「由綺は今年さ、学園祭来られそう?」 去年は行けなかったけど、今年こそは、由綺と一緒に学園祭で遊びたいな。 「うん…。お仕事入っちゃってる…」 「二日間とも?」 「二日とも…」 「そうかあ…」 半分予想はしてたけど、でも、寂しいな。 「冬弥君はどうするの?」 「う~ん…。由綺と一緒かなって思ってたから特に決めてないけど…」 「そうなんだ…」 「ごめんね」 そう言って由綺はうなだれる。 「ああ。そういう意味で言ったんじゃないよ。俺は俺で適当に遊んでるからさ」 「でも、私も一緒に行きたかったな…」 「うん…」 「一緒にアトラクション回ったり、おいしいもの食べたり、ライブステージ観たりとか…」 「そうだね…」 だけど、我慢しろなんて言える立場じゃないしな、俺…。 「でも、それはそれで仕方ないじゃない。いいよ。なにも学園祭じゃなくたって遊べるんだしさ。そのうち暇見つけて遊ぼうよ」 「うん…」 こんな風に、少ない時間から暇を探すのって俺は結構好きだけど、忙しい由綺にしてみれば楽しいなんてもんじゃないはずだ。 それなのに由綺はこうやって笑ってくれる。 そういう時って、由綺がすごく近い存在に感じられるんだよな…。 「うん? なあに? 冬弥君…?」 「え…?」 「今度は笑ってるよ…?」 「なんていうかさ、あったかいものとか美味しかったりするよね、最近って」 「あ、するする」 憶測だけど、由綺って結構、仕事場じゃこんな話できないんじゃないかな。 こんな風に普通で、どうでもいい、下らない話なんて。 「肉まんとかね」 「ぷっ」 つい俺は吹き出してしまう。 あの森川由綺が『肉まん』…。 ファンが聞いたらどう思うだろう。 「えっ? おかしい?」 「う、ううんっ。おかしくないよ」 「他には?」 「…おでん?」 「ぷっ…!」 また吹き出してしまった。 俺の勘だと由綺は最後まで卵を残すタイプだ。 「えっ? えっ? コンビニで買って食べるのって美味しいよねっ?」 「うん、美味しい美味しい」 ますます田舎の高校生。 由綺、高校の時から味覚変わってないのかな。 それ以上に趣味も。 「ジャンク…過ぎるかな…」 「ま、まあ…」 由綺は由綺で、全然違う部分で一人で勝手に反省してる。 「判ったよ。笑って悪かった。じゃあ、帰りに一緒にコンビニ寄って帰ろ」 「う、うん…!」 「一緒に食べよ、その…肉まんをさ…」 だめだ。 『肉まん』って響きに笑いがこみ上げる…。 「?」 「なんでもないって」 そして俺達は、久しぶりに一緒に話をしながら帰った。 「由綺、時々は実家とかに帰ってる?」 実家、っていっても、由綺のマンションのすぐ近くなんだけど。 「ううん。全然…」 「でももう、父さんも母さんも気にしてないみたい」 「時々は電話しないと心配するみたいだけど」 「理解あっていいよね、由綺の親って」 「そうかな?」 「冬弥君の方は? 帰ってる?」 「まさか」 俺は別に独り暮らしがしたくてしてるんじゃない。 俺の実家っていっても、電車で一駅の近所だ。 ただ、由綺が仕事の為にマンションに一人で暮らしてるのに対して、俺の方は半ば親父の気まぐれで独り暮らしをさせられてるみたいなものだ。 最初はただ、家を増築する間、居場所のなくなった俺が一人で部屋を借りて生活する ってはずだった。 それなのに、いつの間にか増築の話は無くなってて、俺の独り暮らしの名目が『精神修行』とか何とかに変わってた。 「冬弥君のお父さん、すごいからね…」 「すごいっていうか…」 「近所の坊さんに『厳格な父親』って褒められたからって、いい気になって息子をほったらかすかな、普通…」 「でも、そのおかげで独り暮らしができてるんでしょ?」 「よかったじゃない?」 「まあね…」 だからこんな風に、それほども時間とか気にしないでバイトしたり遊んだりしてられるんだけど。 こんな風に、気軽に由綺と会ったりもできる…。 「でも、ちゃんと帰ってあげなきゃね。たまには」 「そのうちね」 なんて、帰る気はないんだけど。 「由綺も家の人に元気な顔見せて安心させてあげなきゃ」 「そうだね。ふふふっ」 この笑顔、家族が見たら安心するよな。 やっぱり。 「由綺、学園祭の日は結局どうしたの…?」 「えっ…」 「うん…。弥生さんとドライブ…」 「やっぱり休めたんだ」 「えっ…? あ…」 「うん…」 「そうなんだ…」 そうだとは思ってた。 俺の為に無理してるって、なんとなく…。 結局、寂しい休日過ごさせちゃったな…。 「ごめん、由綺…」 「ううん…」 由綺は首を振ったけど、俺の言葉を否定すればするほど、由綺の寂しさがにじみ出てくる。 俺は、そんな由綺の手をそっと握る。 「今度は、一緒にいたいね…」 「うん…」 「約束…だね…?」 「うん…」 「俺、家庭教師始めたんだ」 「あ、申し込んでたのが来たんだ?」 「うん」 「あ、でも、張り切り過ぎて無理しちゃだめだよ」 「大丈夫。週一だもん」 「へえ、そうなんだ」 あ、驚いてる。 そりゃそうだ。 しかもサボりも自由だし、こんな気楽なバイトなんてそうそう無いだろうな。 「しかも受験生」 「冬弥君…ほんとに…?」 まったくだ。 「とにかく、無理だけはだめだからね」 「由綺に言われるほどじゃないって」 由綺にまで『無理しないで』なんて言われるかな、俺。 「だって、冬弥君… 時々すごく無理するんだもの…」 「…私がずっとついていられたらいいって思っちゃう時、あるから…」 「大丈夫。無理なんかじゃないって」 「うん…」 「判ったよ…」 たあいない嘘とかほんととか、内容には関わらないで、こんな風に言った方がいい時ってあるんだな。 「約束する。無理なんかしない。絶対」 「うん」 「安心した?」 「うん」 たとえば、こんな風に言ってあげるだけでいいって時が。 意味が無くたって、言葉だけ欲しいって時が。 「なんだか…久しぶりって気がするね…」 「そうかな…」 「今日も仕事?」 「うん…。弥生さんと車で…」 椅子に腰掛けながら、由綺はそっと俺の顔を覗き込む。 「疲れてる…?」 「あ、ううん。由綺こそ…」 「大丈夫。まだ平気…」 そしてちょっと安心したみたいに呟く。 「なんだか、いろいろ話したいことあったんだけど、なんか…」 「うん…。俺も…」 そしてしばらく黙り込む俺と由綺。 決して重苦しくない、ゆったりとした沈黙。 この沈黙が長くは続かない、それは判ってたけど、だけど俺はただ何も言わないで由綺の側でずっと彼女を見ていた。 言葉なんかなくなったっていい。 こんな風に、気持ちを伝えたい相手がいつまでも側にいてくれるんだったら、言葉なんて要らない。 そんなことを考えてると、「お待たせしました、由綺さん」 車を停めてきたらしい弥生さんが、俺達の間に割って入ってきた。 彼女は席に着く前に、俺の方をそっと見る。 まるで警戒するみたいに。 「お食事の後に、もう一度スタジオの方に戻られるようにとのことでした」 「緒方さんが?」 「はい」 「そう…。判りました…」 由綺は弱々しく答える。 「由綺…」 「ううん…。大丈夫。多分、そんなに大変なことじゃないと思うから」 「…弥生さん。それじゃあ、急いでお食事済ませて行かなきゃね」 「はい」 由綺の優等生な返事に、弥生さんは満足そうに微笑む。 それから二人は静かに食事を摂って、そのまま店を出て行ってしまった。 少しだけ会えた分、少しだけ、寂しかった。 「最近…ほんと、がんばってるよね…」 「うん…」 「だけど、私だけつらいなんて言ってられないもの」 「うん…」 「理奈ちゃんだって一緒にがんばってるし、弥生さんだって前よりももっとお仕事してるし」 「そうなんだ…」 そんな中にいたら、簡単な泣き言なんか言えないよな…。 「でも…一番がんばってるの…緒方さんじゃないかな…?」 「英二さん…?」 「うん。あの人、もう外に食事に出るなんて全然しないもの。…寝てる時間だって…」 「私達のレッスンの監督しながら、それで自分の曲書いてて。ずっとそんな感じ…」 つらいのは… みんな同じなんだな…。 みんな、ぎりぎりのところでがんばってる。 先に泣いた人間が負ける、こんな世界で由綺はどこまでがんばれるんだろう…。 そして、つらくてやりきれなくなった時、由綺は俺に何か言ってくれるんだろうか…? 「どうしたの、冬弥君?」 「ん? なんでもない」 そして店の外に足音が響く。 「弥生さんかな?」 「多分ね」 入ってきたのは、やっぱり弥生さんだった。 そしていつもみたいに、二人で静かに食事をして帰っていった。 ある意味、由綺も弥生さんも同じフィールドで戦ってるんだなって思えた。 「そういえば由綺って、仕事場で友達とかっている?」 「えっ? お友達?」 「うん。同じアイドルとか、タレントさんとかで」 「んー…。あんまりいないけど」 「あ、でも、理奈ちゃんとはお友達だよ」 「理奈ちゃんって、緒方理奈ちゃん?」 「うん。多分、一番仲良しだと思う」 「へえ…」 雑誌とかには由綺のライバルとか、時には厳しい先輩チックに書かれてるんだけど。 まあ、俺が会ってみた限りだと、確かに優しそうかな。 「でも、ほんとのところってどうなの、理奈ちゃんって?」 「どうって?」 「怖い?」 「怖い? …冬弥君、怖いの?」 「なんで俺が怖がるのさ」 いや、ちょっとは怖かったけど。 「理奈ちゃん、怖い人じゃないよ」 「静かでおとなしくて、すごく上品でおしゃれなんだから」 「うん。そんなイメージみたいだね」 実際に会ってて、俺もそんな印象を受ける。 「イメージ通りの人だよ。…イメージよりもちょっと優しいかな」 「ふうん…」 「私と時々おしゃれの話とかするんだよ」 「私とは全然趣味が違ってるんだけど…」 「でも理奈ちゃんの趣味って、私も良いって思うし」 「私も時々、理奈ちゃんにアクセサリーとか選んでもらってるんだよ」 「えっ? ほんとに?」 「うん」 いいなあそれ。 俺も、なんて言って簡単に入っていける世界じゃないしなあ…。 「どうしたの?」 「あ、うん…。由綺って良い友達多いよな…」 「うん…。ふふふ…」 「由綺って、他のタレントさんから声かけられることって、ない?」 「うん。理奈ちゃんとはよく話すよ」 それは前に聞いたから。 「そうじゃなくて…たとえば、男の人からとか」 「うん。緒方さん」 「すごく物知りだから、話してて楽しいよ」 「だから、そうじゃなくて…」 由綺はにこにこ笑っている。俺の質問が判ってないんだろう。 当たり障りなく説明するのが難しい。 「かっこいい男性タレントだっているだろ? 由綺に興味を持つ人とか」 「あ…」 由綺にもやっと意味が判ったらしい。 「そんなこと、全然ないよ」 「ステージではみんな忙しいし、仕事以外の会話なんて、なかなかできないし」 「もっと有名な人だと、スキャンダルにも気をつけなきゃいけないし」 「そうか…」 確かに、由綺の言う通りかも知れない。 こんなバイトをしていると色々なタレントさんを見るけれど、人気や才能がある人ほど、マネージャーがきちんと管理して、秒単位で仕事をこなしている。 だから、舞台裏を知っていると、あまり幸せそうな感じがしない。 「でも、由綺もその中の一人だろ?」 俺は、自分に問いかけるように訊く。 「私なんか、誰にも相手にされないよ」 売出し中のアイドルとは思えない発言だ。 俺の言っていることなんて、最初からまともに取ろうとしていない。 「だから、冬弥君がこうやって話しかけてくれると、嬉しいよ」 そう言って、笑ってくれる。 高校の頃から変わらない、いつもの由綺の笑顔だ。 でも今、森川由綺はアイドルで、俺はアルバイトのAD。 こうして二人で話してると、忘れてしまいそうになって… 「やあ、勤労青年。元気に働いてるか?」 「…………」 「なんだ、景気が悪いな」 いきなり現実に引き戻されたら、景気も悪くなります。 とはさすがに言えない。 「英二さんは景気が良さそうですね」 「景気、景気ねえ…」 「景気なんてのはただの幻想さ。実体なんてない」 「大多数が好景気って思ってる間は、好景気が続く。不景気だって思ったら不景気になる」 「由綺って、ひょっとして毎日弥生さんの車で仕事に行ってる?」 「毎日じゃないけど」 「あ、いや。…毎回?」 「うん」 やっぱりか。 「かっこいい車だよね」 「ああ…。うん、かっこいい…」 すごく、弥生さんに似合ってて。 「あれってスポーツ系の自動車なんだって」 「…ツーリングカー…っていうの?」 「へえ…?」 「弥生さん、言ってたよ」 「だからすごいスピードが出るんだって」 「あ、でも、弥生さん、そんなスピードは出さないけどね」 「だろうね。はは…」 彼女の場合、交通法規がハンドル握ってるみたいなもんだし。 「でも意外だね。あの人がツーリングカーなんて」 「あ、弥生さんってね、結構スポーツとかやってた人なんだよ」 「そうなの?」 それも意外だ。 汗の匂いなんか全然感じさせない人なのに。 「うん。メジャーなのは一通りやったって言ってた」 「すごいな…」 「…でもね、スポーツが好きとか、そういうのは全然ないんだって」 「なんだか不思議だよね」 「不思議っていうか…」 普通の人が言ったとしたらね。 弥生さんって、ほら、アレだから…。 「でもまあ、毎日の由綺の送り迎えもモータースポーツみたいなもんじゃない?」 「毎日じゃないってばー」 「悪かった。…でも、毎日みたいな感じじゃない?」 「そうかなあ…?」 まあ、これが『みたいなもの』のままでもいいんだけど…。 「仕事で嫌なことがあった時、どうしてる?」 言ったとたん、由綺は俺の顔を覗き込んできた。 「冬弥君、何か嫌なこと、あったの?」 「いや、俺は…」 「別にないけど」 由綺があんまり真剣だから、意味もなく口ごもってしまった。 「ほんと?」 「ほんとだって」 「ならいいけど…」 由綺はまだ不安げだった。 「ほんとに大丈夫だって。 俺なんて下っ端だから、困るほどのポジションじゃないし」 「そんなことないよ」 「冬弥君、みんなから頼りにされてると思う」 「買いかぶりだって」 「そんなことないよ…」 自分に言い聞かせるみたいに、もう一度繰り返す。 「理奈ちゃんも緒方さんも、冬弥君のこと褒めてるんだよ」 にっこりと笑ってくれた。ただのお世辞、ではないんだろう。 俺が自分で思うよりずっと、由綺は俺のことを認めてくれている。 そんな真剣な気持ちが、理奈ちゃんや英二さんにも伝わっているんだと思う。 男としてもちろん嬉しいし、光栄だと思っているけど。 「それはさ、由綺がすごいってことだから」 「え?」 目をまん丸にして、聞き返してきた。 こういう素朴な反応は、つきあい始めた頃から全然変わってないな、と思う。 こっちが質問しようとしたのに、立場が逆になってるし。 「でさ、由綺の方はどう?」 改めて訊いてみた。 「え? 私?」 「仕事してて、悩みってあるだろ?」 そう付け加えてやっと、どういう意味か判ったらしい。 由綺は少しの間考えて、恥ずかしそうに言った。 「うん、あるよ」 「うまく歌えなかったり、振り付けが覚えられなかったり…」 真っ先に出てくるのが人間関係じゃないところが、由綺らしいなと思う。 「そういう時って、どうしてる?」 「ええと…」 「美味しいものを食べて、ぐっすり眠って…」 ちょっと意外な答えだ、と俺が思っていると、由綺は照れくさそうに笑った。 「なあんて、ほんとは言うほど簡単じゃないよね」 「理奈ちゃんとも、こういうこと話したりするけど」 「気分転換が大事ってことは、判ってるんだけど…やっぱり、できるだけ頑張るしかないって、思っちゃうかな」 そう言った由綺は、いつものちょっと自信なげで控え目な、俺の知ってる由綺だった。 「でも、たまにはちゃんと息抜きしろよ」 「俺でよければ、いつだってつきあうから」 「うん」 素直に頷く由綺を見て、俺は少し複雑な気持ちになる。 新人から売れっ子へ、由綺はこれからどんどん上に登っていく。 アイドルとしての苦労やストレスも、俺なんか想像もできないぐらい蓄積してくんだと思う。 なのに、由綺が弱音を吐いたり、愚痴をこぼしたりする姿を、俺は想像できない。 全部『自分の弱さ』だからって、誰にも頼らずに自分だけで背負い込んで、それでも夢を追っていける。 俺が思っているより、由綺はずっと強いのかも知れない… もしかしたら、俺なんて必要ないぐらいに。 「冬弥くん」 俺の考えが判ったみたいに、由綺がこっちを真っ直ぐに見て、言った。 「うん」 「あのね…」 「もしもね、私がお仕事のことで、悩んで悩んで、どうしようもなくなった時は…」 「必ず、冬弥君に相談するから」 恥ずかしそうな声で、でもはっきりと、そう言った。 「判ってるって」 俺はそう答えて、由綺の頭にぽんと手を置いてやった。 由綺はきっと、自分がどんなに辛くても、俺を気遣って、俺に負担をかけまいとするだろう。 だからこの先、由綺が本当に俺しか頼りにできなくなった時… 自分にできる精一杯の力で、由綺を支えてやらなけらばいけない。 判っているはずなのに、同時に俺はこうも考えていた。 『そんな時が来なければいい』と。 「今日も仕事大変だね」 「うん。冬弥君もね」 「でも、がんばらなきゃね」 「うん」 俺達がそんな風に話してると、「あら」 「由綺、こんなところで立ち話?」 「あ、理奈ちゃん…」 「あっ、ううん」 「緒方先輩、おはようございますっ!」 由綺は勢いよく頭を下げて挨拶をする。 さすがは芸能界。 いくら友達だからって人間関係はシビアだ。 「…ちょっと何の真似よ、由綺。それ?」 あ、やばい雰囲気…。 「え…だって…」 あ、こら、由綺。 先輩に口答えはしない方がいいって…。 「今朝、緒方さん…プロデューサーにこれからはそういう風に、きちんとやっていこうって言われたから…」 プロデューサー…。 …英二さんか。 また何か変なこと由綺に吹き込んだんじゃないだろうな…。 「…なによそれ?」 あ… 理奈ちゃん怒ってる…。 由綺、早く謝っちゃえよ。 なんだったら一緒に謝ってあげるからさ。 「…あの、最低男…。あなたにそんなこと言ったの?」 「うん」 「うん…って。冗談に決まっているじゃない、そんなの!」 「からかわれたのよ、判る?」 「…そうなの?」 「少しは変だと思いなさいよね…。あの兄さんが、そんなこと本気で考えるわけないじゃない」 「本当に由綺って、言われたことを何でも信じちゃうんだから…」 なんだかひどい言われよう…。 その通りっていったらその通りなんだけど。 「じゃ、今まで通り『理奈ちゃん』って呼んでいいの?」 「…いいわよ、別に」 「よかった…」 「…でも、どうして緒方さんが私のことを騙すの?」 どうしてっていうか…。 「由綺、本当に何も判っていないのね…」 「今日の雑誌みていないの? 私達の特集記事が出ているのよ」 「うん。みたよ」 「それなら判るんじゃないの?」 「今さらこんなこと聞くのも変だけど」 「由綺って、なぜ歌手になろうと思ったんだっけ?」 由綺はちょっと驚いた顔をした。 「話したこと、なかったっけ?」 「あったかも知れないけど、覚えてない」 本当のことを言うと、話してもらった記憶はないし、今まで質問した記憶もない。 由綺は知り合った時から養成所に通っていたし、俺もずっと、それが当たり前だと思ってきた。 「…………」 由綺はしばらく真面目に考え込んでから、やっと小声で答えた。 「引っ込み思案だったから」 「答えになってない」 「え? そうかな?」 「引っ込み思案だったら、普通歌手なんて目指さないでしょ」 「あ、そうかも」 この辺のずれ具合が、やっぱり由綺だって感じだけど。 「ええと…」 またしばらく、真面目に考える。 「子供の頃、引っ込み思案で、音楽教室に通うことになったの」 「最初はピアノだったけど、そのうち歌も習うようになって…」 「先生に、『すごく上手ね』って褒めてもらって」 「で、その気になっちゃったと」 「そんなに単純じゃないよ」 ちょっと口を尖らせる。 「自分の隠れた才能に気づいた、とか」 「そんなに大げさじゃないし」 「じゃあ、なに?」 「なんていうか…」 「歌ってる時って、みんなが私を見てくれるから」 「歌ってなくても、みんな見てくれるだろ?」 「そんなことないよ」 自分がアイドルだなんて思ってない、いつもの顔で首を振る。 「それに、見られるのって恥ずかしいし」 「矛盾してる気がするけど」 「ええと、うまく言えないんだけど…」 「歌ってる時だけは、違う気がするから」 「違うって、どこが?」 「私自身っていうか、私から見える世界っていうか…」 「だからかな?」 首を傾げるようにして、俺のことを見る。 俺が訊いていたはずが、いつの間にか由綺から質問されてる。 由綺にとっても、アイドルを目指した本当の理由は判ってないのかも知れない。 ただ、俺にはひとつだけ判っていることがある。 「由綺は、歌うのがほんとに好きだったんだ」 「どうしたの? 今日は授業?」 「うん…。授業じゃないんだ」 「年末まで提出できるかどうかだけど、レポートの資料を借りに来たの」 「レポート?」 「うん。今のうちに真面目にやってたら進級も楽になるかなって思って」 由綺、充分真面目にやってるって思うけどな。 ただその真面目さを全部学校の方面に向けられないだけで。 その分を自分の仕事に向けてるんだから、由綺の努力をちゃんと見て欲しいよな。 「これから図書館行くんだけど、冬弥君、一緒に行かない?」 「うん、別にいいよ」 大学っていっても、どうせ暇だし。 「じゃあさ、俺、その本、由綺の代わりに借りててあげるよ」 「えっ?」 「あっ、いいよ別に。そこまでやってもらわなくてもっ」 「いいって。そのくらいやったげるよ」 そして俺はちょっと笑ってみせる。 「うん…」 「じゃあ、お願い…」 そして由綺は、その本のタイトルを紙に書いて渡してくれた。 「できれば早い方がいいんだけど…」 「あ、でも、時間がないんだったら別にいつでも…」 「判った。明日、借りてくるよ」 「あ、うん…」 「いつも…ありがとう…」 「いいよ、気にしなくたって。ほら、電車来てるよ」 「うん…。じゃあ、お願いね。それじゃ…」 「じゃあね」 図書館で本探しか…。 たまにはいいかな。 教えられたタイトルをみると、何やら経済学の資料っぽかった。 アイドルが世界経済の仕組みを知ってどうかなるのかって気もしたけど、真面目な由綺の為に何かしてあげられるのは ちょっと嬉しかった。 「忘れちゃったものは仕方ないよ。なくても書けなくはないんじゃない?」 「そうだけど…」 由綺はもう一度心配そうに後ろを振り返る。 「一つのレポート書くのに何回も図書館に通ってたら時間の無駄だよ。ただでさえ由綺、忙しいのに。」 「それよりさ、今あるものだけでやれることやったらいいんじゃない?」 「うん…。そうかもね」 「判った。じゃあ、そうするね」 「がんばって」 電車が入ってきた。 「それじゃ、またね」 「うん。お疲れ様」 行っちゃった。 やっぱり、学生と芸能人の両立って難しいんだな…。 ちょっと手伝ってあげたいけど、まさか代わりにレポートを書いてあげるわけにもいかないしね。 俺はつい最近読んで面白かった本の話をしてみた。 「ふうん…」 「でもいいな、冬弥君。 いっぱい本が読めて」 「別にいっぱいなんか読んでないって」 「って、あれ? 由綺って読書好きだっけ?」 「ってわけじゃないけど…」 「でも、高校の時とかに美咲さんに勧められた本とかもまだ読んでないから、そのうちにゆっくり読みたいなって…」 「そうだよね…」 由綺は大学に進学して、半年くらいでデビューしちゃったんだ。 遊び呆ける大学生どころか、ゆっくり小説を読む暇さえない。 「もう…冬なんだね…」 「ん? うん…」 「読書の秋もスポーツの秋も、私、なんにもなかったな…」 あったのは、ブラウン管の向こう側の知らない人間に微笑み、歌いかける日々…。 「でも、仕方ないね。秋だから何か起きるってこともないしね」 「うん…」 「でも今年の冬って、何か起きそうかな…」 「え…?」 「ううん。気のせい。あんまり騒がしいことにならないといいね…」 「そうだね…」 静かに…。 今の由綺には、そんなことすらも小さな望みの一つなんだな。 「由綺、学校の方、どうするか決めてる?」 「ううん…。どうしようか…?」 「うん…」 俺は、残ってて欲しい…。 だけど…。 「残りたい…けど…」 「でもどうかなっ。ふふふっ…」 由綺は悲しそうに笑った。 「由綺…。学校とかで全然会えなくなっちゃったね…」 気軽に言ってるつもりだったけど、口調はどうしても気軽になってくれない。 「うん…」 「大変だから…仕方ないんだけどさ…」 『仕方ない』なんて、口にしたくもないんだ、ほんとは。 「会いたいな…」 「え…?」 「冬弥君と…学校でまた会いたい…」 「あ…。い、今ここで会ってるじゃない…」 「ううん…」 由綺はそっと顔を上げる。 「二人で学校に行きたいな…」 その瞳は今にも涙を溢れさせてしまいそうだった。 「行けるよ…」 そう言いかけた時、「失礼いたします」 「弥生さん…」 「今後のスケジュール調整ですが…」 そして弥生さんは由綺を俺から引き離すみたいにして仕事の話を始める。 ここでぼうっと二人の姿を見てるのも、なんとなく由綺に心配をかけてしまいそうで、俺もその場を離れることにした。 「…今さら思うけどさ…俺達って、他の人達にどんな風に見えてんのかなあ…」 「どんな風って?」 「ん…。いや…。俺達ってそんな、人にどうこう言われたことないじゃない?」 「いいことじゃない」 「そうだけどさ…」 時々、不安になるんだよな。 芸能雑誌関係の人達には気をつけてるとして、高校の時や大学に来てからも、俺と由綺がつきあってることに誰も何も言わない。 まあ、普通そんな無粋に騒ぎ立てないだろうって思うけど、やっぱり…。 ひょっとして、俺、由綺の隣にいても無視できるみたいな存在に見られてるとか…。 「…どんな風に見られたいの?」 不意に由綺が尋ねる。 「えっ?」 「だから、冬弥君は、私とどんな風に見られたかったの…?」 「えー…? あ…」 照れくさい質問するなあ、由綺…。 話ふったの俺だけど。 「まあ…。いいよ、今さら。どう見られたってさ…」 「だ、だよねっ。」 「ふふふっ」 ほんとだ。 他の人がどう見たって、由綺が俺に見せてくれる笑顔が変わるわけじゃない。 気にしなきゃいけないのって、不特定多数の人間の目じゃなく、たった一人、由綺の笑顔なのかも知れないな。 「どうしたの?」 「なんでもない。いや、やっぱりそれでいいよ俺」 「うん…」 「こんなこと改めて言うのって変かも知れないけどさ…」 「なに?」 「んー…。…やっぱいいやっ」 「え? なに? 言ってよ、ねえー!?」 「由綺、由綺…」 声が大きいって…。 「あ…」 ほら、みんなこっち見てるー…。 「な、なんなの、冬弥君…?」 「う、うん…。俺達って二人で写真撮ったってこと、あんまりないんじゃないかなって…」 「写真?」 「うん。アルバムに残す、あの写真」 その数少ないうちの一つが、俺のベッドの横のフォトスタンドに入ってる。 「いっぱいあるじゃない? 修学旅行の時のとか?」 「うん…」 でも、はるかとか彰とかも一緒だし…。 「それはそれでいいんだけどさ…。俺達が二人で普通にしてる時の写真とかさ…」 なんだろ。 どう言ったらいいのかよく判らない。 二人の記録とか記念とか、そんなものじゃなくて、もっと普通の。 俺達の、全然特別じゃない時間を写した…。 うまく言えない。 うまく言えないけど、でも、それが欲しい…。 「うん…」 「うまく言えないけど…。 でも私、冬弥君の言ってること、多分判ると思う…」 そして俺も、多分、由綺は判ってくれたんだと思う…。 「じゃあ、いつか二人で写真撮ろうね」 「学校とかでも公園とかでも、私達がよく行ってる、全然普通のところで。二人で並んで…」 「うん…」 「きっと、他のどんな絵よりも、すごく綺麗な画面になると思うよ…」 「そうだね…。きっとね…」 いつか、そんな写真をアルバムに残せる日が来るよ… きっと…。 「知り合った頃のことって、覚えてる?」 「知り合った頃?」 「そう。高校で同じクラスになってさ…」 放課後、由綺ははすぐに帰っていたから、クラスでも存在感が薄かった。 偶然席が隣同士になってなければ、俺も特に意識しなかったと思う。 最初に喋った時も、たぶんどうってことのない世間話とか、連絡事項だったし。 それからも後も、特別なイベントとかはなくて… 「………」 自分から切り出しておいて、ほとんど話題が広げられない。 「…………」 由綺の方は、無言で恥ずかしがっていた。 「なに、思い出してるの?」 「ええとね…」 指先をもじもじ動かすだけで、言い出そうとしない。 「気になるから、言ってみてよ」 何度かそんなやりとりをして、やっと答える気になったらしい。 「ええと」 「両思いだって、判った時のこと…」 「………………」 「冬弥君、顔、真っ赤」 「いきなりそんなこと言い出されてもさ…」 困っていると、由綺は上目遣いに俺の顔を覗き込んできた。 「冬弥君は、覚えてる?」 だから、照れるって。 「…もう、覚えてない?」 不安げな表情に、さすがに後ろめたくなってきた。 「覚えてるって。あの時はさ…」 仕方なく答えようとして、ちょっとからかってみたくなった。 「どんなだっけ?」 知らん顔でそう聞き返してみた。 「…はぐらかすんだ」 「あのさ…」 「冬弥君…」 話し出そうとしたら、由綺の声と重なった。 「あ、ごめんなさい」 「いいって」 「…………」 「…………」 「由綺から言って」 「うん」 「それじゃ、訊いていい?」 「ああ」 由綺は俺をそっと覗き見るようにして、言った。 「私のこと、どんな風に思ってた?」 どきっとした。 質問が過去形だったからだ。 「あ…そうじゃなくて」 俺が戸惑ったのに気づいたのか、由綺が慌てて首を振った。 「私達、ずっと一緒にいたし、今もこうして一緒にお喋りしてるけど」 「今は、いろいろなことが変わっちゃったから…」 由綺が夢に近づくほど、互いに擦れ違うことが多くなっていった。 俺達はもう、変わってしまったんだろう。 でも、今も由綺は俺の側にいて、こうやって由綺の話を聞いている。 彼女にとって、それはいいことなんだろうか? 「私、冬弥君がずっと側にいてくれるって、思ってた。どんなことがあっても…」 「たとえば、恋人同士じゃなくなっても」 また、胸がずきりと痛む。 「でも、そんなはずないよね」 「これからはね、冬弥君に頼ってばかりじゃだめだって思う」 「だから、ちょっとだけ確かめたくて」 「冬弥君は、私のこと、どう思ってたのかなって」 最初の質問をもう一度繰り返す。 いつものように、由綺の頭にぽんと手を乗せて、俺は答えた。 「由綺は由綺だから」 「それはずっと変わってないよ」 卑怯な答え方なのは、自分でも判っていた。 由綺は多分、区切りを求めている。 そのことが、俺は怖いのかも知れない。 「うん…」 俺が髪に触っている間、ちょっと照れたように、でも嬉しそうにしていた。 「ほら、そろそろ仕事に戻らないと」 「あ…」 あわてて駈け出そうとして、もう一度こっちを振り返った。 「冬弥君も無理しないでね」 「判ってるよ」 俺は答えた。 俺とつきあい始めてから、ずっと無理してきたのは由綺の方だ。 このままではいられないことは判っている。 俺も由綺も、先に進まなければならない。 その時、俺は由綺の側にいるんだろうか? 小走りに離れていく由綺の背中を見ながら、俺はそんなことを考えていた。 「由綺…」 「ん…?」 「…あまり会えなくなっちゃったね…」 「うん…」 もっともっといろんなこと話さなきゃいけない気がするのに、こんな台詞しか出てこない。 すごく、すごくもどかしい…。 「でも、私、大丈夫…!」 「大丈夫だから…きっと…」 「うん…」 「冬弥君は…平気…?」 「え…?」 「ううん…。なんでもない…」 「うん…」 聞こえないふりをしたわけじゃなかったけど、俺は、改めて答えることはしなかった。 勝手な言い分かも知れないけど、言うまでもない、それが俺の答だったから…。 「今日も、すぐにスタジオに戻らなきゃいけないんだ…」 そしていつもみたいに弥生さんが現れて、二人で簡単に食事を済ませて店を出ていってしまった。 「この間さ、彰と美術館行ったんだけど」 「彰君と?」 どうしてまた、って顔してるな。 そりゃそうだ。 「彰君、本格的に美術の方面に進むとか…?」 「ないない、絶対ない」 「そうなのかな…」 由綺も彰の絵は知ってるはずなのに、どうしてそういう風に思えるかな。 「楽しかった?」 「え? ああ…」 まあ、あの男心の生み出す複雑な嫌さは説明しないとして、「やっぱり俺、そういうとこには由綺と一緒に行きたいって思ったよ」 「えっ…?」 「わ、私っ、芸術についてなんて、特に知識ないよっ…」 「…判ってるよ」 「なにも由綺と顔向かい合わせてフランス印象派の手法について語ろうなんて思ってないって」 「二人でちょっとブンカテキナ時間を過ごしたいかなってだけ」 「あ、そうか…」 「くすっ。そうだね」 「まあ、時間があったらね」 ちょっと照れながら俺は言った。 「じゃあ、行こうか?」 「え? 行こうか、って?」 「今、時間があったらって言ったじゃない?」 由綺はわざとらしくとぼけてみせる。 「え…? 行けるの?」 「うん。多分、今度の日曜日にね」 「…あんまり遅くなれないから、彰君と行った美術館までは行けないと思うけど…」 あ、そうか。 行けるんだ…。 どうしようかな。 「行こう」 「ちょっと予定が…」 「あ、行こうよ、それじゃあさ」 「わざわざ遠くまで行かなくったって…。ほら、この街の公園にだってちょっとした美術館あるしさ」 「うん。冬弥君、もう一度同じもの観なくたっていいしね」 「それもそうだけどさ。ここの美術館だと、帰りも公園ででもゆっくりできるし」 「うん」 俺は後の方が嬉しいんだけど。 「じゃ、楽しみにしてるね」 「ああ」 それから少し話をして、俺達は別れた。 …日曜日、ちょっと楽しみだな。 「あ、ごめん…。俺、その日、もう予定入ってる…」 「そうなの…?」 由綺は悲しそうに肩を下ろす。 「うまくいかないね…。私がお休みの時に冬弥君が忙しいって…」 「う、うん…」 ほんとに、ごめん…。 「じゃあ私、お部屋でゆっくりしてるから。 …そんな、気にしないでよ」 「うん…」 ちょっとだらしないよな、俺って…。 それから少し話をして、俺達は別れた。 「この間聞いたんだけどさ、理奈ちゃんって英二さんのステージとかまでデザインしちゃうんだってね」 「うん、知ってる。すごいんだよ、理奈ちゃんって」 「うん…」 確かに、なんでもこなしちゃえるマルチプレイヤーって実在するんだよな。 「とかいって、由綺はしないの?」 「えっ、私っ? …何を?」 「何をって…」 「ほら、自分のステージとか衣装とかのデザインみたいなこと…」 「う~ん…。そういうの自信ないかも…」 「そうなの?」 「普通に絵を描くのと違うから、そういうのって。私には無理かなって…」 「ううん…」 そうなのかな? 「そんなことないよ」 「そうかもね…」 「そんなことないって。やってみたらいいじゃない?」 「そ…そうかな…?」 「うん。 いくら違うっていっても、由綺、特に絵が下手だったってわけじゃない」 「やってみたら結構やれるものかも知れない」 「まして自分のステージデザインなんて、思い入れが違うかも知れないし」 「じゃあ今度、時間ができたら何か考えてみようかな」 「うん。あ、でも、時間か…」 理奈ちゃんもそんなこと言ってた。 そういうのを楽しむには、要は、楽しめるだけの時間が必要ってことなんだ。 「そのうち…だね…」 「みたいだね…」 こんな風にいろいろな楽しいことを先送りにして、それらをほんとに近い将来に全部取り戻せるのかな? そんな保証、あるのかな…? 「由綺は…そうかもね…」 「でしょ…?」 「って、あっ! 今、『由綺は』って言った! 私だけ?」 「いやっ、そういう意味じゃないけど…!」 「私、絵とかは自分じゃ人並みだと思うけどな…」 「そうなんだけどね…」 由綺は絵が下手じゃない、決して。 むしろ上手な方だと思う。 「ただ…あれはまずいんじゃないかな…」 「ちょっと間違っただけだよ。ちょっと…!」 「ちょっと…」 高校の美術の時間、俺と由綺でお互いをスケッチしたことがあった。 由綺の描いた俺の絵は確かに上手だった。 しかもちょっとかっこいい顔にまでしてくれてた。 …ただ、よく見てみたら、絵の中の俺の手に、親指の他にもう5本の指がくっついてた。 しかも、俺が指摘するまで由綺はそれに気づかなかった。 遠近法がどうのって言い訳してたけど、どうして遠近法でそうなるのかは、俺には未だに判らない。 「でも、どっちにしても時間ができないと無理かな…」 「あ、そうか…」 理奈ちゃんもそんなこと言ってた。 そういうのを楽しむには、要は、楽しめるだけの時間が必要ってことなんだ。 「そのうち…だね…」 「みたいだね…」 こんな風にいろいろな楽しいことを先送りにして、それらをほんとに近い将来に全部取り戻せるのかな? そんな保証、あるのかな…? ステージを背に立つ由綺。 その姿が、なんだかやけに様になっていて…。 「あはは…」 「やだ…どうしたの、冬弥君? じっと見ちゃって…?」 「うん…。いや、由綺って、ステージにすごくはまってるなって思って…」 「そう…?」 「うん…。なんていうか、画面が一枚の絵みたいに見えて…」 「ほんと…?」 「自分の姿がステージから浮き上がらないようにできたら…大成功なんだって…。緒方さんが言ってたの…」 「そうなんだ…」 それなら、由綺は大成功だ。 ブラウン管の向こうの、ステージの上の住人として、完璧だよ…。 喜ばなきゃいけないのに、どうしてだか、嬉しい笑いが出てこない。 「どうしたの…?」 「あ、ううん。 ほ、ほら、終わりじゃないんだろ。 行かなきゃ…」 「うん…!」 由綺のいる一枚の絵が完成したとして、その絵の中に、俺の姿はあるのかな…? 由綺と一緒の風景の中に、俺は…? 「そういえば、はるか、最近、自転車ばっかり乗ってるんだけどさ…」 「あれっ? 冬弥君、知らなかったの?」 「知らなかったって?」 「はるか、新しい自転車買ったんだよ」 「買った?」 「この間、偶然マンションの前で会ったの。 すごくかっこいい自転車乗ってたから、どうしたのって訊いてみたの。新車って言ってた」 新車…。 確かに新車は新車だ。 といっても、前にどんな自転車乗ってたかなんて全然覚えてないんだけど。 「でね、すごいんだよ。はるかの自転車ってメルセデスなんだって」 「メルセデス? メルセデスってあの、自動車の?」 「自転車も造ってるんだって」 「まあそうだろうけど、でも…」 いくら自転車っていったって、すごく高価なものなんじゃないのか…? 「ローン組んだんだって。すごいよね」 ローン…。 はるかみたいのによく分割なんてさせるな。 日本の金融システムって懐が広い…。 「どうしたの?」 「ん? なんでもない」 「それにしてもすごいなあ…。まったく、そんな良いものを俺に教えないで一人で楽しんで。薄情だよな、はるかも」 「見せようとしたんじゃないの?」 「この間、はるかとさ…」 サイクリングに行った… と言いかけて口を閉じた。 …俺、あの日、由綺の誘いを断ってはるかと遊んでたんだ…。 「はるか、新しい自転車買ったんだよね?」 え? 「あれ? 知ってるの…?」 「うん…。冬弥君、一緒に出かけたんでしょ…?」 「うん…」 俺は次第に小声になってゆく。 「はるかに…聞いたの…?」 「うん…」 「そう言ってくれたらよかったのに、冬弥君…」 「はるかと約束したんでしょ? それなら一緒に行かなきゃ」 そうだったな。 なにも、由綺に隠すみたいな風にしなくともよかった。 「それで、どうだった?」 「え?」 「サイクリング」 「楽しかった?」 そう言って由綺は優しく微笑んだ。 「あ…。うん…」 楽しかった… なんて、言っていいのかな…? 「よかったじゃない?」 「はるか、いつも冬弥君のこと楽しませてくれるもんね」 「そ、そうかな…」 「自転車、かっこよかった?」 「うん。…すごかった。メルセデスだって」 「えっ? メルセデスって自動車の会社じゃないの?」 「自転車も造ってるみたい」 「そんなの買ったんだ…。すごおい…」 「ちょっと乗せてもらったんだ」 「あ、いいなあ」 そんな風に笑ってて、ほんとに由綺、それでいいのかな。 …それとも単純に、俺の方が由綺に嫉妬してもらいたいのかな…。 「私も…一緒に行きたかったな…」 「え…?」 由綺は一瞬だけうつむく。 行けたかどうかはともかくとして、ただ、俺と学園祭の話をしたかったんだろう。 …なんだかちょっと悪いことをしたみたいな気分だ。 「あ、それじゃ、今度休みの日教えてよ。行けそうだったら、一緒に行こう」 「え…?」 「…あ。そりゃあ、はるかは呼べるか判らないし、サイクリングじゃないかも知れないけどさ」 「でも、一緒にどこか遊びに行こうよ」 「え…」 「うん…!」 「じゃあ今度、お休み取れそうだったら冬弥君に教えるね」 「うん。待ってるから」 「ね…。冬弥君…?」 「ん…?」 「…ひょっとして私のこと…気にしてた…?」 「あ…」 見抜かれ… てた…? 「ま、まあ…ね…」 ごまかしようもないけど、俺はただ平静を装ってみせる。 「ふふっ…。ありがとう、冬弥君…」 そしてもう一度、由綺は優しく笑った。 「由綺ってさ、毎日それだけ忙しくしてたら、別にスポーツなんてやんなくたって太ることなくていいよね」 「そうかな? あははっ。やせてる?」 「自分じゃそんなに思わないけど。太っちゃうの、いつも心配で…」 「あ、そうか」 アイドルって存在は、自分のプロポーションさえもプロの自覚で管理しなきゃいけないんだ。 太ってきちゃうと、ボクサーみたく減量だってするっていうし。 「はるかぐらいスリムだったらよかったのに」 「いや、あれは…」 確かにスリムで、太る心配もないっぽいけど、でも由綺がそうなったら多分ファンは泣くと思う。 あれはスマートとかっていうより、ちょっと男入ってる。 「それか、美咲さんみたくグラマーだったりとか…」 「グラマー?」 あ…。 そういえば今までそんな風に考えたことなかったけど、美咲さんって確かに胸大きいよな。 別に太ってるとかじゃないのに。 「やだ、冬弥君…。なに想像してるの?」 「えっ…?」 …何の前触れもなく暴走するなんてフェイントだ。 ずるい…。 「冬弥君の、えっち…」 「なんにも言ってないよー…」 「あの…」 何か言いかけた時、「失礼いたします」 「弥生さん…」 だけど彼女は俺なんか見ちゃいない。 「明日のレッスンのメニューに変更があるとのことです」 そして弥生さんは明日のタイムテーブルなんかを説明しながら、そのまま由綺を連れていってしまった。 「由綺…」 「由綺って、アクセサリーとかあんまりしないよね」 「ええ? 持ってるよ」 由綺は、ポーチから小さなイヤリングを取り出す。 「ほら。持ってるでしょ?」 「うん…」 持ってればいいってもんでもないと思うんだけど…。 「あ、でも、ちょっと可愛いかな、これ…」 「ね? でしょ?」 ちょっとストリート系入ってるのに、どこか可愛いデザイン。 「これって由綺が買ったんだよね?」 「うん」 「前にいとこと一緒にお買い物に行った時に教えてもらったんだ。こういうの売ってるお店」 「へえ…」 割と良い趣味かも。 「気に入った?」 「え? うん。ちょっといいかな」 「じゃあ今度そのお店に行ってみる?」 「えっ?」 「男の子のアクセサリーとかも結構置いてるお店だよ」 「近いの? そこって?」 「うん。いつも遊びに行く辺りだよ。ちょっと目立たないけど」 それじゃ、由綺の休みの日にちょっと覗きに行くくらいはできそうかも。 「由綺の方は時間取れるの?」 「うん。急だけど、明日お休みになったから」 「明日?」 ほんとに急だ。 「ね? 行かない?」 「えーと…」 「行こう」 「ごめん…」 「じゃあ行こうか。せっかくだから由綺の休日を邪魔させてもらおう」 「ほんと? やったっ。じゃあ、駅で待ち合わせねっ」 由綺は『待ち合わせ』って言葉をほんとに嬉しそうに言う。 ただちょっとアクセサリーを見に行くだけなのに、それでもこんなに嬉しそうに笑ってる。 「あ、私、そろそろ行かなきゃ」 「え? もう?」 「うん…。ごめんね…」 「あ、それじゃ」 いくら明日一日休みが取れたからって、やっぱり忙しい体なことに変わりはないんだな、由綺は。 「ごめん…。俺、明日予定があって…」 「やっぱり…。急な話だもんね…」 「でも仕方ないよ。じゃあ、明日ははるかとでも遊ぼうかな…」 そんなことを言いながらも、やっぱり由綺はちょっとがっかりしてる。 「ごめん。次は必ずつきあうから…」 「うん…。でも、無理してくれなくてもいいんだよ」 「いや、無理なんかじゃないからさ」 「判った。じゃ、また今度だね」 「あれ? もう行くの?」 「うん…。今日はちょっとあんまり時間がないから…」 「そうなんだ…」 「ごめんね。それじゃ」 「あ、うん。がんばって」 いくら明日一日休みが取れたからって、やっぱり忙しい体なことに変わりはないんだな、由綺は。 「この間の店、結構かっこよかったよ」 「あ。気に入ってくれたんだ?」 「うん。かなり気に入った」 「よかった。気に入ってくれると思ったもの」 「やっぱり趣味いいよ、由綺って」 「そうかな…」 「あはは…」 「ねえ、冬弥君。よかったらもう一度つきあってくれない…?」 「え? つきあうって、あのお店に…?」 「うん」 よっぽど気に入ってるのかな、由綺。 「今度の土曜日、夕方からちょっとだけ行けそうなんだけど、どうかな…?」 「土曜日か…」 行けるかな…? 「行けるよ」 「ごめん…」 「うん、大丈夫。行けるよ」 「よかった。…この間もつきあってもらって、断られるかと思っちゃった」 「なんで俺が断るのさ、由綺の誘いを」 俺は意味ありげに笑ってみせる。 「や、やだ…。そんな…そんな…」 あはは。 照れてる照れてる。 「えへへへ…」 …今度はだらしなく笑い出した…。 しょうがないな、由綺は…。 「じゃあ、今度の土曜日」 「えーと…」 「お店の前で待ち合わせでいい?」 「現地集合?」 「うん」 「多分、仕事場から直接だと思うから…」 「あ、大変なんだ…。うん。いいよ、それで」 「それじゃ、楽しみにしてる」 「うん。それじゃね」 「あ、ごめん…。俺、もう予定入ってる…」 「そうなんだ…」 「仕方ないよね。この間、つきあってもらったばっかりだし…」 「ごめん…」 俺も特別に忙しいってわけじゃないのに、なんていうか間の悪い時があるんだよな…。 「ううん。それじゃ仕方ないよ」 「冬弥君、約束破るわけにもいかないでしょ? いいから気にしないで」 「うん…」 「また今度…だね…?」 「そうだね…」 それから少し話をして、俺達は別れた。 「なんかさ…」 「ん…?」 「いや…」 由綺、普段は全然、着飾ったりとかしないのに、仕事でステージ衣装着てても全然違和感がないんだな。 デザインが決して派手じゃない ってのはある。 俺が見慣れてしまってるのかも知れない ってのもある。 だけど…。 だけど、違和感を感じさせないのはそのステージ全体のせいなんだ…。 英二さんが設計したそのステージ。 由綺はその中に、ぴったりとはまりこんでしまう。 パズルのピースみたいに。 一枚の絵になって。 「元気…ない…?」 由綺が俺の顔を覗き込む。 「あ、ううん。大丈夫だよ、そんな。由綺こそ俺なんか気にしてないでがんばらなきゃ」 「う、うん…」 「ほら。笑って」 「うん…」 「じゃあ、がんばってくるね…!」 そして由綺は駆けていった。 「今年の冬ってさ、やたら晴れてる割には風とかすごい冷たいよね」 「そうだね」 「でも、だからって部屋の中にこもっちゃだめだよ」 「判ってるよ」 幼児番組のおねえさんみたいな台詞。 「聞いたんだけど、お部屋の中にいるのって一番危ないんだよ」 「え? そうなの? どうして?」 「うん…。詳しくは判んないんだけど、人の死亡率が一番高い場所って屋内なんだって」 「え…?」 「だから、できるだけ外に出たほうがいいんだって…」 「ま、待って待って。それ誰が言ってたの?」 「緒方さん…だけど…?」 「英二さん?」 「うん…」 またあの人は…。 由綺は素直に信じちゃうんだから、やめてもらいたいな。 「…でも統計でそうなってるって…違うの?」 「いや、違わないけどさ…」 そりゃあね。 ほとんどの人間はベッドの上で死ぬから…。 「でもさ、由綺。英二さんに教えられたこと、あんまり素直に人に言うなよ」 「う、うん…?」 「いい天気だよね、今日も…」 「あっそうだっ!」 「わあ! …びっくりした。…なに?」 「前に言ってたじゃない。今度、遊びに行こうって」 「え…? ああ、うん。言ってた…」 あの学園祭の日の埋め合わせはしなきゃな。 「今度の土曜日、夕方くらいまで出かけられそうなんだ。 …どこかに遊びに行かない?」 「あ、そうなの?」 どうしようか? 「もちろん行くよ。忙しい由綺が、せっかく誘ってくれてるんだし」 「やったっ。じゃ、サイクリングね」 「待ってよ。夕方までって言ってたじゃない」 「あ、そうか…」 「じゃあ、サイクリングは無理だね…」 「まあ、競輪みたいにスピード出せば無理じゃないけど」 「え…? …やだな…」 「冗談だって。…まあ、おとなしくショッピングとかでいいんじゃないかな? サイクリングはまた今度、ほんとに時間取れる時でさ?」 「うん。それでもいい」 素直に笑う由綺。 やっぱり由綺は笑ってる時が一番いいと思う。 「じゃ、決まりね。…土曜日?」 「うん、土曜日」 それから少し話をして、俺達は別れた。 「あ…その日も、俺…」 「そうなんだ…」 俺、別に由綺みたいに忙しい人間じゃないはずなのに、どうしていつもこんな風に由綺とすれ違っちゃうんだろう…? 「ごめん…」 「…今度は遊べると思ったのに…」 「でも、仕方ないよ。冬弥君だって、自分のことしなきゃいけないもんね」 「うん…」 「元気出して…。いつも会えるわけじゃないって、初めから覚悟してたじゃない?」 「そうだね…」 でもそれは、由綺が俺に会えない、って意味で、俺が由綺に、って意味じゃ決してなかったはずなのに…。 「…今度、いつごろ時間取れるか判んないけど、でも、それじゃ今度だね…」 「そう…だね…」 今度こそ行けたらいいな…。 そして俺は、せめて今日だけはと思って、できるだけ由綺と一緒の時間を過ごした。 「由綺、最近、ちゃんと眠ってる?」 「うん…大丈夫だよ…」 あんまり大丈夫そうには聞こえないんだけど、俺には。 「食事とかもちゃんと…」 「ご心配には及びません」 「私がきちんと管理しておりますので」 「弥生さん…」 「ほんと、大丈夫だから。弥生さんがしっかりしててくれるから、私、寝坊もしないし、食べ過ぎだって…」 そんなことを言って、はかなげに微笑む由綺。 その顔に、無理はありありと浮かんでるってのに…。 「由綺…」 「問題はございません。大丈夫です」 「大丈夫っていったって…!」 俺は、由綺と俺の間に壁みたいに立つ弥生さんに食ってかかる。 だけど彼女は顔色一つ変えない。 「大丈夫でない方がよろしいのですか?」 「え…?」 「ですから『大丈夫だ』と」 「…………」 俺はそっと身を引く。 由綺が『大丈夫』なんて強がり言ってまで無理してるんだ。 俺だけが素直に騒ぎ立ててどうするんだ…。 …せめて由綺が『大丈夫』な限り、見守ることをしなきゃいけない…。 少なくとも弥生さんの眼差しはそう言ってる。 あの、温度のない眼差しは。 「判りましたよ…。…由綺」 「ん…?」 「…がんばれよ」 「うん…」 「…今日はちょっと…風、強くなかった…?」 「うん…」 …自分でも判るくらいぎこちない…。 上手に喋れない…。 なんだろう。 すごく由綺と話がしたいのに、こんな…。 「なんだか…すごく寒かったね…」 そう言って由綺は、指先でそっと俺の手に触れた。 とても、冷たい手だった。 …温めてあげたい、そんな風に感じた。 「失礼いたします」 「弥生さん…」 今日はひどく疲れてたらしく、弥生さんと静かに食事をして、そのまま帰っていった。 あんなに疲れてる由綺を見ながら、俺、何もしてあげられないんだ…。 「いらっしゃいませ」 「冬弥君、今日もご苦労様」 あ、由綺だ。 「がんばってるみたいだね」 「うん。そっちこそお疲れ」 せっかく由綺が来てくれたんだ、ちょっと話がしたいな。 「冬弥君」 「あれ? 由綺…」 「おはよう」 「ん、おはよう」 いつもの無邪気な笑顔で、由綺が声をかけてくる。 せっかくだから、おしゃべりでもしようかな。 あれ? あそこにいるのは、由綺…だな。 「おーい、由綺ー」 「あ、おはよう、冬弥君」 子供みたいな笑顔で振り返る由綺。 「どうしたの?」 「いらっしゃいませ」 「あ、冬弥君…」 「由綺…」 由綺は疲れたみたいな目をしてたけど、それでも健気に俺に笑いかけてくれた。 ちょっと、話を聞きたいな…。 …とはいっても、あの緒方理奈ちゃんに一体どんな『世間話』をしたらいいんだ。 おんなじ『世間』にいるわけでもないのに。 「どうかした?」 理奈ちゃんがそっと顔を近づける。 …綺麗な笑顔…。 「いや、別に…」 そう言いかけて急に口をつぐむ。 「え? どうかしたの…?」 なんでもないんだけど、ただ、黙ってると、理奈ちゃんの顔がすごく近くで見られて、いいなあって…。 「…なんでもないよ」 「…ずいぶんと長い『なんでもない』だったわね。くすっ」 理奈ちゃんは上品に笑った。 「理奈ちゃん、ペットとか飼ってないの?」 「うん、飼ってないわよ。 だけど、どうして?」 「え、いや、なんとなく…」 芸能人はなにかしらペットを飼っているという、俺の勝手な先入観だとは言いづらい。 「飼えたらいいなって思うけど…」 「どうして飼わないの?」 「家を空けることが多いから、あんまり構ってあげられないと思うし…。 世話を人任せにするのも変でしょう?」 困った顔、そして言いづらそうな口調から、察するものがあった。 「でも、飼えるんだったら、飼いたい?」 聞いた途端、理奈ちゃんの顔が明るくなった。 「ええ、ぜひとも飼いたいわ!」 本当はかなり動物好きみたいだ。 「なにを飼いたいの?」 「やっぱり猫かしら? 手に乗るくらいの小さい子猫とか」 「ああ、なるほど」 理奈ちゃんが両手で子猫をすくうように持ってたら、なにかのグラビアみたいで絵になるだろう。 「アメリカン・ショートヘアとか、ロシアンブルーとか、可愛いわよね?」 「え、ああ、そういう種類なら、確かに…」 って、どんなのだっけ? 「日本じゃまだ珍しいけど、バーマンとか、スコティッシュ・フォールドも可愛いわね」 「う、うん?」 ごめん、聞いたこともない。 それからしばらく、俺には全然ついていけない、マニアックなペット話が続いた。 俺、うっかり理奈ちゃんの眠っていた何かを、目覚めさせてしまったみたいだ…。 「俺、独り暮らししてるんだけど、結構、昔からの友達とかと遊ぶ方が多いんだよね…」 俺は理奈ちゃんに彰やはるかの話を聞かせてみた。 「ふうん。楽しそうなのね」 「楽しいっていうか、変わり映えしないっていうかさ…」 「私にそういうお友達っていないから」 「え? そうなの?」 彼女ほどのビッグネームになれば、昔の友達も気を遣っちゃうって感じなのかな。 「昔から遊び相手と言えば、いつも兄さん」 「しかもお遊び、なんていうものじゃなくて、一緒に歌の練習とかさせられて…」 「でも、私は練習だなんて思っていなくて、ただ、優しいお兄ちゃんだなって一緒に歌っていたけれど」 「ねっ、ばかみたいでしょう? くすすっ」 「いや、そんなこと…」 そうか…。 小さい頃からそんな風だったんだ、理奈ちゃんって。 「ね。こんな子と遊んでくれるお友達なんて、いないわよね…」 「でも安心して。由綺とはいいお友達だから」 そんな感じだ。 仕事上での由綺のいいお姉さん役ってところかな。 「あの…由綺って、どう…?」 「え? どうって?」 「いや、あの…。先輩の理奈ちゃんから見て、仕事の方とか…」 「ふふ…。先輩だって」 理奈ちゃんはおかしそうに笑う。 「私、由綺とは先輩後輩っていうより、お友達って感覚だけれどね」 「へえ、そうなんだ…」 「そういうこと、由綺、冬弥君に話さないの?」 「うん…。由綺、俺に気を遣ってるのかな、仕事の話って全然しないんだよね…」 だから時々すごく心配になって、こんな風に人に訊いてみたくなるんだ。 「ふうん…。由綺のこと、心配?」 「え…?」 「心配だよ」 「別に心配とかじゃなくて…」 「うん…。心配だな、俺…」 俺はついほんとのところを言ってしまう。 相手は由綺の先輩だっていうのに。 「優しい彼氏なんだ、冬弥君って…」 「そうかな…?」 優しいのか、過保護なのか…。 由綺って、無理してる姿がすごく痛々しく感じられるんだ、俺には。 「こんな優しい彼氏がいるって、普通でもすごく珍しいんじゃないかしらね?」 「そ、そんな…」 理奈ちゃんはいつもこんなこと言って、俺を困らせる。 …俺が美咲さんを困らせるのと一緒かな、もしかして…。 「…本当。いくら歌手やタレントだからって、やっぱり毎日会える身近な人には負けちゃうのよ」 「負ける…?」 「恋人としては、ね…」 「だけど、冬弥君はそうじゃないのね。 すてきよね」 すてきだなんて…。 またも必要以上に照れる俺。 「…芸能界に入ってから恋人と離れちゃったっていう娘、結構いるみたいだけれど、由綺は大丈夫みたいね」 「うん…」 …だといいな…。 「あ、いや、別に心配とか、そういうんじゃないけど…」 そうだな…。 あの緒方理奈を目の前にして、自分の恋人の話をするって俺もどうかしてる。 理奈ちゃんはそんな風な俺を、面白そうに眺めてる。 「由綺のこと信じて疑わないんだ…?」 「えっ? あっ、だからっ、そういうことじゃなくてさ、あのさ…」 「ぷっ」 「あははっ」 「うそ。冗談よ、冬弥君」 「え…?」 「冬弥君って絶対、由綺のことだとすぐに本気になるって思っていたけれど。その通りなんだもの。あ、笑っちゃってごめんなさい」 「うん…」 なんか、からかわれたのかな…? 「…でも、やっぱりおかしい。あはははっ」 …やっぱりからかわれたみたいだ。 ああもう、由綺が俺に何も話さないから…。 「うん…。ごめんなさい」 「でも、由綺、すごい真面目な娘だと思うわ。真面目すぎるくらい」 「そうなんだ…」 時々、すごい激しい天然を見せるから心配だったんだけど、理奈ちゃんがこんな風に言ってくれるんだったら大丈夫そうだ。 「それで兄さんが面白がっちゃって」 「英二さんが?」 「この間もね、兄さん、『今度の由綺の仕事はデパートの屋上でアトラクション』とかわけのわからないことを言い出して」 「あの森川由綺が、よ」 「はは…」 『あの森川由綺』が、ね…。 「そうしたら由綺、元気に『はいっ!』なんて返事しちゃうのよ」 「ははは…」 まあ、由綺だったらそうだろうな。 「兄さんまで唖然としちゃって」 「…それだけで終わっていればよかったのに、由綺、『終わったらお買い物していってもいいですか…?』なんて、こっそりと訊くんだもの」 「はははは…」 それはかなり恥ずかしい…。 由綺は、もう…。 「あの兄さんですら、一瞬笑えなかったんだから…。あれから兄さん、よく由綺をからかって遊んでいるわね」 「あ、でも怒らないでね、冬弥君」 「それは別に…」 性格だから仕方ない。 由綺も、英二さんも。 …けんかにならないといいんだけど…。 って、そんなことないか。 まあ、楽しそうな仕事場でいいかも。 「理奈ちゃんは、作曲の方をやってみたいと思わないの?」 「私が作曲?」  俺の言葉は、ひどく彼女を驚かせたようだ。 「作詞は、やってるでしょ? だったら曲の方も作ってみたいと思わないのかなって」 「私じゃとても無理ってわかってるから、やろうと思わないわ」 「どうして?」 「兄さんがいるから」 プロデューサー。 そして作曲家としての英二さん。 「あんな曲を作るセンス、私にはないわ」 「そう、なの?」 「身内褒めは格好悪いけど、兄さんの才能は、本物だと思う」 実際のところ、理奈ちゃんのセンスがどうなのかは、わからない。 でも、トップアイドルとして誰もが認める彼女に、そう言わせてしまうくらい、英二さんはすごいってことなのか。 「ほんと、かなわないわね…」 理奈ちゃんは、あきれたようにつぶやく。 でも、その横顔はあきれてるより、とても優しくて…どこか誇らしげだ。 彼女にとって、英二さんとは、そういう存在なのだろう。 「ま、ミュージシャンとして尊敬するってことはさておき」 ふいに理奈ちゃんは、距離を縮めて、俺の目をのぞき込む。 「普段があんな感じなのを、なんとかして欲しいって思ってるのは…。私だけかしら? 冬弥君もそう思わない?」 「あぁ…そ、そうだね…」 理奈ちゃんの近さにどぎまぎしながらも、なんとなく、言いたいことはわかった。 「今日はなんの仕事?」 「歌番組の収録。 いま終わったところよ」 「そう、ご苦労様」 「ありがとう」 彼女がくすりと笑った。 「冬弥君の方は?」 「俺はバラエティの収録待ち。 終わったら後片付けやらなきゃ」 「そう、ご苦労様」 「ありがとう」 さっき俺が言ったことを、そのまま返されたので、小さく笑ってしまった。 と、ふいに理奈ちゃんが笑顔を消して、真顔で聞いてきた。 「冬弥君は、この業界の仕事に就きたいの?」 「この業界っていうと、芸能関係?」 「それに限らず、報道とか、番組制作とか、局でやること全般」 「どうしてそんな話に?」 「ADって、いろんな仕事をやるでしょう?」 「確かにそうだけど…」 「だから色々な経験をつんで、いずれは局の仕事をしたいのかなって」 「…………」 俺って、下っ端のバイトだしな…。 理奈ちゃんに未来を語れるほど、経験をつんだとは思えない。 彼女も俺の様子に、違うことを感じたらしい。 「違うの?」 「いや…その…」 あいまいにしか答えられない俺を、理奈ちゃんは、けげんな顔をして見ている。 「じゃあやっぱり…。 由綺に会うため?」 「それは…」 一瞬言葉に詰まってしまう。 ここは、思ってることを素直に言った方がいいな。 「…どうかな。確かに、一緒にいたいって気持ちはあるし、会えたらうれしいけど、それだけじゃないよ」 「違うの?」 「やっぱり、TV局で働く緊張感って、独特のものがあって…。結構好きなんだと思う」 「現場の第一線で、いろんな人と会って仕事をするのは、すごく刺激になるっていうか、勉強になるしね」 「ま、俺なんか下っ端だから、はっきりした将来とか言えたもんじゃないけど、この仕事にやりがいを感じてるのは本当だよ」 「…………」 気がつくと、理奈ちゃんは真顔になって俺を見つめている。 ひょっとして、怒らせてしまった? 「…あ、ちょっとしゃべりすぎたかな」 「うん、立派」 かと思いきや一転。 子供みたいな笑顔を浮かべる。 「立派って、なにが?」 「それが、冬弥君がここで働いてる理由なんだ」 「思ったままを言っただけで、大した理由じゃないと思うけど…」 「素直にそう言えるところが立派」 「んー…」 なんて答えていいかわからなかったので、これ以上言うのはやめておいた。 「ところで、冬弥君は現場でいろんな人から刺激を受けるって言ったけど……」 理奈ちゃんは、どこか探るような、悪戯っぽい目をして、俺を見つめた。 「その中に私は含まれてるのかしら?」 「え、あ、その、もちろんだよ!」 思いがけない質問に、どぎまぎして答えてしまう。 「ふふ、ありがと。 お世辞でも嬉しいわ」 理奈ちゃんはくすくすと笑う。 なんだか、からかわれた気分。でも、こうして理奈ちゃんと親しく話せるようになるなんて、考えてもみなかったな。 「えっとさ…」 「ふふふっ。なんだか、由綺のこと聞きたいって顔しているわよ、冬弥君?」 「いや、別にそんなんじゃないけどっ…」 そんなんじゃなくもないんだけど…。 「冬弥君が心配するほどじゃないわよ。 あの娘、すごく才能ある娘なんだから」 「そうなの…?」 由綺が…? そんな風に考えてみたことはなかったな…。 才能とかじゃなくて、英二さんの力と、あと由綺のがんばりで今みたいになってるんだとばっかり思ってた。 だから俺も『がんばろう』なんて応援したんだけど…。 「そう…。由綺は、きっとトップを手に入れるわね」 「そんな…」 「なにが『そんな』なの? 信じられない? 由綺の才能?」 「いや。そういうわけじゃないけど…」 「それとも私の言っていることが信じられないのかしら?」 「いや…」 軽い口調で言ってるものの、理奈ちゃんの瞳は鋭く光ってる。 「…でも、理奈ちゃんがそんなに言うほどかなって気がして…」 「…いつか、それも判るかもね…。由綺の才能がどんなものかって…」 「うん…」 確かに、いつかはそんな日が来るのかも知れない。 そしてもしかしたら、俺みたいな男には釣り合わないくらいにすごい存在だってなっちゃうかも知れない。 …正直言って、俺は、それが怖い。 由綺には由綺の夢を叶えて欲しい。 それはそれで正直なところだけど、だけど、その夢の中に、俺って存在がなかった時、俺は何を望んだらいいんだろう…。 …由綺が普通のまま終わってしまうこと… そんなことを本気で望んでしまうんだろうか。 「私は戦うわよ、全力で」 「え…?」 「由綺とはお友達だから…。初めて…お友達になれた娘だから…」 「だから全力で勝負するわ、私。由綺のこと好きだからって、手なんて抜かない。そんなことしたら由綺に恨まれちゃうもの…」 「う、うん…」 多分、俺だってそうすべきなんだろう。 由綺の為を思って、なんて言って何かから逃げるのは、やっぱりずるいことだって思う。 …理奈ちゃんみたいに強くない俺が、どんな場面でどんな風に誠実でいられるかなんて全然判らない。 だけど、せめて、由綺への気持ちは変えないままでいたい。 …身勝手な言い分になってしまうけれども…。 「ごめんなさい、冬弥君。 いつもこんなお話ししちゃうわね、私…」 「え? ううん…。いいよ」 …きっと由綺をこんな風に想って、そして語ってくれてる、数少ない人なんだから。 「聞いたんだけど、英二さんの服も理奈ちゃんがコーディネイトしてるんだって?」 「聞いたって、誰に?」 「え…? あ…英二さん本人にだけど…」 何か悪いこと訊いちゃったのかな…。 理奈ちゃん、きつい顔してる。 「あの最低男…っ。 ちょっとは恥ずかしく思いなさいよね…」 最低男って…。 理奈ちゃん、英二さんに関しては、ほんときついよなあ。 「ね、冬弥君? どう思う? あの歳にもなって妹に選んでもらわないと洋服も着られない男って? 30よ、もう。30」 「え? 28歳なんじゃ…」 「同じよ」 そりゃそうだ。 でも、どうだろう? 「かっこ悪いかな」 「理奈ちゃんに選んでもらえるなら…」 「まあ、かっこ悪いかな…」 「あ、いや、理奈ちゃんのお兄さんをこんな風に言うつもりはないけど…」 「いいわよ、その通りなんだから。冬弥君だってそんなのしないでしょう?」 「まあ、独り暮らしだし」 「普通はそうなのよね…。どうして私の兄さんは…」 溜息をつく理奈ちゃん。 「理奈ちゃんが甘やかし過ぎちゃったとか」 「かもね」 そう言って理奈ちゃんはシニカルに笑った。 それはちょっと英二さんに似てた気がした。 「んー…。理奈ちゃんに選んでもらえるんだったら、それはそれでいいんじゃないかな。 と言うより、それが嬉しいんだと思うけど」 「え…?」 「やだ、冬弥君。兄さんの肩持つの…?」 「そんなわけじゃないけど…。でもちょっと嬉しいんじゃないかって思うんだ…」 「そんな、冬弥君…。変じゃない、それ?」 「うん…。多分ね」 変だと思う。 でもそういう変なところって、やっぱり多かれ少なかれあるとも思う。 自分じゃどうしても修正できない感情って。 変だと判ってても変えられれない感情って。 「でもまあ、ほんとにそうかなんて訊かれたら自信はないけど…」 「…じゃあ、冬弥君がそういう感情持っているっていうこと?」 「え?」 あ、そうか。 そういうことになるか。 …なんだか、英二さんの罪かぶらされたみたいだな。 「いや、そういうことでもあるわけだけど、あの…」 「ふふっ。いいわよ、冬弥君だったら」 「兄さんよりも洋服の選び甲斐があるもの。冬弥君って、絶対にかっこいい人だから」 「そうかな…」 たとえ英二さんへの当てつけで言ってるにしても、彼女の声で『かっこいい』なんて言われると、もうそれだけで嬉しい。 「…もしも、二人で遊べる時に会えるんだったら、私…」 「うん…」 「なんて、無理かな。くすすっ」 「…今は無理かもだけど、でも、いつか…。大丈夫だよ…」 「…待っていて、くれるんだったらね…」 「うん…」 待っててって言ってくれたら、俺、待てる、と思う。 今の俺だったら…。 「そういえば、理奈ちゃんって学校とかどうしてるの? ちゃんと行く時間とかある?」 今の段階で由綺は、半分欠席してる。 これ以上に忙しくなるみたいだったら、ほんとに休学も考えなきゃいけなくなるらしい。 でも、それ以上に忙しいはずの理奈ちゃんはどうなんだろう。 「学校には行っていないわよ」 また、いやにきっぱりと言うな。 「行ってないって、休学状態?」 「まあ、高校の最初の頃はそうだったけれど」 「でも最近は完全に通信教育かな」 「『完全に』なんて言うほどもやっていないんだけれどね。お勉強は」 「だから私、どこにも学籍おいていないの」 「学籍がない…」 休学どころか、学校そのものに行ってないなんて。 由綺の参考にならないどころか、俺の方が同情してしまいそうだ。 「ずっと兄さんが家庭教師だったから」 「あの人、自分だけはちゃんと大学院まで進学しているから」 「そうなの?」 あの髪の白い28歳(独身)が…? 意外だ。 「そうなのよ」 「ずるいでしょう。自分ばっかり」 「ま、まあ…」 ずるいとかずるくないとか、そんな問題かな。 「私なんて、兄さんの言うこときいて、毎日お仕事とレッスンだけだっていうのに」 「仕事に差し支えるっていって、私に高校やめさせたのよ」 「大学にも行かせないって決めていたみたいだし」 「なんだかすごいんだね…」 「まあ、好きなことやっているんだから、つらいなんて思わなかったけれど」 偉いんだなあ。 でも、英二さんがそんな強引な人だったなんて考えたこともなかった。 「由綺も今は仕事と学校で大変かも知れないけれど」 「だけど、私の知らない楽しいこともいっぱい知っているみたいだし、どっちもどっちって感じかな。ふふふっ」 「かも知れないね…」 その笑顔は、理奈ちゃんを何かに囚われた女性みたいに見せていた。 「大学の方も忙しいけど、俺、最近、家庭教師も始めたんだ」 「…それもアルバイトなの…?」 「そうだけど?」 驚いてる。 「冬弥君って、すごいのね…。喫茶店と、TV局と、それに家庭教師でしょう…?」 「ま、まあ…」 「でも、そんなでもないよ」 特に、マナちゃんのとこのバイトは週一だし、サボリ自由だし。 「それに、ちょっとでも多くアルバイトしてないと。自分の生活だってあるしね…」 あの緒方理奈ちゃんに向かって、なんていうか所帯じみた話…。 「本当に…熱心に生活しているのね、冬弥君って…」 「そうかな…? 割と普通だよ」 「かも知れないけれど…」 「私って…」 あ、そうか。 理奈ちゃんって、別にそんな俺みたくいろんなことしなくたって生きてけるレベルの生活持ってるんだよな。 …ほんとに、世界そのものが違うって感じだよね…。 「私って、これしかなかったから…」 「え?」 「ひょっとしたら、別のいろんな世界だってあったのかな、なんて…」 「なんて、結局、今のお仕事しかできないし、やめられないんだけれどねっ。くすくすっ」 そうか…。 そういう世界だってあるんだよな。 俺達にとっての『もしも』の世界に生まれついちゃった彼女にしてみれば、俺みたいな生活が『もしも』なんだ。 俺みたいに、学生で、下っ端TVマンで、ウェイターで、そして先生で、なんて。 「ごめんなさい。ちょっと電話しなきゃいけないところがあるの。それじゃあ、また今度ね」 「あ、うん…」 …理奈ちゃんの前にって、広くて綺麗なんだけど、一本の道しかないんだな…。 美咲さんの話、してみようかな。 「前の話だけどさ、理奈ちゃん、控え室に本忘れてった時あったじゃない。あの綺麗なブックカバーつけてた…」 「ええ。冬弥君が見つけてくれたのよね」 「あ、いや…」 俺はただテーブルの上にあったのを見つけて手に取っただけで…。 「あの本ね、ちょうど読み終わるところだったからちょっと気になっちゃって…。」 「お家に帰った後のちょっとの間しか時間が取れないから、一冊読むのにも時間がかかっちゃうの」 「ふうん…。『文学少女』なんだ?」 「うふふっ。そうね、言っているだけだけれどね」 「本当は好きな本を読むのにも何日もかかる人なんだけれど」 「…うそつきって怒る?」 「まさか。時間があったら多分うそつきじゃないんだと思うし…」 「そうかしらね。ふふふっ…」 そして理奈ちゃんは嬉しそうに笑った。 こんな風に人と話してて楽しいんだったら、それはそれで、うそつきでも別にいいなって思った。 「あ、あのさ、理奈ちゃん…」 「なあに?」 「あ、ううん…。なんでもない…」 だめだ。 いきなりこんなこと話せないよ。 俺や理奈ちゃんの恋愛のことなんて。 「くすっ。変なの」 「そうかな…」 …せめてもう少し親しくなれたらな…。 「冬弥君、誕生日のとき、素敵なプレゼントを贈ってくれたじゃない?」 「あ、あれね…」 気合入れて買ったはいいが、いざ渡す段になって、いろいろ頼りなかったバースディプレゼント。 結果としては渡せたし、理奈ちゃんに喜んでもらえたし、よかったと思ってたけど…。 「それがどうかしたの? もしかして、やっぱり気に入らなかった…?」 「うぅん、そういうことじゃないの」 慌てたように彼女が言う。 「じゃあ…?」 「私、冬弥君の誕生日、知らないことに気づいてね…」 そして、彼女が少し照れくさそうに笑う。 「あの時のお返しを考えてたら、冬弥君の誕生日が近いなら、そっちの方にあわせた方がいいと思ってね」 ブラウン管の向こうにあるのとは違う、彼女の表情。 ファンがいる場所や、カメラが回っている場所では見れない、俺と同い年の女の子の笑顔。 それが今、俺一人だけに向けられていて…。 「…冬弥君?」 「え?」 理奈ちゃんの声で我に返る。 「冬弥君、どうしたの?」 「え、いや、なんでもないよ」 「そう?」 理奈ちゃんの顔に見とれていた、なんて言うのは少し恥ずかしい。 「えぇと、それで?」 だからごまかすように、先をうながした。 「だから、冬弥君の誕生日、教えてくれない?」 「別にお返しなんかいいのに…」 苦笑しながらも、理奈ちゃんに俺の誕生日を教えた。 「う~ん…。もう過ぎてずいぶん経つのね」 「まぁ、ね」 「それじゃあ…どうしようかな…」 何か考えがあるのか、ひとりごとを呟く理奈ちゃん。 「他の日だとしたら…そうね、ちょうどいい日が…うん、決めたわ」 考えがまとまったようだ。 「別にいいのに…。 でも、そう言われると気になる…」 「今は秘密よ。 そのときまでのお楽しみよ」 理奈ちゃんは悪戯っぽく笑い、その後、少し不安そうに顔をくもらせた。 「でも、あんまり期待しないでね?」 「え、あ、うん…」 どう答えたものか迷い、結局出てきたのは、わけのわからない言葉だけ。 なんだろう、この感覚。 やっぱり俺、なにか期待してる? 「こんなこと訊いちゃうのって、すごい失礼なのかも知れないけどさ…」 「なあに?」 「理奈ちゃんは…その……憧れてる男の人とか…って、いる…?」 「えっ?」 あ、やっぱり驚いてるみたいだ。 いきなりこんなこと訊くの、変だよな。 そんな、芸能記者じゃないんだから。 「それって、私に好きな人がいるかってこと?」 「え…? あ…。うん…」 くすっ…。 理奈ちゃんは口に手を当てて上品に笑う。 「あ、いや、もちろん、こんなこと訊いてまずかったら教えてくれなくたっていいけどさ…!」 「そ、そういうのって、俺とかが聞いていい問題じゃ…ないかも知れないし…」 「あら、どうして?」 優しく微笑んだまま、彼女は真っ赤になって弁解する俺の顔を覗き込む。 「どうして聞いちゃいけないの?」 ちょっと意地悪そうに、彼女は繰り返す。 「え…? いや、ほら、だって、俺ってほら、芸能関係者とかじゃ…」 「でも、お友達でしょう?」 「え…?」 お友達…。 こんな何でもない俺が、彼女と友達…。 …確かに今まで特に意識しないで話したりなんかしてたけど、改めてそんなことを言われると、すごく不思議な気分だ。 全然違う世界に住んでるのに、俺は彼女の友達になってたんだ…。 「違うの…?」 「う、ううん! 違わない! 全然違わないよっ」 俺は大袈裟なくらい頭を振る。 「あはははっ。でしょう?」 「うん」 「お友達だったら、そういうこと訊いちゃいけないなんてないでしょ?」 「うん…。…あれ? それじゃ、教えてくれるってこと…?」 「え? あ、そうか…」 「言ってもいいんだけれど…。でも…恥ずかしいから教えない…」 あ、やっぱり…。 でも、恥ずかしいってことは、誰かいるってことなのかな…。 …恋人… かな…。 「うん…。いいよ…。そういうこと人に言うのって、恥ずかしいからさ…。俺も、ちょっと苦手っぽいし」 「でも、冬弥君のことだったら判るわよ」 「え?」 「冬弥君は、由綺のことが好きなのよね。ふふっ」 「あっ…」 なんだか、最後で逆襲されたみたいな感じだ。 今度は俺の方が照れる番だ。 「い、いいよ…。そのうちに俺だって理奈ちゃんのこと聞き出すから…!」 「ふふふっ。聞き出せたらね」 理奈ちゃんは可愛らしく笑った。 「理奈ちゃんって、理想の恋愛とか、あるの?」 「どうしたの、突然?」 理奈ちゃんは少し驚いたみたいだけど、すぐに落ち着いた笑みを浮かべて、聞き返してきた。 「女の子の考え方って、やっぱりわからないことが多いから…。聞いてみたくて」 「そうね…」 理奈ちゃんの視線が少し上を向いた。 「やっぱり…こういうのって、答えにくいわね」 真面目に答えてくれたのか、なんとも判断のつかない答え。 「『運命的な恋愛がしたい』って一言で言っても、それが、本当に運命なのか、独りよがりな思いこみなのかは、誰にもわからないものだし」 「まあ…そうだね」 「『ドラマみたいな恋がしたい』って一言で言っても、眺めてるだけの恋愛と実際の恋愛が違うって事は、みんなわかってるでしょう?」 「それも…そうだね」 同意しつつも、なんだか、はぐらかされたような気がする。 芸能レポーターとかで慣れてそうな理奈ちゃんから、この手の話を聞き出すのは、無理があるだろうか。 「ただ、素直になれればいいなって思うわ」 「?」 「相手にも自分にも、素直になれる恋愛がしたい…。これで冬弥君の質問に、答えたことになるかしら?」 「素直に、か」 理奈ちゃんの言いたいことは、わかったような、わからないような…。 元々あいまいな質問だから、答えに明瞭さを求めてはいけないだろう。 ふいに理奈ちゃんが、少し意地の悪そうな笑顔になった。 「それで、冬弥君は、どんな大恋愛をしたいのかしら?」 「え? 俺?」 「そ。すでに可愛い恋人がいるのに、まだ恋に恋してるのかしら?」 「あ、いや、これは一般的な好奇心ってやつで! 別に新しい恋を探してるとか、そういう意味じゃないから!」 「ふふっ、冗談よ。 そんなに慌てなくていいのに」 あたふたと弁解する俺がよほどおかしかったのか、理奈ちゃんは、その後もしばらく、くすくすと笑っていた。 「この間、レストランに連れてってもらった時だけどさ…」 「えっ?」 「あっ、あのお店っ、結構いい感じだったでしょう?」 俺は由綺や英二さんの話をしようとしたんだけど、理奈ちゃんは早々に話を切り替えてしまった。 「う、うん…」 俺は頷く。 やっぱり俺、理奈ちゃんは少し心配性だと思うんだけど、これはこれで、彼女なりに気を遣ってくれてるのかも知れない。 それに、こんなところで普通にする話でもないかも知れないし。 「でしょう?」 一瞬、俺の心の中を読まれたのかと思ったけど、でも、そうじゃなかった。 「私もよく行くの、あのお店。落ち着いてて、気持ちが良くて…」 「まあね…」 確かに、俺達が普段行くみたいな場所とは、雰囲気からして違ってた。 「あれ、気づいた、冬弥君?」 「気づいたって?」 「カップ。コーヒーカップよ」 「カップ…?」 カップが… 何だって? どこか欠けてたとか… なわけないか…。 「あのお店の、全部ジノリなのよ」 「ジノリ…」 ジノリ…。 「どうかした?」 「いや…。ジノリって、どういう漢字書くのかなって…」 「………………」 あれ? 「あははははははははははっ。冬弥君、どうしてっ?」 「え?」 いきなり笑われた。 「漢字? 漢字って? どうして?」 「いや、あの…」 どうしてって、俺の方が訊きたい。 「ご、ごめんなさい、冬弥君。だって『どんな漢字を』なんて言うんだもの。つい…。本当にごめんなさい」 「あ、うん…」 どうして笑われたのかも判らないけど、どうして謝られてるのか、さらに判らない俺。 「ジノリって、カップの銘柄なの。ブランド。リチャード・ジノリっていうのがあるのよ」 「あ、なんだ…」 今さら恥ずかしくなる。 「理奈ちゃんって、そういうのに詳しいよね。俺、ちょっとそういうの知らなくて…」 「私こそごめんなさい。夢中になっちゃうと、ついそんな話しちゃうのよ。悪い癖ね」 「そんなことないよ…」 でも確かに、理奈ちゃんって俺と話してる時って、夢中になってるって気配がすごくする。 どうしてかは判らないけど。 一部じゃ俺は『理奈ちゃんを素で笑わせる男』として知られてるらしいし。 確かに理奈ちゃんがこんな風に笑うのって、俺と話してる時だけみたいだ。 でも、別に俺、笑わせようとしてやってるんじゃないんだけどな。 「私もちょっとだけ集めているの、カップとかお皿とか」 「あ、そうなんだ」 上品な趣味だなあ。 「少しだけよ。本当に少し」 「ウェッジウッドってブランド。ちょっと高いんだけれど、メジャーなのに洗練されたデザインだと思うの」 「…って、そんなのどうだっていいわよね。ごめんなさい」 「あははっ」 そんな風に、理奈ちゃんは笑うのも上品だ。 でも、そうだな。 それだったら今度、そのなんとかウッドのコーヒーカップをプレゼントしようかな。 ちょっと高いらしいけど、バイトすればどうにかなるだろうし。 「え? どうかしたの?」 うん。 彼女の喜ぶ顔、ちょっと見たいかな…。 「そういえばさ、この間はありがとう。成田雅夫さん」 「あ、届いた?」 「うん。すごい嬉しかったよ」 「ちゃんと14日に?」 「ばっちり」 俺はにっこりと笑ってみせる。 「…まあ、お返しがちょっと大変そうだけど…」 「あら、いいわよ、気を遣わなくったって。お店で買ったものだし…」 「いや、そりゃそうかもだけど…」 「うん…。本当はね、もっとちゃんとしたお店で、しっかり選びたかったんだけど…」 「ちゃんとしたって…。コロンまで一緒だったのに…?」 「もう。ちゃんと時間があったらジバンシーなんて贈らないわよ。兄さんのせいよ」 ジバンシーっていうのは、あのコロンのブランド… かな…? でも俺、最近ちょっと試してみてるんだけど、なんとなく気に入ってる。 「いや…俺、結構好きだけど、ああいうのも…。今日もちょっとつけてるし…」 「みたいね。嬉しいわ」 「そんな…。俺の方こそ…」 「ちょっと香る程度にって、ちょっとおしゃれよね」 「もともとは、お風呂に入らなかった匂いをごまかすのが目的だったっていうけれど、今でもそんなにきつい香りさせるのなんて、ちょっとね…」 「ま、まあね…」 俺も、きつい化粧水の類の香りは苦手だ。 とはいえ、俺がコロンを控えめにしてるのは単純に、俺がこのテの化粧品に不慣れで自信が無かったってだけなんだけど。 「ねえ、理奈ちゃんって絵とか好き?」 「ええ」 「ゆっくり観ていられる時間はないんだけれど、大好きよ」 へえ。 やっぱり趣味も上品なんだ。 「近代だとエルンスト、古い方だとベックリンとかかしら」 「ギーガーは下品だから、ちょっとね」 「変でしょう、うふふっ」 「いや、俺、変っていわれても、よく判らないから…」 「あら、ごめんなさい…」 「あ、いいんだよ。俺の方が詳しくないだけだから。 でも、さすが理奈ちゃん、趣味もかっこいいんだね」 「………………」 「よくは判らないんだけど、理奈ちゃんが好きになるんだから、きっとかっこいい絵なんだよね」 「あ、あのね…」 「ん? どうしたの?」 「…やっぱり私、ウォーホルとリキテンスタインにしておくわね」 「う、うん?」 よく判んないけど、とりあえず、うん。 「理奈ちゃんって、絵とか描いたりする時ってある?」 「えっ? どうして?」 どうしてって…。 上品そうだし、そういう趣味あるのかなって。 「いや…なんとなくだけど…」 さすがに恥ずかしくて正直には言えない。 「そうね。それをやる時間があるかって意味だったら、いいえだけれど」 「やっぱり忙しいんだ…」 「でも、そういう趣味があるかって意味だったら、答は思いきりイエスよ」 「やっぱり」 人は見かけによるんだな、やっぱり。 「趣味程度よ、あくまで。自分ではデザイン系だと思っているけれど…」 「デザイン?」 へえ…。 ますますかっこいいなあ。 「それでも、自分ではなかなかだと思うわよ」 「昔、最初の頃のステージとか、兄さんの現役時代のステージなんか二人でデザインしたんだから」 「そうなの…?」 「やっぱり、そういう風には見えない?」 「いや、そうじゃなくて…」 あの緒方英二のカリスマは、その歌、パフォーマンスそのものにももちろん由来してるんだけど、そのほとんどがステージ演出によるものだって聞いたことがある。 そのステージデザインを、彼女も手伝ってたなんて…。 「理奈ちゃんて…」 「すごいんだね」 「意外だね」 「そういうの好きなんだ」 「すごいんだね…」 それに対して、そのすごさを言い表せない俺のボキャブラリー。 「そんなことないわよ。ただ、昔はそれをやる時間があったってだけ」 「それに、まだ兄さんとも仲が良かった頃だしねっ。あはははっ」 理奈ちゃんは、本当におかしそうに笑う。 「また、そういうことができたらなあって、時々思うんだけれど…」 「うん…」 確かに、今の理奈ちゃんにはそんなことすらも叶わない望みなんだろうな。 「意外だね…」 「そう?」 理奈ちゃんは可愛らしく首を傾げる。 「デザインなんかと縁が無さそう?」 「いや、そういう意味じゃなくて、なんていうかさ、理奈ちゃんって、ちょっとインドアっぽくないかなって…」 「ふふふっ。どんなイメージ持ってくれているのかしらねっ」 「でも本当。私ってこういう女の子なの」 「あ、うん…」 そういうおしゃれな娘も嫌いじゃないけど…。 「時々ね、またそういうことができたらなあって思うんだけれど、今はね…」 「うん…」 確かに、今の理奈ちゃんにはそんなことすらも叶わない望みなんだろうな。 「そういうことが好きなんだね」 「ええ、そうね。あははっ。大好きっ」 いつもからは考えられない、少女っぽい仕草で理奈ちゃんは笑った。 「でもね、時々、またそういうことができたらなあって思うんだけれど、ちょっと無理っぽいわね…」 「うん…」 確かに、今の理奈ちゃんにはそんなことすらも叶わない望みなんだろうな。 「理奈ちゃん、前に、自分のステージも自分でデザインしてたって言ってたけどさ…」 「ええ」 「…ひょっとしたらって思ったんだけど、衣装とかも…?」 「あら、鋭いわね冬弥君。 それとも審美眼?」 「そ、そういうんじゃないと思うけど…」 彼女のこういう切り返しには、ほんと弱いな、俺。 「そう。全部じゃないけれど、大体のところは私がデザインしているわ。あとは全部兄さんの仕事」 「え? じゃあ、デザイナーとかに頼んでるんじゃなかったの?」 「自分達のステージだけよ」 「TVとかの企画って、そういうものばかりじゃないから。カメラに映っているのはなにも私だけじゃないじゃない?衣装だって映っているんだから」 「ある意味、デザイナーさん達のステージでもあるわけでしょう?」 「そういうものなんだ…」 「さすがプロのデザイナーさん達に比べたら、私達のはどうしても見劣りしちゃうのよね」 「そ、そうかな…」 別に注意して観てたわけじゃないけど、衣装って点から言って、理奈ちゃんがかっこ悪かったのって、なかった気がする。 いや、と言うより、全部かっこよかった。 「そうなのよね。私達のって、どうやっても家内制手工業チックにみえちゃうのよね。ちょっと貧相っていうか」 そうかなあ。 全然みえないけど。 「まあ、実際に私と兄さんの二人でやっているわけだからその通りなんだけれど。二人でちくちく針仕事しているみたいなものだし」 「そうなの…?」 彼女達のそんな姿、想像もできない…。 「え…」 「……ぷっ…」 「あはははははっ。冬弥君、勘違いしているっ。『みたいなもの』よ、『みたいなもの』っ。絶対、勘違いしてる」 「え…? あ…」 「本当にやっているわけじゃないわよ。たとえて言っただけ…」 「あ、そうか…」 よけいな恥かいちゃった…。 「…ごめんなさい。つい…」 謝りつつも、再来する笑いを必死にこらえる理奈ちゃん。 「冬弥君って、いつもそんな風に素直?」 「いつもってわけじゃないけど…」 いつもこうだったら、俺は由綺と一緒…。 「でも、ほんとにかっこいいセンスだな、なんてて思ったから、ぼうっとしちゃったんだね…」 「そう? 嬉しい」 理奈ちゃんは罪無く笑った。 「…最近、兄さんもパソコンとか使うようになったから、私もちょっと触ってみているの。結構面白いわね」 「そうかもね…」 「でも、理奈ちゃん達がパソコンでデザインなんかするようになっちゃったら、本職のデザイナーものんびり構えてられないね」 「だといいんだけれど…」 理奈ちゃんはちょっと困った顔をした。 「この間、俺、友達と美術館に行ったんだけどさ…」 「女の子と一緒に…って顔じゃないわね」 「あたり」 鋭いなあ。 「それで、どうだった?」 「…俺、絵をどうこうとか言えないんだけど、あ、そりゃあ、綺麗だなとかは思ったけどさ、でも…」 「くすっ…。でも、なに…?」 「うん…。やっぱり、美術館みたいなところには…」 「男同士じゃ行きたくない…?」 「うん…」 「あははっ。やっぱり? 冬弥君らしいっていうか…」 「でも、そんなことを言ったらお友達に悪いわよ」 「そうかなあ…」 多分、彰だっておんなじ感想だと思うけど。 「男の子じゃなくて、女の子と一緒に来てるんだって思い込むとか。絵を見ている間だけ…」 「んー…。でも、彰、あ、彰っていうやつなんだけど、結構、女顔だし…」 「…それは困るわね…」 「そ、そう…?」 そんな真剣な顔で…。 冗談で言ったのに。 「…やっぱり女の人と一緒の方がいいかも知れないわね…」 「う、うん…」 どうやってそういう結論に至ったのかちょっと不安だったけど、確かにその通りだ。 「理奈ちゃんって、何か好きなスポーツとかある?」 意識しないつもりでも、やっぱりこうミーハーな感じになっちゃうな、俺。 でも、あの緒方理奈ちゃんが相手なんだ。 趣味のこととか訊いてみたくもなるよ。 「好きなの? 観て? それとも、自分でやって?」 「まあ、どっちでも…」 「そうねえ…」 「…なんて、考えることなんてないのよね」 「?」 とか言ってると、理奈ちゃんは後ろから誰かに声をかけられた。 あの、理奈ちゃんのマネージャーだ。 「はい。今行くわ」 「ね? これだから。じゃあ、私、行くわね」 「あ、うん…」 理奈ちゃんは素早い足取りで向こうの方に行ってしまう。 なるほどな…。 あれじゃ、スポーツをやるどころか、観戦する余裕だってなさそうだ。 ちょっと可哀想かな…。 「今、理奈ちゃんが一番やってみたいスポーツって何かある?」 「ええ? どうして急に?」 「あ、いや、似合いそうなスポーツって何かなとか思って…」 スマートなイメージのスポーツと、あと、言ったら怒られそうだけど、ボクシングとか…。 それは、まあ、ないか。 「やってみたいこと…」 理奈ちゃんにしてみたら、ひょっとしたら世の中ってやってみたいことだらけなんじゃないかな。 結構、自分の好きな世界に生きてて、欲しいものを全部手に入れたみたいに見えて、実はものすごく狭い世界に閉じこめられてしまってるんじゃ…。 あ、いや、これはまあ、俺が由綺を観てて思うことなんだけど。 理奈ちゃんは生まれついてのアイドルみたいな人だし、そんなこともないかも知れないな。 「そうね、ハングかしら…?」 「…えっ?」 「ハンググライダー…とかね…」 「前に一度やったことがあるだけなんだけれど」 「ハンググライダー…」 って、あれだよな。 あの、崖の上とかから、なんか三角の、ステルスみたいな凧みたいなのに乗って空飛ぶやつ。 あれを…。 「そんな驚いたみたいな顔をしなくても…。 変…?」 「え…? あ、変じゃない!」 「あれはあれで気持ち良いんだから」 「晴れて風のない日だと、すうっと空を滑ることができて…。上昇気流に乗ると空の方に上ってゆく感じだってするの」 「へえ…」 目に浮かんでくる。 理奈ちゃんがたった一人で、上昇気流に乗って空に舞い上がってく姿。 滑空する彼女はきっと、すごくかっこいいんだろうな。 「興味持ってくれた? …冬弥君も、そのうち一緒に行こうか?」 「えっ? 俺っ?」 理奈ちゃんと遊びに…? 「…私が、仕事が無くなって暇になったらだけれどね」 「な、なんだ。あはは…」 それはかなり先の話だな…。 それまで理奈ちゃんが、今の話を、あ、いや、俺を、覚えててくれてたらいいんだけど…。 「この間、俺、知り合いとサイクリング行ったんだけど…」 俺は理奈ちゃんに、はるかの話をしてみた。 「ふふっ。なんだか面白そうな人」 「でも、その人ってお金持ちなの?」 「ううん。どうして?」 「だってメルセデスのATBなんて、普通のお小遣いじゃ買えないでしょう?」 「うん…」 お小遣いとかそんなレベルですらないんだけど。 「ローン組んだとか言ってたけど。 まあ、でも、よく判らない人間だから」 「あははっ。すごいのね…」 「やっぱり冬弥君のお友達って面白い人多いのね」 「毎日、楽しそうなんだもの」 「そうかな…」 まあ、楽しいことは楽しいんだけど。 ただ徹底して普通なだけで。 「そういう風な楽しさって、私、よく判らないから」 「うん…」 そんな感じだ、理奈ちゃんって。 有名人とかが知り合いだからっていっても、そんなに幸せだとかって、ないのかも知れない。 ピピピピピピ… 「ん…」 そして理奈ちゃんは、まるで普通にポケベルを切る。 「ね? これだから。ふふっ」 「ごめんなさいね。それじゃあ」 「うん…。がんばってね…」 …どう言ったらいいのか、大変なんだな。 はるかとはまるで正反対なんだけど、そんなジョークで軽く笑えないほどに、彼女、大変なんだよな…。 「前に理奈ちゃん、俺にハンググライダーの話してくれたじゃない」 「ええ。気に入ってくれた?」 「うん。できたらもっと聞いてみたいなって思って」 「私、一度やっただけだから、そんな誰かにお話できるほどのことなんて…」 「ええ? だけど、すごい楽しそうに話してたよ?」 「そうね…」 理奈ちゃんは少し笑って、視線を少し逸らす。 「楽しいんでしょうね…。いつまでも、空の真ん中を滑り続けるって…」 彼女の声が、かすかに憂いを帯びる。 「ただ空気の真ん中にいて、上にも下にも何もなくて…。私を捕まえているものは、ただ風と光だけで…」 「うん…」 「少し冷たい空の青の中を滑っていると、ねえ冬弥君? 私、どこまでだって行ってしまえそうな気になれるの」 「空はどこまでだって続いていて、そしてわたしもどこまでだって…」 「…でも、だめね」 不意に理奈ちゃんは話をやめた。 「どこまでも…なんて、子供みたい…」 「え…?」 「どこまでも行ける、なんて、この世の中にはそんなものは無いから…」 「それは…」 「そんなことない」 「その通りかもね」 「その通りなのかも…知れないね…」 ネガティブな考え方だとは思う。 だけど、夢だとか希望だとか言って、ふわふわ空に浮かんでばかりでなんていられないんだ。 特に、理奈ちゃんみたいにトップを走り続ける人間は。 「対流圏って言葉知っている? 私達が空って呼んでいるところよ」 「空にだって限界はあるの。私がいつまでも飛んでいたいって思っている空にだって…」 「どんなに気持ち良く空を滑っていたって、いつかは…」 いつかは… 地面に…? 「そう。地面にね…」 俺の考えてたことも、理奈ちゃんに簡単に通じた。 知らないうちに、俺もそんな予感を持ってたのかも知れない。 「ごめんなさい…変なお話になっちゃって…」 「別に私、ペシミストってわけじゃないのよ」 「あ、うん…。俺の方こそ暗いこと言っちゃってたね、ごめんね」 「ううん。大人な考え方だと思うわ」 「…もしも、ね、私が地面に落ちることがあっても、冬弥君、私のこと忘れないわよね…?」 「え…?」 理奈ちゃんが… 地面に…。 「忘れちゃう?」 「まさか」 すると理奈ちゃんはちょっと安心したみたいに微笑んだ。 「そう…。でも、忘れちゃっても、いいよ…」 「そんなこと…」 だけど理奈ちゃんは不意に時計に目を遣る。 「それじゃあ私、もう、行くから…」 「うん…」 …理奈ちゃんがみんなの視界から消える時がもしあったとして、俺は何をしてあげられるんだろう? 由綺にすら、何もしてあげられないみたいなこんな俺が…。 「理奈ちゃんって、いつもおしゃれしてるって感じだよね」 「そう? ありがとう」 「結構こだわる方?」 「うーん…。そうね、自分ではそんなつもりはないし、おしゃれするのに時間をかけているつもりはないんだけれど…」 「でも、結構うるさい方みたい。くすっ。兄さんにはよくうるさがられているわよ」 「英二さんに?」 あ、なんか普通の兄妹…。 「お仕事の方でも割と口出ししたりしちゃう方だから、デザイナーさん達にも結構うるさがられていそう。あははっ、怖いわね」 「ははは…」 う~ん。 なんか、プロフェッショナルな台詞。 「でも本当、最近のデザイナーさん達ってかなりセンス良い人が多いし、そういう人達とお仕事する時もあるから、なんだか割とラッキーかもね」 「そうなんだ」 本人がおしゃれで、それで周りにまでそんな人達がいるんだったら、そりゃファッショナブルじゃない方が変かな。 「個人的なおしゃれも、たまにはしてみたいけれどね。ふふっ…」 「え? いつものは、してない状態?」 「普段着よ」 「そう…」 レベルの差ってやつか…。 「時々気になってたんだけど、そのネックレスって、いつもしてるよね」 「これ?」 「ええ…。そうね…」 「よっぽど気に入ってるものなんだ…」 そこで初めて彼女が恥ずかしそうに微笑んでるのに気づいた。 ひょっとして、誰か男の人との想い出の品物とか…? 「これ、兄さんに買ってもらったの…」 なんだ…。 でも、ちょっと意外だ。 そういえば英二さんもこれと同じのをしてたっけ。 「英二さんって妹想いなんだね」 「さあ、それはどうかしら」 「これを買ってくれたのだって2年も前だし。その間に別の女の人にどれだけ白々しいプレゼント贈っているか…」 「って、うっかりしたことを言っちゃまずいわね」 「もう。冬弥君にって、なんだかだらしなく喋っちゃうわね、私」 警戒するみたいに、ひそひそ声になる理奈ちゃん。 「だ、大丈夫。理奈ちゃんの話、俺、誰にも言わないから…」 当然みたいに俺の方もひそひそ声になる。 「あははっ。冬弥君、そんなに真面目な顔しなくたって平気よ」 「兄さん、いつだってあんな調子なんだから」 「私にプレゼントなんて滅多にないことだから、喜ばなきゃいけないわね、本当だったら」 「私がデビューした時に、お祝いだって…」 「そんなこと言いながら、自分も同じもの買っていて…。本当に、私へのプレゼントなのか自分のついでに買ったのかどうかって感じもするけれど…」 愛おしそうにネックレスを弄ぶ彼女。 すごく大人っぽい仕草なのに、その目はまるで子供みたいだった。 「じゃあ、それ、理奈ちゃんの宝物の一つなんだ」 「…そういうことになるのかしらね。別に私、他に大切なものなんて持っていないし」 なんだかんだ言って、理奈ちゃんも大切にしてるみたいだ。 そのアクセサリーを、ってことじゃなくて、英二さんとの想い出を。 英二さんだっていつもそれをつけてるみたいだし。 ほんとは、普通の仲の良い兄妹なのかも知れないな。 この二人って。 「前も見たけど、理奈ちゃんって小物とかにも気を配ってるんだね」 「え?」 「ほら、前に俺が控え室で理奈ちゃんの本持ってた時…」 「ああ、あの時? 由綺の忘れ物探しに来ていたんでしょう?」 「うん…。由綺、イヤリング忘れてってて…」 「ふふっ。由綺らしい」 「あ、でも、冬弥君の目から見て、由綺のファッションセンスってどう思う?」 「え? 俺から見て?」 「そう。彼氏の冬弥君から見て」 そ、そんな言い方されると、照れるな…。 「…なにもそこで赤くならなくたって…」 「で、どう? 由綺?」 「う~ん…。…俺、女の人のファッションとかってあんまりよく判んないんだけど…」 「うんうん」 由綺のファッションセンスって… 「悪くない」 「いまひとつかな」 「やっぱり判らない」 「…まあ、由綺に関して言ったら、そんなに悪くないんじゃないかな…」 「ほら、由綺、無理した格好とかしないから。 普段着なんて自分に見合ったみたいなものとかしか着ないし…」 なにしろ由綺、アイドルなのにジーパンとかが好きなんだ。 フリルのついたスカート姿なんて、ステージの上か高校の文化祭の仮装の時くらいしか見たことがない。 …似合うっていったら似合うんだけど…。 「ふうん…。結構よく観察しているのね、冬弥君って。由綺のこと」 「そんな…。観察だなんて…」 「…だからどうしてそこで赤くなるの?」 「でも、由綺も確かに悪くないけれど、冬弥君も良いセンスしているのかも」 「そう?」 「ええ」 「女の人のファッションとかよく判らないって言っていたけれど、由綺のことをそこまで言えるんだもの」 あの理奈ちゃんにそこまで言われるなんて、なんか嬉しい。 「でも、俺、人に言うだけだしさ」 「ううん。冬弥君本人だって、冬弥君の言葉で言うと『無理していない』ファッションじゃない?」 「そういうのって、結構いいと思うわ」 「そうかな…」 「そういうセンス、私、好きよ」 なんだかすごい褒められてる。 今まで人にファッションセンスを褒められるなんてあんまりなかったから(けなされることもなかったけど)、やっぱり嬉しいな。 「そのうち一緒にお買い物にでも行ってみたいわね、冬弥君と」 「お、俺と?」 「楽しいかも」 「そ、そうかな…」 言いかけた時、ピピピピピピ…。 「ん…」 理奈ちゃんはポケットから何かを取り出す。 小さなポケベルだった。 「兄さんから。…もう行かなきゃ。それじゃ、またね」 「う、うん」 …この調子じゃ、一緒に買い物なんて冗談以前の問題だな…。 「いまひとつ…じゃないかなあ…」 「そう思うんだ?」 「いやほんとに、女の人のファッションってよく判らないんだけどさ」 「うん…。やっぱり、俺からみたらちょっと…かな…?」 とかなんとか自信のない俺。 「シビアなのね、冬弥君」 「それともファッションなんて関係なく、由綺は永遠に美しい?」 「そっ、そんなこと言ってるんじゃっ…!」 「あははははっ。冗談。冗談よ」 …だめだ。 遊ばれてるよ、俺…。 とか思ってると突然、ピピピピピピ…。 「ん…」 理奈ちゃんはポケットから何かを取り出す。 小さなポケベルだった。 「兄さんから。…もう行かなきゃ。それじゃ、またね」 「う、うん」 「う~ん…。だめ、やっぱり判んない」 「判んないって…。別に感じたままのこと言っていいんじゃないかしら?」 うん…。 そうなんだろうけど、俺、そういうのほんとに判んないんだ。 「くすっ。由綺には告げ口しないでおいてあげるから…」 「あっ、いやっ、別にそれだからって言わないんじゃ…!」 「あははははっ。冗談。冗談よ」 …だめだ。 遊ばれてるよ、俺…。 とか思ってると突然、ピピピピピピ…。 「あ、もう…」 理奈ちゃんはポケットから何かを取り出す。 小さなポケベルだった。 「兄さんから。…もう行かなきゃ。それじゃ、またね」 「う、うん」 バレンタインのお返し、どんなプレゼントしたら喜んでくれるかな。 「ねえ、理奈ちゃん。あの、こんなこと訊くのって変かも知れないけど」 「理奈ちゃんってやっぱり、ファッションとかってメジャーブランドが好きなの?」 「そう見える?」 「いや、そうじゃないんだけど…」 バレンタインデーに贈り物を受け取っちゃってるから、やっぱりお返しもそれなりのものにしないと、とか思ってるんだけど。 理奈ちゃんに似合いそうなアクセサリーとか。 ただ俺、そういう女の子のファッションブランドって全然判らないから。 「どういうブランドが好きかなとか思って」 「どうかした? 冬弥君らしくないわね」 「特に、決まったブランドはないけれど。デザインが気に入ったら買う、くらいで」 「そうかあ…」 それじゃ、理奈ちゃん本人が選ばないと気に入ってくれないかも知れないな…。 「どうかしたの? 急にそんな?」 「あ、いや、別になんでもないけど…」 考えてみれば理奈ちゃん、あんなに人気があって、ファンも多いわけだし。 「やっぱり、ファンの人からとかいろいろプレゼントされてる?」 「嬉しいことにね」 「会ったこともない私のファンからはいつも…」 「みんな『尊敬しています』とか『応援しています』とか、そういう類のプレゼント」 「やっぱりすごいんだ」 「どうかしら? 尊敬されていても、愛されているかどうかは判らないわよ」 「え?」 それは同じことじゃないのかな? 誰かが誰かを尊敬したり応援したりするって、愛してるってことなんじゃ…。 「時々思うわ。この中に、自分の恋人よりも私を選ぶ人がいるのかな…なんて」 「…こんなこと、考えちゃいけないんだけれどね」 「あ…。そうかな…」 「そういうものだけれどねっ。ちゃんとファンの人はファンの人って思っているから」 「でも…一度でも、ファンとかじゃない人からすごくわがままな贈り物、されてみたい…とかね…」 「なんてっ。ふふふっ。こんなこと、冬弥君の前だと、つい言っちゃうわね。迷惑?」 「まさか…」 …あんまり普通の願望に、ちょっと驚いただけ。 カリスマになったことで失ったものって、ほんとに普通すぎて、取るに足らないものばっかりなんだな。 なにもかも手に入れたみたいな彼女が、そんなものをずっと欲しがってきたなんて、一体誰が信じられるんだろう。 …確かに理奈ちゃんも、こんなことは意識して言わなくなっちゃうだろう。 こんな理奈ちゃんの姿を知らないで聞いたら、ただの嫌味にしか聞こえない。 だけど、彼女は…。 「うん。判った」 「えっ…?」 「判ったって、なにが判ったの?」 「あ、ううん。教えない」 「あ、意地悪してる」 来月のホワイトデーはちょっと驚かしてみようかなって、そんなこと思っただけ。 すごくわがままなプレゼント、「今日はひょっとして、ずっとここで仕事してたの?」 「ええ。朝からよ」 「ああ、それ、よかったかも。今日、外、すごく寒いよ」 「本当?」 「天気は良いんだけどさ、ちょっと風が強くてね…」 「私、ずっと建物の中だったから、外の温度なんて全然気づかなかったわ」 「冬弥君もこんな日に本当に大変ね。ここも駐車場がもう少し近いと楽なんだけれど…」 「駐車場?」 「ええ。風の強い日とか雨の日とか、あの場所から歩かなきゃいけないから大変でしょう?」 「い、いや、俺、車じゃないんだけど…」 「あら? そうなの?」 「うん…。俺、車持ってないから…」 「そうだったの? …私、てっきり…」 「…いつも歩きだよ。あはは…」 「雨の日とか風の日とかも?」 「うん…。あ、途中まで電車だけどね」 「へえ…。すごいのね、冬弥君って…」 「え?」 別に俺、そんなすごいことなんて…。 「それじゃ、いつもトレーニングしているみたいなものでしょう? 見た感じよりもすごくタフな人なのね」 「い、いや、俺…」 ただの徒歩通勤… って言おうとしたけど、やめた。 せっかく理奈ちゃんに尊敬の眼差しで見られてるのに、わざわざそんなことを言うのもばかみたいだ。 それに、確かに彼女の言う通り、このバイトを続けていられるってことは、俺も多少はタフな身体を持ってるってことなのかも知れない。 『見た感じより』ってのが、ちょっと引っかかったけど。 「あ、ごめんなさい。そろそろ行かなきゃ」 「それじゃあ、また今度ね」 さ、俺も仕事に戻ろう。 「あのさ…」 俺が何か言いかけるのを、理奈ちゃんは口に指を当ててとめた。 「?」 「Schweigt…stille…」 「え…?」 「plaudert、nicht…」 「う、うん…」 な、何だろう…? 急に呪文なんか唱え出して…。 理奈ちゃんの顔は真剣そのものなんだけどな。 とにかく、声を出しちゃいけないみたいだったから俺もしばらく黙ってた。 店内BGMの、声楽曲だけが響いてた。 やがて、理奈ちゃんはゆっくりと目を閉じて微笑む。 「…急にごめんなさい。ちょっと好きな曲がかかっていたから」 「好きな曲って、これ?」 俺は店内BGMを示すつもりで店の中の古いスピーカーを指さした。 相変わらず低い男の声が響いてる。 「ええ。まさか冬弥君がドイツ語を知っているなんて思わなかったけれど」 「ドイツ語…?」 俺、いつの間にドイツ語なんか喋った? カウンターの奥で店長がにやにや笑ってる。 「『喋らないで』って言ったら冬弥君、口閉じてくれたじゃない?」 「え…。ああ…」 あの呪文はドイツ語だったのか。 全然知らないよ、俺。 「でもどうして急にドイツ語でなんか…?」 「あら? 通じていなかったの?」 店長が愉快そうに吹き出す。 「『Schweigt stille,plaudert nicht』。この曲のタイトルよ」 「え…? あ、そうなんだ…」 「ふふふ、ごめんなさい」 「さすがにドイツ語は知っていても、バッハまでは知らなかったみたいね」 「ま、まあね…」 ほんとは両方知らないんだけど…。 店長が必死に笑いをこらえてる…。 「今度から素直に『コーヒーカンタータ』って呼ぶことにするわね、この曲。ふふふっ」 「うん…」 そうしてくれるとありがたい… みたいな気がする…。 「今年は雪、もう降らないのかな…」 「うん…」 そういえばあの時も、雪が降ってた…。 あの、大きな樹の下で理奈ちゃんと口づけを交わした時も…。 「また…降るといいのにね…」 「うん…」 そうしたら俺はきっと、その度に理奈ちゃんのことを思い出すだろうな。 今の俺達のことを考えると少しつらいけど、それでも多分…。 「また…降るといいね…」 もう一度、まるで自分だけに言うみたいに、理奈ちゃんは呟いた。 「今年は雪、もう降らないのかな…」 「ええ…」 理奈ちゃんは軽く微笑む。 「笑わないでね、冬弥君…」 「私、今でも雪の日をロマンティックだなって思っちゃうの。変でしょう…?」 「…ううん。そんなこと、ないと思うよ…」 「そうかしら…?」 「だと思うよ、俺…」 「よかった…」 「いらっしゃいませ」 「おはよう」 「あ、理奈ちゃん。いらっしゃい」 せっかくだから、何か話がしたいな…。 「冬弥君」 「え?」 「あ、理奈ちゃん」 「おはよう」 理奈ちゃんは笑顔で挨拶してくれる。 「おはよう」 せっかくだから、何か話をしたいな…。 あれ? 理奈ちゃんがいる。 「理奈ちゃん?」 「あ、冬弥君」 「おはよう」 「おはよう。どうかした?」 「えっと…」 「はるかの身の回りで何か面白いこと起きないわけ?」 「どうして?」 「いや…。はるかってさ、いっつも暇そうにしてるからさ」 「ほんとに周りに何も起きないのかなって…」 「そういえば」 「なに?」 「彰が子犬産んだから、くれるって」 「はあ…」 友人を犬扱い…。 「可愛いね、子犬って」 「待てって…」 「?」 不思議そうな顔するかな…。 「あ、そうか」 「彰の飼ってる犬が、子犬を産んだから、彰が、私に、その子犬をくれるって言ったの」 「そ、そうか…」 これが元の文章だったのか…。 はるかの日本語って、改めて、めちゃくちゃなんだな。 「だから彰って名前にする」 「それは…」 犬扱いは変わらないのか。 「彰みたいにハドソンなんて名前つけたくないし」 「あれもあれでよく判らないな」 「はるか、この間はごめんな」 「この間?」 「ほら、学園祭の日」 「ああ。いいよそんな」 「うん…」 でも、わざわざ電話までかけてくれたのに。 「…結局、一人で行ったの?」 「楽しかったよ」 「そうか…」 そう言っててはくれてるけど、ちょっと申し訳ないな。 「今度はつきあうからさ」 「うん」 「無理じゃない程度にね」 また、はるからしくもない謙虚なことを。 「じゃ、そうするよ」 「うん」 「俺、今度、家庭教師やるんだ」 「家庭教師?」 「ああ」 驚いてる驚いてる。 「中学生くらい?」 「ばかいえ…」 いくらなんでも、俺の学力を甘く見過ぎてる。 「女子高生だよ。受験生の」 「ふうん…」 「あ…」 またはるかの誘導尋問にひっかかったか、俺。 言わなくていいのに『女子高生』なんて…。 「じゃ、外で遊ばないと」 「はあ…?」 『女子高生』が、なんで外で遊ぶ話に? 「家庭教師始めたら、ますます部屋にこもっちゃうから」 「あ…。まあ、そうかな…」 『女子高生』は聞き逃してくれたのか。 「冬のあったかい部屋って気持ち良いからね」 「判ってる」 「だから時々、こうやってはるかにつきあってるだろ?」 「はるかといたら、運動不足なんてありえないからさ」 「あはは、そうかな」 「そうだよ」 自覚しろ。 「冬弥って意外と、こもるの好きそうだし」 「ないない。そんなことない」 「女子高生と一緒だと特に」 「…ないってば…」 なんだ、聞き逃しちゃなかったのか…。 「何やってんの?」 「帰るとこ」 「俺も」 「どうかした?」 「何が?」 「急にそんなこと」 「別に。暇だから」 「暇だね」 「うん…暇だな」 「はるかはこれからどっか行くところとかあるの?」 「別に。暇だから」 「そうかあ、暇かあ」 「暇だよ」 「暇だよなあ…」 「あ、猫だ」 「猫だ」 「行っちゃった」 「行っちゃったな」 なんかだらしないなあ、俺達。 「ちょい訊いていい?」 「なに?」 「はるかって、なんでサークルとか入らなかったの?」 「冬弥とおんなじ理由」 「てきとうなこと言うなよ」 「めんどくさいから」 …てきとうでもないか。 「でもさ、体育系じゃなくたってさ、文化系とかもあるじゃない。ああいうのって楽なんじゃないのかな」 「もっと面倒だよ」 「そうなのかなあ…」 「人間相手だし」 そういうものかな。 「冬弥も今からどっかサークル入るの?」 「いや、そんなわけじゃないんだけどさ」 「訊いてみただけ?」 「うん。訊いてみただけ」 「そ?」 俺もはるかも、今更サークル活動って感じじゃないしな。 「なんだか腹減ったなぁ…」 「そう?」 はるかは、ジーパンのポケットをごそごそとさぐる。 「お、何かあるの?」 「サンドイッチ…」 「そんなとこに?」 ぺちゃんこになってそうだけど、この際文句は言わないことにする。 「最近、家庭教師のバイトが大変でさ。 教えてる子が、ちょっと気難しいっていうか」 「でも、可愛らしいところもあったりするんだけど…」 「…家庭教師?」 「前に言わなかったっけ? 受験生を教えてるって」 「そうだっけ?」 「言ったと思うけど…。ほら、バイトを始めた頃に」 「あ…そういえば」 「思い出した?」 「中学生の…男の子」 「違う、女子高生だって! そりゃ、マナちゃん、ちっちゃいから、中学生に間違われそうだけど」 「ふうん…」 「あ」 また言わなくていいことを…。 はるかを相手にしてると、いつの間にか、洗いざらいしゃべってそうだな。 「ま、で、でも、先生の自覚ってのが、ちょっとずつ芽生えてきた気がするよ。大変な仕事だって、意識するようになったし、あははは……」 笑ってごまかしてしまおう。 「そうなんだ」 わかってるのかわかってないのか、はるかは興味なさそうに答える。 「こういう気持ち、はるかなら、わかってくれると思ったんだけど…」 「んー…」 はるかは首を傾げて、ちょっと考え込む。 「あ…」 「わかってくれた?」 「ちっちゃくて…可愛らしい女子高生を…意識して…大変?」 「あの…そんなふうに、つなげないでくれるかな」 「今から用事?」 「ううん。帰るとこ」 「じゃ、一緒に帰ろう」 「うん」 俺達は話しながら並んで歩いた。 と、突然、「あ」 はるかは俺を無視して、一人でさっさと駆けてってしまった。 「おい…」 残される俺。 「冬弥ー」 「なに?」 はるかが向こうでおいでおいでしてる。 「何なんだよ…」 俺はぶつぶつ言いながらはるかの方に歩いた。 「ほら」 「ん?」 はるかが指さしてたのは、大きめの赤い花だった。 「綺麗だね」 「花…。季節はずれなんだな…」 「違うよ」 「え?」 「冬に咲くんだよ」 「へえ…」 そんな花あるんだ。 「夏にも咲くけど」 「何だそりゃ?」 「変種だから」 詳しいんだな。 「冬のは雪の中だと綺麗なんだけど…」 「ああ、そうか…」 確かに綺麗だと思う。 でも最近、積もるほどの雪なんて降らないからな…。 はるかはしばらくぼうっと牡丹を見つめてたけど、「帰ろ」 「あ、うん…」 「どうかした?」 「いや…。はるかって、花好きだったかなあとか…」 「時々ね」 時々、ね…。 「のんびり旅行とか、行ってみたいな…」 「…どこへ?」 はるかは興味があるのかないのか、気だるそうに返事する。 「やっぱり、冬に行くと楽しめるようなところがいいな」 「温泉とか…?」 「ま…ちょっとジジむさい気がするけど…俺にはあってるかも。はるかは、行ってみたいところとかないの?」 「うん…」 はるかは、視線を宙に浮かせる。 「あ…」 「何か思いついた?」 「北海道」 「いいね、札幌の雪祭りを見に行くとか?」 「ううん、道がまっすぐだって聞いたから」 「え?」 はるかと俺では、北海道の楽しみ方について、大きなズレがあるような気が。 「…それで?」 一応、訊いてみることにする。 「何キロも真っ直ぐだって」 「…だから?」 「自転車に乗ってても、転ばないかも」 「そんだけの…理由?」 「うん」 出来れば否定して欲しかったけど、はるかは、あっさりと肯定した。 「せっかくの夢を壊すようで申し訳ないんだけど、実は、残念なお知らせがあって…」 俺はTVで仕入れた知識を、少しだけ披露することにした。 「北海道に住んでる人って、真冬は自転車に乗らないらしいよ。ずっと倉庫にしまっとくとか」 「どうして?」 「冬は地面が凍りついて、すっ転ぶんだって」 「あ、そうか」 「というわけだから、あきらめろ」 「そうだね。でも……」 「なんだ?」 「雪があるから、転んでも痛くないかも…」 「お前…」 意外と本気だったのか。 「はるかって、どんな音楽聴いてる?」 「クラシック」 「嘘つけ!」 「ロマン派に対抗して新古典主義が出現し始めた時期のとか…」 「嘘なんだろ…?」 「うそ」 ま、まあ、判ってたけど…。 「で、ほんとは?」 「よく判んない」 「判んないって…」 「そんな難しくないだろ、音楽っても。普通に聴くCDとかさ…」 「聴かないから」 そういえば、はるかがウォークマンとか聴いてる姿って見たことないな。 「暑苦しい歌詞とか苦手だし」 「最近は多いな、そういうの」 「めんどくさいし」 「…………………」 ていうか、それ以上に面倒じゃないことって何なんだ。 「はるかってなんかすごいな…」 「そう?」 「うん…」 「あんまり言われないよ」 そりゃそうだ。 「まあいいや。新しくCD買ったんだけど、それじゃ貸さなくたっていいかな」 「あ、聴く」 「なんだよ、めんどくさいんだろ?」 「めんどくさいけど聴く」 都合の良いやつ。 「冬弥、音楽の趣味とか結構良いしね」 「そうかな…」 ちょっと照れてみせながら俺ははるかにCDを手渡す。 「ありがと。聴いたら返すね」 「ま、いつでもいいけど…」 「最近、由綺の仕事も忙しくなってきたよな」 「そうなんだ」 「そうなんだ…って…」 「TVとか、あんまり観ないから」 そういえば昔からそうだ。 だから由綺とはいつまでも友達としていられるっていうか。 「ラジオの方が好き」 「訊いてないって」 「でも、由綺とは、たまには会ってんだろ?」 「会っても仕事の話はしないから」 「あ、そうか」 はるかははるかで気を遣ってるんだな。 「こないだはフルーツ牛乳の話とかしてたよ」 「そ、そうかあ…」 「いつもってわけじゃないけど」 「当たり前だ!」 まったく、由綺を何だと思ってんだ。 「私はよくそんな話するけど…」 お前も何者だ…。 でも、俺も今まで見たことないけど、由綺とはるかが二人きりになった場面って割と怖いと思う。 いろんな意味で。 まあ、でも、由綺も相変わらずみたいだ。 「はるかって、緒方英二、知ってる?」 「うん。知ってるよ」 さすがにはるかでも知ってるか。 「由綺の音楽作ってる人だよね?」 「そう」 もっとも、はるかにしてみたらそっちの意味の方が重要なのかも知れないけど。 「好きだよ、結構」 「え? 英二さんの曲?」 「うん」 へえ。 なんか意外。 「妹さんの方の歌、私にはちょっとかっこよすぎるけど」 妹さん… 理奈ちゃんか。 近所の人の話してるみたいな言い方。 「でも、由綺の歌は好き」 「へえ…」 「すごく由綺っぽいよ」 「うん…」 確かに、俺も思う。 由綺が歌う歌は、由綺本人のイメージを歌ってる気がする…。 「緒方さんって、由綺のことよく見てるね」 「そう…だよな…」 それは悪いことじゃないし、嫉妬すべきことでもない… けど…。 だけど、この不安は何なんだろう…。 「どうかした?」 「ううん。別に…」 「よかったじゃない。由綺」 「え?」 「そういう人のとこで仕事できて」 「あ…」 そうか…。 俺が気に懸けなきゃいけないのは、由綺だ…。 英二さんじゃない。 「由綺、うまくいくよ」 「うん…」 「きっとね」 「うん。きっと…」 そしてそれは、俺の正直な気持ちだった。 「この間もTV局にバイト行ったんだけどさ…」 「由綺に会えた?」 「え…?」 「あ、いや、俺、別に由綺に会いたくて局でバイトやってるんじゃないし…」 「判ってる。でも、会えた?」 「ま、まあね…」 俺は曖昧に答える。 はるかの目から見て、今の俺と由綺の状態ってどんな風に感じられるんだろう? 恋人同士… なんて、見えるのかな…。 「冬弥、難しい顔してる」 「そ、そう…?」 はるかが俺の顔を覗き込んでる。 「会えるんだったら、それでいいんじゃない?」 そっと、はるかは言った。 「よく判んないけど…」 そしてちょっと恥ずかしそうに加える。 「う、うん…」 俺もまた、ちょっと照れて答えた。 「はるか」 これはちょっと言っとかなきゃ。 「ん?」 「前にさぼった映文論な、あれ、かなり重要だったって」 「冬弥が連れ出した時の?」 「はるかが俺を、だ」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 っても、同罪なんだけど。 「どうする? 結構大変だよ」 「何が?」 「何がって、テストとかあるだろ…」 「…………」 「…なに?」 「最近何かあったの?」 「何かって…?」 「身内に不幸とか」 「あるかそんなの!」 何をまた縁起でもないことを。 「……………」 まだ不思議そうなはるか。 「俺が授業を気にしてんの、そんな不思議なわけ…?」 「うん、不思議不思議。すごい不思議」 「強調するなー…」 「だって冬弥、『卒業できたらいいや』って言ってたよ」 そんな台詞を本気にしてたのか、はるかは…。 大学生だったら一度は呟く、決まり文句みたいなもんじゃないか。 たまに、本気で口にする奴もいるけど。 「はるかには悪いけど、俺、誠実にガクギョウを修めたいんだ」 「ふうん。真面目になったんだ?」 「真面目になったんだ」 「すごいすごい」 「すごいだろ?」 あれ? はるか、本屋の紙袋なんか持ってる。 「へえ、はるかでも本なんか買うんだ」 「うん。読書も好きだよ」 「ふうん」 「あ、中、見ていい?」 「いいよ」 がさがさ…。 「って、はるか、これ雑誌じゃないか」 しかもスキューバダイビング専門誌。 「うん。でも、字、多いよ」 「いくら多くても読書っていわないの、こういうのは」 「気持ち良さそうだよね」 「何が?」 「スキューバ」 読書好きはもう終わりか…。 「潜ってみたいね。南の海とか」 「まあ、楽しいだろうな」 「行こうかな、ほんとに」 「おいおい…」 本気な顔するなよ…。 「でも、はるかの場合、何かにつないどかないとどこまでだって流されていきそうなんだよな」 「いいかなそれ」 「ずっと流されて、名も無い南の島に流れ着いて」 「いいか?」 「一日中空と雲眺めるの。お腹空いたら横に椰子の実が流れてきて」 「そんな、都合の良い…」 「好きな時に好きなだけ眠って。目が覚めても見えるのは空だけ」 「太陽と、月と星と」 う~ん…。 確かに悪くないかも知れないな…。 「満ち潮になったら海に浮かんで、引き潮になったら砂浜に戻って…」 「それじゃ水死体だよ。 ていうか、そういうんじゃないだろ、スキューバって」 「うん。スキューバは潜る方だから」 いや、そういうことでもなくて…。 「行けば判るよ。今度行かない?」 「お金が貯まったらね」 「そんな無理言わないでよ」 無理なのか、それは…。 それにしても、一瞬でもはるかワールドに入ってしまうなんて、俺、今の生活に何か不満でもあるのかな。 「はるかってさ、俺ともそうだけど、彰ともつきあい長いよな」 「そうだね」 「不思議なんだけどさ」 「何が?」 「はるかってあんまり本読まないよなあ」 いや。 『全然』読まないよな。 「この間、彰に推理小説借りたよ」 「え? ほんとに?」 「ほんと」 彰も彰で無謀なことするなあ。 「でもどうせ、『最後まで読まなかったよ』とか…」 「最後まで読まなかったよ」 「やっぱりか…」 読めすぎるんだ、こういう時のはるかの行動って。 情けない話だけど。 「やっぱり、つまんなかったわけ?」 「ていうかね、面白かったよ」 「なにが『ていうか』なんだよ。それだったら読みなよ」 「なんとかディクスンって人の本」 訊いてないって。 「完全に鍵とか閉めきられた部屋の中で男の人がボウガンで殺される話」 「へえ…」 いわゆる密室殺人ってやつだな。 「面白そうじゃない」 「どうして最後まで読まないのさ? 犯人とか気にならない?」 「気にならないわけじゃないけど」 「途中で判っちゃった」 「何が?」 「トリックとか犯人とか」 「うそつけ!」 「ほんとほんと。彰に話したら『その通り』って言ってた」 「ほんとか…?」 「うん」 「ほんとならすごいな…」 「ほんとほんと」 まあ、はるかだったら判らないことないかな。 はるかが物語とか読まないってのは、先読みがすごいできちゃうからなのかも知れない。 つまり、読まないんじゃなくて、読む必要がないっていう…。 「今でもその人の、別の本借りてる」 「懲りないんだな…」 彰もはるかも…。 「ここのバイト、長いね」 「まぁ、そうだな…」 はるかに言われ、カップを洗いながら考える。 「ここを手伝い始めたのが高校生の頃だから…」 恥ずかしい話だけど、最初の頃はコーヒーのドリップすら満足に出来なかった。 そんな俺が、今では一人でフロアを切り盛りしてるとは…。 ほんと、長く続けてきたものだと思う。 「あ…。そういえば」 ふいに、はるかは何か思い出したみたいな声をあげる。 「どうかした?」 俺はカップを洗う手をとめて、訊いてみた。 「彰、いる?」 そう言って、はるかは店の奥の方をじっと見る。 彰に用事とか、はるかにしては珍しいな。 「今日は来てないよ。 厨房に入ってるのは店長だけ」 「そう」 「何か用事?」 「俺さ、時々気になってたんだけど」 「なに?」 「はるかってさ、今、好きな人とかっている?」 「気になってたの?」 「いや、気になってたっていうか、何かなっていうか…」 あ、だめだ。 ここで俺の考えモードに入ったらごまかされる。 「なんかほら、そういうのって訊いてみたいなって思う時あるだろ。時々さ」 「んー…」 首を傾げるはるか。 「ないならいいよ」 恋愛とか、そんな以前の問題だな、はるかの場合。 「どう思う?」 「え?」 「だから、冬弥はどう思うの?」 「何が?」 「いると思う? そういう人?」 「え…?」 いると思う いないと思う 判らない 「いる…とか…? ひょっとして?」 俺は(何故か)恐る恐る疑問形で答える。 「ひょっとして?」 「あ、なんでもない。でも、いるわけ?」 「いるよ」 「そ、そう…」 自分で訊いておきながらどうかと思うけど、俺はちょっと動揺した。 俺だって由綺にそういう気持ちを持ってたんだから、はるかが誰かにそういう気持ちになったっておかしくないはずなのに。 「聞きたい?」 「い、いやあ…。そういうのって、ほら、個人の問題だしさ…」 「冬弥」 「いくらつきあい長いってもプライベートはプライベートとして…え? 何?」 「だから、冬弥だってば」 「何が?」 「好きな人」 「へ、へえ…」 な、なに言い出すんだ。 ごまかすにしても、他の誰かの名前だっていいだろうに…。 「あと、由綺かな」 「…なんだ、そういう『好き』か」 俺が相手ってのもアレだけど、由綺が相手ってのはもっと怖い。 特にはるかなんて中性的なんだから。 「そういうんじゃなくてさ…」 そんなのわざわざ訊かなくったって判るよ。 「んー…」 再び首を傾げる。 「じゃあ、彰」 「じゃあって何だ。でも、彰、そうなの?」 「うん。冬弥と同じぐらい」 「だからそういうんじゃなくて…」 「んー…」 いちいち考えなきゃ判らないレベルでもないだろうに…。 「じゃあ…」 「美咲さんなんて言うなよ」 「みさ…」 なんで驚くんだよ…。 「冬弥って、なんかすごいね」 「すごくないすごくない。ああ、いや、もういいよ…」 考えてみたらはるかとは20年近く一緒にいて、一度もそんな話したことないんだ。 今更そんな面白い話になるわけがない。 「そういう人できたら教えるね、じゃあ」 「できたらな」 「できたらね」 「はるかのことだ、どうせいないんだろ?」 「どうせ?」 「あ、なんでもない。でも、いるなんて思えないけどなあ…」 「いるよ」 「そ、そう…」 自分で訊いておきながらどうかと思うけど、俺はちょっと動揺した。 俺だって由綺にそういう気持ちを持ってたんだから、はるかが誰かにそういう気持ちになったっておかしくないはずなのに。 「聞きたい?」 「い、いやあ…」 「そういうのって、ほら、個人の問題だしさ…」 「冬弥」 「いくらつきあい長いってもプライベートはプライベートとして…え? 何?」 「だから、冬弥だってば」 「何が?」 「好きな人」 「へ、へえ…」 な、なに言い出すんだ。 ごまかすにしても、他の誰かの名前だっていいだろうに…。 「あと、由綺かな」 「…なんだ、そういう『好き』か」 俺が相手ってのもアレだけど、由綺が相手ってのはもっと怖い。 特にはるかなんて中性的なんだから。 「そういうんじゃなくてさ…」 そんなのわざわざ訊かなくったって判るよ。 「んー…」 再び首を傾げる。 「じゃあ、彰」 「じゃあって何だ。でも、彰、そうなの?」 「うん。冬弥と同じぐらい」 「だからそういうんじゃなくて…」 「んー…」 いちいち考えなきゃ判らないレベルでもないだろうに…。 「じゃあ…」 「美咲さんなんて言うなよ」 「みさ…」 なんで驚くんだよ…。 「冬弥って、なんかすごいね」 「すごくないすごくない。ああ、いや、もういいよ…」 考えてみたらはるかとは20年近く一緒にいて、一度もそんな話したことないんだ。 今更そんな面白い話になるわけがない。 「そういう人できたら教えるね、じゃあ」 「できたらな」 「できたらね」 「俺にはちょっと判らないけどなあ、はるかって」 「そう?」 「いや、だから訊いてるんだけど、俺」 「あ、そうか」 やっぱりいないっぽいな、これは。 公平な目で見ても。 「なに?」 「ん…。なんでもない。ああ、いや、もういいや」 「そう?」 考えてみたらはるかとは20年近く一緒にいて、一度もそんな話したことないんだ。 今更そんな面白い話になるわけがない。 「そういう人できたら特別に教えるね、じゃあ」 「できたらな」 ふと、俺はバレンタインの日のことを思い出す。 あの時は、それなりに嬉しかったかな…。 「はるか?」 「ん?」 「バレタインの時のチョコレート…」 「あ…」 ポケットに手をやるはるか。 「ごめん。今日、持ってきてない」 「…………」 はるかには『バレンタイン』よりも『チョコレート』がメインに聞こえるのか…。 「怒った…?」 「なんで…!?」 「別のでいいんだったら、ココアとか…」 「話聞け、話」 「冬弥、昔からお菓子とか好きで、私だけ何か食べてると怒るから」 「『昔から』じゃなくて『昔は』だろ! それに俺、そんな意地汚くなかったって!」 つきあいの長いやつって、たまにこういうこと言い出すから…。 「まるで俺がみっともないじゃないかよ…」 「由綺は可愛いって言ってたよ」 「由綺にそんな話するなあ!!」 「笑ってた」 そりゃ笑うよ。 「そういえばさ、はるかって絵とか観たりとかする?」 「するよ。どうして?」 「いや…」 「でも、それちょっと意外だったな…」 はるかが美術鑑賞…。 今まで全然知らなかった。 「彰がよく風景をスケッチしに出かけるから、時々ついてくんだ」 「…なんだ」 いきなり近所のおばちゃんレベルの美術鑑賞になったな。 でも、彰の方は昔から水彩画を描くのが大好きで、今でも時々外に出るみたいだ。 はるかと違って、こっちは本物だ。 ただ、腕の方は…。 「で、彰、ちょっとは上手になった?」 「んー…」 やっぱりか…。 「見方によったら、あれも芸術かも」 「悲しいフォロー入れるなよな」 いいんだよ。 描くのが好きなんだったら、それで。 絵を描くなんてことは、そういう愛情の問題なんだから、きっと。 「もう何年かしたら、新しい芸術とかいってもてはやされたりして」 …人が立派なこと思ってやってるってのに、こいつは…。 (笑ってる) あれ? はるかが持ってるのは… レンタルショップのバッグだ。 「はるか、それ、ビデオでも借りてきたの?」 「一緒に観る?」 「あ…いや…」 たまにはそういうのもいいのかも知れないけど、とにかくはるかの観る映画っていうのは退屈なのばっかりなんだ。 ずっと前に一緒に何本か観たけど、みっともないことに俺はつい居眠りしてしまった。(はるかも寝てたけど) ほんとにこんな退屈なのばっかりどこから探してくるんだって感じだ。 宗教関係でオリンピックで走るの走らないのの話とか、月面の石版の謎を解く話だとか、双子の兄弟が動物園で延々と死体を腐らせる話だとか…。 最近じゃ、なんとかスキーって監督の映画が面白いって言ってたけど、ちょっと観る気はしないな…。 「…今日もその、なんとかって人の映画?」 「タルコフスキイ? 違うよ」 そう言ってはるかはバッグの中身を見せてくれた。 「『マイ・ライバル』…。面白いの?」 「判んない。オリンピックのお話みたい」 スポ根ものか何かか…。 「…どっちにしても、俺はいいや」 「そう? じゃあね」 はるかの感覚ってのも判らないでもないんだけど…。 「はるかはさ、自分で何か描いたりとか作ったりとかはしないわけ?」 「前はしてたじゃない」 「前はって、小学生の時の工作とかだろ、どうせ?」 「うん」 「一緒にするなって。レベルが違うんだよ」 「そういうんじゃなくて、ほら、なんかこう、創作的なやつさ…」 「今日は芸術家?」 「笑うな」 はるかって、あんまり無気力だから、いちいち口出ししてみたくなるんだよな。 言ったらもっと笑われるだろうけど。 「冬弥は何かやってる?」 「そりゃあ俺だってさ、…彰の絵観たりさ…」 「あはは。おんなじ」 「笑うなって。俺のは質が違うんだ…笑うなってば」 「うん」 ほんとに笑いを止めた。 器用なんだな。 「それじゃさ、もし私が何か始めたら冬弥も何か始める?」 「え?」 やってもいい やらないよ 「まあ、はるかが何か始めるっていうんだったら、俺だって何かするよ」 「ふうん」 意外だって風にはるかが言う。 「…なんだよ…」 「ううん。別に」 「『ふうん』って言ったじゃない」 「『ふうん』って言っただけだよ」 「だから『ふうん』って言ったじゃ…」 …やめよ。 ばかばかしくなってきた。 高尚に芸術の話してるのに、なにもわざわざはるかループに陥ることもない。 「で?」 「ん?」 「で、何やるの? 水彩? 油彩? デザイン? それとも立体?」 「んー…」 「やめる」 「はあ…?」 思わず大きな声で訊き返してしまった。 「やめるって…」 「向いてないし」 俺までつきあわせておいて、なんて身勝手な言い分なんだ…。 …いつものことだけど。 「いい加減なことばっかり言うなよ。さっき『やる』って言ったじゃない」 「『もし』って言ったんだよ」 ずるい…。 「それに、私と冬弥が何かやろうって言って、ちゃんとやった時ってあんまりないじゃない」 「自慢になるか」 みっともない過去を共有しちゃったな。 「えー…。やだよ、俺」 「そう?」 それから少し考えて 「どうして訊いたの?」 「ちょ、ちょっと、訊いてみたかっただけだよ…」 ちょっかいを出してみたかった、なんて正直に言ったら、今度はどんなちょっかいをかけられるか判ったもんじゃない。 「そう」 はるかはくすりと笑った。 「じゃ、今までと一緒だね」 「そう…みたいだね…」 多分、ずっと変われないな、俺達って…。 「はるかさあ、最近、全然スポーツとかやってないわけ?」 「うん…」 気だるそうなはるか。 これだけだらしなく過ごしてて、一体何がだるいんだか。 「たまには身体動かして遊びたいね」 「まあね…」 っていっても、はるかの場合、身体動かしてないわけじゃないんだけど。 「冬なんだからさ、こう、冬っぽいスポーツとかいいかもね」 「んー…。リュージュとか?」 …リュージュってあれだろ? あの、猛スピードで滑走するソリ競技…。 「…やだよそんな…」 そりゃ冬っぽいけどさ。 「ごっこでもいいよね」 「やだってば…」 聞けよ、人の話。 「雪降ってないからできないね」 「雪降ったらやる気なわけ…?」 「ジェットコースターみたいで面白そう」 「…だったらジェットコースター乗ったらいいじゃない」 「あ、そうだね。あはは」 笑ってる…。 あんな意味不明なスポーツのどこに魅力を見出してるんだ、はるかは…。 …スピードか…。 「はるかってさ、今やってみたいスポーツとかないの?」 「うん…」 「…また変なこと言って、俺を困らせようとかするなよ」 「あ…」 なんだ、今の『あ…』は。 まったく。 「マリンスポーツとかいいかな」 「マリンスポーツ…? 今、冬だぞ」 「冬は地球の半分だけだよ」 う…。 はるかがインテリな切り返しを…。 …なんか悔しい。 「あったかい海で、スキューバとか、スポーツフィッシングとか」 「……………」 なんか成金のおっさんっぽくない? 「冬弥は?」 「えっ?」 「こういうの嫌い?」 「ま、まあ…」 嫌いかって訊かれたら、「面白そうかな、ちょっと…」 俺もこんな感じ。 「行きたいね」 「そうだな…」 思ってるだけ、言ってるだけ、の時が一番気持ちいい時ってのがたまにある。 たとえば、今みたいな時とか。 「この間は結構楽しかったよね」 「この間?」 「ほら、自転車乗って遊びに行ったじゃない」 「……………」 何やら考えてるはるか。 「行ったっけ?」 「忘れるなあ…!」 しかもにっこりしながら。 「いい。もういい。はるかなんか、こんなやつどうだっていい」 「意味不明にすねられても…」 意味不明じゃない…。 「判らないけど、怒ってるんだったら謝るね」 「いや、だからそういうんじゃなくてな…」 「ごめんね」 ぺこり。 「い、いえ…どういたしまして…」 間抜けなことを言って、俺も頭を下げる。 違う…。 こうじゃないんだけど…。 「あの時?」 「え?」 にわかに明るくなったはるかの声に俺も頭を上げる。 「学園祭の日?」 「え?」 「一緒に行ったのって?」 「あ? ああ…」 「いたいた。そういえば冬弥もいた」 「そういえばって…」 俺はあの時、はるかの視界のどこに映ってたんだ、一体…。 「よく一人で行くから、どれがどの日なのか…」 「その程度で記憶混乱させるなよー…」 まあ、あんないい自転車持ってたら乗りに出かけたくもなるだろうけどさ。 「楽しかったね」 「…今さらいいよ…」 「冬弥、途中でばててたし」 「そんなのは鮮明に覚えてるんだな」 「冬弥のことは忘れないから、私」 「うそつけ」 思いっきり忘れてただろう、直前まで。 「じゃあ来週の水曜日、また行く?」 「え?」 『じゃあ』ってなんだ『じゃあ』って。 「冬弥も借りたらいいよ、自転車」 「待て待て。進めるな進めるな。なに? またサイクリング行くわけ?」 「一緒に行かない?」 「んー…」 どうしようかな? 行く 行かない 「まあ…行くか」 「くすっ。まあ…だって」 「笑うな。いいよ、行こうよ、一緒に」 「じゃあ、待ってる」 「来週の水曜日だったよな」 「うん」 「やっぱり、いきなりはちょっと…」 「ほら、バイトとかもあるしさ…」 「そうだね。じゃ、いいよ」 「ごめんな」 俺は顔の前で小さく手を合わせる。 「ううん。いいよ」 ふと、はるかがテニスをやっていた頃のことを思い出してしまう。 「どうかした?」 「ん…ちょっと…」 俺ははるかをじっと見つめる。 変わったのか、変わらなかったのか、はるかは…。 昔、髪が長かったはるか。 何かを熱心に見つめてたはるか。 誰かを必死になって愛してたはるか…。 変わってしまったみたいで、でも、いつまでも変われないでいるみたいで…。 不思議な時間だけが感じられた俺達。 一体、誰が変わらなかったんだ? 誰が変われなかったんだ? 誰が変わりたかったんだ? 「やっぱり、今のはるかが好きなんだな、俺…」 はるかの髪の毛を撫でつけながら、俺は思わず呟いてた。 「そう?」 当然それを聞き取ったはるかが尋ねる。 いや。 疑問形で言いながら、俺の言葉に頷いたんだ。 「私も、冬弥、好きだよ…」 「そう?」 そして俺も頷く。 疑問形で。 …一体、『変わる』ってどういうことなんだろう。 その変化を含めて、『変わらない』ってことなんじゃないか…? いろんなものが変わっていったけど、でもほら、俺達の温度って変わらないじゃないか、いつまでだって。 お互いの温度は別々に変わってるはずなのに…。 「もう、行くね…」 不意にはるかは俺から離れる。 「あ…。ああ…」 俺の方も、はるかの温もりの残る手をそっと離す。 「また今度な…」 「うん。またね…」 「うん…」 「じゃね…」 「…昔のはるかの方が好きなんだな、俺…」 はるかの髪の毛を撫でつけながら、俺は思わず呟いてた。 「そう?」 当然それを聞き取ったはるかが尋ねる。 いや。 疑問形で言いながら、俺の言葉に答えたんだ。 「ごめんな…変なこと言っちゃって…」 「いいよ」 そっと、はるかが俺から離れる。 「おかしいよな、俺…」 「おかしいね」 俺は少し照れ笑い。 「まあ、たまにはね…」 「いつもだけどね」 「…変なこと言うなよ」 こんなところは昔のままなんだけど…。 そして俺は少し無理して笑う。 「そんなに難しく考えなくていいよ、私のことなんて」 そう言ってはるかも微笑む。 うん…。 ぜんぜん別人になっちゃったってわけじゃない。 そのかすかに残った昔の面影を、多分俺はずっと愛し続けるんだろう。 そんな気がした。 そういえば、はるかと『おしゃれ』の話をしたことってないな。 「なあ、はるか?」 「ん?」 「はるかもやっぱり、時々おしゃれとかするわけ?」 「どうして?」 「どうしてっていうか…。普通、するみたいだしさ」 「みたい、だって」 「うるさいな。男だからよく判らないんだよ」 しかも由綺も美咲さんもそんなに目立っておしゃれしてるって時ないから、よけいに判らない。 「爪磨いてマニキュアしたり、眉毛剃って書き直したりとか?」 「極端だな…」 でもやっぱり俺には判らないんだけど。 「冬弥は嬉しい?」 「ん?」 「私がおしゃれして?」 「俺ー…?」 嬉しい 嬉しくない どうでもいい 「まあ、嬉しいんじゃないかな」 「はるかがいきなり美人になってくれたら、俺だって」 「おしゃれと美人は関係ないよ」 「わ、判ってるよそんなこと」 はるかにまでそんなこと言われるなんて。 「はるかが、嘘でも超美人になってくれたら嬉しいってだけだよ」 「嘘でも?」 「ほんとだったらもっといい」 「美人…」 はるかは不意に黙りこむ。 …いくら幼なじみだからって、こんなこと言っちゃまずかったかな、やっぱり。 「あはは…」 な、なんだ? いきなり笑い出した。 「ちょっと想像しちゃった」 「…何を…?」 「お化粧した私」 「…おかしかったのか…?」 「おかしかった」 どんなヴィジュアルを頭に浮かばせたのかは判らないけど、化粧したはるかは笑えるみたいだ。 「へえ。冬弥って、こんなのがいいんだ。あはは…」 「どんなんだよ…」 自分のことで、よくそんな笑えるな…。 「あはは、隣に冬弥がいるともっとおかしいよ」 今度は俺まで巻き込み出した…。 やっぱり、一概に綺麗に化粧した女の人が美人とは限らないって教訓だな。(違うか) 「ごめんね、冬弥。やっぱり私、お化粧しないね」 「そうしてくれ…」 「別に嬉しくなんかないよ、そんな」 「そ?」 「はるかは今のままが一番いいかもね。無理して変わってみたって気持ち悪いだけだしな」 特にはるかは。 「そうだね。今のままが一番可愛いね」 「自分で言うな」 「うん」 「どうだっていいよ。化粧とか、そんな別に」 「そう」 「まあ、今度やってみてもいいかもだけど、はるかは」 「別にいい。好きじゃないし」 「そう?」 「うん」 それならそれでいいか。 「はるかってさ、普段はラフな格好してるけど…」 「ん?」 「ひょっとして、俺達に見せてない、服の趣味があったりする?」 「…どうかな」 はるかは、小首をかしげて、真面目に考え込んでいる。 「本当は、スカート派だったり?」 「ん…スカート?」 はるかは、はじめて聞いた言葉みたいに繰り返すと、自分の腰のあたりをつまんだ。 「これのこと?」 「明らかにジーパンだろ! じゃなくて、たとえばワンピースとかミニとかさ」 「ミニスカート…見たいの?」 「いや、そういう意味じゃなくて!たとえばの話! ってスカートの意味通じてるだろ!」 「あはは…」 もう少しで俺がはるかに、ミニをはかせたがってるって話にされるところだった。 「ったく、少しは真面目に答え…」 「楽だから」 「ん?」 「これだと…楽だから…かな」 はるかは、ぽつりと言って微笑む。 「お前…」 何か言おうかと思ったけど…その笑顔があまりにも自然だったので、それ以上言い返すのはやめた。 「…そっか。そりゃ、楽な方がいいよな」 「うん」 「ま、俺だって似たような格好だし、人のことはいえないか」 そう言って俺も、自分のだらしない格好をしげしげと眺めてみる。ラフなシャツにくたびれかけたジーンズ。 はるかと同じように、腰のあたりを軽くつまんでみた。 「ペアルック?」 「あはは…その言葉の使い方は、すごく間違ってると思うよ」 「あれ? はるか、今日は時計してる」 しかも、ちょっとおしゃれだ。 「うん。時間を大切にと思って」 「リアリティ無いなあ…」 この、ぼぉ…っとした態度の、何がどんな風に時間を大切にしてるんだろう? 「あ、でも、ちょっと見せて。かっこいいな、これ」 はるかなのに、こんなおしゃれグッズを。 はるかなのに。 「ここ押すとストップウォッチで小数点第三位まで精密に…」 「そんなの計ってどうするつもりだよ…」 「陸上やってる人とか結構持ってたよ」 「ほんとかあ…?」 要はスポーツウォッチなんじゃないか。 でも、ちょっといいなそれ。 (子供っぽい物欲) 「それ、はるかが買ったわけ?」 「ん…。兄さんが買ってくれたんだ…」 「あ…」 はるかの、死んだ兄さんが…。 「そうなんだ…。じゃ、大事にしなきゃな」 「うん…」 「ちょっと思ったんだけどさ、はるかっていっつもそんな薄着だよな?」 「そうかな?」 「…寒くないわけ?」 「んー…」 なんか考えてる。 考えなきゃ判らない問題じゃない気もするけど。 「ジャケット着てるから…」 「そういう問題かあ…」 と、俺はちょっと気づいた。 「あれ? はるか、ひょっとしてジャケット、新しいの買った?」 「よく判ったね」 ほんとだよ。 デザインなんか前のとほとんど変わってない。 「どうせ新しいの買うんだったら、ちょっとは別の買ったらいいじゃない。おんなじみたいなの二つあったってさあ…」 「二つあるわけじゃないよ」 「いや、そりゃちょっとは違うだろうけどさ…」 「去年の、ちょっと小さくなっちゃって」 「ああ…」 って、おい。 「はるかって…もしかして、まだ成長してるわけ…?」 「みたいだね」 何者だ…。 「はるかってさ…太らないよな…」 「どうしたの急に?」 「いや、なんとなくだけどさ」 「はるかっていつもチョコか何か食べてるじゃない」 「好きだよ」 「それが不思議なんだよ。それでどうして太らないのさ? 何か特別なエクササイズやってるとか…」 「うーん…」 ひょっとしたらすごいハードなメニュー組んでるとか…。 …なわけないな。 はるかだし。 「やってることっていったら…」 「なんとなくぼーっと散歩して、たまにぼーっとジョギングしてみたり、ぼーっと自転車乗ってみたり…かなあ…?」 「あとは家でぼーっとしてる」 「なにが『かなあ?』なんだよ。ぼーっとしてるだけじゃないか」 こいつ…俺が想像してた以上にぼけーっとしてる。 「ぼーっとしてるのがいいのかも」 「絶対違う」 もう少しましな結論にたどりついたってばちは当たらないだろうに。 まあ、要は意味不明に身体動かしてたらいいってことだな。はるかの場合。 「今日もすごいいい天気だよね」 「うん」 「ちょっと寒いけど、毎日こんな感じだといいなあ」 「……………」 はるかは空を見上げたままだ。 「はるか?」 「あ」 「え?」 「…晴れてるのに…?」 「関係ないんだよ、雪は」 「へえ…」 風に舞い散る雪片、風花が俺達を包み込む。 「綺麗だね」 「うん…」 俺とはるかは、しばらくその場で立ち尽くす。 舞う雪は地面にたどりつくまでもなく、うっすらと消えてゆく。 そして間もなく、あたりは再び何事もなかったみたいな晴天に戻った。 「…行こ」 「うん…」 ほんとに、綺麗だった…。 「いらっしゃいませ」 「冬弥」 あ、はるかだ。 「遊びに来たの」 「判ってる」 それ以外ないだろう、はるかの場合。 「冬弥」 「え?」 あ、はるかだ。 「なに?」 あ、はるかがいる。 「おーい、はるかー」 「あ、冬弥」 はるかは振り返って、俺の方に歩いてきた。 「なに?」 「えっと…」 「そういえば、美咲さんって休みの日とかどうしてるの?」 たまに俺達と遊ぶこともあるけど、はるかや彰ほどには一緒の時間を過ごしてない。 「やっぱり友達とかと出かけたりしてる?」 「時々思うんだけどさ、美咲さんでもはるかに連れ去られることってあるの?」 「連れ去られるって…」 「でも、はるかちゃん、時々遊びに連れてってくれるわよ」 「やっぱり…」 はるか、この美咲さんさえも引っ張り回してるのか。 「って言うより、私が勝手についていくんだけど。ふふっ」 「え? 美咲さんが?」 そんなばかな。 こんな真面目で、スポーツもそんなに得意じゃない美咲さんがはるかと? 「この間もね、はるかちゃんに会って、公園に行く途中だって言ってたから、私、勝手について行っちゃうし…」 「はあ…」 美咲さん、怖いもの知らなさすぎ…。 「そうしたらね、あそこの公園の植物園に入っていって」 「植物園?」 真冬なのに? 「ね? おかしいでしょう?」 「私も変だなって思ったんだけど、でも、入ってみたら思ってたのと全然違ってて」 「へえ…?」 「あそこの植物園って、冬でも管理してる人がいるみたいなの」 「落ちた葉っぱとかきれいに掃除されてるんだけど、残ってるのって、枝だけの樹か、針葉樹ばっかりなんだ」 「晴れてたから、いろんな木の枝が青空をバックに…」 「うん…」 「…言葉じゃちょっと伝わらないね」 「なんていったらいいのか、とにかく、すごく静かで、空が広く感じられて…」 「あ、うん…。なんとなく判ると思う…」 はるか、またそんな面白いスポットを…。 「で、そこからまた二人で、ぼーっとしてたって…」 「そうなの。はるかちゃんと一緒に」 当たりなのか…。 そんなのにまで美咲さんをつきあわせることもないだろうに。 「…あれから私も時々、そこに一人で行って本なんか読んだりしてたんだけど」 「へえ…」 「でも、来週末で閉館なんだって。4月まで」 「そうなんだ…」 そういう良さそうな場所に、俺も誘ってくれたらよかったのに。 とか思ってたら、「じゃあ、来週の土曜日に一緒に行かない? 植物園?」 「え? 最終日?」 「うん…。来週の土曜日一日くらいだったら、授業休んでも大丈夫だと思うから…」 真面目なんだなあ。 でも、その美咲さんがわざわざ授業さぼってまで誘ってくれてるんだし。 行こうかな…? 「行く」 「ごめん…」 「春までもう終わりなんだし、じゃあ、行ってみようか?」 「ええ。じゃあ、来週の土曜日ね」 「うん」 「美咲さん、授業さぼるんだよね?」 「ま、まあ…」 「たまには…いいかな…って…なんて…思って…思うし…」 美咲さん、余裕あるとこ見せようとしてるみたいだけど、全然失敗してる。 「そうだね。たまにはいいよね」 「う、うん…」 「ふふふっ」 「それじゃあ、来週ね」 「うん。判った」 そして俺達は別れた。 「ごめん…。せっかくだけど、俺、その日は予定入っちゃってる…」 「そうなの…。残念ね…」 「うん…」 せっかく美咲さんが、授業をさぼってまで行こうって言ってくれてたのに。 「じゃあ、来年だね」 「そうね…」 そして俺達は、少し話をして別れた。 「卒業する先輩達って、就職活動で大変そうだね」 「私も、もうそろそろ考えないと」 「え? まだいいと思うけど…」 「だといいんだけど、就職ってそんなに簡単じゃないみたいだから…」 「美咲さん、頭良いんだから院目指せるんじゃない?」 『院』ってのは大学院。 つまり研究室に残るってことだ。 「くすっ。そうだといいんだけど」 「それに、院に進めるだけの成績マークしてても、学費がちょっと、ね…」 「あ、そうか」 基本的に研究室に残るのにはお金がかかる。 こればっかりは自分一人の力じゃどうしようもない。 (と思う) 「じゃあさ、いっそのこと脚本家目指しちゃおうよ。プロの」 「えっ…?」 「や、やだ…。藤井君、そんな冗談、やだな…」 「いやそんな…」 別に冗談のつもりはなかったんだけど。 「やっぱり難しいのかな、そういうのって?」 「それはそうよ。世の中に何人も脚本家とか必要なわけじゃないし」 そうかなあ。 いっぱいいても面白いと思うけど。 「それに、才能とかあっても、監督さんとか演出家さんとか役者さんとか、パートナーになる相手によっても評価が違うって聞くし…」 「あ、そうか…」 いくら美咲さんが良い脚本書いて、良い演出しても、この間みたいな舞台ができあがるなんて限らないんだ。 俺はますます演劇部の連中を見直した。 「そんな運とかもあるし…。それに、そんな生存競争とかいう以前に、私なんかまだまだだと思うし」 「そんなことないって」 「ううん。プロを目指すなんていったら、やっぱり何年間も修行積まなきゃいけないみたいだし…」 う~ん…。 実力はあっても、そう簡単に表には出ていけない世界なのか…。 だからって美咲さんの才能、惜しいなあ。 「ふふっ。どうしたの、藤井君? そんな顔して?」 「あ、ううん…」 まあ、俺がこんな風に悩んでも仕方ない問題なんだけど…。 「優しいよね、藤井君。私のことなんか心配してくれるんだもの…」 「そりゃあね…」 放ってても大丈夫ってタイプじゃないし、美咲さんって。 「うん…」 「うん。でも、せっかく藤井君がこんなに心配してくれるんだから、少しそういう方向も考えてみようかな…」 「え…? う、うん。それがいいよ、絶対。それがいいと思うよ」 「ふふっ」 「ありがとう。じゃあ、がんばるね」 そう言って笑った美咲さんの顔が、一瞬だけ、デビューする前の由綺の面影に重なった気がした。 「知ってる? 彰、二輪の免許取ろうとしてるんだって」 「にりん?」 「あ。バイク。ね? おかしいよね? 彰がバイクだって」 「そうかな…?」 「美咲さんも笑ってるよ。やっぱり変だって思ってるんだよね?」 「あっ。思ってない、思ってないわよ…!」 「もう…藤井君…」 「でも、そういうのに乗れるって、七瀬君、かっこいいかもね…」 「かっこいい…」 彰が聞いたら喜ぶどころの騒ぎじゃないな。 でも、「かっこいいかなあ…」 「うん…。自分で何かやれる人って、かっこいいと思う…」 「ふうん…」 結構、大人な考え方なんだな、美咲さんって。 「あ、でも、怪我しないようにだけはしなきゃね」 「いや、彰はこけるよ。絶対」 「もう…藤井君…」 彰、美咲さんにこんなに心配されてるのに、本人は気づかないんだろうな。 美咲さんが彰の心に気づかないみたいに。 「彰、免許取ったらほんとにバイク買うつもりかなあ…」 「うん…」 「美咲さん…?」 「…………」 なんだろ? 俺の話を聞いてるって風じゃないよな…。 「美咲さんってば…」 「えっ…?」 「あっ? 免許?」 そのへんから聞いてなかったのか。 「…ごめんなさい…。なんだか、ぼうっとしてて…」 「美咲さん、寝てたよ」 「え…?」 「うそ。ごめん」 「も、もう…藤井君…」 「美咲さん、ごめんー…」 理由は判らないけど、美咲さん、何か考え込んじゃってる。 でも、俺のしてあげられることっていったら、こんな風に軽く笑わせてあげるくらいしかないから。 「美咲さん、今帰り?」 「うん…」 「じゃあ、一緒に帰らない?」 「うん…」 そして俺達は並んで歩く。 なんだか、言いたいこといっぱいあったみたいな気がしたけど、もういいや…。 ただ一緒に歩いてるだけなのに、どうしてこんなに幸せな気分になれるんだろう。 「ふふふっ…。どうしたの、藤井君…?」 「えっ? どうして?」 「ううん。なんでもないよ…」 そして美咲さんは少しうつむいて歩く。 途中で一度だけ立ち止まって 「ふふふっ…」 と、懐かしそうに笑った。 「美咲さん…。困ってる…?」 ちょっと痛々しさを感じながら、俺はそっと尋ねてみた。 「俺と話するの…つらい…?」 「ううん…」 美咲さんはうつむいて首を振る。 その、俺から逸らした瞳から、美咲さんが何かを言いたくて、だけど言えなくているのが読みとれる。 …全部全部、自分の中に閉じこめてしまってることが。 「何が…変わっちゃったのかな…?」 俺はなんとなく呟く。 感じ方によっては美咲さんを責めてるみたいにも聞こえる。 「……………」 だけど美咲さんは何も言わない。 ただうつむいてるだけだ。 そしてやがて、「藤井君は…そのままでいいと思うから…」 「え…?」 「…何も変わってなんて…ないから…」 「だから…藤井君の好きなようにしてて…いいと思う…」 好きなように…。 美咲さんが悲しそうに目を逸らしてる。 俺は一体、どうなりたいんだろう…? 美咲さんと由綺との間で、俺は…? 「美咲さんって、普段どんな音楽聴くの?」 「んー…どんなって言われても…」 「流行ってるのって、あんまり…」 「クラシックとかなら聴くけど。あと、管弦楽とか、声楽曲とかかな…」 「へえ…」 「って言っても、CDとかそんなに持ってるわけじゃないんだけど」 なるほど。 らしいって言ったららしいかな。 まあ、それほど話が合うかって言ったら、そうでもなさそうだけど。 「あ、でも、緒方理奈さんって、由綺ちゃんの先輩の、って結構好きかな」 「あ、そうなんだ」 そりゃ意外だ。 「時々、すごくバロックっぽい曲があるっていうのか…」 「バ、バロック…?」 「うん…。ヴィヴァルディの『四季』の『夏』とか『冬』とかっぽい緊張感みたいなのが…」 「そうなんだ…」 よく判らないけど。 「私、バッハとか好きだから…」 バッハ…。 確か、昔の人だ。 「あれって、全部あの人のお兄さんが作曲してるらしいけどね」 「緒方、英二さん…?」 あれ、知ってる。 「うん…。すごく、すてきな人だと思う…」 すてき…ねえ…。 まあ、あんまり美咲さんを傷つけそうなことは言わないでおこう。 「この間TVのドキュメント番組で、映画の撮影現場って見たんだけど…」 「そんな番組やってたんだ。観たかったな…」 「あれ? 美咲さんって、TVあんまり観ない方だっけ?」 「どっちかっていうと、レンタルで借りてきたビデオ観る方だから…」 「ふうん…」 そういえば、学園祭で演劇の脚本書いてたっけ。 「やっぱりいろいろ観て、本格的に脚本の勉強してるんだ?」 「最近、歌手やタレントのステージを手伝うことが多くて…。」 「ああいうのを見てると、やっぱり、違うのかな…って思う時があるよ」 「違ってるって…何が?」 「ただ、ステージに立ってるってだけで、圧倒される人がいるんだなって…。自分とどこが違うんだろうとか、いろいろ考えるよ」 「美咲さんは、そんなことを思ったことは無い?」 「そうね…お芝居の舞台でも、気になって目が離せなくなるような役者さんはいるかな」 「やっぱり、遠くに感じる?」 「どうかな。私は、なんとなくだけど、そういう人って、探してるのかな、って思ってる」 「探してる?」 「この間のTVだけどさ…」 「………………」 俺の話聞いてる風じゃないな…。 「あ、ごめんなさい。なに?」 「いや、別に…」 どうしたのかな。 「最近、本でも読んでみようと思ってるんだけど、何かお勧めとかない?」 こういうお願いは美咲さんが専門家だ。 彰も彰で専門家なんだけど、なんだか気味の悪い本とかも勧めるからな…。 「ええと…」 「あ、それじゃあ、たまには詩とかどう…?」 「詩…?」 ちょっと縁のなかった世界。 まあ、たまには読んでみようかな、そういうのも。 「美咲さんって小説だけじゃなくて詩とかまで読むんだ」 「たまにね。ふふっ」 ほんとに、オールマイティな文学少女なんだな。 少女っても、俺より年上だけど。 「じゃ、何かお勧めがあるとか?」 「うん…」 「私もそんなたくさん読んでるわけじゃないから、私の好みになっちゃうけど…」 「この間まで読んでた、ブラウニングのがお勧めかな…」 「へえ…?」 「前から読もう読もうって思ってたんだけど、結局、この間まで読まないままで…」 「読書の秋、とかの口実でやっと読んだの」 「ふうん…」 いつも本読んでる美咲さんにも『読書の秋』なんてあったんだ。 「面白かったの?」 「面白かったっていうか…」 「とにかく、言葉の一つ一つが綺麗なの」 「美咲さんって、文学少年って好き?」 彰、持つべきは親友だな。 「えっ? どうかしたの、突然?」 あ、笑われた。 「いや、どうもしないけど…。美咲さんって文学系の男の人とか似合いそうかなって思ったんだけど、どう?」 「どう、って、お見合いみたい」 「あはは…」 また笑われてる、俺。 「ごめんなさい。でも、好きかな、そういう人も」 「うん…」 好きかな、か。 ちょっと弱いかな。 「じゃあさ、タイプでいったら、はるかタイプの男と彰タイプの男、どっちが好き?」 「ええ? どうして?」 笑ってるけど、美咲さん、そろそろ照れ入ってる。 「どっちも好き…かな?」 「ずるい?」 「ずるい」 「だって、七瀬君みたいなおとなしい人も好きだし、はるかちゃんみたいな…」 「ああいう人も面白いかなって思うし…」 やっぱり美咲さんをしてもはるかは形容できないみたいだ。 それはそうと、よかったな、彰。 おとなしい男も好きだって。 そのうちそれとなく伝えておこう。 あんまりはっきり言うと彰、舞い上がるから…。 「でも、それがどうかしたの…?」 「あ、ううん」 「アンケートみたいなもの」 「アンケート…」 なんだか判らないって顔してる。 自分でもよく判らない言い訳したなって思うけど。 「俺、今、家庭教師のバイトやってるんだ」 「へえ。先生なんだ…」 先生…。 これまで別に好きになったこともなかったのに、自分がこんな風に言われるのって、ちょっといいな。 「じゃあ、今まで以上に勉強しなきゃいけないわね、藤井君」 「え…?」 「あ、そうか」 一応、家庭教師なんだし。 「そうか、って…藤井君…」 「だって…」 「え?」 「あ、いや…」 週一しかもサボりおっけーなんて、恥ずかしくて言えない…。 「と、とにかくがんばらなきゃね」 「そうね。くすっ」 俺のそんな様子が微笑ましいって風に、美咲さんが笑った。 「美咲さんってさ、よく図書館とか行ってるよね」 「図書館とか好きなの?」 「好きっていったら好きかな…」 「静かだし…」 「それに、空調もきいてるから。ふふふっ」 確かに。 そういう意味からいったら図書館って最高かな。 真夏と真冬の図書館なんか天国みたいなもんだ。 っても、すぐ眠くなるんだけど、俺。 「だけどやっぱり、私だって欲しい本、全部買えるわけじゃないし」 「つい図書館に行っちゃうわね」 そういえば彰もそんなこと言ってたっけ。 「ほんとはアルバイトとかしなきゃいけないんだろうけど。ふふっ」 「私も藤井君、見習わなきゃいけないわね」 「そんな、俺なんか見習ってもいいことないって」 バイトは確かにやってるけど、それ以上に使っちゃう人間だから。 しかもどうでもいいことにばっかり。 「でもさ、いくら美咲さんが好きな本を自分で買えたからって、図書館とかに行くの、多分やめないと思うけどね」 「ふふふっ。そうかもね」 「美咲さんってさ、別にサークルとかに入ってるわけでもないんだよね?」 「ええ…」 「いろいろ迷ったんだけど、結局…」 「友達とかに誘われなかったの?」 美咲さん、友達とか多いはずなのに…。 「うん…。何人かに誘われたけど、でも、一つのサークル選んじゃうと、他の誘い、全部断ることになっちゃうでしょ…?」 「全部のサークルかけもちできるほど時間もないし…」 「だから、全部公平に断っちゃった…」 「八方美人…かな…?」 「ううん。そんなことないよ」 美咲さん、みんなに優しすぎるから。 だからこんな場面で損することになるんだ。 こんなに美咲さんが気を遣ってるってのに、美咲さんの為に何かしてくれる人なんているのかな。 「入りたかったサークルとか、なかった?」 「好きなサークルは…あったけど…。でも、中に入って、自分でやろうなんて、思ってもみなかったから…」 「…演劇部? ひょっとして?」 「えっ? …どうして…?」 どうして判ったか… って…。 「なんとなく判るよ」 「でも、どうして? やってみたらよかったじゃない?」 「う、うん…。でも、舞台の上とかあがるの考えたら…」 「ええ? 楽しそうじゃない?」 サークル活動レベルの演劇って、気楽で結構楽しめると思うけどな。 「最初は、役者さんって、いいな、って思ってたの。…自分以外の、どんなものにだってなれちゃえて…」 「だから私も、役者さんになったら、自分じゃない、別の何かになれるかなって、そんな風に思って…」 「へえ…」 美咲さん、自分のこと、嫌いなのかな…? 「でもね、くすっ」 「私、すごく意気地なしだったから、別の何かになる前に、役者さんになれなかったんだよね…。勇気が、なくって…」 「くすくすっ。本当に弱虫で、嫌になっちゃうわよね」 そんな風な美咲さんは、いつも弱々しく笑う。 「…それで美咲さんは、美咲さんのままでいることにしたの?」 「ええ。だって、仕方ないじゃない? 弱虫なんだから」 「そうかな…。あはは…。そうかもね…」 つられて俺も、少し笑った。 嫌いな自分から変わろうとするのと、逃げ出さないのと。 …どっちが強くて、どっちが弱虫だなんて、そんなのあるのかな。 考え方が違ってるだけで、どこに差があるかなんて、俺には判らない。 だってほら、美咲さん、どうやったって美咲さんなんだから。 そして俺は、こんな美咲さんが大好きだ。 もしも舞台の上で、何か別のものになってたとしても、多分好きだと思う。 だって、美咲さんなんだから。 「美咲さん、ひょっとして今、本を読んでいたところ?」 美咲さんが古びた本を手にしていたので、聞いてみた。 装丁を見る限り、外国の文学全集みたいだ。 「図書館で借りた本を、さっきまで読んでいたの。でも、中身は読み終わっていたから、正確には眺めていただけかな…」 「眺めるって…。えっと、挿絵とか?」 「貸出カードを眺めてたの」 美咲さんはそう言うと本を開いて、巻末にはさんであった、カードを取り出してみせた。 少し黄ばんだカードには、日付と名前が3つほど書かれている。 「ああ、本を借りる時に、名前を書くやつか…」 「ええ。今はもう、使われていないんだけどね。これを使うから」 美咲さんは表紙の方を俺に向けた。片隅に、バーコード式のラベルが貼ってある。 「最近、切り替わったらしくて」 「ああ、なるほど」 納得しかけて、「使わないのに、図書カードを見てたの?」 逆に不思議に思って、聞いてみた。 「ふふっ、カードに書いてある日付と名前を見てると、結構面白いの」 「十年も二十年も前に借りた人の名前を見つけてしまうと、なんだか胸がいっぱいになって…」 「連帯感みたいな…もの? 同じ本を読んだっていう」 「どうかな…」 美咲さんは、うつむいて、思案するように口を閉ざした。 沈黙が訪れる中、視線の先にあるカードを、俺ものぞき込んでみた。最後の日付は、確かに十年前になっている。 まぁ、不人気というか、誰も借りないような本だから、貸出欄が埋まらず、新しいカードに更新されなかったんだろうな。 そして、これからはもう…色あせたカードに新たな名前が書き加えられることは無いのだ…。 「こうして見てると、年月っていうか、歴史みたいなのを感じるね」 「そうね…うん、そんな気持ちかな。 この本を読んだ人にとっては、十年の月日がたってる」 「ずっと前に卒業していて、今ではすっかり大人になって、結婚をしたり子どもがいたり…そんなことを考えると、不思議だなって…」 美咲さんは遠い目をして語る。その横顔はとてもひたむきで、すごく…綺麗だ。 「今でも、この本を読んだことを覚えてるのかな…とか、この本を読んだ時と同じ気持ちのままなのかな…って、そんなこと思ったりして…」 引き込まれるように話に聞き入っていると、「ふふっ、こういうのって変かな?」 ふいにこちらを向いた美咲さんと、真っ直ぐ目と目が合ってしまう。 ちょっと気弱な、でもとても優しいまなざし。どこまでも包み込まれていくような気がする…。 「あ、えと…変だとかは思わないけど…」 もし俺だったら…十年の月日でどうなってしまうのだろう。変わってしまうのか、そのままでいられるのか…。 うまく考えがまとまらなかったので、正直に答えてしまうことにした。 「自分にあてはめて考えてみたけど…。 十年後とかって、想像もつかないよ。 美咲さんはどう?」 「そうねえ…」 美咲さんは俺をじっと見つめると、微笑むような、困ったような表情を浮かべる。 「やっぱり、私にも想像がつかないかも…」 それだけ言うと、美咲さんは、まぶしそうに目を細めて笑った。 「学校でも全然会わなくなっちゃったね…」 「…俺のこと、避けてる…?」 「………」 「ううん…別に…」 「だったらさ…」 だけど美咲さんは俺を見てはいない。 「だったらまた、一緒に学校に行こうよ。一緒に、談話室ででもおしゃべりしようよ。図書館ででも本探したりしようよ。あとそれから…」 「うん…」 「藤井君は、私のこと…」 「え…?」 恋愛かあ…。 美咲さん相手に恋愛の話って…。 「はい?」 なんだか判らないって顔で微笑んでる。 「いや…。美咲さんと、好きな人とかの話ってしたことないなって思って…」 「え…?」 「あ、美咲さん」 「こないだはごめん…」 「この間…?」 「うん…」 「ほら、図書館で…」 「あ…」 「い、いいのよ。き、気にしてないからっ。いいのっ」 なんかすごい気にしてる…。 「あれから美咲さん…図書館行った…?」 「うん…。今日、ちょっと行ってきたの…」 「そうなの?」 「くすっ。そんな顔しなくたって…」 「大丈夫みたいだったわよ。誰も、何も言わないし…」 「そう…」 そりゃよかった。 図書室にそんなにも用事のない俺はともかく、美咲さんが。 「ふふふっ。これが高校の図書館だったら、すごい噂になって二度と入れなくなってたわね」 「そうかも。あはは…」 よかった。 美咲さん、冗談言うくらいだし、怒ってはないみたいだ。 美咲さんに恋愛の話…。 まるでいじめっ子だな、俺。 でもやる。 (最悪) 「美咲さん?」 「はい?」 「美咲さんって、今、好きな人とかいる?」 「えっ…」 「えっ…。ええっ…!?」 慌ててる慌ててる。 「どうしてそんな…。私のことなんか…?」 「美咲さんのそういう話って聞いてみたいなって思って」 俺は図々しく続ける。 この場に彰がいたら、俺は殺されてたかも知れない。 もっとも、俺を殺した後でも彰は話の続きを聞くんだろうけど。 「そ、そんな…」 「いや、聞いちゃいけないんだったら、無理には聞かないけど…」 当たり前か。 どうにも俺が弱い者いじめしてる構図なんだよね。 「好きな人とかっていうんじゃないけど…一緒にいられたらいいなっていうか…」 「へえ…」 やっぱり美咲さん、控えめなこと言うなあ。 それにしても、一緒にいられるだけで嬉しいっていうんじゃ、少なくとも彰じゃないな。 あれは嬉しいっていうよりも、鬱陶しいって感じだ。 もっとも、美咲さんの趣味がそういうんだったら話は別だけど。 今度、それとなく彰に言っておこうかな。 「大学の人…?」 「う、うん…。やっぱり、ごめんなさいっ!」 「あ…」 逃げちゃった…。 でも、言いかけたってことは、やっぱり好きな人がいるんだろうな…。 当然っていったら当然か。 美咲さんだって女の人なんだし…。 「どうして…こんなことになっちゃったんだろうね…」 「…………」 誰を責める気持ちもなかった。 美咲さんをも、俺自身さえをも。 だけど、どうしてだかそんな言葉が出てきてしまう。 こんな気持ちに『何故』とか『どうして』とかは存在しないのに。 そんな、答を求める綺麗な言葉は…。 「判らない…」 美咲さんはただそう呟く。 判らない…。 それは、俺だってそうだ…。 『どうして』なのかじゃなくて『どうなる』のかが…。 そして多分、美咲さんも…。 「ごめんなさい…藤井君…。私、行くね…」 「う、うん…」 そして美咲さんは、頼りなく歩いて行ってしまう。 追いかけるのは簡単なんだ…。 だけど…。 そして俺は、彼女が見えなくなるまで足を止めていた。 「美咲さんって、絵は好きな方だっけ?」 「ええ。好きよ」 「どんな絵観るの、美咲さんって?」 「うん…。どんな絵って言われても…」 「風景とか、人物とかさ」 「ん…」 なんか困ってる。 「ミレーとか…。知ってるかどうかだけど、あの人の絵って、すごく好きで…」 ミレー…。 教科書にあったかな。 どんな絵だったか、はっきりとは覚えてないけど。 「『落ち穂拾い』とか『晩鐘』とか…」 「あっ、聞いたことあるかも…!」 「本当? 『種を蒔く人』とか」 あ、だめだ。 また判んなくなっちゃった。 「くすっ。でも、一度は観てる絵だと思うよ」 「私、そういう、あったかい雰囲気が、なんとなく好きで」 「ふうん…?」 「家族とか、特に農村の家族とかが、すごくすごく優しく描かれてて…」 「でも、いい加減なこと言っちゃうみたいだけど、私、そういう優しい絵だったら、誰の絵でも大好きになっちゃうから…」 なるほど。 「美咲さんらしいよね。いろんなもの好きになれるって」 「そ、そうかな?」 再び照れる気配をみせる美咲さん。 とりあえず俺は、美咲さんの感性を讃えるのは我慢することにした。 「美咲さんって舞台演出なんかどこで勉強したの? 独学?」 「舞台演出…?」 「学園祭の時の」 「美咲さん、演出もやってたよね?」 「あ…」 「まだ覚えてたんだ…」 「ま、まあね…」 そんな。 まだ何年も経ったってわけじゃないのに、どうやっても忘れないよ。 「やっぱり図書館とかで勉強してたの?」 「それもやったけど…」 英二さんの美術品のこと聞いてみよう。 「この間聞いたんだけどさ、緒方英二さんって結構すごくて、ナントカって人のナントカって美術品持ってるんだって」 「ふと思ったんだけど…美咲さんは映画と演劇だと、どっちが好きなの?」 「どうしたの、急に?」 美咲さんはちょっと驚いたようにこちらを見る。 「演劇とか、間近で見たせいかな…」 「ふふっ、そうねぇ…どちらも好きかな」 「それ、あまり答えになっていないかも」 「でも、正直な気持ちなの。 どちらも、全然違うものだから」 「そんなに違うかな? お芝居って意味では、似てると思うけど」 「なんて言えばいいのかな…。ええと、つまりね、映画は、過去に起こってしまったことを後から確認しているような気持ちになる」 「良くできたアルバムを見ているみたいな」 「じゃあ…演劇は?」 「演劇は…今、まさに起こってる事件に居合わせている感じかな。その刹那、瞬間を見ているって思える。匂いや息づかいも含めてね」 思ってたより熱っぽく語る美咲さん。 「あ…こういうのって判りにくいかな。 ごめんね、一方的に話して」 「そんなことないよ。 むしろ好きだな…美咲さんのこと」 「えっ…ええっ!?」 美咲さんは、ちょっと驚いたような、困ったような顔をして、俺を見る。言ってることが、伝わりにくかったかな。 「その、つまり、そんなひたむきな気持ちって、なかなかもてないと思うから…」 「うらやましいっていうか、あこがれるっていうか…」 「あ、そ、そうね…。でも、そんなに、大したものじゃないから……」 美咲さんは、恥ずかしそうにうつむいて、どこか曖昧な笑みをうかべた。 俺も美咲さんみたいに、何か夢中になれるものを探してみたいな…。 「ADのバイトとかしてみて、映像の最新技術とかちょっと詳しくなるかなとか思ってたんだけど…」 「ふうん。どう?」 「やっぱりだめ」 「俺とかってやっぱり、すごい下っ端だから」 「勉強どころか肉体労働だよ」 「ふふふっ。そうなんだ」 「でも、藤井君。TVとかの方の仕事には進まないの?」 「え?」 「そうしたら、由綺ちゃんとお仕事でも一緒にいられるかも知れないし…」 「なんて。そんな甘くはない世界だよね」 由綺と同じ仕事場…? ちょっと考えたことなかったけど…。 でも、どうだろう…? 「考えてみようかな」 「考えられないよ」 「そうだね…。ちょっと考えてみようかな…」 「ふふっ。やっぱり?」 「やっぱり、って…?」 「藤井君なら、由綺ちゃんの為にそれくらいやっちゃうんじゃないかな…」 「…なんて、勝手に思ってたの…」 「ごめんなさい、勝手なこと言っちゃって」 「ううん。いいよ」 俺、そんなこと気軽に言いながら、実は心の中では本気な部分もあるのかも知れないな…。 由綺と一緒にいたい。 由綺の少しでも近くにいたい。 そんな子供っぽい欲求が、そのうちに俺の将来までも決めてしまうかも知れない。 だけど…。 だけどそれを、由綺は喜んでくれるのかな…? 「え?」 「あ、いや、なんでもないよ…」 「でも…」 「決めるのは私とか由綺ちゃんとかじゃなく、藤井君なんだし、それで、いいと思う…」 「うん…」 俺はちょっとだけ頷いた。 「はは…。今の俺にはそんなこと考えられないよ…」 「そうかな…?」 「そうだよ。俺、ただのバイトなんだし」 「選挙カー運転してるやつがナントカ大臣になろうって言ってるみたいなもんだよ、TVマンなんて」 「あの…」 確かに俺は何か言いかけた。 だけど、そんな俺の声が喉に詰まるのと、美咲さんが 「やっぱり…ごめんなさい…」 頭を下げて走り去るのはほとんど同時だった。 「美咲さん…」 俺は口に出して呟く。 ただ、美咲さんの足音だけが、いつまでも耳に残って離れなかった。 「美咲さんって、相変わらずスポーツはだめ?」 「う、うん…」 そう。 美咲さんはスポーツがまるで苦手だ。 走ることとかは人並みにできるとしても、誰かと競ったりするってことになると全く身を引いてしまう。 スポーツマンシップは理解できてても、どうやっても怖いんだそうだ。 その、人と争うってことが。 「でもさ、TVで観たりとかはしないの?」 「何を…?」 「スポーツ。野球とかサッカーとか…」 「うん…。たまにね。でも、野球とかサッカーって苦手で…」 「観るだけでも?」 「う、うん…」 「あんなに人がいっぱいいると、誰が何をやってるのかが全然判らなくなっちゃって…」 そういうものかなあ…。 選手はさておいて、ボールに注目するってことが美咲さんは苦手みたいだ。 「あ、でも、だから、テニスとかは観るの。あれだったら私でも判るし。よくTVでもやってるし」 そんなにやってるかな。 「だから、はるかちゃんがテニスやめてなかったらいろいろと聞こうかなとか思ってたんだけど…」 あ、そうか。 美咲さんははるかがどうしてテニスをやめたかとか知らないんだ。 それでも何かがあったってことは感じてるみたいだけど…。 「あとはほとんど自分じゃやれないものとかかな」 「フィギュアスケートとか、競技ダンスとか…」 競技ダンス…。 「美咲さんもたまにはスポーツとかどう?」 「ええ? 私が…?」 いきなりこんな提案は迷惑だったかな。 美咲さん、困ったみたいに笑ってる。 「うん…。いいなって思うけど…」 「でも、私だし、やって楽しめるかどうかちょっと疑問…」 「そんなことないよ。やってみたら楽しめるって」 「ほんと、身体動かすのって気持ち良いんだからさ」 「うん…」 そして美咲さんはちょっと考えて 「今度の日曜日、図書館に行こうと思ってたけど、予定変更してスケートにでも行こうかな…」 「スケートか…」 「一緒に行こう」 「それがいいね」 「図書館に行こう」 「それじゃあさ、俺も一緒に行っていい?」 「えっ…?」 「そ、それはもちろんいいけど…」 「スケートって聞いたら俺もやってみたいなとか思っちゃって…」 「う、うん…」 ちょっと言葉に詰まってる美咲さん。 「あ…。いや、迷惑とかだったら別にいいよ。断ってくれたって」 「あ、ううん!」 「ただ…スケートとか行くの、中学校以来だから、うまく滑れないと思うし…。転んでばっかりだと思うから…」 「藤井君に見せる前に、ちょっと練習しておきたかったかな…とか…」 「あはは、大丈夫だよ」 俺は気楽に笑った。 「少しくらいだったら、俺、教えられると思うし」 「う、うん…」 「それじゃ、日曜日ね…」 「うん。楽しみにしてるよ」 「うん…」 「それがいいよ、美咲さん」 「美咲さんもたまには本から離れてみてもいいと思うよ」 「そうかな…?」 「うん。本ばっかり読んでると彰みたくなっちゃうよ」 「また、藤井君…」 美咲さんは困ったみたいに笑う。 そういえば、こういう場面に限って彰がいない。 運がないっていうか…。 「じゃあ、ちょっと練習してくるね…」 「うん。がんばって」 「…上手になったら、藤井君にも見てもらうね…」 「あ、うん」 「そしたら一緒に滑ろうよ」 「うん」 「くすっ。じゃ、がんばらなきゃ」 スポーツの苦手な美咲さんが、楽しそうに笑った。 「あ、やっぱり図書館に行かない?」 「え…?」 美咲さんに話しかけようとした時…。 「ごめんなさい、やっぱり、私…」 「あ…」 何かに我慢しきれなくなったように、美咲さんはそれに背を向けて行ってしまう。 その後を追いたかったけど、俺には、どうしても追えなかった。 「美咲さんって、服装に好みとかってある?」 「私…おしゃれとか、あんまり考えたことないから…」 「そうなの?」 「うん…」 「かっこ悪い…かな…?」 「ううん。そんなことない。意識しないでそれだったら充分おしゃれだよ」 「そ、そうかな…」 美咲さん、困ってる。 「んー…。でも、ちょっともったいないかも」 「え?」 「たまには大人っぽい美咲さんも見てみたいかな、なんて。レザーとかエナメル系の…」 美咲さんにそれは行き過ぎか。 自分で言っておいてなんだけど。 「藤井君…っ」 「ごめんなさい」 何か言いたそうに口を開くけど、どうにも言葉の出てこない美咲さんに、俺は早めに謝っておくことにした。 美咲さんって、照れると窒息しそうなんだもんな。 「…でも、そうかな。持っている服っていったら、結構デニムばっかりだし…。今度、新しい洋服とか買ってみようかな…」 「あ、それ、いいよ」 「で、でも、レザーとか、そんな変なの、絶対買わないからね…」 そりゃそうだ。 どうも本気に取ってたっぽいな、美咲さん。 おしゃれの話題…興味持ってくれるかな。 「前に、上品におしゃれしてる人を見て、うわぁ…って思ったことがあってさ」 「やっぱり、おしゃれが、こう、ばしっとハマってる女の人って、いいよね」 「ふうん」 ちょっと興味ありそうな眼差し。 「うらやましいな…」 「そんな、人事みたいに。美咲さんもやってみようよ」 「くすっ。うん。ちょっとやってみようかな…」 あ。 珍しく美咲さんが強気だ。 「やろうよ。ちょっと大人っぽく、上品にさ。フォーマルっぽいスーツファッションか、あ、シャツをラフっぽくとかもいいよね」 「ちょ、ちょっと藤井君。ほ、本気のお話だったの…?」 「ええ? 冗談だと思ってたの?」 道理で。 「そ、そんな、大人っぽくなんて、私、自信ないし…」 「なに言ってるんだよ…」 『俺より年上じゃない』って言おうとして、口をつぐむ。 「絶対に似合うよ」 「そんなこと…」 「だ、だって私、七五三みたいになっちゃうから…!」 「ぷっ…」 思わず吹き出してしまった。 だって美咲さん、あんまり当を得たこと言うから…。 「藤井君…ひどい…」 「ごめん、別に美咲さんのこと笑ったんじゃなくて…!」 「そ、その…。七五三の…美咲さん…」 あれ? やっぱそうか。 「もっとひどい…」 「そ、そうじゃなくって…! あ、だから、そんなにフォーマルにしすぎない方がいいってことだよね」 「う、うん…。そうなのかな…」 かすかに美咲さんが顔を上げる。 「そ、そうだよ。もっとこう、ラフっぽくさ…」 「ラフっぽく?」 「着崩しちゃってもかっこいいんじゃないかって思ってさ」 美咲さんって、割とそれができない。 ワイシャツとか、全部ボタンをはめちゃうタイプの人だ。 まあ、それが似合う人でもあるんだけど…。 「でも私、そういうのって、あんまり…」 「一緒に洋服とか買いに行ってくれる人とかも、そんなにいないし…」 「そうかなあ…?」 美咲さん、友達いっぱいいるじゃない。 俺が知ってる限りでも、由綺にはるか、それに(熱烈に)彰。 …あ。 まあ由綺はともかくとして、確かにファッションなんてものとは縁遠い連中かも。 相対的に、俺が一番ファッショナブルってことか。 …変なの…。 「それじゃ、そのうち買い物にでも一緒に行こうよ。 俺、ちょっとは選んであげられるかもだし」 「本当?」 「うん…。でも…」 「ん? どうしたの?」 「うん…。来週の土曜日に洋服を買いに、って思ってたんだけど…」 「来週の土曜日?」 「つきあうよ」 「予定が…」 「じゃあ、それ、俺、つきあうよ。一緒にいってもいいよね?」 「えっ…? うん…」 「いや、邪魔になるんだったら断ってくれていいんだけど…」 「あっ、ううんっ! 邪魔なんかじゃないわよ! 一緒に来て!」 「あ…」 「はは…ははは…」 美咲さんでも時々、暴走するんだよな…。 「…じゃあ、来週の土曜日に駅で待ち合わせ…ね…」 「う、うん」 「そ、それじゃ私…!」 あ…。 慌てて行っちゃった。 美咲さん、こういうのに慣れてないからなあ…。 別に、もてないわけじゃないのに。 まあいいや。 せっかく美咲さんと買い物に行けるんだし。 「ああ…っと…。その日、俺、予定入っちゃってるね…」 「えっ…?」 「あっ、ううんっ。私っ別にそういう意味で言ったんじゃないから…!」 「いや…。俺は一緒に行きたかったんだけどね…」 「迷惑だった…?」 「今年って一段と寒いよね」 「天気予報でね、今年の冬は寒くなるって言ってたから」 「えー…? 寒いの、苦手なんだよなあ」 俺は子供みたいに声を上げる。 「風邪…ひかないように気をつけてね…」 「うん、ありがとう。優しいよね、美咲さんって」 「くすっ」 「そう?」 少し照れてる。 人一倍優しいくせに、優しいって言われるのには慣れてないんだからな、美咲さんって。 「もう早くも夏が恋しいよね」 俺はちょっとふざけて言ってみる。 「昼下がりのベランダで飛行機雲か何か見ながら、融け始めてるアイス慌てて食べてさ、暑さでぼーっとなってる頭に、隣の部屋からサザンとか聞こえてきちゃうってアレ」 「藤井君は、冬は嫌い?」 「好きだよ」 「嫌い」 「嫌いじゃないよ」 「ん? 好きだよ」 「ふふっ。夏が恋しいって言ってたのに?」 「恋しいけど、でも、寒くなかったら冬も好きだよ」 「それって、冬って言わないよ」 「そうかなあ」 「ふふっ」 美咲さんはおかしそうに笑った。 「でも、どうして好きなの?」 「何が?」 「冬、が」 「あっそうか。 冬のイメージ、とかかなあ? なんとなくだけど」 「…うん、判る気がする」 「冬って、ちょっとねー…」 俺はいかにも嫌いって顔をしてみせる。 「寒いしさ、水は冷たいしさ、朝とか布団から出たくないしさ…」 とか何とか、俺は老けた子供みたいなことを言い始める。 「ふふふっ」 「スキー我慢してもいいから、冬、なくなってくれると嬉しいんだけど」 「美咲さんは?」 「私?」 「私も、寒いのは苦手…」 「あ、やっぱり」 「小さい頃から、寒がりだったから…」 確かにそんな感じ。 「冬、別に嫌いじゃないのに、なんだか損してるみたいかな…」 それからちょっとだけ、自分の好きな季節のこととかを話した。 「嫌いじゃないけど、寒いのはちょっとつらいかな」 「くすっ。そうかも」 「美咲さんはどうなの?」 「あはは。寒いから今日も厚着ー…」 なんて、だらしなさを誇示する俺。 「あら…?」 「え? どうしたの?」 美咲さんが何か見つけた。 「たまには、どこかに遊びに行きたいな…なんて、美咲さんは思うことある?」 「ふふっ、どうしたの?」 「寒い日ばっかり続くから、何か気分転換したいなって思って」 「そうねぇ、自然が豊かな田舎で、のんびりしたいなぁって思うことはあるかな」 田舎でのんびりか…。美咲さんらしいな。 「ちょっと、遊ぶって意味とは違うかも知れないけど…」 「それはそれで、結構面白いと思うよ。 あ、出来れば、怖い鬼の襲ってこない所が良いけど…」 「ふふっ、それって…」 美咲さんは、演劇部の舞台でやった話だと、気づいたみたいだ。 「ま、実際には、そんな場所なんて、どこにも無いだろうけどね」 「どうかな。鬼に限らなければ…そう、東北の方には、まだ河童がいるって信じられてる場所なんかがあるのよ」 「河童? 本当に?」 「うん、本当。遠野っていうんだけど」 「ふぅん…」 「一緒に探しに行く?」 「きゅうりを持って?」 「ふうっ、相変わらず寒いね」 「ふふっ、そうね」 「何かいいことあればいいんだけど」 「いいこと?」 「冬のいいところ。今日みたいに雪も降ってない日の」 美咲さんの優しさに甘えて、つい無いものねだりをしてしまう。 「そうねえ…夏よりも星は綺麗かな」 答えは期待してなかったのに、美咲さんは真面目に考えてくれる。 「星?」 「そう、冬の星空。 雲一つない、乾いた冬の空は、凍えるような寒さだけど、とても澄んでるの」 「高みに上がれば上がるほど、空はますます透き通って、そんな中に、たくさんの星が、瞬きながら、静かに、輝いている」 「そういうのって、冬にしか見れないものじゃないかな」 「冬の夜空か…」 美咲さんの口から聞くと、なんだかとても素晴らしいものに思えてくる。 「機会があったら、眺めてみるよ…」 「うん、見てみるといいかも。 それに…星空をずっと眺めた後は、あったかいものが、すごくおいしくなるしね」 「…………」 それって、ものすごく寒かったからだよね…と言いかけたけど、美咲さんが笑っていたので言わないことにした。 今まであまり興味はなかったけど、冬の夜空を注意して見てみようかな。 「いつも歩いてる並木道とか、すっかり葉っぱ落ちちゃったね」 「雪…もう、降らないのかな…」 俺はそんなことを言ってしまってから、やりきれずに空を見上げる。 いつ雪が落ちてきてもおかしくないような、そんな鉛色。 この間の初雪を、俺は、由綺と見ていた。 そして積もった雪の中を、俺は美咲さんを追った…。 迷ってたのかも知れない。 そうなることを最初から心に描いてたのかも知れない。 今の自分には、決して判らなくなってしまったことなんだけど…。 「綺麗…だった…」 「え…」 「初雪…とても…綺麗だったね…」 そう言って美咲さんは、頼りなげに笑った。 でもすぐに、静かに俺から離れてゆく。 「ごめんなさい…藤井君…」 「美咲さん…?」 「それじゃ、私…」 そして美咲さんは行ってしまった。 いつも俺だけが取り残される、そんな気がしてた。 一人で歩み去る美咲さんの気持ちも考えられずに、その時はそんな風に感じていた。 「いらっしゃいませ」 あっ、美咲さんだ。 「こんにちは」 「いらっしゃい」 せっかくだし、何か話そうかな。 「藤井君」 呼ばれて振り返ると、美咲さんが微笑んで立っていた。 「こんにちは」 「あ、こんにちは」 ちょっとだけお喋りでもしようかな。 あ、美咲さんだ。 「美咲さん」 「あ、藤井君」 「こんにちは」 「こんにちは。どうしたの?」 何を話そうかな…。 「美咲さん…」 「藤井君…」 「あの…」 「…なに?」 元気がないみたいだ…。 何を話したらいいのかな…。 「ねえ、家の人のこととか訊いていい…?」 「嫌」 「判った、ごめん。訊かない」 立ち入りすぎるの、よくないもんな。 「へえ、素直…」 「まあね。俺、別にスパイじゃないし」 「ふうん」 まだちょっと警戒してるみたいだけど。 「マナちゃん、学校帰り?」 「まあね。つまんないから途中で帰ってきちゃった」 「はあ…」 しょうがないなあ…。 俺も人のことあんまり言えないけど。 「暇なんでしょ、本屋さんつきあって」 「本屋?」 「雑誌買って帰るから」 「う、うん…」 見るとマナちゃんはファッション雑誌を買ってる。 ちょっと大人向けの、上品な雑誌だ。 「さ、帰ろ…」 「あ、送ってくよ」 「い、いいわよ別に…」 とか言いながら、俺達は歩き出す。 「マナちゃんって、さっきの雑誌読んでるの?」 「そうよ。あれが一番おしゃれって感じがするの」 「ふうん…」 「趣味が良いね」 「まだ早いんじゃない」 「結構いい趣味してるね、マナちゃんって」 「え…?」 「ま、まあ、こういうのって見てるだけでも楽しいからね…」 「でも、藤井さんでもこういうのかっこいいって思うんだ?」 「モッズ系なんて。無理してない?」 「まさか…。ほんとにかっこいいって思うけど」 とかいっても、『系』で言われてもよく判らないんだけどね、俺。 「でもさすがに、こういうので学校なんて行けないから、大学生になってからね…」 「マナちゃん、大学は受けるんだ…?」 「……………」 「…まだ、判んない…」 判んないって…。 手続きとか、もうやらなきゃいけない時期なのに。 …でも、俺がどうこう言っても仕方ないしな。 「うん。いいと思うよ」 「とにかく学校出たら好きなことやろうよ」 「……………」 「うん…」 それから俺は彼女を家に送るまでの間に、『系』のつく話を飽きるほど聞かされた。 「…マナちゃんにはちょっと早いんじゃないかなあ…」 「どういう意味よお…」 あ、やっぱり怒った。 ほんとに素直に怒る娘だなあ。 まあ、怒らせる俺も俺だけど。 「いや…。ほら、マナちゃんの場合、まだ若いんだし」 「今から無理して…」 大人なファッションしなくたって… って言おうとしてるのに… 「なにそれ!? 若かったらモッズじゃいけないわけ!?」 「悪くないけど…」 話、聞いて…。 「年齢でファッションを決めるわけ? 藤井さんって?」 「いや…」 だから… 「じゃあクラバー系とかフェロモン系はおばあちゃんが一番似合うわけね!?」 「ロリータ系とかキューティ系は赤ちゃんが最高に似合うのね!?」 「アイヴィー系とかスクール系は小学生が最高なわけね!?」 「待って待って…」 そんな『系』を連発されたって、俺、ちょっと判んないし…。 そして結局、言った台詞は、「ごめんなさい…」 「ふんっ…」 「生活指導の先生と話してるみたい…」 俺は外国人と話してるみたいな気分だけど…。 まあ、マナちゃんの場合、ああいう大人なファッションをするのに足りないのって、別に年齢じゃなくて…。 「なによお…?」 「ん? 何も言ってないよ」 身長… だよなあ…。 どう考えても…。 「変なこと思ってない…?」 「ないない、そんな。思うわけないじゃない」 「ふうん…」 それから俺は、彼女を家に送るまでの間に、彼女の買った雑誌のコラムみたいな話を延々聞かされた。 時々忘れそうになるけど、俺って家庭教師なんだよな。 ちょっとは、それらしいこともしないと…。 「最近勉強してる? なにか受験で悩んでることは無い?」 出来るだけ、にこやかに言ってみた。 「もお…なによ、いきなり。にやけた顔して。 こんな場所でまで、教師ヅラしないでよ」 やっぱり、不機嫌になってしまった…。唐突すぎたかな。 「あはは…。たまには、それっぽいこともしないとね」 「…なによお、今は時間外でしょ。真面目な教師のふりしたって、バイト代は一切かわんないんだから!みんなタダ働き、無駄よ、無駄!」 「あれ? 今日も一人?」 「そうよ。いいじゃないの、別に」 「い、いや、そりゃ別にいいけど…」 考えてみたら、この娘が誰か学校の友達とかと一緒のとこって見たことないな。 「たまには友達と遊んだりしないの?」 「どうだっていいでしょ、そんなこと!」 「あ。私の友達、誰か紹介してくれっていうことね?」 「もう、最っ低ね!」 「い、いや、そんな…」 だから俺、恋人いるってのに…。 「むだよ、むだ。人に用意してもらった愛情なんて本物じゃないんだから」 「人の畑の麦で焼いたパンは甘くはないものよ」 「また、いっちょまえなことを…」 「なによお?」 「別に」 「ふんっ。生意気っ」 「はいはい。ごめんね」 「俺、別にマナちゃんの友達なんて期待してなかったけどね」 「え…?」 「え…?」 な、なんでそんな睨んでるわけ…? 俺… 何か言った? 「期待なんてしなくて結構よ!」 「マナちゃんってさ、お父さんやお母さんのこと、好き…?」 「あ、いや」 「よけいな質問だったら答えなくていいんだけど」 彼女はちょっと黙ってたけど、やがて 「どっちでもない」 「…え?」 「好きでも、嫌いでもない…」 「マナちゃん、今から帰るところ?」 「見りゃ判るでしょ」 「送ってくよ」 「ふんっ、大学生ってよっぽど暇なのね」 「程ほどにはね。それに女の子一人ってのも心配だから」 「なによお、そんなに危なっかしく見える?」 「いや、ほら、ぶっそうな事件とかもあるし。誘拐とかストーカーとか」 「ふんっ、知らない人についていくとでも思った? 小さな女の子みたいに言わないでよ」 ま、見た目は確かに小さな女の子なんだけど。 「なに? 今すごく失礼なこと考えたでしょ?」 「そ、そんなことないよ」 「ま、いいわ。 そこまで一緒に行きたいんなら仕方ないわね」 マナちゃんは、勝ち誇ったように言うと、手に持った鞄をぐっと掲げた。 「召使いってことで特別に許可してあげる。 さっ、鞄を持ちなさい」 「はいはい」 いつものようにマナちゃんの鞄をもって歩き始める。 そのまま、しばらく一緒に歩いていると、「私のこと…心配?」 あれっ、ぽつりと、何か聞こえたような? 「え? マナちゃん、今、何か言った?」 「な、なんでもないわよ、グズグズしてないで帰るわよっ」 「う、うん」 「………」 それから鞄を片手に抱えつつ、すっかり無口になってしまったマナちゃんを家まで送った。 「マナちゃんって音楽とかよく聴く方?」 「うん、割とね」 「例えば、誰?」 「え? 今の? それとも昔の?」 「え? 今の? 昔の?」 そっくり同じ感じで訊き返してしまう俺。 「あのねえ、藤井さん、私、こう見えてもオールディーズナンバーからコンテンポラリーまで一通り聴くんだから」 あ、なんかむっとしてる。 「聴かないのなんて演歌とヴィジュアル系くらいなもんよ」 「へ、へえ…」 すごいんだなあ。 でも、聴くだけなんだからそんな威張らなくったって…。 「だから、てきとうに『誰?』なんて訊かれたって…」 「ああ、はいはい…」 俺自身の、音楽に対するこだわりの無さが彼女のプライド(かなあ?)をくすぐったらしい。 「じゃ、今の…。…そうだ、日本のポップスで。アイドルとかでは…?」 「アイドル…? 藤井さんの趣味…?」 「い、いいじゃない別に。俺のこだわりなんだから…」 「で、誰が好き?」 「んー…。ありきたりだけど、緒方理奈ちゃんかなあ…」 「ふうん…」 やっぱり理奈ちゃん、この世代の娘には大人気みたいだ。 「あとは、ナガオカ…」 「あっ! やだっ! 今日って!?」 「え…?」 いきなりマナちゃんは鞄からシステム手帳を取り出して、乱暴にページをめくった。 「あっ、やっぱりそう! 今日、ナガオカさんのシングル出る日じゃない!」 「ナガオカ…?」 「そっ、そういうわけだから、私、CD屋さん行くね! ばいばい!」 「ええー?」 俺と話してるよりもシングルCDの方がいいのかー…? 思わず言い出しそうになったけど、返ってくる答が怖かったから言わないでおいた。 (今だったら確実に怖い方の答が返ってくる) 「判ったよ。じゃあね…」 だけど、俺がそう言った時には彼女は既に駆け出していた。 仕方ないな…。 「走ると転ぶよー…」 そっと言ったつもりだったけど、マナちゃんにはちゃんと聞こえたらしく、振り返って俺をにらみつけた。 一瞬、引き返してきそうになったけど、なんだかもどかしそうな様子を見せて、再び駆けてってしまった。 なんか元気な娘…。 「俺、時々だけど、TV局でアルバイトしてるんだ」 「ふうん。…バイトって、ADとか?」 「まあね」 鋭いな。 「力仕事とか、お弁当とかジュース配ったりとか、蹴られたりとか?」 「ま、まあね…」 鋭すぎるよ…。 なにも、蹴られるところまで気づかなくたっていいのに。 「それでまさか、タレントに会えるとか?」 「まあ、それは…」 会えるは会えるけど…。 「やっぱり」 「やっぱりって?」 「藤井さんってミーハーっぽいから」 「TV局でちょっと会っただけだって、すぐ自慢しそうなのよね」 「しないよ、そんなこと…」 ちょっと会うだけじゃないんだけどね。 「森川由綺とか、緒方理奈とか」 「言いそう言いそう。すごく言いそう」 「…………」 言えなくなっちゃった…。 いや、別に自慢するつもりはないんだけど。 ただ、結構マナちゃんが喜びそうな話とかあるんだけどな…。 「なに?」 「いや…。もう言わない」 「あ、なによそれえ…?」 怒ってる…。 「マナちゃんさあ、前、緒方理奈ちゃんが好きって言ってたじゃない?」 「ええ」 「やっぱり、かっこいいから?」 「ふふっ。まあね」 「藤井さんでさえかっこいいって判るんだもん、かなりのものよね」 「なんだか嫌な例えにされてるなあ」 「その、マニアだけじゃなく、一般人にも専門家にもうけてるってところがすごいところなのよね」 「ま、まあ、そうかな…」 でも俺、別にマニアじゃないけど。 「そうよ。一般人だけにうけても専門家だけにうけても、やっぱりそれだけじゃだめ」 「誰でもがすごいって思わなきゃ」 「そんなもんかなあ…」 俺は別に、そういう世界に生きたことがないからよく判らない…。 真剣な恋人だけじゃなく、浮気な遊び人からも愛された方が男の価値は高いっていってるみたいなものかな。 …ちょっと違うか。 まあとにかく、理奈ちゃんはアイドルってスタンスなのに、専門家の評価はすごい高いみたいだ。 俺個人としては… 「理奈ちゃんってすごい」 「そんなすごくないよ」 「でも、そんなことやれちゃうんだもんね。 ハイセンスなスタイル崩さないで一般人に受け容れられるなんて。やっぱりすごいよね、理奈ちゃんって…」 「ほんとよね」 「でも、藤井さんもなんだかんだ言って、見るとこ見てるって感じ?」 「ま、まあね…」 まさかマナちゃんと、こんな場面で意見の一致をみるとは思わなかった。 俺にもちょっとはミーハーな部分あるとして、それ以上に、彼女本人と会って話をしたってことが、理奈ちゃんが俺を惹きつけた理由だと思う。 もっとも、そんなことをマナちゃんには言えるわけもないんだけど。 (アブナイ目で見られる) 「まあ、藤井さんみたいなのがファンの中にいてもいいんじゃない?」 「良い機会だから、センスをしっかり磨くといいわよ」 「ファン…」 ファン… ねえ…。 …ファンっていったら、そうなのかな、俺…。 「え?」 「あ、いや」 「まあ、ファンかな…って…」 「あ、そ」 そして俺は、理奈ちゃんのいろんな話を聞きながら、彼女を家まで送っていった。 「でも…それってすごいかっていうと、あんまりそうでもないんじゃない?」 俺はちょっと訳知り顔に言ってみた。 「いるのよね…。こういう、トップにあるものにとりあえず文句つけてみないと気が済まないって人」 「まったく、自分は何者って感じだけど」 「……………」 ひどいなあ…。 「大体、知り合いでもないのに、聞きかじり読みかじりの知識で全部判ったつもりになっちゃって…」 「あ、俺…」 理奈ちゃんとは知り合いだよ、って言おうとしたけど、やめた。 こんなことで理奈ちゃん本人の名前を出すのも気が引けるし、何よりも、マナちゃんは信じてくれない。(絶対) 「…なによお? 知り合いだとか言い出すわけ?」 「い、いや…」 「思うのは自由だけど、思ってるだけにしといた方がいいわよ。口に出さない方が」 「…そんなんじゃないけど…」 そんな、マナちゃんだって知り合いってわけじゃないはずなのに。 ていうか、俺、ほんとは知り合いなのに…。 ああ、ちょっと悔しい…。 「そこが間違いの元なのよ。すごく近いものって感じちゃうことが…」 そして俺は、彼女を家に送るまでの間に、『アイドル論』とでも呼びたくなるみたいな話を飽きるほど聞かされた。 「マナちゃんは、森川由綺ってどういう風に思う?」 ちょっとどきどきしながら俺は尋ねてみた。 由綺の仕事には口を出さないし、必要以上に気に懸けないって決めてたんだけど、やっぱり気になる…。 「由綺ちゃん…?」 「まあ、いい娘だと思うけど」 「かっこいいっていうんじゃないけど、こう、雰囲気があるのよね、由綺ちゃんって」 「へえ…」 さすがストライクゾーンの年齢層。 分析まで入ってる。 「由綺ちゃんもね、もうちょっとは目立とうってしてもいいんじゃないかな。でも、そこのところであと一歩、緒方理奈に負けてるのよね」 そういうものかあ…。 まあ、それはそうと。 「要は、ショーマンシップの差ってところかしら? 由綺ちゃん、普通っぽい、優しいイメージだけじゃやっぱり弱いわよね」 「由綺ちゃん由綺ちゃんって、なんか友達の話してるみたい…」 「なによお、悪いことなんてないじゃない」 「藤井さんなんてもっと生意気よ。 『森川由綺』なんて呼び捨てじゃない。しかもフルネーム」 「い、いや、俺…」 その森川由綺とつきあってる、なんて言えないよなあ…。 「由綺ちゃんが聞いたら『気持ち悪い』って言うわよ、絶対!」 「そんなあ…」 そんなこと断言されたって…。 「ふ、普通、みんなこんな風に呼んでるじゃない…。それに雑誌だって…」 「だからってなにも、藤井さんが由綺ちゃんに近いってわけじゃないでしょ」 「そうだけど…」 「ばかじゃないの」 ひどい…。 「いるのよね。すぐにのぼせる人って」 「ブラウン管の向こう側とこっち側の区別が無くなっちゃう人って…」 「あ…」 「マナちゃんってさ、緒方英二って好き?」 英二さんの本性(らしきもの)を知ってる俺としては、こういう情報にはすごく興味がある。 「緒方英二さん?」 「大好きよ」 「やっぱり…」 やっぱりすごい人気があるんだなあ。 しかも『さん』づけだし。 「やっぱりって?」 「いや、人気あるんだなって…」 「人気っていうか、人間、かしらね」 「人間って?」 「緒方英二さんって人間。それが好きなの」 「はあ…」 またそんな、会ったこともないのに…。 「…なによお?」 「あ、いや…」 実際に会ったら(多分)幻滅するから、そんな憧れ方やめた方がいいよ…。 「…何か言いたそうよねえ…」 「な、なんでもないってばあ…」 「でもね、緒方英二さんが現役の頃って、私、子供だったから、そんなにいろいろ聴いてないのよね」 「あ、そうか」 歌手とか芸能人とかって、観てた人の世代が判るんだよな。 「現役の頃っていったらマナちゃん、まだ赤ちゃんだったもんね…」 「違うわよおっ!」 「ごめんっ!」 速攻で謝る俺。 また、うっかりしたこと言うから…。 「もう…」 「ごめんってば…」 「ほ、ほら、帰ろうよ。送ってくからさ」 「…………」 そして帰り道、マナちゃんの英二さんに関する情報をいろいろと詰め込まれた。 意外っていうかそのままっていうか、マナちゃんはマニアックなほど英二さんの情報を持ってた。 …そして意外と、英二さんには一度として女性関係のスキャンダルが持ち上がったことがないことも知った。 ほんとに、意外だと思った…。 「知ってる? 緒方理奈ちゃんって、ハンググライダー好きなんだって」 最近、ミーハーな俺。 「へえ…」 マナちゃん、驚いてる。 俺がそっち系のことに詳しいなんて意外って感じだ。 …別に詳しいわけじゃないか。 「でも、藤井さんの情報って、どっかうさんくさいのよね…」 またそんな情報通みたいなこと言い出すし。 「そんなことないって。俺…」 本人から聞いた… っては、言えないよな。 「…信用できる友達から聞いたんだから…」 なんだか一気に説得力無くなったな。 騙されてるやつの黄金パターンって感じだ。 「でもまあ、前に理奈ちゃん、ハングがすごく面白かったって言ってたし」 あ、やっぱりマナちゃん知ってる。 さすがだ。 「でも、そうよね、理奈ちゃんって、意外とそういうのも似合うのよね。なんかこう、別の意味でおしゃれっていうか。スタイリッシュ…っていうの?」 「さ、さあ…?」 単語に関して俺に訊かれても。 「でも、空のスポーツって、結構やってみたいかも」 「…また、すぐ真似したがる…」 「いいじゃないのよお…」 あ、聞こえてた。 「ほら、かっこいいじゃない、ハンググライダーって?」 「まあね…」 …でも、マナちゃんだと吹き飛ばされそう。 まんがみたく、どっかの樹の枝に引っかかってたりとか…。 「藤井さんはどうなのよっ!?」 「ええっ?」 びっくりした。 怒られたのかと思った。 …いや、怒られちゃいるか。 「うん…」 「かっこよさそう」 「危なそう」 「そのうち行くよ」 「かっこよさそうだよね。まあ、やれるかどうかだけど、ちょっとやってみたいよね」 「うん」 「そのうち絶対行ってみたいよね」 「二人で空飛んでみたいよねっ」 「そうだね。ははっ…」 「あ…」 「べ、別に藤井さんと二人で、って意味じゃないからねっ」 「だっ、誰か別の人とかも知れないしね」 「判ってる判ってる」 俺は笑いながら彼女をなだめる。 …でも、できるんだったら一緒に行っても面白そうかな、とか思いながら。 「な、なによ…?」 「だから、なんでもないってば」 そんなことを言い合いながら、俺達は並んで歩いた。 「そういうのって危ないっぽくない?」 「あ、やっぱり」 マナちゃん、にやにやしてる。 「やっぱりって?」 「藤井さんって、それっぽいって思ってたんだけど…」 「それっぽいって?」 「ん? 高所恐怖症」 「いわゆるエアロフォビアってやつ?」 「最初会った時からそうかなって思ってたんだけど…」 「またそんな勝手なことをー…」 最初に彼女の家に行った時からそんな風に見られてたのか、俺。 「別に俺、高所恐怖症ってわけじゃないの」 「ただマナちゃんだったら、風に吹き飛ばされそうだって…」 あ、言っちゃった。 「ふうん…。あ、そうー…」 うわ。 怒ってる。 「うそ。ごめん」 「勘違いだよ、俺の。俺、昔から高所恐怖症だったし」 「いわゆる…ええと…?」 「エアロフォビア」 「エアロフォビア」 「ふん…。情けないの」 …納得いかないなあ。 「仕方ないから、私が教えてあげるわよ」 「マナちゃんがー…?」 「でも、マナちゃん、ハンググライダーなんてやったことないんじゃ…」 「ふん。どう考えたって高所恐怖症の人よりはましよ」 「…………」 …そりゃそうだ。 もっとも、風に吹き飛ばされなかったらの話だけど。 「何か言いたそうなのよね…」 「ううん。別に」 そんなことを言い合いながら、俺達は並んで歩いた。 「まあ、俺もそのうち行くけどね」 「えっ…?」 「あはははははははっ」 「すごいわねっ。そ、それは、すごいわっ」 なんだか大笑いされてる。 「別に普通じゃない。ハンググライダーっていったってさ」 「レンタルしてくれてるとこだってあるしさ…」 「そ、そうねっ」 「それだったら藤井さんでも、勇敢に空へっ…」 「あはははははははははっ」 「…なんだよ、もう…」 何がそんなに面白いんだか…。 「…ひょっとして、理奈ちゃん本人と行くとか言い出す? 今度は?」 「あ…」 「そ、そこまでは言わないけどさ…」 言いたいけど。 「いいわよ。だったら見に行ってあげるから」 「せいぜい風に飛ばされないようにだけはしなさいよね」 それ、俺の台詞だよ…。 そんなことを言い合いながら、俺達は並んで歩いた。 「ん。懐かしいなあって思って…」 「何が?」 「制服」 この、蛍ヶ崎学園の制服を(男子のだけど)俺も着てたんだなあ。 制服を着て、制服を着た彰と学校に行って、この制服を着た由綺と会ってたんだ。 この制服を着た由綺、すごく可愛かったな。 美咲さんも、ほんとに上級生って感じがしてたし。 はるかは… あれ? はるかの制服姿ってイメージないぞ。 「…………」 「えっ…。な、なに…?」 マナちゃん、なんかじっと睨んでる。 「…制服が好きなわけ…?」 「え…? あっ、そんなんじゃなくてさっ」 しまった。 変な誤解されてる。 「そゆんじゃなくて、ほら、制服が好きかとかそういうことじゃなくって…」 「制服よりも、それ着てる人の方が好きって?」 「うん。そうそう」 「…やっぱり、変態」 え…。 あ、そうか。 「いや、だから、そういう風な意味じゃなくてえ…」 「ふんっ」 揺るがないな、この評価は…。 「私は着てる人よりも、デザインの方が好きだけどっ」 「はあ…」 女の子って結構そういうもんなのかな。 「あの、勉強のことだけどさ…」 「もう…。こんな時までそんな話しないでよ」 「う、うん…」 彼女、本気で不機嫌になってる。 勉強のことを話したりするのが俺の仕事なのに…ひどい…。 「…なによお?」 「いや、なんでも…」 「あそ。じゃあねっ」 勉強の話しかしない俺には用はない、って感じだ。 冷たいなあ…。 「マナちゃん、こないだの学園祭どうだった?」 「うん。楽しかった」 「楽しかったってよりは、すごかった、かな…」 「演劇部の?」 「うん…」 「澤倉先輩って、どんな人だったのかな…」 「美咲さんかあ…」 うん…。 すごく優しくて、大人で、でもどっか可愛らしくて…。 「なにが『美咲さん』よ」 「おんなじ学校にいるからって偉そうに…」 「そんなんじゃないってば」 「言っておくけど、澤倉先輩と同じ大学通ってる人間って藤井さんだけじゃないんだからね。判ってる?」 「…判ってるよ」 だから、ほら、俺、ほんとに知り合いなんだけどな…。 「でも俺、実はさ…」 「もう。この調子じゃ『俺、実は澤倉先輩の知り合いなんだ』とか言い出しかねないわね…え? なに?」 「…いや、別に何も…」 「なによお。はっきり言いなさいよね」 「いや、いいよ…。そんな大事なことじゃないから…」 絶対言い出せなくなっちゃったな、これ…。 「まったく…」 「ほんとに澤倉先輩と同じ学校に通ってるなんて思えないわよ…」 そうかなあ…。 それ言ったら、マナちゃんだって美咲さんの後輩だなんて…。 「あっそうだ」 「えっ、なに?」 「また私を大学に連れてってくれない?」 「え…?」 なんだ、怒られるのかと思った。 「私服で入ったら判んないでしょ、どうせ」 「うん。それは大丈夫だけど…」 「でもどうして…?」 「ちょっと見てみたくなったの。澤倉先輩の大学って、普段はどんなか」 「え? 俺の大学を…?」 「澤倉先輩の大学!」 「…判った」 俺は彼女を手で制しながら答える。 「今度の金曜日にでも行きたいなって思ってるんだけど、どう?」 「ええ? 学校は?」 「いいじゃない。社会勉強の方が大切よ」 「そうかもだけど…」 考えてみたら、家庭教師の日だって重なってるじゃないか。 この娘、ほんとに勉強嫌いなのな。 「藤井さんはどうなのよ?」 「行く」 「ごめん…」 「判ったよ。じゃ、一緒に行こう」 社会勉強って口実なら、俺の方も授業さぼってて心苦しくないし。 「ごめん…。俺、金曜日は予定入っちゃってるんだ…」 「ふうん…」 あ、がっかりしてる…。 「まあいいわよ」 「どうせ大した用事じゃないんでしょうけど、藤井さんには大切なことなんでしょ?」 「ま、まあね」 「だったら無理に言うこときかせるなんてできないじゃない?」 「マナちゃん、こないだの学園祭どうだった?」 「楽しかった?」 「そこそこね」 「そこそこかあ…」 さすがにマナちゃん、点が辛い。 「やっぱり、大学生レベルって感じがした?」 「ステージは良かったんだけどね」 「へえ。じゃあ、何がまずかったの?」 「…隣にいた人かな」 「もう少しましな人だったらな…なんて思って」 「隣に…?」 「あっ。もしかしたら隣に変な男がいたとか?」 考えたくないけど、痴漢… とか…。 「……………」 「…まあ、似たようなものかもね…」 「そうなんだ…」 なんてことだ。 彼女を連れ出したの、俺なのに、そんなのからさえも守ってあげられなかったなんて…。 「…………」 「な、なに?」 「藤井さんって、ほんっとに幸せな人よね」 「そう…?」 そりゃあ、俺、男だから痴漢に遭わなくて幸せかも知れないけど…。 「まあ、そのままでも別にいいけどね、私…」 「…うん…?」 ちょっとよく判らないけど、マナちゃん、笑ってくれてる。 受験を控えるマナちゃんとは、自然、勉強の話になりやすい。 「最近思うんだけど…やっぱり勉強なんて、めんどくさいわね」 さらりと、そんな事を言い出すマナちゃん。 同意したいところだけど…家庭教師としては、『それじゃ駄目だよ』って言い聞かせないとな。 その後、『一緒に頑張ろう』って、励ましてあげれば完璧だ…。 「マナちゃん、アリとキリギリスって知ってる?」 「それがどうしたっていうの?」 「夏の間、遊びほうけていたキリギリスは、後で大変な目にあうんだよ」 「それくらい知ってるわよ。だから何よ」 「こつこつと勉強しなきゃってことだよ。 だから、一緒に頑張ろうよ」 我ながらうまく言えた…と思ったけど、「ふうん。それで、勉強嫌いの受験生を、説得出来たとか思ってるんだ…」 マナちゃんは、ちょっとあきれたような顔で、こっちを見た。 「な、何か間違ってる?」 「ねえ、今、季節はいつだと思ってるの?」 マナちゃんは俺の顔をのぞき込む。 かすかに意地悪な笑みを浮かべて。 「真冬…だけど」 「キリギリスはどうなってる頃?」 「あ…」 し、しまった! 「もう手遅れって、言いたいんだ?」 「…ご、ごめん! そんなつもりじゃ! ものすごく不適切だった、このとおり、ごめん!」 ぺこぺこと平謝りに謝る。さすがにこれは、デリカシーなかったな…。 「ちょっ、ちょっと、冗談よ。そんなに大げさに謝らないでよ! 本当にもう駄目みたいじゃないのよ!」 「だ、だけど…」 「ほ、ほら、いつまでもしょげてないで! 謝るくらいなら、少しは責任をとりなさいよっ、責任をっ、ね?」 なぜかマナちゃんに励まされながら、一緒に帰るはめになった。 …そういえばマナちゃんの受験結果って、どうなってるんだろう…? 「…なに?」 「え? いや…」 まさか受験生本人に『大学受かってると思う?』なんて訊けるわけもないし…。 「…私の受験のこと考えてたでしょう?」 「ええっ?」 なんでこんな鋭いんだ、この娘。 「まあ…」 俺は正直に答える。 「そりゃ、ちょっとは心配だし…」 「ちょっとは?」 「…すごく心配…」 「ふんっ。なにが心配なんだか…」 「大体、藤井さん、家庭教師でしょ? 教えておいて、心配だなんて無責任よ」 「うん…」 責任取れるほど何かしてあげられたってもんでもないんだけど、だけど、責任は感じる…。 「平気よ、全然」 「そうかなあ…」 「そうよ…」 そうかなあ…。 気のせいかもだけど、マナちゃん、声が震えてんだよなあ…。 うん…。 「それなら大丈夫だね」 「やっぱり心配だよ」 「なるようになるよ」 「それなら、まあ、大丈夫だね」 「本人がこう言えるんだからね。強がりでもさ」 「…な、なにが強がりなのよお…」 いきなり言葉が浮ついてる。 やっぱりね。 「だからさ、強がり言うにも余裕が必要ってこと」 「余裕があるってことは、どっかで自信持ってるってことじゃない?」 「強がり強がりって、なに勝手なこと言ってんのよ…」 「でもまあ、藤井さんにしては論理的なこと言うじゃない?」 「まあね」 いつもは『理屈っぽい』とか怒るくせに。 でも、声の調子はなんとなく戻ってる。 「まあ、何度か受験しただけのことはあるわね」 「先輩の意見ってやつ?」 「…俺は一回で通ったの…」 「いいから、そんなこと」 いいから、って…。 ほんとなのに…。 「でもまあ、たまには藤井さんに騙されてもいいかもね」 「今さら焦っても仕方ないし」 やっぱり焦ってたんだ。 「…なによお?」 「なんでもないー」 「いいから。ほら、帰るんだろ?」 「送ってくよ、俺」 「ふん。じゃあ鞄持ってよ」 「はいはい」 「って言っても、やっぱり心配だよ、俺…」 「もう、弱っちいわねえ」 いらいらしたみたいにマナちゃんが言う。 「家庭教師がそんなで、私、どういう風に自信持ったらいいのよ、もう!」 「え…?」 「あ…」 「じ、自信はあるけどねっ…!」 「うん…」 そうだよな。 いくら俺が心配してあげたってそれは、マナちゃんの不安を無駄にあおるだけなんだよな。 「藤井さん、よっぽど受験でひどい目に遭ったのね」 「ええ~?」 「そんなことないよお…」 「どうだか」 俺は由綺と一緒に合格発表を見に行って、二人で手を握り合って喜んだんだ…! なんて、そんなこと言えないなあ…。 「怖くて発表見に行けないから、お母さんに代わりに見に行ってもらってたとか、どうせそんなでしょ?」 「全っ然っ、違う」 こういうのには勘は鋭くないみたいだ。 なんかずるい。 「そんな嫌なことばっか言ってないでさ、ほら、帰るんだろ?」 「送ってくよ、俺」 「ふん。じゃあ鞄持ってよ」 「はいはい」 そして俺は鞄を持ちながらゆっくりと歩いた。 「そういうのって、なるようになるよ」 「そんな、考えてたってどうしようもないって」 「…ほんっと、気楽な家庭教師よねえ」 「人の受験だと思って…」 「まっ、別に悩んだりしてたわけじゃないけどねっ」 「そう?」 だったらいいんだけどね。 この、俺に見せてる余裕の少しでもほんとだったら、心配なんて必要ないかも。 「なによ? 帰るんでしょ?」 「え? ああ…」 「だったら、鞄くらい持ってくれたっていいんじゃない?」 「はいはい」 そして俺は鞄を持ちながらゆっくりと歩いた。 「そういえばさ、マナちゃんの受験ってどうなってんの?」 「さあ?」 「さあ、って…」 「今まで自分の教え子をほったらかして、突然受験の心配なんて虫がいいんじゃない?」 「ううん…」 …その通りだ…。 「なんて、冗談よ」 「大丈夫」 「藤井さんが心配することじゃないから、大丈夫」 「うん…」 ほんとは、心配しなきゃならない立場なんだけどね。 「ほらあ、私、これから帰るんだから」 「ん?」 「『ん?』ってなによ?」 「鞄持つくらいできないの? 召使いなのに」 「あ、はいはい」 「よし」 家庭教師としては失格でも、召使いとしては充分合格してるみたいだ、俺…。 マナちゃんに恋愛の話…? …俺、彼女の甘い話よりも、自分のすねの方が大事だな…。 「…なに?」 「あ、いや、別にっ」 「あ、そうだ。もしよかったら家まで送るよ」 「別にいいわよ。まっすぐなんて帰らないし」 「そう…」 「じゃ、さよならっ」 「ばいばい…」 だらしなく手を振る俺。 仕方ない。 俺も適当に遊んで帰ろう…。 「…変なこと訊くけど怒らない?」 「多分怒るわね」 「そんな…」 そんな速攻で…。 「変なこと訊かれて怒らない人なんていないわよ」 それもそうか。 「そういうこと。じゃあねっ」 「あ…」 行っちゃった。 …彼女に恋愛のことなんか訊こうとするから…。 「…訊いても怒らない?」 「さあ…?」 …怖いな。 「マナちゃんってさ、今、つきあってる人とかいる…?」 「えっ…?」 「…なんでいきなりそんなこと訊くのよっ…」 うわ…。 いきなり怒られそう…。 何て言おうか…? 「気になるから…」 「可愛いから…」 「この話やめよう」 「マナちゃんのこと、ちょっと気になってさ…。あ、でも、そういう変な意味じゃなくて…」 俺は急いでつけ加える。 「気になる…?」 「そ、そんなの…」 「そんなの、気にしてなんて頼んでなんかないわよっ」 「藤井さん、そんな、どうでもいいことに頭使うんだったら、他のところに使いなさいよねっ」 「どうでもいいって…」 別にどうでもよくはないだろうって思うけど。 「あ、それともアレ?」 「『観月マナの恋愛関係を調査せよ』とか指令受けてる?」 「まさか。俺、そういうんじゃないって言ったじゃない」 「いいわよ、別に」 「誰も秘密にするなんて言ってないじゃない」 「え…?」 「でも残念でした」 「そんなかっこいい人、うちの学校にいないもんねっ」 「ほら。マナちゃん可愛いから、ちょっと気になっちゃって…」 少しふざけながら俺は答えた。 「頭おかしいんじゃないの?」 素…。 「今時そんなので喜ぶ人なんていないの。判ってる?」 「え~…」 由綺とか美咲さんは喜ぶぞ、これでも。 「もういいからついてこないで」 そう言って彼女は、野良犬か何かにするみたいに手をシッシッと振る。 「藤井さんのカッコワルイがうつるから、あっち行って」 「ひどい…」 なんてばかにされながらも、俺は(鞄まで持たされて)彼女を家まで送っていった。 ますます召使いのスキルが上がった。 「あ…。この話、やめよ」 「ま、それがいいわねっ」 そう言ってマナちゃんはツンと澄ました。 そんな様子を見てると、確かに、彼女には語れる恋愛は早すぎるって感じがした。 「…なによお?」 「別に…」 「ふん…」 なんて怒られながらも、俺は(鞄まで持たされて)彼女を家まで送っていった。 ますます召使いのスキルが上がった。 「マナちゃん、俺に恋人いるって言ったら信じる?」 「…………」 え?  あれ? どうしたんだろ…。 「…何かの心理作戦?」 「なんで?」 俺の恋愛は人の心にダメージでも与えるのか。 「ほんとの話だよ」 「本気ぃ…?」 「…正直なこと言って、藤井さん、泣かない?」 「…もういいや」 どんなこと言われそうか、もう見当ついた。 「いいわよ別に。私は気にしないから」 「ばかにするかもだけど」 「するんだ、やっぱり…」 「するわよ、そりゃあ」 そんな堂々と言われても…。 「だってもてないんだから仕方ないでしょ」 しかもひどい理由だし。 「…でも、いたらいたで笑えるけどね」 「笑えるのか…」 「朝、学校行ったら相手の人と出会って、『藤井さんに会えたね』なんて言われて、嬉しくなって頭なでたりとかしちゃって…」 「…………」 うわ…。 俺、やってる…。 「…どうかした?」 「あ? なんでもない」 こんなことばれたら、どんな風にばかにされるか…。 「じゃあさ、はい」 ぽん、と俺の手に彼女の鞄が押しつけられる。 「?」 「『?』じゃなくて、はい」 『はい』じゃなくて『?』だ。 「私の鞄持って歩いてたら、ひょっとしたら恋人いるみたいに見えるかも知れないじゃない」 「いいわよ。持たせたげる」 「どうも…」 そして俺はまたも鞄を持たされる。 …まあ、父兄同伴に見られなかったらいいんだけど。 「ん?」 「別に」 「そ」 マナちゃん、結局… 「どうかした?」 「うん…。結局、クラスの男の子とか、好きになったりとか…しなかったんだね、マナちゃん…」 怒られるかな…。 「うん…」 「でも、どうってことないわよ、そんなの」 「どっちにしたって、ばかばかしいし」 「大体、同学年とかって頼りなくない?」 「ま、まあね。ははっ…」 「子供は嫌なの、私」 「年上よね、やっぱり」 「ははは…」 …よかった。 やっぱり、マナちゃん、強い人だ。 こんなに小さな女の子なのに、一人なのに、ほんとはそんなに強くもないのに…。 …やっぱり、好きになったり『しなかった』んだ。 『できなかった』じゃなくて…。 「だから…」 「ん…?」 「もうすぐ卒業だね」 「クラスに、別れるのがつらい子とかいないわけ?」 「ぷっ」 「いるわけないじゃない、そんな」 明ら様にばかにしてる口調。 「どう考えたって同学年って頼りないじゃない?」 「そういうもん?」 「そういうもんなの」 「卒業しちゃうと会えなくなる、なんてブルー入れてんの、あれ、何なのかしらね」 「どっちにしてもばかばかしいわよ」 「はあ…」 由綺、同い年の俺のこと、頼りにしてくれてる(っぽい)けどな…。 「…だからって、ただ年が上ならいいってもんでもないけどね」 「…なんで俺を見るわけ…?」 「これじゃあ、先に生まれたってだけだもんね…」 ひどいことを…。 俺、そんな頼りなくなんてないぞ。 「なにも藤井さんのことだなんて言ってないでしょ?」 「…どうも…」 だったら、俺を見ることないじゃない…。 「まあ、ちょっと頼りないことは頼りないんだけどね」 「はいはい…」 「なんで急にそんなこと言い出すのよ」 「おじさんがナンパしてるみたいよ、まるで」 「そんなことないと思うけど…」 「ないわけないでしょ、もう」 いや…。 会ったばっかりの頃と違って、こんな話もできちゃうんだなあって思って…。 「まあいいわよ。帰りましょ」 「うん…」 そしてどうでもいい会話を交わしながら、俺達は二人で歩いた。 「ねえ、マナちゃん。この間、うちに来た?」 「えっ…?」 「わ…私が行くわけないでしょ…ばか…」 「ど、どうして私がわざわざ行かなきゃいけないのよ…」 「ばかじゃないの…」 うーん…。 「いや、俺のところにさ、チョコレート届けてくれた人がいたみたいで」 「あのさあ、現代のアートって…」 「あっそうだ!」 「藤井さん、この間来た時、私の消しゴム持ってかなかった?」 「消しゴム…?」 いや、俺、芸術について語ろうと…。 「そう。消しゴム」 「いや…。俺、覚えないけどなあ…」 「机の下とかに落としたんじゃないの?」 芸術が消しゴムに負けてる。 「探したわよ、ちゃんと」 「机に頭ぶつけちゃうし…なにがおかしいのよ…?」 「う、ううん、別に」 俺も昔よくやったけど、でも他人がそれやってるのって笑えるから不思議だ。 「じゃあ、ノートの間とかに挟まってなかったの?」 「うん。学校でノート開いたもの」 「あ、それじゃ鞄の中に落ちてるかも」 「消しゴム挟んだままノートを鞄に入れちゃってさ」 「え~…?」 がさがさ…。 「あ、ほんとだ…」 「やっぱり?」 「へえ。藤井さん、すごいんだ」 「まあね」 洞察力っていうか推理力っていうか、なんかそんなの。 そういうの、ちょっと鋭いよ、俺。 「こういう所帯じみたことって、藤井さんの得意分野なんだね」 いや、だから、洞察力っていうか推理力っていうか、なんかそんなのだってば。 …て、あんまり胸張れるボキャブラリーじゃないな。 「これからも何かなくしたら探してもらうね」 「うん…」 昔の占い師みたいだな、俺。 なんていうか、変な頼られ方しちゃったな…。 しかも芸術は跡形もなくなってるし。 「マナちゃんって、時々は美術館とか行ったりするの?」 「えー? なんでー?」 「なんでって…。そういうアート系好きかなって思って…」 「私、退屈なとこって好きじゃないの」 「大体、美術館行かなきゃアートなもの見れないなんて甘いわよ」 「甘い…の…?」 「甘い甘い。大甘に甘すぎ」 そういうものかあ…。 「じゃっ、私、ちょっと買い物して帰るからね」 「ばいばーいっ」 あ~あ、行っちゃった。 まあ、考えてみなくとも美術館とかが似合いそうな娘じゃないけどね。 「前にさ、マナちゃん、美術館とか行かなくったってアートがどうのこうのなんて言ってたじゃない?」 「言ったっけ?」 「…すぐ忘れる…」 「なによそれ? まるで私にポリシーが無いみたいじゃない?」 「言ってないよ、そんなこと…」 「大体なによ、『どうのこうの』って? 『どうのこうの』なんて言わないわよ、私」 またそんな子供みたいなこと言う…。 「確かに私、アートが何だのとか言うかも知れないけど、藤井さんに言ったかとか覚えてないだけ」 …忘れてるんじゃないか、やっぱり。 「…なによお?」 「つまり、アートってのは…」 俺は早々に話題を変える。 「ふん…。まあ、じゃあ今度、一緒に遊びに行ってみる?」 「え?」 「気をつけて観たら、普通の通りだってアートっぽいから」 「今度の土曜日に買物に行くから、別について来てもいいわよ」 「土曜日…」 「行く」 「行けない」 「それじゃついてこうかな。そういうの嫌いじゃないし」 「ふん。『嫌いじゃない』だって。生意気…」 「でもまあ、特別につれてったげる。特別だからね」 マナちゃんは興味深そうに微笑む。 「荷物持ちはいた方がいいしね」 「はいはい」 「なんだったら荷物だけじゃなくて、マナちゃんも持ってあげるよ」 「フザケタこと言うと蹴るわよ」 「ごめん」 笑ってるけど、目は本気…。 「じゃあ、土曜日…」 「土曜日に駅前ね」 「遅れたら…」 「ごめん…。俺、その日もう予定が入っちゃってて…」 「え…?」 「ま、まあ、いいわよ。別に」 「藤井さんだって忙しいわよね、そりゃ」 「ごめん…」 …マナちゃん、怒ってるっぽいなあ。 「ほんとごめん…」 「こ、今度何かで埋め合わせするからさ…」 「いいわよ、別に」 「ただ…荷物持ちがいないと…面倒だなって思っただけだから…」 「そう…」 マナちゃんに強がられるのって、時々すごくつらいよ。 「あっでも、埋め合わせはするって言ったんだからしてもらうわよ。今日、早速」 「ええっ?」 そして俺は、『埋め合わせ』にと、マナちゃんにハンバーガーのセットをおごらされた。 その後『ラジオが始まっちゃうでしょ』と、理不尽な理由でもって彼女の家までそれを持たされてた。 ほんとに埋め合わせなのか、ただの意地悪なのか判らないけど、少なくとも玄関の前で別れた時の彼女は特に怒ってはいないみたいだった。 いつもみたくツンとしてたけど。 「よくいろんな人が言うんだけどさ、英二さ…緒方英二のステージがアートだとかってさ」 「マナちゃんはどんな風に思う?」 「ステージがアートだとかって、思ったりしてる?」 ふとそんな素人っぽいことを尋ねてみる。 一つには、俺は生活レベルでの英二さんを知ってること、一つには、もしステージ演出自体が一つの完成体だとしたら、その上に乗ってる由綺の存在は何なんだろうって思ったから。 完全に一般人の目(ちょっとコアな)を持ったマナちゃんには、どんな風に感じられるんだろう。 「そりゃそうよ」 「ステージだって立派にアートになってるわよ」 したり顔で彼女は言う。 「特に、緒方英二さんのはね」 「やっぱり…」 やっぱり、観客の目からいったら、そのステージ全体、空間全体を観てるってことになるのか。 「それじゃ、ゆ…そこで歌ってるアイドルとかは…」 「もちろん主役よ」 「ステージって、あの人達を見せるようにできてるんだし」 「ただ、緒方さんの場合、アイドルがステージを見せるようにも作ってるけど」 「?」 「要するに、ステージの一部ってこと」 一部…。 「だからまあ、それを観てる全部の目に笑ってみせたり、話しかけてるみたいにみせなきゃいけないのよね」 「ステージの中じゃ、その人はみんなのもので、自分自身のものですらないもんね」 「ちょっとツライけどね」 「うん…」 それは、彼女に言われないまでも、俺には充分よく判ってるつもりだ。 判っては、いるんだ…。 でも…。 「でもね」 「でも、自分がステージ観る時になったら、そんなこと忘れちゃうかな」 「理奈ちゃんとか由綺ちゃんの歌に、全然集中しちゃうかなって思う」 「そう…」 「だってやっぱり、ステージの上で歌ってるのってかっこいいって思うもの」 「そう…だよね…」 俺がどんな風に悩んでも、いくら由綺を心配しても、或いは由綺がどんなにつらく感じても、ステージの上の由綺は、こんなに愛されてるじゃないか。 それはそれで、望んだ世界じゃなかったのか? 確かに今はちょっとつらいけど、それでもそんな由綺を喜んであげるべきなんじゃないのかな…? …そんな風に、気持ちの方は物わかりよくはなれないけど…。 「そうだね…。かっこいいよね、森川由綺も、緒方理奈も」 「うん」 「これからだって、もっとかっこよくなるんじゃない?」 「多分ね」 これからも、きっと…。 だからせめて、もっと喜んであげなきゃいけないんだ。 だからせめて、もっともっと、ステージの上の由綺も愛さなきゃ…。 「マナちゃんはスポーツとか好き?」 「まあ、そこそこはね」 そこそこね…。 彼女の場合、気取ってると本気なのかどうか判らないからな。 「藤井さんはどうなのよ?」 「え? 俺?」 「そ。藤井さん」 「ナンパ目的でスポーツやってますって顔なのよね、藤井さんって」 「え~…?」 俺ってそんな…? 「俺はねえ…」 「スポーツは好きだよ」 「スポーツは苦手なの」 「そんなテは使わない」 「純粋にスポーツ好きなの」 「ナンパ目的とか、そんなことやったのなんて、一度もないしね」 「あたりまえじゃない。なに威張ってんの?」 「え…」 それもそうか。 「大体、そんなことを主張しちゃうあたりがアヤシイのよね」 「またそんな理不尽なことを…」 どうでも彼女は俺のことをナンパ男にしたいみたいだ…。 「それに私、そんな暑苦しくスポーツするってのもあんまり好きじゃないのよね。汗臭いし」 「さすがにそこまではしないけど…」 「でしょうね。そんな体してないもの」 「んー…」 俺は思わず自分の胸板に手を触れる。 「なに照れてんのよ。興味ないわよ、そんなの」 「はい…」 照れてなんかないけど、でも俺、そんなひ弱かなあ…。 「…いつまで自分の身体触ってんのよ」 「…ナルシスト?」 「ま、まさか」 「アスリート系ってそういうの多いみたいだし」 「違うってば…」 とか何とか、一通りいい加減な話をして俺達は別れた。 「スポーツは苦手なの、俺」 「そんな顔してるわね」 「ええ…?」 確かにスポーツは苦手だけど、顔にまで表れてるのか、俺…。 「大体、人に勉強させたがるって時点でもう判るって感じよ」 「…言いがかりっぽいな、それ」 ていうか、あんまり関係ないじゃない…。 「でも身体動かすのとか苦手なんでしょ?」 「そうだけどお…」 「いいんだよ、それはそれで」 「俺、そんな汗臭いこと嫌いなんだから」 「あ、開き直った」 「スポーツ嫌いを主張するって、どんな神経なのかしらね。まったく」 「いいの。俺、そういうんだから」 「他に楽しいこといっぱい知ってる人だから」 「ふうん…」 ああ、全然信じてない。 「楽しいこといっぱい知ってるくせに、家庭教師なんてしてるの?」 「それも言いがかりっぽいな…」 とか何とか、一通りいい加減な話をして俺達は別れた。 「そんなテは使わない人なの。今時さ」 「じゃあ、他の手口でナンパしてるんだ?」 「まあね」 ちょっと強がり込みで、からかってみた。 「あんまり成功してそうにないけど」 「構わないでよ、そんな…」 「藤井さんって、平気で『お茶しない?』とか言ってそう」 「言わないってばあ…」 「あと考えられる手口として…」 「いやそんな、手口手口って、こそ泥じゃないんだからさ」 「似たようなものよ」 参ったな。 変なこと言うんじゃなかった。 「要は、お金を盗むか女性の心を盗むかの違いだけでしょ?」 「ぷっ」 マナちゃん、意外とロマンチスト…。 「な、なによ。何がおかしいのよおっ!」 「別になんでも…」 そして俺は一通り怒られてから彼女と別れた。 「マナちゃんのよくやるスポーツってさ…」 「関係ないけどさ、藤井さんってスケボーやってそう」 「そ、そう…?」 へえ。 俺ってスケボーしてるっぽく見えるんだ。 ちょっとかっこよくない? 「まあ、やってみようかっては、ちょっと思ってるけど…」 「滑れなさそうだけどね」 「…なにそれ?」 「よくいるじゃない。女の子にもてそうだってそういうのやってる人」 いわゆる丘ナントカってやつ? 「…俺、そんななわけ…?」 「どうせ滑れないんでしょ?」 「そ、そりゃ、滑れないけどさ…」 「ほらね」 「ほらね、って…」 どうにも理不尽な裁判か何か受けてる気分…。 たまには気分転換も必要だよな。 「やっぱりさ、勉強ばっかりしてたってつまんないし、スポーツとかして遊びたいね。ウィンタースポーツとかってやつ?」 「へえ」 「結構判ってくれてるんだ?」 「まあねー」 ただ真面目なだけじゃないって、俺。 「冬なんだし、やっぱりス…」 「スノボ?」 …キーって言おうとしたんだけど。 どっちだっておんなじだって思うけど、俺はなんとなく 「うん…。スノボー…」 なんて答えてる。 …そっちの方がかっこよさそうで。 「でもー…」 「なにが『でもー』なの?」 「藤井さん、やったことあるのー?」 「え…?」 言っておいてアレだけど、俺、見たことしかない…。 「やっぱりねー…」 マナちゃんがにやついてる。 「…いいよ、じゃあ、マナちゃんに教えてもらうから」 「言ってるからには上手なんだよね?」 大人げなく言い返す俺。 「な、なによそれ…」 「ふん…。あいにく、私もまだだけど、でも…」 「なんだ…」 あ。 ついうっかりそんなことを。 「なっ、なによお!」 「あっ、あんなの、要はサーフィンと同じなんでしょ!?」 「え? サーフィンやってたんだ…?」 またもよけいなことを言う俺。 「……………」 あ、やっぱり…。 「い、いいわよ…。私、そのうち絶対に行くんだから…」 「藤井さんなんか、死んでも行かないんでしょうけど」 「そんなことないって…」 ひどい言われ方。 それから、マナちゃんを家まで送る道行き、延々そんな話をしてた。 俺もついうっかり『いい子にしてたらそのうち連れてく』とか調子の良いことを口走ってめちゃくちゃ怒られた。 マナちゃんと並んで歩きながら他愛のない会話をする。 ふと、会話が途切れた。 「ああ~っ!!」 いきなりマナちゃんが大声をあげた。 「な、なになに…?」 「あの男ー…!」 「ええ…?」 彼女の睨んでる方向に目を遣ると、こともあろうに彰がのこのこ歩いてる。 やばい…。 とか思ってたら、向こうも俺に気づいたみたいだ。 「あれ? 冬弥…」 「ば、ばか…」 こっち来るな…! 「ちょっとぉ、藤井さん…」 わあ…。 これじゃ、俺も危ない…。 彰、早くどっかに行ってくれ…。 「あ、この間の子だね」 「こんにちは…」 「あああ彰! そうだ! 今日、お前と出かける約束してたんだよな!」 「え? どうしたの、冬弥?」 「悪い、すっかり忘れてた。そうだな、さっ、出かけよう」 「どこへ?」 あ、彰のばか…! 「ど、どっか安全な…。とにかくどっか行こうなっ!」 「う、うん…」 「あっ、藤井さん…!」 「ごめんっ! じゃあ、そういうわけだから、今度ねっ!」 そしてダッシュで…! 「ごめんね…。じゃあね」 なにもたもたしてるんだ、彰…! 「行くぞっ!」 「う、うん…!」 ダッシュ! 「ああっ! 待ちなさいよおっ!!」 はあ、はあ…。 「ね、ねえ…。どうしたのさ…冬弥…」 突然走らされて、彰は泣きそうな顔になってる。 「死ぬかと思っちゃったよ、僕…」 「逆だって」 俺が助けてやったんだ。 だけど、彰と一緒に逃げて、とりあえずは正解だった。 あそこにいたら、あの時みたくひどい目に遭わされてたかも知れない。 …こんなことなら、本気で彰を差し出しちゃおうかな…。 「え?」 「なんでもないよ」 「春になる前に、どっかに遊びに行きたかったね。スキーとかしにさ…」 「うん…」 「行きたかったね…」 そして彼女の束ねた髪を散らかすように、俺達の間に風が吹く。 それはとても冷たく、まるで突き刺さるみたいに鋭いけど、その奥に『春』の姿を感じずにはいられなかった。 春からの風はひどくすがすがしくて、そして、かすかにもの寂しくて…。 「そうだ…」 「え…?」 「受験終わったら、どこかに遊びに行かない?」 「スキーもスノボもできないかもだけど、どっか行かない?」 「旅行とか? はは、いいかもね…」 「な、なに笑ってんのよ、もう…!」 「笑ってない笑ってない」 マナちゃん、いつの間にかこんな風に、俺とよく話するようになっちゃったな。 大したこともやってない家庭教師だったのに、俺。 「じゃあ、大学合格したらだね」 「…別に合格なんかしなくたっていいよ…」 「ただ、藤井さんとゆっくり遊べる時間ができたら…遊びたいなってだけ…」 「それだけだから…」 「合格のお祝いとか、そんな白々しいものじゃなくて…いいもの…私…」 「そう…?」 並んで歩く彼女の、風になびく髪に頬をくすぐられながら俺は答える。 「そうだね…」 「マナちゃん…がんばったからね…」 受験だけじゃなく、いろいろなものに対して。 報酬が大学入試合格だけじゃ、とても足りないくらいいろんなものに。 「俺なんかじゃ物足りないだろうけど、まあ、いないよりましだと思ってさ…」 「うん…」 「…いないより…ましよ…」 「すごく…まし…」 「ん?」 「なんでもないっ」 「ほらっ。今日も鞄持ってくれるんでしょ?」 「はは、まあね」 そして俺は彼女の外出用の可愛い鞄を持ってあげる。 その小さな鞄をつかむ俺の手がやたら大きく、頼もしいものに見える。 …錯覚に過ぎないんだけど、それでもどこか、自分でも安心できるみたいな気がした。 「帰ろ」 「うん」 「やっぱりさ、身体鍛えなきゃだめなのかな、俺」 「どうしたの、急に?」 「うん…」 「ほら、こないだあんな簡単に風邪ひいちゃってさ」 「やっぱり、ちょっと体力が無くなってきてるんじゃないかなって思って…」 「まあね」 「藤井さんって、ただでさえ頼りないんだからね」 「うん…」 やっぱりそうなんだな…。 よし、それじゃ、ちょっとハードなエクササイズでも…。 「でも、藤井さんが突然たくましくなっても気持ち悪いけど」 「そう?」 「どうせ藤井さんのことだから、単純にハードなエクササイズ組んで、いきなり筋肉質になろうとか思ってたんでしょ?」 「いや…」 相変わらず鋭いよ、マナちゃん。 「もお。そんなの全然だめなんだからね」 「え? そうなの?」 そういえば、無意味な筋肉の鍛えすぎは体によくないなんてこと、聞いたことある気がする。 「あんなの、全然かっこよくないじゃない」 「スタイルだって良いなんて思えないしさ」 なんだ、そのレベルか。 「やっぱり、藤井さんはその、適当にだらしない身体でいいわよ」 「筋肉つけようとか、よけいなこと考えなくてもね」 「そうかな…」 褒められてるって気もしないけど、けなされてるって感じでもないな。 「判ったよ」 「マナちゃんが言ってくれたんだし、俺、じゃあ、このままでいいや」 「もう。また人のこと口実にするー…」 なんて怒られながら、俺は彼女としばらく並んで歩いた。 「マナちゃん、制服の時って、私服の時とじゃ全然イメージ違うよね」 「当たり前でしょ。同じだったら私服の意味がないじゃない」 「そうだね」 「ま、私はどっちかっていったらそういうの気になる方だから」 「へえ…」 「まあ、俺は…」 「私服の時が好き」 「制服の時が好き」 「気にしない方だ」 「私服の時のマナちゃんが好きかな。すごく無理してないって感じがして」 「へえ…」 「藤井さんでもそんなの判るんだ」 「判るって」 「ま、私も洋服買う時はかなり気を遣う方だからね」 「これで制服と同じなんて見られたら損だもんね」 「そうだね。着てるだけでも楽しいは楽しいんだけど、やっぱり、見てくれる人間がいないとね」 俺の場合、たまに新しい服を買っても誰もそれほど何か言ってくれるわけじゃないから虚しい。 「へえ…」 「ただ、ぼさっとカジュアルきめてるんじゃないんだ。藤井さん」 あ、やっぱりそんな風に思われてる。 「一応、俺だって考えて着てるんだよ」 「へえ…」 意地悪そうにマナちゃんは笑う。 「まあ、そういうぼけーっとしたのが好きって女の子、いないって限らないし、いいんじゃない?」 …消極的な褒め方だなあ。 少なくとも、由綺はこういうのが好きだって言ってくれてるんだ。 「そういうのが好きだって言ってくれる女の人でも見つけられたらラッキーね」 まったく、ラッキーだよ。 「制服の時のマナちゃんが好きかなあ。真面目でおとなしい…って感じがするじゃない?」 ほんとは『おとなしい』の後に『いい子』が入るはずだったんだけど、怖いから削除した。 「…………」 「えっ? な、なに?」 「藤井さんって、そういうの、趣味なの? もしかして?」 「趣味って…?」 「制服の女の子相手にしたくて家庭教師やってるとか…?」 「なっ、なに言ってるんだよっ!」 俺、ついこの間までその学校の制服着て、制服の女の子達と話してたんだからさ。 そんなマニアックなシチュエーションに憧れるほど、俺、歪んじゃないって。 「俺はそんな意味じゃなくて、その制服着てるとマナちゃんが真面目な女子学生してるって見えていいなって言ってるの」 「そぉお?」 「そういうデザインじゃない? ちょっとインテリ入ったさ…」 「そうそう。私、この制服じゃなかったらこの学校受けなかったもの」 「そうだったの…?」 制服で学校選んでるってやつ…? 「当たり前じゃない。学校に行く時、いつも着なきゃいけないのよ」 「選ぶわよ、しっかり」 「へえ…」 「考えてみて。普通に通ったとして週5日は着なきゃいけないのよ」 「一年で260日なのよ、計算したら!」 「はあ…」 そんな計算してたのか。 「俺、でも、そういうのって気にしない方だよ」 「うわ…」 「最っ悪…」 「こういう人間相手には、どうセンス磨いても通じないのよね」 「センスの無駄遣いってやつ?」 ひどい…。 「そんな、悪いことしたみたく言われても…」 「なに言ってんのよ! 犯罪よ、ある意味!」 「犯罪…」 どんな意味で犯罪なんだ、それ…。 「こうなったら藤井さん、改造が必要かもね」 「改造…」 なんだかまた不穏なこと言い始めた。 「そのうち洋服屋さんにでも連れてこうかしら…」 「あ、うん…」 「そのうちね、そのうち…」 連れてってくれるのは別にいいんだけど、どんなことされるかちょっと怖いんだよな。 「まっ、そうよねっ」 「私だって別に暇なわけじゃないし」 「そ、そうだよね…」 「…ちゃんとした感覚植えつけてあげるわね、絶対…!」 「うん…」 それは怖いなあ…。 そういえば…。 「あ、そうだ。藤井さん、ごはん食べた?」 「ええ?」 人が話をするのを待ってられないんだな、マナちゃんって。 「私、朝から食べてないのよ」 「一緒に行く?」 「ま、まあ…。行こうか…」 そして俺達は昼下がりの(暇な)ファーストフード店にいた。 「藤井さん、コーラLなんて飲んでたら早死にするわよ」 「…虫歯くらいにしといてよ、せめて…」 う~ん…。 「なんていうかさ、マナちゃん、いつもお昼はここ?」 「別にいいじゃない。普通よ」 「そうだけど…」 普通だけど、でも、マナちゃん、誰かと一緒に来るなんてことあるのかな…。 「……?」 あ…。 知らないうちに俺はじっとマナちゃんを見つめてた。 「…………」 と、何を勘違いしたのかマナちゃんは、いきなりペーパーナプキンで口の周りをゴシゴシやり始めた。 「…んっ」 そして改めて俺の方に顔を突き出す。 「え? ああ…きれいきれい…」 「ふん…」 そして再び満足したみたいに食事に戻った。 怒られるから言わなかったけど、ハンバーガーをもぐもぐやってる彼女はなんだかちょっと可愛いなと思った。 「マナちゃんって、こういうのやってみたいってファッションある?」 「やってみたいの?」 「んー…」 そしていきなり、にやりと笑った。 「キャンギャルかな」 「はあ?」 キャンギャルって、キャンペーンガール? あの、いろんなコスチューム着けてにっこりしてる、モデルみたいな人達? 「…あの、水着っぽいのとか着るの?」 「水着…じゃないけど、まあ、そうね」 「い、いやあ、あれはマナちゃんには…」 「には…なに?」 「あ、いや…」 正直なのは命取りだ、この場合。 「…普通の水着じゃだめなわけ? あるじゃない、そういうデザインのって」 「もう、これだから…」 「藤井さんには、あれが水着にしか見えないっていうんだから」 「いやらしいっていうか…」 「…いやらしくはないと思うけど…」 「なに図々しいこと言ってるのよ」 そうかなあ…。 「あれはあれでちゃんとデザインされてるのよ」 「あのフォルムとロゴの関係なんて絶妙じゃない」 「そう…?」 俺、別にキャンギャルなんか見る機会ないから『絶妙』とか言われても…。 「あれはただのアパレルじゃなくて、アドバタイジングの要素も含んでるのよ」 「聞いてる?」 「うん…聞いてる…」 でも理解してない。 「…まあ、好きな方ですけど…」 その割に自信なさそうに俺は答える。 「どのようなものを?」 興味を示してるのかな…? よく判らないな、彼女の場合。 「えっとですね…」 俺は好きな本のことなんかを話した。 文字通り黙ったまま、弥生さんは聞き続けていた。 「…まあ、俺はそういうのを結構読むかなってくらいで…」 どうにも会話が難しい人だ、弥生さんは。 「弥生さんは、どんな本が好きなんですか?」 「本ですか? 一通り何でも読みますけれど」 「好きなジャンルといわれますと、特にはございません」 「はあ…」 「物語というものに、何かを感じたこともございませんし」 「日常を通り越してまで一つの幸せな結末へと向かおうという、仕組みだけが明ら様に見えてきまして」 「はあ…」 なんだか難しい話になりそうだな。 「望むというほどでもありませんけど、始まりも結末もない小説などありましたら、少しは興味が湧くかも知れません」 どんな本だ…。 やっぱりこの人は、明らかに俺達と違う考え方で生きてる人なのかも…。 「ところで、お仕事の方は?」 不意に弥生さんが顔を上げる。 「あ、そうだ」 そうだな、仕事に戻らなきゃ。 「そ、それじゃ俺…」 「どっちかって言うと、苦手な方かな…」 「そうですか」 それこそどうだっていいって感じだ。 「…何か?」 「いえ。ところで、お仕事の方は?」 「あ、そうだ」 そうだな、仕事に戻らなきゃ。 「そ、それじゃ俺…」 俺は、怒られる前に仕事に戻ることにした。 「嫌いじゃないけど…。好きってほど読んでるわけじゃないし…」 いきなりそんな話をふられたので、俺は少し歯切れ悪く答える。 「好きなジャンルの本は読むけど、好きじゃないのは読まないかな」 「普通はそうですが」 そう言われたらそうか。 「弥生さんは、どんな本が好きなんですか?」 「私ですか? 一通り何でも読みますけれど」 「好きなジャンルといわれますと、特にはございません」 「はあ…」 「物語というものに、何かを感じたこともございませんし」 「日常を通り越してまで一つの幸せな結末へと向かおうという、仕組みだけが明ら様に見えてきまして」 「はあ…」 なんだか難しい話になりそうだな。 「望むというほどでもありませんけど、始まりも結末もない小説などありましたら、少しは興味が湧くかも知れません」 どんな本だ…。 やっぱりこの人は、明らかに俺達と違う考え方で生きてる人なのかも知れないな…。 「ところで、お仕事の方は?」 不意に弥生さんが顔を上げる。 「あ、そうだ」 そうだな、仕事に戻らなきゃ。 「そ、それじゃ俺…」 「最近の芸能界って、どんな風なんですか?」 俺はプロフェッショナルな話題を持ち出した。 しかもよく判ってないのがバレバレな曖昧な質問の仕方で。 「何故そのようなことを?」 弥生さんは首を傾げる。 「いや…。一応ADやってますし、知っておいた方がいいかなって…」 「指示はこちらから出ているはずですわ」 「はあ…」 余計なこと考えないで働けってことか。 「それでは」 つらいなあ、こうのって…。 「あの…ちょっと訊きますけど、由綺って…」 「はい?」 「毎日あれだけ働いてていいんですか?」 「…その、働く時間って、なんとかって法律で決められてるって聞きましたけど…」 「労働基準法ですか?」 「多分…」 いわゆる労基法ってやつか。 「ええ。問題ございませんわ」 「そう…なんですか…?」 「法定範囲内の労働ですので。由綺さんの場合」 「でも…」 でも、それならどうして、あんなに時間が無いんだろう…。 俺と、ゆっくり会うこともできないほどに。 「納得されておられないようですね?」 「まあ…」 「由綺さんの場合、労働だけではありませんので」 「え?」 「レッスンが組まれておりますから」 あ、そうか…。 由綺、高校の時から歌やダンスのレッスンで忙しそうだったから。 デビューしてから、それが終わると思ってたら、むしろよけいにその時間が増えてしまった。 より高度なテクニックを取得する為に。 …道理で、時間は無くなるわけだ。 「…でも、それは仕事のうちには…」 「含まれません」 やっぱり。 「受講料が必要経費として支給されてはおりますが」 なんだ、給料に匹敵するものは出てるんだ。 …うまくできてるんだな、この世界って。 あ、でも… 「そうしたら、弥生さんの場合はどうなるんです?」 彼女はいつも由綺に付き添ってる。 それこそ、レッスンの間にも…。 由綺と違って彼女の場合は完全に仕事だろう…。 「私のお仕事は、由綺さんのお仕事のサポートですわ」 「判ってますよ」 「由綺さんがお仕事をなさってる間だけが私の勤務時間です」 「…レッスンは仕事じゃないって、さっき…」 「それならきっと、私もお仕事ではないのでしょうね」 「そう…」 全て、計算済みか。 「私と由綺さんはお友達ですから、休日を一緒に過ごしても不思議ではないでしょう?」 「はは…」 そんなつもりはないのに、どうしてだか笑い声が出た。 弥生さんが、『お友達』なんて言うから…。 彼女に、一番縁遠い言葉のうちの一つを…。 「あの…」 「何でしょう?」 「…いくら由綺の為とか言ったって、俺に…その…」 納得できる答なんて出してもらえるとは思ってなかったけど、とにかく俺は尋ねてみた。 「…あんな申し出をして何とも思わないんですか? 俺に…そんな…何をされるか…とか…」 弥生さんは俺を見る。 まるで、何かを記録してるみたいだ。 「不服なのですか?」 逆に弥生さんが、俺の答えにくい質問をしてくる。 立場は全く同じなのに、心理的には自分の方が圧倒的に不利みたいに感じられる。 「よろしいのですよ。望む時に、私を、自由にして」 そして凍りついたみたいな時間は流れる。 弥生さんは、それでも俺を瞳の中に収める。 俺は、彼女を見ていられない。 「言わないでいて、欲しかったです。できれば。…そんなことは」 「………………」 俺の言いたいことは、通じてるのか? 弥生さんは、表情を変えないまま首を傾げてる。 そしてそのまま彼女は、俺に背を向けて歩いていってしまう。 そんなことを、望んだつもりはなかったのに…。 由綺に、迷惑をかけたくなかった。 由綺の足を引っ張っていたくなかった。 それだけだったのに…。 どうして自分を『物』みたいに扱えるんだ…。 どうしてそんな風に『物』になりきれるんだ…。 俺は、弥生さんのことを、少し考えてみた。 できるだけ、自分なりに。 「あの、CDとかって…」 「恐れ入りますが、次の日曜日のご予定はどのようになっておられますか?」 「ご予定…? 俺の…?」 「ええ」 「ご予定は、まあ…」 「え? でも、どうしていきなり…?」 「ぜひおつきあい願いたいと思いまして」 「願いたいの…ですか…」 「はい」 「リサー…」 「ショッピングに参ろうと思いまして」 「ショッピング…」 本気…? 「…………」 真剣だ。 (多分) ええと…。 「つきあいます」 「断る」 「ええ…。判りました、おつきあいさせて頂きますよ…」 堂々と断れる状況にいないしな、俺…。 「ありがとうございます。それでは日曜日に、お迎えに上がりますわ」 「はあ…」 怖がる必要はないって判ってるんだけど、なんか、ちょっと…。 「それでは楽しみにしております」 「はあ…」 なんだか、じっと見てる…。 「…………………」 「お仕事に戻って下さい」 「あ、はい」 行っちゃった。 …甘い時間を過ごそうって感じじゃないよな、これって…。 別にいいや、それだって…。 「いえ…。ちょっと日曜日は…」 「そうですか」 じっと見てる…。 「残念です」 「そ、そうですか…」 とてもそういう風には見えないんだけど…。 「すみません…」 「それでは、私はこれで失礼いたします」 行っちゃった。 …あの人が本気で男の人と遊びに行くなんてこと、あるのかな…。 なんて、無粋な想像か…。 弥生さん自身も無粋っていったら無粋だけど、でも、それは由綺のことを真剣に考えてのことだと思うし。 そう、思いたいし。 …いいや、仕事に戻ろう。 「弥生さんはどうして、マネージャーをやってるんですか?」 俺はちょっとシビアな質問をしてみた。 「仕事ですから」 だけどあっさりと答えてしまう弥生さん。 「いや、そうじゃなくて」 「はい?」 「マネージャーって仕事を、どうして選んだのかなって…」 「?」 弥生さんは小さく首を傾げる。 「たとえば、女優とかでもやってけるんじゃないかなんて…」 ちょっとふざけた口調でつっこんでみる。 ちょっとだけ本気入ってるけど…。 「俳優ですか?」 「ええ」 でも、答える弥生さんの声は相変わらず無表情だから、俺の台詞が何か空回りしてるみたいだ。 「興味はありません」 「…でも」 「何でしょうか?」 なんだか先生に怒られてるみたいだな、俺。 「素でも、これだけ美人なんですから…」 「……………」 「おしゃれとかすれば、もっと…」 「仕事の邪魔になります」 本気で興味ありませんって感じだ。 確かにそんな人だな、彼女。 「結局、外見は外見に過ぎませんから」 「私の外見が仕事の上でもたらしてくれる実質的なメリットの質と量を考えれば、それは時間の無駄に過ぎません」 「そうかなあ…」 話す相手に与える印象の違いだとかさ、そういうのってあると思うけどな。 それに、自分の美学だとか、自分を装ってみたい欲求だとか。 「外見に感情を左右される人間の与えてくれるメリットは、結局、程度の知れたメリットでしかありませんから」 「巨大な利益をもたらしてくれる人間に、もはや余計な装飾などは何の意味も持ちません」 「レジャーはレジャー、ビジネスはビジネスです」 「そういうもんですか…」 やっぱり、俺にはまだ早すぎる世界かも知れない…。 「もし藤井さんがそう希望されるのでしたら、もちろん、その要求は、容れますけれど」 「いえっ! そういう意味で言ったんじゃなくて!」 「……………」 弥生さんはまたも首を傾げる。 ちょっとからかわれてるのかも知れない。 「お、俺、仕事戻りますから…!」 でも、なにも弥生さんの言葉を肯定するわけじゃないけど、ちょっとは考えちゃったな。 人が自分を飾るってどういうことなのかってことを。 「弥生さん、ちょっと…」 言いかけた時、廊下の角から足音が響いてきた。 「…ちょうどよかった」 「この間めずらしく小説読んだんですけど…」 「それが内容の濃い歴史物だったから、教科書より勉強になっちゃって」 「………………」 「あ、いや。本当に勉強になってたかって言われたら、怪しいですけどね…」 そして軽く笑ってみる。 …どうやっても、空回りしてるみたいな気分は払拭できない。 「興味ないですか? こういう話って…?」 「はい」 だろうと思った。 しかも正直だし。 「小説には全く興味が湧きません」 「歴史小説が一部では流行しているようですけれど」 「そうなんですか?」 「ええ」 「ですが、歴史は歴史として、後から人間が手を加えたりは決してできません。小説のようには」 「う、うん…」 でも、だから小説って分野が成立するんじゃないかな? 「私はやはり、小説などは自宅で静かに読むべきだと思いますわ」 「作業中の思索は、ほとんどの場合、実を結びませんもの」 この台詞を文学的に解釈してみると、要は『黙って働け』だ。 「そうします…」 そして俺は仕事を再開する。 「それでは」 「弥生さんは、文学作品とか読みます?」 考えてみたら、弥生さんの趣味って何だろう? 「…………………」 何も言わない…。 考えてるのかな? って、何を? 「読みました」 「はあ…」 変な答…。 「どうかしましたか?」 「あ、いえ。…読みました、って…?」 俺は素直に尋ねてみる。 「教養として、学生の時に一通り。文学史の教科書に載っていたものは全部」 「全部?」 「全部です」 すごい…。 「それで…」 「それで?」 「面白かった、とか、感動した、とか…?」 「いえ。特には」 だろうとは思ったけど。 「全然、でしたか」 「ええ」 徹底してる人だなあ。 本当に、感情があるんだろうな…? 「文学とはいっても、結局は文字の集合です」 「ヴィジュアルエイドもありませんし、文字の配置に秀逸なデザインが施されているというわけでもありません」 「読者がありがたがっているのは、結局は作者の妄想でしょう」 そんな読み方したら、面白いものなんて、この世から無くなっちゃうよ…。 「人が感動する、とは、既視感と記憶の混乱と最大公約数的な妄想に由来するとは思いませんか?」 「な、何ですか?」 またちょっと俺には理解できなくなってきたぞ。 「つまり勘違いという意味ですわ」 「そ、そうかなあ?」 ちょっと賛成はできないなあ、それには。 「日本文学の定義は、作品の捉え方は個人個人、自由でよろしいはずですわ」 「はあ…」 そうだっけ? 「藤井さんには藤井さんの捉え方があり、私には私の捉え方が…」 「…仕事に戻ります」 「それがよろしいですわ」 要は、俺の感動(弥生さんに言わせれば『勘違い』)なんか、どうだっていいってことか。 人の感覚って、そんなものなのかな…。 「俺の大学の講師に、考古学を研究してる人がいるんだけど…」 弥生さんだって学生時代を過ごしたんだし、こういう話は結構通じるかも知れない。 「その人の講義って、ほとんどおしゃべりばっかで楽しいんだけど、テストの方が大変だったりとかして…」 「……………」 弥生さんは、やっぱり顔色一つ変えない。 「…弥生さんの学生時代って、どんなでした?」 ちょっと、気になってた。 この人に、多感な時期なんて、あったのかな? 「別に。普通でした」 …嘘だよ、そんな。 「特に面白くもありませんでした。特につらいこともありませんでした。特に、何も感じませんでした」 普通、っていったら普通かも知れない。 異常、っていえばいえるかも知れない。 「結局、成長した今の感覚でしか当時を回想できませんから。全部『普通』なのではないでしょうか?」 そういうもんかな…? 「想い出は、結局は、写真ほどの正確さも持たない、不完全な記録の一部ですから」 「……………」 「全ては、今、でしかありえないのだと思っています」 そして彼女は、ちらりと俺を見る。 「お、俺は、そういうことはあまり…」 「そうですか」 そう答えて、弥生さんは行ってしまった。 あれ…? でも、今、確かに彼女の口から、『想い出』 って言葉、出たよな…。 「弥生さんって、恋愛について、とか、考えたことって、ないんですか?」 これに関しては、一度は訊いておかないと。 ちょっと、恥ずかしいけど。 「何ですか?」 でも、弥生さんは首を傾げるだけだ。 「だから、弥生さんは恋愛とか…」 「それを知ってどうなさるのですか?」 「別にそれは、どうもなさいませんけど…」 聞いて、ちょっと話したりすること自体に意味があるんだけど…。 「由綺さんを想うことに関して、何か疑問でも浮かびましたか?」 「ま、まさか!」 冗談でもこの人にそんなこと言ったら、速攻で由綺と引き離されてしまう。 「そうですか」 そう言って弥生さんは、行ってしまった。 本気で俺と由綺との仲を嫌がってるのかなあ…。 …やだなあ…。 「弥生さんは、誰かを好きになったことはないんですか?」 ちょっと攻撃的な質問をしてみる。 「誰かを好きになるって、誰にでも一度はあると思うから…」 首を傾げてる弥生さんに、俺はさらに言葉を継ぐ。 「いいえ」 だけど弥生さんは言う。 まるで答えるのさえも面倒そうに。 「私はこれまで、男性の方を愛したことはありません」 「……………」 「人生の決まり事のように恋愛をして、それで幸福を得る。下らないシステムですわ」 「それは結局、恋愛によって幸福を得ているわけではなく、決まり事にすがることによって幸福を得ているだけではございませんか?」 「そういうものですか…」 「私はそう思います」 俺は、違うと思う。 違うと思いたい。 「じゃあ、弥生さんが、誰か他人を好きになるってことは、完全にないわけですね…」 悲しいよ。 そういうのって。 「私は由綺さんを、愛して、います」 彼女は、一語一語確かめるみたいに、ゆっくりと、そしてはっきりと言う。 「自分の成功の為に、ですか?」 人への愛って、そんなシステム的なものじゃないんじゃないか。 そんな愛情だけで、不安や失望にどう立ち向かってきたんだろう、この人は…。 だけど弥生さんは沈黙と、温度のない凝視で俺に答えただけだった。 そしてそのまま、背を向けて歩き去ってしまった。 愛情を信じなくなんて、なれるのかな? 愛情を無視できたら、あんな風になれるのかな? 俺も、そんな風に、なれちゃうのかな…? 「弥生さん、訊いていいですか?」 「どうぞ」 落ち着き払った態度で、俺に向き直る弥生さん。 『自分は誰かに愛情を感じることはない』、そう言っていた。 もう一度本心を確かめてみたい。 「俺じゃなくて、俺の知り合いのことなんですけど…」 「そいつ、最近悩んでるんです」 「女の子とつきあい出したんですが、恋愛観が違いすぎるっていうか、本当に愛されてる感じがしないっていうか…」 弥生さんは全く興味なさそうに、俺の顔を見ている。 この人に正面から訊いたって答えてもらえそうにないから、工夫したつもりだけど。 「…………」 見透かされてる気がする。 「同じ大学に通ってて、女っぽい外見の奴なんですが」 つい、余計なことをつけ加えてしまう。 「それで、相手の本心を知りたいって言うんですけど…」 「弥生さんなら、どんな風に訊きますか?」 「それ自体無意味な仮定ですが、たとえば…」 「『あなたは誰かを好きになったことはないのですか?』」 「お知り合いのお相手に、藤井さんがそうお訊ねすればよろしいのでは?」 「……………」 やっぱり、完全に見透かされていた。 「俺から言っても意味ないです」 「なぜそう思われるのですか?」 「なぜって…」 その台詞、この前そのまま使いました、とはさすがに言えない。 「そんなこと、第三者にいきり訊かれても、答えてくれるわけないし…」 「その通りです」 「第三者から無責任に質問されても、当事者は答えようがありません」 「予定がありますので、失礼します」 弥生さんはそれだけ言って、歩き去ってしまった。 『当事者は由綺と自分で、俺は第三者』って、俺に釘をさしたんだろうけど。 「恋人同士は俺と由綺なのに…」 俺はつぶやいてしまう。 でも今、俺が知りたいのは、俺と弥生さんについてなわけで…。 誰がどう第三者なのかさえ、判らなくってきた。 これじゃ本心を探るどころか、相手にさえされないのも仕方ない。 やっぱりもう一度正面から訊くしかないのか…。 どこが正面なのか判らない人だけど。 「真剣に答えてください」 「弥生さんには、本当に恋愛感情はないんですか?」 「その質問には以前にお答えしましたが」 弥生さんの答えは予想通りだった。 この質問にはこれで充分と、最初から決めている感じだ。 「愛されているという実感は、結局のところ身勝手な主観でしかありません」 「それに、由綺さんとの交際に実感が持てなかったからこそ、藤井さんは私との関係を享受されているのでは?」 無機質な視線で、俺を捉えて薄く笑う。 悔しいけど、弥生さんの言う通りだ。 今この瞬間だって、俺と弥生さんの関係は続いている。 優柔不断に流されるまま、恋人を裏切り続けている俺に、愛がどうのとかいう資格はないのかも知れない。 だけど…。 「そういうことじゃないんです」 「弥生さん自身は、誰かを愛おしく想うことはないんですか?」 「私はこれまで、男性の方を愛したことはありません」 眉ひとつ動かさずに、弥生さんは同じ答えを繰り返した。 でも、俺だって引き下がる気はない。 「それじゃ、質問を変えます」 「異性ではなく、人間という意味で答えてください」 「弥生さんは誰かを愛おしく想ったりはしないんですか?」 もう一度、俺はそう訊いた。 弥生さんは、俺に決して本心を見せることはない。 弥生さんの恋愛観について、もう少し聞いてみようと思った。 でも、どう切り出したらいいか… 「藤井さん、数分だけお時間よろしいでしょうか?」 俺がためらっていると、弥生さんの方からそう言ってきた。 「あっ、はい。大丈夫です」 こんな改まった感じで話しかけてくるなんて、何だろう? 「この前は申し訳ございませんでした」 「この前って…」 「ご質問に答えられなかった件です」 「そんなことありましたっけ?」 「はい」 「藤井さんは私に、『誰かをひとりの人として、想えることはないんでしょうか?』と、質問されました」 その台詞を弥生さんのポーカーフェイスで言われると、妙に気恥ずかしい。 というか、なんでわざわざそんな話を持ち出してきたんだろう? 他人の気持ちを尊重しないように見えて、妙に律儀なところがある人だよなと思う。 最近やっと判ってきたことだけど。 「俺の方こそ、すみませんでした」 「誰にだって答えたくないことはあるし、俺の方にデリカシーがなかったっていうか…」 「デリカシーという言葉の意味をご存じですか?」 「いえ、はっきりとは…」 「『感受性の細やかさ』です」 「藤井さんは相応のデリカシーをお持ちだと思いますわ」 遠回しに皮肉を言われるのかと思ったから、ちょっと意外だった。 「それは、褒められてるんでしょうか?」 「はい」 「ただ、今のご質問は少々デリカシーを欠きますが」 「あっ、そうですね」 答えると、弥生さんがほんの少しだけ笑った。 でもそれは一瞬で、すぐにいつもの事務的で無感覚な表情に戻る。 「藤井さんとの関係は、私の方から提案したことです」 「利害の一致が前提ですから、藤井さんが不利益を被るのは私の望むところではありません」 「『俺のことを愛するように』と命じられれば、できる限り努力いたします」 やっぱり、俺の気持ちは伝わっていないんだな…。 俺には理解できない高尚すぎる喜劇を観せられているような、あの感じが戻ってくる。 弥生さんみたいな美人が、自分の命令に従ってくれる。 男として、嬉しくないって言ったら嘘になるけど… 「それは俺のためじゃなくて、由綺のためにですよね?」 「はい」 即答した弥生さんに、俺は溜息をつくしかない。 弥生さんは由綺のことをこの上なく大切に想っている。 それだけは揺らいだことがない。 「…由綺に嫉妬しますね」 「それだけ弥生さんに愛されてるわけですから」 「だから、弥生さんが誰も愛せないなんて、嘘だと思いますよ」 弥生さんが俺のことを見返してきた。 「以前に申したはずですが」 「『私は由綺さんを愛している』、と」 この前と一緒の台詞だけど、雰囲気が少しだけ違う。 もっと感情が覗いているというか、理解の足りない生徒に呆れてるような感じ。 「俺も由綺と同じぐらい、弥生さんに想ってもらえたらなあ…」 冗談めかして、そうつぶやいてみた。 弥生さんは俺のことをじっと見ている。 もしかして、困ってる… のかな? 「…お望みなら、努力はしますが」 「成果は保証しかねます」 言ってることはさっきと同じなのに、ちょっとだけ会話が和らいだ気がする。 だから、俺は答えた。 「それで充分ですって」 感情さえ自由にできると言い切ってしまう人より、よっぽど人間らしいと思う。 「申し訳ございません」 でも、やっぱり生真面目に謝っちゃうのが、弥生さんなんだよな。 良くも悪くも、それが彼女の魅力かも知れないけど。 「最近のTVってすごいですよね。技術っていうか、番組だけじゃなくて、CM一つにしても…」 こういう話題には弥生さんも興味あるかも知れない。 「お好きなのですか?」 「え? …まあ。…それなりにですけど」 「そうですか。では」 弥生さんはそう言って、一人で奥の方に行ってしまった。 「あれ…?」 空回りしてる? 俺? 「弥生さんは、絵画とか、観たりします?」 弥生さんって絵とかに感動したりとかするのかな? 「風景画などでしたら」 へえ。 意外だ。 「複雑な定則で存在しあっている自然物にしても、枠のある二次元中に整理されてしまうのですね」 「は、はあ…?」 何のこと…? 「ひどく大きなものに見えて、実は、その程度なのかも知れませんね」 「な、何がですか?」 「いろいろなものが、です」 「はあ…」 「…弥生さんって確か、風景画が好きでしたよね?」 「はい」 「好きな画家とか、いるんですか?」 弥生さんは首を傾げる。 「お仕事はよろしいのですか?」 「ええ、まあ…。一応終わりましたけど…」 「お食事は?」 「まだです…」 帰りに軽く食べていくつもりだったんだけど。 「もしよろしいのでしたら、どこかくつろげる場所でお食事しましょうか?」 え…? 「どうしました?」 「あ、えと…」 行く 行かない 「あ、行きます…」 俺はその申し出を受けることにした。 「それでは参りましょう」 「は、はい」 誘っておいて、俺を省みることもしないまま、彼女はさっさと歩いていってしまう。 俺は急いで彼女の後を追った。 「い、いえ…。今日はちょっと…」 俺は彼女の申し出を断った。 「そうですか。それでは」 それだけ言うと、彼女は静かに去っていった。 一体、どんなことを考えてたんだろう、彼女…。 「弥生さんは、スポーツとかに興味は…?」 「いいえ」 はっきり答える彼女。 「そ、そうですか…」 「失礼します」 ナンパしてるみたいだな、俺…。 「弥生さんって、スポーツとかには全然興味ないんですよね、確か?」 「ええ」 「でも、仕事上、そのイベント的なものって避けられないんじゃないですか?」 「ええと、たとえば、オリンピックとか高校野球とかのセレモニーみたいな…」 「ええ。判ります」 弥生さんは面白くもなさそうに頷く。 「いくら仕事だからって、興味のないこととかってやっぱりつまらないんじゃないですか?」 「それとも、全然気にならないとか?」 俺はちょっと皮肉っぽく訊き返す。 「あいにくと、私達にはイベント的な仕事をする機会はないと思われます」 「?」 「緒方プロデューサーは彼女達を、理奈さんや由綺さんを、安易なマスコットとして世に送るつもりはなさそうですので」 「はあ…」 「何かのイベントのイメージとして世に知れても、イベント自体は一時的なものです」 「イメージはいかに優れたものであっても、イベントそのものと一緒に消えてゆきます」 確かにそうかも。 「でも、だからって、そんな自分の好きな仕事を選べるって世界じゃ…」 「あ、いえ、俺にはよく判りませんけど…」 「でも、それじゃ他のタレントに比べて不利な勝負を強いられてるんじゃ…」 何よりも、由綺があれだけ頑張ってるんだ。 少しでも人気を出すことを考えて欲しい。 「何かのスポーツイベント、フェスティバル、年末の歌番組、TVの芸能特別番組。そんなお祭りイベントに我がちに出演したがる、あの方々ですか?」 「三流ですね」 …迫力ある微笑だと思った。 「企画を立てる人間はさておき、それを受け容れるプロダクションも、いかにもスタイルを合わせている風なタレントも、まるで三流ですね」 「…そうなんですか…?」 「誰にでも尻尾を振る犬は子供にしか好かれません。そして子供はすぐに大人になってしまうのです。…大好きだった犬など簡単に放って」 「そうかも知れませんけど…。でも、それじゃまるで由綺達を否定してるみたいじゃないですか」 「犬…マスコットではありませんよ、由綺さんは」 突然にシビアな口調になる弥生さん。 「むしろ普通であること。ステージすらもあくまで個人的であること」 「それらを重視すべきではないでしょうか?」 「え? ええ…?」 「たとえ、それが演技であろうと」 よくは判らなかったけど、『あくまで普通で自然体』ってのは、確かに由綺が万人に受け容れられた理由の一つには違いない。 タレントの集まるようなイベントには何一つ参加してないのに、TVやラジオや雑誌とかの無数の地味な仕事だけで、人気は不思議と高まってる。 英二さん人気の波に乗ってるんだと思ってたけど…。 「緒方プロデューサーの受け売りですけれど」 声には決して表れなかったけど、その言葉の奥には彼女の、英二さんに対する尊敬にも似た何かが感じられた。 決して尊敬だけじゃない、複雑な何かを。 「そろそろ行かなければなりませんので、失礼いたします」 「あ、はい…」 行っちゃった。 でも、弥生さんの言ってた英二さんのイメージって、俺の持ってるのとは何か違ってたな。 知り合いになる前は、すごく繊細な音楽家を想像してたのに、会ってみたら実は変なおっさんで、でも話を聞いてるとすごい戦略家だったりなんかして。 弥生さんもよく判らないけど、英二さんって人もそれに輪をかけて正体不明なところあるよな…。 「弥生さんは、おしゃれとかは…」 「あまり気にしませんので」 「そうですか…」 やっぱり。 「でも、大人っぽくてかっこいい服とか着たら似合うと思うんですけど」 「仕事場に着てくるわけにはいきませんから」 「でも、休みの日とかは…」 そういえば、この人に休日なんてあるのかな? 「興味ありませんので」 「それでは」 行っちゃった…。 そういえば、前から気になってたんだけど。 「弥生さんの髪って、綺麗ですよね」 「そうですか」 弥生さんはそっと自分の髪に手を触れる。 長く、流れるみたいな艶やかな黒髪だ。 「ええ。そう思いますよ、俺」 「ありがとうございます」 褒められて嬉しい、って感じじゃないな、でも。 「あの」 「あ、はい。何ですか?」 弥生さんは俺をじっと見つめてる。 「私は由綺さんの代わりになっておりますでしょうか?」 「え…?」 「いかがですか?」 弥生さんのことは嫌いじゃない 由綺に対する気持ちは変わらない そんなこと言わないで欲しい 「…俺、正直言って、弥生さんのこと嫌いじゃないです…」 「……………」 「だけど、それ以上はだめなんだ。俺、由綺と別れるなんて、考えられないから…」 「俺…由綺に対する気持ちは変わってませんから」 「判ってます」 何の感動も無さそうに弥生さんは答える。 「本当に藤井さんと恋愛関係に陥るつもりはありませんので」 「だったら…」 「問題は、私が仕事を全うできているかということです。もしも、藤井さんのお気に召すままの奉仕ができていないようであれば…」 「そんなこと、言わないで下さい…!」 思わず俺は彼女の言葉をさえぎる。 どうしてそんな、自分すらも何かの道具みたいに考えられるんだ。 感情ある人間のはずなのに。 …少なくとも俺は、弥生さんに、いろんな感情を抱いてるんだから…。 「あまり些細なことを気にする必要はないと思いますわ」 「些細だなんて…」 「重大とは思えません」 弥生さんは、そうなんだろうな。 でも…。 「それでは私はこれで」 「あ…」 「他に何か?」 「別に…」 「それでは」 どうして弥生さんは、あんな風になれるんだろう? 俺も、そんな風にならなきゃいけないのかな? あんな風になったらちょっとは楽なのかな…? 「そんなこと…言って欲しくありません…」 そう言いながら、俺は彼女から目を逸らしてた。 「そうですか。失礼いたしました」 弥生さんの表情は変わらない。 「そうですね。言葉の介在する問題ではございませんね。承知しました」 「それでは、私はこれで」 そして弥生さんは行ってしまう。 俺の言いたかったことは、彼女には伝わってるのかな? 「弥生さんから見て、由綺のファッションセンスってどう思いますか?」 「可愛らしいと思いますわ」 弥生さんには珍しく、ストレートな即答だった。 茶化している訳じゃなく、本当にそう思っているらしい。 「なぜそのような質問を?」 逆に拍子抜けした俺に、涼しい顔で訊き返してくる。 「由綺のセンスって、アイドルっていうにはちょっと違う気がして」 「どのようなところが?」 「センスが無難っていうか、普通すぎるっていうか…」 だから可愛くないってわけじゃないけど。 「アイドルって、普段からもっとかっこよくて、お洒落なのが普通かなって」 「俺が言うのも変ですけど」 「森川由綺は従来のアイドル像とは異なる存在ですが、それが逆に、今までにない新鮮なキャラクターとして受け入れられつつあります」 「身近に感じられる存在としての魅力、とでも申しますか」 「理奈ちゃんとは正反対ですね」 「一口にアイドルと言っても、望まれる種類は多様です」 「そうですね…」 俺の中で由綺は今でも、ちょっと気弱で素朴な女の子から変わってない… のかも知れない。 「ですが、今のようなお話は、由綺さんの前では口になさらないよう」 「はい、判ってます」 そのぐらいは、俺も一応気をつけてるつもりだ。 「落ち込むのは当然だけど、由綺の場合、『そうだよね…』とか納得しちゃいそうですから」 「そうですね」 「的確な予想だと思いますわ」 由綺の話になると、表情が柔らかくなるよな、弥生さん。 「いずれにせよ、由綺さんのモチベーションを下げる行為は慎んでください」 「判りました」 神妙に頷く俺。 俺に向かう時の弥生さんは、悪い虫を追い払うマネージャーそのものだ。 そのせいで、俺と由綺の仲は遠くなっているけど。 「今さらこんなこと言うのもおかしいですけど…」 「弥生さんがついててくれて、由綺も本当に助かってると思います」 「私は職務をこなしているだけです」 いや、それをこなせるのが充分すごいんだけどな。 「由綺さんが世に出られたのは、緒方英二のプロデュース能力によるものです」 「そしてなにより、由綺さん自身の実力です」 「由綺も頑張ってると思うし、英二さんもすごい人ですけど」 「やっぱり、弥生さんもすごいなって思って」 「弥生さんが嫌なところを引き受けてくれてるから、由綺も安心して仕事ができてるわけだし」 「ありがとうございます」 飾り気なく言って、褒めた相手を正面から映し続ける瞳。 逆にこっちがくすぐったいというか、何か申し訳ない気持ちになって、「ところで、弥生さんの趣味だとどんなアイドルが好みですか?」 照れ隠しついでに訊いてみる。 「森川由綺のようなアイドルですわ」 これも即答だった。 「それでは、失礼いたします」 俺にくるっと背を向けて、弥生さんは行ってしまった。 自分では『仕事』だって言い張るけど、それだけじゃないはずだ。 公私を超えるレベルで、弥生さんは由綺のために尽くしてくれている。 それができない自分自身が、無力に感じられた。 「今年の冬、かなり寒いですよね。いつ雪が降ってもおかしくないと思いません?」 俺は無難に天気の話題をふってみた。 「そうですね」 「去年は、降りませんでしたよね…」 「そうですね」 「降るかな、雪…?」 ちょっと、大人っぽい雰囲気…。 「私には何とも。気団の配置からみますと、その可能性もあるようですけれど」 「はあ…」 別に俺は、弥生さんに気象情報を訊きたかったわけじゃなくて…。 と、不意に弥生さんは、「冬は、好きですわ、私」 気のせいか、少しだけ口調が優しかった気がした。 「それでは」 う~ん…。 とりあえず、気象情報は聞くことができたな。 「この間、大学で文明論みたいな話聞いたんですけど…」 そして俺は授業で聞いた話を少し話してみた。 「…結局、文明って一体どこまで進むんでしょうね?」 弥生さんは少し沈黙して、「行き着く先まででしょうね」 「………」 そりゃそうだ。 その行き着く果てがどんなものかを、ちょっと聞いてみたかったんだけど。 「人間はどうやっても、限界を超えるということはできないと思いますから」 「はあ…」 「限界までたどり着けるかどうかすら私には疑わしく思えます」 悲観的なんだ…。 「ですから、未来など先送りにされた今日の繰り返しだと、私は思います」 「時を重ねるだけで全部が全部、限界というものまでたどり着けるなんて、私は考えておりません」 「そうですか…」 「思いませんか?」 その通りだ それは違う そうかも知れないけど 「うん…その通りだと思う…けど…」 「………………」 「だけど、それだったら、俺、何をやっても無駄ってことになっちゃうんでしょうか?」 「そうは申し上げていないつもりですが」 弥生さんは少しだけ首を傾げる。 「それなら…」 「どちらとも言えると思います。無駄とも、そうでないとも」 「よく判りませんね、それだと。未来をまるで別のものに変えられないほど、俺達は無力なんですか?」 「恐らくは」 彼女のその口調は『恐らく』なんて控えめなことは言ってなかった。 「それでは、私はこれで失礼させて頂きます」 行っちゃった。 でも、未来って一体何なんだろうな? 人類の、なんていうんじゃなく、たとえば、俺の、とか…。 ちょっとだけ考えてしまう。 「それは違うと思います」 「そうですか?」 まるで何かを試すみたいに彼女は俺を見つめる。 「何が違うって、それははっきりとは言えないけど」 「でも、そんなだったら、俺達が今ここに生きてるのって、無意味っぽくなっちゃうじゃないですか」 「無意味なのではありませんか?」 「……………」 そうだった。 弥生さんってこういうことを平気で考えられる人なんだ。 「でも、俺、違うと思いますよ…」 「希望的観測ですね」 『甘いわね』 彼女の微笑みはそう呟いてた。 「は、はあ…」 意味は判らなかったけど、なんだかからかわれてるみたいな気がした。 「それでは私は、やらなければならないことがありますので」 そして弥生さんは去った。 「そうかも知れないけど…」 自信はなかったから、俺は曖昧に答えた。 「でもそれは、どういう風にだって言えることじゃないかな」 「よくは判らないんだけど、毎日が永久に繰り返されるっていっても、俺達自身の生活が永久なわけじゃないんだし」 「すごく大きい話で、俺達みたいなのには、ほんとは、何も言えないんじゃないかな…」 「……………」 「いや、俺、こういう大きすぎることって、結構考えない方だから…。あはは…」 居心地悪く笑う俺。 「そうかも知れませんね」 「あ? はあ…まあ…」 「それでは、私はこれで」 行っちゃった。 やっぱり、こういうことって考えなきゃいけないのかなあ。 はっきりしたことなんて誰にも言えないって思うんだけど。 前に読んだ新聞の話題を話してみよう。 「新聞とかみたんですけど、相変わらず、温暖化とかって言ってますね。…そんなにあったかくなんて感じませんけど、俺」 ちょっと社会派な方面から話を切り出した。 「必然ですわね」 「はあ…」 必然…。 なんだか大人っぽい台詞。 「現行の地球上の有機生命体が快楽を望む限り、最後まで続く現象でしょう。留まることはあり得ないと思います」 「全部死んじゃうってことですか…?」 いわゆる終末理論… てやつ? 「現行の有機生命体は、です」 「今の生命体にとっての悪環境をすみかとするような、次世代の生命体が出現すれば地球はそれでも健康というわけです」 「…………」 「地球の環境の善し悪しを判断するのはあくまで、その世代で発言力のある生命体であるわけですから」 「公平な目で見ての地球など、誰も見てはおりません」 「この、水と空気と有機生命体に汚染された奇跡の星など…」 ふと、弥生さんは自分でも喋りすぎたと思ったのか、唇に軽く指先を当てた。 そしてそのまま、「ガイア理論という、とてもエゴイスティックな説の延長ですわ」 そっと付け加えた。 生命の存在を否定する言葉を紡ぎ出すその真っ赤な唇を、俺は、何故だかひどく綺麗だと思った。 「それでは、私は仕事がございますので」 「あ、はい…」 そして弥生さんは足早に去っていった。 自分でも気づかなかったけど、俺は自分の頬が熱くなってるのに気づいた。 一体俺は、どんなうっとりした顔で彼女の話を聞いてたんだろう…。 そして俺は少しだけ、あの虚無的な人間像を考えてみた。 何も、判らなかったけど。 「いらっしゃいませ」 「…………」 あ、弥生さんだ。 由綺は一緒には… いないみたいだ…。 「カウンターよろしいでしょうか?」 「あ、はい」 「恐れ入ります」 弥生さんは静かにカウンター席につく。 そして、まるで当然みたいな沈黙に入り込む。 「おはようございます」 「え…?」 「あ、はい。おはようございます」 …弥生さんの方から話しかけてくるなんて珍しいな…。 「あれ…?」 あそこにいるのは、あれは…弥生さんだな…。 今日は一人みたいだ。 声くらいかけた方がいいかな…? 「あの、弥生さん…」 「何か?」 彼女は、あの独特の直線的な動作で振り返る。 「いえ…。ちょっと話でも、いいですか?」 「構いませんけど」 「寒そうにしてるじゃない、彰」 「寒そうなんじゃなくて、寒いの」 「そういや今年って、なんか寒いよね」 「どうせだったら雪降ってくれたらいいのに」 「なんだよ、寒いくせに雪はいいわけ?」 「どうせ寒いんだったら、そのくらいのサービスは欲しくない?」 「サービスって…」 誰に言ってんだ。 神様か。 「それにしても、ほんと、この分じゃ今年、雪、降らないかもね…」 「あっ、彰、また本買ってる」 「うん。いま本屋さん寄ってきたとこ」 「彰ってさ、いっつも本ばっかり買ってるみたいに見えるんだけど」 俺が出会った時から彰は本を読んでたみたいなイメージがある。 かといって特に秀才チックな印象も受けないし(学校の成績が物語ってた)、根の暗い本の虫なんて風にもみられてもない。 考えてみたら不思議だ。 「彰ってさ、本にどれだけお金かけた?」 「あはは。考えたこともないや。冬弥はあんまりお金かけないんだ?」 「いいんだよ、俺、本読みたくなったら図書館行く人なんだから」 読みたくなったら、だけどね。 あくまで。 「うん…。僕もそうだといいのかも知れないんだけど、つい買っちゃうな」 「しょうがないなあ。まあ、どうせ、俺はエンゲル係数の高い人間だけどね…」 「う~ん。僕は低い方かなあ…」 「そんな話してないよ…」 しかも、そんな真剣な顔しなくたって。 「それに最近、食欲もないかも」 「してないってば…」 「最近、中途半端に忙しいっていうか、まとまった時間が取れないんだよね」 「今頃ってそんな感じだよね」 「でさ、どうせ本読むくらいしかできなさそうだから、推理小説でも読んでみようって思ったんだけど。どんなが面白い?」 「へえ。冬弥が読書なんて」 「何だよ?」 「何も言ってないよ。どんなのがいいかな?」 「何が?」 「もう…。本…」 あ、そうか。 「ああ、外国人の名前とかいちいち覚えるの難しいから、日本人のがいいな」 「ええと…江戸川乱歩とか」 (他に知らない) 「乱歩かあ…」 「乱歩がどうかしたの?」 乱歩乱歩って、友達じゃないんだから…。 「乱歩の小説ってさ、表紙のイラスト、結構怖いじゃない?」 「そう?」 見たことないから知らないけど。 「怖いんだよ。オドロオドロしてて」 「へえ。それがどうかしたわけ?」 彰のやつ、俺のほうを見ておかしな顔つきをしてる…。 「あれ、冬弥? どうかしたの?」 俺が何か言おうとする前に、彰が俺に尋ねた。 「どうかしたって、何が?」 「足だよ足」 そう言って彰は俺の足を指さす。 「引きずってるみたいだけど、大丈夫? 怪我したの?」 マナちゃんに蹴られたとこだ…。 誰のおかげでこんな目に遭ったと思ってるんだ。 本当だったらここで彰のすねを代わりに蹴ったって許されると思うぞ。 「冬弥、怪我してるんだったら、そんな無理しちゃだめだよ。あ、肩貸そうか?」 「え? い、いいよ、そんな…」 「そう?」 「でも、つらかったら言ってよ。できることだったら、いろいろと手伝ってあげるからさ」 「う、うん…。そんな、いいって…」 なんだ、彰、いい奴だな。 こんな風に言われたら、俺も彰の為に犠牲になった甲斐もあるって感じだ。 「彰…」 「ん?」 「さんきゅ」 「どうしたのさ、冬弥? 急に?」 「蹴るのはやめとくよ」 「う、うん…?」 よく判らないって顔の彰。 あ、それと 「彰、しばらくちっちゃな女の子からは離れてた方がいいぞ。危険だから」 「う、うん…」 まあ、これで彰への危険性は下がったはずだ。 いい奴だな、俺も結構。 「あれ? 何それ?」 彰の手の中に、何か紙切れみたいなのがある。 何かのメモみたいだ。 「あ、これ? 姉さんに買い物頼まれてて…」 「おつかい…」 所帯じみた話だなあ。 余談だけど、彰には上に姉がいる。 しかも3人。 俺から見ると同じ家庭に美人三姉妹がいるようにしか見えないんだけど、そんな風なことを言うと、「一番目の姉さん?」 「三番目。僕を一番使うんだよね」 「美人で優しそうなのにな」 「やめてよ。僕の姉さん褒めたっていいことないよ」 なんて不機嫌になってしまう。 「彰でもさ、由綺の出てるTVとか観るの?」 「どうして『でも』なの?」 「彰ってさ、TVとか観てなさそうだから。ていうか、TVなんて知らなそう」 「なに勝手なこと言ってるんだよ」 「冗談だって」 真面目な顔して、こんな話につきあってくれるから好きだなあ、彰って。 ほんとに怒る時も、まあ、たまにあるけど。 「僕だって由綺のファンなんだからさ。そりゃTVだって観るさ」 「ぷっ」 思わず吹き出す。 「彰、だって、由綺の前でも『素』じゃない、『素』。こんなファンいないって」 「だってその方がいいんでしょ? 冬弥だってさ?」 「ま、まあね…」 「僕とかが急に由綺にサインなんかねだったら、冬弥、困るだろ?」 「あ、ああ…」 「親戚の子とかにあげるんだ、なんてさ」 「そ、そうだな…」 なんだ。 思ったよりちゃんと考えてる。 からかってやろうと思ってたのに、何だかからかわれてるみたいな感じ。 「言われたけどさ、親戚には」 「…大変だな」 やっぱりか。 俺は何も言われたことないけど。 「勝手に話すると怒る人がいるからって言っておいたけど」 「誰のことだよ…?」 訊くまでもないけど…。 「冬弥だって言ったら、なるほどって納得してた」 「そんなこと言うなあ…!」 「最近、由綺もよくTV出るようになっちゃったよな…」 「由綺っていえば、由綺のステージとかもあの人がやってるわけ?」 「あの、え~と誰だっけ?」 「誰?」 「ほら、いるじゃない、由綺の音楽作ってる人。石川とか、そんな名前の人…」 「緒方…英二か? ひょっとして?」 「うん! その人」 「誰なんだよ、石川って…?」 「ちょっと似てたから」 「そうかなあ…?」 「それよりもさ、その緒方って人が作ってるんでしょ? ステージも?」 「判んないけど、多分ね」 「あれってすごいよね。あそこまでいったらアートって言ってもいいんじゃない?」 珍しく彰がミステリ以外のことで目を輝かせてる。 「彰の口からアートなんて言葉が出るなんて」 「あれはシド・ミードの影響受けてるよ、絶対」 「誰だって?」 またミステリ作家か? 「あれ? 知らない?」 しまった、よけいなこと言っちゃったな。 それから俺は、そのなんとかって外人のおっさんの話を聞かされた。 よくは判らなかったけど、ずっと前にどっかのバーか何かを設計した人らしい。 それがなんで英二さんにつながるのかは謎だったけど。 ていうか、あんまり真面目に聞いてなかった。 「ね、すごいでしょ?」 「うん。感動した」 「TV局のバイトってさ…」 「忙しいの、やっぱり?」 「まあねー…」 気楽なバイト生活っていったら彰も同じだけど、やっぱり俺の方がちょっとは大変かも知れない。 もっとも、大学の方は彰の方が大変そうだけど。 「いいじゃない。ちょっとした運動になって」 「へええ…?」 「なに…?」 「いや。彰が『運動』だって…」 「おかしくなんてないだろ?」 「言ってないよ。おかしいなんて」 笑ってるけど。 「まあ、ありがと。でも大丈夫だよ。彰に運動不足心配されるほどじゃないから」 「ふん…」 「まあいいや。とにかくがんばってね」 「ありがと」 「由綺も見てるかもだしね」 「よ、よけいなこと言うなよ…」 「あははっ」 んー…。 由綺のこと言われると、弱いな俺…。 あれ?  彰、雑誌なんか買ってる。 珍しい。 「へえ。ちょっと見せて」 俺はひょいとそれを取り上げた。 女の子向けの芸能雑誌だ。 「あっ、返してよ」 「なんだよ彰。いきなりこんなの買っちゃってさ」 「彰、最近は何読んでる? 相変らずミステリ?」 「まあね」 「飽きないよな。いつもそんなじゃない」 「いろいろあるんだって」 「今は黄金時代の本格もの読んでるけど、この間のは古典時代の探偵小説だし…」 「ああ、判ってる…」 彰に言わせれば 推理小説と探偵小説と犯罪小説は違うらしい。 それでいてSFっぽいスパイ小説や、幽霊や怪物が出てくる怪奇小説もミステリなんだそうだ。 けど… 「でも、何度も言うけど、俺、そのへんよく判んないんだって」 「判ってる」 彰は楽しそうに笑ったまま答える。 なんだか、ばかにされてるみたい…。 「はるかも判んないって言ってたし」 「待てよ。今のちょっとひどくない?」 「そう?」 「なんで俺がはるかと一緒にされるんだよ」 「…冬弥、結構ひどいかも…」 「なんで?」 「なんでって…」 彰が困った。 「彰、本ばっかり読んでて疲れない?」 「たまにね。でも、そんな時って大抵、散歩に出るけどさ」 「散歩かあ…」 彰らしいっていったら彰らしい。 「そういえば学園祭でさ…」 「学園祭って言えば、冬弥も観たでしょ? あの、演劇部の?」 「ああ…」 それは俺が言おうとしてたことなのに…。 でもまあ、そうか。 彰にしてみても事件なわけだしな。 ひょっとしたら、俺以上に。 「やっぱりすごいよ美咲さんって。思うでしょ、冬弥も?」 「まあね…」 こんな彰を見てると、美咲さんを手伝ったのが彼じゃなく、俺だったってことが急にもの悲しく感じられる。 熱心な人間の方に幸運は必ずしも訪れないって、恋愛って、判ってても時々つらい。 「僕も美咲さんにいろいろ教えてもらって舞台の勉強とかしてみようかな」 「まあ、いいんじゃない…」 上の空な返事をして、「って、えっ? 彰が脚本?」 「書いてみようかな」 「い、いやあ…」 世の中には、本は読むだけで書かない方がいいって人、たまにいるからなあ…。 彰って多分、その典型じゃないのかな。 「どんなの書きたいわけ?」 「そうだね…」 「密室殺人に挑む探偵と謎の美女、なんてのどう? やがて恋におちていったりするストーリー」 「『どう?』って…」 そんな自信たっぷりに…。 しかも、突発的に考えても、彰の発想ってそれか。 大体、わざわざ舞台の上で密室殺人なんかやってもリアリティないんじゃないかな…。 「謎の美女って、やっぱり美咲さん?」 「理想的かもね」 なにが『理想的かもね』だ。 ヒロインはどうやったって動かないくせに。 「じゃあ相手役はどうするんだよ? 恋におちるんだろ?」 「あ…」 「あれ? そういや彰、今日は手ぶら?」 「うん。どうして?」 「いや、彰が本を持って歩いてないなんて珍しいからさ…」 「冬弥までー…」 「『まで』ってなんだよ、『まで』って?」 「さっきはるかと会って」 「ああ。暇そうだった?」 「暇そうだった」 「やっぱりな」 「うん。ぼけっとしてた」 そして俺達は頷きあう。 「いや、そんなのどうだっていいんだって」 「どうだっていいのか…」 「はるかがさ、僕が本持ってないから誰だか判んなかったなんて言うんだよ。ひどいよね」 「ひどいなあ…」 ていうか、うまいなあ…。 「他の人はどうか判らないけど、俺とはるかはそうなのかもな」 「う~ん…」 困る彰。 「僕、そんなつもりないけどな」 「単に冬弥とはるかが感覚似てるだけじゃないの?」 「…よりにもよってそんなまとめ方するなよ…」 苦しい言い逃れで多数決を覆そうとして、彰は…。 「そうかなあ。なんとなく似てるよ、冬弥とはるかって…」 「似てない」 「うそだよ。似てる似てる」 「似てないってば」 そんなやりとりを飽きるほどやった。 多分、一生分やった。 「そんなことないって。気にするなよ」 「そうかなあ…」 「さっきのは冗談」 はるかと同じジョークを言うなんてイメージを彰に持たれたら嫌だ。 「いいんだよ、本の一冊くらい持って歩いてても。全然変じゃないから」 「僕もそう思うよ」 なんだ、結局そうなんじゃないか。 「言う割に冬弥が本とか持ってるのって見たことないけどね」 「よけいなこと言うなよな」 フォローしてあげたのにさ。 「そういえばさ、彰、この間はどうだったの? 美咲さんと」 「何が?」 「『何が?』ってー…」 のんきっていうか、ぼけてるっていうか…。 「ほら、この間。俺にはるかがアリーナにいるとか何とか言ってた時」 「美咲さんと図書館に行ったんだろ?」 「あ、あの時」 「うん、楽しかったよ。冬弥も来ればよかったのに」 まだ言ってる。 これはぼけてるとしか思えない。 「あのさ、彰…。俺のこと、そんな場面に第三者としてのこのこ現れる無粋なやつだと思うわけ?」 「?」 『?』じゃないって…。 「とにかく、俺、そういうのは邪魔しないやつなの」 「??」 そんな顔するな…。 って、判ってやってる?  ひょっとして? 「僕も冬弥がはるかと遊ぶの邪魔しなかったんだから、貸し借り無しだよね?」 「な、なに言い出すんだよ、彰。変なこと言うな…」 「あれ? 行かなかったの、あれから?」 「ま、まあ、いいだろ、そんなの…」 「ふうん…」 な、なんだなんだ彰。 そんな目で見るな。 「一番古い友達同士なんだろ? そんな風にごまかさなくたっていいんじゃないかな」 「彰…!」 っていっても、その通りだ…。 どうかしてるな、俺。 俺がはるかと一緒に暇な時間過ごしたからって、それが何なんだ。 今まで大した意味なんて持ってなかったじゃないか。 特に、彰とか美咲さんとか、それに、由綺相手には。 いつもの通り過ごしただけなんだから、それに変な意味はないはずだ。 「冬弥、最近過敏だよ」 「どうしてはるか相手って言われてまでそんな慌てるの?」 「慌ててなんかないって…」 確かに、おかしい…。 「そんなに気になるの?」 「え?」 「由綺のことが」 由綺…。 結局、俺、他の誰かと過ごす時間の向こうに、由綺を想ってるのかな…。 「そんなことないって…」 俺は慌てて否定する。 でも、そうだとしたら、俺、最低だな…。 「そう? ならよかった」 「あんまり気負いすぎたら、それも却って由綺の重荷になっちゃうからさ」 「あ…。うん…」 彰、生意気なこと言うようになっちゃって。 ほんと、生意気。 おかげで少しだけ気が楽になった。 ほんと、生意気。 「そんな、判ってるよ…」 そう言って俺は照れ隠しとお礼をかねて、彰のこめかみをぐりぐりしてやった。 「いたたた…。やめてよー、冬弥」 「うっさい。自分だけいい目みた罰ー」 すると彰は、「あはは…」 だらしなく笑った。 「なあ、彰」 「ん?」 「最近、美咲さんどんな風?」 「美咲さん? 割と元気なんじゃないかな?」 「僕の目から見てだけどね、あくまで」 うまいな…。 だけど、この一瞬の至福の顔に誰も気づかないってのもいい加減な話だよ。 「あれ? 彰、それ…」 俺は彰が手に持ってる文庫本に気づいた。 確か、ずっと前に美咲さんが読んでた本だ。 「あ、これ…? 美咲さんに借りたんだよ」 「へええ」 泉ナントカって昔の作家の本だ。 「彰がミステリ以外の本読むなんて珍しいな…。いや、珍しくはないのか…」 「何が言いたいのさ、冬弥?」 「別に」 「言っておくけど、泉鏡花はね、日本の作家達に偉大な影響を与えたんだからね…」 「ああ、もう、判ったよ」 俺は適当に遮る。 彰天秤でその泉ナントカと美咲さんを量ったとして、どっちが下がるかなんて目に見えたし。 「で、結局はよかったんだろ?」 「何が?」 『何が?』だって。 「美咲さんに本借りられて」 「あれ、どうしたの彰? 美術館のパンフなんか?」 「あ、今度行こうかって思ってるんだ。一緒に行く?」 「彰と?」 どうしようか? 「行く」 「今度ね」 「ああ。じゃ、今度行こうか」 「ほんとに? 美術館だよ?」 「俺だって行くよ、それくらい!」 「あははは。判った」 「僕は明々後日に行こうかって思ってるんだけど?」 「判った。予定が入ってなかったら駅で待ち合わせな」 「遅れないでよ、冬弥」 「そんな女の子みたいなこと言うなよ…」 「まあ、時間あったらね」 時間もそうだけど、この美術館って結構お金とられるんだよな。 「でも、どうして突然? 『フランス印象派展』なんてさ…」 「うん。今、ヴァン・ダイン読み返してるんだけどさ…」 「え? 誰?」 ばんだいん…。 おもちゃみたいな名前。 「誰でもいいから。でさ、結構、昔の絵のこととか出てくるんだよね。カーとかの時もそうだったけど」 「この際だから実際のも観ておこうかなって」 「それこそ図書館行けば、画集があるじゃない」 「なに言ってるんだよ、判ってないなあ。本物の質感に触れなきゃ意味ないじゃない」 「また偉そうに…」 本ばっかり読んでるやつのくせに。 「それにさ、たまにはこういう高尚な息抜きもいいかなって思って」 「あ、うん…。それはあるかな…」 俺もそのうち行ってみようかな。 「この前の美術展、結局行ってみたの?」 「うん…。まあ、行ったけど…」 「どうだった? 高尚な息抜きは?」 「あのさ、美術品とかって右脳で鑑賞するってよく言うじゃない?」 「あ? まあ、そんな話も聞くよね」 「反対に活字とかって、左脳で読んでることになるわけなんだよ」 そういうことになるのかな? 「でさ、僕って最近バランス悪いかなって思って、右脳を使う努力しようって思ったんだ」 「努力って…」 脳って努力とかで使い分けられるものなの? 「彰、最近何かやってる?」 「何かって?」 「ん? 何か体動かすこと」 「そんなのわざわざしないよ」 「わざわざ、って」 わざわざスポーツしてる人間に悪いぞ。 「ほら、彰っていつも本とかばっかり読んでるだろ」 「ただでさえ体動かすことないんだから、たまに運動しとかないとだめなんじゃないの」 「時々しかやらない運動なんて却って体に良くないんだよ」 「え? そうなの?」 「この間、はるかとサイクリング行ったんだけどさ…」 「ええ? 大変だったんだ」 「ま、まあね」 細かいことを言わなくとも、そこの部分は判ってくれるみたいだ。 確かに、彰じゃはるかの遊び相手はつとまらないだろうな。 彰がはるかのおもちゃにされてるのはたまに見るけど。 「まあ、タフなこと求められないんだったら面白いんだけどね」 「へえ。彰でもそんなこと思うんだ?」 「まあね」 「はるかのやってることって面白いと思うよ」 「シーズン毎に、変なスポット見つけ出すしね」 「うん…」 これだけレジャーに溢れてる中で、よくまああれだけ奇妙な遊びを思いつくもんだって感心するけど。 「彰、相変わらず運動とかしてないの?」 「まあね」 なにが『まあね』だ。 余裕の笑みなんか浮かべちゃって。 「不思議で仕方ないよ」 「長いことはるかと一緒にいて、そこまでスポーツ嫌いのままでいられるってさ」 「そうかな?」 「そうだよ。根性入ってるとしか思えない」 「そう? あはは…」 皮肉だ、皮肉。 「でもさ、それも変な話だよ」 「そうかな?」 「そうだよ」 「だって冬弥、はるかと一番つきあい長いけど、特にアスリート系って感じじゃないじゃない?」 「そりゃそうだけどさ」 はるかにつきあってたら、三十歳前に世界のあらゆるレジャーを一通りこなしかねないし。 「はるかってさ、ほら、特殊だから…」 「ああ、はるかは特殊だ…」 「特殊でしょ?」 「うん。特殊…」 結論: はるかは『特殊』だ。 「なあ彰、今度、服でも買いに行こうよ」 「うん。今度ね…」 こんなことを何回かは言ったけど、本当に一緒に行ったのなんて中学の時から一回もない。 なんとなくだけど、片方に恋人なんかできるとそんなものかも知れない。 それとも彰は、どうせなら由綺と行けって風に気を利かせてるのかも知れない。 どっちにしろ、ただ言ってるだけの話だ。 「あれ、彰? 新しい靴買った?」 「あ、見つかった」 そう言って彰はズボンの裾を引き上げてみせる。 シャープなデザインのスニーカーだ。 「なにが『見つかった』だよ」 「へえ、珍しい。彰がおしゃれに気を遣うなんて。それとお金も」 「なに言ってるんだよ。これ、由綺がCMポスターやった時にはいてたデザインだよ」 「冬弥、知らなかったの?」 「由綺が…?」 そういえば、それも話題になったことがあったような気がする。 でも、そうだってことは 「じゃ、なに? 今、彰がはいてるのって、女物?」 「サイズが合えば男も女もないよ、スニーカーは。要はデザインだから」 「そういうものかなあ…」 しかし彰、まめにそんなところまで見てたんだなあ。 いつも一緒にいた由綺の、しかも足元までなんて…。 でも、女の足元を観察する男にろくな奴はいないって誰かが言ってたっけ。 それは女の財産を探ってる奴か、マゾヒストか、って。 彰の場合、どっちかっていうと…。 まあいいや。 言わないでおこう。 「どうかしたの?」 「あ、ううん。彰ってさ、女の人の財産を探るような人間じゃないよな?」 「当たり前じゃない」 なんだか判らないって風に彰は笑った。 「冬ってさ、こう、風景寂しいと思わない? 緑が無くなったってだけなんだろうけどさ」 「かもね」 「でも、僕、冬の風景の方が絵に描いた時、好きかな」 「ふうん」 彰は結構、絵を描いたりするのが好きだ。 小さい頃から水彩画が大好きで、休みの日なんかよく描いてたりする。 ただ、まあ、腕の方は、人並みっていうかそれ以下っていうか、まあ、好きで絵を描いてるだけってレベルってことだけど。 「たまにはるかと一緒に出かけて、絵なんか描いてると楽しいよ。時間忘れちゃえるよ」 「そりゃそうだろうな…」 俺は苦笑する。 絵を描いてる彰の横で、はるかが意味もなく寝そべってる図なんて簡単に想像できてしまう。 ある意味、浦島太郎だ。 「たまにはいいよな、そういうのも」 「でしょ?」 「たまには、だってば」 「あのさ、俺、思ったんだけど、気づいたらここも結構大きい街だよな」 「どうしたの、冬弥。急に?」 「いや、ちょっと。ほら、この街って、開発でできたみたいなとこだろ? 海埋め立てたりとか、山の方切り開いたりとかさ」 「どうしたの急に? 自然保護?」 「真面目に聞けよ。真面目に」 っても、俺もこの間、つけっぱなしの教育番組か何かでたまたま仕入れた知識なんだけど。 「判ったよ。この辺りって造られた海岸線の内側なんだよね?」 また気楽に言うなあ。 「でもさ、この地面が造られなかったら、僕達って、一体どこで生まれてたんだろうね?」 「は…?」 「僕達、それでもどこかで会えたのかな、とかね…」 彰こそ急に、センチメンタルなことを。 「とか、よくそんなこと考えるんだ」 「もし僕達が生まれる前にこの街で自然保護なんてこと言い出して、僕達が住んでいるところが開発されてなかったら、僕、今の誰とも出会ってなかったのかなって」 「うん…」 パラレルワールドってやつだ…。 たとえばそんな風に、変な道徳家がそんな主張してたらそんな世界になってたかも知れない。 俺と彰が出会わなかった世界。 彰と美咲さんが出会わなかった世界。 俺と由綺が出会わなかった世界。 或いは、たとえば彰とはるかが恋人として出会ってるかも知れない世界。 「まあ、SFだけどね…」 確かにSFだ。 だけど、そんな無数に近い分岐の中の俺は、どうなんだろう? 幸福、だったりするのかな…? 『もしも』なんてことを考え出したらきりがないけど、ただ、由綺に会えた世界にいられたのは、少なくとも二分の一の確率の幸福を手に入れてる気がする。 偶然って怖いものだけど、頼もしくもあるんだな…。 「彰さ、またはるかに変な知識入れたろ?」 「変な?」 「バードウォッチングとか何とか…」 「あはは。あれね」 「うん。はるか、ああいうの好きそうだったから」 「でも、ずっと前だよ。夏あたりかな」 そう言えばそう言ってた。 「キビタキとかノビタキとか、結構見れたよ。あと、ホトトギスも見れたんだ。すごいでしょ」 「あ? ああ…」 一字一句、彰の受け売りじゃないか。 しかし記憶力がすごいっていうか、なんて言ったらいいのか…。 「今度は冬弥も一緒に行こうよ」 そうだな…。 「夏になったらね」 「行きたくないよ」 「今すぐ行こうか」 「夏になったらね」 「冬弥も一緒だって言ったら、はるかも喜ぶかもね」 「はは…。なんだよそれ」 なんて笑ってみせたけど、そうだな。 最近、はるかと一緒だとなんだか気楽で楽しいよ…。 「えー…。いいよ、俺、別に」 「え? どうして? 楽しいじゃない?」 「だって夏の暑い日に、わざわざ鳥を見るんだろ? ちょっとね…」 「よしっ。今から行こう!」 「えっ?」 「ちょ、ちょっと待ってよ。落ち着いてよ冬弥」 「僕達、まだ準備も何もしてないんだよ。ただ話してるだけなんだよ…」 彰こそ落ち着けって。 これだからからかいたくなるよな、彰って。 面白くて仕方ない。 「いいよそんなの。そうだ、今からはるか呼び出そう!」 「え~…」 「電話かけよう、電話」 俺はできるだけ真面目な顔で言う。 「う、うん…」 彰はバッグを開ける。 あっ、生意気にPHS。 「でも、はるか、いるかなあ?」 「いるよ。きっといる」 がんばって笑いをこらえる。 ぷるるるー。 「あっ。いた」 「いらっしゃいませ」 「やあ」 なんだ、彰か。 「今日は何? お客さん? バイト?」 「お客さん」 「そう」 どうせ暇なんだ、彰とお喋りでもしてようかな。 あ、彰だ。 「おーい、彰ー」 「あ、冬弥。どうしたの?」 「えっと…」 うん…。 いくら知り合いになれたっていっても、この人に何げない世間話をするってのはどうも難しいな。 ていうより、この人のどこに『世間』があるっていうんだ? 「へええ…」 英二さんが俺を真剣な眼差しで見てる。 「藤井君、趣味の良い服着てるんだなあ…」 「えっ、そうですか?」 いきなりこの人にファッションを褒められるなんて。 「これって自分で? それともお母さんに買ってもらった?」 なんだ、からかわれてたのか。 えーと…? 「当然、自分で買った」 「親に買ってもらった」 「由綺からのプレゼントだ」 「自分で買いましたよ…」 「親に買ってもらったんですよ、これ」 俺はふざけて調子を合わせてみる。 こんなことでいちいち怒るのも大人げない。 「そうか。君の父上、あ、いや、父さん、いや、パパかな、青年は何て呼んでるんだ?」 「え? 父さんですけど…」 咄嗟 とっさ のことにいい加減に答える俺。 「そうか。君の父さんは趣味が良いな。あ、いや、それとも母さんかな?」 ひょっとして英二さん、本気で言ってたのかな。 そして英二さんは、俺の上着に手を触れてくる。 「由綺からプレゼントしてもらった服なんですよ、これ」 俺はいささか自慢げに言った。 他の人にはともかく、この人にだったらこのくらいは自慢してもいいような気がする。 「そうかあ。由綺ちゃんか、これ選んだの。さすがだな」 「そう思わないか、青年?」 「え? ええ、まあ…」 俺の自慢はどこかに忘れ去られて、今や由綺賛美にのみ英二さんの頭は動いてる。 「うーん。うちの妹のセンスも自慢していいとは思ってたけど、由綺ちゃんも、さすがだなあ」 「ん? 青年?」 「はあ…」 「これを生活レベルで…。うん、恋人のプレゼントに…。うん」 「なあ、青年?」 「そ、そうですね…」 何がどう『なあ』で、何がどんな風に『そうですね』なのか、もう俺には判らなくなってる。 そんな俺の上着に、英二さんはそっと手を触れる。 「特に材質が良いってわけじゃないみたいだな」 「いいじゃないですか、別にっ」 「藤井君、これ、どこの店で買ったんだ?」 「え…?」 「店だよ、お店。ショップ。テイラー」 「テ、テーラーですか…?」 俺は、この服を売っていた、近所のカジュアルショップの名前を言った。 「そうじゃなくて、青年。ブランドはどこだって…」 「ブランド? ありませんよ、そんなの。いや、あるんでしょうけど知りませんよ。多分、すごいマイナーなとこだと思いますけど」 「う~ん…」 不意に腕組みをする英二さん。 「民間レベルのデザイナーにもこれだけのポテンシャルがあるのか、事実上…」 「英二さん…?」 「ブランド志向への嫌悪を捨て去るだけじゃ創り出せない部分を産み出せるってのは…」 「え、英二さん…?」 だけど英二さんは何かぶつぶつ言い続けるだけだった。 変な人なんだな、英二さんって…。 「そういえば、この間のことですけど…」 「この間?」 「あ、そうか。この間は済まなかったな、青年」 「はあ…」 どの『この間』だ? 謝るだろうと思われる『この間』が多すぎるんだ、この人の場合。 「それはそうと、この間、君と話しててずっと思ってたんだけどな…」 「何ですか…?」 この人も相手の話を聞かないっぽいな。 「藤井君って、顔の造りからしてヴェルサーチが似合うと思うんだけど、どうだ?」 「ヴェルサーチって?」 聞いたことあるみたいな気がするな。 アパレル系のブランドだっけか…? 「多分、君が考えてるヴェルサーチに間違いないと思うけど」 「はあ…」 いい加減…。 「どう? ヴェルサーチ? 自分で似合うって思ったことないか?」 「い、いえ…」 「俺、そういうブランドものとかって、全然…」 「へええ。そうか。このタイプの顔つきで」 「顔はどうだっていいじゃないですか」 「いや。悪い意味じゃないぞ、青年。自分のセンスで勝負してるって意味だからな」 「そんな大袈裟な…」 勝負って…。 「でも、ビッグネームを知って、試しておくってのも大切なことだぞ。特に、自分に似合いそうなファッションなんかは特にそうだ」 「…そんなに俺に合いそうなんですか。ヴェルサーチって…?」 「ああ、ぴったりだ」 「ブランドつっても特別にお上品なんてもんじゃない」 「街に出たらヴェルサーチ着た中年紳士が、札の詰まった財布と外車見せびらかして、髪の毛茶色い女学生をナンパしてるぜ」 「…やですよ、そんな…」 そんなイメージのファッションなんて。 いくら英二さんの偏見が多分に入ってるにしても。 「嫌か…」 「嫌です…」 「そうか…。お世辞抜きで言ってるんだけどな」 この際お世辞だろうが何だろうが、どうだっていい…。 「い、いや。どっちかって言ったら英二さんの方が似合うんじゃないかなって…」 「ん? そうかな?」 (何故か)気をよくしたみたいに微笑んだけど、それでも何だかいろいろと悩んでるみたいな顔をしながら英二さんは黙ってしまった。 そりゃ、人それぞれにセンスってものがあるから何とも言えないけど、俺、英二さんの着せ替え人形だけは嫌だな…。 「いい天気ですね」 「ああ…いい天気だ…」 ぼうっと英二さんは答える。 「それはきっと太陽が出てるからだな」 「そ、そうですね…」 どうしたんだろう。 様子が変だ。 もっとも、あの緒方英二に『いい天気ですね』なんて言う俺の方も変なんだろうけど。 「どうかしたんですか?」 「うん…。太陽…陽光…。いやあ、それじゃだめだろ」 「はあ…」 何がだめなんだろう、一体? 「ああ、すまない、青年。考え事だ」 「歌詞…とか…?」 「鋭いな。そんな感じだ」 ふうん。 英二さんみたいな天才的な人でも悩んだりするんだ。 「いや、藤井君の話し方ってどこかこう、詩的っていうのか、俺を時々インスパイアしてくれるんだ」 「詩的…ですか?」 「発音からいってもそうだが、なかなか深いな、君は」 『いい天気ですね』が? やっぱり俺の理解できないところで生きてるって感じだ。 「英二さんにもやっぱり、尊敬してる昔の作曲家とか歌手とかっているんですか?」 「なんだなんだ、薮から棒に。あっはっは」 突然、親戚のおっさんみたいな態度になる英二さん。 薮から棒はそっちだって…。 「ん?」 「なんでもないです」 「昔の…ねえ…」 「ルッソロかな? パオロ・ルッソロ。ていうか知らないか?」 「え、ええ…」 聞いたこともない名前。 「ノイズミュージックってわけじゃないんだがな。自分で勝手な楽器造って、そこから出てきた騒音を『音楽』つったおっさんだ。楽器込みで『芸術』だって」 「大したおっさんだよなあ?」 「い、いえ…。俺、あんまりそういうのは…」 「そうか。意外とかたいんだな、青年」 意外かなあ。 「あとは月並みにケージかな」 「ピアノの前に座って何もしないで、観客の出した雑音これ即ち『音楽』だって。すごいよなあ」 「すごいんですか…?」 何がどんな風にすごいんだか、俺には既に判らない世界だ。 英二さんはなんでそんなのばっかり…。 「芸術と音楽の間にって、世間的には線引きがあるみたいだけどさ」 「観たり聴いたりする人間をいかにペテンにかけるかって共通点で結ばれた兄弟みたいなもんだって思うんだよな」 「そんな。英二さんがそんなこと言ってちゃ…」 「そうかなあ…」 でも、ペテン師って意味においても、英二さんはトップレベルにあるかな。 「ん?」 「なんでもないです」 そういえば俺、英二さんの音楽知らないんだよな。 「こんなこと言ったら怒られちゃうかも知れませんけど、俺、正直言って、英二さんの音楽をはっきり聴いたことないんですよ」 「へえ…?」 「あ、いや、聴いたことないって意味じゃなくて」 「昔、由綺とかと買い物行ったりなんかすると、流れてる曲を『これ英二さんの歌だ』ってよく教えられたんですよね」 「あはは。由綺ちゃん、俺のファンだからなあ…」 本気なのかどうか、英二さん、自分で言って自分で照れまくってる。 「でも実際、いろんな曲作ってて自分でこれが好きっての、ありますか? お勧めって言えるみたいなのは?」 「意地の悪いこと聞くなあ、青年」 照れ隠しなのか、英二さんは俺の頭に手を置いて、なでなでする。 かっこ悪いっていうか、恥ずかしい…。 「いや、俺、自分の曲、全部好きだよ。愛してるよ。うん」 「ええ…」 さすがだ。 作曲家って、きっとこんな風な愛情で作品作ってるんだろうな。 「でもやっぱ、楽しく作ったってのが好きな曲ってことになっちゃうかな」 「へえ…」 「俺の場合は、あれかな。わざわざイタリアまで行って作った曲」 「イタリア…」 英二さんは曲名を挙げた。 あいにく俺はその曲を知らなかった。 「まあ知らないだろうな。深夜にやってるレース中継のテーマ曲なんだけど」 「レース?」 「モータースポーツ。あれは面白いぜ」 「はあ…」 TVで時々やってるのは見たことあるけど、観戦ってほどまでしっかり観たことはない。 まして、テーマ曲なんてはっきりとは覚えてない。 なんとなくレースっぽいっていうか、レースだなって感じのする曲がかかってたなってくらいだ。 「すみません。あんまり観たことなくて…」 「だろうな。日本じゃそんな感じだ」 「でも楽しいぜ。特にチェックのし甲斐があるのは…」 そして英二さんは、お気に入りの数人のレーサーを教えてくれた。 「その人達が速いんですか…」 「速いってわけじゃない。トリックスターっていうか、とにかくレースを面白くしてくれる」 「面白く?」 「レースの流れをめちゃくちゃにしてくれるんだ。速いチームの作戦とかが、奴らにズタズタにされてくのなんか、観てて気持ち良いんだなあ」 「そ、そんなものですか…」 「いや、スポーツってのはすべからくそうだと思うぜ、俺は」 「いかに予定調和を突き崩していくかっていう。思わないか、青年?」 「は、はあ…」 いかにも英二さんらしい。 歪んでるっていうか、なんていうか…。 「前に弥生さんに聞いたんですけど、英二さんって、イベント的なステージは嫌いだって…」 「ん? そりゃあちょっと違うな」 「イベントとしてのステージは大好きだぞ。観る方も観せる方もな」 「はあ…」 「苦手なのは何かのイベントに付随したステージだ。何か、年中行事的なイベントにな」 「でも、由綺や理奈ちゃんのクリスマスライブは…」 理屈を言ってるみたいな俺に、英二さんはにやりとする。 「まあ理奈はそんなもんだとして、由綺ちゃんだって別に変じゃないだろ?」 「ま、まあ、変なんて事はないですけど…」 「海の向こうはまた違うけど、日本じゃクリスマスにはパーティやっても、大晦日にそんなパーティで楽しみましょうなんてノリって、まだ小さいじゃない?」 小さいっていうか、ないっていうか。 「だからさ、いくらライブっていったって、由綺ちゃんのあれは、彼女が一般レベルでクリスマスパーティを楽しんでるって演出なわけだ」 「演出…ですか…」 そんな演出さえなかったら俺達はもっと普通の、恋人同士らしい落ち着いたクリスマスを送れるかも知れないのに。 なんて、そんなこと考えちゃだめだな。 「ああ。向こうノリの演出を全部理奈がこなしてくれた上での、贅沢なものだがね」 「まあ、あはは、皮肉なことに、それとは裏腹に由綺ちゃんに普通のクリスマスはプレゼントできなかったけどな」 英二さんはわざと由綺の名前で言っておいて、『君もそうなのかな?』って顔で俺を見る。 なんていうか、ずるい人だ。 「まあ、それが由綺の仕事っていうか、由綺がそういう存在なんだから仕方ないんでしょうけどね」 「そうそう。なかなかにリベラルな、判ってる恋人じゃないか、青年」 「恋人だなんて…」 自分ではなんともないのに、他人に改めて言われるのはひどく面映ゆい。 「ここまで判ってくれてるなんて、彼女も心おきなく自分の仕事に打ち込めるだろうな。うん」 「男女の別なく、恋人や家族の理解が無くて、その実力を甘く無意味に浪費していった先人達を、俺は何人も見てるからなあ…」 「ええ…」 その通りだった。 何一つ間違っていない。 ただ、正体なく悔しかった。 英二さんに言いくるめられた なんて気は全然しないのに、どうしてだかもどかしく悔しかった。 「ん? 暗くなるな、青年。それを判ってやってたら、彼女はどんどん大きくなるよ」 「ええ、判ってますよ…」 そしてどんどん、遠くに…。 「英二さんって、時々は小説とか読んだりはするんですか?」 だけど英二さんは俺の顔をじっと見てる。 「な、なんですか…?」 「ふうん…。藤井君、君は『a』の発音、綺麗なんだな」 「はあ…?」 「うん、その『a』だ。頭蓋骨が整ってるのかな」 「まあいいや。良い発音してるぜ」 「はあ…」 発音が綺麗だって(多分)褒められて、俺、どんな反応見せたらいいんだろう…。 「由綺ちゃんも、彼女も発音は整ってるな」 「母音をきちんと発音できる上に正確な子音を重ねてるから、普通に話してて聞き取れないなんてことはまずない」 「あ、そうですよね」 確かに、由綺はいつもはっきりと喋る。 発音が綺麗、なんて考えたことはなかったけど。 「うん。彼女は関東以南の発音を完璧にやってのける」 「へえ…」 よく判らないけど、なんだかすごそうだ。 あの由綺にそんな特殊なことができたなんて。 「これで東北以北の発音がフォローできたら素晴らしいんだがな。あのへんはロシア語域の影響が強く出てる」 「ロシア語…」 「いずれ彼女には個人的にロシア語を教えるつもりだ」 「ロシア語ですか…」 なんだか由綺が可哀想になってきた。 「ところで君の出身はどこなんだ?」 「お、俺ですか?」 俺はこの街の出身だと告げた。 「そういえばそうだったな。俺はてっきり北の方かと思ったけど」 「北ですか…?」 「ラップランドとか」 「どこですかそれ…?」 「英二さんって小説とか読みます?」 「ん?」 突然で不思議そうな顔をする英二さん。 「ああ…そういや最近は読んでないなあ。でも、どうしてだ?」 「え? いや、俺の周りって本好きな人間多いんで…」 はるかは除く。 「なるほどな、そんな感じだ」 「え?」 「ん? いや。まあ俺も、大学時代なんかいろいろ読んだけどな。面白いのばっかりで、つまらないのってなかったな」 「へえ…?」 なんだか、それはちょっとうらやましい。 「だけど今更、バタイユやリラダンやシブサワって感じじゃないしなあ。いい歳だし」 誰だって…? だけど英二さんはただ、はははは…と笑った。 「あ、そうだ、青年。『モーツァルトの手紙』は読んだことがあるか?」 「な、なに言い出すんですか、英二さん…!」 俺が理奈ちゃんにラブレターなんて。 しかもモーツァルトで…。 「…なんですか。その変な笑い…?」 「いや、別に…」 そして意味ありげに 「なかなか良いキャラクターだぞ、青年」 「そんな冗談を…」 俺はちょっと呆れ気味に言った。 この人は自分の家族すらも冗談のネタにするんだからな…。 「あんまりそんなことばっかり言ってると、理奈ちゃん本人に伝えますよ」 「んん? それは困るな…」 英二さんは本当に困ったみたいな顔をしてみせる。 「それは困る、青年」 「でしょう?」 だからこんな冗談はやめた方がいいんだ。 「理奈には黙っててくれ、青年。頼む」 「はあ…」 なんだかほんとに困ってるよ、英二さん…。 でも、なんでこんなに…? 「あ、いいかも知れませんね、それ」 俺はふざけて話を合わせた。 「へええ。藤井君も面白いやつなんだな」 「面白い?」 まあ、このくらいの冗談には軽くつきあえるけど。 「そうかあ。理奈に藤井君からモーツァルトの手紙かあ…」 「びっくりするでしょうね」 「ん? そりゃあびっくりするだろうな。 うん。びっくりする」 そしておかしそうに、くっくっ…と笑った。 「でも、それをやるんだったらあらかじめ俺に言ってくれよな」 「はあ…?」 「うっかり家に帰って八つ当たりでもされたら怖い」 「八つ当たり…ですか…?」 「ん? なんでもない」 「いや、俺の入れ知恵だと勘づかれたら、藤井君もかっこ悪いだろう?」 「ま、まあ、そうですね…」 そうかな…? 「な、なんですか。その変な笑い…?」 「いや、別に…」 そして意味ありげに 「なかなか良いキャラクターだぞ、青年」 「英二さんって推理小説なんて読みますか?」 「推理小説…?」 「俺の友人に好きな奴がいるんですけど、そうでなくとも最近結構流行ったみたいですし」 「俺はそんなに読んだことないから、あんまり判らないんですけど…」 「ミステリか。あれも深い世界だよな」 「ああ、俺もたまに読むよ」 「へえ…。思ったより普通の人なんですね」 「普通って、藤井君は俺を何だと思った?」 「い、いえ…」 「はっはは…。冗談だって」 「ああ、ミステリは確かに面白いって思ったけど、まあ、俺の肌には合わなかったな」 「そうなんですか?」 「うん…。ストーリーは確かに面白いんだけど…」 「どんな話だったんですか?」 「まあ、トリックは言えないんだけどな…」 英二さんは、時々彰が見せるみたいな複雑な表情をしてみせる。 「刑事が休暇でリゾート地に温泉巡りに行くんだけど、泊まった旅館が混浴で、探偵マニアの女子大生と仲良くなって、そしてたまたまその旅館で殺人事件が…」 「それが面白かったんですか…?」 彰だったら『異端者』とか言いかねない。 「それじゃ何が気に入らなかったんですか…?」 「ん?」 「刑事がなんとなくかっこつけて喋ってるみたいな文章でな…。やることはいちいち貧乏くさいのに」 英二さんは真面目だ。 「はあ…」 「ミステリはリアリティが勝負だと思うんだが、どうかな青年?」 「い、いえ。俺、そういうのってよく判らないから…」 …英二さんのいうリアリティって一体何なんだろう…? 「英二さんって結構ラブソングとかって作ってますよね」 「ははははは。照れること言わないでくれ、青年」 涼しい顔のまま突然大声で笑い出す英二さん。 照れるのはこっちだ。 「ああ、作ってる」 しかも急に真面目だ。 「ん? どうかしたのか、青年?」 「い、いえ。英二さんの歌の詞って、ほんとに英二さんが書いてるのかなって…」 男の俺から見ても綺麗で淡く詩的な色合いの、そんな歌詞を、この人が…。 「ああ。俺が書いてる」 「先に曲書いてさ『この曲に合わせて愛の詩を作ってくれ』なんて照れくさいからな…。あははは」 再び笑う英二さん。 確かにこれじゃ、この人をあの緒方英二だなんて思う人はいないだろう。 目立つことには変わりないんだけど。 「それで、藤井君もラブソングを書いてみたいとかそういうことなのか?」 「え? あ、いえ、別にそういうわけじゃ…」 どうでもいいけどこの人、切り替えが早過ぎるな。 「うん。あれはせいぜい趣味に留めてた方がいい。感性のままにラブソングなんて書いてたら収拾つかなくなる」 「はあ…」 「自分の恋心の始末もつけられないのが愛の詩なんか書いて、ヒステリックになってくのが常識みたいだからな」 「だ、誰かそういう人が…?」 「んー…? 個人的には誰をも指してないけどな…」 「多いよな、最近」 「はあ…」 言うほどラブソングは聴いたことないんだけど。 「ふん…。あれは要は、脂ぎった感情をいかにドライに処理するかっていう、冷徹この上ない作業なのにな」 「即興芸術とは違うんだよ、この場合」 「はあ…」 「たとえば恋人が車にひかれたとするよ」 「いきなり嫌な例えですね」 「まあ黙って聞いてくれ」 「ひかれた恋人は血まみれだ」 気持ち悪い…。 何がどうラブソングの話なんだ…? 「要するに、それを冷静に写真に収められるかってことなんだ」 「考えてみろ、写真の写りは鮮明な方が、観る奴らは大喜びするんだぞ。感情に駆られて死体に泣きすがったって、作品にはならないんだ」 「ま、まあそうでしょうね…」 「苦しい恋愛や綺麗な恋愛を、苦しいまま綺麗なままに歌にできるなんて、そりゃあ、なあ、あんまり感心できた作業じゃないんじゃないかなあ」 「そういうものですか…」 なんだか、それじゃ英二さんは自分自身を否定してるみたいだよ。 あれだけ全国的にラブソングをヒットさせてるわけだし。 「これがね、感情のままに恋人の死体にフラッシュ焚いてさ、ブレてできた写真は芸術にはなるかも知れないけど、ちょっと俺にはできそうもないね」 「でも、あれだけの感性で…」 「感性と感情はこの際関係ないぞ。ここは覚えておけよ、青年」 「それ判ってなきゃ、上手いラブソングなんか書けないんだ」 「はあ…」 だから、俺はラブソングとか作る気は無いんだってば。 「英二さんでも、女の人とか好きになったら態度が変わるんですか?」 「俺でも?」 「あ、いや」 思ったより細かいな。 「そりゃあ、変わるんじゃないかな。判らんけど」 「英二さんでも判りませんか」 「なんで『でも』がつくわけ?」 「あ、いや」 「ううん…。まあ、服装くらいには気をつけるようになんじゃないか?」 「やっぱりそうなんですか」 「そりゃそうなんじゃないかなあ。ほら、動物だって繁殖期になったら自分の体を何かで飾るっていうじゃない?」 「動物ですか…」 アパレル業界の人が聞いたらどう思うだろう…。 「そうだなあ…」 「何ですか?」 「…男を好きになっても変わるかも知れないなあ」 「怖いこと言わないで下さい」 「俺の知り合いでもやっぱり英二さんの歌が好きだって人、いるんですよね」 「へええ…」 珍しいって顔の英二さん。 あれだけヒット出してる彼のことだから、本気で驚いてるなんてことないはずだけど…。 「俺の歌がねえ…。昔の?」 『昔の』ってのは、プロデュ-サーに転向する以前の、現役時代の曲のことだろう。 「いえ…。よく判りませんけど、多分、今のだと思いますよ。由綺とか、理奈ちゃんの…」 「ふうん…」 「女の子?」 「はあ?」 「だから、その、俺のファンって人。それ女の子?」 なに言い出すんだ、この人は。 「ま、まあ、女の子が多いみたいですけど…」 俺はわざとぼかして答える。 「そうかあ。女の子かあ…」 目の前に近づけられた顔がにこりと笑う。 この助平…。 「勘違いしないで下さいよ、英二さん。言っときますけど、俺の知り合いの女の人達って、どっちかっていったらみんな真面目な文学少女系なんですからね」 「理奈ちゃんを含めて」 でも、はるかは除く。 「だろうな」 「なんですか?」 「なんでもない。そうかあ、文学少女かあ…」 全然判ってない。 「だから、そんな不真面目な目で見ないで下さいよ」 「不真面目な目?」 「いや、だから…」 だめだ、遊ばれてる。 「女性で、今の俺の歌を『緒方英二の』って認識してるのは特殊だな。昔の活動を知らないってなら、なおさらだ」 「?」 「あれは由綺ちゃんや理奈がステージで歌って、それで初めて女性達が共感できる、なんて構図ができあがってるんだ。まあ、男達は歌ってなくとも群がるけどな」 「あはは…」 苦笑する俺。 「だからあれは『緒方理奈の』或いは『森川由綺の』歌なんだ。『俺の』じゃなくてな」 「ていうか『俺の』であっちゃだめなんだ。あったかい場所にいる、こんな男の歌じゃ」 「はあ…」 何がどんな風にだめなのか、ちょっと判らなかったけど。 「だからさ、あれを緒方英二作品にしちゃえるのって、やっぱ文学少女なんだよ」 「映画とかでも判るだろ? 『~の映画』って言う時の『~』に監督の名前が入るか主演俳優の名前が入るかってアレ」 「はあ…」 「文学少女はやっぱり文学の中に生きてて、そこから抜け出せないってところがあるんだよ。結局さ」 「俺の友人はそこまでアブナクないですよ」 「まあ聞け。普通に生きてて、歌だろうが映画だろうが、それが誰かの造り物だって判ってるって言いたいんだろ?」 「ところがだ、そこがブンガクしてるって思うんだな」 「はあ…」 「それって結局は、作者や、それを作品として見てる自分までもその作品に盛り込んでしまってるってことだろ」 「つまりこの場合、『美しいラブソングを綴る繊細で美しい作曲家緒方英二と、その歌を聴いてる美しい私のその時間』なんて『ブンガク』を作り上げるわけで」 美咲さんとかが聞いたら絶対ショック受けそうな理論だ。 「だから、俺とかがちょっと違ったテイストかますと、『ああ、緒方さん、変わってしまったのね』ってなっちゃう」 「『さよなら私の青春』みたいなね。そこまでセットの『ブンガク』だからね」 「そんなものですか…」 「そんな愛すべき文学少女達に支えられてきたからね。俺、緒方英二って」 そしてもう一度悪戯っぽく笑って、「すごく好きだけどね、そういうのって。個人的には」 「はあ…」 「伝えておいてくれよ、青年。その娘に」 「な、なんですか?」 「嫌いじゃないよって」 「英二さんって芸術作品とかって好きなんですか、やっぱり」 この人のステージってのは、いちいちどこかアートっぽい香りが漂ってる。(気がする) 「芸術作品…。難しい話だな、青年」 「はあ…」 それっぽい返事。 やっぱり専門知識とかいろいろ持ってるんだろうな。 「藤井君は、デュシャンを知ってるか?」 「え? いえ…」 聞いたことのない単語だ。 「芸術とは何かという問題を世界に問いかけた男さ。その彼のオブジェなら俺の家にもあるぜ」 「オブジェ?」 「物体芸術さ。空間芸術と言ってもいい」 「へえ…?」 「デュシャンの『泉』って作品だ。当時の芸術界はこれ一つで動乱したわけだ」 「それを英二さんが…?」 「まあね」 すごい。 やっぱりすごい人だ。 そんな芸術作品を持ってるなんて。 とか感動してると 「あっ、兄さん。こんなところで何しているの? スタッフの人達が探していたわよ」 廊下の向こうから理奈ちゃんが歩いてきた。 「あ、理奈…」 「あら、冬弥君…」 「兄さん、また冬弥君相手に変なお話していたんじゃないでしょうね?」 理奈ちゃんは英二さんをちらりと睨む。 「してないしてない。ちょっと芸術について語り合ってただけだよ」 「なあ、藤井君…」 「え…?」 「してないよ」 「してた」 「別に変な話なんかしてないよ、ほんと」 「そう? それならいいんだけれど」 「うん。ええと誰だっけ、デュシャンって人の『泉』って、理奈ちゃんの家にあるんだって聞かされて」 「すごいよね」 俺がそう言うと、俺の陰で英二さんが『やばい』って顔をした。 「え?」 「に、兄さん…!」 「冬弥君に変なこと吹き込まないで! この人、由綺と一緒なんだから!」 「え? え?」 どうして理奈ちゃんが怒ってるのか、どうして英二さんが怒られてるのか、さっぱり理解できない。 「だって、藤井君、信じるから。それに、ほんとのことだろ?」 「ほんとじゃないでしょう!? うちのにはサインは無いの!それにかたちだって…!」 「うん…。変な話してたよ…」 俺が悪戯っぽく言うと、英二さんはますます『やばい』って顔になった。 「ひどいな藤井君。なんだ、判ってたのか?」 「判ってた…?」 何のことを言ってるんだろう? 「やっぱりそうなんじゃない、もう!」 理奈ちゃんは英二さんの腕を強く引っ張る。 「ま、待て、理奈。そりゃアレだけど、誤解だ」 「あの青年が俺をペテンにかけたんだ。悪いのは俺だけじゃないって…」 なんだかよく判らないけど、俺、英二さんに何か悪いことしちゃったみたいだ。 ごめん、英二さん…。 「スタッフの人達に迷惑かけているんだから、早く来なさい、兄さん!」 英二さんを引っ張るみたいにして去って行ってしまった。 なんだかよく判らなかったけど、とりあえず、あの二人の関係ってどんな感じか判った気がした。 「ここに来る途中に結構長い並木道あるの知ってます?」 「ん? いいや…」 「まあ、あるんですけど。そこ、冬になるとすごい良い風景ですよ」 「うん…。アートっぽいって言いますか…」 その場所の風景を伝えるのに、イイ感じの言葉が出てこない。 だけど、「アートな風景か。ふん…。なかなか詩的だな、藤井君?」 「そ、そうですか。そんなこと言われると恥ずかしいですね…」 「だろうな。聞いてても恥ずかしいもんな」 「…すいません」 やっぱり言葉は知っておくに越したことはないな…。 「でもまあ、作られた風景っていっても、植物なんかの自然物がアートになるっていう見方は鋭いな、藤井君」 「はあ…」 今度はほんとに褒められてんのかな…。 「たとえ芸術っていっても、人間の作り出すものは全部、自然のもののニセモノなんじゃないかって時々思うんだよな」 「ニセモノですか」 時々でも、この人はこんなこと考えてるのか。 「芸術だけじゃなくて、文学にしても、音楽にしてもさ」 「そんな…。英二さんがそんなこと言うなんて変じゃないですか」 「自分で自分の仕事を否定するみたいなことを」 「ん? どうしてだ?」 「どうしてって…」 「だって自分の作る音楽が何かのニセモノだなんて自分で言うなんて…」 「いいじゃない、ニセモノだって」 「え…?」 「神様はニセモノは創れないぜ」 英二さんはそっと笑った。 「自然の中には本物のものしか生まれない。生きてる奴だけがニセモノを作るわけでさ」 「それだったら、せいぜい上質のニセモノ作れるようになりたいってとこかな。人って、時々は本物よりもニセモノ喜ぶんだぜ」 「そうなんですか…?」 「ペテン師に生まれついたみたいなもんだから、俺達って」 「だから、せいぜいペテンの腕を磨くってわけだな、俺は」 俺達…。 一体、誰を含めての俺達なんだろうな。 「英二さんってクラシックとかも好きなんですか?」 「ん? んー…サティなんか好きかなあ。知ってる?」 「え、いえ…」 「本人の名前は作品ほどには有名じゃないかもな」 「綺麗なピアノ曲作るんだよな、これが。ちょっと退屈な曲だけど」 「ピアノですか。なんだか上品ですね」 根拠はないんだけど、なんとなくそんな風に思えてしまう。 「だろう? 今でもあちこちでかかってるぜ、彼の曲」 「へえ…」 「『グノシエンヌ』や『ジムノペディ』も良いけど、『ひからびた胎児』なんても良いよな」 「ひからびた…何ですって?」 「胎児。赤ん坊だ」 「嘘…ですよね…?」 いくらなんでもそんなのに騙されてたら、笑われても文句言えない。 だけど英二さんの顔は真面目そのものだ。 「なに言ってるんだ、藤井君。君をからかって何が面白いっていうんだ?」 楽しそうなんだけどね。 「本当なんだって、サティは」 「『ナマコの胎児』と『甲殻類の胎児』と『柄眼類の胎児』の3曲で『ひからびた胎児』って組曲になってて…」 「へ、へえ…」 英二さん、音楽家なのに話も上手すぎる。 騙されないって思ってても、つい信じちゃいそうになるんだよな。 「他にも『犬のためのぶよぶよした前奏曲』とか…」 まだ言ってる。 「英二さんってスポーツとか何かやってます?」 「ああ、ごめん。俺、身体動かすの全然だめ」 「そうなんですか…」 「『でも、ベッドの上じゃ別だよ』とか言うと思ったろう、ん? 青年?」 「いや、そんなことは…」 そんな下品なおっさんギャグ、考えてもなかった…。 「やってみたいスポーツとかってあります?」 「スポーツねえ…」 こういう話には明ら様に声が重い。 「サバイバルなんかいいねえ…」 「サバイバル…ですか…?」 こんなひ弱そうな人が? 「ああ、勘違いしないでくれ」 「迷彩服とモデルガンで、ぱんぱんやりあう戦争ごっこじゃないぜ」 「判ってます」 それにしたって、生まれてからアスファルト以外の道路を歩いたことなさそうな人が。 知ってる人に聞かせたら笑われるな。 「うん…。いろんなこと忘れて、森の中を歩いて」 「木々から吐き出されたばっかりの新鮮な空気を吸って、川縁で夕食を捕まえて、ひっそりと簡単に料理して…」 「ああ、そういう感じですか」 サバイバルってよりはキャンプかな。 ちょっと軽めの。 「でも3時間ぐらいでいいや」 「ずいぶん早いんですね…」 「英二さん、前にレース番組の主題歌作ったって言ってましたよね」 「ああ。なかなか楽しかったよ」 「でも英二さんって、レースとかなら観るんですか?」 「どうして?」 「いや、英二さん、スポーツが全然だめって聞いたから…」 「まあな。あれは全然だ」 「はあ…」 苦手なことを、そんな笑って…。 「でもな、モータースポーツはいいぞ。あれは面白いからなあ」 「でしょうね」 なんといっても、あれに限って言ったら一般人には『観戦』しかあり得ない。 「好きが高じてテーマ曲まで作っちゃったってわけですか」 「そんなとこだな」 「ほんとは乗る方が楽しかったんだけど、それやるにはちょっと忙しくてな…」 「でしょうね…」 あんまり笑えない普通のジョーク。 「まったくだ。マシンテストの時に、エディにちょっと乗せてもらったきりだよ」 「え…?」 「あ、そうか。藤井君は知らないか」 「俺、レーサーにも何人か友達がいてさ」 「まあ、世界中飛び回ってる国際レーサーばっかだから、しょっちゅう会うってわけにもいかないんだけど…」 「そ、そうなんですか…?」 「だからテーマ曲作ることになったんだぜ」 「彼らが日本の放送局に『緒方にテーマ曲書かせろ』って言ってきたみたいで。」 「ちょうど局の方でも、モータースポーツをおしゃれなものに売り出そうとかしてた時らしくてさ。ストレートに俺のところに話がきたんだな」 なんて世界だ…。 「ほら、日本ってのも自動車大国なわけだし。国際レースにもパーツやスポンサーで参戦してるメーカーもあるわけだ」 「だからここは日本でもアピールしなきゃいけないって考えたらしいんだな」 「は、はあ…」 とうとう『日本』って単語まで飛び出した。 俺もいずれ、こんな世界に巻き込まれてしまうのかな…。 なんて、考えすぎだといいんだけど。 「まあ興味があったら、放送観てくれよ」 「まだ日本じゃカーレース人口は低いからな」 「そ、そうします…」 「英二さんって、仕事に出る時は毎日おしゃれしてるって感じですよね?」 あくまで『仕事に出る時』に限定。 「そうかあ? 俺はそんな気にしたことってないんだけどな」 「へえ…?」 「ほんとだって」 「服と俺とがミスマッチじゃなかったら、どんな服でも着ちゃうっていうかさ」 「なるほど」 道理でかっこいい英二さんが出現しちゃえるわけだ。 過ぎるくらいにはまってる、だらしない英二さんと同レベルで。 「何がどう『なるほど』なんだかな」 「まあ、とにかく俺、似合わないファッションってのは許せないわけだ。どんなデザイナーのブランドだって」 「あ、俺もそうですね」 「なっ。だろ?」 「いるだろう? お前なんか服着るなみたいな奴が、無理してブランドもので身を固めてんの」 「もったいないから腰布でも巻いて、棍棒か何か持ってろって奴」 「は、はあ…」 いや、俺、そこまで言ってない…。 「デザイナーって、自分の服を着てる奴一人一人の顔かたちまでデザインし直したいって思ってるぜ、できるんならな」 ひどい…。 「いや、でもこれ、本気だぜ」 「本気なんですか…」 「実際にさ、ファッションとかって、選ぶ側もまた目の利くデザイナーでなきゃ成り立たないって思うんだよな。でなきゃただの制服だ」 「デザイナー対デザイナーでファッションが世に出てゆくとなったら、こうなったら芸術だな」 「そう思わないか、青年?」 「え…?」 「いや、俺、別に芸術にならなくたって…」 「そうかな。禁欲的なんだな、藤井君は」 「まあ幸い、日本人は制服がよく似合う人種だし、問題は無いか。はははは」 何がそんなにおかしいのか、英二さんはしばらく笑う。 「とか言っても、俺も妹に洋服選んでもらってる人間だけどな」 「そうなんですか…」 あれだけ言っておいて、ずるい人だなあ。 ていうか、28にもなって妹に服を…。 少なくとも、理奈ちゃんのセンスが優れてるってのは判ったけど。 「あははは。そんな目で見るなよ、青年」 笑ってる…。 「あれ? 英二さんのそのネックレス…」 前にどこかで見たデザインだけど…? 「あ? ああ、これか。ああ。うん…」 なんだか、いつもの英二さんらしくなく歯切れが悪い。 「まあ、ちょっと良いデザインかなってな。うん。まあ、こういうのもたまにはな…」 たまにはって、いつもつけてるよな。 もしかしたら週刊誌に騒がれるみたいな女の人からの贈り物だったり…。 って、女の人って。 そういえばそうだ、思い出した。 これと同じものを、理奈ちゃんがつけてたっけ。 「ああ、お揃いなんですね」 「えっ? ああ…」 英二さんはちょっと困ったみたいに笑って俺の方を見る。 「ああ、まあ。まあな。う、うん。な。あははは…」 そして英二さんは俺の頭に手をやり、くしゃくしゃと乱暴に掻きむしる。 照れてるのか…? だんだん痛くなってきた。 ていうか、痛い痛い痛い…。 あの、ネックレスだな。 「聞いたんですけど、そのネックレスって、理奈ちゃんとお揃いなんですってね? 英二さんがプレゼントしたとか」 「え? ん? ああ、まあな…」 「いいですよね、仲の良い兄妹って。うやらましいですよ」 「そうか、うん。まあ、あれだ、青年」 「そういうアレもあるわけだ、はははは…」 なんだか意味不明に笑って英二さんは、俺の頭に手をやって、くしゃくしゃと乱暴に掻きむしる。 痛い痛い…。 これってやっぱり、照れてるのかなあ…? 「ま、まあまあ英二さん…」 俺はどうにか彼の手から逃れる。 「可愛い妹さんがいていいじゃないですか、英二さん。理奈ちゃん、いつもそのネックレスしてますよ」 「うん…。だから、ほら、なんだ、アレだ…」 やっぱり照れてるんだな、これ…。 理奈ちゃんは英二さんの鬼門なわけだ。 「一概にいいなんてもんじゃないぞ…」 「時に青年、君に妹はいないのか?」 「俺にですか?」 「いる」 「いない」 「まあ、俺にも妹はいますけど、一応」 「ふん…。それだ」 「…何がそれなんですか?」 「つい『一応』なんてつけてしまうだろ? つまりそれなんだよ」 「はあ…」 なんだか判るみたいな判らないみたいな答だ。 でも、なんとなくそんな気はする。 兄妹って結構そうなのかも知れない。 「そうですね」 「でも俺の場合、独り暮らししてますから、やっぱり『一応』なんですよ。英二さんは違うじゃないですか」 「同じだよ、青年。君こそたいそうな妹想いみたいに見えるがな」 「そうですか…?」 なんとなく上手に復讐されたみたいな気がする。 「つまりはそういうことなんだな、青年」 そして再び英二さんは俺の頭をくしゃくしゃとやり始める。 何が『そういうこと』なのかは判らないけど、とりあえず、痛い痛い痛い…。 「いえ。俺、妹いないんですよ…」 なんだか悪いことでもしたみたいに俺は言った。 「だから、そういう可愛い妹とかいる人って、ちょっとうらやましいんですよね」 「そりゃ幻想だぞ、青年」 「幻想ですか…」 「ああ、幻想だ」 英二さんは真面目な顔で頷く。 「可愛いとか可愛くないとか、そんなレベルの話じゃなくて、こう、なんて言ったらいいんだ、青年?」 「い、いえ、判りません…」 「なんていうか、妹は妹っていう存在があるんだ。こう、いもうとーって感じのアレだ」 なんだかボキャブラリーの貧困な話になってきたなあ。 英二さん、作詞もする人なのに…。 「妹って存在は、あれだ、変な話だけど、女とか男とかじゃないんだ」 「だから、こう、可愛いとか可愛くないとか、そんな風な話じゃ絶対に語れない存在で…」 英二さん、必死だ。 「わ、判ります判りますよ…」 とりあえず俺はこの話は終わらせることにした。 「判ってくれるか、青年」 「息あがってますよ…」 ひょっとして、英二さんてすごいシスコンなんじゃ…。 「どうかしたか?」 「い、いえ、別に…」 「英二さん、冬だってのにそんなに厚着してるってわけじゃないんですね」 「そんな、おっさんじゃないんだから」 「冬はこんな感じだ。夏は、うん、まあ、もうちょっと薄いな」 そりゃそうだ。 「そういう藤井君はどうなんだ?」 「え?」 「夏はどんな感じにまとめてるんだ、ファッションは?」 「そんな、ファッションだなんて特には」 「まあ、普通に薄着して、たまにだらしなくなってるくらいで…」 「なんだ、つまらないな」 「すみません…」 なんで謝るんだ、俺も。 英二さんは俺をじっと見てる。 「ほお…」 いきなり英二さんが唸る。 「ど、どうしたんですか、いきなり?」 「いや。君の夏服を頭の中でいろいろとシミュレートしてみたんだけどな…」 「そんなことしてたんですか…」 目が困ってる。 「いや…これはまずいな。うん、いろんな意味でまずすぎる」 「ど、どんなの想像してるんですか、一体!?」 「いや、忘れよう。まずい。これはまずい…」 「だからどんなのを…!?」 「英二さんの仕事ってやっぱり機材の揃った、都会のスタジオじゃないとできないって思うんですけど」 「たまにどっか行きたいとかって思ったりしませんか」 「森とか高原とか…?」 「ああ。俺って都会じゃないと生きてけないタイプ」 面倒そうに答える英二さん。 「そうですか…」 「英二さんって仕事でストレスとか溜った時、自然の中に逃げ出したいって感じたりしませんか?」 「あんまりないけど…」 「でも最近、ちょっとあるかなあ…」 「あ、やっぱり」 「海に行きたいねえ。太平洋側がいいなあ」 「はあ…」 この真冬に太平洋側にロマンを求める感覚ははるかに通じるものがあるな。 「茶髪でビキニと貧弱な金髪が砂浜に転がって、コパトーンがきついほど香って、そこで俺はぬるいコークか何かストローで吸うんだな」 「身動きとれるほどに空いてないのが難点だけど、いや、俺、なかなか良いレジャーだと思うぜ」 「そうですね…」 「英二さんって外に出て遊ぶってことあるんですか? その、自然の中でって意味で」 「ん?」 「君の言うところの自然の中でだったら、そうだなあ、3年前に一度キャンプに行ったきりだな」 「キャンプ…。英二さんがですか?」 「そうそう。笑っちゃうだろ?」 「…いえ、別に…」 笑ってるよ、英二さん。 「歌う方やめてすぐだったな。まるでボーイスカウトみたいで…」 「自然の中で暮らしたら、男も女も、お互い正直な感情に目覚められる、俺は当時そう考えた。どう思う?」 「え? ええ、まあ、ひょっとしたらそうかもですね…」 「それで俺は、或る女性に、人混みの中から逃れて二人だけの日々を送ろうって提案したんだ」 「当時、俺が愛していた女性にね…」 「はあ…」 いいのかな、こんな週刊誌ネタを俺なんかに言っちゃって。 「ところが、これは阻まれた。俺達の間は引き裂かれた…」 一瞬、悲痛そうな声になる英二さん。 「或る、別の女性がその女性を俺から引き離して、俺にどこにも行くなって言い始めたんだ。ずっと自分のところにいろってね…」 「…すごいことになったんですね」 いきすぎた愛情ってやつか。 あの緒方英二を軟禁してしまうほどの、盲目の愛…。 「仕方ないから俺は彼女とキャンプに行ったね」 「一緒に行くってきかなかったから」 「結局行ったんですか」 「そりゃそうだよ。ひょっとしたら自然の中で正直な心になった運命の女性と出会わないとも限らないだろ?」 「はあ…」 アウトドアなレジャーに出てる女の人はナンパしやすいって聞こえるんだけど…。 「でも、だめだったな。彼女、俺を見張って離れない」 「キャンプっていってもバンガローだったんだけど、彼女わざわざ二人部屋を取ってて…」 「まあ、そうするでしょうね」 「結局、一日中、彼女と一緒さ」 「それでも或る朝目を覚まして、隣のベッドに寝てる彼女を見た時、ああ、ちょっとは可愛いかなって思っちゃってね…」 結果はどうあれ、俺はちょっとだけ同情してしまった。 恋人と会いたいのに会えないのがいる片方で、彼みたいに一人の女性が離してくれない人もいる。 世の中って不条理にできてるんだな。 「それで今、その女の人とは…?」 「一緒に暮らしてるよ。仕方ないじゃない」 「一緒に?」 え? でも、理奈ちゃんは? 「どうしてああ人の恋愛に口出したがるかね、彼女。自分の兄貴を全然信用してないんだから」 「え? あの、英二さんを見張ってる女の人って…?」 「理奈だよ」 「………………」 要するに、英二さんが女の人をナンパするのを理奈ちゃんが必死に阻止したって話じゃないか。 「どうせだったら他の女性に見張られたいじゃない。それを…どうした、青年?」 「い、いえ…」 「でも、変な言い回しはやめて下さい。ちょっとアブナイ世界にも聞こえますから…」 「じゃ、アブナクなく聞いてくれ」 「はあ…」 遊ばれてんのかなあ、俺って…。 「冬になると緑がなくなって、ちょっと殺風景になりますよね…」 「緑って言って思い出したけど、青年、フラクタルは知ってるか?」 「はあ…?」 いきなりなんなんだ、この人? 「フラクタルだよ。自己相似幾何学形態」 「ほら、葉脈と樹全体のかたちの関係」 「はあ、まあ…」 俺は曖昧に答える。 「あの理論をだな、青年、ポップスに組み込めないかって考えてたんだけどな」 「はあ…」 「一つのフレーズのリフレインにいくつものパターンを持たせて繰り返して…」 「え? あ…?」 「そんな考えなくていい。今の段階じゃどうせ失敗だ」 「はあ…?」 「演奏時間がひどく長くなるんだ。ポップスの範囲を超えてる」 「時間?」 「フレーズ聴かせようとしたら1時間半必要になった」 「まるでプログレだ。フロイドのアルバムにもこんなないぞ」 「1時間半ですか…」 そんな、映画じゃないんだから。 「で、フレーズを短くしたら今度はミニマルになった。ライヒをパクった、素人くさいのができあがった」 「はあ…」 多分、何か悩んでるんだろうけど、俺には何を言ってるのかすら既に判らない。 とりあえずこれだけは言えそうだ。 「がんばって下さい、英二さん。英二さんならどうにかやれると思いますよ」 何を、かは判らないままだけど。 「あ? ああ、嬉しいね、青年」 「いい奴だな、君は」 「まあ…。あはは…」 「いらっしゃいませ」 「や、青年」 英二さんだ。 「どうも…」 あ、英二さんだ。 「英二さん…」 「ん?」 「藤井君じゃないか。どうしたんだ、こんなとこで?」 「ええ、ちょっと…」 「へえ…。ちょうど俺も君と話がしたいと思ってたとこだ。いいよな?」 「はあ…」 話しやすいんだか、話しづらいんだか判らない人だな。 でもまあ、ちょうどいいか。 「最近は天気いいよね」 「そうね。そのわりに冷え込むことが多いけど」 「雲が出てないからね。地表の熱が宇宙に逃げちゃうとか何とか」 「へぇ、そうなの」 「らしいよ。輻射熱が何とか」 「ふぅん」 小夜子ちゃんには、この話題はどうでもよさそうだな。 「寒いなら寒いで雪のひとつも降ればロマンチックなのに」 「寒すぎると雪が降らないとも言うね」 「どうして?」 「さあ…そこまでは」 「あきれた。大学に行ってるんでしょ? そのくらいわからないの?」 「そんなこと言われても」 「役に立たないわね」 気象ひとつにさんざんな言われようだ。 「でも、雪とか降って交通が麻痺するのは困るかな」 「徒歩もね。この辺りって意外と坂が多いから」 「いっそのこと、雪が降ったら休日にしてしまえばいいのに」 「大学ではどうなるの、そういう場合」 「う~ん、教授の気分次第かな」 「あきれた、そんなことでいいの?」 「ほら、大学って自由だから」 「そういう自由はいらないでしょ。だいたい、それだと学生が困るんじゃない?」 「学生も気分次第だし」 「…間違ってるわ、そんな自由」 「大学は何ごとも自主性尊重だからね。その代わり、さぼった分は自分で取り返さなくちゃならないから」 「あなたも後で苦労することになるわけね」 「いや、俺は彰のノートがあるから」 「…やっぱり駄目じゃないの」 「休みの日とかはどうしてるの?」 「どうって、別に…」 「別にって?」 「あなた達と変わらないわよ」 「家でごろごろしてるとか?」 「そんなところね」 「…」 「個人レッスンとかはしないの?」 「な、なによ、私がさぼってるとでも言いたいの?」 「そういうわけじゃないけど」 「休むべき時にはちゃんと休んだ方がいいのよ。働きづめは逆に効率が悪くなるんだから」 「まあ、それはそうだけど」 「まだ何か言いたそうね」 「いや…」 「はっきり言いなさいよ、途中でやめられる方が気になるわ」 「実は、歌うのあんまり好きじゃない?」 「なんでそうなるのよ」 由綺や理奈ちゃんは休みとか関係なくレッスンに明け暮れている。 二人とも並はずれた努力家というのもあるけど、歌自体が好きでないとそこまではできないんじゃないかと思うんだ。 「極端に解釈しないでよ。休みだからっていつもごろごろしてるわけじゃないんだから」 「気が向けば私だってレッスンくらい…」 「カラオケはレッスンに入らないよ」 「うぐ」 図星だったらしい。 「別にいいじゃないの、歌手がカラオケ行ったって…」 「そこを責めてるわけじゃないけど…やっぱり芸能界の知り合いとかと行くの?」 「カラオケ?」 「うん。カラオケ」 「そう都合よくスケジュールが合えばいいんだけど」 「そうか、向こうは芸能人だもんね」 「私も芸能人なんだけど」 「まあ、それはそれ」 「何かひっかかるわね、さっきから」 「あれ…? 高校は入ってすぐにやめたって言ってたね」 「そうよ、だから友達を作る暇もろくに…」 「…」 「いつも誰と行ってるの?」 「な、何が?」 「カラオケ」 「…」 「もしかして、ひとりカラオケ…」 「う、うるさいわね」 「アイドルがひとりカラオケ…」 「いいでしょ! 放っといてよ!」 「別に細くてもいいよね?」 「やだ、信じられない」 「えー、そう?」 「太い方がいいに決まってるじゃないの。そんなの常識でしょ」 「いやいや、すぐそうやってサイズばかりを問題にするけど、細いのもあれでなかなか」 「そんな、口に入れてるのかわからないような代物なんて満足できないわ」 「でも、太かったら太かったで口にくわえにくくない?」 「そこまで極端に言ってないでしょ、むしろ口からはみ出すようなシロモノがあったら見せてもらいたいものだわ」 「はは…まあ、そうだけどね」 「そろそろ負けを認めたら?」 「いやぁ、まだまだ。えーっと…細いのはその分だけ固い、とか?」 「そんなもの価値として認めないわ」 「人の好みは色々あるし」 「邪道よ」 「厳しいなぁ」 「そんなの、喉に刺さったらどうするのよ」 「それこそ大げさだよ」 まあ、フライドポテトの話なんだけどね。 「そういや最近さ…」 「ねえ、どう思う?」 「…何が?」 話をぶった切られた。 「マンションか一戸建てか」 「何の話?」 「単純に言葉どおりよ。買うとしたらどっちの方がいいと思う?」 「え、買うの!?」 小夜子ちゃんって、実は結構お金持ち? 「今すぐなわけないでしょ。将来買うとしたらどちらが得かってだけ」 何だ、ただの話だけか。 「資産価値とか経年劣化とか考え始めたら本気で悩んじゃって…冬弥くんはどう思う?」 「どうって言われても…」 そんなことまだ先の話だから検討したこともない。 でも、小夜子ちゃんはすっかり考え込んでいる。 「…一戸建て?」 「防犯の点ではマンションの方がよくない?」 「そうね…それもあるわね」 「やっぱりマンション?」 「でも、土地が」 「そうよ。土地は何があってもなくならないわ」 「やっぱり一戸建てかしら…?」 「断熱材の観点からだとマンションの方が有利だって話だけど」 「そうね、一戸建てって冬は冷え込むから」 「住むという点ではマンションの方かしら?」 「でも、土地が」 「そうよ、土地よ土地よ…って、冬弥くんはどっちなのよ!さっきから私の逆ばかり言って!」 「う~ん…どちらもよしあしがあるからなぁ」 「小夜子ちゃんは住み心地とかはどう考えてるの? 一戸建てだと二階へ上がるのも大変だと思うけど」 「そうね、階段はない方がいいわね…」 「でも、土地が」 「うん、土地…」 「小夜子ちゃんってどこの高校に行ってたの?」 「なんでそんなこと急に聞くのよ」 「え…いや、別に言いたくなかったらいいけど」 「…」 「ちょっと耳貸して」 耳元に息がかかってくすぐったい。 小夜子ちゃんは気まずそうに高校の名を短く呟く。 …。 こう言っちゃ何だけど、微妙だ。 「中学の時は受験勉強とかしてなかったから」 「え、そこって地元?」 「そうよ、悪い?」 「それじゃあ、もしかして中学は…」 なぜか俺も小夜子ちゃんに耳打ちする。 「ええ、そこよ」 「同じだ」 「え…えーっ!?」 驚いた。 まさか同級生だったとは。 「もしかしたらクラスメイトだったかもね」 「何か…いや」 「どうしてそうなるの」 「小夜子ちゃんって家族と暮らしてるの?」 「ひとり暮らしよ。家族に迷惑とか掛けられないし」 アイドルも大変だな。 「普段、食事とかどうしてるの?」 「もちろん気をつけてるわ。肌のことを考えて温野菜も多めにとってるし」 「へえ、やることはやってるんだ」 「そうよ、アイドルをやっていくのも大変なんだから。スナック菓子も食べないし」 「あれ? でも、この前控え室でポテトチップスの袋があったような…」 「ポテチは別よ。だって、じゃがいもを揚げたものでしょ?」 「まあ、そうだけど…え? なんで?」 「じゃがいもは野菜だし」 「いや、まあ、そうだけど…え? そうなの?」 「そうよ」 今日の小夜子ちゃんはやけに自信満々だ。 「でも、揚げてるよ?」 「それがどうしたの。トンカツやアジのフライをスナック菓子とは言わないでしょ」 珍しく小夜子ちゃんに言い負かされてしまった。 「そういえば、同窓会はどうだったの?」 「ええ、まあ…」 「どうしたの? 行かなかったの?」 「行ったわ」 妙に不機嫌そうだ。何かあったのだろうか。 「冬弥くん…もし、私が芸能人じゃなかったら今頃は何をしてたと思う?」 アイドルじゃなかったら…? 「えーっと…何だろ」 「大学生でしょ、当たり前じゃない」 そうか、同い年の俺も大学生だしな。 「つまりはそういうことよ」 小夜子ちゃんはそっぽを向いてこの話を打ち切ってしまう。 つまり、周りはみんな大学生だったということだ。 大検に落ちた小夜子ちゃんにとっては、さぞかしつらい思いをしたことだろう。 例え、アイドルということで周りからちやほやされても… いや、それだからなおさらか。 いや待てよ。 大検に落ちるような小夜子ちゃんだから、アイドルとかやらずに、普通に受験していても今頃は…。 やはりこの話題はここで打ち切った方がよさそうだ。 「小夜子ちゃんって家族は何人いるの?」 「何よ、国勢調査?」 「ごめん、無理にってわけじゃなかったんだけど…」 立ち入ったことを聞きすぎたな。 「別にそんな顔しなくても…」 「…」 「歳の離れた弟と妹がいるわ」 ということは、小夜子ちゃんは長女ってことだな。 「一姫二太郎だね」 「ええ、一姫二太郎三ナスビよ」 三つ目はちょっと違うと思うけど。 「あまり言いたくないのよね、三人姉弟だって」 「どうして?」 「親が性欲みなぎってるみたいで」 「ほう」 「子供もエッチっぽくて…」 親は『性欲』で自分は『エッチ』… その表現の格差はなに? 「でも、いいな。俺なんか一人っ子だから兄弟が多いのはうらやましいよ」 「そうでもないわよ、色々と大変なんだから」 「サインとかせがんでくるから、よく書かされてたわ」 「そのくらいは書いてあげてもいいんじゃない?」 「クラスメイトの分まで頼まれてくるのよ。色紙がこたつに積み上がってたわ」 それは確かに手加減なしだな。 「でも、最近は他のメンバーのばかり頼まれるわ」 「ああ、小夜子ちゃんの分は配りきったから…」 「違うわ。もうサクラめじゃないからいらないって」 「そ、それは…何とまぁ…」 「笑うなぁ~!」 「笑ってないってば。それで、頼んだの…? その…サインを」 「まさか! 直接なんて無理よ。マネージャーに頼んだわ」 有名人であり姉であるというのはなかなか大変なんだな。 「小夜子ちゃんって、桜っ娘クラブでのポジションはどうだったの?」 「もちろん、歌担当よ」 「へえ、そうなんだ」 「立ち位置はセンター右寄りの前列。一期生の中でも出世頭だったんだから」 …。 今、過去形で言ったな。 「歴代でも歌がうまい方だって評判だったんだから」 本人は気づいてないようだからわざわざ指摘することもないか。 「元のメンバーとはどうなの? 今も連絡とかしあってる?」 「あっちは忙し…」 「あっちはあっちで忙しいから」 言い直したな。 「リーダーと言っても何か権限があって仕切ってたわけじゃないから。私たちはあくまで事務所と個人個人の関係で…」 「…やめとくわ」 「何か気にさわった…?」 「そうじゃないわ。あのコたちのことをとやかく言いたくないだけ」 実質的な権限はなかったとしても、彼女をリーダーに選んだ事務所の判断は間違っていなかったようだ。 「何をにやにやしてるのよ。もう行くからねっ」 「小夜子ちゃんってさ」 「なに?」 「どういうきっかけでデビューしたの?」 「…」 あれ? 黙っちゃった。 「あ…聞かない方がよかった?」 「そんなことないわ、そんなことないけど…」 視線の動きが落ち着かない。 「小夜子ちゃん」 「何よ、妙に上機嫌ね」 「アルバム買ったよ」 「え?」 「桜っ娘クラブの」 「ちょ、やめてよ」 「小夜子ちゃん、いっぱい歌ってたよ」 「や、やめてぇ~!」 身をよじらんばかりに恥ずかしがっている。 これでは他のアルバムも買わざるをえない。 「今後はアイドルってどういう風になっていくんだろう…?」 「これからは、ただアイドルというだけでは駄目ね」 「何がどう駄目なの?」 「売りが足りないわ。世の中は付加価値よ」 「もっと別の要素を掛け合わさなくちゃ」 「例えば?」 「そうね…」 「発明アイドル!」 「キミのハートをイチコロよ!」 「特許料も入ってうはうは!」 「もう働く必要ないね」 「桜っ娘クラブってことは、ファンからも随分とプレゼントをもらったんじゃない?」 「まあね。ダンボール単位で事務所に運び込まれてたわ」 「ああいうのってどんなものをもらうの?」 「…聞きたい?」 「え…」 「本当に聞きたいの?」 やけにものものしい。 「色々あったけど、やっぱり嬉しいのは励ましのお手紙ね」 「それって建前じゃなくて?」 「芸能人なんて、応援してくれるファンあってこそよ」 「…それも建前じゃなくて?」 「本当だってば」 「そういえばさ」 「…」 小夜子ちゃんは不機嫌そうに口をつぐんでいる。 何かあったんだろうか? 「小夜子ちゃん、何かあったの?」 「今朝方、テレビ局で緒方英二とすれ違ったのよ」 「そうしたらあの男、何て言ったと思う?」 「さ、さあ…」 「『それじゃあね、娘っ子ちゃん』って」 「もうサクラめじゃないっての! しかも私だってこと気づきもしないし!」 英二さんって…興味ないことはとことん気を向けないんだな。 「あいつ、私たちのこと絶対に個別認識してないわ」 小夜子ちゃんは怒り心頭だが、俺もサクラめのメンバーを全て見分けることができるかというと自信はない。 「今度サクラめに新メンバーが加入するんだって?」 「ええ、そういう話ね。私も雑誌の記事以上のことは知らないけど」 「人数を増やすって何か理由があるのかな」 「アイドルグループって、ファンを受け入れる間口が広いのが強みなのよね」 「なるほどね…数が多いと誰か一人くらい好みの子がいるってことか」 「そういうこと」 「それじゃあ、今後も増えていくかもしれないんだ」 「かもしれないわね」 「そのうち何十人にもなったりして」 「ひとクラス全部アイドルとか?」 俺たちは顔を見合わせ、互いに笑いあった。 「それはさすがにやりすぎだよ」 「むしろそこまでやったら立派だと思うわ」 「小夜子ちゃんって本とか読んだりするの?」 「失礼ね、本くらい読むわよ」 「へー。今はどんなのを?」 「…」 あれ? 何この空白。 「今はたまたま何も読んでないけど」 「そうなんだ」 「読みたいと思ってる本はいくつかあるのよ?」 「へー。例えば?」 「…」 あれ? また空白が。 「まぁ…色々あるけど…」 「色々あるんだ」 「その中であなたでも知ってる軽めのものといえば…」 「うんうん」 「…」 「?」 「やっぱり教えない」 「どうして?」 「自分が今読んでる本なんて、そう自慢げに話すものじゃないわ」 「そうかな?」 「そうよ」 「自慢げにしなければいいんじゃない?」 「態度のことじゃなくて、話す行為自体を自慢げだと言ってるの」 「別にそんな風には思わないんだけどなぁ」 「それに…」 「それに?」 「そういうのって、自分の内面を覗き見されるみたいで」 「ああ、確かに。本は人の内面を作るというし、そういう面もあるな」 「…」 「何よ、その意味ありげな目つき」 「むしろ興味が出たというか」 「そんなこと言われてもお断り」 「人に知られるとまずいような本なの?」 「普段、暇な時ってどうしてるの?」 「…それは私が普段から暇ってこと?」 あ、微妙に怒らせちゃった。 「そうじゃなくて、ほら、移動の時とかさ」 「移動中だと読書くらいしかやれることはないわね」 「へー」 「何よその返事。はやり本は読書じゃないって言いたそうね」 「別にそんなこと言ってないけど」 「本屋に行っても本が多くてどれを読んだらいいのかわからなくなるのよ」 「だから結局はお店のランキングから手に取っちゃうのよね」 「あー、あるある。それで気がつくとダイエット本とか買っちゃうんだよねー」 「小夜子ちゃんってさ、絵とか描いたことある?」 「ないないないない、そんなのないわ」 「また、ものすごい勢いで否定するね…」 「小夜子ちゃんは歌手なわけだけど」 「そうよ。何か文句あるの?」 「アイドルなわけで」 「何よ、何が言いたいのよ」 「つまりポップス?」 「だから何なのよぉ」 「小夜子ちゃん自身はどんな音楽が好きなの?」 「え? 私の?」 「うん」 「そ、そっか。そうね…」 「…」 微妙に絶句した感じが。 「特に選り好みは…しないわね。ええ」 「それじゃあ、最近だとR&Bとか」 「ねえ、小夜子ちゃん」 「なに?」 「…」 「何よ、ひとのこと呼んどいて急に黙り込むなんて」 「はは、ごめん。やっぱり何でもない」 恋愛に飢えてる彼女に恋愛の話を振るのは酷だよな。 「小夜子ちゃんってさ…」 「ん? なに?」 好きな人はいるかなんて、いきなり尋ねるのは失礼だよな。 「ううん、何でもない」 「何よ、言いなさいよ。途中でやめられたら気になるでしょ」 「いや、まあ…別に大した話でもないんだけど…」 「小夜子ちゃんにさ、芸能界で気になる人っているのかな…と思って」 「な…なにを言い出すのよぶしつけに」 「ぶしつけだからやめとこうと思ったんだけど」 「そんなこと気やすく言えるわけないでしょ。どこに耳があるかわからないのよ」 「うん、そうだね。ごめん、変なこと聞いて」 「別に謝ることはないけど…私が無理に言わせたんだし」 「それに私、そもそも芸能人には興味ないし」 「そうなの?」 「ええ」 「なんでまた?」 「何よ、私が芸能人に興味ないと困るの?」 「いや、そんなことはないけど…」 「ただでさえ芸能記者やカメラマンに追い回されてうんざりしてるのよ。相手もそうだったら苦労が二倍になるじゃないの」 そう言えばそうだ。自分と相手で、倍の人間に身辺を嗅ぎ回られることになる。 「お付き合いするなら一般の人の方がいいわ」 小夜子ちゃんって意外と堅実な考え方をするんだな。 「例えば彼氏ができたらさ」 「『例えば』なんて失礼ね。私だってその気になったら彼氏の十人や二十人…」 「そんなにいらないとは思うけど…彼氏ができたら一緒にしたいことってある?」 「何よ、それを聞いてどうしようっていうの?」 「特にどうということはないけど…男の立場からの関心かな」 「何か、いやらしい。そういう言い方」 「そうだった?」 「いやらしい…」 「そんなに深く考えないで、軽い気持ちで」 「単純に、映画やドラマとかで憧れるシーンとかは?」 「そうね…」 小夜子ちゃんは視線を外して思案を巡らせる。 「まずは寄り添わせてもらうかな」 「何をするかはそれから考えるわ」 「あのさ、小夜子ちゃんは将来…」 「そんなことよりスィーツの話をしましょうよ」 話題を変えられてしまった…。 「ねえねえ、ロールケーキに興味ある?」 「え? まあ、嫌いじゃないけど」 「ロールケーキっていいわよね。ほら、ショートケーキだと物足りないこと多いでしょ? 生クリームの量が」 「その点、最近のスポンジ一重巻きのロールケーキだと生クリームたっぷりだし、自分が食べたいだけ切り分けることができるし」 「あ、うん…俺もいいなって思ってたんだ」 「意外とこぢんまりしたお店の方が生クリームとかたっぷりのってるのよね…」 小夜子ちゃんはロールケーキに関しては一家言ありそうだ。 「小夜子ちゃんは恋愛映画とかよく見るの?」 「そうね、面白そうなものがあれば見に行くわよ」 「へぇ、そうなんだ」 「もちろん時間があればの話だけど」 「一人で?」 「ええ、だいたいはね。たまたま余裕ができた時に行くしかないから」 まあ、本当に忙しいかどうかは別にして、少なくともそういう映画が嫌いというわけではなさそうだ。 わざわざ映画館に足を運ぶくらいだからな。忙しいかどうかは別にして。 「やっぱり、女の子ってああいう恋に憧れるものなんだ」 「見てる分にはね。現実は別よ」 「だって、映画の恋って悲しい別れで終わることが多いでしょ?」 「まあ…そうだね」 恋物語で真っ先に思い浮かぶといえば、昔なら王女様がお忍びでローマ観光とか、最近なら死んだ彼氏が幽霊になって恋人を守るとか。 有名どころからしてそんな感じだからな。 物語は起伏がないと観客を退屈させてしまうから。 「自分の恋だったら、そうね…」 「感動よりも一緒にいてくれる方がいいかな」 どことなくうっとりとする小夜子ちゃんに、俺もつい釣られてしまう。 でも、その表情を小夜子ちゃんは誤解したようだ。 「何よ、どうせ現金だとか思ってるんでしょ」 「そんなこと思ってないよ」 「素朴とかアイドルのくせに地味とか」 「いや、別に…」 「可憐だとか親しみが持てるとか…」 あれ? いつの間にか自分のことほめてる? 「女の子が男に求めるものってさ」 「え、ちょっと急になに言いだすの」 「何がって、何が?」 小夜子ちゃんの意外な反応に、俺も意外な思いで問い返す。 それをまた意外に思ったのか、小夜子ちゃんはきょとんとして俺のことを見つめ返してくる。 意外があまりに被さってきて訳がわからない。 「とにかく、続きを」 「うん…女の子は男に優しさか頼もしさを求めるものだと思うけど、小夜子ちゃんはどっちなのかなって」 「なんだ、そういう話なのね」 「どういう話だと思ったの?」 「別に」 別に、か。 ある意味、話をはぐらかすには最強の言葉だな。 「そんなことより、冬弥くんはどちらだと思う?」 むしろ逆に聞き返してくる。 「俺?」 「そう。自分から聞いておいてひとの質問には答えないつもり?」 そう言われると弱い。小夜子ちゃんにはまだ答えてもらってないけど。 二択ではあったが、一応は真剣に考えて答えを出す。 「優しさ…かな?」 頼もしさに自信のない俺としては、多少の願望も込めて。 「駄目ね」 「それじゃあ、頼もしさ…?」 「問題外だわ」 それってどうなの。 「そもそも別に考えてること自体が間違いなのよ。優しさと頼もしさは矛盾するものじゃないわ」 つまりは両方必要ということか。 結局、話は最初に戻ってくる。 「まあ、それはそうなんだけど…小夜子ちゃんだったらどちらをより重要視するかと思ってさ」 「だから両方」 「もちろんその前提で」 「そうね、割合ということだったら…」 「ふふふ。そんなことよりお金よ、お金。重要なのは経済力よ」 「…なんてね」 「へえ、そうなんだ」 「あ、あら? もちろん冗談よ?」 「やっぱりね…」 「ちょっと、聞いてる? 冗談だってば」 「小夜子ちゃんらしいというか…」 「だ~か~ら! 冗談だって言ってるのにぃ!」 「大学のクラスメイトの話なんだけどさ」 「ちょっと待って、大学にクラスメイトなんて言葉があるの?」 「一応ね。必修の講義だけは最初からクラス分けされてるから」 「そうなんだ…それで、冬弥くんは何組?」 「…何組だっけ」 「まさか忘れたの? 自分のクラスを?」 「自分が何組かなんて普段意識しないからね。学生課で登録とかする時も使うのは学生番号だし」 「それでもおかしいわ」 「まあ…いいけど…」 「それより話の続きなんだけど、そいつが彼女のことで悩んでて」 「なになに、彼女がどうしたの?」 いきなり話題に食いついてきた。 何というか、小夜子ちゃんらしい…。 いや、大抵の女の子はそういうものかな。 「何よ、自分から言いだしといてもったいぶらないでよ」 「あ、うん、それでさ…その彼女というのが、部屋の模様替えが趣味らしくて、そのせいでよく物をなくすんだって」 「そのうち、二人で買った指輪とかもどこかにやっちゃったりするから、そいつもさすがに言いはしたらしいんだ」 「物をしまう場所はそうそう変えるものじゃないって」 「…」 「でも、そういう時は決まって彼女が押し黙っちゃって…」 「そのくせ模様替えはやめないし、なくし物は続くで、そいつも彼女の気持ちがわからないって頭を抱えてるんだ」 「なるほどね…」 小夜子ちゃんは落ち着いた口ぶりで、ひとつ頷いてみせる。 「それって彼女の方にも言い分があったんじゃないの?」 「そうなのかな…でも、それだったらなんで彼氏に言わないんだろ」 「彼氏だからなかなか言い出せないのよ。それが原因で気まずくはなりたくないから。きっとそう」 「でも、それは男の方も同じなんじゃ…」 「違うわ、全然違う。女は二人のこれからを見てるものよ。でも、男の人は今しか気にしないでしょ?」 「そう…なのかな」 「そうよ。だから頭だけで正義を振りかざしたりするの。がまんするのはいつでも女の方だって気づきもしない」 「あ、うん…ごめん」 なぜか世の男を代表して謝るはめになってしまった。 でも、これって小夜子ちゃんが言ってる男女の立場とは逆だよな…? 「それで、その二人は結局どうなったの?」 「結局って…まだ続いてるけど」 「…なんだ」 「え、なにそれ」 「大学の近くに河原があるんだけど」 「うん」 「陽が暮れるとナトリウム灯がともって、結構いい雰囲気になるんだ」 「暖かくなったら夜の散歩もいいわね。連れて行ってくれるんでしょ?」 「それがさ、春先くらいから先約がみっしりと」 「先約?」 「そう。カップルがさ、川に沿ってきっちり等間隔に」 「…目に浮かぶようだわ」 「あれを見て思ったね。カップル同士の距離って10メートルが適正だって」 「冬弥くん、この話おもしろくない」 「俺もそんな気がしてた」 「小夜子ちゃんはスポーツとかやってるの?」 「どうして?」 「へー、そうなんだ。アイドルも体が資本なんだね」 「小夜子ちゃんってさ…」 「人は一生つきあえるスポーツを持つべきだと思うわ」 「どうしたの? 突然」 「それは水泳よ」 いきなり結論が来たな。 「テニスじゃないわよ?」 「わかってるって。なんで水泳なの?」 「水の浮力で重力による負担を軽減できるの。運動による関節の損耗を防ぐことができるわ」 カタログを読み上げるみたいにすらすらと説明が出てくる。 「これからは水泳よ。それも水中歩行。体力作りもばっちりだわ」 「でも、皮下脂肪はつくって言うね」 「…」 「そういや、小夜子ちゃんって仕事中のメイクとかはどうしてるの?」 「自分でやってるわよ。サクラめの頃からの習慣かしら」 「自分で? なんでまたそんなことに」 「一人一人に専属のスタイリストなんてつけてたら大変でしょ。グループなのに」 「そうか、たくさんいたんだ」 「いたのよ。今もいるでしょ」 サクラめのメンバーが横一列になって、さらにその後ろにはそれぞれスタイリストがつく光景を想像すると、確かにシュールだ。 「ただ、それも考えものだけど」 「そうなの? 自分の好きなようにメイクできていいと思うけど」 「まさにそれが問題なのよ。みんな思い思いの顔をつくったあげく、ステージでばらばらなんてことになったら困るでしょ」 「さすがにそこまではしないんじゃない?」 「するのよ。実際、そんなことが何度もあったし。一度なんてリハの寸前に気づいて大慌てよ」 「まあ、隣の子よりかわいく映りたいって気持ちはわかるんだけどね…」 普段はわがままな小夜子ちゃんも、サクラめ時代のことを語る時には少しだけお姉さんらしさをかいま見せる。 人は環境によって変わるということなのだろう。 「女の子ってさ、甘いもの好きって印象あるけどそれに限定はしないよね」 「そうね。食べ物全般って感じはするわね」 「今、気になってる食べ物って何かある?」 「そうね…」 小夜子ちゃんは考え込んでしまう。 「そんなに悩む必要はないんだけど…」 「焼きとうもろこしかしら?」 「え…そうなんだ。ちょっと意外」 「そう? 焼きとうもろこしには魅力が多いのよ」 「作るのに調理というほどの手間はいらないし、並べて焼けばしょうゆの焦げる匂いで客は引き寄せられてくるし」 「しかも原価は安いし。その上、冷凍物を必要な分だけ仕入れることができるときてる」 「お祭りの屋台でやるとしたら断然焼きとうもろこしね」 なんで採算の話になってるんだろう…。 「ハイ、冬弥くん」 「え?」 「あ…小夜子ちゃん」 今日の小夜子ちゃんは機嫌がよさそうだな。 せっかくだから少し話をしていくか。 あそこにいるのはもしかして小夜子ちゃん? やっぱりそうだ。 「小夜子ちゃん」 「あら、冬弥くん。おはよう」 「うん、おはよう」 「それで、何か用?」 あそこにいるのはもしかして小夜子ちゃん? やっぱりそうだ。 でも、今は音楽祭に向けて大変な時期のはずだし、呼び止めるのはどうだろう。 あ…迷っている間に行ってしまった。 でも、忙しそうだったから声を掛けなくてよかった。 とにかく、小夜子ちゃんは元気にやっているようだ。 それがわかっただけでもよしとしよう。 「あ、冬弥君、おはよう」 駅から出たところで俺は聞き慣れた声に呼び止められた。 「あれ、由綺。今日は学校?」 確か今日は撮影があるとか言ってたのに。 「うん。今日の撮影、なくなっちゃったんだ。制作会社の方がもめてるとか言ってたみたいだから、多分この撮影はずっとないよ」 にこにこと深刻な内容を話すなあ。 「…だからって、なにもわざわざ学校に来なくたって。家で休んでたらよかったのに」 なんて、俺はちょっと強がったことを言ってみたりする。 ほんとは、由綺に会えて大喜びしてるくせに。 「だってそれじゃ退屈だし。学校に行ったら、誰かに会えるかなとか思って…」 そして由綺は少女まんがみたいに笑って、「ね、ほら、冬弥君に会えたでしょ」 そう言って由綺は俺の腕に絡みついてくる。 「なるほど。森川由綺は大学というマナビヤにふらふら遊びに来た、と…」 「もお、そんなこと言ってないよお」 照れる俺の腕を由綺は乱暴に引っ張る。 俺は由綺を巻き込み、だらしなくよろける。 「みんなにも会えるかと思って」 みんなに、ね… 構内に入って間もなく、俺達は『みんな』のうちの一人を発見した。 「はるかー!」 その、スポーツバッグを抱えた人影に声をかけた。 その声に気づいた人物は、気だるそうにこちらの方に歩いてきた。 「おはよう。由綺、久しぶり」 「そっかな。こないだ学校来たばっかりだと思ってたけど」 眠そうな声で由綺に笑いかけてるのは、河島はるか 俺とはなんと幼稚園以来の仲だ。 仲、っていっても、別に由綺に後ろめたいような仲じゃない。 人間、つきあいが長すぎると性別を無視できてしまうって実例が服着て歩いているような存在だ。 昔からよく一緒に外を駆け回ってて、一度として女の子らしい遊びにつきあわされたこともない。 「由綺が隣いると、冬弥まで別人みたく見えていいね。冬弥、結構飽きる顔だから、由綺ももっと学校来なよ」 寝ぼけたみたいな声でなに言ってんだ。 「はるか、スポーツマンらしくもうちょっとしゃきっと喋れよ」 「ん?」 はるかは不思議そうに俺を見る。 そしてスポーツバッグに目を落として、「これ、お弁当入ってる…」 「知るか」 「……………」 由綺が困ってる。 「じゃ、私、授業あるから…」 いつものことだけど、彼女は突然に会話を終わらせて、振り返りもせずに行ってしまう。 「ねえ、最近はるか何かやってるの?」 「ううん。相変わらずさ」 さっき俺がはるかのことをスポーツマンって言ったことが引っかかったんだろう。 彼女はアスリート系で、しかもかなりの才能を持っているんだけど…。 だけどそれも高校の時に、ある不幸な事件で大好きだったテニスを手放してしまうまでだった。 はるかは、同じテニスプレイヤーだった兄を事故で亡くしてる。 多分、その頃からだと思う。 はるかがこんな風にやる気のないやつになってしまったってのも…。 「いいさ、はるかにだってやりたいことがあるんだし、好きにさせてても」 俺はいつもみたいに、気にしてないって風に由綺に微笑み返す。 授業まではまだ時間があるから、俺達は談話室で少し話でもすることにした。 と、そこには見慣れた顔の先客がいた。 「あ、おはよう。あれ、由綺も一緒だ」 テーブルの上に広げられたレポート用紙から顔を上げたのは、七瀬彰 彼もまた俺達と親しい友人で、はるかには及ばないにしても、俺とは小学校から大学までずっと同じ学校って長いつきあいだ。 「…今日もレポート提出。あ、座りなよ」 「うん」 由綺と俺は、彰に勧められた椅子に腰かける。 「だからあの教授の授業はやめとけって言ったんだ。いくら出席が甘いっても、レポートがきついんだって」 「だって、知らなかったんだもん」 困ったように笑う彰。 優しい面立ちの彼がそうしてると、女の子に見えなくもない。 中性的だって点では、はるかとかなり似通っている。 もっとも彰は(はるかと違って)ちゃんと健康的に、特定の異性を意識してる人間だってことを俺は知ってる。 (誰も信じてはくれなさそうだけど) 「…いいや。少し休もう」 「飲み物買ってくるけど、由綺と冬弥も何かいる?」 彼が立ち上がった時、その『特定の』が談話室に入ってきた。 「あ、美咲さん」 俺は声をかけた。 それに気づいたその女の人は、テーブルの方に近づいてきた。 「あ、やっぱり藤井君達だったんだ。外歩いてて、なんだか似てる人がいるなと思って入ってきたんだけど」 「由綺ちゃんも一緒なんだね、今日は。おはよう、由綺ちゃん」 「うん」 彼女は、澤倉美咲 俺達の一年先輩だ。 美咲さんもまた俺と同じ、蛍ヶ崎学園出身で、ここにいる全員(そしてここにいないはるかも含めて)が同じ学校出身ってことになる。 「あ、座ってよ美咲さん。僕ちょっと飲み物買ってくるけど、先輩は何か要る?」 なんてみんなのリクエストを聞いて、彰は自販機のコーナーへと出ていった。 実はこの美咲さんこそが、あの彰がこれまでに唯一好きになった女性だ。 だけど、彰は『気にならないふり』が上手すぎて、そのことはこれまで誰にも知られたことがない。 多分、隣で話をしている由綺にだって気づかれたことがないんじゃないかと思う。 俺だって高校の時、そっと打ち明けられてひどく驚いた覚えがある。 相手が先輩だってこと以前に、この男が女の人を好きになるなんてことがあるのかって。 「美咲さん、今日は授業?」 「午後からあるけど。必修と一般教養のレポートの提出期限がダブるといけないから、授業の前にちょっと図書館で調べもの済ませておこうと思って」 授業を終えて、俺と由綺は帰途についた。 「由綺、また明日から仕事だろ。大変だね…」 「ありがとう、冬弥君。…でも、今日みんなに会えたから結構元気になれたよ」 「そうだね」 俺がそう言うと、由綺はにっこりと笑った。 「冬弥君の方は今日はこれから忙しいの?」 「うーん…。今日は忙しいってわけじゃないけど、明日、ほら、俺、バイトあるからさ…」 「あ、そうか。…大変なんだね、冬弥君」 由綺ほどじゃないって。 「また 『エコーズ』 ?」 「うん」 『エコーズ』は、俺達が高校の頃、由綺がまだデビューする前に彼女に教えてもらった喫茶店だ。 小さくて目立たない店なんだけど、歌手やタレント、芸能人を目指す若い人達の溜まり場みたいになってて、時として、TV局の関係者や、プロの若手芸能人なんかも顔を出す。 「じゃあ、お仕事終わったら遊びに行くね…」 こんな風に。 「うん。…疲れてなかったらだけどね」 「…そうだね。あんまり忙しかったりしてた時に行ったら、冬弥君、大変だもんね」 「俺じゃないよ。由綺が、だよ」 「私…?」 「私は大丈夫だよ。やだな…。いつも、大丈夫だったじゃない」 当時、高校と養成学校の両方に通っていた由綺と休日以外に会えるのは、もっぱらその喫茶店でだった。 俺達は少しでも一緒の時間を過ごしたくて、よくその店に通った。 今夜も帰宅ラッシュにぶつかってしまった。 冬もすぐそこってのに、暖房を停めないままの電車の中は汗が出るほどで、電車から降りた時の開放感といったら言いようもない。 …涼しいな……。 なんて思いながら、一瞬立ち止まり、大きく息を吸い込んでると、ドカッ…! 改札から、後から後から吐き出される人波に突き飛ばされてしまった。 その拍子に持っていた定期券が、俺の手から離れる。 「あっ…」 俺の手から離れたそれは、行き交う人々の足の群の中に消えてってしまう。 …まずいなあ……。 人の流れを横切りながら、俺は薄暗い地面に自分のパスケースを探す。 …その時、「はい」 目の前に何かを差し出された。 …定期券だ。 俺の名前が書いてある。 「ありがとう……」 受け取りながら顔を上げると、そこには一人の少女がいた。 その制服からすると蛍ヶ崎学園の学生みたいだ。 ってことは俺の遠い後輩か。 それにしても、わざわざ拾ってくれたなんて…。 「どうもありがとう。助かったよ」 「いえ、いいんです。それじゃあ」 少女はにっこりと笑って、身を ひるがえ すみたいにすたすたと去っていった。 俺の母校にも、まだあんないい娘が残ってるんだな…。 美咲さんがあの学園の最後の良心みたいに思ってたけど、そんなこともないみたいだ。 ぷるるるるるーーーーー …電話だ…。 ぷるるるるるーーーーー はいはい…。 カチャ…。 「…はい、藤井です……」 「こちらは家庭教師センターですが、藤井冬弥様はご在宅でしょうか?」 「…俺…私ですが」 前に応募してた、家庭教師斡旋業者からだ。 仕事先が見つかったのかな…。 「お休みのところ申し訳ございません。以前にご応募下さいました勤務内容で、ご依頼がございまして…」 要するに、俺を家庭教師として雇いたいって人がいたってことだ。 それにしても今頃なんて…。 「それで、藤井様はこのお仕事をお受けいたしますかという問い合わせの連絡なのですが?」 「あ、はい…?」 まだちょっと寝ぼけている脳は、俺に間抜けな返答をさせる。 「ご依頼された方に、このお仕事へのお返事を頂きたいのです」 「…つまり、仕事を受けるか受けないか、今決めろと?」 「決定は後からでもよろしいですが、一応、ご父兄の方を交えて面接を行わなければいけませんので、とりあえずは、面接を受けるかどうかだけ…」 「はあ…」 返事は後でもいいんだったら、面接を受けるだけ受けてみてもいいかな。 「じゃ、とりあえず面接だけ受けてみます」 「そうですか。では…」 電話の向こうで書類を繰る音がする。 「…大変急ですけれど、面接の方は4日となっております。…大丈夫でしょうか?」 「4日…?」 ええと…。 …明後日か。 「もし、日時の方でご希望がございましたら、一応こちらから交渉はしてみますが…」 「いや、4日で大丈夫ですよ」 「すみません、助かります」 家庭教師応募者に、こんな対応をするなんて珍しい。 「…それではすぐに勤務地…ご依頼者のお宅までの地図と電話番号をお送りします」 「そのままFAXをお受け下さい。…もしご不明な点がございましたら、すぐにご連絡して下さって結構ですので」 そして電話は切れて、耳障りな電子音が響いてきた。 少しすると、地図と簡単な書類が印字されて排出されてきた。 …読んでて判ったけど、このアルバイト、ものすごく条件が良い…。 給料も、勤務条件も。 …なんかとてつもない裏があるに違いない… って、たかが家庭教師に、どんな『とてつもない裏』があるっていうんだ。 とりあえず、明後日、行くだけ行ってみよう。 今日はお昼過ぎから『エコーズ』でバイトだ。 このバイトは遅くから出てもいいし、何よりも楽だから大好きだ。 さっ、真面目に働こ。 『エコーズ』 この店は、芸能関係者が集まるって特殊な環境の割にはお客が少ない。(店長には悪いけど) まあ、その特殊な環境のせいって言えないこともないんだけど。 つまり、常連しか入り込めない雰囲気というかなんていうかを作ってしまってる。 それで困ったのがアルバイトを雇う時だった。 店の顔なじみは、ほとんど芸能関係者か、日々レッスンに励む芸能人予備軍なわけだから。 …俺を除いて。 普通のフリーターなんかを雇ってもよかったんだけど、募集の時点で、いかにも芸能人に会うのが目当て、みたいな、アブナイやつらが何人か来たみたいだ。 そこで店長は、不慣れでももう少し信頼できる人間をと…。 と、お客さんだ。 「いらっしゃいませ」 この時間だったら普通のお客さんだ。(珍しい) 「あ、冬弥」 なんだ、彰だ。 「冬弥、結構真面目にやってるんだね」 「当たり前だよ。今日はバイト? お客?」 「んー? 手伝おうかって思って来たけど」 「冬弥がいるからいいや」 いい加減だなあ…。 そもそも、ここの店長に俺の身元を保証してくれたのは由綺と、この彰だ。 早い話、店長が彰のおじさんなんだ。 このアルバイトは俺と彰とが(毎日はつらかったから)一日交代でやるはずだった。 でもそのうち、なんとなくいい加減になってってしまった。 …今の彰みたいに。 まあ、彰の方は身内で、強制的に手伝わされるって時が、俺よりもあるからそれでもいいかも知れないけど。 でも俺はそうはいかない。 店長が自由に働かせてくれるってのがありがたくて、ずっとここで働いてきたんだ。 いい加減に怠けるのもどうにも気が引ける。 「冬弥」 「ん?」 「注文していい?」 「うん…」 なんだ。 結局、今日はお客か。 そして彰はシナモンをきかせたホットチョコレートか何かでゆっくりとくつろいでから、レポートがあるからと一人で帰ってしまった。 時計はと見ると、そろそろ混み始める時間だ。 今夜も数人の若い芸能関係者が狭い店内を占めてる。 「冬弥君。ごはん食べに来たよ」 あ、由綺だ。 「…………」 一緒にいる無表情な女の人もよく見るけど、友達かな…? 「お疲れ様。何にする?」 俺はグラスに水を注ぎながら、カウンターに座る二人に尋ねる。 「ううん…。まだお終いじゃないの。これからまたスタジオの方に戻らなきゃいけないんだ」 「ええ? 大変だね、それって…」 実際、由綺は、自分の出てるゴールデンの番組なんか、リアルタイムで観たことないんじゃないのかな。 「いつものことじゃない。全然平気。今日は撮影とかじゃないから」 「そうかなあ…?」 とか言いながらも、仕事の方にはあんまり口出ししないようにして二人のオーダーを聞く。 今夜は、デビュー間近の新人歌手らしい女の子達が(由綺も新人っていえば新人だけど)『先輩~』みたいな感じで話しかけてきて、由綺を持ってかれてしまった。 「どこでも人気者だなあ…」 なんて呟いてしまう、寂しい俺。 由綺は後輩達に『基本はうがいから』とか、わけの判らないことを年上っぽく教授してる。 「あの…」 「はい? 俺ですか?」 あの、いつも由綺と一緒にいる女の人だ。 「恐れ入りますが、このお店の方ですか?」 そんな、いきなり恐れ入らなくたって。 「あ。まあ、バイトですけど、何か…?」 「由綺さんとは、お友達なのでしょうか?」 「え…」 友達… っていったら、そうなんだけど…。 「まあ、そんなものですね…」 由綺、ほんとに仕事場で私生活の話とかしてないのかな…。 「そうですか。失礼いたしました」 それきり、その女の人は黙り込んでしまった。 誰なんだ、この人は…? 今度、由綺に聞いておかなきゃな。 とか思いながら、いつも忘れるんだよな。 由綺、あんまり俺と仕事とかの話したがらないから。 その由綺はと見れば、『うがいはぬるま湯に塩を溶いたものでやるといい』とか何とか、おばあちゃんみたいなことを言って後輩達を困らせていた。 「ごめんね、冬弥君。せっかく来られたのに、もう行かなきゃ…」 由綺はすまなそうにカウンター越しに言って支度を始める。 「いいよ。どうせ明日はおんなじ職場なんだからさ、由綺と」 「…あれ?」 「あれ? ってなんだよ。明日は俺もTV局でバイトなの。ADだよ、AD」 「あ、なんだ。一瞬、私が明日ここに来なきゃいけないんだと思ってびっくりしちゃった。あはは…」 俺を軸に考えるなよ、由綺…。 「うん…。じゃ、明日、会えたらいいね。でも、ここにもまた来るね」 「うん。また来なよ。…できたら、俺のいる時に」 「…うん」 「急ぎましょう」 「う、うん…」 「じゃあね…」 そして由綺は、もう一人の女の人に手を引かれて出て行ってしまった。 慌ただしいなあ。 あの時計みたいな女の人と一緒なんて、由綺もちょっと可哀想だな。 忙しい時間も過ぎて、なんとなくお客さんもいなくなってきた。 空いたテーブルを拭きながら、あれは…? あそこのテーブルにいるのは、緒方…理奈ちゃん… じゃないか…。 緒方理奈といったら、現在、緒方プロダクションで森川由綺と人気を二分するトップアイドルだ。 由綺とは同い年のはずだけど、キャリア的には彼女の方が一年先輩で、実力の点から言うと、由綺よりもはるかに上って気がする。 よくは判らないんだけど、なんとなく…。 由綺が自然体すぎて、プライベートが気にされないのに対して、彼女の方は割とイメージで固められたところがあって、そのプライベートな姿はマスコミの前には徹底して現されない。 この店にもよく足を運んではいるみたいだけど、あんまり見たことがない。 入ってきた時はそうとは気づかなかったけど、突然こんな近くにいるかと思うと、なんか不思議だ。 ドラマか何かのエキストラになった気分だ。 どっかでカメラが回ってるみたいな感じ。 と、今日は割と年上の男の人と一緒だ。 友達かな…? ただの汚いおっさんっぽいけど… って、そんな詮索はやっちゃいけないな。 真面目に仕事を…。 「…だから、私に何度言わせるつもり…?」 え…? 落ち着いてるけど、明らかに冷ややかでいらついた口調で囁いたのは彼女だった。 TVとかで観てて、キツそうな娘ってイメージがなんとなくあったけど、その通りっぽいな。 「…俺だって何度も答えてるよ。おんなじことをさ…」 相手の男の人は、対極に、のらりくらりと答える。 よく見たら、このおっさんはよくこの店に来るお客さんだ。 芸能関係者なのかな…。 そうは見えないんだけど…。 「…あなた、答えてなんかいないでしょう」 彼女は冷笑する。 「たださっきから言い逃れしようとしているだけ…!」 今日はTV局でアルバイトだ。 アシスタントディレクター。 いわゆるAD。 さて、と、今日はこれから家庭教師の面接に行かなきゃ…。 アパートを出たところで、俺は改めて送られてきた書類に目を通す。 …うん、給料も良い。 交通費も支給ってあるけど、すぐ近所で徒歩でも行けるからこれは関係ないな。 教える相手は……… …蛍ヶ崎学園3年…… 3年生……? 小さく書いてあったから気づかなかったけど、これは俺の出した条件と違ってるぞ。 誰が好きこのんでこの時期の学生を相手にしたいっていうんだ。 …まあ、書類をよく読まなかった俺が悪いんだけど……。 考えてみれば、今頃になって家庭教師を頼む人間なんて、まともに勉強しようなんて考えてはいないはずだ。 ひょっとしたら楽な相手かも知れない。 嫌な相手だったら断っちゃえばいいし。 …相手……。 そう言えば、相手がどんなやつか見るのを忘れてた…。 …何やってるんだ、俺は。 俺は少し自分に呆れながら、書類を見る。 そこにはただ 『観月マナ』 って名前だけが記されてあった。 観月、マナ……。 …女の子みたいだけど……。 『観月』 …ここか……。 なるほど。 いかにも、あれだけ良い条件を出してもおかしくないような、お金持ちそうな家だ。 …まあ、落ち着いていこう。 ピンポーーーン。 …チャイムを鳴らしたけど、返事がない。 おかしいな、誰もいないなんてことはないはずだけど……。 ピンポーーーン。 …誰も出ない……。 留守…なのかな……。 …どうしたらいいんだろう……。 と、一度建物から離れかけた時、何かが俺の背中にぶつかった。 俺は慌てて振り返る。 …何か、じゃなかった。 学校の制服を着た女の子だった。 「痛った…」 「…あっ、ごめんっ。大丈夫? 怪我、なかった…?」 言いかけて俺は、はっと気づいた。 「あ…あの時の……」 この間、駅で俺の定期を拾ってくれた娘だ。 だけど彼女は、「…はい?」 どうやら覚えてないみたいだ。 「あ、いや、怪我はなかったかな…って……」 …俺のことを覚えていない娘に、改めてお礼を言うのも変だし。 仕方ない。 「私、別に大丈夫ですから…」 彼女は素っ気なく立ち去っていった…… …と、彼女はそのまま、今まで俺がチャイムを鳴らしてた家のドアに、ポケットから取り出した鍵をさし込んでいた。 「あれ?」 俺は思わず声を上げる。 「…君、ここの家の人…?」 「…そうですけど……」 「…観月さん……?」 「はい…? それが何か…?」 警戒の色も強く、彼女は答える。 「あ、あの、俺、今日この家の人と会う予定だった者だけど、何か聞いてない?」 「…今日ですか? いえ…」 「家庭教師の面接なんだけど?」 「えっ? …あ、そうなの?」 「私、てっきり女の人が来るとばっかり思ってた…。 あ、ちょっと待ってて」 言うなり彼女は、素早く家の中に入っていってしまった。 …一体、何なんだろう…? マナさんの妹か何かなんだろうけど、ああ見えても女子高生なんだ。 可愛いなあ…。 ドアが開き、私服に着替えたさっきの娘が出てきた。 「…あの、誰か家の人いないの…?」 「私だけ」 「マナさんか、お父さんかお母さんは…?」 「だから、私だけなの!」 決めつけるみたいに彼女は言い放つ。 「はあ……」 …困ったな。 俺、別にこの娘と遊びに来たわけじゃないんだけど。 でも、どのみちマナさん達が帰ってくるのを待たなきゃいけないわけだし、少しの間この娘と話でもしてよう。 留守番の妹さんの相手をしてて、マナさんやご両親に怒られるってことも、まあ、ないだろうし…。 「…で?」 つまらなそうに、彼女は呟く。 「家庭教師のお話しするんでしょう? 早く始めましょ…」 「え…」 私が責任持って承りますみたいな顔で、なに言ってるんだこの娘は…? 「いや。それはマナさん…お姉さん達が帰ってきてから…」 途端に彼女の表情がきつく変わり、ドカッ!! いきなり向こうずねに激痛が走った。 痛ったーーーーーーーーーーーーーっ!! 突然、彼女が俺のすねを蹴り上げた。 しかも思い切り。 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ…? どういう娘か知らないけど、これはちょっとひどすぎる。 「…君ね…」 俺は痛いのをどうにか我慢して顔を上げる。 「マナ」 「…判ったよ、じゃ…」 「はい。ご苦労様でした」 「…でも来週からちゃんと来るよ、俺」 「…判ったわよお。…好きにしたらいいでしょう…」 そして俺は、今日のところはおとなしく帰ることにした。 「もう少し詳しいことを話してくれないと…」 「話したでしょ…」 いらいらと彼女は言葉を遮る。 「大丈夫よ。どうせママ、家庭教師の紹介所とかにも良いように言ってるはずだし、少しはお金も払ったんじゃないの…?」 「それは判らないけど…」 でも、そうだとすると、紹介所の方がすごく熱心だったのもなんとなく判る気がする。 「だけど、なんでそんな…?」 「言ったでしょ。私の監視役。…絶対に『観月マナの行動を逐一報告せよ』なあんて言われてるんだから、藤井さんだって」 「…言われてないよ、そんなこと」 スパイだ、それじゃ…。 「どうだか」 自意識過剰っていうかなんていうか…。 「ねえ、なんでそんなこと考えるの? 俺はただの家庭教師だよ。君に勉強を教えるだけ、それ以上に何もするつもりはないよ」 「何も知らないくせに…」 …これ以上立ち入ったことは聞かない方がよさそうだ。 「判った…」 俺は立ち上がる。 今日は帰ろう。 でも、最後に一つ。 「ねえ、マナちゃん」 「なによ?」 「大学は受けるの?」 一瞬、彼女は言葉に詰まったけど、「…ふん」 と、小さな返事が返ってきた。 「…判ったよ。…でも、来週からちゃんと来るよ、俺」 「…判ったわよ…。…好きにしたらいいでしょ…」 そして俺は、今日のところはおとなしく帰ることにした。 彼女の家を出て、一度建物を振り返ると、なんとなく寒々とした感じがした。 …観月マナ…ちゃん…。 あの子供みたいな女の子を俺は思い返した。 あの時、駅で俺に優しく笑いかけてくれたのは確かに彼女だったと思ったけど、何か感じが違ってた…。 別人… なんてことは、ないと思うんだけど、でも…。 …ただいま…と。 あ、留守電にメッセージが入ってる。 ピーッ…。 『こちら家庭教師センターです』 『この度の観月さんの件ですが、 お引き受け頂けるとのことで、 大変お世話になります』 え……? 俺、そんな連絡、したっけ? 『それでは、来年の3月までということで、 よろしくお願いいたします』 …あ、まさか、マナちゃんが勝手に…? 『…それと、これは親御さんからのご要望ですが、 もし観月さんが学習にあまりに熱心でなかった場合は、 こちらにご報告をして頂きたいとのことです』 …なるほど。 監視役、ね…。 彼女の話も、ただの自意識過剰から出たものじゃないみたいだ。 『それでは、失礼いたします…』 ピーッ…。 どうなってるのか判らないけど、とにかく、マナちゃんはあんまり良い状況にはいないみたいだ。 ここで俺が断ってしまっても、どうせまた別の『監視役』が現れるんだろう。 適当に来てくれていいとも言われてることだし、敢えて断らなくてもいいかな…。 「おーい藤井くーん。ちょっとー」 FD(フロアディレクター)が呼んでる。 何だろう? いつもは『バイト』って呼ぶのに、今回は『藤井君』だ。 「何ですかー?」 FDのところに行くと、彼はちょっときまりが悪そうな顔をして、「確か藤井君、森川と仲良かったよな」 「ええ、まあ…」 局の人がプライベートなことを言うなんて珍しいな。 「あのさ、森川が今日ステージで着けるイヤリング、控え室の方に忘れてきたみたいなんだ」 「今、森川もマネージャーさんも最終チェックで手が離せなくて」 「はあ…」 「彼女のバッグに入ってんだって。悪いけど取ってきてくれないかなあ。君だったら森川の持ち物、判るだろう?」 「ええ、多分…」 「悪い。ちょっと行ってきてくれ。イヤリングはすぐ判るらしいから」 「あ、俺も早くチェックに戻らなきゃいかんから。じゃ、急いでな」 そして彼は、ぱたぱたとスリッパを響かせてステージの方に戻っていった。 仕方ない。 俺はすぐに楽屋の方に向かった。 控え室は、局の『皆できれいに使いましょう』なんていう小学校みたいな決まりごとが遵守されてて、白い壁が白いままに、局内では珍しく綺麗な空間となってる。 ええと…由綺のバッグは…? あ、あれだ。 長椅子の隅に置かれている布のバッグ。 中に淡いピンクのポーチが入ってた。 多分この中に…。 …あった。 専門家にしたら、こんな小さなアクセサリーでも、すごく重要なんだろうな。 俺にはちょっと判らないけど、とりあえず急いで持ってかなくちゃ。 と、行きかけた時、あれ…。 誰かテーブルの上に手帳を忘れてる。 誰のだろう…? 手に取ってみる。 いや、手帳じゃない。 上品な革張りのブックカバーをかぶった小説本だ。 由綺の…じゃないな。 こんなの持ってないはずだし。 その時、ドアが開き誰かが部屋に入ってきた。 「あら?」 不思議そうな声を上げたのは、緒方理奈ちゃんだった。 まずいかなあ。 俺一人が部屋の中にいるって図は。 「あれ? この間のバイト君?」 「いや、そのっ、由綺の、いや、森川の小道具を探しに来てて、その、もう見つかりましたから…」 なんだか言い訳しているみたいだ。 「あ、由綺の…」 思い出したみたいに彼女は大きく頷いた。 どうやらいつも由綺と一緒にいるところを覚えられてたらしい。 変な風に思われないといいけど…。 「ねえ、バイト君?」 「あ、藤井です」 「藤井…なに?」 「え? ああ、藤井冬弥っていいますけど」 「じゃあ、冬弥君でいいわよね。私も名前でいいから」 「理奈さん…でいいんですか?」 「なんだか目上の人を呼んでいるみたい、『さん』だなんて」 「お高いと思われると嫌だから、『ちゃん』でいいわよ」 「理奈ちゃん…ですか…?」 「『ですか』…?」 「え?」 「普通でいいわよ。別に」 「うん…」 「いいじゃない、みんなそう呼ぶんだもの」 むっとした顔を見せたと思ったら、「じゃあ、冬弥君。由綺には悪いけれど、ついでに私の探し物も手伝ってくれないかしら?」 と、申し訳なさそうな笑顔を俺に向ける。 「遅れたら、後から由綺にちゃんと言っておいてあげるから」 まあ、由綺の先輩に下手に逆らって、後で由綺の方に迷惑がかかるってのも困る。 少しくらいなら、言うこときいたって大丈夫だろう。 「多分この部屋にだと思うんだけど、小説忘れちゃったの。家に帰って読もうと思っていたのにうっかりしちゃって」 「革のブックカバーの文庫本、見なかった?」 「それだったらここに…」 俺は素直に手の中のものを差し出した。 「あ…それ」 彼女は本を受け取り、そして不審そうな表情を俺に向ける。 「あ…いや…。あの、たまたまそこにあったのを俺が見つけて…」 ますます言い訳がましくなる俺。 なんで言い訳しなきゃいけないんだ。 「…あ、り、理奈ちゃんも、やっぱり読書とかするんだ?」 咄嗟 とっさ に俺はこんなことを言ってた。 すると理奈ちゃんの顔から、警戒の(っぽい)色が消えた。 「ええ…。私だって本くらいは読めるわよ」 「あ、そういう意味じゃあ…」 やっぱり性格がキツいのかも知れない。 俺が慌てるのを見て、彼女は意地悪そうに、くすりと笑った。 「こう見えても文学少女なんだから、私」 面白そうに笑いながら、小説本をバッグの中に収める。 「で、冬弥君は?」 俺は、最近、彰の勧めで読んでみて、割と面白かった推理小説の名前を挙げた。 「へえ…」 『文学少女』相手に推理小説だなんて、ばかか俺…。 だけど理奈ちゃんは、「私も好きよ、その人の小説」 「あ、でもその本はまだ読んでいないから、内容話しちゃだめよ。判った?」 そう言って、真面目そうな顔を、俺の方に突き出してきた。 「うん…」 言いながら俺は、間近に見る彼女の顔がとても上品で、とても綺麗だと、改めて思った。 「うん! …じゃあ、どうもありがとう。本を見つけてくれて」 「いや、俺、別に…」 俺は赤くなって頭を掻く。 な、何か言わなきゃ。 「頭いいんだね」 「趣味がいいんだね」 「それじゃ…」 「頭良いんだね、理奈ちゃんって…。いろいろと本とか読んでるみたいだし…」 「うん。良いわよ」 理奈ちゃんは全く素直にそう言った。 「TVとかで観ていると、あんまりそうは思えない?」 「あ、そんな意味じゃ…」 俺は慌てて手を振る。 それを見て彼女はおかしそうに、でもどこか上品に、「あはははっ。なんだかすごく真面目な人なのね、冬弥君って」 そして、少し無理するように笑いを抑えて、「あ、笑っちゃってごめんなさい。気を悪くしないでね。…でも」 そして理奈ちゃんは、もう一度、「あははははっ」 俺の仕草のどれかが彼女のツボに入ったのか、それとも単純にからかわれてるのか、それも判らないまま、俺は理奈ちゃんを見つめる。 「…本当にごめんなさい」 「…またここでアルバイトはするでしょう? また今度、いろいろお話ししましょうね」 そして彼女は、少し笑いながら控え室を出ていった。 俺はただ呆然とそれを見送る。 …と、しまった! 俺はイヤリングを握り締め、速攻駆け出す。 力仕事ADの役目は収録が終わるまでとりあえず無いので、缶コーヒーなんかを飲みながら、モニターを眺めていられる。 ブラウン管の向こうの由綺は、確かに由綺だけど、俺の知っている由綺じゃない気がする。 俺の知っている由綺は、モニターのこっち側の由綺で、これとは違う。 理奈ちゃんも、そんな感じかな…。 コーヒーをだらしなく飲みながら、俺はそんなことまでをも、ぼうっと考えた。 「理奈ちゃんて結構趣味良いんだね。 なんていうか、上品で…」 彼女は一瞬驚いた顔を見せたけど、「ありがとう」 とだけ言って部屋から出ていった。 緒方、理奈ちゃん…。 俺はぼうっと思った。 ほんとは割と良い娘なのかも知れない…。 と、しまった! 俺はイヤリングを握り締め、速攻駆け出した。 力仕事ADの役目は収録が終わるまでとりあえず無いので、缶コーヒーなんかを飲みながら、モニターを眺めていられる。 ブラウン管の向こうの由綺は、確かに由綺だけど、俺の知っている由綺じゃない気がする。 「それじゃ…」 俺は彼女に手を振る。 「うん。冬弥君もアルバイトがんばってね」 理奈ちゃんはそう答えて、そのまま控え室から出ていった。 …緒方、理奈ちゃん… 俺はぼうっと思った。 ほんとは割と良い娘なのかも知れない…。 …と、しまった! 俺はイヤリングを握り締め、速攻駆け出した。 力仕事ADの役目は収録が終わるまでとりあえず無いので、缶コーヒーなんかを飲みながら、モニターを眺めていられる。 ブラウン管の向こうの由綺は、確かに由綺だけど、俺の知っている由綺じゃない気がする。 俺の知っている由綺は、モニターのこっち側の由綺で、これとは違う。 理奈ちゃんも、そんな感じかな…。 コーヒーをだらしなく飲みながら、俺はそんなことまでをも、ぼうっと考えた。 相手は自称文学少女だ。 俺はちょっと無理して、大学の授業で読まされた西洋の古典的名作を挙げた。 「…へえ。すごいのね…」 ちょっとは驚いてるみたいだ。 「…冬弥君って、そういうのが好きなのね…」 「いや、好きっていうか…。まあ、好きなんだけど…」 「他には?」 「…っええ?」 「他に好きなのは?」 仕方なく俺は、思い出せる教材を二つ三つ挙げた。 「ふうん…。本当にすごいのね、冬弥君の趣味って…」 「そんなことないよ…」 「ううん。充分すごいわよ、そのラインナップって。珍しいかもね、そういうの好きっていう人も」 「…そんな風に読むのって、大学の授業で教材として提示されて渋々読む人だけかと思っていた」 …バレて…る…? だけど理奈ちゃんは、悪戯っぽく笑って、「私にはちょっと退屈だったかな、そのあたりって」 「…ん、本、見つけてくれて、どうもありがとう。それじゃあ」 と、小走りに控え室から出てってしまった。 …あ……。 だけど俺もすぐに、イヤリングを握り締めて駆け出した。 力仕事ADの役目は収録が終わるまでとりあえず無いので、缶コーヒーなんかを飲みながら、モニターを眺めていられる。 ブラウン管の向こうの由綺は、確かに由綺だけど、俺の知っている由綺じゃない気がする。 俺の知っている由綺は、モニターのこっち側の由綺で、これとは違う。 理奈ちゃんも、そんな感じかな…。 コーヒーをだらしなく飲みながら、俺はそんなことまでをも、ぼうっと考えた。 「…ううん。俺、あんまり読まないんだ、本って…」 俺は申し訳なさそうに言った。 ちょっと頭悪そうかなとか思いながらも、自称文学少女に、好きでもない小説を、無理して好きだなんて言うよりはましだと感じた。 「あら? そうなの?」 やっぱり『期待外れ』って顔してる…。 ばかにされたかな…。 「私、てっきり本の好きな人なのかと思っちゃった。私の本を持っていたから」 「…ごめん」 「ふふふっ。どうして謝るの?」 「そんなの趣味の問題だから気にしないでしょう?」 「私は気にしないわよ」 「うん…」 …フォローされてるのかなあ、俺? 「あんまり気取られるのって、そんなに好きじゃないのよね、実際」 と彼女は外に行きかけて、「…あ、でも」 彼女は不意に立ち止まる。 「だったらどうして私の本を持っていたの?」 「…いや、だから、ここにあったから…、誰か忘れてったのかなって…」 さっきの警戒は完全に消えてるものの、やっぱり、じっと見つめられるとつい口ごもってしまう。 「すごく趣味が良かったから、誰のかなとか思って…」 「そう?」 「うん…。最初は手帳かと思ったんだけど、実はブックカバーだったからちょっと驚いちゃって」 「理奈ちゃんの持ち物だったって判ったら、なるほどなって納得しちゃったけどね…」 言わなくていいことまで言っちゃった。 彼女は一瞬驚いた顔を見せたけど、「ふうん…」 と、ちょっと笑って、「ありがとう」 とだけ言って部屋から出ていった。 …緒方、理奈ちゃん… 俺はぼうっと思った。 ほんとは割と良い娘なのかも知れない…。 …と、しまった! 俺はイヤリングを握り締め、速攻駆け出した。 力仕事ADの役目は収録が終わるまでとりあえず無いので、缶コーヒーなんかを飲みながら、モニターを眺めていられる。 ブラウン管の向こうの由綺は、確かに由綺だけど、俺の知っている由綺じゃない気がする。 俺の知っている由綺は、モニターのこっち側の由綺で、これとは違う。 理奈ちゃんも、そんな感じかな…。 コーヒーをだらしなく飲みながら、俺はそんなことまでをも、ぼうっと考えた。 …今日から、この新しい部屋で新しい生活が始まる。 引っ越しの荷物の片づけも、もう少しで終わるし。 親の気まぐれとはいえ、どうして大学一年の秋に引っ越しなんかしなきゃいけないのか、まったく理不尽な話だ…。 まあ、早いところ済ませちゃおう。 ピンポーーーン。 誰か来た。 部屋、散らかりまくってるんだけどな。 「はーい」 俺は返事をして玄関に向かった。 誰だろう…? 「おはよう、冬弥君…」 「あ、由綺」 「ちょっと…お話があるんだけど…いい?」 「え? あ、それじゃ…」 「中に入って。…散らかってるけどさ」 「うん」 俺に優しく笑いかけてる彼女は、森川由綺。 …俺の恋人だ。 高校の時、同じクラスで、しかも席が隣だった。 よく教科書や宿題を見せてもらったり、二人で無駄話をしたりしてた。 その距離的な近さが、俺達の心をも近く感じさせたんじゃないかって、そんな風に思ってる。 その頃から由綺は歌手の養成校に通ってたみたいで、高校の授業が終わると、すぐに帰ってしまう生活を送ってた。 …学校の中でも美人な方だったけど、その『つきあいの悪さ』みたいなのが、校内の男子のオファーを遠ざけてた理由だった。 そんな彼女と俺が恋人同士になったのは… ピピピピピ… んー…。 カチッ…。 夢…。 またあの時の夢みちゃったな…。 自分じゃそんなに深刻に考えてないつもりだったけど、こんな風に何回も夢にみるくらいだから、結構不安なのかもな…。 俺はぶるぶると頭を振る。 …なにを朝から一人でブルーになってるんだ、俺。 最近ちょっと会えないだけで、由綺はずっといてくれてるじゃないか。 それに、TVをつけたらいつだってそこで由綺は歌ってる。 あれから一年、考えてた以上に由綺の人気は上昇し、TVやミュージックショップのブラウン管に彼女の姿は頻繁に現れるようになった。 街を歩いてても、由綺の姿は何かのかたちで目にできる。 映像、音声、ポスター、etc…。 だから、全然寂しくなんてないはずなのに…。 俺は勢いよくベッドから降りる。 朝からこんなこと考えてたってつまらない。 さあ、学校に行こう…! ピンポーーーン。 「はーい」 こんな時間に誰だろう? ドアを開けるとそこには、「こんばんは、冬弥君。突然でごめんね」 「えっ…どうしたの、急に…?」 「うん、突然だけど…お願いしたいことがあって…」 「今、いい…?」 「あ、うん。大丈夫だよ。…上がってく?」 「ううん。いいよ、ここで。下に車待たせてるし」 「そうなんだ。なに? お願いって?」 「うん…冬弥君、明日、時間空いてる?」 「明日?」 「うん、朝から」 「まあ、大丈夫だけど」 それほど大事な予定とか入ってないし。 「ほんと? じゃあ、お願いなんだけど、明日一日TV局でADやって欲しいんだ…」 「AD?」 「…うん。私専属の付き人みたいな仕事になっちゃうんだけど…。細々とした小道具のセッティングだとか、簡単な連絡係だとか、そんな感じなんだ…」 「いいけど…。なんで今頃急に…? 電話でもよかったんじゃない?」 「それがね、いつもその仕事やってくれてる人が、ついさっきTV局の前で交通事故に遭ったんだって」 「へえ…」 そりゃ大変だ。 「…大したことはなかったみたいだけど、明日の収録で代わりの人がいないんだって…。誰でもいいって仕事じゃないから…」 「だから、慣れない人を代役に立てるより、私のことよく知ってる冬弥君にお願いした方がいいかなって思って」 「ちょうどこの近くを通ってたから、直接にお願いしちゃおうってことになって…」 「でも、ごめんね。プライベートに仕事は持ち込まないって言ったのに…」 「いいよ、由綺。そんなかしこまらないでよ。どうせ俺だって、明日は暇だし、手伝ってあげるよ」 「ほんと?」 「ありがとう! 冬弥君! ほんとに!?」 「ほんとだってば。…由綺、声が大きいって」 「あ、ごめん…」 「…ありがとう、冬弥君。 なんだかごめんね。いつも無理言って…」 「無理なんて言ってないよ。由綺、一生懸命やってるし」 俺は由綺の頭をくしゃくしゃと撫でる。 「うん…」 「じゃあ、ちょっと待ってて。弥生さんに知らせてこなきゃ」 「弥生さん?」 あれ、誰だっけ? 俺、確か知ってる…。 「冬弥君も知ってるでしょ? 篠塚弥生さん。ほら、私の…」 由綺が言いかけた時、「由綺さんのマネージャーです」 「あれ?」 由綺は驚いて後ろを振り返る。 「初めまして…ではありませんね。 私、森川由綺のマネージャーの、篠塚弥生と申します」 静かに頭を下げる彼女。 「弥生さん、冬弥君をそんな知らない人みたいに扱うのは止めてよー」 彼女は 篠塚弥生 さん。 一年前にデビューした時から由綺にマネージャーとして付いてる、専門のサポーターだ。 サポーターとはいっても、弥生さん自身、確か24歳くらいで、キャリアって点では由綺と同じルーキーのはずだ。 それなのにこの貫禄は…。 時々、由綺の口から彼女の話が出ることもあるけど、かなりの 辣腕 らつわん みたいだ。 こういうタイプの天才もいるんだな。 「遅いのでお迎えに参りましたが、何か?」 「ううん。あ、そうそう、冬弥君がね、明日手伝ってくれるって言ってくれたよ」 ピピピピ…。 うーーん…。 大学生になってから久しぶりに目覚ましの音を聞いた。 カチッ…。 今日はTV局にバイトに行かなきゃいけないんだ。 由綺の指名で、一日中由綺の側にいられるわけだから、いつものバイトと違ったわくわく感がある。 さ、行こう。 受付に自分がスタッフであることを告げて、由綺の控え室へと向かった。 『森川由綺』と書かれたプレートのあるドアを開ける。 何度かTV局でバイトしたことはあるけど、控え室ってやっぱりまだちょっと緊張する。 「おはよう、冬弥君」 「さすが。遅刻しないね。偉い」 これから仕事ってにも関わらず、いつもみたいに笑う由綺。 「ははは…まあねー…」 「おはようございます」 側に番人みたく控えてる弥生さん。 「今日一日、よろしくお願いします」 「あ…はい、こちらこそ…」 相変わらず事務的な態度。 でも、こっちもそれに合わせてしまうと由綺が余計な気を回しそうだったから、できるだけ気楽そうな対応をしてみせた。 「今日は冬弥君がずっとついててくれるから、なんだか安心して仕事できそうだよね」 「はは…なに言ってんだよ…」 「今日の藤井さんのお仕事といたしましては」 いきなり俺を遮って言葉を差し挿む弥生さん。 気が利かないっていうか…。 「私達に付いているのを常態として、FDやコックピットからの指示でその都度動いて下さい」 「はい」 「コックピット、ガレージの位置は?」 「判ってます」 「インカム等の使い方は?」 「大丈夫です」 俺はできるだけイライラを見せないように応えてゆく。 「以上です」 言い終えるとすぐに、俺を目線から外す弥生さん。 「がんばろうね、冬弥君」 「ああ…そうだね。由綺もがんばりなよ…」 再び何か言いたそうに俺を見つめる弥生さん。 おかげで100%の笑顔を由綺に向けられなかったじゃないか…。 何を考えてるのか判らないけど、俺、この人苦手かな、ちょっと…。 ぷるるるるるーーー。 カチャ。 「あ、冬弥君。こんばんは。私…」 由綺だ。 「こんばんは。今日もお疲れ様」 「うん…。ありがとう」 電話の向こうで由綺がはにかむのが判る。 「…冬弥君…。学園祭、もう誰かと約束しちゃった…?」 「え…?」 「うん…」 「別に…」 「うん…。もう、予定は入っちゃったけど…」 「やっぱり…」 「え…? どうかしたの?」 「うん…」 電話の向こうで由綺が遠慮深そうに口ごもる。 「あの、私…うん…もしかしたら…ってこと…だったんだけど…」 「ん?」 「…学園祭の日…もしかしたらなんだけど、お休み…もらえるかも知れなくて…」 「ええ…?」 そんな、急に。 「あ、ううん。もしかしてだから。うん…。多分…もらえないんじゃないかって気もするんだけど…」 「そんな…。ごめん、由綺。俺…」 「あっ! きっと休めないって思うからっ!」 休めるか休めないかはともかく、由綺、俺に 『一緒に行こう』って言いたかったのは間違いない。 「…休めるかどうか判らないのに、ほら、冬弥君を誘うわけいかないでしょ…?」 「うん…」 でも、『かも知れない』でも、今年こそ二人で学園祭に遊びに行けるって気分味わいたかったな…。 「ごめんね、冬弥君…。 じゃあ、また今度ね…」 「そうだね…」 会おうと思ったら会えない相手じゃないんだけど、でも、せめてこんなイベントくらいは一緒に楽しみたかったな。 「それじゃ、おやすみなさい…だねっ…」 「あ、うん。おやすみ。…わざわざごめん。電話までしてくれたのに…」 「ふふっ。いいよ。…それじゃ」 「うん…」 そして電話は切れた。 まあ、仕方ない。 せめて、明日は楽しもう…。 「いや…。別に誰とも予定は入れてないけど」 「彰でも誘って、適当にフリーマーケットでも回るかなって感じかな」 「そうなんだ…」 「どうして?」 「…私、なんかね、学園祭に遊びに行けそうなの…二日目、30日だけだけどね」 「え? うそ?」 いつもみたいに、仕事が入ってるんだって思ってた。 「ほんと。でね、もし冬弥君がその日に時間があったら一緒に行こうかなとか思って」 「急な話だから、予定入ってても仕方ないかなって思ってたけど。よかった…」 「そうだね。よかったよ、俺も。 彰とよりは由綺との方が楽しいかも知れないからね」 「あ、『かも知れない』だって。どうせ私は彰君みたいに可愛くはありませんけどっ」 そう言って由綺は電話の向こうで笑った。 学園祭に遊びに行けることがほんとに嬉しいみたいだ。 「じゃ、30日、駅前で待ち合わせね」 うきうきした声のまま由綺は電話を切った。 確か去年の学園祭は彰と回ってたっけ。 彰も彰で不器用なくせして、由綺と一緒じゃない俺に何かと気を遣ってくれたっけ。 今日は由綺と学園祭に遊びに行く日だ。 待たせるのも可哀想だから、ちょっと早めに出かけよう。 俺は待ち合わせ時間よりも10分ほど早く来て由綺を待った。 電車が入ってきて、大勢の人間が駅から出てくる。 多分この電車に乗ってたと思うんだけど…。 あ、いた…。 「あ、冬弥君ー」 「あ…」 俺は思わず呆けた顔になる。 帽子をかぶるでもなく眼鏡をかけるでもなく、由綺は全く普段の格好で来てる。 しかものんきに手まで振ってる。 「時間守ったよ、ちゃんと」 「うん、えらいえらい…」 俺は思わず由綺の頭を撫でる。 学園祭最終日の人出は予想を超えてすごいものだった。 俺は少し心配になってきて由綺の方をちらりと見る。 「あのさ、由綺…」 「なあに、冬弥君?」 「『なあに』じゃなくてさ、由綺、なんていうか、普段着でいいの?」 すると由綺は自分の服装を改めて見直して、「普段着じゃないよ。おしゃれしてるんだよ、ちゃんとー」 ちょっとむくれた。 「そうじゃなくて。グラサンとか、そういうのしないわけ?」 「え? なんで?」 「サングラスした方が可愛い?」 「いや、由綺にグラサンは、ちょっと似合わないだろうなー」 なんてのんきな会話だ。 「て、そうじゃなくて」 「由綺、一応TVとか雑誌とかに顔出してるわけだし。普通に顔出しちゃってて大丈夫?」 「そういうのってないの? ファンに追いかけられたりとか…」 「うん、ないよ」 またなんてのんきな笑顔をするんだ。 「私、そういうのあったことないの。全然普通に街歩いてたって誰も何も言わないし」 確かに今までそういうことはなかった。 かといって彼女がいつも派手なメイクでTVに出てるってわけでもない。 ステージ衣装は確かに身につけるけど、由綺のイメージが大きく変わってしまうってものじゃない。 ましてトーク番組とか雑誌になんて、それこそ今日の服装とそう変わらない普段着で(おしゃれか)出てるってのに。 「ほら、私って特別可愛いとかじゃないから、スタジオとかにいないと誰だか判らないんじゃない?」 そうかなあ。 普通の女の子とそんなに変わらないって言われるとそんな気もするけど。 そうなのかなあ…。 「それに私、そんなにカリスマってわけじゃないし…」 少しだけさみしそうに由綺は呟いた。 謙遜なんかじゃなく、本気でこんなことを言えてしまう、それが由綺のいとおしさだ。 「なに言ってんだよ、森川由綺ー」 俺は彼女の頭を脇に抱えこもうとしてみせる。 「きゃっ、やめてやめて。もお、冬弥君、やめてー。名前はまずいよー」 あ、やばい。 だけどそれでも、由綺は楽しそうに笑ってた。 「由綺、何か見たいものとかある?」 「うーん。あんまり考えてなかったから…」 「いいよ、冬弥君に任せる」 「うん…。じゃ、適当に見て回るけど、お兄さんからはぐれるなよ」 「子供じゃないよー」 「何か食べたくなったら、お兄さんに言うんだぞ」 「子供じゃないってばー」 「さてと、どこに行こうかな…?」 由綺が喜びそうなのは…。 「野外ステージ」 「演劇部公演」 最終日の今日のステージは、名前すら聞いたことないコンビの若手お笑いが前座を務め、そして、名前くらいなら聞いたことのあるアイドルがメインを飾ってた。 ふと、由綺はと見れば、彼女もまた俺に負けないほどの熱心さでステージを観てる。 研究熱心なのか、それとも純粋にこういうステージが大好きなのか…。 「由綺…?」 「うん?」 「面白い?」 「うん」 「…勉強になる?」 「うん」 けなげに頷く由綺。 「今日くらい仕事忘れなよ」 「うん…!」 「ねえ、見て見て…」 演劇部が公演会場と姿を変えた講堂の前を通りかかった時、由綺がジャケットの裾を引っ張った。 「ん? なに?」 「あ、そうだ。俺、これのチケット、美咲さんにもらってたんだ」 俺は一枚だけあったチケットをポケットから取り出した。 「由綺が今日来られるって知らなかったから、俺の分しかもらってなかったけど…」 「え…」 由綺は意外そうに俺の方を見る。 「それって…?」 「うん。この劇の脚本を美咲さんが書いてるんだよ。まあ、他にもいろいろとやらされてたみたいだけど」 「で、俺もちょっとだけ手伝ったら、もらっちゃって…」 「これが最終みたいだから、美咲さんも多分いると思うよ」 「…………」 「…私が冬弥君と一緒でいいのかな…?」 「え? どういうこと?」 「…それって…美咲さん、冬弥君と一緒に観たかったってことじゃないのかな…?」 「だからチケットを冬弥君に一枚だけくれたんじゃないの?」 「…そんな。そんなの考えすぎだよ、由綺…」 「そうかな…?」 「…どう考えても美咲さんはここにいるわけだし。そこに冬弥君が他の人を連れてくるなんて、私だったら、ちょっと嫌かな…」 「そ、そんなことあるわけないってば」 「じゃ、美咲さんが俺のことを、そういう意味で誘ったっていうの?  …俺に、由綺がいるってのに…?」 「う…うん…」 そこを指摘されて、由綺は自信なさそうにうなだれる。 「…そうだけど。美咲さん、そんな人じゃないけど…」 「だろ? …由綺、どうかしてるよ。美咲さんをそんな風に言うなんてさ。 ちょっと由綺っぽくなかったよ」 「う、うん」 「…そうだよね。美咲さん、そんな人じゃないもんね、絶対」 「冬弥君はひょっとしたら浮気しちゃうかもだけど」 「なんだよそれー」 俺は由綺の頭を軽く小突く。 「ふふふふっ」 「…うん。ごめんなさい、変なこと言っちゃって」 「じゃあ、観に行こ」 「罰として今日は由綺の分のチケットは自腹ってことにしよう。決まりね」 「えー? そうなのー?」 とか笑いながら、俺達は人混みの中から受付を目指した。 舞台は、大学の演劇サークルのものとは思えないほどの迫力で、俺は始終圧倒されっぱなしだった。 美咲さんのストーリーもひどく感動的なものに演出されてた。 妙なケレンや嫌味な芸術性などのもなく、美咲さんの世界観をそのまま前面に押し出して、演劇部全員が正面から勝負しているって感じだ。 胸を締めつけられるようなわびしさに隣を見ると、由綺が、流れる涙を拭こうともしないで舞台に観入ってた。 舞台が終わっても、俺達はしばらく席から立ち上がれなかった。 「…美咲さん、どこだろ? いるって言ってたんだけどな…」 「うん…」 「…きっとまた、演劇部の連中につかまって、後片づけとかやらされてんのかも知んないね」 「美咲さん、そういうの断れないから…」 「うん…」 「そうだね。美咲さん、人が良すぎるから」 「…手伝ってあげたいけど、私達が行ったらなんか変だしね…」 「そうだね」 俺の目にも、由綺が必死に明るく振る舞ってるって判った。 ちょっと胸が痛かった。 それから俺は、由綺を送って駅まで歩くことにした。 「あ、そうだ。俺、これのチケット、美咲さんにもらってたんだ」 俺は美咲さんにもらった二枚のチケットをポケットから取り出した。 「え? 美咲さんが?」 「うん。…何を隠そう、この舞台の脚本を書いてるのは我らが美咲さんっ」 「ほんと!?」 由綺は素直に驚く。 「そうそう。そして何を隠そう、そのお手伝いをしたのが我らがこの俺っ」 「ほんと!?」 …同じリアクション…。 ま、いいや…。 「…まあ、そんなわけでチケットをもらえたんだけど…」 ちょっとはずしたっぽい雰囲気をごまかそうとしながら、俺はふと気がついた。 「どうしたの…?」 「うん…。入れるかな、これ…?」 「え?」 由綺も振り返る。 小さな講堂が会場なんだけど、その周りに、観客だか関係者だか、すごい数の人がひしめいてる。 「…これ、入れるかなあ…」 「さ…さあ…」 俺と由綺が途方に暮れてると、誰かが建物の方から声をかけてきた。 「藤井君?」 「あ、藤井君、来てくれたんだ。由綺ちゃんも一緒だね」 「美咲さん!」 見ると美咲さんが建物の方で手を振ってる。 「ごめんなさい、藤井君。せっかく来てくれたのに。最終公演なんて言っちゃって」 「…こんなに人が集まるなんて思ってもみなかったから…。私もそうだけど、演劇部の人達もびっくりしてるみたい…。こんなに人が来ちゃうなんて」 「あれ、全員観客なの? すごい…」 「うん…。最終公演だからちょっと人が多いみたいなの」 「美咲さん、すごいよ!」 突然感動したように由綺が叫ぶ。 美咲さん信者の血が騒ぐって感じだ。 「美咲さん、舞台まで創れちゃうなんて、すごい才能!」 「そんな…」 ますます照れる美咲さん。 「由綺ちゃんにまでそんな風に言われると… また恥ずかしくなっちゃうよ…」 「演出は、大部分演劇部の人がやったんだから……私が創ったわけじゃないわよ…」 「ううん。脚本ってことは、台本も書いたんでしょ? それでこんなに人を集めちゃえるなんて」 由綺、そろそろやめにしよう。 賞賛しまくりたいのはやまやまだけど、美咲さん、こういうのにはすごく弱いんだ。 「…あはは……」 みろ、美咲さん何も言えなくなっちゃった。 「ほら、由綺。そろそろ始まるんじゃない? 客席の方に行かなきゃ」 「あっそうか」 「…でも、座れる席、残ってるかな…?」 「あ、そうか…」 というより、無いだろう。 「どうしよう…」 「…いいよ由綺、俺達立ち見だって…」 言いかけた時、美咲さんが俺を遮った。 「…最前列に関係者席っぽいのが取っておかれてるけど…そこでよかったら座れるかも…」 「ほんとに?」 「え、ええ…」 再びはにかむ美咲さん。 しまった。 俺まで一緒になって、また…。 「もう一つくらい頼めば、誰か、そのチケット譲ってくれるかも…」 「え? でも俺、この前も二枚ももらってるのに?」 「いいわよ、気にしなくても」 「久しぶりに一日中遊んじゃった」 「うん。ほんとに久しぶりだよね。 でも、また明日から仕事なんだろ? …もう少しゆっくりしててもよかったんじゃない?」 「ううん。それじゃあせっかく来られたのに、冬弥君と遊ばなきゃもったいないよ」 「ははっ。そうだね」 駅まで歩きながら、ふと心に浮かんだことを 由綺に訊いてみた。 「あのさ、由綺…」 「なあに?」 「…今日、うちの大学にも来てたよね、若手のアイドルとか」 ぷるるるるるーーー。 俺は電話の音に目を覚ます。 うっかり眠ってしまってたみたいだ。 「は…はい…藤井です」 いかにも眠そうな声。 「あ、冬弥君? …由綺だけど…?」 「あれ、由綺…?」 「やっぱり冬弥君だ。なんだか違う人みたいだったから。ふふふっ」 寝ぼけてましたなんて言えそうもない明るい笑いだ。 「…冬弥君にはほんとに悪いと思うんだけど、またお願いがあるの」 「お願い? 明日ADに来いとか?」 「うん…」 当たりか。 「今の撮影が終わるまでだから、多分、明日と明後日の二日間になっちゃうと思うんだ」 「冬弥君、学校とかもあると思うから、そんなに無理しなくてもいいんだけど…」 「んー…」 どうしようか? 引き受ける ごめん… 「なにが無理なんだよ。由綺が頑張ってるのに俺がそんな断るわけないって」 「いいよ別に。手伝いに行くよ」 「ほんとに? 無理してじゃなくて? ありがとう!」 電話の向こうで、由綺はほんとに嬉しそうだ。 「どうせ前にやったことと同じ仕事だろ? 楽勝だって」 「うん。弥生さんがね、冬弥君のお仕事を気に入ったみたいなの」 「…え? そうなの?」 なんだか意外な展開。 「今までやってくれてた人が怪我しちゃってて代打が必要になってるんだけど、冬弥君だったらちゃんとやれそうだって。それで…」 「ふうん…」 弥生さんを見てた限り、そんな感じは全く受けなかったけど…。 でもまあ、仕事は少しきついけど、由綺と同じ仕事場にいられるってのは嬉しい。 「…判った。まあ、彼女の期待を裏切らないようにだけはするよ」 「うん。がんばろうね」 「がんばろ」 「じゃあ、明日も早いから、今日はもうおやすみなさい」 「あ…ごめん由綺…。俺、ちょっと…」 一生懸命な由綺には悪いとは思ったけど、俺は断ることにした。 「う、うん…」 『無理しなくていい』なんて言ってくれても、やっぱり由綺、ちょっとがっかりしてる。 言葉で『俺の生活』とか『由綺の生活』なんて言えても、それをはっきりと区別するのは難しい。 でもそれは、区別する時はやっぱり区別しなきゃ。 いくら頼まれたからって、自分の方の予定を潰してまで由綺のところに駆けつけるのはどうかって思う。 下手するとそれは、由綺の頼みをきいてあげてるんじゃなく、アイドル森川由綺にかしずいてるだけに過ぎなくなるかも知れない。 そんなことを、由綺は決して望んじゃいない。 …なんて思ってても、なかなか割り切れないんだけど。 今だってこんなにすまなく思っちゃってるし。 「…ごめんね、無理言っちゃって。じゃあ、別の人にどうにかしてもらうね」 「…こっちこそごめん…」 「あ、気にしないでいいよ」 「冬弥君が一緒だといいな…なんて、私も少し甘えてたから。ほんとに気にしないで。…じゃあ、おやすみなさい」 「うん…」 由綺を手伝ってあげられないどころか、慰められさえもしてしまう自分に、ちょっと嫌悪感を抱いた。 「おやすみ…」 そして電話は切れた。 ピピピピ…。 ADも立て続けとなると、さすがに…。 動き回るか立ってるか、どっちかの仕事だからな。 なんてぐずぐずしてても仕方ない。 さっ、出かけよう。 「おはようございます」 「おはよう」 「…冬弥君、疲れてるみたい…。 大丈夫…?」 「由綺が心配するほどには疲れてないよ」 心配そうな彼女に、俺は笑いかける。 由綺はもう既にステージ衣装だ。 今日はいつもよりも早く来て準備していたみたいだ。 そう。 由綺に比べたら、たった二日三日ハードな仕事したくらい何でもない。 「…どうってことないって。やってて結構楽しいよ、この仕事」 「うん…」 さすがに見え見えの強がりか。 「おはようございます」 弥生さんは今日も変わらない。 「とりあえず、藤井さんのお仕事は今日が最後です」 「後片づけなどもございますが、よろしくお願いします」 「はい」 お願いします、って。 由綺はともかくとして、この人からは少しねぎらいの言葉が欲しいなあ。 「それでは、由綺さん。参りましょうか」 「あ、はいっ」 「冬弥君も大変だけど、今日も頑張ろうね」 「楽勝」 そして俺達はスタジオに向かった。 『撮影中』 撮影は、時間通りに無事終了した。 俺はどうやら、この後も撤収作業を手伝わされるみたいだ。(やっぱり) 「冬弥君、お疲れ様。よくできました」 振り返ると、そこにステージ衣装のままの由綺がいた。 「そっちこそお疲れ。今日の撮影、なんかよかったよ。…うん、素人に何が判るってわけじゃないけど、でも、よかったよ」 「ほんと? 嬉しい」 「…今日も一緒に帰れるかな…?」 「あ、いや…」 俺はそっとかぶりを振る。 「今日は撤収を手伝わなきゃだめだと思うから。…ごめん」 「…今日は弥生さんに送ってもらいなよ」 「そうなんだ…」 「じゃ、私ちょっと待ってようか?」 「…由綺、明日も仕事あるんじゃないの?」 「いいよ別に。俺を待ってなくたって。今日だって疲れてるんだろ?」 「え? 大丈夫だよ、そんな」 「私、そんなに疲れてるなんてことないし…」 「無理しないで、先帰ってていいって」 「由綺に無理させて倒れられでもしたら、俺が怒られちゃうよ。…バイトもくびになるかも知んないし…」 そして俺は笑いかける。 由綺も聞き分けてくれたらしく、少しだけ微笑んだ。 「うん…ありがとう」 「大変だけど頑張ってね」 「いいって」 俺は手を振って笑ってみせる。 「じゃ、私、先に帰るね」 「俺も終わったら速攻で帰るよ」 「今夜はぐっすり眠って、ちゃんと疲れをとってね」 「ああ、寝る寝る。由綺の3倍は寝る」 「あはははっ」 「あ、そうだ。明日と明後日、私、お休みもらってるんだけど、冬弥君、どうかなあ…」 「どうって?」 「…ん? …久しぶりにお休み取れたんだから、たまには遊びに行きたいかなって思ってたんだけど」 「俺と?」 「うん」 「二人で?」 「うん…」 言いかけて由綺は、「あ……」 「由綺に休みがあるなんて珍しいね。これは行かなきゃもったいないよね。うん。行こう行こう」 「やったっ」 「じゃあ、明日?」 「…待ってよ」 由綺、タフだなあ…。 「ここのところ由綺、毎日仕事してたろ? だったら、せめて明日は休みなよ」 「あっ、そうか」 無休の仕事にはもう慣れちゃったのかな。 「じゃあ明後日だね。駅前で待ち合わせってことでいい?」 「それでいいよ。俺もちょっと楽しみ」 「そうだね」 「…それじゃあ、今日はお先に失礼します」 「…ほんとに待ってなくていい?」 まるで由綺の方が俺の付き添いででもあるみたいに、心配そうな目で俺を見る。 「気にするなって。俺は俺の仕事をこなして、由綺は由綺の仕事に集中する、って約束だったろ」 「…いいから、ちょっと休みなよ。由綺は人に優しすぎるって」 「そうかなあ…」 「そうそう。由綺だって疲れてるんだから、たまには人のこと忘れて眠りなって」 「…じゃ、そうする。ぐっすり眠る。冬弥君みたく眠る」 「俺を変な形容に使うなよ…。うん、判った。それじゃ、今日はお疲れ様でした」 「冬弥君もお疲れ様でした。それじゃ、おやすみなさい」 「おやすみ」 最後だけ形式っぽい挨拶で、俺達は別れた。 「…ごめん、由綺…。俺、その日、もう予定入れちゃってるんだ…」 「えっ…?」 にわかに由綺の顔から笑みが消える。 「…ごめん」 俺は頭を下げる。 「え…?」 「あ…。ううん、いいんだよ冬弥君。そんなそんな謝んなくたって、そんな…」 「ほんとはもっと早くから誘わなくちゃいけないのにね。…今回急にお休みもらえちゃったから、つい嬉しくなっちゃって…」 「冬弥君の予定とか考えるの、全然忘れちゃってて…。私の方こそごめんなさいだね」 慌てて弁解する由綺に、俺はそっと顔を上げる。 「…冬弥君、そんな顔しないで」 「今度、うん、じゃ今度のお休みは一緒に遊びに行こうよ」 「そうだね」 「それじゃあ、今日は、お先に失礼します」 「…うん」 「…でも、ほんとに待ってなくていい?」 まるで由綺の方が俺の付き添いみたいに、心配そうな笑みで俺を見る。 「気にしないで。…いいから、少し休みな」 「うん、そうするね。ぐっすり眠る。冬弥君みたく眠る」 「俺を変な形容に使うなよ。…うん、それじゃ、今日はお疲れ様でした」 「お疲れ様でした。それじゃ、おやすみなさい」 「おやすみ」 ガチャ。 ただいま…。 あれ? 手紙が来てる。 …由綺からだ。 中には由綺からの手紙と、数枚のペーパーと、チケットが一枚入ってた。 クリスマスライブのチケットだ。 俺は手紙を読む。 そこにはライブの詳細が記されてあった。 そのクリスマスライブはTV局主催のコンサートで、12月20日から25日に渡って、売り出し中の歌手達が局のコンサートステージに現れる。 そして24日の夜に、由綺はそのステージを踏む。 由綺には確実なステップのはずなのに、俺にはどうしてだか、また大きな一段を越えていったように思えた。 …すごく嬉しくて、そして、少しだけ寂しかった。 コトン…。 あれ? 手紙が来たのかな…? ピザ屋の広告だったら嫌だなとか思いながら、俺は立ち上がる。 手紙だった。 …由綺からだ。 中には由綺からの手紙と、数枚のペーパーと、チケットが一枚入ってた。 クリスマスライブのチケットだ。 俺は手紙を読む。 そこにはライブの詳細が記されてあった。 そのクリスマスライブはTV局主催のコンサートで、12月20日から25日に渡って、売り出し中の歌手達が局のコンサートステージに現れる。 そして24日の夜に、由綺はそのステージを踏む。 由綺には確実なステップのはずなのに、俺にはどうしてだか、また大きな一段を越えていったように思えた。 …すごく嬉しくて、そして、少しだけ寂しかった。 …今夜は、由綺の初のソロライブだ。 始まるのは夜遅くからなんだけど、今からわくわくしちゃってる、俺。 ちょっとかっこ悪いかな…。 ぷるるるるーーー、わ…! いきなり電話だ。 びっくりした…。 カチャ。 「はい、藤井ですけど…」 「あ、冬弥? まだ出てないんだ?」 なんだ、彰か。 驚かせるなよ。 「まだってなんだよ? 別に家にいたっていいじゃない」 「だって今日、由綺のライブなんでしょ?」 「うん…」 さすがに彰も知ってるか。 「でも、結構遅くからだよ」 「知ってる。冬弥のことだから今から出かけちゃってるんじゃないかって思って」 「そ、そんなわけないだろ…!」 だめだ。 そわそわしてるの、彰にすら見抜かれてる。 「僕もさ、ほんとは行きたかったんだ」 「あ、そうだよ。行かないわけ? 彰は?」 「うん…。チケット取れなかったんだ」 「そうなの?」 「…なにのんきな声出してるんだよ? どうせ冬弥、由綺に直接もらったとかそういうのでしょ?」 「う、うん…」 彰、今日は連続で鋭い…。 「冬弥も由綺も、もう少し早く言ってくれたら予約もできたんだよ。何も言ってくれないんだもん」 あ、そうか。 道すがら買った花束を抱えた俺が会場に着いた頃には、そこはもう人でいっぱいだった。 中高生くらいのグループから、俺と同年代か年上くらいの人達まで、息を白くさせて、それでも楽しそうに並んでる。 …この人達はみんな、自分のクリスマスイヴの何時間かを、由綺に会う為だけに使ってるんだ。 ステージの上で歌い、踊り、そして微笑む由綺に会いに来てるんだ。 特別な、多分特別な愛情を持って。 いろんな、自分だけの由綺を求めて。 アイドル、或いはカリスマ、自分だけのスーパースターとして。 俺は、由綺の恋人なんて言っておきながら、由綺に対する愛情という面で、ここにいる人間全員に勝ってるんだろうか。 ここに並んでる全員に誇れるんだろうか…。 そして由綺を愛してる人間はここだけじゃない、もっと広く巨大なレベルで存在してるんだ。 まだアルバム一枚出してない、今夜二十歳になったばかりの頼りない女性なのに、こんなにも愛され、人を集めてしまう。 そんな中で、俺は、どんな風に『自分だけの由綺』を考えたらいいんだろう…。 だから、ここに来たのか…。 由綺に会いに来た。 それだけなんだけど、だけど、それだけなんて決して言えない。 …これからの俺と由綺、正直言って、どうなるかなんて判らない。 考えたくなんてないけど、最悪の場合も、それもあり得る未来なんだ。 …だからせめて、この目に、全て、焼きつけよう。 この夜の温度も、明るさも、ざわめきも、その中に立つ俺も。 そして、ステージの上に輝く由綺も。 俺の眼に、心に、焼きつけよう…。 そして、会場のエントランスは開かれた…。 薄暗い照明の中、俺は係員に誘導されながら自分の席に向かう。 由綺がくれたのは真正面からステージを観られる特別席だ。 俺はそこに静かにおさまって、ただ、待っている。 由綺が、ステージに登るのを。 いつもこんな感じで、俺は、いつも…。 だからせめて、俺は由綺を待たなきゃいけない。 由綺を、見続けなきゃいけない…。 照明が落ちる。 演奏が始まる。 由綺の初めてのソロライブが、始まった。 たった数時間のライブコンサートはそれなりに華々しく終焉を迎え、小さなアンコールをも終えた。 一度完全に照明が落ち、そして再び客席の方に黄色い灯りが戻ってくる。 俺はしばらく自分の席にすわってぼうっとしてしまってた。 楽しい夢の途中で不意に朝を迎えてしまった、そんな気分だ。 だけど、充足感に満ちていた。 緒方英二の手による舞台演出やライブの構成、意匠を凝らした照明と音響の美術などに圧倒されたというのもあるけど、何よりも、俺は由綺に魅了されてしまってた。 恥ずかしい話だけど。 この魅力的な楽曲の数々を創り出したのはあの英二さんなんだろうけど、俺はステージの上の森川由綺に釘づけにされてた。 由綺の歌声、由綺のダンス、歌の間のちょっとした仕草、そういったもの全てが俺を感動させた。 歌と歌の合間のトークは確かにまだたどたどしく、不慣れな様子だったけど、俺はむしろその不思議な感動を加速させられた。 由綺は…。 もう、こんなステージの上でマイクを握るようになってたんだ…。 由綺が頑張ってるのを知らないわけじゃなかったはずなのに、見てないわけじゃなかったはずなのに…。 俺は心から拍手を送りながらも、それでもやっぱり、少しだけ寂しかった。 満足した寂しさ。 幕の下りたステージと人がまばらになってゆく客席と。 ひどくひどく甘い味のする、この寂しさ。 俺はただぼうっと座ってる。 こんな特別な日なのに、俺がこんな指定席に座ってること以外に、なんでもない日常と変わることない夜。 …あのステージの向こうに、ほんとに由綺はいるのかな…。 …あのステージの向こうで、由綺は俺の存在に気づいてるのかな…。 次々に席を立ってゆく観客達。 館内アナウンスが、緩やかな退場を うなが す。 そして、俺はどうしたらいいのか判らない。 由綺に会うって…こういうことだったのかな? 少し わ びしさの混じった感動のまま、仕方なく俺は立ち上がる。 舞台が終わったら、観客は去らなきゃいけない。 その時、「あれっ、藤井君。藤井君は観客整理なの?」 覚えのある声が聞こえてきた。 ステージの方からだ。 見ると、TV局で一緒にバイトしてたスタッフの一人が、非常口から顔を覗かせてる。 「そっち、まだ早いからさ、ちょっとこっちの方手伝ってくんない?」 どうやら俺をステージスタッフの一人と勘違いしてるみたいだ。 そこで俺は、不意に思いついた。 もし由綺の周りのスタッフがいつもと同じなら、そこに俺が紛れ込んでたからって不審に思う人間は少ないはずだ。 どのみちバレるだろうけど(弥生さんもいるだろうし) 一瞬だけでも由綺に会うことはできるかも知れない。 「あっ、すいません。俺、他のことやんなきゃいけないんで!」 俺はそのスタッフに頭を下げて、反対側の非常口に駆け出した。 上着を脱いでバッグと花束と一緒に廊下の長椅子に放り、わざと無造作に腕まくりをする。 俺がTV局で働いているところを見知ってる人間なら、これで誰も俺のことを怪しまないはずだ。 館内の案内板を見るのももどかしく、俺は由綺のいるだろう楽屋に向かって走った。 廊下に楽屋のドアが並んでる。 この中のどれかに由綺がいると思うんだけど…。 突然、俺の後ろから何か巨大なものがぶつかってきた。 「…!?」 「おっとごめん」 「お? 大丈夫か?」 「え? ええ…」 手を差し出しているその男の人。 それは英二さんだった。 「だ…大丈夫です…。自分で立てます…」 「そうか」 この人は俺を知ってるけど、俺と由綺とのことは、どの程度まで知ってるんだろう…。 場合によっちゃ危険かも知れない。 「俺、今から由綺ちゃんの控え室行くんだけど…藤井君、行くかい?」 「あ…はい…」 思わず返事してしまった。 はるかに匹敵するようなのんきな口調で、今日のこの威圧感は何だろう…。 「藤井君、今日のステージは楽しめた?」 「あ。…ええ、勿論…!」 さっきまでの光と音と空気を思い出しながら俺は答えた。 あまりみっともなくないほどに興奮を押し隠して… あ…。 考えてみれば、スタッフがのんびり由綺のステージを眺めていられたはずはない。 こんな風に『楽しめた』反応など見せられるわけがないんだ。 「あ、あの、俺…」 慌てて離れようとする俺に、彼は笑いかける。 「まあ、いいんじゃない。そんなうるさいこと言わなくたって」 「はあ…」 俺はびくびくしながらも、彼の後についてく他なかった。 途中、他の(本物の)スタッフの人と出会ったけど、彼と一緒にいる俺をあえて 見咎 みとが める者は誰もいなかった。 「お疲れー。緒方ですけどー、由綺ちゃんいますー?」 まるで近所の友達みたいに英二さんは控え室の中に声をかける。 「あ、はいっ」 奥の方から素直な返事が聞こえた。 「はいっ、緒方さん。お疲れ様ですっ」 「えっ?」 メイクを落としたばかりの由綺が椅子から立ち上がる。 最後の『えっ』は英二さんの隣に立ってる男、つまり俺に向けられた言葉だ。 「…あ、あれ…? 冬弥君、どうしてここに?」 そして、英二さんに向かって、「彼、何かしたんですか?」 「何かしたの?」 今度は英二さんが俺に尋ねる。 俺は慌てて首を横に振る。 「何かするやつなの? 彼?」 今度は由綺に尋ねる。 由綺も大きくかぶりを振る。 「なら、いいじゃない」 「あら」 俺達の声を聞き、奥から弥生さんが近づいてきた。 …まずい。 「あら…なに?」 「いえ」 「あ、そう。…弥生さん、コーヒーちょうだい」 そう言って英二さんは弥生さんを追いやるように部屋の奥へと入っていった。 「…冬弥君…ほんとに…来てくれたんだ…」 「うん…」 俺は少し照れながら答えた。 「絶対に会いに行くって、俺、言ったじゃない」 「うん…」 「…嬉しい…ほんとに。最高のクリスマスだね」 「あと、誕生日も」 「あ、そうだね」 言いながら俺は、手ぶらでこの部屋に入ってきてたことに気づいた。 さっき廊下に荷物も花束も全部放ってきてしまたんだ。 「あ…」 「え?」 「なに? 冬弥君?」 「あ、ごめん…プレゼント…」 「え…?」 「あははっ。気にしないで、冬弥君」 「…だって、こんな風に、冬弥君、私のところに、直接会いに来てくれたんだもの」 「私…それだけで…他に何も要らないよ…」 「…由綺」 「…なんてね。実を言うと、私も何もないんだ。時間が無くって…」 「ごめんね、冬弥君、今度は絶対にプレゼント交換しようね。二人で…」 「あ…。うん。絶対にね」 「(…いいねえ、こういうケナゲな恋愛ってのはね)」 「(…………………)」 「(…弥生さんは、こんな身を焦がすようなダイレンアイを経験なさりました?)」 「(…………………)」 「…ステージ…絶対に観に来てくれるって、思ってたから…。だから私、すごくがんばったんだよ」 「うん。すごかった…」 俺は本当の気持ちを言った。 「本気で感動したよ、俺…」 「(…………………)」 「(俺もないよ、そんな経験。うらやましいよね、彼ら。たとえば、そこにある、リボンの巻かれた小箱ね…)」 「(…………………)」 「(あれは、由綺ちゃんが俺にクリスマスプレゼントー…なんてことはあり得ないわけだ)」 「(…………………)」 「(…じゃあ、不思議だな。あれは、いったい誰にあげるはずのプレゼントだったんだろうね。ね? 弥生さん?)」 「(…………………)」 「…なんだか、冬弥君に改めて舞台のこと言われると、ちょっと恥ずかしいな…」 「え? そうかな…?」 考えてみれば、俺はこれまで由綺の仕事に関しては口出ししないように気をつけてた。 「…でも、ほんと、最高のライブだったと思ったよ、俺…」 「…うん。ありがとう…」 人がまばらになったあたりから、俺達はにわかに駆け出す。 真夜中の檻から逃げ出すみたいに、俺達は駆け出す。 「…あははっ。大成功だったね…」 もう終電も終わってしまった駅前で俺達は一息つく。 ずっと走り通しで、俺も由綺もひどく息があがってる。 …と、由綺は。 「…由綺?」 「冬弥君…。綺麗…」 ぼんやりと呟く由綺の姿を、背後のイルミネーションが はかな げに照らし出していた。 「でも、それは仕方ないじゃない」 俺はできるだけ元気良く答えた。 確かに、これからますます由綺に会えなくなってしまうなんて、俺だってつらい。 だけど、由綺は自分の生活を全然ないものとして、たった一人でがんばっているのに、俺の方だけわがままを言うなんて、そんなことはできるはずがない。 「そんなに甘えてんの、由綺らしくないよ」 「大丈夫。俺、ずっと由綺のこと見てるからさ。 いつも側にいてあげられるわけじゃないけど、でも、ずっと見てる」 俺にできること。 せめて、こんな強がり。 「…そうだよね。冬弥君、ずっと私のこと見ててくれるもんね…」 安心するように、それでも、俺と約束するみたいに、由綺はしっかりとした笑みを浮かべてみせた。 「それは、嫌だな、俺…」 これまでずっと、仕事に追われる由綺に何もしてあげられなかった俺。 せめて、一緒にいることだけでもしてあげたかった。 だけど、その『せめて』さえもしてあげられなくなるんだ。 この、全部が嘘みたいな世界の中に由綺を一人きりにして。 「もう、俺、由綺のことを…」 一人にさせたくない、そう言おうとした時、由綺は不意に俺に笑ってみせた。 「だめだよね、こんなこと言ってちゃ。冬弥君だって、ずっと私と会えなかったのに、今までそんな弱音吐いたことなかったのにね」 しっかりとした笑みを浮かべる由綺。 俺の呟きは、由綺の耳に入らなかったのかな? それとも、俺がそんなことを言いかけたから… なのか…? どっちにしても、俺は逆に由綺に助けられた。 由綺だってつらいんだ。 少なくとも、俺と同じくらいかそれ以上に。 俺には美咲さんやはるかや彰がいつもいてくれたけど、今の由綺には、誰かいてくれるのか? つらいけど、弱音を吐くのは、俺の方じゃない。 俺の方じゃいけないんだ。 「ごめん…」 だけど、それを先に言ったのも、やっぱり由綺の方だった。 「ごめんね。こんな弱いこと言ってちゃ、だめだよね。やっぱり」 そして俺の目をまっすぐに見つめる。 由綺の熱心な眼差しは、いつも俺を和ませ、心強くする。 ほんとは、逆じゃなきゃいけないのにな…。 俺は少しだけ弱々しく思う。 「でもね…」 その眼差しのまま、由綺が言った。 「私もできるだけ仕事とか練習の間に時間見つけて、冬弥君のところ行くようにするね。そのくらいなら、いいよね?」 甘えるように首を傾げて微笑む由綺。 「うん…」 自分を弱々しくみせる、由綺の強がりだ。 ほんとは、もっともっと見境もなく甘えてしまいたいはずなのに。 「やったっ」 「じゃあ、初詣とかも一緒に行こうね!」 「成人式とかにも一緒に出たいね!」 「あとね、あとねっ…!」 無理してはしゃぐ由綺を、俺は静かに抱く。 「ほら…。いつだって俺のとこ来ていいからさ」 「…うん」 心休まるような微笑みを浮かべる由綺。 「あ…」 そんな声を上げたのは、ほとんど二人同時だった。 星のよく見える、広い夜空の向こう側から、キラキラと輝くものが浮かんできて、俺達に降りかかる。 ぷるるるるーーー、カチャ。 「はいはい、藤井ですけど」 「あっあのっ……」 電話の相手はいきなり ども った。 「はい?」 「冬弥君っ…?」 由綺だ。 「あっあのっ、私っ、ゆ、由綺っ。も、も、森川由綺ですっ」 何を慌ててんだろう由綺は。 「…判ってるけど……」 「あのあのあのっ、…昨日は、ほんとにごめんなさいっ…」 「……?」 「あのあのあのっ、私、私だけ一人でいつの間にか一人だけ私勝手にいつの間にか眠っちゃって私だけ一人だけ…」 「…落ち着いてよ、いいから」 声を裏返らせてまでわざわざ、しかも熱心に謝ってくれてる。 …由綺だなあ。 そんな由綺に俺は…、怒ってみよう とぼけてみよう 許してあげよう 「…俺、すごく傷ついたよ。ほんとに。独りぼっちで取り残されてさ」 「ご、ごめんなさいごめんなさい!」 泣きそうな声で謝る由綺。 「由綺は由綺でお腹出して『もう食べられませ~ん』なんて意味不明なこと言うし」 「ごめんなさいごめんなさい!」 「帰ろうと思って部屋から出たら、いきなりヤクザにぶつかって殴られるしさ」 「ごめんなさいごめんなさい!」 「道歩いてたら後ろから金髪女に突き飛ばされて、車道に転がってダンプカーに踏みつぶされるしさ」 「ごめんなさいごめんなさい!」 …疑えよ、由綺ー…。 いや、でも、このあたりにしておかなきゃ。 あんまりやりすぎると、由綺のことだ、このまま泣き出しかねない。 下手するともう半泣きになってるかも。 「…昨日?」 「う、うんっ。…昨日の夜…」 もごもごと口ごもる由綺。 「何かあった?」 「…あっあの、昨日の夜、冬弥君が私を部屋まで送ってくれて…」 「うんうん」 「…そっ、それで、二人で話して」 「うんうん」 「…シャ…シャワー浴びて…」 「うんうん」 「…ああああっあのっ……そっ、それで………私…寝ちゃって…」 「普通じゃない?」 「…あれ?」 『あれ?』じゃないって。 「ううん。違うの違うの!」 「だから何が?」 「…だから…あの…私と冬弥君が……本当は……その………する…つもり…で……」 再びもごもごと口ごもる由綺。 俺は思わず笑い出してしまった。 「えっ? えっ? えっ? ……えっ?」 電話の向こうで首を左右に振ってる由綺の姿が目に浮かぶ。 これ以上いじめるのはやめにしておこう。 「いいよ、由綺。そんなに気にするなって」 「え…?」 まだ混乱から抜け出せない様子の由綺。 「俺、怒ってなんかないから。そんなに大慌てしなくたっていいよ」 「え…? …本当?」 やっと俺の言うことが通じたみたいだ。 「なにが『本当?』だよ。泣きそうじゃないさ。もう少し落ち着きなよ。 ほんとほんと。怒ってないって」 「そう…」 大きく胸をなで下ろしたような由綺。 やっと落ち着いたみたいだ。 「よかった…」 「そんなに気にすることないって、書き置き残してったろ?」 「うん…。でも、冬弥君、怒っちゃったかなって思って、それで、謝らなきゃって思って、だから…」 「大丈夫だから落ち着きなって」 「ちゃんと謝る言葉もノートに書き留めてたんだけど、冬弥君の声聞いちゃったら頭がめちゃくちゃになっちゃって」 ほんとにトップアイドルなのか、由綺は。 「…本当にごめんなさい…」 「いいって」 「…最初から読み直す?」 「いいってば」 「うん…」 電話の向こうで頷くのが感じられるような深い安堵の声だった。 「……でも…」 「でも?」 「でも…ううん、なんでもない…」 「言いかけてやめないでよ。なに?」 「…うん。…冬弥君…ほんとに…よかった…? 私…その…」 「……………」 俺は少し口をつぐむ。 「…うん…つらかった。でも…」 「…でも?」 「…いや…なんでもない…」 「冬弥君こそ言いかけてやめないでよ…」 そう言って由綺は笑った。 あの時、由綺の寝顔を見て感じたことを、改めて説明する必要も無さそうだな…。 「いいじゃない、それはそれでさ。…な、由綺?」 俺は軽い調子で語りかける。 「…うん」 少し笑いを含みながらも、かしこまった調子で由綺は答えた。 …少なくとも、由綺だったら言わなくとも判ってくれる。 なんてのは俺の甘えかな。 だけど、こんな風に判ってもらうことが甘えなんだったら、俺は、甘えてしまうのもいいかも知れない。 あの夜、由綺が安心しきって眠ってしまったみたいに。 「大丈夫だからさ、心配するなよ。由綺、明日も仕事があるんだろ? 変なことで悩んでないで、ゆっくり休みなよ」 「…うん。ありがとう、冬弥君…」 「いいって」 「ね、聞いて…」 「うん?」 「……えっと…その節は大変なご迷惑をおかけいたしまして誠に…」 「…何わけの判んないこと言ってるんだよ。 いいから、おやすみ」 「あ、うん。…おやすみ」 ほっとしたような由綺の声を聞いてなんとなく俺も安心して、そして会話を終えた。 とうとうTVも、ぱっとしない芸能人達と、やたら長いけど、ぱっとしない時代劇しか映さなくなってしまった。 これだから年末のTVって。 なんて、自分もTV局でバイトしてみると、結構それを責める気持ちにはなれない。 まあ、そのあたりの事情は判ってても、番組がつまらないことに変わりはないんだけど。 それにしても、年末くらい部屋で退屈するのは避けたいな。 俺はちょっと迷って、そしてやっぱりTVを消す。 途端に部屋がおそろしく静かになり、表の通りの音が聞こえよがしに響いてくる。 そういえば、由綺も、今日は仕事なんだろうな。 この心が脆くなりかけている時に、一番思っちゃいけないことを思ってしまう。 どうしようかな…? 不本意だけど、自分の実家で年を越すか。 実家っていっても、どうせ近所だ。 電話してみよう。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、藤井ですが」 この偉そうな声は親父だ。 電話くらいもっと謙虚に出てもいいのに。 「あ、親父? 俺。冬弥」 「おう、冬弥か。元気か? 元気だな。よし」 「ま、まあね…」 勝手に決めるな。 「どうした、今時分? 『年末お笑い! 水着でポン』観てるか? 父さんも観てるぞ」 「なに観てるんだよ…。違うよ、俺、今からそっち帰って正月までのんびりしようと思うんだけどさ」 「んん…?」 にわかに親父の声が険しくなる。 「お前、どうして父さんがお前に一人暮らしさせてると思ってるんだ? 男の子は男の子としてたくましくあれと…」 またその話か…。 いい歳した大学生が親に『男の子』なんて言われてるってのも情けない話だな。 「それは判ってるよ。でもさ、正月くらいいいと思うけど?年末年始に実家のコタツでミカン食べたからって、日本の男の精神は衰えないよ、きっと」 「まだ判ってないな…。この、男が一人で過ごす時間というものの重要さを。ただ一人で昼を過ごし、ただ一人で夜を送り、そしてただ一人で年を越す…」 「だからさ」 俺は親父の話をさえぎる。 とにかく、大した内容でもないことを長々と重々しく語るのが好きなんだ、親父は。 (ひたってるし) …やめた。 どうせ外に出たって、用もないのに人ばかりがやたら歩き回ってるに違いない。 そんなとこにわざわざ出ていく気にはなれないな。 俺は再びベッドの上にごろりと倒れ込む。 そうだな、このまま寝てしまうっていうテもあるな。 寝てたって、新しい年はやってくるんだ… 新しい太陽さえ昇れば…。 寝よ…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 さっきまで誰も訪ねてこなかったくせに、寝ちゃおうと思って目をつむった瞬間にやって来るんだなあ、客って。 何かの法則か、これは。 俺はだらだらとベッドを降りる。 「あ…」 ドアを開けて、俺は思わず声を洩らす。 「こんばんは」 「…遅くなってごめんなさい」 由綺が俺に笑いかけてる。 …でも、どうして突然に? 「…どうしたの、冬弥君?」 「あ、いや…。どうして急に俺のとこに?」 「え?」 「え? だって私、初詣に一緒に行こうって」 「あの時…」 …ああ、『あの時』か…。 「…じゃあ、初詣とかも一緒に行こうね…」 「じゃ、約束、守ってくれたんだ、由綺…」 こくり… と頷く由綺。 約束、なんてものじゃなかったはずなのに。 少なくとも俺は来てくれるなんて思っていなかったのに。 それなのに、由綺は来てくれた。 「由綺…」 「…うん?」 「ありがと…」 「うん…。すごく遅くなっちゃったけどね」 由綺がそう言った時、「申し訳ございません。渋滞に巻き込まれてしまいまして」 「弥生さんのせいじゃないよ。仕方ないよ、今夜は」 「近道をしようとしたのですが、逆に混んでおりまして」 「ま、まあ、中に入らない? 部屋、あったまってるから、一応」 弥生さんはこの寒さをものともせずに 顛末 てんまつ を説明しかねない様子だ。 俺は慌ててドアを大きく開ける。 「恐れ入ります」 「お邪魔します」 「でも、さすがにこの部屋に三人はきつかったかな」 二人を床に座らせながら、俺はちょっと後悔するみたく言う。 「ううん。そんなことないよ。ね、弥生さん?」 「はい。決して」 「よく整頓された、清潔なお住まいですね」 この人の口から出る『清潔』って、ほんとに清潔って感じがする。 「でもね、冬弥君。 弥生さんのお家ってすごいんだよ。お屋敷みたいなの」 「へえぇ…」 俺は改めて弥生さんを見る。 確かに、この不思議な上品さを考えると、そういうところで暮らしてるってのも納得できる気がする。 「私もロケの前の日とか、時々泊めてもらったりするの」 「そうなんだ」 「あ、いつもお世話になってます」 別に俺が由綺の保護者ってわけでもないのに、つい弥生さんに頭を下げてしまう。 むしろ今みたいな状況だったら、俺よりも弥生さんの方が由綺の保護者って感じだけど…。 「お風呂だって、二人で入っても全然広いんだよ」 「由綺…一緒に入ってんの…?」 「うん。時々」 何げなく答える由綺。 俺は一瞬想像してしまい、赤くなって下を向く。 「なに赤くなってるの、冬弥君…?」 「な、なに言ってんだよ、そんなことないよ」 慌てて言いながらちらりと弥生さんを見ると、「……………」 …照れてる…? 「そ、そうだ。由綺、神社行かない? 初詣」 この空気をごまかそうと、俺は少しわざとらしい元気で言った。 「えっ…」 「あ、そうだね。 その為に冬弥君のとこ来たんだもんね」 「忘れるところだった」 こういう時は、やっぱり外を出歩くのがいいのかも知れない。 外は寒いかもだけど、部屋で一人でTVに相手をしてもらってるのはもっと薄寒い。 俺は元気にドアを開ける。 「きゃっ…!」 ごん…。 ごん…? 何だ、今の鈍い音は…? 「大丈夫ですか!?」 な、なんだかドアの向こうで、すごいことになってるみたいだ。 俺は改めてドアを大きく開ける。 「あ、弥生さん…」 ドアの向こうに立ってたのは弥生さんだった。 しかも、俺を睨んでる。 「こ、こんばんは…」 「………………」 な、何だろう…? 俺、何か悪いことでもしたのかな…。 「こんばんは、冬弥君…」 弥生さんの後ろから由綺が姿を現した。 「由綺…?」 「遅くなってごめんなさい…」 目に涙を浮かべながらも、由綺は俺に笑いかける。 見ると額が赤くなってる。 「あ…」 そうすると、さっきの『ごん』って音は…。 …ごめん、由綺…。 あれ? でも、どうして由綺が突然に? 「…どうしたの、冬弥君?」 「あ、いや…。どうして急に俺のとこに?」 「え?」 「え? だって私、初詣に一緒に行こうって」 「あの時…」 …ああ、『あの時』か…。 「…じゃあ、初詣とかも一緒に行こうね…」 「じゃ、約束、守ってくれたんだ、由綺…」 こくり… と頷く由綺。 約束、なんてものじゃなかったはずなのに。 さてと。 今年初めてのADだ。 がんばろう。 今日は… スタジオで理奈ちゃんのカメラテストのアシスタントか。 年明けから理奈ちゃん関係の仕事ができるってのも、ちょっとついてるな。 …と、あれ? あそこを歩いてるのって…。 由綺… だな…。 由綺ももう仕事なのか… って、別に休んでたわけでもないから『もう』ってことはないか。 「おーい、由綺ー」 「あ、冬弥君…」 あれ? なんかいつもと違う。 表情が硬いっていうか…。 「冬弥君も今日お仕事なんだ…」 「うん。理奈ちゃんのとこ。…どうしたの? 元気ないよ」 「えっ?」 「うん…。少し緊張してるから…」 「緊張って…?」 「そんな硬くなんなくたっていいぜ、由綺ちゃん」 「ただ、観てるだけでいいんだからさ」 「英二さん…」 「お、青年。君は理奈のところの手伝いか。それじゃ君も一緒に観よう」 「え…? 何をですか?」 「いいものをだ」 にやりとして、「おーい、FDさん。彼、俺のアシスタントに借りてっていいかなー?」 「え? ちょっと…」 そんな勝手な…。 「いいって」 「はあ…」 俺=レンタルアイテム…。 「冬弥君…」 スタジオの中には、もうステージセットが組まれ、スタッフの人達も、そして向こうでは理奈ちゃんもスタンバイしていた。 カメラテストのはずなのに、今日は一段と緊張感が高まってる。 「何があるんですか、今日は…?」 「ん…? カメラテストさ。映してみて、どんな画面になるかな…」 「それは判ってるんですけど…」 「理奈ちゃんの…新曲…」 「えっ?」 理奈ちゃんが新曲を!? このTV局のスタジオを借りて、その初テイクを試してみるわけだ。 …道理で、みんな緊張してるわけだ。 由綺も…。 って、あれ? 「じゃあ、由綺は今日、見学なんだ?」 「うん…」 「緒方さんが…観ておいた方がいいって…」 「英二さんが?」 「……『音楽祭』で…ライバルになるから…って…」 「…………」 「……………」 今の由綺に、どうしてそんなことを…。 英二さん…? 「さて、コックピットでモニターするか」 そして、スタジオの照明が落ちた。 「あ、店長。おはようございます。 なんだか今日も暇そうですね…」 『そうだな』って顔してる…。 でも、店長からそんなこと言ってたらまずいんじゃないかな。 …なんか笑ってる(みたいだ)。 やっぱり今日も暇だなあ。 どうやっても暇な店だ。 レコードからの、ちょっとダンディな曲に合わせて椅子の上で揺れる店長は、眠ってる風にも見える。 もうそろそろ閉店。 開店してる時と何が違うんだって感じの閉店だけど。 とか思ってたその時、「あ、いらっしゃいませ」 「あっ、冬弥君」 「由綺。いま終わったとこ?」 「うん…。終わったっていうか、一段落ついたっていうか…」 由綺の声は疲れてるみたいだ。 「休憩みたいなもの」 「これからまたスタジオの方に戻ってレッスン受けなきゃいけないから…」 「これからって…」 俺は壁の時計を見る。 その短針は既に深夜近くを指してる。 「そんな遅くまでやってからなんて、帰って寝る時間とか無いんじゃないの?」 「うん。今日も多分泊まり込みだから…」 「え…」 由綺は疲れたみたいにそっと笑う。 「でもさ、局の方になんてそんなちゃんと泊まれる部屋なんて…」 「あ、ううん。TV局のスタジオって意味じゃなくて、緒方さんの…」 言いかけた時、「いらっしゃいませ…」 「お時間はよろしいでしょうか?」 「え、ええ。どうぞ」 やっぱり、弥生さんも一緒か。 「恐れ入ります」 弥生さんは由綺の隣に腰掛ける。 「由綺さん、今、スタジオとか?」 「大丈夫。場所とかスケジュールとか全然言ってないから」 「それなら良い、というものでもございませんが」 それから俺に向き直り、「由綺さんが『音楽祭』に出場なさるのはご存じですね?」 「ええ…」 俺はちらりと店長を見る。 聞こえないふりをしてる。 職業上、あの人は自分の記憶を好きなように消せる。 「その為に、由綺さんは今月上旬からどこに所在するかは申し上げられませんが、緒方さんの音楽スタジオと各TV局を往復する毎日になりそうです」 「今月から?」 そんなに早く…? 「ええ。それにまた、TVの方の仕事も抑えてゆく予定です」 「不本意ではありますけれど」 「や、弥生さん…!」 「従ってこれから数週間、由綺さんとは個人的なアクセスは不可能と考えて頂きます」 「弥生さん、そんなこと言っちゃって…」 由綺が慌てて弥生さんの腕を引く。 「ここまでです。由綺さん」 「え…?」 「情報として藤井さんにお話しできるのはここまでです。これ以上は許可されておりません」 弥生さんは由綺にそっと微笑みかける。 「え…?」 そうか。 由綺がうっかり俺に何かを喋ってしまう前に、範囲内の情報を俺に教えて、それ以上は何も喋らせないってことだ。 その、英二さんのスタジオの所在やスケジュールを由綺がうっかり喋ってしまって、そこに俺が現れる、なんて事態を憂慮してるんだろう。 俺はそんなことまでするつもりはないけど、でも、当然の配慮だ。 「そ、そういうことなの…」 「ごめんね、冬弥君…」 「仕方ないよ、それは。気にしてもさ」 「うん…」 「ごめんね…」 「いらっしゃいませ」 「冬弥君、やっぱりここにいた」 俺を見つけた由綺は、人なつっこく近づいてきた。 仕事中の由綺にしか会ってない最近、たまに見るこんな彼女が、なんだかすごく愛おしい。 「ここに来ると、冬弥君とお話できるからね」 そして照れたみたいに由綺は笑う。 「なに言ってるんだよ…」 ラブストーリーの王道みたいな台詞に、俺の方まで恥ずかしくなってしまう。 「ほら。とにかく座りなよ。疲れてるんじゃないの?」 「ううん。大丈夫だよ、私、全然」 「全然大丈夫でも座るの、喫茶店じゃ。普通」 俺はわざとらしくカウンターの椅子を由綺の方に回転させる。 「あっ、そうだね」 遊園地の乗り物に乗るみたいに、由綺は楽しそうに腰を降ろす。 そしてカウンターの上でくすんだメニューを手に取る。 今の由綺にしてみれば、このカウンターに座ることも、メニューを選ぶことも、或いはここの入口のカウベルをカランと鳴らすことさえも、楽しくて仕方ないんだろう。 それこそ子供が、遊園地の乗り物に乗るみたいな気分で。 「由綺…」 「ん…?」 今の生活、満足してる…? つい、そんな事を言いそうになってしまう。 「あ、いや、別に…」 「くすっ。夕食くらい、ゆっくり選ばせてよ」 「あ、そんなんで言ったんじゃないってば」 「そうなの?」 「そうなの」 そんな俺を由綺は楽しそうに見つめる。 そう、きっと楽しくて楽しくて仕方ないんだろう。 由綺にとって、今の生活がつらいなんてことはないんだろう。 多分、それが『普通』なレベルになってしまってるんだから。 だからこんな、なんでもない俺の生活とクロスすることが楽しく感じられるんだ。 今の世界にあって、こんなにも清潔でストイックな由綺の姿は、決してブラウン管の向こう側には通じない。 華やかな部分だけが向こう側の人間の前に現れる。 緒方英二って天才によって作られた完璧なまでの美しさだけが。 嘘なんだ。 由綺って人間以外、全部全部嘘なんだ。 俺のバイトする喫茶店の入口のカウベルを元気良く鳴らす由綺。 夕食に、パスタかシナモントーストかで迷う由綺。 店内のBGMに合わせて、無意識のうちに腰掛けの脚にリズムを刻む由綺。 こんな何でもないことが楽しくて楽しくて仕方がない由綺。 こんな何でもない俺と話をするのが楽しくて楽しくて仕方がない由綺。 「ちょっと待って下さいよ、英二さん」 俺は由綺と英二さんの方に近づいていった。 「ん? どうした青年。由綺ちゃんが何か忘れたか?」 ふざけてるみたいな口調だけど、その目は笑ってなかった。 「よくは判りませんけど、由綺、今、休憩なんじゃないんですか?」 「よく判らないんだったら、よく判ってる人間に任せるべきじゃないか?」 笑っていない目のまま、口だけが嘘の笑いに歪む。 「と、とにかく、何の説明も無いまま、由綺の時間を自分勝手にいじくるなんてやめて下さいよ」 「冬弥君…」 俺の顔に焦りか、或いは怒りそのものが表れてたのか、由綺が心配そうに俺を見る。 「説明ね…」 「説明したら『はいどうぞ』って彼女を俺に渡して、『行ってらっしゃいお気をつけて』なんて送り出してくれるわけ?」 面倒そうな薄ら笑いを浮かべて彼は、俺を見下すように見る。 「ああ、そんな怖い顔するなよ。由綺ちゃん怯えちゃってるよ」 「ん、弥生さん」 「はい」 彼は由綺の髪の毛をわざとらしく撫でて、後ろの弥生さんに引き渡した。 「めんどくさいなあ、君も。もう少しリベラルな彼氏だと思ってたのにな」 「……っ!」 「ああ、判ったってばあ」 「たった今、俺、新しい曲の全体的な主旋律が浮かんだの。メロディがね。だからちょっと由綺ちゃんの声が欲しいって思ったんだ」 「それやっとかないと、ハーモニー部分くっつけられる自信ないからね、俺」 それから困ったみたいに俺を見て 「ううん、要するにだ、俺、今、由綺ちゃんが必要なわけ。森川由綺が」 「これでいいのか、青年?」 「あ…」 「冬弥君…」 再び心配そうに由綺が呼びかける。 「私なら、そんなに気にしなくたって…」 判ってる…。 多分、説明されなくたってそんなのは判ってるはずだった。 ただ俺は、由綺が、どこか俺の知らないところに連れ去られていってしまいそうな気がしてただけだ。 こんなのは、これまでいくら由綺がステージやカメラの前に立っても起こらない感情だったのに。 俺はただ…。 「そういうことだからさ、俺達行くぜ」 そう言いながら、英二さんは俺に近づく。 「俺も由綺も、みんなごっこでやってるんじゃないから、そのへん少し考えられるようならなきゃな…」 彼は俺を睨む。 いつもの英二さんじゃない、本気の目、本気の言葉だった。 「ええ…」 俺はただうなだれる。 「うん。いい子だ」 英二さんは、俺の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でる。 「じゃ、急ごう。オガタインスピレーションが消えちゃう前にだ」 そんないい加減なことを言いながら、英二さんは二人を連れて店を出て行ってしまった。 しばらく固まったみたいにうなだれて、それからやっとカウンターに戻る。 俺はただ、あの英二さんって男が怖かった…。 店長が何も言わないまま俺を見ていた。 「判ってますよ。よけいな事するなって顔ですよ。何も言わないで下さい。何も、聞きたくないですから…」 俺はそれから、何も言わなかった。 店長も何も言わなかった。 一人のお客さんもいなかった。 ただ、BGMのレコードだけが静かに静かに流れてた。 由綺はおとなしく二人に連れられて、店から出ようとしてた。 だけど、俺には何も言えない。 これが彼女の仕事で、彼女のやるべき事だって判ってるから。 そう、判ってる。 俺は、判ってるんだ。 これが由綺の為に一番なんだってことが。 むしろ『がんばれ』の一言も言ってあげられない今の俺の方がよっぽど由綺のマイナス要素なんだ。 ドアを通り過ぎる瞬間、「ごめんね、冬弥君…」 「由綺…」 俺がそう言った時、ドアはカウベルの軽快な余韻を残して完全に閉まった。 俺はおとなしくカウンターに戻る。 店長は相変わらずレコードに没頭してるふりをしてたけど、何か言いたそうなのはなんとなく判った。 「判ってますよ。これでいいんだって。何も言わないで下さい」 「何も…聞きたくないですから…」 俺はそれから、何も言わなかった。 店長も何も言わなかった。 一人のお客さんもいなかった。 ただ、BGMのレコードだけが静かに静かに流れてた。 ここで由綺と一緒に仕事してる気分になれた、あの何週間か前が懐かしいくらいだ。 いろんな人に『由綺に会いに来てるわけじゃない』なんて言ってたことが試されてるのかも知れないな。 誰に? 神様…。 やめよ、虚しい。 と、あれ? あそこにぼんやり立ってるのは… 由綺…? 由綺… みたいだけど、何してるんだろ。 今日の局の予定見た限りでは、由綺の仕事なんか入ってないはずだけど…。 人違い… ってことはないよなあ、いくらなんでも。 声、かけてみようか…? 声をかける かけない 「由綺ー…?」 俺はそっと呼んでみた。 彼女はきょろきょろしてる。 ますます由綺な反応だ。 「由ぅ綺ぃー…」 困った顔でさらにきょろきょろしてる。 間違いない。 あの見事なきょろきょろっぷりは由綺本人だ。 「由綺ー。俺ー」 俺は彼女に手を振りながら近づいていった。 いや、やめよう。 由綺だったら今ごろ、どこかにある英二さんのスタジオでレッスンを受けてるはずだ。 …ひょっとしたら人違いじゃないかも知れないけど、どっちにしても今の由綺は『音楽祭』を直前に控えて心身ともに余裕のない状態のはずだ。 俺なんかが気楽に声をかけていいってもんじゃない。 特にここは、仕事場なんだから。 由綺にとっても、俺にとっても。 そして俺は仕事に向かった。 …仕事が終わったら由綺の部屋に電話でもかけてみよう。 さっきのが由綺だったら、今日は部屋に戻ってるかも知れないし…。 疲れた…。 あ、そうだ。 由綺に電話してみよう。 ぷるるるるるーーー。 ぷるるるるるーーー。 やっぱりいないか…。 カチャ…。 あ、いた? 「もしもし、由綺? 俺、冬弥だったけど…」 『ただいま外出しております。  ご用件のございます方は  ピーッと鳴りましたらメッセージを…』 初期設定のままの声でメッセージが流れる。 …やっぱり、いない…。 今日のもきっと見間違いだったんだ。 声をかけなくてよかった。 よけいな恥をかくとこだった…。 俺はメッセージも残さないままに、ぼんやりと受話器を戻す。 …ごまかしてるだけだ…。 ほんとは声をかけたかったんだ、俺は。 人違いでもよかった、恥をかいても別によかったんだ。 ただ声に出して『由綺』って言いたかった…。 壁が… ただ、俺達の間の壁がそれを許してくれない…。 ぷるるるるーーー。 「はい、藤井です」 「冬弥君? 私、由綺です」 「由綺?」 どうして由綺が今頃? 大切な『音楽祭』を明日に控えてるっていうのに。 しかも由綺はずっと、英二さんのスタジオに泊まり込んでレッスンを受けてるはずだ。 「あれ? 今、休憩中とか?」 「ううん。今、自分の部屋からかけてるの」 「部屋って、あのマンションの?」 「うん…」 どういうことなんだろう…。 「まさか、英二さんが帰っていいって言ったとか?」 「う、うん…。そうなんだ…」 由綺は何故か口ごもるみたいに答える。 それにしても勝手な人だ。 あれだけ徹底して由綺を閉じこめておいて、こんな一番大切な時に一人にするなんて。 「明日に備えて、ゆっくり休んでおけって…」 「へえ…」 結構、意外。 「よかったじゃない。俺なんかに電話なんて、そんな気遣わなくても良かったのにさ」 嬉しいのはすごい嬉しいんだけど。 「うん…」 「大丈夫。由綺のこと、ちゃんと応援してるから。…ほんとは、会場まで応援に行きたいんだけどさ…」 『音楽祭』に一般の観客の立ち入りは許されてない。 スタッフや関係者にしても、いくら人出を必要とするとはいっても、日雇いや研修レベルの人間は完全に締め出されるほどに徹底した厳正さだ。 だけど俺なんかはどうやっても、『音楽祭』の由綺に会うなんてできない。 そういうシステムだから。 「でも、大丈夫だって。TV観ながら応援してるよ。だからさ、今日は…」 「うん…」 どうしたんだろう。 由綺、なんだか元気がないみたいだ。 「冬弥君…」 「ん?」 だけど由綺は沈黙する。 「ど、どうしたのさ? 何かあるんだったら話してよ。…俺、役に立てるかどうかだけど…」 「うん…」 そして再び由綺は沈黙しようとする。 「ごまかさないで言ってよ…」 まるで懇願してるみたいだった。 いや、懇願していた。 いつも、なんでも話してくれた由綺が、なぜか今は、俺と距離を置こうとしてるみたいで怖かった。 「うん…」 答える由綺の口調は、どこか不安そうだ。 「ごめんなさい、冬弥君…」 「由綺…?」 「私、今日、緒方さんに…」 そして少し口をつぐみ、由綺は続ける。 「緒方さんに…私…『愛してる』って…告白されて…」 「英二…さんが…?」 彼が由綺を気に入っていたのは、それは判ってた。 だけど、一人の男として、由綺に告白するなんて…。 …いや、そんなことには気づいてたはずだ。 ただ、考えてしまうと、一人きりでいる自分の姿があまりに惨めに思えてきて…。 電話の向こうで、いつしか由綺は泣いてた。 「私…寂しかったんだね、きっと」 「さっき、部屋まで送ってもらった時に、緒方さんにそう言われて…キス……しちゃって…」 「由綺…」 「どうかしてたの、私! ごめんなさい、冬弥君! 私、そんなつもり…!」 「…でも、どうしてか、緒方さんに抱きしめられるのも、キス、されるのも、全然、抵抗なくて…」 由綺はもう完全に泣きじゃくっている。 「もう私、判らない! どうしたらいいのか判らない! 自分でも、何がしたいのか、何がいけないことなのか、もう、全然…」 「由綺…」 俺は…。 何か言ってあげなきゃいけないのは判ってる。 でも、何を…? 電話線を通した言葉なんかで俺は、何かしてあげられるのか…。 俺は、由綺に…。 「由綺、落ち着いて…」 自分で言ってて、全然リアリティがなかった。 人に『落ち着いて』なんて言えるほど、俺自身も平静ではいられなかった。 ただ、由綺を安心させようって想いが、俺の外見だけをひどく落ち着いたものにさせてた。 「会いたい…」 由綺は号泣をこらえるように、電話機を通して俺に囁いた。 「冬弥君に…会いたい…」 「由綺…」 「会おう」 「だめだよ」 「判った、由綺。俺、今から行くよ」 俺は言った。 「今からそっちに。待ってて…」 由綺の涙はまだ止まらない。 「私すごく…すごく不安で…不安でたまらなくて…。もう…」 息苦しそうに、由綺は呟く。 「もう…待つのはいや…。この部屋で…これ以上…」 由綺に遠慮しながらいつも通り過ぎてた彼女のマンションが思い浮かぶ。 あの建物の中で、由綺がたった一人で泣いてることが、何故だかとても不思議なことに感じられた。 「由綺、聞いて…」 「冬弥君…」 その声は怯えてるけど、少し落ち着いたみたいだった。 「判った。私、待ってる…」 「大丈夫だからさ…」 なにが『大丈夫』なんだろうな…。 俺がこれまで由綺に対してほんとに『大丈夫』なんだったら、由綺は今、こんな風に一人で部屋で泣いていない。 勝手に俺が、由綺の『大丈夫』を正直に信じてたに過ぎないんだ。 「うん…。待ってる…」 そう言って由綺は電話を切った。 再びこみ上げてきた激情を、俺に聞かせない為だってのは簡単に判った。 部屋は急に静かになり、ただ、持ってる受話器のツーツー…という音がどこまでも響いてる、そんな感じだった。 俺は時計を見上げる。 もう、真夜中に近い。 俺は立ち上がる。 いくら不安にとり憑かれて取り乱してたからって、こんな時間に由綺の部屋になんて…。 スキャンダル専門の記者がいないとも限らないし、それに何よりも明日は大切な『音楽祭』当日だ。 そんな夜に俺が由綺のところに行くなんて。 どうにか俺は、気持ちを落ち着かせようと考える。 だけど、その思いとは裏腹に、俺の腰は床に降りてはくれない。 「由綺…」 そっと呟く。 気がつくと俺は、玄関先で乱暴に足を靴に入れていた。 そしてそのまま外に飛び出す。 不安だった。 不安なのは、由綺だけじゃない。 俺も、押し隠し続けた不安の爆発を抑えることはできなかった。 判ってた。 由綺の不安を癒やすって目的で、俺自身の不安を紛らわせるってことは。 だから、真夜中にこんな風に飛び出すんだ。 笑われたって、どうだっていい。 男らしくないって笑われたって、もう何とも感じない。 会いたい。 俺は会いたかった。 俺の横から、いつの間にかいなくなってた由綺に。 はぁ…はぁ…。 激しく吐き出す息は白くて、その向こうの闇はクリアに凍りついてるのに、走ってきたせいか俺の身体は熱く、汗までもにじんでる。 闇雲に走りすぎた、胸が痛い。 「だめだよ、由綺…」 俺はできるだけ落ち着いて、由綺をなだめる。 「落ち着かなきゃ。ここまでやってきたのに、ここでこんな無茶なことしちゃ…」 違う…。 自分でも何を言って彼女を落ち着かせてるのか全然判らなかった。 ただもう、由綺が泣くのをどうにか止めようと必死だった。 その間中、俺はずっと、何かが違ってると感じてた。 俺は由綺の為に、由綺のつらい思いを少しでも軽くしてあげようと、こんなにしてるんじゃない。 俺は、自分自身への言い訳の為に、こんなにまで由綺にかしづいてるんだ。 どんなかたちであれ、何一つ由綺の力になってあげられなかった俺自身への…。 現に俺は、由綺の気持ちを少しでも楽なものにしてあげようとずっと考えてたのに、それなのに今、由綺は溜め込んでた気持ちを爆発させてしまってる。 ほんとはもっと人間的なかたちで俺に向けられるべき激情なのに、こんな、冷たい電話線を通して、誰もいない部屋で、一人で、啜 すす り泣きながら…。 由綺に会いたい。 確かにそれはあった。 だけど、俺達は子供じゃないはずだ。 全て、明日で終わるんだ、全て…。 明日になれば全部なくなる。 由綺と会えない日々も、由綺と言葉を交わせない日々も、由綺と微笑みあえない日々も、そして由綺に何もしてあげられない俺の姿も…。 俺はただ、その、全部が帳消しになる明日を待ってる。 だからせめて、由綺にだけはこんな情けない自分を見せたくないんだ…。 「うん…」 だけど俺が何も言えないうちに、由綺は再び静かで優しい声に戻っていた。 「ごめんね、冬弥君。変なこと言っちゃってたね、私…」 「え? ううん…」 「ごめんなさい…。だけど、もう一つだけわがまま言わせて欲しいの」 由綺は必死に泣きやんで、そして必死に笑ってみせてる。 「『音楽祭』、来られたら来て欲しいの」 「え? でも…」 いくら由綺でも、いや、緒方プロダクションの力でも、俺を会場に入れるなんてできないはずだ。 「ううん。終わってから。放送が終わったら、一般のスタッフも会場に入っていいことになってるから」 「冬弥君が中に入れるように、私、弥生さんに言っておくから…」 「でも…」 こんな俺なんかが、由綺に会いに行っていいのか…? 「来られたらでいいの…」 それから、思い詰めたように、「来て…欲しいの。お願い…」 再び泣き出しそうな声だった。 「お願いだから。私、冬弥君に会いたいの…。それだけで、いいから…」 「…判った…」 俺は呟いた。 「判ったよ、由綺。行くよ。会いに行く。待ってて…」 「うん…」 そんな俺に、由綺は、答えた。 答えてくれた。 「うん、待ってる…。あはは…。私、待ってるから…」 由綺が笑った。 ずいぶん懐かしい、由綺の、安心した笑いだった。 こんな弱々しい笑い声すらも、もう、ひどく遠い…。 「じゃあ、私、明日、力一杯がんばるね」 「うん、応援してる…」 俺もできるだけ普通の口調で答える。 こんなにも限界まで戦ってる由綺に、俺は、どうして何もしてあげられないんだろう…。 「それじゃ、おやすみなさい…」 「うん。おやすみ…」 そして電話は切れた。 部屋の中は、電話がかかってくる前よりも、一層静まり返ってるように感じられた。 声が欲しかった。 温もりが。 あとたった一日だっていうのに、俺は、どうしてこんなに無力感に苛まれるんだろう。 明日になれば、全部が元に戻るっていうのに。 だけど俺は、いくら明日のことを考えても、今の沈黙が怖かった。 今の、自分の部屋の沈黙が。 そして同時に、由綺も自分の部屋の中で感じてるはずの沈黙が。 どうして俺は彼女に会うことすらしてあげられないのか…。 いくら明日からの由綺との日々を考えても、その不気味な冷たさは姿すら変えずに、頭のどこかで俺を見つめていた。 誰もいない部屋の中の温度で、俺を見つめていた。 そして俺もまた、黙った。 再び訪れた由綺の部屋は2ヶ月前と何の変化もなくて、却ってひどく長い間放置してしまってたように感じられた。 CDとビデオテープと、そして病院みたいなベッドと。 そろそろTVで『音楽祭』の生中継が放映される時間だ。 生放送ならではの緊張感が、画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、いよいよ由綺の番だ…。 もうこの部屋に、寂しさのかげりはない。 相変わらず生活感の全くない部屋だけど、だけどどこか人の香りがするようになった。 俺もなんとなく『音楽祭』以来、ここは訪れやすくなった気がする。 …俺と由綺とが結ばれたから… だけじゃないような気がする。 はっきりとは判らないけど、そんな気がする。 あ…。 そろそろTVで『音楽祭』の生中継が放映される時間だ。 生放送ならではの緊張感が、画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、いよいよ由綺の番だ…。 「…冬弥君…ほんとに…来てくれたんだ…」 「うん…」 俺は少し照れながら答えた。 「絶対に会いに行くって、俺、言ったじゃない」 「うん…」 「…嬉しい…ほんとに。最高のクリスマスだね」 「あと、誕生日も」 「あ、そうだね」 言いながら俺は、手ぶらでこの部屋に入ってきてたことに気づいた。 さっき廊下に荷物も花束も全部放ってきてしまったんだ。 「あ…」 「え?」 「なあに? 冬弥君?」 「あ、ごめん…プレゼント…」 「え…?」 「あははっ。気にしないで、冬弥君」 「…だって、こんな風に、冬弥君、私のところに、直接会いに来てくれたんだもの」 「私…それだけで…他に何も要らないよ…」 「…由綺」 「…なんてね。実を言うと、私も何もないんだ。時間が無くって…」 「ごめんね、冬弥君…」 「あ…。うん。俺の方こそ…」 「(…どうだろうね、こういう恋愛は。片方はすごくケナゲなのに、片方は何かを隠してるってやつ)」 「(…………………)」 「(これって両方ともイタイんだよな。裏切られる方も、裏切る方も)」 「(…………………)」 「…ステージ、絶対に観に来てくれるって思ってたから…。だから私、すごくがんばったんだよ」 「うん。すごかった…」 「よかった…」 由綺の見せるその安心には、どこか不安の陰が見て取れた。 「(俺は、こんなばっかだったな。相手のケナゲさがすごく歯痒いんだよね。…たとえば、由綺ちゃんが隠してるリボンの巻かれた小箱…)」 「(…………………)」 「(あれは、由綺ちゃんが俺にクリスマスプレゼントー…なんてことはあり得ないわけだ)」 「(…………………)」 「(…じゃあ、不思議だな。あれは、いったい誰にあげるはずのプレゼントだったんだろうね。ね? 弥生さん?)」 「(…………………)」 「…なんだか、冬弥君に改めて舞台のこと言われると…ちょっと恥ずかしいかな…」 「え? そうかな…?」 考えてみれば、俺はこれまで由綺の仕事に関しては口出ししないよう気をつけてきた。 「…でも、ほんと、最高のライブだったと思ったよ、俺…」 「…うん。ありがとう…」 「じゃ、弥生さん。由綺ちゃんをお願いねー。俺は、この青年つれて外の連中と先に帰るから」 俺は由綺のコートとキャップを着けて英二さんと廊下に出た。 「…うん」 俺はそっと頷いた。 昔のこととはいえ、それを由綺に隠すことはひどい裏切りに思えた。 「いた…と思う。でも、はっきりそう意識してたわけじゃなくて…」 だけど、言葉は遮られた。 「そうなの…」 由綺の悲しそうな呟きに、言い訳もしぼんでいく。 「ごめん、俺…」 「やだ、あやまらないで。冬弥君は何も悪いことしてないよ」 「だって、その時はまだ私なんて…冬弥君の何でもなかったんだし」 由綺は明るくそう言ってみせる。 でも、それが由綺の優しさだとわかるから、俺はやはり言葉につまってしまう。 「うん、すっきりした。今まで気になってたから」 「これも、冬弥君が正直に言ってくれたおかげだよ」 つらい思いをしているのは自分なのに、由綺は俺をいたわるように微笑みを向けてくる。 痛みなんて少しも感じていないという具合に、ちょっと首をかしげてみせて。 でも、その嘘は不意に剥がれ落ちる。 「あ…?」 透きとおった滴が由綺の頬を伝った。 由綺自身も驚いたように目を丸くする。 まるで涙腺が突然壊れてしまったかのように、涙は後から後からこぼれ出てきた。 「ご、ごめん…急に、何だか」 「おかしいよね…今日の私。ライブが終わってほっとしたのかな、今までずっと張りつめてたから」 そう言いながら、由綺はハンカチで自分の目尻を軽く押さえる。 涙はすぐにステージでの汗の名残と見分けがつかなくなった。 「でも…ちょっと悔しいな。もっと昔から冬弥君と一緒にいたかった」 「そうすれば…少しくらい会えなくても平気だったのかな…」 俺には…由綺の不安を消してやることができない。 弥生さんや英二さんが、おそらく日常的にしているようなことが…俺にはそうする力も資格もない。 こんな時、思い知らされるんだ。 俺たちが二人きりで過ごした時間は、恋人と呼ぶにはあまりに短い。 俺は、果たして由綺のことをどこまで理解しているのだろう。 そのことで、俺はどれだけ胸を張れるのだろうか…。 「ごめんね。私、ずっと自分のことばかりで」 「冬弥君、いい人なのに…みんなから好かれるのに… 私一人が無理を言ってばかり。本当、わがままだよね」 「そんなことないよ、俺は無理なんて少しも…」 少しも、何だ? 少しもしていない? 本当に、そう言い切れるのか? 由綺と会えないからって、その慰めを他に求めていないか? 由綺には弥生さんも英二さんもついていることを、どこかで妬ましく思っていないか…? 「ううん、わかってるの。私っていつもこうだから」 「ずうっと一緒なんて、口先ばっかりで…」 俺達は……ずっと演じていたのかもしれない。 自分たちのあるべき姿を。 本当はもっと間近で見つめ合っていたいくせに、相手の中へ立ち入ることをついためらってしまう。 そんな風に距離をはかっていること自体、大切な人を悲しませることになると気づいているのに。 俺が目をそらしていたのは…由綺からじゃない。 それは、臆病で自信のない俺自身…。 おそらく、由綺もまた…。 「私ね…」 「冬弥君が、私のこと何とも思ってなくても…私、それでも好きだから」 「…ごめんね。やっぱり、今日の私って変…」 いや…例えそうであっても、由綺には何の落ち度もない。 由綺はアイドルになった今でも、俺だけを見つめていてくれる。 寂しさに耐えられなくなっているのは…たぶん、俺の方だ…。 「…ただ」 「ただ…?」 「…ただ、私に嘘をつくのだけは、やめて…。 約束…して…」 そして、由綺はうつむいて沈黙した。 俺も既に顔が真っ赤だった。 何も言えそうもなかった。 「さっ、ニセモノ由綺ちゃん、行こうぜ。 ん?」 由綺への返事をする暇もなく、俺は英二さんの腕に組みつかれていた。 「ほら、時間がないぜ、藤井君。行こうな」 「弥生さんも頃合い見て、適当に出ちゃってよ。うん、そこらはおまかせ」 そして、俺はそのまま英二さんに引っ張られていく。 関係者用の駐車場に向かいながら、俺は由綺が尋ねてきたことについて考えていた。 『冬弥君、私と付きあう前に…誰か好きな人いた…?』 由綺がそんなことを気にするというのは意外だったけど、それがなぜ今なのだろう。 由綺が知りたかったのは、果たして…過去のことだったのだろうか? 本当に聞きたかったのは、もしかして…。過去は現在につながっている。そして、未来にも…。 ライブを成功させた直後の今、どうしてあの頃のことを気にかけるのだろうか。 そんな疑問が頭をめぐり、俺はすぐには返事をすることができなかった。 「…別にいなかったと思う…たぶん。あんまりよく憶えてないけど」 「…………」 由綺はまっすぐに俺の目を見つめる。 嘘をついてるはずはないのに、後ろめたさが胸のどこかでざわついていた。 「そうなんだ…」 やがて、そう呟いた由綺の横顔を、安堵とは違う何かがよぎったようにも見えた。 「でも、意外だな。由綺がそんなこと気にしてたなんて」 「うん…」 「あの時、冬弥君に無理強いしたんじゃないかって…ずっと心配だったから」 由綺は、俺達が付きあうようになったのは自分が告白したからだと、今でも思っているようだ。 「ごめんね、変なこと言っちゃって。こんなこと聞かれるの、冬弥君も嫌だよね」 「…本当に勝手だね、私って。ずっと放っておいたのは私の方なのに、ちょっと寂しくなると、冬弥君にばっかりこんなこと言ってね…」 「もういいよ、由綺…」 俺には遮る言葉しか出てこなかった。 恋人同士なら、もっと別のいたわり方があるはずなのに。 由綺の心へ踏み込む足場が、どこにも見つからなかった。 どうしてこんな風になってしまったのか…。 麻痺しかけた俺の頭は、それを解き明かしてはくれない。 「…冬弥君?」 「…うん?」 「……………」 「…好き……」 それだけを言って、由綺はドアの奥へと消えていった。 「さっ、行くか」 「…ん? どうした青年? 寒いか?」 うつむいたまま震える俺の肩を、英二さんは軽く叩いた。 「…い、いいえ…大丈夫です」 そして俺は、できるだけ顔を見られないようにして英二さんの後についていった。 関係者用の駐車場に向かいながら、俺は由綺に尋ねられたことを思い返していた。 果たして、由綺が俺に訊きたかったのは本当に過去のことだったのだろうか…。 「自分でもよくわからない…」 「でも、憶えてないってことはもしかしたらいなかったのかもしれない」 「冬弥君…」 「あ…でも、女の子に全然興味がなかったというわけじゃなかったと思う。そういう意味では、全然いなかったという訳でもないのかも…?」 「でも、それは女の子全般という意味で、誰か特定のっていうわけではなくて…」 気がつくと、俺は俺自身の弁解のために言葉を浪費していた。 でも、それがわかっていても舌は止まらない。 俺は、この期に及んでまだ誰も傷つかない正解を探していた。 「そう……なんだ」 由綺はどこか悲しそうに呟いた。 「ごめんなさい…。こんなこと聞くの、冬弥君には迷惑だよね…」 「いや、そうじゃなくて…」 「今日は来てくれてありがとう。私…本当に嬉しかった」 「もう行って。これ以上ここにいると、また冬弥君に迷惑かけちゃうから」 由綺はドアを静かに閉めてしまった。 「…由綺っ…!」 だけど、ドアの向こうまで追うことはできなかった。 「おっと、藤井君。出発の準備はできてるぞ。行こうか」 俺は後ろから英二さんに羽交い締めにされてた。 「…英二さん…!?」 だけどそこにいたのは、余裕の表情の英二さんじゃなかった。 何がどう違うのかは判らないけど、どこか険しい感じのする彼だった。 「…英二…さん?」 「なぁにモタモタしてんのかな。行くぜ、青年」 今はもういつもの英二さんだった。 「はあ…」 俺はすっきりとしない気分のまま、英二さんの後を追った。 もしかして、由綺が俺に訊きたかったことは別にあるんじゃないのだろうか。 そんなことを思いながら。 「ほらほら由綺ちゃん、早く乗っちゃおうねー。ほら、急いで」 「は、はいっ」 冗談っぽい口調なのに、英二さんは本気で俺をせかしてる。 「由綺目当ての人達を引きつけるんだったら、少しはここにいるってことを見せておいた方がいいんじゃないですか?」 「この暗さだったら顔までは判りませんよ」 「それも良い考えだな…」 言いながら英二さんは俺の頭を、まるで子供にするみたいにぽんぽんと叩く。 「ところで、藤井君は背が高いよな。 身長何cm?」 あっ、そうか。 身長差がある。 少し恥ずかしくなって英二さんの車に近づく。 グリーンのミニクーパー。 そのクラシカルなドアを開けて、俺は中に滑り込む。 内装も、シートの座り心地も全てレトロチックで、とてもお洒落だ。 「かっこいいだろ?」 俺の考えを見透かしたように笑いながら、英二さんも隣に滑り込んだ。 「浅く腰掛けてくれよ。あとちょっとうつむき加減にな」 「ちょっと飛ばすけど、大丈夫だろう、青年?」 こくこく…。 浅すぎるくらいに腰掛けて、顎を引いているので不器用に頷き返すことしかできない。 「よし。いい男だ、由綺ちゃん。じゃ、行くか」 まるで楽しむように、英二さんはギアを入れて車を走らせた。 英二さんはうまい具合に人の群がっている辺りの端の方を車で走り抜け、そして少しずつ減速していった。 俺扮する由綺もさることながら、英二さんのこのクーパーもかなり彼らの目を引きつけるらしい。 そもそも英二さんマシン自体かなり知名度が高いみたいだ。 俺達を見つけた男達はにわかに色めき立って、声を上げたり手を振ったりしてる。 「うーん。人気があるな、由綺ちゃんは」 ただのおっさんみたいな台詞を吐く英二さん。 由綺の人気を作ったのは自分自身なのに。 「青年、ちょっと手を振ってみなよ」 「えっ? 俺がですか?」 「ファンサービスは大切だろ、由綺ちゃん?」 「はあ…」 彼らを騙すみたいで気が とが めたけど、俺は少しだけ手を振ってみることにした。 「ああ、手は出さない。コートの裾から指先だけをこう、ちょっとだけ」 英二さんは運転しながらも俺に演技指導を施す。 言われた通りに、ちょっとだけ手を振ってみた。 すると彼らは大いに盛り上がり、騒ぎ立てた。 それを見て英二さんは一気に加速して、その場を離れた。 あれから英二さんは少し街中をうろうろと走り、そして近くの公園で車を降りた。 「少し歩くか、青年」 「え、ええ…」 「まあ、あれだけサービスしてみせりゃ、彼らもおとなしく帰ってくれるんじゃないかな」 「単純なものですね」 俺は何げなく言ってしまってから、しまったと思った。 一瞬、英二さんの目から道化る光が消える。 だけど、このショービジネスを見くびる失言を詫びようとした時、英二さんの顔は再び和らいだ。 「ああ、まあな」 「さっきだって必要だったのは『森川由綺』じゃなくて、車の中で手を振る『森川由綺らしきもの』だったわけだしな」 「なにも、必ずしも本物じゃなくたっていい」 「はあ…」 幼稚なマスコミ批判の初歩みたいなことを言い始めた。 英二さんらしくない言葉だ。 「ただ『森川由綺らしきもの』をこの上なく上手にやってのけられるのは、他ならない『森川由綺』本人だってだけで」 「先行するイメージに打ち勝って、本物が本物であり続ける為には…」 俺は一瞬ためらってから、ゆっくりと自分の右手を出した。 英二さんは笑って、その手を取った。 なんだか昔の青春映画みたいで照れくさかった。 「ははははは。ほんとにしてくれた。 あ、いや、うん。男らしいぜ、青年」 そして再び英二さんは笑ったけど、俺はそんなにも悪い気はしなかった。 それから少し歩いて、俺と英二さんは車に戻った。 車を運転してる間、英二さんは何も語らなかった。 俺はただ、冷ややかに差し出された手を見つめて、何の反応もみせなかった。 下らない馴れ合いを求める人間には気をつけた方がいい。 そう思った。 「そうか…」 英二さんは残念そうに手を降ろす。 「仕方ないな。こんなキャラクターと素直に握手する間抜けもいないってことだな」 「それとも、もう戦いは始まってるってことか」 そして、英二さんは再び乾いた声で笑った。 それから少し歩いて、俺と英二さんは車に戻った。 車を運転してる間、英二さんは何も語らなかった。 刺すような冷気を感じながら車を降りると、ちらちらと、儚 はかな げに白いものが空から降りてきてた。 …初雪だ。 「…っ寒っ! お、藤井君、雪だ雪。雪降ってる」 先程の重厚さからは及びもつかない無邪気さで、英二さんは俺の背中を叩く。 俺は少し困って笑う。 「つきあわせて悪かったな、藤井君。 うん、また局にバイトに来な。少しは待遇良くするように言っといてやるからさ」 「ええ…ありがとうございます…」 俺はできるだけ感情を隠して答えた。 「ま、そんなにも難しく考えるなよ。これからどうにだってなってくんだ。展開は一つだけ…なんてことはないんだからさ、絶対に」 英二さんは俺の肩を叩く。 その得体の知れない微笑みが、今は何故か心地よかった。 「さてと、俺はこれから由綺のところにコートを届けてから、帰って寝るよ…」 「行くんですか…由綺のとこ…?」 「ん?」 「そんな顔するなよ。届けるだけだって」 「え、ええ…」 そんなに俺は不安が顔に出やすいのかな。 「だって俺のところ、妹がうるさいんだもん…。家にいないからチャンスだとか思ってても電話がしつこくてさ」 そして英二さんは苦笑いをした。 つられて俺も、少しだけ微笑む。 「じゃ、悪いけど、ここでお別れだ。また何か面白いこと手伝ってくれよな」 英二さんの乗るクーパーは低く唸り、生ぬるい排気ガスを吐き出して走ってってしまった。 クーパーのテールランプが見えなくなるまで見つめてから、俺もゆっくりと歩き出す。 今年の初雪は、アスファルトの上に少しずつ積もり始めていた。 腕時計を見ると、もう、明け方に近かった。 今日はTV局でバイトだ。 さ、行こう。 「おはようございます」 今日も時間通りに控え室のドアをくぐる。 「あ、おはよう、冬弥君。急なお願いばっかりでごめんね」 「いいよ、そんな」 「おはようございます」 弥生さんはいつもと全く同じみたいな挨拶だ。 彼女が俺を気に入ってくれてるなんて、ほんとかなあ…。 弥生さんはただ、いつも変わらない、あの、温度を感じさせない瞳で俺を見つめてる。 俺はなんとなく居心地悪くなって、「あ…由綺、今日もがんばろうな…!」 「あっ、うん」 「がんばろっ」 「……………」 あ、留守電入ってる…。 ピーーッ。 『…あ、冬弥君ですか。由綺です』 『ちょっと時間が空いたから、 電話してみました』 明るい声の向こうから、どこかの雑踏みたいな音がする。 公衆電話からだろうか? 相変わらずアイドルらしくないのが、逆に由綺らしいけど。 『私の方は、元気にやってます』 『今日なんてね、緒方さんに褒めて  もらったんだよ。  冗談っぽくない感じで…珍しいよね』 『あ…  こういうのも、言っちゃだめなのかな?』 そんなこと留守電で尋かれてもなあ。 俺はちょっと笑ってしまう。 『しばらく会えないと思うけど、 冬弥君も、お仕事頑張ってください』 『ええと…また電話します。  由綺でしたっ』 ピーーッ。 よかった、元気にしてるみたいだ。 あれ? 留守電入ってる…。 ピーーッ。 留守電入ってる…。 ピーーッ。 『…由綺です』 『声、聞きたくなっちゃって、 電話してみたんだけど…えっと…』 それからしばらく、雑音が続いて。 『ほんとは、ちょっと落ち込んでたけど…  もう大丈夫』 『話、聞いて欲しいなって思ってたから、 冬弥君がいなくて、がっかりしたけど…』 『私のいるところの向こうにね、冬弥君の  部屋があるんだって、思い出せたから』 『当たり前だよね。  でも、ずっと忘れてた気がして…  それでなんか、すっきりしちゃった』 『あははっ、それじゃ電話の意味ないよね。  変なこと言って、ごめんなさい』 『由綺でした。えっと…  おやすみなさい』 ピーーッ。 記録を見たら、30分前にかかってきていた。 自分の部屋からだとしたら、もう眠っているだろうか。 かけ直そうとして、結局やめた。 俺に心配かけないようにした由綺の気持ちを、台無しにしたくなかった。 それに…。 どんな風に言葉をかければいいか、判らなかった。 「冬弥君…」 「あ、由綺」 どうしたんだろう。 由綺、ちょっと元気がないみたいだ。 「…どうかしたの、由綺?」 「あの…。…この前…どうして来てくれなかったの?」 ぷるるるるーーー。 あ、電話だ。 由綺かな? 「はい、藤井です」 「冬弥君…?」 やっぱり由綺だった。 でもその声は、ちょっと元気がなさそうに聞こえる。 「どうしたの? なんか元気がないみたいだけど…」 「あの…。…この前…どうして来てくれなかったの?」 由綺との約束、断りの電話入れなきゃ。 部屋にいるかな、由綺…。 ぷるるるるーーー。 「はい」 あ、いた。 由綺だ。 「こんばんは。俺、冬弥君だけど…」 「あ、冬弥君? どうしたの?」 ちょっと疲れてたみたいだったけど、俺の声に由綺は明るく尋ねる。 「あ、あのさ、約束してたことだけど…」 「うん?」 「あれ…行けなくなっちゃったんだ…」 「え…?」 かすかに、由綺の声が曇る。 「急に…どうして…?」 「ええと…」 謝る 嘘をつく 「ごめん、由綺。実は…」 俺は謝って、そのいきさつを正直に話した。 「そうなんだ…」 「…ほんとに…ごめん…」 「…ううん」 「そういうことだったら、別に私を気にしなくてもいいよ」 由綺は、なんでもないって風に言う。 だけど動揺は隠せてない。 「………」 だけど俺は、ただ、由綺の言葉を待った。 これ以上、言い訳がましいことを由綺に聞かせたくなかった。 どう言っても、悪いのは俺なんだから…。 「冬弥君。ほら、元気出して」 「ねっ?」 由綺が俺に明るく笑いかけてくれる。 ちょっとだけ無理してるみたいな、だけど優しい声だ。 「うん…」 俺はそっと答える。 少し胸が痛んだけど、だけど、なんとなく安心できるみたいな気持ちになれた。 「い、いや、実はさ…」 俺は由綺に適当な嘘をついた。 「そうなんだ。じゃあ仕方ないよね」 由綺、俺の言うこと、あっさりと信じてる。 「…ごめんね、約束すっぽかしちゃって…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 そんな風に由綺は、屈託なく優しく笑う。 ほんとに信じてくれてるんだ、俺のこと…。 「うん…」 俺は、そんな由綺に対してなんとなく罪悪感を感じた。 「い、いや、実はさ…」 俺は由綺に適当な嘘をついた。 「そうなんだ…」 「う、うん…」 相変わらず、由綺の声に明るさは戻らない。 ひょっとして、俺の嘘は見抜かれてる…? 「それじゃあ、仕方ないよね…」 少し沈んだ声で、呟くみたいに由綺は言う。 微笑んでる風に話してるけど、やっぱりどこか無理のある明るさだ。 「ご、ごめん」 俺は、思わず謝る。 「ううん。気にしないで」 「うん…」 頷きながらも俺は、その言葉とは反対に、何か言い表せないような不安を感じた。 「ごめん、由綺。実は…」 俺は謝って、そのいきさつを正直に話した。 「そうなんだ…」 「…ほんとに…ごめん…」 俺はもう一度謝る。 「…ううん」 「そういうことだったら、別に私を気にしなくてもいいよ」 由綺は、なんでもないって風に言う。 だけど動揺は隠せてない。 「………」 だけど俺は、ただ、由綺の言葉を待った。 これ以上、言い訳がましいことを由綺に聞かせたくなかった。 どう言っても、悪いのは俺なんだから…。 「冬弥君。ほら、元気出して」 「ねっ?」 由綺が俺に明るく笑いかけてくれた。 ちょっとだけ無理してるみたいな、だけど優しい声だ。 「うん…」 俺はそっと答える。 少し胸が痛んだけど、だけど、なんとなく安心できるみたいな気持ちになれた。 「い、いや、実はさ…」 俺は由綺に適当な嘘をついた。 「そうなんだ。じゃあ仕方ないよね」 由綺、俺の言うこと、あっさりと信じてる。 「…ごめんね。約束すっぽかしちゃって…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 そんな風に由綺は、屈託なく微笑む。 ほんとに信じてくれてるんだ、俺のこと…。 「うん…」 俺は、そんな由綺に対してなんとなく罪悪感を感じた。 今日は由綺に頼まれてた本を借りに行こう。 学校に用事が無いわけでもないし。 俺は図書館へ。 「あれ、冬弥だ」 「ん?」 「あ、はるか」 はるかが昼から学校にいる…。 「授業?」 「ん? いや、そうじゃないけど。ちょっと図書館にね」 「冬弥が図書館…」 「おかしくはないだろ」 俺だって図書館にくらい行くさ、そりゃ、たまには。 …たまには、だけど…。 「珍しい」 「笑うなって。はるかが学校来てる方がよっぽど珍しいよ」 「そう?」 「そう」 「冬弥が図書館行くくらい?」 「…失礼なやつだな」 俺と図書館ってそんなに結びつかないかな。 「じゃ、ここで会えたのって天文学的数字の確率の偶然だ」 「そんなすごくない…」 ほんとに学生か、俺達…。 「そういうわけだから、また今度な」 「またね」 「今度は遊べる時にね」 「そうだね」 「じゃ、俺、直接TV局に届けに行くよ」 「えっ? …局に?」 「うん。休み時間くらいあるだろ?」 「あるけど…。でもそんな、わざわざ…」 「いや、別にわざわざじゃないよ。俺、バイトでADやってるわけだしさ」 「うん…」 申し訳なさそうに由綺は口ごもる。 たかが一冊の本の為に、俺の一日を潰すのを気に懸けてるんだ。 「ほんとに…ごめんなさい…」 「平気だって」 何より、TV局で由綺と堂々と会える口実ができた。 これならあの鉄壁の弥生さんバリアーも難なく突破だ。 「じゃあ、局で会おうね」 「うん…。じゃあ、お願いするね…」 「仕方ないよ。これ、あきらめよう…」 「うん…」 「由綺、このレポート提出しないと進級できないってわけじゃないんだろ?」 「うん。大丈夫」 「…その分、補講に出なきゃいけなくなるとは思うけど…」 どっちにしても大変なんだな…。 でもまあ、今こんなに忙しいんだったらどっちにしてもゆっくりとレポートを書いてる暇なんてないだろうに。 せっかく借りてきた本だけど、今はこんなの忘れて、少しでも身体を休めることの方が大切だな。 由綺にとっては。 「ごめんね。わざわざお願いして借りてきてもらったのに…」 「気にしなくていいってば。学校に行ったついでだったから」 「うん…。それじゃ、また今度、時間がある時にね…」 「そうだね。じゃ、今日はおやすみ」 「おやすみなさい…」 今日はTV局まで由綺に本を届けに行こう。 由綺、真面目なんだけど時々こんな風に間が抜けてるんだよな…。 さ、行こう。 あっ! 本、忘れた! 由綺のこと言えないんだな、俺も…。 と、そろそろ休憩入るけど…。 由綺は…。 あ、いたいた。 「由綺ー」 「あっ。冬弥君」 「はいこれ」 「あ…。ほんとに持ってきてくれたんだ。ありがとう」 由綺は受け取ろうとしたけど、ステージ衣装のままじゃ持っていられないな。 「そうか…。あ、それじゃ控え室の方に届けとくよ。由綺、まだそっちに戻れそうもないみたいだし」 今日は由綺と美術館に行く日だ。 たまにしかない休日に美術館なんて、由綺もハイソな人間になったなあ。 やっぱり冬の公園って人が少ない。 なんかこう、気分が休まるな…。 っと、あれ、美咲さんだ。 「あら、藤井君。今日はお休み?」 「ちょっと美術館にね…」 『ちょっと美術館に』…。 『ちょっと』…。 あ、なんか俺までハイソな感じがしてきた。 「美術館…って?」 「…美術館」 美術館って何かって訊かれたら、普通どんな風に説明するんだろ? 「絵とか壺とか置いてる、ほら、あそこの…」 ボキャブラリー貧困だな、俺。 「藤井君…。今日、休館日よ…」 「休館日って…? …え? それ、休みってこと?」 「うん…」 うそ…。 なにそれ。 市民の憩いの場を日曜に閉ざしてどうするんだよ…。 とかやってると 「冬弥君ー。ごめんなさい、ちょっと遅くなっちゃった」 「あ、美咲さんも」 「こんにちは。そっか、今日は由綺ちゃん、藤井君と一緒なんだ」 「ふふふっ…」 また由綺、だらしなく笑うー…。 「あ。美咲さんも一緒に行かない? 美術館」 「え…? ええ…」 だから、今日は美術館は休みで…。 美咲さんは困ったみたいに俺の方を見る。 「あ、私、お買い物に行く途中だったから、今日は…」 「そうなの…?」 「ちょっと近道したら藤井君がいたから…。それじゃ私…」 「由綺ちゃん、また今度ね」 「はい…。それじゃ、また今度…」 向こうに歩いてく美咲さんを見送る由綺。 「じゃ、由綺、行こうか」 「うん」 「あ、でも、今日はこんないい天気なんだし、美術館じゃなくて散歩にしよ?」 「え?」 「…美術館がいい?」 「ううん。そんなことないけど」 「いいよ。じゃあ、今日はお散歩ね」 「うん」 ありがとう、美咲さん。 「ふふふっ。お散歩…」 「な、なんだよ。急に笑い出して…?」 「なんでもないよ」 ただ、広い公園の中をふらっと歩いてるだけなのに、なんだかすごく嬉しそうな由綺。 街中に出てって元気に遊び回るのもいいのかも知れないけど、せっかくの休みはついついこんな感じだ。 疲れてる由綺に気を遣い過ぎなのかもだけど、でも正直な話、俺はゆったりと落ち着いてる由綺が好きだ。 元気な由綺も大好きだけど、無理して元気にしてる由綺は見ててつらい。 身勝手かも知れないけど、俺は、俺の好きな由綺を見ていたいな…。 「冬弥君」 「ん?」 「お散歩、気持ち良いね」 「うん…」 「ふふふっ。冬弥君、最近なんだか、はるかと似てるね」 「えっ? うそっ?」 なんてことを…。 「俺、あんなだらしなくないぞ。ひどいこと言うなあ…」 「…冬弥君…。 私、そんなこと言ってないよ…」 それから俺は最近のみんなの様子や、この間、彰と遊んだこととか話しながら、夕方頃まで由綺と過ごした。 「じゃあ、またね」 今日は由綺とショッピングだ。 俺が駅に着いた瞬間、由綺もちょうどやって来た。 「時間ぴったりだったね」 「うん」 でも、こんな人の多いところで待ち合わせってのに、由綺、全然普段着なんだもんな。 これで誰も気づかないのかな。 ここに森川由綺がいるって…。 「どうしたの?」 「あ、ううん…。じゃ、行こ」 「うん、そうだね。こっちだよ…」 そして俺は由綺に案内されて、街の方に向かった。 「ここの二階のお店。ちょっと狭いけど、かっこいいよ」 「へえ…」 俺は由綺の指さす建物を見上げる。 俺、大学生にもなって、普通のビルの二階以上の店とかにはほとんど行かない。 こういう店の情報って、一体いつどこに流れてるんだろう? 「ちょっと行ってみましょ」 「うん」 そして俺達は建物の階段を上っていった。 今日は由綺とショッピングだ。 とはいっても、夕方からちょっとアクセサリーのお店を観るだけだけどね。 つい約束の時間よりも早く来ちゃった。 まあ、ここだったら退屈することもないし、適当に遊んでよう…。 と、例のお店の前まで来た時、俺は知ってる人間を発見した。 「あ、藤井さん…」 「今日もふらふら遊んでるわけ?」 「ふらふらって…」 別に俺、ふらふらなんてしてないと思うけど。 「遊んでるんじゃなかったら何なのよ?」 「えっ…? いや、まあ、…遊んでるんだけどさ」 「ほおらねっ。藤井さんって、いっつもそうなんだからっ」 「いつもかな…?」 「いや、マナちゃんこそ何やってるの?」 そうだ。 彼女の方こそ受験生なわけだし、こんなとこでのんきにしてちゃまずいはずだ。 「こど…受験生は早くお家に帰らなきゃね」 「こど…?」 「受験生、受験生…!」 危ない…。 「誰も受験生だなんて言ってないじゃない?」 「それに、別にいいじゃない、学生なんだから遊んだって」 「そうだけど…」 それだったら俺だっていいじゃない。 大学生なんだからさ…。 「まっ、でも、こんなとこで藤井さんにナンパされてるなんて見られるのも、ちょっとアレよね。もう帰ろ」 「アレってなんだよ…?」 「帰るわよ。これでいいんでしょ?」 「ま、まあ…」 「後ついてきたりしないでよ…!」 「しないよお…」 行っちゃった…。 元気なんだけど、意地悪なんだよな…。 とかやってるうちに、そろそろ約束の時間。 「あ。もう来てたんだ、冬弥君」 「今日は特に用事もなかったしね」 「でも、由綺、よっぽどこのお店お気に入りみたいだね」 「うん。でも今日は違うの」 「弥生さんのプレゼントに何かって思って…」 「弥生さんに?」 あの弥生さんに? この、カジュアル系のを? 「なんでまたそんな…」 今日は由綺と買い物だ。 さすがに土曜日になると、ここも人でいっぱいだ。 っと、あ、由綺が来た。 「あ、冬弥君。遅くなっちゃった?」 「ううん。時間通り。えらいぞ、由綺」 「うん!」 喜んでる。 子供みたい。 「あのね、さっき、ここに来る時スポーツショップの前通りかかったんだけど、ねえ、行ってみない?」 「スポーツショップ?」 「うん。なんかね、スポーツサイクルとかもいろいろ置いてたよ」 「へえ…」 こういうところで普通に遊んじゃう俺は、そういう専門店って行ったことがない。 「じゃあ、ちょっと覗いてみる?」 「うん。行ってみようよ」 へえ…。 ほんとだ、いろいろある。 自転車とかもそうだけど、トレッキング系のアウトドアグッズや、マリンスポーツなんかも揃ってる。 はるかがよく出入りしてたけど、なるほど、いろんなスポーツやってみたくなるのも判るな、これ。 「ねえ、はるかの自転車ってこういうの?」 「いや、違うよ。それはブロンプトン。 …ていうか、由綺、それ、ユニオンジャック描いてあるじゃない。メルセデスはドイツ」 「あ、これだね。かっこいい」 「ペ…ペウ…ピュージェ…オット…っていうんだ」 「それプジョーって読むんだぞ…」 (しかもフランス) こんな素人な会話をしながら俺達は店内を見て回った。 そしてあっという間に夕方。 「すごかったね。…私も買おうかな、メルセデス」 「お、おい…」 何を言い出すんだ、由綺まで…。 とはいっても、由綺の頭の中の 『銀色でかっこいい=メルセデス』 の図式は結局変わらないみたいだったけど。 「夏になったらだね」 「ん? 何が?」 「サイクリング」 「あ、ああ…。そうだね…」 「それまでに、自転車買おうね」 「うん…」 「ふふふっ。じゃっ、約束だねっ」 「そうだね。ははっ」 そんな遠い明日の約束を交わしながら、俺達はそれぞれ自宅に向かった。 「いらっしゃいませ…」 「あ、冬弥君」 「由綺。こんな遅くに大変だなあ…」 「ちょっとお食事…。ふふふっ…」 「…………」 いつも通り、弥生さんも一緒だ。 そしていつも通り、二人は静かに話しながら食事をする。 「…冬弥君…」 「え?」 食事を終えて少しくつろいでる由綺が、俺を照れくさそうに見つめてる。 「…今日、冬弥君に会えてよかった」 「な、なんだよいきなり…」 見慣れてるはずの由綺の微笑に、俺は何故か照れてしまう。 「今日、ちょっとだけお買い物できたから…これ…」 そう言って由綺は、手元のハンドバッグから四角い包みを取り出した。 「え…」 「バレンタインの…プレゼント…」 そして、テーブルの上を滑らせるみたいにして俺に手渡す。 「え…ええ…。あ…ちょっと照れるな…」 「今年こそ、バレンタインのチョコレートは手作りにって考えてたんだけど」 「ちょっと忙しくなっちゃって…」 「そんな…。俺、これだけで充分嬉しいよ、由綺…」 会ってゆっくり話もできない最近、こんなことは期待してなかった分だけ、ほんとにすごく嬉しく感じられる。 「…俺、由綺に何かしてあげられるってわけじゃないけど、でも、ありがとう」 「今度、絶対に何かでお返しするから」 「じゃ、来月のお返し、ちょっとは期待してもいいのかな…?」 来月…? ああ、ホワイトデーか。 「任せといてよ。とびきりのプレゼントでお返ししてやるからさ」 「うん」 「言ってくれたら、車でもヨットでも、何でも好きなものプレゼントするよ」 「そ…そこまではいいよお…」 そんなことを話してると、「恐れ入ります」 「わっ、びっくりした」 弥生さんか…。 ちょっとだけでも前置きが欲しいよ。 「そろそろスタジオの方に戻るお時間です」 「えっ? もうそんな?」 「ごめんね冬弥君。もう少しゆっくりできると思ってたけど、行かなきゃだめみたい」 「いいよ。大変なのは由綺の方なんだからさ。俺の方はそんなに気にしなくたって」 「…ありがと。じゃあ、また今度、ゆっくり会おうね」 そして由綺は弥生さんに引き連れられて店を出ていった。 俺は受け取った四角い包みを見つめる。 かすかに甘い香りがする。 嬉しかった、すごく。 だけど…。 店長が静かにあくびした。 まるで、俺の中の小さな心変わりと小さな引っかかりをかき消してしまおうとするように。 ただいま…。 あれ? 留守電入ってる。 ピーーーッ 『あ、冬弥君ですか? 由綺です。  今日はちょっとだけお部屋の方に帰ってきてます』 由綺…? 『えと…もうちょっとしたら、 またスタジオに戻らなきゃいけないので、 冬弥君のところには行けそうもありません。だけど…』 やっぱりか…。 『あ、そうだ。  それじゃ、今度またお店で会いましょう』 お店…。 『エコーズ』のことか。 『え、えと…。えへへっ…。そ、それじゃ…』 留守電相手に照れてる由綺が、目の前にいない分だけよけいに愛おしい。 『そ、それじゃあ、 14日を…楽しみにしてて下さいっ…』 『えへへっ…。  あ、ええと、由綺でしたっ』 ピーーーーッ 記録を見たらお昼過ぎ頃だった。 多分、もう部屋にはいないだろう。 英二さんのスタジオに戻ってるはずだ…。 会えないのは判ってるし、覚悟もしてるつもりだけど、こんなかたちで由綺に現れられると、ちょっと、弱い気分になる…。 もう少しだけ、我慢しなきゃ…。 「いらっしゃいませ…」 「あ、冬弥君」 「由綺…」 「ちょっとお食事…。ふふふっ…」 なんだか少し疲れてるみたく見える。 気のせいかな。 「…大変そうだね。あ、座って」 「うん」 「…………」 いつも通り、弥生さんも一緒だ。 そしていつも通り、二人は静かに話しながら食事をする。 「…冬弥君…」 「え?」 食事を終えて少しくつろいでる由綺が、俺を照れくさそうに見つめてる。 「…今日、冬弥君に会えてよかった」 「な、なんだよいきなり…」 久しぶりの由綺の微笑に、俺は抵抗なく照れてしまう。 「…前に電話にメッセージしてたでしょ…? それ…」 メッセージ…? あの留守電メッセージか。 「あ、俺、ちょうどあの日出かけてて…。ごめん…」 「ううん…」 由綺は小さく首を振る。 「…少しお話したくてかけたんだけど。…でも…おかげでちょっと時間ができて…」 「少し休めた?」 「これ…作ってたの…」 「え…?」 そして由綺は、手元のハンドバッグから四角い包みを取り出した。 「バレンタインの…プレゼント…」 そして、テーブルの上を滑らせるみたいにして俺に手渡す。 「今年はって思ってて…初めて、自分で作ってみたんだ…。バレンタインのチョコレート…」 「…上手にできてるか…ちょっとだけ心配だけど…」 「由綺…」 「あっ、でもっ、ちゃんと味見はしたんだからねっ…」 「由綺…」 ほんとなら、俺は由綺を抱きしめてしまいたいくらいだった。 少なくとも、弥生さんが隣にいなかったら、手くらいは握ってしまってたって思う。 会って、ゆっくり話することすら満足にできない最近なのに、こんな、手作りでのプレゼントなんて…。 無駄にできるほどもない時間と、心の余裕を、由綺は俺の為に割いてくれたんだ。 なんだかすごく申し訳ない、けど、でも、すごく嬉しい。 ほんとは素直に喜んじゃいけないのに、すごくすごく嬉しかった。 「ほんとはもっと、いろんなもの作ったりしたかったけど、でも…」 「でも…今はこれだけっ…。あははっ…」 決して楽しそうじゃないけど、すごく嬉しそうな笑顔。 いつ頃から由綺は、こんな風な笑顔をするようになったんだろう。 こんな、決して楽しいだけじゃない、儚 はかな げな笑顔を…。 「ありがとう…」 言いたい言葉はいっぱいあった。 もっと熱烈な台詞や、かっこいい台詞だっていろいろ言いたかった。 だけど出てきた言葉はそれだけだった。 こんな、これだけのことなのに、胸がいっぱいになって…。 「ほんとに嬉しくて…ごめん…」 そして恥ずかしくなって俺は笑った。 こんな風に、由綺がやったみたいに。 「よかった…」 「はは…。な、なんか照れちゃって…俺…」 「恐れ入ります」 「わっ、びっくりした」 弥生さんか…。 ちょっとだけでも前置きが欲しいよ。 「そろそろスタジオの方に戻るお時間です」 「えっ? もう…?」 「ごめんね…。もう少しゆっくりできると思ってたのに…」 「うん…。…でも、がんばってよ。ここまできたら精一杯やらなきゃ」 俺だって、いつまでも由綺と一緒にいたい。 だけど、あんな健気な笑顔を見せられたら、俺だって中途半端に甘いこと言っていられなくなる。 「…ありがとう…」 そして由綺は弥生さんに引き連れられて店を出ていった。 俺は受け取った四角い包みを見つめる。 かすかに甘い香りがする。 そんなにも器用じゃない由綺なのに、こんなことまで考えて、そしてほんとにやってくれる。 こんな風に由綺が俺のことを想ってくれてるのなら、その想いをごまかさずに全部受けよう。 そして負けないくらいに由綺のことを想おう。 ひどく子供っぽい、幼稚でつたない恋愛になってしまうかも知れないけど、見た目ほどにもクールになれそうもない。 器用な恋愛なんて、できそうもない…。 手の中の包みを見て、俺はそんな風に思った。 …と、今日もバイトなわけだけど…。 あれ? 店長が呼んでる。 何だろう…? 「え…? 由綺が…これを…?」 店長は俺に小さな四角い包みを手渡す。 かすかな甘い香りが感じられた。 その、リボンのついた包みには小さなメッセージカードがついてた。 「…………」 『冬弥君へ  今年、初めて手作りチョコレートに  挑戦しました』 『…できはどうか判らないけど、 とにかく一生懸命作りました。  絶対にもらって下さい』 『森川由綺 2/14、バレンタインデー  PS また電話しますね』 「由綺…」 また… すれ違ってたのか…俺達は…。 会いたい時にいつも、俺達は会えなくて、それだけなのに、哀しくて…。 俺はちらりと店長に目を遣る。 あ、そうだ。 由綺との約束、断りの電話入れなきゃ。 部屋にいるかな、由綺…。 ぷるるるるーーー。 ぷるるるるーーー。 ぷるるるるーーー。 「…………」 ぷるるるるーーー まだ仕事してるのかな…? ぷるるるるーーー また今度連絡してみようか…。 ぷるるるるーーー。 「はい、藤井ですけど」 「冬弥君ですか? 由綺ですけど」 あっ、由綺だ。 「仕事はもう終わったんだ?」 「うん」 やっぱりちょっと疲れてるみたいだけど、それでも元気なところはそのままだ。 と、不意に由綺はやや神妙な口調になって、「冬弥君…。 12月24日、時間空いてる?」 12月24日? 空いてる。 いや、空けてるに決まってる。 その日はクリスマスイヴ。 そしてそれ以上に大切な由綺の誕生日なんだから。 去年は、TVの収録で、由綺とは一緒にはいられなかった。 たぶん今年も(今の彼女の人気を考えると)由綺と一緒にクリスマスツリーを眺めるなんてできないかも知れない。 でも俺はその日、由綺以外の人間の予定を入れる気持ちにはなれない。 「多分、空いてるよ」 俺はそれでも、知らないふりをしてみる。 「何かあるんだったら今のうちだよ」 「もう、冬弥君」 口調から俺がその日をキープしているのを感じ取ったらしく、由綺もむくれた調子になってみせる。 だけどすぐに神妙な口調に戻り、「その日、今年も私、仕事が入ってるんだ…」 「…TVじゃなくて、ライブ…」 「へえ…!? すごいじゃない、クリスマスイヴにライブなんて。よっぽど人気がないとそんな日にできないんじゃない? 去年と違って、今年は由綺一人が主役なわけだし。すごいよ…!」 「うん…!」 自分の夢を少しずつ、確実に叶えていってる由綺の声だ。 「それでね、お願いなんだけど、その日…」 「24日?」 「うん。その日…会いに来て欲しいんだ…」 「え…?」 会いに…? 「…なんてのは無理だよねっ。だめだよねっ」 今言ったことを慌てて否定する由綺。 「ううん。いいのいいの」 「ただ、ライブには来て欲しかったから。それだけっ。ほんとそれだけだからっ」 「レッスンとかでしばらく会えなくなるかも知れないけど、でも、チケットは絶対に送るね。 だから、もし…来られたら…来てね…」 だんだん声が消え入りそうになってゆく。 『会えない』って言葉の意味が次第に由綺の心の中で重く重くなってる。 だけど、すぐに明るい声に戻り、「そ、そうだ。もしライブに来てくれたら、いいこと教えてあげる」 「いいこと?」 いいことって…? 「うん。まだ秘密。だから、来てくれたら秘密の半分だけ教えてあげる」 「もう半分はもうちょっとだけ秘密。これは冬弥君を驚かす用」 そんな風に由綺は無理にはしゃいでみせてくれた。 「大丈夫、由綺、大丈夫。俺、約束するよ…約束する…。その日、由綺に会いに行くよ…絶対に」 「え…?」 今度は由綺の方が呆然とする。 「会いに…?」 「そう。会いに。プレゼント持って。任せとけよ」 電話なのに、俺の顔に自信の笑みが浮かぶ。 「あ…冬弥君…? …冗談で言ったんだから、そんな本気にしなくても…。会いになんて…」 「行くってば」 「…………」 由綺はちょっとの間、困ったみたいに沈黙してたけど、「うん、判った…。待ってる…」 気持ちは伝わったみたいだ。 「チケット、送るの絶対に忘れないでよ」 「うん。絶対に送るね…」 そして俺達は電話を切る。 言いようもない、わくわくした気分になれた。 「い、いや、実はさ…」 俺は由綺に適当な嘘をついた。 「そうなんだ…」 「う、うん…」 相変わらず、由綺の声に明るさは戻らない。 ひょっとして、俺の嘘は見抜かれてる…? 「それじゃあ、仕方ないよね…」 少し沈んだ声で、呟くみたいに由綺は言う。 微笑んでる風に話してるけど、やっぱりどこか無理のある明るさだ。 「ご、ごめん」 俺は、思わず謝る。 「ううん。気にしないで」 「うん…」 頷きながらも俺は、その言葉とは反対に、何か言い表せないような不安を感じた。 今日は理奈ちゃんのステージの仕事だった。 今日はトーク番組の収録アシスタントだった。 仕事を終えて、自販機コーナーに向かう。 ちょっと一休みしたら帰ろう…。 するとそこに、コーヒーの紙コップを手にした理奈ちゃんがいた。 「あらっ」 「冬弥君、今日もここでお仕事していたのね。全然気づかなかったわ」 「うん。今日はほとんど機材室とスタジオを往復してたから…」 「ふふふっ。お疲れ様。相変わらず真面目なのね、冬弥君って」 そしてポケットからコインを取り出し自販機に投入する。 「冬弥君、ホットコーヒーでいい?」 えっ、俺に? 「お砂糖とミルクは?」 「あっ、いいよそんな。俺になんて」 俺は慌てて手を振る。 「へええ? ノアール…ブラックで飲むんだ。ふふん、かっこいい」 「いや、そういう意味じゃなくて…」 砂糖とミルクを遠慮するってんじゃなくて…。 だけど理奈ちゃんは既に自販機のボタンを押してしまっていた。 コトン…。 紙コップの落ちる音がして、それからコーヒーの甘い香りが漂ってくる。 「ありがとう。俺なんかにこんな。 でも、いいの? こんなことしちゃっても?」 「ふふふっ。いいから。私からのご褒美と思っておとなしく受け取りなさい」 ふざけて言ってるんだろうけど、なんて似合う台詞なんだろう。 ふと、彼女は腕時計をちらっと見て、「ちょっとだけ、お話ししてもいい?」 「いいよ」 「すぐ帰るから」 「あ、うん」 彼女の方が忙しい体のはずなのに。 「よかった。座って」 うなが されて俺は彼女と長椅子に腰を掛ける。 「今日はお仕事の方、もういいの?」 俺はなんとなく気遣わしげに尋ねる。 「ええ、今日はもうお終い。あとはお家に帰るだけよ」 「ご苦労様だね。毎日こんな調子で大変じゃない?」 「あら、心配してくれるの? それとも社交辞令?」 からかうように彼女は俺の顔を覗き込む。 「いや、そういうんじゃなくて…ただ、ほんとに…」 俺はどう続ければいいのか判らず、困って笑う。 そんな俺を、彼女は軽く笑いながらじっと見つめてたけど、不意に目を逸らして、「優しいのね…」 そう呟いた。 「…由綺が選んだのもなんとなく判るわね」 ほとんど聞き取れない小さな呟きだった。 俺はどういう反応を取ればいいのか判らないまま、彼女の目線の先の、ありもしない何かを探して視線を泳がせた。 と、不意に彼女の目線が再び俺に向く。 「それとも、誰にでもこんな風に優しいの?」 意地悪そうな口調に反して、俺を見つめる彼女の顔は、とてもとても優しかった。 「優しい?」 「そう…」 その時、彼女の腕時計のアラームが生真面目で融通のきかなそうな電子音を響かせた。 「…もう行かないと。ごめんなさい、引き留めちゃって」 「本当のこと言うと、いろいろ聞いてもらいたい話とかあったの…。ごめんなさい、また今度でいいわ」 「今度はこんなのじゃなくて、もっとちゃんとしたレストランでね。美味しくないもの、こんなコーヒー」 笑って、理奈ちゃんは、空の紙コップを軽く、だけど完全に握り潰した。 なんとなく、迫力があった。 「…ちゃんとした、美味しい水出しコーヒー、ご馳走させてくれるわよね」 「そうだ。電話番号とか訊いてもいい?」 「え…?」 理奈ちゃんが俺の連絡先を…? 「もちろんいいけど、でも、どうして…?」 「ちょっと、二人で話したいことがあって…。もし嫌だったら、それでもいいけれど?」 「いっ、嫌なんてことはないけど、絶対…!」 「ふふふっ。ありがとう…」 半分感激しながら、でも半分は迫力に押されるかたちで俺は、自分の住所と電話番号を彼女に教えた。 理奈ちゃんは、『ふうん…』って感じに俺の住所を眺める。 「じゃあ、今度、電話するかも知れないから、出てね」 「うん…」 「本当なら私の方からも教えたいんだけれど、いろいろとややこしくなる時があるから、ちょっとね…」 そういうものだってことはよく判ってるけど。 「ほら、特に私のうちって、兄さんが結構うるさいから…」 あの若い天才は、妹に対しては小うるさい兄貴なのか。 なんか笑える。 「なに笑っているの?」 「あ、いや、なんでもないよ」 理奈ちゃんは首を傾げたけど、「じゃあ、また今度ね」 と、軽く手を振り、薄暗い廊下の向こうへ駆けていった。 あ…。 話したいことってどんなことなのか訊くの忘れた。 今の間に話せないことだったのかな…。 まあ、彼女の方から話してくれるかも知れないし、あまり馴れ馴れしくなってしまうってのもかっこ悪い。 あんまり深くは考えないで、今日は帰ろう。 「あ、ごめん…。俺、今から帰るんだ…」 理奈ちゃんはちょっと意外そうな顔をする。 …そりゃそうだ。 あのトップアイドル緒方理奈の誘いを断る男なんて、世の中にはそうはいないはずだ。 でも、俺にだって俺の予定があるし。 だけど理奈ちゃ、すぐに微笑んで、「そうね。毎日頑張って働いているんだもの。これ以上、私につきあわせるなんて、できないわよね」 「ごめん。次はつきあわせてもらうから」 「ええ…。でも、無理しなくたっていいのよ」 「緒方理奈がいい気になって、かっこいい男の子を強引に誘ってるなんて思われたら嫌だし」 そして、理奈ちゃんは一人で長椅子に座り、「じゃあ、私はここでもうちょっとだけ休んで帰るから。今日はお疲れ様でした」 「うん。…それじゃ、また…」 行きかけて、俺は、手の中のコーヒーに改めて気づく。 「コーヒー、どうもありがとう…」 「え…?」 「あ。いいわよ、そんなの」 「結構美味しいわね、このコーヒー」 「そうだね」 俺は少し笑って、理奈ちゃんに手を振ってTV局を出た。 ぷるるるるーーー、電話だ。 カチャ。 「もしもし、藤井です」 「…夜分遅くに申し訳ございません。藤井冬弥様のお宅でございますか?」 女の人の声だ。 「はい。…俺が冬弥ですけど…」 「私、森川さんの友人のオガタと申します」 「はあ…」 やたら丁寧な口調だけど、俺の知り合いにはちょっといないタイプの喋り方だな。 たまにこうして、由綺の友人と称する電話が、俺のところにもかかってきたりする。 そういうのは、当然、由綺関係で、なんらかの目的があるんだろう。 俺が由綺の知り合いだってことは、高校時代の知り合い辺りから聞きつけてくるんだろうけど、大抵かかってくるのは変な連中からだ。 まず無言電話が多く、たまに意味不明な繰り言を始める奴もいる。 何を考えてるか判らないし、怖いから、乱暴なことを言ったり、いきなり切ったりとかができないのがつらい。 今夜のは、そういうのじゃないといいな。 「藤井、冬弥さん、ですよね…?」 「はい」 ばかに確かめるな。 ぷるるるるーーー、電話だ。 カチャ。 「もしもし、藤井です」 「…夜分遅くに申し訳ございません。藤井冬弥様のお宅でございますか?」 女の人の声だ。 「はい。…俺が冬弥ですけど…」 「私、森川さんの友人のオガタと申します」 「はあ…」 やたら丁寧な口調だけど、俺の知り合いにはちょっといないタイプの喋り方だな。 たまにこうして、由綺の友人と称する電話が、俺のところにもかかってきたりする。 そういうのは、当然、由綺関係で、なんらかの目的があるんだろう。 俺が由綺の知り合いだってことは、高校時代の知り合い辺りから聞きつけてくるんだろうけど大抵かかってくるのは変な連中からだ。 まず無言電話が多く、たまに意味不明な繰り言を始める奴もいる。 何を考えてるか判らないし、怖いから、乱暴なことを言ったり、いきなり切ったりとかができないのがつらい。 今夜のは、そういうのじゃないといいな。 「藤井、冬弥さん、ですよね…?」 「はい」 ばかに確かめるな。 「私ですけど。オガタ…」 私ですけど、って丁寧な割には図々しいな、このオガタって人は。 ………。 え? オガタ…? 緒方…? 「…理奈…ちゃん? …ひょっとして?」 「ええ」 向こうの彼女が短く答える。 「ご、ごめんっ。…ちょ、ちょっと判んなかったんだ。それに、部屋の方に緒方理奈ちゃんから電話なんてないよ、普通…」 「ごめんなさい」 ちょっと沈んだ声で彼女は言った。 と、電話の向こうで、がやがやと人の声がする。 「お客さん、いるの?」 「え? …あ。ううん。家からじゃないの」 「え?」 「仕事場なの、まだ。…って言うより、今日は帰れそうもないみたいだけれど。ちょっと時間が空いたから冬弥君に電話してみようって思って」 「そうなんだ…」 それでさっき、馴れ馴れしく自分の名前を言ったりしなかったんだ。 どこで誰が聞いてるか判らないからな。 「…冬弥君… 明後日って…空いているかしら…?」 「え…俺…? でも、どうして…?」 どうして理奈ちゃんが俺なんかを…? 「うん…。少し、お話ししたいことがあって…」 「話したいことって?」 「ここじゃちょっと…」 あ、そうか。 仕事場か、今。 「どう…かしら…?」 えっと…。 どうしようか? もちろん行くよ 行けない 「もちろん行くさ、そりゃ」 「本当? よかった」 彼女の声がはっきりと判るくらい明るくなる。 「でも、ほんとにいいの? 俺なんかを誘っちゃって?」 「またあ…」 「判った、正直に言うわ」 「ちょっと冬弥君に聞いて欲しい話があるの」 「ここではちょっと言えないけれど…」 「う、うん…」 …そういえば、このあいだもそんなこと言ってたっけ。 何か心配事でもあるのかな…。 「いいけど、俺、力になれるかどうか判んないよ…」 「情けないことを言わないで、男の子」 そんな子供みたいなことを。 「大丈夫、かどうか判らないけれど、とりあえず明後日、駅前で待っているわね」 「時間は[]」 「あ、うん。判った」 そして、電話は切れた。 ………。 悩みの相談とかだったら困るな。 あの緒方理奈ちゃんの悩みだなんて、この俺がどうこうできるはずないしな。 まあ、気楽にいってもいいんじゃないかな…。 あ、いや、待てよ。 由綺が理奈ちゃんに、俺のこと、すっごく頼れる男みたいに大袈裟に言ったのかも知れない。 だったらつらいなあ…。 そんなで彼女に会いに行くのは、わざわざ恥をさらしに行くみたいなもんだし。 ………。 ま、いいや、寝よう…。 「ごめん。俺、その日はちょっと別の用事があって…」 「え?」 …まあ、こんな申し出を断る奴なんていないだろうな。 実際、俺も断りたくはないんだけど。 「そう…仕方ないわね…」 「ほんとにごめん…。他の日だったら…」 そう言いかけて、言葉を濁した。 由綺でさえ、俺と会えない毎日を送ってるんだ。 それでどうして由綺以上の人気を博してる彼女が、自由に自分だけの時間を持てる理由があるんだ。 「ごめん…」 こんなすごく貴重な時間を、俺なんかに割こうとしてくれてるのに。 「ううん、いいわよ。…良くはないけれど」 「ごめん…」 「あ、私の方は気にしないで。ただ、ちょっと由綺のことも気に懸けてやってね」 「え…?」 どうして理奈ちゃんがそんなことを? 「…明後日の用事って、由綺とってわけじゃないんでしょう?」 「え? どうして…?」 なんでそんなことまで知ってるんだ? 「…そろそろ私も戻らなきゃいけないみたいだから、また今度ね」 「ごめんなさい。いきなり電話かけちゃって」 「理奈ちゃんの方こそ忙しいのに…」 わざわざ誘ってくれたのに、しかもそれを断ったりして。 「私は平気。慣れてるから。…それに、忙しくなくなった方がつらいんだけどね」 そして少し笑って、「じゃあ、また今度」 「うん…。ほんとにごめん…」 「気にしないでってば」 明るく笑って、彼女は電話を切った。 ………。 あの理奈ちゃんが俺に用事って、どんなだったのかな? …なんて、考えても判らない。 今日はもう休もうか。 今日は、理奈ちゃんと出かける日だ。 信じられないけど、でも、これも現実だから。 さっ、出かけよう。 いつもは気にならなかったけど、駅って人が多いなあ。 ほんとにこんなところで待ち合わせしてよかったのかな。 理奈ちゃん、見つかったら囲まれるんじゃないか…。 とか考えてると、「冬弥君ー」 「はい?」 誰かに呼ばれた。 理奈ちゃん? 「ここ、ここー」 言ってる本人を探してるのに、ここって言われても…。 きょろきょろする俺。 「ここだってばあー」 通りの向こうかも知れない。 そう思って道路を横切ろうとしたら、いきなりタクシーにぶつかりそうになった。 「すみません…」 「なに謝っているの。早くこっちに来てよ」 「え?」 顔を上げると、タクシーに乗った男の子が必死に手招きしてる。 「早く乗って!」 「り、理奈ちゃん…?」 とにかく俺はタクシーに乗った。 「びっくりした?」 「びっくりした…」 ここは前に理奈ちゃんが言ってた珈琲の美味しいお店だ。 少し照明を落としたくらいの、落ち着いた感じのする広いレストラン。 奥の壁にある窓からは、外の時間がわからないみたいな、そんな感じだ。 そして、テーブルの向かい側に座ってるのが、緒方理奈ちゃん本人。 普段着のままの彼女だ。 タクシーの中で、男の子がキャップと変なかたちの眼鏡を外したら理奈ちゃんになってしまった。 「まさか冬弥君、私がそのままで来るなんて思った?」 「うん…」 俺は照れて真っ赤になる。 声の主を捜してうろたえてる様子も、全部見られてたわけだ。 「由綺って、そういうことしないから…」 「そうよね。あの娘、人混みの中でも全然ばれないのよね」 「わ、割と普通なルックスだから…」 「そうでもないわよ。美人よ、彼女」 「そうかな…?」 自分のことでもないのに、何故か俺が照れてしまう。 「だけど不思議と人の中に溶け込んじゃえるのよね。等身大っていうのかしら?」 庶民的なのかも。 「デビューしたての頃なんて、私服でよくADと間違われたもの」 「あ、聞いたことある」 「私にお弁当を配りに来た時には、どうしようかと思っちゃった。…くすっ」 そんなことまでやってたのか。 いくら何でもそれはボケすぎ…。 「自分でも気づきなさいっていうか…。 まだ、自分がアイドルだって自覚が足りないみたいなのよね」 うん…。 確かにそれは言えてる。 俺も由綺のこと言えないかも知れないけど。 それにしてもさすがは先輩、見るところはちゃんと見てるんだ。 「って私、すごく先輩風吹かせているみたいね。ごめんなさい、ついお仕事のお話しちゃうの。癖になっちゃっているのよね…」 「そんなことないよ…。すごく熱心だなって、判るもの」 「ふふふっ、ありがとう」 「でも、いいわよ、気を遣ってくれなくたって。私の方で気をつけるから」 「そんな、いいよ…」 私服の理奈ちゃんは、俺が思ってたよりもずっと普通だった。 「でも、あんまり普通で自然な格好だから、ちょっと驚いちゃった」 「そ、そう…?」 理奈ちゃんは困ったみたいに笑った。 失礼だったかな。 「私、周りの人が言う『普通』って、まだちょっと判らなくて」 「そうなの…?」 「よく、兄さんに『普通が一番だな~』なんて聞こえよがしに言われるけれど、私、兄さんみたいにはどうしてもなれないから…」 い、いや。 あれはかなり特殊な『普通』だから…。 「俺、今の理奈ちゃんはすごく普通だと思うけど。TVでしか知らなかったから、なんだろうけど、普通に綺麗っていうか…」 こんなこと言うのって恥ずかしいな…。 由綺が相手の時と、なんとなく違うみたいな、でも一緒みたいな…。 「ふふふっ。じゃあ、お世辞として受けとっておくわね…」 「いや、お世辞とかじゃなくて…」 全然お世辞にはならないよ、それ。 俺は焦ってるのを隠す為に珈琲を一口すする。 『エコーズ』の珈琲もかなり美味しいと思うけど、これも、深く濃く、上品な味わいだった。 そんな俺の顔を見て、理奈ちゃんも、この珈琲の為にあつらえたみたいに上品に、くすっ、と笑った。 「それで、お話だけれど…」 「え?」 珈琲と理奈ちゃんと、どっちに集中したらいいのか迷ってた俺は思わず訊き返した。 そういえば、今日はそれで来たんだっけ。 なにデート気取りで楽しんでるんだ、俺は。 「もちろん行くさ、そりゃ」 「本当? よかった」 彼女の声がはっきりと判るくらい明るくなる。 「でも、ほんとにいいの? 俺なんかを誘っちゃって?」 「またあ…」 「判った、正直に言うわ。冬弥君に聞いて欲しい話があるの」 「ここではちょっと言えないけれど…」 「う、うん…」 …そういえば、このあいだもそんなこと言ってたっけ。 何か心配事でもあるのかな…。 「いいけど、俺、力になれるかどうか判んないよ…」 「情けないことを言わないで、男の子」 そんな子供みたいなことを。 「大丈夫、かどうか判らないけれど、とりあえず明後日、駅前で待っているわね」 「時間は[]」 「あ、うん。判った」 そして、電話は切れた。 ………。 悩みの相談とかだったら困るな。 あの緒方理奈ちゃんの悩みだなんて、この俺がどうこうできるはずないしな。 まあ、気楽にいってもいいんじゃないかな…。 あ、いや、待てよ。 由綺が理奈ちゃんに、俺のこと、すっごく頼れる男みたいに大袈裟に言ったのかも知れない。 だったらつらいなあ…。 そんなで彼女に会いに行くのは、わざわざ恥をさらしに行くみたいなもんだし。 ………。 ま、いいや、寝よう…。 ぷるるるるーーー、電話だ。 カチャ。 「はい、藤井ですけど」 「夜分に失礼いたします。藤井冬弥様でいらっしゃいますよね?」 「ええ。そうです…」 「私、森川さんの友人で、緒方と申す者ですけれど」 この声と喋り方は…。 「…理奈ちゃん?」 「こんばんは。ちゃんと判った?」 「うん…」 「でも『由綺の友人』とか言わないと、もっと判りやすいかも…」 「あら? そういうのは嫌いだったかしら?」 そういうわけじゃないんだけど。 「なんていうか、由綺の友達だって言ってかけてくる人に、ほんとに由綺の友達ってあんまりいないから」 判りづらい言い回し。 「そうね。冬弥君もそういうのってあるのね」 「でも、いきなり『緒方理奈です』なんて言って、もし冬弥君じゃない人が出たらまずいでしょう?」 「悪戯だと思って切っちゃうとか」 「独り暮らしだから俺しか出ないよ…」 っていつもの台詞で照れ笑い。 友達だって特に多いってわけじゃないし。 「ん…。まあ、信じておいてあげるわ」 「もし違う女の人が出ても、由綺には黙っていてあげるから安心して」 「ないない。絶対ない」 自慢できた話じゃないけど。 「理奈ちゃんは今日も仕事?」 「ええ。今、控え室。携帯でかけているの」 「大変なんだ…」 俺の方はこれからシャワー浴びて、横になってTVでも観ようかとか思ってたってのに。 これでほんとに同い年なんて信じられないな。 「冬弥君、今もADはやっている?」 「バイト? うん。やってるけど」 「それじゃあ、明後日には入れないかしら?」 「明後日?」 「無理?」 「いや、無理ってことはないとは思うけど…。 そうそう都合良く入れるかどうかってのがあるし…」 「うん…。そうね」 「もし冬弥君が来てくれるっていうんだったら、ディレクターさんにお願いして、入れるようにはしてあげられるけれど…」 なんだかすごい話になってきた。 「…お願いしたいこととか、あるから…」 「うん…」 どうしようかな…。 行く 行けない 「判った。うん、行けると思うよ。でも、お願いって…」 「…兄さんのこと。詳しいことは…今は説明できないんだけど」 だから俺を呼び出してるわけだけど。 「でも、俺、やっぱり英二さんのことで、理奈ちゃんに力になれるなんて…」 そう言いかけた時、受話器の奥の方にドアの開く音と、誰かの話す声がぼんやり聞こえた。 「ごめんなさい、冬弥君。もう行かなきゃ。それじゃあ、明後日の手配はこちらで済ませておくから」 そして慌ただしく電話は切れた。 ゆっくり電話をかける時間も無いのに、人のこと気に懸けて…。 ………。 英二さんのことで…って言ってたけど、またあの変な兄妹喧嘩に巻き込まれたりしないといいけどな。 …無理か。 「…ごめん。やっぱり俺、その日はちょっと無理かな…」 「そう…」 「ううん、いいの。私の方も急だったし」 「結局、私達兄妹の問題だし、冬弥君を巻き込んじゃいけないものね」 「いや、別に…」 それを気にしてるわけじゃないけど、でも、その日の予定は大事にしたい。 今日はTV局でADのバイトだ。 TV局でってよりは、理奈ちゃんのバイトって感じがするけど…。 ま、いいや。 出かけよう。 いつにもなく緊張しながら問い合わせると、理奈ちゃんの控え室にまっすぐ向かってくれと言われた。 俺の為に、完璧に手配が整えられてたことにも驚いたけど、しかもいきなり理奈ちゃん付きにされてたことにはもっと驚いた。 ほんとにすごい存在なんだな、理奈ちゃんって。 「し、失礼します…」 控え室の出入りなんて慣れているはずなのに、やたら緊張してる。 「あ、冬弥君。ご苦労様」 「ごめんなさい。私の都合だけでわざわざ来てもらっちゃって」 「ううん。いいよ」 こんなに理奈ちゃんにあてにされてるなんて、一体、何をしたんだ、俺は? 「座って。冬弥君は、今日一日、私のマネージャー代わりってことで、私の側で待機していてもらうわ」 「…退屈かも知れないけれどね」 そう言って理奈ちゃんは、くすくすっ…と上品に笑う。 と、そういえば、あの時の病弱そうなマネージャーがいない。 「いつもの、あの人は…?」 「彼?」 「冬弥君を専属マネージャーにしたいからクビにしちゃったっ。あははっ」 「あ、あはは、って…」 なんかすごいことになってるよ、ちょっと…。 俺のせいで一人の人間の人生設計が崩れたっていうのか…? まるで女王様だ、理奈ちゃんって…。 「…あの、理奈ちゃん。俺、別にこっちの業界の人間になるとか、そんな、考えてないし…」 「くすっ。うそうそ。冬弥君、すぐ本気にするから面白くて」 「嘘?」 「当たり前じゃない。あはははっ」 「勝手に私が冬弥君を取っちゃったら、由綺に本気で泣かれちゃうわよ」 「泣くのか…」 できたら怒って欲しい。 でも、よかった。 当然っていったら当然だけど、こんなこと、ほんとにあっちゃだめだよな。 「本当、冬弥君って由綺とそっくり」 「私のこと、女王様みたいだとかって思ったでしょ?」 ぎく。 「…いや。そんなこと…」 それにしても、俺、そんなに言われるほど由綺と似てるかなあ。 「ふふふっ。本当かしら」 「まあ、いいわ。結局、今日の冬弥君の役目はマネージャー代行だから」 「スケジュール通りにタイムキーパーしてくれたら、後は自分でどうにかできるから」 「手のかからない子なのよ、私って」 「あ、うん。判った」 それなら俺にだってできそうだ。 「でもよかった。前のマネージャーの人がクビになったんじゃなくて」 「なったわよ」 「ええっ!?」 「仕事のできない人間が職場から消えるのって当然でしょう?」 「そりゃそうかも知れないけど…」 ああ…。 まるで絵に描いたようなリアルでシビアな世界が、ここにあるんだ…。 「あの人じゃ私の毎日のスケジュールには耐えられなかったみたい。まあ、もう少し経験積まないとね」 「あ、大丈夫よ、冬弥君。君は今日の夜までだから」 「それから新しいマネージャーが来てくれることになっているし」 「う、うん…」 大丈夫って言われたって、そんな…。 「がんばってみるよ…」 「ふふふっ。お願いします、冬弥君」 天使の笑顔…。 「…ところで、お話ししたいこと…なんだけれど…」 不意に彼女の声のトーンが落ちる。 「え…?」 そういえばそうだっけ。 「何なの…?」 つられて俺の声も低くなる。 「クリスマスイヴに由綺のコンサートがあるのは知っている?」 「…うん。知ってる」 「そのコンサートに、冬弥君も行ってほしいの」 「…うん。行くけど。あ、由綺に頼まれたの、ひょっとして?」 「ううん。これは私からお願いするの」 「はあ…?」 どうして、由綺に会いに行くのが、理奈ちゃんからのお願いなんだ? 「ずっと…由綺についていて欲しいの…」 あ、理奈ちゃんだ。 そういえば、この間のことちゃんと謝っておかなきゃ。 「理奈ちゃん」 「あら、冬弥君…」 「あの…。この前はごめん。約束、破っちゃって…」 「いいのよ。代わりの人がいたから」 「代わり?」 「…私のマネージャーの代わりをお願いしようかと思っていたの。ちょっと図々しかったかしら?」 「マネージャー?」 あれ? だって、理奈ちゃんのマネージャーってあの時の人じゃないの? あの病弱そうな? 「あの時、ちょうどいなかった時期だから」 「ああ、何かの用事があったんだ?」 「解雇されたの」 「ええっ!?」 またいきなり、なんてことに…。 「真面目な人だったんだけれど、私向きじゃなかったみたいで」 「はあ…」 なんてシビアな…。 「え? てことは、あの人の代わりが俺だったの?」 「ふふふっ、そうよ。一日だけ」 「一日だけ…」 「心配しないで。もう新しいマネージャーさんがいるから」 「うん…」 でも、そのマネージャー代理を頼むだけにしても、わざわざ俺のところに…? …もっと別に話とかあったんじゃないかな。 なんて思ってると、「あ、ごめんなさい、冬弥君。私、行かなきゃいけないから」 「あっ、ごめん。引き留めてた?」 「ううん。それはいいわよ」 「わざわざ、直接に謝りに来てくれるなんて思わなかったけれど。ふふふっ」 「ご、ごめん」 「本当に、いい子なんだから」 まるで年上みたいに彼女は微笑む。 「それじゃあ、またねっ」 「あ、うん…」 そして彼女は、廊下の向こうに現れた小太りな女性の方に駆けていった。 多分あれが彼女の新しいマネージャーなんだろう。 マネージャーは変わっても、相変わらず忙しそうだ。 俺は邪魔にならないように、自分の仕事に戻ることにした。 「うわっ。寒っ」 外に出た途端に、俺は声に出して言った。 こんな夜に、なんで俺は人恋しく外に出てきたんだろう…? 早くも少し後悔し始めたその時、「冬弥君」 「はい?」 誰か、女の人が俺を呼んだ。 通りを見回しても、向こうに男の子が一人いるだけだ。 彼には見覚えは…ないなあ…。 といって、他に誰もいないし。 空耳以上に怖いものじゃないといいなあ…。 再び歩きかけて、「冬弥君」 「うわあっ!!」 真後ろだっ!! 「また、うわあだなんて…」 あれ、理奈ちゃん…? いつの間に背後に? それより、どうしてこんな場所に…? 「私よ私」 そう言って彼女はフレームの太い眼鏡を目に当てて、不機嫌そうに目をきゅうっと細めて見せた。 「あ…」 そこにはさっきの男の子と理奈ちゃんを足して2で割ったみたいな人がいた。 「冬弥君、きょろきょろするんだもの。くすくすっ」 俺は笑われても、ただぼうっと彼女を見つめてるだけだった。 「どうして私がここにいるのって感じね」 「言ったでしょう? ツアーは今日まで。だから私がここにいても変じゃないの。判る?」 「う、うん」 そういうことだったら、変じゃないなあ…。 って、変だよ、やっぱり! 「それだったら、どうしてここに?」 「打ち上げパーティとか、そんなのに出なきゃいけないんじゃないの?」 「疲れたからって帰ってきちゃった」 「だからって、どうして俺のところに…?」 「あら? 決まっているわよ。冬弥君に会いに来たんじゃない」 「あ、俺に…。俺にっ!?」 いきなりパニックになる俺。 あの緒方理奈ちゃんが、ライブツアーから帰ってきて、そのまま俺に会いに…? 現実…? それとも真冬の夜の夢? 夢だったらもう一日待って欲しかった。 こういうハッピーなシチュエーションはぜひ初夢に…。 「どうかした? 驚いたみたいな顔して?」 驚いてる。 「それより、どうだった?」 「どうって、何が…?」 夢が醒めてしまわないように、俺はそっと訊き返す。 「何がって、ゆきよ」 「降ったけど…」 「…ふ、ふっちゃったの!?」 「う、うん…」 な、なんでそんなに驚くんだ…? 「いつ? ど、どうして?」 「ええ…?」 由綺のライブの夜だったから…。 「24日かな? どうしてかまでは、俺には判んないよ。んー…たぶん、寒かったからだと思うけど…?」 「寒かったって…!」 あ、そうか。 理奈ちゃんは24日は南の方にいたのかも知れない。 四国とか九州とか。 「きれいだったよ、結構」 「何のんきなこと言ってるの! も、もう、信じられない…!」 「ご、ごめん…」 自慢に聞こえたみたいだ。 「…まさか、兄さんが何かしたんじゃないわよね?」 「まさかあ」 俺は軽く笑う。 いくら英二さんが天才でも、そればっかりはどうしようもないだろう。 「何でそんなに笑えるわけ…!? それで、由綺は…?」 まあ、外に行けば誰かと出会えるかも知れないしね…。 …やめた。 どうせ外に出たって、用もないのに人ばかりがやたら歩き回ってるに違いない。 そんなとこにわざわざ出ていく気にはなれないな。 俺は再びベッドの上にごろりと倒れ込む。 そうだな、このまま寝てしまうっていうテもあるな。 寝てたって、新しい年はやってくるんだ…。 新しい太陽さえ昇れば…。 寝よ…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 さっきまで誰も訪ねてこなかったくせに、寝ちゃおうと思って目をつむった瞬間にやって来るんだなあ、客って。 何かの法則か、これは。 俺はだらだらとベッドを降りる。 「藤井、冬弥様、の、お部屋ですよね…?」 「そうですよ」 聞き慣れない、ばかに丁寧な声にいい加減に答えながら俺はドアを開けた。 ガチャ…。 「あ…」 戸口の向こうには、こんな場所に一番似つかわしくなく思える女の人が立っていた。 「こんばんは。夜分遅くに失礼します」 「こんばんは…」 間抜けに挨拶を返す俺。 「って、どうして理奈ちゃんがここに!?」 「あら? 都合が悪かったかしら?」 「そ、そゆんじゃないけど…。ちょうど誰もいなかったし…」 「って、そうじゃくてさ」 「?」 首を傾げる理奈ちゃん。 「俺よりも理奈ちゃんの都合の方が…」 「言ったでしょう? ツアーは今日まで。だから私がここにいても変じゃないの。判る?」 「う、うん」 そういうことだったら、変じゃないなあ…。 って、変だよ、やっぱり! 「それだったら、どうしてここに?」 「打ち上げパーティとか、そんなのに出なきゃいけないんじゃないの?」 「疲れたからって帰ってきちゃった」 「だからって、どうして俺のところに…?」 「あら? 決まっているわよ。冬弥君に会いに来たんじゃない」 「あ、俺に…。俺にっ!?」 いきなりパニックになる俺。 あの緒方理奈ちゃんが、ライブツアーから帰ってきて、そのまま俺に会いに…? 現実…? それとも真冬の夜の夢? 夢だったらもう一日待って欲しかった。 こういうハッピーなシチュエーションはぜひ初夢に…。 「どうかした? 驚いたみたいな顔して?」 驚いてる。 「それより、どうだった?」 「どうって、何が…?」 夢が醒めてしまわないように、俺はそっと訊き返す。 「何がって、ゆきよ」 「降ったけど…」 「…ふ、ふっちゃったの!?」 「う、うん…」 な、なんでそんなに驚くんだ…? 「いつ? ど、どうして?」 「ええ…?」 由綺のライブの夜だったから…。 「24日かな? どうしてかまでは、俺には判んないよ。んー…たぶん、寒かったからだと思うけど…?」 「寒かったって…!」 あ、そうか。 理奈ちゃんは24日は南の方にいたのかも知れない。 四国とか九州とか。 「きれいだったよ、結構」 「何のんきなこと言ってるの! も、もう、信じられない…!」 「ご、ごめん…」 自慢に聞こえたみたいだ。 「…まさか、兄さんが何かしたんじゃないわよね?」 「まさかあ」 俺は軽く笑う。 いくら英二さんが天才でも、そればっかりはどうしようもないだろう。 「何でそんなに笑えるわけ…!? それで、由綺は…?」 見れば判ると思うんだけど。 「すぐに融けちゃった」 「融け…」 「跡形もなく」 言い終わるか終わらないかのうちに、彼女の顔がみるみる険しくなっていった。 「雪の話なんかしていないわよ! 由綺よ! スノゥじゃなくて、森川由綺!」 「冬弥君の大好きな!」 あっそうか。 なんだかすごい長期ボケをかましてたんだな、俺…。 「ああ、もう。なんだか由綺と話しているみたい」 そして、意地悪そうに俺を見て、「スノゥじゃない方とね…!」 「ごめん…」 確かに俺、時々、由綺と似てるかも知れない…。 「で、どうだったの?」 「何が…?」 「[]って、あっ、由綺のライブね…!」 下手すると本気で彼女を怒らせかねないな。 「こ、こんなとこで話するってのもアレだし、入らない? 中、あったまってるし…」 「う、うん。それもいいけれど、今日はすぐに行かなきゃいけないの。お部屋は今度ね…」 少し照れた彼女の顔を見て、俺は自分の言ったことの意味に初めて気づいた。 「あっあのっ、そういう意味で言ったんじゃなくて、そのっ、少しでもあったかいところで話をした方が体に優しいかなとかって…」 しかし、慌てる俺をまるで無視して理奈ちゃんは、携帯電話を自分の頬に当ててた。 このテの人間の扱い方は、由綺で慣れてるのかな…。 「ん。理奈です。ええと、今は?」 「…そうですか。それじゃ、駅、伊吹町駅が判りやすいと思うから、そこでお願いします」 そして、彼女は電話を切った。 「誰?」 「マネージャーさん。用事が済んだら私を迎えに来てくれるようになっていたから」 「藤井、今、手空いてる?」 「ま、まあ…」 「ちょうどよかった。こっちはもういいからさ、向こうのチームの手伝い行ってくれない? 人手足りてないっぽいからさ」 「え? ええ…」 せっかく今日は楽な仕事だと思ったのに。 結局、現場に出るのか。 でも、あれ? ここでのアシスタントってことは…? 「あら? 冬弥君?」 「理奈ちゃん…!」 そうだ。 こっちのスタジオってことは、理奈ちゃんの収録の仕事だ。 「今日はここでお仕事?」 「うん。急に、こっちのアシスタントってことで…」 「そうなんだ。がんばりましょう」 「うん」 そんな風に微笑まれると、この間のことが思い出されて、すごく気恥ずかしい気分になってくる。 あの夜の、あの、光に包まれた樹の下での俺達の風景が。 「ん…」 「とにかく、一生懸命やっていきましょう」 「うん…」 でも…。 「ねえ、理奈ちゃん…」 「何も言わないで」 彼女は笑ったままそっと答える。 「今日は今日のお仕事をしましょう」 「うん…」 前向きに、今日は今日やれることを精一杯やって、それで…。それで過去は消えてく…? 彼女に、何か言いたいのか、言い訳したいのか、それとも謝りたいのか、自分ですら判らない俺は、いったいどうすればいいのかな…。 あの緒方理奈が、一瞬だけでも、自分の時間に入ってきてくれたことを全部夢のような過去にして、そうして日々は過ぎてくのか。 自分でも知らない間に、ずいぶん貪欲になったって思う。 ついこの間まで、こんな可能性すら考えなかったのに。 …自分には、あの森川由綺って恋人がいるってのに。 俺はただ、ほんの少し楽園の『こちら側』に足を踏み入れただけ…。 そんな風に考えて全部割り切れるなんて自信は全くなかったけど…。 「さっ、冬弥君。そろそろよ」 気がつくと、スタンバイ前の理奈ちゃんが再び俺のところに来て声をかけていた。 「今日はまだリハーサルなんだけれど、冬弥君も聴いた感想を言ってね」 感想…? 「新曲…の…」 「えっ!?」 さすがに驚いた。 「だから、リハーサルだってば。くすすっ」 彼女は、そんな俺の反応に愉快そうに笑う。 「それでも、私の気持ちが込められているんだから、ちゃんと聴いてね」 「う、うん…!」 「それに、そんなに深く考えてくれなくたって、私、いいから…」 「えっ?」 だけど、俺がその言葉に顔を上げた時、「さっ、がんばりましょう」 あの完璧な笑顔で、彼女はスタンバイのポジションに戻っていってしまった。 …理奈ちゃんの気持ちが、どんなものか、それは俺には判らない。 判るのが怖いのかも知れない。 彼女のちょっとした気まぐれに漂う自分の姿が怖いのかも知れない。 あるいは、その全く逆のことが。 …だけど、そんな俺達の気持ちの全く届かないところで、彼女は歌う。 おそらくこれまでもそうしてきたみたいに。 多分これからだってそんな感じなんだろう。 だから、ライトとスモークの中の彼女はあんな風に美しいんだろう。 『気持ち』を捨てたから、あんな風に。 そして、曲が流れ始めた…。 何度かのリハーサルの後、また何度かデモ映像を収録した。 それでも崩れてゆかない理奈ちゃんの体力と気力に、俺はしばらく見入ってた。 「お疲れ様、冬弥君っ!」 ステージを降りた彼女は、それでも元気に俺に話しかけてきた。 「お疲れ様、理奈ちゃん」 「どうだった?」 「…うん、すごかった…」 「あははっ。すごかったって…。あははっ」 再び愉快そうに理奈ちゃんが笑った。 やっぱり、簡単すぎたかな。 っていっても、俺、専門的なことあんまり知らないから…。 「くすっ。ごめんなさい、笑っちゃって。冬弥君、すごく率直なこと言うんだもの…」 「そうかな…」 それ以上に俺、何も言えない気がするけど。 あれだけのステージを目の前で見せられたら。 「由綺がよくそんなこと言ってくれるけれど」 「なんだか、一番嬉しい感想かなっ」 「そ、そう…?」 この笑顔で『嬉しい』なんて言われてる、俺。 「その素直なところが、アイドル緒方理奈の疲弊した心を和ませるわけだ」 「えっ?」 「…兄さん?」 「よう」 「あ、英二さん…」 いつの間に…。 「ちょっと兄さん。冬弥君は私とお話しているのよ。横から口を挟まないで」 「いらっしゃいませ」 「冬弥君、やっぱりここにいた」 「あ、由綺」 俺を見つけた由綺は、人なつっこく、こっちに近づいてきた。 仕事中の由綺にしか会ってない最近、たまに見るこんな彼女がなんだか愛おしい。 「ここに来ると、冬弥君とお話できるからね」 「な、なに言ってるんだよ…」 ラブストーリーの王道みたいな台詞に、俺の方まで恥ずかしくなってしまう。 「ほ、ほら。とにかく座りなよ。疲れてるんだろ?」 「ううん、大丈夫だよ。私、全然」 「大丈夫でも座りなさいよ、いいから」 「えっ?」 いきなり後ろから聞こえた声に驚く由綺。 「あなた喫茶店で、いつも立って珈琲を飲むわけ?」 「あっ。理奈ちゃん…」 「もう。自分だけ早々と冬弥君のところに行っちゃうんだから」 呆れたみたいな、それでいておどけるみたいな口調の彼女。 「そ、そんなんじゃなくてさ…!」 「そ、そんなんじゃなくて…!」 同時に照れる俺と由綺。 「考えすぎじゃないかな、理奈ちゃんの」 「え…?」 理奈ちゃんははっとして顔を上げる。 「だってさ、もし英二さんが由綺のこと…その…好きになったからって…自分のスタジオに連れ込んで[]」 「[]なんて、そんな人じゃないと思うんだ」 「のんきなものね…」 「うん…」 そうかも知れない。 だけど俺は、由綺がそんなに頼りなくないって信じてるし、何よりも信じたいし。 何かを疑い出したらどこまでも疑えて、最後には最悪の結末以外は許せなくなってしまいそうで。 俺はただ、それだけが怖い…。 「でも、英二さんはそんな人じゃない…」 「判るの…?」 らしくなく、理奈ちゃんまでも呟く。 「判らないけど…。でも、そんな感じするし」 「うん…」 「優しいのね、冬弥君。由綺にだけじゃなくて、私達にも」 「いいの?」 「え…? 何が…?」 最後の『いいの?』は何について…? 「でも私、まだ兄さんのこと信じていないけれど、もう少し冷静なところからも考えてみるわね」 「冬弥君が、由綺のことすごく優しく冷静に見ているみたいに」 「うん…」 俺は別に、由綺に特別に優しくも冷静でもないつもりだけど…。 「…もう少し英二さんを信じてあげてもいいんじゃないかな…。自分のお兄さんなんだし」 「それにほら、英二さん、週刊誌とかで女性問題騒がれたことないじゃない」 「あんなのにつかまるのなんて、不器用な人間ばかりよ」 「そ、そうかな…?」 「だって、ほら、今みたいに、私と冬弥君、向き合って内緒のお話ししていても、誰も、何も言わないでしょう…?」 「あ…うん…」 俺を見る彼女の瞳はひどく澄んでいた。 「多分ここで…手を握っても、キス…しても…誰も…」 「理奈…ちゃん…?」 冗談…だよね…。 あの緒方理奈ちゃんが、俺に、こんなこと本気で言ってるわけ、ないんだから…。 真面目な顔してこんなこと言って、そして、我慢できなくなって、吹き出して、いつもみたいに上品に笑ってくれるんだ…。 そうしたら、俺も笑う。 困ったみたいに、でも、明るく。 トップアイドルの緒方理奈ちゃんの、気まぐれな冗談にちょっとだけ騙されちゃったよ、なんて。 すごくすごく上品に。 だけど理奈ちゃんはいつまで経っても笑ってくれない。 代わりに、彼女の手が俺の方に伸びる…。 「うん…。あの人だったらあり得る話だね…」 俺は思い返すみたいに言う。 「やっぱり、思うでしょう」 彼女の声はいつにもなく不安そうな色を帯びてくる。 「でも、そんなに心配するほどでもないとは思うけど…!」 俺は慌てて言いつくろう。 「そうかしら…」 「そう思うよ、俺…」 嘘だった。 心配で仕方がなかった。 由綺の愛情を疑うわけじゃ決してないけど、ただ、相手はあの緒方英二なんだ。 もし何かのきっかけで由綺が英二さんに傾いたとして、俺はそれに何か言えるだけのものを持ってるかって、そんな自問が怖かった。 「優しいのね、冬弥君…」 理奈ちゃんがそっと微笑みかける。 違う…。 俺はただ、由綺が別のところに行かないで欲しい、それだけなんだ…。 優しくなんか… ないんだ…。 「でも、それならますます私が兄さんを見張っていなきゃいけないわね」 「理奈ちゃん…」 「大丈夫、心配しないで。由綺、そんなに弱い娘じゃないから」 こんな時にも、彼女はどうして俺達のことを考えられるんだろう。 他人…のはずなのに…。 「あらっ? それとも私のことを心配してくれていた?」 「うん…」 俺は思わず答えてしまった。 「あっ、いや、その…!」 「ふふふっ。ありがとう…」 理奈ちゃんは上品に頬を染める。 「でも大丈夫。私、冬弥君とこういうことしているの、すごく、楽しいから…」 「え…?」 「こんな嘘っぽい冒険も、私、たまには好きなの。冬弥君は楽しくない?」 彼女はドラマの1シーンみたいに瞳をきらきらさせて俺を見る。 「うん…」 「それとも心臓に悪すぎる?」 「う、ううん。こういうのも、悪くないって思う…かな…」 最後はちょっと自信なかったけど、だけど、不思議だ。 理奈ちゃんにそんな風に笑いかけられると、どうして今まで不安だったのかすら判らなくなるくらいだ。 由綺のことは、それは心配だったけど、だけど正体のない不安からは解放されたみたいに思えた。 まるでドラマの脚本の中にいるみたいだ。 恋人があの森川由綺でも、パートナーが緒方理奈でも、全然不自然じゃないみたいな、そんな感じだった。 「うん、いや、俺、大丈夫だよ…」 「みたいね。よかった」 「兄さんのことは任せて。絶対、悪いようにはしないから」 「…うん…」 頼もしい、ってのとも何か違うものが彼女には感じられる。 こんなに不安なのに、そのこと自体が不思議と安心できてしまうっていうか…。 「ありがとう…」 でも俺は、そんなありきたりの台詞しか言えない。 と、その瞬間、店のドアが開いた。 「理奈ちゃん…」 「あら、由綺…」 今の…聞かれてた…? いや、そうじゃないみたいだ。 そうじゃないみたいだけど、由綺、さっきの元気がない。 「どうかしたの?」 「もう、帰るって…」 「えっ?」 「こんばんは、勤労青年」 「え、英二さん…?」 その後ろから弥生さんも現れて、俺に無言のまま頭を下げて挨拶をした。 「今夜もご苦労様だ」 彼はちらりと俺の方を見たかと思うとすぐに、側にいる理奈ちゃんに目を向ける。 「すまないな、理奈。今すぐ戻ってくれ」 「急にどういうこと?」 「どうもこうもないさ。帰るんだ」 そう言うなり英二さんは理奈ちゃんに近づき、彼女の腕をつかんだ。 「ちょ、ちょっと待って下さいよ、英二さん」 「ん? どうした?」 「よく判りませんけど、由綺も理奈ちゃんも、今、休憩なんじゃないんですか?」 「よく判らないんだったら、よく判ってる人間に任せるべきじゃないか?」 「…とにかく、何の説明も無いまま、他人の時間を勝手にいじくるなんてやめて下さいよ」 「冬弥君…」 「説明ね…。由綺ちゃんにはしたぞ」 「それとも、君に説明したら『はいどうぞ』って彼女を俺に渡して『行ってらっしゃいお気をつけて』なんて送り出してくれるわけ?」 面倒そうな薄ら笑いで彼は、俺を見下す。 「ああ、そんな怖い顔するなよ。由綺ちゃん怯えちゃってるよ」 「ん、弥生さん」 「はい」 彼は由綺の髪の毛をわざとらしく撫でて、後ろの弥生さんに引き渡す。 「めんどくさいなあ、君も。もう少しリベラルな彼氏だと思ってたのにな」 「……!」 「ああ、判ったってばあ」 「たった今、俺、新しい曲の全体的な主旋律が浮かんだの。メロディがね」 「だからちょっと由綺ちゃんの声が欲しいって思ったんだ」 「それやっとかないと、ハーモニー部分くっつけられる自信ないからね、俺」 「それに理奈。そんな勝手に俺の側離れられたら困るんだけどな」 「そうは見えなかったけれど」 「どちらかっていうと、今、作曲に忙しいから離れていてくれ、って言っているみたいに見えたわ」 気丈そうに理奈ちゃんは応える。 「おい、理奈…」 ぷるるるるーーー、電話だ。 カチャ。 「はい、藤井ですけど」 「夜分遅くに失礼いたします。私、緒方と申す者ですけれど」 「理奈ちゃん?」 「うん。いつも突然電話してごめんなさいね」 「いいってば、そんなの。理奈ちゃん、わざわざ時間作ってまで電話してくれてんだから」 「ふふふっ。そんなにも大変な作業じゃないわよ、電話するだけなんて」 その、電話するだけの時間がなかなか取れないのが彼女達だ。 そういえば、今夜は電話の後ろのガヤガヤが聞こえない。 「今日はどこから? 仕事場?」 「うん…仕事場といえば仕事場かしら」 「あ、英二さんのスタジオか…」 「そうなの」 くすっと彼女は笑った。 「私は慣れているからどうってことはないけれど、さすがに由綺、ちょっと参ってきているみたいね」 「うん…」 やっぱり由綺にはきつすぎるのかも知れない。 それに、いくら慣れてるなんて言ってる理奈ちゃんにしても、彼女が局の方に収録に入る日程は、スタジオの合宿状態が始まる前とほとんど変わってない。 全く弱音をはかない彼女達が、ますます気遣わしい。 「ごめん…。いつもこんな感じだね、俺…」 「え…?」 「あ、うん。またADか何か?」 「うん…。ごめんなさい、いつも勝手ばかり言って」 「…少しだけお話ししたいことがあって…」 言いかけた時、電話の後ろの方で何か呼び出し音みたいなものが聞こえた。 「あ、ごめんなさい、冬弥君。休憩お終い。呼ばれているから行かなきゃ」 「じゃあ、続きは明日ね。局の方には言ってあるから」 そして電話は切れた。 今の様子からだと(彼女から見ても)そんなに緊急なことは起こってないみたいだ。 まあ、理奈ちゃんにしても、ちょっと心配性っぽいな。 俺と由綺とのことだってのに、自分のことみたいに…。 自分のことみたいに…? この問題に、俺と由綺と、そして(消極的に)英二さんが絡んでるとして、理奈ちゃんはどこに位置してるんだ? 老婆心にも似た、ただの過保護で俺達の関係を無事に済まそうとしてる? 英二さんが由綺に傾くことで、プロダクションのバランスが崩れたり、スキャンダルが発生したり。 確かにそれは、心配して然るべきことだろうけど、でも、それで彼女がこんなにまで動いてるのか? 俺はなんだか大きな勘違いをしてたんじゃないのか…。 それが何かは判らない分、ひどくもどかしかったけど。 とりあえず明日か…。 「明日はちょっと…。ごめん…」 俺は彼女の誘いを断ることにした。 「どうしても外したくない用事があって…」 「えっ…?」 ほんとに意外そうな理奈ちゃんの声が受話器の向こうから響いた。 「本気なの? 由綺のことなのよ?」 そこで彼女はふと我に返ったみたいに一度、言葉を切った。 「ごめんなさい。そうよね、冬弥君にも冬弥君の予定があるんだものね」 「そんな、謝らなくたって」 彼女の言う通り、俺には俺の予定がある。 だけどそれ以上に、俺はこんな、理奈ちゃんとつるんでの、由綺と英二さんの関係を探るなんて真似はもうやめにしたかった。 由綺のことは、それは確かに心配だったけど、だけど、だからといって彼女を疑うみたいなことしかできないのは、自分でもつらくなってくる。 俺が何の力のない男だってのは、自分でもよく判ってる。 でも、だからこそ俺は、こんな卑屈な行動にはさっさとけりをつけてしまいたかった。 理奈ちゃんには、悪いけど…。 「俺…そんなことの為に、理奈ちゃんの時間を割いてもらうなんて…」 「そう…。いえ、私はそんなこと気にしてないわ、もちろん」 俺に気を遣ってくれてるのか、理奈ちゃんの声は決して暗くはなかった。 「だけど、そうね、こういうのってやっぱり、二人の問題だものね。由綺と、冬弥君の…」 不意に、俺の名前を呼ぶのが緩やかだった。 まるで何かに 躊躇 ちゅうちょ してるみたいに。 「私、少しお節介だった? もしかして?」 「そんなことないよ」 それどころか、まるで自分のことみたいに心配してくれて、感謝してるくらいだ。 第一印象で、キツい女の子だなんて勝手に思ってた自分が恥ずかしくなるくらいに、すごく優しくて。 「だったらよかった」 「判ったわ。じゃあ、由綺のことは全面的に冬弥君にお願いしてもいいわね」 「ただ、半分は私の兄さんの責任だから、その分は私が責任持つけれど」 「あ、うん…」 由綺のことを全面的に…? 大袈裟になっちゃってることには変わりないみたいだ。 俺は少し苦笑する。 「あら? どうかした?」 「え?」 「笑わなかった、冬弥君、今?」 「そうかな…」 俺は慌てて改まった口調を整える。 すると向こうからも軽い含み笑いが聞こえてきた。 「余裕ね、冬弥君。 こんな時に笑えるなんて」 「それとも…演技?」 「まさか…」 「じゃあ、由綺のこと、やっぱり信頼しているのね」 「え…」 どう言ったらいいのか、少し言葉に詰まる。 だけどやっぱり、「うん…」 「そうね…。由綺は信じててもいい娘ね」 「ううん。信じてあげなきゃいけない娘かも。由綺を疑うなんて、ばかばかしいわよ…」 理奈ちゃんの声が次第に静かに、しかしそれでいて強くなってゆく。 「やっぱり冬弥君、由綺についていなきゃいけないわね」 「あの子、冬弥君がいないと、誰が側にいてもだめなんだから…」 「え…?」 「冬弥君もきっと、由綺が側にいないといけない人なのかも。きっとね…」 「そんな…」 どうして理奈ちゃん、今、そんなことを言うんだ…? 「気を悪くした…?」 「う、ううん。まさか」 「よかった…」 「うん…。冬弥君の側にいるのはやっぱり、由綺じゃないといけないわよね」 「理奈…ちゃん…?」 何か言いかけた時、電話の後ろの方で何か呼び出し音みたいなものが聞こえた。 「あ、ごめんなさい、冬弥君。休憩お終い。呼ばれているから行かなきゃ」 それから少し寂しそうに呟いた。 「じゃあ、冬弥君、またね…」 そして電話は切れた。 俺は少し罪悪感みたいなものを感じてた。 せっかく理奈ちゃんが自分の休憩時間を割いてまで俺に連絡してくれたってのに。 しかも、俺と由綺とのことなのにまるで自分のことみたいに…。 …自分のことみたいに…? ちょっと待てよ…。 この問題に、俺と由綺と、そして(消極的に)英二さんが絡んでるとして、理奈ちゃんはどこに位置してるんだ? 老婆心にも似た、ただの過保護で俺達の関係を無事に済まそうとしてる? 英二さんが由綺に傾くことで、プロダクションのバランスが崩れたり、スキャンダルが発生したり。 確かにそれは、心配して然るべきことだろうけど、でも、それで彼女がこんなにまで動いてるのか? ちょっと待て…。 俺はなんだか大きな勘違いをしてたんじゃないのか…。 それが何かは判らない分、ひどくもどかしかった。 何だろう。 俺はずっとミスを犯し続けてたみたいな気がする。 決して一つ一つは大きくはないけど、ずっとずっと積み重なって膨大な量になってしまった、そんな勘違いを。 それは何なんだろう。 ボタンの掛け違いみたいな、そんなレベルの思い違いだ。 多分もう、それには気づけないと思う。 大きなミスだったら、はっきりと気づいたはずなのに。 俺は電話機を見つめる。 さっきまでは何の屈託もない道具に過ぎなかったのに、今は違う。 まるで開かなくなってしまった扉だ。 鍵はあったのかも知れない、初めから無かったのかも知れない。 俺が、持ってたのかも知れない…。 だけど、もう遅い。 扉はもう、開くことがないんだから…。 受付に行くと、理奈ちゃんから話は通ってる様子で、まっすぐ控え室に行くように言われた。 「失礼しまーす…」 「あら、冬弥君。おはようございます」 「お、おはようございます」 既にステージ衣装に着替えた理奈ちゃんが俺を迎えてくれた。 「ふふっ。ごめんなさい。こんなに早い時間に呼び出しちゃって」 「いや、特別に早い時間じゃないし…」 なんて言いながら、俺は明るく笑う彼女を見つめる。 もう既に着替えてしまってるってことは、彼女は一体いつ頃からここに来てたんだろう。 『音楽祭』を間近に控えて、そんなに無駄にできる時間もないはずなのに。 「どうかした?」 「あ、ううん」 「でも、理奈ちゃんの方こそどうかしたの? また急に連絡くれたりして…」 「あ…。うん…」 理奈ちゃんはちらりと控え室の奥の方を盗み見る。 そこには、理奈ちゃんの新しいマネージャーと思われる太った女性がいた。 彼女は『何も聞こえませんよ』って風に、書類か何かをチェックしてる。 「とにかく今日一日、私の付き人をお願いするわ」 それから警戒するみたいに、「[]お話は仕事が終わってからね」 と囁いた。 そんな時でも彼女の、天使のような笑顔は崩れなかった。 「うん…」 どこか空回りを感じながら、俺は頷いた。 「じゃあ、冬弥君…」 そして、理奈ちゃんは撮影に入った。 彼女、控え室でもステージでも、疲れたところや沈んだところなんか全然見せないんだ…。 「待って、理奈ちゃん!」 俺は二つのパイプ椅子を思い切り蹴倒して彼女の後を追った。 「俺、理奈ちゃんのこと…!」 その先は言わなかった。 暗闇の中で、俺はしっかりと彼女の背中を抱きしめていた。 理奈ちゃんはそれを拒もうとはしないものの、ひどくひどく身体を堅くした。 「どうしてこんな…。こんなことするの…?」 泣き出しそうな声で理奈ちゃんは呟く。 「楽しいことなんて何もないんだから。私なんかといたら…」 「覚悟してる…」 「それに冬弥君、由綺は…」 再び俺は目を閉じる。 そんな言葉を聞く俺以上に、言ってる彼女の方が何倍も何倍もつらいんだ…。 「それも覚悟してる…」 精一杯の強がりで、俺は目を開ける。 目の前で、理奈ちゃんが真っ赤になってうつむいてる。 「俺…理奈ちゃんのこと…愛してるから…」 そして、さっき言いそびれた言葉を、最後までしっかりと言った。 「冬弥君…。本当に…ばかなんだから…」 暗闇の中、理奈ちゃんが振り向いてくれた。 そして一瞬、恥ずかしそうにうつむき、俺の胸にしがみついてきた。 「本当に…ばか…」 もう一度彼女は呟いて、そして俺達は唇を合わせた。 最初は軽い口づけだった。 だけど一度唇を離して、お互いの瞳を見つめた時、その、胸の中に湧き上がった重苦しいまでの甘い塊を、俺は、どうすることもできなかった。 ただ、切ない溜息を抑えながら、もう一度強く、彼女に口づけする以外には。 そして、俺は、理奈ちゃんの肩を抱いた手を、そっと背中に回した…。 頼りないスポットライトに照らされて、俺は彼女を抱きしめていた。 あのステージ衣装のままの、妖精みたいな彼女を。 「俺…理奈ちゃんと一緒にいたい」 「これからもずっと…」 こくり…と彼女は小さく頷く。 彼女もまた、この場で、俺と結ばれたがっていた。 このスタジオの、このスポットライトの光の輪から出てってしまえば、もう会えない、そんな風に感じてた。 たとえ会えるにしても、俺との愛を確かめあえる機会は完全に失われるだろう。 俺は俺の世界に、彼女は彼女の時間に戻る。 それが怖かったんだ。 そして多分、俺自身も。 「いい…?」 「ん…」 恥ずかしそうに、辛うじて彼女は答える。 その言葉を待ちかねたように、俺は再び彼女を抱きしめる。 汗ばんだ肌に衣装が貼りつく。 理奈ちゃんの甘い香りが俺を包んだ。 俺たちの影が、一層濃く重なる。 「あっ…冬弥君…っ…」 泣き出してしまいそうな声で理奈ちゃんが言った。 「え…?」 「う、ううん…。なんでも…ない…」 怖い… のかな…? そう思いながらも、俺は……。 「冬弥君…! あのっ…」 再び彼女は俺を呼ぶ。 「わ…笑わないでね…。あの、私…こういうのって…初めて…だから…」 「え…?」 「あの…冬弥君が思っていたのと…違うかも知れないけれど…」 必死に弁解するみたいに理奈ちゃんはそう言って、後は真っ赤になって俺を見つめた。 「格好…悪いわね…」 両方の目尻に涙を浮かべながら、理奈ちゃんは真っ赤に上気した顔で笑った。 誰でも初めての経験は怖いものだ。 自分自身をゼロに戻され、その先もまるで見通せない。 怖いということを口にできるのは、むしろ勇気の証しだ。 「俺も、さっきから…ほら」 俺は自分の手を見せる。小刻みに震えている。 それだけじゃない。まるで、身体のそこら中が心臓になったみたいだ。 俺は、理奈ちゃんを包む装飾過多なパッケージを好きになったわけじゃないから。 だから俺は、平気だと自分で思える。 イメージを超えた場所で俺達は、きっと愛し合える。 「本当に、ここでいいの…?」 「うん…平気」 理奈ちゃんは俺の腕につかまり、必死に立とうとしている。 そんな彼女を、俺は心の底から愛おしいと思った。 そして俺は少し笑ってみせて、再び彼女の肌にキスをした。 少しだけ汗の味がした。 「理奈ちゃん…愛してる」 俺は囁きながらゆっくりと理奈ちゃんの上に覆い被さる。 「私も…冬弥くんが好き。大好き。ずっと愛してる…」 彼女はそっと目をつむった。 それが全てを許すサインでもあった。 どのくらい時間が経ったのかも忘れた頃、ようやく俺達の身体からも熱が引き始めていた。 彼女が掻きむしった背中や腕の爪あとが、冷えた汗にうずいている。 視界の隅に、淡い光の光源が入ってくる。 補光を作る為の、小さなスポットライト…。 スポットライトの黄色い光の縁から消えて、辛うじて闇の中に彼女の人影が見えるだけだ。 そしてその人影すらも、静かに…。 俺は開きかけた唇を、再び閉じた。 だめだ。 俺にはどうしても彼女は追えなかった。 彼女は、理奈ちゃんは由綺以上に住む世界の違う人間だ。 壁は、厚すぎる…。 今の彼女を強く抱きしめてあげることも勇気だけど、諦めてあげることだって、きっと、勇気なんだ…。 そんないいわけを頭の中で何回もループさせて自分を納得させながら、まぶたを閉じた時、スタジオの扉が、音を立てて閉まった。 幕は降りた。 彼女とのドラマは、今、終わった。 あ、理奈ちゃん…。 そういえば、この間のことちゃんと謝っておかなきゃ。 「理奈ちゃん」 「あら、冬弥君…」 「あの…。この前はごめん。約束、破っちゃって…」 「…………」 何も言わない…。 …怒って… る…? 「…あ、いいのよ」 しかし、彼女はすぐに笑顔に戻った。 ブラウン管の向こう側で見せる、あの笑顔に。 「それじゃあ、私、行かなきゃいけないから」 「う、うん…」 理奈ちゃんの笑顔が完璧な分だけ、なんだか、どこかよそよそしく感じられた。 「じゃあ、さようなら…」 「さ、さよなら…」 …行っちゃった…。 『さようなら』… だって…。 ぷるるるるーーー、カチャ。 「はい、藤井です」 「冬弥君? 私、由綺です」 「由綺?」 俺は、はっとする。 「え? どうしたの今頃?」 大切な『音楽祭』を明後日に控えてるっていうのに。 しかも、由綺はずっと、英二さんのスタジオに泊まり込んでレッスンを受けてるはずだ。 「あれ? 今、休憩中とか?」 「ううん。私、今、自分のお部屋からかけてるの」 「部屋って、あのマンションの?」 「うん…」 どういうことなんだろう…。 「まさか、英二さんが帰っていいって言ったとか?」 「うん。あのね、私、明日、TV局のお仕事があるんだ」 「え? うそ?」 仕事の管理は恐らく英二さんがやってるんだろうけど、こんな時に仕事を入れるなんて何を考えてるんだろう。 「ちょっとしたインタビュー番組みたい」 「明後日の『音楽祭』のこととか…あと、うん、あの、いろいろなこと…とか…なんかそんなこと、話したりとかするみたい」 「…なんだかよく判んないけど、要するに『音楽祭』の前に、余裕のあるところTVで見せとこうってんだろう。精神的な前哨戦みたいな感じでさ」 正確に言ったら、それもブラフ程度で済むチープなトリックといったものだ。 「そ、そうなのかな…」 「じゃないの? 英二さんの考えそうなことだよ」 そう言うと、由綺は困ったみたいに笑った。 「でね、冬弥君。これも結構急な話だったから、いつも私についててくれるADさん、別のお仕事が入ってるみたいなの」 「じゃ、俺が行けばいいわけだ」 「う、うん…。いつもこんな勝手なお願いばっかりしてごめんなさい」 「慣れないADさんについててもらうよりは、冬弥君に側にいてもらった方が能率が上がるって弥生さんも言ってたし…」 弥生さんも、仕事だけに限っては俺と由綺の関係を認めてるんだ。 「久しぶりに理奈ちゃんと一緒に映れるんだ。ちょっと楽しみ」 「理奈ちゃん…?」 「うん。一緒だよ」 俺のかすかな驚きに決して気づくことなく、由綺は明るい声を上げる。 「私、理奈ちゃんと一緒の番組に出る時とかって、まだ嬉しくてどきどきすることがあるんだよね」 どうにか仕事は終わった。 俺の方はともかくとして、『音楽祭』なんて大切なイベントを控えながら仕事をこなさなきゃいけない理奈ちゃんや由綺の方は、こっちが心配してしまう。 彼女達お得意の『大丈夫』にだって限界があるだろう。 とりあえず、理奈ちゃんには帰る前に会っておこう。 …俺が由綺に話をするって、それは言っておかなきゃ。 あれ? 控え室にいない。 おかしいな、どこ行ってるんだろ。 その辺を一通り探してみたけど、彼女達の姿はどこにもなかった。 先に帰っちゃったか、次の仕事場に移っちゃったのかな…。 とか思ってたら、ちょうど向こう側から背の高い男の人が歩いてきた。 「やあ、勤労青年。今日もお疲れ様だな」 「あ、英二さん。理奈ちゃんと一緒じゃなかったんですか?」 「理奈?」 「あれに何か用事?」 「いえ、用事ってものでもないんですけど…」 とりあえず俺は、彼女に挨拶してから帰るつもりで探してたと告げた。 「ふん…。ますますご苦労様だな。藤井君はいつもそんな風にまめやかなのか?」 「別に自分ではそんな特別には…」 「へええ…」 「最近いないタイプの男だよな、藤井君って」 「なるほど、妹が気に入るわけだ」 「そんなことは…」 あの日のことを思い出し、俺はちょっと居心地が悪くなる。 「だけど、それはそれでつらいぞ青年」 「ああ…。とても…つらいぞ…」 「はあ…」 俺の顔を通して何かを見つめるみたいに、英二さんの眼差しは一瞬ひどく虚ろで、完全に俺と理奈ちゃんのことを見透かしてるみたいに感じられた。 「ん? ああ、理奈だったな? 向こうにいるぜ。あの、さっきまで仕事してたスタジオに残ってる」 「え? スタジオに? まだ仕事が残ってたんですか?」 「まあ、残ってるっていえば残っているかな。すごくでかい仕事が」 何やってるんだ俺。 まだ仕事の終わってない理奈ちゃんを残して、俺だけが戻ってきてたんだ。 「由綺ちゃんも一緒だぜ」 由綺も一緒に? 俺は不意に胸騒ぎに襲われた。 「どうかしたか、青年?」 「い、いえ…。とにかく行ってみます」 と、俺が英二さんの横をすり抜けようとした、その瞬間[]、ドスッ…! 重く鈍い音が腹の奥から響いてきて、やがて痺れるみたいな分厚い痛みが湧き上がってきた。 「うううっ…!」 たまらず俺は身を縮め、壁に寄りかかる。 すれ違いざまに英二さんの鋭い拳が俺の下腹部を突き刺したんだ。 「え…英二さん…?」 どうしてこんな…? だけど英二さんは背を向けたまま、振り返ってはくれない。 「理奈と一緒にいたいんだろう。覚悟はしてなきゃな…」 「英二さん…?」 俺は辛うじて立ち上がる。 「行けよ、青年。そうするんだろ?」 「英二さん…? 俺達のこと…」 「喋ってる場合か? 行けって。傷害罪で捕まりたくないからな」 英二さんの背中は静かに揺れていた。 「言っておくが、変な口出しはするなよ。君のしなきゃならんのは、そんなことじゃないんだからな…」 そう言いながら、英二さんはそのまま向こう側に歩いてゆく。 由綺のこと、理奈ちゃんのこと、英二さん自身のこと、俺には言いたいことがいっぱいあったけど、俺の足もまた既に走り出していた。 「今は…行きます…!」 俺の背後から、「つらい仕事だけどな…」 そんな言葉が聞こえてきた。 俺はガレージの方からそっとスタジオに入る。 あの日、俺と理奈ちゃんが結ばれた場所だ。 すっかり照明が落ちた密閉空間の向こう側に、消し忘れのようにスポットライトがぼんやりと灯ってる。 過剰な舞台演出みたいなそのライティングの下に、二つの人影。 由綺と、理奈ちゃん。 ステージ衣装のままライトに照らされた二人は、さながら幻想の国から抜け出した妖精だった。 今日も、なんとなくって感じで俺は街を歩いている。 石畳を模したペーブメントに、隣に歩く人は誰もいない。 ただ一人きりで歩いてる。 ミュージックショップの前にさしかかる。 歌声がきこえてくる。 理奈ちゃんの歌だ。 この店ではいつも、彼女の曲をかけてる。 今日はちょっと大人めのスローなバラードだ。 「理奈ちゃん…」 俺はそっと呟く。 『音楽祭』 最優秀賞を受賞したのは、緒方理奈… 理奈ちゃんだった。 それでも、三位以下を大きく引き離した由綺とは、かなり僅差だったらしい。 ともあれ、彼女はトップに立った。 …あれから俺は、彼女と会っていない。 彼女がナンバーワンになった瞬間をTVで観たきり、俺は彼女に『おめでとう』の一言も言えないでいる。 …当然っていったら当然なんだけど。 でも、それだけでも俺は良かったと思う。 たとえ数日間だって、俺は彼女と一緒の世界にいられた。 それだけでも、俺は…。 …嘘…だ。 そんなのは、全部嘘だ。 俺は理奈ちゃんと一緒にいたかった。 そんな物わかりよくなんて、俺はいられない。 ほんとなら、何を気にすることもないままに、涙を流してしまいたいのに…。 とんっ…。 「あ…ごめんなさい…」 ぼうっと立ってた俺は、いきなり店から出てきたお客さんと軽くぶつかった。 「あ、いえ、こっちこそ…」 俺の方も頭を下げる。 「冬弥君…」 「由綺…」 『音楽祭』の後、なんとなく会えなかった由綺と、こんなところで会うなんて…。 「元気…だった…?」 「うん…」 「どうかした?」 あ、はるかも。 「あれ、冬弥だ」 「うん…」 「あら、藤井君…」 「美咲さんも…」 そういえば由綺だけじゃなく、このみんなに会うのも久しぶりだ。 なんだかずいぶん長い間会っていないみたいな気がする。 「ええと…。あの…私達これから喫茶店にでも行こうかって話してたんだけど、一緒に行かない…?」 「あ…。うん…」 一人で歩きたいってのはあったけど、でも久しぶりに会った彼女達と話がしたかった。 由綺と、話したかった…。 「じゃ、私達こっちの席に座るね」 美咲さんはテーブル席にすっと入ってゆく。 「…………」 「はるかちゃんも私のとこ…」 「うん」 美咲さんに引っ張られながら、はるかは少し首を傾げる。 俺は改めて由綺と向かいあう。 「冬弥君、ちょっと疲れてるみたい…」 「そうかな…」 「な、なんだか、そんな風に見えただけ…。 あ、あははは…」 「あはは…」 なんとなくぎこちない会話を交わす俺達。 そして、「…ごめん…」 「ううん…。あの…」 「理奈ちゃん…どう…?」 「ど、どうって…」 その名前を口にしたのは由綺の方だった。 「俺…あれから会ってないから…」 あれから…。 そんな言葉すらも、由綺の前では正直に出てきてしまう。 由綺にとってはいつからの『あれから』なんだろう? 「そうなんだ…」 「うん…」 由綺は思ったより沈んでるみたいだ。 やっぱり、俺が…。 「…じゃあ、冬弥君、理奈ちゃんから何も聞いてないんだ…?」 「何も…って?」 「……………」 何かにとまどうみたいに由綺は、俺から目を逸らし、沈黙する。 「由綺…」 言ってくれ…。 たとえ言うのが、あるいは聞くのがつらいことだとしても、それでも俺は聞きたい。 知りたい。 彼女のことが、知りたい…。 「うん…」 そんな俺の気持ちが伝わったのか、由綺は小さく頷いた。 「私が話しちゃっていいのかどうか判らないけど…」 「理奈ちゃん…歌手、やめるって…」 「え…?」 え…? 「ご、ごめん。それ、あの…」 「まだお話だけだし、私も信じられないんだけど、でも…」 「え…? え…?」 混乱したままの俺に由綺は続ける。 「私に…そう言ったの…。もう、決めたんだって…」 「理奈ちゃん…やめるって…」 由綺は頷く。 「でも…それって…」 それって、俺のせい…? 「多分、そう…」 俺の言いたいことを察して、由綺は呟いた。 「…理奈ちゃん…そんなにまで冬弥君のこと… 好きになっちゃったんだね…」 「由綺…」 うつむいた由綺の肩が小刻みに震えてる。 「ううん…。私…そこまでされたら…何も言えないもの…」 ぷるるるるーーー、電話だ。 カチャ。 「はい、藤井ですけど」 「あ…冬弥君?」 受話器をとるなり、こちらが何者なのか確認されてしまった。 いきなり誰だろう? …っと、この声はもしかして。 「理奈ちゃん…?」 返事があるまで、少しばかりの空白があった。 「あ、ごめんなさい…私ったら名乗るの忘れてたわ」 「気にしないで、どうせうちは俺しか出ないんだし」 「そうはいかないわ、親しき仲にも礼儀ありって言うでしょ」 そういや、理奈ちゃんは普段から礼儀に厳しいよな。 アイドルだけに、そういうところで揚げ足をとられないように人一倍気をつかっているのだろう。 それだけに、今日に限って社交辞令を忘れるというのは珍しい。 「理奈ちゃん、疲れてる?」 「私、そんな風だった?」 そんな風も何も。 「ぼうっとしてるみたいだし。忙しいんでしょ?」 「ん…仕事を言い訳にはしたくないけど…まあ、音楽祭も近いことだし、レッスンの時間はいくらあっても足りないわね」 さすがは最優秀賞の筆頭候補。実力は才能ばかりじゃないってことか。 「でも、他の人だって条件は同じだし、弱音なんか吐いてられないわ」 他の人…その中には当然由綺も含まれる。 後輩であり妹のような由綺と競いあうことについて、理奈ちゃんにはもうためらいはなさそうだ。 結果はどうであれ、二人が力を出し尽くすことができるように俺も祈っていよう。 「それで、今日はどうしたの?」 電話の用件を尋ねると、また妙な空白があいた。 「理奈ちゃん…?」 「あ…うん、えっとね…」 理奈ちゃんは急に口ごもってしまう。 今日はどうしたんだろう。 いつもだったら、理奈ちゃんの方からきびきびと切り出してくるのに。 「ADのバイトの話?」 「ううん、そうじゃなくて…」 妙に歯切れが悪いな。 「それじゃあ…何か相談事とか?」 「そういうわけでも…」 「…?」 「特に用事ってわけでは、ないんだけど…」 「あ…そうなんだ」 つまり、ただの雑談ってことか。 「ごめんなさいね、冬弥君の都合も考えずに電話して」 「ううん、気にしないで。俺の方は別に忙しいなんてことないから」 理奈ちゃんの方が俺の都合を気にするなんて、これじゃあいつもと立場が逆だな。 「でも…迷惑だったでしょ?」 「全然そんなことないから。ちょうど部屋でのんびりしてたところだし」 「それに、友達同士なら電話するくらいでいちいち気をつかうことはないよ」 「ともだち…」 「そうそう」 「…そうね、友達ってそういうものよね」 「うんうん、気兼ねなんてしなくていいから」 「うふふ…私ったらまた冬弥君に慰めてもらってる」 「そう? ただ電話で話してるだけなんだけどなぁ」 「でも、それが私には特別なことなの」 理奈ちゃんの口から特別なんて言葉が出ると、それだけで胸がどきりとする。 「だって、兄さんや由綺とは現場で顔を合わせるから、こんな風に電話でお話する友達は冬弥君だけだし」 「あ…そっか、なるほどね」 芸能界の友達はいないって言ってたし、考えてみれば当たり前のことか。 結局、『特別』という言葉には特別な意味はなかったけど、電話の理奈ちゃんを独り占めできることに変わりはない。 光栄の到りだね。 あれ? 車のクラクション…? 「今、外にいるの?」 「ええ、ちょうどスタジオを出たところで…」 「…」 「あのね…?」 「うん」 「今から…そっちに行ってもいいかな…?」 「え?」 思わず間の抜けた返事をしてしまう。 理奈ちゃんが、ここに? これから?? 「ごめんなさい、私ったらまたわがまま言ってる。急に押しかけられたら冬弥君も迷惑よね」 「ごめんなさい、ただの思いつきだから忘れて」 そう言って、理奈ちゃんは口にしたことをすぐに引っこめてしまった。 今日の理奈ちゃん…何だか妙な具合に気をつかってくるな。 やっぱり何かあったのだろうか。 理奈ちゃんのことだからお仕事のことだとは思うけど…。 …。 こっちに来たいというのは、会って話がしたいということだよな。 まあ、俺の方は自分の部屋でのんびりしているわけだし。 こんな時に友達から連絡があったら、返事は決まってる。 「いいよ、いつ来てくれても」 「でも…」 「どうせ暇だったし。こんなことで遠慮しないでよ、友達なんだからさ」 「…」 「ごめんなさい…」 「はあ、はあ、はぁ…」 白い息が視界をさえぎる。 それが消えるまでの数秒さえもどかしくて、目の前の空間を払いのける。 「…まだ来てるわけないか」 スタジオの外にいると言っていたから、理奈ちゃんがやって来るまであと五分か十分そこらだろう。 どこかで時間をつぶすほどもない。ここで待つことにしよう。 それにしても…。 理奈ちゃんの方から急に会おうだなんて、どうしたんだろう。 口では特に用件はないと言っていたけど…。 電話だと話しづらい内容だったのかな。 でも、それならそれで、いつもの理奈ちゃんだったら相談事があることくらいは先に知らせてきそうなものだけど。 やっぱり何かあったのだろうか。 理奈ちゃんの周りには、由綺も英二さんもいる。 その中でわざわざ俺が呼ばれたということは、芸能界の関係者には話しづらい悩みなのかもしれない。 それとも…。 本当に、俺に会いたいだけ…とか? はは、まさかね。 …。 まさか…ね。 …と、あれ? こっちに走ってくるあの女の子…もしかして、理奈ちゃん? いや、理奈ちゃんが来るにはまだ早いよな。あれからそう経っていないし。 でも、遠目にはよく似てる…。 …。 あれ? 本当に理奈ちゃん? え、スタジオからもう着いたの?? 「理奈ちゃ…あら」 理奈ちゃんは目の前を通り過ぎてしまう。俺に気づかなかったらしい。 「はぁ、はぁ、はぁ…」 「…」 辺りをきょろきょろしてる。 「んん、…はぁ」 息を整え、コートや髪の乱れを直して…。 「…」 改めて、取り澄ましたように歩きだす。 などと黙って見送ってる場合じゃない。 「理奈ちゃん」 「ひうっ!?」 「と、冬弥君…?」 「うん…走ってきたの?」 「別に、そういうわけじゃないけど…」 反射的に否定してる。 「冬弥君こそ、汗かいてる」 「あ…うん。別に走ってきたわけじゃないよ」 「そうなんだ」 「…」 「…」 なんで俺たち、どちらも走ってきたんだろう。 でも、まあ、のんびり来て理奈ちゃんを待たせるよりはよかった。 「立ち話もなんだし、向こうのベンチにでも座る?」 「ん…いいわ、ここで。向こうだと人目につきそうだし」 「そっか。今日は理奈ちゃんも変装してないんだし、人目のあるところは避けた方がいいよね」 「控え室に戻る時間がもったいなくてそのまま来ちゃった。冬弥君を待たせるのも悪いし」 「そんな、俺はいいのに。どうせ暇なんだから」 「それより、理奈ちゃんの方こそ見つかったりしたら大変じゃない?」 「大丈夫よ。ほら、もう夕暮れでしょ? この時間帯って他人には注意を払わないものだから」 「どうして?」 「みんなどこかに帰ろうとしてるから」 なるほどね。 学生は家に、外回りのサラリーマンは会社に、それぞれあるべき場所へ戻る途中ということか。 そんな中、俺たちだけは互いに会うために公園へ…。 ロマンチックだと思うのは図に乗りすぎかな。 「でも、理奈ちゃんくらい有名だとさすがに気をつけた方がいいよ。人混みは素早くすり抜けるようにするとか、さ」 「…」 「走ってないわよ?」 「そんなことは言ってないよ」 取りあえず、立ち話もなんだな。 俺たちは噴水の陰に回り込んだ 「…」 「あのさ…」 呟くような声にも、敏感に足音が止まった。 でも、こちらを振り返る気配はない。 俺も、そのきっかけを失っていた。 「なに…?」 「うん…」 俺は曖昧に頷きながら、別のことを思い出していた。 理奈ちゃんとの、電話口でのやりとりのことだ。 相手の都合もお構いなしに突然会おうだなんて、普段の理奈ちゃんからは考えられない。 こんなの、何もないはずがない。 不安の原因は…おそらく、音楽祭をきっかけにした何かだろう。 でも、理奈ちゃんはそのほころびを公園へ着く前に繕ってしまった。 ぎりぎりのところで、俺に迷惑をかけまいという気持ちが働いたのだろう。 迷惑だなんて少しも思っていないのに。 『今から…そっちに行ってもいいかな…?』 理奈ちゃんがそう言ってきた時、むしろ頼りにしてもらえて嬉しかった。 非力な俺でも悩みを聞くことくらいはできるし、それが理奈ちゃんにとって転ばぬ先の杖になるかもしれない。 弱音を途中で引っこめたりしないで、もっと気軽に頼ってほしい。 さしあたって俺にできることといえば、理奈ちゃんを応援すること。 それを理奈ちゃんに伝えることだ。 例え醜態になっても。 「メッセージのことだけど。由綺への」 「え? あ…うん」 「伝えてほしいんだ」 「俺が、理奈ちゃんのことをとても心配してたって…」 「…」 「伝えていいの…?」 子供の頃は他に説明なんて必要なかった。 『がんばれ』 その一言で何もかも伝わっていたのに。 大人になるほど余計な言い訳が増えていく。 「うん…」 俺は手探りするように言葉をつむいでいく。 「本当はね、音楽祭なんて気にすることないって…そう言おうと思ってたんだ」 「テレビでも、雑誌でも…最優秀賞の筆頭候補は理奈ちゃんだって言ってる」 「結果なんてどうでもいい。みんな、実力は理奈ちゃんが一番だと認めてるんだって」 「誰が何と言おうと、理奈ちゃんは理奈ちゃんだって…」 励ましとしては不出来だった。 だが、理奈ちゃんはまだ俺の言葉を待っているようでもあった。 「でも…」 「やっぱり…違うんだ」 「俺…理奈ちゃんには一等賞でいてほしい…」 「…!」 「そうじゃなかったら何だか悔しいよ。だって、理奈ちゃんが一番なのに」 「こんなに努力してるのに…」 「…」 「はは…俺、なに話してるんだろ」 何もかもぶち壊しだった。 「ごめん、勝手なことばかり言って…迷惑だったよね」 「迷惑だなんて…そんな」 「それじゃあ、音楽祭がんばってね」 「がんばってる人に言うことじゃないけど…」 急激にせり上がってきた羞恥心が背中を押す。 理奈ちゃんを振り返る勇気もなく、俺はこの場から逃げ出すように歩きだした。 「あ…」 背後で砂をかむ靴底の音がする。 「ごめん、本当にごめん…俺、なんでこんなこと…」 「違っ…待って!」 理奈ちゃんの制止は聞こえていた。でも、足は止まらない。 「…」 「ああ、もおっ」 駆け足が背後に迫ってくる。 振り返る暇もなかった。 「はぁ…せっかく我慢してたのに」 背中にため息の気配を感じた。 それに遅れて、髪の甘い香りが漂ってくる。 距離が、近い。 すごく近い。 むしろつながっている。 額を押しつけられた背中の部分が、急に熱くなってくる。 「そうね。冬弥君の言うとおり。今の私、いっぱいいっぱいだわ。まるで、余計なものを詰め込んだ風船みたい」 「何だか、必死になればなるほどうまく行かなくて」 「今まで自分がどんな風に歌っていたのか…それも思い出せなくて…」 「むしろ、しぼんだ風船かしら…」 周りに人の気配はなかった。 俺たちを見下ろす街灯も、まだ目を覚ましていない。 この公園の狭い一角で、理奈ちゃんと二人きりであることが、今さら生々しく感じられた。 「本当はね、声を聞くだけにしようと思ってたの」 「部屋に電話くれたこと…?」 「うん。でも、冬弥君の声を聞いたら…」 言葉の続きは吐息に変わる。 まるで観念するような、安堵するような吐息に。 「大変…なんだね」 こんな時にも、芸のない言葉しか出てこない自分が情けない。 でも、理奈ちゃんは嬉しそうに喉を鳴らす。 「もう、冬弥君だけよ。気がつくの」 「これじゃ駄目だ! って、無理やり気分をあげていくんだけどね。気ばかり焦っちゃって空回り」 「それなのに周りからは、『今日は気合い入ってるね』とか言われるのよ。くす…馬鹿みたい」 「まるでピエロね、私って」 トップアイドルとはいえ、時にはギアを入れそこねることもあるのだろう。 でも、理奈ちゃんはそれを誰にも知られたくはないようだ。 「ああ、駄目。やっぱり今日は変。色んなこと口走っちゃいそう」 「いいよ、言っても」 「でも…」 「そこなら誰にも聞こえないし」 理奈ちゃんは何か言いかけて口をつぐんだ。 なおもためらう気配が漂っていた。 「調子、悪いんだ」 「うん…」 言葉と同時に、背中でかすかに頷く感触。 「理由はあるの…?」 「…」 結局、俺は彼女の後ろ姿を見送った。 何か言いたいことがあったというのは、もしかすると事実かもしれない。 でも、結局それは彼女の口からは出なかった。 愚痴を聞かせたくないと思ったのか、もしくは俺に話しても仕方ないと思ったのか、どちらにせよ彼女の意思でそう決めたことだ。 俺がただの大学生じゃなくて、理奈ちゃんの支えになれるような人間だったら、また別の展開もあったのかもしれないが…。 茜色に輝く陽射しは地平の彼方に消えようとしていた。 蒼ざめた月がじきに昇る。 自分の非力を嘆いたところで、彼女の痛みは少しも癒されない。 あ、理奈ちゃんだ。 そういえば、この間のことちゃんと謝っておかなきゃ。 「理奈ちゃん」 「あら、冬弥君…」 「あの…。この前はごめん。約束、破っちゃって…」 「本当ね」 怒ってる…? 「なんて。起こるわね、やっぱり。こういうことが」 「え…?」 「いいわよ、冬弥君。私が連絡先教えていなかったんだから」 「うん…」 確かに、知ってたら連絡はしたけど、でも…。 「仕事用とは別に、遊び用の携帯とか持とうかとか考えているけれど、まあ、ちょっと先の話ね」 「でも、ごめんね。急な話だったから」 「いいのよ。大切な用事だったんでしょう?」 「う、うん」 「それじゃあ、どちらにしても来られなかったわけだし。仕方なかったのよ」 「うん…」 仕方ない、で、俺はあの緒方理奈ちゃんの誘いを断っちゃったのか…。 ちょっとすごい話かも。 と、それはそれとして、「今度、何かのかたちで謝るよ…」 「っていっても、俺、理奈ちゃんに何をしてあげたら埋め合わせられるかなんて想像もつかないけど…」 「いいのよ。気にしないで。都合の悪い時って誰にだってあるんだから」 「でも…」 「じゃ、そうね。次は約束を破らないって約束してくれるかしら?」 優しく微笑みながら理奈ちゃんは言った。 「うん…」 「あははっ。そんなに緊張しなくていいわよ。別に、急用を優先させるなって言っているわけじゃないわよ」 「できるだけ、でいいの」 「うん…。じゃあ、そうするよ…」 「ふふふっ。なんだか私の方が悪いことしちゃったみたい」 「それじゃあ、私、行かなきゃいけないから」 「あ、ごめん。引き留めちゃったんだ、俺」 「ふふっ。謝ってばっかりね。いいわよ。それじゃあ、また」 手を振って、理奈ちゃんは行ってしまった。 なんだか、あんまり怒ってたって風じゃなかったな…。 優しいんだな…。 あ、でも、彼女の話したかったことって何だったんだろう…? 「あ、そうなんだ…」 「…北海道から九州までね。クリスマスイヴを挟んで8日間の日本縦断ツアー」 「すごい…」 さすがだ。 由綺のはるか上をいってる。 「…でも、それと何か関係が?」 「私も去年まではクリスマスはこの街でライブをやっていたのよ。なのに急に、ツアーに出すなんて、絶対におかしいじゃない?」 「…それはただ、理奈ちゃんのアイドルとしてのランクが上がったって証拠なんじゃないのかな…?」 「普通は、そんな全国ツアーなんてできないわけだし…」 「だったら、どうして兄さんは私の方について来ないのよ!?」 「理奈ちゃん…声…」 「あっ、ごめんなさい…」 「でも、そうなのよ。近いところまで来たら顔くらいは出すとか何とか、いい加減なこと言って…」 「ほら、私がいると邪魔だから…」 「そ、そんなことないんじゃないのかな…」 「どっちかっていったら、理奈ちゃんのステージよりも、由綺のステージの方が心配だからとかじゃないかな…?」 「ほら、理奈ちゃんは心配しなくても、ちゃんと自分で完璧にこなせちゃうから…」 言葉とは裏腹に、俺の気持ちもかなり焦っていたけど、顔には出さずに、もう一度軽く笑ってみせる。 「完璧なんかじゃ…ないわよ…!」 「え?」 「え? う、ううん。なんでもない」 「とにかくそういうことだからっ!」 理奈ちゃんは鋭く顔を上げる。 「うん…。でもやっぱ、考えすぎなんじゃないかな…」 「なに頭のあったかいこと言っているのよっ!」 「…あ、ごめんなさい。聞き逃して」 「本当のところはなんて、実際どうだっていいの」 「要は、他からどんな風に見えるかってこと」 「他から…?」 「一度でもマスコミに騒がれたら、事実はどうあれ、既成事実ってものが成立しちゃうんだから…!」 「とにかく、こういうこと頼めるの、冬弥君しかいないから…」 「う、うん…」 こういうのを、俺は断れない。 それでなくとも、理奈ちゃんに『冬弥君にしか』なんて言われて断れる人間、普通いないだろう。 「…まあ、どのみち俺、由綺に会いに行くつもりだし」 「判ったよ。由綺と、一緒にいることにする…」 「よかった…」 理奈ちゃんがにっこり笑った。 ほんとに天使みたいだ。 彼女はさらに何か言おうとしたけど、その時、コンコン。 「はあい」 ガチャ。 局のスタッフらしい女性が、ドアから上半身だけ覗かせて、理奈ちゃんに、間もなくスタジオの準備ができると告げた。 「判りました。急いで準備します」 「そういうことだから。続きは仕事が終わってからね」 「理奈ちゃんの?」 「冬弥君の」 そうだった。 彼女の仕事に、終わりなんてないんだっけ。 『撮影中』 俺は、こんな間近で、あの緒方理奈のステージを観られたことに感動した。 こんな沢山のライトとカメラに晒された彼女は、まるで今まで何もなかったかのように涼しげに微笑んでいる。 『完全な笑顔』って、ああいうのをいうんだろうな。 あの笑顔の後ろで、英二さんのことや、由綺のことや、俺のことを考えてて…。 俺のこと… もかな? そうだ。 由綺と英二さんだけの問題なんだったら、わざわざ口止めまでして、外部の俺を呼び出すはずないじゃないか。 由綺とつきあってる俺のことも、考えてくれてたってことか…? こんな風に、彼女は夜まで休む間もなく動き続けた。 このTV局でだけでも、いくつもの収録があり、一通り終わったのは、もう夜も更け始めた時間だった。 「お疲れ様、冬弥君」 ステージから降りたばかりの理奈ちゃんが、まっすぐに俺の方へ歩いてきた。 「お疲れ様でしたっ。冬弥君っ」 カメラの前で放っていたオーラが、まだ残り火みたいに彼女を取り巻いてる。 「はい、冬弥君」 彼女は俺に右手を差し出す。 「え…?」 「はい」 「う、うん…?」 わけも判らないまま、俺は、その手を握って、上下に揺らした。 「……………」 不思議そうな顔をしてる理奈ちゃん。 握手じゃなかったのかな…? 「…ぷっ…」 「…北海道から九州までね。クリスマスイヴを挟んで8日間の日本縦断ツアー」 「すごい…」 ツアーのことは番組の収録で知ってたけど、まさかそんな規模だなんて。 さすがだ。 由綺のはるか上をいってる。 「…でも、それと何か関係が?」 「私も去年まではクリスマスはこの街でライブをやっていたのよ。なのに急に、ツアーに出すなんて、絶対におかしいじゃない?」 「…それはただ、理奈ちゃんのアイドルとしてのランクが上がったって証拠なんじゃないのかな…?」 「普通は、そんな全国ツアーなんてできないわけだし…」 あ、そうだ。 理奈ちゃんに断りの電話入れなきゃ。 って、ああ! 俺、理奈ちゃんの連絡先知らない。 当たり前だけど。 でも、それじゃどうしよう…。 次に会った時に謝らなきゃな…。 ピンポーーーン。 「すみません。宅配便ですけどー」 「はいはい…」 俺は印鑑を持って玄関へ。 小さいけど、結構重い包みだ。 誰からだろう? 『成田雅夫』 誰だ? 知り合いじゃないな…? …でも、宛先は間違いなく俺の住所と名前になってる。 まあ、間違いじゃないんだろうけど…。 成田雅夫…。 やっぱり覚えがないなあ。 …また、由綺の変なファンからの嫌がらせじゃないといいんだけど…。 そんなことを考えながら、俺は包みを開けてみた。 中には何かのローションと、小さなチョコレートの詰め合わせと、上品なデザインのメッセージカードが入ってた。 ローションの容器のふたを開けてみると、決してきつくはないミント系の香りがした。 上品なコロンだ。 「あ、まさか…」 俺は思い当たって再び考えてみる。 『成田雅夫』 …なりたまさお。 …いや… なりたがお…。 「あっ、そうか」 俺はメッセージカードを開いてみる。 「やっぱり…」 『私の親愛なる藤井冬弥君へ   私からささやかな    ヴァレンタインデーのプレゼントです 緒方理奈』 「ありがとう…」 ちょっと信じられない気持ちで俺は呟く。 重なった偶然がこんな風になるなんて…。 お礼言わなきゃ。 あ、あと、これのお返し、どんなのがいいかなあ…。 そんなことを考えながら俺は、チョコレートを一つ、口に入れる。 チョコの中から、ブランデーがとろりと口の中に広がった。 今日は理奈ちゃんの誕生日だ。 先週買ったプレゼントを届けに行こう。 …って、どこへ? ああっ。 俺、彼女の連絡先知らないっ。 あーあ…。 せっかく買ったのに…。 まあ、一応TV局に顔出してみよう…。 じゃなかったら、喫茶店に行ってみたら…。 …なんだか、頼りないプレゼントになっちゃったな。 「あらっ? 冬弥君」 「え?」 「あっ、理奈ちゃん!」 やったっ。 なんてラッキーな。 「どうかしたの? そんなに嬉しそうに?」 「何かいいことでもあった?」 「い、いや…」 「アコガレの理奈ちゃんに会えて嬉しいな」 「そんな正直な…って!?」 俺はその声の方に振り返る。 「え、英二さ…」 「すまん」 速攻で謝られて言葉を失う、俺。 「ふん。なかなかイイ感じの包みを抱えてどうした、青年?」 「あ、いや…」 怒鳴りかけた手前、正直なところはちょっと言いづらい。 「ちょっと兄さん。また冬弥君に変なちょっかい出すのはよしてよ」 「そんな言うなよ…。俺だって藤井君と話がしたいんだぜ。そんな、独り占めしなくたってなあ」 そして、俺に変な笑いを見せて、「理奈、独占欲も強いんだよな」 「はあ…」 「ほら。下らないこと言わないの」 「兄さん、事務所の方に行かなきゃいけないんでしょう?」 「薄情だよなあ…。俺、理奈ちゃんの兄だぜ、お兄さん」 「判っているわよ」 「さあ、早く行って。『お兄さん』」 「あー…。はいはい」 「じゃあ、マネージャーさん、理奈をよろしく。俺の妹、すぐにこの青年のこと殴ろうとするからさ」 そして英二さんは、理奈ちゃんに何か言われる前にさっさと逃げて行ってしまった。 「もう…!」 「あ、ごめんなさいね。兄さん、いつもあんな感じだから」 「それで、今日はお仕事?」 「あ、うん…。あの、理奈ちゃんに…」 「あら? 本当に私に用があったの?」 「うん。あ、ちょっとだけだけどね」 「じゃあ、ちょうど今、休憩だから、一緒に控え室でお話ししない?」 「え? いいの?」 「もちろんいいわよ」 「ね、いいわよね?」 「いいって。行きましょう」 「うん…」 「それで、用事って?」 「うわ…」 控え室の中には既に花束や、リボンのついた包みが開封されないまま重ねられてる。 これ全部、理奈ちゃんに贈られたものなんだろうな。 そして多分、これからももっともっと贈られてくるんだろう。 「ちょっと狭いけれど、我慢してね…」 ぷるるるるーーー、カチャ。 「はい、藤井です」 「夜分に失礼いたします。私、緒方と申す者ですけれど」 あれ、この声は…。 「理奈ちゃん…?」 「こんばんは、冬弥君」 やっぱり理奈ちゃんだ。 「どうしたの急に…?」 「ええ…。突然なんだけれど、冬弥君に相談したいことがあって…」 「俺に?」 また由綺のこととかかな? 「明日、もし時間が取られるみたいだったら、お話聞いてもらいたいんだけれど…」 「明日…?」 明日は由綺との約束が…。 「…本当に急でごめんなさいね」 「あ、無理してくれなくともいいわよ。私の個人的な問題だから」 理奈ちゃんの個人的な問題…? 「俺なんか、そんな役に立てるなんて思わないけど…」 「なに言っているのよ。私だって相談する相手くらいはちゃんと選ぶわよ」 「そ、そう…?」 じゃあ俺は、あの緒方理奈ちゃんに選ばれてるわけか。 「ね? どうかな?」 「え…?」 「相談に乗ってくれる?」 どうしよう…? 引き受ける 断る 「判った。じゃあ、引き受ける」 「本当? よかった」 理奈ちゃんは素直に喜んでる。 「こんなに突然にお願いして、断られるかと思っていたんだけれど…」 「いいよ。理奈ちゃん、誰かに自分のことで頼み事をするってあんまりなさそうだし」 受話器の向こうで理奈ちゃんが、照れたみたいにくすくす笑ってる。 「…まあ、俺なんかで役に立てるかどうかなんだけどね、問題は。ははっ」 「もう。大丈夫よ。というより、冬弥君の意見を聞きたくてお願いしているんだから」 「えっ? 俺のっ?」 なんだかますますすごいことになってるな…。 その時、理奈ちゃんの後ろに誰かの声がした。 「あ、ごめんなさい。そろそろ移動しなきゃいけないみたい」 「それじゃあ、明日のお昼休みに『エコーズ』に行くと思うから、その時にね」 「うん、判った。大変そうだけどがんばってね」 「くすっ、ありがとう。それじゃあ…」 そして電話は切れた。 理奈ちゃんが俺に相談か…。 それがどんなことかってのもちょっと心配だけど、それ以上に、俺は由綺のことが心配になってきた。 明日、楽しみにしてたのに…。 とりあえず、断りの電話入れなきゃ。 ぷるるるるーーーー、由綺、部屋にいてくれるかな…。 「もしもし」 「あ、由綺?」 「冬弥君?」 「うん。俺だけど…」 「どうしたの、こんな時間に?」 軽い心配を含んだ、由綺の無邪気な声が少し哀しかった。 「うん。実は明日なんだけど、俺、行けなくなっちゃって…」 「え…? そうなの…?」 「でも、どうして急に…?」 「うん…」 謝る 嘘をつく 「ごめん…。あの、俺、急に理奈ちゃんに相談に乗って欲しいって言われて…」 俺は正直に言って由綺に謝ることにした。 「だから…ほんとにごめん…」 「そうなんだ…」 がっかりしたみたいな由綺の声には、それでも怒った様子は全く無いみたいだ。 だから余計に俺の方がつらいっていうか…。 「…理奈ちゃん、最近ちょっと考え事してたみたいだから」 「そうなの?」 「うん…。 そんなにはっきりとじゃないんだけど、なんとなく判るっていうのか…」 「そうなんだ…」 そうだな。 由綺、時々そういうのを鋭く感じ取っちゃうところあるからな。 多分ほんとに何かに悩んでるんだと思う。 「…そんなに大切なことじゃないって思ったから、私も訊いたりはしなかったんだけど…」 「そうなの?」 「うん…。理奈ちゃんがそう言ったわけじゃないけど」 「理奈ちゃんって、ほんとに重要なことはすぐに誰かと相談して、急いで解決しちゃうけど…」 「へえ…」 らしいっていったら、らしいかな。 「でも、普通にみて大切じゃないってこと、他の人には言わないで自分で解決しちゃうから」 「重要じゃない?」 「ううん。ほんとはすごい重要なことだって思うんだけど」 「個人的な相談とか…」 「そうなんだ…」 理奈ちゃん…。 彼女自身の世界って、実はすごく少なくなってしまってるんじゃないのかな。 「だから、冬弥君、行ってあげていいと思う…」 「ごめん…。せっかく約束したのにな…」 「うん…。でも私、冬弥君とは…会えるから」 その口ごもった『会えるから』の前の隙間が、俺にはひどく悲しかった。 由綺が言いかけたみたいに、俺達が『いつでも好きな時に』会えるなんてことが、これからあるんだろうか…。 少し心配になったけど、だけど俺は、明日は理奈ちゃんに会いに行くことにしたんだし、由綺もそれでいいって言ってくれてる。 本心から…かどうかは、判らないけど…。 「じゃあ私、明日はお部屋でおとなしくしてることにするね。お掃除とかもしなきゃいけないし。あははっ…」 そんな風に笑ってはくれてるけど、やっぱり由綺、演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った。 「また今度だね…」 「そうだね…」 そして、俺達は会話を終えた。 胸がひどく痛んだけど、なんとなく安心できる気分になれた。 まさか、他の女の子との約束で会えなくなったなんて言えるわけがない。 たとえ相手が、あの理奈ちゃんでも。 「ちょっと大学の事務局の方から呼び出しがかかって…」 「えっ? 冬弥君、学校の方危ないの?」 「いや。そういうんじゃないと思うけど…」 声の感じから、由綺が完全に俺の言ってることを信じてるみたいだってのが判った。 …あんまり喜べない成功だけど。 「…ごめん。こんな急な話で…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 …でも、いくら由綺の為っていっても、嘘は嘘だ。 こんなにも信じたまま疑わない由綺が、すごくいじらしく感じられる…。 「じゃあ私、明日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし。あははっ…」 そんな風に笑ってはくれてるけど、やっぱり由綺、演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った。 …だけど、ついてしまった嘘はそのまま押し通すしかない。 せめて、これ以上由綺を傷つけない為に。 「ほんとにごめん…。いつか、埋め合わせはするから…」 「いいよ。忙しいのはお互い様だし」 「でも、それじゃあ、また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺は、そんな由綺になんとなく罪悪感を感じた。 まさか、他の女の子との約束で会えなくなったなんて言えるわけがない。 たとえ相手が、あの理奈ちゃんでも。 「あの…ちょっと大学の…事務局…の方から、あの、呼び出しかかって…」 嘘がばれたらいけないって思えば思うほど、俺の声の調子はうわずってゆく。 多分、自分で思ってるほどには慌ててないとは思うんだけど、そう思ってても俺の気持ちは落ち着いてくれない。 「だから…ごめん…」 「そうなんだ…」 納得したように呟く由綺の言葉に、相変わらず明るさは戻らない。 「…それじゃあ仕方ないよね…」 「ごめん…」 「あ、ううん。いいよ…」 少し沈んだ声で、慌てて由綺は言う。 軽く微笑んでるようでも、やっぱりどこかに無理がある。 明るい…っていうには少し悲しい明るさだ。 「じゃあ…また今度ね…」 「うん…。いつか、埋め合わせするからさ」 「うん…。それじゃ…おやすみなさい…」 「おやすみ…」 そして、電話は切れた。 瞬間、俺の中に言いようもない不安が湧き上がる。 気のせいかも知れないけど、たどたどしい俺の嘘は、由綺には通用してないように思えた。 「ごめん、理奈ちゃん…」 「わざわざ電話までもらっちゃって悪いんだけど、俺、明日はもう予定が入っちゃってるから…」 「そうなの…」 一瞬、理奈ちゃんはちょっとがっかりしたみたいな声になる。 「でも、予定があるんだったら仕方ないわね。いいわよ、急なお話だったし」 「ごめんね、ほんとに…」 言いかけた時、理奈ちゃんの声の後ろに誰かの声がした。 「あ、ごめんなさい。そろそろ移動しなきゃいけないみたい」 「それじゃあ、また今度お話ししましょう。おやすみなさい」 そして、電話は切れた。 今の様子からして、理奈ちゃん、仕事明けの電話って感じじゃなかったな…。 …それなのに、俺…。 なんて思ってても仕方ない。 せめて、由綺にはこんな空気を気取られないようにしなきゃ…。 今日は理奈ちゃんに会いに行く日だ。 …由綺との約束は後回しってことになっちゃったけど、でも仕方ない。 理奈ちゃんも理奈ちゃんで、何か悩んでるみたいだったし。 まあ、行ってみよう。 理奈ちゃんは…まだ来てないみたいだ…。 店長が俺の方を何げなく見てる。 それからしばらくすると、お客さんが何人かばらばらと入ってきた。 相変わらず繁盛しない喫茶店だ。 この中にも理奈ちゃんはいないみたい… 「冬弥君」 「はいっ!」 いきなり後ろから声をかけられ、思わず大声で返事をしてしまう。 「しぃっ」 そんな俺を、理奈ちゃんが面白そうに見つめていた。 「あれ、理奈ちゃん…。いつの間に…」 「いま目の前を通ったじゃない? 冬弥君、気づかないんだもの」 「ほんと…?」 「帽子とかコートとかしていたからね」 あ、そうか。 変装(というか)してたんだ。 理奈ちゃんって結構背が高いから、やり方によって男の子に見せるのとかも簡単なんだ。 「さ、座りましょう」 そして理奈ちゃんは、彼女のマネージャーらしき人の座ってる奥のテーブル席を指さした。 「ごめんなさい。わざわざ呼び出したりして」 「いいよ。…でも、相談したいことって?」 「うん…」 さてと…。 出てきたはいいけど、何を贈ったらいいんだろう? なにしろ相手は、あの緒方理奈ちゃんなわけだし。 いろんなファンとかからもプレゼントされてるだろうし、迷うなあ…。 何か綺麗なものがいいと思うけど、俺、そんなお金持ちってわけでもないし…。 結局、夜まで探してしまった。 買ったものはオルゴール。 割と大きめの、ゼンマイ仕掛けのミュージックボックスだ。 ちょっと控えめなシャンパンゴールドが、なんとなく理奈ちゃんに似合ってる感じがした。 でもまあ、こんなのは誰からだってもらってるだろうけど。 それでも俺は、理奈ちゃんの誕生日に何か贈りたかった。 それだけだから、俺は結構満足してしまう。 独りよがりみたいな気もするけど、だからってプレゼントをしたくなくはならないな。 じゃあ来週、これを理奈ちゃんに届けよう。 俺は足早に構内を歩く。 もうすぐ『映像文化論』の講義が始まる。 この授業は出席が厳しくて、講義前のチェックにちょっと遅刻しただけでも欠席扱いにされてしまう。 と、あれ? あ自販機のところにいるのは…。 はるかだ。 はるかも同じ講義取ってるはずだけど、何のんびりしてんだろう…? 「おーい、はるか。もたもたしてると授業遅れるぞ」 「あ、冬弥」 彼女は、自販機から出てきた缶紅茶のプルタブを開けながら俺の方を向く。 「冬弥も何かいる?」 マイペースっていうか、とにかく人の話は聞かない。 「なあ、はるか。何してるの? 授業は?」 「映文論?」 忘れちゃいないのか。 「休講」 「え? うそ?」 「どっか行こうかとか思ってたんだ。行く?」 休講か。 今日はこれ以上講義はないし、どうしようか…。 とか迷ってたら、俺の頬にすごく熱いものが襲いかかった。 「あちちちっ!」 驚いて飛び退くと、「ん」 はるかが缶紅茶を差し出してる。 「ホットでいいよね?」 「…ああ」 俺は、ひりひり痛む頬と爆発する胸をどうしようもないまま、はるかの差し出す缶を受け取る。 あちちち…。 はるか、こんなものを俺に押しつけたのか。 文句言ってやろうと思ってると、はるかは一人でさっさと歩き出してしまってた。 仕方ない。 ついてってみよう。 学校でだらだらしてるよりも、はるかとだらだらしてた方がいくらかましだろうし。 「どうせ、はるかがどっか行くっていったって公園かアリーナくらいなもんだろうけどさ」 俺ははるかに追いついて、さっきのお返しに皮肉の一つも言ってやる。 「今日は公園」 皮肉にならない。 俺達はこれといってやることもなく、ただぶらぶらと公園を歩く。 公園自体が広いから、特別に飽きるってことはない。 俺達はいつもこんな調子だ。 昔からそうしてきたせいか、俺もはるかといる時はここが一番落ち着く。 実際、ここで何をするわけでもない。 ただ二人ならんであったかい飲み物か何か飲んで、ぼうっとしてるだけ。 「いい天気だなあ…」 「うん」 俺達はベンチに腰掛ける。 少し寒くなりかけた、澄んだ秋の空気が気持ちいい。 「毎日こんな感じだといいのにな」 「うん」 なんかこう、ふぬけた若者達だなあ、俺達…。 「こんな日に休講にしてくれるなんて、あの教授、いい人なんだな、実は」 そこで俺は深呼吸。 「………」 不意に黙るはるか。 嫌な予感がした。 「はるか? 念のため訊くけど、今日、ほんとに休講なんだよな?」 「………自主休講…あはは…」 「…うそ?」 「ほんと」 『ほんと』じゃないだろう! (ちなみに自主休講とはサボリを意味する) つまりはるかはまさに今、俺を巻き込みつつ授業をさぼってるわけだ。 「冗談じゃない! ただでさえ出席が厳しいのに、こんな…!」 思わず立ち上がる俺。 「今から出たって出席くれないよ」 「誰のせいで慌ててると思ってんだ? 不良のはるかさん?」 「私のせいだね。ごめんね」 全然悪びれてないはるか。 『ごめんね』じゃないよ。 まったくもう。 仕方なく俺はもう一度座り直す。 「しょうがない。これははるかの悪知恵が全部悪いんだ。せっかくだから、今日一日騙されていよう」 俺はだらしなくベンチに横になる。 「それがいいよ」 俺の髪の毛を撫でつけるはるか。 ぼんやり笑うはるかを見てると、怒ってるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。 はるかといる時はせいぜい無駄にアルファ波でも放出してた方が得だな…。 「このまま眠ってもいいよ」 「眠らないよ。はるか、俺を放ったまま帰りそうだし」 「多分ね。あはは…」 なんてやつだ。 結局その日は一日中ベンチで横になってはるかと話をした。 日が暮れて肌寒くなってきた頃、将来ある若者がこんなんじゃいけないとはるかに説教して、それから別れることにした。 「冬弥」 「ん…?」 「じゃね」 「じゃあな」 ぷるるるるーーー、電話だ。 「はい、藤井ですけど」 「あ、冬弥。私、はるか」 「あれ、どうしたの? 珍しいね、そっちから電話なんて」 「割と面倒で」 正直なやつ。 「…今日は面倒じゃないわけ?」 「結構、面倒」 なんてやつだ。 こんなやつと一番つきあいが長いなんて。 「冬弥。明日、誰かと遊びに行く?」 「え? 明日?」 「学園祭」 「学園祭…」 はるかの口からそんな単語が出るとは驚きだ。 「なんで?」 「冬弥、暇かなって、思って」 こんな直前になって訊いてくるなんて、これだからもてたことのないやつは…。 俺は… 暇なわけないだろ 暇だけど 「暇なわけないだろ」 多少誇らしげに言ってやった。 「そうなんだ」 「そうなんだ、って、はるか…。この際だから言っとくけど、俺、こんな風に見えても、女性にはそれなりに…」 「判った」 はるかは全く話を聞こうともしない。 「何が判ったんだ、一体…」 「どうだっていいから」 「…………」 …確かにそうか…。 俺が女にもてるなんてこと、はるかに自慢してどうするんだ。 仕方ない、今後は彰に自慢することにしよう。 「…まあ、はるかなら判ってくれると思った」 「でも、何にしても悪かったね。わざわざ誘ってくれたのに…」 「また別の機会に埋め合わせするからさ」 「うん」 こんなのには、すごく素直だ。 「じゃ、ごめんな…」 「じゃあね」 そして、電話は切れた。 「別に暇だけど…」 「ほんと」 「ほんと、って、まさか俺が誰からも誘われてないの確認しに電話したんじゃないだろうな?」 「違うよ」 「じゃ、なに? 用事を言いなさい、用事を」 「明日アリーナ行かない?」 「はあ…?」 俺は思いっきり呆れた声を出した。 「はるか、会話が変じゃないか?」 「そう?」 「話がこう、とんとんって流れてないだろ?」 「学園祭で予定が入ってますか? 入ってません。それじゃ私とアリーナに行きましょう。ほら、変だろ?」 「目的語? 目的格? なんていうの? それが飛躍してるっていうか、すり替わってるっていうか…」 「あれ…? ま、何でもいいよ…。それで?」 どこがおかしいのか判らなくなってきた。 「学園祭、人いっぱいだから別のとこで遊ぼうと思って。せっかく休みなんだし」 「しょっちゅう授業さぼるくせになにが休みだ」 「それに、人が多いからって自分の大学の学園祭行かないなんて、ちょっと自閉っぽいぞ」 「行かない? アリーナ?」 人の話は全く聞かない。 でも、どうしようか? 行く 行かないよ 「判ったよ。そうだな、別に相手もいないのに、わざわざ込み合ってる学校を見に行くってのもちょっと悲しいかな」 「うん、いいよ。つきあってやるよ。自閉で寂しがり屋のはるかさんに」 「ありがと。冬弥なら暇だと思ってた」 人の言うことはこたえないくせに、言うことだけは言うから、なんだかこっちが損した気分になるよ。 「明日アリーナね」 「判った」 「ごめんな、はるか。悪いけど、俺、やっぱり学園祭に行くことにするよ」 なんていうか、せっかくのお祭りに参加しないのはもったいない気がした。 「そう?」 最近、この大学の雰囲気にも馴染んできたなあ。 もう二年になるからな。 学園祭も終わって、奇妙な達成感が構内を支配するこの時期。 学期末試験のため奔走するか、潔く覚悟を決めるかを選ぶこの時期。 その後者の人間が、まだどちらとも決めかねている人間を少しでも多く道連れにしようと変にフレンドリーになるこの時期。 あまりに恐ろしいくらい、のどかなこの時期。 俺は屋外の隅に設置されたベンチにだらしなく腰を下ろす。 こんな幸せな天気の日は、天使が会いに来てくれそうだ…。 あ…、誰か来た…。 …天使じゃなかった。 ま、いいや…。 はるかは何も言わないで俺の隣に座る。 「………………」 「あ」 心地良い沈黙を破って、不意にはるかが小声で言った。 「ここ座ってもいい?」 「先に訊けよ」 「うん」 そして再び黙ろうとする、はるか。 しょうがないな…。 はるかに何て言おうか? 忙しいんだ。ばいばい 何か用なの? 「悪い。俺、忙しいんだ。ばいばい」 俺は立ち上がる。 どう見ても、暇だったけど…。 「そう」 はるかはそれ以上何も言わない。 はるかの場合、どうでもいい時とどうでもよくない時の区別が無いから面倒だ。 彼女とつきあう男(もしもいたら、だけど)は、すごく苦労するんだろうな。 「じゃね」 手を振る、はるか。 ちぇっ。冷たいやつ。 袖にしたのは俺の方だけど。 しょうがない、行こう。 はるかと一緒にいたら、俺まで際限なく時間を無駄にしてしまう。 はるかは人生が無限のものだと思いこんでるに違いないからな。 もっと有意義に生きなきゃだめだな、人間。 そういうわけで、今日は受講登録してない講義に潜り込むことにした。 キーーンコーーーン…。 …あ、しまった。 かっこ悪いなあ…。 潜り込んでの居眠りなんて…。 いいや、今日はこれで帰ろう。 さっきあれだけ寝たんだ、今夜は深夜放送ばっちり観られるな。 なんて、負け惜しみみたいなことを考えながら、俺は大学を出た。 「…で、今日は何なわけ?」 「何って?」 ずるいやつだな。 何もないのに、こんな、構内の隅っこまでわざわざ来るわけがないだろう。 「…いいけどね」 俺は冷たく言ってやる。 「言いたくないんだったらいいよ。別に訊かないから」 はるかには、こんな風に言ってやるのが一番の意地悪だ。 伊達にはるかとのつきあいは長くない。 「あのね」 瞬く間に折れるはるか。 意地悪のし甲斐がない。 「私、また、テニス、始めようかって…」 静かに、そんなことをはるかは呟いた。 俺は一瞬、何も言えなくなった。 本気… か…? ふと、あの時のことが思い出される。 はるかには兄さんがいた。 少しはるかに似た、背の高い、クールな顔つきの人だった。 顔の通り、確かにクールだったけど、その何倍も彼は優しく強い人だった。 俺も中学生の頃には、こういう男の人になりたいって思うくらい憧れてしまってた。 ちょうど由綺が美咲さんに憧れたみたいに、俺は河島先輩に憧れた。 そして、彼は同時に、将来を期待されたテニスプレイヤーだった。 はるかがテニスを始めたってのも、彼の存在が大きかったと思う。 彼女が自分の兄を見つめる眼差しには、特別な何かがあったように感じられた。 はるかは何も言わなかったけど。 彼がテニスに打ち込むほどに、はるかもテニスに没頭するようになった。 今、誰かにその時のはるかのことを話をしても、信じてもらえないんじゃないかって思うほどだ。 この俺ですら、近づき難いと思ってしまう時があったくらいに、はるかは真摯で、前向きで、そして美しかった。 だけど、その日々は全て過去形で語られる。 ある雨の日、河島先輩は死んだ。 交通事故だった。 はるかは悲しんでた。 それはよく判った。 でも、それ以上に、彼の輝かしい未来を何よりも望んでた両親が悲しんだ。 涙に暮れ、何週間かは、俺が見ても判るほどに放心してた。 …いや、多分いまも、彼の面影は親達の胸に色濃く残っているんだろう。 自分達の悲しみに溺れ、残されたはるかの悲しみなどまるで見えていない、そんな感じだ。 失礼な言い方かも知れないけど。 葬式の日を思い出す。 この日もまた、雨が降っていた。 魂を抜かれたみたいな両親を、はるかは黙って見つめてた。 雨に濡れながらも、決して泣かなかった。 涙をこらえるような素振りすらも見せなかった。 ただ一度、隣に立っていた俺の手を強く握った。 …ひどく痛かったのを、今でも覚えてる。 数日後、俺の前に現れたはるかは、まるで別人だった。 瞳にはぼんやりと霞がかり、覇気のない声で言葉少なに話すようになっていて、そして、髪も短く切っていた。 …俺達が高校生だった頃の話だ。 そしてはるかは、テニスを手放した。 河島先輩の死が原因かも知れないし、やめようと思っていた時期とたまたま重なっただけかも知れない。 それについて、はるかは何も言わなかった。 ただ、『やめるよ』 としか。 それだけだった。 以来はるかは、こんな風にぼんやりしたとらえどころのないやつになってしまった。 「こんな風に…なに?」 …あ。 うっかり口に出して言ってしまってたみたいだ。 「…なんでもないよ…」 それ以上は言わない。 なんて言えばいいんだろう。 …友達として…俺は…? 横目に見るはるかの顔は、いつになく真剣だ。 沈黙すらも、いつもと違って真剣なものに感じられる。 俺はかろうじて言葉をかける。 「…本…気…?」 「嘘」 「…うそ?」 「うん」 『うん』じゃない! はるかが女じゃなかったら、肉体的ツッコミを入れてるところだ。 はるかは、俺で遊ぶことが彰で遊ぶことの次に得意で、そして彰で遊ぶこと以上に大好きだ。 「…そうかあ…」 「そう」 できるだけ激情を押し隠そうとする俺に、はるかが寄りかかってくる。 「いい天気だね」 ますます俺に寄りかかりながら、張りのない声で、はるかが言う。 「あ…ああ…」 そうだな…。 こんなに幸せな天気の日に、何かにムカつくのは確かに損だ。 「…いい天気だ…」 俺も負けじとだらしなく、はるかに寄りかかり返す。 恋愛小説に狂った人間が見たら、まあなんて仲の良い恋人だろう、なんて羨むのかな。 多分、そんな風に誤解されたとしても、はるかは何とも思わないだろう。 そして多分、俺も。 こんな関係の男女なんて、恐らく恋人同士より圧倒的に少ないんだろう。 かといって、相手を大切にしようなんてお互いに思わない。 この関係を大切にしよう、なんて思った瞬間、この関係は終わってしまう。 …少なくとも、俺はそう思う。 そう思いながら、もっとはるかに寄りかかる。 友達でも恋人でも、そして多分、親友って分類でもない、俺とはるか…。 はるかが手を握る。 「手、大きくなったね」 「…まあね。はるかの手も綺麗になったよ」 「そうだね」 そして再び黙る。 次第に風が冷たくなってゆく。 「こんなはずじゃなかったのにね」 そっと、はるかが呟く。 どういう意味で言ったのか、それは判らなかったけど。 キーーンコーーーン…。 「授業だ…。はるかは?」 「さぼる」 「あほか」 俺はそのまま立ち上がる。 はるかはそのままベンチに倒れて、ごつん…と良い音を立てた。 「不良につきあってる暇はない」 考えてみれば同じ授業じゃないか。 「判った。出る」 「よし」 俺ははるかの手を取り、軽く起こしてやった。 …このままで心地良かったけど、やっぱり授業には行かなきゃ。 さぼってばっかりじゃいられないんだ。 俺とはるかは久しぶりに一緒に授業に出た。 ふと隣を見ると、はるかは真剣なんだか面倒なのか判らない顔つきのままノートをとってる。 カリカリカリカリカリ…。 と、いきなり目が合った。 「…………」 「…なに?」 「冬弥でも、ノートなんかとるんだね」 「俺の台詞だ」 キーーンコーーーン…。 「…はるか」 「ん?」 「本気でテニス始めたくなったら、俺に言えよ」 「?」 「言えよ」 「うん」 「…じゃなかったら、言うなよ、絶対に」 「………」 「言うなよ」 「うん」 「よし」 「…じゃあね」 「うん…」 今夜は、由綺の初めてのソロライブだ。 楽しみなんだけど、だけど、何か、胸に引っかかってるみたいな気がする。 そう、もちろん楽しみなんだけど、だけど…。 まだ時間は早いけど、窓の外はもう真っ暗だ。 なんとなく、そわそわしてしまう俺。 …だけど正直に言って、この落ち着かなさは、決して、何かを期待してのものじゃないことを俺は判ってた。 このままの俺が、堂々と由綺の前に現れたりなんかして、それでいいのかな…。 …由綺への気持ちは変わらないつもりだったけど、それでも、何故か…。 そして、目をつむると浮かんでくる、はるかの笑顔… 「だめだ…!」 俺は呟く。 だめだ。考えれば考えるほど、俺は自分が疑わしく いと わしいものに思えてくる。 こんな風に俺を考える人間なんていない、それは判っててもだ。 だけど、だから…。 そして俺はこれ以上考えるのをやめた。 ちょっと、外を歩いてくることにしよう…。 …こんな夜だから、ついこんな風にこんなところに来てしまった。 この夜のために特設された巨大なクリスマスツリー。 駅前の大きな樹に、聖夜のデコレーションとイルミネーションがほどこされライトアップされてる。 そして周囲には、この特別の夜の光に引き寄せられたみたいな男女が、とても楽しそうに笑いあってる。 …やっぱりこんな夜には一人でどこに行っても、なんとなく物足りない。 別に、誰か好きな人と並んで楽しそうに歩いている人達がうらやましいわけじゃない。 そうじゃないんだけど、なんとなく…。 …いいや、帰ろう…。 一度だけ自分の後ろの明るさを振り返って、そして再び歩きかけた時、キイイイィィィィィーーー…。 ドカッ! 俺は何かに追突されて、道路に転がった。 …みたいな気がしただけだった。 「……!?」 な、なんだ? 何が起こったんだ!? 実際は追突もされてもないし、転んでもなかった。 ただ、ひどく狼狽して後ろに飛びのいてただけだった。 俺にぶつかりそうになったのは、これだ。 この、円を描くようにして道路に転がった大きな自転車だ。 「おい…」 俺を避けようとして、激しく転倒したらしい。 「だ、大丈夫…? ねえ…?」 と、突然、倒れてた人影がむっくりと起き上がる。 まるで映画のゾンビか何かみたいに唐突だったので、俺はもう一度後ずさる。 「いたた」 なんともなさそうな顔で立ち上がったのは、はるかだった。 「あれ、冬弥」 「『あれ』って…」 俺はどう言ったらいいのか判らない。 「もう少しで ひ いちゃうところだったね」 「ああ…そうだね…。…危なかったな…」 俺は呆然と、まるで他人のことみたいに呟く。 この聖夜に、俺は一人でとぼとぼ歩くだけじゃ足りずに、幼なじみの自転車に轢かれなきゃいけないのか? 「どうしたの? 一人で?」 「あ、ああ…」 「…あ、ああ…。いいよ、別に…」 言いながら、俺の方が女の子みたいに照れて赤くなってく。 はるかの方は表情一つ変わらない。 なんだかかっこ悪くない、俺? こういうやつとキスする時って、どんな風にしたらいいんだろう…。 なんて考えながら、俺はそっとはるかの肩に手を回して… 「やめよ」 突然はるかが言った。 「え?」 「なんか、やだから」 「え…。あ…ああ……」 俺は何も言えず、手を降ろす。 相手がはるかじゃ、文句を言う気にさえならない。 大体、はるか相手にこんな気分になった俺が悪いんだ。 …どうかしてた…。 あっさり引き下がる俺に、はるかは顔を近づけて、「ごめんね」 全く変わらない調子で言った。 「…やだよ。…はるかとなんて」 「私も」 「なら言うな」 「うん」 コツン… もう一発、おでこをつつく。 今度ははるかはやり返すことをしないで、「怒った?」 とだけ言った。 何故だか判らないけど、少し照れくさかった。 「…いいよそんな、別に」 俺はできるだけ照れている風に見せないように急いで言った。 「はるかと…そういうのって……自分の弟とそういうこと…するみたいで………ああ、言わせるなよ、そんなこと…!」 「うん…」 『自分の弟』って言った一瞬、はるかが照れたように見えたけど、気のせいだったかな…。 「クリスマスかなと思って」 「あほか」 下らないことを。 でも、そう、そんな風にムーディにならなくたって、俺達には俺達の温度がある。 …恋愛なんてのには、ほど遠い温度じゃあるだろうけど、でも…。 と、はるかは反対側のポケットから再び何かを取り出した。 ハーシーズの板チョコだった。 はるかはそれをパキンと半分に折って、「食べる?」 「うん…」 俺はなにげなく受け取る。 チョコレートのかけらを口に入れながら、結構幸せな気分になれた。 口の中で、そう甘くないチョコレートが融けてゆくほどに …あ…クリスマスだな…… って。 今、俺がこうしてはるかと過ごしてることが、なんだかすごく不思議なことのように錯覚された。 昔からいつもすぐ側にいた分だけ、逆にとてもとても不思議なことのように…。 「なに?」 「なんでもない」 「そ?」 俺達は、ずっとこのままでいられるのかな。 クリスマスの前夜に、キスもしないままに、ただ並んでチョコレートを食べる、そんな俺達は一体いつまで存在し続けられるんだろうな…。 由綺が俺と恋人同士としてつきあい始めてからも、はるかは別に変わることなく俺とつきあってた。 でもそれは、はるかが強い人間だったからだ。 俺は、それほども強くなれる…? …はるかみたいに…? 「…悪いけど…行きたくないよ…」 俺はどうにか言った。 由綺のところに行くのが嫌なんじゃない。 はるかといたいんだ。 「俺…ここにいたい…。はるかと…ここにいたい…」 「そう…」 そう呟くと、はるか不意に立ち上がる。 「帰る」 俺に背を向けて歩き出す。 「ま、待てよ…!」 俺は思わず、はるかの肩をつかむ。 振り返るはるかの表情はそのままだったけど、その瞳にはかすかな哀しみがあった。 「あ…」 言葉を失う俺。 そんな俺を、はるかはそっと抱きしめる。 「本当…こんなはずじゃなかったのに…」 「…判った。…行くよ」 俺の口から、自分でも驚くほどに冷静な声が出てきた。 「うん」 こんなはるかをこれ以上見てるのは、どうしてだかすごくつらくて、すぐに背を向けて歩き出した。 白い吐息と、ペーブメントを踏みしめる足音だけが俺についてくる。 …はるかは… これでよかったのかな…。 いつまでも俺と一緒にいてくれるなんて… …ただの、俺の勝手な幻想に過ぎないんじゃないのか…。 不意に、俺は無限の孤独感に襲われる。 「…はるか」 何かにすがるように呟き、俺は後ろを振り返った。 はるかはそこにいた。 さっきと同じみたいに、石のベンチに腰をかけて。 「はるか…」 「ほら」 そう言って手を振るはるか。 「…はるか……俺…」 何を言えばいいのか自分でも判らないまま、俺はただ往生際悪く何かを呟く。 「…大丈夫」 はるかが静かに言った。 「私だったら、ここにいるから。ずっと…」 再び言葉を失う俺。 だけど、今度の沈黙ははるかには充分すぎるほど伝わったような気がした。 いや、その自信はあった。 …そうだ。 はるかなら、ずっと、ここにいてくれる。 俺の側に。 たとえそれが、はるかの強さに頼ってしまうことだとしても、はるかに何らかの苦悩を与えてしまうことだとしても。 俺は、それをさせてしまうことに対する苦悩に耐えてゆける気がした。 強い人間は強い人間であることに対する、弱い人間は弱い人間であることに対する、人間は人間であることに対する、勇気と、それに耐えられるだけの強さを持たなきゃいけない。 その勇気を、強さを、少しだけ理解できたみたいな気がした。 「…うん」 俺はしっかりと言った。 「俺、戻ってくるから」 「うん」 そして再び歩き出す俺。 これでよかったのか、全然判らなかった。 でも、それでも俺は歩いた。 …由綺に会う為に。 さすがに俺のアパートの近くまで来ると、降りたての雪も踏み荒らされて、忙しい街の様相を呈している。 もう、このあたりは動き出してるんだな…。 俺は不思議な感覚に襲われる。 …俺が由綺に会いに行って、そして英二さん達とちょっとした冒険をしてたその間にも、街は、人は、それぞれのルールでそれぞれに動いてる。 …俺達だって、その中の一つのパーツに過ぎない。 そんな、奇妙な感覚だった。 アパート自体は、住人が揃って出かけたかって思えるほどに静かで、人通りの気配もなく、ヴァージンスノーは降りたてのまま綺麗に残されてた。 …いや。 誰か真面目な学生が一人だけいたみたいだ。 アパートの前に、タイヤの跡がくっきりと残ってる。 一度ここに来て、出てってる。 …そのタイヤの跡には、どこか見覚えがあった。 普通の自転車のそれよりも太く無骨な…。 ATBだ…。 俺のところにこんな自転車でやって来るような人間は一人しかいない。 …そう、はるかだけど…。 はるかがここに来たのか…? 不意に、クリスマスイヴの映像がよみがえる。 …まさか、はるかは、俺に会いに…? 自転車のタイヤの跡だけじゃ、確かに、それは判らないけど。 でも…。 俺ははるかを…。 探しに行く 追わない こんなに綺麗なままにタイヤの跡が残ってるってことは、ここから出てって間もないってことだ。 俺はアパートの前の道路に飛び出す。 道路上は既に踏み荒らされて、メルセデスのタイヤの跡は見つけられそうもない。 ちくしょう…! 俺の中で、追ってる相手がはるかであることに決まりつつあった。 その材料は、雪の上の、たった二筋のタイヤの跡でしかないのに。 俺は走り出す。 …そうだ… 俺は公園を横切り、奥の小空間を目指す。 …そうだ。 はるかは、こう言ってたんだ…。 『大丈夫』 はるかはこう言ったんだ。 『私だったら、ここにいるから…』 はるか…。 足下のペーブメントには、くっきりとした二筋のタイヤの跡。 俺の歩みは早くなっていった。 そしてはるかは、そこにいた。 自転車を両手で支えて、雲の合間から洩れてくる朝日を、いつもみたいにぼうっと眺めていた。 「あ、冬弥」 振り返って俺に気づき、いつもと全く同じ調子で、はるかは言った。 「おはよう」 「…おはよう…」 つられて俺も間抜けな返事をしてしまう。 「あ、はるか…」 「ん?」 冬弥も早起きしちゃった?  まるでそんな感じだ。 俺は、何を言うべきか、適当な言葉が見つからない。 何かを言わなきゃいけない、何かを。 はるかが、ここにいるうちに…。 「…はるか…あの…俺さ…」 俺は思わずはるかに近づき、肩に手を触れる。 「いいよ」 小さく、はるかが言った。 「言わなくたって」 一語一語区切るみたいな、しっかりとした声だった。 「…俺……」 「冬弥がここに来たら、私もいた。 いいじゃない、それで」 「…でも……俺…」 自分でも、声が震えているのが判る。 「だめ?」 俺は、はるかの肩からそっと手を降ろす。 …そう。 何を勘違いしてたんだ、俺は…。 はるかは、ここにいる。 そう言ったんだ。 そして、ここにいた。 俺は、それを信じてここに来た。 …それで、俺達は出会えた。 それだけだ。 それで充分じゃないか? 一体俺は、どんな横暴な手段で、はるかを自分一人のものにしてしまおうとしてたんだ…? 「ううん」 俺は首を振る。 「だめじゃない。全然」 「よかった」 心なしか、はるかも、少し安心したように見えた。 「うん」 少しだけ、俺の顔がはるかの方に近づいてく。 そして、はるかの方も少しだけ俺の顔に近づく。 二人、目をつむる。 俺達は、静かに、はっきりとは意識しないままに、そっと、口づけをしていた。 自転車を間に挟んでの、不安定なキス。 はるかの唇は、薄くて小さくて、やわらかかった。 息は止めてたつもりだったけど、はるかの香りを感じたような気がした。 …昔から知ってる、あのいつものはるかの香りだ。 よけいなものは何も感じられないのに、いろんなことが伝わってくるみたいな、そんな香りと体温。 とても、とても自然な、こんな風景。 …そして俺達は、すぐに静かに離れる。 離れて俺達は、なんとなく照れた。 キスをしたってことが、今、初めて判ったみたいな気分だった。 「あ…なんだろ…」 俺は、別に何も言わなくていいのに、つい何か口走ってしまう。 はるかは少し笑う。 「自分の弟としたみたい」 「俺の台詞だって」 微笑んで言うはるかの額を、すかさず小突く俺。 「あいた」 額を押さえるはるかの頬に落ちた雪片が、しゅっと融ける。 この時初めて俺は、はるかの目が真っ赤だって気づいた。 …悩んでたのは、俺だけじゃなかったんだ…。 「帰ろ」 はるかが銀色の自転車を押す。 「あ、うん…」 あまりに突然で、1テンポ遅れた俺は、いつもみたいにはるかを追っかけるかたちになる。 「こんな雪の日になんて、暇だね」 「はるかが言うなよ」 もう一度小突いてやりたかったけど、自転車半個分遅れててできなかった。 ここに向かってたタイヤの跡と足跡は、もう雪に埋もれていた。 「じゃ、帰るね」 「あ…」 引き留めようとしたけど、一瞬思い留まって、「うん。今日は早起きさせちゃったみたいだし。いや、徹夜?」 「…………」 「うん」 一瞬顔を赤らめたけど、でも、はるかはやっぱりいつものはるかで答えた。 「ちゃんと休めよ」 「………」 「休めよ」 「うん」 「…じゃあな」 「…じゃね」 俺達は小さく手を振った。 …俺は力を落とす。 そうだ…。 このタイヤの跡だけで、はるかが俺に会いに来たと決めつけるなんて、どうかしてる…。 そんな風に思ってはみても、やっぱり、何故か惨めだった。 今まで、はるか相手にこんな気持ちになったことなんて、なかったはずなのに…。 『行かなきゃ』 『どこに?』 『…由綺のとこ』 …はるかは、そう言ったんだ…。 俺に、由綺のところに行けって…。 …それが、はるかの出した答えなんだ…。 俺は力無くドアを開ける。 俺の部屋の中には誰もいない。 ただカーテンの隙間からの光が、その薄暗さをよけいに引き立ててるだけだ。 ただ、寒かった。 「…寒い……」 もう一度、意味無く呟く。 それから俺は、少し眠った。 はっきりとは覚えてないけど、なんだかすごく悲しい夢をみたような気がした。 夢をみながら、俺は少し泣いてたみたいだ。 涙の流れた跡らしく、目の下から頬にかけてが痛いほどにひきつってる。 少し恥ずかしくなって、自分で頬を乱暴にこする。 暖房がつけっぱなしだったので、喉がからからに渇いていた。 どこに行こうってあてもなく出てきたはずだったけど、俺はいつの間にか駅に来てた。 動く人波に流されてたらここにいた。 初詣の為にわざわざこんな時間から神社に向かってるんだろう、この人達は。 …どうしようかな。 この人達に混じって、日本人らしく神社で参拝しながら年を越そうかな…。 なんて、ぼんやりと考えながら歩いてると、キイイィィィーーー…! そして、ドカッ! 俺は何かに追突されて、道路に転がった。 みたいな気がしただけだった。 「…まさか」 デジャヴュ…? あ、いや。前にもこんなことがあったぞ…。 そんな予感を感じながら、俺はゆっくりと後ろを振り返る。 そこには案の定、銀色の大きな自転車が転がってる。 そして、「いたた…」 なんともなさそうな声で立ち上がったのは(やっぱり)はるかだった。 「あれ、冬弥」 「あれ…って…また…」 俺はどう言えばいいのか判らなかった。 クリスマスの夜に続いて、再び俺ははるかのATBに轢かれかけたんだ。 「…はるか、いい加減にしてくれよ。まさか俺のこと狙ってないよな…?」 「ううん」 「…判ってるよ。…でも、もう少し気をつけて自転車に乗れよな…」 「そうする。冬弥も気をつけて」 「ん…」 考えてみれば、今回も前の時も、俺が道路でぼけっとしていたのが悪いんだ。 それに、俺は別に怪我もしていない。 それどころか二回ともはるかの方がかなり派手に転倒してる。 その俺が『気をつけろ』じゃないよな、まったく。 「…はるか」 「ん?」 「あ…大丈夫…?」 「うん」 「自転車じゃなくて…」 「判ってる」 「…ごめん」 短い冬休みは終わった。 これから1週間、(苦しい)試験期間を過ごさなきゃいけないけど、これが終わったらやたら長くて楽しい春休みだ。 休みになったらやりたいことがいっぱいある。 楽しみだ。 とはいえ、今日はさっそく筆記試験。 近い将来の楽しい休暇よりも、こっちのつらさを先に考えてしまう…。 一般教養だし、それほど採点の厳しくない教授の授業だから、心配しなくていいんだけど。 そうはいっても…。 そんなことを考えながら、ぼー…っと歩いてると、向こうにさらに、ぼー………っと歩いてるやつがいた。 「あ、冬弥だ」 やっぱり、はるかだ。 「どうしたの? ぼうっとして? 風邪?」 「…俺のが風邪だったら、はるかのは日本脳炎か何かだな」 「あはは…」 笑ってるよ…。 判ってるのかな。 とはいえ…。 改めて学校ではるかの顔を見ると、なんとなく照れくさくなってしまう。 お互い、空気みたいに意識し合わないでずっとずっとつきあってきたのに。 いつからあんな、男女の温度と湿度を持ってしまったんだろう…。 確かに俺は、はるかのことを好きなのかも知れないけど、でもそれは男と女の『好き』じゃなくて…。 いや、それ以前に俺達が『男』と『女』の関係であったことだってなかったわけだし…。 ていうか、一回キスしただけだし…。 いや、でも…。 とか考えながら顔を上げると、目の前には誰もいない。 「……?」 振り返ると、もたもたと教室に向かうはるかの後ろ姿。 「あいつは…」 俺は追いかけて、肩をつかんで引き留める。 「いたた。…あ、また冬弥」 「また…じゃないだろ」 だけどはるかは無視して肩をさする。 「痛いー…」 あ…、つい力が入っちゃったか…。 「あ、ごめん…。そんなに痛かった?」 「骨が折れるくらい」 「うそつけ!」 「うそ」 「ヤクザか、お前は…」 俺は精一杯呆れた顔をしてみせる。 「大体、はるかが俺を無視してさっさとどっか行こうとするから悪いんだぞ」 「なんか難しい顔して考えてたから」 「あ…」 まさか、はるか本人のことを考えていたなんて言えない…。 「でも一応謝っておく。ごめんね」 「いいよ、そんな」 一応謝ってもらったって仕方ない。 それにしても、はるかの方では何とも感じてないのかな…? 全然、いつもと同じだけど…。 「………………」 あっ。 また一人でさっさと行こうとする…! 「だから、置いてくなってば…」 「沈思黙考したいのかと思って」 「別に四文字熟語なんて言わなくたっていいよ」 「でも、行かなきゃ」 「え…」 キーーンコーーーン…。 「私、こっちだから」 「あ、おい…」 行っちゃった…。 まったく。 いつだって人のペースなんか考えないんだからな、はるかは。 でも、むしろそっちの方が救われる場合だってあるかも知れない。 たとえば、今日みたいな日とか…。 さ、俺も試験を受けに行くか。 あー…。 いつもは楽しい授業なんだけど、試験ってだけで気が滅入る…。 と、あれ? 教室の奥の方にいるのは、あれは美咲さん。 そうだった。 確か美咲さんもこの授業を選択してたはずだ。 やった。 ラッキーだぞ。 試験中に答えを教えてもらうなんてことはできるわけもないけど、試験前にポイントをチェックしてもらうくらいはできるはずだ。 そして何よりも、同じ試験を受けるにしても、隣に美咲さんがいてくれたらなんとなく嬉しい。 「美咲さんも今日試験だったんだ?」 「あ、藤井君」 「そっか、一緒の授業だったものね」 ちらっと美咲さんの机の上を見ると、受験生のそれのように綺麗に整理されたノートが開かれてあった。 「美咲さん、すごい…」 別にこんなにしなくたって、充分進級はできるのに…。 「…そうだね。じゃ、一緒に帰ろうか…」 ごめんな、はるか。 待っててくれって言われたわけじゃないけど、なんとなく。 「うん。行こ」 だけど彰、美咲さんとの間に俺なんかが入ってきてるってのに、なんて嬉しそうな顔してるんだ。 場合によったら考え物だな、彰のイノセントスマイルも…。 「どうしたの?」 「別に」 彰がいいんなら、それでもいいか。 「それじゃ、帰りましょ」 「…だから、藤井君もちゃんと授業に出てたし、今日だけきたわけじゃ[]」 「そうだよ」 「嘘っぽい。冬弥、結構さぼってたよ、授業」 「よけいなこと言うなよ。たまたまだよ、たまたま」 「そう?」 「藤井君だって結構、真面目よ。ちゃんと試験にだって来たんだから」 「来たんだから」 「美咲さんの真似しないでよ。試験の時だけってのが怪しいよ」 「そんなことないって」 「美咲さんに合わせて試験に来たとか? ノート見せてもらおうとか図々しいこと考えて」 「ばかいえ、そんなことしないよ。大体、俺、途中まではるかと一緒に…」 はるか…。 …あんなことがあった後なのに、俺、はるかと一緒じゃない…。 はるかも俺も全然気にしてない風なのに、一緒じゃない…。 「どうか…した…?」 「え?」 「…ちょっと、沈んだ顔してたから…」 「そ、そう…?」 美咲さんの前でこんなこと考えるのはちょっとナシかな。 優しいから、すぐ見抜かれそうで怖いよ。 俺、はるかじゃないんだし…。 「そうかな…」 「うん。少し元気ないね…」 彰も、ちょっとは気になってるみたいだ。 「はるかとけんかでもした?」 「はるかと? まさか」 「だよね。冬弥とはるか、昔からけんかなんてしなかったしね」 「…そうだっけ?」 「単に、けんかする気力が無いだけなのかもだけど」 「よけいなこと言うなよ」 「あははっ。じゃ、僕ここで」 「ふふふっ」 「じゃ、私もここで…」 「うん。またね」 「ええ」 「なんだか知らないけど、元気出してよ」 「ああ…」 「じゃ、おやすみ」 「おやすみ」 結局、彰にまで心配懸けちゃったわけか、俺は。 俺達… かな…。 さあ、俺も帰ろう…。 「あ、ごめん。俺、まだ残ってなきゃいけない用事あるんだ。今日はごめん」 「え? そうなの…」 せっかく美咲さんと二人で帰れるってのに、なんて顔してるんだ。 「そう…。じゃあ七瀬君、帰りましょ…」 美咲さんも少し残念そうに首を傾げた。 「うん」 俺は行こうとする彰に、普通にしてろと目で合図した。 それに気づいたらしく、彰も少し頷いた。 「それじゃあ、藤井君。また今度ね」 「うん。今日はどうもありがと。ごめんね、美咲さん」 そして二人は行ってしまった。 しばらく待ってると、やっと試験会場からはるかが出てきた。 「あれ、また冬弥」 「立たされてるの?」 「大学でそんなのないよ。はるかが来るのを待ってたんだよ」 「私?」 「そう。はるか」 はるかは少し考えて、上着のポケットをごそごそやり始めた。 「?」 「はい」 チョコレートバーだ。 俺の方に差し出してる。 「今日、これしかない」 「…誰がお駄賃欲しがってるんだよ」 「違うの?」 「違うよ」 忠犬か何かか、俺は。 「いらない?」 「…もらう」 「はい、あげる」 なんていうか…なあ…。 こうじゃないよなあ…。 「帰ろ」 「あ…うん…」 せっかく待ってたのに、また置いてかれたらやってられない。 俺は、はるかの横に並んで歩き出す。 外に出て、空を見上げる。 相変わらず良い天気だけど風が強く吹いてて、目を大きく開けてると、ちくちくと痛くて涙が出てくる。 「ん?」 潤んだ瞳に興味を覚えたらしく、はるかは俺の顔を見上げた。 「なんでもないよ」 あんまり見るな、とはるかに手を振りながら、俺はさっきのチョコレートバーをポケットから取り出す。 そこで、ふと思いついて、バーを半分に折り、「半分やる」 片方をはるかに押しつけた。 「ありがとう」 はるかは少し笑って、チョコレートのかけらを口に入れる。 まるで幼い子供のするような、そんなはるかの仕草は、速く流れてゆく今日の青空に一枚絵のようにはまってた。 はるかはわざわざ駅までつきあってくれた。 「悪かったな、はるか。遠回りさせちゃって」 「いいよ、別に」 答えるはるかは、やっぱりいつもと変わらない。 「はるか…」 「ん?」 「あ…。なんでもない…」 どう言ったらいいのか判らない。 今日、こうしてついてきてくれたんだって、はるかの気まぐれに過ぎないんだろうし…。 「冬弥?」 「え?」 「気にしてるの?」 え…? あ…。 はるかだって、気にしてないわけじゃなかったんだ…。 俺は、どうなんだろ? 気にしてる 気にしてない 「…うん。気にしてないわけ、ないだろ…」 その後に何か続けようとしたけど、やっぱり、何を言えばいいのか判らなかった。 「冬弥」 「え…?」 「あんまり難しく考えない方がいいよ」 静かに表れたはるかの微笑は、何の嫌味もなく、ただ優しかった。 「あ…」 「電車、来るって」 言われて気づくと、構内でアナウンスしてる。 「あ、あの、はるか…」 再び何かを言いかけたけど、「…別に、気にしてなんかないよ。そんな…」 強がりながらも俺はそう言った。 すると、「うん。あんまり難しく考えない方がいいよ」 静かに表れたはるかの微笑は、何の嫌味もなく、ただ優しかった。 「そうかもな…」 俺は答える。 決して気に懸けてないわけじゃないんだけど、こんな風な意識の仕方は、多分間違ってるんだろう。 はるか的には。 「うん。判った…」 そう言いかけたけど、「またね」 はるかは小さく右手を振って、俺の言葉を打ち消した。 「あ…、ああ、また…」 少し気が抜けたみたいに俺も手を振る。 プラットホームの向こう側に電車が見えてきた。 俺は少し迷ったけど、はるかの言葉通りに、素直に改札を通った。 一瞬だけ、振り返る。 少しだけ安心したようなはるかが、ホームで風に短い髪をなびかせていた。 …あれ? 向こうにいるの、はるかじゃないか? ぼけっと写真を見てるみたいだけど…。 何だろう…? 「おーい、はるか。何やってんの?」 「きゃっ…!」 「きゃ…?」 はるかが…『きゃっ』? はるかは俺がそうしてるのと同じくらい不思議そうな顔で、こっちを見つめてる。 「……………」 「…はるか?」 …どうしたんだろう、今日のはるか。 なんだか様子が変だ。 「あ、冬弥か」 「……冬弥だよ…」 「誰かと思った」 「他に誰なんだよ、俺は?」 あ、なんか元のはるかに戻ってる。 戻ってるけど…。 十数年来のつきあいの顔すら忘れつつあるってのか。 いよいよ本格的な脳の機能障害が… なわけないか。 「…何ぼけたこと言ってるんだよ? で、今、何見てたの、そんなに熱心にさ?」 「何って?」 気づいてみると、はるかは何も持ってない。 手品師か、こいつ…。 …あ。 まさか隠してる? 誰かの写真を? しかも、さっきの表情…。 訊いてみようか? 追求する そっとしとく 「何か持ってたじゃない。写真みたいなものをさ…」 「え…?」 明らかにはるかは『写真』って言葉に反応した。 「見せてよ。写真」 俺ははるかの方に手を差し出す。 「…定期だよ」 「なんでもいいからさ、見せて。写真」 なにも応えずに、はるかは歩き出した。 「……………」 はるかは沈黙したままだ。 俺は今になってはっと気づいた。 はるかがここまで感情を表に出してるなんて普通じゃない。 しかも、自分の嫌な話をよそへ逸らす余裕もなく困ってる。 ひょっとしたら、こんな風に追求すべきじゃなかったのかも知れない…。 「はるか…」 もういいよ…って言いかけた時、「はい…」 はるかはポケットから白い定期入れをそっと取り出した。 俺ははるかの手からそれを受け取る。 二つ折りの定期入れ。 その折り畳まれた間には一枚の紙片が挟まってた。 やっぱり、写真だった。 俺はそっとはるかを見る。 はるかは何も言わないで、ただぼんやりとプラットホームのコンクリートを見つめてる。 その写真には、確かに一人の男の横で笑ってるはるかが写ってた。 …ただ、それは俺が思ってたみたいな場面じゃなかった。 はるかの横で笑ってる男の人[]、それは河島先輩。 死んだ、はるかの兄さんだ。 …いや、放っておこう。 写真(かどうかだけど…)に見入ってるはるかなんてありえない。 ていうか、不気味だ。 彰じゃあるまいし。 そんな乙女チックなはるかなんて、はるかじゃない。 ニセモノだ。 …って、それはちょっと行き過ぎか。 まあ、けっこう忘れがちだけど、はるかだって女性なんだ。 女性には女性の悩みがあるだろうし、はるかがそういう悩みを持ってないっても限らない。 俺が口出ししてもどうしようもない。 ここはそっとしとこう。 「どうかした?」 「ん? ああ、なんでもない」 「はるか、よかったな。こんな思いやりのある友達持って」 「そうだね」 「…判ってるの?」 「何が?」 「…判らないのに答えるなよ…」 「うん」 なんだかさっきの表情が嘘みたいだ。 …でもまあ、よかった。 普通のはるかだ。 「…で、はるか。今からどうするの?」 「ん? …喫茶店」 なんだよ、その間は? どうせはるかのことだ。 行き先なんか決めてなかったんだろう。 「行く?」 あ…。 どうしよう? 一緒に行く 行かない 「まあ、つきあってやるよ。しょうがない」 「『どうせやることもないしな』」 「真似すんな。しかも勝手なこと」 「判った。行こ」 人のツッコミに全く絡もうとしないで、はるかはさっさと先に行ってしまった。 冷たいやつ。 こんな時間の喫茶店は全く人の姿もなく、ただカウンターの向こうの店長が暇そうにラジオでオーケストラ曲を聴いてるだけだ。 俺は店長の憩いの邪魔をしないようにしながら、簡単な注文を済ませた。 「…今の時間って静かだね」 「静かっていうか、暇っていうか…」 大体こんな時間から喫茶店で時間を潰す人間もそうそういないだろう。 暇なのはむしろ、俺達の方か…。 「冬弥、暇そうな顔してるね」 「はるかも本格的に暇そうだね」 「冬弥といるからかな…」 「…絶対違う」 自分は暇のご本尊みたいなくせに、なに勝手なことを…。 「こんな時間から喫茶店なんかで何するつもりだったの?」 「んー…」 やっぱり考えてなかったな…。 「考えてなかった」 当たった。 「はるか…。…ヒトは考える脳味噌を持ってたから進化できたんだぞ…」 「ダーウィンだっけ?」 「…そうだっけ?」 「違ったっけ?」 「えっと、あれ、待てよ…?」 合ってるっけ? ええと、ええと…? 「…って、おい! 話そらすなよ!」 「あはは…」 「…そんなに面白くないぞ」 「うん」 それきりはるかは何も言わずに、ただ窓の外を眺めるだけだった。 …一体、何を考えてるんだろ…? そんなことを思いながら、俺もはるかを見つめ続けた。 無意識に口をつけた紅茶が、いつの間にかすっかり冷えているの気づいた。 …手元の紅茶が冷えてゆくほどに、はるかは外を見つめ、俺ははるかを見つめてる。 こんな風景を、この店の者じゃない人間が見たらどんな風に感じるんだろう。 どんな風に見えるんだろう…。 カップの底で揺れる茶葉のオリの織りなす模様をなんとなく見ながら、最後の一口を流し込む。 「どうかした…?」 「別に…」 カップを飲み干した後の言いようもない虚しさみたいなものに包まれる。 こんな風にはるかは笑ってるのに、どこか寂しかった。 「別に、なんでもない…」 俺は繰り返す。 「そ…?」 「そう…」 一体、何が俺を寂しくさせてるんだろう…。 こんな風に、はるかは、笑ってるのに…。 「…やめとく。俺もそうそう暇なわけじゃないからね」 「スケジュールは守らなきゃね」 「はるかが言うと、全然リアルじゃないよな…」 「そうかな」 誘いを断られたのに何にこにこ喋ってるんだ、はるかは。 大丈夫かな…。 「まあ、そういうことだからさ…。ごめんな…」 俺は小声で謝る。 「いいよ」 そしてはるかはさっさと歩いていってしまった。 …さて、はるかの誘いを断ってまでの一日だ。 充実した一日にしよう。 「あれ? 冬弥?」 呼ばれて振り返ると、そこには不思議そうな顔をした彰がいた。 「俺がここにいたら不思議なわけ?」 「いや、そうじゃないけどさ…」 「さっき、はるかと会ってさ、アリーナに行くんだって、言ってたから。冬弥もつきあわされてんのかと思っちゃって」 「はるかのセットか、俺は…」 でも、昔からそうだから仕方ないけど…。 はるかの気まぐれにつきあわされるのは、いつも俺だ。 「勝手にそんなこと思うなよな、彰」 「そうだね」 「でも、なんで僕、冬弥と一緒だなんて思っちゃったんだろ?」 いきなり不思議な疑問を持つなよ…。 「ねえ、冬弥?」 「知らないよ…」 「あ、そうだね」 笑ってる…。 「あ…」 「靴…かなあ…?」 「わけ判んないことばっかり言ってると、そのうち美咲さんに相手にしてもらえなくなるぞ」 「あ、僕、これから美咲さんと図書館行くんだ」 「なんだ、楽しそうじゃない」 「でしょ? 冬弥も来る?」 なに言ってるんだ、彰。 自慢か、嫌味か…? いや、天然だな…。 「いいよ、今日は。…これから行くところもあるしね」 いくらなんでも、わざわざ彰の幸せな時間に割り込む気はない。 「そうなんだ。冬弥と一緒だと緊張しないからって思ったんだけど、仕方ないね。じゃあね」 なに情けないこと言ってるんだか。 あれじゃ美咲さんに振り向いてもらえないのも無理はない。 むしろ、振り向いてもらえるって方に無理がある。 …………。 …ごめん、彰。 言い過ぎた。 でも、そうか。 はるかがアリーナに遊びに行ってるのか…。 よし、俺もアリーナに遊びに行こう。 久しぶりにはるかの卓球の相手でもしてやろう。 こんな時間からここでエクササイズに励む若者もそうそういない。 実際、いるのはほとんどが有閑なおば…ご婦人方だ。 はるかは背が高いからすぐに見つかるんじゃないかな。 「冬弥」 「わっ!」 中に入ろうとしてたところを、いきなり後ろから声をかけられて俺は思わず飛び上がった。 スポーツバッグと小さなシューズバッグを抱えたはるかだった。 「はるか。俺を見つけたら声かけてから近づけよな。ていうか、近づいてから声かけるな」 「冬弥もシャワー?」 ほんとに、全然聞いてない。 「…って、なんでシャワー…」 言いかけて俺は、はるかからの控えめな石鹸の香りに気づいた。 よく見ると、髪もかすかに濡れている。 「…まさか、シャワー浴びに来たとか…?」 「うん」 茶化そうとしてた俺に、はるかは素直に頷く。 「ここ、結構いいから」 「何が『いいから』だよ」 「ん? 照明とか設備とかかなあ…」 「そんなこと訊いてない…」 俺が建築技師か何かに見えるのか、はるかは。 「普通、こんな真冬の昼間から、シャワー浴びにアリーナに来るかって言ってんの」 「あんまりいないかもね」 「『あんまり』なんてもんじゃないほど少数派だって」 そうはいっても、目の前に既にシャンプーまで済ませた人間が一人いてしまうわけだけど。 そんなことを思いながら、俺はちらりとはるかのバッグに目を遣る。 「わざわざこんな、でかいバッグまで持って…」 「着替え。確かめる?」 「なんで?」 俺は言下に切り捨てたけど、はるかは構わずジッパーを開ける。 「あっ、ばか…!」 でもはるかは、ただ中にシューズバッグを入れただけだった。 「見せないよ」 「あ、当たり前だ…」 変なジョークまで覚えて…。 「冬弥は? 卓球とか?」 …さすがはるか。 ぼけてても鋭い。 「散歩にしよ。シャワー浴びちゃったから」 「ああ、いいけど…」 あれ…? この、銀色の自転車は見たことあるな…。 …あ、そうか。 はるかのATBだ。 本人はだらけた学生のくせに、こんな立派な自転車持ってるんだからな…。 それにしても、今日ははるかがここに来てるのか。 ようし、今日は久しぶりにはるかの卓球の相手でもしてやるかな。 頼んだら帰りにでも自転車に乗せてくれるかも知れないし。 よし、まずははるかを見つけなきゃ。 こんな時間からここでエクササイズに励む若者もそうそういない。 実際いるのは、ほとんどが有閑なおば… もといご婦人方だ。 はるかは背が高いから、すぐに見つかるんじゃないかな。 「冬弥」 「わっ!」 中に入ろうとしてたところを、いきなり後ろから声をかけられ、俺は思わず飛び上がった。 スポーツバッグと小さなシューズバッグを抱えたはるかだった。 「はるか。俺を見つけたら声かけてから近づけよな。ていうか、近づいてから声かけるな」 「冬弥もシャワー?」 …ほんとに、全然聞いてない。 「…って、なんでシャワー…」 言いかけて俺は、はるかからの控えめな石鹸の香りに気づいた。 よく見ると、髪もかすかに濡れている。 「…まさか、シャワー浴びに来たとか…?」 「うん」 茶化そうとしてた俺に、はるかは素直に頷く。 「ここ、結構いいから」 「何が『いいから』だよ」 「ん? 照明とか設備とかかなあ…」 「そんなこと訊いてない…」 俺が建築技師か何かに見えるのか、はるかは。 「普通、こんな真冬の、昼間からシャワー浴びにアリーナに来るかって言ってんの」 「あんまりいないかもね」 「『あんまり』なんてもんじゃないほど少数派だって」 そうはいっても、目の前に、既にシャンプーまで済ませた人間が一人いてしまうわけだけど。 そんなことを思いながら、俺はちらりとはるかのバッグに目を遣る。 「わざわざこんなでかいバッグまで持って…」 「着替え。確かめる?」 「なんで?」 俺は言下に切り捨てたけど、はるかは構わずジッパーを開ける。 「あっ、ばか…!」 でもはるかは、ただ中にシューズバッグを入れただけだった。 「見せないよ」 「あ、当たり前だ…」 変なジョークまで覚えて…。 「冬弥は? 卓球でもしに来た?」 …さすがはるか。 ぼけてても鋭い。 「散歩にしよ。シャワー浴びちゃったから」 シャワーも何も、いつもと同じじゃないか。 でも、どうしようか? 行く 行かない 「ああ、いいけど…」 俺ははるかの誘いを受けることにした。 「行こ」 はるかはバッグを持ち直す。 「…あれ、自転車は?」 「ここ、管理が厳重だから。帰りに取りに来るよ」 はるか、ここには顔が利きそうだしな。 まあ、今日の自転車遊びは諦めるか。 と、アリーナから出ようとした時、「あ…」 「あら、はるかちゃん」 美咲さんだ。 こんなとこで会うなんて珍しいな。 「今日も藤井君と一緒なんだ。がんばってるんだね」 …美咲さんまで俺とはるかをセットにするかな。 それに、何をがんばってるっていうんだ。 俺はともかく、このはるかが…。 「今日は帰るとこ」 「え? じゃあ、もうおしまい?」 「今日は卓球したいって冬弥が」 「言ってないー」 思ってはいたけど。 「単にはるかがシャワー浴びただけだろ、今日は」 「そう」 「くすっ。そうなんだ」 「でも、たまにはそういうのもいいわよね」 いいのか、美咲さんは。 はるかが肘で俺の脇腹をつつく。 「ね?」 「何が?」 言ってるだけで、美咲さんはそんなこと絶対しないんだぞ。 「でも、本当にがんばってね、藤井君」 「じゃあ、私、図書館に行かなきゃいけないから」 「あ、うん…」 そういえばそうだった。 彰、大丈夫かな。 「でも『がんばってね』って、何をがんばれっていうんだろ…」 「真面目な生活かな」 「はるかが言うなよ」 はるかのこめかみを軽く小突く。 洗いたての湿った髪の毛が、軽く握った拳に心地よかった。 「散歩するのって気持ち良いね」 「新鮮な体験みたいなこと言うなよな…」 とらえどころなくふわふわと歩きながら、はるかは微笑む。 「シャワーの後だからかな」 はるかが振り向く度に、清潔な石鹸の香りが俺の周りに広がる。 と、不意にはるかは、歩いたまま頭を俺の胸にもたれかけてきた。 「なんか眠い」 「寝るなよ」 「寝るよ」 横暴なことを言いながらはるかは、手近なベンチに腰を降ろす。 「だらしないなあ。なに? ゆうべ寝てないわけ?」 「寝たよ」 「あ、そう…」 なおだらしない…。 「いいけど。風邪ひくってば」 まだ乾いてない髪が冷えて、俺の首筋に当たる。 石鹸とシャンプーの香り。 そして、はるかの香り。 「あのな…」 俺は毛布じゃないって言おうとして、「声が響く…」 はるかに遮られた。 「…………」 まあ、いいかな。 こんなのはなにも今に始まったことじゃない。 いつものことだ。 この馴れ合いを拒絶するには、もう手遅れだ。 どうせ大したことをするわけじゃない。 (せいぜい昼寝くらいだ) まあ、つきあってあげるか。 「冬弥」 「ん?」 「空、高いね…」 「あ…?」 「ああ…」 抜けてゆくみたいな青空だ。 雲一つなく、間の抜けた声も出てしまうみたいな、そんな大空だった。 「悪い、はるか。今日は俺、ここに用事があるからさ」 俺はすまなそうに笑って、彼女の誘いを断った。 はるかもはるかで、それほども不満そうな気配は見せない。 「エクササイズ?」 「ま、まあそんな感じ…」 女の子(はるかだけど)の誘いを断ってまで、午前中から一人でエクササイズ…。 …かっこ悪いよなあ。 「そうだね。冬弥、最近運動不足っぽいから」 そうかな俺…。 「冬弥ってお腹出るタイプだし」 「決めるなあ」 嫌なこと言うやつだな。 「筋肉つけたらかっこいいよ、冬弥って」 「…また適当なこと…」 「大体、はるか、いつからそういうのが好みになったんだよ」 「…………………」 「…………………」 「気持ち悪いね、やっぱり」 「…………………」 俺を傷つける前に、少し考えてから喋って欲しいな…。 「じゃあね、冬弥」 「ああ…。また今度。…ごめんな」 「いいよ」 そしてはるかは、荷物を抱えながら器用に自転車に乗っていってしまった。 …いろんな意味で、はるかは、一人で自転車に乗ってるって図が一番似合ってる気がする…。 ああ…。 くつろいだ一日だった。 …でも、今日のはるかには、どこか違和感があったような気がするけど…。 アリーナで、シャワーを浴びたとか言ってたあたり…。 …思い出せそうなんだけど、ちょっと出てこない…。 気持ち悪いな、こういうのって…。 …今日も良い天気だな。 真冬とは思えないほのぼのとした空に、俺は、ぼけー…っと見入ってしまう。 そんな風にアパートから出た瞬間、ザザザザァーーーーーッ!! すごいスピードの塊が俺の目の前につっこんできた。 「うわっ!」 俺は間一髪、大袈裟なアクションで身をかわす。 ガシャァァーーーーーンッ!! 向こうも負けずに派手な音を立てて、アスファルトの上を転がった。 「はるかっ! お前ぇっ!」 俺は 咄嗟 とっさ に叫んでた。 あ、いや、はるかじゃないか。 確かにこんなことするのは、知り合いの中でははるかしかいないけど、さすがにそれははるかに失礼か…。 ごめんな、はるか。 「ごめんね、冬弥」 わあ! 「やっぱりお前かぁ!!」 「? …怪我しちゃった?」 「い、いや…」 考えてみたら、こっちがまたぼーっとして道路に出たわけだし。 それに…。 アスファルトの上に横たわる、銀色の自転車に目をやる。 高価なATBなのに…。 「俺は全然平気だけど…」 「よかった」 「『よかった』じゃなくて、自転車、もう少し大事に乗りなよ」 「そうだね。もう傷だらけ」 子供か。 どんな乗り方してんだ、一体。 はるかは倒れた自転車を起こし上げる。 「冬弥。時間ある?」 「今日? …散歩?」 「行かない?」 どうしようか…? 行く 悪いけど… 「まあいいや。つきあうよ」 こんな良い天気の日は、はるかと過ごすのがいいかも知れない。 「よかった。行こ」 はるかは自転車を引いて、先に立って歩き出す。 自転車と並んで立つ彼女の後ろ姿が、嘘みたいな青空にしっくりと溶け込んでる。 「ん?」 「ううん」 でも、あれだけ派手に転んで、どこも怪我してないのかな…。 なんてよけいなことを考えながら、俺ははるかの後ろを公園まで歩いた。 まだ昼間だってのに、今日は若い二人組が多い。 まあ、こんな日にこんな天気となったら、こんな風に甘い時間を過ごさないってことはないかな。 とはいえ、う~ん…。 「どうかした?」 …全然気にしないのな。 はるかはそんな周囲をなんとも思ってないみたいに、どんどん公園に入ってく。 周囲も周囲で、まあ、てんで勝手に自分達の世界に入り込んでるわけなんだけど。 だけど、そうは判ってても、やっぱり照れくさい…。 「人、多いね。ベンチ全部埋まってる」 俺ばっかり損してる気分。 少しは居心地悪い雰囲気になってくれても…。 って、それもそれで、嫌だな。 ま、いいや。 ベンチが空いてないんだったら、どっかその辺に適当に[]。 「その辺に適当に座ろ」 俺の台詞を取るなー。 はるかは自転車をロックして、そしてほんとに適当に芝生の上に腰を降ろした。 まるで近所の子供だ。 俺もそれに続いて腰を降ろし、勢いごろんと横になる。 「冬弥、だらしない」 くすくすとはるかが笑う。 「だらしないの先生がいるから。俺には」 「そうなんだ。いいね、それ」 お前だ。 だらしない国からだらしなさを広めに来たくせに、なに人ごとみたく…。 「あれ?」 「ん?」 はるかが何かに気づいた。 「手、見せて」 「どうしたの?」 俺はおとなしく差し出す。 「生命線でも切れてる?」 「そんなのどうだっていいけど」 どうだっていいのか…。 「痛くない?」 「え?」 見ると、手首のあたりから血が流れてた。 「怪我してる…」 「ああ…」 気づかなかった。 いつの間にこんな…。 あ、あれかな。 自転車に(ていうか、はるかに)はねられそうになって飛び退いた時、電柱か何かにこすったとか。 シャツに血がついてないといいけど…。 「私がぶつかったんだね」 …違うとは思うけど。 「いや、悪いけど今日は用事があるんだ…」 俺は残念そうな顔をしてみせる。 はるかと一緒ってのもいいんだけど、いつもいつもってわけにもいかないだろう。 「そう? じゃあね」 はるかはでも、気にも留めずにさっさと自転車にまたがってしまう。 判りやすいやつ…。 「あっ、待て、はるか」 「なに?」 「…なんでもいいから事故るなよ」 「冬弥もね」 …それもそうか。 「じゃね」 … … …。 行っちゃった…。 はるかの後ろ姿って、青空が似合うなあ…。 さあ、出かけよう。 「わあ…」 思わず声を出してしまうくらいに、空は青く青く澄んでいた。 もう正午にもなるってのに、まるで朝方みたいなすがすがしい空だ。 こんな日は、やっぱり外に出てきたくなるよな。 ちょっとくらい風が冷たいからって。 と、行きかけた時、「あれ? 藤井君?」 「え?」 「あ、美咲さん。どうしたの?」 美咲さんは不思議そうに俺を見てる。 「う、ううん…」 「今日、藤井君、用事あるの?」 「ううん、別に?」 「誰かと…会う約束とか…?」 「ないよ」 俺を遊びに誘うとか…って感じじゃなさそうだ。 「美咲さんは、今日は暇なの? 時間があるんだったら、一緒に遊びに行かない?」 「う、うん…。でも、今日は私の方も用事あるから…」 「そう」 なんだ、そうなのか。 って、なに、今の…、「『私の方も』って?」 「う、うん…。今日は、藤井君、はるかちゃんと一緒だと思ってたから…」 「はるかと?」 俺はまたはるかとセットにされてるのか…。 「あっ、私の勘違いだと思う。藤井君本人に覚えがないんだったら」 美咲さんは慌てて手を振る。 「…ただ、昨日はるかちゃんに会った時に、そんな風に言ってたかなって思っちゃっただけ」 「変なこと言ってごめんね。今日じゃなかったんだねっ」 「今日じゃないって、何が?」 「え? テニスの練習…」 「テニス!?」 テニスだって? 「うん…。今日、藤井君に教えてあげるから、アリーナに行くんだって…」 「はるかが…そう言ったの…?」 「うん…」 なに考えてるんだ、あいつは…。 またテニスを始めるってのに、なんだってこんな面倒な真似を…。 「あ、私の勘違いだったらごめんね。 スポーツショップでシューズとか買ってたから、てっきり藤井君のかと思っちゃって…」 「あ、ううん。美咲さんの勘違いじゃないよ。 多分、はるかの方が勘違いしてるんだと思う」 美咲さんを困らせっぱなしってのも可哀想だ。 フォローだけはしておこう。 「はるかって、ほら、こういうことにはすごくルーズだから…」 「うん、ありがと、美咲さん。じゃ俺、アリーナに行ってみる。はるかが俺を待ってたりしたらまずいから」 「うん…」 まだ様子の飲み込めてない美咲さんを残して、俺はアリーナに向かった。 真冬とはいえ、こんなに急ぐと、さすがに体が熱くなる。 俺ははるかの痕跡を捜す。 まるで探偵と犯人だ。 あ、あったあった。 はるかの自転車だ。 まったく、なに考えてるんだ、はるかは。 スパァーーーーン!! その時、乾いたみたいな鋭い音が俺の耳に響いた。 ラケットのガットが、硬式のテニスボールを強く弾く音だ。 「………?」 覗いた金網の向こうに、はるかがいた。 ラケットを持って、熱心にボールを見据え、テニスコートの上を、まるでダンスでもするみたいに。 「はるか…」 テニスをするのは久しぶり…だよな? そのはずなのに、あの時と少しも変わらない。 まるで体重を感じさせない動きで、テニスコートを飛び回っている。 あの時と、何も変わらない。 髪が短くたって、目の前にいるのは…間違いない。 あの頃の、はるかだ…。 まだ何かを見つめてた頃の…。 いや。 あの頃以上に鋭い眼差しで、何かを追ってる。 …ああ、そうだ。 俺はずっと見てきたんだ。 こんな風に、力強いサーブ。 ラリーが続いても衰えないストローク。 バックハンドの時、少し首をかしげる癖…。 春風の中で。 まぶしい陽射しの中で。 ずっと……ずっと見てきたんだ。 キラキラのはるかを。 それが当たり前の光景だと思えるほどに。 突然の不幸が、はるかの心を持っていってしまうまで。 そんなことが起きるなんて、思いもせずに。 ずっと……。 俺はしばらく、はるかに声をかけたりしないで彼女の姿を見ていた。 はるかが出てくるまで、俺はここで待つことにした。 訊きたいこととかも、いろいろあるし。 あ、来た来た…。 「ほら」 俺は出てきたはるかに、缶入りのスポーツドリンクを差し出してやった。 そこの自販機で買ったやつだ。 「喉乾いてるだろ?」 「あ? 冬弥…」 まるで驚いた顔も見せずに、はるかは俺を見る。 だけど、その両手は、肩に掛けてるラケットを背中に隠そうと必死だった。 今日は俺の方がうわてみたいだ。 「…ばれた?」 「ばれた」 「…美咲さん?」 「美咲さん」 「あはは…」 「『あはは…』じゃないって」 「内緒にすることじゃないだろ? そんな、誰かばかにするとか思ったの?」 「ううん」 「だったらどうして?」 どうしてか、俺は詰問するみたいになってしまう。 はるかがまたテニスを始めるなんて、嬉しいことのはずなのに、どうしてだか、怒ったみたいになってしまう。 「ごめんね」 はるかもはるかで何故か謝ってる。 「言いたくなかったから」 聞こえるか聞こえないか、そんなはるかの呟きが変に迫力あるなと思った。 「どうするの?」 だけど、その声とは裏腹に、今、俺を見ているはるかは、いつもの、あの、全部がまるでどうだっていいはるかの顔だった。 「どうするのじゃないだろ、まだ髪がよく乾いてないじゃないか」 俺は、はるかのスポーツバッグからタオルを奪い取る。 「すぐに乾くから」 「その過程で冷えるだろ。風邪ひくぞ」 有無を言わさず、奪ったタオルではるかの頭をかき回す。 「なあ、はるか。…なんだかよく判らないけど、とりあえず、俺の部屋で休んでけよ」 「大丈夫…」 「大丈夫じゃないよ。ほら、言うことききなって」 「うん…」 そして俺ははるかの自転車を起こしてやった。 「初めまして…」 正しいんだか間違ってるんだか判らない挨拶をしながら、はるかは俺の部屋に入った。 考えてみたら、はるかがここに来るのって初めてだっけ。 「結構きれい」 「そう?」 「恐れ入ります…」 なんだか調子の狂うようなことを言いながら、はるかは部屋に入る。 「まあ、そのへん適当に座って」 俺は玄関に鍵をかけながらはるかに言う。 「うん」 あれ…? 『うん』とか言っておきながら、どこ行ったんだ、はるか? いなくなっちゃった。 と、あんなとこに…。 はるかはいつの間にかベランダに出て、手すりに腰掛けていた。 「おい! 危ないって、そこ!」 「んー?」 のんきそうな返事をして、はるかはこっちを見る。 「落ちるって!」 「冬弥もおいでよ」 「落ちるって、だから!」 「おいでってば」 「危ないんだってば!」 「じゃいいよ、そこで」 全然気にする様子もないはるかの声だけが室内に戻ってくる。 「気持ち良いね、ここ」 暮れかけた空を見上げながら、はるかが言う。 「こういうのないから、私の部屋」 「そ、そう?」 俺は、手すりがいきなり外れたり落ちたりしてしまわないか、はらはらする。 さっきまで泣いてたのに、はるか…。 「で?」 「ん?」 はるかが俺を見上げる。 「『ん?』じゃなくてさ。なに泣いてたの?」 「んー…?」 「いいんだったらいいんだけどさ」 俺は、勝手にしろって風にベッドに腰を降ろす。 窓ガラスを通して伸びる影の長さに、俺は流れた時間を感じた。 そして、くすんだみたいな陽の光に照らし出される、彼女のラケット。 「やっぱりよくない。言えよ」 俺は再びはるかに振り返る。 「うん…」 気怠そうに、はるかが答えた。 「テニスのこと…?」 「ん…」 いろんな意味をこめて言ったつもりだった。 テニスのこととか、はるかの兄さんのこととか、はるかの、見失ってしまった何かのこととか…。 「結局」 不意にはるかが口を開いた。 「…結局、何にもなれなかったね、私」 「…………?」 「諦めずに何か続けてたら、ひょっとしたら、私でもスーパースターになれたかも知れないのにね」 「テニス…やめたくなかったんだ?」 はるかは何も言わない。 「でも、俺には、はるかは責められないよ…」 「あの時の状況だったら、はるかがそうしたからって、仕方なかったって…」 言葉が続かない。 こんなこと言って、どうなるんだ。 昔のことを振り返って、過去が戻ってくるんだったら、俺ももう少し雄弁かも知れない。 でも…。 「…楽しくて。…楽しいことがいっぱいあって。…スーパースターになれなくたって。…兄さんがいなくなっちゃったって。すごく楽しくて」 うつむくはるかの髪を、風が撫でてゆく。 「思ったんだ」 ゆっくり、はるかが顔を上げた。 太陽のせいか、目が真っ赤に見えた。 「私の方が、って」 「…兄さんじゃなくて、私が…」 「はるか…?」 手すりに乗るはるかは、そのまま、空の藤色に融けていってしまいそうで…。 「私が死ねばよかったんだね」 はるかは手すりから手を離す。 そしてそのまま、何もない空に遊ぶみたいに、ふわりと…。 「はるか!」 俺は飛び出してはるかの身体を抱き止める。 勢いのままに俺達はベランダに倒れ込む。 冬のコンクリートが、頬に冷たい。 「冬弥…」 はるかは倒れたまま、不思議そうに俺を見る。 そして少し笑って、「落ちないよ」 確かに、はるかの身体は前の方に倒れてきた。 背後の空に、じゃなくて。 「うるさいな、ばか…」 照れくさいのか頭にきたのか、俺はただそう言った。 「もう、そんなこと言うなよ…」 生きてる人間が死んだ人間と引き替えになった方がいいなんて、世の中は、そんな風にできてないはずだから…。 俺は、だけど、それ以上に何も言えないまま、はるかの手を握りしめる。 その手は、冷たかった。 「そう思っただけ。あの時に…」 …あの時。 はるかは、決して涙を流さなかった。 俺を拒まないはるかの手が少し震え、そしてきつく握り返してきた。 「…結局、兄さんは戻ってこない。当たり前だけど…」 「…ただ、私が死んだだけ。…私は私になるのを自分で捨てちゃったんだ…」 「そんなこと…」 「自分になれなかったのに、スーパースターになんて、なれないよね…」 「なに言ってるんだよ…」 …俺だって別に何でもない、一人の人間に過ぎない。 俺も、由綺も、はるかも、ただの人間、それ以上の何でもないのに…。 「あはは、冬弥、泣いてる」 「俺は構わない。はるかのこと、好きだから…」 「…………」 「はるかは…こんな風なのは…嫌い…?」 「…………」 「俺のこと…嫌だったら…」 「嫌じゃない」 「冬弥のこと好きだから。すごく」 今度は俺が沈黙してしまう番だった。 「でも、だから…」 「だったら…」 俺は再びはるかを抱きしめる。 「だったら、もう『でも』なんて言うなよ…」 「…………」 「…言うなよ…」 「…うん。言わない…」 そしてはるかは俺の胸に頭をもたれさせた。 俺はその髪の毛に、再び鼻先を潜らせる。 あの懐かしい、はるかの香りがした。 いつも会って、よく知ってるはずのはるかなのに、その香りはなぜか、すごく懐かしい。 「冬弥」 「…ん?」 「ベッド貸して。体動かしたら眠くなってきた」 「え? あ、ああ…」 返事を聞くよりも早く、はるかは俺のベッドに寝転がる。 「服のまま転がるなよ…」 「…ふぅ」 いったん猫のように縮ませた体を、すぐにだらしなく弛緩させる。 はるかの横顔は、すでに寝入った後のように穏やかだった。 それにしても…妙な感覚だ。 俺のベッドに、はるかが寝ているなんて。 子供の頃は違った。 そこに、はるかがいるのは当たり前だった。 いつでもどこでも、それが誰のベッドかなんて気にせず、一緒になって寝転がったものだ。 でも、このベッドだけは別だ。 ひとり暮らしを始めてから使いだしたこのベッドに、はるかと過ごした思い出はこもっていない。 だから、こんな光景を目にするなんて、想像もしていなかった。 あの頃の記憶が、今の俺たちとオーバーラップする。 「冬弥も寝る?」 俺の視線を感じたのか、はるかは瞼を閉じたままそう口にした。 「いや、俺は…」 はるかの行動は、俺の返事とは無縁だった。一人でもぞもぞと身じろぎして、ベッドの向こう半分に移動する。 俺は、ためらいを憶えながら、自分のために開けられた白いスペースを見下ろした。 不自然、だよな。 一緒に寝そべった屈託のない日々は、すごく昔のことなんだから。 いくら、あの頃のことを身近に感じられても、それは錯覚でしかない。 そう、錯覚でしかないんだ。 でも、俺は…。 「………………」 俺は何も言えなかった。 衝動的で、寂しがり屋の俺なんかよりも、はるかの方がよっぽどいろんなことを気に懸けてる。 俺のことも、由綺のことも、いろんなことを。 決して傍観者ではいられない自分が、ほんとは一番つらいはずなのに。 「冬弥、真面目な顔してる」 おかしそうにはるかは微笑む。 「帰るね、私」 「はるか…!」 呼び止めたものの、俺に、何が言える? 何を言い訳したらいいのかも判らないのに。 はるかの用意してくれた非常口から俺は逃げ出した、それだけなんだから。 「うん。一人で帰れるから」 とぼけたみたいに笑って、はるかは部屋を出ていく。 「ごめん…」 はるかが出ていってしばらくしてから、俺は一人で呟いた。 「俺、何だったら家まで送ってってやるよ」 俺の胸にすがりつくはるかを、そっと引き離す。 「だからさ、ほら、もういいだろ…」 「うん…」 やっとはるかが顔を上げてくれた。 頬に伝った涙の跡が、逆光の中に微かなラインを浮かび上がらせる。 「さ、帰ろ…」 昔から俺達は、いつも一緒に帰ってた。 俺達二人、いつも同じところに帰ってたような気がする。 いつもこんな、暮れかかった青空の下を…。 「うん。でも、大丈夫。一人で帰れる」 「大丈夫って…」 「大丈夫」 はるかはそっと自転車を起こす。 「…ありがと」 そして、少しだけ俺の顔を見つめて、「じゃ」 … … …。 いつから俺達は、こんな風に、別々の道を帰るようになってしまったんだろう? この夕焼け空みたいに、俺も、はるかも、何も変わってないと思ってたのに…。 ぷるるるるーーー、カチャ。 「はい、藤井です」 「冬弥君? 私、由綺です」 「由綺?」 思わず訊き返した。 どうして由綺が今頃? 大切な『音楽祭』を明日に控えてるっていうのに。 しかも、由綺はずっと、英二さんのスタジオに泊まり込んでレッスンを受けてるはずだ。 「今、休憩中とか?」 「ううん。私、今、自分の部屋からかけてるの」 「部屋って、あのマンションの?」 「うん…」 どういうことなんだろう…。 「まさか、英二さんが帰っていいって言ったとか?」 「う、うん…。そうなんだ…」 由綺は何故か口ごもるみたいに答える。 それにしても勝手な人だ。 あれだけ徹底して由綺を自分のスタジオに閉じこめておいたくせに、こんな一番大切な時に、一人にするなんて。 「明日に備えて、ゆっくり休んでおけって…」 「あ、そういうことか…」 そんな配慮があるなんて、結構意外だなあ。 「よかったじゃない。でも、俺に電話なんて、そんな気遣わなくても良かったのにさ」 嬉しいのはすごい嬉しいんだけど。 「う、うん…」 「大丈夫。ちゃんと応援してる。…ほんとは、会場まで応援に行きたいんだけどさ…」 『音楽祭』に一般の観客の立ち入りは許されてない。 スタッフや関係者にしても、いくら人出を必要とするとはいっても、日雇いや研修レベルの人間は完全に締め出されるほどに徹底した厳正さなのだ。 だから俺なんかはどうやっても『音楽祭』の由綺に会うなんてできない。 そういうシステムだから。 「でも、大丈夫。TV観ながら応援してるよ。だからさ、今日は…」 「うん…」 どうしたんだろう。 由綺、元気がないみたいだ。 「冬弥君…」 「ん?」 でも、由綺は沈黙する。 「どうしたのさ? 何かあるんだったら話してよ。役に立てるかどうかはともかく…」 「うん…」 由綺はちょっと安心したみたいに言って、続けた。 「冬弥君…。私の他に、誰か好きな人って…、いるの…?」 「え…?」 一瞬、はるかの顔が胸をよぎる。 俺は…。 どう答えたらいいんだろう…? いる いない 「ごめん…。俺…」 俺は、最後まで言えなかった。 それでも由綺は判ってくれたみたいだった。 「そうなんだ…」 その言葉に、俺を責めるみたいな様子はない。 「うん…。冬弥君、かっこいいし、優しいから、他の娘だって好きになっちゃうよね…」 「あ、ううん。別に私、悪いなんて思ってない…。 …だって、仕方ないもの…」 仕方ない…。 由綺の言葉が俺の胸に刺さる。 ほんとに仕方なかったのかな、俺達…? だけど、今の俺は、本気ではるかのことを愛してしまってる。 「ごめん、由綺…」 謝ることしかできない。 それしかできない、俺は…。 「あのね、冬弥君…」 由綺の口調は、それでもどこか不安そうだった。 「私、今日、緒方さんに…」 「英二さん? 英二さんがどうかしたの?」 少し口をつぐみ、由綺は続ける。 「緒方さんに…私…『愛してる』って…告白されて…」 「英二…さんが…?」 彼が由綺を気に入ってるのは、それは判ってた。 だけど、一人の男として、由綺に告白するなんて…。 いや…。 そんなことは俺は気づいてたはずだ…。 ただ、考えると、はるかと過ごす時間があまりに罪深く感じられて…。 電話の向こうで、いつの間にか由綺は泣いてた。 「私…寂しかったんだね、きっと…」 「…さっき、部屋まで送ってもらった時に、緒方さんにそう言われて…キス……しちゃって…」 「由綺…?」 「どうかしてたの、私! ごめんなさいっ、冬弥君! 私、そんなつもりじゃ[]」 「………」 「…でも、どうしてか、緒方さんに抱きしめられるのも…、キス、されるのも…、全然…抵抗…なくて…」 由綺はもう完全に泣きじゃくってる。 「もう私、判らない!」 「どうしたらいいのか判らない! 自分でも、何がしたいのか、何がいけないことなのか、もう、全然…」 「由綺…」 俺は…。 俺は、何も言えない人間なんだ…。 何か言ってあげなきゃいけないのは判ってる。 でも、何を…? 言葉なんかで俺は、全て納得させられるのか…。 俺は、由綺を…。 「うん…」 だけど俺が何も言えないうちに、由綺はいつしか静かで優しい声に戻ってた。 「ご…ごめんね、冬弥君。変なこと言っちゃってたね、私…」 「え…?」 「『音楽祭』が終わった時、返事をしてくれ』って緒方さん言ってた…。私、その時に、答を出すつもり…」 「由綺…?」 どう返事をするつもりなんだろう、由綺は。 俺に、それを訊く権利なんてあるのか…? 「それまで私、答を考えるから。だから、冬弥君…」 「うん…?」 「『音楽祭』、来られたら来て欲しいの」 「え…?」 俺は思わず声を上げた。 「でも…」 いくら由綺でも、いや、緒方プロダクションの力でも、俺を会場に入れるなんてできないはずだ。 「ううん。終わってから。放送が終わったら、一般のスタッフも会場に入っていいことになってるから」 「冬弥君が入れるように、私、弥生さんに言っておくから…」 「でも…」 こんな俺なんかが、由綺に会いに行っていいのか…? 「来られたらでいいの…」 それから、思い詰めたように、「来て…欲しいの。お願い…」 再び泣き出しそうな声だった。 「お願いだから。私、冬弥君に会いたいの…。それだけで、いいから…」 「判った…」 俺は呟いた。 「判ったよ、由綺。行くよ、会いに行く。待ってて」 今度は呟きじゃなく、強く言った。 心はひどく揺れていたけど、それでも、精一杯強がってみせた。 「うん…」 そんな俺に、由綺は、答えた。 答えてくれた。 「うん、待ってる…。あはは…、私、待ってるから…」 由綺が笑った。 ずいぶん懐かしい気のする、由綺の、安心した笑い声だった。 こんな弱々しい笑い声すらも、もうひどく遠いものと思ってたのに…。 「そんなの…いるわけないよ…」 俺はそっと呟く。 どうしてこんな嘘をつくのか、自分でも判らなかった。 だけど、「よかった…」 由綺がそう呟くのを聞いた瞬間、俺は、とても大切な人を裏切ったことに気がついた。 由綺と、はるかと、そして、俺自身と。 だけどもう、いいわけはできない。 「ごめんなさい、変なこと言って…」 謝る由綺の声は、どこか安心したみたいに聞こえる。 「ど、どうしたのさ、急に…?」 後ろめたさを感じながらも、それでも俺は尋ねずにはいられない。 「ううん。なんでもないの」 それから少し沈黙して、「冬弥君…」 控えめな声で俺の名前を呼んだ。 「ん…?」 「『音楽祭』、来られたら来て欲しいの」 「え…?」 俺は思わず声を上げた。 「でも…」 いくら由綺でも、いや、緒方プロダクションの力でも、俺を会場に入れるなんてできないはずだ。 「ううん。終わってから。放送が終わったら、一般のスタッフも会場に入っていいことになってるから」 「冬弥君が入れるように、私、弥生さんに言っておくから…」 「でも…」 こんな俺なんかが、由綺に会いに行っていいのか…? 「来られたらでいいの…」 それから、思い詰めたように、「来て…欲しいの。お願い…」 再び泣き出しそうな声だった。 「お願いだから。私、冬弥君に会いたいの…。それだけで、いいから…」 「判った…」 俺は呟いた。 「判ったよ、由綺。行くよ、会いに行く。待ってて」 今度は呟きじゃなく、強く言った。 心はひどく揺れていたけど、それでも、精一杯強がってみせた。 「うん…」 そんな俺に、由綺は、答えた。 答えてくれた。 「うん、待ってる…。あはは…、私、待ってるから…」 由綺が笑った。 ずいぶん懐かしい気のする、由綺の、安心した笑い声だった。 こんな弱々しい笑い声すらも、もうひどく遠いものと思ってたのに…。 「じゃあ、私、明日、力一杯がんばるね」 由綺は力強くそう言って、「冬弥君の為に…歌うから…。いいよね…?」 遠慮するみたいに加えた。 「うん、応援してる…」 俺もできるだけ普通の口調で答える。 「それじゃ、おやすみなさい…」 「うん。おやすみ…」 そして、電話は切れた。 部屋の中は、電話がかかってくる前よりも一層静まり返ってるように感じられた。 声が欲しかった。 温もりが。 だけど、いったい誰の温もりを求めているのか自分でも判らなかった。 考えるのが怖かった。 そして、俺もまた、黙った。 そろそろTVで『音楽祭』の生中継が放映される時間だ。 俺は以前ほどには頻繁に観なくなったTVのスイッチを入れる。 生放送ならではの緊張感が画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、由綺がステージに現れた。 「う、うん…」 俺は、最後に一瞬だけ何かに迷って、それから素早く靴に足を入れる。 「判った。行くよ…!」 「うん」 はるかが笑った。 「あ…」 こんな時期に、雪が…? 「さっきから降り出したみたい」 「はい」 空を見上げる俺に、はるかはあの銀色の自転車を俺に押しつけた。 「え?」 「急いで行かないと」 「それとも走る?」 「そりゃそうだけど…はるかは…?」 「二人乗りしたらスピード出せないよ」 「え…?」 「意味無いじゃない、それじゃ。…行って」 そして、はるかは俺に、ワイヤーロックの鍵を手渡す。 「ロック忘れないでね」 「でも、はるか…!」 「行って」 そう…。 はるかは人の話なんか聞いちゃいないんだ。 特に、こんな時は。 「判ったよ。借りるよ、はるか」 俺はそのATBにまたがる。 「うん」 と、俺はペダルを踏みかけて、ふと思い出した。 「はるか」 「ん?」 「ラケット、俺の部屋に忘れてったろ?」 「うん」 「冬弥にあげる」 あげるって…。 「大事なものなんじゃないのか…?」 「大事だよ」 「だったら…!」 「邪魔だったら捨てちゃっていいよ」 「………」 何か言いかけたけど、でも、やめた。 はるかの気持ちが、何となく判る気がした。 今ははっきりとは判らなくても、いつかきっと、完全に判ると思った。 「判った…。それじゃ行くよ、俺…」 「うん」 俺は強くペダルを踏み込む。 「さよなら…」 その声に振り返ると、はるかが小さく手を振ってた。 風に舞う花みたいなはかない雪のかけらたちがが痛いくらいに冷たかったけど俺は、変速器をめちゃくちゃに高く切り替えて走った。 俺は駅に自転車を停め、タクシーを拾った。 急ごう。 何よりもはるかは、それを願ったんだから…。 由綺が言ってた通り、弥生さんは何も言わないでスタッフ専用口から俺を入れてくれた。 弥生さんの後についていくと、その先に…。 彼女は、いた。 いろんな人に囲まれて、少し疲れたような顔をして、それでもやっぱり微笑んでる、お姫様みたいに見える、由綺。 再び少し怖じ気づきそうになる。 だけど…。 一瞬、はるかの流した涙が頭の奥の方で光った。 俺は、そう、決してスーパースターなんかじゃないけど、でも…。 でも、俺はそれでも由綺を愛せる。 はるかのことは、愛してる。 だけど、そのことが由綺への気持ちをますます臆病にしてしまうのなら、俺ははるかを裏切ることになる。 幼なじみの、親友としてのはるかを。 それだったら、たとえ強がりでも、俺は由綺への気持ちに正直でいてみせる。 はるかへの気持ちにも正直でいる為に。 俺は、頷き、そして、歩き出す。 「…由綺!」 人混みの中、彼女が気づいた。 「冬弥君…!」 「もうすぐ学校始まっちゃうな…」 俺は欄干に寄りかかりながら空を見上げる。 「…一応、進級できたからいいけど、落ち着かない春休みだったな…」 「うん」 青空を反射する銀色のATBに軽く寄りかかったままのはるかが、気怠そうに答える。 「ばたばたしてたね」 「うそつけ」 春を感じさせる明るい風に心地よさそうに微笑むはるかの、何がどう慌ただしかったのか。 あ、いや…。 「冬弥、冷たいの」 いつの間に買ってたのか、はるかは俺の方に冷たい缶紅茶を放る。 「あ、さんきゅ」 いや、実際、落ち着くことなんてなかった日々ではあったろうけど…。 でも、それでもはるかは、いつもと変わらない。 いつもと変わらないまま、穏やかに笑ってる。 何も変わらない毎日。 心に痛いくらいに、毎日は変わらない…。 「ふふっ」 「ん…?」 「別に…」 「ふん…」 はるかは、いつもこんな風なんだ。 銀色の自転車に乗って、たった一人で、目に痛いほどの青空に包まれて、いつも…。 「…………」 「ん?」 はるかの様子に、俺も辺りに集中してみる。 歌がきこえてくる。 由綺の歌だ…。 「…………」 「…はるか?」 「由綺、すごいね…」 「え…? うん…」 俺もかすかにうなだれる。 『音楽祭』。 結局、最優秀賞は理奈ちゃん…緒方理奈が受賞した。 前評判通りといえばそうだったけど。 ただ、参加者中で一番キャリアの浅い由綺が、ごく僅差で次点についたってのはかなりの波乱を巻き起こしたみたいだった。 ただ俺は、あれから由綺と仕事の話なんかしてない。 『おめでとう』も『残念だったね』も言ってない。 ただ『お疲れ様』以上は何も…。 そしてまた、俺達のことも…。 「…ちゃんと、由綺に話さなきゃ…」 俺と…はるかのことを…。 こんな広い広い青空の下には、とても似つかわしくない、そんな歯切れの悪い話だ…。 「ん…」 少し頷いて、はるかは俺の胸に寄りかかってくる。 そんなはるかの髪の毛に、そっと手を触れた時、風が吹いた。 いい天気だなあ…。 おそろしく空の高い、秋晴れの見本みたいな日だった。 ここに来る途中、たくさんの人達とすれ違った。 多分、うちの大学の学園祭に行くんだろう。 学園祭も悪くないけど、せっかくのこんな日に人だらけのところに出てくってのも、やっぱりもったいない気がした。 はるかの判断は正しかったかも知れない。 と、俺を正しい道に誘い込んだ悪魔はとっくにアリーナに到着していて、雲のまばらな秋空をぼけっと眺めてた。 「…なに呆けてんのさ。人を呼んどいて」 俺ははるかの頭を後ろから小突いた。 「あいた」 全然痛くなさそうに言って振り返る、はるか。 「いま到着ー。待った? ひょっとして」 「ううん」 「あ、そ」 いつもの素っ気ない会話。 「でも、遅刻しないで来たのは偉い。はるかは、昨日言ったこと忘れても不思議じゃないからな」 「これで来たの」 人の嫌味に全く付き合おうともせず、はるかは立木のところまで歩いていって、何かを示してみせる。 それは自転車だった。 しかも、銀色のスマートな全地形型二輪車(ATB)だ。 「うわっ、すげっ!」 俺は素直に驚いた。 「あはは…いいでしょ…」 「うん、かっこいい…。はるか、これ、どうしたの?」 「買ったの」 「買った!? いきなり?」 「うん」 嬉しそうにはるかは自転車のサドルを叩く。 「買ったって…なんでまた…?」 「欲しかったから、自転車」 「そりゃそうなんだろうけど…。そんないきなり…」 しかも、よく見たら、『MERCEDES』(メルセデス) のロゴが。 「はっ…はるか、なに、こんな…!」 俺の驚愕に気づいたはるかは、そのロゴの部分をこんこんと叩いた。 「ローン組んだから」 また、似合わない言葉を平気で言う…。 「高いのじゃなくて良かったから、一番安いの」 「ば、ばか…けたが違うぞ…!」 とか言いながら、とりあえず改めてはるかの新車をしげしげと眺める。 さすが世界のメルセデス。 実用性重視のごついタイヤやリアとフロントのショックアブソーバーまでをも全体のデザインに組み込んでしまった、この直線的なかっこよすぎるフォルム。 そして、この『シルバーアロー』の名にふさわしい、上品な銀一色のカラーリング。 ゲルマン民族の誇りまでも感じてしまうよ、俺は…。 「盗られたりすると嫌だから、ロゴ塗りつぶしちゃおう…」 「絶対やめろよ」 なんてこと言い出すんだ。 「…で、はるか、これを俺に見せようと思って、今日呼び出したわけ?」 「うん」 「俺をうらやましがらせようと思って?」 「うん」 「…はるかの勝ち」 「うん」 「少し悔しいけど、ちょい乗ってみていい?」 「いいよ」 「さんきゅ」 俺は早速はるかのマシンにまたがり、ペダルをそっとこいでみた。 するっ…。 滑るみたいに前進するシルバーアロー。 こんなごついタイヤが回ってるのに… すごい…。 俺はあえてギアチェンジで遊ぶことをせずに、まっすぐに段差の方に進む。 そしてそのまま段差越え。 ぬるっ…。 エスカレーターにでも乗ったみたいな滑らかな縦Gを感じる。 なんて性能の良いアブソーバーなんだ。 「さ、さんきゅ…」 俺はアリーナの駐車場を一回りしてから自転車を降りた。 「すごいな、これ。びっくりした」 「うん」 「サイクリング行こ」 「はあ?」 俺はまた呆れた声を上げる。 はるかの話にはおよそ構築性ってものが存在しない。 「俺、何も用意してないよ、そんなの。…それこそ自転車だって」 「借りればいいよ」 確かに、このスポーツアリーナでは有料でロードサイクルを貸し出してる。 ここから公立公園までサイクリングロードが延びてるのだ。 「…そうだけど。でも、そういうことは先に言えって。俺だってそれなりの服装してくるんだからさ」 「服なんかどうだっていいよ」 そう言うはるかは、普段着も普段着。 ママチャリでサイクリングすることはあっても、メルセデスでのそれは絶対にないって服装だ。 「判ったよ。それじゃつきあうよ。電話でそう言っちゃったしね」 「うん」 「運動不足はよくないよ」 なに年寄りくさいことを。 俺は早速アリーナで受付を済ませ、細身のアルミフレームのロードサイクルを借り受けると、はるかのところに戻った。 「かっこいい自転車だね」 「はるかのほどじゃないよ。さ、行こ」 「飲み物買ってく」 「あ、そうそう」 サイクリングロードには人の姿もほとんどなく、時々、大型犬を散歩させる近所の主婦に出会う程度だった。 葉の落ちた木々の間から、太陽の光が俺達の上にまだらに降ってくる。 「う~ん。気持ち良いなあ、はるか」 「うん」 「こんなだったら、いつだってつきあうよ」 「うん」 「…はぁ…はぁ…普段動いてないから、結構…くるなあ…」 「疲れた?」 「気にするな」 「うん」 そうだ。 はるかに断りの連絡入れておかなきゃ。 ぷるるるるーーー、「はい、河島でございますが」 「あ、私、はるかさんの友人で…」 「私」 いきなり声が変わった。 「冬弥? どうしたの?」 「はるかだったのか…。全然判んなかった…」 「接客用」 「よけいなこと考えるなよ…。あ、そうそう…」 「なに?」 俺ははるかに、一緒に遊びに行けなくなったと告げて謝った。 「ごめんな」 「うん。仕方ないよ」 「せっかく誘ってもらってたのに」 「いいよ」 「…今度、何かのかたちで埋め合わせるから…」 「そのうちね」 俺のそんなかしこまりぶりを面白く思ったのか、はるかは軽く笑った。 「また今度ね」 「うん…」 「判った。じゃね」 「それじゃ」 そして電話は切れた。 …仕方ない…。 あ、そうだ。 はるかに断りの連絡入れなきゃ。 はるか、家にいるかな。 ぷるるるるーーー、「はい、河島です」 「はるか?」 「あ、冬弥だ。どうかした?」 「う、うん…。あの、約束してたことだけど…」 「だめになった?」 気楽な声のままではるかは言った。 「うん…。よく判ったね…」 「そういう声してたから」 「そう?」 「うん」 はるかにこのテのごまかしは要らないみたいだ。 「ごめんな」 「仕方ないよ」 「うん…」 「だから電話したんだからね」 「うん…」 ほんとに、はるかの言う通りだ…。 でも、はるか、気にしてないのかな。 俺がこんな風に、後から入れた約束ではるかのことをキャンセルしてるってことを…。 …そんなこと考えていい立場じゃないけど。 「じゃあ、また今度ね」 「そうだね…。今度、ちゃんと埋め合わせするからさ」 「うん」 「それじゃあね」 「それじゃ…」 そして、電話は切れた。 はるか、ごめんな…。 今日ははるかと遊びに行く予定だ。 遊ぶにはちょうどいい晴天だ。 あ。 はるか、もう来てる。 よっぽど暇なんだな。 「お待たせー…」 「あ、冬弥だ…」 ぼけーっとした声。 まさか寝てたんじゃないだろうな。 「はるか、口の周りによだれの跡ついてる」 「ほんと?」 急いで白いハンカチを取り出し、口を押さえるはるか。 うそ、ほんとに寝てたのか。 「とれた…?」 「とれたとれた。さ、行こ」 「ねえ、今日スケートしよ」 「はあ?」 俺は思いきり呆れた声を上げる。 「はるか、サイクリングに誘ったんじゃなかったのかー?」 「サイクリングでもいいんだけど」 「どっちだよ」 「どっちがいい?」 う…。 俺の頭の中に、この間のことが思い出される。 確かに最高の気分だった。 でも、はるかが俺のことをまったく忘れて自分のペースで自転車を走らせてくれたおかげで、次の日、足が折れるかってくらいの筋肉痛に襲われた。 とにかく、はるかとアウトドアを楽しむのは自殺行為だと判った。 ひどく気持ちのいい自殺じゃあるんだけど。 「スケート…」 素直に折れる、弱い俺。 「冬は冬のスポーツだね」 「…サイクリング誘ったくせに…」 相変わらず引っ張り回されてる感じがしたけど、とりあえず俺達はアリーナの中のスケートリンクに向かった。 少なくとも屋内のスポーツじゃ、いくらはるかでも妙な無理はできないだろうし。 スケートなんて久しぶりだな…。 別に全然滑れないわけじゃないから、これはこれで楽しめる。 はるか、すごく器用に滑ってるなあ。 はるかに苦手なスポーツって存在しないんだな。 「冬弥ー」 「んー?」 「冬弥にジャンプー…」 「わあ! ばか、やめろっ!」 「いてて…」 「冬弥、いっぱい転んだね」 「うるさいな。ちゃんと滑ってたって」 「でも転んでたよ。いっぱい」 「誰のせいだよ。…少なくとも半分ははるかが突っ込んできたからだぞ」 「冗談なのに」 「冗談でもやめてくれ」 「ぶつからないよ」 「怖いんだってば…」 なんでスケートリンクでチキンレースまがいのことしなきゃいけないんだ…。 ああ、もう。 筋肉痛プラス打撲だよ。 明日が怖いなあ…。 「疲れた?」 「疲れたよ」 気づいてなかったのか。 …まあ、いつもか。 「マッサージしてあげようか」 「わあ! ばか、触るなあ!」 そこは… さっき打ったところ…。 「大丈夫?」 「(ああ…)」 「すごい声あげるから心配しちゃった」 「(やる前に心配して…)」 「痛いの?」 「(痛い…)」 「声、変だよ?」 「(痛いんだってば…)」 「おんぶしてあげようか?」 「もういいよ…もう…」 「あ。声戻った」 「いいってば、もう。はるかなんか…」 「冬弥」 「なんだよ…?」 「ごめんね」 そう言ってはるかは頭を下げた。 「ま、まあ…。どうだっていいって…」 俺、素直に謝られるのにって弱いのかなあ。 「それじゃ、帰るね」 「ああ、俺も…」 「じゃね…」 「それじゃあ」 確かにめちゃくちゃ疲れてるけど、こんなに疲れるまで遊べる相手って、やっぱりはるかだけなんだよな。 …単に俺、はるかに気を遣ってないだけなのかな。 いや、でも、はるかも俺に気を遣わないから、お互い様だ。 多分、これでいいんだ。 今日ははるかの誕生日だ。 先週買ったプレゼントを届けに行こう。 はるか、家にいないとは思うけど、いそうな場所だったら大体判ってる。 さあ、行こう。 今日もすごい良い天気だなあ。 ちょっと風が強いけど…。 どうせはるかのことだ、この辺りでぼおーっとしてるに違いない。 鳩か何かに餌なんかあげたりなんかしながら…。 …あ、いたいた。 「はるかー」 「あ、冬弥だ。散歩?」 「まあね。はるかこそ、なに一人でぼおーっとしてるのさ?」 「ん?」 はるかはちらりと後ろを見る。 「鳥に餌あげてたの」 ほんとにやってたのか。 定年退職者じゃないんだから、そんな…。 「冬弥もあげる?」 「え? いいよ俺」 こんなこと、はるかと一緒に始めちゃったら確実に夕方までやめられなくなる。 「それよりさ、俺、今日ははるかにいいもの持ってきてあげたんだ」 「?」 「ほら、これ」 俺は先週買ったプレゼントを取り出し、はるかに手渡す。 「?」 はるかはまだぼうっとしてる。 ちょっとは喜んで欲しいなあ。 「なに?」 なに?  なんて訊かれても。 「い、いいから、プレゼントだよ。はるかに」 「?」 はるかは一瞬、ジーパンのポケットを何かごそごそやってたけど、「ごめんね。今日、何もお返し持ってないみたい」 「これ、受け取れないね」 「…誰も物々交換なんて言ってないよ…」 「?」 「どこかの原住民じゃないんだからさ…」 そんな不思議そうな顔するなよ。 「ほら、今日、はるかの誕生日じゃない」 「よく覚えてたね」 「忘れないって」 去年までは忘れてたけど。 「だからほら、プレゼントだって」 恥ずかしいこと言わせるなよ…。 「?」 「あっそうか。あはは。あ、そうか」 やっと判ってくれたみたいだけど…。 その『誕生日』から『バースデイプレゼント』へ行くまでの間に、はるかの頭の中にどんな思考ルートが展開されてたんだろう。 「開けてみてもいい?」 「え? うん…」 さっきとはうって変わって、今度は子供みたいに笑ってる。 「グローブだ」 「ほら…。はるかってさ、寒い中でも自転車乗ってるじゃない…」 「ディアスキンだ」 「え? なに?」 だけどはるかは、この噛み合わない会話をものともせずに、早速その手袋を試してみてる。 ピンポーーーン、「あ、はい…」 誰か来た。 「こんばんは」 「あれ、はるか? どうしたのこんな時間に?」 はるか、俺の部屋になんか来たことなかったのに。 「すぐ帰るよ。自転車だからすぐだし」 「それはいいから。用事は?」 人の話聞かない相手と話すのは、ほんとに手間だ。 「冬弥、事務局行った?」 「事務局? 大学の?」 「学生課」 「行くわけないじゃない、そんなの」 どんなに時間ができたって、暇つぶしに行く場所じゃないな。 「あー…」 「…なんだよ、今の『あー』は? 何かまずいことあった?」 「うん」 頷くはるか。 「『うん』じゃなくて教えろお…!」 「あ、そうか」 「それ言いに来たんだっけ。忘れてた」 「…忘れなかったら、俺、すごい感謝するんだけど」 「そうだね。あはは…」 笑ってるよ、今度は。 「で、なに?」 「なにって?」 「学生課!」 「あ、そうか」 まったく…。 「私達の学科だけ学生登録しなおすって」 「学生登録?」 「来年から設備だか講義だかが増えるとか、とにかくシステムが変わるから、新システム用に再登録するって」 「へえ…」 いいことなんだか悪いことなんだか…。 「登録してないみたいだね」 「うん。してないよ」 「期限、明日まで」 「ええっ?」 明日って…。 明日は由綺と約束が…。 「これ…登録しないとまずいとか…」 「判んないけど」 参ったなあ…。 「明日行けないの?」 「ってわけじゃないけど…」 「朝から並んだら、お昼過ぎには終わると思うけど」 「そんなにかかるの?」 どっちにしても、由綺との約束は絶望的だ…。 「それか、代理を立てるか」 「代理? そんなのアリなわけ?」 「学生証と印鑑があればいいから」 「あ、そうなんだ」 代理か…。 俺はちらっとはるかを見る。 「…私?」 「別に、行ってもいいけど…」 う~ん…。 由綺との約束は大事だけど、それではるかを代わりになんてすごい身勝手な気がする…。 どうしよう…。 「自分で行くよ」 「代わりに行ってくれ」 「判った。自分で行くよ」 「いいの?」 「ん?」 「用事があったんじゃないの?」 「…仕方ないじゃない」 「そう?」 「そうなの。はるかと違って、俺は真面目な学生だから」 「学生課の掲示見落としたのに?」 うるさいな…。 「と、とにかく、さんきゅ、はるか。とりあえずは助かったよ」 「うん…」 「予定狂わせちゃった?」 …それは、まあ…。 だけど、悪いのは俺なわけだし、なにもはるかが責任感じることはないんだ。 「気にしなくていいよ。明日、朝から並ぶから」 「じゃ、一緒に行こ」 「はるかと?」 「一人だと退屈だよ」 「うん…。そうだな…。じゃ、そうしようか…」 「うん」 そんな風に笑いながら、はるかは俺をじっと見てる。 「な、なに…?」 「ううん。じゃあね」 「あ、うん」 来るのもだったけど、帰るのも唐突だな。 「それじゃ、さんきゅっ」 「うん」 学校の方はどうにかなるとして、由綺に断りの電話入れなきゃ…。 ぷるるるるーーー、「もしもし」 「あ、由綺?」 「冬弥君?」 「うん。俺だけど…」 「どうしたの、こんな時間に?」 軽い心配を含んだ、由綺の無邪気な声が少し哀しかった。 「うん。実は明日なんだけど、俺、行けなくなっちゃって…」 「え…? そうなの…? どうして急に…?」 「うん…」 えっと… 謝る 嘘をつく 「ごめん…。俺、明日、はるかと学校に行かなきゃいけなくなって…」 「えっ? 学校の方危ないの?」 「い、いや。そゆんじゃないけど…」 「あ、そういえば由綺は学生課で再登録は済ませたの?」 「うん…」 やっぱり。 「それなんだ。明日までだって…」 「そうなんだ。私、弥生さんに頼んで、郵送で済ませちゃったから…」 ぼうっとしてるみたいで、学校の方もちゃんとやってるんだな、由綺って。 「じゃあ、行かなきゃだめだね。私、冬弥君に教えとけばよかったね」 「そうだね。でも、そんな気にするなよ。俺が見落としてたんだし」 「うん…」 「ちゃんとはるかだって教えてくれたんだし、俺の方は心配ないって感じだよ」 「うん…。そうだよね…」 由綺は安心したみたいに呟いた。 「じゃあ明日は、はるかに冬弥君をお任せしなきゃね」 「…なんか俺がはるかに面倒みてもらってるみたいな言い方だな、それ…」 「でも、明日はそうでしょ?」 「そうだけど…」 「ねっ? あははっ」 「じゃあ私、明日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし…」 確かに笑ってはくれてるけど、やっぱり由綺、演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが俺にはよく判る。 「また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺達は会話を終えた。 話してて胸がひどく痛んだけど、なんとなく安心できる気分になれた。 まさか由綺に、俺の大学生活のことで心配なんか懸けるわけにはいかない。 まして、由綺が俺にしてあげられないことを、はるかが世話を焼いてるなんて知らせたくない。 「ちょっとTV局の方から呼び出しがかかっちゃって…」 「えっ? まさか、私のこととかじゃ…?」 「い、いや。そゆんじゃないと思うけど…」 声の感じから、由綺が完全に俺の言ってることを信じてるみたいだってのが判った。 …あんまり喜べない成功だけど。 「…多分、新しい機材か何かの説明会みたいなもんだと思うけど…」 俺はおずおずといい加減なことを言う。 「…ごめん。こんな急な話で…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 …でも、いくら由綺の為っていっても嘘は嘘だ。 こんなにも信じたまま疑わない由綺が、すごくいじらしく感じられる。 「じゃあ私、明日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし…」 確かに笑ってはくれてるけど、やっぱり由綺、演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが俺にはよく判る。 「また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺達は会話を終えた。 話してて胸がひどく痛んだけど、なんとなく安心できる気分になれた。 まさか由綺に、俺の大学生活のことで心配なんか懸けるわけにはいかない。 まして、由綺が俺にしてあげられないことを、はるかが世話を焼いてるなんて知らせたくない。 「あの…ちょっと局の…TV局…の方から、あの、呼び出しかかって…」 嘘がばれたらいけないって思えば思うほど、俺の声の調子はうわずってゆく。 多分、自分で思ってるほどには慌ててないとは思うんだけど、そう思ってても俺の気持ちは落ち着いてくれない。 「だから…ごめん…」 「そうなんだ…」 納得したように呟く由綺の言葉に、相変わらず明るさは戻らない。 「…それじゃあ仕方ないよね…」 「ごめん…」 「あ、ううん。いいよ…」 少し沈んだ声で、慌てて由綺は言う。 軽く微笑んでるようでも、やっぱりどこかに無理がある。 明るい… っていうには少し悲しい明るさだ。 「じゃあ…また今度ね…」 「うん…。いつか、埋め合わせするからさ」 「うん…。それじゃ…おやすみなさい…」 「おやすみ…」 そして電話は切れた。 瞬間、俺の中に言いようもない不安が湧き上がる。 …気のせいかも知れないけど、たどたどしい俺の嘘は、由綺には通用してないように思えて…。 「悪い、はるか…。代わりに登録してきてくれ…!」 俺は顔の前で手を合わせてはるかを拝む。 「あはははは…。いいよ。行ってきてあげるから…」 「はい」 そんな俺に、はるかは手を差し出す。 え…? 謝礼(お駄賃)…? っても、今、持ち合わせないし…。 あ、そうだ。 「ちょっと待ってて」 「うん」 とりあえずはるか、甘いもの好きだから…。 「はるか、はいこれ」 「………」 はるかに手渡したもの、二枚の板チョコ。 なんか不思議そうに眺めてる。 「チョコだ」 そう。 「あげるから」 「うん…」 よく判らないって顔しながらも、ベストのポケットに収めるはるか。 と思ったら、「はい」 と再び手を差し出す。 「もうないよ、俺の部屋には…」 はるか、そんな要求するなよ…。 「あははっ。違うよ」 「え?」 「学生証と印鑑」 「あ、そうか…」 何ぼけてるんだ、俺…。 「うん。学生証と印鑑」 「じゃあ、悪いけど…」 「いいよ。じゃ、借りてく」 「うん…」 ほんとに、身勝手なこと頼むよな、俺…。 いくら幼なじみだからって、こんなことまでしてくれる義理なんてないのに…。 「それじゃ、おやすみ」 「あ、うん」 「チョコありがと」 「あ…」 俺が照れる間も無く、はるかは出ていってしまった。 ごめん、はるか…。 さて、今日は学校行かなきゃ。 自分のミスとはいえ、情けないな。 「おはよう」 「あれ、もう来てた。早いな、はるかなのに」 「遅れたらまずいから」 「…判ってるよ」 「行こ」 さて…。 出てきたのいいんだけど、はるかって一体、何あげたら喜ぶんだ? 缶ジュースなんか時々おごってあげると喜ぶけど、あんなのじゃだめだろ。誕生日なんだし。 と、結局、俺が買ったのは手袋。 革製のライダーグローブだ。 はるか、こんな寒くなっても普通に自転車乗り回してるからな。 たまにはこういうのも持ってたっていいだろうし。 もっとも、いちいち手袋をする手間を、はるかが嫌がらなきゃの話だけど。 まあとにかく、来週はるかにプレゼントしよう。 この教授の授業は、いつも楽しくて好きだ。 約90分もの時間を飽きさせない授業ってのは、貴重だと思う。 「冬弥ー」 講義室を出たところで、俺は人混みの中から声をかけられた。 「待ってよ。あ、すいません」 その混雑した人の波の中から、なかなか出られずにもがいてるのは彰だった。 優しい顔立ちに相応した性格の彰にとって、人を押しのけて俺のところにたどり着くのは難しいみたいだ。 足を踏んでは謝り、ぶつかっては謝りしてる。 邪魔になってるから早く来いって。 やっと出てきた彼は、嬉しそうに俺に話しかける。 「冬弥、これで授業終わりだよね? 一緒に帰ろ」 「いいよ」 「今日、僕、おじさんの店でバイトに呼ばれてるんだ」 「…それじゃ、帰りに遊んでけないじゃない」 そんな時に俺を誘ってどうする気なんだ、彰は。 そんなことを話しながら俺は彰と、建物の外に向かう学生達に混じって歩き出した。 と、図書館の前まで来た時、「あれ…?」 向こうにいるのは美咲さんだ。 彼女の方もこっちに気づいた様子だ。 「あら、藤井君に七瀬君。偶然ね」 まさか彰、美咲さんがここにいるの知ってて… と、彼の方を見たら、ほんとに驚いた顔してる。 なんだ、ほんとに偶然か。 「美咲さん。これから図書館?」 「うん。でも、今日は趣味で」 「そういえば、七瀬君も?」 「俺達、これから帰るとこだけど…」 「あっ、そうか」 いきなり彰が横で声を上げた。 (話してるのは俺だって) 「忘れてた。今日、ほら、図書館に雑誌入る日じゃない」 「うん。…あ、あれか」 彰はこんな性格ながら、実はミステリマニアだ。 大学の図書館が月刊のミステリ専門誌を定期購入してるから、彰は毎月一度は必ず図書館を訪れる。 だけど、今日に限ってこんな感じだ。 「あー…。失敗した…」 「雑誌くらい、買えばいいんじゃないの?」 「だって、高いんだもの。それに、好きじゃない作家の特集とか組まれてたら、嫌じゃない?」 「そんなもん?」 「そんなものなの」 なんだか、ぜいたくな男だなあ。 推理小説なんて、どれだって同じなのに。 「忘れてた彰が悪いんだ。明日にしろよ」 「うん…」 「?」 美咲さんが首を傾げてる。 そこで、俺は彼女に、彰が今日はバイトで遊べないってことを説明した。 図書館に新刊が入るのを忘れてたってことも一緒に。(できるだけ面白く) 「そうなんだ…」 「今月は、ガードナーって人の特集じゃなかった?」 「えー…」 「ペリイ・メイスンの人だっけ?」 「あ、美咲さん知ってる。でも僕、法廷ものってちょっと苦手…」 「そうなんだ。くすっ。不幸中の幸い…?」 軽くからかうみたいに笑って、美咲さんは彰を慰める。 こういう彰って、ほんとに『不幸中の幸い』な男なんだよな。 「仕方ないよね。あはは…」 彰も単純に笑ってる。 ほんとに小さな幸せ男だ。 ペリイメイスンがどうしたっていうんだ、大体。 ていうか、何だそれ。 …まあいいけど。 「そういうことだから、ほら、彰、早く行かないと遅れちゃうよ」 つい、俺は意地悪がしたくなる。 「せっかく美咲さんもいるのに、ゆっくり遊ぶなんてできないな。彰は」 「『彰は』なんて、強調しなくたっていいじゃない」 「してないしてない。ま、俺は遊んで帰れるけどね」 こういう彰は、からかってて面白い。 「くすっ…藤井君…」 俺と彰の会話の深い部分(深くもないか)に、意味も判らず、困ったみたいに美咲さんは笑ってる。 「じゃ、私は図書館行くから…」 ええと…。 どうしようか? 美咲さんと図書館 彰と帰る 「あ、やっぱり、俺も美咲さんと図書館寄ってく」 「えー…」 「なんだよ…。そんな、やな顔しなくたって…。そんなに俺と帰りたかったわけ?」 「なわけないじゃない。美咲さん、きっと迷惑してるよ」 嫌なこと言うよなあ。 「私はいいけど…」 俺と彰の複雑な男の友情(複雑でもないか)に、今度はとまどう美咲さん。 「ほら、美咲さんは来て欲しいって言ってる」 「そんなこと、一言も言ってないじゃない」 「ね、美咲さん?」 「え?」 「え…?」 さらに困ってゆく美咲さん。 ひょっとしたら彰も、結構楽しんでるのかも。 「美咲さんもさ、あんまり一緒にいると、とうやがうつるからね」 「うつるかそんなの!」 そんなの…って、俺、自分のこと…。 「うん…」 みろ、美咲さんに笑われた。 「と、とりあえずがんばってね、七瀬君」 「あ、はあい…。じゃあね、冬弥」 「じゃあね」 帰っちゃった。 ほんと、運が悪いよな、彰って。 彰に気を遣ってバイトを代わっても… なんて、そんなおせっかいはしないけどね。 「…仲良いんだね、藤井君と七瀬君って」 「ま、まあね…」 彰といくら仲良くったって、あんまり嬉しいって気もしないんだけど。 美咲さんはくすくす笑ってる。 「じゃ、図書館、行きましょ」 「うん」 「それじゃ美咲さん、がんばって」 俺は彰の横で、美咲さんに手を振った。 「うん。気をつけてね」 そして、美咲さんは図書館に消えていった。 「…なんだ。美咲さんと行くんじゃなかったの、冬弥?」 「え? ああ…。美咲さん、忙しいみたいだったし」 「それだったら、手伝ってあげたってよかったじゃない」 「えー…」 友情を選んだのに…。 男のくせに複雑なやつだな、彰は。 「じゃ、僕ここで」 「あれ? 店にまっすぐ?」 「うん。家に帰ったら面倒だしね」 それもそうだな。 「でも、冬弥と遊びたかったな…」 まだ言ってる。 この大学ももう少しで学園祭だ。 広場では特設ステージの為の機材が運ばれてるし、演劇部や声楽部の練習の声にロッ研やジャズ研の音が入り混じって、構内は何かと慌ただしい。 俺は、とりあえずどのサークルにも入ってないんだけど、このお祭りの雰囲気は大好きだ。 おかげで最近の授業も、なんとなく閑散としてる。 授業を終えて講義室を出ると、ちょうど女の人が通りかかった。 「あら、藤井君」 「あ、美咲さん。美咲さんも授業だったの?」 「…ううん、ちょっと」 ふと見ると、美咲さんは後ろ手にラップトップタイプのワープロを持ってる。 「あ、何かレポートとか…?」 「そういうわけじゃないんだけど…」 「…うん…そうだね…。藤井君に少し相談してみようかな…」 「相談?」 美咲さんの方から相談なんて珍しい。 「今日、これから時間があったらでいいんだけど…」 どうしようか…。 いいよ ごめん 「あ、いいよ、今ちょうど授業も終わったところだし」 「本当? どうもありがとう」 「ごめんなさい、でも、時間取らせちゃうかも知れないよ…」 「いいって、そんな。じゃあ、今から喫茶店でも行こうよ。ちょっと今日は学校、一日中ずっとうるさそうだしね」 「ええ」 俺は美咲さんを連れて学校を出た。 もう昼下がりで、普段から客の少ない店内には客の姿もなく、店の中は一層がらんとして見えた。 光採りからの午後の陽光が、空間を霞んだように演出してる。 「…それで、相談って?」 「うん…」 「ええと…」 美咲さんは、ワープロを持ってみたり鞄を持ってみたりと、何から始めようかと一通り慌てた。 「判った、俺も手伝うよ。美咲さんにいつも面倒みてもらってるし、こんな時くらい俺も何かしないと」 うん。 演劇部の図々しさには頭くるけど、美咲さんの手伝いができるって思うと、なんとなく嬉しい。 「えっ…?」 「…いいの…?」 「もちろん」 「…ごめんなさい。いろいろと巻き込んじゃって…」 「多分、明日か明後日には結果が判ると思うから、一応連絡するね」 「でも、藤井君も学園祭とかで忙しいんじゃなかったの?」 「あはは、大丈夫、俺は暇だから」 俺は気楽に笑う。 「…ありがとう。…藤井君って、ほんとに優しいね」 「いや。だ、だってほら、俺、美咲さんの後輩だし…」 冗談混じりに言いながらも、照れくさくなってくる。 「…じゃあ私、一度学校に戻って、この原稿届けてくるね」 「本当は明日でも良かったんだけど、藤井君に褒められたら、なんだか私、すぐに人に見せたくなっちゃって…」 そして、美咲さんは足早に喫茶店を出てってしまった。 なんだか美咲さん、すごく嬉しそうだったな。 あれだけ面白いものを書けちゃう人でも、褒められるとやっぱり嬉しいんだ。 問題はあれを、演劇部の連中が評価するかだ。 まあ、大丈夫だろうけど。 それからしばらく、一人で夕方の光を楽しんで、客が入り始める頃になって俺は店から出た。 「あ、ごめん…。俺、そういうのって力になんてなれないって思うから…」 俺は美咲さんに頭を下げる。 「えっ?」 「あっ、ううん。別に私、手伝ってとか、そんなつもりで言ったんじゃなくて…」 「…それに藤井君、力になれないなんてこと、ないと思うから…」 「そ、そうかな…?」 「頼りになる人だって思うよ、私…」 そんなことないよ…。 だって俺、自分の恋人にさえ何もしてあげられないみたいな男だし。 それに今だって、美咲さんの頼みもきけないでいるし。 美咲さんに『頼りになる』だなんて…。 「あ、でも、これは別。これは私だけでどうにかなると思うから」 「ごめん、美咲さん」 「いいのよ。大丈夫」 優しく美咲さんは微笑んでくれる。 ほんとに優しい人だよな…。 「…じゃあ私、一度学校に戻って、この原稿届けてくるね」 「本当は明日でも良かったんだけど、藤井君に褒められたら、なんだか私、すぐに人に見せたくなっちゃって…」 そして、美咲さんは足早に喫茶店を出てってしまった。 なんだか、ほんとに頼りないんだな、俺って…。 美咲さんの方が、よっぽど頼りになるって感じがするよ。 そんな時に、店内BGMに由綺の歌がかかってたことに、ふと気づいた。 由綺…。 こんな俺が、由綺に、一体どんなことをしてあげられるっていうんだろう。 やがて由綺の歌は終わり、別の曲に切り替わる。 俺は、しばらく一人で何曲か音楽を聴いて、客が入り始める頃になって店を出た。 「あ、ごめん…。今日、俺ちょっと用事あって…」 「そうなんだ…」 「あ、ううん。いいよ、それじゃ」 美咲さんが人に何か頼むなんて滅多にないことだから、何か重大なことだと思ったけど、別にそうでもなかったのかな? 「一人ででも、どうにかなると思うから…」 「そ、そう? …ごめん、美咲さん。手伝えなくて」 「あっ、いいのっ。そんな大変なことじゃなかったからっ」 そう言って美咲さんは、ひどく照れて行ってしまった。 …でも、美咲さんの相談って、どんなだったんだろうな…。 今日は珍しく、遅くまできっちりと授業を受けて帰った。 ぷるるるるーーー。 電話だ。 「はい、藤井ですけど」 「夜分に失礼いたします。藤井冬弥様のお宅でしょうか…?」 「はい。冬弥ですけど…」 「私、澤倉と申しますが」 「あれ? 美咲さん? いきなり丁寧な言葉遣うから、誰かと思っちゃった」 「くすっ、ごめんなさい。…それで、演劇部のことだけど…」 「どうなった?」 「うん。おかげであの脚本、使われることになったみたい。どうもありがとう」 俺、何もしてないんだけどね。 何にしても、よかった。 「それで、今度は衣装の方なんだけど、藤井君、大丈夫かな…?」 「大丈夫だよ。そう言ったじゃない」 「ありがとう…。じゃあ、明後日の夕方頃に藤井君の部屋に行くね。…いい?」 「え? 俺の部屋に?」 「うん…。私の家にわざわざ来てもらうわけにもいかないし…」 美咲さんは家族と同居してる。 夜中に意味不明な作業をしてて、家の人によけいな心配を懸けるのはまずいだろう。 「判った。うん、別にいいよ。…散らかってるけどね」 電話の向こうで、軽い笑いが聞こえた。 「ごめんなさい。よかった。じゃ、お邪魔しますね。それじゃ、おやすみなさい」 そして電話は切れた。 …美咲さんがここに来るなら、少し掃除しておいた方がいいかな。 俺は部屋を見回した。 考えてみれば、この部屋に入ったことのある女の子って、由綺しかいないんだよな…。 ピンポーーーン。 「はーい」 ドアを開けると、両手に紙袋を持った美咲さんが立ってた。 「こんにちは、藤井君」 「わざわざご苦労様。上がって。ちょっとは片づけたから…」 「…はい、お邪魔します」 「あ、結構広い部屋なんだ…」 美咲さんは、感心したように俺の部屋を見回す。 「あ、よかったら、座って。やっぱり荷物多かったね」 「やっぱり俺が美咲さんとこ行った方がよかったかも…」 「ううん。中身は紙とかばっかりだから、見た目ほど重くはないの」 「紙?」 「ま、まあ、一応、あるみたいな感じだけど…」 「由綺ちゃん…?」 「え…? ええ、まあ、そんなみたいな感じ…」 俺は恥ずかしくなって、曖昧すぎてなんだか意味の判らないことを口走る。 「…手伝わせておいて恥ずかしいけど…これ…」 美咲さんは鞄の中の封筒から、細長い紙切れを取り出した。 『悠凪大学演劇部・御優待券』 「…これは…?」 「…学園祭の時の、舞台の招待券…。今日、印刷が仕上がったからって、何枚かもらったの」 「もし、藤井君が誰かと学園祭に行くんだったら、その分もあげようかと思って…」 そこには俺の言った通りに、漢字一文字のタイトルが印刷されていた。 …でも、何て読むんだろう? 「あ…うん…」 俺が言いよどんでると、「はい、由綺ちゃんと藤井君の分…」 と二人分のチケットを俺に差し出した。 「来られたら、ちゃんと観に来てね…」 「う、うん…」 ちょっと複雑な気分で俺はそれを受け取った。 「…それじゃ、今日は手伝ってくれてどうもありがとう」 「あ…、今のとこ誰とも…」 「…手伝わせておいて恥ずかしいけど…これ…」 美咲さんは鞄の中の封筒から、細長い紙切れを取り出した。 『悠凪大学演劇部・御優待券』 「…これは…?」 「…学園祭の時の、舞台の招待券…。今日、印刷が仕上がったからって、何枚かもらったの」 「もし、藤井君が誰かと学園祭に行くんだったら、その分もあげようかと思って…」 そこには俺の言った通りに、漢字一文字のタイトルが印刷されていた。 …でも、何て読むんだろう? 「あ…うん…」 俺が言いよどんでると、美咲さんは少し目を逸らして、「私も舞台裏とかで観てると思うから、もしよかったらだけど、遊びに来てみて…」 「うん…」 「…藤井君には、こんなに手伝ってもらったんだもの。少しは演劇部の人達に感謝してもらわないと」 「そんな、いいよ…」 「ふふふ…」 美咲さんは困ったみたいに微笑んだ。 「…それじゃ、今日は手伝ってくれて、どうもありがとう」 「お疲れ様、美咲さん。俺、駅まで送るよ」 「うん…。ありがとう…」 終電の来る10分くらい前に俺達は駅に着いた。 「…今日は本当にありがとう。その上、ここまで送ってもらって」 「美咲さん、いつも誰かの為に熱心だから、たまにはね」 「ううん。藤井君、とっても優しいよ…」 照れたみたいに言葉を濁して、そして再び顔を上げた。 「それじゃあ、また明日。…寒いから、風邪ひかないように帰ってね」 「うん」 俺に優しい言葉をかけて少し微笑むと、彼女は駅舎の中に消えていった。 ポケットに入れてきた、演劇のチケットを取り出して、少しだけ眺めた。 そうだ。 美咲さんに断りの連絡入れなきゃ。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉です」 「美咲さん? 冬弥です」 「あ、藤井君? どうしたの? 今、帰ったの?」 「いや…。あの、美咲さん…」 「はい?」 「あの…手伝うって言ってたことだけど…」 「うん…」 「ちょっと、行かなきゃならない用事ができちゃって…」 「そう…なんだ…」 美咲さん、やっぱりがっかりしてる。 「ごめん…。急な話で…」 「あ、いいのよ。藤井君が断れなかった用事なんでしょ?」 「うん…」 「だったら仕方ないわよ。今回は私も藤井君に無理言ったみたいなものだし」 「でも、手伝うなんて言っちゃって…」 いくら悪いなって思っても、今はどうしようもないんだけど…。 「大丈夫。私、やれるだけやってみるから」 「うん…」 明るい口調だけど、こんな時の美咲さんって無理してるんだよな、結構。 ほんとに悪いとは思うんだけど、でも…。 「ほんとにごめん。今度、何かで埋め合わせるから」 「いいのよ、ほんとに。藤井君こそ、忙しくて大変なんだからがんばらなきゃ」 「うん…」 「それじゃ、また今度ね。おやすみなさい」 「うん…。おやすみ…」 そして電話は切れた。 すごい人出。 たかが一大学の学園祭とはいっても、これはこれで立派なイベントだ。 学生達の手によるアトラクションやフリーマーケットなんかは、かなり堂に入ってる。 ステージには学生達のアマチュアバンドの他に、売れ初めの歌手なんかも立つ。 果ては、うちの教授陣と著名な社会学者との対談なんて催事までも用意されてる。 つまり、様々な種類の趣味人(遊び人か)達がそれぞれの目的で集まれるような仕組みになってるんだ。 学園祭の面白い大学のうちに数えられてるって話も聞くし、うちの学校。 と、演劇部の公演は…。 あ、見つけた。 小さめの講堂に装飾を施して、なんとなく良い雰囲気を出してる。 俺はジャケットのポケットに手を入れ、細長いコート紙を取り出した。 美咲さんにもらったチケットだ。 あの時読ませてもらったストーリーが、舞台の上で演じられる。 別に俺が書いたわけでもないのに、なんとなくどきどきする。 「あれ、冬弥?」 突然、俺は後ろから誰かに肩を叩かれた。 俺はびくっとしながら後ろを振り返る。 「あははは。やっぱり冬弥だった」 背後の人混みの間から笑ってたのは彰だった。 「やっぱり冬弥も観に来るよね。美咲さんが脚本書いてるんだもの」 「まあね…」 なんだ、彰も知ってたのか。 「でも、一回目の公演から気づいて来てくれるなんて、冬弥もいいやつだよね」 「僕も昨日初めてそれ知って。今日は早めに家を出てきたんだ」 …感心な男だなあ…。 と突然、彰が頭を上げた。 「…あ、美咲さん」 「来てくれたんだ…。七瀬君も一緒に…」 「…じゃあ、七瀬君も知ってるんだね」 どうやら美咲さんは、俺が彰を誘ったと思ってるみたいだ。 「うん。今回のって美咲さんが書いたんだよね、脚本」 「それ楽しみに来たんだ、僕」 「くすっ。ありがとう。…でも」 「私もリハーサルとか観てるわけじゃないから、ちょっと恥ずかしいの…」 「もう少しで始まるみたい。じゃ、中に行きましょ」 「うん」 彰は嬉しそうに美咲さんの横に立って歩き出す。 「…今度、何か手伝えることがあったら言ってね。僕、手伝うから」 「う、うん…」 そして美咲さんは一瞬俺を見て、でも何も言わないで建物に入っていった。 公演中 「…すごかった」 講堂から出てくるなり、俺は呟いてしまった。 「あんなに迫力ある舞台になるなんて…」 「私もびっくりしちゃった…」 実際、素晴らしい公演だった。 初回公演ってことでのぎこちなさや、演技の未熟さは確かに目立ってたけど、美咲さんの脚本を何のケレンも差し挟まずに、完璧に再現してた。 俺は演劇部の連中を、いきなり見直してしまった。 「私も、あんなすごいのになるなんて、自分でも…」 「やっぱり演劇部の人達って、すごいねー…」 「なに人事みたいに…。美咲さんの脚本だよ、これ」 「…そんな…。恥ずかしい…」 「…………」 今まで何も言わずにうつむいていた彰が、顔をいきなり上げた。(一緒にいたの忘れてた) 「…先輩」 その顔は真っ赤だ。 「…美咲先輩、僕、感動しました…」 「…あんな、あんなストーリーを、僕に、見せてくれるなんて…」 …まずいなあ。 彰、本気で感動してる…。 感動する分にはいいんだけど、感動しすぎると時々ほんとに泣くんだ、彰は。 「…そんな、七瀬君。…本を参考にして書いたんだから、そんなにすごくないわよ…。ちょっと図書館で読んだだけで…」 「ぼ、僕にもその本教えて下さいっ」 俺は配られてたチラシを頼りに、演劇部の特設舞台を探す。 …あ、見つけた。 あれだな…。 講堂に装飾を施して、なんとなく良い雰囲気を出してる。 と、でも…。 どうしたんだろ、これ…。 まだ開幕までには時間があるってのに人が溢れてる。 …観客か、それとも関係者…? どっちにしろ、今までになかったことだ。 俺はジャケットのポケットに手を入れ、細長いコート紙を取り出す。 美咲さんにもらったチケットだ。 だけど、ほんとにこのチケットだけで、この人混みの中に潜り込ませてくれるのかな。 俺はちょっと不安になりながら、人の群の中に入り込んでいった。 その時、誰かに声をかけられた。 「藤井君?」 「え?」 「藤井君。こっちよ、こっち」 俺はとりあえず人混みから抜け出て、改めて辺りを見回した。 「ここ、ここ」 講堂の奥の方で誰かが手を振ってた。 あれは… 美咲さんだ。 「やっぱり、藤井君だった」 「…こんなだから、見つけられないかと思っちゃった」 「…ほんとに、すごいことになってるね…。どうしたの、これ?」 「うん…」 美咲さんの頬が少し赤らむ。 「あの時読んでもらった脚本、あれ、すごく上手に演出されてて、知らないうちに口伝てで人気が出ちゃって…」 「今、こんな風なの…」 すると、あれは全部観客か。 すごい…。 「演劇部の人達にも、すごくお礼言われちゃって…」 「そりゃそうだよ。美咲さんのあの脚本でここまで運んだみたいなものだし」 「…そんなことないわよ…。最終的なところは演劇部の人達がまとめたんだし…」 「でも、こんな大成功は初めてだって。みんな喜んでるみたい」 自分が演劇部ってわけでもないのに、美咲さん、自分のことみたく喜んでる。 「…でも、ごめんなさい。この調子だと、とてもじゃないけど、落ち着いて観るなんて、できそうもないわね…」 美咲さんは、ちょっとがっかりしたように肩を落とす。 その時、建物から誰か女の人が出てきた。 演劇部員みたいだ。 「あれ、美咲? こんなとこいたの? …もうすぐ始まるよ、舞台」 言いながら彼女は、俺の方にも気づいた。 「あ、この人ね、いろいろ手伝ってくれたって殊勝な彼って?やっと来てくれたんだ」 「演劇部の方からもお礼言っとくね。おかげ様でこの調子よ」 なんだかテンションが高くなってるみたいだ。 まあ、それもそうか。 「ほら、美咲。せっかく彼来てくれたんだから、席の方連れてったげたら?」 「…でも、もう、席はいっぱいだし…」 「あ…そっか。まさか他のお客さんを蹴りどかすわけにもいかないし…」 とんでもないこと言い出したぞ…。 「あ、そうだ。二階の張り出しからじゃどう?」 「…え? あの、照明に使ってるとこ?」 天井桟敷 てんじょうさじき みたいで、ロマンティックかもよ」 そして、意味ありげにくすっと笑った。 「…でも、照明の人達の邪魔にならないかな?」 「うーん、それは行ってみないと判んないけど。 でも、立ち見はちょっと止めた方がいいかも。 …結構汗くさいよ、あんだけいると」 「っと、あ、そろそろ戻らなきゃ」 そして彼女は建物の方に駆けていってしまった。 「…どうしようか、藤井君?」 「二階の張り出しって? …この講堂に二階なんてあったっけ?」 「二階じゃないんだけど、一番後ろの壁に手すりのある張り出しがあるの。そこを照明台にしてるから…」 ぷるるるるーーー。 電話だ。 カチャ。 「はい、藤井ですけど」 「…あの、私、澤倉と申しますが…」 「あっ、美咲さん! 怪我は大丈夫!?」 俺は思わず大声になってしまった。 「うん、平気…。ただの捻挫だって…」 「しばらくは外歩けないけど、学校の方には許可も取ったし、少しゆっくりできそう」 いつもの美咲さんの口調に、俺はちょっと安心する。 「…本を読むくらいしかする事なくって、ちょっと退屈しそうだけど…」 そのはにかむ様子まで、伝わってくるみたいだ。 「任せてよ、美咲さん。暇だったら、俺、話し相手になるからさ」 「ふふっ。ありがとう…」 よかった。 ほんとに元気みたいだ。 「…それと、藤井君…あの時はごめんなさい…」 「あの時…?」 「…あの…講堂で…私…」 あ…あのこと…。 どっちかっていうと、俺の方が謝らなきゃいけないんじゃないかな…。 「…私…そんな…あんなこと…するつもりは全然……全然じゃないけど…その…そんなつもりは…あの…」 「…ごめんなさいっ!」 「あ、あの…」 俺が何か言いかけると、電話は切れてしまった。 「ねえ冬弥、知ってる? 美咲さん、学園祭で怪我したんだって」 いきなり彰が、俺のところに駆け寄ってきた。 しまった。 まず彰に話をしとくべきだった。 あんまり興奮させないうちに。 「あ、うん…そうみたいだね…」 「『そうみたいだね』って…。冷たいなあ…」 「…大丈夫かなあ、美咲先輩…」 「そうだ、一緒にお見舞いに行こうか?」 子供みたいに真剣な目で必死に言う彰。 どうやら手遅れみたいだ。 人前ではあれだけ平静を装えるやつなのに、俺の前ではその興奮や感動は包み隠そうともしない。 「…捻挫で家にいる人のところに、お見舞いって…」 とにかく美咲さん、あんまり騒がれるの好きじゃなさそうだから、俺も知らないふりして、大したことじゃないって思わせよう。 「捻挫…? 冬弥、知ってたの?」 いきなりバレた。 「あ、うん。ちょっとね…」 「それより彰、そんな大袈裟にしたら美咲さんが可哀想じゃない?」 「…そうかなあ…。家から出られないんだって聞いたよ…。退屈じゃないかなあ…」 「それなら電話してあげたらいいんじゃない? …結構喜ぶかも」 「あっ、そうか」 目を輝かせる彰。 「そうだよね、そうすればいいよね」 「…そうだよね、冬弥。美咲さん、喜ぶよね…」 照れたようにうなだれたと思うと、「いきなり呼び止めてごめんね。…ちょっと気が動転して…」 そう言って恥ずかしそうに笑って、どこかに歩いていってしまった。 その後ろ姿を見ながら、それは少し胸が痛んだ。 あ、そうだ。 美咲さん、今ごろ家で退屈してないかな。 電話…してみようか…? 電話する しない 美咲さん、退屈してるかも知れない。 電話かけてみよう。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉ですけど…」 美咲さん本人だ。 「美咲さん? 俺です、藤井」 「藤井君? わざわざ電話してきてくれたんだ…」 「うん。退屈してないかなとかね。電話するって言ったしね」 「ありがとう。…この前はごめんなさい。急に電話切っちゃって…。びっくりさせちゃった?」 「あ…うん。ちょっとだけだけど」 「…自分でも気づかないうちに、意味の判らないこと 言っちゃってて…急に恥ずかしくなって…それで…」 「…いいよ、美咲さん。…そんな、俺だけ特別みたいなのってやっぱ変だし」 「…ごめんなさい…」 できるだけ明るく言ったつもりだったけど、やはり美咲さんの声は少ししゅんとしてる。 「もお。そんなこと言わないで、美咲さん。俺、美咲さん大好きだもの。殴られたって刺されたって全然平気」 大袈裟か。 「ふふ…」 だけど、電話の向こうでかすかに美咲さんが笑った。 「そりゃまあ、できれば、されたくはないけど。でも俺、美咲さんが学校に来るの、ほんとに待ってるからさ」 「うん…大丈夫。そんな大した怪我じゃないから」 「松葉杖使えば学校に行けないこともないんだけど、ちょっとだけ、学校、さぼってみたかったの…」 そして悪戯っぽく笑う美咲さん。 「うん、ありがとう。わざわざ電話してくれて…」 「あ、美咲さん…」 言わないでおこうと思ってたけど、つい呼び止めてしまった。 「え…?」 「あの…俺、美咲さんと…その……キス……した時、すごく…嬉しかった…から…」 「だから、そんなに、気にしないでよ…」 「…うん…」 電話の向こうから、照れたみたいな曖昧な答が返ってきて、そして静かに切れた。 その返事の意味が判らず、俺はちょっと困った。 ちょっと、嬉しくなりながら。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「澤倉ですが…」 「美咲さん? 冬弥です」 「藤井君? あ、また電話してくれたんだ」 「うん。…美咲さん、今、よかった?」 「うん…。…退屈で、本読んでたとこ」 「そうなんだ、よかった」 そして俺は、今日の出来事なんかをだらしなく話したりした。 そんな話すらも美咲さんは、割と楽しそうに聞いてた。 「…うん。それじゃあ、また電話するから」 一通り会話を終えて、あんまり長電話になるのもかっこ悪いなとか思いながら、俺はそろそろ切り上げようとした。 「あ…そうだね。ごめんね、長々と話しちゃって…」 「そんな、いいよ」 逆に美咲さんに謝られると、また俺の立場がない。 「早く学校で会えるといいよね、美咲さん。またみんなでコーヒーでも飲みながら」 「…うん」 向こうで美咲さんが照れて笑ってる。 「…私……あと少しで普通に歩いて平気って言われたの…」 「今月の8日から学校へも行こうって思ってるし…。だから、すごく楽しみで…」 「ほんとに? よかったじゃない」 「ふふふ…ありがとう。…それじゃ、またね、藤井君」 「それじゃ」 そういえば、明日から美咲さんが学校に来るんだっけ。 大丈夫かな。 一緒に行ってあげたりした方がいいかな。 ちょっと電話してみようか? 電話してみる 電話しない そうだな、電話してみよう。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉です」 「冬弥です、美咲さん」 「あ、藤井君。…電話してくれたんだ……嬉しい…」 「え?」 「ううん、なんでもない…」 「でも、ありがとう。藤井君の電話のおかげで、家にいる間も全然退屈しなかったよ」 「ほんとに? よかった。でも、明日から学校行けるんだし、もう退屈の心配もないね。電話じゃなくて、ほんとに会えるんだから」 「…うん。…そうだね」 照れてる。 明日から学校にか…。 でも、治りたてで大丈夫かな。 「そうだ。俺、駅まで迎えに行こうか? …なんか、まだ心配だし」 「え…?」 小さな驚きの声を上げる美咲さん。 「ほら、学校まで一人で行くってのもさ…」 「…うん。ありがとう。…でも平気。そんなに大袈裟な怪我じゃなかったし…」 「いいよ、俺、迎えに行くから」 「午前から出るんだよね? じゃあ、いつもの時間に駅前で待っててよ。行くから」 「……………」 「美咲さん?」 「あ…。うん…ありがとう…。じゃあ、待ってる…」 美咲さんの声は消え入りそうだ。 吐息が微かに言葉に混じる。 「うん」 「……藤井君…」 「ん?」 「…優しいんだね…」 「そうかな? …照れるよ、そんな」 「…うん、待ってるから…」 そして電話は切れた。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉ですけど…」 「美咲さん? 俺、藤井です」 「藤井君? わざわざ電話してきてくれたんだ…」 「うん。退屈してないかなとかね」 「ありがとう。でも結構大丈夫だよ。…明日から学校にも行けそうだし…」 「あ、そうなんだ。よかったじゃない。…また、学校で会えるね」 「…うん。…なんだか照れるね…。そんなに長い間会ってないわけじゃないのにね…。ふふ…。ちょっと恥ずかしい…」 元気そうに笑う美咲さん。 彼女の声を聞いてると俺まで安心できてしまう。 「そんなに照れなくてもいいよ。…学校で会っても、俺、別に普通にしてるからさ」 「あはは、そうだね。…うん、それじゃ、また学校でね…」 「そうだね。学校で会えたら、また前みたいに遊んでね」 おどけて言う俺に、美咲さんはくすくすと笑う。 「うん。その時にでも、ゆっくりお話したいね…。それじゃあ」 「それじゃ」 そして俺達は電話を切った。 今日は美咲さんが学校に来るんだ。 駅まで彼女を迎えに行かなきゃ。 美咲さん、本当に大丈夫なのかな…。 でも、なんかわくわくする。 なんて、怪我した美咲さんには悪いか。 「あ、冬弥。偶然ー…」 聞き覚えのある声に、背中を叩かれた。 「あれ? 彰? なんでここにいるわけ?」 彰の家は、この伊吹町駅よりもずっと大学に近くで、彼は自転車通学してるはずだ。 「『なんで』ってひどくない? 僕、これから授業に出るんだからさ。冬弥もそうなんでしょ?」 「あ…ああ…」 「そんなに不思議? 前に言ってたじゃない」 「僕、今、免許取るために教習行ってるって。朝一で行ってきて、これから学校に行くとこなの」 「免許?」 俺は思わず声を上げる。 「免許って、車の?」 「…あ、冬弥、全然覚えてない」 「前に言ったじゃない、二輪だよ、バイク」 「二輪? 彰が?」 俺は吹き出す。 「あっ、また。前に言った時も笑ったのに。なんで二回も笑われなきゃいけないの? そんなに僕って、バイク似合わない?」 「い、いや、ごめん。そんなことない、そんなことない。似合う似合う」 「…でも、二人乗りで後ろで誰かにしがみついてると、もっと似合う」 そして大笑い。 「もお! いいよ! バイク買っても、冬弥には見せてあげないからさ!」 「ああ、ごめんー。すねるなよー…」 「じゃ、僕、自転車だから先に行くね」 あ…。 今日、美咲さんが学校に来るって彰に教えた方がいいかな…? どうしようか? 彰に教える 「それじゃ」 「それじゃ…」 俺は、彰には教えないことにした。 ちょっと悪いことした気分…。 俺は、すぐに人混みの中に美咲さんの姿を見つけた。 ちゃんと、待っててくれたんだ。 「美咲さーん」 手を振ると、美咲さんはこっちに気づいて、にこりと微笑んだ。 「あ、待てよ、彰」 俺は、行こうとしてた彰をふと呼び止める。 「ん? なに?」 立ち止まる彰。 「二人乗りさせろなんてのは、やだよ。冬弥、重いんだもの。冬弥がこいでくれるんだったら、別にいいけど」 「なに言ってるんだよ。そんな話じゃないよ」 「じゃ、なに?」 彰はこちらに向き直る。 「彰、知ってるかも知れないけど、今日から、ほら、美咲さん学校来るだろ?」 「うん、知ってるよ。美咲さんに聞いたもの」 「なんだ、やっぱり知ってたんだ?」 「よかったよね」 「うん…」 無邪気に笑う彰を見て、俺はちょっと罪悪感を感じた。 彰、ほんとに美咲さんのことを想ってるんだ…。 「…で、俺、心配だから美咲さん迎えに行くんだけど、彰も一緒に行かない?」 「えっ?」 「迎えって、家まで?」 「ばか言うなよ。大袈裟だって。この駅で待ち合わせてるの」 「あ…そうなんだ…」 彰、思ったより喜んでない。 「…うん…冬弥、行ってあげてよ」 「え…? なに、彰? 行かないわけ?」 「…だって、僕、そんな話聞いてなかったもの。美咲さん、きっと冬弥と行きたいんだよ」 …すねた? いい歳して、また…。 俺はすねる彰を引き寄せて、こめかみを両手でごりごりしてやった。 「何いじけてんだかな、彰くぅん?」 「人がせっかく教えてあげてんのに、そういう態度は納得いきませんねえ俺的にー…」 ごりごり。 「いたたたた。い、痛いよ、冬弥。離してよ」 ああ、もう。 本気で泣きそうな顔するなよ。 「彰に質問。美咲さんは、こんな友達想いのボクを軽く誘惑するような、悪い女の子ですか?」 ごりごり。 「ちっ、違っ」 「じゃ、なに?」 「やっ、優しい先輩…」 「そんだけ?」 ごりごり。 「やっ、優しくて綺麗でおとなしくて、お姉さんになってもらいたいような先輩です…っ」 …彰、こんなことまで考えてたのか…。 そこまでは言わなくてもよかったんだけど、まあいいや。 すごく正直だったから、離してあげよう。 「…そうだよね、ごめん」 「美咲さん、そんなことしないよね。…冬弥だって、そんなこと考えないし」 「…あはは、僕一人、なに考えてたんだろ?」 彰は顔を真っ赤にして、それでも嬉しそうに笑った。 「うん、やっぱり僕も一緒に行くよ。…待ってて、自転車取ってくるから」 俺はその間に美咲さんを探す。 あ、いたいた。 「美咲さーん」 手を振ると美咲さんはこっちに気づいて、にこりと微笑んだ。 「あ、藤井君…」 「ごめんね、わざわざ…」 「いいよ。別にわざわざじゃないから。途中で彰とも会って、一緒に来てるんだ」 「ほんとに?」 「…なんだか、私、恥ずかしいな…」 「いいじゃない、別に。もててるんだよ美咲さん。お姫様みたい」 「も、もう…藤井君…」 照れる美咲さんは、もう言葉に詰まり始めてる。 「なに美咲さんいじめてんのさ、冬弥」 「美咲さん、久しぶりー」 出た。 天使の笑み。 イノセントスマイル。 なにが『久しぶりー』だ。 さっきまでいじけてたくせに、この男は。 「美咲さん、彰の顔、覚えてないって」 「えっ?」 …やめとこう。 あんまり大袈裟に騒がれるのって、美咲さん、好きじゃないもんな。 明日とか学校で会ったら普通に『おはよう』とか言うのが一番なのかも。 何にしても、美咲さん、足が良くなってよかった…。 「ねえ冬弥、知ってる? 美咲さん、学園祭で怪我したんだって」 いきなり彰が、俺のところに駆け寄ってきた。 「え? 美咲さんが…?」 あの美咲さんが学園祭で…? 「怪我ってどういうことさ、彰?」 「うん…。僕もちょっと聞いただけだから、よく判んないんだけど」 「なんか、演劇部を手伝ってたみたいで、多分、その作業中にでも何かあったんだろうって思うんだけど…」 「演劇部…?」 そんな、美咲さん、別に演劇部とかと全然関係ないのに…。 美咲さんのことだから、学科の友達か誰かに手伝いを頼まれて、嫌って言えなかったんだろう。 …そのおかげでこんな目に遭っちゃうんだから、ちょっと理不尽な話だよな…。 「…大丈夫かなあ、美咲先輩…」 「そうだ、一緒にお見舞いに行こうか?」 子供みたいに真剣な目で必死に言う彰。 人前じゃあれだけ平静を装えるやつなのに、俺の前ではその興奮や感動は包み隠そうともしない。 「うん…。でも、怪我ってひどいのかな…?」 「判んない…」 「病院とか聞かなかったの?」 「入院してるなんて決まってないじゃない…!」 なんて怒ってみてから、「…してるのかなあ…?」 「判んないけど…」 あ、そうだ。 「じゃあさ、自宅の方に電話してみたらいいじゃない?」 「もし入院なんてことになってても、病院判るじゃない?」 「あ、そうか」 「そ、そうだね…」 彰、それも思いつかなかったのか。 よっぽど、気が動転してたんだな。 「じゃあ、電話してみる」 「そうだね」 俺もちょっと、かけてみようかな…。 「…じゃあ、ごめんね」 「ん? 何が?」 「急に呼び止めちゃって」 「あ? いいよ別に」 「それじゃあ、僕、行くから」 「うん。それじゃ」 そして、彰は小走りにどこかに行ってしまった。 そうだ。 美咲さんの家に電話してみようか。 電話する しない そうだな。 ちゃんと確かめないと。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉ですけど」 あっ、本人だ。 「こんばんは。藤井ですけど…」 「藤井君?」 「美咲さん、怪我したってほんと?」 俺は率直に尋ねる。 「え…?」 そして美咲さんは軽く笑った。 「平気。ただの捻挫だから」 「…しばらくは外を出歩けないけど、学校の方には許可も取ったし、少しゆっくりできそう」 いつもの美咲さんの口調に、俺はちょっと安心する。 「…本を読むくらいしかする事なくって、ちょっと退屈しそうだけど…」 そのはにかむ様子まで、伝わってくるみたいだ。 「暇だったら、俺、話し相手になるよ。時々だったら電話してもいいよね?」 「うん…。ありがとう…」 よかった。 『平気』ってのは嘘じゃないみたいだ。 …まあ、心配なのは心配なままなんだけど。 「彰が大袈裟なこと言うから、俺、心配しちゃったよ」 「七瀬君が?」 「入院したとかさ…」 あ、いや…。 言ったのは俺か。 「そんな、入院なんて…」 「だからさ、そんな決まったわけじゃないだろうって言ってやったんだよ」 いや。 言ったのは彰の方だけど。 「くすっ。じゃあ、七瀬君にも心配懸けちゃったんだね。私、後で謝らなきゃ」 「そういえば彰も美咲さんに電話するとか言ってたけど」 「本当?」 今度はほんとに心配そうな声を上げた。 「じゃあ、ちゃんと説明してあげないと可哀想ね」 「んー? いいんじゃない? 騙したままでも。瀕死の重傷、負ったみたく思わせてても」 「もう…。藤井君…」 困ったみたいに美咲さんが言った。 「七瀬君、信じちゃったらどうするの」 「いや。信じるよ、彰だったら」 「だったら…。もう…」 そして、再び困ったみたいに笑う。 「…でも、大したことなくてよかった。とりあえず安心したよ」 「ごめんなさい、心配懸けちゃって」 「いいよ。問題は俺より彰だから。っと、あんまり長くかけてると、彰の電話がつながらないか」 「うん。じゃあ、またね」 「うん…。ありがとう…」 そして俺は電話を切った。 …いや。 ここは彰に任せておこう。 ある意味、彰にだってチャンスなわけだし…。 (彰にこんなこと言ったら怒られるだろうけど) 電話してみよう。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉ですけど」 「あ、美咲さん?」 「藤井君? どうしたの?」 思ったより元気そうだ。 「いや、ちょっと。美咲さん、退屈してないかなって思って」 「ふふふっ、ありがとう。ちょうど退屈してたの」 「どこかに出かけたいなって思っても、そうもできないしね。ふふっ」 「あ、そうだったんだ」 なんだかちょっと嬉しそう。 「藤井君は、今日はおやすみ?」 「うん。たまにはね」 「そうね。そういうのもいいよね」 そして俺達はしばらく意味もない無駄話をして時間を過ごした。 電話を終えた頃には、喋りすぎて喉がからからだった。 でも美咲さん、こんな時でも明るくて優しいんだな…。 電話してみよう。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉ですけど」 「あ、美咲さん?」 「…美咲ですか? 少々お待ち下さい…」 あ、またやった…。 美咲さんのお母さんって、すごい美咲さんと声が似てるんだよな。 顔はそんな似てるってほどでもないのに。 「はい、お電話代わりました」 「あ、はい。私、藤井と申しますが…」 「え? 藤井君? どうしたの? 急にそんな?」 「え…?」 あ、そうか。 美咲さんに丁寧になっても仕方ないか。 「いや、俺、またお母さんと声間違えちゃってさ…」 「ふふっ。また?」 「また…」 ほんとに、これで何回目かな…? …やめておこう。 気にはなるけど、そんな大袈裟にしちゃっても美咲さん可哀想だし。 それに足を怪我してるんだったら、電話なんかで呼び出さないでゆっくりさせてた方がいいしね。 おせっかいなことは考えないで、ゆっくり休もう…。 二人だけでくぐる大学の門は、いつもと違ってるみたいで照れくさかった。 隣で微笑む美咲さんさえも、全く違ってるみたいで不思議な感覚だった。 「…藤井君? …どうかしたの…?」 「え…? いや、いい天気だなって思って…。…美咲さんこそ、何にこにこしちゃって?」 「えっ…?」 「…うん、いい天気かな…って…」 「あはは…。なんか変だね。二人して『いいお天気』なんて…」 「でも、私、家にいる間、ずっと部屋にいて、庭にも出てなかったから、なんだか嬉しくて…」 「なんだか、いつまでだって歩いてたい気分…」 だけど、そんな美咲さんの言葉を打ち消すみたいに、キーーーンコーーン…。 「…そうもいかないみたい」 「藤井君も授業あるんでしょ? 行かなきゃ」 美咲さんは少し寂しそうに微笑んで、そして、まだ少し頼りない足取りで、講義室の方に歩き出す。 「…あ、待って。美咲さん!」 俺は 咄嗟 とっさ に、彼女を呼び止めた。 ええと…? 「…ううん、なんでもない…」 「教室まで送るよ」 「今日、一緒に帰ろう」 「あ…その…。今日、一緒に帰らない?」 「まだ、ちょっとだけ美咲さんのこと心配だし…。 …ちょっとだけだけどね…」 そして、つい照れ隠しに笑ってしまう。 「うん。判った…。授業終わったら、門のところで待ってるから…」 そして、美咲さんは行ってしまった。 美咲さんの顔が、少しほころんで見えたのは、俺の都合の良い感じ方だったか? 今日は美咲さんと二人だけで学校に来たせいか、真面目に授業を受けようって気分になれる。 真剣にノートをとる俺。 カリカリカリカリ…。 キーーーンコーーン…。 最後の授業が終わるまでは少し時間があるから、ここでぼけっとしてよう。 窓の外をゆったりと雲が動く。 冬の強風に流される上空の雲も、下界からは、ただのどかに流れる風景の一部分だ。 こんな冬の日は、こんな空の下で、誰かと意味もなく歩きたくなって当然じゃないかな。 って最近、俺、はるかに似てきてないか…? そんなことないよな…。 でも、そうだな。 せっかくだから今日は、美咲さんとずっと歩いてたいな…。 俺は待ち合わせの場所に足を向ける。 なんだかデートに行くみたいで、ちょっとわくわくする。 でも、デートの時のわくわくとは違った、なんか落ち着いたわくわくだ。 「あ、美咲さん」 「藤井君」 「美咲さん、足、大丈夫だった?」 「そんな心配するほどじゃないよ…」 「どんなに歩いたって大丈夫になったから、学校に来たんだもの」 あ、そうか。 「つい、心配で口に出しちゃうんだよ。父親になったら、子供に鬱陶しがられるタイプだね」 つい…、って感じで、美咲さんもくすくす笑う。 「それじゃ、帰ろ。寒くなっちゃう前にさ」 「うん…」 久しぶりに美咲さんと会って話すのは楽しかった。 学校のこと、由綺やはるかや彰のこと、バイトで起こったことなんかを俺の方から一方的に話してるうちに、気づくと駅前に着いていた。 「ありがとう。すごく楽しかったよ」 「…休んでた分、まとめて楽しめたみたい…」 「…なんて」 「ふふふっ」 「俺ばっか喋っちゃって、かっこ悪かったね。はしゃいじゃったね、久しぶりに美咲さんに会えてさ」 「ふふっ…。また…」 美咲さんが楽しそうにしてると、俺の方まで楽しくなってきて、もっともっと楽しませたくなる。 と、寒くなる前に帰ろうって言ったのはいいけど、まだ明るいし。 どうしようかな。 「じゃあ気をつけて…」 「遊んで帰ろうか」 「ねえ美咲さん。もし足の方、大丈夫そうだったら、もう少し遊んでかない?」 「えっ…?」 「こんな天気なんだし、ちょっとだけ街中に足伸ばしてみない?」 小学校の頃、優等生だった彰を無理に寄り道に誘ってた時の気分だ。 「うん…。いいよ…」 美咲さんが、小さく頷いた。 「やったっ。じゃ、行こ!」 「…わぁ…なんだか、久しぶり…ここに来るのって…」 「あ、ひょっとして美咲さん、賑やかなとこって苦手だった?」 「ううん…。そういうわけじゃないんだけど…。なんとなく、学校の帰り以外に遊びに出ることなんてなかったから…」 さすが、美咲さん。 真面目だ。 …でも、よかった。 「じゃ、今日はちょっと、うろうろしてこうよ。こういうとこ、適当に歩くのって楽しいよ」 「うん…」 俺達が遊び疲れて、ミュージックショップの前のベンチに並んで腰を下ろす頃には、もうすっかり暗くなり、風も鋭いくらいに冷えていた。 「…寒くない…美咲さん?」 でも、隣に座っている彼女の返事はない。 「…美咲さん?」 「えっ? …え? なに? 藤井君?」 「…あ、ごめんなさい…。つい、見入っちゃって…」 美咲さんがもう一度目を向けた先には、ミュージックショップの店頭に、積まれるかたちにレイアウトされた複数のモニターがあった。 その中で歌っているのは、緒方理奈…。 理奈ちゃんだ。 「…もう、そんな時期なんだ…」 「え…?」 みるとそれは、クリスマスライブのCFだ。 「そうか…」 「あっという間だったね…」 「うん…そうだね…」 俺と美咲さんは、ただモニターの中の理奈ちゃんの歌う姿にみとれた。 いつの間にか、息が白くなってる。 「…今年のクリスマス……みんな…どうなるのかな…」 「え…?」 …そうだ。 今年のクリスマスはどうするんだろう、みんなは…。 去年は、由綺はTVの収録か何かで、一緒にはいられなかった。 俺は他のみんなとパーティをしてたけど、途中で抜け出した。 何をするってわけでもなかったけど、ただ自分の部屋に帰ってた。 それから、収録を終えた由綺から電話がかかってきて、それをきっかけにずっと朝まで話をした。 楽しかったし、それに哀しかった。 …今年は、どうするんだろう、みんな…。 由綺は…。 今年も由綺は、俺の側にいられないのかな…? 彰は…。 こんな曖昧な態度で、俺と一緒に美咲さんと過ごすんだろうか…? はるかは…。 こんな風に歪んだ俺達の関係を、どんな風に見るんだろう…? そして…。 美咲さんは…? そして、俺は…? なにげなく、隣を見る。 美咲さんがいる。 ここに。 自分の吐息の白い靄に包まれて、何かを羨ましがっているみたいな、熱心な眼差しでモニターに見入ってる、儚 はかな げに微笑む美咲さんが。 ここにいる。 ここに…。 クリスマス… 誘ったら美咲さん、一緒にいてくれるかな…? どうしよう…? クリスマスイヴに美咲さんを誘う あきらめる 「…美咲さん」 「え…?」 疲れたみたいな眼差しが、俺の方に向く。 「なあに、藤井君…?」 「美咲さん…クリスマスイヴ…俺と…一緒にいて欲しいんだ…」 「…………」 「…今年も…パーティ…するんだ…?」 「そうじゃないよ」 「え…?」 「俺といて欲しいんだ。俺だけと一緒に…」 実際は囁くような声だったけど、自分ではかなり大声を出してるみたく感じられた。 「…そ…そんな…」 「…どうしたの…藤井君?」 「どうもしてない。…俺、美咲さんと一緒にいたいだけだよ」 「…………」 俺の目が真剣だってことを見て取った美咲さんは、でも、真っ赤になってうつむいてしまった。 「…答えて…答えてよ、美咲さん」 「……………」 「…嫌なの? …嫌だったら、そう言って…」 「………………」 「何か言って…何か言ってよ…」 見てて可哀想だった。 こんな、責めるようなことはやめてしまいたかった。 だけど、今の俺はただ美咲さんの声を聞くことに必死だった。 もはや、それだけだった。 「…そんな」 かすかに、美咲さんの声が聞こえた。 「そんな…こと…返事できるわけ……ないじゃない…」 絞り出すような声で、美咲さんは答える。 「…私…なんて言ったら…いいのか…判らない…。答えられるわけ……ないじゃない…」 「…泣いてる…の…?」 美咲さんは頭を横に振る。 だけど顔は上げない。 「…私…判らない…どう答えたら…いいの…?」 「…嬉しいの。…私…すごくすごく…嬉しいの…」 「こんなに…こんなに嬉しいの…。藤井君のこと…好きで…こんなにこんなに…大好きで…」 「すごくすごく…喜んでるの…」 「だったら…」 「…私…最低…」 「ここで…私……藤井君に…『はい』…って…言っちゃいそうなの…」 「由綺ちゃんを…裏切りそうなの…」 「だから…」 俺は、何も言えなかった。 何を言う資格も無かった。 俺は、だけど、それなら、俺達は、どうすればよかったんだ…? 「…そんな顔…しないで…」 「…いいよ…判った。…ごめん。…美咲さん…ごめん…」 「…いいの。…もういいよ…」 「判った…」 美咲さんは一瞬だけ微笑みを見せて、俺に背を向けて静かに立ち上がる。 「え…?」 「…私、今年、家族とクリスマス過ごすことにしてたんだ…」 嘘だ…。 「…だから…誰とも一緒に過ごすつもりはなかったんだ…」 いや…。 だめだよ…。 確かに今、俺は美咲さんを愛おしいって思ってる。 だけど…。 だけど、だから、俺、美咲さんを誘えない。 由綺を裏切りたくない、それはある。 だけど俺、美咲さんにまで由綺を裏切らせたくない。 哀しいけど、だから…。 「…俺は、今年も一人でかな…?」 「…由綺ちゃんは…お仕事…?」 「多分ね…」 美咲さんは優しく微笑んで、俺の顔を覗き込む。 ほんとに優しい微笑みだ。 この笑顔を、俺の頼りない気持ちなんかで悲しませたくない…。 「彰と遊ぶってのも悪くないけど、ちょっと悲しいかな。あはは…」 「私も、そう…。家族と小さなパーティかな…」 「…ううん、なんでもないよ…」 俺は後に続く言葉を捜せずに、ただ赤くなってうつむいた。 「ふふっ、藤井君…」 「授業、遅れるよ…」 それだけ言って、美咲さんは行ってしまった。 気のせいか、呼び止められた美咲さんは、少し嬉しそうだった。 今日は美咲さんと二人だけで学校に来たせいか、真面目に授業を受けようって気分になれる。 真剣にノートをとる俺。 カリカリカリカリ…。 キーーーンコーーン…。 いつもはさぼる次の授業も、今日は出てみよう。 人の少ない講義室で席に着いた時、「あれ、冬弥」 隣にいたのは、はるかだった。 いつも授業は気まぐれにさぼるくせに、こういう暇な授業には気まぐれに出るんだな。 「珍しいね。授業なんて」 「はるかが言うなよ」 キーーーンコーーン…。 「よし、帰ろう、はるか。どうせ暇だろ?」 「うん」 ほとんどの学生達が一日の授業を終えたらしく、大学内は穏やかに緩んだ雰囲気に包まれてた。 「…でも、はるかでもノートなんかとるんだな。驚いたよ、俺」 「真面目だよ」 「うそつけ」 とにかく、はるかが勉強に真面目だったのは、ほとんど見たことない。 幼稚園はともかくとして、小学校の頃からずっとだ。 これで俺や彰と同じか、それ以上の成績をマークしてきてたんだから、世の中ってのも結構いい加減だ。 「………」 門のあたりまで来た時、不意にはるかは何かを見つけたように口をつぐむ。 「…どうしたの?」 「忘れ物」 そしてはるかは俺を見ようともしないまま、きびすを返す。 「…忘れ物って…。子供か、はるか」 だけど、はるかはそのまま行ってしまった。 「待ってないで、先帰ってて」 向こうの方から、声だけが聞こえてきた。 友達甲斐の無いやつ…。 …女はみんなこうか!  …なんて。 しょうがない。 今日は一人で帰ろう。 と、学校から出ようとした時、見覚えのある後ろ姿を見つけた。 「あれっ…美咲さん…?」 「あれ…? 藤井君? …あれ? どうして?」 やっぱり美咲さん。 向こうも向こうで驚いてる。 そこで俺は、今日は真面目に最後まで授業を受けてきたと (誇らしげに)告げた。 「そうなんだ…」 「いつも藤井君、早く帰っちゃうから、授業とかあんまり取ってないのかと思ってた」 実はさぼってた、なんて、割とみっともない真相。 やっぱり、授業は真面目に受けることにしよう。 「美咲さんは今帰りなの?」 「うん…」 どうしようかな…? 「一緒に帰ろうよ」 「じゃあ、気をつけてね」 「じゃあ、気をつけて帰ってね」 「うん…。藤井君もね」 そして俺達は別れた。 「せっかくだし、途中まで一緒に帰らない?」 「え…?」 「うん…。せっかくだしね…」 美咲さんは俺の言葉をちょっとだけ真似て、控えめに微笑んだ。 「それじゃ、帰ろ。寒くなっちゃう前にさ」 「うん…」 久しぶりに美咲さんと会って話すのは楽しかった。 学校のこと、由綺やはるかや彰のこと、バイトで起こったことなんかを俺の方から一方的に話してるうちに、気づくと駅前に着いていた。 「ありがとう。すごく楽しかったよ」 「…休んでた分、まとめて楽しめたみたい…」 「…なんて」 「ふふふっ」 「俺ばっか喋っちゃって、かっこ悪かったね。なんかはしゃいじゃったね、久しぶりに美咲さんに会えて」 「ふふっ…。また…」 美咲さんが楽しそうにしてると、俺の方まで楽しくなってきて、もっともっと楽しませたくなる。 と、寒くなる前に帰ろうって言ったのはいいけど、まだ明るいし。 どうしようかな。 「それじゃあ、気をつけて…」 「せっかくだから、遊んで帰ろうか」 「ねえ美咲さん。もし足の方、大丈夫そうだったら、もう少し遊んでかない?」 「えっ…?」 「こんな天気なんだし、ちょっとだけ街中に足伸ばしてみない?」 小学校の頃、優等生だった彰を無理に寄り道に誘ってた時の気分だ。 「うん…。いいよ…」 美咲さんが、小さく頷いた。 「やったっ。じゃ、行こ!」 「…わぁ…なんだか、久しぶり…ここに来るのって…」 「あ、ひょっとして美咲さん、賑やかなとこって苦手だった?」 「ううん…。そういうわけじゃないんだけど…」 「なんとなく、学校の帰り以外に遊びに出ることなんてなかったから…」 さすが、美咲さん。 真面目だ。 …でも、よかった。 「じゃ、今日はちょっと、うろうろしてこうよ。こういうとこ、適当に歩くのって楽しいよ」 「うん…」 俺達が遊び疲れて、ミュージックショップの前のベンチに並んで腰を下ろす頃には、もうすっかり暗くなり、風も鋭いくらいに冷えていた。 「…寒くない…美咲さん?」 でも、隣に座っている彼女の返事はない。 「…美咲さん?」 「えっ? …え? なに? 藤井君?」 「…あ、ごめんなさい…。つい、見入っちゃって…」 美咲さんがもう一度目を向けた先には、ミュージックショップの店頭に、積まれるかたちにレイアウトされた複数のモニターがあった。 その中で歌っているのは、緒方理奈…。 理奈ちゃんだ。 「…もう、そんな時期なんだ…」 「え…?」 みるとそれは、クリスマスライブのCFだ。 「そうか…」 「あっという間だったね…」 「うん…そうだね…」 俺と美咲さんは、ただモニターの中の理奈ちゃんの歌う姿にみとれた。 いつの間にか、息が白くなってる。 「…今年のクリスマス……みんな…どうなるのかな…」 「え…?」 …そうだ。 今年のクリスマスはどうするんだろう、みんなは…。 去年は、由綺はTVの収録か何かで、一緒にはいられなかった。 俺は他のみんなとパーティをしてたけど、途中で抜け出した。 何をするってわけでもなかったけど、ただ自分の部屋に帰ってた。 それから、収録を終えた由綺から電話がかかってきて、それをきっかけにずっと朝まで話をした。 楽しかったし、それに哀しかった。 …今年は、どうするんだろう、みんな…。 由綺は…。 今年も由綺は俺の側にいられないのかな…? 彰は…。 こんな曖昧な態度で、俺と一緒に美咲さんと過ごすんだろうか…? はるかは…。 こんな風に歪んだ俺達の関係を、どんな風に見るんだろう…? そして…。 美咲さんは…? そして、俺は…? なにげなく隣を見る。 美咲さんがいる。 ここに。 自分の吐息の白い靄に包まれて、何かを羨ましがっているみたいな、熱心な眼差しでモニターに見入ってる、儚 はかな げに微笑む美咲さんが。 ここにいる。 ここに…。 クリスマス… 誘ったら美咲さん、一緒にいてくれるかな…? 一緒にいてくれるかな…? クリスマスイヴに美咲さんを誘う あきらめる 「…美咲さん」 「え…?」 疲れたみたいな眼差しが、俺の方に向く。 「なあに、藤井君…?」 「美咲さん…クリスマスイヴ…俺と…一緒にいて欲しいんだ…」 「…………」 「…今年も…パーティ…するんだ…?」 「そうじゃないよ」 「え…?」 「俺といて欲しいんだ。俺だけと一緒に…」 実際は囁くような声だったけど、自分ではかなり大声を出してるみたく感じられた。 「…そ…そんな…」 「…どうしたの…藤井君?」 「どうもしてない。…俺、美咲さんと一緒にいたいだけだよ」 「…………」 俺の目が真剣だってことを見て取った美咲さんは、でも、真っ赤になってうつむいてしまった。 「…答えて…答えてよ、美咲さん」 「……………」 「…嫌なの? …嫌だったら、そう言って…」 「…………………………」 「何か言って…何か言ってよ…」 見てて可哀想だった。 こんな、責めるようなことはやめてしまいたかった。 だけど、今の俺はただ美咲さんの声を聞くことに必死だった。 もはや、それだけだった。 「…そんな」 かすかに、美咲さんの声が聞こえた。 「そんな…こと…返事できるわけ……ないじゃない…」 絞り出すような声で、美咲さんは答える。 「…私…なんて言ったら…いいのか…判らない…。答えられるわけ……ないじゃない…」 「…泣いてる…の…?」 美咲さんは頭を横に振る。 だけど顔は上げない。 「…私…判らない…どう答えたら…いいの…?」 「…嬉しいの。…私…すごくすごく…嬉しいの…」 「こんなに…こんなに嬉しいの…。藤井君のこと…好きで…こんなにこんなに…大好きで…」 「すごくすごく…喜んでるの…」 「だったら…」 「…私…最低…」 「ここで…私……藤井君に…『はい』…って…言っちゃいそうなの…」 「由綺ちゃんを…裏切りそうなの…」 「だから…」 俺は、何も言えなかった。 何を言う資格も無かった。 俺は、だけど、それなら、俺達は、どうすればよかったんだ…? 「…そんな顔…しないで…」 「…いいよ…判った…」 「…ごめん。…美咲さん…ごめん…」 「…いいの。…もう、いいよ…」 「判った…」 美咲さんは一瞬だけ微笑みを見せて、俺に背を向けて静かに立ち上がる。 「え…?」 「…私、今年、家族とクリスマス過ごすことにしてたんだ…」 「…あ…いや…俺、教室まで送ってくよ」 「え…?」 「あ、いいわよそんな…」 「…そんなにされると恥ずかしい…」 「ふふっ…」 手を振りながら、だんだん顔が赤くなってく美咲さん。 なんか可愛い。 とか思いながら、俺も耳まで熱くなっていくのが自分でも判った。 「…それじゃ今日、一緒に帰ろうよ? …まだちょっと美咲さんのこと心配なんだ。…ちょっとだけだけどね…」 そして、つい照れ隠しに笑ってしまう。 「…判った。…授業終わったら、門のところで待ってるから…」 そして美咲さんは行ってしまった。 美咲さんの顔が少しほころんで見えたのは、俺の都合の良い捉え方だったかな…? …うん。 遊びに連れてきたいのはやまやまだけど、なにしろ怪我が治ったばっかりだしね。 「それじゃ、美咲さん、気をつけて帰ってね」 「平気。…今日は楽しかった。本当に、どうもありがとう…」 「なんだか、藤井君に優しくしてもらってばっかりだね…」 「そんなことないって…」 振り上げようとした俺の手を、そっと美咲さんが両手で抑えた。 「……?」 クリスマスイヴ。 今夜は美咲さんが来てくれる。 …美咲さん…。 でも、俺はこれでよかったのかな…? 由綺のライブを諦めてまで、俺は美咲さんを呼び出してしまって、それでほんとによかったのか…? だけどそれでも、やっぱり俺は、美咲さんと一緒にいたいんだ。 美咲さん…。 ただ、俺は美咲さんに何を言えば、何を答えればいいんだろう。 どんな言い訳を用意すればいいんだろう。 由綺へのそれとは全く違った、どんな言い訳を。 …美咲…さん…。 「はいっ」 不意に鳴ったチャイムに、俺は立ち上がる。 「はい。…美咲さん?」 だけど俺は相手の答を待たずにドアを開ける。 ドアの外には、恥ずかしげに笑う美咲さんがいた。 「…藤井君」 そう。 美咲さんは俺には何か答えてくれる。 言い訳なんか何もしなくたって。 「…あがってよ、美咲さん。部屋、あったかくしてたから…」 初めて美咲さんと会った時みたいな緊張感が少しだけ流れたけど、今はもう、不思議な安心感が二人を包んでる。 「あ、座って」 俺は手を差し出して うなが した。 相変わらず美咲さんは、俺が言ってあげないといつまでも立ってそうで頼りない。 「うん…。…藤井君…」 「ん?」 「…メリー…クリスマス…」 「あ…。メリー…クリスマス…。あはは…」 メリークリスマス。 こんな台詞をこんなに神妙に言ったのは子供の時以来だ。 なんだか気恥ずかしいよ…。 「こ、こういうのって……ははは…」 「ふふふ…」 「美咲さんが来たら一緒に買い出しにでも行こうかと思ってたんだけど…」 俺は少しだけ窓を開ける。 それだけで俺の声は真っ白だ。 「なんだか寒くて、外に出たくなくなっちゃったね。…ピザでも頼んじゃおっか?」 「ふふっ。そうだね」 俺は美咲さんと一緒の部屋にいたいだけだったけど、美咲さんはそんなことには気づかないで優しく微笑む。 「…藤井君…これ…」 美咲さんはそっとテーブルに小さな箱を載せた。 「これ…?」 「ケーキ…」 あ、そうか。 俺はここで初めてすごい忘れ物してることに気づいた。 クリスマスケーキだ。 美咲さんが来たら一緒に買いに出るってことにしてたから、すっかり忘れてた。 美咲さん、買ってきてくれたんだ…。 この間、無理矢理に誘いを受けさせたみたいな感じだったのに。 美咲さん、優しすぎるよ。 箱の中には、ラズベリーか何かのジャムでコーティングされた小さなチーズケーキが一個そのまま入ってた。 …美咲さんらしいな。 俺は少し微笑む。 こういう控えめな趣向が、やっぱり美咲さんだ。 「よかったら食べてみて…」 「美味しいかどうかだけど…」 「…あ、でも、おなか空いてなかったら…」 「まさか。そんなわけないじゃない、美咲さんのプレゼントなのに?」 「待ってて。今、紅茶でもいれるから」 「うん…」 切り分けたケーキと、紅茶の香りの良い湯気で、俺はなんとなく落ち着いてしまう。 ケーキは…すごく美味しい。 クリスマスだから、なんてじゃなくて、ほんとに美味しい。 甘いものはそれほども食べられないんだけど、上品に甘いこのケーキはすごく美味しく食べられる。 買いに行くケーキ屋さんまで完璧なんだな、美咲さんは。 「まずく…ない…?」 「うん…最高に美味しい…。クリスマスに、こんなに美味しいケーキなんて、ほんと最高だよね」 「…本当?」 「今度、買いに行こうかって思うくらい」 「………」 「…どうしたの?」 「違うの…」 「…違うって?」 「…それ…私が作ったの」 「…(もぐもぐ)…え?」 「………」 「…(もぐ…)…ほんとに?」 「うん…」 美咲さん、すごすぎる…。 「…な、なんだ。それ先言ってよ。美咲さん作なんだったら、もっと大事に食べなきゃだめだね」 俺はちょっとひねた褒め方で、驚きをごまかす。 「…そんな…」 こういう台詞は、一発で美咲さんを喋られなくしてしまう。 美咲さんはもう真っ赤になってる。 こんな時の美咲さんって、なんだか小さくなったみたいで可愛い。 まあでも、あんまりいじめるのも可哀想だし。 (いじめてないけど) 「これでキャンドルか何かあったらクリスマスっぽいんだけどね、ちょっとね」 今の時期、お店でケーキを買うと必ずついてくるみたいな、あんなちっちゃなロウソクが欲しかった。 手作りのケーキにそんなのまで望むのは、どう考えたって欲張りなんだけど。 「あっ。忘れてた…」 「え…?」 まさか、持ってきたとか? 「家にあったのだけど、一応、持ってきてたから…」 「ほんとに…?」 美咲さん、完璧すぎ。 こんな小さな演出にまで気を配れるなんて、さすがだよ…。 と、美咲さんが取り出したのは、数個の、小さなカップみたいな透明な半球体。 中に綺麗な蝋が詰まってて、そこから芯が出てるやつだ。 イメージしてたあの細長いキャンドルと違ってたけど、ちょっとおしゃれな感じがする。 「じゃ、早速つけてみようよ」 俺は美咲さんにライターを渡して壁に向かう。 「消すよー」 言うと同時に俺は壁のスイッチを切る。 「きゃっ…?」 だけど美咲さんは小さく叫んで、部屋は静かな暗闇に包まれる。 「え…?」 振り返ると、美咲さんがライター片手に困った顔をしてる。 「あっ…あのこれっ…。つかないよ…」 「え? ほんと?」 俺は慌てて美咲さんのところに戻る。 「見せて」 俺は美咲さんの手の中のライターを確かめる。 ガス切れだ。 ライターなんてあんまり気にして使ったことなかったから気づかなかった。 「あ、あの…藤井君…」 「え?」 美咲さんがますます困った声を上げてる。 気づくと、俺はライターを持つ美咲さんの手をしっかりと握ってた。 彼女の顔がすぐ目の前にある距離で。 …道理で… あったかいと思った…。 「…藤井君…?」 黙ったままその手を離さない俺に、美咲さんは困惑してる。 考えてみたら、俺、部屋の灯りも消したままだ。 「あの…藤井君…」 暗闇の中、俺は美咲さんに口づける。 もはや、気恥ずかしげな唇の触れ合いじゃなかった。 だけど、美咲さんの表情はどこか固い。 「…美咲さん…?」 美咲さんは何も言わない。 …やっぱり、俺がちょっと強引だったから後悔してるのかな…? けど、それでも美咲さんの手はしっかりと俺をつかんで離そうとしない。 すごくいじらしく、手放さない。 「……………」 美咲さんは目をつむり、小刻みに震えだす。 「…だめ…だよ…藤井君…私……だめだよ…こんなの…」 「…美咲さん? …俺…どうして…?」 がたがたと震え、自分の肩を抱きしめてうずくまる美咲さん。 そんな彼女を見つめて、俺は、どうするべきか判らなかった。 怖がってる? 俺のことを…? それとも…。 「…だめだよ、藤井君。…コンサート、行かなきゃ…」 「え…?」 美咲さんはおぼつかない手つきで帰り支度を始める。 「…美咲さん…どうして?」 「…言ったでしょう…。…コンサート、行かないと。…もう時間だよ……」 「コンサート…?」 「…由綺ちゃんの……」 消え入りそうな声で呟く美咲さん。 そして突然に顔を上げて、「わ、私も帰るから、もう…」 必死で笑おうとしてるけど、その瞳は涙でいっぱいだった。 「…そんな…どうして…?」 「…いいじゃない…もう…そんな…」 再びうつむく美咲さん。 「…美咲さん……」 「…早く行って…コンサート…」 もう、美咲さんは顔を上げてくれない。 俺はどうしたら…。 「行かない」 「行く」 「…行かないよ、俺…」 「…判った。…行くよ…」 俺は机の上に置いてあったチケットをそっとポケットに忍ばせた。 「…美咲さんが…そう言うんなら…俺…、行くしか…ないじゃない…」 涙が出てきそうだった。 うずくまったままの美咲さんは何も言わない。 俺はジャケットを羽織り、ドアへ向かう。 その一歩ごとに、泣きたい気持ちが溢れそうになる。 ドアに手をかける…。 「…俺」 自分でも思わず、呟いてた。 「え…?」 「俺…美咲さんのところ…絶対に…戻ってくるから…!」 そしてドアを開け、勢いよく外に飛び出した。 時間が来たら『さようなら』なんて…まるで、それじゃまるでシンデレラだよ…。 そして走る俺の息は、ますます白く白くなってゆく…。 さすがに俺のアパートの近くまで来ると、降りたての雪も踏み荒らされて、忙しい街の様相を呈してた。 もう、このあたりは動き出してるんだな…。 不思議な感覚に襲われる。 …俺が由綺に会いに行き、そして英二さん達とちょっとした冒険をしてたその間にも、街は、人は、それぞれのルールでそれぞれに動いてる。 …俺達だって、その中の一つのパーツに過ぎない。 そんな、奇妙な感覚だった。 だけどアパート自体は住人が揃って出かけたかって思えるほどに静かで、人通りの気配もなく、ヴァージンスノーは降りたてのまま綺麗に残されてた。 …いや。 誰か真面目な学生が一人だけいたみたいだ。 アパートの前に二組の足跡がくっきりと残ってる。 一度ここに来たのと、出てったのとだ。 ここに…? その濡れた足跡は、俺の部屋の前で折り返されてた。 …この、小さめのブーツの跡、見たことあるような気がする。 これは… 美咲さんの… かも知れない…。 …確かとは言えないけど。 探しに行けば見つかる…? 探しに行く 行かない 確かなことは何一つないけど、俺は、これは美咲さんだと感じた。 こんなに綺麗なままに足跡が残っているってことは、ここから出てって間もないってことだ。 俺はアパートの前の道路に飛び出す。 道路上は既に踏み荒らされて、たった一種類の小さな足跡なんか識別できそうもない。 ちくしょう…! 俺は走り出す。 こんな早朝だってのに、ここはもう賑やかな様子を見せている。 こんな、美咲さんが一番来そうもない場所だったけど、俺にはかすかな予感があった。 俺は走る。 あの場所になら、美咲さんは、いてくれるはずだ…。 あの場所…。 俺が美咲さんを誘ったあの場所…。 俺が美咲さんを泣かせてしまったあの場所…。 そして美咲さんが俺の愛情に頷いてくれたあの場所…。 あの、ミュージックショップの前の、小さなベンチ…。 俺は走った。 「待ってよ、美咲さん!」 俺は駆け寄って、美咲さんの肩を引き留める。 「待ってってば!」 「いた…」 自分でも知らないうちに興奮してしまってたみたいだ。 ひどく乱暴に美咲さんの腕をつかんでしまってる。 「…あ…ごめんっ…」 「……………」 だけど美咲さんは真っ赤になってうつむいただけだった。 「…美咲さん…俺…」 俺が何か言おうとした時、美咲さんは突然顔を上げた。 「な、なあに、藤井君…? …私に用…?」 めちゃくちゃな作り声と作り笑い。 ここまで演技が稚拙ってのも珍しい。 おまけに、気づいてみると彼女の目は真っ赤だ。 「わ、私、これからお家に帰るんだけど…」 「…さようならっ…!」 さすがに、この演技じゃこの場はごまかせないって思ったのか、美咲さんは再び真っ赤になって駆け出そうとした。 「待ってってば! ねえ!」 「なっ…なんなの…。藤井君…」 美咲さんは早くも泣きそうだ。 「…俺、美咲さんを捜してきたんだよ! …お願いだから逃げないで…」 「…どうして私…藤井君に捜されなきゃ…」 「俺の部屋に来てくれたのに、放っておけないよ!」 「…行ってないもん…」 「行った!」 すねる子供みたいに呟く美咲さんに、俺は必要以上に強く決めつけてやった。 …そんな確証なんてどこにもなかったけど。 だけど美咲さんは、ひどく恥ずかしそうに、こくん… と頷いた。 「…だって…藤井君……」 どう言えばいいのか判らず、ただおたおたと唇を震わせる美咲さんを俺はそっと抱き寄せる。 「なんだよ…美咲さん…。俺…戻ってくるって…言ったじゃない」 「…約束したじゃない…。ちゃんと…」 「…戻ってこなくたって……よかったのに…。約束なんか…」 美咲さんは俺の胸に顔を押しつける。 「私なんか…放っておいて…よかったのに……」 「俺にそんなこと…できるわけ…」 俺の胸で、美咲さんは少しぐずって、「ごめんなさい…」 と、(俺からは見えないのに)小さく頭を下げた。 「…ね、俺の部屋に戻ろうよ…。美咲さん、これじゃ風邪ひいちゃうよ」 こく…。 美咲さんは素直に頷いた。 俺達は部屋に向かう途中、ほとんど何も話さなかった。 ただ一度、思い留まるみたいに俺から離れようとした美咲さんを、そっと抱き寄せただけだった。 あれ、鍵が開いてる…? あ、そうか…。 俺は、この部屋に美咲さんを置いたままにして由綺のところに行ったんだ…。 美咲さんは…あれからどのくらいこの部屋にいたんだろう。 …俺のいない、この部屋の中に? うつむく俺を、美咲さんは心配そうに見上げる。 「…あ、入ってよ、美咲さん…。中、寒いだろうけど…」 「うん…」 遠慮がちにだけど、どこかほっとしたみたいに美咲さんは中に入ってくれた。 暖房を全開にしながら、俺はふと気づいた。 あの時、クリスマス前夜にそのままにしてた部屋が、綺麗に片づいてる。 …やっぱり、美咲さんが…? 「あ…美咲さん…?」 「…はい…?」 「う…ううん……なんでもない」 恥ずかしそうに応える美咲さんに、俺はそれを訊くのをなんとなくやめた。 「…あ、座って」 「うん…」 なんとなく、ぎこちない。 何を言ったらいいのか判らない。 「…藤井君…由綺ちゃんに会えた…?」 「え…?」 不意に美咲さんの方から話しかけてきたので、俺は少しうろたえる。 「うん…。…ちゃんと会ってきたよ…」 なにが『ちゃんと』だ。 俺は自分が苛立たしかった。 …俺の足は痺れたみたいにぴくりとも動けなかった。 足だけじゃない、言葉までも全部が麻痺してしまったみたいに、ただの一言も出てこない。 …美咲さんが行ってしまう…。 …道の向こうに…。 …人の向こうに……。 …だけどそれでも、俺は何も言えなかった。 「…………」 一瞬、美咲さんが悲しそうに俺を見た気がした。 でも、もう、手遅れだ。 人の群の中に消えてゆく美咲さんの後ろ姿は、まるで別人のようだった。 届かない。 そう感じた。 いくら追いかけても、大声で呼んでも、もう、俺を愛した美咲さんは戻ってきてはくれない。 俺は完全に美咲さんが見えなくなってしまった後も、しばらくミュージックショップの前に立ち尽くす。 モニターの中の理奈ちゃんが、何度目かのループの笑顔を見せていた。 …そう… だよな…。 俺は、美咲さんを置いて、由綺のところに行っちゃったんだ…。 …何を言う資格もないよ…。 言い訳するように思いながら歩いてたら、知らないうちに涙がにじんできた。 流れ出すことはなかったけど、目の下が濡れて、冬の空気にさらされて、ひりひりと痛んだ。 …あれ、ドアが開いてる…。 あ、そうだ…。 俺は、この部屋に美咲さんを置いたままにして、由綺のところに行ったんだ…。 …美咲さんは… あれからどのくらいこの部屋にいたんだろう…?  俺のいない、この部屋の中に…? 「……………」 そんなわけ… ないよ…。 俺は誰にってこともなく呟く。 今、俺の部屋の中には誰もいない。 ただカーテンの隙間からの光がその薄暗さを余計に引き立てているだけだ。 ただ、寒かった。 「…寒い……」 もう一度、意味無く呟く。 暖房を全開にしながら、俺はふと気づいた。 あの時、クリスマス前夜にそのままにしてた部屋が綺麗に片づいてる。 …やっぱり、美咲さんが…? 俺は頭を振る。 これ以上、美咲さんのことを考えるのはやめにしよう。 …俺と、美咲さんとの間には何もなかった。 何もなかったんだ。 今度会う時だって、今までと同じ俺と美咲さんだ。 ヴゥゥ……。 エアコンが暖かい風を送り込んでくる。 一瞬だけ、かすかに美咲さんの香りがしたような気がした。 だけどそれも、エアコンの風にすぐにかき消され、その懐かしさを味わうことすらもできなかった。 それから俺は、少し眠った。 はっきりとは覚えてないけど、なんだかすごく悲しい夢をみた。 誰かの手をつかもうとして、だけど自分の手が痺れて動けない、ただ大声で泣くしかできない、そんな夢だった。 そして目が覚めた。 俺が泣いた部分は本物だったみたいだ。 床の上に小さな水たまりを作るほどに涙を流してた。 少し恥ずかしくなって、俺は涙を拭う。 暖房がつけっぱなしだったので、喉がからからに渇いてた。 …俺は力を落とす。 そうだ…。 この足跡だけで、美咲さんがここに来たって決めつけるなんてどうかしてる…。 彰に借りた推理小説の読み過ぎだよ…。 そんな風に思ってはみても、やっぱり、何故か惨めだった。 俺はたった今、由綺に会ってきたばかりじゃないか。 それなのに、もう、美咲さんのことを考えてるなんて…。 美咲さん、言ったんだ…。 俺に、由綺のところに行けって…。 …それが美咲さんの、俺に告げた答えなんだ…。 これ以上、俺は美咲さんを困らせるべきじゃない…。 俺はできるだけその足跡を見ないようにしてドアを開けた。 あれ、ドアが開いてる…。 あ、そうだ…。 俺は、この部屋に美咲さんを置いたままにして、由綺のところに行ったんだ…。 …美咲さんは …あれからどのくらいこの部屋にいたんだろう…。  俺のいない、この部屋の中に…? 「……………」 そんなわけ… ないよ…。 俺は誰にってこともなく呟く。 今、俺の部屋の中には誰もいない。 ただカーテンの隙間からの光がその薄暗さを余計に引き立てているだけだ。 ただ、寒かった。 「…寒い……」 もう一度、意味無く呟く。 暖房を全開にしながら、俺はふと気づいた。 あの時、クリスマス前夜にそのままにしてた部屋が綺麗に片づいてる。 …やっぱり、美咲さんが…? 俺は頭を振る。 これ以上、美咲さんのことを考えるのはやめにしよう。 …俺と、美咲さんとの間には何もなかった。 何もなかったんだ。 今度会う時だって、今までと同じ俺と美咲さんだ。 ヴゥゥ……。 エアコンが暖かい風を送り込んでくる。 一瞬だけ、かすかに美咲さんの香りがしたような気がした。 だけどそれも、エアコンの風にすぐにかき消され、その懐かしさを味わうことすらもできなかった。 それから俺は、少し眠った。 はっきりとは覚えてないけど、なんだかすごく悲しい夢をみた。 誰かの手をつかもうとして、だけど自分の手が痺れて動けない、ただ大声で泣くしかできない、そんな夢だった。 そして目が覚めた。 俺が泣いた部分は本物だったみたいだ。 床の上に小さな水たまりを作るほどに涙を流してた。 少し恥ずかしくなって、俺は涙を拭う。 暖房がつけっぱなしだったので、喉がからからに渇いてた。 短い冬休みが終わった。 これから(苦しい)試験期間を過ごさなきゃいけないけど、これが終わったらやたら長くて楽しい春休みだ。 休みになったら、やりたいことがいっぱいある。 楽しみだ。 …とはいえ、今日はさっそく筆記試験。 近い将来の楽しい休暇よりも、こっちのつらさを先に考えてしまう…。 いやいやなのが傍目にも判る足取りで教室に入った時、思わず誰かとぶつかりそうになった。 「あっ…ごめんなさい…」 「…あ……」 驚いたようなその声の主は、美咲さんだった。 「美咲さん…」 俺は思わず言った。 そうだった。 確か美咲さんも、この授業を選択してたはずだ。 やった、ラッキーだぞ。 試験中に答えを教えてもらうなんてことはできるわけもないけど、試験前にポイントをチェックしてもらうくらいはできるはずだ。 そして何よりも、同じ試験を受けるにしても、隣に美咲さんがいてくれたら、なんとなく嬉しい。 「美咲さんも今日、試験だったんだ?」 「う…うん……」 「よかった」 「…真面目に授業受けてなかったわけじゃないんだけど、俺、ちょっと試験て苦手で…」 「よかったら、ちょっとだけポイントを教えてもらいたいんだ…」 俺は美咲さんを うなが すように、持ってたノートで前方を指し示した。 「あっ、あのっ…」 「…ごめんなさい…」 「私、今、友達と一緒だから…」 「え…? …そうなんだ」 「…ごめんなさい」 そう言って美咲さんは素早く頭を下げて、教室の奥の方に小走りに去っていってしまう。 …行っちゃった。 仕方がないんだけど…。 試験用紙が配られ始めたけど、俺はなんとなく美咲さんが気になってた。 …俺って、そんなに独占欲強いのかなあ…。 俺はせわしなく教室の中に目を走らせる。 …あ、いた。 美咲さんだ。 教室の後ろの方で、女の子だけでかたまってる。 その時、一瞬だけ目が合った。 何かに謝るみたいな、何かを求めるみたいな、でも何かを諦めるみたいな、そんな眼差しだった。 そして、俺の視線に気づくと美咲さんはすぐに目を逸らす。 ちょっと寂しさを感じながら、俺は試験用紙を名前を書き入れた。 さ、終わった。 廊下に出てから、俺はふと思った。 …美咲さんを待ってようかな…。 待ってよう 帰ろう 俺は、美咲さんが試験を終えて教室から出てくるまで待つことにした。 …少し、話をしたいし…。 その時、「あ、冬弥」 はるかだ。 さすがにはるかも、試験となると学校に来るか。 「はるかも試験だったの?」 「うん」 「俺も。…どうだった?」 「よかったよ」 そう。 はるかは昔からろくに勉強しないくせに、成績だけは俺や彰の上なんだ。 きっと学校の試験の成績ってのは、大脳よりも、運動神経に大きく関わってるに違いない。 「俺はいつも通り。言うまでもないよ」 「何してるの?」 俺の試験の結果なんか、どうだっていいって風にはるかは微笑む。 「…ん? いや、美咲さんがまだ中で試験受けてるから終わるまで待ってようかなって」 「美咲さん?」 「ああ」 「じゃ、帰ろ」 「…はあ?」 なんだってはるか、美咲さんと聞いた後でそんなことを言い出すかな…。 はるかは俺の手を引っ張る。 「お、おい…」 俺がその手から逃れようとした時、「あれ? 冬弥、はるかー」 彰がやって来た。 「さすがに試験だと、はるかも冬弥も学校に来るんだね」 「俺も、じゃないだろ。はるかだけだろ、そんなの」 「そんなことないよ」 「そんなことあるよ」 「何やってるの? こんなところで?」 「…今日の試験、もう終わったんでしょ? 帰ろうよ」 「うん…。ちょっと待ってくれよ。まだ美咲さんが…」 そう言いかけて、口をつぐむ。 俺は、目の前にあるこの無邪気な友人の顔に、不意に罪悪感を覚えた。 気づくと、はるかが俺をじっと見てた。 まるで、『どうするの?』 って尋ねるみたいに。 俺は少しうなだれる。 「…ああ。判った…。帰ろうか…」 後ろ髪を引かれる思いだったけど、俺は、そう答える他なかった。 その後俺達は、なんとなくいつもの談話室で何か飲みながら無為な時間を過ごした。 「…あ、ごめん。今日は先に帰るよ」 「僕、やっぱり明日の勉強しなきゃだめだから」 中学生みたいなことを言って立ち上がる彰。 「あ、そうか。彰、明日も試験あるんだ?」 「…あるんだ? って、ひょっとして、冬弥達、明日は試験無いの?」 「こんな、だらだらしてんだし、当たり前だよ」 こくん……。 「えっ? じゃあ僕だけ? 明日も試験あるのに遊んでたのって?」 「そうじゃない?」 こくん……。 「え…?」 「…また、冬弥達に騙された?」 「騙してなんか、ないじゃないか。言わなかっただけだよ」 「ひどいよ、冬弥…」 「ひどくなんか…」 「ひどいよ、冬弥…」 「真似すんな。ていうか黙ってて」 「うん」 「先に言ってよ、二人とも。困ったなあ…」 「笑ってるじゃないか…」 「このまま、騙されて遊んでようかな…」 なんてやつだ。 結果がよくなかったら、確実に俺達のせいってことじゃないか。 「遊んでこ」 「だから、はるかは黙っててってば」 …いや、今日は帰ろう…。 考えすぎかも知れないけど、今日は美咲さん、あんまり人と会いたくないみたいだ。 それに今は試験期間だし、そうそう遊びに出かけるなんてこともできない。 そう思って外に出ようとした時、「あれ、冬弥」 「あ、冬弥」 はるかだ。 さすがにはるかも、試験となると学校に来るか。 「はるかも試験だったの?」 「うん」 「俺も。…どうだった?」 「よかったよ」 そう。 はるかは昔からろくに勉強しないくせに、成績だけは俺や彰の上なんだ。 きっと学校の試験の成績ってのは、大脳よりも、運動神経に大きく関わってるに違いない。 「俺はいつも通り。言うまでもないよ」 「何してるの?」 俺の試験の結果なんか、どうだっていいって風にはるかは微笑む。 「ああ。今から帰るとこ」 「じゃ、帰ろ」 「…いいよ。今、そんな気分じゃない…」 「そう」 「…何ついてきてるんだよ、はるか」 「私も帰るの」 「…そういう気分じゃないって言ってるだろう」 でも結局、それから後はまるでいつもと同じ調子で、はるかとだらだらと途中まで一緒に帰った。 「あれ…?」 美咲さんだ。 「美咲さん、こんばんは。偶然だね」 「え…ええ…」 美咲さん、そわそわしてる…。 「…ごめんなさい…っ」 「…あのっ、私っ、こ、これから、お家に帰らなきゃいけないからっ…」 少し困ったみたいな顔をしたかと思うと、美咲さんは駅の中に駆けてってしまった。 歩行者にぶつかりながら走ってゆく彼女を追おうとしたけど、美咲さんは既に電車に飛び乗ってしまってた。 美咲さん…? …いったいどうしちゃったんだろう、最近…。 …と、「…………………」 変な視線を感じる…。 あっ、マナちゃんだ。 少し離れたところから、じっと俺の方を見てる。 「…や、やあ。…どうしたの?」 「藤井さん……」 「え…?」 …なんだかすごくむっとした声だ……。 「最っ低…」 「え…?」 最低って…。 俺がうろたえてると、彼女までも俺に背を向けて歩み去ろうとしてた。 「あっ、待ってよマナちゃん!」 思わず俺は、行きかけるマナちゃんの肩をつかむ。 「…なによお、藤井さん?」 「…私、これからお家に帰らなきゃいけないから…!」 俺をきつい目で睨みながら、マナちゃんは美咲さんの言葉をそのまま真似て言った。 …なんだか、さっきの俺と美咲さんを誤解してるみたいだ。 「…ふんっ」 ツンと顔を上げて、再びマナちゃんは去ろうとする。 これじゃ、誤解されたままだ。 どうしようか? 再び追いかける 追いかけない 「…待ってってば、マナちゃん!」 「…なんなのよ、藤井さん? ちょっとしつこいんじゃないの?」 「違うよ…。何か勘違いしてるよ、マナちゃん…!」 「…いいじゃないの、別に」 「…別に、俺は…」 「いいわよ。藤井さんが女の人を泣かせたって、私には関係ないもの」 「だから違うんだって…!」 俺はマナちゃんの前にまわる。 やっぱり誤解してる…。 「…こんなこと、言えば言うだけ言い訳っぽくなるってのは判るけど…」 「でも、俺、みさ…あの女の人に何も…」 「…何でそんなこと、私に言うわけ?」 「え?」 「関係ないじゃない、私になんか」 …そういえばそうだ。 いや、でも…。 「…まあいいわ。許してあげる」 「あ、どうも…」 いきなりマナちゃんに許されちゃったな…。 「藤井さん、そういうキャラクターじゃないよね。考えてみたらね」 「あ…。うん、そうだよ。俺は…」 「どっちかっていうと、女の人に騙されて泣く方だよね」 「そ、そう…?」 「そうよ。絶っ対っ」 『絶っ対っ』だなんて、そんな…。 「お詫びに、お家まで送って」 「お詫び…?」 「…なによお?」 「い、いや…」 「どうせ、藤井さんのお家のすぐ近くじゃない」 「そうだけど…」 ていうか、何のお詫びなんだ。 「さっ、行きましょ」 再び、ツンと澄ましてマナちゃんはさっと歩き出した。 俺も遅れてついてゆく。 「じゃ、藤井さん。今日のことは内緒にしておいてあげるから、貸し一つね」 「貸しって…」 一体、誰に内緒にしておくつもりなんだ。 「それじゃ、また今度ね」 と、マナちゃんはポケットから家の鍵を取り出す。 日が暮れたってのに、相変わらずマナちゃんの家は暗いままだ。 「ねえ、マナちゃん…」 「ん?」 「一人で、大丈夫…? もしよかったら、夕食くらい一緒に…」 「…えっち」 そして、彼女は軽く俺の向こうずねを蹴飛ばした。 「ちっ、違うよ。そんな意味で言ったんじゃ…」 「どっちでもいいわよっ」 そして、マナちゃんはさっと玄関の中に入っていってしまった。 俺、バイトの度に家の中に入ってるじゃないか…。 なにが 『えっち』 だよ…。 なんてことを考えながら、俺はとぼとぼと自分の部屋へと向かった。 アパートの自分の部屋の窓を見上げた時、何故だか、あの困ったみたいな美咲さんのことが思い浮かんできた。 …少し、話がしたいな…。 そんな風に考えながら、俺は階段を上った。 「あれ…」 混み合う人の中に見たことのある面影を見つけた。 あれは…。 美咲さん…? 人混みでなかなか近づけないけど、どうやら美咲さん本人に間違いないみたいだ。 「美咲さん…!」 俺は人の中から声をかけてみた。 すると、その女の人は振り返った。 美咲さんだ。 でも、美咲さんは俺の顔を認めると驚いた様子で人混みの外へ抜け出そうとし始めた。 まるで、逃げ出そうとするみたいに。 「美咲さん…?」 俺は急いでその後を追う。 美咲さんは人の少ない方へ少ない方へと走るから、後を追うのは簡単だった。 確かこっちの方に来たと思ったんだけど…。 …あ、いた。 「美咲さん…」 駆け出す俺の前に突然、サラリーマン風の男が二人ふらふらと現れて、運悪く、思い切りぶつかってしまった。 「す、すみませ……」 咄嗟 とっさ に謝ろうとしたけど、ぶつかった相手の持ってた缶ビールの中身をぶちまけてしまい、そのしぶきが俺の顔にかかり、目に入ってしまった。 「あ……っ…」 ひどい痛みだ…。 目を開けていられない。 あまりの激痛に言葉をも失い、ふらつく。 「こぉら、兄さん兄さん…」 霞む視界の向こうの何かが俺の襟をつかむ。 多分、俺のぶつかった相手だろう。 生温かい息遣いからすると、かなり酔ってる。 「あんた、何したか判る? 自分が?」 「…少しくらいは謝ってもいいんじゃねえかなあ?」 だけど俺は、襟首をきつく締め上げられ、謝ろうにも声が出てこない。 ただ、痛む目をどうにかしたくてジタバタともがく。 「なに暴れてんだ…。…部長、こいつふざけてますねえ。教育してやりますか?」 「おいおい、君こそ何してるんだ? …いいからさっさと離してやんなさい」 後ろの方から聞こえる声は、酔っていい気分になってるっていっても、その物腰や呼ばれ方からして普通のサラリーマンみたいだ。 「まったく。せっかくのいい気分を喧嘩で締めくくることはないだろうに、君は…」 「でも部長。こういう若いのにはちゃんと礼儀ってのを…」 俺をつかんでるのも、別にたちの悪い人間じゃないらしい。 不幸中の幸いか…。 とはいえ、こんな時に…。 その時、「あっ、あのっ、この人が何かっ…!?」 慌てたような声が聞こえた。 美咲さんの声だ。 …最悪だ。 よりにもよって、こんな場面に出てこなくたって…。 襟首を締めつけていた手が緩む。 俺は痛む目をこすり、咳き込みながら、「美咲さん…!」 辛うじて呼びかける。 なんでもないから、早くどこか行ってくれ…。 「…何って、この兄さんがさ、俺達にぶつかっても一言も謝んなくてさ、ちょっと俺、キレかかってさあ…」 「君なあ…」 「…あんた、この人の知り合い?」 「え…? ええ」 美咲さんが俺の方に近づく気配がする。 やがて俺の頭が優しく抱えられ、「…藤井君、大丈夫だった…?」 俺はそっと頷く。 冷めたデニムを通して、興奮した美咲さんの体温と心音が伝わってくる。 美咲さんは彼らに向き直り、「どうもすみませんでした。…この子、私の弟なんです」 「…ほら、この人達にちゃんと謝って」 ぎゅうっ…。 美咲さんは俺の頭を抑えて、二人の男に無理矢理頭を下げさせる。 …痛い痛い。 美咲さん、力入れすぎ…。 「ちゃんと言っておきますから…」 頭を下げる美咲さん。 彼女の必死の息づかいが俺の顔に当たる。 「…頼むよ、お姉さん…」 馴れ馴れしく話しかける若い方を、『部長』の方がたしなめる。 「人に言えるほど折り目正しい人間でもないだろう、君も?ん?」 「あっ、そっすねっ!」 そして彼らは少しだけ白けたみたいに笑って、どこかに行ってしまった。 それから俺は美咲さんにハンカチで顔を拭いてもらって、どうにか視界を取り戻した。 「…大丈夫だった…?」 「うん…」 美咲さんに貸してもらったハンカチで、濡れた顔を拭きながら答える。 「よかった…」 「…だめだよ、美咲さん。あんなとこ出てきちゃ。危ないよ」 「…藤井君、どうしてそんな、喧嘩なんかしてたの? お酒なんか飲んで?」 「喧嘩? …お酒?」 「…二人も相手にして、勝てるわけないじゃない…」 むくれるみたいに、美咲さんの声は小さくなってく。 「…俺、喧嘩なんてしてないけど」 「嘘…! すごくお酒臭くなって、二人に囲まれて、倒れそうになってたじゃない…?」 「だからそれは…」 …美咲さんにはそう見えるのかな。 夜の盛り場で酒に酔って、酔っ払い相手に理由無く喧嘩。 無秩序に暴走する若い 煩悶 はんもん って、いつの時代の青春ドラマだ。 だけどまあ、それを美咲さんに言っても仕方がない。 「ねえ、美咲さん。ほら、俺、今は酒臭くないでしょ?」 美咲さんの鼻先が俺に近づく。 何げない仕草だったけど、俺は少しどきりとした。 「…本当…」 「…あれ?」 …いや。 俺はその後ろ姿を見送るだけにした。 …マナちゃんに、俺は何を弁解するっていうんだ。 俺がほんとに話をしなきゃならない相手は、美咲さんだろう…。 「…………………」 仕方ない。 帰ろう…。 きびすを返したその時、「…藤井さん」 「はい…?」 不機嫌そうな声に振り返ると、「あ、あれっ…? マナちゃん、帰ったんじゃ…」 っ痛たーーーーーーーーっ!! マナちゃんが無言のまま、俺の向こうずねを思い切り蹴りつけた。 またこれかー…。 俺は痛さに うめ いて、言葉が出てこなくなる。 そんな俺にマナちゃんは一瞥をくれて、再び身を ひるがえ して去ってゆく。 …一体、どんな勘違いをしてるっていうんだ…? これ、ほんとに痛いんだぞ。 泣きそうな顔になりながら、俺は駅を離れる。 周囲の人達の、ちょっとした注目の的になってしまってる…。 …マナちゃんの方はすぐに忘れるだろうし、第一こんなことは何とも思わないからいいかも知れないけど、俺の方は…。 かっこ悪い…。 早く家に帰ろう…。 アパートの自分の部屋の窓を見上げた時、何故だか、あの困ったみたいな美咲さんのことが思い浮かんできた。 …少し、話がしたいな…。 そんな風に考えながら、俺は階段を上った。 今年は一日ごとに、どんどん寒くなってく気がする。 駅から出る人達もみんな無口で、言葉の代わりに白い息を吐き出すばかりだ。 こんな日にも学校に行かなきゃいけないってのが、学生なわけなんだけど…。 …と。 あれ、彰だ。 「おはよう、冬弥」 「あ、おはよう。一限目からなんて真面目ー」 「冬弥だって」 「…ひょっとして、出席、危ない?」 なんだか俺が普段から真面目に授業に出てないみたいな言われ方。 「嫌なこと言うなって。出席なんて、全然おっけーだよ」 「そうなんだ。じゃ、進級は楽勝?」 「まあね…」 「僕、一限は必修だから」 「そう。俺はあっちの棟。…じゃあね」 彰と別れようとした瞬間、「あ、冬弥。後ろ…」 「きゃっ…!」 「うわっ…」 振り返りざまに誰かとぶつかった俺は、相手に目を遣る間もなくよろける。 「なにやってるんだよ、冬弥」 「…大丈夫、美咲さん?」 え…美咲さん…? 「う、うん…。大丈夫……」 運悪く俺とぶつかって地面に転んでるのは、確かに美咲さんだった。 彼女は彰の手を借りてどうにか立ち上がる。 「あ、ありがとう。…ごめんね、七瀬くん」 「こっちこそごめん、美咲先輩。冬弥、最近ちょっとボケてるみたいで…」 美咲さんをいたわるようにしながら、彰は俺の背中を叩く。 「ごめん、美咲さん。怪我…しなかった…?」 「あ…。えっと…」 「だ、大丈夫…。な、なんともないから…」 照れ隠しみたいに言いながら、美咲さんは取り落としたファイルケースを拾い上げる。 途端に、逆さに持ち上げられたケースの口から大量にプリント用紙が流れ落ちる。 「きゃっ…。やだ…」 小さく叫び、美咲さんは急いで拾おうとかがみ込む。 俺と彰も慌てて、拾うのを手伝う。 「…ご、ごめんなさいっ」 「今日、風少なくてよかったかも。あ、後ろにも一枚落ちてる」 「…え? うん…」 ぎこちない動作で立ち上がる美咲さん。 だけどその心許ない手からケースはすり抜け、再び辺りにプリントはばらまかれた。 「あ…」 「あ、大丈夫だよ」 そんな美咲さんを見て、彰は再びかがみ込む。 美咲さんに良いところ見せようとか、そんなのをすっかり忘れた状態でプリント回収に没頭する彰。 すぐに必死になってしまう、真面目すぎる姿を見て俺は後ろめたい気持ちになる。 …どんなに真摯な態度で人に接しても、相手はそれに気づくとは限らないんだ。 その人が何か、別のものを見ている時なんて特に…。 それが判ったとしても、彰はこういう風に行動するのをやめないと思う。 やめられないと思う。 だから、よけいに…。 「手伝ってよ、冬弥」 「あ? …ああ…」 「ごめんなさい…。私、不注意だったから…」 「あ。不注意なのは、冬弥の方だから…」 美咲さんに紙の束を手渡しながら、彰は慌てて手を振る。 俺がそのプリントを押さえなかったら、俺達は3回目のプリント回収に従事しなきゃいけなくなるとこだった。 「ごめんなさいっ…!」 まだ揃えられてない、無作為に重ねられた紙束を両手に持ちながら、美咲さんは真っ赤になって教室の方に駆けてってしまう。 「……………」 「…なんだよ?」 彰が睨んでる。 「冬弥がちゃんと謝らないから…」 「ごめんっ!」 俺は彰を押しのけて、美咲さんの後を追って外に出た。 「待ってよ、冬弥…!?」 …だめだ。 俺に、美咲さんを追う勇気なんてない…。 美咲さんを捕まえたとして、何を言えばいいんだ。 何が言えるんだ…。 …何を言っても、嘘になるだけなのに…。 「冬弥…!」 彰はじれったそうに叫び、そして美咲さんのいなくなった方に駆け出していった。 「あ…」 ただ、俺は脱力する。 すごく悪いことをしてしまったみたいな気分のままに。 こんな時、誰に、どんな風に謝ったらいいんだろう。 何をしたら許してもらえるんだろう…。 ぽん…。 はるかが、俺の肩を軽く叩く。 「帰ろ」 「それか、どっか寄ってく?」 「…………」 自己嫌悪の中、せめて誰かに相手をしてもらった方が気が休まる気がした。 「…うん。…いや、帰るよ」 「そう?」 そして俺とはるかは、それほど何も話すこともしないまま帰途についた。 雪もない真冬の公園は、寂寞としてロマンのかけらもなく、肩寄せあう恋人達もいない。 そのことが、かえって俺の気を落ち着かせてくれる。 「座ろ」 「うん…」 …微妙に、何かがおかしくなってきてる。 どうして、こんなことになってしまったんだろう…。 考えれば考えた分だけ謎は増えて、考えるのをやめてしまっても、この不愉快な謎は謎のままいつまでも残る。 ついこの間まで、お互い何のためらいもなくつきあっていたのに、今はお互いがお互い、相手の枷となってしまってる。 一体、誰が、何を、どんな風に間違えてしまったんだ…? 「難しい顔してる」 はるかが俺の顔を覗き込む。 「…お邪魔します…」 「あ、どうぞ座って」 「うん…。ありがとう……」 …やっぱり、元気が無いみたいだ。 「…どうしたの、美咲さん?」 「ううん…。別に何も…」 だけど語尾は、もぐもぐと濁ってはっきりとは伝わらない。 「…………」 ただ震えるしかできない美咲さん。 静かに、できるだけ優しく、俺は美咲さんを抱き寄せる。 俺の手が身体に触れた一刹那、美咲さんはちょっとびくりとしたけど、その後は向こうの方からしなだれかかるように身体を委せてくる。 俺はただ夢中で美咲さんを抱きしめた。 カーテンの隙間の向こうには、変わらない闇が広がってる。 窓に貼りつくみたいな、記憶に貼りつくみたいな、そんな暗闇だ。 外の通りは沈黙したまま、その冷たい静寂が直接に脳に響いてくるみたいだった。 …不思議な気持ちだ。 …俺は、美咲さんを…。 「……藤井君…」 シャワーを浴びて、すっかり衣服を整えた美咲さんが、ちょっと無理するみたいに囁く。 「…やっぱり、私……」 俺は何も言わないで、不安そうな美咲さんを抱き寄せ、そして再び唇に口づけをする。 「……藤井君…」 恥ずかしそうに何か言いかける美咲さんの唇を、もう一度キスでふさぐ。 今度は、深く長く。 唇を離すと、二人で深い溜息。 「…大丈夫…だった…?」 「…うん」 美咲さんは小さく頷く。 「…藤井君が…大丈夫って……言ってくれてたから…そんなに…」 初めての行為で、そのショックも大きいはずなのに、それでも美咲さんは俺を信じてくれた。 俺はもう一度美咲さんを深く抱きしめる。 美咲さんも抵抗せず、胸の中に滑り込むように密着してくる。 「……藤井君…?」 「うん…?」 「…なんでもない…」 美咲さんはすごく安心したみたいに、微笑んだ。 再び部屋に入ると、美咲さんはひどくひどく哀しげな表情をした。 「…大丈夫だよ、美咲さん…」 そう言って、俺はそっと彼女を抱きしめる。 「…………………」 俺の腕の中で、美咲さんは静かに息づく。 …こんな風に俺達は、再び、何かを裏切る。 俺達の知っている、いろんな誰かを…。 でも…。 静かに、美咲さんは俺を弱々しく抱き返してくる。 その身体は震えてる。 …そうだ。 俺達の恋心は、情熱は、誰か、愛すべき誰かを裏切ることでしか成就しない。 残酷なことだけど。 …解答は最初から判っていたんだ。 ただ、それを認めるのがつらいから、二人とも、何も判らないふりをして、悩む姿を装って、ひどい遠回りをしてただけなんだ。 弱く、ずるかっただけなんだ…。 結局どうやっても、貪欲で脆弱な心の逆証明をするに過ぎないんだったら、受け容れることと同じなんだったら、もう、逃げることに意味はない。 「美咲さん…本当に…俺……」 悲しいくらいに不器用な言葉しか出てこなかった。 「俺…美咲さんのこと…」 美咲さんは、自分の呼吸を制御することさえも難しいみたいなのに、それでもじっと俺を見つめてくれた。 そして、少し無理するみたいに笑う。 唇が、何か言いたそうに震えるけど、言葉は出てこない。 …それでも、彼女の言いたいことは俺には判っていた。 「…愛してる……」 そして俺は、自分の分と、そして彼女の分を強く口に出して言った。 美咲さんが目をつむったまま静かに頷いた。 チチチチチ…。 …鳥が鳴いてる…。 夜が、明けたみたいだ…。 「お、おはよう、藤井君…」 「あ…」 俺の胸に額を寄せたまま、美咲さんが見つめてる。 「…おはよう……。美咲さん…」 枕から頭を上げることもしないまま、俺は呟く。 …まるで夢だったような昨夜のことが思い返されて、なんだか照れくさい。 気のせいか、美咲さんの頬も少し赤らんでるみたいだ。 「くすっ…。…藤井君、声が変…」 胸の上で、美咲さんがかすかに笑う。 …暖房をつけっぱなしで寝ちゃったからだな…。 なんとなく、どうでもいいことを思う。 「…起きたの、何時頃かは判んなかったけど、でも、もう明るかったかな…」 「ずっと…見てたの…?」 俺の寝顔を、ずっと…。 「…き、昨日は私の寝顔、藤井君がずっと見てたから…だから……」 …だから、おあいこか。 「…ずっと、このままで…いたかったから……」 「ずっと、藤井君のこと、見ていたかったから……」 そして胸の上にうつむく。 必死に何かを言おうとするけど、言葉が出てこないみたいだ。 「…判ってる…」 俺はそんな美咲さんの髪の毛をそっと撫でる。 「…俺も…このままでいたいよ…。…ずっと、ずっと、美咲さんと……」 林檎か何かみたいに完璧に真っ赤になった美咲さんを軽く抱き寄せ、俺は彼女の唇に口づけた。 俺達がベッドから離れたのは、もう夕方近くだった。 「…ごめんね、藤井君。…長居しちゃったね……」 「いいよ…」 …ほんとは帰したくない…。 そう言いたかったけど、それはただ美咲さんを困らせるだけだと思って言葉を切った。 「…じゃあ、お邪魔しました…」 「うん…」 「あ、美咲さんっ…」 思わず俺は彼女を呼び止める。 「え…?」 「あ、あの…。もう、俺を避けたりとか……しないよね?」 「…………………」 少しの沈黙。 そして、「……うん…」 美咲さんは頷く。 少し哀しく微笑みながら…。 「…それじゃ、またね…」 小さく手を振って、彼女は行ってしまった。 一瞬だけドアから入り込んだ外の空気が、変に新鮮だった。 変に新鮮で、そして、変に冷たかった。 そして俺は、まだ美咲さんの香りと温もりの残るベッドで、眠りに落ちた…。 …無理だよ。 …俺には追いかけられない。 追いかけられるわけがないじゃないか。 ここで美咲さんを追いかけて、どうなるんだ? …また、同じことの繰り返しじゃないのか。 …また、同じ苦しみの…。 美咲さんは、そう判断したから、今、俺のところにそれを伝えに来たんじゃないか。 …本当は、そう判断しなきゃいけないのは俺の方だったのに。 だからせめて、俺は、美咲さんを行かせよう…。 それが、俺の答なんだ…。 …ドアが、閉まった……。 ぷるるるるーーー。 電話だ。 カチャ。 「はい、藤井です」 「冬弥君? 由綺です」 「由綺?」 俺は思わず訊き返した。 どうして由綺が今頃? 大切な『音楽祭』を明日に控えてるっていうのに。 しかも由綺はずっと、英二さんのスタジオに泊まり込んでレッスンを受けてるはずだ。 「あれ? 今、休憩中とか?」 「ううん。私、今、自分の部屋からかけてるの」 「部屋って、あのマンションの?」 「うん…」 どういうことなんだろう…。 「まさか、英二さんが帰っていいって言ったとか?」 「う、うん…。そうなんだ…」 由綺は何故か口ごもるみたいに答える。 それにしても勝手な人だ。 あれだけ徹底して由綺を自分のスタジオに閉じこめておいて、こんな一番大切な時に一人にしておくなんて。 「明日に備えて、ゆっくり休んでおけって…」 「へえ…」 結構、意外。 「よかったじゃない。俺なんかに電話なんて、そんな気遣わなくても良かったのにさ」 嬉しいのはすごい嬉しいんだけど。 「う、うん…」 「大丈夫。ちゃんと応援してるから。…ほんとは、会場まで応援に行きたいんだけどさ…」 『音楽祭』に一般の観客の立ち入りは許されてない。 スタッフや関係者にしても、いくら人出を必要とするとはいっても、日雇いや研修レベルの人間は完全に締め出されるほどに徹底した厳正さなのだ。 だけど俺なんかはどうやっても、『音楽祭』の由綺に会うなんてできない。 そういうシステムだから。 「でも、大丈夫だって。TV観ながら応援してるよ。だからさ、今日は…」 「うん…」 どうしたんだろう。 由綺、元気がないみたいだ。 「冬弥君…」 「ん?」 だけど由綺は沈黙する。 「ど、どうしたのさ? 何かあるんだったら話してよ。…俺、役に立てるかどうかだけど…」 「うん…」 由綺はちょっと安心したみたいに言って、続けた。 「冬弥君…。私の他に、誰か好きな人って、いるの…?」 「え…?」 一瞬、美咲さんの顔が胸をよぎる。 俺は…どう答えたらいいんだろう…? いる いない 「ごめん…。俺…」 俺は、最後まで言えなかった。 それでも由綺は判ってくれた。 「そうなんだ…」 その言葉に、俺を責めるみたいな様子はない。 「うん…。冬弥君、かっこいいし、優しいから、他の娘だって好きになっちゃうよね」 「あ、ううん。別に私、悪いなんて思ってない。…だって、仕方ないもの…」 仕方ない…。 由綺の言葉が俺の胸に刺さる。 ほんとに仕方なかったのか、俺達は…? だけど、今の俺は本気で美咲さんのことを愛してしまっている。 「ごめん、由綺…」 謝ることしかできない。 それしかできない、俺は…。 「あのね、冬弥君…」 由綺の口調は、それでもどこか不安そうだった。 「私、今日、緒方さんに…」 「英二さん? 英二さんがどうかしたの?」 少し口をつぐみ、由綺は続ける。 「緒方さんに…私…『愛してる』って…告白されて…」 「英二…さんが…?」 彼が由綺を気に入ってたのは、それは判ってた。 だけど、一人の男として、由綺に告白するなんて…。 いや…。 そんなことは俺は気づいてたはずだ…。 ただ、考えると、美咲さんと過ごす時間があまりに重苦しく感じられて、俺は知らないふりを続けてただけなんだ。 電話の向こうで、いつの間にか由綺は泣いていた。 「私…寂しかったんだね、きっと…。 さっき、部屋まで送ってもらった時に、緒方さんにそう言われて…キス……しちゃって…」 「由綺…」 「どうかしてたの、私! ごめんなさい、冬弥君…! 私、そんなつもり…! でも、どうしてか、緒方さんに抱きしめられるのも、キス、されるのも、全然抵抗なくて…」 由綺はもう完全に泣きじゃくっている。 「もう私、判らない! どうしたらいいのか判らない! 自分でも、何がしたいのか、何がいけないことなのか、もう、全然…」 「由綺…」 俺は…。 俺は、何も言えない人間なんだ…。 何か言ってあげなきゃいけないのは判ってる。 でも、何を…? 言葉なんかで俺は、全てを納得させられるのか…。 俺は、由綺を…。 「うん…」 だけど俺が何も言えないうちに、由綺はいつしか静かで優しい声に戻ってた。 「ごめんね、冬弥君。変なこと言っちゃってたね、私…」 「え…?」 「『音楽祭』が終わった時、返事をしてくれって緒方さん言ってた…。私、その時に答を出すつもり…」 「由綺…?」 どう返事をするつもりなんだろう、由綺は。 俺に、それを訊く権利なんかあるのか…? 「それまで私、答を考えるから。だから、冬弥君…」 「うん…?」 「『音楽祭』、来られたら来て欲しいの、冬弥君」 「え? でも…」 いくら由綺でも、いや、緒方プロダクションの力でも、俺を会場に入れるなんてできないはずだ。 「ううん。終わってから。放送が終わったら、一般のスタッフも会場に入っていいことになってるから」 「冬弥君が入れるように、私、弥生さんに言っておくから…」 「で、でも…」 こんな俺なんかが、由綺に会いに行っていいのか…? 「来られたらでいいの…」 それから、思い詰めたように 「来て…欲しいの。お願い…」 再び泣き出しそうな声だった。 「そんなの…いるわけないよ…」 俺はそっと呟く。 どうしてこんな嘘をつくのか、自分でも判らなかった。 だけど、「よかった…」 由綺がそう呟くのを聞いた瞬間、俺は、とてもとても大切な人間を裏切ったことに気づいた。 由綺と、美咲さんと、そして、俺自身と。 だけどもう、いいわけはできない。 「ごめんなさい、変なこと言って…」 謝る由綺の声は、どこか安心したみたいに聞こえる。 「ど、どうしたのさ、急に…?」 後ろめたさを感じながらも、それでも俺は尋ねずにはいられない。 「ううん。なんでもないの」 それから、少し沈黙して、「冬弥君…」 控えめな声で俺の名前を呼んだ。 「ん…?」 「『音楽祭』、来られたら来て欲しいの」 「え…?」 俺は思わず声を上げた。 「でも…」 いくら由綺でも、いや、緒方プロダクションの力でも、俺を会場に入れるなんてできないはずだ。 「ううん。終わってから。放送が終わったら、一般のスタッフも会場に入っていいことになってるから」 「冬弥君が入れるように、私、弥生さんに言っておくから…」 「で、でも…」 こんな俺なんかが、由綺に会いに行っていいのか…? 「来られたらでいいの…」 それから、思い詰めたように 「来て…欲しいの。お願い…」 再び泣き出しそうな声だった。 「お願いだから。私、冬弥君に会いたいの…。それだけで、いいから…」 「判った…」 俺は呟いた。 「判ったよ、由綺。行くよ。会いに行く。待ってて…」 そして今度は、呟きじゃなく、強く言っていた。 勇気はなかったけど、それでも、精一杯強がってみせた。 「うん…」 そんな俺に、由綺は、答えた。 答えてくれた。 「うん、待ってる…。あはは…。私、待ってるから…」 由綺が笑った。 ずいぶん懐かしい、由綺の、安心した笑いだった。 こんな弱々しい笑い声すらも、もう、ひどく遠いものと思ってたのに…。 「じゃあ、私、明日、力一杯がんばるね」 由綺は力強くそう言って、「冬弥君の為に…歌うから…。いいよね…?」 遠慮するみたいに加えた。 「うん、応援してる…」 俺もできるだけ普通の口調で答える。 「それじゃ、おやすみなさい…」 「うん。おやすみ…」 そして電話は切れた。 部屋の中は、電話がかかってくる前よりも、一層静まり返ってるように感じられた。 声が欲しかった。 温もりが。 だけどそれは、俺は、誰の温もりを求めているのか自分でも判らなかった。 考えるのが怖かった。 そして俺もまた、黙った。 一通り用事を済ませた時、「藤井君…」 「あ…。美咲さん…?」 …美咲さんの方から、俺に話しかけてきてくれた…。 なんだか、彼女と笑って話をしてたのが、ずっと前みたいな気がする。 「…あの、私…。これから藤井君の部屋に行こうと思ってたんだけど…よかったかな…?」 「あ、うん…」 こんな時間に…? どうしよう。 いいよ だめ 「いいよ。…俺もそろそろ帰ろうと思ってたとこだったから。一緒に帰ろうか?」 「よかった…。…あの、私…」 「うん?」 「…す、すぐ帰るから…」 「そう…」 そして俺達二人は、アパートへ向かう。 「………私…やっぱり…」 「…え?」 「ううん。なんでもない…」 「上がってよ…」 「…うん…。俺、ちょっとこれから外せない用事があるんだ…」 「ごめん、美咲さん…。また今度ね……」 「あ…」 「そ、そうだね…。…連絡もしないで、急に来て『用があるの』なんて言って」 「私、何やってるんだろ? …そんなの、いいわけないもんね」 「…藤井君には、藤井君の予定があるんだもんね」 「…ごめんね」 「そんな。こっちこそ…」 「ううん、いいの」 珍しく、美咲さんが最後まで聞かないで言葉を遮る。 「…悪いのは…私の方だったから…」 「そんなことないって…」 え…? 『だった』…? 「私、本当に、応援してる…って、由綺ちゃんに伝えておいて…」 「うん…」 どうしたんだろう…。 …まるで、遺言を遺すみたいに…。 「…ずっと……言いたかったの…」 「藤井君…。ごめんなさい…」 「…昔から、好きでした……」 「…美咲さん…?」 どこか満足したように微笑む美咲さん。 その姿は、とても、綺麗だった。 このまま、夜の空に融けていってしまいそうなほど、とても、優しくて、清楚で、そして哀しくて…。 「…それじゃあ、さようなら。藤井君…」 美咲さんは、一瞬、俺に手を伸ばしかける。 でも、俺に触れることはしないで、思い直したみたいにそっと手を戻してしまう。 そしてもう一度、俺の目を見つめる。 「…美咲さん…?」 彼女は答えない。 目を逸らす。 後ろを振り返り、俺に背を向ける。 そして、何も言わないで、静かに去っていってしまった。 …かすかに、肩を震わせて。 …美咲さん…。 ピンポーーーン。 「あ、はーい…」 誰か来たみたいだ。 「どなたですか…?」 「こんばんは…。…ごめんなさい、こんな時間に…」 「美咲さん…?」 どうしたんだろう、急に…。 しかも、美咲さんの方からなんて…。 ここしばらく、俺に何か遠慮してるみたいな感じだったのに。 「…ちょっとだけ、お邪魔させてもらっても、いい…?」 え…? ええと…。 いいよ だめ 「うん…。入ってよ。…部屋、あったかくしてるからさ」 「…急なのに…ごめんなさい……」 「…いや、あの…。…ごめん、美咲さん。 今日はちょっと俺、一人でいたいから…」 俺はきまり悪そうに答える。 「…そう…」 「そ、そうだね…。…連絡もしないで、急に来て『用があるの』なんて言って」 「私、何やってるんだろ? …そんなの、いいわけないもんね」 「…藤井君には、藤井君の予定があるんだもんね」 「…ごめんね」 「そんな。こっちこそ…」 「ううん、いいの」 珍しく、美咲さんが最後まで聞かないで言葉を遮る。 「…悪いのは…私の方だったから…」 「そんなことないって…」 え…? 『だった』…? 「私、本当に、応援してる…って、由綺ちゃんに伝えておいて…」 「うん…」 どうしたんだろう…。 …まるで、遺言を遺すみたいに…。 そして、美咲さんは帰っていった。 かすかに、階段を下りる音が聞こえてくる。 冬の夜気を通したその音は、何か、今まで聴いたことのない別の楽器が鳴ってるみたいにきこえた。 哀しく、哀しく、哀しく、響いて…。 …そして、やがて、きこえなくなった。 ピンポーーーン。 「あ、はーい…」 誰だろう、こんな日に…。 ガチャ…。 「彰…」 どうして彰が、こんな日に俺のところに…? 「どうしたの…? …珍しいじゃない、彰が俺の部屋に来るなんて…」 とか言いながら、美咲さんのことが思い出され、なんとなく居心地悪く思った。 こんな場合、謝るべきなのかな…? 「うん。ちょっと用事があったから」 「そ、そう…」 彰の微笑に、俺は白々しく笑う。 いつからこんな、友達の顔色を窺い窺い、嘘の笑いを見せるようになったんだろう。 「冬弥、ちょっと外、いいかな?」 「え…?」 ええと…。 いいよ ちょっと今日は… 「ああ…。別に、いいよ…」 俺は少し控えめに答える。 彰だって、今日が『音楽祭』の日だって知ってるはずだ。 無茶な誘いはかけないだろう…。 まあ、普段から人を引っ張り回すやつじゃないしな…。 「そう…。よかった。…じゃ、行こ」 「行こうって、どこにさ?」 「え…? えっと…」 「…公園…」 「公園?」 どうしてこんな寒いのに、そんなとこに…。 「…行こうよ」 「あ、ああ…。行くよ」 なんか、調子が違うなあ。 「ちょっと待ってて。何か着てくから…」 「今日はちょっと…」 「判るだろ? 今日、『音楽祭』だろ? あんまり、外には出たくないな…」 「行こうってば…」 再び彰は食い下がる。 しつこいな、今日の彰は。 「だからさ…」 「大丈夫。すぐだから。ちょっと、話を聞いてもらいたいだけなんだ…」 「それだったら、なにも外に出なくったって…。部屋ん中でいいじゃない。…入らない?」 俺は部屋の中を示す。 「う、うん…」 「ここじゃちょっと…」 変なやつだなあ。 しょうがない。 「ほんとにちょっとだけだぞ…」 「大丈夫だよ。行こ」 「じゃあ、ちょっと待ってて。何か着てくから…」 「…っ寒いなあ…」 建物から出るなり、俺は冷たい風に吹かれる。 「なんでこんな、風の冷たい時に…」 「……………」 「…なあ、彰。…これから公園なんて行って、何かあるわけ…?」 俺の声は完璧に部屋に戻りたがってる。 「う…うん。まあね…」 俺は沈黙する。 彰に、なんて言ったらいいんだ…。 俺の一番の親友に…。 「言ってよ、冬弥…」 彰は俺をじっと見つめる。 ほんとに彰は、俺と美咲さんのことを知ってるのか…? 「言えないこと…ないよね…?」 問い質す彰も、なんだかつらそうだ。 美咲さんを、そして俺を、信じてて愛してくれてる彰には、一体、どれほどの苦痛なんだろう…。 答えなきゃ…。 「本気だよ」 「なに言ってるか判らない」 「本気だよ、もちろん…!」 言いかけた時、「!?」 俺はベンチから転がり落ちる。 やがて、頬にじわじわと痛みが表れてきた。 殴られた…? 俺が… 彰に…? どうして…。 「ひどいよ…」 「彰…」 喋ると、口の中に血の味が広がった。 「お、おい、彰…」 「僕にだって判るよ。二人を見てたら、僕にだって…」 彼は静かに、俺に近づいてくる。 「僕に何も言ってくれないで…。全部、自分達だけで…」 「それは…」 「聞きたくないよっ! 白々しい言い訳だったら、何も言わないでよっ…!」 「彰…」 口の中の血の味が、ますます濃くなっていく。 「…由綺のこと…どうするのさ…?」 「……………」 俺は目を伏せる。 「ちゃんと…話すよ…」 再び彼の拳が俺をとらえる。 激痛が顔中を走り抜ける。 「ちゃんと!? ちゃんとだって!? ちゃんとってなんだよ?」 「やっぱり、由綺にも話してなかったじゃないか…!」 「……………」 「僕にも、由綺にも、何も言えないで、そんなので美咲さんを…」 語尾がかすれてゆく。 「美咲さんを…」 「…どうして…冬弥まで好きになっちゃうんだよ…?」 「どうして僕を…裏切ったんだよ…? どうして僕に…こんなことさせるんだよっ…?」 でもそれは、仕方ないことなんだ。 そうしか、俺にはできなかったんだから…。 「…俺…本気で、美咲さんのこと…愛してるから…」 再び殴られるのを覚悟して、俺は言った。 これまで、俺は彰に本気で殴られたことはなかった。 俺が、彰を裏切ったことがなかったように。 彰は俺の襟首を乱暴に引き上げる。 俺は目をつむる。 「……………」 だけど、彰は、殴らなかった。 ただ、うつむいていた。 「なんで…僕を殴らないんだよ……? …どうして『美咲さんは渡さない』って言ってくれないんだよっ…?」 彰は、泣いていた。 彰は、俺を殴ろうとここまで呼び出したんじゃない…。 俺に殴られる目的で俺を呼び出したんだ…。 俺に、美咲さんを奪わせる為に…。 「もう、いいよ。冬弥なんて…」 「さよなら…」 足を引きずるみたいにして、彰は俺に背を向ける。 「彰…」 「乱暴なことしてごめんね…。もうしないから…。…多分、一生…」 そして少し歩きかけて、「今日、美咲さん、『音楽祭』の会場まで行ってみるって、言ってた。多分、駅からタクシーで行くんだと思うけど…」 「彰…?」 彼は潤む目を乱暴にこする。 「絶対に行ってあげてよ、冬弥。冬弥が嫌でも、僕が行かせるから…!」 「僕が行かせるから…!」 美咲さんは、そう、いろんなことを覚悟して、由綺のいる場所に行こうとしてる。 由綺には会えるわけもないのに、それでも、彼女は、行くんだ…。 不意に、俺の身体が震えた。 これまで感じていた心細さに、じゃ、ない。 不思議な力に、だ。 俺は拳を硬く握る。 「行くさ…」 呟いた瞬間、俺の拳は彰の頬を確実にとらえた。 彰の身体が弓なりに吹き飛ぶ。 「行くよ、俺は! 美咲さんと一緒にっ!!」 「彰っ! お前が何かしたからだなんて思うなよ、絶対っ!殴られた分は返したんだ!」 「俺は、自分で行く。美咲さんのことが、好きだから…!」 「……………」 口を押さえたまま、彰は俺を見上げている。 その手の間から、幾筋もの血が流れる。 「彰…」 思わず、助け起こそうと近寄る。 だけど彰は、必死に首を振るだけだった。 そして辛うじて、「いいよ。行って…あげて…。……僕は…いいよ…」 口の中をひどく傷つけてしまったみたいだ。 それでも、俺は手を貸すわけにはいかない。 謝ることさえ、やっちゃいけない…。 「じゃあ、俺、行くから…」 俺は、うずくまる彰を残して歩み去る。 みんなみんな、卑怯者だったんだ…。 俺を愛してた美咲さんも、美咲さんを愛してた彰も、それに、由綺を愛してた俺も…。 それでも、みんなそこから抜け出そうとした。 その、卑怯者の平安を捨て去ろうとした。 裏切りだとか、暴力だとか、そんな哀しく幼稚な手段で…。 だけど結局、みんな、卑怯者って名前から逃れられても、苦痛からは逃れられなかった。 その苦痛は、自分の狡さやエゴじゃなく、その、愛する何かの喪失に由来してたんだから。 苦痛は、消えない。 恐らく、永遠に…。 駅からタクシーに乗るとして、『音楽祭』の開催が終わる時間に間に合いそうなあたりに乗り場に行くことにしよう。 ひょっとしたら、美咲さんを捕まえられるかも知れない。 そろそろTVで『音楽祭』の生中継が放映される時間だ。 生放送ならではの緊張感が画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、由綺がステージに現れた。 「…なに言ってるんだよ、彰。…なに言ってるか、俺には判らないけど…」 俺は少し笑って答える。 「美咲さんに、俺が、何を本気になるっていうんだよ…?」 「そっか…」 「あはは…。…僕の勘違いだったみたいだ…」 困ったみたいに彰は笑った。 「…気持ちは判るけど、あんまり意味不明なこと言わないで…」 言いかけた瞬間、彰の鋭い拳が俺の顔面を直撃した。 「………!?」 俺はベンチから転がり落ちる。 「…僕は本気だよ…!」 そんな俺を見下ろすみたいに、彰が近づいてくる。 「…冬弥が本気じゃなくたって、僕は本気だ…!」 「ま、待てよ彰…。なに言ってるんだ…?」 再び彼の拳が俺の顔面をとらえ、俺は冬の冷たい地面に叩きつけられる。 「ぐうぅっ…!」 口から粘っこいものが飛び出す。 血だ。 「…どうして…?」 「…冬弥、僕が美咲さんのことどう思ってるか、冬弥、知ってたのに…」 「それなのにどうして美咲さんをそんな風に…」 「待て…」 そう言ったつもりだったけど、言葉にならなかった。 瞬間、彼の革靴が振り子みたいに飛んできて、俺の腹を深くえぐる。 「…………ぅ…」 声が出ない。 壊れた笛を吹いてるみたいな音が喉の奥から洩れてくるだけだ。 「…遊びだったら、他の人でもよかっただろ…」 「…それに、由綺だっているのに…」 「…どうして美咲さんなんだよ…?」 涙に潤む彰の目はもはや、俺を見ていなかった。 何も見ていなかった。 ただぼんやりと、ここにはない誰かを見つめ続けていた。 立ち上がろうとする俺の胸元に、彼の靴の爪先が鋭く突き刺さる。 俺の上半身は弓なりに飛び上がり、後頭部から再び地面に貼りつけられる。 口の中は、血と、喉の奥から流れてくる何か嫌な味がするものでいっぱいだった。 もはや、呼吸すらも苦しい。 「…僕を殴ってでも、力ずくでも奪ってかなきゃいけないんだよ、美咲さんは!」 「…どうしてそんな簡単に言えちゃうんだよ!? …本気じゃないなんてっ!」 …………。 …もう一発どこかに喰らったら、間違いなくどこか壊れる…。 だけど、そのとどめの一発はいつまでたってもやって来なかった。 俺は恐る恐る目を開けてみる。 「…もう、いいよ。冬弥…。もう…」 彰がそう言って、俺に背中を見せるところだった。 「もう、会うこともないよね…」 「…乱暴なことして、ごめん…。もうしないから…。多分、一生…」 彰…。 …小学校の頃から、ずっとずっと一緒だった、彰…。 彰が他人になってしまう…? 俺は、とっさにどう考えていいのか判らなかった。 とにかく、話をしたかった。 …でも、声が出てこなかった。 体が動かなかった。 彰が、涙を我慢して去ろうとするのを、俺は、冷たい地面に縫いつけられ、血を吐きながら見送るしかできない。 …親友が自分から去っていくのを、俺は、呼び止めることさえできない…。 やがて、彰の姿が道路の向こうに消える。 殴られている間、一滴もこぼれなかった涙が、今頃になって流れてきた。 涙は固まりかけた血と一緒に傷口にしみて、ひどくひどく痛かった。 …………。 「冬弥、冬弥…」 …誰かが俺を揺すってる。 答えようにも、声が出てこない…。 …はるか? 「生きてた」 はるかは縁起でもないことを言って、俺の身体を持ち上げる。 …偶然かな? 何にしても、助かった…。 「野良犬に? それとも彰?」 俺は驚いてはるかを見る。 …見てたのか? 「ん?」 「判ってたから。こうなるって」 …そう、か…。 結局、何も見えてなかったのは本人達だけだったってわけだ。 はるかは俺に肩を貸し、どうにか立たせる。 「歩ける?」 無理だ…。 再び俺の意識が朦朧としてゆく。 「…こんなはずじゃ…なかったのにね…」 夜の空を見ながら、はるかがそっと呟いた。 はるかが、ぼろ布みたいになった俺を、部屋に運んで応急の手当をしてくれた時には、もうすっかり夜は更けてしまっていた。 「…ごめん、はるか…」 どうにか喋れるようになった口で、俺は言った。 「何が?」 …何が、なんだろう…。 俺は、このはるかにさえも何か謝らなきゃいけない気がした。 でも、何を謝るのか、それももう判らなくなってしまってたんだけど。 「じゃ、帰るね」 「…もう?」 俺は子供みたいに尋ねる。 …なにを俺は寂しがってるんだ…。 「TV観るから」 『音楽祭』か…。 もう少しで始まっちゃうな…。 …なんだかすごく寂しく、目のあたりが潤んでくる。 「………」 「じゃ」 …なんとなく、ここでバイトするのも少しつらく感じられるようになった。 すごく熱心な眼差しでステージに立つ由綺の側にいるのは、とても心苦しくて。 ちゃんと由綺と話をして、由綺の仕事が忙しくなる前にここをやめてしまおう…。 …卑怯なことだけど。 さ、帰ろう…。 「…冬弥君……?」 「え…?」 「冬弥君…」 「由綺…」 由綺…だ…。 「冬弥君…今日もお仕事だったんだ…」 「あ、うん…」 「お疲れ様…」 元気っぽいけど、どことなくなんとなく疲れてるみたいだ。 「い、いつもの仕事だし…。由綺は今日は…仕事…?」 「うん…。そうじゃないけど…」 「…でも、またちょっと忙しくなりそう…」 「そう…」 こんな風に由綺は、いつも、真面目で熱心だから…。 「あ…。…この間は…お疲れ様。…ちょっと、もったいなかったね…」 「うん…」 『音楽祭』。 結局、最優秀賞は理奈ちゃん… 緒方理奈が受賞した。 前評判通りといえばそうだったけど。 ただ、参加者中で一番キャリアの浅い由綺がごく僅差で次点についたってのはかなりの波乱を巻き起こしたみたいだった。 (弥生さんに感情があったら歯噛みして悔しがったんじゃないかって思う) だけど、なんとなく、リアルな世界じゃないと思った。 …少なくとも、俺の住む世界はもっと退屈で紋切り型なリアルに充たされてる。 嫌いじゃないけど、決して好きにもなれないリアリティだ。 そして今、由綺の住んでるのはここじゃない。 由綺は、向こう側に行ってしまった…。 「あ、あの…。由綺…」 「え…?」 「え…と…」 話さなきゃ…。 胸が、痛む…。 「俺…由綺に言わなきゃいけないこと…あって…」 「……あの…」 「怒られたって当然だって、俺、自分でも思ってるけど…。でも、できるだけ怒らないで聞いてもらいたいんだ…」 「………………」 「…由綺?」 「え…?」 「何か…怒って…る?」 「う、ううん。怒ってない!」 「そう…」 …だけど、重荷から解放されたばかりの由綺に、美咲さんとの話を告げなきゃいけないなんて…。 「…私、美咲さんと、会って話したよ…」 「え…?」 「全部、話してくれた、美咲さん…」 「そう…」 …どうしていつも、美咲さんは全部自分で背負っちゃうんだ…。 俺を置いていかないって…言ったのに…。 「美咲さん、泣いてた…」 「そう…」 「私に見せないようにしてたけど、判っちゃった…」 「だろうね…」 「演技、あんまり上手じゃないみたい…」 「上手じゃないね…」 顔を真っ赤にしながら、ちぐはぐな笑顔で必死に涙を隠そうとしてる美咲さんの姿が浮かんできそうだ。 「ごめん、由綺…」 「ごめんなさい…」 「えっ?」 「えっ?」 お互いの言葉に驚くタイミングまで、まるで一緒だった。 「あ、あの、私、冬弥君に謝ろうと思ったのに、冬弥君、いきなり真剣だったから…」 「ど、どうして由綺が謝るのさ…? 俺の方こそ、謝ろうと思って…」 「許してもらえるなんて思ってないけど…」 そして、まるでタイミングの合わないコントみたいに、再び二人一緒に喋り出す。 今日は美咲さんと出かける日だ。 植物園か。 すごい久しぶりって感じがする。 美咲さんは…。 あ、いたいた。 もう来てる。 「美咲さ…」 「藤井さんっ」 「わあっ!!」 「……!?」 「なにが『わあっ』なのよ! もうっ!」 「ああ、びっくりしちゃった…。声かけるんじゃなかったわ」 「びっくりしたの、こっちだよ。 って、あれ? 制服?」 今日、土曜日のはずなのに。 「…学校に呼び出し…」 「って、いいじゃない、そんなの」 「それより藤井さん。こんなところで何してたの? 暇なの?」 なんだか、いかにもかまって欲しそうだ。 でも、残念だけど。 「残念だけど、俺、これから用事があるの」 「用事ー…?」 「どうせまたナンパとか、女の子の後つけるとかそんなでしょ?」 「違うよ…」 自分の家庭教師なんだから、もう少しかっこいいイメージ持ってくれても良さそうなもんだけど。 「生意気ー…。じゃあ何よ?」 「そりゃあ…ほら…」 美咲さんと待ち合わせ、なんて言ったら、俺、なに言われるか。 でもって、なにされるか…。 「ほら、アレさ、植物園…」 「植物園ー…?」 「そう、植物園」 「今、冬よ?」 「あ、それか、ハウスの中の熱帯コーナー? まるで子供ね」 「まさか。判ってないんだな。冬の日の植物園には、緑を失った冬の風情が…」 「おじさんくさ…」 「葉を落とした木々と針葉樹が、青空をバックに…え?」 「そんなの、大人の雰囲気持った人がやったらかっこいいけど、藤井さんがやっても惨めっぽいだけよ」 「惨め…。 わ びしいって風情だよ。判ってないなあ」 「そういう雰囲気持ってないとハマらないの。ソレ系は」 また見もしないうちから…。 俺だって、そういう雰囲気になるかも知れないじゃないか。 「まあ、こど…マナちゃんには判らない風情だよ」 「こど…?」 「なんでもないよ」 いちいち聞きとがめるな、この娘…。 「まあ、もしよかったら一緒にそういう風情を教えてあげてもいいけど?」 俺は嫌味たっぷりに言う。 「いーーっだっ!」 マナちゃんは思いっきり顔をしかめてみせると、小走りに公園を駆け抜けて行ってしまった。 怒らせちゃったかな…。 でも、あんまり美咲さんを待たせても悪いし。 「美咲さん」 「あ、藤井君…」 「ごめん、遅くなっちゃって。ちょっと知り合いの娘と会っちゃって」 「ううん。いいわよ」 美咲さんは優しく笑ってくれる。 「じゃあ、行こ」 「ええ」 週末の、しかも春まで閉館っていうラストの日なのに、やっぱり冬の植物園には人はいない。 (はるかが好きそうだ) だけど中には、こないだ美咲さんが言ってた、『言葉じゃ伝わらない』風景があった。 植物園っていう人工的な森林の不思議なロケーションも手伝って、ここの青空はまるで別の何かだった。 葉っぱはなくなっても決して枯れてない無数の枝と、まっすぐ伸びた針葉樹の景観の中で、空は、まるで檻の中に閉じこめられたみたいだった。 綺麗、だ…。 緑なんてほとんど残ってないのに、森の匂いがしてきそうだった。 ふと俺は横を見る。 まっすぐな姿勢の美咲さんが、言葉もなくまっすぐ上を見つめてる。 『大人の雰囲気持った人が…』 そういえば、マナちゃん、そう言ってた。 ほんとだ。 ものすごくはまってる。 木漏れ日とも言えないみたいな冬の陽光の下で美咲さんの呼吸だけが感じられた。 「なあに…?」 「ううん…」 「静かだね…」 「うん…」 「遅くなっちゃったね…」 「うん…」 結局俺達は、一日中天気が良かったので、日が暮れるまで公園にいた。 「なんだか…ただ見てただけなのに、疲れたね。はは…」 「うん…。一日中遊んじゃったものね…」 美咲さんも疲れてるみたいだけど、その顔には軽い微笑みさえも浮かんでる。 「どう? 授業さぼってみて?」 俺はそれとなく、意地悪いことを訊いてみる。 だけど美咲さんは、全く気づいた風もなく、「ふふっ。楽しい…」 今日は美咲さんとスケートだ。 「おはよう、藤井君」 「おはよう」 美咲さん、いつもの格好だ。 スケートとかいって、張り切ってすごい厚着とかしてきたら面白いなとか思ってたのに。 まあ、当たり前か。 「…どうしたの?」 「え?」 「あ、いや、美咲さん、普通の服装だなって思って…」 「…やっぱり厚着してきた方が、よかったのかな。…スケートって」 「ま、まあ…」 当たり前じゃなかった。 今日は美咲さんと、図書館に出かける日だ。 あ、美咲さんだ。 「美咲さーん」 「あ、藤井君。おはよう」 「おはよう」 冬の午前の澄んだ空気の中で、美咲さんは微笑む。 「でもすごいね。美咲さんって、いつも電車に乗って図書館に行くの?」 「うん。いつもじゃないけど…」 「でも、向こうの図書館は大きいし、駅からも近いから逆に便利なの」 「へえ…」 確かに電車で行った先に、この地区で一番大きな図書館があるけど。 なるほどな。 近くにあるのが便利ってわけでもないんだ。 「それじゃ、行きましょ」 「うん」 そして俺達は電車に揺られた。 「ふふふっ。藤井君、子供みたいなんだもの…」 「いや、だって久しぶりだったんだよ。ああいうの見るのって…」 図書館なんてたまにしか用のない俺は、何か面白そうな読み物でも探しながら美咲さんと話ができればいいかなとか、そのくらいしか考えてなかった。 だけど、ふと俺は書架の中に『世界の航空機』とかいう本を見つけてしまった。 暇つぶしのつもりで目を通してたら、思わずはまってしまって、結局、最後まで熱心に読み通してしまってた。 「あれ、『航空機』とか書いといて、ライト兄弟の飛行機から複葉機から、もういろんなデータ載せてるんだもの。詐欺だよー」 「藤井君、飛行機とか好きなんだね」 「いや、好きっていうか…。子供の時以来だからね、あんな図鑑みたいなの見るのって。 つい熱中しちゃったよ」 「すごく熱心だったよ」 「え…? そんなに…?」 かっこ悪い…。 「ふふふっ」 「あ、ごめん。わざわざ言って誘ってもらったのに、俺一人で楽しんじゃって」 「いいのよ。図書館なんだし、好きな本読んで。 今日は私も楽しかったし」 「やっぱり、一人で来るよりも楽しいもの…」 そう言って美咲さんは、ほんとに楽しそうに笑う。 ちょっと恥ずかしかったけど、でも、なんかよかった。 「それじゃあ、今日はどうもありがとう」 「うん。俺の方こそ」 「じゃ、またね」 「うん。また今度」 さあ、俺も帰ろう…。 今日は美咲さんとショッピングだ。 あ。 美咲さん、もう来てる。 さすが、遅刻なんてしないんだな。 「美咲さーん」 「あ、藤井君…」 「ごめんね。もう少し早く出た方がよかったみたいだね」 「ううん。私の方が早く来ちゃっただけだし…」 「じゃあ、行きましょ」 「うん」 「わあ…。やっぱり、人、多いね…」 あ、そうか。 美咲さんって、あんまりこういうところにって遊びに来ないんだな。 「まあ、週末だからね」 と、その時。 「あれ? 冬弥じゃない?」 「え?」 「あ、彰…」 こんな人の多い中、どうして彰になんて…。 「あれ…? 美咲さんも一緒…?」 「こ、こんにちは。七瀬君…」 「こんにちはっ。美咲さん」 彰、笑ってるけど、変な風に思ってないかな…? 「あれ、冬弥と美咲さん」 あ、はるかも一緒だ。 みんなに見られちゃった…。 まずくないかな…。 「デート?」 「ええっ?」 は、はるか…! 全然似合わない台詞を、よりにもよってこんな時に…。 「ちっ違うのっ! あっ、あのっ! 私っ! あのっ! 藤井君のこと無理に誘って…!」 落ち着いて、美咲さん…。 「私もデート」 美咲さんをいじめておいて、はるかは全然それを見てない。 「ね? 彰?」 「なに下らないこと言ってるのさ、はるか…」 彰は必死にはるかを睨む。 『美咲さんの前でなんてことを』って、その目は訴えてる。 「週末だからって、彰がね」 「なんだよ。土曜日だからって、はるかが僕を引っ張ってきたくせに…」 「信じちゃだめだよ。はるかの言うことなんか…」 ははは…。 彰、美咲さんの前で必死だ。 「はるか、僕、もう行くよ…」 「あ、私も行く」 「ちょっと怒られてくるね」 「じゃね…」 「あ…」 「行っちゃったね…」 「よかったのかな…。お買い物、誘ってもよかったのに…」 「うん…。でもまあ、なんか大変そうだったし、あの二人…」 「くすっ。そうね…」 「はるか、彰からかうの大好きだからなあ…」 「七瀬君も優しそうだから」 「まあ、そうなんだけどね…」 へえ。 美咲さん、彰のこと、結構良く見てるんだ…。 「じゃあ、私達も行きましょ…」 そうだ。 美咲さんに断りの連絡入れなきゃ。 家にいるかな。 ぷるるるるーーー。 カチャ。 「はい、澤倉です」 「あ、私、藤井と申す者ですが、美咲さんは…」 美咲さん、お母さんと声が似てるから気をつけなきゃ。 「藤井君? 私、美咲ですけど」 あ、よかった。 美咲さんだった。 …ちょっと笑ってるけど。 「どうしたの? 今、帰ってきたの?」 「いや…。あの、美咲さん…」 「はい?」 「あの…約束してたことだけど…。あれ、ちょっと行けなくなって…」 「え…?」 「ちょっと用事ができちゃって…」 「そう…なんだ…」 美咲さん、やっぱりがっかりしてる。 「ごめん…。急な話で…」 「あ、いいのよ。藤井君が断れなかった用事なんでしょ?」 「うん…」 「だったら仕方ないわよ。今回のは、また今度、ってことで…」 明るい口調だけど、こんな時の美咲さんって無理してるんだよな、結構。 悪いとは思うんだけど、でも…。 「ほんとにごめん。今度、何かで埋め合わせるから」 「いいのよ、ほんとに。藤井君こそ、忙しくて大変なんだからがんばらなきゃ」 「うん…」 「それじゃ、また今度ね。おやすみなさい」 「うん…。おやすみ…」 そして電話は切れた。 ごめんね、美咲さん…。 ピンポーーーン。 誰も出ないな…。 …まあ、平日だからしょうがない。 『自主登校』なんて言っても、やっぱり受験生は学校に行って勉強をするのが正しい。 …じゃ、まあ、今日は夕方くらいまで時間を潰して、もう一度ここに来ようか。 帰ろうとした時、ドアが少しだけ開いて、中からマナちゃんが顔を覗かせていた。 「あ、藤井さん…」 外に出てくる彼女。 一日中家にいたらしく、完璧、私服だ。 「あ、いたんだ」 いたんだったらすぐに出てくれてもいいのに。 「いるわよ。私の家なんだから」 そして、むっとしたみたいに、また家の中に入ってしまった。 「あっ、ごめん。そういう意味で言ったんじゃないんだ…」 俺は慌ててドアを叩く。 「…何してんの? 冗談よ、冗談」 『ばかじゃないの?』と彼女の目は言ってる。 …かっこ悪い…。 「さっ。入って」 「あ、お邪魔します…」 俺は少しきまり悪さを感じながら靴を脱ぎ、家に入った。 「…でも、ほんとに来たんだ、藤井さん」 椅子に腰掛けながら、人をばかにするみたいに彼女は言った。 「そりゃ来るさ。頼まれた以上は、家庭教師だからね、俺は」 「ふうん。真面目…」 「…まさかほんとに来るとは思ってなかったから、今日はまだ藤井さんの椅子とか用意してないんだ。ベッドにでも座ってて」 「あ、うん…」 女の子のベッドに座るのって慣れてないから、ちょっと緊張する。 まして、それほども親しくない娘だとなおさらだ…。 「…それで、今日は何?」 「何って…」 この間はこの仕事を引き受けるかどうか決めてなかったから、マナちゃんがどういう勉強をしてるか知らない。 仕方ないから今日は、俺が受験の時に使った参考書と問題集を引っぱり出して、コピーをいくつか持ってきた。 「…とりあえず、この問題をやってみて」 その間に彼女の教科書なり何なりを見て、今の学習課程を知ればいいだろう。 「いきなり筆記…? …最っ悪…」 「なに言ってるんだよ、これはマナちゃんの学力をみる為の…」 とか何とか、俺は適当なことを言う。 「ふん…」 「今日はもう、やめにしちゃってもいいかな…」 「やったっ」 マナちゃんは喜んで、さっさと筆記用具を片づけ始める。 なんだか釈然としないけど、ここまで完璧な学力を見せつけられて、これ以上やれることなんてない。 今度来る時には、ちゃんとメニューを組んでこなきゃ…。 「さて、と…」 彼女は椅子から立ち上がり、壁際の小さなコンポのスイッチを入れる。 スピーカーから、ポップな音楽が流れる。 CD…じゃないな…。 FMか…。 昼下がりにぴったりな音楽に、俺も少しくつろぐ。 まあ、今日は休日気分を味わっても、いいかなあ…。 休日…。 …考えてみたら、今日は平日じゃないか。 こんな日に学校へも行かないで勉強もしないで、なにラジオなんか聴いてんだ、この娘は…。 「ねえ、マナちゃん」 「んー?」 「…学校は?」 ちょっと沈黙。 「自主休校ー…」 「…いくらそうだからって、受験生なんだし…」 「うるさいわねー。ちゃんと勉強ができるんだからいいじゃない、それで」 「さっきのテストって、その為にやったんでしょ? ちゃんとできたんだから、文句は無いでしょ?」 文句は無いけど…。 「…なによおー」 「い、いや…」 彼女に説教できる身分でもないし…。 「いいわよ。もう少ししたら買い物にでも出かけるから」 「一日中家の中になんて閉じこもらないわよ」 そういう話でもないんだけど。 「…そんなで、お母さんとかから何も言われない?」 「言わないわよ、私になんて…」 曲の切れ目に、彼女は少しだけうなだれる。 「…ちょっと黙っててよ、藤井さん。……曲、聞こえないよ…」 「ごめん…」 少し、立ち入りすぎたな…。 俺は素直に黙って、ラジオに耳を傾ける。 「…藤井さん……」 ふと、マナちゃんが呼びかけた。 「うん?」 「…大学って、楽しい…?」 あ…。 「まあね…」 俺はただ曖昧に答えた。 「ふうん…」 少しすると、マナちゃんは、「うん。いいかな」 「だめ。もう少しだけ我慢しなさい」 俺はマナちゃんを抑えつけるように言った。 「ぶー」 むくれる彼女。 「判ったわよ。やるわよ」 「でも、ラジオ聴きながらだっていいでしょ?」 「いいよ。真面目にやるんだったらね」 「ふんっ…。判りましたあ」 むっとしながら彼女がコンポのスイッチを入れると、スピーカーからポップな音楽が流れ始めた。 FMかな? よし、これで心地よく学習を…。 …とはいえ、今日は特別に何も用意してきてないから…。 やっぱり口頭しかないのかな…。 しかしそれにしても、数分もやっていたらネタ切れになってきて、次第に雑談の様相を帯びてきた。 「…大学に行ってるんでしょ? そんなのぱっと出てこないの、ぱっと?」 「そ、そんな」 「第一、大学ってこんなパターンな勉強しかないところじゃないの。こんなのは大学入っちゃったら、それでお終いなの」 なんとなく負け惜しみくさい。 「生意気…」 いらいらするように彼女は呟く。 どっちが生意気なんだか…。 大体、由綺や美咲さんはもっと素直で可愛かったぞ。 (はるかはともかく) って、この娘、もっと以前から知ってるみたいな印象が…。 駅で会う以前に…。 気のせい… だよな……。 それからしばらく俺は根拠なく彼女にけなされて時間を過ごした。 少しすると、マナちゃんは 「うん。いいかな」 「あれ? どうしたの?」 不意のことに、俺は思わず彼女に尋ねる。 「…そろそろ下校時間だから、ちょっと遊びに出るの」 なんて言いながら、マナちゃんは気取った風に俺を見る。 「それじゃ、藤井さん。今日はお疲れ様でした、ばいばい」 流れるような勢いに、俺は何も言えずに、ただ彼女と一緒に家を出る。 「じゃ、行ってきます。さよなら、藤井さん」 机に向かってた時はあんなに不機嫌だったのに、なんだか感情の変化が激しい娘だ。 俺は… ついてってもいいかな? それじゃさよなら 「一緒に遊びに行ってもいいかな? 俺も結構暇だし」 「いーーっだっ!」 と、思い切りしかめ面をされてしまった。 「いっつもそんなことばっかり、やってるんでしょ!?」 「変態! へんたーーい!」 「ちょ、違うよ、ちょっと…」 こんなところで『変態』なんて連発しないでくれ、お願いだから…。 「もう! 遊ぶっていっても、私は普通に遊ぶんだから、変な想像しないでよね!」 「してないってば!」 こんな、勝手に暴走するあたり、なんとなく由綺に似てるような…。 「最っ低! もう最っ低! 最悪! どっか行っちゃえ!」 「ちっ、違うって…! …あ、もう、それじゃ、俺、帰るから。じゃ、また今度っ!」 これ以上ここにいたら何を言われるか判らない。 俺は早々にその場を立ち去った。 「それじゃ。今日はお疲れ様…」 どっちかって言うと、俺の方が疲れたけどな…。 そんな風に思いながら、俺はマナちゃんに手を振る。 「ばいばい」 いかにも解放されたーって感じの笑顔だ。 そんなに嫌だったのか…。 「…また今度ね」 「…また来るの? ひょっとして…?」 「仕事ですから」 俺はわざと硬い口調で言ってやった。 「そうなんだ…」 今から疲れたみたいに肩を落とす彼女。 「…でも、もし忙しかったらさぼってもいいよ」 なに言ってんだ。 「じゃあね、藤井さん…」 「じゃ」 ピンポーーーン。 …今日も誰も出ない。 平日だし、今日こそは学校に行ってるのかな…。 …いや、あの娘のことだ。 ひょっとしたら今日も家にいるかも知れない。 少しだけ待ってみよう。 ドアが開いて、不審そうなマナちゃんが顔を出す。 …なんだか、今日は一段と不機嫌そうだ。 「…お、おはよう、マナちゃん…」 そう言うと、急にドアを閉められた。 え…? …俺、何かしたのかな……? だけど、チェーンを外す音とともにすぐにドアは開いて、マナちゃんが中から現れた。 「よかった、藤井さんだった」 「…よかった、って……?」 「聞いて。昨日ね、藤井さんと髪型がおんなじ人が来たの」 「私、藤井さんだと思って出たら、それ百科事典のセールスだったのよ」 「はあ…」 髪型だけ…。 「で、しばらく玄関で話し込まれちゃって」 「ほんと、どうしてくれるの」 「し、知らないよ……」 髪型だけなのに…。 「でね、おまけに『お嬢ちゃん、ママいる?』なんて言うのよ」 「ね、信じらんないわよ! 『ママいる?』だって! ばかじゃないの!?」 「あ、うんうん…」 なんだか、とんでもない時に来ちゃったみたいだな。 「…それで、藤井さん、今日は何?」 「何って…」 「判ってるわよ。冗談」 「ほんっとに、真面目…」 これほど印象の悪い『真面目』って言葉も、これまで聞いたことがない。 「ほら、早く入って。寒いから」 「う、うん…」 「…やっぱり今日もやるのー?」 まだ何もやってないうちから、既に飽きたみたいな声だ。 「私の優秀さは、この間証明したでしょう?」 生意気な台詞だけど、その通りだ。 「でも、こないだのは理系だったろ? 今日は文系の筆記」 「文系? …なんだかせこい…」 「いいの! 勉強ってのは、そういうせこいもんなの」 「学問にロイヤルロードは無いんだから文句を言わない」 ちょっと違う気がするけど、俺はしばらく彼女をおとなしく机に貼りつけておくことに成功した。 「…判らないところあったら、何でも訊いて」 「ふんっ、だ」 嫌々ながらも、それでも問題用紙の解答欄は次々に埋まっていった。 結局、今日の問題集もマナちゃんに30分ほどシャープペンを握らせる役にしか立たなかった。 正答率はともかくとして、難解な現代国語含む文系問題に、これだけ堂々と回答を出せるってことだけでも、俺は驚いた。 「…もういいんでしょ? ペーパーばっかでつまんないー」 「あ、うん…」 実際、彼女相手にペーパーテストなんてばかばかしい気がしてきた。 でも…。 「どうして学校に行かないの?」 「どうして家庭教師なんか雇うの?」 「まあいいや。遊びに行こうか?」 「それだけ勉強ができるのに、どうして学校に行かないの?」 俺は気になってたことを尋ねてみた。 「学校に行っても、学力のことで悩むなんてないわけじゃない? それだけでも充分楽しいと思うけどな…」 「…勉強ができるんだったら、わざわざ学校に行く必要なんてないじゃない?」 …それもそうだ。 って、納得してどうするんだ。 明らかにそれは違う。 間違ってる。 「でも、学校って勉強するだけの場所じゃないよ」 「ふうん…」 「学校ってところは、友達がいて、先輩後輩がいて、特別な空気のある空間で…」 俺の弁舌が熱くなればなるほど、彼女の目は冷たくなってゆく。 …やめた。 ばかばかしい。 考えてみれば俺自身の頃にしても、人に語れるほど非凡なものじゃない。 毎日が毎日、とても平凡だった。 もっともそれも、由綺がアイドルとしてデビューするまでだけど。 かといって、時として学校がつまらなくなる時もあったとしても、学校に行かないで、一人で閉じこもるなんてことはなかったけど。 「一体どうして…?」 「関係ないでしょ、藤井さんになんて」 「関係ないって言われたら、まあ、そうなんだけど…。でも…」 すると彼女は、叱られた子供みたいに沈んだ面持ちになった。 「…ママが学校と仲が悪いのよ。…けんかしてるの。それだけ…」 「…これでいいでしょ」 「う、うん…」 これ以上つまらないことを訊くな、彼女の眼差しは言っていた。 この問題に関しては口をつぐむことにしよう。 「それだけ勉強ができるのに、どうして家庭教師なんか雇うの?」 俺は気になってたことを尋ねてみた。 「…前に言ったじゃない。私の監視役。お守り。家政婦。召使い」 「前は監視役だけじゃなかった…?」 「…うるさいわね」 「覚えてるんだったらいちいち訊かないでよ。ばか」 ひどい…。 「それだったら、素直にハウスキーパー頼むとか…」 「…何よそれ? 嫌なの? 私の家庭教師やることが?」 「いっ、いやっ。そんなこと言ってない…」 「『いや』? 今、『嫌』って言ったわね!? あっそう!」 「ちっ、違っ! 意味が違う…」 「まいいや。今日はもう終わりっ。…もしよかったら俺と遊びに出る?」 「…またナンパ? 藤井さん、そんなことばっかりやってるんだ?」 また、って、俺がいつナンパをしたんだ? しかも、そんなことばっかりだなんて言いがかりもいいとこだ。 「ほんっと、最低。真面目なふりして、女の子誘うんでしょ?」 「そんな男についてくのなんて、ばかしかいないわよ」 そういうものかな…。 「一度も成功しないでしょ、それ?」 「いや、ナンパなんか…」 「正直に言いなさいよ。成功したこと、ないでしょ?」 「いや…」 「ないでしょ?」 「あの…」 「ないのっ!!」 「…うん…」 「よし!」 …身に覚えのないことを白状させられるなんて、まるで魔女裁判だ。 俺はなんとなく居心地が悪くなって、黙り込んでしまう。 ピンポーーーン。 今日も誰も出ない…。 でもどうせ、今日も家にいるに違いない。 まったく。 いるんだったら早く出てきてもらいたいもんだけど。 …あれ? 今日は本当に留守なのかな…? と、玄関から一歩後ろに下がった時、かすかに覚えのある匂いがした。 あったかいみたいな、いかにも造り物っぽい美味しそうな香り。 …これは、ハンバーガー… だな…。 そう思って振り返ると、「あ…」 「あ…」 そこには、息を殺して精一杯背伸びして、両手で革の鞄を振りかざす、制服姿のマナちゃんがいた。 彼女は慌てて鞄を背後に隠す。 …どうでもいいけど、この鞄をどうするつもりだったんだろう…? その下には、俺の頭しかないはずだけど…? 「…お帰りなさい」 「たっ、ただいまっ!」 「…何やってんのよ、藤井さん。 人の家の前で…?」 「なにって、家庭教師だけど…?」 「わ、判ってるわよそんなこと! もう!」 すぐこうなんだからな、この娘は。 「…今日は学校?」 「どうでもいいでしょ、そんなの」 そして、足下に置かれた紙袋をさっと持ち上げて、「食べ物を買いに出てただけよっ」 それを俺の目の前に突きつける。 「今日は、ちょっと食欲が無いから、藤井さん、半分食べてよねっ…!」 さっきのいい匂いはここからだった。 俺は袋を押しつけられ、中を覗いてみる。 …確かに、彼女一人じゃ食べ切れそうもない量だ。 ドリンクが二本もある。 「…二人分? 誰か来る予定だったの?」 「ちゅ、注文する時はお腹減ってたのっ!」 「藤井さんの変な顔見たら食欲無くなっちゃったのよ!」 「そうよ! それよ!」 『それよ!』って…そんな…。 「…責任取って、半分食べてよね…」 「う、うん…」 『責任』なんて言われると、俺はこうしか答えられない。 …たとえモノがハンバーガーでも。 「さっと買ってきて、さっと食べちゃうつもりだったのに…。…いきなり藤井さんいるんだもん」 「ごめん…。…あれ、でも、わざわざ制服に着替えて出たの?」 「もおーーーーーっ!! いいじゃない、どうだって! うるさいんだから!」 「午前中の講習に出てきただけ。それだけなんだからっ!!」 「ほらあ、藤井さんも早く入ってよ! ポテトが冷めて、ふにゃってなっちゃうじゃない、ふにゃって!!」 「あ、うん。そうだね。ふにゃってなっちゃったら大変だ」 なんだか間抜けな相槌を打ちながら、俺は彼女について家に入った。 俺を部屋に入れてくれるなり彼女は、「ねえー。今日はもう終わりにしないー?」 「なに言ってるんだよ。まだ何もしてないじゃない」 「じゃ、休憩」 「何もしてないんだってば…」 「なによ、真面目ぶって」 真面目とかそういう話じゃないよ、既に。 「…で、今日は俺の方でタイムテーブルを組んできたんだけど…」 そこで俺は、彼女をちらっと見て、「今日はマナちゃん、学校に行ってたみたいだから、今日の講習の復習から始めることにしようか」 「つまんないでーす」 早速だな。 「いいから。今日やったところのノート見せてみて」 「ノートなんかとってないわよ」 「じゃあ、教科書にマークとか…」 「してないよお、そんなこと」 「…なんでもいいから今日の講習の内容が判るもの…!」 「うるさいわね、もう!」 そう言って彼女は、鞄からプリントを数枚取り出した。 「はい、今日配られた分」 「面倒だったから、そのまま持って来ちゃったわよ」 「お、偉い。よおし、今日はこれを中心に勉強を…」 「ああ、いいよ。それでマナちゃんの気分が晴れるんだったら、俺、どこにだってつきあう」 「…暇なだけのくせに、なによ」 そ、そんなことない…。 俺だって俺なりに毎日時間に追われて… って、まあいいや。 「どっちだっていいよ、そんなの。…で、どこ行くの?」 「行かない」 「え?」 「行かないの。いちいち訊き返さないでよね」 「行かないって…?」 「私、眠いの。今日は朝から学校に出てたんだからー」 いや、それは普通だけど。 「おまけに、誰かさんが私の帰りを待ち伏せしてるし。ほんっとに、もう…」 そしてそのままベッドの上にごろんと横になる。 「眠るね、私」 「あ、うん……」 完璧に立場の無くなった俺は、呆然と立ち尽くす。 そんな俺を見て、彼女はいらいらしたように顔を持ち上げて、「眠るって言ってんの!」 「…ああ、もう! えっち!」 ヒステリックに叫んだ。 あ、そうか。 着替えるから出てけって意味か…。 「ご、ごめんっ。あ、じゃ、今日はこれで、俺、帰るから…!」 彼女の罵声を浴びながら俺は、慌てて自分の持ち物を片づける。 「ほんとにもう…!」 「…ご、ごめん…」 文句が一段落したのを見計らって、俺はドアに向かう。 「いや。今日はもう遅いから、また今度だね」 「なに言ってんのよ。まだ夕方よ!」 「なに言ってるのって、こっちの台詞だよ」 「今日はマナちゃん、朝から学校行ってたし、一日中勉強してたんだから、ちょっとは休んだ方がいいって」 「…誰がさせたのよ……」 「…だから、今日はゆっくり休んで、また今度遊びに行こうってことで…」 「今度ー?」 俺の言うことなんて、まるで信じていないみたいな口調。 「…ま、いいけど。どうせ藤井さん、すぐに忘れちゃんだから」 「そんな勝手に決めないでよ」 「…大丈夫。マナちゃんが今度行こうって言ったら、完璧つきあうからさ」 「ふうん…」 まるで期待してるって風じゃない。 「じゃ、今日はそうする」 「藤井さんの言うこときいたげる」 「…ありがと……」 「藤井さんも早く帰って、彼女とでもいちゃいちゃしたらいいじゃない」 「そんなことしないってば」 でも、彼女は自分で言ってて少し腹が立ったらしく、「だから早く帰りたいんでしょ」 「いいわよ。ばいばい。女の人によろしく」 「違うってば…」 なんだか暴走しやすい娘だなあ。 「俺はそんなだらしない男じゃないの。そんな風に見て欲しくないな」 そう言いながら、俺は帰る準備を終える。 「それじゃ…」 「…あ、待ってて。下、灯りついてないんだから」 そう言って彼女は玄関先まで俺を送ってくれた。 「今日はお疲れ様…」 そう言って家に帰ろうとした時、「藤井さん」 と、再び彼女に呼び止められ、びくっとする。 「なに…?」 「…また今度ね」 「あ、うん…」 俺は小さく手を振る。 …どうやら、また家庭教師に来てもいいみたいだ。 そんなことを考えながら俺はアパートに帰った。 ピンポーーーン。 …今日も誰も出ない。 家にいるんだったら早く出てきてもらいたいんだけど。 …今日は本当に留守みたいだ。 仕方ない。 帰ろう…。 ピンポーーーン。 「あ、藤井さん…」 今日は素直に出てきてくれた。 「今日も来たの…? …割としつこい…」 出てきただけで、別にいつもと変わらないか。 「…なんだか最近、供給過多ー…」 「何が?」 「家庭教師」 「…………」 俺一人しかいないのに、ひどい…。 「…ま、来ちゃったものはしょうがないわね。今日もつきあったげる」 「どうも…」 俺は彼女について家に入る。 「今日の分もちゃんとタイムテーブル組んできたから、その通りにやってもらうね」 「…そんなの考えてて、楽しい?」 彼女は勉強すること自体よりも、自分の時間を拘束されることの方にストレスを感じるみたいだ。 「マナちゃんが勉強を楽しいって思うくらいには楽しいよ」 「…ふん。大人ぶらないでよ…」 とか何とか言いながらも、彼女はおとなしく参考書の練習問題にとりかかった。 「…飽きたー…」 最初の一教科を終えた時点で、予想通り彼女はシャープペンを放り出した。 「ねっ、藤井さん、今日の勉強はお終いでいいでしょ? ねっ?」 「あのねえ…」 「続きは次にまとめてやっちゃうって、どうこれ?」 …そう言って、ちゃんとやった人間なんて見たことがないんだけど。 うーーん… 「だめ。続けなさい」 「お喋りでもするか」 「だめ。ほら、ちゃんとスケジュール通りにやんなきゃ」 「ぶー」 さっそくブーイング。 半日勉強を続けることが、そんなにも苦痛かな…。 …って当人じゃない者の意見だな、これ。 …でもとにかく、給料をもらってる以上、そうそうルーズにやるわけにはいかない。 ここは少し厳しめに…。 「…あんまり時間ばっかり気にしてると頭はげるわよ…」 「そんな迷信、聞いたこともないけど」 「うるっさいわね! 藤井さんなんかはげちゃえ! ハゲ!」 「…まだはげてないよっ!」 「…ま、いいかな」 「マナちゃんくらいだったら少し手を抜いたって、学力にはそうそう影響しないかも知れないしね」 「あはっ。そうそう。藤井さん、えらーい」 顔をほころばせて俺の方に向き直る彼女。 「今日の勉強はこのくらいで、少しお喋りでもする?」 「うんっ。するする」 「でも、この次はちゃんと今日の分も…」 「つまんない話はやめてよね」 はい…。 …こんな感じで、今日の仕事は終わった。 「じゃ、お疲れ様、マナちゃん」 「いいわよ。楽しかったから」 「そう?」 それはちょっと嬉しいな。 「私が学校を楽しいって思うくらいに、だけど」 「……………」 「あははっ。面白い顔。そんな顔しなくたっていいわよ」 俺は慌てて大人の顔を作る。 「じゃあ、またね」 小さく手を振る彼女。 「あ。またね…って、別に来なくたっていいんだけど…」 「はいはい」 「どうせ来るんだったら、もっと楽しいこと考えてきてよね」 「判ったよ。じゃ」 俺も小さく手を振る。 「うん」 「おやすみ、藤井さん」 「おやすみ…」 ピンポーーーン。 「あ、藤井さん…」 「また来たんだ…」 「来るよそりゃ。仕事だもん」 「…単に暇なんじゃないの?」 じろりと彼女は俺を見る。 「大学なんてとっくに除籍になってるとか」 「…不吉なこと言うなよ」 嫌なことばっかり知ってるんだよな、この娘…。 「ま、いいわよ」 「さ、あがって」 「はいはい。お邪魔します」 「ねえ藤井さん。藤井さんの大学って、学園祭いつ? 面白い?」 部屋に入るなり、彼女は俺の方に身を乗り出してきた。 「え? 今月の29日と30日だけど。…まあ、そこそこに楽しいんじゃないかな」 また俺の授業をさぼる手段だと感じた俺は曖昧に答えた。 「そこそこって何よ、そこそこってー…?」 「そこそこはそこそこ。知らないよ、そんなの」 ちぇっ…。 彼女は小さく舌打ちをして 「どうせ藤井さん、学園祭ってカップルがいっぱいだから嫉妬してるんだわ…」 聞こえよがしな小声で呟く。 「なに言ってるんだよ、そんなじゃないって。 …下んないこと言ってないで、今日の勉強始めるよ」 「あ。ごまかしてるごまかしてる。みっともないんだ」 全くとりつく島もない。 「あのねえ…」 仕方ない。 ちょっとだけつきあってあげた方がいいみたいだ。 「別に俺にそういうのがないってわけじゃないの。…大体、学園祭とそれと全然関係ないじゃない」 「ふうぅん」 「はいはい、そおですねぇ…」 …なんだ、その哀れな男を見るみたいな目は。 「藤井さんがちょっと一声かけたら、どんな女の子だってついてきちゃうんだもんね」 「はいはい、よおく判ってるわよ」 「…俺はそんな変なナンパ野郎じゃないんだってば…」 「今年も、誰か藤井ガールと連れだって行くんだ?」 …何だその藤井ガールって。 ジェイムス・ボンドじゃあるまいし。 「俺は…」 「そうだよ…」 「一人だよ」 「そう。今年は女の人と約束があるの。しかも超美人と」 「ふうん。あ、そうー…」 全く信じていなさそうにふふんと鼻で笑う彼女。 「よかったわね。じゃ、楽しんできたらいいわよ」 そしてすごく小さな声で 「ばーか…」 と付け加えた。 俺はどう対応したらいいか判らず、聞こえないふりをした。 「さ、勉強…」 「今年は一人だけど…」 「今年も、でしょお…? あはははっ」 そんなにおかしいことでもないだろう。 「…いいんだよ。俺はそういうのが好きなの」 「あっ、ごめんなさい、藤井さん。怒った?」 「別に…」 「もう、そんなに怒らないでよ」 「大丈夫よ、女の人にもてないなんて気にすることないわよ。別に罪悪なわけじゃないし」 もてないんじゃないんだってば。 「…ただ、かっこ悪いだけ……」 「あははははっ!」 …ひどい…。 「あ、うそうそ。冗談。すねないでよ、そんな」 「…マナちゃんこそどうなのさ?」 「学校の方の学園祭は? 行くんだろ?」 「えー…」 今さっきまで笑ってたのに、一瞬のうちに彼女の顔は気難しいものになった。 「つまんないから、学園祭なんて」 「…別に面白いことするわけでもないのに、いきなりクラスで団結しちゃって、何かと汗くさいこと言っちゃうし…」 「それが良いんじゃないのかな…」 彼女は、うわぁ…って表情を隠そうともしない。 「やだ、なに、藤井さん、そういうの好きなわけ?」 「…好きじゃないけど。…それじゃマナちゃん、学園祭には行かないんだ?」 「学校のになんて行く暇があったら、大学の学園祭に遊びに行くわよ」 大学のにか…。 学園祭ってのは、ある意味、大学って空間がよく出ている催事だろうな。 …彼女に大学受験するつもりがあるんだったら、ちょっとくらい連れてってみてもいいかも知れない。 連れてってみようか…? 「一緒に行こうか?」 「俺も行くのよそうかな」 「あ、それじゃ、一緒に学園祭に行こうか?」 「ほんと?」 「…あ、でもぉ…」 「ないない。マナちゃんが考えてるみたいなこと全然考えてないって」 明ら様に疑惑に顔を歪める彼女の機先を制する。 こっちの方向で話が進むと泥沼だ。 「なによ、私が何考えてるっていうのよ」 「でも、う~ん…。そこそこ面白い学園祭ね…」 「なんていうか、曖昧…」 「…面白さを曖昧じゃなくなんて言えないよ」 「またそういう生意気な理屈言う…」 いや、俺への文句なんかどうだっていいんだってば。 「…行きたくないって言うんだったら、まあ、しょうがないんだけどさ」 半分本気で、でも半分は意地悪でそう言ってやる。 「誘っておいてなによ、強がっちゃって…」 「そんなチープなはったりに単純に騙されるやつなんていないわよ、言っておくけど。漫画じゃないんだから」 「…じゃ、いいよ。一人で行くから。…せいぜい楽しんでくるよ」 「あ、すねた」 「なに? そんなに私と行きたかったわけ?」 「もういいってば」 実地での社会学習がかなわなかったら、机上での模擬学習に専念するほかない。 「そんな、子供じゃないんだからさ…」 「しょうがないわね…。つきあってあげるわよ」 「…無理しなくたっていいよ。俺は遊びに行って、マナちゃんは家で勉強」 「何わけの判んないこと言ってんのよ。…何日だっけ?」 「え?」 「学園祭! いつあるか訊いてるの!」 「…マナちゃんの忙しい日かも…」 「さっさと言いなさいよ…!」 …この娘を怒らせるのって簡単だなあ…。 っと、片手が漢和辞典をつかんでる。 これ以上は危険だ。ふざけるのはここまでにしとこう…。 「判った判った。ええと、29日と30日だから…」 「29と30…」 都合悪いんじゃない、とか訊こうとしたけど、あの分厚い辞書の角が振り下ろされる恐怖を考えて 「どう?」 とだけ尋ねた。 「だったら、29日一緒に行こうよ」 「一日目? いいけど…」 派手に楽しめるのは、普通、最終日の二日目なんだけど。 「どうせ二日目って、学生達が大騒ぎするんでしょ?」 「ま、まあね…」 俺自身はどこかのサークルやらグループやらで何かに参加するわけじゃないから、そのあたりははっきりと言えないけど…。 「私、嫌いなのよね。ああいう汗くさいのって」 「…サラリーマンとかが宴会で『今日は無礼講で~』とか『ハメを外しましょう~』みたいにやってんのとおんなじじゃない?」 「そう…?」 確かにあの中年臭い体育会系のノリは似通ってるかも…。 でも、なるほど。 マナちゃんには合わないだろうな、体質的に。 「…藤井さんもやるんでしょ?」 「え…? え? 何を?」 「そういう…打ち上げっていうか、コンパっていうか…」 「い、いや。俺は、別に打ち上げするみたいなことは何もしてないから…」 「ふうん…」 ちょっと見上げるみたいにして、彼女は俺を見つめる。 「な、なに…?」 「友達いないんだ?」 「そんなこと言ってない!」 くすっ…と、マナちゃんは意地悪そうに笑う。 「ま、そうよね。家庭教師の相手に声かけちゃうんだから、そのあたりは察してあげなきゃだよね」 …全然聞いちゃいない。 「もう、なんでもいいよ。…ほら、もうこの話は終わり。勉強しよ、勉強」 俺はわざとらしい動きで筆記用具や参考書を用意する。 「…はいはい。いじけないでよね、いい子だから」 「…じゃ、俺も行くのよそうかな、学園祭…」 「ちょ、ちょっと。なんでそうなるのよ」 「…藤井さんには関係ないでしょ、私の都合なんだから…」 「んん…? 話聞いてたら俺も、なんとなく、行くのがばからしくなってきちゃって…」 わざと(はるかみたいな)だらしない声で言う。 「なに勝手なこと言ってるのよ」 「…私が悪いこと言ったみたいなこと言わないでよね」 「…ずるいんだから」 …ずるい、って俺は何も…。 「そ、そりゃあ、私だって大学の学園祭を覗いてみたいとは思うわよ、ちょっとは」 「はあ…」 「…ちょっとは、だけどね…!」 うーん… やっぱり誘ってみよう 行かないって言ったら行かない 「別にいいよ。他に面白いこといっぱいあるしね」 俺は少し素っ気なさ過ぎるくらいに言う。 正直、そういうお祭り的なのはあまり好きじゃない。 もう少し、こう、のんびりしたいんだ、俺は…。 「…そうよね。…一緒に行ってくれる人もいないんじゃ、つまんないもんね…」 「何もそんなこと言ってない…!」 強く否定しかけて、俺はふと言葉を切った。 …それは、俺に向けて言ったのか……? 彼女の目は俺を見てはいない。 どこか、ぼんやりとしてる…。 「さ、勉強、始めましょ…」 気のせいか、ちょっと元気がないように見えた。 「ああ…。そうだね」 俺はわざとらしい動きで筆記用具や参考書を用意する。 「…………」 と、さっきとはうって変わって、再び彼女は俺を凝視してる。 「…な、なに?」 「…とか何とか言って、ほんとは自分だけ行くつもりなんじゃないの、学園祭?」 「い、行かないって…!」 「なぁんか嘘っぽいのよねえ…」 さっきのは本当に気のせいだったみたいだ…。 …大体、なんで彼女にそんなことを疑われなきゃいけないんだ。 「つまんないこと言ってないで、ほら、勉強…」 これ以上時間を無駄にされたらかなわない。 俺は話を横にそらせようと努力する彼女をどうにか机に向かわせた。 さんざん学園祭の話で(しかも一人で)盛り上がってた割に、今日は割とおとなしく机にくっついててくれた。 (おとなしい時は天使なんだけど) 「じゃあ、またね」 「うん。お疲れ様。…いつもお母さん遅くて大変だね」 「いいじゃない、そんなの」 いきなりむっとする彼女。 「あっ、いやっ。マナちゃんならしっかりしてるから、大丈夫だよなって思って…」 俺は慌てて言いつくろった。 「当たり前よ。子供じゃないんだから」 そんな風に言う彼女は、言葉に反してひどく子供っぽく見えるんだけど、実際は心配するほどじゃないのかも知れない。 「…どうしたの? ほら、風邪ひいちゃうよ」 「あ、ごめん。…それじゃ、また今度ね」 「うん、またね」 ピピピピピピピピ… …んー。 …そうそう。 今日は朝からマナちゃんと学園祭に行くんだ。 準備しなきゃ…。 時間は少し早いけど、そろそろ出よう。 きっと彼女は、(自分はともかく)他人が時間を守らないことには我慢ならない性格に違いない。 もし遅刻でもしたら、なに言われるか判ったものじゃない。 マナちゃんは… と、まだ来てない。 よかった…。 「じゃあさ、どこに行ってみたい?」 「知らないわよ、パンフも持ってないんだから…」 あ、もらうの忘れちゃった。 「じゃあ、俺が勝手に決めちゃっていいかな?」 「…ま、それだっていいわよ」 と、ええと、マナちゃんが喜びそうなのって、こんなとこかな…。 「野外ステージ」 「演劇部公演」 今日は、学生だけのステージだった。 学生だけっていっても、音楽だけでもロックバンド、ジャズバンド、テクノ、ストリングス、或いはそれらのジャムセッションと、多彩なステージを創り上げてる。 「…ふうん。結構実力派が多いじゃない、この大学…」 人垣の中、彼女は背伸びしながらステージを見上げて一人前なことを言う。 「この分だと、この大学からあと何人かデビューするかもね」 「ふうん、そうかなー…」 いま一つよく判らない俺は、自信なさげに相槌を打つ。 「なに、その『そうかなー』っての? 藤井さん、知ってるでしょ? 森川由綺…」 「ああ、知ってる」 俺はいつもするみたいに、手を振って由綺の話題をさえぎった。 なんていうか、本人をよく知ってる分、無責任な噂話をしたくもされたくもない。 言っている本人達は何とも思ってないんだろうけど、俺はどうも照れくさいみたいな、おかしな気分になってくる。 「え? 嫌いなの、森川由綺? ひょっとして…?」 彼女はさも意外だって声を上げる。 「まさか。そんなことないよ」 嫌いどころか、つきあってるんだって…。 でも、うっかりそれを言うと、妄想に憑かれた男みたいに思われる。 知らない人に、そうそう教えるのはやめとう。 「むしろ、好きだよ…」 本人に言う時ほどじゃないにしろ、事情を知らない他人にこんなことを言うのも結構照れくさい…。 「やっぱりね」 マナちゃんは訳知り顔に笑う。 「藤井さんって、結構ああいうタイプの女の人に弱いのよね。ああいう、藤井さん以上に激しくぽーっとしてる人」 ぽーっと…。 「そうかなあ…」 由綺、確かにぽーっとしてるけど、俺、そうかなあ? 「絶っ対に、そう!」 そんなに力強く言えるほどか…。 「…でもまあ、いくら同じ学校にいるからって自慢にはならないし」 「憧れは憧れでね」 「自慢なんかしてないって」 それに憧れで終わる気だって…。 「…ちょっと。…変な野心、起こさない方がいいわよ」 「野心って…」 俺と由綺はつきあってるんだって、ほんとに言ってやりたくなったけど、どうにかそれを我慢する。 言ってしまったら速攻『アブナイ男』だ。 「…はいはい」 仕方なく俺はそう答える。 「それでいいの。子供じゃないんだから、聞き分けなきゃね」 子供じゃない… ねえ…。 「でも私、どっちかって言ったら、緒方理奈の方が好きだけど」 「理奈ちゃ…緒方理奈? ふうん…」 「まあ、藤井さんみたいなお子ちゃまは森川由綺の方が好みでしょうけど」 「って言うより、緒方理奈の良さなんて判んないんじゃない?」 …理奈ちゃんとだって俺は会って話をしてるんだ、そう言いたかったけど、それじゃますます『アブナイ男』だ。 我慢しよう、我慢。 「それにしても、由綺ちゃんも、もうちょっと理奈ちゃんを見習ってもいいのにね…」 彼女は考え込む風に言う。 既に呼称も『由綺ちゃん』『理奈ちゃん』だ。 何者だ、この娘は…。 「…さすがにちょっと疲れた…。…立ちっぱなしだったし…」 スタンドには次から次へとパフォーマーが上る。 いつ終わるともないこのステージに、さすがに彼女もへたりこむ。 それもそうだ。 もう夕刻にさしかかってる。 普通、一日中通しては観ない催事だし。 「まあ、人も多かったしね」 「…ね、もう帰らない、マナちゃん…?」 まだ明るかったけど、俺はそう提案した。 「えー…?」 思い切り不満そうな顔での、彼女のブーイング。 考えてみたら、この娘がおとなしく家に帰るわけもないか…。 と思ったら 「…ま、いいわ。帰ろっか」 「え…?」 「なによお。帰ろうって言ったのは藤井さんでしょ」 そうだけど、あんまり素直で驚いたよ…。 「まっ、大学のイベントは所詮、学生レベルってことね。もう飽きちゃった」 そんな、学園祭のスタッフが聞いたら激怒しそうな台詞を吐きながら、彼女はさっさと大学の敷地から出てってしまった。 「…なによ、一人で帰れるわよ」 「心配だから送ってくよ」 「……………」 マナちゃんは黙って歩き出す。 「わざわざ家までついて来ちゃって。暇なの?」 「心配なの」 年下の娘を放って帰るみたいな男に見えるかな、俺? 「ま、私の召使いなんだから、そのくらいはやってくれても当然なのかも」 「…でも、あんまりしつこいのはやだからね」 だから、家庭教師…。 まあいいや。 変に邪険にされるよりは気が楽だ。 「それじゃ、また今度ね」 さ、俺も帰ろ…。 …今日はまだ明るいのに疲れたな…。 マナちゃんを相手にしてるからか…。 そんなことを考えながら横になると、いつかうつらうつらといねむりをしてしまっていた。 …退屈しない公演だといいんだけどな…。 「あっ!」 「えっ?」 突然、彼女が大声を上げたので俺はびっくりしてしまった。 「…どうしたの?」 「あの男ー…」 「…え?」 彼女の睨む先を見ると そこにはさっき別れたはずの彰が、のこのこと歩いてた。 彰はこっちに気づいてないみたいだけど、マナちゃんは確実に彰に気づいて、敵意を十二分に燃やしてる。 「……………」 「あっ、待って、マナちゃん!」 彰の方に憤然と向かう彼女の肩を抑える。 「…なによ藤井さん? また邪魔するの?」 …またこっちに矛先が向きそうだ。 後で彰に何かでお返ししてもらわなきゃ、割に合わないな…。 「…あれ?」 と、不意に彼女の目がそれた。 何かを見つけたらしい。 彼女は、仇敵 きゅうてき ・彰を無視して、その何かの方に駆けていった。 「お、おい…」 その駆けてった先で彼女が見てたものは、演劇部公演のポスターだった。 マナちゃんって、演劇にも興味があるのかな…。 俺もそのポスターを眺めてみる。 どんな舞台なのか、四人の美女の描かれたポスターに目を凝らすと、そこには 『原作・脚本・演出協力:澤倉美咲』 とあった。 「えっ?」 これって、あの美咲さんかなあ…? 少なくとも、俺の知る限りじゃこの学校に美咲さんと同姓同名の人間はいないはずだけど。 しかも漢字まで一緒だなんて、別人とは思えない。 「…これって…?」 俺の隣でマナちゃんが呟く。 「これって、何が…?」 「…どうだっていいじゃない!」 「…あ、でも、藤井さんも蛍ヶ崎学園なんだよね?」 「うん…」 言ってみれば、俺は彼女の先輩だ。 「じゃあ、この澤倉美咲って人と、ずっと一緒のはずよ! 知らない?」 「あ? …ああ…」 よく知ってるよと言おうとすると 「ま、藤井さんが知ってるわけないよね。どうせ、森川由綺とかに浮かれてたんでしょ?」 勝手なことを、また…。 …浮かれてなかったってことはないともいえないけど。 「…でもマナちゃん、どうしてこの人知ってるの? …有名なの?」 年齢的にも、彼女が美咲さんと同じ学校に在籍してたことはないはずだ。 …まあ、美咲さん信者は中学生にもいたって話は聞いたことあるけど…。 「関係ないでしょ、藤井さんには」 「ねっ、今日はこれを観よっ?」 「はあ…」 いいけど…。 「…澤倉先輩って、どんな人なんだろう?」 「なんだ、会ったことないんだ…」 うっかり言ってしまった。 「藤井さんに言われたくないわよ。私は会う機会がなかっただけ」 「…いいわよ。そんなこと言うんだったら、私、一人で観てくるから!」 「あ、待ってってば!」 俺は慌てて彼女を追う。 …でも、美咲さん、いろんなところに影響を及ぼしてるんだな…。 舞台は、大学の演劇サークルのものとは思えないほどの迫力で、俺とマナちゃんは始終圧倒されっぱなしだった。 そして美咲さんのストーリーは…。 それはひどく感動的なものだった…。 そうだ。 マナちゃんに断りの電話入れなきゃ。 ぷるるるるーーー 「はい、観月です…」 「あ、マナちゃん?」 「藤井さん…? どうしたの?」 「あの…ごめん…」 そして俺は彼女に、一緒に学園祭に行けなくなったと告げた。 「そう…」 「ごめんね」 「いいわよ、そんな。特別に行きたいってわけでもなかったし」 「まあ、退屈しのぎ程度にしか思ってなかったから」 そうはいっても、悪いことしたってのには変わりはないから…。 「また今度、何かのかたちで埋め合わせるよ」 「気を遣ってくれなくても結構よ。なんだったら家庭教師の方もキャンセルしていいから」 「いや…」 「…どうしてそっちは断らないのよ…!」 それとこれとは話が別だから…。 「とにかく、また今度だね」 「ふん。そうね。それじゃ」 そして彼女は一方的に電話を切ってしまった。 まあ、仕方ないな…。 ピンポーーーン。 「はーい」 「あ、藤井さん、いらっしゃい」 最近あんまり追い返そうとしなくなった。 やっと慣れてくれたんだな…。 「藤井さん、外、寒くなかった?」 そう言いながらマナちゃんは、暖房の温度を上げてくれる。 「ありがと。今日、すっごい寒いよ。こんな日に外に出るもんじゃないね」 「…それなのにわざわざ来たの? …ばかじゃないの?」 「ひどい…」 「寒かったから、私、昨日から一歩も外に出てないんだ。…藤井さん、ご苦労様よね」 「俺はね…」 「真面目なんだよ」 「マナちゃんが心配なの」 「真面目なんだよ」 「ふうん。あ、そ」 彼女は『どうでもいいや』って感じだ。 「藤井さんって、いっつもそんな風なわけ? …藤井さんの彼女になる人って、割と幸せかもね」 「そ、そう?」 結構そんなことは言われる。 「だって、退屈なとこさえ我慢してたら、結婚まで一直線って感じだし」 「家事とか仕事とか嫌がらないでやりそうだし、浮気なんか絶対にしそうもないし」 なんだか、あんまり楽しみな将来じゃないな…。 (笑ってるし) 「相手の女の人もすっかり安心しちゃって、お昼のドラマとかだらしなく観て、ぶくぶくと太ってって、それでますます藤井さんをこき使うようになってくの」 「…最悪の未来だね…」 「あら、藤井さんにはぴったりよ」 「なに言ってんだよ。こき使われるのは、マナちゃんからだけで充分だって」 「い、言ったわね…!」 彼女の顔が真っ赤になってゆく。 「藤井さん、自分で仕事だって言ったじゃない!」 「私の召使いなんだからね! こき使われてんじゃなくて仕事してるの!」 「わ、判った、ごめん…」 「…もお。ほんっとに生意気なんだから…」 「ごめん…」 なんだこの理不尽な身分制は。 「ま、特別に許したげる」 「先生より教え子の方が威張ってちゃおかしいもんね」 まったくだよ。 でも、彼女の機嫌は直ったみたいだ。 「なに言ってんだよ。マナちゃんが心配だから来たんだよ」 「えっ…?」 彼女は驚いたみたいに、瞳を大きく俺を見る。 「決まってるよ。じゃなかったら、こんな寒い日にわざわざ来るわけないじゃない?」 調子に乗って甘い言葉を並べているうちに、彼女の顔が耳まで真っ赤になっていくのに気づいた。 「なななななにばかなこと言ってんのよ…」 声が震えてる。 「いっつも女の人にそんなことばっか言ってんでしょ! ばか! ばかばか! ばかばかばかばか! 変態! 大変態!!」 彼女はきれた子供みたいに、俺の頭と言わず体と言わずに、めちゃくちゃに殴りかかってきた。 「わっ! いててっ!」 ほ、本気で殴ってる…。 なんだこの理不尽な暴力は。 「ご、ごめん、マナちゃん…」 「変態 変態 変態 変態変態変態 変態 変態 変態 変態変態変態変態変態変態 変態!!」 このままじゃ殴り殺される…。 「わ、判ったっ。うそ。冗談。そんな、本気にしなくていいから、ごめん…」 「ばかばか ばかばか ばかばか ばかばか ばかばか、ばかーーーーーー!!」 クリーンヒットの『ばかーーーーーー!!』をラストに、どうにか彼女の拳の無差別絨毯爆撃は終了した。 「ごめんなさい…」 俺はもう一度、素直に謝った。 「…ふん。まあ、特別に許したげる」 そんな俺に、彼女はつんと言い放つ。 「ほんっとに、下品なジョークしか言わないんだから…」 …そんなことないとは思うけど。 でも、彼女の機嫌はなんとか直ったみたいだった。 一通り勉強をみてあげて、少し休憩をとろうとした時、「…ねえ、藤井さん。 もうすぐクリスマスなんだね」 卓上カレンダーを手に取り、マナちゃんが言った。 「そうだね。それじゃ最近寒いってのも、仕方ないよね」 「藤井さんは今年は?」 「え?」 できるだけ訊かれたくなくて話をそらしてたけど、彼女はストレートに訊いてきた。 「え? じゃなくて、今年のクリスマスはどうするの?」 「どうするって…」 だけど彼女の瞳には意味深な光は見られず、ただ質問してるだけみたいだった。 「俺は…」 「誰かと過ごすよ」 「一人だよ」 「そりゃあ、俺にだって誰かと過ごす予定くらい入ってるよ…」 「判った。女の人だ」 ここぞとばかりにマナちゃんはくらいついてきた。 「ほんっと、イヤラシイわよね、藤井さんって。もう何かあるとすぐ女の人だもんね」 「何も言ってないよ」 「クリスマスなんて恋愛と全然関係ない行事なのに」 「ああ、やだ! 私、なんだってこんなこと訊いちゃったのかしら!」 頭をふるふると振りながら一人で騒ぐ彼女。 また暴走が始まったみたいだ。 「だから、そんなんじゃないってば…」 「いいわよ、無理しなくっても」 どんな無理だ。 彼女は机の引き出しを開けて 「これ、クリスマスプレゼントにしようと思ってたのに」 と何かを取り出した。 一枚のチケットだった。 …いや、見たことがある…。 「森川由綺のクリスマスライブのチケットなんだけど…」 あっそうか。 それだ。 「藤井さん、要らないよね。彼女といちゃいちゃ過ごすんだからね」 「…もう一枚あるんだったら丁度よかったんだけど…」 「そんな…」 俺は素直に落胆してみせる。 ここで『俺も持ってるよ』なんて言ったら、本気で機嫌を損ねてしまう…。 「…なによお、必要ないんでしょ? 私、一人で行っちゃうんだから、それでいいじゃないの」 「…………」 「…でも、よかったじゃない、藤井さん」 「何が…?」 彼女の言いそうなことは判ってる。 「藤井さんみたいな男だって、相手にしてくれる女の人がいるんだから」 「世の中って、結構いい加減ね」 「まあね…」 そのいい加減な世の中のおかげで俺は、アイドル・森川由綺と親密につきあっていられるんだけどさ。 だけど、この受け流すみたいな返事に、彼女は少し肩を落としてしまう。 …俺と過ごす、誰か彼女の知らない女性の存在を確信してしまったのかも知れない。 「ごめんね、一緒にいられなくて。クリスマス」 そうするつもりはないんだけど、どうしても子供を相手にするみたいな口調になってしまう。 「…いいわよ。…私だって、友達と一緒なんだから…」 「そう…」 「…言っとくけど」 「女の子の友達だからね。 誰かさんと違って…!」 「あ、うんうん…」 どう反応したらいいか判らず、俺は頷く。 「…でも、どうして行くつもりもなかったライブのチケット持ってたの?」 「い、いいじゃない、そんなの…」 何げない質問のつもりだったけど、意外にも彼女は慌てた反応をみせてしまった。 「と、友達にもらったのよ! …女の子の友達!」 そう言ってから 「ああ、もお! いいじゃない別に! 誰にもらったって! 男でも女でも!」 逆ギレ。 「わ、判った。ごめん。…もう訊かないから」 こうなったらもう謝るしかない。 「まあ、要するに、人にはそれぞれシセイカツがあるってことよ。判った?」 何やら大人びたことを言い出した。 「あ、うんうん。そうだね…」 俺は頷く。 自分で言っている言葉の意味が判っているんだったら、彼女は俺の言うことも判ってくれてるはずだ。 …少し不安だけど。 とりあえず俺は、こういう話題は早めに切り上げて、残りの時間を学習に費やした。 「一人で過ごすけど…」 学習時間を終えると、今日も外はすっかり冷え込み、風までも吹き込んでいた。 鼻の頭がひりひりと痛いくらいだ。 「…マナちゃん、お疲れ様」 「藤井さんもね」 「大変よね。こんな中、帰んなきゃいけないんだもんね」 あ、なんか心配してくれてる。 「まあ、大丈夫だよ。部屋、そんなに遠くないし…」 「うん。そうだよね」 それだけ言うと彼女は、「もう、なに!?」 「寒ーい!! 今日、もう外出ない!」 玄関に素早く飛び込み、音を立てて扉を閉めてしまった。 あーあ…。 仕方なく、とぼとぼと帰ろうとした時、後ろで再び扉が開いた。 「藤井さん…」 「あ、マナちゃん。…なに?」 風のせいで自分の声ががさついて聞こえる。 「良いクリスマスを、ね…」 寒さの為か、マナちゃんの頬が赤く色づいてるみたいだった。 「うん…。マナちゃんもね」 「う、うん…。大丈夫…」 そう言って彼女は少し寂しそうに笑って再び、今度は静かに、家の中に入っていった。 「おやすみ…」 俺は相手もなく呟いて、彼女の家を後にした。 ふと思い返して、俺はポケットからチケットを取り出した。 さっき、マナちゃんにもらった、由綺のライブのチケットだ。 …どういう意味で俺にくれたのかは判らないけど、とにかく、由綺のライブにはどうでも行かなきゃいけなくなっちゃったみたいだ。 俺と由綺との間には、こんな風な運命的なつながりがあるのかも知れない…。 なんて図々しいことを考えながら、俺は部屋に帰った。 さすがに俺のアパートの近くまで来ると、降りたての雪も踏み荒らされて、忙しい街の様相を呈してる。 もう、このあたりは動き出してるんだな…。 俺は不思議な感覚に襲われる。 …俺が由綺に会いに行って、そして英二さん達とちょっとした冒険をしてたその間にも、街は、人は、それぞれのルールでそれぞれに動いてる。 …俺達だって、その中の一つのパーツに過ぎない…。 そんな、奇妙な感覚だった。 アパートは住人が揃って出かけたかと思われるほどに静かで、人通りの気配もなく、ヴァージンスノーは降りたてのまま綺麗に残されてた。 俺はその、積もった初雪を踏みしめるサクサク感を楽しみながら階段を上った。 と、二階の通路に何か捨ててある。 俺の部屋の前だ。 何か、くすんだ白っぽいものが…。 …冗談じゃないよな、まったく…。 俺はそれに近づいてみる。 …いや。 それは『もの』じゃなく、人間だった。 酔っぱらいかなあ…? …まさか、死んでるんじゃないだろうな……。 そんなことを考えながら、俺は恐る恐るそれを覗き込む。 「あ…」 その、縦に長いぬいぐるみみたいなものは俺のよく見知った顔をしてた。 白いコートにくるまったまま、凍えそうな、泣きそうな顔のままに目をつむってるマナちゃんだった。 「な、なんでマナちゃんがここに…?」 よく見ると、紙袋を抱える手が、何か紙片を握りしめてる。 よくは見えなかったけど、どうやら俺の提出した履歴書のコピーみたいだった。 多分、これの住所を見ながら俺の部屋までやって来たんだろう。 それにしてもどうして、こんな寒い朝に、こんなとこに…。 いや…。 俺は、さっき通ってきたアパートの前を思い出す。 あそこの雪の上には一つとして足跡がなかった。 そして、彼女のシューズにも濡れた様子が見られない。 つまり彼女は今朝じゃなく、雪が降り出す前、昨日の夜からここにいたことになる。 俺は青くなって彼女の頬に触れてみる。 …冷たい。 まさか…。 俺は、よくドラマでやるみたいに、首筋に指を当てて脈拍を調べ、そして彼女に顔を近づけて息遣いも調べてみた。 …大丈夫。 脈はあるし、息もしてる。首筋も、しっかりと温もりがある。 寝てるだけみたいだ…。 「ふう…」 どうして彼女がこんなところで寝てるんだろうって疑問はさておくとして、俺はひとまず大きく安堵の溜息を一つついた。 「ん…?」 顔の近くで大きく息をしたせいか、彼女は静かに目を覚ました。 「…藤井さん?」 「マナちゃん…。…よかった……」 そう言いかけたところで、俺の目の前で 「…っくしゅん!!」 「うわあっ!」 いきなり、彼女がくしゃみをした。 離れて見ると可愛らしいくしゃみなんだろうけど、すぐ目の前ではまさに爆発だ。 俺は驚いて反対側の壁まで吹き飛んだ。 「な、何やってんのよ、藤井さん…!?」 起き抜けでぼんやりしながらも彼女は立ち上がって、よろよろと俺の方に倒れ込む。 「も、もう! 汚い!」 誰に言っているのか判らないみたいなことを口走りながら彼女は、ポケットから取り出したハンカチを俺の顔にぐいぐいと押し当てる。 力が入りすぎていて、再び、痛い。 どうやら手がかじかんで、力の感覚がないらしい。 「も、もういいから、マナちゃん、もういい…」 いらいらしているみたいなハンカチをどうにか手で押しのけて、彼女の肩を軽く叩く。 彼女の方もやっと気づいたみたいに、そっと手を引っ込める。 「…何やってんの、マナちゃん? こんなところで…?」 俺の口からは、まずそれが出た。 だけど彼女は、「…藤井さんこそ、何してたのよ…?」 …彼女は、昨日の夜からここにいた。 まさか、俺がライブからまっすぐ帰ってくるあたりの時間に…? 「と、とにかく部屋に入りなよ。…ここじゃ、寒いだろ」 ここじゃ話せない内容になるかも知れないし。 俺はドアを大きく開ける。 室内もひんやりとしてる。 暖房をつけて部屋を出ればよかったな、と今更思った。 だけど、彼女はいつまでも立ち上がらない。 「…手」 「………?」 わけもわからずに俺が手を差し出すと、彼女はそれに全身をあずけるみたいに、よろよろと立ち上がった。 …足も痺れてたみたいだ。 「大丈夫…?」 「…大丈夫に決まってるじゃ…」 言いかけて彼女は、「…っくしゅん!!」 と、俺の耳元でもう一度大きくくしゃみをした。 耳が痛かった。 「あ、もうちょっとしたらあったかくなるから、そこらに座って待っててよ」 俺は暖房のスイッチを最強に入れながら、今にも泣き出しそうなマナちゃんを部屋の中に入らせた。 「…………」 いろいろと訊きたいこととかあったけど、今のマナちゃんに何を言っても泣き出しそうで、俺は少し黙ることにした。 ヴウウウゥ………ン…… やっとエアコンが動き出して、暖かい風が室内に流れてきた。 「これ…」 いつもの、何か文句を言いたそうな口調で、彼女は抱えていた紙袋を俺に差し出した。 終夜営業のファーストフードショップの包装だ。 「え?」 受け取ると、それは彼女の体温で少しだけぬくもっていた。 「…………」 中を覗いてみる。 そこには、クリスマス仕様に派手にパッケージングされたフライドチキンのパックが入っていた。 「…ちょっと多く買いすぎちゃったから、持ってきたの…」 「え? だって、友達と一緒だったんじゃ…?」 「い、いいじゃない! そんなの! …余計なこといつまでも覚えてるんだから…」 部屋が温かくなってくるに従って、彼女の元気も戻ってきているみたいだった。 「いいわよ、食べないんだったら! 私食べちゃうから!」 「あ、いや、食べるよ俺も」 慌てて俺は袋から中身を取り出す。 一年のうちで一番怠惰な朝日の中で、白と赤と緑の、信じられない色の組み合わせは悲しいまでに白けて見える。 「…あっためて」 「え?」 「え? って何よ!? あっため直してくれなきゃ食べられないじゃない!」 「あ、でも…」 …機嫌悪いなあ。 って、仕方ないか。 クリスマスイヴに屋外の、冷たいコンクリートの上で野宿させられて、にっこりと『おはよう』なんて言う娘はいないだろう。 …それはそれとして、不都合がもう一つ。 「なによお…?」 「…うち、レンジ無いんだ…。ごめん…」 「うっそ!? 信じらんない! なにそれ!? ここ、ほんとに文明国!?」 独り暮らしの男の部屋って、半分くらいは未開地だと思うんだ、それだと。 「じゃ、これ、冷たいままー?」 「…私、食べない。藤井さん、全部食べて」 完全に彼女にへそを曲げられた。 自分で買ってきたものなのに…。 まあ、ちょうど朝食も摂りたいと思ってたところだし、一人で食べよう…。 「いただきます…」 ぱく……ぱく……ぱく………。 冷たくなって、水分でふにゃふにゃになってて、出来立ての美味しさは全く無くなってるけど、でも、あの『ゆうべの残り』の味がする。 冷たい朝日の中で食べる残り物のチキンって、ひょっとしたらすごいレアなグルメアイテムなのかも…。 なんて考えながら、俺は1ピースをさっと食べてしまった。 「……………」 やっぱりマナちゃん、お腹空いてるのかな…? っても、俺の部屋に、他に食べ物無いし…。 どうしようか? チキンをすすめる 外に何か食べに行こうと誘う 「…どう? チキン、食べない? 美味しいよ、マナちゃんが買ってきてくれたの」 「べっ、別に買ってきてあげたわけじゃないわよ! 買いすぎちゃっただけ! ただの余り物よ!!」 …難しいんだなあ。 「何か飲み物無いと食べられないわよ、私…」 うーん。 ペットの烏龍茶くらいしかないけど。 「烏龍茶でいいんだったら…?」 「…それでいいわよ…」 不機嫌な態度は変わらないままだけど、彼女は静かにチキンに手をつけ始めた。 「まっずーーーーい」 とか言いながらも、それでも一応、半分ほどは食べてくれた。 「あ。これ嫌だったら、どこかに食べに行こうか? …ファミレスとか…」 俺はナプキンで指を拭きながら提案した。 「…どこにあるのよ、そんなの…?」 …確かに、この近くにはファミレスなんか無いな。 「駅の向こうまで歩いたらあるけど…」 「そんなところまで私を歩かせるつもり?」 …無理だろうな。 今の彼女をそこまで連れてくなんて…。 「じゃあ、ファーストフード…」 「冗談じゃないわよ! 私、そこでこれ買ったんだからね!」 気持ちは判るけど…。 どうも俺、女の子のわがままって苦手だな…。 「…そんっなに、藤井さん、チキン食べるの、嫌…?」 「いや、俺は別にそんなことないけど…」 食べるだけ食べて、部屋があったかくなると、少し眠くなってきた。 …いや、でも寝ちゃだめだ。 マナちゃんに詳しい事情を聞かなきゃ…。 と、マナちゃんはと見れば、「……………」 彼女もなんだか眠そうだ。 「…なによお?」 「あっ、別に…」 眠そうな彼女を見て思ったことを正直に言ったりしたら危険だ。 「それよりさ、なんだって俺のところになんか来たの? …こんな寒い中、しかも夜中に?」 「……………」 言いたくないのかな…? 「お母さんとか、心配してるんじゃないの?」 自分のせいで変な風に勘ぐられたら彼女が可哀想だ。 だけど、「するわけないじゃない、心配なんて…」 …親とけんかとかしてるのかな……。 「…ふん」 何があったのか知らないけど、とにかく、今日は帰らせた方がいいかも知れないな…。 …素直に帰ってくれれば、だけど…。 俺はマナちゃんを… もう少しここにいさせてもいい 帰るように説得する …まあ、相手はマナちゃんだし、俺が何か言って素直にきいてくれるなんて思えない。 少しくらいは、ここにいさせてもいいかな。 この部屋に女の子が来るなんてことは、滅多にないことだし…。 「何ゆるんだ顔してんのよ? 藤井さん?」 まずい。 マナちゃんの前で余計なこと考えてたらすぐバレる。 「別に…。…まあ、今日は雪も降ってるし、少し休んでいったらいいよ」 「………………」 「…うん…」 珍しくおとなしく、彼女は頷いた。 「藤井さんって、時々、優しいんだね…」 「時々…」 「あっ、ううん。そういう意味じゃなくて…」 彼女は少し嬉しそうに慌ててみせる。 「いつもそんな感じだったら、もう少し女の人とかにも見てもらえるんじゃないかなっていうか…」 「……………」 「…だから、そういう意味じゃなくってぇ…!」 自分で言ってて適当な表現が見つからない彼女は、また逆ギレしてしまいそうだった。 「いいよ、判るよ…」 なんとなくだけど、よく判った。 彼女は彼女なりに、感謝の気持ちを言い表したいんだろうけど、ちょっとだけ、上手にできないんだ。 素直になれない自分に腹を立ててるみたいに、彼女はまたも顔をしかめてる。 「…判ったよ、マナちゃん。ありがと…」 これ以上、彼女に素直さを要求するのは酷だ。 「…………」 「…あんまり大人みたいな顔、しないでよね。…ちょっと良いこと言われたからって」 「判ってるよ」 「…別にいいんだけど」 彼女の方も、別にこだわってなんかいないよって調子だ。 「…それより、今、まだ雪降ってるの?」 「え? ああ…」 俺は窓の外を示してみせる。 かすかにだけど、ちらちらと白いものが舞ってる。 「…じゃあ、ちょっとだけ、外に出てみていい?」 「え?」 見ると、彼女の瞳は嬉しそうな光を見せている。 …そうか。 雪が降ってるのが嬉しいんだ…。 夜中、雪に降られて凍えてたってのに、やっぱり子供… っと、こんなことを考えてたら、「…なによ?」 案の定、俺を睨んでる。 「…ん? どうかした?」 「…ただ、今年初めての雪がどんな風か見ておきたいだけよ。遊ぼうなんて思ってるのって、藤井さんか野良犬くらいよ」 野良犬…。 (ひどいなあ)。 でも、どうやら初雪は嬉しいみたいだ。 俺はクールに構えるマナちゃんを連れて、誰もいない表の通りに出た。 「…わあ、積もってる、雪…」 「うん…」 彼女の隠しきれない感激を見て俺は、そういえば去年も雪が降らなかったなと思い出した。 今日はクリスマスだ。 こういうのは特別に嬉しくなる。 「なに、藤井さん、はしゃいじゃって…」 「…マナちゃんだって」 「はしゃいでなんか、いませんっだ!」 「ムードを味わってただけよ!」 …ムードね。 ま、いいや。 「…そうだね、ちょっといいよね。少し歩こうか」 「…うん」 そして俺達はアパートの周りの、まだ誰にも踏み荒らされていない雪の上に、軽く足跡をつけたりして初雪を楽しんだ。 「ふふふっ。…こんなのも、結構ロマンティック…」 朝の雪の中でダンスを踊るみたいに、彼女はうっとりと微笑んだ。 心なしか、彼女の頬に朱がさしているみたいに見える。 「マナちゃん、顔が赤いよ…」 「…なに言ってんのよ、藤井さん。…私、ロマンティックって、そういう意味で言ったんじゃ…」 そこまで言いかけて彼女は、ふらっ…。 「あっ! マナちゃん!」 いきなり彼女は、足がもつれたみたいに前にのめり込んだ。 俺は辛うじて彼女の体を支える。 「だめだよ、気をつけなきゃ…」 そこで俺は、彼女の身体がひどく熱を持っていることに初めて気づいた。 「マ、マナちゃん!?」 「な…何しがみついてんのよ、藤井さん…」 強がるその声は明らかに震えていた。 そして彼女の顔、気のせいじゃない、熱のせいで真っ赤だった。 …病気…? 考えてみれば、昨晩、雪の降る中、彼女は俺の部屋の前で過ごしたんだ。 こんな華奢な女の子が、あんな無茶をして大丈夫なはずがない。 「は、放してよ…藤井さん…。…恥ずかしいから…」 俺は自分の、彼女への無頓着さに腹立たしく思いながら、彼女を急いで俺の部屋の中に連れていった。 いや。 やっぱり女の子が一人で、夜明かしをしてまで男の人の部屋に、なんてのはまずいよ、どう考えても。 まして、親ともめているみたいな今の時期は、俺みたいな他人は下手に干渉しない方がいい。 …経験から得た知恵ってやつだ。 「…あのさ、マナちゃん…」 「なによ?」 俺が説得に出たのを鋭く察知してか、彼女は言葉をさえぎるみたいに俺を睨む。 「い、いや…。あの、ご両親が心配するといけないから…」 「なによそれ!? なに、ゴリョウシンって!?」 「…藤井さん、会ったこともないくせに…!」 …あれ、そうだっけか? あ、そうだ…。 不信げな眼差しー…。 でも、今日も家にいないのかな、彼女の両親って…? あれ、待てよ。 今まで彼女の親が家にいるのを見たことなかったけど、まさか、昨日の夜も家にいなかったんじゃないのか? だから彼女が一晩中外に出ていられたんじゃないのか…? …って、まさかね…。 どのみち、いたずらに親御さんを心配させるのは気が引ける。 「でも、一晩中家を空けてたわけだろ? …やっぱり、まずいんじゃないかな…?」 「まずいって何よ…?」 「…って、あっ…」 「藤井さん、なに言ってるの!? どうして、そういうこと考えるわけ!?」 「えっ…?」 いきなりで、俺はびくっとした。 そういうことって何だ…? 「ばかばかばかばかっ!!」 ぽかっ ぽかっ ぽかっ ぽかっ。 「いっ痛ててて。マ、マナちゃん、やめてやめて…」 俺を殴る拳自体はそんなに痛くないんだけど、その勢いが怖い。 「ご、ごめんなさい。もう、そういうこと考えない…」 どういうことを考えなくなればいいのかも判らなかったけど、とにかく俺は謝った。 覚えのない罪を悔いた。 「まったく、もてない大学生って…」 「そういう下品なところは、私が直してあげなきゃだめみたいね」 「下品…」 …なのかなあ? ま、それはそれとして、「でも、今日は帰った方がいいよ。ほんとに」 「私って、そんなに邪魔!?」 「そ、そういうことじゃなくって…」 暴走する自意識を巧みにさばけるほど、俺は 老獪 ろうかい じゃない。 「ほら、今日のことで何か言われて、俺のところに遊びに来られなくなったら悲しいじゃない」 「…俺も、そんなの嫌だし…」 「…ふう~ん…」 …少なくとも、感銘を受けた顔じゃないな、これは。 「…ま、そんな何も言われないんだけど…」 彼女はゆっくりと立ち上がる。 「藤井さん、私のこと邪魔にしてるみたいだから、今日は帰る…」 「そんなんじゃないよ…」 俺も立ち上がって言葉を否定しかけたけど、引き留める結果になったらどうしようと少し思った。 「じゃっ、藤井さん。もう来ないから安心して…!」 「マナちゃん……」 意地が悪いなあ…。 もう少し素直になってくれたって、俺、別にばかにしたりしないんだけどな…。 と、彼女が大きく身を ひるがえ した時、ふらっ… いきなり彼女は、足がもつれたみたいに前にのめり込んだ。 俺は辛うじて彼女の体を支える。 「だめだよ、気をつけなきゃ…」 そこで俺は、彼女の身体がひどく熱を持っていることに初めて気づいた。 「マ、マナちゃん!?」 「な…何しがみついてんのよ、藤井さん…」 強がるその声は明らかに震えていた。 そして彼女の顔、気のせいじゃない、熱のせいで真っ赤だった。 …病気…? 考えてみれば、昨晩、雪の降る中、彼女は俺の部屋の前で過ごしたんだ。 こんな華奢な女の子が、あんな無茶をして大丈夫なはずがない。 「は、放してよ…藤井さん…。…恥ずかしいから…」 俺は自分の、彼女への無頓着さに腹立たしく思いながら、彼女を再び部屋の中に運びこんだ。 「なによ藤井さん、いきなり…!?」 ぼんやりしながらも、再び俺の部屋の中にいる自分に気づいて、彼女は怯えたみたいに俺に食いついてきた。 「マナちゃん、落ち着いて。ちょっとベッドに横になってた方がいいって…」 「ど、どういうつもり、藤井さん!?」 …どういうつもりも何も…。 「こ、こんなことしたら、後で、大変なことになるんだからね…」 「(すぅっ)」 「きゃぁ…」 彼女がいきなり大声で悲鳴を上げようとして俺は驚いたけど、彼女はそれを果たせずに、嫌な咳をしながらベッドに倒れ込んでしまった。 「な、なによお、藤井さん…? 私になに飲ませたのよ…?」 彼女は何か激しく勘違いをしてるみたいで、既に半泣きだ。 「違うってば。マナちゃん、病気なんだよ。風邪ひいちゃったんだよ」 「…風邪…? うそ…?」 「…そんな変な嘘つかないよ。いいからちょっと横になっててよ」 「俺、今からすぐに…」 「医者を呼ぶから」 「家に電話するから」 「薬持ってくるから」 「医者に電話するね!」 俺は急いで電話を手にした。 「ちょ、ちょっと、やめてよ…」 「えっ?」 ドカッ… 「わっ…」 軽い衝撃。 ベッドの上に横たわってたはずの彼女が、よろよろと立ち上がってその細長い足で果敢に蹴りを繰り出してきてた。 「な、なに? どうしたの、マナちゃん?」 「やめてよ、お医者さん呼ぶなんて…」 「だって…」 病気の人間を目の前に、医者を呼ぶなだなんて、しかも本人に言われるなんて思わなかった。 「こんなところで、お医者さんに診てもらうなんて、私…」 「こんなところって…」 …あ、そうか。 『こんなところ』だ。 クリスマスの朝に、男の部屋の中にいるところを誰かに見られるなんて、女子高生にしてみればスキャンダラスもいいとこだ。 「いい? 誰かに知らせたら殺すからね! 藤井さんの命は無いものと思いなさいよ!」 …またそんな、立て籠もり犯人みたいなことを…。 でも、真剣に言っているみたいだし。 「ああ、もう! …身体…痛い…」 彼女はそのままベッドの上にうずくまってしまった。 …仕方ない。 俺は医者や自宅に連絡するのを諦め、買い置きの薬を持ってくることにした。 「薬取ってくるね!」 俺は急いで買い置きの薬を取ってくることにした。 「藤井さん…」 「なに? どっか痛い?」 彼女はふるふると首を振る。 「…ここで寝てても、いいの? …私…」 突然、何を言い出すんだよ、マナちゃん…。 「だから、さっきからそう言ってるじゃない。…俺的にはおとなしく寝てて欲しいな」 「…うん……」 そして彼女は俺の言う通りに、おとなしくベッドの中に入ってくれた。 風邪薬を飲むと彼女は、すぐに頼りなげな寝息を立て始めた。 薬はあるし、そんな急に買い出しには行かなくてもいいか…。 ただ少なくとも、今日一日中は彼女についてないといけないだろうな。 …まったく、これじゃほんとにお守りか召使いかだよ。 俺は彼女の両親に怒りを覚えた。 自分が彼女の面倒をみさせられていることにじゃない。 彼女を、いくら家庭教師とはいえ、知り合って間もない男に委せきりで平気でいられるってことにだ。 これは自分の娘を信頼しているなんて状態じゃない。 自分の娘を放棄してるみたいなもんだ。 …筋違いかも知れないけど、彼女が回復して、家に送り届ける時にでも何か一言いってやろう。 彼女の額に濡れタオルを置きながら、そんな風に思った。 …あ…。 …いつの間にか俺も寝ちゃってたな。 俺は外の電灯で青く照らし出されている部屋にゆっくりと立ち上がる。 …マナちゃん、大丈夫かな…。 ベッドの上に目をやる。 「……はぁ……はぁっ…… ……はぁ……はぁっ……」 彼女は息苦しそうに呼吸しながら、ひどく寝汗をかいていた。 …少し休んだら家に帰れるようになるだろうと思って、服を着せたままベッドに寝かせたんだっけ…。 とりあえず俺は、額からずり落ちているタオルをもう一度濡らしてくることにした。 軽く触れた彼女の頬が、焼けるみたいに熱を持っていた。 …ほんとに大丈夫だったかな…。 俺は今更ながら、不安になってきた。 …今からでも医者に連れてった方が…。 と、触れてる俺の手が少し冷たかったんだろうか、ベッドの上の彼女がすり寄るみたいに頬を押しつけてきた。 「…マナ…ちゃん…?」 起きてるのかな…? だけど相変わらず彼女は苦しそうに息をするだけだった。 俺は急いでタオルを濡らしてきて、汗の浮いた彼女の顔を拭き、再び額を冷やした。 顔の方に感触を感じたのか、彼女は目をつむったままシーツの中から手を伸ばして、何かを探すみたいに枕の辺りをさまよわせた。 俺がその手をそっと押さえると、無意識にか彼女も手を握り返してきた。 少し楽になったのか、彼女の呼吸も少しだけ落ち着いたみたいだった。 …今年は、なんだか大変なクリスマスになっちゃったな…。 クリスマスイヴからの出来事を思い返しながら俺は、もう一度軽い睡眠をとった。 夜が明けた。 マナちゃんは弱々しい寝息をたてながら、まだ眠ってる。 …まあ、これだけ眠ったら体力も回復して、少しは良くなるんじゃないかな。 さ、彼女が寝てるうちに食事でも作ってあげるか。 昨日から何も食べてないわけだから、ここは栄養のあるものをたっぷりと… って、考えてみたら俺の部屋って何も食べ物無いじゃないか。 買い出しかなあ…。 …少しくらいだったら、部屋を空けたっていいかな…。 俺は少し後ろ髪を引かれる思いを感じながら、部屋を出た。 普段は料理なんかしないんだけど、病人食くらいだったら本とか見なくたって作れるだろう。 大体の勘で材料を揃えて、あとは店長の真似をして…… あ、でも、ちゃんと作らなかったら怒られそうだな。 病気の時はすごくおとなしいとか…。 …なんて、ないか。 久しぶりに食料品なんか買って歩くと、中で卵が潰れてないかとか、野菜がいきなり悪くなってるんじゃないかとかやたらと気になって仕方ない。 と、前から来るのは、「あ、はるか…」 俺は軽く手を振る。 すっ…。 あれ…? 見向きもしないで通り過ぎたぞ…。 …人違い… じゃ、ないけどなあ…。 「…はるか?」 俺はもう一度呼んでみた。 「あ、驚いた。…冬弥」 振り返ったのは、やっぱりはるかだった。 「顔が全然驚いてないぞ…。…なんだよ、いきなり無視してくれて」 「ごめんね」 はるかは全く謝っている風もなく謝って、俺をじっと見回した。 「な、なに…?」 「買い物袋持ってるから」 「…それだけで正面から歩いてくる俺を見逃したんだ…」 幼稚園の頃からのつきあいって一体何なんだ。 …でもまあ、仕方ないか。 俺が自炊の為に買い物袋を抱えるなんて姿は、年に一回見られるかどうかくらいだ。 「んー…」 とか、俺を全く無視して何か考えてる。(多分) 「…アパートの人…ううん」 「…何なんだよ、さっきから?」 「親戚の子」 なんだか判らないけど、答が出たみたいだ。(多分) 「何わけ判んないこと…」 言いかけた時、はるかは何かを俺の目の前に差し出した。 …キャンディだ。 「あげる」 「え? …ああ?」 なに言ってるんだ…? 「…ありがと」 「冬弥にじゃないよ。お大事に」 そう言ってはるかは、さっさと歩いていってしまった。 …あれ? なんで『お大事に』なんだ…? 俺は買い物袋に目を落とす。 まさか、この品物から推察したのか…? 『親戚の子』ってところは、間違ってるにしても…。 熟練の老刑事か、はるかは…。 と、のんびりしてる時間はない。 俺は急いで階段を駆け上がった。 「藤井さん…」 部屋に入って、俺は驚いた。 マナちゃんがベッドから出て、床の上を這うようにしながら俺を睨んでたのだ。 「…藤井さん、私をどうするつもりなのよ…」 彼女はいきなり真っ赤になって、涙をこぼし始めた。 「ど、どうもしないよ…」 まだ何か勘違いしてるのかな…。 「それより寝てなきゃだめだよ。…今、食事の用意するから」 手を差し伸べると、「さっ、触らないでっ!」 (すうっ) 「きゃぁ…」 だけど再び、大きく息を吸い込んだ時点で嫌な咳に苛まされ、へたへたと床に崩れ落ちてしまう。 俺は急いで彼女を抱えてベッドの上に戻す。 …それだけでも、何やら物騒な台詞を連射する彼女に思い切りひっかかれはしたけど。 「も、もういいでしょう…。あれだけ私をいじめたんだから、もう許してよ…」 「いじめたって…」 いつ、俺が…? 「…だから、売るのだけはやめて…。お願い…」 「…売るって? …マナちゃんを? 俺が? …誰に?」 「…外に待ってるんでしょ? …変な、外国の人…」 …外国人? そんなやつ、いなかったけど…。 「俺、今、外から帰ってきたけど、そんな人なんかいなかったよ」 「えっ…? 外から…?」 それから彼女は少し沈黙して、「…………」 「…ひょっとして」 俺は怒られるのを覚悟で尋ねてみた。 「……夢…?」 「……………」 …まあ、風邪をひいた時って、結構そういう悪夢をみるからなあ。 それにしても、異国からの人買いなんて、また古風で少女チックな悪夢を…。 「な、なによお! …ちょっと勘違いしただけじゃない!!」 そう言って彼女は、シーツを頭からかぶって出てこなくなってしまった。 あーあ…。 …仕方ない。 食事を作るか。 …………。 「…ほら、マナちゃん。お粥作ったけど、食べない?」 「………食べる…」 やっぱり、朝から何も食べてないから空腹だったんだろうな。 「ちょっと熱いかも知れないから、気をつけないとね」 俺は出来立てのお粥をスプーンですくって、無意識に軽く吹き冷ます。 「何してるのよ、藤井さん…。そんな、子供にするみたいなことしないで!」 「あ、ごめん」 しまった…。 「もう! 一人で食べられるからいいわよ! 貸して!」 彼女は俺から器をひったくる。 「あ、気をつけないと熱い…」 言い終わらないうちに、「……っ熱っ…!」 器に触れた手を胸に引っ込めて、信じられないって顔で目に涙を浮かべた。 …火を怯える小動物みたい…。 「な、何がおかしいのよ! 大体、なんでこんな熱く作るわけ!?」 「いや、ごめん…。おかしくなんかないよ…」 「そ、そんな笑うんだったら、最初から冷ましてくれればいいのよ!」 …ぼんやりと目を覚ます。 今日も良い天気だ。 朝の光が眩しく射し込んでる。 俺は、フローリングの床の上で寝たせいでけだるく痛む体をゆっくりと起こす。 「…ねぼすけ」 起き抜けに、いきなりマナちゃんの不機嫌そうな声が飛び込んできた。 振り返ると彼女は既に目を覚まし、おかしな角度で上半身を起こしてる。 多分、無理して起き上がろうとしたんだろう。 「…あ、おはよう、マナちゃん。…よく、眠れた?」 「『おはようマナちゃん』じゃないわよ…! …もう! 一体いつまで眠ってるつもりだったのよ!?」 …今日はまた、朝から機嫌が悪いなあ…。 …でも、俺、そんなに寝坊した…? 時計を見ると、8:30。 …これでどうして怒られるんだろう…? まあ、早くに目を覚ましてしまった彼女が、だるさと退屈のままに俺の寝てるのをずっと見てたから、いらついてんのかも知れない。 「早起きなんだね、マナちゃんって…」 「なにのんきなこと言ってんのよ! …は、早く起こしてよね…!」 え…? 「起こすって…? …まだ出歩かない方がいいんじゃない?」 「う、うるさいわねっ…。…顔を洗いたいだけよ…」 「は、早く…!」 顔を…? 「俺が拭いてあげるよ」 「判ったよ…」 「あ、それだったら俺がやったげるよ」 「……………!」 俺は条件反射的に飛び退く。 …この表情は、彼女が向こうずねを狙う時の顔だ。 実際、ベッドの中の彼女の足がいらいらしたみたいに動いてる。 「…な、なんで……?」 「は、早くぅ…」 …今度は泣きそうな顔になった。 そんなに自分で顔を洗わないとだめなのかな…。 「…我慢できなくなっちゃう、早くぅ……」 …あ、そうか。 「ご、ごめんっ!」 ここで初めて気づいた俺は、急いで彼女に肩を貸して、トイレまで運んであげた。 「判ったよ…」 俺はおとなしく彼女に肩を貸して、起こしてあげることにした。 こうなってしまったら、言うことを聞くのが一番だ。 看病している相手にへそを曲げられたら、もうどうしようもない。 「…大丈夫? しっかりつかまって…」 「うん…」 俺の肩にすがる彼女の手は、相変わらず熱を持っていた。 と、彼女を支えながら、彼女の身体が変にこわばってるのに気づいた。 …あ、そうか。 ここで初めて気づいた俺は、急いで彼女をトイレまで運んであげた。 さてと。 彼女は、昨日よりは確実に良くなってるとしても、まだここから帰して安心できる状態じゃないみたいだ。 家の方にも家族がいるなんて気がしないし、もう一日ここで看病した方がいいかもだな。 「…なによお?」 鋭く勘づいた彼女が、またもベッドの上で苦しそうに上半身を起こす。 「あっ、いや。起きちゃだめだって。寝てなきゃ」 俺は慌てて彼女を制する。 あ、そうだ。 今日もこの部屋には食料が無いんだった…。 失敗した。 昨日、何日分かまとめて買っておくべきだった。 ってことは、また買い物行かなきゃなあ…。 治りかけの今、栄養を摂らないってのは何よりもまずいし。 「…あ、マナちゃん」 「…なに?」 「…俺、これからちょっと買い物に行ってくるけど、一人で大丈夫…?」 「え…?」 「だ、大丈夫に決まってるわよ! …子供じゃないんだから」 …俺、彼女を怒らせないってことのできない人間みたいだ。 「うん…。じゃ、何か買ってきて欲しいものとか…」 「無いわよ、そんなの…!」 そして声を出しすぎて咳き込む彼女。 やっぱ心配だなあ…。 「…おとなしくしててよ」 「判ってるわよ…」 「じゃあ、いってきます…」 と、俺が行きかけた時、「…藤井さん」 「え?」 不意に呼び止められる。 「……………」 「…なに?」 「早く……帰ってきてよね…」 そして、またシーツを頭からかぶって、「…私の召使いなんだから…」 「…うん。…すぐに帰ってくるからさ」 そう言い残して、俺は部屋を後にした。 買い物を終えて、部屋に帰ろうとした時、「あら? 藤井君、お買い物?」 「あ。美咲さん…」 そこには、袋に入った鉢植えを大切そうに持つ美咲さんがいた。 「うん。今帰るとこだったんだけど」 「ちょうどよかった。私も今帰るところ」 「よかったらだけど、一緒に帰らない? …ちょっとお茶でもと思ってたんだけど…」 ええと…。 つきあう 断る 俺はゆっくりと眠りに落ちてゆく…。 …これまでで最悪の目覚めだ…。 ベッドから起き上がれない…。 …いつもより多く寝てるはずなのに、全然疲れがとれてくれない…。 いや、でも、カーテンくらいは開けなきゃ…。 俺はかなり無理をしてベッドから降りる。 …うわ…。 まともに歩けそうもない…。 くらっ…。 あ………。 …………。 「…さん……。………さん…!」 誰かが乱暴に俺を揺さぶってる…。 ……知り合いで俺にこんな乱暴なことするの、マナちゃんしかいない…。 やめてくれ…。 男の彰の方がよっぽどおとなしい…。 「…藤井さん!」 パシッ! いたたた…。 ひどいことするなあ…。 …このままじゃ死んじゃうよ、俺…。 「…このままじゃ死んじゃうよ、藤井さん…!」 判ってるじゃないか…。 「…藤井さん! …藤井さん!」 マナちゃんが泣いてる。 …ぶたれたのは、俺、だよなあ…。 「…ごめん…マナちゃん……。…もうしないから…」 何があったか判らないけど、とりあえず謝っておこう。 話はそれからだ。 「あ…よかった…」 そして彼女は俺を抱きしめた。 …………。 …どうにか落ち着いた。 俺はベッドの上に上半身を起こす。 「あっ、起きちゃだめだって、藤井さん…!」 キッチンの方からマナちゃんがぱたぱたと駆けてくる。 「少しおとなしくしててよ。子供じゃないんだから、もう…!」 はいはい…。 「…でも、今、ちょっとだけ調子が良いから…」 「…ま、いいわよ。どうせもうすぐ食事ができるから…」 そう言って彼女はキッチンに戻ってゆく。 …彼女に聞いた話だと、俺はこの部屋の中で倒れてたらしい。 そこにたまたまやって来た彼女が、それを見つけて助けてくれたのだ。 俺を着替えさせてベッドに押し込み、そして今、キッチンで食事の用意をしてくれてる。 …俺の記憶は朝起きたところで途切れてるから、半日ここに倒れてたことになる。 マナちゃんが訪ねてきてくれたのと、鍵が開いてたって二つの偶然に感謝しなきゃいけない。 これがなかったら今頃俺は雲の上で、仕事帰りのサンタクロースと顔を合わせてたかも知れないんだ。 でも、マナちゃんの風邪の看病をしてたくせに、自分の風邪にこんなに気づかなかったなんて間抜けな話だ。 看病してるうちに彼女の風邪がうつったんだろうけど、そんなのちょっと考えたら判るはずなのに。 …ちょっと情けない。 「…どうしたの、藤井さん? …頭痛いの?」 気づくと、彼女が俺の顔を覗き込んでる。 「あ、いや、全然平気…」 「…なにが全然なのよ。病人のくせに…」 まあ、そうだよな。 病気は仕方ないか…。 「はい。特別に私がごはん作ってあげたんだから、食べてよね」 「あ、ありがとう……」 『ごはん』って言葉に、俺の胃はきりきりと仕事を要求する。 風邪で鼻がやられてなかったら、その香りだけで俺はよだれを垂らしたかも知れない。 彼女は鍋つかみをした手で、湯気の立つ器をベッドの横に置く。 俺がそれに手を伸ばしかけると、「だめよ、藤井さん。まだ熱いんだから」 「あ、はい…」 「…しょうがないわねえ。判ったわよ。…食べさせてあげる」 しょうがないって…。 …え……? 目が覚める。 …頭、痛い。 目と目の間がびりびり痺れてる…。 今、何時頃なんだろう…? …腕の辺りが、不意に重い。 見ると、マナちゃんが頭をベッドの上に乗せて、すうすうと静かな寝息を立ててる。 …何時くらいまで、俺のこと看ててくれてたのかな…? 気づくと、額の上に濡れたタオルが載ってる。 そっと裏返すと、まだ冷たくて気持ちが良かった。 …もう少し、休もう…。 …う …ん、頭痛い…。 俺は再び目を覚ました。 「…あ、起きちゃった?」 「私、ちょっとだけ家に帰ってくるけど、おとなしく寝ててよ」 今からって… こんなに暗くなってから一人で? 「…今、何時?」 「…あれ? 藤井さん、寂しいの? …大丈夫、すぐ戻ってくるわよ」 いや、別にそうじゃないけど…。 「外は暗いけど、まだ7時くらいだから安心して。寂しくないわよ」 「あ、うん…」 俺はそれを聞いて幾分か安心した。 「…いくら独り暮らしだからっていって、食料くらいストックしときなさいよね」 「…おかげで私が買い出しに行かなきゃならないじゃない…」 「あ、ごめん…」 今回のことでそれははっきりと実感できた。 「じゃ、行ってきます…」 …他人の看病ってすごく大変なのに、彼女、そんな嫌な風でもなかったな。 俺の世話をしてる時、たまに見せる笑顔が、あの時の、駅で初めて彼女に会った時に見せてくれた微笑みに似てるって感じるのは気のせいかな…。 そんなことを考えながら、枕に頭を静めた時、ピンポーーーーン。 チャイムが鳴った。 …マナちゃん? いや、違うな…。 買い物してきたにしては早すぎるし、第一、彼女だったらチャイムなんか鳴らさないだろう。 …俺が出なきゃならないのか。 つらいな…。 ベッドから出ようとすると、ガチャ…。 玄関のドアの開く音が聞こえた。 続いて、「あれ? 開いてる…」 聞き覚えのある声。 「…冬弥君?」 「…どうしたの一体? …うそ? 病気…?」 「え…? 由綺? なんでここに?」 「電気ついてるのに返事がなかったから…。私…勝手に…」 「…そうじゃなくて……」 ステージの仕事は無いとしても、レッスンやらいろいろな雑務とかあるんじゃないのか。 「…まあ入りなよ。…俺、別に大丈夫だからさ」 「う、うん…」 悪いことでもしたみたいに由綺はおどおどしてる。 「…誰か…いたの?」 「え…?」 不意に由綺がそんなことを尋ねた。 由綺みたいなタイプの人間にも女の勘なんてものがあるのか…。 「…ミルクみたいな香り…。赤ちゃんの匂い?」 赤ちゃんの匂い…。 マナちゃんには絶対に聞かせられない台詞だな。 「…なわけないね。あははっ。なに言ってんのかな、私?」 「冬弥君の部屋に赤ちゃんがいるわけないもんね」 それはありえないけど…。 「うん…。ちょっと風邪ひいちゃって、それで栄養たっぷりのミルク粥を作って食べたんだ。…それだと思うよ」 俺は『風邪』の部分が強調されないように、できるだけ明るく話す。 「あ、知ってる。私も小さい頃、よく母さんとか叔母さんに作ってもらったの」 …由綺までもそうなのか。 「すごく甘くて、今でも結構好きかな」 「……………」 「…どうしたの?」 「いや、別に…」 「…それより、由綺、なんで急に俺のとこになんか? …仕事とか、いいの?」 「…なに言ってるの、冬弥君。私、冬弥君に会う為にここに来たんだよ」 「…あ、でもね…」 「…なに?」 「ここに来る途中で知り合いの子に会っちゃったから、冬弥君だけに会いに来たっていうと、ちょっと嘘になるね」 …そうかな…。 いや、俺が言いたいのはそういうことじゃない。 「今日って、由綺、仕事とか休み?」 「…ほんとはね、私、昨日だって一昨日だって、今日だって明日だって、ここのところずっとお休みなんだ…」 「…実際、他の人達に比べてお休みは多い方だし……」 由綺は少し哀しそうな顔をした。 「え…?」 「うん…」 …じゃあ、なんでこんなに由綺は…? 「…歌のレッスンとか、あれは私が自主的にやってることになってるから」 体力の無い時は甘いものが良いなんて、ほんとなのかな? その真偽はともかくとして、彼女が存分に腕を振るったミルク粥の食事の後に軽く眠ったら、俺の身体は朝方に比べてはるかに快復していた。 目が覚めても口の中が甘くて仕方ないのはつらいけど、この分じゃ明日の朝までには全快してるかも知れない。 薬だと思って少し我慢しよう。 口直しに、食後のコーヒーを要求したら『病人が何言ってるの!』って怒られたけど。 そして今、俺の甘い口の中には体温計が入れられてる。 彼女が使ってから消毒してないことは黙っておこう。 (恐いから) 「…はい、見せてみて」 「ん…」 「うう~ん…」 ドラマのお医者さんじゃないんだから、体温計見るくらいでなにもそんな難しい顔しなくたって。 「…どう? …良くなってる?」 「ま、まあね…。…少しは良くなってるみたい」 「少しか…」 せっかくの正月休みなのに、今夜もベッド生活…。 「…今夜一晩くらいはおとなしくしてないとだめかも…」 「…心配だから、もう一晩だけついててあげてもいいんだけど?」 彼女は必要以上に体温計をぶんぶん振りながら俺を見る。 「あ、うん…。マナちゃんの迷惑にならないんだったら…」 看護人に『心配だから』なんて言われたら、俺の方まで心配になってくる。 治りかけが肝心だっていうし、もう少し厚意に甘えることにしようかな…。 「迷惑だなんて…」 「…藤井さん、病人のくせによけいなこと考えるんだから」 「…こんな時に突然良い子になったって誰も騙されないわよ」 騙すつもりは…。 「ま、特別ね。…藤井さん、ほっといたら死んじゃう人だから」 …そんなので俺、よく20年も生きてられたな。 …一日に何度も断続的な睡眠を摂ったせいか、なかなか眠れない。 「…藤井さん…?」 起きてる気配を感じたのか、マナちゃんがベッドの下から声をかけてきた。 「うん…?」 「…………」 「…どうかした?」 「…藤井さん。…独りで暮らすのって、寂しい…?」 え…? どういう意味だろう…? 「…こんな風に、病気になったって一人だし、そうでなくたって、ごはん食べる時も、TV観てる時も、寝る時も、ずっと一人なのに…」 「う、うーん…」 俺の場合、実家が近いことと由綺や美咲さん達がいるのとで、そんな寂しさを感じたことはなかったけど。 …でも、確かに、「…確かに、マナちゃんみたいに家で家族と暮らしてる人にしてみたら少し寂しいかもね…」 「……………」 「…やっぱり何だかんだ言っても、家族や友達と一緒なのが…」 「私…」 不意に俺の言葉が遮られる。 「…私、家族なんて、いないから…」 「え…?」 …そういえば、彼女の家に温かい灯りが点ってるのって見たことない…。 「…父さん、仕事で外国に行ってるから」 外国に…。 「…だけど、いいの。毎年クリスマスに帰ってきてくれるから」 「…たまたま、今年は帰れなかったんだけど…」 「そう…。…じゃあ、お母さんと二人暮らしなんだ」 「………………」 「…マナちゃん?」 「ママなんて、家にいないから…」 いない…? 「…いつも仕事であちこち出かけてて、家になんか帰ってこないから…」 そうなのか…。 「仕事であちこちに事務所や部屋を借りて、毎日どこに泊まってるのかも判らない…。自分の家があるのに…」 「…じゃあ、全部、学校とかに任せて…?」 「…それならそれで、別に私はよかったの…」 「…でもママ、いつも学校やPTAのことばかにして、ほったらかしにして、それで、嫌われて…」 …それで、彼女までも学校の方から…。 「…仲の良かった友達もいろいろと学校の方から言われて」 俺は彼女の小さな肩に、そっと手をかける。 …少し、震えてる。 しっかりと、押さえるように抱き寄せながら、少しずつ、背中の方に手を伸ばして…。 と、突然、彼女の目が開いた。 「…な、何やってるのよ、藤井さん!? …ど、どういうつもり…!?」 「ど、どういうつもりって…」 俺が急いで彼女を離そうとした瞬間、ドカッ!! 痛ったーーーーーーーーーーーーーーーっ!! あの激痛が、再び俺のすねを襲う。 スリッパを履いているっていっても、この、息の止まるみたいな痛みは同じだ。 「…い、いきなり、何なのよ、いきなり…!」 俺と全く目を合わせようとしない。 …キスの瞬間、怖くなったんだな…。 でも、だからって、蹴るってのはひどい…。 …仕方がないか。 教え子の彼女に変な気を起こした俺の方が悪いんだ…。 素直に謝ろう…。 「ごめん…」 「………なさい…」 俺の声に、不意に彼女の声が重なった。 「えっ…?」 「えっ…?」 「な、何でもないわよ! …えっち!!」 …何を言おうとしたのか判らなかったけど、いつもみたいに小さな肩をいからせて怒る彼女を見て、俺はちょっとだけ安心してた。 「ちょ、ちょっと、マナちゃん…」 俺は慌てて、近づく彼女の肩を押さえて、接近を止めようとした。 でも、彼女の方がかなり無理な体勢で背伸びをしてたのか、俺達は簡単にバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。 ドタッ…! 「だっ、大丈夫!? マナちゃん!」 俺は急いで立ち上がる。 「…っ痛たた…」 彼女もどうにか立ち上がる。 「…怪我…無かった…?」 「………………」 恥ずかしさからか、悔しさからか、彼女は黙って俺を睨む。 そして、「…こ、こんなことして…………なさい…」 きまり悪そうに何ごとか呟く。 「え…?」 俺は思わず訊き返してしまう。 「な、何でもないわよっ! ばかぁっ!」 …何を言おうとしたのか判らなかったけど、それでも、いつもみたいに小さな肩をいからせて怒る彼女を見て、俺はちょっとだけ安心してた。 「…わ、私、帰るから…!」 俺の、ちょっと余裕を持った態度を敏感に感じ取ったのか、彼女は顔を赤らめて、さっときびすを返した。 「あ…マナちゃん…」 せめて玄関まででも送り出そうと、俺は急いで彼女の後を追う。 「な、なによお…。…一人で帰れるわよ。…子供扱いしないでよね…」 「そんなつもりないけど…。ただ、看病してくれたお礼は言いたいと思って…」 「…い、いいわよ、そんな。…別に、ご褒美が欲しくてやったんじゃないから…!」 「う、うん…。…でも、ありがと…」 せっかく彼女を追って出たのに、俺の口からはこんな簡単な言葉しか出てこない。 「そっ、それより、藤井さん…!」 「はいっ!」 思わず真面目な返事をしてしまう。 「…もう風邪治ったんだから…来週からさぼらないで家庭教師……来なさいよね…!」 バタン! そして彼女は、俺の目の前で勢いよくドアを閉めて、カンカン… と乾いた音を立てて走ってってしまった。 …風邪は治ったけど、今日は一日、家で寝込んでた間の後片づけをして、早めに休むことにした。 今日はマナちゃんの家に家庭教師に行こう。 …改めてお礼も言わなきゃいけないしね。 ピンポーーーン。 「はーい…。あれ、藤井さん…」 戸口に立っている俺を見て彼女は一瞬微笑みかけたけど、「あれ? 今日って金曜日だったっけ?」 いきなり困った顔になった。 …すっかり休みボケしてる…。 「こんにちは。…あれから体の方は大丈夫だった?」 「ま、まあね…」 「っていうか、それは私の台詞よ!」 「藤井さんこそ、よくもまあ生きながらえたわね、私が帰った後からも…」 「…まあ、おかげさまで…」 彼女、俺の命の恩人だもんな…。 「しぶといわね。ゴキブリか何かみたい」 …せっかく救った尊い生命をそんな風に言うなよ…。 「…あ、でもさ、不思議なことに、あの時、何故か俺のトランクス逆になってたんだよね。…不思議だよねっ」 「…え……?」 「……………っ!」 ドカッ!! 痛ったーーーーーーーーーーーーーーーっ!! 俺の向こうずねに、あの(懐かしい)激痛が走った。 「うあああああぁぁっ……!」 警戒を怠っていた俺は奇襲を受けたかたちになって、一瞬、呼吸困難になって うめ く。 …休みボケしてたのは俺の方だったみたいだ…。 「ばっ! ばかなことばっかり考えないでよっ!」 「ご、ごめん…」 痛さでうまく声が出ない。 …今度から、このテのおっさん系下品ネタは言わないようにしよう。 生命に関わる…。 「だ、大体! 私、男の人の下着なんて、見たこともないんだから、ちょっとくらいは間違うわよっ!」 …しかも、ほんとに脱がされてたのか俺…。 最悪だ…。 「わ、私が、喜んで脱がしたみたいなこと、考えないでよねっ…!」 そんな恐ろしい想像、俺にはとても…。 「…ほんとに寒い中、ご苦労様ね」 「よくこんなツマラナイ仕事に、わざわざ出てくるわね。学校、休みなんでしょ?」 「まあ、休みってわけじゃないんだけど…」 俺にだって休み明けの試験やレポートがある。 (ちょっとだけ) 「…だったら、ますますご苦労様。別に、そんなにバイトが好きってわけじゃないんでしょ?」 「うん。全然」 「いきなり正直ね…」 それ自体が楽しいバイトがあるんだったらいいんだけどね。 「そういうこと。…じゃ、仕事…いや、勉強…」 「…考えてみたらさ」 「何?」 彼女がノートから顔を上げる。 「…今頃、俺、こんな風にのんびり家庭教師やってていいのかな?」 「…どういう意味よ…?」 早速むっとする彼女。 「だから、普通じゃもう完璧受験期だよ。…試験が始まってる学校ってのもあるし」 「…だから勉強してるんじゃないの、私。…藤井さん、ばかじゃないの?」 …だから、ってことは大学を受ける気があるってことなんだろうけど。 でも…。 「なによお、その顔…?」 「…大丈夫。去年のうちに私、ちゃんと願書出しておいたんだから」 「そうなの?」 「当たり前でしょ? …藤井さんって、本当に受験して大学入ったの…?」 「あ、当たり前だろ」 …まったく。 何も言わないんだから…。 …でも、それだけのことをちゃんと一人でやってるんだったら、俺が心配してあげるほどのこともないかも知れない。 「…しっかり者の教え子を持つと、先生って仕事も楽でいいかな…」 ちょっと皮肉っぽく呟く。 それを彼女は耳ざとく聞き留める。 「でしょ? …どれだけ私が藤井さんを支えてあげてるか判るでしょ?」 そこまで言われるほどでもないけど。 「私のしっかりぶりも理解できたことだし、今日の勉強はお終いでいいよね?」 「なんで!?」 勢いに任せて参考書を閉じようとする彼女に、俺はすかさずつっこむ。 「…しつっこい先生ねえ」 「キョウイクの本質は個人の能力向上であって、拘束じゃないはずよ」 「…だから?」 「本人の有能が認められたんだから、教育の必要はなしっ!」 「マナちゃんの受験のことを、ちょっとね」 「…なにそれ…?」 彼女の顔が思いっきり『つまんな~い』って言ってる。 「『なにそれ』って…」 「何むしのいいこと言ってんの…? そんなの、実力でどうこうするものでしょ?」 「…まったく。先生が神様に頼ってるんだから、頼りないことこの上ないわよ…」 正論…。 模範的な意見だけど… なんていうか…。 「ああ、でも、そうね。それもお祈りすればよかった」 いきなり残念そうなマナちゃん。 ずるいな…。 あれ、でも…。 「マナちゃんって何お願いしたわけ、それじゃ? 受験のことじゃないとして、それよりも大事なこと…?」 「え…?」 「まあねー…」 「なに? …俺も言ったんだから、言いなよ」 「…なぁんかイヤラシイ言い方。…いいじゃない、私が何頼んだって」 「それって汚いなあ。人にばっかり言わせておいてさ」 「いいじゃない」 「まあ、どうせ口にできないみたいな…」 「…なによ?」 彼女の顔がずいと迫る。 「口にできないみたいな…なに?」 危ない危ない。 もう、下品なジョークはやめたんだっけ。 (生命に関わる) 「な、なんでもない。…でもさ、教えてくれたっていいじゃない…」 「いいじゃない、もう。…もう忘れたー…」 「そんな都合の良い…」 「うん…。…恋人と幸せになれますように…なんてね。あははっ」 俺はわざとらしく笑う。 「え…?」 …しまった、外した…。 「や、やだ…。…藤井さん、なに考えてんのよ…」 なにって言われても…。 「別に私、藤井さんのこと、そんな風に見てるわけじゃないんだからね…!」 「はあ…」 「だっ、だからっ、そんなことお祈りしたって、最初から無理なんだからっ…!」 「…そういうもんかな……」 「そ、そうよっ…! ああ、もおっ…!」 そう言って彼女はぱたぱたとどっかに走ってってしまう。 「あ、おーい…」 なんだか激しく勘違いして、しかも暴走モードに入ってるみたいだ…。 困ったなあ…。 俺は彼女の後を追っかける。 「ほらぁ…。どこ行くのさ、一人でー…?」 俺はやっと彼女に追いつく。 「な、なによ藤井さん…。すぐ下品なジョーク言うんだから…」 「ジョーク…?」 言ったっけ? とか思ってると、ポカッ! 軽い衝撃が俺の頭を襲う。 「わ…!」 続いて二、三発。 ポカッ ポカッ…! マナちゃんの拳が俺の頭を軽く連打してる。 「ばか ばか ばか ばか ばか ばか ばか ばか ばか! 藤井さんのばか!」 「いたたたたたっ。ご、ごめん。謝る。謝るから…!」 …この暴走ぶりは由綺に匹敵する。 「わ、判った。もう言わない。そういうことはもう…」 どう考えても俺に罪はないと思うんだけどな、今のは…。 「…で?」 「?」 『?』じゃなくて。 「…人にばっかり訊いておいて、ずるいよ。自分も言わなきゃ」 「…なぁんかイヤラシイ言い方」 「…いいじゃない、私が何頼んだって」 「…それって汚いなあ。人にばっかり言わせておいてさ」 「いいじゃない」 「まあ、どうせ口にできないみたいな…」 「…なによ?」 彼女の顔がずいと迫る。 「口にできないみたいな…なに?」 危ない危ない。 もう、下品なジョークはやめたんだっけ。 (生命に関わる) 「な、なんでもない。…でもさ、教えてくれたっていいじゃない…」 「いいじゃない、もう」 「…もう忘れたっ」 「そんな都合の良い…」 「どうだっていいだろ、そんな…」 「あっ、ごまかしてるごまかしてるー」 「ちょっとぉ、言いなさいよねー…」 いててて…。 彼女が肘で俺の脇腹をつつく。 「ああもお、いいだろ、そんな別にさ…」 それを手で払いながらそう言うと、勢い、彼女の顔が不機嫌に曇る。 「そんなにも言いたくないわけ?」 「まあね」 「なにが『まあね』よ」 「…どうせ『今年こそ恋人ができますように~』なぁんて、くっだらないこと熱心に神様に語ってたんでしょ?」 「恋人くらいいるってば…!」 ついそんなことを言ってしまう。 「へぇ…」 …な、なんだろう、その目は…? 少しは見直した… 「…あのね、藤井さん。強がるのもいいんだけど、みっともないわよ、ちょっと」 あ、やっぱり…。 「それに、神様に嘘つくと地獄に落ちるわよ」 「…そうだっけ…?」 どっちにしても、俺が地獄に落ちることはないみたいだけど。 「…それで、マナちゃんの方は?」 「?」 「…『?』じゃないよ。マナちゃんの方は何お祈りしたわけ?」 「やだ…。自分が言わないくせに人のばっかり訊くわけ? ずるくない、それって?」 「そうかな…?」 「そうよ。…藤井さんが言ったら私も言おうかとか思ってたけど、言わない」 …ほんとかなあ? (嘘っぽい) 「ま、私のは、藤井さんのと違って立派な願い事だから、どうせ釣り合わないんだけど…」 「はあ…」 やっぱり言わないつもりだったな。 それから俺達は街中を元気に散策したりして、大した意味もない無駄話をして過ごした。 肌寒さに気づくと、もう日が暮れかかっていた。 「…もうこんな時間。…帰ろうか」 「うん…」 「…今日は…」 「ん?」 「…今日は思ったより楽しかったよ」 「ほんと?」 よかった。 彼女が誰か他人といて楽しいってのは、こっちまで安心できる。 「藤井さんと一緒だと、退屈するかなとか思ってたけど…」 「あはは。…そんなことなかった?」 「うん…」 素直なマナちゃんっていうのも、なんだか可愛いな…。 「だから、また、遊びに行こうね…」 「あ…。うん…」 「…家庭教師の時間使ってね」 …素直すぎると思ったら。 「…そんなに勉強するの嫌い?」 「うん」 即答。 「…判ったよ。じゃ、受験が終わったらね」 「ぶー」 「いいじゃない。少なくとも俺とはいられるんだから」 「…なにがいいのよ?」 はい、そうだよね…。 「でも、今日はお疲れ様。じゃ、またね…」 「うん…。マナちゃんもお疲れ様でした」 「…また風邪ひかないように帰りなさいよ」 「はいはい…」 そして俺達は別れた。 ぷるるるるるーーーー あれ、電話だ。 「はい、藤井ですけど」 「藤井、あ、夜分遅くにすみません、藤井、冬弥様のお宅でございますか…?」 気取ったみたいな、なんとなく慌ててるこの声は…。 「…マナちゃん?」 「藤井さん…」 「どうしたの、こんな時間に…。なんかお行儀の良いこと言っちゃって」 「そ、そんなの! …誰か別の人が出たら、私が困るじゃない。礼儀よ、礼儀…」 「独り暮らしだから、俺しか出ないってば…」 「判んないじゃない…!」 …だといいんだけどね。 「…まあ、藤井さんは、ないか」 わざわざ付け加えてまでマナちゃんは、電話の向こうでけらけらと笑う。 「…どうせね」 「ま、そういうわけだから、マナちゃんも今度からわざわざ声を裏返らせなくたって大丈夫だよ」 「裏返らせてなんかないわよおっ!!」 耳元の受話器ががーーーっと怒鳴る。 「わ……」 耳が痛い。 あ、でも、電話でだったら蹴られなくていいな。 「ちゃんとした声で喋ってくれたら、俺も速攻で判ると思うからさ…」 「…ちゃんと喋ってるわよ、私……」 …次に会った時が怖そうな声になってきたから、やっぱりやめよう。 「で、こんな時間に何か用事だったの?」 俺は素早く話題を切り替える。 「もういいわよ、もお!」 あーあ、すねてる…。 「悪かったから。謝るからさ、言ってよ」 「うん…」 不意に彼女の声のトーンが下がる。 「…黙ってたんだけど…」 「うん…」 「あ、明日、藤井さん、時間ある?」 「え? …えぇ?」 それが、黙ってたこと…? 時間は… あるけど… ごめん… 「まあ、暇だけど…」 「よかった…」 「何が?」 電話の向こうで、彼女が何に安堵してるのかが判らない。 「黙ってたって、なに?」 「うん…。…明日、私…大学の入試受けに行くの…」 「え…?」 「…ほんとは、藤井さんにも言わなきゃいけなかったんだろうけど……全部…一人でやるつもりだったから…」 …全部…? 「…全部って、じゃあ、大学選ぶのとか、願書出すのとか、ずっと自分でやってたわけ…?」 「…うん」 …なんでまた、そんな…。 「少しでも相談してくれたらよかったのに…。…いや、力になれたかどうかは判んないけど…」 「う、うん…。でも、全部、自分でやるつもりだったから」 「や、やり方とかはちゃんと人に聞いたり調べたりしたから大丈夫だったよ」 やり方知ってるからって、そんな気楽にやれたことじゃないだろうに。 「…それで、明日、その試験日なんだ?」 「うん…。…それで…」 「それで…?」 恥ずかしそうに口ごもりながら彼女は続ける。 「…それで、あ、もし藤井さんがいいって言うんだったらだけど……試験会場まで、一緒に行って欲しいの…」 「試験会場まで?」 受ける大学を聞いてみたら、ここから少しだけ離れた、結構レベルの高い学校だった。 確かに、ちょっとつきあってあげてもどうってことのない距離だけど…。 どうしよう? つきあってあげるよ ごめん 「いいよ。じゃ、一緒に行こうよ」 俺は少し優しく答える。 「ほんと…?」 彼女は即座に訊き返してくる。 その短い言葉の間にも、彼女の声が明るくなってゆくのが判る。 「もちろん」 家庭教師としてはほとんど役に立てなかったんだし、せめてこういうところでだけでも力になってあげなきゃ。 「朝とか、結構早いの? それともお昼近くでもいいわけ?」 「あ。ええと…!」 電話の向こうで元気になった彼女の声に、パラパラと紙をめくる音が重なる。 結局、時間的には余裕があったけど、少し余裕を持って出かけることにした。 「…藤井さん…」 時間などを打ち合わせて電話を切ろうとした時、不意に彼女が言った。 「ん?」 「……ほんとに…?」 「え? どうして? マナちゃんの付き添いなんて…」 ここで『小学生の引率みたいなもんだよ』って言いかけて 「…こっちが嬉しいくらいだよ」 と言い直した。 「ほ、ほら。じゃ、今日は早く寝ておかなきゃ。…往生際悪く勉強なんかしちゃだめだよ」 「うん…。…おやすみなさい」 「おやすみ」 そして電話は切れた。 「あ、ごめん…。その日はちょっと、用事が入っちゃってるんだ…」 俺は謝る。 …今までこんな風に、俺に何かをお願いしたことのなかった彼女の願いをきいてあげられない自分が、なんとなくつらかった。 「…そう」 受話器の向こうの声が言った。 「それじゃ、仕方ないね…」 彼女は答える。 「いいよ、別に。…言ってみただけ。た、ただ、藤井さんがどれだけ真面目に家庭教師に取り組んでるか、抜き打ちでテストしてみただけ…」 そんなばかな…。 わざわざ、入学試験前日だってのに…。 「あ、ごめん…。その日はちょっと、俺、一人でやろうとしてたことがあって…」 今までこんな風に俺に何かをお願いしたことなんてなかったマナちゃん。 そんな彼女の願いをきいてあげられない自分が、なんとなくつらかった。 「…そう」 受話器の向こうの声が言った。 「それじゃ、仕方ないね…」 「いいよ、別に。…言ってみただけ。た、ただ、藤井さんがどれだけ真面目に家庭教師に取り組んでるか、抜き打ちでテストしてみただけ…」 そんなばかな…。 わざわざ、こんな時間に、別に俺、頼られてるわけでもないのに…。 「そう…」 だけど俺は、それしか言えない。 ジョークを言い返す気さえ起きない。 「…ごめん。力になれなくて…」 「あ、ううん。大丈夫だって。っていうか、そういうんじゃないし」 彼女は明るく言う。 その声は、俺が家庭教師に来たばかりの頃、俺を家から追い出そうとしてた時の明るさに似てた。 「…それじゃ、夜分に失礼しました。おやすみなさい」 「あ…。うん…」 「やな夢なんかみないで、ゆっくり寝なさいよ」 「そ、そうだね。おやすみ…」 俺も少し無理して笑って答えた。 そして電話は切れた。 …俺って、誰に対しても、こんなに無力だったかなあ…。 そうだ。 マナちゃんに断りの連絡入れなきゃ。 ぷるるるるーーー 「もしもし、観月です」 あ、いた。 「マナちゃん? 藤井ですけど」 「あ、藤井さん? どうしたの?」 「うん…。あの、受験の日のことだけど…」 「え…」 マナちゃんは警戒するみたいに呟く。 「行けなくなった…とか…?」 「うん…。ごめん…」 さすがに、こういう大切な用事を俺だけの都合で断るってのは気が重い。 罪悪感が募る。 「どうして…?」 「…急に、外せない用事が入っちゃって…」 「そんな…」 ひどく悲痛な声で彼女は呟いた。 「どうして…?」 「ほんとに、悪いって思ったんだけど…」 俺はただ謝る。 それ以上に何か言っても、自分のいい加減さをごまかすだけに過ぎないって判ってたから。 「そう…。だったら、もう、いいわよ…」 不意に、彼女は投げ出したみたいに言った。 「…きっと、大切な用なんだよね…」 「う、うん…」 「だったら、真面目にやってきなさいよね。なんだか判らないけど」 急にマナちゃんにいつもの元気が戻る。 「私の言いつけを断ってまでの用事なんだからね!」 「うん…」 やっぱり、ちょっと強がってる…。 それが判るまでになっちゃった分、なんだか悪いことしたって実感が湧く。 「怠けたことしてたら、どうかするわよ!」 「ど、どうか…?」 …迫力は変わらないか。 「うん…。ごめんね、応援にも行けなくて」 「いいわよ、藤井さんの応援なんて…」 「きっと大丈夫だよ、マナちゃん。ちゃんと勉強してたもん」 「うん…」 「自信持って」 「そ、そんな白々しいこと言わなくていいわよ…。私、藤井さんのこと、信じる…から…」 「え?」 終わりの方がよく聞こえない。 「いっ、いいのっ! もう! おやすみっ!」 切れた。 電話機が壊れてしまいそうなほどに乱暴だったけど、その行為ほどには怒っていないみたいで、俺は少し安心した。 ある意味、余裕はあるみたいだな…。 ピピピピ… うーーん…。 と、今日はマナちゃんの入試についてってあげるんだっけ。 …なんだか天気悪いな。 あ、いや、こんなので不安を感じたらいけないな。 とりあえず行こう。 待ち合わせ場所の、駅に俺が着いたあたりに、ちょうど彼女もやって来た。 「おはよう。…昨日はよく寝た?」 俺は彼女を緊張させないように、できるだけさりげない調子で迎えた。 「うん、大丈夫…」 「…どうしたの?」 不意に言葉を切った彼女に、俺は不安になる。 「…藤井さん、車じゃないの?」 「くるま?」 「なぁんだぁ…」 「あのね、俺みたいな真面目な大学生に自動車は必要ないの」 大体、駅で待ち合わせてるって時点で車なんて話は消えるだろう。 「買う資金も無いんでしょ?」 「…無いけど」 「ま、藤井さんに期待する方が間違いだって判ってるから」 「そんなにすねないでよ」 「どうも」 こういう素直な理解は、ちょっとつらいな。 「だからほら、じゃんっ!」 じゃんっ!  と彼女は、俺の目の前に何かを突き出す。 「?」 「………」 「…藤井さんって、ばか…?」 「これ、傘っていう道具なの」 「知ってる…」 「やだ…。藤井さん、朝、TV観てないの?」 「え? うん…」 朝は大抵TVつけないから。 「今日、雨降るわよ」 「雨?」 「…天気予報観なくても、空見たら判りそうなものなのにね…」 「今日は寒いから、みぞれになっちゃうかも」 マナちゃんは意地悪そうに笑う。 「えー…?」 困ったな…。 「…じゃあ、俺も傘…」 どっかで買ってかなきゃ… と言おうとしたら、「いいわよ、別に。入れてあげたって」 「え?」 「ずぶ濡れの藤井さんが、捨て犬みたいについてきててもかっこ悪いだけだし…」 「はあ…」 またちょっと暴走してるっぽいけど、とにかく雨が降っても、傘には入れてもらえるみたいだ。 「じゃ、行こっ」 「あ、うん」 …この調子だったら大丈夫かな。 憎まれ口もいつも通りだし。 電車が来た。 「電車で試験受けに行くと合格するってジンクスあるんだよ」 「うそだあー…」 うそ。 駅を出た頃には天気予報通り、雪混じりの雨が重苦しく降り始めていた。 「ね。言った通りでしょ?」 「うん…」 俺に傘をさしかけながら、マナちゃんが得意そうな顔をする。 「特別に私が傘持ったげる。今日は私の方が誘ったんだから」 「って、まさか藤井さん、これ期待して来たんじゃ…」 「ま、まさか…!」 そんな大それたことは決して…。 「なんて、藤井さんにできることじゃないわよね」 「うん…」 まったく…。 「まあ、どっちだっていいか。たまには藤井さんと、こんな風に歩いたって」 「そう?」 「まあね」 「これでほんとに遊びに行くんだったらもっといいんだけどっ」 「そうだね。あははっ…」 なんだ。 思ってたよりも気楽そうだ。 昨日、電話がかかってきた時は不安そうなのが目に見えるくらいだったのに。 今じゃこんな天気を、むしろ楽しんでさえいる。 ほんとだ。 このまま遊びに行けたら、すごく楽しいだろうね。 マナちゃん、笑ってる。 初めて会った時なんか、ただツンとしてただけなのに…。 …いや、初めて、じゃないか。 その前に、俺は彼女に会ってる。 彼女自身は覚えてもないみたいだけど。 でも、その時の笑顔を、俺はずっと覚えてる。 ほんとに、こんな感じの優しい笑顔を。 「なに? だらしない顔しちゃって?」 ぷるるるるるーーーー [ 電話だ。 ] 「はい、藤井ですけど」 { 「藤井、あ、夜分遅くにすみません、藤井、冬弥様のお宅でございますか…?」 } 気取ったみたいな、なんとなく慌ててるこの声は…。 「…マナちゃん?」 「藤井さん…」 「どうしたの、こんな時間に…。なんかお行儀の良いこと言っちゃって」 「そ、そんなの! …誰か別の人が出たら、私が困るじゃない。礼儀よ、礼儀…」 「独り暮らしだから、俺しか出ないってば…」 「判んないじゃない…!」 …だといいんだけどね。 「…まあ、藤井さんは、ないか」 わざわざ付け加えてまでマナちゃんは、電話の向こうでけらけらと笑う。 「…どうせね」 + 「ま、そういうわけだから、マナちゃんも今度からわざわざ声を裏返らせなくたって大丈夫だよ」 - 「裏返らせてなんかないわよおっ!!」 耳元の受話器ががーーーっと怒鳴る。 「わ……」 耳が痛い。 あ、でも、電話でだったら蹴られなくていいな。 = 「ちゃんとした声で喋ってくれたら、俺も速攻で判ると思うからさ…」 「…ちゃんと喋ってるわよ、私……」 < …次に会った時が怖そうな声になってきたから、やっぱりやめよう。 > 「で、こんな時間に何か用事だったの?」 俺は素早く話題を切り替える。 「もういいわよ、もお!」 あーあ、すねてる…。 「悪かったから。謝るからさ、言ってよ」 「うん…」 不意に彼女の声のトーンが下がる。 「…黙ってたんだけど…」 「うん…」 「あ、明日、藤井さん、時間ある?」 「え? …えぇ?」 それが、黙ってたこと…? $ 時間は… あるけど… % ごめん… # 「まあ、暇だけど…」 & 「よかった…」 * 「何が?」 @ 電話の向こうで、彼女が何に安堵してるのかが判らない。 「うん…。…明日、私…大学の入試受けに行くの…」 「え…?」 「…ほんとは、もっと早く言わなきゃいけなかったんだろうけど…」 マナちゃんは恥ずかしそうに呟く。 「…二次試験なんだ…。…面接とか…」 彼女が一人で大学受験の手続きを済ませてしまっていたってことは知ってたけど、入試のことなんか全く聞かされてなかった。 一次試験を受けに行ったことでさえも。 …いや。 ひょっとしたら、ずっと黙ってるつもりだったのかも知れない。 全部全部、自分一人でやってのけるつもりで。 「…俺にひとこと言ってくれたら…」 言いかけてやめる。 今更言ってもどうしようもない。 …彼女は、何も言ってくれなかったんだから。 「…ま、まあ、力になってあげられたかは不安だったけど…」 わざとおどけてそんな風に言ってみる。 俺まで勝手に、自分の力の無さにしずんでも仕方ない。 「うん…。…だから…」 「だから…?」 恥ずかしそうに口ごもりながら彼女は続ける。 「…もし藤井さんがいいって言うんだったらだけど…試験会場まで、一緒に行って欲しいの…」 「試験会場まで?」 受ける大学を聞いてみたら、ここから少しだけ離れた、結構レベルの高い大学だった。 ちょっとつきあってあげてもどうってことのない距離だけど、どうしようか? つきあってあげるよ ごめん 「いいよ。じゃ、一緒に行こうよ」 俺は少し優しく答える。 「ほんと…?」 彼女は即座に訊き返してくる。 その短い言葉の間にも、彼女の声が明るくなってゆくのが判る。 「もちろん」 家庭教師としてはほとんど役に立てなかったんだし、せめてこういうところでだけでも力になってあげなきゃ。 「朝とか、結構早いの? それともお昼近くでもいいわけ?」 「あ。ええと…!」 電話の向こうで元気になった彼女の声に、パラパラと紙をめくる音が重なる。 結局、時間的には余裕があったけど、少し余裕を持って出かけることにした。 「…藤井さん…」 時間などを打ち合わせて電話を切ろうとした時、不意に彼女が言った。 「ん?」 「……いいの…?」 「え? どうして? マナちゃんの付き添いなんて…」 ここで『小学生の引率みたいなもんだよ』って言いかけて 「…こっちが嬉しいくらいだよ」 と言い直した。 「ほ、ほら。じゃ、今日は早く寝ておかなきゃ。…往生際悪く勉強なんかしちゃだめだよ」 「うん…。…おやすみなさい」 「おやすみ」 そして、電話は切れた。 「あ、ごめん…。その日はちょっと、俺、一人でやろうとしてたことがあって…」 今までこんな風に俺に何かをお願いしたことなんてなかったマナちゃん。 そんな彼女の願いをきいてあげられない自分が、なんとなくつらかった。 「…そう」 受話器の向こうの声が言った。 「それじゃ、仕方ないね…」 「いいよ、別に。…言ってみただけ。た、ただ、藤井さんがどれだけ真面目に家庭教師に取り組んでるか、抜き打ちでテストしてみただけ…」 そんなばかな…。 わざわざ、入学試験前日だってのに…。 「そう…」 だけど俺は、それしか言えない。 ジョークを言い返す気さえ起きない。 「…ごめん。力になれなくて…」 「あ、ううん。大丈夫だって。ていうか、そういうんじゃないし」 彼女は明るく言う。 その声は、俺が家庭教師に来たばかりの頃、俺を家から追い出そうとしてた時の明るさに似てた。 「…それじゃ、夜分に失礼しました。おやすみなさい」 「あ…。うん…」 「やな夢なんかみないで、ゆっくり寝なさいよ」 「そ、そうだね。おやすみ…」 俺も少し無理して笑って答えた。 そして電話は切れた。 …俺って、誰に対しても、こんなに無力だったかなあ…。 「あ、ごめん…。その日はちょっと、用事が入っちゃってるんだ…」 今までこんな風に、俺に何かをお願いしたことのなかった彼女の願いをきいてあげられない自分が、なんとなくつらかった。 「…そう」 受話器の向こうの声が言った。 「それじゃ、仕方ないね…」 「ま、待って。俺に話したかったことって…?」 せめてそれだけは聞いておきたい。 「ううん。大したことじゃないから…」 そんなばかな…。 わざわざ俺のところに電話までしてきてるのに。 「そう…」 だけど俺は、それしか言えない。 …聞き出したところで結局、俺は何もしてあげられないのだから。 「…ごめん。力になれなくて…」 「あ、ううん。そゆんじゃないし。…それに誰かに力になってもらいたいって時は、なにも藤井さんとこに電話なんかしないわよ」 彼女は明るく言う。 その声は、俺が家庭教師に来たばかりの頃、俺を家から追い出そうとしてた時の明るさに似てた。 「…それじゃ、夜分に失礼しました。おやすみなさい」 「あ…。うん…」 「やな夢なんかみないで、ゆっくり寝なさいよ」 「そ、そうだね。おやすみ…」 俺も少し無理して笑って答えた。 そして電話は切れた。 …俺って、誰に対しても、こんなに無力だったかなあ……。 今日は喫茶店のバイト…。 ただでさえ暇なのに、今日は輪をかけて人がいないな…。 …最近は業界の人達も忙しいのかな? 店長は… 暇そうだ。 ちょっとはどうにかしようとか思わないのかな。 「え? 別にどうもしてませんよ…」 のどかな人…。 結局、この暇さは夜まで続いた。 とか思ってると、やっとお客さんが来てくれた。 「いらっしゃいませ」 あれ…。 「由綺…」 「あ…。冬弥君、今日もここでアルバイトしてたんだ」 「…お昼、お弁当じゃなくて、ここに来ればよかったかな…」 いろんな意味で、そうして欲しかったな。 でも、まあ… 「いいって、そんな。…まあ、座りなよ」 「うん。カウンターでいい?」 「どこでも好きにしていいよ」 テーブルの方がくつろげるんじゃないかって言おうと思ったけど、由綺がわざわざ、カウンターをはさんで俺の真正面に座るのを見て口をつぐんだ。 「お疲れ。…今日は弥生さんは?」 「うん? いろいろとお買い物するからって。後から迎えに来るよ」 「あ、そう。…大変なんだなあ」 コップに水を注ぎながら俺は、少しはゆっくりと由綺と話ができそうだと思った。 「そうそう、冬弥君。これ話したっけ?」 「なに?」 「あのね…いとこの子にね、恋人ができたって話…」 「知らないけど…?」 と言うより、どうだっていい…。 「私のいとこが近所に住んでるんだけど…」 6 ぷるるるるーーー。 7 いきなり電話だ。 8 「はい、藤井ですけど」 9 「夜分遅くに失礼いたします…」 「あれ? どうしたの、マナちゃん?」 「なっ…」 電話の向こうで彼女がうろたえる。 「なんでそんな速攻で判るわけ…?」 「判るって、そりゃ…」 家庭教師って、直接会って勉強を教える仕事なわけだから。 「声フェチ…?」 A 「なんで!?」 B また変な方向に話を持ってかれそうだ。 C 方向修正、D と。 E 「どうしたの、こんな時間に?」 F 「う、うん。藤井さん、明日って、何か予定ある?」 G 「え? 明日?」 H 突然な話だな、また。 I 予定は…? J K 別にないよ L あるよ M 「まあ、あるかっていうと無いんだけど…」 N 「なにもったいぶった言い方してるのよ。あるの? ないの?」 O 「無いんだってば…」 P そんなはっきり言わせなくとも。 Q 「あははっ。やっぱりっ?」 R 何がどうやっぱりなんだ。 S 「そう。で、俺が暇なのがどうかしたわけ?」 T 「え、えっ?」 U 自分で訊いといて慌ててるよ、マナちゃん。 V 「ど、どうかしたって、何がっ?」 W 「だからさ…」 X 俺の方までわけ判んなくなってくる。 Y 「べ、別に藤井さんの暇度をチェックしただけよ! どうせ暇なんでしょ? 家でごろっとしてるんでしょ? どうせ」 Z そんなチェックしないでよ。 「別にごろごろしてるわけじゃないよ。ぶらっと外に遊びに行くかも知れないし…」 「生意気ぃ。暇なくせに、ぶらぶら遊びに行くわけ?」 「…そうだよ」 別におかしいこと言ってないんじゃないか、今のは。 「どうせ暇なんだからおとなしく家にいなさいよね! 判った?」 「家に? なんで?」 「な、なんでってことないでしょ! そんなに遊びたいわけ?」 a 「…遊びたいよ」 b そりゃそうだ。 c 「呆れた。呆れて言葉を失うわよ。暇なんだったら家にいればいいじゃない。学生は家で勉強してなさい」 d 「えー…?」 e まさかマナちゃんにそんなこと言われるなんてなあ。 f 「なにが『えー…?』なのよ。一日くらい家で勉強してたって遊び場は滅ばないわよ」 g 「う、うん…」 h ずいぶん多弁に言葉を失うんだな、マナちゃんって。 i 「あっ、まずいっ! 煙っ!」 j 不意にマナちゃんが叫ぶ。 k 「煙…?」 l 「ちょ、ちょっと今、すごいことなってるから、また今度ね!ばいばい!」 m 「すごいことって…?」 n だけど電話は乱暴に、ガチャンと切れた。 o 「マナちゃんって時々判んないな…」 p 呟きながら俺は、そっと受話器を戻した。 q 「まあ一応、出かけなきゃいけない用事はあるんだけど…」 r 「え…そうなの…?」 s 「そうなのって? どうかしたの?」 t 「えっ?」 u マナちゃんの声がにわかに浮つく。 v 「ど、どうもしないわよっ。ていうか、なにが『一応』なのよ。偉そうに!」 w 「『一応』は『一応』だけど…」 x あれで偉そうだったら、俺、どんな態度とったらいいんだ…。 y 「まあ、いいわよ。それだけ。じゃあねっ」 z 「あ、マナちゃん…」 だけど電話はガチャンと切れた。 何だったんだろうな…。 あー…。 なんとなく目を覚ますと、もう正午を回ってる。 朝方に一度目を覚ましたみたいな気がするんだけど、二度寝しちゃったみたいだな。 軽くあくびなんかしながらベッドの上で少しぼけっとする。 この建物は隣や上下の部屋の物音とかはそんなにもしないんだけど、廊下の外で遊ぶ子供達の甲高い声なんかはよく聞こえてきてしまう。 まあ、そんなにも耳障りじゃないからいいんだけど…。 カンカンカンカン…。 今日も元気に子供達は廊下を走ってる。 こんなところで走ると危ないって、母親に言い聞かせられてはいるんだろうけど、たまにこういう聞き分けのない子がいる。 そのうち転んで怪我するぞ…。 「きゃっ!」 ガタァン!! そんなことを考えてたそばから、いきなり転んでる。 しかも俺の部屋のドアに思い切りどこかをぶつけたみたいだ。 「大丈夫かな…」 俺はちょっと心配になってベッドから降りた。 ガチャ… 「ねえ、大丈夫ー…?」 「いたた…。あ…」 「あ…」 俺の玄関先でこけてたのは子供じゃなくて、マナちゃんだった。(子供みたいなもんだけど) 「どうしたの…?」 「ちょ、ちょっと転んだだけよ!」 「大丈夫? 絆創膏あげようか…?」 「子供じゃないんだから、そんなのいらないわよっ…!」 絆創膏は年齢と関係ないんじゃないかな…。 「それよりどうしたの、突然…?」 なんか綺麗な紙袋持ってるし。 「ちょっと来てみただけよ…! 昨日、暇だなんて言ってたし…」 昨日? ああ、あの電話か。 「ま、まあ、暇は暇だったけど…」 今まで寝てたなんて言ったら、ばかにされるか怒られるかのどっちかだろうと思ったから黙ってることにした。 「あ、中、入る? ちょっと散らかってるけど」 「い、いいわよ別に…」 「私、そんな遊んでられるほど暇じゃないんだから…!」 「そう…」 肩を下ろす俺に、いきなり彼女は、づ 「こ、これ! あのっ、藤井さんにっ!」 持ってた紙袋を俺に押しつけた。 「べ、別にそういう…変な意味じゃなくてっ、ただ…ただあげるんだからねっ!」 「勘違いしないでねっ…!」 「う、うん…」 何をどんな風に勘違いしなきゃいいんだろう…。 とか思って紙袋に目を遣ると、強く甘い香りが鼻をついた。 この香りは…。 「…チョコレート…?」 「なっ、なんで…っ!?」 はっとして小さく叫ぶ彼女。 「なんでって…そうなの?」 こんなに強い香りだったら、そりゃ判るよ。 それに、び そうだ、ぴ 今日はほら、2月14日、ふ バレンタインデーなんだ。 わざわざ持ってきてくれるなんて、マナちゃん、優しいところあるんだな。 「わざわざどうもありがとう。嬉しいよ」 「そ、そんなんじゃないから…。藤井さんが期待してたみたいなんじゃ…!」 「いいよ、それでも。ありがと」 そして俺はちょっと恥ずかしくなって笑った。 「そ、それじゃ私、帰るから…!」 「あ…」 こっちからはいい加減なお礼くらいしか言ってないのに、マナちゃんは素早く身を ひるがえ して小走りに出ていってしまった。 また転ばないといいんだけど…。 紙袋の中にはチョコレートの他に、少し大きめの包みが入ってた。 開けると、それは明るいブルーのマフラーだった。 すごく温かそうだな…。 そんな風に思いながらチョコレートを口に入れる。 その、どこかぎこちない造形は、どう見ても彼女の手作りだ。 甘い…。 当たり前のことだけど、なんだかすごく嬉しかった。 カンカンカン…。 階段を上り、自分の部屋の前に来た時、よ ドアの前に何か置かれてるのに気づいた。 「何だろう…?」 それは綺麗な紙袋だった。 すごい甘い香りがするけど…。 紙袋の中には二つの包みと、メッセージカードが入ってた。 俺の部屋の前に置かれてたわけだから、多分、俺宛で間違いないと思うんだけど…。 メッセージカードを開いてみる。          『バカ』 「………………」 ふざけた悪戯だ。 俺が一体何したっていうんだ、まったく…。 あ、ひょっとしてまた、俺のこと知ってる由綺のファンとかが…。 と、裏をみると 『藤井さんへ』 なんて丁寧に名前まで書かれてあった。 「もう…。誰なんだよ…」 とりあえず二つの包みを開けてみた。 一つはチョコレートで、もう一つは温かそうなブルーのマフラーだった。 チョコレート…。 まさか、これもバレンタインデーの…? それにマフラーまで…。 そういえばこの筆跡って見覚えがあるんだけど。 それにこの紙袋って、よく若い女の子達が出入りしてる輸入雑貨のお店のだ…。 まさか…。 俺はチョコレートの方に目を移す。 そのぎこちない造形は明らかに手作りのものだ。 「………………」 多分、これは悪戯なんかじゃないだろう。 そう思って俺はチョコレートを一つ、口に入れる。 すごく、甘かった…。 ぷるるるるーーー 電話だ。 「はい、藤井です」 「遅くにごめんなさい。私、由綺です」 「由綺!?」 あれ? ほんとに? 「どうしたの、由綺。いきなり?」 「ごめんなさい。いつも急で」 「そんな構わないけどさ…。いいの? 仕事の方?」 まさか無理して仕事場からかけてるとかじゃないだろうな。 たまにやるんだよな、由綺の場合。 「うん。今日は早めに終わったから」 「そうなんだ」 ちょっと安心した。 「じゃあ、今、部屋にいるわけだ?」 「そう」 「ねえ、冬弥君。明日って冬弥君、何か予定ある?」 「え? 俺?」 「あのね、明日私ね、親戚の子と出かけないかって誘われてるんだけど…」 せっかくの休みなのに、また大変だな。 由綺もそんな、近所の人の好いお姉ちゃんじゃないんだから、そんなの断ったって何も言われないと思うんだけどな。 「せっかくだからさ、由綺、一緒に遊びに行こうよ」 「あ、うん…!」 遊びに行こうなんて誘ってるけど、なにも別に本格的に遊びに行くつもりじゃない。 滅多にない由綺の休日だ。 退屈させない程度にのんびりさせてあげよう。 軽く買い物なんかして、あとは喫茶店でぼうっとして…。 「うん…。それじゃそうするね」 「でもほんとに、冬弥君の方に予定とかなかったの?」 「あったって由綺の方を優先させるって」 「えっ? 冬弥君…?」 「うそうそ。大丈夫、自分のスケジュールの管理くらい自分でやれてるって」 本気で心配してそうな由綺に、俺は軽く笑いかける。 「ほんとに?」 「ほんとほんと」 「よかった…」 電話の向こうで、安心したみたいに由綺の声が和らぐ。 「じゃあ、明日、伊吹町駅で待ち合わせね」 「駅…。他にどうにかならない?」 「どうにかって?」 「いや、ほら、駅とか電車の中とかって人がいっぱいいるだろ…」 「判らないわよー」 なにを今更って風に由綺は笑う。 確かに気づかれないかも知れないけど、でも、仮にもトップレベルにランキングされてるアイドルが、電車に乗って、駅で恋人と待ち合わせ、って。 まるでそこらの女の子だ。 って、まあ、そういうアイドルなんだけど、由綺は…。 「判った。俺の方が新美駅まで行く。それがいいから是非それにしなさい」 「ええ? 私、伊吹町の方が気楽に遊べていいな…」 「新美から伊吹町に引き返したらいいよ、それじゃ」 「面倒くさくない、それって?」 困ったみたいに笑う由綺。 「いいって」 面倒も何も、それをやるのは俺なわけだし。 「それからさ、由綺。駅まではタクシーででも来なよ」 「ええー? どうして? 近いのにもったいないよー」 みみっちい…。 「それに、私が仕事以外でタクシーでなんか出たら気づかれちゃうよ」 由綺の場合、そっちの方が目立っちゃうのか…。 変なアイドル。 「それじゃ仕方ないか。まあ、できるだけ目立たないように…」 「だから、いつもと同じにしてたら全然平気なんだって」 うん…。 ぼけっとしてるみたいでも、由綺は由綺なりに、自分のキャラクターは自分で管理できてるわけだ。 俺も、あんまり過保護すぎてもいけないかも。 「判った。じゃあ明日、新美駅ね」 「うん」 嬉しそうに由綺が答える。 電話の向こうで絶対首振ってると思う。 そして電話は切れた。 ああ…。 ほんと、普段着の由綺と会うのってすごい久しぶりな気がする。 実際はそんな長く会ってないわけじゃないんだけど、なんか…。 由綺と会った時、普通の顔できるかな。 笑っちゃったりなんかしたらかっこ悪いよな。 とか思ってると再び、シ ぷるるるるーーー。 「夜分遅くに失礼いたします…」 「あれ? なに? どうしたの由綺? 何か言い忘れたこととか?」 「え?」 あれっ? 今の『え?』は由綺よりもちょっと甲高い、幅の薄い『え?』だ。 「あ、あのっ、失礼いたしました、藤井です…」 俺は慌てて言い直す。 電話ってこういう時に慌てた顔を見られなくていいな。 もっとも、相手の顔が見られたらこんな失敗は無いんだけど。 「藤井さん?」 なんだ、マナちゃんか。 由綺の声かと思っちゃったよ…。 「今、私のこと何て言った? ゆきなとかゆきことか…」 そんなに詮索しなくたって。 「少なくともユキオじゃなかったわよねえ…」 「そんなこと言ってないってば…」 由綺っては言ったけど。 「ま、藤井さんのイヤラシイ女性関係なんてどうだっていいわよ」 「はあ…」 イヤラシクないって言ってもイメージを変えてくれそうもない。 「ね、藤井さん。藤井さんって、明日、暇?」 「え?」 「まあ、暇は暇でしょうけど。女の人ナンパに行こうとかいう予定入ってる?」 そんな予定、生まれてから一度だって入れたことない…。 「なんでまた急に…?」 「う、うん…」 今度はマナちゃんの方がおとなしくなる。 「あの…あ、これ、ほんとに個人的なことだから、藤井さんにはどうだっていいことなんだけど…」 「いいから、なに?」 「うん…。…明日、大学の合格発表があるんだけど…」 モ 「それじゃあさ、マナちゃん、俺と発表見に行かない?」 「え…?」 「合格発表。まあ、受かってるとは思うから、俺も一緒に行ってみたいかな、とかね」 「な、なによそれ…」 驚いたみたいに彼女は口ごもる。 「そ、それ、藤井さん、私のこと誘おうとか思ってるわけ…?ど、どうせ暇だからとかそんな理由だから…」 電話の向こうでもごもごと言葉が不明瞭になってゆく。 多分マナちゃん本人も、自分で何を言ってるのか判らなくなってる頃だ。 「ま、まあ、でも、一緒に行ってあげたっていいわよ」 あれ、回復した。 「え? なによお?」 「何も言ってないー」 電話を通してても伝わるのか。 「まあいいわよ。あのね、私、試験結果は郵便で通知されるようにちゃんと手配してたの」 「あ、そうなの?」 そういえば俺もそんなサービスを使った覚えが。 もっとも、由綺と二人で直接合格発表見に行っちゃったけど。 「ほんとに、藤井さんの大学在学説が怪しくなってきたわね」 「説…」 まだ証明すらされてないのか、俺の学歴。 「とにかく、私はわざわざ発表なんて見に行かなくたっていいの」 「そうなんだ…」 「なによ、その情けない声。誰も行かないなんて言ってないでしょ。いいわよ、行ってあげるわよ」 強気なのは強気だけど、今回はちょっと違ってる。 俺と一緒に行くって勇気もちょっとだけ要るだろうけど、プラス自分の試験結果を見に行くわけだから。 いくら強気でっていっても、その不安は声にも表れるほどだ。 「ちょ、行ってあげるわよ、ちょっと。ちょっと意地悪しただけで、すぐいじけるんだから。藤井さんって…」 「いや…」 そういうわけじゃなかったけど、まあいいや。 そのマシンガンみたいな憎まれ口が沈黙しないうちは、まだまだどっかに余裕があるってことだろうし。 「うん。判った。それじゃ、明日一緒に行こうね」 「う、うん。忘れないでよね…!」 何かもっとキツイことを言おうとしてたみたいだけど、結局は子供がすねてるみたいな台詞で会話は締めくくられた。 さてと…。 由綺との約束は断らなきゃいけなくなっちゃったな。 つらいけど、電話しよう…。 ぷるるるるるーーーー。 「はい。もしもし…」 「由綺? 俺。冬弥」 「あ、冬弥君。どうしたの?」 二度目の電話に何の不安も感じることのない、由綺の無邪気な声が一層哀れだった。 「明日のことなんだけどさ…」 「うん。やっぱりタクシーじゃなきゃだめ?」 「そうじゃなくてさ…」 そして思い切って、「俺、明日行けなくなっちゃったんだ」 「え…?」 「ごめん。俺の方から誘ったみたいなもんだったのに…」 「何か大変なことが起こったとか…?」 それでも由綺は気遣わしげに尋ねてくる。 「そうじゃないけど…。バイトでやってる家庭教師の教え子と、ちょっと大学まで行かなきゃなんなくなってさ…」 「あ、そうか…」 納得したみたいに由綺は呟く。 「やっぱりそういう時期だからね。みんな、大変なんだ…」 「みんな?」 「私達の時も、ちょうど今頃だったし」 「そうか…」 そういえばそうだ。 由綺と一緒に合格発表を見に行ったのが、なんだかすごく懐かしい。 確か由綺が違う学部のボードで俺達の番号を何度も探して、半泣きになってたっけ。 二人の番号を見つけた時、ずっと二人でいられるって、その時は思ってた。 「それじゃ残念だね…。でもいいよ。行ってあげて。自分の結果待ってる受験生って、すごく心細いものなんだから」 「由綺…」 「よく判るもの、そういうのって。だから…。うん。私もいとこのところに行くことにするね。せっかく会えるんだし」 「ごめん。ほんとにごめん…」 信じて疑わないってのは、時として疑い深いよりも相手を苦しめる。 今、多分そうなんだろう。 「いいよ。その人、合格するといいね」 「うん…」 それで会話は締めくくられた。 優しいのか、それともただに臆病なのか、俺と由綺は、いつもこんな感じだって思った。 前向きなのと、横を向く勇気が無いのとは、まるで別のことなのに。 信じるのと疑う勇気が無いのは、まるで別の…。 って、俺、ひょっとして疑われたかったのか? 由綺を疑う勇気も無いのに自分だけ…? …なんて、たまたますれ違っただけに過ぎないじゃないか。 今回は残念だったけど、とりあえず今夜のところはゆっくりと休むことにしよう。 明日一日、マナちゃんにつきあわなきゃいけないわけだし。 「きっと大丈夫だよ、マナちゃん」 「え…?」 「マナちゃん、きっと受かってるよ」 「そ、そんなの当たり前でしょおっ!」 あ、ここできた。 「まっ、藤井さんがちょくちょく家に入り浸ってたからゆっくり勉強もできなかったけど、でも大学なんて全然楽勝なんだから…!」 やっぱり語尾が頼りない。 だけど、それをそれとなく励ますのだって家庭教師の役割だ。 「うん…。俺もそう思うよ。あいにく、用事があって出られないけど、でも、マナちゃんと一緒に発表見に行きたかったよ」 「また藤井さん、調子の良いこと言うー…」 「ほんとだってば。自分の教え子が合格するとこって、そりゃ見たいもの」 「ママに雇われたくせに…」 だから俺は、スパイじゃないって。 「ほんと藤井さんって、何かにつけてナンパしようとするのね」 「違うってばあ…」 「でもあいにく、私、合格発表なんて見に行く気なんてないの」 「え?」 「『え?』って…。あのね、私、試験結果は郵便で通知されるようにちゃんと手配してたの」 「そうなの?」 そういえば俺もそんなサービスを使った覚えが。 もっとも、由綺と二人で直接合格発表見に行っちゃったけど。 「ほんとに、藤井さんの大学在学説が怪しくなってきたわね」 「説…」 まだ証明すらされてないのか、俺の学歴。 「とにかく、私はわざわざ発表なんて見に行かなくたっていいの」 「そうなんだ…」 なんだ。 俺が勝手に勘違いしてただけみたいだ。 「そうなの。まあ、そういうわけだから、藤井さん、せいぜい明日はナンパでも楽しんできてね」 「ナンパじゃないって…!」 「うるさいわねえ、男のくせに。とにかく、そういうこと」 「あ、マナちゃん…」 だけど乱暴に電話は切れた。 勘違いっていっても、今のは確かにちょっとナンパっぽかったかな…。 と、待てよ。 それじゃどうして彼女は俺のところに電話してきたんだ? ひょっとして、ほんとに俺に一緒に行って欲しかったのかな? そうだとすると、彼女を傷つけちゃったかも知れない…。 とか、今更そんなこと考えたって遅いよな。 憶測だけで今から謝ったら絶対変だし、それにその通りだったとしても謝ったところでますます傷つけてしまうのは目に見えてる。 とりあえず今度会った時にそれとなく謝っておこう。 何にしても、明日は久しぶりに由綺と会える。 由綺と会って、一緒に歩いて、話をして、食事もできる。 それだけで充分幸せだ。 マナちゃんには悪いけど、俺だってそのくらいの幸せは味わいたい。 後から埋め合わせは充分することにして、今夜はゆっくり休もう。 明日一日、由綺との一日を一瞬でも無駄にはしたくない。 「せっかくだし、親戚の子と遊んであげたら?」 「う、うん…」 「だってほら、俺とだったら『音楽祭』の後でいくらだって遊べるだろ?」 それに、その親戚が俺みたいに由綺のことを割り切れる大人だったらいいけど、そうとは限らない。 相手が子供だったりしたら、由綺はその子には『有名だけど冷たいお姉ちゃん』になってしまう。 それは誰にとっても不幸な解釈だ。 「俺になんて気を遣わなくていいって。由綺の休日なんだし。その親戚の子のところ行くのが嫌ってわけじゃないんだろ?」 「嫌なわけじゃないけど…」 少しだけ不満そうに呟いてたけど 「判った、そうするね。冬弥君がそう言ってくれるんだしね」 と明るく答えた。 「でも、冬弥君も私にそんなに気を遣わなくたっていいんだよ」 最近は由綺も結構鋭くなってきたみたいだ…。 だけど口に出しては、「別にそんなつもりはないから気にするなよ」 嘘でも、そう言っておかないと。 「うん…。ごめんね、冬弥君。じゃあ、そうさせてもらうね」 「でも大変だね。あの森川由綺が、休日に親戚の子のお守りだなんて」 「も、もう。からかわないで。親戚の子っていったって、言うほど赤ちゃんじゃないんだから」 由綺が人のことを『赤ちゃんじゃない』なんて大人びた風に言うと、なんか笑える。 「あははは。はいはい。じゃあ、大変だろうけどがんばって」 「うん」 「疲れすぎないようにね、あくまでも」 俺までマネージャーっぽい対応になってる。 …弥生さんの影響かな。 「判ってる。でも、ありがとう、冬弥君。それじゃ、遅くにごめんなさいね。また時間ができたら遊びに行こうね」 「うん。それじゃおやすみ」 「それじゃあさ、マナちゃん、俺と発表見に行かない?」 「え…?」 「合格発表。まあ、受かってるとは思うから、俺も一緒に行ってみたいかな、とかね」 「な、なによそれ…」 驚いたみたいに彼女は口ごもる。 「そ、それ、藤井さん、私のこと誘おうとか思ってるわけ…?ど、どうせ暇だからとかそんな理由だから…」 電話の向こうでもごもごと言葉が不明瞭になってゆく。 多分マナちゃん本人も、自分で何を言ってるのか判らなくなってる頃だ。 「ま、まあ、でも、一緒に行ってあげたっていいわよ」 あれ、回復した。 「え? なによお?」 「何も言ってないー」 電話を通してても伝わるのか。 「まあいいわよ。あのね、私、試験結果は郵便で通知されるようにちゃんと手配してたの」 「あ、そうなの?」 そういえば俺もそんなサービスを使った覚えが。 もっとも、由綺と二人で直接合格発表見に行っちゃったけど。 「ほんとに、藤井さんの大学在学説が怪しくなってきたわね」 「説…」 まだ証明すらされてないのか、俺の学歴。 「とにかく、私はわざわざ発表なんて見に行かなくたっていいの」 「そうなんだ…」 「なによ、その情けない声。誰も行かないなんて言ってないでしょ。いいわよ、行ってあげるわよ」 強気なのは強気だけど、今回はちょっと違ってる。 俺と一緒に行くって勇気もちょっとだけ要るだろうけど、プラス自分の試験結果を見に行くわけだから。 いくら強気でっていっても、その不安は声にも表れるほどだ。 「ちょ、行ってあげるわよ、ちょっと。ちょっと意地悪しただけで、すぐいじけるんだから。藤井さんって…」 「いや…」 そういうわけじゃなかったけど、まあいいや。 そのマシンガンみたいな憎まれ口が沈黙しないうちは、まだまだどっかに余裕があるってことだろうし。 「うん。判った。それじゃ、明日一緒に行こうね」 「う、うん。忘れないでよね…!」 何かもっとキツイことを言おうとしてたみたいだけど、結局は子供がすねてるみたいな台詞で会話は締めくくられた。 さてと…。 受話器を戻しながら俺は天井を見上げる。 家庭教師として何かしたわけでもないのに、なんだか明日の合格発表を見に行くのにひどくわくわくしてる自分に気づく。 これが他の人でも、俺はこんなにわくわくするかな…? 少し恥ずかしいけど、俺、マナちゃんのこと、結構気に入ってしまったのかも知れない。 決して仲が良かったとは言えないかも知れないけど、でも、一緒にいられて楽しかったな。 春になって、大学に進むようになってしまったら、俺はもう彼女と会うことなんてなくなっちゃうんだろうけど…。 …なんてね。 なに急に年上っぽくなってんだ、俺。 歳はそんなに離れてないっていっても、教え子は教え子だ。 教え子相手に変な気を起こすなよ、自分。 とりあえず、今日はゆっくりと休もう。 明日一日、マナちゃんにつきあわなきゃいけないんだから。 「きっと大丈夫だよ、マナちゃん」 「え…?」 「マナちゃん、きっと受かってるよ」 「そ、そんなの当たり前でしょおっ!」 あ、ここできた。 「まっ、藤井さんがちょくちょく家に入り浸ってたからゆっくり勉強もできなかったけど、でも大学なんて全然楽勝なんだから…!」 やっぱり語尾が頼りない。 だけど、それをそれとなく励ますのだって家庭教師の役割だ。 「うん…。俺もそう思うよ。あいにく、用事があって出られないけど、でも、マナちゃんと一緒に発表見に行きたかったよ」 「また藤井さん、調子の良いこと言うー…」 「ほんとだってば。自分の教え子が合格するとこって、そりゃ見たいもの」 「ママに雇われたくせに…」 だから俺、スパイじゃないって。 「ほんと藤井さんって、何かにつけてナンパしようとするのね」 「違うってばあ…」 「でもあいにく、私、合格発表なんて見に行く気なんてないの」 「え?」 「『え?』って…。あのね、私、試験結果は郵便で通知されるようにちゃんと手配してたの」 「そうなの?」 そういえば俺もそんなサービスを使った覚えが。 もっとも、由綺と二人で直接合格発表見に行っちゃったけど。 「ほんとに、藤井さんの大学在学説が怪しくなってきたわね」 「説…」 まだ証明すらされてないのか、俺の学歴。 「とにかく、私はわざわざ発表なんて見に行かなくたっていいの」 「そうなんだ…」 なんだ。 俺が勝手に勘違いしてただけみたいだ。 「そうなの。まあ、そういうわけだから、藤井さん、せいぜい明日はナンパでも楽しんできてね」 「ナンパじゃないって…!」 「うるさいわねえ、男のくせに。とにかく、そういうこと」 「あ、マナちゃん…」 だけど乱暴に電話は切れた。 勘違いっていっても、今のは確かにちょっとナンパっぽかったかな…。 と、待てよ。 それじゃどうして彼女は俺のところに電話してきたんだ? ひょっとして、ほんとに俺に一緒に行って欲しかったのかな? そうだとすると、彼女を傷つけちゃったかも知れない…。 とか、今更そんなこと考えたって遅いよな。 憶測だけで今から謝ったら絶対変だし、それにその通りだったとしても謝ったところでますます傷つけてしまうのは目に見えてる。 とりあえず今度会った時にそれとなく謝っておこう。 今日も、なんとなくって感じで俺は街を歩いてる。 ミュージックショップの前にさしかかる。 歌声がきこえてくる。 理奈ちゃんの歌だ。 この店ではいつも、彼女の曲をかけてる。 今日はちょっと大人めの、スローなバラードだ。 「そうかあ…」 俺は思い出したみたいに呟く。 「優秀賞…だったのか…」 「うん…」 前と変わらず、俺の隣を歩いてる由綺がうつむいて答える。 「どうしたの、にこにこしちゃって…?」 「だって…」 『音楽祭』。 最優秀賞は、理奈ちゃん… 緒方理奈が受賞した。 前評判通りといえばそうだったけど。 ただ、参加者中で一番キャリアの浅い由綺がごく僅差で次点についたってのはかなりの波乱を巻き起こしたみたいだった。 (弥生さんに感情があったら歯噛みして悔しがったんじゃないかって思う) だからってわけでもないだろうけど、その結果を由綺はひどく嬉しそうに受け入れていた。 そして今、あの多忙な日々を取り返すみたいに、俺の手を引いて楽しそうに歩いてる。 いつまでこんな風に、普通の恋人同士みたいに街を歩けるのか、そんな不安もまるで感じさせない様子で。 「ね、冬弥君…」 「ん?」 「…もう少ししてから言おうかなって思ってたんだけど…」 「なに…?」 神妙な顔つきの由綺に、俺も気になって尋ね返す。 「マナちゃんの…こと…」 「あの娘…」 …あれから、彼女から俺のところに連絡は一切なかった。 こちらから電話くらいはしてみようとかは思ったけど、でも、やっぱりできなかった。 「…マナちゃん、大学の近くで独り暮らし始めたんだって…」 「へえ…」 やっぱり、言ってた通り、あの家からは出たんだ…。 「家には叔母さん…マナちゃんのお母さんが帰ってきて、たまに事務所みたいに使われるみたいだって言ってた…」 「ふうん…」 だけどマナちゃんは、それから逃げ出したんじゃない。 それだけは判ってた。 彼女が望んだものは、家族からの逃亡でも自分一人だけの空間でもなかったんだから。 彼女が望んだもの、それはこれから彼女が手に入れるものなんだから。 だから彼女がそれを手に入れるまでは、俺はむしろ忘れ去られるべきだと思う。 そしていつか思い出してもらえなくなる時が来ても、俺は、それでも…。 「…やっぱり、哀しい…?」 由綺が俺の顔を覗き込む。 「うん…」 隠そうともしないで俺は答えた。 忘れ去られても、それでもいいなんて、俺は、そんなに大人になれない。 それがマナちゃんの為だなんて、そんなに割り切れない。 俺に何も言わないで出ていった彼女の決心を知っても、だ…。 「ね…」 由綺の手が静かに俺の腕をつかんだ。 「行こうよ、冬弥君」 ちょっと無理した、ちょっと哀しげな笑みを浮かべて由綺は俺の腕を引く。 「う、うん…」 俺もどうにか笑ってみる。 …こんな場合なのに、意外と笑えた。 そして俺達は哀しく笑いながら、小走りにミュージックショップの前を通り過ぎる。 街の中から、俺達の姿は、消えてゆく。 …由綺と別れて、アパートに向かってたはずなのに、俺はなんとなくここに来てしまってた。 金曜日になればいつでもあの娘に会えた、この家に。 …今は、もう、誰もいないんだ…。 俺があんまり優秀じゃない家庭教師だった、あの奇妙な4ヶ月間…。 懐かしいんじゃない、不思議な感じだった。 4ヶ月前ここに初めて来た時も、こんな風に誰もいないみたいな、不思議な寂しさが漂ってたのに。 それなのに、これが本来の姿だったのに、ひどく理不尽なことを言われてるみたいな気がして。 あの4ヶ月間の方がむしろ、ほんとの姿だったみたいな気がした。 気がつくと俺は、入口のフェンスを握りしめてしまってた。 みっともないくらいに、きつく。 …何やってるんだ、俺…。 自分でも恥ずかしくなって手を離すと、後ろから数人の若い女性が俺をいぶかしげに見てたのに気づいた。 その囁きを聞くと、俺は明らかに『アブナイ奴』にされてる。 …まずいかな。 警察とか呼ばれる前に帰ろう…。 慌てて俺はその場から離れようとした。 その時、その女性の一人が、「…危ないよ、マナ…」 と言ったのを聞いたような気がした。 マナ…? 聞き違いなんてことを疑いもせずに、俺は振り返った。 「わあ!!」 びっくりした。 俺の後ろにはすごい形相をした女の子が、重そうな段ボール箱を必死に振りかざしてた。 それを下ろした先には、俺の頭しかないってのに。 「藤井さん…?」 「え…?」 女の子はゆっくりと箱を下ろす。 その声を、姿を、瞳を、俺は知ってた。 「マナちゃん…」 「藤井さん…」 「藤井さん…!」 そして彼女はそのまま、つまづくみたいに俺の胸に抱きついてきた。 「藤井さん…なんでこんなとこいるのよ…?」 胸に顔を押しつけたままマナちゃんは俺を責める。 「うん…」 そんな俺達を見て、気を利かせるみたいに離れてくさっきの女性達を気にしながら俺は答えた。 よく見てみたら、彼女達はいつか会ったマナちゃんの友人達だ。 「…なんとなく、来てみたんだ…」 「…ばか……弱虫……」 「うん…」 …その通り… だったな…。 「…でも…引っ越ししたって、どうして言ってくれなかったのさ…? 黙って、一人でなんてさ…」 「うん…」 マナちゃんは一度、強く俺の胸に顔を押しつけて、そして、離れる。 「だ、だってほら、約束したでしょ」 涙をにじませながらも、彼女は強気に笑う。 「私、自分一人で何かをやったら藤井さんに会いに行くって…」 「うん…」 その約束だけは、俺だってずっと忘れない。 「…お姉ちゃんからだって…絶対、横取りするんだからねっ…!」 「判ってる…」 「…判ってないじゃない…。こんなとこ来ちゃって…」 「ごめん…」 「だから…だから、引っ越しするなんて言って、新しい住所教えたら、藤井さん、来ちゃうでしょ…?」 …今朝はマナちゃんの調子も良いみたいだったし、ちょっとはいいかな…。 「そうだね。せっかくだから喫茶店で休んでこう…」 そして俺は美咲さんと一緒に喫茶店に入った。 「あ、ごめん、美咲さん。…俺、今日、用事があるんだ。…ごめん、今度、何かで埋め合わせるから…」 「あ…。そうなんだ…」 そう言って美咲さんは、鉢植えを持ち直す。 「それじゃ、仕方ないね」 「…まさか、私とお茶を飲んでて約束を破ったなんていったら、怒られちゃうもんね。藤井君も、私も。ふふふっ…」 「でも、ほら、だったら行かなきゃ。お茶を断ったのに怒られるなんてなっちゃうよ」 …確かに。 マナちゃんが怒ってるところは簡単に想像できる。 「うん。…ごめんね美咲さん。じゃ、また今度」 俺は美咲さんに手を振って、アパートに向かって駆け出した。 「ただいまー…」 マナちゃんはおとなしく寝てたかな…。 「…あっ、藤井さん……」 …何だこりゃ……? 彼女はベッドから出てた。 …まあ、これは少し予想してたけど…… 何だこりゃ…。 床に座り込んで彼女は、ほこりをかぶって掃除機と格闘してた。 「…何してんの……?」 マナちゃんを相手にしていることも忘れて、俺の声は明らかに呆れてた。 「な、なによお…」 なによ、って、俺が言いたい…。 「こんなに早く帰ってきちゃって、なによ、一体…」 「…早く帰れって言われたから」 「……言ってないわよ…」 「そっ、それより何よ、この掃除機!?」 「…掃除機?」 部屋にほこりをぶちまけたと思われる掃除機に俺は目をやる。 「中のパックは、もっときっちりとはめなさいよね! じゃないと、中のフィルターが詰まって早くだめになるんだから!」 ふうん。 そういうものなのか…。 「音もちょっとおかしくなってたわよ」 「え? ほんとに?」 「だから開けて調べてあげようと思ったのよ。…そしたら」 …うっかり中身をぶちまけちゃった、と…。 「…でもさ、なんでいきなり掃除機なんかいじってたわけ?」 俺は根本的なことを尋ねる。 「…べ、別にいいでしょ!」 「…た、ただ、男の人の部屋って汚そうだから嫌だなって思ったのよ!」 「…そんなに汚れてるかなあ、俺の部屋って?」 結構きれいにしてると思ってるけど。 「清潔な部屋だと病気の治りも早いでしょ…!」 それはそうだけど…。 「…おとなしく寝てた方がよっぽど治りが早いんじゃ…」 「いや、別に何も…」 どうも、おとなしく寝ているってことができない娘みたいだ。 「…ここは俺が片づけとくから、マナちゃんは休んでてよ…」 「…悪かったわね…」 「マナちゃん、まだ病気治ってないんだから!」 食ってかかろうとする彼女の機先を制して、俺は少し強い調子で言う。 「…判ったわよ」 …おとなしくはなったけど、かなり機嫌も悪くなったみたいだ…。 「………ん…なさい…」 「…え?」 彼女は小さく何か言った。 …あれから彼女は少し眠った。 朝方に無理をして騒ぎすぎたせいか、夕方頃に少しつらそうな様子を見せたけど、今は静かにベッドに横になってる。 このまま眠ってくれたら、明日の朝にはだいぶ楽になるはずだ。 疲れてるのか、まだ早い時間なのに俺の方も眠い。 …うん、少し横になろう…。 俺はフローリングの床に、そのまま横たわる。 「……藤井さん…」 「え…?」 マナちゃん、起きてたのか…。 「どうしたの…? …どっか痛い?」 「…………………」 沈黙の息遣いだけが聞こえる。 「藤井さん…」 …もう一度、彼女は俺を呼ぶ。 「なに…?」 「…藤井さん、今日も床で寝るの?」 らしくない、しおらしい声だ。 「うん…。でも、そんな心配しなくていいよ。俺、どこでだって寝られるから」 「…うん…」 …ごそ……。 ベッドのシーツが動いて、端から彼女の細長い白い手が現れた。 「……マナちゃん…?」 「…また怖い夢…みると嫌だから……手…つないでて。…今だけで、いいから…」 「ん…」 彼女の手を取る 取らない 俺はその小さな手を包むように握った。 本当に華奢な、壊れ物みたいな手…。 …まだちょっとだけ熱を持ってるみたいだ。 早く元気になってもらいたいって、確かに思うけど、でも、このままでも…。 …って、なに図々しいこと考えてんだ、俺は。 このエゴイスト…。 「……………」 あ、まずい…。 今の、マナちゃんに気づかれちゃったかな…。 「どうしたの…?」 俺は恐る恐る尋ねる。 「…なんでもない…」 でも彼女は、ただそう言って、そして沈黙した。 …………。 「…もうちょっとだけ、手、つないでて…」 少し経ってから、彼女はそっと呟いた。 …どうしてだか俺は、その手を取ることができなかった。 それが彼女の不安から出た気持ちなのか、それとも好意から出たものなのか、全く判らなかったけど、だけど、できなかった…。 何かに遠慮するみたいな、何かに怯えるみたいな、そんな気分だった。 …………。 「…………………」 しばらくして、彼女の手は諦めたようにシーツの中に戻っていった。 少し、寂しかった。 …目を覚ます。 カーテンから洩れてくる光は、もう正午近い時間のものだった。 …マナちゃんは? 俺はゆっくりと起き上がる。 昨日よりも、一段と体が痛む。 …床の上で寝るのって、意外と慣れないものなんだな。 「………………」 ベッドの上では、マナちゃんが既に目を覚まして、俺をじっと見ていた。 「…あれ? 起きてたの? …まあ、この時間じゃ起きてるよね…。…今日も寝坊しちゃったな…」 「………………」 何も言ってこない。 …俺の寝ぎたなさに呆れたとか… …まさかね…。 「マナちゃん…?」 「今朝の調子はどう?」 「体温計で熱計ってみて」 「…今朝の調子はどう?」 「…な、なんか、あんまり調子良くないな…」 顔色は結構良くなってるけど、まだ治ってないみたいだ…。 でも、こんなに治らないってのはどうも心配だなあ。 そっと彼女の額に手を触れてみる。 「………………」 別に熱くはない…。 「熱は下がったみたいだけど…」 俺は呟く。 「今、体温計持ってくるから、それで熱計ってみてよ」 「えっ…?」 …体温計くらいでなんでそんな驚いた顔するんだ、この娘は。 「はい、これ」 俺は彼女に体温計を手渡す。 彼女はちょっと気取って温計を口に含んだ。 …36.5度……。 「…熱は無いみたいだけど…」 渡された体温計を見ながら俺は呟いた。 「…なっ、なによっ! …私、やっぱり邪魔なのっ!?」 突然、爆発するみたいに彼女が怒り出した。 「え? …なに言ってるの?」 「いいわよ! 帰るわよ!」 「…だって、調子悪いって…」 「帰れるわよっ!」 そしていきなりベッドから降り立った。 …なんだ、病気治ったじゃない…。 俺は彼女の態度に少し戸惑いながらも、安心して顔をほころばせる。 「…なにがおかしいのよ! もう! …早く出てってよ!!」 「え…?」 何で俺が外に出てくの…? 「着替えるんだから、早く!」 あっそうか…。 俺は慌てて部屋から出た。 …何か上に着てくればよかった…。 寒いなあ…。 この間の雪はすっかり融けてしまってたけど、それでもこの冬の寒さは変わらない。 息が白い。 雪の降らない、ただ寒いだけの冬。 頬に吹く風はすがすがしいけど、どこか寂しい。 がらんとしている。 …こんな時に、風邪なんかひいたらつらいな…。 俺は少しだけ思う。 …服を着替えるってことはほんとに帰るつもりなんだ、マナちゃん…。 二日間だけだったけど、なんだか、すごく長い時間を一緒に過ごした気分だ。 彼女が帰るってのは当たり前のことだけど、なんだか全然当たり前じゃなく感じられる。 なんて、俺、やっぱりエゴイストなのかなあ…。 情が移るってやつかな、これ…。 って、そんなこと考えてるの彼女に気づかれたら、また何されるか… 「…………………」 「わぁ!」 びっくりした。 いきなり、マナちゃんが俺を後ろから見てた。 「…なに考えてたの?」 「別にそんな何も考えてなんて…。って、それより、ほんとに帰るんだ…」 「か、帰るわよっ…!」 「私っ、別にいつまでも藤井さんのところにいるつもりなんて、ないもん…」 風邪はもういいのかなあ…。 「心配だから送ってくよ」 「い、いいわよ、そんな! …ついてこないでよ、みっともない…」 「そうはいかないよ」 彼女が心配だってのは勿論あったけど、それよりも、彼女の両親に会って、彼女のことをどう考えてるんだって問い質してやりたかった。 自分の娘をここまで放っておけるなんて、ちょっと信じられない。 …彼女を連れてって、たとえ変な目で睨まれて、彼女の家庭教師をくびにされようと、彼女のことで大騒ぎする親を見られたらそれでいいと思った。 「…判ったわよ」 俺は急いで上着を取ってきて、彼女の家まで一緒に行くことにした。 「…それじゃ、藤井さん、さよなら」 「さよならって…」 彼女はいつもみたいにポケットから鍵を取り出し、ドアをがちゃがちゃやり始めた。 「お父さんとかお母さんとか、いないの?」 「………………」 振り返ったけど、彼女は何も言わない。 「…今日も仕事?」 大騒ぎしてるどころか、まさか家にすらいないなんて。 「…家になんていないわよ」 「いない…って?」 「うるさいわねっ! いないって言ったらいないの! 関係ないでしょ!!」 「マ、マナちゃん……」 …泣いてる? …目は覚めたけど、だるい…。 全く疲れがとれてない気分だ…。 …今日は一日中寝てよう…。 今日はマナちゃんの大学受験の結果発表だ。 多分、彼女は大丈夫だろうけど、俺もそれなりに緊張する。 彼女と一緒に出かけるってのは、ちょっとだけ楽しいけど。 よし。 まだマナちゃんは来てないみたいだ。 約束の時間に遅れるのはともかく、彼女を待たせたら何を言われるか判らない。 いや、大体は判るけど…。 と、あれ? 駅の向こう側に、よく見たら知ってる顔が。 「あれ? 冬弥君?」 向こうも気づいた。 「あ、やっぱり冬弥君」 やっぱり由綺だった。 「でもどうして冬弥君こんなとこいるの?」 「どうしてって、それ、こっちの台詞だよ。親戚の子と遊ぶんじゃなかったの?」 由綺はわざとらしく顔をしかめてみせる。 「ひどいんだよ。あれから私、一緒に行くよって電話したらね、『もういいから』なんて言うんだよ。なんだか邪魔にされちゃって」 「へえ…」 親戚とはいえ、由綺にそんな風にできるなんてすごい。 「すねちゃったんじゃないかって思ったから私、ちょっとだけ会おうと思って」 「機嫌が直ったら一緒に行こうかなとか…」 「またわざわざ…。部屋で休んでたらよかったのに」 「だって…」 寂しがり屋…。 「それにさ、由綺を断った理由ってのが、恋人と一緒に出かけるとかだったらどうするの? 気まずいよー」 今度は俺の方が顔をしかめてみせる。 「あっ、そうか」 そういう可能性は考えなかったのか。 「でも、それだったらそれで、からかっちゃおうかな」 「生意気にー…とか言って」 「あはは。多分、見せびらかされると思うよ、俺」 「そ、そうしたら私、冬弥君のこと見せびらかすんだから…!」 「見せびらかすなって…」 それでも由綺は嬉しそうに俺の袖にしがみつく。 「彼氏対彼氏の対決になっちゃったりして」 「なるか」 って、あれ? 彼氏? 親戚の子って、女の子? とか思った時、「お姉ちゃん…?」 いきなり由綺が俺の腕から離れる。 「あ、マナちゃん…」 マナ… ちゃん…? 「どうして…?」 「あのっ、マナちゃん、来なくていいって言ってたけど…来ちゃった…」 え? どういうことだ? 「見つかっちゃった…? この人…藤井君っていって…」 「え…?」 「ほ、ほら、前に言ってた、…私の、つきあってる人…」 「ゆ、由綺…」 「藤井さん…?」 今度は彼女は俺をじっと見つめる。 「そういうことだったの…」 彼女は今やっと理解したみたいだった。 俺が今やっと理解したみたいに。 「ごめん、由綺!」 俺はそう言い残して人混みの中に消えた彼女を追った。 「あっ、冬弥君!?」 背中の方で由綺の声が響いた。 「冬弥君…」 とはいっても、この人混みの中で彼女を捜すなんて無理だ。 仕方ない。 彼女の家に直接行ってみよう。 ピンポーーーン。 いないのかな。 それとも、出ないのかな…。 ピンポーーーン。 どっちにしても、無駄か…。 俺は諦めて門から離れる。 その瞬間、ドカッ!! 何かが俺に体当たりをかました。 不意を打たれた俺はごろんと道路に倒れてしまう。 今日は久しぶりに由綺と会える。 仕事をしてない由綺とだ。 こんなにわくわくしてるって、俺、なんだかかっこ悪くないかな。 とにかく普通にしてよう、普通に。 駅に着くなり俺は、「あっ、冬弥くん!」 名前を呼ばれた。 「おい、由綺。そんな、名前で呼ぶなよ…」 「どうして?」 「どうしてって、雑誌関係のやつとか聞いてたらまずいだろ」 「聞こえないよ。そんな大きな声、出してないもの」 「そりゃそうだけど…」 今日も由綺は相変わらず普段着で、特別に変装してるってわけでもない。 いつも通りとはいっても、やっぱり気になって仕方がない。 やっぱり過保護なのかな、俺…。 いや、こっちの方が普通だよなあ。 どう考えたって。 由綺の方が絶対変なんだって。 「ね、冬弥君。今日、どこに行こう?」 まあ、その方が嬉しいんだけど、この場合。 「どうかした? 何か変?」 「なんで?」 「冬弥君、笑ってる…」 「な、なんでもないって。笑ってない笑ってない」 やっぱり笑ってたのか。 みっともないな俺は。 「ほんと?」 「ほんとほんと。そ、そうだな…」 って考えるふり。 「いつもの場所で買い物くらいかなあ」 「うん。それでいいよ」 忙しい中のたまの休日はこんな風に、いつもの場所でいつもの風に過ごすのが俺達には向いてる。 地味でも、俺は由綺を一番身近に感じられる気がする。 それをわざわざ、二人でどこに行こうかなんて考えてみせるのも休日の重要なファクターの一つだ。 俺達の休日はいつも、日常の中にあって欲しい。 「さ、行こうよ」 由綺が俺の袖を引く。 たとえば、こんな日常の中に。 そして俺達は電車に乗り込む。 「でもなあ…」 駅から出て俺は呟く。 「どうかしたの?」 「ほんっとに誰も気づかないんだな…」 いつものことだし、そもそも『普通』が森川由綺のポイントなんだけど、改めて俺は驚く。 驚くってよりは、むしろ呆れる。 「でしょ? 言った通りでしょ?」 「うん…」 しかも、それでなんで得意げなんだ、由綺。 と、俺達が駅を離れかけた時、「お姉ちゃん…?」 「えっ…?」 由綺がその声に振り返る。 「どうしたの、由綺?」 俺も由綺の目線の先に振り返り、そして言葉を失った。 「どうして…?」 マナちゃん…。 思わずそう呟きそうになる。 だけどそれより先に、「マ、マナちゃん…」 「ご、ごめんなさいっ。あのっ…」 「今日、一緒に行けないっていうのは…」 「つまり…っ…」 え? どういうことだ? 「どうしてお姉ちゃんと…?」 「ほ、ほら、前に言ってた、…私の、つきあってる人…」 「ゆ、由綺…」 「藤井さん…?」 今度は彼女は俺をじっと見つめる。 「そういうことだったの…」 彼女は今やっと理解したみたいだった。 俺が今やっと理解したみたいに。 「ごめん、由綺!」 俺はそう言い残して人混みの中に消えた彼女を追った。 「あっ、冬弥君!?」 背中の方で由綺の声が響いた。 「冬弥君…」 とはいっても、この人混みの中で彼女を捜すなんて無理だ。 仕方ない。 彼女の家に直接行ってみよう。 ピンポーーーン。 いないのかな。 それとも、出ないのかな…。 ピンポーーーン。 どっちにしても、無駄か…。 俺は諦めて門から離れる。 その瞬間、ドカッ!! 何かが俺に体当たりをかました。 不意を打たれた俺はごろんと道路に倒れてしまう。 「いてててて…。あれ?」 「いたた…」 「マナちゃん…」 どうやら、俺の方が先にここに着いちゃってたみたいだな。 しかも体当たりじゃなくナチュラルな衝突事故みたいだし、ダメージは向こうの方が大きそうだ。 「マナちゃん、立てる?」 「あっ!」 俺に気づいた彼女は急いで立ち上がる。 「な、なによ藤井さんっ! ここで何してるのよっ!」 「落ち着いてよ、マナちゃん。マナちゃんこそどうしたのさ…!」 「なっ…」 「どうもしてないわよおっ!!」 半泣きのマナちゃんが叫ぶ。 「話を聞けよ!!」 俺もつい我を忘れて絶叫してしまう。 彼女の部屋は、最後に俺が来た時のまま、何も変わってなかった。 まるで、この部屋に俺がいない方がむしろ不思議に思えるほどに自然なままに。 「座って…」 「え…?」 「座ってって言ったの」 いつもみたいには怒鳴ってこない。 「あ…。うん」 俺はなんとなくベッドに腰を降ろす。 ふと、初めてここに来た日のことを思い出す。 あの時は、こんなにもこの空間になじめるなんて思ってもいなかった。 そして、彼女にも。 彼女は俺に背を向けたまま、こちらを見ようとしない。 「…もし、マナちゃんのこと、ずっと傷つけてたんだとしたら、俺、謝る…。その為に、ここに来たんだから…」 「どうして…」 彼女は言った。 「藤井さん、どうして言ってくれなかったの…?」 どうして…。 自分に恋人がいて、それが由綺だったと、俺はそれを彼女に告げるべきだったのか? ただ小さな行き違いが重なった中に、無理にそのことを告白する間隙を見つけるべきだったっていうのか…? 今、彼女が問いかけてる『どうして』は、その程度の意味じゃないように思えた。 もっと別の何かを、俺は彼女に隠してたみたいな気がする。 それが何かは、自分でも考えられないけど。 「藤井さん、私ね…」 一転して、落ち着いたような声で彼女は振り返る。 「私、勘違いしてたんだ、ずっと…」 「いつまでも、金曜日になれば、家で待ってれば、藤井さんが来てくれるって…」 「藤井さんが、私に会いに来てくれるって…」 「マナちゃん…」 「他の人なんてどうだっていい、私を置いてった人なんか、もういらないって…」 「そんな風に思ったんだ」 「私には藤井さんがいてくれるって、ずっとずっと甘えさせてくれる人がいてくれるって…」 曇ったみたいに言葉が濁る。 「なんて、勝手に勘違いしてたんだ…」 そして静かに顔を伏せて、「私、子供だから…」 「そんなこと…。もし、俺なんかでよかったら、いつまでだって…」 だけど彼女はそのまま俺に背中を向ける。 「私に…お姉ちゃんから藤井さんを横取りさせる気…?」 「え…?」 彼女はかなり小さな声で呟いたけど、俺の耳には深く響いた。 そして彼女は乱暴に顔を拭いて振り返る。 「私が、お姉ちゃんの恋人を取っちゃうわけにはいかないでしょ?」 「私、お姉ちゃんのことも大好きなんだから、すごく…」 「だから、藤井さん、もう帰って…」 「私、誰も裏切りたくないもの…。私を置いてった人とおんなじに、なりたくない…」 俺に向けられた彼女の背中が、小刻みに震えてた。 全く、無防備に。 「私を…お姉ちゃんほどに好きじゃないんだったら…お願い、もう、帰って…」 由綺ほどに、彼女を…? 俺はただ、震える彼女の肩を見つめる。 震えながら俺を待つ、小さな肩を。 手を伸ばせば届くその距離で。 俺は… マナを抱きしめる 帰る 俺は立ち上がって、彼女を後ろからそっと抱きしめる。 「………っ」 一瞬震えて身体を硬くしたけど、それでも彼女は抵抗はしなかった。 俺はそっと頬にキスをして 「嫌だったら、それでも…」 そっと囁く。 今じゃなくても、俺の気持ちは彼女に充分すぎるほどに伝わってるはずだから。 でも、彼女は恥ずかしそうにうつむかせている顔をそっと上げて 「…いいよ」 それからひどく顔を赤らめて、再び深くうつむく。 「マナちゃん…」 俺は、改めて彼女を、強く強く抱きしめた。 それから、こちらを振り向かせようと彼女の肩に手をそえる。 でも、そこに軽い抵抗を感じた。 腕に軽く力を入れても、マナちゃんはさらに身を固くしてしまう。 「は…恥ずかしい…恥ずかしいから…」 声はかすかに震えながら、語尾に近づくにつれて消え入る。 でも、それは決して拒絶ではなかった。 「もうちょっとだけ、このままでいさせて」 「マナちゃん…」 「…ほんとに、ちょっとだけだから」 「それで…平気になるから」 「うん…」 改めて、マナちゃんの肩をそっと抱きしめる。 彼女の体はまだ硬かったけど、先ほどのように身をよじるような素振りは感じられない。 おとなしく俺の腕の中に収まっている。 どのくらい、そうしていただろうか。 「…ん」 マナちゃんが、かすかに声を漏らす。 最初はその意味がわからなかった。 「もう、だいじょうぶ。…たぶん」 「マナちゃん……」 もう、それ以上の返事はない。 それが答えだと思った。 くいっ…。 あごに指をかけ、上を向かせる。 マナちゃんはきつく目を閉じている。 でも、身体の緊張はほぐれて、その代わり、肌は可哀想なくらいに熱を持っていた。 俺は彼女の唇に唇を重ねる。 できるだけ、軽く、優しく、静かに。 そんなに長い間唇を合わせてたわけでもないのに、お互いのそれが離れた時、思わず深く、うっとりしたような溜息が出た。 マナちゃんは、今度は潤んだ眼差しで俺のことを熱心に見つめている。 「藤井さん…」 喘ぐみたいにマナちゃんが言う。 「あのね…」 「なに…?」 俺が訊き返すと、彼女は真っ赤な顔ではにかんで、「ファーストキス…」 と答えた。 「藤井さんで…よかった…」 「そう…」 正直に言ったのか、俺の為にそう言ってくれたのかは判らなかったけど、なんだかすごく嬉しくて顔が赤くなった。 すごく懐かしい気がする。 この、俺の部屋…。 でも、俺の方でもたったの数時間でもマナちゃんを一人きりにしておきたくない気分だ。 俺は急いで着替えを済ませる。 と、その時、電話機の留守番メッセージのランプが明滅してるのに気づいた。 「…誰だろう?」 再生してみる。 ピーーーッ… 『冬弥君ですか?  私です。由綺です。  今、自分のマンションからかけてます』 『…明日の『音楽祭』では、一生懸命がんばるから、 応援しててね』 『…冬弥君と少しだけお話ししたかったけど、でも、大丈夫。 甘えてなんかいられないからね』 『大丈夫。  がんばれるから』 『…これが終わったら、少しだけ時間ができるから、 そうしたら二人でゆっくりと会おうね』 『…こんなに会えないのは、多分、これで終わりだから』 『…だから……』 『…ごめんなさい、こんなのじゃだめだね』 『うん。  がんばる。  やれるだけやってきます』 『絶対に、受賞するから…』 『もし、会場に来られそうだったら来てみて下さい。  収録が終わったら、スタッフとして中に入れるように弥生 さんに頼んでおきました』 『多分、会えると思います。  待ってます…』 ピーーーッ… 由綺…。 俺の手が止まる。 カレンダーを見る。 今日が『音楽祭』当日…! これからマナちゃんの家に行って、それからその足で由綺のところに向かうなんて、そんなことは許されるのか…? 由綺を裏切りたくはない。 だけど、マナちゃんも一人にしておきたくないんだ…。 俺はそのまま少しの間、立ち尽くした。 ピンポーーーン。 あ…。 誰だろう…。 「はい…」 ガチャ…。 「あ…」 「藤井さん…」 立っていたのは、マナちゃんだった。 両手に、花束を抱えて。 「行くんでしょ? お姉ちゃんのとこ…」 「マナちゃん…」 「知ってるわよ、当然」 「私だって、お姉ちゃんのこと、大好きなんだから…」 そして恥ずかしそうに花束を見下ろす。 「お姉ちゃんに言わなきゃいけないでしょ? 『おめでとう』って」 「マナちゃん…」 「な、なんで立ちっぱなしなのよ!」 「あがって、いいでしょ?」 「あ、うん」 俺はマナちゃんと二人で『音楽祭』の放送を観た。 生放送ならではの緊張感が画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、いよいよ由綺の番だ…。 俺は立ち上がる。 何か言わなきゃいけなかったんだろうけど、何も言えなかった。 ただ、ドアに向かって静かに歩いただけだった。 「…………」 すれ違った瞬間、彼女は何か言いかけたみたいだったけど、やっぱり何も言わなかった。 そして俺は、部屋を、出た…。 「由綺…」 俺は、戸惑ってる由綺に向き直る。 走り去る彼女を追うよりも、由綺に正直なところを説明する方を優先しなきゃいけないんじゃないのか。 ここに由綺を一人残して、むら気なマナちゃんを追うよりも…。 「由綺…」 俺はもう一度呼びかける。 「なに…?」 「言わなきゃいけないことがあるんだ」 「…うん……」 そっと由綺が頷くのを見た時、俺は、なんとなく気づいた。 俺は、由綺に誠実である為に立ち止まったんじゃない。 去ってゆくマナちゃんを追うのが怖かったんだ。 以前の俺達だったら、そう、こんな風に言葉を差し挟まなくたって理解しあえた。 少なくとも理解しあえてるつもりにはなれた。 それが、今は、「判った。とりあえず、どこかでゆっくり話そう」 「ね…?」 「うん…」 卑怯者…。 俺は頷いて、由綺と歩き出す。 それから俺は、由綺にマナちゃんのことを説明した。 出会ってからの経緯や、彼女に感じていた感情など全てを、隠すことをせずに。 そして由綺もまた、彼女のことを語った。 仕事の関係上、父親にも母親にも常には一緒にいてもらえず、優秀な成績にも関わらず学校では教師達に睨まれ、次第に友人達を失っていった従姉、陰 観月マナのことを。 「ごめん、由綺…」 「ううん…。私ももう少し話を聞いてあげてたらよかったって思う」 そして由綺はうつむく。 「あの子、今までも友達とかいなくて…」 「それが、最近になってよく電話がかかってくるようになって。…遊び相手ができたって、すごく嬉しそうに」 「本人は抑えてるみたいに話すんだけど、もう、すぐに判っちゃうくらい喜んでて」 「うん…」 俺なんかといて、そんなに嬉しかった彼女のことが、今更胸を締めつける。 「何度か話してるうちに、マナちゃん、その人のこと…好きになってるんだなって、なんとなく感じられたの」 「…だから、私、わざと気づかないふりしてたんだ」 「私の方で勝手に騒いで、変に意地張られたら相手の人に悪いかなって思って…」 「うん…」 多分、そうだろう。 「それがいけなかったんだね」 「昔みたいに、しつこいくらいに長電話してたらよかったんだね…」 「だってそれは、仕方ないよ。由綺のせいじゃない…」 どう言っても言い訳しか聞こえない。 由綺の言い訳を代わりに言うことで自分も言い訳してるだけなんだ、結局。 「私に冬弥君がいるみたいに、マナちゃんにもそういう『冬弥君』ができたんだなって」 「それだけ…」 「まさか、ほんとに同じ冬弥君だったなんて…」 「由綺…」 無理するみたいに笑う由綺に、俺はそっと呟き、それから、何も言えなくなる。 違うんだ。 由綺が俺に心から頼るほどには、あの娘は俺に寄り添ってはくれなかった。 寄り添ってしまいたい気持ちがあったのは、それはなんとなく感じてた。 だけど、そうはしてくれなかった。 理由は判らない。 ただなんとなく、俺とよく似た弱さを持ってるって感じられただけで…。 「どうして…」 不意に由綺が呟く。 「どうして…追いかけてあげなかったの…?」 「……………」 由綺の目は、俺を見ていなかった。 まるで自分自身を見つめ、そしてその言葉すらも由綺本人に向けられたみたいで…。 「あ、ごめんなさい…」 「今日は私ちょっと、これで帰ることにするね。ほんとにごめんなさい…」 「あ、うん…」 そして由綺は立ち上がった。 「あ、由綺…」 「ん…?」 「ごめん…」 「ううん。誰も悪くないよ…って、私、そう思う…」 「そう…」 そして俺も席を立ち、途中まで由綺と歩いた。 なんだか、すごく変な気分だな…。 疲れてるみたいな、衛 泣きたいみたいな、詠 眠りたいみたいな、鋭 そんな気分…。 ぷるるるるーーー。 電話か…。 「はい、藤井ですけど…」 「あ、あのっ。 夜分遅くに…」 「マナちゃんっ…!?」 「……………」 電話の向こうで息を詰めたみたいに沈黙するけど、確かに彼女の声だ。 「マナちゃん…なんだろ…? あ、切らないで。今日は…どうして…?」 だけど、返事はない。 「…もし、マナちゃんのこと、ずっと傷つけてたんだとしたら、俺、謝る…」 「謝らなきゃって、思ってたんだ…」 「どうして…」 彼女は言った。 「藤井さん、どうして言ってくれなかったの…?」 どうして…。 自分に恋人がいて、それが由綺だったと、延 俺はそれを彼女に告げるべきだったのか? ただ小さな行き違いが重なった中に、無理にそのことを告白する間隙を見つけるべきだったっていうのか…? 今、彼女が問いかけてる『どうして』は、その程度の意味じゃないように思えた。 もっと別の何かを、俺は彼女に隠してたみたいな気がする。 それが何かは、自分でも考えられないけど。 「藤井さん、私ね…」 曇ったみたいに言葉が濁る。 泣いてる… の… かも知れない…。 「私、勘違いしてたんだ、ずっと…」 「いつまでも、金曜日になれば、家で待ってれば、藤井さんが来てくれるって…」 「マナちゃん…」 「他の人なんてどうだっていい、私を置いてった人なんか、もういらないって…」 「私には藤井さんがいてくれるって、ずっとずっと甘えさせてくれる人がいてくれるって…」 「なんて、勝手に勘違いしてたんだ…」 「私…子供だから…」 「そんなこと…」 「もし、俺なんかでよかったら、いつまでだって…」 「なに言ってるの。いつまでも一人の家庭教師やれるわけないじゃない」 マナちゃんは笑った。 かなり、無理して。 「それに…私に…お姉ちゃんから藤井さんを横取りさせる気…?」 「え…?」 彼女はかなり小さな声で呟いたけど、俺の耳には深く響いた。 「な、なんでもないわよ!」 それから少し照れたみたいな口調で 「藤井さん…」 「うん…?」 「報告します。私、大学、合格しました」 「ええ…?」 俺は思わず声を上げた。 「い、いや、多分そうなるだろうとは思ってたけど…」 「あ、あの…。こ、こういうのってなんていったらいいのかな…」 あ、そうだ。 「お、おめでとう…。マナちゃん、がんばったからね…」 で、いいのかな…? 「ありがとう、藤井さん」 マナちゃんは言った。 すごく新鮮… というよりは、初めて聞く彼女の『ありがとう』だった。 あの時に、駅で初めて見かけた彼女を思い出させるみたいな、屋 優しくて温かくて、憶 どこか はかな げな、臆 そんな『ありがとう』…。 それから彼女は小さく咳払いをして、牡 「えー…。家庭教師、藤井冬弥様」 「職務執行完了により、あなたを解雇します」 「え…?」 つまり、それは…。 「藤井さん、もう、自由だからね。金曜日は」 「自由…」 つまり、金曜日に彼女に会うことのない、そんな自由…。 たった数ヶ月間一緒に過ごしただけの女の子なのに、彼女に会えない金曜を既に考えられなくなってる自分に気づいた。 いや。 会うだけなら、いつだってできる。 全くの他人として。 教師と教え子、あるいは雇い主と召使いって関係は、今の瞬間に破棄されたんだから。 「で、できるだけ、お姉ちゃんと会ってあげてね…。寂しがりやなんだから」 「でも、無理してるとこなんて、見せちゃだめよ…」 彼女の明るい声に、やがて涙のフィルターがかかってゆく。 「それじゃ、藤井さん」 「うん…?」 「さようなら…」 そして電話が切れかかった瞬間、嫁 「あ、そうだ。言い忘れちゃった…」 戻ってきたその声は、完全に泣いていた。 「どうしたの…?」 「うん…」 我 「…今日はもう終わりでしょ?」 「あ…? うん…」 尋ねる彼女に、俺はあまり考えず答える。 まあ、今日はこれ以上何をやっても無駄だろう。 次に来る時は、これ以上のレベルのものを用意しなきゃなんないけど。 「…もお。いきなりなに静かになってんのよ」 「藤井さん、私の召使いなんだから勝手に暗くなんないでよね」 「誰が召使いだよー…」 誰のせいでふさぎ込んでると思ってるんだよ。 「もうちょっとだけ話し相手になってよね。いいでしょ? 暇なんでしょ?」 「あ、ああ…」 勝手なことを。 実際その通りなんだけど。 「…今日はラジオ聴かないの?」 俺はこの間のことを思い出して尋ねてみた。 俺自身、FMなんて聴かなくなって長い。 やっぱりラジオは、楽しく聴ける時期ってのがあるのかも知れない。 「ん。今日はいいの」 「今日のパーソナリティ最悪だから。生意気なのよね、いちいち」 「はあ…」 まさかそのパーソナリティも、こんなところでマナちゃんに『生意気』なんて言われてるとは夢にも思わないだろうな。 「なんていうかね、新曲とかすっごいばかにした言い方で紹介したりね。そのくせに自分の好みで、ディスコ系のビッグネームとかすっごいプッシュするの…」 「…聞いてる?」 「え? うんうん」 「私はどっちかって言うとね、自分で歌ってる人の方が好きかな」 「あ、うん…」 昼のFMの人なんて知る機会がない…。 「ナガオカさんとか。前はレポーターとかやってた人なんだけどね…」 それから彼女は延々ラジオや音楽の話を、一人で語り続けた。 「あっ、そろそろ遊びに行こう」 不意に話を切り上げて、彼女は勢いよく立ち上がった。 「じゃっ、藤井さん。私、出かけるから」 「あ、うん…」 こっちの方でちゃんとしたメニューを組んでいないんだ、どうやったってイニシアチブは彼女にある。 まあ、最初のうちは親睦を深める意味で、こんな風でもいいかな。 「…言っておくけど、一緒になんて行かないわよ」 「判ってるよ」 深まってもないか…。 ま、いいや。 ほんとの家庭教師は次からだな。 「じゃ、お疲れ様」 「藤井さんもご苦労様でした」 へえ、可愛らしいことも言ってくれるんだ。 「いや、俺、別に疲れるほどのことなんて…」 「…すぐ本気にする」 「こういうの社交辞令って言うのよ。知らないの?」 知ってる…。 「判った、判りました。じゃあ、また来るから、その時はもう少し頑張るよ」 「えーー? 本気…?」 そんなに不満そうな顔しないで…。 「本気。…まあ、今日は適当に遊んできなさい」 「ぶー」 少し年上ぶって言う俺に、彼女のブーイングが飛ぶ。 「ま、いいわよ。適当にやるから。そのうち藤井さんだって、準備とか嫌になってくるはずだし」 「そうなったら適当にさぼってもいいからね」 今日はマナちゃんと社会見学。 という名の共同授業さぼり計画だ。 ちょっと早めに駅に到着。 とはいっても、マナちゃんも間もなくやって来たけど。 「あ、藤井さん。もう来てた」 「授業さぼれて、楽しくて仕方ないって顔してるわよ」 「会うなりそんな…」 「しかも、マナちゃんだって人のこと言えないみたいな顔してるって」 「まあねっ」 「って、いいじゃない、そんな」 「別に、藤井さんほど嬉しそうじゃないもの」 「はいはい」 ほんと、俺にはどうやっても負けたくないんだな。 「じゃ、行こうよ」 「うん」 「ふうん…。普段はこんななんだ…」 マナちゃんが心奪われたみたいに、素直な声を上げる。 「どう?」 「うん…。なんだか普通の建物みたい…。…市役所とか、そんな…」 「ははっ。まあ、そんな感じ」 大学って、要は学修の為の施設だから。 何か特別な機関だなんて思ってたら、ちょっと幻滅するかも。 「がっかりした?」 「え? どうして?」 「みんな忙しそうで、学校じゃないみたい…」 そりゃあ週末に学校に来るのは、単位の危ないやつか真面目な人間のどっちかだしね。 「会社っぽい?」 「…判んない…」 「そう?」 割とそうかも。 特別じゃないにしろ、どっか不思議な雰囲気を持ってるって点じゃ、やっぱり学校なんだろうな。 「でも、なんか面白い」 「いろんなとこ案内してよ」 マナちゃんは元気に俺の腕を引っぱる。 「はいはい、判ったよ…」 「講義室」 「変なの」 「そんだけ?」 「研究室のならび」 「中見てみたい」 「怒られるって」 今日はマナちゃんと遊びに出かける日だ。 よかった。 マナちゃん、まだ来てない。 と、姦 しばらく待ってると 「藤井さん」 「おはよう」 「なんだ。遅刻してきたらどうしてあげるかとか考えてたのに」 そんなこと考えながらここに向かってたのか。 「それにしても、全然変わり映えのしない服装よね」 「い、いいじゃない。俺、こういうの好きなんだし」 「変なポリシー」 「まあいいわよ。行きましょ」 今日も人が多いな、ここは。 「…ほら、あそこのショーウィンドウとか一番おしゃれだって思うんだけど…」 「え…えっ? なに?」 「もうっ!」 「藤井さんがアーバナート観たいっていうから、わざわざ説明してあげてんのよっ」 「…何を…だって?」 俺、そんなすごそうなもの観たいなんて言った? 「すぐ忘れるんだから…」 「やっぱり美術館行かないとアートって思えないわけ?」 あ、その話か。 「そんなことないよ」 「うん。あのウィンドウ、結構おしゃれに仕上がってるって思うな、俺も」 「…なぁんか、いい加減っぽいのよね…」 とか言い合いながら、俺はマナちゃんに繁華街中引き回されて、いろんな『アート』を紹介された。 ショーウィンドウに始まって、看板、建物、広場、果ては壁の落書きまで。 「…でさあ…」 「なに?」 「結局、ここなわけ?」 ここ。 俺達は、デパートのアクセサリー専門店の中にいた。 「なによお。インテリアディスプレイの講義なんだから文句言わないでよ」 「インテリア…」 う~ん…。 確かにおしゃれだけど…。 「授業料もアリよね」 「えー…?」 結局、彼女の『講義』は、終わり頃には普通のショッピング(しかもウィンドウ)と何ら変わらない様相を呈していた。 「ね? 大体判ったでしょ?」 「まあね…」 幸い荷物持ちが必要なほどの買い物はしなかったものの、彼女の言う『アート』にしても、鑑賞にはお金がかかるってことだけは勉強できた。 「ま、適当に楽しかったし、もう帰りましょ」 「うん…」 買い物ってなると、女の人ってタフだよな…。 「…割と楽しかったよ」 「うん…。まあ、俺もね」 「じゃ、またね」 「うん。また今度…」 そして彼女は家の中に帰っていった。 今日はマナちゃんの誕生日だ。 先週買ったプレゼントを届けに行こう。 今日、マナちゃん、家にいるかな。 いなかったらいなかったで、夕方頃に出直せばいいか。 ピンポーーーン。 「はーい」 あ、いた。 「はい。ちょっと待って…」 「なんだ、藤井さん…」 「こんにちは」 なんだ、って…。 「今日は何? こんな日曜日に?」 「うん…」 「今日ってほら、マナちゃんの誕生日だったよね? だからちょっとプレゼントを、とかね」 「えっ…?」 「ど、どうして藤井さん、そんなこと知ってるのよっ!?」 「えっ…? いや…。だって、マナちゃんの書類、俺のところに送られてきてるし…」 「書類?」 「ほら、家庭教師の依頼の…」 「あ、そうか」 「藤井さんのことだから、私のことまで調べ上げたのかと思っちゃった」 「しないよ、そんなこと…」 ストーカーじゃないんだから、俺…。 「…そんなとこに立ってないで、入ったら?」 「え?」 「中に」 「あ、うん」 と、机 いきなり、ベッドの上にクマがいた。 あのばかでっかいクマのぬいぐるみだ。 「クマ…」 思わず声に出して言ってしまった。 「ちょっとなによ。そんなにじろじろ見ないでよ」 「別に、私が買ったんじゃないんだから…!」 「うん…」 でも、クマ…。 そしてマナちゃんは、お茶をいれてくると部屋を出ていった。 …だけど、このクマは…。 似合いすぎるなあ…。 すっきりと大人っぽく整えられた室内には、どこかとけ込めてないけど、このベッドでマナちゃんがクマさんと一緒に眠ってるところを想像すると…。 似合いすぎる…。 ここだけ別空間に似合いすぎる…。 「ちょっと、藤井さん」 「えっ…?」 あ、いつの間にかマナちゃん、戻ってきてる。 「あんまり人のベッドじろじろ見ないでよね」 「どうせまた、変な想像でもしてたんでしょ?」 「そんな、してないよ…」 言ったらもっと怒られそうな想像はしてたけど。 「いや、そんなことよりさ。はい、マナちゃん、お誕生日おめでとう」 俺はその小箱を彼女に手渡す。 「…………」 「気に入るかどうか判らないけど…」 「あ、よかったら開けてみて」 「う、うん…」 がさがさ…。 「時計…?」 「うん…」 あんまり喜んでない…。 「しかも懐中時計なんて流行遅れなもの、よく見つけてきたわね」 「はは…」 確かにちょっと流行してた時期はあったみたいだけど、でも、流行遅れかな、こういうのって。 今日は一日、由綺と一緒にいられる。 さ、出かけよう。 「あら?」 「え?」 「藤井さん」 「あ、マナちゃん」 「また遊びに出かけるの?」 「…また、とか言わないでよ」 今回はたまたまそうなだけで… って、聞いちゃくれないか。 「マナちゃんは、これから帰り?」 「まあ、ちょっと買い物でもと思ってね」 「ふうん」 ちょっと買い物でも、か。 「じゃ、途中まで一緒に行こうか」 「そうそう。藤井さんが前に使ってた問題集、あれ、なんてとこから出てるの?」 「え? 問題集?」 「前に私の家に来た時に使ってた問題集よ」 ああ、あれか。 「あれがどうかしたの?」 「探してるのよ」 「え…? でも、この間、あんな簡単に解いてたじゃない?」 ふんっ、とマナちゃんは鼻を鳴らす。 「『ベーシック』って書いてあったじゃない」 「そうだっけ?」 「書いてあったの」 「だから、応用編っていうか『エキスパート』みたいなのがないかなって思って」 「あ、そうなんだ」 そういえばあの問題集には応用編が別に出てたはずだ。 「あるにはあるけど、でもマナちゃん、真面目に勉強するようになったんだ?」 「まあね。ちょっとはそんな風に見せてた方がいいかなって思って」 見せてた方が、なのか…。 「だから、そんなのどうだっていいから、あの本、どこで買ったのよ?」 「え? あれはさ、繁華街からちょっと横道に入っていった…」 だめだ。 ちょっと説明しづらいとこにある。 大体あの本は、俺が以前に教科書や参考書を専門に扱ってる本屋さんで美咲さんに紹介してもらったんだ。 この辺ならあの店じゃないとすると、よっぽど大きな書店に行かないと手に入らないかも知れない。 「じゃあ、今度連れてってあげるよ。その本屋に」 「…今日じゃ、だめなの…?」 「え…?」 「私、今日欲しいんだけど、その本…」 今日、これから…? …確実に由綺との約束は諦めなきゃならなくなるけど…。 どうしよう… 窮 連れてく 断る 「…じゃ、判ったよ。ちょっと行ってみようか…」 「ほんと? よかった…」 「うん…。行こ」 由綺との約束は破ることになっちゃうけど、こういうのも仕事のうちだろうし、それに何より、マナちゃんが少しでも学校の勉強に熱心になってくれてるんだ。 放っておきたくはないな、俺…。 「あ、ちょっと待って。その前に電話してくるから」 「うん」 ええと、公衆電話は…。 こうなったら無意味に由綺を待たせるわけにはいかない。 由綺、携帯持って出てたらいいんだけど。 とりあえず、電話してみよう…。 ぷるるるるーーー よかった。 電源は入ってるみたいだ。 「もしもし…」 「由綺? 冬弥だけど」 「あ、冬弥君?」 「今どこにいるの?」 「え? 今お部屋を出たところだけど…」 そうか…。 時間を無駄遣いさせなかったのはせめてもの救いだったな。 「どうかしたの?」 軽い心配を含んだ、由綺の無邪気な声が少し哀しかった。 「うん。実は今日なんだけど、俺、急に行けなくなっちゃって…」 「え…? そうなの…?」 「だけど、どうして急に…?」 「うん…」 凶 謝る 嘘をつく 「ごめん、由綺…。家庭教師の教え子につきあわなきゃいけなくなってさ…」 「教え子…?」 とまどったみたいに由綺は訊き返す。 「うん。受験生でさ…」 受験生… かな。 「あの娘一人だけじゃ、ちょっと心配だからさ…。女の子なんだよ…」 「そうなんだ…」 がっかりしたみたいな由綺の声には、それでも怒った様子は全く無いみたいだ。 だからよけいに、俺の方がつらいっていうか…。 「じゃあ、冬弥君、行ってあげた方がいいと思う…」 「うん…」 「私にも受験生の親戚がいるからなんだけど。…やっぱり、一人じゃすごく不安なんだよ。そういうのって」 「でも、ごめん…。せっかく約束したのに…」 「うん…。でも私、冬弥君とは…会えるから」 その口ごもった『会えるから』の前の隙間が、俺にはひどく悲しかった。 由綺が言いかけたみたいに、俺達が『いつでも好きな時に』会えるなんてことが、これからあるんだろうか…。 だけど、その由綺がそう言ってるのに、俺の方が甘えたこと言ってても仕方ない。 とにかく今日は、マナちゃんにつきあうことにしよう。 「じゃあ私、今日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし。あははっ…」 そんな風に笑ってはくれたけど、蕎 やっぱり由綺、郷 演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った。 「また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺達は会話を終えた。 話してて胸がひどく痛んだけど、なんとなく安心できる気分になれた。 まさか、他の女の子との約束で会えなくなったなんて言えるわけがない。 いくら相手がバイトの家庭教師の教え子だからって。 「ちょっと、TV局の方から呼び出しがかかっちゃって…」 「えっ? まさか、私のこととかじゃ…?」 「いや。そゆんじゃないと思うけど…」 声の感じから、由綺が完全に俺の言ってることを信じてるみたいだってのが判った。 …あんまり喜べない成功じゃあるけど。 「…多分、新しい機材か何かの説明会みたいなもんだと思うけど…」 俺はおずおずといい加減なことを言う。 「…ごめん。こんな急な話で…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 …でも、いくら由綺の為っていっても、嘘は嘘だ。 こんなにも信じたまま疑わない由綺が、すごくいじらしく感じられる。 「じゃあ私、今日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし。あははっ…」 そんな風に笑ってはくれたけど、斤 やっぱり由綺、欣 演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った。 …だけど、ついてしまった嘘はそのまま押し通すしかない。 せめて、これ以上由綺を傷つけない為に。 「ほんとにごめん…。いつか、埋め合わせはするから…」 「いいよ。忙しいのはお互い様だし」 「でも、それじゃあ、また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺は、そんな由綺になんとなく罪悪感を感じた。 まさか、他の女の子との約束で会えなくなったなんて言えるわけがない。 いくら相手がバイトの家庭教師の教え子だからって。 「あの…ちょっと局の…TV局…の方から、あの、呼び出しかかって…」 嘘がばれたらいけないって思えば思うほど、俺の声の調子はうわずってゆく。 多分、自分で思ってるほどには慌ててないとは思うんだけど、そう思ってても俺の気持ちは落ち着いてくれない。 「だから…ごめん…」 「そうなんだ…」 納得したように呟く由綺の言葉に、相変わらず明るさは戻らない。 「…それじゃあ仕方ないよね…」 「ごめん…」 「あ、ううん。いいよ…」 少し沈んだ声で、慌てて由綺は言う。 軽く微笑んでるようでも、やっぱりどこかに無理がある。 明るい… っていうには少し悲しい明るさだ。 「じゃあ…また今度ね…」 「うん…。いつか、埋め合わせするからさ」 「うん…。それじゃ…」 「じゃあ…」 そして電話は切れた。 瞬間、俺の中に言いようもない不安が湧き上がる。 …気のせいかも知れないけど、たどたどしい俺の嘘は、由綺には通用してないように思えた。 「ごめん…。俺、これから外せない用事があって…」 「そうなんだ…」 一瞬だけ、子供みたいなマナちゃんの声がひどく沈んだ。 「だったら、いいよ…」 「まっ、藤井さんなんて、最初からあてにしてなかったけどっ」 「う、うん…。ごめんね…」 ほんとに、頼りにならない家庭教師だな、俺って…。 「いいわよ。じゃ、ばいばい」 行っちゃった。 …悪いことしちゃったかな。 でも、仕方ない…。 とりあえずは由綺のところに行かなきゃ…。 あれ、財布がない… 部屋に置いたままかもしれない。 仕方ない、部屋に戻ろう。 あー、何やってんだ、俺。 「用事は…よかったの…?」 心配そうにマナちゃんが尋ねてきた。 「…うん。いいよ、気にしないで…」 「ほら、そこの角を曲がって…」 「家具屋さんじゃないのよ」 「いや、だから、そこの角を曲がるんだって」 わん。 「きゃっ! 犬がいたじゃないのよっ! 犬っ!」 「家具屋さんの犬だって。そこじゃなくてその一つ向こうに、ほら」 「え? これ、本屋さんなの?」 「みたいなもん」 そして俺達は少し探したり、他の参考書と比べてみたりして、結局、初めに言ってた問題集の応用編を購入した。 「…参考書って、どうしてあんなにあるのかしらね?」 マナちゃん、最後にはめんどくさくなってたからなあ。 「まあいいじゃない。望みのものが手に入ったんだからさ」 「うん…」 「…でもさ、どうして急に問題集なんか? 今日じゃなきゃだめだって…」 「…うん」 「明日、学校で模試があるの…」 「模試?」 模擬試験ってやつか。 入試前に意味不明なほどにやらされまくった覚えがある。 「そりゃ、今から何かやったって、どうにかなるなんて思ってないけど…」 「そ、それに、多分、それが終わったら進路のこととかで教員室に呼ばれると思うし」 「ほら、自分でもちょっとはやってるって見せておかないと損でしょ?」 まず真っ先に目に留まったもの。 それは、ばかでっかいクマのぬいぐるみ。 (少なくともこれをテディベアなんて呼びたくない) こ、これは絶対にマナちゃんに似合うぞ…! まさにぴったりだ。 このクマちゃんにマナちゃんが『ぽふっ』なんて抱きついて、にっこり笑ったらそれだけで何かチャイルドグッズのイメージ映像だ。 よし、これを…。 …って、チャイルド…? 俺は思い直す。 これをマナちゃんに贈った場合のシミュレーションを…。 ……………………。 ドカッ!! …だめだ、蹴られる…。 似合いすぎるくらい似合うけど、掘 やっぱり蹴られる。 どう考えたって、沓 蹴られる。 …やめよ。 結局、俺が買ったのは懐中時計。 真鍮仕立ての、小さな蓋付の時計だ。 ちょっとマナちゃんにはシックすぎるかも知れないけど、年上の男性からの贈り物っていうと、なんとなくかっこいい (気がする)。 年上の男性って、まあ、俺なんだけど。 喜んでくれるかどうかはマナちゃんに任せるとして、少なくとも、俺があの娘の誕生日を忘れてないってことは判って欲しいな。 それじゃ、来週にこれをマナちゃんにプレゼントだ。 そうだ。 マナちゃんに断りの連絡入れなきゃ。 今日はいるかな。 ぷるるるるーーー 「もしもし、観月です」 あ、いた。 「マナちゃん? 藤井ですけど」 「藤井さん? どうしたの、こんな時間に?」 「うん…。あの、約束したことだけどさ…」 「え…」 マナちゃんは警戒するみたいに呟いた。 「行けなくなった…とか…?」 「うん…」 さすが、マナちゃん。 …鋭いや…。 「ごめんね…」 「ふ、ふんっ。わざわざそんなことで電話してきたの? ご苦労様ねっ」 「ごめん…」 マナちゃんが強がれば強がるほど、なんだか悪いことしたって実感が湧いてくる。 「いいわよ、そんなの。別に、そんな楽しみにしてたわけじゃないんだし…」 「う、うん…。それでも、ごめん…。今度、ちゃんと埋め合わせするから」 「いいわよ、別に」 すねてる…。 「でも、それだと俺も気分悪いし…」 「…………」 「そ、それじゃあ、勝手にすればいいじゃない。別に私、そんな気にしないから…!」 「うん…」 一応、許してくれるみたいだ。 「あ、でも、アルバイトの方は真面目に来なさいよねっ!」 「え、でも…」 いつ休んでもいいって… って、そんなこと言えた立場じゃないな。 「判った。真面目に行くよ」 「まあ、それで許したげる。ナンパでも何でも適当に行ったらいいでしょ」 ナンパじゃないって…。 そういう話でもないけど。 「じゃあ、また今度ね」 「ふん…」 「ちゃんと行くから」 「うん…。今度は…きっとね…」 マナちゃんは、一応納得したみたいに電話を切った。 ごめん、マナちゃん。 作業を終えてロビーを通りかかった時、誰かが後ろから俺を追い抜いた。 あの造り物みたいな長い髪、弥生さんだ。 顔は見えないけど、多分いつもと同じ表情だろう。 簡単に想像がつく。 …あれ。 でも、彼女は由綺を送っていったはずじゃ…? と、向こうも俺に気づいたらしい。 立ち止まってこちらを振り返った。 「あ、どうもお疲れ様です…」 「藤井さんでしたかしら?」 乾いた眼差しで俺を射る彼女。 一体、俺のことを由綺からどの程度まで聞いてるんだろう。 「由綺さんはもうここにはおられませんが?」 今の一言はちょっとむっときた。 俺のことを仕事場や自宅まで押しかけるおっかけの類と思ってるのか…? 「…いえ、俺、別に由綺がここにいるからここで働いたってわけじゃありませんから」 「少しでも由綺の力になろうとしてるだけで…」 だけど彼女は全く気にしていない様子で腕を腰に当て、見下すような眼差しで俺を見る。 ぞっとするほど美しい仕草だ。 「あなたは何も判っておられないのですね」 な、なんだよ突然…? 「今、由綺さんがどんな時か、本当に判っておりますか?」 「…知ってますよ」 俺は由綺が今、いかに成長中か判ってるつもりだと説いた。 彼女は黙って聞いてたけど、突然、結 「それで?」 溜息とともに俺に訊き返した。 「それで…って?」 「自称恋人のあなたはどうなさるべきなのかということですわ」 自称とはなんだ。 「あなたは由綺さんに何をして差し上げられるのです?」 う…。 「自称恋人のあなたは、由綺さんをどんな風に手助けして下さるのでしょう?」 いちいち自称自称って、なんて嫌な女だ…。 「それは…」 「彼女に甘い言葉をかけたりして、彼女を勇気づける? そのくらいですかしら?」 「それでどうなります?」 「彼女はあなたをますます想うようになるでしょう。仕事やレッスンに上の空で身が入らないまでに」 「ゆ、由綺はそんな風には…!」 俺は思わず声を張り上げる。 受付の女の人が驚いてこっちを見てる。 弥生さんの方もそれに気づいたらしく、懸 「出ましょうか」 俺を駐車場の方に誘った。 「はっきり申し上げます。藤井さん、あなたに、森川由綺に必要以上につきまとわないで欲しいのです」 彼女は自分の車のキーを弄びながら俺に言った。 常夜灯だけが照ってる、暗い駐車場に彼女の声は静かに響く。 「…つきまとうだなんて…」 強く言ってやろうと思ってた俺も、思わず怖じ気づいたみたいに弱々しい声になる。 「由綺さんの為でしょう? お判りになりませんか? 『恋人』さん?」 「…由綺の為?」 「やはり考えたこともないようですね」 違う…。 以前、そんな風に悩んだことがあった。 俺は、由綺の為に何をしてあげられるのかと…。 …だけど結局、答は出せなかった。 その答を知っているのなら、聞かせて欲しい。 俺はそう思った。 だけど彼女は直接には言わなかった。 「なにも、別れろとは申しません。ただ…」 彼女はここで静かに笑った。 初めて見た彼女の本当の微笑。 …なんて冷酷な笑顔だ…。 「由綺さんにとって、あまりに大切な存在になって欲しくはないのです」 「確かに、あなたに励まされることは由綺さんを大いに勇気づけます。そのことはこのアルバイト期間に拝見させていただきました」 「あなたが突然いなくなってしまったら、彼女も仕事どころではなくなるでしょう」 「ですが、その段階で終わっていていただきたいのです」 何が言いたいんだ…? 「実質的に由綺さんがあなたを頼るようになってしまうと、あの人はその時点でお終いなのです」 「そんな…由綺は…!」 「あなたが実質的に何かをして差し上げられるというのであれば、それはそれで良いのでしょうが…」 そして再び、あの無機質な笑い…。 「まして、下らない男女関係のことで騒がれたりするのは、どう考えても彼女の才能には釣り合いません」 確かにその通りだ…。 …悔しいけど…。 彼女は俺以上に由綺のことをよく判ってて、そしてシビアに考えてくれてる。 全く由綺の信頼に違ってない。 俺はだんだん恥ずかしくなってきた。 「俺に、由綺のコンパニオンかカウンセラーになれと…?」 「…恋人じゃなく…?」 「そういうことになりますね」 問題を解いた生徒に向かって言うように、彼女は俺に言う。 一体、どうすることが由綺の為なのか、俺にはもはや判らなかった。 由綺の為に、真摯に偽った気持ちで由綺に接する…? まるで詭弁だ。 言葉の迷宮だ。 彼女は軽く腕を組んだまま、俺の答を待ってる。 この恐るべき女性は、その回答を俺の口から言わせるつもりなんだ…。 常夜灯が逆光に彼女を照らす。 「あなたは、今あなたの偽らない愛情で彼女を喜ばせることで、彼女の将来を潰してしまうおつもりですか、それとも?」 勝負はついた。 俺は完全にとどめを刺された。 冬の駐車場の不気味な空気が俺を縛りつける。 逃げられない。 「……………」 涙が出てきそうだった。 由綺に対してどうすればいいのか、俺の頭の中はそれだけだった。 しかしそれを考える能力はとうに麻痺してしまったみたいで、その疑問だけが凝り固まっていった。 よくできました、という風に彼女は俺の方に近づいてきた。 彼女の手が、俺に触れる。 俺はびくっと手を引っ込める。 だけど彼女の手は俺に追いすがり、逃がさない。 彼女の手が怯えた俺の手をしっかりと握りしめる。 「あ…」 滑らかだけど、どんな温度も感じられない手だ。 俺の手は意気地なく震え出す。 「とは申しましても、あなた方の心を抑えるなど、口約束じゃ難しいのでしょうね」 梧 …さすがに、昨日までの重労働は響いたな。 出かけたいのはやまやまだけど、体力が…。 仕方ない…。 体壊しちゃってもつまらないし、今日は一日、ゆっくり休もう…。 ぷるるるーーー。 あ、電話。 ガチャ。 「はい、藤井ですけど…」 「夜分遅くに申し訳ございません。私、篠塚と申します」 その声を聞いた瞬間、息が詰まるのを感じた。 「あの…俺が冬弥ですけど…」 できるだけ平静を装って俺は応える。 「お電話だと声が全然違いますのね。失礼とは思いましたが、電話番号は勝手に調べさせていただきました」 全く失礼だと感じてる様子のない口調。 「…別に、構いませんが…」 「昨日のお話ですけれど」 「はい…」 俺はとぼけてやろうと思ったけど、どのみち俺の方がつらいことになるのは目に見えてたから、やめた。 「明日はお時間ございますでしょうか?」 「いえ、その日は…」 言いかけて、やめる。 「何か?」 電話の向こうで弥生さんは平然と尋ねる。 そう。 彼女は由綺のオフを全て把握してるんだ。 下手すると、休日の予定までも知ってるかも知れない。 まさか本気で、俺と由綺とを会わせないつもりなのか…? 向こうは…そうかも知れない…。 昨日言ってたことが本気の話なら、こんな風なことはどうってこともないんだろう…。 …でも、もしそうなら、俺の方で意固地になっちゃうのはあんまり良い方法だとは思えない。 一応、弥生さんの考えも聞いておきたいし、会って俺の由綺に対する誠意を伝えることだってできるかも知れない。 何にしても、ここは一度会って、ちゃんと話し込んでおかなきゃいけない。 由綺の付属品としてじゃなく、ちゃんとした一個の人間として。 …由綺には悪いけど、弥生さんとは会っておいた方がよさそうだ。 「よろしかったらその日、私におつきあい頂きたいと思いまして」 『よろしかったら』 ね…。 答は最初から判ってるんだろう。 でも、言い返すのは、明日、彼女に会ってからだ。 「ご不満でございますか?」 「そんなことは…」 「判りました。おつきあいさせてもらいます」 この間あれだけ追求された俺に、今のところはどんなアドヴァンテージも残されちゃいない。 だから。 「お電話してよかったですわ。それでは明日、駅前でお待ちしてますので」 用件を言い終えると、彼女はすぐに電話を切ってしまった。 汗で耳に貼りついた受話器を重く重く感じながら俺は、それをどうにか元に戻す。 電話が切れた後の、あの嫌な ツーツー… という音がまだ耳に残ってた。 今日は弥生さんと会う約束の日だ。 弥生さんはもう駅に来てた。 いつもTV局で見かけるようなタイトなフォーマルスーツ。 手首を裏返して腕時計をちらちら見てる弥生さんは、どこかクールでなんだかかっこいい。 …見てる分には、だけど。 俺を見つけた弥生さんは、まるでタクシーでも呼ぶみたいに表情一つ変えないで俺の方に片手を挙げてみた。 「ちゃんと来て下さいましたね」 穏やかな目で彼女は俺を見る。 「約束は守る方なのですね」 「…おかげで、由綺との約束破っちゃいましたけど」 ふふん、と彼女は笑った。 まだそんなこと言ってるの…?  って感じだ。 「お話はゆっくりお伺いいたしますわ。とりあえず、どこか落ち着けるところに参りましょう」 そして弥生さんは俺を導いて歩き出す。 近くの路肩に停めてある、見覚えのある黒いBMWに弥生さんはキーを差し込む。 その車に弥生さんが、するりと滑り込むように乗り込むからさらにかっこいい。 「どうぞ」 彼女は助手席のドアを少しだけ開けて俺を誘った。 乗用車、しかも外車になんて滅多に乗る機会のない俺は、助手席に不器用に乗り込む。 黒のフィルム加工の施されたウィンドウをバックに見る弥生さんの横顔は、より一層引き締まって見えて美しい。 車は低く唸って、滑らかに道路に滑り出てゆく。 フィルムの向こうに流れる黒の風景はあまりに不思議で、この車の中と連続してるなんてとても思えなかった。 何も言わないままハンドルを握る弥生さん。 いつもと全く同じ表情だ。 いや。 いつもと同じ顔というより、いつもの方が車を運転してる時と同じなんだ。 交差点で信号が赤になり、ゆっくりと減速する。 この車内を占める言いようもない沈黙を破ったのは弥生さんの方だった。 「今日はこれからどこに向かいましょう? どこか、ご希望の場所は?」 「どこへ…って、誘ったのは弥生さんの方ですよ…」 「そうでしたわね」 彼女は軽く笑った。 「それでは、単純なドライブなどはお嫌いですか?」 「…いいですよ、それで…」 信号が変わり、再び車は走り出す。 「風が冷たいですね」 駐車スペースで、車のドアにキーを差し込みながら弥生さんが静かに言った。 確かに冷たすぎる風に、弥生さんの長い髪がさらさらと舞っている。 「冬の風ですわね」 「ええ…」 「冬のこんな風景、私、好きですわ」 そんな冬のロマンスを語る彼女の声に、温度は感じられない。 温かさも、冷たさも、何も。 「…こんな葉の落ちた並木の風景がですか?」 「ええ」 もしもこのやりとりを文字で読んだとしたら、季節外れのピクニックと思うかも知れない。 静かな雰囲気の男女の、大人の会話と思うかも知れない。 …だけど、決してそうじゃない。 「空気がとても澄んで、遠くまで綺麗に見えますわね」 「…弥生さん…」 俺は、今日はこんなのどかな会話を楽しみに来たんじゃない。 こんな、造り物っぽいのどかな会話なんかは特に。 「…弥生さん、率直に訊きます。正直に答えて下さい」 「……………」 「あなたは一体何を考えてるんですか?」 弥生さんは俺の方をちょっと見たものの、すぐに、白い幹とわずかな葉だけになってる並木に目を移す。 「何を考えているか、とは?」 「…俺を由綺から引き離して、それがほんとに由綺の為なんですか?」 「そのことは既にお話ししたはずですが」 そして弥生さんは音もなく歩き出す。 「私はなにもあなたをいじめようというわけではございません。ただ、藤井さんにもご協力して頂きたいと思いまして」 「決して綺麗な手段とは申せませんが」 そして一瞬、沈黙する。 「全て、由綺さんの成功を第一に考えなければいけないというのは、お判り頂けますわね?」 …結局は堂々巡りか。 彼女が既に自分の身を犠牲にしてる以上、犠牲を出したくないって俺の主張にはどうやっても勝ち目がない。 「…弥生さんは、あなたは、それでいいんですか?」 「?」 彼女の仮面がわずかに揺らいだ。 「私が、とは?」 そんな質問は予測してなかったらしい。 「あなたは、由綺の将来の為に自分を犠牲にして、それでも構わないんですか?」 「犠牲?」 「…好きでもない男と一緒の時間を過ごすこと、ですよ」 言いにくいことを言わせるよな。 「そういうことですか。判ります」 「それは、価値観の違いですわね」 「価値観?」 この話のどこに、価値観なんてものが存在するんだ? 「ええ」 「たとえば藤井さん、あなたの盲腸が1年後に悪性の病気を引き起こすと判った場合、あなたはどうなさいます?」 「摘出なさいますか? それとも手術が怖いからと、あえて発病するのを待たれますか?」 歳 …俺は…どうすればいいんだ…? 部屋に帰って、一人になっても、災 その不気味な黒い塊は胸の中で大きくなる一方だった。 俺は両手で顔を覆う。 …いつから、こんなゲームが始まってしまったんだろう…? ぷるるるるーーー。 突然電話が鳴り、俺はびくりとする。 ぷるるるるーーー。 「はい、藤井ですけど…」 「…冬弥君…だよね…?」 由綺だ。 俺は、どんなことを言ったらいいんだろう? 「…どうしたの?」 「え…? え? …どうしたって…? …なにが?」 少しの沈黙。 「今、冬弥君…なんだか、泣いてるみたいだったから…」 「俺が…?」 「あ、ごめん。聞き違いだよ。私の聞き違い」 「冬弥君、泣くわけないもんね」 そんな風に由綺は明るく言ってくれる。 「う、うん。当たり前じゃない」 「今、シャワー浴びてたから、ちょっと鼻声になってるんだよ」 「あっ、ごめん。そうだったんだ?」 「いいよいいよ。今、ちょうど出たとこだったし」 「…それより、今日、ごめんね。急に行けなくなって」 「…冬弥君、ちゃんとお姉さんのお世話してあげた?」 「え? お姉さん?」 俺は一瞬どきっとした。 けど、すぐに由綺にはそう言っておいたんだと思い出す。 疑いなく信じている由綺の声に、俺の胸に先程の鈍い痛みがよみがえってくる。 だけど、できるだけ平静を装って応えなきゃいけない…。 「あ、うん。完璧だよ。…それより、由綺の方は休暇を楽しめた?」 「…うん。それがね…」 不意に元気の無くなる由綺。 「何かあったの? …はるかにいじめられたとか?」 「ううん。そういうんじゃなくて…。冬弥君から電話もらったすぐ後で、緒方さんから電話があったの」 「緒方さん…? 緒方、英二さん?」 「うん。その緒方さん」 彼直々の連絡を受けるなんて、由綺もちょっとした大物だ。 「急に仕事の打ち合わせが入っちゃって…。おかげで、私も今日一日、緒方さんと一緒だったの…」 「なんだか、うまくいかないね…」 そう言って由綺は疲れたように笑った。 「打ち合わせ…?」 打ち合わせだって? 今日、俺が由綺のマネージャーにあんな申し出をされてる間、冊 由綺は仕事の打ち合わせで外に出ることになってた…? 偶然…? 「そう、打ち合わせ…。どうしたの? 冬弥君?」 「あ、いや、なんでもないよ」 「でも、休暇を返上してまで仕事の打ち合わせなんておかしくない?」 「そうかな…?」 「それに、プロデューサーが直接に電話連絡だなんて、ちょっと変だよ」 「家に迎えにまで来てくれたよ…」 口ごもる由綺。 一体どうなってるんだ? 今日の俺のことと関係があるのかな…? 英二さんが何か工作してる… とか? いや、まさか。 あり得ない…。 「打ち合わせって、どんな仕事の打ち合わせだったの?」 できるだけ由綺に俺の疑惑を気取られないように尋ねてみる。 「ちょっと…」 再び由綺は口ごもる。 「…ちょっと…なに…?」 「………」 …由綺まで…どうして…? ところが、その深刻な空気に反して、由綺は突然に明るく笑い出した。 「あはははっ」 「ううん、言いたい。…でも、今、教えるわけにはいかないのよね。いくら冬弥君にでも」 「お…おい…」 「だめだめ。教えないって言ったら教えない。この秘密は、山が海に飛び込んだってリークしないことにしてるんだから」 そして再び笑った。 なんだかすごい誓いを立てられた気がするけど…。 だけど、今の由綺の笑い声を聞いたら、なんとなく、酸 スタジオの仕事を一通り終えて、次の仕事まで少し休憩しようと外に出た。 すると、向こうの方から誰かが歩いてきた。 …弥生さんだ。 由綺は一緒には… いない。 俺は気づかないふりをしてその横を通り過ぎようとしたけど、仔 「藤井さん」 俺は思わず体を硬くする。 「…あ、弥生さん…。…お仕事ですか…?」 白々しいとは思っても、昼間の仕事場で、いつもみたいには話せない。 だけど弥生さんはそんな無意味な台詞を全く無視して、史 「藤井さん、今、お時間よろしいでしょうか?」 「…い、いや、俺、今、仕事中…」 言いかけて、俺は思い当たった。 弥生さんのことだ、俺がアシスタントをやってる収録をどこかでモニターしてたに違いない。 じゃなかったら、こんな風に、ADの仕事の合間に偶然にスタジオの前を通りかかるなんてあり得ない話だ。 なにが『お時間よろしいでしょうか』だ。 俺の行動は全て彼女に把握されてるってことか。 「ええ…。ちょうど休憩しようと思ってましたから」 「それはよかったですわ」 弥生さんは目を細めて言う。 計算に一片の狂いも無いってわけだ。 「少々、私におつきあい頂きたいのですが」 「はあ…」 俺は気のない返事。 「お時間は取らせません」 「…判りました」 この局面、俺はそうとしか言えない。 言葉遣いは丁寧だけど、要は『私についてきなさい』って命じてるんだから。 仕方なく、俺は弥生さんに連れられていく。 弥生さんはいつも控え室に使われる部屋の並びの隅に俺を連れ出した。 今の時間だと、ここは閑散としてる。 「…弥生さん、今日は、由綺は来てないんですか?」 俺はわざととぼけたことを言ってみる。 「ええ」 だけど案の定、弥生さんは、その冷静な態度を崩さない。 判ってはいたことなのに、何故か惨めに感じられる。 「今日は由綺さんからの頼まれものですわ」 弥生さんはそう言って、ハンドバッグの中から封筒を一つ取り出した。 「…俺に?」 「ええ」 不審げな俺に、弥生さんはその封筒を差し出してみせる。 ライトグリーンの、小さな普通の封筒だった。 「いいの?」 「問題でも?」 …いや、そっちに問題がなかったら別にいいんだけど…。 「じゃあ…」 俺は恐る恐る、それを受け取る。 「クリスマスライブのご招待チケットだと思いますわ。あなたに是非おいでいただきたいと、由綺さんもおっしゃっておりましたから」 「中を見たんですか!?」 「まさか」 弥生さんは白い歯を見せて微笑む。 「ただ、そう思うと申しただけです」 「由綺さんの私信を覗くなど、そんなことは絶対にいたしませんので、ご安心を」 ああ、そうだろうな…。 なにしろ由綺のスケジュールを全て把握してる女性だ。 それに、由綺からは完璧な信頼を受けてる。 こんな風に、俺への手紙を頼まれるほどまでに。 「これをポストに投函するよう言われていたのですが」 「今日たまたまここに藤井さんがいらっしゃったので、手渡しで失礼させていただこうかと」 「…いいよ。そのくらいの命令違反だったら由綺だって許してくれるよ」 「恐れ入ります」 こういう台詞は彼女の場合、冗談で言ってるのか本気なのか全く判らない。 限りなく本気に聞こえる、けど…。 「判った。ありがとう。でも、いいんですか? 本当に?」 「?」 「いや、つまり、これがもし、そのチケットだったとして、俺、由綺に会いに行っちゃうわけだけど…?」 俺を束縛する相手の心配をするなんて、お人好しもいいところって気がしたけど。 でも、このあたりがノーマークってのは逆に不気味なように感じられて、つい訊かないではいられなかった。 「結構ですわ」 弥生さんは微笑んでさえいる。 「これは由綺さんの、今年最大のイベントですから。少しでも多くの方々にご覧になっていただきたいのですわ」 「美しい由綺さんの最高のステージを」 「『私の由綺さん』のステージを…ですか…?」 俺はわざと、弥生さんの口調を真似て言ってやった。 だけど彼女は何と感じる様子もなく、辞 「ええ」 「彼女は全て、私の望むものを一つ一つ確実に叶えて下さいます」 「恐らくこれからも、一歩一歩、夢を叶えていって下さるでしょう」 「…由綺さんは、私の全てですわ」 一瞬だけ弥生さんは女性っぽい、というか人間っぽい表情を見せた気がした。 だけどやっぱり、一瞬だけだった。 「ですから、由綺さんへの無意味な心労は与えたくないのです」 「たとえば、自分の恋人に裏切られるような」 杓 家に帰り、俺は一息つく間ももどかしく、由綺からの封筒を開けた。 中には由綺からの手紙と、数枚のペーパーと、チケットが一枚入っていた。 弥生さんの言った通り、クリスマスライブのチケットだった。 …ここまで見透かされて、釈 なんとなく、裸を見られてるみたいな気恥ずかしさがあった。 俺は手紙を読む。 そこにはライブの詳細が記されてあった。 そのクリスマスライブはTV局主催のコンサートで、12月20日から25日に渡って、売り出し中の歌手達が局のコンサートステージに現れる。 そして24日の夜に、由綺はそのステージを踏む。 由綺には確実なステップのはずなのに、俺にはどうしてだか、また大きな一段を越えていったように思えた。 そして結びに、取 『P.S.  この間は変なこと言っちゃって  ごめんなさい』 『気にしないで下さい。  でも、嬉しかったよ』 そうあった。 俺はチケットをしばらく見つめる。 周囲の人間がいろんな思惑で彼女を束縛してようと、狩 由綺は、その中で一人で頑張ってるんだ。 「じゃ、弥生さんは、この青年と外の連中担当ね。俺は責任持って由綺ちゃん送ってくからさ」 「………………」 「なになに? そんな怖い顔しないでよ。大丈夫だって。ちゃんと責任持って送るって」 「…弥生さん知ってるくせに。妹がうるさいってこと」 「判りました」 俺は由綺のコートとキャップを着けて弥生さんと廊下に出た。 「…うん」 俺はそっと頷いた。 昔のこととはいえ、それを由綺に隠すことはひどい裏切りに思えた。 「いた…と思う。でも、はっきりそう意識してたわけじゃなくて…」 だけど、言葉は遮られた。 「そうなの…」 由綺の悲しそうな呟きに、言い訳もしぼんでいく。 「ごめん、俺…」 「やだ、あやまらないで。冬弥君は何も悪いことしてないよ」 「だって、その時はまだ私なんて…冬弥君の何でもなかったんだし」 由綺は明るくそう言ってみせる。 でも、それが由綺の優しさだとわかるから、俺はやはり言葉につまってしまう。 「うん、すっきりした。今まで気になってたから」 「これも、冬弥君が正直に言ってくれたおかげだよ」 つらい思いをしているのは自分なのに、由綺は俺をいたわるように微笑みを向けてくる。 痛みなんて少しも感じていないという具合に、ちょっと首をかしげてみせて。 でも、その嘘は不意に剥がれ落ちる。 「あ…?」 透きとおった滴が由綺の頬を伝った。 由綺自身も驚いたように目を丸くする。 ライブを成功させた直後の今、どうしてあの頃のことを気にかけるのだろうか。 そんな疑問が頭をめぐり、俺はすぐには返事をすることができなかった。 「…別にいなかったと思う…たぶん。あんまりよく憶えてないけど」 「…………」 由綺はまっすぐに俺の目を見つめる。 嘘をついてるはずはないのに、後ろめたさが胸のどこかでざわついていた。 「そうなんだ…」 やがて、そう呟いた由綺の横顔を、安堵とは違う何かがよぎったようにも見えた。 「でも、意外だな。由綺がそんなこと気にしてたなんて」 「うん…」 「あの時、冬弥君に無理強いしたんじゃないかって…ずっと心配だったから」 由綺は、俺達が付きあうようになったのは自分が告白したからだと、今でも思っているようだ。 「ごめんね、変なこと言っちゃって。こんなこと聞かれるの、冬弥君も嫌だよね」 「…本当に勝手だね、私って。ずっと放っておいたのは私の方なのに、ちょっと寂しくなると、冬弥君にばっかりこんなこと言ってね…」 「もういいよ、由綺…」 俺には遮る言葉しか出てこなかった。 恋人同士なら、もっと別のいたわり方があるはずなのに。 由綺の心へ踏み込む足場が、どこにも見つからなかった。 どうしてこんな風になってしまったのか…。 麻痺しかけた俺の頭は、それを解き明かしてはくれない。 「…冬弥君?」 「…うん?」 「……………」 「…好き……」 そうだけ言って、由綺はドアの奥へ消えていった。 「参りましょう」 うつむいたまま震える俺の横を、弥生さんは直線的な動きで通り過ぎる。 心なしか、その動きは無機的でいて、とても厳しいもののように思われた。 俺は、できるだけ顔を見られないようにして弥生さんの後を追った。 「自分でもよくわからない…」 「でも、憶えてないってことはもしかしたらいなかったのかもしれない」 「冬弥君…」 「あ…でも、女の子に全然興味がなかったというわけじゃなかったと思う。そういう意味では、全然いなかったという訳でもないのかも…?」 「でも、それは女の子全般という意味で、誰か特定のっていうわけではなくて…」 気がつくと、俺は俺自身の弁解のために言葉を浪費していた。 でも、それがわかっていても舌は止まらない。 俺は、この期に及んでまだ誰も傷つかない正解を探していた。 「そう……なんだ」 由綺はどこか悲しそうに呟いた。 「ごめんなさい…。こんなこと聞くの、冬弥君には迷惑だよね…」 「いや、そうじゃなくて…」 「今日は来てくれてありがとう。私…本当に嬉しかった」 「もう行って。これ以上ここにいると、また冬弥君に迷惑かけちゃうから」 諦めたように呟き、ドアを静かに閉めてしまった。 「…由綺っ…!」 「藤井さん……」 その言葉に振り返ると、無機的な眼差しで弥生さんが俺を見つめていた。 「……………」 「…弥生…さん?」 「悲しませるなとは、確かに申し上げませんでしたが…」 「え…?」 ひょっとして弥生さん、今の一部始終を見てた…? 今までにない、震えた眼差しで俺を射る。 「…すみません……」 半ば由綺に、って感じで俺は詫びた。 と、署 弥生さんは、ふと我に返ったって風に、書 「いえ。なんでもございません。参りましょう」 少しだけ慌ててる風にも見えた。 「さあ、早く」 俺に考えさせまいとするみたいに、弥生さんは先に立って俺を うなが す。 すっきりしない気分のまま、俺は弥生さんの後を追った。 駐車場まで弥生さんの後について歩く間に、気がつけば息が白くなってた。 「急いでお乗り下さい」 弥生さんにせかされるままに、あの見慣れた黒のBMWのドアを開ける。 ひどく冷えた金属部分に、俺の手は切り裂かれるみたいだった。 相変わらず、温度の感じられない暗い車内に滑り込む。 その際、目の端に数個の人影を認めることができた。 どうやら、由綺を待ち構えているファン達だろう。 もうすぐこっちに来るな…。 なんて思ってると、弥生さんも音もなく運転席に乗り込む。 「急ぎましょう。浅く腰掛けて下さいますか?」 そう言いながら弥生さんは俺の頭を、上から手で強く押しつけた。 そうか。 身長差があるか…。 俺はおとなしく、弥生さんにされるままに体を座席の先の方へとずらして、低く低く腰掛ける。 キャップの布地を通して、弥生さんの手の、微妙な温度が感じられる。 「あまりお顔は見せないよう願います」 黒いフィルムの向こうに、もう既に人集りができつつあった。 「出します」 ガコンッ…! 乾いた音を立ててギアを入れて、弥生さんは車を一気に加速させる。 既に車のそばまで近づいてた数人が驚いた顔を見せてる。 通り過ぎてからそっと後ろを見てみると、駐車場の白い照明の下に集まってきた人達はそれぞれに手を振ったり飛び跳ねてみたりしてた。 中には追いかけてくる者もあったが、弥生さんの容赦のない加速に、とても追いつけるものじゃなかった。 どうやら、ごまかすことには成功したみたいだ。 黒い車を駆る弥生さんは、信号に当たるまでにその加速した速度を落とそうとはしなかった。 「うまく…いきましたね…」 無言で信号が変わるのを待つ弥生さんに、俺は声をかけた。 「これでよかったんでしょう…」 そうするつもりはないのに、俺の声に恨めしげな響きが含まれる。 「ええ」 だけど、やっぱり弥生さんの声に感情はない。 「あそこにいた人達はみんな、もう由綺さんが帰ったものと思いこんだでしょう。後は自分達もそれぞれ帰ってゆくだけです」 「だといいですね…」 昇 信号が変わり、車は再び走り出す。 黒のフィルムを通ってきた街の光がタトゥのように弥生さんの顔に貼りついては、流れてゆく。 俺はキャップを脱ぎ、今まで狭かった視界を解放する。 「由綺さんは」 「は…?」 この密室の中、話しかけてきたのは弥生さんの方だった。 「由綺さんは喜んでおられましたか?」 どういう意味で弥生さんは尋ねてるんだろう? 「え…ええ…」 俺は曖昧に応える。 だけど弥生さんは再び黙する。 あの、言葉以上に 饒舌 じょうぜつ な沈黙だ。 「俺を由綺に会わせるだけ会わせておいて、ゆっくり話もさせてもらえないんですか? そんなことして、一体、何のメリットが…」 力無く呟く俺を、弥生さんは急に睨みつける。 「判らない方ですわね」 なじられてるとも感じられないほどに、ドライな口調だった。 「由綺さんがしなければならないことは、作り物みたいな愛情に甘えることではないはずです。お判りでしょう?」 「判ってますよ…」 俺は 憮然 ぶぜん とする。 「でも、それじゃ、由綺が可哀想なんだ…」 ふっ… と弥生さんは短く息を吐いた。 「あなたには人の心が全く判らないのですね」 弥生さんはもう、こっちを見てはいなかった。 「あなたに、弥生さんにそんなこと言われるなんて思わなかったな…」 弥生さんは小さく首を傾げる。 「あなたは由綺さんの不安を、心細さをごぞんじでしょう。由綺さんの強さや弱さを、由綺さんの脆さを?」 「それなら何故、そのもろい心を突き崩そうとなさるのです?」 俺は何も答えない。 答えの出せない問いは、聞くことすらしたくない。 「由綺さんは、『音楽祭』に出場します」 俺ははっと彼女の方を見る。 『音楽祭』 詔 それはTV局と大手レコード会社、ミュージックショップその他の提携によって年に一度だけ開催される、現在活躍中の歌手の為のコンサート企画だ。 昨年中に活躍したアイドル歌手のうちの数人が、厳正な審査によってエントリーされ、ライブステージ方式でそのパフォーマンスを競う。 最優秀賞、優秀賞、特別賞などが用意されてるけど、最優秀賞に輝いたアイドルには、提携してるレコード会社に、自分のアルバムのプレミアムプレスが約束される。 つまり、その年最高の歌声としてCDアルバムを出してもらえるのだ。 その年最高の栄誉を手に入れると同時に、である。 この企画にエントリーされるのは常に、将来ある若手アイドルだけだ。 その年にエントリーされても、もう一年間、認められるだけの活躍を見せなければ連続でのエントリーは難しいからだ。 だけど、それにしても、ただ素人っぽいのは、まずその選には受からない。 そのステージに登るのは常に有望株だけだ。 そしてその中からたった一人が最優秀賞を手に入れる。 アイドル歌手の頂点を手にする。 …そこまでの結果を期待できるかどうかはともかくとして、丞 とにかく、由綺はもう、乗 そんな企画に呼ばれるまでの大きな存在になってしまってたんだ。 剰 「無論、まだ極秘事項扱いで、他への漏洩は厳重に禁じますけれど」 由綺が電話で言ってた『秘密』とは、恐らくこれのことだったのだろう。 「お判りですね」 自分の勝利を見せつけるように、弥生さんはゆっくりと言った。 「ええ……」 何がどう判ったのか、自分にもさっぱり判らなかった。 意味も判らずに俺は頷いていた。 由綺が俺を置いてどんどん高いところに行ってしまう、そんな錯覚だけが俺を捉えていた。 「由綺…」 うつむき、震える声で俺は呟いていた。 「つらいのですか? 由綺さんの成長を目にできたというのに?」 「…………」 「みなさん、耐えておられます。由綺さんに心寄せているのは、なにも、あなた一人だけではないのですから」 「え…?」 どういうことだ…? 「ご覧になってお判りになりませんか?」 「ああ見えて、緒方さんも由綺さんに心惹かれておられる方のお一人なのですよ」 英二さんが…? 「だから、こんな下らない立ち回りを始めたのでしょう」 「だったら何故…」 由綺と英二さんを一緒に行かせたりしたんだ。 そう問いつめようとしたけど、弥生さんはフロントガラスを見つめたまま 「大丈夫です」 「あの方は、由綺さんには何もなさいません。少なくとも、今夜は」 「今夜は静かにしておいてあげたいから…?」 「ええ…」 弥生さんは小さく頷く。 「それに、あの方には由綺さん以上に大切な方がおられます」 「大切な…?」 気のせいだろうか、弥生さんの口元が少しだけ笑ったように見えた。 さっき、俺を追い出そうとしたのを阻んだ英二さんへの仕返しのつもりなのだろうか、英二さんの心を俺に話したりして…。 いや…違う…。 弥生さんに、自分の感情の為に誰かと話をするなんてことはあり得ないはずだ。 「あの方も、あの方なりに考えておられます」 「少しだけ、俺の部屋あがっていきません?」 こんなことを言う自分に驚きながらも、俺は弥生さんに微笑みかけていた。 「藤井さんのお宅にですか?」 ただ、こんな凍てつく夜を一人きりで過ごすのも過ごさせるのも、俺にはつらいことのように思われた。 多分、弥生さんにしてみれば、どんな夜も全て同じ、寂しいなんてことはないんだろうけど…。 弥生さんは少し首を傾げてたけど 「お邪魔にならないようでしたら」 「邪魔になるようなことなんて、何もありませんよ…。…悲しいけど」 俺がそう言うと、弥生さんは車を駐車スペースの方にゆっくりと運んでいった。 生ぬるい排気ガスが夜風に吹き飛ばされてしまうと、俺の体は再び震え出した。 確かに、俺は寂しかった…。 でも…。 やがて向こうの方から弥生さんが歩いてきた。 寒さなんて全く感じてないみたいな様子だ。 「何もないですけど…少し休んでって下さい…」 「はい」 社交辞令的なことを一切言わずに頷く弥生さん。 何故か、少しだけ気が軽かった。 俺が弥生さんを部屋に案内しようとした時、「あ…」 「雪…ですね」 俺達の上に小さな小さな粉雪が舞い降りてきた。 先刻までの裂くような冷気は、このロマンティックな夜のための布石だったみたいだ。 由綺と会えないクリスマスに、こんな演出が用意されてるなんて…。 俺はそのすれ違いがちな運命を少し悲しく思い、少し悲しく笑いながら弥生さんの方を見た。 彼女は、その漆黒の夜空を見つめながら、意外にも楽しそうな笑みを浮かべてる。 俺も真似して空を見上げてみる。 この無限の闇のどこから現れてくるのか判らないけど、落下傘のような無数の雪片が俺を包み込む。 まるで上下の感覚が無くなる。 奇妙な心細さに、俺の視界は弥生さんを探す。 霞むような眼差しで、闇の中に融けこんでいってしまいそうな彼女。 「楽しそうですね…」 俺が声をかけると、弥生さんは、俺のことなんか忘れてしまってたって風にこちらを振り向いた。 「ええ」 「冬、好きなんです」 そう言った時、弥生さんの淡い上唇のくぼみに雪が降り落ち、静かに消えていった。 俺は何故か、ひどく 淫靡 いんび ななものを見てしまったような気がして、一人で赤面してしまっていた。 「お邪魔します」 俺は弥生さんを部屋に導きながら、暖房を全開にした。 「あったまるまで少しかかると思いますけど、座ってて下さい。コーヒーでもいれますから」 「恐れ入ります」 キッチンに向かいかけてた俺は、その違和感に思わず振り返る。 かつて俺の部屋で『恐れ入ります』なんて言ったことのある人間はいなかった。 そう思って見ると、生活感に充ちた俺の部屋の中に、この、弥生さんってオブジェはいかにも不釣り合いに見えた。 「何か?」 「あ…いえ…」 俺はコーヒーセットを盆に載せて、部屋に戻る。 いつも外で見ている弥生さんはいつも正体なく恐かったけど、この部屋では不思議と、ただの場違いな人形くらいにしか見えない。 人形…。 そう、これまで感じていた温度の無さは、さながら人形のそれだった。 不思議な造り物。 陶器、樹脂、木、とにかく人の肌以外の何か…。 今までこの部屋に入ったことのある女性はといえば、由綺しかいなかった。 それが今、ここには俺と由綺を引き裂こうとしている女性がいる。 由綺とはまるで正反対の温度を持つ女性が…。 「意外と清潔なのですね」 「え…?」 不意に弥生さんはそう言ったかと思うと、俺の部屋の中を不思議そうに見回した。 「そんなじろじろ見ないで下さいよ」 それでも全く部屋を見回すことを止めようとしない弥生さん。 「あら」 ふと弥生さんはベッドわきの窓際に何かを見つけた。 「すみませんが、あれを拝見させていただいてよろしいでしょうか?」 弥生さんが指さしたもの、それはフォトスタンドだった。 中で、俺と、デビュー前の由綺とが並んで笑っている。 「…あ。ええ…」 それを手渡すと、弥生さんはひどく熱心に写真に見入った。 「仲が良いんですね」 「誰かさんが引き裂こうとしてますけどね」 少し意地悪く俺は言ってやった。 だけど弥生さんは気に留めた様子もなく、全く変わらない調子で 「あなたがうらやましいです」 そして、しばらく沈黙を守った。 弥生さんの沈黙は、とても清潔だ。 きれいなものも汚いものも、分け隔てなく全て死に絶えてしまうみたいな、そんな清潔さだ。 俺が何か言葉をかけようとした時、弥生さんは不意に顔を上げて 「今晩は由綺さんと過ごせなくて残念ですわね」 何の 躊躇 ちゅうちょ もなく言ってのけた。 「誰のせいだと思っているんですか…?」 「ご不満ですか?」 「ご不満ですよ」 決まってるだろう。 「その代わりに私がいても、ですか?」 俺は言葉に詰まる。 「そのつもりで私をここに誘ったのではないのですか?」 「違う…違うよ、そんな…」 慌てて手を振る。 弥生さんは決して俺を愛してなんかいない。 まして、俺と愛し合うことになんか何の興味も抱いてないだろう、恐らく。 だから、却って悲しいんだ。 「前に申し上げたはずです。どんなことにでも従うつもりだと」 「あ…ああ…。そうだっけ…」 訊き返す俺を、弥生さんは不思議そうに眺める。 まるで珍しいものを観察するみたいに。 俺はますます判らなくなる。 誰かが誰かを好きになる、単純なことのはずなのに…。 ああ、そうだ…。 単純なものほど難解な謎を創り出してしまう。 いつもそうなんだ…。 「一人きりなのは寂しいのでしょう?」 弥生さんの両手が俺の頬にかかる。 俺を見つめるその瞳は、再び霞がかっている。 冷たくもない温かくもない、弥生さんの手。 人差し指が頬骨を軽く撫でて、耳にたどりつき、耳孔に滑らかな爪をさし込む。 ぞくっ…。 俺は身震いする。 表情を変えることはしないものの、弥生さんの人差し指は俺の耳をなぶって楽しんでいるようだった。 「寂しいでしょう?」 かすかな香りとともに弥生さんの顔が近づき、唇が触れ合う。 半ば押されるかたちで、俺の身体は弥生さんに密着する。 「よろしいのですよ。我慢なさらなくとも。…寂しいのは、つらいことですものね」 弥生さん…。 俺は弥生さんを…。 錘 受け容れる 拒絶する 「…やよいさん……ごめん…」 自分でも何を言ってるのか判らないまま、崇 俺は弥生さんの身体を、しがみつくみたいにきつく抱きしめる。 「大丈夫ですわ、藤井さん」 俺の頭を抱え込むように抱き、弥生さんは呟く。 「寂しいことなどありませんから」 弥生さんの胸の中から見上げると、彼女は少しだけ笑っていた。 優しい微笑みにも、あの時の恐ろしい笑みにも、据 どっちにも見えた。 「…………」 受け身でありながら、何かを うなが すような弥生さんの眼差し。 気がつくと、俺はさらに彼女の身体へしがみついていた。 誰かに操られてるみたいな、雀 だけど自分自身の 貪婪 どんらん な欲望に対して正直に動いてるみたいな、そんな気分だった。 自分が自分でないような、澄 ってのはきっと、こういうことなんだ…。 「…………」 無言のまま俺を見つめ続ける弥生さん。 …欲しいんでしょう……。 …寂しいんでしょう……。 その眼差しは俺にそう言っていた。 俺は導かれるように、弥生さんの身体にのめり込んでいく。 彼女の身体は、やはり温かくも冷たくもなかった。 ただ、ひどく愛おしいほどに清らかで綺麗だった。 弥生さんの身体が普通の女性と同じなのは、至極当然のことなのに、俺は不思議とすごく安心したような気分になれた。 少し整いすぎたところなどは、いかにも弥生さんらしいと感じた。 ふ…。 静かに笑って弥生さんは、顔を近づけて口づけをする。 ただ唇を触れ合わせただけなのに、ひどくくすぐったく、切なく、政 眩暈 めまい のしてしまいそうな気分だった。 彼女の薄い唇からは…幽かにルージュの味がした。 俺の心臓が臆病に高鳴る。 多分、弥生さんはそんなことは気にも留めてないんだろうけど、そう思えば思うほど俺の胸はますます大きく震える。 「……っ」 思わず切ない声を洩らしてしまう。 唇を…噛まれた。 俺の顔なんか少しも見ようとしないで、そんなことをしてくる。 弥生さんは何度も歯を立ててくる。 軽く、傷つけないようにいたわっているのに、それはまるで優しくない。 俺の呼吸は情けないほど激しくなってくる。 刺激される度に顔は紅潮し、身体が熱くなってくる。 何故だか判らないけど、何故だかひどく惨めな気分だった。 身震いが止まらない俺に、弥生さんは少し驚いたように顔を上げ、俺の顔を見つめた。 ひどく恥ずかしくて、俺は、まともに弥生さんの顔を見ることができなかった。 「…や、やめて下さい、弥生さん…!」 俺は弥生さんを押しのけようとして、思わず力一杯彼女を突き飛ばしてしまった。 弥生さんは静かに俺を見つめる。 「す、すみません、弥生さん…。お、俺、そんな…。こんな乱暴なことするつもりは…。 あの…大丈夫ですか…」 フローリングの床に手をつく弥生さんに、俺は慌てて手を伸ばす。 再び不思議そうな眼差しで俺を見る弥生さん。 「…あ、あの? 弥生さん…?」 「…………」 全く怒った様子もなく、彼女は俺の手を取る。 弥生さんはまっすぐに俺の目を見る。 なじってるわけでも、すねてるわけでもなく、措 ただ質問するだけの眼差し。 「申し訳ございませんでした。今夜は、やはりおいとまさせていただきます」 そしてうつむき、楚 「ただ、今夜だけは由綺さんをそっとしておいて差し上げたいのです」 「…ええ」 俺も、それに逆らう気にはなれなかった。 そのことを見て取ったのか弥生さんは、口元だけでわずかに笑った。 「あ…」 …今まで俺に見せてくれなかった、安心させるような優しい笑みだった。 だけどすぐに、あのプラスティックでできたような表情に戻る。 「それでは失礼いたします」 弥生さんは立ち上がる。 「これだけは心に留めておいて下さい。騙されることよりも、騙されないことの方が、時としては人を傷つけ、状況を悪化させます…」 その顔には、俺を責めたり 難詰 なんきつ したりする色は全く見られなかった。 それなのに俺は何故か、苦しかった。 窒息しそうだった。 弥生さんが行ってしまう…。 …俺は、何をしたんだ? …俺は、何をすればよかったんだ? 考えるには、あまりに時間が足りない。 あまりに、強さが足りない…。 窒息しそうだ…。 …上も下もない、深い海の真ん中にいるみたいだ……。 …真っ暗だ……。 弥生さん…。 弥生さん……。 「やよいさん…」 だけど、返事はない。 「…やよいさん…?」 再び呟く。 誰も答えない。 やよいさん…。 声に出しているのかも、自分でももう判らない。 部屋の中にはひどく孤独な温度が甦ってくる。 弥生さんは、去ったんだ…。 この部屋の暗闇の中に、俺の他には誰もいない…。 …真っ暗だ……。 …真っ暗だ……。 …真っ暗だ……。 …真っ暗………。 俺は、そのまま、膝を抱え、槍 一人で、槽 泣いた。 頬に貼りついた床の感触に俺は目を覚ます。 カーテンの下から白く乾いた光が射し込んでいた。 つけっぱなしのTVに目を向ける。 番組から、もう昼過ぎなのが判った。 …本格的に熟睡してしまってたみたいだ…。 床の上で眠ったせいか、身体が痛い。 だるさを全身に感じながら、体を起こす。 窓の外は明るく温かかった。 道路や建物は既に乾いて、昨夜の雪の痕跡なんかどこにも残ってない。 …今年も、一人きりのクリスマス…。 俺だけじゃない、荘 弥生さんも…。 昨夜を思い出し、俺は頭を抱え込む。 二日酔いのように頭痛がする。 テーブルの上だけが、昨夜のままだ。 白いマグカップに、かすかに緋色の斑点がついていた。 弥生さんのルージュの名残…。 こんなかたちで自分を残してしまう弥生さんって女性…。 …目を覚ましたばかりってのに眠ってしまいたいと感じる。 外からの健康な陽光も、俺の思考力を奪い去る手助けにしかなってくれない。 「…………?」 ベッドに横になろうとした時、いつも窓のところに置いてあるフォトスタンドが伏せられていることに気づいた。 だけどその意味を考える間もないまま、俺はどろりとした眠りに落ちた。 …やめた。 どうせ外に出たって、用もないのに人ばかりがやたら歩き回ってるに違いない。 そんなとこに、わざわざ出ていく気にはなれないな。 俺は再びベッドの上にごろりと倒れ込む。 そうだな、造 このまま寝てしまうっていうテもあるな。 寝てたって、新しい年はやってくるんだ…。 新しい太陽さえ昇れば…。 寝よ…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 さっきまで誰も訪ねてこなかったくせに、寝ちゃおうと思って目をつむった瞬間にやって来るんだなあ、客って。 何かの法則か、これは。 俺はだらだらとベッドを降りる。 「あ…」 ドアを開けて思わず声を洩らしてしまう。 「こんばんは、冬弥君」 ドアの外では由綺が俺に笑いかけていた。 …どうして由綺が突然に…? 「…どうしたの、冬弥君?」 「あ、いや…。どうして急に俺のとこに?」 「驚いた? 驚いたでしょう?」 「うん。びっくりした…」 俺は素直に言った。 「あのね…」 「弥生さんがね、今夜はお仕事を早めに切り上げて、冬弥君のところに会いに行ったらって言ってくれて…」 「弥生さんが?」 俺はさらに驚いた。 そして、村 「てことは…」 …やっぱり。 「夜分遅くに大変失礼いたします」 深々と頭を下げる弥生さん。 つられて俺も深々とお辞儀する。 「あ…」 わけも判らない様子で、由綺までが深々と頭を下げた。 …今年最後の夜に何やってんだ、俺達…。 とりあえず俺は、妥 「ま、まあ、中に入らない? 部屋、あったまってるから、一応」 大きくドアを開けた。 「恐れ入ります」 「お邪魔します」 「でも、さすがにこの部屋に三人はきつかったかな」 「ううん。そんなことないよ。ね、弥生さん?」 「はい。決して」 事務的に答える弥生さん。 …彼女がここに来るのは、これが初めてじゃない。 弥生さんはあの夜のことを、どんな風に思ってるんだろう。 由綺の隣に座って俺を見つめて、それでどんなことを考えてるんだろう。 だけど、彼女のその硬質な瞳が、何も答えてくれないのはもう判ってる。 考えるな、岱 要はそういうことだ。 俺は立ち上がる。 「…何か飲み物買ってくるけど?」 「それなら…」 「私もおつきあいいたします」 俺を見て弥生さんも即座に立ち上がる。 「じゃ、私も…」 「あ、由綺は…」 「由綺さん、あなたはお留守番です」 弥生さんはその繊細そうな顔を近づけ、子供をあやすように由綺を座らせていた。 「え…でも…」 「今日の人の多さはご覧になったでしょう? あまり外出して頂きたくはないのです」 そして少し顔を傾けて、貸 「お留守番を頼まれて頂けますね?」 と笑いかけた。 「…はい。判りました、弥生さん」 さすがは由綺専属のマネージャーだ。 「参りましょう。藤井さん」 そのまま滑らかに俺に向き直る弥生さん。 「はいっ…」 コンビニに『参りましょう』…。 俺は財布なんかをポケットに入れながら、第 「ごめん、由綺。留守番頼むね。…誰か来ても出なくていいから」 「うん。大丈夫だよ、冬弥君」 聞き分けよく由綺が頷く。 「それじゃ。すぐ戻るから」 「…どういう心変わりですか、弥生さん? わざわざ由綺を連れてきてくれるなんて?」 建物から出たところで俺は尋ねた。 「…………」 「…俺に会わせて安心させた方が、由綺も良い仕事をしますか?」 俺は意地悪なくらいに皮肉を込めて言う。 「ええ」 まるで意に介さずって風だ。 「そう思いたいのなら、それでも結構です。 それは確かな事実ですので」 そう言う彼女の微笑みは、いつもと違って、明らかに温度を持っていた。 冷たかった。 感情の、託 断片だ。 「そう思うことで、あなたに会いたいと強く想う人がいるということから目を背けられるのでしたら、この上なく簡単ですし」 「俺に…?」 その呟きは、吐き出される白い息に紛れる。 「由綺さん…ですわ…」 挑 俺は元気にドアを開ける。 「きゃっ…!」 ごん…。 ごん…? 何だ、今の鈍い音は…? 「大丈夫ですか!?」 な、なんだかドアの向こうですごいことになってるみたいだ。 俺は改めてドアを大きく開ける。 「あ、弥生さん…」 ドアの向こうに立ってたのは弥生さんだった。 しかも、俺を睨んでる。 「こ、こんばんは…」 「………………」 な、何だろう…? 俺、何か悪いことでもしたのかな…。 「こんばんは、冬弥君…」 弥生さんの後ろから由綺が姿を現した。 「由綺…?」 「遅くなってごめんなさい…」 目に涙を浮かべながらも、由綺は俺に笑いかける。 見ると額が赤くなってる。 「あ…」 そうすると、さっきの『ごん』って音は…。 …ごめん、由綺…。 あれ? でも、どうして由綺が突然に? 「…どうしたの、冬弥君?」 「あ、いや…。どうして急に俺のとこに?」 「驚いた? 驚いたでしょう?」 「うん。びっくりした…」 俺は素直に言った。 「あのね…」 「弥生さんがね、今夜はお仕事を早めに切り上げて、冬弥君のところに会いに行ったらって言ってくれて…」 「弥生さんが?」 「夜分遅くに大変失礼いたします」 深々と頭を下げる弥生さん。 つられて俺も深々とお辞儀する。 「あ…」 わけも判らない様子で、由綺までが深々と頭を下げた。 …今年最後の夜に何やってんだ、俺達…。 とりあえず俺は、佃 「ま、まあ、中に入らない? 部屋、あったまってるから、一応」 大きくドアを開けた。 「恐れ入ります」 「お邪魔します」 「でも、さすがにこの部屋に三人はきつかったかな」 「ううん。そんなことないよ。ね、弥生さん?」 「はい。決して」 事務的に答える弥生さん。 …彼女がここに来るのは、これが初めてじゃない。 弥生さんはあの夜のことを、どんな風に思ってるんだろう。 由綺の隣に座って俺を見つめて、それでどんなことを考えてるんだろう。 だけど、彼女のその硬質な瞳が、何も答えてくれないのはもう判ってる。 考えるな、爪 要はそういうことだ。 俺は立ち上がる。 「…何か飲み物買ってくるけど?」 「それなら…」 「私もおつきあいいたします」 俺を見て弥生さんも即座に立ち上がる。 「じゃ、私も…」 「あ、由綺は…」 「由綺さん、あなたはお留守番です」 弥生さんはその繊細そうな顔を近づけ、子供をあやすように由綺を座らせていた。 「え…でも…」 「今日の人の多さはご覧になったでしょう? あまり外出して頂きたくはないのです」 そして少し顔を傾けて、帝 「お留守番を頼まれて頂けますね?」 と笑いかけた。 「…はい。判りました、弥生さん」 さすがは由綺専属のマネージャーだ。 「参りましょう。藤井さん」 そのまま滑らかに俺に向き直る弥生さん。 「はいっ…」 コンビニに『参りましょう』…。 俺は財布なんかをポケットに入れながら、梯 「ごめん、由綺。留守番頼むね。…誰か来ても出なくていいから」 「うん。大丈夫だよ、冬弥君」 聞き分けよく由綺が頷く。 「それじゃ。すぐ戻るから」 「…どういう心変わりですか、弥生さん? わざわざ由綺を連れてきてくれるなんて?」 建物から出たところで俺は尋ねた。 「…………」 撞 今日はADのバイトだ。 がんばろう。 TV局の中にショートカットしようとして駐車場を横切ってると、童 「藤井さん」 「え…?」 弥生さんだ。 黒のBMWの横をすり抜けて、彼女は俺のところに来る。 「本日もご出勤ですか?」 「え…? はい…ご出勤です」 バイト…。 「ご苦労様です」 「ですが今日、由綺さんは局にはいらっしゃいませんよ」 俺は少しむっとした。 「…だから、別に俺は由綺が目当てでここに来てるんじゃありませんってば…」 「そう願いたいものです」 どう言ったって、信じちゃくれないんだろうけど。 と、弥生さんの顔から不意に笑みが消える。 「その為に、由綺さんは今月上旬から緒方さんの音楽スタジオと各TV局を往復する毎日になりそうです」 「今月から?」 そんなに早く…? 「ええ。新曲をリリースなさるとか」 「ですから、自宅でゆっくりとお休みになられる時間などわずかばかりと思われます」 「はあ…」 「お判りですか?」 要は、今まで以上に由綺から離れていろということなんだろう。 「判ってますよ」 どう反論したって、この人には勝ち目がないんだ。 「結構です」 俺を褒めてるみたいな、俺に勝ち誇ってるみたいな、寅 少し年上の笑いだ。 弥生さんは一体、俺のことをどんな風に考えてるんだろう…? 訊いてみようか…? 屯 「弥生さんは俺のことを…」 何も言わない 「…弥生さんは一体、俺のことをどんな風に考えてるんですか?」 俺はストレートに尋ねた。 どうせ強気なレトリックなんか使っても、この人には通用しないんだ。 「藤井さんをですか?」 「ええ」 「…申し上げにくい質問ですわね…」 動揺してる…? 弥生さんが口ごもるなんて、あり得ないと思ってた。 「答えて下さい。正直に」 俺はさらに責めるみたいに言う。 「はあ…」 「私といたしましても大変申し上げにくいのですが…」 弥生さんの、造り物のような手が、俺の首筋に伸びる。 細い指が、俺の耳をいじる。 違う。 そういう意味で尋ねたんじゃないんだ…。 弥生さんの顔が近づき、鍋 通り過ぎ、楢 耳元に唇の感触が…。 瞬間、縄 「邪魔者…ですわ…」 吐息とともに、声はそう言った。 『満足しました?』って風に弥生さんは首を傾げて微笑む。 微笑めば微笑むほど、それは無機的になってゆく。 「…判りました」 こんな答が返ってくるだろうって予感はしてたかも知れない。 でも…。 というか、俺は、弥生さんにどう答えてもらえば安心できたんだろう? 「遅刻しますよ」 鋭く、弥生さんは告げる。 俺ははっと顔を上げる。 時計を見てる彼女の方が、むしろ時計みたいだ。 「あ…。はい…」 そうだ、行かなきゃ。 遅刻を大罪とする弥生さんの前で、時間に遅れるわけにはいかない。 「そうお悩みにならなくとも。その為に私がいるのですから。違いますか?」 「いえ…」 「私の時間の空いている限りでしたら、いつでもお相手をして差し上げますわ」 弥生さんはそう言って、車の方に再び戻っていった。 一度、弥生さんの方を見たけど、弥生さんは俺を見てはいなかった。 …なんとなく、仕事に身が入らない…。 いや…。 そんなことを気にするのはやめよう。 そんなことを気に懸けて、一体どうするっていうんだ…。 俺はただ、弥生さんに従ってればそれでいいんだ。 弥生さんの言う通りに由綺と会って、弥生さんの言う通りに由綺と話して、弥生さんの言う通りに由綺を騙して、あるいは弥生さんの言う通りに弥生さんに抱かれて…。 …俺の自由にできる部分なんて存在しない。 わずかな力も持たない俺の、なんて…。 『満足しました?』って風に弥生さんは首を傾げて微笑む。 微笑めば微笑むほど、それは無機的になってゆく。 「…判りました」 こんな答が返ってくるだろうって予感はしてたかも知れない。 でも…。 というか、俺は、弥生さんにどう答えてもらえば安心できたんだろう? 「遅刻しますよ」 鋭く、弥生さんは告げる。 俺ははっと顔を上げる。 時計を見てる彼女の方が、むしろ時計みたいだ。 「あ…。はい…」 そうだ、行かなきゃ。 遅刻を大罪とする弥生さんの前で、時間に遅れるわけにはいかない。 「そうお悩みにならなくとも。その為に私がいるのですから。違いますか?」 「いえ…」 「私の時間の空いている限りでしたら、いつでもお相手をして差し上げますわ」 弥生さんはそう言って、車の方に再び戻っていった。 今日は喫茶店のバイトだ。 「え? 閉店時間までですか? …別にいいですけど、その分バイト代は…」 『判ってる』って風に手を振って、店長はカウンターの奥に消えてゆく。 どうでもいいけど、本気で退屈だ。 疲れることは全然ないけど、閉店まで時間を持て余すってのはかなり苦痛だ。 …と、もうすぐ終わりか。 お客さんだ。 「あ、すみません。もうオーダーストップなんですけど…」 「そうですか」 「残念ですわ」 「…弥生さん」 こんな時間に? 常連の弥生さんが、この店の閉店時間を知らないなんてことはないはずだ。 …また何か目的があるのかな…? 「それでは、もうすぐ閉店ですね?」 「え、ええ…」 俺の方も多少警戒する。 「お仕事ももうすぐお終いですわね?」 「よろしければ、私にお部屋までお送りさせて頂けないかと思いまして」 …やっぱりか。 彼女の目的っていったらそれしかないんだけど。 「別に俺、あれから由綺に何もそれらしいことなんてしてませんけど」 俺は小声で、でもできるだけ強気に弥生さんに告げた。 「そのようですね。約束を守って頂いて私も嬉しいですわ」 言葉ほどには嬉しそうじゃないみたいだけど。 「それで、由綺さんも心配しておりました。最近会えなくて、藤井さんのことが気懸かりだと」 「由綺が?」 「ええ」 「そんなに心許ない顔をなさらなくとも大丈夫ですわ。今日は、由綺さんに言われてここに参ったのですから」 「藤井さんがどんなご様子かと」 「ご様子も何も、見たままだよ…」 そして俺は 憮然 ぶぜん とする。 由綺がスタジオと局を行き来する毎日を送るみたいに、俺は俺の日常を精一杯送る。 それだけだ。 それ以上のことなんてできやしない。 悲しいけど。 「………………」 「…何ですか?」 精密な計測器具のような彼女の表情からは、沈黙の意味は読みとれない。 「今夜はわたくしも、藤井さんとゆっくりお話しできる程の時間が取れまして」 「はあ…」 「お話したいことなどございましたらお伺いできますが」 お話…ね…。 「もし藤井さんが、私との接触を拒むほどにふさぎ込んでおられる状態だとなれば、由綺さんにもご心配をおかけすることになりますし」 俺は一瞬、彼女に嫌悪の一瞥を向ける。 そこには、あの冷笑があった。 …確かにそうだ…。 嘘でも強がりでも、猫 俺が由綺に心配を懸けるのは避けなきゃいけない。 …悲しいことに、由綺が弥生さんに絶対の信頼を置いていることは事実だから。 「いかがでしょう?」 捻 一緒に行きます 断る 「ええ、判りましたよ…。…今夜は、お言葉に甘えさせてもらいます」 「嬉しいですわ。藤井さんが物判りの良い方で」 そう言って弥生さんは、真っ赤な唇の間から真っ白な歯を見せて微笑した。 「そして、誠実な方で」 「………」 図らずも、俺は うめ いた。 「それでは、藤井さんのお仕事がお済みになるまで、お店の前でお待ちしております」 俺は、カウンターの奥に、ゆっくりと引き返す。 何事もなかったみたいに店長は俺をちらりと一瞥し、そして閉店の作業に戻る。 …誰かに誠実である、って、能 一体、どういうことだったんだろう? そして店長は、俺に少し複雑な笑みを見せた。 「…せっかくですけど、お断りします」 声が震えてしまわないか気になりながら、俺は弥生さんに言った。 「今日は疲れてるし、そういう気分じゃないんです…」 「そうですか」 弥生さんははっきりとした声で答える。 気を悪くした様子も、食い下がる様子も全く見えない。 「ご気分が優れないのでしたら仕方がございませんね。あまりご無理をなさらないように」 いたわるような台詞を、弥生さんは、合成樹脂のように、全く温度無く言ってのける。 愛情も、母性も、波 湿度と体温すらもプログラムされなかった機械。 最高の合理性を誇る欠陥品…。 「それでは、今日のところは失礼させて頂きます」 彼女はドアに向かう。 「私にお話などございましたら、水曜日の夕方頃にでもここにいらして下さい」 「時間の空いている限り、お相手して差し上げられると思いますので」 「弥生さん…」 行きかける彼女の名前を、俺は思わず呟く。 だけど… …弥生さんに言うべきことなんて、ほんとにあるのかな…? そんな呟きを、弥生さんは聞きつけたみたいだった。 「ご安心下さい。由綺さんには、極力ご心配をおかけしないようにお伝えしておきます」 「ええ…」 確かに、弥生さんの立場を考えればそうなるだろう…。 でも…。 「それでは失礼いたします」 でも、俺が弥生さんに言おうとしたのは、その事だったのか…? そして少しして、店のウィンドウの前を真黒の車が走り去っていった。 店を出ると、あの黒のドイツ車が体を震わせて俺を待ち受けてた。 車の中に乗り込むと同時に、背後で店の灯りが消えた。 培 車は緩やかに加速してゆき、ウィンドウに貼りつく夜景は止めどなく変化する。 空間の、或いは時間さえも動かない車内に、俺達二人だけが取り残された気分だった。 「…由綺は毎日、大変そうですか…?」 俺はできるだけ余裕を装って弥生さんに話しかけた。 「ええ…」 彼女の目線は、フロントガラスから離れない。 「あなた方の目から見て、ハードスケジュールと言えますわね。かなり過密な」 「そうですか…」 由綺…。 ほんの少しだけでいい、プライベートに会える時間が欲しい。 「ですが」 弥生さんはバックミラーで俺の顔を一瞥する。 「由綺さんは確実に実力をつけてきています」 「ええ…」 由綺なら、そうだろう。 きっと。 「ご自分でもそのことがお判りになるようで」 「日に日に、由綺さんが輝いてゆくのが判ります。完成に近づいてゆくのが」 完成…。 …そのスーパーヒロインが、この下界に残してきた唯一の日常。 それが、この俺ってわけか…。 もしも由綺が、恋人に去られても涙を流さず、白 それでもなお繊細な心を一片も失わないような都合の良いヒロインだったならば、箔 弥生さんは平然と俺に、彼女との別れを勧めるだろう。 強要さえするかも知れない。 …そして、薄 あの緒方理奈以上に完成されたスーパースター森川由綺を製造するだろう。 俺は…。 そんなことがどうでもいいことだなんて、俺は言えない。 由綺の夢を、俺のエゴで壊したくない。 車が減速してゆくのが判る。 …二人でがんばってゆく。 そう決めてたはずなのに、いつの間にか由綺本人にばかり戦わせて、俺は何一つ変わることをしない。 無力なのか、臆病なのか…。 車は完全に速度を失う。 ギュッ…。 サイドブレーキの音に、俺ははっと顔を上げた。 気がつけば、弥生さんがじっと俺の顔を見つめている。 「……………」 何が言いたいんだろう…? だけど俺も、沈黙で応えることしかできない。 「……………」 「……………」 「着きましたよ」 え…? 「えっ? …ああ、ああ」 言われて周りを見ると、俺のアパート近くの駐車場だった。 「ええ…」 …考え事で、自分がどこにいるのかすらも忘れてしまってたみたいだ。 そんな俺の様子を見て、弥生さんは少し首を傾げる。 「大丈夫…。判ってますよ…」 俺はうつむいたまま必死に笑ってみせる。 どんなにやっても、力の抜けたような、諦めたみたいな笑いにしかならないのは判ってたけど。 車を降りようとシートベルトに手をかけた時、抜 俺のすぐ目の前に弥生さんの顔が迫っていることに気づいた。 「え…?」 鳩 化学薬品の合成で造られたみたいな弥生さんの指が、俺の頬から耳を撫でてゆく。 体温などまるで感じられない。 そのひどく不可思議な感覚に、俺は身も心も萎縮した。 弥生さんは運転席から身を乗り出して、俺に身体を重ねてくる。 「や、弥生さん…! お、俺、こんなとこでなんて、そんなつもりは…」 だけど俺の唇は、彼女の指で塞がれる。 精密な機械を操作するみたいに、弥生さんは俺の唇を神経質に指でなぞる。 その、触れるか触れないかの微妙な感触に、俺の身体は震える。 未知の快感と、恐怖を知って。 「…シート、倒しますわ…」 シートベルトの金具をつかんだままの俺の手が、それを離そうとしない。 弥生さんの手がシートの下に滑り、背もたれが頼りなく後ろに倒れる。 「うわ…」 ほぼ水平に倒れたシートに寝かされた格好の俺の上に、弥生さんがのしかかってくる。 重くはないけど、暗闇を背後に従えた弥生さんの姿の方に威圧されそうだった。 肩からかけられたままのシートベルトが俺を抑えつけて、身動きも取れない。 手が汗をかき、がたがたと震える。 金具が外れない。 ただ虚しく金属のこすれる音を立てるだけだ。 弥生さんは親指の腹で、俺の唇をいいように弄ぶ。 少し微笑み、弥生さんはそこに口づけをする。 不思議な快感に、俺の口はだらしなく半開きになる。 「………………」 俺は言葉にならない声で うめ く。 それは甘い吐息となって、弥生さんの頬に吹きかかる。 彼女は少し目をつむる。 それから悪戯でもするように、俺の肌に軽く歯を立てる。 そのわずかな痛みが、俺には実際の何倍にも感じられた。 ますます手に力が入るが、金具は外れてくれない。 シートベルトが俺をきつくきつく締めつけているような気がする。 金属のこすれる音が自分の吐息と混じり合い、ますますやり切れない音となって響く。 「ううう…」 息が苦しい。 俺は喘ぐ。 でも、弥生さんは離してくれない。 彼女の指は、俺の喉元を滑るみたいにいじり始める。 倒れたシートに縛りつけられたまま、俺は身をよじる。 「うっ…!」 鋭い痛みが走った。鎖骨に爪を立てられる。 俺をそんな目に遭わせながら、弥生さんは、まるで俺の様子には興味がないみたいな顔をしている。 その眼差しは全くいつもと変わらないはずなのに、俺には何故か軽蔑されてるように見えた。 そんな目で見ないでくれ…。 心の中で俺は叫んでいた。 再び弥生さんの手がシートの下に伸び、俺のシートが後方に滑る。 上からのしかかるようにして、弥生さんの顔が近づいてくる。 後ずさることはおろか、体を起こすことすらできない。 俺の手はただ空しく、やや力を失い、金具を軋ませるだけだった。 本能はすでに弥生さんの虜になっていた。 理性はすでに痺れるような感覚に押し潰されていた。 俺は半開きの唇で弥生さんを迎える。 弥生さんの真剣な眼差し…。 そのくせ、俺の扱いはどこかぞんざいだった。 「そんなに怖がらないでください」 「藤井さんを満足させることが私の望みなのですから」 その言葉に嘘はないだろう。 ただ、そこに心がないだけなんだ。 おかしいですよ、弥生さん。 こんなのは異常だ…。 でも、俺は彼女から逃れることができない。 無理にでもシートベルトをこじ開けようとする気力がわいてこなかった。 鼻先で俺の鼻腔をくすぐる弥生さんの微笑。 その向こうに、車の低い天井。 閉ざされた四角い箱の中で、俺は、椅子に縛りつけられ、妖しく美しい女性に弄ばれていて…。 例え、このまま喉を握りつぶされたとしても、俺は何もできないんじゃないだろうか。 それを思うと、怖ろしいという感情と同時に、ぴりぴりとした快楽が俺の頭の内側を刺激した。 俺はあられもなく息を荒げる。 服の中が熱く汗ばんでるのが判る。 突然、鋭い感覚が身体のどこかに走る。 「うあっ…!」 それが痛みなのか快感なのか、自分でもわからなかった。 俺の声に弥生さんははっとしたみたいに手を離す。 「…痛かった…ですか…?」 「う、うん…」 思わずあげてしまった自分の声が意外に大きく、恥ずかしくて目を合わせられない。 「…申し訳ございませんでした。…男性の方はどうされると良いのか…よく判りませんので…」 「…………?」 あれだけ俺を責め立てておきながら、今さら何を言っているんだ? 「ここは、痛いのでしょうか?」 「ううっ…」 「今のはよろしかったのでしょうか」 まるで不思議なものを見るみたいに俺を見る弥生さん。 でも、俺には今の刺激が自分にとってどうなのかもわからない。 「よろしかったのですね」 弥生さんの唇がまた俺に近づいてきて、さまざまな刺激を加える。 …どうして、愛してもいない男にこんな事ができるんだろう…。 白んでゆく頭の中で、そんなことを考える。 少なくとも、俺を傷つけようとしてぞんざいな扱いをしていたわけではなさそうだ。 それがわかっただけでも…。 俺の手はもう、シートベルトの金具と格闘するのを諦めた。 弥生さんは自分の座席から身を乗り出したまま、口にティッシュペーパーを当てている。 決して俺を嫌悪しての行為じゃないけど、そこには一片の愛情も感じられない。 「今のでよろしかったのですね?」 荒い息をついている俺を見下ろし、弥生さんはさらりと尋ねてくる。 その瞳には、一切の嫌悪や迷いや躊躇や疑惑は見られなかった。 不思議な、哀れみにも似た何かが、それも漂ってるだけにすぎなかった。 頬が上気するのを感じながら俺は再び目を閉じる。 「…………」 どんな情けない声が出てくるか自分で怖くて俺は、小さく頷いただけだった。 「藤井さんのお顔も汚れておりますわ」 そう言って彼女は、そのティッシュペーパーで俺の唇の周りを優しく拭いてくれた。 夕方になるまで適当に過ごしてから俺は『エコーズ』に向かった。 店の中には相変わらず、お客さんが少ない。 いつも通りだ。 俺はその中に弥生さんの姿を探す。 …いた。 奥の席に座って雑誌か何かをめくってる。 彼女の姿を見つけて俺は、一瞬嬉しくなってしまう。 それから少し後ろめたさを感じながら、病 「…弥生さん」 「あら、藤井さん」 弥生さんは雑誌から顔を上げて、首を傾げる。 「お一人ですか?」 「ええ…」 「よろしければ、そこのお席を」 「すみません」 俺は彼女の向かい側に座る。 「今日は、お暇なのですか?」 弥生さんは全く普通に尋ねてくる。 わざとらしい、なんてところが微塵も感じられない。 「…ええ。今日は別に予定が…」 自意識過剰だろうか、俺は上手に言えてない気がする。 「それでは、今夜は私とおつきあい願えませんでしょうか?」 「…いいですよ…」 弥生さんの全ての問いに対する答は全て用意されてる。 レールに乗ってわずかな狂いもなく正確に彼女の許に運ばれる。 そんな風にできてる。 「それでは参りましょう」 俺も彼女の後について店を出る。 …今日もお客さんは少なく、暇な一日だったな。 「いらっしゃいませ…」 「…弥生さん」 あの時言ってた通りに、弥生さんはこの店にやって来た。 「……………」 彼女は俺の声に立ち止まって少し首を傾げる。 「今日はお仕事ですのね」 「ええ…。あの、奥の方に席が空いてますから、どうぞ…」 俺はできるだけ平静を装って店内の一角を示したけど、見てみると今は一人の客もなく、ちょっと空振りしたかたちになってしまった。 だけど弥生さんは、「恐れ入ります」 と小さく頭を下げる。 「今夜、お仕事の後のご予定はございますかしら?」 「え、ええ…」 俺は曖昧に答える。 「由綺さんと、ですか?」 「まさか」 即座に否定する。 ここを曖昧にしておくと彼女の疑惑を深めてしまいかねない。 …俺は、いくら離れていたって、一緒の時間を過ごせなくたって、それでも由綺を愛し続けていられる。 「そうですか」 「今夜も藤井さんのお宅まで送らせて頂けないかと思いまして」 「ええ…」 弥生さんは俺を黙って見据える。 単純に、答だけを待ってる。 ええと…。 武 一緒に行く 行かない 「…ええ。お願いします…」 そんなはずはないのに、部 誰か、由綺のことを知ってる誰かに聞かれてしまいそうな気がした。 「かしこまりました。それでは、お仕事がお済みになるまでお待ちしておりますわ」 「それと、ハーブティを頂けますでしょうか」 「は、はい」 珍しく、弥生さんの方が日常に引き戻してくれた。 そして弥生さんは店の奥の、俺の示したテーブルに座って園芸雑誌か何かを静かに繰る。 仕事の終わる時間が近づいた頃、弥生さんは席を立った。 「それでは、お待ちしておりますので」 そして、店を出た。 客のいない『エコーズ』を出て、周りを見る。 向こうの路肩に一台の黒い車が停まってた。 弥生さんだ。 「…いえ、今日は遠慮させてもらいます」 俺はそっと断った。 こんな風に、弥生さんの肉体の虜になってちゃいけない。 こんな、魂のない機械みたいな女性の虜になんて…。 「そうですか」 それでも弥生さんは気を悪くした様子もない。 「それでは、ご自室でゆっくりと休養されるのがよろしいと思いますわ」 「…そうですね。そうしますよ」 やっぱり、釘を刺すのは忘れていないみたいだったけど。 「デミタスを頂けますでしょうか」 「あ、はい」 珍しく、弥生さんの方が日常に引き戻してくれる。 「今夜は、それだけ頂いて帰ることにいたします」 そして弥生さんは店の奥の、俺の示したテーブルに座って園芸雑誌か何かを静かに繰る。 やがて、珈琲の焦げるみたいな香りが漂い始めた。 「それでは、私はこれで」 静かに俺に声をかけて、弥生さんは一人で店を出る。 俺はただ、それを後ろから見届けるだけだった。 夕方になるまで適当に過ごしてから俺は『エコーズ』に向かった。 店の中には相変わらず、お客さんが少ない。 いつも通りだ。 俺はその中に弥生さんの姿を探す。 …いた。 丙 いつもの、奥のテーブルだ。 「弥生さん…」 俺はそっと声をかける。 「あら、藤井さん」 彼女は全く自然に顔を上げる。 「…今夜も、ご一緒して下さるのですか?」 「ええ…」 こんな白々しいことをしなくとも答は判ってるはずなのに…。 …結局、俺と彼女は同格の共犯者じゃなきゃいけないんだ。 「参りましょう」 「ええ」 俺と弥生さんは、なんでもないみたいに席を立って、米 なんでもないみたいに店を出る。 …今日もお客さんは少なく、暇な一日だった。 「いらっしゃいませ…」 「…弥生さん」 今日も時間通りに、弥生さんは店に来た。 「あら、今日もお仕事ですのね」 彼女はやっぱり俺に声をかけてくる。 「それでは、今夜も私とご一緒して下さるお時間はございませんかしら…?」 ええと…。 偏 一緒に行く 行かない 「ええ…。おつきあいさせてもらいますよ…」 答える俺の声も、編 乾いて、無表情だ。 「よかったですわ。今夜は誰かとお話ししたかったんです」 お話したかった…。 使い古された言い回しだ…。 「それでは、お仕事がお済みになるまでお待ちしております」 そして弥生さんはいつもの、奥のテーブルの席に向かった。 仕事の終わる時間が近づいた頃、弥生さんは席を立った。 「お待ちしております」 「ええ…。今夜は、遠慮させてもらいます…」 こんな風に、弥生さんの肉体の虜になってちゃいけない。 こんな、魂のない機械みたいな女性の虜になんて…。 「そうですか」 それでもやっぱり気を悪くした様子はない。 「それでは今夜は、ここで少々くつろいでから帰ることにいたしますわ」 そう言って弥生さんは、いつもの奥のテーブルの席に向かった。 「それでは、私はこれで」 静かに俺に声をかけて、弥生さんは今夜も一人で店を出る。 そして、俺はただそれを見届ける。 俺達はいつも、こんな感じだ…。 車の中で、俺達は何も話をしなかった。 ただ、外をぼんやりと眺めた。 窓の外の、戊 流れてゆく全てを。 「失礼いたします」 部屋に入り、後ろを振り返る。 そこには、何の表情も感じられない弥生さんがいる。 …どうして、由綺じゃなく彼女がここにいるんだろう。 「………」 弥生さんは小さく首を傾げる。 もう、そんなことを考えるのはやめてしまいたい…。 彼女がここにいてくれるんだ、報 それでいいじゃないか? …時期さえ過ぎたら、俺はまた由綺のところに戻れるんだから、それで…。 俺の目の前で弥生さんが微笑む。 機械が、峯 笑う。 …全てが、庖 不可解だ。 何も判らない…。 俺は弥生さんを抱きしめる。 「やよいさん…」 朋 彼女の胸の中で、ただ名前を呟く。 俺の欲しがっている答から、最も遠い人の名前を。 弥生さんは軽く、俺の身体を抱く。 これが、彼女の答なんだ…。 弥生さんは唇を俺の唇に軽く触れる。 優しいのはいつもそこだけだ。 あとは、ぞんざいな手つきで俺を激しく麻痺させていく。 かすかに感じられるのはハーブの香り。あの、緑の香りだ。 彼女は俺の口から唇を離すと、歯の間から仄赤い舌先を覗かせる。 今日もまた、彼女は俺をいたぶり、俺の中から由綺への想いを吸いとっていく。 俺を見ようともせず、俺の反応だけを相手にして。 まるで機械のようだ。 黄色のランプがついたらバナナを、赤色ならリンゴを、そうやって作業のように俺を高めていく…。 これは契約なんだ。そう割り切ったはずだ。 それなのに、弥生さんにこうされていると不思議なほど切なくなってくる。 ひどく冷ややか手つきを感じるたび、その思いは強くなっていく。 彼女の方は、表情すらもまるで変わらない。 何気ない手つきで、ふわり…と、ワンレングスの髪の毛をかき上げる。 その瞬間、彼女と目が合った。 ふっ…。 弥生さんは微妙に笑った。 全く意味の読みとれない、わずかなわずかな微笑だったけど、ひどく、淫靡 いんび だった。 下腹の辺りがぞくぞくと震える。 今の微笑は、俺に耐えることを完全に諦めさせた。 ひとつの山を越えると、蒸れた肌も見る間に冷えていった。 俺は屍のように脱力した身体をベッドにさらす。 弥生さんは、両手でティッシュペーパーを顔に当てて、しつこいほどに拭き取ってる。 再び、彼女と目が合う。 「ティッシュ、勝手に使わせて頂きました」 今夜も、俺の部屋は弥生さんの来訪を受けていた。 「また…するんですね」 「おかしなことを仰いますのね。望んでいるのは藤井さんの方でしょう?」 それは半分だけ嘘だ。 彼女もまた望んでいる。 天秤の一方に由綺を、もう一方に俺をのせ、その異様なまでの傾きを俺に見せつけてくる。 いくら顔をそらしても、黙って俺の目の前に突きつけてくる。 何度でも、何度でも。 いや、そんなことはどうでもいい。 今はただ…。 妨 弥生さんのあの、紅く湿った唇の、帽 白く整いすぎた肌の、忘 光のない瞳の、忙 温度を失った声の、房 それら全てに俺は溺れた。 …決して、彼女を愛してなんかいない。 彼女も俺を愛してなんかいない。 弥生さんの与えてくれたものを、ただ受け取ってるだけに過ぎない。 …愛なんか存在しない。 時間が来たら、いつだって別れられる。 冷めてなんかいない。 初めから温度なんか存在しなかったんだから。 ゼロから始まったものは、どこまでいってもゼロなんだ。 プラスもマイナスもない。 何も失わないから何も得ない。 最高の合理性だ…。 弥生さんは俺との行為をひとまず終えると、その名残をティッシュペーパーに吐きだす。 まるで残飯でも捨てるように、そこには何の感情も込められていない。 …気のせいだ。 俺は、何も失ってなんかいない。 きっと、疲れてるからだ。 こんな喪失感は、きっと…。 弥生さんは再び作業に戻る。 俺は口の中で小さくうめく。 何も失ってなんかいない…。 弥生さんを愛してなんかいない…。 愛してなんかいない。 愛してなんかいない。 愛してなんかいない。 愛してなんかいない。 愛してなんかいない…。 …心なんか、求めてない…。 そして俺はまた静かに うめ き、また彼女に処理される。 夕方になるまで適当に過ごしてから俺は『エコーズ』に向かう。 客の少ない店内に、前みたいに弥生さんの姿を探す。 あれ…。 「あれ…。冬弥君…」 由綺がここに…? 「わあ、偶然。今日はお仕事じゃないんだ?」 由綺は嬉しそうに俺の腕を引っ張る。 「由綺…?」 「私?」 「うん…ミーティング終わって休憩に出てきたとこ」 オフ… ってわけじゃないけど、一時的でも仕事から離れてくつろいでる由綺。 やっぱりどこか、一気に疲れているみたいに見える。 …見える、昧 だけじゃなく、実際に疲れ切ってはいるんだろう…。 「冬弥君、もし時間大丈夫なんだったら、一緒にお話ししない?」 「…今日はちょっとだけゆっくりしててもいいみたいだから…」 「あ…うん…」 別の女性を捜しに来てたなんて、自分でひどく恥ずかしい気持ちになる。 膜 話をする 断る 「う、うん…。そうだね、久しぶりに由綺と自由時間に会えたんだ。たまには、ゆっくりと話してもいいよね」 「あはは…。もう。そんな言い方やめてよ、冬弥君ー」 「『音楽祭』が終わるまでだってば」 「お、おい、由綺。そんなことここで言っちゃだめだろ…」 俺は慌てて彼女を手で制する。 「もう雑誌で発表されてるみたいだから大丈夫なんだ」 なんだ。 いくら由綺でも、そこまで天然で考えなしじゃないか。 「とりあえず座ろ。私達、一番奥のテーブルにいるんだ」 一番奥のテーブル…? 「弥生さんも一緒なんだけど…いいよね?」 「え…?」 そうか…。 弥生さんは由綺のマネージャーだから、いつも一緒なのは不思議でもないんだ…。 「行こ、冬弥君」 「う、うん…」 「…弥生さん。ほら、冬弥君いたよ」 「あら」 テーブルの向こう側で、弥生さんがゆっくりと顔を上げる。 「今日はお仕事ではないのですね?」 「え、ええ…」 まるで平然としてる。 どうしてそう平気でいられるんだ…? それとも、また何か企んでる? 「あ、悪いけど、俺…」 言いかけた時、蜜 「どうかなさいまして?」 由綺の後ろから覚えのある声が聞こえてきた。 「あ、弥生さん…」 「え…?」 俺は思わず声を出してしまう。 「何かございました?」 「あら、藤井さん」 早速彼女は俺に気づいた。 「弥生さんも一緒なんだ」 「…ねえ、冬弥君も一緒のテーブルでいいよね、弥生さん?」 由綺は俺の腕をつかみながら弥生さんを見上げる。 「私は構いませんが」 俺なんか見てないみたいに答える弥生さん。 「よかった」 「…じゃ、いいよね、冬弥君。行こ」 「あ、うん…」 俺は由綺に手を引かれるままにテーブルに向かう。 そうか…。 弥生さんは由綺のマネージャーだから、いつも一緒なのは不思議でもないんだ…。 そして俺達三人は改めてテーブルに着いた。 着席したテーブルの向こう側で、弥生さんがゆっくりと顔を上げる。 「今日はお仕事ではないのですね?」 「え、ええ…」 まるで平然としてる。 どうしてそう平気でいられるんだ…? それとも、また何か企んでる? 「…どうしたの? 弥生さん…?」 不意に由綺が彼女の顔を覗き込んで尋ねる。 「…冬弥君が、どうかしたの?」 「いえ」 俺には全然判らないけど、由綺には感じられる何か、棉 心の動きがどこかに表れていたんだろう。 たとえば、焦りとか…。 今夜、弥生さんは、彼女らしくもなくミスを犯してしまったみたいだ。 「いつも熱心な給仕さんが、私服で私達の前に座っているというのも、不思議な気がいたしまして」 「そうだよね。…ここで会う時って決まって、私達が仕事中か、冬弥君が仕事中かのどっちかだもんね」 「ほんと…。冬弥君も私も、今日この時間に、ここに来てるなんて…」 …そう。 俺は、他の人に会いに来てた。 由綺じゃない、その隣の女性に…。 「…冬弥君? …疲れてるの?」 「え?」 気づくと、由綺が気遣わしそうに俺を見つめている。 「そ、そんなことないよ。由綺こそ、人のこと心配できるほど余裕じゃないんじゃないの?」 「ま、まあ、そうだけど」 「でも大丈夫だよ。大変だけど、楽しいから」 「…弥生さんとか、緒方さんとか、みんな、私の為に一生懸命になってくれてるし…」 「つらいなんて、言ってられないよね。私だけ」 「由綺…」 「時々、弥生さんから冬弥君のこと、聞いてたんだ」 「…冬弥君は冬弥君で、いつも、一生懸命に暮らしてるって…。…私のこと、いつも考えてくれてるって…」 「弥生さんが…?」 「………………」 「…みんなに『ありがとう』なんて言うのも、簡単すぎるみたいな感じがするから、私…」 「って、こんな話、また今度でいいよね。今、そんな話聞きたくないよね」 由綺は言葉を濁す。 「…冬弥君、大学とか、どう? 大変?」 そして、早急に話題を変えた。 「あ、うん…」 俺もそれに合わせる。 「この間まで冬休みだったし、もうすぐ春休みになっちゃうから、今が一番大変っていったら大変だけど」 「…期末試験とかも、あるやつはあるし…」 「…うん。私、出席足りてないかも知れないから、留年かも…」 「それは大丈夫だよ。俺達の学科、割と出席には甘いし、由綺も真面目にレポートとか提出してるみたいだしさ」 「だといいな…」 由綺はそっと微笑む。 こんな弱々しく笑って、彼女は俺の倍以上の生活を課せられてるんだ…。 「ね、みんな、どうしてる?」 「みんな?」 「美咲さんとか、はるかとか、彰君とか…」 「ああ…。みんな、変わんないよ…」 変わらない… なんてことは決してなかったけど、その変化を含めて『変わらない』ってことなのかも知れない。 みんなのことを思い返し、薬 不謹慎にも、俺は、少し笑った。 「え? どうかしたの、冬弥君?」 「ん? なんでもない」 「…みんな、由綺が学校に来るの待ってるみたいだよ。『音楽祭』終わっても、学校さぼるなよ」 「うん。毎日でも行くから」 「さぼってばっかりいると、はるかになっちゃうからさ」 「もう、はるかが聞いたら怒るよー」 それから笑うのをやめ、愈 「…怒らないね、はるかだったら…」 そして自分で困ったみたいに笑う。 こんな下らない友達ネタすらも、どこかぼんやりと、懐かしい。 その時、不意に弥生さんが席を立った。 「弥生さん…?」 夕方になるまで適当に過ごしてから俺は『エコーズ』に向かう。 客の少ない店内に、前みたいに弥生さんの姿を探す。 あれ…。 「あれ…。冬弥君…」 由綺がここに…? 「わあ、偶然。今日はお仕事じゃないんだ?」 由綺は嬉しそうに俺の腕を引っ張る。 「由綺…?」 「私?」 「うん…ミーティング終わって休憩に出てきたとこ」 オフ… ってわけじゃないけど、一時的でも仕事から離れてくつろいでる由綺。 やっぱりどこか、一気に疲れているみたいに見える。 …見える、養 だけじゃなく、実際に疲れ切ってはいるんだろう…。 「冬弥君、もし時間大丈夫なんだったら、一緒にお話ししない?」 「…今日はちょっとだけゆっくりしててもいいみたいだから…」 「あ…うん…」 別の女性を捜しに来てたなんて、自分でひどく恥ずかしい気持ちになる。 浴 話をする 断る 「う、うん…。そうだね、久しぶりに由綺と自由時間に会えたんだ。たまには、ゆっくりと話してもいいよね」 「あはは…。もう。そんな言い方やめてよ、冬弥君ー」 「『音楽祭』が終わるまでだってば」 「お、おい、由綺。そんなことここで言っちゃだめだろ…」 俺は慌てて彼女を手で制する。 「もう雑誌で発表されてるみたいだから大丈夫なんだ」 なんだ。 いくら由綺でも、そこまで天然で考えなしじゃないか。 「とりあえず座ろ。私達、一番奥のテーブルにいるんだ」 一番奥のテーブル…? 「弥生さんも一緒なんだけど…いいよね?」 「え…?」 そうか…。 弥生さんは由綺のマネージャーだから、いつも一緒なのは不思議でもないんだ…。 「行こ、冬弥君」 「う、うん…」 「…弥生さん。ほら、冬弥君いたよ」 「あら」 テーブルの向こう側で、弥生さんがゆっくりと顔を上げる。 「今日はお仕事ではないのですね?」 「え、ええ…」 まるで平然としてる。 どうしてそう平気でいられるんだ…? それとも、また何か企んでる? 「あ、悪いけど、俺…」 言いかけた時、理 「どうかなさいまして?」 由綺の後ろから覚えのある声が聞こえてきた。 「あ、弥生さん…」 「え…?」 俺は思わず声を出してしまう。 「何かございました?」 「あら、藤井さん」 早速彼女は俺に気づいた。 「弥生さんも一緒なんだ」 「…ねえ、冬弥君も一緒のテーブルでいいよね、弥生さん?」 由綺は俺の腕をつかみながら弥生さんを見上げる。 「私は構いませんが」 俺なんか見てないみたいに答える弥生さん。 「よかった」 「…じゃ、いいよね、冬弥君。行こ」 「あ、うん…」 俺は由綺に手を引かれるままにテーブルに向かう。 そうか…。 弥生さんは由綺のマネージャーだから、いつも一緒なのは不思議でもないんだ…。 そして俺達三人は改めてテーブルに着いた。 着席したテーブルの向こう側で、弥生さんがゆっくりと顔を上げる。 「今日はお仕事ではないのですね?」 「え、ええ…」 まるで平然としてる。 どうしてそう平気でいられるんだろう…? それとも、また何か企んでる? 「…どうしたの? 弥生さん…?」 不意に由綺が彼女の顔を覗き込んで尋ねる。 「…冬弥君が、どうかしたの?」 「いえ」 俺には全然判らないけど、由綺には感じられる何か、両 心の動きがどこかに表れていたんだろう。 たとえば、焦りとか…。 今夜、弥生さんは、彼女らしくもなくミスを犯してしまったみたいだ。 「いつも熱心な給仕さんが、私服で私達の前に座っているというのも、不思議な気がいたしまして」 「そうだよね。…ここで会う時って決まって、私達が仕事中か、冬弥君が仕事中かのどっちかだもんね」 「ほんと…。冬弥君も私も、今日この時間に、ここに来てるなんて…」 …そう。 俺は、他の人に会いに来てた。 由綺じゃない、その隣の女性に…。 「…冬弥君? …疲れてるの?」 「え?」 気づくと、由綺が気遣わしそうに俺を見つめてる。 「そ、そんなことないよ。由綺こそ、人のこと心配できるほど余裕じゃないんじゃないの?」 「ま、まあ、そうだけど」 「でも大丈夫だよ。大変だけど、楽しいから」 「…弥生さんとか、緒方さんとか、みんな、私の為に一生懸命になってくれてるし」 「つらいなんて、言ってられないよね。私だけ」 「由綺…」 「時々、弥生さんから冬弥君のこと、聞いてたんだ」 「…冬弥君は冬弥君で、いつも、一生懸命に暮らしてるって…。…私のこと、いつも考えてくれてるって…」 「弥生さんが…?」 「………………」 「…みんなに『ありがとう』なんて言うのも、簡単すぎるみたいな感じがするから、私…」 「って、こんな話、また今度でいいよね。今、そんな話聞きたくないよね」 由綺は言葉を濁す。 「…冬弥君、大学とか、どう? 大変?」 そして、早急に話題を変えた。 「あ、うん…」 俺もそれに合わせる。 「この間まで冬休みだったし、もうすぐ春休みになっちゃうから、今が一番大変っていったら大変だけど」 「…期末試験とかも、あるやつはあるし…」 「…うん。私、出席足りてないかも知れないから、留年かも…」 「それは大丈夫だよ。俺達の学科、割と出席には甘いし、由綺も真面目にレポートとか提出してるみたいだしさ」 「だといいな…」 由綺はそっと微笑む。 こんな弱々しく笑って、彼女は俺の倍以上の生活を課せられてるんだ…。 「ね、みんな、どうしてる?」 「みんな?」 「美咲さんとか、はるかとか、彰君とか…」 「ああ…。みんな、変わんないよ…」 変わらない… なんてことは決してなかったけど、その変化を含めて『変わらない』ってことなのかも知れない。 みんなのことを思い返し、礼 不謹慎にも、俺は、少し笑った。 「え? どうかしたの、冬弥君?」 「ん? なんでもない」 「…みんな、由綺が学校に来るの待ってるみたいだよ。『音楽祭』終わっても、学校さぼるなよ」 「うん。毎日でも行くから」 「さぼってばっかりいると、はるかになっちゃうからさ」 「もう、はるかが聞いたら怒るよー」 それから笑うのをやめて、暦 「…怒らないね、はるかだったら…」 そして自分で困ったみたいに笑う。 こんな下らない友達ネタすらも、劣 どこかぼんやりと、懐かしい。 その時、裂 不意に弥生さんが席を立った。 「弥生さん…?」 和 ぷるるるるーーー。 「はい、藤井ですけど…」 「夜分遅くに失礼いたします。私、緒方プロダクションの篠塚と申す者ですが」 弥生さんだ。 「俺…冬弥ですけど…」 「突然にお電話して申し訳ございません。少々お話ししたいことがございまして」 「はあ…」 『申し訳ない』って感じは全くしないんだけど。 「『音楽祭』のことでですが。今から、多少お時間はございますでしょうか?」 「え…? ああ…」 ええと…。 藁 ある ない 「ええ…。少しくらいだったら出られますよ」 「恐れ入ります。それでは、これからすぐに藤井さんのお宅に向かいますわ」 そして電話は切れた。 最後の最後に、彼女は、俺に何を言ってくるんだろう…。 ピンポーーン。 弥生さん… だね…。 「はーい…」 「夜分に大変ご迷惑をおかけします」 「いえ…」 迷惑をかけようがかけまいが、弥生さん本人は何とも思ってない。 そんなことには、もう慣れた。 「…中、どうぞ…」 俺は一歩退いて室内を示したけど、「今夜は遠慮いたします。よろしければ、車の中でお話を」 「…判りました。…ちょっと待って下さい。何か上に着てきますから」 「恐れ入ります」 そして俺はジャケットを羽織って外に出た。 今夜もひどく冷えて、俺の吐く息は嘘っぽいほどに真っ白で、それはそれだけで何か別の物体みたいに見えた。 何げなく、弥生さんを見る。 彼女のシャープな唇にもやはり、白く濃い吐息がまとわりついてる。 …肌と肌とでは全く感じられない彼女の体温が、こんな風にかたちになって見えてる。 不思議な感覚だ…。 「どうかなさいました?」 俺の凝視に気づいて、彼女は振り返る。 その目にはやはり、温度は宿っていない。 「別に…」 そう答えると、弥生さんは再び黙って歩き始めた。 いつものように弥生さんは俺を助手席に座らせると、滑らかに車を走らせる。 いつものように、黙ったままで。 「…今日はどこへ?」 「決めておりません」 その瞳は、相変わらず前方の夜景だけを見つめている。 「…それで、お話って…?」 もう一度、俺は話を切り出す。 「明日の『音楽祭』への出場に備えて、由綺さんは最高のコンディションを保っておかなければなりません」 「判ってますよ」 なにも、そんなことを、今更この人に言われなくたって。 「それでしたら、用件はいつもと同じです。由綺さんにつきまとったりして、余計な心労をおかけにならないようにと」 「そんなことしないって、一体、何回言わせるんですか…」 もう、俺の声は自嘲気味に笑ってさえいる。 「それを示される意味でも、申し訳ございませんが、今夜は一晩、私とおつきあい願います。いかがでしょうか?」 「いかがも何も…」 俺の意向なんて、弥生さんには何の意味も持ってないんだろう…? 黒のBMWは、いつの間にか街の光から離れた、寂しげな通りを走っていた。 「大切な時ですので、みだりに由綺さんにお会いして欲しくはないのです」 「…弥生さんらしくない、早とちりですね…」 …いつの頃からだろう。 俺が、この助手席で笑えるようになったのは…。 「俺一人がいくら会おうとしたって、会えるわけないじゃないですか…」 「…俺は、今、由綺がどこで何をしてるかすら全然知らないんですから…」 「………」 弥生さんは何か言いかけて、重く口をつぐむ。 窓の外に、街の光はいよいよ心細くなる。 「…そうでしたわね。…忘れておりましたわ」 忘れていた…。 俺はひどい違和感を感じた。 この弥生さんに『忘れる』なんてことがあるのか…。 特に、俺と由綺とのことで。 …いや、弥生さんはそのことを判ってたはずだ。 判ってて、弥生さんは、俺を連れ出したんだ…。 だけど弥生さんは、何も言わない。 やがて、車は減速し、停まった。 「お話ししても、よろしいでしょうか?」 車を降りながら弥生さんはそっと呟いた。 弥生さんの方からこんなことを言い出すなんて、意外だ。 「…私、これまで誰かを好きになった事がございませんでした」 「…由綺さんに、お会いするまでは…」 「ええ…」 麻痺したみたいな声で、俺は相槌を打つ。 「学生の頃、とても私に愛情を持って下さった男性の方がございまして」 「年下の方でしたけれど…私に憧れにも近い感情をお持ちでして」 「でしょうね…」 そう…。 彼女は、憧れとか、信仰の対象になるタイプの女性だ。 …だから、彼女を愛する人間は、いつだって不幸だ。 「一度だけその方のお誘いを受けて…」 「…その夜、抱かれました…」 話しながら弥生さんは静かに歩き出す。 「何の感動もありませんでした」 「………………」 俺も少し遅れて並んで歩く。 「初めての相手なのに、何の感情も、何の愛情も感じられず…ただ……嘘寒くて…」 「私を抱きながら、その方が、次第に哀しみに支配されてゆくのだけが感じられましたわ」 …その哀しみは、今、この空間に流れる、そんな空気だ…。 「男性の方とは、それきりでした」 彼女の声の調子は、さっきの俺のように、自嘲的な色彩を帯びる。 「それから、悪戯半分に女性の方々と愛し合うことを覚えました」 「…どう思われようと構いませんわ」 「ええ…」 「女性の方達とは何度となく夜を過ごしましたが…愛情を感じることは、やはり、できませんでした」 凭 「すみません、弥生さん。俺、今夜は一人でいたいんです」 「…でも、約束します。『音楽祭』に差し支えることは絶対にしません…」 俺は静かに、そして強くそう言った。 「…そうですか。…信じる…ことはできませんけれど、そのお言葉に従うことにいたしましょう」 静かなその声からは、憤りやいらつきは全く読み取れなかった。 「それでは失礼いたします」 不思議なほどゆっくりとした口調で彼女は別れの挨拶をして、そして電話は切れた。 少しだけ奇妙には感じられたけど、俺はそっと受話器を戻した。 弥生さんには悪いけど、今夜は、あの人とは会いたくない…。 そんな風に感じられた。 シャワーを浴びて、由綺のことや弥生さんのこと以外に何も考えられないまま、俺はベッドに横たわる。 …ほんとに、俺がやってあげられる事って、何もないのかな…?  暖房をかけてるのに、刹 ひどく、寒い。 そろそろTVで『音楽祭』の生中継が放映される時間だ。 生放送ならではの緊張感が画面の中に溢れてる。 聴き知った曲がいくつも流れた後に、いよいよ由綺の番だ…。 …今日の仕事も終わった。 今日も俺はこんな風に、ここで由綺の仕事を手伝ってる。 あれから何も変わってない。 変わったことといえば、由綺が理奈ちゃんと (初の)コラボレーションアルバムCDを出したことと、俺達は 逢瀬 おうせ の時間の作り方がうまくなったこと。 由綺とは苦労しながらも、以前よりは一緒にいられるようになれたってことくらいだ。 森川由綺の人気は相変わらず上昇曲線を描き、その角度もより直角に近づいてるって話だ。 だけど、俺達の間に変わったことなんて何もない。 以前のままの、いや、会えなかったことでちょっとだけ愛情の深まった、俺と由綺がここにいるだけだ。 …由綺を待ってから帰ろうか…。 何げなく俺はそんな風に思う。 そしてロビーの待合い席に向かう、咾 こんなところまでも以前のままだ。 と、あれ? 長椅子には誰か先客がいた。 弥生さん… だ…。 俺はちょっとだけためらってから、それから、やっぱり彼女に声をかけた。 「弥生さん?」 「藤井さん」 特に珍しくもなさそうに彼女は振り返る。 「どうしたんですか、こんなところで?」 弥生さんはちょっと首を傾げる。 「由綺さんをお待ちしております」 俺のことを見てるんだか見てないんだか、まるでそんな感じだ。 …こんなところまで以前ままだ。 「…俺も、そうなんですよ…」 俺はとぼけた風に言ってみせて、彼女の隣に腰掛ける。 「由綺を待ってようかって思いまして…」 「そうですか」 そんな弥生さんの口調も、俺にとぼけてみせようって風にも聞こえる。 「…残念でしたね、由綺…」 「ええ」 『残念』なんて風には全く感じられない口調。 『音楽祭』。 結局、最優秀賞は理奈ちゃん… 緒方理奈が受賞した。 前評判通りといえばそうだったけど。 ただ、参加者中で一番キャリアの浅い由綺がごく僅差で次点についたってのはかなりの波乱を巻き起こしたみたいだった。 「たまたま緒方さんが一緒のエントリーだっただけですわ」 そして弥生さんは俺の方に少し首を傾げる。 啾 その顔は微笑んでるようにも見える。 「ええ、そうですね…」 そう。 由綺と理奈ちゃんが拮抗し、そして最終的に理奈ちゃんの方が最優秀賞を受賞しただけだ。 重要なのは、この二人が実力的に拮抗できたってこと、他を大きく引き離してたってことだ。 その実力は、誰もが認めた。 それは、由綺以上に弥生さん本人の勝利なんじゃないかな…。 そう思うと、この弥生さんだって優しく見えてくるから不思議だ。 可愛く、そして優しく。 …俺も由綺みたいに、ちょっとは弥生さんの表情を読めるようになったのかな。 なんだか本当に、弥生さんが優しく見えるよ。 この優しい笑顔で、弥生さんは、由綺に、どんなことを言ってあげるんだろう。 どんな風に接してあげるんだろう。 今日これから由綺と一緒に帰るとして…。 と、あれ? でも… 「…でも、弥生さん。今日は車じゃないんですか?」 いつもだったら弥生さんは駐車場で待ってるはずだ。 こんな、ロビーの待合い席なんかじゃなしに。 「…たまには…歩くのもよろしいかと、思いまして…」 弥生さんは、いつにもなく口ごもる。 『由綺さんと一緒に』を必死で抑えるみたいに。 でも、なるほど…。 弥生さんも、自分なりの『好き』の方法を見つけたみたいだ。 同性で、しかも俺って存在を持つ由綺に対して。 どうしてか、俺は少しだけほっとした。 「じゃあ、今日は俺…」 俺は長椅子から立ち上がる。 「…………」 「今日は帰りますよ、俺」 …せっかくの弥生さんの『好き』を、ちょっとだけ大切にしてみたい。 そんな風に思った。 だから今日は、帰ろう。 「…よろしいんですか?」 「ええ…」 弥生さんらしくない、まるで遠慮深い台詞だ。 「まあ、勝者の余裕ってやつですよ」 俺は少し笑って手を振ってみせる。 「…うらやましいですわ…」 そして弥生さんもゆっくりと立ち上がった。 「…俺だって弥生さんがうらやましいですよ」 手段が乱暴なだけで、あそこまで由綺を愛し、理解できてた弥生さんが。 「藤井さんも…由綺さんも…」 そして、差し出された弥生さんの白い両腕が俺を不意に包み込む。 髪の間から、かすかな香りがした。 「弥生さん…?」 まるで嫌がる素振りも見せずに俺は言った。 だけど弥生さんは何も答えない。 ただ切なげな、それでもやっぱり温度の感じられない吐息が俺の首筋を撫でる。 「弥生さん…」 それでも彼女は何も言わない。 ただただ必死に俺を抱きしめるだけだった。 「はは…。今日は…キスはしてくれないんですね…?」 不謹慎だとは思えたけど、囓 だけど、何故だか今はこんな冗談を言うのがふさわしく思えた。 「ええ…」 少しかすれた声で弥生さんは答える。 「だって…私は、藤井さんを愛しておりませんもの…」 「そうですよね…」 判ってる。 痛いほどに、すごく。 「…私が藤井さんを愛してしまったら… 由綺さんが、苦しみます…。ですから…」 「…………」 そう…。 全部判ってたよ…。 「ですから、私は決して…藤井さんを愛しません…」 そして再び、弥生さんは俺をきつく抱きしめ、そして深く深く吐息した。 哀しいけど、その通りだから。 いや、哀しくなんかない。 弥生さんが俺を愛さないみたいに、俺もそのことを哀しくなんて思わない。 俺達は等しく、同じ罪から逃れなきゃいけないんだから…。 だから、だったら…。 「だったら…俺を離さなきゃ…」 哀しいけど、圻 哀しくなんかないけど…。 だけど弥生さんは何も言わない。 ただ静かに吐息するだけだ。 静かに、埀 とても静かに。 そして俺達、決して相手を愛してなんかいない俺達は静かに抱き合った。 最後の抱擁を、いつまでも味わった。 交わした言葉が、哀しい嘘になってしまう寸前までに。 「あれ? 冬弥君、先に帰っちゃったんだ…?」 「ええ。今日は私が由綺さんをお送りいたしますわ」 俺が局の建物の外に出た時、はるか背後からそんな幸せそうな会話が響いてきた。 垤 「それじゃ、弥生さん…」 俺は助手席の窓枠越しに、弥生さんに手を振った。 「お疲れ様でした」 今までの会話の後でのそんな台詞は、あまりの型通りすぎて逆に微笑ましかった。 「…なんだか俺達、ちょっとだけ似てますね」 「?」 車の奥で怪訝そうな顔をする弥生さん。 「少なくとも、これから家に帰って、独りぼっちで過ごすところは全く同じですよ…」 すると弥生さんは少しだけ微笑んで、埖 「そうですね」 それから二人は、それ以上には笑わなかったけれど、少し和むような気分になれた。 「…弥生さん」 俺はもう一度呼びかける。 「はい」 「おやすみなさい」 そして小さく手を振る。 弥生さんは少し首を傾げたけど、塋 「おやすみなさい」 右手を肩の辺りにまで差し上げてみせてくれた。 そしてそのまま何も言わず、助手席の窓を閉ざし、車を走らせていってしまった。 クリスマスイヴなのに、堽 確かに、今日はひどく疲れすぎた。 少し横になった方がいいかも知れない。 その後で、由綺に電話をかけてみようか…。 それとも、もう眠っちゃったかな…。 何にしても、今日はいろいろなことがあり過ぎて、すごく疲れた…。 そんなことを考えながらベッドの上に横になってると、墺 いつの間にか深い眠りに落ちていた。 「どうぞ」 「え? はあ…。…でも、どこへ?」 「お食事ですわ」 「はあ…」 この間のこともあって、弥生さんの車に乗るのはちょっと怖かったけど、壓 とりあえず俺は助手席に収まった。 ここか…。 「参りましょう」 「あ、はい」 「あれ、冬弥…?」 「彰…」 なんで今日に限って彰がいるんだ…。 「失礼いたします」 そう言って弥生さんは一人で窓際のテーブル席に着いてしまう。 「誰…?」 彰は不審げに、俺と一緒の年上の女性を目で示す。 「あー…と、俺の仕事場の上司…」 「上司…?」 「そう、上司…」 嘘はついてないけど…。 彰、変な勘違いだけはしないでくれよ…。 「冬弥…?」 「ん…?」 「何か仕事でミスったの?」 「ま、まあそんなもん…」 その程度の勘違いなら…。 「とにかく俺、ちょっとあの人と食事しなきゃいけないから…」 「うん…」 そして俺は弥生さんの向かいの席に着いた。 軽い夕食を頼み、ほとんど会話もないまま食事が終わろうという時、夾 「風景画が好きか、でしたわね?」 「はいっ?」 え…? あ、そういえば俺、さっきそんなことを…。 何げなく言ってたからすっかり忘れてた。 「前にも申し上げました通り、好きですわ」 「はあ…」 「って、まさか、それを言う為に俺を?」 「はい」 あ…。 だめだ。 この人の行動パターン、俺達と全然違いすぎる。 「時にはこのように、趣味のことなどを語らう時間を持つのも良いかと考えまして」 「退屈でしょうか?」 「あ、いえ…」 退屈とか面白いとか、もう既にそんな次元の話じゃない。 どうせ食事も最後のコーヒー(弥生さんはハーブティだけど)に入ってる。 最後までつきあったって、そう長くはならないはずだ。 「そういえば、前に難しいこと言ってましたよね?」 「難しい?」 「あ、いえ…」 俺が理解できなかっただけかもだけど。 「ひどく大きなものに見えて、とても小さいとか…」 「そのお話ですか」 「たとえば」 弥生さんは目で壁に掛かってる写真を示した。 草原の中、犬の横で男の人が帽子を顔に掛けて眠ってる。 なんだかノスタルジックな感じがする風景だ。 「あの風景画ですが」 「え? いや、あれは写真ですけど…」 「風景画ですわ」 「はあ…」 カウンターの店長に目を遣ると、『そうだ』って風に頷いてた。 「ワイエスの風景画です」 「うそ…。あれ、絵なの…?」 「はい」 うわ…。 俺、ここでずっとバイトしてたけど、ずっと写真だとばっかり思ってた。 「つまりはそういうことだと思います」 「はあ…」 何が? ピンポーーーン。 「はーい…」 弥生さん…だな…。 「おつきあいありがとうございます」 「…あれ? 今日は車じゃないんですね…?」 「駐車場をお借りしましたが」 「え、ええ…」 噛み合ってるかなあ、この会話って。 「少し、歩きましょうか」 「はあ…」 状況によったら、ロマンチックな道行きになってもおかしくはないんだけど…。 …ないか。 「なにか?」 「いえ…。行きましょうか…」 人混みに埋めつくされた休日の街並。 そしてその中に弥生さん。 …溶け込んでるとは、ちょっと思えないけど。 「ミュージックショップに立ち寄ってもよろしいでしょうか?」 「あ、はい」 ちょっと、普通のデートっぽいかな…。 そして俺達は、そのミュージックショップに入っていった。 「セールスの規模から考えまして、この系列のショップが…」 「はあ…」 「…緒方さんのレーベルの占める空間的なシェアがこれだけとしますと…」 「ええ…」 なんだか弥生さん、俺のこと、全然見てないっぽい…。 「…今日は本当におつきあいありがとうございました」 「まあ…」 ショッピング…じゃなかったのかな…? 「いかがでした?」 「え…?」 いかが…って、何が…? 「ショップの売場面積の、レーベル毎のシェアですわ」 「は、はあ…」 売場…面積…? 「アルバムがリリースされた場合をシミュレートしてみますと…」 「アルバム…」 「失礼いたしました。今日は、藤井さんとのショッピングでしたわね」 忘れてた…ってより、仕事につきあわせたって感じだな、これは。 「つい、いつか由綺さんのアルバムの並ぶ場面を想像してしまいまして。失礼いたしました」 「それは…」 俺も…と言いかけた時、弥生さんに早々と話を打ち切られてしまった。 「帰りにお食事ご一緒願えますか?」 「あ、はい…」 そして俺達は、(特に楽しいとも思えなかったけど)二人で食事をして別れた。 予想通り無味乾燥な一日だったけど、ただ最後に弥生さんの言った『由綺のアルバム』幻想がひどく心に残った。 …そう。 由綺だっていつか、自分の歌声をあそこに並べることにだってなるはずだ。 そんなことも夢みられる場所に、今の由綺はいるんだ。 そして、それを明確に夢みてる弥生さん…。 夢をみるなんて、あの人には全く無縁に思えるのに、それなのに、俺よりもはっきりとしたかたちで夢みてる…。 他のどんな夢も、あの人は多分みないんだろう。 ただ、由綺の夢をみてるんだろう…。 言いようもない安心感と敗北感が俺の中に入り混じる。 由綺に、俺はどんな夢をみてたんだろう。 そしてこれから、どんなことを夢みるんだろう。 そして俺は考えるのをやめる。 明確になんて、未だに、判らないままで。 ぷるるるるるーーー。 カチャ。 「はい、藤井です」 「夜分に大変失礼いたします。私、篠塚と申す者でございますが、藤井冬弥様はご在宅でしょうか?」 弥生さんだ…。 嫌な予感がする…。 「ご、ご在宅です」 「俺ですけど…」 「おやすみでしたか?」 「あ、いえ。起きてましたけど」 あくまで『一応』って感じで尋ねてから、彼女は話を続けた。 「藤井さんは、明日のご予定はございますでしょうか?」 「明日…?」 …明日は、由綺と会う約束があるんだけど…まさか…。 「もしよろしければ、私におつきあい下さいませんか?」 「由綺さんのことで、多少お話がございますので」 「いかがでしょうか?」 そんな急に…。 どうしよう…。 峺 つきあう 断る 「…判りました。おつきあいさせてもらいますよ…」 俺はゆっくりと言った。 せっかく由綺との一日になるはずだった、昨日までの明日を考えながら。 「そうですか。嬉しいですわ」 喜んでる口調でも、その奥にはやっぱり、あの乾ききった無温の弥生さんが感じられる。 「それでは明日、お迎えに上がりますので」 「俺の部屋にですか?」 「問題でも?」 「あ、いえ…」 弥生さんの強引さは判ってるつもりだけど、やっぱり、改めて驚くよな…。 「それでは明日」 「は、はい…」 そして電話は切れた。 由綺のことで…か…。 完全に信じたわけじゃないけど、だけどやっぱり気になる。 弥生さんとは少し話もしたいし、やっぱり明日は弥生さんのところに行くことにしよう。 …由綺に連絡入れなきゃ。 ぷるるるるーーー。 由綺、いるかな…。 いてもらいたような、いてもらいたくないみたいな複雑な気分の中で電話は鳴り続ける。 「もしもし…」 「あ、由綺…」 「え? 冬弥君?」 「うん。俺だけど…」 「どうしたの、こんな時間に?」 軽い心配を含んだ、由綺の無邪気な声が少し哀しかった。 「実は明日なんだけど、俺、行けなくなっちゃって…」 「え…? そうなの…?」 「でも、どうして急に…?」 「うん…」 嶼 謝る 嘘をつく 「…実は、由綺のことで弥生さんに呼ばれちゃって…」 「え…?」 由綺は驚いたような声を上げる。 「あっ、勘違いしないでよ。呼ばれたのはあくまで俺なんだから。俺の問題だよ」 「…多分、俺が仕事でも私生活でも、あんまり人のことを気にしなさ過ぎるとか…そんな話だって思うけど…」 由綺を沈ませないようにって思ったけど、だけど俺の言葉はまるで逆効果を彼女に与える。 …やっぱり、嘘をついてでも由綺を安心させなきゃいけなかったのかも知れない…。 「…私も…一緒に行った方がいい…?」 「う、ううん!」 俺と弥生さんの談話を見られることも、もちろん怖かったけど、帙 それ以上に、俺の心の弱さから起こったことに、これ以上深く由綺を巻き込みたくなかった。 「自分のことは…、自分で処理するつもりだから…」 こんな台詞は、由綺をよけいに心配させるだけだって判ってたけど、だけどやっぱり、判って欲しかった。 由綺が自分の仕事を俺の力を借りないでやってるみたいに、俺だって自分の問題は自分で片づけるって考えてることを。 そして多分、由綺だったら…。 「うん…」 …由綺だったら、頷いてくれる…。 「判った…。じゃあ、よろしくね、冬弥君…」 「…約束は守れなくなっちゃったけど…でも…」 「うん…」 約束を破るのは、俺の方だから…。 「でも、がんばって。大変かもだけど、でも、がんばって」 俺がこんなことに巻き込まれてるのは自分のせいだって、由綺は思ってるのかも知れない。 だけど、それでもこんな風に俺に言ってくれてる。 「ごめん、由綺…」 だけど…。 「だけど、大丈夫だよ。平気だから…」 「うん…」 おちついたみたいに由綺は答えてくれた。 少し胸が痛んだけど、だけど、なんとなく安心できるみたいな気持ちになれた。 今の由綺に、俺と弥生さんのことが知られるのはまずい。 俺の私生活に業界の一角が食い込んでしまってるなんて、極力由綺には知られたくない。 「ちょっと大学の事務局の方から呼び出しがかかって…」 「えっ? 冬弥君、学校の方危ないの?」 「い、いや。そゆんじゃないと思うけど…」 声の感じから、由綺が完全に俺の言ってることを信じてるみたいだってのが判った。 …あんまり喜べない成功じゃあるけど。 「…ごめん。こんな急な話で…」 「ううん、いいよ。気にしないで」 …でも、いくら由綺の為っていっても、嘘は嘘だ。 こんなにも信じたまま疑わない由綺が、すごくいじらしく感じられる。 「じゃあ私、明日はお部屋でおとなしくしてることにするね…。お掃除とかもしなきゃいけないし。あははっ…」 そんな風に笑ってはくれたけど、やっぱり由綺、演技の方は上手じゃない。 ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った。 …だけど、ついてしまった嘘はそのまま押し通すしかない。 せめて、これ以上由綺を傷つけない為に。 「ほんとにごめん…。いつか、埋め合わせはするから…」 「いいよ。忙しいのはお互い様だし」 「でも、それじゃあ、また今度だね…」 「そうだね…」 そして俺は、そんな由綺になんとなく罪悪感を感じた。 今の由綺に、俺と弥生さんのことが知られるのはまずい。 俺の私生活に業界の一角が食い込んでしまってるなんて、極力由綺には知られたくない。 「…ちょっと大学の…事務局…の方から、あの、呼び出しかかって…」 嘘がばれたらいけないって思えば思うほど、俺の声の調子はうわずってゆく。 多分、自分で思ってるほどには慌ててないとは思うんだけど、そう思ってても俺の気持ちは落ち着いてくれない。 「だから…ごめん…」 「そうなんだ…」 納得したように呟く由綺の言葉に、相変わらず明るさは戻らない。 「…それじゃあ仕方ないよね…」 「ごめん…」 「あ、ううん。いいよ…」 少し沈んだ声で、慌てて由綺は言う。 軽く微笑んでるようでも、やっぱりどこかに無理がある。 「申し訳ありませんけど、俺、明日は予定が入ってるんです」 「だから、おつきあいはまた今度にして頂きます」 俺はそう言って断った。 「…由綺さんとのお約束ですか…?」 普段以上に深く静かな声で弥生さんは言った。 聞きようによっては、どこか恨めしげだ。 「そ、そうですけど…」 「でも、それは関係無いじゃないですか。用事があるのは俺の方なんでしょう?」 やっぱり弥生さん、由綺のスケジュール知ってるんだ…。 「そうでしたわね。それでは仕方ございません」 「私はこれで失礼させて頂きます」 「あ、待って」 思わず俺は彼女の声を呼び止めた。 「…由綺のことでって…どんな話だったんですか…?」 多分はったりだ…。 そんな風に思いながらも俺は…。 だけど弥生さんは、「いえ」 とだけ答えた。 「由綺さんの割いて下さった時間を、せめて無駄の無いようお楽しみ下さい」 「え…?」 「あなたが由綺さんのことをお考えにならないとおっしゃるのなら、それがせめてもの義務だとお考え下さい」 「それでは失礼いたします」 そして俺が何かを言う間もなく電話は切れた。 …実際、弥生さんが何を伝えたかったのかは判らなかった。 俺を由綺から離しておく為のはったりじゃない何かが感じられて、そこがちょっと不気味だったけど、とりあえず、明日は由綺と楽しもう。 あんまりよけいなことは考えないことにして。 今日は弥生さんと出かける日だ。 …由綺には悪い気がするけど、弥生さん、由綺のことについて話したいって言ってたわけだし…。 …とか考えてると、廝 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 弥生さん…だな。 「おつきあい下さってありがとうございます」 そして俺達は、全く客のいない真昼の喫茶店で向かい合っていた。 …なるほど。 今までバイトしてて、そんなにも気にはならなかったけど、こういった人目を忍ぶ場面には、最高のロケーションになってたんだな、この店は…。 俺はちらりと店長を見る。 まるでとぼけた風に、カウンターの後ろでラジオから流れるオーケストラに耳を傾けてる。 …あの人にしても、こんな裏切りをいくつ見てきたのか。 何も知らないふりをして、何も見てないふりをして、廴 誰もいない、何も言わないこの店で…。 「今日は藤井さんに、私のお手伝いをお願いしたいと思いまして」 「え? 由綺のことで話があるって…」 やっぱり、俺を由綺から引き離す為の口実だったのか…? 「ええ」 ゆっくりと弥生さんは微笑む。 「由綺さんに関するお話も、ですわ」 「はあ…」 そんな風にとまどう俺を無視して、弥生さんは自分のバッグから書類の束と分厚い手帳を取り出す。 「…お仕事ですか?」 「ええ。由綺さんのスケジュール調整ですわ」 「由綺の…?」 「はい」 「でも、いいの…? 俺なんかに…?」 このデータは、でも、弥生さんにしてみたら重要機密に匹敵するはずじゃ…。 「お手伝いをお願いする相手は選んでいるつもりですので」 「え、ええ…」 つまり、信用されてるってこと、俺…? そんな風にぼうっとしてる俺の前に、書類の束が押し出される。 「これから私が日付と社名を申し上げますので、それに該当する書類を私に提示して下さい」 「はあ…」 見ると弥生さんは、いつの間にかテーブルの上にノートパソコンを広げてる。 「簡単に見出しだけ作成してしまいますので」 「は、はあ…」 そして弥生さんは俺を助手に作業を始めた。 その素早すぎる彼女の指の動きを見てると、彼女のノートパソコンすらも、弥生さんというマシンのオプションみたいに見えてくる。 「…なにか?」 「あ、いえ…」 俺は改めて書類の束に目を戻す。 「…その…これって全部、由綺の仕事なんですか…?」 「はい」 …今さらだけど、多すぎるよな。 「無論、全てを受けるわけではございません。バッティングを避けて依頼をお断りしますと半数程度に減りますわ」 「はあ…」 それでもかなりの量だろう…。 「…たった一ヶ月でこんなに仕事をこなすなんて…」 「二週間です」 「え…?」 弥生さんの手が止まった。 「一ヶ月ではありません。二週間分の仕事のご依頼です」 「二週間…って…半月…」 嘘だろう…。 由綺がこんなに仕事をしてるなんて。 あの、弱々しく俺に寄りかかってくる由綺が…。 「これに加えて、由綺さんは個人的に歌とダンスのレッスンを受けられています」 判ってたはずなのに。 由綺が無理してるって判ってて、できるだけ何も言わないようにしてたつもりなのに。 それなのに改めてこんな風に見せられたら、決して強い気持ちのままじゃ…。 弥生さんも残酷だよ…。 俺にわざわざこんな仕事を手伝わせるなんて…。 え…? わざわざ…? 「次の書類を」 「あ、はい…」 まさか弥生さん、わざと…? だけど弥生さんは、そんな俺の顔なんか見ようともしないでキーボードを叩いてる。 「次の書類を」 「はい…」 もしこれが弥生さんの作戦なんだったら、彼女、大成功だ。 少なくとも今の俺の気持ちは、ひどく揺らいでる。 「…由綺さんとのお約束、残念でしたわね」 「え…?」 やっぱり弥生さん、知ってて俺を…。 「まあ、仕方ないですよ…」 「このスケジュールの中からつむぎ出した時間ですもの。大切に使わなければいけませんわ」 「ええ…」 弥生さんに同意する気は全く無いけど、恊 でも確かに、俺は由綺の時間を無駄にしてないなんて言えない気がしてきた。 「…でも由綺、たまに俺と会って話をしたりすると…すごく、喜ぶんです…」 「マスコミの方達もお喜びになるでしょうね」 「しかも、三流雑誌などは特に」 静かな迫力を持つ声量で弥生さんは呟く。 「ええ…」 俺が抱いてきた悩みの一つ一つを、弥生さんが的確に突いてゆく。 「くれぐれも由綺さんの…」 そして弥生さんは片手に持った書類の束を軽く持ち上げてみせ、恙 「これだけの由綺さんの努力を無駄になさることの無いよう願いたいものです」 「ええ」 その為にどうすればいいか、それは判らないままだけど。 それから間もなく書類整理も終わり、俺達は席を立った。 「それでは、本日はご協力ありがとうございました」 「本当に助かりましたわ」 「いや、そんな…」 そんな弥生さんの感謝の言葉も、俺は心からは素直に受け取れない。 「…由綺に、あまり無理をさせないで下さい…」 代わりにそんなことを言うくらいしか。 「ええ」 忰 そうだ。 弥生さんに断りの連絡入れなきゃ。 って、俺、どこに連絡したらいいんだ。 せめて携帯の番号くらい聞いておいたらよかったな…。 仕方ない。 次に会った時に謝ろう。 …すごく怖いんだけど。 あ、弥生さんだ。 そうだ。 この前のこと謝っておかなきゃ。 「弥生さん」 「あら、藤井さん」 「弥生さん、この間はすみませんでした」 「そうですわね。待たされましたわ」 「すみません…」 怒ってる…。 「いつもこうなのですか?」 「ま、まさかっ」 俺は慌てて手を振る。 「その…。急な予定が入って…」 「重要な用件だったのですか?」 「まあ、そこそこに…」 「由綺さんですか?」 「いや…」 俺は曖昧にごまかす。 「結構です。賢明な判断だった、とさせて頂きます」 「はあ…」 怒ってないのかな…? 「弥生さん…?」 「はい?」 「…怒ってます?」 彼女は『判らない』って風に少し首を傾げて、慷 「多少は」 「…すみません…」 「いえ。それでは失礼いたします」 行っちゃった…。 『多少は』とか言ってたけど、やっぱり怒ってるのかな。 弥生さんだって人間なんだし…。 やっぱり、弥生さん、ごめんなさい…。 今日は彰と美術館に行く日だ。 彰、もう来てる。 律儀な男。 「さっ、行こ」 「う、うん…」 なんていったらいいのか判らない違和感を抱えたまま、憙 俺達は電車に乗って美術館に向かった。 「どう言ったらいいのかなあ…」 「どう言ったらいいんだろうね…」 ちょっとは真面目なふりして半日ほどを美術館で過ごしたものの、憔 なんともいえない変な脱力感に包まれてた。 「確かに綺麗な絵だなとかは思ったけどさ…」 「うん。それは、そうだったけどさ…」 結論から言うと、憫 普段から美術品にたしなんでもない男が、しかも二人きりで美術館なんて行くべきじゃない。 ましてフランス印象派の絵画なんて特に感心できない。 確かにはっとするほど綺麗な絵はあるにしても、懊 自分の連れの男が 『はぁ…』なんて、うっとりした溜息を洩らすのを観るのは精神的に良いもんじゃない。 「冬弥、今度は由綺と一緒に行ったらいいよ…」 「うん。そうするかな…」 こんな感じだ。 一人で家に帰って、せっかく買った美術館のパンフレットを眺め直すことがあったとしても、憺 多分、頭に浮かぶのは溜息をついてる彰の顔だろう。 「どうせだから適当に遊んで帰る?」 「いいね」 そして俺達はかすかに胸に残ってるフランス印象派絵画のイメージを大事にしつつも、適当にゲームか何かやって帰った。 あ、そうだ。 彰に断りの連絡入れなきゃ。 ぷるるるるーーー。 「はい、七瀬ですが」 綺麗な声。 彰の三人の姉さんのうちの誰かだな。 「あの、俺、藤井ですけど…」 「あ、冬弥くん? 彰? 待ってね、今、呼んでくるから」 そしてオンフックのメロディ。 「…もうっ!」 「はい、代わりました。冬弥?」 「うん…。…最初の『もう』は何…?」 「ん…」 彰の声が曇る。 「ちょっと、眠ってたところ起こされて…」 もう寝てたのか、彰…。 「…あんな起こし方しなくたって…」 「え…?」 「あ、なんでもない」 …何されてたんだろう…? 「で、どうしたの、冬弥? わざわざ電話なんて?」 「あ、うん。前に約束したことだけどさ」 「うん」 「あれ、行けなくなっちゃった…」 「え? ほんと?」 彰、思った以上に愕然としてる。 そんなに俺と行きたかった… なわけないか。 「ごめん。急な用事入っちゃって…。今度埋め合わせはするから」 「それはいいんだけど…その日、僕、姉さんの料理の手伝いしなきゃいけなくなっちゃうんだよ」 「いいじゃない、たまには」 「よくないよ、大学生にもなって! しかも姉さんの相手なんて…!」 「判ったよ…」 よくは判らないけど、彰、あんな美人の姉さん達を毛嫌いしてる。 俺には理解できない心理だ。 「それじゃあ、どっか出かけてたら…」 「だから冬弥を誘ったんじゃない」 「あ、そうか」 俺が誘われた理由って、それ…。 「…冬弥、姉さんに言った?」 「…何を?」 「冬弥が僕と遊びに行けないって…?」 「言うわけないじゃない、そんなこと」 何わけの判らないことを。 「じゃあいいや。問題ない」 「…今日も暇ですね」 「…判ってますよ。言ってもどうにもなんないって…」 「でも、いいんですか?」 首を傾げる店長。 「こんな、何もしてないバイトに給料出しちゃって? あ、いや、給料は嬉しいですけど」 「はあ…。趣味でやってるからいいんですか…」 なんだか気楽な人…。 大丈夫なのかな。 こんな、すごいいい加減な感じの人なのに、こう見えて実は昔はロボット工学に従事してたっていうからすごい。 店長の従弟なんか、どっかの大企業で家庭用メイドロボットの製品化なんてことを本格的に実現させつつあるみたいだし。(彰が言ってた) 他にも高校の先生だとか警察官だとか、ちゃんとした職業に就いてる家系の人らしいんだけど。 「え? まあ、お客さんが来たら起こしますけど…。はあ、レコードは…かけたままでいいんですか…」 本人はこんな感じだ。 …ああもう。 なんかダンディな曲聴きながら気持ちよさそうに…。 「あ、いらっしゃいませ」 「あれ? 冬弥も来てた」 「なんだ、彰か」 「いいじゃない。手伝いに来たんだから」 「うん…」 手は余ってるんだけど。 …だけど、「ねえ、彰。彰って店長とは近い血縁なの?」 「え? 長瀬のおじさんと? いきなりどうして?」 「いや、なんとなく」 「うん。父さんの弟にあたる人だからね。近いよ」 めちゃくちゃ近いじゃないか。 「ふうん…」 血縁かあ…。 「どうしたの? そんなじっと見ちゃって」 のんきに笑ってる…。 「こんにちはー…」 「あ、店長。今日はバイトです」 店長は頷く。 「と、あれ? 何かいい匂いしてますね?」 「あれ? 冬弥」 あれ、彰だ。 なんだ、今日は彰も来てたのか。 だったら俺は来なくてもよかったかも。 「ね、冬弥。ちょっとちょっと」 彰が、にこにこと手招きしてる。 「なに?」 すると彰はカウンターの後ろに戻っていって、抒 「これ、どう?」 何かを持ってきた。 「…ケーキ?」 「うん。僕が作ったんだ。シフォンケーキ」 「へえ…?」 さっきの匂いはこれだったんだ。 それにしても、また彰、嬉しそうに…。 ほんと、家庭的な男。 「え?」 「あ、そうだね」 「冬弥、よかったら食べてみて」 「え?」 「美味しかったらここのメニューに加えてもらおうと思って。ねっ?」 「…だって」 「うん…」 …なんだか変なところに情熱燃やしてるな、彰。 時々学校さぼってるって思ったらこんなことやってたのか。 それじゃちょっと食べてみようかな。 ぱく。 もぐもぐ…。 「どう…?」 「う…ん…」 すごいどきどきしてる彰。 見た目にはあんまり判らないけど。 でも… 「なんかふつうー…」 「普通ー? 普通って?」 「…普通…」 決してまずくはないんだけど、特に美味しいって感じじゃない。 徹底して普通のケーキの味。 「何かない? ここがまろやかだとか、甘みを抑えてて上品だとか…」 「んー…。普通…」 俺も俺で貧困な 語彙 ごい 捏 「普通ってー…」 「おじさん…」 「…うん、判った。もう一回やってみるよ。何回だって挑戦するから」 「え?」 「あははは。やだな、おじさん。そんな照れること言わないでよ」 「うん、そうだね」 それから俺の方に向き直って、掏 「冬弥、悪いけど今日はカウンターの方お願い。僕ちょっと厨房の方にいるから」 「い、いいけど…」 本気でケーキを焼くつもりか、彰。 店長に何を言われたのか判らないけど。 (照れてたし) 「…判りましたよ、店長。引き受けますよ」 全然無口なくせに説得力あるんだからなあ…。 「ありがと、冬弥」 「いいよ」 その笑みを男に向けるな。 でも、俺の(嫌な)予感は当たった。 お客さん、誰も来ない。 暇ー…。 奥の厨房は楽しそうだな… って、そんなこともないか。 だけど彰のお手製シフォンケーキって言われてもわくわくしないな。 当たり前か。 でも考えてみたら、ここの料理ってほとんどあの店長が作ってるんだよな。 あの濃いめの髭の店長が。 ちょっと、そう考えると… 「わあっ! す、すみませんっ!」 びっくりした…。 だけど店長は何のことか判らない様子で、再び厨房に戻ってってしまった。 …ほんとに、無口なくせに変な存在感あるんだから…。 「あ、冬弥」 「え?」 「あ、彰。偶然ー」 「うん。出かけるの?」 「ああ。バイト」 「『エコーズ』?」 「そ」 「あははっ。僕も」 「ええ?」 そんな何人も人手の必要な仕事でもないのに…。 (ていうか暇) 「ね。一緒に行こ」 「うん…」 俺の腕を軽く肘で打って歩き出す彰。 早くも暇な予感…。 「?」 「? どうしたの、彰…?」 って、わあ! 何やってるんだ、店長。 店長、いきなりカウンターの上に小さなコーヒーカップ(デミタスってやつ?)を、ピラミッド状に積み上げてる。 しかも真剣に。 「…すごい…」 …彰も、他に言うことがあるだろうに…。 でも、いくら暇だからってこんな…。 「あ、冬弥。静かに閉めないと…」 「え?」 だけど俺が思い切りドアを閉めた時…、抬 コーヒーカップのピラミッドが音を立てて…。 「…だから、すみませんでしたってば…。…今日は閉店なんて、そんな…」 店長は店の奥にこもってしまった。 「ちゃんと掃除もしましたし、カップも半分くらいしか割れてませんでしたし…」 「やる気無いって…そんな子供みたいなこと…」 「やっぱりだめ?」 「うん。俺達だけでやれって」 「はは。仕方ないね」 仕方ないか? 「大丈夫だよ。料理だったら僕が作るから」 「うん…」 いいのかなあ。 こんな日に限ってお客が多い。 「あはは。なんだか楽しいね」 「そうかあ…?」 本気で楽しそうだな、彰…。 「暇になっちゃったね」 「いつものことだよ…」 「まあね…」 「今日は二人いてよかったね」 「そうだね」 そして俺達はだらしなくカウンターでくつろいだ。 しばらくしてから、敖 「そろそろ閉めようか」 「そうだね…」 それから、奥で音楽を聴いてる店長に挨拶して俺達は店を出た。 どんっ…。 「あっ、すみません…」 ぼうっと歩いてたら人にぶつかってしまった。 「い、いえ…」 俺のぶつかった眼鏡の娘は困ったみたいに頭を下げた。 あれ? この娘…。 「大丈夫? イズミ?」 「うん…」 「ちゃんと前見て歩かなきゃ。さ、行こっ」 「う、うん…。いたた…」 あ、眼鏡の娘、襟首つかまれて…。 それにしても俺に全然気づかなかったな…。 「(ちょっと軽そうな人だったね)」 「(ノブちゃん…。覚えてないの…?)」 「(?)」 「いらっしゃいませー…」 あ、この娘達は…。 「あ…」 「ん? どうかした、イズミ?」 「ううん…」 眼鏡の娘の方は一瞬、俺に目を留めたけど、旱 ショートカットの方は俺のことをまるで無視してる。 そして彼女達は、キョロキョロしながら奥のテーブルに着いた。 「あ、ウインナーコーヒーとミルクセーキ、お願いします」 「はーい」 「(…今日はいないみたいね…)」 「(う、うん…)」 「(ほんとにいるんだってば。あんたの趣味そうな渋いオジサン)」 「(…私、そういうわけじゃ…)」 …店長… かなあ…? (意外だ) 「(…そりゃ今日は軽そうなオニイサンしかいなけどさ…)」 「(…ノブちゃん…ほんとに覚えてないんだね…)」 うわあ…。 人が多いな…。 俺は思わず圧倒されそうになる。 人混みは別に苦手ってわけじゃないんだけど、さすがにこういう人の群にはなじめない。 …せめて、誰かが一緒に歩いててくれたら、こんな風には感じないのかも知れないけど。 今年は美咲さんもはるかも、そして由綺も俺の隣にいない。 それどころか彰でさえ…。 『彰でさえ』の部分まで考えた時、俺はものすごく孤独な人間なんじゃないかって思えてきた。 …もちろん、それは考え過ぎなんだけど…。 それにしたって俺は、自分からわざわざこんなところに来て、わざわざこんなことを考えなくたっていいだろうに。 …そうだな…。 真面目に仕事してる由綺には悪いけど、今日は一人でゆっくりと楽しもうか…。 ステージを観て、屋台を回って、アトラクションを観て…。 「ただいま…」 俺は真っ暗な部屋に呟いた。 一日中うろうろと人混みの中を遊び回って、もうくたくただ。 たった一人でだってのに、こんなにも疲れるんだな…。 「…楽しかったな…」 そして俺はもう一度呟いた。 今日は昨日以上に人が集まって、一層賑やかな様相を呈してる。 野外ステージが面白いだとか、演劇部の公演が異常な盛り上がりを見せてるとか、そんな楽しそうな雑音に包まれながら、暼 俺もそんな雑音と風景の中に溶け込んでゆく。 ベンチに座って、冷たいものでも飲んで、楽しそうな人達の笑顔を見ていたら、一瞬だけ自分が一人きりだってことを忘れられて嬉しかった。 今日の仕事は情報バラエティ、いわゆるワイド番組ってやつだ。 生放送だからか、スタジオにはいつもより多くのスタッフが配置されている。 それでも、いざ放送が始まると人手が足りないなんてことがよくあるから不思議だ。 リハーサルまではまだ間があるな。 でも、スタジオ内の空気はすでに張りつめている。 生だと失敗してもリテイクなんてものはないからな。俺も気合いを入れていかないと。 別に、普段がなまけてるわけじゃないんだけど…。 えっと、まずは出演するタレントさんの把握から始めようか。 レギュラーはいつもどおりみたいだ。 ゲストは…っと、リック・ベンソン? あの映画監督の? ああ、新作の封切りがもうすぐだからだな。その宣伝なんだろう。 由綺とは一緒に観に行けたらいいねとは言ってるけど、時期的に無理だろうなぁ。 …あれ? 英二さんの名前もある。 同姓同名…ってことはないよな。 出番は新作映画の宣伝コーナーになっているから、映画の音響か何かに関わったのかもしれない。 相変わらずスケールの大きい人だ…普段は適当なことを言っては理奈ちゃんに叱られてる印象しかないのに。 それにしても、英二さんが一人でテレビに出るのは久しぶりじゃないかな。 本人がバンドを組んでた時はともかく、今ではほとんど理奈ちゃんがらみだし。 そもそも歌番組以外だと見たことないな…。 「よ、がんばってるな。勤労青年」 「あ、おはようございます。今日はお一人…なんですね」 「ああ、付き合いでちょっと顔を出すだけだからな。一人でぶらっとね」 話しかける 仕事に戻る 英二さんはどことなく所在なさげにしている。どうもバラエティだと勝手が違うようだ。 出演者の気分をあげておくのも、ADの役目のうちだよな…? 「それじゃあ、俺はこれで仕事に…」 「早速で悪いが、椅子を持ってきてくれるか? 歳のせいか立っているのがつらくてな」 冗談めかしてそんなことを言う。 見た目も実年齢もまだまだ若いのに、なぜかそういうずぼらなセリフが妙に似合ってしまう。 「はい、すぐに…あれ? 英二さんの控え室なら確か用意されてるはず…」 「いいんだ、そこから逃げてきたんだから」 「何か不都合でもありました?」 「ちょっとめんどくさいのに居座られて、な」 めんどくさい? ファンでも局の中まで追いかけてきたのかな? 俺は英二さんの方へ身を屈めるようにして声をひそめた。 「…警備員、呼びましょうか?」 「まさか今日の主賓を追い出すわけにもいかないだろ」 主賓…。 番組プロデューサーも総合司会も、向こうで演出の打ち合わせをしている。 ということは…? 俺は今日の出演者リストに目を向けた。 「ベンソン監督…?」 「うん、それ。映画の宣伝で出ることになってるだろ、今日」 欧米とハリウッドを股にかける、今をときめく超一流の映画監督…。 その人が、英二さんの控え室に入り浸ってる? 「え…お知り合いなんですか?」 「そりゃそうだ、同じ映画に関わってるんだから」 「あ、いや、そうじゃなくて…」 「ああ、プライベートってことか。そっちはあまり関係ないかな。単にあのおっさんが図々しくて押しが強いってだけで」 ベンソン監督をおっさん呼ばわり…。 「ほんと、困ったものだよ。いい歳して、日本の若い娘は何を喜ぶかってそれだけで何十分も…おっと、これは余計な話か」 英二さんは困ったような、そのくせまんざらでもなさ…。 いや、本当に迷惑そうだな。うん。かなり嫌がってるみたいだ。 それにしても、英二さんにも苦手な相手なんていたんだな。 迷惑だと思ったらドライに突き放す印象があるだけに。 「どうしたんだい、不思議そうな顔して」 「英二さんも遠慮することがあるんですね…いえ、変な意味じゃなくて」 「おいおい、それはひどいよ。俺だって気をつかう相手くらい居るさ」 そう言いながらも控え室に置き去りなんだから、あまり言い訳になってないな。 「他に部屋が空いてないか聞いてきます」 「いいよ、取りあえず椅子をくれ」 「はい、すぐに」 「ああ、待った」 「はい?」 「こういう番組は久しぶりだからな。何かあったらフォロー頼むよ」 「わかりました。椅子、すぐに持ってきますね」 「超特急でな。隅の方に行ってるよ」 柬 本当に…若々しいんだか年寄りくさいんだか。 それにしても、世界的な映画監督と知り合いって…改めてすごいよな、英二さん。 才能次第ではどこまでも登りつめていく世界なんだな。芸能界って。 由綺もそこにいるんだよな…。 おっと、しんみりしてる場合じゃない。椅子椅子…っと。 …あ、気がついたらこんな時間だ。 冬は夜が長いせいか、油断するとすぐに時間が過ぎてしまうな。 そろそろ寝る準備でも始めるか…。 …。 何か忘れてるような気がするんだけど、思い出せない。 最近、何か頼まれたことがあったような…。 おっと、電話だ。 「はい」 「夜分におそれいります。冬弥君の友達で緒方という者ですが…」 「あ、理奈ちゃん?」 「冬弥君? 今、時間は大丈夫?」 「うん。どうかしたの? 急用?」 「そういうわけじゃないんだけど…」 「?」 電話で言いよどむなんて、理奈ちゃんにしては珍しい反応だな。 「兄さんが迷惑をかけてるみたいで」 迷惑? 英二さんから? 「あ、ああ! うん、あれね」 忘れてた。俺も、すっかり。 「ごめんなさいね、関係ないことに巻き込んでしまって」 「ううん、気にしないで。別にそんな迷惑ってことでもないし」 実際、何もやってないから、俺としても謝られるのは心苦しい。 「兄さんにはよく言っておいたから。指輪はまだ持ってるの?」 「うん…」 「それはこちらで何とかするわ。冬弥君にはまたお手数かけるけど、郵便で送ってもらえる?」 「いいよ、俺が直接持っていくから」 「そんなの悪いわ。宝石だと書留になるのかしら」 「さあ…高価なものだから現金書留とか?」 「冬弥君、それは現金だけだと思う」 「あ、そうか」 現金書留だけにね。馬鹿なこと言ってしまった。 「…ちょっと待って」 いったん会話が中断される。 受話器を通じて、理奈ちゃんが遠くで話している気配が伝わってくるが、その内容まではわからない。 「今、冬弥君のおうちの近くにいる車と連絡がついたわ。これから伺ってもいい?」 「え、そうなんだ。こっちは大丈夫だけど」 「ごめんなさいね、冬弥君には迷惑ばかりかけて」 「ううん、そんなことないって。それで、車はあとどれくらいでこっちに?」 「もうすぐよ。それじゃあ、お願いね」 「…夜分遅くに失礼します」 うわ…。 「指輪を受け取るように言づかっているのですが、ご存知でいらっしゃいますか」 「は、はい。ちょっと待ってくださいね」 弥生さんの言いも言われぬ圧力に、慌てて部屋を探してみるが、こんな時に限って目的の品はなかなか見つからない。 「あれ、どこにいったのかな…」 「…」 「急だったから用意してなくて」 「すみません、突然お邪魔して」 「い、いえ、そんなことは全然ないんですけど…」 嫌な汗が出てきた。 「下でお待ちしていましょうか?」 「すぐに出てきますから、もう、すぐにっ」 「また後日でもよろしいのですが」 「いや、ほんと、すぐですから…」 「とてもそのようには…いえ、そうですか」 弥生さんは黙って玄関に立っている。 まるで彫像のように少しも動かず…それがまた余計に圧迫を感じさせる。 「あの…」 「はい」 「あ、あがっていきます…?」 「…」 「いえ、ここで結構です」 嫌な汗がもっと出てきた。 あれ? そういや、弥生さんがここにいるってことは…。 「あの…?」 「何でしょう」 「由綺は、もしかして下に来てます?」 「いいえ、すでにご帰宅されました」 「そうですか…」 言われてみればそうだよな。もし来ているのならとっくに顔くらい出してる。 「藤井さん」 淺 「そういや、これどうしよう」 英二さんに押しつけられた指輪は、まだ俺の手元にあった。 そうは言っても指にはめているわけではない。封筒にくるんで鞄の底に沈めてある。 持ち歩くのは不用心な気もするけど、家に置いといて万が一にも泥棒が入ったりしたらと思うと気が気でなくなり、結局はこういう形に落ち着いた。 こんな高価なもの、できることならさっさと渡してしまいたい。 でも、渡す相手が桜っ娘クラブのメンバーだからな…。 国民的アイドルグループだけに、関係者でもない一般人がおいそれと近づけるとは思えない。 それに、今どこにいるかもわからないし。 彼女の事務所に預けるという手もあるけど、何の肩書きもない俺の話をまともに受けとってもらえるか怪しいものだ。 変なファンが無理やり高価なプレゼントを押しつけようとしている、とも取られかねない。 芸能界のツテといえば、俺には由綺と理奈ちゃんがいるわけだが、この時期、ただでさえ忙しい二人に手間を取らせたくはない。 英二さんは…押しつけた本人だけに受け取ってくれないだろう。 結局、自分で何とかするしかないのか…。 しかしながら、それもままならず、鞄の中に手を突っ込んではそこにあるただならぬ存在を確認してほっとする、というような日々が続いている。 問題は、どうやって彼女の居場所を突き止めるかだな…。 「…」 ふと何気ない視線をこちらに向けて通りすぎていった女性のことが、なぜか妙に引っかかった。 「あれ?」 「今の…」 「…」 「ちょ、ちょっと! 君、待って!」 「? 何か…?」 「な、なんでここにいるの??」 「はい…?」 「と、とにかくまた会えてよかった。あれから全然つかまらないからどうしようかと思ってたところだよ」 「あの、どちら様?」 彼女は怪訝そうな眼差しを俺に向けてくる。 もしかして、人違い? 「如月小夜子さん…だよね? 桜っ娘クラブの」 「…」 「違う違う、追っかけじゃなくて! 俺のこと憶えてない?」 彼女は怪訝そうにしながらも、目を細めて俺の顔を見つめる。 「あなた、確か局で…」 思い出したようだ。 でも、やっぱり彼女は顔をしかめる。 「…そう、なるほど。緒方英二の回し者ってことね」 滕 あまり好意的でない口調でそう言うと、彼女は硬い足音をたてながら行ってしまう。 「あ、待って!」 大学の構内へと入っていく彼女のあとを、俺も慌てて追った。 溟 「君に返すものがあるんだ、あの時の…」 いくら話しかけても、彼女は足を止めようとしない。 他にしようがなく、俺も歩きながら、彼女と立ち話のできる距離を保った。 「よく見つけたわね」 「ここ、うちの大学だから。君もそうなの?」 「いい女は目立つから困るわ」 「否定はしないけど…ちょっと、どこ行くの」 「ここは大学、行き先は決まってるでしょ」 そう言い残して、彼女は講義室の中に入ってしまった。 俺は…どうしようかな。 指輪を渡すだけなら、講義が終わってからまた出直してもいい。 少なくともそれまでは、彼女はここにいるのだから。 でも、指輪の他にも気になることがあった。 彼女、泣いてたな。 理由はわからない。 それが無性に気になるのは、彼女の涙が打算のにおいを感じさせなかったからだろうか。 どうしてあんなにも涙を否定していたのか。 どんなことがあったら、人はあんな風に目を丸々と開いたまま泣くのか。 どれも、俺とは関係のない話だろう。 彼女もきっと、他人から詮索されることを望みはしない。 でも…。 俺は、自分がここから立ち去らずに済む理由を探していることに気づく。 そして、それを見つけてひとりほくそ笑んだ。 …ああ、関係なくもないか。 一応、下敷きにされた分くらいは、話を聞く権利がある。 結局、俺の足は講義室の中へ向いたのだった。 「どこまでついてくるつもり?」 彼女はもう席についていた。 怪訝そうな表情はまだ尽きない。 「だって、俺もここの学生だし」 アイドルとはいえ、同じ大学の学生だとわかったら、不思議と親近感がわいてきた。 とにかく、俺には彼女に対して色々と果たすべき役目がある。 「あなたもこの講座を取ってるの?」 「そうじゃないけど…座ってるくらいならいいだろ?」 「…」 「隣、いいかな?」 見上げる眼差しは険しさを増していたが、それ以上の拒絶はなかった。 彼女は、長椅子の机の狭間をずりずりと向こうへ遠ざかっていく。 果てしなくどこまでも…。 長椅子の反対側の端まで行って、ようやく彼女は腰を落ち着ける。 距離、およそ五メートルといったところか。 ここで座席を迂回して向こう側に出るのは不粋というものだろう。 あれから、彰が微妙によそよそしい。 はっきりと態度に出ているわけではなかったが、何かの拍子にふと彰の方から距離を取ってくることがある。 やはり、原因はあれだろうか。 あれ、とは、如月小夜子に指輪を渡した時、それを彰に見られたことだ。 彰には拾った指輪を持ち主に返しただけだと話したが、どうもその説明だけでは納得していないようだ。 ここは本当のことを言うべきだろうか? でも、事実をそのまま伝えて、彰に信じてもらえるかどうか。 きっと言い訳がましいと思われて、余計に誤解を深めるはめになりそうだ。 手っ取り早いのは、騒動の原因である本人から説明してもらうことなんだけど…。 そう何度も都合よく出くわすはずがないよな…。 あ、いた。普通に歩いてる。 「おぅい、こっちこっち!」 あれ? 手を振った途端にものすごい勢いでこっちへ…。 「あんまり遠くから呼ばないでよ! これでも人に知られると困る身の上なんだから!」 「あ…ごめん、つい」 「もう、あなたって案外迂闊なところあるわね。その調子で誰かに話したりしてない?」 「何を?」 「私のこと」 「もちろん」 「もちろん、どっち?」 「話してないよ」 「ならいいけど」 「ああ、ちょっと待って!」 必要なことだけ聞いて立ち去ろうとする彼女を、俺は慌てて呼び止めた。 「なに?」 相変わらず居丈高だが、自分が原因となっている迷惑だからむげに断ったりしないだろう。 俺は、指輪の経緯を彰に説明してくれるよう頼んでみた。 「イヤ」 こ、断られた…! 「つまりそれって、私に素性を明かせってことでしょ?」 「大丈夫だよ、彰はあれでも口が堅いから」 「本当かしら」 難しい顔をしている。 彰の人柄を知らない以上、警戒するのも無理はない。 でも、俺としてもここで引き下がるわけにはいかない。 「頼むよ、元はといえば君の悪戯が原因なんだし」 「それはそうだけど…」 一応、自分のせいであることは自覚があるようだ。 一度は即答で拒絶されたけど、向き合う内に彼女の表情からは徐々に険しさが薄れていった。 やがて、それはひとつの溜息で終結を迎える。 「…仕方ないか。それで、私はどうすればいいの?」 「本人に説明して。カフェにいたら多分通りかかると思うから」 「多分って、ちょっと…通りかからなかったらどうするのよ」 「その時はお茶でもおごるからさ。学食じゃなくて、どこかちゃんとしたところで」 「…」 「どうしたの?」 「ちょっと意外。そんな口も利けるのね」 「そんな口って、どんな口?」 「誉めてるのよ、一応」 「まあ、いいわ。それで手を打ちましょう。ただし、おごりは来ても来なくてもね」 「…」 「どうしたの? 変な顔して」 「いや、意外にあっさりと話が進んだものだから」 「アイドルと言ってもプライベートは平凡なものよ。人とお茶くらい行くわ」 「それに、楽しみだしね。あなたがどんなお店に連れて行ってくれるのか」 「ちょっと怖いなぁ…大学生の財布だってことをお忘れなく」 「うふふ、お店選びは値段じゃないのよ」 「もっと怖いよ」 カフェについてからほどなく、ひとコマ目の講義が終わる。 そもそも大学に来たのがすでに真面目な時間ではなかった、という話は置いといて…。 教室から吐き出された人波は廊下だけでは飽きたらず、カフェの通路までも埋め尽くした。 しかし、それも次のチャイムが鳴るまでのことだ。 ふたコマ目が始まると、学生たちの大部分は再びそれぞれの教室へ向かい、もう予定のない一部は周りをはばからない談笑と共に校舎を後にする。 彰の姿はまだ見あたらない。 とうに飲み干したカフェのコーヒーが、白いカップの底で粘っこい固体へと姿を変えていく。 「来ないじゃないの」 「おかしいな、必修にはいつも出てるはずなんだけど」 「必修なのに出てないの?」 「本当に、彰のやつどうしたのかな」 「あなたのことよ、あ・な・た」 「えーっと…大学だし? 自由バンザイ」 「そういうのは自由じゃなくて野放図って言うのよ」 返す言葉もないとはこのことだな。 言われ慣れてることでもあるけど。 「それで、次の休みは何時頃?」 「お昼になっちゃうな…」 「おひるって、正午!? ちょっと、どうしてそうなるの!?」 「…ねえ、冬弥」 「うん?」 「僕、どうしてここにいるの…?」 「そんなの当たり前でしょ、当の本人がいなくちゃ始まらないわ」 小夜子ちゃんはアドバイザー気分で、すでにスタンバイしている。 もちろん、話題はわかりきっている。 「まさか…まだ話が続いてるの?」 「遠慮しなくていいわよ」 「遠慮なんかしてない…」 「とにかく焦りは禁物。いい? 大切なのは告白するその時までに十分な事実を積み重ねておくことよ」 彰の呟きは小夜子ちゃんの耳から締め出しをくらっているようだ。 「それにはまずシチュエーションね。近々イベントとかないの?」 こうなると止められない。 たぶん、女の子というのは他人の恋には興味津々な生き物なのだろう… と、周りにそういうタイプがいないのに何となく納得してしまう。 「イベントとか言われても…」 「大学がらみなら…学園祭?」 「えー…それ言っちゃうんだ」 「あ、まずかった?」 「そうよ、それ! 学園祭!」 小夜子ちゃんは指先を軽く鳴らしてみせる。 「模擬店回り、野外コンサート、キャンプ・ファイヤーを囲んでのフォークダンス…。最高のシチュエーションじゃないの」 「うちの学園祭にキャンプ・ファイヤーなんてないよ」 「悪いこと言わないわ、早いうちに当日の約束を取りつけておくべきよ」 そう口にしてすぐに、それを自分で取り消す。 「いいえ、むしろ今から積極的に関わっていくべきね。学園祭に向けて二人だけの共同作業、前夜の徹夜仕事…これで恋が生まれなきゃ嘘よ」 拳を握りしめ、自信満々にそう力説する。 何だか聞いてるこっちまで、告白しないと悪いみたいな気分になってくるな。 「もういいよ。お願いだから勝手に話を進めないで」 彰はすっかり弱り切っている。 もはや、美咲さんへの恋心という事実については否定する気力さえ失ったらしい。 「僕は今のところこれで幸せなんだから」 「『今』なんてすぐに過ぎてしまうわ。社会人になれば会うだけでも簡単にはいかなくなるのよ」 「そんな大げさな、卒業までまだ三年もあるんだし」 「三年しかないのよ! 何を悠長なこと言ってるの。恋人同士なんて大学時代が一番楽しいんじゃない、それをのらりくらりと過ごすなんて」 「僕は現状で十分満足してるんだけど…」 「まったく…煮え切らない男ね」 「そんなこと、君に言われる筋合いは…」 「…」 「な、なに」 「恋ね」 今日は歌番組の収録だ。 タレントさんの関わる仕事は緊張するな。 まずは、出演者を確認しておかないと…。 あ、今日は桜っ娘クラブが来るんだ。 小夜子ちゃんとも会えるかな…? いや、当たり前か。何と言っても小夜子ちゃんは桜っ娘クラブのリーダーなんだから。 …。 あれ? 俺、緊張してる? 大学と違い、ここがスタジオだから? でも、まだブラウン管を通してしか彼女を知らなかった頃なら、同じスタジオにいてもおそらく何も思わなかっただろう。 不思議なものだな…。 本人を知った後だと、何だか無性にどきどきしてしまう。 「…」 そして、今頃にはすでに小夜子ちゃんと挨拶のひとつも交わしている。 ついさっきまでそう思っていたんだけど…。 他で人手が足りないという話がスタジオに飛び込んできて、新米の俺が真っ先に差し出されてしまった。 今は分厚い台本にひたすら読み仮名を振っている真っ最中だ。 どうも、ドラマの出演者にあまり漢字が得意でない人がいたらしい。 あーあ…小夜子ちゃんの晴れ姿を見そびれたな。 ふう、やっと台本作業から解放された。 途中から人手が増えたおかげで思ったよりも早く終わった。 スタジオの方は、もう収録は終わっちゃったかな…? そんな心配をしながら足早に廊下を歩いていると、今まさに考えていた名前が視界に飛び込んでくる。 『桜っ娘クラブ様 控え室』 プラスチックのプレートにはぶっといゴシック体でそう記されていた。 「…」 中からは何の音も聞こえてこない。 といっても、ノックして確かめるわけにもいかないが。 「…」 ちょっとだけ待ってみようかな? 手伝いが早く終わっても、スタジオに戻るのは反省会の時間でいいと言われてるし。 他にやることもないしな。 こう、廊下でばったり会ったようなふりをして…。 「冬弥くん…?」 そうそう、こんな風に。 …あれ? 「あなた、ここで何してるの??」 振り返ると、そこには小夜子ちゃんがいた。 大学で見かけるのとは格好が随分と違う。 受けるイメージの方は、それよりさらに際だっていた。 不思議な感覚だ。 頭では同じ小夜子ちゃんだとはわかっていても、衣装が違っているだけで、まるで半分だけ初対面のような気がしてくる。 確か、似たようなことが前にもあったな…。 そうだ、由綺のステージ衣装を初めて間近に見た時がこんな感じだった。 小夜子ちゃんのステージ衣装は、以前、廊下でぶつかった時にも見ているはずだが、あの時はどたばたしていてはっきり憶えていない。 そのせいで、今が初対面のようなものだ。 「こんなところで何をしてるの? 関係者以外は立ち入り禁止よ」 見とれていて返事を忘れてた。 「俺、ADのバイトだから。一応、仕事で」 「あ…あ、そうね。そうなんだ。確か最初に会った時もテレビ局だったわよね」 曲がり角でぶつかった時のことだな。どうやら納得してもらえたようだ。 「不法侵入だと思った?」 「大学でのだらんとしたあなたを見てるとね、同じ職場で働いてるとはとても想像できなかったわ」 彼女も似たようなことを言ってる。感想は俺とは逆なんだけど。 でも、こうして見ると彼女には確かに花があるよな。 間近にいると綺麗すぎて気圧される。そう言っても言い過ぎではないだろう。 衣装が日常離れしているせいもありそうだけど、それを着こなしている素のよさというのはやはりアイドルをやってるだけのことはある。 ファンが熱狂する気持ちもわかるな。 まあ、清楚なイメージでは由綺の方が上だけど。 「な、なに?」 「え、何が?」 「さっきからじろじろ見てるから」 「ああ…ステージ衣装をちゃんと見るのはこれが初めてだから」 「そうだったかしら」 「前は下敷きにされてたからよく見えなかった」 「あれは、あなたが曲がり角に突っ立ってるから…」 反射的に言い訳をしかけて、小夜子ちゃんは口をつぐんだ。 「あの時のことはちゃんと謝ってなかったわね。悪かったわ」 「誰も怒ってなんかいないよ」 「こうして知り合うきっかけにもなったわけだし」 「…」 「そ、そう。気にしてないならいいわ」 「うん」 「…」 「…」 「そんなにアイドルが珍しい?」 「ごめん、つい」 一緒にいると、気づかないうちに視線が吸い寄せられてしまう。 そのことにあまり後ろめたさも感じない。 相手をそういう気分にさせるのも、アイドルの資質なのかな。 「何よ、感想くらい言ったらどうなの」 「あ…うん」 綺麗という言葉は何か直接的すぎる気がした。 「素敵だよ、すごく」 「…」 「嫌ね、急に変なこと言わないでよ」 「はは、他にうまい表現が思いつかなくて」 「馬子にも衣装とか言われると思ったわ」 「ああ、それでもよかったかな」 「もぉ!」 ぶつような手振りをしてから、小夜子ちゃんはすぐにその拳を降ろす。 下から窺うような眼差しが、少しだけ俺の方に近づいてくる。 「『素敵』の後に『すごく』って付け足したのはどうして?」 その眼差しがあまりにまっすぐで、どきりとさせられる。 「いや、別に…深くは考えてなかった」 その言葉に嘘はないはずなのに、変に動揺してしまう。 「ふぅん…」 「…」 それに関して彼女から続く言葉はなかった。 何か気まずいな。 「あのさ、収録はいいの?」 「ええ、私の出番は終わったから」 「むしろそれはこっちのセリフよ。ADがこんなところで立ち話なんかいいの?」 「俺も、言われた仕事が終わったところ」 「そうなんだ」 「他の現場に貸し出されてて休憩も一人きりだから、暇をもてあましてたんだ」 「だから廊下でぼーっと突っ立っていたのね」 「…」 「…」 「はぁ…」 「どうしたの?」 珍しく二限続いて講義に出た俺たちは、そのまま昼休みを大学のカフェで過ごしていた。 「何が?」 「冬弥、さっきから変だよ。溜息ばかりついて」 「そうかな」 「そうだよ」 そう言う彰もテーブルから顔を上げない。 次の講義で英訳の順番が当たるらしく、今は教材と辞書に首っぴきだ。 そこから彰は、ちらりと視線だけを上げる。 「ねえ、冬弥」 「うん?」 「今日は見かけないね」 「そうだな」 昼休みでカフェは混雑していたが、それは問題ではない。 なぜなら、俺たちはいつもの場所に座っていたから。 そのことについて、彰からは今のところ何の文句も出ていない。 「またその溜息」 「してた?」 「してたよ」 「そうか…」 椅子の背もたれに反り返り、この先の溜息をまとめて天井に向けて解放する。 もう…ここには来ないんだろうな。 『つまり、その…』 『…卒業ってこと』 たぶん、彼女は…。 今の自分を、みすぼらしいものだと思っている。 だから、それを知った俺のところにはもう来ない。 今頃は、どこかよその大学の案内書を取り寄せている頃だろう。 そこまで深刻になることはないのに…。 そう思ってみても、俺にはうまく伝えることができない。 もし、俺が…例えば英二さんのように大人だったら、彼女を上手になぐさめることができたのだろうか。 傷口をそっと癒す、ガーゼのように。 そういや、彼女は英二さんにとても腹を立てていたな。 その理由もわからずじまいになってしまった。 「はあ…」 「…」 「別にいいけどね」 こういう別れ方はやるせないな。 まるで仲違いしてそれっきりになったみたいだ。 誰も、誰かを嫌ったりなんかしていないのに…。 しばらく放置していた紙コップに口をつける。 今日はコーヒーがいちだんと苦い。 「あら、自分のぶんだけ?」 「!」 声は俺の傍らをすり抜け、目の前の席に座った。 「何よ、私がここに来たら迷惑?」 小夜子ちゃんは気まずそうにそっぽを向く。 その仕草も表情も、今までと変わらない。 「なんでまた…」 彰がノートにつぶれて声をくぐもらせる。 そんな二人を見渡して、俺はひそかに笑った。 「何がおかしいんだよぉ」 「笑ってなんかいないさ」 「じゃあ、今のは何?」 「溜息…かな?」 いつもの音色が聞こえてくる。 それは昼休みの雑踏にもかき消されず、力強くかき鳴らされる。 「…何これ」 テーブルの上にはこんもりと紙の束が盛り上がっている。 どれも小夜子ちゃんが持ってきたものだ。 「廃品回収でも始めたの?」 「そんなわけないでしょ。パンフレットをよく見なさい」 俺たちは、特に彰は嫌々、椅子から身を乗り出した。 「…学部案内?」 「うちの?」 「他にどこのがあるってのよ」 パンフの山を軽くかき分けてみる。 今、俺たちがいる一般教養の校舎から、同じ学内にあるはずなのに見覚えのない建物まで、表紙にはさまざまな写真が並ぶ。 「文学部に工学部、経済学部…理系も文系もまぜこぜだな」 「学生課でもらってきたのよ。全部」 「それはご苦労様…でも、自分の志望以外は意味ないんじゃない?」 「自分の可能性を簡単に狭めたくないの。判断するには、まずはよく知ってから。受けるべきかそうでないか、そこから問題にしないと」 「…ハムレット」 「え、なに?」 「なんだ、知らないのか」 「あなた、いま鼻で笑ったわね」 「簡単に狭めたくないって…今そういう時期だっけ?」 「二次試験は来年でしょ? まだ先の話よ」 「来月の半ばすぎ」 「今月の半ばすぎ」 「あれ? 合格発表が12月で共通一次には間に合うの?」 「そっちの申し込みも済ませてあるわ」 「まだ大検も合格してないのに?」 「そういうものなのよ」 「そういうものなんだ」 「無駄にはならないわよ、決して」 「どうして僕に言うの…」 それからカフェを出た後、小夜子ちゃんと二人きりで話をする機会が訪れたのは全くの偶然からだった。 「もぉ、いつまで待たせるのよ。男のくせにトイレが長いなんて」 彰がこういうことで気を利かせるとも思えない。 そもそも、俺たちの間での出来事をあいつは知らないのだから。 「男子トイレがふさがってたのかもね」 「ほんと、どこまで行ったのかしら」 小夜子ちゃんの憤慨が多少無理矢理にでも続くのは、俺と二人きりで向き合うことの気まずさからだろう。 あの時、テレビ局であったことは、まだ感情的には清算されていない。 俺の方からも、そのことをうまく切り出せずにいる。 話をするなら今が絶好の機会であるのに、口を開こうとすると羞恥心が先に立ってしまう。 語りすぎた彼女と。 何も言えなかった俺と。 話を蒸し返せば、あの時の青臭い感情まで生々しいにおいを立ち上らせることになるだろう。 そこまでして何を話そうとしているのか、正直、自分でもよくわかっていない。 俺が何かの役に立てるわけでもなく、彼女の事情に深く立ち入らないというのであれば、それでもいいのではないか。 などと言い訳の方へ気持ちが傾いたりもしている。 でも…。 「…」 「あの…さ。テレビ局でのことなんだけど…」 「そのことなんだけどさっ」 話を切り出した途端、言葉の後半を強引に奪い取られる。 「言い忘れてたことがあったから、この機会に言っておきたいんだけど」 「…うん」 この妙な義務感のようなものを先に終えたいというのなら、ここは譲ることにしよう。 俺は続く言葉を待った。 でも、しばらくは躊躇うような沈黙が続いた。 そして…。 「…悪かったわ。テレビ局では取り乱して」 「あんな風に愚痴るつもりはなかったんだけど、突然だったから」 「だから、その… あれ ・は気にしないで」 「たぶん、あなたが思ってるほど落ち込んでるわけじゃないし、すぐに涙が出るのも事実だし」 「もし心配してたのなら…だけど」 風が彼女から言葉を奪っていく。 俺はその続きを待つ。 だが、話はそれきりだった。 今、彼女が口にしたことは、テレビ局で控え室に連れ込まれた時とおおよそでは変わらない。 だからこそ、今はあの時の後悔を取り戻すチャンスかもしれない。 「俺も、あの時言い忘れてたんだよね」 「…待って」 いきなり止められた。 「前も言ったけど、安っぽいなぐさめとかいらないから」 「それは…ちょっと無理かな」 「気にするよ、やっぱり。いくら説明されたって、あんなの見せられたら」 「だから、それは…」 「気にしてないのは、むしろ桜っ娘クラブのことかな」 反論しかけていた彼女の口が息をのむように引き結ばれる。 「君がソロでも桜っ娘クラブでも、俺はかまわない」 「ただ、あの時のステージ衣装には正直見とれた。素敵だと思ったよ、やっぱりアイドルだなって」 「できれば、君が歌ってるところも見てみたいって…そう思った」 「見た目の話で悪いけどね」 ぎこちない苦笑で結ぶ。 小夜子ちゃんは黙り込んだままだ。 それを、俺はどう受け止めるべきなのか。 やがて、長く息をつく気配が伝わってくる。 「そうね、歌手に『聞きたい』じゃなくて『見たい』だなんてひどい話」 「はは、そうだね。ごめん」 「笑いごとじゃないわ。ほんと、安っぽいなぐさめだわ」 「でも、タダだから受け取っておく」 「冬弥くん、一大事よ!」 「うわっ!? と、小夜子ちゃんか」 「? どうしたの?」 「いや、ぼうっとしてて…小夜子ちゃんこそ、そんなに急いでどうしたの?」 「重大な事実が発覚したわ」 「…」 「へぇ、そうなんだ」 「何? その反応」 「まあ、何を重大と見るかは人それぞれだし…それで? 何があったの?」 「まずはこれを見てちょうだい」 そう言って小夜子ちゃんが差し出してきたのは、カラーで印刷されたカタログのようなものだった。 「…学園祭のパンフレット?」 「そうよ。この部分を見て」 「どこ?」 「ここよ、ここ」 「日付?」 「そう。29、30日と書いてあるわ」 「それで?」 「それで、じゃないでしょ。…こんなにすぐだなんて不覚だったわ」 「だいたい、どうして教えてくれなかったの?」 「どうしてって…興味あったの?」 彰には美咲さんを誘えと勧めていたけど、他には何も触れていなかった。 「あるに決まってるでしょ。あなたこそどうなのよ」 「う~ん、どうしよ」 「何それ」 「まだ行くか決めてない」 「決めてないって…行かないなんて選択肢があるの??」 小夜子ちゃんは信じられないとばかりに首を振る。 「冬弥くん」 「な、なに」 「私、人生は貯金に似てると思うの」 「はあ」 「最初の方でたくさん楽しいことを経験してると、その先にはもっともっと楽しいことがあるんだって」 例えが微妙に違うような気もするけど…。 「せっかくのキャンパスライフなんだから、もっと積極的に楽しむべきなのよ。そんな風にだらだらと過ごしてたら四年なんてあっという間よ」 確かに、最近の俺ってのんびりしすぎてるきらいはあるな。 学園祭に限らず、もう少し生活に方向性というものがあってしかるべきかもしれない。 「そういうわけだから、当日の案内はお願いね」 「どうしてそうなるの??」 「だって、お祭りなんて一人で行っても楽しくないもの」 「それはまあ、そうだけど…」 俺だって相手がいれば誰に背を押されなくても。 例えば、当日たまたま由綺がオフになったりとか…。 ありえないよな、そんな都合のいい偶然なんて。 「今まで芸能活動に追われて、学園祭の熱狂を知らずに過ごしてきた…」 「そんな私のことをかわいそうだと思うでしょ?」 「えー」 「思うわよね?」 「う~ん」 「こんなかわいい子と一緒に学園祭を回れるのよ、むしろ感謝してもらいたいわね」 「自分で言っちゃうの、そういうこと」 「もちろん! 歌は苦手だけど見てくれには自信あるわよ!」 そこは威張るところなのか微妙だな。モデルならともかく 「さあ、どうするの? さっさと決めてちょうだい」 「もう少し考えてもいい?」 「やることなすこと牛のようにのろいわね、何が不満なのよ」 おっと、ぼやぼやしている間にこんな時間だ。 そろそろ風呂に入って寝よう。 …。 そう思って腰を上げたらこれだ。 まさか、誰かに行動を逐一監視されて… そんなことあるわけないか。 こんな夜中に誰だろう。 「はい、藤井です」 「冬弥くん? 私、小夜子よ」 「小夜子ちゃん?? なんで…」 「そんなに驚くことないでしょ、電話くらいで」 「でも…あれ?」 用件よりもまず気になることがあった。 「どうやってうちの番号を?」 「…」 「うん」 「いや、うんじゃなくて」 「ここしばらく大学にも行ってなかったから、どうしてるかなと思って」 あくまでしらばっくれるつもりのようだ。 どうせバイトの名簿でも勝手に見たのだろう。 「それと…」 「まだちゃんと謝ってなかったから。テレビ局でぶつかったこと」 「あれ、そうだっけ?」 「きっとそうよ。あの時は緒方英二への分まで冬弥くんに当たってたから」 そういえば、指輪の一件には英二さんも関係していたんだったな。 あの時、彼女が俺の上で見せた涙にも、おそらく英二さんが…。 今でも気にはなる。 でも、それを電話で尋ねる気にはちょっとなれない。 「えーっと、それでは改めて…」 「ごめんなさい」 彼女の声がわずかにぶれる。 きっと、受話器を握ったまま頭を下げているのだろう。 普段は図々しい面ばかり目立つけど、妙に律儀なところもあるんだよなぁ。 「これで貸し借りなしね」 …そうだろうか? まあ、そういうことにしておこう。 「ところで、いま何してたの?」 「別に。風呂にでも入ろうかと思ってたところ」 「冬弥くんの部屋ってお風呂あるんだ」 「一応ね」 「あは、何だかおかしい」 「何がおかしいの」 「ごめんなさい、冬弥くんがアパートでお風呂に入ってると思ったら、つい」 「だからなんで」 その話を皮切りに、俺たちはだらだらと他愛のない話を続けた。 「いま近くにテレビある?」 「あるよ、目の前に。つけようか?」 「うん。ちょっと待って、チャンネルは…」 「ちょうど出たよ。これでしょ? 桜っ娘クラブの特番」 「そうそう、それそれ」 「あ、これ小夜子ちゃん? 一列目の真ん中あたりにいるポニテールの…」 「きゃー! やめて見ないで!」 「自分がテレビつけさせたんだろ…」 こんな馬鹿馬鹿しいやり取り、由綺が相手だと申し訳なくてできないな。 それだけに、このくだらない長電話が何だか新鮮に感じられる。 「へえ、桜っ娘クラブの愛称って『サクラめ』なんだ」 「フルだと長いから、ファンはみんなそう呼ぶわ」 「どうして最後の『め』だけ平仮名なの?」 「さあ? きっと猫型ロボット的な何かじゃないの?」 「そうか…猫型ロボット的な何かか…」 何の説明にもなってないのになぜか納得してしまうな。 そういう、有無を言わさぬ力があるんだろうな。国民的アニメには。 「ちなみに私はその一期生」 「え?」 「やだ、話きいてなかったの? ぼうっとしてたでしょ」 「ごめ…あ、わかった、今やってるこれか」 番組では、これから桜っ娘クラブの歴代メンバーが順に取り上げられていくようだ。 まずは第一期のメンバーがテレビ画面に映し出される。 「小夜子ちゃん、端っこの方だね」 「最初の頃はね。初期メンバーの中では若い方だったから」 「そのうち一人抜け二人抜けして、気がつけば最後の一期生よ。それでリーダーやってたわけなんだけど」 小夜子ちゃんにしてみれば、この番組を見るのはちょうどアルバムをめくるようなものなんだろう。 芸能界の話をする時にいつも滲ませるやるせなさも、今はなりを潜めている。 「そういやさ、小夜子ちゃんはどういう風に呼ばれてたの?」 「え?」 「それじゃあ、いつが都合いい?」 「別にいつでもいいわよ」 「…」 「…」 「スケジュールとか大丈夫なの…?」 「え?」 「あ、そうそう、ここ数日のうちならわりと時間あるから。わりと。ええ」 今、俺は聞いてはならないことを聞いたのだろうか。 「今度の日曜とかはどう…?」 「ええ、それでいいわ」 いつ行くかは決まったけど、問題は行き先の方だな。 リクエストは、いい感じのカフェということだったけど、それに応えられそうなのは俺が知っている中ではエコーズくらいだ。 でも、それはまずい。鉢合わせしそうな相手が多すぎる。 しかも彰がバイトで入ってたりしたら、さらに話がややこしくなりそうだ。 一度は誤解されただけに。 エコーズの他に、ということになると…。 「どうしたの? 急に黙り込んで」 「ごめん…ちょっと都合がつかなくて、先延ばしにしていい?」 「また? もぉ、しかたないわね」 口では文句を言いながらも、小夜子ちゃんはすぐに許してくれる。 元からあまり期待されてないのかな? いや、そうじゃない。 「素敵なカフェを見つけといてね」 ハードルはさらに上がったようだ。 カフェの話が終わっても、俺たちはしばらく受話器を置くことができなかった。 「…はあ。そろそろ切らないと」 「うん、このまま話してると朝になっちゃいそうだ」 「いっぱい話したわね」 「そうだね」 こんなにも夢中になって話をしたのはどれくらいぶりだろうか。 電話で、相手の表情を気にせずに済むから、これだけ話が続いたのだろうか。 内容についてはほとんど憶えてないけど、むしろそれが満足の証拠であるようにも思える。 「…」 「うん?」 「あのね…? 押しつけがましいかもしんないけど…」 様子を窺うような口調だった。 それが受話器越しにも伝わってくる。 続く言葉は、ためらいの分だけ遅れた。 「私たち、友達よね…?」 その聞き慣れた言葉をどう解釈すればよいのか、俺は一瞬判断に迷った。 たぶん、ありふれたそのままの意味なのだろう。 彼女のためらいがちな沈黙から、そう判断する。 「改めてそう言われると照れるけど…」 上ずりそうな声をどうにか押さえつけ、俺は答えを口にした。 「俺はそう思ってるよ」 「彰には天敵かもしれないけどね」 「ふふ、そうかもね」 小夜子ちゃんの口調にはすでにいつもの明るさが戻っていた。 ひそかに揺れる声が、耳にくすぐったい。 「それじゃあ…おやすみなさい」 「うん、おやすみ」 受話器を静かに置く。 それは、今が深夜だからというだけが理由ではない。 この記録的な長電話の最後を、不粋な音でかき乱したくなかったから。 身体の中から、ゆっくりと熱気が抜けていく。 やがて、溜息のひとつもつく余裕が出てきた頃、自分が風呂をわかそうとしていたことを思い出す。 もうひとつ、思い出した。 また電話番号を聞くの忘れてた。 今日は小夜子ちゃんとの約束の日だ。 ちょっと寝過ごしてしまったけど、待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。 待ち合わせ場所の駅前まではここからすぐだしな。 …。 あれ? 駅前は駅前でも今日は新美の方だっけ? まずい、それだとのんびりしてる場合じゃないぞ。 ああ、こんな時に限って髪がまとまらない! ふぅ、新美駅に着いたぞ。 何とか時間には間に合ったようだ。 落ち合う約束の場所はこの辺りなんだけど…。 小夜子ちゃんはまだ来ていないようだ。 さすがは新美町だけあって、昼間でも人通りが多い。 これだと小夜子ちゃんを見つけるのも見つけてもらうのも大変そうだ。 …と、あれ? あそこにいるのは小夜子ちゃんじゃないか? 約束した場所からは多少離れてるけど、間違いない。 何か勘違いしてるのかな。 「おぅい、こっちこっち」 …。 反応がないな。 「小夜子ちゃーん、こっちー!」 なかなか気づいてくれない。 声が届いてないのかもな。 「おーい! 小夜子ちゃーん! 小夜子ちゃーん?」 「ここにいるわよ」 「うわっ!?」 「往来でひとの名前を連呼しないでよ。恥ずかしいったらありゃしない」 小夜子ちゃんは不機嫌そうな面持ちで俺の傍らに立っていた。 なんだ、人違いだったのか。 「ごめん、向こうにいるのが小夜子ちゃんだと思って」 「気をつけてよね、誰かに気づかれたら大変なんだから」 そう言われて、周りを窺ってみる。駅前の雑踏は俺が叫ぶ前と比べて特に変化はない。 「大丈夫みたいだね」 「気づかれたら、よ! そうならないうちに行くわよ!」 「あ、待って」 俺たちは小夜子ちゃんの先導で駅前を離れた。 これから小夜子ちゃんお勧めのカフェに向かうわけなんだけど…。 こっちはテレビ局の方だよな。 …。 何か嫌な予感がしてきたな。 いや、まさかとは思うんだけど。 「これから行くお店って何てところ…?」 「名前? えっと…あら、ど忘れしたわ。場所は憶えてるから心配しないで」 それが俺の知っているところへ近づいているから不安なんだ。 「あ、ああ、そうそう」 「な、なに」 「何となく思い出してきた…。確か、霧…みたいな感じの名前だったような」 それだったらエコーズとは別の店か。 「もうすぐそこよ。実物を見た方が早いわ」 「…」 「小夜子ちゃん…『エコーズ』のどこが霧なの…?」 「え、そんな感じしない?」 「しない…絶対にしないから…」 「名前はカフェのよしあしに関係ないでしょ? 早く席に座りましょ」 問題はカフェの善し悪しではないんだけど…。 油断していたせいで、引き返すきっかけを失ってしまった。 彰は… カウンターにはいない。 今日は休みのようだ。 店長は奥の席に水と手ふきを置くと、何も言わずにカウンターの中へ戻ってしまう。 さっさと座れってことだな。 入口のところで突っ立っているのもただの営業妨害だ。取りあえずそうしよう。 「ここはテレビ局の人に教えてもらったの。コーヒーのおいしいお店があるって」 「へぇ、そうなんだ…」 よく知ってる。それはもう。 「中の雰囲気もいいし、最近はお茶するといえばここばかりだわ」 「あはは…」 あれ?  そのわりに俺がバイトしてる時には小夜子ちゃんを見かけたことがない。 彰もたぶんそうだろう。もし小夜子ちゃんが来てたら、彰だって俺に何か言ってくるはずだ。 今までアイドルの小夜子ちゃんに興味がなかったから、単に気がつかなかっただけなのかな…。 「どうしたの? 何だかそわそわしてる」 「そ、そうかな」 よく考えたら別に後ろめたいことをしているわけではない。 女友達とただお茶をしているだけなんだから。 こういう時は、変に動揺するからあらぬ疑いをかけられるんだ。 堂々としていれば何も問題なんてない。 「…!」 「? どうしたの?」 何を思ったのか、小夜子ちゃんは突然テーブルに這いつくばる。 「『あいつ』だわ…。こんなところにまで現れるなんて」 「『あいつ』?」 「駄目! きょろきょろしないで!」 見つかるとまずい相手でも入ってきたのだろうか。 ひどく険しい眼差しの小夜子ちゃんにつられて、俺も頭を低くする。 「知り合いでも見かけたの?」 「仕事だけでは飽きたらず、憩いの園まで奪おうっていうのね…」 「仕事…? 向こうも歌手なの?」 「…どうせ言ってもわからないでしょ。アイドルに興味ないんだったら」 「それはそうだけど」 「…」 「もりやまゆき、よ」 もり…? え? いや、どうも違う。かすってるけど別人のようだ。 「その子が小夜子ちゃんの仕事を横取りするの?」 「ええ、フレッシュさを売りに業界を荒らし回ってるわ」 世の中、似た名前の人はいるもんだな。 しかも、同じ歌手のようだし。 タイプは、由綺とはだいぶん違うようだけど。 「そうは言っても私と同い年だけど」 …。 「もりやまさん?」 「ええ、そうよ」 「やま?」 「やまよ。さっきからそう言ってるじゃないの」 だよな…? 「虫も殺さないような顔して、世の中の男どもを手玉にとる…ああいう女が一番タチ悪いのよ」 どう考えても由綺のことだとは思えない。 やはり人違いのようだ。 「ところで、なんで隠れてるの?」 「うっさいわね、反射的にそうしちゃった以上は今さら戻れないでしょ」 せっかく大学に出てきたんだから、受けてる講座には全部出よう。 という意気込みは、1コマ目が終わった時点で跡形もなく消失していた。 みんな、この冬らしからぬ陽気が悪いんだ…。 結局、彰と出会ったことがとどめとなり、俺たちは連れだって大学のカフェに向かったのだった。 あ、もうこんな時間か。 夜って時間が経つのが早いよなぁ。 別に何をやってるわけでもないのに、気がついたら寝る予定を一時間は越えちゃってるし。 おっと電話だ。こんな時分に誰かな。 「はい、藤井です」 「…」 返事がない。 屍だろうか? 「あの、どちら様でしょうか…?」 「冬弥くん…」 それは確かに聞き覚えのある声だった。 「小夜子ちゃん…?」 少し間をおいてから、再び受話器から声が聞こえてくる。 「もう耐えられない…」 「何があったの? 小夜子ちゃん?」 「…」 受話器にすがりつくような気配が、その声色からは感じられた。 今は電話線越しで、すぐさまその場に駆けつけることはできない。 その事実と、小夜子ちゃんの沈黙が、不安を加速度的に増していく。 「小夜子ちゃん、今どこにいるの? 一人? 近くに人はいる?」 あちら側の状況を少しでも掴むため、聴覚に意識を集中する。 沈黙が永遠のように長く感じられた。 「心配で…」 「…え?」 「試験の結果が…気になって気になって…」 「なんだ、そのことか」 一気に力が抜けた。 「こっちが心配したよ。変な声出すから事件にでも巻き込まれたんじゃないかって」 「なんだって何よ、少しくらい気をつかってよ」 そんなこと言ったって人騒がせだな…口に出しては言わないけど。 「ねぇ」 「うん?」 「大検に落ちたらどうしよう…」 どうしようと言われても。 まさか、大学を受けることもできないね、なんて事実を指摘してもしかたない。 「大丈夫だよ、大学を目指してるんだったらそのくらい楽勝だから」 「無責任なこと言わないでよぉ…」 これは相当へこんでるな。 「心配しなくてもちゃんと受かってるって。頑張って勉強したんだろ?」 「…」 そこで沈黙なんだ…。 「落ちた時のこととか、くよくよ考えてもしかたないし。ね?」 「今日はゆっくりお風呂に浸かって寝るといいよ。こういうのって別に何もしなくても、明日になったら意外と気が晴れてるものだから」 「もう明日になってるし」 確かに、12時はとっくに過ぎている。 変なところで冷静だな。 「…」 「小夜子ちゃん?」 「おなかいたい…」 声が多少くぐもって聞こえる。 小夜子ちゃんはその場にしゃがみ込んでいるようだ。 「小夜子ちゃん? お腹痛いの? 大丈夫? 何か悪いものでも食べた?」 「ううん…その逆。食事があまり喉を通らなくて…それで胃が荒れてるのかも…あいたたた」 「何でもいいから口に入れた方がいいよ。どうしても無理なら牛乳でも飲んで、炭酸を控えれば多少はましに…」 「冬弥くん…」 「なに?」 「どうしよう…」 「どうしようって言われても…小夜子ちゃんはどうしてほしい?」 「合格させて」 「そうさせてあげたいのはやまやまだけど…」 一介の大学生でしかない俺には、不正の働きようもない。 「それじゃあ、気晴らしに付きあって」 「気晴らしって、今から?」 「ううん、明日」 「明日って…もう明日だよ」 「…」 間違いなく怒ってる。 自分もさっき言ったくせに…。 「どうなの、来てくれるの?」 う~ん、どうしよう? 行く 行かない 「…わかった。行くよ」 いきなりの電話でも色よい返事をしたのは、俺自身も経験した受験のつらさ、心細さを思い出したからだった。 あの時は、みんな揃いも揃って美咲さんの大学を受けることになり、俺だけが置いてきぼりになったらどうしようと毎日が不安だったものだ。 今の小夜子ちゃんも、それと似たような心境にあるのだろう。 「それじゃあ、明日はどこで待ってたらいい?」 「もう明日よ」 「…」 「ごめん、明日はえーっと…新美駅に10時でいい?」 「うん、おっけー」 「あ、やっぱり11時で」 直後、押し殺したあくびが受話器を通して聞こえてくる。 「…くふ。冬弥くんと話してると急に眠くなってきちゃった」 聞きようによっては随分と失礼な言葉だが、不安がやわらいだという意味なら喜んでいいんだよな。 「わかった、11時ね。新美町ではどうするか決めてる?」 「取りあえずはショッピングでこのもやもやを発散させたいっ」 ショッピングか。 まさか服をねだられるとは思えないけど…。 姉を三人持つ彰によると、このショッピングというやつが女に付きあっていて一番大変だという話だ。 「ふは…もう寝るわ。話を聞いてくれてありがとうね」 「うん」 「それじゃあ、おやすみ」 「おやすみ」 「忘れないでね、12時よ」 「遅くなってる遅くなってる」 「やめとくよ」 「なによ、慰めてくれたっていいじゃないの…」 「まあ、そうなんだけど明日は用事があって」 それは角を立てずに断るための嘘だった。 何かめんどくさそうだな、と思ったのは事実だけど、理由はそれだけじゃない。 夜が心を弱くしているだけで、陽が差せばけろっとして約束はやっぱりなしとか言いだしそうだからな。 「もういいわ。こんなに思いやりがない人だとは思わなかった」 まあ、落ち込んでたみたいだから、多少怒らせるくらいでちょうどいいのかな? そして翌日。新美駅前。 見上げた屋外時計の長針と短針は、真上を向いてきれいに揃っていた。 本当に12時かよ…。 冬だというのに真昼の陽射しが目に痛い。 「お待たせ」 今日は歌番組の収録だ。 ゲストは何と、由綺と理奈ちゃん。 そして、なぜか小夜子ちゃんもだ。 …。 なぜかなんて言ったら駄目だよな、俺。うん。 さて、俺も由綺の前で恥をかきたくないし、今日は仕事をしっかりやろう。 いや、普段もしっかりやってるけどさ。 今日はまじめに大学へ来たわけだが、到着した時間が微妙にまじめではなかったので教室に入りそびれた。 次の講義まで時間もあるし…それに出るかはまだ決めてないけど…取りあえずカフェにでも行ってるか。 あれ…? あそこにいるのは彰と小夜子ちゃんじゃないか? 珍しいな、あの二人が一緒にいるなんて。 「よ、彰」 「ああ、冬弥、やっと来た」 彰はあからさまにほっとした顔をしている。 「どうしたんだ?」 「僕は別にどうもしないよ」 「いや、あっち。見るからにへたばってるから」 小夜子ちゃんはテーブルに突っ伏したまま、びくりとも動かない。 「ああ、うん…落ちたんだって」 「落ちた? オーディションに?」 「そうじゃなくて…」 今日は歌番組の収録、それも特番だ。 最近多いな、こういうの。年末が近づいてるせいかな。 それにつれてテレビ局内も大わらわで、俺みたいな新米バイトにも色々な仕事が回ってくる。 例えば今回の、出演者にリハーサルや出番の時間を知らせてスタジオまで案内する役目だ。 タレントさんとじかに接するだけに、デリケートな気づかいを要求される。 しかも、今日、俺が担当することになったのは…。 如月小夜子ちゃん。 いや、現場入りの時はさん付けじゃないとな。 今まで何度も顔を合わせているだけに、不思議な感覚だ。 小夜子ちゃんとは、大検に落ちたことがわかった時以来だ。 そういう意味でも緊張する。 …あ、由綺がスタジオ入りした。 そうなんだ。 何を隠そう、番組には由綺も出演する。 番組の段取りでは、小夜子ちゃんの前に歌うことになっている。 由綺と少しでも話をしたいけど、もう小夜子ちゃんを呼びに行かなくちゃならない時間だ。 残念だが、仕事を優先しよう。 ここが小夜子ちゃんのいる控え室だな。 まずはノックしよう。 「そろそろリハお願いします」 「何度来ても同じよ!! 出ないったら出ないんだから!!」 「…」 部屋は…間違ってないよな。 声も確かに小夜子ちゃんのものだ。 他の誰かと勘違いしてるのだろうか? 俺はもう一度ドアをノックした。 「あの、スタジオ入りを…」 「出ないって言ってるでしょ!!」 「歌うのがあいつの後だなんて、こんなの聞いてないんだから!!」 話がよくわからない…。 あいつって誰? 歌う順序のことを言ってるのだとしたら、由綺のことなのか? 小夜子ちゃんはあんまり頭にきすぎていて、ここにいるのが俺だということをわかっていないようだ。 俺は再びドアを叩いた。 「小夜子ちゃん!? 俺、冬弥だけど…!」 「わからない人ね!! 同じ条件は嫌だって言ってるのよ!!」 小夜子ちゃんはまるで聞く耳を持ってくれない。 このままではらちがあかないな。 しかし、小夜子ちゃんの許しを得ないで部屋に入るのはさすがに気が引けるし…。 「どうかしましたか」 「弥生さん…!」 気がつくと、そこに弥生さんがいた。 思わず後ずさり…しそうになるのをかろうじて踏みとどまる。 「お困りのようですね」 弥生さんは、どんな時も動揺を見せないその瞳で、控え室のドアを一瞥する。 「ええ、まあ…理由もよくわからなくて」 「…そうですか」 意外にも、弥生さんはこの場を立ち去ろうとはしない。 いつもなら無駄なことには一切見向きもしない弥生さんだけに、珍しいことだ。 そもそも、俺が困っているからといって声をかけてくる彼女ではない。 「弥生さんはどうしてここに?」 「何かあったようだと小耳に挟んだもので。番組に支障が出るのは困りものですから」 由綺の出演する番組に、か。 徹頭徹尾、彼女は由綺のために動く。 そのことについては、いささかのぶれもない。 「しかし、大した問題ではないようで安心しました」 「え…?」 俺は自分の耳を疑った。 その言葉のとおり、弥生さんの表情は揺るぎもしない。 「番組に穴があくというのなら、由綺さんがメドレーで歌えばよいのです」 「由綺さんであれば、そのくらいのことはすぐに対応されるでしょう」 「で、でも…」 「藤井さんは、由綺さんの実力をお信じにならないのですか?」 「いえ、そういうわけでは」 「むしろ、このままの方がありがたいくらいです」 弥生さんの見せた微笑みに、俺は戦慄した。 ああ、そうだ。 この人は、こういう時に笑う人だった。 「自分の意志で落ちていくというのでしたら、それをわざわざ止める必要もありませんかと」 本当に…ぶれのない人だ…。 でも、いくら由綺の利益になるとはいえ、俺には小夜子ちゃんを見捨てることはできない。 由綺だって、他人の不幸につけこんでまでスターダムを登りつめたいとは思わないだろう。 「弥生さん…」 「はい」 「俺には俺の責任がありますから」 きっぱりと言い切る。 そのくらい態度を強くしないと、弥生さんに押し切られそうだ。 それでも、弥生さんの表情は少しも変わらない。 やがて…。 「…そうでしたわね」 「藤井さんもお仕事をしていらっしゃるわけですから」 思い出したようにそんなことを口にする。 その口調から皮肉すら感じさせないところが、さらに痛烈な皮肉であるように俺には思えた。 無意識なのか、意識的なのか。それはわからないけど。 「私が中で話をしましょうか?」 え…? 「それは、どういう…」 「特に他意はありません。女同士の方が説得しやすいかと思っただけです」 「殿方では部屋に入るのも苦労しますでしょう?」 背筋に寒気が走る。 弥生さんだと、小夜子ちゃんにとどめを刺しかねない。 まさかとは思うが、そう疑わずにはいられないところが弥生さんにはある。 「いえ、結構です。自分で何とかしますから」 かろうじて声の調子を平静に保つ。 「そうですか。それではお仕事がんばってください」 少しも感情をこめずにそう言うと、弥生さんはきびすを返す。 もはやその動作に、この場への心残りは微塵も感じられない。 俺は背中に滲んだ冷や汗を乾かすため、そして弥生さんの残り香を散らすために、シャツを何度かばたつかせた。 ひどく疲れた。でも、弥生さんと話していた間にかなり時間が過ぎてしまった。 もう気が引けるとか言ってる場合じゃない。 このままドタキャンということになれば、小夜子ちゃんの信頼に関わる。 今度は多少乱暴に、俺は控え室のドアを叩いた。 「小夜子ちゃん! 早くしないとリハーサルが終わっちゃう!」 「もう何も聞きたくない! 番組のことなんて知らないわ!」 「俺だってば! 小夜子ちゃん!」 「今のままでは歌わないって何度言わせるの! みんな私のことバカにして!」 耳でもふさいでいるのか、小夜子ちゃんの反応は変わらない。 しかたない。 俺は拳を固めた。 「ひっ…」 「俺だよ、冬弥! 藤井冬弥!」 小夜子ちゃんが息をのんでいる間に、自分の名前を早口で叩きつける。 「え…? と、冬弥くん…?」 罵声一辺倒だった小夜子ちゃんに、初めて正気と動揺の気配が差す。 「小夜子ちゃん、開けていい?」 「あ…ちょ、ちょっと待って!」 うん? 誰からだろう、こんな夜中に。 「もしもし、きさりゃぎゅっ」 いきなり噛んだ。 「小夜子ちゃん…?」 「…もしもし、如月小夜子と申す者ですが」 「うん、わかってる。俺、冬弥」 「そのせつは…その…そのせつはたびたびご迷惑を…」 激しく言い直している。 小夜子ちゃんも小夜子ちゃんなりに、収録の件に関しては深く反省しているのだろう。 「別にそんなのいいよ、俺が何かされたわけでもないし」 「それじゃあ私の気が済まない。ちゃんとお詫びがしたいの」 小夜子ちゃんはひどく貸し借りを気にしているようだ。 高校に入ってすぐにアイドルデビューをして、友達づきあいをあまりしてこなかったせいだろうか。 もっと気楽に構えればいいのに。 とにかく今は、小夜子ちゃんもせっかくああ言ってくれてるんだし、気持ちよく好意を受けることにしよう。 小夜子ちゃんとまた会う口実にもなるし。 「えーっと、明日なんだけど…予定は空いてる?」 明日といえば、イヴの前日か。 イヴ当日だったら別だけど、その日は特に用事はないかな。 「いいよ」 「ごめん」 「うん、ぜひ」 俺たちは当日の待ち合わせ場所や時間について話し合った。 「ごめんね、夜遅くに」 「少しでも早く約束を取りつけたかったから…」 そんなに慌てる必要あったのかな。 イヴでもないのに。 それにしても、俺たち最近は結構外で会ってるな。 「それじゃあ、明日…水曜にね」 …。 え? 「ちょ、待って、あれ? ちょっと?」 明日って…え? 明日? 部屋の時計を見る。 時刻はすでに深夜0時を回っていた。 小夜子ちゃんが言っていたのは、日付が変わった上での明日か…! 気がついても後の祭り。 すでに通話が切れてしまった以上、こちらから連絡を取ることはできない。 小夜子ちゃんと約束した時間は、ちょうど由綺と約束している頃…いや、それよりも後か。 余計に駄目じゃないか。ライブコンサートの前に立ち寄って詫びることもできない。 待ってる…だろうな。 でも、連絡のとりようがないのだから仕方ない。 俺が来ないとなれば、彼女もすぐに帰るだろう。 いつまでも約束の場所で待ってるような子じゃないし。 きっとすぐに…。 「ごめん…その辺りはちょっとごたごたしそうだから」 「そう…」 小夜子ちゃんの落胆が受話器越しにも伝わってくる。 「そうよね、こんな時期だし。ごめんなさいね、急なこと言って」 「それじゃあ…おやすみなさい」 通話が切れる。 何か…俺が約束を破ったみたいな後ろめたさがまとわりついて離れない。 しかたないよな。 ライブコンサートの前だし。 今日はもう三日か。 そろそろ正月気分も抜けてくる頃合いだな。世間的にも、個人的にも。 とか言いながら、普段よりも随分と朝寝してしまったけど…。 テレビの方はどうだろう。 このところ見かけるのは正月特番ばかりだったけど、そろそろニュースでもやってるかな。 テレビ画面に、どこかの雑踏が映し出される。 街は今日も人混みでいっぱいのようだ。 明日から仕事というところも多いし、みんな駆け込みで出かけているのだろうな。 「このように、三が日の最後を楽しもうという人々でどこもいっぱいでーす」 あ、小夜子ちゃんだ。街頭レポーターをやってる。 これって生だよな。小夜子ちゃん、三が日のうちから大変だな。 そういや小夜子ちゃんとはもう随分と会ってないな…。 いや、そうでもないのか? 一週間と少しか。 先月は何だかんだで頻繁に顔を合わせてたから、あれからひどく時間が経ったような気がする。 そう…あれから。 イヴに小夜子ちゃんとの約束を反故にしてから、謝るどころか一度も顔を合わせていない。 小夜子ちゃんから電話もない。 向こうの番号を知らないので、こちらからは連絡の取りようがないし。 「それでは、どなたかにインタビューしてみましょー。えーっと…そこのあなた、ちょっとすみません!」 …。 ここって新美駅じゃないか? もしかして、今なら小夜子ちゃんと会える…かも? 新美駅に行く やめておく 今すぐ行けば間に合うかもしれない。 とにかく、身支度を急がないと。 「あれ? ちょっと、お願いします、待って、ちょっとぉ~!?」 小夜子ちゃんも三が日は仕事で忙しかっただろう。 こちらの都合だけで押しかけるのは迷惑だな。 約束を破ったことは、今度顔を合わせた時に謝ろう。 テレビ画面ではまだ小夜子ちゃんが何か言っている。 罪悪感から逃れるようにして、俺はテレビを消した。 ロケをやっていたのは確かこの辺りだったはずなんだけど…。 人出が多くてよくわからないな。 もう撮影隊は引き上げちゃったのかな。 スタッフと別れてこの辺りにいる可能性もないわけじゃないけど…。 小夜子ちゃんって、普段はアイドルオーラあんまり出してないからな。 見つかるかどうか。 そういえば、今まで大学やテレビ局で何かと出くわしてたから気づかなかったけど…。 小夜子ちゃんと会うために俺から行動するのって、これが初めてじゃないか? そう思うと、急に気恥ずかしさがわいてくる。 「…」 「帰ろ」 「冬弥くん??」 ぎくっ!? 「どうしたの? こんなところできょろきょろして…」 「いや、その…」 「…」 「?」 「…」 ダッ! 「ちょ、ちょっと!?」 だだだだだっ! うわ、速い!? がしっ!! 「何なのよ、急に逃げ出したりして」 「小夜子ちゃん…結構足速いんだね」 「だてにサクラめで歌ったり踊ったりしてないわよ」 「それで? 何なのいったい」 「いや、まあ、その…」 「イヴの時はごめん…。日付を勘違いしてて…約束は23日かと」 「…」 「…」 「続きは?」 「え?」 「言い訳の続き」 「うん…」 怒ってない…のか? 「24日はもう先約があって…行けないことを伝えようと思ったんだけど、電話番号もわからなくて」 「ほんとにごめん…」 素直に頭を垂れる。 いくら事情を説明したところで、そう簡単には許してもらえないだろう。 なにせ、小夜子ちゃんにしてみれば、イヴの予定をすっぽかされたわけだから。 しかし、小夜子ちゃんの反応は俺の予想とは違っていた。 「わかったわ」 あまりに呆気なくて、思わず小夜子ちゃんの顔を見返す。 「許してくれるの…?」 「別に怒ってないわ、最初から」 俺の早とちりではなかった。 しかも、怒ってなかったって? 「それより心配してたんだから。お店へ来るまでに何かあったんじゃないかって」 「小夜子ちゃん…」 申し訳ない気持ちが群れ上がってくる。 俺だって小夜子ちゃんが約束に現れなかったら、途中で事故にでもあったんじゃないかと心配するはずだろう。 そんな当たり前のことを、立場が逆になると気がつかなかったなんて。 「ごめん…」 「いいのよ、何もなかったんだからよかったわ」 やがて、その申し訳ない気持ちは、この場からの去りがたさへと変わっていく。 「小夜子ちゃん、お仕事はもう終わったの?」 「ええ。これから帰るところ」 「あのさ、それだったら…」 「冬弥くんは?」 「え? ああ、俺は小夜子ちゃんの姿をテレビで見かけたから…」 「やだ、見てたの?」 「うん。ちょうどテレビをつけたらやっててさ」 「私、変なことしてなかったかしら」 「すぐに部屋を出たから少ししか見てなかったけど…通行人を呼び止めようとして失敗してたね」 「やだもぉ、どうしてそんなところに限って見てるのよ!」 「あはは、本当にその他は失敗してなかったの?」 「もちろんよ」 「ひとが見てないと思って」 「してませんから。残念でした」 「そうそう、暇だったらどこかでお茶でもしない?」 ああ、駄目だな俺って。そんなセリフまで言わせてしまった。 「うん、いいね。どこに行く?」 「エコーズにしましょ。探す手間も省けるし」 「でも、あそこは…」 由綺とニアミスするのが嫌だったんじゃ…? 「今日は大丈夫よ。緒方理奈も森川由綺もきっと忙しいだろうから」 それは空しくなる話でもあるな…。 「それでは改めまして…」 「明けましておめでとうございます」 …ふぅ、ようやく収録が終わった。 色々と手間取っていたせいもあって、もう日暮れ時だ。 でも、今日は二本録りだからまだこれで半分なんだよな。 収録が全て終わるのは深夜近くになりそうだ。 時間だけじゃない。もう一度同じことを繰り返すかと思うとさすがに気が滅入ってくる。 「まったくだわ」 「…あれ? 俺、声に出てた?」 「いいえ。でもそんな顔してたわ」 もし、今、彼女を見失ったら、もう二度と会えない気がした。 例え、大学のカフェに出かけても、彼女の心とはもう出会えない。 そう思うと、足は自然に動きだしていた。 俺は小夜子ちゃんの後について歩きだす。 二つの人影が、無言のまま前後に並んで歩いていく。 しかし、踏切にはなかなか辿りつかない。 「…ついて来ないでよ」 小夜子ちゃんは振り返りもせずにそう呟く。 それでも俺は小夜子ちゃんと歩調を合わせる。 「また電車に乗せないつもり?」 「話を聞いてくれるまでは」 「大声あげるわよ」 「かまわない。そうしてみる?」 「…」 小夜子ちゃんは黙り込む。 それはできない。だって、小夜子ちゃんはアイドルだから。 そのくらいの分別はまだ残っているようだ。 「小夜子ちゃん、俺…」 「聞きたくない」 しかし、俺の言葉だけは頑なに拒絶を続ける。 「…信じられない」 ようやく踏切を渡って反対側の出入り口にたどり着いた時には、すでに終電は行ってしまった後だった。 「いいわ、タクシーで帰るから」 小夜子ちゃんは道路まで戻り、タクシーのヘッドライトに向けて大きく手を振る。 「ここよ、タクシー!」 「ちょっと無視しないでよ! ああ、もう!」 終電後ということで、タクシーはどれも賃走ばかりだった。 まれに空車があっても、長距離客である可能性の高い背広姿を求めているのか、小夜子ちゃんの前は素通りしてしまう。 小夜子ちゃんはあきらめて手を挙げるのをやめた。 「ほんと、みっともないったらありゃしないわ」 うめくように呟くと、きびすを返してまた歩きだす。 「どこに行くの?」 「歩いて帰る」 「送るよ」 「いいわよ、一人で」 「そんなわけには行かないよ」 小夜子ちゃんの後ろ姿について行く。 小夜子ちゃんは街灯のもとを歩いていく。 その姿は、一定の距離を保っていると、闇の中で明滅するように見えた。 いくらも行かないうちに、小夜子ちゃんが足を止める。 「小夜子ちゃん?」 「…」 だっ! 小夜子ちゃんが急に走り出す。 その子供じみたやりように、一瞬呆然としてしまう。 夜道は危ないって言ってるのに…! 口の中で罵りながら、俺は慌てて小夜子ちゃんのあとを追いかけた。 「はぁ…はぁ…はぁ…」 小夜子ちゃんは苦しそうに腰を折り、自分の膝をつかんでいる。 普段、ステージで歌ったり踊ったりしているだけあって手強かったが、何とか置き去りにされることは避けられた。 「どうして…」 荒い息づかいの中から、かすかな呟きが聞こえてくる。 「そんな必死に追いかけてくるのよ…」 それについては、俺自身でも滑稽に思える。 ここまで拒絶されながら、どうして俺はこうも惨めったらしく食い下がっているのだろう。 その理由は、自分の中でもこれと一言でいえるほど判然とはしていない。 ただ、わかってることはひとつだけある。 「別れは…嫌いなんだろ」 ぐっと口をつぐむと、小夜子ちゃんは乱れた呼吸を押し込めてまた歩きだす。 「あんたなんか、あいつに全然ふさわしくないわ!」 世間へ言いふらすみたいに、誰もいない夜更けに向かって声を張り上げる。 「あいつはキラキラしたステージでそれに負けないくらい輝いてるのよ! あんたと釣り合うはずないじゃない!」 あえて反論はしなかった。 それは俺が普段感じていることと寸分違わなかったから。 「私だったら…」 「私なら出来損ない同士、お似合いなのにね!」 言葉はナイフのように明るく、それでいてさざ波のように揺れている。 「小夜子ちゃん…泣いてる?」 「泣いてなんかないわよぉ…」 「上着のポケットにハンカチとティッシュが入ってるから、使って」 「…」 ごそごそと無言でハンカチを取り出す。 それで目の辺りを拭い、そして…。 「ブーッ!」 ティッシュがあるのに、ことさらハンカチで鼻をかんでみせる。 小夜子ちゃんの態度はひたすら頑なだった。 とりつく島もない。 徒労感が満ちる潮のようにひたひたと寄せてくる。 今日、俺にできることは、ただ小夜子ちゃんを家まで送り届けるだけで精いっぱいかもしれない。 「小夜子ちゃん…次に会う時は…」 気がつくと、小夜子ちゃんはその場にしゃがみ込んでいた。 「いやよぉ…」 「冬弥くんまで私を傷つけるなんて…」 「そんなの絶対にいやぁ…」 歩いていく彼女の背中を、俺は追いかけることができなかった。 今は何を言っても無駄だろう。 じきに、彼女の姿は街灯のまぶしさの向こうに消えていった。 スタジオ内はいつにも増して若々しい活気が満ちている。 それもそのはず。 今日の収録は、歴代サクラめメンバー総出演だ。 もちろん、その中には小夜子ちゃんもいる。 同世代の女の子たちに混ざっても、結構目立ってるな。 普段は街を歩いていてもまず見つかることはないのに、不思議なものだ。 ステージの緊張が彼女を別の生き物に変えるのだろうか。 やがてリハーサルが始まる。 その手はずなのだが、様子がおかしい。 現・元サクラめメンバーがステージの中央付近に集まって、何やらものものしい雰囲気だ。 トラブルでもあったのだろうか。 「なに言ってるの! 今のコたちを真ん中にしないとダメでしょ!」 どうやらステージ上の立ち位置で揉めていたらしい。 それも小夜子ちゃんの発言で概ね収まる。 まあ、客観的に見れば小夜子ちゃんの言っていることは当たり前なんだけど、それでも一応ごねてみるという手合いはどこにでもいるものだ。 こういう時は、誰かがはっきりと言わなければいつまでもぐずぐずと事が運ばない。 でも、人のしがらみがある中では、なかなか口火を切れるものではない。 その点、小夜子ちゃんの通る声と表面的には押しが強そうなところはその役目にうってつけと言える。 自分の得にならないことでも、毅然とした態度を取る。 こういうところはやはり先代リーダーだ。 「お面ライダーだって先輩ほど端に立つじゃないの!」 例えはちょっとおかしいけど。 小夜子ちゃんの一喝のおかげで、本番も大過なく収録は終了した。 出演者がスタジオを後にしても、俺たちADの仕事はまだ終わりではない。 それら全てにけりをつけてから、俺は小夜子ちゃんの控え室に向かった。 小夜子ちゃん、今日は後輩のためにがんばったからな。 仕事のことで俺が小夜子ちゃんを誉めるだなんておこがましい限りだけど、せめて一言ねぎらってあげたい。 そういや、誉め言葉のひとつも用意してなかった。 小夜子ちゃんにそんなことを言うなんて想像もしていなかったから、すぐには思いつかない。 「…どうぞ」 迷っているうちに中から返事が聞こえてくる。 廊下でためらっているのも変だ。取りあえず中に入ろう。 「冬弥…くん…?」 厳しい表情だったのが、一転して目を丸くしている。 「ま、待って!」 小夜子ちゃんは戸惑うように半歩後ずさる。 「え…どうしたの?」 「ダンスの後で汗くさいから…」 「ううん、別にそんなことないよ」 確かに甘い香りを感じるけど、それは不快なものではない。 むしろ胸いっぱいに吸い込みたいくらいだが、そんなことをしたら小夜子ちゃんに部屋からたたき出されるだろう。 「本当に…?」 不安そうに俺のことを窺う。 「自分ではよくわからないから…」 サクラめの曲はダンスパートが多い。 そのせいで、いつもよりたくさん汗をかいたのだろう。 「それじゃあ、どうして部屋に入れてくれたの?」 自分の汗が気になるなら、ドアのところで断ることもできたはず。 「だって、あの人たちが文句を言いに来たのかと思って」 あの人たち、というのは誰のことなのかすぐにわかった。 桜っ娘クラブの元メンバーたちのことだな。 確かに、今になって思えば、ドア越しの返事もどこか緊張が漂っていた。 リハーサルで小夜子ちゃんが一喝した相手というのは、小夜子ちゃんにとって後輩ばかりではない。 彼女が卒業してからの月日を考えると、むしろ先輩の方が多かったのではないか。 そんな中にあって、青ざめた顔で仕返しを待っている小夜子ちゃんは、あの時の堂々とした態度とはうって変わって可憐な限りだ。 「なによぉ」 「なにって、何が?」 「顔が笑ってるわ」 「そんなことないよ」 「どうせ私のこと口ばっかりとか思ってるんでしょ」 「そんなことない」 自分ひとりの時は怠け者だったりするんだけど、意外と純粋なところもあるんだよな。 「ちゃんとリーダーだったよ。感心した」 「そ、そう…?」 にわかには信じ切れない様子だったが、すぐに機嫌を取り戻す。 後ろ向きの感情も長続きしないのは、小夜子ちゃんのいいところだ。 「お仕事は終わったの?」 「うん。小夜子ちゃんは?」 「どうせ暇ですよーだ」 顔をしかめてはみせるが、すぐ元通りになる。 「そっちもそうなんでしょ、森川由綺が彼女なんだしね」 俺もそれを否定しない。 気がつけば、こんな冗談を言い合えるようになっている。 「誕生日がイヴなんて…何だかずるい」 ブティックで買い物に付き合っている間、同じセリフをもう何度も聞いている。 あの日の行動はすでに説明してあった。 「隠すつもりはなかったんだけど」 「そうね。隠すつもりはなくても言うつもりもなかったんでしょ」 もう勘弁して…。 「どうせ森川由綺はこんなことじゃ怒ったりしないんでしょうね」 ようやく名字を憶えたと思ったらこれだ。 「それで、彼女とはいつから?」 俺は、高校の時から一緒だということを話した。 彰や美咲さんと顔見知りであることも。 「…そうなんだ」 「アイドルだから付きあってるわけじゃないのね」 そう言うと、彼女はなぜか寂しそうな顔をした。 「でも、いい気味だわ。そのせいで彼女ともろくに会えないんでしょ?」 憎まれ口を叩きながら、表情の方はあまり意地悪そうでもない。 「まあね」 最後に由綺と買い物に出かけたのはいつのことだったか。 「…ごめんなさい。余計なことよね、私からこんなこと言うなんて」 ふと胸の奥をかすめた感傷が表情にも出ていたのか、それに気づいた小夜子ちゃんは申し訳なさそうにしている。 「ううん、気にしてないから。もうずっとこんな感じだし」 そう。ずっと。 俺たちが恋人同士の蜜月を過ごしたのは、ごく短い期間だけだ。 それが現実にあったことなのか、自分でも自信がなくなってくるくらいに遠い記憶だ。 「そうなんだ…」 「それじゃあ、私が言ってあげる」 スタジオには懐かしいメロディーが流れている。 でも、それに続く歌声は、俺の記憶にあるものよりもかなり高くて若々しい。 今日の収録は、懐メロを若手の歌手が唄うというコンセプトの音楽番組だ。 出演者の中でも特に目を引くのは、理奈ちゃんと小夜子ちゃんだ。 この組み合わせには俺も多少不安を憶えたけど、今のところ問題は起きていない。 理奈ちゃんが登場する前に、小夜子ちゃんの出番が全て終わるせいでもあったが。 このまま何ごともなく収録が終わればいいんだけど…。 「よ、働いてるな」 英二さんだ。 見たままを口にするのは、他に気が行っているせいだろう。 英二さんは挨拶もそこそこに、リハーサルの様子へ目を戻す。 「おはようございます。最近よく来ますよね」 「ん? ああ、イメージを膨らませるためにな」 英二さん、が? 自分が働く現場をこう言うのは何だけど、理奈ちゃんのライブをプロデュースするほどの英二さんが、今さらこの場から学ぶことなんてあるのだろうか。 「俺がテレビの収録を参考にするのはそんなに不思議か?」 「ええ、まあ…」 「正直だな。きっかけは何でもいいんだ、記憶の呼び水みたいなものだから」 折しも、というか、よりにもよってステージでは小夜子ちゃんの歌が始まる。 でも、それを英二さんは意外とまじめな眼差しで見つめる。 その意外な反応に、俺はおそるおそる英二さんに尋ねてみた。 「彼女の歌、どう思います…?」 「嫌いではないね」 その返答は、俺にとっても意表を突かれるものだった。 英二さんの視線はステージに止まっている。 俺がめいっぱい驚いていることには気づかない。 「でも、俺が出る幕じゃないかな」 やはりただのお世辞だったのだろうか。 「彼女…駄目なんでしょうか。歌手として」 「そうじゃないさ。音楽の方向性が違うというか…」 適切な表現を探しているのか、話に瞬きほどの間が空く。 「あまり作為を加えない方がいいと思うね、彼女の場合」 「ああいうタイプはよほど注意深くやらないとな。変にいじって駄目にしたら元も子もないから」 つまり、小夜子ちゃんにも可能性があるということだろうか。 思わず前のめりになってしまう。 「それじゃあ…」 「…などといいことばかり言いながら、本当はただ自分の趣味じゃないだけってことがあるからな。大人の場合は」 からかうように、英二さんは横顔で笑ってみせる。 変に食い下がる俺のことは、すっかり見透かされていたようだ。 「すみません、余計なことを」 「そう恐縮するなよ。青年はああいうのが趣味なのか?」 「いえ、そんな」 「その否定は歌に対してかな。それとも、異性としてか?」 「え、英二さん」 「そう慌てるなよ。彼女、胸は人並み以上だからな。男なら気持ちは一緒だぜ」 「英二さん…っっ!」 「はは、悪い。根を詰めているとどうも冗談が卑俗になっていかんな」 「理奈とも最近はまじめな話ばかりだし…おっと、由綺にはこんなこと言ってないぜ。普段もな」 「本当ですか…?」 「本当さ。大まじめに聞き返されてこっちが困るのが落ちだからな」 あ、わかる。 由綺なら、アイドルとしての魅力に胸が必要か、本気で考え込みそうだ。 「そうそう、忘れるところだった。今日理奈が出る番組はここでいいんだよな?」 「ええ、そろそろスタジオ入りすると思いますけど…」 「あー、緒方さんだー。おはようございますー」 「ああ、お疲れ様。この前は悪かったね、面倒を押しつけて」 「いえいえ、私こそオトナゲないことしちゃってすみませんでしたー」 予想外の明るさで会話は交わされる。 こんなに愛想のいい小夜子ちゃんは見たことがない。むしろ気持ち悪いくらいだ。 でも、芸能界での力関係でいえば、指輪の一件の時よりもこちらが自然なんだよな。 「私の歌、どうでした~?」 「よかったよ。とてもユニークで」 言葉の後半が気になるな。 「うわぁい、緒方さんにほめられちゃったー」 でも、小夜子ちゃんは喜んでいる。 口調も仕草もひたすらわざとらしいけど。 「でも、苦労してるみたいだね。イメチェンの方は」 「そうですねー、慣れないことばかりで小夜子大変ですぅ」 「いっそ受けたらよかったんじゃない、プロポーズ」 この辺りは繁華街もあってさすがに曜日関係なく人が多いな。 今日のところは何か目当てがあるわけじゃないけど、取りあえずぶらぶらするか。 店を回るうちに買い忘れていたものを思い出すかもしれないし。 と…あれ? 小夜子ちゃん…? まさか、こんな真っ昼間から街中で? …小夜子ちゃんならありうるか。いつも暇してるし。 小夜子ちゃんらしき人影はすぐに行ってしまう。 別人だったのかな? 何だかふらふらとした足取りで危なっかしい感じだったけど…。 今から追いかけても、人混みにまぎれてしまって見つけられそうにない。 しかたないな。当初の予定どおり、繁華街をぶらぶらするか。 紙は重いからという理由で、書店は後回しにした。 そのことを、俺はしばらく後悔することになる。 事件はすでに始まっていたんだ。 そのことを知ったのは、何気なく手に取った写真週刊誌を開いた時だった。 そこには、あるアイドルがテレビCMから降ろされたことが、大々的に取り扱われていた。 あるアイドルとは、小夜子ちゃんのことだった。 夕陽の茜色が街から完全撤退した頃、ニュース番組ではこれから始まる『音楽祭』の概要が流れていた。 思わず洗いものをしていた手が止まる。 テレビは夕方頃からずっとつけっぱなしだった。 チャンネルはもちろん、音楽祭のある局に合わせてある。 音楽祭の生中継が始まるまでは、まだかなり間があった。 しかも、最初は過去の受賞者の紹介などがあり、各賞の候補がステージに上がるのはずっと先になる。 それなのに、今からテレビの前で正座したい気分だ。 音楽祭で与えられる賞は、最優秀賞、優秀賞、特別賞などいくつかある。 中でも、最も栄えある最優秀賞の筆頭候補といえば、緒方理奈…つまり理奈ちゃんということになるだろう。 しかし、他にも才能と個性に満ちた、芸能界にうとい俺ですら名前を知っている歌い手が何人も出場している。 その中に、今…小夜子ちゃんも立っている。 近くで応援してあげたい気持ちはやまやまだが、音楽祭の会場に一般人は立ち入りできない。 俺は、ここで見守るしかない。 小夜子ちゃんを楽園の中へ置き去りにしたような、そんな後ろめたさを抱きしめながら。 電話だ。こんな時に誰だろう。 俺の知り合いはみんな今日が音楽祭だということを知っている。きっと勧誘か何かだろう。 今は余計なことに気を回したくない。電話はそのうち鳴りやむだろう。 しつこいな…。 「はい、もしもし」 多少、語気が強くなってしまう。 それに答えるのは沈黙だけだった。 「どちら様ですか?」 受話器から遠慮がちな声が聞こえてくる。 「冬弥くん…」 それが誰なのか考えるよりも先に声が出ていた。 「小夜子ちゃん!?」 「うん…」 「ど、どうしたの? 音楽祭は、もうすぐ本番でしょ??」 受話器はしばらく風の音のようなノイズを伝えてくる。 「小夜子ちゃん…」 「冬弥くん…」 「会いたい…」 すがりつくような声だった。 「会いたいよぉ…」 声はみるみる涙の気配に包まれていく。 「少しでいいから…会いたいの…」 小夜子ちゃんが俺を求めている。その事実だけで十分だった。 「すぐに行く。どこで落ち合うのがいいかな? 今どこにいるの?」 「公園みたいなところ…」 みたいな? 「前、冬弥くんが迎えに来てくれた」 みたい、じゃない。伊吹町駅の近くにある公園だな。 「わかった。すぐに行くから、そこを動かないで」 「うん…」 「それじゃあ、切るよ」 「あ…」 「なに?」 「…」 「待ってる…」 「うん、すぐに行く」 受話器を置くと同時に、俺はハンガーから上着を引きはがした。 靴に足を突っ込むのももどかしく、玄関を飛び出す。 つけっぱなしにされたテレビの音が、閉まるドアの向こうへと遠ざかっていった。 視界に映る街並みを後方へ置き捨てるようにして、夜の中を駆けに駆ける。 ようやく公園にたどり着き、足を止めて荒い息をつく。 小夜子ちゃんは…? 噴水のそばに、コートの人影が見えた。 気持ちに歯止めが利かず、また駆け足になる。 「小夜子ちゃん…!」 「冬弥くん…」 「久しぶりだね」 「うん…」 それきり会話はとぎれる。 今まで会いたくても我慢してきたものだから、急に顔を合わせると何だか照れくさい。 小夜子ちゃんはずっとレッスン三昧だったはずだけど、それにしては意外と元気そうだ。 ただ、視線の行き先が落ちつかないのは少し気になるけど。 「体調とかどう?」 ここまで来たらもう実力を問題にしてもしかたない。 あとは思いきりやるだけだろう。 「う、うん」 「その…」 「具合悪いの?」 「ううん、それは問題ない…けど…」 やはり何かおかしい。 「小夜子ちゃん…何かあったの?」 「別に何も…」 「小夜子ちゃん?」 重ねて問いかけると、ためらうような口ごもるような気配が伝わってくる。 小夜子ちゃんは、ようやく顔を上げた。 俺を見上げる眼差しが不安そうに揺れている。 雪が、降り始めていた。 視界は定かではなかったが、顔に触れる冷たいものは確かに雪だった。 公園の時計は、音楽祭がすでに終わったことを告げている。 でも、小夜子ちゃんの姿はまだどこにも見あたらない。 この場を離れたのは、缶コーヒーを買いに行った一度きりだ。 それも、目の届く範囲からは出ていないから、行き違いになった可能性はないだろう。 ここで待ってて、という言葉自体が、小夜子ちゃんの動揺がまだ収まりきっていないことを示していた。 それでも俺は待ち続ける。 こんな時にこちらから携帯を鳴らすわけにはいかないからな…。 しかし、結果が気になる。 最優秀賞は誰のものになったのか。 小夜子ちゃんはどうなったのか。 そういったことが脳裏をかすめるたび、気が急いてその場で足踏みしてしまう。 駅前まで行けば、どこかしらテレビはあると思うけど…。 「…」 また足踏みだ。 気持ちはすでに走り出している。 これ以上待っていたら、気が変になってしまう。 ちょっとだけ…ちょっとだけ公園を離れよう。 ほんのちょっとだけだ。すぐに戻ってくる。 小夜子ちゃんには地面に書き置きをして…これでよし。 とにかく駅前に急ごう。 駅前に並ぶ店舗の多くはすでにシャッターを下ろしていた。 電気屋も例外ではない。 辺りを見回してみるが、それは無駄な行為だった。 伊吹町駅の近くに街頭ビジョンなんて気の利いたものはない。 これなら部屋に戻った方がよかったか。ただの離れ損だ。 とにかく公園に戻ろう。 そうあきらめかけた時、視線の先にテレビ画面が飛び込んでくる。 立ち飲み屋だ。 ちょうどその店内、客が見上げる位置に、やたらと枠の分厚い旧式のテレビが強引に押し込まれている。 つい先ほどまで、そこでも音楽祭の生中継を見ていたのか、チャンネルは同じだった。 今はニュースが流れている。 立ち飲み屋ということで、奥行きの狭さが幸いした。通りからでもテレビの内容はよく見てとれる。 ニュースはもうしばらく続くようだった。 音楽祭の結果とかやらないかな…。 そんなことを思ったまさにその瞬間、テレビ画面に『音楽祭』という文字が現れる。 思わず目を見張った。 速報テロップだ。画面の一番下を流れる文字が、音楽祭の情報を伝えている。 固唾を呑んで見守る。 最優秀賞は…。 その続く先の文字を追って、俺は必死に目をこらした 『緒方理奈』 最優秀賞は、緒方理奈さん。 テロップが流れていく。 知らず知らずのうちにつめていた息が、溜息となって夜気の中を立ち上っていく。 雑誌の多くもそう予想していた。順当な結果と言えるだろう。 だが、ショックを受けている自分がいる。 結果は出た。 それは小夜子ちゃんにとって否だった。 そうだ、小夜子ちゃん…! きっと身分不相応に落ち込んでいる。そうに違いない。 俺は慌てて公園に引き返した。 うっすらと雪化粧を施された地面には、点々と続く足跡があった。 季節はずれの雪が舞う中、それはことさら公園の中へと向かっている。 否応もなく足が急かされる。 そこには小夜子ちゃんがいた。 一瞬、人違いかとも思った。 俺のことに気がついても、わずかに首を巡らせただけだったから。 「冬弥くん…」 半ば呆然としている。 理奈ちゃんが最優秀賞で落ち込んでいるのか? それにしては反応が希薄というか…。 ん? 何だろう、小夜子ちゃんが手に持っているものは。 まるでトロフィーみたいな形をしているけど、それにしてはやけに小さい。 「こ、これ…」 小夜子ちゃんが震えるようにして握りしめているものは、確かにトロフィーだった。 でも、小夜子ちゃんの指が強ばっていて離れない。 しかたなく、首を傾けて台座の文字を読む。 『協会奨励賞』 箔押しされた文字は、そう読めた。 努力賞、みたいなものだろうか。 トロフィーの大きさからして、三賞の下であることは間違いなさそうだ。 「これは…?」 「どうしよう…」 小夜子ちゃんはおろおろとしている。 小さなトロフィーを握りしめて。 「小夜子ちゃん、落ち着いて。これはどうしたの?」 「ねえ、冬弥くん、これどうしよう…っ」 俺の言うことはほぼ聞いていない。 「だって、こんなこと一度もなかった。こんなことって…」 目の焦点がまた拡散していく。 「賞なんて…一度だってとれたことなかった…」 ただその事実に、目を見張らんばかりに驚いている。 理奈ちゃんが最優秀賞であることは、もはや眼中にないようだ。 「冬弥くん…」 「うん」 「私…ほめられちゃった…」 「うん、そうだね」 「だって、小夜子ちゃんがんばったから」 「冬弥くん…」 「うん…がんばったよ。すごくがんばった」 「ものすごくがんばった…」 「よかったね」 「うん、うん…よかった…よかったよ…」 「うぅ…」 後は、もはや言葉にならなかった。 「うわぁああああ~~~んっっ!!!!」 朝、目が覚めると、居ても立ってもいられない気持ちになって部屋を後にした。 それは、由綺や小夜子ちゃんと思うように会えないもどかしさから来ていたのだろうか。 足の向くままに行き着いた先が、結局ミュージックショップだったのは、やはりそういうことだったのだろう。 店内には目立って歌手のポスターが増えていた。 目線の高さでカウンターの左右を飾るのは、理奈ちゃんと由綺だ。 他のどれもが、音楽祭の出演者のものだった。 ああ、そうだ、小夜子ちゃんとの約束があったんだ。 断りの電話を入れなくちゃいけないんだけど…番号とか知らないからな。 こっちから連絡の取りようがない。 次に会った時には謝らないとな…。 あ、小夜子ちゃんだ。 そういや、この前のこと謝っておかないと。 「小夜子ちゃん…?」 「あら、どちら様かしら」 「ご、ごめん」 「申し訳ありませんけど憶えがありませんわ。どこかでお会いしました?」 これは相当怒ってるな。 「小夜子ちゃん…本当にごめん」 「連絡しようと思ったんだけど…番号とか知らなくて」 険しい眼差しが俺を上から下までねめつける。 怒鳴られてもしかたないところだが、次に聞こえてきたのはため息だった。 「はぁ…わかったわ。急用が入ったんだったらしかたないわね」 「今度はちゃんとするから、また誘ってもいい…?」 「またいつかね。それまでに素敵なお店を見つけておくよーに」 「今度は利子がついてるわよ」 小夜子ちゃんは行ってしまった。 本当に悪いことしちゃったな…。 最後に少しだけ笑みを見せてくれたのは嬉しかった。 あ…こっちに来るのは小夜子ちゃんじゃないか? そういや、この前約束を破っちゃったんだな。 謝っておかないと…。 「小夜子ちゃん」 「と、冬弥くん…!」 あれ、反応が思っていたのと違う。 「あのさ、この前…」 「ごめんなさいっ、私ったら時間まちがえてて、その、待ち合わせ場所には行ったんだけど、もう冬弥くん帰っちゃった後で…」 「え? 帰った…?」 「ほんとにごめんなさいねっ、ほんと、ほんと、待ち合わせ場所には行ったのよ?」 もしかして、小夜子ちゃんは当日遅刻してきたのか…? 「いや、俺も実は…」 「私から頼んだことなのに、ごめんなさい…ほんとに、駅前には行ったんだけど…」 「そうじゃなくて、俺は…」 「あら、もうこんな時間! 急がないと…ほんとにごめんなさいね! それじゃ!」 小夜子ちゃんは逃げるように行ってしまった。 どうやら勘違いしているようだけど、今さらことを荒立てることもないか。 今日は、ゆっくり過ごそう…。 俺は部屋で休むことにした。 今日は、どこかに行こうかな。 俺は街へ出かけた。 今日は大学へ行こう。 今日は、家庭教師の日か…。 俺はしばらく時間を潰してから、マナちゃんの家に向かった。 今日はADのアルバイトだな。 俺はTV局に向かった。 今日はエコーズでアルバイトか。 俺はエコーズに向かった。 せっかく思い出したことだし、今日は買い物に行くことにしよう。 そうだな。 まあ、一生に一度くらいはるかに、バースデープレゼントを贈った年があったっていいよね。 よし、今日は買い物に行こう。 よし、買いに行こう。 いくら相手が俺だって、誕生日のプレゼントを贈られて嫌になるってことはないだろう。 それにもし喜んでくれたりしたら、ちょっとは俺の言うことだってきいてくれるかも知れない。 …って、それはちょっと情けない理由だなあ…。 まあいいや。 行こう。 あ…。 部屋に入った途端くらくらしてきた…。 ははは…。 だらしないな、俺…。 部屋に入るなり倒れちゃった…。 どうにかベッドにはたどりついたけど、ちょっとつらいかも知れない。 とりあえず、今夜一晩休んで、明日に回復するかだな…。 寝よう…。 朝だ…。 …だめだ。 全然回復した感じがしない。 今日は休もう…。 ぷるるるるーーーー。 電話…? こんな時に誰だろう…? 「はい、藤井ですけど…」 「あれ…? 夜分遅くに失礼いたします。私、森川と申しますけど…」 「あ、由綺。どうしたの?」 「やっぱり冬弥君? どうしたのって…」 電話の向こうで、由綺が何やらとまどってる。 「なんだか、すごく元気ない声なんだもの」 「え? ああ…」 過労で倒れたなんて言えないよなあ…。 由綺に心配懸けちゃうのもそうだけど、何よりも、かっこ悪い…。 「まさか、寝込んでる…?」 鋭い…。 「もう、冬弥君。 無理しちゃだめだよって、私…」 「うん…」 由綺をごまかすの、ちょっと無理みたいだ。 「大丈夫なの、冬弥君? 熱とか出したりしてない…?」 「だ、大丈夫だって…」 「ほんとに気をつけて…。冬弥君、時々すごく無茶するから…」 「うん…」 別に、そんな無茶をしたわけじゃないんだけど。 …どっちにしても、由綺によけいな心配懸けちゃったみたいだな。 「そんな、俺のことなんか心配しなくても大丈夫だって。これくらいどうってことないんだから」 「だめだよ。もっと気をつけなきゃ。…冬弥君が倒れても、私、何もしてあげられないんだから…」 「由綺…?」 だけど悲しそうに、由綺は沈黙してる。 「ゆ、由綺。俺、そんな…。うん、大丈夫だってば」 「…大丈夫だけど…でも、気をつけることにするよ…」 「うん…」 静かに、由綺が頷いてくれた。 「ごめんね。何もしてあげられないのに、こんな時に電話しちゃって…」 「ただ、冬弥君とお話ししたいなって思っただけだったんだけど…」 「そう…。うん、よかったよ。俺、由綺の声聞けて元気出てきた」 電話の向こうで、由綺が少し笑った。 「…うん。でも、無理しないこと。ゆっくり休んでね…」 「判ってる」 「じゃあ、あんまり長電話も悪いから…。 …おやすみなさい…」 「うん…。おやすみ…」 そして電話は切れた。 うん…。 今日はゆっくり休もう…。 あ…。 朝だ…。 …まだちょっと身体がだるい…。 無理すれば出かけられないこともないけど、昨日、由綺に言われた通り、無理するのはちょっと控えようかな…。 下手に無理して、由綺にまた余計な心配懸けるのもアレだし。 大事をとって、今日も休もう…。 ぷるるるるーーーー。 「はい、藤井ですけど」 「冬弥君。私、由綺です」 「あ、由綺。今日はどうしたの?」 「うん…」 由綺はちょっと恥ずかしそうに口ごもる。 「…冬弥君、大丈夫かなって、心配だったから…」 「え…? そうなんだ…。でも大丈夫だよ、俺。昨日由綺に言われた通りにおとなしくしてたから」 「そう? よかった…」 その時、由綺の後ろで誰かの声が聞こえた。 「え? 部屋に誰かいるの?」 「あ、ううん。部屋じゃなくて、今日はまだラジオ局なの」 「え? そうなんだ?」 由綺、俺のこと心配して、わざわざ仕事場から電話してくれるなんて…。 「うん…。だから、長電話はちょっとできそうもないけど、でも、元気みたいでよかった…」 「うん…」 言われて気づいたけど、喋ってても調子が良い。 「由綺の声を聞いたからだよ、きっと。今夜寝たら、もう全快するよね」 「よかった…」 「…私、何かしてあげられたら…」 「ううん。充分だって」 「ほら、仕事あるんだろ? 俺はもう平気だから」 「うん…」 「今度は由綺の方こそ無理するなよ」 「ふふっ。判ってる。じゃあ、冬弥君、おやすみなさい」 「うん。がんばってね、由綺」 そして電話は切れた。 なんだかほんとに、由綺の声が聞けて元気になった気がする。 明日は多分、普通に動けそうだな…。 ぷるるるるーーーー。 「はい、藤井です…」 「夜分遅くに大変申し訳ございません。藤井冬弥様のお宅でございますか?」 「え、ええ。俺…僕ですけど…」 「おやすみだったでしょうか?」 「あ、いえ…」 この綺麗な声は…。 「理奈…ちゃん…?」 「ごめんなさい、こんな時間に。大丈夫なの?」 「え? 大丈夫って?」 「…今日、由綺に聞いたの。冬弥君が倒れたって」 「あ…。まあ…」 恥ずかしいなあ…。 由綺、なにもそんな、人に言わなくたって…。 「由綺、言っていたわよ。冬弥君って、時々すごく無理をするから心配だって」 「そ、そうかなあ…」 そんなことまで…。 ああもう、由綺は、もう…。 「冬弥君見ていて、私もそんな感じはしていたけれど」 「そ、そう?」 「でも、本当に身体に負担のかかるような無理だけはやめてね」 「うん…」 すごく優しい口調だけど、なんかこう、すごく年上の人に言われてるみたいだ。 「本当だったら、直接にお見舞いに行きたいところなんだけれど…」 「ううん。…とにかく、あんまり由綺に心配を懸けるようなことをしちゃだめだからね」 「判った…」 「理奈ちゃん、優しいんだね…」 「ふふ…。そうかしら?」 電話の向こうで彼女は控えめに笑う。 「とにかく、ゆっくり休んで早く回復させること。音楽を聴いたり、本を読んだりなんかしちゃだめよ」 「うん。判った…」 俺、そんな療養なんてしないから…。 「あ、いけない。長くなっちゃつらいわよね。じゃあ、私もそろそろお仕事に戻らなくちゃいけないから」 「え? 仕事中だったの?」 しかし理奈ちゃんは答えないで、ただちょっと笑っただけだった。 「それじゃあ、お大事に」 そして電話は切れた。 あの理奈ちゃんが、仕事中にお見舞いの電話をくれるなんて…。 なんかもう、俺、それだけで元気になりそうだよ…。 あ… 朝か…。 なんかまだ、身体だるいな…。 とはいっても、食事くらいはしなきゃ…。 ああ…。 起き上がるの、つらいな…。 よいしょ…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 誰だろう…? こんな日に限って新聞か宗教なんだよな、俺の場合…。 「はい…」 「あ、はるか…」 「あれ? 元気ない」 「ちょ、ちょっとね…」 俺は曖昧にごまかす。 はるかに『過労』なんて言葉が通じるとは思えない。 「今日はちょっと疲れてるんだ…。何か用事あったの?」 「遊びに誘ったら来るかなって」 「ああ、あいにく今日、俺、だめ…」 「そう?」 そう言ってはるかは行きかけて、「倒れた?」 「あ? まあ…」 はるか、いつの間に人の体力に限界があることを知ったんだ。 「点滴とか打った?」 「そんな興味深そうに言うなよ…。そんな大したことじゃないって。昨日から一人で寝てただけ。それだけ」 「ごはん食べてる?」 「これから。まさか外に食べに行くわけにもいかないから、何か簡単なもので済ますよ。どうせ食欲なんて無いし…」 「んー…」 何か考えてる。 「待ってて」 「あっ、おい…」 行っちゃった…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 …ああ、いけない。 昨日からずっと寝てたみたいだ。 時計はと見ると、あ、もう夕方だ…。 誰かがチャイム鳴らしてくれなかったら俺、ミイラになってたかも。 「はい…」 「こんにちは」 「あ、美咲さん…」 「藤井君、今日、どうかしたの…?」 「え…?」 「何もなかったらいいんだけど…藤井君…今日、学校に来なかったから…」 「あ…」 俺、大学なんか時々さぼってるけどな…。 「なんだかちょっと気になって…」 「そう…?」 美咲さんがこんな風に直感で行動するなんて珍しいな。 もっとも、その直感は当たってたみたいだけど。 「本当に…大丈夫…?」 「もう大丈夫だよ、そんな」 「もう…?」 あ、しまった。 美咲さんに心配懸けないつもりだったのに。 「もうって?」 「あの…。実は、昨日倒れたんだけど。あ、でも、もう大丈夫だよ。ほんとだよ」 「そうなの…? じゃあ、休んでなきゃ…」 「あ…私が起こしちゃったのね…」 「い、いや。俺、朝から何も食べないで寝続けてたから、起こしてもらってちょうどよかったよ! うんっ!」 「食べてないの?」 「あ…」 だめだ、俺…。 誘導尋問に弱いタイプだ。 「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。…私、食事作ってあげる」 「え…?」 「待ってて。何か買ってくるから…!」 「うん…」 心配して来てくれたんだろうけど、悪いことしちゃったな。 そんな、看病がなくたって、もう二、三日寝てたら回復すると思うんだけど…。 それから美咲さんは、何やら食料をいっぱい買ってきてくれて、いろいろとあったかいものを作ってくれた。 さすがに何も食べてないだけあって、美咲さんが持ってきてくれる端から食べてしまってた。 ピンポーーーン。 「あ…」 俺… ずっと寝てたみたいだ…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 誰か来てる。 俺はよろよろとベッドから降りる。 「はい…」 「藤井さん…?」 「あれ、マナちゃん…?」 どうして急に俺の部屋に…。 「やっぱりね。すごく顔色悪い」 「そ、そうかな…」 いきなりやって来て、そんな…。 「いや。それより、どうしたのさ? 学校の帰りじゃないの?」 「まさか」 どうでもいいじゃないって顔だ。 「どうしたのって、それは私が言いたいわよ」 「え…?」 「え…? だって」 マナちゃんは、呆れたって顔をしてみせる。 「今日は家庭教師の日だからって、学校からまっすぐ帰ってみたら、いつまでも来ないんだから」 「あ…」 そういえば今日はそうか…。 でも、いつ休んでもいいって…。 「なによお…?」 「別に…」 言える様子じゃないな、そんなこと…。 「どうせ、遊びすぎて過労で倒れて食事もしてないんでしょ?判るわよ、そんなの」 「うん…」 判るのか…。 「別に遊び過ぎってわけじゃないけど、割とそんな感じ…」 「え? なに? ほんとなの?」 「え…? ほんとだけど…」 「やだ。もっと早く言ってよね、藤井さん!」 なんだ、当て推量だったのか。 「待ってて。何か買ってきてあげるね!」 「あ…」 あの娘も結構、思いついたらすぐに行動しちゃうよな。 「これ食べたらちゃんと休みなさいよね」 「う、うん…」 そして俺は今ベッドの上で、マナちゃんが山ほど買ってきたハンバーガーを食べてる。 こんな場面でのハンバーガーはあんまり嬉しくない…。 もっとも、彼女に言わせたら、「消化のこと考えて、ポテトは外しておいたわよ」 「お腹に優しく、ポタージュのセットにしてあげたの」 だ、そうだ。 彼女は彼女なりに、俺の身体のことを心配してくれたみたいだ。 …多分。 「藤井さん…」 「え…?」 「ほら、ついてる…」 「ん…」 マナちゃんが俺の口の周りを拭いてくれる。 「ありがと…」 ピンポーーーン。 あ、誰か来た…。 …今、何時頃かな…。 と、あれ? 寝た時間よりも戻ってる。 え… 眠ってる間に時間旅行を…。 ピンポーーーン。 「あ、はい…」 なわけないか。 あ、でも、ってことは、俺、ほとんど一日中寝てたってこと…?  …よく栄養失調にならなかったな。 「はい…」 「お休みのところ失礼いたします」 「弥生さん…」 あ… 朝か…。 まだ身体だるいな…。 今日も寝ていよう。 こんな時、お見舞いにとか来てくれる人がいてくれるといいんだけどな…。 なんて、甘いことを考えながら、寒々としたベッドの上で俺は眠りに落ちた。 ああ…。 一気にいい気分。 体力も回復してるし。 今日は行動できそうだ。 あ、朝だ。 昨日の電話のせいかな、なんだかすごく体の調子が良くなってる。 由綺と理奈ちゃんに感謝しなきゃいけないな。 ああ…。 朝だ。 なんとなく、体の調子が良い。 …卵… なのかなあ、やっぱり…。 (なんかやだな) あ…。 すごく体の調子が良い…。 何日かベッド生活を覚悟してたけど、美咲さん、ありがとう。 あ、なんか今日は体の調子が良い。 ハンバーガーみたいなジャンクフードは体に良くないって言ってるみたいだけど、あれ、嘘かも知れないな。 もっとも、それを証明する気にはなれないけど。 何にしても、いずれマナちゃんに何かのかたちでお返ししなきゃな…。 あ…。 ああ…。 なんとなく、体の調子が良いような気がする。 …口の中はこれまで感じたことないくらい『化学の味』がするけど。 でも、昨日、弥生さんが持ってきてくれたああいうのって、意外と効くみたいだな。 よく、気休めだとかって聞くけど、それだけでもないかも。 自分ではアナログっぽい人間だと思ってたけど、結構、化学のよく効く現代人なのかも知れない。 それともアナログだからこそ、効いたのかも知れない…。 …まあ、どっちだっていいや。 今日は普通に行動できそうだ。 ぷるるるるーーーー。 「はい、藤井です…」 「倒れたんですって!」 開口一番、挨拶もすっ飛ばして尋ねてくる。 まるで駆け寄るみたいに。 「うん…まあ」 「何してるのよ、どうせお腹出して寝てたんでしょ、暖房入れてるからってお腹出して」 事実が目の前で捏造されていく。 「いや、ただの過労で…それより、俺が倒れたって誰から聞いたの?」 「…」 「とにかく」 一言で流された。 よくわからないが、小夜子ちゃんは謎の情報網を持っているらしい。 「過労? 風邪? 喉にきてるの? 熱は? 熱はどうなってる? 鼻水とかはどうなの? 口で息してる状態?」 そんないっぺんに訊かれても答えようがない。 「大丈夫、心配しないで。ちょっと体調を崩しただけだから」 「ちゃんと寝てるの? どうせベッドから起き出してるんでしょ、ひょろろんと」 それはまあ、今は電話に出ているわけだから。 「ちゃんとお薬のんでる? ハチミツをお湯に溶かして飲むといいわよ。殺菌効果とかあるから」 「へえ…そうなんだ」 そういや、風邪の時は生姜にハチミツとか聞いたことがあるな。 でも、風邪ってわけじゃないんだけど。 「風邪はいつ頃から?」 「疲れがどっと出たのはおとついのこと…でも、別に熱は」 「かかりがけというわけではないのね。それじゃあ今からビタミンCをとっても無駄ね」 「いや、そもそも風邪では…」 「無駄よ。無駄なのよ」 小夜子ちゃんは聞く耳を持ってくれない。 俺の症状なんだけどな…。 「布団をかぶってゆっくり休むのよ。暑いのはがまんして。体温が上がるのはウィルスの繁殖を抑えるために体がやってることだから」 「でも、ちゃんと熱は測っておくこと。あまり上がりすぎるようだったら熱冷ましを飲まないと、体がまいってしまうから」 熱もないんだけどな…。 でも、その部分を訂正する気はすでに失せてしまった。 せっかく心配してくれてることだし。 「水分はちゃんと取ること。いい?」 「ハチミツね」 「そ、ハチミツ」 頷く気配が受話器を通して聞こえるようだ。 「体調がよくなってもしばらくは寝てなくちゃ駄目よ。よそ事なんか始めたら、またぶり返すんだから」 「あとは普通にしていても治るなんて思ったら大間違いよ。退屈でもしっかり寝てること。いい?」 やけに力説してくるな。 「それは経験から出た知恵?」 「そうよ! だから信頼できるでしょ?」 開き直ったな。 「野菜もちゃんと取ってる? 冬弥くん、お通じは?」 「え? おつうじって…」 「もぉ、言わせないでよ」 なぜその話になったのかまるでわからないけど、とにかく答える。 「まあ、お陰様で」 この言い方も我ながらおかしい。 「それなら生野菜は必要ないわね。あれはお通じにはいいけど栄養の面ではあまり得じゃないから」 「はあ…そうなんだ」 「温野菜よ。ビタミン不足には温野菜をとりなさい。ゆでるんじゃなくて蒸すのよ。病気の時だけじゃなく、普段から」 「うん…」 「わかった?」 「う、うん」 「とにかく寝ているのが一番よ。水分も忘れずにね。それじゃ」 …切れてしまった。 一方的にまくし立てていったな。 でも、心配してくれているのはよく伝わった。 う~ん、もう朝か。 なんだろう、体の調子がすっかり良くなっている。 昨晩は小夜子ちゃんから言われたとおりにしたおかげだろうか。 それも何だか釈然としないけど…。 さ…どこに行こうかな…。 とか、ふらふら歩いてたら、人に流されて駅前に来てた。 多分、神社に初詣に行く人達だろう。 …このまま一緒に行ってもいいんだけど…。 「あれ? 冬弥?」 「あ、彰」 さすが。 彰も真面目に初詣か。 「冬弥も初詣に?」 「ま、まあ…」 まさか行くあてもないなんて、かっこ悪くて言えない…。 「あはは、真面目なんだ」 それはこっちの台詞だ。 「でも、僕はちょっと勧めないかな…」 「え?」 「この人達、みんな神社行くんだよ」 「まあ、そうかもね…」 みんな、とは限らないにしても。 「そんな中にわざわざ行くって気にもなれないしね、僕…」 「うん…」 確かに彰の言う通りかも。 ホームに並んでるのはみんな、家族連れやカップルなんかで、一人でいるのや、男二人なんてのは滅多にいない。 「面倒になってきちゃったから、適当に何か食べてゲーセンにでも寄って帰ろうかなとか思ってたんだ」 彰…。 真面目な顔して、なんていい加減な…。 「一緒に行く?」 「…まあ…行くか…」 どうせ誰と約束してるってわけでもない。 人混みに押し潰されて、相手してくれるのが神様だけなんてのは虚しい限りだ。 彰が相手でも、いないよりはましだしな。 「うん。つきあうよ」 「ありがと。冬弥でも、誰もいないよりはましだって思ってたんだ」 「…失礼だな」 俺の台詞だってば。 「わあ…。人、多いねー…」 「ああ…」 それもそうだ。 神社からまっすぐ帰らない人間はほとんど、こういうところに来るだろうから。 なんて、来るまで全然気づかなかったけど。 「どうする…?」 ゲーセンを覗いてみたけど、結構アブナそうな高校生達がたむろってる。 彰、ちょっと怖がってる。 彼らより全然年上のくせに。 「…仕方ない」 怯えた彰にすり寄られたって嬉しくもない。 俺は彰と二人で軽くカラオケにでも入ることにした。 「眼を閉じ~三回~願い事繰り返す~」 …うまいな、彰。 あれ? でも点数はそれほどでもないや。 「機械に合った歌い方しないと点数は取れないんだって」 「へえ…。変なこと知ってんだな」 「友達がそう言ってたんだ」 「ふうん…」 変な友達。 「じゃ、冬弥、またね」 「ああ…」 結局、ずっと彰と遊んじゃったな。 しかも遊んでる間中、『由綺は?』なんて一言も訊かなかったところをみると、彰も彰で気を遣ってくれてたんだろう。 …不器用なくせに…。 「あ、そうそう」 「ん?」 「今年もよろしく」 「え…?」 ああ、そうか。 もう年が明けたんだ。 全然そんな気もしないうちに、いつの間にか。 「…こちらこそよろしく」 なんて、俺もつい挨拶してしまう。 「それじゃあ、おやすみ。ばいばい」 そう言って子供みたく駆けてく彰に、俺はそっと手を振った。 あ、留守電入ってる…。 ピーーッ。 『…冬弥君ですか。由綺です』 考えてみたら、俺くらいの年齢の男の年越しってこんな感じだよ。 いいんだよ、こんなで…。 そして俺はいじけてベッドに横になった。 ぷるるるるーーー。 あ…。 TVつけっぱなしで、うとうとしてた…。 ぷるるるるーーー。 「はい、藤井ですけど…」 「あ、冬弥君?」 「由綺!? あれ? 仕事とかいいの?」 「うん。今、移動中」 退屈な年末に居眠りしてる俺とは正反対だな。 「ほんとは会いに行きたいんだけど…」 「そんな。気にしなくていいって…」 ほんとは気にして欲しいけど、まさか俺自身と会うことが由綺の仕事になっちゃまずい。 あくまで『会える時に会う』が原則なんだ。 「でも、移動中ってことは…?」 「うん。弥生さんの車の中」 やっぱりか…。 ここであんまり甘えた会話なんかすると印象悪いな。 俺が由綺に悪影響与えてるって本気で思われかねない。 って、もう思われてるか。 「大変なんだね、こんな日だってのに…」 「うん。少しだけ残ってる書類作業みたいなのを一気に終わらせちゃおうって、弥生さんが」 「そうなんだ…」 また弥生さん…。 融通きかないんだから。 まあ、弥生さんの口から『お正月』なんて言葉が飛び出しても、なかなか怖いものがあるけど。 どっちにしろ、そんな忙しい中からでも、由綺はわざわざ電話してくれてるんだ。 退屈だなんていじけてる場合じゃないな。 「あ、冬弥君、ちょっと待って…」 「え…?」 不意に由綺の声が遠くなる。 受話器の向こうで、由綺と弥生さんが何か言ってるのが聞こえる。 その時、窓の向こうから重々しい鐘の音が聞こえてきた。 あ、そうか…。 「ね、冬弥君…」 「由綺、あけましておめでとう…」 「うん」 年が明けた。 由綺と会うことはできなかったけど、それでも一緒の時間を過ごせた。 それだけで、なんだか嬉しくなってくる。 「今年もよろしくね、冬弥君…」 「こっちこそよろしく、由綺…」 「うん…」 なんだか由綺の声が恥ずかしそうに熱っぽい。 電話を通じても、由綺が照れてるのが十分に判る。 「ちょ、ちょっと照れくさいね、あははっ…」 照れてる照れてる。 「な、なんか…。あ、あのっ、弥生さんにかわるねっ!」 「え…? おい…」 弥生さんにって、そんな照れ隠しがあるか…。 「おめでとうございます」 「は、はい…。こちらこそ…」 しかも、素直に出ないでよ、弥生さんも。 由綺と一緒の時の弥生さんって、ちょっと判らないところがあるよな…。 「冬弥君…?」 あ、今度は由綺だ。 「…はい、弥生さんでしたっ」 「…判ってるけど…」 「あ、そろそろ着いちゃうみたいだから、また電話するね…」 「あ、うん…」 こんな日なのに、短い自由時間だったな…。 どんなに下らないことでも、せめて夜明けまで話していたい、そんな気分なのに。 「…でも、がんばらなきゃね」 だけど俺はあえてそう言った。 こんな日の夜の仕事なんだったら、せめて嫌な思いはさせられない。 年が明けたら、また元気に会おうくらいな感じで。 会いたい気持ちは大人らしく抑えておいて、せめてこんな風に。 これから何度も会えるって知ってるから、こんな風に、大人らしく…。 「それじゃあ、また今度ね。おやすみなさい」 「おやすみ…」 俺の声が届いたかどうかも判らないうちに、電波の状態が悪くなったのか電話は切れてしまった。 受話器をそっと戻して、カーテンの隙間から夜空を見る。 鐘の音は続く。 いろんな人達に、祝福される人達にもされない人達にも等しく、鐘の音は響いた。 今日は、学園祭だ。 何処に出掛けようか。 あ…。 雑誌の情報が正しいんだったら、来週は、理奈ちゃんの誕生日のはずだ。 あ。 そういえば、来週はるかの誕生日じゃないか。 今年まで全然思い出したことなかったけど。 あっと…。 そういえば来週、マナちゃんの誕生日なんだ。 やっぱりプレゼントとか贈った方がいいかな…? 変な誤解はされそうだけど。 今日は、新キャラの誕生日だ。 今日は弥生さんがエコーズに来る日だ。 何処に出掛けようか。 今日から12月だ。 何処に出掛けようか。 今日から新しい年だ。 何処に出掛けようか。 今日から2月だ。 何処に出掛けようか。 今日は由綺のコンサートだ。 今日から大学の冬季休暇だ。 何処に出掛けようか。 そういえば昨日から大学の冬季休暇だったな。 マナちゃんの家庭教師も今日だ。 今日は大晦日か。一年経つのも早いな。 何処に出掛けようか。 冬季休暇、確か今日までだったな。 何処に出掛けようか。 今日から大学の授業か。 何処に出掛けようか。 今日は音楽祭だ。 何処に出掛けようか。 今日はマナちゃんの家庭教師の日だ。 何処に出掛けようか。 今日はマナちゃんの家庭教師の日だ。 何処に出掛けようか。 さて、今日は何処に出掛けようか。 さて、今日は何処に出掛けようか。 あ、その日は由綺と約束の日だ。 どうしよう… 由綺との約束を断る 由綺との約束を優先する あ、その日は理奈ちゃんと約束の日だ。 どうしよう… 理奈ちゃんとの約束を断る 理奈ちゃんとの約束を優先する あ、その日ははるかと約束の日だ。 どうしよう… はるかとの約束を断る はるかとの約束を優先する あ、その日はマナちゃんと約束の日だ。 どうしよう… マナちゃんとの約束を断る マナちゃんとの約束を優先する あ、その日は美咲さんと約束の日だ。 どうしよう… 美咲さんとの約束を断る 美咲さんとの約束を優先する あ、その日は弥生さんと約束の日だ。 どうしよう… 弥生さんとの約束を断る 弥生さんとの約束を優先する あ、その日は小夜子ちゃんと約束の日だ。 どうしよう… 小夜子ちゃんとの約束を断る 小夜子ちゃんとの約束を優先する あ、その日は彰と約束の日だ。 どうしよう… 彰との約束を断る 彰との約束を優先する あ、その日は理奈ちゃんの誕生日だ。 プレゼント渡す予定だけど… どうしよう… 予定変更する 予定変更しない あ、その日は、はるかの誕生日だ。 プレゼント渡す予定だけど… どうしよう… 予定変更する 予定変更しない あ、その日はマナちゃんの誕生日だ。 プレゼント渡す予定だけど… どうしよう… 予定変更する 予定変更しない あ、その日は小夜子ちゃんの誕生日だ。 プレゼント渡す予定だけど… どうしよう… 予定変更する 予定変更しない