにふけっているフィーナ姫。 ……確かに、タコやウニは異星から来た生命体のようにも見えるし、魚のぎょろっとした目は虚ろに見える。 初めて魚を見た時のことなんか忘れてしまったけど、今の姫の気持ちも、分かるような気がした。 ……。 …………。 家電の使い方を教えたり、屋根裏部屋の整理を手伝ったりしていると、姉さんと麻衣も帰って来た。 「ただいまー」 「ただいま」 家の近くでたまたま一緒になったのか、二人一緒のご到着だ。 「おかえりなさいませ」 「お帰りなさい」 「わぁ……」 「なんだか、うちの中が賑やかだと嬉しいね」 「そうね」 みんなが揃ったので、左門に晩御飯を食べに行くことにする。 フィーナ姫とミアさんは初めてだ。 閉店後の左門。 CLOSEDの札が掛かっている扉を開け、中に入る。 からんからん「いらっしゃい」 「……おおっ、こちらが例の」 「ん、いらっしゃったようだな」 「いらっしゃいませー」 こちらはいつもと違って5人。 ぞろぞろと中に入る。 ……。 「はじめまして。 スフィア王国の王女、フィーナ・ファム・アーシュライトと申します」 から始まる自己紹介。 それらの儀式めいたやりとりが一段落ついたところで、本日の晩餐が運ばれてきた。 「今日は俺の料理人生命を賭けて作ったから、きっと美味いぞ」 「でも親父、姫ともなると美味しいものは食べ慣れていらっしゃるのでは?」 「舌が肥えている方に食べてもらえるのが、料理人としては最高に幸せなわけよ」 「つまり、達哉君は舌が肥えてないと」 「はいはい、それでいいですから早く食べましょうよ」 「俺も、皿を運ぶの手伝いますから」 「はい、じゃこれとこれお願いね」 「……私もお手伝いします」 じっと座ってるのは居心地が悪かったのか、ミアさんが立ち上がる。 「ありがとう」 「お水を注いで回ってくれる?」 「分かりました」 流石におやっさんが腕によりをかけただけあって、とても美味しかった。 メニューは、まずアンティパスト(前菜)に加茂なすとトマトソースのカポナータ。 プリモピアット(第一の皿)は生ハムとしめじのペペロンチーノ。 セコンドピアット(第二の皿)が赤ワインソースとパルミジャーノチーズのピッカータ。 ドルチェ(デザート)はマスカルポーネチーズのティラミス。 締めにエスプレッソ。 それぞれの料理の量も絶妙で、品数は多かったけどちょうどおなかいっぱいになった。 そして、それらを食べるフィーナ姫のナイフ・フォークさばきも、見ていて惚れ惚れするくらい優雅で。 俺は、まるで場違いなところに来てしまったような錯覚を起こしそうになるほどだった。 ……。 「いかがでしたか?」 「とても美味しかったです」 「月の王宮でも、これほどのものはなかなか食べられません」 「光栄です」 いつもは冷静なおやっさんも、少し興奮しているのか顔に赤みが差している。 「ティラミスとエスプレッソは、僕が担当しました」 「素晴らしい出来でしたわ」 「甘過ぎず、しっかりと味の調和が取れていて」 「仁くんも、今日は気合が入ってたわね」 「本当に美味しかったです」 メイドのミアさんも、真剣な顔をして頷いている。 「わたし、こちらの料理を勉強したいと思いました」 「こんなかわいいお嬢さんなら大歓迎だよ」 「メインの料理はほとんど父さんが作ったんでしょ」 「では、僕と一緒に勉強しましょう、マドモアゼル」 「ま、まどもあ……?」 「そりゃ、フランス語だな」 「失敬。 ……ご一緒にどうです? セニョリータ」 「あうぅ……」 「おびえてますよ」 「こんな兄で申し訳ありません……」 ……。 そんなこんなで、フィーナ姫とミアさんも、トラットリア左門を気に入ってくれたようだ。 おやっさんと仁さんには、いい自信になったかもしれない。 美味しかった料理を思い出しながら、なんとなくみんな、リビングでのんびりしている。 もしかしたらそのうち「フィーナ姫コース」 なんて名前で売り出したりして。 そんなことを考えていると。 ……。 ペペロンチーノ「うおぉんっわんっわんっ」 カルボナーラ「わふわふっわふわふっ」 アラビアータ「おんっ」 庭から、イタリアンズの鳴き声がした。 ……犬たちの、この喜び方は。 「こんばんはー」 「やっぱり菜月か」 「……誰か忘れ物とか?」 「ううん、様子を見に来ただけ」 そう言って、イタリアンズの頭を撫でる菜月。 「フィーナ姫は?」 「姫?」 「うん。 学院でも左門でも、ちゃんと御挨拶できてないしね」 「……あ、鷹見沢様」 「『様』つきで呼ばれると、少しぞわぞわするよ~」 「そうそう。 自己紹介しようと思って来ました」 「それは、わざわざありがとうございます」 「鷹見沢菜月です。 達哉とは幼なじみで同じクラス。 家は隣のトラットリア左門の二階です」 「達哉とは昔、一緒にお風呂入ってました」 「去れい!!」 「あ~れ~」 仁さんは、一瞬にしてきらーん★と輝く夜空の星になった。 「あわわわっ」 「……失礼致しました」 左門で、皿を落とした時と同じリアクションだ。 姫は楽しそうに笑っていた。 「ふふ……」 「菜月様。 本日はありがとうございました」 「美味しい夕食の準備と、学院で皆様と打ち解けるきっかけを作って頂いて」 「あ、いえいえ。 あれくらいお安い御用ですよー」 「学院で困ったことがあったら、何でも遠慮なく言って下さいね」 胸をどんと叩く菜月。 「体育の授業で使う更衣室とか、俺が案内できない場所のことは菜月に聞いて下さい」 「世話焼き好きなので、遠慮なくどうぞー」 「ありがとうございます」 深々と頭を下げる姫。 「お世話になると思いますが、よろしくお願い致します」 「こちらこそー」 星になった仁さんなど居なかったかのように、二人は握手を交わしていた。 ……。 また、しばらくリビングで談笑していると……携帯電話を持った姉さんが、玄関にぱたぱたと駆けて行った。 こんな時間に、お客さんなんて……珍しいな。 「お客様?」 「ええ」 気を遣わなくていいわ、と言う姉さん。 ……。 姉さんが手招きすると……すらっとした女性がリビングに入って来た。 「はじめまして」 「姫がお世話になっております。 大使館駐在武官のカレン・クラヴィウスと申します」 「朝霧達哉様、でいらっしゃいますね?」 「ええ。 はじめまして」 「カレン?」 「フィーナ様、お久し振りにございます」 うやうやしくお辞儀をするカレンさん。 ……。 「どうぞ」 ミアさんが四人分のお茶を淹れ、それぞれの前に置く。 「……カレンとは、お友達なんですよ」 「仕事上のお付き合いも多いし」 「さやかには、ずいぶん助けてもらっています」 そう言う二人。 カレンさんが現在勤めているのは、月王国の大使館。 大使館は、姉さんが勤めている博物館のすぐ近くにある。 ……姉さんがお酒を飲んで帰ってくる時は、大抵カレンさんが相手らしい。 「でも、今日はなぜここまで?」 「陛下より、フィーナ様のお目付役……のようなお役目を拝命致しました」 「父様から?」 国王から直接フィーナ姫のことを頼まれるあたりから考えると、相当偉い人のようだ。 「達哉様」 「あ、はいっ」 「カテリナ学院の、警備と言いますか……安全確保について少々お話をしたいのですが」 「ええと……」 「達哉くん、お願い」 「分かりました」 「すみません、お手数をおかけします」 「いえ、当然ですよね」 「ご協力、ありがとうございます」 ……。 …………。 カレンさんの質問に答え、いざという時の対処法を教わる。 こっちが想定していないような出来事から、なんでそんなに学院生活に詳しいのかと思うことまで。 微に入り細をうがつ問答が、延々と続く。 ……。 気がつくと、かなりの時間が経っていた。 ……。 「それでは朝霧達哉様、フィーナ様をよろしくお願い致します」 「はい、できるだけのことは」 「フィーナ様、良きご留学を」 「ええ」 「今日はわざわざありがとう」 「また明日ね」 「では、失礼致します」 ばたん「ふう」 「少し、疲れた……」 そう言って、俺はソファーに体を沈める。 「カレンは厳しいけど、仕事熱心なだけよ」 「お茶でも淹れますね」 「うん」 「達哉様、今日はありがとうございました」 「わふっわふっわふわふっわふわふっ」 「きゃっ」 俺は、扉を開けて庭に出る。 「大丈夫ですか?」 カルボナーラが、カレンさんの脚にじゃれついている。 「こら、カルボナーラ!」 声を少し出すと、おとなしく犬小屋に戻っていくカルボナーラ。 「はぁはぁ……」 「すみませんでした、カレンさん」 「お客さんに、あんなにじゃれることは無いんですが……」 「あ、あんなに、動物に懐かれたのは初めてです」 「……あれはあれで、逆の意味で番犬になりそうですね」 「では」 ……。 なんとなく、この人が姉さんと仲がいいのも分かるような気がした。 きっと、本当に仕事に熱心な人なんだろうな。 ……。 …………。 家の中に戻る。 のんびりとした時間が流れているリビングでは……フィーナ姫が、今日学院であった出来事をミアさんに話して聞かせていた。 「びっくりです」 「月のことを勉強する授業があるんですね」 「でも、どこでも教えているのではなく、カテリナ学院が特別みたいよ」 「……でしたよね、達哉様」 「ええ、月学概論ですよね」 「満弦ヶ崎には、中央連絡港がありますし……」 「カテリナ学院は、月学の授業があるのが特徴なんです」 「その授業ではどんなことを習っているんですか?」 「歴史から地理から、基本的なことを広く学べる教科書だったわ」 ……。 「そのおソバが上手く食べられなくて」 「でも、姫さまは箸を使うのも練習してらっしゃいましたよね」 「ソバは、少しずつゆっくり頂くものではなく、一気にすする食べ物みたい」 「しかも、ソバを食べる時はずずずーっと音を立てた方が粋なんですって」 「それもびっくりです」 「やっぱり、知らないことばかりですね」 「本当。 新鮮だわ」 ……。 「で、授業が終わってから、教室の掃除をしたの」 「ちりとりの使い方も、もう完璧にマスターしたのよ」 俺たちの前にいる時とは違い、少しおどけた調子でミアさんに語りかける。 「カテリナ学院では、学生が掃除をするんですね」 「清掃業者が入ってるトコも多いみたいですが」 「たしか『自分の行為に責任を持つ』という教育方針の一環だったかと」 「いい方針ですね。 自立心や社会性が養われると思います」 「でも、姫さまが掃除をするとは思っていなかったので……」 「姫さまは、ちゃんと掃除できていましたか?」 「……あー」 ちらっと姫を見る。 「ホウキもちりとりも、ちゃんと使えてましたよ」 「よかったですー」 「……姫さま、明日のご予定は?」 「明日は体育の授業があるので、今日は早めに休みましょう」 「はいっ」 ……。 …………。 今日体験した、ひとつひとつの出来事を楽しそうに話すフィーナ姫。 聞いている方のミアさんも、姫が語る内容に頷いたり驚いたり。 姉さんも、キッチンからにこにこと話を聞いている。 ……。 こうして、フィーナ姫登校初日の夜は更けていった。 ピーーーーーーッ!体育教師のホイッスルで、3年女子全員が一斉にスタートする。 春先恒例の、体力測定。 今日の種目は、持久走だった。 男子は1500m、女子は1000m。 男子は既に走り終え、ぜえはあ言っている。 そのタイムを記録したところで……女子のスタートとなった。 「体育の授業では、このユニフォームを着るのですね」 「そうです」 「この上には何も穿かないのですか」 「ええまあ」 「……皆様、このまま男子と同じグラウンドへ?」 「そう……なりますね」 「……」 「分かりました」 コースは、まずグラウンドのトラックを一周。 それから弓張川の川原まで行き、引き返して来るというもの。 男子の歓声の中、女子が最初のトラックを周り始めた。 ……おっ。 先頭は菜月。 そして、そのすぐ後ろには……なんと、フィーナ姫がいた。 かなり全力に近い速度を出している菜月を、ぴったりとマークしている。 そのまま二人を先頭に、集団が外へ駆けていった。 ……。 …………。 そして、3分するかしないかのタイミングで、先頭が戻ってきた。 もちろん集団はばらけている。 が、学院を出ていった時と同じく、1位菜月・2位フィーナ姫の順で戻ってきた。 ……激しいデッドヒート。 そして。 ゴールまであと50mというところで、フィーナ姫が一気にスパートをかける。 ……。 ピーーーーーーッフィーナ姫が1位。 菜月はわずかに及ばず、2位だった。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 荒い息を整えようと、空気を大きく吸い込んでいる。 「あ、……はぁ、はぁ」 「早かったですね」 「ありがとう……はぁ……ございます」 かなり頑張って走っていたと思う。 「フィーナ姫は、運動神経もいいんですね」 「いえ、菜月さんの……はぁ、はぁ……方が、きっと」 菜月は案外回復しているのに、フィーナ姫はまだ息が乱れている。 ……きっと、限界ギリギリまで、少しも手を抜かずに走ったのだろう。 そんなところも、フィーナ姫らしさなんだろうなぁと思う。 「さあ」 「タイムを記録しに行きましょう」 まだ少し息が荒い姫は、それでも胸を張って、歩いていった。 月学概論の授業が始まる前の休み時間。 教室には、長距離走の余韻が残っていた。 ……そんな中に。 宮下先生が、フィーナ姫用の月学概論教科書を持ってきた。 「遅れてすまんな」 「いいえ、ありがとうございます」 にこやかに教科書を受け取るフィーナ姫。 ……。 しかし、やはり内容が気になる様子。 宮下先生が教室から出ると、休み時間のうちから、教科書をぱらぱらとめくり始めている。 「何か、気になることでも載ってましたか?」 「いえ、そういうわけではないのですが……」 「……あっ」 「?」 通りすぎてしまったページを何枚かめくる姫。 何ページか戻ったところで、その手が止まった。 「この方は……?」 そのページには、毅然とした表情の女性が載っていた。 どことなく、フィーナ姫にも面影があるような……。 「母です」 「はは?」 「先代の王だった、私の母親です」 ……。 教科書に載っているのは、女王セフィリア。 面影があるのも当たり前だ。 言われてみれば、面影どころか、かなり似ている。 「そうですか……」 今から何年か前に亡くなり、確か現王は……フィーナ姫の父親だったはず。 「教科書に載ってるなんて、少し複雑な気持ちです」 「でも、地球との国交回復のために尽力したと」 「ええ。 もちろん母は誇りに思っていますが……」 「やはり、『過去の人』という感覚が強くなってしまって」 ……。 …………。 姫は、はっとした顔をする。 「……申し訳ありません」 「今のは聞かなかったことにして頂けませんか?」 彼女がどういう気持ちでいるのか、正確なことは分からないし、分かることはできないだろう。 それでも、俺も親を亡くしているので、下手な同情は逆に辛いことも知っている。 ……姫に向かって、俺は黙って頷いた。 ちょうど授業開始のチャイムが鳴った。 ……。 …………。 「今日は、昨日とは変化をつけて、購買部にチャレンジしようと思います」 「おーう!」 「購買部……?」 「惣菜パンやサンドイッチ、ジュースを売っている売店のことです」 「パンなら、ゆっくり食べても伸びませんし」 「分かりました」 「ですが……チャレンジというのは?」 「あそこの人だかりを見て下さい」 指さす先には長蛇の列。 「私達は、もう出遅れかけてるんです」 「特に人気の高いパンは、その存在が幻と言われるほど」 「で、では、早速並ばないと」 ……。 …………。 なんとかパンにありつくことはできたものの、やはり人気の品は無くなっていた。 買えたのは……たまごサンド、ツナサンド、小倉あんパン、男爵コロッケパン×2、メロンパン。 「最初は、フィーナ姫に選んでもらおうか」 「そうだな。 姫、まず二つ選んでください」 「よろしいのですか?」 「もちろんですよ」 「遠慮なくどうぞ」 ……。 ひとつひとつのパンを、興味深そうに観察するフィーナ姫。 「では、これと……これを」 選んだのは、たまごサンドと男爵コロッケパン。 「せーの」 「じゃんけん……」 「ポン!」 ……。 「やっぱり負けたー」 菜月は自他共に認める運の悪さを誇る。 「じゃあこれとこれ」 ツナサンドと、男爵コロッケパンを選ぶ。 ……が、そんな俺を不思議そうに見つめている姫。 「達哉様、今の『じゃんけん』というのは一体?」 「え」 「あれ?」 「もしかして『じゃんけん』をご存知ではない?」 「はい」 「では少々お手を拝借」 ……。 …………。 最初に、紙とハサミと石の関係から始まる理論を説明。 その後、俺と菜月で実演を数回。 「では姫」 「……はい」 「じゃんけん……」 「ぽんっ」 「フィーナ姫、見事でございます」 「完敗です」 「ふふふ……お二人とも、芝居がかりすぎですよ」 「……でも、面白い勝負方法ですね」 なるほど、と頷いている姫。 「月では廃れちゃったのかな」 「そもそも、最初に月に移住した人たちが知ってたかどうか」 「地球上のどこでもやってるもんだと思ってたけど」 「どーなんだろ?」 ……。 さて。 菜月に残ったのは小倉あんパンとメロンパンだ。 「甘いのばっかり……」 先月からダイエットダイエットと言っていた菜月は、肩を落としている。 「あの、菜月様。 交換しても……」 「いいえ姫。 勝負の世界は厳しいのです」 「でも……」 「きっと俺が選んだパンの方がカロリーは高いぞ」 「そっか。 そうだよね」 元気な菜月復活。 立ち直りも早かった。 「では、いっただきまーす」 「いただきます」 「飲み物も分けましょうか」 こちらは全員同じ烏龍茶の缶。 「……フィーナ姫?」 「これは」 「……どうやって飲めば良いのでしょうか?」 フィーナ姫は……缶を逆さにしたり、振ったり、じいっと観察したりしている。 「では少々お手を拝借」 ……。 俺と菜月は、困り果てている姫に缶ジュースの開け方を教えた。 もちろん、パンにそのままかぶりつく食べ方も、やってみせることとなった。 ……。 …………。 放課後は、家で学院のカリキュラムのおさらいをした。 フィーナ姫が勉強してきたことと学院の授業が、どれだけ違うのかを確認していく。 数学や社会・理科から、体育、月学まで。 全く違う教育体系の中にいた姫が、授業について来れているのは驚きだった。 「数学の進み方は、月に近いですね」 「体育は全然違うみたい」 「化学と物理は月の方が難しいことやってるなぁ」 「『政治・経済』が複雑で大変そうです」 ……。 もちろん、勉強の溝を埋めておくことは大切だ。 フィーナ姫はその立場に甘えることなく、恥ずかしくない成績を残そうとしているようだし。 しかし。 実はこの勉強会は時間稼ぎでもある。 「達哉くん、ごめんなさい。 あと30分くらい引っ張って」 「分かりました」 「あと、麻衣ちゃんには、ミアちゃんを押さえとくように伝えてくれる?」 「はい」 「あっ、さやかさま」 「今日はせっかくのお休みなのに、お忙しそうですね」 「え、ええ。 ちょっとね」 ぱたぱたと玄関を出て行く姉さん。 博物館勤めの姉さんは、週末より平日に休んでいることが多い。 「さやかさま、どうしたんでしょうか?」 「さあ……?」 「そうだ、麻衣がキッチンで料理のレシピを書いてたよ」 ……。 今日は、鷹見沢家の皆とも共謀して、フィーナ姫とミアさんの歓迎会を開くことにしていた。 場所はトラットリア左門。 閉店後の今、左門では準備が急ピッチで進んでいるはずだった。 そして俺と麻衣は、二人の足止め係として奮闘中である。 ……。 …………。 「達哉様、今日は夕食が遅いのでしょうか」 「あ、ええ。 麻衣がそんなこと言ってました」 「そうでしたか」 口にはしないが、今のは『お腹が空いた』という話に違いない。 まだかな……。 こんこん「はい」 「失礼します」 「達哉くん、そろそろ」 「待ってました」 「?」 ……。 「今日は、トラットリア左門で夕食なんですね」 「そういうことです」 「お兄ちゃん、おっけー」 「それじゃ、入りましょうか」 「こ、これは……」 「わぁ……」 「お待たせ致しましたーっ」 「ようこそ、お運び下さいました」 「楽しんで行って下さい」 机の上には、楽しげに盛りつけられたパーティ用の大皿料理。 いろんな種類が取り揃えられた飲み物。 そして、簡単ではあるけど、二人を歓迎する垂れ幕など。 「今日は、お二人の歓迎会を開催しまーす!」 わっ、と盛り上がり、拍手が左門のフロアに響きわたる。 「姫さま……」 「あ……皆さん……」 二人とも、とっさのことに、あまり言葉が出てこない。 この不意打ちに驚き、喜んでくれているようだ。 「さあさあ、みんなこれを持って」 クラッカーを皆に配って回る菜月。 「そして、お二人は真ん中へどうぞー」 入り口にいたフィーナ姫とミアさんを、フロアの中央へ引っ張っていく。 「あ、あの、これは?」 「わ、わわっ」 ……みんなの視線が二人に集まる。 「じゃあ菜月ちゃん、お願い」 「は、はいっ」 どうやら、最初の挨拶をするのは菜月のようだ。 もう顔が真っ赤になってるけど、大丈夫かな。 「こっ……」 「この度は、ようこそ地球にいらっしゃいませ」 「Oh、噛んでるよ菜月」 「分かってるわよっ」 くすくす笑いが起きる。 菜月は咳払いをひとつ。 「オホン、えーと、とにかく、お二人が来てくれて嬉しいですっ」 「『よろしく』と『ようこそ』の気持ちを込めて準備しました」 「固苦しいことは抜きにして、ぱーっと楽しんでください!」 パンッパパンッ!二人に向かってクラッカーが鳴り、紙テープが舞った。 「ありがとうございます」 「ありがとうございます」 深々と頭を下げる。 「さささ、冷めないうちに料理を食べてくれよ」 「たくさん作っちゃったから、どんどん、遠慮なく、もりもりと」 「まだまだ増えるからな」 「すごいです!」 「いただきますね」 いつもの左門の料理よりも、更にくだけていて食べやすい料理が並ぶ。 サラダにガーリックトースト、ポテトフライ、チーズとクラッカー。 それにもちろん自慢のピザや大皿のスパゲッティ。 「さあ、どうぞどうぞー」 主役の二人に、色々と取り分けている菜月。 「菜月様も、ご一緒に作られたのですか」 「いえ、私は盛りつけなどを……」 「菜月はその昔、運動会のための弁当を張り切って作ったことがありまして」 「あっ、達哉!」 菜月が俺の口を塞ごうとするが、俺は構わず喋り続ける。 「その弁当ときたら、どれもこれも真っ黒に焦げてたんです」 「それなのに、菜月ときたら『自信作よ』なんて言ってましてね」 「かわいい妹が頑張って作ったんだからと、口に入れるじゃないですか」 「俺も同時に食べました」 「すると……」 「もー、その話はいいじゃない」 「いや、これはフィーナ姫にも知っておいてもらわなくては」 「何より事実だしね」 「ぐっ……」 「で、そいつを口に入れたわけですが……」 「歯触りが『じゃりっ』っていうんです」 「じゃりっ?」 「達哉君、僕はどちらかというと『ぼりっ』という音だったが」 「どっちでもいいでしょっ」 「つまり、もう完全に炭化していたわけです」 「……僕は、菜月を筆頭とする料理が苦手な全ての人に、声を大にして言いたい」 「能書きはいいから味見しろ、と」 「ごふっ」 菜月のヒジが、仁さんの水月に入る。 「まあ、そう菜月を責めるなよ仁」 「そう言う親父殿は、あの時菜月の弁当を食べませんでしたね」 「おっと仕込みが残ってたな……」 「まあとにかく」 「その時の弁当のおかずは、全て炭の味しかしなかったので……」 「それ以来、菜月の料理は『カーボン』と呼ばれています」 「それ以来って、カーボンだったのはあの一回だけじゃないっ」 「いや、二度と食べたくないからね」 「今はそんなことないってのに、もう」 菜月の料理という話になると、いつもこのエピソードが出てくる。 「そのうち驚かせてやるから、首を洗って待ってなさいよっ」 「その時は、私も菜月さんのお料理を食べてみたいです」 「まあ、俺は期待しないで待ってるよ」 「待つだなんて、達哉君は勇気があるなぁ。 僕は逃げるからね」 すこーんしゃもじが仁さんの後頭部にヒットした。 ……。 「はい、グラスですよ」 「どんどん飲んでくださいねー」 ウェイトレス精神を発揮して、菜月はフロア内をくるくる回って大活躍。 俺もバイトの時のクセで、料理を運ぶ側として働く。 厨房では、どんどん新しい料理が出来ていた。 麻衣は飲み物を注いで回り、姉さんは、フィーナ姫とミアさんに料理の解説をしている。 ……。 「それでは、皆さんに飲み物が行き渡ったようなので、フィーナ様よりお言葉を頂きまーす」 「はい」 流石に菜月とは踏んできた場数が違うようで、フィーナ姫は落ち着いている。 一度、全員の顔を見回した。 「本日は、私とミアのためにこのような席を設けて頂き、誠にありがとうございます」 「そもそも、今回の留学は……」 「フィーナ様、公式の行事ではありませんから……」 「もっと気楽に行きませんか?」 姉さんが、フィーナ姫にウインクする。 おやっさんも仁さんも、みんな笑顔で頷いた。 「そう……ですね。 では。 コホン」 軽く咳払いをする。 「三日が経ちましたが、まだまだ、新しい発見や出会いばかりです」 「私が地球の常識を知らないことで、皆様にご迷惑をお掛けすると思いますが……」 「どうか、ミアともども、よろしくお願いします」 脇にいたミアさんも、一緒に頭を下げる。 「よろしくお願いします」 ぱちぱちぱち……盛大で、温かい拍手に包まれ、フィーナ姫が一礼する。 ……。 顔を上げた姫。 わずかの間、皆の顔を一通り見回し、話を続けた。 「それと、これはもし皆様がよろしければ、でいいのですが……」 「ひとつだけ、お願いがあります」 みんな、静かに聞き入っている。 「今現在、例えば達哉様は、私のことを『フィーナ姫』と呼んでいます。 しかし」 「これでは、どうしても私の肩書が気になってしまうのではないかと心配しております」 「どうか、これからは『フィーナ』とだけ、お呼び頂けませんか?」 「達哉くん、ご指名よ。 どうする?」 姉さんが俺に振る。 ……。 俺の返事は決まっていた。 「俺のことも『達哉』と呼んでくれるなら、喜んで」 「……」 ほんの少しの間だけ、考えるフィーナ。 「分かったわ、達哉」 「ではこちらも」 「フィーナ、ようこそ地球へ」 「ありがとう、達哉」 互いに握手をする。 ぱちぱちぱち……「じゃあ、これは……こうしちゃいましょうか」 姉さんが、極太のマジックで垂れ幕に書き込む。 「お、いいな」 「親睦が深まった気がするね」 「私もそう思うわ。 ありがとう」 「ほら、ミアも」 「わ、わたしもですか?」 「改めて、よろしくね」 「ええっ」 「わ、わたしは、達哉様は、その、とと年上ですからっ」 「こっちはミアって呼ぶよ。 きっと」 「そっ、それでも……無理です……」 「ミアが困らせてどうするの」 「せめて『様』はやめてほしいなぁ」 「では、『さん』付けでどうかしら」 「どうかな?」 麻衣と姉さんに水を向ける。 「いいんじゃない?」 ……。 「ええと……」 「さ、さやかさん、達哉さん、麻衣さん」 「さやか、達哉、麻衣」 二人が、順に俺たちを呼ぶ。 「えへへ、嬉しいな」 「これで、家族って感じがするわ」 ……二人ともオッケーのようだ。 「待って! 私も私もっ」 「くすくす、もちろん菜月も一緒よ」 「では、菜月……さん、ということで」 「父上、我等はいかが致しましょうぞ」 「……」 「どうされました、父上!」 「俺には、一度『マスター』と呼ばれてみたいという夢があってな」 「マスター……ですか。 いいですね」 「マスター左門、ですね」 「では、マスターと呼ばせて頂きます」 「うん。 いい感じだ」 「イタリア語ではマエストロなんじゃないかな」 ……。 「というのは黙っておいた方がいいんだよねきっと。 あっはっは」 場が凍る。 「ほら、でもメニューにナポリタンがあることだし」 「フィーナ、それフォローになってないから」 「いいんだ。 マエストロっていうと、なんかこう、芸術的というか偉そうというかホレ」 「その……つまり、マスターって響きがいいわけよ」 遠くを見つめながら語りに入るおやっさん。 「男が持ってる108の浪漫の一つなんだよ。 分からなくてもいい」 「よく分かりませんが、浪漫は大切だと思います」 「おお麻衣ちゃん、やっぱり浪漫だよなぁ」 「後で特製のアイスを出すよ」 ……特製!?「マスター」 「マスター」 「マスター☆」 「マスター♪」 「ま、マスター」 「ええい、もういいっ!」 こうして、フィーナ達の呼び方から敬称が外れることになった。 口調も、丁寧すぎたものが、親しみを込めたものになるだろう。 ……。 「レディース、エェンド……ジェントルメン!」 突然、仁さんが立ち上がる。 「しばしお耳を拝借」 「我等が誇るフルーティスト、朝霧麻衣嬢によるフルート演奏が始まろうとしております」 「じ、仁さん、恥ずかしいよ」 見ると、こっそりフルートケースを持ち込んでいたようだ。 「みんな、見ないでー」 「日頃からカテリナ学院吹奏楽部にてフルートの鍛練を積み、今やパートリーダーにまでなった麻衣嬢」 「その素晴らしい演奏を是非、是非お聞きください!」 ……。 盛り上げようとしている仁さんと、恥ずかしがっている麻衣。 さて、どちらに肩入れしたものか。 皆が皆の出方を窺う。 ……。 「わーわー、どんどんぱふぱふー、ひゅーひゅー!」 「えー、麻衣ちゃんの準備ができ次第、再度お耳を拝借したいと思います」 「ぶーぶー」 「楽しいわね」 「え、ええ」 「賑やかです」 「でも、フィーナ……はもっと人数が多いパーティにも出席してるんじゃないの?」 まだフィーナ、と呼び捨てにするのは慣れないな。 「いえ、今のように楽しいものはほとんど無かったわ」 「静かに会食、そして御挨拶、御挨拶……そんなパーティが多かったの」 「なにか、僕が褒められてるような気がしたんだが」 「いーから、兄さんはこっち」 菜月が、仁さんをずるずると厨房へ引っ張っていく。 「あ、そろそろ準備ができたみたいよ」 麻衣が、唄口に唇を添えてフルートを構える。 みんなが麻衣を囲むようになったところで、自然と拍手が湧いた。 ……。 ……。 「ありがとうございました」 「ブラボー!」 「ぶ、ブラボー!」 「ハラショー、さすが僕が見込んだだけのことはあるよ麻衣ちゃん」 「別に見込んでないでしょ」 「あはは、こんなに盛り上がると緊張しちゃうね」 「麻衣さん、すごいです!」 「本当に素晴らしい演奏だったわ」 「今の曲は、『アルルの女』ね?」 「ええ、そうです」 「フィーナさんこそ、さすがですよ」 「この曲は、かなり昔に作られたものなのに」 「フィーナは、クラシックに詳しいんだ?」 「詳しいというより、ほとんどクラシックしか聞いたことがないのよ」 「そうなんですかー」 「でも、地球にいるうちに、今風の音楽もたくさん聞いてみたいわ」 「任せといて下さい」 胸をぽんと叩く麻衣。 ……。 「そろそろドルチェを出していいか?」 「ドルチェ?」 「デザートのことですよ、お嬢さん」 「本日は、新鮮なヨーグルトに様々なソースをかけて味わって頂きます」 「まぁ、ヨーグルトね」 「ヨーグルトと聞いては、あれを出さないわけにはいきません」 「うちの冷蔵庫の?」 「そうです。 少し待っていてくださいね」 ミアが席を立つ。 「何かあったっけ?」 「ミアちゃんは、月からジャムを持ってきているの」 「ほう、それは楽しみですね」 「月の王宮のジャムと、左門シェフの競演ということですか」 「いいえ、ミアのジャムは自家製なのよ」 「私の乳母でもある、御母上仕込み」 そう言って、ほんの少しだけ自慢げに微笑むフィーナ。 ミアは、フィーナの乳兄弟らしい。 小さいころから、ずっと一緒にいたんだろうか。 ……。 「お待たせ致しましたー」 「こっちの準備も終わったよ」 テーブルに並べられるヨーグルトの器。 俺は、全員分のスプーンと器を配って回った。 「今日作ったソースはこれだ」 「左からキウイ、カシス、それにチョコレート」 「私のジャムはこれです」 鞄から、小分けされたビンが出てくる。 「右からブルーベリー、木いちご、それに薔薇のジャムです」 「皆様もどうぞお召し上がりください」 「お、こりゃ美味いね」 早くも、ミアのジャムを味わっている仁さん。 俺も後に続いて食べてみる。 「ほんとだ。 美味いなぁ」 「わ、わたしもっ」 「では少しずつ」 「もらっていいかね」 ミアが持ってきたジャムは大人気。 一方、左門のヨーグルトソースも、高い評価を得ていた。 「こちらも、とても美味しいわ」 「わぁ……こんな味がするとは、新鮮です」 俺も、新しくヨーグルトをよそい直し、今度はこちらを試してみる。 「ほほう」 「今までに食べたことが無い美味しさだ」 「あら、こっちも美味しそう」 「お姉ちゃん待って。 わたしもわたしもー」 左門のメニューも好評。 「マスター、さすがです」 ……。 「マスター?」 「マスター……」 「ああ、俺か俺か」 「自分で言ったんですから、しっかりして下さいよー」 顔をきりっとさせるおやっさん。 「で?」 「今、ミアちゃんが褒めてくれたんですよ」 「おおそうか。 ありがとうミアちゃん」 「ミアちゃんのジャムも良かったぞ」 「うん、美味しかった!」 「ああ。 特に薔薇の香りは新鮮だった」 「そ、そ、そうですか?」 「えへへ……」 照れつつも、嬉しそうな様子。 「地球で手に入る食材では、もうジャムを作った?」 「いえ、まだです」 「麻衣ちゃんか菜月ちゃんに、商店街を案内してもらうといいかもね」 「ええ、お願いね」 「任せてっ」 胸をぽんと叩く菜月。 「新しいジャムの材料にチャレンジしてみるのも楽しそうですよね」 「はいっ」 「お腹一杯になりましたね」 「今日も、とても美味しかったですよ」 「麻衣ちゃんにそう言ってもらえるなんて、嬉しいなぁ」 「本当に、美味しかったですし、楽しかったです」 「ミアちゃんにまでそう言ってもらえるなんて、料理人冥利に尽きますなぁ」 「いつの間にか仁の野郎、酒飲みやがった」 「気づきませんでした……」 食べ物もほとんど残っておらず、なんとなく、穏やかな雰囲気。 ……宴も、そろそろ締めの時間がやってきたようだ。 その雰囲気を察したフィーナが、一歩前に出る。 みんなも、それに合わせて静まった。 「今日は本当にありがとうございました」 「この数時間で、皆様と、とても親しくなれました」 「地球に来るのは二度目なのですが……」 「一度目は本当に幼い頃のことだったので、地球に来るのはほとんど初めてと変わりません」 「そのため、ご迷惑をお掛けしたり、お教え頂くことも多いと思います」 「王家の人間として、そして王族の矜持にかけて、恩義は忘れません」 「これから、留学が終わるまでの間、改めてどうぞよろしくお願い致します」 一礼。 皆からの、温かい拍手。 「さ、片づけるか」 「フィーナ様、戻りましょうか」 「いいえ、私も片づけるのをお手伝いするわ」 「わたしもお手伝いさせて下さい」 「そうこなくっちゃ」 ……。 …………。 結局、テーブルの並び替えや飾りつけの取り外しなど、片づけは全員でやった。 いつもより人が多いせいか、すぐに元の状態に戻る左門。 俺たちは鷹見沢家の面々に礼を言い、家に戻った。 何となく人が集まっているリビング。 賑やかな歓迎会が終わり、思い思いに余韻を醒ましていた。 ふと気づくと、フィーナがサッシを開け、庭へ降りている。 俺も、何とは無しにフィーナに続く。 ……。 フィーナは、じっと動かずに、月を見上げていた。 かすかに雲が懸かった月が、フィーナの顔を白く照らす。 ……。 「荒野ばかりの月も、38万キロ離れたところから見ると……きれいね」 「ですね」 故郷を、こんなに離れたところから眺めるというのは、どんな気持ちなんだろう。 ……。 「達哉」 「さきほども言った通り……私が地球に来るのは、二度目なの」 「そう、言ってたね」 ……。 「その一度目の時……」 ……。 …………。 さっきは、一度目の時のことはほとんど覚えていないようなことを言っていた。 幼い頃に、地球に来たことがあるお姫様。 幼い頃。 ……。 …………。 「……いえ、何でもないわ」 「忘れて」 「……」 フィーナはにこっと目を細め、再び月を仰ぎ見る。 「月は、地球からだとこう見えるのね」 「ええ」 「月から見た地球と比べて、ずいぶん小さい……」 「そう……なんですか」 ……。 なんて返事をしていいかは分からなかった。 フィーナは、何か言いたかった言葉を飲み込んだような気がした。 でも、きっとこれからフィーナと仲良くなって、フィーナが地球のことを勉強して、俺も月のことを勉強して、そうすれば、何もかもが、少しずつ動いていくんだろうと思っていた。 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「召し上がれー」 「今日はピリ辛タンドリーチキンだよ」 「おお」 「ちゃんとヨーグルトも使ってて、本格的ね」 「これは美味しそうですね……」 「香りが食欲をそそります」 身の締まった鶏ムネ肉は、カレー色を帯びている。 何種類ものスパイスの複雑な香りと、バターのほんのりとした甘い香り。 表面のわずかな焦げ色からの香ばしさも、それに加わっていた。 「辛いですか?」 「心配しなくても大丈夫」 「ほんの少しだけだから」 「あと、付け合せに、蟹の生春巻きをどうぞ」 「蟹って……」 ずいぶん豪勢だなと言おうとしたら、先に答えられた。 「大丈夫、蟹カマだよ」 「わぁ、おいしいです!」 「生春巻きは、このタレにつけてね」 「こちらも美味しいですね」 麻衣の料理は、月からのお客人にも大好評だ。 ……。 …………。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまでした」 「お粗末さまでした」 ……夕食を食べ終え、ゆっくりとお茶を飲む。 そんなのんびりタイム。 「お皿洗うね」 「麻衣さん、わたしもお手伝いします」 二人が席を立つ。 各々、近くにあるカップやソーサーを手にするが──半ば奪い合いの様相を呈している。 「そんなに慌てなくてもいいでしょう?」 「とは言っても、お客様にやっていただくわけには」 「いえ、一緒に住まわせて頂いている以上、同様の負担を」 「ミアさん、ほんとにそんなに気を遣わなくても……」 「いえいえ、お世話になってばかりでは落ち着かなくて」 ……。 「まあまあ、みんなそのくらいに」 姉さんが、仲裁に入ってくれる。 「達哉くん、まず、お二人はお客様ではありません」 「お二人は、うちの家族になったものだと考えましょう」 「はい」 「でも、新米の家族に、私達と同じだけの負担を求めるわけにもいきません」 「ですよね、フィーナ様」 「ええ」 にこっと微笑む姉さん。 「ましてや、奪い合うようでは本末転倒ですよ」 「はい……」 「すみませんでした」 「ううん、謝らなくてもいいのよ、ミアちゃん」 「その気持ちは、とても嬉しいわ」 姉さんは、慰めるようにミアの頭をなでる。 「どうしようか?」 「ちゃんと、分担を決めましょう」 「これで、揉めることも無くなりますもんね?」 麻衣の顔がにぱっと明るくなる。 「うん、そうしようっ」 「私も賛成よ」 「それじゃ、決まりね」 ……。 …………。 姉さんが柔らかく仕切ってくれたおかげで、スムーズに話が進んだ。 まず、ミアは一日中家にいることが多い。 麻衣は、吹奏楽の部活もあるため、かなりの仕事をミアに引き継ぐことになった。 最終的には……。 「お掃除とお洗濯は、わたしが麻衣さんに教えてもらうことになりました」 「私は、基本的には料理担当ということに」 「で、ミアさんとは、地球と月の料理をそれぞれ教え合います」 「私も、可能な限りそのお手伝いを」 「俺も同じくです」 「……でも、麻衣と、特にミアに偏っているのでは?」 「もしそう思ったら、もっと積極的にお手伝いすればいいんじゃない?」 「もちろん、どれくらい手伝ってもらうかは、その担当者が決めること」 「分かりました」 「はーい」 ……。 姉さんも言ってたけど。 だんだん、二人が家族になって来てる気がして、じんわり嬉しい。 家の中が久し振りに賑やかなだけで、俺は、楽しくなってきていた。 ……。 それぞれ、担当した家事が終わりかけている。 俺も、風呂の掃除を終えた。 「もう遅いですし、掃除機は明日にしますね」 みんな、なんとなくもう一度リビングに集まる。 「しー」 人指し指を口にあて、皆を見渡す麻衣。 ……?リビングにそっと入っていくと……姉さんが、ソファで丸くなっていた。 みんな、小さい声で喋る。 「姉さん、今週もずっと働きっぱなしだったもんなぁ」 「少しそっとしとこうか」 「でも、風邪を引いてしまわないかしら?」 「わたし、毛布を持ってきますね」 「暖かいから、大丈夫だと思うよ」 安らかな顔で寝ている姉さん。 姉さんは「疲れた」 「大変だ」 などと愚痴を言ったことが無い。 「……でも、俺たちが姉さんに心配掛けちゃいけないよな」 「そうね……」 「先程は失礼しました」 「でも……自分の部屋で寝た方が、疲れも取れるんじゃないかな」 「そうですね」 「お起こしした方が良いのでしょうか」 ……。 姉さんをじっと見る。 いつもいつも、一生懸命働いてる姉さん。 そして、さっきもそうだったように、うちの精神的な大黒柱としての姉さん。 普段、しゃきっと背を伸ばしている時は大きく見えるのに、今は……。 「俺が、姉さんの部屋まで運ぶよ」 「今のまま、寝かせといてあげるのが一番だろ」 「そうね。 達哉、お願いしていい?」 「ああ」 「わたし、ベッドの方準備しとくね」 「わたしも」 二人が、先に二階に上っていく。 「……達哉は優しいわね」 「いや、姉さんには敵わないよ」 「よっ」 姉さんの膝と肩の下に手を入れ、持ち上げる。 「大丈夫?」 「ん」 俺は、姉さんの重さと軽さとを感じながら、部屋まで運んでいった。 「今日はいいお天気ですねー」 今日は久し振りの休みだという姉さん。 いつも通り、ほややんと半分寝た状態で朝食を食べている。 「何だか……」 「さやかさんが、いつもと違います」 「お姉ちゃん、はいお茶」 「ありがとう、麻衣やん」 「やん?」 俺の問いはスルーされ、姉さんがお茶をすする。 きっとあれは、麻衣特製の濃厚緑茶だろう。 姉さんの目覚まし用だ。 ……。 「ふう」 「朝は、このお茶で目が覚めるわね」 「?」 「いつものさやかさんに戻りました」 「あとで、麻衣にコツを教えてもらってね」 「わ、わかりました」 「……ところでさやか」 「確か、大使館の近くには礼拝堂があったわね」 「ええ、ありますよ」 「フィーナ様は行かれますか? 日曜ですし」 「ええ、そうするわ」 「先週は行けなかったから」 「わたしもお供致します」 「礼拝堂って?」 「月王国では、半ば国教のように扱われている宗教があるんだけど」 「その礼拝堂が、博物館の隣にあるの」 「そう言えば、月学の資料集に書いてあったかも」 「達哉も、一緒に行ってみる?」 「一度、見てみた方がいいかな」 「礼拝堂の雰囲気は、写真では分からないものがありますよ」 その一言に押され、礼拝堂まで行ってみることにした。 ……。 …………。 この街を南北に流れる弓張川。 その河口の三角州は「月人居住区」 として扱われている。 「博物館、何度見ても立派ですね」 「本当に」 「さやかの指揮で、外見だけではなく展示も立派だと聞いてるわ」 「隣ってことは、あれが礼拝堂?」 「ええ、そうね」 礼拝堂なんて言うから、こぢんまりした建物を想像していたけど。 実際に見てみると、かなり大きくて……何て言うか、威厳を感じる建物だった。 「へえ……」 「こんなに大きいとは思ってなかったよ」 「それに、神聖な雰囲気があるような……気がする」 「ふふ……宗教施設は、そう思われるように作るものなのよ」 「私達はこれからお祈りをして来るけど、達哉はどうする?」 「この辺で、適当に時間を潰しておくよ」 「関係者じゃないと追い出される、みたいな規則が無ければ」 「多分、大丈夫です」 「こちらも、そんなに掛からないと思いますので」 「では」 そう言って二人は、礼拝堂の中に消えて行った。 ……。 敷地に余裕があるから目立たないだけで、ちゃんと見ていると、礼拝堂に入っていく人もいる。 そんな人影をぼんやりと眺めている。 ……と。 背後から視線を感じて、ゆっくり振り返った。 目が合う。 女の子が、俺をじっと見ている。 睨まれるってほどじゃないけど、居心地の悪い見られ方。 俺が、礼拝堂に来てるのに礼拝もしないでいるから…………ではないような気がする。 「あの……こんにちは」 「……」 空振り。 まいったなぁ。 「君も礼拝に来たの?」 「……」 ツーストライク。 ……さて。 このままでは三振も確実かと思われた時、その女の子がかすかに笑った。 無言の返答が辛かった俺も、思わずつられて微笑む。 もしかしたら、この女の子には言葉が通じていないのかもしれない。 あるいは……耳が悪いとか?……。 あれ?どこかで会ったような気がするんだけど……。 思い出せない。 ……。 その女の子は花壇の間に立っているので、まるで花の海の中に浮いているようだ。 服装と、礼拝堂という場所も相まって、幻想的な気分になってくる。 礼拝堂の入り口から、人の波が出てくる。 どうやら、礼拝の時間が終わったらしい。 「達哉、待ったかしら?」 「退屈じゃありませんでしたか?」 「いや、そんなことなかったよ」 「花も綺麗だし、それに……」 ……。 つい今まで、そこに立っていたはずの女の子がいない。 えっ?ほんのちょっと、振り向いただけなのに。 「どうしたの?」 「いや……」 「小さい女の子がいたんだけど、どこかに行っちゃったかな」 「そう」 「姫さま、達哉さん、帰りましょう」 「あ、うん」 「今から帰れば、ちょうどお昼ごはんですよ」 「今日は『かれー』というメニューだと、さやかが言ってたわ」 「かれーって、どんな料理なんですか?」 「そうだなぁ。 何と言っていいか……」 ……。 …………。 そんな話をしながら家路を辿る。 なんとなく……消えた女の子のことが、引っ掛かったまま。 礼拝堂から家に帰り、麻衣と姉さんの合作「特製・春から夏野菜のキーマカレー」 を食べ終える。 ナス、トマト、タマネギ、ブロッコリー、パプリカ、にんじん、セロリ……その他にも、まだまだ材料は入っていた模様。 それらが混じり合った複雑な味と、挽き肉の旨味が渾然一体となっている。 ミアも大満足の出来。 麻衣も、少し胸を張っていた。 「いかがでしたか?」 「とても、美味しかったです」 「勉強することがいっぱいですよ~」 「私も、お姉ちゃんに教えてもらいながら作ったんだよ」 「ちゃんと、レシピ書いてあげるね」 「やったー」 美味しいカレーは、かくも食卓を賑わした。 ……。 しかし……フィーナは、何か考え事をしているようだ。 「どうした?」 「ええ……」 そう曖昧に応じたフィーナ。 そのまま、俺をじっと見つめている。 視線に俺が気づき、目が合うと……目を逸らす。 そんなことが、何度か続いた。 ……。 改めてフィーナをじっと見てみる。 きれいだな、と思う。 「達哉」 急に話しかけられて、少し驚いた。 「な、なに?」 「居住区へ行ってみて、どうだった?」 「何か、思ったこととか」 「いや、特には」 「綺麗な建物が揃ってるなぁとは思ったけど」 「……」 「そう」 「?」 「あの、何か?」 「い、いえ」 「……別に、何でもないわ」 ……。 フィーナは、カレーの話をしている話の輪に戻っていった。 今日は水曜日。 トラットリア左門の定休日だ。 当然バイトも休みなので、放課後はフィーナにつきあって、寄り道して帰ることにした。 ……。 「買い食い?」 「いいえ、言葉を聞いたことも無いわ」 「……もし良ければ、教えてもらえるかしら」 「じゃあ、今日、今からやってみようか」 「わたし、アイスがいいな」 今日は吹奏楽部も休みらしく、麻衣も一緒に行くことになる。 「わたしは……二人に任せるわね」 「土曜・日曜は、ここの川原でフルートの練習をしてるんです」 「フィーナさんも、もし良ければ聴きに来て下さいね」 「ええ、是非」 「でも……家の中では練習しないの?」 「さすがに、近所から『うるさい』って苦情が来ちゃうかな」 「防音室でも作ればいいんだろうけど……」 そう言って、俺を見る麻衣。 「いや、それは日曜大工の範囲を越えてるだろ」 「確かに、一人で作るのは難しそうね」 「川原でいいじゃないか」 「風も気持ちいいし、広々してるし」 「でも、雨が降ったら無理でしょ」 「それに、金属製の楽器も、本当は日にあてちゃ駄目なんだよ」 「そうなの?」 「ええ」 「私のは、部で受け継がれてきた古いフルートだから、そこまで気を遣っていませんけど」 「麻衣、買い食いお勧めの店を教えてくれよ」 「うん。 この商店街限定で言えば……」 これまでも、麻衣にアイスクリームの店を教えてもらったことが何度もある。 アイス好きな麻衣は、店にも詳しい。 歩いて行ける範囲のアイス屋なら……美味しい不味い、高い安い、混んでる空いてる、開店・閉店時間からカロリーの高低、それに、デート向き不向きまで何でも知っている。 「今日はここがお勧めです」 「ここ? ただのスーパーだろ」 「と思うでしょ」 「ここの食料品売り場の隣にある店が、濃厚で美味しいアイスを作るんだよ」 「へえ……そりゃ盲点だ」 「もしかして、買い食いというのは……」 「多分、ご想像通り」 「ほら、あそこだよ」 「ちょうど、新作が出てるはず」 「ああっ、お行儀が……」 麻衣がフィーナの手を引いて、店の前に並ばせていた。 ……。 …………。 行儀を気にしていたフィーナも、アイスの出来には満足のようだった。 「こんなに自由な気分でアイスを食べるのは、初めてよ」 「それに、とても美味しいわ」 上機嫌のフィーナも、歩きながらピーチヨーグルト味のアイスを舐めている。 麻衣も上機嫌。 「美味しいよね」 「うん、美味いな」 「でも、やはり歩きながら食べるのは少し……」 「誰も気にしていませんよー」 「これも地球の庶民文化に触れてると考えれば」 ……。 「ぺろっ」 「ふふ……そうね。 そう考えることにするわ」 いたずらっぽく笑うフィーナ。 三人並んでアイスを味わいながら、足どり軽く商店街を歩いて行った。 ……。 夜も深くなり、順に風呂に入り終わった頃。 今日もフィーナは、ミアに昼間の出来事を話して聞かせていた。 「……という食べ方をしたの」 「ちょっとだけお行儀が悪かったけど、アイスがとても美味しかったわ」 「それに、ああして食べると、なんだかうきうきしてしまって」 「ううぅ、姫さまばかり、うらやましいです」 「ミアも、近いうちに一緒に行きましょうよ」 「えっ、いいんですか?」 「当たり前じゃない」 「フィーナ様」 「はい」 「カレンにだけは見つからないように気をつけて下さいね」 「きっと、この街でフィーナ様に注意するのは、カレンだけですから」 そういって笑う姉さん。 「ふふ……そうね」 ぴんぽーんチャイムが鳴った。 「あ、いいよ俺出るから」 バタバタと玄関まで駆けていく。 「はい」 「達哉君、お願いがあるんだよ」 「ちょっと、扉を開けてくれないかな」 「いいですけど……」 「こんな時間にどうしたんで……すかって、これは?」 仁さんは、トラットリア左門で一番大きなトレーを、両手で抱えていた。 これじゃ鍵が掛かってなくても、扉は開けられない。 「実験作だけどね」 「是非、皆さんに味わってもらおうと思ってさ」 全員が集まったリビング。 「さあ、ご覧あれ」 もったいぶった仁さんが、トレーに被せてあった布を、ひらりとめくる。 「これは……」 「うわぁ……」 「大きいけど、もしかして……」 「?」 「これは何ですか?」 「……シュークリーム、かしら?」 「さやちゃん大正解」 「しゅーくりーむ、というものなのね?」 「御意」 「で、でも、こんなに大きいのは初めて見ました」 姉さんも、うんうんと頷いている。 それもそのはず。 そのシュークリームらしき物体は、大きさがホールケーキほどもある。 「余った材料では、普通の大きさのシュークリームも作ってみたんだ」 言われて初めて気づいた。 特大シュークリームの周りには、いくつか普通の大きさのものが並んでいる。 大きい方のインパクトで、目に入らなかったらしい。 「お二人は、シュークリームは初めて?」 「え、ええ」 「初めてです」 「でしたら、まずはこの普通サイズの方からどうぞ」 「わたし、紅茶淹れてきますね」 ……。 …………。 そうして、仁さんの試作品のお披露目が始まった。 「ナイフやフォークは無くていいのね?」 「ええまあ」 「手でこうしっかり落とさないように持って、口の中に押し込んで、ぱくっと行っちゃって下さい」 「では、いただきます」 「いただきます」 ぱくっ二人が、普通サイズのシュークリームを口にする。 ……。 「……どうです?」 「すごい……とても美味しいわ」 「外はサクサク、中のクリームはまるでとろけるよう」 「とても、幸せな気分……」 絶賛だ。 「……むーっ、美味しいですっ」 「後で是非レシピをいただけないでしょうか?」 「あ、でもこういうのは企業秘密、ですよね」 こちらも絶賛。 「わ、私達も食べてみましょうか」 「うん」 お茶を淹れ終わった麻衣も、姉さんの後に続いた。 よし、俺も……ぱくっ。 ……。 …………。 む。 普通に美味い。 いや、かなり美味しい。 「仁さん、これ、とても美味しいですねっ」 「ほんと」 「あ」 「姫さま、クリームが……」 ミアが、フィーナの口元をハンカチでぬぐう。 「ご、ごめんなさい」 シュークリームに夢中になっていて、気づかなかったのだろうか。 ミアに拭かれながら、顔を赤くして俯くフィーナ。 「盛り上がって参りましたところで……」 「さあ、次が本命ですよ」 ナイフを取り出す仁さん。 ……巨大だ。 そもそも、ナイフで切り分けて食べるシュークリームなんて、初めてだ。 構成の基本は、さっきのシュークリームと一緒らしい。 中心部から、ちょうど6等分に、シュークリームを切り分けていく仁さん。 「満弦ヶ崎の巨匠、自ら切り分けます」 仁さん、ノリノリだ。 取り皿と、その上に巨大なシュークリームが、角度にして60度ぶん。 一人一人の前に取り分けられる。 「いただきます」 俺たちも、フィーナの後に続いた。 ……。 …………。 パウダーシュガーと生クリームとアーモンドの飾り。 普通のカスタードクリーム、コーヒーカスタード、チョコカスタードが層を成している。 そしてそれらのクリームに埋もれたフルーツ、少しパイ生地のような固さのシュー生地。 ……紅茶を何度もお代わりしつつ、長い格闘がやっと終わった。 「お、おなかいっぱい……」 「私もです……」 「紅茶、もう一杯いただくわ……」 「口の中が……甘くて甘くて……」 しかしそんな中、フィーナだけは自分の分をぺろりと平らげていた。 「ごちそうさまでした」 「とても美味しかったわ」 「それは良かった」 「また作ってお持ちしましょうか」 その質問が俺宛だったら、きっとしばらくは勘弁してくれと言っただろう。 でも、フィーナの返答は……「ええ、是非」 だった。 ……。 …………。 フィーナがカテリナ学院に通い始めて、最初の週末。 ばたばたしていた家の中も、フィーナとミアがいる状態に馴染んできた。 「ミアちゃん、脱水が終わった洗濯物、任せていい?」 「はい。 二階の物干し場ですね」 「うん」 そんな声が飛び交う、平和な土曜日の午前中。 俺はイタリアンズに餌を用意していた。 カルボナーラ「わふわふわふ」 ペペロンチーノ「わんっ!」 アラビアータ「ぅおん」 ガラガラとドッグフードを餌入れに流し込む。 最近、どんどん体が大きくなり、食べる量も増えているカルボ。 「わふ?」 先月から左門でのバイトを増やしたのは、餌代が増えてきたからでもある。 「幸せそうな顔しやがって……よしよし」 「おはよー」 「もう散歩行ったの?」 「そろそろ行こうかと思ってた」 今日はかなりぽかぽかと暖かかった。 日差しからは、春らしさだけじゃなく、初夏の薫りもする。 そこに、フィーナがリビングから顔を出した。 「おはよう、菜月」 「おはよう、フィーナ」 「達哉は、犬を飼ってるのね」 「うん」 「ってあれ? 紹介してなかったっけ」 「ええ」 「駄目じゃない達哉。 ちゃんと紹介しないと」 ……。 最年長のアラビアータ、好奇心が強いペペロンチーノ、一番でかいけどまだ子供のカルボナーラ。 それぞれを説明すると、フィーナも犬に挨拶する。 「三匹揃って『イタリアンズ』。 名付け親は菜月」 「いい名前だと思うわ」 「そ、そう? あははは……」 照れている菜月。 「実は、アラビアータより先に飼ってた犬がいたんだけど、何年も前に死んじゃってるんだ」 「飼い始めたのは、まだほんのガキだった頃だったかな」 「……」 「そいつの名前も菜月がつけたんだけど」 「ダメーっ」 「『ナポリタン』って名前なんだ」 ……。 …………。 「……あまり料理には詳しくないのだけれど」 「それは、イタリア料理ではないのでは?」 「ま、あの頃は子供だったから」 「……とはいえ」 「イタリア料理屋の娘が、間違えるのはどうかと思うけど」 「もー達哉ってばーっ!」 「人の恥ずかしい過去を、ぺらぺら喋っちゃうことないでしょーっ! もぉっ」 顔が真っ赤になっている菜月に、ぽかぽかと叩かれた。 ……。 …………。 「でも、達哉はどうしてこんなにたくさんの犬を飼ってるの?」 「三匹とも全部、捨てられてるのを拾ってきたんだ」 「なぜか……なんとなく、放っておけなくて」 「偉いわね、達哉は」 「何が『なんとなく』よぅ」 うりうり、と菜月が肘でつついて来る。 なんだ?「捨てられた犬は、拾うことに決めたじゃない」 「まあ、そんな感じ。 ははは」 ……なんか、そういうことになったらしい。 「それでも、こんなに育っているのだもの」 フィーナは、一匹ごとに、慈しむように頭を撫でる。 いつもなら、撫でてくれる人には大喜びで甘えまくるイタリアンズ。 しかし、フィーナの高貴なオーラにあてられたのか、今日はおとなしく撫でられていた。 「……達哉はこのイタリアンズの命の恩人ということだわ」 「一応……そうなるのかな。 少し大げさだけど」 「大げさではないわ」 「うん。 達哉は頑張ってる」 「何だよみんな、急に持ち上げても何も出ないぞ」 「あ、達哉照れてるー」 「達哉、照れているの?」 二人が寄ってきた。 「えーい、この話はお終いお終い!」 「みんな、お昼ご飯ができたよー」 「麻衣さんに色々と教えてもらいました」 「ナイスタイミング」 フィーナと菜月がやれやれと肩をすくめる。 やっと解放された俺は、足どり軽くダイニングへ向かった。 今日の昼食は、麻衣がミアに色々と教えていたらしい。 で、夕食は教師役が交代してるようだ。 「そうですか、地球には無いんですね……」 「ううん、その説明だと、ウドが近いかも」 「ウド?」 「八百屋さんで実際に見るのが早いよ」 「では行きましょうか?」 「うん!」 ……。 キッチンからは、そんな声が聞こえてくる。 「お兄ちゃん、お買い物に行ってくるから、留守番よろしくねーっ」 「おーう」 そのまま二人は、ばたばたと商店街に出掛けて行った。 ……。 フィーナが、リビングからこちらに出てくる。 「すっかりあの二人は仲良しね」 「ええ」 「料理って、共通言語になるんだなぁと思い知ったよ」 「ふふ……誰でも食事はするものね」 「……イタリアンズの散歩は、二人が帰って来てからにしようかな」 「散歩……」 「私も行っていいかしら?」 「えっ」 「もちろん、構わないけど……着替えて来た方がいいと思うよ」 「ドレスが汚れるかもしれない」 「そうね」 「では、二人が帰って来たらすぐ出発しましょう」 ドレスのスカートの裾をつまんでリビングへと上り、早足で自室へ向かうフィーナ。 俺は、イタリアンズの首輪にリードをつけながら待つことにした。 ……。 しばらくすると、麻衣とミアが帰ってきた。 ……。 程無くして、着替えを終えたフィーナが庭に出てくる。 「準備はできてるけど……」 「リードを持つ?」 「え、ええ」 「……犬の散歩は初めてだから、教えてね」 「最初は、連中が引っ張ってくれるから、大丈夫」 「そう」 少し緊張した面持ちで、リードを握るフィーナ。 カルボナーラ「わふー」 ペペロンチーノ「わんっ」 アラビアータ「……おん」 その緊張がイタリアンズにも伝わったのか、いつもより大人しい。 「ほら、行くぞペペロン、カルボ」 「あ、歩き始めたわ」 犬たちの前を俺が横切ると、やっといつものペースに戻ったようだ。 ……。 「け、けっこう、速い、のね」 「引っ張られる力に合わせちゃうと、どんどん走るよ」 「どっしり構えて、ゆっくり歩くつもりで」 「こう……かしら」 後傾姿勢になるフィーナ。 「そうそう」 「あの、首輪が食い込んでるように見えるけど?」 「大丈夫」 「ゆっくり歩こうとしているのが伝われば、みんなゆっくりになるから」 「で、でも……」 「わふわふわふっ!」 一番力の強いカルボが、今日に限って……いや、いつもだけど、元気に溢れている。 「落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり」 「そ、そんな……」 「はあっ、はぁ、はぁ」 フィーナは頑張った。 しかし、カルボは更に頑張って、フィーナを引っ張っていたようだ。 「代わろうか?」 「いえ、だいじょ、うぶ」 「でも息が切れてるし」 「やっぱり、お願い、するわ」 リードを俺に手渡そうとするフィーナ。 「ぅわんっ!」 「きゃっ」 「わっ」 バランスを崩したフィーナを俺が受け止める。 一瞬、二人の体が密着する。 「……ご、ごめんなさいっ」 ぱっ、と俺から離れる。 これまで見たことが無いくらいに、焦った顔をしているフィーナ。 「大丈夫だった?」 「まあ、なんとか」 ……。 俺がリードを握り直すと、三匹とも、さっきまでの喜びっぷりが嘘のように静かになった。 「いつもはこんなもんだけど……」 「みんな、フィーナにリードを持ってもらうのが嬉しくてたまらないみたいだね」 「きっと、珍しがっているのね」 「好かれる人ってのはいるけどね」 「……上まで行こうか」 ……。 …………。 それから丘の上に登り、ほとんど人がいないのを見てイタリアンズを放してやる。 「大丈夫なの、放してしまって?」 「あいつら、子供の頃からここで遊んでるから」 「人に吠えかけることもないし」 「いえ、そうではなくて」 「このまま戻って来なかったりすることはないのかと……」 「イタリアンズは大丈夫」 「口笛を吹くと戻って来るようにしつけてる」 「そんなことができるの?」 「何度も何度も訓練したからね」 「賢いのね」 ……。 …………。 海から丘を越えてきた風に揺れる、フィーナの髪。 こうしていると、思わず「ここで一度会ったよね」 と聞きそうになってしまう。 一週間前。 夜中に、ここで見たのはフィーナだったのだろうか。 それとも、やはり夢か幻でも見ていたのか……。 ……。 「どうしたの?」 「いっ、いや」 「ちょっと考え事を」 「?」 俺の顔を覗き込んでくる、フィーナ。 俺は、何故か少し気恥ずかしくなり、立ち上がった。 「じゃ、そろそろ呼んでみようか」 「ええ」 ピーーーーーー「おんっ」 冷静なアラビを先頭に、三匹ともこちらに駆けてくる。 「本当ねっ」 わくわくしながら見ているフィーナ。 しかし……カルボナーラ「わふわふわふわふっ」 ペペロンチーノ「わんっわんっっ!」 アラビアータ「ぅおんおんっ」 三匹とも、フィーナの足元に集まってしまった。 「きゃっ」 「くくくすぐったいわ」 「や、やめっ」 ぴた。 「あれ?」 まるでフィーナが喋ったことが分かったように、三匹とも静かになる。 「?」 フィーナの方がご主人様に相応しいと?「俺の立場が……」 ちょっとショックを受ける。 ……。 しかし、まあ……月王国の姫たるフィーナが相手じゃ、仕方無いか。 「さあ、帰りましょう達哉」 にこやかにフィーナに言われ、帰りのリードも任せることにした。 夜。 朝霧家のリビングでは、会議が行われていた。 そのきっかけの言葉は姉さんから。 「明日は、菜月ちゃんの誕生日ね」 「何か、お祝いをしましょう」 ……。 明日も、いつも通りトラットリア左門は店を開けている。 そして閉店後、いつも通りみんなでまかないを食べるだろう。 「晩飯を食べる時に、お祝いの準備をして行けばいいんじゃないかな」 「それでは、夜も遅くないかしら」 「でも、バイト中にお祝いはできないだろ」 「菜月ちゃん自身は覚えてるのかな?」 「覚えてるわ、きっと」 「誰も祝ってくれないのかなって、少しがっかりしているかも」 「分かりました!」 「そこでみんなでお祝いをして、びっくりさせるんですねっ」 「そういうこと」 「では、私からおじさんと仁くんには伝えておきます」 「あの二人も何か用意してるでしょうから、両方の準備を一本にまとめますね」 「ドキドキするわね」 「少し豪華なまかないと、ケーキを準備してもらいましょう」 「あと、プレゼントもご用意したいです」 「高価なものではなくていいので、皆で、何かプレゼントを用意しましょうか」 「二人や三人でひとつでも構わないと思います」 「ただ、選ぶのには全員が参加して下さいね」 ……。 姉さんには、こういう段取りをいつも頼ってしまう。 手際もいいんだけど、何より、ちゃんと祝ってもらう方のことも考えてくれるからだ。 ……。 …………。 そして今日。 準備は裏で着々と進み、予定通り、閉店後を迎えた。 「お疲れ、菜月」 「おつかれ」 「……ふう」 「どうした、ため息なんかついて?」 「あ、ううんっ、別に何でも」 そんなことを言って強がっているが、明らかに元気が無い。 からんからん「お腹空いたわー」 「左門さんの料理が楽しみね」 「いらっしゃいませ」 「残念ながら、今日の料理を担当したのは私めにございます」 「あははー残念」 「ひどいっ」 さやかさんの根回し通りにことは進んでいるようだ。 みんな、上手い具合に隠し通せている。 ……。 …………。 「本日のメインディッシュでございます」 そう言って、おやっさんがケーキを持って来た。 ケーキの上には、HappyBirthdayの文字。 ……その時の菜月の顔は、見物だった。 「もーっ、みんな黙ってるなんてひどーいっっっ!」 腹立たしさと嬉しさと驚きで、顔をくしゃくしゃにしている。 「さあさあさあ」 「菜月、ローソクを吹き消して」 「ええいっ、ふうーーっ」 消えない。 「あれ?」 「ふううぅーーーーっっ!」 ……。 炎は揺らめくものの、また消えない。 「なにこれーっ」 「ふううううぅぅぅーーーーーっっっっ!!!」 「……あうぅ……」 息を吹きすぎて、目を回しそうになっている菜月。 「はっはっは。 実用性抜群のようだね」 「これは僕からのプレゼント、災害用の『とても消えにくいローソク』さ」 「未使用のものもまだまだあるから、いざという時に」 「っぴょわっっ」 しゃもじが突き刺さる。 ……。 みんな、用意していたプレゼントをそれぞれ渡し、会はお開きとなった。 俺が渡したのは……野菜ジュースをたくさん作れるように、新型のミキサー。 菜月も喜んでくれた。 ……挨拶をして、左門を後にする。 「楽しかったですね」 「ええ、とっても」 「菜月ちゃん、驚いてくれたしね」 「ああ、悪いけど傑作だった」 「私たちからのティーカップも喜んでもらえました」 一息ついたところで、フィーナが姉さんに語りかける。 「さやかは優しいわね」 「えっ」 「みんなが楽しく過ごせるように尽くす人は、優しいと思うわ」 「おかげで、菜月さんも喜んでくれました」 「そんな、やりたいからやってるだけですよ」 「いや、姉さんはすごいと思うよ」 「さらりと、やりたいからって言えるのもすごいよ」 「な、みんな、どうしちゃったのよ」 真っ赤な姉さん。 「持ち上げたって、な、何も出ませんからね」 しどろもどろになってしまう。 そんな姉さんだから、みんな大好きになってしまうのだ。 朝。 目の前に並ぶ目玉焼きに使う調味料で、見事に意見が分かれてた時。 フィーナに月大使館から連絡が入った。 「……はい、……はい」 「分かりました。 ミアも一緒に行きます。 ……はい」 携帯を切るフィーナ。 「どうしました?」 「大使館からだったわ」 「今日は、大使館で検査があるのよ」 「あっ」 「ミア、今日は一緒に行きましょう」 「そうですね」 「すっかり忘れていました……」 肩を落とすミア。 「何の検査?」 「地球に来てしばらく経ったので、一度、身体に変化が無いか検査を受けるの」 「月を出る時に言われていたのに……」 「学院には、私から連絡しておくわ」 「うん」 「戻ってくるのは何時ごろになるかな?」 「どれくらいになるかしら、ミア?」 「何事も無ければ夕方には」 「検査項目に異常があると、夜までかかると思います」 「ずいぶん時間かかるんだね」 「ただの身体検査ではありませんからね」 「私が月から帰って来た時は、変な液体を飲まされて、ぐるぐる回る機械で検査されましたよ」 「そ、そんな検査を受けるのは初めてです」 「私は二回目ね」 「でも、一回目のことはあまり覚えていないわ」 「じゃあ、夕食は私が作って待ってるね」 「そっか。 今日は左門休みだ」 ピンポーン「はーい」 ぱたぱたと玄関へ駆けていくミア。 「あ、お、おはようございます」 「おはようございます」 廊下を歩いてくる、二人分の足音。 「お食事中でしたか。 失礼致しました」 「いいのよカレン。 リビングで待ってて」 「ごめん、さやか」 「……フィーナ様、お待ちしておりますので」 一礼をしてリビングのソファに向かうカレンさん。 「食べ終えたらすぐ、支度をしましょう」 「はいっ」 ……。 二人は検査に行き、俺と麻衣は学院へ。 最近は、フィーナがいるおかげで、学院でも賑やかに過ごしていた。 今日は久し振りに、いつも通りの学院生活を送ることになりそうだ。 ……。 …………。 特にすることも無いまま、あっと言う間に放課後を迎える。 今日は何をしようかな。 放課後の学院。 グラウンド、体育館、そして校舎内の至る所で、部活動に汗を流している姿があった。 「あれ、朝霧君」 「残ってるなんて珍しいね」 「ああ、まあね」 遠山が、バッグを持って教室を出て行こうとしている。 確か遠山は……吹奏楽部だったはず。 「麻衣が、世話になってたっけ?」 「お世話してますよー」 「クラリネットとフルートで、パートは違うけどリーダー同士だもんね」 「でも、そろそろわたし達の代は引退」 「そんな時期か」 「それじゃね」 「おう」 遠山が、廊下を駆けていく。 俺も席を立ち……少し早いけど家に帰る。 こんな時間だから、誰もいないと思っていたら……靴が二足あった。 「ただいまー」 「お帰りなさいませ、達哉さん」 「あら、早いのね」 「今日は検査って言ってなかったっけ?」 「それともフィーナに異常があったとか?」 「なっ、無いです無いです」 ぶんぶんと首を振るミア。 「検査の後、姫さまだけもう少し残ることになって……私もお供しますと言ったんですが」 「月の王様と通信してるのかもしれないわ」 「ミアはいつもフィーナの傍にいるから、休みをくれたつもりなのかも」 「そんな、休みだなんて」 「わたしは、姫さまの傍にいるのが一番嬉しいのに」 「今日フィーナ様が帰って来たら、そう言っておくわね」 冗談めかして言う姉さん。 「あ、やや、だっ、駄目ですーーっ」 手をばたばたさせて焦っているミア。 「でも、言わないと伝わらないことってあるかも」 麻衣がいつも練習してるのはこのあたりだけど……今日は誰もいないな。 いや、一人だけ遠山がいた。 「ごめんごめーん」 「麻衣の様子を見に来てくれたんでしょ?」 「えっと、まあ……」 「今日は部活休みだったよー。 しっぱいしっぱい」 「じゃーねっ」 校舎内に駆けていく遠山。 慌ただしいヤツだ。 それじゃ、麻衣は帰ったかな?……。 …………。 「ただいまー」 玄関には、既に麻衣の靴がある。 「お帰り、お兄ちゃん」 「ああ。 今は麻衣だけ?」 「うん。 久し振りに二人きりだね」 「ああ、そうだっけ」 ソファに腰を下ろし、しばらく窓の外をぼんやり眺める。 「今日は部活休みだったんだって?」 「うん」 「顧問の先生が何か失敗したらしいんだけど、詳しくは分からないんだ」 「いつも遅くまで頑張ってるんだし、たまには、のんびりするのもいいさ」 「俺も、もう少しバイト増やそうかなぁ」 「左門でランチの部に入るとかさ」 「でもお兄ちゃん週に5回もやってるよ」 「私こそ、部活ばかりだし……」 「それは言わない約束」 麻衣の言葉を遮る。 「その分、麻衣は家事をやってくれてる」 「うん……」 少し申し訳無さそうな表情の麻衣。 「それにさ、最近カルボナーラがまた食べる量が増えたんだ」 「まだ大きくなるかもな」 「あはは、そのうちわたしが乗れるようになるかな?」 「そりゃ大きくなりすぎだから」 ……。 イタリアンズを拾ってきたのは俺。 昔から、捨てられてる犬を見ると拾わずにはいられない。 その代わり、餌代は俺のバイト代から出すことになっている。 「さて……そろそろ、来月の家事分担表を作らないとな」 「あ、もう五月もあと一週間だもんね」 五月も終わり。 五月も終わり……?「麻衣。 今年はもう行った?」 「……うん」 「一昨日、お姉ちゃんもお兄ちゃんも仕事の間に」 「そっか」 一昨日5月22日は、12年前に事故があった日だ。 親父がまだ生きてた頃。 親父は、月と地球の歴史について研究しているグループに属していた。 その調査中の事故だ。 「久し振りに、お花を買ったんだ」 「13回忌だったから」 「そうか……俺も行けば良かったな」 「ううん、私だけだったから。 お花を供えたのも」 俺は、麻衣の頭に手のひらをのせ、ゆっくりとなでた。 ……。 その事故で死んだのは、麻衣の両親。 親父は、その後すぐに麻衣を連れてきた。 母さんの賛成もあって、麻衣を養子にする話はあっと言う間に進んだ。 ……そして、それ以来、麻衣はずっと俺の妹であり続けている。 「さあ、この話はおしまい、おしまい」 頭にある俺の手を、ゆっくりと、払う麻衣。 「たまには一緒にイタリアンズの散歩に行こうよ」 「そだな」 「昼間の散歩は久し振りかな? きっとあいつら大喜びだ」 「うんっ」 麻衣がリビングから庭に出ると、案の定。 カルボナーラ「わふわふわふっ!」 ペペロンチーノ「わんッ」 アラビアータ「ぅおんっ」 ……。 「お兄ちゃん、行こう」 「お前、サンダルはないだろ」 「ほら、玄関行って履き替えてこいよ」 「あはは、そうだね」 ……それから俺と麻衣は、イタリアンズに引っ張られるように、いつもの散歩コースを歩き始めた。 もう、あれから12年か……。 麻衣が朝霧家の養子であることは、それからずっと、朝霧家内だけの秘密だった。 親父が行方不明になり、母さんが死んでからは、そのことを知っているのは二人だけ。 姉さんですら知らない。 でも、このままでいいと思う。 うちの家族が今の形になってから、多少いびつではあるものの、やっと落ち着いてきているんだ。 麻衣は俺の妹。 俺は麻衣の兄。 俺たちは兄妹。 これは、二人の約束──「いい天気だね」 「でも、ここは相変わらず人が少ないな」 「こいつら、少し放してみるか」 「喜ぶよ」 「へっ、へっ、へっ、へっ」 わくわくしているカルボナーラ。 「それっ」 三匹のリードを、それぞれの首輪から外してやる。 最初の二、三歩はちょっと戸惑った様子。 しかし、その後は自由に走り回ったり、じゃれあったり。 楽しそうに、遊び回っている。 「物見の丘公園って、いつもガランとしてるよな」 「うーん」 「街中から少し離れてるしね」 「ま、犬の散歩でもなきゃ、ここまでは来ないか」 「おんっ」 アラビアータが、どこからかゴムのボールを拾ってきた。 しょうがないな。 「遊んでやるとしますか」 「うんっ」 ……。 それからしばらく公園で犬たちと遊ぶ。 ……。 イタリアンズはまだまだ元気だったものの……俺と麻衣がバテたあたりで、家路に就いた。 ……。 …………。 ……。 結局菜月を見つけたのは、夕方になってからだった。 学院の中にもいない。 自分の部屋にもいない。 商店街にもいない。 もちろん、携帯にも出ない。 仕方無く家に帰ってきたら、左門の厨房に明かりがついていたのだ。 「何作ってるの?」 「ん? ……んー、別に」 「いつまでもカーボンカーボン言われてちゃ悔しいからね」 「少しは練習しようかと思って」 「味見しようか?」 「まだ」 「びっくりするくらい上手くなってからにする」 カーボンと呼ばれたことに対して、菜月も意地を張っている。 左門は定休日だし、今日の練習は長引きそうだ。 ……。 …………。 夕食後の時間をのんびり過ごしていると……窓の外、すぐ向かいにある菜月の部屋に明かりが点いた。 練習も終わったのかな。 机に肘をついて、ぼんやりと窓の外を眺める。 すぐ、手が届きそうな距離にある菜月の部屋。 ガキの頃は、よくここから互いの部屋に出入りして、母さんとかおやっさんに怒られたものだ。 ……。 ん?菜月の部屋のカーテンに、少し隙間が空いてる。 そこから誰かがこっちを見たような。 菜月か?しゃっ「見てた?」 「え?」 「えっと、何を」 「なっ、何をって……」 「そ、その……着替え?」 「何で疑問文なんだ」 「見てないのね?」 「ああ」 「何にも。 少しも。 これっぽっちも」 「なーんだ。 それなら良し」 そういえば、菜月はもう私服になっている。 明かりがついたばかりだというのに、素早いな。 「……でさ」 「さっきまでやってた料理の練習、はかどってる?」 「えーと」 「ま、まあ、ぼちぼちってとこね」 「今後の成長に乞ご期待……って感じ?」 「そうか……」 「先は長そうだな」 「でもね、確実に前進はしてるんだから」 「ちゃんと試食してるか?」 「うー」 「今日は、半分くらいは食べられたと思う」 「へえ、半分か」 「ずいぶん前進してるな」 嫌味と受け止められるか、と少し身構えた。 が……「うう……ごめん、嘘でした」 「3分の1くらい……かな。 食べられたのは」 「……」 「菜月、頑張れ」 「食べ物は大切にしよう、な」 「う」 「……そうだね……」 なんだか、いつもの菜月と比べて、元気が無いな。 ……ちょっと励ましてやろうか。 「おやっさんってさ、料理上手いよな」 「ま、まあね」 「一応、うちのシェフだし」 「菜月のお袋さんは?」 「お母さん?」 「お母さんは、多分お父さんよりも上手いんじゃないかな」 「修行から帰って来たら、きっとシェフの座はお母さんのものになるよ」 「ふむ……」 「な、なによう」 「仁さんも最近めきめきと腕を上げてるし……」 「菜月にも、素質はあるはずなのになぁ」 「うぐっ……」 「わ、私だって、本気を出せば」 「料理の一つや二つ、簡単に作れるんだから」 「ほう。 楽しみにしてていいのかな」 「当ったり前でしょ!」 ……気づけば、俺の部屋の入り口には姉さんと麻衣。 うちと左門の前の道路には、煙草をくわえた仁さん。 「皆さん、お聞きになりましたか」 「えっ」 菜月も、やっと周りの状況に気づく。 「兄としては、妹が料理の道に目覚めてくれたなら、もういつ死んでもいいね」 「達哉くん、仲良しなのはいいけど、もう夜だし」 「このまま続けてると、商店街のみんなが聞きに来るよ」 「ははは、ごめん」 「ごめんなさい……」 「あれ、もう終わりかな」 「はい、解散、解散っと」 「今日は短かくて良かったわ」 あんたらなぁ……「べー」 しゃっやれやれ。 菜月が元気になってくれたのは良かったけどさ。 ……。 …………。 ここまで真っ赤になって焦られてしまうと、姉さんの正論相手でも、助けたくなる。 「まあ姉さん」 「言わぬが花、ってこともあるよ」 「ええ」 「それに、行動から伝わる思いというものがあるかと」 ……。 「ふぅ……そうね」 「ミアちゃんが言ってほしくないなら、無理に言ってもしょうがないし」 「すみません……」 「ごめんごめん、よしよし」 ミアの頭を撫でる姉さん。 「お茶を淹れてあげるから、元気を出して」 ……。 数分後。 姉さんが淹れてくれた緑茶が、俺の分も含めて三人の前に並ぶ。 「緑茶って月にもあるの?」 「いえ、少なくとも私は飲んだことがありませんでした」 「こっちに来てからは?」 「二、三杯ほど」 「さあ、お茶菓子も持ってきましたよ」 そう言って姉さんが持ってきたのは、きんつば。 ずいぶんとまた和風なものが並んだ。 ……ミアは、こういう場で自分から食べ始めるのが苦手そうだ。 「じゃ、いただきまーす」 「わたしも、いただきます」 ずずっ茶をすすり、茶菓子のきんつばを口へ運ぶ。 「うん、美味い」 「戴き物なの」 「……ほんと、美味しいわね」 「ミアちゃんはどう?」 ミアは、湯飲みをじっと見つめている。 「なんだか、懐かしいような味がします」 ……。 「達哉くん、ちょっと」 「な、なんですか?」 姉さんに引かれて、キッチンまで来る。 「ミアちゃん」 「緑茶派に引き込めないかしら」 「あの……」 「そしていずれフィーナ様も緑茶派に」 「って言うか、派閥が無いですから」 「あら、そうだったかしら」 とぼけたことを言う姉さん。 きっと、ミアに緑茶の美味しさを知ってほしいだけなのだろう。 ……ふむ。 うちの中で言えば、まず姉さんは緑茶派だ。 姉さんを起こすために、毎朝、濃厚緑茶を淹れるのは麻衣。 しかし麻衣が自分で飲むとなると、緑茶とコーヒーと紅茶とジュース……あまりこだわりは無さそうだ。 そして、フィーナとミアは紅茶派。 菜月は野菜ジュース。 俺は……「分かった、協力するよ」 「緑茶派の全滅は望ましくないからね」 「これで千人力よ」 「まずは、ミアちゃんを引き込みましょう」 楽しそうに言う姉さん。 俺も、このゲームにつき合うことにした。 「あまりこだわらない方が……」 「ふふ、そんなにこだわってるわけじゃないの」 「もちろん、これはただのお遊びだけど」 「ミアちゃんにも、地球の文化に触れて行ってほしいじゃない?」 そう言って、悪戯っ子のように微笑む姉さん。 この人には敵わない。 「しょうがないなぁ」 「ミアを引き込むためには、まず何よりも美味しい緑茶を出すこと」 「今、うちにあるお茶で一番いいものは?」 「頂き物があったような……」 がさがさ姉さんが、キッチン周りの収納を探し回る。 「これね」 「これは……」 見るからに高級品と分かる、しかし質素な包み紙。 それを開けると……小さい缶が一つだけ。 「これなら、行けるかもしれませんね」 「これも使いましょう」 姉さんから渡されたのは、桐の箱に入った湯飲み。 こうなったら、もう至れり尽くせりだ。 ……。 「ミアちゃん、お待たせ」 「さやかさん、どうしたんですか?」 「はい、これを飲んでみて」 「緑茶のことを、もっと知ってもらおうと思って」 「はい、ありがとうございます」 「あ、湯飲みが……」 「それは二人からのプレゼント」 ミアの表情がぱあっと明るくなる。 「あ、ありがとうございますっ」 「大切にしますね」 ……何も知らないミアが、そのお茶をゆっくり口に含む。 どこからの頂き物かは知らないけど、あれはとんでもない代物だぞ。 50gの缶についてる値段が、5桁だ。 「……こ、これは!」 「色は薄いのに、しっかりとした甘みが……」 ゆっくりと味わっているミア。 「姉さん」 「ねえねえ、いけそうじゃない?」 「あれで緑茶のファンになって、安いお茶で満足するでしょうか」 「……う」 ……。 …………。 結論から言うと、ミアは、緑茶が好きになってくれた。 しかし同時に。 ミアは一番緑茶にうるさくもなってしまったのだった。 ……。 「無理に言うことはないと思うけど……」 「一度言っておかないと、これからどんどん『お休み』が増えるかも」 「それは……」 「その……」 板挟みになって、縮こまってしまうミア。 「そんなに困らないで」 「いい子いい子。 よしよし」 ミアの頭を撫でる姉さん。 困り果てた顔が、少し和らぐ。 「ミアちゃんは、フィーナ様のことが好きなのね」 「もっ、もちろんっ」 「でも、それをフィーナ様には言いたくないと」 「はい……」 ミアの顔は真っ赤だ。 ……きっと、照れ臭いんだろうな。 がちゃ 「ただいま戻りました」 玄関から、足音が近づいてくる。 「ミア、ごめんね。 一人で帰らせて」 「いえっ」 「それより姫さま、検査で何かあったんですか?」 「あら、心配させてしまったかしら」 「検査は何ともなかったわ」 「ただ、その後に少し父様からの連絡があって」 「陛下から……」 「そうだったんですか。 良かった」 「わたし、姫さまに何かあったのかと」 「心配させたわね。 ごめんなさい、ミア」 フィーナが、ミアの肩にぽんと手を置く。 ……。 「良かったわね」 「姉さん」 「やっぱり……」 「行動で伝えるのが一番ね」 「さっきと、言ってることが全然違うよ」 「結果オーライなら、手段は正当化されるの」 「都合いいなぁ」 「大人の知恵よ」 「でも、ミアも元気になったようで良かった」 「そうね」 「ミアちゃんが元気無いと、家の中から火が消えたみたいだもの」 「いつの間にか、うちのムードメーカーになってるね」 「本当、ふふふ……」 「でも、やっぱりちゃんと言った方がいいよ」 「……もう、達哉くんは頭が固いわね」 「あの二人を見てごらんなさい」 フィーナとミアが、楽しそうに微笑み合っている。 「今更、口を挟んでも仕方無いの」 「相談に乗るのは、相手が困ってる時だけでいいのよ」 何かをフィーナが言って、ミアが、本当に楽しそうに笑う。 「そうみたい、だね」 ……。 その日は、姉さんがミアを誘って一緒に風呂に入っていた。 姉さんは、自分以外の人の感情の動きに敏感だ。 何かが起きると、すぐにフォローに入ったり。 そもそも何も起きないようにしたり。 ……洗面所の前を通ると、風呂から、二人の笑い声が聞こえた。 何を話しているのやら。 ……。 …………。 今日も一日が終わる。 ベッドに身体を横たえると、疲れがどっと全身から出てきたような感覚。 「ふう……」 ため息を一つつくと、夜の闇に身体が溶けていきそうだ。 しかし、まだ今週も何日か残っている。 気になるのは……「ねえフィーナ」 「自分の親戚が教科書に載ってるってどう?」 休み時間、菜月がフィーナの席に行って話しかける。 「どう? と言うと」 「ほら、恥ずかしいとか、誇らしいとか」 「私だったら……」 「教科書におやっさんが載ってるのを想像しろってことか」 ……。 思案顔の菜月。 「ぷっ」 「あはははは、笑っちゃった」 「ごめん、俺は想像できなかった」 一体、何の教科書を想像すればいいのかすら分からない。 顔写真が多い教科書といえば、歴史か音楽だけど……どこに当てはめても、完全に浮いている。 俺と菜月が笑っているのを見て、フィーナが口を開いた。 「……実は」 「あまり感想は無いわ」 「慣れちゃった?」 「母の顔は、月で使われている紙幣の肖像画にもなっているから……」 「もう見慣れてしまっているの」 「本当に?」 「すごい、さすが王族ね」 「王族なら、誰でもそのように扱われるわけではないわ」 「母が、王国の女王として国民に慕われていたということね」 「好かれる女王様かぁ」 「どんな人だったの?」 「公明正大で、平和を愛し、常に国と国民のことを考えていたわ」 「母のことは、一個人としても娘としても、尊敬しているの」 そう言うフィーナの顔は、誇らしげでもあり、嬉しそうでもあった。 「かっこいい……」 菜月は素直に感心している。 「フィーナも、そんな女王になれるといいな」 「そうね。 母は私の目標よ」 「かなり高い目標だから、挑み甲斐があるわね」 「親を尊敬できるって、いいな」 「達哉は尊敬できないの?」 「まあ……あまり」 「人それぞれの事情があるから、一般論として言うつもりはないけれど……」 「私は尊敬できる母を持つことができて幸せだと思っているわ」 「そうだな」 「なんだか、私ももっときちんとしなきゃって思っちゃった」 「あー、それ分かる」 「映画を見終わって、かっこいい主人公になった気分で映画館を出た時のような」 「そうそう」 「?」 「……何にしても、二人の役に立てたのなら嬉しいわ」 そんな受け答えもフィーナらしい。 ……。 教科書に載っているフィーナの母親の顔を、もう一度じっくり見る。 こんなところに『立派だった』と親が書かれてて。 並の子供だったら、ものすごいプレッシャーを感じるんじゃないだろうか。 ……フィーナは、いつも通り真っ直ぐ前を見ている。 さすがお姫様だな、と感心した。 と言うか、隣にいるのはお姫様だと、改めて深く思い知った。 土日は家で夕食を食べる日だ。 今日は、久し振りに麻衣が一人で作っている。 「麻衣、頼まれたもの買ってきたぞ」 「ありがとー」 「こっちに持ってきてくれると嬉しいなぁ」 「はいはい」 「豚挽き肉、エビ、キャベツ、ニラ、ネギ……なんだろ」 「これを見れば正解が一目で分かりまーす」 そう言って麻衣が手に持ったものは……。 ぺらぺらした、乳白色の皮。 「エビ餃子か?」 「ぴんぽーん♪」 ……。 「餃子は久し振りだなぁ」 「ぎょーざ、とは何ですか?」 ミアがひょっこりと顔を出した。 餃子作りを手伝い始めた俺の手つきを、興味深そうに見ている。 「こうやって」 「いろんな具を皮に詰めてって、焼いて食べるんだよ」 「中には、何を入れてもいいんですか?」 「基本は豚肉と野菜だけど、何でも合うものなら入れていいんだよ」 そんな話をしながら、俺とミアは餃子の皮で具を包む作業を手伝った。 ……。 できた餃子の数が多いため、何回かに分けて焼くことにした麻衣。 俺とミアはリビングで焼き上がるのを待っている。 「ただいま戻りました」 「お帰りなさいませ」 「……?」 フィーナが、キッチンを見て微笑む。 「麻衣、今日はごきげんね」 ……。 「ふんふふーん♪」 「ん?」 「るんららーん♪」 「あちゃー」 久し振りに聞いたから、忘れかけていた。 あれは、麻衣が料理に失敗した時の鼻歌『デスマーチ』だ。 「たらりらったらーん♪」 「きっと、とても美味しく出来たのね」 「ええ、楽しみです」 「違うッ! あれは……逆ッ!」 「?」 「あの鼻歌は『デスマーチ』と言って、麻衣が料理に失敗した時の……」 「ただいまー」 「あら、ごま油の香りね。 おなかがもうぺこ……」 「ふんふふーん♪」 「!?」 「……」 「……だいたい、分かりました」 ここに至って、やっとフィーナとミアも事態の深刻さに気づいたようだ。 ……。 …………。 「さあ、できましたよー」 大皿に並ぶエビ餃子。 見た目は、ただの、とても美味しそうな餃子だ。 その周りに、ごはん、味噌汁、漬け物などが並ぶが……圧倒的に存在感があるのはやはり餃子だ。 食卓に走る緊張感。 さて。 ……。 「いっただきまーす」 緊張感を吹き飛ばすよう、なるべく明るい声で、元気に挨拶。 大皿の端にある餃子を箸で挟み、つけダレへ。 そして、口へ。 ……。 「ど、どうかしら?」 「イタダキマース」 妙なイントネーションの麻衣が、自ら一つ目の餃子を箸で取る。 ぱくっ。 もぎゅもぎゅ。 ……ごくり。 「うん」 「……あれ、どうしてみんな食べないの?」 ありゃ?もしかして、デスマーチは空振りだったのか?それを確かめるべく、俺も餃子を一つ箸で持つ。 「麻衣……?」 「どうしたの、お兄ちゃん」 大丈夫……なのか?ぱくっかっ、からいーーっ!!口から火を吐くかと思った。 「はひ、へーはんっ、みふ、みふをっっ」 姉さんもフィーナもミアも、俺を悼むような表情をしている。 ……。 …………。 「すぐに気づいたんだけど、混ざっちゃってて……」 具に混ぜ込む調味料を間違えたものが、数個、混入してしまったらしい。 「俺が食べたものが、大当たりだったと」 「ごめんなさい……」 「ううん、料理で失敗は成功の母」 「実際に他の餃子はとっても美味しかったし、上出来よ」 「本当。 美味しかったわ」 「ひゃあああぁぁああ」 「ミア、どうしたの!?」 ……。 俺の他に、もう一つだけあった「あたり」 を引き当てたのはミア。 二人の口の中は、食事が終わってからもしばらく麻痺していた。 ……。 今日も、放課後は左門でのバイトだ。 授業が終わると、家に戻り、着替えて左門に向かう。 からんからん「おう、タツ」 「そうだ達哉君」 「さっき、商店街で悩み多き若者を見かけたよ」 「誰ですか?」 「教えてあげない」 「そういうのは、自分で気づいてこそ意味があるんだよ達哉君」 それっぽいことを言って、上手くごまかす仁さん。 バイト中、気になってはいたんだけど。 ……結局、仁さんが誰を見たのかは教えてもらえなかった。 バイトを終えて家に帰る。 すると、リビングに人影があった。 真剣な顔のフィーナ。 今日学食で、冷奴を食べるのに苦戦していたフィーナ。 箸を上手く使えなかったのが、よほど悔しかったのだろうか。 もちろん、そんな素振りは見せないけど……決意のようなものが伝わってきた。 ……。 フィーナの前には「二つの皿」 「一膳の箸」 「大豆が入った袋」 がある。 「フィーナ様、本当にやるんですか?」 「もちろん」 「ではさやか、お願いね」 「ふう……」 「分かりました」 姉さんが袋の封を切り、その中身である大豆を片方の皿に流し込む。 「姫さま、頑張ってください」 「大丈夫」 「5……3、2、1、始めっ」 ざっ、かつ、ざっ、かつ……。 …………。 ものすごい集中力だ。 開始してから30分。 その後、俺が風呂に入ってる間の30分。 風呂を出てから、テレビを見てた30分。 そして、そろそろ寝ようかと立ち上がりかけた今も、まだ練習が続いている。 「……3、2、1、始めっ」 ざっ、かつ、ざっ、かつ……。 「フィーナ様、まだ……?」 「ごめんなさい」 「私一人でもできるので、さやかはもう休んで」 「そういう訳には行きません」 「こうなったら、とことんまでおつきあいするわ」 「……3、2、1、始めっ」 ざっ、かつ、ざっ、かつ……。 どうやら、練習を始めた時と比べて、既にタイムは半分以下になってるらしい。 それでも、二人は特訓をやめない。 「達哉、お願いがあるの」 「なに?」 「そこで寝てしまっているミアを、起こして……」 「部屋まで連れて行ってもらえないかしら?」 「りょーかい……ふわああ」 「達哉も、今日はもう休んでいいのよ」 「そうね。 後は任せて」 「分かりました」 ……それから俺は、ダウンしてしまったミアを部屋まで連れて行った。 ついでに、そのまま俺も部屋に戻ってダウンした。 「じゃ、すみません」 「先に寝るよ。 フィーナ、頑張って」 「ありがとう」 「わ、わたしは、頑張って……起きて……ふわ……」 「達哉、ミアをお願いできますか?」 「達哉くん、ミアちゃんも二階へ連れてってあげて」 「そうします」 ……頑張って起きてたけどダウン寸前のミアを、部屋まで連れて行く。 ついでに、そのまま俺も部屋に戻ってダウンした。 ……。 …………。 「おはようございまー……す」 リビングに降りてくると、姉さんがソファに丸くなって寝ている。 相変わらずだ。 「姉さん、姉さん」 揺する。 「あら……」 ほややんとした目は、焦点が合っていない。 ……ソファの下には毛布が落ちていた。 どうやら、誰かが姉さんに毛布をかけたらしい。 「姉さん、もう朝だよ」 「ほんとう、びっくりですね」 「今、お茶淹れますから」 ……。 その後みんなが起きてきて、姉さんも緑茶を飲んで復活して、朝食を食べて。 ……フィーナの練習の成果が発表された。 ざっかっざっかっざっかっ右の皿に入っている大豆を、箸でつまんで左の皿へ。 その速さがすごい。 箸の先が見えない、とまでは行かないが……確実に俺より速い。 そして、一度も取りこぼしが無かった。 たった一晩でここまでになるとは……。 「ふう……」 「フィーナさん、すごい!」 「これ、一晩で?」 「ええ、何とか」 「私が寝てしまってからも、練習を続けていたんですね」 フィーナは黙ったまま頷く。 「姫さま、さすがです」 「いやほんと、すごいよ」 「いえ、そんな、言われるほどでは……」 これと決めたことには、全力で取り組み、努力を惜しまない。 それがフィーナらしい。 きっと今日、学院では……眠気に負けじと、誰にも見つからないように歯を食いしばるのだろう。 ……。 悩み多い、ねえ。 麻衣や菜月はいつも通りに見えるし……仁さんのことだから、また適当なことを言って俺をからかってるんだ。 そう思うことにして、俺はバイトに精を出した。 ……。 …………。 俺がバイトから帰る時。 珍しく、菜月がついてきた。 「どうした?」 「ちょっと、麻衣ちゃんと話があって」 「ただいまー」 「おじゃましまーす」 菜月はそのまま階段を登り、麻衣の部屋の扉をノックした。 こんこん「菜月でーす」 がちゃ「待ってましたー」 二人は、麻衣の部屋に入って行った。 ……麻衣は、菜月に何の話だろう。 一応受験生の俺。 あまり焦っていないのは、ある程度の成績を取っていれば、エスカレーターで上がれるからだ。 ま、その「ある程度」 の成績を取るために、多少はテスト勉強をしなくてはいけないわけで。 とりあえず俺は教科書を開いた。 ……。 …………。 「……あはははは……」 隣の部屋から、笑い声が聞こえたような。 ……。 ……。 「もう菜月ちゃん……」 やっぱりだ。 盛り上がってるようだな。 ……。 …………。 「……えええっ、達哉が……」 気になるなぁ。 って言うか、俺の名前が出て、気にするなって方が無理な話だ。 とりあえず俺は……お茶を持って行くついでに、少し静かにするようお願いすることにした。 あの二人が何の話をしているのか……気にならないと言ったら嘘になる。 ……。 とりあえず俺はお茶を淹れ、二人に差し入れてみることにした。 こんこん「はーい、どーぞー」 がちゃ「お茶が入ったよ」 「わー、お兄ちゃんありがとう」 「気が利くじゃない」 「たまにはな」 二人は、思い思いの格好でリラックスしている。 「あ」 「わっ」 麻衣の部屋着の裾がめくれていた。 「……」 「達哉」 「何も見てない」 「私も何も言ってないよ」 「あはは……」 ……。 ええい、何しに来たんだ。 すいぶん笑い声が聞こえてたから、気になってたんじゃないか。 「……で、何か楽しい話でもあった?」 「そうそう。 それがね……」 「わーっ、わーっ、菜月ちゃん言っちゃ駄目ーっ」 「なんだ?」 「何でもないの。 ねっ? ねっ?」 菜月に助けを求める麻衣。 「ふーん、なるほどね」 面白そうに俺と麻衣を見比べる菜月。 「ま、ここは何でもないってことにしときましょうか」 「なんだそりゃ?」 「そうそう、何でもないの」 「何が?」 「何もかも!」 「さ、お兄ちゃんは出てって出てって」 「ほらほらほら」 麻衣にぎゅうぎゅうと押され……廊下へと追い出される。 ばたん何だったんだろう?仕方無く、リビングに戻る。 ……。 麻衣には、菜月になら相談できることがあるんだな。 まあ……俺が何でも話を聞いてやってたのも、ずいぶん昔の話か。 ……。 そんなことをぼんやり考えていると。 「達哉さん、どうかされましたか?」 ミアが俺の顔を覗き込む。 よっぽど、変な顔をしていたのだろう。 心配されてしまったようだ。 ……。 当たり障りのない範囲で、今の出来事を話してみる。 「菜月さんは、一緒に考えてくれる方ですから」 「親身になってくれる分、色々と、話しやすいのかもしれませんね」 「うん……」 「そういうもんかもな」 「ええ、そういうものだと思います」 「そっか」 ミアに礼を言う。 ……。 その日は、もう麻衣の部屋から笑い声が聞こえてくることは無かった。 いつ菜月が帰ったのかも、分からなかった。 ……。 週末になった。 学院が休みだと、色々と自由に使える時間も多い。 この週末は、どうやって過ごそうか。 土曜日の営業を終えた、トラットリア左門。 いつも通り、菜月は野菜ジュースを飲み、仁さんが売り上げを勘定している。 「タツ、今日もお疲れ」 「さすがに、週末はお客さんも多いですね」 いつもよりバタバタ動き回ったせいか、今日はかなり疲れていた。 「そうだな」 「商売繁盛、結構なことだよ達哉君」 「お客さんが全然来なかったら、達哉のバイト代も出ないんだから」 「いや、そりゃ分かってるんだけどさ」 お客さんが多いということは……。 『トラットリア左門』の人気が上がってるということなわけで。 「……二号店を作ることは考えてないんですか?」 「ほう、二号店か……」 「例えば、おばさんがミラノから帰って来たらとか」 「はっはっは」 突然の高笑い。 仁さんが、ずずいと俺の前に立つ。 「僕が一人前にならなきゃ無理に決まってるじゃないか達哉君」 「じゃあ、そこは笑うトコじゃないでしょっ!」 しゃもじでのツッコミが炸裂した。 ……。 …………。 「ああ、ちょっと待ったタツ」 「はい?」 左門を出たところで、おやっさんが俺を追いかけてきた。 「先月分の食費、さやちゃんに貰ったんだがな」 「少し多いんじゃないか?」 「ああ、それなら……」 「先月はフィーナの歓迎会があったのと」 「そもそも、フィーナとミアで二人分増えたからですよ」 「しかしこりゃ……」 「つっ返されたりしたら、俺が姉さんにボコボコにされますから」 「どうか、受け取ってください」 ……。 「……そうか、さやちゃんにはよろしく伝えといてくれ」 「はい……じゃ、おやすみなさい」 「ああ、おやすみ」 ……。 俺たちが一緒に食べさせてもらっている、トラットリア左門の「まかない」 。 練習用の料理とはいえ、材料費もかかる。 だから朝霧家では、いくらかのお金を払うことにしていた。 おやっさんがギリギリまで受け取りを拒否したため、他の料理と比べると3分の1くらい。 ほとんど、原材料費しか払ってない計算だ。 ……。 俺とおやっさんがそんなやりとりを終えた時。 商店街を、一人の女の子が通って行った。 ガラスのような存在感。 いつか見た女の子。 確か……礼拝堂だったような気がするけど。 そんなことを考えてるうちに、その女の子は、商店街の中に溶け込んでしまっている。 人込みは、それまでと全く変わらずに流れていた。 ……。 …………。 「ただいまー」 「お帰りなさい」 「お帰りなさいませ」 今日は交代の休憩も無かったから、脚も疲れている。 すぐに風呂に入りたいけど……誰かが入ってたみたいだ。 麻衣の風呂って、案外長いんだよな。 最近は洗顔料も増えてるし、年頃ってやつか。 姉さん、風呂で寝ちゃいないだろうな。 ……まさかね。 仕方無い、少し待つか……と思って洗面所を出かける。 そうだ。 靴下だけ洗濯物入れのカゴに放り込んでおこう。 ぽいっ……ん?ばたん「あ……お、お兄ちゃん?」 「ま、麻衣」 ばさばさっ「ちがっ、違うんだ」 「お、お兄ちゃんのえっ……」 ……。 …………。 「へくちっ」 「ああほら、風邪引くぞ。 ちゃんと身体拭けよ。 じゃっ」 ばたん「きゃ……た、達哉くん?」 「ね、姉さん」 ばさばさっ「いえ、あのこれは」 「達哉くん」 「は……はい」 にっこり笑う姉さん。 「ご飯抜き」 「はい。 しし失礼致しましたっ」 バタンッ……。 ふう。 びっくりした。 そして、怖かった。 ……今のは、紛れもない事故だ。 あまり傷口が広がらないうちに、さっさと寝てしまうに限る。 ……。 …………。 今日もいい天気だ。 日曜日の午前中は、同じいい天気でも、平日とは違う幸福感がある。 もう、ずいぶん高くまで上った太陽。 夏の薫りを感じる風。 そんな平和な空気を──悲鳴が切り裂いた。 「わっきゃーーっっ!!」 なんだなんだ?「わっわっわっあああーっ」 麻衣も部屋から出てくる。 一階からはフィーナが。 「屋根裏部屋だよね」 「ミアっ」 寝間着のまま、ぱたぱたと屋根裏部屋への梯子を登るフィーナ。 「どうしたのっ」 「えっ……」 「きゃーーっっ!」 ……。 「行ってみようか」 「おう」 俺と麻衣も、ミアの屋根裏部屋へ繋がる梯子を登る。 「どうしました?」 「あのっ、あっ、あっ、あれが……」 ミアの指す先を見ると……壁に、やたらと脚が細くて長い、蚊を大きくしたような虫。 ガガンボって奴か。 「ががんぼだね」 「がっ……ががんぼ、というの?」 「ああ。 きっと、そこの窓からでも入ったんだろ」 「あのっ、そっ、外にっ……!」 「ミアちゃんは虫が苦手なんだ」 部屋でガガンボから一番離れた隅に、枕を抱えて縮こまっているミア。 「つっ、月には、あまり、こういった虫がいないので」 ……フィーナも、少し震えてる。 見慣れなければ、まあ、ブキミだよな。 「ミア、ティッシュある?」 「あ、はい、そ、そこにっ」 ティッシュを手に持ち、ガガンボを包もうとする。 ……が、すうっと逃げられた。 「脚が取れちゃった」 「……っ!」 きっと口は結んだまま、脂汗が出始めているフィーナ。 こりゃさっさと捕まえて捨てないと。 「とりゃ」 素早い動きで、ティッシュの上からガガンボを鷲掴み。 逃がすのは難しいと判断し、一気に握りつぶす作戦に切り換えた。 その気になれば、ガガンボはさほど素早くない。 「はい、これで大丈夫」 「あの、たっ、達哉さんっ」 「ん?」 「そっそそそ、そのティッシュですが……」 「ああ、下に持ってくから安心して」 「さすがに慣れているわね、達哉は」 フィーナも、やっと落ち着いてきたようだ。 「まあ、子供の頃から見てれば、それなりには」 「あ」 「フィーナさんの後ろの壁に、もう一匹いるよっ」 「ひゃっ!」 ぺたん。 フィーナは、しりもちをついてしまった。 俺は、さっきと同様に素早くガガンボを退治。 「……す」 「少し、びっくりしたわ」 「仕方無いさ」 「見慣れた身から見ても、こいつは気持ちいいもんじゃないから」 「そうなの?」 「あはは……そうだね」 「窓を開けるのが、怖くなってしまいます……」 「地球名物だとでも思うしかないのかなぁ」 「また出た時も、呼んでくれたらすぐ来るから」 「は……はい、ありがとうございます」 月には、ごく一部の益虫以外は、虫がほとんどいないって習ったっけ。 今度、殺虫剤も買ってきた方が良さそうだな。 夜の10時。 リビングに降りてみると、少し遅い時間だけど菜月が来ていた。 「……基本は腹筋よ、腹筋」 「ふむふむ」 「吹奏楽でも腹筋鍛えるんだよ」 何の話をしてるんだ?「それに、筋肉をつければ身体全体の基礎代謝が上がるから、同じだけ食べても太りにくいの」 「そうだったんですかー」 「カロリーの3分の2は、基礎代謝で消費しているから……」 「基礎代謝を高めておくのが重要よ」 「また、ダイエットの話か」 口を挟んでみる。 「うん。 知識として持っておくのは意味があるでしょ」 「まあ、そうかもしれないけど」 ……麻衣とミアを見る。 「?」 「……」 この二人、現状ではダイエットが必要そうには見えないけどな。 「ミアには、まだ必要ないような気がするけど」 「それに、麻衣にも」 「う……」 「それは……そうかもしれないけど」 「いや、だって、なぁ」 「むー」 「う~……」 「なっ、何?」 「菜月ちゃんには敵わないよー」 「……でもでも、皆さんの食事を作る時に、参考になることはあると思います」 「うん、そっか」 頷く麻衣。 「しかし、ダイエットトークを始めるということは、菜月が……」 「なっ、何よ」 「また大台に……」 「おおだい?」 「なんでもなーい! なんでもなーい!」 「菜月ちゃん、大丈夫だよ」 「慰めるトコじゃなーい!」 「ああ! 体重が大台に乗ったということですねっ」 「理解してるんじゃなーい!」 「まあまあ」 「きっかけ作っといて仲裁してるんじゃなーい!」 「スペシャルデザート試食ターイムっ」 「タイミング見計らって出てくるんじゃなーい!」 ツッコミのオンパレード。 いつの間にか、仁さんまで乱入していた。 ……。 …………。 結局、菜月は最後までデザート試食には加わらなかった。 スモモのババロア、けっこう美味しかったのに。 「失礼しましたー」 仁さんを引っぱったまま帰っていく菜月。 「菜月さん、ファイトです」 「わたしは、頑張って成長したいと思います」 「うん……お互い頑張ろうね」 力なく応える菜月。 「仁さんのデザート、菜月ちゃんも食べられれば良かったのにね」 「ありがと」 「兄さんには、好評だったって言っとくわ」 菜月……強く、生きてくれ。 ……。 6月の第一月曜日。 月末に海開きを控え、カテリナ学院では毎年海岸清掃のボランティア活動を行っている。 俺や菜月はもう3回目だ。 が。 「達哉さん、少し顔が赤くありませんか?」 「ほんとだ」 「だいじょーぶだいじょーぶ」 朝食を食べてる時から自覚し始めたが、ちょっと今日は熱っぽい。 緑茶を飲んで目が覚めた姉さんが、近寄ってくる。 茶碗と箸で両手がふさがってる俺は、抗う術も無く……額をコツん。 「熱は……少しだけ、あるかな?」 「だ、大丈夫ですって」 「無理はいけないわ、達哉」 原因は、簡単に思い当たる。 今年何度目か分からない熱帯夜だった昨晩、エアコンをつけっぱなしで寝てしまったのだ。 「きっと、学院に着く頃にはいつも通りだと……」 「思うんだけど」 「本当に大丈夫?」 「ま、何とかなるだろ」 「大丈夫じゃなさそうだったら、無理はしないでね」 「はい」 足元もふらついてないし、しっかり朝御飯も食べたし。 とりあえず、普通に登校してみることにした。 ……。 「今日は午後から、全員で弓張海岸の清掃ボランティアだからな」 「いい天気だが、くれぐれも暑いからといってそのまま海に飛び込んだりしないように」 ……午前中の授業が終わると、宮下先生がそう告げた。 全学生が体操服に着替え、浜辺へ向かう。 弓張海岸へは、学院の裏門から歩いて10分程度。 クラスごとにまとまって、海岸に到着した。 「ボランティアで、掃除をするのね」 「うん」 「海開きになったら人もたくさん来るし、うちの学院が一番近いしね」 「年に何時間だったか、ボランティアが授業に組み込まれてるんだ」 「教育方針みたいなもの、かな?」 「しかし、授業で強制では、ボランティアと言えるのかしら?」 「そ、それは……そうなんだけど」 「まずは強制でもいいからやってみて、あとは学生の自主性に期待ってことかな」 「きっかけになれば、ということね」 「多分」 「ま、強制とか考えないで、楽しんでやれればいいよね」 「ええ」 一人一人にごみ袋が配られた。 あとは、打ち上げられて干からびた海草からスプレー缶まで、各々が拾うだけ。 ごみ袋一つがノルマなので、さっさとそれだけのゴミを拾えば、あとは時間一杯遊んでてもいい。 「それじゃ、始めますか」 「おーう」 「はいっ」 「達哉」 「ん、なに?」 「先程の、ボランティアの意義についての話だけど」 「うん」 ……。 …………。 それから、フィーナとゴミを拾いながら、行事のあり方について話をした。 フィーナは、将来国を統べる立場にあるからか、とても深い考えを持っていた。 ……。 「もう、一袋分のゴミが溜まったわね」 「まだ続けるなら、あそこで新しいゴミ袋と交換できるよ」 「ノルマはクリアしてるから、もう時間まで遊んでてもいいけど」 「いえ、もう少し続けてみるわ」 「達哉はどうするの?」 「ああ、つき合うよ」 「達哉のゴミ袋も、もう一杯になりそうよ」 「一緒に新しいゴミ袋をもらいに行きましょう」 「そうするか」 ……。 初夏の日差しは高く、浜辺をじりじりと焼く。 熱中症防止のため、各々休憩を取ったり、海に足を浸したり。 そんな行為もかなり大目に見られていた。 「そろそろ暑くなってきたなぁ」 「そうね」 自らの頭に手をのせるフィーナ。 「達哉の髪の色の方が、暑そう」 「そうか?」 俺もフィーナの真似をして、自らの頭に手をのせる。 「あちっ」 「ほら。 ふふふ……」 ……。 とりあえず、太陽に焼かれて火照った身体を少しでも冷やそう。 そう思った俺は、ジャージの裾をめくって、波打ち際へ降りることにした。 「フィーナも来ない?」 「い、いえ」 「私はまだゴミを拾うわ」 「でも、身体に熱が籠もるのは良くないよ」 「冷たくて気持ちいいと思うんだけどな」 靴下を脱ぎながら言う。 「いえ、遠慮しておくわ」 「家の外で素足を晒すのって、もしかして礼儀に反したりタブーだったりする?」 「そういうわけではないけれど……」 俺は素足で熱く灼けた砂の上に立つ。 「あちちっ」 波打ち際の、少し湿ったところまで歩く。 素足で砂を掴む感覚は、久し振りだ。 「ほら、気持ちいいよ」 砂浜に登ってくる波の先端に、足の指が触れる。 次は、足首まで浸かる。 引く波が、足の裏の砂を持っていく感じ。 「フィーナも来ればいいのに」 「……」 もしかしたら、清掃をさぼるのが後ろめたいのかな?俺は少しはしゃぎ過ぎてたのかもしれない。 「分かった」 「俺も、掃除に戻るよ」 「ごめんなさい」 なんで謝られたのかは分からなかったけど、俺もまた掃除をすることにした。 もしかしたら、海が怖いのかな?あり得る。 海をこんなに近くで見たのさえ、初めてかもしれない。 しかし……。 ここで正面から指摘しても、きっと否定するだろうな。 「じゃあさ、とりあえず裸足になってみない?」 「わ、分かったわ」 靴を脱ぎ、靴下を脱ぐフィーナ。 「ここまでなら大丈夫だから」 フィーナを、半分湿った砂まで引っ張りだす。 「でも達哉」 「大きい波が来たら、ここまで水が来るということよね」 「そんな波はほとんど来ないよ」 でも、こういう時に限って……ざざーん「きゃあっ」 思わず飛びのいたフィーナ。 だが波は早く、当然逃げきれない。 「フィーナっ」 手を取る。 ざさざざ……大きめの波が、フィーナの足首までを濡らした。 「ああっ、砂が……」 「大丈夫」 ……波が引く。 足の裏の砂が持って行かれる感覚も、きっと初めてなんだろう。 「……」 それ以降の波は、また元の大きさに戻ったようだ。 「どうだった?」 「足が濡れてしまったけど……」 「不思議な感覚ね」 「冷たかった?」 「ええ、気持ちいいわ」 「少しびっくりしたけど」 フィーナは、微かに緊張した笑顔でそう言った。 ……。 乾いた砂の上を歩いて足を乾かし、砂を払って靴を履く。 また俺たちはごみ拾いに戻ることにした。 ……。 …………。 ボランティアの時間が終了し、学院に戻る。 その間、フィーナはずっと上機嫌だった。 ……。 その晩。 フィーナは、ミアに海のことをいつまでも話していた。 ……とても楽しそうに。 ……。 真面目に参加する学生は少ないこの行事。 こういう時は、まずノルマを終わらせよう。 ……。 …………。 黙々とゴミを拾い、かなり早いペースでノルマを終わらせる。 最初から遊んでると、集合時間間際に拾おうとしてももうゴミがあまり無い。 それで苦労しているクラスメートを、今まで何度も見てきた。 「朝霧君はやーい!」 「あれ、達哉もう終わったの?」 「ああ」 「最初のうちしかない『大物』で袋を一杯にした方が楽だしな」 「賢いなぁ」 「達哉、まだ大物ってあった?」 「向こうの方にまだあったかな」 「でも競争激しいぜ」 「菜月っ、急ごう!」 「うん。 達哉ありがとっ」 駆けていく二人。 俺は、海岸沿いをブラブラと散歩することにした。 ……。 …………。 三年生から一年生まで、広く砂浜に広がっている。 真面目に拾ってる奴。 最初から大はしゃぎで遊んでる奴。 海に飛び込んでしまう奴。 日光浴をしてる奴。 ……そんな、色々な学生の中に、麻衣を見つけた。 「麻衣」 「お兄ちゃん、ゴミ袋は?」 「早く拾った方が、ノルマの一袋は楽だって言ってたのに」 「ん? 俺はもう終わったけど」 「お兄ちゃん、早すぎだよー」 ……そんな会話をしていると、麻衣のクラスメート達が集まってきた。 「麻衣、この人が麻衣のお兄さん?」 「わー、案外かっこいいー」 「お兄ちゃんは見せ物じゃないんだから」 「麻衣のクラスメートでーす。 よろしくー」 「同じくでーす」 「麻衣って、『お兄ちゃん』って呼んでるんですね」 「ん、ああ。 まあそうだけど」 「仲良さそうですねー」 「でも、このトシになって『お兄ちゃん』って呼ぶのって珍しくない?」 「確かにね」 「えっ、普通じゃないの?」 「ちっちゃい子供の頃は普通かもしれないけど」 「そ、そうなんだ……」 ……。 …………。 「ごめんね」 クラスメート達が去ってから、麻衣が謝ってきた。 「何が?」 「あの子たちが、珍しがっちゃって」 「ま、あんなもんだろ」 「……」 「あのね」 「ん?」 「あの……」 「『お兄ちゃん』って呼ぶの、不自然かなぁ」 「じゃあ、なんて呼ぶ?」 「う~」 「むー……」 「そんなこと、急に言われても分かんないよ」 「兄貴とか?」 「えー、なんかイヤだな」 「お兄様」 「ぷっ」 「あはははは……」 爆笑された。 「じゃあ、達哉さんとでも呼んでみるか?」 「うわ」 「なんだよ『うわ』って」 「俺、姉さんのこと、しばらくさやかさんとか、さやか姉さんって呼んでたぜ」 「……達哉さん?」 「ああ」 「達哉兄さん」 「た つ や に い さ ん」 一音一音、確かめるように発音する麻衣。 「んー」 「なんか違和感あるよね」 「はぁ……もうなんでもいいからさ」 「例えば、家の中とか、二人きりの時はこれまで通り」 「クラスメートの前とか、二人きりじゃない時は好きに呼んでくれ」 「う、うん」 「考えとくね」 ……。 そう言って、クラスメートのところに戻っていく麻衣。 確かに……友達といる時に家族が来ると、なんか恥ずかしいよな。 その気持ちは分かる気がする。 ……ま、麻衣がいいと思うようにすればいいだろ。 俺は、またクラスメートがいる方に戻ることにした。 ……。 …………。 その日、帰ってからも俺の呼び方を考えていた麻衣。 でも、結局いい案は浮かばなかったらしい。 とりあえず俺は『お兄ちゃん』と呼ばれ続けるようだ。 ……。 開始早々、菜月が岩場に向かっているのが見えた。 「菜月、どこ行くんだ?」 「んー、去年のこと覚えてる?」 「去年?」 何かあったかな。 去年も同じクラスだった俺と菜月。 海岸清掃……。 岩場……。 「蟹か」 「そうそうっ」 「今年も元気かな?」 去年、岩場で蟹を見つけて、菜月が大喜びをしていたのを思い出した。 「どうかな」 「見に行ってみようよ」 しかし。 集合時間が近づいてから拾おうとしても、もうゴミがあまり無い。 最初のうちしかない『大物』で袋を一杯にした方が楽なのだ。 「行きたい気持ちは分かるけど、海岸清掃のセオリーを思い出せ」 「むー、確かに」 ……。 それから、俺と菜月は、大急ぎでノルマを達成した。 クラスでも一番と二番だろう。 「終わったー、行こうっ」 「はいはい」 ……。 岩場に着く。 「いないね……」 「そうだな」 「あっちはどうだ?」 「見てみる」 大きな岩を乗り越え、その向こうの隙間を降りていく菜月。 「気をつけろよ」 「大丈夫」 少しずつ、海面に近づいていく菜月。 そんなに危険そうではないけど…… ……。 「いたか?」 「うーん」 「いないなぁ」 もう少し、もう少しと探している菜月。 俺が、それを上から見ていると……。 「あっ」 「いた?」 菜月が左手を置いている岩の陰から、蟹がわらわらと出てきた。 「菜月の、左手のあたりに……」 「いたたたーっ!」 出てきた蟹のうち一匹が、菜月の指をハサミで挟んだ。 慌てて岩の間から飛び出してくる菜月。 「痛い、痛いってば!」 菜月が手をぶんぶん振っても、蟹はしっかりと指を挟んでいる。 「海だっ」 「海水に浸けたら離れるかも」 走り回っていた菜月は、そのまま海に膝下まで浸かり、海中に左手を沈める。 「放せーっ」 ざぶざぶ 水の中に入れた手を、目茶苦茶に動かす。 ……。 「と、取れたよ……」 「良かったな」 「うん」 心底ほっとした顔で、菜月が言う。 少しだけ青ざめていた顔にも、やっと笑顔が戻ってきた。 「……びっくりしたー」 「菜月、見せて」 「うん……」 小さい蟹だった。 ハサミも、そんなに大きくはない。 「ハサミを引きちぎるのが、一番早いと思うけど」 「何とか、ハサミを開かせることはできないの?」 「コイツ、小さいくせに力が強くて……」 ハサミを開かせようと力を込めても、びくともしない。 「あいたたたたっ」 「はさむ力が強くなってる」 「いたっ、いたっ、痛いっ!」 そのまま海へ駆けて行き、左手を海水につけてざぶざぶ動かす。 ……。 「う」 「どうした?」 「ハサミだけちぎれちゃった」 「結局こうなるのかー」 ……菜月は、膝のあたりまで海水で濡れていた。 今は岩の上に座り、靴と靴下と脚を乾かしている。 「あっ、こっちにたくさんいるじゃない」 「蟹?」 「うん」 ぼんやりと海を見ながら、菜月と、靴が乾くのを待つ。 日差しも強いから、数十分もすれば乾くだろう。 「日に焼けちゃうなぁ」 「紫外線が気になる?」 「まあ、少しは」 「……そろそろ乾いたかな」 足についた砂を払い、靴下と靴を履く。 「さ、行こっ」 「ああ」 「しかし……蟹に指を挟まれるなんて、菜月って楽しい奴だよな」 そう言って、先にクラスの担当区へ走り始める。 「もーっ」 菜月も追いかけて走ってきた。 ……。 その日の夜に浴びたシャワーは、首筋に染みた。 菜月はきっと、指にも染みているだろうな。 ……。 「……やっぱり、大事を取って家で休むことにするよ」 「そうね。 無理はしない方が……」 「姉さん、宮下先生に連絡してくれる?」 「ええ」 ……。 「行ってきまーす」 「お大事に、達哉」 二人が家を出る。 俺はベッドに入って、しばらく寝ることにした。 ……。 …………。 目が覚める。 ちょっと上半身を起こしてみると……どうも、身体がだるいような気がする。 体調のせいか、寝すぎたせいかは分からない。 時計を見ると、昼の12時を少し回ったところ。 今頃、学院は昼休みだろうか。 「よっ」 とりあえず熱を計ってみて、それから考えよう。 体温計は……姉さんの部屋だったかな?がちゃ「ひゃあっ」 「あれ、ミア?」 「は、はい」 危うくぶつかるところだったミア。 手に持ったお盆には、器を載せている。 「お昼ご飯に、たまご入りのおかゆを作ってみたのですが」 「ああ、ありがとう」 「ちょうど、お腹が空いてきたところだよ」 「では、ここに置きますね」 「もう起き上がっても大丈夫なんですか?」 「ちょっとフラフラしてるから、熱を計ろうと思ってたところ」 「そうでしたか」 「また、後で食器を下げに来ますね」 「元気になってたら、俺が持っていくよ」 「無理は禁物ですよ」 「ああ、ありがとう」 ……。 …………。 ミアが作ってくれたおかゆを食べる。 しばらくして、熱を計ってみると……結果は37度2分。 熱があるといえばあるけど、大騒ぎする程じゃない。 うーん。 ……その場で、少し立ったりしゃがんだりしてみる。 あ。 駄目だ。 ……くらくらする。 今日はバイトがあったけど……おやっさんに休ませてくれって伝えた方がいいかな。 ……。 …………。 目が覚める。 「……」 「達哉くん、大丈夫?」 「ん……姉さん?」 「起こしちゃったわね」 「いや、大丈夫。 今日はずっと寝てたし」 「……それより姉さん、仕事は?」 「今日は、早めに上がってきたの」 「実に一年ぶりの定時よ」 そういって、姉さんはころころと笑った。 ……時計は夕方5時半を指している。 「で、体調はどう?」 「寝過ぎで、少しだるいくらいかな」 「熱は?」 「昼間に計った時は……」 「7度2分。 微妙だよね」 「もう一度計ってみる?」 「……それと、寝てる間に汗も一杯出たみたいだし、少し拭いてあげようか」 姉さんに拭いてもらう?……。 って、何考えてるんだ俺!「いや、姉さんっ、自分でできるからいいよ」 「自分でできるからいいよ」 「そう? それなら、タオルを持ってくるわね」 ……。 熱は6度9分。 だるいのも単なる寝過ぎ。 晩御飯が近づいてくるにつれて、腹の虫まで鳴る始末。 「もう、大丈夫そうね」 「うん」 「……少し、大事を取りすぎたかも」 「本当に良かったです」 「ミアも、お昼のおかゆ美味しかったよ。 ありがとう」 「もしかしたら、あのおかゆのおかげですぐに治ったのかもね」 姉さんの真似をして、ミアの頭を撫でてみる。 「そ、そんなこと、ありませんよぅ」 ……。 「あれ、もうこんなに元気なんだ」 「大したことがなくて、何よりだったわ」 しばらくすると、麻衣とフィーナも帰って来た。 ……。 確かに、大したことはなかったけど。 ミアが家にいてくれたこと……そして姉さんが早く帰って来てくれたこと。 おかげで、寝ている俺がちっとも寂しくなかったこと。 もしかしたら、そんな嬉しかったことが、体力を回復させたのかもしれない。 ……。 ……。 目覚ましが鳴る直前に、目が覚めた。 アラームを止めてから着替え、一階に降りる。 そこでは、ミアと麻衣が朝食の準備をしていた。 「おはよう」 「おはようございます、達哉さん」 「おはよー、お兄ちゃん」 「今日は少し早いね」 「目覚ましより早く目が覚めてさ」 「何か手伝えることがあったら、手伝うけど」 「じゃあ、ご飯よそってくれる?」 ……。 全員分のご飯をよそう。 「姉さん用のお茶も淹れとくか」 「そだね」 急須に、特濃の緑茶を淹れる準備をする。 実際にお湯を注ぐのは、姉さんが起きてからにしよう。 ……。 「おはようございます~」 ほややんとした顔で、姉さんが起きてきた。 いつもの朝食風景だ。 普段の二倍の茶葉で、普段の三倍の時間蒸らす。 「はい、姉さん」 「ありがとう、達哉くん」 撫でられる。 「お、おはようございます」 フィーナが、少し早足で入ってくる。 「ちょうどいいタイミングだよ、フィーナさん」 「おはようございます、姫さま」 「さあ、準備ができましたよー」 ……。 いつも通りの朝御飯。 いつも通りの、一日の始まり。 フィーナやミアも、すっかり朝霧家の朝食に馴染んでいる。 知らない食材が出てびっくり、箸が上手く使えなくてわたわた。 そんな場面も、ほとんど無くなっている。 二人が月から来たことすら、時々忘れそうになるくらいだった。 ……。 「あれ、フィーナはまだかな?」 「そうですね、ちょっと遅いです」 「今日は、私もまだ姫さまの部屋には行ってません」 ミアは、朝食の準備で忙しそうだ。 「ちょっとノックだけしてくるよ」 「お願いします」 いつもは、俺より早いくらいのフィーナ。 お姫様といっても、たまには寝坊することがあるのかな?こんこんフィーナの部屋の扉をノックしても、返事が無い。 寝てるなら、もう少し強くノックしないとダメだろう。 こんっこんっ……。 まだ寝てるのかな。 だとしたら、ミアに起こしてもらわないと……。 「はーい」 「……どうぞー」 ん、起きてるのか。 がちゃ「フィーナ、そろそろ朝ごは……」 「……あ……」 「……」 「きゃーーっ!」 一瞬、目の前で起きていることが理解できない。 フィーナが、半裸で、俺の前にいて、悲鳴を上げている。 ……ちょっと待て。 俺は月王国のお姫様の着替えを覗いてしまったってことだぞ。 いや、返事はあったんだ。 どうぞって。 しかし、今の状況を100人が見れば、100人が俺を責めるだろう。 王族の着替えを見たのって、どれくらいの罪になるんだろう。 ……一瞬の間に、思考がものすごい勢いで空回りする。 「フィーナ様?」 「どうかされましたかっ?」 バタバタバタ近づいてくる足音。 早くなる鼓動。 もう駄目だ、と思ったその時。 「……」 無言のフィーナに背中を押され、クローゼットに押し込められた。 「姫さまっ!」 「何か異変でも?」 ……。 「……いえ」 「ちょっと大きい羽虫がいたのよ」 フィーナ……「昆虫には慣れていないので、思わず悲鳴を上げてしまったけど」 「その羽虫は?」 「皆さんが入ってくる時に、出て行ったわ」 「達哉さんが、こちらにいらしてたかと思ったのですが」 「?」 「いいえ、こちらには来てないけれど」 フィーナは、俺のことをかばってくれてる……のか?「お兄ちゃん、トイレにでも行ってるんじゃないかな」 麻衣ナイス!「そろそろ朝食ができそうね」 「遅れてごめんなさい」 「すぐに行くわ」 「……あ、は、はいっ」 「何事も無くて良かったです」 「今度、フィーナさんの部屋にも殺虫剤を常備しようよ」 ……。 …………。 みんなが、ダイニングへ戻っていく。 フィーナに助けてもらった。 「達哉、みんな戻ったわ」 「フィーナ、どうして」 「着替えの途中で入って来られたことに対しては怒っているけれど……」 「私の返事にも、問題があったわ」 「……びっくりしたので、悲鳴を上げてしまったけど」 そう言うフィーナは、王族らしい公正さと気高さに満ちていた。 俺は、ただ、謝るだけしかできない。 「ごめん」 「……それに、さっきの所業を皆に広めて、達哉を貶めようとは思わないから」 「フィーナ……」 「ただし」 「今度、シュークリームをご馳走してね」 「あ、ああ。 分かった」 「5個でも、10個でも」 「それより、早く行かないと、また皆が心配してここに来てしまうわ」 頷いて、ダイニングへ戻る。 「おはようございます」 ……。 さっきの悲鳴は、まるで無かったかのように振る舞うフィーナ。 結局、フィーナはそのことを二度と話題にしなかった。 いい天気……洗濯物がよく乾きそうだ。 そんなのどかな日曜日。 ……。 フィーナにも今では、家事の分担がある。 この日は洗濯。 洗濯機を回し、それを干したり乾燥機で乾燥させたり。 色物は白い布に色が移ることがあって……という話は、麻衣が教えていたようだ。 ……。 「洗濯、終わったわ」 「服が綺麗になるのは気持ちいいのね」 「ええ、それが洗濯の醍醐味です」 「ところで……」 「今月、麻衣の家事分担が少ないのは、部活関係?」 「麻衣ちゃんはね、月末に吹奏楽の大会があって、練習が大変みたいなの」 「その分、来月頑張ってもらうからね」 「はーい」 「今日もこれから練習だよ」 「そうだったの」 「いい結果が出るといいわね」 フィーナに励まされ、麻衣は少し申し訳無さそうな顔になる。 「まあ……うちの学院って学生数も少ないし、吹奏楽部員も少なくて小編成しか作れないし」 「参加することに意義があるって感じで、楽しめればと思ってます」 「楽しめることも、大切なことだと思うわ」 「きっと、いい経験になるわよ」 「そうですね。 フィーナさん、ありがとう」 ……。 「それでは、私はミアの掃除を手伝ってみるわね」 「よろしくお願いします」 フィーナがぱたぱたと二階に登っていく。 ……。 「フィーナさんも、家事の面白さが分かってきたみたいだね」 「ええ、そうね」 「……さて、私も今日はこれから出勤なの」 「準備しなきゃ」 「姉さん」 「俺も、久し振りに博物館に行っていい?」 「あら、本当に久し振りね」 「どうしたの?」 「いや、何となく……姉さんの働いてる場所を見たくなって」 「ふふふ……嬉しいわ」 ……。 月王立博物館は、弓張川の三角州、月人居住区にある。 月の文化を、地球に紹介するための施設だ。 「展示って、前に行った時と変わってるかな」 「前に来たのっていつだったかしら」 「1年くらい前かなぁ」 「私が館長代理になってからは初めてね」 「館長代理の仕事って、何をするの?」 「特設展示の指示なんかも、もちろんあるけど……」 「偉い人達とのつきあいも多いわね」 ……。 遠く、高い空を見上げる姉さん。 「でもねー」 「そういったお付き合いも、もしかしたらどこかで役に立つかもしれないのよ」 「そういうものなんだ」 「博物館の予算とか」 「なるほど」 「あとは……もしかしたら」 「私に、もう一度月に行くチャンスが回ってくるとか、ね」 悪戯っぽい瞳の中に、ほんの少しの本気の光。 ……。 姉さん、もう一度月に行ってみたいのかな。 「そんなチャンスが回ってきたら……」 「姉さんは、どうするの?」 「そうね……」 「日々の仕事の中でさえ、月の専門家なんて名乗るのは恥ずかしいのよ」 「知識が、全然足りなくて……」 小さいため息をついて、肩をすくめる姉さん。 「だから」 「もし、チャンスがあって……」 ……。 …………。 「?」 姉さんが、俺を見ている。 な、なんだろ。 「……達哉くんと麻衣ちゃんが、しっかりした人に育っていたら、是非また行ってみたいわね」 姉さんは、そう言って微笑んだ。 ……。 「そうそう」 「実質、館長は名前だけ貸してもらってるようなものだから──」 「館内のスタッフは、私のことを『館長』と呼ぶかも」 「分かりました」 ……。 「さ、着いたわ」 街中に、この余裕ある空間。 月王立博物館は、何度見てもすごい建物だ。 「ここの館長代理なんだもんなぁ」 「姉さん、すごいよ」 「もっと、今の仕事を実のあるものにできればね……」 「地球と月の板挟みも、なかなか大変なのよ」 日曜日の割に、あまり人がいないのが少し気になったが、一年ぶりの館内に歩を進める。 「おはようございます、館長」 「おはようございます」 姉さんと一緒に館内に入ると、案内係や警備の人が次々と挨拶してくる。 やっぱり館長代理ともなると、偉いんだということを実感する。 ……。 それから、姉さんの案内で特設展示を見た。 閑散とした館内。 特設展示は『月の水分循環システム』というものだった。 常設展示の方は一年前とあまり変わっていない。 「来館者数が増えない、予算が増えない、この悪循環なの」 そう言った姉さんは、少し寂しそうに見えた。 「地球の人は……あまり月に関心が無いまま過ごしてるわね」 黙って頷く。 「月の人は、相変わらず鎖国を続けているわ」 「ここも建物は立派だけど、展示は当たり障りのないものばかりなのよ」 そうは言うけど。 姉さんは、特設展示が変わる度に、徹夜してでもいいものをと頑張ってきたはずだ。 それはもちろん、月と地球の交流を願って。 仕事がなかなか成果に結びつかないもどかしさ。 それが分かった俺は、何となくうなだれてしまう。 「でもね」 「少しでも状況を改善できるよう、頑張ってるから」 「ほら、こんなに前向きよ」 そう言って、小さくガッツポーズ。 月留学経験のあるエリート、そう言われている姉さん。 でも、その仕事についてはほとんど知らなかった。 姉さんも家ではあまり語らない。 ……。 「さて」 「私は、せっかくもらった自分の部屋に行って、交流が盛り上がる策を練るとするわ」 「それじゃ、まだ時間はあるから……もう少し館内を見て帰るよ」 「うん」 「それじゃ、また夜にね」 館長代理ともなると、自分の部屋があるらしい。 ……。 月と地球の交流促進。 姉さんが抱えた仕事は、あまりにも大きい。 そんな姉さんを誇りに思うとともに、その背負ったものの大きさに……俺も力になりたい、と思った。 ……。 いつもの、麻衣が練習に使っている川原。 麻衣が、ケースからフルートを取り出した。 「じゃ、始めまーす」 「おう」 「いつもの曲だけど、寝ちゃ駄目だよ」 「寝るのは、演奏に対する称賛だと思ってくれ」 「聴いてて不安にならなくなった、ってことなんだから」 「もー、そんなのずるいよ」 少し頬を膨らませる麻衣。 ……。 ~♪麻衣のフルートに、道行く人のうち幾人かが足を止める。 そのうち何人かは「お、またやってる」 といった顔をしていた。 ……。 気温は高いけど、湿度は低い、さわやかな風が川面を渡る。 俺は、芝生の上に寝ころがった。 ~♪……。 …………。 「ご静聴、ありがとうございました」 「上手くなったな」 「途中からやり直す回数が、最初の頃よりかなり減った」 「そうだったら嬉しいな」 フルートをしまいながら、麻衣が笑う。 俺は立ち上がり、その頭をぽふぽふと撫でた。 ……。 「それじゃ、帰るか」 「うん」 ……。 …………。 フィーナが干してくれた洗濯物を取り込むのを手伝う。 その後風呂掃除をして、ミアと麻衣が作った晩御飯を食べ終えると……のんびりした時間となった。 「ミアちゃん、わたしの部屋に来ない?」 「はい、行きます行きます」 ……。 麻衣に誘われ、ついていくミア。 「二人は、部屋で何をしてるんだろう」 「ミアは、カードでの占いを教えてもらっているそうですよ」 少し気になるな。 ……ちょっと見に行ってみよう。 こんこん「はーい」 「俺だけど」 「どうぞー」 がちゃ「お兄ちゃん、今、占い中だよ」 「達哉さん、麻衣さんすごいんですよっ」 「占いができるんです!」 ミアは興味津々の様子。 「あはは……そんなに本格的なものじゃないんだけど」 麻衣の様子から察するに──休み時間に、クラスメートと遊びでやってた占いを覚えてきたのかな。 それでも、ミアは目を輝かせて、麻衣がめくるカードを見つめている。 「……さ、出たよ」 麻衣がカードを端からめくり、取り除いたり、組み合わせたりしている。 「対人関係は……」 一枚めくる。 「年上の人に配慮を続けると、どんどん良くなる」 「ふむふむ」 「悩みは……」 今度は二枚めくった。 「家族や近しい人に関する悩みが発生」 「ふえええ……」 「問題ごとには……」 別の山からめくる。 「親友が助けになってくれるでしょう」 「ふむー」 「これで最後だね。 恋愛について」 残った三枚のカードを、両側からめくり……最後に真ん中の一枚をひっくり返す。 「甘えすぎず、正攻法で行けば道は開ける」 「……と、こんなトコかな?」 「麻衣さん、すごいですー」 ミアは目を白黒させている。 多分、こういう占い自体が初めてだったのだろう。 新鮮なら、それはびっくりするはずだ。 「お兄ちゃんもやってみる?」 「えっと……」 「それじゃあ、一回だけ」 「どれどれ……」 麻衣が床にカードを並べ始める。 ……。 …………。 「何を占ってあげようか?」 「そうだなぁ……」 「じゃあ、金運を」 「おっけー、金運ね」 また数枚をめくったり、脇によけたりしつつ、一枚が残る。 「……」 「ここで黙られると困るわけだが」 「ごめん、お兄ちゃん」 「かなり悪い」 「っていうか、考えられる限り最悪かも」 「本当に?」 「た、達哉さん、頑張りましょう!」 「未来は自分で変えないとっ」 「そそそうだよお兄ちゃんっ」 「どもらないでくれ……」 「じゃあ、恋愛運を」 「うん、恋愛運だね」 並べたり、山をシャッフルしたり。 最後に三枚のカードが残り、さっきと同じく両脇からめくって、最後に真ん中の一枚。 「……どうだった?」 「うーん」 「悩むなよ!」 「それがね、ものすごくいいカードの周りに、最悪のカードがあって」 「……これはきっと、すごい困難の先に、最高の幸せが待ってるってことだと思うよ」 「む……微妙だな」 「達哉さん、ファイトですっ」 「困難に負けないでね」 それからも、二人は占いに興じていた。 麻衣が占いをしてるのなんて初めて見たけど──きっと、ミアが喜んでくれそうだと、勉強したんだろうな。 ……。 もちろん、麻衣がやってる付け焼き刃の占いが当たるとは思っちゃいないけど。 もうちょっといい結果だったらなぁ、と思った。 ……。 さて、今週もまた一週間が始まる。 ここんとこ急に気温が上がり、もう真夏かと思うくらいだ。 ミアは……「お洗濯物が乾きやすくて助かります」 なんて言ってたけど。 フィーナのドレスと、あとは何といってもミアのメイド服。 この二着は見るからに暑そうだ。 大丈夫なのかな。 ……。 昔はよく、いつまで経っても衣替えをしない俺を、母さんが怒ってたっけ。 いや、俺より怒られてたのは親父か……。 そんなことをしてた時期は、うちも普通の家だった。 男共が、母親に怒られる構図。 母親と言えば……その日のトラットリア左門は、戦場だった。 「達哉、4番のテーブル片づけてっ」 「菜月っ、1番のお客様に水とオーダーをっ」 「こちらモッツァレラチーズたっぷりのマルガリータピッツァでございます」 「いいから仁、8番さんにタバスコ」 「ウィムッシュー」 「フランス語ですが」 「ノンノン、今やユーロの時代だよ」 「いいから4番のテーブルっ」 ……。 …………。 からんからん「ありがとうございましたー」 「またどうぞー」 ……最後のお客さんが帰ると、やっと店内の空気が緩くなった。 「お客さん、多かったですね」 「達哉君、これくらいでへたってるようじゃ、僕が本気を出した時が心配だよ」 「いつでもどーぞ」 「しかし、今日はやたらとミラノ風カツレツが出たな」 「……あ、菜月が書いたメニュー黒板のせいじゃないですか?」 「ほう」 開店前に、いつもは『本日のお勧め』になってるところを……『本日の、カリッカリの衣で包まれたジューシーな豚ロースにすり下ろしたパルミジャーノレッジャーノチーズをたっぷりふった、お勧め』と書きかえていた菜月。 「ふむ。 我が妹ながら天晴れな働き」 「しかし、僕が下ごしらえをしたトマトソースには言及されてないのは何故かね?」 「スペースが無かっただけだってば」 「ふーん、へえぇ、そっかぁ、ふーん」 「……」 「はいはい、次はちゃんと書きますから」 満足げな仁さんと、ため息をつく菜月。 「……そうだ」 カウンター下にある冷蔵庫から、自家製野菜ジュースを取り出す。 「はい、達哉も」 「お、さんきゅー」 二つのグラスに、濃厚な野菜ジュースを注ぐ。 菜月は、バイト明けには必ずこれを飲んでいた。 「おつかれー」 「おつかれー」 チンなんとなく乾杯。 店で使い切れなかった野菜を材料にして作られているこのジュース。 たまに俺も分けてもらうが、味が濃厚で、とても体に良さそうな感じがする。 「今日ね、お母さんから電報と写真が届いてたんだ」 「おばさん、なんだって?」 「元気に修行して回ってるみたい」 「ものすごく大きなピザを焼く釜と一緒に写ってたし」 「電報の方は?」 「『オクガフカイ』だって」 「こりゃ長引くかもね」 「あれ、おばさんいつ帰ってくるんだっけ?」 「さあねぇ」 両手を広げ、大げさに呆れた格好をとる菜月。 「納得するまで修行したら、だとさ」 「まだ半年か一年くらいかかりそうだね」 「『リストランテ左門』は遠いよ」 両手を広げ、大げさに呆れた格好をとる仁さん。 「気長に待つさ。 仁はまず、自分の腕を上げることを考えろ」 「……それにタツ、今日は家メシだろ。 早く帰ってやれ」 「すんません」 ちょっと遅くなるけど、週末の夕食はいつも家で食べることにしていた。 たしか今日は、麻衣が鰹を用意してるはず。 「……それじゃ、お先です」 「おう、お疲れ」 「おつかれさまー」 からんからん「ただいま」 「……お、おかえり~」 ぱたぱたと麻衣が駆けて来る。 「どうした?」 「あはは……実は」 「炊飯器の調子が悪くて、今やっとご飯を炊き始めたとこなの」 「じゃあ、まだ時間かかりそうだな」 「ただいま」 「おかえりなさい、達哉くん」 「ご飯までの間だけど、お風呂の掃除代わろうか?」 「?」 「達哉くんは、イタリアンズの散歩に行けるでしょ」 「……じゃあ、お願いします」 「戻って来る頃には食べられるようにしとくね」 「頼んだ」 ……。 「わふわふっ」 「わん」 「おん」 「よし、行くか」 つないであるリードを外し、手に持ち替える。 いつもは元気が有り余っているイタリアンズも、散歩に行くと分かると、嬉し過ぎて静かになるらしい。 ただ、平静を装っていても、ぱたぱたと振られるしっぽは隠せない。 「夜だから、ゆっくり、静かにな」 言いつけを何とか守ってるイタリアンズ。 ゆっくり、静かに、角を曲がる。 「仁さん」 「ん、達哉君」 左門の前に、煙草を咥えながら立っている。 「こんな夜中に犬の散歩とは、ご苦労様だね」 「この時間、けっこう散歩してる人いますよ」 「それに、運動にもなりますし」 「ふむ。 健康は重要だね」 「しかし、達哉君は帰って家族団欒タイムを満喫するもんだと思ってたけど?」 「飯の支度にもう少しかかりそうなんで、先に腹を空かせとこうかな、と」 その時ちょうど、俺の腹が「ぐう」 と鳴った。 「はっはっは、もう準備は大丈夫そうだね」 「ま、不肖の妹菜月みたいに客のいる前でぐうぐう言われるよりはマシ……」 すこーんっっっ!「ぐはっ」 どこからともなく、夜の闇を切り裂いて飛んできたしゃもじ。 そいつが、弧を描いて仁さんの後頭部を直撃した。 ……。 ぴしゃりと閉まる窓の音。 俺は、呻く仁さんを振り返らず、散歩に復帰することにした。 ……。 …………。 左門が定休日の水曜。 今日は、自宅で夕食を食べた。 メニューは、混ぜご飯とカボチャの筑前煮。 どうやら、麻衣がミアに料理を教える日だったらしい。 「この煮物も、とても美味しいです」 「カボチャは月にもあるの?」 「はい、あるんですよ」 「ショウガもありますし、今日の料理は多分、月でも作れると思います」 「じゃあ、レシピを……」 こんな、いつも通りの会話が繰り返される。 まったりした、食後の時間が流れていた。 ……。 …………。 「お風呂、頂きました」 「ミアちゃん、今日は一緒に入ろうか?」 「はいっ」 うちでの風呂の順番は、その日によって微妙に違う。 ただ、フィーナが一番最初で、俺が一番最後。 ここだけは毎日変わらない。 ……。 「じゃ、お風呂頂くわね」 「どうぞー」 キッチンでは、月のデザートをミアが麻衣に教えている。 フィーナがそこに混ざって、お菓子の本のシュークリームのページだけをじいっと眺めていた。 ……。 トゥルルルル──電話だ。 「お兄ちゃん、出れる?」 既に立ち上がっていた俺。 「ああ」 がちゃ「もしもし、朝霧ですが」 「その声は……達哉君でしたか」 「月大使館のカレンです」 「あ、はい、こんばんは」 「姉さんですか?」 「今、姉さんはちょっと電話に出にくい状態で……」 「ごめんなさい、ちょっと急ぎの用なんです」 「分かりました」 ……と、保留ボタンを押して廊下に出たのはいいものの。 どうやって、姉さんに電話に出てもらえばいいんだろう。 んー。 とりあえず洗面所までは行ってみるか。 「ねえさーん」 「達哉くん?」 「カレンさんから、電話なんですがー」 「急ぎの用だそうですよー」 「分かったわ」 「ちょっと待っててもらって」 待っててもらって……と言われてもなぁ。 ずっと待たせるのも、失礼な気がするんだけど。 「ごめんごめん、今、出るからー」 ばたばたと、俺を追い抜いていく姉さん。 その格好は──風呂上がりのロクに拭いてない身体に、バスタオル一枚を巻いただけ。 いいのか、これで?「もしもし、カレン?」 そのまま電話に出てるし。 ……。 …………。 かちゃ「ふう……冬じゃなくて良かった」 「さやか」 「先程から、達哉が目のやり所に困っていてよ」 「そんなことないわよね、達哉くん」 ……。 「えーと……」 「どちらかというと、フィーナの意見が正しいです」 「そう……だったのね」 「でも」 「?」 「ううん、ごめんなさい」 姉さんは、そのままぱたぱたと風呂に戻っていった。 「達哉」 「地球の家族は、みんなこのような状態なの?」 「それは人によると思うけど」 「姉さんは、かなり無防備な部類に入ると思うよ」 助け船を出してくれたフィーナに感謝しつつ──ちょっと残念な気もしたのは隠しておくことにした。 日曜日。 学院もバイトも休みなのは、この日だけだ。 どっちも嫌いじゃない、むしろ楽しいんだけど──この日曜日の解放感はなんだろう。 ……。 何時からあれをしなくちゃ、何時になったらあれを……といった、決められた時間が無い。 これが、精神的にとても楽なんだと思う。 「お裾分けだ」 「知り合いから大量にもらってな。 モノはいいはずだ」 「さやちゃんと麻衣ちゃんがいれば、美味いもん作ってくれるだろ」 潮の香りが漂う木の箱が、ドカンとキッチンの床に置かれる。 「あ、ありがとうございます」 「ありがとうございます」 「おう」 ……そう言って、左門さんはお裾分けを置いて帰って行った。 「俺、最初の方を聞いてなかったんだけど、これ何だって?」 「ええと……くるま、くるま……」 「くるまえび、と仰っていたわ」 「海老かぁ」 「月では、海老って食べるの?」 「わたしは、記憶にありませんが……」 「確か、一度だけ……」 「宮中晩餐会にろぶすたーというものが出たはずよ」 「あれは、えびの一種ね?」 「多分……そうなんじゃないかな」 「美味しかったですが、見た目は少しグロテスクね」 まあ、見慣れない人が見れば、そんなもんだろう。 「そもそも、外骨格の生き物は全てグロテスクと言えるわ」 「そうなんですか……」 「じゃあ、この箱の中も」 ミアは少し腰が引けてきている。 「見慣れてないから、そんな気がするだけだって」 「エビもカニも、とても美味いんだからさ」 「確かに、ろぶすたーは美味しかったわね」 「クルマエビも似たようなもんだって」 「わたし、頑張って食べてみたいです」 「いや、あれはザリガニに似てるから、カニの一種かも」 「そうだったの……」 「でも、カニといえばエスカルゴを食べたことがあるわ」 「エスカルゴは一度見たことが」 「いや、エスカルゴはかたつむり。 カニとは関係無いから」 「あ……」 間違いを指摘されたフィーナが、恥ずかしさで少し俯く。 「でも、知らないならそんなもんだよな」 「ふう……中途半端な知識で喋ってはだめね」 「あっ、エビの豆知識という薄い本が入ってますよ」 エビ?「せっかくだから、勉強する?」 ……。 …………。 「達哉さん……」 「達哉、ロブスターはエビの一種のようだけど?」 「ぐっ……」 二人の視線が痛い。 「中途半端な知識で喋っちゃだめだよね」 ……とにかく、フィーナもミアも、あまりエビのことを知らないことが分かった。 「麻衣も姉さんもまだ帰って来てないけど、開けてみようか」 「ミアがいれば、多分大丈夫」 「わ、分かりました」 「くるまえび……」 厳重に梱包された木の箱。 ふたを釘抜きでこじ開ける。 ……すると、中から発泡スチロールの箱が出てきた。 「開けてみますね」 ぱかっ中は。 ……おがくずだった。 「なんだこりゃ?」 「木のチップですね」 少しつまんでみたミア。 「全然、エビではありませんね」 ミアが、おがくずの中に手を入れる。 「わわっわぁーっ!」 「どうした?」 「な、中に……中に……」 「ん?」 おがくずを、少しどけてみる。 ぴょんっ「わっ!」 中のくるまえびは生きていた。 そして、ぴょんぴょん跳ねている。 「いっ、生きてますっ」 「わわわっ!」 「ミア、ふた、ふたをっ」 恐慌状態のミアからふたを奪い取り、かぶせる──が、それより早く、一匹が外に飛び出した。 「ひっ!」 フィーナの足元へぴょんっと飛ぶ車海老。 しかし、フィーナは多分やせがまんをしてて、その場を動かない。 「うっきゃーっ!」 踏みとどまっているフィーナと違い、ミアはすごい勢いであとずさっていく。 俺は、手近にあった鍋を手に取った。 「達哉っ、はっ、はやく!」 「えいっ」 跳ねるエビを何とか捕まえる。 そして鍋へ。 フタを──何とか、かぶせた。 ……。 …………。 「ふう」 「……はぁ……はぁ……」 「うぅぅ……怖かったです……」 涙目の二人。 「まさか生きてるとは……」 「た、確かに、これは新鮮なエビみたいね」 そう言うフィーナの唇は、微妙に震えていた。 ……。 しばらくして麻衣と姉さんが帰って来たが、二人は話を聞いて大笑いした。 氷水に浸けて大人しくさせ、手慣れたように料理する二人。 ワイン蒸し、甘辛炒め、エビフライ、エビチリと、その日のテーブルはエビ尽くしとなった。 「美味しい……」 「ぷりぷりです」 うっとりしているフィーナに、ほくほく顔のミア。 恐る恐る食べていた二人も、エビの美味しさは分かってもらえたようだ。 日曜日は、バイトのシフトに入っていない。 夕食も家で食べる。 今日は、ミアが麻衣に月の料理を教えていたようだ。 初めて見る料理が、食卓に並んでいた。 どちらかというとシンプルだけど、複雑玄妙な味がする不思議な料理。 ……。 「ごちそうさまー」 「美味しかったから食べ過ぎたよ」 「地球に来てまだ少ししか経っていないのに、懐かしく感じたわ」 「本当、とても美味しかったわ、ミアちゃん」 「い、いえ、そんな……」 「レシピを書いて教えてよミアちゃん」 大好評を得て、ミアはとても嬉しそうだった。 ……。 …………。 俺は、腹ごなしにイタリアンズの散歩に行くことにした。 庭に出て、尻尾を振っている三匹にリードをつけ終える。 「よし、行くか」 「わんっ」 「わふわふっ」 「?」 もう閉店してるはずの左門に、電気がついている。 店の中には……菜月ひとりか?……苦労して三匹を左門の鉄柵に結びつける。 俺は、正面入口から、左門に入っていった。 からんからん「ごめんなさいっ、もう閉店……って、達哉」 「こんな時間にどうしたの?」 「いや、イタリアンズの散歩だけど……」 「菜月こそ何やってるんだ、こんな時間に」 「別に……普通にクローズ作業。 閉店の準備」 「一人で?」 「うん、まあね」 日曜日は、俺の代わりに別の人がバイトで菜月と組んでるはずだけど──大体、事情が見えた気がする。 「頼まれたんだろ」 「それで、引き受けちゃったと」 「あはは……まあ、そんな感じ」 「どうしても急いで帰らないといけないんだって」 「おやっさんと仁さんは?」 「きっと知らなかったと思うんだけど、先に上がっちゃった」 ……やっぱり。 菜月は、他人に頼まれるとすぐに引き受けるくせに、誰かに頼るのは苦手なんだ。 「しょうがないな、手伝ってやるよ」 「いいって、悪いよ」 「ほら、イタリアンズも散歩待ってるよ」 「いいからいいから、俺がやりたいの」 「あ、うん……」 ……。 観念した菜月と二人、黙々と作業をする。 菜月がレジを締め、俺は椅子を上げてから床の掃除。 二人でやったからか、それほど時間もかからずにクローズ作業は終わった。 ……。 「ありがと、達哉」 「菜月もさ、頼みごとを引き受けるのはいいとして……」 「大変だと思った時は、周りの人に頼れよな」 「今日だって、おやっさんも仁さんも、知ってれば菜月を一人にはしないはずだぞ」 「うん、それは……分かってるんだけどね」 「それに俺だって」 「そういうこと、遠慮するような仲じゃないだろ」 「うん……そだね」 「次は声をかけさせてもらうよ」 「ああ、ホントーに声かけてくれよ」 「分かった」 ……。 「それじゃ、散歩行ってくるな」 「うん」 「あ、そだ。 野菜ジュース飲む?」 「飲む」 ……誕生日にプレゼントしたミキサーで作った菜月の野菜ジュースを飲み、散歩に出発する。 菜月は、何でも要領よくこなしているようで、実はすごく不器用だ。 でも、菜月はそれを人に言わないから──こういう時は、気づける奴が気づいてやらないとな。 ピピピピ、ピピピピ……「……」 「……」 ピピピピ、ピピピピ……「お姉ちゃん、起きてこないね」 「今日、出勤だって言ってたっけ?」 「どうだったかな」 「……でも、博物館に行かなくちゃいけないなら、起こさないと」 ピピピピ、ピピピピ…………。 フィーナとミアは、今日は大使館で公務があるらしく、既に出掛けている。 ……廊下に響く目覚ましの音。 困った俺と麻衣が顔を見合わせていると。 「おはようございます」 ほややん、という顔をした姉さんが、ひょっこり顔を出した。 「お姉ちゃん、どこにいたの?」 「洗面所で、顔を洗ってたのよ」 「目覚まし、聞こえるよね?」 「目覚まし?」 ……。 ピピピピ、ピピピピ……「あれ?」 「消したつもりだったのに。 ごめんね~」 ぱたぱたと廊下を駆けていく姉さん。 「?」 なぜか洗面所へ入って行った。 「まちがいまちがい」 階段を上っていく。 ……。 「あ、止まったよ」 「朝ごはんの準備するか」 「うん」 そこに、再度やり直し、みたいな顔をした姉さんが入って来た。 「おはようございます」 顔はにこにこしているものの、声はさっきと同じくほややんとしている。 「おはようございます」 「ます」 「あら」 「達哉くんも一緒に準備してるのね。 偉い偉い~」 姉さんが、俺の頭を撫でる。 ……。 「あ、あの」 「姉さん、もういいから」 「そうですか?」 「じゃあ麻衣ちゃんも」 なでなで。 ……麻衣も、さやかさんの『ほややん』が移ったような、幸せそうな顔になる。 「さて」 「私も手伝いますよ」 「あ、お姉ちゃん、もうできたよ」 「さあ座って座って」 俺が三人分の緑茶を注いでまわる。 「いただきます」 「いただきます」 「どうぞ、召し上がれー」 一人分だけ濃いめに作った緑茶を口に含むと、姉さんの顔がしゃきっとした。 「二人とも、ちゃんと噛んで食べるのよ」 豆アジの南蛮漬けをメインに、油揚げとワカメの味噌汁、キュウリの浅漬け。 凝ってはいないけど、美味しい朝御飯ができた。 ……。 うちでは、みんないろいろな用事があって難しいけど、なるべく一緒にご飯を食べるようにしている。 これは、姉さんが言い出したことだけど。 「しっかり立っている柱があれば、それに寄り掛かったり、引っ張ったりすることができるでしょ」 「でもうちは、三人で手をつないでるだけの家族なの」 「だから、三人とも隣の人の手をしっかりと持ってないと、ね」 ……。 まだ月への留学から帰って来たばかりの姉さん。 親父に次いで母さんまで失った俺と麻衣に、そう言って聞かせてくれたのを覚えている。 「達哉くん、どうしたの?」 「お兄ちゃん?」 「……ああ、いや、別に」 「ちょっと考え事」 「良かった。 南蛮漬け、失敗しちゃったかと思った」 「いや、美味いよ。 ね?」 「ええ。 アジの揚げ具合もちょうどいいわ」 「そう?」 えへへ、と照れる麻衣。 「今日も博物館行くの?」 「ええ。 今ちょっと忙しくて……でも、やり甲斐のある仕事だからね」 「家事が任せっきりになっちゃって、ごめんなさい」 「気にしないで、お姉ちゃん」 「そうそう」 「二人とも、ありがとう」 姉さんが、味噌汁が入ったお椀を傾ける。 「……さて、そろそろ出ないと」 「ごちそうさまでした」 「お粗末さまでした」 「あ、二人はまだゆっくり食べてて」 俺たちには「ちゃんと噛め」 と言いながら、姉さんはかなり急いで食べ終えた。 ……。 姉さんは、仕事が忙しくなると、すぐに休日が無くなってしまう。 博物館の特設展示を入れ換える時期は、泊まり込みも珍しくない。 「お姉ちゃん、また忙しそうだね」 「お休みの日も、半分くらい仕事してる」 「展示の入れ換えはこの前やったばかりなんだけどな」 「また徹夜続きが近いのかも」 ……。 「……片づける?」 「うん。 空いたお皿を運んでくれる?」 ……。 …………。 今日も学院の授業が終わった。 夏至らしく一年で一番高い太陽が、放課後にも関わらず厳しい日差しを落としている。 今日は左門が休み。 放課後は、いつもより自由に使える。 さて、どうしようかな。 俺は……フィーナの買い物に付き合いながら、帰ることにした。 「何を買うの?」 「いろいろと、見て回ろうと思って」 「前回ウィンドウショッピングした時は、150mしか進めなかったからなぁ」 「見る店見る店、全部に入ってみたいって言ってたし」 「だって……見たかったんだから仕方無いじゃない」 少しふくれっ面になってみせるフィーナ。 あの時のフィーナは、見たことが無い商品全てに、興味津々だった。 「今日は大丈夫よ」 俺は、半信半疑でお付き合いすることにした。 「今日はこちら側のお店ね」 「りょーかい」 ……。 服、雑貨、食料品、本、外食チェーン店。 それら全てに、フィーナは興味を示す。 「あれは、なにかしら」 「あの店で食べられるメニューの見本を、プラスチックかなんかで作ってるんだ」 「よくできてるのね。 本物かと思ったわ」 目を丸くして、サンプルを見ているフィーナ。 ……。 「このお店は……家具屋さん、いえ、電気屋さんかしら?」 「惜しいっ」 「リサイクルショップだ」 「ここにあるのは、みんな中古品。 その分値段も少しお得」 「そうでしたか。 すばらしいシステムだと思います」 今度は、感心して深く頷いている。 ……。 一事が万事、こんな調子だ。 まあ、俺一人じゃこんなにゆっくり商店街を歩くことは無かっただろう。 その分これまで知らなかった発見も多いし、何よりフィーナが楽しそうなので、良しとする。 「ここに入ってみていいかしら」 フィーナがそう言った時には、既に身体の半分は扉の中に入っている。 その店は、陶器や置物系が中心の雑貨屋だった。 楽しそうだな、と思いながらフィーナの後に続く。 「いい雰囲気の店だね」 「ええ」 何ていうか、ビスケットをお茶菓子に紅茶を飲んでいる店主が似合いそうな店だ。 こまかい細工が施されたアクセサリーが、所狭しと展示してある。 店内にはアロマオイルの香り。 押しつけがましくない程度の音楽が、静かに流れていた。 「あ」 何かを見つけたのか、店の片隅をじっと見つめるフィーナ。 見ていたのは……マグカップだった。 森と芝生に囲まれた公園に、黒くて丸いネコがいる意匠。 取っ手はネコの尻尾の形をしていた。 「これ、かわいいわね」 「そうだね」 「……買って来る?」 フィーナが地球に来てから、何かこういった形に残るものを買っていたのを見たことが無い。 何か、お土産ができてもいいだろ。 「……そうしようかしら」 ……。 …………。 小さい紙袋に入れられたマグカップ。 店を出てから、フィーナはずっとご機嫌だった。 ……。 夕食前。 フィーナは、案外テレビを見ている。 それも、流し見ではなく、一生懸命見ていることが多い。 ニュース、バラエティ、映画、ドラマにアニメ。 フィーナの興味は、商店街の店だけではなく、テレビの中でも広かった。 「何だか、ものすごく真面目に見てるね」 「ええ、とても興味深いわ」 「人間の理性や欲望は、こうして具現化されるのね」 「……そういう見方もできるのか」 ……。 フィーナは幼児向けのアニメを見た時に「このような番組を流している国は、きっと豊かになると思います」 と言っていた。 ミアは今、そのアニメの主題歌を鼻歌で歌いながら夕食を作っている。 「おっとぎーばなしのー王女さま♪ ぼっくはー王子じゃーないけれど♪」 フィーナや麻衣も、楽しそうなミアに釣られて微笑みがちになる。 家の中が、何となく、ほんわかした。 今日も、放課後の中庭にはフルートの音色が響いている。 大会が近いって言ってたっけ。 練習にも、心なしか気合が入ってるように見える。 「真剣ね」 「俺たちが見てると、邪魔になっちゃうかもしれないな」 「帰りに、アイスを買って冷蔵庫に入れとくってのはどうだろ」 「いいんじゃないかしら」 「麻衣も、きっと喜ぶわ」 ……俺たちは学院を後にした。 商店街に、アイスを買いに行くとしよう。 「さて、どこで買おうか」 「麻衣のお勧めのお店があったはずだけれど……」 「確か、この先よ」 「新作が出てたら喜びそうだな」 ……。 その店では、首尾良く新作のアイスをゲットできた。 持ち帰り用ということで、カップに入れてもらう。 ……。 …………。 「ただいまー」 「お帰り」 「お帰りなさい」 「疲れたでしょう。 私より遅いんだもんね」 「確かに疲れたけど……」 「それより、帰りに寄ってきたお店が閉まってて、新作のアイスを買い逃したのが残念」 「これだろ?」 冷凍庫から、颯爽とアイスを取り出す。 「新作『レモンティー』」 「わーっ、それそれ!」 「どうしたの? お兄ちゃんっ」 嬉しさに少し興奮している麻衣。 「練習頑張ってるからご褒美、かな」 「フィーナと一緒に買ってきたんだ」 「私はこの『プリンセスピーチ』味のアイスを買ってみたの」 こちらも、嬉しそうなフィーナ。 開発者も、まさか本当のお姫様に食べられるとは思っていなかっただろう。 「あら、達哉くん気が利くわねー」 「でもみんな、アイスは食後にしましょうね」 「晩御飯ができましたよー」 ……。 …………。 食後、麻衣お待ちかねのアイスタイム。 「おいっしー♪」 「こちらも美味しいわ」 「お兄ちゃん、フィーナさん、ありがとー」 本当に、幸せそうな麻衣。 「良かったな」 頭をぽむぽむと撫でる。 ……。 ぴんぽーん「あら、こんな時間に……仁くんかしら」 ……。 予想通りの人物が、派手なポーズで現れる。 「デザートターイム!」 「っておいおい、先にアイス食べてるとは困った子猫ちゃんたちだ」 「お兄ちゃんが買ってきてくれたんです」 「oh」 「相変わらず達哉君は間が悪い」 「間が悪いのはそっちでしょうが!」 「……で、今日はどんな試作品を持ってきてくれたの?」 「今日はアイスなんだけどなぁ」 「アイス?」 「そう、麻衣ちゃんが喜ぶかなーと思ってね」 「でも麻衣ちゃんはもうアイスを食べている……なんということだ」 「麻衣ちゃんの喜ぶ顔が見たくて作ったのに」 大げさにかぶりを振る仁さん。 「ほら、私やミアちゃんがいますよ」 「え、わ、私ですか?」 「しょうがないね」 「この僕の傷ついたハートを癒してくれるのは、ミアちゃんだけだよ」 「わたしも、まだ食べられますよ」 慌てて、今食べているアイスを食べ終える麻衣。 「麻衣……そんなにアイスばっかり食べてるとお腹こわすぞ」 「おやおや達哉君」 「麻衣ちゃんの身を案じるのはいいが、それはちとシスコンに過ぎるぞ」 「ぶっ……シスコン!?」 「もう子供じゃないんだ。 麻衣ちゃんだって自分のお腹の調子くらい分かるさ」 「ね、麻衣ちゃん?」 「仁さ~ん、勘弁して下さいよー」 「お兄ちゃん、もう少しだけ、ね?」 「しょーがないなぁ」 「今日のアイスは……ヨーグルトとラズベリーのアイス」 「ミアちゃんに教えてもらった、ジャムのレシピを参考にしてみたんだ」 「あら、いつの間に」 「あ、あの、この前ちょっとだけ」 「美味しそうね、こちらも頂きましょうか」 「フィーナ様と麻衣ちゃんは、少しだけよ」 「ええ、そうね」 「はーい」 ……。 みんなでわいわいと、仁さんが作ったアイスを食べる。 ちょっと、ミアのジャムと似た味がした。 ……。 それにしても──仁さんも、シスコン呼ばわりとはひどいよなぁ。 ……。 …………。 イタリアンズの散歩は、ここんとこ夜ばかりだ。 たまには、昼間にも散歩に連れてってやろう。 ──そう思った俺は、放課後になるとすぐに家に戻ってきた。 「ただいまー」 ……。 あれ?ミアはいると思ったのに、姿が見当たらないし返事も無い。 靴は玄関にあったから、買い物じゃない。 家の中にはいるはず……なんだけどなぁ。 とりあえず制服を着替える。 時間があるから、イタリアンズとは物見の丘公園でたっぷり遊んでやろう。 そんなことを考えつつ、庭に向かう。 すると、そこにミアがいた。 アラビアータ、ペペロンチーノ、カルボナーラ。 イタリアンズが丸くなって寝ている真ん中に。 真昼と比べると少しだけ柔らかくなった日差しの中で、すやすやと眠っている。 「散歩は……少し待つか」 俺も座って、気持ち良さそうな三匹と一人を見る。 一番大きいカルボナーラが、ミアの枕になっているようだ。 ペペロンチーノはミアの脇に抱えられるような形で、その尻尾がミアのお腹を覆っている。 アラビアータは、ミアの脚に寄り添う。 ……そうだ、写真撮っておこう。 そう思いついた俺は、携帯のカメラとデジカメで、その姿を撮影した。 ぱちっぱしゃっぱしゃっミアは、気づいた様子もなく、安らかな寝顔。 見上げると、ベランダにはミアが干したと思われる洗濯物が風にはためいている。 ……平和だなぁ。 俺まで眠くなってきた。 ……。 …………。 「あれ、散歩に行くって言ってなかったっけ?」 「あっ、しーっ!」 ……。 「ミアちゃん……」 「わん?」 「ぅおん」 「わふー」 「遅かったか」 「起こしちゃったね、ごめん」 「……ん、うーん……?」 カルボナーラ「わふわふっ」 ペペロンチーノ「わんっ!」 アラビアータ「ぅおんっ」 「わわっ」 イタリアンズは、菜月にわしゃわしゃされている。 「おはよう、ミア」 「たっ、達哉さん」 「あの、お洗濯の後、イタリアンズを洗ってあげようと思って……」 「すっごく気持ち良さそうに寝てたよ」 「犬たちに囲まれて、ね」 「囲まれてってよりは、『埋もれて』の方が近かったかも」 ミアは縮こまっている。 「すっすみませんでしたっ」 「いいよいいよ」 「今日は俺が散歩に行って、帰って来たら、三匹とも洗っとくから」 「ごめんなさい」 ……それからも、ミアは申し訳無さそうにしていた。 でも、あんなふうに犬に埋もれて寝るのは、ちょっと羨ましい気がする。 ……。 麻衣の所属する吹奏楽部は、昨日行われた地区大会に出場した。 小編成で銅賞。 胸を張れる成績ではないが、一生懸命やってきた結果がこうして出たことに──麻衣は、満足そうな顔をしていた。 ……。 …………。 翌日。 朝食を食べ終えると、俺はすぐに家を出る。 イタリアンズの散歩だ。 相変わらず丘の上は閑散としている。 人がほとんどいないのを確認して、三匹をリードから放してやった。 三匹とも、あっという間に俺の元を離れ、丘の上を走り回っている。 「ふう」 芝生の上に寝ころがる。 海から崖を吹き上げてくる風。 強い日差し。 ……。 このまま昼寝したいくらいの天気だけど。 いい天気過ぎて、今日はこれから暑くなりそうだ。 ふと上半身を起こすと……イタリアンズの姿が見えない。 「あれ?」 立ち上がる。 「アラビアータ!」 丘の上にでも行ってしまったのだろうか。 「ペペロンチーノ!」 これまで、俺の周りからそんなに離れたことは無かったのに。 「カルボナーラ!」 ……しかし。 傍から見ると、俺はイタリア料理の名前を叫んでる、変人だな。 っと、そんなことを気にしている場合ではない。 丘の一番高いところまで登って、見下ろしながら探してみることにしよう。 ……。 かなりの高さまで登ってきた。 見晴らしはずいぶん良くなってるはず。 連中は……「わふわふっわふっ!」 声が聞こえる。 近くにいるような声だったな。 少しうろうろすると…………。 …………。 そこに三匹ともいた。 「は、はなせーっ」 「わふっわふっわふっ」 「わんっわんっ」 「おんっ」 イタリアンズは、真ん中にいる誰かに一生懸命じゃれついていた。 尻尾をちぎれるほど強く振る。 三匹の犬に抱きつかれたその人は、ほとんど姿が見えなくなっている。 ……ここまで、好かれる人もそういないぞ。 誰だろう?「ぷはっ」 犬達の隙間から、小さな子が顔を出した。 ……。 あれは──いつか礼拝堂で見た女の子じゃないか?……。 見間違えではないと思うけど。 「アラビ、ペペロン、カルボ」 俺が名前を呼ぶと、イタリアンズは大人しくなり、俺の方へ寄ってくる。 「ふう……ふう……」 「知らない人に甘えちゃ駄目だろっ」 一応、形だけは叱っておく。 いつかの女の子が、肩を上下させながらこっちを睨んでいるからだ。 俺は3匹にリードを付けて柵に固定すると、女の子の元に駆け寄った。 「ご、ごめん。 うちの犬たちが」 「……服」 ヒラヒラがいっぱい付いた服には、犬の毛がこれもいっぱい絡み付いていた。 黒い部分に付いた毛はかなり目立っている。 クリーニング……だよなぁ。 「ホント、ごめん」 「犬たちには、ちゃんと言い聞かせとくから」 「……」 黙ったまま、怒ったような顔をした女の子は立ち去ろうとする。 「あ、ちょっと」 「服、クリーニングに出さないと」 「別にいい」 ぷいっと振り向き、帰りかける。 ……しかし、このまま帰らせてしまうのは、あまり気持ちのいいものではない。 「じゃあ、ご飯をごちそうさせて下さい」 一瞬、女の子の動きが止まる。 が、「いい」 と言ってすぐに歩き出した。 「まあまあ」 「俺がバイトしてるイタリア料理屋だから財布は大丈夫。 味も保証する」 女の子は、黙っている。 「……行きたくない?」 ……。 女の子はぶすっとした表情で俺を見る。 「行く」 ……。 …………。 「ここなんだけど……」 「ちょっと、犬たちを繋いでくるから」 「……」 分かったのか分からないのか、女の子は俺を見るだけだ。 左門のランチタイムまで、あと15分。 それまで女の子を待たせたら、帰ってしまうかもしれない。 これは……何とか、おやっさんに頭を下げるしかなさそうだ。 「お待たせ」 「お店、準備中」 「開けてもらうから」 からんからん「おやっさん」 「ん、タツか。 こんな時間にどうした?」 おやっさんに事情を説明し、何とかお願いする。 ……。 …………。 「仕方無いな」 「入ってもらえ。 1番テーブルだ」 「すみませんっ」 ……。 「何が食べたい?」 「ん……」 メニューを差し出すが、どの料理にもあまり関心を示さない。 もしかしたらカタカナばかりのメニューで、意味が分からないのかもしれない。 「じゃあ、俺がオススメを頼もうか?」 「ん」 どうやら了承してくれているようだ。 「おやっさん」 「Bセットとデザートにティラミス、パンナコッタ」 「あいよ」 ……。 …………。 女の子は、窓の外を行き交う人をじっと見ている。 かと思うと、店内を見回したり。 ……もう、真夏に近い気温なのに、ずいぶん暑そうな服を着てるな。 でも、汗のひとつもかいてない。 フィーナもあまり汗をかかないし、もしかしたらどこかのお嬢様なのかもしれない。 「あのさ」 「俺の名前は朝霧達哉」 「君は?」 「……」 「リース」 「リース?」 「リース」 リース……珍しい名前だな……カタカナでいいんだろうか。 どこから来たんだろう。 ……。 …………。 困ったな。 会話が続かない。 「お待たせしました、ランチのBセットになりまーす」 「こちらへ」 菜月が軽く目配せしてくる。 おやっさんが事情を話したんだろう。 Bランチは、ボンゴレロッソにサラダとガーリックトースト。 それが、リースと名乗った女の子の前に並ぶ。 もうもうと湯気を立てるパスタ。 それを彼女は特に感激するでもなく見ている。 「どうぞ」 「食べる」 フォークを持ったリースの手が止まる。 「……食べないの?」 「俺?」 正直、俺の財力では左門の料理は安くない。 とは言え、ここで引くわけにも行かない気がする。 「た、食べるさ」 「菜月、俺は、単品でベーコンとアスパラ」 「はいはい」 俺の懐具合なんてお見通しの菜月が、およ、という顔をする。 「お父さーん、ベーコンとアスパラ」 「あいよ」 ……。 俺の前にもスパゲッティが出る。 「どんな味?」 「ん、食べていいぞ」 俺の、ベーコンとアスパラのスパゲッティにも手を伸ばすリース。 「サラダ」 ほとんど手を付けていないサラダの器が、俺の方にやってきた。 「どーも」 リースは不器用な手つきでフォークを操る……というか操れてない。 上手にパスタを絡めることができずに困っている。 「ん……ん……」 悪戦苦闘する姿がかわいくて、意地悪だけど少し放っておくことにした。 ……。 突然リースが立ち上がる。 不機嫌な表情だ。 「どうしたの?」 「食べづらい」 と、出口へ向かって歩き出した。 パスタが食べづらいのに怒って出て行く客は、左門始まって以来だ。 「あー、ちょっと待った待った」 「簡単に食べられる方法があるから」 「簡単?」 「ああ。 見ててごらん」 俺は……まあ、普通にフォークを回してパスタを食べる。 「ん」 リースは席について、再びフォークを操りだした。 さっきよりは上手くパスタを食べている。 「どうだ、簡単だろ?」 「うん」 もふもふとパスタを噛みながらリースが頷く。 ……。 …………。 あらかた料理が片づいたところで、菜月がやってきた。 「ティラミスとパンナコッタ、お待たせ致しました」 「両方こちらへ」 リースの前に置くよう、促す。 「こちらの空いたお皿は、お下げしてよろしいでしょうか」 「どぞ」 ……ここに来て、初めてリースの表情に変化が現れた。 ティラミスとパンナコッタに手をつけた時、表情が和らいだのだ。 「美味いか?」 「うん」 フォークを咥えたまま、こくりと頷く。 ふう。 何とか、これで機嫌を直してくれればいいんだけど。 ……目の前で、ティラミスとパンナコッタを完食するリース。 食器使いが不器用なこともあり、リースが食事を終える頃には、ランチタイムの混雑は一段落していた。 「ごちそうさま」 リースがぽつりと言う。 「それじゃ、払ってくるから」 俺が席を立つと……入れ替わりに、おやっさんと仁さんがリースに話しかける。 「これは可愛らしいお嬢さんだ。 達哉君も侮れないところがあるね」 「失礼なこと言うな」 「お客様、お味はどうでしたか?」 「そう、デザートは僕の作品なんだよ」 まあ、そう聞かれて「まずい」 と言う奴はいない。 「普通」 「……」 「普通か……こりゃ困ったね親父」 「お嬢ちゃんは、この近くに住んでいるのかい?」 リースは返事をしない。 おやっさん、何を始める気なんだろう。 「良かったら、また来てもらえないかな?」 「今度は、もっと美味しいのを作るから」 ……。 どうやら、料理人魂を刺激されたようだ。 「よし、僕は甘くて体がとろけてしまうようなデザートを作ろう」 「……ん」 困惑気味に二人の顔を見るリース。 さて、どう返事をするのか。 ……。 「分からない」 そう言って、リースはそっぽを向いた。 「ぬおっ!」 「ク、クールッ!」 「よし、次来る時は、お金はなくてもいいから」 「達哉君が、喜んで払うとこっそり僕に言ってきたよ」 言ってないけどな。 ……。 「菜月、お勘定」 リースを囲んで盛り上がっている二人は置いといて、会計を済ます。 二人分合計3060円。 ……。 俺が席に戻ると、ちょうどリースが立ち上がったところだった。 悪代官に上訴する下っ端のように、二人が貼り付いている。 「あのさ、リース……」 リースの服のクリーニング代は、あと1000円くらい払わないと埋め合わせができないだろう。 何せ複雑な形をした服だ。 俺は財布を開く。 「タツヤの犬が服汚した」 「タツヤが食事を食べさせてくれた」 「おあいこ。 じゃ」 それだけ言ってリースは出口へ向かう。 「リースっ」 思いのほか大きな声が出てしまった。 「何?」 「あ、えっと……」 みんなが俺をじっと見ている。 「よ、良かったらまた来てくれよ」 「気が向いたら」 からんからんリースが商店街の雑踏に消えた。 不思議な子だったな。 知り合いにはいないタイプだし、もっと話ができたら楽しかったかもしれない。 「君は、何を顔を赤らめているのかね」 「ええっ?」 「ま さ か、達哉」 菜月が冗談めかして言う。 「そんなわけないだろ」 「あははは……」 「しかし、また来てくれますかねえ、リース?」 「来てくれると嬉しいんだがなあ」 「次は絶対に『美味い』と言ってもらいたいもんだ」 「なあ仁?」 「次に会った時には、僕のデザートでノックアウトだね」 「もしあの子をどこかで見かけたら、うちまで引っ張ってきてくれ」 「任せたぞ、タツ」 「そんな無茶な」 リースはあの通り愛想のかけらも無い。 どうやって連れてくればいいんだろう?「しかし、不思議な子だったな」 「ぶっきらぼうな子でしたね」 「それもあるが、年寄りから見ると、あの子は何かとても……かわいそうな気がしたよ」 「どういうこと?」 「何となくさ」 「子供ってのは好奇心がなきゃいけない。 だがあの子にはそれが希薄だった」 「ま、あまり気にせんでくれ」 「俺も、もし見つけたら誘ってみることにしますよ」 「頼んだ」 「明日来てもいいように、仁は腕を磨いておけよ」 「もちろん」 ……。 二人が厨房へ戻る。 「私も仕事に戻るわね」 「ああ、おつかれ」 「うん、またね」 菜月は、リースと俺の食器を片づけると、仕事に戻っていった。 ……。 あっと言う間に、出口に向かうリース。 「あっ……」 からんからん風のように店を出て行った。 「許してくれたみたいね?」 「そういうことでいいのかな」 リースの考えていることは、さっぱり分からなかった。 「また来てくれると思うか?」 「……どうでしょうね」 「女の子は、甘いものといい男には弱いものさ」 「変態は嫌いだけどね」 「じゃあ妹君はシフトを外れたまえ」 「外れるのは兄君様ですから」 二人が賑やかに喋り始める。 ……。 何か引っ掛かってるような気はしたけど。 とりあえず、丸く治まったということにしよう。 月曜日の授業が終わる。 今日も左門のバイトがあるけど、まだ少し時間があるな。 ……。 しばらくすると菜月が呼びに来て、フィーナと三人で帰ることになった。 今日あった授業のこと、学食で食べた昼食のこと……他愛のない話をするだけでも、通学路が退屈じゃなくなった。 ……。 家でフィーナと分かれ、左門でのバイトに向かう。 ……。 …………。 今日も、大きな出来事はないままバイトは終了したが──「ただいまー」 「あ、達哉さん」 「お帰りなさいませ」 放課後、学院から帰って玄関に入ると、今まさに出かけようとしていたミアに出くわした。 「夕食の買い物?」 「いえ、実は……」 「姫さまに言われて、自分用のマグカップを買おうと思ったのですが……」 「そっか」 「店の目星はついてるの?」 「いえ、それが……」 「お店が多くて、どこで買えばいいのか迷ってたんです」 ちらっと時間を確かめる。 バイトまでの時間を考えると……30分くらいなら、つき合えるな。 「じゃ、一緒に見て回ろうか」 「着替えてくるから、ちょっと待ってて」 「ありがとうございます、よろしくお願いします」 ……。 商店街を歩く。 ミアは、俺の半歩後ろからトテトテとついてきていた。 ……。 最初は、ミアのこの格好に驚いていた商店街の面々も、いつの間にか馴染んでしまったようだ。 「ミアちゃん、今日はすべすべ大根が安いよ」 「あらミアちゃん、今日はたっちゃんが荷物持ちかい?」 「きょ、今日はちょっと別の用事で……」 どうやら、早くも商店街では人気者のようだ。 「じゃあ、まずは商店街の端から歩いてみようか」 「はいっ」 商店街には様々な店があり、チラシやティッシュを配っている人も多い。 「ミアは、この辺の店を見て回った?」 「いえ、ほとんどがスーパーとお肉屋さん、魚屋さん、それと八百屋さんです」 実際、ミアはあちこちの店頭ディスプレイに気を取られ、きょろきょろしている。 「何か、気になる店でもあった?」 「あ……えっと」 「どのお店も気になります」 花屋に惹かれ、書店に惹かれ、ブティックに惹かれ。 面白いくらいに、一つ一つの店を興味深く眺めている。 ……ふと、悪戯ゴコロが湧いた。 ミアが、文房具屋のウィンドウに気を取られている隙に、さっと横道に身を隠してみる。 「72色もある色鉛筆って、どうやって使い分けるんでしょう?」 「……あれ、達哉さん?」 ……息を殺して、ミアの様子を窺う。 「た、達哉さん?」 おろおろしているミア。 俺が出て行こうとした時、ティッシュを配っていたお姉さんがやってきた。 「よろしくお願いしまーす」 「え? あの、その」 「はい、どうぞ」 ミアの手にティッシュが渡される。 それを見て、数人が寄ってきた。 「ラーメン川中島、本日より割引サービス期間中でーす!」 「割引券でーす、理髪スエヒロでーす」 「居酒屋りんご亭、このチラシでサワー一杯無料、よろしくっ」 一気にいろんなものを渡され、あわあわしているミア。 こういうのを断りにくい性格なのかもしれない。 それとも単に慣れてないだけか?「わわ、わ……」 更に数人が寄って来ようとしたところで、横道から出る。 「あっ、た、達哉さんっ!」 「ごめんごめん」 少し泣きそうになってるミア。 「びっくりしました……」 まさか、物陰から見てましたとは言えない。 「チラシやティッシュは、もらうかもらわないか、はっきり決めた方がいいよ」 「わ、分かりました……」 ……。 悪いことをしたな。 月の王宮から来たんだから当たり前だけど、やっぱりミアは世間知らずだ。 しっかりしているように見えるけど、ちゃんとついててあげなきゃいけない時もある。 ……。 その後、マグカップを売ってる雑貨屋を教え、一緒にスプーンも買ってあげた。 ミアは何度もありがとうございました、とお礼を言ってくれた。 左門での夕食を終え、家に帰ってくる。 リビングで少しのんびりしていると、今朝ミアが作ってくれた朝食の話題になった。 「朝ごはん、美味しかったよね」 「月麦のクッキーを食べると、月に留学していた頃を思い出すわ」 「そうなんだ」 「月麦クッキーは栄養が豊富なので、月では朝食の定番なのよ」 「どれだけ美味しく食べられるかは、工夫次第ね」 愉快そうに笑うフィーナ。 ……月麦クッキー自体は、コーンフレークのような味だった。 クッキー状に月麦粉を固めて焼いたものだ。 「ジャムにつけたり、砂糖を溶かし込んだ牛乳に浸したり……」 「ミアのジャムは王宮でも大人気だったわね」 「そ、それほどでも……」 「フィーナ、姉さんが月にいた時のことを教えてよ」 「私も聞きたいなー」 「さやかは、話していないの?」 「姉さんは、月はいいところだって話ばかりで」 「うん、リアルな声を聞きたいよね」 苦笑いの姉さん。 「分かりました」 「さやかが留学に来たのは、今から4年前」 「私の母が初めて受け入れた交換留学生の、第一期生としてでした」 ……。 …………。 フィーナによると、姉さんは月でもとても優秀で、真面目に、熱心に勉強していたとのこと。 期間は一年だったけど、とても多くのことを学んだそうだ。 フィーナと姉さんの出会いは、留学も半ばに差しかかった頃、王宮図書館。 以来、お互い連絡はあまりできなかったものの、親しい付き合いが続いている。 ……聞けば聞くほど、姉さんは完璧な留学生だったようだ。 そんな経歴もあって、今では、この若さで月王立博物館の館長代理を務めるまでになっている。 「姉さんは、月では寝坊しなかったの?」 「……私の記憶にはありませんね」 「月では、夜の9時には寝てましたから」 全員に、笑いが広がる。 ……。 「今度は、私から質問してもいいかしら?」 「どうぞ」 「さやかは、達哉や麻衣の従姉と聞いているけれど……」 頷く姉さん。 「なぜ、朝霧家の面倒を見ることにしたの?」 ……。 それは……俺も知らないことだった。 麻衣も、真面目な表情で姉さんの答えを待っている。 「それは」 「話せば長くなるのですが、端的に言えば……」 「達哉くんや麻衣ちゃんの両親に……理想の夫婦像を見いだしていたからだと思います」 「……」 「……うちの親父と母さんに!?」 ……。 思わず語調が強くなってしまった。 しん、と静まり返ってしまうリビング。 ……。 …………。 「ごめんなさい」 俺に向かって、謝る姉さん。 「……と、こんなところでいかがでしょうか、フィーナ様」 「ええ、ありがとうさやか」 姉さんに、笑顔を向けるフィーナ。 「……でも、もしかしたら、少し変なことを聞いちゃったかしら」 「いえ、気にしないで下さい」 「ごめんっ、謝るのは俺の方だ」 「達哉くん」 「これだけは覚えておいて」 「……」 「私はね、本当にこの家が大好きなのよ」 ……。 「うん」 「……さ、この話はおしまい」 「では次は、私が月で食べた美味しい料理ベスト10の発表です!」 ……その後は、また元通りの雰囲気で、会話は盛り上がった。 それでも、姉さんが「この家が好き」 と言った時の真剣な目は、忘れられなかった。 「お疲れ様でしたー」 「お疲れ、達哉君」 「おつかれー」 菜月の野菜ジュースを飲み干してから、左門を後にした。 ……。 バイトを終えて部屋に戻る。 靴下を脱いでベッドに横たわると、そのまま眠りそうになった。 ……。 靴下は洗濯物に出しておかないと、明日ミアに叱られるな。 「よっ」 勢いをつけて起き上がり、階段を下りる。 誰かが風呂に入ってるみたいだ。 俺は、洗濯物入れのカゴに靴下を放り込み、脱衣所を出て行こうとした。 「ちょっと待って!」 「ごめんなさい、シャンプーの詰め替えパックを取ってくれませんか」 ……麻衣は、こっちにいるのが誰かは分からないはず。 呼びかけ方も丁寧だ。 「麻衣か?」 「お兄ちゃん?」 「シャンプーが、無くなっちゃって」 「分かった。 ちょっと待って」 ストック入れを、ごそごそと漁る。 シャンプーは三種類。 姉さんが使ってるのと、麻衣のと、俺が使ってるもの。 フィーナとミアは、地球のものを使っている。 多分、姉さんのをフィーナが、麻衣のをミアが使ってるんだろう。 「あったぞ」 「ありがとー」 風呂との間の曇りガラスがはまった戸が、少しだけ開く。 その隙間から、麻衣に詰め替えパックを手渡した。 ……風呂の中から、湯気がむわっと脱衣所に流れだす。 せっけんの香りがする。 「じゃ、行くぞ」 「ちょっとだけ、ごめん」 「詰め替え終わったら、ゴミも捨てといてくれると嬉しいな」 「しょうがないなぁ」 ……風呂の中が静まる。 詰め替え作業は、集中力が必要だ。 「そうだ、お兄ちゃん」 「んー?」 「一昨日くらいに、私のシャンプー使ったでしょ」 「なんで?」 「香りで分かるんだよ」 「あ、いつもと違うなって」 「わたしと同じ香りだもんね」 「すごいな」 「でもねー」 「わたしもお兄ちゃんのシャンプー……使ったことがあるから、おあいこ」 「俺の?」 「MEN’Sなんとかって、安物だぞ」 「いいの」 「……」 「そっか」 「……はい、終わったよ」 また、戸の隙間から、空になったパックを受け取る。 また、湯気とせっけんの香りが流れてくる。 「便利に使っちゃってごめんね」 「いいよ」 「風呂、麻衣で最後?」 「うん」 「出たら、声かけるね」 「……また、この前みたいに電気つけたままベッドで寝てないでね」 「頑張るよ」 「頑張る、じゃだめだってばー」 抗議の声をあげる麻衣には応えず、脱衣所から出た。 ……。 チチチ……小鳥の鳴き声で目を醒ます。 最近、目覚まし時計に対する勝率は高い。 「んっ、んー……」 ベッドを降りて背伸びをする。 ふと、目覚まし時計に目をやると……午前3時25分。 ……止まってる。 慌てて、部屋の中の別の時計を探した。 もしかしたら……大寝坊ってこともあるんじゃないか?……。 かちゃっ充電器につないでいる携帯を手にとる。 時間は……『AM5時10分』と表示されていた。 「はあぁ……」 早い。 目覚まし時計に勝つにも、程度ってものがあるだろう……。 しかも、相手は不戦敗なのに、こっちは全力で勝ちに行ってしまった。 自分に少し呆れる。 夏至を過ぎたばかりなので、もうすっかり外は明るい。 それでも、流石に……この時間なら、もう一度寝た方がいいだろう。 俺は、携帯のアラームをセットして、ベッドの中に入った。 ……。 …………。 再度眠りに落ちながら、ぼんやりと考える。 そう言えば、麻衣もあまり寝坊ってしないな……そんなことを、ちらっと思いもしたけど。 二度寝の快楽の中に、意識は溶けて行った。 今日は左門が休み。 家では、珍しく早上がりだった姉さんが、ミアに天ぷらの作り方を伝授していた。 「カラっと揚げるコツは、衣を混ぜすぎないこと」 ミアも熱心にメモを取っていた。 ……。 ネタはエビ・イカ・キスにかぼちゃとナスとししとう。 材料ごとに、油の温度や揚げる時間が違ったりして、麻衣も姉さんほどには上手くいかない。 姉さんの天ぷらは、もちろんフィーナやミアに大好評だった。 ……。 …………。 「麻衣ー」 こんこん「どうぞー」 「今、姉さんが風呂に入ったから」 「うん、分かった」 ……麻衣の前に、金属光沢のある管が二本転がっている。 フルートだ。 「30分くらいで終わらせるね」 「手入れ中?」 「うん」 「吹いた後は毎回手入れしないと、すぐ調子が悪くなっちゃうんだ」 「そっか」 頭管部と主管に分かれている状態のフルート。 麻衣は、専用っぽい棒に布を巻いて、主管の中を掃除しているようだ。 「こっちだけでも音は出るの?」 短い頭管部だけを手にとってみる。 「出るよ。 リコーダーだって、頭の方だけで音が出るでしょ」 「吹いてみていい?」 「う、うん」 「時間が遅いから、あまり強くは吹かないでね」 「分かった」 いつも麻衣が吹いてるのを見ている。 見よう見まねで、何とかなるかもしれない。 ……。 ふーーっふぅーーーーっっっ「……鳴らないな」 「息を吹き込む角度が悪いんだよ」 「貸して」 麻衣に渡す。 「この唄口のところに下唇を着けて……」 ~~~♪「こんな感じ」 「おお、さすが」 「さすがじゃないよ、これくらいできないと……」 と謙遜しながらも、ちょっと嬉しそうな麻衣。 「……じゃ、も一回」 今、麻衣が唇をつけていたところに、自分の唇をつける。 ……。 ふー♪「少し鳴った?」 「うん」 「いろいろ角度を試して、音が出る吹き込み方を探してみて」 「ん」 ふーーー♪♪ーー「おー、出た出た」 「講師の腕が良かったんです」 「そっちの管も全部つなげる……わけにはいかないか」 「もちろん。 今、手入れ中だから」 「全部つないだフルートでの練習は、また今度」 「分かりました、麻衣先生」 「分かればよろしい」 「次は……」 「お風呂空いたよー」 「はーい」 「もし、まだ続ける気があるなら、また今度」 「ありがとうございました」 「ふふ……変なお兄ちゃん」 ……。 菜月は、遅くまで勉強してることがあるよな……そんなことを、ちらっと思いもしたけど。 二度寝の快楽の中に、意識は溶けて行った。 ……。 …………。 「あれ、仁さんどうしたんですか?」 「デザートの宅配に来たんだよ、麻衣ちゃん」 「ありがとうございますー」 トラットリア左門で夕食を食べた後……仁さんは、試作品をこうして持ってきてくれることがある。 「わざわざありがとう、仁くん」 「アイスクリームにはうるさいからね、麻衣ちゃんは」 リビングのテーブルに並べられるアイスクリーム。 色から見ると、グレープ系か?「じゃあ、いただきまーす」 「いただきますね」 「どーぞどーぞ」 姉さんと麻衣が、スプーンを口元へ運ぶ。 ぱく「あら、美味しいわ」 「俺もいただきます」 麻衣は、にぱっと顔を崩す。 「美味しいですよー」 「麻衣ちゃんにそう言ってもらえると、自信がつくね」 「これは、果実の歯触りが残ってるのが新鮮です」 「うん。 これ、店にも出せるんじゃないですか?」 「残念ながらそれは無理」 「材料、使いすぎたんでしょ」 「さすがさやちゃん」 「店に出すとしたら900円だな、と親父に言われてね」 「あはは……」 「だから、これが食べられるのは今宵限り」 「おかわりもあるから、遠慮なく食べてくれたまえ」 「菜月は?」 俺がそう尋ねると、仁さんは大げさにかぶりを振った。 「悲しいことに、我が妹はダイエット中などと言って食べてくれないんだよ」 「あれ、またですか」 「そうなんだ」 「僕は何度も、無駄だからやめておきなさいと言っているんだがねえ」 「なにが無駄ですって?」 リビングの入り口に、いつの間にか菜月が立っている。 「だってほら、今日のピッツァを一番多く食べただろ、菜月」 「確かにあの生ハムはいいものだったし、親父の焼き具合もさすがだった」 「だから、キミがたくさん食べたくなるのも分かるんだよ」 「ああもちろん、親父と僕と菜月の3人に一枚だったピッツァを、8分割したうち4切れ食べたのは秘密にしといてあげるから」 「……!」 菜月は、顔を真っ赤にして走り去った。 「な、菜月ちゃん……」 「いつもいつも、しゃもじが当たると思ったら大間違いだよ」 「?」 「ここは危険だ……」 「伏せろっ!」 どこからともなく飛来した、しゃもじ。 それを見事かわした仁さん。 「はっはっは。 いつまでも俺の後頭部はガラ空きじゃないぞ菜月」 仁さんがすっくと立ち上がり、勝ち誇る。 すこーんっっっ「あう」 しゃもじブーメランは、的を外しても旋回して襲いかかってくるものらしい。 ミアは、いつも朝御飯の準備で早起きだよな……そんなことを、ちらっと思いもしたけど。 二度寝の快楽の中に、意識は溶けて行った。 ……。 …………。 ばたばた────────────ばたばた土曜日の朝から、家の中で走り回る足音がする。 この時間に起きてるのは……ミアか?何かあったのかな。 「ミア」 「どうかした?」 「あ……達哉さん」 なんだか、涙目のミア。 「あのっ、これくらいの大きさの、青いブローチを見かけませんでしたかっ?」 指で大きさを示し、一生懸命にイメージを伝えようと頑張っているミア。 「いや、ごめん。 見てないと思う」 ミアの必死さに、思わず謝ってしまう。 「そうですか……」 あからさまに肩を落とすミア。 「無くしたの?」 「……はい……」 「昨日の夜にはあったんですが……」 消え入りそうな声。 「大事なものだったんだね」 「はい」 「わたしが、初めて姫さまに頂いたものなんです」 「ずっと身につけてて……わたしの宝物です……」 ミアの目が真っ赤になり、涙がこぼれる。 「分かった、ミア」 「俺も一緒に探すよ」 「あ……ありがとうございます」 「絶対見つけなきゃ、な」 「はいっ」 ……早速、ミアと一緒にブローチを探し始める。 一度探したところも、もう一度徹底的に調べることにした。 まずはミアの部屋。 ……。 洗面所。 ……。 リビング。 ……。 キッチン。 ……。 「無いね……」 「そうですね……うぅ……」 「大丈夫。 まだ、別の場所にきっとあるさ」 「……うぅ……」 ミアも泣かないように頑張っているものの──その目から溢れた涙が、ボロボロと頬を伝っている。 ……。 「おん」 慰めてくれてるのか、アラビアータがミアの靴を「ぽむ」 と脚で叩く。 「ミア」 「もう一度、探してみよう」 「……はい」 「最後にブローチを見たのは、いつ、どこ?」 「昨日着てた服のポケットです」 「そのまま、洗濯しちゃったのかとも思ったんですが……」 「脱衣所にも、洗濯機の中にも無い」 「はい」 うーん。 「まだ、探してないところは……」 「おん」 アラビアータが、俺たちを見上げている。 いや……俺たちの後ろを見上げてるのか?「あっ」 俺がアラビアータの視線を追って視線を上げると──二階のベランダに、洗濯物がはためいている。 「洗濯物……」 「昨日着てた服のポケットに入りっぱなしとか」 「……あっ」 「見てきますっ」 ぱたぱたと、二階に駆け上るミア。 洗濯物のポケットを調べると──「達哉さんっ、ありましたーっ!」 ……。 …………。 「このブローチには、セフィリアさまと、うちの母さまの思い出が詰まってるんです」 「セフィリア様って、フィーナの母親だよね」 「はい。 私が初めて姫さまのお世話をするようになった時……」 「セフィリアさまに『フィーナをよろしくね』って」 どうやらミアは、セフィリア女王に直接フィーナのことを頼まれたらしい。 「その時、姫さまがこれをくれたんです」 「フィーナが……」 「うちの母さまも、『これはセフィリア様からフィーナ様を任された証だからね』って」 「そっか」 そんな重要な役割を引き継いでたんだな、ミアは。 ただの身の回りの世話役と違うのは、何となく感じてたけど。 「だから、いつも身につけていたくて」 「じゃ、もう二度と失くさないようにしないとな」 「はいっ」 ミアの頭をぽむぽむと撫で叩く。 今日のことは、二人の秘密にしておくことになった。 ……。 日曜日の朝。 学院も休み、バイトも休み。 いつもより、少しだけ遅い目覚まし時計。 青い空に、マシュマロのように浮いている雲。 ……。 こんな日は、庭に水を撒いたり、本を読んだり、犬の散歩に行ったり……やりたいことを、ひとつずつ順に片づけていけそうな気がする。 今日もいい日になりそうだ。 朝食を食べ終えると……珍しく、姉さんと麻衣がイタリアンズを構っている。 「姉さん、今日はこれから仕事?」 「うん、遅番で昼過ぎから」 「日曜が一番来館者も多いしね」 「そっか。 忙しいね」 「だからこうして、イタリアンズに癒してもらおうと思って」 姉さんが、頭を撫でる順に幸せそうな顔になるイタリアンズ。 ……。 「お姉ちゃんって、イタリアンズに好かれてるよね」 「難しい問題だけど……」 「確かに、うちで一番『好かれてる』かもしれない」 「そんなことないでしょう?」 「姉さんの場合、なんて言うか……」 「いや、実演した方が早そう」 「三人で、同じことをやってみよう」 ……。 一人ずつ、リビングから庭に出て、三匹に『おすわり』を命じる。 残りの二人はリビングからそれを見る。 これだけで、差が出てくるはずだ。 「じゃあ、まず俺から」 一度三人ともリビングに引っ込む。 ……。 「おすわり」 「わふわふっわふー」 「わんわんっ!」 「ぅおんっ」 そわそわしながらも、一応、ちゃんとお座りをする。 落ち着きが無いのは、いつも俺が餌を持ってきたり散歩に連れてったりするからだろう。 期待されてるのだ。 ……。 「おすわり」 「わふ」 「わん」 「おん」 三匹とも、俺の時と違って、大人しく言うことを聞いている。 実際、三匹に一番言うことを聞かせるのが上手いのは、麻衣だと思う。 ……。 「おっ、おす……」 「わふっわふっわふっ わふっ わふっわふっ!」 「わんっ! わんわんっ!」 「ぅおんっ をんっ」 ぺろぺろと舐められたり、脚に絡みついてきたり、のしかかられたり。 姉さんは、ひたすら『甘えさせて甘えさせて甘えさせてーっ!』と言われてるような気がする。 三匹とも、しっぽをちぎれるくらいに振ってるし。 ……。 …………。 「ほら、姉さんが一番好かれてるだろ」 「でも、全然言うこと聞いてくれないのよ」 「わたしは、お姉ちゃんくらい甘えられてみたいかなー」 「大変よー」 姉さんは苦笑いする。 「……あ」 「どうしたの?」 「さっきかしら……ボタンが一つ外れかけてて」 「ちょっと、直してくるね」 ぱたぱたと、二階に上っていく姉さん。 ……。 しかし、すぐに一階に降りてきた。 脱衣所の方に行ったようだ。 「お姉ちゃん、どうかしたのかな?」 「そろそろ、家を出る時間だと思うんだけど……」 「見に行ってみようか」 ……。 「……そうそう。 お願いっ」 「あ、そんな、頭を上げてください……」 「では、すぐにやりますね」 「ミアちゃん、ありがとう~」 がちゃ「あっ」 「あはは……」 「姉さん、裁縫って苦手だったっけ?」 「ごめんなさい、隠してました」 「えっ……なんで?」 「だって……」 「恥ずかしいじゃない」 そう言って、姉さんは顔を伏せた。 「お姉ちゃん、別に苦手なことがあったっていいじゃない」 「わたしは、全然気にしないよ」 「俺だって」 「でも……そろそろ出ないと、時間が」 「急いで直しますっ」 ……。 ミアは神業のような早さでボタンを付け直してくれた。 日曜日は、一日中遊んで過ごした。 こういう時間の使い方ができるのも、休日ならでは。 休みの24時間を満喫して……月曜日を迎えた。 今朝は、ちょっとだけ時間に余裕があった。 のんびりテレビを見つつ、食後のお茶などを飲んでいると……ばたばたばたばたばた階段を転げるように駆け下りて来る足音。 「お、おはようございますっ」 「おはよう、ミアちゃん」 「フィーナなら、もう食べ終わって部屋にいるよ」 「は、はいっ」 ばたばたばた……「寝坊?」 「そんな感じだな」 「……怒られるのかな」 なんとなく心配になってしまう。 フィーナはミアを怒るのだろうか。 ……。 「様子を見てくる?」 「うん」 「行ってみるか」 俺と麻衣は、こっそりフィーナの部屋に近づく。 「ごめんなさい」 「いいのよ」 「誰にでも、寝過ごしてしまうこともあるわ」 「あの……今朝はちゃんと……?」 「もちろんよ」 「いつまでも、ミアに起こされているようでは恥ずかしいわ」 「ごめんなさい……」 「さ、そんなに謝ってばかりいないで」 「髪を梳くのを手伝って頂戴」 「あ、は、はいっ」 ……。 俺と麻衣は、足音を立てないように、フィーナの部屋の前を離れる。 「どうだった?」 「大丈夫そう」 「結構仲良しな感じ?」 「そうだったね」 「二人はずうっと一緒にいたみたいだから」 「ああ、なるほど。 あの仲の良さも理解できるな」 ……。 「お待たせ致しました」 「さあ、学院へ参りましょう」 ……。 日曜日は、一日中のんびりと過ごした。 こういう時間の使い方ができるのも、休日ならでは。 休みの24時間を満喫して……月曜日を迎えた。 ……。 …………。 授業も終わり、放課後を迎えたカテリナ学院。 左門のバイトに向かうため、菜月と帰ろうとすると……「……というわけなの」 菜月は、クラスメートに話し掛けられていた。 「確かにそれは放っておくわけにはいかないわね……」 「お願い、詳しい話を聞いてっ」 「聞いてもらうだけでもいいの……」 ……。 なんだか、深刻そうな相談を受けてるな。 「菜月は、相談を受けていることが多いわね」 「でも、あいつも今日はバイトのはずなんだけど……」 「どうするのかな」 ……。 あまり、露骨に耳を傾けてるように見られるのもいやだし……なんてことを考えていると、菜月がこっちに来た。 「ごめん達哉」 「先に行ってて」 「分かった」 「遅れそうだったら、電話くれよ」 「遅れないように頑張りまーす」 「それじゃ、お先」 ……。 「菜月も大変だなぁ」 「でも、相談を持ちかけられるというのは、菜月の人徳でもあると思うの」 「誰にでも親身になれるというのは、すばらしいことよ」 「気苦労は多そうだけどね」 ……。 「いや……でも、菜月なら」 「『いやぁ、大変だったよー』とか言いながら、何事も無かったような顔してるんだろうな」 「そうね」 「簡単そうで、なかなか難しいことよ」 「うん」 「菜月を見ていると、時々、敵わないなと思う時があるわ」 「フィーナが?」 「ええ」 「私は、月にいた時もこちらに来てからも、常に月王国の姫という肩書がついている」 「その肩書は、親切な人から困っている人、悪人、その他なんでも引きつけるわ」 「そう……なんだろうね」 「でも菜月には、そんな肩書も何も無いのに、人が集まるの」 「私に肩書が無かったとしたら、果たして菜月ほど人が集まるかしら」 「それは……」 「もちろん、こんな無意味な仮定はばかばかしいわ」 「でも、つい考えてしまうことがあるという……それだけの話」 「……ごめんなさい、忘れて」 ……。 後ろから、足音が聞こえてくる。 「追いついたーっ」 「早かったな」 「短いご相談だったのですか?」 「いやぁ、大変だったよー」 「ぷっ……」 「あははははっ」 「な、なに?」 「ねえ、どうしたのってばっ」 「悪い、バイト終わったら説明するから」 「達哉は、菜月のことをよく見ているのね」 「なっ、なんの話をしてるのよーっ」 ……。 …………。 菜月には、バイトが終わってから、俺とフィーナが笑った理由を説明した。 菜月は「なんで分かるのよーっ」 と怒ったけど──顔は苦笑いだった。 ……。 まだあまりクラスメートのいない教室。 今週は週番だったので、少しだけ早めに登校する。 かららっ窓を開けると、気持ちいい風が入って来る。 まだ、そんなに気温は上がっていないけど……この晴れ方では、昼にかけて気温がどんどん上がりそうだ。 ……。 窓から見下ろすと、学生達がぞろぞろと登校している。 ……。 …………。 「ただいまー」 「ただいま戻りました」 「姫さま、達哉さん、お帰りなさいませ」 ……。 学院から帰ってくると、フィーナはいつもドレスに着替える。 最初はびっくりした。 この服の方が落ち着くなんて、あり得ないと思ったし。 ……だけど、いつの間にか違和感は無くなっていった。 慣れたんだと思う。 しかし……「フィーナ、聞きたいことがあるんだけど」 「なんでしょう?」 「暑くない?」 ……。 7月に入り、最高気温はどんどん高くなっている。 最低気温も上がり、天気予報では「真夏日」 と「熱帯夜」 の連呼だ。 「……家の中には、エアコンが効いているから」 「洗面所とかトイレは暑いままだけど」 「なるべく早く、通りすぎることにしてるわ」 フィーナは、わざとツンとすました感じで言う。 おかしくて、二人とも笑いそうになった。 そんなやりとりをしていると──フィーナのドレスの胸元についている、青い輝玉が気になった。 大きい。 もし本物の宝石だったりしたらと考えると、ちょっと物騒な気もする。 「ところでフィーナ」 「ドレスの胸についてる青い石、本物ってことはないよね」 「ええ、これはイミテーションよ」 ふう、と一安心。 「でも、本物を身につけていることもあるわ」 「えっ」 「大きさも色も、そっくりの石のペンダントを持っています」 「それは、母から引き継いだもので……」 「言うなれば、形見です」 真剣な表情のフィーナ。 「そんなに大事なものなら……」 「身につけてた方がいいんじゃないか?」 「お風呂にだって入るし、体育の授業もあるのよ」 「身につけている方が危ないと思うわ」 「そっか。 指輪じゃないもんな」 ──結婚指輪をずっとつけてた母さんのことを、一瞬思い出す。 「ええ、心配してくれてありがとう」 そう言ったフィーナは、少し遠くを見る。 「しまっておいた方がいいんじゃないか?」 「そうね」 「でも時々、身につけていたくなることもあるの」 そう言ったフィーナの表情は、寂しげでもあり──誇らしげでもあった。 「母は、極端に私物が少ない人だったわ」 「きっと、王国に全てを捧げた、ということだと思うの」 「……そんな母が、私宛にたった一つ残してくれたものなのよ」 「そんなに大事なものなんだ」 「ええ」 フィーナ自身は気づいているだろうか。 母親──セフィリア女王のことを話す時、フィーナの顔はとても真剣だ。 亡くなってるから、という理由ではないように思えるのは……気のせいだろうか。 ……。 …………。 6月末の大会が終わってから、吹奏楽部は少し余裕ができたようだ。 平日でも、練習が休みの日がある。 そんな平日、麻衣は川原で練習することが多い。 「あ、来た来た」 授業を終えて学院を出ると、フルートケースを抱えた麻衣が、校門で待っていた。 「今日もお願いね」 「はいはい」 いつもの川原に向かって、二人で歩く。 ……夏の日差しが、遠慮なく降り注いでる。 長い間外にいると、喉が乾きそうだ。 「飲み物、買って行こう」 「うん、そうだね」 「帽子、被らなくて大丈夫か?」 「暑くなったら、並木の木陰で休もうよ」 水が流れているからか、川原は少し涼しい気がする。 ケースからフルートを取り出す麻衣。 俺も、いつも通り芝生の上に寝ころがる。 「じゃ、始めるね」 「おう」 ~♪麻衣の演奏を聞くようになって一年ちょっと。 最初は、道行く人に見られるのが、かなり恥ずかしいくらいだった。 それが今では、かなり聞ける演奏になっている。 ……。 通行人の中にも、足を止めて耳を傾ける人がいる。 俺の他にも、少し遠くで寝ころがってる聴衆がちらほら。 実際、麻衣はそれだけの練習をしたってことだろう。 ……。 「ふう」 「休憩しようか、お兄ちゃん」 「そうだな」 「ジュースも、温くなる前に飲もう」 木陰に入り、ペットボトルを開ける。 「あ、休憩中?」 「菜月?」 「菜月ちゃん?」 「どうしたんだ、こんなトコに」 「私が帰る時、練習を始めてたからさ」 「じゃーん♪」 「クーラーボックス?」 「差し入れだよ」 「もしかして……」 「アイスクリーム!?」 「当たり!」 「菜月ちゃん、ありがとーっ」 「俺の分もある?」 「三人分、持ってきたからね」 ……。 …………。 ケヤキ並木からは、蝉の鳴き声が聞こえてくる。 深く青い空に、くっきりと白くて高さのある雲。 アイスも、急いで食べないと溶けてきて。 ……夏だなぁ。 「菜月ちゃん、このアイス美味しいけど……」 「どこのお店のか分からなくって」 マイフェイバリットアイス屋さんメモを引っ張りだしても、心当たりが無い味らしい。 「ふっふっふー」 「これは、トラットリア左門特製アイスなのです」 「……仁さんの試作用ストックから持ってきたろ」 「あ……バレた?」 「バレるわい」 「でもこれ、本当に美味しいよ」 「菜月ちゃんが怒られたら、わたしが美味しかったってフォローするね」 「共犯者が名乗り出てもフォローにならないって」 「えっ、共犯者?」 「完全に」 「ふえぇぇ」 ……。 …………。 日が傾いてから夕暮れまでが長い夏。 川原に流れる時間は、さらにゆっくりしたものだった。 ……。 …………。 夏休み前の、けだるい午後。 昼は過ぎ、まだ夕方ではなく。 ……そんな空気を楽しんでから、家路に就いた。 ……。 …………。 いつも通りの朝。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした」 「ほうれん草のオムレツ、美味しかったです」 「えへへ」 麻衣が作った朝食を、みんなが食べ終えた頃。 「はーい、ちゅうもーく」 なんだなんだ、と皆が居ずまいを正す。 「実は今日、私はお休みをいただきました」 「溜まりに溜まっていた休日出勤の代休です」 「姉さん、日曜もかなり出てたもんね」 「うんうん」 「ですが、そこは本題ではありません」 「今日は一日中、私が家にいられるので……」 「地球に来てからずうっと働きづめのミアちゃんに、丸一日、お休みをあげたいと思います」 「ええっ」 「それはいいわね」 「ほんとう、一日も休んでなかったよね」 自然発生的に、拍手が湧く。 「……というわけでミアちゃん」 「今日は、お出かけしてもいいし、何をしてもいいのよ」 「家のことは私に任せてね」 「え……あの……わたし」 「お休み……」 言われた言葉の意味を、反芻するようにつぶやき直すミア。 「はい、連絡終わり」 「学生さんは少し急いだ方がいいですよ」 「そうね」 ……。 今日一日、ミアはどうやって過ごすだろう。 散歩、買い物、家の中でごろごろ。 学院から帰ったら、様子を見てみよう。 ……。 …………。 「ただいまー」 「お帰り、達哉くん」 「……」 「姉さんがいるのって、なんか新鮮」 「ふふ、そうね。 私もよ」 「もう少ししたら、左門のバイトに行くけど……」 「ミアの調子はどう?」 「それがね……」 姉さんが苦笑する。 「一言で言うと、おろおろしてる」 「おろおろ?」 「仕事が無いのに、慣れてないのもあるんだと思うけど……」 「何か、不安がっているような気もするの」 「うーん……」 「今は?」 「さっきまでは、イタリアンズを構ったり、空を見上げてたりしたけど」 「探してみるよ」 ……。 それから、家の中をうろうろしてみると……ミアは、自分の部屋にいた。 所在無げに、ベッドに座り込んでいる。 「あ、達哉さん」 「よっ」 「どう、お休みは」 「あの……」 「あまり慣れていないので、何をしたらいいのか分からなくって」 明るい表情だが、少し残念そうなミア。 「好きなことをすればいいのに」 「好きなこと……」 「考えては見たのですが」 「ジャム作りとか、お掃除とか、どうしても仕事になってしまうんです」 「そっか」 「好きなことって、難しいですね」 「うん、そうかもしれない」 ……。 「あ、達哉さん」 「シャツのボタンが、取れかけてますよ」 「ん?」 見ると、糸がほどけてボタンが垂れ下がりそうになっている。 「これは、緊急事態ということで」 「だね」 「えへへ」 ソーイングセットを、嬉しそうに出してくるミア。 誰かの役に立つこと。 自分が役に立って認められて。 それが、ミアにとっては一番嬉しいのかもしれない。 ……。 シャツを脱ごうとすると……「あ、そのままで」 と、止められた。 俺の顎の下に、ミアの頭が来る。 ちょっと、くすぐったい気分。 「じっとしてて下さいね」 「ああ」 ……。 ミアのつむじが、すぐ目の前にある。 俺は、なんとなく気恥ずかしくなって、じっと窓の外を眺めていた。 ……。 …………。 「はい、終わりました」 「ありがとう、ミア」 ……。 ミアは、嬉しそうに微笑んでいる。 こういう顔をしてるのが、一番ミアらしいかもしれない。 「下に降りよう」 「はい」 「俺はこれからバイトだけど……」 「ジャム作りも掃除も、ミアがやりたいことなら、やっていいと思うよ」 「姉さんとか、みんなには言っとくから」 「ありがとうございます!」 ……。 それから俺はバイトに行ったけど。 ミアは、ずっと嬉しそうに、家の中で仕事をしていたそうだ。 「あらら、失敗しちゃったわね」 「ごめんね、ミアちゃん」 後からそれを聞いた姉さんは、ミアに謝り、頭を撫でてあげていた。 ミアは、その間ずっと恐縮していたけど──やっぱり、それがミアらしいってことなのかな。 「分かった。 こっちは何とかしよう」 「さすが親父殿、話が分かる」 「その代わり、仁、みんなの保護者としてしっかりやって来いよ」 「ッス」 「この恩は必ずや」 仁さんが運転する、仕入れ用のワンボックス──通称『左門カー』の動員が決定した。 これで、荷物を手で運ぶ心配が無くなった。 ……。 7月9日、日曜日すなわち明日。 『海で泳いだことが無い二人を連れて、みんなで海に行こう大作戦』が敢行される。 ……。 …………。 「全員乗ったね?」 「うん、おっけー」 「では、出発するとしますか」 目指すは弓張海岸。 家から歩いてもそう遠くはないけど──弁当やクーラーボックスを考えると、仁さんが来てくれて大いに助かった。 「フィーナちゃんもミアちゃんも、海は初めて?」 「私は、先月に学院の海岸清掃で」 「ああ、あれまだ続いてるんだ」 「俺たちは、今年で最後ですけどね」 「懐かしいなぁ」 「そうねぇ」 「でも、海で泳いだことはありません」 「わたしは、近くでは一度も見たことがないです」 「おお、そりゃ楽しみだね」 「楽しみと言えば、麻衣ちゃんの水着も楽しみ」 「あはは……」 「スタイルが良くないので、あまり期待しないで下さいね」 「こら。 兄さん、セクハラ発言禁止」 「あんなこと言ってるけどね、仁くん、学院にいた頃は泳げなくて……」 「そうだったんですか?」 「格好悪いからって、放課後とか、必死に練習してたっけ」 「あーこらこら」 「人の過去を蒸し返すものじゃないよ、さやちゃん」 ……。 …………。 そんな他愛もない会話をしてると、あっけないくらい早く、弓張海岸に着いた。 「うわぁ……」 ミアは、初めて海を見て、言葉を失っている。 「やっぱり広いわね……」 「さあ達哉君、男性陣は荷物を下ろすぞ」 「うス」 「じゃあ、仁くんと達哉くんはそのままパラソル立ててね」 「あと、重いクーラーボックスもお願い」 「その他の荷物は、私達で運ぶわよ」 「はーい」 「あ、は、はいっ」 「着替えはどうするのかしら?」 「この車の後ろを締め切れば大丈夫」 「なるほど」 ……早めに出てきたとはいえ、海辺には既にちらほらとビーチマットが敷かれている。 まずは場所取りだ。 ……。 …………。 「よし、ベースキャンプはこんなもんかな」 「ベースキャンプ?」 「ああ。 荷物は全部ここに置く」 「それなら、見張りも最低一人で済むしね」 「それじゃ、着替えましょうか」 「俺たちは脱ぐだけだから楽ですね」 「それより、女性陣はまだかなぁ」 ……。 天気も上々。 気温もこれからどんどん上がりそうだ。 潮風を胸いっぱいに吸い込むと、海水浴気分が盛り上がってきた。 「おっ、来たみたいだよ達哉君」 仁さんに言われて車の方を見る。 すると、女性陣がまとまってこっちへ向かっていた。 「おまたせー」 「今日は暑くなりそうね」 二人の後ろに、隠れるようにフィーナとミア。 最後が麻衣。 「最初は、私が荷物番するから、みんな行ってらっしゃい」 「それじゃ達哉君、あのブイまで競争だ」 「やりませんって」 「負けた方が、次の荷物番だよ」 「じゃ、それでいってみる?」 仁さんが、早くも海に入り始める。 「ちょっ、待って下さいよせめてスタートくらいは揃えて」 「スタートっ!」 「ええいっ」 早速、競泳から始まるとは思わなかった。 先行する仁さんを追いかけて、俺も海に飛び込んだ。 ……。 …………。 「これが『若さ』ってやつなのかな、達哉くん」 「はぁ……はぁ……」 「じゃ……荷物番……はぁ……よろしく……」 「お願い……はぁ……します……」 息が切れるほど真剣に泳ぎ、何とか仁さんを追い抜いた俺。 仁さんが、少し手を抜いてくれた……ってことは無いか。 ……。 家の前で全員が左門カーに乗り込み、出発する。 海まではあっと言う間だ。 初めて間近で海を見るミアは、その大きさに言葉を失っている。 男性陣は場所を確保しつつ、服を脱いで準備完了。 あとは、女性陣の着替えを待つだけだ。 仁さんとの競泳に勝ち、何とか荷物番を逃れた俺。 もしかしたら仁さんが、手を抜いてくれたのかもしれないけど。 「達哉」 名を呼ばれ、振り返る。 ……。 「買う時も思ったのだけど」 「布地が……少ないわね」 露出の多い水着に、少し戸惑っているフィーナ。 ビキニの水着にパレオと麦わら帽子。 水着はどうやって選んだのだろう。 「ビキニは初めて?」 「……ええ」 「でも、菜月もビキニよ」 砂浜を見回すフィーナ。 「それに、多くの人が着ているわ」 「恥ずかしがるようなことでは……ないようね」 「そうだね」 ……。 でも…… この浜辺を見回しても、フィーナはかなり似合ってる方なんじゃないかな。 「……似合ってる?」 「えっ、ああ、似合ってる、似合ってるよ」 びっくりした。 考えてることを、そのまま聞かれるとは思わなかった。 「良かった」 「ずっと、変じゃないかと心配だったのよ」 「大丈夫、変なんかじゃないよ」 「とっても似合ってる。 俺が保証する」 「ふふ……ありがとう」 やっと、いつもの笑顔になるフィーナ。 ……。 「達哉君は面白いねえ」 「意識しまくりだよ」 「そうね」 「お兄ちゃん、堅くなってるよ」 ギャラリーまでいるようだが、反応すると余計からかわれそうなので、無視することにした。 ……。 「フィーナ、海に入ろう」 「少しは泳いでみないと、来た意味が無いし」 「……そうね」 一度は和らいだフィーナの表情が堅くなる。 「足がつくとこなら、大丈夫」 「ええ」 「せっかく来たのだし、海に入らないのはもったいないわね」 口調とは裏腹に、目は真剣そのものだ。 何とか、自分を奮い立たせているのが、明らかに分かる。 「じゃ、ほら」 フィーナの手を取る。 「……ええ」 ……。 フィーナが言っていた通り、布地の少ない水着。 最初は波打ち際。 そして膝下まで。 「水、冷たいのね」 「体が、日に照らされて温かくなってるから、そう感じるんだ」 「一回、水に浸かっちゃえば気持ちいいよ」 「分かったわ」 ……腰のあたりまで浸かるところへ進む。 もうちょっと沖まで行った方が、波を被らなくて済むんだけどな。 「あの、達哉」 「足がつかないところまでは……その……」 「うん、ここらまでにしとこうか」 波が来る度に、フィーナの細い首まで海に沈む。 「あ……」 「波が来ると、足が……少し浮くわ」 「泳いでみる?」 少し泳いで見せる。 「あっ、た、達哉」 とっさに、フィーナが俺の腕を掴む。 「離れないで……」 「ご、ごめん」 俺の腕にしがみついたフィーナは、ほんのり頬を染めていた。 ……。 二の腕に感じるフィーナの体温。 しがみついて、俺を頼りにしているお姫様。 ……ずっと、このままでいたい。 そんなことを、ちらっと考えたりして…… ざぷーん 海面に出てる俺たちの頭よりも高い波が── 通りすぎて行った。 当然、頭の先から海水を被った二人。 「フィーナ、大丈夫か?」 「……」 顔をしかめるフィーナ。 「フィーナ……?」 「海の水って、本当にしょっぱいのね」 「思ってたより、ずっとずっと塩辛かったわ」 「そっか」 「ふふふ……もう、ここまで濡れてしまったら、泳いでも一緒ね」 「泳ぎを教えてもらえないかしら、達哉」 「ああ、お安い御用だ」 ……。 …………。 それから俺は、手取り足取り……というほどじゃないけど、つきっきりでフィーナに泳ぎを教えた。 最初は、水に浮くところから。 俺が手を引いてあげる。 そして徐々に前に進む方法、息継ぎへ。 ……フィーナは、真剣に取り組んだ。 そこまでやらなくても、と思うくらい、真面目だった。 「今ので、息継ぎの仕方は合ってるかしら」 「口さえ海面に出てればいいんだから、そんなに顔全体を上げない方が楽だよ」 「分かったわ」 ……。 時々休憩を挟みながら練習を続ける。 運動神経の良さもあってか、そこそこ形になるまでに時間は掛からなかった。 ……陸からはやし立てる声も聞こえたけど、もう気にならなかった。 ……。 「た、達哉さん」 「ミア」 ミアは、なんだかとても縮こまっている。 ……水着も初めてか? 「水着、似合ってるよ」 「ほ、本当ですか?」 「ミア」 「みんな水着なのだから、ミアだけ恥ずかしがっても仕方がないでしょう?」 「あ、はい」 「そうですね」 トテトテと、こっちに歩いてくるミア。 「たっ、達哉さん」 「海って、大きいですね……」 「そうだなぁ」 「これ、全部水なんですよね?」 「もちろん」 「わああぁ……」 初めて、海水と同じ目線で見る海。 きっと、月からはずっと見てたんだと思う。 地球の青い部分。 近くで見ると、全然違うはずだ。 「達哉」 「ミアは海に来るのが初めてだから、案内してあげてね」 「分かった」 ……海はまだ二回目のはずのフィーナ。 それでも、0回のミアに比べるとかなり先輩らしい。 フィーナは、パラソルの下へ歩いていく。 ミアは── 波と追いかけっこをしていた。 「な、波が」 「きゃっ」 果敢に攻めたところで、次の波に足首まで浸かる。 「あっ、あっ」 引いていく波に、足の裏の砂が持って行かれているのだろう。 ……。 …………。 俺は、浮輪に空気を入れて膨らませていた。 「はい、ミア」 「これにつかまってれば、絶対に沈まないから安心して」 「海に、入らなきゃ駄目ですか?」 「せっかく地球に来たんだし、体験しとかないと」 「でも……」 「俺がずっと一緒に手をつないでるから」 「それなら怖くないだろ?」 「えっ……は、はい……」 真っ赤になったミア。 「ほら」 ミアの手をとって、ゆっくりゆっくり、海水に浸かっていく。 ……。 「わっ、浮きました」 「ほら、大丈夫」 「浮いてます……わわっ、わっ」 波のうねりが来る度に、大きく上に下に動くミア。 「あいた」 足がつかない不安に、ミアはじたばたしていた。 その足が俺にぶつかる。 「あ、ごめんなさいっ」 「浮くのに逆らわないで、身体を預けちゃって」 「はいっ」 返事はいいものの。 それから何度も、ミアの足は俺の足を蹴飛ばしたり、絡まったりした。 ……。 …………。 砂浜に戻る。 ミアは、小刻みに震えていた。 「怖かったです……」 「そっか」 「初めての割には、頑張ってたよ」 ミアの頭を撫でる。 「不思議な感じでした」 「……あっ」 「何度も足を……すみませんでした」 「気にしなくていいさ」 「……それより、もう浮輪はいらないよ」 「ああっ」 砂浜に上がってからも、浮輪にしがみついてた両手。 ミアは、また赤くなりながら、浮輪を手放した。 「お兄ちゃん」 「ん、どうした麻衣、泳がないのか?」 「うん……」 麻衣は、普通に泳げたはずだけどな。 「足がつかないのって、ちょっと不安だよ」 「まあな」 「わたし、向こうの岩場に行ってみるね」 「あっ」 気をつけろよと声をかける間もなく、麻衣は岩場に向かった。 岩場は、砂浜と比べると急に深くなってるし、波も荒い。 「しょーがないなぁ」 誰にともなくそうつぶやくと、俺は麻衣のいる岩場へ歩いて行った。 ……。 …………。 麻衣は、潮溜りを覗き込むようにしゃがんでいる。 「何かいたか?」 「うん、ものすごくたくさん」 麻衣に促されて俺もしゃがむ。 小さな潮溜りには、カニや、やどかりに似た生き物がたくさん暮らしていた。 「あっ、石かと思ったら動いた!」 「このカニって、イソガニって名前だっけ?」 こんな小さな水たまりに、麻衣は大喜びだ。 「……あのさ」 「ん?」 「お兄ちゃんは、別につき合ってくれなくてもいいんだよ」 「せっかくみんなと来てるんだし、泳いでくればいいのに」 「麻衣は?」 「わたしは……」 「麻衣もみんなと一緒に泳げばいいのに」 ……。 「わたしは、ほら、みんなと比べると胸とか小さいし……」 「実は少し、恥ずかしかったりして」 てへへ、と笑う麻衣。 「ふう」 「そんなの気にするなよ」 「そんなのって言うけど、女の子にとってはけっこう重要だったりするよ?」 「だって、そんなの比べる人はいないだろ」 「知り合いなんて全然いないし……」 「少なくとも、俺は比べない」 「ホントに?」 「ああ、ほんとほんと」 「だから、みんなのところに行こうぜ」 「う、うん」 立ち上がり、歩き始める麻衣。 一緒に、砂浜まで歩く。 ……。 遠く遠くまで青い空。 その空に登っていく、綿菓子のような雲。 岩にぶつかって砕け、引いてはまた寄せる波の音。 砕けた波から舞う潮の香り。 「ほら、こっち」 「気をつけて」 麻衣の手を取る。 「うん」 垂直に近い角度で、麻衣の身体を照らす夏の日差し。 少し汗ばんでいる、麻衣の手のひら。 ……。 「いたっ」 そんな麻衣から、悲鳴が上がる。 「どうしたっ?」 「あ、足が……」 見ると、短く赤い線が麻衣の足の裏にできていた。 出血してる。 岩についた、フジツボあたりで切ったのだろう。 消毒と、絆創膏くらいは張っておきたいけど、それらは全て荷物置き場だ。 「麻衣、歩けるか?」 「ちょっと……痛いよ」 「それに、砂がつきそう」 「分かった」 「……しかたないな」 その場にしゃがみ、背中に乗れと麻衣に促す。 「……うん」 「ごめんね」 「謝らなくていいから」 「うん」 麻衣が背中に乗った。 「よっ」 立ち上がる。 パラソルを目印に、一歩一歩、波打ち際を歩く。 「お兄ちゃん」 「重くない?」 「全然」 背中に麻衣の体温を感じる。 肩から首に麻衣の腕が回り、しがみついてくる。 「よっ」 少しずり落ちてきた麻衣を、持ち上げる。 麻衣の両脚を両腕でしっかりと抱える。 「……」 「ごめんね」 「だから、謝るなって」 「うん」 麻衣が、もう一度、ぎゅっとしがみついてくる。 ……。 …………。 パラソルの下で、簡単に麻衣の足の裏を消毒し、絆創膏を二枚張ってやった。 アイスを買ってきてあげたりしつつ、俺と麻衣で荷物番をする。 「お兄ちゃん、泳いで来なよ」 麻衣は何度も、そう言ったけど、俺はずっと麻衣と一緒にいた。 ……。 「達哉、泳ごうよ!」 「俺、今、全力で泳いだばかり」 「だって私はまだだもん」 「少しだけ、待ってくれ」 「んもう、先に行ってるからね」 菜月は海へ走り、膝くらいまで水に浸かったところで、次の波に向けて飛び込んだ。 ……。 波間に浮かぶ菜月が、俺に手を振る。 「ほら、早くー」 「今行くー」 水中メガネをはめ直す。 海水をざぶざぶとかき分け、平泳ぎで沖へ。 ……。 「やっと来たー」 「冷たくて気持ちいいね」 「そーだな」 「あのブイまで行ってみようか?」 「競争はしないからな」 「しないしない」 ざぷざぷと、顔を出したままのんびり泳ぐ。 小さいゴムボートに乗ってる家族連れ、転覆しているボディボーダー。 沖と波打ち際を何度も往復してる元気な奴、浮輪につかまって浮いてるミア。 ミア?「ミア」 「あれ、ミアちゃん」 「たっ、達哉さ~ん」 「流されちゃって、戻れないんです~」 半泣き状態のミア。 「ミアちゃん、浮輪空気抜けてない!?」 「ええっ!」 見ると、本来ドーナツ型のはずの浮輪が、もうバレーボールほどしか残っていない。 「菜月っ」 「うんっ」 二人でミアのところまで泳ぎ着き、両脇からミアを支える。 ちょうど浮輪の空気が無くなり、浮力を失っていた。 「わわっわあっ」 「大丈夫かーっ」 「ミアーっ!」 「大丈夫でーす!」 「今から戻りまーす」 ゆっくり、砂浜に向かって進む三人。 「さ、ミアちゃん。 戻ろっ」 ざぷっ「けふっ、けほけほっ」 波が来た時、ミアはちょうど息を吸い込んだところだったらしい。 苦しいのか、手足をばたばたさせる。 「きゃっ!」 「ミア、落ち着いて」 「ほら、もう少しで足がつくから」 「けほっけほっ……す、すみません……」 「あ、あの、ミアちゃん」 「どうした菜月」 「あっ……」 「足がつきました……」 そう言ったミアの手には──菜月のビキニが握られていた。 胸をぱっ、と隠す菜月。 「み、見ちゃ駄目ーっ!!」 「こら菜月、暴れるなっ!」 ……。 …………。 ミアは、ほんのちょっと海水を飲んで、慌ててしまっただけのようだ。 「ごめんなさい……」 「ミア、大丈夫?」 「はいっ、ちょっとびっくりしただけです」 「海の水って、やっぱりしょっぱいんですね」 「ふう……良かった」 パニックから落ち着いたら、案外ミアは平気そうな顔をしていた。 俺は、少し疲れたので、日光浴を兼ねて昼寝することにする。 ……。 …………。 ………………。 暑い。 何だか身体が動かない。 目を開けると、俺の身体は砂に埋まっている。 「ちょっ、ちょっと」 身じろぎするが、びくともしない。 「誰かー」 「マジで暑いんですが」 「……」 「な、菜月」 「助けてくれ」 「……見たでしょ」 「?」 「もっと盛っちゃうから」 さっきのミアの件か!菜月の胸。 ……。 「いや待て! 見てない、見てないって!」 「菜月、スコップを借りてきたよ」 「よっしゃー!」 「よっしゃーじゃないって、ねえ、仁さんっ」 「贖わなければならない罪、ってのもあるんだよ達哉君」 仁さんがしゃがむ。 そして、俺の胸の上あたりに、小さい砂山を二つ作った。 「君が見たものは、これくらいだったかね?」 「それとも、もっと成長してこれくらい……」 スコップを強振した菜月によって、仁さんが星になった。 「水着を着るの、久し振り」 「変じゃないかしら?」 そう言う姉さんは、少し両手で身体を隠すようにして、パラソルの下にやってきた。 「全然、変じゃないよ」 「そう?」 白い水着が、目にまぶしい。 なぜか、姉さんが水着を着てるだけなんだけど、正視できない。 「学院に通ってた頃以来、あまり運動してないから……」 「身体がなまっちゃってないかな」 「じゃ、泳いでみる?」 「そうそう」 「さっき、二人とも準備体操しなかったわね」 「あれは、だって仁さんが……」 「それに姉さんだって『スタート!』とか言ってたよね?」 「覚えてましたか」 てへ、と可愛く笑う姉さん。 もうそれ以上は追求できなくなってしまう。 ……。 今更ながら軽く準備体操し、ざぶざぶと海に入っていく。 「また、あのブイまで行ってみる?」 「あっちにしてみない?」 さっき仁さんと目指したのより、遠くのブイを指さす。 「よーし」 姉さんも乗り気だ。 ……。 …………。 「達哉くん、遅いぞ」 「いや……姉さんが早いんだって……」 確か、学院にいた頃はソフトボール部のエースで4番だった姉さん。 ほややんとした外見とは裏腹の運動神経は、健在だったようだ。 「泳ぎ方って、身体が覚えているものね」 「気持ち良かったわ」 「いつも、室内での仕事ばかりだから?」 「うん……」 「それもあるかもね」 二人で『ここまでが遊泳区域』を表すブイにつかまっている。 「砂浜から、ずいぶん来たわね」 「ええ」 ここから見ると、俺たちの荷物が置いてあるパラソルも点のように見える。 「達哉くん、戻れる?」 「大丈夫だよっ」 「じゃ、私が溺れてたら助けてね」 「……もう、何言ってるんだよ姉さん」 「ふふ……冗談だってば」 「競争しよっか、パラソルまで」 「姉さんには敵わないってば」 「私に勝ったら、なんでも好きなのを頼んでいいわよ」 きっと姉さんは、海の家や出店で売ってる、焼きそばやとうもろこしやかき氷のことを言ってる。 でも、なぜかやる気が出てきた。 「分かりました」 「じゃあ……よーい」 「スタート!」 ……。 …………。 ………………。 かなり真剣に泳いだ。 体育の授業でも、こんなに限界まで頑張ったことは無い。 でも…… やっぱり、負けてしまった。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」 「はい、これは残念賞」 アイスキャンディーを一本。 俺が寝ころがってる隣に、姉さんが座った。 均整の取れた、女らしい体つき。 透明感のある白い肌。 目の前に横たわる、柔らかそうな太腿。 こんなに、誰の目から見えるところに晒してしまっていいのか、なんて考えてしまう。 「も一度泳いでくる」 「私は、ここで休んでるわね」 「行ってらっしゃい」 にこっと微笑み、ぱたぱたと手を振る姉さん。 ……。 俺は、頭の中のもやもやを晴らそうと、海に潜った。 冷たい海が、頭を冷やしてくれればいい。 「……ぶはっ」 波間に浮かび、パラソルの方を見る。 座ってる姉さんに、三人組の男たちが声を掛けているようだ。 「くっ」 今すぐ、そこに駆けつけようと思った── が、上手くやり過ごしたのか、三人組は去って行った。 こんな時に居なくてどうするんだよ、仁さん。 ……なんて思ってると、今度は別の男が来た。 何か話しかけては、姉さんが首を振っている。 今度の男は…… 何だかしつこいな。 ……。 「ええい、もうっ」 意を決して砂浜へ泳ぎだす。 パラソルの下にいる姉さんのところへ。 ……。 「いいじゃないか、少しくらいぱーっとさ」 「だめよ。 仁くんは帰りの運転もあるでしょ」 「でも、やっぱり焼きそばにはビールが一番だからねぇ」 ……脱力。 仁さんかよ。 「どうしたんだい達哉君、怖い顔して」 この人の場合、全部分かってやってるんじゃないかと思うことがある。 「ドライバーは飲んじゃ駄目ですよね」 「ええ、駄目です」 俺は、仁さんから缶ビールを奪うと、一気にそれを空けた。 「達哉君……」 「若いっていいねえ」 ……。 …………。 そのまま、アルコールのせいか気疲れのせいか、眠り込んでしまった俺。 目が覚めた時、頭は姉さんの柔らかい太腿の上に乗っていて── みんなに囲まれて見下ろされていた時は、心臓が止まりそうになった。 ……。 …………。 「達哉くーん」 「一人で荷物番は寂しいなぁ」 「せっかく車を運転してきたのに、この仕打ちだもんなぁ」 わざと聞こえるように言ってる仁さん。 「はいはいはい、分かりましたよ」 「でも交代はしませんからね」 「荷物番につき合うだけですから」 「おお、嬉しいよ達哉君」 ……。 それから、何もすることが無い俺たち二人は、砂で城を作り始めた。 「高くならないねえ」 「もう少し、湿ってる砂を使いましょう」 「どうせなら二人で別の城を作って、出来ばえを競おうじゃないか」 「えーもー何でもいいです」 少し海よりの、湿った砂。 そこで、二人が別々に城を作り始めた。 まずはベースとなる砂をかき集める。 ……この段階で、城の大きさは勝負がついてしまう。 二人とも、意地になって膨大な砂を集めてきた。 「じゃあ、僕はノイシュヴァンシュタイン城にしよう」 「どうぞ。 俺は姫路城で行きます」 不毛この上ない勝負が始まった。 ……。 …………。 「わっ、すごいです」 「これは……どちらも美しいわ」 「はっはっは」 「僕はまだ城門館だけしか作ってませんよ」 「俺だって、これから小天守三つと大天守が控えてますから」 「が、頑張って下さい……」 ……。 …………。 ………………。 ……………………。 ついに完成した、二つの城。 ノイシュヴァンシュタイン城と姫路城。 「あなた達は……」 頭を抱える姉さん。 「達哉もつき合うことないのに」 「なんのために海に来たんだか、分からないよ」 口々に、呆れた台詞が出てくる。 その時。 「あ」 「ああっ」 ざっぷーん 潮が満ちてきたため、城近くまで来るようになっていた波。 ひとつ大きな波が来て、二つの城をあっと言う間に廃墟にした。 「達哉君」 ……。 「つわもの共が夢のあと、だね」 「帰りますか……」 ぐったりした俺と仁さん、そして海を満喫したその他全員を載せて── 左門カーが来た道を辿っていく。 …………。 ……。 夏期のみ使用できる簡易シャワーを浴び、みんな、身体も乾かした。 「いやあ、今日は楽しかったねえ」 「面白いものも見られたし」 ……明らかに、俺のことを言ってる仁さん。 「さあ、撤収しましょう」 「つれないな、達哉君は」 「ひと夏の甘酸っぱい思い出作りに貢献した僕に、もう少し感謝の気持ちがあってもいいだろう?」 「ぐっ……」 「あ、ありがとうございました」 「うん、よしよし」 「達哉君はかわいいねえ」 「だあっ、撫でないで下さいっ」 ……。 こうして、『なんとか大作戦』は終了した。 そのうち消える日焼けの跡と── ずっと消えない思い出が、残った。 青空。 地球を覆う大気。 そして、大気の遥か先──暗い宇宙の存在までをも感じさせる──高く遠く深い青空。 大きな雲が、ゆっくりと、空を横切っていく。 「あの雲、綿菓子みたいだろ?」 隣に座る少女に問いかける。 「ワタガシ……?」 「綿菓子も知らないのか?」 「知らないよ」 「甘くて、ふわふわなんだ」 「甘くて? ふわふわ??」 少女が雲をじっと見つめる。 「よくわからない」 少女の表情が曇った。 綿菓子の甘さを知らない──そのことが、ひどく悲しいことに思えた。 だから言った。 「今度、食べに行くか?」 「……うんっ」 向日葵のように鮮やかな笑顔。 そして気づかされる。 俺は──彼女に笑ってほしかったのだと。 左門での夕食が終わり、朝霧家一同はリビングで胃を休めていた。 「昨日は、本当に楽しかったわ」 「フィーナさんは日焼けしてない?」 「大丈夫だと思うけれど……」 と、ミアを見る。 「はい、日焼けはされておりませんでした」 「そう、ミアが塗ってくれた日焼け止めのお陰ね」 「あ、ありがとうございます」 ドレスから覗くフィーナの胸元や二の腕には、一点のくすみもない。 まるで、新雪のような輝きを放っている。 「本当だ」 思わず口をついて出た言葉に、周囲の視線が一斉に俺を刺す。 「た、達哉……あまり、じっと見ないで」 フィーナがわずかに頬を染め、身を縮める。 そもそも露出が多いドレスを着ているため、体を隠そうにも隠し切れない。 「お、おい、そういうつもりじゃないぞ」 「お兄ちゃんのえっちー」 「……ごめん」 「こほん、今後は注意して欲しいですね」 咳払いを一つして背筋を伸ばす。 ……。 「でも、地球の思い出に、焼いてみるのも面白かったかもしれないわね」 「ひ、姫さま……そのようなことをされては、カレンさまからお叱りを受けてしまいます」 「冗談よ、心配しないで」 フィーナは立場上、露出の多いドレスを着ることが多い。 日焼け跡が見えては、顰蹙を買うこともあるのだろう。 肌を日に焼くことすら自由にできない身。 そんな彼女を、少しかわいそうに思う。 「そう言えば、フィーナはどこか行ってみたい場所はないのか?」 「せっかく地球に来たんだから、家にいるだけじゃもったいないだろ?」 同情と言われればそうかもしれないが、少しでもフィーナの希望を叶えたかった。 「どこかありましたら、何なりとおっしゃって下さい」 「そうね……」 フィーナが目を閉じる。 ……。 …………。 やがて目を開いた。 「この辺には、遺跡がたくさん残っていると聞いたけれど」 「はい、残っていますが……」 姉さんが怪訝な顔をする。 遺跡というのは、満弦ヶ崎に点在している大昔の建造物跡だ。 ありていに言えば、ただの廃墟。 観光地などではなく、見て楽しいようなものではない。 「なら、連れて行ってくれないかしら?」 「整備もされていませんし、あまり面白い場所ではないと……」 「でも、どのようなものか興味があるの」 「遊園地とか水族館とか……他に楽しいところがあるよ」 「フィーナが見たいって言うなら、いいんじゃないか」 俺の言葉に、フィーナがにこりと笑う。 「これからずっと遺跡ばかりに行くわけじゃないだろ?」 「ええ」 「なら、遊園地や水族館に行く機会はいくらでもあるさ」 「もうすぐ夏休みだしね」 「それに、遺跡ならお兄ちゃんがしっかり案内してくれるよ」 「達哉が?」 「俺?」 「千春さんとは、何回も行ったんでしょ?」 「うん、まあ」 「お父様と?」 「ああ、親父は遺跡とか大好きだったからな」 ともすると、家族よりも遺跡の方が好きだったのかもしれない。 「なら、案内してもらえるかしら?」 曇りの無い笑みを浮かべるフィーナ。 「えっと……」 こんな笑顔をされると断りにくい。 「分かった、俺が案内するよ」 「よろしく、達哉」 「あ、ああ」 「達哉くん、粗相がないようにね」 「変なことばかり教えちゃだめだよ」 二人がニコニコと言う。 「ちょっと待て、俺だけで案内するの?」 「嫌なのかしら?」 笑顔のフィーナ。 「いや、そういう問題じゃなくてさ」 「ほ、ほら……さ」 「フィーナさんと二人きりだと、緊張しちゃうってこと?」 「え、あ……まあ」 「確かに、何か間違いがあったら申し訳が立たないですね」 姉さんがいたずらっぽく俺を見る。 「間違い?」 「ま、間違い……?」 フィーナの顔が一瞬赤くなった。 が、すぐに居住まいを正す。 「地球で間違いを起こすことはありません」 「私を送り出してくれた月の民を裏切るようなことはしないわ」 きっぱりと言う。 「達哉くんは? 大丈夫?」 「失礼な、大丈夫です」 「ならお願いね」 ここまで来て、姉さんに乗せられた事に気づいた。 「フィーナ様、私は仕事を空けるのが難しい状況なので……」 「気にしないで、さやか」 「お兄ちゃんが変なことしたら、すぐ教えてね」 「ええ、必ず」 「……」 「あ、あの」 おずおずとミアが手を挙げる。 「間違いって、一体?」 ……。 「あははは……」 力なく笑うしかなかった。 ……。 風呂を上がり、良く冷えた麦茶を一気に飲み干した。 「ふう」 「あら、もう上がったのね」 姉さんがリビングから現れた。 「みんなは?」 「もう部屋に戻ったわよ」 「そっか」 「遺跡には、いつ行くか決めたの?」 「恐らく水曜日になると思う。 バイトも休みだしさ」 「……うん」 どうも姉さんの様子がいつもと違う。 何か言い出しかねているような……。 「何か気になることでもあるの?」 「あ、分かっちゃった?」 「まあ」 「こういうことはあまり言いたくないんだけど……」 「私たちはフィーナ様をお預かりしている身だから、怪我には十分注意して」 姉さんはあまり暗い話をしたがらないから、想像するしかないけど──フィーナにもしものことがあったら、姉さんは大変なことになるのだろう。 それこそ、左遷とか解雇とか……。 遠出するとなると注意が必要だ。 「大丈夫」 「俺も注意するし、フィーナは自分の立場をわきまえてるさ」 「そうね、しっかりしていらっしゃるものね」 「ああ、同じ歳とは思えないくらいだよ」 「歳相応なところもあると思うけど」 「そうかなぁ……クラスでもやっぱり存在感が違うよ」 「落ち着いてるっていうか、気品があるっていうか……」 「ふふふっ、ご執心ね達哉くん」 姉さんが目を細めて笑う。 「お、俺はただ客観的な話を……」 「人を褒めるのに客観だなんて」 「ともかく、ご執心とかじゃないから」 「はいはい」 にこにこと微笑む姉さん。 どうも居心地が悪い。 「じゃ、じゃあ、俺はもう寝るから」 俺はそそくさとコップを片づける。 「はい、おやすみなさい」 「また明日」 ……。 水曜日の放課後。 早々に帰宅した俺たちは、制服を着替え遺跡へ向かうことにした。 「行ってきます」 「行ってくるわね」 「達哉さん、これをお持ち下さい」 と、ミアが取り出したのは籐製のバスケットと水筒だった。 「これは?」 「お弁当です、遺跡で召し上がって下さい」 バスケットの中には、弁当らしき包みやタッパー、レジャーシート等が詰まっている。 まるでピクニックの荷物だ。 「大荷物だな。 ちょっとそこまで行くだけなんだけど」 「良いではありませんか」 「せっかくですから、楽しみましょう」 「はい、ぜひそうして下さい」 「ありがとう、ミア」 「楽しいお時間を」 フィーナの言葉に、嬉しそうに頬を染めるミア。 きっと早起きして作ってくれたのだろう。 フィーナに楽しんでほしい、というミアの気持ちが伝わってくる。 「では、行ってくるわね」 と、フィーナがバスケットを持つ。 バスケットが、ぎし、と重そうな音を立てた。 「俺、そっち持つよ。 フィーナは水筒を」 「ありがとう。 でも大丈夫よ」 「いいって。 女の子に重いものを持たせられないよ」 「でも……」 「男の役目、これは」 「……」 少し驚いた表情のフィーナ。 首筋がかすかに赤くなっている。 「さ、行こう」 「え、ええ」 「女の子……」 ぽそり、とフィーナが何事かつぶやく。 「ん?」 「いいえ、何でもないわ」 唇を結び、表情を引き締めるフィーナ。 「では、またねミア」 「いってらっしゃいませ」 ……。 目的の遺跡は、家から30分程歩いたところにある。 丘に埋もれた遺構は、そのほとんどが倒壊し原形は判然としない。 ただ、遠い過去、ここに何らかの建造物があったことを示すのみだ。 「どう?」 遺跡の周囲を一回りして、フィーナに尋ねる。 「ほとんど壊れてしまっているのね」 「だね、特に管理している人もいないみたいだし」 フィーナは、心なしか寂しそうに廃墟を見つめた。 「それより、弁当でも食べようよ」 「……せっかくのピクニックですものね」 廃墟に満ちる寂寥感を吹き飛ばすように、フィーナが明るく微笑む。 ……。 俺たちはバスケットからキャンピングシートを取り出し、四隅を石で固定する。 「外で食事なんて、少し緊張するわ」 と、靴を脱いでシートに座った。 スカートから伸びるフィーナの美しい足が、ゆったりと投げ出される。 しどけない格好ながら、どことなく気品を感じるから不思議だ。 「ミアは何を作ってくれたのかしら」 「よし、開けてみるぞ」 籐製の四角い箱を開くと、中にはぎっしりとサンドイッチが詰められていた。 「まあ、美味しそう」 フィーナが少女のような声を上げる。 「他の箱には何が?」 「どれどれ」 バスケットから、タッパーを取り出しては開いていく。 から揚げなどのおかず。 シュークリームやクッキーにフルーツ。 色とりどりの食べ物が、シートに展開される。 「二人で食べきれるかしら」 「俺は昼飯抜いてたから、結構入りそう」 「期待してるわよ」 「さあ、頂きましょう」 フィーナが、紙皿にそれぞれのおかずを取り分けてくれる。 「悪いね、仕事させちゃって」 「達哉、私が働けないとでも思っているの?」 苦笑して俺を見るフィーナ。 「失礼しました」 「じゃ、いただきます」 何だか気恥ずかしくなって、俺はサンドイッチを口に放り込む。 それを見届け、フィーナも上品にサンドイッチを口に運んだ。 ……。 俺が食べたのは、ハムとレタスのオーソドックスなものだった。 しっとりとしたパンに、マーガリンとマスタード、マヨネーズをたっぷりと塗り──みずみずしいレタスと滋味あふれるハムをサンドしてある。 「うおっ……」 辛味が鼻に抜ける。 「くすくすっ、当たりね」 「そっちはどんな味だった?」 「バラのジャムを挟んだものね」 「どれどれ」 続けてフィーナと同じものを食べる。 優雅なバラの香りが、口の中一杯に広がった。 ……。 高く青い空と、風が吹き抜ける丘──今の景色に合った香りだった。 「学食のサンドイッチなんかと、全然違うな」 俺は夢中になり、サンドイッチ、から揚げと、次々に食べていく。 いくらでも食べられそうな気分だ。 「そんなに慌てなくても、お弁当は逃げないわよ」 フィーナはゆっくりとしたペースで食べている。 俺が3つ食べるうちに、ようやく1つ食べ終えるといった調子だ。 弁当のほとんどは、俺の胃袋に収まったといっても過言ではない。 ……。 …………。 「ふう、ご馳走様」 「達哉……すごいわね」 俺の食べっぷりに、フィーナが目を丸くする。 「すごく、美味かった」 「ミアの料理の腕はすごいよ」 俺は満腹感に任せて、そのまま横になる。 「達哉、食べてすぐに横になるなんて、行儀が悪いわ」 「いいのいいの」 ……。 抜けるような青空を、白い雲がゆっくりと横切っていく。 「家に帰ったら、ミアを褒めてあげて」 視界の外からフィーナが話しかけてくる。 「ああ……」 「でも、あんまり褒めすぎると真っ赤になっちゃうからな」 「くすくすっ、そうね」 「褒めすぎに注意しないと」 「でも、少しミアがうらやましいわ」 「何で? 褒めてもらえるから?」 「違 い ま す」 ぷくっと膨れたフィーナの表情が目に浮かぶ。 「お料理ができるのって、女性らしいと思うでしょ?」 「うーん、どちらでもいいような……」 「参考までに、達哉はどっちが好き?」 「料理ができる子とできない子」 「いっ!?」 直球で来た。 「そうだな……」 「どうなの?」 「正直言うと、できた方がいいかな」 「そうよね」 「フィーナもやってみたら? 料理」 「私にもできるかしら?」 「大丈夫、きっとできる」 「早速ミアに教えてもらわなくては」 自分が料理をしている姿を想像しているのか、フィーナの声が弾む。 「好きな人に食べてもらう気持ちで料理すれば、きっと美味しくできるよ」 「好きな……人……」 声がかすかに揺れる。 フィーナに目を向けて見ると、遠く空を眺めていた。 美しい深緑の瞳に空が映っているのが見えた。 「いつか、達哉にもそういう人ができるのでしょうね」 「さあなぁ……こればっかりは自分だけではどうにもならないし」 「フィーナはどうなんだ?」 ゆっくりと体を起こす。 無性に答えが気になった。 「私は、いつか必ず結婚するわ」 「立場上、相手は選べない可能性が高いけれど……」 「それは……私に課せられた使命だから」 そう言って、フィーナは笑った。 夏の匂いを濃密に含んだ風が、丘を駆け上がり、吹き抜けていく。 ……。 自分の望んだ相手と結婚することができない。 のみならず、望まない相手との縁談を拒否することすらできない。 普通の人間なら、自分を儚むか、周囲を呪うことでしか受け入れられないような使命。 だがフィーナは、積極的にそれを果たそうとしている。 「フィーナは偉いな、自分の責任をちゃんと考えてて」 「そう? 私は当然のことだと思うわ」 「恋愛のために全てをなげうつのも、お話としては素敵だけれどね」 軽やかに言うフィーナを、俺は素直に立派だと思った。 「誰でも、大なり小なり周囲に対して責任を持っているもの」 そう言って、フィーナは青い空を見上げた。 「責任を果たして初めて、その人は『生きている』と言えるのだと思うわ」 「私の場合は、責任が少し特殊なだけ」 「確かに……」 「恋愛に限らずだけど、何をするにしても、まずは責任を果たしてからだよな」 フィーナが俺の目を見て強く頷く。 「さ、そろそろシュークリームを食べましょう」 「実は、楽しみにしていたの」 待ちきれない、といった様子でフィーナが言う。 「そうだな」 フィーナがシュークリームを皿に盛る。 そんな彼女の姿を見ながら、俺の胸はなぜかざわついていた。 「やはり、最後はこれがないと」 「甘いもの好きなの?」 「ええ、もちろんよ」 満足げに言って、フィーナは空を見上げる。 俺もつられて視線を上げる。 「こんな空の下でお茶を頂けるなんて、本当に嬉しいわ」 フィーナがうっとりと目を細める。 「月の人間にとって、地球の空や海は憧れの的よ」 「そうなの?」 「ええ」 「地球の人たちが毎日月を見上げるように、私たちも毎日地球を見上げるわ」 「なんて美しい星だろうって」 「実感が湧かないな」 「無理もないわね」 フィーナが苦笑する。 「月の人間が、気軽に地球の空や海を見に来られるようになれば良いのに」 「今はちょっと難しいな」 「でも、いつかはそんな時代が来ると信じているの」 「フィーナが女王様になったら、きっとそうなるよ」 「ふふっ、頑張ってみるわ」 現在、月と地球は自由に行き来することができない。 手段が無いということもあるが、何より政治的な理由で往来が極端に制限されている。 「ほら、あの雲……まるで綿菓子のよう」 「綿菓子か……食べたことあるの?」 「昔、一度だけ」 じっと俺の目を見るフィーナ。 「フィーナが綿菓子食べてるのは、想像しにくいな」 「あら、そう?」 「ああ」 「何だか悔しいわね」 「変なところにこだわるな」 「ふふふっ」 「さて、こちらのお菓子はどうかしら?」 と、フィーナがシュークリームを口に運ぶ。 幸せそうな横顔に、満たされた気分になっていた。 ……。 風呂から上がりベッドに横たわる。 全身が、心地よい疲労感に包まれていた。 ……。 目を瞑ると、フィーナの笑顔が浮かんできた。 毅然としている時のフィーナは、同じ歳とは思えないくらい大人びている。 でも、今日見せてくれた笑顔は、女の子のかわいらしさに溢れていた。 楽しんでくれたみたいで本当に良かった。 心からそう思う。 ……。 フィーナが地球に滞在できるのは8月いっぱい。 残された時間は……少ない。 ……。 それまでの間、もっとたくさんの笑顔を見たい。 俺の中に、ほんのりと、そんな欲求が生まれていた。 ……。 …………。 博物館へと続く階段に、並んで腰を下ろす。 真っ青な空には、綿のような雲が浮いていた。 「ふわふわ」 「本当に雲のよう」 なけなしの小遣いをはたいて買った綿菓子。 それを見て、少女は目を丸くしている。 「食べてみろよ、美味いぞ」 「……」 「甘くて……美味しい」 ほっぺたに雲のかけらをつけて、少女が満面の笑みを浮かべた。 それだけで、今月の小遣いが底を突いた事など忘れられた。 「君も食べる?」 「え……いいよ、全部食えよ」 「ううん」 良かれと思って言ったことなのに、少女は悲しそうな顔をした。 「よ、よし、こっちの方をもらうぞ」 「うんっ、食べて」 綿菓子を少しだけ千切り、口へ運ぶ。 舌に乗せたそれは、強い甘みを残し、一瞬で姿をなくした。 「美味しい?」 「うまい」 「良かった」 「これ半分こしよ」 少女は綿菓子を差し出す。 「いいのか?」 「うん、二人で食べたほうが美味しかったよ」 そう言って、少女は明るく笑う。 彼女の笑顔に──僕は満足していた。 帰りのホームルームが終わり、学生が蜘蛛の子を散らすように教室から出て行く。 隣席のフィーナは手早く荷物をまとめている。 「達哉は掃除当番だったかしら?」 「ああ」 「気にしないで、先帰ってていいぞ」 「ええ、悪いけどそうさせてもらうわね」 フィーナは鞄を持ち早々に立ち上がる。 どうやら急いでいるようだ。 「では、また後で」 美しい銀髪をふわりと舞わせ、教室から出て行った。 急いでいても優雅さは失わない。 「あれ、フィーナ帰っちゃったの?」 前の席の菜月が、振り向いて言った。 「ああ、急いでたみたいだけど」 「ふうん、珍しいわね……」 「何か用事でもあるのかな?」 「さあなぁ……」 「まいっか」 「さ、ちゃっちゃと掃除しちゃおっか」 菜月と俺は揃って立ち上がり、掃除の準備を始めた。 ……。 掃除を終え、俺は土手の道を歩いていた。 菜月は用事があるとかで、俺一人で帰ることになった。 彼女は、面倒見の良さからか、よくクラスメートから相談を持ちかけられる。 今頃、友人と眉間にシワを寄せているのだろう。 ……。 住宅街よりは幾分涼しい風が、川面を走り抜けた。 そう言えば、フィーナはどうして急いでたんだろう……?ぼんやりと考えを巡らすと、教室で別れた時のフィーナの姿が頭に浮かんだ。 ……。 穏やかな笑みを湛えた、美しい顔。 ふわりと舞う、あたかも月の光で染めたかのような銀髪。 教室の出口へと歩いていく優美な後ろ姿。 それらの鮮烈な残像が、頭の中で幾度となくリピートされる。 この感じ、何だろう……?戸惑いを隠すように大きく深呼吸をし、帰宅の足を速めた。 ……。 商店街は、夕食前の買出しをする主婦たちの喧騒に溢れていた。 「達哉さん、お帰りなさいませ」 後ろから聞き慣れた声がした。 「ああ、ただいま」 「……達哉、お帰りなさい」 「二人で買い物?」 「ええ、そうなの……」 フィーナは少しバツが悪そうに答えた。 ……買出しをするのに、何か気まずいことでもあるのだろうか?「フィーナ、どうかした?」 「いえ、何でもないわよ」 傍目には完璧な笑みを浮かべるフィーナだが、どことなくぎこちないところがある。 「ミア、買い物はもう終わったのよね? 急がないと……」 「いいえ、まだ魚を買っていません」 「そう……そうだったわね」 どうも、いつものフィーナではないように見える。 大体、フィーナより先にミアが挨拶をしてくるあたりからしておかしい。 そう考えた俺は、話をミアに振ることにした。 「ミア、今日は何を買ったんだ?」 「はい、ええと……」 ミアが買い物袋を開こうとする。 「ミ、ミア、急がないと時間が無くなるわ」 と、フィーナがミアの手を取って、袋の口を閉めた。 「????」 「それでは達哉、私たちは急ぐので」 「え? ああ……」 「また後ほど、達哉さん」 挨拶もそこそこに、二人は俺から離れていく。 ……。 「なんだありゃ?」 しばらくその場に立ち尽くし、二人の背中が遠ざかるのを見送った。 夜の10時近く。 この日はなぜか、夕食のまかないが無かった。 きゅーきゅーと鳴る胃袋をなだめながら帰宅する。 がちゃ「ただいまー」 「わ、お兄ちゃん帰ってきちゃったよ」 「まあ いつもより早いのでは?」 「姫さま、もう10時です」 玄関に入るや否や、ダイニングから賑やかな声が聞こえてきた。 同時に、食欲をそそる香りが鼻腔に流れ込んでくる。 「おかえりなさい、達哉くん」 「ただいま」 「……どうしたの?」 「うふふっ、とにかくお茶でも飲みましょう」 姉さんがにこやかに言う。 「う、うん」 「お兄ちゃん、お帰り」 「お、お帰りなさい、達哉」 「お帰りなさいませ」 キッチンに仲良く並んだ3人が声をかけてくる。 揃いも揃って、気まずそうな表情だ。 「あれ? 今日はフィーナも料理?」 「ええ、こういう機会でもないと、料理をしないままになってしまうから」 言いながら、フィーナは手を後ろに隠す。 「お茶を淹れますから、リビングでお待ち下さい」 「もうちょっとで食べられるからね」 どうやら、料理しているところは見られたくないようだ。 素直にリビングへ移動する。 「今夜は賑やかでいいわね」 ソファに腰を沈めた俺に、姉さんが言う。 「いつからやってるの、あれ?」 「夕方からずっと頑張ってるみたいだけど」 「大苦戦だな」 「でも、フィーナはどうして急に料理を?」 「さあ? 私はぜんぜん聞いてないわ」 ミアがキッチンから現れ、俺の前にお茶を置く。 「ピクニックから戻られてから、急に料理がしたいと仰るようになったんです」 「何かあったの?」 「うーん……ずずず」 淹れたてのお茶をすすりながら、ピクニック──遺跡へ行った時の出来事を思い出す。 ……。 …………。 そういえば、ミアが作ってくれた弁当を食べていた時──女の子は料理ができた方がいいか、みたいな質問をしてきたな。 「思い出したんだけど……」 と、二人に経緯を話す。 「あらまあ」 「わあぁ」 「それでフィーナ様はやる気になったのね」 「いや、そうかもねって話だよ?」 「わたし、間違いないと思います」 「商店街で達哉さんにお会いした時も、姫さまはいつになく慌てていらっしゃいましたし」 「ミア、誰が慌てていたと言うの?」 「ひゃっ」 ミアが硬直する。 「分からないことがあるの、教えてくれない?」 「は、はい」 「達哉、お腹が空いたと思うけど、もう少しの辛抱よ」 菜箸片手にフィーナが言う。 ミスマッチな光景に、思わず笑いそうになる。 「私が料理をするのは、そんなにおかしいかしら?」 「い、いや」 「失礼なことを言うと、美味しくできても食べさせてあげませんからね」 ぷいっとフィーナがキッチンに戻る。 「で、では、わたしはこれで」 ミアがぱたぱたとキッチンへ戻っていく。 「姫さま、これは真ん中をへこませておかないと、膨らんで割れてしまいますよ」 「あ、あら、そうなの?」 「それに、大きすぎて火が通りません」 「このくらいで……ちょうど良いと思います」 「……む、まだまだ勉強不足ね」 「さ、姫さまもご一緒に」 「フィーナさん、おなべが吹きこぼれちゃうよ」 「大変っ、忘れていました」 さすがのフィーナも、慣れない料理に悪戦苦闘している。 でも、偉ぶったところもなく、懸命に取り組んでいるのはさすがだ。 「うふふ、可愛らしいフィーナ様」 姉さんが目を細めてお茶をすする。 「ずいぶん張り切ってるみたいだね」 「せっかく作るのですもの、喜んでもらいたいと思うのは普通でしょ?」 「男の子のために作ってあげるのなら、なおさらね」 「また変なことを」 「そうかしら?」 「そうだよ、フィーナが俺のために料理なんて」 「本人に聞いてみたら?」 「聞けるわけないし」 ぴんぽーん「菜月ちゃんね」 「菜月?」 「一緒にどう? って誘っておいたの」 隣にも話が行っていたのか。 道理でバイト後のまかないが出ないわけだ。 「いらっしゃいませ、菜月さん」 「いらっしゃいませって言われるのも、ちょっと変な気分ね」 「もうすぐできる……と思いますので、リビングでお待ち下さい」 「できます」 「『思います』とは何事ですか」 「も、申し訳ございません」 「あはははっ、楽しみ楽しみ」 「じゃ、お邪魔します」 「こんばんわー」 菜月がへにゃっとした笑顔でリビングに入ってきた。 「こんばんわ、菜月ちゃん」 「よう」 「達哉、今日は一人で帰らせちゃってごめんね」 「ああ、気にしないでよ」 「菜月さん、お茶です」 「はい、ありがとう」 「どう、フィーナの調子は?」 「真剣に取り組んでらっしゃいますよ」 「いささかご苦労されているようですが」 「フィーナならすぐに上手くなるって」 「そう思います」 「一度取り組まれたことは、すぐ身につけられてしまう方ですから」 「菜月は一晩で抜かされるんじゃないか?」 「余計なお世話」 「では、わたしは戻ります」 再びミアがキッチンへ戻る。 「でも、フィーナはどうして急に料理なんて?」 「達哉くんに食べさせたいみたいよ」 「え゛」 菜月が間の抜けた声を出す。 「だから、それは違うって」 「そ、そうよね、一国の姫様だもんね」 「そうそうそうそう」 激しく首を振る俺。 自分で否定しながら、ちょっと寂しい気分になっていた。 「みんな、そろそろ席についてー」 「お、できたってさ」 「さーて、どんな料理かな」 ダイニングテーブルに料理が並んでいる。 メインはハンバーグ。 賽の目切りのトマトやズッキーニ、たまねぎが、たっぷりと入ったソースが掛けられている。 もう一品は肉じゃがだ。 野菜はいびつで大きさも揃っていない。 しかし、もうもうと湯気を立てる様子は食欲をそそる。 「全部フィーナさんが作ったんだよ」 「ほおー」 「すごいじゃない、フィーナ」 「あ、ありがとう」 フィーナは少し照れくさそうな表情で、茶碗にご飯をよそっている。 「はい、座って座って」 各自が自分の席に座り、程なくして食事の準備が整う。 「フィーナ様、何かコメントは?」 「改まって言うほどのことは……」 と言いながらも、フィーナは立ち上がってしまう。 人前での挨拶をたくさんしてきた末に身についた習慣なのだろう。 「麻衣やミアほど上手にはできなかったけれど……」 「たくさん作ったので、お腹いっぱい食べて」 すっきりと笑って、フィーナは言った。 凛とした印象を持ちつつも、優しさが感じられる笑顔だった。 「いただきまーす」 頂きますを唱和し、各々が食事を始める。 俺はまずハンバーグに手を伸ばす。 箸を入れると、じゅわり、と肉汁があふれ出し、野菜ソースに混じり合う。 それを存分に絡めた肉を口に放り込む。 肉の甘みと野菜の酸味が口の中で溶け合う。 「美味い」 ご飯が進む味に、俺は瞬く間に茶碗のご飯を平らげた。 「ど、どう? 達哉?」 フィーナは自分の食事には手もつけず、俺をじっと見つめていた。 「美味しい、お世辞じゃなく」 「……良かった」 小さく息を吐くフィーナ。 「ハンバーグは、ミアに教わって作ったの」 「なかなか火が通らなくて、焦げてしまうかと思ったわ」 「大丈夫、火は通ってるし、焦げてもない」 「負けた」 カーボンな人がガクリとうなだれた。 「菜月ちゃん、くじけちゃダメだよ」 「……うん」 「こっちはどうかな」 次は肉じゃがだ。 いわゆる、お袋の味だけに期待が高まる。 「私が取ってあげるわ」 フィーナが俺の皿に取り分けてくれる。 「ありがとう……?」 皿をフィーナからもらった時、ちょっとした違和感に気がついた。 フィーナの左手の人差し指にバンソーコが貼られている。 視線に気づいたのだろう、フィーナは恥ずかしそうに手をテーブルの下に隠した。 俺には、その姿がとてもかわいらしく映った。 「さーて、味はどうかな」 バンソーコのことは口に出さず、肉じゃがを食べる。 噛むごとにほっこりと崩れるジャガイモの柔らかさ。 そして、隅々にまで俺好みの味が染みきっていた。 「これも美味しいよ」 「肉じゃがは、麻衣に味付けを教わったわ」 「わたしも、お母さんから教わった味だから、100%朝霧家の味だよ」 「なんだか、お嫁さんとお姑さんみたいですね」 「そんなに歳とってないよー」 「もう、お姉ちゃんは」 麻衣が頬を膨らませる。 「お嫁さんなら、良しとしましょう」 フィーナがクスリと笑う。 「でも、相手は達哉になっちゃうけどね」 「ぶっ」 あやうく口の中のものを吹きそうになった。 「へ、変なこと言うなよ」 「達哉の言う通りよ、菜月」 「あはははっ、ごめんごめん」 「とは言え、達哉の反応も釈然としないわね」 憮然と俺を見るフィーナ。 「……い、いやあ」 一体、俺にどうしろというのだろうか。 フィーナと結婚できるなら嬉しい、とでも言えばいいのか?……。 フィーナと結婚……か。 「どうしたの、達哉?」 「い、いや。 おかわりを頼める?」 一瞬きょとんとした目つきになったフィーナだが「ええ、たくさん食べて」 すぐに明るい笑顔でそう言った。 ……。 しばらくして、この日の食事は終わった。 フィーナの料理は、見栄えこそあまり良くなかったが、味は上々だった。 時計は既に12時を回っている。 「フィーナ、また作ってくれよ」 「ええ、喜んで」 「じゃ、食べるだけで悪いけど、私はこれで」 「わざわざ来てもらってありがとう、菜月」 「いいのいいの、なんだか刺激になったし」 「それよりさ、今度はうちで働いてみない?」 「左門で?」 「うん、きっとお父さんもOKしてくれるよ」 「フィーナさんが制服を着るのかぁ」 「きっと似合うわよ」 二人は、早くもフィーナの制服姿に思いを馳せている。 「しかし、お客様を相手に粗相があると……」 「もちろん困るけど、そこは達哉と私でちゃんと教えるから」 考え込むフィーナ。 だが彼女の目は好奇に満ちた光を湛えていた。 「俺はいい話だと思うけど」 「せっかくだしさ、やってみたら?」 「では、お願いするわね」 「おっけー、早速お父さんに話してみるね」 「よろしく」 「じゃ、近いうちに連絡するね」 ひらひらと手を振って、菜月が出て行った。 「料理の次は接客か……大変だな」 俺は苦笑交じりに言う。 「経験が多くて困ることは無いわよ、達哉」 「そうだな……姫だからって手加減しないぞ」 「望むところです」 「さて、後片づけをしましょうか、ミア?」 「姫さまはお休みになっていて下さい」 「うん、わたしたちがやるよ」 「ありがとう、二人とも」 「でも、片づけまでが料理でしょう?」 「麻衣は休んでいて、後は私とミアでやります」 笑顔できっぱりと言う。 「分かったよ、お願いしちゃうね」 「さ、邪魔になるから」 「ああ、じゃ、ご馳走様」 「お粗末様」 ……。 「ふい~」 入浴を済ませ、自室に向かう。 心地よい満腹感と火照った体。 これから寝るにはベストコンディションだ。 がちゃ「お兄ちゃ~ん」 部屋の前を通り過ぎたところで、麻衣がこっそりと呼びかけてきた。 「ん? 起きてたのか」 「どうした?」 「あのね、今日料理してる時なんだけど……」 「フィーナさんに、お兄ちゃんのこといろいろ聞かれたよ」 「え……」 突然のことに、何と返事をしたらいいのか分からない。 何だか、むずがゆいような、恥ずかしいような気分だ。 「た、例えば?」 「小さい頃のこととか、好きな食べ物とか」 「変なこと言ってないだろうな」 「安心して、いいお兄ちゃんだって言っておいたから」 麻衣が意味ありげに俺を見る。 「頑張ってね」 「な、何でそういう話に持っていくんだよ」 「違うの?」 「フィーナは一国の姫様だぞ」 「好きになりました、付き合いましょうって訳にはいかないだろ?」 「……うん」 「ホームステイに来てそういう話になったら、いろんな人に迷惑がかかる」 「フィーナはそんなことはしないさ」 「じゃあ、フィーナさんがお姫様じゃなかったら、お兄ちゃんはどうするの?」 「どうって……」 今まで、考えてもみなかったことだった。 フィーナが普通のクラスメイトだったら、俺は……。 ……。 何でだろう。 頭の中がごちゃごちゃになっていく。 「……分からない」 「第一、あり得ない仮定をしても意味が無いだろ?」 「そうかな?」 「そうだよ」 「でも、気を遣ってくれてありがとうな」 「ううん、いいの」 「あとは自分で考えてみるよ」 「はーい、また明日」 「おやすみ、お兄ちゃん」 ぱたん麻衣の部屋のドアが軽い音を立てて閉まった。 部屋に入るなり、体をベッドに投げ出す。 「……ありえないさ」 確認するようにつぶやく。 俺もフィーナも、無人島で生活しているわけじゃない。 お互い役割や責任がある。 それらを取り払ってしまったら、何が残るのか。 もちろん、俺という生き物は残るけど──それは自分ではない気がする。 きっと、フィーナもそう考えているはずだ。 ピクニックの時もフィーナは言っていた。 周囲への責任を果たして、初めて『生きている』と言える、と。 フィーナみたいにきっぱりとは言えないけど、彼女の考え方は気持ち良かった。 俺も、どこかでフィーナみたいに考えているんだろうな……。 ぼんやりとフィーナの言葉を反芻しながら、俺は眠りに落ちていった。 ……。 「あれは何?」 「ブランコ」 「あっ、あれはっ?」 「ポストだよ……そんなことも知らないのか?」 「うん」 少女は好奇心の塊だった。 見るもの聞くものの全てが珍しいらしく、目を輝かせて聞いてくる。 僕が答える度に彼女は感心し、また次の質問をする。 そんな繰り返しだった。 「ねえ、あの人たちはなにしてるの?」 何問目の質問だったろうか。 彼女は、ベンチのカップルを指差した。 男の人との女の人が、唇を合わせている。 あれはキスだ。 テレビで何回か見たことがある。 「あ、あれは……」 なぜか顔が熱くなった。 「知らないの?」 「し、知ってるよ」 「じゃあ教えて、何をしているの?」 「え、えっと……」 恥ずかしくて言葉にできない。 「やっぱり知らないんだ」 「ち、違うよ」 「あれは『キス』っていうんだ」 「きす?」 「す、好きな男の人と女の人がするんだ」 顔を背ける。 なぜか少女の顔を見ていられなかった。 ……。 「ふうん」 「じゃあ、わたしもしてあげるね」 僕の頬に少女の柔らかな手が触れた。 強い日差しが瞼を刺す。 「朝……」 ……。 また、昔の夢を見てしまった。 変なスイッチでも入ってしまったのだろうか。 ……。 別に夢を見るのは構わない。 ここまでなら──ここで夢が終わってくれるなら、幼い頃の少し恥ずかしい思い出で終わる。 「……」 俺は、ぼんやりと天井を見上げた。 さすがに、夢の内容をコントロールすることはできない。 もしかすると、この先まで夢に見てしまうかもしれないのだ。 思い出したくもない──あの結末まで。 ……。 俺は頬を手のひらで軽く叩く。 朝からシケた顔してたら、周りに余計な心配をかけてしまう。 「よしっ」 俺は、勢い良くベッドから降りた。 「おはよう、達哉」 淀みの無いフィーナの笑顔。 それが、夢の中の少女に重なり、胸が重くなった。 夢の結末を、現実にフィードバックさせるなんて──フィーナに話したら、きっと笑われてしまうだろう。 「お、おはよう」 「どうしたの? 体調でも悪いの?」 「いや、何でもない」 「そう?」 「ああ」 「さ、メシ食いに行こうぜ」 「その前に、寝癖を直してきたら?」 頭に手をやると、横の毛が逆立っていた。 フィーナの前だと、大失態をやらかした気分になる。 「ご、ごめん」 「ふふふ、慌てないで」 朝食を終え、俺はリビングでくつろいでいた。 リビングから見える空は晴れ渡り、強い日差しが室内に差し込んでいる。 「せっかくの日曜日なんだし、どこか出かけたら?」 「そうだな……」 ふと、フィーナと目が合った。 「フィーナは、どこか行きたい所ある?」 「そうね……」 フィーナは頬に手を当てて目を閉じる。 「あの、変わった形のモニュメントがある公園はどうかしら?」 「モニュメントっていうと……」 「物見の丘公園か」 物見の丘公園は、公園内の展望台が名前の由来となっている。 「わたしも、あのモニュメントには興味があります」 「ミアちゃん」 「はい、何でしょう?」 「邪魔しちゃだめだよ」 「??」 「せっかくのデートチャンスなんだから」 「麻衣は、すぐそういうことを言う」 「カップルだと思われたら、フィーナが迷惑するだろ」 「私は構いませんよ」 「わ」 フィーナの微妙な発言に、言いだしっぺの麻衣が驚いている。 「いえ、達哉と二人でも構わない、ということですが」 「そっちを先に言って欲しいんだけど」 「とか言いながら、どうして顔が赤いのかな、お兄ちゃんは?」 「赤くない」 「あ、あの、わたしはどうしたら……?」 おずおずとミアが挙手する。 「今日はわたしとお料理しようよ」 「それは楽しそうです」 「ミア、そうさせてもらったら?」 「はいっ」 ミアは笑顔で返事をした。 「では、私は準備をしてきますね」 「それでは」 と、二人がリビングから出て行く。 「良かったね、お兄ちゃん」 「べ、別に」 「ふうん、素直じゃないんだから」 「知らん」 「くすくす、お兄ちゃんが怒った~」 麻衣は、嬉しそうにソファの上を転がっている。 「ところで姉さんは?」 「ん?」 ぴたりと転がるのを止める麻衣。 「今日もお仕事だって」 「そっか。 何か俺たちだけ遊んじゃって悪いな」 「お姉ちゃん、そういうこと言うと怒るよ」 「家族なんだから気にしないのって」 「……言いそう」 「でしょ?」 「ああ」 「さーて、わたしはお料理の準備しよっと」 麻衣が勢いをつけて立ち上がった。 短いスカートがひらりと舞う。 「パンツ見えた」 「見ないの」 「じゃ、楽しんできてね、お兄ちゃん」 そう言って、麻衣はキッチンへ入って行った。 ……。 玄関を出た俺とフィーナは、強烈な日差しに目を細めた。 「もうすぐ夏休みね」 「ああ、早いもんだ」 「夏休みはゆっくり遊べるといいな」 思えば、学期中は学業にバイトと、なかなかフィーナのために時間を割けなかった。 夏休みには、もう少しみんなで遊べる時間を作りたいと思う。 「達哉は、夏休みもアルバイトをしているの?」 「いつもはね」 「でも、今年くらいはバイトを減らそうかな」 「フィーナたちと旅行とかも行きたいしさ」 俺の言葉に、フィーナは少し表情を曇らせた。 「気持ちは嬉しいのだけれど」 「私は……できればいつも通りでいて欲しいの」 「え? どうして?」 「特別扱いされている、ということよね、それは」 「……」 確かに、家族相手だったらこんな配慮はしない。 つまり、フィーナを特別扱いしていることになる。 そこにフィーナは寂しさを感じたのだろう。 「特別扱いするなというのも、難しい話だとは思うのだけれど」 「いや、こっちの気が回ってなかった……ごめん」 「いいのよ、気にしないで」 「それに、正直なことを言うと、一生懸命働いている人を見ているのは嫌いではないの」 完璧な笑顔でフィーナが俺を見る。 「あ、ありがとう」 ストレートなフィーナの言葉に頬が熱くなる。 沈んでいた気分も、あっさりと上向き。 これだけで、彼女には敵わない、という気分にさせられる。 「さ、行きましょう」 そう言って、フィーナは明るく笑った。 ……。 家を出て約20分。 ようやく物見の丘公園に到着した。 「結構歩いたな。 汗かいたよ」 「ええ、私も」 フィーナの顔を見るが、額に汗は浮かんでいない。 「汗かいてないじゃないか」 「そんなことないわ」 「どこら辺?」 「この辺よ」 フィーナが首筋を見るように促す。 目を遣ると、しっとりと汗ばんでいるのが分かった。 「あ、ほんとだ」 「言った通りでしょう?」 ……。 そう言ったフィーナが、とたんに顔を赤らめる。 「わ、私……」 「わあっ、ごめんっ」 慌ててフィーナから目を逸らす。 ……。 「……前にも同じようなことがあった気がするのだけれど」 フィーナが居住まいを正しながら言う。 「本当にごめん、他意は無いんだ」 「今日は、私もはしたないところを見せてしまいました」 「ごめんなさい」 フィーナが申し訳無さそうに目を伏せる。 「そ、そんな、謝らなくていいから」 俺はしどろもどろになってしまう。 「ふふっ、達哉もそんなに慌てないでいいわよ」 「あ、ああ」 俺は、どっと噴き出した汗を、ハンカチでぬぐった。 ……。 ぴりりり、ぴりりり「あら、私?」 フィーナの携帯は、ホームステイを始めた頃にカレンさんから渡されたものだ。 緊急時の連絡用とのことだったけど。 それが鳴るということは、つまり──「はい」 表情を引きしめ、フィーナが電話に出る。 「今は物見の丘公園にいるわ」 「大使館までは、そうね……」 と、フィーナが俺を見る。 「歩いて15分くらいかな」 「徒歩で15分程度」 フィーナが俺に背を向ける。 聞かれたくないことなんだろう……。 俺は10歩ほどフィーナから離れる。 ……。 フィーナは電話を続けている。 その表情は、朝霧家では見ることができないものだ。 引き締まり、端正さを増した顔は彫刻のような美しさ。 日頃はわずかに感じられるあどけなさも、今は微塵も無い。 まるで、秘められていた力が解放されたかのように、凛とした空気がフィーナを包む。 そこに立っているのは──月という国家を統べる王家の第一王女フィーナ・ファム・アーシュライトまさにその人だった。 ……。 照りつける太陽の暑さも忘れて、俺は呆然とフィーナの姿を見ている。 手が届かない。 触れてはいけない。 10歩先にいる彼女が、果てしなく遠い存在に見える。 俺と彼女との間に、越えることのできない壁が厳然と立ちはだかっている。 ……ズキリと胸が痛む。 鉛のように重くて冷たい痛み。 この感覚を、俺は知っている。 ……。 そう。 遠い過去となったあの日──今と同じ感覚を、幼い俺は味わっていた。 青空の下。 少女の笑顔は真夏の太陽のようにまぶしく輝いている。 「ねえ、あれはなあに?」 少女の指差す先には、不思議な形をした塔があった。 お父さんと何度か行った、なんとか公園にある塔だ。 見たことも、触ったこともあるのに、それが何だか分からない。 「あれは、月につながっているんだ」 「父さんが言ってた」 「へえ~」 少女の瞳が輝く。 「見に行こうか?」 「え……えっと」 「どうしたの? だめなの?」 「ううん……行く、見に行く」 「よしっ」 少女の手を取り、歩き出す。 何だか誇らしい気分だ。 ……。 お父さんと来た道を、少女と逆に辿る。 「街の外に出るの?」 「そうさ」 「わたし、はじめて」 握った少女の手がかすかに震えている。 「怖いの?」 「怖くなんかないわ」 「早く行きましょう」 少女は気丈に歩調を速める。 ……。 …………。 しばらくして──川の中にある島と陸地とを結ぶ、大きな橋に差し掛かる。 「……」 少女が息を呑む。 「さあ、行こう」 先に10歩ほど進み、彼女がついてくるのを待つ。 「う、うん」 意を決したように頷く。 少女が足を踏み出したその時だった。 彼女の背後に、黒塗りの車が停まった。 ドアからは、黒い服を着た大人たちが吐き出される。 「わっ、わっ」 慌てる僕とは対照的に、少女に驚いた様子は無い。 男達は、無駄の無い動きで少女の両脇に侍した。 「ここから先はいけません」 腰をかがめた男が、少女に耳打ちする。 少女は寂しそうに男を見上げる。 「どうしてもか?」 「どうしてもです」 「わたしが頼んでもか?」 「はい」 少女が視線を落とす。 「ねえ、行こうよ、どうしたの?」 「ねえ、ねえっ」 再び視線を上げた少女の顔に、先ほどまでの面影はなかった。 「……」 ふっくらとした頬からは赤味が消え、引き締まった端正な顔立ちは、彫刻のような美しさ。 深緑の瞳は静かな落ち着きを湛え、ただ真っ直ぐに僕を見据えている。 その表情はむしろ、少女の両脇に立つ男達のそれに近い。 ……。 自然と察することができた。 少女はもう、一歩たりともこちらへは来ない。 「ね、ねえ……」 「では、参りましょう」 男の言葉に、少女が頷く。 「ありがとう、とても良い思い出になりました」 「このようなお別れになり、残念ですけど」 少女の口から、信じられないほど大人びた言葉が流れ出す。 「そんな言葉遣いは、やめてよ」 「残念ですけど……」 「これでお別れです」 「もっと、遊ぼうよ」 無様に叫ぶ。 きっと、泣いていたに違いない。 「わたしがわがままを言うと、この者達が困ります」 「何で……だよ」 「また会えるよう、私も頑張ります」 「……ぐずっ」 「だから、あなたも頑張って」 少女は明るく笑って、踵を返した。 僕はただ立ち尽くし、彼女の後姿を見送る。 少女が車の後部座席に座ると、男達の手でゆっくりとドアが閉められる。 ……。 ドアが閉まるまでの、その一瞬──少女がこちらを見た。 諦め、悲しみ、やるせなさ。 それらを奥歯でかみ締めたような、そんな顔だった。 「……達哉」 「……」 「達哉、聞いているの?」 フィーナの声で、現実に引き戻される。 「フィーナ……」 「体調でも悪いの? 辛そうな顔をしているけれど?」 「いや、何でもないよ」 「何でもない人は、そのような顔はしないわ」 「大丈夫だって」 「ちょっと昔のこと思い出してた」 「昔の……こと」 フィーナの表情に、一瞬悲しい影が差したが、それもすぐ消える。 「と、とにかく、何でもないのなら良かった」 「心配かけてごめん」 「それで?」 「悪いのだけれど、私はこれから大使館に向かわねばならないの」 「何か起きたの?」 「ええ。 私が行かないと収拾がつかないみたい」 そう言って、フィーナは表情を引きしめる。 「……分かった、大使館まで送るよ」 「……でも」 珍しく、フィーナが言い淀む。 「ん?」 「いいえ、何でもないわ」 「行きましょう」 フィーナが先に立って歩き出す。 ズキリ再び胸に痛みが走る。 俺は、なぜかフィーナと同時に踏み出すことができなかった。 彼女と並んで歩くことに、底知れぬ恐怖を感じている。 心の奥で、冷たい声がする。 どんなに親しくなっても、フィーナは必ず月へ帰る。 その時、辛い思いをするのはお前だ、と。 「どうしたの?」 「い、いや」 喉が貼り付いて、上手く声が出せない。 頭もぼんやりと痺れている。 「達哉」 「い、今、行く」 俺は遠くなった感覚を引き寄せ、小走りにフィーナの後を追う。 ……。 ほとんど言葉を交わさぬまま、俺たちは月人居住区に入る。 さっき感じた恐怖感は消えないばかりか、むしろ強くなっている。 それはこの場所が、苦い思い出の場所でもあるからだ。 ……。 そんな俺の気持ちとは裏腹に、空は高く青い。 そう言えば、あの日の空もこんな色だった。 ……。 程なくして、俺たちは月大使館の入り口に到着した。 月人居住区の一角を占める大使館の敷地は、掘割で三角州から切り離されている。 眼前の橋が敷地へ入る唯一の道だ。 「門まで送るよ」 「ありがとう」 「でも、迎えが来たみたい」 フィーナに促され前を向くと、通用門らしきところから数人の男女が現れた。 先頭を歩いているのは、カレンさんだ。 彼女の後ろには、黒いスーツを着た男が2人付き従っている。 男達の服装は、記憶の中の黒服と代わり映えしない。 そのことが、過去と現在の境界を曖昧にしていく。 ……。 「どうしたの、怖い顔をして?」 「いや、何でもないよ」 笑顔を作って答える。 「達哉がそう言うのなら……」 フィーナが寂しそうに目を逸らす。 ……。 そんな俺たちの前に、カレンさんが立った。 「突然お呼び立てして申し訳ありません」 「構いません」 「達哉君、お久し振りです」 「こんにちは」 「フィーナ様の道案内をして頂いたこと、深く感謝します」 「い、いえ、散歩のついでですから」 声を出そうとすると、喉がからからに渇いていた。 俺は……緊張しているのか?「では、参りましょう」 カレンさんの言葉に、フィーナが頷く。 あれ──「送ってくれてありがとう」 フィーナの口から、美しい発音で言葉が流れ出る。 これって──目の前で展開されている様子は、あの日に似てはいないか?「門から先は、関係者しか入ることができないの」 歳に似合わない、洗練された口調。 フィーナの口調が、過去の記憶を揺り動かす。 ゆっくりと遠ざかる少女の背中。 ただ見送ることしかできなかった、無力な自分。 そして、忘れることができない、少女の寂しげな表情。 フィーナとの間に壁を感じた時から、俺を包んでいた恐怖感。 その正体が、今なら分かる。 俺は──あの時の少女のように、フィーナが俺の前から消えてしまうのではないかと身分や立場という、抗い難い力に、再び引き裂かれてしまうのではないかと恐れているのだ。 「先程から、どうかしたの?」 「い、いや」 「さあ」 「ええ……」 カレンに促され、フィーナが俺に背を向けた。 ……。 心配することはない、あの時とは違う。 フィーナは仕事が終われば帰ってくるのだ。 なのに、どうしようもない不安が、俺の胸を埋め尽くしていく。 「フィーナ……」 声が聞こえたのか、フィーナはゆっくりと振り向いた。 静かに揺らめく深緑の瞳、月光で染めたような銀髪が風に舞う。 それは、あの少女が持っていたものと同じ輝き。 ……。 そうか、そうだったのか、フィーナが、あの時の──「フィーナ……」 このままでは、消えてしまう。 抗うこともできずに、あの時のように。 不意打ちのように、また奪われてしまう。 「フィーナっ!」 気がつくと、俺はフィーナの腕を強く握っていた。 「痛っ」 フィーナが顔をしかめる。 「達哉……痛い……」 「あ……」 「……っ」 「っ!」 「やめなさいっ!」 「離してっ、離しなさいっ」 頭の上で、フィーナの声が聞こえる。 「し、しかし……」 「離しなさい、私が良いと言っているのです」 ……。 「そのように」 「……はい」 俺を押さえつけていた、万力のような力が弱くなる。 疾風のごとく近接した黒服が、俺を引き倒し、押さえつけていたのだろう。 「達哉、怪我を……」 フィーナが心配そうに俺の顔を見ている。 顔に手を遣ると、右側の頬に多少擦り傷があるらしく、ぴりぴりと痛んだ。 だけど、それ以外に大した怪我は無いようだ。 「ああ、このくらいすぐ治るよ」 「それならいいのだけれど……でも……」 フィーナが俺の目を覗き込む。 『どうして急に?』と聞きたそうな表情だ。 だが、フィーナは訊いてこない。 だから俺も答えなかった。 そもそも、理由なんて曖昧で、訊かれたとしても明確な答えは返せなかっただろう。 「俺こそ、いきなりごめん」 「いいわ、私は平気」 「あ、ああ」 歯切れ悪く返事をする。 「達哉君、失礼なことをしてしまいました」 カレンさんが頭を下げる。 「いえ、こちらこそ」 「気にしないで下さい」 「ありがとうございます」 「では、フィーナ様、そろそろ」 カレンさんがフィーナを促す。 「仕事が終わったら連絡しますから、達哉は先に帰っていて」 そう言って、フィーナは俺に背を向けた。 カレンさんと黒服も、無言で付き従う。 ……。 フィーナの背中がゆっくりと遠ざかっていく。 そして、一度も振り返らぬまま、彼女は門の中に吸い込まれた。 雲が緩慢に空を流れていく。 日が落ちてなお、風はぬるい。 俺は、断面が不恰好に膨らんだ半月を見上げていた。 フィーナと別れてからずっと、彼女の帰りを待っている……。 というのは言い訳で、正確には、待っているのではなく、ただ単にここから動く気になれなかっただけだ。 俺と、月の世界を隔てる巨大な門。 あれから出入りをする人影はない。 一つ息を吐き、橋の欄干にもたれた。 欄干も、石畳も、まだ熱を持っている。 背中を通して伝わってくる昼間の熱が、数時間前にここで起こったことを思い起こさせる。 ……。 気がついた時には、フィーナの腕を掴んでいた。 あの瞬間の俺にはきっと、理性など一片たりとも残っていなかった。 反射的な行動だった。 目の前の状況が、あまりに過去の出来事に似ていて──あの時の少女のように、フィーナも消えてしまう気がした。 フィーナと離れたくない。 ただ、この衝動だけが俺を動かした。 「……はあぁ」 俺は大きく息を吐いて空を見上げる。 離れたくないから腕を掴んだ。 それじゃ、まるで俺がフィーナに惹かれて…………。 もちろん客観的に見たフィーナは綺麗だし、真面目だし、周囲を気遣うし……挙げたら切りがないほどの美点を持っている。 「人を褒めるのに客観だなんて……」 以前、姉さんがそう言って笑っていた。 じゃあ俺は、フィーナをどう思っているのか。 ……。 はっきりとは分からない。 頭をめぐらせても、ただモヤモヤとするだけだ。 そもそも、フィーナには立場も身分もある。 与えられた役割のために、全力を尽くす覚悟もしている。 それにフィーナは、月へ帰ってしまう。 まさに、過去の焼き直しだ。 どんなに近づけたとしても、最後に、情けない顔で彼女を見送るのは俺なのだ。 ぴりりりりっぴりりりりっポケットの携帯電話が音を立てる。 慌ててズボンのポケットから電話を取り出す。 ……フィーナだ。 とくん、と胸が鳴る。 「……はい」 「こちら朝霧達哉さんの電話でよろしいですか」 妙にかしこまった声。 なんだか可愛らしい。 「ああ、そうだよ」 「良かった」 ……。 それっきり、声が聞こえてこない。 「もしもし、聞こえてる?」 「聞こえているわ」 「家に電話したら、まだ帰って来ていないということだったから」 「ああ、うん……門のところにいる」 「え、どうして?」 「えっと……」 悶々としていて、とは答えられないよな。 「いや、月人居住区に来るの久し振りだったから、ブラブラしてたんだ」 「そうなの」 「仕事が落ち着いたので、帰ろうと思うのだけれど」 「一緒に帰れるのか?」 「え、ええ」 「分かった、ここで待ってるよ」 「5分程度で行けると思います」 「OK、待ってる」 「では」 ……。 …………。 そう言ったフィーナだが、なかなか電話が切れない。 ……。 …………。 「どうした?」 「え? ええと……」 「何となく、こちらからは切りづらくて」 「じゃあ、こっちで切るよ」 「お願い」 ぴっ……。 電話を終えると、急に周囲の静けさが際立った。 その中で、俺の心臓だけが強く拍動している。 何だか、自分で自分をコントロールできていない気がする。 「落ち着かなきゃ」 大きく深呼吸する。 とくんとくんそれでも胸の鼓動は治まらない。 だめだ。 フィーナがあと少しでここに来るというのに。 これでは、まともに話もできない。 ぎ、ぎぎ……門が開く音。 視線を上げると、通用門からフィーナとカレンさんが出てきた。 遠くにその姿を見ただけなのに、胸が高鳴る。 昼間のフィーナも美しいが、夜の姿は格別だ。 白磁の肌が、闇の中、しっとりと輝いている。 歩を進める度に軽やかに舞う銀髪は、まるで銀粉をまとっているかのように輝く。 ……。 「お待たせしました」 目の前に立ったフィーナは、少し緊張しているようだった。 無意識なのだろうけど、俺が掴んだ腕をもう片方の手で押さえている。 「あ、ああ……お帰り」 「達哉君、時間も遅いですから注意して下さい」 カレンさんが穏やかな口調で言う。 「は、はい」 「どうかされましたか? お顔が赤いようですが」 「いや、ほんと何でもないです」 俺は慌てて否定する。 「お加減が悪いようでしたら、車を出しますが」 「大丈夫ですから」 「本人がこう言っているのですから」 「はい、分かりました」 「ではカレン、また」 「はい、お気をつけて」 カレンさんが目礼する。 俺もつられて頭を下げる。 フィーナはもちろん頭を下げない。 ……変なところで立場の差を実感してしまった。 「達哉、行きましょうか」 ……。 「……」 「……」 並んで歩き出したはいいものの、俺たちは会話することができなかった。 フィーナの様子は昼間とは違い、どこか俺を窺っているところがある。 さっぱりとした性格の彼女にしては、珍しいことだ。 やはり、昼間のことを怒っているのだろうか。 ……。 いきなり腕を掴んだのだから無理もない。 俺から見れば、離れたくないとか、過去の思い出とか、理由はあった。 でも、フィーナから見れば当然のことだ。 そりゃ怒る。 俺は俺で、会話を切り出すことができない。 いきなり腕を掴んでしまったことを、申し訳無く思っていたこともある。 だが何より、あの時感じた強い衝動に整理がついていないのだ。 フィーナと離れたくない。 それは、彼女に惹かれているということなのだろうか?その答えは未だ出ていない。 もし、過去の記憶が無かったら、俺は何も感じなかったのではないか?この疑いが解消されないのだ。 いっそ、思い出なんて無ければ、素直に自分の気持ちを見つめられるのに……。 ……。 結局、会話を交わすこと無く家に着いてしまった。 たった20分の道のり。 それが何時間にも感じられた。 ガチャ「ただいま」 「ただいま戻りました」 パタパタパタパタ「お兄ちゃん、こんな遅くまで何やってるのっ」 怒られた。 「ごめん、つい」 パタパタパタパタ「姫さま、お帰りなさいませ」 「ただいま、ミア」 「……??」 「どこかお加減でも?」 俺にはフィーナの声はいつも通りに聞こえたが……ミアは誤魔化せないようだ。 「大丈夫よ」 パタパタ「お帰りなさい、二人とも」 「……ん」 リビングから現れた姉さんが、俺たちを交互に見る。 「とにかく、上がったら?」 「あ、うん」 靴を脱いで家に上がる。 フィーナもそれに続いた。 ミアが膝を着いて俺たちの靴を綺麗に並べる。 「さやか、悪いのだけど、私はもう下がります」 「あら」 「ミア、着替えを手伝ってくれる?」 「かしこまりました」 「それでは、失礼します」 フィーナと一瞬目が合った。 どことなく、不安を覆い隠しているような目だった。 「フィーナ」 「はい」 フィーナが足を止める。 だが、俺の顔を見てはくれない。 「お仕事、お疲れ様」 「達哉も、送ってくれてありがとう」 フィーナはかすかに微笑んで、俺に背を向けた。 ……。 ぱたんフィーナの部屋の扉が閉まる。 「……ふう」 なんだか、安心したような、残念なような気持ちだ。 「じー」 「じー」 リビングに入るなり、二人が俺を非難の目で見ている。 「……なんだよ」 「フィーナさんの様子をどう思う?」 「ど、どうって」 「どうも思わないの、達哉くん?」 「そういうわけじゃ……」 「思い当たることはあるの?」 「……ある」 「あーあ。 お兄ちゃん、ホントぶきっちょなんだから」 「……うう」 「うふふ」 「とにかく、傷の手当てでもしましょうか」 「傷?」 「ほっぺた、擦り傷があるよ」 と、麻衣が俺の右頬を指差す。 言われるがままに頬に触れると、ピリピリとした刺激がある。 すっかり忘れていた。 「気づかないほど悩んでたのね」 姉さんが救急箱を持ってきてくれた。 「まあ」 「怒らせたの、俺だし」 「怒らせる?」 「ああ」 「んー?」 「んー?」 二人して首をひねっている。 「フィーナ様、怒っていたのかしら?」 消毒薬をガーゼに染み込ませながら、姉さんが言う。 「え?」 「染みるわよ」 姉さんがぽんぽんと傷口を消毒してくれる。 「いててて」 「お兄ちゃん、情けなーい」 「仕方無いだろ」 「はい、終わり」 「すぐ治ると思うから、バンソーコは貼らないわね」 「ありがと」 「あのさ、フィーナが怒ってないっていうのは?」 「怒ってるってよりは……心配とか不安って感じだったかな」 「不安……」 「心当たりがあるんじゃないの?」 「心配とか不安って話だと……分からない」 「ともかく、今日は様子を見てみたら?」 救急箱を閉めて姉さんが言う。 「疲れてるでしょう?」 姉さんが穏やかに微笑む。 安心をくれる笑顔だ。 「そうだね、今日は寝ることにするよ」 「それがいいわ」 「じゃ、また明日」 「うん、ファイトだよ、お兄ちゃん」 「ああ、頑張るよ」 俺はいつもより明るく言葉を返し、リビングを後にした。 ……。 翌朝。 ダイニングに下りると、既にフィーナは朝食を食べていた。 フィーナの姿を見た瞬間に、胸がとくりと鳴った。 やっぱり、俺はフィーナに惹かれている。 そう思うと同時に、その気持ちは本物か、と心の中で声がする。 「お、おはよう」 やっと喉から出た声は、情けないほどにかすれていた。 「おはよう」 フィーナは俺の顔をチラリと見て、すぐ視線を皿に戻す。 どこか疲れた感じのする動きだ。 「おはようございます、達哉さん」 「パンとご飯、どちらになさいますか?」 「あー……」 フィーナは黙々とパンを食べている。 「俺もパンを」 「かしこまりました」 ミアが、じっと俺を見る。 「??」 と、すぐに視線を逸らしてキッチンへ向かってしまった。 暗い気分になりながら、イスに腰を下ろした。 ……。 正面に座るフィーナは、やはり顔を上げない。 でも、彼女から感じる雰囲気は怒っている時のものではない。 怒っている時のフィーナは、もっと外に対してエネルギーを発していて、華やかとすら思える美しさがある。 でも、今のフィーナはどちらかと言えば弱い感じがする。 麻衣が言っていた通り、心配事があるようだ。 「お待たせしました」 トーストと目玉焼きが運ばれてきた。 「フィーナ、醤油取ってくれる?」 「え、ええ」 やや、ぼんやりとした口調でフィーナが答える。 俺は渡された醤油をベーコンエッグに……「?」 醤油注しの出が悪いと思ったら、渡されていたのはソース入れだった。 一瞬、背中が寒くなる。 まさか、嫌がらせとかじゃないよな。 「フィーナ、これ、ソースなんだけど」 「え?」 フィーナが驚いたように顔を上げる。 本当に気づいていなかったみたいだ。 「ご、ごめんなさい、達哉」 慌てて醤油指しに手を伸ばす。 ゴトッ「あっ」 倒れる醤油指し。 テーブルに醤油が黒く広がっていく。 「姫さま、どうされました」 「ミア、布巾、布巾っ」 「はいっ」 ……。 ミアがすばやく布巾を出してくれたお陰で、醤油は床にこぼれずに済んだ。 「すみません、二人とも」 「姫さま、お気になさらないで下さい」 「床にもこぼれなかったし、平気平気」 「え、ええ」 それでも、フィーナに元気は戻らない。 「姫さま、お召し物に少し醤油がついています」 「あら……」 「ごめんなさい達哉、先に学院に行っていて」 いつもなら待っているところだが、今日のフィーナはそれを喜ばない気がした。 「分かった」 「さ、参りましょう」 ミアがフィーナをいたわるように連れて行く。 「フィーナ……」 彼女の様子に胸が痛くなる。 フィーナの心配の原因はやっぱり俺みたいだ。 自分がフィーナの調子を崩していることが、とても悔しい。 何とかして協力をしたいのに、会話すらロクにすることができない。 ……。 「ごちそうさま」 無人のキッチンに向かって声をかけ、重い気持ちでダイニングを後にした。 ……。 バイトが終わる。 間もなく、朝霧家の面々がまかないを食べにやってくる。 今日は、フィーナの様子が気がかりで仕事もあまり手につかなかった。 ……。 俺より、やや遅れて教室に到着したフィーナ。 クラスの友人とは、いつも通りに話そうとしていたようだけど、どこか無理をしている感じがした。 授業中も、黙々とノートを取っているだけ。 時折聞こえるため息が辛かった。 結局、彼女の不安について何一つヒントを得ることができないまま、俺はバイトへ向かってしまった。 ……。 どうしたら、フィーナが考えていることが分かるのだろう。 考えて分からないのなら、直接聞くしか無いんだろうな。 「……よし」 「何が『よし』?」 「いや何でもない」 「ああ、フィーナと喧嘩してるんだっけ」 「何で菜月が知ってるんだ?」 「だって、教室でフィーナと口利かなかったでしょ?」 「いつもは、一生懸命喋ってるくせに」 「みんな、気づいたかな?」 「ま、知らぬは本人ばかりなりけりってやつね」 「……むう」 からんからん「こんばんわー」 「お姉ちゃんは、お腹がすきましたよ~」 「こんばんわ」 ……。 …………。 あれ?「フィーナは?」 「学院からお帰りになってすぐお電話がありまして……」 「仕事だって出て行っちゃった」 「そっか……大変だな」 力が抜けた。 「ほらほら、そんなに寂しがらないの」 「帰ってこないって訳じゃないんだから」 「菜月には関係無いだろ」 口が滑ってしまった。 「……むか」 ごっ「あだっ」 菜月にゲンコツされた。 「達哉のアホッ」 菜月はぷりぷりと怒ってキッチンへ引っ込んでしまった。 「コラ」 ぽこ麻衣にも怒られた。 「お兄ちゃん、あの台詞は地雷だって」 「困った達哉くんね」 ぴしっ姉さんにはデコピンされた。 「ミアちゃんは?」 「い、いえいえ、わたしは遠慮します」 ミアは、ぶんぶん首を振っている。 「フィーナさんをいじめているのは、お兄ちゃんかもしれないよ」 「え?」 ミアがゲンコツを作る。 「ご、誤解だって」 「誤解なの?」 「誤解……じゃないと思う」 「……」 ミアは拳を下ろす。 「早く仲の良いお二人に戻って下さい」 「う、うん」 「あっはっは、達哉君はモテモテだね」 仁さんが料理を持って現れる。 「うちの菜月まで泣かせて、こりゃ大変なもんだよ」 「泣いてません、兄さんは変なこと言わないで」 菜月は飲み物を持ってきた。 「お隣さんちは賑やかだな」 「本当、嬉しいやら悲しいやらです」 「あははは、何より何より」 「さあ、料理が冷めないうちに食べちまおう」 ……。 時計の進む音。 日付が変わろうとしている。 俺の部屋の真下。 フィーナの部屋には、未だ人の気配が無い。 気分を落ち着かせようと机に向かうが、どうにもフィーナのことが気になってしまう。 「フィーナ……」 無意識に、彼女の名前をつぶやく。 それだけで胸の奥がじんとした。 夜、一人で女の子の名前をつぶやく。 どこから見ても女の子に想いを寄せている姿だ。 どんなに想ったところで、彼女は月に帰ってしまうというのに。 それに、俺は俺の気持ちに自信が無い。 この感情は、過去の思い出に引きずられた結果かもしれないのだ。 「……」 ノートに顔を伏せてうめく。 フィーナのことも分からない。 自分のことも分からない。 一体、何なんだ俺は。 このままでは、フィーナにどう接したらいいか分からない。 ……。 「お帰りなさいませ」 「……ええ」 「フィーナさん、どうしたの?」 にわかに階下が騒がしくなる。 ガタッドタドタドタドタッ「フィーナっ」 玄関には家族全員が集まっていた。 その中心にはフィーナが立っている。 「ただいま帰りました」 フィーナの表情からは疲労がにじみ出ている。 白磁を通り越して、青白くさえ見えた。 「何かあったの?」 「心配しないで、少し問題が長引いただけ」 「ミア、着替えを」 「は、はいっ」 フィーナが部屋に戻ろうと踏み出す……「っ……」 上体が揺れる。 「姫さまっ」 倒れそうになったフィーナを、ミアが支える。 「お、おいっ」 「フィーナさん?」 「フィーナ様」 「だ、大丈夫。 少しつまづいただけ」 「見苦しいところを見せてしまいました」 そう言って、フィーナは力なく微笑む。 「姫さま、早くお部屋に」 「大丈夫、大丈夫よ」 フィーナは優しくミアの頭を撫でながら、部屋へ戻っていった。 ……。 残された俺たちは、沈痛な面持ちでソファに腰を下ろした。 「フィーナさん、大丈夫かな」 「かなり疲れていたみたいだけど」 二人が俺を見る。 「俺も、詳しいことは分からないんだ」 「いろいろ考えてはみたんだけど」 「そう」 「分からないなら、聞いてみるしかないんじゃないのかな?」 「ううん……」 「誰にだって、言いづらいことはあるものよ」 「話せるタイミングは来ると思うの。 早いか遅いかは分からないけど」 「だから慌てずに。 でも、その時が来たら勇気をもって」 「うん」 俺が頷いたのを見て、姉さんは優しく微笑んだ。 「さあ、今日は遅いから、部屋に戻りましょう」 「うん」 「そうだな」 姉さんの声に従い、俺たちは揃って2階へ上がった。 ……。 部屋に戻りベッドに横たわる。 暗い天井を見上げると、フィーナの疲れた表情が浮かんできた。 日頃、フィーナは疲れていることを人に見せたりしない。 そのフィーナがあんなになるなんて、よっぽどのことだ。 大使館では、一体どんな仕事をしているのだろうか。 姫という立場上、書類整理など実務的なことではなく、人と人との調整が主な仕事だろう。 相手の言葉尻や仕草から真意を探り、それを適えるように動く。 時には、真意を知った上でそれを裏切らねばならないこともあろう。 とにかく神経を使う仕事だ。 それだけでも大変なのに、フィーナは余計な心配事も抱えている。 自分がその原因を作っていると考えただけで、いたたまれない気持ちになる。 ……。 コンコン扉が控えめにノックされた。 誰だろう。 「はい?」 「遅い時間に申し訳ございません」 「もう、お休みなっていらっしゃいましたか?」 「いや、起きてたよ」 「そうですか、良かった」 「フィーナの様子はどう?」 「そのことなのですが……」 ミアが表情を曇らせる。 「中入る?」 「あ、はい」 ドアを閉め、ミアにイスを勧める。 俺はベッドに腰をおろし、対面した。 「失礼します」 ミアが軽くスカートを畳み、イスに腰掛ける。 「それで、フィーナは?」 ミアは何か覚悟を固めるように、手を強く握った。 「大変お疲れのようで、今はお休みになっています」 「お熱も少しあるようです」 「大丈夫そう?」 「わかりません」 「このままですと、近いうちにお体を壊されることもあるかと思います」 「……」 「昨夜も、お休みになれなかったようでした」 そうか……朝の様子がおかしかったのも、徹夜のせいだったのか。 その上、今日も遅くまで仕事をして。 「そんなに仕事ばかりじゃ、辛いな」 「達哉さん」 ミアの語調がわずかに強くなる。 「姫さまは、この程度のお仕事で体調を崩される方ではありません」 「え?」 「何日もお休みにならないまま仕事をされることは、今まで何度もありました」 「それでも姫さまは、いつも笑顔を絶やさずにいらっしゃいました」 なんとなく、ミアが言いたいことが分かってきた。 「姫さまのご希望で、申し上げないつもりでしたが……」 ミアが居住まいを正す。 「申し上げることにします」 「う、うん」 「姫さまは、ご自身が達哉さんのご気分を害してしまったのでは、と強く心配されています」 「大使館でのこと?」 「俺はもう気にしてないけど」 「……」 「それは、姫さまにお伝えしましたか?」 「あ……」 「いや、まだ……」 そうだ。 俺は結局、フィーナに何も伝えられていない。 自分のことで悶々としていて、そんなこともできなかったなんて。 「達哉さん」 「わたしには、身の回りのお世話をすることしかできません」 「できれば、早く、姫さまのお気持ちを楽にして差し上げて下さい」 ……。 「……分かった、約束する」 「お願いします」 そこまで言って、ミアはイスの上でへなへなと脱力した。 「ありがとう、ミア」 「いえ、出すぎたことを」 ミアは目尻に涙をためて俯く。 俺は、そんな彼女の頭をぽんぽんと叩いた。 「姫さまがお疲れになっていくのを見るのは、辛いです」 「うん、ごめんな」 「はい、はい……お願いします」 「ああ、任せておいて」 「さ、もう疲れただろ」 「はい」 ミアが立ち上がろうとする。 が、なかなか立ち上がれない。 「腰が……抜けてしまいました」 しょんぼりした顔で俺を見上げる。 「ははは、ほら」 俺は、ミアに手を貸す。 「あ、ありがとうございます」 そんなミアの手を引いて、ドアまで連れて行く。 「ミア、ありがとうな」 「は、はい。 姫さまが一日も早く元気になりますように……」 涙目でそう言うミア。 心から、フィーナのことを心配しているんだな。 「ああ、心配しないで」 「はい」 「では、お休みなさいませ」 「うん。 ゆっくり休んで」 ミアは、音が立たないよう静かにドアを閉めた。 軽いミアの足音が遠ざかっていく。 ……。 ミアは、フィーナのことが心配で心配で堪らなかったのだ。 何度も思い悩んだ末、勇気を振り絞ってここに来てくれたのだろう。 年下の女の子にそこまでされてしまうなんて、情けない。 俺も気合いれなくちゃ、な。 「……」 窓際まで行き、下の部屋を見る。 そこには、まだ電気がついていた。 さっきミアは、もうお休みになったって言ってたけど。 今夜も心配で眠れずにいるのだろうか。 「フィーナ……」 足元がフラつくほど疲れていて、その上眠れないなんて……。 申し訳無さで、胸がいっぱいになった。 もう、一時たりとも躊躇してはいられない。 フィーナの部屋の前に立つ。 俺が突然尋ねれば、フィーナは驚くだろうし、嫌がるかもしれない。 恐怖感が沸き起こる。 『その時が来たら、勇気をもって』という姉さんの言葉が思い起こされた。 そう、勇気を出さなくちゃいけない。 ミアだって、勇気を出して俺を諭してくれた。 ……。 一つ大きく深呼吸をする。 コンコン扉を静かにノックする。 ……。 返事は無い。 コンコン「どなた?」 「俺」 「……」 「話したいことがあるんだけど」 「……もう夜中よ」 「でも、起きてたじゃないか」 「偶然です」 「少しでもいい」 「またにして」 「開けてくれなくても、きっと朝までここにいる、俺」 「……」 ……。 …………。 がちゃ「ありがとう」 「どうぞ」 「こんな格好でごめんなさい」 フィーナは寝巻き姿だった。 「いや、いきなり押しかけたのは俺だし」 同じ家に住んでいるのに、彼女の寝巻き姿を見たことは数えるほどしかない。 それだけフィーナは、家の中でも内と外の区別をつけている。 姫としての躾がそうさせるのだろう。 「ミアがいないからお茶も出せないけど」 と、フィーナがソファを促す。 俺は、言われた通りにした。 フィーナは、こちらへ来る前にデスクのライトを消す。 デスクにはたくさんの書類が重なっていた。 「仕事?」 「ええ、なかなか終わらなくて」 フィーナは俺にソファを勧め、自分はデスクのイスに座った。 さっきミアは、フィーナは休んだと言っていた。 ベッドに入ったのは、ミアを安心させるための演技だったのだろうか。 フィーナに仕事をする元気があるかというと、そうではない。 向かい側に座るフィーナの目ははれぼったく、肌にも張りが無い。 仕草の一つひとつからも、濃い疲労が見て取れた。 「体調はどう?」 「多少疲れてはいるけど、平気よ」 フィーナは気丈に言う。 「正直、昨日今日と、フィーナを見ているのが辛い」 「……」 フィーナが視線を逸らす。 「私は別に」 「大使館でのことがあってから、ずっと話もできてないじゃないか」 「……それは」 「やっぱり、門であったこと気にしてるの?」 「……だって、怪我までさせて」 「気にしてないよ」 「え?」 「ぜんぜん気にしてないよ」 フィーナが心配そうに俺の顔を見る。 「でも私は、今までお世話になった恩を仇で返すようなことを……」 「気にしすぎ」 「だってあれは、俺がいきなりフィーナの腕を掴んだからだろ?」 「え、ええ」 「それに、怪我っていっても顔を少し擦りむいたくらいだし」 「これっぽっちも、怒ってないよ」 「ずっと口を利いてくれなかったから、嫌われたと思っていました」 「そんなことないさ」 俺は笑顔で返した。 安心したのか、フィーナはため息を一つついた。 「達哉、一つだけ聞いていいかしら?」 「いいよ」 「どうして、私の腕を掴んだの?」 ……。 「……え、えっと」 さすがに、フィーナと離れたくなくて、とは答えられない。 俺自身まだ迷いがある感情だからだ。 だが、過去のことについてなら話せる。 フィーナがあの少女なのか確認するいい機会だ。 俺は、大きく深呼吸をする。 「……子供の頃のこと、覚えてる?」 思い切って口にした。 「子供の頃って、いつごろ?」 「昔、地球に来たことがあるって言ってたよな」 「その時のこと」 俺の言葉を聞いて、フィーナは大きく目を見開いた。 「……達哉」 絶句したまま、俺の目を見つめる。 ……。 「では、達哉はやはりあの時の」 俺は大きく頷く。 「やっぱり、フィーナはあの時の女の子だったんだ」 「……ええ」 フィーナが口元を押さえる。 そのまま立ち上がると、窓際へ向かった。 顔を見られたくないのだろう。 だから、俺もフィーナの方は見なかった。 「あの時みたいに、フィーナが消えてしまうような気がしたんだ」 「黒服に連れられてさ」 「ちっちゃな頃のフィーナの顔が何度も浮かんで……」 「気が付いたら、腕を握ってた」 「達哉、覚えていてくれたのね」 「ああ、やっぱり辛かったし」 「あの時のフィーナの顔は、忘れられないよ」 「……今と比べて、どう?」 フィーナが振り向く。 ……。 涙のせいか、深い緑の瞳はより一層深みと輝きを増している。 癖の無い真っ直ぐな髪が、滑らかに揺れ動く。 カーテンを背にした姿に、思わず見とれてしまう。 「あの頃より、すごく綺麗になった」 ……。 「た、達哉……」 一瞬間を置いて、フィーナが俯く。 白い首筋が、見る見るうちに紅潮する。 「あ」 遅れて、自分の言ったことに気が付く。 恥ずかしさで体中が熱くなった。 「あ、あの……ごめん」 しどろもどろに弁解するが、フィーナは身を縮めたままだ。 「そのように、からかっては困ってしまいます」 「ごめん、つい」 「お世辞を?」 「ちち、違うよ」 「もう、仕方のないことを」 そう言ってフィーナが頬を染める。 「でも、達哉はてっきり忘れているものだと思っていました」 フィーナがソファに戻ってくる。 「忘れてはいなかったけど、フィーナと結びつかなかった」 「私も、まさかホームステイ先の方が、あの男の子だとは思わなかったわ」 「じゃあ、ここに来たのは偶然だったの?」 「ええ」 「もっとも、私は一目見て気づきましたけれど」 フィーナが、からかうように言う。 「何度かそれらしいことは言ってみたのだけれど、達哉には気づいてもらえなかったみたいね」 「はっきり言ってくれれば良かったのに」 「忘れているのなら、それはそれで仕方の無いことよ」 さっぱりとフィーナが言う。 穏やかな目で俺を見るフィーナ。 「あのことがあってから、私はずっと地球に行きたいと思い続けていたわ」 「だからこそ、今ここにいるのだと思う」 フィーナはゆっくりと目を閉じる。 そして、幾重にも折りたたまれた感情を少しずつ広げるように、フィーナは話し出す。 「そういう目に見えやすい結果だけではなく、地球に対する考え方、感情といった深い部分にまで、あの記憶は染み込んでいます」 「人は結局、過去の集合体だと思うの」 「今この瞬間の私は、私が経験してきた全ての過去の結果」 「忘れてしまった記憶も、忘れてしまいたい記憶も、全て今を形作る材料なのね」 「……」 「相手が忘れているのは少し寂しい気もするけれど、きっとその人の中で記憶は生きている」 「そう思うと、相手が忘れていたとしても許せてしまうのね」 「もちろん、一番大切なのは、これからどうするかということだけれど」 そう言って、フィーナは笑う。 過去を肯定し、前を向いて進んでいく。 彼女の言葉に、俺の中で迷いが消えていく。 フィーナに惹かれているという感情。 それは確かに、過去の記憶が核になっているのかもしれない。 だけど、全ては俺の中から出たものだ。 何を疑う必要があるというのだろうか。 ……。 「そっか……そうだよな」 俺は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 「何?」 「いや、いいこと聞かせてもらったよ」 「そ、そうかしら」 フィーナが恥ずかしそうに言う。 「ああ」 胸がすっきりとしている。 梅雨明けの青空のような、そんな気分だった。 「達哉」 「ん?」 「達哉はさっき、大使館でのことが昔の状況に似ていたって言っていたけれど」 「ああ」 「私もあの時、同じことを考えていたわ」 「だから……」 フィーナが膝の上で手を握り、ぎゅっと力を込める。 「だから、とても申し訳無く思ったの」 俺の目をじっと見据えて言った。 「また懲りもせず、あの時のように、達哉を傷つけてしまったのだから」 フィーナのせいではない。 とっさにそう言いそうになった。 でも、それではフィーナは喜ばない。 なぜか、確信できた。 実際、フィーナ以外の人といたなら同じ状況にはならなかっただろう。 フィーナが月の姫という、桁外れな身分を持っていたからこそ……過去には辛い別れがあったし、大使館でも同じようなことが起こった。 それは確かに、フィーナがフィーナであったからこそ発生したことだ。 ……。 絶対的な立場の差。 恐らく迎えるであろう悲しい別れ。 これらは、フィーナという人格と不可分だ。 フィーナと付き合うということは、そういうさだめと共に歩むことでもある。 ……。 「でも、仕方の無いことだろう?」 しばらくして、俺はそう答えた。 「……ええ」 「いくら悔やんでも、悲しんでも、私の立場は変わらないし、変えるつもりもないわ」 フィーナは、わずかに表情を緩める。 「ずっと思っていたの」 「もし、あの時の少年に会うことができるなら、謝りたいと」 「フィーナも辛かったんだな」 俺の問いにフィーナは答えなかった。 その代わり、優しく目を細めた。 「達哉」 「一度だけ、一度だけでいいから謝らせて欲しい」 「大使館でのこと、そして幼いあの日のことを」 「ああ、それでフィーナの気持ちが楽になるなら」 「ありがとう、達哉」 この時、ようやく分かった。 大使館でのことがあってから、フィーナが悩んでいた訳が。 俺が、黒服に倒されたことを怒っていると考えていたのは勿論だろうけど──それは、表面に現れた分かりやすい事柄でしかない。 本当に彼女を苦しめていたのは──過去と同じようなことを、再び同じ相手に繰り返してしまったこと。 それでもなお、事件の根本的な原因である、彼女の立場を変えることができないこと。 そして──全てを、フィーナの胸の中だけに収めておかねばならないことの重みだ。 謝ってしまえば楽になる。 だが、謝ったとしても、フィーナには問題の原因を解決することができない。 彼女の高潔さは、そんな無責任な謝罪を許さなかったのだ。 ……。 …………。 「達哉」 「ごめんなさい」 ……。 …………。 フィーナが深く頭を垂れた。 青く透き通ったガラステーブルに着いてしまうほど、頭を下げた。 普通の人なら、誰でも日常的に繰り返している、自分のための謝罪。 自分が楽になるためだけの謝罪。 それは、フィーナにとって精一杯の甘えだった。 肩に掛かっていたフィーナの銀髪が、テーブルに落ち、広がった。 深夜の水面に注ぐ月光のように、それは静謐な輝きを放つ。 ……。 謝罪というあまりにも人間くさい行為。 だが今、目の前で行われているそれは、神聖な儀式のように厳かで荘重なものだった。 目頭が熱くなる。 いや、もう俺は泣いていたのかもしれない。 フィーナの高潔さに、美しさに、悲しさに、そして、彼女に甘えてもらえたことの嬉しさに俺の体は痺れきっていた。 ……。 さあ、後はフィーナに言葉をかけてあげなくては。 それは儀式の終焉を意味する。 少し惜しい気もする。 だけど、フィーナをいつもの明るい彼女に戻してあげなくてはいけない。 ……。 しばらく時間を置いて、俺は口を開いた。 「許すよ、フィーナ」 ……。 フィーナがゆっくりと頭を上げる。 その表情には、静かな笑顔が浮かんでいた。 フィーナが目を細めて、俺を見る。 重責から解き放たれた、一人の少女がそこにいた。 それが一時のことであったとしても、俺は彼女のそんな顔を見られたことを誇らしく思った。 フィーナの薄い唇が開き、息を吸う。 「ありがとう、達哉」 瞼越しに、朝の光を感じる。 窓の外からは明るい鳥の声が聞こえていた。 何だか、変な感じがする。 俺のベッド、こんなに柔らかかったっけ?薄っすらと目を開ける。 「っ!」 一瞬で眠気が消し飛んだ。 俺はフィーナのベッドにもたれて眠っていたのだ。 混乱する頭で、昨夜の状況を巻き戻す。 ……。 …………。 あの後。 緊張が解けたせいか、溜まっていた疲労がフィーナを襲った。 足元がフラつく彼女をベッドに寝かせ、俺はしばらく側にいたのだ。 ……。 記憶はそこまで。 そのまま寝てしまったのだろう。 もちろん、やましいことは何もしていない。 緊張が解けたのは、フィーナだけではなかったということだ。 静かに寝息を立てるフィーナは、まさに人形のように眠っている。 寝姿には一切の乱れが無い。 寝相すら躾けられているのだろうか。 思わず見とれてしまう。 「……」 ちょっと待て。 見とれている場合ではない。 誰かに見つかったりしたら面倒なことになる。 ともかく部屋に戻ろう。 そう思って立ち上がろうとした時、「恥ずかしいことをしてくれるのね」 フィーナの声がした。 「わあっ」 心臓が口から飛び出しそうになる。 「おはようございます」 「フィ、フィーナ」 「達哉もここで寝てしまったのね」 フィーナが上半身を起こしながら言う。 「そ、そうみたい」 「あの、別に変なことはしてないから」 「そう?」 「いや、ほんと、絶対」 俺は力一杯否定する。 「ふふふ……大丈夫、信じているわ」 「さあ、そろそろミアが来る時間よ」 「こんなところミアが見たら、気を失ってしまうわ」 そう言ってフィーナが微笑む。 「そ、そうだな」 「じゃ、部屋に戻るから」 と、立ち上がろうとする。 「う……」 足が痺れていて全く力が入らない。 「どうしたの?」 「い、いや」 モタモタしてはいられない。 早く部屋に戻らないと。 俺は、感覚が無いほどに痺れた足に無理矢理力を入れる。 「……っ!」 だが、俺の努力も虚しく、立ち上がりかけたところで膝から力が抜けた。 「うわぁっ」 「きゃっ」 ベッドで上半身を起こしていただけのフィーナは、よけることができなかった。 俺の頭は、ほとんど抱きかかえられるように、フィーナの胸に収まっている。 視界いっぱいに広がる、フィーナの寝巻き。 顔には柔らかい胸の感触。 花のような香りが鼻腔に充満し、頭がクラクラしてくる。 「た、達哉?」 「ご、ごめんっ」 慌てて体を起こそうとするが、足に力が入らない状態ではいかんともしがたい。 ただジタバタともがき、フィーナに自分を押し付けるだけだった。 「ごめん、ほんとにごめんっ」 もがけばもがくほど頭は真っ白になっていく。 「とにかく、落ち着いて」 「でもっ」 「いいから、落ち着きなさいっ」 強く言って、フィーナが俺の首に腕を回す。 「……っ」 俺の頭はショートした。 視覚が、触覚が、嗅覚が、フィーナの情報でいっぱいになる。 「別に嫌だと言っているわけではないのです」 あれ?フィーナは今、何て言ったんだ?「落ち着いて」 「慌てていては、立てるものも立てません」 「……」 無言で頷く。 それしかできることが無かった。 ……。 とくんとくん鼓動が聞こえる。 フィーナのものだ。 控えめなのに、存在感のある音。 全身の緊張が解けていく。 なんて心地よいリズム。 「ごめん。 俺、足が痺れてて」 「ええ、仕方の無いことですよ」 頭の上からフィーナの声がする。 息遣いばかりか、声帯の震えまで感じられそうだ。 「ごめん」 何度目かの謝罪を口にする。 にもかかわらず、ずっとこのままでいたいと思う。 きっとフィーナの体から俺が離れられなくなる力が出ているのだ。 そんなことを冷静に考えてしまうほど、俺はおかしくなっている。 「さあ、手をベッドに着いて」 フィーナの腕が俺の首から解ける。 もう少し、抱いていて欲しかった。 俺は、言われるがままに手を着き、力を込める。 顔からフィーナの感触が消える。 足にも何とか力が入りそうだ。 コンコン「姫さま、お目覚めの時間です」 「達哉、早く」 「っっ」 慌てて体を起こそうとする。 ……。 が、ガチャ……。 …………。 ………………。 言うまでも無く、ミアは凍り付いていた。 氷漬けのマンモスもかくや。 微動だにしない。 ……。 フィーナのため息が、聞こえた。 「きゅう……」 ごとんミアがゆっくりと倒れた。 「わ、ミアちゃんどうしたのっ?」 ……。 …………。 終わった。 「達哉くん。 女の子の部屋に忍び込んだ挙句、抱きつくとはどういうことなの!?」 どうもこうも。 俺にはうなだれることしかできない。 「お兄ちゃんのえっちー」 なぜか、麻衣のストレートさが心地よい。 「ああ、俺はえっちな男なんですよ、もう仁さんも裸足で逃げ出すくらいっ」 (脳内)と、叫んでしまえたら楽なのかもしれない。 そのくらい、いろんな意味で終わっていた。 「達哉くん」 「……はい」 「どういうことなの?」 「ごめん」 「事故なのでしょ?」 「……」 そっと、隣に座るフィーナを見る。 申し訳無さそうに俯いている。 フィーナはどう思っているのだろう。 「達哉くん」 姉さんの口調は真剣そのもの。 それはそうだ。 姉さんは月からフィーナを預かっている身。 責任がある。 家族とフィーナがただならぬ関係になったなど、笑って済む話ではない。 「事故です」 フィーナは目を閉じて俺の言葉を聞いた。 ちくりと胸が痛む。 「事故でなくては困ります」 「仮にもフィーナ様は王女なのですよ」 「さやか、そういうことを言うのは止めて」 フィーナが、きっ、と視線を上げる。 「いいえ」 「冗談で済むことと済まないことがあります」 「フィーナを責めないで。 悪いのは俺だ」 「かっこいいことを言ってもダメです」 「もしものことがあったら、謝るくらいじゃ済まなくなるのよ」 「軽々しくこういうことをしてもらっては困るわ」 「お姉ちゃん、本気だったらいいの?」 「あら?」 姉さんは錯乱していた。 ちなみに、ミアは放心の体だ。 「ともかく、達哉くんっ」 「さやか」 フィーナは強い語調で姉さんを遮る。 「達哉ばかりを責めるのはやめて」 「抵抗しなかった私も悪いのです」 ……。 「……わあ」 麻衣が乾いた声を上げる。 「くらっ」 姉さんがめまいを起こす。 「あ、いえ、今後はお互いに注意するということです」 「は、はい、そうよね」 「……ああ、もう仕事に行かないと」 「それじゃ達哉くん、しっかりね」 「お姉ちゃん、応援してどうするの」 「そういえば……疲れているのかしら」 もうグダグダだ。 姉さんはフラフラとした足取りでリビングを出ていった。 残された俺たちは、何も言えず、姉さんの背中を見送った。 ……。 「お兄ちゃん、本当に事故なの?」 麻衣がじっと俺を見て言う。 「……あ、ああ」 歯切れ良く答えることができない。 それは、俺の中にフィーナに惹かれる気持ちがあるからだ。 「姫さまはどのようにお考えで?」 ミアがようやく口を開く。 「意図してしたことではないわ」 「……」 正直、辛い言葉だ。 俺の気持ちとフィーナの気持ちは別。 当たり前のことなのに……。 「ごめんなフィーナ」 「いえ、いいのです。 これから気をつければ」 相手が普通の女の子だったら、事情を説明すれば終わることだったのかもしれない。 でも、今朝のことが露見しただけで一家は騒然。 フィーナがいかに特別な存在であるかを思い知らされた。 「ミア、そろそろ朝食の準備をしてくれる?」 「はい、ただいま」 「ミア、心配かけてごめんな」 「いいえ、事故ならいいんです」 「わたしも、早とちりしてしまってすいませんでした」 ぺこりと頭を下げて、ミアがキッチンに入った。 「さーて、わたしも準備しよっと」 ミアに続けて、麻衣がリビングを出て行き、フィーナと俺がリビングに残された。 ……。 キッチンから、水の流れる音が聞こえてくる。 「ようやく落ち着きました」 大きく息を吐いてフィーナが言う。 「大変だったな」 「ええ」 「でも、こういうことを言ってはさやかに怒られそうだけれど……」 「楽しかったわ」 「確かに、ホームステイにでも来てなきゃ、できないことかもしれない」 「ふふふっ。 王宮でこのようなことになったら大騒ぎになってしまうわ」 窓越しに空を眺めて楽しそうに言う。 その姿に俺の胸は痛くなった。 フィーナの世界は別の星にある。 分かりきっていることのはずなのに──俺はどこかで受け入れられないでいる。 フィーナが手の届かないところへ行ってしまうこと。 避けようも無い確定した未来。 行ってほしくない。 このまま、地球にいて欲しい。 こんな自分勝手な欲求が、既に俺の中に根を張っている。 でも、それを口に出すわけにはいかないから──俺は心の中で、何度も繰り返す。 「いい香りがしてきたわね」 「え? ああ」 リビングには甘さと香ばしさに溢れた空気が流れていた。 「玉子焼きかしら?」 「みたい」 「私、大好きなの」 「作り方は簡単なのに、どうして月にはないのかしら?」 「なら、フィーナが月に玉子焼きを伝える最初の人になったらどうだ?」 また、ちくりと胸が痛む。 こんな冗談でヘコむなんて、ほんとどうしようもない。 「ふふふ」 「作るのはきっとミアだから、ミア焼きとでもしましょうか」 「じゃ、ミア焼きを食べに行こうぜ」 「ええ」 二人で同時に立ち上がる。 俺の左手とフィーナの右手が触れた。 キメ細やかな肌の感触が伝わってきて、俺は息を飲んだ。 「……っ」 「爪が当たってしまいました?」 「いや、大丈夫」 「良かった」 「さあ、行きましょう」 フィーナが先に立ってキッチンへ向かう。 ……。 すれ違いざま、フィーナの頬に少しだけ血が上っているのを見た。 帰りのホームルームが終わった。 宮下先生が教室から出るよりも早く、菜月がフィーナの席に駆け寄る。 「フィーナ、もう帰れる?」 「ええ、準備はできています」 「何か用事でもあるのか?」 「うん、ちょっとね」 菜月は居ても立ってもいられない様子だ。 「じゃ、私とフィーナは先帰るから」 「いや、俺もすぐ帰れるけど」 「いいの、達哉はゆっくり帰ってきて」 「何だよそりゃ」 「いーいーのー」 「ふふふ、では私たちは急ぎますから」 「……」 「まいっか。 気をつけてな」 「分かってるっちゅーに」 「また後で、達哉」 「ああ」 俺の返事を聞いたか聞かないかのうちに、二人はいそいそと教室を出て行った。 ……。 からんからん「こんにちわ」 クーラーで程よく冷やされた店内。 摂氏30度を超える戸外と比べると、天国と言う他ない。 シャツが肌に貼り付くほどかいていた汗も、綺麗に引いていく。 「や、達哉君。 いつもより早いんじゃないかい?」 「そうですか?」 店の奥の時計を見ると、確かにいつもより10分程度早く到着していた。 「菜月が先に帰ったんで、何となく早足になったのかも」 「こんな暑い日に早足で歩くこたないだろうに」 仁さんが苦笑する。 「菜月はもう来てます?」 「来てるよ。 今、華麗に変身中だね」 「んじゃ」 と、俺は手近なイスに腰をおろす。 左門の更衣室は男女共用。 菜月が着替えているところに闖入しようものなら、瞬きのうちにしゃもじの餌食だ。 分かっていても事故はあるわけで、実際にしゃもじの洗礼を受けたことは1度や2度ではない。 ……。 窓の外を、夕食の買出し客が絶え間なく流れていく。 親に手を引かれて歩く子供は、容赦なく降り注ぐ陽光の下でも呆れるくらいに元気だ。 ぼんやりと母親のことが思い起こされた。 親父が消えてから、女手一つで俺や麻衣を育ててくれた母さん。 彼女に手を引かれた記憶は既に遠く、思い出されるのは死ぬ間際の姿ばかりだ。 不意打ちのように消えていった俺の家族。 残された3人で地図の無い世界を歩いてきた。 それが、ホームステイを受け入れられるまでになったのだから、まあ立派なものだ。 コトテーブルに何かが置かれる音。 目を遣ると、水が注がれたタンブラーとデカンタがあった。 「さんきゅ、菜月」 「どういたしまして」 「ぶっ!」 ちょっと待て。 何か、ここにいるはずじゃない人の声が聞こえなかったか?……。 …………。 恐る恐る振り返る。 「菜月じゃなくてすみません」 そこには、左門のウェイトレス服に身を包んだフィーナがかしこまっていた。 白磁の肌に銀色の髪。 フィーナの容貌はもともと透明感が強い。 そんな彼女が派手なカラーリングの制服をまとっている。 眩しいほどの色のコントラスト。 フィーナが元来持っている凛とした空気と相まって、その存在感は圧倒的だった。 そして何より、美しい。 「おかしいところはないかしら?」 「あ、あぁ……」 ガクガクと頷く。 渇いた喉を潤すため、フィーナが持ってきた水を口に含む。 「ふふふ、達哉が最初のお客様ね」 「最初って……これからバイトするのか?」 「ええ。 と言っても今日だけよ」 「以前、菜月に誘われたの」 そういえば、フィーナが料理を作った時に、菜月とそんな話をしてたっけ。 「そっか、何でも言ってみるもんだな」 「??」 「いや、お陰でフィーナのかわいい格好が見れたからさ」 「達哉、これはお仕事なのですよ」 フィーナがきりりと言う。 「……ごめん」 「悪い気はしませんけど」 と、手を口に当てて苦笑した。 「何だか、楽しそうね」 「よ、よう」 「何が『よ、よう』よ。 鼻の下伸ばしちゃって」 「でも、フィーナの格好見たらそんなもんか」 「どこかおかしいかしら?」 フィーナがきょろきょろと体を見回す。 「似合いすぎるって話」 「そうかしら?」 「私は菜月のほうが似合っていると思うけれど」 「あらやだ、もう」 菜月がパタパタ手を振って赤くなる。 「どこぞのおばさんかよ」 「う る さ い」 「ほら、達哉は早く着替えてきてよ。 接客の練習しなくちゃいけないんだから」 「ほいほい」 俺は水を飲み干し、バックヤードへ向かった。 「いらっしゃいませっ」 着替えを終えてフロアに戻ると、フィーナが発声練習をしていた。 清涼な余韻が店内を震わす。 通る声だが、いかんせん声量が足りない。 運動と一緒で、声もきっちり出すには、それ相応のトレーニングが必要だ。 一朝一夕でどうなるものではない。 「どう?」 フィーナから見て、ホールの反対側に立っている菜月に話しかけた。 「うん、通るんじゃない」 「声量は鍛えなきゃどうしようもないから、こんなもんでしょ」 菜月も同じ意見だった。 「達哉、そこまで聞こえる?」 「ああ」 手でOKサインを出す。 「もう少し離れてもらえるかしら?」 「このくらいで十分だって」 「でも、お客様がいらしたら、声が通りにくくなるでしょう?」 「まあ、それはそうだけど」 「自分の声が届く範囲を知っておきたいのです」 「分かった」 俺はホールからキッチンに入る。 「いらっしゃいませっ」 障害物があるせいか、ここではかなり小さく聞こえた。 お客様が入ったら、恐らく聞こえなくなるだろう。 「いらっしゃいませっ」 「いらっしゃいませっ」 俺がOKを出さないので、フィーナは何度も声を出す。 少しも手を抜くことなく、懸命に。 仕事に対する責任感の強さが、彼女にそうさせるのだろう。 フィーナの真摯さには、いつも驚かされる。 「オーケー」 そう言って、フィーナの元に向かう。 「キッチンまではちょっと無理みたいだな」 「分かりました。 本番では気をつけることにするわ」 満足そうにフィーナが言う。 「喉、大丈夫か?」 「大丈夫よ」 「こんな大きな声を出したのは久し振り」 運動の後のように爽やかに言って、タンブラーにデカンタから水を注ぐ。 それは、俺がさっき……。 注意する間もなく、フィーナはタンブラーに口をつけた。 「美味しい」 「……あのさ」 「何かしら?」 「そのグラス」 ……。 …………。 「あ、ごめんなさい。 思わず」 「代わりを持ってくるわ」 「あ、いや……」 俺が間接キスしたことを嫌がっているように思われてそうだ。 「別に嫌ってわけじゃ……」 「……」 フィーナがわずかに息を飲む音が聞こえた。 「ならここに置いておくわね」 「あ、ああ」 もしかして、フィーナも嫌ではないということなのか。 それとも、ただ単に間接キスの概念がないのか。 確かめることなどできない。 「次は何を練習したらいいかしら?」 「え、えっと……」 菜月に意見を求める。 ……。 あれ?いつの間にか菜月がいなくなっている。 仁さんの姿も無い。 「菜月なら、さっき出て行きましたよ」 「そ、そっか……買出しかな」 「それで、次は何を?」 「そうだな、お客様が入ってきてからの流れを一通りやってみよう」 「ええ、お願いします」 基本的なルーチンをフィーナに教えてから、模擬練習に入る。 俺がお客様の役だ。 からんからん「いらっしゃいませっ」 抜群の笑顔が俺を迎えてくれる。 営業スマイルだと分かっていても、胸が高鳴ってしまう。 「1名様ですか。 こちらのお席へどうぞ」 壁際の一番奥の席へ通された。 すぐに水の入ったグラスとおしぼりが渡される。 ここまで、全くそつが無い。 「じゃあ、カルボナーラとシーザーサラダを」 「あー、あと、食後にコーヒーを」 フィーナが俺の言葉を真剣に聞いて、伝票に書き込む。 無意識にだろうが、フィーナは薄い唇を動かしてメニューを復唱している。 それがとても可愛らしかった。 「ご注文を繰り返します」 「カルボナーラとシーザーサラダ、食後にコーヒーですね」 淀み無く流れる、オーダーの復唱。 この距離なら声量は問題とならず、むしろ発音の明瞭さが重要だ。 その点フィーナは優れている。 なにせ、王室仕込みの発音だ。 「ああ、お願い」 「はい、少々お待ち下さいませ」 ぺこりと頭を下げ、フィーナが席から離れた。 申し分ない接客態度だ。 「はい、ここまでで」 俺は練習の終了を告げた。 「どうだったかしら?」 「ああ、この調子なら大丈夫そうだ」 「良かった」 フィーナが安堵の表情を浮かべる。 全く気がつかなかったが、緊張していたらしい。 「じゃ、後は物の配置を説明しておくよ」 と、俺が立ち上がったところで「そんなレッスンで満足していていいのかな?」 唐突に、芝居がかった声が飛んできた。 「仁さん」 「なんですかいきなり」 キッチンにはいつの間にか仁さんが仁王立ちになっていた。 「お楽しみのところ悪いがね、お客様がそんな良い人ばかりとは限らないよ」 「お楽しみってのは何ですか?」 「公園のベンチで語り合うカップルを見ているようだった、と言っているのだよ」 「まあ」 「ちょっ、仁さんっ」 「何かね?」 「そんなこと言ったら、フィーナが困るだろ」 「困るの?」 「わ、私は……」 フィーナが珍しく言い淀む。 心なしか、首筋が赤くなっているような……。 「ま、二人がそんな調子なのは分かった」 仁さんが一人で納得している。 「それはいいとして」 「やはり、悪質なお客様への対応も身につけておくべきだろう」 「はい、その通りだと思います」 話題が仕事に戻り、フィーナは姿勢を正した。 「それに、達哉君だって嫌なお客様にぶつかったことは何度もあるだろう?」 「否定はしませんが」 「では達哉、その時の状況を練習してみましょう」 「う、う~ん」 接客業をやっていれば、嫌なお客様の事例などたくさんある。 かといって、それを実演するとなると……。 「よし、僕がお客様の役をやろう」 仁さんが胸を叩く。 どうやら、初めからこれがやりたかったようだ。 「仁さんなら適任ですね」 「後で代わってくれといっても、承服しかねるぞ」 俺の皮肉はあっさり流された。 「言いませんから」 「では、僕は外に出るよ」 と、仁さんが店外に出る。 「こういうことがお好きなのね、仁さんは」 「仁さんの場合、普通にしててもヤバい客だからな」 「フィーナ気をつけろよ、何をしてくるか分からん」 「その方が、真に迫った練習ができるわ」 フィーナも気合十分だ。 俺は、少し離れたところに立って様子を見守る。 ……。 からんからん「あ~、暑ちぃなぁ~」 尊大な態度で、仁さんが入ってくる。 「いらっしゃいませっ」 「おねえちゃん、クーラー強くしてよ、クーラー」 フィーナの声は無視。 大声で言って、4人席にどっかと腰を下ろす。 見事だ。 隙の無い嫌な客。 ……演技なのか?「お客様、こちらのお席の方が涼しいですよ」 フィーナは笑顔を崩さず、自然に奥の2人席を勧める。 「お、おう、そうか」 仁さんがイスから腰を上げる。 「やるわね」 いつの間にかフロアに菜月が立っていた。 手にはしゃもじ、というか得物。 ……。 フィーナは早速、水とおしぼりを用意する。 「あー、ありがとね、おねえちゃん」 仁さんはおしぼりを受け取ると、顔から首筋から腕までを拭く。 フィーナの眉がピクリと動いた。 「あれっ」 「どうされましたか?」 仁さんが、フィーナの体を上から下までねっとりと眺める。 「おねえちゃん、かわいいなぁ」 「ありがとうございます」 この程度ではフィーナは揺るがない。 まあ、かわいいなんて言われ慣れてるだろうし。 「顔もいいし、胸も……いいね」 「腰もきゅっとして、たはっ、このスカートなんてもう……」 「おじちゃんを、犯罪者にしたいのかい?」 素敵にエロオヤジだった。 こんなに輝いている仁さんは初めて見た。 「オーダーはお決まりでしょうか?」 フィーナの声が少しきつくなる。 だが、まだ耐えている。 「カレー」 「申し訳ございません、当店ではカレーはお出ししていないのですが」 「こちらのパスタはいかがでしょうか? 当店のオススメとなっております」 「ああ、じゃあこのナポリタン、一つ」 「あれだ、おねえちゃん、本当のイタリア料理屋にはナポリタンなんてないんだぜ」 「自分で言うなって」 0.5秒で菜月がツッコんだ。 「なるほど、勉強になります」 「それではオーダーを復唱します」 フィーナが復唱に入る。 山は越えたと思っているのだろう、声には安堵の響きがあった。 甘い。 ここからが勝負だ。 この後、フィーナはキッチンに向かう。 仁さんが店に入って初めて、フィーナは彼に背中を向けるのだ。 ましてや、今の仁さんはエロオヤジ。 動くなら、きっとその時だ。 「……以上でよろしいでしょうか?」 「ああ、ちゃっちゃと頼むよ、おねえちゃん」 「はい、少々お待ち下さいませ」 フィーナが頭を下げた。 そして、踵を返す。 瞬間仁さんの手が動く。 目指すはフィーナのお尻。 菜月は、仁さんの動きに気づいていないようだ。 ……。 これは練習だ。 まさか本当に触るなんてことは……でも、相手は仁さんだ。 もしものこともあり得る。 ……。 ゆっくりと、仁さんの手がフィーナに迫る。 あと数瞬で、それはフィーナに到達するだろう。 ……。 仁さんが──自分以外の誰かが、フィーナに触ろうとしている。 演技かもしれない。 でも、「もしも」 を想像するだけで俺の胸は痛みで一杯になった。 ……。 「フィーナっ!」 我慢が限界を超え、俺は叫んだ。 「えっ?」 「くっ」 仁さんの手が、一瞬で引っ込められた。 ……。 …………。 「どうしたの、練習中なのよ?」 仁さんの動きに気づいていなかったフィーナは、少しだけ非難の色を込めて俺を見た。 「仁さん、フィーナを触ろうとしただろ」 「まあ」 「演技だよ、演技」 「そんなことしてたの……」 菜月がうなだれる。 「気がつかなかったわ」 「だから、後ろを見た瞬間が狙われるんだね」 うんうん、と頷く仁さん。 「何、納得してるのよ」 「もう、ほんとごめんね、こんな兄さんで」 菜月がフィーナに謝る。 「いいじゃないか、ナイトが守ってくれたんだし」 「仁さん、また仕方の無いことを」 「誰がナイトですかっ」 「恥ずかしがることはないじゃないか」 「達哉君のさっきの顔なんて、鬼気迫るものがあったよ。 くわばらくわばら」 仁さんが苦笑しながら立ち上がる。 「フィーナちゃんならきっとうまくやれると思うよ」 「なにせ、この僕が触れなかったくらいだからね」 「はい、ありがとうございます」 フィーナは笑って頭を下げた。 「おっ、賑やかにやってるな」 にこやかな表情で、バックヤードからおやっさんが入ってくる。 時計を見ると、もう開店の時間が近づいていた。 「左門さん、お世話になります」 「なに、いいって」 「その代わり、お客様じゃ困るぞ、しっかりな」 「はい」 フィーナが明るく返事をする。 「菜月、そろそろ準備をしないと」 「おっけー」 「フィーナは私を手伝って」 「ええ、分かったわ」 「さて、僕も仕込みの続きを」 「おい仁、まだ終わってないのか?」 「はっはっは」 「『はっはっは』じゃない。 さっさとしろ」 ……。 こうして、慌しく皆が動き始めた。 開店して数時間。 フィーナの仕事振りには、正直言って驚いた。 何でも初めからできている訳ではない。 でも、教えたことはすぐに身につけ、同じミスは二度としない。 「こちらは2番さんでいいのかしら?」 「ああ、持って行って」 「達哉、レジに入ります」 「任せた」 「4番テーブルのセッティングをお願い、ご予約のお客様がいらっしゃるわ」 「了解」 てな具合に、時間が経つほどに俺とフィーナの立場が逆転していく。 もちろん接客態度も抜群。 足の運びまで無駄の無い彼女の振る舞いは、見ている方がうっとりしてしまう。 ……。 「すごいわね」 「だな」 「あそこまで行くと天才ね」 「かわいいし、勉強もできるし、ウェイトレスもできるし」 「能力の3割でもいいから分けて欲しいわね」 容姿と学業とウェイトレスが並列になっているあたり、菜月もある意味すごい。 「でも、フィーナは努力してるだろ?」 「うん、だから憎めなくて困っちゃう」 菜月が笑う。 「俺たちも負けないように努力しようぜ」 「そうね」 「でも達哉、最近フィーナと仲いいんじゃない?」 「そ、そんなことないさ」 「すぐテレるんだから」 菜月がくすくす笑う。 「私の目はごまかせないわよ」 「……」 「女の私が憧れるくらいだから、男の子が好きになっちゃうのも仕方無いか」 「好きっていうか、なんだろう?」 「認められたい……ちがうな」 「一緒に歩いていきたいっていうか……ごめん、上手く説明できない」 なぜかすらすらと自分の気持ちを言ってしまう。 きっと、相手が菜月だからだろう。 「ご執心じゃない」 「フィーナがどう思ってるかは分からないけどな」 「そりゃそうね。 分かったら怖いし」 「だから結局は自分の問題なのよ」 「だな」 「そっか、達哉がフィーナをね……」 ……。 …………。 そう言ったきり、菜月は口をつぐんだ。 カシャン「あ」 どうやらグラスを落としたようだ。 「わお」 「おう」 「さ、出番よナイトさん」 「やめてくれよ」 俺は顔を引き締めながら、フィーナの元へ向かう。 ……。 「大丈夫か?」 かがみこんでいるフィーナの側に行き、小声で話しかける。 「ええ、怪我はないわ」 「良かった」 「こういう時は、まずお客様に謝る。 ほら」 「失礼致しました」 「失礼致しました」 「そしたら、危なくない大きな破片だけ拾って、プレートに乗せる」 「分かりました」 「後は私がやるわ。 私が落としたものだし」 「いいよ、二人でやろう」 「……え、ええ」 食事中のお客様がいるため、ホウキは使えない。 俺たちは、かがんでガラスの破片を拾う。 「手を切らないように」 「達哉も」 一つ、二つ、と破片を拾い集めていく。 気がつくと、フィーナと体が接するほど近づいていた。 フィーナからは、花のような甘い香りに混じって、かすかに汗の匂いが感じられる。 意識がぼうっとなるような、不思議な香りだ。 「あ」 「ん?」 最後の破片の上で、俺とフィーナの手が触れた。 「白魚のような」 とはこのことだろう。 フィーナの指は、白く細く、そして優美に動く。 そんな観察ができるくらい、俺たちは手を触れ合わせていた。 「達哉、拾わないと」 「あ、ごめん」 名残惜しさを感じながら、俺は最後の破片を拾い上げた。 ……。 ガラス専用のゴミ箱に破片を片づけ、俺たちは待機位置に戻った。 「ありがとう、助かったわ」 「やはり、先輩は頼もしいわね」 「すぐ埋まるよ、そんな差なんて」 「達哉は、いつからこの仕事を?」 「学院に入ってからだから、今年で3年目だな」 「菜月もその頃から?」 「正式にはそうだと思う。 あいつの場合は自分の家だからもっと小さい頃から手伝いはしてたけど」 「もう2年も、達哉と菜月は働いているのね」 「確かに、こちらから見ていても本当に息が合っていたわ」 「毎日のようにやってることだから」 菜月とは幼なじみで腐れ縁だけど、それ以上ではない。 フィーナに誤解されているのでは、と心配になった。 「良くないわね、時間に嫉妬するなんて」 フィーナがぽそりと言う。 「え?」 「いえ、私も頑張らないと」 からんからん「いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」 「さ、フィーナ」 「ええ、閉店まで頑張りましょう」 そう言って、フィーナはお客様の元へ向かっていった。 ……。 クローズ作業も一段落し、俺たちは各々イスに座ってのんびりと体を休める。 「どうだった、一日働いてみて」 菜月は野菜ジュースをフィーナに渡しながら聞く。 「とても楽しかったわ」 「やはり、汗をかくのはいいものね」 「あはは、何かの勉強になった?」 「正直なところ、目の前のことで精一杯で勉強どころではなかったわ」 「初めは誰でもそんなものよ」 「毎日、学院に通って、放課後はこんなお仕事をしているなんて」 「二人ともすごいバイタリティ」 「ま、生活もあるしな」 「そね」 「休憩中すまん。 ちょっといいか?」 「はい」 「どうしたの?」 「いつもより早いんだが、給料を渡しておこうと思ってな」 左門の給料日は25日。 確かに早い。 「明日から夏休みだろ? その軍資金さ」 「そんな時期ですね」 フィーナがすっと俺たちの後ろに下がる。 「おいおい、どこ行くんだ」 「まずはフィーナからだぞ」 「私ですか?」 「ああ」 「きちんと仕事をした人にはきちんとお礼」 「そうじゃなきゃ、お天道様が西から上っちまう」 左門さんがにこやかに言う。 「ありがとうございます」 「んじゃ、フィーナ」 「はい」 「お疲れ様、ありがとう」 と、茶色い封筒をフィーナに渡す。 「ちゃんと明細を確かめるんだぞ」 「俺が強欲店長かもしれないからな」 「ふふふっ、はい」 フィーナが封筒から明細と約三千円の現金を取り出す。 「はい、確かに受け取りました」 「どうだ、感想は?」 「とても、とても嬉しいです」 フィーナは熱っぽく答えた。 本当に嬉しそうな顔をしている。 「よし」 「あとはお前ら」 まとめて封筒を渡された。 「なんかぞんざいじゃない?」 「ああ」 とりあえず、フィーナに習って明細と現金を確かめる。 ちなみに、日頃はやっていない。 「いつもの分は引いといたからな」 「はい」 「いつもの」 というのは、俺の給与から毎月積み立てている貯金のことだ。 「つーか、こんなところでわざわざ言わないで下さい」 「いいじゃない、恥ずかしがることじゃないわ」 「何のこと?」 「達哉はね、家にもしものことがあった時のために、毎月積み立てをしてるの」 菜月は俺を無視して説明を始める。 隠し立てしても無駄なようだ。 「初めは姉さんに直接渡そうと思ってたんだけど、受け取ってくれないんだ」 「自分のために使いなさいってね」 「さやかの気持ちは分かります」 「俺も分かるから、その分は内緒でおやっさんに預かっていてもらってるんだ」 「それを元手に、俺がギャンブルで少しずつ増やすって寸法さ」 「あほ」 「ま、そんなわけ」 フィーナは俺の顔をじっと見ている。 「素晴らしいことだわ、達哉」 真顔で褒められた。 こそばゆい気分だ。 「ありがとう」 「でも、褒められようとしてやっているわけじゃないから」 「ええ、分かっているわ」 「達哉はそんな人ではないもの」 「……うわ」 自分でも情けなくなるほど恐縮してしまう。 「達哉、真っ赤」 「ははは、フィーナには敵わんな」 「どういう意味ですか」 「いやいや、いいんだ。 はっはっは」 からんからん「こんばんわー」 「おっ、腹をすかせたのが来たな」 朝霧家の面々が、どやどやと店内に入ってくる。 「おい、仁、できてるか?」 「はっはっは、食べさせるのが惜しいくらいの出来だよ」 「じゃ、ご飯にしよっか」 「腹減ったな」 「ええ、今日はさすがに」 フィーナが笑う。 満たされた表情に、俺まで嬉しくなった。 1学期が終了した。 この日の学院は午前中で終わる。 それと同時に、フィーナの留学も静かに終わりを告げた。 ……。 いつもより早く帰宅した俺は、バイト前に犬の散歩を済ませ、縁側でクールダウンしている。 ちょっとその辺を散歩しただけで、シャツはべっとりと肌に貼り付いていた。 本格的な夏だ。 ぼんやりと昨日のことを思い起こす。 昨日のバイトは、フィーナにとって初めての仕事だったのだろう。 きっと月に帰っても、昨日のことは忘れずにいてくれるに違いない。 「フィーナ」 その名を口にするだけで、顔が少し熱を持つ。 ……。 俺はフィーナのどこが好きなのだろうか?美しいこと、凛とした雰囲気、真っ直ぐな考え方、責任感が強いところ、辛いことも一人で耐えようとする孤独さ、部分部分の話ではない。 これら全てが相まって作り上げられている、フィーナという人が好きなのだと思う。 ここまでは、すっきりと腑に落ちる。 だが……俺は想いを伝えるべきなのだろうか。 答えはきっとノーだろう。 仮にフィーナが俺のことを憎からず思っていても、彼女は俺の思いに応えることはできない。 そこには、幼い頃と同じ辛い別れが待っているだけだ。 フィーナのホームステイが、楽しい思い出として残るようにしてあげるのが一番いいのではないだろうか。 「どうしたの、深刻な顔して」 気が付くと、目の前に菜月が立っていた。 制服を着ているところを見ると、学院からの帰りのようだ。 「菜月か」 「何よ、その言い草は」 「暗い顔してるから、せっかく声かけたのに」 「わうっ、わふっ」 イタリアンズが菜月の足元に絡みつく。 「冷たいご主人様を持ってかわいそうに」 菜月はかがみこんで、3匹の頭を順繰りに撫でる。 「ごめん」 「いいわよ」 「大方フィーナのことでも考えてたんでしょ?」 「分かる?」 「まね」 「暗くなるのも仕方無いと思う。 相手が相手だし」 「どうしたらいいと思う?」 「……」 イタリアンズを撫でていた手が止まる。 「それを私に聞く?」 「え?」 「何でもない」 再び犬達を撫で始める菜月。 「きついと思うけど、頑張って」 「もちろん、責任は自覚してね」 「それを言ったら、何だってそうだろ」 「でも」 「でも、達哉は自覚できていなかったから好きになっちゃったんじゃないの?」 「……」 「ま、骨はみんなで拾ってあげるから、頑張って」 菜月の言う通りだ。 俺は、好きになってはいけない人を好きになってしまった。 本当に、フィーナや周りのことを考えているなら、好きになるべきではなかった。 でも菜月は、それを分かった上で応援してくれた。 ありがたい。 心からそう思う。 「ありがとう……あれ?」 視線を戻すと、既に菜月の姿は無かった。 庭ではイタリアンズだけが、不思議そうに俺を見ている。 「達哉」 背後からフィーナの声が聞こえた。 振り返ると、リビングからフィーナが出てきた。 「菜月が来ていたようだけれど?」 「ああ、帰りがけに寄ったみたい」 「そう」 フィーナの声がかすかに沈む。 「達哉は今日もお仕事?」 「ああ。 今何時?」 「4時15分ね」 「そろそろ行かないとな」 「フィーナ、今日はバイトしないのか?」 「私もこの後仕事が入ってしまって」 「遅くなるのか?」 「どうかしら」 「達哉と同じくらいの時間には、帰ってこられると思うわ」 「お姫様は夏休みが無くて大変だな」 「ふふふ、そうね。 でも……」 「与えられた責任は果たさないと、か?」 「ええ」 フィーナがにっこりと笑う。 何だろう。 明確には分からないけど、いつものフィーナじゃない気がする。 本当に話したいことが別にあるような……。 そう思うものの口には出せず、俺たちは簡単な世間話ばかりをする。 ……。 「それじゃ、俺は行くよ」 「また後で会いましょう」 「そうだな。 フィーナも頑張って」 「達哉も」 フィーナの笑顔に見送られ、俺は左門に向かった。 イタリアンズは、相変わらず不思議そうな目で俺を見ていた。 「ふう……」 最近ため息が増えた。 良くないと思ってはいるが、増える一方だ。 庭先から熱い風が吹き込み、髪を撫でた。 さっきまで達哉が座っていた縁側。 まだ、雰囲気が残っている。 温かい達哉の雰囲気。 「達哉」 実直で、時に腹が立つくらい不器用だけれど、真っ直ぐに生きている。 彼に頭を下げたあの夜無様なほどに甘えきっていたあの夜私の中で何かが変わった。 この人となら、一緒に歩いていける。 そう思った。 でも、この恋は許されるものではない。 あまりにもあまりにもたくさんの人に迷惑をかけすぎる。 恋など、周囲に迷惑をかけてまでするものではないと、そう思っていたのに……。 「姫さま、そろそろお時間が」 ミアが脇から声をかけてきた。 入ってきたことに気づかないなんて、どうかしている。 こんな調子で仕事に出ては、臣下に笑われてしまう。 「分かりました」 「ミア、着替えを手伝ってもらえるかしら?」 「はい、準備は出来ております」 顔を引き締めて立ち上がる。 ……。 達哉は、そろそろ着替えを終えて、フロアに出ている頃だろうか?達哉はウェイターの姿が良く似合う。 「……」 いけない、また気が緩んでしまう。 「姫さま、お加減でも?」 「いえ大丈夫よ」 「さあ、行きましょう」 「フィーナ様、お暑いところ申し訳ございません」 カレンが慇懃に頭を下げる。 「いえ、構いません」 「先日はお仕事をされたそうで」 「耳が早いわね」 「申し訳ございません」 「いいのよ、それが仕事でしょう」 「はい」 「それで、いかがでしたか?」 「楽しかったわ」 「それに、お給料も頂いたの」 「それはよろしゅうございました」 「初任給で、ミアに何か買ってあげようかしら」 「ふふふ、あやかりたいものですね」 「では、参りましょう」 「ええ」 私が歩を進めると、カレンが従う。 そういえば、達哉が護衛に押し倒されたのもこのあたりだったかしら?神経質なまでに掃き清められた石畳に、その痕跡はない。 それが、少し寂しい気がした。 部屋は、主の性格を反映する。 カレンの執務室は飾り気がなく整然としている。 壁には、父様と母様のお姿があった。 母様のお写真のほうが良い額に入っているのは気のせいかしら。 まあ、見なかったことにしておきましょう。 「どうぞお掛け下さい」 カレンに促されて応接用のソファに腰をおろす。 「カレンも座って」 「失礼します」 カレンが向かい側に座る。 武術で鍛えぬかれたカレンの姿は、なかなかに美しい。 縁談を片っ端から断っていると聞くけれど、誰か意中の人でもいるのだろうか。 仕事一筋では、いかにも寂しい。 そろそろ、しかるべき筋を世話してやってもいい頃かもしれない。 「あなたはもう下がっていいわ」 「呼ぶまで、ここへは人を入れないように」 カレンがお茶を持ってきたメイドを下がらせる。 メイドが部屋を出るのを待って、カレンが口を開く。 「朝霧家はいかがです?」 カレンにしては珍しく、本題から切り出さない。 「皆とても良くしてくれます」 「ミアも、最近は我が家のように働いています」 「お隣の鷹見沢の方々も、良い人ばかりです」 「それはよろしゅうございました」 「追って、さやかに礼を言っておきます」 「そうしてあげて」 「最近、お顔が柔らかくなられました」 達哉のおかげかもしれない。 すぐにそう思った。 「そうかしら?」 「はい」 「達哉君のおかげでしょうか?」 ……。 今日呼ばれた理由が分かった。 カレンは知っているのだ。 私の達哉に対する気持ちを。 「カレン」 「申し訳ございません」 ……。 私は何を腹を立てているのだろう。 これがカレンの仕事。 彼女を責めるのは筋違いだ。 「いえ、そうでなくては」 「恐れ入ります」 「ええ」 「達哉君とのことは、既に聞いております」 「一国の姫として、ご留学先の者と恋に落ちることについては、どう思われますか?」 間違っている。 そう答えなくてはならない。 それが、責任を果たすということだ。 「間違っているわ」 カレンの目を真っ直ぐに見て答えた。 「私もそう思います」 「月の民は、姫を信じて地球に送り出したのです」 「民の信頼を裏切るおつもりか?」 今回の留学に際しては、国家間の調整から始まり、大使館員の増員など、膨大なコストが掛かっている。 勿論それは、国庫、すなわち国民の税金から出されている。 「申し訳無いと思っています」 「どうすべきかは分かっていらっしゃいますか?」 「……」 「言われるまでもありません」 この想いは消さなくてはならない。 消すことができなかったとしても、決して悟られてはいけない。 そういうことだ。 「心中、お察し申し上げます」 「どうしてもお辛いということでしたら、留学を早期に切り上げることも検討しております」 「私がなすべきことをすれば、問題の無いことです」 語気が強くなる。 自分でも上手くコントロールできない。 「私は、陛下から姫の婿様について一任されております」 それはつまり──私と結婚する相手を、カレンが決めるということだ。 「初耳だけれど」 「地球に来る前に拝命致しました」 「そう」 「はい」 「その立場から言っても、達哉君とのお付き合いは賛同しかねます」 「達哉を悪く言うつもりですか?」 「達哉君自身には問題ございませんが、いかんせんご身分が釣り合いません」 「……」 いつの間にか、膝の上に置いた手がきつく握り締められていた。 「これ以上、達哉君とお近づきになるようですと、彼にも辛い思いをさせることになってしまいます」 「……もう良い」 「それは私としても不本意です」 「もう良い。 私はなすべきことをする」 気が付いた時には、もうドアに向かって歩き出していた。 悔しさで、頭がふらふらする。 カレンが悪いわけではない。 カレンに今回のことを告げたであろう、さやかが悪いわけでもない。 悪いのは私だ。 他の誰でもない、私だ。 こうなることは、初めから分かっていたはずなのに──どうして私は──達哉を好きになってしまったのか。 ぱたん「……お許し下さい」 この日の営業が終わった。 フィーナのことが気になって、今日はどうにも仕事が手につかなかった。 そのくせ、妙に疲れている。 俺はイスに腰をおろし、ゆっくりと息を吐く。 からんからん「こんばんわー」 麻衣の元気な声を先頭に、朝霧家の面々が入ってきた。 中にはフィーナの姿もあった。 良かった、夕食には間に合ったようだ。 「フィーナ、お疲れ様」 「達哉も」 フィーナの爽やかな笑顔。 それだけでバイトの疲れが癒えていくようだ。 「仕事、思ったより早かったな」 「ええ、ちょっとした調整だけだったから」 「なら良かった」 「みんな、料理を運ぶから席についてくれ」 おやっさんが厨房から声を飛ばす。 「さ、フィーナ」 俺たちは向かい合って食卓に着く。 ……。 すぐに料理が運ばれ、夕食が始まった。 対面では、フィーナがゆっくりと食事を口に運んでいる。 食事を取るフィーナの姿には、楽器を奏でているような優美さがある。 だがそれはいつもの話。 今日のフィーナからは、ピッチの狂った楽器を操りかねているような、そんな戸惑いが感じられた。 一体、どうしたのだろう?ふと、フィーナが手を止めて視線を上げる。 俺と目が合った。 瞳の底に流れる感情を読み取ることはできない。 なぜか、恥ずかしくなるより先に心配になった。 フィーナに胸のつかえがあるのではないか、そんな気がする。 俺は何か情報を掴もうと、彼女の瞳を見つめ続ける。 フィーナもそんな俺の視線を、ずっと受け止めてくれていた。 ……。 「こ、こほん」 「??」 周囲の視線が俺たちに注がれていた。 ……。 傍から見れば、俺とフィーナはみんなの前で見つめ合っていたのだ。 「あはははは」 「えへへへ~」 「あはははは」 「うふふ」 「はあぁ……」 乾いた笑いが伝播していった。 「すみません、食事中に」 「お兄ちゃん、もうフィーナさんと……」 「ち、違うって」 「なあフィーナ」 「え?」 ……。 …………。 沈黙が流れる。 そこにいた全員がフィーナに注目していた。 「達哉とは、そういった関係ではありません」 一言一言を搾り出すようにフィーナが言う。 恥ずかしさを誤魔化すための言葉ではない。 つまり──フィーナにその気は無いということだ。 「……」 なぜだろう。 俺には、フィーナが本心から言っているようには見えなかった。 本当にその気が無いなら、さらりと言ってしまえばいい。 なのに、なぜあんなに辛そうな表情をしていたのだろうか。 「姫さま……」 ミアが心配そうにフィーナを見る。 フィーナは俯いて、ぎゅっと唇を噛んでいた。 フィーナが我に返ったように表情を変えた。 「あ……」 「し、失礼しました」 「なに、気にするな」 「よーし、食事を続けよう」 「そう、心行くまで僕の料理を楽しんでくれたまえ」 「お前が作ったのはサラダだけだろが」 「はっはっは、そういうことは言わなくて良いのだよ」 「うるせえ」 「あは、あはははは」 菜月が恥ずかしそうに笑う。 「あの、この人たちは無視しちゃっていいんで、さっさと食べちゃおうか」 「うん」 「ミアちゃん、パスタとってもらえるかな?」 「はい、かしこまりました」 こうして、なんとか食事が再開される。 「フィーナ、何か取ろうか?」 「え、ええ。 サラダをお願い」 フィーナが皿を差し出す。 受け取る瞬間、またフィーナと目が合った。 深緑の瞳が、ゆらゆらと揺らめいている。 まるで深い井戸のように底が見えない。 でも、奥に潜むものが、何かしら悲しいものであることは直感できた。 「トマトを多めに取ってくれる?」 フィーナが笑顔を作って言う。 「ああ、任せとけ」 俺も精一杯の笑顔で返した。 でも、胸のもやもやは消えない。 フィーナが俺との関係で何か無理をしている。 もしかして……。 ……。 食後のお茶を飲み終えて、俺は縁側で涼んでいた。 麻衣、姉さんと順に2階へ上がっていく。 バイトをして体は疲れているはずなのに、俺は全く眠気を感じていなかった。 フィーナのことを考えていたからだ。 フィーナは、一体何を考えていたのだろうか。 バイト前、ここで別れるまではいつも通りだったのに。 「達哉とは、そういった関係ではありません」 頭の中を、フィーナの言葉が巡る。 言葉通りなら、俺がフィーナに想いを伝えても断られることになる。 でも、あの声の裏側には抑圧された感情があったように思う。 何がフィーナに、あんな声を出させたのだろうか。 ……。 「達哉」 端正な声が俺の名を呼んだ。 視線をおろすと、庭にフィーナが立っていた。 「隣、よろしいかしら?」 「ああ」 横にずれて、フィーナが座るスペースを作る。 「失礼するわね」 フィーナがスカートにシワが寄らないよう縁側に座る。 穏やかな風が流れ、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。 「他のみんなは?」 「もう部屋に戻ったわよ」 「達哉が外を見てぼんやりしているから、心配してたわ」 「そっか」 「この時間になると、外の方が涼しいわね」 「だな」 それっきり、言葉が途絶える。 ……。 …………。 沈黙が怖かった。 次にフィーナが口にすることは何なのか、見当もつかなかった。 「達哉」 「夕食の時は、雰囲気を悪くしてしまってすみませんでした」 「いいんだ、何か理由があったんだろ?」 「ええ……」 真っ直ぐ前を向いたまま、ぽつりと答える。 横目に表情を窺う。 ……。 感情を押し殺した硬い表情。 それは──遠いあの日、別れ際に見せた表情と同じものだった。 総毛立つような感覚が、体を走り抜ける。 きっと、彼女の中ではたくさんの感情がうごめいているのだろう。 幼いあの日も、そして今も、それらの感情を、フィーナは奥歯で噛み潰している。 また、俺の前から大切なものが消えようとしている。 ……。 幼いあの日。 フィーナと俺は立場の差に引き裂かれた。 俺は、ただ呆然と見つめることしかできなかった。 あの日だけではない。 父親が消えた時も、母親が死んだ時も、俺は、ただ呆然と大切なものが壊れていくのを見ていた。 俺が何かをしたからといって、結果は変わらなかったかもしれない。 でも、何もしなかった結果、俺に残ったのは後悔だけだった。 立場、身分、時間、確かにこれらは、変えることができない力かもしれない。 だが、抗うことはできる。 抗うか抗わないかは、本人が選択することだ。 ……。 決心が、すっと体に落ちてくる。 それは流星のように、小さくも力強い光を持って俺の中にある。 抗う。 あらゆる外圧に抗う。 その結果フィーナを失い、どんな責めを負うことになっても、俺は全て受け入れる。 抗って失うか、抗わずに失うか、二つに一つなら、俺は抗うことを選ぶ。 ……。 「フィーナ、俺……」 「達哉」 強い語調でフィーナが俺を遮る。 「今日、私が呼び出されたのは、縁談が決まったからなの」 「私の夫が、決まったわ」 フィーナが俺の目を見据えて言う。 「……」 まさか……そんな……体中を熱い感覚が駆け巡る。 歯の根が合わなくなる。 手が震える。 「国のためには、一番良い相手です」 「私は……満足しています」 フィーナが奥歯をかみ締めた。 感情を押し殺せてなどいない。 その表情は、あまりにも雄弁に彼女の悲しみと無念さを物語っている。 ……。 手を強く握る。 それで、全身の震えは止まった。 奥歯をかみ締める。 もちろん、決心を固めるために。 もう何も聞こえない。 風の音も、フィーナの声も、自分の迷いの声も。 「フィーナ」 俺はフィーナの手を強く握った。 「……っ」 フィーナの目が大きく見開かれる。 もう一方の手で柔らかい頬に触れた。 「俺、フィーナのことが……」 「達哉……」 ……。 …………。 フィーナの手が、頬に当てられた手に重ねられ、しっとりと包み込む。 「……」 目を閉じ、俺の手を強く頬に押し当てた。 ……。 …………。 フィーナの目尻から溢れた涙が、長いまつげの堤防を乗り越え、頬を伝い、膝の上に落ちる。 スローモーションのように、その一瞬一瞬が頭に焼き付いた。 「……けれど」 ……。 「許されるものではありません」 そう言った瞬間、フィーナは立ち上がった。 「フィーナっ!」 俺はフィーナの手を強く握る。 フィーナはそれすらも振りほどき、家の外へと駆け出した。 ヒールの甲高い音が、深夜の住宅街を遠ざかっていく。 追わなくては。 「っ!」 2、3歩駆け出して、自分が靴を履いていないことに気づく。 これでは、フィーナがいかにヒールだとしても、追いつくことができない。 「くそっ」 リビングへ駆け上がり、玄関へ向かった。 カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッヒールの甲高い音が、深夜の商店街に響く。 私はどこに向かって走っているのだろうか。 分からない。 私は達哉に何をしてしまったのだろうか。 分からない。 私はどんな顔をしているのだろうか。 分からない。 何も分からない。 ただ、頭の中を熱い感覚がぐるぐる回るだけだ。 「はあっ……はあ……」 どこをどう走ったものか、気が付くと川原を歩いていた。 達哉が追ってくる気配は無い。 「はあ……ぐすっ……」 達哉に見られていない。 そう思うだけで、涙がとめどなく溢れてくる。 泣くな。 泣いてはいけない。 一国の姫ともあろう者が涙を見せるなど……。 そう強く思う度に、涙腺が熱くなる。 「……ぐすっ……達哉……たつや……」 涙がどんどん口に入ってくる。 それがしょっぱくて、また泣いた。 ……。 私はどうして走り出したのだろう。 考えても分からなかった。 ただ、あれ以上達哉に触れられていたら、自分の中に押さえつけていたものが一気に噴き出してしまう気がして怖かった。 ……。 自分がこんなに脆いなんて、初めて知った。 達哉に名前を呼ばれるだけで、達哉に触れられるだけで、自分は舞い上がってしまう。 達哉に死ねと言われたら死ねる──そんな気すらする。 空には、細い糸のような月が浮かんでいた。 このままでは、あの星に住む人々を裏切ってしまう。 父様もカレンも、さやかも、いろいろな人を裏切ってしまう。 ずっと、母様のような立派な女王になろうと努めてきたのに、それすらも無駄になってしまう。 ……。 けれど、自分はどうしたらいいのだろう。 どうすべきかは明白だ。 今すぐ家に取って返し、達哉に非礼を詫び──自分の想いを諦めればいい。 分かっている。 分かっているはずなのに、自分にはそれができない。 足を止め、後ろを振り返る。 達哉は追ってこない。 追ってくるはずも無い。 私は達哉の想いをはね除けたのだから。 ……。 なのに、また振り返る。 あまりの愚かしさに悲しくなる。 でも振り返ってしまう。 もう、何もかもが滅茶苦茶だ。 頭も心も体も、全てが自分のものではないように勝手に動いている。 ……。 「……達哉」 「はあっ、はあっ、はあっ」 「はあっ……はあっ」 商店街に、フィーナの姿は見当たらない。 「フィーナっ!」 夜の商店街を、俺の声が幾重にも反響する。 ……。 返事はない。 「くそっ」 俺は再び走り出す。 アテがあるわけではない。 フィーナが行きそうな場所をしらみつぶしに当たるしかない。 ……。 タッタッタッタッタッタッタッタッ川原には見渡す限り人影は無い。 タッタッタッタッタッタッタッタッ「はあ……はあ……はあ……」 月人の居住区を走り抜け、大使館の入り口に到達する。 門の内側に入っていたら、俺には手を出すことができない。 フィーナはここにはいない気がした。 彼女が少しでも俺のことを思っていてくれたのなら、自分の立場との間で揺れ動いていたはずだ。 ならば、ここはフィーナにとって障害の本丸。 ここに走り込まれるようでは、もう何もかもを諦めるしかない。 いない。 いられては困る。 タッタッタッタッタッタッタッタッ「はあっ……ぜえっ、ぜえっ」 いない。 タッタッタッタッタッタッタッタッ「ぜはっ……げほっげほっげほっ」 「ぜえ、ぜえ、ぜえ……」 喉の裏と表が貼り付きそうなほど乾いている。 関節という関節が痛みを発している。 ここにもいない。 どこか、他にないのか。 フィーナが行きそうな場所は。 「はあ、はあ……はあ」 フィーナと出会ってからのことを思い出す。 ……。 …………。 商店街、川原、大使館、学院、公園、……ほかにどこがある。 ……。 …………。 痛む体を無理やり起こす。 丘の上に、モニュメントが見える。 ……。 あそこだ。 フィーナと以前、遊びに行った場所。 もしかしたら、あそこにいるかもしれない。 高くそびえるモニュメント。 実際の距離はかなり遠い。 ……。 全身が走ることを拒絶するように痛む。 俺はまだ、フィーナに好きだと伝えていない。 この口で言葉にしなくては、俺は必ず後悔する。 物見の丘公園にいなければ、見つかるまで探し続けるまでだ。 「フィーナ」 タッタッタッタッタッタッタッタッ「げほっ……ぐっ……あ、あ……」 もう声も出ない。 痛みはもう限度を超えている。 どこにいるんだ、フィーナ。 俺は感覚のない足を無理やり前に進め、展望台への階段を上る。 ざっざっざっいつもは犬を連れて軽快に駆け上る階段。 今は、一歩ごとに体が軋みを上げる。 ざっざっざっこの程度の苦痛に負けるわけにはいかない。 もし、フィーナが俺の気持ちを受け入れてくれたら、俺たちを待ち受ける困難はきっとこんなものではない。 俺はまだ、困難の入り口にも立てていないのだ。 ざっざっざっ強い風が吹いていた。 遠くには繁華街の明かり。 その手前には、美しい弧を描く満弦ヶ崎湾の海岸線。 そして、更に手前、7、8メートル程離れた所には──フィーナが立っていた。 風にスカートが流麗にたなびいている。 月の光を受けて輝く姿が、とても弱々しく見えた。 しばらく言葉を失い、フィーナの姿を見つめる。 ……。 …………。 これがあのフィーナなのか。 いつも彼女を包んでいた凛とした空気はなりを潜めている。 そこにいるのは、まるで普通の女の子だ。 俺が、フィーナをこうしてしまったのか。 そう思うと、言葉をかけずにはいられなかった。 「フィーナ」 幸い声が出た。 電池の切れかけた玩具のように、フィーナがゆっくりとこちらを振り返る。 「……」 フィーナの目が、ゆっくりと見開かれる。 風が吹き抜けた。 フィーナの銀髪が舞い上がる。 夜空をバックに、それは新雪のように輝いた。 「フィーナ……」 一歩踏み出す。 フィーナは辛そうに顔を背ける。 「フィーナ」 更に一歩踏み出す。 フィーナは顔を上げない。 「……来ないで」 かすれた声。 そこには抵抗の力が見えなかった。 俺はまた一歩踏み出す。 「俺はフィーナが好きだ」 「……」 フィーナが唇をかみ締める。 「好きなんだ」 ゆっくりと歩を進める。 ……。 手を伸ばせば届くところにフィーナがいる。 「それ以上近づかないで」 俯いたまま口を開く。 「それ以上近づかれたら……私は……」 「駄目になってしまう」 フィーナが細い腕で自分の体を抱く。 気持ちを封じ込めるように、ぎゅっと力を込める。 ……。 だが、彼女の腕はあまりに細い。 ゆっくりと、でも確実に、腕の隙間から彼女の心が染み出して来る。 フィーナ自身、それに気づいているのだろう。 血がにじみそうなほど、唇をかみ締めている。 「認められないのは分かっている」 「なら、逃げようとでも言うの?」 「違う」 最後の一歩を詰め、フィーナの腕を握る。 体がぴくりと痙攣した。 「戦おう」 「……」 フィーナが奥歯をかみ締める。 「俺はフィーナと戦っていきたい」 「もし、結果が駄目だったとしても、俺は戦うことを諦めたりしない」 俺はもう一方の手をフィーナの腰に回した。 「だめ」 驚くほどに細い腰。 少し力を込めただけで折れてしまいそうだ。 「達哉、やめて」 フィーナの腰を引き寄せる。 「……だめ」 「戻れなくなってしまう……」 全部消えた。 真っ白な世界。 ……。 体中に熱い感触。 ……。 …………。 ゆっくりとフィーナの像が浮かび上がる。 俺たちの距離はゼロになった。 口唇の柔らかな感触。 隙間から漏れる、溶けそうなほど熱い呼吸。 フィーナには、まだためらいがあるのだろうか。 彼女は、体を引き離すように、俺たちの間に挟まった手に力を加えている。 ……。 腰に回した腕を更に引き寄せる。 フィーナの体温が高くなっているのを、確かに感じた。 「ん……」 息が漏れる。 その甘さに、俺の思考が徐々にとろけていく。 俺の胸に置かれたフィーナの手が、ゆっくりと服を握り締めた。 そのか細い指の先まで熱を発し、バターに熱いナイフを当てたように、俺の中に入ってくる錯覚を受ける。 本当に入ってしまってもいい。 それで、フィーナが俺の想いをより強く感じてくれるなら──それで、彼女がためらいを振り切ってくれるなら──彼女の手で体内をまさぐられても構わない。 ……。 フィーナの二の腕を掴んでいた手をスライドさせ、彼女の手に指を絡める。 手袋越しでも、湿度と熱気が伝わってきた。 だが、フィーナの指は俺に応えない。 「ん……ふ……」 フィーナの息が俺の口に入ってくる。 何か危ない薬を入れられたように、つま先まで興奮した。 「……は……んっ」 フィーナが唇を離し息を継ぐ。 「達哉……私は……」 彼女の声には、抵抗するような力は感じられない。 「知ってる、姫なんだろう?」 「だから……んっ」 言い終わる前に、再びフィーナの唇を捕まえる。 「うむっ……ん……」 両手でフィーナの手を握る。 じっとりと汗ばんだ俺たちの手のひら。 隙間を作らぬよう、しっかりと握り締める。 ……。 フィーナの指が、俺の手をゆっくりと握った。 ……。 …………。 ようやく、彼女が俺の想いに応えてくれた。 彼女の体が、更に熱を帯びる。 その熱を逃さぬよう、体のあらゆる部位を彼女に密着させる。 熱湯を噴き出す泉のように、フィーナの体からはとめどなく熱が溢れ、俺を溶かしていく。 ……。 フィーナを誰にも渡したくない。 フィーナの深く、奥の奥までのめりこみたい。 こんなにも熱い衝動が自分の中にある。 戦っていける。 確信。 戦わずしてフィーナを手放すなんて、冗談にも程がある。 ……。 「ん……っ」 フィーナが唇を離す。 踵を地面につけ俺を見つめた。 俺も、しっかりと深緑の瞳を見返す。 「フィーナ」 「達哉」 「共に、進みましょう」 フィーナが俺の胸に額を当てた。 両腕でフィーナの華奢な体を包み込む。 右手を銀髪の中に差し入れ、ゆったりとフィーナの後頭部を包む。 じっとりとした熱が溜まっている。 手のひらに、確かなフィーナの存在を感じた。 「行こう、一緒に」 土手の道が月の光に照らされ、薄っすらと光る。 手をつないだまま、無言で歩いた。 水の中を歩くような、静かな気持ち。 無くしたと思っていたパズルのピースが、ふわりと現れては嵌っていく。 そんな感覚を一歩進むごとに感じていた。 フィーナは今、どんな気持ちでいるのだろう。 隣に目を遣る。 フィーナは穏やかな表情でじっと前を見ていた。 どこかで泣いていたのだろうか、薄く化粧が乗った頬には涙が伝った跡がある。 母親のような優れた女王になろうと励んできた彼女。 夕食時、フィーナが見せた沈痛な表情。 今思えばそれは、最後の一線を越えまいとする精一杯の抵抗だったのだろう。 それを俺が、突き破ってしまった。 ……。 でも、謝ることはしない。 フィーナは、こういう関係になることを積極的に選んでくれたのだと、信じているから。 俺の視線に気づいたのか、フィーナがこっちを見る。 「どうしたの?」 優しい笑顔で聞いてきた。 頭がぼうっとするくらい美しい。 乱れた化粧すら、彼女の美しさを引き立たせている。 「何だか不思議な気分なんだ」 「嬉しいんだけど、とっても静かで落ち着いてる」 ……。 「私も同じだわ」 「何かとても静かで……あの川のよう」 眼下の川に目を遣る。 三日月の光は弱く、流れが緩い箇所の様子は分からない。 ただ瀬の部分だけが、きらきらと宝石のような光を放っている。 「悪い意味じゃなさそうだな」 「もちろんよ」 俺の手がしっかりと握られる。 俺も握り返した。 「きゃ」 フィーナの体がガクリと傾く。 慌てて手を引っ張り、フィーナを抱きかかえる。 道には、踵の折れたヒールが転がっていた。 「大丈夫か?」 「ええ」 「でも、靴が……」 「仕方無いさ、ずいぶん走ったんだろ?」 「……すみません」 自分が逃げていたことを思い出したのだろう。 フィーナは申し訳無さそうに目を伏せた。 「いいって、こうして捕まえられたし」 俺はフィーナを抱きかかえた腕に力を込める。 「た、達哉」 フィーナが頬を染める。 「どうするんだ、これから?」 「歩きます」 フィーナはもう一方のヒールを脱ぎ、両足とも裸足になった。 「こんな日くらいは、裸足もいいものです」 と、俺から離れた。 「行きましょう」 フィーナは落ちている靴をきちんと手で拾い、裸足のまま歩き出す。 妙に律儀なところがかわいくて、俺は苦笑してしまう。 「何がおかしいのです」 「いや、ちゃんと拾うあたりがさ」 「当たり前です」 「これも民の血税でできているのですから」 痛快な回答だった。 「はははは」 「失礼ですよ、達哉」 頬を膨らませ、フィーナがさっさと歩き出す。 「俺も真似してみるか」 靴を脱ぎ、アスファルトに足を着いた。 かすかに残った昼間の熱が感じられる。 何だか嬉しくなり、俺は小走りにフィーナを追いかけた。 朝食を取るため1階に下りる。 昨夜走ったせいだろう。 節々が軋みを上げている。 がちゃ階段を下りきったところで、ドアが開く音が聞こえた。 「あ」 「あ」 ……。 「お、おはよう」 「おはよう、達哉」 朝っぱらから顔が熱くなる。 「良く眠れた?」 「眠れたけど、筋肉痛になってしまったみたい」 フィーナがテレくさそうに笑う。 「あははは、俺もだ」 「さ、メシ行こうか」 「ええ」 「おはよう」 「おはようございます」 「おはようございます、姫さま、達哉さん」 ミアがにこやかに挨拶してくる。 何か機嫌がいいみたいだ。 「おはよー」 「すぐ準備ができますから、お席でお待ち下さい」 「よろしく」 ……。 「姉さんは?」 座りながら麻衣に尋ねる。 「今日もお仕事だって」 「そっか。 忙しいな」 「珍しく朝からシャキッとしてたから、大事な仕事みたいだね」 「ふふふ、さやかが朝から」 姉さんの寝ぼけ顔は朝の定番。 シャキッとしてるのは重要な会議がある時くらいだ。 「姉さんも大変だな」 「麻衣は?」 「私は部活の友達と遊ぶ約束してるの」 「へえ」 ということは、家に居るのは俺とフィーナ、ミアの3人か。 「お兄ちゃんは何か用事あるの?」 「特に無いから、家でのんびりしてるかな」 大きく背伸びをする。 と、足が向かい側に座るフィーナの膝をつついてしまった。 「きゃっ」 「姫さまっ」 「い、いえ、何でもありません」 そう言ってから、赤い顔で困ったように俺を見た。 「ごめん」 「え、何?」 隣の麻衣がきょとんとした顔をしている。 「いや、何でもない」 「大丈夫、汗出てるけど?」 「ああ、ダイジョブダイジョブ」 「ふうん」 納得いかない表情。 ……。 こちょこちょ……ん?足がくすぐられた。 こちょこちょ……。 …………。 もしかしてフィーナ?正面を見るが、フィーナはそ知らぬ顔でキッチンのミアを眺めている。 フィーナにこんな一面があったとは。 負けられない。 俺は戦うと決めたのだ。 足を伸ばしてやり返す。 すぐに防御された。 「……」 ぶすっとした表情で俺を見る。 「……」 こちょこちょ今度はさっきとは違う方向からくすぐられた。 「む」 俺も負けじと脚を伸ばす。 びしっガードされた。 「……」 挑発的な笑みを浮かべるフィーナ。 うりゃそりゃとりゃびしっばしっがしっ全部ガード。 すごい運動神経だ。 「うそ……」 いりゃっりゃてりゃぱしっとすっぴしっ「お兄ちゃん、なに暴れてるのっ」 「うわっ」 「すみません」 「はい?」 「い、いえ」 フィーナがゆでだこのようになる。 ……。 …………。 「お兄ちゃん……」 麻衣が目を丸くする。 「な、何だよ」 「どうされました?」 ミアができたてのベーコンエッグを持ってくる。 「な、何でもないわ」 「さ、さあ食べよっか」 「え、ええ」 「……ごちそうさまー」 「は、はい」 麻衣が食あたりのような顔をしてダイニングから出て行く。 「麻衣さん、どうかされたのでしょうか?」 「な、なんだろ」 「さ、さあ」 「??」 ミアは、頭にクエスチョンマークを浮かべながらキッチンへ戻った。 「達哉さん、お茶をどうぞ」 朝食後、リビングでくつろいでいるとミアがお茶を差し出した。 氷の浮いた緑茶だ。 「ありがとう」 口に含むと、心地よい冷たさと苦味が広がった。 透明感のある緑色が、目にも涼しい。 「あの、達哉さん?」 「どうしたの?」 「姫さまとはお付き合いを初められたのですか?」 「ぶっ」 お茶を口に入れていたら、確実に噴き出していただろう。 白い家具が多いリビングで色の強いものを吹いたりしたら、それこそ大惨事だ。 「あっ、すみません、変なことを言って」 「いや……しかし何で?」 「姫さまのご機嫌がよろしかったですし……」 「それにお二人とも、楽しそうなご様子でしたから」 「ああ……」 ずっとフィーナについているだけあって、さすがにフィーナの変化には目ざとい。 しかし、どう答えたものか。 ……。 いずれ分かることだから、隠したくはない。 でも、フィーナに相談してからの方がいいと思う。 「フィーナとはそういう関係じゃないな」 「そうですか……」 なぜここで残念そうな顔をするか。 「付き合ってた方が良かった?」 「えと……」 「メイドの身でこのようなことを申し上げるのは、はばかられるのですが」 「達哉さんのお話をされている時の姫さまは、とても楽しそうでした」 「それに、以前、仲直りをされてから、姫さまが達哉さんをお慕いしているように見えたものですから……」 ミアがもじもじしながら言う。 「そうだったのか」 「ただ私は、姫さまが喜ばれるお姿を拝見するのが、一番嬉しいんです」 「本当にそれだけで、難しいことは何一つ分からないのですが……」 言い終えたミアは、もう真っ赤だった。 まるで好きな異性の話をしているみたいだ。 「ミアは本当にフィーナが大切なんだね」 「はい」 「姫さまが立派な女王様になられるよう、少しでもお力になれれば、それで幸せです」 それまでとは打って変わって、ミアは顔を上げ堂々と言った。 フィーナに対するひたむきな思い。 フィーナに仕えることが、ミアにとって本当に大切であること。 これらが、虚飾無しに感じられた。 ここまで純粋に、強く人を思うことは、なかなかできることではない。 幼くか細い外見とは裏腹に、ミアのことがとても大きく見えた。 「偉いな、ミアは」 俺はミアの頭をぽんぽんと叩く。 「わわわわっ」 「も、申し上げたことは、絶対に内緒にして下さいねっ」 「ああ」 ミアを見ていたら、自分が隠し事をしたことがとても恥ずかしく思えてきた。 「ミアがいろいろ話してくれたから、俺も正直に教えるよ」 「はい?」 「俺、フィーナと……」 付き合ってたっけ?そういえば、付き合う付き合わないって話はしてないよな。 「姫さまと、どうされたんですか?」 ミアがごくりと息を呑む。 「いや、気持ちは伝え合ったんだけど……」 「わああああああぁぁぁぁっ」 「そそそそ、それは、それはっ」 ……。 ミアが壊れた。 「ご、ご結婚はいつになるのですか!?」 「はあっ!?」 飛躍しすぎだと思う。 「そんな、結婚なんてまだ」 「ですが、王女様とお付き合いされてから別れるなど、前例がありません」 「そのような侮辱を受けましては、姫さまにお仕えするものとして、黙っているわけには参りません」 「……うわ」 ……。 ミアがぼんやりと天井を見上げる。 何だろう……即位式とかを想像しているのか?「姫さまがお召しになるドレスをお作りしたいものです」 夢見がちなことを……と、一瞬考える。 しかし、よくよく考えれば、ミアが言っていることがおかしいとも思えない。 「ミア、大きな声を出して、何かあったの?」 「ひ、姫さま……こ、この度は」 「??」 「おいおいおいおいおいっ」 俺は、慌ててミアの口を押さえる。 「ミア、ちょっと待ってくれ、喋らないでくれるか?」 真っ赤になっているミアに言う。 ミアがコクコクと頷く。 「どうしたの、達哉?」 「いや……俺たちのこと……話した」 ……。 「達哉……」 フィーナが眉間にしわを寄せて大きなため息をつく。 ……。 「ミア」 「は、はい」 「このことは一切口外無用です」 「例えカレンにであっても、話すことは許しません」 ぴしゃりと言う。 「……か、かしこまりました」 ミアがかすかな畏怖とともに背筋を伸ばす。 「皆へは、追って私から説明します」 「それまで待ってもらえる?」 今度は優しく言う。 「は、はい」 「良い子ね、下がって良いわ」 「はい、失礼致します」 ミアは深く頭を下げると、きびきびした足取りでリビングを出て行った。 右手と右足が同時に出ていたけど。 ……。 …………。 「達哉、困るわ」 フィーナがため息をついてソファに腰をおろす。 「ごめん」 ……。 「私たちは、そう簡単な関係ではないのよ」 「……」 「分かっていると思って良いのね」 フィーナの目が俺を射抜く。 それは脳の奥まで貫くような視線。 五寸釘で手足を打ち付けられたように、身動き一つできない。 今まで出会った人などとは、桁違いの眼力だ。 ……。 「ああ」 言葉の真偽を問うように、フィーナは俺を見つめ続ける。 背中を汗が伝った。 ……。 …………。 「いいわ、今後注意して」 「……ああ」 視線から解放される。 「気分転換に家を出てみない?」 一転、曇りの無い笑顔。 「え?」 「私とでは不服かしら?」 「い、いや、嬉しい」 「そう」 フィーナが微笑む。 「では準備をして、30分後にここを出ましょう」 「了解」 俺の返事を聞いてフィーナは立ち上がった。 動くこともできず、俺は背中を見送る。 ……。 これは──絶対尻に敷かれてる。 「今日は良い天気ね」 フィーナが帽子のつばを持ち上げ、まぶしそうに空を見る。 気温は30度を越えているだろう。 それでも、フィーナはあまり汗をかかない。 淑女のたしなみというヤツか。 「フィーナは暑くないのか?」 俺はTシャツの襟をぱたぱたさせながら聞いた。 「夏だもの、暑いわ」 しれっと言う。 「暑い時はあまり動かない方が良いと思うけれど」 「そう言われてもなぁ」 「ふふふ、では涼しいところに入りましょうか」 「5分ほど行った所に、美味しいケーキを出すお店があるんですって」 「へえ、ちゃんと調べてるんだ」 「休み前に遠山さんから聞いたのよ」 「彼女は詳しいですから」 「遠山なぁ……」 「巨大で極甘のパフェが出るとかそれ系か?」 「特には聞いていないけれど……」 「でも、それならそれで、良い記念になるわね」 フィーナが明るく微笑む。 「何の?」 「初めての……」 「デート」 フィーナが顔を赤らめて縮こまった。 ……。 くらり、と来た。 いつものフィーナとのギャップがすごい。 何も言わずフィーナの手を握る。 気温のせいかもしれないが、とても熱くなっていた。 「どっちだ、その店?」 「あ、あっちよ」 ……。 店は瀟洒なビルの中にあった。 エスカレーターの脇に吹き抜けの広場があり、そこをテラスとして利用している。 俺みたいな学生にはちょっと縁遠い店だ。 「テラスにしましょう。 せっかくのお天気だから」 「ああ、ここなら綺麗に空が見えるよ」 ほとんど自分の部屋と変わらない仕草でイスに座る。 すぐに、近くを通りがかったウェイターを、かすかに頷いただけで呼ぶ。 左門でもこんな風に俺を呼ぶお客がいるが、大概は近所のおばさんが気取ってやっているだけだ。 板についていなくて、見ている方が恥ずかしくなる。 ……そんな仕草もフィーナにかかれば、全く違和感が無い。 彼女にとっては自然な行為だからだ。 「達哉は何にするの?」 「あ、じゃあ、このケーキセットで」 「私はこちらを」 俺はチーズケーキとコーヒーのセット、 フィーナは桃のタルトと紅茶のセットを頼む。 「良いお店ね、とても落ち着くわ」 「ありがとうございます」 ウェイターが微笑んで頭を下げる。 中年にわずかに差しかかったくらいの、品のいい人だ。 「ケーキの味が楽しみね」 「はい、間もなくお持ち致しますので、少々お待ち下さいませ」 ウェイターは再び頭を下げ、奥へ入っていった。 向き直ったフィーナが、俺の顔をしげしげと眺める。 「どうしたの? 気の抜けた顔をして」 「フィーナが自然にウェイターと話しているからさ」 「おかしいかしら?」 「私は思ったことを言ったのだけれど」 恐らく俺が感じたことは、フィーナには理解できないだろうな。 そう考え、少し話を逸らすことにした。 「いや、左門でもフィーナみたいに気さくなお客ばかりだったらいいなってこと」 「ふふふ、無愛想な方もいますからね」 自分が働いた時のことを思い出したのだろう。 フィーナはくすりと笑った。 ……。 少しして、注文したものが運ばれてきた。 ケーキはやや小ぶりだが綺麗な形をしている。 「まあ、これは美味しいわ」 早速ケーキを口にしたフィーナが言う。 この辺のリアクションは、うちの人たちと変わらない。 俺もチーズケーキを口にする。 濃厚なチーズの味わいが口いっぱいに広がる。 美味しいには美味しいのだが、甘みがきつい。 早速コーヒーを口にした。 「俺にはちょっと甘いな」 「お菓子はしっかりと甘いほうが美味しいわ」 「少しづつ食べれば、ちょうど良いと思うけれど」 「なるほどな」 俺はいつもの半分くらいをフォークに取って口に運んだ。 甘さも程よく、それでいて満足感もある。 「……」 フィーナがじっと俺を見ている。 「ん?」 「な、何でもないわ」 フィーナが顔を逸らす。 でも、少しするとまた俺を…… ……。 違った。 ケーキを見ていた。 ちょっと意地悪をしたくなる。 「食べる?」 「私は、私のものがあるわ」 顔を赤くするフィーナ。 「じゃあ残そ」 「……」 フィーナがじっと俺を見た。 「でも、お腹がいっぱいなんだけど……」 俺がケーキ一つで満腹になるわけが無い。 「意地悪な達哉」 テーブルの下で、フィーナが俺のつま先をつつく。 「あははは、ごめん」 「どうぞ」 「ありがとう」 と、皿をフィーナに渡す。 フィーナはフォークで少しだけケーキを口に運ぶ。 「どう?」 「とても濃厚で美味しいわ」 「もっと食べたら」 「ふふふっ、遠慮はしないわよ」 フィーナは笑って、もう2、3口を食べる。 ……。 幸せそうにケーキを味わうフィーナ。 その表情を見ているだけで、俺まで幸せな気分になった。 ……。 店を出ると、相変わらず日差しは強かった。 「次はどこか行きたいところある?」 「そうね……」 「少し歩いてみましょうか」 「おっけー」 俺たちは再び手をつなぎ、繁華街を歩き始める。 夏休みの日曜日。 街は子供連れやカップルで溢れている。 そんな中でも、フィーナの美貌と凛とした雰囲気は際立っている。 どんな場所に行っても、フィーナのことだけはすぐに見つけられそうな気がする。 すれ違いざまに足を止めてフィーナを見る人も、一人や二人ではない。 それが、俺には誇らしく思えた。 中にはフィーナの顔に見覚えがあった人もいたかもしれない。 だが、よもや月の姫様がパッとしない男と街を歩いているとは思うまい。 ……。 驚いたことに、フィーナとのデートは大してお金がかからない。 出掛けに、なけなしの金を財布に突っ込んで来たのだが、出費らしい出費はケーキを食べたことくらい。 フィーナにとっては、見るもの聞くものが全て珍しく、雑貨屋なんぞに入ろうものならそれこそ大騒ぎだった。 ……。 「これは、何かしら?」 フィーナが足を止めたのは、満弦ヶ崎水族館のポスターだった。 水族館としてはなかなか金が掛かっており、海中トンネルがあったり、期間限定のイベントも多い。 「水族館さ」 「??」 「うちの何倍もある大きな水槽で、海の生き物が飼育されてるんだ」 「……」 フィーナが言葉を失う。 「それは見ることができるのかしら?」 「ああ、もちろん有料だけどな」 「すばらしいわ……」 フィーナは食い入るようにポスターを見る。 青い海の写真をバックに、いろんな種類の魚が泳いでいるだけのポスター。 隅には蛍光色で『イルカに触ろう!』などとメッセージが書かれている。 何の変哲も無いポスター。 それを、まるで巨匠が作った芸術作品を鑑賞するかのように眺める。 「……」 月の人にとっては、とても信じられないものなのだろう。 「今度行ってみようか」 「え?」 「次の休みにでも、水族館に行こう」 「本当っ」 「ああ」 「嬉しいわ、達哉っ」 珍しく大きな声。 周囲の視線が集まった。 「あ……」 「あはははは……」 フィーナが真っ赤になる。 「そ、そろそろ帰ろうか」 「え、ええ」 奇異の視線の中、俺たちは身を縮めながら帰途に着く。 ……。 夕日が沈もうとしている。 強い西日が俺たちを赤く照らす。 自然と足が止まった。 「地球は美しいわね」 「……そうだな」 確かに美しい。 でも「地球は」 という部分は、俺には分からない。 「月の民にも見せられたら、どんなに喜ぶか」 俺とフィーナがみんなに認められて、何かいろんなことが上手くいったら── 月の人たちが、好きな時にこの景色を見に来られる時代が来るのかもしれない。 具体性のかけらもない考えが浮かんだ。 フィーナが俺の手を強く握る。 俺も応える。 胸の中が安心感でいっぱいになる。 「ずっとこんな日が続いたらいいのにな」 ポツリと言った。 フィーナが俺の顔を見る。 「それでは困るわ」 「え?」 真剣な表情のフィーナ。 「戦うと言ったのは誰?」 「このままでは、あと一ヶ月もすれば私たちは二度と会えなくなるわ」 「……」 「周囲に認められて初めて、私たちは付き合い始めることができる」 「そうでしょう?」 ……。 そうだった。 今はまだミアしか俺たちの関係を知らないから、出かけることができるのだ。 ひとたび月の人に知られれば、どうなるか知れたものではない。 「そうだな」 「ずっと一緒にいるためには……頑張らなくちゃな」 「ええ」 フィーナが微笑む。 「達哉となら戦っていけると、そう思ったからあなたを伴侶に選んだの」 「ああ……」 フィーナが俺の目を見る。 俺もじっと見つめた。 西日がフィーナの白い肌を染めている。 この人を悲しませたくない。 幼いあの日は、もう繰り返したくない。 俺を伴侶として選んでくれたからには、後悔させたりしない。 ……。 伴侶……。 『【伴侶】(はんりょ)配偶者のこと、パートナー』 「伴侶っ!?」 ……。 …………。 「何か不都合でも?」 ぶすっとフィーナが言う。 「伴侶って、やっぱり結婚だよな」 「当然でしょう」 「達哉、あなた、一国の姫を袖にできるとでも思ってるの?」 フィーナが繋いでいた手を振り解く。 「い、いや」 「フィーナが姫じゃなかったとしても、別れたりなんかしない」 「本当かしら」 じとっとした目で俺を見る。 「これは本当だ」 俺は再びフィーナの手を掴む。 「そうでなきゃ、戦うなんて言えない」 フィーナは、まだ俺の目を見ている。 「……なら」 「ここでキスをして」 「分かった、するぞっ」 「いいわ」 フィーナが俺の胸に手を置き、目を軽く瞑った。 俺はフィーナの両肩を優しく掴む。 フィーナの薄く光沢のある唇が、薄く隙間を明けている。 よく見ると、昨日と唇の色が違う。 出かけるために、色を変えてくれたのだろうか。 ……気づいてあげられなかった。 ……。 急に愛しさがこみ上げてきて、胸が一杯になった。 ごめん。 大好きなフィーナ。 「早くして、恥ずか……っ」 言い終わる前に唇をふさいだ。 「カレン、遅れてごめんなさい」 「いいのよ、私も今仕事が終わったところだから」 カレンが大きなデスクの上で書類を調える。 「さ、かけて」 「失礼します」 カレンに勧められたソファに腰を下ろす。 カレンがかすかに頷き、メイドを下がらせる。 「さて……」 カレンは一つため息をついて、ソファに腰を下ろす。 私より、ソファの軋みが少ない。 「悪かったわね、こんな時間に来てもらって」 「いえ、謝らなくてはいけないのはこちらだわ」 身を乗り出す。 「ごめんなさい」 重厚な木製のテーブルに両手を着き、下げられる限り頭を下げた。 こつん、と額に冷たいテーブルの感触。 これ以上、頭を下げられないのが口惜しい。 ……。 …………。 ………………。 「さやか、頭を上げて」 「それでは話もできないわ」 「でも……」 「気持ちは分かるけど、そうしていても問題は解決しないわ」 「……ごめんなさい」 ふっ、と一つ息をついてカレンが背もたれに体を預ける。 「しかし、フィーナ様も昨日の今日で何ということを……」 「何のこと?」 「先日、こちらへお運び頂き、達哉君のことを確認したの」 「その時は何と?」 「なすべきことをすると」 夕食時のフィーナ様の態度を思い出す。 そういうことだったのか。 「昨夜は、私が二人より早く寝てしまって……その後に何かあったようなの」 「何か?」 「分からない」 「でも、その……そういう関係はまだ持っていないと思う」 「まだ、ね……」 カレンがまた息を吐く。 「率直に答えて欲しいのだけど、二人は本気だと思う?」 「思うわ」 それは断言できた。 達哉くんとフィーナ様、二人とも実直な性格だし、上手く嘘をつけるタイプではない。 「ま、そうでなくては困るけど」 「お互いが本気であることは、周囲に迷惑をかける上での最低条件だわ」 「……二人を応援してくれるの?」 「……」 「さやか、貴女まさか……」 カレンが鋭い視線で私を見る。 ……。 …………。 「二人が本気なら、私は……」 「さやか」 カレンが強い口調で私の言葉を遮る。 「冷静になって」 「……」 冷静なつもりだ。 良くても職を失うだろう。 外交面から見れば、地球と月の関係が悪化することも考えられる。 地球との接触を嫌う月の古い貴族達が騒げば、カレンも火消しで地球にいるどころの話ではなくなるだろう。 「ともかく、この話は絶対に漏らしてはいけないわ」 「あと、お二人が早まったことをしないよう注意して」 「ええ」 それは逆効果な気がする。 二人とも一本気だから、抑圧には素直に反発するはずだ。 突発的に関係を持ってしまうかもしれない。 「フィーナ様の留学を早期に切り上げることは考えていないの?」 「今のところは」 「フィーナ様が、本気でお心を定められたことならば、私はそれを卑怯な方法で諦めて頂くことはしたくないわ」 「それは臣下としての分を外れている」 「本来的に、家臣は主人の意思を助けるものです」 「それが本気のものであるならば」 ふと、カレンが壁に掛けられたセフィリア様のご真影に目をやる。 相変わらずの美しさ。 写真ですら強い存在感を放っている。 ……。 「フィーナ様はセフィリア様によく似ていらっしゃる」 「ええ、そうね」 セフィリア様は月と地球の友好を心から願っていらっしゃった。 私が月へ留学し、今こうした立場にいられるのも、全てセフィリア様のお力あってのことだ。 「理想高く、実直で、お美しくて、何事にも優れていらっしゃる」 「頑固ですけど」 「ええ」 苦笑するカレン。 「でも、セフィリア様にあって、フィーナ様にはないものがあるわ」 「?」 「わがままさ、よ」 「ぷっ」 「笑わないで」 「セフィリア様の自分勝手さには、いつも振り回されていたけれど」 「気がつくと、それ無しでは物足りなくなっているものなの」 遠い目でご真影を見る。 カレンにセフィリア様を語らせると、なかなか止まらない。 「セフィリア様はいつも突拍子もないことを仰って、年寄り達の顰蹙を買っていたわ」 「私も初めは実現不可能なプランだと思うのだけど、いつの間にか乗せられて、気がつくと熱中している」 「そして最後には、年寄りたちをやりこめるのよ、結果で」 「ずっとその感覚に夢中だった」 「さやかが月に留学できたのも、そんなセフィリア様のわがままのお陰よ」 「分かってるわ」 わずかに頬を上気させて話していたカレンが、表情を引き締める。 「だから、フィーナ様には全力で向かってきて欲しいの」 「フィーナ様が全力でわがままを貫き通そうとされるなら、私も全力でお相手できるわ」 武人らしいスッキリとした物言い。 「それで結局、二人の関係には反対なのでしょう?」 「当たり前です。 お話になりません」 「ただフィーナ様は、ほとんどの人間が反対することをご存知のうえで、達哉君との関係を選択されたのです」 「主人の本気のわがままには、本気で対すると言っているだけです」 「途中からセフィリア様の話が多かった気がするけど」 「それはそれです」 ……。 ま、いつものことか。 「分かりました」 「二人には早まったことをしないよう言っておくわ」 「あと、卑怯な逃げ方もね」 「ええ、お願いするわ」 「私がお目にかかってご意見を申し上げても、恐らく火に油を注ぐだけになってしまうから」 「了解よ」 「カレンはどうするの?」 「私はフィーナ様が何か行動を起こすまで待つわ」 待つ……。 あの二人にとっては、一番辛いことなのかもしれない。 向かってくる外敵に抗うことは、待つことに比べればまだ楽だと思う。 相手に待たれている限り何か行動を起こす必要がある。 タイムリミットが来れば、二人は別れねばならないからだ。 しかもカレンは……「二人を許すことはできないのでしょう?」 「くどいわね」 カレンが眉をピクリと動かす。 分かっていたこととは言え、二人が不憫だ。 「私は月の繁栄を第一に考えているわ」 「その観点から達哉君に反対しているの」 「達哉くんが月の繁栄に繋がれば、関係を許すと言うの?」 「万が一にもそういうことがあれば、だけれど」 「……」 「さやかも、もう少し自分を大切にして」 「状況が悪化すると、あなた自身が危ないわ」 「分かってる」 「でも、私は達哉くんのことを信じてあげたいの。 家族なんだから」 「家族なら止めるべきではないの?」 「それはカレンと同じよ」 「達哉くんが本気だと思うから、私も本気で頑張るの」 「……」 カレンがため息をついた。 「仕方が無いわね」 「ともかく、二人が早まらないように、それだけはお願いするわ」 「古今東西、身分を越えた恋愛の結末は悲劇と相場が決まっているのだから」 「分かりました、それは責任を持って」 自分がどの口で「責任」 を口にするのか……。 自嘲的な気分になる。 ホストマザーがこの調子では、カレンもさぞかし落胆していることだろう。 国王陛下も貴族の方々も、私を信頼してフィーナ様を預けてくれたというのに、この体たらくだ。 「頼んだわよ」 私は無言で頷いた。 ……。 「さて、久し振りに飲みましょうか」 「そんな気分では……」 「そういう時こそ飲むものよ」 カレンは、立ち上がりデスクの内線に手を伸ばした。 ……。 彼女にしても、非常に辛い立場だろう。 フィーナ様が地球にいる間の全責任を負っているカレン。 このままでは、彼女が失脚する可能性もある。 それでも彼女は、月とフィーナ様のことを考えていた。 なかなかできることではない。 ……。 …………。 「しかし、フィーナ様もそういうお年頃になられたのね」 カレンがため息を漏らす。 「そうね」 「自由に人を好きになれないのは、お可哀想だけれど……」 「姫たる方の責任よ、仕方のないことだわ」 「それはそうと、さやかはどうなの?」 カレンの口調が少し優しくなる。 「私? もう、ぜんぜんよ」 「博物館にこもりっきりだから」 ぱたぱたと手を振って否定する。 「時間は限られているわよ」 「分かっているわ」 「そういうカレンはどうなの? 誰か見つけた?」 「わ、私は、陛下にお仕えする身」 「恋愛などする時間はありません」 憮然とした表情で言う。 「そうかしら?」 「そうです」 「第一……私は、その」 カレンが私の胸を見る。 「魅力に欠けるから、諦めているわ」 「また、そういうことを言って」 「魅力というものは、自分を卑下する度に逃げていくものよ」 「分かっています」 「分かっていないでしょう?」 「……」 カレンが、ぷいっと顔を逸らす。 私といる時には、こういう可愛いところを見せてくれる。 出るところに出れば、男性からも人気があると思うのだけれど……。 ……。 がちゃ入口のドアが開き、メイドが入ってきた。 手に持ったプレートには、ワインのボトルとオードブル。 「今日はワインの良いのがあるの」 「それは楽しみね」 「お姉ちゃん遅いね」 「仕事が長引いているのかしら?」 「遅くなる時は大抵連絡をくれるんだけどなぁ」 ブルルルル……キュッ「あら、お車のようですが」 「どれ」 窓まで寄ると、確かに家の前に黒塗りの車が停まっていた。 後部座席では、数人の人がなにやらもぞもぞしている。 「カレン?」 「え、カレンさん?」 フィーナの顔をうかがう。 かすかにだが、渋い表情をしている。 カレンさんは、もう俺たちのことを知っているのだろうか。 そう言っている間に、カレンさんは後部座席から人を引っ張り出し、家の方へ近づいてきた。 「何か、姉さん運んでないか?」 「ええっ、ちょっとお姉ちゃんどうしちゃったの?」 ぴんぽーん「悪いけれど、そちらから開けてもらえないかしら?」 「は、はいっ」 がちゃ「ひゃあ、さやかさんっ」 開いたドアから、姉さんがカレンさんにおんぶされて現れた。 近くには黒服も控えている。 「……お、お酒臭さぁ」 「姉さん……」 「夜分失礼致します」 ……。 「カレン、何ですこのような時間に」 「……」 一瞬、二人の間に緊迫した空気が……「うう……うぷっ」 「さ、さやか、待って、待ってっ」 ……流れるどころではなかった。 「わわわわわっ」 ミアが慌ててキッチンに飛び込み、ビニール袋を持ってくる。 「だ、大丈夫……平気」 と言って虚ろな笑みを浮かべる。 「では、下ろすわよ」 カレンさんがゆっくりと腰を下ろし、姉さんを床に横たえる。 「あの、姉さんどうしたんですか?」 「いえ、少し飲ませすぎてしまったようです」 「カレ~ン、逮捕だ~」 もう、訳が分からない。 「とにかく、リビングに連れてかないと」 「は、はい」 と、二人が姉さんに肩を貸して歩いていく。 「カレ~ン、まったね~」 ……。 …………。 「こ、コホン」 「申し訳ありません、私につき合わせて飲ませすぎてしまいました」 そう言うカレンさんはぴんしゃんしている。 「いえ、いいですよ」 「また飲んであげて下さい」 「ふふっ、達哉君が年上のようね」 「カレン」 フィーナが強い目線でカレンを見る。 俺が射すくめられた目だ。 「何か?」 カレンさんは微笑すら浮かべたまま、フィーナの視線を受け止める。 ……。 …………。 「……」 「何も無いのでしたら、私はこれで」 フィーナはカレンさんを睨んだままだ。 ここで何かを始めるには、あまりにもタイミングが悪い。 「失礼します」 カレンさんは深々と頭を下げ、踵を返した。 ほっと胸を撫で下ろす。 「そう」 カレンさんが振り返った。 「さやかを責めるのは筋違いも良いところですよ」 カレンさんが鋭い視線で言う。 ……。 恐らく、俺とフィーナのことを、姉さんがカレンさんに告げた。 カレンさんは、そのことで姉さんを責めないで欲しい、と言っているのだ。 「それでは」 そう言って、玄関のドアを出て行く。 外で控えていた黒服が、頭を下げてからドアを閉めた。 ばたん「ふぅ……」 「……何が『ふぅ』ですか」 「だって、ここじゃ場所が悪すぎる」 「……」 むすっとした顔でフィーナが俺を見る。 「確かに、達哉の言う通りです」 「続きは日を改めて、な」 「ええ」 フィーナが表情を緩める。 しかし、カレンさんは強敵だ。 フィーナの強烈な視線を受けて、眉一つ動かさなかった。 ……そういえば「あ、あのさ」 「何です?」 「カレンさんって力あるよな」 「ええ」 「カレンは、ああ見えて武官なのよ」 「平たく言えば軍人」 「軍人……何かイメージ湧かないな」 「無理もないわね」 「でも彼女、ああ見えて剣術の達人なの」 「剣術? カレンさんが?」 「すごい腕よ。 私なんかが立ち会っても、10本に1本取れればいい方だわ」 立ち会ってってことは……「フィ、フィーナも剣術をやるの?」 「もちろん」 「といっても、護身術程度だけど」 でも、達人から10本に1本取れるんだよな。 それってすごいことなんじゃ……。 「達哉は心得があるのかしら?」 「……ない」 「機会があったら練習してみましょうか?」 「面白いかもしれないな」 「面白半分だと怪我するわよ」 「さて、さやかの様子を見に行きましょう」 フィーナは笑ってリビングへと向かった。 バイトに行く前の時間。 俺とフィーナは二人でイタリアンズの散歩に出ていた。 「達哉は、今日もアルバイトなのね」 「寂しい?」 「そ、そんなことはないわ」 「誰しも、なさねばならないことがあるもの」 ぷい、とそっぽを向くフィーナ。 「昨日言ってた水族館なんだけどさ、水曜日でどうかな?」 「明後日ね、構わないわ」 「あ、でも……」 フィーナが俯く。 「ん?」 「いえ、何でもないわ。 楽しみにしてる」 「俺も水族館に行くのは久し振りだから、結構楽しみだな」 「ふふふっ、晴れるといいわね」 「ああ」 他愛の無い話をしながら、こうして二人で歩くのが本当に楽しい。 面白おかしいというのではなく、全身が活性化しているような、そんな感覚だ。 「そうだ、リード持ってみる?」 「ええ、持ってみたいわ」 「コイツならそんなに引っ張らないからさ」 フィーナにアラビアータのリードを渡す。 「お姫様に持ってもらって幸せ者だぞ」 「わう?」 「ふふふっ、そんなことは分からないという顔をしているわ」 「わふっ」 アラビアータがテコテコと歩きだす。 「きゃ、なかなかの力持ちね」 「しっかり持ってれば大丈夫」 「そいつは人の調子を見ながら歩いてくれるから」 「利口者ね」 「こっちの奴らは、持っている人なんてお構い無しだからな」 と、残りの2匹のリードを引っ張った。 お返しにグイグイ引っ張られた。 「おっとっとっと」 「ふふふ、どの犬も個性があって可愛らしいわ」 ぴりりりりりっぴりりりりりっフィーナの携帯だ。 カレンさんからの呼び出しだろうか。 一瞬、表情を曇らせたフィーナが、立ち止まって電話に出る。 俺も足を止める。 「ええ、近くの川原にいるわ。 歩いて20分程度ね」 「分かりました、すぐに向かいます」 電話はすぐに終わった。 「カレンさん?」 「ええ」 そう返事をしたフィーナの声は、今までのものとは違っていた。 姫としての気品に満ちた、表向きの声だった。 「でも、私たちの件ではないわ」 「外交関連で多少トラブルがあったようね」 「月と地球の?」 「これ以上は言えないわ」 今から徒歩で大使館に向かうと、バイトの時間に間に合わなくなる。 せっかく、楽しい時間が過ごせていたのに………。 付き合う前なら気持ちよく送り出せていただろうに、変わるものだな。 「悪いけど、俺はバイトがあるから」 「ええ、構わないわ」 さっぱりと言うフィーナの声が、妙に冷たく感じられた。 「帰れる時間が分かったら、家に電話するから心配しないで」 「ああ、気をつけて」 「それでは」 フィーナは俺にアラビアータのリードを渡すと、足早に大使館へ向かっていく。 ……。 その後姿に、寂しさが募る。 「ぅおうん?」 「お姫様はお仕事なんだって」 「おん」 俺の言葉を理解したような声を出す。 さっきはとぼけていたくせに。 「とんだ不忠犬だ」 「おん?」 ……。 「……帰るか」 フィーナの姿は、もう遠く見えなくなっていた。 寂しさを抱えながら、ゆっくりと自宅に向かって歩き出す。 これは仕方の無いことなのだ。 フィーナがいつか話してくれたように、彼女は呼び出しがあればどんな時でも大使館へ向かう。 それが彼女の責任なのだ。 フィーナはこれを当然と考えているし、今後も変わらないだろう。 姫という立場は、ある日突然フィーナに与えられたものではない。 姫ではないフィーナなど、彼女が生まれてこの方、1秒たりとも存在していなかった。 彼女と姫という立場は切り離すことはできない。 フィーナという人格は既に、姫であることを内包しているのだ。 寂しくても我慢しなくてはならない。 フィーナも同じように寂しく思っていると信じて。 ……。 からんからん「ありがとうございましたっ」 最後のお客様が店を出て行く。 若いカップルだった。 初々しい雰囲気で、うちの料理をおいしそうに食べていた。 男性の方は、なかなか格好良かった。 良さそうな服を着ていたし、話し方や物腰も柔らかい。 それをまぶしそうに見る女の子の幸せそうな表情が印象的だった。 「ふう」 肩の力を抜き、手近なイスに腰を下ろす。 フィーナも俺のことをあんな風に見てくれるのだろうか。 そういえば俺は、明後日のデートのために何の準備もしていない。 服は?食事は?話題は?できることなら、フィーナが忘れられないようなデートにしたい。 どうしたらいいだろう。 「お疲れ様」 「お疲れー」 そうだ、菜月に聞いてみよう。 「あのさ、菜月は誰かとデートするなら、どんな食事がいい?」 ……。 「そうねぇ……」 「どこか遠出するなら、そこでしか食べられないものがいいな」 そこでしか食べられないもの。 「街中だったら正直何でもいいな、美味しければ」 「そりゃ、美味ければ誰も文句言わないわな」 「でもどっか、美味しいトコ知ってるの?」 「うっ」 全く知らない。 「知らないならちゃんと調べることね」 「予約が無いと入れないところもあるみたいだし、定休日だったら困るでしょ」 「そうだな」 言われれば当たり前のことばかりだ。 俺は何を熱くなっていたのだろう?「で、フィーナとどこ行くの?」 「ああ、満弦ヶ崎……」 「何で知ってるんだ?」 「フィーナ以外行く人いないじゃない」 「そう?」 「うん」 当たり前のように頷かれた。 「それとも、私を連れてってくれるの?」 「ハハハ」 「うわ、一蹴された」 やられた、という顔をする菜月。 「それで、どこ行くんだっけ?」 ケロリと聞いてくる。 「満弦ヶ崎水族館。 月の人にとっては信じられない施設みたいだ」 「ああぁぁ」 菜月が大きく頷く。 「行くかって言ったら、すごく喜んでくれた」 「良かったじゃない。 9割方勝ったようなものよ。 場所勝ちね」 「……まあ、そうかもしれん」 「あ、そうだ……」 菜月はキッチンへ入って行き、冷蔵庫に磁石で留めてあったチケットを持ってくる。 「これ使ったら?」 受け取りチケットを見ると特別優待券と書かれていた。 要はタダ券だ。 特別展示室に入れたり、イルカショーがいい席で見られたり、レストランでドリンク1杯が無料になったり、チケットの裏には、様々な特典が羅列されていた。 正直、金持ちとは言えない俺には嬉しいものだ。 使用期限は明後日、26日。 申し合わせたかのようなタイミング。 「いいのか?」 「うん。 別に誰も使わないし」 「ところが、ここに使う人がおりましたとさ」 バックヤードから仁さんが現れた。 「その人は、チケットの代わりに温かい心を手に入れ、末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」 「めでたくないなあ」 「どうせロクでもないことに使うんでしょ?」 「みくびってもらっては困るよ」 「これでも女性のために使おうと思っている」 「大人なんだから、お金払って入りなさい」 「金で買えれば、苦労して友達に取ってもらったりしない」 「あの、そんなレアなものならいいですよ、俺」 「もらっておきなさいって」 「菜月、何だって敵に塩を送るようなことをするのだね?」 「な、何のこと?」 「聞こえるよ、菜月の心の叫びが」 「私のことを振った……」 「ぎゃぴり~ん」 吹き飛んだ仁さんを見て、ようやく菜月がしゃもじを投げたことに気づく。 ほとんどモーションが見えなかった。 「は? 敵?」 「ああああ、何でもないから」 そう言う菜月は、首から顔まで真っ赤だ。 「これは達哉のもの、ね」 と、菜月が俺の胸ポケットにチケットを入れた。 「ありがとう……でも仁さんは?」 「いいのよ、何とかするでしょ」 「仕方が無い、かわいい妹の願いだ」 「せっかくだし使ってくれたまえ」 何事もなかったように、仁さんが立ち上がる。 「ただし、俺のものを使うからには一つ約束して欲しい」 「な、何でしょう」 「ぜひ彼女とは最後まで行ってくれ」 と、親しげに俺の肩を掴んだ。 「最後って……」 まあ、その、あれのことだろう。 「そ、そんな」 「付き合ってらんない……」 ため息をついて菜月はバックヤードへ消えていく。 「あ、菜月、ありがとうっ」 「ま、楽しんできてね」 菜月は振り返らず、ヒラヒラと手を振ってバックヤードへ入った。 ……。 その日フィーナが帰宅したのは、日付も変わろうかという時間だった。 ずっと待っていた俺は、ドアの開く音に玄関へと迎えに出る。 「お帰り」 疲れているであろうフィーナを癒そうと、精一杯の笑顔を浮かべる。 「ただいま」 フィーナは俺に一瞥をくれただけで靴を脱ぎ、家に上がる。 「……フィーナ」 「すみません、先に着替えさせてくれる」 「あ、ああ」 フィーナのそっけない態度に、少しカチンと来る。 「ミア」 「は、はい」 二人が俺の側をすり抜けて部屋に入った。 ……。 「ふう」 落ち着くために、一つ息を吐いてソファに座った。 「どうしたのお兄ちゃん、へこたれた顔して」 「フィーナ、疲れてたみたいだ」 「仕方無いわ、1日働いていたのでしょう?」 「それはそうだけど」 「許してあげたら」 「フィーナ様、きっと達哉くんには甘えてしまうのよ」 「甘える?」 そっけない態度と、甘えるという言葉が繋がらない。 「思わず、本当のところを見せてしまうということ」 「達哉くんだって、親しくない人の前では『疲れた疲れた』なんてしないでしょ?」 「あ……そっか」 「フィーナさんは特にその辺きちんとしてるから、かなり親しい証拠じゃない。 やったね」 「麻衣ちゃん、茶化さないの」 「あははは」 「それじゃ、わたしは寝るね」 「ああ、お休み」 「クーラーは消してね」 「えー、暑いよー」 そう言いながら、麻衣は2階へ上がっていった。 ……。 姉さんがゆっくりとお茶を飲む。 さっきまでの姉さんの雰囲気ではない。 麻衣が2階に上がるのを待っていたようだ。 コト姉さんが湯飲みを置く。 「昨日は迷惑をかけてごめんなさいね」 「私もいい年をして恥ずかしいわ」 「いや、あれくらいは別に……」 「ありがと」 「カレンとは何か話した?」 すっと本題に入った。 俺は姿勢を正す。 「いや、特には」 カレンさんが、姉さんを責めないで欲しいと言っていたことは、伝えない方がいいだろう。 「そう」 「単刀直入に聞くけど、達哉くんは本気なの? フィーナ様とのこと」 「本気だよ」 意思が伝わるよう、一言一言をはっきりと発音した。 姉さんは俺の言葉を飲み込むように目を瞑った。 「分かったわ」 「あなたが本気なら、私は何も言わない」 姉さんが俺のことを「あなた」 と呼んだ。 少し寂しい言葉。 だが、俺を一人の大人として認めてくれた証拠のような気がして、嬉しくもあった。 そして、自分の行為の結果としてもたらされたものは全て受け止めろ、というメッセージにも聞こえた。 「……」 奥歯をかみ締める。 「でも、私とカレンからお願いがあるの」 「な、何?」 姉さんは静かな目で俺を見た。 そこには、包み込んでくれるような優しい光は無い。 一切の虚飾を排した純粋な意思の光──「絶対に逃げないで」 静かなリビングに、姉さんの声が静かに響いた。 鈴の音のように、空気が凛と鳴る。 ……。 …………。 「分かった」 俺は姉さんの目を受け止め、しっかりと頷いた。 きし……床が鳴った。 フィーナが立っている。 微動だにせず、姉さんを見つめている。 余計なものは何も無い瞳。 裸の意思が込められた瞳。 かつて俺を凍りつかせた視線など、まだかわいいものだ。 「あなた達の願い、このフィーナ・ファム・アーシュライト、確かに聞き届けました」 ……。 …………。 「ありがとうございます」 姉さんが静かに頭を下げた。 ……。 声すら出せない。 いや、息をすることすらできなかった。 この部屋のあらゆるものがフィーナの前にかしずいている。 彼女はまさに君臨していた。 ……俺は、なんて人と付き合っているんだろう。 それは畏怖にも似た感情だった。 ……。 「さ、顔を上げて」 「私に宣戦した相手がそれでは、面白くもないわ」 フィーナが笑う。 部屋の緊張が一気に解けた。 「はい」 姉さんが頭を上げる。 「達哉、何を呆けているの?」 「あ、ああ」 フィーナは穏やかな表情でソファに腰をおろす。 ……。 「フィーナ、疲れてるんじゃないのか?」 「大丈夫よ、この程度」 フィーナはもう、いつもの彼女に戻っていた。 「フィーナ様……」 姉さんが心配そうにフィーナを見る。 「私には謝ることはできないけれど……」 「とてもありがたく思っているわ、さやか」 「決して、早まったことはしないと約束します」 「はい。 ありがとうございます」 「もう敬語はやめて。 貴女はこの家の大黒柱なのだから」 フィーナが苦笑する。 「ええ、そうね」 そう言って、姉さんも笑った。 「じゃ、私はこれで」 「おやすみなさい」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 ……。 「明後日が楽しみね」 姉さんが2階に上がってから、フィーナが口を開いた。 「ああ」 「今日菜月から特別券をもらったんだ」 「??」 「特別展示室に入れたり、イルカショーが見れたりするみたい」 「イルカが芸をするの?」 「ああ、水面をジャンプしたり、輪をくぐったりするんだろうな」 「まあ、それは楽しみだわ」 フィーナが瞳を輝かせる。 やはり、海のものへの関心は強いようだ。 「特別展示はどんなものがあるかしら?」 「それは行ってからのお楽しみだな」 「待ちきれないわね」 好奇心に瞳を輝かせるフィーナ。 さっきのフィーナと同一人物とは思えない。 「楽しい一日にしような」 「ええ」 「それでは、私はそろそろ」 「やっぱり疲れてたんだな」 「ふふふっ、そうね」 「少し話がこじれてしまっていて」 「頑張れよ」 「ありがとう」 フィーナがにっこりと笑う。 「じゃ、俺も休むか」 「一緒に出よっか」 「そうね」 俺たちは二人でソファを立った。 「それじゃ、お休み」 「お休みなさい」 闇の中で、フィーナの美しい顔が優しく笑った。 ……。 デート前日の夜。 寝不足にならないよう、いつもより早くベッドにもぐりこんでいた。 ……。 …………。 「ん?」 どことなくざわついた雰囲気を感じて、俺は目を覚ます。 時計を見ると、午前2時を指していた。 やはり、1階から人の気配がする。 誰だろう?泥棒?音がしないよう、静かにドアを開いて廊下に出る。 ダイニングから光と声が洩れていた。 「これはもう入れてしまって良いのかしら?」 「それはもう少し冷ましてからでないと、べたついてしまいます」 「そういうもの?」 「はい」 「あ、コショウは多めにしましょう。 達哉はその方が喜ぶわ」 「はい、かしこまりました」 ……。 きっと明日のお弁当を作っているのだろう。 フィーナは今日も仕事で帰りが遅かった。 それでも、こうしてキッチンに立っている。 明日、俺を驚かすつもりなのかもしれない。 ……。 知らなかったことにしておくのが良さそうだ。 俺は静かにベッドに戻った。 胸の中が温かい感覚でいっぱいになっていて、すぐに眠気が訪れた。 フィーナ、ありがとう。 窓からはまぶしい朝日。 目覚ましより30分も早く起き、さっさと身支度に入る。 昨夜寝る前に、数少ない衣服の中から選んだ服だ。 ……。 眠気は全く無い。 とにかくフィーナに早く会いたくて、体が勝手に動いた。 トントントントン階段を軽快に下りる。 「おはよう、ミア」 「お、おはようございます」 ミアの脇をすり抜け、ダイニングへ向かう。 「達哉さん」 背後からミアの声。 「どうした?」 振り返ると、ミアが沈痛な表情で立っている。 「姫さまは、今朝早く公務で大使館に向かわれました」 「え……」 ミアが視線を落とす。 何も考えられない。 ただ体が熱くなった。 「外交関連のトラブルだそうです」 「何でこんな日にっ」 「っ!」 ミアが体を縮める。 「何で……」 衝動より遅れて、悔しさがこみ上げてくる。 「達哉さん……」 「姫さまのお気持ちもお察し下さい」 「どうせ、私の責任だから、とか言ってたんだろ」 「達哉さんっ」 珍しくミアが大きな声を出す。 ……。 「確かに姫さまは、私の責任だからと仰いました」 「ですが、それは姫さまのお気持ちではありません」 「……」 ミアの言葉に、少し冷静さが戻ってくる。 「姫さまからこちらをお預かりしております」 ミアが差し出したのは、小さなメモだった。 薄い水色の紙に、端整な文字が並んでいる。 『昼過ぎには終わるということなので、駅前で待っていて下さい フィーナ』「わたしは中を拝見しておりません」 「お力になれることがありましたら、何なりと仰って下さい」 ……。 ……仕方の無いことだ。 そう思うしかない。 これからだって、同じようなことは何度もあることだろう。 胸が痛みに慣れることはないだろうけど、フィーナと付き合っていく以上は我慢しなくてはならない。 俺は、自分に言い聞かせる。 「少し予定を遅らせて待ち合わせをすることにするよ」 「良かった。 姫さまもお喜びになります」 ミアが涙ぐむ。 「良かったです、嬉しいです」 ぽろぽろと涙を零すミア。 「な、泣くなって」 何て言えばいいのか分からず、おろおろしてしまう。 「おはよー」 非常に悪いタイミング。 ……。 …………。 「お兄ちゃん、なにミアちゃん泣かせてるのっ!」 「フィーナさんだけじゃなく、ミアちゃんまでっ」 「ち、違うって」 「違うの?」 ミアに尋ねる。 「は、はい」 「わたしは、達哉さんに優しくしてもらえたのが嬉しくて」 外れてはないかもしれないが、その言い方は良くない。 ……。 …………。 「うあ~……」 麻衣はげっそりした顔でダイニングへ入っていった。 焼け付く太陽。 熱せられた街にはセミの声すらない。 白く光るタイルの地面には、街路樹の陰が黒々と落ちていた。 影の中にあるベンチに腰を下ろす。 周囲にベンチで待ち合わせをする人はいない。 でも、懸命に働いているフィーナを思うと、涼しい店の中で待つのは気が引けた。 携帯電話の画面を見つめる。 13:27お昼過ぎと言える時間だ。 「……」 気長に待とう。 フィーナが仕事を外せないのは仕方の無いことだ。 俺は目を閉じた。 ……。 左肩が熱くなり、目を覚ます。 体半分が木陰から出ていた。 「……」 いつの間にかかいていた汗が、顎の先から地面に落ちる。 5秒も液体ではいられなかった。 俺は影に移動して、また目を閉じる。 赤ん坊の泣き声。 楽しそうに笑うカップルの声。 地面が揺れるようなトラックの轟音。 賑やかさを演出する、デパートの店内BGM。 様々な音が俺を包んでいる。 ……。 早く来ないかな。 ……。 …………。 ぴりりりりぴりりりり「っ」 慌てて右手の携帯を見る。 着信は──ない。 俺の代わりに、目の前を歩いていたOLが賑やかに携帯で話し始めた。 「……」 また、影の中に移動する。 携帯をバイブに設定して強く目を瞑った。 何となく目が冴えて、眠れなくなっている。 胸が少しだけチクチクする。 我慢しなくちゃいけない。 フィーナと付き合うことは俺が選んだことなのだ。 俺は目を瞑ったまま大きく息を吸う。 ……。 少しずつ気持ちが落ち着いてきた。 ブルルルルッブルルルルッ右手の携帯が揺れた。 「は、はいっ」 「達哉?」 フィーナの声が流れてくる。 胸が軽くなった。 「ああ、今どこにいるんだ?」 「まだ仕事が終っていないの」 ……。 「……そっか」 ちょっと胸が痛くなる。 フィーナも頑張ってるんだ。 俺だけが辛い思いをしているわけじゃない。 そう、自分に言い聞かせる。 「2、3時間遅れそうなの」 携帯から耳を離して、時間を確認する。 14:412、3時間なら、まだ水族館に入れる。 チケットが無駄にならずに済む。 「分かった、待ってるよ」 「達哉、涼しい所で待っているのよね?」 「今日は暑いから、お店にでも入っていて」 俺の姿を見ていたように、フィーナが言う。 「ああ、分かってる」 「フィーナ様、政務局長が面会を願っております」 「分かりました、通して」 きびきびとしたカレンさんの声が飛び込んでくる。 緊迫した空気が電話から伝わってきた。 「では切るわね」 「ああ、頑……」 ぷつっ切れた。 「ふぅー」 大きく息を吐く。 本当に仕事をしているんだな。 ……。 疑っていたわけではないが、その一端を垣間見たのは初めてだった。 やはり現場の雰囲気には説得力がある。 政務局長って言ったら、きっとすごく高い地位の人なのだろう。 そんな人と、フィーナは対等に話をしているのだ。 俺、すごい人と付き合ってるんだな。 何だか勇気が湧いてきた。 ……。 あと2、3時間。 待つというのも楽ではない。 でも、フィーナはもっと大変な仕事をしている。 あんな状況で抜け出すなんて無理な話だ。 それを受け止めてあげられなくては、彼女と付き合い続けることなんてできない。 俺は再び目を閉じる。 ……。 …………。 ………………。 ブルルルルッブルルルルッどのくらい時間が経ったのか、また右手が震えた。 携帯の画面がフィーナからの電話であることを伝えている。 「はい」 「達哉」 深く沈んだ声。 その声だけで分かった。 フィーナはまだ仕事を終えていない。 「終わってないのか?」 「ええ」 「もう少し、もう少しだけ」 「分かった」 「達哉……」 「俺は大丈夫だから、仕事をきっちりな」 「ええ、ありがとう」 ぷつっ……。 暑い。 西日が直接当たっている。 ほぼ真横から来る光に、街路樹はなすすべも無い。 結局日が出ているうちにフィーナに会うことはできなかった。 仁さんからもらったチケットも無駄になった。 胸がざわつく。 でも、腹を立ててはいけない。 フィーナだって分かってくれているはずなんだ。 俺が辛い思いで待っていることを……。 彼女も辛いはずだ。 自分ではどうにもならないところで予定が決められているのだから。 俺は耐えなくてはならない。 俺たちの関係を守るために。 ……。 俺は立ち上がり、大きく伸びをする。 ずっと座っていたせいで、節々が音を立てた。 「よしっ」 俺は、もう一度ベンチに腰を下ろす。 ……。 人の声が少なくなり、車の音が大きく聞こえるようになった。 カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッヒールの音が近づいてくる。 豆粒みたいだった姿が、徐々に大きくなる。 手にバスケットを持ち、スカートの裾を舞い上がらせて、彼女が走ってきた。 ……。 「はあっはあっ……はあ、はあ……」 「達哉……はあっ……」 ここまでフィーナが息を乱しているのは見たことがない。 遠くのビルの屋上にある、電光掲示の時計は『20:18』と表示している。 もちろん水族館はもう閉まっている。 「……」 フィーナが俺の隣に腰を下ろす。 彼女の熱が伝わってくる。 ……。 …………。 しばらくして、フィーナの呼吸が正常に戻る。 「遅くなってしまいました」 フィーナが真っ直ぐ前を向いて言う。 「……」 唐突に、頭の中が熱くなった。 彼女は謝らない。 フィーナが姫である限り、同じようなことは何度も起こる。 彼女には、その原因である自分の立場を無くすことはできないから。 でも……そういう問題じゃない。 「これからどうしましょうか?」 何事も無かったかのようにフィーナが言う。 彼女が遅れたせいで、予定が無駄になったというのに……。 ……。 俺の中で何かがはじけた。 「一言謝ってもいいんじゃないのか」 「達哉、それは分かってくれているはずでは……」 「分かってる」 「分かってるけど、それとこれとは違うだろっ」 「どう違うのです」 「謝っても直すことができないなら、謝るほうが無責任でしょう」 「無責任でもっ」 謝ってくれれば、俺は笑顔でフィーナを迎えることができた。 「……」 「達哉がそこを理解してくれないと、私たちは続けていけないわ」 「っ」 反射的に、俺はベンチから立ち上がっていた。 「達哉っ」 フィーナが俺の手を掴もうとする。 「……」 その手を振り払った。 「!」 フィーナがよろけ、持っていたバスケットが地面に落ちる。 ……。 少しだけバウンドしたバスケットからは、堤防が決壊したようにサンドイッチがこぼれ出す。 ……。 転がっている。 靴跡で曇った石畳に──無数の人に踏まれた石畳に──転がり、へばりついている。 ……。 糸の切れた操り人形のように、フィーナが地面に膝を着いた。 緩慢な動作で、手元に転がっていたパンを拾い上げる。 三角形に切られたそれには、べっとりと黒胡椒のような砂利がついていた。 「コショウは多めにしましょう。 達哉はその方が喜ぶわ」 フィーナの言葉が思い起こされる。 ははは笑ってしまう。 笑うしかないようなデートの結末。 「……ぁ」 「ぅぁ、ぁぁぁ……っ!」 「フィーナ……」 返事は無い。 ただ肩を震わせ、宝石を拾うかのように、サンドイッチを掻き集める。 手も服も、マヨネーズやジャムでべっとりと汚れていく。 ……。 今、彼女の顔を見る勇気は──無い。 逃げ出していた。 一秒たりともその場にいられなかった。 何も考えられない。 考えたくない。 ……。 いつの間にか家の前に立っていた。 俺の隣にフィーナの姿はもちろんない。 どこをどう走ってきたのだろう。 全身が汗にびっしょり濡れ、服も髪も乱れていた。 ……。 とにかく頭を冷やそう。 がちゃ「達哉さん?」 ちょうどミアが通りがかったところだった。 「た、達哉さんっ、どうされたのですかっ」 「や、ちょっと……」 俺は情けなく笑うしかなかった。 「何その格好っ!?」 「達哉くん……」 続けて二人が出てくる。 姉さんは俺の目をじっと見た。 優しさは少しも感じられない。 「早く上がって、お風呂入らなきゃ」 「麻衣ちゃん」 「な、何?」 「ミアちゃんも部屋に戻っていて」 「は、はい」 「う……うん」 二人が2階へ上がっていき、ドアが閉まる音が聞こえた。 姉さんは身じろぎもせず、俺を見ている。 ……。 …………。 「姉さん?」 「フィーナ様は?」 「……」 あのまま駅前にいるのだろうか?「デートに行ったんじゃないの?」 「……ああ」 「なぜ一人で帰ってくるの?」 「……」 「喧嘩をしたのね?」 「喧嘩……」 あれが喧嘩と言えるのだろうか。 フィーナが謝らなかったことにカッとなって──彼女が作ってくれた弁当を台無しにした。 挙句、怖くなって逃げ出してきたのだ。 それだけの話。 冷静に考えれば、それは喧嘩と呼べるほど上等なものじゃない。 「喧嘩じゃない」 「フィーナが仕事で遅れたことを謝らなかったから、俺が一方的にひどいことをした」 「それでよく『フィーナ様のことが本気で好きだ』なんて言えるわね」 「……」 「付き合い始めたからって、相手が自分のものになったとでも思っているの?」 「誰だって、いろんな責任を負って生きてるの」 「あなただってそうでしょう?」 俺は無言で頷く。 「フィーナ様が負っている責任は、あなたなんかとは比べ物にならないわ」 「それを、恋人が分かってあげられなくてどうするの?」 「……ごめん」 「私に謝っても仕方がないわ」 「フィーナ様を連れてくるまで、家には入らないで」 姉さんはもう口を開かなかった。 「……」 がちゃばたん土手に腰を下ろした。 ……。 …………。 俺は何をやってるんだろう。 絶対に逃げないと姉さんに約束したのは、つい一昨日のことだ。 なのに、あっさりと逃げ出した。 それもフィーナから。 周囲と戦うどころの話ではない。 「誰だって、いろんな責任を負って生きてるの」 姉さんの言葉を頭の中で反芻する。 ……。 俺だって、家族やトラットリア左門に対して一定の責任がある。 バイトを休むわけにはいかないし、家には帰らねばならない。 フィーナは月の民全員に対して責任を負っている。 俺なんかとは比較にならない責任の重さ。 だから、人生のほとんどを公務に費やさねばならない。 ……。 一人の人に与えられた時間は限られている。 どの責任にどれだけの時間を割くか、それは個人の自由だ。 きっとフィーナは、姫という立場も俺との恋愛関係も、大切に思ってくれている。 だから、多くの時間を姫の立場に使いながらも、残った部分を俺との関係のために使おうとした。 もし、両方の責任を十分に果たすだけの時間がないのなら、甘えさせてくれる方に甘えるしかない。 立場と恋愛、どっちも大切だからフィーナは苦しんでいるのだ。 なのに俺はフィーナを許さなかった。 ……。 フィーナが謝らないのが許せない。 初めはそう思っていた。 でも本当は違う。 本当は、俺との関係に少ししか時間を使ってくれないのが寂しかったのだ。 姫という立場に嫉妬したのだ。 駅に来る時、フィーナは走っていた。 あんなに一生懸命走っているフィーナを見たのは初めてだった。 そこで気づくべきだったのだ。 フィーナが、いかに俺のことを大切に思ってくれていたのかを……。 残された時間を1秒たりとも無駄にしないよう、彼女は走っていたのだ。 それを俺は……。 ……。 これからもフィーナは、姫としての立場に時間を使い、俺には甘え続けるだろう。 でも、それを受け入れられなくては彼女とは続けていけない。 好きな女の子が甘えてくれるんだ。 それも月の姫が甘えてくれるんだ。 ……。 もしかしたら、もう元の関係には戻れないかもしれない。 でも、俺にできることは、今の気持ちを伝えることだけだ。 ……。 俺はゆっくりと立ち上がった。 フィーナを見つけに行こう。 気がつくと、ここに立っていた。 体中が、何だかよく分からないもので汚れている。 そればかりか、手のひらのところどころから血が出ていた。 そうだ……私はサンドイッチを拾って……。 右手のバスケットを見る。 浮いたフタの隙間からは、細かな砂利に汚れたパンが見えた。 ……。 ミアと一緒に作ったサンドイッチ。 達哉に食べてもらいたかった。 達哉の喜ぶ顔が見たかった。 それだけのことすら叶えられなかった。 思い出すだけで涙が溢れてくる。 ……。 ブロロロロ……キュッ 近くに車が停まった。 ガチャ 「フィーナ様」 「カレン……」 カレンは車に声をかけ、先に帰らせる。 ブロロロロ…… ……。 …………。 「どうされました、このような時間に?」 カレンは私の格好を見ても表情を変えない。 「今夜はここに泊まります」 「フィーナ様には朝霧家があるはずですが」 「事情ができました」 「お姿を拝見すれば分かります」 「達哉君と喧嘩をされましたね?」 「……っ」 見抜かれてしまった。 「それで逃げ帰っていらっしゃったのですか?」 「逃げた? 私が?」 「違うのなら、朝霧家にお帰りになれば良いでしょう」 カレンが冷たく言い放つ。 「私にはどうしようもなかった」 「責務を果たす以上、達哉との約束は守れなかったわ」 「つまりは達哉君が悪いと、そう仰るのですね?」 「それは……私はただ」 「お黙りなさいっ!!」 空気が震える。 静かな居住区に、カレンの一喝が幾重にも響き渡った。 「達哉君なら何でも許してくれるとお思いなら、大間違いです」 「大体、喧嘩をしただけで逃げ帰るとは何事です」 「その程度のお覚悟で、民の信頼を裏切り、達哉君とお付き合いされたのですかっ」 「!」 「お帰り下さい」 一言も言い返せない。 悔しくて涙が出た。 「そのような顔で立っていれば、私が何とかしてくれるとでもお思いか」 「子供の遊びに付き合っている程、私は暇ではありません」 「……っ」 カレンの言葉に思わずカッとなる。 だが、 だが、カレンの言う通りだ。 カレンの忠告を無視し、月の民の信頼を裏切って、私は達哉と付き合うことを選んだ。 それを、喧嘩をしただけで逃げ帰ってくるなどお話にもならない。 「それでは失礼します」 カレンが踵を返す。 遠ざかる背中を、彼女が門に吸い込まれるまで見ていた。 ……。 …………。 橋の欄干にたたずみ、じっと空を見上げる。 ……。 私が達哉に甘えているとでも言いたいのだろうか。 大体、突発的に公務が入る可能性があることは達哉だって分かっているはずだ。 「……」 達哉なら、何でも許してくれると思ったら大間違い。 カレンはそう言った。 確かに私は、達哉を待たせていた。 炎天下で約7時間。 辛くないはずがない。 それでも恨み言一つ言わず、私を待ち続け、励ましてくれさえした。 そんなのは達哉だけだ。 こんな私を待ってくれるのは、達哉だけだ。 ……。 だが私は、分かってくれと主張するばかり。 彼に感謝することを忘れていた。 「……」 お礼を言わなくては。 達哉に感謝の気持ちを伝えなくては。 ベンチにフィーナの姿はなかった。 足元の石畳には、何か粘り気のあるものを擦ったような跡がある。 フィーナが自分の手でしたことだろう。 ……。 仕事で疲れているというのに、夜遅くまで起きて作ってくれたサンドイッチ。 パンのひとかけらまで、思いが詰まっていたのだろう。 「フィーナ……」 俺は携帯電話に手を伸ばした。 ぴっ フィーナの番号を検索した。 後は通話ボタンを押せばいい。 フィーナが出てくれれば、居場所はすぐ分かる。 ……。 何か違う気がした。 俺がしたことを謝るには、自分の足で彼女を探し出さねばならないような気がする。 それくらいしなければ、俺の気が収まらなかった。 ……。 フィーナはどこに行ったのだろう? 彼女が知っている場所は限られている。 とりあえず大使館に向かってみよう。 大使館に向かう途中。 土手の道で、あっさりとフィーナを見つけた。 といっても、彼女はまだ豆粒のように小さい。 ずっと遠くから、こっちへ向かって歩いているのだ。 ……。 いつも毅然と前を向いて歩いているフィーナが、力を落とし俯いて歩いている。 通常の姿を満月にたとえれば、今夜のフィーナはまさに新月。 全く精彩を欠いている。 その姿が、想像以上に俺の胸を締め付けた。 どんな言葉をかければいいのだろうか。 ……。 …………。 徐々に距離が近づく。 フィーナの右手には、サンドイッチが入っていたバスケットが提げられていた。 一刻も早く彼女に謝り、機嫌を直してもらいたい。 そうだ、 まずは謝らなくては。 せっかくのサンドイッチを無駄にしてしまったこと。 仕事が終わってから何とか駆けつけてくれたフィーナを、無下にしてしまったこと。 ……。 俺は、謝罪の言葉を何度も心の中で繰り返す。 ……。 …………。 フィーナの表情が分かる距離まで近づいた。 悲しみを湛えた瞳。 軽く結ばれた唇。 手や服には、何か泥のようなもがこびりつき、乾いてかさかさになっていた。 胸が痛くなる。 「……」 「……」 俺たちは、2歩ずつ歩を進めた。 フィーナはじっと俺の目を見つめている。 後ろめたくて目を逸らしそうになるのを何とかこらえる。 ……。 …………。 謝らなくては……。 覚悟を決め、俺は息を吸う。 フィーナ「ありがとう」 達哉「ごめん」 同時に、俺たちは言葉を発した。 「え?」 「??」 フィーナが目を丸くする。 俺もきっと、そんな顔をしていただろう。 「何で、礼なんか?」 「……それは」 フィーナが逡巡するように視線を落とす。 しかしすぐに顔を上げる。 「私のことをずっと待っていてくれたから」 「……ありがとう」 もう一度フィーナは言って、頭を下げた。 「フィーナ」 思いがけない彼女の言葉に、顔が熱くなった。 「私は、達哉が私を好きでいてくれることに甘えていたわ」 「待ってくれる人など達哉しかいないというのに、感謝することも忘れて、さもそれが当然のように……」 フィーナが俯く。 体の前で握り合わされた手に力が込められた。 ……。 「俺こそ、ごめん」 「フィーナにとって姫という立場が大事だってこと……」 「分かってたフリして、本当は分かってなかった」 「立場も大切だけれど……達哉も大切だわ」 「どちらも、今の私にとっては、無くては困るもの」 フィーナの言葉が心に沁みた。 ……。 「……ありがとう」 「俺のことも大事に思ってくれてたから、駅まで走ってきてくれたんだよな」 「……あ、あの時は夢中で」 フィーナが恥ずかしそうに目を伏せる。 「なのに……仕事を優先された気になって、八つ当たりしちまった」 「弁当まで台無しにして……本当にごめん」 「夜遅くまで頑張って作ってくれたのにな」 「知っていたの?」 「あ」 思わず言ってしまった。 何かバツが悪い。 「と、ともかく……」 「これからも同じようなこと、あると思うけど……俺は待つよ」 「だから何も心配しないで、姫としての仕事を頑張って欲しい」 「……達哉」 フィーナが俺を見つめる。 「欲張りだけれど、私には立場も達哉も両方必要なの」 「どちらが欠けても、私は私でなくなってしまうと思う」 「ああ、それでいいさ」 「どちらが大切か、なんて選ぶもんじゃない」 「でも、達哉と一緒にいられる時間は少なくなるわ」 「仕方が無いさ」 「でも、その分密度を高くしてくれれば、きっと俺も頑張れると思う」 「ありがとう」 三度、フィーナは感謝の言葉を口にした。 「時間を無駄にしないよう、たくさん、その……」 「恋人らしいことをしましょう」 頬を染めてフィーナが言う。 そんな姿がどうしようもなくかわいらしく映り── 俺はフィーナの手をしっかりと握った。 「達哉、これからもよろしく」 「ああ、こちらこそ」 フィーナの目には優しい光が溢れている。 仕事の時は勿論、家でも見たことがないような、穏やかな光。 俺のせいでこの光を消したくないと、そう強く思った。 ……。 「そう言えば、弁当ってまだ残ってる?」 「え、ええ」 「でもほとんどは落としてしまったけれど」 「綺麗なのもあるんだろ?」 「見てみるわ」 フィーナは土手に腰を下ろし、バスケットを開く。 中には、サンドイッチだったものが乱雑に詰まっている。 「少しだけ無事なものも、残っているわ」 「遅くなっちゃったけど、食べようよ」 俺はフィーナの隣に腰をおろす。 「大丈夫かしら、作ってから時間が経ってしまったけれど」 「平気さ」 俺はサンドイッチに手を伸ばす。 「あっ、それは汚れているわ」 分かっていた。 分かっていたけれど、これを食べなくてはならない気がしたのだ。 フィーナに止められる前に、口に放り込む。 カサついたパンをかみ締めると、じゃりっとした感触がした。 ツナだったのかタマゴだったのか、それすら分からない。 でも俺は、何度もかみ締めた。 その度に砂利の感触がする。 これは、フィーナが感じた心の痛みだ。 体が汚れるのも構わず、一心にパンを拾っていたフィーナ。 誇り高い彼女をそこまでさせるだけの思いが、このパンには詰まっていたのだ。 「た、達哉……」 フィーナが俺の顔を心配そうに見る。 「美味い」 俺は笑って答えた。 「……っ」 みるみるうちに、フィーナの目が潤む。 ……。 「わ、私も、達哉と食べたかったの」 フィーナも汚れたサンドイッチを口に運ぶ。 それをゆっくりとかみ締めながら、フィーナは涙をこぼした。 ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。 恥じらいもせず涙をこぼしながら、フィーナはパンをかみ締める。 「作って良かった」 「……」 俺はフィーナの頬に手を伸ばし、涙を指で拭う。 「待って、まだ食べているのよ」 「構わないさ」 フィーナの顔を引き寄せ。 唇をふさいだ。 ……。 …………。 「……っ」 ……。 俺たちが離れたのは、1、2分が経ってからだった。 「マヨネーズの、味がした」 赤い目でフィーナがはにかむ。 「こっちはじゃりじゃりした」 「も、もう、仕方が無いじゃない」 フィーナがぷいっと顔を逸らす。 「また作ってくれるよな?」 「……そうね」 「これが私の腕だと思われては心外ですから」 フィーナが再び俺を見て笑った。 「……楽しみにしてる」 「ええ、きっと美味しいものを作るわ」 そう言って、にっこりと笑う。 いつもの調子が戻ってきたみたいだ。 何だか満たされた気分になり、ごろりと土手に横になった。 「ふふふ、汚れるわよ」 「いいよ、今日はどうせ汗だくだから」 「私も」 と、フィーナも横になり、俺に体を寄せた。 ほのかにフィーナの汗の匂いが感じられる。 お姫様と汗の匂いなんて縁がなさそうだけど、フィーナはぜんぜん違った。 自分の責務を果たすために、一生懸命働いている。 俺の頭にあったお姫様のイメージとはずいぶん違う。 ……。 「フィーナも急に仕事が入って大変だよな」 ぽつりと言った。 「仕方の無いことだわ」 体の脇から声がする。 「仕事だから?」 「仕事というよりは義務ね」 「私たちは、国民の税金で普通より贅沢な暮らしをさせてもらっているわ」 「だから、いかなる時にも要請があれば国民の下へ駆けつけるのよ」 「契約みたいなもんか」 「そうかもしれないわね」 贅沢な暮らしを保証される代わりに、重い責任を負う。 それも、人生のほとんどを捧げなくてはいけないくらいに重い責任。 「どっちがいいのかな、国民と王族って?」 「……分からない」 「ただ私は、今の立場を受動的に務めたくはないわ」 フィーナが熱っぽく答える。 きっと、彼女の中で何度も確認してきた考え方なのだろう。 生まれた瞬間から、フィーナの立場は逃れようもなく決定されていた。 消極的なものであれ積極的なものであれ、一定の覚悟を持っていなくては務まるものではない。 フィーナの場合は、自分の立場を積極的に受け入れ、王女としての役割をより良く果たそうとしている。 「正直、すごいと思うよ」 お世辞ではなく、そう言った。 「ありがとう」 「でも、達哉だってすごいと思うわ」 「どこが?」 「学院に通いながらアルバイトもしているでしょう?」 「別に偉くないよ」 俺はただ、やるべきことをやっているだけだ。 「するべきことをしているだけだから?」 見透かしたようにフィーナが言う。 「ああ」 「なら、私も変わらないわ」 「なすべきことをしているだけ」 「誰でも、大なり小なり周囲に対して責任を持っている」 「それを果たして初めて、その人は『生きている』と言える……だっけ?」 「そう思う」 フィーナが俺の体に顔をくっつける。 「汗臭いだろ」 「嫌じゃないわ」 「そんなもんか」 「ええ」 フィーナはそれっきり動かなくなった。 ……。 彼女の呼吸と熱を感じる。 それは例えようもなく落ち着く感覚。 俺は優しくフィーナの肩を抱く。 驚くほどにほっそりとした、華奢な肩。 こんな体で重い責任を果たしているのだ。 俺と一緒の時間くらいは、彼女に安らいでもらいたい。 彼女にそんな時間をあげるのが、俺の役割なのかもしれない。 ……。 星空を見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えた。 家に着いた頃には、既に日付が変わっていた。 「実はさ、俺、一度帰って来てたんだ」 「ここに?」 「ああ」 「駅前でフィーナと別れてから、真っ直ぐ」 「……そうだったの」 「姉さんに怒られたよ」 「フィーナを見つけるまで帰ってくるなってさ」 「……実は、私もなの」 「え?」 「カレンに怒られたわ」 「わがままで付き合い始めたのに、喧嘩したくらいで逃げ帰って来るとは何事かって」 「二人とも、同じようなこと言われてたんだな」 「本当に、ありがたいことだわ」 「カレンなんて、私たちの関係に真っ向から反対しているのに」 フィーナがしみじみと言う。 「そうだったな……」 忘れていたことが胸の中で首をもたげる。 いや、単に思い出したくなかったのだろう。 俺たちの関係は、恐らくほとんどの人には歓迎されていないこと。 このままなら、フィーナの帰還と共に無くなる関係だということ。 ……。 彼女の表情は先程までより、幾分険しくなっている。 フィーナも同じことを考えているのだろうか? 「さ、家に入ろう」 「そうね」 フィーナが頷く。 俺たちは並んで進み、玄関の扉に手を伸ばした。 ……。 家に帰った俺たちを最初に迎えたのは、ミアの悲痛な叫びだった。 あちこち汚れたフィーナの格好を考えれば無理もない。 「はい、お茶」 姉さんがテーブルに熱いお茶を置く。 「ありがとう」 湯飲みに手を伸ばす。 真夏にもかかわらず、じん、とした熱さが心地よかった。 「姫さま、この汚れは一体何ですか」 「言いたくありません、聞かないで」 「それでは、上手くシミが落とせません」 「ともかく、明日にして」 「姫さま、困ります~」 洗面所の方から、賑やかな声が聞こえる。 「ふふふ、フィーナ様も大変ね」 「ミアもだな」 俺たちは向かい合ってお茶を飲み込む。 「麻衣は?」 「休んだわ。 明日は早いみたい」 「心配してた?」 「当たり前です」 穏やかな表情で姉さんが言う。 「それで、仲直りはできたのね?」 「ああ、何とか」 「そう」 短い感想だったが、姉さんの顔は満足げだった。 「姉さんが怒ってくれなかったら、俺、ダメになってたかもしれない」 「……ありがとう」 「ふふふ、大げさね」 「二人が真剣だったから、良い結果に終わったのよ」 「フィーナもカレンさんに怒られたって言ってた」 「喧嘩したくらいで逃げ帰って来るとは何事かって」 「カレンが……」 姉さんが、静かな目で手の中の湯飲みを見つめる。 その瞳から、姉さんの思考を読み取ることはできない。 「カレンさんは俺たちの関係には反対なんだろ?」 ……。 俺の質問に、姉さんは目を閉じた。 「そうね」 「なら、どうして俺たちを助けるようなことを」 「カレンはフィーナ様を叱咤しただけよ」 「あなた達を応援しているわけではないわ」 言われてみれば、その通りだ。 カレンさんは、フィーナの不甲斐なさを怒っただけ。 別に俺と仲直りしろと言った訳ではない。 「達哉くん」 「そんなところに救いを求めてはダメよ」 わずかに強い語調で、姉さんが俺に言う。 「誰かに何か言われてフラつくようでは、カレンには認められないわ」 「……ああ」 「フィーナとの仲を認められるってことは、国王になるかもしれないってことだもんな」 「月の相続法だと、次の王はフィーナ様だけど、自分が国王になることも覚悟しておかなくてはならないわ」 「現国王のライオネス様も、初めは国王ではなかったわけだから」 「少しでも迷いがあるなら、諦めたほうがいいわね」 姉さんの言葉には厳しさがあった。 ……。 フィーナとの仲を認められるということ。 それによる変化を全て予測できているわけではない。 だが、少なくとも 朝霧家を離れること── 地球へ二度と帰れないかもしれないこと── フィーナのように月の民のために一生のほとんどを捧げなくてはならないこと── そして、仮にフィーナとの仲が認められたとしても、大多数の人は喜ばないこと── これくらいのことは想像できる。 俺が地球で作ってきた人間関係は無くなる。 ほとんど人生をリセットするようなものだ。 これをリアルに想像することは、難しいかもしれない。 でも、考えることを止めてはいけない。 少しでもリアルに近づけるよう、想像を続け覚悟を決めていかねばならない。 「顔つきが変わったわね」 姉さんが目を細めてお茶を飲む。 「そう?」 「ええ、男らしい顔をしているわ」 そう言って、姉さんは笑った。 深いところに寂しさが隠されている笑顔だった。 勇気づけられると同時に痛みを感じる。 「俺、負けないから」 つぶやきのような俺の声に、姉さんは無言で頷いた。 ……。 次の日。 遅めに目を覚ました俺は、身支度を整えダイニングへ向かう。 昨日の疲労もあってか、昼近くまで眠ってしまった。 フィーナはもう起きているだろうか。 トントントントンキッチンから包丁の音が聞こえてくる。 あまり慣れた包丁遣いではない。 「??」 そこにはフィーナが立っていた。 「む……」 俺が入ってきたことにも気づかないくらい集中して、野菜と格闘している。 そんなに力を入れていては、逆に上手くいかない気もするけど……。 「おはよう、フィーナ」 「達哉、おはよう」 「と言っても、もうお昼よ」 「何か気持ちよく寝ちまった」 「フィーナはいつも通り?」 「もちろんよ」 「私には、優秀な目覚ましがいるから」 と、笑う。 ミアのことだろう。 しかし、ミアの姿は見えない。 フィーナが料理をしているのに、指導をしなくていいのだろうか?「ミアは?」 「買い物に出ました」 「麻衣も出かけたわ」 「そっか、じゃあ二人だけか」 ……。 …………。 「そうね」 「い、今、昼食を作っているから、もう少し待っていて」 「手伝おうか?」 「結構よ」 「殿方に手伝われたとあっては、女子の名折れ」 鼻息が荒い。 「何作るの?」 「ヤキソバよ」 焼きそば……。 焼きそばを作るお姫様。 史上初かもしれないな。 「苦手だったかしら?」 急に心配そうな顔つきになり、聞いて来る。 「いや、好きだよ」 「そう、良かった」 心底ほっとしたような顔。 どうにもかわいらしい。 「……指切るなよ」 「見くびられては困るわ」 「へえ」 「楽しみにしてるから」 「ええ、待っていて」 笑って言うと、フィーナは再びまな板に視線を戻した。 しばらくして。 リビングにソースの焼け焦げる良い香りが漂ってきた。 そろそろ完成かな……。 俺は、盛り付けを手伝うためキッチンへ向かう。 「お皿出した方がいいかな?」 「ええ、お願いするわね」 フィーナが、大きななべを揺すりながら答える。 横から覗くと、若干フライパンに麺が付いているものの、なかなかの出来栄えだ。 「見られると恥ずかしいわ」 フィーナがぶすっとした顔をする。 「そういう顔も可愛いな」 がちゃっフライパンが暴れる。 「も、もう」 「何か新婚の奥さんみたいだ」 「私が手を出せないからって、言いたい放題」 「ほら、早くお皿を出して。 焼き過ぎてしまうわ」 「了解」 俺は傍らの棚から、程よい大きさの皿を出す。 すぐに盛り付けが始まり、テーブルにもうもうと湯気を上げた焼きソバが並ぶ。 フィーナは手早くフライパンに水を入れ、流しに置く。 「さあ、冷めないうちに味を見て頂戴」 そう言って、フィーナが対面の指定席に座った。 二人きりの食卓は、初めてかもしれない。 新婚の家庭ってこんな雰囲気なんだろうか。 胸が躍ってしまう。 「それじゃ、頂きます」 「たくさん食べて」 俺は、合わせて用意された麦茶を一口飲んでから、焼きソバに取り掛かった。 見た目には全く問題が無い出来。 後は味だが……。 口に入れると、ピリッとした辛味が走り抜ける。 だがそれはすぐに消えて、後にはソースの甘じょっぱい濃厚な味わいが広がる。 野菜は、若干火が通り過ぎている感じがするが、まあ及第点だ。 「どうかしら?」 俺の答えを待ちかねたように、フィーナが尋ねてくる。 「美味いな」 「それだけ?」 「良いところとか、直した方が良いところとか無いのかしら?」 なかなか注文の多いコックさんだ。 「きちんと講評をもらわないと達哉の好みも分からないし、第一、技術が向上しないわ」 そして、妙に真面目だ。 「え……そう言われてもな」 「初めに辛味があって良かったな。 何か工夫したの?」 「コショウを多めにしたわ」 にっこりと笑うフィーナ。 「ソースの味はまあ言うまでも無いとして、野菜に火が通り過ぎてたかな」 「あんまりしんなりしちゃうと、食感が無くなるからさ」 「あら、それは失敗ね」 「野菜は先に炒めて皿に取って、麺と最後に合わせる方がいいかも」 「それなら炒めすぎることは無いわね」 「次はそうしてみるわ」 フィーナは神妙に頷く。 「ああ、楽しみにしてるよ」 「さ、フィーナも食べたら?」 「ええ」 と、フィーナが箸を手に取る。 この辺の手さばきも慣れたものだ。 「……そう」 フィーナが手を止める。 「ん?」 「先日のサンドイッチの雪辱は果たせたかしら?」 そうか。 フィーナにとってはリベンジのつもりだったのか。 道理で俺が手を出すのを拒んだわけだ。 「もちろん。 十分過ぎるくらいだ」 俺の答えに、フィーナは満足そうに笑った。 義理堅くて一生懸命。 彼女のいいところを改めて実感した。 「では、私も頂くわ」 そう言うと、フィーナは上品に焼きソバを口に運び始めた。 食後の胃を、熱いお茶で休める。 真夏とは言え、これは欠かせない。 「こうした午後も良いものね」 「ああ、幸せだな」 満腹で、隣には好きな人がいて……申し分の無い午後だ。 ただ一点を除いては。 現状を幸せに感じれば感じるほど、先に控えた別れが胸に迫ってくる。 「なあフィーナ」 「どうしたの?」 フィーナが静かな表情で聞いてくる。 それを見ると、先の不安を口に出すのがはばかられてしまう。 自分たちの問題だというのに。 「いや、何でもない」 「何でもないということは無いでしょう?」 「そんな言い方をしては、聞いてくれと言っているようなものよ」 「いいんだ」 「私たちの将来のこと?」 「……」 「……ああ」 すぐバレてしまう。 「昨日も、さやかと何か話していたみたいね」 「気づいてたの?」 「お風呂を上がった時に、ぼそぼそ話したことが聞こえた程度よ」 「でも、雰囲気が硬かったから」 「……」 ここまで話してしまったのなら、躊躇することはない。 ……。 俺はお茶を少し口に含む。 「俺たちって、どうやったら月の人に認めてもらえるんだ?」 「月に行ってフィーナの父親を説得するわけじゃないだろ?」 フィーナが表情を引き締める。 「最終的にはそれも必要だと思うけれど……」 「手続き上、カレンに話を通すのが順当ね」 「カレンさん?」 「ええ」 「私が地球にいる間の責任者はカレンだし」 「以前聞いたところでは、私の相手については、カレンが父様から一任されているようなの」 「一任って……選ぶ権利があるってこと?」 「そうね。 カレンの推挙があれば、高い可能性で父様もそれを認めて下さる、ということだと思うわ」 正直驚いた。 どうして、一介の家臣が主の婿を決定できるのだろうか?「カレンさんって、ずいぶん偉いんだな」 「カレンは若い頃から母様の側に仕えていたの。 経緯は分からないけれど」 「最初は生活の世話をするのが仕事だったようだけれど、徐々に母様の秘書的な役割を果たすようになったようね」 「だから、私たち王家については他の貴族達が知らないようなことまで知っているわ」 側仕えから出世したタイプの人か。 「政治的な力は、父様より母様の方が強かったこともあって、今では父様の絶大な信頼を得ているというわけね」 「敵も多いようだけれど、国のために良く尽くしてくれるわ」 国のことを一番考えている。 なればこそ、俺たちの関係には賛成できないだろう。 「なら、どうやったらカレンさんを……」 「小細工は通用しないでしょうね」 「直接、父様に推挙してもらうよう頼むしかないと思う」 「でも、カレンさんは反対するだろ?」 「当然ね」 「そうでなくては別の意味で不安だわ」 フィーナがかすかに笑う。 「なら、首を縦に振ってくれるまで頼むしかないのか」 「ええ」 「私が月に帰るまでに説得できなければ……」 フィーナはそこで言葉を切る。 それ以上は言わなくてもお互いに分かっている。 ……。 俺は、湯飲みに残ったお茶を飲み干した。 ひたすら頼み込む。 そこに、わずかでもカレンさんを説得できる要素はあるのだろうか。 分からない。 でも、俺たちにできることがそれしかないのなら、時間が許す限り努力するしかないのだ。 がちゃ「よいしょっと……」 「あら、ミアが帰ったようね」 フィーナが表情を和らげる。 ミアの前では深刻な話はしたくない。 そんなフィーナの配慮が見て取れる。 ミアは両手に買い物袋を抱えていた。 この姿も、いい加減見慣れてきた。 「お帰りミア」 「お疲れ様」 「はい、ただいま戻りました」 「何か良い香りがしますね」 「あら、分かるかしら?」 「私が焼きソバを作ったのよ」 「姫さまがお一人で……」 ミアが満面の笑みを浮かべる。 「ぜひ、ご相伴に預かりたかったです」 「ちゃんと残してあるわ」 「本当ですかっ!?」 荷物を放り出さんばかりにミアが喜んだ。 「ええ、お昼はまだ?」 「はい、まだ食べておりません」 「それでは手を洗ってらっしゃい」 「はいっ」 ミアはキッチンに荷物を置くと、パタパタと洗面所へ駆けていった。 「何だか、お母さんみたいだな」 「ふふふ、今日は新婚になったりお母さんになったりと忙しいわね」 と、フィーナがキッチンに向かう。 「達哉とそういう風になることができれば、それが一番ね」 「ええっ」 突然の言葉に、思わず動揺した。 「嫌なのかしら?」 キッチンからフィーナが顔を出す。 挑発するような、可愛らしい表情。 「も、もちろん嫌じゃないさ」 でも、結婚して母親になるといったら、そういうことをするわけで……。 何となくフィーナの顔を見づらくなる。 「達哉、いやらしいことを考えているでしょう?」 「そ、それは……」 情け無いほどにもじもじしてしまう俺。 「そこで赤くなられたら、こちらが恥ずかしいわ」 フィーナは顔を赤らめ、顔を引っ込める。 ……。 しばらくの間、俺の顔から熱は引かなかった。 ……。 今日の営業も無事終了。 クローズ作業も一段落し、ようやく息がつける時間になる。 「お疲れ様っと」 菜月がいつものように野菜ジュースを持ってきてくれる。 ついでに、空いたイスを引っ張り出し俺の前に座った。 「??」 「報告を聞かせて」 「な、何の?」 「デートのに決まってるでしょ」 「水族館のチケットを調達してあげたんだから、それくらいは聞いてもいいと思うけど?」 「……」 使えなかったけどな。 「ほらほら、恥ずかしがらずにお姉さんに教えてごらんなさい」 「そう、最後まで行ったのかどうなのか、聞かせてもらおうじゃないか」 いつの間にやら仁さんも寄ってくる。 「正直、フィーナちゃんの程よい大きさの胸には興味がある」 「正直すぎっ」 仁さんが座ろうとしたイスを、菜月が引っ張る。 が、仁さんは後ろ手にイスをがっちりキャッチした。 「甘いな。 胸は立派なのに嘆かわしい」 「お、おのれ」 「さて、洗いざらい話してもらおうか、はっはっはっは」 二人に報告するのは筋が通っていなくも無い気がする。 だが、サンドイッチのことや姉さんやカレンさんのことを話すわけにもいかない。 俺は、その辺のことをはぐらかしつつ説明した。 ……。 「何だい、フィーナちゃんが遅れて喧嘩して仲直りしただけじゃないか」 「下世話な話が聞きたいなら、その辺の週刊誌でも買った方が早いですよ」 「じゃあ、水族館には行けなかったんだ」 菜月が仁さんをスルーして話す。 「せっかくもらったのに、ごめんな」 「いいよ、そのことは気にしなくて」 「でも、仲直りできて良かったわね」 「ああ」 「喧嘩したせいって言ったらアレだけど、前より結びつきが強くなった気がする」 ……。 …………。 「あはは、いや、そこまでノロけられちゃうとね」 「ね、ねえ、兄さん」 仁さんはイスの上で、釣られた魚のように痙攣している。 「……コホン」 「ま、兄さんはプラトニックなのに弱いから」 と、菜月は野菜ジュースに口をつけた。 俺もグラスに口をつける。 「で、いつ結婚するの?」 「ぶっ」 「わあああっ!」 菜月が体を横にそらして飛沫を避ける。 「行儀の悪いシンデレラボーイね」 「後でちゃんと掃除してよ」 「了解」 「でも、達哉がねえ……」 菜月が夢見がちな目をする。 「まだ決まったわけじゃないよ」 「というより、魔法が解ける可能性の方が遥かに高い状況なんだ」 「そうなの?」 「そりゃ、お姫様が別の星の平民男子と結婚しますって言っても、普通ダメだろ」 「だったら、ボヤボヤしてる暇なんて無いじゃない」 「月に乗り込むでも何でもして、認めさせないと」 「フィーナは、8月で帰っちゃうんでしょ?」 菜月が当たり前のように言う。 「そうだな」 「『そうだな』じゃないでしょ、しっかりしなさいよ」 ナチュラルに説教されている。 そんなに不甲斐なく見えるかな。 「頑張るよ」 「当たり前」 「バイトが邪魔な時は、私が2人分働いてあげるから、遠慮なく言ってよね」 菜月が気を利かせてくれている。 でも、それではフィーナが喜ばない気がする。 「いや、バイトには出るよ」 「その上で頑張るさ」 「そんな……人生の大事よ?」 「それでも、だ」 「フィーナもきっと賛成してくれる」 ……気がつくと、熱っぽく語っていた。 ……。 「ふうん」 菜月が少し驚いた目をしている。 「ま、達哉がそう言うなら」 「悪いな、気を遣ってくれたのに」 「……いいわよ、別に」 「その代わり、月に行く前にサインでも残していってよね」 「ああ、王家御用達にでも指定するさ」 「ありがと」 「いや、俺こそ」 そんなところに、厨房からおやっさんの声が飛ぶ。 「そろそろ、みんなが来るぞ」 「はーい」 ……。 からんからん 「どーもー」 「こんばんわ」 「お邪魔致します」 おやっさんの言った通り、すぐに家族が入ってきた。 ……。 …………。 あれ? 「フィーナは?」 「ついさっき、仕事で呼ばれて行っちゃったよ」 「今日中にはお帰りになるようです」 「そ、そっか」 「ほら、そのくらいで落ち込まない」 菜月が、俺の頭を軽く押す。 「だ、大丈夫だって」 そう言いながら── 俺の中には、嫌な予感が湧き上がっていた。 フィーナの帰宅は、日付が変わってからだった。 ブロロロロ……キュッ 家の前に車が停まった。 外を見ると、黒塗りの車が雨にかすんでいる。 「雨か」 ソファから腰を上げ、玄関へ向かう。 がちゃ フィーナのためにドアを開く。 湿った空気が室内に流れ込んできた。 車の助手席からはカレンさんが出てきて、後部座席ドアの外に傘を掲げる。 すぐにフィーナが出てきた。 二人がキビキビした足運びで、こちらへ向かってくる。 ……。 「お帰り」 「ただいま」 そう言って笑うフィーナの表情には、かすかな疲労が見えた。 「このような天気でしたから、お送りしました」 カレンさんは、いつも通り淡々とした表情で状況を述べる。 この人を説得しなくてはならないのか……。 そう思うと、自然と体に力が入る。 カレンさんはそんな俺を一瞥すると、かすかに笑った。 「それでは、私は失礼します」 「助かりました」 「いえ」 「では達哉君、また」 「ええ、おやすみなさい」 カレンさんは小さく頷き、車へと戻っていった。 フィーナはミアを呼んで着替えを済ませると、すぐにバスルームへ向かった。 「姫さま、お疲れのようですね」 ミアがテーブルにお茶を置く。 「ああ、忙しかったのかな?」 「それだけでは無いようですが、特には何も仰いませんでした」 「ま、聞けるようなら聞いてみるさ」 「お願いします」 「それでは、わたしはこれで」 「おやすみ」 「おやすみなさいませ」 ミアはぺこりとお辞儀をして、2階へ上がっていった。 ……。 雨の音が聞こえる。 久し振りの雨。 世間的にはいいお湿りなのだろうが、俺にはなぜか沈鬱に聞こえた。 「お風呂頂きました」 「ああ」 フィーナが麦茶を持ってリビングへ入ってきた。 帰ってきた時に感じられたフィーナの疲労感は、既に無くなっていた。 「何度入ってもお風呂は良いものね」 「向こうはシャワーが多いんだっけ?」 「ええ」 「女王になったら、お風呂の普及に努めようかしら」 「それをこの目で見られたらいいんだけど」 「ふふふ、もちろん二人で作る政策よ」 そう言って麦茶を口に含む。 「今日の仕事はどうだった?」 「そうね……」 「外交関係のトラブルは、解決に向かっているわ」 「良かった」 「外交ってことは月と地球の?」 フィーナが頷く。 「母様のお陰でずいぶん話し易くはなったのだけれど、自由に行き来できるようになるには、まだまだ時間が掛かりそうね」 現在の月と地球の関係は、疎遠なご近所といったくらいだ。 積極的に干渉しない割には、それなりに関心があったりする。 と言っても「あの家はいつも帰りが遅いけど、何をしているのだろう?」 という、少しマイナス方向に振れた関心だが。 やはり、かつてあったと言われている戦争が原因なのだろうか。 過去が人に蓄積されるものなら、戦争の時に生まれた負の感情も、お互いの心の奥深くに眠っているのかもしれない。 「さやかのように、積極的に交流を図ってくれている人がいるのに残念なことね」 「でも、俺たちの関係が認められたら、何か発展があるかもしれない」 「現実的なラインとして、ありえることだわ」 フィーナの口調には、まだ仕事の調子が残っている。 何だか大人びている気がして、少し羨ましくなった。 ……。 「達哉」 フィーナが居住まいを正す。 「どうしたの?」 俺は動揺を抑えつつ聞き返す。 「今日、残念なことが決まったわ」 フィーナが俺の目を見る。 冗談ではないことが、すぐ分かった。 「何?」 俺は唾液を飲み込む。 「帰還の日が半月ほど早まりました」 ……。 雨が強くなった。 大粒の雨が窓に打ち当たり、ばちばちと音を立てる。 「半月も……」 「ええ。 14日に出発することになりそう」 フィーナがかみ締めるように言う。 全体の予定から見れば1割程度の期間短縮。 でも、俺たちに残された時間が突然半分になったのだ。 「ど、どうして」 「正確なところは分からないわ」 「大方、どこからか私たちの話が漏れたのだろうけど」 「じゃあ、カレンさんが……」 俺たちの関係を認めたくないばかりに、こんな手を。 そう言い掛けた俺を、フィーナが睨みつける。 「カレンはそのようなことはしないわ」 「彼女は、その気になれば私を強制送還できるもの」 「じゃあ誰が?」 「私たちの関係は、大半の人が望んでいないのは分かっているでしょう?」 「該当者が多すぎて見当もつかない」 フィーナが忌々しげに言う。 「……」 「期間の中途半端さから見ると、即時送還の求めに対して、カレンが何とか一週間で手を打ったというところじゃないかしら」 フィーナは淡々と状況を分析する。 それが少し癪でもあった。 でも、ここで騒いでも仕方が無いのだ。 フィーナの帰還までにカレンさんを説得する。 やるべきことは変わらない。 「うかうかしてられなくなったな」 「早く認められないと、タイムリミットが来ちまう」 「その通りだわ」 フィーナがじっと窓の外を見る。 闘志に満ちた瞳の輝き。 窓に映った彼女の姿からも、その気迫が感じられた。 「このことは、近日中にさやかに伝えられると思うから、それまでは口外しないで」 「分かった」 ゆっくり頷く。 ……。 …………。 雨が振り続いている。 叩きつけるような雨音が俺たちを包む。 だが、俺の体は徐々に熱くなってきていた。 「達哉」 「ん」 「隣に座っていいかしら?」 「ああ」 立ち上がったフィーナが、俺の隣に腰を下ろす。 と、俺の方に頭を預けてきた。 「体、熱くなってるのね」 「ああ、負けたくないからな」 「私もよ」 フィーナの頭を掻き抱く。 湯上りのフィーナの熱が伝わってきた。 体の奥にまで沁み込んで来るような、心地よい熱。 この熱さをずっと感じていたいのだ。 誰かに何かを言われたくらいでフラつくようでは、カレンさんには認められない── 姉さんの言葉が蘇る。 そう。 帰還が早まろうが、俺の決心は変わらない。 最後の瞬間まで、フィーナの手を握り続ける。 幼いあの日。 フィーナを乗せて走り去った車。 今の俺なら、呆然と見送ったりはしない。 ……。 叩きつけるような雨音が、家を包んでいた。 二日間降り続いた雨が上がった。 久し振りの雨に街は潤いを取り戻し、強い日光をきらきらと反射する。 「フィーナ、準備はいいか?」 「ええ、いつでも出られるわ」 引き締まった表情のフィーナ。 「いってらっしゃい」 「ミアちゃんと美味しい晩御飯作っておくからね」 「姫さま、御武運を」 先日、家族にフィーナの帰還が早まったことが伝えられた。 全員が、突然の予定変更を残念がった。 俺たちの関係が原因で、フィーナの滞在期間が短くなったことは明らか。 だが、誰一人俺たちを責めなかった。 特に姉さんには感謝したい。 事が不調に終われば、職を失う程度では済まないだろう。 でも、そんなことはおくびにも出さずに俺を応援してくれた。 俺は感謝の気持ちを込めて目礼する。 姉さんも穏やかな表情で頷いてくれた。 「行ってくるよ」 がちゃ多量の雨水を受けた弓張川が、力強い流れを見せている。 濡れたアスファルトは黒々と輝き、まぶしいくらいだ。 俺たちは無言でここまで歩いてきた。 ……。 フィーナは、じっと前を見つめて歩いている。 その足取りには、迷いは感じられなかった。 こんな状況でも全く臆さない。 隣にいる俺にも勇気が湧いてくる。 ……。 何かを話す気にはならなかった。 口を開けば、気迫が逃げてしまう気がした。 それに、正面からの戦いに作戦など必要ない。 フィーナの手を強く握る。 彼女がしっかりと握り返してきた。 この温かさをずっと感じていたい。 フィーナと別れるなど、絶対に、何としても受け入れられない。 純粋な欲求。 飾り気などない、ただの欲求。 それが今の俺を動かしている。 カレンさんを説得できさえすれば、本能でも理屈でも……。 月人居住区を抜け、大使館の入口に立つ。 フィーナはそこで足を止めた。 俺をじっと見つめる。 ……。 …………。 「達哉は、達哉のために戦って」 「私も、私のために戦うわ」 フィーナが俺の考えを見透かしたように言う。 「ああ」 俺はゆっくりと頷く。 フィーナはかすかに笑い、俺の手を離した。 ……。 フィーナが俺にくるりと背を向け、門に対面する。 銀髪が優雅に舞った。 ぎっ、ぎぎぎぎ……今まで開かれることのなかった門が、ゆっくりと開く。 フィーナは一瞬たりとも躊躇することなく、門の中央を抜けた。 道の両側に並ぶ木々の葉が、彼女の帰還を歓迎するように風にそよいだ。 西洋式のシンメトリーな庭園を抜けると、眼前に古風な建物が現れた。 地球には、もうこの手の建築様式は残っていない。 歴史的な史料に、わずかにその痕跡が見られる程度だ。 ……。 正面玄関らしき大きな扉の前で、俺たちに深く頭を下げた人がいる。 カレンさんだ。 「わざわざお運び頂き、ありがとうございます」 俺たちが近づくと、向こうから声をかけてきた。 「出迎えはいらないと言ったはずでしょう?」 「恐れ入ります」 「さ、奥へ」 「達哉さんも、お入り下さい」 カレンさんが俺を「さん付け」 で呼んだ。 今日の目的を既に知っていて、敢えて呼び方を変えてきたのかもしれない。 言われるままに歩を進める。 「お掛け下さい」 俺たちは上座のソファに腰を下ろす。 カレンさんは背筋を伸ばして対面した。 すぐにメイドが現れ、テーブルの上に深紅の紅茶を並べる。 「ありがとう、貴女は下がって構いません」 カップにもソーサーにも、金でアーシュライト家の紋章が描かれている。 だが権威を示すようなものではなく、あくまで意匠の中に組み込まれているだけだ。 ……。 フィーナがカップを口に運ぶ。 お茶を飲む気分ではなかったが、倣って紅茶を口にした。 「ご留学の期間が短くなってしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」 カレンさんが頭を下げる。 「仕方の無いことです」 「原因は私たちにあるのですから」 カレンさんがわずかに頷く。 「本当は即時帰還を求められたのではないの?」 「仰る通りです」 つまり、カレンさんの努力で一週間の短縮で済んだということだろう。 「礼を言います」 「恐れ多いことです」 カレンさんは、再度頭を下げた。 「時に、本日はどのようなご用件で?」 と、俺たちの目を順番に見る。 ……。 いよいよ本題に入る。 俺は気持ちを落ち着けるため、床をしっかりと踏みしめる。 「俺たちの関係を認めて欲しくて、ここに来ました」 はっきりと口にした。 フィーナも無言で頷く。 ……。 …………。 「私にどうしろと仰るのですか?」 表情を変えずに、カレンさんは言った。 「以前、私の伴侶については、父様から一任されていると言っていたわね」 「カレンから父様に、達哉を推挙して欲しいの」 「お願いします」 テーブルにぶつかるほど頭を下げる。 ……。 …………。 なかなか返事が来ない。 不安になって頭を上げると、カレンさんと正面から目が合った。 「確かに、フィーナ様の婿様については一任されております」 「しかし、達哉さんがお相手としてふさわしくないことは、既に申し上げたかと思いますが」 「そこを押して」 フィーナは躊躇なく頭を下げた。 「そのようなことをされても困ります」 それでも、カレンさんは表情を崩さない。 「フィーナ様は、なぜ達哉さんをお相手として選ばれたのですか?」 「……」 フィーナは何と答えるのだろう?俺のことを好きだから、パートナーとして、ふさわしいと思ったから、浮かんだのはそれくらいだった。 「達哉が側にいなくては、私が困るからです」 カレンさんの表情が、わずかに動いた。 が、すぐに古い池のように静かな表情に戻る。 「フィーナ様はこう仰っていますが、達哉さんはどうですか?」 「俺は……」 カレンさんに水を向けられる。 背中に汗が伝った。 「俺は、フィーナの側を離れたくない」 ありのままを答える。 「そうですか」 「念のため伺いますが、お二人は既に肉体関係はお持ちですか?」 「なっ……」 フィーナが絶句する。 俺は、意外と冷静だった。 持っていると答えたほうが有利になるのでは……そんな考えが浮かんだが、すぐに頭から消した。 「持っていません」 「見損なってもらっては困るわ」 「関係も認められていないのに、そのような行為に及ぶと思ったのかしら?」 「いえ、念のため確認させて頂いたまでです」 「失礼なことをお聞きしました」 カレンさんは、俺たちの答えを淡々と流していく。 プラスなのかマイナスなのか、皆目見当がつかない。 「さて、フィーナ様」 「仮に婚姻が決まれば、是非を巡って国内が割れることは必至です」 「地球に対する感情も悪化するでしょう」 「それをどうお考えですか?」 フィーナは言葉を選ぶように視線を一度落とす。 「姫として、思慮の足りない行為だと思うわ」 「でも、達哉と離れることはできない」 「事の重大さをご理解頂けていないのですか?」 「理解しているわ」 「でも、カレンなら上手く治めてくれると思っています」 「……」 フィーナが平然とすごいことを言ってのける。 でもなぜか、カレンさんの表情が少し和らいだ気がした。 「達哉さんにお伺いします」 「はい」 「今回の件で、さやかは多大な損害を受けるでしょう」 「免職になるだけでは済まない可能性があります」 「この点についてはどう思いますか?」 ……。 他人に何かを言われたからといってフラつくな。 姉さんはそう言っていた。 「姉さんには申し訳無いけど、フィーナと離れたくないのは変わりません」 「家族を見捨てるつもりですか?」 カレンさんがまなじりを上げる。 それでも、俺の答えは変えない。 「家族の思いを無駄にしたくないだけです」 ……。 カレンさんが視線をフィーナに向ける。 「フィーナ様、留学中お世話になった恩を仇で返すことになるかもしれないことについてはどうお考えですか?」 「申し訳無いと思っていますが、譲れないものです」 フィーナがカレンさんを見返して言う。 カレンさんはフィーナの強い視線をさらりとかわし、体の前で手を握った。 「フィーナ様のお相手を選ぶということは、将来の国王候補を選ぶことでもあります」 「それはご理解頂けていますか?」 「分かっているわ」 「達哉さんも?」 「はい」 「だからこそ達哉を選んだのです」 「達哉さんが国王としてふさわしいと?」 「そうです」 「私と共に、月を良い方向へ導いていけると思っているわ」 フィーナの視線がより強くなる。 だが、カレンさんの表情は変わらない。 「達哉さんはどうです、国王として国を引っ張っていく自信はありますか?」 「カレン、そのような質問は意味が無いでしょう?」 フィーナが少し慌てる。 「私は意味があると思っています」 その一言で、フィーナを退ける。 「どうです、達哉さん?」 「お、俺は……」 答えに窮する。 正直自信なんてない。 国王がどんな仕事をしているのかなんて、俺には分からない。 でも、自信がないと答えたらどうなるのだろう。 ……。 待てよ。 答えに窮した段階で、自信が無いのは既に伝わっている。 もう迷っても仕方が無いじゃないか。 「自信はありません」 正直に答える。 「ならば、この話は無かった事にした方が良いのではないですか?」 「自信満々な人よりは、よっぽど信頼できるわ」 「その分、一生懸命勉強します」 カレンさんは無言のまま紅茶に手を伸ばした。 「達哉さん、自分が国王になったつもりで答えて下さい」 「国の利益と自分の好みが反対だった場合、どちらを優先させますか?」 これはよくある話だ。 「国の利益です」 俺は迷わず答えた。 ……。 「意外ですね、お二人はそのように行動されていないというのに」 「あ……」 「っ」 今、この瞬間、俺たちは国の利益より自分達の好みを優先させている。 「それはっ……」 「言い訳は聞きません」 ぴしゃりと言われた。 「では、もう一つ質問です」 「隣国との停戦会議があるとします。 その会場へ向かう途中、目の前で家族が事故に遭いました」 「今すぐ医者へ診せないと危険な状態です。 しかし医者に行くと会議に遅刻してしまいます。 達哉さんならどうしますか?」 これは、明らかに試されている。 ……。 俺は目を瞑り状況を想像する。 携帯電話で医者を呼んだり通行人に頼んだりと、いくつか行動が思いつく。 だがそれは、この質問の本質ではない。 自分の家族、例えば麻衣が目の前で血を流して倒れていたら…………。 放っておくことなんてできるわけがない。 「家族を病院に運びます」 「戦争を止めることより、家族が大切なのですか?」 「家族を救えないような奴は、またいつか戦争をしてしまうと思う」 「……ほう」 「しかし、先ほどとは答えの趣旨が変わったようですね」 「さっきの質問と今回では状況が違うじゃないか」 思わず熱くなって言った。 「話を具体的にしただけです」 「初めの質問を受けた時、具体例を想像されなかったのですか?」 淡々と言うカレンさん。 「……」 カレンさんの言う通りだ。 初めの質問を受けた時、俺は「こうあるべきだ」 という理屈で考えていた。 実際に、自分がその状況に置かれているところを想像していなかった。 「カレン、達哉を言い負かすために質問をしているの?」 フィーナの声が荒くなる。 「私は心構えを聞いているだけです」 飄々と言うカレンさん。 全く考えていることが分からない。 「構いません、続けて下さい」 「今度は、自分が一般市民だという想定で答えて下さい」 等身大の回答をせよ、ということらしい。 「あなたの国を治める王は、家族の命を優先したため、停戦会議に遅刻しました」 「結果として戦争は続けられ、たくさんの兵士が犠牲になりました」 「その中には、達哉さんの家族も含まれています」 「あなたはその王を許せますか?」 「っ……」 声も出ない。 ……。 「許せますか?」 もう、正直に答えるしかない。 「許せません」 蚊の鳴くような声しか出なかった。 ……。 …………。 「最後の質問です」 「達哉さんは、自分に国王が務まると思いますか?」 「卑怯だわっ」 フィーナが勢い良く立ち上がる。 テーブルのティーカップがカチャリと音を立てた。 「何が卑怯だと仰るのですか?」 冷静な視線は変わらない。 「決まった答えの無い質問ばかりして、達哉がどう答えても、やり込めるつもりだったのでしょう」 ……。 「お掛け下さい」 「国を導いていかれる方が、この程度で逆上されては困ります」 「カレンっ!!」 「フィーナ、いいんだ」 「しかし達哉、このままでは……」 「俺は、自分の思ったことを答えたんだから」 「でも……」 フィーナが俯く。 「勝手な思い込みかもしれないけど、フィーナがさっきの質問をされたら、俺と同じ答えだったんじゃないかな」 ……。 …………。 「……そうね」 「私も同じ答えだったと思うわ」 「なら、いいさ」 「答えが決まっていない質問なら、自分が正しいと思った方が正解だ」 「……」 フィーナの手を引いて座るように促す。 彼女はすんなりと座ってくれた。 「もう一度質問します」 「自分に国王が務まると思いますか?」 もう難しいことは分からない。 俺は、俺が大切に思っている人を守れる王であれば、それでいい。 「務まります」 「少なくとも、フィーナが幸せに暮らせる国なら作れる」 カレンさんが眉をピクリと動かした。 「……」 フィーナが目を細める。 カレンさんはティーカップに残った紅茶を飲み干し、瞑目した。 ……。 …………。 張り詰めた沈黙が流れる。 ……。 …………。 少しして、カレンさんが再び眼を開く。 「達哉さんには、試験を課したいと思います」 「え?」 「試験?」 意外な言葉だ。 俺にチャンスをくれるということなのだろうか?フィーナも驚いた表情でカレンさんを見ている。 「その結果を見て、今後のことは検討させて頂きます」 「ど、どんな試験を受ければいいんですか?」 意気込んで尋ねる。 「剣術で手合わせをして頂きます」 「それは……」 俺に剣術の心得などあろうはずがない。 剣道の竹刀すら握ったことがないというのに。 カレンさんが相手では、きっと勝負にもならない。 「カレンさんは、剣術の達人だと……」 「早とちりされては困ります」 「達哉さんのお相手をするのは、私ではありません」 誰が相手なんだ?黒服か?「フィーナ様です」 「馬鹿な!?」 そう言ったきり、フィーナは完全に硬直した。 ……。 …………。 そんな……。 頭の中が真っ白になる。 「期日は一週間後、夜8時。 場所は前日までにお知らせします」 「得物は竹刀で結構です」 「ふざけないでっ!!」 フィーナが絶叫した。 深緑の瞳が怒りに燃え上がる。 空気がピリピリと音を立てるようだ。 「一週間で何ができるというのっ!」 ……。 激昂するフィーナを、カレンさんは静かな目で見つめた。 「ご自身でお考え下さい」 「竹刀は、明日の午前中までに朝霧家へお届けします」 カレンさんはそこまで言うと、ソファから立ち上がった。 ほとんど思考を停止した俺は、ぼんやりと見上げることしかできなかった。 「それでは、私は仕事がありますので」 「カレンっ」 「私は、一度口にしたことは、そう簡単に変更しません」 「万難を排して臨んで下さい」 「待ちなさいっ」 瞬間、カレンさんの瞳に強い光が宿る。 フィーナが昆虫標本のように、空気に磔られた。 ……。 「私は部屋を外しますので、ご自由にお帰り下さい」 「失礼します」 ぱたん……。 …………。 糸の切れた人形のように、フィーナがソファに腰をおろした。 ……。 俺もソファに背中を預ける。 べとりとした感触が背中いっぱいに広がった。 フィーナは、呆然とした表情で床を見つめている。 ……。 よりによって剣術の試験なんて……。 ぼんやりと天井を眺める。 試験という言葉を聞いた時は、チャンスを与えられたと思った。 だが、フィーナは剣術の達人であるカレンさんから、10本に1本取るほどの腕前。 俺は竹刀の握り方も知らないズブの素人。 手合わせの結果は見えている。 よっぽどの偶然でも起こらない限りは、俺が勝つことは無い。 ……。 俺はまだいい。 一週間、全力で練習をするしか選択肢が無いのだから。 でもフィーナは……。 自らの手で──俺との関係を終わらせなくてはならないのだ。 午前10時。 カレンさんの言葉通り、宅配便が竹刀を届けに来た。 テーブルには布に入った2本の竹刀。 うち1本を開き、握ってみる。 ……。 「右手が上だっけ?」 そんなレベルだった。 「達哉さん」 ミアは今にも泣き出しそうな顔をしている。 「どうした?」 「姫さまが、いくらお呼びしても起きていらっしゃらないのです」 「……そっか」 昨日、大使館の執務室を出てから、フィーナは一言も口を開かなかった。 ただ沈鬱な表情で足元を見つめるだけだった。 留学に来てからのフィーナは、俺以外にマイナス方向の感情をほとんど見せていない。 それは、フィーナが自分の言葉や態度の影響力を知っているからだ。 どんなに辛い時でも、彼女は穏やかな表情を保つ。 姫という立場に与えられた、重い責務。 そのフィーナが、家族に対しても全く口を聞いていないのだ。 「先日の夕食も、今朝の朝食も召し上がっておりません」 「わたし、どうしたら良いのか……」 ミアが大きな目に涙を溜める。 「大丈夫、俺が何とかするから」 と、ミアの頭を撫でる。 「は、はい……お願いします。 どうか姫さまを……」 「任せておけって」 努めて明るく言う。 「ぐずっ……ふぇっ……」 ハンカチで目尻を拭いながら、ミアが頷く。 「ミアは安心して仕事に戻って」 「そんなんじゃ、フィーナが出てきた時に驚くぞ」 「はい、はい……」 ミアが頑張って笑顔を作り、仕事へと戻っていった。 俺はソファに腰をおろし、もう一度竹刀を握る。 ミアにはああ言ったものの、いい手立てがあるわけではない。 そもそも俺自身が空元気を出している状態なのだ。 ……。 一週間の練習でフィーナに勝つのは不可能に近い。 剣術の達人であるカレンさんが、それを知らないはずはない。 そこまでして俺たちの関係を認めたくないのか。 フィーナに自ら可能性を絶たせることで、罰を与えているつもりなのか。 ……。 …………。 あれこれ考えても結論は出ない。 こうしている間にも練習時間は減り、0%に近い勝利の可能性が、本当に0%になってしまう。 一週間練習すれば、1%くらいの確率で勝てるようになるかもしれないのだ。 それに……。 今、全力で練習をしなければ、俺は一生消えない後悔を背負うことになる。 俺は、あらゆるものに抗うと決めたのだ。 ならばやるべきことは決まっている。 ……。 俺は2本の竹刀を持ち、立ち上がる。 コンコンコンコン……。 返事は無い。 かすかに中で人の動く気配がする。 起きてはいるようだ。 ドアノブを握る。 「……」 鍵が掛かっていた。 ……。 「フィーナ、聞いてくれ」 ドアに向かって話し掛ける。 「俺は諦めないよ」 「フィーナとずっと一緒にいたいから、最後まで練習する」 ……。 相変わらず、返事は無い。 「ここで少しでも諦めたら、一生消えない後悔を背負うことになると思う」 「俺は戦うと決めたんだ」 ……。 …………。 それだけ言って庭に出る。 フィーナの部屋の外に立った。 ここで練習を続ければ、いつかフィーナが出てきて指導してくれる──そんな期待があった。 庭に出てきた俺を、イタリアンズが期待に満ちた目で見ている。 「すまないな、ちょっと遊んでやれないんだ」 まず、準備体操から始めた。 剣術向きの体操など知らないので、体育の授業でやっているものだ。 ……。 …………。 続けて竹刀を握る。 とにかく、竹刀の扱いに慣れなくてはならない。 学院でちらりと見かけた剣道部の練習を思い起こし、真正面に構えてみる。 「ふっ」 ひゅんっ竹刀が風を切る。 振り切ったところで体を止められず、腰がフラついた。 「わふっ、わんっ」 犬に笑われた。 「見てろよ」 ひゅんっひゅんっ更に2、3度素振りをする。 剣道部員のように、ぴたりと体を止めるには、思いのほか筋力が要るようだ。 思うように竹刀を振れなくては、試合などできるわけがない。 俺は、今日一日を素振りに充てることに決めた。 ひゅんっひゅんっ小刻みに休みを入れながら、30分間素振りを続けた。 「ふぅ」 玄関前の階段に腰を下ろす。 全身から汗が噴き出していた。 がちゃ「お兄ちゃん、麦茶持ってきたよ」 「おう、ありがとう」 麻衣が俺の隣に腰を下ろし、間に麦茶の載ったお盆を置いた。 「ふぃー、美味いなっ」 「あははっ、今の顔なら麦茶のCMに出られるよ」 「もっと飲むでしょ?」 「ああ」 麻衣は笑って、俺のグラスに麦茶を注いでくれる。 「どう、剣道は?」 「初めてだから、なかなか辛いな」 「日頃使ってない筋肉を使ってる気がする」 「何か背中が重たくなってる感じ」 「振り上げる時に背筋を使うんだね、きっと」 「みたいだな」 麦茶のグラスに口をつける。 ……。 麻衣が視線を落とした。 何か聞きたいことがあるのかな?「フィーナさんって強いんでしょ?」 「……ああ」 「教えてくれないの?」 「フィーナさんに教えてもらった方が、早く強くなれるんじゃない?」 「ん、まあ、そうなんだけど……」 「だったら、フィーナさんに言って」 立ち上がろうとする麻衣の腕を掴む。 「そっとしておいてやってくれ」 「でも……」 「麻衣」 ……。 …………。 「分かった」 麻衣はしぶしぶ腰を下ろす。 「なーに、俺が下手な素振りをやってれば、そのうち我慢できなくなって出てくるさ」 「あはははっ」 「そうだ、もうすぐお昼だから」 「おう」 「できたら呼ぶね」 「よし、俺ももうちょっと頑張ろう」 「じゃーねー」 麻衣は麦茶のサーバーとグラスを置いて、家の中に入っていった。 「よしっ」 再び竹刀を持って立ち上がる。 「むむ……」 バイト間際まで素振りを続けていたせいか、体中に疲労が溜まっている感じがする。 掃除のため、イスを持ち上げるのにも難儀するくらいだ。 「ずっとそんな調子だけど、どうしたの?」 「いや、素振りをやっててさ」 「何の? 野球? テニス?」 「剣道」 「なんでまた、剣道?」 手短にいきさつを説明する。 「でも、女の子相手なら勝ったようなものじゃない」 「やったね、次期国王」 「いや、フィーナの方が強いんだ」 「え?」 「フィーナはずっと剣術をやってたんだ」 「だから、99%以上の確率で俺が負ける」 ……。 「……何よそれ?」 「そんなの試験って言わないでしょうっ」 菜月が大きな声を出す。 「……」 「フィーナがかわいそう過ぎるわ」 「自分で自分の夢を終わらせなくちゃならないなんて……」 自分の事のように悲しい顔をする。 「わざと負けるとか、できないのかな?」 「フィーナはそんなことをするヤツじゃないと思う」 「それに、そんな勝ち方をしても俺が嬉しくない」 「負けたら全部終わりなんでしょう? なりふり構ってられないじゃない?」 「カレンさんは、フィーナより更に強いんだ。 きっと見抜かれる」 「じゃあ……」 もう泣きそうな声だった。 「俺には練習するしか選択肢が無い」 はっきりと言う。 「フィーナはどうしてるの?」 「部屋から出てこない」 「そう……」 「だから素振りを続ける」 「俺が諦めてないことを伝えたいんだ」 「達哉……」 菜月が目を潤ませる。 こんなところは共感する力が強い菜月らしい。 でも、正直なところ俺が泣きそうだった。 諦めていないと、朝から何度も言い聞かせて、ようやく素振りを続けているのが本当のところだ。 「さ、そろそろみんなが来るぞ」 「え、ええ」 菜月が慌てて涙を拭った。 からんからん……。 フィーナの姿は、無かった。 バイトが終わってからも、俺は素振りに打ち込んだ。 体中がじんじんと痛む。 毎日のバイトで鍛えているつもりだったけど、そんなものは役にも立たなかった。 「くそっ」 ベッドに飛び込む。 それだけでも節々が軋んだ。 ……。 …………。 弱い月明かりが差し込む部屋。 一人、枕に顔をうずめる。 顔を上げる気にはなれなかった。 ……。 嗚咽が漏れてしまうから。 だから俺は、枕に強く顔を押し付けた。 「っ……っ……」 更に布団をかぶる。 真っ暗になったら、たがが外れた。 「ううっ……ぁ……っ……」 どうしてこんな試験を……。 なぜフィーナを試合の相手に……。 そんなに俺たちの関係を壊したいなら、カレンさんが相手をすればいい。 彼女なら、一瞬でカタをつけられるはずなのに。 なぜフィーナにまで苦痛を背負わせるのか。 「っ……あっ……うううっ……」 喉から漏れる声が大きくなる。 唇をぎゅっとかみ締めた。 胸が痛い。 痛すぎる。 体の痛みなど無くなるくらいに胸が痛い。 嗚咽をかみ締めればかみ締めるほど、痛みが増していく。 ……。 「うあ、あぁぁぁぁぁ……」 空気を入れ過ぎた風船がはじけるように──泣いた。 ……。 …………。 逃げてしまいたい。 フィーナをさらって、どこか遠くへ逃げてしまいたい。 だがそれは叶わない。 本当は、俺もフィーナも逃げることを望んでいないから。 戦うと決めて告白した俺。 俺となら戦っていけると、受け入れてくれたフィーナ。 なら、結末は勝利か討ち死にかどちらしかない。 ……。 明日はまた立ち上がる。 自分のために竹刀を振る。 勝率をわずかでも上げられるよう、後悔を残さぬよう、竹刀を振る。 ……。 だから今は泣く。 明日のために泣く。 ひゅんっひゅんっ全身が筋肉痛になっていた。 一振りごとに、鈍い痛みが体を走る。 ひゅんっ太陽はほぼ正中に達し、日差しは苛烈を極めている。 頭や顔から噴き出た汗が、竹刀を振るごとに宙に舞う。 それが地面に落ちたら、もう一度構えを取り、また振り下ろす。 ……。 …………。 どのくらい経ったか。 ふと、視線を感じた。 すぐに周囲を見回すが、誰もいない。 フィーナが覗いていてくれたのなら、いいんだけど……。 ひゅんっひゅんっ視線を正面に戻し、竹刀を振る。 ……。 …………。 昼食の後、素振り。 バイトに出て、帰ってきてからも素振り。 手にマメができ、つぶれたが、軽く包帯を巻いて素振りを続ける。 ……。 ひゅんっひゅんっみんなは、ことあるごとに様子を見に来てくれる。 お陰で、タオルと麦茶には困らなかった。 だが、今日もフィーナの姿は見ていない。 部屋のカーテンは閉め切られており、中を窺うことはできない。 食事も取っていないようだし、どうしているのだろう。 ……。 早く顔を出してくれないかな。 そんなことを考えながら竹刀を振ったのがいけなかったのだろうか……ひゅんっ「っ……!」 背中に激痛が走った。 地面に膝を着き、後ろ手に背中を叩く。 痛くなったのは背中の上の方、肩甲骨の間あたりだ。 「いててて……しょうがないな」 叩いていると、徐々に痛みは引いていく。 筋を痛めたわけではないようだ。 ……。 「そこが痛くなるのは、上半身が緊張しているからよ」 部屋を見ると、窓を半分開けてフィーナが立っていた。 「本来なら、腰が痛くなるはずだわ」 相変わらずのはきはきした口調。 「フィーナ……」 「……」 フィーナが恥ずかしそうに目を逸らす。 「そちらへ行くから、少し待って」 窓が閉まる。 ……。 「フィーナさん、びっくりしたぁ」 「ひ、姫さま、お体は大丈夫ですかっ」 「晩御飯ありますけど、どうします?」 家の中から賑やかな声が聞こえてくる。 ……。 …………。 「待たせたわね」 玄関からフィーナが出てくる。 一見して、少しやつれているのが分かった。 「人気者だな」 「皮肉を言わないで」 フィーナが顔を赤らめる。 「飯食ってなかったみたいだけど、体は大丈夫なのか?」 「大丈夫よ」 「心配をかけてごめんなさい」 フィーナがさらりと流す。 ここ二日のことは、フィーナも触れたくないようだ。 なら、無理に聞くこともない。 彼女がどんなことで苦しんでいたかは、痛いほど分かっているのだ。 ……。 「姿勢の話だったわね」 「ああ、何か背中が痛くなっちゃってさ」 「構えてみて」 竹刀を構える。 「達哉は上半身に力が入っているの」 「胸を張って、背中を反らしているでしょう?」 自分の体を眺める。 言われた通りだ。 「腰を反らして、上半身には力を入れない」 「やってみて」 腰を反らして……上半身からは力を抜く……頭の中でフィーナの言葉を繰り返しながら、姿勢を変える。 「そう、その姿勢よ」 「上半身に力が入っていては、俊敏な動きができないわ」 なるほど、肩回りが楽になった。 「素振りをしてみて」 ひゅんっひゅんっ「いいわ、その調子」 フィーナは、俺が持ってきていたもう1本の竹刀を持つ。 良かった、やる気になってくれたみたいだ。 「腰っ」 竹刀で突つかれた。 「ごめん」 「振って」 ひゅんっひゅんっ竹刀を振る俺の前にフィーナが立つ。 「素振りをしながら、前へ進んで」 「これ以上進んだら当たる、というところで止まって」 少しずつ前進する。 いつ当たるかと思うと、なかなか前に進めない。 「どうしたの、まだまだ当たらないわよ?」 「当たりそうになったらよけるから、心配しないで頂戴」 「よ、よしっ」 今までより大きく前に踏み出し、竹刀を振り下ろす。 当たるっと、思ったがフィーナは微動だにしない。 竹刀がフィーナの眼前数センチのところを走り抜ける。 「はい、ストップ」 「ここから内側が達哉の間合いよ、覚えておいて」 「あ、ああ」 フィーナがテキパキと指導してくれる。 フィーナの腕を疑っていたわけではないが、ちょっと驚いた。 「さ、打ち込んできて」 フィーナが竹刀を構える。 その動作は、食卓で箸を取るように自然だった。 俺と同じ構えをしているはずなのに、安定感がある。 そして何より迫力があった。 「遠慮はしないで」 「行くぞっ」 ひゅんっぱしっひゅんっぱしっ一歩一歩しっかりと踏み込みながら、竹刀を振り下ろす。 フィーナは一歩一歩後退しながら、俺の竹刀を受け流す。 いくら力を込めて振り込んでも、フィーナは涼しい顔。 羽虫を振り払うように、頭の上に伸ばした竹刀で防いでいる。 ……。 こんな調子で、フィーナに勝てるのだろうか。 いや、何とかして勝たなくてはならないのだ。 そうでなくては、フィーナとの関係が終わってしまう。 それだけは……。 「達哉っ」 攻撃を受けたフィーナが、そのまま俺を押し返した。 下から突き上げられるような力に、体が簡単に浮き、後方に倒れた。 「練習中に余計なことは考えないで、ケガをするわよ」 「くそっ」 立ち上がり、敢然と打ち込む。 ……。 …………。 打ち込んで、跳ね飛ばされて、打ち込んで、跳ね飛ばされて……何度も繰り返すうちに、なぜか心がすっきりとしていく。 俺の竹刀を受け続けているフィーナと、心が一つになっていくような、そんな錯覚すら覚える。 更に力を込め、何度も何度も打ち込んだ。 ……。 その日の練習が終わった頃には、ホコリまみれになっていた。 入浴を済ませ、リビングで麦茶を飲む。 先に汗を流していたフィーナが、ソファに座っていた。 「今日はありがとう」 「……いいのよ、礼なんて」 フィーナの表情には、練習中には無かった影が差している。 俺はフィーナの隣に腰を下ろした。 ……。 リビングに、時計の秒針の音が流れる。 俺たちに与えられた時間が、目の前で刻々と減っていく。 ……。 フィーナが俺に体を寄せる。 柔らかい感触。 こんな体のどこに、俺の竹刀を受ける力が眠っているのだろうか。 「肘、擦りむいているわ」 白い指が俺の素肌に触れる。 触れられた箇所が、じん、と熱くなった。 どうしようもなく切ない気分になって、フィーナの肩を引き寄せ、強く抱きしめる。 「達哉……」 腕の中のフィーナは本当に小さくて、壊れてしまいそうだ。 「フィーナ……離れたくない……」 「……私も……」 より強く、フィーナを抱きしめる。 このまま一つの体にくっついてしまえば、離れることなど無いのに……。 フィーナの体を少し離し、今度は唇を重ねる。 「んっ……ふっ……」 薄い唇も、かすかな呼吸も、時折ぶつかる硬い歯も、たまらなくいとおしい。 かすかに開かれた唇の奥には、熱い体内が広がっている。 全ての困難を克服する秘薬がそこにあるかのように、俺は舌を差し入れる。 「ぴちゅ……」 湿り気を帯びた音が、俺たちの間から漏れた。 舌を伸ばすと、フィーナの舌がやんわりと受け止めてくれる。 少しザラついた感触。 そして、とろけるような甘さ。 フィーナの口内のあちこちを舌でまさぐる。 「ん……ちゅ……っ……」 フィーナの手に力が入り、俺の胸を押す。 「はあっ……」 肩が小さく上下している。 「ごめん、いきなり」 「謝らないで……嫌ではないわ」 「でも、これ以上続けられたら、止まれなくなってしまうから」 フィーナが視線を落とす。 「ああ、それはまずいな」 「ごめんなさい」 「フィーナも謝るなよ」 「……ええ」 俺はもう一度フィーナを抱きしめた。 さっきより、体が熱くなっている。 派手ではないが、炭火のように赤く、赤く燃える炎。 ……。 「私、どうしたら良いのかしら……」 腕の中で弱々しくつぶやく。 「試合のこと?」 フィーナが無言で頷く。 ……。 フィーナは、俺に負けることができない。 今日、竹刀を合わせたことで、彼女の中により強い実感が生まれたのだろう。 俺が打ち込む度に、彼女にはいくつもの勝機が見えていたに違いないのだ。 それほどに、俺たちの実力は乖離している。 だが、フィーナが竹刀を振り下ろした時、彼女は俺との関係をも打ち砕く。 残酷な仕掛けだ。 ……。 だが、彼女には手を抜いてもらいたくない。 これだけは確かに言える。 どうせ負けるから思い切りやって欲しい──という後ろ向きな思いではない。 そこで手を抜くようなフィーナを、俺はきっと好きでい続けられないからだ。 いつも誠実で一生懸命なフィーナ。 俺は、そんな彼女を好きになった。 フィーナが月へ帰ってしまってもずっと好きでいたいから──最後の瞬間まで本気で、ありのままのフィーナでいて欲しい。 それに、これは自分達が始めた戦いだ。 結果はどうあれ、最後まで諦めたくはない。 ……。 「本気で、来てくれ」 「……」 「手を抜かれたら、俺、フィーナを好きでいられなくなる」 「達哉……」 「戦うって決めただろ?」 「なら、最後まで全力で戦い抜こう」 ……。 フィーナが離れ、じっと俺を見つめた。 悲しい決意に満ちた瞳。 痛々しいほどに唇をかみ締め、目尻に涙をためている。 ……。 …………。 「……分かったわ」 「ありがとう、約束だ」 フィーナが無言で頷く。 ……。 どちらからともなく、手を握り合う。 そして、もう一度唇を重ねた。 ……。 時計の音は、止まることなく流れ続けている。 ばしっばしっ「えいっ!」 強い日差しの下、フィーナ相手に竹刀を振るう。 「足はバタバタさせないで、摺り足で」 「上体をフラフラさせない」 昨夜の約束のおかげか、フィーナは前より活き活きとしていた。 更に踏み込みを強める。 「んっ」 フィーナが声を発して俺の竹刀を横に流す。 「うわっ」 そのまま、前のめりに地面に突っ込んだ。 フィーナはくるりと半回転し、俺に相対する。 「もう終わり?」 「まだまだっ」 口に入った芝生を吐き出し、竹刀を構える。 ばしっばしっ玄関前の階段では、麻衣とミアが腰掛けて応援してくれている。 「お兄ちゃん、あんまり強くないね」 「姫さまがお強いから、そう見えるのかもしれません」 「むー……」 「お兄ちゃん頑張れー」 「よーしっ」 ばしっばしっ無心に竹刀を振るう。 何度も打ち込み、いなされ、土をなめる。 時を経るごとに、体には打ち身や擦り傷が増えていく。 なのにどうして──こんなにすがすがしいのか。 ……。 昨日はほとんど汗をかかなかったフィーナも、額に玉のような汗を浮かべている。 彼女もまた、口を開かず無心に俺の竹刀を受けていた。 ……。 昼食を挟み、再び庭で剣術に励む。 無言で叩き合う俺たちに飽きてしまったのか、麻衣とミアは家に引っ込んでいた。 ……。 練習の成果か、何となく竹刀の感覚がつかめてきた。 上半身に力が入っていては、微妙な太刀捌きができない。 足をバタバタ動かしていては、機敏に動けない。 腰が入っていないと、竹刀に体重が乗らない。 フィーナに教えられたことが、何となく体で分かってきている。 とは言え、フィーナとの技量の差は歴然だ。 彼女は、終始落ち着いた表情で俺の攻撃を受けている。 恐らくこの程度の打ち合いは、準備体操にしかなっていない。 ……。 だが、一つだけ気になることがあった。 フィーナは、まだ一度も俺に打ち込んでいないのだ。 昨日の約束は夜の闇がかけた魔法で、実際のところ、彼女の中ではまだ踏ん切りがついていないのかもしれない。 ……。 「フィーナ」 俺は、打つ手を休めて話しかける。 「どうしたの?」 「一度、俺と勝負してもらえないかな?」 「フィーナの実力を知っておきたいんだ」 「……」 「ダメかな?」 フィーナが俺の目をじっと見た。 意図に薄々感づいたのかもしれない。 「……分かったわ」 「確かに、相手の実力を知ることは大切ね」 暗い表情でフィーナが答える。 「頼むっ」 ……。 俺はフィーナから2メートルほどの距離を取る。 竹刀を真っ直ぐ中段に構えた。 フィーナもゆっくりと俺と同じ構えを取る。 空気がぴたりと静まった。 ミンミンゼミの声が遠くから聞こえる。 ……。 フィーナが俺を見つめる。 何もかもを見通しているような、そんな静かな視線。 背中を汗が伝う。 「どうしたの? 遠慮しないで」 これが実力差というものなのだろうか。 自分がどうしたらいいのか、全く分からない。 頭の中で考えうる限りの攻撃をしてみるが、全てこともなげに弾き返されてしまう。 自分の攻撃が当たっているところが想像できない。 「さあ、どうしたの」 足が地面に貼りついたように動かない。 「たああっ」 竹刀を振りかぶり、渾身の力で打ち込んだ。 フィーナは右足を引きながら軽々と竹刀を払う。 上体の流れた俺の横で、フィーナが竹刀を振りかぶった。 ……。 だが、打ってこない。 振り向きざまに胴を払う。 ふわりと後退してかわしたフィーナが、すばやく踏み込む。 腕が伸びきった俺は完全に無防備だ。 「っっ!」 打ってこない。 ……。 「何やってんだっ!」 がら空きになった胴めがけ、竹刀を突き込む。 右足を引いてフィーナがかわす。 今なら、俺の頭を真上から打ち込める。 「っ」 にもかかわらず打ち込まない。 「くそっ」 俺は再び正面に構える。 ……。 「何してるんだっ」 フィーナは言葉を返さず、奥歯をかみ締める。 「俺をからかっているのかっ」 「ち、違うわ……」 表情が苦渋に満ちる。 フィーナの気持ちは分かる。 試験のことを思うと打ち込めないのだ。 彼女が打ち込んだ時、俺たちの関係は終わりを告げる。 それが彼女の手を止めさせている。 ……。 「昨日の約束、あれは嘘だったのか?」 「……嘘ではないわ」 「当日は、絶対に全力を出せるから……」 「練習でできないことが本番できるわけがないだろう?」 「そ、それは」 竹刀を持つフィーナの手が震える。 「ここで俺たちが手を抜いたら、今までのことが全部、ガキのわがままになってしまう」 「結局、辛くなればどこかへ逃げる、責任感のない子供だ」 「……」 フィーナが目を瞑り、ぎゅっと唇を噛む。 「付き合う時、どんな困難に遭っても戦い続けるって言っただろ?」 「今が戦いだ」 「本番だけが戦いじゃない」 目を瞑り、竹刀を握る手に力を込めるフィーナ。 唇が真一文字に引き結ばれる。 「どんな外圧にも屈しない俺たちを見せてやろうじゃないか」 フィーナの目が開かれる。 そこには炯々たる闘志が輝いていた。 ……。 「ええぃっ!!」 顔めがけて、全力で突き入れた。 「っっ!」 フィーナは頭をわずかに傾けて切っ先をかわし、「うああぁぁっ!!」 烈火の如く踏み込んだ。 「があっ!」 激痛が左肩を襲った。 肩が砕けたかと思うほどの痛み。 体の表面ではなく、骨の髄がびりびりと痺れるような感覚だ。 目がくらんで膝を着いてしまう。 竹刀の痛さを甘く見ていた。 ……。 …………。 フィーナは竹刀を振り下ろした姿勢のまま、唇を噛んでいた。 竹刀を握る手が小刻みに震えている。 フィーナの痛みを、俺は想像することしかできない。 きっと、俺の痛みなんかより何倍も激しいはずだ。 ……。 …………。 俺は肩の痛みを引きずったまま立ち上がる。 フィーナの手を優しく握った。 ……。 「達哉……」 フィーナの目には涙がにじんでいた。 「死ぬかと思うほど痛かったよ」 ……。 …………。 「私もよ」 フィーナはかすかに笑う。 「タオルを冷やしてくるわ、少し待っていて」 そう言ってフィーナは家に入っていった。 「いたたた」 「達哉、だらしのない」 フィーナが傷口に湿布を貼ってくれている。 裸になった俺の上半身には、それこそ無数の青あざが浮かんでいた。 「少し、体が引き締まったのではないかしら?」 フィーナが白い指先でわき腹を突付く。 「やめろって、くすぐったい」 そんな俺たちを見て、家族は嬉しそうに微笑んでいる。 いつもなら怒られてしまうような状況だけど、そこは大目に見てくれている。 残りわずかな時間を楽しむ、俺達への情けなのだろう。 そこが、嬉しくもあり、悲しくもあった。 「剣術は不思議ね」 「竹刀を振っている時は、何かとても気持ちが軽くなるような気がするわ」 フィーナも、俺と同じようなことを感じていたようだ。 「俺も同じことを考えてた」 「……そう」 フィーナが柔らかく微笑む。 この笑顔が、もうすぐ俺の前から消える。 一人地球に残された俺はどうなるのだろう。 想像するだけで、胸に痛みが走る。 体の中身が一点に向けて収縮して行くような、そんな感覚。 ……。 フィーナが静かに俺の手を握る。 胸の痛みが、彼女にも分かってしまったのだろうか。 バンソーコや包帯ででこぼこした俺の手を、滑らかな手が包む。 フィーナは何も言わない。 でも、彼女の声が聞こえてくる気がする。 「最後まで一緒に戦いましょう」 そんな言葉。 フィーナは俺の何倍も辛いはずだ。 それでも、こうして勇気づけてくれる。 ……。 まだ、負けたわけではない。 カレンさんが結果を告げるその瞬間まで、俺は止まらない。 フィーナの手を、強く握り返した。 ……。 びしっこの日は、防御の練習をすることになった。 フィーナの打ち込みを、教えられた通りに受ける。 フィーナは、迷いなく打ち込んでくる。 この調子なら、本番でも全力で臨んでくれるに違いない。 びしっ俺が振る竹刀とはまるで違う音がする。 滑らかな動きからは想像もできない程の力と速度。 攻撃を受ける度に、体の芯まで痺れるような衝撃が走る。 俺が思い切り竹刀を振っても、こんな力は出ない。 日を追うごとに、俺はフィーナとの実力差を実感するようになっていた。 そして、実力は素振りや運足、型の練習など、効果が出るまで時間がかかる練習の上に成り立っていることも。 ……。 ちなみに、今日はギャラリーが増えた。 麻衣とミアに加え、菜月も見物に来ている。 ミアを除いた二人は、フィーナの猛烈な打ち込みに目を白黒させている。 「フィーナって、本当に強かったんだね」 「う、うん……」 「もちろんです。 子供の頃から真剣に取り組んでいらっしゃいましたから」 と、こんな調子だ。 ブロロロロ……キュッ練習を始めてしばらくした頃、家の前に黒塗りの車が停まった。 大使館の車だ。 フィーナが攻撃の手を止める。 俺も竹刀を下ろし、車をじっと見つめる。 ……。 やがて、後部座席からカレンさんが出てきた。 俺たちに剣術の試験を課した人。 フィーナに、自分の夢を自分で断つようにと仕向けた人だ。 だが、心は騒がなかった。 フィーナも静かな表情だ。 全力で戦うことを誓った俺たちには、試験の内容や性質はあまり問題ではなかった。 「練習中お邪魔致します」 俺は軽く頭を下げる。 「試験の日程をお伝えに参りました」 フィーナは軽く頷くのみだ。 「日曜日、6日の午後8時より。 場所は大使館の中庭です」 「あまり人に見せるようなものでもありませんから」 ……。 「了解したわ」 少しためを置いて、フィーナが答える。 「分かった」 カレンさんがじっと俺を見る。 「練習に励まれているようですね」 「少し、体が引き締まってきたように思います」 「あはは、ボロボロですけどね」 「仕方の無いことです」 カレンさんも苦笑する。 そんな俺たちのやり取りを、玄関に座った3人が見つめている。 「カレンさんっ」 菜月が突然立ち上がった。 目には強い意志が現れている。 「はい」 カレンさんが菜月に対面する。 「あなたは確か……お隣の鷹見沢菜月さんですね」 「どうして、こんなひどいことをするんですかっ」 菜月が眉をきりきりと吊り上げる。 対するカレンさんは静かなものだ。 「ひどい、と言うと?」 「だって、達哉じゃフィーナに勝てないじゃない」 「そんなの分かりきってるでしょ」 「試合は、何が起こるか分かりません」 「単に二人を懲らしめたいだけなんじゃないの?」 「そのようなことをしても、詮方無きこと」 「なら、こんな試験やめてよっ」 顔を真っ赤にして怒る菜月。 そんな姿に勇気づけられたのか、麻衣も立ち上がる。 「お兄ちゃんもフィーナさんも、せっかく付き合うようになったのに……」 「二人を認めてあげて下さいっ」 麻衣も声を張り上げた。 カレンさんは、そんな二人を冷静な目で見つめている。 「ミアはどう思いますか?」 一人だけ何も言っていないミアに質問を投げかける。 「え?」 「あなたはどう思いますか?」 「わたしは……」 ミアが俯く。 「姫さまが、後悔の無いようにして頂ければ一番だと思います」 カレンさんの目を見て、ミアは言った。 「そう」 「さすが、クララの娘ね」 「えっと……」 カレンさんのつぶやきに、ミアは困ってしまったようだ。 「カレンさんっ」 「せめて試験をもっと公平なものに」 「こんなに頑張っているのに、二人がかわいそうです」 「それは」 凛とした声で、カレンさんが二人を遮る。 「当事者が決めることです」 フィーナを見ると、「任せるわ」 とだけ言った。 嬉しい答えだ。 俺は階段に立っている3人に向かう。 「菜月も、麻衣も、ミアも、ありがとう」 「でも、俺たちは剣術の試験を受けるよ」 菜月が泣きそうな顔をする。 「だって勝てないんでしょう?」 「可能性はゼロじゃないさ」 「それに、ここで甘えてしまうと……」 「フィーナと一緒になれたとしても、結局上手くいかなくなる気がするんだ」 ちらりとフィーナを見る。 力強く頷いてくれた。 「もちろん、カレンさんが他の試験に変えるというなら、やぶさかじゃないけど」 「一度言ったことは、そう簡単には変更しません」 「そういうことみたいだ」 俺にカレンさんとやりあう意思がないのを見て、菜月と麻衣はぺたりと階段に座った。 「では、私はこれで失礼します」 そう言って、カレンさんは俺の隣を通り過ぎる。 「良いご家族をお持ちですね」 「え?」 すれ違いざま、彼女はそう言った。 ……。 カレンさんが車に近づく。 黒服が後部座席のドアを開く。 「フィーナ様」 「何かしら?」 「わざと負けて差し上げれば、良い結果に結びつくかもしれませんよ」 かすかに笑って、カレンさんはそう言った。 「見くびられては困るわ、私も達哉も」 「失礼しました」 「では、明後日に」 ばたんカレンさんを乗せた車は、静かに住宅街を出て行った。 ……。 「あれで良かったのか?」 「ええ」 「私も、同じ考えよ」 「なら良かった」 「みんなも、ほんとありがとう」 「二人がそういう気なら仕方がないけど」 「すまないな、せっかく心配してくれてたのに」 「カレンさんも言ってたけど、結局は二人が決めることだもんね」 「ごめんなさい、麻衣」 「いいの。 でもわたし応援してるから」 「ありがとう」 フィーナがミアに向く。 「姫さま」 「生意気を言ってしまい、申し訳ありませんでした」 「いいのよ、ああ言ってもらえて嬉しかったわ」 「あ、ありがとうございます」 「わたしも皆さんと一緒に応援しています」 ……。 「それじゃ、続きやるか」 「そうね、時間が惜しいわ」 フィーナが竹刀を構える。 庭の空気が引き締まった。 「行くわよ」 「おうっ」 練習を終えたのは日付が変わってからだった。 フィーナは、体中の傷を熱心に治療してくれている。 入浴で火照った体に湿布が気持ちいい。 「二人とも、明日はどうするの?」 姉さんが心配そうに聞いてきた。 「どうって……」 明日は、試合の前日だ。 もちろん最後の練習をするに決まっている。 「練習するけど」 フィーナも頷いた。 「でも明日は、その……最後の日なんだよ」 ……。 試合が終われば、俺たちがどうなるかが決まる。 つまり、公認か、別れが確定したカップルかのどちらかになる。 今までのようにフラフラした付き合いができるのは明日が最後になる。 「どこか行ったりしなくていいの?」 半ば懇願するように、麻衣が聞いてくる。 麻衣には、勝算のない戦いに向けて淡々と準備している俺たちの姿が、寂しく映っているのだろう。 だけど、勝てないと決まったわけではない。 勝つ可能性が仮に1%しかなかったとしても、その1%をものにするために、俺たちは練習する。 それに、周囲に迷惑をかけることを承知で付き合い始めた俺たちにとって、最後まで本気であり続けることは、必要最低限の責任だ。 「気持ちだけ、ありがたくもらっておくよ」 「ここで気を抜いたら、きっと後悔することになる」 「だから、明日も練習するよ」 「……お兄ちゃん」 麻衣が涙目になる。 心から、俺たちの幸せを祈ってくれているのだ。 「麻衣、私なら平気よ」 「一緒に竹刀を合わせるのも、デートと同じように楽しいものよ」 フィーナが俺の後を受ける。 「だから、今まで通り練習させてくれる?」 「二人がそう言うなら、わたしは何も……」 「でも……こんなのって……」 麻衣が顔を伏せた。 姉さんが何も言わず、麻衣の背中を撫でる。 「姫さま、よろしいのですか?」 最後に、ミアが口を開いた。 「ミアも言ったでしょう?」 「私が後悔しないようにするのが一番だと」 「……はい」 「ミアはいつも通り美味しい食事を作って」 「は、はい。 頑張ります」 「ぜひ、お力をつけて下さい」 ミアは泣き笑いの顔で言う。 「楽しみにしているわね」 フィーナがミアの頭を撫でる。 ミアは涙目で何度も何度も頷いた。 ……。 しばらくして、フィーナはソファから立ち上がった。 「私は明日に備えて休むわ」 「俺もそうするよ」 俺もそれに倣う。 「おやすみなさい」 「おやすみなさいませ」 「……おやすみ」 3人が儚い笑顔を浮かべる。 笑顔の下からは、俺たちへの愛情がにじみ出ている。 だから、悲しげな笑顔になってしまう。 こんな家族に囲まれて、俺は幸せだ──心からそう思う。 ……。 今までやってきた練習を総ざらいする。 素振り、運足、型──フィーナにチェックしてもらいながら、こなしていく。 どれもこれも身についていなくて、頭で考えながらでないと上手くいかない。 勝てる可能性は、どのくらい上がったのだろうか?……。 「後は自由に打ち込んで来ていいわ」 フィーナが、すっ、と竹刀を構える。 「そう言えば、構え方っていくつかあるのか?」 「何種類かあるけれど……」 「これが中段の構え」 というのは、剣道でよく見られる、真正面のものだ。 「あとは……」 中段から真っ直ぐに振り上げる。 「これが上段の構え」 「すばやく攻撃できるけれど、見ての通り防御がしづらいわ」 「絶対に引かないという強い決意が必要な構えね」 攻撃的な構えということだ。 次は、逆に中段より切っ先を下げる。 ちょうど俺の腰あたりを竹刀で指す感じだ。 今にも突かれそうな感じがして、前に進みづらい。 「これが下段の構え」 「相手が攻めづらいから、防御の構えね」 「あといくつか構えはあるけれど、どれも時間をかけて練習しなくてはならないから、達哉は今の形が良いと思うわ」 「さすがに前日に新しいこと始めてもな」 「そうね」 フィーナが苦笑する。 「さ、続けましょう」 俺は再び竹刀を構え直す。 「行くぞっ」 バイトや夕食を挟んで、この日も終日練習を続けた。 入浴後、いつものようにフィーナが体の傷を治療してくれる。 家族は気を利かせてくれたのか、既に自室に戻っている。 ……。 試合前日の夜。 明日のこの時間には、もう俺たちの進退は決している。 こうして、中途半端な状態のカップルでいられるのも今宵限り。 にもかかわらず、驚くくらい気持ちは静かだ。 フィーナも同じ気持ちなのだろうか。 淡々と俺の体に湿布を貼っている。 ……。 …………。 「はい、終わりよ」 と言って、俺の肩を軽く叩く。 「あいててて……ありがとう」 「よくここまで傷を作ったものね」 「毎日しごかれてれば、このくらいにはなるさ」 強がりを言う。 実際、体はボロボロだった。 動く度にどこかしらが痛くなる。 寝ている時に、痛みで目を覚ましたことも一度や二度ではない。 対して、フィーナの体には傷一つなかった。 それもそのはず、俺の竹刀が彼女に当たったことは一度もないのだから。 実力の差は歴然としていた。 一週間程度の練習でどうこうなるものではないことも、途中で分かった。 でも、練習を止めようとは思わなかった。 試合までに、一回でも多く竹刀を振りたかった。 結局、自分にできることはそれしかなかったのだから。 ……。 「ちょっと風にでも当たろうか?」 「あら、デートのお誘いかしら?」 「ああ、夜のデートもいいだろ」 「そうね、行きましょうか」 「少し待っていて、着替えてくるわ」 ……。 川面が月の光を反射して輝いている。 どちらからともなく腰をおろす。 アスファルトから、ぼんやりとした熱が伝わってきた。 少しだけ涼しい風が土手を走り抜け、フィーナの銀髪を舞わせた。 ……。 「良い風ね」 フィーナが髪を撫で付ける。 「ああ」 「フィーナの髪は、いつ見ても綺麗だな」 「ふふふ、お世辞が言えるなんて知らなかったわ」 「知らなくて当然さ。 お世辞なんて言ったことがないからな」 「まあ」 フィーナが喉の奥で笑い、俺の肩に頭を預けた。 そのまま彼女は、俺の左手を取りしげしげと観察する。 手のひらは、マメを作ってはつぶしての繰り返しで、だいぶひどい状況になっている。 「傷だらけね」 「おかげさまで」 「全部治れば、無骨な良い手になるわ」 「ゴツいのが好みなのか?」 「手にはその人の生き様が現れると言うでしょう?」 「だからきっと、ツルツルな手よりは良いのではないかしら」 「そっか」 よほどの幸運でもない限り、傷が治った手をフィーナに見せることはできない。 それが、今は少し残念だ。 ……。 フィーナが俺の手に指を絡めてくる。 しっとりとした柔らかい手。 「達哉……」 ポツリとつぶやいて、それっきり口を閉じた。 ……。 …………。 沈黙が流れる。 肩に伝わるフィーナの熱。 ……。 今にして思えば、あっという間の三ヶ月だった。 初めて月の姫がホームステイに来ると聞いた時には、その人柄をいろいろと想像したものだ。 高慢ちきな性格を想像して、戦々恐々としてもいた。 だけど全然違った。 実物のフィーナは……高潔で誠実で努力家でいつもは冷静なくせに、いざとなると情熱的で──本当にかわいい人だった。 好きになるのは時間の問題だったのかもしれない。 横目にフィーナを見る。 川面をじっと見つめていた。 本来ならこの時間は、別れを惜しむために使うべきなのかもしれない。 ……。 辛くないと言えば嘘だ。 寂しくないと言うのも嘘だ。 でも、俺もフィーナもそれを口にしない。 彼女がそれを切り出せば、俺の敗北を暗に認めていることになる。 それは、最後まで諦めないと宣言した俺に対しての裏切りだ。 逆に、俺が別れを悲しむのは、勝利を諦めたと公言することに他ならない。 それは、全力で剣を振るうと約束してくれたフィーナへの裏切りだ。 互いが互いを裏切らないために──俺たちは、別れを惜しんではならない。 ……。 「星が、綺麗だな」 「そうね」 「明日は、晴れるかしら?」 「雨の中で試合は嫌だな」 「ふふふ、そうね」 笑いながら、フィーナの目尻に涙が浮かぶ。 俺は──泣いてはいけない。 泣けば張り詰めた糸が切れてしまう。 「月から見える夜空も、こんな感じなのか?」 「月の夜空には、いつも地球が浮かんでいるわ」 「青くて美しい星。 とても大きく見えるの」 「そっか、早く見てみたいな」 「一緒に城から見ましょう」 「そうそう、大きな望遠鏡があれば、達哉の家が見えるかもしれないわ」 「まさか」 「ふふふ、冗談よ」 フィーナの頬を涙が伝った。 涙腺が熱くなる。 泣くな──泣いちゃだめだ。 「あ、明日の……朝食は、なにかしら?」 フィーナが途切れ途切れに言った。 「ミアが作るなら、ベ、ベーコンエッグだろうな」 胸が潰れそうだ。 嗚咽が洩れないよう、奥歯を締める。 「み、ミアの……ベーコンエッグ、は、美味しいから……楽しみ、ね」 それきり、言葉が出なかった。 フィーナが俺の手を握り締める。 爪が食い込むくらい固く、強く。 ……。 フィーナが顔を伏せた。 俺も顔を逸らした。 どちらかの顔を見たら、自分を抑えられなくなってしまう。 抱き合い、唇を重ねてしまう。 お互いの喉から、低く嗚咽が洩れる。 涙が止められなくなっていた。 服の上にぱたぱたと涙が落ちる。 もう顔は上げられない。 ……。 満天の星空の下。 俺たちは顔を合わせぬまま、肩を震わせ続けた。 強く握られた手だけが、悲しみを伝える唯一の手段だった。 ……。 空には無数の星。 石畳に硬質な靴音が響く。 夜の涼しい風が吹き抜け、大使館を囲う並木の葉が爽やかな音を立てた。 ……。 フィーナと並んで、大使館の玄関を目指す。 昨日さんざん泣いたせいか、気持ちはすっきりしていた。 俺たちの将来が決まる──そんな試合に臨んでいるというのに、不思議なくらいに気負いが無い。 フィーナも穏やかな表情で、じっと前を見つめている。 ……。 大使館の玄関では、既にカレンさんが待っていた。 俺たちの顔を交互に見て、静かに目を伏せる。 どことなく、俺たちに敬意を表してくれたように見えた。 「お運び頂き恐縮です」 俺たちは前後して頷く。 「会場にご案内します」 そう言って、カレンさんは俺たちに背を向けた。 案内されたのは、大使館内にある中庭だった。 周囲の建物には照明が灯り、剣を交えるのに不足はない。 カレンさんは、中庭中央にあるモニュメントの前まで俺たちを誘導する。 「ルールをご説明します」 「時間無制限の一本勝負です」 「優劣が決した段階で私が声をかけますので、それまでは試合を続けて下さい」 「大まかな判定基準ですが、真剣での勝負であった場合、戦闘不能に陥る部位に攻撃が命中した段階で勝負が決することとします」 「武器は今お持ちの竹刀のみを認めます」 「また、武器を用いない体術もこれを認めます」 要するに、先に竹刀をクリーンヒットさせればいいわけだ。 「何かご質問はありますか?」 「無いわ」 フィーナの声が静かに響く。 いつも通りの引き締まった声だ。 「達哉さんは?」 「ありません」 「では、お二人とも準備を」 ……。 モニュメントに腰をおろし、布袋から竹刀を取り出す。 上着を脱いでTシャツだけとなり、靴紐を締め直す。 それだけの準備。 フィーナは竹刀を取り出すだけ。 俺たちは軽く準備運動をして対峙した。 ……。 …………。 強い風が吹いた。 どこか遠くで、のん気なひぐらしがまだ鳴いている。 フィーナの深緑の瞳が俺を見る。 深い湖の底のように静かな目だ。 対する俺も、澄んだ心持ちだった。 やれることは全てやった。 この期に及んで言うことなど何もない。 ……。 「よろしいですか?」 俺たちは同時に頷いた。 ……。 …………。 「始めて下さい」 カレンさんの声が、試合開始を告げる。 ……。 俺は、左足を引いて中段に竹刀を構える。 対するフィーナは、高々と竹刀を掲げ上段に構えた。 上段は、攻撃の構え。 一歩も引かないという意思の表れ。 いつも中段に構えていたフィーナが、本番で上段の構えを取った。 本気で来て欲しい、という俺の希望を体で表現してくれている。 それが俺には嬉しかった。 ……。 フィーナが俺を見据えている。 どこを見ているというのではなく、全身をぼんやりと視界に収めている感じだ。 間合いは、一刀一足よりやや遠い。 2歩は踏み込まないと攻撃が届かない。 ……。 待つか、攻めるか、……。 …………。 いくぞっ心に念じた瞬間、フィーナが凄烈な速度で踏み込んだ。 右袈裟の一刀が、うなりを上げて左頸部に迫る。 上体を反らして、かろうじて切っ先をやり過ごし、「たあぁっ!」 フィーナの上体に、全力で竹刀を突き込む。 それも、返す竹刀で軽々と跳ね上げられた。 俺の腰が完全に浮き上がる。 既に、フィーナの竹刀は大上段に構えられていた。 避けられようはずもない。 ……。 フィーナと目が合う。 泣いているような、笑っているような表情だった。 ……。 「ええいっ!!」 裂帛の気合が中庭に木霊する。 ……。 …………。 「勝負ありました」 ……。 電光の如く振り下ろされた竹刀は、頭上で寸止めされていた。 フィーナは微動だにしない。 胸の中は空洞に近かった。 ……。 …………。 終わった。 何もかもが終わってしまった。 こんな思いだけが、何度もがらんどうの胸の中を反響していた。 悲しくもない、悔しくもない、……何もない。 そんな俺を、フィーナはあの表情で見つめていた。 悲しみとやるせなさを奥歯で噛み潰したような──幼いあの日、俺に見せた表情。 ……。 …………。 時間が止まったように、誰も口を開かなかった。 ひぐらしの声はもう消えている。 ……。 …………。 しばらくして、フィーナが音もなく竹刀を引いた。 俺も竹刀を脇に下ろす。 「この試合、フィーナ様の勝ちとします」 厳かな声。 ……。 俺たちの恋が終わった。 フィーナの銀色の髪も、白い頬も、薄い唇も、柔らかな手も、もう、手の届かないところへ行ってしまった。 ……。 悲しまなくてはいけない気がする。 なのに、すがすがしい。 胸を張って全力を出し切ったと言える。 今までの人生、こんなことはなかった。 俺が全力で取り組み続けられたのも、フィーナというパートナーがいたからだ。 彼女に出会えたこと。 短い時間だったが共に歩めたこと。 俺は誇りに思う。 ……。 俺は今、どんな顔をしているのだろうか。 じっと俺の顔を見ていたフィーナが、かすかに笑って目を閉じた。 胸の中に残る余韻を楽しむような、そんな表情だった。 もしかしたら、俺もそんな顔をしていたのかもしれない。 ……。 「帰ろうか、フィーナ」 どのくらい時間が経ったのだろう。 俺は言った。 「そうね」 俺たちはモニュメントに座り、身支度を済ます。 ものの数秒で終わった。 続けてカレンさんの前に並ぶ。 「見事な試合でした」 わずかに笑って、カレンさんが言う。 「ありがとう」 「何か決まったら連絡を頂戴。 それまでは朝霧家にいるわ」 「では、失礼します」 俺たちの口からは、いつも通りの声が出ていたように思う。 もしかしたら、少し平板な発音だったかもしれない。 カレンさんは俺たちを見て、目で頷いた。 それを確認して、俺たちは踵を返す。 コツコツ乾いた足音が大使館の建物に反響して、幾重にも聞こえる。 「フィーナ様」 背後からカレンさんが呼び止める。 揃って振り返った。 カレンさんは無表情な目で、俺たちを見ている。 「お伺いしたいことがあります」 ……。 「何かしら?」 「一国の姫というお立場と、達哉さん……」 「一方を選べるとしたら、どちらを選ばれますか?」 ……。 そんなことを俺たちに聞いてどうするつもりなのだろう。 結局、姫の立場しか得ることができなかったフィーナへの皮肉だろうか?「どちらを選ばれますか?」 再度、カレンさんが問う。 彼女の表情に冗談めいたところは、少しも無かった。 ……。 フィーナの返事は決まっている。 以前、喧嘩をした時に聞いたものだ。 フィーナが俺の顔を見る。 どう? と聞いていた。 「答えなんて決まりきってるさ」 俺の答えに、フィーナがくすりと笑う。 「そうね」 「お答え頂けませんか?」 変わらず、冷静な声でカレンさんが言う。 「達哉が答えても良いかしら?」 カレンさんが少し驚いた表情を見せる。 「……構いません」 ……。 「達哉」 「ああ」 俺はフィーナの前に一歩出る。 カレンさんが俺を見据えた。 「俺が答えます」 「どうぞ」 身分と恋。 この一ヶ月、ずっとフィーナに問われていたことだと思う。 フィーナは、どちらを取るべきか、俺と付き合うまで悩んでいた。 そして、一つの回答に至る。 彼女が出した答えは、身分でも恋でもなかった。 ……。 この質問には答えが無いように思う。 一つひとつのカップルが、自分たちに合った答えを導き出していくものだ。 だからカレンさんは「あなたたちはどう考えたのか?」 と聞いているとも言える。 つまり、俺たちの成果を聞いているのだ。 俺は大きく息を吸った。 ……。 …………。 「それは、選べるものではありません」 はっきりと言った。 「どうしてですか?」 「どちらが欠けてもフィーナは成り立たない」 ……。 フィーナは生まれた時から、姫として育てられてきた。 姫という立場、考え方、それらは彼女の体に沁み込み、一体となっている。 「欲張りだけれど、私には立場も達哉も両方必要なの」 「どちらが欠けても、私は私でなくなってしまうと思う」 ……。 以前、彼女はそう言った。 人にとっての食事と睡眠のように。 充てる時間の割合を変化させることはできても、ゼロにすることはできない。 立場と、俺、その片方を選択するなんて、彼女にとっては無意味ということだ。 そのどちらがゼロになっても、フィーナはフィーナのままでいられない。 ……。 「程度問題としては答えられても、どちらかをゼロにはできないものです」 「それは、お二人が出した答えですか?」 「それとも、達哉さんのお考えですか?」 カレンさんは一度頷いてから口を開いた。 「私たちの答えよ」 「達哉の回答に、全く異存は無いわ」 ……。 フィーナの言葉を聞いて、カレンさんは空を見上げた。 彼女のこんな仕草は初めて見た。 だが俺などには、彼女の心中を量ることはできない。 ……。 …………。 「よくぞ、やり遂げられました」 カレンさんがポツリと空につぶやいた。 「……」 「……」 「さすがはセフィリア様のご息女」 「カレン……」 カレンさんが俺たちを真っ直ぐに見据える。 その表情は固い決意に満ちていた。 「このカレン・クラヴィウス、達哉さんをフィーナ様の婿様として推挙することに異存はございません」 「え……」 「そんな、まさか……」 「私は、一度申し上げたことを、そう簡単に変更致しません」 「達哉さんをフィーナ様のお相手として、国王陛下に推挙させて頂きます」 「なぜ今になって……達哉は剣技で敗れたでしょう?」 さすがのフィーナも上手く言葉を紡げない。 俺に至っては、口を動かすこともできない。 「私は、試験の結果を見て判断させて頂くと申し上げただけです」 「達哉さんが勝つ必要があるとは、一言も申しておりません」 カレンさんが嬉しそうに言った。 「あ……」 「臣下の言葉を正しくご理解されないようでは、先が思いやられます、フィーナ様」 「しかし、本当に達哉を……」 「私が承った以上、一命に代えましても実現させてご覧に入れます」 「実は、出鱈目とも思える君主の我侭を実現するのが、私の密かな楽しみなのです」 細い眉をピクリと動かして、カレンさんが言う。 なんとも愉快そうな表情だ。 「カ、カレンさん……」 ようやく、言葉が出た。 カレンさんが俺を見る。 「一体、どういう基準で俺を選んだんですか?」 「それは当然、国王になる可能性がある方として、ふさわしいかどうかですが」 「俺のどこかふさわしいと言うんです」 「剣術もさっぱりだし、カレンさんの質問にもまともな答えを出せなかったし」 ……。 「確かにその通りです」 「では逆にお聞かせ願いたい」 「剣術に優れているのが良い君主なのですか?」 「それは……」 「では、私の質問に正しく答えられるのが良い君主なのですか?」 「……」 「何のために臣下がいるとお思いか?」 「君主より剣術や学問に優れた臣下など、それこそ星の数ほどおります」 「ですから、剣術や世の理に通じていることはさしたる加点とはなりません」 「君主にとって最も大切なのは、困難な問題に直面した際に、最後まで諦めない胆力」 「そして、私たち臣下に、希望に満ちた未来を指し示して下さる力なのです」 「勿論、剣術も知識もあるに越したことはありませんが」 カレンさんは笑ってそう付け加えた。 「じゃあ剣術の試験は……」 「達哉さんがフィーナ様に勝てないことなど、初めから分かっております」 「私が見させて頂いたのは、勝てない戦いにどのような姿勢で臨まれるかです」 「そんな……」 「先ほどの手合わせはお見事でした」 「達哉さんは最後まで諦めず、努力をされた」 「何より、フィーナ様が一切の迷い無く竹刀を振られたことに感服致しました」 「それはお二人が、いかに充実した時間を過ごされたかを証明するものです」 「お二人はお二人でいることで、お互いをより高めてこられた」 「それは十分に国益に適います」 「もう良いわ、歯が浮いてしまいます」 フィーナが手でカレンさんを遮る。 「申し訳ございません、多弁に過ぎました」 「失礼ついでに、一つだけ」 「実は、達哉さんを選ぶに当たり、もう一点基準がありました」 「??」 「フィーナ様をお幸せにできるかどうかです」 「カレンっ」 フィーナが顔を赤く染める。 「達哉さんは、どちらかと言えば、こちらで点を稼がれたのかもしれませんね」 「い、いや、それは……」 もう赤くなるしかなかった。 「それこそ、あまり褒めてもらっては困ります」 「この科目は、これからが大切よ」 そう言って、フィーナは笑った。 「ふふふ、では毎年選考試験を行うことにさせて頂きましょうか」 「……」 この二人組はまずい。 そう思った。 ……。 「それでは……」 と、カレンさんが背筋を伸ばす。 空気が引き締まった。 「今後についてご説明致します」 「私は月へ戻り調整に入ります。 結果が判明するまで、今しばらく朝霧家でお待ち頂きたく存じます」 「さやかには私から話を通しておきますので、お心を安らかに」 「何かと大変でしょうが、よろしく頼みました」 「かしこまりました、一命に代えましても」 カレンさんが深々と頭を下げる。 「そう簡単に一命に代えないで頂戴」 「貴女に死なれては困るわ」 「ありがたきお言葉」 「では近いうちに会いましょう」 「達哉……行きましょう」 「あ、ああ」 ……。 来た時とは逆に道を辿る。 フィーナはいつもと変わらぬ様子で、前を向いて歩いていた。 俺にはまだ、実感が湧いていない。 フィーナとの仲を認められ、同時に王族に加わることが決まったのだ。 頭では分かっているのだが、なかなか気持ちがついてこない。 こんな状況でいつも通りに振舞っているフィーナを、正直すごいと思う。 「達哉、一週間で強くなったわね」 ずっと無言で歩いていたフィーナが、ぽつりと言った。 俺は足を止めて応じる。 「いや……ぜんぜん歯が立たなかった」 「フィーナの動きなんて、ほとんど見えてなかったしさ」 「……」 「それでも、初めの一刀をかわされたのだから私の負け」 「一度上段に構えたら、一撃で勝負を決めなければいけないわ」 「そんなもんかな」 「そういうものよ」 「もしかしたら、達哉には剣術の才能があるのかもしれない」 「あったとしても、結局勝てなかったし」 「経験の差よ」 「これから練習に励めば、すぐに追い越せるわ」 「幸い、時間はまだまだあるようだし」 フィーナが俺の目を見る。 充実した表情をしていた。 「よろしくな、これから」 「ええ、手加減はしないわよ」 そう言って──フィーナは気持ちよさそうに笑った。 今まで見たことも無いような、快心の笑みだった。 「あっ、帰ってきた」 まず声を上げたのは麻衣だった。 「お帰りなさいませ」 「お帰り」 「お疲れさま」 「早かったじゃないか」 「お帰り」 みんなが笑顔を浮かべている。 まだ試験の結果は知らないはずだ。 にもかからわず、みんなは笑っていた。 きっと、結果はどうあれ、笑顔で俺たちを迎えると決めていたのだろう。 こんなに温かい人たちが、俺たちを見守ってくれていたのだ。 ……。 知らず知らずのうちに、目頭が熱くなっていた。 「達哉、報告を」 フィーナが笑顔で俺の背中を押した。 「あ、ああ」 右手の甲で涙を拭う。 一歩前に進み出た。 みんなが固唾を飲んで俺を見ている。 どうやって結果を伝えよう。 高らかに勝利を宣言するのか。 ……。 それは何か違う気がする。 今回のことは、決して俺だけの力で成し遂げたわけではない。 一緒に、最後まで全力で戦ってくれた、フィーナの存在あってこそのものだ。 彼女の存在が無ければ、俺はここまで頑張れなかった。 それは誰に指摘されなくても、俺自身が良く知っている。 これは俺たちの勝利なのだ。 ……。 「紹介するよ」 フィーナを隣に並ばせる。 「俺の婚約者」 「フィーナ・ファム・アーシュライトだ」 ……。 一瞬の静寂、そして──歓声が沸きあがった。 「お兄ちゃん、おめでとうっ」 「ありがとう」 「ううん、いいの……」 麻衣がぽろぽろと涙をこぼす。 「麻衣には心配かけたな」 麻衣の頭を撫でる。 隣に目を遣ると、フィーナも同じようにミアの頭を撫でていた。 「達哉、良かったね」 菜月が俺に近づいてくる。 思えば、フィーナへの告白を迷っていた時、背中を押してくれたのは菜月だった。 「菜月には力を分けてもらったよ。 ありがとう」 「気にしないで」 「幸せになってくれれば、それでいいの」 「ああ、任せとけ」 「あはは、頼もしいこと言ってくれちゃって」 菜月は、ぽんと俺の肩を叩いて、姉さんに場所を譲った。 ……。 姉さんが俺の前に立っている。 穏やかな表情で、じっと俺を見つめている。 「さやか……」 フィーナが隣に来る。 「姉さん、ありがとう」 「ありがとう」 俺たちの言葉に、姉さんは軽くひとつ頷く。 そして俺たちを強く抱きしめた。 何も言わず、強く抱きしめた。 姉さんの温かさに包まれて、また涙が溢れてきた。 俺たちが悪い結果に終われば、姉さんはホストマザーとしての責任を問われただろう。 やっとのことで掴んだ今の仕事も、夢も、失うことになるのは想像に難くない。 それでも姉さんは、俺たちを応援してくれた。 甘ったれたことを言う俺を、時には厳しく、優しく見守ってくれた。 「おめでとう、二人とも」 姉さんは、もう一度腕に力を込めると、俺たちから離れる。 ……。 みんなが、優しい表情で俺たちを見つめている。 俺はフィーナの手を取る。 「フィーナ、お礼を」 「ええ」 しっかりと手を握り合う。 これだけの人たちに支えられて、俺たちはようやく認められたのだ。 みんなの思いを無駄にしないためにも、絶対に幸せにならなくてはいけない。 「ありがとう、みんな」 「俺たち、必ず幸せになるよ」 俺たちは深く頭を下げた。 ……。 さざなみのような拍手が、俺たちを包んでいた。 数日後に祝いの席を設けることにして、俺たちは家へ戻った。 家に入ってからも、興奮冷めやらぬ家族に、からかわれたり小突かれたり。 解放されたのは、ゆうに1時間が経過してからだった。 天井をぼんやりと見上げる。 ……。 俺はようやく、戦い続けた証を手に入れることができた。 何かを得るためには戦わねばならない。 口だけじゃなく、それを実践できたことが、とても誇らしく思えた。 幼いあの日、俺はフィーナを見送ることしかできなかった。 戦いもせず嘆くばかりだった自分。 親父が消えた時も、母さんが死んだ時も、漫然と状況を受け入れた自分。 やっと、そんな自分を乗り越えることができたのだ。 ……。 俺が逃げずにいられたのも、フィーナが共にいてくれたからだ。 俺はフィーナにお礼を言っていない。 初めに感謝を伝えるべきなのは、彼女なのではないか。 ……。 …………。 コンコン扉が控えめにノックされた。 コンコン「達哉、起きているかしら?」 ……。 こんな時間に、どうしたんだろう?「起きてるよ……どうぞ」 ……。 …………。 がちゃ軽い音を立てて、ドアが開かれる。 ドレスを纏ったフィーナが部屋に入ってきた。 「……」 ……。 どこか、いつもと雰囲気が違う気がする。 表情には現れていないが、何かをためらうような、恥らうような──そんな、どきりとさせる雰囲気を纏っていた。 「ごめんなさい、遅い時間に」 「ど、どうしたの?」 平静を装って尋ねる。 「ええ……今夜はもう少し、一緒にいたいと思って……」 穏やかな笑顔を浮かべて言う。 こんな時間に俺の部屋に来るなんて──俺たちの関係が認められた、今日という日のことを考えれば──……。 フィーナは、もしかして──胸が早鐘のように鳴る。 ……。 「あ、えっと……と、とりあえず座る?」 隠そうにも隠せない緊張。 「ええ、ありがとう」 フィーナが一歩、また一歩とイスの方へ進んで…………あれ?……。 …………。 フィーナが俺の横に立った。 「フィ、フィーナ……?」 「こ、ここに座っては……いけないかしら?」 穏やかな笑顔でフィーナが言う。 「い、いや、どうぞ」 ぎし……俺の隣に間隔を空けて座るフィーナ。 「……」 フィーナは伏目がちに床を見つめている。 彼女の頬は、わずかに紅潮していた。 「……」 口を開いても言葉が出ない。 心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴っている。 フィーナへは、少し手を伸ばせば届く距離。 彼女にも俺の鼓動が聞こえているかもしれない。 ……。 「フィーナ」 「達哉」 ……。 フィーナが俯いてしまう。 俺は何をやってるんだ。 「フィ、フィーナからどうぞ」 「い、いえ……達哉から」 フィーナがチラリと横目で俺を見る。 ……。 「じゃ、じゃあ俺から……」 「あの……ありがとう」 「え?」 「今日、こういう結果になって……俺、嬉しくて、大事なこと忘れてた」 「俺が頑張ってこれたのは、フィーナのお陰なんだ……」 「辛くても何とか前を向いてやってこれたのは……フィーナが一緒にいてくれたから」 「達哉……」 「だ、だから、お礼が言いたかった」 「一番大切な人へのお礼が最後になっちゃうなんて、何か締まらないけど……」 ここまで一気に言って、フィーナの表情を窺う。 少しはにかみつつも、俺の顔をじっと見ていた。 「ありがとう、フィーナ」 フィーナの目が嬉しそうに細められる。 「私も同じことを伝えに来たの……」 「そうだったのか」 「達哉が側にいてくれなかったら、私もくじけてしまったかもしれない……」 「ありがとう、達哉」 フィーナが柔らかい笑顔を見せる。 「ようやく……ようやく、こうして……達哉と……」 「達哉と……」 フィーナが恥ずかしそうに目を伏せた。 ……。 フィーナが長い髪をぱさりと顔の横に落とす。 俺からはフィーナの表情をほとんど窺うことができなくなった。 ……。 「将来の夫婦として、認めてもらうことができたわ」 うなじが真っ赤に染まっていく。 何て可愛らしい人なんだろう──俺の胸が温かな気持ちで一杯になる。 ……。 フィーナはそう言ったきり、俯いて微動だにしない。 ただ、艶やかな髪だけが吐息に当たって揺れていた。 ……。 手を伸ばす。 指先でフィーナの顔を隠す髪を耳の後ろに掻き上げる。 簾の奥に隠された貴人が姿を見せるように、フィーナの桜色に染まった横顔が露になった。 ぴくりとフィーナの肩が震える。 俺の隣に座っているのは、一人の恥ずかしがり屋な女の子だった。 ……。 腰をずらしてフィーナに近づきながら、彼女の頬に手を当てる。 ひやりとした、心地よい感触。 自分の体が緊張で熱くなっていることに気が付いた。 「フィーナ……これからもよろしく」 「……達哉……」 フィーナが顔を上げる。 瞳が揺れている。 吸い込まれてしまいそうなほど透き通った、深緑の瞳。 「……ずっと、側にいて」 フィーナが自然に目を瞑った。 そして俺も、自然に唇を近づける。 ……。 …………。 「ん……ふ……」 張りと瑞々しさに満ちたフィーナの唇。 顔にかかる優しげな呼吸までもが、愛しかった。 彼女の両肩を横から手で支える。 ……。 月の姫が目の前で瞳を潤ませていた。 「んっ……」 フィーナの唇が、ゆっくりと俺から離れる。 ……。 しっかりと見つめ合う。 俺の躊躇を見透かしたように、フィーナが頷く。 「……達哉」 ……。 …………。 「貴方と私だけの契りを」 そう言って目を細めた。 ……。 「ああ……」 フィーナの手がドレスの裾を掴む。 「……」 ゆっくりと裾が上昇していく。 その様は、夜にのみ咲く月下美人の開花に似て、どこか静謐で、そして淫靡だった。 脛、膝、太腿──大切に育てられたフィーナの体が、少しずつ外気に晒されていく。 ……。 片時も目を離せなかった。 フィーナという花が開く様を、瞼に焼き付ける。 ……。 やがて、下腹部までが露になった。 雪原のように穢れない肌。 太腿の付け根を覆う下着は、シルク特有の艶やかな光沢を放っている。 股上に切れ込みの入ったデザインは、品があり、それでいて興奮を誘った。 ……。 興奮で胸がはちきれそうだ。 「フィーナ……綺麗だよ」 床に立ち、フィーナの前に進む。 ……。 「あとは……もう……達哉の、良いように……」 フィーナが俺を見つめる。 不安と期待に満ちた瞳だった。 もう、止まることなんてできない。 「フィーナ……好きだよ……」 膝を折り、フィーナの首に唇を近づける。 ……。 甘い香りが、俺を包む。 花に誘われる蜂のように、俺はフィーナの首筋に唇で触れた。 「あっ……」 フィーナの口から声が漏れる。 自分の声を恥ずかしがるように、フィーナが頬を染めた。 「とっても可愛い声だよ、フィーナ」 「達哉、そのようなことを言って……」 フィーナが目を逸らす。 「本当だって」 そんな彼女が愛しくて、俺はもう一度唇を這わす。 「っ……っ……」 喉の奥で声を止めるフィーナ。 声を出さないように注意しているようだ。 ……。 「フィーナ、大丈夫だから力を抜いて」 フィーナの髪を優しく梳く。 「緊張していると、途中で辛くなるから」 こういう経験は初めてだけど、フィーナの緊張をほぐしたくて、声をかける。 「でも、達哉……」 「達哉が私の体にキスをしているかと思うと、恥ずかしくて……」 「嫌なのか?」 「嫌ではないけれど……」 「なら、少しだけ、力を抜いてみて」 俺は、フィーナの肩を何度か撫でる。 「ほら、深呼吸。 一緒にしよう」 「すーー……はぁーー」 フィーナが、大きく胸を上下させる。 「少しは落ち着いたか?」 「……そうね……もう、大丈夫」 「またそうやって気構える」 思わず苦笑してしまう。 「一緒に楽しむつもりで、な」 「……え、ええ」 幾分、フィーナの体から力が抜けた。 「俺に任せて」 そう言って、フィーナの頬にキスをする。 「達哉……」 フィーナが目を細める。 「好きだよ、フィーナ」 「私も、貴方が好き……」 心地よいフィーナの言葉を聞きながら、首筋から鎖骨へと、キスの雨を降らせる。 「んっ……んっ……達哉、温かい……」 「俺も、温かい気持ち」 「キスしよう」 「……ええ」 もう一度フィーナの唇を味わう。 「ん……」 フィーナの肩を撫でていた手を、徐々に下ろしていく。 「んっ……んん……」 それに気づいたフィーナが、息を乱した。 いよいよ、フィーナの胸に触る。 まだ触ってもいないのに、興奮で俺の下半身は固くなっていた。 フィーナのことをとやかく言えた義理ではない。 ……。 唇をふさいだまま、フィーナの胸に触れる。 「んっ……ん……」 フィーナの体がぴくりと反応した。 胸を覆うコルセットを、ゆっくりと前に倒す。 ……。 「……達哉……胸を触るの?」 唇を離して、フィーナが尋ねる。 「フィーナの胸、触りたいんだ……だめか?」 ……。 「……いいえ」 「達哉のしたいように……」 「ありがとう」 フィーナの返事を受け、コルセットに隠されていた白い生地に触れる。 乳房の感触が、ダイレクトに伝わってきた。 「ブラ、付けてないんだな」 「ええ……これが下着なの……」 フィーナが恥ずかしそうに言った。 普通の女の子にすれば、今はブラを露出させている気分なのだろう。 俺は、手のひらで包み込むようにフィーナの双丘を愛撫する。 ふわっ、とした触り心地。 手から少しはみ出るくらいの大きさの乳房は、想像以上に柔らかかった。 「達哉の、手が……私の胸を……」 「触ってるよ……すごく、柔らかくて、気持ちいい」 「触るだけで……気持ちが良いの?」 「だって、ずっとこうしたかったから……」 「まあ……達哉は……」 柔らかく笑うフィーナ。 少し余裕が出てきたのだろうか?「もっと触るな」 フィーナが頷いたのを確認し、俺は大きく彼女の乳房を動かす。 「ん……あ……達哉の手が、熱くなっているわ……」 乳房をマッサージするつもりで、優しく大きく動かしていく。 ……。 「あっ……んっ……何だか、少しずつ……あぁ……」 フィーナの息が熱を帯びてくる。 インナー越しに、素肌の熱気と湿度が感じられるようになった。 時折触れる乳首も、存在を主張してきている。 「フィーナ……直接、触れるぞ」 「あっ……ど、どうぞ……」 ……。 インナーの下には、ツンと上を向いた形の良い乳房が隠れていた。 シミもくすみもない、純白の肌。 先端では、薄桃色の突起が誇らしげに立ち上がっていた。 「あ、あ……」 フィーナの顔が羞恥に染まった。 「フィーナ、すごく綺麗だよ」 手を伸ばし乳房に触れる。 キメ細やかな肌が手のひらにぴったりと吸い付く。 「あ……あぁ……」 フィーナがため息を漏らした。 胸へのマッサージを再開する。 ……。 「胸が、高鳴って……とても、不思議な気持ち……」 「俺も、触ってると、どきどきするよ」 「初めは触られるだけで恥ずかしかったのに……」 「今は?」 「少し……嬉しいわ……」 「そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」 心底そう思った。 一方的に触るほど、悲しいことはない。 ……。 俺は、フィーナの乳首にゆっくり口をつける。 「あうっ……あ……達哉、赤ん坊のよう……」 舌に唾液をたっぷりと載せ、突起をねぶる。 「うっ……んっ……」 フィーナが小さく肩を震わす。 手は休めず、乳房を大きく揺り動かし続けた。 ……。 「はぁ……うっ、んっ……はぁ……」 少しすると、フィーナの呼吸が乱れ始めた。 気持ち良くなってきている証拠だ。 そろそろ下に行っても大丈夫かな……。 そう考え、俺は左手をフィーナの内股に這わせる。 フィーナの太腿に、ぞくりと鳥肌が立った。 「そ、そこは……達哉……あぅ……」 剣術で鍛えているにもかかわらず、そこはしっとりと柔らかい。 乳房にも引けを取らないほど肌はキメ細やかだ。 ……。 乳首を舌で転がしながら、太腿の手を付け根へと近づけていく。 「あ……あ……あ……」 徐々に近づく手を怖れるような声。 だが、俺の手は阻まれなかった。 ……。 滑らかなシルクの質感。 女性器から来る湿り気。 確かにそこは、しっとりと濡れていた。 ……本当に濡れるんだ。 初めての経験に、俺は驚くほど興奮した。 ズボンの中で、ペニスがかちかちになっているのが分かる。 ……。 女性器を包むように手を当てる。 「あっ、うっ……」 流石に敏感な反応を見せた。 俺は乳首を口から離す。 「大丈夫、優しくするから」 「達哉……私、淫らになってしまいそうで、怖いわ」 「触れられただけで、体が熱くなって……」 「達哉……嫌いに、ならないで……」 「嫌いになったりしないから、心配しないで」 半信半疑といった感じで、フィーナが頷く。 俺は優しく手を動かし始める。 「あっ……んっ……うっ……」 短い声が洩れる。 力を入れすぎないよう注意しながら、手を性器に沿って上下させる。 「あうっ……達哉の、達哉の手が……私を……あっ……」 熱いものに触れたように、フィーナが体を震わす。 フィーナの体から汗の匂いが立ち上ってきた。 普段汗をかかないフィーナが、いくつか汗の雫を浮かべている。 ……。 じわり、とした湿りを指先に感じた。 下着の一点が濡れてきている。 その箇所に指を当て、軽く振動させる。 「あっ、あっ、あっ、あっっ」 今までに無く高い声が上がった。 「ここ、気持ちいい?」 「分からない……分からないわ……」 フィーナが苦しげに首を振る。 だが、パンツの湿りは徐々に拡大してきている。 きっと、気持ちいいということを言えないのだろう。 俺は、湿りを指ですくうようにしながら愛撫を継続する。 「あうっ……あっ……こ、声が出て……しまう……」 「このくらいなら、俺にしか聞こえないから」 「達哉に聞かれるのが、恥ずかしいの」 「俺には、とっても可愛い声に聞こえる」 「……」 非難するような、悩ましげな視線を俺に向ける。 俺は笑顔で頷いた。 「もう少しするよ」 押し込むような動きと、撫でる動きを混ぜながら、秘所への愛撫を続ける。 ……。 「あん……うっ……達哉、指が……」 シルクの下着が、ぬるぬると滑るようになってきた。 性器と下着の間に蜜が溜まってきているのだろう。 「フィーナ、下着を取るからね」 「……」 フィーナの表情に不安の色が浮かぶ。 「いいね」 少し強く言って、フィーナの下着に手を掛ける。 フィーナがドレスを着ているため、俺はかがまなくてはパンツを脱がせることができない。 それはつまり……目の前にフィーナの秘所がさらされるということだ。 かがんでからその事実に気づき、俺は唾液を飲む。 「いくよ」 自分に言い聞かせるように言って、丸めるように下着を下ろす。 「あ……う……」 「腰を浮かせて」 黙ってフィーナが腰を浮かせる。 するりと下着を足まで抜いた。 ……。 とうとう──布に隠されていた部分が姿を晒した。 ぷっくりとした肉が割れ目を形作っている。 「綺麗だ……」 思っていたことが口から漏れた。 「い、いやぁ……見ては、だめ……」 羞恥の声が上がる。 フィーナの肌が、ぱぁと桜色に染まった。 ……。 「本当に、綺麗だから」 緊張をほぐすように優しく声をかけながら、下着を下ろしていく。 「あ……あぁ……だめ……」 フィーナの右足を少し持ち上げ、下着を抜いた。 ……。 そして……秘所に顔を近づける。 「た、達哉……?」 フィーナが足を閉じようとする前に、舌が届く距離まで顔を股間にうずめる。 淫臭が俺を包んだが、全く抵抗は無かった。 「あ……あ……」 信じられない、といった声。 ゆっくりと舌を伸ばす。 ぴちゅ……「ひゃうっ」 フィーナの体が揺れた。 俺の顔が柔らかな太腿に包まれる。 それを手で割り開きながら、俺は秘裂に舌を這わせる。 わずかな酸味としょっぱさが口中に広がる。 「汚い、汚いわ……達哉……そこは、だめ……」 「汚くなんてない」 「俺、今すごく嬉しいから……」 自分で自分を止められる自信が無かった。 それほどに、強烈な興奮が俺を突き動かしている。 ……。 割れ目を下から舐め上げる。 「あうっ……あっ……やっ……」 「達哉っ……あんっ、ひゃっ、あうっ……」 面白いように、フィーナが震える。 俺は、指で秘所を割り開きながら、休み無く舌を動かす。 「だめっ……あ、あ、あ、あっ……やっ……うあっ」 フィーナの声にはもう余裕が無い。 むっとした匂いに包まれながら、舌をずり上げていく。 「ひゃっ!」 電流に打たれたように、フィーナが跳ねた。 舐めたのは、小さな芽のような突起だ。 クリトリスってやつだろう。 俺は、大量の唾液を載せて秘芽に舌を這わせる。 「ひゃうっ、あっ、んっ、んぅっ……あ、あ、あっ」 声のトーンが上がった。 同時に、割れ目の下の方から蜜があふれ出す。 ……。 「達哉っ、そこは……刺激が、あうっ、強くて……」 「はぁっ、はぁ……変な……気持ちに……はぁっ……」 体を震わせながら息を荒げるフィーナ。 彼女の反応に興奮を高めながら、舌を動かし続ける。 ぴちゅっ、ぴちゃ、くちゅ……「やあっ、音を、音を……立てないで……あうっ、あっ、あっ」 フィーナの腰がガクガクと揺れる。 「気持ちいいの?」 「いやっ、聞かないで……ひゃあっ、あっあっあっあっ」 肯定も否定もしないフィーナ。 だが、蜜壺からはとろとろと愛液が流れ出している。 「もっと刺激、強くするから」 指でクリトリスの包皮を押し開く。 ぷっくりと膨れた真珠が顔を覗かせた。 丁寧に唾液と愛液を混ぜたものをまぶす。 「ああぁっ……そ、それだけで、も、もう……」 「いくよ……」 舌でクリトリスを覆う。 そのまま、小刻みに振動させた。 「ひゃっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ!」 喉の奥から声が漏れる。 「あんっ、達哉っ、達哉っ、あああっ、んっ、んっ、んんっ」 湧き上がる快感に耐えるように、フィーナがスカートの裾をぎゅっと握る。 フィーナの膝を開き、性器を前に突き出させ、更に執拗な愛撫を続けた。 「達哉っ、何かっ、何かっ……溢れそう、溢れそうよっ!」 フィーナの腰が前後に動き始めた。 それは、自分から刺激を求めているようにも感じられる。 俺は、懸命にクリトリスに当てた舌を動かす。 フィーナに気持ちよくなってもらいたい一心だった。 「やっ、怖いっ、溢れそうっ……」 「大丈夫、体の感覚に任せて……」 ぴちゅっ秘芽を口に含み、強く吸引する。 じゅるっ、じゅっ、じゅちゅっ……「ああっ、音が、いやらしくてっ……ああっ、あぁぁぁんっ」 「達哉の舌……やっ、だめっ、声がっ、止まらないっ!」 「ああっ、達哉っ……溢れる、溢れる、あ、あ、あ、あ、あ……っ!」 「やっ、ああっ、もう、もう、もうっだ、だめっ……ああぁぁぁぁんっ!」 フィーナの声が一気に階段を駆け上がった。 「達哉ぁぁぁぁぁっ……!!」 フィーナの体が痙攣する。 顔が太腿に強く挟まれ、秘所から蜜が噴出した。 「あっ、あっ、あっ、あっ」 短い間隔で、フィーナが震える。 その度に、ぴゅっ、ぴゅっと愛液が溢れ、俺の顔にかかる。 「フィーナ……すごい」 初めて目の当たりにする、女の子の絶頂。 自分がそれを引き出せたことに、とても嬉しくなる。 「あ、あ……あ……」 放心したような声。 フィーナが脱力する。 「はぁ……ぁ……はぁはぁ、はぁ……はぁ……」 ぐったりとうなだれて、肩を上下させているフィーナ。 「達哉……はぁ、はぁ……」 「どう……だった?」 「はぁ……はぁ……」 応えはなく、フィーナは首を力なく振るだけだった。 ……。 フィーナをベッドに横たえ、俺は服を脱いでいく。 ペニスは恥ずかしいほどに勃起し、先端からは白く濁った液体が溢れていた。 ……。 ベッドに上がり、フィーナの脚の間に分け入る。 フィーナが形のいい胸を上下させながら、俺を見ていた。 心臓が破裂しそうなほど恥ずかしい。 「こ……こ、これが……達哉の……」 不安げな声。 「見るのは初めて?」 「え、ええ……こんな形のものが……」 フィーナが俺の股間に視線を注ぐ。 「あの、あんまり見られると……」 「あ……ご、ごめんなさい……」 フィーナが目を逸らす。 「……いい?」 フィーナは小さく頷いた。 俺は、フィーナに覆いかぶさり、秘所に手を伸ばす。 ……。 「あっ……んっ……」 ぬるりとした感触。 さっき舐めていたお陰で、場所も形も分かっていた。 蜜の湧き出し口に指を当て、揉みほぐすように愛撫する。 「ん……達哉の手、熱いのね……」 「フィーナのここも、すごく熱くなってるよ」 膣口をいじくると、とろりとした潤滑油がすぐに溢れてきた。 「達哉……淫らで、ごめんなさい……」 「フィーナがいやらしくなってくれるのは、嬉しい」 フィーナが頬を染める。 俺は、愛液を十分になじませながら女性器をほぐしていく。 「あっ……んっ……達哉、また……体が、痺れて……」 フィーナの声に再び甘さが加わる。 「どう? 感じてきた?」 「そ、そういうことを聞かないで……いやらしいわ……あんっ」 「男はいやらしいんだよ、みんな」 中指をゆっくりと割れ目に埋没させていく。 くちゅっ「ひゃんっ」 第一関節までが内部に飲み込まれた。 挿し込んだまま、内部をくすぐるように動かす。 「達哉っ……指が、あっ……だめっ……」 フィーナが身をよじる。 ゆがんで開いた肉の間から、蜜が零れる。 ……潤いは十分そうだ。 そう判断し、俺は愛撫の手を休める。 「……あ……」 その時が来たことを察したのか、フィーナが俺を見る。 「そろそろ……」 「……よろしく、達哉」 「こちらこそ」 笑ったつもりだったが、もしかしたら、ぎこちない顔になっていたかもしれない。 俺は、更に深くフィーナの脚の間に入り込む。 ……。 「……」 フィーナが息を呑む。 かちかちになったペニスは、今や、フィーナの性器から数センチのところにある。 フィーナの秘所はぴったりと肉が閉じている。 果たして、ここに俺のものが入るのだろうか。 「ゆっくり行こうな」 ペニスを手で持ち、さっきまでほぐしていた場所に誘導する。 「あっ……達哉のが……当たっているわ……」 「怖くないか?」 「……へ、平気よ、やっと達哉と一つになれるのだから」 気丈に笑ってみせるフィーナ。 だが、声はかすかに震えていた。 右手に持ったペニスで、フィーナの秘裂をなぞる。 ……。 ぴた……ぴち……ぴちゅ……亀頭をフィーナにこすりつけ、潤滑油をすくい取る。 それを右手で竿へと伸ばした。 「た、達哉……あまり、待たせないで……」 「ああ……」 竿を持つ手を固定し、先端を入口にあてがう。 「んっ……」 「少しずつ挿れるから、力を抜いて」 「え、ええ……」 フィーナが息を吐く。 合わせて、ゆっくりと腰を進めた。 ……。 ぴちゅ……「あ……う……」 亀頭が埋没する。 とろけるような熱さに、射精しかけた。 「くっ……」 下腹部に力を込め、波をやり過ごす。 「い、痛くないか?」 「だ、大丈夫……よ」 笑顔を作るフィーナ。 いくら聞いたところで、彼女は痛いとは言わないだろう。 そういう人だ、フィーナは。 フィーナを見つめる。 頷き返してくれた。 ……。 ゆっくりと腰を進める。 ちゅくっ……にちっ……窮屈な膣内を、ペニスが突き進んでいく。 初めての異物を排除しようと圧力がかけられる。 快感から痛みへと切り替わるボーダーライン上の力だ。 「あうっ……あっ……んっ」 フィーナが苦しげに声を漏らす。 ピタリと、一際狭い場所に到達した。 純潔の証が先端に触れている。 ……。 「達哉……来て……」 「フィーナ……好きだよ」 「私も、貴方が大好きよ……」 フィーナの笑顔に勇気をもらい、俺は一気に腰に力を込めた。 ぐちゅっ!「んあっ!」 水っぽい音を立てて、ペニスが全てフィーナの膣内に収まった。 「くっ……」 ぎゅっとした締め付けに、思わず声が漏れた。 ……。 「あ、う……はぁ、はぁ……はぁ……」 荒い呼吸にフィーナの体が波打つ。 ……。 「入ったよ、フィーナ」 「……達哉……」 フィーナの目に涙がにじむ。 「どうして今泣くんだよ……」 体を前に倒して、フィーナの頬を撫でる。 ……。 「はぁ……達哉と、一つになれたことが……嬉しくて……うっ……」 フィーナが俺の手に頬を寄せる。 「フィーナ……」 胸の中で、フィーナの存在がどんどん大きくなっていく。 こんな素敵な女性は他にいない。 今の俺は、自信を持ってそう思えた。 「ここまで、長かったな」 「……そ、そうね……はぁ、あ……」 「だけれど、もう……ん……辛かったことも、良い思い出に……はぁ、変えられそう」 「俺もだ……」 「マメだらけになったこの手も、記念さ」 「達哉……本当にありがとう……」 ぴちゅ……フィーナが俺の手を舐めてくれる。 彼女の可愛らしい舌と比べ、俺の手はあまりに無骨で汚く見えた。 「汚いから……」 「達哉に汚いところなんてないわ」 「達哉も、私のことをそう言ったでしょう?」 「……」 フィーナが、一心に舌を這わせる。 胸がぎゅっと締めつけられる。 「……好きだよ」 そう言って、腰をわずかに揺すった。 「あ、ん……」 フィーナが甘い声を上げる。 「動いて……達哉の良いように……」 フィーナが俺の手を離す。 「……動かすよ」 両手をベッドに着き、腰に力を入れる。 ……。 くちっ……じゅっ……にちっ……ゆっくりと腰を前後させる。 「あっ……達哉……お腹が、熱くなって、くるわ……」 「フィーナの膣内、すごく……気持ちいい……」 うめくように漏らし、抽送を続ける。 「くっ……あ……体が痺れるよう……あうっ……」 時折苦しそうな表情を見せるフィーナ。 まだ、痛みがあるのだろう。 それでも、動きは止められそうになかった。 挿れる時はペニスを阻み、抜く時は逃すまいと吸い付く──彼女の膣内は癖になるような快感に満ちていた。 俺を感じさせるための器官であるかのように、全ての動きが俺を昂ぶらせる。 「フィーナ、すごく、いい」 腰の動きを早める。 ぐちゅ、じゅっ、にちゃっ、ぬちゃっ……いやらしい音が部屋に響く。 こんな音がフィーナからしているなんて信じられない。 「あっ……ああっ……お腹が熱くなって、何だか……変な気持ち……」 ペニスを引き抜く度に、フィーナの体内がめくれ上がりピンク色を見せる。 粘液が掻き出され、シーツにシミを作る。 そして、粘液で光るペニスがまた彼女の膣内に帰っていく。 淫らな光景に頭がクラクラしてくる。 「フィーナの体、気持ちよすぎる」 「ひゃうっ……存分に、気持ち良く……あっ……なって……あ、あ、あっ!」 言葉を聞き終わる前に、更に腰を速く動かす。 ……。 ぐちっ、にちゃっ、びちゅっ、ぐちゃっ!湧いてくる蜜の量が増えた。 フィーナの襞が、意思を持って俺を捕まえ、ぬるぬると握り締める。 「うあぁ……あぁ……」 高まる射精感に頭が白くなっていく。 それでも腰は本能的なリズムを刻む。 「あうっ……激し、くて……あっ、あんっ、んっ、んっ……熱いっ」 フィーナの声が艶を見せる。 「フィーナっ、気持ち良くて……もう……」 「あうっ、んっ……一緒に、一緒に……達哉……達哉ぁ……」 フィーナが嬌声を上げる度に、ペニスが強く締め付けられる。 一緒に果てるのは、ちょっと難しいかも……。 片腕で体を支え、右手をクリトリスへと持っていく。 粘液で覆われたそこは、固く強張っていた。 おぼつかない指遣いで、突起を刺激する。 「ひゃあっ、ああんっ、だめっ、そこを、触られたら、あうっ、あっあああぁ!!」 フィーナが激しく首を振る。 汗の粒が宙に舞う。 「フィーナ、一緒に、一緒に、気持ち良くっ」 下半身が射精の予感に、じんじん熱くなってきた。 歯を食いしばり、激しく腰を振る。 「達哉っ、またっ、私っ……あ、ああっ!」 クリトリスを激しく振動させながら、ペニスを突き込む。 先端が膣内を縦横に駆け巡り、周囲の壁にぶつかる。 「ひゃあっ!」 「あんっ、達哉っ、達哉っ、熱くて、溶けそう、溶けそうだわっ……」 「ああっ、あっ、あっ、んっ、んあっ、あああっ!」 フィーナの体が、ぎゅっと締まる。 我慢の限界が近づいた。 「くっ、出るっ、出るぞフィーナっ」 「やっ、もうっ、来てっ、来てっ……あぁっ、あ、あ、あ、あっ!!」 「やっ、やっ、やっ……達哉、達哉っ……や、あああっ……やあぁぁぁぁぁぁぁっ!」 瞬間、強烈な収縮がペニスに襲いかかった。 「うわっ!」 慌てて腰を引く。 どくっ、びゅっ、びゅくっ、びゅびゅびゅっ、どくっ!!快感が全身を突き抜けた。 「ああぁぁぁっ……あっ、ひゃっ、うあっ、あっ……」 フィーナが全身を痙攣させる。 どくっ……びゅっ、びゅびゅっ……どくんっ彼女の上に、大量の精液が、放物線を描いて降りかかる。 「ああっ……あ、あ、あ……」 下腹部から顎の先まで、俺の精液がこびりついていた。 「く……あ……」 俺は脱力して、うなだれた。 汗がフィーナに落ちていく。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」 まだ、絶頂の波が彼女の中を駆け巡っているのだろう。 フィーナは放心したように天井を見上げ、時折体を震わせている。 「はぁ……あ……う……」 「フィーナ……気持ち良かった……」 「はぁ、はぁ……達哉……私も……はぁ、はぁ……」 ほとんど口も利けぬまま、フィーナが体についた精液を指ですくった。 「これが達哉の……精子……はぁ、ぁ……」 フィーナが白濁を口に含んだ。 「フィ、フィーナ……」 「はぁ……変わった味……はぁ……」 「拭くから、ちょと待ってて……」 「いいのよ……」 立ち上がろうとするフィーナが俺を制する。 「少し、こうさせていて……」 フィーナがうっとりと言う。 俺には、良く分からない気持ちだった。 「嫌じゃないのか?」 俺の問いかけに、フィーナが笑って頷く。 「もちろんよ……」 「達哉が、気持ち良くなってくれた証だから」 フィーナが、胸の精液を指で伸ばす。 その淫靡な姿に、俺は生唾を飲み込んだ。 ……。 「た、達哉……?」 フィーナが驚いた表情で俺を見る。 「えっ、何?」 「あ、あの……また、元気に……」 フィーナが視線を逸らしながら言う。 「あ」 下半身に目を遣る。 精液を大量に吐き出した後だというのに、ペニスが再び硬直していた。 「あ、えっと……これは……」 「フィーナの格好が、その、いやらしかったから……」 「えっ?」 「わ、私が?」 「……ああ、ごめん」 申し訳無くなって俯く。 ……。 「謝ることないわ」 「私で興奮してくれるのは、女としてとても嬉しいことよ」 「……あ、うん」 ……。 「達哉、横になって……」 「え?」 「そのままでは、困るでしょう?」 潤んだ瞳で、フィーナが俺を見つめる。 「でも、フィーナが……」 「私は……達哉となら……」 「……何度でも」 耳元でフィーナが囁いた。 ……。 フィーナがドレスを脱いでいく。 ……。 …………。 さなぎから羽化するように、フィーナの裸体が現れた。 均整の取れたプロポーション。 白く輝く肌。 非の打ち所のない裸体だ。 「さあ、達哉……」 「……うあっ」 フィーナが俺に寄りかかり──上に乗った。 「フィ、フィーナ……」 「ここからは、私にさせて……」 自分の言葉に興奮しているのだろうか……フィーナの体が桜色に染まる。 「初めてだったんだから、無理するなよ……」 「初めてなのに、達哉は私を気持ち良くさせてくれたわ……」 「……そのお礼よ」 フィーナが穏やかに微笑む。 ……。 どうやら、フィーナはその気満々のようだ。 「じゃ、じゃあ……お願いするよ」 「楽にしていて……」 そう言って、俺のペニスを手で探る。 細い指が下腹部をまさぐり……そして、俺を掴む。 「うっ……」 強い刺激に、思わず腰が引けた。 手袋をはめたフィーナの手が、ペニスを掴んでいる。 「達哉も、触られると気持が良いのかしら?」 「それは……」 フィーナの指がゆっくりと亀頭を擦り上げる。 「あっ……あ、あ……」 情けないと思いながらも、声が出てしまう。 フィーナの手の中で、ペニスが硬度を増した。 「本当に固くなるのね……」 フィーナは頬を染めながら、ペニスへの刺激を続ける。 「あ……く……フィーナ……」 「……準備は、いいかしら?」 「ああ、十分だよ」 フィーナの手の中でペニスはかちかちになっている。 ほとんど俺の方を向いているといっていい角度で屹立していた。 ……。 「では……」 フィーナの表情に、かすかな不安が浮かぶ。 ……。 フィーナがゆっくりと腰を落とす。 ぴちゅ……先端が女性器に触れた。 そこからは、新たな潤いが溢れていた。 「フィーナ……俺のを触って、興奮して……」 「あ……う……言わないで……」 「自分が達哉を、気持ち良く……できていると思うと……あっ」 剛直が襞を掻き分け、フィーナの中へと侵入していく。 ……。 「はぁ……はぁ……」 大きく息を吐きながら、徐々に腰を沈める。 じゅっ……じゅぷ……くちっ……「う……あ……」 「あうっ……あ、あ、あ……」 ……。 肉棒が膣内に隠れた。 フィーナの内腿が、ピクリと痙攣する。 「はぁ……はぁ……た、達哉、入っている?」 「ああ……ちゃんと入ってるよ」 まだ痛いのだろう。 フィーナは俺の上で呼吸を整えている。 「フィーナ、大丈夫か?」 「え、ええ……平気よ……」 「……動くわね」 フィーナがおそるおそるといった様子で、腰を動かし始める。 じゅっ……くちゅ……フィーナの中がカリを擦り上げる。 やがて、ゆっくりとペニスが姿を現した。 ……。 「あ、あ……う、あ……」 フィーナが眉根にシワを寄せながら、腰を沈める。 ざわざわと蠢く襞が、俺を包んでいく。 「フィーナ……とっても……気持いい」 「はぁ……あっ……それなら……良かった……」 苦しい息の下でフィーナが笑う。 「では、もっと……もっと……良くするわね」 フィーナがさっきよりも速度を上げて、腰を浮かせる。 ペニスが愛液を掻き出し、てらてらと輝いた。 「ううっ……」 腰を落とす。 「フィーナ……」 手を伸ばして、フィーナの太腿をさする。 俺にできるのはこのくらいだ。 「達哉……心配しないで……」 「動けるわ……」 くちゅっ……みちっ……ぴちゅ……粘り気のある音を立てて、フィーナの腰が往復していく。 「ふあっ……あっ、あっ、んっ、あうっ」 律動のテンポが上がってきた。 ……。 「あっ、うあっ……だんだん……中が、熱く……」 じゅぷっ、くちっ、くちゃっ、ぐちっ……「フィーナ、すごく擦れてる」 「ええっ、わ、分かるわ……」 「奥の方に……あ、当たって……ひゃんっ」 フィーナの声に甘い響きが混ざってきた。 「あっ、あっ、あっ……」 小刻みに腰を振るフィーナ。 その度に、汗が飛んで俺にかかる。 「達哉、気持が良い? どう?」 言うまでも無い。 「ああっ……最高、だ……」 「あうっ、達哉……嬉しいわ……もっと、もっと、あぁっ、あああっ……」 上下運動に前後左右の動きが加わる。 フィーナも、自分の気持がいいように動いているのだろう。 「あんっ、あっ、あっ、あっ……達哉っ、達哉っ」 フィーナの長い髪が舞う。 ……。 じゅくっ、にちゃっ、くちゅっ、じゅぷっ……淫らな音が響く。 凛とした、あの美しいフィーナが、俺の上で懸命に腰を振っている。 それだけで俺の興奮はどんどん高まっていく。 「うくっ……達哉、体に熱い杭を……打たれているよう……あんっ、あぁ……」 彼女の声には、もう快楽の色しかない。 ここまで来れば、俺も協力できそうだ。 「フィーナ、俺も動くぞ」 「えっ……あ、ああっ、あうっ、やっ!」 フィーナを跳ね上げるように、腰を振る。 ぎしっ、ぎしっ……ベッドが軋む。 「やっ、あっ……うあっ、んっ、あっ、あっ!」 「達哉っ、んあっ、ひゃっ、きゃうっ、あっ、くっ!」 フィーナの口から次々と喘ぎが漏れる。 ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ……耳に入るベッドの軋みもテンポが上がってきた。 フィーナも俺の動きにタイミングを合わせ、腰を弾ませた。 じゅっ、じゅっ、くちっ、ぴちゅっ……結合部からは粘り気のある愛液が溢れ、俺の陰毛と下腹部をべっとりと汚す。 「達哉っ、奥にっ、奥に届いてっ……あっ、やっ、おかしくっ……!」 「あっ、ああっ、あっ、んっ……も、もうっ……やっ、ああっ!」 フィーナの声が高まる。 とたんに、膣内の吸引と摩擦が激しくなった。 「くっ……あっ……フィーナ、締まりすぎて、やばい……くあっ」 「やあっ、達哉っ、一緒にっ、一緒にっ!」 「私も、あうっ……すぐ、すぐっ、すぐっ……ああっ、あああああっ!」 フィーナが動きのタイミングをずらす。 動きを俺とは正反対にして、性器と性器を叩きつける。 激しい摩擦に、肉棒が溶けそうなほど熱くなった。 「ひゃっ、やっ、体がっもうっ…熱くてっ、あああっ、あ、ああっ!」 「フィーナっ、もう、俺もっ……行くぞっ……」 「わっ、私もっ……あぁ、あっ、あっ、あっ、あっ!!」 「やっ、白く、白く……もうっ、来るっ、来るっ……あ、あ、あ、あっ!」 吸い付くような刺激に、肉棒を快感が上がっていく。 「うあっ、あ……出るっ、出るぞっ」 「来てっ、達哉っ」 フィーナがラストスパートに入る。 「あっ、あんっ、んっ、うっ、んっ、んっ!」 「やっ、私っ……溢れるっ、もうっ、だめっ、ああぁぁっ!」 「くっ……達哉っ、一緒にっ、一緒にっ……あ、あ、あ、あ……」 「あっ、あっ、あっ、あ、あ、あ……やあぁぁぁぁぁぁっっ!!」 一際激しい吸い付きがペニスを包んだ。 「ぐっ……」 びゅびゅびゅっ、どくっ、びゅくっ、どくんっ!!ペニスを快感が走りぬけた。 「あうっ……んっんっ、んあっ……」 「出て……出て、熱い、あ……ん……あ……」 背筋を反り返らせたフィーナが、ぴくぴく震える。 白濁が噴き出す度、フィーナの口から声が漏れた。 「はぁ、はぁ……達哉が、私の膣内に……はぁ……広がる……」 恍惚とした表情で喉を反らすフィーナ。 結合部からは白く濁った混合液が漏れていた。 「フィーナ……膣内に……いいのか?」 「はぁ、はぁ……そうね……はぁ……」 「出て……いるわ……達哉の精子が……受けきれないくらい……」 荒い息のフィーナが、満足そうに腰を動かす。 ……。 俺の覚悟はできていた。 フィーナと共に歩むことを誓ったのだ。 今さら、どこへ逃げようというのか。 「俺は……覚悟できてるから」 「ええ……私も……」 フィーナが目を細め、お腹をさすった。 「子供が……できるかしら?」 「できると、いいな……」 子供ができれば、俺の生活はガラリと変わるだろう。 でもそれも、フィーナと共に歩んでいけるなら苦にはならない。 今はそう思えた。 ……。 「ん……」 こぽっ……全力を尽くしたペニスが、フィーナから抜け落ちた。 どろりとした液体が、フィーナの股間から漏れる。 「あぁ……零れて、しまう……」 心底残念そうに、フィーナが言った。 「なら、近いうちにまた」 「ふふふ……いやらしいのね、達哉」 「すごく、気持ち良かったから」 「嬉しいわ……喜んでもらえて……」 フィーナが雫を垂らしながら、俺の上からベッドに下りる。 「フィーナ、こっちに来て」 「……ええ」 腕を横に伸ばす。 フィーナがそれを枕にして横たわった。 ……。 ……。 汗に濡れた肌同士が、吸い付くように密着する。 「ずいぶん……汗をかいたわね」 「フィーナだって……」 「……いつもは汗かかないのにな」 乳房についた汗を優しく指でなぞる。 「ん……仕方がないわ」 「自分でも信じられないくらい、体が熱くなるのだから」 フィーナが少し恥ずかしそうに耳元で囁いた。 「どんな風に熱くなるんだ?」 「まあ……ふふふ」 「そういうことは聞くものではないわ」 フィーナがいたずらっぽく言う。 そんな彼女をとても愛しく感じた。 ……。 「……あ」 枕になっている腕を折り曲げ、フィーナの頭を胸に抱き込む。 「こういうのは嫌い?」 「いいえ……好きよ」 フィーナが力を抜いて、俺の胸に体を預ける。 ……。 花のように甘い香りが俺を包む。 悩みも苦しみも、全てが消えていくような、そんな気分になった。 心地よい香りと疲労感に身を任せ、情事の余韻を楽しむ。 ……。 「達哉とこんな時間を過ごせるなんて、夢のよう」 俺の耳に囁くように話すフィーナ。 それ以上、大きな声は必要なかった。 口と耳の距離は遠くても30センチ。 二人だけの距離だ。 ……。 「俺も、すごく幸せだよ」 フィーナの耳元に囁く。 「達哉がそう思ってくれるのが、私は一番嬉しいわ」 「フィーナ……」 「俺だって、同じだよ」 「……嬉しい」 フィーナが幸せそうに目を細める。 自分がいることを、好きな人が幸せだと言ってくれる。 それ以上の快感など存在するのだろうか。 ……恐らく、存在しないだろう。 ……。 とろけるような幸福感に包まれながら、互いに体温を分け合う。 ……。 …………。 ふと、夜の闇が薄くなっていることに気が付いた。 夏の夜明けは早い。 漆黒の夜空が溶け、地面に近いところから徐々に彩りを取り戻していく。 ……。 「フィーナ、見て」 「??」 俺に促され、フィーナも窓の外を見る。 ……。 「もうすぐ、夜が明ける」 フィーナが息を飲む。 「素敵な空の色」 「夜明けの瑠璃色だな」 「そう……」 うっとりと外を見つめるフィーナ。 体を抱き寄せると、俺の肩に頭を預けてきた。 ……。 「この空の色は、きっと一生忘れないと思うわ」 「ああ……俺もだ」 ……。 フィーナが俺を見つめる。 ……。 ……キスをしたがってる。 そう、感じた。 ……。 「達哉……」 「……フィーナ」 ゆっくりとフィーナの唇に近づいていく。 フィーナが瞼を閉じた。 「ん……」 ……。 柔らかで張りがある唇。 フィーナの唇を味わうのは、これで何度目だろう。 何度もキスをしているはずなのに、全く飽きが来ないから不思議だ。 「……んっ……ん……」 フィーナが俺の唇をついばむ。 親鳥にエサをねだるヒナのように、懸命なところが可愛らしい。 「ん……達哉……好き……」 再び体に火が点ってしまいそうなほど、彼女のキスは情熱的だ。 俺もフィーナに応え、彼女の薄い唇を甘噛みする。 「……っ……ん……っ……」 ……。 …………。 少しして、唇が離れる。 存分に愛撫された唇が、じんと熱い。 「フィーナは、キス好きなんだな」 「え?」 意外そうな顔をする。 「好きな人とのキスよ……嫌いなわけがないわ」 「キスは、好きな男の人と女の人がするもの……」 「そう教えてくれた人がいるの」 フィーナが笑う。 ……。 頭の中に、いつか夢で見た光景が蘇る。 月人居住区で俺にキスしてくれた可愛い女の子。 ……あの子が美しく成長して、今──目の前で微笑んでいる。 ……。 「そっか、覚えてたのか」 「ええ」 フィーナが目を細める。 「だから私は、貴方としかキスをしたことがないし……」 「……これからもしないわ」 そう言って、フィーナはもう一度キスをせがんだ。 ……。 「好きだよ、フィーナ」 「私もよ……達哉……」 ゆっくりと唇が触れ合う。 ……。 お互いの存在を確かめ合うように──そして、関係が認められた喜びを分け合うように──夜明けの部屋で、幾度となく唇を重ねる。 ……。 気高く、誠実で、一本気で、努力家で──強さと、弱さを持ち合わせた、俺にとって、たった一人の女性。 ……。 平坦な道ではなかったけれど──俺たちはようやく関係を認めてもらうことができた。 ……。 フィーナが地球に来て3ヶ月目の夜明け。 それは、俺たちが同じ部屋から見る、初めての夜明けになった。 カレンさんが月へ向かうことになったのは、試験の三日後だった。 目的はもちろん、俺とフィーナの関係を国王に進言するためだ。 ……。 空港は、大使館の更に奥にあった。 立ち入りに大使館の許可が要ることもあり、俺たちの他には誰もいない。 「カレン、よろしく頼むわね」 「お願いします」 「かしこまりました」 「そう、これを持ってきたの……」 フィーナがバッグから白い布を取り出す。 何か包まれているようだ。 「何でしょう?」 フィーナが、しなやかな指で布を開く。 ……。 顔を出したのは、瑠璃色の宝石をはめ込んだペンダントだった。 フィーナのドレスについている宝石とデザインは一緒だ。 だが、ドレスのものよりも、遥かに深みのある輝きを持っているように見えた。 その存在感に、思わず息を呑む。 「母様の形見よ」 「きっと母様もカレンを見守ってくれています」 「……」 「朗報を期待しているわ」 カレンさんの表情が、今までに無い喜色を帯びた。 彼女の先女王に対する敬愛は、並々ならぬもののようだ。 「はい、必ずや縁談をまとめて参ります」 姉さんが一歩前に出る。 「気をつけてねカレン」 「ありがとう」 姉さんも、それに応じるカレンさんも引き締まった表情だ。 俺たちの関係を、国王や周辺の貴族に認めさせる──カレンさんがフィーナの婿選びを任されていたとしても、困難が伴う作業であろう。 「可能な限り早く吉報をお届けできるようにします」 「それまでは、地球での生活をお楽しみ下さい」 「ええ、そうさせてもらうわ」 「さやか、お二人のことを頼みました」 「任せておいて」 「トラブルの無いよう、しっかりと務めさせてもらうわ」 「もっとも、初めからトラブルがなければ、私が月へ行く必要は無かったのだけれど」 「カレン……意地悪を言わないで」 バツが悪そうな顔をする姉さん。 「ふふふ、感謝しているということよ」 カレンさんが気持ち良さそうに笑う。 「お二人も、節度を守ってお願いします」 「私がいないからといって、ハメを外されては困りますよ」 「誰にものを言っているの、カレン」 「そうですよ、間違いなんて起こしません」 「それにしてはフィーナ様、腰つきが少し充実されてきたようですが」 「なっ」 フィーナの顔が赤く染まる。 「や、やだな、あはははははっ」 「ふふふ」 「ある程度は『節度』の内ということで考えさせて頂きます」 にこりと笑うカレンさん。 この人にかかると、俺もフィーナも見事に遊ばれてしまう。 だが、それが逆に頼もしかった。 彼女なら、きっとうまく俺たちの関係を取り持ってくれるだろう。 「それでは、私は失礼します」 一礼したカレンさんが踵を返し、ロビーを遠ざかっていく。 気迫と活力に満ちた後姿だった。 ……。 「さてと」 「退去の手続きをしてくるから、二人は少し待っていて」 「分かりました」 「よろしくね」 姉さんが事務室方向へ消えていく。 ……。 「では、私たちも行きましょうか」 「ああ」 フィーナの手をしっかりと握る。 彼女も、俺に応えてくれた。 ……。 こうして、フィーナの留学は延長されることになった。 夏休みはあと20日程度。 何をするかなんて、ちっとも決めていない。 だけど、フィーナと一緒なら、予定を立てるのもきっと楽しい時間になるだろう。 ……。 「フィーナは、予定考えてるか?」 「いえ、今のところは何も」 「でも、一つだけ決めていることがあるの」 フィーナが足を止める。 「なに?」 「毎日、達哉と一緒にいるわ」 ……。 …………。 そう言って──フィーナは爪先立ちになった。 「お掃除は~♪ ココロもキレイに~♪」 学院から帰ってみると、ミアの歌が聞こえてきた。 かなり気持ちよく歌っているようだ。 「ふふ、ごきげんのようね」 「ほんとうだ。 楽しそうだな」 「ただいま戻りました」 「ただいまー」 ぱたぱたとミアが玄関に駆けてくる。 「お帰りなさいませ」 「楽しそうだったね。 掃除してたの?」 「えっ、なぜ分かったんですか?」 「表まで聞こえたわよ」 「お掃除は~♪ってね」 「ほ、ほんとですか……」 赤くなり、縮こまるミア。 「でも、楽しそうだったし、いいんじゃないかな」 「掃除も、どうせやるなら明るい気分でやった方がいいだろうし」 「ええ、気にすることは無いと思うわ」 「そう言って頂けると嬉しいです」 本当に嬉しそうに言うミア。 「ミアが来てから、あまり目の届かないところも綺麗になってるしね」 「高いところにも埃が溜まってなかったり、洗面所のタオルが畳まれてたり」 「ミア、偉いわね」 「い、いえ……」 ……ん?褒められたミアは赤くなっている。 ミアが綺麗にしてくれたところを全部挙げていったら、どうなってしまうんだろう。 「曇ってたドアノブとか、階段の手すりも綺麗になってたっけ」 「キッチンの換気扇の油汚れもすっきりしたし」 「フローリングの床にも、いつの間にかワックスがけしてあるんだよね」 「そうだったの……」 「ミアは働き者ね」 嬉しそうなフィーナが、ミアの肩をぽんと叩く。 ミアは……「うあぁ……その、その……」 やっぱり、目を回していた。 ……。 …………。 「ミアちゃんがやってくれてるのは、それだけじゃありませんよ」 「階段下、玄関脇、キッチンにベランダの植木を世話してるのもミアちゃん」 「洗面所の鏡を磨いてくれてるのも、お兄ちゃんが今朝食べてたジャムを作ったのも……」 「お兄ちゃんが着てる制服にアイロンあてたのも、ミアちゃんだよ」 夕食を食べ終えてから、また同じ話題になっていた。 いや、それどころか──みんなで、ミアの仕事をどれだけ知ってるかを競っているかのようだ。 「はうぅ……」 相変わらず真っ赤になって目を回しているミア。 俺も知らないうちに、そんなにミアが働いていたのか……。 「おかげで、注意が行き届かないところまでキレイなお家になったわ」 「綺麗な家は、やっぱり気持ちいいわね」 「あっ、あれでしょ」 「ココロもきれいに~♪って歌」 「み、皆さんに聞かれてたなんて……」 頭から湯気がでそうだ。 「ミアちゃんのおかげで、最近少し楽させてもらってるわ」 「うん」 「もう、ミアちゃんを手放せないよ」 「なっ、それは困るわっ」 「ミアは私の……私の……」 「冗談ですよ、フィーナ様」 抗議のために立ち上がりかけたフィーナを、笑顔でなだめる姉さん。 「でも、ミアがしてくれてることはみんな気づいてるし……」 「あまり直接言ってなかったけど、とても感謝してる」 「そうね」 「私は仕事、麻衣ちゃんは部活、達哉くんはバイト……」 「みんな、あまり家のことができてなかったもんね」 みんなで、ミアにお礼を言う。 ……。 「あれ、ミアちゃん?」 「……ぅ」 「……うっ……ぐす……」 「ミア!?」 「どうしたの、ミアっ」 「…………ぅぅ~……」 「ミアちゃん、ほら、泣かないで」 姉さんが、ミアを抱きしめ、子供をあやすように頭を撫でる。 「ぅ……すん……」 「よしよし」 「はい、タオルだよ」 「ミアは……」 「嬉しかったのね」 「うん、きっとそうだと思う」 「私も、これからはもっともっとミアのことを褒めるわ」 「あんなに、泣くほど嬉しいんだもの」 そう言うフィーナの顔は、とても優しかった。 「それがいいと思うよ」 ……ミアはいつだって、仕事をしている時が一番楽しそうだ。 仕事というか……人の役に立っている時、なんだろうな。 ……。 「……あの、すみませんでした」 とりあえず泣き止んだミアが、ぺこりと頭を下げる。 「いいえ、いいのよ」 「ミア、これからもよろしくね」 「はいっ」 そう返事したミアは、目にいっぱい涙を溜めて頷いた。 ……。 夕食を左門で食べ、家に戻る。 今日のまかないも美味しかった。 メニューはすずきのローストに、白髪ネギのあっさりペペロンチーノ。 白ワインの豊潤な風味が染みたローストは、軽い焦げ目のカリッサクッとした香ばしさが絶妙だった。 そこに、オリーブオイルでまとめられたトマトソースの酸味もよく合っている。 もちろんペペロンチーノも、シンプルながらにんにくと唐がらしの刺激と、ネギの甘さがマッチしていた。 ……俺たちは、みんな大満足で家に帰る。 「仁さんには悪いけど、やっぱりおじさんの腕は一段上だよね」 「確かにそうだったわ」 「仁くんも、新作にチャレンジするスピリットはいいんだけど」 今日のまかないを作ったのは、おやっさんだった。 俺の評価も、みんなと同じ。 シンプルで飾り気の少ない料理なのに、味は際立っていた。 ……。 「では、皆さんにお茶を淹れてきます」 「うん、お願いね」 ミアはキッチンに向かう。 いつもの、のんびりお茶タイムだ。 ……。 …………。 「あっ!」 ぱりーん「ミアっ?」 「大丈夫?」 キッチンに行ってみると、ミアの足元でマグカップが割れていた。 大きいかけらもあるが、粉々になってるところもある。 「ごめんなさいっ」 床のかけらを必死に集めるミア。 しかし……あれでは、修復は無理だろう。 「急ぐと、ミアが怪我するぞ」 「でも、でも、姫さまのマグカップが……」 「ミア」 ……。 「……はい」 「まずは、怪我をしないように、片づけましょう」 「は、はい」 ミアは、傍目にも分かるほどがっくりと肩を落とし、俯きがちに返事をした。 「はい、掃除機も持ってきたわ」 「雑巾も」 ……。 それから、みんなで手分けして、床を片づけた。 ミアは口数も少なく、黙々と手を動かしていた。 ……。 「こんなものね」 「うん」 一通り掃除が済むと、もう一度あらためて、ミアがお茶を淹れてくれた。 「すみませんでした……お騒がせして」 まだ暗い。 「そう言えば、さっきのマグカップって……」 「ええ、私が地球に来て初めて買ったものね」 黒いネコが描かれたマグカップ。 「……ごめんなさい」 「いいのよ」 「マグカップはまた買えばいいし、形のあるものはいつか壊れるのだから」 「ああ、気にするなよ」 「……はい」 ……。 落ち込んだままのミアが少し気になったけど──日が変われば、また元気になるだろう。 ……。 …………。 「ミア?」 「ミアー」 「どうしたの?」 「ミアは、まだ起きてないのかしら?」 「ううん、さっきまで一緒に朝御飯を作ってたけど……」 「さっき、洗面所にいたよ」 ……。 「……お呼びでしょうか、姫さま」 「ああ、ミア」 「髪のまとまりが悪いから、頼もうと思って」 「……わかりました」 二人はフィーナの部屋に行く。 ……。 「お兄ちゃん、まだミアちゃん元気無いね」 「そうだなぁ」 ……。 「まったく、ミアにも困ったものだわ」 「いつまで落ち込んでいるのかしら」 休み時間のフィーナ。 怒っている様な口調だが、心底ミアを心配しているようだ。 「しばらくすれば、自然に直るさ」 「フィーナも、あまり意識しすぎない方が」 「……達哉」 「ん?」 「ミアに何かした?」 「俺が?」 「してないしてないっ」 慌てて否定する俺。 フィーナがミアのことを心配するあまり、こっちに疑いが来ようとは思ってなかった。 「俺が、そんなことするはずないだろ?」 「……そうね」 「ごめんなさい」 一つ大きく息を吐くフィーナ。 「……ちょっと、神経質になってるわね」 「どうしたの?」 俺とフィーナの会話を聞いて、菜月が入ってきた。 ……俺は、現状を菜月に話して聞かせる。 「……なるほどね」 「ミアちゃんが気にするのも分かるような気がする」 「気にする、とは……?」 「だって、ミアちゃんが割っちゃったのって……」 「フィーナが地球で初めて買った記念品なんでしょ」 「でも、あれは安いもので……」 「記念のものって、値段じゃないよ」 「そうだな、そういうことか」 「ミアらしい、かな」 「ミア……」 「帰りにさ、おみやげにヨーグルトを買っていこう」 「あとは、ミアに気を遣わせないように、新しいマグカップ」 「そうね、そうしましょう」 ……。 その日、ミアはいつも以上に張り切って掃除、洗濯、料理に取り組んでいた。 昨日の失敗を取り戻そうとしているかのようだ。 ……。 俺が買ってきたヨーグルトも、フィーナの新マグカップも、ミアを少しだけ元気にした。 「私は本当に気にしていないから、早く元気になってね」 「そうだね」 「帰って来た時にミアの鼻歌が聞こえないと、ちょっと寂しいよ」 「は、はい」 「それに……」 「たった一度の失敗くらいじゃ、フィーナの信頼は揺るがない」 「だろ?」 フィーナに水を向ける。 「ええ、もちろん」 「あ……は、はいっ」 「頑張りますっ」 ミアは、お辞儀をすると小さく拳を握って、気合を入れ直していた。 ……。 褒められると大喜び。 失敗すると落ち込むミア。 真面目で、そしてやっぱり少しかわいいな、と思った。 学院が休みの土曜日。 午前中に、ミアの買い物につき合うことにした。 「達哉さん、あれ、見て下さい」 ミアが、商店街で突然上の方を指さす。 「どれ?」 ミアは、とてとてーっとある街路樹に近づくと、真上を指さした。 「この木です」 「ほら、あの枝」 「んー」 飛び跳ねながら、ミアが必死になって示す方向を見ると……鳥の巣があった。 「ああ、鳥の巣だね」 「ええ。 つい最近見つけたんです」 「時々、親鳥が、出たり入ったりしてるんですよ」 「へえ」 「今はいるのかな?」 ……。 目を凝らしてみても、巣の近辺に動くものは無い。 「見えませんね」 「見えないな」 「そもそも、巣ってもう完成してるのかな」 「どういうことですか?」 「いや、イメージなんだけど」 「巣って卵を産んで雛を育てるためにあるような気がするんだ」 「だから、完成したら卵を生んでてもおかしくないよな」 「なるほどー」 「実は、あまり野鳥にも詳しくないんですが……」 「毎日巣を見るのは楽しみです」 「なんて鳥かな」 「見た目だけでも、覚えてない?」 「ええと、あまり大きくなくて、けっこうずんぐりした鳥でした」 「ずんぐり?」 「ええ、ずんぐりしてました」 「スズメに似てたような気もします」 「達哉さんも、ここを通る時には、枝を見上げてみて下さいね」 「ああ、そうするよ」 ……。 それから、洗濯洗剤・柔軟剤・台所用洗剤・排水口洗浄剤などの、物理的に重いものを買った。 俺は、荷物運びとして存分に活躍した。 ……。 その後も、ミアは買い物に行く度に鳥の巣を見ていたようだ。 俺も、気がついたら街路樹を見上げるようになっている。 買い物に行くミアの足どりが、楽しそうになった気がしていた。 今週を乗り切れば夏休み。 そんな浮足立った雰囲気が、学院には満ち始めた。 授業が終わり、左門でのバイトのために下校する。 そんな帰り道。 見慣れたメイド服が、ふらふらと歩いていた。 「ミア?」 「た、達哉さん~」 また、買い物袋から溢れるくらいの買い物をしたようだ。 「大丈夫?」 「ほら、持つから」 「す、すみません……」 ミアから買い物袋を受け取り、学院の鞄を代わりに渡す。 「5人分だもんな、量も多くなるよね」 「持てる量だけ買ったつもりなんですが……」 「八百屋のオヤジさんが、おまけをたくさんつけてくれたんです」 そういうことか。 「残りそうなジャガイモとか、足の早いトマトとか」 「あのオヤジ、ミアが目を回してるのを見て楽しんでそうだもんな」 「えっ、そ、そうなんですか~」 状況は容易に想像できる。 ここのところ、ミアは商店街の人気者になってるみたいだし。 ……。 「あ、ほら、あそこの木じゃなかったっけ?」 「小鳥が巣を作ってるの」 「ええ、そうなんです」 「覚えててくれたんですね」 「まぁ……やっぱり気になるから」 嬉しそうに目を細めるミア。 「あれから何度か親鳥の姿を見てるんですが……」 「そろそろ、卵が生まれるかもしれません」 「そうなんだ」 「楽しみですねっ」 ミアの足どりは軽かった。 ……。 「でも」 「カラスとか、ネコとか、少し心配です……」 「ああ、よくそこら辺にいるよなぁ」 「明け方や夕方にもよくカラスは見ますし、ネコは木に登ることもできるんですよね」 心配そうに枝を見上げる。 「親鳥だって、そういう環境の中で生き抜いてきたんだから、きっと大丈夫さ」 「街中に居るといっても野鳥なんだから、本能を信じよう」 「……そうですね」 「きっと、大丈夫ですよね」 自分に言い聞かせるようにつぶやくミアと、ゆっくり家路を辿る。 ──野鳥は月にはいないんだっけ。 ミアが気にしているのも、分かるような気がした。 今日は、学院の帰りに中央駅前に出ることにしていた。 床のフローリングに使っているワックスは、満弦ヶ崎中央駅まで出ないと買えない。 最近、買いだめしていたワックスを、使い切ってしまったのだ。 「他のワックスも試してみたんですけど、絶対に今まで使ってたものがいいです」 「光沢も、耐久性も、板への食いつきも、全然違いますよ」 使い切った本人がそう言うので、案内兼荷物運びとして、二人で買い物に行くことになった。 一度帰って、着替えたら出発だ。 ……。 …………。 「大きい街ですね……」 口を開け、目を見開いて驚いているミア。 「それに、人がたくさんいます」 満弦ヶ崎中央駅前。 平日の昼間にも関わらず、人出は多い。 州都なだけに、店はもちろん、大企業の支店や役所も多いのだから当たり前か。 「少し行くと店が見えるから」 「そうそう」 「声を掛けられても、返事しちゃ駄目だよ」 「何て話し掛けてきても、全部、セールスか宗教だから」 「わ、わわわかりました」 ……。 大きな交差点を恐る恐る渡っていくミア。 ……今日は、家からかなり離れたところまで買い物に来た。 そのため、珍しくミアは私服に着替えている。 「今日の服、珍しいね」 「そ……そうですか?」 「あまり着る機会がありませんでしたが、一応月から持ってきたものなんですよ」 ミアは、商店街で買い物する時もいつもメイド服だ。 だから……今日の姿はちょっと新鮮かもしれない。 「いつもの服だったら、暑かったかもな」 「黒いし、長袖だし」 「はい、そうですね」 「でも、あの服は、姫さまのお世話をする者の正装ですから」 「そうなんだ」 「ええ」 ……そんな会話をしていると、目の前に白いタイル張りの大きな建物が見えてきた。 ここが、目当ての店だ。 日用雑貨なら、ここに来れば目的のものがほとんど揃う。 「さ、ここだよ」 「大きなお店ですねー」 建物を見上げて、ミアがつぶやく。 「いろんなものがあるから、毎回目移りするんだけど……」 「せっかくだし、あちこちのフロアを見て回ろうか」 「はいっ」 「よし、入るぞ」 きっと、商品の種類が多いことに、ミアは喜んでくれるに違いない。 いや、もしかしたら目を回しちゃうかもな。 ……。 …………。 「きゅう~」 「ミア、大丈夫か?」 ミアは、店内の人込みに酔ってしまったらしい。 最初は我慢していたものの、しばらくすると気分が悪いのに耐えられなくなってしまった。 「達哉さん……すみません」 「仕方無いさ。 でも……」 「人込みが苦手なら、言ってくれれば良かったのに」 「あんなに人がいるお店は初めてだったので……」 「そっか」 それなら、人込みに酔うのも仕方無いかもしれない。 今日はいつにも増して人が多かった。 ……。 「……どう、落ちついた?」 「あ、はい。 何とか……」 「とりあえず、ワックスは買えたから」 「あとはまた今度にして、今日はもう帰ろうか」 「いえ、わたしには気を遣っていただかなくても」 「わたしは、こちらで待っているか、お邪魔にならないように先に帰ります」 「いいって」 「あとは、いろんなものを見て回ろうかなって思ってただけだし」 「……じゃ、そろそろ行こうか」 「す、すみません」 勘定を済ませ、ミアの手を引いて駅を目指す。 「あ……」 「ん、歩くの早かった?」 「い、いえ」 ……。 …………。 家に帰って、ミアにはゆっくり休んでもらうことにした。 もしかしたら、少し熱があるのかもしれない。 連れ出したのが俺だったから、ちょっと申し訳無い気もしたけど──少しずつでも慣れるものなら、また行きたいと思っていた。 ……。 まだ夏休みになっていないとはいえ、毎日とても暑い日が続いている。 明日は終業式。 しかし、今日までは普通に授業がある。 「行ってきまーす」 「行って参ります」 「行ってらっしゃいませ」 ミアに見送られ、フィーナと登校する。 強い日差しにミアは日傘を勧めてきたが、フィーナはそれを断った。 「ほら。 誰も、日傘なんて使っていないもの」 「まあまあ」 「ミアも、フィーナのことを思って言ってくれたんだし」 「……達哉は、ずいぶんミアの肩を持つのね」 「そんなつもりはないけど……」 「……」 フィーナが、俺をじっと覗き込む。 思ったよりも真剣な眼差しに、少し動揺する。 「ど、どうした?」 「いいえ、何でもないわ」 「?」 ……。 結局、フィーナはその不審な行動の理由を語らないまま、学院に着いてしまった。 何だったんだろう?……。 「では、この問題を……朝霧」 「少し難しいかもしれんが」 「はい」 「えーと……最初に月王国からの派遣船団が来た時の使節団長は、国務大臣の……」 「……」 ……月学概論で、難しい問題をあてられた時。 放課後の掃除の時間。 「朝霧、今日の掃除代わってくれないか?」 「今日はどーーーしても外せない用事があって」 「どうせデートだろ」 「いやあ……ははは」 「朝霧、頼むっ、この通りっ」 「拝むなっ」 「夏休み明け、最初に俺が掃除の時に貸しを返せよ」 「オッケー。 助かるぜ」 「……」 ……放課後、クラスメートと何気ない会話をしてる時。 帰り道。 「あらたっちゃん」 「今日もミアちゃん、重そうな買い物袋を持って帰ってったよ」 「アンタも少し手伝ってあげなよ」 「学院に行ってる間じゃ、さすがにそういうわけにも」 「でも、お前さんぼちぼち夏休みだろ」 「ええ、なるべく手伝えればと思ってます」 「ああ、そうしてやりな」 「よたよたと歩いていく姿が、健気でなぁ」 「アンタが色々サービスしてるからだろ!」 「あの、なるべく俺も手伝いますんで」 「その時はもっともっとサービスして下さい」 「……」 ……商店街のいつもの面々に話し掛けられた時。 どうも、今日は一日フィーナに睨まれていた様な気がする。 バイトを終えて帰ってきてから、フィーナに直接聞いてみることにした。 「なあフィーナ」 「今日、俺のことをじーっと見てなかったか?」 「えっ、いえ、そんなことは」 「そんなことが……あった気がするんだけど」 「きっと達哉の気のせいよ」 ……何か釈然としなかったけど、フィーナがそう言うならこれ以上聞きようも無かった。 しかし、翌日も同じような状態は続いた。 「では、通知表を返す」 「出席番号順に、教卓まで取りに来てくれ」 ……。 「達哉はどうでしたか?」 「え、俺の成績?」 「まあ、ぼちぼちだよ」 「ぼちぼちとは?」 「まあこんなもんかな、という意味だ」 「……差し支えなければ、見せてもらえませんか?」 ……。 「いらっしゃいませー♪」 「……あれ?」 「どうした?」 「ううん、今、外にフィーナがいたような気がしたんだけど」 「……もしかしたら、さっきから柵の外に見え隠れしてた影もフィーナだったのかな」 ふーむ。 「分かった」 「俺に任せてくれ」 「?」 ……。 …………。 しばらくタイミングを見て、俺は──前ぶれ無く、左門の入口から外へと駆け出した。 「あっ」 「フィーナ」 「さっきからずっと店の中見てたろ」 「い、いえ別に」 「菜月が気づいてさ、教えてくれたんだ」 「……最近、俺のことずっと観察してるだろ」 「月学外論の時、放課後クラスの奴と話してる時、商店街を歩いてる時……」 「何をしてるのか教えてくれないか?」 言い逃れができないように、フィーナを正面から、真剣な眼差しで見つめる。 ……。 「そ、その」 「ミアは、クララからお預かりしている大切な……」 「くらら?」 「ええ、私の乳母です。 クララ・クレメンティス」 「クレメンティス……ミアの母親?」 「……で、なんでここでミアの話が出てくるんだ?」 ……。 「……」 「さあ、どうしてかしら」 「あっ、ちょっと」 フィーナは、急に踵を返して家に戻って行ってしまった。 ……。 「達哉君、サボりはいけないなあ」 「まあ、もっといけないのは君の鈍感さかもしれないが」 「鈍感?」 「さあ、お客様が待ってるよ。 戻った戻った」 仁さんに店の中へ引っ張り込まれ、その場はうやむやなまま終わってしまった。 ……。 今日から、学院生活最後の夏休みだ。 宿題はそれなりに出たが、3年生だけにかなり手加減されたものだった。 「いいなぁ。 わたしなんか、部活があるのに宿題も多いんだよ」 「どっちも来年には解放されるさ」 「むー」 麻衣が頬を膨らます。 「私は、これから少し忙しくなりそうよ」 「何かあるの?」 「学院がある間は公式行事も免れていたんだけど……」 「やはり、いくつかは避けて通れないものがあるみたいなの」 「大変だね……」 「ううん、慣れてるから大丈夫よ」 そんな話をしていると、ぱたぱたとミアが駆けてきた。 「姫さま、ドレスを洗い終えました」 「早かったわね」 そう言えば、フィーナは珍しく私服を着ている。 「早速着ていくから、手伝って頂戴」 「はい」 「あれ、仕事ってもう今日から?」 「ええ」 「学院が夏期休暇に入るまで、待っていてくれたらしいのよ」 「仕方無いわね」 口では仕方無いと言ってるフィーナ。 でも、表情を見る限り、ちょっと散歩に行ってくる程度にリラックスしているようだ。 送り出す側としては少し気が楽になった。 ……。 …………。 カレンさんが、フィーナを迎えに来ている。 「失礼致します」 「フィーナ様、お車の用意ができました」 「わたしもご一緒できれば良かったのですが……」 「そういう機会も、きっとあるわ」 「今回は待っていてね」 「はい」 フィーナがミアの肩に手を置く。 「ではフィーナ様、そろそろ」 「ええ」 「フィーナ様のお戻りは、明日の夕方頃になると思います」 「よろしくお願い致します」 折り目正しく礼をし、二人は車中の人になった。 ……。 フィーナを乗せた車が去っていく。 「大変だなぁ、フィーナも」 「大変ではありますが……」 「姫さまが、誇りを持ってなさっていることでもありますので」 「そっか。 そうだな」 ミアに諭されてしまったことを、少し恥ずかしく思う。 ミアは、フィーナが乗って行った車を、しばらくそのまま見送っていた。 さすがにミアは、俺なんかよりもフィーナのことをよく知ってるな。 ……。 …………。 バイトを終えて帰ってくると、ちょうど麻衣と一緒になった。 「ただいまー」 「ただいま」 「お帰りなさいませ」 「あれ、お二人はご一緒だったのですか?」 「ん?」 「いや、たまたま。 今ちょうど左門の前で一緒になったんだ」 「うん」 「おなかぺこぺこだよー」 「まだ何も食べてないんですよね。 良かった」 「今日は姫さまがいないので、少し新しい料理に挑戦してみたんです」 「ただいまー」 「もうおなかぺこぺこよー」 「ぺこぺこの人が、ちょうど揃ったぞ」 「グッドタイミングです」 「さあ、準備ができました」 ……。 ミアがチャレンジしたというのは、主に魚介系の料理だった。 それも、割と元の姿が残ってたり、熱を加えていない生魚。 今日のメニューは──新鮮でみずみずしいレタスときゅうり・トマトの上に、肉厚の鰹のたたきと、細かく刻んだネギが乗ったサラダ。 胡麻のポン酢風ドレッシングがたっぷりとかけ回されている。 そして、皮がぱりっとした鮎の塩焼き。 この鮎の身とミツバと岩海苔をご飯の上に載せ、鰹の風味が効いた出汁でお茶漬けにしたもの。 ……食卓から立ち上る香りだけで、腹の虫が鳴き始めそうだ。 「今はだいぶ食べていらっしゃいますが……」 「生魚や、外見がそのまま見える魚が苦手だったんです、姫さま」 「へえー、気づかなかったな」 「わたしも全然知らなかったよ」 「フィーナ様のことだから、苦手な食べ物を言っていいものかどうか、迷ってたのね」 「で、結局言わずに、頑張って食べることを選んだと」 「ええ、わたしもそう思います」 「フィーナ様らしいわね」 「うんうん」 ……。 鰹のたたきサラダが、あっと言う間に大皿から消える。 一人二匹用意されていた鮎も、ご飯と共に、各々の胃袋に消えて行った。 俺は、ご飯も二杯食べていた。 「美味かったなぁ」 「うん」 「ミアちゃん、短い間なのに地球の料理の腕もすごく上がったよ」 「そ、そう言って頂けると、嬉しいです……」 「鮎の塩加減なんて、プロ顔負けね」 「いえ、そ、それほどでも……」 嬉しさと照れ臭さが混じって、ミアは真っ赤になっている。 「そだ。 デザートもあるんだよね?」 「そうでした」 「皆さん、まだ食べられますか?」 「ふふ、甘いものは別腹よ」 「女の子だもんねー♪」 「お兄ちゃんはどうかな?」 「男の子をなめるなよ」 「では、お持ちしますね」 そう言って、ミアは冷蔵庫からシャンパングラスに盛りつけられたヨーグルトを持って来た。 続いて、小さなビンに小分けされた色とりどりのジャム。 「今日は、新作のジャムも出ますよー」 「新作?」 「ええ。 こちらで見つけた、いろんな材料で作ってみたんです」 「ミルクジャム、梅ジャム、バナナとキウイのジャム、それにパイナップルのジャム」 「一番のお勧めは、月いちごのストロベリージャムです」 「すごい、たくさんだー」 「ビンもかわいいよね」 「色もきれいで、見ているだけで楽しいわ」 「月いちごって、宝石みたいに赤いのよ」 「でも、これだけの種類のジャムを作るのって、大変なんじゃない?」 「いっ、いえ、好きでやってることですから」 「ほら。 ちゃんとラベル作ったり、仕事も丁寧だし」 「……ミアのことだから、ジャムのレシピノートも作ってそう」 「しかも、それぞれのジャムを食べた人の反応まで書いてたりして」 「えっ」 「なっ、なんでご存知なんですか?」 「やっぱり」 「そこまでとは、恐れ入りました……」 「やっぱり、上達する人には、そういう見えない努力があるのね」 「偉いわね、ミアちゃん」 よしよしと、姉さんがミアの頭を撫でる。 「お兄ちゃんも、よく見てるよね」 「そうかな」 「そうよ。 かわいいビンに見とれてちゃ、ミアちゃんの仕事ぶりには気づかないわ」 「さっ、さあみなさん、食べましょうっ」 「くすくす、ミアちゃん、照れてるね」 真っ赤な顔のミア。 ……。 「そういやさ」 「ミアのジャムって、マーマレードが無いよね」 「言われてみれば」 「あ、あの……」 ……。 …………。 「マ……」 「マーマレードは、苦いので、少し……苦手なんです」 ……。 何だか、とても言いにくいことのように言うミア。 ジャム好きのミアにも、苦手なジャムがあったとは。 「大丈夫だよ、ミアちゃん」 「苦くないマーマレードの作り方、教えてあげる」 「本当ですか?」 「うん……でも」 「先に、ヨーグルトを食べようか」 「あっ、そ、そうでしてたね」 ……。 みんなで、思い思いのジャムを試す。 少しずつ食べてたつもりだったんだけど──ヨーグルトが先に尽きてしまった。 「ふう、ごちそうさまー」 「今日はお腹いっぱいね」 「そうだねー」 「……じゃあレシピノートを用意して」 「はいっ」 ……。 それから、麻衣はミアに『苦くないマーマレード』の作り方を教えていた。 皮を減らしたり、その皮を米の磨ぎ汁で煮込むとか、いろいろテクニックがあるらしい。 俺と姉さんは、そんな二人をほほえましく眺めていた。 ……。 夏休み中の日曜日。 普通は、これ以上無いくらい絶好の朝寝坊チャンスなんだろう。 が。 俺は目覚まし時計より早く目が覚めてしまった。 「しょーがないなぁ」 暑くならないうちに、イタリアンズの散歩に行っておくのもいいだろ。 ……そう思った俺は、ラフな格好に着替え、散歩に出ることにした。 「しー」 「ぉん」 「よーし、遊んで来ていいぞー」 「わふっわふわふっわふっ」 「わんっ!」 三匹、それぞれに丘の上を走り回る。 ……今日も、一日晴れそうだ。 朝からこんなに日差しが強いんじゃ、また暑くなるんだろうな。 ……。 …………。 と思ってたら、突然空が曇ってきた。 湿度も急に上がった気がする。 これは……にわか雨の予感。 「カルボっ、ペペロンっ!」 慌ててイタリアンズを集合させ、リードに繋ぎ、丘を降りる。 商店街に入ったところで、空に溜まっていた水分が一気に地上へ降ってきた。 ここまできたら、もうあと少し。 このまま走って家まで帰ろう。 三匹を犬小屋に繋いで、やっと一息。 毛がふさふさしているペペロンやカルボは、濡れたことで体積が半分くらいになってしまっていた。 「ひゃー、まいったまいった」 「惜しかったんだけどなぁ」 洗面所でタオルを一枚掴み、頭をざっと拭く。 これは……服も着替えないと駄目だな。 とりあえず上着を脱いでみる……が、下着までびしょ濡れになっていた。 仕方無く、一度下着まで脱いで着替えることにした。 がちゃ「え」 「あ……」 俺はトランクス一枚。 そこに、何故かミアが入ってきた。 「あわわわわ、す、す、すみませんっっっ」 「達哉さん、いつの間にお帰りだったんですかっ!?」 「あのさ」 「扉、とりあえず閉めない?」 「あっ、は、はいっ、そそそうですねっ」 ばたんっ!な、なんでミアが入って来たんだろう。 ……。 びっくりした。 ……廊下からは、ミアが深呼吸する音が聞こえてくる。 「すーはー、すーはー」 「あのっ……達哉さん」 「すっ、すみませんでした……」 きっと、まだまだ顔中を真っ赤にしてるミアが、扉越しに謝ってくる。 「いや、まあ」 話をしながら、何はともあれ服を着る俺。 「俺が出かけてると思った?」 「ええ、イタリアンズの散歩に行ってるものだとばかり……」 「なので、今のうちにお部屋に掃除機を掛けようと思って」 「なるほど」 「ついさっき帰ってきたばかりなんだけど……」 「雨で濡れたので、服を着替えていたんですね」 「そんな感じ」 着替え終わった俺は、扉を開ける。 すると、そこにはミアが申し訳無さそうに立っていた。 「あ……」 「いいよ、そんなに気にしなくて」 「掃除してくれようとしたんだもんな」 うなだれているミアの頭に、ぽんと手のひらを乗せる。 びくっ、と震えるミア。 「すみませんでしたっ」 ……。 …………。 ミアは、月の王宮でもずっとフィーナ付きだったはず。 うちに来てからだって、俺以外は、全員女性。 考えてみれば……男に対して免疫って無さそうだよな。 ……せめてもの救いは、俺が全裸じゃなかったことか。 「達哉、ミアに何かしたんじゃない?」 「さっきから、ミアがおかしいわ」 キッチンの方を見ると、ミアと目が合う。 するとミアは、何か見ちゃいけないものを見たように、目を伏せて背を向ける。 ……こりゃまいったな。 フィーナに事情を説明する訳にもいかないし。 「ちょっと任せといて」 「……分かったわ」 「よろしくお願いね」 何かを察したのか、フィーナは俺に任せてくれた。 しかし。 どうしたもんかな。 とりあえず、俺が気にしていないことを伝えなくてはいけない。 そして、ミアも気にしないでくれと頼めばいいのだろうか。 「ミア」 「は、はい……」 もう赤くなってる。 早いって。 「おはよー」 「あのさ、ミア、話を聞いてほしいんだ」 「ん?」 「さ、さっきはその……」 「おはようございます~」 「あら?」 全員集合。 まじまじと眺められる俺。 ……もう、こそこそ解決するのは無理、だな。 ……。 「小さいころは一緒にお風呂に入ってたこともあるんだよ」 「え、そ、そうなんですか?」 「わたしも、達哉くんが着替えてる時に部屋に入っちゃったことがあったわね」 何やら、全員でミアに『家族生活に潜む事故』を語る会になってしまった。 「あの、その方向で話が進むのはどうかと」 「一緒に住んでるんだから、そういうアクシデントはあるものじゃない?」 「そうそう。 お兄ちゃんが洗面所にいるのに気づかずにお風呂から出ちゃったりね」 「何だか、家の中に居場所が無くなりそうだ」 「くすくす……」 やっと、ミアの表情が普段通りになりつつある。 「ミア、郷に入りては郷に従え、よ」 「そうですね」 「達哉さん、失礼致しました」 「うん、本当に気にしないでいいよ」 「……でも、一応ノックはすること」 「はい、ごめんなさい」 頭を下げるミアも、落ち込みすぎたりはしてないようだ。 「では、この話はおしまいでいいわね」 「朝食の準備をしましょう」 「あ、そっか」 「忘れてました~」 フィーナの言葉で、やっとみんな顔を洗ったりお湯を沸かしたりし始めた。 ……。 …………。 ミアのジャムとバターを塗ったトーストに、ベーコンエッグの朝食を食べ終える。 今日は俺が皿洗い担当だ。 「なあミア」 隣で、食器を片づけているミアに話し掛ける。 「この家に来てからだいぶ経つけどさ」 「ええ」 「さっきフィーナが言ってた『郷に従え』の方はどう?」 しばし考えてから、ミアは口を開く。 「料理は麻衣さんに教えてもらってますが……」 「あとは、テレビばかりです」 「じゃあさ」 「せっかく王宮から出てるんだし、何かやりたいことを、好きにやってみたらどうかな」 「好きなこと……」 「ああ」 「一日中ごろごろ寝てるとか、テーマパークに遊びに行くとか、プールで泳ぐとか」 「あ、でも人込みは苦手なんだっけ」 「うーん……」 ……。 真剣に悩み始めてしまった。 俺は皿洗いを終え、ミアの答えを待つ。 今日もいい天気だ。 うちに来てから、ずっと家の中のことばかりやってくれたミア。 外に出るのも、ほとんど買い物ばかり。 ……でも、ミアは自分からあれをしたい、これが欲しいと言い出したことがほとんど無い。 無理に考えさせない方がいいかな。 そう考えてた時。 「達哉さん、思いつきました」 「おっ、なに?」 「わたし……」 「姫さまと達哉さんと、ピクニックに行ってみたいです」 「ピクニックか」 「……よし、分かった」 「フィーナやみんなには声を掛けておくから、食べ物関係の準備を頼む」 「はいっ」 それから、サンドイッチを作ったり、水筒に飲み物を用意したり。 家事と夕食の準備は、麻衣と姉さんが快く引き受けてくれた。 フィーナと俺も手伝って、ちょうど昼頃に、三人で家を出る。 ……。 「いい天気ですねー」 「そうだなぁ」 「少し暑いくらいだ」 「ミア、その服で良かったの?」 「ええ。 姫さまと一緒に、この服で来たかったんですから」 そう応えたミアは、スキップでも始めそうなくらい、嬉しそうだ。 うきうきした気分が伝わってきて、こっちまで楽しくなってくる。 「あの丘の方まで行く?」 「少しは木陰もある辺りにした方がいいかも」 「それもそうね」 「では、あの辺にしましょう!」 ミアに引っ張られるように、俺とフィーナも坂を登る。 ……。 「姫さまー」 「ここにしましょうっ」 「いい場所ね」 「ミア、お手柄よ」 「はい、ありがとうございます」 フィーナに褒められて、満面の笑みを浮かべるミア。 フィーナのことが好きで、そして褒められて嬉しい気持ちが、こちらにまで伝わってくる。 「じゃ、シート広げるぞー」 程よく日も当たり、程よく木陰もある、平らな場所。 ミアが見つけた場所は、シートを広げるにはとてもいい場所だった。 「最初は、お茶にしましょうか」 「ええ、そうね」 「本当は、ここでお湯を沸かして、お茶を淹れられれば良かったのですが」 「でも、それじゃ大荷物になっちゃうよ」 「カップとソーサーを持ってきたから、これで何とか乗り切ろう」 「淹れたての方が美味しいので、残念です」 「ふふ……ミアは完璧主義ね」 「では、ビスケットも出しますね」 水筒からは、保温が利いた熱々の紅茶。 そしてバスケットの中には、ミアが朝から準備していたビスケットとケーキ。 「では、頂くわね」 「どうぞお召し上がりください」 「達哉さんにも、今、紅茶をお淹れしますね」 ミアの提案で始まったピクニックなのに、一番甲斐甲斐しく働いている。 しかも、楽しそうに。 そんなところが、ミアらしいなぁと思う。 ……。 …………。 のんびりと、何も考えずに青い空を見上げる。 この時期にしては珍しく、少し涼しい風に吹かれながらお茶を飲む。 太陽は、ちょうどちぎれ雲に隠れ、強い日差しは和らいでいた。 「ミア、お代わりをもらえるかしら」 「はい、姫さま」 ……ミアが淹れてくれた、少し渋みの強い紅茶。 これにミアのストロベリージャムを少し垂らして飲む。 ケーキはプラムケーキ。 ……。 これは……何というか、とても優雅な時間の使い方だなぁ。 「あのさ」 「二人はよく、こんな風にピクニックに出かけてたの?」 「いいえ」 「そもそも、こうして二人だけで一緒に出歩くことがほとんどありませんでした」 「いつも、護衛官や補佐官たちがいたものです」 「そうでした」 「こんなに、のんびりできるのは、珍しいです」 にこにこ笑ったミアが言う。 そのまま大きく背伸びをし、息を吐く。 「ふぅ……気持ちいいですね」 「本当に」 月での二人が、どんな環境にいたのかは分からないけど──今の二人は、とても穏やかな顔をしている。 ……。 …………。 誰も何も喋らず、聞こえてくるのは風で揺れる葉が擦れ合う音だけ。 でも、退屈とかじゃなくて、豊かな時を過ごしている気がする。 ……。 ぐうぅ~そんな時に限って腹が鳴る。 「くすくす、達哉さんサンドイッチを召し上がりますか?」 「ああ、そうした方が良さそうだ」 「ミア、私達も一緒に頂きましょう」 「そうですね、分かりました」 カリカリのベーコン・みずみずしいレタス・完熟トマトのサンドイッチ。 オーソドックスな、卵・きゅうり・ハムのサンドはフランスパンやライ麦パンに挟んである。 それにミアが最近覚えた、照り焼きチキンのスパイシーサンド。 ……どれもこれも、ミアが材料から吟味して作ったものだ。 ミアは、このピクニックをとても楽しみにしていた。 自然と準備にも力が入る。 俺もフィーナも、そのミアの思いが込められたサンドイッチを、とても美味しく食べた。 ……。 食後には、スコーンをつまみながら紅茶を飲んで、またのんびりした。 三人とも、ぽつぽつと軽い話題を振ったりまた黙ったり。 風に夕方の匂いが混じってきたと思って空を見ると……西の空が、赤くなりかけていた。 ……。 …………。 「ごちそうさま」 「ミア、美味しかったよ」 「ありがとうございます」 「でも、達哉さんも水筒を二本も持ってくるのは重かったでしょう?」 「達哉も、縁の下の力もちね」 「帰りは軽くなるけど」 「バスケットも軽くなりました」 「きっと、私達が少し重くなってるわね」 まだまだ日が沈むまでには時間がある。 でも、これくらいで引き揚げておくのがいいんだろう。 「それでは、帰りましょうか」 「そうですね」 「じゃ、荷物持ってて。 シートを畳むよ」 「はい」 ……。 「今日は、とても楽しかったです」 「それは何よりだ」 「よかったわね、ミア」 空になったバスケットを心なしか大きく振りながら、ミアが笑う。 フィーナも、俺も笑う。 「こんなピクニックがしたいなって、多分、ずっと思ってたんです」 「あまり、考えたことは無かったんですけど……」 「達哉さんが『やりたいこと、考えてみて』って言ってくれたおかげです」 「そうね」 「言ってくれれば、また何度でも来れるさ」 「……今日は、本当にありがとうございました」 夕焼けに染まる空の下、楽しかった今日一日を反芻しながら家路に就く。 赤い日に照らされたミアの、本当に嬉しそうな笑顔が印象的だった。 ……。 夏休みに入り、午前午後と時間に余裕ができる。 ……すると、これまで手を着けられなかったこともやってみようという気になる。 とりあえず今日は──久し振りに、イタリアンズの犬小屋のメンテナンスをしてみるか。 「わふ」 「わん」 「おん」 暑そうに舌を伸ばしながら、俺に寄ってくるイタリアンズ。 「ごめんな、散歩じゃないよ」 犬小屋を見てみると、風雨に晒されているだけあって、あちこちガタが来ている。 大きくなったカルボなんかは、ただ遊んでるだけでも小屋が壊れそうだ。 「よし、やるか」 「何が始まるんだろう」 とばかりに興味津々のイタリアンズ。 きちんとお座りの格好で、俺の作業を見ている。 ……。 とりあえず、釘で何ヶ所か補強して、ペンキも少し塗った方が良さそうだ。 俺は、工具を準備することにした。 ……。 …………。 あれ、金槌が無いな。 屋根裏部屋から、ミアが来る前に運び出した工具入れ。 ここに入ってたはずだけど。 ……もしかしたら、まだ屋根裏部屋にあるのかもしれない。 梯子に近い急な階段を登り、扉をノックする。 こんこん「ミア、いる?」 どたばたとした音が中から聞こえてきた。 「た、達哉さんですか?」 「ああ」 「そこに、金槌って無かったかな?」 「えーと……」 ……。 また、中からばたばたした音が聞こえてくる。 「すみません、お待たせして」 「よく分からないので、見てもらえませんか?」 「入っていい?」 「ええ、どうぞ」 久し振りに入るミアの部屋。 相変わらず、質素というか、私物が少ない部屋だ。 「この隅の方に工具箱があって、その中に金槌があったと思うんだけど」 「ええと……多分、見たことは無いと思います」 「ちょっとこの辺探すよ」 「あ……達哉さん」 「その、えっと……」 何かを言い掛けて、もじもじしているミア。 「ここは見られたくない、って場所があったら、先に言っといて」 「す、すみません」 ミアはいくつかの戸棚を、衣服が入ってるという理由で、開けないように指定した。 そりゃ……そうだよな。 元は物置に使ってる部屋だからって、女の子であるミアに対してちょっと気を遣わなすぎた。 「ごめん、気が回らなくって」 「そんなことないです」 「私は、朝霧家に住まわせてもらっているのですから」 「そういうこと言わないでくれよ」 「姉さんも言ってたけど、俺だって、ミアやフィーナを家族だと思ってるんだからさ」 「達哉さん……」 「ありがとうございます……あっ」 がしゃーんちょっと真面目な話をしたところで、ミアの私物が入った箱を、棚から落としてしまう。 「うわ、ごめんっ」 慌てて、二人で床に落ちたものを拾う。 「これは……?」 「あっ」 ブローチの中には一葉の写真。 写されているのは、女性が二人。 一人は、月学概論の教科書で何度も見た写真の人物──セフィリア女王だった。 「……セフィリアさまと、母さまです」 「ミアの……」 「ええ」 「月の王宮で撮った写真です」 「母さまは、セフィリアさまにとても良くして頂いていたので……」 「ミアのお母さんって、確か、フィーナの乳母を」 「はい、そうです」 「私の、自慢の母さまです」 そう言って、ミアは遠くを見るような目になる。 いつになく、自分のこと喋るミア。 つまり、ミアがいつも考えている事なのかもしれない。 「優しそうなお母さんだね」 「ええ」 「でも、私はもちろんですが、フィーナさまにも言うべきことはきちんと言ってましたよ」 「もしかすると……フィーナさまも、セフィリアさまより母さまに多く怒られていたかもしれません」 「ははは、そうなんだ」 「わたしも、母さまのようになれるといいなと思ってます」 「セフィリアさまのためにも」 「そっか」 ……。 セフィリア女王は、確か3年ほど前に亡くなっていたはず。 ひょっとしたら、今ではミアのお母さんがフィーナの母親代わりなのかもしれないな。 「ん?」 「?」 戸棚の後ろに、柄のようなものが見える。 俺は、戸棚の後ろを覗き込んだ。 「あ、あった。 金槌」 「本当ですか? 良かったです」 俺はその柄を引っ張ろうとする。 「ん?」 何かが引っ掛かって、金槌が引っ張り出せない。 「ミア、ここに手が入る?」 「何かに引っ掛かってるみたいなんだけど」 「分かりました。 やってみます」 場所を入れ代わると、ミアは戸棚の後ろに腕をそろそろと差し入れていく。 「あ、腕が入るんだ」 かなり隙間は細かったはずだ。 「ミアの腕って細いんだな」 「……そ、そうみたいですね」 ……。 「あっ、外れましたよ!」 「はい、達哉さん。 金槌です」 「ありがとう、ミア」 金槌を受け取る。 ……俺に金槌を渡すミアの腕は、確かに華奢だった。 「?」 考えてみればミアは、月王国のお姫様に、唯一の随行員として地球に来ているのだ。 こんなにちっちゃいミア。 努力して、とても頑張って、ここまで来たのだろう。 「よしよし」 気づくと、俺の手はミアの頭を撫でていた。 「わわわ……」 ミアは、困ってるような、嬉しいような、微妙な表情だ。 「ミアは偉いな」 「な、な、何がですか~?」 問いには答えず、頭を撫で続けた。 ……。 …………。 やっとミアを解放し、階下に降りる。 ミアは、撫でられている間、ずっとおろおろしていた。 ……。 イタリアンズも、首を長くして待ってるだろう。 俺は庭に出て、犬小屋のメンテナンスを再開することにした。 ……。 昨日と今日で、犬小屋の修理も無事に済んだ。 となると、次は夏休みに入ってからほぼ日課になっている、ミアの買い物の荷物持ちの時間だ。 俺や麻衣、それにフィーナも、家で食事をする回数は増えているため、必然的に買い物の量も増える。 今日も、俺はミアの隣で買い物袋を持っていた。 「……これで、今日の買い物は終わりかな」 「ええ、そうですね」 たっぷりと食材が詰まった袋は、正直少し重い。 これをミア一人が持つのは、さすがに無理だろう。 「達哉さん、荷物……重くないですか?」 「平気平気」 ……思わずこんな返事をしてしまうあたり、俺も男の子だなぁと思う。 「それよりほら、いつかの小鳥の巣ってこの辺りじゃなかったっけ」 「そうですね。 ええと」 ミアは、以前小鳥が巣を作っている木を見つけていた。 その木がこの辺だったはずだ。 「……あっ」 ミアが、何かを見つけたのか、たたっと街路樹へ向かって走る。 そして、多分巣があったはずの木の根元まで着くと、ミアがしゃがみ込む。 「どうした、ミア?」 「た、達哉さん……」 「これ……」 ミアの手の中には、羽毛の生え揃っていない小鳥の雛が一羽。 あまり元気なく横たわっていた。 生きてはいるようだが……「巣から落ちたんでしょうか」 「親鳥は?」 「それが……」 「昨日から、親鳥を見なくなってしまったんです」 木を見上げる。 確かに、そこには何もいない。 生き物の気配がしない。 「何か……他の鳥とか、ネコとかに……」 「そんな……」 良く見ると、巣が壊れているようにも見える。 「こ、このままじゃ、この小鳥も」 「もう、かなり弱ってそうだもんな」 助けを求めるように、ミアが俺を見上げる。 でも……「こういう小鳥って、人の手で育てるのはとても難しくて、大体すぐ死んじゃうって」 ……。 「……それでも……」 「それでも、やれるだけのことはやってあげたいです」 「このまま放っておくことなんて、できませんよぅ……」 少し涙声のミア。 「あのっ」 「皆さんには迷惑を掛けないようにしますっ」 「それに、わたし一人で面倒も見ますっ」 「だから、だから……」 「……分かったよ」 「放っとけないよな」 頭の上にぽんと手を置く。 「とりあえず持ち帰ってみて、それからもう一度餌を買いに出よう」 「はいっ」 涙目ながらも、ミアは笑顔で頷いた。 ……。 それから家に帰り、ミアの部屋に小鳥を運び込んだ。 ミアがバスケットに寝床を作り、俺はその間に、餌などについて調べる。 「こちらは大丈夫です」 「窓は閉めた?」 「はい」 「餌も大体分かったから、早速買いに行こう」 そして、俺とミアは商店街に向かった。 ……。 ペットショップで買ったのは、雛用の「粟だま」 という餌。 卵黄をまぶした粟だ。 そして、八百屋のオヤジに話をして、鳥籠代わりにダンボールをもらってきた。 まだぜんぜん飛べないだろうから、これで十分だろう。 「達哉さん、早く戻りましょう」 ミアに急かされて、家に戻る。 「……ふう、良かった」 小鳥はまだ生きていた。 弱っているにも関わらず、くちばしを突き出し、目を見開いてこちらを威嚇してくる。 ダンボールに新聞紙を敷き、そこに雛を横たえた。 「達哉さん、餌を」 「おう」 袋から粟だまを出す。 「雛にやる時には、温かいお湯とか、卵黄とかでふやかしてやるといいらしい」 「わかりました、すぐに持ってきます」 「口の中に入れてやらないといけないから……スポイト、は無いな」 「スプーンじゃ大きすぎるか」 「工夫します」 そう言って、キッチンへ降りていくミア。 俺は、その間にもう少し鳥の飼い方について調べることにした。 ……。 …………。 粟だまだけじゃなく、色々な餌で栄養を与えた方がいいこと。 餌は、かなりの頻度で与えなくてはならないこと。 温かくしておかないといけないこと。 そして何より、可能な限り野生に戻すべきであること。 野生動物を許可なく飼育してはいけない、なんて法律もあるらしい。 ……加えて、やはり生存させること自体が難しいようだ。 これは、大変そうだな。 「これでどうでしょう?」 割り箸の先を丸く削って作ったスプーン。 それで餌を喉の奥に入れると──雛は、警戒しながらもそれを飲み込んだ。 「食べましたっ」 たった一口、餌を食べただけで、わーいと大喜びのミア。 ミアがこんなに喜ぶとは思ってなかった。 「元気になるといいな」 俺はミアの頭に手をぽんっと載せた。 ……。 それから、二人で色々と調べ、これからどうするかを考えた。 「とにかく、元気に野生に戻れるように育てたいと思います」 「頑張れ。 時々、様子を見に来るよ」 「はいっ」 鳥籠を置くのはミアの部屋。 世話もミアが引き受けることになった。 夕食時には、俺からみんなに、ミアが小鳥を育てることを告げた。 「……ということにしたいんですが」 「分かりました」 「ミアちゃんなら、私達の中で一番家にいる時間が長いし、きっと大丈夫ね」 「ミア、頑張ってちゃんと育てるのよ」 「わたしもその雛、見たいなぁ」 ……。 …………。 みんなには、小鳥の存在はあっさり受け入れられた。 巣立つまで育てるのは大変かもしれないけど、ミアはやる気に満ちていた。 ミアは、小鳥の世話にかなりの時間を取られているはずだ。 しかし家事の手は抜いていない。 頑張ってるなあ。 「ふわあぁ」 それでも、時々あくびしているミア。 「小鳥はどう?」 「ずいぶん元気になりました」 「餌をたくさん食べるので、今でも30分とか1時間おきに餌をあげてるんです」 「夜は?」 「暗くしてあげると寝るみたいですけど……」 「朝早くから、餌をねだるように鳴き始めて起こされちゃいました」 あくびの原因はそれか。 ……でも、ミアの顔は満足げに見える。 「疲れますけど、なんて言うか、とても、その……」 「上手く言えないんですけど、かわいいんです。 雛が」 そう言って笑うミア。 「あ、そろそろ買い物に行かないと」 「俺もつき合うよ」 「そうだ、小鳥の雛、鳥籠に移さなくていいのかな?」 「いつかは移すことになると思うのですが……」 「それじゃ、鳥籠も見つくろってみるか」 「はいっ」 ミアからは、元気な声が帰ってきた。 ……。 「鳥籠は、買うなら先に買って、一度家に持って帰らないとな」 「それなりの大きさのを買いたいし」 「でも大きい鳥籠は高いのでは……」 「鳥籠の中で羽ばたく練習くらいはできないと、野生に帰れないんじゃない?」 「あっ……」 「そこまで考えてませんでした」 「……そういえばさ、ミアって自由に使えるお金持ってるの?」 「フィーナはそれなりに持ってたみたいだけど」 「ええ、少しだけですが、頂いてます」 「餌代とか、大丈夫?」 「あ、はい、何とか」 「飼うことまで許して頂いて、そこまでお世話になるわけには」 「俺も、あまり多くは無理だけど、できるだけ手伝うからさ」 「二人で拾ったようなもんだし」 「すみません……」 「こういう時は、ありがとうの方が嬉しいな」 「そ、そうですね」 「では……ありがとうございますっ」 ぺこりと頭を下げるミア。 俺はなぜか嬉しくなって、ミアの頭を撫でてあげた。 「わわ……」 赤くなるミア。 少し照れているみたいだけど、嬉しそうだ。 ミアを撫でていると、俺まで幸せな気分になってくる。 ……。 それから俺たちは、ペットショップで大きめの鳥籠と、いろんな種類の餌を買った。 鳥籠は一度家に持って帰り、またいつもの買い物に出る。 「ミアちゃん今日もかわいいねえ」 「このトマトを食うと、きっともっとかわいくなるよ」 「あ、あの、今日はほうれん草を下さい」 「そうかい。 どれくらいだ?」 「二束、お願いします」 「そうかそうか」 ほうれん草を二束、手にとるオヤジ。 「そうだ。 トマトをひとつサービスしてやろう」 「えっ、えっ?」 ミアは混乱して、目がぐるぐるしている。 「ほらミア、御礼を」 「あ、ありがとうございますっ」 「はっはっは。 これを見るのが楽しくてな」 「トマトがだぶついてるなら、そう言って下さいよ」 ……。 「おやまあ、たっちゃんも荷物持ちが板についてきたね」 「で、ミアちゃん。 今日は何にするんだい?」 「今日はねえ、太刀魚がいいの入ってるよ」 「あ、あの……今日は、その」 「そうかい。 残念だねえ」 あの・その、だけで会話が通じているあたりがすごい。 「魚は体にいいんだからね。 たくさん食べなさいよ」 「はい、ありがとうございます」 ……。 ミアも、ただおろおろしているだけではなく、ちゃんと商店街で買い物ができるようになっている。 商店街の面々も、ミアを構い慣れていた。 ……俺が学院に行ってる間も、バイトしている間も、ミアは家にいてくれた。 そして、炊事や洗濯、掃除その他を全部やってくれていたのだ。 もちろん、商店街にもほとんど毎日足を運んでいたんだろう。 ……それに、この小さい体で一生懸命なミアの姿を見ると、誰でも応援したくなってしまう。 商店街の人たちに可愛がられるのも、当然なのかもしれない。 フィーナやミアが来る前と比べると、明らかに元気になった観葉植物。 どこにも埃が積もっていない家の中。 「あっ、そうだ」 「布団を取り込まないと」 「よいしょ、よいしょ」 「俺が持つよ、ほら」 「いつも、干してくれてたもんな」 ミアが苦労して運んでいる布団を、ひょいっと持ってやる。 「あっ」 「達哉さんだと、軽々と持てるんですね」 「まあな」 俺の掛け布団は、ふかふかで、お日様の匂いがした。 最近では、寝る時に布団からお日様の匂いを感じると、ミアのことが頭に浮かぶ。 布団を、ぽすっとベッドの上に置く。 「達哉さん、ありがとうございました」 「とっても助かりました」 「いいって。 家にいるのに、ミアが働いてるのを黙って見てる訳にも行かないし」 「でも、あまり達哉さんが張り切ってしまうと、私の仕事が無くなってしまいます」 そう言って、本当に困ったような顔をするミア。 ミアの冗談は珍しい。 「はははっ」 うちに来たばかりの頃、ずっと緊張してたミアを思い出して、思わず笑いが漏れた。 ……。 左門のバイトが終わると、いつも通り晩御飯の時間となる。 「このトマトソースの味が、なかなか自分で作っても出せなくて」 「イタリアのトマトは、水分が少なくて味が濃いからな」 「ミアちゃんがこのトラットリア左門以上の料理を作るようになったら、うちも商売あがったりだよ」 「フィーナちゃん、もしそうなった時はミアちゃんを是非うちに」 「そっ、それは困りますっ」 「そりゃ残念」 ……。 …………。 みんながほぼ食べ終わった頃。 フィーナが立ち上がり、皆に向き直った。 「明日から3日間、公用のために、少し遠方まで赴くことになりました」 「今回は少し長いこともあって、ミアにも一緒に行ってもらおうと思っています」 みんな、フィーナの話を聞いている。 学院が夏期休暇に入ってから、時々、こういった用事が入るようになった。 でも、ミアも一緒に連れて行くのは初めてだ。 「良いですか、さやか?」 「私に断らなくてもいいですよ、フィーナ様」 「ミアちゃんはフィーナ様のお付きなんですから」 「うんうん」 「でも……達哉は少し寂しそうな顔をしてないかしら?」 「えっ」 「そんなことないって、フィーナ」 「なあミア」 とミアを見ると、なぜか顔を真っ赤にして俯いている。 「うっ……」 「ふふふ、冗談よ」 「どのみち、ミアには来てもらうことになるの」 「頼むわね、ミア」 「あ、は、はいっ」 ……。 …………。 その場はそれでお開きになったけど。 よくよく考えると── ミアには三日も家を空けるのが難しい事情があった。 ……。 食べ終わって家に戻り、部屋でのんびりしている。 こんこん 「ん?」 ……がちゃ そこに立っていたのはミア。 「あの……」 「ミア、いいよ、入って」 「はい」 ミアは、少し遠慮がちに部屋に入ってきた。 悪戯が見つかった子供のように、妙に深刻そうな顔をしてる。 「……」 「どうした?」 「さっき、姫さまが仰っていたことなんですが」 さっき…… 俺が、寂しそうな顔をしてたって話か? 「いやっ、あれは、そのっ」 「?」 「フィーナが勝手に誤解したというか、いや、誤解じゃないと言えばそんな気もするんだけど、それよりああいうみんながいる場でってことにその……」 「その……」 「?」 「えと、三日間わたしも姫さまのお供をするという話なのですが」 「……!」 そっちか! 何、焦ってんだ俺! 平静を装わないと…… 落ち着け、落ち着け…… 「……ああ、例の公用でってやつね」 「ええ。 それで……」 「三日となると、あの……」 いつもに増して、歯切れが悪い。 黙って待ってやることにしよう。 ……。 「小鳥の世話をお願いしたいんですっ」 ああそうか。 ミアが悩んでたのは小鳥のことだったんだ。 ……ミアはことあるごとに、住まわせてもらっている立場で生き物を拾うなんて、と言っていた。 その遠慮は、まだ続いていたらしい。 「いいよ」 「三日でも四日でも、どーんと任せとけ」 「本当ですか?」 「ああ」 「ありがとうございますっ」 俺に抱きつかんばかりの勢いで喜ぶミア。 「鳥籠、こっちの部屋に持ってこようか?」 「あっ、えーと、どうしましょう」 「朝早く起こされちゃいますけど」 「いいよ、それくらいなら」 「餌をあげるタイミングとか、量とか、今どう世話してるか教えてもらわないとな」 「はいっ」 ……。 …………。 それからミアに世話の仕方を教えてもらい── 翌日、フィーナとミアは出かけて行った。 ……。 それから3日、俺が小鳥を世話した。 ミアに教わった通りに、ひとつひとつ。 餌やり。 水やり。 新聞紙の交換。 温度管理。 この小鳥は、ミアからの大切な預かり物だ。 間違っても、俺が預かってる間に、小鳥を病気にしたりしちゃいけない。 そう思って、慎重に餌をやったりしていると…… 3日が過ぎて、フィーナとミアが帰ってきた。 ……。 「ただいま戻りました」 「ただいま戻りましたっ」 「おかえり」 「小鳥は、元気ですかっ?」 「ああ、元気だ」 「ミアは小鳥にご執心ね」 「出かけていた先でも、何度も小鳥の話を聞かされたわ」 「あっ、姫さま、それは内緒に……」 「心配しなくても、ちゃんと世話しといたから」 「任せとけって言ったろ?」 ミアの顔が、ぱあっと明るくなる。 「達哉さん、ありがとうございました」 ぺこり、と頭を下げるミア。 ……。 「フィーナ様、ミアちゃん、おかえりなさい」 「おかえりなさーい!」 「ただいま、さやか、麻衣」 「ただいま戻りました」 ……。 フィーナの荷物を部屋に運び終え、みんなでお茶を飲む。 フィーナが、今回の公用について、大まかに説明している。 しかし、ミアだけは、少しもじもじしていた。 「ミア、どうしたの?」 「……あの、姫さま」 「小鳥を見に行ってもいいですか?」 「ええ、行ってらっしゃい」 「よほど気になるのね……ふふふ」 「お兄ちゃんの部屋にいるよ」 「羽毛も、ずいぶん生え揃ってきたわね」 「そ、そうなんですかっ!?」 みんなが、ミアに、早く小鳥を見に行くことを勧めた。 ……。 …………。 しかしミアが俺の顔をじっと見ている。 「?」 「あの……」 そっか。 今は小鳥は俺の部屋にいるんだ。 「じゃ、ミアに小鳥見せて来る」 「はいはい」 俺の部屋で、三日ぶりに小鳥と対面したミアは、子供のように喜んでいた。 ……。 …………。 夏休みに入ってからは、俺や麻衣もある程度家事を分担できるようになった。 その分、少しだけ余裕ができたミア。 その余裕で、家のあちこちにある汚れを落とし始めた。 「ふう」 キッチンの換気扇の汚れ。 一階の廊下の壁についてた汚れ。 そういったものが、次々と綺麗になっていった。 「わあ、換気扇がぴかぴかだよ!」 「ミアちゃん、ありがとー」 「わっ、わわわーっ」 麻衣は、ミアの腰に抱きつき、そのまま持ち上げてくるくる回った。 ……。 「あら、この汚れが落ちるなんて」 「新製品の、強力洗剤を使ってみました」 「偉いわねー」 「ふわわぁ……」 姉さんは、ミアの頭を撫でまくる。 ……。 「あ、ここ……」 「頑張ってこすったら落ちました」 「……懐かしいな」 「懐かしい?」 「ここにあった汚れって、まだ子供だったアラビアータがつけたんだ」 「まだ躾ける前でさ」 「アラビアータもまだほんの子供だったし、あの頃はやんちゃだったなぁ」 「家に入れたのは俺だったし、汚れも落ちないし、ずいぶん落ち込んだっけ」 「そうだったんですか……」 あの頃のことを、少しの間思い出す。 母親に怒られたような気もするが、あまり印象に残っていない。 もう姉さんはうちに住んでたっけ?アラビアータは今よりずっと小さくて、足も短かった。 今ではイタリアンズの中でも一番の親分面をしてるけど、あの頃は今のカルボナーラと変わらない。 ……。 「あの、達哉さん」 「そろそろ、イタリアンズを散歩に連れて行く時間ですよね」 「ん、そうだな」 「今日は、わたしも一緒に行っていいですか?」 「もちろん」 「一応、着替えた方がいいかもね」 「なんなら、リードも持ってみる?」 「はいっ」 ……。 …………。 「わわわーっ!」 大喜びのイタリアンズに引っ張られ、あっと言う間に川原の方へ引きずられていくミア。 ……いつだったか、フィーナでもこんな場面を見たような気がする。 新しい人との散歩は、犬たちにとって刺激的なことらしい。 ……。 …………。 物見の丘公園でしばらく三匹を放してやり、頃合いを見て集合させ、帰途につく。 「びっくりしました」 「ミアは軽そうだから、こいつらも引っ張りやすかったのかもな」 「走り始めたと思ったら、あっと言う間に見えなくなっちゃったし」 「教えておいて下さいよ~」 「わん」 新しい人との散歩に満足したように、ペペロンチーノが尻尾を振った。 「無事、帰って来れたな」 「良かったです……」 「紐を放さないようにするのが精一杯でした」 「もし放しちゃっても、こいつらは家に帰れるけどね」 「えっ、そうなんですか?」 「ああ」 「帰り道だって、引っ張られるままに歩いてたらここまで来たろ?」 「そういえば……」 「わたし、絶対に紐を放しちゃいけないものだとばかり思っていました」 「どこかに逃げて行っちゃったら、二度と帰って来ないものだと……」 「そういう気持ちが通じるのかなぁ」 「?」 「リードを持つ人が初めてだと、走りたがるんだよね。 こいつら」 「むー」 「わふ?」 何のこと? と言わんばかりにカルボナーラが首をかしげる。 アラビアータは、終始我関せず。 三匹を小屋につなぐ。 「ふう」 「お疲れ様、ミア」 「今度からミアひとりでも散歩に行ってみる?」 冗談のつもりで言う。 「あ、はいっ」 「もしまた散歩をさせて頂けるなら、是非お願いします」 「皆さんお忙しいですし、わたしが散歩に行ければいいですよね」 ……予想外に気合が入った返事だ。 ミアはきっと、犬の散歩もできるようになれば、俺たちが嬉しいんだと思ってるのだろう。 もちろん筆頭はフィーナだろうけど、俺たち、周りにいる人に認められること──俺たちの役に立って、褒めてもらうこと──ミアの仕事で、俺たちが喜ぶこと。 ……それが、ミアにとって一番嬉しいことなんだ。 「ええと、そういうつもりじゃなくてさ」 「俺も犬の散歩は好きだから、時間があれば行きたいし」 「ミアも犬の散歩が好きになってくれたらいいなっていうか」 ……。 「ミアがさ、犬を飼いたくなって欲しい……って、これはちょっと話が飛びすぎだけど」 「ミア自身が、犬を好きになってくれたら嬉しいな」 「……」 ミアは、すぐに笑顔になった。 「わかりました。 そうですね」 「でも……」 「でも?」 「わたしが引きずられそうな時は、助けて下さいね」 「おん」 俺より先に、もう引きずらないよという顔をしたアラビアータが吠える。 「……はは、分かった。 任せといてくれ」 「よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げるミア。 俺とミアは、遊び終えて満足げなイタリアンズの頭を一匹ずつ撫でて、家に入った。 ……本当は、一番撫でたいのはミアの頭だったんだけど。 ……。 その日の晩、部屋の窓から外を見ていると、フィーナが大使館から車で送られてきた。 いつの間にか、また大使館に行っていたらしい。 「……ではフィーナ様、よろしくお願いします」 「ええ」 「分かっています」 「結局、お忙しくなってしまって、申し訳ございません」 「カレンが悪いわけじゃないわ」 ……また仕事かな。 「それでは、失礼致します」 「お疲れ様」 カレンさんは、車に乗って帰っていく。 ……。 「また、公用で遠出することになったの」 「こう続くと、大変ですね」 「仕方無いわ」 「また、三日の予定よ」 「ミアは今回もお願いね」 「はい」 そう返事をしたミアが、俺の方を見る。 「分かってるよ。 小鳥だろ」 「大船に乗ったつもりで行ってきてくれよ」 「すみません、達哉さん」 「でもお兄ちゃん、そろそろ飛べるんじゃない?」 「羽も生え揃ってきたし」 「そうかもしれない」 「最近は、籠の外に出たそうにしてます」 「籠をくちばしで突ついたりしてるんです」 「今更だけどさ、ミア」 「小鳥に名前つけてやろうぜ」 「そだね」 「あ……考えたこともありませんでした」 「それなら……」 「明日から、フィーナ様のお供で出かけている間の宿題にしたらどうかしら」 「宿題?」 「確かに、名前をつけるのはミアの役割だよな」 「楽しみだね」 「頑張りなさいよ、ミア」 「はうぅぅ」 ……。 翌日早朝。 二人は迎えに来たカレンさんと一緒に、大使館の車に乗って出かけて行った。 ミアは、出発直前も宿題に頭を悩ませていた。 ……昨晩は、トラットリア左門で盛大に麻衣の誕生日を祝った。 まだ、その余韻が残っている朝。 家の前で、車が止まる音がした。 ……。 「ただいま戻りました」 「戻りましたー」 リビングで、みんなが二人を迎える。 「お疲れ様でした」 「お疲れさまー」 「今、お茶淹れるね」 「あの、わたしがやります」 「帰ってきたばかりなんだから、ソファで休んでてよ」 「あら、ミアちゃん」 「そう言えば、宿題があったと思うんだけど……どう?」 「ええ、ちゃんとできてるわよ」 「ね、ミア?」 「あ、は、はい……一応」 「一応、ということはないわ」 「私はいい名前だと思うもの」 「さあ、堂々と、皆さんに教えて差し上げなさい」 「は、はいっ」 「どきどき」 「えっと、あの、『チコ』という名前はどうでしょうか」 「チコ、か」 「月のクレーターから取った名前ね?」 「はい」 「いい名前だと思うわ」 「かわいいし」 「うん、俺もいい名前だと思う」 「では、これで決まりね」 フィーナが、ミアの背中をぽんと叩く。 「はいっ」 ……。 「それで、チコは変わりないの、達哉?」 「……じ、実は」 「なっ、なんですかっ?」 「実は……」 「もう少しで飛べそうなんだ」 「ええっ、すごいです!」 「もう、達哉。 びっくりさせないで」 「早く、見せて下さいよう」 ……。 今度は、俺が鳥籠をリビングに持ってきた。 「飛べそう、というのは……?」 「ほら、この二本の止まり木の間を、ばさばさ飛んで移動するんだ」 ……。 「……動きませんね」 「みんなで見てるから、緊張してるのよ。 きっと」 「でも……」 「この籠に入れたままで、飛べるようになるのかな」 「確かに……」 「でも、籠の外に出すと、家中フンだらけになってしまいます」 「庭では駄目なのかしら」 「イタリアンズは大丈夫だと思うんだけど、野良猫もいるしなぁ」 「困ったわねえ」 「あっ」 「チコが籠を噛んでます」 「きっと、外に出たいんだよ」 「そう見えるわね」 ……。 少し、重い空気が漂う。 そこに。 「分かりました」 「チコは、家の中を自由に飛んでいいことにしましょうか」 さらりと言う姉さん。 「いいの?」 「フンが家中に……」 「でも、飛べないのはかわいそうよ」 「ちゃんと掃除すれば大丈夫じゃない?」 「ミア、どうかしら?」 「え、あの……」 「それでしたら、最初は試しにわたしの部屋でだけということで……どうでしょうか」 「なるほど」 「それで大丈夫そうだったら、家の中で飛んでもらおうね」 「ちゃんと窓は閉め切ってな」 「はい、わかりました」 ……。 …………。 「では、開けますよ」 「おっけー」 みんなが見に来たがったが、屋根裏部屋に5人も集まったら、チコが飛ぶ空間が無くなってしまう。 ぶーぶー言われながらも、チコが初めて飛ぶ瞬間は俺とミアで立ち会うことになった。 「えいっ」 ……。 …………。 ………………。 「出てこないな」 「出てきませんね」 「怖がってるのかな」 「……それとも、まだ飛べないとか」 「餌で、外に誘い出せないでしょうか?」 「やってみるか」 とりあえず、餌が入った箱を外に出して、籠の口を開けておく。 「水も出しましょう」 「そうだな」 水も外に出す。 ……これでもう、籠の中に、チコが口にできるものは無くなったはずだ。 「出てくるでしょうか……」 「気長に待とう」 ……。 …………。 チコに動く気配は無い。 ……。 「……この籠の底って、とれないのかな」 ぱかっ「あっ」 鳥籠の下の部分が、丸ごと外れた。 ばささっチコが止まり木から床に降りる。 キョロキョロと俺たちを交互に見上げた後……餌箱に向かって、ぴょんぴょん跳ねた。 「とりあえず、籠からは出たけど」 「飛びませんね」 俺が手を近づけると、ぴょんぴょんと跳ねて逃げる。 時々ばさばさと羽ばたくものの、飛ぶ気配は無い。 「まだ飛べないのかな……」 「一度、籠の中に戻して、調べ直しましょう」 「そうするか」 ……。 …………。 苦労してチコを籠に戻し、調べてみると──「親が雛の前で羽ばたいてみせる鳥がいるそうです!」 「チコには親はいないんだぞ」 「となると、親代わりの……」 ……。 「俺たちが、やるのか?」 「えっと……」 「でも、やらないとチコは飛べなくなってしまうかもしれません」 「俺たちだって飛べないのに、見本になれるのか?」 「そうですね……」 考え込む二人。 「羽ばたくだけ……とか、でしょうか?」 「やっぱりそうか」 「しょうがない、やるか……」 ……。 …………。 「ど、どうぞ、達哉さん」 「ミアからやってくれよ」 「ほら、チコの近くにずっといたし、母親代わりだしさ」 「やっぱりこういう逞しさが必要なものは、父親役ではないでしょうか」 「チコは、ミアの言うことを一番聞くんだから、まずミアに」 「……わかりました」 「でも、鳥の真似をしたことは無いので……」 「笑わないで下さいね」 「ああ、笑わない」 ……。 「ぱたぱたぱた~」 ……。 「ぱたぱたぱた~」 口で羽ばたきの音を発しながら、狭い部屋を端から端へと走り回るミア。 俺は、笑いをこらえるのに必死だ。 ……。 「ぱたぱたっ、ぱたぱたっ」 ……。 「……ど、どうでしたか?」 「じっと見てはいたけど……」 「勉強してるのか、変な奴を見て面白がってるのか、分からない」 「むー」 「……では、次は達哉さんの番です」 「やっぱり、俺もやるのか」 「もちろんです」 ミアの声に背中を押されて、俺も羽ばたいて見せる。 効果はあるのかな。 ぱたぱたと少し腕を動かしては、チコを見る。 ぱたぱた。 ぱたぱた。 「こんなもんでいいのか?」 「くすくす……ちゃんとチコも真似してますよ」 「もう一頑張りです」 ぱたぱた。 「交代しますね」 ぱたぱた。 ぱたぱた。 「よし、次は俺だ」 ぱたぱた。 「お兄ちゃん……ファイト!」 「頑張って」 「もう一息よ」 いつの間にか、みんなも応援に来ていた。 ……。 俺とミアは、交代で何度も羽ばたいて見せた。 チコも羽を動かし、ぴょんぴょんとジャンプしていた。 飛べるように……なるといいけど。 それからも、折りを見てチコの飛行訓練は続いていた。 最初は飛び跳ねていただけだったチコも、次第に低空飛行するようになり──部屋の中だけなら、どこにでも飛び乗れるようになった。 「わわっ」 ミアの肩がお気に入りのチコ。 まずミアの肩に飛び乗り、そこからまた飛ぶ。 それを繰り返しているうちに、ずいぶん羽ばたくのも上手くなった。 ……俺がミアの部屋に行くと、今度は俺の肩にも乗ってくる。 チコはずいぶん人懐こい。 「それでも、寝る時だけは籠の中に自分で戻るんですよ」 「じゃあこの中がチコの寝室か」 「くすくす……そうですね」 餌も全て自分で食べられるようになった。 落ちるように飛んでいたのも、いつの間にか空中で留まれるほどになっている。 ……巣立ちも近いのかな。 「雛の成長って早いですね」 「ああ」 「本当だな」 チコは、ミアの部屋の中を自由に飛び回れるようになっていた。 窓の外にも興味津々の様子。 「……そろそろ、巣立ちかな」 「ええ……そうですね」 「雛だって、いつか羽も生え揃い、自分の力で飛ばなくちゃいけない日が来るんですよね」 「ああ」 「それも、誰に強制されるでもなく、自分の決断でな」 ……。 「姫さまも……」 「いつか、ご自分で飛び立たれる日が来るんでしょうね」 「ん?」 「いえ、なんでもありません」 ミアは、独り言をすっぱりと打ち切った。 「……巣立ちはどこにしましょうか?」 「やっぱり自然の多そうな物見の丘公園ですか?」 「あ、ああ。 それがいいと思う」 「あそこなら、野鳥仲間もたくさんたくさん居そうですもんね」 ……。 もう一度チコを籠に入れ、俺とミアは物見の丘公園に行くことにした。 人は多くない方がいいだろうと、二人で向かう。 他のみんなは、名残惜しそうにチコを肩に載せたりしていた。 ……。 俺とミアは、まず木々の中に餌を撒いてみた。 そしてそのまま、じっと待つ。 「来るでしょうか?」 「じっと待とう」 ……。 すると、しばらくして、チコに似た鳥がぱらぱらと集まってきた。 「チコは、仲間に入れてもらえるかな」 「では……出してみましょうか」 鳥籠の口を開ける。 籠の外がいつもと違うのに戸惑ったのか、チコは籠の出入り口から、外をキョロキョロと眺めている。 「ほら、行けっ」 「あそこにいるのは、チコの仲間なんだよー」 ……。 …………。 ぴょんチコが、籠を出た。 ぴょんぴょん餌を撒いてあるところまで何度か飛ぶ。 ……最初は、少し警戒していたようだったけど。 しばらくすると、集まっていた鳥たちと一緒に餌をついばみ始めた。 ……。 …………。 俺とミアは、しばらくその光景を眺めていた。 遠くから見ているので、そのうち、どれがチコか分からなくなる。 「ミア、帰ろう」 「……そ、そうですね……」 少し涙声のミア。 俺は、その頭をゆっくりと、何度も撫でた。 「これが一番いいんだよ」 「チコにとってもね」 「……ぐす……は、はい」 「そうですよね」 少し無理に、笑顔を作って見せるミア。 「元は、野生の鳥ですもんね……」 「ああ」 「でも、あの商店街でチコを見つけた時……」 「ミアが拾わなかったら、チコはきっと、今ここでこうしてることは無かったよ」 「はい」 「だから」 「チコの巣立ちを祝ってやろう」 「ええ、そう……なんですけど」 「涙が……おかしいですね……」 「よ、喜ばなくちゃいけないのに……」 そう言えば言うほど、ぽろぽろと玉のような涙が瞼から溢れ出る。 「ミア……」 俺は、そんなミアがとても可愛く見えて──撫でていた手で頭を抱き寄せた。 ……。 …………。 頭は思ってたより小さく、肩も細いミア。 しばらくそのまま、細い肩を震わせ、静かに泣き続けていた。 ……。 俺も初めて飼った犬が死んだ時は、かなり泣いたっけ。 こういう時は、泣きたいだけ泣くしかない。 俺は、ミアが気の済むまで、胸を貸してやることにした。 ……。 自分の仕事に一生懸命で、フィーナのためには、時に人一倍の責任感を見せるミア。 そして、今俺の腕の中で泣いてるのも、また同じミアだ。 今のミアの方が、年相応と言えるかもしれない。 ……ということは。 普段のミアは、精一杯背伸びして、頑張っているに違いない。 増してや、これまで居たのは月王国の王宮だ。 死ぬ気で頑張らないと、今の立場にはなれなかっただろう。 ……もちろん、ミアは努力を苦に思ってるわけではなさそうだ。 でも、ミアには。 時々、こうして自分の感情を素直に出せる場所があってもいいんじゃないか。 そう思う。 そして──今、俺がその場所になっていることに、少し嬉しさを感じている。 ミアの、力になりたい。 ミアが……笑顔で、時には泣き顔でもいい。 素直でいられるように。 ……。 …………。 ミアの背中を、ゆっくり、優しく、さすり続け──たっぷり10分以上経った後。 ……やっとミアが顔を上げた。 「ぐすっ……すみません、達哉さん」 「服の胸のところを濡らしてしまいました……」 「いいんだ、俺がミアを……その……」 「……抱き寄せたんだから」 「……あ……」 さっきまでの二人の体勢を思い出す。 傍から見たら、抱き合ってるように見えただろう。 しかも人気のない公園の植え込みの影で。 ……ミアも思い出したのか、真っ赤になって縮こまっている。 「じゃ、じゃあ、帰ろうか」 「あ……はい……」 「ああ」 朝早く、餌をねだる鳴き声に起こされたこと。 チコが何度も乗ってきた肩に、わずかに残る感触。 ……そんなことを思い出しながら、ミアと二人で家路に就いた。 ミアの顔の赤みは、その間もずっと引かなかった。 ……。 …………。 「ただいまー」 「ただいま戻りました」 俺とミアが、空の鳥籠を持って、家に帰る。 「これも、いらなくなっちゃうな」 「そうですね」 「お帰り、お兄ちゃん」 「……その鳥籠、使うかも」 「何に?」 「あらあら……」 姉さんが、そろりそろりと歩いてくる。 そして自らの肩を指さし──「これ……チコよね?」 「あっ」 「ええっ、な、なんで?」 「二人が出て行った後、ミアの部屋の掃除を始めたのよ」 「それで丸窓を開けていたら……」 「そこから、チコが入ってきたわ」 「窓から自分で出て行ったり、また戻ってきたり」 「この家全部が巣だと思ってるみたい」 「さっきから、誰かの頭や肩にずっと止まってるの」 「籠が無いから、自分の場所を探してるんだと思うんだけど……」 「じゃ、籠、開けてみますね」 「ええと、これでいいんですか?」 ミアが籠の出入り口を開ける。 ……と。 ばささっチコは自ら籠の中に戻った。 「困ったチコですね」 そう言いながらも、ミアの顔は、抑えきれない嬉しさが滲み出ていた。 みんなも、そんなミアとチコを温かく見つめていた。 ……。 とりあえず、チコに餌と水を用意するのはやめることにした。 自由に家を出入りできるのだから、うちに戻ってきたとは言え、餌くらいは自分で探すべきだ。 籠は引き続きミアの部屋。 出入りは基本的に丸窓から。 「肩に乗るのが好きなのは、変わらないみたいだな」 「そうですね」 「最近は、頭の上に乗ることもあるんですよ」 ぱたぱたチコが、俺の肩から頭の上に乗る。 「わ、本当だ」 「……でも、こんなに人に慣れちゃって、大丈夫なのかな」 「昼間はほとんど外にいるんですよ」 「餌も自分でちゃんと食べてるみたいですし、多分大丈夫なんじゃないでしょうか」 ばささっミアの言うことが分かるかのように、チコは丸窓から外に出ていく。 「じゃあ、チコの世話も少なくなって、ミアは寂しいんじゃないか?」 「くすくす……そうかもしれません」 餌箱も、水箱も、今では鳥籠の中には無い。 「でも、いつかはチコだって巣立っていくんですから……」 「今は、本当はもうチコがいなくなってるはずだと考えれば、お得な期間ですよね」 「そういう考え方もあるか」 「ぱっ、と目の前からいなくなって、二度と会えないと思っていましたから」 ……。 にこにこと笑っているミア。 ……。 とくん。 ……。 …………。 そんなミアを見ていて……ふと、忘れていたことを思い出した。 思い出すと、胸の苦しさを感じる。 ……ミアも、この家を出て行く時が来る。 その時には、ミアこそ、ぱっと目の前からいなくなってしまうのではないだろうか。 帰る先を考えると……二度と会えない気さえする。 ……。 「どうかされましたか、達哉さん?」 「あ」 「い、いや、何でもないよ」 「?」 「それでは、わたしはお掃除しますね」 「俺も、部屋に戻るよ」 ……。 …………。 ……。 とくん。 ……。 …………。 ミアが月に帰る。 当たり前のことだ。 俺は、そんな当たり前のことに動揺している自分に戸惑っていた。 何でこんなに……喉の奥が詰まるような気分になるんだろう。 ……。 ぼすっベッドに横たわる。 ……。 ミアはフィーナ専属の、身の回りの世話係。 フィーナは、月王国の王族の一人娘。 フィーナが月に帰るのは当たり前だし、それは疑う余地が無い。 ミアも……間違いなく、フィーナと一緒に月に帰るだろう。 それは、今更考えても仕方のないことだ。 きっと。 ……。 …………。 ……。 …………。 ええい!ベッドに寝転がったままで、もやもやしてても仕方無い。 左門でのバイトまでは時間もある。 イタリアンズの散歩で汗でもかいて、シャワーをあびよう。 そうすれば、少しはさっぱりするはずだ。 しかしそこには。 俺より先にミアが来ていた。 「あ、達哉さん」 「洗濯が終わったので、イタリアンズの散歩に行こうかなと思っていたのですが……」 「もしかして、今、行こうとしてましたか?」 ……。 「ちょうどいいや」 「聞きたいことがあってさ」 「聞きたいこと、ですか?」 「……時間があるなら、一緒に行こうぜ」 「はいっ」 「着替えてきますので、少しお待ち頂けますか?」 ……。 「あれっ、ミアちゃんか。 健康的な脚だねえ。 なはは」 「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ」 「犬の散歩だね。 気をつけるんだよ」 「はいっ、ありがとうございます」 ……ミアは、相変わらず商店街の人気者だ。 最初に来た時の緊張っぷりを思い出すと、一緒に過ごした日々の重みを知る。 たった数ヶ月前の話のはずなんだけど。 「あのさ、ミア」 ミアに、問いかけようとする。 ……しかし、何から聞けばいいのか、分からない。 「あっ、そう言えば『聞きたいこと』があると仰ってましたね」 「あ、ああ……」 「えーと、その、さ」 頭をフル回転させて、何とか質問を捻り出す。 直接的にならず、でも、聞きたいことに近づいていく足掛かりになりそうな質問を……。 「……フィーナって、いつまでこっちにいるんだろう?」 「姫さまですか?」 ミアが少し首をかしげる。 知らないのではなく、きっと、言っていい情報か、言っていい相手かを考えているのだろう。 「まだ正式には決まっていないらしいのですが、今月一杯くらいになりそうだと仰ってました」 「非公式のレセプションが予想以上に多いみたいですよ」 「その他にも……」 ……。 …………。 後半はあまり耳に入っていなかった。 今月一杯。 あと3週間あまり。 それで、フィーナは月に帰ることになるという。 「ミアも一緒に月に帰るんだよな?」 ……とは聞けなかった。 聞くまでもない。 ……。 「わふわふっわふっわふっ」 「わんわんっ」 「おん」 いつも通り、三匹のリードを放してやる。 「達哉さんは、イタリアンズを放した後、どうやって呼び戻してるんですか?」 「口笛を吹いたりもするけど、いつもは一匹を呼ぶとみんな戻って来るんだ」 「今日の帰りもやるから、見てなよ」 「はい」 「……わたしにも、できるでしょうか?」 「何度か練習すれば、きっとできるよ」 「わかりました」 「頑張りますね」 ……。 何度か練習すれば。 ミアは、この先何度イタリアンズの散歩に来るだろう。 そして、もし今日すぐに犬を呼び集められるようになったとしても。 あと3週間しか、そのワザを使うことはできないのだ。 ……。 …………。 結局、またもやもやしている自分に気づく。 なんなんだ、このもやもやは。 「ミアってさ、地球に旅行に来たりできるの?」 「ええっ、わたしですか?」 「わたしではとても無理です」 「そっか」 「そりゃそうだよな……」 月と地球の間を行き来するのがそんなに気安いものじゃないのは知ってたはずなのに。 何故か、ミアに聞いてしまいたくなった。 「……もしかしたら、姫さまが次に地球に来る時に、そのお供にさせてもらえるかもしれません」 「でも、姫さまが次に地球に来るのがいつになるかは分かりませんし……」 「その時に、わたしがお供に必ず選ばれるとも限らないです」 「んー」 「じゃあさ、ミアはもしかしたら……」 「あと何日かの思い出が、最後の地球の記憶になるかもしれないんだな」 「……はい」 「そうなりますよね」 ……。 何か、ミアに言わなくちゃいけないことがあるような気がするんだ。 「じゃあ、残りの二、三週間は、悔いの残らないように過ごさないとな」 「ええ、そうですね」 「チコがちゃんと巣立ちしてほしいし、イタリアンズを呼び集める方法も覚えたいし」 「それに、家の中にまだ何ヶ所か、掃除しきれてないところもあるんです」 「オーブンの中に、二階のベランダ、あとは下駄箱に……」 ……。 俺がミアに言いたいことは、まだ言えてない気がする。 「ミアやフィーナがいなくなると、少し寂しくなるな」 「そうですか?」 「ほら、今使ってるダイニングのテーブルも3人で使うわけだし」 「……今は、賑やかですよね」 「ああ」 ……。 …………。 違う。 寂しいとか、そういうんじゃなくて。 ……いや、違わないんだけど。 それじゃ、もう会えなかったり別れたりするのが前提になってしまっている。 ……。 …………。 もっと、ミアと一緒にいたい。 そう伝えたいんだ。 ……。 「あのさ、ミア」 「達哉さん」 「ん?」 「イタリアンズの呼び方、教えてくれませんか?」 ……。 「あ、ああ」 「えっと、こうして……」 ミアに、呼び方を教えようとした時。 「わふ」 「わん」 「おん」 呼ぶよりも先に、三匹とも近くに戻ってきてしまった。 三匹ともいつになくおとなしく、尻尾を振って待っている。 「……これでは、練習にならないですね」 「そうだな」 「じゃ、また今度かな」 「でも……」 「もう、あまり時間が」 「わたしが散歩に来るのだって、あと何回……だろうって思うと」 ……。 ミアも。 やっぱり同じことを考えていたんだ。 「大丈夫だって」 「まだまだ時間はあるさ」 「何度だって、散歩に来ればいいじゃないか!」 「わふっわふわふっわふっ」 「きゃっ」 カルボナーラがミアにじゃれついた弾みで──ミアは、芝生の上にぺたんとしりもちをついた。 「こら、カルボナーラ」 ころころと転がったミアの帽子を拾いながら、カルボナーラを叱る。 「そろそろお前も、全力で甘えちゃ駄目な相手くらい分かれよなぁ」 「ほら、ミア」 「あ、す、すみません」 ミアに手を貸してやり、立たせてあげる。 「こう見えても、カルボナーラはまだ子供だからさ」 「今みたいにじゃれてくるんだ。 気をつけて」 「は……はい」 ミアの頭を撫でてやる。 ゆっくり。 何度も。 ……。 「帽子、被らないとな」 ぽん、とミアの頭に帽子を載せる。 「ありがとうございます」 ……。 ミアの目をじっと見つめる。 ミアも、俺をじっと見つめていた。 「ミアと、もっと一緒にいたい」 「もっともっと、ずうっと一緒にいられたらいいのに」 「た、達哉さん……」 俺の言ったことを反芻するかのように、じっとこちらを見つめているミア。 「あの……」 「それって」 赤くなったり目を回したり、ミアの表情が目まぐるしく変わる。 それだけでなく、チコに羽ばたきを教えた時のように、手までばたばたし始めた。 「えええええええっ!」 「ミア?」 「あっ、あのっ、そのっ」 「す……少し、考えさせて下さいっっっ!」 ……。 …………。 追う間もなく、ミアは全速力で走り去って行った。 「おん」 犬たちは、呑気に俺を見上げている。 「よっ」 俺は、もう一度芝生に寝転がった。 フィーナが帰る時にミアがどうなるのか、そして俺がミアをどう思ってるか。 もう一度頭の中で整理しなくちゃいけないことは、たくさんありそうだった。 しばらくしてから家に帰ると、ミアはいなかった。 その後はすぐバイトに出る。 閉店した後に、みんなで揃っての夕食時には、ずっと俯いたまま。 ……。 俺が公園で「一緒にいたい」 と伝えたから、ああなってるとしか思えないけど……そんなに態度に出るほど、大層なことを言ったつもりは無かったのに。 「ごちそうさまでした」 「おう」 「暑い季節にぴったり! の冷製スパゲッティはどうだったかね?」 「少し水っぽいというか……アイディアは良かったと思うんですけど」 「少し水っぽい……と」 何やらメモに残している仁さん。 「ミアちゃんは?」 「えっ、あの、その……」 ……。 「すみません、デザートの話でしたっけ?」 「……今日はミアちゃん、ずっとそんな感じだね」 「心ここにあらず、上の空、女心と秋の空」 「最後はおかしいんじゃない、仁くん?」 「そう?」 「……ごめんなさい、失礼しますっ」 ぱたぱたと走り去っていくミア。 ……。 …………。 夜、シャワーを浴びた後に冷たい麦茶を飲んでいると、フィーナから声が掛かった。 「達哉」 「……うん」 「今日はずっと、ミアの調子がおかしいようだけど……心当たりはある?」 「ああ」 「フィーナは、まだ話を聞いてない?」 「ええ」 「それに、一日くらいなら……無理に聞き出すよりも、本人の判断に任せようと思って」 「そっか」 「心配は要らないのよね?」 フィーナは、念を押すように俺に聞いてくる。 俺は、一瞬考えた後、頷く。 「ああ。 それに、もしフィーナの助けが必要になったら、ちゃんと声を掛けるから」 「……分かったわ」 「ミアのこと、よろしくお願いね」 くるりと踵を返し、一人部屋に戻っていくフィーナ。 いつもなら、ここでミアも一緒に部屋に入り、髪の手入れをしていたはずだ。 心遣い……か。 昼はあまりしっかり考えていなかったので、これからのことについて考えてみる。 フィーナが月に帰る。 ミアも一緒に月に帰る。 基本はこれだけだ。 でも、俺はミアと一緒にいたい。 ……俺も、フィーナ達と一緒に月に行くか?いや。 それは難しいだろう。 はっきり言って、不可能だ。 姉さんのように、学者の卵のような状態で留学に行くことはできるかもしれない。 でも、一介の学生の身分では……。 せめて、満弦ヶ崎大学にでも入っていないと無理だろう。 ……。 将来のことを考えていても仕方無い。 ミアは、もうすぐ月に帰ってしまうのだ。 ……。 姉さんに頭を撫でられてきたせいか、俺も、ミアの頭を撫でることが何度かあった。 その度に、何とも言えない幸せな気分になってくる。 撫でられているミアも嬉しそうだった。 ……。 ミアが一人で色々頑張っている姿を見てきた。 ちっちゃい体で、一生懸命。 例えば買い物。 5人分の材料を買おうとすれば、荷物は多くなる。 それを、頑張って一人で抱えるミア。 ふらふらと商店街を歩くミア。 手伝ってあげたい。 支えてあげたいと思うのは、自然なことだろう。 男として、あまりに重い荷物は持ってあげるべきだと思うし。 ホームステイで来たお客さんに、家事の大部分をやってもらっている後ろめたさもある。 ……。 …………。 でも、ミアはフィーナ付きのメイドだ。 王族付きのメイドという立場は、きっと、かなりすごい立場に違いない。 王族からの信頼、長年の実績、怪しくない氏素性。 そう簡単に、辞めますとか、捨てますといえるような、軽々しいものではないような気がする。 フィーナの責任問題になる可能性すらあるかもしれない。 少なくとも、月の王宮にいるというミアの母親の立場は、確実に悪くなるだろう。 ……。 そして何より。 ミアは、フィーナのメイドでいることが、とても楽しそうだ。 ミアは、フィーナを尊敬している。 そして、姫さま、姫さま、と慕っている。 フィーナにしても、月から留学してくる時に、たった一人だけ選んだ随行員だ。 ミアは、何につけても、自分のことよりフィーナを優先させている。 誰かに仕事が認められれば嬉しそうだが、一番嬉しいのは、やはりフィーナに褒められた時だ。 ……。 そのフィーナが月に帰る。 そんな時に。 俺がミアに「残ってほしい」 なんて言ったら。 ……。 普通なら、「無理です」 と即答だろう。 しかし、ミアはまだ答えを出していない。 即答しないということは……。 ……。 ミアは、もしかしたら、俺のことを好きなのかもしれない。 そして。 俺は、ミアのことを……。 ……。 目が覚めると、部屋の中が明るい。 それも、太陽の光ではなく、蛍光灯の光で。 ……。 久し振りに、電気をつけっぱなしで寝てしまった。 子供の頃は、よくこれをやって母さんに呆れられていたものだ。 ……こういう日は、いまいち疲れが取れていない。 昨日の夜は……ミアとのことを考えていたんだっけ。 散歩から帰ってきて、その後ずっと考え事に気を取られていたミア。 今日は、調子は良くなっただろうか。 「おはようございます」 「おはよ、お兄ちゃん」 「……あれ、麻衣だけ?」 「うん」 「お兄ちゃんが早いんだと思うよ」 「まだ朝御飯作り始めてないもん」 ……時計を見ると、確かに早い時間だ。 何か焦ってるのかな、俺。 ……。 …………。 それから姉さんとフィーナが起きて来た。 ……いつもは最初か二番目に起きてくるミアが、まだテーブルに着いていない。 「おはようございます~」 「お姉ちゃん、お茶淹れるから待っててね」 「ああ、お茶なら俺が淹れとくよ」 「じゃあお兄ちゃん、お願いね」 姉さん用に渋いお茶を淹れる。 「ありがとう、達哉くん」 ……いつも通りの朝。 俺は、さりげなくフィーナに尋ねてみる。 「フィーナ」 「ミアって、どうしてるのかな」 「……昨日は、ずいぶん遅くまで部屋で起きていたみたいよ」 「今朝は、そっとしておきましょう」 「そっか」 ……。 そのまま、朝食の席にミアは現れなかった。 悩んでるのだとしたら、俺のせいでもある。 俺は、ミアの分まで家事をしようと気合を入れた。 ……。 …………。 しかし。 昼前に、大慌てのミアが階段を転げ落ちるように現れた。 「すすすみませんっ!」 「おはよう、ミア」 「あの、姫さまは?」 「今日は、大使館で人と会う約束があるからって、カレンさんが迎えに来てた」 「夕方には帰れるから、ミアはゆっくり寝させてやれって」 「ミアちゃんの朝食、取っといてあるんだよ」 「食べられるなら、温めようか?」 ……。 ミアはひたすら恐縮し、一度着替えに戻ってから、遅い朝食を食べた。 姉さんは仕事に出かけている。 ……麻衣が部活に出かけると、ミアと二人きりだ。 「あ、あの、達哉さん」 「せせせ洗濯をやって頂きまして、その、ありがとうございました」 「そんな他人行儀にならなくても」 「えと、それでですね」 「昨日の夜、色々と一人で考えたのですが……」 ごくっ。 「……すー……はー……」 深呼吸をしているミア。 こっちはどきどきしながら、ミアの次の言葉を待っている。 「結局……」 「結局?」 ……。 「……よくわかりませんでした」 ……。 分からなかった?つまり、どういうことだろう?どんなリアクションを取っていいのか、分からない。 ……。 ミアを見ると、何か次の言葉を紡ぎだそうとしてるようなので、俺はそれを待った。 ……。 …………。 「達哉さんのことは……」 「そ、その……」 ……。 「だ、だ、だ、大好きです」 「そうか。 ふう……」 「良かったー」 全身が脱力する。 肺の中で固まっていた空気を、全て一度に吐き出した。 「で、でもっ!」 「わたしは姫さまのメイドでもあって……」 「それで、あの……」 「どうしていいか、分からなくなってしまって……」 しょんぼりしてしまったミア。 俺は、その頭に手を載せて、ゆっくり愛おしむように撫でた。 「あ……達哉さん……」 「俺も、昨日からそれを考えてたんだ」 「ミアは、何よりもまず姫さまが一番大事なんだもんな」 「……」 「だから、俺があんなことを言って、ミアを困らせてるんじゃないかって心配だった」 「それで……今日の寝坊だしさ」 「あのあのっ、ほんとうにすみませんでしたっ」 「いや、いいんだってば」 「俺が……何だか焦ってたからだもんな」 「いえ……わたしが」 「俺のせいだと思ってたからさ、掃除とか洗濯も頑張っちゃって」 「ここんとこ、ずうっとミアにやってもらってたから、腕が鈍っちまったぜ」 「……」 「ふふ……洗濯にも腕が必要だったんですね」 「ああ。 ミアは洗濯八段……いや、洗濯免許皆伝」 「達哉さんはどれくらいなんですか?」 「俺?」 「俺は……まだまだ白帯だしなぁ」 「しろおび……?」 「ああ、初心者ってことさ」 「格闘技の初心者が、白い帯をつけるんだ」 「洗濯は格闘技だったんですね……くすくす」 やっと、ミアに笑顔が戻った。 ……。 ミアが家事をしている間、俺は庭の雑草をむしって時間を潰していた。 昼食も食べ、日が傾いてきた頃。 俺は思い切って、洗濯物を取り込んできたミアに声を掛けた。 「ミア」 「はい」 「今日も、行くか? イタリアンズの散歩」 「左門でのバイトの前に、行っておきたいんだ」 ……。 ミアは、ほんの一瞬だけ考え、答えた。 「ええ、是非ご一緒させて下さい」 「じゃあ、すぐ準備しようぜ」 「わんっ」 雰囲気を察してか、ペペロンチーノが喜んでいた。 ……。 「あれ、今日は着替えないの?」 「着替えていると、やはり少しは時間がかかりますので」 「でも……その格好じゃ暑いだろ」 「長袖だし、黒いしさ」 「そうでもないんですよ」 ……。 ミアの話によると、素材やら、通気性やら、色々と考えてある服ではあるらしい。 「姫さまのドレスも、私の服よりは当然いい布やデザインですけれど、基本的には同じです」 「顔とか、目に見えるところから汗をかかない練習かと思ってた」 「それも大事なことですよ」 冗談のつもりが、真面目な返事だったりしつつ。 今日は、イタリアンズもミアが持ってるリードをおとなしく引っ張っていた。 ……と思ってたのは街中にいる間だけだった。 公園に入ると、俄然元気になってきたイタリアンズ。 「わ、わ、わ……」 「ミア、ほら」 犬たちに引っ張られているミアの手を握る。 そして、特に力の強いカルボナーラと好奇心旺盛なペペロンチーノのリードは、俺が握ることにした。 「すみません、達哉さん」 「すみませんより、ありがとう」 「あ……ありがとうございます」 「それで、あの……」 俺は、カルボナーラとペペロンチーノのリードごと、ミアの手を握っていた。 「あ……」 「……」 ミアの手のひらは、少し汗ばんでいた。 華奢な作りの手、細い指。 風は無く、ただ蝉の鳴き声だけが、二人に降り注ぐ。 「……ミア」 「俺と手を繋いでるのは嫌?」 「い、いえ……」 「そんなことないです」 「じゃ、このまま行こうか」 「は……はい……」 小さい声ながらも、しっかりとした返事をしたミア。 ミアの手を、もう一度しっかりと握り直す。 ミアの手のひらは、さっきよりも汗でしっとりしていた。 でも、俺も似たようなものだ。 ……。 何事かあった雰囲気を察してか、立ち止まっていたイタリアンズに指示を出す。 「さ、行くぞ」 「今日は、丘の頂上まで行くからなー」 「おんっ」 三匹が、また俺たちを引っ張るように歩き始める。 ……。 ミアの手はとても柔らかくて、小さくて、熱かった。 そこから、ミアの鼓動が伝わってきそうだと思った。 そのミアと手を繋いでいる姿を、誰かに見せたいような、見られたくないような。 ……少し舞い上がってるな、俺。 おかげで、いつもなら登るのがうんざりするほどの丘も、あっという間に頂上に着いてしまった。 ……。 「わあ……」 「わたし、ここまで来たのは初めてです」 「いい眺めですねー」 「下って、時々人が多い時があってさ」 「そういう時って、犬を放すためにここまで来るんだ」 「なるほどです」 ……。 「手、離そうか」 「あっ……」 「そ、そうですね……」 俺がミアの手を握るだけではなく、ミアの方からも、俺の手を握ってくれていた。 その手が離れるのは少し残念だったけど。 「三匹を放そう」 「はい」 「そらっ、行ってらっしゃい」 「わふわふっわふっわふっ」 三匹とも、リードから解き放たれて、あっと言う間に駆けていく。 互いにじゃれたり追いかけ合ったり。 そんな楽しそうな三匹の姿を、俺とミアはぼんやりと眺めていた。 ……。 「……なあミア」 「犬って気楽でいいよな」 「?」 「お腹が減ったら食べ、眠くなったら寝て」 「自分の欲求に素直だもんな」 「……」 「人間は……」 「たくさんのやりたいこと、こうだったらいいなと思ってること」 「それを、素直にやりたいって言えなくなるから……大変だ」 「……でも、それは」 「ま、俺が犬になったことが無いから知らないだけで、犬には犬の厳しい社会があるのかもな」 「くすくす……そうですね」 ……。 「犬たちを羨ましがってても、仕方無いか」 「そうですね」 「……よっ」 ごろん、と芝生の上に座る。 「正直さ」 「ミアとのこと、どうしていいか分からないんだ」 「フィーナにとってもミアは大事だろうし、王族付きのメイドって立場もあるだろうし」 「……」 ミアは、黙って耳を傾けている。 「でも……」 「ミアと一緒にいたいなっていう……これは、俺のわがままなんだけど」 「そんな気持ちが、どんどん大きくなってる」 「例えば、さっき手を繋いだだけで」 「……はい」 ミアも俺も、自分の手のひらをじっと眺める。 「あの」 「もう一度……その、て、手を……」 「ああ」 芝生から立ち上がり、ミアの手を取る。 白くて丁寧に切り揃えられた爪。 強く握ったら折れてしまいそうな手首。 俺が軽くその手を包むと、ミアの方からも握り返してきた。 「あのさ……」 「達哉さんの気持ちは、わがままではないと思います」 「もし、わがままだったとしても……」 「その気持ちは、達哉さん一人が思ってるものではありません」 俺を見上げるミア。 その瞳が、うっすらと潤んでいる。 「ミア……」 「達哉さん……」 「わん?」 いつの間にか、二人の足元に来ていたペペロンチーノ。 「わふわふっ」 「わんわんっ!」 カルボナーラが迎えにきて、また遠くへ走っていく。 ……。 「……あの」 「ははは……」 間が悪いったら無いな。 俺は、繋いでいるもう片方の手で、ミアの頭を撫でる。 「はうぅ……」 撫でられているミアは、顔を真っ赤にして俯いていた。 「ああもう、ミアはかわいいなぁ」 「たっ、達哉さん……」 俺は少し屈み、ミアの腰に腕を回して、ひょいっと抱き上げた。 「ひゃああぁぁぁ」 そのままぐるぐる回る。 ミアは軽かった。 軽いだろうなとは思ってたけど、本当に「ひょい」 と持ち上げられた。 ミアの服の、お日様の香りを胸いっぱいに吸い込む。 「あっ、あのっ……わわわ」 本当に目を回し始めたようなので、ミアをとんっと地面に下ろす。 俺も、少し目が回っていた。 「ミアは軽いなあ」 「た、た、た……」 ふらふらのミア。 倒れてしまいそうなので、両肩を持って支えてやる。 「た、達哉さん?」 俺は、目の前にあるミアの両目をじっと見据える。 ミアが俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。 そして……瞼をゆっくりと閉じたミアに、そっと口づけた。 ……。 …………。 唇を軽く触れ合うだけのキス。 ミアの腰に回した腕に少しだけ力を込める。 「んっ……ふ……」 ミアの息が頬に当たる。 ミアの小ぶりな唇は熱を持っている。 俺の胸に添えられた手が、きゅっと服をつかむ。 風にそよぐミアの前髪がくすぐったい。 ……。 頭の中がミアのことでいっぱいになる。 やがて、真っ白になった。 ……。 …………。 瞼を薄く開けて、ミアの顔を盗み見る。 頬が赤い。 きゅっと閉じられた上下の瞼では、睫毛が小刻みに震えていた。 「ん……んんっ……」 俺は、ゆっくりとミアの腰に回した腕の力を緩めていく。 唇が離れかける。 「ん……っ?」 するとミアが、離れたくないとばかりに唇を押しつけてきた。 俺があまり腰を屈めなくなった代わりに、ミアが背伸びしてくる。 俺はその想いに応えるつもりで、ミアの腰を抱き寄せた。 ……。 …………。 ………………。 やがて、ミアが背伸びをやめ、俺は腕の力を抜く。 名残を惜しむように、最後に……唇が離れた。 ……。 「……」 「……あ、あの……わたし……」 「うん」 「えと……」 「……や、やっぱり、何でもないですっ」 「そっか」 ……。 「……そろそろ、帰ろうか?」 「……はい……」 ミアは、ずっと頬を赤く染めたままだった。 帰る雰囲気を察してか、周りに集まっていたイタリアンズをリードに繋ぐ。 もじもじとミアがリードを受け取ると、紐を伝って伝染したのか、イタリアンズも静かになった。 ……。 その日は、バイトを終えて家に帰ってからも、度々ミアが俺を見て赤くなった。 俺のいないところでも、何やらニコニコしていたらしい。 「達哉」 「ん?」 「ミアに何かした?」 「私が帰ってきてから、ずっとにこにこしたり、ため息ついたりしているのだけど」 「え、あ、いや……別に」 「ふうん?」 ……フィーナには気づかれているような気がする。 家の中でも、明らかに俺と顔を合わせられないミア。 みんなの前でも、俺と少し目が合うだけで、真っ赤になって目を伏せる。 ……。 今晩中に、姉さんや麻衣も含めて、この異変はみんなに伝わるだろう。 俺は、隠す努力を放棄することにした。 今日は左門の定休日。 ここのところ真夏日が続いていることもあって、精のつくものが食べたいという話になっている。 「部活の友達とか先輩も、麺類ばっかりだって言ってたよ」 「月の人って、暑さには強いの?」 「あまり強くはないと思います」 「カレンも、やせ我慢してるけど……最近少し疲れ気味ね」 珍しく、と付け加える姉さん。 「月では、こんなに暑くなることはありませんから」 「元気が出る食べ物というと……」 「夏はやっぱりウナギだよね」 「土用は過ぎちゃったけど、ウナギはいいかもしれないわ」 「うなぎ……とは?」 「ええと、あれは……」 「魚のような魚じゃないような」 「一応魚類よ。 昔から食べると元気になると言われているの」 「わかりました。 チャレンジしてみます」 ……。 朝食時にそんな会話があった。 その後、麻衣が部活へ、姉さんとフィーナは仕事に出かけて行く。 ……みんなといる時は、ミアも普通に話ができるんだけど。 二人きりになると、途端にミアは緊張してしまう。 「うなぎ料理、やっぱり蒲焼にする?」 「えっ、あのっ……」 「今、麻衣さんにお借りした料理の本を読んでるところですっ」 ガチガチだ。 「ミア、そんなに硬くならないで」 「で、でも」 俺は、ミアの頭を撫でてみる。 「ひゃわぁあぁぁ……」 すぐに、とろけたような声になるミア。 「そんなに緊張されちゃうと、こっちまで緊張しちゃうよ」 「頑張ります……」 『二人きり』ということを意識すると──俺だって、どうしても昨日の丘の上のことを思い出してしまう。 ミアが緊張してると尚更だ。 「……で、買い物どうしようか」 「あ、あの、わたしが行きますから、達哉さんは休んでいて下さいっ」 「でも、俺も時間はあるし、手伝うよ」 「いつも通り、いつも通り」 「……それでは夕方に、いつも通りお願いします」 「昼は?」 「ありあわせの材料になりますが……」 「この前麻衣さんに教えてもらった冷し中華を、ゴマだれで作ってみようかと思ってます」 「いいね」 ……。 分担して家事を済ませ、冷し中華を食べる。 ミアの作った「ゴマだれ冷し中華」 は、とても美味しかった。 具にワンタンが入ってるのは斬新だったけど。 ……。 …………。 夕方が近づいたので、ミアの買い物のお供をしようと一階に降りる。 ミアは、料理の本をちょうど読み終えたところだった。 「決まった?」 「ええ。 今日はひつまぶしにしようと思います」 「ひつまぶし?」 「ウナギ料理なんだよね」 「そうです。 あとは、出来てのお楽しみです」 「楽しみにしてるよ。 よしよし」 ミアの頭を撫でる。 「あぅ、ひゃあぁぁ……」 それから、俺たちは買い物に出かけた。 ミアはまだ少し硬くなってるみたいだけど、いつものミアに戻りつつあった。 ……。 「今日はウナギだね」 「自分でサバけるかい? それとももう焼いてあるやつにするかい?」 「どうする?」 「せっかくですから、捌くのにも挑戦してみたいと思います」 「やるねえ、ミアちゃん」 「じゃ、この生きのいいのにしとくからね」 「ありがとうございます」 そこに現れる八百屋のオヤジ。 「ほう、ウナギか」 「ウナギで精つけてナニするつもりだ? たっちゃん」 「なっ、何もしませんよっ」 「動揺するところが怪しいんだよな~」 「そーだ。 うちでニンニクでも買ってくか?」 「ひつまぶしにニンニクは使いませんから……」 「ほう、ひつまぶしか」 「じゃあ、みつばか大葉と、ネギかシソあたりをお買い上げだな」 「もしかしたら生姜もか?」 ミアが、少し驚く。 「おじさん、詳しいですね」 「これも商売のタネだからな」 「これでそのセクハラトークさえ無けりゃいいのにね」 「お客様との触れ合いは、俺の生き甲斐だからなぁ」 ……。 そんなこんなで買い物を終え、家に向かう。 「ひつまぶしって言ってたけど、どんな料理なの?」 「えと、ウナギをまず蒲焼にして……」 ミアが、一生懸命、身振り手振りを交えて説明してくれる。 俺は、それを楽しく眺めながら聞いていた。 ……。 …………。 「さあ、作りますよー」 料理の下ごしらえを始めようとしているミア。 その気合に水を指すのも悪いかな、と思ったけど。 俺は、単刀直入に訊いてみることにした。 「なあミア」 「昨日から続いてた、何だか硬くなってたの……治った?」 「あっ……」 一瞬驚いた顔をしたあと、てへへ、と笑うミア。 「やっぱり、分かっちゃいましたか?」 「バレバレ」 「えっ、そうだったんですか……」 あれは、バレないはずがないくらいだったと思う。 「で、原因はやっぱり……」 「あっ、あのっ」 「えっと、あの、公園でのあれは……その……」 「やっぱりそうだよな」 俺は、真っ赤になってわたわたしているミアの肩に手を置く。 「ミア、昨日の……嫌だった?」 「え……」 「い、嫌じゃありませんでした」 「……多分」 「多分?」 「あっ、ち、違うんですっ」 「嫌だったかもしれないとか、そういうのじゃなくって、その、なんていうか……」 「ミア、落ち着いて」 「ゆっくりでいいよ」 「は、はい……」 ミアは、その場で二三度深呼吸する。 「あの……あの時は、頭が真っ白になっちゃって」 「ただ、達哉さんと……触れ合ってるのが嬉しくて」 「気持ちよくって……」 「離れたくないと思ってたんです」 「うん」 「でも……」 「でも?」 「あのあと、達哉さんと離れて」 「家まで帰る道の間、ずっと、頭の中がぐるぐるしてたんです」 「家に帰ってからも、達哉さんの顔がまともに見れなくって」 「寝る前とか……その……」 「達哉さんと……」 「キスしたんだって思い出したりして……」 「……それで、その……」 「もじもじしてたんだ」 「そうです……」 「そっか」 「やっぱり、ミアはかわいいなぁ」 また、ミアの頭を撫でる。 ミアの一言ひとことが、愛おしむ気持ちを膨らませる。 「あ、た、達哉さん……」 少し手に力を入れれば、ミアを抱き寄せられる。 ミアの背は低い。 抱き寄せると、ミアの頭が俺の胸にちょうど納まる。 そんなミアが、必死になって、昨日のことを考えてくれたんだ。 ……俺は撫でる手を止めた。 「ミア、好きだよ」 「えっ……」 「俺はミアのことが大好きだ」 ……。 「た、た、た……」 真っ赤になっているミア。 俺はその前髪を手で持ち上げ、額に軽くキスをした。 「ふあぁぁ…………」 ミアは余計目を回してしまう。 「ミア、料理頑張ってね」 「俺はイタリアンズの散歩に行ってくるからさ」 自分のしたことが恥ずかしくなった俺は、そう早口でまくし立てると……逃げるように、イタリアンズの散歩に走り出した。 ……。 昨日の晩、またミアはもじもじしたり硬くなったりしていた。 それでも、俺は自分の気持ちをミアに伝えられたことが嬉しかった。 俺の気持ちだけを一方的に伝えただけって気もするけど──ミアには、もう少し考える時間があった方がいいような気がしている。 ……。 …………。 「おはよう」 「お兄ちゃん、おはよー」 「……お、おはよう、ございます」 ミアはまだもじもじしている。 でも……何だか今日は少し目が赤いような気がする。 「おはようございます」 「あら、ミア……」 「少し目が赤くないかしら?」 「あ、あの、昨日の夜少し寝るのが遅かったので」 「夜更かし?」 「……まさか、お兄ちゃん……」 「ちっ……ちがっ」 「たっ、達哉さんから借りた本が、面白くて、その」 「夜更かしして読んでたのね」 フィーナは、軽くため息をつく。 「たまには仕方無いけど……気をつけないとね、ミア」 「はいっ」 「おはようございます~」 「あ、さやかさん。 今お茶を淹れますねっ」 ……。 今一瞬、ものすごく誤解を招きそうな事態だった気がするけど。 とりあえずほっと息をつく。 ……。 ミアは寝不足か。 でも……俺に借りた本って言ってたけど。 本を貸した記憶は無いんだけどなぁ。 ……。 …………。 「ありがとうございましたー」 からんからん「さ、本日も終了ー」 「達哉、まかないの準備しよ」 「ああ、そだな……」 ばんっ菜月に背中を叩かれる。 「どーしたの達哉、今日は変だよ」 「変?」 「いつも通り、真面目に仕事してたつもりだけど」 「んー、確かに大きなミスは無かったよ」 「でもね、何ていうか、表情が……」 「そう、心ここにあらずって感じ」 「そ、そんなこと……」 「あるよ、達哉君」 「今日はずっとおかしかった」 「病気なんじゃないのかね?」 「至って健康ですよっ」 「いやほら、お医者様でも治せない病ってのがあるじゃないか」 「そ、そうなの?」 からんからん「こんばんは」 「わあーっ、今日も美味しそうな香り」 「お邪魔しますね」 ……。 「……こ、こんばんは」 一人だけ、少し遅れて入ってくるミア。 しかも、あからさまに俺の方を見ることができない。 「ほう」 「なんですか仁さん、今の『ほう』は」 「ほっほーう」 「なっ、菜月までっ」 「いやいやいや」 「ふーん」 「……お前ら、俺一人に全部やらせる気か?」 「サボってないで、早く手伝え」 「はーい」 「ッス」 何やら、非常に居心地が悪い状態のまま、二人は準備に戻っていった。 ……。 …………。 俺が何かしなくても、勝手に周りがどんどん察してくれるこの状況。 楽といえば楽なのかもしれないけど……なんだか釈然としなかった。 左門から戻り、みんなが順番に風呂に入る。 最近シャワーばっかりだったけど、今日は久し振りに湯船にも浸かった。 「姉さん、お湯抜いて換気扇回しといたから」 「ありがと」 そう言いながらも、持ち帰ってきた書類とのにらめっこを続けている姉さん。 「仕事もほどほどにね」 「そうねえ」 俺は、姉さんにお茶を一杯淹れて手渡す。 「それじゃ、俺はそろそろ寝るから」 「おやすみなさい、姉さん」 「うん、おやすみなさい」 「ふう」 一つ大きく息を吐き、部屋を見渡すと……俺の机の上に、白い封筒が載っていた。 なんだ?かさかさ……中から出てきたのは。 ミアからの手紙だった。 「……」 その手紙を、開いてみる。 どくんガラにも無く、鼓動が早くなる。 折ってある便箋。 あと一回開くと、中の文字が読める。 紙の裏からは、少しだけ透けるインクが見える。 「……ふう」 深呼吸を一度。 俺は思春期のガキか。 ……そんな自嘲めいた気分になりつつも、それが案外楽しいことに驚いた。 便箋を開く。 かさっ『達哉さんもしこの手紙をお読みになったら屋根裏部屋まで来て頂けませんか?ミア』一気に読んで、まず不吉な文字が無いことに安堵し、もう一度読み直して内容を確認し、俺はすぐに部屋を出た。 こんこん。 小さくノックする。 こんこん。 ……。 「……ミア、まだ起きてる?」 囁き声で、訊いてみる。 ……。 …………。 こんこん。 ……。 …………。 この時間だ。 あまり大きい音を立てると、誰かが起きてくるかもしれない。 ……。 もう少しだけ、強く叩いてみようか。 そう思った時。 きいっ「達哉さん……」 「どうぞ」 ……。 こんな時間に、屋根裏部屋に来たのは初めてだ。 「そうだ、最近、チコはどうしてるの?」 「ここで寝てるんですよ」 「朝にはまた、出してーって鳴くんですけどね。 くすくす……」 「そっか」 「……で、手紙だけど」 「あっ……」 つい今まで笑っていたミアが、急にカチコチになる。 つられてこっちまで背筋が伸びた。 「あ、あのっ、こんな遅くにお呼びだてしてしまって、すみませんっ」 「達哉さんに、ちゃんとお返事をしなくちゃ、と思って……」 「返事……って?」 「達哉さんが……」 「あの、私に、あの……」 「好きだって、言って下さった……ことなんですけど……」 消え入りそうな声のミア。 「あ……うん」 とうとう、ミアの返事を聞ける時が来た。 ミアは顔を真っ赤にして俯いている。 顔からは今にも湯気が噴き出しそうだ。 「その……嬉しい、です」 一言一言をようやく口にする。 ミアの言葉に、体中が火照る。 「じゃ、じゃあ……ミアも俺のこと」 「あ、で、でも……」 ミアが俺の顔を見る。 ……。 でも?何だというのだろう?「う、嬉しいんですけども……その……」 「わたし、自分の気持ちが分からないんです」 そう言って、またミアは俯いた。 ……。 「た、達哉さんが言って下さる『好き』というものと、わたしの気持ちが、同じかどうか……」 「あ、あの、あの……一緒にイタリアンズの散歩をしたり……その」 「き、キスをするのは……とっても、とっても楽しくて、嬉しいのですが……」 ミアが自分の状態を一生懸命伝えようとしてくれている。 顔を真っ赤にして、必死に気持ちを言葉にする姿──見ているだけで、抱きしめたくなってしまう。 ……。 「ミアは、誰かを好きになったことあるの?」 「いっ、いえいえいえいえっ!」 ばたばたと手を振って否定するミア。 「……あ、ありません」 ……。 恋愛経験がないから、自分の気持ちが恋なのかどうか分からない。 そういうことらしい。 あんまりミアらしくて、胸が温かくなる。 「そっか……」 「お笑いに……なりますか……?」 ミアが上目遣いに俺の表情を窺う。 とても初々しい悩み。 でも、今のミアにとってはとても大きな問題だ。 それを多少年上だからって、笑うことなんてできない。 「いや、笑わないさ」 「ミアが悩んでること、きっとみんな悩んだことだよ」 「ほ、本当ですか……」 「ああ」 だから、ミアが自分の気持ちに納得できるよう──一つひとつ、ほぐしていってあげなくてはならない。 ……。 「ミアは、俺と過ごすのを楽しいと思ってくれる?」 「は、はいっ、もちろんです」 真剣な表情で答える。 「俺と……キスするのはどう?」 「う……嬉しいです」 「俺も、ミアとキスすると、とっても嬉しい」 「た、達哉さん……」 ミアがうっとりとした顔をする。 その表情は、恋する女の子そのものだ。 俺は、そっとミアの頬に手を伸ばす。 「っ……」 ミアが、きゅっと身をすくめる。 指先に柔らかな温もりを感じた。 「こうするのは……どう?」 「は、はい」 「む、胸がドキドキします」 「俺もだよ」 「きっと、今のミアの気持ちが、好きってことだと思うな」 「……」 切なげな目で、ミアが俺を見た。 俺も、できるだけ優しい視線で彼女を見る。 「で、では……わたし……」 ミアが、自分の胸の中を確かめるように目を閉じる。 ……。 …………。 再び目を開いた時、彼女の表情は夏の空のように明るくなっていた。 「好きですっ」 「わたし、達哉さんのことが好き……好きですっ」 宣言するように、ミアは覚えたての言葉を口にした。 彼女の中に、みずみずしい感情が溢れているのが分かる。 「ありがとう、ミア」 「はいっ」 薄っすらと目尻に涙を浮かべるミア。 自分の中にあったモヤモヤを言葉にできたことが、嬉しかったのだろう。 ……。 「でもさ……」 「はい?」 「好きって言うだけで、ミアの気持ちは満足してる?」 「え……」 困惑した表情。 「何回、好きって言えば、ミアの気持ちは表現できる?」 「……わ、分かりません」 ……。 「思うんだけど……きっと、口で言うだけじゃダメなんだ」 「だから……」 腰をかがめ、ゆっくりと唇を近づけていく。 ……。 ミアがぎゅっと目を瞑った。 「キスをするんだ」 ……。 …………。 「ん……っ……」 ミアの柔らかな唇が、俺の唇に触れた。 小刻みに震えるミアの肩を、しっかりと掴み、引き寄せる。 「……んっ……ん……」 柔らかくて張りがある唇がかすかに動く。 「……ん……んんっ……っっ……ぷはぁっ」 ミアが大きく息を吸った。 「息は止めなくていいんだよ」 「た、達哉さん……急にされたら……」 「わたし……心臓が破裂してしまいます」 小さな胸を押さえながらミアが言う。 ……。 「じゃあ、今度はちゃんと……」 「ちょ、ちょっと待って下さい」 近付こうとする俺の胸をミアが押す。 ……。 「……嫌?」 「そ、そうではないのですが……あの……」 「先ほど、達哉さんが仰ったことは……」 「好きって気持ちは、言葉だけじゃ伝わらないってこと?」 「は、はい」 「ああ、俺はそう思う」 「せっかく誰かを好きになったのなら、その人に伝えたいだろ?」 「ミアならどんな風に伝える?」 「わ、わたしなら……」 ……。 「……分かりません」 ミアが俯いてしまう。 「言葉でダメなら、行動だと思うよ」 「だから俺はキスしたんだ」 「気持ちをもっと伝えたいから、キスしたんだ」 「……達哉さん……」 ……。 …………。 「わたしも、達哉さんにもっと気持ちを知ってもらいたいです」 ミアが一歩俺に近付く。 「……達哉さん、わたしの気持ちを知って下さい」 「俺の気持ちも、知って欲しい」 じっと見つめ合い──「好きだよ、ミア」 「はい、わたしも達哉さんが好きです」 静かに唇を重ね合わせた。 ……。 「んっ……ちゅ……」 ミアが唇を押し付けてくる。 鼻から漏れる呼吸が、顔に当たってこそばゆい。 言われた通り、今度は呼吸をしてるようだ。 「……っ……んんっ!」 ミアの下唇を優しくついばむ。 驚いたように、ミアが体を震わせる。 こんなことをするなんて、思いもよらなかったのだろう。 「大丈夫だよ、怖くないだろう?」 「はい……達哉さん……」 唇を離すと、ミアは続きをせがむように背伸びをした。 身長差が大きい俺たち。 このままではミアが疲れてしまう。 「ミア、こっちへ……」 ミアを抱き上げ、ベッドに腰を下ろす。 「えっ……えっ……」 目を瞑っていたところを持ち上げられ、混乱しているミア。 ……。 「あ……あ……」 「こんな……こんなに達哉さんの側に……」 ミアの顔が更に赤くなる。 だが、表情に現れているのは恥じらいだけではない。 そこからは、これから起こることへの不安や期待までもが感じ取れた。 「この方が、ゆっくりキスできるだろ?」 「は、はい……」 ミアが瞳を潤ませた。 そんな彼女の手を、しっかりと握り締める。 「さあ、続きを……」 顔を近づけると、ミアは瞼を閉じた。 ……。 「ん……」 唇が触れた。 すぐに下唇を愛撫する。 「んんっ、っ……う……」 握り合う手が、じっとりと汗ばんできた。 体に感じるミアの熱も、だんだん高くなってきてる。 「っ……んむっ……んっ……」 ミアは懸命に俺の愛撫を受け──そして、自分からも俺の唇を甘く噛んできた。 ぬるりとした口内の感触が、下唇を覆っていく。 あまりにも甘美な刺激。 「はふ……んっ……達哉、さん……ちゅ……」 ミアには説教臭いことを言っておきながら、俺だってこんな刺激は初めてだ。 唇を弄ばれる刺激に、興奮が高まる。 「ふうっ……んっ……ちゅっ、ちゅっ……」 ミアが、ぎゅっと体を押し付けてくる。 彼女の中でも、何かが高まってきているのだ。 ……。 絡めあった指に一層力を込め、唇の隙間から舌を伸ばした。 「んんっ!?」 ミアの体が、ぴくりと跳ねる。 それでも俺たちが離れることはない。 「……ん……ちゅ……んふ……くちゅ……」 「んむ……ちゅぱ、ちゅっ……くちゅっ」 歯茎をなぞり、頬の内側をまさぐり、舌を絡ませ合う。 最初は戸惑いが見えたミアだが、だんだん積極的に舌を動かすようになってきた。 ……。 「くちゅっ……ちゅっ、ちゅっ……んんっ……くちっ……」 ミアの唾液が口の中に入ってくる。 残らず飲み込むと、急に頭がじんじんと痺れ始めた。 ミアの中に深く舌を差し込む。 「んうっ……くちゅ……こくっ、こくっ……んっ、ぷはぁ……」 俺たちの間に、唾液の糸が引いた。 「はぁ、はぁ……達哉、さん……」 「何だか体が熱くて……どうしたらいいのか……」 切ない表情のミア。 湧き上がる情動のやり場に困っている雰囲気だ。 「ミア、すごく可愛い顔をしてる」 「い、嫌です……そんなことを仰られては……」 視線を伏せるミア。 「仕方無いさ……本当のことだから」 「う、うぅ……」 恥ずかしそうに呻く。 「どう、キスは?」 「……すごく不思議です……触れているのは唇なのに、体の芯がどんどん熱くなって……」 「何だか魔法にかけられているようです」 「良かった、気持ち悪いって言われなくて」 「そんな……言うわけ無いです」 「……達哉さんとの……キスですから……」 「やっぱり……可愛い……」 たまらずミアに唇を近づける。 ……。 「ん……あ……」 ミアの頬に唇を当て──ゆっくりと首筋に下がっていく。 「あうっ……あっ……」 「達哉さんっ、何を……」 「キスだよ」 顔を上げずに言う。 「そんな……き、キスは顔にするものでは……ひゃっっ」 鎖骨を、ちろりと舌でくすぐった。 「したいところ、全部だよ」 そう言って、エプロンの肩紐を外す。 「た、達哉さん?」 「ミアの肌を、もっと見たいんだ」 続いてリボン。 そして胸のボタンへと手をかけていく。 「ぁ……ぁ……」 ミアは自分の置かれた状況を理解しかねているのか、呆然と俺の動きを見ていた。 ……。 薄ピンクの下着が露になった。 わずかなふくらみを、貼りつくようにカップが覆っている。 「た、達哉さんっ……だめ、ダメですっ」 ようやく状況を飲み込んだミアが、強く身をよじる。 俺は、ミアの手をしっかりと握り、動けないようにしてしまう。 「……は、恥ずかしい……です……」 汚れ一つ無い胸元に血が上る。 「達哉さん……見ては嫌です……」 「すごく綺麗だよ」 「綺麗だなんて、そんな……」 ミアが視線を逸らす。 「俺、もっとミアのいろんなところにキスしたい」 胸元に唇を這わせる。 「ひゃうっ……あ、あ……くすぐった、い、です……」 じっとりと汗ばんだ滑らかな肌。 乳房に近付くほどに柔らかさを増した。 「あっ……ぅ……だめ……です」 ミアが体を動かす度に、はだけられた服の奥から清楚な花の香りが立ち上る。 言いようも無く、甘く感じられた。 「触るよ、ミア」 「あ……」 返事を待たず、控えめな乳房に手のひらを当てる。 「あうっ……ぁぁ……」 「達哉さんが……わ、わたしの……胸、を……」 「嫌?」 「わ、分かりません……」 「もう……恥ずかしくて、何も……」 「大丈夫、とっても綺麗だから」 乳房をゆっくりと動かす。 「んっ……ふあ……」 「達哉、さん……だめ、です……あ、あ……」 ミアが体を震わせる。 触られるのを嫌悪しているのではないようだ。 「痛くない?」 「は、はい……痛くは、ありません……うぅ……ぁ……」 乳房が小さいせいだろう。 手の動きに合わせて、下着が徐々にズレてきてしまう。 「あうっ……いたっ」 ミアが体を痙攣させる。 思わず手を離す。 「ご、ごめん」 「す、すいません……あの……こ、擦れて……」 ……。 恐らく、乳首が擦れたのだろう。 「じゃ、じゃあ、下着外すよ」 「……」 不安そうにミアが俺を見る。 「見せて……ミアの胸」 優しく囁きかけた。 ……。 …………。 ミアの首が、かすかに縦に振られた。 乳首を擦らないよう、下着を浮かせながら上へずらしていく。 ……。 なだらかな丘の頂点に、桜色の突起があった。 ぷっくりと立ち上がり、強い刺激を加えると、取れてしまいそうだった。 「……」 ミアが恥ずかしさをこらえるように唇を噛む。 「可愛いよ、ミア」 できる限り優しく乳房に触れる。 「っっ……」 大きさは控えめだが、男の体には無い柔らかさを持っている。 円を描くようにゆっくりと胸を温めていく。 「ぁ……ぅ……ふぅ……」 ミアが息を吐く。 「痛くないか?」 「は、はい……ぁ……だいじょうぶ……です」 「ぅ……ぁ……ぁ……」 ミアの声はのぼせたような声だった。 気持ちがいいということなのだろうか?……。 乳首は先ほどよりも、固く凝っているようだ。 試しに、軽く指で触れてみる。 「あうぅ……」 気の抜けたような声。 「だ、大丈夫?」 「は、はい……なんだか、体中の力が抜けて……」 「ふわふわして……変な気分です」 マイナス方向の感覚ではないようで、一安心だ。 「もう少し、強くしてみるね」 「……はい」 乳輪と乳首に指の腹を当てながら、ゆったりと胸を動かしていく。 「はぁ……あ、あ……あうっ……う……」 「ふうっ……う、あ……ぁぁ、達哉さん……んっ、んっ」 ミアの体が、ピクピクと痙攣する。 「あうっ……あぁ、あ……達哉さん……達哉さん……」 心細そうな声を出して、ミアがゆらゆらと体を動かす。 俺の腰周りを、ヒラヒラがたくさん付いたスカートが擦る。 捲り上げてしまいたい衝動に駆られる。 ……。 「ミア、スカート上げるよ」 「ぁ……え……?」 刺激に夢中になっていたのか、ミアの反応は鈍い。 俺は、返事を待たずにスカートへ手をかけた。 ……。 「……い、いや……」 もじもじと体を揺するミア。 体を擦りつけられ、ペニスが少しずつ反応していく。 「ミアは綺麗な下着を着けてるんだな」 「あ、あう……そうでしょうか……」 「触っていいね」 「……はい」 か細い声を聞いて、俺は前からミアの秘所に手を這わせる。 俺の脚にまたがる格好のミア。 ちょうど、俺の股間の上辺りにミアのそれはあった。 ……。 指先が、つるりとした質感の下着に触れる。 「ひゃぅ……あ、あ……」 驚いたことに、ミアの局部は既に湿気を帯びていた。 「濡れてる……」 思わず、感想が口を突いて出る。 「やぁぁぁぁぁ……」 ミアは脚を閉じようとするが、この姿勢ではどうにもならない。 逆に、俺の指に性器を擦り付ける結果となった。 「あうっ、あっ!」 びくり、と跳ねる。 「あんまり暴れないで」 「でも……なんだか怖いんです」 「いつの間にか……その、濡れていて……」 「こんな風になったことは無いのですけど……」 ミアは自分の体の変化におびえていた。 こっち方面の知識は、ほとんど持ち合わせていないらしい。 ……。 「誰だってこうなるんだから、平気だって」 「そうなのでしょうか……?」 それでも不安そうな視線で俺を見る。 実際、俺も他の例を知らないからなんとも言えない。 とはいえ、ここでミアの不安を解いてあげなくては先が無い。 「大丈夫」 ミアの秘所を指でなぞる。 「あっ、あうっ……ぅ……」 ミアが腰を揺らす。 その度に膣口に指があたり、湿り気が増すのを感じた。 「汚れちゃうから、下着取るよ」 「で、でも……だめです……達哉さんに見せるなんて……わたし……」 「ここからじゃよく見えないから」 「本当、ですか……?」 「ああ」 ミアが無言で俯く。 ……。 一旦、膝立ちになってもらい、片方ずつ下着から脚を抜いていく。 ……。 …………。 「……」 緊張のためか、ミアは口を開かない。 一度、ミアに口付ける。 「ん……」 舌は入れず、優しく慈しむように下唇をついばむ。 「ぅ……んっ……ぁ……んん……」 キスをしたまま、右手は秘所に、左手は胸に持っていった。 「ぷはぁっ……」 「あっ、あぅっ」 電流が走ったように、ミアが動く。 ふっくらとした肉の間に、一本のクレバスが走っている。 指で軽く触れただけで、そこが熱い蜜に濡れていることが分かった。 「あうっ……あ、あ……」 両手をゆっくりと動かし始める。 「やあっ……あ、あ……」 「た、達哉さん……達哉さぁん……」 「すごくかわいい声だよ」 蜜を引き伸ばすように、割れ目を指で前後させる。 左手は、手のひらで乳房を包み、やんわりと動かす。 「んっ、んっ、ぁ、ぁぁ……あ、ん……うあっ」 もう、俺の声も聞こえないのか、ミアは甘やかに喘ぐ。 「ああ……達哉さん、何だか、何だか……変な気持ちです」 体の底から湧き上がるものから逃れようと、ミアが頭を振る。 その拍子に、秘裂に這わせていた指が、少し深く入った。 ぬるりとした肉に指が包まれる。 ……。 「やあぁっ……あっ、あっ、あっ」 ミアの声が高くなる。 手を、ぷるぷると振動させた。 「ぁ……ぁ……ぅ……ぁ……」 「っっ……た、つや、さん……あっ……」 真っ白な喉を反らせるミア。 自分の中に起こっている変化を、精一杯受け止めようとしている感じだ。 俺は、徐々に力を込めながら、動きを早める。 「あんっ……あうっ、あ、あ、あ……「だめ、だめです……達哉さんっ、本当にっ……」 ミアが俺の体を、ぎゅっと抱きしめる。 間に挟まれた俺の手が、ミアの上下を圧迫した。 「あぁぁっっ……あぁ……おかしくっ、なっちゃい、ますっ」 ミアが一際高い声を出す。 俺は慌てて刺激を緩める。 ……。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 肩で大きく息をするミア。 「大丈夫か、ミア……?」 「なんだか、頭がフワフワして……」 「変な気分で……」 「痛くは、なかったんだな?」 「は、はい……痛くはないです……」 「良かった……」 ミアの秘所からゆっくりと手を抜く。 指先は蜜で濡れていた。 「……でも、少し怖いです」 「自分の体が、自分の物ではないような感じがして……」 細い声を出すミア。 そんな彼女の頭を優しく撫でる。 ……。 「……達哉さん……」 ミアの表情が和らぐ。 「怖い思いさせてごめんな」 「い、いえ……怖いのは半分で……後は……」 「後は……その、嫌ではありませんでしたから……」 「……ありがとう」 「どうして、達哉さんがお礼を」 「あ、ああ……嫌じゃないって言ってくれて、嬉しかったんだ」 ……。 「くす」 ミアが苦笑する。 「達哉さんと一緒なら、どんなことでも嫌がりませんよ」 ……。 胸が熱くなった。 こんなに小さな体に、想像もできないほど大きな愛情が詰まっている。 「ミア……」 ……。 ミアを、優しくベッドに横たえる。 ……。 「た、達哉さんっ……その、見えて、見えてしまいますっ」 慌てて脚を閉じようとするミア。 だがそれは、俺の体を挟むだけで終わった。 目の前に、ミアの女性器が晒されている。 「あ、あ……だめ……だめです……」 「大丈夫、暗くてよく見えないから」 「で、でも……」 眉根に不安げなしわを寄せるミア。 「俺も見せたら、おあいこだろ」 「そ、それは……そうですけど」 ……。 俺は無言でベルトを外す。 恥ずかしさもあるが気にしている場合ではない。 一気にペニスを取り出した。 「……」 ミアが息を飲む。 いつの間にか、肉棒は痛いほどに勃起していた。 ミアの視線が痛いほどペニスに突き刺さる。 「おあいこ、だろ?」 平静を装って言う。 「……は……い……」 ミアはほとんど硬直していた。 「あの……お、大きいのですね……」 「ど、どうだろう……」 俺たちの視線に挟まれて、ペニスがびくりと脈打った。 「これからすること……分かる?」 「は、話には……聞いたことがあり、ます……」 「なら良かった」 俺は、体を前に進め、ミアに覆いかぶさった。 ……。 ミアの脚の間で、女性器がひくひくと動いている。 そして、今にも接しそうな距離に俺のペニスが来ていた。 ……。 …………。 「ミア、痛いかもしれないけど、できるだけ優しくするから」 「達哉さん……」 「………………はい」 ……。 亀頭をそこに当てた。 ぬるりとした熱い感触。 じわりと快感が腰に溜まる。 「やっぱり……大きいですね」 「あ……うん」 俺のモノが大きいというわけではない。 ミアが小さいのだ。 果たして、上手くできるのだろうか。 ……。 「少し、慣らしてみようか」 「は、はい、お願いします」 緊張したミアの声。 俺は、ペニスを手で持ちミアの秘裂をなぞる。 ちゅ…………くちゅ…………「っ……」 「ぁ……ぅ……っ……」 溢れる蜜でペニスが濡れる。 先ほどまでの愛撫で、ミアもずいぶん濡れているようだ。 「なんだか……温かい、です……」 とろんとした表情でミアが言う。 ミアを擦りながら、自分がどこに挿れるべきかを確認する。 「あ……うんっ……んっ……」 何度かペニスを往復させるうち、ミアの声も甘くなってきた。 ……。 「そろそろ、いいかな?」 「……はい」 「お願いします」 ……。 俺はしっかりと頷いて、ペニスを膣口にあてがった。 ……。 …………。 「いくよ」 言葉より一瞬遅らせて、腰をゆっくりと突き出す。 ……。 「っっ!」 初めの一突きで入ったのは、数センチ──いや、ミリ単位だったのかもしれない。 「ぁ……ぅ……」 ミアが喉の奥から声を漏らす。 それでも、前進は止めない。 くちっ……少しずつ、亀頭がミアの中に侵入していく。 「っっ!」 声にならない声を上げる。 ミアの体には、いつのまにか玉のような汗が浮かんでいた。 「息を吐いて」 「は……あ……っっ」 「はぁ……う……はぁ……」 わずかに、抵抗が弱くなる。 更に力を込める。 「ああっ、あうっ!」 耳をふさぎたい気分だった。 でも、止めるわけにはいかない。 みちっ……ぎちっ……更にペニスが埋没し、壁にぶつかった。 「くぅ……」 「いくよっ」 一気に腰を進めた。 「あぁぁあっっ!」 悲鳴に近い声が聞こえた。 ……。 …………。 「あ、あう……ぅ……」 俺のペニスはミアの中に収まっていた。 「ミア……よく頑張った」 手を伸ばし、ミアの頬を撫でる。 ……。 「はぁ、はぁ……た、達哉……さん……」 切れ切れな声でミアが応える。 「大丈夫か?」 「は、はい……なんとか……はぁ」 「痛かっただろ」 優しく頬を撫でながら言う。 「痛かった、ですけど……良かったです」 「……?」 「痛かったことは、ずっと……ずっと忘れませんから……」 「わたし、今のことを……ずっと忘れずにいられ、ます……」 目に涙を浮かべて、ミアが微笑んだ。 「ミア……」 彼女の健気さに、目頭が熱くなった。 「達哉さん……」 頬に当てた手をミアが握る。 ……。 「さあ、達哉さん……動いて下さい」 「……ありがとう、ミア」 ……。 もう一度体に力を入れる。 ペニスはミアの膣内で潰されそうなほど圧迫されている。 動かすだけでも容易なことではない。 「達哉さんの、お好きなように……」 「……ああ」 ……。 体重を前にかけ、腰をゆっくりと引き抜く。 にちっ……ずっ……ぐちゅ……「あっ……ぁ……ぁ……」 ゆっくりとペニスが姿を現す。 ミアの愛液と破瓜の血で光っていた。 「抜けたよ」 「また入れるからね」 「は……はい……うあっ!」 腰に力を入れる。 じゅぷっ……にちゃ……くちっ「っっ、あっ……あ、あうっ!」 ミアの眉が歪む。 挿れる方が痛みは大きいらしい。 小さな体を苦痛に痙攣させながらも、ミアは俺を受け入れてくれる。 「んっ、あっ、あっ……んんっっ」 「はぁ、はぁ……あうっ、ひゃっ……」 肉棒を奥まで突き出し──少し休んでまた引き抜く。 少し動く度に、ミアからは苦しげな声が漏れた。 「た、達哉さん……どうですか?」 「ああ、すごく、気持ちいいよ」 「……う、嬉しい、です」 ミアの膣内は狭かった。 刺激が強すぎて肉棒の感覚は半分無くなっている。 もしかしたら、もう果ててしまっているのかもしれない。 「わたしも、少しずつですけど……な、慣れてきたかも、しれません」 俺に気を遣わせまいとして言っているのだろう。 快感の為に腰を振るのがためらわれる。 だが、本能から来る衝動は、そんな俺の気持ちすらも凌駕していた。 「じゃあ、ちょっとスピードを上げるよ」 「はい……ど、どうぞ」 ミアの言葉を聞くなり、腰を振った。 「あうっ……ひゃんっ、ひゃ、あうっ、あっ!」 ずちゅっ、ぐちゅっ、みちっ、ぬちゅっ……結合部から早いペースで音が漏れる。 それが、ベッドの軋みと合わさり、俺の欲望を刺激する。 「やっ、あっ、はうっ……達哉っ、さんっ」 「ううっ、ひゃんっ……あ、あ、あ……きゃっ!」 隘路を亀頭が押し進み、後退する。 ミアの辛そうな声とは裏腹──膣内は快感をむさぼるように蠢く。 「きゃっ、あうっ、やっ、ひゃんっ」 入る時には、精一杯の抵抗を──そして、出る時には名残惜しげに俺に吸い付く。 全ての動きが、俺を絶頂へと誘っていく。 「達哉さんっ……あ、あ、あ……やあっ、あうっ」 ぐちゅっ、ぬちゅっ、みちゃっ……結合部から飛沫が飛び散った。 シーツに薄桃色のシミがついていく。 「ミアっ、とっても……いいよっ」 「はいっ……あっ、う、嬉しい……ですっ」 「あんっ、やあっ……ひゃ、あ、あ……あううっ!」 少しずつ、ミアの声が高くなっていく。 突き入れ、抜き出す度に、新しい快楽をもたらしてくれるミア。 もう、腰を止められなくなっていた。 「はうっ、あっ、んっ、んっ、んっ」 「熱く、体が……体が熱くっ……し、痺れてっ」 膣内には、どんどん潤滑油が溢れてくる。 一体、彼女のどこから、こんなに液体が出るのだろう。 「ああっ、あ、あ……」 「達哉さんっ、達哉さんっ、すごく、熱いですっ」 くちゅっ、ぐちゅっ、にちゃっ、ぬちゅっ……聞こえる音も変わり始めた。 肉がこすれ合う音よりも、水っぽいニュアンスが強くなる。 「あうっ、んっ、んっ、んっ、んっ!」 どろどろに溶けた沼にペニスを突き立てる。 初めて味わう快感に、射精感が高まっていく。 「ミア、もうすぐだからっ」 「はいっ……あうっ、んんっ……あ、う……ひゃっ」 「きゃうっ……わたしもっ、熱くてっ、か、体が、溶けてっ!」 ミアから甘い声が上がる。 全身の力を腰に込めて突き出す。 「ああぁっ、ぁ、ぅ……ああああっ、達哉さんっ!」 「溶けそうですっ……あうっ、あっ、あっ、やあぁっ!」 「お、俺もっ、もうっ」 「あ、あ、あっ……いいですっ、ああっ、もうっ、あっ!」 「達哉さんっ、達哉さんっ、もうっ、何か、体がっ、体がっ!」 「ひゃうっ……あ、あ、あ、あっ……ん、ん、ん、んあああぁぁぁぁっっ!!」 ミアが一気に駆け上っていく。 次の瞬間、ペニスが強烈に締め付けられた。 「っっ!」 どくどくどくっ!!どぴゅっ、どくんっ、びゅびゅっ!びゅっ……びゅくっ……びくっ……どくっ!ペニスが震えた。 見たこともないほど大量の精液が、ミアの上に吐き出されていく。 ……。 「はぁ、はぁ……あ、う……はぁ、はぁ」 ミアは降り注ぐ精液にも気づかず、駆け巡る絶頂に体を痙攣させている。 「はぁ……はぁ……」 「はぁ……」 「……く」 ペニスが射精を終えると、全身を疲労感が包んだ。 ぐったりとベッドに体重を預ける。 「はぁ……た、達哉さん……」 精液で汚れた顔を、俺に向ける。 「ミア……体は平気か?」 「は、はい……なんとか」 「そっか……良かった」 手を伸ばし、服の袖でミアの顔を拭う。 「あの……達哉さんは……どうでしたか?」 「すごく、気持ち良かった」 「今まで、こんなの無かったよ」 ……。 「う、嬉しいです」 笑顔を浮かべるミア。 目尻には涙が浮かんでいる。 俺は、もう片方の袖でミアの目元を拭った。 「達哉さん……」 ミアが嬉しそうに目を細める。 「わたしの『好き』という気持ち……伝わりましたか?」 ……。 行為の内容を少しだけ反芻する。 ミアの気持ちは、痛いほど伝わってきていた。 「幸せになるくらい伝わってきたよ」 「ああぁ……」 感極まった声を上げるミア。 ……。 「なんて、なんて素晴らしいことなんでしょう」 「達哉さん……好きです、好きです……っ、ぐすっ……好きです」 「うっ……良かった……ぐしっ……」 そして、しゃくりあげ始めた。 「ミア……」 彼女の頭を胸に掻き抱く。 「俺も、ミアのこと大好きだ」 「これ以上ないくらい」 「はいっ……ひっく……」 ……。 腕の中で、何度もミアが震える。 ようやく俺たちは思いを伝え合うことができた。 やきもきしたこともあったけど──もう、どうでもいいことだ。 今の俺は、ミアの熱を感じているだけで幸せだった。 ……。 まだ完全に日が昇っていない早朝。 俺とミアは、チコのさえずりで目を覚ました。 「あ、お、おはよう」 「お……おはようございます……」 ミアは、昨晩のことを思い出したのか、真っ赤になって縮こまる。 「あの、わ、わたし……」 「ミア、かわいかったよ」 言ってる自分が信じられないような、恥ずかしい台詞。 そして、ミアの頭を撫でてあげる。 「あぅぅ……」 俺に撫でられるがままになっているミア。 本当は、いつまでもここでこうしていたいけど──もうそろそろ、誰かが起きてくる時間だ。 「とりあえず……一度部屋に戻るよ」 「あ……そうですね」 ミアは丸窓からチコを外に放し、俺はミアの部屋から二階の廊下に出る。 ……音を立てないように、静かに、静かに。 姉さんの部屋も、麻衣の部屋も、まだ寝静まっている。 一階からも、人の気配はしない。 ……俺は爪先立ちで自分の部屋を目指した。 ばたん。 「ふう……」 朝食まではまだ時間がある。 もう一眠りできそうだ。 ……。 …………。 いつもと同じ時間に、いつも通りみんなと朝食をとる。 でも、どこか心が浮ついている感じがしていた。 それを、絶対に誰にも悟られないように、努めてしかめっ面を作る。 ……ミアは、そんな俺の姿を見て笑いをこらえる方が大変だったらしい。 ……。 …………。 お昼が過ぎると、みんなが出かけて、またミアと二人きりになった。 ミアと二人きりという響きに、これまで以上に、心がふわふわする。 「ミア、あのさ……」 「くちゅっ」 「あ、はい、なんでしょう?」 「今の、くしゃみ?」 「そうで…………くちゅっ」 「失礼しました。 そうです」 「風邪……とかじゃないといいけどな」 「……」 何かを、考えてる様子のミア。 「熱とか、咳とか、風邪の心当たりはある?」 「えと……」 「あるんだね。 言ってくれないと分からないよ」 「達哉さんが……寝てる時に、私の布団を持って行ってしまって」 「それでちょっとだけ、明け方に涼しかったので、もしかしたらって」 ……。 俺のせいか。 これは、言い訳も何もできないな。 「ごめん」 「だ、大丈夫ですよっ」 「これくらい、何とも……へくちっ」 「……そうだ!」 「今日は、俺が一日掃除も洗濯も料理も買い物もするからさ」 「ミアはずっと寝てて、風邪を抑え込もう」 「で、でも」 「風邪は、引き始めが肝心なんだ」 ……。 俺は、少し強引にミアを寝かしつけた。 「よしっ」 パジャマに着替えたミアが、ベッドに納まっている。 「何か、食べたいものとか飲みたいものがあったら言ってくれよ」 「すぐに持ってくるから」 「でも、今、朝食を頂いたばかりですから……」 「ん、そりゃ……そうか」 「昼食は、何か元気になれそうで、消化のいいものを持ってくるから」 「はい」 「ありがとうございます……」 「寝ちゃってもいいし」 「とにかく、大人しくしていること」 「今から体温計で熱も計るけど、もし熱があったら、濡れタオルも必要だな」 「オッケー?」 「くすくす、わかりました」 ……ミアが微笑む。 「?」 ミアの笑顔の理由が分からない。 すると、ミアがゆっくりと説明してくれた。 「そんなに昔ではありませんが……」 「まだ私が小さい頃、母さまにこうして看病してもらったのを思い出しました」 「そっか」 「ミアのお母さんって……」 「母さまも、私と同じく、王室付きのメイドをしていました」 「前にもお話ししましたっけ」 そう言えば、聞いたような気がする。 「フィーナの乳母もしてたんだよな、確か」 「ええ」 「母さまは、先代の女王セフィリアさまの看病をしていたこともあるんですよ」 セフィリア女王というと……月学概論の教科書にも載ってるほどの人だ。 「そうか、すごいな」 「母さまとセフィリアさまは、とても仲が良くて、女王と臣下というよりは良き友人のようでした」 「わたしも、母さまのようになれればと思っているのですが……」 「なかなか難しいですね」 「お母さんの看病には敵わないかもしれないけど、俺もできるだけのことをするから……」 「早く治そうな」 ミアのお腹のあたりを、ぽんぽんと軽く叩く。 「はい……」 なぜか嬉しそうなミア。 ……幸い、熱は無かった。 午前中に洗濯と掃除を済ませ、家にあるもので、元気が出そうな昼食を作ることにする。 冷蔵庫を見ると……ネギ、卵、豚のロース。 そして調味料。 風邪に良さそうなものというと──しょうがを使ってみるか。 麻衣の料理本を見ながら作ったのは、しょうがとネギのスープ。 鶏ガラスープをベースに、白髪ネギとしょうがをたっぷり入れて完成。 豪華版しょうが湯のようなものだから、きっと風邪には効くだろう。 そして豚肉と卵のおかゆ。 豚肉を細かく刻み、千切りにしたネギと一緒に軽く炒めて卵でとじる。 そしてまだ柔らかいうちに、しょうがと醤油、塩、胡椒で味をつけ、アツアツのおかゆにかけ回す。 料理は久し振りだけど、我ながら上手くできた。 食欲をそそる香りが、湯気と一緒に立ち上る。 それらと取り皿をお盆に載せて、屋根裏部屋への急な階段を登る。 「ミア、調子はどう?」 「あ、食事まで作って頂くなんて……」 「いいのいいの」 「ご飯、食べられる?」 「あまりお腹は減っていませんが、きっと食べた方がいいと思います」 「じゃ、ちょっと体起こして……」 ミアの背中に手を入れ、ベッドの上で上半身を起こさせる。 「あ、いえ、そんなに具合が悪いわけではないので、机で……」 「……」 「……へぷちっ」 「まだくしゃみは止まってないな」 「じゃ、机に置いとくから」 「何から何まで、すみません……」 「今、お茶も持ってくるから」 ……。 …………。 「た、達哉さん……」 「じっと見られてると、食べにくいですよぅ……」 「そっか」 「じゃあ、俺も自分の分を持ってきて、ここで一緒に食べようかな」 ……。 二人で、しょうがとネギのスープと、おかゆを食べる。 「達哉さん、お料理上手ですよ」 「ま、ミアが来る前は、麻衣と分担してやってたしな」 「そうだったんですか」 「今は、ミアのおかげで、ずいぶん楽させてもらってるよ」 「腕が鈍ってないか心配だったけど」 「いえ、とても美味しいです」 ……。 …………。 「ごちそうさまでした」 「これだけちゃんと食べられれば、きっとすぐ治るよ」 「そうだといいですね」 「それじゃ、お皿を下げてくる」 「達哉さん」 「ん?」 ミアが、何か言いたげな視線で俺を見つめている。 「どうした?」 「あの、私ももう起きて、お皿を洗ったりしたいです」 「一人で横になってると、色々と考えてしまって……」 「いろいろ?」 「はい」 「えと……これからの、こととか」 「なるほど」 「『これから』かぁ……」 ……確かに、今後の俺とミアの関係がどうなるのかは、全く予想ができない。 もしかしたら、真剣に考えたことが無かったのかもしれない。 今月の終わり頃には、フィーナの留学が終わる。 普通に考えたら、フィーナ付きのメイドであるミアも一緒に帰ってしまうだろう。 しかし。 俺とミアは深い関係になってしまった。 「とりあえず……」 「フィーナに、直接、正直に言うしかないんじゃないかな」 「正直に……ですか」 「でも……」 「隠したところで事態が好転するわけじゃない」 「それに、他の誰に言うよりも、まず伝えなくちゃいけない相手は、フィーナだろ?」 「……」 「達哉さんの仰ることは、その通りだと思います」 「わたしも、できれば、わたし達の関係について、姫さまに祝っていただきたいですし……」 ……。 「でも……」 「でも?」 「わたし達の関係は、許してもらえるでしょうか」 ……。 …………。 許す、許さないという話になると、前提となるべきことを俺はほとんど知らない。 ミアの仕事の重要性、フィーナが持ってる権限、他にも、知らないことだらけだ。 ……。 「正直、俺にも分からない」 「でも全てはフィーナに話をしてからなんじゃないかな」 「姫さまに……ですか……」 「……そうですよね」 ミアの様子を見ていると、前途が多難そうな雰囲気は伝わってくる。 一般論として、月人と地球人のラブロマンスなんてものを聞いたこともない。 ……。 …………。 重い空気が漂っている。 この雰囲気は良くない。 「ミア、でもさ、きっと何とかなるよ」 「俺が何とかする」 「達哉さん」 「だってさ、このままじゃ駄目だし、何かはしてみないと」 「……はい」 「考えてみるからさ。 いいやり方を」 「とりあえず、ミアは早く体を治して元気になること」 「まずは、それからだ」 「わかりました」 「とりあえず、夕方くらいまでは大人しく寝てないとな」 「そして、大丈夫そうだったら、起きて来て」 「はい、達哉さん」 「ほら、ベッドに行こう」 ……俺はミアを再びベッドに寝かしつけ、頭を撫でてあげた。 ……。 夕方にはミアも起きてくることができるようになった。 俺はそれを見届けてから、左門のバイトへ。 ……。 夜になり、晩御飯を食べる時──すっかり快復したミアが、フィーナや麻衣たちと一緒に左門に現れた。 ミアが、いつも通りにぱくぱくと食べているのを見て、俺は胸を撫で下ろした。 「おはようございまーす」 いつもの朝食風景。 ミアと麻衣が二人で食事を用意してくれている。 俺は姉さん用にお茶を淹れた。 ……。 「ミアちゃん、今日は私とフィーナ様の分、晩御飯は要らなくなると思うの」 「あ、お二人でお仕事ですか」 「ええ。 今日は博物館で歓迎レセプションよ」 「せっかく館長がいらっしゃってるんですものね」 「そりゃそうだよな。 館長じゃ……」 館長。 ……館長?「館長って、フィーナが?」 「ええ」 「えええええっ!?」 「姉さんが館長代理やってる博物館の話だよね?」 「あら、達哉くんには話してなかったかしら?」 「初耳、初耳!」 「なっ?」 麻衣を見る。 「うん」 麻衣も、俺と一緒に驚いている。 「ごめんなさい、この話はしたつもりになっていたみたい」 「まあ、名誉職みたいなものだから、気にしないで」 「実質はさやかが全て取り仕切っているのだもの」 「私は、博物館が一応『王立』だから、名前を貸しているだけと言ってもいいわ」 「そうだったのか……」 「じゃ、俺の目の前で朝御飯を食べてる二人は、実は博物館の館長とその代理なわけだ」 「ふふふ……そうなるわね」 「これまで何ヶ月もそうだったのに、気づかなかったなー」 麻衣は、大げさに残念そうな顔をした。 ……。 「……それでは、今晩は遅くなるのですか?」 「いえ、今日は本当に博物館の職員の皆さんだけの会らしいので、そんなには」 「人数も多くないから、こぢんまりとした会よ」 「フィーナ様も、いつもこれくらいの仕事なら良かったのですけどね」 「今日は、リラックスして楽しませて頂くわ」 二人は、そう言って博物館へ出掛けて行った。 ……。 …………。 そしてまた、昼過ぎになって麻衣が部活へ出かけると、ミアと二人きりになる。 「ミア」 「あ、はい」 「二人きりだね」 「も、もう、何を言ってるんですか~」 ちょっと意識させるようなことを言うと、すぐに真っ赤になってしまうミア。 俺はそんなミアがかわいくて仕方無い。 「ミア、俺も手伝うからさ」 「家事は、さっさと終わらせよう」 「では……そろそろ乾いてると思うので、洗濯物を取り込んで、畳むところまでお願いできますか?」 「お安い御用だ」 ……。 それからも、俺はミアの仕事の半分を受け持った。 二人で分担したことで、かなりの速度で家事が片づいていく。 俺たちは、夕食の食料の買い出しまでを、空が赤くなる前に終わらせた。 「ふう、今日の荷物は重かったなぁ」 「すみません。 お米とお味噌が両方とも切れてしまって……」 俺は、ソファにごろんと横になった。 「いや、いいんだ」 「俺がいる時が重いものを買うチャンスなんだしさ」 「どんどん頼ってよ」 「くすくす……ありがとうございます」 「では、あの……」 「?」 ミアも、俺が寝転がってるのと同じソファに座る。 「お礼と言ってはなんですが……」 俺の頭のすぐ隣に座っているミア。 両手で俺の頭を持ち上げ──するりと滑り込んだミアの太腿の上に置いた。 ……。 温かい。 これは、俗に言う『膝枕』だ。 ……そんな簡単なことを理解するのに、少し時間が掛かる。 「達哉さんの耳を掃除させて下さい」 「あ、ああ……」 俺は、頬から耳、首筋にかけたあたりから感じるミアの体温に動揺して、あまり考えずに返事をした。 スカート越しに、ミアの脚の形を感じる。 俺は、何だかほっとする香りに包まれていた。 「では……」 「そうだ達哉さん、痛かったら仰って下さいね」 「お、おう」 ミアが操る耳掻きが、俺の外耳に入って来た。 少し緊張する。 「……ん……」 「痛かったですか?」 「あ、いや」 「自分以外の人に耳を掃除してもらうなんて、ものすごく久し振りだからさ」 「なんか、変な気分だ」 「くすくす……私の耳掻きは、姫さまにもお褒め頂いた腕前ですから」 「ご安心ください」 そっか。 いつもは、ミアがフィーナの……。 「……男の方の耳は、初めてですけど」 「それは光栄だ」 「お手柔らかに頼むよ」 「はい、達哉さん」 ……。 …………。 それからしばらく、俺もミアも口を聞かずに、黙々と耳掃除をした。 ……俺は、ただ横になってるだけだったけど。 下手に、例えば太腿に触れたりしてミアを驚かせると、鼓膜の安全が保証できない。 ……。 …………。 「はい、こちら側は終わりです」 「たっぷり取れましたよ」 「そ、そっか」 なんだか……妙に気恥ずかしい。 耳垢、溜まってたのかな。 ミアが耳掻きの反対側についたふわふわで、細かい塵を取る。 「ああ……そのふわふわ、気持ちいいなぁ」 「梵天って言うんですよ。 このふわふわ」 ……奥から徐々に外へ、最後に耳朶。 ミアが、ふっと耳に息を吹きかける。 少し、首筋がぞわぞわっとした。 ……。 「それでは、反対側を……」 「反対側って?」 俺は、そのまま顔を180度回転させる。 顔がミアの脚の付け根から下腹部のあたりに埋まった。 「……少し……息が苦しいな……」 「当たり前ですよう」 「そりゃそうだよな」 「この格好はおかしいと思った」 「もう、達哉さんってば……くすくす」 笑いながら、ミアと俺はソファの位置を入れ換えた。 ……。 夕方頃帰って来た麻衣。 ミアと、三人での夕食を済ませてのんびりしていると──案外早く、フィーナと姉さんが帰って来た。 「ただいまー」 「ただいま戻りました」 「お二人は、もうお食事は……」 「ええ、博物館で頂いてきたのよ」 「とても美味しかったわ」 「普通、ああいったレセプションでの料理は、忙しくて食べられないのだけれど……」 「今日は、ちゃんと食事の時間も用意されていたの」 「ええ」 にこっと微笑む姉さん。 「さやかのもてなしは流石ね」 「呼ばれる方の気持ちまで、しっかり考えるのは難しいのよ」 「フィーナ様、褒めすぎです」 「いいえ、そんなことはありません」 ……。 フィーナは姉さんを絶賛。 どうやら、今日のフィーナ歓迎会は、姉さんが仕切っていたようだ。 ……。 フィーナ、姉さんの順に風呂に入り、皆がリラックスする時間帯。 「ミア、行こう」 「……は、はいっ……」 俺とミアは、時間を見計らって。 フィーナに二人の関係を話すことにした。 ……。 麻衣が帰って来るまで、ミアと二人で色々と可能性を考えたり対応策や作戦を考えたりしたものの──結局、フィーナに話した結果がどうなるか分からないと、何もできない。 何度か、扉の前で躊躇する。 ノックしかけて、手を下ろす。 「行きましょうっ」 「お、おうっ」 すぅーっと息を吸って止め、フィーナの部屋の扉をノックする。 こんこん……。 …………。 返事が無い。 こんこんっ……。 …………。 明かりは点いている。 電気を消さずに、寝てしまっているのだろうか。 「……ごくっ」 「もう一回だけ」 頷くミア。 こんこんっ……。 …………。 がちゃ「ごめんなさい」 「ちょっと音楽を聞いていて……」 「少し話があるんだけど、今、いいかな?」 「ええ」 「麻衣もいるけど、いいかしら?」 「あれ、お兄ちゃん」 どうやら、二人でクラシックの音楽を聞いていたようだ。 きっと麻衣が吹奏楽部から借りてきてるのだろう。 「どうしたの?」 それにしても、麻衣がいるとは思わなかったな。 俺は、どうしよう? という意図を込めてミアを見る。 ミアはわずかに肩をすくめ、仕方無いです、という表情で俺を見上げた。 ……。 最初にフィーナに話すとは決めたものの、すぐに、近しい人は皆知ることになるだろう。 その時に知るなら、今知っちゃってもあまり変わらない。 「で、お話しとは?」 「あのさ」 「えっと、その……」 「達哉にしては、歯切れが悪いのね」 「……」 ここで言わないと。 いつまでも言えないような気がする。 覚悟を決めろっ。 「ええと、俺……」 「ミアと……つき合うことにしたんだ」 「な、ミア」 「はい」 俯いて、もじもじしているミア。 ……。 「……」 「あら」 「やっと言ってくれる気になったのね、ミア」 「ええっ、姫さま、気づいてらっしゃったんですか?」 「少しだけ、ね」 「でも……良かったわね、ミア」 フィーナがミアの肩をぽんと叩く。 「あ、はい、ありがとうございます」 ぺこりとお辞儀をするミア。 「麻衣は気づいていた?」 「んー」 「……なんとなく、もしかしたらーってくらいかな」 「でも、ミアが達哉と……」 うんうん、と頷いているフィーナ。 ……。 二人とも、まだ事態を飲み込み中のようだ。 「とりあえず、私からは二人におめでとうと言わせて」 「達哉さん、私のミアに不誠実なことはしないでね」 冗談めかして言うフィーナ。 ……ただ、とても冗談として受け取る余裕が俺には無い。 「ああ」 妙に力の入った返事をしてしまう。 「お兄ちゃん」 「……頑張ってね」 「おう」 ……麻衣は、これからの俺とミアに思いを馳せ始めているようだ。 楽な道じゃないだろうけど、頑張れと。 励ましてもらったような気がした。 ……すっかり、ミアの家事を手伝うのが日常になっている俺。 だけど、今日は麻衣も姉さんもいて、俺の出番はあまり無かった。 となると。 久し振りに、イタリアンズを物見の丘公園まで連れて行こうか。 ……。 普段は、川原のあたりをぐるっと回って帰って来てしまうことが多い。 もちろんそれでも喜ぶが、やはり、リードから放してやった時が一番嬉しそうなのだ。 「よーしよしよし、少し待ってろよ」 俺が散歩の準備を始めたのを見て、大喜びのイタリアンズ。 ……そして、準備が終わり、今にも出ようとした時。 「達哉さんっ」 「わたしも行きます」 慌てて外履きを履いたミアが、玄関から転がり出てきた。 息が少し切れているけど、嬉しさが滲み出てきている表情だ。 ……。 「麻衣が?」 「ええ」 「晩御飯までの準備は受け持つから、達哉さんと一緒に散歩に行ってくれって」 「麻衣……気を遣ってくれたのかな」 気の回る妹だ。 「やっぱり、そういうことなんでしょうか……」 「あとで、こっそりお礼言っとくよ」 「今日もフィーナは出掛けてたよな」 「ほんと、毎日忙しそうだ」 「今日は、地球の偉い方にお茶に誘われているそうですよ」 「こういう付き合いも仕事のうちだ、と仰ってました」 「さすがお姫様だ」 フィーナの責任感には、本当に感心する。 「ミアは行かなくていいの?」 「ええ」 「少人数の、内輪な集まりだとか」 ……俺は、人気が無いのを確認して、イタリアンズからリードを外す。 「わふわふっわふっわふっ」 「ぅわんっ」 「おんおんっ!おん!おんっ!おんおんっ!おんっ!おんおんっ!」 三匹は、坂を駆け上ったり駆け下りたりじゃれ合ったり。 普段溜めていた体力を一気に発散するかのように、遊び回る。 ……俺とミアは、階段を少し登り、丘の中腹にある木陰に腰掛けた。 俺が座った隣に、くっつくようにミアが腰を下ろす。 こてり、とミアが頭を俺の肩に預ける。 ……。 気温は高いけど、湿度が低いのか爽やかな暑さだ。 草いきれが風に漂って鼻腔をくすぐる。 ……。 「ミア」 「はい」 「ミアが月にいた時の話を聞きたいな」 「フィーナと初めて会った時とかさ」 「……」 昔に思いを馳せているようなミア。 「ほんの小さな頃だったので、あまりはっきりは覚えていないんですけど……」 「確か、母さまについて王宮内に行った時だったと思います」 「うん」 「母さまが、セフィリアさまと姫さまに紹介してくれたんです」 「これから、この子がフィーナ様のお世話を致します、って」 「何年前くらい?」 「そうですね……」 「たしか、6年か7年前くらいだと思います」 「わたしは、王宮の中が怖くて、ずっと母さまのスカートにしがみついてました」 「そうしたら、姫さまが近づいてきて、わたしの手を取ってこう言ったんです」 「『これからずっと一緒にいてくれるのか?』って」 「それで、それからずっと一緒にいたわけだ」 「ええ」 「その頃、姫さまにはあまり年が近いご友人がいらっしゃらなくて」 「貴族の娘とかは?」 「子供ですから粗相をすることもあるでしょうが、それを親が恐れて……」 「なので、それまでは、ずっと母さまが遊び相手をしていたそうです」 「もちろん、長い勉強時間の合間だけですけどね」 ……。 あのフィーナが……。 王族の一人娘ともなると、俺には想像もできないような大変さがあるんだろうな。 「でも、それからはミアがずっと一緒にいたんだろ?」 「ええ」 「公式な場はともかく、プライベートではずっと一緒にいたと思います」 「本当に、いつもご一緒していました……」 ……。 きっと、ミアにとっては、フィーナの側にいるのが自然なんだろう。 フィーナにとっても、ミアが側にいて当たり前。 この二人は、これまでずっと、そうして過ごしてきたんだ。 そこに……俺が入り込む余地はあるのだろうか。 ……。 「姫さまの母上、セフィリアさまが、またお忙しい方だったこともあって」 「母さまは、ずっと姫さまにとっても母親がわりでした」 「セフィリア女王と話をしたことはある?」 「はい」 「あまり多くはありませんが、何度か」 「毅然としてて、改革をたくさんやった……どっちかって言うと厳しい人って印象なんだけど」 「月のお金に使われてるって肖像画も、きりっとした感じの顔だったしさ」 月学概論の知識を総動員する。 「そんなことないですよ」 「わたしがお会いしてお話しした限りでは、とても優しい方でした」 「へえ、そうなんだ」 「あまり長い時間、姫さまと一緒に居られないことをとても気に病んでらっしゃいましたし」 「だから、姫さまの母親役を母さまにお任せになったのでしょう」 「結構、印象と違うね」 「……俺が、セフィリア女王の笑った顔を見たことが無いからかな」 「わたしが、一番はっきり覚えているのは……」 「セフィリアさまが、私の頭を撫でながら『フィーナと仲良くしてあげてね』って仰った声です」 「とても優しい御方だったと思います」 「そっか……」 ……。 教科書や授業でセフィリア女王に対して持っていた印象とは、全然違う。 生の本人に会ったミアが語る、血の通ったエピソード。 俺が持ってる知識や印象は、やはり表面的なもののようだ。 「じゃあミアは、セフィリア女王から直々に、フィーナの世話を頼まれたんだ」 「ふふ……そうなりますね」 「私を撫でてくれた手も温かかったです」 ……。 「わふわふっわふっわふっ」 「わんっ」 「ぅおんっおんおんっ!おんっ!おんおんっ!」 遠くから、イタリアンズが戯れている鳴き声が聞こえてくる。 木陰にいたはずが、いつの間にか影が動いて、日向になっていた。 「もう少し、こちらに座り直しませんか?」 「そだな」 俺はミアに従って、1mほど移動して座る。 風は相変わらず熱く乾燥している。 俺はミアの肩を抱き、ミアも俺に体を預けた。 そのままの体勢で。 互いに何も語らず、互いの体温と、鼓動だけを感じて。 じっと、ゆらゆらとした風に吹かれていた。 ……。 …………。 「そろそろ帰ろうか」 「あいつらも、たっぷり遊んだろ」 「そう……しましょうか」 「アラビアータ」 ……この状態で名前を呼んで戻ってくるのは、アラビアータだけだ。 「おん」 「帰るぞ」 大人しく、リードをつけられるアラビアータ。 「あの、ペペロンチーノとカルボナーラが……」 「まあ見てて」 俺が、アラビアータと帰ろうとする。 すると……置いて行かれると思ったのか、ペペロンチーノとカルボナーラが慌てて駆けてきた。 「ほらね」 「なるほど……」 二匹にもリードをつけ、三匹揃ったいつものスタイルに納まった。 ……。 「ミアのお母さんってさ、今も月の王宮にいるの?」 「いえ……」 「母さまは、セフィリアさまがお亡くなりになった時に、王宮からお暇を頂きました」 「喪に服す意味もあったと思いますが……」 「母さまの場合は、王宮に務めていたというよりセフィリアさまに仕えていましたから」 「ミアも、そうなるのかな……?」 「……」 ミアは、少し陰の差した表情で、わずかに俯く。 ……。 しまった。 ミアの場合、ミアのお母さんと同じ道を選ぶということは──フィーナの留学終了と同時に、また一緒に月に帰ることを意味している。 つまり、俺とは……。 「ごめん、今の質問ナシ」 「母さまが王宮を辞す時に、わたしに話してくれたことがあるんです」 「セフィリアさまからの伝言でした」 何か、決意を込めた表情で、ミアが言う。 きっと……誰にも話したことが無いんだろう。 「『フィーナ様には、フィーナ様が正しいと思う道を進んでほしい』」 「『フィーナ様自身の信念を大切にしてもらわないといけない』」 「『もしフィーナ様が間違った道を歩いて行きそうになったら、正してあげないとね』」 ……。 これは……メイドというよりは、なんて言うか……王を補佐する宰相とか、そういう仕事のような気がする。 そんな重要な仕事。 ……。 「母さまは、姫さまのことを、今でもとても心配しているようです」 「王族に、損得抜きで味方をしてくれる人はとても少ないと言っていました」 「ましてや、諫言を口にする人はいない、と」 そんな重責を。 ミアやミアのお母さんは負っていたのか。 ……。 …………。 俺は、ミアのことを見誤っていた。 ミアの役割は、フィーナの身の回りの世話をすることだけだと思っていた。 でも。 全然違った。 そんなもんじゃない。 ミアの役割は、俺が思ってたのなんかより、はるかに重かった。 ……。 孤独な姫。 孤独な女王。 その精神的な支えになること。 その歩む道が間違っていた時には、正すこと。 公的な立場ではないとは言え、とても重要な職なんじゃないか。 ……。 ミアは。 ミアは、どうするつもりなんだろう。 俺とミアが、今みたいな関係になって。 俺が月に行けるわけでもなく。 ……。 結局、最終的に選ぶのはミアなんだけど──俺はその選択の重さに、軽く目眩を感じた。 今日は、大使館で月と地球の交流に関する会議があるらしい。 フィーナが参加するのはもちろんだけど……姉さんもオブザーバーとして参加するらしく、朝食がいつもより早かった。 麻衣とミアは、これまでに無いくらい濃くて渋いお茶を淹れて、姉さんに飲ませる。 ……。 「行ってきますねー」 「行って参ります」 二人がダイニングから出て行く。 「麻衣は、何か予定あるのか?」 「今日も部活だよ」 「……そっか」 ということは、バイトの時間まではミアと二人きりだ。 「お兄ちゃん、すっごく嬉しそうな顔してる」 「ええっ、そんなことないって」 慌てて否定する俺。 「冗談でーす」 「そんなに焦っちゃって、もしかして図星?」 「……ま、まさか……なあ、ミア」 「は、はい?」 ミアは、何やら楽しげな表情でぼんやりしていた。 「ああっ、ミアちゃんまで……」 麻衣が大げさに落胆する。 「……何だかお兄ちゃんを取られちゃった気がして寂しいな」 「ま、麻衣さん、そんなことは……」 「こっちも冗談」 てへっと舌を出す麻衣。 「はぁぁ、安心しました」 「おいおい、あんまりからかうなって」 「あははは」 「じゃ、わたしは出かけるからっ」 「あ、おいっ……」 麻衣は逃げ出すように、ダイニングから出て行った。 ……。 この日。 家に残された俺とミアは、分担して家事をすることにした。 ミアは掃除や片づけなど、屋内の仕事を。 俺は草むしりやイタリアンズの世話など、屋外の仕事だ。 ……。 照りつける太陽の下、庭の草をむしっていく。 次々と汗が溢れ、シャツをべっとりと濡らした。 ……。 昼食を取ってからも庭に出る。 ようやく草むしりが一段落したのは、午後3時頃だった。 ……。 「達哉さん、お茶をいかがですか?」 リビングからミアが顔を出す。 「ああ、一段落したところだよ」 「まあ、ちょうど良かった」 「準備はできていますので」 「今行くよ」 立ち上がって腰を伸ばす。 すがすがしい疲労感があった。 「たくさん汗をかきましたね」 「夏はこのくらいの方が気持ちいいよ」 「そうだ……待たせて悪いけど、先にシャワー浴びていいかな?」 「はい、遠慮なさらないで下さい」 「ありがと」 「では、リビングでお待ちしています」 ミアが俺を見て笑う。 俺も微笑み返した。 ……。 特別なことをしていたわけでもないのに、なぜか幸せな気分だ。 家の中をミアが掃除して、外は俺が掃除して──姿は見えなくても、お互い家を維持するという同じ目的のために働いていた。 それが、幸せを感じた理由なのかもしれない。 ……。 もしかしたら、夫婦っていうのは、こういう幸せを感じられる二人のことを言うのかもしれない──などと、自分勝手な想像をめぐらせただけで、胸が温かくなった。 ……。 …………。 「……ミア、上がったよ」 頭を拭きながら、リビングへ入る。 「あ、お疲れ様でした」 ミアは、ティーポットからお茶を注いでいるところだった。 テーブルの上には、おいしそうなクッキーが並べられたカゴが置かれている。 俺はミアの隣に腰を下ろした。 「美味しそうだね」 クッキーをひょいと摘まむ。 「あっ、まだだめですっ」 ガチャッ「っっ」 ミアが顔をしかめる。 「大丈夫か?」 「は、はい……ポットの熱いところに触ってしまいました」 きっと俺の動きに驚いて、手元が狂ってしまったのだろう。 ……。 「ごめん、俺がつまみ食いなんてしたから」 「あ、本当に平気ですから」 「恐らく、火傷にもなっていないです」 ミアは笑顔のまま、お茶を淹れる。 指先がかすかに震えていた。 ……。 「指、見せて」 ポットを置いたミアの手を取る。 「あ……」 細い指が、赤くなっていた。 「少し、火傷してる……ごめんな」 「い、いえ……あっ」 ミアの指を口に含む。 何の抵抗もなく、そうしていた。 「達哉、さん……」 少しうっとりとした声。 ミアの指先を、舌で優しくなぞる。 「あ……達哉さんの舌が、動いてます」 ミアが少し俺に寄り、ぴったりと体が密着する。 服の上からでも、ミアの柔らかな肢体を感じることができた。 「……石鹸の匂いがします」 子犬のような表情で、ミアが俺の胸に顔を寄せる。 ほんわかしたミアの匂いが立ち上ってきた。 「もごっ……」 喋れない。 指を咥えているのを忘れていた。 「くすっ、噛んではだめですよ」 優しい目でミアが俺を見る。 何だろう……。 すごく胸が高鳴る視線だ。 俺は、片方の手でミアの頭を撫でる。 「あ……はうぅ……」 うっとりと目を細め、ミアが俺の胸に顔をうずめた。 ミアの指を口から出す。 そして、ミアを抱きしめる。 ……。 …………。 「達哉さんの匂いが、いっぱい……」 「ミアの匂い、何だか落ち着く匂いだ」 「あまり嗅いでは嫌です」 「いいじゃないか、好きな匂いなんだから」 「そんな……恥ずかしいです……」 ミアの体を起こし、首筋に顔をうずめる。 「指はどう? まだ痛い?」 「いいえ……なんだか、もう治ってしまった気がします」 ミアがやんわりと俺を抱いてくれる。 ここまま先まで行ってしまいたい気分だ。 ……。 試しに、唇でミアの鎖骨をなぞってみる。 「あ……唇が……動いて……」 ミアの体が反応した。 更に様子を窺うべく、鎖骨から首筋、耳まで顔を移動させていく。 「っ……あっ……くすぐった、い」 身をよじらせるミア。 顎の下を通り、反対側の耳へ──そして再び鎖骨へ。 手では、肩や背中を優しく撫でていく。 「はぁ……あっ……達哉、さん……何を……」 「はぁ、はぁ……くすぐったくて……だめです……」 ミアの息が上がってきている。 反応の敏感さに、愛しさが胸を満たす。 「ミア……好きだよ」 「そ、それは……わたしもです、が……」 背中をさすっていた手を前に持ってくる。 なだらかな丘に手を載せる。 「あうっ……ぁ、ぁ……達哉さん……こ、ここで……?」 「誰もいないんだから、大丈夫」 「それはそうですけど……」 「で、でも……まだ明るい、です」 「ミア……」 首から顔を離し、唇をふさぐ。 「んむっ……ん、ん……ん……」 ミアの体から、すっと力が抜けた。 ゆっくりとミアの口内に舌を差し込む。 ……。 「ん……くちゅ……ちゅ……」 ミアも、おずおずと舌を伸ばしてきた。 粘膜が絡み合う刺激に、頭がぼんやりしてくる。 身長差を利用して、ミアに唾液を渡していく。 「ぅ……んくっ……っく、こくっ……」 ミアの喉が揺れる。 「くちっ……くちゅ、ぴちゅ……」 舌の動きが滑らかになる。 荒くなったミアの鼻息が、顔にかかってこそばゆい。 ……もう、大丈夫かな。 エプロンの腰紐に手を回した。 「っ……」 唇を離す。 「いいよね……?」 ミアが無言で頷く。 エプロンの紐を、しゅるりと解いた。 ……。 「あ、あの……目を瞑っていて、頂けますか?」 「わたし、自分で……」 「ああ、分かったよ」 ……。 しゅる……ぱさっ……しゅるしゅる……衣擦れの音が響く。 今は何を脱いでいるのだろうか?視覚が遮断されている分、想像が掻き立てられる。 俺の下半身は、早くも大きくなり始めていた。 ……。 …………。 「た、達哉さん……」 少しは離れたところから、ミアの声がした。 急く胸を抑えながら、ゆっくりと目を開く。 ……。 そこには、素肌の上にエプロンを掛けただけのミアが立っていた。 「ミ、ミア……?」 「……」 俯いたミアが、耳たぶまで真っ赤にする。 「あの……お嫌いですか……?」 「あ、いや、で、でも……どうして」 「仁さんが……以前、達哉さんは、こういった格好が、お好きだと……」 「……うわ」 呆れてものも言えない。 何を吹き込んでるんだあの人は。 「ご、誤解だって」 「えっ……」 「では……お好きでは、ないのですね」 ミアがしょんぼりする。 ……。 「嫌いじゃないと言えば嘘になるけど……」 気恥ずかしくなって俯く。 自分でも、どっちなんだと突っ込みたくなった。 「??」 「その……好きだよ」 「現に、興奮してる」 「……良かった」 ミアが安堵した表情を浮かべる。 表情と格好のギャップに、思わず苦笑してしまう。 ……。 俺はミアに近付いて、その体を抱きしめた。 「ひゃ……」 「あの……当たって……ます……」 「言っただろ、興奮してるって」 「ただでさえミアは可愛いのに、こんな格好されたら、余計に……」 ペニスがはちきれそうになっている。 ズボンに圧迫されて痛いくらいだ。 「ミア、ごめん……興奮しすぎて……」 「今日は、達哉さんの好きなようにしてもらおうって、決めていました」 「だ、だから……あの、興奮して下さって……とても、嬉しいです」 もじもじと俯きながら言う。 「ごめん……もう、我慢ができなくなる……」 「は、はい……あの、達哉さんの好きなように、して下さい」 ミアが目を瞑る。 「……ミ、ミアっ」 ミアを抱きしめ、ゆっくりと床に倒していく。 ……。 「あ……や、やぁぁ……」 「達哉さん、恥ずかしい、です……」 四つん這いになったミアの腰を引き上げる。 脚がぱっくりと開かれ、中心にある女性器は高々と晒された。 「ミアのここ、もう濡れてる」 「……見ないで……見ないで下さい」 ミアが羞恥に体を震わせる。 女性器を包む肉がこすれ、薄っすらと蜜が染み出した。 「あ……や、やぁ……恥ずかしくて、もう……」 まるで催促するかのように腰が揺れる。 刺激的な光景に、ペニスが破裂しそうだ。 早速ベルトを外す。 ……。 「あ、あの……後ろ、から?」 「前とは違った感じでしてみようよ」 そう言って、ミアの上に覆いかぶさる。 両手をエプロンの隙間から差し入れ、乳房に当てる。 「ひゃっ……ぁ……」 手のひらの真ん中に、固くなった乳首が当たる。 少しだけ突起に圧力を掛けながら、胸を優しくマッサージする。 「んっ、あっ……あ、あ……」 「達哉、さんの手が、とっても、とっても熱い、です……」 ミアの肌に汗が浮いてきた。 乳房が、ぴったりと手に吸い付く。 「ミアの肌は、本当に綺麗だね」 「あうぅ……そんなこと……」 嬉しいような、恥ずかしいような声を出すミア。 俺は、少しずつ力を込めてミアの胸を愛撫していく。 「あっ……うぅ、達哉さん……ん、んんっ……」 手の中で、乳首が一層固さを増す。 下半身へと目を移すと、秘裂が愛液でぬらぬらと光っていた。 ……もう大丈夫そうだ。 「ミア、そろそろいいかな?」 「あ、は、はい……お、お願いします」 胸から手を離し、腰をしっかりと支えた。 反り返りそうなほど固くなったペニスを、ゆっくりと膣口に添える。 「あの……前より、大きくなっている気が……」 「今日のミア、すごく可愛いから仕方無いよ」 「あうぅ……」 のぼせた声を出すミア。 「じゃ、いくよ」 ミアが頷いたのを見て、腰を前に突き出す。 ……。 ずちゅっ……ぐちっ……「ああぁっ、あ、あ……うあっ!」 まだ2回目のミア。 膣内の抵抗は相変わらずだ。 異物の侵入を全力で拒む狭道に、休まずペニスを突き入れていく。 「あんっ、ああっ……んんっ、あうっ!」 膣の背中側を擦るように、俺のペニスが埋没していく。 「ぅ……ぁ……んあっ、ひゃうっ……あ、ああぁっ!」 やがて終点にぶつかり、ペニスの大部分がミアに隠れた。 ……。 ぬめる膣内が、俺をぎゅっと握り締める。 重い痺れが腰を包んだ。 「ミア、入ったよ」 「はぁ、はぁ