前略。  母が死んだので、ぼくも死のうと思います。  その程度のささやかな願いであれば、今ならただ一歩この地下室の外へ身を晒すだけで、無差別な凶弾が叶えてくれることでしょう。  いささか怖い気持ちはありますが、ぼくが現在このような状況に遇しているのも天が与えた機会とさえ思えるのです。  闘病生活の長かった母が旅立って〈一月〉《ひとつき》が経ちました。  もはやどなた様も望んではおられない御様子でありますし、この大蔵〈遊星〉《ユウセイ》という不肖の子がこれ以上生きながらえる理由もとくにございません。  ぼくは学校というものに行っておりませんが、来たる《出荷》に備えて終日あらゆる分野の優秀な家庭教師を付けていただいたお陰で、まったくの馬鹿者ではないのです。  ご頭首さまや旦那さまや奥さまや、そのほか輝かしい大蔵家のお歴々が、この不浄の子を少なからず持てあましておられたことは重々理解しておりました。  ゆえに数年先の《出荷》を待つことなく、いまぼくが速やかに天へ還ることで、皆さまが心安けく平らかに過ごせますならば、一族の発展を願う一人として望外の喜びでありま── 「ふぅーッ、おっかねぇー……!」  突如。  遺書の文面を考えていたら、突如、闇の小部屋に騒々しい気配がなだれこんできた。 「ふッ!」  まだ決意の途中だったぼくは──ぼくの生存本能は──考えるよりも先に右手のキッチンナイフを投げ放っていた。  真夜中の酒蔵に小さな音が鳴る。  この暗さでは確認できないけれど、ぼくの狙い通りであれば、それは侵入者の鼻先3インチをかすめて自家製ワインの木樽に突き立ったはず。 「あん?」  相手の足が止まった。無言の警告に気付いたのだろう。  刹那、ぼくは母の匂いが染みこんだ夜色の毛布を抜けだし、猫のように音を殺して床を蹴った。  暗所戦では初手が生死を分かつ──護身術の授業で叩きこまれたイワノフ先生の言葉どおり、この不意打ちで敵の機先を制さないかぎり、非力なぼくは反撃の銃弾を受けて一巻の終わりだ。  つまり、丁度そんな結末も悪くないと考えていたぼくには、もはや一切の躊躇がない。  正面から相手のふところへ飛びこむや、樽に刺さったナイフを引きぬき、そのまま先端を闇の向こうへ突きつけた。 「動かないでください」 「おおっ!?」  頭みっつほど高い位置から、おどけたような悲鳴が返ってきた。 「おいおい、酒蔵だと思ったらホラーハウスかここは? いるならいるって言ってくれよ、びっくりするだろう」  暗がりの先で、長身の影が短刀の間合いから一歩遠ざかった。 「動かないでくださいと言いました」 「ハ?」  フランス語のマルセル先生に厳しく叱責される通り、やはりぼくの仏語はまだまだ日本訛りが強くて聞きとりにくいのかもしれない。 「…………」 「…………」  真夜中の押し込み強盗、対、地下貯蔵庫を寝床にしていたぼく。  しばし、互いの間に横たわる闇を睨みあう。  地下通廊の非常灯から届く幽かな緑光が、闇の中に辛うじて像を浮かびあがらせる。侵入者は若い白人のようだった。 「えっと……おたく誰? ここン家のひと?」  その問いに頷くことを、ぼくはまだ許されているのだろうか。 「倉庫番です」  ぼくは〈Oui〉《はい》とも〈Non〉《いいえ》とも言わずにそう答えた。  深い密林の色をした闇に、かぼそい刃物を突き入れながら。 「私にはこの家を守る義務があります。銃を捨てて投降してください。さもなくば、刺し違えてでも貴方を止めなければなりません」 「おおっと? こいつは勇敢なサムライのお出ましだぞ」 「驚いたね。さすがは悪名高いオオクラさん家の別荘だ、うっかり迷いこんだお客様を刺激的なアトラクションでお出迎えとは趣味が悪い」  彼はそれ以上踏みこんで来なかったが、こちらの覚悟をまともに受けとめていないのは明らかだった。 「ところで念のため確認するけど、君……」  首を伸ばし、闇に慣れてきた目を凝らす。 「子供、だよねえ?」 「私は子供ですが、銃声を聞きつければすぐに大人たちが駆けつけます。撃っていただいても構いません」  ぼくはナイフを突きだしたまま悠然と進みでた。  撃たれても構わない。撃たれるのも悪くない。撃たれたい気もする。  撃たれたい。 「オーモンデュー……」  彼はかぶりを振って天に祈った。 「やっぱり悪趣味だなあ、ここン家の人間は。君も大変だねえ? ろくに胸も膨らんでないうちから心身とも従順なSPに仕立てあげられちゃってさあ」 「お静かに願います、ムッシュー」  旦那さまやご当主さまを愚弄する発言は無視するわけにいかない。ぼくはフランス語より多少は自信のある英語で繰りかえした。 「もう一度言います。どうぞお静かに、ミスター。私の言葉が分かりますか」  靴音を強調して床を踏む。かぼそい武器を蛇の舌のように誇示しながら。 「Uh……ソーリィ」  男からの返答も英語に変わった。 「大丈夫だ、安心してくれ。俺は元来、美人を口説くとき以外はお静かな方なんだ」 「もっとも、君は将来かなりの美人になる。まあ暗くて顔はよく見えないが、声を聞けば分かるさ。ゆえにわたくしの饒舌が多少過ぎたとしても、そこは寛容にお許し願いましょう、レディ」 「私は男子です」 「あそう? そりゃ失礼。いや、分かんねえよ。声にぜんぜん〈表情〉《カオ》がないんだもん、君」 「貴方はたったいま、声を聞けば分かると言ったばかりです」 「おっと出たぞ、思春期名物『貴方が言ったんじゃないですか』だ。まぶしいなあ。若さの特権だぜソレ、大人の不条理に正論で立ちむかうなんてさ」 「ま、勉強になったろ? これが社会の縮図だよ。目上の者がカラスは白いと言えばカラスは白いし、イルカは魚だと言えばイルカは魚だし、下の口は正直だと言えば下の口は正直なのさ。あ、君タバコある?」  歌うような調子。内ポケットを探る気配。 「動かないで」  ぼくは警告した。  陽気な四方山話で相手の警戒心を逸らす──状況打開のきっかけ作りだろう。耳を貸してはいけない。相手のペースに乗らないことが肝要だって、ネゴシエーターのスミス先生も言ってた。 「銃を捨ててください」 「参ったな、悲しきパラドックスだ。大人として、坊やのかわいい我儘を叶えてあげたいのは山々だが、さすがの俺でも持ってない物は捨てられない。たしか東の果ての真面目な国にそんな〈諺〉《ことわざ》があったな」  無い袖は振れない。 「お静かに。まず両手を上げてください」 「動くな・喋るな・両手を上げろ。なかなか注文の多い酒屋さんだ、次の命令はなんだい」 「今夜この家に押しいった罪を、あなたの神に懺悔してください。そしておとなしく投降してください」 「いいだろう、それぐらいなら善良な市民にも叶えられる願いだ。アーメン」  無造作に体を沈める気配。  濃緑色の闇にもだいぶ目が慣れて、男が腰を落としたのだと分かった。 「やれやれ。それじゃあ大人たちとやらのお迎えが来るまで、のんびり待たせてもらおうか」 「ああ、俺は〈J〉《ジャン》・〈P〉《ピエール》・スタンレー。短い間よろしく少年」  彼はあぐらをかいて大きな息をついた。 「…………」  ぼくも何故だか息をついた。 「悔いあらためていただけて何よりです。迷える狼にも主の導きがあらんことを」  英語で話していると慣用的にそんな言葉が出てくるけれど、本当は神様なんてあまり信じていない。  だって、ぼくのお母様はあんなにも敬虔な信徒だったのに、あえなく病に呑まれて死んでしまった。 「そう死んだ声を出すなよ、少年」  足元から意地の悪い声がした。 「それじゃあ、なんだか、もっと派手に抵抗してもらいたかったみたいだぜ」 「…………」  見上げる男の視線が、見透かしたような薄笑いを宿していた……ように見える。侵入者が投降してもなお、ぼくはまだ明かりを点けていなかった。  理由はとくにないのだけれど。 「おとなしくしていてください。いま大人たちを呼んできます」  ぼくは何か縛れるものを探して、地下室の暗がりを振りかえった。 「おいおい、そんなあからさまに背中を向けるなよ、少年」 「…………」 「ひょっとして、君はアレかい? 当初のプラン通り、どデカい発砲音で撃ち殺されたいのかい」 「まさか。お戯れを」 「あ、そう? じゃあちょっと試してみようか」  不意に男の声が一段低くなった。  挑発的に白い歯を覗かせたあと、たおやかな手品師じみた動作で右手を懐へ挿しいれる。 「動かないで!」  ぞっとして、ぼくは叫んでいた。  もう覚悟は決したつもりだったけれど、いざ死の影がよぎると身体は正直だった。 「動けないさ、俺はいま冷たい床にケツを据えてる。だが、君は二本の足で立ってる。そうだろ、少年」  上着の内側で不吉な金属音が鳴り、こちらへ向けて乳房のように盛りあがった。  殺意の先端を突きつけられたその瞬間、ぼくの思考は閃光を浴びたように白く染まった。  いざとなると、やはり、恐かった。 「じゅを、銃を、捨てなさい」  喉が渇いて、舌が絡んだ。沸騰するような恐怖が、全身を駆けめぐっていた。 「迷ってるね。いいとも、お節介なお兄さんが楽にしてあげよう」 「おまえみたいなガキには覚えがあるんだ。ははっ、分かるよ。そんな終わったようなキャラで生きてたって、世の中なァーんも面白くないだろう。いっそ死んだ方がいいって」  死んだ方がいい。  そんなこと── 「──分かってます」  分かってるんだ。  ぼくは生まれて来ない方がよかったんだ。  生きてたって誰も喜びはしないんだ。 「そんなこと、分かってます」 「死んだ方がいいって、そんなこと、ずっと分かってました」  声に出して認めてみたら、すうっと何かが抜けていった気がした。  だらり、腕が落ちる。  なんだか抗うのも震えるのも億劫になった。  青く枯れた声でぼくは言った。 「……撃ってください」 「あそ。じゃあ撃と」  覆いかくされた銃口が、着弾点を狙って上下する。  力の抜けた手からぼくのナイフが滑りおちた。 「旅立ち十秒前だ。さあ少年、天への祈りを済ませようか」 「結構です」 「九秒前。家族や友人に言い遺すことは?」 「そんなのいません」 「八秒前。え、家族も? 家族まったくいないの?」 「衣食住を提供していただいている方々には、不用意に家族だなどと吹聴してほしくないと言われています」 「あそう、ヘヴィだねえ。七秒前。じゃあ、誰にでもいいや、なんかこの世に言い遺しとくことないの」  この世に言い遺すこと。 「さっき、ちょうど遺書の文面を考えていました」 「さっき、ちょうど。ふうん、高尚な趣味だねえ。六秒前」 「でも結局、一族の皆さまへの当て付けみたいな内容になってしまって、とても後には遺せません」 「あそう。そしたら──」  彼は銃を隠し持っていない方の手を、芝居じみた笑顔の横で広げた。五秒前のサイン。 「──そうだ、好きな子には? いまわの〈際〉《きわ》に最期の告白なんてロマンチックだぜえ?」  そうかもしれない。いつだったか、旦那さま夫婦のお供で観たフランス映画の一幕が頭をよぎった。  それだけだった。いまわの際によみがえるロマンチックな想い出、終了。 「考えなくても、いるだろ? 好きな女の一人や二人」 「いません」 「この期に及んで照れンなよう。どうせ死ぬンだから言っちゃえって、クラスのみんなには内緒にしとくからさあ」  学校というところには行ったことがありません。これまで受けた教育はハウス・スクーリングでした。  男はにやにや笑いながらも、しっかり指を一本追って非情なカウントを刻んだ。四秒前。 「すみません。いないんです、本当に」  ぼくは彼の野次馬精神を満たすことができず、肩身が狭かった。 「恋はおろか、夢も希望も、自分の意思を持つこと一切が、私の人生には許されていませんでした」 「あ、そう」  三秒前、と人差し指をいったん折りかけて── 「ん?」  ──元へ戻したから、まだ四秒前だ。 「いや、待てよ少年。いまなんて言った? 自分の意思を持つことが許されなかった?」 「そりゃあ言い訳にならないだろう、君。恋も夢も希望も、すべて自分の内から湧いて自分の内で膨らんでゆく衝動だ。自分さえその気になりゃあ、他人が外から抑えられるもんじゃない」 「そうですね」  あまりに普遍的な一般論を振りかざしてくれるものだから、ぼくは大らかな微笑ましささえ覚えた。  三秒前テイク2。死が目前に迫ったとき、ひとはすべてを赦せる寛大な境地に至ると知った。神の愛とはこういうことだろうか。 「何も知らないくせに、って笑いたいんだろう? 少年」 「うん、知らないけどさ、君がどんだけ不幸だったかなんて。まあ、いいじゃない。俺はいまそんな外側の話はしてなくて、内側の話をしてるんだから」  二秒前。ぼくの短い生涯は、凶悪な押し込み強盗の聖人ぶった御高説で幕を閉じる。 「なあ少年。自由が通らないからって自我まで放棄しちゃったら、いよいよ死人だぜソレ。どんなに理不尽だらけで制約まみれだったとしても、俺ならせめて自分っていう最低限の意思ぐらいは守りとおすね」 「意思だよ、意思。自分でこうだと願う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ」 「不幸・不条理、いいじゃないか。障害も困難もみんなその大きさに比例して自らの糧となるんだぜ。大局的に見りゃあ人生には敵なんていないんだよ、どれもみんな必要なものなんだから」 「君はいったい誰と戦ってるんだ? 自分だろ、それ」 「…………」  さんざん語りつくされた、手垢まみれの言葉だ。いまさら共感も感銘もない。  それでも死の一秒前、陳腐な言葉は喉に刺さった小骨のように、ぼくの中のどこかに煩わしく引っかかった。  有り体に言えば、かちんと来た。なぜぼくは、ぼくを知りもしない身勝手な押し込み強盗に、これまでの人生を否定されなければならないのか。 「お言葉ですが」 「ゼロだ」  しかしぼくが言いかえそうと口を開いた途端──むしろぼくが口を開くまで待っていた節さえある──彼は底意地わるく最後の指を折った。 「じゃあな、夢なき少年。また来世」 「えっ」  恐怖さえ越えて、もはや覚悟は決したはずだったのに、最期の最後、わずかに感情がくすぶったせいで思わず未練がましい声が口をついてしまった。  ぼくの遺言は日本人丸出しの「えっ」。  なんてひどいひとだ。 「バァーン!」  銃が火を噴いて、ぼくは死んだ──  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。  最終章、第二幕。 「遊星君、五歳にもなってこんな問題もできないのですか。お仕置きが足りないようですね」 「あなたは将来、大蔵家に仕える身なのですよ。この程度のことで腕が上がらないなどと甘えてはいけません。旦那さまに報告いたしますよ」 「さあ、早くお立ちなさい。あなたの怪我の痛みなど、大蔵家の偉業にはなんら関わりのないことです」  うんと小さいころ、ぼくはよく泣いていた。  泣けば泣くほど叱責と体罰が増すのだから、ほんとは泣きたくなんかなかった。  ある夜、いつもの屋根裏部屋、ぼくは母の胸でアイルランドの子守唄を聞いていた。 「お母さま。どうすれば恐いのや痛いのをがまんできますか」  尋ねると唄が止まった。  ぼくを抱く腕に、苦しいぐらいの圧力が加わったのを覚えている。  しばらく間があってから、やがて彼女は取りつくろうような笑顔をこしらえて言った。 「ごめんね、遊星。でもあのひとたちは、あなたを虐めてるわけじゃないの。恐がらないで大丈夫よ」 「あのひとたちはあなたを、厳しさに負けない強い大人にしてあげたいと思ってるの。あなたが誰かの為に尽くせるような、立派な男の子になってほしいと思ってるのよ。よかったわね」  ほんとかなあ、と思った。  ほんとにぼくのためなのかなあ、と思った。  だけど幼い息子を説きふせる母の辛そうな笑顔が、子供ながらの小さな胸にじくりと刺さった。 「辛い思いさせてごめんね。お母さんの子に産まれちゃってごめんね」 「…………」  ぼくはそれ以来、母の言葉をがんばって信じることにした。  ぼくがそういう立派な大人になれるよう、お屋敷のみんなが協力してくれてるんだ。  いつしかぼくは泣かなくなった。  歳を経て叱責や体罰に慣れてしまったのもあるし、教師陣の課題にそれなりの成果を出せるようになったのもある。  けれど、たぶん一番の要因は、母から授かったあの教えだったと思う。  そうだ。何もかもみんな、ぼくのための試練なんだ。 「お母さま。ぼく、誰かの為になる立派な大人になりたいです。このお屋敷に産まれてよかったです」  ある夜、いつもの屋根裏部屋。ぼくがそう言うと、母は悲しそうに微笑みながらぎゅっと抱きしめてくれた。 「ごめんね」  ありがとうが欲しくても、返ってきたのはいつもごめんねだった。  母はごめんねの多いひとだった。  笑顔を絶やさないひとだけど、同時にいつもいつも謝ってるひとでもあった。  理由は知ってる。  幼すぎたせいで覚えてない風にしてるけれど、それは嘘だ。  本当は嫌なほど覚えている、忘れたいのに消えてくれない記憶の生傷。  かつて幼すぎたぼくは、あまりに容赦のない指導や折檻に耐えかねて、絶対の禁忌を吐きだしてしまった。  あろうことか、母そのひとに── 「もうやだ、こんな家! ぼく産まれてこなきゃよかった!」 「ぼくがこんな目にあうって、わかってたでしょ! なんでぼくを産んじゃったの! お母さまのばかっ!」  ──思えばあれ以来、母はごめんねの多いひとになってしまった。  だけどマンチェスターの底冷えする夜に、彼女の優しいぬくもりはまさしく救いそのものだった。  ぼくはそんなふうに温かさを際立たせてくれる、冷たい夜が好きだった。  空が明るいうちは、母の匂いが染みこんだ夜色の毛布に〈包〉《くる》まれながら、だいたい月や星が昇るのを待っていた。  空が明るいうちは、だいたい独りだったから。  周りに大人たちはたくさんいた。  旦那さまや奥さまを初め、輝ける大蔵家のお歴々。家庭教師の先生方。お屋敷で働くハウスボーイやメイドの皆さん。そしてその御家族。  大勢の大人たちに囲まれてはいたけれど── 「おい、なんであの子供がうろちょろしてるんだ。今日はジュネーヴからジャンメール伯がいらしてるんだぞ。屋根裏から出すな、みっともない」 「フィリップ! よしなさい、屋根裏のぼっちゃまには関わるなって言ったでしょう。何故じゃありません、理由はいいんです。とにかくそういうことになってるんです」 「旦那さまのご令息って言うから、てっきり〈衣遠〉《イオン》ぼっちゃまのことだと思ってたんだよ。そしたら屋根裏王子だぜ? まったく、普段は他人のふりしてるくせして、都合のいいときだけ家族に数えるんだから」  大勢の大人たちに囲まれてはいたけれど、誰もぼくに笑いかけたりはしなかった。  だから、一人ではなかったけど独りだった。  だから、空が明るいうちはだいたい月や星が昇るのを待っていた。  母の匂いが染みこんだ、夜色の毛布に包まれながら。  夜になれば仕事を終えた母が戻ってくるから。  大好きなお母さま。  この世で唯一の、ぼくを心地よく包んでくれる温もり。 「お帰りなさいませ、お母さま。お夜食は召しあがりますか。パンとハムしかないのですけど」 「あら、あなたが用意してくれたの?」 「はい。今日は料理長がぼくらの分の食事を忘れてしまったようなので、さっき厨房からこっそり拝借してきました」 「そうなの……ごめんね遊星……」  子供の目にも明らかなほど、母は屋敷の中で微妙な立場だった。  なぜなら彼女は、旦那さまのいわゆる愛人だった。  だけど彼女は、さほど旦那さまに熱く燃える想いを寄せてはいなかったように思う。  母は生まれつき病弱で、しかも若くして身寄りを失うという、絵に描いたような幸の薄いひとだった。  だから生きる手段としてその道にすがったのだと思う。  他方、旦那さまは母へ並々ならぬ寵愛を向けた。  一族じゅうの反対を押しきって、〈愛人の子〉《ぼく》を認知したのがその証左だ。  だから、と関連付けるのは早急に過ぎるかもしれないけれど。  ともあれぼくの母が、奥さま──つまり旦那さまの本妻──にひどく引け目を感じていたことは間違いなかった。  日本から奥さまがお見えになったときは尚更だった。 「遊星……まさかとは思うけれど、あなた今日、ひとりで外に出た?」  ある夜、いつもの屋根裏部屋。帰ってくるなり母が訊いてきた。 「いいえ、まさか」  ぼくは単身での外出を厳しく「制限」されていた。  はっきり「禁止」と謳わないのはせめてもの人道的な配慮だと思うけど、実際のところ随伴者なしの外出にはまず許可が下りない。  だからぼくは、生まれてこの方ひとりで自由に外の世界を歩いたことが一度もなかった。  奥さまや一族の皆さまにとって、大蔵遊星という不詳の子は、籠の中に隠しておきたい存在だった。 「最後に外出したのは半年前の課外授業です。ウィルソン先生たちとロンドンへ赴き、都市部における現代交通網の実態と、中低層階級の一般的経済活動を視察してきました」  黒塗りのリムジンでオックスフォード通りを流してきたんだ。  駅も道路もショップもデパートも目がまわるほど沢山のひとがいた。  フィールドワークと称して実食したファックドナルドのハンバーガーは、冗談みたいにチープなビーフを使ってるのに何故だかとても美味しかった。  本当はスターファックスコーヒーのキャラメルマキなんとかも飲んでみたかったけど我慢したよ。 「お母さまも御存知のとおり、ぼくはあれ以来、一歩もこの屋敷を出ていません」 「そう、そうよね。ごめんね」 「わかったわ。いいの。そんな話を耳にしたのだけど、やっぱり何かの間違いだったのね」 「はい、そうだと思います。そういえば──」  その日の仕事内容を思いだして付けたした。 「──塀の植え込みが乱れていたので、外にまわって少々整えさせていただきました。その話が誤った形で伝わってしまったのかもしれません」 「まあ、そうだったの。でも……そうねえ、なるべく誤解を招くような行動は慎んだ方がいいわね。今は、ほら……ねえ? いらっしゃってるでしょう、その──」  ──奥さまが。  あの方のことを、母はあまり直接口にしたがらなかった。  母にとっては、それほど慎重にならざるを得ない相手だったんだろう。  奥さまに厳しい言葉を浴びせられたり、頭を下げたりしている母の姿を、ぼくは昔からしばしば目にしたことがあった。 「ごめんね遊星、お願いがあるの」  ある夜、いつもの屋根裏部屋。右の頬を赤く腫らせて帰ってきた母は、いつになく神妙な声だった。 「さっき、あなたの休暇届けを出してきたわ。だから、ごめんね、今日からあの方がお帰りになるまでの間、決してこの部屋から出ないでちょうだい」  屋根裏部屋には、簡素ながらバスもトイレもキッチンもあった。家庭教師によるハウススクーリングも基本的にすべてここで行われる。数日の籠城もさほど難しいことではない。 「はい、わかりました」  子供心に母の事情はなんとなく想像がついた。ぼくは彼女の願いを快諾した。 「本当にごめんね、不憫な思いをさせて……」  そして母はぼくを抱いて何度も何度も謝った。 「お母さん、遊星だけが生き甲斐なの。ずっとそばにいさせてね」 「はい、もちろんです」  けれどもぼくは、その約束を破ってしまうんだ。  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。  アイリス先生の数学が終わったあとだ。テキストを開いて因数分解の復習をしていると、階下から幼い子供たちの舌足らずな罵声が聞えてきたんだ。  屋敷には住み込みで働いている使用人家族もいた。同じ年頃のやんちゃ坊主が集まれば、ときには可愛い〈諍〉《いさか》いだって起こる。  べつに珍しくもないことだ。じきにどちらかの親が仲裁に入るだろう。  ぼくは母との約束を思いだして、難解な公式との睨み合いに戻った。  ところが大人たちは席を外しているようで、しばらくしても騒ぎは一向に収束しなかった。  それどころか、小さな女の子のむせび泣く声が重なってきた。  何事だろう。ぼくは戸口へ寄って小さくドアを開けた。 「うえぇぇーん……ええーん……」 「てめえ、女のくせしてオレらに逆らうんじゃねえよ!」 「1ポンドで許してやるって言ってんだろ、早く出せよ!」  コーラ一本分の規模ながら、紛うことなき集団恐喝が行われていた。それは「可愛い諍い」の範疇を越えていた。  彼女は泣いている。誰かに助けを求めている。  ぼくは誰かの為になれる。みんなが厳しく育ててくれたから。お母さまがこの屋敷に産んでくれたから。  だからぼくは彼女を助ける。  小さなこぶしを握ると、小走りで階段をおりていった。  踊り場と呼ぶには広すぎる中階に、ぼくより幾らか年下の子供たちが不穏な輪を作っていた。 「失礼いたします。少々騒がしいようですが、何かございましたでしょうか」  ぼくは畏まった硬い英語で声をかけた。  彼らは使用人の家族かもしれない。しかし、あるいは身分あるゲストのご子息であるかもしれない。屋敷の使用人たるぼくが無礼をはたらいて、旦那さまや大蔵の名に傷を付けるわけにはいかない。 「あー? なんだおまえ」 「当館のハウスボーイでございます、若きサー。僭越ながら、そちらのお嬢さんが困っておられるご様子でしたので、お声を掛けさせていただきました」  やんちゃな白人の輪に囲まれた、アジア系の女の子ひとり。おそらく日本人だ。どこかで見覚えのあるような目元が、濡れて光っていた。  使用人としてお客様にご不便があればお助けするのは当然なのだけど、しかし彼女のその涙を見た瞬間、ぼくはなぜだかそんな職務とは別次元の、もっと根源的な保護欲をかきたてられた。 「大丈夫ですか」 「ふええっ」  努めて柔らかな英語で声をかけたつもりだったけれど、彼女は大きく肩を震わせ、いっそう縮こまってしまった。  そういえば、ぼくには笑顔が足りないって、色んな先生に言われた。 「なにがあったんです」  ぼくは男の子のひとりに目を転じた。 「うっ……」  睨んだつもりはなかったのだけど、彼は一瞬怯んだ。怯んだが、すぐに強がりなおしてみせた。 「こ、こいつ、ひとりでヒマそうだったから、オレらが遊んでやるって言ったんだ。そしたらヘンな顔してシカトしやがって……オレらのこと、ナメてんだ!」 「てめえ、この女! 泣いてねえで謝れよっ!」 「や、やめてっ……」  彼女の唇から反射的に漏れた日本語で、ぼくは事情を察した。  そうだ。この屋敷には一族の皆さまを初め、〈現地〉《こちら》の言葉を当たり前のように話すグローバルな日本人ばかり出入りするから、そのときぼくも彼らも失念していたけれど。  この子は英語が分からないんだ。  だから、なぜ彼らがとつぜん怒鳴りだしているのか、まったくわけが分からないんだ。 「ごめんね。もう大丈夫だよ」  だからぼくは日本語で言った。 「えっ……?」 「恐がらないで大丈夫。みんな、君と遊びたいんだって。よかったね」  上手く出来たかは分からないけれど、今度はちゃんと笑ってみせた。 「…………」  彼女はびっくりして目を膨らませていた。  そしてぼくは、その瞳がもたらす既視感の正体に気付いた。  この子……どことなく、ぼくに似てるんだ。  そう思った。 「に、日本語、しゃべれるの?」 「うん。ぼく生まれたのは〈英国〉《こっち》だけど、国籍は日本なんだ。君と同じ、日本人だよ」 「ほんとに……? りそなのこと、いじめない……?」 「もちろんだよ。ねえ、英国紳士の皆さん? ええと──」 「Here,Do you want to play with her?」 「な、なんだよそれ……ふざけてんのか……」 「あれ? なにかお気に障りましたでしょうか」 「おまえら、なにヘンな言葉でコソコソ喋ってんだよ! ちくしょう、ナメやがって……まとめて泣かしてやるッ!」 「落ちついてください。皆さん、英国紳士の名がすたります。レディを泣かせるのはプロポーズのときだけにしましょう」  ぼくはアーサー先生に習った、社交界で使える仲裁用のパーティージョークを試してみた。 「ふざけやがって、やっちまえ!」  逆効果だった。 「うおおーっ」  暴れたい盛りの男の子が〈出鱈目〉《でたらめ》にこぶしを撃ってきた。  心得のある者は、心得のない者にその事実を誇示せよ──  ──ぼくはイワノフ先生の教えを思いだし、武道の達人のようにすべての攻撃をあえて紙一重のところでかわしてみせた。 「へっ……?」  ひとしきり暴れおわった彼らは、映画のような出来事に呆然としていた。 「な、なんだ、おまえ……」 「ハウスボーイです。皆さんは元気が有り余ってますね。お庭でクリケットでもしましょうか」  だけどぼくの提案は受けいれてもらえなかった。 「ハッ……! やべえ、思いだした! こいつ、屋根裏王子だ!」 「マ、マジかよ! なんてこった、こいつと喋ったらうちのマミーがクビになっちまう!」  子供たちはたちまちギャングごっこをやめて、一目散に階段を駆けおりていった。 「……残念です」  ぼくは欧米式に肩をすくめて呟いたあと、ひとり残された女の子へと向きなおり、日本式に後頭部を掻いてみせた。 「参ったな、みんな用事を思いだしたって言って帰っちゃった。うん、でも、次は遊んでくれると思うよ」 「えへへ……」  ぼくを冷やかすように、彼女ははにかんだ。  本当はみんなが恐がって逃げてしまったことぐらい、言葉が通じなくても分かったんだろう。 「国際交流って難しいや。涙はプロポーズのときまで取っておくけどね」  日本の言葉で、欧米風パーティージョーク。  小さな淑女はぼくよりもずっと堪能な笑顔で答えた。 「じゃあ大っきくなったら、りそながお嫁さんになってあげる!」  大蔵〈里想奈〉《リソナ》というその少女が、旦那さまと奥さまのご息女──つまりぼくの腹違いの妹──だと知ったのは、もうちょっと後のことだ。 「むー、なんかぜんぜん嬉しそうじゃない……」 「えっ? あ、いえ、光栄でございます姫」 「よろしー、ゆるしてつかーす。ジュースを持ってまいれ」  ぼくらは騎士とお姫さまごっこで大いに笑った。  同年代の子とそんなふうに遊んだりしたのは、記憶の限りそれが初めてだった。 「はよう! はよう『なっつぁん』を持ってくるのじゃー!」 「申し訳ございません。ただいまそちらのお品は用意がございません」 「ならば、じはんきで買ってくるのじゃ」 「いま自販機ですか? これはまた無理をおっしゃる。姫、意地悪は勘弁してください」 「なーんで! りそな、いじわるなんかゆってないよう!」 「…………」 「…………あっ、そうか」  そういえばテレビや写真で見たことがあった。  日本のごく一般的な都市部にて。歩道や店先あちらこちらに、〈夥〉《おびただ》しい数の自動販売機が林立している風景。  〈UK〉《こっち》では駅や空港ぐらいでしか見掛けないから、ふだん喉が渇いたとき、ちょっと自販機で買ってくるという選択肢はぼくらの中にない。 「なるほど……違うんだ……」  おとぎの国の話みたいでなんだか妙にわくわくした。  ぼくは当時、自分のもうひとつの故郷について、まだ知らないことだらけだったんだ。 「ねえ? 日本について、なんでもいいからいっぱい教えてほしいな」 「んー、いいよー。おしぇーたげゆー。んっとね、んっとね……」  彼女が無邪気な感性を介して伝える日本の文化や風景に、ぼくは時間を忘れて引きこまれた。  とりわけオクトパスの触手や腐ったビーンズをむしゃむしゃ食べるっていう話はセンセーショナルだった。  誰でもただ街を歩くだけでティッシュペーパーが無料で得られるっていう話は意味が分からなかった。  そして、なぜだか日本人は、みな伝統的に桜の花が大好きっていう話は── 「あ、それは分かる」 「たぶん、分かる……」 「?」  ぼくは屋敷の敷地内に生える草花のうち、東門の両脇に立つ桜がいちばん好きだった。  長い雌伏の四季を越え、春の半ばひととき見事に咲きほこり、敢えなく儚く散ってゆく。  忍ぶ心。奥ゆかしさ。侘びと寂び。  一瞬の輝き。散るからこそに。滅びの美学。  桜の前に立つとき、ぼくはまだ見ぬ故郷の風さえ感じる気がするんだ。  そして、もうひとつ。  あの日のことを思いだす──  ──暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。 「なにを見ている」  内臓まで響く重いバリトン。 「は」  ぼくは反射的に身を正したが、すぐに振りかえることは出来なかった。鼓膜を鷲掴みされたかのようだった。  驚いたのは、不意の気配にじゃない。  兄がぼくに声をかけたという、その極めて珍らかな事象にだ。  大蔵〈衣遠〉《イオン》。  旦那さまと奥さまの嫡子。歳の十離れた、ぼくの戸籍上の兄。  選民思想とも言うべき大蔵家の排他的な家風を、一族の誰よりも体現する厳格なお方。  恐怖にさえ似た畏敬の念を振りきって、ぼくは兄に頭を下げた。 「ご無沙汰しております、お兄さま。はるばるトーキョーより、ようこそいらっしゃいました」 「ふン」  兄は舞台俳優のように顎をそびやかし、ぼくの鼻先めがけて人差し指を突きつけた。 「聞かれたことに答えろ、雌犬の子。貴様はなにを見ていた」 「さ」  桜の木──  ──を眺めていただなんて、そんなことは傍目にも明らかだ。そんなことなら、わざわざ確認を要すまでもない。  ということは、違う、そうじゃない。ぼくは言葉を呑みこんだ。  大蔵衣遠は、ほとんど家族などとは思っていない不浄の子に、〈長閑〉《のどか》な世間話を持ちかけるような兄ではない。  なら詰問の意図はそこじゃない。不浄の子が桜の木を見る、その行為の本質を問うているんだ。 「…………」  ぼくは唇を湿らせ、頭を高速回転させた。  試されている。  試験はもう始まっている。  行為の本質を答えよ。  幾つかの他国語を知っているぼくは、あたかもそのうちの一つのように、兄の好みそうな「子供離れした文脈の日本語」へ出力コードを切りかえた。 「〈元型〉《げんけい》です」  そして本質を答えた。 「自らの元型を視ていました。私のやって来たところ、私の還るところ。私の心を映すもの、私の心が生まれるところ」 「ほう……?」  兄が口の端を上げた。  催したのは興味か侮蔑か。  どちらにせよ、ぼくには続けるという選択肢しかない。 「桜の前にたたずむとき、何故だか私の胸には不思議とさまざまな想いが去来いたします。そして名状しがたい雄大な心地に至るのです」 「この心地がなにを意味するのか、私には分かりません。しかしそれはまるで重力のように私を引きつけるのです」 「ゆえに私は桜を見ておりました」  ぼくは小さく息を吸い、吐いた。 「なるほど〈小賢〉《こざか》しい……」  兄は見透かすような視線で、ぼくの頭から腰までを舐めまわした。 「ふン、教えてやろう。それは我らが民族だれしもの内奥にあまねく共通して在る、いわば日本人の集合無意識だ」 「狂おしく咲きみだれた満開の桜に心惹かれない魂を、俺は〈同胞〉《はらから》と認めない。悪くない答えだ、弟よ」  即興の試験は、かろうじて彼の満足を得て終わった。  大蔵衣遠が大蔵遊星を、初めて弟と呼んだ瞬間でもあった。 「我らが祖国に咲くソメイヨシノはまた別格だぞ。おまえとはいずれ、青山の夜桜を肴に杯を交わす日も来よう」  しかしその言葉はおよそ情愛というものを孕んでおらず、ひたすら冷たくて隙がなかった。  だからぼくも彼の望む距離感を保ったまま── 「ありがとうございます、お兄さま」  ──同じく隙のない返事で受けた。  立ち去る靴音を確認してから頭を起こすと、兄はまだ十歩も離れていないところで、しばしば随伴させている秘書らしき女性を〈跪〉《ひざまず》かせていた。 「ときには気まぐれに検品してみるものだな。あながち母上から伝えきくほどの凡愚でもなさそうだ。仕上がりは現状どうなってる」 「お調べいたします」  女性秘書官は従属的な姿勢のまま、携帯端末を開いて手早く操作した。 「初等課程はおおむね修了しているようです。評定は……素晴らしい、ほとんどの科目でA。年齢を考えれば申し分ございません」 「戯れ言をほざくな。仮にも大蔵の血を分けた男であれば、〈完璧無比〉《オールS》でなければならん。《出荷》はいつになる」 「中等課程の修了次第ですので、早ければ二、三年後かと」 「では時が来たら〈東京〉《こちら》へ納入するよう手配しろ。〈英国支部〉《マンチェスター》には過ぎた玩具だ、あれは俺が飼う」 「はっ。ですが社長、あれは──」 「──失敬。あの方は、ご承知のとおり他の侍従とは事情を〈異〉《こと》にいたします。手順としてまず、お〈家〉《いえ》で内々に話しあわれるべきかと存じますが」 「必要ない。父上もどうせ俺には逆らえまいよ」 「もはやあのお方は、大蔵帝国の一柱を担うには老いすぎた。いま本家のお祖父さまに体面を繋いでいるのは、ひとえに俺の社の業績だ」 「しかし、あれの──」 「──失敬。遊星さまの去就に関しましては、その……いわゆる女性ならではの、エモーショナルな問題が絡んでまいります。御母堂さまのお許しだけでも戴いておいた方が」 「それこそ笑止。狭量な母上が、あれに日本の土を踏ませると思うか? 嫉妬と虚栄に囚われ、本質まで見通す目を持たぬあの女が」 「社長はあれを……失敬、あの方を、それほどまで買っておられるのですか」 「ふン、どうかな」 「だが、あれには俺と同じ血が流れている。〈万事〉《よろず》に秀でる才の血だ。出自の卑なるを差しひいても、チップを張っておく程度の価値はあろうよ。なあ? そうだろう?」  不意に兄が──おそらくはぼくの背中に──投げかけた。  しかし距離のせいで何も聞こえていない風を装っていた手前、ぼくは観桜に没頭している態を維持して振りむかなかった。 「おまえの才能には期待しているぞ。遊星」  そう宣告されたあとの、あの氷のナイフで背中をなぞられたような感覚はいまでも忘れられない。  それはおよそ鼓舞や激励などと呼べるたぐいの血の気が通った言葉ではなく、いっそ露骨な恫喝だった。  ──背中越しの刺すつくような視線がそう語っていた。  と、思う。  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。 「ただいま」  その夜、屋根裏部屋に母が帰ってきたのは、いつもより小一時間ほど遅れてのことだった。 「お母さま、お待ちしておりました」  ぼくは里想奈から聞いたトーキョー話の余熱に浮かれていて、母の様子が普通でないことにはすぐ気付けなかった。 「お風呂になさいますか、お食事になさいますか。今夜はお話したいことがあるんです。お母さまは何度かトーキョーへ行かれてますよね。アオヤマの桜並木はご覧になりましたか」 「遊星……」 「はい」  見上げると彼女の顔色は思いつめたように青く、そのこけた頬に痩せほそった手を添えていた。  ぼくは母が尋常でないことに気付いた。 「お母さま?」  目が赤い。綺麗な睫毛が生乾きの涙でもつれていた。 「遊星……どうして……」  絞りだすような震える声。いつもの慈しみ深い表情が、何かに負けて〈歪〉《いびつ》に崩れた。 「どうして? ねえ、どうしてなの? お母さん、この部屋から出ないでって言ったでしょう?」  母はすがるように両手でぼくの肩を掴んだ。片方の頬だけ、ひどく赤みを帯びていた。 「お母さま、それは一体──」 「遊星! なんで約束を破ったの!」 「──えっ、あ、ごめんなさい」  尋常ではない母の剣幕に、あの平手で強く打たれたような頬の痕についてぼくは尋ねる機会を失った。 「ゆうせい……う、うう……」  母は嗚咽を漏らしていた。息子の肩を掴む手に握力が増していった。 「お母さま、お腹が痛むのですか。お医者様をお呼びしましょうか」 「こんなことになって……あなた、どうするの……こんなに異常な境遇で、ひとりじゃ生きていけないでしょうに……」  涙混じりの追及に、ぼくは漠然とながら犯した過ちの重さに気付きはじめた。  どんなに辛くても、疲れていても、ぼくにだけは笑顔を絶やさなかった母が、悲しみに我を失い絶望を露わにしている。  只事ではないのだと気付いた。 「ごめんない……」 「お母さま、ごめんなさい……すみません、申し訳ございません……」 「遅いのよ! 謝ってももう遅いの! なんであなたまで私を悲しませるの、なんであなたは大事な約束を──」 「女の子がいじめられたんです」 「…………え?」  ぼくは居たたまれなさに〈頭〉《こうべ》を垂れた。  事情は分からなくても、なによりこんなにも母を悲しませてしまったことに。  どうしようもなく頭が上がらなかった。 「〈階下〉《した》で小さい女の子がいじめられてて、わんわん泣いてて……だからぼく、ごめんなさい、助けなきゃって思っちゃったんです」 「ぼくは誰かの為になる子だから。自分の為じゃなくて、誰かの為になる子だって」 「そういう立派な大人になる子だって、ぼくはお母さまがそう願って産んでくれた子だからって、勝手にそんなふうに思って──」 「──気が付いたら約束を破ってしまいました。お母さま、ごめんなさい」 「遊星……」  うつろな母の瞳に、幽かな色が戻った。 「そうなの……うん、そうだったのね……」  優しい声が戻った。 「ええ、ほんとに、あなたそれは──」  笑顔が戻った。 「──それはとても良いことをしたわね」  けれど涙は一層あふれて止まらなかった。 「ごめんなさい」  なお謝罪を続けると、母は涙まみれの笑顔を左右に振りみだした。 「いいの、謝らないで。お母さんこそ、ごめんなさい。あなたは間違ってないわ、とっても正しいことをしたのよ。胸を張っていいわ」 「あなたはもう十分、誰かの為になれる強い男の子。よかった。お母さん安心したわ」  掠れた涙声でそう囁いて、力いっぱい抱きしめてくれた。  泣きたくなるぐらい温かくて柔らかかった。  喜劇、大蔵遊星の生涯。  あるいは承前。  約束を破ってしまった──りそなと出逢って奥さまの不興を買ってしまった──その一週間後、ぼくはひとりでマンチェスターを発つことになった。  大蔵に従事する特別使用人としてのぼくに、ぼくだけに、突然の異動が命じられたんだ。  ぼくは屋根裏部屋に母と母の匂いが染みこんだ夜色の毛布を残し、自分の体よりも大きなキャリーを転がして単身渡仏した。  配属先はブルゴーニュワインの産地として知られる、フランスはボーヌの別宅。  おもな業務内容は、ぶどう畑の傍に〈設〉《しつら》えられた中規模ワイナリーの管理・清掃・周辺警備、ほか雑務全般。  漁師上がりの厳しい現場監督のもと、多国籍労働者と共に早朝から深夜まで汗を流す日々を送っていた。  ハウススクーリングの時間だけは肉体労働から解放されたけれど、その授業内容にしたって歳に従いだいぶ難解になっていたから、もはや休まるところは何処にもなかった。  ワイナリーでは、地下の埃くさい貯蔵庫がぼくに宛がわれた寝食の場だった。  部屋のあるじがデリケートな体質だから冷暖房はわりと快適だったけど、彼は寝ても冷めてもアルコールの匂いがきつくて、ぼくは慢性的に目眩の気を催していた。彼の名は白ワインさん。  同居人はひどく不衛生で、汚水浴びと腐った残飯が大好物だった。彼はフリーセックス志向なようで無計画に次々と家族を増やすものだから、かなり深刻なレベルで伝染病が恐かった。彼の名前はドブネズミさん。  働くことと学ぶこと、そして生きぬくことに精一杯だった。  次第にぼくは、心を凍らせた方が効率的だと知った。  辛いとも寂しいとも思わず、夢も希望も持たず、酒蔵の隅でドブネズミと共に眠る日々を不満にも思わず。  次第に思考が鈍化し、自我が麻痺した。  やがて自他の別が曖昧になり、寂しいという感情も忘れ、いつしか母との交信さえ疎かになっていた。  彼女が生来の持病をこじらせて床に伏したと聞いたのは、ボーヌへ来てから一年ほど経ったあとのことだ。  許可を得て見舞いに行こうと旅の準備を整えている数日のうちに、続けてあっけなく訃報が届いた。  あまりのことにしばらくは信じられず、涙さえ出てこなかった。  しかしマンチェスターから母の遺物が送られてくると、いよいよ途方もない孤独と絶望と喪失感とが実体をともなって圧しかかってきた。  一年ぶりに見た母の匂いが染みこんだ空色の毛布には、ぼくの好きな桜のアップリケがたくさん貼りついていた。  隅にはあまり上手と言えない刺繍。  時間が足りなかったのだろう、文字が途中で途切れていた。  ぼくはそれを抱いて、一晩じゅう泣いた。  世界が真っ暗に染まって何もかもが嫌になったけれど、それでも陽が昇れば監督がやって来て働けというから働いた。  陽が沈めば家庭教師の先生がやってきて勉強しろというから勉強した。  さらに夜が更ければ体のあちこちがもう動けないというから眠った。  そんなルーチンワークを何日か、あるいは何週間か、死んだようにだらだら続けていた気がする。  そういえばいつだったかの日中、所轄の巡査がやってきて、周辺地域に銃火器を装備した凶悪な強盗団が出没しているからと注意を促されたような記憶も……あるような、ないような。  ふうんと思った。  そして今夜、彼らが現れた。  恐ろしい蛮声とでたらめな威嚇射撃に、夜勤の作業員たちは必死で逃げまどった。  ぼくはアルコールの匂いに抱かれて眠っていたから──いや、起きてたかもしれない、大差はない──逃げおくれてしまった。  だから、仕方ない。ぼくはここで凶弾に撃ちぬかれるそのときを待ちながら、文字にはできない遺書の文面を考えていた。  抵抗する気力はあまり湧いてこなかった。  母が死んだのでぼくも死のうと思った。  仮に生きのびたところで、その先に何が待っているというのか。  どうせなにもないよ。  いよいよ強盗団のひとりが、ぼくの酒蔵へやってきた。 「おいおい、酒蔵だと思ったらホラーハウスかここは? いるならいるって言ってくれよ、びっくりするだろう」  妙な男だった。  ひとを喰うような言葉。  〈手品師〉《マジシャン》めいた指の〈操〉《く》り方。  呼吸さえも楽しんでいるようなその様は、さながら衝動を抑えきれない玩具売場の子供みたいだった。  男はぼくの茶番じみた抵抗にいちいち屈服してみせ、なぜだかすぐには殺してくれなかった。  なのに、ぼくの心をいいように掻きみだした後には慈悲もなくあっさりと── 「バァーン!」  ──銃が火を噴いて、ぼくは死んだ。  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。  最終章、第三幕。 「よう、いい〈走馬灯〉《ユメ》見てきたかい? 死にたがりの少年」 「…………」  すぐには言葉が出なかった。  頭も真っ白だったし、口の中はからからだった。  横たわった体を起こす気力もなかった。  たったの一瞬で全身からすべての力が吹きだしていったようで、自分が抜け殻になったみたいだった。  だけど心臓だけは、痛いぐらいに狂おしく拍動していた。 「はぁ……はぁ……はぁ……」  すぐには現状を整理しきれないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。  ぼくは生きている。 「いやあ、驚かせて悪いね。暗くて見えなかったんだろうけど、コレ銃とかじゃなくて、ただの指鉄砲だから。バァーン!」 「おっと、よくも騙したななんて怒ってくれるなよ? 俺は最初にちゃんと伝えたぜ、そんなモノは持ってないってね」 「しかしまた、ずいぶん派手にブッ跳んだなあ、少年。君は今後、その芸風を磨いた方がいい。才能を感じさせる、素晴らしいオーバーリアクションだったぜ」  違う。  ぼくは避けたんだ。  ショックで倒れたんじゃない。  ぼくは「銃」が火を吹く瞬間、射線から逃れるために体ごと大きく横へ跳んだんだ。  意識的にか無意識的にか忘れたけれど。  あの瞬間、なぜかぼくは、生きることを選んでしまったんだ。  なぜだろう。  なぜぼくは── 「おっ、なんだ少年、君なかなかファンタスティックなもの持ってるじゃないか。ちょっと見せてくれよ」  冷たい地下室の床に頬を付けたまま、ぼくは彼の靴が目の前まで接近してくるのをぼんやり眺めていた。 「へええ、こりゃあ素晴らしい!」  頭上でばさりと風を切る音がして、あの優しい香りが鼻腔を撫でた。  見なくたって分かる。アルコールの臭気が満ちた中でもこの匂いだけは分かる。 「うーん……なんだろうなあ、この胸の奥をキュッて優しく触られる感じ。いいよなあ、ずるいよなあ。技術とかセンスとかじゃないんだよなあ、この味は」 「当ててみせるぜ。少年を愛してる誰かさんからの贈り物だろ、コレ」  ほこりが舞って、ぼくの体を優しい暗闇が包みこんだ。  抜け殻みたいな体が、懐かしいぬくもりで満たされてゆく気がした。  目を閉じれば、頭には白い霞が広がって、黒い雑念を塗りつぶす。  気が付けばいつの間にか非道な蛮声や銃声が聞こえなくなっていた。  すでに無法者たちは、地上階の金庫や事務所から満足な収穫を得て去ったみたいだ。  ぼくは世俗の騒音から隔絶されてまどろみをたゆたう。  そういえば、まともに睡眠を取ったのはいつ以来だろう。  体を丸めて毛布を掻きいだくと、ぼくはマンチェスターの屋根裏部屋で母の腕の中にいた。  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。 「女の子がいじめられたんです」  あの夜、いつもの屋根裏部屋。  母との約束を破ったぼくの記憶。 「下で小さい女の子がいじめられてて、わんわん泣いてて……だからぼく、ごめんなさい、助けなきゃって思っちゃったんです」 「ぼくは誰かの為になる子だから。自分の為じゃなくて、誰かの為になる子だって」 「そういう立派な大人になる子だって、ぼくはお母さまがそう願って産んでくれた子だからって、勝手にそんなふうに思って──」 「──気が付いたら約束を破ってしまいました。お母さま、ごめんなさい」 「遊星……」  うつろな母の瞳に、幽かな色が戻った。 「そうなの……うん、そうだったのね……」  優しい声が戻った。 「ええ、ほんとに、あなたそれは──」  笑顔が戻った。 「──それはとても良いことをしたわね」  けれど涙は一層あふれて止まらなかった。 「ごめんなさい」  なお謝罪を続けると、母は涙まみれの笑顔を左右に振りみだした。 「いいの、謝らないで。お母さんこそ、ごめんなさい。あなたは間違ってないわ、とっても正しいことをしたのよ。胸を張っていいわ」 「あなたはもう十分、誰かの為になれる強い男の子。よかった。お母さん安心したわ」  掠れた涙声でそう囁いて、力いっぱい抱きしめてくれた。  泣きたくなるぐらい温かくて柔らかかった。 「お母さま、ありがとうございます」  ぼくも母の体に腕をまわして言った──  ──言った、ような。言わなかったような。 「ぼくはこのお屋敷に産まれて良かったです。ありがとうございます」  違う。  それは違う、それは言ってない。言いたかったけど、言ってないんだ。 「ぼくはお母さまの子に産まれて本当に良かったです。今までありがとうございました」  違う。そうじゃない。それは言えなかったんだ。  これはなんだ。これは嘘だ。これは記憶じゃなくて願望だ。まぼろしだ。  だって、本当はあのとき、お母さまにちゃんとお礼なんて言ってないのだから。  だって、まさかこれが今生の別れになるだなんて、夢にも思わなかったのだから。  住むところが離れ離れになったって、たまには逢えると思っていた。  がんばって旅費を稼げば年に一回ぐらいは会えると思っていた。  いつか大人になれば、またふたりで一緒に暮らせると思っていた。  だからあのとき、ぼくはちゃんとしたお礼なんか、言ってないんだ。  だからぼくはあの日に帰って言いたかったんだ。  ずっとずっと言いたかったんだ。  告げられなかった言葉が、伝えたかった思いが、ずっとずっと〈錘〉《おもり》みたいにぶら下がっている。  それはとても重いんだ。  どうせ都合のいいまぼろしなら言わせてほしい。  力のかぎり叫んでみたい。 「お母さま! ありがとう!」 「産んでくれてありがとう!」  記憶の中の母が〈微笑〉《わら》った。  過去が変わってぼくも笑った。 「ぼくは! 誰かの為になる、立派な大人になります!」 「お母さまのように毎日笑いながら生きていきます!」 「生まれて来て幸せです!」 「ありがとう」  ごめんねじゃなかった。  母が初めて──  ──ぼくにありがとうを言ってくれた。  暗転。  悲劇、大蔵遊星の生涯。  最終章、最終幕。 「少年、少年」  体を乱雑に揺すぶられていた。 「そろそろ起きろ。危機は去り、救いが訪れる」  彼の言うとおり、遠くにパトカーのサイレンが聞こえた。  朝が来たみたいだ。 「……すみません……失礼しました」  ぼくは目を開けた。  母の匂いが沁みこんだ夜色の毛布を被っているうちに眠っていたようだ。  十分にも満たないほんのわずかな仮眠だったけれど、不思議なほど寝覚めは悪くない。  なにか憑き物が落ちたような心地さえした。 「いやあ、なんだかんだ言って今夜は楽しかったなあ。そう思わない少年?」 「思いません」  ぼくは横たわったまま即答した。  だけど。 「だけど……なにか、意義のある一夜、だったかもしれま」 「あ、そう。そりゃ結構」  彼はぼくの言葉を遮って、退屈そうに携帯電話を開いた。 「まだ圏外か……やれやれ、こんなところへ呼びだした悪友イオンに、早いとこ文句のひとつも言ってやりたいものだ」 「…………」  なるほど、彼は悪逆な強盗団の仲間などではなく、単なる大蔵の客人だったようだ。 「類は友を呼ぶ」  ぼくは毛布に顔を埋めて、桜の国のことわざをつぶやいた。 「ところで君、まだ起きないの?」 「お許しいただけるなら、すみません。このところ色々あって、あまりにも疲れました」 「ああ、なに、まだ死にたいんだ?」 「…………」  ぼくは一度まぶたを閉じて、また開いた。 「いいえ」 「生きたいです」 「あ、そう」 「…………」 「うん、イイじゃない。こうしたい、こうなりたいっていう思い。そんなのが胸の奥にポッと芽生えた時点で、それは誰のものでもない。それこそを君の意思って呼ぶんだぜ、少年」 「まあ、『生きたい』ってのはちょっと、夢とか希望とかっていうには大雑把すぎるけど……それは追々な」  夢とか希望とか。  そんな大それたものを持てる日が、ぼくにも来るんだろうか。 「少年はいま一歩目を踏みだした。何事も最初の一歩目はどうにも足が重いけど、二歩目三歩目は成り行きと勢いでなんとかなるもんさ」 「ま、それだけじゃ五歩目で〈躓〉《つまず》いて、十歩目で骨折るけどね」  縁起でもないことを楽しそうに言うひとだ。 「さて、ぼちぼち大丈夫だろ」  地下室の天井を見上げる。 「じゃあ少年、お先に。俺は俺の夢と希望に向けて、果てしない道程の百何歩目かを踏みだそう」  瓶詰めのワインを勝手に一本拝借して、彼が〈地上〉《うえ》への階段に向かう。 「あの」  ぼくは立ちあがった。 「ありがとうございました、ムッシュ・スタンレー」 「おいおい、一夜を共にした仲じゃないか、親しみを込めてジャンと呼んでくれたまえよ。でー、若き友人、君の名は?」 「遊星です。大蔵遊星」  兄はよく思わないかもしれないけれど、ぼくはその名を告げた。告げたいから告げた。ぼくの意思だ。 「なるほど、そういうことね」  ジャンは指を鳴らした。 「では、あのむっつり兄さんには内緒で、我が新しき友に出逢った記念のプレゼントを贈ろう。遊星、そこにメモあるだろ」  作業用の事務机に、雑に折りたたまれたOA用紙がひとつ。 「こう見えて俺、なかなか文才あるんだぜ。残念ながら、現代の文壇にはまだまだ理解してもらえないんだが」 「なんです、これ」 「なにって……さっき文面を考えてたんだろ? 君の遺書だよ」 「ぼくの?」 「ああ、遊星は何やらつまんない文章を考えてたみたいだから、俺が代わりに書いてやった。爺さんになってくたばる日まで、大事に取っておいてくれたまえ。アデュー」  階段の金属音を響かせて、ジャンは地下室を出ていった。  静寂が訪れ、急に淋しくなった。  そしてぼくは、淋しいというその死んでいた感情を、いま興味深く受けとめていた。  ぼくは一度死んで、生まれ変わったのだろうか。  変わってもいいのだろうか。  いや、変わりたい。  これがぼくの意思だ。  強く願いながら、例の遺書とやらを開いた。  いつか遠い将来、天寿をまっとうしたぼくが、遺してゆく大事なひとたちへ告げる最期の言葉。  籠の中で生まれたぼくが、不条理な一生をがむしゃらに駆けぬけて、疲労困憊くたくたになった末の最期の最後に言う言葉。  たった一言、豪快な殴り書きだった。  今ぼくの生涯は、とつぜん出逢った年上の友人によってその方向性を定められてしまった。  遺書に恥じぬよう、楽しく生きなければと思った。 「ジャン!」  ぼくは彼のあとを追って階段を駆けのぼった。  なぜだろう。お礼ならもう言った。  そうだ、思いだした。  これが友達と別れるときに感じる、名残惜しいという感情だ。 「やあ、また会ったね遊星」  ジャンはステップの最上段にいた。  まるで追ってくるぼくを待っていたように──  ──違った。そうじゃない。 「ふン……久しいな、雌犬の子」  合流相手が、ここへ来たんだ。 「遊星。俺の知るかぎり、君はこれから、ある一本の道を歩かされることになる」 「え?」 「その道は長く険しいが、見晴らしは上々だ。そしてその先には俺もいる。もし君がその道を生涯選びつづけるなら、少々遠いだろうが、いつか俺の場所まで来てくれ。そのときはここのワインで乾杯しよう」 「だまれ、スタンレー」  そして兄が、ぼくとジャンとの間に立った。 「大蔵家の名を貶める薄汚いその姿で、貴様は何をしていた」 「はい、少々生まれ変わっておりました」  ぼくは本質を答えた。 「ようこそボーヌへ、お兄様。このたびの御用向きは、お仕事ですか、ご観光ですか」 「母上から貴様を奪いに来た」 「……は?」 「ただちに旅支度をしろ、雌犬の子。この大蔵衣遠が、貴様の才能を試してやる。目指す地は……我らが祖国、日本!」 「に、日本……? ぼくが……? えっ……?」 「え? ええっ! えええええっ!?」 「ええええええええええええぇぇぇ──っ!?」  ぼくの──  ──僕の新しい人生が、オーバーリアクション気味に始まった。  暗転。  友よ、拍手を。悲劇は終わった。  喜劇、大蔵遊星の夢。  第一章、第一幕。  ようし、僕の人生はこれからだ!  これからは夢と希望を胸に、ばりばり才能を咲かせるぞ!  と、燃えに燃えて日本へやって来たのが四年前。  アパレル企業を経営している兄の意向で、僕は服飾関連の専門技術を学びはじめた。  きっかけは兄の命令だったけど、踏みこんでみればとても魅力的な世界だった。  将来の夢、らしきものを持つまで、あまり時間はかからなかった。  ぼくは将来、服飾業界へ進みたい。  それが自らの意思で決めた夢。自らの意思で定めた希望。  毎日が楽しくなった。  ばりばり才能を咲かせようとがんばった。結構がんばった。 「ええい、もうやめろ! やはり貴様には才能がなかった! 失せろ、雌犬の子!」  残念……咲きませんでした、才能。  暗転。  喜劇、大蔵遊星の夢。  おしまい。  この番組は大蔵グループの提供でお送りいたしました。 「わあ〜!」  感動した。  それは見たことのないディテールだった。どうしよう。この興奮を今すぐ誰かに伝えたい。  だけどこの家には、いま僕と彼女しかいない。迷惑がられるのは分かっているけど、昂ぶる気持ちを抑えきれずに思い切って声を掛けてみることにした。 「りそな様、りそな様」 「なんです?」  よかった、振りむいてくれた。これならご機嫌ランクは中の上。今なら僕の興奮を少しだけ理解してくれるかもしれない。 「ていうか、いま大蔵のめんどくさい方々いませんから、その『様』ってのやめてください。妹を様付けで呼ぶ兄とか、正直キモいです。プレイ入ってます」  訂正。中の中ぐらいかな。 「そうは言うけどさ……衣遠お兄さまにあっさり見限られちゃった僕は、いま一応りそなのお世話係ってことになってるから……」 「しょんぼりしない。無駄に可愛らしい顔した兄にそういうことされると、妹マスコット的存在としての立場なくなります。無駄に女声なのも勘弁してください」 「無駄にって……」 「はあ、りそなも昔はもっと無邪気で天使みたいな女の子だったのになあ」 「仕方ありません。あんな異常な家で育ってたら、いくら元天使の妹でも正気を保てるわけないです。少々ねじ曲がりもします」  りそなは今日も僕の部屋へやってきて、愚痴とポテチの食べカスをこぼす。  彼女がたおやかな大和撫子だと信じて疑わない大蔵の旦那さまや奥さまが、こんな真の姿を見てしまったらどう思うのだろう。 「昔の話をするなら、兄こそもっと英国紳士のような王子キャラだったと記憶してますけど」 「僕? え、そうだっけ? ジャンに会った辺りで、お母さんみたいにもっと明るくなりたいって思ったのは覚えてるけど……」  あれから色々あった。  夢を持って、挫折を知って、僕は穢れた大人になってしまったのかなあ。 「でー? なんです、妹を様付けしながらひとの部屋入ってきて」  いいえ。ここは僕の部屋です、りそな様。 「あっ、そうそう忘れてた! そんな話はいいの! いくら嘆いたって、もうあの頃の清らかなりそなは帰ってこないんだから」 「たまにナチュラルで失礼ですよね、この兄」 「それより見て、今月の『クワルツ・ド・ロッシュ』! マラジェラのこのデザイン、いいなあ。見てこの裾の形。おかしいでしょ。こんな切り方、普通なら誰も思いつかないよ。襟元の大胆な広げ方もいいなあ」 「妹、服は好きですけど、作ったひとには興味ないです」  一蹴された。だけどいつものことだからめげない。  僕の妹はいま反抗期まっさかりだから(たぶん)、ちょっと素直になれないだけなんだ(たぶん)。 「ね、少しだけでも見てよ。本当に、一目でわかるほどかっこいいデザインだから。こっちのマンコィーンの服も見て。この西洋の甲冑をそのまま柄にしたような服。これレースかな? まず発想がすごいよね」 「あー……妹ちょっとゴロゴロしてて手が放せませんから、適当に心行くまで私の尻にでも話しつづけててください。どうぞ、末永くご勝手に」 「いいの!?」  ありがとう、りそな。僕としてはこのファッション誌から受けた感動を声にして発したいだけだから、べつに返事とか意見はなくたっていいんだ。 「いいなあ、このガッバ&ヴァッギーナのデザインも本当にいいなあ。ウンコロも、この螺旋みたいなフレア、どうやって出してるんだろうなあ。型紙見てみたいと思わない? 描いた人本当に天才じゃないかな」 「ギシアン・ウェストウッ、ドピュはいつも通りの感じだけど、このパンクな空気はブレないよね。やりたいことがはっきりしてるブランドはかっこいい――あっ」 「…………」 「どうしました? 妹、ぶっちゃけ聞いてないですから、そんな意味ありげなフェイントとか入れなくていいですよ」 「そうじゃなくて、本当に驚いたんだ。ジャンのデザイン画が載ってて」  ジャン・ピエール・スタンレー。  僕の年上の友人は、世界的に有名な若手デザイナーだった。  あの夜、一度逢ったきりだけど、僕はすっかり彼のファンになっていた。 「J・P・スタンレー……でしたっけ? 血の繋がってる兄は、そのデザイナーが本当に好きですね」 「うん。人間として好きだし、クリエイターとして尊敬してる。ジャンのブランドの服は、どれを見ても本当にかっこいいんだ」 「うわあ、このデザインもいいなあ。こんなの服にしたら再現できるのかな。生地の端とかどうするんだろう。これ、型紙とかも載せてくれないかな。生地の材質なんだろう。僕もこんなの作りたいなあ」 「あのー」 「ん?」 「ちょっと核心ついていいですー?」 「お、お手柔らかに」 「そんなに好きなら、なんで服飾の道を諦めてしまったんですか」 「う……」  お手柔らかにって言ったのに。  そこを衝かれると、その、しょんぼりする。 「諦めたっていうか……衣遠兄さまに見限られちゃって……」 「おまえには才能がないって言って……授業ぜんぶ止められちゃったんだよね……」 「上の兄はハードルが高過ぎるんです。下の兄だって十分すぐれてたじゃないですか。妹てっきり、下の兄も将来デザイナーを目指すものだと思ってました」 「ありがとう。でもデザイナーっていうのは、本当に狭い門で、その入口に一握りの天才たちが犇めいてる世界だったんだ。服飾に携わる仕事はしたいけど、デザイナーとは別の道を目指すよ」 「そうですか」 「ちゃら〜ん♪ 番組の途中ですが、ここで緊急ニュースが入りました。えー、このたび世界を股にかける服飾デザイナー、JPなんたらー氏が、我が国に新しい服飾学校を設立いたしました」 「えっ」 「調べによるとこの男は、犯行の動機について『かつてない革新的なデザインを次世代に広めたい』などと供述しております。次のニュースです。大蔵遊星容疑者が、愛する妹を様付けで呼ぶプレイについて国会は」 「ちょ……えっ、JPなんたらって……うそ、ひょっとしてJ・P・スタンレー!?」 「あー、そうですね、たしかそんなような名前でした」 「うわあ、行きたいなあ、その学校……僕の身分でそんな我儘ムリだけど」 「ていうか女子校です」 「なんで!」 「近いです。離れて離れて」 「えー、『男性デザイナーばかりが活躍して、女性デザイナーの影が薄くなっている。これからは世界に通用する女性デザイナーの育成に本気で取り組まなければいけない』」 「などと供述しており動機は不明」 「なので、妹ならともかく、あなたには無理です。残念でしたね」 「ううぅ……」  そんな……幼い頃からずっと憧れてたデザイナーの創設した学校、それも初年度の生徒になれる機会なのに、見逃さなくちゃいけないなんて。 「初年度だったら、ジャンがどんなに忙しくても、入学式の挨拶くらいには来るよね。ああ、会いたかったなあ。会っていろいろ教わりたかったなあ」 「志望動機が不純かつミーハーですね。その時点で入学資格が無いように思われます」 「女の子だけかあ。いいな、女の子。僕も女の子に生まれれば良かったなあ。ああ女の子。僕はどうして女の子じゃないんだろう。生まれ変わったら女の子になりたい」 「血の繋がった兄がキモいです。正直、妹、引いてます」 「女の子になりたいなあ。今すぐ女の子になれるなら、多少の辛いことでも我慢するんだけどなあ。努力するから女の子になれないかなあ」 「いや努力しても性別は……あ、いや、それほど女の子になって学校へ通いたいんですか?」 「うん。通いたいよ」 「そこまで覚悟があると言うなら、いっそのこと女の子になったらどうです?」  大蔵りそながおかしなことを言いだした。 「物は試しです。貸してあげるから、妹の服を着てみなさい」 「りそなの服? なに言って……もふっ!」 「妹、思うんですが。あなたは声も変声期前みたいに高いし、身体もキモいくらい華奢です。肩も撫肩、そのくせ変に尻が膨らんでいるという気味の悪い体型です」 「傷付くよ?」 「この場合は運が良かったと思うべきじゃないですか? そして何より、妹に似て整ったその美人顔! ばばん!」 「りそなに似たんじゃなくて、お父さんとお母さんに似たんだね」 「妹、自分の発言にツッコミ入れられるの大嫌いです。頭にきました。もう下着ごと、中身まで着替えさせてくれるわ」 「ええっ! それ、自分が損するだけじゃない!? ていうか兄に下着穿かれるなんて、そっちの方が嫌だと思うんだけど?」 「またツッコミ入れましたね。妹、怒髪が天を衝きました。自分の下着を一枚捨てるより、血の繋がったあなたの羞恥に塗れる顔が見たい。さあお互いのためなんです、早く着替えなさい」 「それともJP何たらーの学校へ通いたい気持ちはその程度ですか」 「うっ。さすがに無理があると思うけど……わかった、やってみるよ」 「ちなみに下着も穿かないと今後一切協力しません」 「それは家族として正しいのかな……」  とは言っても、幼い頃からの夢を目の前にして、僕も多少の不条理には目を瞑る気持ちになっていた。たとえ雑用でも、服飾のデザインに関われる内容なら、それを一生の仕事にしたいと思ってたんだ。 「はいウィッグです。いってらっしゃい」 「わかったよ」 「着替えたけど……」 「キモいというより気持ち悪い。妹、引いてます」  酷いよ。自分でやれと言ったくせに。 「……とは言っても、それは血の繋がった妹としての意見です。主観抜きで本音を言います。このまま街を歩いても、まず女装だと疑われないレベルだと思います」 「えっ?」 「本職のオカマさんたちならわかりませんが、女性の目なら欺けます。きちんとブラも着けているみたいですね。胸の大きさはパッドでごまかせるでしょう」  あ、嫌がらせだけでブラまで着けさせたわけじゃなかったんだ。ありがとう。 「でもこれぶかぶかだよね。こんな大きさじゃ、どんなに固定してもすぐにずり落ちちゃうんじゃないかな」 「妹、ツッコミが大嫌いだと言った筈なんですが。罰としてスカートめくれ。今すぐ」 「嫌だよ!? それこそただの嫌がらせだよ、兄妹ですることじゃないよ?」 「先にセクハラ発言したのはどっちですか、この女装兄。一度でも女装した事実を上の兄にバラされたくなければ、大人しく辱めを受けなさい」  うぅ……りそなならともかく、お兄様に女装したなんて知られたら、社会的に抹殺されてしまう。 「これでいい……?」 「恥ずかしさのせいか内股になっていますね。あなたの見た目は華奢ですが、立ち方や歩き方は男然としたところがあります。その姿勢なら女性らしく見えるので、足の角度を忘れないようにしてください」  あ、これもただの嫌がらせじゃなくて、女性として過ごすための授業だったんだ。ありがとう。 「後は女性としての生活習慣を身に付けることですね。これから入学までの一ヶ月、毎日女装して過ごしましょう。化粧だったり毛を剃ったり、月のものも本当に『ある』体で生活します。でないとバレます」 「それは本気で僕を受験させるつもりで言ってるの?」 「嫌なんですか?」 「いや、絶対に受かるよ。服飾の基礎を調べる試験はあるだろうけど、そのぐらいはハウススクーリングで修了してるから」 「良い自信だと思います。キモいけど頑張ってくれるでしょう」 「うん。自分でもキモいと思うよ。でも夢のために三年間がんばってみる」 「夢のため」が免罪符になるわけじゃないけど、世の中には迷惑を掛けずにファッションモデルを続けた男性もいる。  一ヵ月このまま生活して、周りが事実を知らずにいれば迷惑が掛からないとわかったら、本気で進学をしよう。 「あと一応、犯罪行為ですから、そこだけは忘れないようにした方がいいです」 「うん……でも夢のためだから……」 「大変です」 「大蔵りそながいま僕の上で跨ってることがね」  居間のソファーで寝ていたら、目覚めた時は妹が腹に乗っていた。 「妹、少し焦ってるんです。そんな時になに寝てるんですか。それと寝る前は万が一に備えて身だしなみには特に気をつけてください。隙だらけになるんだから、いつバレてもおかしくないですよ」 「え、僕いまどんな格好で寝てた?」 「めっちゃパンツ見えてました。ていうか、なんでトランクス穿いてるんですか。身とか心とか女になれと言ったでしょう」 「下着は……嫌だなあ……」 「新しい生活になった時、それが通じるとでも思ってるんですか。さっさと変態行為を受けいれなさい、この女装兄」 「ううっ。受けいれたくないけど一理ある。僕はヘンタイ、僕はヘンタイ」 「あ、ヘンタイで思い出しました。大変なことがあったんです。妹、その話をしたかったんです」 「スタンレーの創る『フィリア女学院』について色々調べていたら、上の兄が設立に関わっていることが判明しました」 「うぞっ!?」 「出資者の一人みたいです。あの兄も忙しい身ですから、授業を見に来たりはしないでしょうが、入学者、それか運良くても卒業者の名簿に目を通す恐れがあります」 「女性オンリーの学校に僕がいるなんて知ったら……それか、卒業まで黙ってたなんてことになったら……」 「下の兄は、業界での生命を断たれるでしょうね。妹、怖いです」 「僕の方が怖いよ! 兄さまにバレるのは……困る」 「ええ、彼はそんなふざけた真似を許してくれないでしょうね」  勝手なことをしてただけならまだしも、兄を騙してたなんてことがバレたら、人生終わる。 「困ったなあ、こんな格好して一週間も過ごしたのに、諦めなくちゃいけないなんて」 「言っておきますけど『こんな格好』って言うほど不自然じゃないです。あまりに馴染みすぎてて、妹、ちょっと不気味です」 「……ま、でも毒を食らわば皿までと言います。どうせ徹底的にやるなら、性別だけじゃなく、名前も別人にしたらどうですか」 「名前?」 「ただ嘘の素性をでっちあげて受験しても、当然ながら調べたら落とされるでしょう。ですがここを見てください。このフィリア女学院、お金持ちだけの特別教室があるんです」 「へえ?」 「スタンレー自身もお金は馬鹿みたいに持ってるようですが、それでも学校設立となれば膨大な金額がかかります。ですから、デザイナー仲間や自分の支援者から、寄付金をばんばん貰ってるみたいですね」 「その寄付金を得るために、一部のお嬢様たちは、受験なしで入れるみたいです。まあアホの面倒みる代わりに、けっこうエグい金額の授業料やら入学費をとられるみたいですが」 「ジャンってお金にがめつい人なんだ」 「そこは欧米人ですから。清貧は貞潔みたいな概念はないみたいですよ。理想はあくまで理想として、現実と戦わなければ、大きな事業は起こせないというノリです」  まあ服飾って、勉強するだけでそこそこお金かかるからなあ。 「で、そのお嬢様方には授業中も付き人の同伴が認められているんです」 「え? 付き人?」 「はい、そうです。男性は禁止、つまり執事は認められないので、いわゆるメイド限定ですね」 「メイド……なにそれ? さっぱり理解できない。どうしたら授業に同伴っていう概念が生まれてくるの? それはどんな授業風景になるの?」 「血の繋がったあなたは想像力を鍛えるべきです。一つの長テーブルに、金持ちのお嬢様とメイドが並んで座っている光景を頭に浮かべてください」 「シュールだね」 「はい、シュールです。ですがその教室では、その光景が通常なわけです。何故なら服飾の授業というものは、付いていけない人を待ったりはしません。たった三年では学ぶことが多すぎて、時間の余裕がないのです」 「受験を受けて入学した、基礎知識がある生徒なら話は別です。が、何の予備知識もないお嬢様たちが型紙の引き方をいきなりおっ始められて、付いていけるわけがありません」 「かと言って定規の引き方から懇切丁寧に教えてあげるほど教師も暇ではないのでしょう。しかし彼女たちを無視して進めることは、資金の都合上よくないものと思われます」 「というわけで付き人の同伴が認められるのです。二人で参加するものの、実際に授業を理解するのはメイド。そして家へ帰ってから、主人に内容を説明してあげれば済むという話です」 「それはつまり……言いにくいけど」 「妹、はっきり言います。つまり学校側としては、めんどくさいから馬鹿には保護者を同伴させろということです」 「はっきり言いすぎだよ!」 「で。妹、考えました。この制度を利用しましょう。他の生徒の付き人という扱いなら、学校へは届け出だけで済むはずです」 「恐らく素性を調べたりはしないと思います。生徒の家に一度雇われてる時点で、ある程度の信用はあるはずですから。そもそも正式な生徒でもないし、付属品みたいな扱いのはずです」 「ふ、付属品……」 「あとは雇い主との口裏さえ合わせれば、一緒に授業を受けられます。残るは血の繋がった兄の覚悟ひとつ」 「そんな無茶苦茶な思いまでして、それでもスタンレーの創る学校へ入りたいと思いますか?」 「うん、思うよ」 「即答ですか……妹、少し驚きました。もっとあなたが嫌がって、それを妹が応援する形を想像していたのですが」 「だって子どもの頃、それも一番純粋な頃に憧れちゃった夢だから」  自分に才能が無いこともわかってる。だけどジャンの学校で、彼の用意した教材、カリキュラムで勉強できることを考えたら、胸がわくわくして止まらないんだ。 「わかった。女性ものの下着を穿いた時点で大抵のことは諦めたし、もう何だってするよ」 「いい投げやりっぷりです。不条理を受けいれても憧れを優先するその姿勢、妹、嫌いじゃないです」 「で、具体的に誰の付き人になるって? もしかしてりそなのメイドとして潜入するとか?」 「妹、まだ入学できる年齢じゃないです。私の一つ上に、スタンレーの学校へ入学することが確定している生徒がいまして、ちょうどメイドを探しているんです」 「ふうん。僕の知ってるひと?」 「どうでしょう。企業名くらいは知っているはずですが。桜小路一族の――」 「ああ、桜小路一族。ってあそこの家は……」  家柄は旧華族として一流だけど、最近は手を広げた事業にも失敗して、相当の痛手を被ったと噂で聞いてる。 「名家というか、ちょっと時代に遅れてる感はあるよね。もちろん娘を学校へ捻じこむ程度のことは、朝飯前だと思うけど」 「桜小路一族という括りではそうですね。でも妹の友人は違います。次女のルナちょむは一昨年に株で一山当てて、桜小路一族全体の資産よりもプラスの収入を得てしまいまして」 「蕪?」 「株券です。そこで設けた資金を元手に、両親が手を広げようとした事業と同じ分野で成功して、今では国内有数の実業家ですよ。その繋がりでルナちょむと仲良くしてもらってるんです」 「大蔵りそなって株なんかやってたんだ」 「はい、妹やってました。それで、妹の方はいいんですが、ルナちょむは会社の方が軌道に乗ってきたので、そっちは部下へ任せて、ずっとやりたかったデザインの勉強をすることにしたらしいんです」 「妹、友人としての贔屓目込みですが、ルナちょむのデザインには才能を感じます」 「事業もやって、デザインもできて……そんな凄い人がいるんだ。しかも僕と同い年?」  なんていうか、桜小路一族と聞いて、一瞬でも侮ってしまっただけに悔しい。僕の持っていない「才能」で上をいかれて自立もしてるなんて、屈服させられた気持ちだ。  ああ駄目だ。これじゃ「ふり」だけじゃなくて、心から召使いだ。僕だって服飾の世界で成功したいんだ、デザインでは負けても、別の部分で勝ちたいと思わなきゃ。 「会ってみたい。今回の件をお願いするだけのことじゃなくて、ルナさん自身にとても興味が湧いた」 「は? 興味が湧いた……ってまさか、惚れました? それじゃ駄目です。会わせられません」 「ちち、違うよ、顔も見てない人を好きになるなんて。ただ一人のデザイナー志望だった人間として、りそなが認める才能を持った人と会ってみたいってだけだよ」 「ああなるほどです。妹、それなら納得しました。ちゃんと紹介します」  とんでもない誤解だよ。そんなに惚れっぽくないし、むしろ負けたくない気持ちでいるんだ。  まあ、女装して、しかもメイドとして使ってくださいだなんて、精神的に最初から負け戦って気もするけど……。 「あれ? ところで、どうして僕が好きになったら、会わせないつもりだったの?」 「妹、兄のそういう鈍いところは嫌いじゃないです。そもそもこれだけ非常識なことに協力してるのは、どうしてだと思ってるんですか」 「え、どうして?」 「妹、ブラコンだからです。親がヘンタイなら子もヘンタイ」 「え、恋愛として? だとしたら、これってけっこう重い話だよ?」 「今は側に居られればいいです。来年は同じ学校へ入学するつもりなので、仲良くしてください。妹、負けません」  付いてきてくれなかった。  相手の素性はわかっている。でも、りそながいるといないじゃ大違いだと思う。一緒に来て仲を取り持ってくれてもいいのに。曰く。 「たかだか一日話しただけで男だとバレるようでは、三年間隠し通すなんてことはとても無理でしょう」 「そのためにフォロー役がいるなんて甘えは、とっ払った方がむしろあなたのためです。一人で行ってください」  とのこと。でも単に自分が行きたくなかっただけじゃないかな。  とはいえ同行したくない気持ちも、りそなの話を聞いてなんとなく理解できた。  僕の妹とルナちょむ(本名は桜小路ルナさん)は、ネット上では夜を徹して話したりするらしい。でも直に会うと、一時間同じ場所に居ても一言の会話がない場合もあるらしい。  りそなは難解で気難しくて、その日の気分で言ってることが前日と180度違うこともままある。類は友を呼ぶって聞くし、桜小路ルナさんも同じタイプの人なんだろうか。  そうでないことを祈りつつ、メモに記された住所までやってきた。  それにしても、ここまでほとんど車で来たものの、すごく緊張した。ていうか恥ずかしい。女の子の格好で、外に出ることがとても恥ずかしい。  しかもこの姿のまま人と会うんだ……それも会話しなくちゃいけない……というより面接を受けなくちゃいけないんだ。  一発で看過されたらどうしよう。全力でヘンタイさん扱いだよね。恥ずかしい。そしてとても緊張する。屋敷を訊ねる前にトイレに行きたいけど、探すためにこの辺りを歩くのも恥ずかしい。  うう、覚悟を決めるしかない。  よ、よし行くぞ。僕が訪ねるという連絡だけは入れてもらってるはずだ。せーので、インターホンを押して……。  それにしてもこの屋敷、桜の木が多く植わってる。あと二ヵ月もすれば、塀の外からでも花見が楽しめそうだ。  だから桜屋敷って呼ばれてるのかな? それともこの屋敷の持ち主が「桜小路」だから?  いずれにしても、斜陽の桜小路一族には不釣合いな大きさ、そして敷地面積だった。これも全て僕と同い年の女性がトレーダー取引で稼いだ収入によるものなんだろうか。 「どちら様でしょうか?」 「大蔵家から紹介していただいた小倉と申します」 「はい、話は伺っております。どうぞ、入り口までお越しください」  丁寧な対応だ。この家にいる家政婦さん……その、僕が言われたメイドさん?と同じ仕事をしている人なのかな。  正門から長い道を歩いて屋敷の入口まで辿りつくと、何もしなくてもドアが勝手に開いた。操作してるのか、ここへ人が立つと自動で開くようになっているのか。 「はじめまして。小倉朝日様、本日はようこそおいでくださいました。当家のメイド長を務めます山吹と申します」 「あ、はじめまして」 「?」  45度に腰を曲げて、下がった頭の位置から不思議そうな顔で見上げられた。 「本日、小倉様は、当家のお雇いになるための面接に来た、と伺っておりますが」 「あ、はいそう……です。メイド? っていうのかな? としてって聞いてます」 「…………」  不思議顔を通りこして、あんぐりと口を開いてる。僕は何をしてしまったんだろう。 「雇用関係を結んでない以上、まだ小倉様はお客様に当たるのですが……もし本日から採用するとなれば、私はあなたの先輩になるのですよ。初対面から会釈での挨拶とは、これはまた大型新人のご登場ですね」 「あっ! し、失礼しました!」  しまった、まだお客様気分が抜けてなかった。というよりも、意識が別人になりきってなかった。  僕は雇われに来ているのだから、もっと使われる側としての意識を持つべきだった。これから面接をするというのに、緊張をしてないのもおかしい。 「大蔵家からの紹介で、信頼できる方と聞いていたため、大変心強く思っていたのですが……以前からその態度で通していたのですか? 随分と使用人の態度に寛容な勤め先だったのですね」 「も、申し訳ありません! 緊張のあまり、頭がぼうっとしていました! 今後は気をつけます!」 「一度や二度のミスは誰にでもあるという言葉を耳にしますが、本来、雇われる側にそのような考えがあってはいけないのです」 「それが許されたのはたまたま寛容な環境にいたというだけで、たとえ些細な失敗でも、タイミングによっては一生の失態になりうると私は考えます」 「人間関係然り、一生に一度の桧舞台でも然り。そして雇用の面接然り。全てはお嬢様の判断に拠りますが、私が意見を求められれば、はっきり使えない方だとお答えいたします」  ああっこの人、初対面で説教かましちゃう方だ! なんかもう色々と絶望的かもしんない!  ここで雇ってもらえないと学校には通えない。かと言って面接の前から印象は最悪。そして万が一使ってもらえることになったとしても、先輩は超厳しそう。 「ではご案内いたします。どうぞこちらへ」 「はい……改めてよろしくお願いします」 「人生に同じチャンスは二度と無い」的なことを言っていたにも関わらず、門前払いしない彼女は根が優しいのかもしれない。  今後は二度とこんな失態を演じないよう、細心の注意を払おう。僕の将来に誓って。 「合格」  まだ何も言ってない。  挨拶すら終えてない。どころか、名前すら伝えてない。これは無礼に当たるんだろうか。だとすれば、僕は誓った先から二度目の失態を犯したことになる。  だけど部屋へ入ると同時に合否を宣告されて、咄嗟に何を言えば良かったんだろう。僕を案内してくれたメイドさんも絶句してる。  ここはあくまで初志を貫徹しよう。今からの一言に将来が掛かってると思って。 「はじめまして桜小路ルナ様。私は大蔵家から遣わされました小倉朝日と申します」 「そうか、わかった、合格」 「この度は、お側へお仕えする機会をいただきありがとうございます。ルナ様に選んでいただいた暁には、誠心誠意真心を込めてご奉仕いたしますので、何卒ご採用賜りますようお願い申しあげます」 「なるほど、わかった、合格」 「いいんですか」 「何度も面接をするのも飽きたし、もう彼女でいい。いい加減、髪と肌を見るなり驚かれて、目を合わせる度に帰りたそうに引きつった笑いを浮かべられるのも気分が悪い」 「その点、今のところ驚いた様子を全く見せないだけでも、小倉さんは好感が持てる。りそなに外見の情報は事前に与えないでくれと頼んでおいたんだ。え? 私の外見に付いては、りそなから何も聞いてないよな?」 「はい。あ、自分より背が小さいと誇らしげに仰られていました」 「あいつ。まあいい、正直なところも好感度高しだ。彼女でいい。それとも八千代的に何か問題でもあるのか」 「ありませんが――」  山吹さんは、やはりいい人だ。僕が使えない男……あ、今の僕は女だ。使えない女だとチクらないでくれた。 「――問題はないんですが、せめてもう少し、面接らしいことをしてはどうでしょう。人間性を見るとか、話が合いそうか確かめるとか」 「いいのか。私に質問なんてさせたら、この子たぶんとても困ると思うんだが」 「面接とはそういうものです。困らせる質問を投げてください」 「じゃあ尋ねる。どうして小倉さんは私のこの特異な外見を見ても驚かなかった?」  本当に困る質問を投げかけられた。 「先ほどお屋敷を訪ねた際に、いきなり失礼な態度をやらかしてしまい、山吹さんに注意されました。これはもう駄目だと思ったら、肝が据わってしまったのかもしれません」 「何したんだ君」 「ぼーっとしてました。あの、特に理由もなく。強いていえば、桜屋敷の名前の由来は、桜が多く植えてあるからなのか、桜小路家の名前に因んで付けられたものなのか、どっちだろうとか」 「八千代。この子、天然だ。もう面白いから小倉さんでいい」 「私の経験上、面白いからという理由で採用した人員は、離職率が高いのですが。お嬢様が本当に良いと言うのであれば」 「じゃあ少し真面目に面接しよう。りそなの下では何年仕えていたんだ」 「三年です」  正確には、りそなと暮らし始めてから三年です。 「八千代。この子、意外と長く勤めてるじゃないか。好きなブランドは?」 「J・P・スタンレーです」 「まあ当然か。私の容貌を見てどう思ったか聞きたい」 「お綺麗だと思いました」 「引かなかったか?」 「はい……あ。私は海外での暮らしが長かったので、肌色、髪色の様々には慣れていました。ヨーロッパ、北米、南米、中東、ロシア、東南アジアで過ごした経験があります」 「ほう、かなりいいな。瞳の色は」 「お綺麗だと思いました。初めて見る瞳の色なので、少し驚きましたが」 「過去に私と同じ髪色、瞳の色の人間と会ったことがあったか?」 「はい。その人の瞳の色は青でした。とても良い人でした」 「うん」  それまで淡々と言葉を発していた唇が、ようやく感情らしきものを見せてくれた。 「八千代。私はやっぱり彼女がいい。どう思う?」 「個人的には賛成しかねます。ですがお嬢様の中ではほぼ決定のようですね」 「そのつもりだ。小倉さん、最後の質問だ。君は私を主人だと呼べるか?」 「主人、ですか?」 「いま目の前にいる私を主人と呼べるかと聞いている」 「あ……はい。どうかあなたの下でお仕えさせてください、桜小路ルナ様」 「ではこれから下の名前で呼ぶ。よろしく、朝日」  どうやら僕は面接に合格したみたいだ。自分でも嘘みたいだと思うけど、必要としてもらえるのはとても嬉しいことだ。 「ただまあ――正直に言ってしまえば、私の身の回りの世話を最低限できそうな人なら誰でも良かったんだ」  あれ、残念。まだ僕という個人が認められたわけじゃないみたいだ。 「そこそこ愉快な奴だったのは嬉しい誤算だが、目玉焼きを半熟で作ること以外で、君に期待していることは何も無い」 「かしこまりました。料理でしたら大抵のものはご用意できるはずです」  料理は国、地域を問わず、巡った全ての国で叩きこまれた。人間の基本は食だ。 「それと君の事情は聞いている。私の元で働きたいのではなく、スタンレーの学校に入りたいのだろう? するべきことをきちんとこなしてくれれば、私は君に干渉しない。お互いに上手くやっていこう」 「はい。お嬢様がそう仰るのでしたら、お言葉に従います」 「よし。それじゃ後は八千代に任せる。いくら性格が気に入っても、服飾の知識と技術がなければ雇うつもりはないからな。彼女の試験は厳しいが、また会えることを期待してる」 「はい、理解できているつもりでおります。ですが、一つだけ質問をよろしいでしょうか」 「なんだ?」 「私の言ったことが理解できてないな」とでも言いたげな、ムッとした声の調子だった。りそなも気難しいけどさすがはその友人。心が狭い。 「なぜお嬢様の世話をするのが山吹さんではないのでしょうか。先ほどから話していても、山吹さんはルナ様の側がお好きなようですが」 「ん……人事についてか」 「ん? 雇い主の決めたことに疑問を挟むとは、メイドとして好ましくありませんよ? 私たちは言われた通りの配置で、出来る限りの仕事を精一杯こなせば良いのです」 「申し訳ありません」 「いや、いい。私が答える」 「八千代に不足があったわけではないし、私としても彼女を選べれば言うことはなかった。だが八千代はスタンレーから講師として学校に誘われているんだ」 「講師として!」 「そう。八千代はスタンレーの学生時代の同級生で、その才能を周囲に認められていたそうだ」 「日本人として、優秀なデザイナーになれる素質を持っていたと聞いた。私にデザインの勉強を教えてくれたのも八千代だ。ただ――」 「お嬢様」  会話の途中で、山吹さんが言葉を遮った。ここへ来てからそれほど時間は経ってないけど、彼女が主人の邪魔をするなんてよっぽどのことだとわかる。だけどルナ様は首を横に振った。 「私が八千代を自慢したいんだ。邪魔をするな」  ルナ様にそう言われて、山吹さんは打つ手がなくなった。 「話を続けるぞ――八千代は、家庭の経済事情から、卒業後にまで自分の夢を追えなかった。その辺の話は省くぞ」 「そして、八千代はこうして私に仕えている。だがそのことを聞きつけたスタンレーは、彼女の才能を少しでも生かしたかった。しかし八千代の性格上、直接交渉しても無理だというのもわかっていた」 「だから私に交渉してきた。スタンレーは引き抜きの代償として、中々に高額の条件を提示してきた。だが金は必要ない。私はその条件を突っぱねた」 「そして八千代に相談もせず、私をスタンレーの学校の生徒とすること、そして私が入ることになる教室の講師とすることを条件に許可を出した」 「何故なら、私は八千代にデザインの勉強を教えてもらうのが大好きだからだ」 「ちょうど進学の時期だったしな。金儲けにも飽きたし、デザインの勉強を始めるのに、ちょうど時期が良かったんだ。以上、八千代が再び服飾の仕事に関われて嬉しそうな顔をしていたの巻 〜完〜」 「もうお許しください」 「ちなみに今後の予定では、私がデザイナーとして起業する際に八千代を取り戻そうとして、契約違反云々でスタンレーと一悶着ある予定なんだ。八千代が私とスタンレーのどちらを選ぶか楽しみだな」 「ごめんなさい。私が自分の知らない内に粗相をしていたなら謝ります。もうほんと許してください」  山吹さん顔真っ赤だ。意外とかわいい人なんだな。  良かった。未経験のまま入学して保護者の介添えが必要な生徒と違い、ルナ様は一人でも授業に付いていける人だ。と、りそなから聞いた。  その人が付き人を必要とする理由が気になってたんだ。その理由が、居なくなる山吹さんに気を使わせないため、形だけでも後任の人間が必要だったんだとわかった。  身の回りの世話をさせたいだけなら、学校に通わせる必要はない。 「ありがとうございます。私が二人のお役に立ちたいと思うために、充分な説明をいただきました」 「自分の都合もあるのですけど、ルナ様の側、山吹さんの下で仕えることに意欲が湧いてきました。ルナ様が学校へ通うことになる三年の間、どうか身の回りのお世話をお任せください」 「そうか、わかった、よろしく。それじゃ今度こそ出ていけ。私はデザイン画を描きたいんだ」 「承知いたしました」 「……失礼いたします」  そっか、ルナ様は気難しいけどいい人なんだ。少しほっとした。  この屋敷の中の雰囲気も、彼女と話す前と後じゃ違う。あの綺麗な人の住む家だと思うと、空気の柔らかさに変化を覚える。  今回は理由があって使用人という形だけど、いち友人としてルナ様と接してみたくなった。それができるのは、早くても三年後になるけど。 「小倉朝日さん」  その時、目の前の背中から発せられている禍々しいオーラに気付いた。というよりも、どうして今まで気付かなかったんだろう。 「それでは、服飾の腕を見たいので一緒に来てください」 「はい。お手柔らかにお願いいたします……」 「承りました。それでは早速、移動しましょう」  山吹さんに連れられて、僕はこの広い屋敷の中をとことこと歩いた。 「…………」 「…………」 「あ、そうだ」 「はい?」 「自分だけ過去話をされて少々戸惑いました。お嬢様へのささやかな反抗として、彼女の昔話などもしましょうか」 「え?」 「小倉さんはお嬢様と話して、最初はどのような印象を受けましたか?」 「外見に驚きました。先ほども言いましたが、その、綺麗な方だなと」 「ありがとうございます。他にはありませんでしたか?」 「色々と変わった方だなと……」 「話し方などは?」 「ええと……」 「正直に答えてみてください。最初に思いついた言葉でいいんです」 「なぜあのように刺のある話し方をされるのかなと」 「正直に答えてくれてありがとうございます。小倉さんの受けた印象は間違っていないんです。お嬢様はあえて偉そうに振る舞っているのですから」 「先ほどの短いやり取りの中でも感じたと思いますが、お嬢様はご自分の気分に対して遠慮をしません。うっかり機嫌が悪ければ、言葉が辛辣になることが多々あります」 「はい」 「ですがどうか、彼女の話し方、態度に辛抱強く接してあげてください。ここまでの面接者で、お嬢様の性格と外見の両方に抵抗のなかった人は小倉さんが初めてなんです」 「えっ」 「お嬢様は身の回りの世話ができればそれでいいと仰られていましたが、本当はそこに至る人すらいなかったんです」 「私が服飾の実技を見る人は初めてですよ。それだけでも良かったと思っています。ええ、私も第一印象さえ悪くなければ、ぜひにとお願いしたいほどなのですが」 「も、申し訳ありません」  厳しい。ちょっと持ちあげてもらっていたと思った矢先に落とされた。 「お嬢様は形だけの付き人がいればそれでいい、と思っておられるようですが、形ばかりでも三年間は共に生活をすることになります」 「給料、服飾の勉強をする環境は充分なものを用意します。あとは、どうか仲良くしてあげてください」 「はい」 「即答ですね」 「私も今までに友人と呼べる人が周りにいなかったんです。仲良くしていただけるなら、自分から一歩でも二歩でも近付いていきたいと思います」  目的はジャンの学校へ入ることだけど、他にも面白いことが待ってるなら、めいっぱい楽しんだ方がいいに決まってる。 「よろしくお願いします」  深々と頭を下げたのは、新しい自分に出会えそうだったから。  まだ男としても気付かれてないみたいだし。なんとかなるなる。 「ま、それも服飾の腕がまるでなければ、今日一日でさようならなんですけどね」  厳しい……。 「じゃあ行ってくる」 「はい。せいぜい正体バレしないように気を付けてください。来年になったら私も追いかけますので」  今日から僕は、ルナ様の元で暮らすことになった。本格的な使用人生活の始まりだ。  八千代さんが先輩として付きっきりで指導してくれる期間はたった一週間。それ以降は、学院の講師としての準備があって、四六時中ルナ様の面倒を見るわけにはいかないらしい。  それまでに家事全般は不足なくこなせるようにならないと。八千代さんがいなくなったら、お客様の対応も僕が引きうけるわけだし。 「紹介してくれた、りそなの顔を潰さないように努力しないと」 「はあ。妹、ルナちょむとはネット上の付き合いがメインなので、面子とか気にしたことはないですけど」 「りそなは友達が少ないんだから、ルナ様と仲良くすればいいのに。向こうはりそなのこと気に入ってると思うよ?」 「妹の前では様付けをしなくていいのに……身も心もすっかり使用人ですね」 「うっ」 「まさか『家事を頑張らなきゃ!』とか『お客様には丁寧な対応をしないと!』なんて考えてませんよね?」 「ナチュラルに考えてた……ごめん」 「妹に謝らなくても。本来の目的を見失わないよう、頑張ってください」  そうなんだ。りそなの言う通り、僕は使用人になるため、このハイセンスな道を女の子の格好で歩いてるわけじゃないんだ。  目的を忘れないようにしなくちゃいけない。どんな職種でもいいから、僕は服飾に携わる仕事をしたい。販売員……で終わるのはちょっと困るけど。  夢を大きく持つなら、この辺りにもお店を出したいな。ヒルズの中……ううん、路面店がいい。その近くに住んで、自分のアトリエを持ったり……この、日本でも一、二を争うファッションの中心地で。  って、そうだった。ここはオシャレな場所だ。歩いてる人たちはみんな、服も、靴も、鞄も、身に付けてるものの一つ一つに気を使ってる。  そんな中、ウィッグを着けて化粧までして、女の子の格好してる僕……周りの人と目が合わせられない。脅えてる自分は、まるで初めて東京へ出てきた地方の女の子だ。  ラプォーレの前あたりには、奇抜な格好をしている人がそこそこ居るけど、彼らは個性的なだけで、ガチの女装なんてしてる人はいない。それか、ドラァグクイーンと見間違えるほどの派手な格好をしてる男性か。  その個性的な子たちも、いま歩いてるヒルズの付近まで来ると姿を消していき、モード、コンサバ、ナチュラル系のファッションをした人が増えた。今の僕は浮きまくってる。はっきり言えばヘンタイだ。  りそなは違和感がないと言ってたし、これからは三年間も女性として過ごさなくちゃいけないんだから、こんな初日でバレる程度なら最初から無理だったってことだ。だから僕は、開きなおって堂々とすべきだろう。  だけど不安が消えない。本当に大丈夫だろうか。この人混みの中でもし女装だとバレたら、ものすごく恥ずかしいことになる。  青山の方へ近づくにつれ、どんどんいたたまれなくなってきた。うぅ、みんな、見ないでください。僕のことを見ないでください。ああ恥ずかしい、すごく恥ずかしい。  恥ずかしさが限界を超えて、身体が熱くなってきた。火照って、頭が、くらくらする。 「すいません! 僕『ファット』って雑誌の者なんですけど、今度、女の子のファッション特集やるんで、スナップ写真撮らせて……あ、あれ?」 「え? ぼく……私、ですか?」  うわあ、うっかり僕って言っちゃった。どうしよう、逃げた方がいいのかな。この人オシャレっぽいし、男だとバレたら、絶対キモいやつだって思われる。 「え、なにこの子、素朴なのにレベル高けー……あ、仕事いいからさ。ちょっとメシでもどう? てか雑誌モデルとか興味ある?」 「え、ないです……ていうか、あの」  頭がぼーっとして、なに話してるか、話せてるか、よくわからないです。 「キミ顔赤いよ? 休んだ方がよくない? そこ知りあいのカフェだからさ、ちょっと休憩しよう?」  あ……会話なんてしたら、絶対にボロが出る。性別が明らかになる。  手首を握られた。こんな街中で、ヘンタイだって暴露されるのは嫌だ―― 「お待ちください」 「え……」  誰? 「ナンパでしょうか?」 「え? あっ、いや全然! 俺、仕事中だし」 「そうですか。ですが、及び腰の女性の腕を握っていては、そう誤解されても仕方ありませんね」 「うわ、ごめん!」 「お仕事へ戻られた方が良いのでは? 彼女は私が介抱いたします」 「え、お姉さんは誰? てか何者?」 「誇り高きブラックホーク族の一員、杉村北斗です」 「いやいや。いやいやいや。あんたばりばり日本人だよね」 「我らは誇り高き一族です。嘘付きません」 「あー……あ、そうだね。そんじゃ後はお願いします。そっちの子もまたね」 「あ、はい……」  雑誌社の人は、何度か僕のことを振りかえりながら仕事に戻っていった。 「ごめんなさい」 「えっ」 「本当は、声を掛けた時よりも、少し前から見ていたのです。ただ、相手の方が男性でしたから、中々止めに入る勇気が出ませんでした。ご無事ですか?」 「あ、はい……何かされたわけではないので」 「私は男性が苦手で、話し掛けられるだけで怖いと感じてしまうので……あなたも怖い思いをしているのではないかと」  そこまで言いかけて、僕を助けてくれた女性は、はっとした表情を見せた。 「それとも、私はなにか勘違いをしていますか? お話の邪魔をしたのでしょうか」 「いえ、そんなことないです! 困っていたから助かりました。怖いと思っている男性相手に、声を掛けてまで救っていただいて……本当にありがとうございます。相当の勇気がいったでしょう?」 「はい。とても怖かったです。だけど脅えている女性を見捨てるのはもっと怖いことだと思いました」  どうやら純真な人みたいだ。嘘や人を騙したりする類の人ではないらしい。 「えっと、そっちの……杉村さん? も、ありがとうございます」 「北斗とお呼びください。おや、火照りが大分取れましたね。先程までは、熱があるのかと心配になるくらい顔が赤かったのですが」 「あ、それはただ恥ずかしかっただけです。ごめんなさい、身体の事情とか、そんなのじゃないです」  体は全然平気なんだ。恥ずかしいから体が熱くなっていただけで、優しいひとと話したら気持ちが落ちついて楽になった。  この人たちの目は不審者や変質者を見るときのものじゃない。よほど偏見がない人なら別だけど、これだけ間近で会話しても気付かれてなければ、女として見られてると信じていいみたいだ。  ちょっと自信……とは違うか、安心してきた。 「水を用意していたのですが、必要ありませんか?」 「あ、いただきます……あの、でも、ここまでしていただいたなら、何かお礼をしないと……」 「お礼ですか? それなら私とお友達になってください」 「え?」 「私は東京で暮らすために関西から来たのですが、まだ着いたばかりで右も左もわかりません。これも何かの縁だと思って、こちらでの最初の友人になっていただけませんか?」 「この土地で、気兼ねをしなくて良い、一からの友人が欲しいと考えていたんです」 「このような道端で見知らぬ方と知りあう機会など、滅多にはありませんから。きっと私たちの間に、良い縁があるのではないかと思うのですが」 「友達? はい。私で良ければ、ですけど」 「良かった! 私は花之宮瑞穂といいます。瑞穂で構いません。北斗、名刺をお渡しして」  あ、しまった……連絡先を渡されても、僕からは連絡できない。この格好で何度も会ったら、バレるリスクを高めるだけだ。  助けてもらった恩返しができればと思ったけど、友人になりたいと言われた時点で断っておくべきだった。  でもここで去ったら失礼だし……受けとらないわけにはいかない。一度か二度会うくらいなら、いいかな。 「ありがとうございます。えと、私は小倉朝日です。名刺は……持ってなくて」  幸いだったのは、ここで嘘をつかずに済んだことだ。大蔵遊星名義の名刺は家に置いてきたし、今の名前のものは作ってない。 「構いません、もうお顔もお名前も覚えました。あさひさん、ですね。旭日の旗を象徴するような、我が国の女性に相応しい素敵なお名前ですね。あさひさんと呼んでも良いでしょうか」 「はい、もちろんです。ただ、漢字はそっちの旭じゃないです。朝昼夜の朝に、一日二日の日を使います」 「それでは日章旗をお名前とされているのですね。とても素晴らしいことだと思います」  うーん、実名じゃないから誉められても素直に喜べない。自分の名前に星が入ってるから、星といえば太陽かなって感覚で適当に付けただけだし。 「このあと私たちは、青山で人と会う約束があるんです。予定の時間にはまだしばらく余裕があるので、こうして東京を散策していたところなんです。もしご都合がよければ、朝日さんもご一緒にいかがですか?」 「あ! いえその、私はこのあとお仕事の……アルバイトの面接があって。ごめんなさい、今日は駄目なんです」 「そうですか、残念です……ではまた今度、ご一緒していただけますか?」 「はい……」  助けてもらった手前、否定の返事ができない……バレたら困るので、自分からお誘いできる機会はあまりないと思います。ごめんなさい……。 「お待ちしていますから、お気軽に電話くださいね。この名刺に書いてある番号は私個人のものですから、いつ連絡していただいても構いません。とても楽しみにしています」  ただ話すための電話は……あまりできないだろうなあ。もし偶然この格好でお会いすることがあれば、その時は友人として振舞わせてもらいます。 「お嬢様、小倉様には時間の都合がございます。そろそろお別れいたしましょう」 「はい。非常に残念ですが、お仕事では仕方ありませんね。またお会いしましょう? 東京での大切な、大切な、初めてのお友達ですから。ごきげんよう、朝日さん」 「お身体にはくれぐれもお気をつけて。あなたに大地の神のご加護があらんことを。ポゥ!」 「はい。またの機会に。助けていただいて、本当にありがとうございました」  立ったまま見送ってくれている。本当に良い人たちだった。  だけどお会いできるのは、あと一度か二度のつもりです。さようなら瑞穂さん! できれば男としてお会いしたかったです!  瑞穂さんに助けていただいた分、予定よりも行動が遅れてしまった。  その時間を取りもどすため、普段の1.5倍の速さで歩きつづけてかれこれ10分。ちょっと疲れてきた。でもその甲斐があって、余裕を保ったまま、ルナ様のお屋敷の近くまで来ることができた。  さて、どうしよう……これからルナ様のお屋敷に着いたとして、荷物を部屋へ置いたら、すぐに仕事が始まる感じかなあ。使用人なんだから、初日はお休みだなんて期待しちゃいけないよね。  ずっと歩きっぱなしだし、緊張もしたし、適当なお店へ入って、軽く休憩してからルナ様のもとへ向かおう。  そんな風に方針を決めて「店員さんの目ができるだけ悪そうな……お爺ちゃんお婆ちゃんのやってるお店なんてないかな」なんて、呑気に考えつつ歩きはじめたときだった。 「ォオーン!」  ん? 「オ・ォーン!」  あれ? あれれ?  前へ進もうとすると腰が引っ張られる。なんだろう、この感覚……。  うわあ!  腰から下がスースーすると思ったら……めめめめくられてる!? 「ヴァオ゛オオォォ――!!」 「ちょ、ええっ……えええっ!?」  思わず二度見した。だけど僕のスカートを咥えた犬が、必死に背伸びしようとしている現実は変わらなかった。  一度目が合ったら、途端に強烈な力が加わった。このままスカートを引っ張りあげられたら、爪先立ちになって転んでしまう。 「わあああっ! あの、誰か! 助けてくださいっ!」  周囲に助けを求めるも、その犬は思ったより大きくて、さらに凶暴な顔付きをしていた。助けに近寄ろうとしてくれた男性会社員(推定40歳)が、一睨みで追いかえされた。  ああああ……いま後ろから見たら、僕のパンツ丸見え――ていうか前も危ない!  慌てて押さえたものの、背中側は犬の力が凄くてびくともしない。トランクスじゃなくて、女性用の下着を穿いてて良かっ――良くない! 全然良くない! 男としても女としても恥ずかしい!  この世に男として生を受けて、まさかスカートめくりされて、しかもそれを押さえる日が来ることになるとは思わなかった。その上、相手は犬。 「シュルあァー! ヴォォワああァー! ブシュロワわあああ――!」  うわああああ! 幼い頃、通りすがりの女の子が男の子にスカートをめくられているのを見かけた時は、他人事のように思っていた。でもようやくわかった。これは本当に恥ずかしい。  将来僕に息子ができたら、絶対に女の子のスカートはめくっちゃいけないと厳しく躾けよう。何があっても、それだけは徹底的に教えよう。  犬が最大限に身体を伸ばしたせいで、僕はもはや爪先だけで体を支えていた。いつ前に転んでもおかしくないけど、そうなったらスカートが破れて下半身が丸出しだ。 「フシュるるるるるヴァあ゛あ゛あぁああ゛ぁぁ――!!」 「ひっ!」  しかも恐ろしいことに、その犬は前足で僕の下着をわっしと掴んだ。わかっててやってるんじゃないかと疑いたくなるほど、彼(絶対オスだ)の爪は正確に下着の両端に引っかかっていた。  こんな公衆の面前でお尻丸出しって……そそそそそれだけは駄目えええええええー!  動物相手に暴力はいけないと思って我慢してきたけど、これはもう許容範囲を超えてる。こうなったら本気で戦うしかない! 「いい加減にっ……!」 「そこまでですわ!」  えっ? そこまで……? 「モトカレ、何をしていますの!? 冗談では済まされませんわよ!」  どうやら飼い主みたいだ。彼女がリードを引っ張ると、犬は大人しく僕のスカートから口を離した。 「大丈夫ですの? 私のペットが迷惑を掛けてしまって、申し訳ありませんわ」 「ありがとうございます……日本語お上手ですね」  綺麗なブロンドだ。天然なんだろうな。  その女性の天使のような外貌を目にして、僕の頭は急速に落ちついていった。外見からは想像もできない堪能な日本語に違和感を覚えるより、会話ができるという安心感が先だった。 「洋服は平気ですの? 汚れてはいませんの? 破れていたら新しいものに買い直させていただきますわ。この通りにはショップも数多くありますし、見せてごらんください」  日本語の発音は上手いけど、使い方は微妙に間違ってる。ただこのままでも意味は通じるから、下手に教えたり、余計な真似はしない方がいいかな。  ブロンドの女性は僕の穿いているスカートを調べ、やがて苦々しそうな表情を浮かべた。 「ああ、やっぱり……貴女のスカートに歯型の穴が空いてしまっていますわ。サーシャ!」 「ウィ」  わ、また綺麗な人が出てきた……青山で外国人を見かけるのは珍しいことじゃないけど、この二人の肌、髪、そして瞳の色の美しさは、今日見た中でも抜群だ。 「この度は、美しい私の美始末でモトカレのリードを手放してしまい、大変な迷惑をお掛けしちゃったわね。美しい顔でおわ美するわ」  この人も日本語が上手いけど、やっぱりどこかおかしい。 「サーシャ。謝罪は主人である私がします。これから彼女への償いについて決めますわ」  彼女たちは小声で囁きあった後、申し訳なさそうな顔を僕に向けてきた。 「今から私たちが付き添い、貴女に似合う最高のスカートを弁償いたしますわ。それで許していただけますの?」 「弁償していただけるんですか?」 「ええ。このスカートを買ったお店に、連れていっていただきたいですわ」 「あ……このスカートは、私の持ち物ではないんです。妹の洋服を借りていて……だから、買った店まではわかりません」 「そうなんですの? それならなおさら弁償しなくてはなりませんわね。連絡先を教えていただけないかしら。こちらからも名刺を渡しておきます。受けとりたまえ」 「語尾だけ急に男らしくなりましたね。えっと、私は小倉朝日と言います。名刺はいま持ちあわせていないので、後ほどこちらから連絡します」  受け取った名刺には仏語で名前が記されていた。「Ursule=Fleur=Jeanmaire」――ユルシュール=フルール=ジャンメール。 「それと、弁償とは別に、今回の件のお詫びをしなくてはなりませんわね。お時間はありますの?」 「え、時間ですか……あ、あああーっ!」 「なっ、なんですの?」 「あ、あの、ごめんなさい! よく考えたら私、いまから新しい勤め先へ行くところで……時計を見たら、もう時間がギリギリでした!」 「あら、そのようなご都合がありますのね。わかりました、引きとめている場合ではありませんわね。すぐに向かうといいですわ」 「は、はい! また後日お会いしましょう」 「あ、最後にもう一度」  慌ただしく去ろうと体の向きを変えた間際、まるで日本人のように深々と頭を下げるユルシュールさんが見えた。 「あっ……」 「大切なスカートを傷付けてしまい、本当に申し訳ありませんでしたわ」 「少し触れただけで、貴女の妹がどれほど丁寧に使っていたかがわかりましたの。心よりお詫びいたしますわ」  天使のような容貌をした女性が、美しい姿勢で頭を下げている。その姿は僕だけではなく、周りの通行人も見とれるほど可憐だった。 「また、お会いできますわよね? お詫びさせていただきたいんですの」 「はい、お願いします。また連絡させてもらいます」  ふっと流れる柔らかい空気。それを感じとったのか、彼女の側にいたもう一人の女性も頭を下げた。 「美しい私からも深くおわ美するわ。私よりも不細工なモトカレ、貴方もお謝りなさい」  ずっと気になってたけど、モトカレって犬の名前なのかな。そんな仏語聞いたことないけど、まさか日本語じゃないよね。  あれ? そういえばモトカレはどこに……あっ。  僕が自分を襲った犬を目で探した一瞬の出来事だった。 「ぶしゅルルルルルルルゥ!」  モトカレはあろうことか、己の主人のスカートを背後からめくりあげていた。 「は……」  唖然。ぼくもかのじょも、サーシャさんも。 「なんですのこれは――っ!?」  ユルシュールさんが叫ぶ。だけどとき既に遅し、彼女はさっきの僕よろしく爪先立ちにさせられていた。 「ででっ、ですのですのですわ、ですわですわですの――っ!?」  混乱してるんですね。僕も同じ目に遭ったからよくわかります。ですのとですわしか言わないユルシュールさんが何を言いたいのかは、さっぱりわかりませんが! 「フオオオォォーッ!」 「やああっ!? ここここっ、こけっ、こけてしまいますわっ! たす、助けえーっ!?」  驚いたときも咄嗟に出るってことは、そうとう日本語を身に付けてるんだな。なんて感心してる場合じゃなくて!  何故かサーシャさんが止めようとしないせいで、とうとうモトカレはユルシュールさんの下着の端へ前足を掛けた。 「ひっ! モトカレ、何をしようとしていますのっ!? ははは、はな、離さないと餌抜きですわよ!」 「貴女のご主人様が襲われてますけど、助けなくていいんですか!? 私はまた襲われる危険性があるので無理です!」 「この美しい顔に傷が付いては一大美でしょう?」 「私を守ることが貴女の仕事ですわよ! 早く助けなさ――あっ、ああああっ!?」  そしてユルシュールさんは脱げるのを防ごうとするあまり、手前につんのめって、下着を腿の付け根までずり下ろしながら転倒した。  僕に出来たことは、彼女の体の上へ被さって、周囲の視線から彼女の痴態を隠すことだけだった。 「初日から遅刻とは、大した重役出勤ぶりですね」 「申し訳ありませんでした……言い訳はいたしません」 「言い訳して構わない。君はどんな御託を並べるのか興味がある。さあ言ってみろ」  遅刻したせいか、ルナ様は以前に会った時よりも攻撃的だ。怖いよ。 「ここへ来る途中でガールハントされまして……」 「ガールハント?」 「いわゆるナンパのことかと」 「随分と古風な言い方だな。お爺ちゃんか」 「ガールハントで声を掛けられたあと、犬にスカートをめくられたり、犬がスカートをめくったりする事件に巻きこまれました」 「ナンパは振りはらえ。犬は追いかえせ。はい論破。遅刻の言い訳として成りたたないから、別の詭弁を弄しろ。顔を真っ赤にしつつ高い声を出してこの場を取り繕ってみせろ」 「言い訳は思いつきません! 本当に申し訳ありませんでした、どうかお許しください。これからも桜小路家へご奉公させてください」 「勘違いするな、私は君を解雇するつもりなんてない。ただ、せっかく君がミスをしたんだ。謝っても許してもらえずに困っている君を見たい。学校へ通いたいのなら、地べたに額を擦りつけながらこの私を拝め」 「畏まりかけました。もうワンランクだけ下げていただけないでしょうか」 「三回まわってアンと鳴け」 「アァン」 「全然なってないな。処女だろう」 「いえ――」 「男だから処『女』ではないです」と言いかけたところで、性別を言っちゃ駄目だと気付き、慌てて途中で止めた。  でもそれは大失敗だった。 「そ、そうか……うん。君もモテるだろうからな。恋人の一人や二人や三、四人いても驚かない」 「はい。今のは質問者であるルナ様に責任があります。以後、人を見かけだけで判断した挙句、セクハラ質問で困らせようとして、自分が困るのはやめてください。私も困ります」 「違います! 今のは否定の意味ではなく、言い間違えただけで……あの、私は……しょ、しょしょしょ、処女、です……」  うわあああああ。自分のミスとは言え「私は処女です」なんて言いたくなかった。まだ初日の、それも屋敷について数分間しか経ってないのに、かなり挫けてきた。 「いや、私は男性経験の有無で人を判断したりはしない。むしろ人間経験を積んでいるのは良いことじゃないか。ん、んんッ……それで、女性は初めての場合、往々にして痛みが伴うと聞くが朝日は……」 「ルナ様、いけません! そういう不健全な話は、他の使用人に聞こえたら印象が悪いのでやめてください。どうしても聞きたければ、夜更けに隠れて話してください。ところで私も興味がないわけではありません」 「処女です……ごめんなさい、経験なんてありません……処女なんです……」  男の尊厳なんて、存外簡単に捨てられるものなんだなと今この場で知った。 「わかった、今日のところは君を信じよう。ところで男性と女性の体の違いについて聞きたいことが二、三点あるんだが――」 「ルナ様、セクハラ質問はその程度でおやめください。今は時間がないことを忘れていました」 「ああそうだった。朝日、今から客が二人来る。私の幼い頃からの知人だが、知っての通り私は人と話すのが嫌いだ。非常にめんどくさい。できれば一生誰とも会いたくない」  このままの調子で、ルナ様は集団行動が求められる学校という機関に通えるのかな。 「しかしその客人と、これから三年間をこの屋敷で共に暮らすとなれば、初日は屋敷の主である私がホストを務めなければならないだろう」 「えっ? 共に暮らす?」 「というわけだ朝日。私は極力ひとと話をしたくない。会話は君に任せた、彼女たちが寝るまで適当に場を持たせろ」 「え、ルナ様……今のは? 共に暮らすという……」 「私の知人とはいえ、一人は変人だ。間を持たせるだけでも苦労すると思うが、これも役目の一つだと思って、主人が一切口を開かなくてもいいように努めろ。間違ってもこっちには話を振るなよ」 「もちろんお客様を退屈させないようには努めます。ただ、その前にルナ様が仰られた言葉の内容を詳しくお聞かせください。お客様と一つ屋根の下で暮らすというのは? しかも二人?」 「そのままの意味です。事前に連絡ができなかったことについては気の毒だと思います。が、私たちはお嬢様を取り巻く有為転変の世界の中を臨機応変に対処していかなくてはなりません」 「本日より、お嬢様のご友人二名が、この屋敷へ住むことが決まりました。きのう」 「昨日!」 「それは何故でしょう? ルナ様の決定されたことに口を挟むわけではありませんが、自ら人間嫌いだと仰られていたお嬢様が、ご友人を屋敷へ招かざるをえなかった理由とはなんでしょう?」 「えー、それは……私が軽くズルをしてしまいまして」 「ずる?」 「ズルです。ほら私、来月から講師をやるでしょう。ですから先週、何回目かの説明会へ行ってきたんです。その時の内容を他の生徒に先んじてお嬢様にリークしたと言いますか」 「教科によってはグループでの作業があることを耳にしてしまいまして。お嬢様の立場なら小倉さんに任せても良いのですが、他のメイド付きの皆様とは違い、お嬢様はご自分でなさりたい方でしょう?」 「グループでの授業となると、良い成果物を作る為には協調性が必要だ」  ルナ様、協調性という言葉に理解があったんですね。ちょっぴり感動しました。 「かといって、新しい人間関係は構築するのが面倒だ。それならあらかじめ、友好関係にある相手と事前に結託……いや同盟だな。良好な相互扶助の関係を結んでおこうと思ったわけだ」 「幸い、同じ学校へ入学する友人がいる。一人は欧州出身。私と同程度の資産を抱える実家を持った娘だ。血筋も良い。旧伯爵家の出だ」 「その格式は私も認めている。問題は本人の方なんだ。貴族の誇りを間違った方向に拡大解釈している残念な頭の持ち主で、よく我儘を言いたがる女だ」  わあ。 「住む場所は学校から車で五分圏内でなくては嫌だとか、風格ある建物でなくては気に入らないだとか、とにかく注文が多い。彼女の執事が選んできた、国内では格別の良物件の尽くを蹴ったそうだ」 「その上で『学校へ通うための住居が決まらないのですの』などと、ふざけた愚痴を言うためにわざわざ電話を私にかけてきた。それならこの屋敷の一室を貸してもいいと提案したところ、喜んで食いついてきた」 「私はそのお嬢様と上手くやっていけるでしょうか……」 「まあ、うん。彼女のものの考え方は愉快だな」  ルナ様はフォローしてくれなかった。むしろ不安を煽られた。 「だが腕は確かだ。少し言動がアレなだけで、学ぶべきところは多々ある。だからある程度は我慢しよう。うん」  ルナ様が口にした「グループ授業のために我慢しよう」という言葉は、自分に言い聞かせてる節がある。その女性は、それほどエキセントリックなお嬢様なんだろうか。 「酷い言われようですけど、大丈夫なんでしょうか」 「お嬢様が大げさに言っているだけで、素直で優しい方ですよ。傍から見ている分には」  僕は傍ではなく、正面からお付き合いしなくちゃいけないんですけど……。 「まあ彼女のことは一先ずおいておこう」  おいといていいのでしょうか。 「今日訪ねてくる客は、もう一人いる。私が同じ空間に一日いても苦痛じゃない相手だ。涼やかな風貌に無邪気な空気を纏い、たとえるなら初夏に咲くアヤメのような女性だ」 「人物評が辛口なルナ様にしては、随分とポイントの高い方なんですね。安心しました」 「ああ。性格には全く問題ない。ただ、それこそ地元の土地を一歩も出たことがないほどの箱入りだから、私が腰を抜かすほど天然な部分がたまにある。パンがなければ製パン会社を買えばいいじゃない。の人だ」 「うう……」 「彼女の付き人が留守の時は、朝日が言いつけを聞くことになる。『不便はございませんか』の問いに『では部屋を和室にしても良ろしいでしょうか』程度の答えは覚悟しておけよ」 「実際に、和室に改造しても良いのでしょうか」 「判断は朝日に任せる」  このロココな邸宅の中に純和室……僕の判断に委ねられても困るなあ。いつ腰を抜かしてもいいように、今日から腰回りの筋肉を鍛えよう。 「ルナ様のお付きとして、くれぐれも振り回されることのないように心掛けてください。小倉さんに教えることは山程ありますが、屋敷内のことよりもお客様の対応が優先です」 「はい、畏まりました」  手にしていた荷物がどっと重くなった。使われる側の人間として、重労働に対する覚悟はできてたつもりだけど、ルナ様の人間嫌いを計算に入れてしまったせいで、人が居つくことになる想像はしてなかった。  ただでさえ女性らしく振舞わなくちゃいけないのに、人数が増えれば、単純計算でバレる要素が二倍になるってことだ。  もっと神経を尖らせなくちゃいけない。仕草、行動、言葉遣いに。 「と、まあ、朝日を脅かしすぎた。八千代、遅刻の説教は後にして、朝日を一度部屋まで連れていってやれ。あの二人に、荷物を持ったまま仕事をさせる家だと思われては困る」 「あ、はい。では小倉さん、こちらへ」 「はい」 「よし行くぞ」 「…………」 「なんだ」  どうして僕の部屋を見に行くのに、主のルナ様が付いてくるんだろう。 「朝日が私から部屋を与えられて、どんな感謝の言葉を口にするのか聞きたい」 「小倉さん、貴女は期待されています。歩いている間に、お嬢様を喜ばせるリアクションを考えてください」 「畏まりました」  ルナ様を喜ばせる方法か。自信ないなあ。 「ここが小倉さんの部屋です」 「私めごときに、このような素晴らしい部屋を宛てがってくださり、ありがとうございまあーす! 神様ルナ様仏様でございまーす!」  僕はルナ様の足元に額を擦りつけながら彼女を拝んだ。 「とても気分がいい」  ルナ様はご満悦だった。髪をふさりと掻きあげる様は、あたかも世界の女王様だ。 「朝日はこの屋敷での過ごし方がわかってきたじゃないか。それが正しい、私に媚びて損することは一つもない。このメイド、愛い奴。ははは」  ルナ様にぽんと肩を撫でられた。  距離が近づくと、ルナ様の小ささがよくわかるなあ。口にしたら怒られそうで言えないけど。 「朝日。もう少し虐めていいか?」 「…………」 「はい? あの、いまの日本語がよくわかりませんでした。聞き間違えたかもしれませんので、申し訳ありません、もう一度お願いします」 「虐めていいかと聞いている。酷いことをさせてくれ」  ええー。酷いことさせろと頼まれて、いいですよっていう人いるんですかー。しかも満面の笑顔でー。  それとも、僕が日本語の捉え方を間違えてるのかなあ。 「申し訳ありません、私はMではありません」 「朝日の困っている顔を見ていたら、普段はローギアな私のテンションがぐいぐいアガってきたんだ。創作意欲が湧いたというか、やらなくてはいけないことをまとめて片付けたい気分になってきた」 「え……あの、今のはネタではなく……私は真面目にお願いされているんですか」 「そのつもりだが。ん? 私はいま、ネタだと受けとられるようなことを言ったか?」 「虐めるとは、具体的に何をされるんですか。あの、ルナ様のお役に立てるなら、痛いことや恥ずかしいことでなければ構いません、けど」 「恥ずかしくない虐めなんてあるか」  笑われた。でも恥ずかしいことしていいですよ、なんて言う人いないよ。 「そうだな、今から裸体のデッサンをしたい。朝日にモデルを務めてもらうか」 「駄目ですうううぅ――!!」  それだけは駄目! 他のことならともかく、ヌードになったら男だって一発バレする! 「いい反応だな。安心しろ、ヌードモデルなんて実際にやらせるつもりはちょっぴりしかない」 「あるんじゃないですか」 「朝日のリアクションは微笑ましくて良いな。うん、デザイン画を描きたくてうずうずしてきた。いま頭の中に浮かんだものを、輪郭だけでも形にしてしまいたい。私は自分の部屋へ戻る」 「あ、はい……あとでお茶をお持ちいたします」 「ニルギリで。ストレートな」  行っちゃった……あの口ぶりだと、ヌードモデルは冗談だったのかな。  でも、いつかやらされる可能性あるのかな……それだけは断固拒否しないと。 「お嬢様……ノっていらっしゃいましたね」 「え?」 「楽しそうだったなと思いまして。しかし今日はお嬢様のおイタが過ぎていたため、小倉さんが初日から参ってしまわないか心配です」 「そんな! 遅刻してきたのに自分から根をあげるなんて。学校にも通わせてもらえるのに、ヤワなことを言ってられません」 「ご苦労様です。それにしても今日のお嬢様の楽しまれ方は過剰でした」 「楽しんでいただいていたんですか」 「はい。途中で止めようかとも思いましたが、小倉さんの表情が困ってはいても嫌そうではなかったので、お嬢様の創作意欲が湧けばと思い、つい放置してしまいました。申し訳ありません」 「クリエイターと呼ばれる職種に携わる方々の、モチベーションの高め方は人それぞれだと思いますが、お嬢様の場合はSっ気が出ると想像力が増すようで」 「それは……お屋敷勤めをする皆様が困りそうですね」 「そうでもないんです。お嬢様はキホン一見さんお断りの方ですから、そもそも気に入った相手じゃないとSっ気をお見せにならないんです。被害者は現在若干名のみです」 「私と、八千代さんですか?」 「私にはあまりSっ気は見せてくださいませんね。性格的に、あまりそそられないのでしょう」  僕はルナ様の荒ぶる何かをそそらせる性格だということでしょうか。 「これから親しみが増えていくにつれ、要求の過激さの度合いも増していくと思いますが、耐えられなくなる前に私のところへ相談に来てください」 「ヌ、ヌードモデル以外なら、大抵のことは我慢できると思います」  その犠牲のせめてもの代償として、ルナ様のデザインを見せてもらおう。才能あるとりそなが認めているんだから、きっと得るものが大きいはずだ。 「さて、それではお客様が来るまで、残り一時間です。その間に支度を整えたいので、まずは使用人の服に着替えて下さい」 「はい」 「小倉さんが着替えている間に、私はもう一度客室のチェックをしておきます。準備ができたら一階のエントランスで待っていてください」 「はい。可及的速やかに支度を済ませておきます」  ふぅー……。  はあ、疲れた。八千代さんの前では大丈夫だと強がってみせたけど、家を出てから色々なことがありすぎた。  スナップ撮影の人に声を掛けられて、犬にスカートをめくられて。新しく暮らす家へやってきて、それなりに緊張だってしてる。本当ならベッドへ寝転がって五分だけでも休みたい。  でも今は使用人の立場なんだ。初日が肝心だし、五分休むどころか、五分で支度を済ませて八千代さんの元へ行かなくちゃ。  よし、やろう! まずはこのメイド服に着替えて……!  メイド服……。  これ、着るんだ……いや、下着を身につけた時点で大抵のことは諦めたけど……メイド服……。  どうせなら大衆的なメイド服じゃなくて、クラシカルな衣装が良かったな。英国調でリアル路線の女中みたいな……あ、でもこの衣装、縫製はすごく綺麗。イタリア製……へえ?  あっ。もしかして、ルナ様がデザインした衣装なのかな? よく見れば装飾は過多じゃないし、とてもかわいらしく見えてきた。  そう考えると嬉しいな、すぐにでも着替えたくなった。鏡、鏡っと。ぱっぱと脱いで着替えちゃおう……。  あれ、チャイムの音? ていうかこれって……。 「小倉さん、お客様が予定より早くお見えになりました! 急いで着替えて!」 「わああああ――っ!」  むっ、むむむ胸っ! 見らっ、見られたっ!? それと、下っ……! 「まだ靴下も穿いていないんですか!? それと何ですか今の声は! 品がありませんよ!」  あ、ああ……大丈夫だった……良かった。咄嗟に隠したから見つからずに済んだみたいだ……邪魔だからと言って、ブラを外さなくて良かった……。 「速やかに支度をすると言っていたでしょう? 今まで何をやっていたんですか!」 「ご、ごめんなさいっ! この衣装が素敵だなと思って、見とれてました!」 「ま、まあ……まだ新しい衣装に着替え慣れていないのだから仕方ありませんね。私が対応しておきますから、急いで玄関まで下りてきてください」  この服デザインしたの八千代さんだ! 「それとこれは屋敷内の地図です。小倉さんが案内することになりますから、必ず頭の中へ叩きこんでくるように。間違えることは許しません」  そんなあ……屋敷に着いてまだ一時間も経ってないのに。すぐ覚えるなんて無茶だよ。  着替えは終わったけど、急いだつもりが慣れない女性用の衣服に戸惑い、思っていたよりも遅くなった。  八千代さんが挨拶を長引かせて、お客様を家の中へ迎えいれるまで繋いでくれているみたいだ……ごめんなさい。すぐに行きます。 「ええ、本当にお嬢様は相変わらずで……」 「あ、小倉さん。故障していた客室の照明は直りましたか?」  うう、八千代さん優しい。着替えが遅れた僕のミスなのに、お客様の前では住宅設備の不備という形にしてくれてる。八千代さん自身の失態だと受けとられるかもしれないのに。  よし、期待に応えられるよう、お客様の接待はきちんとこなしてみせよう! 「ようこそルナ様のお屋敷へいらっしゃいました。皆様が学校へ通われる三年の間、身の回りのお世話をいたします、小倉朝日と申します」 「あら?」 「美」 「まあ」 「ほう」 「えっ……」  目の前にある四つの顔はどれも一様に驚いていた。だけど僕だって人のことは言えない。きっといま、目の前の四人と同じ表情をしているはずだ。 「朝日さん?」 「朝日さん!」 「ユルシュールさん! それと、瑞穂さん!?」 「小倉さん! ルナお嬢様のお客様に向かって『さん』付けでは、敬意が足りません!」 「あっ」 「し、失礼いたしました。ユルシュール様、瑞穂様」 「そんな! 余所余所しい呼び方はやめてください!」 「えっ……わっ!?」  瑞穂様、意外と動きが速い!  高速で駆けよってきたと気付いた時には、もう両手を握られていた。 「今日の内に、再び朝日さんと会えるなんて思っていませんでした。これは運命というものですね」 「私と朝日さんは、きっと友人となるべくして出会ったのだと思います。嬉しい。だから、様付けなんていりません。瑞穂と呼び捨てでもいいんです」 「瑞穂様、この者は当家の使用人です。ルナお嬢様の体面にも関わりますので、どうかご容赦ください」 「八千代さん。ですが朝日さんは、私が友人として決めた方です。対等の立場で接したい」 「お嬢様。小倉さんを対等に扱うということは、桜小路家、そしてルナ様の顔を潰すことになります。そうなれば小倉さんは桜小路家を解雇されるかもしれず、結果として迷惑を掛けることになります」 「友人と仰られるのでしたら、小倉さんの事情を察してあげることこそが、正しい友情と呼べるのではないでしょうか」 「…………」  僕の手を握っていた瑞穂様の手が、はらりと解けていった。北斗さんの言葉に納得はしたみたいだけど、明らかに不満そうだ。おっとりしていてもそこはお嬢様育ち。感情が表に出やすい。  そして瑞穂様は、手を離したから距離も離れると思ったら、逆に僕の耳元まで唇を近づけてきた。 「えっ」 「皆があのように言うので、周りに人がいる時は遠慮します。ですが、私と朝日さんはお友達ですよね?」 「必ず、お電話くださいね。二人きりの時は『瑞穂』で構いませんから」  僕にだけ聞こえる程度の音量で内緒話をすると、瑞穂様は今度こそ離れていった。 「あら瑞穂、知りあいでしたの? 偶然ですわね、私も彼女とは知りあいですの」 「ユーシュも? もしかして朝日さんは、どこか名門のお家の出なのですか?」 「いえ、そのようなことはございません、ただの一使用人です。ユルシュール様とは、私が困っていたところを助けていただいた縁と言いますか、その」 「私の飼い犬が、朝日さんに迷惑を掛けてしまいましたの。うちのモトカレがどのようなことをしたのかは、私も同じ目に遭っているから、恥ずかしくて言えませんわ」 「朝日さんとユーシェが恥ずかしい目に……?」 「ええ。ですから助けたというよりも、飼い主として当然のことをしたまでですわ。彼女には申し訳ないことをしてしまいましたの――と思っていたのですけど!」  えっ、どうして僕を睨むんですか。 「まさかルナの使用人だとは思いませんでしたわ! それならもっと、雑に扱ってしまっても良かったのに!」 「敬称を付ける必要もありませんわね! 貴女など呼び捨てで充分ですわ。朝日! この朝日!」 「わあ、呼び捨て素敵。私も朝日と敬称を付けずに呼び合う関係になりたい」 「朝日ですわ! 貴女などただの朝日ですわ!」  ユルシュール様の態度が一変した。あの天使のような微笑を浮かべていた彼女が、まるで金色の夜叉みたいだ。君は貫一、僕はお宮。 「ややや八千代さん? これは一体?」 「ユルシュール様が私たちと接する場合の標準的な態度です。お嬢様も事前に仰っていたでしょう?」  はっ! そういえば、ルナ様がエキセントリックな方だと言っていたような! いや「エキセントリック」の部分は、僕が勝手にそう解釈しただけなんだけど! 「ルナの使用人だと知っていれば、モトカレにスカートをめくらせたまま、私のように転ばせてしまえば良かったですわ! 下着が丸出しになる格好で!」 「ユーシュ? せっかく伏せていた『恥ずかしい目』の内容を自分で明かしてしまいましたよ?」 「なんですった!?」 「お嬢様、今の日本語はノンです。母音は『a』ではなく『e』です」 「ねんですって!?」 「お嬢様、母音を直す位置がノンよ。余計におかしくなったじゃない。頭大丈夫ですか」 「オーッホッホッホ! 私が選ばれし者であることは当然ですわ!」 「お嬢様、私が言った日本語の意味を高確率で間違えまくりよ。私は『あなた変ですよ』と言ったのであって、お嬢様を誉めたわけじゃないのよ?」 「ねんですって、私は誉められたいのですわ! 今すぐ私の日本語を誉めませんか?」  ユルシュール様は心根がとても良い人に思えるけど、その日本語のせいで、色々とかわいそうな位置にいる人だとわかった。 「ハハハハ! アーッハハハハハ!」 「はっ! このお声は!?」 「ユーシェ、私に対して丁寧語を使う必要はない。相変わらず日本語が不自由で何より。瑞穂も、ようこそ私の屋敷へ」 「ルナ!」 「ルナ!」 「お嬢様……皆様を客間へお通しして、それからご挨拶ができればと考えていたのですが」 「ユーシェと瑞穂だろう? そんなに堅苦しい挨拶はいらない。もっと私たちの間柄は気安くていいんだ」 「それよりも、せっかくデザイン画を描くため集中していたのに、面白すぎるユーシェの声が聞こえたから出てきてしまった。私も混ぜて欲しい」 「あら、ルナが集中していたところを邪魔できたんですの? それは崖の功名ですわ」 「怪我、な。怪我の功名だ」 「毛が? 毛がなんですの? ルナが毛の処理でも怠ってボーボーですの? はしたない女ですわね。まるで日本の白ウサギですわ、オホホホ」 「ああん? 誰がジャパニーズホワイトだ。私が白ウサギなら君は黄猿だ。髪も肌も私より黄色だからな。金毛の、黄色い肌の、猿だ」 「黄猿っ!? ヰヰヰヰヰエローマンキーということですの? 祖国では我が国花のように白いと言われた肌を持つ私に向かって黄猿!?」 「私よりも肌が白いとはいえ許せませんわ! サーシャ、今すぐ絵の具を用意しなさい。ルナの肌をキャンバス代わりにして、悍ましいエイリアンの皮表のようなボディペイントを施してやりますわ!」  あ……ルナ様の肌をネタにして言い争うのは、できればやめて欲しい。  あれ? でもルナ様は笑ってる? 「二人はいつも楽しそうですね。たまには私も混ぜてください」 「いいのか、わかった、言うぞ。瑞穂なんか奇族だ。奇異な貴族と書いて奇族だ」 「では私も。瑞穂の蛮族。欧州以外の地域に住む者たちなんてみんな蛮族。オホホホ」 「朝日さん……ぐすっ、私、悪口を言われてしまいました。そうだルナ。私、こちらの朝日さんと仲良くしたいと思っていて。今日は彼女をお借りして、二人で一緒に寝ても良い?」 「ん? なんだ、朝日と仲良くなったのか? 瑞穂がここへ着いてから、それほど時間は経ってないはずだが何があった?」 「それは……ユルシュール様の件も含めて説明いたします」  ルナ様と二人のお嬢様は、挨拶もそこそこに、ただの使用人の僕を中心に話を始めた。その間にサーシャさんと北斗さんは、八千代さんに案内されて、それぞれの主人の荷物を彼女たちの部屋へ運んでいった。 「なるほど、うちの使用人は瑞穂に助けられ、ユーシェは汚してやったのか。よくやった、誉めてやる」 「どこで話が食い違いましたの。違いますわ、私も彼女を助けたのですわ」  明るい表情のルナ様は、苦々しい顔のユルシュール様をにやにやと見つめながら僕を誉めた。二人は隣りあって座っているから、仲が悪いわけじゃないみたいだけど。  ところで僕の隣に座る瑞穂様は、肩がくっつきそうなほど近い位置に座っているのですが、これは何故でしょう。 「まあ朝日を助けた後は、文字通り飼い犬に手を……いえ、スカートを噛まれた状態になったのですわ」 「飼い犬……ほう、モトカレも日本に連れてきたのか。久しぶりに会いたいな。あの子は小さい頃から知っているし、とても愛着があるんだ。名付け親としては」  モトカレと名付けたのはルナ様でしたか。ユルシュール様が付けるには、おかしな名前だなと思ってはいました。 「オホホ、調べても辞書には載っていなかったのですが『モ・トカレ』の響きが気に入ったのですわ。ルナが付けてくれたと話したら、お父様やお母様も大変お喜びになっておられましたの」  ああ。とんでもない単語を旧伯爵家の一族に使わせてしまってごめんなさい。主人に代わってお詫びいたします。心の中で。 「『モトカレ』という言葉は私も知らなかった。ルナは物知りだから」 「他ならぬユーシェのためだからな、良い名前を考えてやるのも友人の努めだ。『モトカレ』は日本の女性がとても執着する良い単語だぞ。チワワの『ネトラレ』も元気か? 猫の『ボテバラ』にも会いたいな」 「さすがに何匹も連れてきては迷惑かと思って『モトカレ』以外は実家へ残してきましたの。『ネトラレ』は元気がありすぎて悪戯に困っているくらいですわ。『ボテバラ』は先月、子どもを産んで親になりましたの」 「そうか、子どもが産まれたのか。では新しい名前を考えてあげなくてはな」  あああ。あああああ。ごめんなさいユルシュール様、真実を告げる勇気のない僕を許してください。というよりもルナ様、それはもう嫌がらせを通りこして、訴えられたら負けるレベルではないでしょうか! 「オホホホ、ルナは意地悪ですけど、日本語については本当に頼りになりますわね」 「友人だからな。当然のことだ」 「いま私がこうして不自由なく日本語を使えているのも、半分はルナが教えてくれたからですものね、オーッホッホッホ!」 「いや、私が教えたことなんて僅かなものだ。いまの言葉遣いは、全てユーシェ本人の努力の賜物だ。『ですわ』も『オホホ』もよく身に付けたな」  身に付ける!? え、じゃあ言葉尻に「ですわ」「ですの」と付けたり「オホホ」って笑い声は、ルナ様が教えたんですか!  どうりで個性的な笑い声だとは思ってました……意識して「オホホ」と言っていたんですね、ユルシュール様。これは本当のことを教えてあげるべきだろうか……。 「朝日。何を考えているのかはわかるが、それを口にしたら君が『ボテバラ』になるぞククク」  男なのでそうはなりません! でも言ってることは超怖いです! 「さてそれでは次の名前をどうしようか……ここはやはり最近流行りの『イシュカン』でいくか」 「あら、とても良い響きですわ。『イッシュ・カン』だなんて、随分と洒落ていますわね。さすがはルナ――」 「そおゆえばわたくし、皆様にお尋ねしたいことがありまして!」  このままでは生まれてきた子猫が不憫すぎるから、思わず話を遮った。ええと話題、何か話題を探さないと……。 「欧州からお見えになられたと聞いておりますが、ユルシュール様のご実家はどちらなのですか?」 「モンゴルだ。三匹の羊と共に暮らす遊牧民で、ゲルと呼ばれる移動式家屋の中で暮らしている。彼女の特技はモンゴル相撲、必殺技はモンゴリアンクロスチョップだ」 「スイスですわ! 国旗は歴史ある白十字、国花は純潔を表すエーデルワイス。その伝統ある国の中でも、一際世界に名立たる国際都市、ジュネーヴで生まれ育ちましたの」 「フランス語圏のお生まれなのですね。ジュネーヴには憧れます。私も一度は訪れてみたいと思っています。歴史ある芸術の都、素敵ですよね」 「あら、中々にものをわかっているメイドですわね。故郷を誉められて悪い気はしませんわ」 「ですがルナの味方なのでしょう? 騙されませんわよ!」  騙したりはいたしませんと言いたいけど、ルナ様がペットにヘンな名前を付けたりしてるみたいだからなあ。厳密には騙してるわけじゃないけど、黙っているだけで心が痛むのはどうしてだろう。 「私は京都の生まれです。花之宮家は八百年の歴史を持つ家で、私はその分家筋になります。桜小路家と我が家は旧華族の縁で繋がっていて、ルナとは幼い頃に紹介されて以来の仲なんです」 「瑞穂はすごいぞ。家柄も良いし才能もある。実績という意味では私たちの中で一番だ。昨年『きもの創造コンクール・ジュニアの部』で文部科学大臣賞を受賞してる」 「えっ!? 文部科学大臣賞って実質的な最優秀賞じゃないですか。同世代の中で一番評価されたということですよね、凄いです」  着物のデザインはノーチェックだった。服のデザインという括りなら同ジャンルだけど、その世界も学ぶ内容もまるで違うから。 「朝日さんに誉められると嬉しい」  手を握られた。それはもうしっかりと。 「受賞できたことがより喜ばしく感じられます。ありがとう、朝日さん」  僕も嬉しいですけど、どうして彼女にこれほど気に入られてるんだろう。心当たりがないなあ。 「朝日。友人だと言われて戸惑っているみたいだが、いま瑞穂は友情に餓えている時期なんだ」  あ、こっちに心当たりがなくても、瑞穂様には僕を選んだ理由があるんだ。 「公私のけじめはつけてもらわないと困るが、仲良くしてあげて欲しい」 「あ、はい。そのように接していただけるなら光栄です。助けていただいた恩返しもしたいですし」 「しかし、男性嫌いの瑞穂が、よくもまあナンパを止めに入ることなんてできたな」  ナンパではなかったと思うけど、それを説明するのも面倒だし、カフェに連れていかれそうになったのは事実だから訂正はしないでおこう。 「本当、とても怖かった。でも、男性は朝日さんみたいなかわいくて清純な女の子を見たら、すぐに声を掛けるから。守ってあげたいと思って」 「どうして瑞穂様は男性がお嫌いなのですか?」 「嫌いというよりも苦手なんです。男性はすぐに嘘をついて、二人きりになろうとしたり、悪戯をしてきたりするでしょう?」  そ、そうなのかな? あまり一概にそうは言えない気もするけど。瑞穂様の言う「男性」は、まるで小学生の男子を指しているみたいだ。 「そうですか……ただ、その割に北斗さんは意図的に男性らしくしているように見えます。瑞穂様の苦手な性別のように振る舞う理由は何ですか? それとも心は男性だったり……?」  だとすれば格好は女性で体と心は男の僕と近い立場だ。親近感が湧くかもしれない。 「私は女です。瑞穂様の男性嫌いを直すために、少しでも男性に慣れていただこうと」 「あ、そんな理由があったんですね。申し訳ありません、失礼なことを口にしました」  うーん、残念。そうそう近い立場の人なんていないか。 「いいえ、意図的に男性の格好をしているのですから。男性と見ていただかなければこちらが困ります」  北斗さんは優しかった。中性的な外見も相まって、このひとは女性にモテそうだ。 「私は男性に慣れるつもりもないから、女性の格好で良いと言っているのですけど……」 「こればかりは旦那様のご命令なので。ご容赦ください」  穏やかな表情をしていた瑞穂様は、男性関連の話題の最中だけ、表情が僅かに沈んでいた。かなり苦手に思ってるのかな……。 「もう。男性のことなど考えたくありません。私は朝日さんみたいな可愛らしい女性と話している方が楽しいの。ルナ? この方は清楚で素直で純真で、私の一番好きなタイプの女性だけど、どこで知りあったの?」 「知人の紹介だ。一日くらいなら貸してもいい」 「ええっ!?」 「え、本当? それなら今日は一緒に寝ても良い? 朝日さんと沢山の話がしたい」 「あ……申し訳ありません。昼間に申しあげた通り、私はこの屋敷へ着いたばかりで、仕事も満足に覚えていません。明日の朝も早起きしなくてはなりませんので、夜更かしはご容赦ください」 「そうですか……仕方ありませんね。またの機会にしましょう。楽しみにしています」  残念そうに諦めつつ、瑞穂様はとうとう僕の腕を抱いて、ぴったりとくっついてきた。なんだかとても懐かれてしまったけど、これは絶対に正体がバレるわけにはいかなくなった、なあ……。 「さて、そろそろ私はアトリエへ戻る。話の流れではあったが、新人の紹介もできたしな。これから三年間、この朝日が私付きのメイドとして同じ学校へ通う。よろしく頼む」 「えっ。もしかしてこの挨拶の場は、私の紹介も兼ねていたのですか」 「当然だろう。というよりも何も考えてなかったのか。私と同じ教室へ通う以上、この二人は学校でも共に過ごすんだ。君にとっての同級生でもあるんだぞ」 「ユーシェも瑞穂も、地元では天才と呼ばれている類の人種だ。朝日も高い目標を持って勉強をしたいのなら、共に高め合うにしても競争するとしても、素晴らしいパートナーとして見なした方がいい」 「それと八千代が言っていた、グループを作っての衣装制作。その時は少なからず朝日の手も借りることになる。チームワークを発揮するには、お互いのことをよく知っておく必要があるだろう?」 「敬意を払って接するように。それと、普段は仲良くしても構わないが、デザインを競うことになった場合は慣れあうなよ」 「あ……は、はい!」  体を固くしたことが伝わったのか、僕の腕を抱く瑞穂様の力が柔らかくなった。その表情もふんわりとした笑顔で僕を見つめている。  そう、性格も表情も優しい人だ。でもルナ様に言われた後で改めて見ると、瑞穂様の体から「もってる」人のオーラが見えはじめた。  僕に懐いてくれてるこの女性は、デザインに関しての実績を持ってる人なんだ。それとユルシュール様も、プライドの高そうなルナ様が、腕は確かだと認めてる人だ。  そう思うと、凡人の僕がこの中へ混ざってることに恐縮してきた。ルナ様のデザインはまだ見せてもらってないけど、やはり天才と呼ばれる類の人なのかな。 「ご期待に添えるよう、精一杯の努力をいたします。よろしくお願いします」 「オーッホッホッホ! 緊張しなくてもよろしくてよ。まあそうして私の才能に畏まられると、それなりに気分は良いですけど……それにルナが、私のことを天才ですって。大変気分が良いですわ」 「『デザインの部分では』な。ユーシェが私にはない発想を生みだして、どんな驚かせ方を見せてくれるのかと思うと今から楽しみだ」 「ああ早く授業が始まらないかな。いますぐにでもデザイン画を描きたくなってきた」 「すまない、私は自分のアトリエに移動する。朝日、二人の案内は任せた。ユーシェに瑞穂、三年間よろしく頼む」  ルナ様は一度火が点くと我慢が効かないみたいだ。すぐに部屋から出ていってしまった。 「…………」 「あ、それではお二人の部屋へご案内いたします」  そして僕は二人を連れて部屋を出た。それといま思い出したけど、屋敷の間取りはさっき覚えたばかりだった。間違えないか緊張してきた……。  この通路を左に曲がって……階段からすぐの……。  僕は歩きながら、頭の中でユルシュール様の部屋の位置を何度も確認していた。とてもお客様を会話で楽しませるなんて余裕はなかった。  八千代さんなら軽快なトークをしつつ、屋敷内の案内もするんだろうけど……ごめんなさい。駄目なメイドでごめんなさい。 「そういえば」 「曲がってすぐ……曲がってすぐ……」 「朝日? 聞いていますの?」 「はいっ!」  いま、頭の中から屋敷内の間取りが飛びかけた……ごめんなさい、駄目なメイドでごめんなさい。 「名前は紹介していただきましたが、朝日について、それ以外は何も教えていただいていませんわ」 「朝日はなぜ桜小路家へ仕えることにしたんですの? こう言ってはなんですが、ルナが仕えにくい人だということは、彼女が一言目を発した時点でわかることでしょう?」 「そんなことはありません。ルナ様には、お世話をさせてくださいと私からお願いしました」 「では桜小路家を選んだ理由は? 求人誌で募集をしていたわけではないですわよね。知人からの紹介であれば、ルナが何度も面接に来た者を断っているという話は聞いているはずですわ」 「それなりの理由がなければ、もっと安定した職場を求めますわよね? 金銭? それとも誰かに頼まれたんですの?」 「いえその……服飾学校で勉強できることが、大きな理由の一つです」 「なるほど。ルナのメイドとしてなら、試験なしで入学できますわね。では服飾に関しては素人なんですの?」 「いえ、素人ではありません。ドレスメーキングの基礎は数年間でひと通り学びました。皆様の足は引っ張らないようにいたします」 「それなら一般受験をすれば良かったのではありませんの? 見たところ、私たちと同じか、それに近い歳ですわよね?」  どうしよう。女性しか入学できないから変装して、なんて言えない。しかも僕がお兄様に嫌われてることまで言及しなくちゃいけなくなるし。  困った。咄嗟に良い言い訳が思いつかない。 「ええと、ルナ様のセンス……と言いますか、デザインに憧れてと言いますか」 「やはりそれが本当の理由なのですわね!」 「は」  良い言い訳が見つからず、なんとか口から出した僕の回答だったけど、それを聞いたユルシュール様は満足気だった。 「どこで手に入れたのかは知りませんが、ルナのデザイン画を見れば、この道を目指す者ならば共に学びたいと思うのも納得ですわ」  ごめんなさい、ルナ様のデザイン画はまだ見せていただいていません。  なんだか嘘をついたみたいで心が引けるけど、ユルシュール様は納得してるし、性別のことは明かせないし、今はこれで通させてもらおう。ごめんなさい! 「今まで、彼女に正式なデザインの授業を受けさせなかったことに、この国の服飾業界は何をしていたのかと疑問を覚えたほどですわ。よほど目がふしだらなのですわね」 「ユーシェ、役に立たない目は節穴」  ルナ様もデザイン力があるんだ……もしかして僕が気付いていないだけで、彼女と席を並べて学べるということは、とてつもない幸運を掴んでいたのかもしれない。 「ユーシェはヨーロッパの有名な服飾学校へ進学することもできたんです。それなのに、ルナがいるというだけで、この遥か遠い日本へ留学して来たんですよ」 「日本へ来た理由の一つがルナであることは否定しませんわ。ま、あの強い鼻っ柱をへし折ってヘコませてやりたいというのが主な理由ですけど。私のセンスを高めるための競争相手として上等なのですわ」 「そして最後に華々しく散るライバルとしても、ルナ以上の適役はいませんわ! 私のデザインを見て、とても敵わないと泣き声で跪くルナの姿が今から楽しみ――」 「DEATHわっ!?」  僕たち三人の時間が止まった。謎の発砲音と共に、高速の物体がユルシュール様の袖をかすめていったからだ。 「随分と大きな声だったな。下の階にまで聞こえてきたぞ? 日本へ来て楽しんでくれているようで何より」  ルナ様だった。喋りながら次の銃弾の準備をしている。 「まあ初日から飛ばしすぎないよう、ゴム弾でも食らって一度落ちつけ。ちなみにこの弾が当たると、とても痛い」 「嫌ですわっ!」  えっ、まさかユルシュール様を撃とうとしてる? ありえないとは思うけど、万が一のために彼女の前へ立ち、その体を庇っておいた。 「ルナ様、いくらなんでもそれは冗談ですよねっ? ただ、少しでも的が外れて本当に当たったりすると危ないので、どうかおやめください」 「あ゛いたあっ!」 「朝日さーん!」 「でででですわ、ですですのですわ、ですわですわですわ……」 「ユーシェを後ろから押さえつけて、的を動かないようにするのかと思いきや……主人の私に注意し、あまつさえユーシェとの間に立って庇うだと?」 「なるほど、わかった、調教だ。もう一度尻を撃たれたくなければ、今すぐユーシェの足を押さえつけろ。ちなみに私は部屋の中で何度も射撃の練習をしたから、そうそう外しはしない。はい、装填完了ー」 「ユルシュール様……逃げて……くださ……」 「わわわ私の部屋は、先ほど朝日が呟いていた、曲がってすぐで良いのでしたわね? あとは一人でも大丈夫ですわ、ごきげんようっ!」 「ちっ、逃がしたか……まあいい、この決着は授業で返す。朝日、二度目の裏切りは許さないからな」  射撃なら僕も心得があるけど、まさか自分が撃たれるとは思わなかった……。  ただ「ゴム弾」って言ってたから脅えたけど、これはゴムじゃなくてスポンジの一種だ。音は派手だけどそれほど痛くない。 「あ、朝日さん、大丈夫? 立てますか? いま私の部屋で介抱してあげます。場所はどこですか?」 「ありがとうございます……瑞穂様の部屋は、この廊下の奥でございます」  さすがに寄りかかるわけにはいかないから、肩だけを貸してもらった。 「朝日さん、どうしたんですか? そんなところに立っていては辛いでしょう?」 「ええ、痛い……のですが、座るともっと痛そうなので」 「遠慮せずにベッドを使ってください。私たちは友達じゃありませんか」  確かにベッドの方が椅子よりも柔らかい分、座っても痛みは少ないだろうけど……。 「いえ、お客様のベッドを使用人が使うなど許されません。それも、まだ一度も使ったことのないものを……」 「では、これでいいですか?」  瑞穂様は縁へ腰掛けると、柔和に微笑んでくれた。  遠慮する僕のためにベッドへ腰掛けて「一度使った」ことにしてくれた。身体の心配もしてくれて、瑞穂様はなんて優しい人なんだ。  こんな人には、北斗さんじゃなくても一生尽くしたいと思っちゃうな。  って、演技だったはずなのに、心の中が使用人モードになってる。男に戻れば瑞穂様と対等に話せる立場なんだから、一生尽くしたいなんてよくない。 「いま氷を水に入れて持ってきますね。痣になってしまう前に冷やしましょう」 「そんな、お客様に氷嚢を用意させるなんて……え、冷やす? この場で? ですか?」 「はい。治療ですから恥ずかしがらずに。お尻に青痣ができては困るでしょう?」 「いい、いえ、それはさすがに! 瑞穂様の前でお尻を出すなんて!」 「あっ。もう、二人きりの時は呼び捨てにしてと言ったでしょう? 恥ずかしいのなら丁度良い機会です。今後は忘れないようにする意味も込めて、観念してお尻を出してください。さ、大人しくこちらへ」  ややややそれは駄目です無理です、お客様ということを抜きにしても、女性の前でお尻を出すなんて、恥ずかしくて申し訳なくて気持ち的に無理です。 「朝日さん?」 「ごっ」 「ごめんなさい、やっぱり恥ずかしいです! 自分の部屋で冷やしてこようと思います!」  主に恥ずかしさのあまり、火照ってしまった頭の方を! 「まあ」 「お気遣いいただきありがとうございました! どうぞゆっくりと旅の疲れを癒してください!」 「ありがとう。今日から三年間よろしくね、朝日さん」  微笑む瑞穂様に一礼して、部屋のドアを閉じた。ああ、まだ胸がドキドキする。  瑞穂様の優しさを無碍にして心が少し痛むけど、無理なものは無理なのでごめんなさい。きっとお互いの性別が明らかになれば、瑞穂様も僕にお尻を見せるのは無理だと思います。だから許してください。  はあ。よく考えたら、この屋敷内にいる男性は僕だけなんだ。もっと色々なことに気を配って生活しないといけない。  背後から狙撃されるなんて、どう気を配ればいいのかわからないけど。 「ああ、朝日。さっきはよくも裏切ってくれたな。それで、撃たれた尻は大丈夫か?」  ルナ様……僕をお叱りになられているのですか、それとも身体の心配をしていただけたのですか。 「肉体攻撃はやりすぎたと反省していたところだ、すまなかった。私が手当てしてやる。部屋まで来て尻を出せ」 「それはもういいです!」 「ん? 『もう』?」 「あ、いえその……もう痛みはありませんし、さっき確認をしたら痣になってはいませんでした」  スポンジに近いものだったから、スカートのクッションも相まって痣にはなってないはず。 「そうか、傷が残らないのなら良かった。安心した……ただ、瑞穂を案内してからそれほど時間が経ってないような気もするが、いつ確認したんだ?」 「それはあの、廊下の角でこっそりと」 「大胆だな?」  これ以上突っこまれると辻褄が合わなくなりそうだ。ルナ様が瑞穂様の名前を出してくれたし、そっち方向に話をシフトしよう。 「そういえば瑞穂様に身体の心配をしていただきました。お優しい方ですね」 「だろう? 私と友人関係を継続してるだけのことはある。広い心の持ち主だ」  ルナ様はご自分でご自分のことを性格に難アリと捉えて、しかもそれを受けいれてるみたいだ。卑屈になるよりはよほどいいと僕も思う。 「瑞穂はその優しさの中に、無用の気遣いがないからな。その裏表の無さが私は嬉しい。それは瑞穂だけでなくユーシェもだが……あの二人は私の数少ない友人だよ」 「はい……ただ、ユルシュール様の」 「ん? ユーシェがどうした。何か気に入らない点でもあったのか」 「とんでもありません、違います。ただ……ユルシュール様の、その」 「じれったいな、はっきり言え。悪口や陰口の類ではないなら言えるはずだ」 「はい。ルナ様の体に関わることで、捉え方によっては言われた側を傷付けかねない幾つかの言葉は……気になりました」 「ん? 私の体というと……」 「ああ、屋敷へ来た時のやり取りか……あれは私も言いかえしたし、肌について触れたのは私が先だったと記憶してる。恐らく君が思うほど、私は自分の健康状態を人につつかれても気にならないんだ」 「ですが、その」 「ま、そうか。私が気にしなくても、傍から聞いてる君の方が気になるのか。わかった、人前で自分の体をネタにするのは止めよう。ユーシェにも、当家の優しいメイドが私の心配をしていたと伝えておくよ」 「い、いえ。それは、出過ぎたことを言う使用人だと思われそうで」 「ユーシェが君を嫌うとでも? 彼女は正しいことを言われて人を嫌う奴じゃない。私の体を気遣う、心根の優しいメイドだと捉えるよ」 「実際、朝日が心配をしてくれて私も嬉しかった。いい奴だな君」  おでこをこつんと腕にぶつけられた。軽いじゃれ合いのつもりなんだろうけど、使用人相手に気さくな人だ。 「最初は家事さえできれば誰でもいいと思っていた。が、これは思わぬ拾い物をしたな。三年の間、授業中以外の時間でも学校生活をそこそこ愉快に過ごせそうだ。楽しみにしてる」 「はい。ありがとうございます。ご期待に添えるよう努力いたします」  ルナ様に期待された。ちょっと嬉しいかもしれない。  って喜んじゃ駄目だってば。心まで使用人になっちゃいけない。ああもうしっかりしないと! 「しかし私の知らない間に、ユーシェや瑞穂と仲良くなっていたみたいだし、朝日も学校が楽しみになってきたんじゃないか?」 「あ、それはもう。皆様と一緒に通える日が待ち遠しいです」  八千代さんが講師として忙しくなるから、学校が始まれば慣れるまでは大変な日々が続くだろう。でもサーシャさんや北斗さんと話して、皆さんいい人ばかりで安心した。  今の面子なら、人数的にも性格的にも対応できそうだ。よし、頑張ろう。 「あ、それと一週間後にもう一人……従者を入れて二人か。新しい住人が来るから、八千代に聞いて部屋の準備をしておいてくれ」 「ええー!」  もう一段階忙しくなるんですか。安心するにはまだ早かったんですね。  桜屋敷へ来てからの一週間は早かった。覚えることも多いし、慣れないことを手探りでこなしていく毎日は楽しいし、時間が経つのも早い。  早い一日を七回繰りかえしてたら、仕事がパターン化する時間帯も見えてきた。タイムスケジュールさえ体に染みこんでくれれば、毎日がとてもスムーズになりそう。  これなら気付けば一週間が過ぎていて、それも四回繰りかえせば一ヵ月、さらにそれを十二回で一年。イレギュラーさえなければ、案外淡々と日々を過ごせそうな気がしてきた。  そう思っていた頃にイレギュラーがやってきた。八千代さんは学院の業務が忙しくなり、僕に一々仕事を教えている余裕がなくなってきたからだ。  ようやく八千代さんとのコンビに慣れはじめてきたのに。こうなってくるともう腹を括るしかない。 「入学式を二週間後に控え、家を留守にしてしまいがちなことは心苦しい限りです。今日の会議も、夜遅くまで掛かるでしょう。私が家事を見る時間はないと思います」 「学校が始まってしまえば、より私が関われる時間は減ると思います。今の内に各担当部署のリーダー同士が、スムーズに連携をとれる体制を作りあげてください」 「はい。畏まりました」 「それと、我が屋敷でお預かりしているお客様方には、格別の気を配ること。特に小倉さん。くれぐれも失礼のないよう、皆様のお世話をお願いします。では、いってきます」 「畏まりました。気を付けて、いってらっしゃいませ」  八千代さんは、今日も講師陣の打ち合わせだ。  そうなると、全体の長がいなくなるのと同時に、ルナ様の御付きみたいな扱いの僕は直接の上司が居なくなることになる。この部署は今月の始めまでが八千代さん、今では僕の役目だ。  つまり上司もその上の管理職もいない僕は、誰にも指示の確認ができないし、責任も一人で負わなくちゃいけない。今まで言われたことだけをやってきたけど、これからは自分で仕事を探さないと。  重圧を肩に感じつつ、廊下の隅で人知れず固く拳を握った。  正直、ルナ様付きってことで、メイドの先輩方は僕に聞こえる場所で悪口を言ったりはしない。でも本音を言えば、ルナ様に気に入られ、他のお嬢様方と仲良くしてるぽっと出の僕に、いい感情は持ってないはずだ。  だから皆さんから気に入ってもらえるよう、積極的に会話へ参加して、その上で仕事面でも僕を認めてもらわないと。  よ、ようし頑張るぞ。女の子社会は気に入られるまでが大変だって聞いてるけど、笑顔と勇気を友達にして嫌われないように努力するぞ。  それじゃ早速お仕事ゴー。お嬢様が部屋から出てくるまでの僕は、いわば遊撃軍。手の足りない部署があれば、さりげなく加わって先輩と会話するぞ!  うー、久しぶりの水場仕事は疲れた。  いや水場仕事で疲れたんじゃなくて、水場が広すぎたんだ。トイレが二十畳程あったのは予想外だった。  しかもトイレ掃除は単独作業……うーん、先輩と仲良くするという最初の目的からは少しズレてしまったような。 「小倉さん」  あ、ちょうど手が空いた時に声を掛けてもらえた。ようし頑張るぞ。 「鍋島さん。はい、なんでしょう。ちょうどいま手は空いております」 「ん? ああそう? それじゃ丁度良かった、ちょっと庭の方まで来て」 「はい。何でもやります」 「助かるわ。お庭でお嬢様のお客様のお二人がお茶会してるのよ」 「ほら皆様変わってらっしゃる……ううん、個性的な方だから、話し慣れてる小倉さんが傍に付いていた方がいいと思って。ほら、家事は単純作業で済むけど、お嬢様方のお側に控えるのは気を使うじゃない?」 「あ、あそこよ。お茶とかお菓子を希望されたら私たちに言ってくれればいいから。それじゃ頑張って。よろしくね」  先輩と会話がしたかったのに、僕は単独の仕事を申しつけられた。  僕からすればお嬢様方とお話するのは楽しいんだけどな。でも困ってるみたいだったし、先輩から仕事を与えてもらえるなら喜んで引きうけよう。 「ユルシュール様、瑞穂様。ご歓談中に失礼いたします。これより先は私がお世話させていただきますので、必要なものがございましたら、なんなりとご用命ください」 「朝日さん!」  わっ。み、瑞穂様は相変わらず僕のことを気に入ってくれてるなあ。  全方位型で優しい方だから、屋敷内でのメイドの評判はとても良い。ただ僕は、自分がどうしてここまで気に入ってもらえてるか分からず、けっこう戸惑ってたりする。 「必要なものは朝日さんです。さ、隣へ座って下さい」 「申し訳ありません、無理です。そんなところを他の使用人に見られたら、後で私が怒られます」 「この屋敷内では、お嬢様が小倉さんを格別気に入られていることは周知の事実と化していますから、それほど問題はないように思えますが」 「い、いえ、北斗さんも立っているのに、私だけユルシュール様や瑞穂様に混じって座るなんてできません」 「そうですわよ瑞穂。ルナのメイドなど空気玉座でもさせておけば良いですわ」  玉座……。 「あの、ユルシュール様。何故ルナ様のことをそれほど嫌いな振りをなさるのでしょうか。日頃のお二人の会話を聞いていると、仲が良いように思えますが」 「仲良くなどありませんわ」  カップを叩きつけた際に飛び散った紅茶を、サーシャさんがハンカチで拭いていた。だけど拭いている途中で水滴に映った自分の顔に気づき、頬を赤らめて見とれていた。 「デザインの実力は、ええ、認めていますとも。ですが、ルナから、私がどれだけからかわれてきたとお思いですの?」 「はい……私の主人がご迷惑をお掛けして、申し訳ありません……」 「あ、あら、随分と素直ですのね。そこまで深刻な表情で謝らなくともよろしくてよ」  いえ、深刻にもなります。事実が発覚する前に「モトカレ」たちの名前だけは、変えてもらわないといけない。 「ルナがひねくれ始めた頃に、美味しいからと言って食べさせられた倦怠期の生臭さは今でも忘れませんわ」 「明太子ですか?」  確かに倦怠期も生臭い場合がありますけども。  スイス人に予備知識なしで明太子を食べさせたり……ルナ様酷い。 「この手の嫌がらせを挙げればキリがありませんわ。日本で買い物をした後は『ごちそうさまでした』と大声で言うものだと聞かされて恥をかいたり、新幹線に乗る時は靴を脱ぐものと言われて裸足で乗車させられたり」 「申し訳ありません」 「特に許せないのは、初対面の男性への挨拶は『二万でどう?』と教えられたことですわ」 「うわあああ申し訳ありませーん! そこまでくると縁を切ってもおかしくないレベルだと思いますが、それでも友人関係は続けられたのですね。しかもホームステイまで」 「だから言いましたわよね? デザインの実力だけは認めているのですわ」 「ルナを悔しがらせるには、彼女が一番熱を上げている、服飾のデザインで上をいくしかないのですわ」 「とは言っても、デザインは優劣が付けにくいもの……ですからルナが応募するコンクールに作品を送り、私があの子より上位に入賞することで、ぎょふんを振りかけてあげるつもりですわ。オーッホッホッホ!」  大変だ、魚粉なんてかけられたらルナ様が香ばしくなってしまう。  いや違うか。きっと「ぎゃふん」と言いたかったんですね。また微妙に分かりづらい日本語の間違え方をして……ここぞという大切な場面で、この手の間違いをしなければいいなあ。 「それと昔のルナを知っていれば、どんな嫌がらせをされても、あの子を心から嫌いにはなれませんわ」 「えっ」 「そういえば、ルナにはお茶会を断られてしまいましたが、そろそろデザイン画は描き終わった頃でしょうか」 「あ、ルナ様はデザイン画を描いている最中でしたか」 「こんな昼間から努力をしなくてはならないなんて、才能の無い人は大変ですわね」 「朝日さん。一度、ルナの様子を確かめてきていただけませんか? 一度断られていますし、アトリエにいたら誘わなくても構いませんから」 「はい、畏まりました。一段落ついているようでしたら、お誘いしてみます」  先輩メイドの百武さんに代わりを頼んで、ルナ様の部屋へ向かうことにした。  それにしても、デザイン画を優先して他のお嬢様方のお誘いを断るなんて……ルナ様らしいけど、協調性を大切にしたいって言ってたから心配だなあ。 「失礼いたします」  あれ? いない?  もしかしてデザイン画を描き終えて、お二人の所へ向かったのかな。  いや、ここまでの道で入れ違いになることなんてそうそうないと思う……ということは別の場所? デザイン画を描いてるわけだから、瑞穂様も言っていた……。  アトリエだ。  それに気付いた時、僅かながら胸にときめくものを感じた。ここへ来て何日か経つけど、僕はまだルナ様のアトリエに入ったことがない。  デザイン専用の部屋を持つなんて、どれほど素敵なことだろう。一度、興味本位でお兄様のアトリエに足を踏みいれたときは「才能を見せていない内は足を踏みいれるな」と言われて追いだされた。  その場所を持っているルナ様が羨ましくて、何度か入り口の前を行き来したことがあるから、どこにあるかは知っている。  瑞穂様はアトリエにいたら声を掛けなくていいと言っていたけど……一応、様子を見るだけならいいよね。  少し早足になりながら廊下を滑るように進んだ。  アトリエの場所は地下。周囲の雑音を全て遮断するという意味では最適だと思う。  ルナ様がここへ篭ってる時は、食事か入浴の時間以外に声を掛けてはいけない決まりらしい。でも今はお客様からの要望もあったし、お邪魔してもいいよね。  ルナ様、自分の世界に入りこんでいたらごめんなさい! でも僕はアトリエの中を見たいです!  期待半分、怖さ半分でルナ様との通信機を鳴らした。 「……誰だ」  怖い!  ど、どどどどうしよう。ルナ様は集中してたんだ。「アトリエを見たいから」なんて理由で、邪魔をしていいわけなかった。  でもインターホンを鳴らしてしまった以上、このまま逃げ出すわけにはいかない。ありったけの勇気を振りしぼって声を出した。 「朝日です」 「ああ、朝日か」  あ、あれ? 叱られると思ったのに、ルナ様の声が柔らかくなった? 「そういえば朝日にはまだ話してなかったか。インターホン越しに説明するのもなんだし、中まで入ってこい」  えっ! アトリエの中を見せてもらえる? 棚から完熟マンゴー的なラッキーだ。  邪魔をして申し訳ない気持ちはあるけど、心がうきうきしたからスキップ気味で階段を下った。  わあ……!  そこは夢みたいな空間だった。  デザインの世界へ没頭するためだけに創られた空間。今までルナ様が集中していたことを示すように、室内に静かな熱気が残っている。  整理整頓された彼女の自室とは対照的に、部屋の中が雑然として散らかっている。道具も出しっ放しだし、ノートやデザイン画がそこら中に散らばって……とても居心地がいい。  きっとこのアトリエが生まれてから、ルナ様の作業に最適な環境へ、日々成長と変化を繰りかえしていったんだろうな。 「ん? どうした嬉しそうな顔して?」 「はい、感動しています。ルナ様のアトリエの中を見てみたかったので」 「そうだったのか? 私に言えば、見せる程度のことはいつでもしてやったのに。そんなに感動することか?」 「感激しています。とても素敵だなって……こんなアトリエに憧れていました」  いつか僕がアトリエを作るときは、いま見ている光景を思いだしながら設計しよう。ここに入ったときから、立っているだけで驚くほど意欲が湧いてくるんだから。 「私のデザインの場を誉められて悪い気はしないな。というよりも気分がいい。ま、立っているのもなんだし、そこへ座れ」 「ああーっ!? これっ、これはルナ様のデザイン画ですか? 拝見してもよろしいでしょうか!」  ルナ様が勧めてくれた椅子を無視して、僕はアトリエの中を跳ねまわった。 「あ、ああ構わないが……大丈夫か、朝日。だいぶ興奮しているようだが」 「はい、興奮してます。すごい……こんなに、沢山の枚数を描きあげるなんて」  部屋の中には大量のデザイン画が積みかさねられていた。このアトリエの中に、千枚、いや数千枚あるかもしれない。  ちなみに僕がハウススクーリングで描いた枚数は、恐らくこの半分にも満たない。ルナ様は、僕より後から学びはじめたのにこれだけの数を描けるなんて……。  そして内容はと言えば、課題として提出するために、頭を絞って捻りだした僕のデザインとは質そのものが違う。どれもこれも新しい挑戦に満ちていることが、僕にだってわかる。 「2000年を過ぎてから、リメイクの時代と言われ続けてるこの業界で、あらゆるジャンル・角度からデザインへ繋げて新しいものを作ろうという気持ちが伝わってきます」 「ルナ様のデザイン画はエレガントでエスプリが効いていて、芸術的になりすぎず、漫画的にはなりすぎず、とても惹きつけられますね。ディテールが多いのにデコラティブになりすぎず、かと思えばクラシカルに……」  そもそも絵が上手いという土台がしっかりしてるんだろうけど、色使いや線がどこか儚げで、とても綺麗だ。 「すごいなあ。ユルシュール様が絶賛していた理由がわかりました。素晴らしいです。ずっとルナ様のデザインを見てみたかったので、嬉しいです」 「そうか……それで、感動しているところに水を差すようで悪いんだが、そこへ重ねてあるものは全て、コンテスト用に描いたが気に入らず没にした作品だぞ」 「えっ」 「一日に二十枚描いて、五日で百枚溜まって、納得できるものが一枚あるか無いかだ。そんなに何枚も完成品があるわけないだろう」  え……ここに積んであるデザインの、どれを見ても、僕のコンテストに応募した作品より優れてるデザイン画なのに。  いくら服の好みは人ぞれぞれだと言っても、曲がりなりにも数年間学んだ僕にはわかる。スポーツのプレイヤーで言えば、全国区と地方のエースくらいの差がある。 「おい? どうした急に、この世が終わりと告げられたような顔して。おい。おーい?」  僕でさえ、鬼のパルティーニ先生から「そこそこ使えるものもあるじゃないか」と言われたのに。それでもお兄様の目に留まることはなく、単独デザイナーとしての希望は諦めかけた。  そして、それが正解だったと思わされた。その時に夢を捨てなかったとしても、今この場で絶望的な実力差を思い知らされたから―― 「ほう。今日の下着は白か」 「わああああああ――っ!!!」  ルナ様が後ろからスカートをめくって覗いていた。前からじゃなくて本当に良かった。 「人のデザインを見て絶望的な顔をするな。気分が悪い」 「ちちち違います違います! 悪い方ではなく、ルナ様のデザインが素晴らしすぎて、自分の及ばなさに愕然としていたところです!」 「なんだ、誉めてくれてたのか。まあ、そんなのは今さらだが、気分はいいな。いいぞ、朝日」 「で。愕然として朝日はどうする。私に及ばないのは分かったが、それならデザインの道は諦めるのか?」 「デザインに限らず、私の才能に潰された連中はごまんと見てきたから、それはそれでいい。だが私の付き人だけは三年間務めてくれよ。入学まで時間がないんだ。別の人間を探してる余裕はない」 「ぃぇ、そのぅ……」 「その代わり、私に付いてくれば朝日の実力も引きあげてやる。学べるところがあれば、好きなだけ学べ。朝日の気持ち次第だ」 「…………」  そうだった。一度挫折して、それでも学びたくてこんな姿をしてまで、もう一度やってみようと決めたんだった。  こういう人がいる世界を夢見て足を踏み入れようとしたんだ。 「あの」 「うん」 「ありがとうございます。落ちこんでいる暇があれば、一枚でも多くデザイン画を描きます。ルナ様の側で学びたいです」 「よし、素直だ」  ルナ様は厳しいけど優しい。僕は手の中の紙束を握りしめて感謝した。 「うん。イライラしていたが、誉められて気分が良くなった。何の使いか知らないが、ここへ来たのが朝日で良かった」 「ただ、私がアトリエに入っている時は、余程のことがない限り声を掛けないようにして欲しい」 「頭の中で浮かんでいたイメージに、雑音が入ることほど苛立つものもないからな。朝日は入ったばかりで、まだ知らなかったと思うが」 「いえ。食事と入浴、または大切な用件がある場合を除いて、ルナ様がアトリエに入ったら声を掛けるなと、鍋島さんから厳しく言われていました」 「…………」 「…………」  やっちゃった……嘘をつくわけにはいかないけど、もう少し言い方を考えれば良かった気がする。 「これはこれは面白いことを仰る。ここ最近では最大級のビッグニュースだな」 「申し訳ありません」 「で? 言い付けられているからには、さぞかし大切な要件があったんだろう? ほら言ってみろ。緊急を要することだと困る」  恐怖を煽るようにゆっくりとした口調で話しながら、何故かルナ様は手元にあった定規を掴んだ。あの、何に使うかわからない分、その道具をチョイス理由を考えるととても怖いです。 「ユルシュール様と瑞穂様の茶会に侍っていたのですが、ルナ様にも声を掛けてほしいとの希望でしたので」 「なんだ、ユーシェと瑞穂に頼まれたのか。真っ当な用事じゃないか、それなら脅えなくても良かったものを」  僕は無罪で放免された。ルナ様が目の前に居なければ、全身で安堵を表現したかった。 「もし『アトリエを見たいだけ』なんて理由だったら、朝日の尻が赤くなるまでこの定規を使って叩いていたところだ」 「セクハラです」 「朝日もデザイナーを志すならわかるだろう? 集中していた時に水を差される絶望感を」 「申し訳ありません……」 「身体で分からせておいた方が、今後の間違いが起こらないかと思ったんだ」 「で、では、一発だけお受けいたします」 「冗談だ。そこまで自分を追いこむな……あ、いや」 「せっかくだからセクハラだけはしておくか。朝日の困った顔は想像力を掻きたてるんだ。ギリギリまでスカートをめくれ」 「とても変態的です」 「じゃあ水着に着替えてデッサンの練習のモデルでも務めてもらおうか。これならスカートを捲るより健全だと思うが」 「…………」  僕はスカートを下着の見えない際までたくし上げた。胸は偽物だから、上半身を要求されると困る。 「朝日の足は細いな。余計な肉付きがなくて、まるで特別綺麗な男の足みたいだ」 「そんなことありませんよ!?」 「な、なんだ? 『男』の部分が気に触ったのか? すまない」  危ない……下半身を見せるのも充分危なかった。腕よりも足を見せる方が男だとバレやすいのかもしれない。 「も、もうスカートを下ろしても良いでしょうか」 「一瞬だけ触ってみていいか。えい」 「ぅわあっ!」  はっ。しまった、素のままの悲鳴が出ちゃった。 「お、おお……見かけによらず男らしい声をあげるんだな。悪かった、悪戯が過ぎた」  僕は黙って首を横に振りつつ、スカートを握っていた手を離した。恥ずかしさで火が出そうなほど体が熱いのに、性別がバレる恐怖で背すじが冷たいという、とても不安定な体の状態だった。 「ルナ様……ユルシュール様と瑞穂様がお待ちなので、そろそろ……」 「ああ、茶会か。そろそろ、というより一時間ほど前にも声を掛けられたんだがな。その時に断ったはずだが?」 「休憩を入れる頃合いかと思いまして」 「休憩か。なるほど時間的には丁度良いのかもな。ただ、やはり止めておく。嫌いなんだ、太陽の下へ出るのが」 「あ……」  そうか、ルナ様の肌は、長時間の太陽光を浴びることに耐えられないのかもしれない。今日の天気を思いだすと、よく晴れていて三月にしては気温も高い。  下手をすれば染みとして残るか、最悪、火傷してしまうかもしれない。  瑞穂様が事情を知らないなんてことはないだろうから、ルナ様には屋根のある場所で、日差しを避けながらの参加を望んでいたのかもしれない。  でも本人が断れば、重ねて誘うつもりはなかったんだろう。それを僕は参加すること前提で話してしまった。  太陽光の下で会話する友人を見ながら、離れた日陰でお茶を飲むルナ様の気持ちを考えると、どんな気持ちだろう。僕の配慮が足りなかった。 「あいたァ゛っ!」  う、また素の声を出しちゃった……気を付けないと。でも。 「うう、おデコ痛いです……どうして定規で。デザインを邪魔したことは、てっきり許していただけたものと思っていました」 「アトリエに入ってきたことは許した。それとは別の件だ。今なにか、おかしな同情をしただろう」  見透かされている。だけど認めるわけにもいかず、僕は曖昧に目を逸らした。 「曖昧に目を逸らすな」 「ひゃんっ!」  またおデコを叩かれた。真っ赤になってるかもしれない。でも今回の悲鳴は女の子っぽかったと思う。 「朝日、正直に言え。食べ物の好き嫌いはあるか」 「は、はい。何でもおいしく食べることが信条ですが、タコと納豆だけは駄目です」 「納豆が駄目だと? フン、あんなに美味しいものを食べられないとは。朝の納豆を楽しめないと人生の半分は損したことになる。かわいそうな奴め」 「そ、そうですか。では、食べられるように努力します」 「いま、そもそも食べたいと思わないから、かわいそうな奴だと思われても別にいいやと思っただろう。正直に答えろ」 「あの、はい。思いました」 「さてここで思いだせ。朝日は太陽の下へ出るのが嫌だと言った私をどう思った。嘘をつくのは許さないが、沈黙という回答は許可してやる。その場合スカートをめくれ」 「…………」  ルナ様の言いたいことがわかっていた僕は、罪悪感も手伝って、下着の見えないギリギリの位置までスカートをめくった。 「かわいいな。うん、その姿に免じて今回は許してやる」 「だが同情するとはそういうことだと覚えておけ。私にとって太陽光は納豆と同じだ。あんな臭い発酵大豆と同じ価値の光を浴びられなかったところで、かわいそうだと言われる筋合いがない。それと私も納豆は嫌いだ」 「あ、あの。何発でも定規をお受けいたします」 「そこまで自分を追いこまなくていいと言っただろう。何故かな、朝日のことは嫌いにならないよ。他の奴なら引きそうなことでも、私の言葉を真面目に捉えようとする素直さが気に入っているのかもしれない」  恥ずかしいけど嬉しかった。罪悪感の生まれた時に、嫌いじゃないと言ってもらえたからだろうか。  って、完全に使用人思考になってる! ルナ様への感謝は嘘じゃないけど、これじゃいけない! 「というわけで、定規はもう使わないからスカートを下ろしていい。何かの拍子に叩かれて赤くなった足を見られて、SMでもしていたのかと思われても困るしな。そろそろユーシェや瑞穂のもとへ戻れ」 「ん、いや待て。朝日が来てから30分も経っていたのか」 「えっ、もうそんなに!?」 「随分時間のかかる言伝になってしまったな」  留守をお願いした先輩に迷惑を掛けてしまった。駄目な後輩だと思われてしまう。 「そう困った顔をするな。引き止めたのは私で、用事を言いつけたと伝えておくよ。ここから内線で連絡しておこう」  ありがとうございます、お優しいルナ様……新人使用人の僕の立場を察してくれるなんて。 「ああもしもし。うん、私だ。連絡が遅くなってすまない、朝日には別の用事を任せて出かけさせた。それと、今日はデザイン画に集中したいと、ユーシェや瑞穂に伝えておいてくれ」  ルナ様は必要なことだけを伝えると、すぐ受話器を置いて、僕に向きなおった。 「ただ朝日を庇ったわけじゃない。本当に頼みたい用事があるんだ。製図用紙が切れたから、渋谷の『マルカン』へ行って買ってきてくれ。注文したんじゃ遅い。直接行ってほしい」 「製図用紙……あ、ルナ様はデザイン画を描いていたわけではなく、実際に服を作るつもりだったのですか」  ルナ様ばかり見てて気付かなかったけど、机の上には型紙が載ってる。だから定規が手元にあったんだ。 「学校が始まれば、自分で服を縫う授業もあるだろう。今の内に練習しておこうと思ったんだ。いつも縫製は別の者に任せていたからな」 「そのために私がいるのでは? デザイナーに縫製の技術は必要ありません」 「嫌だ。入学したら、他の、何でも使用人任せの嬢ちゃんたちと一緒にされたくない。授業で学ぶことは全て自分でやることにした」 「今までは〈型紙〉《パターン》を引くことも、八千代に任せてばかりでほとんどやってなかったからな。デザイナーとパタンナーの仕事は別だとふんぞり返って甘えていた。正直、反省している」  衣装製作において、型紙を引くことはデザインと同じくらい重要なことだ。想像力に加えて、経験や細かい数字とのやり取りの才能も必要になる。 「朝日が来た時も、〈型紙〉《パターン》が上手く引けなくてイライラしていた時だったんだ」  あ、そうだったんだ。ルナ様の機嫌が悪いことに気付いてはいたけど、てっきり集中しているのを邪魔されたから怒ってるのかと思ってた。僕が来る以前から、作業が上手くいかなくてイラついてたんだ。  確かに苦戦してる感じだなあ……ルナ様のデザインはディテールが多いし。 「型紙を書くのが苦手だと、このデザインを形にするのは難しいと思います。これなら立体裁断の方がいいのではないでしょうか。身頃はかなりタイトで密着いたしますし、袖の付け根にパフもありますし……」  あれ?  いま僕おかしなこと言ったかな。ルナ様がむっつりと口を閉じてる。 「……苦手なんだよ」 「苦手? と言いますと?」 「だから苦手なんだ。〈立体裁断〉《ドレーピング》は」 「…………」  ええっ。  立体裁断は確かに難しい技術ではあるけど、自信家のルナ様のことだから、簡単に身に付けてるものだと思ってた。  ちなみに僕が鬼のペルティーニ先生から、一番認めてもらった科目だ。へへ。 「……なんだ」 「あ、いえ。誰しも苦手な分野の一つや二つはあると思います」 「なんだその、明らかに気休めでしかないフォローの入れ方は。ていうか朝日、君うれしそうだな」 「えっ。そんなつもりはありません。全然、喜んでなんていません」 「頬が赤い上に、にこにこしてるのが丸分かりだぞ」 「そ、そんなことないです。ただあの、ルナ様も私と同じ人間なのだなと思っただけで。少し自信も回復しました」 「……っ!」  あ。  ど、どうしよう、地雷踏んじゃったっぽい。一度は机に置いた定規をルナ様がわっしと握ってる。 「では自信のついた朝日に、身体で〈立体裁断〉《ドレーピング》を教えてもらおうかな。ボディの代わりに、君の身体を使おうか。脱げ」 「い、いえその、だって立体裁断ってボディに針が刺さるじゃないですか。無理です痛いです、血が出ます」 「あの、そうでした! 私は先ほどルナ様から仰せつけられた製図用紙を買いに行かないと! では、いってまいります!」 「ああ行ってこい。そして帰ってきたら〈立体裁断〉《ドレーピング》の授業の始まりだ」  どうしよう。帰ってくるまでに、許してもらえる方法を考えないといけないなあ……。  最近は買い物にも出なかったから、こうして人の集まる場所へ出るのは久しぶりだった。  ルナ様が表に出ようとしないから、彼女付きの僕は自然と外出の機会が少なくなる。  ただ、それを抜きにしても、買い物に行かされるのは出来るだけ避けてきた。男だとバレたら困るのが一番の理由だけど、女装したまま街を歩くのはかなり恥ずかしい。  特にこういう人の集まる場所だと、心配になる。屋敷では今のところ奇跡的にバレてないけど、それはきっと「女だ」という先入観があるからだ。  こんな街中だといつバレてもおかしくない。立ってるだけでスカートの中が冷や汗で凄いことに。膝もかくかく震えてる。ていうか泣きそう。  実は横断歩道を待っているさっきから、後ろにいる肩から手首までタトゥーの入ったスキンヘッドの人が僕を見てることに気付いていて、とても怖い。その隣のいかつい体付きの坊主頭の人も見てる。その隣も。  きっと女装癖のある男がキモくてムカついてるんですね。ごめんなさいごめんなさい。買い物したらすぐ帰るので、裏に連れていったり、この場で引きずり回して正体バラすとかはやめてください。  女性も怖い。同性の振りをしてる偽物なんて一目で判別がつくかもしれないし。でも男性も怖い。人の目が怖い。お願いです。見ないでください。すごく恥ずかしい。 「あの」 「ひっ!」  コココ声カケラレタ!? ととととうとう僕の正体が白日の下に! 違うんです理由があるんですせめて訳を聞いてください! 「何をそんなにビクついてるんですか。見てる妹の方が不安になりました」 「え……りそな?」 「そんなにオドオドしてると、本日東京デビューの山奥から上京してきた女の子みたいですよ。まあ、田舎の学生にしてはレベルが高すぎますか」 「まあそれはいいです。ただこのままだと、さっきから隙を窺っている男性陣に声を掛けられそうなので、妹が付き添ってあげます」 「こ、声掛けられる!? やっぱり目立ってた?」 「とても。あどけなさを残しつつも、泥臭さがないどころかハイソな空気が漂う、正統派美少女風の顔。見た目ハイレベルなのに、声を掛ければ少女漫画的なドラマが始まるのではないかと期待してしまう謎の純朴感」 「それなのに、同性から見ても、いっそ守ってあげたくなるような清潔さ。ここで信号待ちを始めてから、ハイエナたちが我も我もと集まってきたでしょう、雲霞の如く」 「よくわかんない。だって後ろなんて、怖くて振りむけないし」 「では妹が守ってあげます。さ、青になったから行きましょう。脇目もふらず直進しますよ」 「え、えっ? あれっ?」  りそなは、ずんずんずんずん進んでいった。それに釣られて、僕もぐいぐいぐいぐい引っぱられていった。りそなの言葉が気になってちらりと後ろを振り返ったら、いかつい男の人たちが僕を見て微笑みかけてくれた。 「絶対に微笑み返さないでくださいね。手でも振ろうものなら、妹、ここへあなたを置いていきます」  いま一人にされるのはとても困るから、僕はりそなに引きずられるまま歩きつづけた。 「それにしても、怖いほど女になってきましたね。もはや仕草や外見上では、判別が不可能なレベルです」 「え?」 「私から提案しておいてなんですが、怖いほどに作戦がハマりました。恐らくルナちょむの家でも、平穏な日々を過ごしていることでしょう」 「あ、うん。ルナ様はすごく良くしてくれてるよ。この分なら三年間、なんとかなるんじゃないかな」 「……うわあ。自然にルナ様とか言いましたよ、今」 「だって仕方ないよ。今はルナ様の元でメイドをやってるわけだし、ボロが出ないよう、自分の頭の中へ使用人であることを刷りこんだから。家でのんびりしてるりそなと違って、これでも色んな苦労があったんだよ?」 「また無礼ですねこの兄。ええまあ、苦労はしたでしょうし、無事で何よりですが。無事なら妹にメールの一つでも送ってきたらどうですか」 「ルナちょむとは時々話すから近況は聞いていましたが、それでも少しは気を使いなさい」 「ご、ごめん。新人だから毎日が忙しくて。りそなのことを忘れてたわけじゃないよ。すごく感謝してる」 「言葉だけじゃなく、態度で返して欲しいものですね。ただ、今の兄を見ていると、重度のブラコンの妹ですら、自分の気持ちがわからなくなるレベルです」 「気持ちがわからなくなる? 一緒に歩いてて気持ち悪いとか?」 「逆です。こんな姉がいたらいいなと、兄が居ることを忘れてしまいそうになる不安感です。肉親の私が気持ち悪さを全く覚えない時点で、あなたの存在は非常に危ういです」 「うーん? 僕は自分のことだから、周りからどう見えるかまではわからないけど」 「その顔で僕とか言わないでください。違和感アリアリです。兄をかわいいとは言いたくありませんが、目の前の朝日お姉ちゃんはかわいいんです」  僕も妹にかわいいなんて言われると違和感しかないよ。 「はあ。こうなってくると、兄への恋心のみで服飾の勉強を始めた妹のモチベが最底辺に……」 「ん、服飾の勉強? りそなが?」 「あ、そうです。来年は妹もフィリア女学院を受験しますから。まあ落ちたら、金の力でセレブ組へ入学しますが」 「だから今日は勉強道具として、裁縫道具や生地を買いに来たんです。ルナちょむの用事もあると思いますが、買い物が終わるまでは妹に付きあってください」 「あ、僕も最初からここへ来るつもりだったんだ。製図用紙のお使いを頼まれてて」 「あれま。それはまた偶然ですね」 「りそなが買い物してる間に、こっちの用事も済ませておくよ。そのあと軽くお茶でもしよう」 「いいですね。ルナちょむには、しばらく朝日を借りますと私から連絡を入れておきます」  各々の買い物を済ませるために、僕たちは一旦そこで別れた。  まずは製図用紙を買ってからの方がいいかな。でも布屋へ来るのも久しぶりだし、ちょっと生地も見たい。  しかもこの階、いい生地がある売り場だ。あ、このギャバ、質感がいいなあ。色もいい。これを使ってジャケット……いや、スカートを作りたいかも。お屋敷で着る女性ものの服が少ないし。  こっちのフラノもいい。これはシャツかな。うーん、メーター2980円かあ。いい生地だなあ。買いたいなあ。でも欲しいなあ。だけど高いなあ。 「あの、すみませんね。この生地出しますんで、ちょっとどいてもらってもいいですか」 「あ、ごめんなさい」  僕が見てたギャバが、店員さんに取り出されて裁断台へ運ばれていった。色も欲しいと思ってた生地だ。  いいなあ……僕も生地買いたいなあ。 「はい、お嬢さんお待たせ」 「運んでもらっちゃってすみません。私、力なら自信あったんですけど。実家が運送会社やってるんです」 「はは、お父さんの仕事が運送会社でも、君の力の強さには関係ないと思うなあ」 「ですよねー!」  元気な子だ。後ろ姿だと僕と同い年くらい?  それなのにメーター3000円近くする生地を買うなんて、金銭的に余裕のある家庭なのかもしれない。着てる服もよく聞くブランドのものだし、鞄もかわいい。  なんて、お金を持ってるかどうかに目を付けるのは、僕が汚い大人になってしまったからなのかもしれない。気を付けよう。 「で、何m切りましょうか? うちは10cmから切りますよ」 「えっと、何mだっけ……ちょっと待ってください、メモしてきたんです」  学生さんっぽいな。どこかの服飾学校の生徒かな? 「え、あの、ジャケットって裁断する時、何mくらいあれば足りますか? えと、大体でいいんですけど」 「切る長さは作るジャケットのデザインによって変わるなあ。それとこれは、150cm巾だからね。長さだけじゃなくて、幅も間違えないようにね」 「あああそっか、そうですよね。あ、メモ見つかりました。大丈夫です160cm巾って書いてあります。え? 160? 10cm違う? どど、どうしましょう。でも10cmくらいなら平気だったり?」 「小さなパーツをとっていったりすると、ほんの10cm幅がないだけでも生地が足りなかったりするよ。その時になってまた買いに来るのも面倒でしょう」 「そっかそですね、わかりました。じゃあ決まりました。この布を3m……あ、縫い代分入ってる? これ?」 「縫い代の部分が被って、ほんの少しだけ足りないなんてこともよくあるなあ」 「ああああの、やっぱり3.2mでお願いします」  はは。わかるなあ。僕も学校へ通ってた頃、どのくらい切ればいいのかわからなくて、何度も余分に生地を買った覚えがある。  昔の自分を見てるようで微笑ましい。彼女は服飾を始めたばかりなんだと思う。それだけに、いきなり高い生地を買うなんて勇気あるなあとも思う。けっこう失敗するよ? 「はいじゃあこれ3.2m。会計は一階のレジでしてね」 「ありがとうございます。あ、でもその前に、生地を棚へ戻してきます」 「ああ、いいよいいよ。そこへ置いといてくれれば、私たちがやりますよ」 「いやいや、任せてください! 私こう見えて、ものを運ぶのは得意です! 実家が運送会社なんです!」  実家の業種は、彼女の筋力に影響を与えないと思うなあ。  なんてことを思いながら女の子の様子を見ていたら、彼女は何種類か生地を買っていたのか、ギャバの生地を肩に掛けつつ、二本の筒を持って歩きだした。ちなみに一本の筒に付き、まだまだ生地は残っていた。  それを見た僕と店員のお爺さんは同時に駆けだした。だって、筒の長さは150cm。その重さは推定で20kg以上ある。  そして僕と、恐らく店員さんも思いうかべた映像通りに、女の子の体は傾いた。もちろん後ろ側へ。 「ちょっ……無理だよ!?」 「え? あ……えええっ!? あっ、あれっ? 体傾いてるううぅ!」  狭い店内でぐらりと傾く女の子。このままだと筒の重さに潰されて、頭を打ってしまうかもしれない。 「あっ、ああっ、やばっ……このままじゃこけこけこけ――はっ!」 「そこの人ォォー! 私はいいから生地を抱きとめるんだ! 汚さないように!」 「えっ」  こんな状況じゃ咄嗟に頭なんて回らない。だけど女の子の声のお陰で、彼女を抱きとめたら共倒れになる未来が見えた。  だから言われたとおり――僕は必死に生地を抱きとめた! 「きゃっち! 成功!」 「儂もじゃああー!」 「よくやったー!」  僕と店員さんは言われた使命を果たした。だけどそのせいで、当然のように床へ叩きつけられる小さなお尻。 「ぁいっっったああああ――ぃ!!」  静かな店内で大きな騒ぎを起こした女の子は、大きな音を立てながらすっ転んで、大きな声で悲鳴をあげた。  だけど生地の重さがなくなった分、彼女が後頭部を打つようなことはなかった。 「だ、大丈夫ですか?」 「いやあ平気平気。生地が無事で良かった、たはは。たっはっは」  目の前で尻餅をついている女の子は、照れくさそうに笑っていた。  正面から見ても、やっぱり年は僕と同じくらい。一見すると上品な、人好きのする顔を惜しげもなく崩して笑顔を浮かべてる。  整った顔に愛嬌をたっぷり乗せた、見てる側の気持ちが温かくなるような顔をしていた。 「喜ぼうよ」 「え?」 「ぼーっとしてるから。もっと無事だったことを喜ぼうよ」 「あ、無事……なのかな? お尻打ったみたいだけど平気?」 「平気! 私、小さい頃からよくすっ転んでたから、お尻は頑丈なんだ」  何度打ってもお尻は頑丈にならないよ。そう思った瞬間、僕も釣られたように笑ってしまった。 「そっか。大きな怪我がなくて良かったね」 「うん良かった! 助けてくれてありがと!」  いわゆる「日本的な女性らしさ」って言うと瑞穂様が思い浮かぶけど、この子の明るい表情も、とても女の子らしいと言える。全力で輝いてる笑顔だった。 「キミかわいいね」 「え? かわいいって?」 「うん。なんかすごく『ザ・おんなのこ!』って感じ。私もお尻打ってる場合じゃないや、見習わなきゃ」 「え、逆だよ? いまキミのこと見てて、女の子らしいと思ってた」 「あはは、こんな美少女に女の子らしいって言われた。あ、いま何も考えずに言っちゃったけど、キミ相当に正統派美少女だと思うよ。可愛がりたい。手とか握りたい」 「あ、そだ。悪いけど手、貸してもらっていい?」  伸びてきた手をぎゅっと握る。そのとき目の前の女の子の顔を見ていたせいで、思わず全力で引っぱり上げてしまった。 「わっ!」 「うわっ」  間近まで迫った女の子の顔。頬の産毛が触れるほどの距離に少し驚いた。 「あ……」  あれ、なんだろう。この懐かしい感覚。この子、どこかで会ったこと……ある? 「あれ?」 「えっ? な、なに?」 「いやキミ、すごくかわいいんだけど、なんだろう、美少女特有の近寄りがたさがない。ていうかむしろ親近感を覚える……ううんそれどころか、どこかで見たことあるような?」 「私と会ったことある?」  この子と……いや、記憶にない。だけど僕も懐かしい感じはした。  もしかして一度くらい会話したことがあるのかもしれない。だけど少なくともここ最近ではないはずだ。これだけ顔が整っている子なら印象に残ると思う。  最近じゃないってことは、昔に会ってるってことじゃ……昔の僕ってことは、つまり今と性別が違うわけで……。 「あ」 「ん?」  誰か僕たちの顔を覗きこんできたと思ったらりそなだった。女の子と抱きあってる僕を見て驚いてる。  でも、うん。兄が見ず知らずの女の子と抱きあってたら、それは驚くよね。でもこれには訳があって―― 「ミナトン?」 「ん、ミナトン? あれ……キミだれ? ていうか、この子もどこかで見たことあるような?」 「あの、私です。大蔵りそなです」 「大蔵……あ、ああ! あれ、りそな!? うーわ、久しぶり!」  えっ? りそなは僕が抱きあってたことに驚いてるんじゃない?  というより顔見知りっぽい。見たことある気がしたのは、りそなの友人として家に来たことがあったから?  どちらにしても迂闊なことは喋れない。本当に会ったことがあるのか、りそなとはどういう関係なのか、しばらくは二人の会話を聞いて関係を見極めないと……。 「こんなところでばったり会うなんてすごいね!」 「は、はい偶然ですが……それよりこの状況はなんですか?」 「ん、この状況? ああこの子。軽く事故ったところを助けてもらったんだ」 「で、ではなく。ええと、つまり二人は初対面なのですね?」 「ん? どゆこと? もしかして、こっちの子はりそなの知りあい?」 「はいそうです。うちの使用人です」  あ、僕の扱いはそれでいいんだ。女装癖のある兄としてじゃなく、一使用人としてやり過ごせってことだね。 「りそな様のご友人でしたか。度重なる無礼をお許しください。私は先月までりそな様の下でメイドを務めておりました、小倉朝日と申します」 「小倉朝日ちゃん。私、りそなの友だちで柳ヶ瀬」 「柳ヶ瀬様。ご挨拶いただき、ありがとうございます」  ん? ていうかいま、覚えのある苗字が聞こえてきたよ? 「ま、りそなと会うのは超久しぶりなんだけどね! あ、それで、下の名前が湊。だからミナトンでいいよ」 「いえ、今は別の主人に仕えているとは言え、りそな様のご友人をあだ名で呼ぶわけ、には……」  え、ミナト? ヤナガセミナト? 柳ヶ瀬湊ってそれはもしかして……。  すうっと血の気の引いていく僕の耳に、駆け寄ってきたりそなが小声で囁いてくれた。 「間違いありません、ミナトンです。昔、日本へ来たときに私たちの家でホームステイしてた」 「…………」  とてもこの場で大きな声は出せず、笑顔を浮かべながら僕は心の中で悲鳴をあげた。きゃああああああああ――!! ぼーくーのーしーりーあーいーだー!!  ――で。  僕とりそなと湊は、適当に見つけたカフェで卓を囲んでいた。  布屋「マルカン」で湊の正体に気付いてから、僕は放心状態、りそなは焦燥して一言も出せずに立ちつくした。  そんな僕らに、湊が呑気な声で「せっかくだからどこか入って話そうよ」と誘ってきた。マルカンから歩くこと10分、彼女がこの店を選んだので注文の列へ並び、僕とりそなは席に着いた――  ――だったと思う。正直ここへ座るまで、僕の思考力は全く働かなかった。  顔も真っ青だったみたいで、よほど心配だったのか、湊が注文を済ませる前にりそなが小さな声で話しかけてくれた。 「だ、大丈夫ですか。妹もまだどうしていいかわからないのですが、とりあえずなんとか対応してみます」  店を出てから、湊の質問に答えてるのはずっとりそなだ。僕よりは動揺の少なかったらしい妹は、ぎこちない相槌を打ちながらも孤軍奮闘、今になってようやく混乱が収まりはじめていた。 「兄は何も話さなくていいですから。って、聞こえてますか?」 「うん……うん、うん……」 「あ、あの。本当に大丈夫ですか。ごめんなさい、ここへ来るのも断れば良かったのですけど、頭の中が真っ白になって、咄嗟に対応できませんでした」 「うん……」 「最悪の場合、私に用事を言いつけられたことにして一人で帰ってください。それか、顔が真っ青ですから、体調が優れないということにしても……」 「ごめん……いま一人にされたら、僕、行き倒れて帰れないかも……それで救急車呼ばれて、身体を調べられたりしたら……」 「……ですね。下手したら心無い男性にお持ち帰りされちゃいますね。これはもう、なんとか早めに話を終わらせるしかなさそうです。しんどいとは思いますが、なんとか耐えてください」 「うん……というよりも、僕の方こそ謝らなきゃ……だって、本当に久しぶりだし、りそなも話したいことがあるだろうから……」 「本当は僕だって懐かしい思い出話もしたいよ。ああ、どうして何年も会わなかったのに、よりにもよってこんな格好してる時に限って偶然……」 「おまたせー!」 「っ!!」 「おっ……おかえりなさい。ハンバーガーに……アイスティーXLサイズ……ですか」 「うん! せっかくだし色んな話したいもんね。一番大きいサイズにしちゃった」  湊は僕たちを短い時間で解放するつもりはないみたいだ。そうだよね、久しぶりだもんね。 「はー……でもほんと懐かしいよね。何年経ってる? りそな小さかったなあ。その頃の会話なんて覚えてないでしょ」 「覚えて……るような、覚えてないような感じですね。ええ、なにせあの頃は、ミナトンの名前を漢字で書けなかった頃でしたから……ですよ」 「別れる時なんて、りそなが泣いてくれたんだよ? 覚えてる? 私、ちゃんと顔まで覚えてるから。『ぜったい手紙かくー』って言ってくれたよね。結局、お互いに一通ずつしか出さなかったけど」 「ごめんなさいです……」  話のペースは完全に湊。僕は口を開けないし、りそなも様子を図りつつ、探り探りの会話を続けてる。 「あ、いやいや私からも送ってないんだし、謝らなくていいよ! りそなはあの頃から忙しそうだったもんね、習い事とか多くてさ。私も影響されて、実家へ戻ってから華とかお茶とかやり出したんだ」 「あ、そうでしたか……お華はどの流派のものを? 大蔵家は小腹流です」  習い事の話なら、過去の思い出や近況を聞かれるより話すのが楽だと思ったらしい。りそなは華道の話に乗っかった。 「うちはイケの坊だったかな? たはは。私、全然センスなくて、お華は一年でやめちゃったんだよね。あ、それで、小さい頃の話なんだけどさー」  りそな撃沈。お茶の話へ逃げるという手もあるけど、同じ結末を辿りそうな気がする。  困ったなあ……再会は嬉しいのに、女装してるなんて知られたくない。バレて、湊から気持ち悪いなんて言われたら立ちなおれないと思う。 「りそなは昔からお人形さんみたいだったよね! ドレスみたいな洋服が似合ってて、物静かで落ちついてて」 「そうでしたか? 小さい頃は人と話すのに慣れていませんでしたから……あ、人形みたいというのは、誉めてくれたんですね。ありがとうございます」 「うんうん、一緒に歩くとみんな見てたしね。私なんて、冬でも半袖半ズボンで男の子みたいだったから、二人で並んで歩いても、女の子同士に見えないとかよく言われてた」 「あ、そういえば……ミナトンは随分と雰囲気が変わりましたね。小さい頃の髪型は、伸びるがままに任せていましたし、腕や足も傷だらけでした。自分でも、よくミナトンだと一瞬で気付いたなと思います」 「たーははは。私はりそなだって気付かなくてごめんよぉ。うん、私変わったよね。いや変わってないと困るのか。これでも当時じゃ考えられないこと意識しながら育ったつもりなんだ。『女らしく』なんて」  え? 女らしく?  会話が早く終わらないかと思って聞いていたけど、少し興味を惹かれる話題に僕の耳が反応した。 「はあ、女らしくですか」 「あはは笑うよね。バット振り回して男の子にパワーボムかましてた私が女の子らしくだよ。歳月ってのは怖いね。熊がパンダになるようなもんだよ。クマったね。がおー」  湊のパワーボム……僕もされた。ベッドの上だから、それほど痛くはなかったけど。あの頃は、とても女の子らしいとは言えない性格だった。  でもマルカンで湊だと知らずに話した時は、花みたいな明るさが体中から出てて、女の子の可愛らしさを丸ごと元気の中へ詰めこんだという印象だった。  僕の中の湊は、今でも男勝りのやんちゃな子だ。だから目の前の彼女は、別人のようでいて、それでいて昔の面影が残る本人という不思議な存在として座ってる。  こんなにかわいくなった湊が、昔は僕をリフトアップしていたなんて誰も思わないだろう。  そこに面白みを感じたら、僅かに思考力が回復した。頭の中を元通りにするきっかけをくれたのは本能的な笑いだった。 「小さい頃は無茶苦茶やったなあ。大蔵の家が私の家より大きかったから。跳ねまわる跳びまわるは日常茶飯事で、作ったパチンコで戦争ごっこやって、云十万する花瓶を割ったりしたね」  あ、覚えてる。普段は笑ってばかりの湊が何度もうちの執事に謝って、しゅんとなっちゃったのを慰めた覚えがある。 「ん? 小倉さん笑ってる?」 「あ……も、申し訳ありません」 「ううん、違うよ。ここへ来てから顔色悪いから心配してたんだ。よかった、笑ってくれて」  優しいところは変わってないな。昔はもっと兄貴分的な言い回しだったけど。 「そだ、小倉さんとも仲良くなりたいから、今度からキミのことは呼び捨てにしよう」 「はい、もちろん。りそな様のご友人ですから呼び捨てで構いません、柳ヶ瀬様」 「柳ヶ瀬様ってなんかよそよそしい。湊でいいよ」 「いえ、大蔵家とも縁のある方を呼び捨てにはできません」 「それなら湊に好きな敬称で妥協しよう。これ以上の要求には応えられない。文句があるなら今この場で言いたまえ、パワーボムでお応えしよう」 「プロレス技はやめたのではないのですか?」 「そうだった。駄目だね、今でもうっかり力技に頼りたくなったりするんだよ。三つ子の雀は百まで踊りを忘れない的なそんなの。ようし自己催眠するぞ。私は女の子らしく生きるんだ。うっふん」 「もう女らしくなろうして十年以上経つんだよ。それでもこうして自分に言い聞かせないと、釣竿一本担いで、沖釣りに出かけたくなるんだよね」 「男らしいですね」 「歩いてて鏡を見つけるとシャドーボクシングしちゃうことはしょっちゅうあるし、ラグビーの練習なんて見かけるとわくわくするよね」 「男臭いですね。一つ質問いいですか。好きなものに目を瞑ってまで女性らしさを求めるのには、何か特別な理由があるのですか?」 「ん? んー、それはね……えへへ、りそなは照れるとこ突いてくるなあ」  照れる?  傘を持って二階から飛びおりたりしてた、男らしい湊が照れる? ちょっと想像できない……けど、薄く頬を染める湊は可愛らしさに溢れてる。 「私が女の子らしくしようと思った理由、聞きたい? や、今から聞く気ないって言っても、私が聞いて欲しいから勝手に話すけど。たは」 「あ、でもその前に一個だけ質問。あのさ、りそな。ゆうちょは今どうしてる?」 「は? ゆうちょ?」 「あれ? あだ名じゃわかんない? えっと、だから、りそなのお兄ちゃん……たはは、なんかいつも『ゆうちょ』って呼んでたから名前呼ぶの恥ずかしいな」 「遊星くん。大蔵遊星くん」  え、僕? 湊が照れくさそうに呼んだ名前は、朝日ではない僕の名前だった。 「兄ですか? それは……元気にしていますが」  りそながちらりと僕を見た。朝日としてではなく存在してるはずの僕が、いま何をしているか。自分の判断で答えていいものか迷ったんだろう。  僕としては、久しぶりに会った湊と大蔵遊星として話したい。  だけど今こうして顔を見られている以上、もし次も再会できる機会があるのなら、朝日としての記憶をあやふやにできる程度の……半年か、一年程度の期間をおかないと怖い。  僕たちの家へ遊びに来られるのもまずい。なんらかの事情でりそなとは別に暮らしていて、東京にもいない状態。そして電話で話すことはできるという設定が良さそうだ。 「遊星様からはまめに連絡があります。今は服飾の勉強をしに海外へ留学をしております」 「海外! ええ、じゃあ今は会えないんだ……うぅ、ん。残念なような、ほっとしたような」 「きっと長期休みになれば日本へ戻ってくると思います。その時にりそな様から湊様のことを教えてさしあげてはいかがでしょう」  うん。うんうん、これはそこそこ言い訳として成立してると思う。学校名を聞かれたら、見栄を張らない程度のレベルの服飾学校の名前を挙げれば。うん。  って、湊はいま「残念なような、ほっとしたような」って言った? もしかして僕にはそれほど会いたいと思ってないのかな……。  あれ……でも湊の頬はまだ赤いままだ。 「遊星くん……たはは、ゆうちょはね。私が女の子らしくしようと思いはじめたきっかけなんだ」 「ゆうちょは、私の初恋の人だから」 「ぎゃあああ! こっちに向かって噴かないでください!」 「も、申し訳ありません……少し、驚いてしまいまして」  初恋? はつ? 鯉? 恋? うそ? 僕に? え、湊が? 「え、どうして朝日が驚くの……もしかして朝日もゆうちょのこと好きだった?」 「いえっ! そんなことは! ただあの、遊星様のこともよく存じあげておりますので、知り合いが恋愛の話に登場したことに驚いただけです!」  危なかったあ……危うく素の声で「嘘おおおっ!?」って叫ぶところだった。周りの注目まで集めるところだった。  だけど小さい頃の湊から恋愛の空気なんて感じなかった……ううん、あの頃の湊に恋心があったことだけでも驚きだよ。失礼だけど。  そんなことを考えつつハンカチで口を拭いていたら、湊はほっとした表情で僕を見つめていた。 「そうなんだ。よかったあ。友達になったその日に、朝日と恋敵になるのかと思っちゃったよ」 「いえ、そのようなことは決して……って、恋敵?」 「うん。ゆうちょが初恋の人って言ったけど補足があって。私、小学校三年の時から初恋継続中だから」 「ぎゃあああああああ! ですから噴くなら、後ろむいて噴いてください!」 「う、うう、大変申し訳ありません……私としたことが」  湊が僕のことを好き? ていうかそれ聞いちゃっていいの? 駄目だよね? 「たはは、吹くよね。小三の初恋引きずってるって、やだよね引くよね怖いよね」 「いえ、引きはしません……ですが、いままでその恋を一途に守ってきた理由は、聞いておきたいところです」 「別に意識してこだわってたわけじゃないよ? でもゆうちょのこと考えると夜も眠れないんだもん、仕方ないよね」 「ま、もちろんきっかけはあって。私が大蔵家に預けられた理由知ってる?」 「まあ……」 「私があんまりがさつに育ったから、教育のために預かってもらうって話だったでしょ?」 「実際、お父さんも荒っぽい人だし、家に遊びに来る社員の人も現場上がりの運ちゃんみたいな人ばっかりだったから、私も影響受けちゃって男勝りの性格に育っちゃったんだよね」 「ええ、そうでしたね……そう、聞いています」 「でもお父さんの本当の目的は別だったみたいで」 「別?」 「うん。大蔵家と繋がりを持ちたいから、私をゆうちょのお嫁さん候補にしたかったみたいで」  僕は後ろを向いてアイスティーを噴いた。ほとんど無駄にしたせいで、コップの中身はあと僅か。 「政略結婚ってことになるのかな。そんな感じのを考えたみたい」 「初、耳……ですね」 「たは、たははは。聞いてるのかと思ってた。ご家族は知ってるはずだよ。うちのお父さんから『ゆくゆくはご子息のパートナーに』って申しこんだみたい。でも丁重にお断りされたって」  聞いてない……当事者なのに全然知らなかった。  いや、当事者は僕じゃないのか。あのときは「偶々」日本にいただけで、大蔵家の本物のご子息は別にいるはずだ。  てことは、湊も最初から相手にされてなくて、適当な僕なんかと一緒に生活させられてたんだ。 「お父さんにがっかりされちゃったよ。『もう少しお淑やかに育てればよかった、大蔵家でどんだけ暴れたんだ』って。そのあとお母さんに『湊の気持ち考えなさいよ!』って頭引っぱたかれてたけど」 「でもその時にね。私、それどころじゃなくなっててさあ。それまで結婚どころか、自分が女だってことすら意識してなかったけど、その話が成りたってたら、私、ゆうちょのお嫁さんになってたんだって」 「や、もーそん時だね! そん時、ゆうちょのこと考えるだけでドキドキしちゃって! もーすぐにでも会いたくなった! 私、ゆうちょのこと好きになっちゃったんだって自覚したもん!」 「や、もーもーもー恥ずかしい! なんだこれ、たはは。一人で盛り上がっちゃってごめん、もう話すのやめるね」 「いえ、続きを聞きたいです。好きなだけ盛りあがっていいので、どーぞ続きをお願いします」  りそなの目は血走っていた。そして僕は色々と混乱したせいで、頭がぐるぐる回転して、軽く吐きそうになっていた。 「続き? うんまあ、りそながいいって言ってくれるなら……私の初恋、ゆうちょのこと知ってる人に聞いてもらうのは初めてだし」 「で、私はゆうちょのこと好きになっちゃったんだけど、でもその頃にはもう、実家へ戻ってたわけで。ゆうちょと会いたくても、東京と滋賀じゃ子どもの力だと簡単には行けない距離で」 「大体、お父さんも悪いんだよ。私がいつまで大蔵家にホームステイするのか、教えてくれないんだもん。ずっと一緒に居られると思ってたから、引き離された時の喪失感も大きくて」 「私、思ってたより、ゆうちょと一緒に暮らしてた毎日が楽しかったんだなーって。ゆうちょとだったら、ずっと一緒に暮らしてもいいなって思った。それが恋に繋がったんだと思う」 「それは、恋心ではなく、過去の思い出が理想化されてしまっただけでは? 実際に会えば、兄は想像していた人物と全くの別物になっているかもしれません」  それはりそなが正しい。だって湊が好きだと言ってる大蔵遊星、いま女装してるから。 「や、それはもう、ゆうちょは昔と別人だと思うよ?」  別人どころか女だよ? 「理想化してるのも確かだし、外見なんて想像もつかないし」  外見的にも女だよ? 「でも他のどんな男の人を見ても、ゆうちょ以外にときめいた人はいなかってさー。男の子の友達もいるし、告白なんかもされたりしたけど、考えると胸がぎゅーってなるのはゆうちょだけ」 「だから私、今はゆうちょのことしか好きになれないんだよ。もし昔の面影なんて全くない男の子になってたとしても、恋愛のとっかかりが、ずっとゆうちょに引っかかったままなんだもん」 「だから私はゆうちょに会いたい。会って、話して、自分の恋が憧れだったって確かめるか、ゆうちょにズバッと断られるかしない限り、ずうーっとゆうちょのことが好きなんだあ」  わああ……。 「でも私、自分の人生で、今が一番かわいいとはまだ思えないんだ。だから、もっとかわいくなるよう努力して、昔より女の子らしくなったら、自分でゆうちょと連絡取りたい」 「ほほう」 「その時はりそなも協力してくれる? ゆうちょの連絡先を教えてほしい」 「まあ今の状況では断れなくなりましたし?」  うん。連絡をとる対象が目の前で聞いてるから、断われないだろうね。 「ありがと。初恋のこととか話すと照れちゃうね」  うわあ、困った。次に湊と会う時は、僕のことを好きだと知ったまま会わないといけないんだ。  今のままじゃ湊の気持ちに応えられない。しばらく……いや、卒業までは会わない方がいいのかも。 「てかさ! 朝日さ!」 「はい?」 「朝日もゆうちょのこと知ってるんだよね? 似てるって言われたことない?」  きゃあああああああ――!! 「なーんか、ゆうちょの小さい頃の面影と近い部分があるんだよね。だから私、初めて見た時に、この子ゆうちょみたいで仲良くしたいと思ったんだ」 「今の顔って朝日みたいな感じ? や、それはさすがにないか。このままの顔してたら、男の子なのに、ゆうちょがとんでもない美少女ってことになっちゃうもんね」  なっちゃってます。美少女かは個人の嗜好によると思うけど。 「でも目元とか小さい頃のゆうちょにそっくり。ね、もちょっと間近で顔見ていい?」 「それはあの、駄目と言いますか……」 「いとっ、従姉妹なんです! 朝日は大蔵家の遠い親戚ではあるんですが、両親が父に逆らったせいで事業に失敗して、身寄りをなくしてしまって……使用人という形で、我が家で面倒を見ているんです」 「ミナトンが我が家を出た後の話ですね。一人娘だったので、それならうちで引きとっても良いということになったみたいで」 「そ、そうだったんだ。そんな話しにくい家庭の事情が……ごめんね、余計なこと聞いて。苦労したんだね、朝日」  冷や汗だーらだら。だーらだら出てる。  危なかったあああ。りそなの機転で助かった……ありがとう。 「そうです、そういえば、まだ話の途中でした。ミナトンがなぜ女性らしくなりたいか、という話だったはずです」  そしてりそなは強引に話題を切りかえた。頼れる妹がここに居てくれて本当に良かった。 「ん? んー、まあ一番の理由は恋愛かな? きっかけはまた別だけど」 「と、言いますと?」 「りそなは覚えてるかな、私がゆうちょに、滋賀の実家から送られてきた、かわいい服を着せて遊んでたこと」 「ああ、覚えてます。うちの兄が、ミナトンのことを男みたいとか、自分より逞しいとか、言葉の暴力を無神経にぽんぽん投げていたからお仕置きしたんですね」  当時の僕は平気で湊のこと男扱いしてたね。ごめんなさい。 「あ、違うよ? 私は腕っぷしが強いのを自慢に思ってたし、男扱いされて怒ったことはないよ。ただ、ゆうちょって顔が綺麗だったし、私より大人しかったから、男と女が逆みたいだねって話したことがあって」  またしても僕の顔が女の子みたいという話題に。この流れが終わるまで、りそなには申し訳ないけど黙っていよう。 「で、一度私の服を着せたら似合ってたから、なんとなく二人の秘密みたいな気持ちもできて、二度三度と着せ替えをするようになって?」 「でも一度だけ、ゆうちょが私にも着て欲しいって言ったことがあったんだ。その時はスカートなんて嫌だったし、何度か拒否ってはみたんだけど、どうしても見たいって言うから一度だけならいっかあと思って」  あ、その会話は覚えてる。そういえば僕が湊のスカート姿を見たのは、あの一度きりだった。 「その時、ゆうちょが髪の毛も綺麗に梳いてくれて『やっぱり女の子のみなとの方がきれいだね』って言ってくれたんだ」  僕、そんなこと言ってたんだ……。 「女の子らしくすれば、自分なんかよりずっとかわいくなるって。その時は男の子になりたいと思ってたくらいだから嫌だったけど、ゆうちょが好きだって気付いてからは、綺麗になりたいと思えて……」 「ゆうちょが好きになってくれるなら、女の子らしくなる努力をしたいと思えて、その頃からスカートも穿きはじめたんだ。あれから何年も経ったし少しは見た目もマシになったと思う」 「マシどころか、今の湊様は同世代の女の子と比べても、可愛らしいと思います。告白などもされたと仰られていましたし」 「ありがとー。でもまだまだかな。私が好きになって欲しい人は、とっても高嶺の花だから」  ごめんなさい。その高嶺の花、今はルナ様の使用人やってます。 「高嶺の花というのは、家柄のことですか?」 「ん? まあそれもあるかな?」 「家柄においては、それほど気にしなくても良いのではないでしょうか。柳ヶ瀬の会社も、この不景気とは裏腹に、数年前とは比べ物にならないほど大きくなったではありませんか」 「ん、まあお父さん頑張ったからね。政略結婚を抜きにしても、私の面倒が見られないから外へ預けないといけないくらい。一年の半分以上は会社に泊まりこんでる時もあったし」 「そんな時期はピリピリもしてたけど、最近は落ちついて、一緒にごはん食べる日が多くなったんだ」 「地域振興にも貢献してるみたいで、地元ではちょっとした名士みたいな扱いだし。お陰で私もいい暮らしをさせてもらってる。お父さんには感謝してる」  それまで天然の笑顔を振りまいていた湊の表情が、少しだけぎこちなくなった。  柳ヶ瀬運輸は、確かに地元での評判は良いみたいだけど、ここ近年の急成長とやや強引とも言える手腕に、同業者の間では不満の声があると聞いてる。  恐らく湊も耳にしたことくらいはあるんだろう。だから表情が曇った。でもすぐにスイッチを切りかえたのか、明るい笑顔を見せてくれた。 「ま、せっかくお父さんと一緒にごはん食べる時間が増えたって言っても、四月には私がこっちへ来るから、またしばらく離れ離れなんだけどね!」 「そうなのですか、離れ離れに……え、こっちへ来る?」 「うん。私ね、実はゆうちょと同じ道を目指してみようかなと思ってて。新しくできた服飾学校へ通うことにしたんだ」 「は……滋賀、ではなく東京の? 服飾学校? 今年からできる?」  え、何それ。なんだか、どこかで聞いたことのある話なんだけど。  あ、そっか。だから湊は布屋で買い物してたんだ。そっか、服飾学校かあ……。 「やー、この一年間、服飾の家庭教師の先生付けてもらって勉強してね? 受験もしたわけですよ。ただ、私は一般のクラスで良かったのに、お父さんがお節介焼いたせいで、特別クラスへ編制されちゃって」 「あ、その学校ね? セレブの人とかで構成されるクラスがあるみたいで。うちの実家なんてまだまだなのにね。私、お付きの人まで付けられちゃって。お嬢様って柄じゃないのに照れるよねー」  あれ、なんだか声が遠くなってきた。また冷や汗が背中を伝っていく感触が……。 「やーでも、こっちには知りあいもあんまり居ないから心細かったんだ。りそなさ、良かったら、これからもちょくちょく遊んでよ」  僕はこの時、再び顔が真っ青になっていたらしい。そんな情けない兄に代わって、りそなは勇気を出して尋ねてくれた。 「あの、なんという学校へ通うのですか」 「フィリア女学院」  同じ学校だああああああ! 「朝日!?」  二度目の大きなショックには耐えきれず、僕は真横に転倒したらしい。 「だ、大丈夫? このお店へ来た時と比べて、顔色が良くなってたから安心してたら……やっぱり体調悪かったんだね」 「そうだ、一緒に私の知りあいの家へ行く? この付近に住んでたと思うから、きっと面倒見てくれるよ」 「い、いえ問題ありません! しばらく休めば回復するはずです。ただ、ここでは人が多すぎるので、タクシーで連れて帰ることにします」 「そっか。もうちょっと話したかったけど、また今度だね。じゃあ最後にアドレスの交換だけしようよ」  携帯を近付けあう湊とりそなの姿を僕は呆然と眺めていた。  同じ学校……これじゃ三年間は、大蔵遊星として湊に会えないよ。向こうは僕を認識してるんだし、絶対どこかですれ違う。  あとは同じクラスにならないことを祈るしかない……。 「あの、湊様……実は私、今はりそな様のお付きではなく、別の主人の下で雇っていただいておりまして……」 「そうなの? ふーん、じゃあ朝日の番号も聞いておこうかな?」  そして番号を交換し終えた湊は、去り際、りそなに支えられる僕に何度も手を振ってくれた。 「じゃーねー! 近いうちにまた遊ぼうねー! 私、絶対連絡するから!」 「お、お待ちしてます」  僕の精神を限界まで酷使させて、湊は雑踏の中へ消えていった。  顔色を青くされて、赤くされて、最後にまた青くされて……神経も磨られて、削られて、もうボロボロだ。 「あの、大丈夫ですか。一度実家へ戻って体を休めてはいかがでしょう。妹が介抱しますよ」 「だ、大丈夫……男の子だし、30分も休めば帰れるよ。あまり遅くなるわけにもいかないし」 「ではそれまで付き添います。ミナトンのせいで、しばらく兄を独り占めしたくなりましたし」 「ただ私の前で女言葉を使う兄には引きました」 「だよね」  それから僕は、近くのホテルへ連れこまれて、りそなに膝枕をしてもらいながら身体の回復を待った。  桜屋敷へ戻ったころには、ルナ様に買い物を言いつけられてから、実に半日過ぎたあとだった。 「ただいま戻りました……大変遅くなりまして、申し訳ありません」 「おかえり。ものすごく遅かったな。りそなから連絡はあったものの、いい加減待ちくたびれたぞ。私は今までずうっと〈型紙〉《パターン》を引くのを待ってたんだ。今回は許してやるから、早く待望の製図用紙をよこせ」 「あああああ――っ! 製図用紙忘れてましたああああああ――っ!」 「ばか――!!!!」 「というわけだ。以前にも話したと思うが、この屋敷にもう一人の住人が増えることになる」 「はい。本日お見えになると、八千代さんから聞いております」 「部屋の準備は済んでいるな? ユーシェや瑞穂と同じく、同級生となる朝日に案内してもらうつもりだ。君は家事全般の腕は立つが、どこか抜けている部分がある。くれぐれも粗相のないようにな」 「はい。桜小路家の名前を汚さないようにいたします」 「な、何故あなたたちは、夕食も済んでいない内から公開SMプレイをしているんですの? それは何かの罰ですの?」  四つん這いになった僕の上でルナ様が座っている。この構図を見て、通りがかりのユルシュール様が顔を顰めていた。 「勘違いするな。私は本来、体罰など大嫌いだ。人を暴力で屈服させるなど吐き気がする」 「その体勢のまま体罰ではないと言われても、では好きでやっているのかという回答にしか結びつかないですわ。お楽しみ中でしたらお邪魔しました。ごめんあばずれ」 「日本語間違えてるぞ。それとお楽しみはしてないし、嫌いと言っただけで、体罰を加えている事実は否定しない」 「朝日が自分のミスの責任をどうしても取りたいというから、色々と協議した結果、今回はこの形になっただけだ」 「ルナ様から仰せつかったご用命を果たせず、大変な責任を感じております。申し訳ありません……申し訳ありません」 「そ、そうですの、双方合意の上ですのね。でしたら、私から申し上げることは何もございませんか?」 「ユルシュール様、文末が疑問形になっております。『ございませんわ』と仰りたかったのですね」 「人の馬になっている女性から、真顔でアドバイスされるこの光景は、とてもシュールですわ……」  ユルシュール様は呆れているのか、半目になりながら僕たちを見つめた。でも実際のところ、ルナ様が極端に軽いせいで、罰としてはあまり成り立ってない気もする。 「さて。人に見つかったし、そろそろ止めるか。朝日、よく耐えたな。買い物の件はこれで許そう」 「はい。ありがとうございます、お優しいルナ様」 「ハ……完全にルナの犬ですわね。まあ料理の腕は認めますし、駄犬とは申しません。我が家のモトカレ同様、そこそこに賢い知能をお持ちなのではなくて?」 「お褒めにあずかり光栄です。お優しいユルシュール様」 「朝日、その女の嫌味にまともな返答などしなくていい。私の付き人を飼い犬扱いされて実に腹立たしい」 「あら、珍しくルナを腹立たせることができましたの? オホホホ、それは気分がいいですわ。そうですわね、私の実家の優秀なメイドたちと比べれば、私たちの猿真似の日本人メイドなど比べ物になりませんものね」 「日本の女性使用人がお粗末だということは欧州の人間が言及していますものね、オーッホッホッホ!」 「いつの話だ。幕末の、それも開国したばかりの時期だろう」 「歴史が浅いことに変わりはありませんわ。それと家事使用人の種類はあっても、やはりメイドと名乗るからには、本場である欧州を見習っていただきたいですわ。オーッホッホッホ!」 「あ。私、生まれはマンチェスターです」  一瞬にしてユルシュール様の顔が暗くなった。それとは対照的に、ルナ様の顔はキラキラと輝き、まるで数秒前の二人の表情を入れ替えたようだった。 「朝日、私は君を雇って本当によかった。非常に、心から、この上なく気分がいい。望むものがあれば、今すぐにでも与えたい気分だ」 「あ、ではルナ様のデザイン画を数枚いただきた……」 「わっ!?」 「くっ、このメイド……よくも私に恥をかかせてくれましたわね! 所詮はルナのメイドですわね!」  肩を掴まれた。ゆっさゆっさと何度も前後に揺らされる。 「そ、そう言われましても、出身地がイギリスであることは事実なので……」 「わわっ!?」 「おやおやユーシェ、私のメイドに八つ当たりはやめてもらえないか?」  今度はルナ様の手に掴まれた。ただユルシュール様のように攻撃的なものではなく、腰に手を回して優しく抱き寄せられた。 「私は以前からメイドの本場は英国だと思っていた。やはり朝日のようなレベルの高いメイドは、仕える家を自分で選ぶんだな。ようこそ当家へ。私はいま非常に朝日が愛しい」  ユルシュール様に対抗するためとはいえ、ここまで愛でてもらえると嬉しいなあ……はっ! 喜んじゃいけない、僕はそもそもメイドじゃない! 「くっ、ルナとそのメイドのくせに生意気ですわ……マンチェスターなんて英国の中でも人口ばかりが多く、それも学生だらけの田舎町ですわよ。本場の出身だと言うなら、ロンドンで過ごさなければ話になりませんわ」 「あ、はい。ロンドンには半年ほど滞在いたしました」  そんなはずはないのに、ユルシュール様の髪が燃えあがるように広がって見えた。その反面、ルナ様の腕はより強く優しく僕の腰を抱きしめた。 「半年程度で付けあがらないでいただきたいですわ! 大体、私はイングランドをそれほど評価しているわけではありませんのよ。欧州の中心はパリですわ!」 「いや、パリが中心でも構わないが、ユーシェの生まれはジュネーヴだろう。スイスだ。ただ友好都市というだけで、パリとは何の関係もない。しかもロンドンの方がジュネーヴよりパリに近いじゃないか」 「その上、スイスと言えば欧州では田舎の国扱いなんだろう? 天下の大英帝国様を田舎扱いするなど、恥を知れ山間民族。たとえマンチェスターが英国の田舎であっても、ジュネーヴはスイスというだけで山賊扱いだ」 「我が国でも、例の有名なアニメと永世中立国ということ以外にスイスの特徴を挙げられる者など少数だ。ああ、国名が回文になっている珍しい国だな。すごいすごい」 「なんですの、それがなにかすごいことですの? 他にも誉めるべき点は沢山あるでしょう、歴史あるジュネーヴ、芸術の街ローザンヌ、世界的な金融都市チューリッヒなど」 「嘘をつくな。ジュネーヴとローザンヌはフランス領だろう。それとチューリッヒはドイツ領だ。うちのメイドが勘違いしてしまうだろう、捏造はやめてくれ」 「全てスイス領ですわ! ぬくく、日本も英国も島国じゃありませんの! いずれ海面上昇に伴い沈んでいく国民たちが、大陸の主要機関を多く有する我がスイスを馬鹿にするなんて許されませんよ!」 「ユルシュール様、文末だけが丁寧っぽくなってます」 「島民たちのくせにうるさいですわ! 大陸に住む私から見れば、ポリネシアの未開の島も、日本列島もグレートブリテン島も大して変わらないのですわ!」 「島国を馬鹿にしたな? ならばその島国に立っているのはどこの大陸人様だ。あと三年間暮らすんだぞ? それとも今から大陸へ帰るか? 私は構わないぞ、ほらほらどうする?」 「くくっ、なんて横暴なんですの! 大陸の最東端の先に浮かぶ島国のくせに! 私たちの文化を猿真似した分際で!」 「ほほう、猿真似? いまユーシェが使っている言葉は何語だ? 我々の文化の猿真似をするのが嫌ならフランス語を使っても構わないが? その代わり、この屋敷内では日本語以外での用命は受けつけないが?」 「うっ、ぬくくく……!」 「ほら、使え、猿語を。というより今まで使ってたわけだから、自他ともに認める猿だな。サルシュール=サルール=サルメールだ」 「ムムムムッキー! ユルシュール=フルール=ジャンメールですわーっ!」  ああユルシュール様、なんてテンプレ的な怒り方を。「ムッキー」って単語も、ルナ様から教えられたものなのかな。 「ああもう、腹立たしいですわ! どうしてルナはいつも、私のことを馬鹿にするんですの?」 「反応が面白いからに決まっているしゅ〜る。ムキになるところが笑えるしゅ〜る」 「人の名前を終止形の最後に繋げないでいただきたいですわ?」 「そうか? わかった、気をつけることにするしゅ〜る」 「ムッキー!」  これは放っておいたら、いつまでも続きそうだなあ……。  ルナ様にお願いしても止めそうもないから、ユルシュール様に向けて深々と頭を下げた。 「ユルシュール様、申し訳ありません。どうか機嫌を直されますよう」 「あら、こっちは素直ですわね……まあ、英国出身というだけで責めるのもおかしな話ですわね。いいですわ、朝日に免じて、ルナの無礼な発言は許してあげますわ」 「はあ。朝日の方が、ルナよりよほど教養があって上品に見えますわ。主従を逆転した方がよろしいですわよ?」 「それは日本の諺にある『判官贔屓』というやつだ。立場が哀れに見えるから美化したいのであって、朝日が使用人であることに変わりはない。教養で私が劣るとは思ってない」 「ああもう、次に来る方も日本人と聞いていますが、今より屋敷内に教養のない方が増えるのかと思うと、気が重いですわ……瑞穂か朝日のような、例外的に清らかな女性であることを祈りますわ」 「新しくお見えになるお客様とユルシュール様は面識がないのですか?」 「ですの。面識があるのは、ルナと……瑞穂も会ったことがあると言っていましたわ」 「朝日のようにいいやつだ」  ルナ様の言葉にユルシュール様は眉を顰めた。 「気さくで裏表のない、性格のいいやつだ。彼女の実家の会社は私と付きあいがあるんだ。彼女とは年が近いこともあって、何度か顔を合わせてる内に仲良くなった」 「ルナが……人と、仲良く?」  ユルシュール様は徐々に眉間の皺を深くし、とうとう怪訝そうな表情で固まった。ルナ様に友達が一人できたということは、それほど一大事なんだろうか。 「子どもの頃から仲のいいユーシェと瑞穂を除けば、私の友人はりそなと新しく来る客人くらいか」  あ、一大事だ……。 「欺瞞と詭弁と誹謗中傷冒涜で頭の中身が埋まっているような、このルナと仲の良い友人……? もし人格的に問題がないのであれば、よほどの仁者、聖人のような女性ということになりますわね」  真顔で言ってるということは、嫌味ではなく、本気でそう思ってるんですねユルシュール様……僕は馬にされて上に乗られましたけど、それでもルナ様はそこまで悪い人じゃないと思います。 「なるほど、よくわかりましたわ。とても安心できましたの。新しい方は、私か瑞穂に近い人種ということですわね」 「瑞穂と自分を同じ扱いにするな。瑞穂が汚れるしゅ〜る」 「……それ、気に入ったんですの? まあ、汚れるでも何でも好きに言えばいいですわ。私が天使である事実は事実なのですし、ルナから自分がどう思われようと構いませんわ」 「もうムッキーと叫びながら怒ってくれないのか」 「ええ。瑞穂のような女性が増えると聞いて、心が安らぎましたの。私と瑞穂と新しい方で、優雅で落ちつきのあるお付きあいをさせていただきますわ」 「んー……性格の美しさでは瑞穂に匹敵するが、優雅で落ちつきがあるかと聞かれれば、むしろ対極に位置するタイプかもしれない」 「どういうことですの?」 「私が月のように深みのある慎ましさ、瑞穂は湖のように淑やかで穏やかな性格と形容するなら、南天の太陽のように明るく快活な性格と言えるしゅ〜る」 「なんだかイラッとしますわね。快活と言えば聞こえはいいですが、つまりは賑やかな方ということですの? 私、うるさい方は苦手ですわ」 「えっ」 「言っておきますけど、ルナと話してるときが特別なだけで、普段の私は落ちついた喋り方ですわよ」  僕と初めて会った時も大騒ぎしてたと思うけどなあ。 「で、どうなんですの? 騒がしい方ですの?」 「日本の諺に『百聞は一見に如かず』というものがある。会えばすぐに仲良くなるよ。なにせ、私ですらメルアドを教えたくらいだからな」 「ルナのメルアド……スイスのプライベートバンクで管理されている口座番号よりも、機密性が高いと思っていましたのに」 「それだけ信用してるということだ。万が一あれの中身が黒かったら、私は誰も信じられなくなる」 「ルナ様がそれほどまでに仰る方なのですか」  どんな人なんだろう。これから来るお客様に、会う前から期待が高まってきた。ユルシュール様や瑞穂様みたいに、話しやすい人だといいな。 「お嬢様、お客様がお見えになられたようです」  八千代さんから声を掛けられて、僕は玄関へ向かった。ルナ様が直接出迎えると言って一緒に移動しはじめたから、ユルシュール様まで興味が湧いたらしく付いてきた。  あ、しまった。そういえば、名前だけは聞いておけば良かった。八千代さんが紹介してくれるだろうけど、その一度で聞き間違いなんてしたら大変だ。 「お嬢様、いけません。荷物は私どもがお運びいたします。どうか、ご容赦のほどを」 「いいんですいいんです! 私、そういうお嬢様とかじゃないし、力とか自信あるんで」  ん? 「ものを運ぶのは得意なんですよ。ほらうち、実家が運送会社じゃないですか」 「ご実家の家業と、ものを運ぶ力は関係ないと思いますが……」  どこかで聞いた声……ていうか会話。それも最近、っていうか今日の内に? 「おっ邪魔っしまああーす! ルナ久しぶり、湊だよー! いやあ何年ぶりかなあ……」 「はれっ、朝日!? なんでこんなところに?」 「また知りあいか。朝日、君とんでもなく顔が広いな」  僕はルナ様から声を掛けられたのに返事ができなかった。だって湊が屋敷へ入った瞬間に、立ったまま真横へ倒れていたから。 「じゃ、改めまして!」 「滋賀県から来ました柳ヶ瀬湊です! ルナとはお父さん同士が知りあいだったんで仲良くなりました! 特技は物を運ぶことです! 実家は運送会社です! ここ笑うとこです!」 「服飾業界を目指してる理由は、憧れの人の影響を受けてです! まだ勉強を始めて一年ちょっとですが、ジャンパーをブルゾンと言える程度にはオシャレになりました! カットソーの定義はわかりません!」 「お久しぶりです湊さん。父の誕生日会の折は、湊さんのお父様と我が家までお越しいただきありがとうございました」 「あの時は挨拶を交わした程度であまり話すことはできませんでしたが、縁は異なものとでも言えばいいのか、これから三年間、同じ家から同じ学び舎へ通う間柄になりました。どうか仲良くしてください」 「はい! その折は! お誘いいただいてありがとうございました! ところで私、花之宮さんみたいにすらすら丁寧言葉出てこないので、時々無礼な発言とかあっても許していただけるでしょうか!」 「ええ、もちろん。それに、ルナと比べれば大抵のことは失礼だと思わなくなりますし」 「その発言の方が失礼だ。私は敬語を使わないだけで、瑞穂に対しては比較的甘い方だ。大きい、柔らかい、と思ってはいても口に出さないはずだ」 「私が失礼なことを言うのは、自分に対して無礼な女、つまりこっちのスイス人だけだ。ああ湊、紹介しよう。こっちの金髪はユルシュール。ユルシュール=ムキニナール=スグマケールだ」 「ルナ様? 自己紹介から、私の主人の名前を適当に伝えてもらっては困っちゃうわ。私の主人の名前は、ユルシュール=スグテガデール=ケルナグールでございます」 「ジャンメールですわ!」 「ぶっ飛ばサレール!」 「欧州の名門ジャンメール伯爵家の三女、ユルシュール=フルール=ジャンメールですわ。世界に名立たる国際都市・ジュネーヴから来ましたの」 「わーっ、ジュネーヴってスイス? ヨーロッパの中でも特に有名だよね。国際連合の機関とかいっぱいあるよね? それも伯爵家! すごい! 小説の中の人みたい!」 「気に入りました。湊さんとは仲良くできそうですわ。これからはひとつ屋根の下で暮らすのですし、私のことはユーシェと呼んでいただいて構いませんわ」 「今の今まで湊を警戒していたのに、一度誉められただけで手の平を返すあたり、ユーシェは愛すべき単細胞だな。見ていて面白いから特に直そうとは思わないが」 「ただし湊の勘違いに付いては色々と修正しておこう。まず大切なことだが、スイスでは貴族を制度として認めていない。それと瑞穂の実家の旧爵位はユーシェより上だ」 「ちなみにスイスの建国は1291年となっているが、実際にはスイス連邦が成立した1848年が国家の成立とみなしていいだろう。つまり大した歴史はないということだな」 「もう許せませんわ! サーシャ、今すぐトマトを用意しなさい、ルナの顔にぶつけて血まみれのようにしてやります!」 「やーでも、私そういう歴史背景とかよくわかんないし、なんかもう見た目から貴族オーラ出てるし、ユーシェは生まれつきの貴族だなって普通に思うよ! 私と違って本物のお嬢様だ!」 「大変に気分がよろしくてよ! オーッホッホッホ!」 「ユーシェ。その単純さと笑い方は面白すぎるぞ。まあこれで同級生の紹介は終わりだ。次はそれぞれの使用人の紹介に移りたいんだが……」 「うん? お願いするよ。どうぞ」 「いや、私付きのメイドがだな……朝日。さっきから黙っているが、私たちの会話を聞いていたか」 「はいっ!? え、あの、もも、ももちろん聞いてましたよ? どんなご用件でしょうか」 「聞いてないじゃん!」  湊のツッコミに助けられたけど、ルナ様は僕のことをしかめ面で睨んでいた。  というかごめんなさい、全然聞いてませんでした。湊の自己紹介の辺りから、声だけは耳に入ってくるけど、内容は全く頭の中に残ってません。  だって湊が……昼に会った時はなんとか無事に話が済んで、学校が始まるまでに対策を考えなくちゃと思ってたところだったのに、湊がルナ様の知りあいだったなんて。  どうしよう。ボロを出さない自信がない。迂闊なことを話せば、正体がバレてしまうかもしれない。 「朝日。黙っているだけならともかく、ここへ座ってから、何故ずっと顔を伏せている」 「お客様の顔を正面から見つめては、失礼かと思いまして」 「ユーシェと瑞穂のときは普通だっただろう」 「てか、顔なんか全然見ていいよ。だって朝日とは、この家へ来る前から仲良くなったんだしさ。友達友達!」 「ふふふ、私もこの家へ来る前に仲良くなったんですよ」 「面識があるなら紹介はしなくてもいいと思うが、何故こんな態度で湊と接するのかわからない。先に知りあっていたのなら、なおさら話もしやすいだろう。朝日、その陰気な態度をいい加減にやめろ」 「も、申し訳ありませんっ」  ルナ様の言ってることはよくわかる。だけど無理だよ。だって湊と……子どもの頃に一年間過ごした相手と、三年間過ごして正体バレないようにするなんて。  湊は「女の子らしくなる」のを目標にしてると言ってた。それに僕が初恋……どころか、今も恋愛の対象だって。その相手が女らしくどころか、女のふりをしていたらどう思うだろう。  あああ、バレるバレちゃう。バレたらがっかりさせるし、嫌われる。そして当然この家には居られなくなるし、もうどうすればいいのかわかんないよ。 「あ、てゆかルナは聞いてないの? 朝日はずっと体調悪かったんだって。私と会ってた時も貧血起こしたみたいに一度倒れたんだよ」 「ん、そうだったのか。午前中は元気だったから気付かなかった。今日は気温が高かったし、相当な人混みだっただろうから、それで体調を崩したのか?」  ルナ様の声が柔らかくなった。これは素の音に近いんだろうか。顔色が悪い理由は健康上の理由じゃないから、騙してるみたいでとても申し訳ない。  でも今は男であることを隠すために……ごめんなさい、嘘をつきます。 「申し訳ありません。お客様が来ると聞いていたので、役目を放棄するわけにもいかず、言いだせませんでした」 「そうか、無理をさせて悪かった。強い陽の光の下を歩く辛さは私もよく知っている。すまなかったな」  ルナ様がすごく優しい……だから余計に心が痛む。嘘をついてごめんなさい。明日はとびきりの料理を作ってお返しします。 「朝日」 「はっ」  ルナ様に感謝してたら、気付いたときには湊が間近まで近付き、僕の顔を覗きこんでいた。  え、なにして……あんまり近付かれると正体バレそうで怖いよ? 「目はしっかりしてるね。でも、一度倒れてるんだから、ちゃんと言わなくちゃ駄目だよ? お姉さんとの約束だ!」  どうやら湊も僕の身体の心配をしてくれたみたいだ。この幼なじみの優しさは相変わらずだ。  そして何故か瑞穂様まで顔を間近に寄せてきた。僕との親密度の高さで湊への対抗心があるみたいだけど、僕がどうして彼女にそこまで気に入られてるのかは未だにわからない。  東京で最初に知りあった友人、ってのが大きいんだろうけど、嬉しい反面複雑だ。だって僕は男だから。 「湊への紹介も済んだし、朝日は部屋へ戻るといい。それと明日は無理せず、朝の体調を八千代に報告すること。これは命令だ、わかったな?」 「はい。畏まりました」  ルナ様は普段が厳しいけど、根っこは優しい。たとえ「ツッパリが雨の日に捨て犬を抱きしめると優しく見える法則」だとしても、ルナ様になら騙されてもいい。 「あ、もうちょっとだけ」  だけど部屋へ戻ろうと立ったら、湊に服の裾を掴まれた。 「朝日が部屋へ戻る前に、うちのメイドの紹介だけしておきたいんだ。体調のことがあるし、手短に済ませるから」  あ、そういえば。さっきから、湊の隣に静かなメイドさんが控えている。せっかくの紹介の場を僕の体調のせいで予定を狂わせちゃって申し訳なかったかもしれない。 「うちのお嬢様が訪ねてきた日に体調崩してんじゃねえよ。それがおまえの仕事だろうが。お陰で私も考えてた挨拶を短くしなくちゃいけねえじゃねえか。あーもう、うざってえな。死ね。犬小屋で」  え?  何かいま……小声だけど、僕への批判が聞こえたような……。 「あ、あの。まだご挨拶しておりませんでした。ルナ様付きの小倉朝日です。よろしくお願いいたします」 「小倉朝日……? ええと小倉朝日は、湊お嬢様に近づきすぎ……」 「はい……は?」 「私がホテルで準備してる間、湊様が一人のところを狙って、取り入ろうとでもしてたの……帰ってから『朝日』って名前ばかり聞いていたせいで、気分が悪い……明日の朝日も嫌いになりそう……」 「な、七愛? よく聞こえないけど、失礼なこと言ってないよね? 朝日に失礼なこと言ったら怒るよ!」 「…………」  僕には聞こえるけど、湊には届かないように音量と顔の向きを調節して……。 「ごめんね皆。この子、すごく丁寧にお世話してくれるんだけど、ちょっと声が小さかったり、口が悪いのが玉に瑕で。たは、たははー」 「いえ、気にしておりません」 「七愛もあなたから気にされたくないし」 「ええっ!?」 「…………」  な、なにこの人? 何故か僕とても嫌われてる? ていうか憎悪? 憎まれてる!? 「皆様、はじめまして。柳ヶ瀬家メイド、名波七愛でございます……この度は私が虫垂炎を起こして入院したために、湊お嬢様の到着を遅らせ、予定を狂わせて申し訳ありません……」 「本来なら、私の事情で湊お嬢様の予定を狂わせるなど万死に値するのですが、これから三年間お世話をする使命を考えると、まだすべきことがあると気付き……『生きようと私は思った』」 「趣味は首刈り、武器は鉞、好きなものは遠距離からの闇討ち……大好きなものは三島……三島、由紀夫」  あ……さっきの「生きようと私は思った」って、三島由紀夫の「金閣寺」の一文だ。 「嫌いなものは大蔵遊星。あの男だけは、七愛許さない……そして今日から小倉朝日も嫌い」  嫌われてる! 「七愛は死なない。あいつを殺すまで……よろしく」 「どどっ、どうして遊星様や私はそこまで名波さんに嫌われているのでしょうか。心当たりがありません」 「七愛は湊お嬢様に害ある人を許さない……七愛は、お嬢様が好き。お嬢様のためだけに生きてるから……お嬢様がいつも名前を口にする大蔵遊星は許さない……そして今日は、小倉朝日の名前ばかりを聞いたから」 「湊様、助けてください……」 「こら七愛! 朝日になにかしたら私が怒るよ!」 「いいや七愛、私が許す。好きにするがいい、私は朝日の困る顔をもっと見たい」  ルナ様酷い! 「ルナ様ありがとうございます、この御恩は忘れません……私はもう決して、ルナ様には逆らいません。靴は一日に何回舐めればよろしいでしょうか」  そして絶対権力者には逆らわないこの要領の良さ! 「朝日を困らせてもいい……が、今日は朝日の体調が悪いから手を出すな。そうだな、ちょっかいを出すなら学校が始まるまで待て。その場合も身体に傷を付けるのは許さない。それと私の靴は舐めなくていい」 「わかりました。ルナ様のお言葉には、湊お嬢様の言い付けと同じように従います……」 「オーッホッホッホ! それでは私の言うことにも従ってくださるわね!」 「うるさいスイス人。全身の血を献血でもしてろ」 「ですわ!?」  ああ……名波さんの格付けでは、ルナ様≧湊≧瑞穂様>>>ユルシュール様なんだ。 「では七愛。悪いが朝日を部屋まで送ってやってくれ」 「ルナ様!? お許しください、私が殺されちゃいます!」 「大丈夫、まだ手を出さないから……休戦の言い付けは守るの。胸糞は悪いけど、お嬢様のためだから……」 「さ、私の肩へ掴まって。大丈夫、怖くない……まだ何もしない……『まだ』『まだ』『まだ』」 「ル、ルナ様、ルナ様ああああっ!」  だけどルナ様は、悲しむ僕の顔を恍惚の表情を浮かべながら見つめるだけで、救いの手は差しのべてくれなかった。ぐすん。 「あの、できれば名波さんとも仲良くしたいのですが……」 「うるせえな、話し掛けんじゃねえよ雌豚。どうせ男に突っこまれたらひぃひぃ口にするビッチの癖に。湊お嬢様に悪い男なんか紹介したらブッ殺してやる。殺すじゃねえ、バラしてやる。みじん切りにしてやる」  小声だけど、今度は間近にいるせいで、何を言ってるかよく聞こえる……うう、僕はビッチになれません。男なので。 「部屋はどこ?」 「一階の南側です……ごめんなさい、一番遠くて」 「ああ重い……でも好きでやってるわけじゃないから。言い付けだから仕方なくやってるだけ……でも気分がいいから、もっと謝って……」 「んぷっ!」 「ん……もっとかわいい声出すのかと思ったら下品。そういうカワイ子ぶらないところは嫌いじゃない」  怪我の功名。普段は気を付けてるつもりの男の声が、名波さんから好意的に捉えられたみたいだ。  それなら攻めこんでみよう。このまま黙って嫌われ続けるよりも、せめてマイナスからゼロへ戻る努力だけはしないと。 「あ、あの」 「あ、言い忘れたけど、湊お嬢様に指一本でも触れたら、私の胸が痛んだ分と同じだけの嫌がらせ……そうだ、胸の痛みだと分かりやすいよう、同じ数、同じ時間だけ、あなたの乳房を掴むから……」 「明らかに故意じゃない場合は許してください」 「恋じゃない場合? んー……そこに愛がなければ許してあげる……」  平にご容赦を願うと、名波さんは蔑んだ目をこちらへ向けつつ部屋から出て行った。僕は放りすてられたベッドの上からそれを見ていた。 「つっ……」  疲れたあ。  ああ、でも。名波さんの性格には驚いたけど、きっと彼女から誤解される要素が僕にあるのがいけないんだろうな。  それにもし彼女と争ったりすれば、湊が悲しむかもしれない。それに恨みを買って監視されたりしても、自分が損するだけだから喧嘩はしない方がいい。  そう。現状だと、名波さんも含めて僕の性別はバレてない。りそなの援護があったにしても、昼間だって隠し通せたじゃないか。  そうだ、まだ大丈夫。湊が知ってる僕は子どもの頃の姿だ。従姉妹の設定も効いて、露程も大蔵遊星だとは思ってないはずなんだ。  そう、男だとは思われてない……。  ……そこに喜んでる僕ってどうなんだろう。むしろ全く疑われてないことに、男として反省を覚えるべきじゃ……いや、そんなことを考えたら本当にバレるかもしれない。この考え方は封印しよう。  これからより一層、女として見られるように努力しなくちゃいけない。  ふう。卒業式まで女として過ごして、三年後に性別を戻して生活する日が来たとして……ちゃんと男らしくできるのかな。少し心配だ。  それと性別を戻したら、ルナ様や湊と今みたいに仲良く話したりはできるのかな……。  まだ一ヵ月も過ぎていないけど、ルナ様も久しぶりにあった湊も、優しかったり楽しかったりいい人ばかりだ。その温かさは、今までの僕の生活にはないものだった。  僕は今の生活を好きになり始めているのかもしれない。 「好き……」  す、好きって単語で思いだした。そういえば湊って僕のこと好きなんだ。  でもそれは忘れるようにしなくちゃ。いま男に戻ったとしても気持ち的に湊と付きあえるわけじゃないし、本人もまだ僕には知られたくないはずだ。 「あさひー」  わああああ!  湊のことを考えていた時に本人がやってきた。心臓がどくんと大きく跳ねた。 「はいなんでしょう……ドアは開いてます」 「ほんと? じゃあお邪魔しまーす」  湊は相変わらずの笑顔で、でも少し心配そうな色を混ぜた表情を浮かべながら部屋へ入ってきた。 「ごめんね、うちのメイドがきついこと言ってるみたいで。いつも声が小さいから、よく聞こえないんだけど……でもあの子、本当は悪い子じゃないんだよ。許してあげて」  そうだね、きっと湊のことを心配してるから故の言動なんだよね。 「てか、顔色戻ったね! 横になったからかな? さっきよりも体調良さそうに見える」 「え? あ、そ、そうですね。はい、楽になりました」  湊はベッドの縁へ座りながら、僕を見てにこにこし始めた。割と顔は近かった。 「ね、朝日」 「はい」 「朝日と話してると、昔のゆうちょと話してるみたいに思う瞬間があるんだあ」  うん、本人だからね。正解だよ。 「私が振りまわしたり……あ、物理的にじゃなくてね。うん、無茶言ったり馬鹿やったりしても、ゆうちょは少し困った顔で笑って、でも付いてきてくれて……」 「でもずっと後を付いてくるのかと思ったら、私が花瓶を割ったとき、手を引いて二人で謝りに行ってくれたり、はっとするような男らしさを見せてくれる時もあったんだ」  男らしい……そうだったかな。その一つ一つは思いだせないけど。 「だから『かわいい』って言われた時はムッとしたけど、自分のどこかで『男の子に女の子として扱ってもらった』って気持ちはあったんだろうね」  かわいい……そういえば昼に喫茶店で話したときに、僕がそう言ったと話してた。僕自身はその、申し訳ないことに、その時の会話をはっきりと覚えてるわけじゃないけど。 「その時は『かわいくなんかない!』ってゆうちょのこと叩いちゃったけど、次はもうそんなことしない。『ありがとう、ゆうちょのために頑張ったよ』って答えたいんだ」 「そのためには、もう一度『かわいい』って言ってもらえるだけの見た目にならないとねえ……たはは、これでも努力したんだもん。ゆうちょが自然にかわいいと認めちゃうくらいの女になりたいよ」 「それは、大丈夫だと思います。きっと、今の湊様なら」  だって湊だと気付かずに出会った時の僕の印象は「女の子らしくてかわいい」だったんだから。 「たは、ありがと。なんかゆうちょの面影がある朝日に言われると自信湧くね」 「てかごめん! 体の心配して見に来たのに、自分の恋愛話ばっかりしてて。朝日はゆうちょの従姉妹なんだから、そんなこと言われても困るよね」 「そんなことはありません。また私で良ければ、いつでも話しに来てくださ――」  あれっ、話しに来ていいのかな? 僕だと気付いてないのに、僕への恋心を語らせちゃ駄目なんじゃ?  だけど答えが出る前に、湊はぱっと咲いた花のような明るい笑顔を浮かべていた。 「ありがとっ! お言葉に甘えて、これからもちょくちょく遊びに来るから仲良くしてね!」  それに接触が増えると性別がバレる確率も高くなる……なんてことに気付いたけど後の祭りだった。せめて「仕事の手の空いたときならお付き合いします」程度にしておけばよかった。 「は、はい。三年間よろしくお願いいたします。桜小路家の使用人として心を込めてお世話いたします」 「まーたそんなのいいって! でも周りの目が気になるって言うなら、たまには二人でどこか出かけたりしよーね! 二人きりならお嬢様とか関係ないし!」  湊はすっくと立ちあがった。話しに来たというより、僕の身体が心配で、軽く様子を見に来ただけみたいだ。 「それじゃみんなのとこ戻るね。朝日は早く寝ないと駄目だよ?」 「はい。おやすみなさいませ」 「うん、おやすみ」  最後に湊が、布団の上からぽんと体を叩いてくれた。  湊は優しいな……一本気なところは変わってない。昔の僕は、湊のそんな性格が大好きだった。  性別は隠したままだけど、仲良くできるといいな……ん? ドアに隙間が開いてる? 「お嬢様に触んなっつっただろうが、何いきなり人の言うこと無視してんだよあの馬鹿。虫か? 虫けらだから人の言うこと無視したのか? ウェットに飛んだ冗句じゃねえか、だったら虫みてえに潰してやるよ」 「テメエは過去に見てきたどの女よりも可愛さが完成されているのに、何故かどこか女性らしさが欠けていて、そこにお嬢様が惹かれていくんじゃないかと思うと七愛は妬ましく憎らしくとても恐ろしい」 「『それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた』。恋とは無縁そうだから今回は許してやるけど、次はない、七愛はもう許さない、二度と許さない許さない許さない……」 「『ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだ○○○○○の瓶とが出て来た』。七愛はいつでもクチュッとやれる。くたばれリア充、私は生まれた時から約束された幸福を猜む。貴様のことだアアアァー! ウワァー!」  やがてドアは自然に閉まったけど、その後も外から恨めしい声が聞こえてきた。僕はドアの前から、ごめんなさい、許してくださいと何度も、何度も謝った。 「朝日ー! お嬢様から何も言いつけられてなければ、ちょっと庭の植木鉢の移動手伝って! 朝日は細いのに不思議と力あるから」 「あ、鍋島さん。朝日はほら、明日から……」 「えっ、明日が入学式だっけ? それなら家事どころじゃないわね。ごめんね、学校の準備してて」 「いえ、準備はもう済ませておきました。お手伝いいたします」 「でも今日はゆっくり休んだ方がいいんじゃない? 緊張とかしてないの?」 「多少の緊張はありますけど、入学するのはルナ様で、私は付き人ですから。仕事に支障は出ないようにします」  嘘です。男性だとバレないかという面で、非常に緊張してます。  緊張してる理由は言えませんが、何かに没頭してた方が気が楽なので、むしろ仕事をください。 「んー、とは言っても、朝日をクタクタにさせたら、お嬢様から怒られるかもしれないしねえ。それに応援してあげたい気持ちもあるし」 「じゃあ植木鉢の移動だけやっといてくれる? はいこれ、配置図」 「ありがとうございます。この作業が済んでも明日のことは気にせず、なんなりとご指示ください」  そう言って頭を下げたけど、二人には笑って見送られた。本当に休ませてくれるつもりみたいだ。  申し訳ないなあ、なんて思いつつ、本日の作業場である庭園へ向かった。 「あっ、朝日!」  庭園では、三人のお嬢様方とその付き人たちが、お茶会を開いている真っ最中だった。 「朝日さん。私たちのお茶会へ参加しに来てくれたのですね」 「申し訳ありません、植木鉢を配置する仕事を言いつけられております」  僕が配置図を見せると、湊は「なんだー」と椅子の背もたれに寄りかかった。  このままだと話しかけられて手が止まる恐れがある。皆様とお話したい気持ちはあるけど、まずは自分の仕事を終えてからだ。  一つ目の植木鉢のある場所へ移動して、それをよいしょと持ちあげた。 「あ、それでさっきの話の続きだけど、この家すごいよね。なんかお屋敷みたいな? しかもここ、都心の真ん中ー……どころか港区だよ? この一等地にこんな広い敷地を持ってる時点で、とんでもないよ」 「うちなんて普通に二階建ての家だよ。この家、地下とか3階まであるからびっくりした」 「階数だけで判断するのなら、我が家は平屋ですからお屋敷と呼べないことになりますが……」 「お屋敷だよ! だって瑞穂さんの家、竹生島くらい広かったよね? 初めて見た時は驚いたよ!」  竹生島って琵琶湖に浮かぶ島だっけ。滋賀県民の湊らしいたとえだなあ……うっ、二個目の植木鉢重い! 「てかさ、この家さ、ヨーロッパの貴族の家みたいだよね! 最初見た時、どこかの観光名所かと思ってぽかんとしたもん」 「オホホホ、この程度で観光名所? それは聞き捨てなりませんわ。私の実家は城を持っていますわよ」 「しろっ!? 城ってあのお城? 本物? すごーい、ほんとすごーい。憧れちゃうなあ、一度でいいから行ってみたい!」 「湊は清々しいほどに私を気持ち良くしてくださいますわね。ええもちろん、事前に連絡をいただければ、休館日にして一日自由に見学させてさしあげますわ。今は美術館として開放していますの、オホホホ」 「……まあ、場所が本国ではなくフランス領ですから、ルナには愛国心がないなどと嫌味を言われましたのよ。あの女の前で、この話はしないようにしているのですわ」 「フランスもスイスも同じくらい憧れるよ? それにフランスと言えばパリ。パリなんて服飾業界を目指す私たちからすれば、聖地の一つみたいなものだと思うよ?」 「オホホホ、私もパリはファッションの中心地だと考えていますわ。まあ、我が家のお城はパリから自動車で5時間程度の場所にありますの。フランスの中でも、田舎であることは否定できませんわ」 「だからと言って、あの女に田舎の城呼ばわりされる筋合いはありませんわ。全く、思い出すだけで腹立たしいですわ。ルナの使用人に八つ当たりでもしようかしら」  み、三つ目の植木鉢に早く取りかからないと。他のことを気にしてる余裕はないよーっと。 「ルナも素直ではありませんね。私の前では、ユーシェの実家のお屋敷も、調度品も、全て誉めていたのに」 「えー……あれ? 瑞穂さんの前でしか言わないってことは、それもしかして、ルナは本人に言って欲しくないんじゃない?」 「あ、あらそうでしたの? それならそうとルナも素直に言ってくれれば、この屋敷に似合う調度品も贈ってあげますのに」 「このお屋敷を買ったのは四年ほど前だっけ? こんなお屋敷選んだのも、ユーシェの家に憧れたからだったりして」 「あ、それは……ありませんわね。ここは元々桜小路家の別荘ですから」 「へ? ここ、ルナが買ったんじゃないの? 私、そう聞いてたけど」 「ええと、ルナの実家が手放したくないと考えつつも売却に出そうとしていたものを、ルナの私財で桜小路家から買ったと申しますか……」 「え? じゃあ親孝行のためだけに、こんな豪邸買ったの?」 「ま、まあそれは、本人から聞いてくださらない? ただ、ルナが本当のことを話すかわかりませんけど……先ほどの、私の実家を田舎扱いしたことといい、本当にあの子は素直じゃありませんわね」  ユルシュール様は少し強引に、話題を自分の実家のものへ戻した。なんだろう、この屋敷をルナ様が購入した辺りの話は気になるな。  でも僕は植木鉢を運んでいて質問ができないので、結局、話の流れは変わってしまった。 「誉める時は誉めてくれれば良いのに、あの女のツンデレぶりには、こっちが恥ずかしい思いをいたしますわ」 「ツンデレってなに?」 「あ、あら、一般的な言葉ではありませんの? この言葉は確か……瑞穂から教えられた覚えがありますわ」 「本当は好きなことでも、意地を張って素直に認めようとしない感情のことですね」 「そうなんだ? 知らなかった、今度使ってみるよ」 「あ、ええと……あまり一般的ではなかったというか、テレビの番組や楽曲のタイトルで限定的に使われる言葉と申しますか」 「ああ、そうだ! 言われて思いだしたよ、KYT48の曲であったね。『ツンデレなチュニック』だっけ?」 「アルバム曲なのによく御存知ですね。タイアップ等もないし、テレビでもほとんど使われたことがなく残念です……せっかく『南部いくら』のソロパートがある珍しい曲なのに」 「へー、詳しいんだ?」 「あっ、いえ……お友達から聞いた話を、たまたま覚えていただけです。あの、偶然です」 「ふうん?」  瑞穂様が口ごもってしまい、三人のお嬢様方の会話は一時中断した。  ユルシュール様も紅茶を片手に何か考えてる。湊は新しい話題を考えてる感じだ。  僕はと言えば、ちょうど植木鉢を運び終えたところだった。 「皆様は自然とお集まりになられたのですか?」  新しい会話の出だしが欲しいみたいだし、ちょっと輪の中へ加わってみよう。と思ったら、三人とも嬉しそうな表情を向けてくれた。 「んー、最初は私が『あした入学式だよ。緊張するから落ち着かない』って七愛に話したら、二人で気晴らしに桜でもどうですかって言われて、ここから眺めてたんだけど」 「そこへ私が通りがかって『観桜も良いですね』と話しかけたんです」 「私は優雅に紅茶を飲もうとお庭へ来たのですけど、お二人が居らしたから、せっかくなのでお茶会を開きましょうと提案したのですわ」 「小倉朝日は要らなかったのに……どうして来たのか……大人しく仕事だけをしていればいいのに……」 「な、七愛? もしかして朝日にまた酷いこと言ってない? 駄目だよ? メ!」  相変わらず僕は名波さんに嫌われてるみたいだ。そして湊には聞こえないよう、上手く音量を調節してるのも相変わらずだ。  でもここで引きさがったら、それこそ名波さんが僕に酷いことを言った証明になるし、そうなれば湊に怒られるはずだ。なんとかして話題を繋ごう。 「湊様が緊張されているのは、明日の入学式のことを考えて、でしょうか」 「ん? うん、そうだね、私は今まで普通の学校にしか通ってなかったから。瑞穂やユーシェたちの入る特別クラスなんて初めてだし……」 「ふ、二人はどうかな? 緊張してる?」 「いいえ、全く」  その否定が虚勢ではないと示すように、ユルシュール様は手にしたカップを静かに口元へ付けた。 「私はデザイナーの本場、欧州で学んできた自負がありますの。その学校には、本国では王位継承権を持つ王侯貴族の留学生もいましたが、そのレベルの女性たちにも臆せず、対等に渡りあってきたつもりですわ」 「お二人には申し訳ないのですけど、たとえ由緒ある家柄の方と聞いても、東洋の島国から外へ出たことのないお嬢様方のお相手をするのに、緊張を覚える道理がございませんな」 「お嬢様『ございませんわ』でございますわ。語尾が男らしくなってるわよん」 「はー……すごー、堂々としてる……」  湊はキラキラした目でユルシュール様のことを見つめていた。その輝きを浴びせられた側は、気持ち良さそうに鼻を高くしていた。 「私も胸が昂ぶってはいるのですけど、これは緊張と言うよりも、新しい環境に期待していると言った方が良いのでしょうね。とても楽しみです」 「す、すごいねー! 二人ともすごいねー! いいな、いいなー!」  羨ましがることなのかな? 湊は子どもみたいに純粋な目を二人に向けている。 「てことは緊張してるのは私だけなのかな? サーシャさんや北斗さんも緊張してないですよね? 七愛も?」  三人三様に頷く付き人たち。湊の目は彼女たちを撫でつつ、最後は僕の正面でぴたりと止まった。 「朝日は?」 「多少の緊張はあります。講師も、元々の上司にあたる八千代さんですし」  嘘だ。超緊張してる。女子校へ通うのは人生で初めてだから。 「そ、そっか! 良かったあ、私以外に緊張してる人がいて!」  湊は走り寄ってきて僕の手を握ってくれた。でも名波さんの視線が鋭くなったから、できれば彼女の見てる場所でのスキンシップは避けたい……。 「仲間が居て良かったあ。自分だけじゃないと思ったら、少しだけ気が楽になったよ。そうだ、ルナはどうかな? 緊張してないかな」 「ぷふっ。ルナが緊張? 彼女から一番縁遠い感情ですわよ?」 「そ、そんなことないと思うよ? ルナだって服飾の学校へ通うのは初めてだって言ってたし、きっと少しは緊張してるよ。瑞穂さんはどう思う?」 「どうでしょう……ただ昨日、アトリエから出てきた時に偶然鉢合わせたのですが、毎日のデザイン画は欠かしていないようですね」 「毎日……え、それって普通? 私、出かけた日なんか、一枚も描かずに寝ちゃうこともあるけどなー……なんて。疲れてるときとか、どうしても出来ない日とかあったりしない?」 「プロのスポーツ選手なら、オフの日でも多かれ少なかれトレーニングをしますわよね?」 「あー! 私も前の学校の最後のマラソン大会は、思い出作ろうと思って一ヵ月間、毎日15km走りこみしてた!」 「ま、まあ、それとプロのたとえを同じにするのもどうかと思いますけど、モチベーションが高いという意味ではそれでもいいですわ」 「ルナは目標を遥か先に持ち、そこへ辿りつくまでのモチベーションを保ちつづけられる子なんですの。あの子の意識の高さは、まさにプロのそれですわ」 「それにしても毎日欠かさずというのはすごいですね……私も、その、家事が忙しくて時間が作れない日もあるので、まるで描けない日がどうしても出てきてしまって……」 「昨日会ったときは50枚描いたと言っていました」 「50! それって普通なの!? 私は頑張って一日に5枚とかが限界だけど、私がヘンなの? 駄目な子なの?」 「あ、いえ……50枚は普通ではないと思います。毎日その数は無理ですし、特に多く仕上げた一日なのだと思います」  湊みたいに声は出さなかったけど、こっちもそうとう驚いた。僕はこの一ヵ月で20枚も仕上げていないのに……家事があったから、仕方ないのかもしれないけど。  ……いや、家事を言い訳にするのはよくない。時間は自分で作るものだ。 「というかそんなに描いてどうするの? 練習用? コンテストとかの応募用?」 「全て応募用に本気で描いているものだと思います。一枚に全力を込めれば良いものができるとも限らないので、色々なアイデアを出して、その中から良いものを選んで……という気持ちで私も描いていました」 「やー……私、今月は引っ越しがあるから、あんまりデザイン画、描いてなかったよ。ルナが特別で良かったあ」 「枚数だけで良ければ、私もその程度は余裕ですわよ? ただ朝日は『色々なアイデアを出して』と言っていましたけど、下手な鉄砲を打てばいいというものでもありませんわ。数と質のバランスが大切なのですわ」 「それでも才能の無い人は、こつこつと地味な努力を重ねるしかありませんわね。お茶の時間すら取らずに大変なことですわ、オーッホッホッホ!」  ユルシュール様は笑っているけど、僕は不器用な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。  ルナ様は凄いな……自信の塊みたいな人なのに、才能で劣る僕よりも努力を欠かさない。彼女の側にいるのだから、こっちだって頑張らなくちゃ。 「う、ううー。私、大丈夫かなあ。授業に付いていけるかな。なんだか不安が増してきた」 「大丈夫です湊お嬢様……七愛が付いています。七愛は、懐コミ前日に白紙の状態から40Pのコピー本を間に合わせました……その時の苦労を考えれば、一日に10枚のデザイン画なんて比べ物になりません……」  漫画を描いたことがないからわからないけど、そういうものなのかな……。 「ありがとう七愛。でもまだ不安だな。あまりに付いていけなくて、みんなに迷惑掛けたくないし……」 「あ、そうだ! それならルナにコツとか教えてもらえばいいんじゃないかな! 友達なんだし!」 「それは……無理だと思いますわよ。あの子ほど、人にものを教えるのが下手そうな人も中々いないですわ」  素で湊を心配してることが伝わってくる、嫌味っ気の全くない本気トーンの声だった。ユルシュール様はお優しいのですね。  しかも言ってることは尤もだと思う。できる人はできない人の気持ちがわからないと言うけど、ルナ様は明らかに天才肌で、自分の言葉が理解できない他人を理解できるタイプじゃない。 「んーでも、話を聞くだけでも違うと思うんだ。そだ! ルナが退屈してるかもしれないし、お茶会へ呼んであげようよ」 「ルナを? 瑞穂の話を聞くに、今もアトリエでデザイン画を描いているのではないかしら? 邪魔をしない方が良いと思いますわ。デザインに集中している時は、私も自分だけの世界へ入りこみたいものですから」 「私もそう思います。以前、許可を得ずにアトリエにいるルナ様へ声を掛け、こっ酷く叱られた記憶がございます」 「じゃあ軽ーく声だけ掛けてくるよ。それで嫌だったら来ないだろうし。ちょうど休憩しようとしてた、って場合もあるわけじゃん? ね?」 「いえ、そうではなく集中している意識を途切れさせることが……あ、行ってしまいました」 「心配ですわね」 「そ、そうですね。私、湊様のフォローができるように、後を追いかけてきます」  ここで本来なら付いてきそうな名波さんは、口端をにやりと歪めながら僕を見つめていた。ど、どうして僕と湊を二人きりにして許しているんだろう。 「あれ、いない?」  ルナ様の部屋の扉には鍵が掛かっていた。ノックをしても返事はない。 「じゃあやっぱりアトリエだ。地下へゴー!」 「あの湊様、やはりやめておいた方が……」 「ダイジョブだって! こう見えてルナとは結構仲いいんだよ。あの子はその程度のことで怒らないって」  ホントに大丈夫かなあ。僕も前に、好奇心が勝ったせいで、軽い気持ちのまま訪ねて怒られたことがある。 「もしもー? あ、ルナ? 今からちょっと入るね」  すごい。押せ押せだ。湊のアクティブなところは昔から変わらずで、僕は子どもの頃のように、ハラハラしながら彼女を見守ることしかできなかった。 「邪魔するな馬鹿たれ」  怒られた。 「ごめんなさい……」 「朝日。君がいて、湊に何も言わなかったのか。そうか。私がアトリエへ篭っている場合はどうすればいいか、まだわかっていないようだな」 「ちちち違うよ!? 朝日は何度か私を止めたよ? ユーシェも瑞穂さんも! でもあの、私が大丈夫大丈夫って言って聞かなくて!」 「じゃあ悪いのは全て湊か。よし、定規で素肌を叩こう。足を出せ」 「あー待って待って、私が全て悪いかって言うと、それは観念論の問題だよね。だからまあ、私一人が罰を受ければいいかっていうと、朝日がほんの少しでも受け持ってくれると嬉しいな」 「湊様? 裏切りました?」 「冗談だ。仮にも客である湊を定規で叩けるわけがないだろう。というわけで朝日、尻を出せ」 「ルナ様酷い!」 「やめてあげて! いくらルナの付き人とは言え、朝日がかわいそうだよ! 体罰よくない!」 「あの、湊様? 一見すると、かわいそうな使用人を庇ってる風ですけど、私を追いこんだのは湊様ですよ? 完全に巻き添えですよ?」 「じゃあ私に裏切られてルナから叩かれるのと、助けてもらって叩かれないのとどっちがいい?」 「助けてくださいお願いします……」 「だって。というわけで、朝日のことを許してあげて」  明るい笑顔で言われた。昔からちょっと憎たらしいくらいの時でも、湊のこの表情を見せられると許してあげなくちゃって気持ちになる。  そういえば湊の悪戯がバレて、それを僕が庇って……なんてこともあったな。なんだか懐かしい。へへ。 「微笑み合ってるところに悪いが、誰が許すと言った」 「ぁいたあっ!」 「いたあぁい!」  ルナ様は容赦なかった。定規で一閃、露出している肌に一撃ずつ加えていった。 「あ、あのあの、私、客人だから許されるんじゃ……」 「あらやだうっかり。あまりに安心しているから、世の中の厳しさを叩きこみたくなった」 「うう……ルナ様、体罰は嫌いだっていつも言ってるのに」 「その大嫌いな行為をするほど、デザインを邪魔されたことは許せなかったと解釈しろ。それと、音は派手でも痛くはない叩き方を身に付けている」  あ、ほんとだ。肌が赤くなってないし、それほど痛くない。 「というわけだ湊。親しき仲にも礼儀あり。私がアトリエにいる時は声を掛けるな」 「でもルナ、いっつもアトリエに篭ってるよ? どうしても話したい時はどうすればいい? ルナの顔を見たくて仕方なくなった時は?」 「屁理屈を。緊急時なら声を掛けても構わない。だがそれ以外の時は集中させてくれ。顔は写真で我慢しろ」 「うん、わかった! じゃあ写メ撮っていい? 会いたい時はそれで我慢する」 「恋人か」  ルナ様の定規ツッコミをかわしつつ、湊はケーキ屋のマスコットよろしくウインクしながら舌を出した。 「ごめんねルナ。みんなでお茶してたから、一人だけ声掛けないのも嫌だなと思って」 「私は一人でも構わないんだ。湊たちと話したくないわけじゃないが、今はデザインに集中したい。気を使ってくれた礼は言っておく」 「うんわかった。じゃあルナの気が向いた時は声掛けてね。私はいつでもウェルカムだから」  そげない対応をされても、湊はにこにこ笑っていた。親切の押し売り。さすがのルナ様も、大きく溜息をついた。 「……集中が途切れて、一度気持ちをリセットしたいんだ。少しだけ雑談に付きあってくれ」 「うん! ありがと!」 「あ、ではお飲み物をお持ちします。それと、他のお二人もお誘いした方がよろしいでしょうか」 「あー駄目だ駄目だ。全員揃ったら、いつまで経っても再開できなくなる。今日は私と湊と朝日の三人で充分だ」  僕も参加させてもらえるんだ。ルナ様のアトリエにお邪魔できるのが好きだから嬉しい。これで少しは明日の緊張を紛らわせることができそうな気がした。 「ルナはどうしてそんなにデザイン画を描くのが速いの?」 「毎日描いてるからだ」  反論の余地がない的確な回答だった。 「何かちょっとでも速くなるコツはないかな? 私、明日からの授業に付いていけるか心配で。ルナからアドバイス貰えればと思ったんだ」 「なんだ、私と話す用事があったんじゃないか。どうしてそれを最初に言わない。服飾の用件なら大切なことだ、それなら叩いたりしない」 「え? これって『緊急な用事』に入るんだ?」 「毎度話しに来られても困るが、明日からの授業に備えたいということであれば。グループでの衣装製作が始まった時は私が助けてもらうことになるだろう? 湊の腕が向上するなら協力は惜しまないつもりだ」  あ、ルナ様優しい。自分の為だ的なことを言ってるけど、なんだかんだ言って湊にアドバイスはしてくれるみたいだ。 「結論から言うと、即座に手が速くなるコツはない。毎日自分で決めた数を必ず描け」  でもやっぱり容赦なかった。湊の頼みの綱をばっさりと切りおとした。 「う、うぅ、厳しい。ルナ、それは厳しいよ」 「甘えるな。急がば回れなどと教師みたいなことを言うつもりはないが、速さは地道に数を重ねることで身につくものだ。一枚一枚を丁寧に描いても、芸術品ではないから評価されない」 「最初は無茶な設定でもいいから、とにかく決めた枚数を目指して描け。描ききれなければ、次の日は目標の数を5枚下げろ。目標をクリアできたら、同じ数で今後は丁寧に描くことを心掛けろ」 「それを繰りかえしている内に、自然と慣れてきて手が早くなる。私はそうだった」 「あれ……私、いつの間にか諭されてる。ルナがいいこと言ってくれてる」 「授業料。百万円」 「そして台無しだ」  たははと笑う湊につられたのか、ルナ様もくすりと口端を緩めた。結局、具体的に手の速くなる方法は教えてくれなかったけど、湊の緊張は少し和らいだみたいだ。 「うん……それにしても、湊の向上心は思ったより高かったんだな。随分とデザインに対してアクティブじゃないか」 「そ、そりゃそうだよ。だって明日から学校へ入るんだよ? 置いていかれたくないし、みんなの足を引っ張りたくないよ。それ以上に、服飾の世界でお仕事したい理由もあるし」 「その理由なら前に聞いたが、恋愛程度のものだろう?」  危うく紅茶を噴くところだった。湊はルナ様に初恋のことを話してたんだ。湊からすれば、服飾業界を目指す理由を聞かれたとして、隠すことでもないと思ったんだろうけど……。 「悪いが『たかだか初恋で』と思ってしまっていた。本音を言えば、あまり向上意欲があるとは思っていなかった。すまないと思っている」 「まあしょうがないよ。『初恋で将来決めるのってどうなの?』って自分でも思ったから。実際、何度か吹っ切ろうとはしたよ?」 「でも駄目なんだ。ゆうちょに『かわいい』って言ってもらえる場面を想像するだけで……たはは、今もそうなっちゃったけど、内側からもの凄いエネルギーが湧いてくるんだもん。他のことが手につかないくらい」  この話を聞くたびに、三年後は湊に謝る覚悟を決めておかなくちゃいけないのかと思うと、こっちも申し訳なさで頭がパンクしそうになる。 「私は恋をしたことがないから偉そうに言えないが『恋は一時の錯覚だ』なんて類の言葉は、あらゆる比喩表現を用いて星の数ほどあるだろう? ずいぶんと長い錯覚に囚われているんだなと思う」 「『恋愛とは忍耐である』萩原朔太郎」 「『恋愛を前にしてただ一つの勇気は逃げることである』ナポレオン・ボナパルト」 「んーでも、ルナは昔の私を知らないから驚かないだろうけどさ。ほんとにその、いわゆる錯覚? 一度の錯覚で、人生変えられちゃったんだもん。私がスカートを穿くなんて、子どもの頃の私が一番信じないよ」 「だったらさっさと会いに行けばいいだろう。それだけの行動力があれば、たとえ居場所が海外だろうと壁にならないはずだ。どうして本人のもとへ行って告白しないんだ」 「簡単に言わない! こっちにも色々と準備あるの! てかそんな簡単に告白できないのが恋なの!」 「め、めんどくさい……」 「私の人生の中で『今の自分が一番かわいい!』って言える自信がまだないから!」 「私が認めてやる。湊は充分かわいい。それじゃ駄目なのか」 「駄目だねえ。これだけはしくじるわけにいかないので」  僕も今の湊は充分かわいいと思うよ。小倉朝日に言われても意味がないんだろうけど。 「湊の不幸を祈るつもりはないが、相手がとんでもない不細工に育っていたのを知って、それでも心から好きだと言えるかは興味あるな」  ぶっそうなこと言わないでください。 「それでも気持ちがブレなけば真実の愛だと認めるよ。ああ、大蔵遊星が不細工になってないかな。それか、少女趣味やホモ・セクシャル等の、通常とは異なる性的嗜好に目覚めていて欲しい。女装趣味とかな」  じょ、女装はしちゃってます。鏡を見て悦んではいないから、目覚めて……はないと思います。 「ホモ・セクシャルかあ……それは少しありえるかも。顔がすごく綺麗だったから、そっち系の人には好かれてそうなんだよ。そのくせ性格は男らしいとこあったし。あれ、ゲイに育ってないか心配になってきた」  なにか妙な疑いをかけられてる! ないない、それはない! この前男の人に声を掛けられたけど、恋愛感情はない!  ていうか男らしい人が好きな場合「ザ・筋肉!」とか「ザ・マッチョ!」って体格の人がタイプだと思うんだ。僕は筋肉が全然付かないから駄目だよ。  あれ……でも僕、昔からこういう体型だったような? 外見としてマッチョな要素がないのに、湊は何をもって大蔵遊星を男らしいと思ったんだろう。 「私も財界の大家、大蔵家の話くらいは耳にしている。直接会ったことはないが、遊星という男は女みたいでひょろっちぃ奴だと聞き及んでいるぞ」  そして僕が思っていることをルナ様がそのまま言ってくれた。不名誉ではあるけど、本人も否定するつもりがないからルナ様は間違ってない。 「んー、確かに腕は細かったな。喧嘩したら絶対に私が勝ちそう……っていうか、喧嘩すらしたことなかったし。怒るっていう感情に乏しい子だったかもしれない」 「踏めば踏むほど這い蹲るタイプか」 「でもそんな子がだよ?」  マイペースで話していた湊の声に、突如熱が宿った。拳を握ったその手が赤い。 「私がいざって時に熱くなってくれたらどう思う? 大の大人が揃って手を咥えてる時に、一人だけ歯を食いしばって私のもとへ駆けつけてくれたらどう思う?」 「ほう? たとえば?」 「木から落ちたんだ。いま見たら大したことないのかもしれないけど、当時の私からすれば大きい、大っきい木だよ」 「私がよじのぼって、足を滑らせて落ちちゃって。掴まろうとして伸ばした手が、目の前の枝に全然届かなかったのを覚えてる」  え、それは……覚えてる。湊ほど昔のことを覚えていない僕だけど、その事件は一大事だったから、当時の光景が鮮明に思いだせる。 「で、そのまま真っ逆さまー! なんだけど、周りに居た大蔵家の使用人が誰も動けなくて」 「なんだそれは、湊を守るためにいたんだろう? 大蔵家の使用人は使えないな。ようし、私がきつく文句を言ってやる。朝日、君は元々大蔵家の使用人だったな」 「だけど動けない使用人さんたちを尻目に、その場の誰よりも先にゆうちょが駆けこんできて! すんごい速かった! も、普段の何倍も何倍も何倍もの速度で走ってきて!」 「なに、本当か? やるじゃないか、いいぞ大蔵遊星」 「そして間一髪スライディング! 地面を滑ってザザーって! 数メートル上から落ちてきた私をナイスキャッチ!」 「なに、ナイスキャッチ? 普通なら腕が折れてるところだ。よくやった、大蔵遊星!」  いえ、キャッチはしてません。おそらく湊が過去を美化して記憶を盛ってるだけです。滑りこんで下敷きになりました。骨は折れませんでしたが。 「すごいな、男らしいじゃないか。見直したぞ大蔵遊星。その手の感情に疎い私でも、それなら湊が恋に目覚めたのも納得がいく」 「でしょ? たははー」  はは、照れるなあ……あの時は、自然に体が動いただけだから。 「フフ、朝日も大蔵遊星の活躍を聞いて興奮しているようだな。顔が赤い」 「朝日は従姉妹なんだから好きになっちゃ駄目だよ?」 「なんだ、朝日は大蔵家の親戚だったのか? 道理で育ちが良さそうだとは思っていたんだ。りそなに仕えることになった経緯は、家庭の事情があるだろうから聞かないが」 「なるほど、親戚……そうだ、湊が目指しているということは、大蔵遊星もこちらの業界に興味があるんだろう? 一度会ってみたくなった」  いま目の前にいます。 「ルナも好きになっちゃ駄目だよ? 会うなら私がコクった後にして」 「で、落ちた私を助けたゆうちょは、最後まで声を掛けつづけてくれたんだけど……そこで私の意識が飛んじゃって、夢心地のままブラック・アーゥ」 「まるで映画のワンシーンだな。大蔵遊星はなんて言ってたんだ?」 「たはは、それは覚えてなくて……そだ! 次に会ったら、あの時なんて言ってたのかも聞きたいな。私の名前を何度も呼んでくれたことしか記憶に残ってないから」  思いだすと恥ずかしいけど「僕がずっと湊の側にいてあげるから」って何度も声掛けたんだよ。あの時は湊が目を閉じたから慌てちゃって、死んじゃ嫌だと本気で泣きそうになって……必死だった。 「でね? 次に目が覚めた時はベッドの上だった。ゆうちょが心配そうに私の顔を覗きこんでた」 「助けてくれた王子様と感動のご対面というわけだ。さぞかし美しい光景だったんだろうな」 「んーにゃ。ゆうちょの顔を見るなり『着地するつもりだったのに余計なことすんな』ってほっぺた引っぱたいた」 「君はなんてことするんだ。大蔵遊星に謝れ」  いえ、気にしてないんで謝らなくてもいいです。 「うん、次に会った時は謝るよ」  謝ってくれるんだ。気にしてないから、いいのに。 「その時の私は、本当に男の子のつもりでいたから気付けなかったんだ」 「でもその後でゆうちょのことを意識しはじめたら、それまで積もり積もってきた好きになる要素が、一度にまとめて胸を締めつけてきて」 「一年分だよ? 普段から恋愛に興味ないって言ってる、ルナが理解できるほどの出来事だよ? そんな思い出が何個も同時に恋愛感情へ変化したから止まんなくなっちゃって」 「んー……そうだな、似たような経験があったかもしれない。一度スイッチが入ると、それまで特定の相手に対して溜まっていた些細な怒りがまとめて結合して膨らんで、一瞬で大嫌いになったことがあった」  ルナ様、湊の大切な気持ちと負の感情を一緒にしないであげてください……。 「もう自分の好きだって感情に目覚めてからの数日間は、ドキドキして毎日寝られないほど惚れこんじゃってたよ。そんな初恋だから未だに消化できてなくて、ぜんぜん気持ちが収まんないんだよね」 「聞いてるこっちが恥ずかしくなるな。見ろ、朝日なんて耳まで真っ赤だ」  はい。さっきから猛烈な告白を受けつづけているので、恥ずかしいです。 「うう、私も体中から情熱が迸って叫びたくなってきた。大声出していい?」 「逆さ吊りで頭を冷やしたいなら叫べ」  声が本気のトーンだったから、湊はぶるぶる何度も首を横に振った。ルナ様はそれをやる人だ。 「ただ、まあ、中々楽しかった。誰かと恋バナなんてしたのは初めてだ」 「え?」 「驚いた顔するな。初めてなんだ、恋話。ほら今まで、湊に好きな人がいるとは聞いていたが、その経緯や心情までは詳しく聞かなかっただろう」 「や、そっちに驚いたんじゃなくて……ルナは楽しかったんだ? 自分でも一方的に話しすぎて、しかも勝手に盛りあがっちゃったから、謝ろうとしてたのに」 「てか、恋愛に興味ないって言ってなかったっけ?」 「というよりも、私が興味を持たないのは自分の恋愛だ。友人の話ならそれなりだ」 「なかなかにいい恋愛をしてるじゃないか、湊」 「んん……ルナにそんなこと言ってもらえるとは思わなかったから嬉しいな。たはは」  あ、なんだか女子っぽい空気だ。ルナ様は仙人みたいな暮らし方してるけど、こうして笑っていれば普通に年頃の女の子だ。  元がいいっていうのはあるけど、ルナ様は笑うと本当にかわいいな。 「そうだ朝日は? 朝日は好きな人とか居ないの?」 「私ですか?」 「私だけ好きな人の話するのもなんだなーと思って。ルナは今まで好きになった人いないって言ってたし、朝日しかいないじゃん?」  もう少し恋愛話を続けたかったのか、湊が僕にお題を振ってきた。でも、うーん。 「ごめんなさい。湊様のように、はっきり恋愛感情と呼べるものを持った相手には、今まで出会ったことがありません」 「そっか。朝日の好きな人なんて見てみたかったけどな」 「それは私も見てみたい。この三年間で好きな相手ができたら、隠さず私に言って欲しい。恋愛は自由に認めるし、時間の便宜は計るつもりだ」 「はい、ありがとうございます。ですが、学校へ通わせていただいてる間は、デザイン以外のことに気を取られないようにいたします」 「真面目だな。でもそういうところは好きだ」  恋バナで楽しんだせいか、今日のルナ様は特に優しい。僕の腕をぽんと優しく叩いてくれた。 「ん?」 「湊様? どうしました?」 「いや、なんでだろう。いま、ルナと朝日を見てたら、胸になんとも言えないもやっとしたものが」 「ど、どうしてでしょう?」  ヤキモチ……じゃないよね? 面影があると言っても、今の僕は朝日で、ルナ様と性別が同じ扱いなんだから。 「でも不思議と内からメラメラと燃えあがるものが……」 「よくわからないが、話が一段落ついたのなら私はデザインを再開したい。紅茶も冷めたし、休憩にしては長く時間を取りすぎた」 「湊様、そろそろユルシュール様や瑞穂様のもとへ戻りましょう?」 「うーん、なんだろう。うーん、なんなんだろう」  湊は腕を組みながら悩んでいた。その理由はわからないけど、きっと僕に対する感情とは別のこと……だと思う。 「それと、二人も明日に備えて荷物の確認だけはしておいた方がいいぞ」 「あ、そのことで聞きたかったんだ。明日が入学式だから、私ちょっと固くなってて。ルナは緊張とかしてない?」 「全然」  はー……今日もようやく終わりだ。  明日が入学式だと言うので、今日は先輩メイドの皆さんが色々な仕事を代わってくれたけど、それでも僕は一番新人。やらなきゃいけないことはある。  そんな一日の締めはお風呂掃除。何故かと言えば、新人だから入浴は一番最後。  本格的な掃除は次の日にやるんだけど、お風呂汚れは温かい内に拭きとらないと落ちにくくなる。なので軽く磨いておくのが僕の常だった。  その見返りとして、一番最後なので時間を気にせずゆっくり浸かれる。この至福の一時のためなら、その後の掃除だって厭わない。  次の新人さんが入ってきても、このポジションは譲りたくないなあ。でもきっとその人にとっても癒しの時になるだろうから、後ろから二番目になるんだろうなあ。僕もうずっと新人でいいや。  はー、癒される……お風呂大好き。僕は自覚症状があるくらい長風呂なので、こうしてゆっくりできる時間がとても愛しい。  しかも今日は、次の日がルナ様や他のお嬢様方の大切な入学式ということもあって、特別に普段は使わない入浴剤が使用された。ボトルひとつで5000円という、この屋敷でも中々使われないものだ。  その香りも然ることながら、この肌が癒されていく充実感。視覚的にも濃厚な白がミルクのお風呂みたいで楽しめるし、バラの花びらを浮かべたいくらい。  桜小路家の浴室は広くて伸び伸びできる。んー、幸せ! こうして温まっていれば、緊張も解れていく気がする。  初日から性別がバレたりしたらどうしよう、なんて考えてたけど、なるようにしかならないもんね。バレたらその時はその時で考えよう。  ウィッグを外した自分の頭を撫でてみる。お風呂が癒される理由の一つに、入浴中だけは男に戻れるっていう要素もあるんだよね。うーん、すっきり。やっぱり何も着けてない頭が自然でいいね。 「あ、いたいた。瑞穂さん、やっぱりお風呂だったよ」  ん? 「では私たちも入りましょうか。朝日さん! 入浴中にごめんなさい、一緒に入ってもいい?」  えっ……。  ええええ! ままっ、待って待って待って! なに! コレなに!? どうしよう!? 「いい、いけません! 使用人の私が、客人である湊様や瑞穂様と一緒に入浴するなんて!」 「お風呂なら他に誰もいないしダイジョブだよ。私と瑞穂さんならそういうの全然気にしな――うわ、瑞穂さんの胸にデカメロン! 超ボッカチオ!」  脱ぎはじめてる!  突如脱衣所へ現れた二人は、僕に待ったをかける理由を考えさせないスピードで、こちらへ入ってくる気配を見せた。きゃいきゃい騒ぐ湊の声で状況が伝わってくるけど、その速さたるや電光石火。  これはいけない、本気で焦ってきた。拒否しなくちゃいけないのに、断る理由が思いつかない。「ここ男湯だよ!?」と叫びたいけど、ここは全然男湯じゃないし、そもそも屋敷内において僕は男じゃない!  あああどうしようどうしよう! 「もし正体がバレても、なるようにしかならないもんね」なんて甘いことを考えてたけど、ごめんなさいやっぱり無理です! 警察のご厄介になるのは嫌だよ!  神様、三分前は生意気なこと考えてすみませんでした! もう言いませんから助けてください!  そして神様は僕の味方をしてくれた。男だとバレる条件として、絶対にして致命的な問題は二つ。普段はロングの髪が短くなっていることと、まるでぺたんこなこの身体。  ウィッグを外した頭はタオルを巻いて隠せてる。次の問題の胸は、ミルクに思えるほど濁ったこのお湯が幸いした。立ちあがらなければこの色で隠せる。  そして最大の問題は二人の裸を見てしまうことだけど――ごめんなさい! それだけはどうしようもないので許してください! 「お邪魔しまーす! 朝日ー、元気に風呂ってるぅ? 一度済ませたけど、朝日と話したいからもっかい入りに来ちゃった!」 「朝日さんの部屋をノックしても返事がなかったので、もしやと思いこちらへ来ましたが正解でしたね」 「こ、こんばんは、湊様、瑞穂様……私に何かご用でしょうか……」 「ん? 用はねー……用は、ないよ! 明日が入学式だから、みんなと話でもしようと思っただけで、特に目的はないよ。全然ないよ」 「私は前から朝日さんとお風呂に入ってみたかったんです。友人とのより深い友誼を求めるには、同じ湯船に浸かって語りあうのが一番だ、と子どもの頃に父から教えられて育ったんです」 「……朝日さん、どうしたの? お湯ばかりを見て……顔を上げて?」  あああううぅ、見られない、二人のことが見られない。だって全裸の湊と瑞穂様の前に、本当は男である僕が同じく全裸で座ってるんだから。とんでもないことだよ。  でも、はい。だからって相手をまるで見ないのは不自然ですよね。わかってるけど、顔を上げられない。 「うーん、わかるなあ。瑞穂さんのグラマラスボディは、同じ女の私でも直視できない眩しさがあったもん」  うう、ナイスフォローだよ湊。ありがとう。 「ま、でも近くまで行けばすぐに慣れるよ。ね、瑞穂さん。もっと朝日の近くに……」 「今すぐ顔をあげました!」 「お、おお? どうしたの朝日、日本語がユーシェ並に不自由っぽくなってるよ?」  ああ……見ちゃった。ごめんなさい湊、そして瑞穂様。このお詫びは誠心誠意お世話することと、可能な限りのご馳走を振る舞いますので、それで許してください。  湊は子どもの頃から、本当に成長したんだってことがよくわかる……二人で泳ぎに行ったことが何度かあるけど、その時とはまるで違う。健康的で引き締まってるのに、出るところは出てる身体に成長してる。  瑞穂様は驚くほど肌が白い……雪みたいに白いという表現が本当に似合う方だ。さらに湊も言っていた通り、同性でも目が引きつけられるほどの豊かな胸。  そして、そんな女性の身体を前にしても、恐怖のあまり何も感じない。もし失礼なことを言っていたらごめんなさい。でもまるで性欲が湧かない。いま心の内にあるのは、生きるか死ぬかの緊張感だけだ。  そう、にこやかに話してるけど、この体を見られたら全てが終わりなんだ。僕は首までお湯の中へ沈み、万が一に備えて、足の間と胸はそれぞれ腕を当ててしっかりとガードした。 「や、ごめん……ものすごいガードだけど、もしかして朝日って、他の人とお風呂入るの嫌いだった?」 「えっ、そうだったんですか? ごめんなさい朝日さん。せっかく一人で疲れを癒していたところへ、確かめもせず勝手に入りこんで……」  あ、ああ、捨てられた子犬のような目が僕に向けられてる……ここは心を鬼にして追い払うべきなんだろうけど、明日が大切な日なのにしゅんとして帰らせるのも心苦しい。  とりあえず現状ではバレてないみたいだし、今日はなんとかこのまま乗りきろう。 「いえ、お二人と一緒に入ること自体は嫌じゃないんです。ただ、体型に自信がないもので、人前で体を晒すのが恥ずかしいだけなんです。今後は事前にお声掛けください」  そして声を掛けられた時は断ろう。 「そっか。うん、何も考えずに来ちゃってごめんね。次からは気をつける」 「恥ずかしいんですか? 朝日さんの体型は、客観的に見て自信を持って良いものだと思います」 「グラマラスバインな瑞穂さんが言っても嫌味に聞こえちゃうから、生半なフォローはやめた方が良いかもしれない。朝日にも都合があるんだよ、私たちが気を使ってあげよう?」  な、なんか二人とも、またいつか声を掛けてきそうな雰囲気を出してる……今後はお風呂場にもウィッグを持ちこんで脇に置いておこう。  うぅ、こうしてまた一つ、僕の憩いの時間が失われたよ。 「ま、じゃあ三人でお風呂トークでもしよっか。全員が居ればもっと良かったんだけどね」 「ルナ様やユルシュール様は誘わなかったんですか?」 「ユーシェに声掛けたら『スイス人は妄りに肌を見せない』って断られた。ルナは即拒否」 「そ、そうですか」  さすがルナ様……協調性について理解を示したって言ってたのに。  ただ、本人は気にしてない素振りだけど、肌の事情があるから人前で裸になりたくないのかもしれない。今回の場合は、一概にルナ様の付きあいが悪いせいにはし難い気もする。 「七愛は私と朝日が一緒にお風呂へ入るって言ったら、そっちに迷惑が掛かるかなと思って」 「そうですね……名波さんは私を目の敵にしてますから……」 「ごめんね」 「北斗は部族の掟で、今の時間は月の神に祈りを捧げている最中なんです。こればかりは、私も邪魔するわけにはいかなくて……」 「そんなに大切な行事なんですか……」  月に祈りかあ。あ、そういえば月ってヨーロッパ圏ではルナだ。  ルナ様の名前って月から取ってつけたんだ。今まで気付かなかったのが不思議なくらいだけど。  僕もルナ様に祈りを捧げよう。三年間よろしくお願いします! 両手ぱんぱん! 心の中で! 「はあー、お風呂に入ってると、緊張が解けて身も心も溶けていくなー」  ルナ様に祈る僕の前で、湊は両手を広げてぐったりと浴槽に寄りかかっていた。  って胸を隠して欲しい……でも一度指摘されてるから、極端に目を逸らすのもヘンだし。うぅ。 「最初はこっちに七愛と二人で暮らす予定だったから、ルナに声掛けてもらえてよかった。みんなと居ると気が楽になるよ」 「それは良かった。そういえば湊さんは、ルナとどのようにして仲良くなったのですか? ご実家の縁で知りあったと聞いていますが」 「あ、それは私も気になってました。ルナ様はその……あまり積極的に人と交わろうというタイプではないので、よく信頼を勝ち得ることができたものだなと」 「ん? そんなに? いやどのようにっていうか、普通に声掛けて何度か話してたら仲良くなっただけだよ?」 「つれない対応ではありませんでしたか?」 「んん? んー……でもあの子、普段から誰に対してもああでしょ? 私以外にも同じ対応だと、そういうものなのかなって思うよね」  言われてみればそういうものかも。最初から無愛想だとわかってれば、冷たい態度をとられても「こういう子なんだね」で終わって、そのあと付きあうかどうかは本人次第だし。 「や、でも『普通に声掛けた』ってのは嘘だったかも。最初に会った時はルナが人に囲まれてて、私は一人ぼっちだったから」 「そうですか、ルナ様が人気者で、湊様がぼっち……え?」  あれ? 逆じゃない?  頭に疑問符を浮かべたのを読みとられたのか、湊は少しだけ眉毛に苦味を添えて笑った。 「私とルナが会ったのは、あの子がもう起業家として活躍してた頃で……初めて見た時は、同い年なのになんかすごい子がいるなーって印象だった。見た目も普通に子どもだったし」 「次から次へ誰かが挨拶に行って、それに応えてはまた次の人って感じで忙しそうにしてて」 「そういえば、一時期のルナは手紙でやり取りしても、常に忙しそうだった覚えがあります。私も着物のデザインに集中している時期で、直接会ったりも中々できなくて」  ルナ様が株で成功した時期のことかな。僕は何してた頃だろう……どこか海外にいたのかな。 「私はそういう社交界に慣れてないから、お父さんに連れていかれても話す人がいなくて困ってたんだ」 「やー私、学校ではクラスに友達がいなかったことってないんだけど、あの時はちょっと自信をなくしかけたね。同じ年齢の子ともぜんぜん話が合わなかったからさ」 「だってなんかみんなセレブなんだもん。スペアリブ頬張りながら『んまいねー』とか言って許される感じじゃなくて、私なんかもう、すごいアウェイだったよ」 「あの、スペアリブ片手に話しかける時点で、場に馴染んでる気もします」 「やー! 違うよ、何か食べでもしてないと、本当に居場所なかったんだよ! 当時好きだったゲームとか漫画の話は全然通じないし、この料理おいしいですねって話題なら、とりあえず会話は繋げるでしょ?」 「でもそれすら『どこどこ産のお肉はやはり柔らかさが違いますわね』とか言われて『つまりおいしいってことですよねー!』としか返せなかったよ。超アウェー!」  そういえば湊、僕と暮らしてた時も、最初の頃は何でもおいしいって言いながらごはんを食べてた気がする。食事の場は湊にとって、周りと馴染むための時間なんだ。 「その会の途中でお父さんから呼ばれてルナに紹介されたんだけどね」 「スペアリブ片手に?」 「それはお父さんに取りあげられた。で、初対面のルナはぜんぜん毒とか吐かなくてね? むしろ超丁寧で、私と同じ年齢ですかそれなら一度ゆっくりお話してみたいですねー的な……社交的な挨拶をしてくれて」  あ、ルナ様は初対面からきっついわけじゃないんだ……この屋敷の外へ一緒に出たことがないから知らなかったけど、最低限の挨拶はできる方なんだ。良かった……明日の心配の一部が消えた。 「で、そのとき私は、ルナと話したいなーと思ったんだけど、それまでで散々会話に失敗してるから、咄嗟に言葉が思い浮かばなくて……初対面でいきなり『白いですね』って言っちゃった」  うわあ……その子、超失礼。だけど僕と会った時の最初の一言も「キミひょろいね」だった気がする。 「そしたらうちのお父さん体育会系だから、即座に私の頭にげんこつ落ちてきた。超怖い顔で謝れって言われちゃって」  うん。湊のお父さんならそうするだろうね。 「でもルナはさ。一瞬だけきょとんとしてたけど、そのあと笑ってくれたんだ。で、一気に今と同じ辛口モードに入って。『君は無礼だな、どこの野人だ』とか『どこの田舎から来た』とか言うから、滋賀だよーって」 「そしたら『県の面積の80%が湖で占められている水上の民か』とか言うんだよ。なんか面白い人じゃん? ちゃんと土の上に住んでるよって話したら盛りあがって。覚えたてのどつきツッコミ入れたら痛がってた」  幼いルナ様になんてことを……湊も同い年だけど。 「でもルナがね、話してる間ずっと楽しそうにしてくれたから嬉しかったんだ! それまでぼっちだったのもあって、この子いい子だなと思ったよ」 「お父様は生きた心地がしなかったと思います」 「あ、うん。なんか胃が痛いって言いながらお腹抱えてた。いま思うとルナの誕生日の挨拶へ来たのに、お祝いする対象が娘と言い争い始めたから焦ったんだろうね」 「でも当時の私は会社的な付きあいとか知らないから、ルナが社交辞令で言ってくれた『ゆっくりお話してみたいです』って言葉を信じちゃって、帰って次の日にはルナの家へ電話掛けたんだ。お父さんの居ない間に」  湊のお父さん……顔を知ってるだけに、その時の苦労が忍ばれて胸が痛いよ。 「最初は取り次ぎの人から断られそうになったんだけど、ルナが私のこと覚えててくれて。たはは、いま思うと、あの頃のルナは忙しかったはずなんだよね。でもそんなこと知らないから一時間も話しちゃったな」 「で、その時に、これからはメールで連絡しても構わないってアドレス教えてくれたんだ。それからメル友になって、時々こっち来た時は顔出して、二度三度会ってる内に仲良くなって? って感じ」 「感じですか?」 「うん。私とルナがどうして仲良くなったのかって話だったよね?」  あ、そうだった。お父さんのことが心配で、最初のお題を忘れかけてた。 「普通に仲良くなったと言っていたので、もっと単純な話かと思っていました。深イイ話だったんですね」 「そおお? 話しかけたら思ったより気が合ったから、電話してメアド教えてもらったってだけの話だよ?」 「『だけ』かもしれませんが、物心がついて以降にできたルナの友人を私は湊さんしか知りません。大体の人は、辛辣な言葉を掛けられた時点で怖気づくか、しつこくしてルナに嫌われることを恐れてしまいますから」 「彼女との付きあいが企業の生命に関わる一家なら尚更でしょう。それとルナは自分から人と交わろうとはしないので、彼女の周りに集まる人は、企業関係者ばかりです」 「普通の友人のように、対等の付きあいをしてくれる人など居なかったのだと思います。そう思うと、ルナと湊さんは素敵な関係ですね。私たち三人もそうありたいものです」 「んー……そうだね、三年の間仲良く過ごしたいね」 「私は使用人なので、やはり立場の違いはありますが、仲良くさせていただければと思っています」 「あー! まだ立場とか言ってる! いま対等な付きあいが素敵ですねって、瑞穂さんがいい話でまとめてくれたのに!」 「朝日さん。お風呂場に立場の違いなどないでしょう? 今後とも裸の付きあいをしましょう」  あ。そういえばすっかり慣れてきたけど、湊も瑞穂様も裸なんだった。普通に正面から見てる自分に疑問を覚えなくちゃいけない。 「朝日さん、返事は?」 「はい、畏まりました」 「そんな畏まって答えないでください。もっとお友達みたいに言って?」 「承りました。お友達でいましょう、瑞穂様」 「わざと言っているでしょう? もうっ」 「あ、でもいまちょっと楽しい空気だ。たははー」  湊の言うとおり、二人と話していたら明日の緊張は和らいだ。  二人と話せて良かったかも。ルナ様の新しい話も聞けて「明日もルナ様のために頑張ろう!」って気持ちにさせてもらえた。  それと心待ちにしてたデザインの勉強も始まる。がんばるぞっ!  ……ただ湊と瑞穂様、早くあがってくれないかなあ……でないと僕がいつまでも出られない。もうずっと浸かってるからのぼせそう。いいお湯なんだけど。  はあ。ほっこり。 「お嬢様、朝でございます」  朝は一番忙しい時間だけど、その中でも僕の大切な役割がこれ。ルナ様を起こすために彼女の部屋を訪れる。  この一ヵ月で、ルナ様がお寝坊さんじゃないことはわかった。だけど時々デザイン画を夜遅くまで描いていて、何度起こしても部屋から出てこず、昼頃からのっそりと行動を始める時がある。  さすがに入学式の前日は夜更かししてないだろうけど、万が一の場合は無理してでも起こさないと。  そんな訳で二回目のノックをしてみる。返事はまだない―― 「朝日か。入ってこい」  あれ? 起きてる?  それも普段は「いま行く」っていう返事がほとんどなのに、今日に限っては「入ってこい」? ドアノブを回してみると鍵は掛かってなかった。  まあ考えるまでもなく、ルナ様が来いと言うなら僕の取るべき行動は一つだ。  ちょっと珍しい反応だったから驚いた。失礼します、と声を掛けて、ルナ様の部屋へ足を踏みいれた。 「おはよう朝日、いい朝だな」 「はい、とても良い朝です。本日は快晴とのことで、入学式に相応しい一日になりそう――あっ」 「どうした?」 「ルナ様、今日から制服ですね! とても良くお似合いです!」 「フフ、届いた時にも試着しただろう。たかが制服程度で大げさだな、朝日は」 「いえ、特別な日に新しい制服を着たルナ様のお姿は、見ているこちらまで清々しい気持ちになります。本当によくお似合いです」 「そこまでキラキラした目で誉められては、世辞ではないと信じざるをえないな……最初に見せる相手を朝日に選んだのは間違ってなかったようだ」 「ただ、まあ、この制服は君の好きなJ・P・スタンレーのデザインだ。着ている人間よりも、衣服が気になっている面もあるだろう」 「えっ、スタンレーのデザインなんですか!? わあ、すごい! どうりで良い制服だと思いました。ルナ様の美しさをより引きだしてくれていますね」 「待て、スタンレーのデザインだといま知ったのか?」 「え? あ、はい。少し考えればわかりそうなものですが、自分の制服ではないので気にしていませんでした」 「ということは、さっきの言葉は純粋な感想だったのか。んー……そうか。朝日を私の付き人として選んで本当に良かった」 「は? そ、そうですか? ありがとうございます。より一層励みます」 「私も励む。朝日が仕えた相手を誇れるように」  頭を下げた僕を見て、にこりと微笑むルナ様は、全身から優雅と呼ぶに相応しい空気を発していた。この人は生まれつきの貴族だ。この人に仕えながらデザインの学校へ通うことが出来て、本当に嬉しい。 「さて。ところで朝日、君は……ん、内線だ。この番号は瑞穂か?」 「うわっ、ユーシェからも!? なんだ一体。電話を鳴らす前に直接来い」 「はいもしもし。ちなみにこの電話は、めんどくさいから二つ同時にとっている。私が理解しやすいようにゆっくりと喋れ」 「なに? 制服姿を誉められたいから朝日を部屋へよこせ? サーシャに任せろ。なに、あいつは自分のことしか誉めない? 知るか。瑞穂まで朝日をよこせと……親友だから? 私が誉めてやるから部屋へ来い」 「朝日、大人気だな。朝から自分の部屋へ君をよこせと二人の催促がきた」 「喜んで良いものかわかりませんが、ユーシェ様と瑞穂様の部屋をそれぞれ回ってまいります」  客人から期待されれば、それに応えるのが使用人の役目だと思う。部屋を出て、向かって右の廊下にユルシュール様と瑞穂様の部屋が並んでる。 「ん。朝日、どこへ行く。君の部屋は向こうだ」 「は? ですが、ユルシュール様と瑞穂様から連絡があったのでは……」 「あった。だから朝日が嫌じゃなければ、あとで適当に世辞の一つずつでも述べてやれ。だが今は、時間がないから君も早く着替えろと言ってるんだ」 「着替える? メイド服なら着ていますが」 「違う、制服」 「制服ですか? ルナ様は着ておられますが?」 「だから違う。君のだ。朝日の制服」 「は……い、いえ、私の制服は用意しておりません……というよりも、学院内で、使用人は制服の着用を義務付けられていません。サーシャさんや北斗さんも着ないようです」 「他家は他家、自家は自家だ。大体、奴らが制服を着たらただのコスプレキャバクラだ。君は私たちと同い年だろう?」 「実は朝日のメイド服のサイズを調べて、予め注文しておいた。届いているぞ、ほらここに」 「え、ええっ……ですがその、どうして私だけ……」 「朝日が使用人であることに変わりはないが、私は授業を他人に任せる脳金女だと自分が思われたくない。他のお嬢ちゃんたちとははっきりと区別をつける。私と君は授業を受けるにあたって、同じ立場の生徒だ」 「他の三人にまで同じことを強要するつもりはないが、朝日は我が家のメイドだから私の言うことを聞くように。制服を着て学校へ通え。これは義務だ。命令だ」 「は、はい。畏まりました」 「では着替えてこい。それまで朝食は待つ。時間もないから早めにな」  制服を手渡され、僕は部屋から追いだされた。自分を待たずに先に食べていてくださいと言う隙もなかった。  だからすぐに部屋へ戻って着替えなくちゃいけないのに、少し立ち止まって考える。  いまルナ様が口にした、僕が制服を着て学校へ通う理由はかなり強引だった気がする。もしかして、僕がジャンの服を好きだと知っていて、彼のデザインした制服を着るための口実を用意してくれたんだろうか。 「ありがとうございます、お優しいルナ様!」 「まだそこにいたのか、早く着替えろ」  初日からやる気がぐんぐん湧いてきた。ルナ様の優しさも嬉しいし、ジャンの制服を初年度から着られるなんて幸せなことだ。  ようし、やるぞ!  ってこれ女物の制服だから! 喜んじゃいけない! 「徒歩5分……」  徒歩5分で港区のお屋敷から渋谷区の学院へ。これほど好条件の通学路もまずないだろう。  そもそもこの辺りへ住むこと自体が一般の学生にはできないわけで。セレブな生徒たちにしても、1DKで20万の世界だから、彼女たちの生活基準を満たすには、一ヵ月で60万近くの家賃が必要になる。 「徒歩5分って楽だね。歩いてこの時間なら、ダッシュで行けば2分で間に合うね。つまり8時28分まで部屋でだらだらしてられるということだ! 寝るぜ!」 「ですがそれだと、私たちの教室が上の階にあった場合は間に合わないかもしれませんね。エレベーターだけで5分は掛かりそうですから」 「家から2分の距離なのに、学校の入り口から教室へ着くまでに倍以上の時間が掛かるってなにそれ! なんでこんな高い建物作るかな。なんか地震で倒れたとき、地面に突き刺さりそうな形してるし」  僕たちは地面に突き刺さりそうな形を見上げた。  大きな建物だ。この建物の施主であるジャンは、最上階にいるんだろうか。  ジャンは一デザイナーでありながら、世界でも有数のセレブとして有名だ。大蔵家は有数の資産家ではあるけど、この場所へこれだけの建物を作るとなれば、一族の結束が必要になる。  それを自分の力とその人脈のみでやってのけた。彼にはきっと世界中に良い友人がいるんだ。  その世界中を飛び回っている彼が、今この場から見える建物の中にいる。もし入学式で挨拶をするなら、何百人の中の一人ではあるけど、僕に向けて言葉を掛けてくれるんだ。  女装なんてどうなることかと思ったけど、今はこの制服を着て、ここに立っていることを本当に良かったと思う。  憧れの人の下で夢を叶えるための勉強ができるという環境は、同年代の学生の中でも相当に恵まれてるはずだ。  歓びで胸が踊ってる。僕の三年間がこの期待を上回るものでありますように。 「うー、ずっと上見てたら肩凝ってきた。そろそろ行こっか?」 「お待ちあそばせ。ルナは? ルナは何故ここに居ないんですの?」 「ルナ様は太陽の光を避けるため、駐車場から直接式場へ向かわれたそうです」 「それは知ってますわ。では何故、私たちだけが徒歩でここへ来たのかを聞きたいのですわ」 「や、車で来る方が時間掛かるよ。駐車場の入口は表側だし、朝の国道めっちゃ混んでるし。それともパンプスだと足痛いとか? あ、赤いのよく似合ってるね」 「オホホホホ、私のセンスがわかるとは、湊は見所ありますわよ!」 「少し派手に思いますが、良いのでしょうか?」 「良いに決まってますわ。同じ制服なのですから、こういったアイテムで差を付けないと、私のセンスを見せつけられませんわ」 「校則では問題ないようですね」 「足が痛いんじゃなければなおさら徒歩でいいぢゃーん。5分だよ?」 「時間は問題ではありません! ルナが車で、私が徒歩というのが問題ですの!」 「ですが、先頭を切って歩いていたのはユーシェだった気がします」 「全員で歩いていると思っていたから、私が先頭を歩きたかったのですわ。ルナは小さいから、見えないだけで後から付いてきていると思っていたのですわ」 「うわ、今の言葉ルナに聞かれたらめっちゃ怒りそう」 「あら、そうですの? それはいいことを聞きましたわ、後ほど耳元で囁いてやりましょう。オーッホッホッホ!」 「うわあああ、ルナごめーん!」 「あら? ではなぜ朝日がここに居るんですの? ルナの側へ付いてなくてよろしいんですの?」 「はい。私は車の運転ができないので、北斗さんにルナ様を送っていただいたんです。その代わり教室までは、私が瑞穂様のお世話を引きうけました」 「朝日が私の従者だなんて嬉しい。それじゃ最初にお願いしたいことは、今度から私を呼び捨てにしてね? 敬語も禁止。私も同じようにするから」 「それはいけません。たとえ友人でも、公私のけじめはつけるべきです。もちろん瑞穂様が私のことを呼び捨てにしていただくのは構いません」 「でも朝日から『瑞穂』って呼んでほしい。じゃあ一度だけでいいから呼んで?」 「そこまで強く言われては……でも本当にこの一度だけでお許しください。それでは、呼び捨てにすることをお許しください……今日からよろしく、瑞穂」 「わっ、嬉しい! 私にとって北斗は大切な人だけど、5分だけ朝日を自分のものにできるのなら、私は毎日徒歩でも構わない」 「朝日の制服姿、とてもかわいい。よく似合ってる」 「ありがとうございます。瑞穂様もお似合いですよ」 「リボンを直してあげる。せっかくの制服が乱れていては勿体無いから」 「あ、あの二人、顔を近付けすぎてはないかしら?」 「瑞穂さん大丈夫? 最近、友人という枠を超えて朝日を好きになってきてない?」 「そんなことありません。キスならできます」 「おかしい。若者の日本語がおかしい。前後が全く繋がってない。おばちゃんもう付いてけない。え、ちなみにガチなの?」 「うーん、男性が苦手な私は、彼らと付きあえる気が全くしませんので、最近はそれもアリかなと思うようになりました」 「でも友人は対象にならないので問題ありません。朝日を除いて」  本当に、僕のどこをそれほど気に入ったんだろう。もしかして正体が男だと無意識の内に気付いていて、免疫が薄そうな男性との会話に反応してるのかも……こじつけ過ぎか。 「ちなみに七愛は湊お嬢様に対してガチです」 「さあそろそろ行こうぜ!」  湊が先陣を切って歩きはじめた。瑞穂様は僕の腕を抱いているし、サーシャさんはラオコーンみたいなポーズをとりながら歩いてるし、他の生徒より明らかに目立ってるけどいいのかな。 「全員、遅い」 「あなたが私たちを置いて、単独行動したんですのよ。謝るべきはルナの方ではないかしら?」 「でしたら皆様に黙ってお送りした私に責があります。連絡をするのは主ではなく使用人の務め。大変申し訳ありません」 「北斗、謝るな。どうせ誰がいるかも確かめずに、この女が一人で勝手にずんずん先へ進んでいったんだろう」 「あなた見てましたの? どうして知っているんですの?」 「ほら見ろ、謝り損だ。おいユーシェ、君如きに頭を下げた北斗に謝れ」 「ですの!? 如きってなんですの!?」 「北斗は優秀だな。寡黙に淡々と職務をこなし……だが意見を求められるタイミングは見逃さない。駐車場に止まっている自動車が誰の持ち物か予測したり、退屈しない話題を振ってくれた」 「はい。自慢の付き人です」 「…………」 「ルナ様、皆様が揃いましたので、私は瑞穂様の側へ戻ります。またご用の折は、なんなりとお申し付けください」 「それと私よりも可愛らしいメイドさんが、寂しそうな目でルナ様を見ていますよ」 「えっ」  全員の目が一斉にこっちを向いた。僕自身は、話を振られたのが突然だったせいで、付いていけてなかった。 「あ……もしかして、私の隣を北斗に奪われて寂しかったのか?」  ルナ様から指摘された瞬間、赤くなったと自分でわかるほど顔が熱くなった。  え? え? なんで? 僕は別に、寂しいとか悔しいだなんて思ってないはずだよ? だってそもそも本当の使用人じゃないわけだし、ルナ様の隣の座を奪われても、それは当然のことで……。  でもどうして胸がもやもやするんだろう。もしかして自分でも気付かない内に「ルナ様から一番頼りにされてるのは僕だ」なんて思っていたんだろうか。 「え、そうなの? わ、すごい。朝日ってば超従順な純情」 「ああ……せっかく朝日を私の付き人にできたと喜んでいたけど、ルナが相手では叶わないなんて」 「ちちちがっ、違いますよ? ちょっぴりその、居場所に困っただけで、あの」 「安心しろ」  言い訳しようとしたら、ルナ様が目の前まで近付いてきた。その手が伸びて僕の頬へ触れる。 「朝日は私のものだ。自慢のメイドだ」  やばっ! 鼓動が早くなった!  そそ、そんな。これじゃ他人に仕えることを心から喜びとする、使用人の中の使用人・パーフェクトメイドさんだ。違う違う。僕は大蔵遊星で、小倉朝日じゃないんだ。 「あああの、それは嬉しいのですが、私はそもそも寂しがっていません――」 「あなたたち、もう式が始まるから静かに。特に場所は決まってないから、空いてる席があったらすぐに座りなさい」 「私は知らない奴の隣に座りたくない。端を取るから、朝日はその隣に座れ」 「あ、あのっ、まだ話の途中――」 「それなら私は朝日の反対側の隣に」 「では私は当然、瑞穂様の隣へ」 「じゃあ私その隣――」  そんな感じで同じ屋敷に住む面子で並んで座ったら、あっという間に席は埋まった。端が取れたルナ様は満足そうにしていた。 「でもあの、私の話が終わってないんです……」 「静かにしろ。もし朝日が注意されれば、それは主人の失点。私に恥をかかせる気か」  ルナ様の恥になると言われては、黙らざるを得なかった。困ったことに、今はどうしてもミスをしたくない気持ちになっているから。  うぅ、誉められたいと思ってる自分をなくしたい。ちらりと隣を窺えば、ルナ様はまっすぐに舞台の上を見つめている。  これ以上言い訳をしようと考えるのは女々しいな……気持ちを切り替えて、入学式に集中しよう。  とは言っても、まだ胸が熱い。この火照りを残したまま、静かに行儀よくしているのは大変かもしれない……。  今は気持ちを落ちつけることが第一だと思い、心の中で便利な呪文を暗唱した。昔、僕の憧れた人が教えてくれた言葉。着る服一つで世界は変わる。  そう、落ちついて……落ちつける。もうすぐ、落ちつける。  目を閉じてみると火照りが僅かに冷めはじめた。  次に目を開いた時には、僕たちに着席を命じた教員と思わしき人が、舞台袖でマイクを握っていた。  いつの間にか、このホールで口を開く生徒は一人も居なくなっていた。程よい緊張感に、世界がしんとしている。  これで速くなった鼓動も落ちつくだろう――そう思ってゆっくりと息を吐いたときだった。 「始めに、学院長告辞及び、理事長からの祝辞をいただきます」  学院長……及び理事長!?  まだ完全に消えてなかった胸の火照りが、風で煽られたように燃えさかりはじめた。ホールへ着いてから、今の今まで頭から抜けていたけど、ジャンがこの会場へ来ているかもしれないんだ。  いや、可能性どころじゃない。理事長と言えば彼のことだ。もうすぐ憧れの人が舞台へ出てくる。雑誌やテレビで何度か顔は見ているけど、生の姿、生の声と接するのは、実に久しぶりだ。  興奮しないはずがない。膝を強く握らなければ気持ちを抑えきれないほど、心がざわめき立っていた。  いけない。息が荒くなる。隣のルナ様にバレないよう、目を閉じてなんとか冷静になろうとした。 「あー……」  あ――き、来た!  しばらく目を伏せていようとしたのに出来なかった。一際高くなったハウリングの音を聞いて、僕は舞台に意識を奪われた。もう抑えきれない。体中が興奮してる。  本物のジャンだ! ああ、本当に久しぶり――えっ?  壇上に居たのは一人だけじゃなかった。デザイナーとしてだけではなく、モデルも務まりそうなほどバランスの取れた体躯の脇に、僕の知っている人が立っている。  その男性は、ジャンと同じ程の背丈で並び、その細くも逞しい首の上に中性的な容姿を備えている。まるで日本人ではないような……いや、僕の家族ではないような外見をしていた。血は繋がっているはずなのに!  僕にデザイナーという希望を与えてくれたのがジャンだとすれば、その希望を叩き壊してどん底へ突きおとした人物が瞳に映る。彼の名は大蔵衣遠――僕の兄だ。  即座に顔を伏せた。見つかったらヤバい。僕がこんなことをしてると知ったら、あの人は容赦なく壇上へ引きずり出して「なんだこいつは、女装している男がいるぞ」と晒し者にする人だ。  喉が詰まる。唾が飲めない。呼吸ができない。とても苦しい。顔が熱い。その癖に指の先は凍るほどに冷たい。  頭部へ血液が過剰に送り続けられる一方で、静脈には栓をされて血液が循環することを許されずにいるような……体温の過剰な上昇と低下を同時に体験しているような、恐ろしい心地だ。  その癖に頭はひどく冷静だ。脅えていることが見つかれば、ルナ様や同じ屋敷で暮らす皆様に心配を掛けると思い、破裂しそうな心臓を抑えこみつつ痙攣に耐えた。  僕が身体と精神をかろうじて保ち続ける中、緊張とはまるで無縁そうな声がマイクに乗って流れてきた。 「こんにちは、日本人」  どこか不自由な日本語で、ジャンは僕たちへの祝辞を読みはじめた。 「自分で学校作っといてなんだけど、俺さ、人に言葉でもの教えるのって得意じゃなくてね」 「特に日本は十数年離れてたから、言葉もほとんど忘れちゃってるしさ。そんな俺が居ても、まあ意味ないよな」 「だから、うん。日本校は別の奴に任せることにした。彼も忙しい身ではあるんだけど、快く引き受けてくれるって言うからさ」  えっ。 「何かよほど面白そうなデザインがあれば、仕事の合間にでも見に来るよ。けっこう期待してるから頑張って」  絶望的な宣言だった。僕が憧れた人はこの学校から去り、何よりも恐れている人が学院長に就任する。 「スタンレーから紹介を受けた大蔵衣遠だ。いま話した通り、日本校は実質上俺が仕切る。全てを俺のやり方に染める」  ホールの一箇所で、歓声に近い女性の声が上がった。  それは追っかけをしているアイドルを道端で見かけた際のものに近い。何故なら兄は、デザイナーとしての実力が世間で認められているだけではなく、その容姿も俳優と間違われるほどに整っている。  しかも有数の資産家である大蔵家の出自で、青年実業家でもある。メディアに頻繁に顔を出すわけではないから、知る人ぞ知るという類の人気ではあるけど、熱狂的に信奉している人がいてもおかしくはない。  そして、その手の浮ついた好意を向けられることが何よりも嫌いな人だ。 「いま下品な声をあげた生徒は退学だ。式にも参加しなくていい。今すぐ出て行け凡俗め」 「最初に言っておくと、お前たちは期待されていない。この学院はパリ、ローマ、そしてニューヨークに分校を建てたが、スタンレーは日本校を作るつもりはなかった」 「ここ数年、世界の舞台に著名な日本人デザイナーがほとんど登場していないことを見ればわかるように、この分野において我が国は後進国と化している。スタンレーはもう日本人に興味がない」 「そんなこと言ってないよ。けっこう期待してるって言ったじゃん」 「その適当さの方が、どうでもいいと思ってることがよく伝わってくるんだよ」  兄とジャンはまるで気心の知れた仲のように……いや、事実友人であり、ビジネスパートナーなんだ。兄弟の僕ですら聞いたことのないお兄様の気安い声。あの兄は僕よりも憧れの人と近い場所にいる。 「ああ、本気で期待されてると思っていた生徒は、もう少し社会というものをよく学んだ方がいいぞ。こいつはそんなこと微塵も思ってないからな」 「スタンレーは年に一度も顔を出すつもりはないだろう。ならどうしてこの東京の中でも一等地に、これほどのビルを建てたのか? その理由の一つは俺が日本人だからだ」 「スタンレーは俺の掛け替えのない親友だが、その関係の理由はお互いに実力を認めあっているからだ。こいつが日本人の中で認めているのは俺だけだ」 「その俺は、自らの生まれたこの国が、服飾の後進国として廃れていくことに悲しみを禁じえない! だからスタンレーと交渉し、この日本校を創立するための資金の半分を負担した!」 「つまり俺には優秀なデザイナーを育てる義務がある! 志の無い人間は必要ない! ただこの学校を卒業したというブランドネームだけが欲しい輩は、才能ある者に不味い空気を吸わせないため、教室の隅で生きろ!」 「もっとも教育機関を創るほどの大事業になれば、運用資金獲得のために、付き人の同伴を含めた才能が凡俗な生徒の入学も許可した」 「だがそれも一年だ。能力のない者は、はっきりとわかる形で区別する。この初年度はあくまで実力を選別するための期間だと思え。来年以降は試験の結果で学ぶ教室を分ける」 「これを素で言っちゃうイオンは面白いよなあ。でも日本校の皆さん、俺は彼に好きにしていいって言っちゃったから、この方針で頑張ってもらうことになるよ。まあほんと、頑張ってよ。具体的にはどんな感じだっけ?」 「十二月に校内で行うファッションショーが年度末の試験代わりだ。この場で我々を認めさせるだけの作品を提出できた者は、最高の環境での教育を約束しよう」 「ただしそれとは逆に、見込みなしと判断された者は卒業をするためだけに残り二年間を費やせ。安心しろ、最低限の教育は施そう。その代わり間違っても豚小屋から出て来るな」 「はは、豚小屋だって。君らも笑うところだぞ、これ」  ジャンは笑っていたけど、誰一人声を立てる生徒は居なかった。当たり前だ。みんなどん引いてる。  でも僕は、あの兄が真剣なことを心から知っている。彼は通常では考えられないほどの努力をして、実際にこれだけの発言をしても許されるだけの実績と資産を手に入れている。  兄は変わっていなかった。そのことが、僕の気持ちをより憂鬱にさせた。  そして彼への恐怖と劣等感は、僕の心の中の問題だけではなく、実際に言葉となって襲いかかってきた。 「一人、俺の知っている凡俗な屑の話をしよう」 「俺には弟がいた。俺と同じくデザイナーを目指していた男だが、奴は凡俗で才能がなかった」  思考回路が切断されかけた。そのお陰で体の震えは止まったけど、頭の中の色彩が渦を巻いたようにうねり始めて意識が飛びかけた。  単純なことならかろうじて理解できる。そう、彼の言う屑でもわかること。兄は僕の話をしているんだ。 「才能がない奴が良いものを作りたいなら努力で補うしかない。俺が一枚のデザイン画を描く間に、奴は十枚の量を描くべきだ。俺が寝る間も惜しんで服を縫うのなら、奴は体が動く限りミシンを走らせるべきだ」 「だが奴は普通の生活の範囲内でしか努力をしなかった。少なくとも、食事の間は味のことを考え、風呂へ入る間は心を癒し、就寝時は柔らかいベッドの上で微睡んでいた」 「人生で一度の発想がたったいま生まれたかもしれない。その可能性も考えず、通り一辺倒の口上を並べて、奴は妥協した」 「人より優れている作品を生みだしたいのなら無理をしろ! 生活を捨てろ! 何も犠牲にせず秀でた発想を生みだせるのは、世界で数人の天才だけだ! 自分を特別だと思う退屈な日常を捨てろ!」 「それが出来ずに、俺の弟だった男はデザインの道を諦めた。だから俺は奴を屑だと思い見限った」 「あんな奴は生きているだけで不愉快だが、失敗作だからと言って殺すわけにもいかない。今後、俺の前に一切現れることなく消えてくれれば良いと思う」 「君たちはいま話した屑のようにならないで欲しい。彼はいま俺の部屋で家畜のようにして飼っている。反面教師として見ておきたい生徒は言ってくれ。檻の中の動物と同じ程度の役には立つだろう」  これは公開処刑だ。この中には大蔵衣遠の弟を見たことがある生徒はいるかもしれない。三つ隣の席に座る湊は、膝の上で揃えた手を震えるほど固く握ってくれていた。  そして死刑囚にも等しい僕自身は、心が挫けて今日一日すら持ちそうにない。今にも涙がこぼれてしまいそうだ。悔しいけど、この場から逃げ出したいほどに苦しい―― 「どうした?」  手に心地良い圧迫が加わり、ふと我に返った。何かと思って目を向けると、ルナ様が僕の手を握ってくれている。とても、温かい。  僕の主人は、僕と同じ角度まで顔を俯かせ、小声で囁いてくれた。 「舞台上の男はなんだかご大層なことを言っているようだが、あの程度で脅えるな。君の主人は誰だ」 「才能があれば認めると言ってるんだ。私といれば問題ない。自分を捧げて私に尽くせ」  かろうじて聞きとれる音量と速さで、ルナ様の言葉は僕の心をこの場へ繋ぎとめてくれた。  驚いた顔をした僕が隣を見たとき、ルナ様はもう顔を舞台へ向けていた。しっかりと正面を見据える自分の主人を見ていると、不思議と不安が消えていく。  あれほど怖かった兄の声よりも、ルナ様が口にしてくれた言葉が勝った。自分の中に小倉朝日としての意識が戻っていく。  そうだ。  せっかく女装しているのだから、いっそ生まれ変わった気持ちになろう。お兄様に処刑されたのなら、むしろ好都合だ。今の僕は彼のいう屑の弟じゃない。  憧れの人が言っていた。着る服ひとつで世界は変わる。ルナ様の隣にいる僕は、小倉朝日だ。  ルナ様の手を握りかえす。二人の間に、僅かな温かみが加わった気がした。  この温かみは頼もしい。これは世間でいう、勇気ってやつだ。  勇気さえあれば顔を伏せる必要もない。映像も言葉もある世界へ戻ってきたときには、舞台上のジャンが大蔵遊星のフォローをしてくれていた。 「はは、怖いなイオンは。大げさだよ、彼はそれなりに普通の良い子だったと思うよ」  あ……ジャンが僕のことを覚えてくれている?  兄の声に絶望していたら、こんな大切なことを聞きのがすところだった。ルナ様には感謝しなくちゃいけない。  もう大丈夫、完全に立ちなおった。頼もしい人と憧れの人は僕と同じ世界の中にいる。 「――ただまあ、普通の良い子なら普通の学校へ通った方がいいのは確かかな」 「イオンは忙しい奴だし、半年に一度くらいしか学校へは来られないだろうけど、俺と違って恐ろしいほど真面目なんだ。学院長になった以上、作品には全て目を通すだろうね」 「優しい言葉なんてのは期待できないと思うよ。ま、そこんとこ他の先生方はどう思ってるのか知らないけど、適当に上手いことやってよ。俺いまから、えーとアルゼンチン行くんだ。じゃ、また来年」  リハーサルと違う部分があるのか、片手を上げて帰っていくジャンを見て、司会の教員は数秒ほどぽかんとしていた。  やがて彼を追うように兄が壇上から姿を消し、そこでようやく式は進行を始めた。  空白の間があったとはいえ、司会を務める教員を責めようという人は誰もいないだろう。何しろ彼女は回復が早い方だった。まだ生徒の半分以上が、非常識な理事長と学院長の挨拶に目を丸くしたままだったからだ。 「怒った!」  教室へ戻ってくるなり、湊は憤慨していた。珍しく本気でご立腹みたいだ。 「好きな人を悪く言われると、これほどお腹が起立するとは。七愛、塩! 塩撒いてきて!」 「お嬢様、塩がありません……それと、どこへ撒けばいいのやら。無能な七愛を許してください……」 「あ、いやいや言葉のあやだよ? でもそれだけ私は怒ってるってことだよ」 「確かに変わった学院長でした……私は洋服の世界に詳しくないのですが、有名なデザイナーなのでしょう?」 「今や世界的ブランドであるJPスタンレーの創設に関わり、資金面だけでなく、デザインも共同で行なっているようですわね。もっとも彼は実業家が本業で、デザインはその合間に行っているようですけど」 「前衛的かつ耽美なデザインには男女同衾ありますけれど」 「賛否両論って言いたかったんだと思うよ!」 「賛否同衾ありますけれど、私も嫌いではありませんわ。日本国内よりもヨーロッパで人気のあるデザイナーですわね」 「ただし今日わかったことは、デザインの腕は認めても、デザイナー本人の性格は到底受けいれられないということですわ」 「同感!」  お兄様は散々な言われようだった。彼女たちに限らず、教室内の他の生徒たちの会話からも似たような感想が聞きとれる。 「世界的デザイナーの下で勉強ができると聞いたから、高いお金を払って入学させていただいたのに、年に一度しか来ないとは何なの? 我が江里口金属を馬鹿にしているのならお父様に言い付けてやります!」 「江里口様が言い付けるのでしたら、私も父上に言い付けておきます。我が成松重工と江里口金属の社長から苦情が来たとなれば、あの生意気な学院長も少しは考えを改めるのではないかしら?」  江里口金属に成松重工……確かに大企業ではあるけど、両社とも大蔵家に背いたら零細企業に成り下がってもおかしくない経営状態だ。お兄様に逆らうなんてことはできないだろう。  それにあの二人とも、お兄様の誕生日に着飾ってお祝いの言葉を述べに来て、声すら掛けられずに帰っていくのを見た記憶がある。  彼女たちの文句は実現し得ないただの愚痴であって、湊やユルシュール様とは出所が違う。どっちにしてもお兄様の評判が最悪であることに変わりはないけど。 「朝日は?」 「え?」 「式の最中はずっと顔を伏せていたでしょう? 朝日にも思うところがあったのでは?」  そういえば隣の席に座っていたのは瑞穂様だった。呆然としていたことに気付かれてたんだ。  優しい瑞穂様のことだから、ずっと心配してくれていたのかもしれない。申し訳ありませんと心の中で謝りつつ、その心遣いに感謝した。 「ご心配いただきありがとうございます。体調が思わしくなかったもので、しばらく顔を伏せていました。ですがもう大丈夫です。先ほど水を飲んだら回復しました」 「そう、良かった。あまり無理はしないようにね」  兄のことでショックを受けたり、落ちこんだりするのも顔に出さないよう気を付けなくちゃ。今は周りから小倉朝日として見られてることを忘れないようにしないと。  あ、そうだ……そういえばルナ様にも支えていただいたお礼を言いたい。手を握られて安心するなんて子どもみたいだけど、そのお陰で心を落ちつかせることが出来たのは事実だから。 「ルナ様、少しお話が……ルナ様?」  ルナ様が居ない。そういえばこの教室へ入ってから、桜屋敷の面子の中にルナ様は居なかった気がする。 「ルナ様――」 「ルナ様、今年から当家の甥が、桜小路のお父様が理事長を務められる小学校へ通うことになりました。何卒ご贔屓にしていただけますよう、お願い申し上げます。江里口金属です」 「ああ、はい、わかった。覚えておく。お父様に会った時は伝えておくよ」 「ルナ様、成松重工です。桜小路家主催で行われた先日の観桜会は、大変素晴らしいものでございました。父上だけではなく、私までお誘いいただき、真にありがとうございます。感謝いたします、ルナ様」 「そうか、うん、どうも。今年の桜は時期が少し遅れたせいで七分咲きだったから、客人に楽しんでもらえたか心配だったんだ」 「喜んでいただけたのなら幸いだ。とは言っても、私は所用で参加できなかったから、両親にそのような言葉があったと伝えておこう。来年もよろしく頼む」 「は、はい! ありがとうございます、成松重工でございます! あ、あの、ただ、桜小路のご実家だけではなく、ルナ様のご記憶にお留め置きいただければと……」 「なるほど、わかった、覚えた。二人ともせっかく同じクラスになったんだ。一年間よろしく」 「はい! ルナ様と同じ教室で学べるとは光栄です! 江里口金属です!」 「私どもにできることがあれば、何なりと仰ってください! 成松重工でございます!」 「江里口金属さんに成松重工さん……そろそろ代わっていただけて? 私は以前からルナさんと楽しくお話させていただいてるから。お久しぶり、ルナさん。成富ホールディングスのケメ子よ。お元気?」 「悪い、誰だ、わからない」 「い、以前にルナさんのお兄様の誕生会でご挨拶させていただいたでしょう? 覚えてない?」 「覚えてない。本当にすまない。できれば、私とどこでどんな話をしたのか教えて欲しい。それだけ聞けば思いだせると思う」 「し、失礼いたしました! あの、ご挨拶した折に、お召し物が素敵ですねと声を掛けて、そのぅ、それきり……ル、ルナ様、私は成富ホールディングスの一人娘、ケメ子と申します」 「それはもう聞いた。とりあえず一年間よろしく頼む」  わあ、ルナ様大人気だ。  兄への不満を口にしていた江里口金属や成松重工の二人を始めとして、一度は耳にしたことがある企業名ばかり聞こえてくる。  だけどルナ様の個人資産と釣りあうほどの家となると……瑞穂様、それかユルシュール様くらいかもしれない。あ、それと大蔵家。  瑞穂様の実家の地盤は関西だし、ユルシュール様も海外の貴族だから、彼女たちがどれほどの人なのか、まだ気付いてる人は居ないみたいだ。ルナ様に挨拶するなら、こっちにも来た方がいいと思うんだけどな。 「朝日! さっきから何してる、私が挨拶を受けているのだから君も来い!」 「あああそうでしたああーっ! ももも申し訳ありません!」  遠くから見てる場合じゃなかった! 慌ててルナ様のもとへ駆けよる僕を見て、名波さんがほくそ笑んでいた。  取り次ぎも僕の大切な役目の一つだ。何をぼーっと突っ立っていたんだろう。 「も、申し訳ありません、ルナ様」 「いや、式の途中から様子がおかしいのには気付いていた。調子が悪い日は誰にでもある。それよりも、あまり教室の中でぺこぺこするな。式の前にも言ったが、朝日は私の自慢のメイドだ。自信を持て」 「ル……」  ルナ様……いつの間にそんなお優しく……。 「あらルナ、屋敷の中と違って、教室では随分と朝日に優しいですわね?」 「人前だからな」  そういう……ことですか……でもいいんです。軽くぬか喜びしちゃいましたが、気を使っていただけたことに変わりはないので。 「でもルナは、式の最中に心配して朝日に声を掛けたりしていましたよ?」 「いや、体調が悪ければ心配はする。それは優しい優しくないではなく、人として当然の感情だろう。なんだ私は。心がないのか」 「むしろ式が始まってすぐに顔色が悪くなったから、壇上に居た大蔵家の跡継ぎのせいかと腹を立てていたくらいだ。朝日の気分を悪くさせるとは……私の持ちメイドに、許さん」 「あら、朝日もあの男に不快感を催したんですの? 気分を悪くしても仕方ない男でしたわね」 「うんうん! あのひと相変わらずゆうちょのことを酷く言って! 酷く言ってーっ! 石投げたい!」 「ああ、中々に忌々しい男だったな。実力が全てだというなら、私の才能を認めさせてやる」 「提出した作品は必ず見るような口ぶりだったからな。チャンスじゃないか。奴を唸らせて『この学校へ居てください』と私に言わせてやる」  自信満々にそんなことを言うルナ様の声が響いて、教室の中が静かになった。いまこの場で交わされている会話のほとんどが、兄に関することだったから。  ほぼ文句か諦めの声しかなかったけど、初めてルナ様が前向きな打倒宣言をした。その自信がよほど意外だったのか、みんな一様に黙ってしまっていた。 「……ま、そういうことでしたわね」 「そう。よく考えれば、才能のある私には何の問題もないことでしたわ。オーッホッホッホ! 私のセンスであの男をばふんと言わせてあげますわ!」  教室のそこかしこから「ですわ?」「オホホ?」「ばふん?」というひそひそ声が聞こえてきた。以前は「ぎょふん」だったのに、どうして悪化したんでしょう。 「入学式の総代にもなれなかった女が何を偉そうに。いいことを教えてやろう、あれは受験時の成績で決まるんだ。つまりユーシェは一番じゃない」 「自分のことを棚にあげて何を言ってるんですの? あなたも総代ではなかったでしょう?」 「私は……面接でちょっと余計なことを口走っただけだ。もしかしたら無礼だったかもしれない」  ルナ様……明らかに成績優秀のはずが総代になれないって、面接で一体どれだけ減点されたんですか。何を言ってしまったんですか。 「ルナ様は八千代さんと引き換えに無条件で入学したのではないのですか?」 「今回を逃せば、今後受験をする機会はそうそうなくなるだろう。一度くらいは経験しておきたかったんだ、受験というものをな」 「それと総代になって、ユーシェを悔しがらせたかったんだ。ああ力及ばず残念だ」 「わ、私も日本語の成績が多分ちょっとアレだっただけで、デザイン画はきちんと評価されているはずですわーっ!」 「そうだね! ルナとユーシェと瑞穂ならやってくれるよ! 私ちょっとその、自信ないけど、みんなならいいデザイン描ける! そんでゆうちょを馬鹿にしたあの人をみんなでぎゃふんとか言わせて! ぎゃふんて!」 「湊、それを言うなら『ばふん』ですわ」 「ゆうちょを馬鹿にしたあの人をばふんとか言わせて! ばふんて! ばふんばふんて!」 「言われなくても私の才能を以てすれば当然のことですわ」 「はい。私も精進いたします」  周りから声が聞こえなくなったので教室内を見回してみれば、他の生徒たちはみな沈黙していた。  前向きな宣言があまり気に入らなかったのかな。空気はあまり読めてないかもしれない。  でもこれがお寒いならともかく、ルナ様には充分な発言力があった。この人が前向きな発言をすれば、挨拶に来た他の生徒たちも前向きにならざるを得ないみたいだ。  出だしでやる気をなくすよりよっぽどいいと思う。自分もさっきルナ様に助けてもらったから、尚更そう思う。 「はい皆さん、喋るのを止めてください。オリエンテーションを始めます」  やがて八千代さんがやって来て、僕たちも所定の席へ着いた。付き人の僕は、当然ルナ様の隣だ。 「ていうか本当に八千代さんが担任なんですね」 「当たり前だろう。ところで、教室では山吹先生と呼んだ方がいいと思うぞ」 「桜小路家次女、ルナだ。いま確認できるこの教室の全員に挨拶をされたから自己紹介は省く。目標は自分のブランドを持ち四大都市に路面店を持つこと。好きなデザイナーはオシャネル。最近買った服はヴェルカン」 「次にこちらが当家のメイドの小倉だ。朝日、挨拶を」 「皆様、は、はじめまして。小倉朝日と申します、以後お見知りおきを」  しまった、忘れてたあ……新しい学校に期待したり、式で脅えさせられたり、朝から色々あって感覚が麻痺してたけど、よく考えなくても僕は女装してるんだった。  教室中の視線が僕に集まってる。いつ誰に「男じゃない?」と言われてもおかしくない状況だ。  女の子だけのクラスで女装しながら立ってるのも恥ずかしいし、性別が露見した場合の恐怖でひやりとする。 「さすがルナ様、素敵なメイドをお抱えね。なんてかわいらしい」 「本当。品があって、この階級の中での立ち振る舞いに慣れているように見えるわ。きっとあの子自身も、それなりの良家で育ったのでしょうね」  聞こえてくる会話や視線を確かめている限り、性別バレはしてないみたいで良かった……。  いや良くない? これだけの人数に男性だとバレない僕って、そんなに女の子顔だった? 男として大丈夫?  そんな風に自問自答してる間にも「ですのですのですわ」「ポゥ! ポゥ!」と同居人を何度か挟みつつ自己紹介は進んでいった。ユルシュール様も瑞穂様も、身元がわかれば憧れの目を向けられる対象だ。  順番は出席番号の後半「や」行まで来ていた。  次は湊の番だ。またいつもみたいに「ものを運ぶのが得意です!」とでも言って笑わせてくれるのかな。でも最初の挨拶で外すと後が辛いから、適度に抑えた方がいいってハウススクーリングの郭先生が言ってた。 「滋賀県から来ました、柳ヶ瀬湊です。実家は運送会社を営んでいます」  あれ、シンプルだ。  さすがの湊も最初の印象を大切にしたのかな。それがいいと思う。湊もようやく大人になったんだ。 「…………」  なんて安心したもの束の間、隣に座るルナ様の鋭い視線が視界へ入り、ふと教室内の空気がおかしいことに気が付いた。  今までの自己紹介の時と比べて、生徒の態度が冷ややかだ。  ここにいるのは、それなりに名前の知れた両親や実家を持つ生徒ばかり。だから一人が名前と生い立ちを語る度に、羨望だったり興味だったり、中には警戒の視線が集まった。  それが今に限ってまるで熱がない。熱どころか温度がない。誰も湊の自己紹介を聞いてない。  目を明後日の方へ向けたり、自分の鞄の中を確かめたり。中には露骨な人もいて、ケータイを開いていじり始めた生徒もいる。  ルナ様はそんな表情を一通り眺めて、小さく眉をひそめていた。 「メイドの名波です。好きな作家は三島由紀夫です」 「七愛です」  名波さんもわかっているのか、普段より大人しい。それでもどこかでプッと噴きだす声が聞こえた。  湊の家は最近まで……いや、ここ一、二年と言っていい。この教室へ入ることができる対象ではなかった。  歴史も由緒もない「成金」と見做されてる。それも柳ヶ瀬運輸は仕事を取るためなら牛にでも頭を下げる、先輩に当たる同業者に義理もないとの悪評もちらほら聞こえる。  湊の実家のある地域を戦国時代に領地としていた武将にちなんで、一部では「猿ヶ瀬運輸」なんて言われてるらしい。猿ってのは秀吉のことだ。  あまりいい気持ちはしなかった。それはルナ様も同じだろうけど、挨拶を受ける側とは言え、露骨に敵を作る必要はない。だからあえて気付かないことにして、喧嘩を買うような真似はしないんだろう。  ユルシュール様が知れば叱りだしそうなものだけど、彼女はルナ様とは逆に素で気付いてないみたいだ。  席に着いた湊と目が合った。いっそユルシュール様と同じタイプなら良かったんだろうけど、残念ながら自覚はあるみたいで、その表情はいつも通り「たはは」と笑っていた。 「それでは自己紹介も済んだので、授業の説明に入ります。この時間割表を回してください」  湊のことに気付いてるのか、気付いてても無関心なのか、八千代さんは担任として粛々とHRを続けていく。 「見ての通り、大半は服飾の授業となります。パターンメーキングを学び、基礎縫製を実習し、デザイン画や画力を学ぶ美術の授業が基本となります」 「他には外へ出て、実際の店舗を見て回るマーケティングや、素材を集めに総合服飾材料店へ向かってもらうテキスタイル等の授業があります」  マーケティングの授業は、その時間中は外を歩いて回ることになるのかな。だとすれば、外を歩くのが嫌いなルナ様には厳しいかもしれない。  元々は一人で全ての授業をこなすつもりだったみたいだけど、僕がいて良かった。 「差しあたって、明日からは時間割の通り、パターンメーキングの授業を行います。教材を運んでもらうので荷物を取りに――このクラスでは、使用人の皆さんですね。私と一緒に来てください」  そういう力仕事も僕の役目だ。サーシャさんや北斗さんと一緒に立ちあがった。  ……それにしても、やはりというか、実家の格にも繋がるのか、綺麗なメイドさんが多い。サーシャさんや北斗さんは言わずもがな、名波さんもぶつぶつ言わなければ人形みたいに可愛いし……あ。  そういえば名波さんは……最後尾にいる。少し距離を空けてぽつんと付いてきてる。  教室の空気に疎外感を覚えているのかもしれない。落ちこんでるなら、同居人として話相手になってあげたい。歩くスピードを落として、さりげなく合流……。 「くそビッチどもが。お嬢様の挨拶を無視するなんて七愛許せない。オメーらだって大して家筋変わんねえじゃねーか、この家畜人どもが。宇宙帝国に誘拐されてハゲろ」  近付くにつれて、なぜ離れていたのかがわかってきた。小声で罵倒してたんだ。 「ん……小倉朝日。七愛の隣に並んで何の用。もしお嬢様の教材を運んで点数を稼ぎたいのなら、七愛は譲らない……何故なら私はお嬢様へのご奉仕にこの上ない悦びを覚えるから……ヤプー」 「はい、邪魔はしません。話相手になってもらえればと思って」 「じゃあ世界で行きたい場所についての話。七愛はバンコクへ行きたい。暁の寺を見るために」  名波さんはタフだから、僕が心配なんてしなくてもいいのかな。声を掛けるとすれば、湊の方なのかも。 「それではこの教材を運んでください……あ、それと、今は教材置き場にしていましたが、この場所はサロンと言う名で呼ばれていて、特別生徒のお嬢様方は自由に使用して良いこととなっています」  はっきりとは口にしないけど「一般生徒はもちろん、メイドのみで使用するのはいけませんよ」と言っている。 「内側から鍵も掛けられますので、昼食や相談事がある際に使ってください。ただし後片付けは使用したお嬢様方のメイドたちが必ずすること」  はい。と僕たちは返事をした。その後ぐるりと部屋の中を見回してみる。  新設だけあって綺麗で、居心地も良さそうだ。さすがお兄様、その辺りは納得いくようにしたんだろうな。  そして荷物を持ってサロンを出たところで、廊下の窓から隣の校舎を見上げつつ、八千代さんが軽く解説をしてくれた。  二つある棟のうち、僕たちがいるこちら側とは別の棟は、来年度の新入生が使うらしい。作りも基本的に同じとのことだ。  来年、りそなが入学するとしたら向こうの建物で勉強するのかな……う。  他のメイドたちはまっすぐな姿勢で八千代さんの説明を聞いていたけど、その中で僕一人だけが猫背になりかけていた。  うぅ……お腹に嫌な予感。これは、屋敷へ戻るまでに悲劇を避けられるといいなあ……。 「――と、このパターンノートが、皆さんが卒業する頃には教科書になるわけです。いま渡した教材についての説明は、ここで終わります」 「初日の授業に必要なものはパターンノートと縮尺定規、それと筆記用具です。そして二週間後には基礎ソーイングも行うため、ミシンが必要になります」 「授業中は備え付けの職業用ミシンを使用してもらいますが、家でも縫製をする人は各自で購入をしてください」 「もちろん自分の好きなメーカーのものを選んでもらっても構いませんが、学院を通せば二割引で安く買えます。今からカタログを回します」  ミシンの名前が出ると、教室内が軽く賑わった。数ある教科の中でも、実際に服を作る授業は一番楽しい。  他の道具と違って高価な分、ミシンは三年間の相方になるから選ぶのも慎重になる(この教室にいる生徒はすぐに買いかえられるひとばかりだけど)。  長く使えば愛着が湧く。それがわかってるから、カタログを見るだけで胸が膨らむ。  僕は部屋に備えつけてもらっていたし、ルナ様もアトリエに三種類以上のものを用意してるから、自分たちのミシンを選ぶことはない。  でも他のお嬢様方とみんなでわいわい話しながら選ぶのは、ちょっと楽しみ。 「えっ! 一台15万もするの!?」  そんな中、湊の出した声に同級生たちの視線が集中した。 「あっ……」  小さなくすくすとした笑い声があらゆる角度から生まれた。愛嬌を含んだ音ではなく、場違いの者を圧迫する失笑。あの元気な湊が小さくなってしまっていた。  柳ヶ瀬の家は娘の教材に15万程度の額をぽんと出せる家庭だ。だけど湊は、まだそれほど家が大きくなかった頃の生活を覚えていて、金額面で両親に甘えられる今の立場でも節度を守れているんだ。 「15万が出せないんですって」 「恵んであげようかしら」  家庭のことを考えられる湊が笑われるのは悔しい。でも今の僕は何もできない。 「ルナ様……」  縋るしかない。隣の席に座る主人は、失笑が聞こえているはずなのに沈黙していた。 「ルナ、あなたは新しいミシンを買うんですの?」  そんな中、周囲の空気をまるで気にしていないかのような、脳天気な声が掛けられた。ルナ様の後ろの席、ユルシュール様だ。  自分の言いたいことだけを言えるユルシュール様は本当に強い方だと思います。今は良悪両方の意味ですが。 「せっかくですから、一番いいものを選びたいものですわね。ま、ミシンなど知識があるわけでもありませんし、値段の高いものを選べばいいのですわよね?」  最後にオホホホと笑うユルシュール様。なんの邪気もない純真素材天真爛漫の顔だった。  それに釣られた同級生たちも、そうですね、やはり値段の良いものがいいのでしょうねと笑いはじめた。みんなが笑っていた。お日様も笑っていた。ルナ様も邪気満面で笑っていた。  え、邪気? ニヤリどころか、ルナ様がニタリと笑っていらっしゃる?  その時の僕の主人は、米を荒らしに来ていた雀が、鳥もちに足を絡めとられているのを発見したような、そんな喜びに満ちあふれていた。  ああ。鬱憤が溜まっていらしたのですね。友人を馬鹿にされつつも、その怒りの捌け口が見つからないもどかしさのせいで。 「 ユ ウ シェ 」  ルナ様は、ユルシュール様のあだ名を一文字ずつ丁寧に呼んだ。それはまるで「あくまであなた個人に言っているのであって、他の人は誰も関係ありませんよ?」と念を押しているようだった。 「なんですの? ルナはもう決まりましたの?」 「心配しなくても、ユーシェには私からミシンをプレゼントしよう。最新の機体で、職業用ミシンよりさらに上の工場にしか無い特注品だ。一台200万のものだ」 「あ、あら、よろしいんですの? それほどの製品だと、さすがに少しだけ気が引けますけど、ルナから贈っていただけるというのでしたら喜んで受けとりますわ」 「ああ、喜んで受けとって欲しい。所在地は中国だ。とてものどかで、車で30分も走れば地平線が見える、景色が自慢の良い場所だ。私の傘下にある企業の工場だから、気兼ねなく就職してくれ」 「オホホホ、ルナったら何をおっしゃいますの? 私はこれから三年間学院で学ぶのに、それではまるで明日から、縫製の工場へ務めるみたいな口振りですわ」 「一言一句違わずにそう言ってる。高くて良いミシンを買って縫製の勉強をするんだろう? 縫製のプロフェッショナルを目指すユーシェのために、私が腕によりをかけて作りあげた最高の工場を紹介しよう」 「我が工場に勤めている女性スタッフは、みな勤勉で優秀で、尊敬できる人たちだ。ユーシェは私の友人だし、工場長見習いのポジションから始めてほしい。肉体労働は大変だと思うが」 「なっ、ななっ、縫製の勉強のみをしたいわけではありませんのよ!? 肉体労働は苦手ですし……私はそういう意味で、高いミシンが良いと言ったわけではありませんわっ!」 「私が目指すのはデザイナーだ。直線縫いできるミシンがあればそれでいい。ちょうど優秀な管理者を探していたんだ。なあ、副工場長シュール」 「ユルシュール=フルール=ジャンメールですわっ!」  興奮しつつ髪を振り乱すユルシュール様の迫力に、湊を笑っていたクラスメイト一同は黙りこんでしまった。  建前上はユルシュール様のみに言っているわけだから、彼女たちは知らんぷりをしていればそれでいい。相手がルナ様ということもあり、湊の経済観念を笑う人はいなくなった。 「ルナ様、協調性を大切にするのではなかったのですか?」 「ん? ああ忘れてた。初日からこれではいけないな。ユーシェ、悪かった。クープ・デュ・モンドへ出場した有名店のスイーツをごちそうするから許して欲しい」 「あら、そうなんですの? それなら許しますわ」  甘いケーキにつられて、ユルシュール様はルナ様をあっさり許してしまった。 「ルナさ……桜小路さん、一流の縫製技術を持つオートクチュールの職人は、世界中のアトリエから引き抜きが掛けられるほど貴重な存在です」 「また、我が国の工場の縫製技術は世界に誇れるものであり、相応の知識と経験が必要となるのですから、簡単に工場長を務められると考えてもらっては困ります」 「迂闊でした。反省します」  しかもルナ様は謝った。ユルシュール様が許してルナ様が謝ったんじゃ、他の生徒たちは何も言えない。みんな湊を失笑したことは忘れて、カタログへ目を移していた。  すぐにルナ様の携帯電話へ、同じ教室にいる湊からメールがあった。内容は「ありがとう。ルナの気持ちがとっても嬉しかった!」。  これでしばらくは、湊への露骨な面当ても減ると思う。とりあえず良かった。  ただ、八千代さんだけはげんなりしていた。ルナ様へ敬意を払いつつ、一生徒として接しなければならない彼女の立場は極めて微妙だ。 「はあ。桜小路さん……一年間お手柔らかにお願いします」 「こちらこそ。山吹教諭」  八千代さんにとってはどんな不良生徒よりも、ルナ様の存在が一番の悩みの種かもしれない。それでも彼女は気丈にHRを再開した。 「はい。それでは皆さん、カタログは一旦閉まって。ミシンの注文がある人はいつでも私の所まで持ってきてください。今日は明日の授業の前に、あと一つだけ済ませておくことがあります」  一瞬でげんなりモードから立ち直った八千代さんは、教室の端から何かを運んできた。それもミシンと同じく、服飾学校へ通っていた僕には馴染みのある教材の一つ。 「この『ボディ』……『トルソー』とも言います。これを一人一台用意します。このクラスにはメイドがヘルプとして付いていますが、お嬢様方に一人一台です」  人間扱いしてないわけじゃないだろうけど、生徒と使用人の立場をはっきりと分ける厳しい言い方だった。 「ボディもミシンと同じく学校側から貸しだすことも出来ますが、自分でサイズを提出して専用のものを購入することもできます」  自分サイズの専用ボディ。値段を聞くまでもなく、このクラスの生徒なら全員が購入するだろう。  今度は湊も黙っていた。節約するにしても、とりあえず今は周りと空気を合わせるようにしたみたいだ。きっと、柳ヶ瀬のお父さんに話したら買ってくれると思う。  実のところを言うと羨ましい。僕も自分のサイズの専用ボディが欲しかったな。  八千代さんが用意したボディには140cm、150cmと10cm刻みのものが170cmまで用意してあった。さらに各身長のものが三つのサイズに分けてある。 「学校から貸与するボディにもS、M、Lがありますので、各人のサイズを知っておく必要があります。というわけで、これから採寸を行います」  そのために採寸もするんだ……それなら本当に自分専用のボディが出来る。いいなあ――  ――えっ、採寸? 「今からメジャーと採寸表を配ります。バスト、ウエスト、ヒップだけでなく、袖丈や首回り、肩幅なども測ります」 「採寸表の空欄を全て埋めて、各自で大切に保管しておくこと。うっかり落として他の人に見られたら恥ずかしい思いをしますよ」  八千代さんのジョークに、周囲がくすりと微笑んだ。僕はその中で、ぐすりと涙ぐんでいた。  採寸って、だって、下着姿になるわけで。しかもメジャーで測るから、胸とか、腰とか隠せないわけで、ごまかせるわけがない。  終わった……今度こそ完膚なきまでに、僕の人生きりもみ回転気味にコースアウトだ……ガードレールに当たって自動車ずどーん!  こうなったら、体調崩れた振りして医務室へ逃げるしかない。どのタイミング言いだそう……最悪、わざと転んで額を机にぶつけ、出血する程度の覚悟は……。 「メイドの皆さんにメジャーと採寸表を渡している間、生徒の皆さんは下着になってください。あ、メイドの皆さんは脱がなくてもいいです。今回計るのはお嬢様方だけです」  八千代さん、ありがとうございまあああああ――す!! 事情を知ってたわけじゃないだろうけど、助かりましたうわあああああああ――ん!! 「うう、ありがとうございます……ありがとうございます」 「こ、小倉さん? 袖を掴みながら泣かれても困るんだけど、いま忙しいから後にしてくれる?」  八千代さんには理解してもらえなかったけど、本当に、心から感謝します。あなたは一人の人間の命を救うという、とても尊い行いをしました。天使です。いえ、神です。ゴッド・八千代。 「……というわけでサーシャさん。貴方も脱がなくていいです。いえむしろ自主的に脱がないでください」 「あら、そうなの? せっかく私の美ューティフル・ワンダフル・バディを見せられる時だと思っていたのにぃ?」  サーシャさんはスカートを下ろしかけるところまで来ていた。普通、上から脱ぐと思うんだ。 「ま、うら若き乙女たちの前で私の美しいBODYは刺激が強すぎるわね。わかったわ、美しく廊下で立っているから、終わったら呼んでもらっていい?」 「え? 出ていくって、ユルシュール様の採寸はどうされるのですか?」 「だって私、肉体的には美しい男だもの。さすがに下着姿の女性の中には混じれないわん」 「えっ」 「なんだ、知らなかったのか……サーシャは美しい服を着た、自分が大好きな元・男だぞ。美の追求に性別は邪魔だと考えているから、正確には男でも女でもないんだが」 「この学院内での心は女よん。ま、美しいものの前に、性別なんて些細な問題だものねえ?」 「肉体的に男ではあっても、自分の美しさにしか興味がないから、女性には害がないんですの。女性服が美しいと思っているから女装してるだけで、男性服も美しければ普通に着ますものね?」 「でも如何に美しい私と言えど、下着姿を見られては嫌な思いをする女性がいるじゃない? だから外に出て待ってるわよん。オ・ルヴォワァール!」 「えっ、ええええ、サーシャさん男だったんですか?」  付き人は女性じゃなきゃ駄目なんじゃ……。 「君は何を言っているんだ。サーシャは女性だろう。本国で『女性』として認められているんだぞ」 「サーシャは戸籍を変更していますの。スイスでは法律でこそ認められていませんけど、そういった実例もあるのですわ」  確かにお国が認めたんじゃ、反論できる人はいませんけど……。 「ん? じゃあユーシェは誰に採寸してもらうんだ」 「あら、言われてみればその通りですわね。困りましたわ。朝日を貸していただきたいですわ」 「え、私ですか?」 「何故だ。朝日は私のメイドだ」 「八千代がいるじゃありませんの」 「ごもっともですね。小倉さんが他の人の手伝いをするのなら、桜小路さんの採寸は先生がしてあげます」 「え、なんだ……ちょ、待て山吹教ゅ……こら八千代っ! ひゃっ!」  うきうきした顔の八千代さんが、メジャーを片手に、ルナ様を目立たない教室の隅へ追いつめて剥きはじめた。合法的にルナ様の成長を確かめられるから嬉しいんですね。 「え、なにがあったのですか。皆さん楽しそうですね、私も混ぜてください。朝日が採寸してくれるの?」 「私が……と言いますか、サーシャさんが居なくなってしまったので代わりに……」 「それならユーシェには北斗を付かせるから。朝日は私とやりましょう?」 「は?」 「駄目?」 「ユルシュール様と北斗さんの希望はいかがでしょう?」 「私は別にどちらでも構いませんわよ」 「私もお嬢様の仰せとあらば」  あれ、どうしよう。選択権は僕にあるみたいだ。 「サーシャさんの代わりということですので、ユルシュール様をお助けするのが筋かと……」 「そうなのですか? 朝日は真面目なのですね」 「ま、私に奉仕したいという気持ちは理解できますわ。朝日は貴族の立場から見ても良いメイドですわね」 「朝日、ユーシェなんて首回りを測る時にメジャーで首をきゅっと絞めて……ひゃっ! ややや八千代っ!? 自分で脱ぐから余計な真似をするなっ!」  ルナ様は八千代さんにガーターベルトを引っぱられてもがいていた。どのみち脱ぐことには変わりないんだけど、自分で脱ぐのと八千代さんに脱がされるのでは、意味が大きく違うように思う。 「オーッホッホッホ、相変わらずルナは貧相な身体ですわね。それでは朝日、よろしく頼みますよね」  日本語変です。そして勢いの良い脱ぎっぷりだった。サーシャさんはナルシストらしいけど、もしかしたら彼だけではなく、この主従は似た者同士なんじゃないだろうか。  でも自信を持つだけあって、スタイルは抜群にいい。  それと、ルナ様は事情があるから別にしても、肌の白さの質がやはり日本人と違う。その透きとおるような色に見とれかけた。 「朝日、よろしくてよ」 「え?」 「以前から、朝日は使用人にしては堂々としていて、サーシャや北斗とは別の類の落ちつき方……そう、まるで貴族のような余裕があると思っていたのですわ」  う。使用人でないことは確かです。  でも他のメイドさんとそれほど差はないと思っていたのに。ユルシュール様の目から見れば違うとわかってしまうんだ……気を付けないと。 「今日の朝日は良い目をしていますわ。貴族を見る時の平民の目はそうでなければ」 「私を敬うのは良いことです。オーッホッホッホ」  敬ってる表情に見えたんだ。ユルシュール様の肌に見とれていたからかな? この人は、自信を口にするだけのものを持っているし。  過去にデッサンの練習でヌードモデルの人も見たことがあるけど、それとも違う。芸術とも性的ともまた違う女性の魅力が……うーん? 「いいでしょう。朝日の態度は気に入りました」 「貴女でしたらいつでも雇ってあげます。ルナに愛想を尽かして桜小路家から離れたときは、当家を頼ってスイスへ来るといいですわ」  それなりの立場にある人だから、肌ひとつ取っても、本人の言うとおり貴族の品格みたいなものが備わってるのかもしれない。 「朝日? 先ほどから返事がありませんけど、私の話を聞いてますの? というより、ちょっと胸がきつ……締め付けられて痛いのですけど」  その時、ふと自分の芸術が閃いた。メジャーが紐のようになり、この美しい肌へ食いこむ様には独特の美しさがある。 「あた、あいたたたたたっ! ちょ、あのっ! 痛いですわよっ!?」 「なんですの痛いですわ苦しいですわっ! ちょ、手の力を緩めて……イタタタタタ」 「はっ。あ……ももも申し訳ありません! ええと88です」  他人の肌で新しい芸術を発見してる場合じゃない。僕は咄嗟にサイズを測るために仕方なくといった風を装った。  それにしても、痛いときでも日本語なんだ……体に染みつかせてきたんだな。 「くっ、一度は私を油断させるために敬愛の眼差しを見せておきながら……最後に締めつけて苦しめようとするなんて、やはりルナの使用人ということですわですわですわ!」  あ、怒ると「ですわ」の回数が増えることもあるんだ……。 「どうせ、その88という数字も嘘なのですわよね。本当は89……いいえ、90台に載っていてもおかしくありませんわ。ルナに自慢するため、スイスではブラウン種の牛乳を毎日飲んでいましたのよ」 「いえ、下着の上からで88です」 「お黙るなさい!」 「ユルシュール様、連用形をお使いください。黙ら黙り黙るです」 「お黙らない!」  もしかして間違った日本語を覚えた理由は、ルナ様のせいだけじゃないのかな? 「私が89と言えば、朝日は黙って言われた通りの数字を採寸表へ書けば良いのですわ。おかわり?」 「おわかりません。正しい数字を書きなさい」 「ですわ」  八千代さんに見つかってしまったから、僕は正しい数字を書きこんだ。ウエストの数字が彼女の納得のいくものでなかったことは、僕が水増しをしたと非難された。 「全く、これだからルナのメイドは卑怯ですわ。そんなことをしても、あの女の数字が増えるわけではないのですわよ」 「別に胸の大きさで人間の価値が決まるわけではないだろう。その程度でプライドを保てるなどと、よく臆面も無く言えたものだ。その浅はかな充足感をせいぜい満たせばいい」 「ええ満足ですわ。他の方ならともかく、ルナに数字という絶対的な指標で勝つと大変に気持ちいいですわ。いつもの屁理屈もこねられないでしょう?」 「だから私は悔しくないと言ってるだろう」 「自己満足で構いませんの。オーッホッホッホ!」 「…………」 「どれ、そこまで言うなら採寸表を見せてみろ。勝負してやろう。私が勝ったら、二度と胸の大きさなど話題にするな」 「勝負してやろう」の辺りで、数人の同級生がおったまげた顔でルナ様とユルシュール様の体を見比べた。 「え……あの、何の根拠を持って、その貧相な胸で数字の勝負を挑んだんですの……」 「ルナ様、数字は絶対的なものです。現実から目を逸らすのはおやめください。台東区とスイスの国土面積を比べるようなものではありませんか」 「誰が台東区だ。せめて23区と言え馬鹿者、君の主人は誰だ。もういいしばらく黙れ、これは命令だ。ほらユーシェ、私の採寸表だ。君のもよこせ」 「か、構いませんけど、本当に良いんですの? 手加減はしなくていいんですの? あの、私の数字を半分にしても良いですわよ?」 「ふざけるな馬鹿、真顔で言うな。同い年で胸囲が半分って、どれだけ私は不健康児なんだ。それだけのことを言うからには、ユーシェの身体はさぞかしご大層な数字なんだろうな! 88、54、80……ご大層だな」  ルナ様の声が聞こえた生徒全員が目を丸くしていた。規格外の数字だった。 「ではルナの採寸表も読みあげますわよ。172、49、174……」 「何をナチュラルに一桁追加してるんですの……」 「なんだその目は。八千代が嘘の数字を書きこんだとでも言いたいのか。仮にも教職にあるものが、そのような真似をするはずないだろう。それともユーシェは私の数字をその目で見て確かめたのか?」 「桜小路さん……いえルナ様、ズルはいけません」  結局ルナ様の採寸表は書きなおされていた。でもユルシュール様が数字を半分にしてもいいと言ったので、ルナ様的には負けてないと言い張っていたけど負けですルナ様。 「お二人がそれで構わないというのでしたら、瑞穂様の採寸をいたします」 「わ、嬉しい。それではルナ、ユーシェ、朝日をお借りします」 「でもあの、北斗さんはいいんですか?」 「はい、構いません。我々の部族にこのような言葉があります。『太陽を見る時は空を見上げるな。その姿を直に見る者は、怒りに触れて目を焼かれてしまうぞ。太陽は泉に写して見よ』」 「いい言葉ですね」  しかし現状とは特に関係がないみたいだから解説は聞かなかった。 「朝日。準備ができたから、お願い」 「体のサイズを測るのは、昨年の身体測定以来だから……少しは成長してるといいけど」 「瑞穂様はスマートですから、腰回りはもう少し肉を付けてもよいのではないでしょうか」 「朝日? 女性として、太りたいなんて思ってる人はいないと思う。これでもお肉が付かないよう、休日に馬場を駆けたり、弓を射たり、運動をして、努力してるよ?」 「乗馬に弓道ですか。素晴らしいご趣味ですね」 「ううん、〈流鏑馬〉《やぶさめ》」 「流鏑馬!」 「もちろん普通の乗馬に弓道も嗜むけど、関東へ来てから、たまたま流鏑馬を教わる機会があって。滅多に体験できるものでもないでしょう?」 「あ、日常的に行っているわけではないんですね、良かった……」 「日常的どころか、本当に偶然で……先生は東北の方だから、たまたま所用で東京へ来ていただけのところを捕まえて。来週には青森へ帰ってしまわれるから、もう教わることができなくて残念だと思っていたところ」 「その先生は女性の方なのですか?」 「そう。東北には女性だけで行われる日本で唯一の流鏑馬の大会があるの。女性に限定しなければ、流鏑馬を教われる乗馬クラブは他にもあるけど……」 「男性から教わるのは嫌ですか?」 「嫌。というよりも、最近また嫌な思いが増えたから。先々週のことだけど、先生が当日来られないことになって、代わりの指導に男性の方を手配してくれていたんだけど……」 「先生の厚意を無駄にしてはいけないと、我慢しながら受けていた指導の途中で、その先生が私の身体を見ながらこう言ったの。『君は胸が大きいから、弓を射るのに向いていないな』って」  わあ。地雷踏んじゃった。  きっとその先生も親切で言ってくれたんだと思う。幾つの人かわからないけど、年配の方だったとして、自分の孫ほどの年齢の相手なら、デリカシーを気にすることもないだろうと思ったのかもしれない。  でも知らなかったこととは言え、相手が悪かった。どんなに真っ当なことでも、男性が苦手な瑞穂様に身体の特徴を指摘したら、それは火に水爆を放りこむようなもので……。 「この胸が弓の邪魔になることは、成長し始めた頃から自分でもよく知ってるのに。今さら、それも男性に言われたら、悲しくなると思わない?」 「どうして男性は、すぐに体ばかり見るのでしょう」  人より目立つ大きさだからだと思います。 「とても嫌な気持ちにならない? 朝日もそういった経験があるでしょう?」 「ある……ような、ないような気がします」  今は男性に限らず、自分の外見に注目されたくない時期なので、じろじろと見られるのは嫌というよりも困ります。  そして男性である僕は、瑞穂様の胸を直視していますごめんなさい。震える手でメジャーを絞った。 「あ……」 「な、なんだか、そうやって間近で見つめられると照れるかも……恥ずかしい」  女性ならいいんだ……。 「朝日は、そう思ったりしない? 女性同士だし、普通はないのかな。私がおかしいのかも」 「女性同士でも照れたりはします。瑞穂様はスタイルも良いですし」 「朝日にそう言われると嬉しい」  瑞穂様、大丈夫かな……女子校へ来て、本当に目覚めてしまわないといいんだけど。  それと胸のサイズは90だった。周りと比べても、特別大きい。  僕はいま、人生の岐路に立たされていた。  ルナ様は側にいない。本来なら常に彼女の側にいなければならない僕は、教室から離れて単独行動をとっていた。それには理由がある。  トイレ行きたい……!  それがどうして人生の岐路になるのかと言えば、ここは女子校。まさかとは思っていたけど、教室のあるフロアに女子トイレしかない。  職員室まで行けば男性用があるんだろうけど、この姿、この格好で入ることはとても危険だ。  できれば人気のない男子トイレを探したいけど、実は今の時点でけっこう切羽詰まってる。採寸の前に一度大きな波がきて泣きそうだった。  今から各階を回って探して、それでも見つからなかったら……そして別のフロアには、もっと大量の女性がいたら……。  教室ではルナ様たちが僕のために帰宅を待ってくれている。つまり時間までも身体的にも状況的にもギリギリだった。  今ならこの階のトイレには誰もいない……うう、ううううぅ……!  背に腹は代えられない。僕は男の尊厳を自ら踏みにじりながら女子トイレに足を踏みいれた。 「この学院のトイレは綺麗ねえ。さすが新築、しかもゴージャスよ」 「この学院の建築には江里口金属さんも関わっているのでしょう? さすがねえ。我が成松重工もお仕事を分けてもらえて」 「そう思うとより使い勝手がいいわねえ。うふふ」  どうしてこんなことに……!  僕が入ったときは一人だった。だけど個室の扉を閉めた途端に次々と人が入ってきて、両隣の個室は埋まり、手洗い場でも二人の女生徒が雑談に興じている。  ううう……密室だから自分の世界に閉じこもればいいんだけど、この場所にいることがとても居たたまれなくてそれどころじゃない。はっきりと言えば恥ずかしい。  男なのに……女子トイレ……しかも、こんなところ見つかったら……。  出るときはどうしよう。女の子って拭くんだよね? 嘘でもカラカラ音をさせた方がいいのかな。ああもうわかんない。顔が熱くなって、もうわけがわかんない。  早く用を済ませて出ていきたい……お願いだから皆さん、僕を一人にしてください。 「はあ、それにしても疲れたわあ。何あの桜小路さん。ちょっとずば抜けて金持ちだからって鼻にかけちゃって?」  ん? 「全くねえ。人が挨拶してるのに無愛想で。お喋りの一つもできないの? それとも私たちとは仲良くするつもりもないの?」 「はあ〜あ、私のお父様がもっと頑張って、あの生意気な桜小路家を傘下に置いてくれないかしら。ま、それでも仲良くはしてあげますけど?」 「さすが江里口さん、お優しいわあ。私とも仲良くしてくださいね。三年間よろしくしてくださいね」  …………。  今の声、教室でルナ様のもとへ真っ先に挨拶をしてきた……。  こういうのはどの世界でもあることだし、一々気にするまでもないと思ってた。だけど、ここまではっきりとした妬みをぶつけられると堪える。  それが自分に対してなら随分と楽なのに、慕っている相手が対象だと、こんなに辛いものなんだ……。 「てかさ、ないよネーあの若白髪。なにあの肌、幽霊みたいだし? 目が赤いとかウサギかって!」 「友達いなそーだよね? 周りを身内だけで固めちゃってる感じ? 一人でイキがってろっつーのキャハハ」  …………。  ルナ様……僕は、貴女を守るだなんて大それたことは言えません。  でも、ルナ様を好きでいることは誓います。お側にいる限り、必ず貴女の味方でいます。  早くルナ様に会いたい。恥ずかしがってる場合じゃない。すぐに戻ろう。 「でもあのお付きはヤバかったね。なんだあの高レベル、アイドルじゃん。絶対モテるよあの子。男ってああいう何でも言うこと聞きそうな子とか好きだもん。私が男でも犯したいわ」 「あー、アレはヤバかったよねー。ああいう清純ぽいのに限ってビッチなんだって。絶対男食いまくってるよ。二十人は軽いでしょ。アレが腹黒じゃなくて素で処女だったら、私もう格差酷すぎて女やめるから」  …………。  あの。ごめんなさい、処女です。というよりも処女を破られたくないです。それはもう一生。  でも安心してください。僕は男なので、そもそも女性社会の外側です。だから格差社会なんてことはありません。  …………。  ……はあ。ルナ様のもとへ戻りたい……。 「朝日はいるか? いつまで待たせるんだ、20分も経ってるぞ。もういい、ここで待つ!」  わああああああ本人きちゃったー!  やっぱりまだ会いたくなかった! なんか側にいられると恥ずかしいです! 「疲れたっ!」  もう疲れた。今日は動けない。  本当はやらなくちゃいけない家事が沢山あるのに、初日だからと先輩たちが交代してくれた。皆さんいい人ばかりだから、今日は甘えさせてもらった。  実際のところ、体の疲れはそれほどでもない。問題は精神的な疲労だから。  まさか兄が学院長になるなんて思わなかった……ジャンと仲がいいのは知ってたけど、学院の手伝いもするなんて。  見つかったら破滅なんだ……誰か、相談できる人もいないし。  ……あ、居た。  僕はケータイを手に取ると、自分の事情と家庭の事情、両方を知ってる人のもとへ電話を掛けてみることにした。 「こんばんは。兄から電話を掛けてくるなんて珍しいですね。フフ、妹の大切さがようやくわかりましたか?」 「りそな、それが大変なんだ。実はお兄様が、フィリア女学院日本校の学院長を務めることになって」 「え……」  りそなの素の声だった。自分は関係ないにも関わらず、兄の名前が出ただけでショックを受けたみたいだ。 「冗談にしては性質が悪いですね。でも嘘だと言ってくれた時の解放感を考えれば、一度だけ冗談でも許します。そう言ってください」 「ごめん、本当なんだ……入学式で見た瞬間、目の前が真っ暗になった。見つからないか自分の席で耐えてる間、本当に辛かった」 「そう、ですか……心中お察しします。その場に居ない私ですら、胃が重くなりましたから」  嫌な気持ちにさせて申し訳ないとは思う。でも事実は伝えておかないと。 「……で、どうしますか。ルナちょむの家を出て、こっちへ帰ってきますか?」 「うん、そのことも考えた。でもお兄様はほとんど学校に居ないんだって。実際、あの人は身の回りが忙しすぎて、学院長として割けるだけの時間はほとんど無いと思う」  それでも生徒のデザイン画を全てチェックすると言ってるんだから、人材育成に情熱はあるんだろうけど。 「僕たちには興味もないだろうから、実家の方へ帰ることもないだろうし、このまま学院に居続けることは出来ると思う。今のところ、教室で女装のことは周りにバレてないんだ」 「このまま無事だといいですが」 「うん、今でも少し怖い……んだけど、服飾の勉強がもう一度できるのはすごく嬉しい。ジャンにも会えたし、何よりルナ様とその周りにいる人たちと同じ教室で暮らせることに感動してて」 「この道を諦めかけはしたけど、もう一度挑んでみたい気持ちになってるんだ」 「…………」  以前までは、とにかくお兄様に認められなくちゃいけない、そうでないと服飾業界に居られないと必死だった。  でも結局は力が及ばなかった。天才である兄と比較される重圧に苦しみつづけた結果、無能の烙印を押されて捨てられた。  与えられる愛情はなくても、恐れながらではあったけど、それでもその才能や輝きを敬愛していた兄。彼を失望させてしまったという申し訳なさは、僕の夢を簡単に押しつぶした。  でも今は……すぐ隣にお兄様と同じく天才と呼べるルナ様がいるのに、全く重圧を感じることがない。それどころか一緒にいたい。共に学びたいという気持ちが強い。  ルナ様の才能は疑うべくもないけど、彼女は周りを気にしない。たとえ劣ってる人間が近くにいても、自分には関係ないと考えて興味そのものがない。ただ自分とだけ向きあってる。  それが兄との違いだった。彼は才能の無い人間が側にいることを嫌う。普通なら関わらなければいいだけの話だけど、僕と彼は兄弟。逃げることができない。  それに比べてルナ様はマイペースだ。彼女のストイックな姿勢には、不思議な魅力があった。本人に言ったら嫌がられるだろうけど、まさに侍。超男らしい。  ……まあこんなことをりそなに語ったところで「キモいです」と一蹴されそうだから、心の中へ留めておこう。 「三年間学ぶつもりでがんばってみるよ」 「わかりました。兄がそうすると決めたのなら、妹は協力します。元々私から提案したことですし」 「ありがとう。誰かに聞いてもらうだけでも、気が楽になるかなと思って電話したんだ。それなのに、協力してくれるとまで言ってくれて心強かった」 「じゃあ将来付きあってくれてもいいですよ。少し調べたんですが、結婚はできなくても一緒に暮らすことで事実婚という――」 「僕は近親恋愛に反対だな」  その後はりそなの愚痴を聞かされた。でも「疲れてるでしょうから」と適度な時間で解放してもらえた。みんな優しい。  はあ。でも誰かに自分の気持ちを聞いてもらえて良かった。楽になったし、自分が学校に居たい理由も確認できた。  さて、それじゃ寝よう……っと。お腹鳴った。  夕ごはんは食べたんだけど、すっきりしたら小腹が空いたみたいだ。時間を見ると、0時。  つまみ食いは禁止されてるけど、今日はルナ様や先輩方が優しいから、見つかっても許してもらえそうな気がする。  冷蔵庫になにかないか確かめてこよっと。もしなにかあれば作っちゃおーっと。  っとと、ウィッグは着けておかないと。服は適当に……制服でいいや。  趣味と実益を兼ねて僕は部屋を出た。チャーハンが食べたい。  凝っちゃった。  お米がちょっと残ってたから、お肉と卵を使ってガパオ作っちゃった。太らないように気を付けないと。 「あら?」 「あ……ユルシュール様」  見つかった。もしお客様の誰かと会ったときに寝間着じゃ失礼かなと思って、着替えておいて正解だった。  ユルシュール様は手に紙きれを一枚持っている。あれって……? 「お夜食? ルナのかしら?」 「いえ自分の夜食です」 「あ、内緒にしてください」  考え事の最中に声を掛けられたから正直に答えてしまった。ユルシュール様から目を逸らすと、くすりと可愛らしい息が漏れた。 「八千代さんに話したりはしませんわ。私も似たようなものですの」  あ、呼び捨てじゃなくなってる……八千代さんは担任になったから「ルナのメイド長」よりも扱いがよくなったのかな。  その手には紅茶のカップが握られていた。寝る前にハーブティーを飲んで、リラックスしようとしたのかな? 「その紅茶はユルシュール様がご自身で?」 「いえ、紅茶を淹れてくれたのはサーシャですわ。今は買い物へ行かせているから、自分で砂糖を探しに来たところですの」 「あ、お砂糖ですね。少々お待ちください」  シュガーポットを棚から取りだしながら、あれ?と疑問が浮かんだ。 「サーシャさんは、この時間に買い物ですか? もし当家にあるものでしたらご用意いたします」 「え……ええ、急に何でもいいから故郷のお菓子が食べたくなりましたの。ですから探しに行かせましたか?」 「ユルシュール様、私に聞かれても困ります。そこは疑問形を使うべきではありません」  サーシャさん、こんな深夜に買い物へ行かされたんだ……このあたりなら24時間営業していて、品質もそれなりに期待できるスーパーがあるにはあるけど。  だけどそれ以前に、スイスのお菓子を売ってるお店が昼間ですら少ないのだから、まず見つからないと思う。思いつきで探しに行かされたんじゃサーシャさんも大変だ。 「申し訳ありません。スイスのお菓子の買い置きには心当たりが……もし強くご所望でしたら、材料さえあれば、私が作れるものもあるかと思います」 「なければないで構いませんの。お気持ちだけいただいておきますわ。それより朝日はお腹が空いているのでしょう? 冷めない内に、その夜食をお部屋で食べた方がいいのではないかしら?」 「あ、いえ。当家では、主人か客人の希望があった場合、または私物を除いて、リビング、ダイニング、キッチン以外の場所へメイドが食器を持ち出すのは禁止されています」 「どのみち見つかれば怒られるのですが、つまみ食いが一時間の説教で済むとすれば、食器の持ち出しは解雇にも繋がります。ですからリビングで食べようと考えていました」 「そ、そう。ではご一緒しましょうか」 「え? ユルシュール様はお部屋へお戻りになられるのでは?」 「サーシャが戻ってくるまでの時間つぶしに、数ヵ月前のデザイン画を見ていましたの」 「えっ、デザイン画!」 「な、なんですの? 時間が経ってから見直すと、得られるものがあるかもしれないと思ったのですわ」 「あの、もし差し支えなければ、私が拝見してもよろしいでしょうか」 「えっ、これですの? そ、そうですわね……そんなに見たいんですの?」 「はい。ユルシュール様のデザインを見るのは楽しみです」 「ええまあ……そこまで言うなら構いませんけど。でも数ヵ月前のものですわよ?」 「はい。楽しみです」  ユルシュール様は少し困った顔をしていたけど、見せてくれると言った後は、率先してリビングへ進んでいった。  リビングへ行くと、テーブルの上に数枚の紙が載せてあった。これがユルシュール様のデザイン画かと思うと宝石みたいに輝いて見える。確認して、手にとらせてもらった。 「まあデザイン画とは言っても、落書き程度のものですから……」 「わあ、すごい! 素晴らしい作品ですね!」 「ですの?」 「スカートが炎で上半身が雪ですか? ユルシュール様は迫力のあるデザイン画を描かれるんですね」 「もし衣装にするとすれば、オーガンジーのスカートに刺繍で模様を付けて、ごわっとした雰囲気を出したいですね。上半身に積もる雪はファージャケットにすればそれっぽくなるかな?」 「ま、まあ落書きですけど」 「落書きでこれだけ綺麗なデザイン画が描けるんですか? すごいなあ……あ」 「こっちは一転してアーティスティックなデザイン画ですね。エアリーな線と幻想的な色使いがとても素敵です。妖精さんみたいですね」 「ユルシュール様はダイナミックな絵も繊細な絵も描けて凄いなあ……あ、こっちのもいいですね。あ、これもかっこいいです」 「その程度ですごいと連呼されては困りますわ。私の本気はこんなものではありませんわよ」 「あ、そうですね、失礼しました。でも本当に良いデザインだなと思ったんです。私にもこのくらい才能があれば……」 「あら? 朝日はデザイナー志望だったんですの?」 「はい、少し前までは。その、今でもデザインをしたいと思ってはいるんです。でも勉強すればするほど、自分には上を目指せるだけの才能がないのもわかってしまって……」 「私は身近に天才と呼ばれてる人がいて。彼の側にいると、いま自分がどの辺の位置にいるのかわからなくなったり、どれだけ努力しても追いつけないんじゃないか、なんて色々と不安になってしまって」 「だからと言って、描くのをやめてしまっては自分で出した問いの答えもわかりませんわ」 「ですね。はい、だからフィリア女学院で勉強したいと思います。ルナ様のお世話もありますけど、懸命に学ぶことを精一杯努力しようと思います」 「ええ、お互いに頑張りましょう」 「がんばる?」 「え? なんですの?」 「いえ、ユルシュール様が『がんばる』という単語を口にされるとは思わなかったもので。これだけのものを簡単に描けてしまう才能をお持ちなのに」 「うっ」  あれ? もしかして、天才には天才の苦労があるのかな。よく考えてみれば、ルナ様だって毎日デザイン画を描いてるんだ。才能があれば努力をしなくてもいい、なんてことはありえないか。 「たっ、たとえ私でも、99%の才能に加えて1%程度の努力は必要なのですわ!」 「はい、申し訳ありません」 「なんですの、人の言葉汁を」 「言葉尻です」 「言葉尻を掴まえただけで微笑ましそうなその表情。とても憎たらしいですわ、頭にきたから朝日の夜食を全部食べてやりますわ!」 「わーっ!」  途中で返してもらったけど、半分以上食べられてしまった。うぅ、とても悲しい。 「…………」 「あの」 「はい? なんでしょう」 「いえ、あの……」 「はい」 「首がこりましたわ」 「……首?」  向こうだと、首や肩が凝るひとは少ないイメージだったのに。ユルシュール様の体質なのかな? 「ルナの使用人風情がよくも私を辱めてくれたわね。罰として私に奉仕なさい」 「言葉汁のことですか? そんな、ユルシュール様をからかったつもりは……奉仕?」 「ええ。サーシャは女性から見て無害ですが、生物学的には男性でしょう? 精神的な性別にあまり理解のないお父様からの言い付けもあって、体には触れさせられませんの」 「体が固くなっているから肩を揉みなさい。ルナ付きのメイドを私がこき使ってやりますわ」 「はい、もちろん構いません」  ……構いませんけど、サーシャさんでも駄目なら、僕が触れたことをユルシュール様のお父様が聞いたら、とても怒るのではないでしょうか。女の格好でごめんなさい。 「では始めます」 「首ですわ。首を重点的にやりなさい」 「これは……全力で力を込めれば折れてしまいそうなほど細い首ですね。とても美しいです」 「オーッホッホッホ! 気分がいいですわ、もっと誉めなさい」 「美しいものを見ていると、いま見ているままの姿で永遠に留めておきたいあまりに、破壊願望が生じてしまいますよね。これは人間特有のものなのでしょうか」 「あ、あの。もしかして朝日は、大人しい顔をしているのにSっ気があるんですの?」 「そんなことはありません、冗談です。では一思いに……いきます!」 「ですわーっ!?」 「肩甲骨からいきます。えいえい」 「あ、気持ちいいですわ……中々に上手いですわね、天国へ行けそうですわ」 「では今度こそ一思いに……いきます!」 「ですのーっ!?」 「腰のマッサージを。首がこる場合、腰が原因になっている場合も多いですから」 「あ、いい感じですわ……体の張りが消えていくようですわ……」  ユルシュール様は天然でからかい甲斐があって面白いなあ。でも本人は気分良くない(気持ち良さそうだけど)だろうし、普通にしよう。 「でも随分と……硬くなっている場所もありますね」 「そうですの? まあ日本へ来てからは、土地勘もなくて、良いマッサージ師を探すこともできなかったのですわ。体をほぐす機会が中々なかったんですの」 「朝日は腕がいいですわね。なんなら私が雇ってさしあげますから、ルナの下を離れてもいいですわよ」 「ユルシュール様には、サーシャさんがいるじゃないですか。私にできて、あの人にできないことなどありません」 「最初に言いましたけど、サーシャは私にマッサージができませんわよ。たとえば私に触れたことを父が知ったら、サーシャの額がサーベルで貫かれるかもしれませんわ。ええ、男性が私の体を揉んだりすれば」 「ですわっ!?」  はっ! ユルシュール様のお父さんにこの光景がバレた場面を想像して、恐怖のあまり手に余計な力が入ってしまった! 「もももも申し訳ありませんユルシュール様! 故意ではないんです!」 「油断させてからのギロチンのような攻撃……うう、私としたことが、ルナの使用人を信用したのが間違いでしたわ」 「い、痛かったですよね。申し訳ありません、このお詫びはきちんと最後まで続けることで……」 「朝日の一撃で、びっくりして……お尻から内ももまでが、つったようになっていますの……痛いから撫でて欲しいですわ……」 「畏まりました」  女性から見てかなり男性に触れられたくない場所だろうけど……今は僕を女だと認識してるはずだし、こちらとしても、女性相手に按摩術の訓練をしたから抵抗も興奮もない。  言われてからよく見れば、彼女がお尻に不必要な力を入れているのがわかる。撫でて回復するわけじゃないけど、気持ち的に痛みが和らぐなら。 「ただいま戻りましたー……」 「はっ! お嬢様の太ももの上に朝日さんがのって、しかもお尻に手を!? おやおや、いくら女の子同士でも、それはまだ早いんじゃない?」 「あの、マッサージしてるだけです」 「ああ、僕の代わりにお嬢様の疲れを癒してくれていたんだね……ありがとう朝日さん。でもお嬢様のお顔が、フルラウンドを戦い終えたボクサーのように、ぐったりした表情をしているのだけど?」 「腰に……後ろから腰に突き刺されましたの……」 「『腕を』です!」 「刺さったショックで、強張った体が痛くて……今から撫でてもらおうと……」 「『治療として』です!」 「大丈夫。ストレートもレズビアンも、僕の前では等しくお遊戯なんだ」  サーシャさんは華麗にポージングを決めた。確かに男性とは思えないほど美しい。あ、戸籍上は女だ。 「ところでサーシャ、買い物はできましたの?」 「申し訳ございません、目的のものはどこにも売っていませんでした」 「踏んだり蹴ったりですわ……」 「お嬢様、それを言うなら『挿れたり出したり』ですよ?」  違います。  ユルシュール様に間違った日本語を仕込んでいたのは、ルナ様だけじゃなかったんだ。というより大人向けのネタはサーシャさんが教えたんじゃ……。 「挿れたり出したりですわ……」 「後ろから前からとも言います」 「今日はパフスリーブからです。まず袖の脇側を0.5〜1cm下げます。次に中心線から1〜1.5cmの間隔で点を取り、そこからさらにもう一度同じ間隔で点を取ります」 「次にギャザー代を決めますが、この開く位置はどれだけパフを大きくしたいかで変わります。大きさは袖山カーブの四分の三まで。その位置と袖山中心線を三分割し……」  八千代さん、講師を務めるのは初めてのはずなんだけど、様になってる。  フィリア女学院では入学試験の段階で、服飾の基礎学力は付いているものとして判断され、僕がハウススクーリングを始めて三ヵ月後に学んだ箇所を、一ヵ月弱ですいすい通過していく。  一般受験で入った人たちはあらかじめ勉強してきてるだろうし、僕も基本的なことは学んだから付いていけてる。新しいことを学んでるというよりは、自分が教わった内容との違いを学んでる感じだ。  独学とは言え、ルナ様は八千代さんに教わっていただけあって、授業のスピードをものともしてない。問題はお嬢様生徒たち。  付いていけずにメイドから教えてもらいつつ授業を受けてる子もいるし、一週間で諦め、とっくに丸投げしてる子もいる。  その辺りはある程度予想できたことだからいいとして、僕が気になるのは同居人の二人。 「ううっ、うっ、難しい……というよりも授業のスピードが速いよぉ……」 「これほど速いものだとは想像していませんでした。和裁で学んできた授業とはまるで違うのですね……型紙の種類だけでも豊富にあって、何を学んだか復習するよりも、明日の予習で手一杯です」 「速くて結構じゃないか。最後方に足並みを揃えるのではなく、先頭集団に合わせるやり方は嫌いじゃない」  いかにもお兄様のやり方だけど、ルナ様の性格には合ってるみたいだ。僕が学んでいた頃の数倍のスピードで進んでるのに。 「とはいえ私も、〈型紙〉《パターン》や〈縫製〉《ソーイング》の授業をみっちりやりたいわけじゃない。これらの授業の速度を倍にして、デザイン画の授業を増やして欲しいくらいだ」 「やめてえええぇ……死んじゃう……」 「死なない。全神経を授業に集中しろ。湊は頭が悪いわけではないのだから、教師の言うことを聞きのがさず、ひたすら黒板の文字を追っていけば付いていける。もういっそのこと瞬きと呼吸もするな」 「次はがんばってみる……息止めてみる」 「冗談だ、悪かった。そのくらいの気持ちで授業に臨めということだ」 「でも実際さあ? 授業中のルナとユーシェって、本気で『瞬きしてないの?』って思うほど集中してるよね。ひとっ言もしゃべんないし」  それは僕も意外だった。もちろん授業を喋りながら受けるほど不真面目だとも思わなかったけど、二人とも一度口を開くと止まらないタイプだから、黙々と勉強してる姿はなんだか怖い。  いや怖いなんて言っちゃ駄目だ。学生のあるべき正しい姿だ。 「ルナが何も聞いてこない分、朝日は楽ですわね。まあ当然、この私も授業に遅れることなどありませんわな」 「お嬢様、語尾が出雲弁になってるぞな」 「私もお嬢様に教えてあげることがなくて退屈だわ。授業の内容も一度学んだことばかりだし」 「あ、サーシャさんも服飾を学んだ経験があるんですね。私もなんです」 「ほんと? 朝日、教えてぇ。ルナは自分で出来るんだから、私が朝日を借りてもいいよね?」  湊がばふりと腕に寄りかかってきた。さっきの授業の内容を書きとめたノートを広げてる。 「はい。じゃが的で棒的なお菓子貢ぐから、これで一つ、わかりやすく教えて?」 「なんですの? 日本のお菓子ですの?」 「これはなんでしょう?」 「ユーシェはスイス人だから仕方ないとして、瑞穂はずっと日本に居て知らないんだ……」  あ、いつの間にか「さん」が取れてる。 「普通にコンビニで売ってるよ? はいどーぞ」 「ポゥ!」 「あら、塩辛いけどおいしいですわ。でもちょっと固いですわね」  湊が差しだしたじゃが的なお菓子は、北斗さんのチョップに遮られて瑞穂様には届かなかった。ユルシュール様はサーシャさんが差しだした紙ナプキンに包みつつ、かりかり食べていた。 「柳ヶ瀬のお嬢様、お許しください。お屋敷でも我々の料理担当である小倉さんに伝えてあるのですが、瑞穂お嬢様の体内へ、甘味料等の食品添加物を吸収させるわけにはいきません」 「おいしいですわよ」  ユルシュール様はかりかりかりと食べていた。一人でカップの半分食べつくしていた。 「もしかしてこれがファックフライポテトというものでしょうか?」 「恐れながら違います」 「私も一度食べてみたい」 「いけませんお嬢様。お嬢様の食事に関しては、この杉村北斗、徹底管理するよう厳しく仰せつかっております」 「私がバッファローに乗って大草原を駆けまわっていた頃、部族の人間は自然の恵みしか口にしませんでした。同じ国に住まう人間でも、ホットドックを貪る入植者たちとは体の作りから違うのです」 「そうなんですの? でも瑞穂は私より肉付きがよろしいようですわよ。こういう時に、相手の体型を指す日本語はなんと言ったかしら……」 「〈デヴ〉《デブ》?」  うわ、怖い! いつもクールな北斗さんが、ここまで表情を崩してるのは初めて見た。 「ジャ、ジャンメール伯のお嬢様、いまなんと……? 瑞穂お嬢様がデ、デ、デぅ……っ!?」 「そう、〈デヴ〉《デブ》ですわ。瑞穂は私より、〈デヴ〉《デブ》なのですわ。あ、自分よりグラマーな人を指す日本語は、〈デヴ〉《ブタ》でよろしいのですわよね? どうなんですの? 〈瑞穂〉《デブ》はデヴですの?」 「うわあ、外国人すごー……あのね、日本でその言葉は侮辱語として受けとられるから使っちゃ駄目だよ。てかユーシェより細い人ってそうそう居ないんだし……その胸でウエストいくつだっけ?」 「54ですわ」  その声に、ユルシュール様のサイズを知っているはずのクラスメイトたちも振りかえった。ルナ様は体型の話が悔しいのか、窓の外の雀を眺めつつ「空を飛ぶ君たちは、太陽を見上げはするのか?」と問いかけていた。  奇跡的なスリーサイズを誇るスイスの貴族は、じゃが的なお菓子をかりかりかりかり食べていた。もう二本しか残ってなかった。 「そういえば、きのう体重を測ったら、また体重が減ってましたの……胸が小さくなりそうで怖いですわ。ところでこのお菓子もうないんですの? もう一箱程度なら入りそうですわ」 「うぅ、ん……私も食べてみたかったのに、北斗が駄目だと言うから……残念です」 「太るから食べない方が良いみたいですわよ。これ以上食べるとデ……はいけないのでしたわね。確かもう一つ似た言葉があったような……ピザ? そう、瑞穂がピザになってしまいますわ」 「嘘にも勝るこの屈辱!」 「あれ? ピザってユーシェの地元が本場っぽい感じじゃないの? ほらマルゲリータとか?」 「ああ、ピッツァのことですのね。何故それが太っていることと繋がるんですの? ピッツァは私もスイスにいた頃は食べていましたけど太っていませんわよ? それどころか、私より瑞穂の方が太っていますわよ?」 「アゥワワワワ! アゥワワワワ!」  踊ってる踊ってる! 北斗さん踊りはじめてる!  いつもならユルシュール様を言い負かして止めてくれるルナ様が、自分に不利な話題だからか一切無視して入ってこない。お願いです、放置してないで止めてください! 「さっきから、気にしないようにしていましたけど……ユーシェ? 面と向かって太っているだなんて酷いです。いくら自分が細いからって、謝ってください」 「でも事実ですわ、もっと痩せた方がよろしくてよ。オホホホ、自覚はありましたけど、改めて細いと言われると、少しいい気分になってきましたわ」  世間から見て「痩せ過ぎ」の部類に入る瑞穂様は、それ以上の「おかしい」部類へ入るユルシュール様にお腹を触られた。 「きゃ」 「この辺りの肉を減らした方がよろしくてよ。オホホ」 「トマッ――ホホホォオオォォおおおおおおク!!!」 「いやん」  どこから取りだしたのかわからない北斗さんの斧……ていうかトマホーク?を、サーシャさんが細長い剣で受け流した。あれは西洋剣……レイピアだ。 「北斗? 各お嬢様方への直接攻撃は、事前の取り決めで禁止されていたはずよ? 攻撃する時は全て従者へ。あなたも自分の居ない隙に、瑞穂お嬢様を私に狙われては困るでしょう?」 「ねえあなた、ユルシュールお嬢様の髪の毛が1mmでも削れていたら、どう責任を取るつもりだったの? そちらのお嬢様の髪型を、君の昔の部族のお仲間と同じにしてもよろしくてよ?」 「我々ハ嘘ツカナイ。我々ハ誇リ高キ部族。我ラヲ侮辱スル者ニ草原ノ神ノ怒リヲ――ウゥウウゥララァアアアア!」 「アッハハハハ、北斗と戦うのも久しぶりじゃなぁい? それそらそら、アン・ドゥ・トロヮ! アン・ドゥ・トロヮ!」 「ダイビング・トマホーク・クラッシャアアアァー! ウラッ! ウララッ! ウラッ、ウラ、ウラァアアアッ!」 「ワーオ! ワーオ! アッハ――ン!」 「君たち、学校の外でやれ。これ以上教室で続けるのなら、ユーシェと瑞穂を含めた四人まとめて桜屋敷から追い出す」  本能を解放しかけた二人も、絶対強者のルナ様には逆らわなかった。素直に教室を出て、学院の外へ向かったみたいだ。  その直後に授業が始まったから、二人とも慌てて帰ってきた。 「今日からマーケティングの授業は実際の店舗へ行ってもらいます。先週までのノートを元に、今年の流行のラインや色を聞いてメモしてきてください」 「当然ですが、目的を済ませたあとは、いつまでも校外をうろうろしないこと。授業に関係のない遊びをしているのを見つけた場合は成績に関わります。当校の制服を着て外出していることを自覚してください」 「質問は?」 「優先して回るべき店舗や、注目する特定のアイテムなどはありますか?」 「今回は初回なので自由とします。気付いたことは、とにかくメモを取ってください。もちろんお店の外へ出てから書きこむこと。教室へ戻ってからノートにまとめる時間が必要なことも忘れずに」 「では動いてください」  八千代さんが教室内に残ってるせいで大っぴらには騒げないけど、みんな授業中に外へ出られるのは楽しみみたいだ。既に他の生徒たちはグループを作って出かける準備を始めていた。  となると、僕たちもグループを作って……四人のお嬢様方とそのメイドで動く感じかな? 「フン! この粗暴な女と一緒に歩くなんてお断りだわ!」 「こちらこそ願い下げですとも。そもそも君とは美的感覚が合わないんだ。我が部族の男に、女の真似をする臆病者などいない」 「そっちこそ男の格好してんじゃないのよ!」 「これは瑞穂お嬢様の男性嫌いを少しでも克服するため、やむを得ず男装しているだけだ。自分のために性別を変えた君と一緒にするな」 「あー……これは強制的な仲直りが必要ですわね」 「そうですね……私たちが仲良くしていれば、二人も仲直りをしなくてはならなくなるでしょうから」 「というわけで、私たちは四人で別行動をさせてもらいますわ。皆様の前で、これ以上言い争いをさせるわけにもいきませんから。はあ、当家のメイドともあろう者が恥ずかしいですわ。ごめんあばずれ」 「北斗も私のためとは言え、いつまでも怒っていてはいけませんよ」  八人行動かと思っていたら、二組は休み時間の遺恨がまだ残っていたみたいだ。パワーバランスを保つために、四人で外へ向かってしまった。  となると、僕を含めて残るは四人。 「この授業ほど意味のない時間もないな」  ルナ様は不機嫌顔だった。 「この高度に発達した情報化社会で、足を使って店を回るだと? 馬鹿げてる。昭和か。時間の無駄だ」 「ルナ様、ノートの提出もありますので、どうかご理解ください。特別授業ですから、一度単位を取りのがすと成績に響く可能性も……」 「私は、絶対、行かない」  わかりやすいまでにツーンとそっぽを向かれた。擬音が聞こえてくるようだった。  でも仕方ない。今日は太陽が燦燦と輝く快晴だ。日傘を持って歩いたとしても、ルナ様の肌に良くないかもしれない。 「朝日が私の分まで調べて来るように。というよりも、こんな時のために朝日がいるんだ。私は教室でデザイン画を描いているから、この授業は完全に任せる」 「ん? ルナが一人になるの? だったら朝日も一緒に残っていいよ。私のやつ後で写させてあげる」 「お店見て回るだけでいいんでしょ? 今までパターンとか縫製が全然だった私でも、これならみんなと同じようにできるもんね。任せたまえよ任せたまえよ」  湊は「祓給え清め給え」の動作で近づいてきた。ルナ様を一人にするわけにもいかないし、ここは好意に甘えた方が……。 「私のことは気にするなよ? デザイン画を描く時は一人でいい」  主人の側にいようと思ったら、ルナ様から突っぱねられた。うーん、だけど、一人にしちゃっていいのかなあ……。 「私が教室に残ると、七愛と朝日が二人きりでしょ? それはお互いに困るよね?」 「刺してしまいそう……」  名波さんと二人きりで歩くのは、彼女から嫌われてる間はキツいなあ。刺されても嫌だし……ルナ様の下で残るか、湊に連れていってもらおうか? 「湊様。私は教室へ残ることにします」 「馬鹿」 「いたっ」 「言う」 「ひうっ」 「な」 「きゃんっ!」  ルナ様の人差し指が僕の鼻の頭を弾いた。出だしは女の子っぽい悲鳴を忘れていたから途中で修正した。 「朝日、君の主人は誰だ。そしてその主人は、君にどうしろと言った」 「申し訳ありません。万が一ルナ様の身に何か起こってはいけないと、側を離れたくありませんでした」 「私は子どもか。もういい、命令する。湊・七愛両名と共にマーケティングへ行け。私になったつもりで、オリジナルのレポートを作成しろ」 「畏まりました」  ルナ様にここまではっきりと言われては仕方ない。筆記用具とメモを鞄に入れて出かける準備を整えた。 「悪いな湊、よろしく頼む」 「うん、朝日なら全然。ね、七愛」 「…………」 「じゃあ行こう!」  湊は返事を求めたというよりも、名波さんに念を押しただけみたいだ。廊下に向けて先陣を切った。 「……あ、そうだ朝日。言いわすれたことがあった」 「はい」  殿を務めていた僕にしか聞こえなかったのか、湊と名波さんは振り返らずに廊下へ向かってしまった。 「なんでしょう、ルナ様」 「鼻をつついて邪険にしてしまったが、朝日の心遣いは嬉しかった」 「守るというよりも、私を一人にさせないため、残ろうとしたんだろう? だが八千代もいるし心細くはない」 「あ……はい」 「私は外へ出られないからな。頼む」 「は、はい。ご期待に添えるよう努力いたします。ありがとうございます、お優しいルナ様」  ルナ様は優しい……最後に僕のフォローまでしてくれるなんて。  ルナ様のために彼女の納得のいくレポートを作りたい。ルナ様のために尽くしたい。そう思わされた。  反省しつつ廊下へ向かう途中で振りかえると、ルナ様は自分の席で、ぽつんとデザイン画を描きはじめていた。 「わかりました。湊様に同行させていただき、お店を見て回ってきます」 「うん、そうしてくれ。任せる」  ルナ様は席へ着き、デザイン画を描く準備を始めた。八千代さんが黙っているところを見ると、メイドに任せれば本人が行かなくても構わないみたいだ。 「よし行っこう! 我が友朝日!」 「はい。よろしくお願いします」 「七愛はよろしくされたくない」 「こ、こら七愛! そろそろ朝日と仲良くしなさい!」 「お嬢様……これでも七愛は、精一杯仲良くしているつもりです……そう、犬と猿程度には」 「うう、犬猿の仲ですか。でも私たちの場合は名波さんの方が圧倒的に強いので、ハブとマングースですね」 「あ、面白い。朝日、いまの上手い上手い」 「あ、あは」  湊が誉めてくれた。笑いを取れたのはちょっぴり嬉しかった。 「ブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ」  わああああ、隣で名波さんがぶつぶつ言ってるうううぅ。 「えー、面白かったよ。じゃあ七愛もなにか面白いこと言ってみて」 「申し訳ありません、七愛は他の何よりも面白いことを言うのが苦手です……湊お嬢様を楽しませることができない七愛をお許しください……七愛は役に立たないつまらない女です……」 「や、や、ごごごめん、そんなつもりなかったよ! いいよいいよ、私ぜんぜん七愛のこと好きだから! 別に面白いこととか無理して言わなくていいよ!」  湊は名波さんに優しい……というか甘かった。 「はあ……湊お嬢様に『好き』と言っていただけた……せめてそこの小倉さんよりは、面白いことを言えるように努力いたします……『ハブとマングース』」 「ごめんなさいっ! 上手くないから言いなおさないでください!」 「『ハブとマングース』ウウウゥ? 面白いですよ? アーッハハー!」 「うううぅ……!」  ちょっと上手いこと言ったつもりだったのに、泣きたくなるほど恥ずかしくなってきた。酷いよ名波さん。 「ちなみにマングースって何目何科?」 「何目何科?」 「ネ、ネコ目マングース科です」 「じゃあ朝日は何目何科?」  一度スベってる環境で、とんでもなく難しいお題が来た。 「何目何科?」  見る者全てを嘲笑うかのような表情で名波さんが尋ねてきた。うう、湊の馬鹿。酷すぎる。 「す、水金地火目、土天冥科ぃです」 「え? え!? なに? なになに!?」 「七愛はよく聞こえない! もう一回!」 「ごめんなさああああい!」  普段は声が小さいのに、名波さんはこのときばかりはと割れ鐘のような声を出して尋ねてきた。  でも謝っても許してもらえなくて、駄ギャグをもう一度言わされた。湊はずっと笑ってくれていた。  しかもよく見たら、教壇にいる八千代さんもくすりと笑ってくれていた。ありがとうございます。 「大都会に到着ぅー」  大都会までは歩いて15分。都会は割と身近にあった。 「湊お嬢様のご出身は滋賀でしたよね?」 「うん湖」 「買い物などは地元でされていたのですか?」 「や、うちの地元はホント何もないからね。湖とシジミしかないよ。あ、ぺいわ堂っていうスーパーならあるけど。朝日も一度来るといいよ。何もないから」 「そんなことはありません……古刹、名刹や立派なお城があります……そこには有名なゆるキャラも……それとバームクーヘンもおいしいです……」 「でも全部、京都か大阪にあるよね!」  地元溢れる名波さんの滋賀紹介を、湊は一刀の下に斬りすてた。 「服を買う時は大阪まで出ちゃうんだ。一時間くらいだけど、そんな遠くもないでしょ? 片道で1500円くらいかな。月に一回って感じで」 「それは地元のお友達と?」 「うんそう! 地元の子はみんな仲良くしてくれたから大好きなんだ。今でも全然電話とかメールもするし」 「湊お嬢様の地元での人気は、まるでアイドルみたいな……七愛も憧れてました」 「ぶははははアイドルて! あ、ごめん、あんまりテンション高いとどこの田舎学生だと思われるよね。うんまあ私、滋賀の中でも山の奥の方の出身だから間違ってないんだけどね」 「でも七愛、憧れてたは言い過ぎだと思うよ?」 「そんなことありません……! 七愛のような暗くて読書しか趣味のない女まで、いつも遊びに誘ってくれて……柳ヶ瀬の旦那様、奥様は、七愛の両親が蒸発した時に柳ヶ瀬家に置いてくださって……」 「それもお嬢様が、親戚にも煙たがられて行き場のない七愛の相談を根気良く聞き、柳ヶ瀬のご両親に相談してくださったからで……」 「たーははは。それはまあ、私じゃなくてお父さんたちに感謝してもらうってことで。ねー、同級生スタートなんだから、お嬢様なんて呼ばなくていいって、いつも言ってるんだけどね」 「いえそこはけじめです……蔑ろにしてよいことではありませんから……他のお嬢様方に舐められないためにも……」  さらりと知っちゃったけど、名波さんにはそんな家庭の事情があったんだ。それなら湊に対して過剰な愛情を持っても仕方ないかも。 「七愛は一生、湊お嬢様の側に居たいです」 「違うよ七愛! 私にずっと構ってないで、七愛もいつかは素敵な相手を見つけて幸せになるんだよ?」 「お嬢様ぁ、私のことをそこまで考えて……私のような者の幸せを願って……ああああ、お嬢様ああああ……」 「あ、信号青ンなった。行こっ!」  湊の悪い所は、とっても優しいくせに、相手の心を打ちっぱなしにして放置するところかも。でも今回の場合は、交差点で思い出話を始めた名波さんに問題があるから、湊は悪くない。 「ああ、お嬢様が素敵すぎて、未来を考えるのが怖い……大蔵遊星、奴にお嬢様を渡してなるものか。怨敵退散、盛者必滅、奴にだけは、奴にだけはお嬢様のファーストキスを奪わせたくない……怨! 滅!」  僕が大蔵遊星として湊に会える日は来るんだろうか。不安になるほど嫌われてる。 「あ、でも今の話からすると、名波さんが服飾の勉強を始めたのは、湊お嬢様と同じ時期なんですか? 授業に付いていくのは大変じゃないですか?」 「大変じゃな……くもない。お嬢様のために死に物狂いで勉強した……から」  名波さんの死に物狂いは、単語を構成する文字の一つ一つが比喩表現じゃなさそうだから怖い。 「服なんて興味なかったし、本当は今でも、自分が着飾ることのために大切なお給料を使うなんて、お金の無駄だと思ってる……でも、湊お嬢様が進む道なら七愛はどこまでも付きあうから……」 「名波さんの服はよく似合ってると思います」 「誉めても七愛は懐柔されない」  うーん、手強い。仲良くなるきっかけになればと思ったけど駄目だった。 「うーん、本当に似合ってると思うから言ったんだけど」 「……っ!」  あれ? うっかり口にした僕の独り言で赤くなってる? どんな奇跡? 「二人とも遅い……もう赤になっちゃったよ!」 「赤くはないです……」 「や、信号の話ね? あれ、てか、七愛の顔が赤い? なんで?」 「はい……小倉さんが、七愛が初めてお嬢様に着ている服を誉められたときと、同じ言葉を口にしたから……そのときのことを思いだして」  あ、そういう……「本当に似合ってると思うから」って部分か。 「ふーん? ま、二人が仲良くしてくれるならいいや。じゃあ青になったら、今度こそお店行こーっ!」 「まずは『110』から? 今まで一人じゃ近付けなかったけど、有名だから一度行ってみたかったんだ」 「ギャル系ですか……名波さんは、湊お嬢様がこんがり褐色肌の派手派手金髪になっても付いていくんですか?」 「無理……その前にお嬢様をお止めする……」 「ギャルの子たちは、みーんなかわいかったけど、私が同じ格好するのは――ないな!」 「ちょっと早く終わっちゃったね」と湊が言いだし、10分ほどお茶して帰ることにした。その矢先の言葉に、名波さんは額の汗を拭いつつ、安堵の吐息を漏らした。  そんな悲しげな心情を敵である僕に話すほど、戦々恐々としてたんだ……。  一番名波さんが硬直したのは、黒ギャルと呼ばれる子たちが集まるお店。銀髪カラコンで目の周り真っ白の女の子と湊が話してるのを見た時だ。 「てかみんな細っそいよね。何あれ? ここ日本? ルナとかユーシェとか、それ以上のものを見てるからそれほど動じなかったけど、自信なくすってーの。あんなに細い子ばっかじゃ、同じ格好できないよ!」  僕と名波さんは「湊お嬢様も一般基準から見て充分に細いです」という言葉を飲みこんだ。わざわざギャルの格好をさせる理由はないから。 「うちのクラスにも居たよね、ギャルっぽい子たち。えっと」 「龍造寺化粧品と円城寺コーポレーションのお嬢様です。メイドのお二人は真面目な方なのですが、大分こき使われたり、我儘も酷いようで……」 「うう、私も七愛にはたくさん助けてもらってるねえ。いつもありがとう。みんなに七愛のこと自慢したいよ」 「いえそんな……七愛はお嬢様の付き人で幸せ者です……ずっと、ずっとお側に……」 「早くゆうちょにも紹介したいな! ゆうちょと七愛も、会えばきっと仲良くなれると思うんだ!」 「ちくしょぅ……ちくしょうっ! ちくしょう、ちくしょぅ……ちくしょうっ! 大蔵っ……大蔵ぁぁあ!」  湊が期待してくれてるのに申し訳ないけど、大蔵遊星として名波さんと仲良くできる自信は……ないなあ。いやもちろん努力はするけども! 「ゆうちょが七愛に『湊と一緒にいるということは、俺とも一緒だってことですよね。だって湊は一生俺の側におきますから』なんて言ったらどーしよー! ん? ゆうちょなら俺じゃなくて僕? うん僕かも!」 「『僕の嫁の湊とこれからも仲良くしてあげてください』なんて照れるー! 言うかなあ! ゆうちょもこんなこと言ってくれるかなあ!」 「ぐおおおおっ! おおっ、おおおおおぉぉ……ごおおッ……私の心を苦しみを……奴に味わわせるにはどうすればッ……!」  辛いなあ、この三角関係……。 「あ、でもどうしよう。もしかしてゆうちょがギャル系の子好きだったりしたら?」 「それは無いと思います」 「お、朝日ってば断言したよ? なんでそこまでわかるの?」 「あ。ええとあの、それは……春休み前までに、何度かお会いしていたので……」 「えっ、ゆうちょと!? じゃあ女の子の好みとか聞いたことある?」  目をキラキラさせながら尋ねられた。隣の名波さんからはギラギラした目で睨まれた。「おまえわかってんだろうな?」と目は口ほどにものを言っていた。  特にタイプなんて考えたこともない僕は、名波さんの迫力に負けて事実を捏造することにした。ええと、湊と逆のタイプを教えればいいのかな……。 「えっと……大人しめな方とか、物静かな方とか……好みだった気がします」  名波さん大満足。初めて僕に好感を持ってもらえた。 「そっかー。じゃあ髪切っちゃおうかな。瑞穂みたいにまっすぐで綺麗な髪ならいいけど、私ちょっと癖あるし。それならショートの方が清楚な感じするなって」  名波さん大慌て。口パクで「髪を切っちゃうのはやめさせて」と訴えてきた。 「ポ、ポニテは好き……だった気がします。ていうかあの、元気な女の子も大好きでした。今のままの湊様で問題ないです」 「ほんとにぃ〜? 気休めじゃなくて? なんか私に気を使って、後出しで言った感じだよ?」 「マジです、天地神妙に誓ってもいいです。本人と会った時に湊様に確かめていただき、私の言葉が嘘だった場合は、琵琶湖を泳いで横断します」 「マジで? うん、そこまで朝日が言うなら信じる。たは、嬉しいな。ゆうちょに会うまでこの髪型でいよっと」  とうとう名波さんが、僕に向けて笑顔で親指を立ててきた。どうやらスーパーファインプレーだったらしい。  あとは大蔵遊星の姿で湊と会ったときに、いま言ったことを忘れないようしなくちゃ。 「ねえねえ他には? 他にはゆうちょ情報ない? 好きなブランドとか、好きな色とか。好きな芸能人のタイプでもいいよ」  うーん、好きなブランドを教えるのは簡単だけど、大蔵遊星の話題は名波さんの機嫌を悪くさせるだけの気がする。彼女は無表情を保ってるけど、僕の話題なんて聞きたくないだろうし。  よし、論点をすり替えてごまかしてしまおう。 「遊星様の好みはある程度知っていますが、その内容に湊様が影響を受けすぎるのはいかがなものでしょう」 「湊様は今のままで充分に魅力的だと思います。相手の好みを気にし過ぎるよりも、ありのままのご自分を見ていただいた方がよいのではないでしょうか」 「うんそうかもね。でもだけど、ゆうちょからかわいいって言ってもらうために、今の私の全力を注ぎたい」  湊は本当に一途だ……。 「少しくらいわざとらしくてもいいよ。だって再会一発目の印象で、ゆうちょの気持ちが決まっちゃうかもしれないでしょ? だから次に会う瞬間は大切にするんだ」 「てかさ、自他共に認める恋愛脳だよね。恋は人を馬鹿にするね。あー、やばいやばい、恥ずかしいこと言いそうになってきた」  ここまでにするねと言下に含んではいるものの、湊自身はまだ話したりなそうにしてる。  そうなると、湊に優しい名波さんは茨の道を歩まざるをえなかった。 「お嬢様が言いたいのでしたら、七愛はあえて聞きます……どうぞ我慢せず、湊お嬢様の気持ちを聞かせてください」 「じゃあ言っちゃう。ゆうちょ大好き。超抱きしめられたい」  うわぁー……。 「もう大好き。ゆうちょのこと考えてると毎日楽しい」  これは僕が聞くべきじゃなかった。乙女の領域を侵害してごめんなさい。 「なぜ小倉さんが……照れる?」 「いえ、あの……血縁関係にある方なので。身近な人の恋愛話は、聞いていると恥ずかしいものです」 「キメエよ馬鹿。おまえは恥ずかしいだけかもしんないけど、こっちは不快で不愉快で理解不能なんだよ馬鹿阿呆タコカス死ね。ここが海外だったら、間違いなく拳銃ぶっぱなしてるわ」 「……でも小学校三年生から四年生への移り変わりの時期の湊お嬢様は、硬い種から芽が出てきたかのような、初々しくも鮮やかな輝きに溢れていて……その点で、恋がお嬢様を女性らしく育てたのは確かです……」 「ですがそろそろ、恋愛は一時の思いこみだと割りきって……将来の違う目標を作っても良いのではないでしょうか……七愛がお手伝いいたします」 「ありがと。でも恋愛にエネルギーの全てを費やせるのも、今だけだよね? 七愛にはもう少しだけ付きあってもらってもいい?」 「私は特にやりたいこともないし、いま目標を持って動けてるのも、ゆうちょを好きな力がエネルギーになってるからだよ。毎日がモチベ高いんだ。お願い七愛、も少し私の頭悪い話を聞いてあげて」 「そんな風に見上げ目線で頼られてしまうと、七愛はお嬢様に逆らえません……うううぅ、悔しいけれどお助けします。ああでも……これほどに可愛いらしい湊お嬢様の処女が、大蔵遊星なんかに……」 「なななななあ――い!? ははは恥ずかしっ、恥ずかしいこと言わない! だって処女って……」  名波さんの言葉に湊が過剰に反応した。でも最初は勢いが良かったものの「処女」の辺りで周りに人がいることを思いだしたらしい。急速に音量が下がっていった。 「恥ずかしぃょぅ……」  湊は顔を真っ赤にして俯いてしまった。名波さんも歯ぎしりしながら俯いてる。僕も湊の顔を正面から見られずに俯いてる。周りから見たら、さぞかし変な学生に見えたと思う。 「…………」 「あ、あの、朝日さ。朝日は、初めての時ってどんな感じか想像したことある?」  んぶっ。間をもたせるため口に含んだアイスティーを危うく噴きだすところだった。 「い、痛いって言うよね? 耐えられると思う? いやその、好きな人が目の前に居れば、大抵のことは平気だと思うけどさ。想像するともう、全身熱くなっちゃって、痛みより恥ずかしさの方に耐えられるかなって」  ややややめて。名波さんの歯ぎしりが激しくなってきたし、何より僕もいま相当困ってる。  何これ。何だろうこれ。感謝とも感動とも違う、むず痒さ。それも湊相手に。 「その日のための下着って、準備とかしてる? わたし一応、いま持ってるやつの中ならこれかな?ってのは決めてあるんだけど。やや、やっぱり男の子には白だよね?」  ななななにこれえ? なんかもう顔上げられない。名波さんの歯ぎしりだけが清涼剤。もう耐えきれなくて、走ってここから逃げだしそう。 「ルナや瑞穂にはこの手の話できないし、ユーシェはお国柄が違うし、他の人は大人すぎるし、朝日と七愛しか話す人いないんだよ。相談乗ってよー」 「いっそのこと七愛が湊お嬢様の初めてを奪いたい……下着は白です。白しかないです。お嬢様との初夜は神聖な儀式なので白です……うぐぐぐぐぐおのれ大蔵ぁ……!」  なんか色々間違ってるけど名波さんは湊の質問に答えた。これは僕も答えなくちゃいけない流れなのかな……でもそれは、男として間違ってる気がする。  ああもういっそのこと、誰かこの話を中断させてくれないかな! 「つか教室出る時見た? 桜小路のやつ、先生の前座って一人で勉強始めてんの」 「うっわ空気読めないよねあの子。もう挨拶の時から『私はあなたたちと違います』オーラ出しまくってたもんね」  レジに並ぶ列から聞こえてきた声が、僕たちのテーブルの空気を一瞬で凍らせた。 「せっかく外へ出られる授業なら、フツー好きに遊ぶっしょ。なんか一人でがっつかれると、こっちがやりずらいっつか」 「ね、足並み揃えないよね。まあ自分が金持ってるから、私が一番ですみたいに思ってスタンドプレーしてんだろうけど。そういう子って才能あるのかもしれないけど、人間としてレベル低いよね」 「ま、馬鹿に触れて癇癪起こされても面倒だし、適当に相手するしかないよ。ほら言うじゃん? ほんとに頭いいやつは、頭危ないやつに近寄らないみたいなの」 「あはは!」 「うちのクラス……?」 「龍造寺と円城寺のお嬢様です、湊お嬢様」  あらかじめ用意していたのか、彼女たちは私服に着替えていた。さっき見てきたお店に売っているような、いかにもギャルって系統の服だ。  二人だけのところを見ると、レポートは完全にメイド任せみたいだ。 「んー……私たち制服着てるし、あの子たちが席に着いたら、同じ学校の生徒だって気付くよね」 「うん、そだ。そろそろ帰ろっか。ルナも教室で待ってるしね」 「はい。レポートの作成もありますし、学校へ戻りましょう」  本当はトレイを下げたかったけど、お店の人に片付けてもらうことにした。三人で言葉少なに席を立つ。  もしかして、誰か話の邪魔をして欲しいと、僕がつまらないことを願ったせいかな。だとしたら、ごめんね湊。名波さんも。 「てかさー」  都会の雑踏の中、背後からの声はよく聞こえた。 「実家の大きさで偉そうにしていいなら、桜小路と一緒にいるあの子。柳ヶ瀬? あいつ一番底辺じゃん? なにカネモの集団にへこへこしてんの? 見苦しいよねあいつ」 「そうしないと実家が生き残れないんでしょ。いいじゃん、気にしない方がいいよ。下手につっついて、保護者面した桜小路が出てきても困んじゃん?」 「ほんと。あの子が桜小路のメイドやればいいのにね」 「きゃはは!」 「東京は人が多いよね。地元の商店街とは大違いだなあ」  湊は終始、快活な笑顔を崩さなかった。最後に大きく聞こえてきた笑い声は、この幼なじみの耳に届かなかったんだろうか。  悔しいとも寂しいとも違う感情に襲われた。ルナ様や湊、それに名波さんと早く屋敷へ戻って楽しい話がしたい。  空に雲が出てきた。今まで上天気だったのに、少し肌寒くなったなと感じた。 「はー……」  僕の一日の締め、入浴タイム。温かいお湯に浸かると、魂が癒されていく。  こっそり自分の時だけ入浴剤増やしちゃった(自腹)し……お風呂最高。  はあ。今日は肉体的な疲れはなかったけど、精神的なダメージを受けた。やっぱり集団生活をする上では、人間関係が一番難しいな。  気にしないというのが最良の手段なんだろうけど、自分のことじゃなくて、近しい人が悪く言われてるから黒い気持ちがわだかまる。僕は子どもだ。  そのせいで一日もやもやしてたけど、お風呂に入ると凝り固まっていたわだかまりが、温かさの中へ溶けていく。  明日には忘れられるだろう。軽くなった頭を撫でながらそう願った。 「あさひー」 「ふぁいっ!」  湊が脱衣所にいる。即座にウィッグ+タオルを装着しつつ、乱れる息を整えた。  以前、湊と瑞穂様がお風呂に入ってきた次の日に「自信がないから、他人に身体を見せるのが恥ずかしいんです」と僕が言ってからは一度も来なかったのに。久しぶりだ。 「朝日のお風呂はこの時間かなと思って、私も入りに来たんだ。どうしても二人で話したくて……駄目かな?」  確認の意思は見せたものの、動きながら喋ってる気配がする。きっともう服を脱いでるんだろう。入ってくる気満々だ。 「お話があるなら部屋で聞きますが、それでは駄目ですか?」 「ん……お茶してた時の話なんだけど、まだ自分でも言いたいことがまとまってなくて。お風呂で話せば、言葉とか選ばずに全部話せるかなー……って」 「朝日ならあの場にいたから、説明しなくてもわかってくれるし。お願い」  自身の危険と倫理的な問題を考えれば絶対に断るべきなんだけど、子犬のような湊の声は、自分の抱えていたわだかまりと相まって、猛烈な勢いで胸を締めつけてきた。  しかもあの後、ずっと笑顔を浮かべて、今みたいな心細さをおくびにも出さなかった湊の胸中を思うと……ここで断って、部屋へ戻る時の気持ちを想像するだけで、こちらが切ない気持ちになる。 「わかりました……私で良ければ、湊様の話を聞きます」  タオルをしっかりと巻きつけて返事をした。前と違って、ウィッグも準備してたし大丈夫だ。 「ありがとう朝日。ごめんね、わがまま言っちゃって」 「湊様も厳重に隠してください」とは言いにくい。できるだけ目を伏せることで、湊への配慮とした。 「七愛に話を聞いてもらう場合もあるんだけど、あの子は私のことになると、時々過激な方に思いつめちゃうから。今日のことは話しづらくて」 「その点、朝日はすごく話しやすいんだあ……二人きりだし、もし気を使わずにいられるなら、敬語もいらないよ?」 「いえ言葉遣いは……申し訳ありません、このままでお願いします。決して湊様と友情を深めたくないというわけではないのですが」  対等な気持ちで喋ると、うっかり昔の言葉遣いが出ちゃいそうで。 「いいよいいよ。身体見せるのが苦手、って言ってた朝日に無理言って一緒してもらってるんだから」 「湊様……普段より元気がないように見えます。やはりあの時の、龍造寺様と円城寺様の声が聞こえていたのですか?」 「……うん。やっぱり、ルナのこともそうだし……うちの家族のことを悪く言われるのはヤダなあって」  小さい頃から湊はくよくよすることがなかった。彼女にしては、こんな苦み混じりの笑顔を浮かべることは珍しい。 「別にあの子たちに謝って欲しいわけじゃないんだ。でも私、お父さんが毎日どんな思いで働いてくれてたのか見てきたし……だけど、それをよく思わない人がいるのも、どうしても耳に入っちゃって」 「朝日も、うちの会社の悪い噂の一つや二つは聞いてるよね?」  この質問には答えられない。相手が決めてかかってる以上、気休めの否定は無意味だ。 「それは仕方のないことだと思います。会社が大きくなるということは、別のどこかの会社の仕事を奪ってしまうことと同じですから。妬みや嫉みが増えるのは、どの世界でも同じです」 「わかってるよ。わかってるんだけど、それを子どもの頃みたいに否定できなくて。昔はもっと単純に『お父さんは悪くない!』って思えたのに、今は相手にも言い分があるって考えると、仕方ないなと思えちゃって」 「何があっても、どんな理由でも、家族がお父さんの味方をしてあげなくちゃいけないのにな。私って親不孝だよね」  そんなことない。子どもの頃、お父さんのことを誇らしげに語っていた湊を僕は知ってる。そして、きっと今もその気持ちは変わってないはずだと思ってる。  でもそれは口にできない。だから黙って首を横に振った。 「んー、まあ弱気になってるのはそれだけじゃなくて」 「授業は難しくて、桜屋敷のみんなとは差が開く一方だし。教室でもお屋敷の人以外に友達はできないし、その理由の一つがいま話した実家のことだし。色々へこんじゃうよ。五月病なのかな」  頭を俯かせた湊は、水面の下へ唇を沈めた。まだ何か喋ってるみたいで、ぷくぷくと泡が生まれる。  そんな湊を元気付けてあげられる方法は……昔の彼女の気持ちを知ってるからこそ、掛けられる言葉はないだろうか。 「遊星様は……」 「え?」 「遊星様は、そんな風に悩む湊様を見たら、きっと応援してくれると思いますよ」 「へっ? ええっ? な、なに急に、ゆうちょの名前なんて出して。朝日、普段はゆうちょのこと話したがらないのに」 「湊様、顔が赤いです」 「そ、そりゃ、好きな人の名前出されたら赤くなるよ。なにもう、ずるいよ朝日。そんなん言われたら、私、絶対よろこんじゃうよ」  僕の名前を出すだけで元気になってくれるなら嬉しい。慌てる湊を見て、自然と笑みがこぼれた。 「で、でもー、今のは私を元気付けるためでしょ? 長いこと会わない間に、悩みとか愚痴とか言うようになった私を見たら、ゆうちょは応援どころかがっかりするんじゃないかな」 「そんなことはありません。成長すれば悩みが増えるのは当然のことです。大切なのはその出所なのではありませんか?」 「湊様は自分だけではなく、自分を取り巻く環境の全てが前向きになる方法を考えています」 「目に映るひとみんなが幸せになるにはどうすればいいか、なんて大きな悩みを聞いたら、遊星様ががっかりするということはないと思います」 「少なくとも私は、湊様の心の内を聞いて幸せな気持ちになりました」 「朝日は優しいなあ」 「優しいのは湊様も同じです。先ほどのご実家の話ですが、子どもの頃のようにシンプルな気持ちでお父様の味方ができない、と湊様は仰られました。ですが大人になれば人間関係やしがらみが見えてくるのは当然です」 「面倒くさいと途中で放りだしたりせずに、相手のことを想いつづける気持ちが大切なのだと思います。誰かが自分を見てくれているということは、誰からも相手にされない恐怖を考えればとても幸せなことです」 「お父様のために前向きな気持ちでいようとする湊様の心の出所は、いつだって純粋な部分にあると思いますよ」 「そう……なのかな?」 「はい。私がそう思えるだけの明るさや優しさを、湊様には普段から見せていただいています」 「ご実家のことも、お友達のことも大切にしようとする湊様を見れば、遊星様は私と同じように喜ばれると思います」  そこまではっきりと言える自信があった。だって遊星様は僕だから。自分の気持ちを間違えるはずがない 「朝日……も、もー、なにそんな! なんか私が大層な人間みたいだよ。やーだな、照れちゃうって! たはは、たはははは!」 「でもその、あれだよ? 想いつづけてあげることが大切なら、私がいま一番考えてるのはゆうちょのことだよ? やっぱり親不孝だ、たはは」 「でもその場合は、湊様の一番に選ばれた遊星様をより喜ばせることになります」 「あー、そっかー……そう思ってくれるといいなあ……うん、だと嬉しい」  僕のことを想ってくれているのか、湊が頬を染めながらうっとりと目を細めた。その表情は、少年風だった昔が連想できなくなるほどに乙女だ。  かわいいな。本当に湊は、女性らしく、かわいく成長したと思う。 「てかさ。あの、あれだよね。朝日はゆうちょのこと話す時、変な説得力あるよね」 「はい?」 「なんでだろ。朝日の話を聞いてると『あー、ゆうちょはそう考えるかもなー』って思っちゃうんだよね。すごいね、よくそんなにゆうちょのことわかるね」  だって本人だから……。 「そ、それはええと? あの、お屋敷ではとてもよくしていただいたので。今の湊様のように、何度も声を掛けていただいたり」 「あー……てか、本当に大丈夫? そこまでゆうちょのこと理解してるってことは、やっぱり朝日も、ゆうちょのことが好きだったりしない? 私に遠慮しなくてもいいよ?」 「もしそうだったら、私がゆうちょを好き好き言うたびに、朝日を苦しめてることになるし……」 「そそ、そんなことないです! あの、兄妹みたいな感覚なんです! 姉妹しかいない湊様にはわかりにくいかもしれませんが、兄と妹の間に恋愛感情は成立しないものなんです!」 「ふうん?」  湊がずいと前に出てきた。その分後ろへ下がりたかったけど、生憎と僕のいる場所は隅だった。 「朝日って、見れば見るほど子どもの頃のゆうちょと面影が被るなあ。うん、私の好きな人と似てる。さっきの優しく笑う時の顔なんてそっくり」  う、いけない。あまり近くまでこられると、さすがに倫理的にも……いくら同性でも、肌を密着させたりはしないだろうけど……。 「んー……」 「たは。ゆうちょに会えない寂しさを朝日で紛らわしちゃおっかな! ねね、一度だけぎゅってしちゃ駄目?」 「駄目です――っ!」 「わっ!」  僕は身体を半回転させながら立ちあがった。湊には背中を晒しつつ、前面にしっかりとタオルで当てる。両手で胸と足の間をがっちり隠した。  ううう、湊にお尻を見られてる……超恥ずかしい。  だけど、強引気味にお風呂へ入ってきた湊の性格を考えると、言葉で断っても「抱きつきたい」なんて言いだしたら、いずれ飛びついてくる恐れがある。 「あのっ! 気分を害されたらお詫びいたします。でもあの、抱きつかれるのが嫌なのではなく、だいぶ長いこと浸かっていたもので! のぼせる前に失礼いたします!」  湊に一言も喋らせる時間を与えず、脱衣所へ向けて全力で走った。湊が追いかけくる危険性があるから、超速攻で着替えよう。  湊はネガティブから立ち直れたみたいだし、たとえ冷たく思われようと、今は自分の安全が優先事項だ。脱衣所へ飛びこんで慌ててドアを閉める。 「おーい朝日ー!」  だけどそもそも慌てる必要がなかった。湊は湯船に浸かったまま、全く動こうとしていない。ぶんぶんと手を振って普段の気持ちいい笑顔を見せてくれている。 「せっかくいい気持ちでお風呂入ってるとこだったのに、邪魔してごめんねー! 大丈夫だよ、私、女の子の方の趣味はないからー!」 「ま、ちょっとドキッとはしてしまったけどな! 背中が綺麗すぎて!」  脱衣所から顔だけ出して、こくこくと頷く。湊はもう少しゆっくりしていくつもりみたいだ。湯船の中から僕を見送ってくれた。  はあ……湊を元気付けられたのは良かったけど、やっぱり一緒にお風呂はしんどい……。  今日はもう部屋へ帰ってすぐに寝よう。  部屋へ戻ってすぐベッドに寝転がった。  お風呂に入って肉体的な疲れは取れた……んだけど、精神的な疲れはプラマイゼロの気がする。湊は悪くないけど、性別を隠すのに気を使ってくたくたになった。  これからも、こういうことが何度かあるのかな。自分で選んだ道とは言え、中々にしんどい。  それに性別のことばかりに気を使うと、肝心のデザイン画を描く体力が残らない。本来はそっちを頑張らないといけないのに。  ルナ様やユルシュール様は毎日描きつづけてると言っていた。今日はどうしよう……くたくたになったし、すぐに寝ようと思っていたけど。  二人よりも才能の劣る僕が、たとえ忙しい、疲れたという理由でも休んでいいものだろうか。  ……やろう。一枚だけでも。  残っている気力を搾りだし、がばりと体を起こして机に向かう。背筋を伸ばし、真っ平らな胸を張って気合いを入れた。  ん? 真っ平ら? 「あああああああああ!」  ブラジャー脱衣所に置いてきた!  もちろん部屋にいるときは普段から外してるし、ブラそのものが見つかっても問題はない。ただ、あのブラには、僕の真っ平らな胸がCカップまで膨らむほどのパッドが詰めてある。  見栄を張って厚めのブラをしてると思われる対面的な問題は別にいいけど――うん、ちょっと恥ずかしいけど、それよりもあまりに詰めすぎてることが問題だ。疑われる要素は少しでも削りたい。  普段の洗濯物は、下っ端なのをいいことに、自分の分はいつも別に干している。他の人に任せなくちゃいけない時は、洗濯物を回収して、後から自分でこっそり洗ってる。  そして新人のもう一つの恩恵として、お風呂に入るのも僕が一番最後。だから普段なら見つかる恐れはないんだけど、今日に限って言えば僕の後で湊が脱衣所を使ってるはずだ。  あれから一時間は経過してる。湊の性格上、もし見つけたら僕のところへ報告しに来ると思う……けど、体型的なものを哀れんで、黙って洗濯物の棚へ出してくれてるかもしれない。  と、とにかく回収しにいかないと――とと、部屋の外へ出るなら、代わりのブラは着けていかなくちゃ。 「…………」  ……とうとう「ブラを着けて」なんて言葉をナチュラルに……考えた。男性として自分の思考回路がおかしくなってる……。  なかった……。  僕のブラ……あ、違う、朝日用のブラが脱衣所からなくなっていた。そして洗濯物の棚に入っていた。  湊にバレた……パッド使用……あ、それは別にバレてもいい。僕の胸が真っ平らだってことがバレてしまった……。  とりあえず無視するわけにもいかないので、湊の部屋を訪ねることにした。洗濯物を出してくれたことへのお礼と、皆には内緒にしてくださいというお願い。  湊なら口も固そうだし、面白半分にルナ様へチクったりはしないでいてくれると思う。  というかルナ様にバレるのだけはいけない。彼女はどうも自分の体型を気にしてる節があるし、仲間だと思われると日常会話でイジられそうな気がする。そうすると周りにもバレる。  話すべきことを決めて湊の部屋までやってきた。よし行くぞ。 「湊様、夜遅くに申し訳ありません。朝日です……」  返事がない。もう寝ちゃったのかな。 「湊様、朝日です……お話ししたいことが……」  やっぱり返事がない。部屋の中に動きがないか、ダメもとでドアに耳を付けて確かめてみた。  あれ? 部屋の中なのに風の音がする?  そういえば今日は風が強かった気がする。でもそれなら、窓を開けたまま寝てるのはおかしい。ドア越しにでも聞こえるなら、部屋の中はうるさくて、とても眠れないはずだ。  ノブをかちゃりと回してみる。鍵はかかっていなかった。 「湊様……よろしいですか? 失礼いたします……」  湊の部屋の中には誰もいなかった。ただし、電気は点きっ放し。そして窓も開きっぱなしだ。  え……なんだろう、この状況は。トイレに行ったとしても、窓を開け放しにする理由がない。いくら湊のわんぱく少女の血が騒いだとしても、屋敷の壁でクライミングはしないと信じたい。  てことは、窓を開けた拍子に落としものをした……とか?  勝手に部屋に入るのは申し訳ないと思いつつ、開け放しの窓へ近付いてみた。やや大きな声で外に呼びかける。 「み、湊様ー! いらっしゃいますか?」 「あれ朝日?」  返事があった……本当に外で何かしてたんだ。コンビニにでも出かけようとしたのかな?  だけど状況は僕が考えていたような甘いものじゃなかった。 「どしたの? 私の部屋で何してるの?」  …………。  どうして外にいるはずの湊が、僕と同じ目線の位置にいるんだろう。 「お話があって湊様の部屋を訪ねたのですが、返事がなかったもので……」 「あ、そーなんだ。ごめんね、木登りしてたから」 「木登り……あの、こんな時間に何をしているんですか、湊様……」 「うん。朝日とお風呂場で別れてから、今まで部屋で手紙書いてたんだ。で、疲れたからちょっと休憩しようと思ったわけさ」 「それで窓開けたら、思ったより風が強くて。手紙が飛ばされちゃって、この木に引っかかちゃったんだ。届くような棒もないし、だったら直接取りに行こうと思って」 「いけません。危険です湊様、今すぐ下りてください」 「へーき、へーき。私、昔から木登り得意なんだ。実家も運送屋だから、ものを取りに行くのも得意だし」 「湊様のクライミング能力とご実家の職種は全く関係ありません。とにかく下りてください、夜に木登りなんて危険です。明日の朝、私たちに言いつけてください」 「や、や、それだけは駄目だから。他の人には絶対任せられないから私がやってるの。それに明日の朝までに雨でも降ったら大変だし」 「大変なのは、湊様のお身体に万が一のことがあった場合です。お願いします、下りてください」 「駄目だってば。朝日だから言えるけど、私が書いたのはゆうちょへの手紙なんだよ」 「えっ?」 「今までは手紙も我慢してたけど、さっき朝日の話を聞いてたら、ゆうちょに私の言葉を伝えたくなっちゃって……朝日は今でもゆうちょに手紙を出してるみたいだし、一緒にお願いできればと思って」 「いま思ってる気持ちをそのまま、ありのまま書いたんだ。だからなくしたくないし、他の人にも恥ずかしくて見せられない。もうちょっとで手が届くから止めないで。お願い」 「お願いって……わ、わかりました。とにかく今からそこへ行きます。だから一度下りてください」  湊の返事を聞かずに部屋を飛びだした。下りてくださいと何度もお願いしたところで、彼女のことだから絶対に下りないのはわかってる。とにかくすぐに向かわなくちゃいけない。  しかも湊の意思を尊重すると、他の住人に気付かれたりできないから、大きな音を立てられない。玄関のドアまで、摺り足気味に廊下を走った。 「湊様!」  湊が下りてないのは覚悟してた。それでも頭を下げてお願いすればと思ってたけど、僕の考えが甘かった。  木の根本からだと、部屋の窓よりも湊の位置が遠い。まだ他の住人を起こさないために遠慮をしているから大声は出せないし、湊は上を向いてるから僕の姿が見えないという悪条件。  ここから出来ることは、せいぜい湊が無事に下りてくることを祈るか、万が一の場合に下敷きになることくらいだ。  あの木の高さが二階の少し下にあるから5mだと仮定して……湊の体重が50kg弱だとすれば、受けとめた場合の衝撃は約500kg。地面にぶつかれば骨折、最悪の場合は大惨事だ。 「うー、うー……あと少し……」  しかも片手を離してぶんぶん振ってる! お願いだから危ないことしないで! 「ていっ! りゃっ! よいしょっ! あと少し……ちょっと、あとちょっとなのにぃ!」 「湊様、お願いですからやめてくださ――」 「あっ!」  湊の手の先がかすり、一枚の便箋が宙へ浮いた。突風に晒されて一度は舞い上がったものの、ひらり、ひらりと落ちてくる。  それはまるで運ばれてきたかのように、僕の手元へ落ちてきた。 「あ……湊の手紙? これが?」 「朝日、ナイスキャッチ! 今から下りるね!」  頭上から安堵の声が降ってきた。その明るさに釣られて、僕も油断したのかもしれない。明らかに失敗だった。 「僕宛の手紙……」  自分の声は届かないと思っていたこと。あまりに都合よく手の中へ落ちてきたこと。そして湊が自分に対して何を伝えようとしてくれていたのか好奇心が働いたこと。  それらが重なって、受けとめた便箋に顔を向けてしまった。  最初の一文が目に入る。「ゆうちょにまた会いたい」……。 「あ!」  頭上から聞こえた、明らかに焦っているとわかる湊の声。彼女は手足を素早く動かして、慌てて樹上から離れようとした。 「えっ?」 「朝日、見ちゃ駄目だってば! せめて一度、私が内容を確認してから――」  喋っている途中で、湊の手は空振りしていた。顔を下へ向けていた彼女は、次に握るべき枝の距離感を間違えて、体のバランスを大きく崩した。 「あっ」  手が離れたと気付いた瞬間、僕は落下地点と思われる場所まで走っていた。足を踏ん張って腕を広げ、落下の衝撃に備える。 「あ、ああっ!? やああああああああ――」 「湊!」 「――えっ?」  あらかじめ準備が出来ていたからか、湊の手を離した位置が下の方だったからか、両腕の筋肉がちぎれるんじゃないかと勘違いするほどの衝撃と共に――僕は彼女を受けとめることができた。  だけど、受けとめた時に立っていることはできなかった。腕の中に湊を抱えた僕は、尻餅を付くようにして転び、強く下半身を打ってしまった。 「いっつぅ……」  痛いけど、お尻をさすることもできない。湊を支える腕を離すわけにはいかなかったからだ。  そうだ、湊! 僕が受けとめたとはいえ、背中や腰に相当のダメージがあったはず。まだ目も閉じたままだ。 「湊! 湊っ!」  体を揺すらないようにして、強く抱きしめる。まさか死……なんてことはないだろうけど、どのくらいの衝撃が彼女を襲ったのかは見当もつかない。 「湊! しっかりして! 聞こえる!?」 「…………」  微かに息が漏れた。耳元へ口を近付け、懸命に呼びかける。 「目を覚まして……僕が側にいるから……」 「目を覚ますまで、ずっと側にいてあげるから……お願いだから無事でいて!」 「ぅ……んっ」  呻くような、だけどはっきりとした声が聞こえた。  あと少しで意識が戻るかもしれない。まだ痺れの取れない自分の両腕に、言うことを聞いてくれる限りの力を込める。 「しっかりして湊! 目を覚ますまで側にいるから! 僕の体が動くようになったら、すぐに運んであげるから……」 「んっ……ぅ……その、声……」 「あっ……」 「よ、良かった! 意識が戻った! 湊、大丈夫? 何があったのかわかる?」 「何があったって……ゆうちょ?」 「え?」  薄く開いた二つの目を見て、一瞬で頭が冷えた。いま湊は……僕のことをなんて呼んだ? 「ゆうちょ……」 「ち、違います、朝日です。湊様、しっかりしてください。ここはお屋敷です」 「うん、お屋敷……それはわかる。でも目の前にいるのは……ゆうちょ?」 「違います、朝日です。湊様は勘違いをされてます」 「だってさっき、ゆうちょが私のこと呼んでた……」 「思いだした……あの時と、同じ声で、同じことを言ってくれてた……私が小さい頃に木から落ちた時と同じように『目を覚まして』って……『目が覚めるまで、僕がずっと側にいるから』って……」  あれ、これは……もしかして、とても良くない状況なんじゃないだろうか。  冷や汗が出てきた。今ではしっかりと僕を見る湊の前で、懸命なまでに首を左右に振る。 「湊様、それは意識を失っていたからです。きっと、夢を見ていたんです」 「ううん、途中からしっかり聞こえてた……私を呼んでくれるゆうちょの声……忘れるわけないよ。だって、ずっと、思いだそうとしてた声だもん」 「朝日の声じゃなかった、ゆうちょの声だった! 普段の朝日と似てるけど全然違う……心から私を心配してくれてる素の声だった!」 「違います……違うんです」  一瞬、湊をゆっくりと寝かせて、救急車を呼ぶためにこの場を離れようかと思った。だけど強く打った下半身がまだ痺れていて、こんな時なのに立ちあがることすらできない。 「だんだん……木から落ちた後の記憶が浮かんできた。目が覚める直前まで、朝日が自分のこと『僕』って言ってた」 「あああ、あのあの、私って昔は男の子に憧れてて、たまに一人称を『僕』って言う癖があるんです」 「そんなの今まで聞いたことないよ? あと私のこと『湊』って呼んでた! 呼びかけてくれた時も、私が木から手を離した瞬間も!」 「それはその! 緊急事態だったので、思わず呼び捨てにしてしまったと言いますか! あのっ!」 「あとあと、私に姉妹がいるってことも……姉妹しかいないってことも話した覚えない! それと更衣室で見たブラ! まるで真っ平らな胸に着けるためみたいにパッドが詰まってた!」 「あ、あの私、胸がないから恥ずかしくて! それでごまかしてただけなんです! 恥ずかしいですね、あは、あははっ!」 「じゃあ今ここで触らせて」 「駄目です」  湊の手がにゅっと伸びてきて僕の胸を掴もうとしたから、寸前でぺちりと横に払った。  その時、僕は下半身に力が入らず体勢が不安定で、湊も片手を離してしっかり掴まれていなかったから、抱えられていた彼女のバランスが大きく崩れた。 「わ、うわわっ!?」  その手が自分の体を支えるために、何かに掴まろうと手近にあるものを握った。具体的に言えば僕のウィッグだ。  それなりの強さで固定してあるウィッグだけど、人間一人の重さには耐えきれず、無惨にもずるりと斜め方向へずれた。 「……あ」 「あ……」 「ああああ……」 「ああああああああ!」 「あああああああああああああ!!」 「ああああああああああああああああ――ッッッ!!!!」 「ユーシェ、納豆食べないか。とてもおいしい日本の伝統料理だ」 「ええ、今まで私は幾度と無くルナに騙されてきましたわ。『ぬた』や『ゴーヤ』、そして『らっきょう』……どれも伝統料理だと聞かされ、一口目で噴きだしそうになりました」 「どの料理も、海外の人が食べるには癖がある食べ物ばかりですね。予備知識なしでは驚いてしまうかもしれません」 「ええ、本当に。ただ、どの料理も見た目はまともでしたわ。それが何ですの今日のその……ナットゥ? という料理は! その豆は腐っていますわよ! 目で見て異常だとわかりますわ! あと臭い!」 「ところが日本の家庭の半数以上にはこれがある。まあ、実は私も苦手なんだが、ユーシェには食べさせて反応を見てみたかった。いや残念」 「くっ、いつも私のことをからかって……そう、一番の恨みは、蟲を食べさせられたことですわ。日本では普通に食べると言うから摘まんでみれば、私以外は誰も食べなかったですわよ。あのイナゴという蟲!」 「ああ気色悪い。あのような昆虫を食べさせられるとは屈辱ですわ! それも、その辺の草むらにいる蟲と聞きましたわよ。この誇り高き私がなんというものを口に……あの恨みは今でも忘れていませんわ!」 「イナゴを馬鹿にするとは長野県の皆さんに謝れ。日本人は普通に食べる機会が多々あるんだ。な、瑞穂?」 「ごめんなさい。好き嫌いのないように育てられてきましたが、虫だけは無理です」 「ほら見なさい! 同じ日本人の瑞穂でも無理だと言っていますわよ、ルナの方がおかしいのですわ!」 「そうか……昨日の夕飯は、おかずにイナゴの佃煮を混ぜていたんだが、好評だから喜んでもらえたと思っていた。あんなにおいしいと言ってくれていたのに……」 「昨日の小鉢に入っていたアレは蟲だったんですの!?」 「あ、目眩が……」 「どうりで何度も味を聞いてくると思えば。気付かなかった自分が恨めしいですわ! ええまあ、味を聞かれればおいしかったのですけど、それはともかくとして許せませんか?」 「日本語がおかしい。だいたいユーシェは文句を言っているくせに、食べているときはおいしいおいしいと言って、お菓子のようにパリパリ口に入れていたじゃないか。口から足がはみ出ていた」 「うるさいですわ! ああもう、ルナに言ってもかわされるだけで意味がありません。昨日の料理長を呼んできなさい、料理長を!」 「申し訳ありません……ルナ様にやれと言われては、私に逆らえる術はありませんので……」 「え、朝日の料理だったの? うん、それなら許してあげる」 「いいえ、私は許しませんわ。逆らえなくても、私たちにこっそりと知らせれば良いのですわ」 「お二人に料理のネタバレをすることも禁じられていました」 「随分と忠実な犬ですわね。まったくこの主従は憎たらしい……湊! さっきから黙っていますけど、あなたからも何か言ってやって欲しいですわ!」 「…………」  うわ、機嫌悪そう……。 「み、湊? どうしましたの? 私、なにか悪いことでもしましたの?」 「別に」 「ご、ごめんなさい。ナットゥですの? もしかしてナットゥが好物だったんですの? 馬鹿にされて怒っているんですの? あの、食べてみるから許していただきたいですわ」 「あら、おいしいですわ。皆さん、この腐った豆おいしいですわよ」  ユルシュール様は納豆が気に入ったらしい。ルナ様に食べ方を教わって、醤油をたっぷりかけていた。 「……しかし、これほど機嫌の悪そうな湊を見るのは私も初めてだ。ヘコんでいたり、疲れている時はあっても、機嫌が悪い日はなかったからな」 「本当に……もし原因が私たちにあれば言ってくださいね? 話をしなければ何事もわからないままですから」 「あ、や、ごめん。みんなのせいで機嫌悪いとか、そんなことは全然ないんだ」  うん、そうだろうね。ルナ様や瑞穂様のせいじゃないからね。 「ただちょっと思うところがあって。ごめんね、今だけはそっとしておいてもらってもいい?」 「はっきりとそう言ってくれるなら、余計な詮索はしない。だが私たちで力になれることなら、いつでも相談してくれよ」 「なんなら話相手に朝日を貸そうか? 湊とは仲が良かったはずだろう?」 「は、はい。私で良ければ」 「……っ」  ひっ!  に、睨まれた……目をちょっと合わせただけで睨まれた。  だけど……それも仕方ない。僕は一ヵ月間も湊を騙していたんだから。  昨日、湊に正体がバレた後―― 「…………」 「ゆうちょ……朝日が、ゆうちょ?」 「ほんとに? ずっと会いたかったゆうちょに、もう会ってた? だけど私まだ……」 「いやその……この、これには深い訳……いや、深くないけど、ちゃんとした理由があって……ごめん」 「…………」 「湊?」 「はっ!」  湊が突然その身を固くして、目を見開いた。明かりはないけど、大きな二つの瞳に僕が映っている。 「あ……は、離れてっ!」 「わっ」  湊の手が僕の体をぐいと押す。擦り傷は確認できるものの、彼女は落下した際のダメージが回復したみたいだ。  それに比べて、僕の下半身はまだ動かなかった。手で押された拍子にずきりとした痛みが走る。それが体の痛みだったのか、湊に拒否された心の痛みなのかはわからない。 「つっ!」 「あっ」 「い、つぅ……」  湊から、拒否された……肩を押され、体を遠ざけられた。  それも当然だ。昔の顔馴染みの「男の子」が女の格好をしているんだから。気持ち悪い。気味が悪い。そんな言葉が頭に浮かぶ。 「うぅ……」 「ご、ごめんね、痛かった? 私のこと助けてくれたんだもんね。まだ痛いんだ、ごめん……」 「湊お嬢様!」 「えっ」 「わあっ!」  慌ててウィッグの位置を直した。とはいえピンで止めている訳じゃないから、手で押さえているだけの緊急措置だ。 「湊お嬢様の大きな声が聞こえたので駆けつけました。何かございまし――えっ? 小倉さん?」  並んで座る僕と湊を見た八千代さんは、最初こそ普段通りの顔で驚いたけど、すぐにその目は細く眇められ―― 「……どうしてこの時間、この場所に湊お嬢様と二人でいるんですか。まさか、今の悲鳴と関係あるわけではありませんよね?」  八千代さんが警戒の目で僕を睨みつけた。この状況を見れば当然だけど。  そして湊がいま起きたことをありのままに話せば、八千代さんの警戒は正しかったことになる。この家に居られなくなるどころか、僕は警察に突きだされるだろう。  湊に縋るしかなかった。もし気持ち悪いと思われていたら終わりだ。 「湊……」 「て、手紙を書いていたら、窓を開けた拍子に風で飛ばされて、この木の上に引っかかりました!」  湊が頭上を指差した。八千代さんは示された方向に従って首を向ける。 「私が自分で木を登って取りに行こうとしました!」  ぶふっ!と八千代さんが息を噴いた。よほど動揺したらしい。表情が固まってる。 「自分で木を登って……湊お嬢様、何故そのようなことを……」 「そのあと目的の高さまで登ったところで、朝日が気付いて助けに来てくれました!」  え……「助け」に? 「結果として手紙は無事に回収できたんですけど、下りる途中で手を滑らせてしまいました。そのときに驚いて、悲鳴をあげちゃったんです」  えっ、落ちた時に大声?  それは事実じゃない。湊が声をあげたのは、僕の正体を知ったときだ。  でもここで嘘を付くってことは……。 「落下した私を朝日は受けとめてくれたんです。でもそのせいで下敷きになって、怪我をして――」 「よくわかりました。ここまでにしてください、頭が痛くなりそうです。小倉さん、よく気付いてくれましたね。あなたが居なければ、大変な事故になるところでした」 「あ……」  湊が助けてくれた。全てを打ち明けられれば、僕はこの屋敷からいなくなっていたのに。まだ嫌われてはいないみたいだ。 「湊お嬢様、今後そのような事態が起こったときは、私どもをお呼びください。万が一、お嬢様の身に何かあれば、私どもは悔やんでも悔やみきれません」 「はい、ごめんなさい。反省してます。ただあの、今日はまだ心臓がドキドキしてて、明日また謝らせてもらえないでしょうか。傷の手当もしたくて」 「あ、そうですね。では私の部屋へ来てください。救急箱があります」 「朝日がいいです」 「は?」 「朝日に手当てをしてもらいたいです。まだきちんとお礼も言ってないです」 「私……ですか?」 「ですが、小倉さんにも手当てが必要かと思われますので……」 「あっ! だ、大丈夫です! 私はぴんぴんしてます! 最初からダメージなんてありません!」  問題なく動く上半身を使って、精一杯のアピールをした。八千代さんは困った顔をしていたけど、相手がお客様である以上、強硬に出られては勝ち目がないと判断したみたいだ。 「……小倉さん、任せられますか?」 「はい。応急処置には心得があります」 「わかりました。ただし一つだけ、どうあっても従っていただかなくてはならないことがあります。明日は必ず病院で検査を受けてください。ご了承いただけますか?」 「はい。山吹先生から直々に許可をもらったし、明日の午前中は病院へ行きます。授業の内容は、個人指導で優しく教えてください」 「いえ、今回の件のお説教と並行で補習を行います」 「あわわわわわ」  湊は脅える振りをしていたけど、八千代さんが冗談を口にしてくれて安心したみたいだ。最後は二人とも微笑みあっていた。 「それでは自室へ戻ります。小倉さん、後のことは頼みましたよ。私は1時まで起きているようにしますから、何かあれば連絡をしてください」  一難は去った……八千代さんに大きな迷惑を掛けてしまったけど、性別を隠しとおすことはできた。  湊の優しさには感謝するしかない。体が回復したら、部屋でお礼を……。 「で、朝日。ううん、ゆうちょって言った方がいい? これから私の部屋で色々話そっか。聞きたいことが山程あるし」 「うん……」  案外、優しくはないのかもしれなかった。 「で」  湊の肩を借りつつ、なんとか今回の件の始まりの場所である湊の部屋へ。今になっても下半身の回復度は80%といったところだった。 「じゃあそこへ座っ……あ、お尻打ったから柔らかい場所の方がいいよね。ベッドに座っていいよ」 「さてそれじゃ、これから聞きたいこといっぱいあるから。言っておくけど、私いまちょっと怒ってるかもだよ……あ、お尻痛いならクッション使っていいよ?」  優しいのか優しくないのか、湊は厳しくなりきれない子だった。子どものころは、僕が転んで血を出しても「舐めとけば治るよ!」の一言で公園中引きずり回されたのに。 「じゃあ、まず話の前にもう一度確認。ウィッグ取って」 「…………」 「…………」 「やっぱり着けて。顔がゆうちょなのにメイド服着てるのはやだ」 「顔自体は変わらないはずだよ?」 「そうかもだけど、ウィッグがずれた時のインパクトが強くて、私の中で『髪長い=朝日』『髪短い=ゆうちょ』って強制的に切りわけられてる。今は『朝日』と話してる感じがする。ゆうちょとは別人」 「僕は遊星だってば」 「まだ開き直んないで。こっちは気持ちの整理ができてないんだから」  そんなこと言われても、僕は大蔵遊星だしどうしよう。 「はいじゃあ質問タイム開始ピロリロリン。まずなんでそんな格好してるの?」 「ずっと憧れてたスタンレーが学校を建てたって話を聞いて、どんな苦労をしてでも入りたいと思ったんだ」 「だけどフィリア学院は女子校だから、正規の入学ができなくて。だからルナ様の付き人になって入学しようと思ったんだ」 「じゃあルナは知ってるんだ?」 「知らない。いま知ってるのは、りそなだけ」 「ふうん。え、もしかして女の子の格好してる理由ってそれだけ?」 「うん、それだけ」 「すごいな。りそなも知ってるなら止めようよ」 「むしろ言いだしっぺが、りそな。最初に服を貸してくれたのも、りそな」 「りそなの感想は?」 「気味が悪いほど違和感がないって」 「確かに。ていうかなんで誰も気付かないの? 学校に通ってるんだよ? みんな気付いてて何も言わないだけなの?」 「僕も不思議だけど、湊も気付かなかったんだよね?」 「そうだった。どうして私気付かないかなー……久しぶりではあるんだけど、それでもゆうちょの顔と声を忘れるなんて自分が信じらんない」 「一日二日ならともかく、言い訳ができないほど一緒にいたってのに! 一ヵ月だよ? どれだけ長い時間ひとつ屋根の下で暮らしてるって……」  湊が何かに気付いたみたいだ。目を見開いたままの表情で固まってる。  もちろん嫌な予感はびりびり伝わってきた。だけど逃げられないのもよくわかっていた。 「……見たんか」 「え?」 「今日……一緒に入ったよね。見たのか」  なんの話をしているのかと思ったけど、どうやら二人で入浴したことについて話しているんだと気が付いた。  返事ができない。笑顔だけは保ちつつ、曖昧に目を逸らした。冷や汗が止まらない。 「ていうか一回じゃなかったような? 瑞穂も一緒に入ったよね? え、見た?」  黙って頷いた。言い訳できないと思ったからだ。 「見たんか」 「はい」 「見たんかあ」 「ごめんなさい」 「見たんかあああああああ!」 「本当にごめん! 目線はできるだけ逸らして、顔だけ見るようにして! 体は見てない!」 「だから一度目のあとは断るようにしたんだ。今日も声を掛けられたときは断ろうと思ったけど、湊がすごく落ちこんでたから『絶対に体は見ない』って自分に言いきかせて、もちろん守ったつもりで……」 「…………」  大声で吠えそうになっていた湊が大人しくなった。  僕の言ったことを信じて……くれてるのかな。引っぱたかれても文句言えないのに。 「……そっか。ほんとだ、朝日は嘘ついてない。私は一度断られたのに、それでも話を聞いてほしいって強引にお願いしたんだった。もし見る気があるなら、最初の時点で断らないね」 「朝日……ゆうちょは、誠実だ。それも落ちこんでる私の話を聞いてくれた、優しさも兼ねそなえてる」  湊は僕を引っぱたくどころか、一つ一つの出来事をきちんと真剣に吟味してくれた。 「信じてくれてありがとう」 「ぅ」 「ん? なに?」 「なんか今の……お礼を言う時に優しく笑う表情が、昔のゆうちょのまんまだった」 「そうかな?」 「そうだよ」  思わずくすりと息が漏れた。だって嬉しい。 「昔の僕を覚えててくれてありがとう。自分がどんな表情で湊と話してたかなんて、言われなくちゃわからないことだから」 「だって昔からゆうちょの笑った顔はすごく優しくて……うん、いつもそうだった。遊んだときも。子どものころに助けてくれたときも。さっきお風呂でも、私の悩みを聞いて優しく笑ってくれたし……ん?」 「あれ? あの時お風呂場で、私、なんの話した? 朝日のことをゆうちょだとは思ってなかったし、けっこう自分の気持ちを赤裸々に語ってた気がするよ?」 「…………」  再び冷や汗が噴きだしてきた。その代わりに血の気が引いた。  好きとか想ってるとか……だって湊がどんどん話すから。 「ていうかこの一ヵ月で、私とんでもないこと話してない? だって朝日でしょ? 一番話しやすい相手だと思ってたんだよ? 授業のこととか生活のこととか家族のこととか将来の夢とか――」  そこまで捲したてたのちに、湊は数秒考えた。やがて「やっぱりそうだ」と言わんばかりに首を深く縦に動かす。 「ゆうちょが大好きとか私言ってる」  一度引いたはずの血の気の全てが顔に押しよせた。さながら嵐の前の静けさのような。着火後の導火線が短くなっていくのを見つめているような。  そしてBOM! 「聞いたんか?」  目の前の湊はたぶん真っ赤だ。でも見えてないからわからない。僕は顔を伏せて、必死に湊の目を見ないようにしていたから。  一緒にお風呂へ入ったと気付いた時よりも、湊の声には凄みがあった。人間は肌を見られるよりも、心の中を覗かれる方が恥ずかしいと思うようにできているみたいだ。 「聞いたんか」  さっきは素直に認めた僕も、今度は無駄な抵抗をしてしまった。俯いた顔を横に振る。 「聞いたんかあ」 「……っ」 「聞いたんかあああああ!」 「……〜〜〜〜っ!」  僕は何度も首を左右に振った。今まで恋愛相談に乗って、しかも散々それに答えてきたんだから、聞いてないわけがない。それでも僕は否定した。湊のために。  でもそれは無駄だった。湊は顔を両手で覆い、腰を90度曲げて仰けぞった。 「もがあああァ――っ!」  夜中だから大人しめではあるものの、床へ倒れた湊は、ごろぐるごろりと転げまわった。足は常にバタバタさせてた。何度か頭をベッドにぶつけた。 「あああああ恥ずかしひいいいいい!」  とうとう海老のように体を丸めたと思ったら、すぐにブリッジするの?と聞きたくなるほど仰けぞった。しばらく海老とブリッジが続いて、まるで丘に打ちあげられた魚のようにのたうち回った。  止めてあげたいけど、今の僕が何か言葉をかけたとしても逆効果になると思う。自然治癒するのを待つしかない。 「恥ずかしい……恥ずかしいよぉ……ああもぉやだ、無理……こんなの恥ずかしくて死ぬ……死んじゃう。ゆうちょの顔が見られない」  疲れたのか、とうとう動くことすらやめてぐったりしてる。ぐすんぐすんと鼻をすする音が何度も聞こえた。 「…………」  最後には、湊がとうとう、ぴくりともしなくなった。どうすればいいのかな……。 「……ゆうちょ」 「ん? なに?」 「なんかゆって。いま私から、なに話していいかわかんない」 「う、うーん、そうだなあ。とりあえず黙っててごめん」 「謝らなくてもいいよ。私も怒ってるわけじゃなくて、驚いてるだけだから。できればゆうちょから話してほしかったけど」 「うん、そうだね。自分から打ち明けなくてごめん」 「ほんとだよ。頭の中まっ白になっちゃって何も思いつかない。せめて事前準備させてよ」 「色んなショックがいっぺんに襲ってきて、もうわけわかんない。再会した一番最初の言葉を数年間考えてたのも無駄になったし、ゆうちょに気付かなかった自分にもショックだし」 「それと何より、自分でも女の子らしくなろうと努力してたのに、そんな私よりゆうちょがかわいくなってたことがショックだあ……」 「そんなことないよ。元気だった子どもの頃しか知らないから、本人だって気付いた時はすごく驚いた。努力したって言うなら、今の湊は充分にかわいいよ」 「っ!」  横になっていた湊の体が大きく震えた。と思ったら、痙攣し始めてる。 「……もぅ」  やがてゆっくり起きあがった湊は、膝をじりじりと進めながらおもむろに近付いてきた。  ていうか距離が近い……? 「いま……自分がなんて言ったかわかってる? 私はその言葉をゆうちょの口から聞くために、ずっと努力してきたんだって言ったはずだよ?」 「『その言葉』って……あ、ああ!」  そうだ。言われてた。湊は僕に「かわいい」と認めてもらいたいって、ずっと言ってた。  その為に女の子らしく努めてきたことも聞いた。 「考えようよ。そんなこと言われたら、私がどんな気持ちになるか。いまどんな気持ちになってるかだよ」 「う、うーん……でも今のは意識してない分、本音を言えたと思うんだ」 「わかってるよ。だから嬉しい。本当に嬉しい。ずっと待ってた言葉に会えた。やっと一歩目を前に踏みだせる気がする」  それは、僕を振りむかせるために前へ進むってことなのかな。  すごく嬉しいし、戸惑ってもいる。でもごめん、これはきっと恋愛の気持ちじゃなくて心愛の情だ。 「でも」 「え?」 「一歩目を踏みだしただけに、いま自分がショックと舞いあがってる気持ちがごっちゃになってる。全てを話しちゃったことについて頭がパンクしそうで、落ちつく時間が欲しい」 「とりあえず、ゆうちょが女の子の振りをすることについては今後も黙ってる」 「本当!? ありがとう湊!」  湊の優しさに縋って、今の生活を続けたいと願ってた。黙っていてくれるなら、本当に助かる。 「だけどさっき言った通り、一ヵ月で色んなこと話しすぎて、どうやってゆうちょと接していいかわかんない」 「え? ご、ごめん……って、謝れば済むことなのかな」 「済まない。今だってゆうちょの顔が見られないんだよ? もーほんと、自分の気持ちの在り処だって、いまどこにあるのかわかんないよ。私の気持ちは、全部本人に種明かししちゃってるんだから」 「どうしてこんなことになっちゃったんだよもぉ! もぉ! もぉ!」  本当にごめんね湊。デリカシーは守ってあげたかったけど、為す術がなかったんだ。 「てわけで今から一晩かけて気持ちを落ちつけることにした。やるせなさを抱えた今の感情だと、空を飛んだり屋根を跳ねたり、木に登ったりしそうなんだよ」 「木登りだけはもうやめて」 「しないけど」 「したよね」 「もうしないけど、とにかく頭の中が沸騰して落ちつかないの! 見ててわかるよね?」  確かに僕も男だとバレた時の動揺を未だに引きずってる。 「とにかく今の私は『なんで私の気持ち打ち明けさせてから正体明かすんだばかものー』と『恥ずかしくて顔見られないよこのやろー』という気持ちでいっぱいなわけだ」 「ゆうちょと再会できて嬉しいけど、接し方はまだ考えさせて。だって今後も、ひとつ屋根の下で生活することになるんだよ?」 「どうしてもゆうちょの顔が見られない場合は、バレる危険性を考えて、私が別の家に住んだ方がいいのかもしれないし」  湊は本当に優しい。本来は迷惑を掛けたこちらが出ていくべきだけど、今の僕の立場ではそれができない。湊は正式な生徒だけど、僕はルナ様の付き人だから、この屋敷を出ることは退学を意味する。  どんなに今が楽しくても、湊の気持ちを考えれば僕たちが別々の家に住むのは自然な流れだ。それを自分から言いだしてくれるこの幼なじみはとても優しい。 「そんなわけで、今も普通に話してるだけでドキドキして、私の心拍数と血圧がやばいんだ。そろそろゆうちょには部屋へ戻ってもらおうと思う」 「そうした方が良さそうだね」 「あ、でも!」  部屋を出ようと立ちあがったら、湊が思いだしたように僕のスカートの裾を摘んできた。 「私は、ゆうちょと再会できて本当に嬉しいんだよ。それだけは誤解しないで」  あ。  今まで慌てたり冷や冷やしたりで忘れかけてたけど、そういえば今の湊はとても女の子らしいんだった。  こうして裾を小さく摘まんで、頬を赤らめてる彼女を見ていると、純粋にかわいいなと思う。 「うん。僕も再会できて嬉しい。だから湊の気持ちもわかってるつもりだよ」 「ありがとう、ゆうちょ」  もしかしたら、気持ちを共有できた今の瞬間が、大蔵遊星としての僕と、大きくなった柳ヶ瀬湊の再会なのかもしれない。  僕たちは微笑みあい、お互いの成長を喜びあって―― 「あ。でもね、黙ってたことは怒ってなくても、裸見られたりしたことは気にしてるから。それは忘れないでね」 「ごめんなさい」  お互いに成長したことは、そんな側面も孕んでいた。 「それと明日から、私の洗濯物は七愛に洗ってもらうことにするね。今まで下着を見られてたと思うだけで超恥ずかしい」 「うん。超ごめんなさい」  僕は全てにおいて無罪放免というわけじゃないみたいだ。  そんなわけで、今朝の段階では僕とどう接していいか決まらず、湊はむっつりしていた。んだと思う。  僕だって湊との昔のことを思いだしたり、彼女の気持ちに応えなくちゃいけなかったりで、複雑な気持ちが渦巻いてる。楽しみだったり不安だったりごちゃまぜだ。  とは言っても同じ屋敷に住んでいれば何度も顔を合わせるわけで、これから学校もあるのにこちらが不安そうな顔をしてるわけにもいかず、僕はなんとか普段通りに接することができたつもりだ。  湊の方針に関わらず、自分のすべきことは「普通でいること」。そう決めていた。  だから今日も一日頑張るぞっと。桜小路家のメイドから、フィリア女学院の生徒へ。制服を片手に、鏡の前で自分の意思を再度固めた。  でもこれだけ気合いを入れても、女性ものの下着をつけている自分の姿は、情けないかもしれない……というよりも、この姿に抵抗がなくなったら駄目だ。 「ゆぅ……朝日、ちょっといい? 登校前に悪いんだけど、少しだけ話す時間が欲しいんだ」 「きゃああああああ!」 「ぎゃああああああ!」  一度開いたドアがもの凄い勢いで閉じられた。さすが元・女ガキ大将、今もドアを閉じるだけで、軽く部屋を揺らす程度の力はあるみたいだ。  不幸中の幸いだったのは、正面からじゃなかったこと……大して変わらないと言われればそれまでだけど、湊に女ものの下着姿を正面から見られるのは嫌だった。 「だっ、だだだ、誰が開けるかわからないんだから、鍵はきちんと閉めなよ」 「ごごっ、ごめん。いつも必ずノックがあるから、つい油断してた」 「あ、そっか。部屋を訪ねるときに、ノックしないでドアを開けるのは私くらいだ。こういう時に育ちの差が出るね、やっぱり」  軽い自虐を交えつつ、湊の声は笑っていた。どうやら怒ってはないみたいだ。 「時間もないから手早く話すね。さっきの朝食の時はごめん! まだどうするか考えてる途中だったから」 「でも私がいくら悩んでも日々の生活は待ってくれないし。ただでさえ勉強が遅れてるのに、これ以上もやもやしてたら、いつか授業に追いつけなくなっちゃうよ」 「てなわけでこれからどうするか決めてきた!」 「えっ」  随分と決断を急いだものだ。もちろん、真面目に考えてのことだろうけど。 「本題を話す前に一つ聞いておくけど、女の子の振りをしてたことは、ゆうちょの責任だよね?」 「うん。全て僕の責任だよ」 「じゃあ私と共同生活を送るために、ゆうちょからも譲歩してもらっていい?」 「……うん」  湊はこの屋敷を出るという選択肢を消した。今までルナ様や他のみんなと仲良くやってきた一ヵ月を思いだすと、そうであって欲しいと思う。 「もちろん。自分がここに居させてもらえるなら、僕にできることは何だってするつもりだよ」 「無理して湊と付きあう」なんて、誰かを傷付けるような内容じゃなければ。 「じゃ、じゃあ……こうしよう! 今まで私と朝日がしてきた会話をゆうちょは何も知らない!」 「え?」 「昨日も言ったけど、ゆうちょと朝日は別人! で、私の知ってる朝日は友達思いな子で、勝手に私の恋心を他人に話したりしない。もちろん本人に……ゆうちょにバラしたりする子じゃない」  昨日からずっとその言葉を避けてたけど、僕の正体を知ってから、湊が初めて僕のことを好きだと言った。 「だからゆうちょとして私に接する時は、今まで朝日と話した会話の内容を全て知らないことにして。私もゆうちょは自分の気持ちを知らないものとして接するから」 「私、ゆうちょが今すぐ自分のことを好きになってくれるなんて思ってない。再会したら、自分から声掛けて、遊びに誘って、いっぱい努力しようと思ってた」 「だからその時間もないままフラれちゃうのはヤだよ。まだ何もしてない。もっとゆうちょから好きになってもらえるために頑張れる時間が欲しい」 「それは……その、とても覚悟のいることだと思うけど」  湊が、僕のことを本当に好きでいてくれてることはわかってるつもりだ。つまり湊は、自分の恋の気持ちが知られているとわかった上で、気持ちを抑えながら僕と接しなくちゃいけない。  恋愛の経験はなくても、それがどれだけ湊を悩ませるかは容易に想像できる。 「平気。頑張りたい」  それでも湊の声は気丈だった。 「私、一晩たっても、やっぱりゆうちょのことが好きなんだ。だからまだ諦めたくない。きちんと今の自分を見てもらえる時間が欲しい」  ドア越しでも湊の体温が伝わってくるほど熱烈な告白だった。  だけど僕はまだ、この学校に入って自分の居場所すら見つけてない。せっかく実力の確かな人たちに囲まれて、自分が確実に成長できる勉強の場を失いたくない。  だから、全てをなかったこと……いや、なかったことにはできない。知らなかったことにしていいのなら、湊の覚悟に甘えたい。 「どうかな。ゆうちょがいいって言ってくれるなら、暴走したりしないようにするよ。だからお願い」 「いいも悪いもないよ。本当なら気持ち悪いと思われて、全てを表沙汰にされても何も言えないのに、そこまで一緒に過ごすための方法を考えてくれるなんて。ありがとう、湊」 「そ、そっか。こっちこそありがとう。あ、もう隠し事ないよね? あるならいま全部話してよ? ここまできて隠し事されたら、次は私だって怒っちゃうかもしれないよ?」 「もう何もないよ。気付いたことがあれば全部話す」 「うん……わかった」  こん、と僕たちを隔てるドアが鳴った。僕も同じ程度の力でノックを返した。 「それと、女の子の振りをするのに、これからは私も協力するから。できることがあれば何でも言ってね」 「うん。もうなんてお礼を言えばいいのかわからないけど。すごく頼もしい」  性別がバレてピンチになるどころか、力強い味方が出来た。見つかったのが湊で本当に良かった。 「ただ、協力するとは言っても、できれば下着姿は見たくなかったなあ……てか、下着まで女物なんだね……」 「ごめんなさい……」 「後ろから見たら不覚にもドキッとしちゃったぜ……」 「本当にごめんなさい……」  それを見て気持ちが萎えなかった湊はすごいと思う。僕には無理だ。 「あ、じゃあ思ったより長話になっちゃったし、そろそろ行くね。私、一時間目は病院いかなくちゃいけないし……」 「うん?」 「えと、そだ。全部知らなかったことにするの、一分だけ伸ばしてもらってもいい?」 「一分? うん、いいけど?」  たったそれだけを伸ばしてどうなるんだろう。でも拒否する理由なんてない。 「ありがと。せっかく全部知らなかったことにできるなら、いまの気持ちを言っておきたい」  ドア越しにも、すうっと息を吸いこむ音が聞こえた。  湊は大切なことを口にするみたいだ。ここまで真剣に付きあってくれた彼女の気持ちに応えるには、一文字たりとも聞きのがしてはいけない。意識を耳に集中して湊の声を待つ。 「大蔵遊星君、好きです」 「あなたが初恋の人でした。自分の気持ちに気付いてから、ずっと、ずっと一筋に好きでした」 「あなたにかわいいと思われたくて、今まで女の子らしくなれる努力をしてきました。いつだって遊星君にとって、一番かわいい女の子でいたいです」 「この日が来るのを夢見ていました。あなたのことが好きです」  たった一分で思い出から消えることになる、ドア越しの湊の告白だった。いま言いたいことをどこまでもまっすぐにぶつけられた。  その告白に僕はいま応えることができない。自分の胸を物理的に締めつけることで申し訳ない気持ちを抑えた。 「ぷはっ!」  そして一分は過ぎ、次に聞こえてきたのは大きな吐息だった。 「ききっ、緊張したあ……たは、たはははっ……膝がくがく言ってる。たはは、これ笑っちゃうね。てか絶対敬語でなんて言わないと思ってたのに、やっちゃったよ。参ったね、たはははははは」 「ま、まだ付きあってくださいとは言ってないよ。それは本番まで待つから。うん」  返事ができない。何も言えない。こんなときに情けない。せめて一言は伝えなくちゃ。 「さ、さーて! 朝日相手に告白の練習しちったい! でもこれ全部知らなかったことにしてね! なんて、どんだけ勝手なこと言ってんだって話だけど。たは、たははは!」 「えと」 「あの、いいです! あっしこれから病院行きますんで! そんじゃお時間いただいてありがとやした!」 「湊、待って! 僕からも最後に一言だけ」 「な、なに?」  ごつんとドアの鳴る音がした。耳を密着させようとして、勢いがつきすぎてしまったみたいだ。 「僕もずっと言ってなかったことがあって。湊と布屋で再会したあの日の第一印象」 「う、うん?」 「すごく女の子らしくて、かわいい女の子だなと思った!」 「ふあっ」 「あの日、思ったことだから。嘘じゃない。きちんと伝えたくて」  もう一度ごつっとドアの鳴る音がした。音の位置と強さからして、額を打ちつけたみたいだ。 「うっ」 「うれしい……」  ドアがカタカタと震えてる。湊の体の震えが伝わってくるようだった。  だけどいつまでもこうしてはいられない。僕たちには毎日の生活があるんだ。 「じゃっ、じゃあ……」 「あ、あァアぁありがトした。それじゃわたシ、こんどコそいてキマス」 「うん。また学校で」 「あい」  ユルシュール様より下手くそな日本語を最後に、湊の気配はドアの前から離れていった。 「うおっしゃあああああああぃやったあああああああああ!」  それからしばらくして、だいぶ離れた位置から湊の雄叫びが聞こえてきた。でもごめんね、その叫び方は女の子らしくないと思うんだ。  午前中の授業がデッサンだったことは、僕としては非常に助かった。  昨日の夜は性別がバレて、今朝も大切な話をしたりして精神的に疲労していた。パターンメーキングのような頭を使う授業よりも、何も考えずに手だけ動かせる内容の方がいい。  少なくとも自分のペースで描けるのは非常にありがたい。自分のペースというより、主人のペースだけど。 「こういう時に私は朝日を付き人に選んで良かったと思う」 「はい? それは何故でしょう」 「顔が描きやすい。整ってるから楽だ」 「わ、ルナ様に誉めていただきました。嬉しいです」 「ただ面白味に欠けることは否めないな。そうだいいことを思いつい――」 「お許しください」 「どうして頭を下げる、まだ何も言ってない。それとも君は私が理不尽な要求でもすると思っているのか。頭にきた、身に付けているものを全て脱いで下着を被れ。タイトルは『理不尽な貴婦人は鉄壁の布陣』」 「お許しください!」 「今回、先に私を挑発したのは君だ。何もしていないのに突然謝りだされたら私だって戸惑うだろう」 「お言葉ですが『いいことを思いついた』と言った時のルナ様の顔は、理不尽な要求をする算段が表情に満ち満ちと出ていました」 「そんなことはない。デッサンに面白味を加えるため、全裸にさせて顔に落書きしようと思いついただけなんだ」 「嫌です。お許しください」 「うーん、これ以上のことを求めると理不尽にも程があるしな……仕方ない、どんな面白味を加えるかは、全裸にしてから考えよう」 「全裸は絶対条件ということですか……そこさえクリアすれば、多少のことは受けいれたいのですが」 「嫌だ、芸術だ。朝日は『オランピア』という絵画を知っているか?」 「エドワード・マネによる名画ですね。全裸です。嫌です」 「ではジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』は?」 「全裸です」 「ゴヤの『裸のマハ』?」 「もうタイトルからして全裸です! お許しください!」 「うーん、仕方ない。同じゴヤでも『着衣のマハ』で妥協しよう。あのポーズでよろしく頼む」  その程度で良ければ喜んでよろしく頼まれます。お礼を言うのに納得はいかなかったけど、僕は仕える立場だから、ありがとうございますと頭を下げた。 「あら、楽しそうですわね。あなたたちもゴヤの絵と同じポーズでデッサンするんですの?」 「ユルシュール様。『も』ということはサーシャさんも?」 「ええ。勝手に『裸のマハ』のポーズを取ろうとするから、困っていたところですの」 「あ、裸の方を選んじゃったんですね……私の方はたったいま拒否したばかりなのですが」 「しかも命令されてやっているわけではありませんわよ。サーシャは嫌々ではなく、自ら進んでやろうとしているのですわよ」  先ほどルナ様が挙げた絵画ですら、最初の二つは局部を隠してるからまだ良心的だった。『裸のマハ』は全てが見えてしまうのですが。 「ダ美デ像の方がよかった? それともミュロンの円盤投げの方が美しい? さあユルシュール様……私を描いて! 他の皆さんも見惚れていいのよ」 「お待ちあそばせ。まだ全てを脱ぐには早いですわ。皆さん、止めるのを手伝ってくださらない?」 「なぜ止める必要がある。面白いじゃないか、このまま見届けよう」  あ……ルナ様の心に火が点いた。興味をそそられてる。 「ルナ様、面白いというだけで愉快なポーズをとらせてはいけません。何卒ご理解ください」 「ふうん、朝日はそう思うのか。なあユーシェ、そちらに問題がなければ、私の付き人とモデルを交代しても構わないぞ。サーシャ、せっかくだからもう一つ上の段階へ進む気はないか」 「ひとつ上? ウフフ、ルナ様ともあろうお方が面白いことを言うのね。ダ美デ像のポーズもキメたことのある私に、これ以上のポージングがあるとでも? 有名彫刻のポーズの大体は制覇しているわよ?」 「しかしさっきから聞いていれば、君の口から出てくるのは西洋美術ばかりじゃないか。エスニック、オリエンタル、東洋美術の美しさを忘れてはいないか?」 「はッ!?」  サーシャさんが口に手を当てて大きな反応を示した。僕たちには見えない「気付き」があったんだと思う。 「日本の仏像もいいが、タイの寝仏などもエキゾチックな色気に溢れているだろう。君はその道を素通りして、本当に色気を極めたと言えるのか?」 「あ、ああ、ルナ様。私、何かに目覚めてしまいそう……今より高次元の世界へ……私を『高み』へ誘ってちょうだい……」  サーシャさんは涎を垂らしそうな顔でルナ様の足元へひれ伏した。重大な背信行為にユルシュール様がさぞかし怒ってるだろうと思って様子を見れば、呆れた目付きで二人を眺めているだけだった。 「サーシャは美の追求を餌にされると理性が保てませんわね……まあいいですわ。後で三日間ポージング禁止の罰を与えておきますわ」 「とはいえ、このまま授業を始めないわけにもいきませんわ。朝日、私はあなたを描きますわよ」 「えっ?」 「なにを不思議そうな顔をしてますの? サーシャをルナに取られたら、私には朝日しかいませんわ」 「それとも朝日がルナを説得するんですの? あの二人、かなり盛りあがっていますわよ」  どうしよう。確かにルナ様のモデルを務めるとなれば、疲れるポーズを取らされるのは目に見えてるし……。 「ルナ様……さあ私を美しくして! まだ見ぬ新しい境地へ連れていって!」 「よーし、よし。今から餌をやる。今しばらくはラオコーンのポーズで待つんだぞ」 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」 「授業中にもこうして面白い遊びをしなければな。単調では飽きがくる。サーシャ、君は良いメイドだ」  むむ。ルナ様のモデルが大変なのはわかってる……だけどデッサンの授業は一日じゃ終わらないから、何週間かはいま決めたペアで組むことになる。ルナ様が他のメイドばかり気に入ってるっていうのも……。  授業の役に立たないんじゃ、この学院へ通わせてもらうための条件を全うしてないことになる。うーん、どうしよう?  うん。やっぱりルナ様のモデルは僕が務めよう。 「ユルシュール様、せっかくご指名いただいたのに申し訳ありませんが、やはり私はルナ様のメイドとしての役割を全うしたいと思います」 「あら、そうですの。私は別に朝日でもサーシャでも構いませんわ。ただ、あの二人を説得できますの?」 「やってみます」  既に指示を始めているルナ様の元へ近付いた。その足元でサーシャさんが寝転がりながら、アルカイック・スマイルを浮かべていた。 「ルナ様」 「ん? どうした朝日。君はユーシェのモデルを務めるんじゃなかったのか? 何も強制されて嫌なポーズをとる必要はない」  声を掛けた時点で、僕は半ば降参してるようなものなのに。ルナ様は意地悪だ。 「あの、全裸は無理ですが、ゴヤでもグレコでもベラスケスの絵でもルナ様の希望するポーズをとります。だから私をモデルにしてください」 「とても気分がいい」  降参どころか降伏の体をなした僕の言葉を受けいれて、ルナ様は優しげに微笑んだ。 「安心しろ。最初から私の付き人の肌を赤の他人に見せるつもりはない」 「ありがとうございます、お優しいルナ様」 「ただし朝日の困る顔は見たい。というわけで足だけで妥協する」 「こう……いう感じで」  以前にさせられたように、ぎりぎり下着が見えない位置までスカートを持ちあげてみた。一部の女生徒が「きゃっ」と声をあげた。  あ、でも、今は居ないからいいけど、来週には湊の前でこのポーズをしないといけないんだ。ルナ様のデッサンが終わるまで、この格好は続く。  でも今さら引けないし、このままで描いてもらうしかないかなあ。 「わあ朝日、かわいい。アイドルの写真集の1ページみたい」 「ス、スカートを持ちあげさせて、学校で何を始めるつもりなんですの、この二人は」 「私は朝日を恥ずかしがらせたかっただけで、同性愛のケはない。もっとも男性相手にもケはないつもりだ。つまり恋愛に興味がない」 「ただし朝日の困った顔は、私の創作意欲を刺激する。これはとても重要なことで、クリエイティブな発想を求められる私には、日々の活力として必要なものだ」 「もっともらしい理屈をつけたところで、あなたたちが変態に見える事実は変わりませんわよ」 「そちらも大概だと思うが。これからユーシェは、涅槃の境地に達したサーシャをデッサンするんだぞ?」 「うふ。綺麗に描いてくださいね、お嬢様」 「え、この仏像のように横たわった半裸のサーシャを私が描くんですの? この変態ポージングを……私が?」  ユルシュール様は寝転がるサーシャさんを見て、しばらく途方に暮れていた。ルナ様の言うとおり、スカートをたくし上げてる僕よりも、半裸のサーシャさんの方が見た目的には問題があると思う。 「さ、それじゃ私たちも始めるか」 「あの、やはりこのポーズのままで? スカートを摘むと思っていたより重たくて……うっかり手を離しては、ルナ様のデッサンの邪魔になるのではないかと不安です」 「私が下半身を描く時だけ持ちあげればいい」 「はい」  とりあえず疲れるまでは、スカートを持ちあげたままでいることにした。  でもよく考えたら、こうしてじっと見つめられるのは危険かもしれない。授業だからモデルを務めるのは、どのみち仕方ないことなんだけど。  今までバレなかったのが不思議なくらいだけど、どうしたって僕は男なんだ。こうして観察されると、思わぬところでボロが出るかもしれない。  ルナ様の特徴的な色をした瞳に見つめられると、全てを見透かされそうで怖い……。 「朝日、そう不安そうな顔をするな。私はデッサンに自信がある。決して元よりブサイクには描かない」  不安の理由を勘違いされてるし……むしろ都合が良いから助かるけど。 「私は昔から表に出ない子だったからな。一人でもできることを探して、一時期はデッサンにハマっていた。部屋の中にあるものを手当たり次第になんでも描いたものだ。孤独も悪い面ばかりではないのだな」 「へくち」 「君は。人がそこそこ浸って思い出話をしていたのに、くしゃみをして気分を台無しにするな」 「申し訳ありません。ですがスカートを持ちあげて寒かったもので。生理現象はお許しください」 「頭に来た。鼻毛描いてやれ」 「お許しください。へくち」 「くっ、またくしゃみを……!」  ルナ様の筆運びが荒くなった。メンタル面は崩れやすいのかもしれない。 「あ、それで話の続きですが、どのようなものをデッサンされていたのですか?」 「ん? そうだな、部屋の中にあるものは何でも描いた。欲しい玩具があれば大抵のものは与えられたし、時間も無駄にあったからな。年相応にぬいぐるみも買ってもらったし、ゲーム機のような機械類もあった」 「ただ、生物だけはほとんど描かなかったな。私の肌に傷を付けるわけにはいかないから、ペットは与えられなかったんだ。むろん人間なんて、幼い頃の私は接する機会がほとんどなかった」 「ルナ様……その時に私が居れば」 「しんみりした話にするな。そういうことが言いたかったわけではなく、私はデッサン力がそこそこあるという自慢だ」 「ただ、まあ、なんだろう。人物を描くのは静物……静かな物の方だ。静物を描くよりも、常に表情が変わるから楽しいな。ふふ、ありがとう朝日」 「へくち」 「君は。確かに私はしんみりした話にするなと言ったが、お礼のあとにくしゃみはあんまりじゃないか。どうして今日はそんなに挑発的なんだ。普段はもっと素直だろう」 「ですから生理現象は時と場合を選んでくれないものなので……へくち。足が剥きだしになっているため、とても肌が冷えるんです」 「わかった、もういい。スカートを下ろせ。これじゃ話もできない」 「ありがとうございます、お優しいルナ様」  そんなに長いスカートじゃないけど、下ろしてるのと持ちあげているのじゃ温かさが全然違う。ほっと一息つけた心地だった。 「申し訳ありませんでした。もう邪魔はいたしませんので、お話を続けてください」 「もういい、話す気をなくした。というより長く話しすぎた。そろそろ集中しないと提出日に間に合わなくなるから、黙って進めることにする」 「はい。よろしくお願いいたします」  それからルナ様は、一言も喋らずに筆を進めた。  見破られることに脅えていたけど、ルナ様と話してたら緊張感が取れた。後半はリラックスしながらモデルを務めることができた。 「できた」  まだチャイムが鳴るまで4、5分ある。提出だって再来週が期限なのに早過ぎる。 「もう完成したんですか? 来週の授業が暇になってしまいますね」 「余計なものは省いた。それと朝日を見て描いたわけじゃないからな」 「と、言いますと?」  できたって言ってたから、もう動いてもいいのかな。ルナ様の下まで行き、スケッチブックを覗きこんでみた。 「ちょっと朝日が生意気だから、全裸に剥いてみた。顔から下を想像だけで描いてみたんだが、中々よくできてると思う」  うわあああー! 顔は僕なのに胸が膨らんで、なんか女の子の体になってるうううー!  自分で言うだけあって、ルナ様のデッサン力は高かった。それだけに、自分が女の子になったこの絵は、今の女装してる状況も相まってとても見るに耐えない。  この絵を見た後じゃ、男として本当に自信をなくしてしまいそうだ。  でも胸が心持ち小さく描かれてるのは気のせいかな……。 「ん、相当落ちこんでるな。ちょっと性質が悪いというか、度が過ぎたみたいだ。すまなかった、すぐに消すから許して欲しい」 「へくち」 「君は。もういい、体とかしならせて、ちょっと官能的な雰囲気にしてやる」 「ごめんなさいごめんなさい! でも生理現象は仕方ないんです!」  優しいルナ様はすぐに首から下を消してくれた。でも一時間分の授業が無駄になった。 「へくち」 「くっ、またしても……!」  ごめんなさい。生理現象だから許してください。  でもルナ様がサーシャさんを描きたいと思ってるのなら、代役を務めるのも立派な僕の仕事なんじゃないか。  うん、そうだ。ルナ様のやりたい様にしていただくことが大切だ。今日はユルシュール様のモデルを務めよう。  それにユルシュール様とお話できるのも楽しそうだし。 「ユルシュール様。ルナ様はサーシャさんがお気に入りのようですし、私がモデルを務めてもよろしいでしょうか?」 「あら、今の言い方はいいですわよ。ルナに対して挑戦的に聞こえますわ」 「えっ」  とんでもないことを言われた。もちろんそんなつもりはなかったのに、ユルシュール様は花を摘む少女のように微笑んだ。 「朝日が言いたかったのは『私よりも』サーシャさんがお気に入りのようですから『こちらも勝手により良い主人に仕えさせていただきます』ということですわね?」 「ちちち違います!」 「あてつけならともかく、当家の方が桜小路家よりも仕えやすいと思ったのでしょう? よろしいですわよ、オーッホッホッホ!」  とんでもないことを言う人だ。僕は何度も首を左右に振った。 「そそそそういうことなら、モデルを辞退させていただきます」 「では私のモデルは誰が務めますの。一度申し込んだのですから辞退は許しませんわ。それと、ルナに尻尾を振っているサーシャも気に入りませんの」 「この憤りをおさめるため、あなたが私に尻尾を振りなさい」 「できません。私はルナ様のメイドです」 「でもあなた、少なくともこの時間中はルナに見捨てられたのですわよね? 単調では飽きが来ると言ったのはルナですわよ。あなたに彼女を楽しませることができますの?」 「う、それは……」 「行き場のない捨て犬を拾ってあげますわ。大人しく飼われなさい」 「ルナ様……」 「ん?」  サーシャさんにポーズの指示をしていたルナ様が振りかえった。少し真面目な顔つきだった。 「あ、すまない。もしかして、いま何か話しかけていたのか。全く聞いてなかった。もう一度説明してくれないか」 「朝日が私のモデルを務めるという話ですわ。ルナには関係ありませんの」 「関係ある。私のメイドが寂しそうな顔をしている。何の話をしていたんだ」 「聞いていなかったそっちが悪いのですわ」  会話の途中だったのに、突如ユルシュール様はルナ様に背中を向けた。鞄から何かを取りだして僕に向ける。 「え……わっ!」  何かを噴きかけられた。あまりに突然だったから事態を理解するのに時間が掛かったけど、その香りは鼻孔を通じてすぐに頭の中へ到達した。  初めて知る香りだけど、街中に溢れている類のものとは、一発で違うとわかる気品に満ちている。これは薔薇の香水……? 「私の地元ジュネーヴは『香水の都』と呼ばれているのをご存知かしら?」 「香水ですか……あ、はい。知っています」  ジュネーヴには、お兄様が管理している貿易会社の支店があったはず。その取り扱い品の中に香水もあったと思う。 「歴史的に香水の街と言えば、フランス南東部グラースが真っ先に挙げられますが、経済、交通、文化の面から、その中心地はジュネーヴへ移っていますの」 「もちろんジュネーヴに邸宅を構える我がジャンメール家でも、香水には大変気を使っているのですわ。私たち兄妹には、生まれてすぐにオリジナルの香水が与えられますの」 「オリジナルの香り……わあ、それは大変素晴らしいことですね」 「オホホホ、よろしくてよ。私の香りは高貴なる薔薇。それもジャンメール家の薔薇園にて、私だけのために育てた品種を、由緒あるブランドに依頼して作らせているのですわ」 「もうお気付きかと思いますけど、いま朝日にかけたのは私のオリジナル香水ですわ。つまり貴女に私の香りを与えましたの」 「ユルシュール様の香り?」  自分の腕に顔を近付けてみる。体に染みついたこの香りは、少なくとも一日は消えないだろう。 「朝日も貴族社会に生きる人間なら、自分の身体から私の香りがするという意味をよくわかっていますわよね?」 「くっ」 「あ、ああ……ルナ様、申し訳ありません」  ユルシュール様の言うとおり。立場が使用人である以上、いま僕の香りを嗅いだ人は、誰もがルナ様ではなくユルシュール様のメイドだと考えるだろう。 「オーッホッホッホッホ! 一日とは言え、ルナのメイドを自分のものにしてやりましたわ! ああ気分がいいですわ!」 「ユーシェ。私は自分のものを人に取られるのがとても嫌いだ」 「あら、そんなのは誰でも同じではありませんの? それとも、自分の物を人に取られて喜ぶ人なんているんですの? 聖人のような方ですわね、一度お会いしてみたいものですわ」 「朝日を返せ」 「ああ……ルナにこう言ってやる日を今か今かと心待ちにしていましたわ。『お断りします』。オーッホッホッホ!」 「ううっ、私が愉快なモデルに気を取られていたせいで、こんな愉快な笑い方をする女に我が家のメイドを奪われるとは……主人として一生の不覚だ。すまない朝日」 「そんな! ルナ様、私のために謝らないでください。たとえ体を弄ばれようと、心まで薔薇の香りが染みついたわけではありません。明日になれば、必ずルナ様のもとへ戻ります」 「こんな面白系スイス人に仕えるなど、さぞ屈辱だろう。不自由な思いをさせてすまない……私は駄目な主人だ」 「オーッホッホッホ! なんとでも言うがいいですわ。それでも私が朝日を手に入れた事実は揺るぎませんもの。ああ気持ちいい! とうとうルナにぎょふんと言わせてやりましたわーっ!」 「それを言えば朝日を返すんだな。悔しいが仕方ない……ぎょ、ぎょふっ――」 「ルナ様、いけません! 桜小路家のご息女ともあろうお方が、私如きのためにぎょふんなどと口にしないでください! 私の仕えるルナ様は、決して他人に弱みなど見せません!」 「言ったところで返すつもりはありませんわ。さ、朝日。私のモデルを務めてもらいますわよ。それとルナ、今回の課題が終わるまで、来週からも朝日は借りますから。オホホホ」 「ルナ様……申し訳ありません」 「くっ!」  僕はユルシュール様に手を引かれ、逆らう術もなくジャンメール家の一員となった。恋人の前で攫われる花嫁がいれば、今の僕の心をわかってくれるだろうか。  ルナ様のあんな顔は見たくなかった……ただ、でも……僕のために悔しがってくれて、ありがとうございます。  一度でもその心を疑った僕をお許しください。だからこれは、きっと神様が駄目な使用人の僕に与えた天罰なんです。  って僕、使用人じゃないよ! いま意識が完全にメイドだった! 恋人の前で攫われる花嫁って誰? 「ところでユルシュール様。かなり授業時間を過ぎておりますので、そろそろ描きはじめた方が良いかと」 「あらそうでしたの。遊んでる場合ではありませんわね」 「あの、自分の香りを付ければ朝日を手に入れられると聞いて、私は白梅香を……え、終わり?」  乗り遅れた瑞穂様は残念そうにしていた。それとルナ様だけは相当に悔しかったみたいで、牙を見せながらユルシュール様を睨んでいた。 「それでは、スイス仕込みの私のデッサンを見せてあげますわ」 「はい。よろしくお願いします」  ユルシュール様はルナ様と違い、無茶なポーズをとらせたりはしない。  ルナ様と同じく、ユルシュール様も天才肌の人だから、絵を描くのも相当の実力があるんだろう。ちょっと楽しみかもしれない。 「下手だな」 「うるさいですわ」  何故かルナ様は、自分のデッサンそっちのけで、何度もユルシュール様のスケッチブックを覗きに来ていた。 「そんな、下手だなんてことはうわっ」 「最後の悲鳴はなんですの?」  正直、微妙だった。デザイン画を綺麗に描ける人が、どうすればこれほど人体のバランスを無視して絵が描けるものかと、ある種、研究対象として価値がありそうなほど微妙だった。 「朝日、どうして黙るんですの? 私のデッサンの感想を正直に言いなさい」 「いい感じなのではないでしょうか」 「なんですのその煮え切らない返事は!」  ユルシュール様のお陰で、頭の中でゼロから創造したものを描きだす力と、目で見たものを写実的に描く力は別物なんだと知った。 「フン、その程度の腕でよくもスイス仕込みなどと言えたものだな? やはりユーシェは朝日の主人として相応しくない。今すぐ当家のメイドを私に返せ」 「あ、部外者は黙っててくださる? 私は朝日と話しているのですわ」 「さて朝日。そこまで言うなら私にも考えがあります」 「私はユルシュール様の絵を誉めただけで、他には何も言ってません」 「うるさいですわ。目は口ほどに私の絵が微妙だと言っていましたわ。そこまで言うなら、手本として朝日がデッサンしてみせなさい」 「そこまでというかどこまでというか、本当に私はなにも言ってません」 「お黙りなさい。私に描けと命じられたら、黙って描けばいいのですわ。私がモデルになるなど、滅多にあることではありませんのよ、オーッホッホッホ!」  何を言っても無駄みたいだ。ユルシュール様は、僕の目の前で体をくねらせたポーズを決めた。本人曰くヴィーナスをイメージしたらしい。 「良い出来ですわ」  授業終了の5分前。僕のデッサンを見たユルシュール様は、満足そうにうんうんと頷いていた。 「サーシャにデッサンをさせると、鏡も見ずに自分を描きはじめるからつまらなかったのですわ。朝日はデッサン力が高いですわね。気に入りましたわ」 「どれどれ……うん、中々よく描けてるじゃないか」 「でしょう? 高貴な私の雰囲気がよく出ていますわ、オーッホッホッホ!」  ゼロからものを生みだすのは得意じゃないけど、絵の練習は過去に何度か行っていて素描は慣れてる。つまりユルシュール様とはまるで逆だ。  技術であって創造ではないから、僕が自分に求める能力じゃない。けど、今はユルシュール様に喜んでもらえたみたいで良かった。 「朝日。メイドの皆さんはデッサンの課題を提出しなくても良いのですわよね? これは私がいただいてもよろしいんですの?」 「あ、はい……ユルシュール様が望まれるのであれば」 「ええ気に入りましたわ。しばらく部屋に飾っておきますわ」  なんだかそこまで喜んでもらえると嬉しいな。ユルシュール様の笑顔がとても無邪気だ。 「嬉しいですわー。嬉しいですわー」  ただのデッサンにそこまで喜んでもらえると……でも、元がとびきり綺麗なだけに、子どもみたいに喜ぶその顔は天使みたいだ。 「そうか、そんなに嬉しいか。髭描いてやれ」 「なんてことするんですの!」  だけど僕の描いた絵の中の天使には髭が添えられた。海苔みたいなちょび髭が男爵みたいに生えてしまった。 「ああ……せっかく描いていただいたのに……」 「だ、大丈夫です、ユルシュール様。来週になれば描きなおします」 「当家のメイドを奪った罰だ。朝日、早くシャワーでも浴びて香りを落としてこい」  ルナ様は自分の付き人に手を出されたことを許さなかった。  でもやっぱり「僕」というより「桜小路家の使用人」が大切みたいだ。いつかは「朝日」として大切にしてもらえるといいな。  ……いや、気持ちが使用人になってる。これじゃ駄目だから……。 「皆様、食後の紅茶が入りました。本日はカモミールティーになります」 「明日から休みだ!」  三名のお嬢様方がソファーで寛ぐ中、湊だけはカレンダー片手に元気だった。 「明日からGWだけど、みんなどうする? 三連休とかそのあとの四連休とか何して遊ぶ?」 「えっ、三連休? 月曜日は学校ではありませんの? どういうことですの?」 「湊が言いださなければ、月曜の朝にユーシェが一人で制服を着て朝食を待つ姿が見られたのに……なんて勿体無い」 「今度の月曜日は日本の祝日です。その日だけではなく、来週は祝日が三日間続くんですよ」 「あら、そうでしたの。それで皆さんはどこかへ出かけますの?」 「今からそれを話そうと思って。みんなまだ東京へ来て間もないよね? せっかくだし遊びに行こうよ!」  湊の手には沢山の旅行雑誌。しかも使いこんでるっぽい。きっと大型連休を楽しみにして、前々から計画を練ってたんだね。 「それは楽しそうだ。この近所を買い物して回るだけでも一日が潰れると思う。ああでも、カードは持っていかない方がいいかもしれない。君たちが買い物をすると、百万程度はすぐに使ってしまいそうだからな」 「買い物ですの……楽しそうですわね」 「映画観たりもしたいね。あとこっちでしか見られない動物とか魚もいるみたいだし。パンダかわいいよパンダ!」 「そういえば私も、カフェを探したいと思っていたのですわ。お庭での紅茶も良いですけど、一人で東京の景色を眺められるような、落ちついた場所を見つけたいですわ」 「私は以前から行きたい場所が……あ、いえ、そこは一人で行きたい場所でした。そうだ、史跡巡りもしたいですね」  休日の過ごし方はそれぞれの個性が出るなあ。僕も一度実家へ帰って、りそなに協力してもらったお礼をしたい。  けど、メイドの仕事は祝日だから休みってわけでもないし、一日屋敷の中でお掃除かも。先輩方ほど働けてないからここらで挽回しないと。  それと時間が余ったら、予習と復習かなあ……。 「関東の史跡巡りをする時は朝日も一緒に。ね?」 「え? あ、はい。家事の手に余裕があれば……」 「お仕事なら邪魔はできないけど、一日くらいは付きあってね? 朝日と二人でお出かけしたい」  瑞穂様はねだるように僕の手を握った。日々僕に対する瑞穂様の友情は強くなっていて、立場の違いもあり、男の子として申し訳ない気持ちが増す一方だ。  それと瑞穂様は親しい相手へのスキンシップが好き……みたいで、手を握られたり、二人きりだと肩をくっつけられたりが最近増えた。僕は男なので、ますます申し訳ない気分になる。 「…………」  僕の正体を知ってる湊は、瑞穂様とくっつくのをじっと見てるし……文句を言いたい感じではなく我慢してる風だから、何も言えないけど。 「今の話を聞いていると、それぞれに予定はあるだろう。空いてる日をまとめてみたらどうだ」 「ん? そうだね。んとね、私はね、来週の土日は地元の友だちが来るから、その子たちとその日だけは遊びたいんだ」 「私は大使館に父の友人が居て、明日は食事に誘われていますの。今までろくに挨拶もしていなかったものですから、明後日もお会いする約束をしているのですわ」 「私は月曜日に、やんごとなきお方の参加される行事へ出席することになっています。その日だけは外していただけないでしょうか」  見事に予定が被っている。みんな名前のある人たちだから、挨拶回りは仕方ないのかもしれない。 「なんだ、それじゃ全員で一緒に行動できるのって金曜日くらいなんだ。その次の月曜日は平日前だし、みんなでお茶でもしながらゆっくり過ごした方がいいよね?」 「ではその日に出かけましょう。今から計画を練りますわよ。それぞれの行きたい場所を一つ決めて、できるだけ全員の希望に添う形をとりましょう」  普段は軽々しくはしゃいだりしないお嬢様方も、そこは年頃の女の子。友達と出かける時は、相応に心が浮きたつみたいだ。  湊はいつも通り明るいし、団体行動では皆に合わせる型の瑞穂様も、ガイドマップを手に行きたい場所を探してる。ユルシュール様も、声を出して笑いながら二人の話を聞いている。  いいな、楽しそう。僕も正体さえ隠してなければ同じ立場で出かけてみたい。  ルナ様ならどこへ行きたがるのかな? この人がどんな場所に興味を持つかは聞いてみたい……。  あれ? でもルナ様だけ、話には加わってない? 他のお三方を微笑ましそうに見守ってるだけだ。 「うーん、一つだけ選ぶとしたら、パンダと水族館は悩むなあ。あの新しくできた大っきい通天閣みたいなのにも上ってみたいし」 「ね、ルナは? 行きたい場所どこかある? でもルナのことだから、日暮里で生地の問屋街とか選びそう。たはは」 「私か? 私は、アトリエでデザイン画を描いてる。三人で楽しんできてくれ」  えっ?  疑問に思ったのは僕だけじゃないみたいだ。他のお嬢様方も目を丸くしてる。  だけどその驚きを持続させたのは僕だけだった。三人のお嬢様方は、すぐに何か思案するような素振りを見せはじめた。  どうしよう。湊たちからは言いにくいだろうし、誰も誘わないなら、僕が口を出した方がいいのかな。 「ルナ様、デザイン画はいつでも描けますし、皆様で外出するのなら、一日だけでもお付き合いされてはいかがでしょうか」 「必要性を感じない。私は学校へ通う三年間の、一日たりとも無駄にしたくない」 「ですが」  せっかく「全員で」出かけるため、日程まで合わせたのに。ルナ様が勤勉なのは知ってるけど、彼女たちはお客様だし、付きあいもホストの役目じゃないだろうか。  そんな僕の考えてることは「わかっている」と言わんばかりに、ルナ様の目が鋭くなった。 「そういう時のために朝日がいるんだ。私の代わりに彼女たちを案内し、精一杯の持て成しをしてこい。幸い君は気に入られてるようだし、年も同じだから楽しめるだろう」 「これは主人としての命令だ。まさか逆らうとは言わないだろう?」  ルナ様の語気が強くなった。眉の間に威圧するような力が加わる。 「ルナ。私たちは車で移動しようと考えているの」 「あ」  思わず漏らした声に気付いて、慌てて手で口を押さえた。  でも、きっとそういうことだ。ルナ様は、ご自分の健康を気にして、日の光を嫌っているから理由を付けて断ったんだ。  本来なら僕が気付かなくてはいけないことだった。自分の鈍さに情けなくなる。 「水族館や庭園巡りなら日の光も当たらないし、美術館や映画も楽しそう。人混みが嫌ならカフェだけでも一緒にどう?」  瑞穂様の話し方は、同情の色を出さず、自然体で、いかにも放課後に教室で寄り道を誘うような、そんな軽い声だった。  ユルシュール様はこの手の話題の時は無口になるし、湊は他の二人ほどルナ様との付き合いが古くないから、なんて言えばいいか迷っていたんだろう。瑞穂様の友情は、僕の無思慮を柔らかく打ち消してくれた。  だけど、それでもルナ様は硬い表情を崩さなかった。 「私の健康状態は関係ない。もう一度言うが、私はデザイン画を描きたいんだ」 「付き合いの悪いことは認めるが、私の目標は個人のブランドを持つという高い場所にあるんだ。それまで、一日だろうと無駄にするつもりはない」 「そう。ごめんね、無理に誘って」 「気にするな。それと、こちらこそ空気を壊してすまない」 「当日の昼食はこちらで店を用意させてもらうから、それで許して欲しい。プランが決まったら教えてくれ、最適な店を紹介したい。もちろん昼食の場所が決まっているのなら、食事代だけ当家で受け持たせてもらう」 「その昼食の店は朝日が選べ。もう一度念を押しておくが、彼女たちに同行すること。これは命令だ、違反は許さない」 「…………」 「返事がないが」 「畏まりました」 「よろしい。では、私が居ては話の続きもしにくいだろう。先に失礼させてもらう」  一言の反論も許さないといった体で、ルナ様は自分の部屋へ帰ってしまった。  彼女の口調は、自分の想像を疑ってしまうほど苛烈だった。もしかしてルナ様が屋敷へ残る理由は、本当に「デザイン画を描きたい」だけなんだろうか。  正直に言えば、自分の失言の負い目もあって、当日はこの屋敷へ残りたい。だけどそれはルナ様を怒らせることになるのもわかってる。 「朝日? ルナのことを心配してる?」 「えっ……あ、いえその」 「もし残りたいのなら、私たちに気を使わなくていいの。ルナは優しいから朝日の気持ちをわかってくれるし、もし不安なら、私からも手紙かメールで貴女を責めないように伝えておくから」 「私も協力しますわよ」 「ユ、ユルシュール様も?」 「ま、でも、あの性格ですから、朝日はこちらへ来た方が良いとは思いますわよ。私たちと観光するのが嫌なわけではないのでしょう?」 「それは、もちろん。とても楽しそうです。お邪魔にならなければご一緒したいです」 「邪魔なわけないって。朝日が来てくれた方が嬉しい。でも、ルナと一緒にいてあげたい気持ちもわかるし……私も、連休に出かけようとか言いだして、ちょっと無神経だったかなって反省してたとこ」 「なにかルナにしてあげられることってないかなあ」 「できることも何も、今さら私たちが観光を中止すれば、ルナのプライドはずたぼろですわよ。彼女の友人として、それは私が認めませんわ」 「私たちはルナがそう望むように、気兼ねなく楽しめば良いのですわ。ただ朝日だけは、叱られるのを覚悟しても側にいたいと望むのなら、その気持ちを汲んであげたいというだけのことですわ」 「う、うんそうだね。てことは私たちは、精一杯楽しんでお土産を買ってくればいいのか! あとは、朝日の行動は本人次第だね」 「はい」  僕にも最善の選択は三人と同行することだとわかる。だけど、それでも選択の余地があるとすれば……。 「では行って参ります。皆様のことはお任せください」 「私の代わりを頼む。まあ普通に楽しんでくれればそれでいい」 「うちのお嬢様をよろしく。ま、何かあれば呼んでくれたまえ。すぐに駆けつけるから」 「この糞女、私を差し置いて湊お嬢様と一緒にお出かけだなんて殺されてえのか。最近やけにお嬢様と仲いいしそろそろ七愛の本気をわからせてやろうか糞ビッチ。お嬢様のことを奪ったら、七愛絶対許さない」 「七愛。使用人を最小限にして、彼女たちだけで出かけさせることにしたのは私の提案だ。気兼ねなく楽しめるよう配慮したつもりだが、どうやら君は文句があるみたいだな。構わないから言ってみろ」 「文句などございません……本日は七愛がルナ様のお世話をいたします。ルナ様のお世話ができるなんて、七愛は幸せ者です……何回まわってワンと言えばよろしいでしょうか」 「よし、七愛も笑顔で見送ってくれるようだ。いってらっしゃい」 「はい。皆様に楽しんでいただけるように努めます」 「そう気負うな。せっかくだから朝日も楽しんでくるといい」 「はい。ありがとうございます、ルナ様」 「名波さん、最後まで私のこと見てました……」 「い、いつもごめんね。私から後で七愛に言っておくから」  いつもそう言ってくれるけど、湊は名波さんに優しいから、きっと厳しくはできないと思う。僕自身がもっと名波さんと仲良くできるようにならないと。  そんな彼女からは怨念のレーザーを向けられたけど、ルナ様は笑顔で僕たちを見送ってくれた。  やっぱりルナ様の言うことに従って良かったと思う。自分の気持ちのやり場がないからって、どこかに歪みを生じさせるよりも全員が平和になれる。  あとは一日を楽しむこと。手にした本日の予定表を握りしめながら、ルナ様の残る桜屋敷を後にした。 「今日は楽しみ。気の置けない友達と遊びに出かけるなんて」  家を離れること10分。先頭を歩くのは意外にも瑞穂様だった。  てっきり湊が先陣を切りつつ、ユルシュール様が負けじと前に出て、一歩下がって瑞穂様、なんて光景を想像してたけど、僕たちに背中を見せつつ、時々振り返っては笑顔を見せる彼女の姿は年齢相応の女の子だ。 「前から行ってみたかった場所もあって。そのお店に買い物へ行くのもすごく楽しみ」 「はい。お付き合いいたします」 「あ……そこは、どうしても一人で行きたい場所だから。そのうち朝日とも行ければいいなとは思うけど、今日は……別行動をとらせてもらってもいい?」 「いえ、私は瑞穂様や他のお嬢様から目を離すわけにはいきません」 「だけど、どうしても一人で行きたいから……あ、そうだ朝日、覚えてる? ここは私たちが初めて会った場所じゃない?」 「あら、そうなんですの?」 「あ、それ聞きたい。どんな風に出会ったの?」  買い物の話を逸らされた。言いにくいことみたいだけど、瑞穂様は何のお店に行きたいんだろう?  彼女が一人で行動しないよう、常に目を光らせておかないといけないな。 「ね、二人が最初に会った時はどんな感じだったの?」 「はい。最初は私がここで、その……男性に声を掛けられていて」 「え、ナンパ!?」 「ちちち違います。雑誌のスナップ写真を撮りたいと声を掛けられて。断ろうとしたんですけど、そのとき体調が悪くて、頭がクラクラしていて。そこを通りがかった瑞穂様に助けられたんです」 「助けたと言っても、私は声を掛けただけで、追いはらったのは北斗だから。でもあのとき勇気を出して良かった。こんなに素敵な友達ができるなんて」  きゅっと手を握られた。こんなに良好な関係を築けるなんて、あの日、声を掛けられて良かったのかもしれない。 「瑞穂様に助けていただいて、本当に助かりました」 「いいの。男性に声を掛けられるなんて怖かったでしょう? 一人きりだった朝日が、どれほどの恐怖だったか想像するだけで……」  実際は、男性に声を掛けられたのが怖かったんじゃなくて、女装してる男だとバレないかが怖かったんです。本音を言えば今でも怖いんだけど。 「こんなに純粋そうな女の子が一人でいるところを狙うなんて許せない。やっぱり男性は怖いと思う。あのひとたちはすぐに嘘をつくから、騙されて辛い目に遭う女性を増やしたくなかったの」  ううっ。ごめんなさい、僕も性別を偽ってます。瑞穂様の言ってることはあながち間違いじゃないのかも。 「…………」  僕が男だと知ってる湊の視線が痛いし……そうだね、彼女を騙してるんだから罪の意識は感じるべきだ。 「瑞穂。歩く邪魔になりそうだし、手は離した方がいいかもしれないよ?」 「あ、そうですね。ごめんなさい朝日、二人の出会いを思いだしたら嬉しくなっちゃって」 「いえ、私は気にしてません」 「気にしようよ。女同士で手を握りながら歩いてる子たちなんていないでしょ。ここは桜屋敷じゃないんだし、あんまりベタベタするのはよくなーい!」  あれ? 湊は僕が瑞穂様を騙してるから睨んでるんじゃない?  瑞穂様の手を軽々しく握ってることに対する非難かな。だけどこれも、僕からじゃなくて瑞穂様が握ってきたものだから許してほしい。 「言われてみれば、女性同士で手を繋いで歩いてる人はいないけど、それほどおかしなことでもないでしょう?」  今度は瑞穂様から両手できゅっと握られた。湊の眉間に皺が寄った。  もしかして……僕への好意があるから、あまりくっついて欲しくないのかな。  今後は肌が触れすぎないように気を付けよう。少なくとも湊の前では。 「うー、北斗さんとはそこまでべたべたしてないのに」 「そういえば何故でしょう? 朝日に触れるときは、北斗やルナに同じことをするときよりも、少し胸が熱くなるかも」 「確認するけど、瑞穂の性的嗜好はノーマルだよね? 女の子好きになっちゃったりしないよね?」 「他の方なら大丈夫です。朝日に関しては大丈夫だと思いたいです」  瑞穂様の玉虫色の答えに湊が驚愕の表情を見せていた。 「スイスなら同性との同棲、それと結婚に準ずる権利は認められていますわよ。私にそのつもりはありませんが、瑞穂が朝日と生涯を共にすると言っても偏見は持ちませんわ」 「ユーシェ、それは素敵ですね。偏見のない世界はとても美しいと思います」 「まあ、恋愛なら男性とするのが一番だと思いますわ。苦手とは言え、それが自然なことですわよ」  瑞穂様は普段の彼女からは想像もできない速さで首を横に振った。何が彼女をそこまで追いこんでしまったんだろう。  湊も対応に悩んでるみたいだし、ユルシュール様に乗っかって話題を変えてしまおう。 「ユルシュール様はそういった恋のご経験などはおありですか?」 「あら私ですの? 話せば長くなりますわよ」 「あ、それ聞きたい! 私もユーシェの恋愛に興味あるかもだ!」  湊も乗ってきてくれた。あのまま同性愛についての話を続けるよりも、対応しやすいと判断したんだろう。 「オーッホッホッホ、仕方ありませんわね。それではスイスに居た頃の私が、いかに恋多き女だったか教えてあげますわ!」  さすがは欧州女子、ユルシュール様から子どもではありませんと言いたげな空気がひしひしと伝わってきた。 「実は私、4歳のとき既に、プロサッカー選手のロロリアーノ・コンスタンティーニから熱烈な求愛を受けているのですわ」 「アウトオオオオオオオ!」  湊が力強くサムズアップした親指を突きだした。 「あら何かおかしかったですの? 他にも7歳のときは俳優のペドラッチ・フィリアンヌからも告白されましたわ。それはもう情熱的に」 「アウトアウト! アウトだよ!」 「それは小児性愛と言っても過言ではないかもしれませんね。子どもの頃のユルシュール様は、さぞ愛らしいお姿だったのだろうことが容易に想像できます」 「オホホホホ、地元では天使と呼ばれていましてよ。でもそうですわね、いま考えると幼い私に声を掛けてきたのは、アブない人たちだったんでしたのね」  よかった……ユルシュール様が無事で、本当によかった。 「なるほど12歳までに声を掛けてきた28人の男たちは、みな小児性愛者だったのですわね」 「多ッ!」 「そんなにもの人数が……大人気ですね、ユルシュール様」 「やはり男性は最低です」 「オホホホホ、私が愛らしすぎたということで、仕方ないのではありませんの? まあそれ以外でも同級生から告白されたりしましたけど……」 「断ってしまったのですか?」 「ええ。私が自分のパートナーに一番求めるものは服飾のセンスですわ。それさえあれば、多少のことには目を瞑っても構いませんの。フィーリング、と申せばいいんですの?」 「あ、わかるわかる! この人が運命の人だって感じて、自分の恋愛感情にぴったりハマると、もうその人しか見えなくなるよね!」 「……と、思います」  その対象が目の前にいて恥ずかしかったのかな。恋バナは湊がいるときにするべきじゃなかった。 「そういえば湊には好きな人がいましたわね。写真などありませんの? どのような人ですの?」  女装してるような人です。 「わ、私の恋の話はいいじゃん! それよりユーシェの恋バナを、ね!?」 「あら、私の話はしましたわよ。それで、湊が片想いの方を好きになった理由はなんですの? 顔ですの? 告白などはしましたの?」  はい。されました。情熱的なやつを。 「ぜひ一度詳しい話をお聞きしたいですわ」 「わかった! 恋バナやめ! 次に恋バナした悪い子はお姉さんが張り倒すぞ! そうだ、そういえば瑞穂がどこか行きたいお店があるって言ってたような? そろそろそこ行く?」 「ってあれ? 瑞穂いない?」 「えっ?」  あれ……ほんとだ。今まで会話に加わってたと思ってたのに、気付いたらいなくなっていた。  迷子にでもなったら一大事だ。慌てて付近を見回すも誰もいない。 「皆様をお守りするのは私の務めです。瑞穂様に万が一のことでもあれば……特に男性に声を掛けられたりすれば、恐くて足が竦んでしまうかもしれません」 「急いで連絡を……あ、メールが?」  僕のケータイにメールの着信を知らせるランプが点いていた。開いてみれば「ごめんなさい、どうしても寄りたいお店があるから、30分後に原宿の駅前で合流させてください」と書いてある。  瑞穂様、一人で行きたいお店があると言ってたから、そこかな……一番和を乱さないと思ってた彼女が黙っていなくなるくらいだから、よほど行きたかったんだと思う。  自分で言うのもなんだけど、あれだけ懐いてくれてる僕相手でも話せないってことは、どうしても内緒にしたいんだと思う。深く追求せずに、黙って合流してあげた方が良さそうだ。 「瑞穂様はどうしても外せない用事が出来たようで、後から合流したいとのことです。途中にあるお店を眺めつつ、ゆっくりと駅へ向かいましょう」 「瑞穂が一人で先に? 珍しいですわね、実家の用事かしら。いいですわよ、行きましょう」  ユルシュール様にも心当たりがないみたいだ。瑞穂様は何のお店に行ったんだろう? 「そのうち僕と一緒に行きたい」と言ってくれたから、教えてくれる日を楽しみにしていよう。 「もうそろそろ、約束の時間ですね」  割とゆっくり目に来て、メールを受けとってからちょうど30分。先に来てるかな、と思った瑞穂様の姿はまだなかった。 「まさか本当に男性から声を掛けられて困っているということは……」 「朝日、心配しすぎ。瑞穂だって周りの人に助けを求めるくらいできるよ? ま、気になるならメール送ってみればいいかもだ……ん?」 「どうしました?」 「ユーシェまでいない……」 「ええええっ!?」  瑞穂様が行方不明で困ってるのに、ユルシュール様まで? 彼女は土地勘もないだろうから心配だ。  もしかして偶然知りあいのスイス人を見つけた……とか、安全な方向で考えたい。メールを打つ相手が増えた。それも早急に。 「あ、でもこれで二人きりかあ」 「えっ?」 「あ! ややや変な意味じゃなくてね? あの、私となら、女の子用の声作ったりとかせずに、ゆうちょも気兼ねしなくていいかなと思っただけで」 「あ……うん、それは」  周りに人はいるけど、みんな赤の他人。わざわざ僕たちの会話なんて意識して聞いたりしないだろう。 「そうだね、湊と二人なら楽かも」 「へっ」 「格好はこんなだけどね。でも気を張らずに安心できるのはいいなあ」  他のお嬢様たちの前ではだらしない真似ができないけど、湊の前でなら伸びだってできる。んっと腕を伸ばしたら、思いの外気持ち良かった。 「ありがとう、湊」 「あ、や、お礼言われることじゃないし? 私、偶然知っちゃっただけだし? で、でもそっか。二人だと楽かあ。たは、たははは……」 「えと、他の二人が買い物してるなら、ちょっと別行動でもいいかもね。いやそのだよ? ゆうちょが楽だって言うなら、たまには息抜きした方がいいかなって思うだよ? ですよ?」 「朝日、ちょっとよろしいですの?」 「息抜き短ーい!」 「クレープの屋台を見つけたのですけど、日本ではあれが普通なんですの?」 「と、言いますと?」 「パリにもクレープの屋台はありますけど……」 「あそこにあるお店は屋台じゃなくてきちんとした店舗です」 「そうなんですの? 外で食べるクレープはありますけど、あんなにデコレーションされているものはありませんの。まるでコンテストに出品するためのスイーツみたいですわ」 「でもあれ、高くても500円だよ」 「それが一番驚きましたわ。生クリームに苺まで載せてチョコレートまでかけているのに、どうしてそんな値段で提供できるんですの? 見た目も美しく、安っぽさがありませんわ」 「日本人は私たちの文化を学んで、独自に発展させることに関しては天才的ですわね。鉄砲しかり、果物しかり、その勤勉さには敬意を表しますわ」 「それ食べたいってことだよね? じゃあみんなで食べようよ、そっちの方が手っ取り早いし。私、チョコバナナストロベリー生クリームカスタードスペシャル!」 「どれだけ節操ありませんの……というよりも、スイーツの芸術性はさておき、食べ方には疑問を覚えておりましたの。歩きながらという食べ方はどうなんですの?」 「こっちだと普通なんだよ。柿とかむしって食べるし。ザクロとか庭になってるやつ超おいしい」 「湊様、それは一部、それも子どもたちだけの感覚を、あまりにグローバルな風習として話を広げすぎですね。全然普通じゃないです。人様の家の庭の柿食べたら犯罪です」 「でも朝日だって小さい頃はやっちゃんイカ店先で食べてたでしょ?」 「いえ、食べてません」 「うっそだあ。私には本当のこと言っていいよ? 日本人に生まれて、イカの串を歩きながら食べたことのない子どもなんていないはずだよ?」 「あの、もしかして本気でしょうか。湊様が思っているよりも、歩きながらスルメを食べた経験のある日本人は少ないはずです。男女で分けると、女性側はさらに比率が下がると思います」 「え、ウソ? やだなあ朝日、私相手に照れなくてもいいよ? からあげの串とかコンビニで買って食べるよね?」 「いえ、食べません」 「私もそのような食べ方は想像できませんわ」 「だよね。私もなかった。ウソウソ超ウソ。そんな、鶏肉とかイカ肉とかパンに挟んだ肉とか、歩きながら食べたりはしないよね。でもクレープは普通だよ。これはほんと。マジみんなやってる」 「言われてみれば、皆様歩きながら食べているようですけど、本当に良いんですの? あれではまるで、骨付き肉を齧る原始人のようではありませんの」 「じゃあいいよ、私だけで歩きながらクレープ食べてくる。朝日とユーシェはあんなお行儀の悪いもの食べないんだよね」 「オリジナルを生みだした国としては、一度は食べておきたいと思いますわ」 「でしょ! だったら一度食べてみよーよ。ね、まずは何事もチャレンジしよう」 「はい、それは構いません。ですが、今は瑞穂様との合流を最優先したいと思います」 「あ、そだった。瑞穂からメールの返信、まだないんだ?」 「ああそうでしたわ。先ほど、瑞穂を見掛けた気がして探しに行ったら、男性に声を掛けられていたから知らせにきたのでしたわ。その帰り道の途中でクレープを見かけて気を取られましたの」 「ちょっ! ユルシュール様、それは一大事です。もっと早く知らせてください! でも教えてくれてありがとうございます!」 「え、えええ男の人が瑞穂に? 急がないと大変なことになるかもだよ、どこ? どこにいたの?」 「クレープ屋のある場所ですから、そこの通りの……ああ、あの、写真を並べて販売しているところですわ」  ユルシュール様の指した場所は、中高生向けにアイドルの生写真を販売している店だった。  そんな場所に瑞穂様がいるわけないと一瞬だけユルシュール様を疑ったものの――あっ? あの黒髪は瑞穂様……? 「ちょーちょー、なに蛎崎うにの写真なんか見てえ! 君、アイドル好きなの? だったら自分がアイドルになっちゃえば? 俺、いい事務所知ってんヨ?」 「ちゅーか俺ェ、KYT48の足利義昭子がデビューする前知りあいだったしぃ? なんだったら俺に付いてくれば会えちゃうかもヨ? 話せちゃうかもヨ? 遊べちゃうかもヨ?」 「ちょっと話だけでもいいからさぁ、カラオケ行かね? そんで歌っちゃわね? しかもそのあと俺らとラブしねえ? ギャハハハハ!」 「……道を開けてください!」  瑞穂様がすぐ近くまで来てたのに気付かないはずだ。複数の男に囲まれて、その影に隠れてしまい見えなくなっていた。 「湊様、ユルシュール様。すぐに警察、それとサーシャさん、北斗さんに連絡してください。私は瑞穂様を助けにいきます。お二人はここから絶対動かずに」 「えっ、動かずにって……ひとりで行くつもりなの!?」 「お二人を巻きこむわけにはいきません。それと瑞穂様の危機は、目を離してしまった私の責任です」 「朝日も私たちと一緒に警察の到着を待つべきですわ」 「瑞穂様に指一本触れさせるわけにはいきません!」 「朝日、待ちなさい――あっ!」  ユルシュール様が声を掛けてくれた時には駆けていた。前は僕が瑞穂様に助けてもらった。そして今はその時よりも悪い状況なのに、放っておけるはずがない。 「瑞穂様!」 「だから俺らとちょっと話すだけで……あァ?」 「朝日!」  強引に男たちの囲みへ強引に割って入って、瑞穂様の前まで辿りついた。彼女の前に立って自分の後ろへ。 「瑞穂様、私の後ろへ――遅くなって申し訳ありません」 「朝日……助けに来てくれたの? それも一人で……」  気丈に振る舞っていた瑞穂様だけど、やはり自分を保つのに精一杯だったみたいだ。僕の袖を握るその手は震えていた。 「は? 何ソレ? 『助けに来た』って俺らが悪者みてージャン? 俺らただ女の子に声掛けてナンパしてただけヨ? つまみ食いしようとしてただけヨ?」 「ギャハハハハやっぱ俺ら悪者じゃねーか! エーでも何? 助けに来た? ってかこれアレでしょ? ミイラ取りがファラオでしょ。助けに来たこの子、めっちゃ俺のタイプなんですけど?」 「ちゅーかァ、むしろ女の子増えて歓迎ェ〜、みたいな? そんじゃさあ、二人で俺らに付きあってくんね?」 「お断りします」 「へぇ〜? この子、気ぃ強いじゃん? 俺タイプよ?」  警察が来るまで力づくでも瑞穂様を守るしかない。たとえ髪を掴まれて、ウィッグを外され、僕の正体がバレることになったとしても、だ。  できれば話し合いで収まれば御の字だけど、どうもそういう空気じゃないかな……あっ? 「あ、朝日ーっ! 一人じゃ危ないよ!」 「これだけ人がいて、誰か助けようという人はおりませんの? 日本人はそれほど情けない民族なんですのっ!?」 「あ? なにアレ? なんかまた増えたけど」 「てかみんなかわいくね? 俺らのための天使じゃね?」  来ないでと言ったのに、湊とユルシュール様が……二人とも男たちを挟んで逆側にいるから、このままじゃ全員を守りきれない!  ユルシュール様の声を聞いて、何人かの男性が助けようと動いてくれたけど、タトゥー入りの腕に襟首を掴まれて、為す術も無く退散させられた。やはり僕しかいない。 「わかりました……私が皆さんにお付きあいします。だから他の人には手を出さないでください」 「朝日!?」 「おお、君は話わかんじゃん。そうそう、俺らも力づくとかそういうの嫌いなワケよ?」 「君レベルの子が一人来てくれンなら、そんで充分楽しめンし――」 「わかりました。ただ、ちょっと話があるんで、全員一緒に来てください。ええと、とりあえずこの場所から離れたところへ」 「あ、朝日? そんな、私たちのために朝日が犠牲になるなんて……」 「いえ、違います瑞穂様。私には策があるだけです。どうかこの場はお任せください」 「朝日……すぐ助けを呼ぶから。お願いだから無事でいて」  湊やユルシュール様に触れられる前に、僕は彼らを連れて場所を移動した。生写真屋から離れて100m、200m……ここまで来ればお嬢様方に声は届かないだろう。 「あの、ところで大切なことを言い忘れてたんですけど」 「あ、ナニ? その膨らみが実はDカップでしたなんて告白なら、俺ら歓迎しちゃうよギャハハハハ!」 「いえDカップどころか、私のカップ数にアルファベットないです。私の胸膨らみとかないです。Aすらないです。ゼロカップです。超貧乳です」 「マジで!」 「特別にお見せしますね。はい私の胸です」  襟元を寛げて胸の上半分を見せると、それまで盛りあがっていた彼らは急に意気消沈してしまった。 「ここだけの話、実はさっきの彼女たちも全員が嘘胸です。作り物です。それでもいいならお付き合いしてもいいですけど、たぶん心に深い傷を負いますよ」 「ねーわ……」  彼らは肩を落としながら電車に乗って去っていった。ホームを見ると外回り側だから、本拠地は新宿か池袋かもしれない。僕たちの生活範囲ではないし、もう会うこともなさそうだ。  ふう、あの人数に囲まれるのはちょっと怖かった……でも事無きを得て良かった。 「朝日!」  三人のお嬢様たちは、遅れて来た警察官たちに守ってもらっていた。もう大丈夫です、帰らせましたと微笑んでみせる。  でも僕の表情は彼女を安心させてあげられなかったみたいだ。瑞穂様は泣きそうな顔で僕の手を握りしめた。 「朝日、無事で良かった……あんまり心配をさせないで。何もあんな大勢の人を一人で連れていかなくても……」 「瑞穂様や他のお嬢様方の肌に、指の一本たりとも触れさせたくなかったんです。その為なら、自分の安全を天秤にかけるべきではないと考えました」 「ゆぅ……朝日、私たちを守ってくれたんだ」 「はい。皆様を守ることが私の役目です。それと、個人的な感情の部分でも、私の大切なお嬢様たちに気安く声を掛けて欲しくありません」 「Bravo!」  ユルシュール様が数度手を叩きあわせた。そして瑞穂様とは逆の手を握りしめてくれた。 「朝日、素晴らしいですわ。あの野蛮人たちを止めようとすらしなかった群衆の男たちと比べて、貴女は実に勇敢な乙女ですわ!」 「この国は侍の国と聞いていましたが、あの時、この場に居た侍は朝日だけですわ。凛々しくも気高い心を持ちあわせた勇気ある乙女……貴女は我が国の騎士たちにも劣らない日本のジャンヌ・ダルクですわ」 「それは持ちあげすぎです。もっとスマートな方法もあったはずなのに、私にはあれが精一杯だったというだけです。大げさです、ユルシュール様」 「大げさではありません!」  わあ。とうとう僕の腕が瑞穂様のものになった。 「私、もう朝日と結婚します」 「どうしてそこに発想が行きついたんですか」 「だってユーシェの言った通り、騎士のように素敵なのに、見た目はこんなにかわいくて……まるで私が憧れる、強い芯を持って舞台に立つ乙女たちのような」  舞台に立つって……何の比喩だろう? 「私も惚れたー!」 「わあっ!」  今度は湊が僕の腕を一本持っていった。いま誰かにストレートで殴られたらガードできない。 「かっこ良かったよ朝日! これはもう同性だって惚れちゃうね! 抱ける!」 「私だって抱いてもらえるなら受けいれます」 「あ、あの、そんなつもりはないです。駄目です、アブノーマルなことはしません」 「それなら抱けるってことじゃん」 「湊様!」 「うぅ、朝日……あなただけはずっと綺麗なままでいて欲しい。朝日が男性のものになるところなんて嫌、見たくない」 「あ、それは大丈夫だと思います。男性と付きあうつもりは全くないです」 「本当!」  ああ、つい条件反射で余計なことを口走ってた。むしろ男性の好みを適当にでっちあげて、男の子大好きなふりでもした方がいいのかな。  でもそんなこと口にしたら湊から気味悪がられそうで、それはそれで辛い……。 「良かった……朝日も私と同じく男性には興味がなくて。我が国では結婚できない者同士、二人で寄りそって生きていきましょう? 朝日と親密な関係になりたい」 「あの、友人です。親友です。というか使用人とお客様の関係です」 「それも学校にいる間だけの関係でしょう? 卒業したらルナと直談判するから、ずっと私の側にいる未来も考えておいて」  瑞穂様はどこまでガチなんだろう。最近、頓に深みへ進んでる気がする。 「わ、私だってルナと直談判するから!」 「人と争うのは苦手だけど、ごめんなさい、朝日は譲れません」  卒業したらルナ様のメイドではなくなるんだけど、とても口にできる空気じゃないなあ。 「あ……三人とも、そろそろこの場は移動した方が良いと思いますわよ? 万が一、先ほどの野蛮人たちが人数を増やして戻ってきては面倒ですわ」 「あ、ごもっともですね。大丈夫だとは思いますが、わざわざ危険な目に遭った場所で残ってる必要もありません」  そこまで言いかけてふと気付いた。そういえば到着が遅すぎる。 「そういえばサーシャさんと北斗さんは? 応援を呼んだのなら、そろそろ駆けつけるはずですが」  あの二人なら、ユルシュール様や瑞穂様が危険だと知れば、どれだけ離れていても最高速で飛んでくるはずだ。 「呼んでいませんの」 「えっ?」 「今日はせっかく、みんなで遊びに来たんですのよ。最後まで私たちだけで楽しく過ごしたいと思ったのですわ」 「あの二人に連絡したら、解決した後で屋敷へ連れもどされちゃうかなあって。だから自分たちでなんとかしようと思ったわけさ」 「そんな、危ない目に遭っていたのに」 「でも朝日がなんとかしてくれましたわ」  そんな、無事だったから良かったものの、緊急事態だったのに。  とは思うけど、僕からお三方に強く言えるはずもないから、わかりましたと頷くしかなかった。 「でも次に同じことがあれば、必ず応援を呼んでください」 「その前に、二度と同じことが起こらないよう朝日が気を付けるべきですわ」 「そ、そうでした。申し訳ありません」  そうだった、僕の役目はお目付け役。今回は瑞穂様を見失った自分が悪い。 「もう、ユーシェは酷いです。こんなに頑張ってくれた朝日のせいだなんて……何か、助けてくれたお礼をしたいほどです」 「あ、そうだ。もし朝日が喜んでくれるなら、何かしてあげたい。欲しいものはない? 何でも言って」 「ええ? 先ほど言った通り、私は自分の役目を果たしただけです。お礼をされるほどのことはしていません」  そう断ってみたけど、瑞穂様は譲るつもりがないみたいだ。湊も頷いてるし、何もなしってわけにはいかないかな。  だからと言って屋敷の生活に不自由はないし、いま特に欲しいものだって……。 「あ、それでは、ユルシュール様の希望を叶えましょう。それが一緒に遊びたい湊様や、私の望みを叶えたいと仰っていただける瑞穂様の言いつけに従うことにもなるはずです」 「というと?」 「みんなでクレープを食べましょう」  湊もユルシュール様も食べてみたいと言っていた。この機会にみんなで並んで食べるのも良い思い出になりそうだ。 「ま、まあ他の三人が食べるなら、合わせても良いですわよ。でも瑞穂は、歩きながら食べることができますの?」 「えっ、歩きながら? それは……経験がないから少し恥ずかしいとは思います。でも朝日がそう望むなら付きあいます」 「そんな大層なことじゃないのに……え、瑞穂もからあげの串を食べながら歩いたりしなかった?」 「それはどこで売っているものなのですか?」  瑞穂様はコンビニエンスストアで買い物した経験もないみたいで、湊に詳しく説明を聞いていた。ユルシュール様も、ふんふんと頷きながら聞いていた。 「や、やはり歩きながらかぶりつくには、少し戸惑いが出てしまいますね……」 「早く食べないとアイス溶けちゃうよ? こうだよ、こう! ぐあぶっ!」 「こういったものは、端から上品に食べるものではありませんの? 包んでいる紙が少し邪魔ですけど……ん、おいしいですわ。鮮度の良い果物と上質のクリームを使えば、もっとおいしくなりそうですわね」 「上品に食べてるところ悪いんだけど、端からもそもそ食べてるせいで、鼻の頭に生クリーム付いてる」 「ですわっ! この高貴なる私の鼻に生クリームがっ!?」 「い、いまお拭きいたします。よくあることですから、お気になさらず」 「本当によくあることですの? 気休めではありませんの?」 「気休めだね。普通に食べてれば、そんなに起こることじゃないね。私のようにお上品にかぶりつくべきですわ、オホホ」 「ですのーっ!?」 「で、では私も思い切っていきます! 繊細に、かつ大胆にかぶりつけばいいのですね。いただきます!」 「私だけというのは屈辱ですわ。瑞穂も鼻に生クリームをつけてしまいなさい」  瑞穂様がパクついた瞬間、彼女の肘をユルシュール様が下から叩いた。  瑞穂様の顔がべちゅりとクレープに埋まり、その口周りをまっ白に染めた。ユルシュール様、酷いです。 「うぅ、おいしいですけど恥ずかしいです。もう、ユーシェ? 食べ物を粗末にしてはいけません」 「舌で全部舐めとればいいよ! 口の周りなら全然届くし」  その湊の発言にユルシュール様と瑞穂様が驚愕の表情を浮かべて湊を見た。「歩きながらかぶりついて食べる」よりも驚いた表情だった。ちなみに僕も驚いたから目を丸くしながら湊を見た。 「いやいやウソ。超ウソ。私そんなことしない。猫じゃあるまいし、舌で舐めとるなんてそんなことしない。やんもう超冗談。そんな、舌でクリーム舐めとるだなんて本気にして、ははは笑っちゃうー」  四人の笑い声がはははと重なった。湊の声だけ寂しそうだったけど、賑やかな雑踏の中へ混ざっていく内に楽しそうな音へ変わった。 「ははは笑っちゃうー」 「ううっ、ぐすっ……育ちが普通でごめんなさい」  もう一度あははと笑い声が重なった。今度は元気な声が四人分合わさった。  その後は一日遊んで、思い出の締めとして、ルナ様へのお土産にチョコバナナストロベリー生クリームカスタードスペシャルを買った。喜んでいただけるといいな。  明日から世間は四連休。  もちろん使用人の僕たちに祝日は関係なく、むしろお客様への気遣いが必要となり、忙しさは増すと言ってもいい。  それが明日に限ってはその心配はなく。客人である三人のお嬢様方が日中出かけるから、やることは平日と変わらなくなる。  その中でも僕だけは、一日を費やして重要な役目を担うことになっていた。お嬢様方に観光案内をする接待だ。  ルナ様から直々に言いつけられたこの仕事、本来ならこの時間も、明日のコースの下調べをして僕は忙しいはずだ。  だけど僕は今、明日の予定表も下調べしておくべき店のリストも持たず、ルナ様の部屋の前で立っていた。 「ルナ様……朝日です。相談したいことがございまして、少々お時間をいただけないでしょうか」 「朝日か。ドアは開いてる。入れ」  ルナ様の許可を受けてドアを開くと、僕の主人はその作業を中断して、机に向けていた体を半分ほど捻った。デザイン画を描いていたみたいだ。 「こんな時間にどうした? 明日は朝の10時に出るんだったな。君のことだから問題ないとは思うが、万が一にも寝坊しないように早く寝た方がいいんじゃないか?」 「もしかして明日の予定を報告しに来てくれたのかな。私は関知しないし、食事の店もどこを選んでも構わない。金額に糸目はつけないから、存分に持て成してきてやって欲しい」 「ルナ様。明日のことですが、私はこの屋敷に残って、ルナ様のお世話をさせていただけないでしょうか」 「…………」 「他の皆様の了解は得て、警護は名波さん、サーシャさん、北斗さんが受け持っていただけることになりました」 「自分たちだけで適当に楽しんでくると仰っていただけました。どうか私を屋敷へ残してください」  かなり勇気のいる、精一杯の告白だった。その紅い瞳から目を逸らさない。  ルナ様もしばらく僕の目を見ていたけれど、やがて、ふっと寂しげに視線を脇へ逸らした。 「君は私に面倒なことを考えさせない人だと期待をしていたんだが」 「申し訳ありません」 「一応聞いておくが、それで私が喜ぶと思ったのか?」 「いえ。私がただ、ルナ様の側にいたいと思っただけです」 「そうか、わかってて言ったのか」  ルナ様の目から温度が消えた。  僕を頭の悪い奴と見下してるわけでもなく、話のわからない相手とがっかりしたわけでもなく、僕に期待を持った自分自身を蔑むような冷たさ。 「あ……」  僕のせいにしてもらえればまだ良かった。けど、彼女が落胆の対象としたのは、自己の見る目の無さだった。  奉仕しようとした相手から無視され、当人が自身を責めている姿を見せられるのは、罵倒されるより遥かに辛い。  こちらを責めてくれれば謝れるものを、許されるための機会さえ彼女は与えてくれない。僕は主人から興味をなくされてしまった。 「わかった。彼女たちに案内を付けられないことは私から謝罪しておく。君は明日は普段通りに家事を頼む。私はアトリエにこもっているから、必要な時以外は呼びに来るな」 「申し訳ありません」 「どうして謝るんだ。君が希望を出して私はそれを受けた。間違ったことは言ってない」 「ルナ様の指示に従わず、申し訳ありません」 「申し訳ないと思うのなら、最初から指示を違えるな。もしそれができないのに謝っているのなら、君は何がしたいんだ」  申し訳ありませんという言葉を飲みこんだ。これ以上謝れば、僕は本当にこの人から嫌われる。  ルナ様の言うとおり、自分が面倒なことを言っていると理解した。そして彼女から嫌われたくなければ、今から僕がしなくてはいけないことはわかってる。退室だ。 「私の希望を受けいれていただき、ありがとうございます。それでは失礼いたします」 「ああ、おやすみ。また明日」  部屋を出るときに聞こえてきた声は、他のどの使用人にも等しく掛けるような、労りの色に満ちていた。優しい、人工的な声だった。  僕の主人は、自分の使用人に対して叱責をしなかった。不快な顔の一つも見せなかった。  それに気付くと、ドアの前から動けなくなった。本当は部屋へ戻らなくてはいけないのに、ドアが閉じていればルナ様から見えないと信じて、しばらくそのまま馬鹿みたいに突っ立っていた。  そしてわかった。いつの間にか僕は、自分が謝れば、いつでもルナ様に叱ってもらえるものだと思っていた。ときにはからかってもらえた。この二ヵ月間がそうだったから。  だけど今回は叱ってすらもらえなかった……どうしてだろう。その理由を考えてみよう……。  今回は他のお嬢様と観光の話が出た際に、僕はルナ様が健康上の理由で出かけられないことに気付けなくて、それをとても悔いていた。  だから無神経な自分の発言をどうしても許されたかった。そのためには、ルナ様からなんらかの理由で叱られ、僕が謝れる状況を作る必要があった。  だけど僕の謝りたかったことは、ルナ様からすれば、謝られる対象ではなかった。彼女が観光をしない理由は「デザイン画を描きたいから」で、健康上のことは問題じゃないと言ったんだ。  それが事実じゃなくても、彼女がそう口にしてる以上、僕が謝罪したい事由は彼女からすれば的外れな想像以外の何者でもない。余計なお世話というやつだ。  こちらの本意に気付いてるにしろ、そうでないにしろ、謝られたくない彼女に僕は独り善がりの謝罪をしようとした。自分がすっきりしないからといって、彼女を利用しようとしたんだ。  それを今ようやく自覚した。顔から火が出るほど恥ずかしくなった。 「申し訳ありません」  もう一度頭を下げた。もしかしたら彼女は、僕という付き人を面倒だと思ってしまったのかもしれない。  ルナ様の言葉が蘇る。本当はこの後に「いいから私の命令に従え」「客人を招いている立場の我が家に恥をかかせる気か」「罰としてスカートをめくれ」何でもいいから叱って欲しかった。  だけど、いまここで彼女が出てきたら、こんな構ってちゃんと今後も付き合わなければならないのかと、余計に落胆させるだけだ。  だからと言って、今さら「やっぱり明日は案内をします」なんて言おうものなら、それこそ解雇されても文句が言えない。部屋へ戻るしかない。  今度こそ僕は彼女の部屋の前を去った。これから、お風呂の掃除もしなくちゃいけないなあ……。  朝だ……。  いつ眠りに落ちたのかはわからないけど、あまり寝られなかった。こんなに悩んだのは、お兄様が学院長だと知って以来だ。あれ、結構最近かも。  だけど僕が落ちこんでようと、寝不足だろうと、毎日のように家事はある。自分でやりたいと言ったんだから、普段以上に頑張らないと。 「じゃ、行ってきます! ルナにお土産買ってくるからって伝えておいてください」 「かしこまりました。お嬢様へのお気遣いに感謝いたします」 「まあ一人で寂しい思いをするでしょう彼女に、土産の一つも買って、かわいそうですわねと慰めてあげることに異論はありませんわ」 「ですけど、本人が見送りはおろか、朝食の場にも現れないとはどういうことですの?」 「申し訳ございません。代わりに、当家のメイド全員でのお見送りをさせていただきます」 「はあ。嫌味もルナ相手に言わないと張りあいがありませんわね。メイド長、それも学校の担任が相手では、後が怖くなるだけですわ」 「ルナはデザイン画に集中してると言っていたでしょう? きっとアトリエで、今も机に向かっていると思うんです」 「仰るとおりです。お声掛けはしたのですが、私たちに任せると言われ、それきり返事はいただけませんでした」 「お詫びとして、本日の夕食は腕によりを掛けてご用意いたします。また入浴の際には、当家で一番の入浴剤を使わせていただきますので、どうかご容赦ください」 「うあー、ユーシェの嫌味のせいで、桜小路家の謝りっぷりがどんどん本格的になってきちゃったあああ」 「悪かったですわ。私はルナに文句を言いたかっただけですの。だから……そこの朝日も、必要以上に落ちこまないでいただきたいですわ」 「えっ?」  桜屋敷のメイド全員の顔が僕に向いた。ちょっぴり怖い。 「いえそんな。私が落ちこむなんて、理由がありません」 「え、朝から明らかに生気がないけど、自分が落ちこんでないとでも思ってたの?」 「どうせルナから厳しいことを言われたのでしょう」 「私たちからもフォローをしておくから元気を出してね。落ちこんでる朝日なんて見たくないから」 「大丈夫です。確かに落ちこんだりしたことがあったかもしれませんが、私は元気です」 「朝日にもお土産買ってくるからね」  瑞穂様の癒しの笑顔を最後に、三人のお嬢様たちは観光へ出かけた。本当に優しいお嬢様ばかりだなあ。  だけど僕の主人だってすごく優しい人だから……。 「小倉さん」  一瞬だけ落ちこんでいたら、八千代さんに声を掛けられた。他の先輩たちは、もう自分の持ち場へ移動を始めてる。 「八千代さん。何か仕事を与えていただいても良いでしょうか。今日はルナ様がアトリエへこもりきりなので、手が空いています」 「そうですか。では小倉さんは何がしたいですか?」 「えっ」  な、なんだろう、八千代さんからのこの質問は。もしかして何かのテストをされてる? 僕? 「ええと……はい。言いつけていただければ何でもやりますが、一番好きな仕事は料理です。特に本日は、皆様に喜んでいただきたいという使命感に燃えています。やる気マンゴスチンです」 「返事をする時につまらないギャグは挟まないでください。それとごめんなさい、質問を理解してもらうために言葉が足りませんでした」 「はい……?」  確かに八千代さんの意図は掴みかねたけど……あとつまらないって言われた。 「話はお客様であるお嬢様方から聞きました。ルナ様のために、今日は観光案内を断って屋敷へ残ったそうですね」 「あ、はい。そのつもりだったんですけど、ルナ様のご機嫌を損ねて……いえ、ご機嫌を損ねることすらなく、落胆されてしまったみたいで」  しかも僕に対しての落胆ではなく、僕を選んでしまった自分の見る目に対して。 「確かに……大雑把にですが話の概要を聞く限り、ルナ様が落胆したと感じた小倉さんの受け止め方は間違っていないと思います」 「はい」  昨日の夜の会話は聞かれていないはずなのに。ルナ様に構ってもらおうとした自分の姿を見透かされた気がした。 「ルナ様に迷惑を掛けてしまいました」 「ですがルナ様は、小倉さんが自分のことを気に掛けてくれていると気付いています」 「は?」 「ルナ様は小倉さんのことを嫌っているわけではありません。それは自分でもわかっているでしょう?」 「はい。ですが今回ルナ様に謝ろうとしたのは、相手のことを考えてというよりも、自分の我侭でと言うか……」 「それでも、気に入っている相手が自分のことを考えていると知って、悪い気分になる人はそうそういません」 「お嬢様と小倉さんは、これから三年間を共にするんです。失敗もあれば、挽回する機会もあります。一度の失敗が全ての終わりだなどとは思わないでください」 「あ……少し、そんな考えに近付いてしまっていたかもしれません」 「仕方ありませんよ。お嬢様はあの通り、気難しい方ですから。そもそも雇う側と雇われている側では条件が違います」 「一度でも嫌われた場合に、今後の屋敷の中での生活が関わってくると思えば、今回のようなケースにおいては、雇われる側が通常の人間関係よりも深刻な悩みを持つのは当然です」 「私たちとお嬢様は、どんなに親しくなろうと友人ではありません。そこには主従関係があり、どれほど深くお互いを理解したと思っていても、常に私たちの側に微量の不安が存在することは否めません」  そういえば八千代さんは、僕よりも長くルナ様と付きあってきた人だった。その間に、彼女の機嫌を一度も損ねなかったとは考えにくい。 「……ですが、小倉さんは今までとは少し違うなと思っています」 「え?」 「どう言えばいいのでしょう。感覚的なものなので、私も上手い言葉が見つからないのですが……小倉さんのお嬢様に対する敬意と憧れは、確かなものです」 「ただ、それとは別にどこか堂々としているというか……うーん、違う……対等に付きあっている……のも、違いますね。やはり上手く言えませんが」 「八千代さんからはそう見えるのでしょうか」  それは僕がより気難しい人の下で使われた経験があるせいだろうか。僕への期待を捨てた頃のあの人に比べればルナ様はひどく温かい。 「ですから私は、お嬢様が小倉さんとの関係を大切にしているように思えます。友情……とも違うのですが。ごめんなさい、やはり上手く説明できません」 「ですから、一度くらい構ってほしかったのがバレた程度でなんですか。ただの雇用関係からの脱皮期間だと考えてください。きっと小倉さんとルナ様なら、それ以上の良い関係を築けます」 「八千代さんにそう言われると、自信が付いてきました」 「自信を持ってください。そして挽回の機会を探してください」  先輩の言葉は、僕の心を前向きにしてくれた。さすが屋敷のメイドの中で、お嬢様と一番付きあいの長い人だ。熟年の猛者は説得力の重さが違う。 「なんだかいま、失礼なことを考えませんでした?」 「考えてません」 「私はまだ20代です」  年長者扱いしたことが顔に出てしまったんだろうか。僕は曖昧に目を逸らした。 「……私もお嬢様に対する感情は複雑です。雇用主であると同時に、自分の生徒でもあり、実の妹のように思っている面もあります」 「ですから、お嬢様のことを真面目すぎるほどに考えてくれる、小倉さんのことを頼もしく思っています。ありがとう」 「はい!」  もし今回のことでルナ様が僕に興味をなくしても、解雇と言われるまでは卒業までここにいるんだ。居心地の悪い三年間になるとネガティブに捉えるより、挽回の機会が何度もあると前向きに考えよう。  八千代さんから「ありがとう」と言われたけど、こちらこそお礼を言わなくちゃいけない。頭を下げて謝意を伝えると、年長者らしい柔和な微笑みを返してくれた。 「なにかいま、失礼なことを考えませんでした? 私はまだ20代です」 「八千代さん、それでは仕事を与えてください。今ならどんなことでも気持ちよくこなせそうです」 「それは良いことだと思いますが、私はまだ20代です。そうですね、小倉さんが自分で一番好きだと言っていた料理をお願いしておきましょうか」 「もちろんお嬢様の昼食です。賄いはこちらで用意しますから、小倉さんは腕によりと時間を掛けて、喜んでいただけるものを作ってください」 「はい!」  初対面の時は、八千代さんのことを厳しくて怖い人だなと思っていたけど、その分、優しさと頼りがいも兼ねそなえている人だった。  試作ですってことにして、ルナ様への料理とは別に、八千代さんにもデザートを作っちゃおう。もし怒られても後で挽回すればいい。だって八千代さんは優しいから。  そしてルナ様には、とびきりおいしい料理を作って許してもらおう! 「あれ? 朝日? こんなところで何してるの?」 「えっ」  キッチンへ向かおうとしたら、先輩メイドの鍋島さんに声を掛けられた。少し急いでる風だった。 「どうしたんですか?」 「さっきルナ様から、直接言われたのよ。いまからメイド全員で庭へ集まれって」 「庭へ? 全員で? 庭の手入れでしょうか……でも専属の庭師さんもいるのに、ですか?」 「私たちだけでお茶会開くんだって。これから一時間は親睦会をするようにって言われた」  アトリエでこもりきりだったはずなのに、どうしてそんなことを急に? 思いつきなのかな……。 「ルナ様は機嫌が悪そうだったんですか?」 「んー、そんな風には見えなかったけどねえ?」 「えっ?」 「むしろ機嫌は良さそうに見えたかも? まあルナ様の場合、表情からは考えを読みにくいところがあるし、いつも通りだったのかもしれないけど」 「あ、そういえば、普段より落ちつきがなかったような? ちょっとそわそわしてる感じっていうの? でも怒ってはいなかったと思うのよ」 「そうですか」 「まあ、ルナ様から直接やれって言われたら、私たちはそうするしかないけどね。『全員』って言ってたから朝日も一緒にきなさい」 「あ。でも私、八千代さんから料理の支度をするように言われていて……」 「あー、言われてみればもうそんな時間だっけ? え、でもルナ様の言うことだからって、八千代さんのいうことを無視するのもまずいよねえ……」 「本人に聞いてみた方がいいかもね。八千代さんが庭に来てたら、朝日が探してるって伝えとくから」 「わかりました、私も屋敷内を探してみます。ありがとうございます」  とは言うものの、割とシリアスめに励まされたあとだから、何もしていない内に八千代さんと会うのは余韻というかそんなものがなくて良くないな。  なんて思いはするけど、仕事のことだからもたもたしてちゃいけない。八千代さんと別れた場所へ早足で向かった。 「え? お嬢様が使用人を全員庭へ?」 「はい。そのように指示があったと、鍋島さんから聞きました」 「まさか冗談だとは思いませんが、どういうことでしょう? お嬢様に確認してきますから、小倉さんはここで待っていて……」  そこまで言いかけて、八千代さんは首を斜めに傾けた。あごに手を当てて何か考えてる。  どうしたんだろう……というより、何を考えているんだろう。ルナ様の行動に思い当たる節があったのかな。  そしてすぐに考える素振りをやめ、その表情を明るくさせた。 「いえ、やはり問題ありません。小倉さんはキッチンへ向かって料理を始めてください」 「え、よろしいのでしょうか? ルナ様はメイド全員でと仰ったようですが」 「問題ありません。もしそれで小倉さんがお嬢様に何か言われることがあれば、私がそのように指示を出したと伝えて構いません」 「はい。かしこまりました」  いいのかな? ここまではっきり言うからには、八千代さんにも何かの確信があるんだろうけど。  他の先輩メイドたちは、ルナ様の命令に従って全員庭に集まってるみたいだ。窓の外を見ると、大してすることもないみたいで、さっさとお茶の準備を始めてる。  楽しそうだなあ……なんて思いつつ歩いていたから、注意力散漫のままドアを開けてしまった。  あれっ……。  ルナ様? えっ……本物?  デザイン画を描くため、アトリエで机に向かってるはずのルナ様が、キッチンで包丁を握ってる……?  僕がキッチンへ入ったのは、まな板の上のアボガドが不恰好に歪みながら切られる瞬間だった。ルナ様の手は、いかにも包丁に慣れてなさそうで「切る」というより「押し潰す」ように包丁を使っていた。  ん? 動きを止める? 僕が入った時は動いていた手が、今は止まってるってことは……誰か入ってきたことに気付いてる? 「誰だ」 「朝日です。まさかルナ様がいらっしゃるとは思わなかったもので、声を掛けずに入ってしまいました」 「『入ったら死ぬ』とドアの前に張り紙をしておいたはずだが」  即座にドアを開き、そこに何が書いてあるか確かめた。  ルナ様の字で『キッチン開けたら二分でギロチン』と書いてある。左下隅には「ルナ」の署名までしてあった。  なるほど、深い。私の言うことに従わない者はギロチン=首を切るの比喩表現とも受け取れるし、もっと単純に、リアルギロチンでリアル首を吹っ飛ばされる光景も想像できる。 「申し訳ありません……庭の方に意識がいっていたもので、ドアの張り紙に気が付きませんでした」 「朝日、今すぐパリの工房にギロチンを一台注文してきてくれ。首を飛ばしたい相手ができた」 「ももももも申し訳ありません。私の不注意でした。まだ生きたいです、この家に遺体ではない形で居たいです」 「言いたいことはそれだけか」 「痛い!」  頭にアボカドが飛んできた。でも小さいやつだから、大げさに叫んだほどは痛くない。 「ギロチン云々は冗談だ。いくら金を積んでも、殺人だけは隠蔽できない」 「お許しいただきありがとうございます、お優しいルナ様……」 「ま、主人に恥をかかせた罰だけは受けてもらうが。あとで私の作った不味い料理を残さず食べさせられるといい」 「は?」  僕の発した疑問を示す音に、ルナ様は返事をしなかった。こちらへ向けていた視線を、まな板の方に移してしまっている。  私が作る不味い料理……ルナ様が手ずから作る? しかもそれを僕に振るまってくれる? 「あ」  しまった、というニュアンスの声をルナ様が漏らした。再び視線が料理に向けられた。 「不味いと言っても、わざと味の質を低くしようと作ってるわけじゃない。おいしくしようと努力はしてるんだ」 「はい。それは手つきを見ればわかります。私も毎日のように料理をしていますから、ルナ様がどのような気持ちで手を動かしているのかは伝わってきます」  不器用ながらも、なんとか丁寧に、少しでも見た目をよくしようとする努力が伝わってくる。 「それは何の料理を作ろうとしているのですか?」 「オムレツだ。私の唯一の得意料理なんだ。だから全てが上手くいけばおいしいかもしれない」 「アボカドとトマトを使ったオムレツですか。今から楽しみです」 「私の方の楽しみは半減だ。こっそり作って驚かせようと思っていたのに」  ああ。そういう理由があったから、僕を含めて全員のメイドを庭へ回したんだ。 「朝日が勝手にドアを開けるから台無しだ、反省しろ」 「はい。反省いたします」  どうしてルナ様が僕に料理を作ろうと思ったのかはわからない。でもその出来事は、この家に来てから初めてのことで、他の誰かがルナ様の料理を食べたという話も聞いたことがない。  これがもし、死刑囚の最後の日に出すごちそうと同じ意味でなければ、僕はルナ様から興味をなくされてなかったことになる。 「まあそういうわけで、私は慣れない料理で忙しいんだ。種明かしをされた以上は隠すつもりもない。ここにいたければ別にいてもいいが、私は話相手になれないぞ」 「はい……」 「ん?」 「承知しております……うぅっ、ルナ様の邪魔はいたしませんので、どうかここに居させてください……んくっ」 「え、ええええええ……」  ルナ様のドン引く声が聞こえた。僕も自分にちょっと引いてる。  だって僕は全然、本当は使用人じゃないのにこんな……ルナ様からの施しに感謝はしても、涙が出るほどまでに喜ぶのはおかしい。 「あ、朝日。まさか泣いて……る? まさか、な?」 「泣いてません」  僕は目元を袖でごしりと拭った。 「いま何をした……ていうか潤目……」 「ルナ様が玉ねぎを切るからです」 「切ってない……君のために今すぐ切ってあげたいくらいだが、残念なことに玉ねぎの買い置きがあるのかすら、私にはわからない」  ハンカチを差しだされた。僕はありがとうございますと言いながら、それを受けとった。 「これはその……どっちだ。私が君のために料理していることを喜んでいるのか。それとも、先ほどドアを開けてしまったことを叱ったから反省しているのか」 「どちらでもありません……ただ、昨日の夜、私は本当にルナ様から興味をなくされてしまったのかと、不安になっていたので……」 「ん」  それまでの軽口から、ルナ様の声がシリアスなトーンに変化した。 「観光案内をしなかったことか。そうだな。それについては今でも驚いてる。私の説明の仕方が悪かったのかと」 「違います。私がただ、ルナ様のお側にいたかっただけです。私情で言いつけを守らなかったことをお詫びいたします」 「詫びなくてもいい。君が私のためになると判断して決めたことだ。その判断が常に私にとってベストであって欲しいと望むのは、自分の一番近くへ置く相手として君を選んだ私の我侭だ」 「それは裏を返せば、期待を裏切った場合は、ルナ様の側にいる者として不適格ということではないでしょうか」 「お互い人間だ。完璧に私の考えを把握しろというのは無理がある。君はこの二ヵ月間、充分に尽くしてくれている」 「ですが、悲しく思いました」  一瞬だけ胸から込みあげるものがあったから、ぐしっと鼻を鳴らした。ルナ様がどん引いたときと同じ目をして僕を見ていた。 「ルナ様を落胆させたこと、その期待に添えなかったことを悲しく思いました。『面倒だ』と言われた時に、ルナ様の心に不安の影を落としたことを申し訳なく思いました」 「いつから自分は素直ではなくなったのだろうと確かめました。自分がルナ様を想う気持ちよりも、ルナ様が望まれたことを優先するべきだと、自然と考えていられた頃があったのに」 「健気だな」  ルナ様の表情が不思議なほど柔らかくなった。一瞬、同じ人かと不安を抱くほどだ。 「許す」 「痛い!」  でも次の瞬間には、普段通りのルナ様に戻っていた。小さなアボカドをぶつけられた。 「え……ルナ様、いまなんて?」 「アボカドに対してはコメントなしか。うん、まあ、言葉通りだ。だから、朝日を許す」 「いま朝日が言った通り、何が正しいかはさておき、君が昨日の夜に取った行動を私は快く思ってない」 「そして私は君たちを選べる人間だ。たとえそれが労働法に反していようと、道徳的に非難されようと、私と合わなければ側にいる人間は替える。というよりそうしてきた」  僕が恐れたのはそういうことだ。ルナ様はミスをしても叱って許してくれるけど、面倒だったり、自分が気を使う必要のできた相手は、側にいて欲しくない人なんだ。  大いに傲慢で、それが許される立場にいる。仲良くしてもらえているから忘れかけていたけど、ルナ様は最初からそういう方だった。それを知りながら僕はここにいる。 「だが朝日が居なくなることを考えたら、一晩寝つけないほど胸がもやもやした」 「えっ」 「こんなのは久しぶりだ。多少面倒でも、私の思い通りにならなくても、それでも側に置いておきたいと思った」 「はっきり言うと、私は人間関係なんて自分に都合のいいものしか求めてないんだが、朝日はその都合を曲げてでも離したくないと思ったんだ」 「だから、うん。ユーシェや瑞穂、湊と同じだ。人間と付きあうのは面倒だが、居なくなると思うと、胸がもっともやもやして面倒になる。それなら対等の相手として認めるしかなくなったんだ」 「だから昨日の夜のことは、朝日に限って許す。そのためにアメだって用意している。私が手料理を作るなんて滅多にないんだ。喜んでくれ」 「ルナ様……それは、もちろん。感激しています」 「そうか。じゃあ昨日、私が言いすぎたことも許してくれ」 「それはつまり、仲直りしようということでしょうか」 「うん」  少しだけその年齢に相応しい笑顔が見えた。それはほんの一瞬だった。  どうしよう。心臓と涙腺が直結した。血液が脳じゃなくて顔に集まる。 「朝日、返事は……って、どうして後ろを向く。ていうか震えはじめてるぞ。え、ええと、泣くなよ?」 「泣きません。でもルナ様と仲直りできて、嬉しく思います」 「我儘を言って申し訳ありませんでした。ルナ様に謝りたい気持ちが独り走りしてしまって……構ってちゃんになってしまいました」 「わかったもういい。わかったからこそ、こうして構ってやってるんだ。もっと喜べ」 「はい……すごく嬉しいです。ありがとうございます、お優しいルナ様……んくっ」 「泣くなと言ってるのに。仕方ないな、フォローを入れておく。主人としてアメとムチを使いわけてるんだ。だから過剰に喜ぶな」 「無理です……嬉しいです。私もルナ様に、いま自分が用意できる一番の料理をお作りいたします」 「そうか、ありがとう」  もう、いい。今日はいい。心まで使用人になっちゃいけないと思ってたけど、今日だけはルナ様の使用人になっても構わない。  ルナ様が対等の主従関係を望まれるなら、仲直りした今日はその関係で構わない。彼女の力になりたいと心から思った。 「……でも本当に、あまり大げさに喜んだりしないように。私が他人に料理を作るのは、朝日が初めてというわけじゃないからな?」 「えええええ――っ!!」  あまりのショックで涙が瞬時に蒸発した。ルナ様の手料理なんて、本人以外で口にできるのは僕だけだと思ってたのに。  精神的に近付けて、僕の中では大きな一歩だったのに……誰かに先を越されていたなんて。今日一番の悲しい出来事かもしれない。 「悪い……今日、一番引いた」 「あ、ユルシュール様……ですか? 昔、料理の腕比べをしたとか……それとも瑞穂様?」 「いや八千代」  八千代さんもルナ様に手料理を振る舞ってもらえたんだ……だから、メイド全員を庭へ向かわせた時、彼女はすぐにピンと来たんだ。 「うう、ルナ様にとって私は、二番目の女でしかないんですね」 「面倒だからもうそれでいい。私の料理は処女じゃない。昔の女を認められないなら食べるな」 「食べます」  でも八千代さんには対抗心が芽生えました。長老にだって勝ってやる。 「何を考えているかわからないが、八千代はまだ20代だぞ」 「いえ、そこは重要ではありません」 「ルナ様のオムレツはとてもおいしいです。私たちは、料理の腕が主人に劣るようではいけませんね」 「お世辞にも程がある。自分で味見をした時よりも、朝日のオムレツの方が数倍おいしい。私は包丁の使い方がまだまだ不器用なんだ」 「それではこれから、もっと成長されるということですね。もし期待して良いのでしたら、いつかまたルナ様の手料理を食べたいと思います」 「そんな大層なものでもないし、気が向いたらな」  僕たちは先輩方に先駆けて、二人で昼食をとった。広い食堂が、まるで家族の食卓みたいに温かかった。  雨が降ったけど地が固まって良かった。今日の夜も、ルナ様にとびきりの料理をごちそうしよう。 「ん、お二人でお食事ですか。ふふ、楽しそうですね」 「つーん」 「え、何? 感じ悪」 「朝日は器が狭いみたいだ。許してやれ」  洗濯、洗濯。  朝はいくら時間があっても足りない。メイドの数はある程度いるから手は足りてるんだけど、僕は未だに一番新入りだから、とにかく動かなくちゃいけない。  これが済んだらゴミ出しに行って、それから雑巾掛け、その後で朝食の準備をしないと……。  あ、名波さんだ。 「おはようございます名波さん、今朝も早いですね」 「洗濯……湊お嬢様の服は私が干すことになってるから……どいて」 「あ。ごめんなさい、ついまとめて取りこんじゃって」  そうだった。湊は自分の洗濯物を、男である僕には触ってほしくないんだった。 「……前から思ってたけど、湊お嬢様に何かした?」 「ま、まさか」 「お嬢様がどうして御自分の洗濯物を私だけに任せるか分からない……昔から、潔癖症というわけでもなかったし……」 「もしかして小倉さん、ヘンタイ?」 「違います」  この件に関しては僕も対応に困る。  まさか湊に正面から「僕、別に湊の下着見てもなんとも思わないから普通に干していい? 名波さんから疑問に思われるのも困るし」とは言えない。  だけど彼女の下着だけ僕が触れないことに対して、公表できる理由がない。  名波さんの言うとおり、湊は潔癖症というわけでもないわけで、だから突っ込んだことを聞かれると、とても困ってしまう。 「小倉さんが湊お嬢様から嫌われるのは歓迎だけど」 「いえ、仲良くさせていただいてます」 「ちっ。七愛はそれが気に食わない。これだから人に疎まれることを知らない奴は……誰からも愛されやがって」  うーん、それは桜屋敷の人が優しいってだけで、僕も基本的には疎まれる側なんだけどな。 「『男性にも人気あるんだろう? その性格と顔ならさぞかしモテたはずだろう』」 「あ、いえ……全くです。今までずっと内に籠った生活だったので。名波さんは? 恋人がいたことはあるんですか?」 「『七愛は絶対に人から愛されないことを信じていた。それはそうと、君はまだ処女かい?』」 「ええと、そうなりますね。男性経験はありませんので」 「『そうだろうな。君は処女だ。ちっとも美しい処女じゃない』」  名波さんは目を逸らしながらぶつぶつと呟いた。これは名波さんなりの恋話なのかな? 「なんの話してんのー。あ、おはよー」 「湊お嬢様……? まだ起きる時間では……いつもより一時間もお早く……」 「や、たまたまなんだけどね! せっかくだから、ちょっと遠くまで走ってこようかなーと思って」 「お嬢様がお出かけになるのなら七愛もすぐに準備をいたします……トレーニングウェアに着替えますので、もう少々お待ちください……それと、洗濯もありますので」 「洗濯? 家事だったら朝日が……あ、そっか、それは七愛にやってもらわないと困るなあ」 「はい、お任せください……」 「うふふ、この女にはさせられない仕事を七愛が任せられるなんて、とても快感……ざっまみろ、ぴーすぴーす」 「こら七愛! 朝日に失礼なこと言わない!」 「申し訳ありません……七愛は洗濯物を干して、その後すぐに着替えてきますから、もうしばらくお待ちください」  名波さんはにこにこ笑顔で去っていった。喜んでもらえたなら、僕への敵愾心が少しは薄れるかもしれない。そうだと嬉しい。 「ごめんねえ。ほんと、私に対してはすごくいい子なんだよ。本当は運動苦手なのに、私を一人にはさせられないって言って、滋賀の頃から毎日ジョギング付きあってくれてるし」 「毎日! すごい、それは中々できないかも」 「でしょ? なのに、もう、どうして朝日とは仲良くしてくれないかな」 「湊が僕と仲良くするから?」 「仲良くするのは普通でっしゃろ」 「って、あれ? 今更だけど、朝日いま、ゆうちょの話し方だ……」 「あ、二人きりになったから、つい。迂闊だったかな?」 「う、ううん! 朝日も好きだけど、私はそっちのが嬉しい! たは、たははっ!」  話し方を変えた途端に、湊の顔がぱっと明るくなった。眠気の残るそれまでの表情はうっちゃって、8勝7敗、辛くも勝ち越しを遂げた力士もかくやという笑みだ。 「無事に千秋楽を終えられてよかったね」 「なんと? ゆうちょ、いま私のこと何に例えた?」 「湊には笑顔が似合うなって話」 「そんな甘い言葉には騙されないぜ。どすこい、どすこい」  湊の張り手が僕を突っ張った。子どもの頃と比べて見た目は女性らしくなったけど、力はまだまだ結構強かった。 「あ、でも、洗濯物干さなくちゃいけないから、あんまり話してる時間ないかも」 「洗濯物……ううーん、私本当は、それもあんまりして欲しくないんだけどな」 「え、なんで? 湊の分は名波さんに任せてるよ?」 「いや他の子の洗濯物も! だって、した、下着とかもゆうちょが干して畳んでるんでしょ? それ、どうしてもやらなくちゃいけないの?」 「もちろんそうだよ。洗濯なんてメイド仕事の基礎の基礎だよ」 「でも他の人に任せるとかさあ、ゆうちょは別の仕事するとか方法あるじゃーん」 「ないよ。僕が一番新人だから。こういう簡単な家事は進んでやらないと」 「そ、お、だ、け、ど、も! なんかやだ」  そんなこと言われても、どうしろって言うんだろう。少し困ってたら、湊が両手を伸ばして近付いてきた。 「今日から私がやったげる。てか七愛が来るまで、実家では私がやってたし。ほい、貸してみ」 「駄目だよ。そんなことお客様にさせたってルナ様に知られたら、僕だけじゃなくて八千代さんも他のメイドさんも、みんなが叱られるんだよ」 「うううぅ……でもだでもだよ? ゆうちょがユーシェや瑞穂のかわいい下着畳んでる絵面は、なんかすごくヤだ」 「なんで。そこに畳む以外の意図はないし、服飾の世界にいて今さら下着単体で興奮するほど単純じゃないよ。もし興味を持つとしたら、生地の素材とか、縫製かデザインかじゃないかな」 「ううううー」  湊はまだ納得してないみたいだけど、認めるしかないのも分かってるんだろう。唸りながら地団駄踏んで悔しがっていた。 「ゆうちょが下着マニアになっちゃわないといいなあ。頭に被んないでね?」 「ごめん。その発想が浮かんだ湊の方こそおかしいと、僕は思う」  この話題を続けるとどんどん妙な方向へ行きそうだ。湊には悪いけど、仕事を理由にこの場を去ろう。 「てか何の興味もないって言うけど一つ聞きたい。瑞穂のブラ見てどう思った?」 「どうも思わないってば。すごいね、大きいね、ってくらい」 「そこはやっぱり気付くんだ……ううぅ、数字は最強だ」  申し訳ないけど、呟きつづける湊を残して僕はこの場を去った。  よっしょ。  洗濯物を干した後はゴミ捨て。今日は新聞・雑誌の回収だけだから匂いで困ったりはしないけど、純粋にそこそこ重かった。  よいしょ、よいしょ……本ってどうして少量でも重いんだろう……ん?  よく見ればいちばん上に重ねられていたのはファッション誌……というよりも服飾総合の雑誌。『クワルツ・ド・ロッシュ』だ。  こっちは『荘園』……あれ、僕これ読んだっけ。こっちは『防具』……あっ、この記事面白かったよね。 「朝日……こんな玄関先にしゃがみ込んで捨てられた古雑誌をあさるなんて……ううっ、なんとひもじい生活を……」 「あ、あはは……おはようございます、ユルシュール様」  僕は誘惑に負けて、束ねられた雑誌類の紐を解いてしまっていた。典型的な掃除が長引くパターン。これじゃいけない。 「あら? その雑誌、たしか今月号ではなくて? もう捨ててしまってよろしいの?」  桜屋敷では、〈主〉《あるじ》であるルナ様が、毎月各誌の最新号を共同購読用に備えさせている。 「ええ。お屋敷用のはまだ書庫にありましたから、これはたぶん、どなたかが個人でお買いになった分だと思います」  たぶん八千代さんかな。以前に職業柄、ファッション誌のチェックは欠かせないって言ってたし。 「あ、ユルシュール様がもし御所望でしたら、お持ちいただいて構いませんよ」 「どういう意味ですの……私、そんな物欲しそうな目をしていましたかしら……?」 「いっ、いえ、そういうわけでは」 「一度は廃品として出された物を拾うなど、貴族にあるまじき行いですわ。この程度の大衆誌、欲しければ出版社ごと──」 「──あら、そういえば、もうすぐ次号発売ですわね」  ユルシュール様は僕の手から『クワルツ・ド・ロッシュ』誌を取りあげ、ぱらぱらとめくりだした。 「そうでしたか。私はいつもお屋敷の書庫で読ませていただいてるので、あまり発売日を気にしたことがありませんでした」  ちなみに桜屋敷へ来る前は、僕のために定期購読してくれてた、りそなに毎月見せてもらってた。  ファッション誌ではなく、服飾の雑誌の中では一、二の発行部数のこの雑誌。やっぱり面白い記事が多い。 「あと一週間……」 「ユルシュール様? 発売日を気にされるということは、何か気になる記事でもあるのですか?」 「いえ。気になるという程のものでもないのですけど……そういえば次号は『クワルツ賞』一次審査の発表でしたわと思いまして」 「クワルツ賞ですか」  クワルツ賞──  ──数十年もの歴史があり、僕たち服飾生にとっては最も身近で知名度の高いコンテストのひとつだ。  メジャー誌の主催だから大々的な宣伝効果も期待でき、入賞するだけでも国内では充分な実績となりえ、そして優勝者には賞金のほか副賞パリ留学まで付いてくるという、まさにビッグイベント。  日本人デザイナーの多くが通過している、いわば新人の登竜門。この道を目指す者なら、誰もが一度は入賞を夢見るはずだ。  僕も近年、外部デザイナーとの腕比べとして何度か応募させられたことがあったけど、結果はお兄さまがお怒りのとおりだ。 「ユルシュール様、お詳しいのですね。参加されてみてはいかがですか」 「まあ、レベルの高い競争相手がいるなら考えてあげてもいいですけど。募集は年二回おこなうようですし」 「でも所詮、こちらのお国の方ばかりなのでしょう? 世界を見据える私にはちょっと物足りないですわね」 「そうですか……でも外国の方の受賞者って聞いたことありませんし、ユルシュール様が賞をお獲りになれば、初めての快挙になるかもしれませんよ?」 「あら、そうですの? 『初めて』という響きは悪くありませんわね。私が先鞭をつけてさしあげますわ!」 「ユルシュール様は色んな日本語をご存知なのですね」 「ええ、この国の慣用句はたくさん知っていてよ。『傍若無人』『厚顔無恥』『曖昧模糊』『臥薪嘗胆』」  なんだか四字熟語のチョイスに悪意を感じるのは気のせいかなあ。そもそも日本産じゃない言葉もあるし。 「それを教えてくれたのは誰ですか?」 「ルナですわ」 「やっぱり……」  その後、屋敷へ戻るまでに、もっと綺麗な言葉を幾つか教えてさしあげた。  大層「一期一会」が気に入ったらしく「イチゴイチエ、イチゴイチエ」と間違ったアクセントで繰りかえしていた。 「はい死んだー」  まだ一時間目が済んだばかりだというのに、湊はぐったりとして机に被さっていた。 「ううう、いま習ったところが既にわからない。七愛、教えてえ」 「湊お嬢様から頼りにされるこの悦び……『生きようと、七愛は思った』」 「途中で伸ばした線の角度を間違えてますね。ここがずれると、その後のダーツも、反転して伸ばした線の合流する位置も、全てずれてしまうので……」 「あああー。てことはまる一時間分、そのまま書きなおしってことだ。これは心が挫けるなあ……朝日、慰めて」  うっかり横からアドバイスをしたら湊が僕の側へ寄ってきた。七愛さんが「それは私の役目だろうが」と言いたげな目で僕を睨んでいた。 「明日の朝日が昇らなければいいのに……」 「申し訳ありません、名波さん……でも私のせいではないと思うんです」  名波さんの目が普通に怖い。  助けてもらおうにも、湊自身がぐったりしてる。  瑞穂様とユルシュール様は、教室で優雅にお茶会を開いてるし。  そんな中、僕の主人のルナ様は、休み時間でも黙々とパターンのノートと睨みあいっこしてる。  そういえばルナ様は、パターンの成績に関しては「良」か「可」レベルだった。  天才肌の人だから、たとえ一分野でも「優」でないのは嫌なんだろう。空いた時間を少しでも自己の向上に費やしたいんだ、きっと。 「ルナ様、なにかお手伝いできることはありませんか?」 「ん? ああ、せっかくだが助けてもらう必要はない。今もわからないところがあったんじゃなくて、今日の授業の内容をどう応用すれば有効活用できるか考えてたんだ」  と言いつつ、さりげなく腕でノートを隠した。自分で書いたパターンがおかしくないか、心配だったみたいだ。 「ルナ様のデザインは個性的なものが多いから、パターンを考えるのも大変ですね」 「そうだな、近くに優秀なパタンナーでもいれば、私が苦労する必要はないんだが」  パタンナーという部署は、一枚の絵でしかないデザイン画をこの世界で形にするため、型紙という衣装の製図を行う大切な部署だ。  デザイナーを作家にたとえれば編集者。映画監督なら演出家。CGで絵を描く人ならグラフィッカー。表には名前が出ないけれど、衣装そのものの出来を決めるのはパタンナーと言っていい。  デザイナーとは表と裏、月と太陽のような関係。有名なデザイナーの下には、必ず優秀なパタンナーが側にいる。 「まあ大丈夫だろう。私は天才だ、その気になればできるに違いない」 「ハイ、応援いたしますっ!」 「うん!」 「いや、待て。朝日、君も手伝うんだぞ? 確かに大変だとは思うが、そこはあのホラ、主従力を合わせてだな」 「いやいや、もちろん基本的には私が自分でなんとかするが、するとは思うがアレだほら、ときには小倉朝日の奮起も期待されるというかだな……」  ルナ様が珍しく弱気だ。デザインは才能と根性でカバーできるけど、パターンは線と数字だから地道に回数を重ねるしかないもんなあ。  その分、経験を重ねることで対応できるようになるから、ルナ様が本当に苦手だとすれば、僕でもお役に立てることがあるかもしれない。 「ルナ様。私でお役に立てることがあれば、骨身を削ろうとも構いません! これまで賜った恩を返せると思えば、茨の道でもお供いたします!」 「まるで私が苦戦するみたいな言い方だな……そして私がなんとかすると言ってるのに、まるで信用していないな……」 「いえ、私はルナ様のお役に立てることが嬉しいだけです」 「私ごときでは普段のお勉強をお助けできませんから、何か一つでも認められるものがあれば、そこへ全力を注ぎたいんです」 「君は充分に私を助けてくれていると思う。ただ、そこまで言ってくれるなら、朝日に相談することも多々あるかもしれない。その時はよろしく頼む」 「はい」  心を許してくれたのか、ルナ様は袖で隠していたノートを露わにした。ちらりと彼女の描いた型紙が視界に入る。  とても独創的……「私がこうしたいんだから言うことを聞け」という声が伝わってくる作図だ。  細くしたい場所にダーツを入れて身頃を詰め、それを何箇所もやっているから傷だらけの体みたいになってる。歴戦の武士。 「これだけ何箇所も詰めるのなら、最初から平面ですべてを書こうとせず、立体裁断でバランスを取りながら詰めていった方が良いのではないでしょうか」 「だから立体裁断は〈苦〉《にが》……嫌いなんだ」 「ですが、ルナ様のようにディテールの多い服を作る場合は、習得が必須な科目かと」 「できないものを今やれと言われても無理だ。大丈夫、この学校でショーが開催されるのは十二月だし、それまでには私も出来るようになってる」  すごい。まるで根拠のない自分信奉論。こんな説得力のないルナ様初めて見た。 「今までだってそうして生きてきたんだ。土壇場になれば私にできないことなど――」 「ルナ様!」  できないこと「など」の口の形のまま、ルナ様の表情が固まった。  ルナ様だけではなくクラスの全員が、まるで時間を止められたかのように固まっていた。 「山吹教諭」が学園内で一生徒を「ルナ様」と呼ぶことも珍しかったし、なにより単純に、視線を集めるだけの声量が出ていた。  静まりかえった教室の中を、八千代さんがまっすぐこちらへ歩いてくる。彼女が目の前を過ぎると、誰もが振りかえりその背を追った。  僕とルナ様のいる机の一つ後ろにはユルシュール様と瑞穂様がいる。彼女たちには視線を向けず、八千代さんは緊張した面持ちで、僕たちの正面に立った。 「ルナ様。先ほど連絡がありました」 「すまないが、主語がないと話が見えない。どこのどいつが連絡してきたのか、さっぱり分からない」 「あ……失礼いたしました。気持ちが逸ってしまいまして」 「前置きはもういい、勿体ぶらずに話を進めて欲しい。そしてあなたは私の担任だぞ、山吹教諭」 「申し訳ありません。お恥ずかしい話ですが、動揺しているようです。一度自分を落ちつけます。少々お待ちください」  八千代さんは呼吸を整えて、ルナ様の使用人モードからフィリア女学院の教員モードへスイッチを切り替えようとしていた。  その間に、ユルシュール様と瑞穂様が席を立って、ルナ様の背後から覗きこんできた。  それを皮切りに他の生徒やメイドたちも、一人また一人と僕たちの机に集まってきた。 「ルナさ……桜小路さん。クワルツ賞の本部から、先ほど電話がありました」 「えっ、クワルツ賞……ルナ様、応募されていたのですか」 「した。入学する前だから、当家のメイド長にしか話してないが」  じゃあ八千代さんは知ってたんだ。てことはもしかして?  周りも薄々話の内容がわかっているのか、期待感の高まった目で八千代さんを見ている。湊なんて目がきらっきらしてる。 「先ほど、クワルツ賞を主催する本部から連絡がありまして――」 「おめでとうございます。ルナ様の作品が、一次審査を通過したそうです。来週発売の『クワルツ・ド・ロッシュ』誌にデザイン画が掲載されるとのことでした」  八千代さんが口にした予想通りの言葉は、同級生たちを一斉に沸きたたせた。  八千代さんも目の端に涙を浮かべている。担任としての立場を忘れてしまうくらいだから、よほど嬉しかったんだと思う。他にも連絡事項はあるはずなのに、中々続きが出てこない。  そのうちに、八千代さんの声が届かなくなるほど沢山の祝辞が、ルナ様のもとへと寄せられた。 「すごーい、マジすごーい! ルナ、ごいすごいす! 賞なんて運動会以外で獲るひと初めて見た多分! よっしゃ抱きついてやれ! いい子いい子ー!」 「ルナ様、おめでとうございます! 大層な栄誉に輝いたこと、同級生として誇りに思います! やはり血筋が一流であるルナ様は、才能さえも一流なのでございますね。江里口金属です。おめでとうございます」 「えー、なんかマジすげくね? 当然うちの学校、初でしょ? うちらの学年、箔とか付くんじゃね?」 「ルナ、おめでとう。コンテストの選考審査を通過したときの嬉しさは、私も経験があるから少しだけわかるの。最後まで頑張ってね」 「ん? ああ、ありがとう」 「おめでとうございます、ルナ様……ルナ様?」  あれ? みんなの喜び様と比べて、当の本人がやけに落ちついてる? あまりのことに呆然としてるのかな。 「まだ創立一周年にも満たない我が校生徒の作品が選ばれたことに、主催側からも賞賛の言葉をいただきました。これはとても名誉なことです」 「名誉」 「はい。職員室でも教員全員で喜んでいます。このあと選考通過したデザイン画の衣装製作に入ると思いますが、学校側からも出来うる限りバックアップしていくことになりました」 「そうか、うん、わかった」  ルナ様は無表情でうなずくと、視線を教室内で一巡させた。  その裏で彼女は、僕の手をそっと小さく握った。 「えっ」 「みんな、祝いの言葉をありがとう。ありがたく受けとめさせてもらう。そして次の衣装製作にも、全力で取りくみたいと思っている」  ルナ様が感謝の言葉を述べると、自然と拍手が重なっていった。騒然とざわめき立った一寸前とは違い、みんな静かにじんと感動している風だった。  そんな空気の中で、僕だけは他のことに気を取られていた。  ルナ様の肌が冷たく感じられる。なんとか温めてあげたいと思って、彼女の手を強く握りしめた。  そうしたらルナ様は、握りかえしてくれた。  一次審査通過の報告を受けてから、感情の読めなかったルナ様だけど、僕はそのささやかな握力に安心することができた。 「まあ、そういうわけで君たちには感謝する」  べつに、喜んでないわけじゃないみたいだけど……。 「じゃあそろそろ授業も始まるし、席へ戻って――」 「入るぞ」  ぞっとする声。せっかく握りかえしてくれたルナ様の手を、もったいなくも引っこめてしまった。  何故ならやってきたのは、こんな心から喜ばしいこの時、この場所で、一番会いたくなかった存在――兄だったから。  その姿を見て僕のとった行動は手を引っ込めただけじゃない。咄嗟に顔も伏せて肩も縮ませた。  突然現れた兄の存在に、息をすることすら忘れそうだった。  兄に見つからないよう、可能な限り気配を消す。惨めだとわかっていても、この人の声は、僕にたまらなく己の卑小さを覚えさせた。  さいわい女生徒たちからの黄色い歓声が、僕の存在をより希薄にさせた。  大蔵学院長(代理)は、入学式のときあれだけ非人道的なスピーチを巻き散らかしたにも関わらず、いまなお多くの女生徒を虜にしているみたいだ。  できればこの騒ぎに紛れて、空気のように教室から居なくなりたい……あれ?  えっ……ルナ様が嬉しそうな表情を浮かべてる? 「桜小路という生徒は君か。大蔵衣遠だ」 「もちろん入学式に際してご挨拶いただきましたから、こちらは存じあげておりますとも。お初にお目にかかります、学院長代理」 「クワルツ賞の審査を通過したそうだな。私もデザインを見た。中々悪くなかった」  えっ……悪くない?  お兄様が人を認めた!? 「悪くない」なんて決して褒め言葉には聞こえないけど……あの兄の言葉としてはかなり上等なものだ。  僕のことはもちろん、親族から部下から友人から、およそ他人を認めることなんて一年の中で一日程度しかない、あの才能至上主義の衣遠兄様が──  ──ルナ様のデザインの才能を認めた!?  あっ……お、驚いちゃ駄目だ、僕の気配が出てしまう。もっと感情を殺さないと。 「さすがルナ様、大蔵学院長から直々にお誉めの言葉をいただくなんて」 「やはり学院にとっても、大変な快挙だったのでございますね。さすがですルナ様、成松重工でございます」  強大なカリスマから認められたルナ様を、同級生たちは純粋に称えた。  違うのに。僕にとっては、もっと凄いことなのに。  だって、お兄様が誉めた相手は、今まで必ずその分野で成功しているんだから。  もちろん誰もそんなことには気付かない。栄誉を得た生徒を、学院長が自ら祝いに駆けつける。そんな美しい場面に教室中が酔っていた。  いつか、湊を庇ったときと同じ、あの邪悪な笑みを浮かべるルナ様を除いて。 「つまり学院長代理はお忙しい中、私の一次審査通過を祝いに来てくれたと。そういうことでしょうか」 「フン? なるほど、そう捉えたか。だとすればどうする」 「はい。私からも、お礼を申しあげなければいけないと思いました」 「ほう、何の礼だ? 祝辞に対する返礼か」 「いいえ?」 「あれだけ偉そうな口を叩いた世界的デザイナーが、在籍生徒のたかだかコンテスト一次審査通過程度に、大喜びで尻尾を振ってきた冗談に対する礼ですが?」  即座に場が凍りついた。八千代さんに至っては、眉間にぴしりと血管が走った。 「みんな、すまない。雰囲気を壊してはいけないと思って合わせるようにしていたんだが、まだ最優秀賞に選ばれたわけでもない内から喜ぶなんて、私には到底想像できなかったんだ」 「なのに、多忙過ぎて滅多に登校できないはずの学院長代理様が、どこぞのお知り合いにでも誉められ、気を良くして駆けこんで来たのだとすれば、まあなんて単純で簡単で低レベルだなあと思っただけですよ」 「ルル、ルナ、ルナっ! 相手、先生! 目上! 本当にそう思ってても、そゆこと言っちゃ駄目! 私もこの人嫌いだけど!」  湊がなんとかフォローしようとしていたけど、焼け石に熱湯だった。  ちなみに僕も、焼け石に炙られるかのように汗をかいていた。もちろん冷たい汗を。 「そうだな。湊の言うとおり、学院長代理に対して取るべき態度ではなかった。申し訳ありませんでした、以後気をつけます」  一度嫌味を言ってすっきりしたのか、ルナ様は殊勝な方向へ態度を切り替えた。だけどまだ顔は笑っていた。 「学院からのバックアップもいただけるようで、お心遣いに感謝いたします。我が校の名誉を高めるため、二次審査を通過し、必ずや優勝できるよう最善を尽くさせていただきます」  そして尤もらしいことを言って、丁寧に頭を下げた。一見すると、よく反省しているように見えないこともなかった。 「クハッ、無礼きわまる生徒だな。退学に処してやりたいところだ」 「申し訳ありません! 生徒の不適切な素行は、担任である私の不行き届きに責任があります。どうか彼女への沙汰はお許しください」  八千代さんはルナ様に並んで頭を下げた。  本来なら僕も下げるべきだけど、どうしても目立ちたくない理由があるから、とても心苦しいけど動けなかった。 「もし彼女に罰を与えるなら、私も受けとめたいと思います」 「山吹。講師としての君は、ジャンのお墨付きだ。俺も一目置いてる、君を罰するつもりはない。腹は立ったが」 「だが、この生徒は勘違いしている。その浅はかさに免じて許そう」 「桜小路、貴様は俺が喜んでいると思っているようだが、たかだか一次審査などには俺も興味がない」 「なにせ俺は、クワルツ賞の最優秀賞を獲っているからな。そんな程度で喜べるはずがない」 「むしろその程度ではしゃいでいたら、その時点で賞を辞退させ、停学にでもしてやろうかと思っていたところだ」  周りの生徒たちが、赤くなった顔を伏せる。彼女たちは、兄の言葉を借りるなら「その程度のこと」に大喜びしていた側だからだ。  ルナ様は、同級生たちとは逆に顔を上げる。さっきの笑みを消して、真面目な表情でお兄様と向かいあった。 「それなら私は、ぬか喜びをしていたということになりますね。確かに浅はかでした。恥ずかしく思います」 「理解したならそれでいい。だが恥じる必要もない。俺はクワルツ賞の選考通過にこそ興味はないが、君と会うためにここへ来たことは間違いないからだ」 「と、言いますと?」 「選考結果には興味がなかったが、生徒の名前には聞き覚えがあった。桜小路ルナ。入学試験で首席を獲得しながら、総代の挨拶を拒否したおかしな生徒がいる、と聞いていたからだ」  えっ……入学式での挨拶を拒否?  その話には聞きおぼえがある。思いだせる範囲の会話だ。  ルナ様とユルシュール様が言い争っていて、総代は入学試験での成績優秀者が選ばれると聞いて……。  しかしルナ様は、面接で余計なことを言ったから、別の人間になったと言っていた。  あれは面接官に減点されたんじゃなくて、ルナ様自身が人前での挨拶を嫌がったってことだったんだ。  ごめんなさいルナ様……よく考えたら面接で減点なんてそうそうないのに、普段の口ぶりが特殊だから、本気でそれが原因だと思ってました……。 「桜小路ルナの性格には問題を感じたが、一位の成績という報告には興味があった。だからどんなものをデザインするのかと思って、今回の応募作を見てみれば」  その時、違和感を覚えた。僕の中ではありえないことなのに、お兄様の声が、親しみを込めたように柔らかくなった。  自然と顔を上げて、お兄様の顔を確かめてしまったほどだ。 「君の作品は素晴らしかった」 「えっ……」 「俺が認めよう。まだ原石のように荒いが、その内側に必ず輝く才能を感じた」 「人間の才能は、世界中の誰もが敬わなければいけない。本当に優れた人間から生みだされたものは、非常にプリミティブな感動を我々に与え畏怖させる。才能ある人間は人類のために成長させなければならない」  お兄様が、まるで家族に語りかけるかのような温度でルナ様に声を掛けている。  一度も聞いたことのない声だった。その表情も一度として僕には向けてもらえなかった。  お兄様はいま自らの信仰を打ちあけている。それも才能がないと呆れた弟には、教えてくれなかったことだった。 「…………」  僕には縁のなかった世界。手の届かない意識の中で、お兄様はルナ様に語りかけていた。  悔しいのに、あまりに立っている場所が違いすぎて、当たり前のように起こる感情が何一つ湧いてこない。そんな虚無感に襲われた。  だけど僕がそんな風に立ち尽くす中、ルナ様は何も変わらず平常運転だった。 「ご高説を賜り、光栄至極」  楽しくもなさそうに顔を背ける。 「学院長の教育理念がよくわかりました。ですが全く興味は湧きません。夜の恋人か職業カウンセラーか、コールセンターのお姉さんにでもお話しください」 「つくづく生意気だな。この俺が認めたというのに」 「いえ、才能云々の下りは、それなりに嬉しく思いました。そして私も、あなたの作品はおおむね良いものだと思っています」 「が、こちらとしては、どうあってもあなたを好きになれません」 「それは何故だ」 「私の大切なメイドを怖がらせたからです」 「えっ」 「メイド?」  !!  自分のことを言われていると分かった瞬間、僕は我ながら驚くほどの速さで這いつくばった。  そして、これもまた自己新記録と言える速度の匍匐前進で、ひとり教室を抜けだした。  あ、危なかった……。  まさかあそこで自分の話が出るとは思わなかったから、ほとんど反射的に逃げだしてしまった。  教室内の配置を考えれば、おそらく兄には見つかってないはずだ。  二人の話の続きは気になるけど、あの様子なら兄も教室に長居はしないだろう。いつまでもここにいては危険だ。  僕はしばらく時間を潰すためにトイレへ籠ることにした。  教室のみんながどうなったかは、後から湊に聞こう。 「よし。やっと今日の授業も終わりか。待ちくたびれた」 「本当に放課後を楽しみにしていたのですね。ルナ様にしては珍しく、集中できていなかったように見受けられました」 「いや、だって退屈だったんだ。ファッション史を概論的に学ぶこと自体は否定しないが、講義の内容が知ってる範囲だと地獄でしかないぞ。他にやりたいことがある場合は尚更だ」  まあ正直、僕も一度学んでる箇所だから退屈ではあったけど。 「外部のデザイナーや関係者を招いての講義なら、まだ興味はあるが……」 「その点、朝日たちメイドは凄いな。私ですら眠気を催したのに、君たちは全員が居眠りの一つもせず、背筋を伸ばしてノートを取っている」 「仕事で授業を受けているのに、居眠りをするわけにはいきません。それも主人の前で」 「とは言っても、人間の三大欲求の一つなのだから眠い時は眠いだろう。特に朝日は、一番遅くまで家事を行ってるのに」 「いえ、それでも居眠りはできません。主人の前に寝顔を晒すなんて考えられません」  ルナ様の前で眠くなったことはない。自分でも不思議には思うけど、無意識の内に緊張感が働いてるんだと思う。 「その気持ちは嬉しいが、これからはそんなことを言えなくなるかもしれない。何しろ、朝日の協力が不可欠だ」 「はい。覚悟はできています」 「ありがとう。それじゃ早速、今日から作業に入る。急いで教室へ戻ろう」  結局、ルナ様に対して協力するという学校側の姿勢は変わらなかったらしい。  お兄様は自分で言っていた通り、クワルツ賞については関心がないみたいだ。  ただ、作品は必ず仕上げるように、と言い残したようだ。純粋に、桜小路ルナのデザイン画が衣装として完成したところを見たいらしい。  ルナ様は「言われなくても自分のために完成させる」という趣旨を、ですます言葉にほんのり嫌味を添えて返した、と湊は言っていた。それを僕の兄がどう受けとったかは分からない。  幸いにして、彼は僕に気付かなかったみたいだ。  僕が教室から逃走したあのあと「桜小路ルナのメイドの話」は、本人不在のためあっけなく終わったという。僕はその話を、湊からメールで聞いた。  教室へ戻ると、すぐにルナ様から呼びつけられた。 「朝日。今日からしばらく、放課後は衣装製作の時間にする」 「はい」 「良い返事だ。では次に、聞いておきたいことがある。君は今まで服を作ったことがどのくらいある?」 「それほど多くはありませんが、二十着か、それ以上は作っていると思います」 「そうか。私は皆無だ」 「ええっ、そんなに沢山? すごいですねルナ様!」 「…………」 「……は?」 「だから、経験が、無い。八千代に教わりながら二人三脚で挑んだことならあるが、それとて数えるほどだ」 「いや、もちろん私は天才だから、そのアレだホラ回数を重ねればプロにも劣らない縫製ができるとは思うんだけども」 「ルナ様……ほとんど作ったことがなかったんですか……」 「なんだその目は。うるさい、黙れ、違う。縫製には縫製のプロフェッショナルがいるだろう。私は衣装製作に掛ける時間があれば、一枚でも多くデザイン画を描きたかったんだ」 「刺繍なら趣味でやっていたから心得はあるが、実際に服を作るとなると将来の成長に期待したいところだ」 「で、どうなんだ朝日。君の縫製の腕は」 「普通だと思います。取り立てて優れているわけではありませんが、既製品程度の出来は期待していただいても構いません。独自評価では10段階の9です」 「上出来だ。では私もやるが、主導権は朝日に委ねよう」 「あ、はい……かしこまりました」  僕に任せる──  ──クワルツ賞に出す作品の縫製を?  僕の作った衣装が雑誌に掲載される?  デザインはルナ様のものだけど、これまで縁のなかった世界に関われるなら、それだけでも嬉しい。 「ありがとうございます」 「ん? お礼を言われることか? とにかく期待してる」  期待してる。学生として、曲がりなりにもこの世界へ入って、初めて言われた言葉だ。  魔法みたいだ。たった一言で紅潮していくのがわかる。お兄様もルナ様も「たかだか」一次審査と言っていたけど、もう胸がときめいてる。 「が、がんばります! 全力を尽くします!」 「そ、そうか。だけどあまり気負いすぎるなよ」 「はいっ!」 「朝日の脳が……筋肉に……」  そんなわけで、僕は外面上落ちついた振りをしていたものの、その実、かつてないやる気に溢れていた。  自分のミスでルナ様が選考に漏れることのないよう、丁寧な仕事をしよう。  気負わず、逸らず、一つ一つをしっかりと。  よしやるぞ。 「おーっ、きたきた! 戻ってくるの遅かったじゃないか、さては二人で紙パでジュース会でも開いてたな?」 「ん、湊にユーシェ? なんだ、まだ残ってたのか」 「ええ、今日からしばらくルナが制作に入ると聞いて、その光景を温かく見守ってさしあげようと思いましたの」 「私はこの学校入ってからまだ服作ってないから、見学させてもらおうと思って」 「暇か、君らは」 「ルナは〈型紙〉《パターン》を引くのが苦手ですわよね? どんな無様なものを書くのか確かめてあげますわ、オーッホッホッホ!」 「…………」 「残念だったな、私には朝日がいる。そして朝日はやる気満々だ! そして私も丸投げする気満満々だ!」 「えっ」  さっきは、ルナ様もやるって言ってたような……もちろん任せてもらえるなら嬉しいけれど。 「私たちも手伝おっか? 毎日ただ見学させてもらうだけじゃアレだし」 「ありがたいが、クワルツ賞の規定として『個人の制作物』扱いになるから、手伝ってもらっても世間に名前が出るのは私だけだぞ。それはユーシュと湊に申し訳が立たない」 「ユーシュと湊……? あら、瑞穂は仲間外れですの?」 「私はルナからモデルを依頼されてて。コンテスト用の衣装を着られるなんて、ちょっと楽しみ」 「あ、そうか。瑞穂お嬢様はこの中で一番背が高いから」 「そうだ。スタイルも申し分ないし、頼むなら瑞穂しかいないと最初から考えていた。胸が大きすぎるのは、モデルとして短所だが」 「そんな、普通だから」 「あん?」 「数字で言えば私と2cmしか違いませんものね」 「ああん?」 「でも身長で言えば朝日のが高いよ? それにサーシャさんとか北斗さんとかもノッポさんだよね」 「朝日に関して言えば、彼女はまず制作の方で欠かせない人材だ」 「制作するひとはモデル出来ないの?」 「駄目ではないけど、別にした方が着たり脱いだりの手間が省けて効率的なの」 「あ、なるほどだ! たははごめんね、ホラ私、ど素人だからさ」 「ちなみにサーシャや北斗に関して言えば、彼女らはそれぞれの主人の作品が大舞台へ出るときまで、温存されるべきだと思ったんだ」 「そもそもサーシャは今回のコンテスト規約に照らせば男性ですわよ」 「というわけだから瑞穂が適任なんだ。この一ヵ月で痩せたり太ったりしてくれるなよ。サイズが狂う」 「瑞穂はデヴですものね。太らないようにお気をつけあばずれ」  サーシャさんと北斗さんが廊下の方へ向かっていった。  しばらくして、外から剣戟の音が何度も聞こえてきた。  もはや日常の一部なので、僕らにとっては環境音という扱いになっていた。 「というか、君たちは本当にこれから毎日、私の制作を見守るつもりなのか」 「ええ、そのつもりですわよ。ああ待ち遠しい、さっさと醜態を晒してくださらないかしら」 「ふん、私の専属メイドを舐めるなよ?」 「始めろ朝日! ユーシェの前で私に恥をかかせるな!」  僕はこの時点で、ルナお嬢さまはすっかり御自分でやる気をなくされてしまったのだなあと思った。 「ルナ……貴女、ある意味もう十分に醜態を晒してますわよ……」 「まったく、仮にも自分の作品でしょう? 〈他人〉《ひと》に任せてばかりいないで、少しは貴女の手も加えてはいかがですの」 「ほう……一応聞いておくが、そこまで言うからには、ユーシェは自分で〈型紙〉《パターン》を引けるんだろうな?」 「…………」  それまで得意気だったユルシュール様は、窓の外へ目をやり、何も言いかえさなかった。彼女も型紙を引くのは苦手みたいだ。 「まあ、そこまで言われてはやらざるを得ないな……朝日。瑞穂のボディを運んでこい」 「ボディ? え、あの、いきなり立体裁断で進めるのですか?」  シーチングを広げかけたルナ様の体がぴくりと震えた。他のお嬢様方は反応しなかった。 「あ、朝日が、その……立体裁断の方が良いと言っていたから、朝日のやり方に合わせようと思ったんだ」 「はい。このデザインならその方が良いかと思います。ですが、最初の段階では普通に型紙を引いて、基礎的な部分を作ってから、徐々にディテールを加えていくという形の方が良いのではないでしょうか」 「オーッホッホッホ! やはりそうですわよね、私もその方が良いと最初から思っておりましたの! ええ、本当に思っていましたわよ! 思っていましたとも!」  ユルシュール様が鬼の首を獲ったかのように喜びはじめた。くるくると優雅にターン(×3)を決めた。 「出だしで挫けるとは、始めから味噌が付いてしまいましたわね! いい気味ですわ、オホホホホ!」 「スカートめくって待ち針で上着に止めてやれ」 「なんてことするんですの!」  下着の後ろ側を丸出しにされたユルシュール様は、慌ててスカートを下ろそうとした。けど待ち針を抜くことができず、下着が丸見えの状態でもがいていた。サーシャさんがいないから取ってくれる人がいなかった。 「喧嘩はあくまで口で言い負かすことを信条としている私が、うっかり肉体的攻撃を加えてしまうとは……」 「くっ、ここまで腸が煮えくりかえったのは久しぶりだ。この上ない屈辱だ。もういい、朝日が進めろ」 「はい。かしこまりました」  じゃあ、どうしよう……土台になるパターンは、プリンセスラインのワンピースかな。まだこの学校では習ってないから、以前学んだときのノートを使うことにした。 「では始めます。というか、見られながらだと少々やり辛いですね」 「ほうら見ろ、朝日がやり辛いと言っている。君たち、少しは遠慮したらどうだ」 「わ、これ朝日が昔使ってた〈型紙〉《パターン》!? 見せて見せて! うわすごい、めっさ丁寧に書いてある。線の引き方とか、書きこみとか超綺麗なんだね。惚れ惚れしちゃうね!」 「私にも見せてください。わあ朝日、すごい。普段からこれだけ丁寧にノートを取ってるの? 字はその人の性格を表すと言うけど、朝日の字は素直で繊細でとても綺麗」 「湊様、瑞穂様、ノートを取りあげられては型紙が引けません。何も見ずに書くのは無理です」 「わざとか? わざと邪魔してるのか?」 「そんなつもりは少しもないけど、この近くに全国でも有名な職人さんのいる甘味処を見つけたから、朝日を連れていってあげようと思って」 「帰れ」 「あ、私も甘味処行くー! 朝日が終わるまでメニュー選びながらここで待ってるね!」 「出ていけ」 「いい加減、待ち針を外してくださらない!?」 「黙れ」  ルナ様と他のお嬢様方は、放課後の過ごし方について喧々囂々の言い争いを始めた。  でもルナ様が彼女たちを引きうけてくれたお陰で、その声をBGMに作業を進めることができた。 「ルナ様、まだ残っていらしたのですか。もうそろそろ職員たちも帰る時間ですので、これ以上は私から残業の申請をしなければならないのですが」  時間を忘れて集中していたら、教室へ来た八千代さんの声で我に返った。 「ん、もうそんな時間か。ところで山吹教諭、学校内では生徒として扱って欲しいと言ったはずだが」 「この顔触れなら良いかと。どういたしますか? まだ残って続けられますか?」  全員の目が、僕の顔に集中した。確かにいま作業をしているのは、僕一人だ。 「普段なら、屋敷では夕食の時間ですが」 「えっ!」  びっくりした。というか忘れてた。型紙を引くのに夢中になって、桜屋敷の家事のことをすっかり忘れてた。 「あああ、申し訳ありません。皆様の食事を用意するのは、私の役目なのに」 「何を言ってるんだ、朝日。主である私の制作を手伝うほうが優先事項だろう、家事は他のメイドに任せろ」 「実は昼方、直子へ連絡しておいたんだ。こちらの制作が終わるまで、しばらく朝日に家事をさせる時間はないと」  直子さんとは、八千代さんに次いで桜屋敷での勤務年数が長い、鍋島直子さん。今は代理メイド長のようなポジションになっている。 「ですが、その……」 「朝日? まさか私が参加するコンテストの衣装製作よりも、屋敷の家事を優先したいなどと馬鹿げたことは言わないだろうな?」  ルナ様にきつい目付きで睨まれた。それは尤もなんだけど、僕は首をふるふると横に振った。 「どちらを優先という話ではなく、両立できないものかと考えました」 「しなくていい。これからしばらく、授業時間と寝ている時以外は、私の衣装製作に全神経を集中しろ。まさか家事が息抜き代わりになるとは言わないだろう?」 「いいえ、仰る通りです」 「料理は趣味にもなっています。お出ししたものを皆様に美味しいと言っていただけると、とても満たされた気持ちになります。その後でのんびり入浴して癒されることが、私の楽しみでした」  僕を除く、その場の全員が目を丸くした。そしてすぐに重なる笑い声。 「君は本当に純粋なんだな」 「そ、そうでしょうか。ですが本音を言ったつもりです」 「わかった。君の気持ちは理解した。ただ、今はこちらの作業に集中して欲しい。申し訳ないが家事は控えてくれ」 「はい、かしこまりました。それがルナ様の意思であれば」  本当は今日の夕食メニューも決めてあったんだけど、それは一ヵ月後まで先延ばしになった。さよなら僕のチキンソテー。 「ちっ、あざといんだよ」  名波さんだけはぶつぶつと言っていた。 「さて、それではここまでにして帰るとしよう」 「はい。ただ、一ヵ月という期間は短く、今の内に進めるだけ進めておきたいのも確かです。今日は原型になる型紙ができましたので、瑞穂様のボディをお貸しいただけないでしょうか」 「え、私の? ひょっとして、朝日はこのあと家でも作業を続けるつもり?」 「はい。自分の手できちんと持ち帰り、明日は忘れず持ってまいります。ご迷惑はおかけしませんので、どうかお願いいたします」 「ルナ? どうすればいい?」 「朝日。気持ちは嬉しいが、パターンを誰に任せるかは決めてない。今は方針を固めようと思って、仮で君に任せているだけだ。まだそこまで力を入れなくていい」  あ……。  それまで夢の中で作業していた僕は、冷たい水でも浴びせられたように現実へ引きもどされた。  そうだった。僕が期待されているのは縫製の方で、パターンのような作品の善し悪しに関わる重要な役割を任されたわけじゃない。  そんなことも忘れていた。たまたま側にいて仮の作業を任された僕は、当たり前のように自分が受け持つ仕事だと勘違いしていた。 「パターンのことは正直、頭が痛いな。誰に任せるべきか悩んでるんだ」  僕のパターンの評価は10段階で10だ。  だけど……デザインに関してだって、成績だけで言えば満点だった。でも世界を舞台に活躍しているお兄さまには、まるで通じなかった。  ルナ様が今から向かおうとしている場所は、そういう外の世界だ。  だけど。  だけど、せっかくの機会だ。デザインはルナ様のものでも、自分の関わった作品が世界へ打ちだされる。憧れの場所で勝負できる。  ごくんと喉が鳴った。  入学して二ヵ月目、初めて自分で何かをしたいという欲が生まれた。 「んー、八千代は講師だから任せられないしな。となると経験者のサーシャ……」 「いや、駄目だ。ユーシェの使用人を借りるのは、私のプライドに触る」 「ふふん? どうしてもということであれば、今回だけは特別に貸してさしあげてもいいですわよ?」  ――あ、 「あのっ!」  思った以上に大きな声が出た。というよりも、素の声に近かった。慌てて口を押さえた。  だけど一度出してしまった声は消えたりしない。心臓がばくばくいってるけど、大きく足を踏みだすしかなかった。 「すみません、どうしても僕、屋敷へ戻ったあとも作業を続けたいんです」  明日になれば、別の誰かが任されてしまうかもしれない。自分をアピールできる機会が失われるかもしれない。  たった一度の機会は今しかないんだ。その覚悟で挑むことにした。 「……いま言った通り、朝日には『とりあえず』のものを用意してもらっているに過ぎない。そんな無理をして進めなくていい。授業は明日もあるんだ」 「いえ、やらせてください。たとえ仮のものでも、一時間でも先に進めておきたいと思います」  目に力を込めてお願いした。ルナ様以外の声が聞こえなくなるほど、必死になった。  そんな僕を見て、ルナ様はまるで子どものように目を輝かせて……。 「いいな」 「期待しているとは言ったが、そこまで覚悟を込めて付きあってくれるとは嬉しい。朝日、ありがとう」  僕の手を握ってくれた。どちらの体温かわからないけど、汗が滲むほど熱い。  その表情のまま、ルナ様は瑞穂様に顔を向けた。年頃の少女のような明るい表情だ。 「瑞穂に問題がなければ、私からも君のボディを貸してやってほしい」 「こちらもすぐに瑞穂のサイズのものをオーダーするが、発送されるまでには幾らか日がかかるだろう。それまでは、今あるものを使わせてもらいたい」 「授業が終わってから今までずっと型紙を引いていたのに、朝日は帰っても続けるの? 無理してない?」 「今日はここまでにしておいては?」という、瑞穂様の優しい気配りが伝わってきた。  でも今は、体の内側からエネルギーが湧いていて、疲れはあまり感じなかった。それよりも、自分がルナ様から期待されている喜びの方が遥かに大きい。 「お願いします。どうか制作を続けさせてください」 「よく言ってくれた。君に私の付き人をお願いして良かった」  その一言があれば、何時まででも続けれられる気がした。だってお兄様ですら認めた一流の卵が、この服飾の世界で他でもない僕を必要としてくれているんだ。  この学校の中で、初めて自分の居場所が見つかった気がした。  んん……袖は本当にバランス難しい……ぐし縫いもうちょっと強めの方が……。  うう……瑞穂様の胸の大きさがネックに……とと、こちらはモデルをお願いしてる立場なんだから、体型に文句を付けるなんてありえないことだ。僕の腕の問題だ。  ふう。  自分に出来る部分まで進めたら22時を過ぎていた。今日は屋敷へ戻ってから、本当に家事を何一つしなかった。  先輩方にお礼を言いに回ったら、誰も家事のことを気にする人はいなかった。ルナ様の快挙を祝って、僕の負担を減らすことで良い作品ができるならと、喜んで家事を引きうけてくれた。  ルナ様が実家から不遇な扱いを受けていることは、先輩方との雑談で耳にしてる。「ご両親も冷たいわ、お嬢様が世間で認められれば目を向けてくださるのかしら」と話していたから、皆、今回の成功が嬉しいんだ。  中には桜小路本家のメイドから格下のような扱いを受けて、憤慨している先輩もいた。「なんとか鼻を明かせればいいのに!」と語気を荒くして話していた。  そしてその機会がやってきた。今まで公の場で脚光を浴びたことはないけれど、いざ表舞台へ出てみれば、僅か二ヵ月でそのチャンスを掴んだんだ。  来月号の「クワルツ・ド・ロッシュ」には、ルナ様の作品が名前と一緒に掲載される。本家の人たちも目にするだろう。  仕えている側として、主人の成功は喜ぶべきことだ。それが自分たちのプライドにも繋がる。モチベーションも高くなる。今回の件に対しては、屋敷全体で意思が統一されつつあった。  となると、作品本体の制作に関わる僕は、割と重大な位置にいるわけで。自分で立候補したとはいえ、とんでもないことをお願いしたものだ。  仮で作るためのシーチングでできた衣装を見て、果たしてきちんと進められているのか心配になってきた。見た目的には問題ないと思うけど、判断するのはルナ様だからなあ……。  駄目だ、やっぱり気になって仕方ない。途中まででもいいから、ルナ様に見てもらいたい。  ルナ様に相談する振りをして反応を見よう。もしこの仮の衣装を見て眉をしかめたら……型紙を引くのは諦めて、縫製に従事しよう。  期待に添えなかったとしても、それが今の僕の実力だ。どんなに背伸びしたって変わらない。 「才能」に縁がないのは慣れてるじゃないか。少しの不安と、大部分は開き直りの心境に至って、ボディを抱えて部屋を出た。ルナ様のもとへ行くためだ。  その不安の反面、僅かな期待が胸のどこかにあることは否定できなかった。 「朝日?」 「ルナ様。リビングに居らしたんですね」 「スケジュールを八千代に相談してたんだ。制作に関わらせるのはマズいが、この程度のアドバイスなら構わないだろう」  机の上のA4用紙に仮縫い、裁断、表身頃縫い、裏身頃縫い……作業の工程が無数に書いてある。工程表なんて前の学校では作ったことないけど、ルナ様は衣装製作が初めてだから、色々準備しておきたいのかな。 「ところで朝日、それは……」 「え? あ、これはまだ途中ですが、相談したいことがあって持ってきました」  持ってきたボディをよっこいしょと床に置く。 「これだけ胸が大きいと、ウエストへのラインを美しく出すのに苦労しています。それと袖を付けると途端にバランスが崩れて……」  ボディに着せた仮の衣装を見せながら相談する。その途中で、ルナ様と八千代さんが僕が説明しているのと違う箇所を見ていることに気が付いた。 「え、あれ? ルナ様? 八千代さん?」 「あ……いやすまない。相談内容よりも、衣装の出来に気を取られていた」 「えっ」  あ、心臓鳴った。  仮とは言え、自分の作った衣装をルナ様に見られると思うと、緊張がむくむく湧いてきた。  駄目なら仕方ないなんて思ってたけど、自分の想像以上に期待していたみたいだ。ルナ様の次の言葉が聞きたくて仕方ない。  怖いけどドキドキする。落ちつこう落ちつこう。過剰な期待は厳禁だ。 「朝日。君は部屋へ戻ってからも、一人でここまで進めていたのか。随分と丁寧な仕上がりだな。仕事が几帳面だ」 「えっ」 「ここまで綺麗なものができるとは思わなかった。朝日にこんな才能があったのか」 「はぃ……ええ?」 「私のデザインを具現化すると、こういう形になるのか。素晴らしいな」 「ええ、針の止め方一つでも、同じ向きに揃っていて好感が持てます。生地の合わせ方も1mmのズレもないと思えるほど丁寧です。仮縫いなんてもっと雑でもいいのに」 「ラインがとても綺麗だな。なるほど、立体裁断でこれほどのものが作れるのなら、机の上で作図をうんうん悩みながら書くより、朝日の感覚で進めてもらった方が遥かに早く進むな」 「これから先も頼む。朝日に期待している」  これから先……僕はいつまでルナ様の側にいられるんだろう。そんなことを考えていたら、主が目の前にやってきた。 「今回は全て朝日に任せた。サポートはいるか?」 「いえ……まずは、一人で進めてみたいと思います」 「わかった。必要なものがあれば何でも言ってくれ。私の手が必要なら貸そう。その代わり、私には朝日の手が必要なんだ」  その言葉通り、ルナ様は僕の手を物理的に握った。  じんと胸が熱くなる。いけない。まだ涙を流すような段階じゃない。ただ役目を与えられただけなんだ。  だけど、自分の憧れた世界に居場所を与えられた喜びは、他の世界の自分を全て捨てても良いと思えるほど強力だった。 「ルナ様のお役に……」 「ん?」 「ルナ様のお役に立てるよう頑張ります。出来る限りの努力をいたします」 「そうだな。その技術を私のために捧げて欲しい。もしそれが形になれば、君の努力に報いるだけのことはするつもりだ」 「いえ……ルナ様からは充分なものを与えていただきました」 「ん? 話が見えない。なんだそれは。ポエムか」  いいえポエムではありません。僕が与えられたものは「他人から必要とされる」こと。生きていくために何よりも大切なことです。  だけどまだ本当に必要とされたわけじゃない。与えられた役目をこなしてからだ。 「私にルナ様の期待に応えられるだけの力があれば、惜しみなく注ぎこむつもりです」 「私に尽くしてくれるのは非常にありがたいが、君が与えられたものってなんのことだ。まずはそれを説明しろ。君の悪いところは、時々一人で勝手に納得して、私への説明が足りないところだ」 「私がいただいたものは愛情です」 「いや与えてない」 「愛情とは、本人の意識しない部分から自然と滲みでるものです」 「君は……そっちのケはないだろうな?」  僕の回答にルナ様は首を捻っていたけど適当に嘘をついておいた。ただの使用人がルナ様に「必要としてください」なんて求められない。  彼女から求められるために、自分を高める努力をしよう。 「あ、三人で何を話しているのですか? 楽しそうなお話なら、私たちも混ぜてください」 「ん、何だ君たち。一緒にいたのか」 「うん。二階でルナの一次審査通過について話していて。そうしたらリビングの方から声が聞こえたから」 「学院長も言っていた通り、一次審査の通過程度ではしゃいでいるのかと思って、笑いにきてあげたのですわ」 「や、普通におめでと言いに来ただけ」 「そうか、じゃあ素直な湊と瑞穂にはお菓子と紅茶を用意しよう。私を笑いに来たユーシェを持てなす義理はないからな」 「ですわ!?」 「八千代。『ピエラナイ・エルメ』のマカロンがあったな。紅茶と一緒に私の分と、湊と瑞穂に出してやってくれ。いいか、三人分だ。絶対に三人分だ」 「かしこまりました」 「かしこまらないでくださらない? ピエラナイのマカロンなら私も食べたいですわ。何より私だけ仲間はずれにしないで欲しいですわ。ルナ、私にも淹れさせなさい。私も混ぜて欲しいですわ」 「断る。八千代、ユーシェには鰐田製菓のとても美味しいわさびの柿の種を出してやれ。私の好物のひとつだ」 「かしこまりました」 「どうしてかしこまるんですの!」  だけど八千代さんは、6袋詰めの柿の種を置いてキッチンへ向かってしまった。ユルシュール様は悲しそうな顔でそれを食べていたけど、鼻がツーンとしたらしく、より酷い顔になっていた。 「ユーシェのお陰で得しちゃった。マカロン楽しみだなあ……ん?」  鼻を押さえるユルシュール様をさておき、湊はうきうき笑顔で室内を見渡した。その途中で、僕の隣にあるボディに目を留める。 「そういえば来た時からあったけど、朝日の隣に置いてあるそれは何じゃい? なんか服みたいに見えるけど」 「服だ。仮縫いの途中のものを持ってきた……もしかして、立体裁断を見るのは初めてか?」 「初めてじゃないけど、じっくり見たことなくて。立体裁断って、直接生地着せて、直接切ったり止めたりするんだよね。なんか出来たもの見てると簡単そうだけど、めっちゃ難しいんでしょ?」 「めっちゃどころか、立体裁断はセンスがもろに反映されるから、良い物ができるかどうかは、本人次第と言ってもいい。平面作図は計算でできるが、立体裁断は感覚だ」 「うん。はい。よくわかんない。でもこの服がきちんと形になってるのはわかる。これが適当な布じゃなくて、本番用の布だったら、もっと綺麗なんだろうね」  誉められた。続いて、瑞穂様とユルシュール様の視線も僕に向けられる。 「朝日が? すごい。まだ途中だと言っていたけど、今の段階でも良い出来だと思う。詳しくない私の感想では、頼りないと思うけど……」 「私の前の学校にいた他の生徒と比べても、成績優秀だった方々に引けを取らないと思いますわよ」 「本当? 朝日、ユーシェが誉めてくれるなんて喜んでいいことだと思う」  ここまで誉められ続け、慣れてない感覚に僕は照れて言葉を返せなかった。だけどそんな僕を見て「ですが」とユルシュール様が付けくわえる。 「朝日はデザイナー志望でしたわよね? パターンの成績が良い人が必ずしもデザインの成績が良いわけではないですわよ?」  少し上がり気味になっていたテンションが、ここでずどんと落とされた。しかもかなり痛い部分を突かれた。 「パタンナーに必要なのは、平面である生地が人体に着られて立体になる想像ができる、現実的な空間把握能力ですわ。現実とはかけ離れた想像力を必要とされるデザイナーとは、むしろ逆の才能が求められますの」  つまり僕はデザイナーとしての……本当になりたいものの才能は推して知るべし、ってことだ。 「ユーシェ。そゆこと言わない。せっかく朝日のこと誉めてたのに」 「でも真面目な朝日にはパタンナーの方が向いていると思いますわよ?」  ユルシュール様の話し方は、決して嫌味を口にしている風ではなかった。それよりも、僕の才能を認めてくれているかのような口ぶりだ。 「デザイナーに向いているのは、現実を全く無視して、周りにエゴと馬鹿みたいな理想を押しつけて、それでも平然とできるような図々しい神経を備えている、才能以外の部分は最低なタイプのルナのような人間ですわ」 「八千代、ユーシェがわさびのおかわりをご所望だ」 「パタンナーに向いているのは、デザイナーの無茶ぶりを根気良く理解して、可能な限りの理想を実現させてあげるために最善を尽くす、健気さという名の忍耐力と素直さという名の対人関係能力のある人ですわ」 「朝日じゃん。まんま朝日じゃん。え、なんか私も、デザイナーよりそっちの方が向いてる気がしてきた」 「それとパタンナーには、数字と睨みあいのできる計算力と、1mmの誤差を一時間かけてやり直せる直向さが必要なのもお忘れなく」 「うあああー、そんな1mm単位での緻密な計算なんてできるかああー」  湊はソファーにばふんばふんと頭をぶつけた。その間に八千代さんが、四人分のお菓子と紅茶を運んできて、各お嬢様方へお配りしていた。 「おいしいですわー」  全員が紅茶を口に含むと、しばらくその香りの感想に話題がシフトし、衣装のことは一旦お休みになった。その間に僕はユルシュール様から言われたことを考えてみる。  性格の分析なんてそうそう誰にでも嵌るものではないけど、湊の言うとおり、僕の性格はそのままパタンナーに当てはまるのかもしれない。  今だってデザインをする時に、どうしても「これは形にしたところが想像できないから駄目」「これは縫製に時間が掛かりすぎて現実的じゃないから駄目」と制約を設けてしまっている。  それに比べてルナ様は自由だ。それは現実を見ていないという言い方もできるけど、何故か僕はそういう人に憧れる。自由な発想を持って、この世界では実現できないことを発信できる想像力に夢を持つ。  それなら、たとえばルナ様の描いた夢を現実世界で表現させようとするのは、僕が理想とした才能じゃないだろうか。  パタンナーの名前が世に出ることはほとんど無い。その仕事量や能力と比べて、あまりに報われない。  けど、でも、たとえ日陰の存在になっても、自分が憧れるようなデザインを形にできる能力を持てるなら、それは充分に素敵なことじゃないだろうか。 「私、やってみます」 「ん?」  マカロンに手を伸ばしたルナ様の動きが止まった。 「この衣装を最後まで受けもちたいです。そして私がルナ様の納得できるものを作りだせるのなら、今後も型紙を引いていきたいです」 「あの、もちろんデザインも続けますけど」  話題が変わりかけていた中での告白は、この場に少し間抜けな空気をもたらした。  でも……僕の気持ちを察してくれたわけじゃないだろうけど、ルナ様はお皿の上のマカロンを手にして与えてくれた。 「『納得できるものを作りだせるのなら』じゃない『作りだします』だ」 「はい」 「そのマカロンは、先払いの褒美として朝日が食べていい。それと、朝日が優秀なパタンナーとして成長するなら、私は君を離すつもりはない。一生大切にしてやる」  思わず顔が赤くなった。だってそんな『一生大切に』なんて言われたら。  まだ、自分の才能が認められたわけじゃないけど、そこまで僕に期待して、必要だと言ってくれるなんて。心から嬉しい。 「〈型紙〉《パターン》を朝日に任せられるなら、私としては心強い。後は生地だが、テキスタイルは金にものを言わせればなんとでもなる。他の候補者には悪いが、財力は私の武器だ」  工場を抱えるルナ様がその気になれば、特注の生地を最優先最速で作らせることができる。どんな特殊加工も工場レベルで思いのままだ。  そんな万全の体制が整っていく中、不満そうな表情を浮かべていたのは湊だった。 「む、むむむ……!」 「わ、私も! 私だって頑張るよ?」 「え?」 「私も、ちょっとその、パタンナー? にも興味湧いてきたし、朝日と二人で同じ仕事やっていくのもいいかなーって!」 「そだ、この後でちょっと私にも、立体裁断教えてよ。思わぬ才能が開花するかもしれないし。部屋まで来て」 「あ、はい……構いませんが」 「私は構わなくない。朝日の邪魔をするな。私の付き人の時間を奪うな」 「あら、それでしたら、私も朝日と話したい大切なことがありますの。このあと部屋まで来て欲しいですわ」 「え……」 「それなら私は、朝日の部屋で一緒に寝ますね」 「張り合うな。朝日、拒否しろ。付きあわなくていい」 「えーでも、私もこの学校に入って、色々悩み始めてる時期なんだよ。ほら五月病って言うの? だから相談に乗ってよ! 頼もう!」 「私も大切な話だと言ったでしょう。朝日にとって悪い話ではありませんわ」 「一度、朝日と朝まで話してみたくて」 「うーん……わかった、湊とユーシェなら許可する。ただし瑞穂は駄目だ」 「酷い!」 「ただ時間も遅いし、どちらかだけだ。あとの一人と話すのは明日にしろ」  え、そんな……どちらか選べと言われても。けど湊もユルシュール様も真面目な顔してるし、断れそうもない。 「本格的な五月病ですと明日の授業にも関わりますし、今日は湊様のお話を聞きます」 「やたっ」 「話が早く済んだら、私の部屋を訪ねてくるといいですわ」 「その後、私の部屋で夜通しお話するのも楽しいと思う」 「朝日の時間を無駄に奪うな」  三人はこの後も雑談するみたいだ。僕は湊と二人でその場から離れた。 「よく考えたら、ボディとシーチングがないと、立体裁断は教えられない……」 「たはは。まあ仕方ない」  ボディはリビングに置いてきたし、シーチングは僕の部屋か生地置き場だ。 「取りに行ってくる」 「あ、ちょい待って。教材がないなら今日は仕方ない。うん、普通にお話ししよう」 「え? 立体裁断の勉強がしたかったんじゃ?」 「うん、それもお願いしたいけど。たまにはこう、二人で話す時間も欲しいなって?」 「五月病は……」 「治った。ままいいから、そこ座って」  湊が慌ててクッションを探しはじめた。僕も同じくらい慌てて湊を止めた。 「い、いいよ、湊はお客さんなんだし、僕が探すから」 「なんで。私の部屋のものがどこにあるかは、私が一番知ってるに決まってるって。てかお客さんはゆうちょの方だからね? 座ってってば」 「でも、僕はルナ様の使用人で、湊は――」 「それっ!」  湊にズビしと指を突きつけられた。身長10cm差。目の前というよりは鼻の先。 「リビングで話してた時も気になってたけど! ゆうちょがルナの使用人してるのって演技なんだよね?」 「え?」 「ルナのために型紙がんばるとか言ったり、一生使ってやるとか言われて喜んでたり……今だって、私相手に使用人の演技する必要ないよ?」 「まさかとは思うけど、ゆうちょ、本気で自分のこと使用人だと思ってないよね?」  えっ……。 「ゆうちょは大蔵家の人間で、桜小路家の使用人じゃないんだよ? 」  そんなつもりはないし、湊からそう見えてたなんて驚きだけど……あれ? でも言われてみれば、ルナ様から期待されて喜んでた?  や、や、それは違う! 期待されて喜んだのは、新しい自分の可能性を見つけたってだけで、そんな、身も心も使用人なんてことはない。 「違うよ、型紙に関しては、自分の技術を誉められたのが嬉しかっただけで。それと湊の前で使用人みたいなことを言ったのは、演技の延長っていうか、勢いでつい」 「ふうん?」  湊にじっと睨まれた。目を逸らしちゃいけないと思って、真っ向から受けとめた。 「ま、ゆうちょがわかってるならいっか!」  そして数秒見つめあっていたら、湊はすぐに納得してくれた。クッション探しを再開する。  でもどっちかって言うと、しこりが残ったのは僕の方だ。使用人的な考えにはならないよう、今まで何度も否定してきたつもりだったのに。  ルナ様から認められた時、すごく嬉しかった。でもそれは、自分の居場所を見つけたからで、ルナ様に使ってもらえることを喜んだんじゃないはずだ。  そうだ。僕は大丈夫。大蔵遊星だ。小倉朝日じゃない。 「はいゆうちょ、クッション」 「あ。ありがとうございます」 「敬語だ――!」 「違うよ! 今のは本当にうっかりだよ!」  き、気を付けないと……。 「大切な話とのことですし、ユルシュール様にお付きあいいたします」 「損はさせませんわよ」 「むー。じゃあ私とは明日ね」 「私とは明日の夜ですね」 「だから朝日の邪魔をするなと言っている」  二人に説教するルナ様を横目に、僕はユルシュール様の後に続いて、彼女の部屋へ向かった。 「そこへ座るといいですわ。今日は私と対等な立場で話すことを許可します」 「はい……ありがとうございます?」  ユルシュール様は子どもみたいに笑って機嫌が良さそうだった。 「朝日。貴女の〈立体裁断〉《ドレーピング》の腕を、私は高く評価します」 「はい。ありがとうございます」 「宝石の原石を見つけた気分ですわ。ルナも気付いていなかったようですわね。全く迂闊な話ですわ」  どうしよう。認めてもらえるのは嬉しいけど、まだ結果も出してないのに過剰評価という気がする。 「というわけで、朝日がルナの下にいるのは勿体無いですわ。私の家へ来なさい」 「は!?」 「話というのはこのことですわ。この業界では、引き抜きなんて珍しいことでもありませんわよ。良い人材がよりよい環境を求めるのは当然のことですわ」 「桜小路家では、朝日に幾らお給金を払ってますの? うちなら倍額出してもいいですわ。使用人の仕事も求めません。私のパタンナーとして雇われてくれればいいですわ」 「えっ? いや、あのっ!?」  無理。ルナ様を裏切るなんてできないし、そもそも僕は使用人じゃないから。 「あ、あの、ユルシュール様の側にはサーシャさんがおられますので」 「サーシャには私の身の回りの世話をしてもらいます。朝日に頼みたいのは別のことですわ」 「申し訳ありません。せっかくのお誘いですが、その期待には応えられません」 「ルナを裏切れないからですの? 朝日は元々、あの子のデザインに憧れただけですわよね? 代々仕えているわけでもなし、ルナへの義理がそこまで強いわけではありませんわよね?」 「え?」  言われてみれば、僕は今後の一生をルナ様に捧げるわけじゃない。ユルシュール様から言われるまで、まるでそのつもりでいた。  もちろんお世話になった恩はあるとしても、だからと言って自分の全てを捧げるなんてのは極端だ。  というよりも、自分が一瞬でも、使用人としての立場を全うしようとしたことに驚く……僕はあくまで仕えている振りをしているだけなのに。 「私のデザインの方がルナよりも優れていると思ったら、いつでもこちらへ来ていただいて構いませんわよ」 「い、いえ、僕は卒業した後のことなら自分で……」 「その本棚の三段目の棚から、ファイルを抜きだしてくださらない?」 「えっ? これ……ですか?」  というか、言われるまで気付かなかったけど、ユルシュール様の本棚にはフランス語、ドイツ語、イタリア語、各国の本が並んでいるけど、全てファッションに関するものだ。  ユルシュール様は服飾の勉強に関しては本当にストイックなんだな……。  そして、彼女から言われた三段目には、似たような背表紙が沢山並んでる。これは一体? 「中を見てもよろしいのですか?」 「構いませんわ」  ぱら……と一頁をめくって、すぐに気が付いた。これはユルシュール様のデザイン画だ。  続けて、ぱらぱらとめくっていく。奇抜ではないけれど、どれもデザイン性に富んだ……既成品としても充分に通用するものが多い。やや前衛的なルナ様よりキャッチーだ。  色の使い方もいい。どれもが高レベルのデザインとして仕上がっている。  色彩の能力に関しては、ルナ様より上かもしれない……これはどちらかと言えば、着物のデザインが天才的な、瑞穂様の才能に近いのかもしれない。  そして何より、この棚に並んだファイルの数……五十冊は並んでるように見える。いま手にしているものにデザイン画が二十枚入ってるから、日本へ来てから描いたと考えると、二ヵ月で千枚以上!?  そんな素振りは全く見えなかったのに。短い時間でこれだけのレベルのものを仕上げたとすれば、この人もやはり天才だ。もちろん僕とは比べ物にならない。  デザイン画に見惚れる僕の表情が嬉しかったのか、ユルシュール様は上品に微笑んだ。 「悪い話ではなかったでしょう?」 「あ、いえ……あの」 「今すぐにという話ではありませんの。よく考えて、答えはその後でも構いませんわ」  初めはきっぱりと否定できたのに、二度目の彼女の誘いは咄嗟に否定できなかった。  才能というものは恐ろしい。一度でも魅了されれば、人の理性なんて簡単に崩壊する。僕はぶるんと首を振った。 「オーッホホホホホ! いいですわよ、その反応! 私のデザインが朝日を惑わせているのかと思うと、大変心地がいいですわ!」 「ルナのものを奪うと思うだけで、より朝日が欲しくなってきましたの。私の方が朝日に執着してしまいそうですわ。快い返事をお待ちしておりますわよ」  ユルシュール様はやや熱のこもった息を吐きながら、僕の頬へ手を触れた。  う、ごめんなさいルナ様……一瞬でも心が動いてしまった僕は、とても不純です。 「誰が誰を惑わせているんだこの悪シュール」 「ですわっ!?」 「人のメイドを拐かすんじゃない。君はビッチか、尻の軽い女め。カルシュール。ウルシュール。ハルシュール」 「な、なぜ私が朝日を勧誘しているとわかったんですの!?」 「たったいま大声でオホホと笑って、心地がいいとか叫んでいただろう。ほら帰るぞ朝日。ユーシェと二人きりにさせた私が馬鹿だった」 「朝日。良い返事をお待ちしていますわよ」  最後に投げかけられた言葉を聞いて、首を横に振った後で頭を下げる。それが終わるか終わらないかの内に、ルナ様の手に引かれて廊下へ連れだされた。 「はあ、驚きました。ルナ様、お騒がせして申し訳ありません……ルナ様?」 「君、惑わされてないだろうな?」 「は?」 「ユーシェの言葉に耳を貸したりするなよ? 君は私のものだ。彼女に渡すつもりはない」 「は、はい」 「全く、当家の使用人に手を出そうとするとは……油断も隙もないな」  あ、やっぱり「朝日」じゃなくて、大切なのは「当家の使用人」か。当然と言えば当然だけど。  でも守ってもらえるのは、必要とされてるってことで、それなりに嬉しかったかな……。  って僕は使用人じゃない。この考えはいけない。 「朝日は私の従順な使用人だからな」 「はい、その通りですルナ様」  認めちゃいけないのに、返事はしないといけないこの悲しさ……うう、染まらないようにしないと。  ここを詰めて、胸の切り替えから膨らませて……。  ベースが出来れば簡単だと思ってたけど、付けては外し、外しては付けの繰りかえし。フレアもギャザーも何箇所もあるから、生地がどれだけあっても足りない。  もうほとんど原型留めてないし、これは思ってた以上に大変だなあ。  少し休憩しよう。作業の合間に一呼吸いれた途端、疲れていることを自覚させられた。  時間は何時だろう……わっ、もう2時だ。明日の朝は5時起きなのに、三時間しか寝られない。  あ、でも家事はやらなくていいんだっけ……ルナ様から直々に伝えていたことだから、先輩方に迷惑が掛からないためにも、遠慮はしない方がいいだろうし。  でも初日くらいは朝礼に顔を出して「衣装製作に集中いたします」という断りを入れた方がいいだろうか。  うん、そうだね。初日くらいは。それじゃ明日はやっぱり5時起きだ。  未練はあるけれど、今日の制作はここまでとすることにした。そして目の前の仮衣装を見て、ふと気付く。  あ……このままじゃ瑞穂様のボディが使えない。衣装を脱がすだけでも相当大変だけど、彼女が授業を受けられなくなるから、持っていかないわけにもいかない。  しまったなあ、盲点だった。次に着せるとき、今のままの状態にしてから始めなくちゃいけないし、それもちょっと苦労しそうだ。  でも。面倒だとは思わなかった。それどころか小さな笑いさえこぼれる。  楽しい。疲れを忘れるほど衣装製作に打ちこんだのはいつ依頼だろう。初めてデザイン画を描いた時みたいなわくわく感が止まらない。  それはきっと、やりたいことを始める時に誰もが持つ高揚感。睡眠を忘れるほどの充実感。  僕は決してパタンナーになりたかったわけじゃない。だけど、この世界で必要とされる喜びが、デザイナーへの夢よりも今は勝ってる。  困ったな。すぐに片付けをして寝なくちゃいけないのに、眠気を全く感じない。  ベッドに入って頭を空にしようと試みたけど、手を動かしたい欲求は止まらなかった。 「ん……タックが……ダーツが……身頃の形が崩れ……ぱつぱつ……」 「あさひっ。あーさーひっ」 「うう、胸に線が走って……シルエットが綺麗にいかない……瑞穂様の胸が……大きすぎ……」 「あさひっ! だめだぁ。七愛、仕方ないからこっそり起こしてあげて」 「湊お嬢様直々のお達しで、刺していいって……さよなら小倉さん、あなたのことは、あなたを刺したこのシャーペンを見る度に思いだすから……安心して、逝って」 「あ! こら七愛だめ――!」 「ひぐうっ!?」 「…………」  学年全員が集まっての講義の授業。思わず漏れた素の声に、ホール内の生徒全員が音源に視線を向けた。  そしてすぐに、自分が居眠りしていたことに気が付いた。 「も、申し訳ありません……体を伸ばしたら、つってしまいました」  仕方なく適当な嘘を付いた。授業中に座ったままで痛みを感じることなんて、他には「切れ痔」しか思いつかなかったからだ。お尻の事故よりは、筋肉がつったと思われた方がまだいい。  まだ授業中だったから、皆の興味はすぐに黒板へ戻り、講義の授業は再開された。  ああいけない、居眠りしてしまった……。 「こら七愛! シャーペンで刺すなんてあんまりだよ!」 「ですが湊お嬢様……あのまま寝ていれば、見つかった時は小倉さん、引いては桜小路家の恥となります……全メイドを見渡してみても、居眠りしているのは小倉さんだけです……」 「お、仰るとおりです。名波さんには感謝いたします。今後は気をつけます」  それと悲鳴も気を付けなくちゃ……いくら意識がなかったからって、あれじゃ男だってバレるよ。 「みっともないところをお見せしました……桜小路家の名を辱めるような真似をして、申し訳ありません」 「私は桜小路家の恥になろうと構わない。最近の朝日は全てを完璧にこなし過ぎて、みっともないところを私に見せてくれなかったからな。からかい甲斐がないと思って退屈してたんだ」 「い、いえ、もう居眠りはいたしません。ルナ様の付き人ともあろう私が、居眠りをするなんてとんでもないことです」 「本当か? 本当なら、もし次に居眠りしたら、この机の下でスカートの裾をギリギリまでめくれ」 「かしこまりました」 「かしこまらない方がいいよ! ルナもなんでそんなOSSANくさい注文つけるの!?」 「だったらOSSANくさい注文以外で、朝日を困らせる方法を他に考えだしてくれ。居眠りの罰にならない」 「うー……ん。肉体攻撃系は駄目だし、まずいものとか辛いもの食べさせるのはここじゃ出来ないし……逆立ちとか階段うさぎ跳びとかも今は無理だし……」  湊は真剣に考えこんでいた。お仕置きを止めてくれようとはしないんだね。  でも僕が居眠りしなければいいだけの話なんだ。そもそも授業中に居眠りするなんて、使用人としてあるまじきことであって……。  う、でも、今日の講義のファッション史、前の学校のテストで満点取ったところだ……知ってることばかり話されると……ううぅ。  駄目だ……眠るとルナ様に恥をかかせることに……そしておっさんのような罰が……ううん、今はおっさんよりもルナ様の名誉が大切……なのに……。  うう、ルナ様……おっさん……僕は……ああ駄目だ……ルナ様とおっさんの顔が混濁する……。  僕の大切な……おっさん……ルナっさん……。 「フフ、もう居眠りしている。かわいい寝顔だ。えい、頬をつっついてやれ」 「頬をつっつくなんて、すごく仲の良い友達みたい。私も一緒に。えぃ」 「あ! ずずずるい、それなら私も……ぇい」 「あ、いけない……他の生徒に注目される……起きて、小倉さん……徒爾であるから、七愛はやるべきであった。南無三」 「ひぁんっ!?」  焼けるような痛みが肌に走った。シャーペンを相手の腕に当て、ちょっとだけ出した芯を親指で弾きとばす……古典的だけど、けっこう痛い。 「もみゅ、みょうしわけありまひぇん……」 「眠そうだな。でも罰は罰だ。めくれ」 「はひ……これで、良いでしょうか」 「ふぬおあぁああーっ! 朝日の、朝日の綺麗な腿と、スカートをめくる艶めかしいポーズが、なんかやだーっ!」  湊はごん、ごん、ごんと机に三回頭をぶつけた。音量が出ないようにスピードは殺していた。 「ああ、かわいそうな朝日。大切な体を雑に扱われて……私なら、居眠り程度なら許してあげますわよ。たかだかその程度のことで怒るなんて、思いやりのない主人ですわ」 「私だって最初から怒ってない。朝日が毎日、短い制作期間で衣装をなんとか間に合わせようと、夜遅くまで努力していることは知っている」 「ただし罰は罰だ。主人として、本人のためにもけじめをつけて接しなければならないだけだ」 「朝日。こんな酷薄な主人よりも、私のもとへ来た方が貴女のためですわよ。我が家の薔薇園に咲く花たちのように、たっぷりと愛でてあげますわ」  僕は立体裁断の腕を認められて以来、ユルシュール様から毎日の如く猛烈なアプローチを受けていた。  型紙の腕を認められる前までは、薔薇に集るハダニのような扱いだったのに。今では恋する相手を口説くジェンティルオーモ(イタリア人)のような情熱で声を掛けてくれる。  正直に言えば、ユルシュール様のデザイン画を見せられてから、僕もこの人と一緒に衣装を作りたいと思った。高い才能を持った人から勧誘されるのは悪い気分じゃない。ただ、ルナ様を裏切れないだけで。 「朝日、今朝までの途中経過は見ましたわよ。たった三日であのこまっしゃくれたデザインをあそこまで形にするとは、紛れもなく本物の才能ですわ。あの衣装が終わった後で構いません。ぜひ我が家へおいであばずれ」 「あそばせ、だと何度言えばわかる。それとユーシェ、私の前で堂々と引き抜きをするとは、いくらなんでもマナー違反が過ぎる。そろそろ腹立たしい、いい加減にしろ」 「ルナが朝日を大切に扱えば、私だってこんな真似はいたしませんわ。私は将来、自分にとって大切になるであろうこの身体が、適切な罰以上に傷めつけられることに、ひどく心を痛めているだけなのですわー」  白々しく悲しむ振りをしつつ、ユルシュール様は突然に僕の腕を抱きしめた。本当に熱烈なアプローチだ。 「あ、あの、ユルシュール様。女性同士とはいえ、恥ずかしく思います」 「嫌ですわ、離しませんわ。比喩的にも言葉通りの肉体的にも、私の大切な、大切な右腕なのですわ」 「ユーシェ。君のその重い肉体をぶら下げたせいで、朝日の仕事に支障が出たらどう責任を取るつもりだ。まだまだ型紙は完成していない。邪魔をするなら、せめて私より軽くなってからにしろ」 「私が太っているかのような扱いですわね。それは瑞穂を蔑んでいるのと同じことですわよ? ね?」 「ユーシェ? そろそろ私が太っているという扱いをするのはやめてくださいね?」  ああ、またそんなことを言うと、サーシャさんと北斗さんが二人で校舎裏に。最近はその剣戟が面白すぎて、二人の決闘を待ちかねてる生徒たちもいるって話だけど。 「それにしても……友人が認められるということは、〈傍〉《そば》で見ている私もとても嬉しい。朝日、おめでとう」 「いえ、まだ何かを完成させたわけではありませんし、もしも私にこの道の才能があるのなら、より高い技術を身に付けてルナ様のお役に立ちたいです」 「ユルシュール様でもよろしくてよ。ああでも、その一途なところも好感度高いですわ。私に仕えたら、私のことも一途に想ってくれるのかしら」 「黙れ。朝日がユーシェに仕える未来なんて今世紀中には無い。そして、そろそろ当家のメイドから離れろ」  だけど二人が言い争っている内に、僕たちは教室へ着いてしまった。ユルシュール様は満足そうに微笑みながら僕を解放してくれた。 「ううぅ、デザイン力が、デザイン力が欲しいっ……それか、瑞穂のように寛大な心が欲しいだよ……」  湊の好意も嬉しいけど、ごめんなさい、僕はルナ様の使用人なんだ。  さ、次の授業は僕の好きなデザイン画だ。衣装製作のこともユルシュール様の勧誘もあるけど、この時間中は全て忘れて授業に没頭できそうだ。  没頭できなかった。  大好きなデザイン画の授業だったはずなのに、ルナ様の衣装をどう作ろう、どうすれば良くなるだろうということしか考えられなかった。放課後の時間が待ち遠しい。  ただこれって、ルナ様が優秀で、僕に尋ねなくても授業を理解してくれているから問題ないけど、本来の僕の役目である「ルナ様の授業のサポート」としては落第点だ。  もっとも、最初から「他の生徒にできることを朝日に頼るつもりはない」と言ってるルナ様は気にしないだろうけど。でも、だけど、自分の意識の問題として反省しないと。  そして、それとは別に、僕の大好きだったデザイン画の授業よりも、衣装製作の方ばかり気になるなんて……自分の得意科目だとわかったからって、不純だな、僕。 「人には適材適所というものがある」  その放課後。まだ仮の生地でできた衣装をボディに着せる僕を見て、ルナ様は言った。 「今日のデザイン画の授業、集中してなかっただろう」 「どうして私の気持ちがわかるんですか」 「どうしても何も。いつもデザイン画を描けるとなれば、目をキラキラさせながら私の声が届かなくなるほど集中していたのに」 「そんな朝日が、手を動かさず、一枚も仕上げず、エア立体裁断の動きをしていれば、君の気持ちを察するなという方が無理だ」 「お恥ずかしい限りです」  ルナ様に本音を見透かされていたなんて、付き人として情けない。 「いや、何も自分を否定する必要はない。私も叱っているのではなく、自分の好きな授業が疎かになるほど私の作品に身を入れてくれて、嬉しいと言っているんだ」 「はい」 「どうせ、今までデザイナーを目指していたのに、型紙制作を楽しんでいる自分が不純だとでも思っているんだろう」 「どうしてわかるんですか! 怖いです!」  そんなことまで顔に出てるはずがない。ルナ様の僕の心を読む力がおかしいんだ。 「朝日。花の命は短いと言うし、私に尽くしてくれている一途さ同様、君がデザインに対して真っ直ぐな気持ちでいて、だからこそ一時も無駄にしたくないという気持ちはわかる」 「ただ今回の衣装製作に関して、君は使用人である以上、私の手伝いをすることは義務だ。その上で楽しんでもらえたなら幸いだが、本来なら自分を殺して奉公してもらうべきことだ」 「だから君が私の衣装について、常に思考を巡らせていなければならないのは強制でもある。それを能動的に、自ら進んで没頭してくれるというのなら、今だけはデザインのことを忘れてみるのもいいんじゃないか?」 「はい……」 「二度繰りかえすことになるが、私は叱っているんじゃない、嬉しいんだ。だから今回の衣装製作において、君の益になることが一つでも見つかれば、私からの恩返しにもなる」 「楽しんで、尽くしてくれ」 「はい」 「君は純粋だ。だからこそ私は気に入ってる」 「気に入って?」  湊が反応してる。あの、好意は本当に嬉しいけど、ルナ様は僕を女としか見てないと思うよ。 「少し話が長くなったな。それじゃ今日も進めてくれ。私は送られてきた生地を確かめるために、職員室へ行ってくる」 「あ、いよいよ特注の生地が届いたんですか」  自分の工場で作らせた、ルナ様の衣装のための世界でただ一つの布。  今日の仮縫いが終われば、いよいよ裁断だ。世界に一種類しかない布を切るのは、長さに余裕があるとわかっていても緊張する。  そしてそれが終われば、ようやく縫製に入れるんだ。縫いはじめてしまえば、残りの作業は工業的なものになるから、後は時間との勝負になる。  そ、そのためにも、もうそろそろ今やってることを終わらせないと……ルナ様は「時間を掛けて丁寧にやれ」と言ってくれたけど、制作期間が一ヵ月しかないことを考えると、後ろはどんどん詰まっていくわけだし。 「朝日、それじゃ衣装に着替えてくるから」 「は、はい。お願いします」  モデルの瑞穂様にも、すでに何度か試着してもらってる。もうそろそろびしっと決めたいところだけど……。 「う、うーん、やっぱり胸からお腹に掛けてのラインがぴったりこない……でもこれ以上詰めると、呼吸するのが苦しいレベルになるし……」 「胸からお腹のラインって。うわ、めっちゃ触ってる。抱きしめてるみたくなってる」 「瑞穂様、申し訳ありません。もう少しきつく締めますけどよろしいですか?」 「てかシーチングの隙間から、めっちゃ下着見えてるし。うう、これなら私がモデルやればよかった。見られるのはやだけど、他の人の見てるのはもっとやだ」  湊様、申し訳ありません。もう少し口をきつく締めていただいてもよろしいでしょうか。  僕は男で、湊はそれを知ってる。男性が苦手だと公言してる瑞穂様に僕が触れるのを見て、抵抗感を覚えるのは仕方ないと思うけど……。  でもこれはコンテストに出す衣装製作で、照れるとか恥ずかしいなんて思う余裕はない。湊には後でゆっくり話すとして、今は自分のやるべきことに集中しよう。 「申し訳ありません瑞穂様、もう少し引っ張ります」 「朝日? だ、だいぶ体が締めつけられてきついけど大丈夫?」 「申し訳ありません。ですが、どうしても胸から下のラインが膨らんでしまって」 「うわ、それもうぎりぎりだってば。いま以上引っ張ったりなんかしたら、針が外れて服が分解しちゃうよ」  いや、さすがに分解したりはしないよ――  ――そう思った瞬間だった。  あっ。ああっ。僕が思ってた以上にきつきつだった。もしかして制作を焦ってたから、気付いてない振りをしていたのかもしれない。  服の構造が特殊なのもあって、しつけ糸と待ち針だけで止めていた仮縫いの服は、バラバラになって床へ落ちた。もちろん全部がバラけたわけではなく、脇が裂けたから、瑞穂様の足元まで服が落ちた。  後に残ったのは、下着しか身に付けていないモデル役だった。 「あ……この格好だと寒いかも。あとびっくりしちゃった」  こんな状況にも関わらず、瑞穂様はおっとりと驚いていた。こうなることを少しは予測していたのか、慌てている様子はない。 「もう朝日、だからきついって言ったのに」 「は、はい。申し訳ありません」 「でも人が少なくて良かった。これが授業中だったら、ちょっと恥ずかしかったかもね?」  くすりと笑ったかと思うと、瑞穂様は怒りもせずに床へ落ちたシーチングを拾っていく。 「み、瑞穂様、いけません! それは私がやります、それよりも服を着てください」 「そう? じゃあお願い。続きはまた縫いなおしてからでいい?」 「はい、すぐにまた縫いなおします。申し訳ありません、ご迷惑を掛けたばかりか、瑞穂様に生地まで拾わせて……」 「ううん、ルナの大切な衣装だから。生地を一枚なくしただけでも大変でしょう? 少しくらい寒くても、すぐ集めなくちゃと思って」 「瑞穂様は本当にお優しいですね。どうぞ、制服です」  瑞穂様が試着室へ姿を消すと、後には大量の生地が残った。  はあ、また縫いなおし……ていうかやり直しだ。きのう一晩かかって仕上げたのに。  だけどここで後ろ向きになっても仕方ないし、次に頭を移そう。生地を集めながら、別のことを考えるように意識を努めた。  すぐに思いついたのは瑞穂様のこと。彼女は僕に対して特別なついてくれてるけど、そうじゃなくてもルナ様のような友人と呼べる人を大切にしてるし、思いやりがある。  そんな瑞穂様は友達を作りたいみたいだけど、親友と呼べる人は地元にいないのかな? その手の話を聞いたことがないし、電話やメールをしている場面を屋敷でも学校でも見たことがない。  あんなにおっとりとして性格に嫌味がなければ、同性の友人は多そうだけどなあ。けどルナ様は、瑞穂様が友情に飢えてると言ってた。  家が厳格で、あまり友人と遊んだことがないのかな……。  そんなことを考えていたら、目の前に生地の一部が差しだされた。僕の知らない間に、床へ落ちた生地を集めてくれた人がいるみたいだ。 「瑞穂の下着見た……」  湊だった。目を眇めながら睨まれた。でもわざわざ近付いてから、しかも声を小さめにしているのは、きっと試着室の中へ声が届かないように気を使ってくれたからだ。 「ばいんって。生地がばいんって弾けた。それをゆうちょはガン見した」 「だって事故だもん、仕方ないじゃん……」 「仕方ないけど! でも、でもーっ! ううーっ!」 「あと湊……僕も問題あるとは思うけど、悪い気持ちは起こさないから。男だってバレる危険性がある発言はしないでくれると……嬉しい」 「ううぅ、ごーめーん! 気を付ける……だけどゆうちょも、女の子の肌を見たり触れたりするのは……気を付けて」 「う、うん、それは。気を付ける」 「はっ! 友情の気配がします! 私も混ぜてください!」  湊に「気を付ける」と言った矢先から、瑞穂様に腕を抱かれた。  だけどこれも僕のせいじゃないよ……本当に、女の子同士の友情なんだってば。  って、自分で女の子「同士」って言うとヘコむなあ……。  眠い……。  もう目が覚めてから30分以上も経っているのに眠気が取れない。昨日寝たのが3時だったから……。  だけど縫製に掛けられる時間も少ないし、睡眠時間を削るのは仕方ない。それに今は、家事一切をしてないんだから。 「あ、おはよう朝日。お嬢様の衣装、完成に近付いてるんだって?」 「鍋島さん、おはようございます。はい、なんとか縫製まで漕ぎつけて……あとはひたすら縫うだけです」 「私たち服飾のことは全然だけど、頑張ってね。お嬢様も、最近はいつも楽しそうだし」 「え、そうなんですか? 私がここへ来てから、厳しいときもありますけど、お嬢様はいつも明るく優しい方のような?」 「あ、そういえば朝日は昔のルナ様を知らないんだ。今年の三月までは、部屋やアトリエから一日出てこない日もあったくらいだから。私も新人の頃は、仲のいい人と『変わったお嬢様ねー』なんて話してて」 「えーっ。うーん、今でも食事と入浴の以外は、部屋にこもりきりのときはありますけど……」 「そんなレベルじゃないの、もうほんと一日中。今はなんだかんだ言って、お食事だけは他のお嬢様方と一緒になさるじゃない?」 「一日顔を見ないのなんて、ざらだったしね。朝日はお嬢様を起こさなくちゃいけないから、毎日見てるだろうけど」  ルナ様の目覚まし。これだけは、他の家事を全てお休みにしても、続けなくちゃいけない僕の仕事だ。 「やっぱりご実家でのことがあるから、同じ生活になっちゃうのかな?」 「え? ご実家でのこと?」 「朝日は知らない? ルナ様がご実家でどんな扱いをされてたか」  僕は横に首を振った。使用人の雑談の内から漠然と「不遇な扱い」とは聞いたことがあるけど、具体的にどう不遇だったのかまでは聞いてない。  桜小路家は、僕がまだ大蔵家にいた頃の情報だと、三人兄妹だったはず。名前までは聞いてないけど、長男がいて、その下に妹が二人だったかな。長女か次女のどちらかがルナ様に当たると思う。  そのルナ様から、家族の話は聞いたことがない。知りたいような知りたくないような……。  でも僕の意思と関係なく鍋島さんは話を続けていく。 「あのね、ルナ様のお母様は……」 「皆さん、おはようございますわ」 「ひゃっ!」 「ひっ!」 「ユルシュール様、おはようございます。それと今の日本語は『おはようですわ』か『おはようございますですわ』あたりの方が、まだ違和感は薄れるかと思います」 「で、何の話をしていましたの? ルナの母親がどう、とか聞こえましたわよ」 「い、いえそのぅ……わ、私、ゴミ出しがありますので、失礼いたします!」 「私も洗濯がございますので、ごめんいたします!」  ごめんいたしますってユルシュール様が使いそう。そう思いはするけど、相手が先輩だから何も言えなかった。 「朝日、感心しませんわよ」 「え?」 「どこの世界でも、使われる立場の人間が、上に立つ人間の噂をするのは共通していますけれど……ゴシップ記事のように、家庭事情まで面白おかしく話の種にするのは悪趣味ですわよ」 「申し訳ありません。低俗でした」 「今後は気を付けるといいですわ。壁に災いの耳元と言いますし」  言いません。だけど意味がなんとなくわかるからすごいです。 「何しろ、私の使用人は品のある方でなくては務まりませんのよ。何なら当家が調教してさしあげますわ」 「せめて教育と言ってください」 「あら、つれないですわ。朝日は一途ですのね」 「私はいま、一途だと思われるようなことを一言も口にしていません。おそらく私の言葉の意味を間違えていると思われます」 「オーッホッホッホ! 断じて役不足を誉められると身も心も歯がゆいですよね!」 「はい。その通りでございます、美しいユルシュール様」  僕はユルシュール様への日本語講座を妥協した。  ユルシュール様は、咄嗟の悲鳴にも日本語を出してしまうほどの日本通なのに、どうして時々大きな間違いをするんだろう。根っこがスイス人だからなのかな。 「それで朝日は、いつ当家に来るんですの? 卒業してからでよろしくてよ。朝日と共にスイスへ帰りたいですわ」 「そ、それはその、私を利用したいだけですよね?」 「使用人を利用することに何か問題ありますの? それでも大切にしてあげると言っているつもりですわ」 「ユルシュール様のデザインや、お人柄だけを考えれば、これほどお誘いいただけるのは大変光栄ですが、ルナ様は私を必要としてくださいます」 「そうですの? ルナも『便利で腕の良い朝日』を必要としているのではありませんの?」 「そ、それはその……もちろんのことなのですが、最近ようやく、朝日という私を見てくださっている気がするんです」 「ですの?」 「それは貴女の独善的な勘違いですわ」とでも言われるかと思ったけど、ユルシュール様は視線を彷徨わせて数秒ほど思案した。 「言われてみれば、興味ない人間をイジったり困らせたりはしませんわね」 「まるでルナ様が小学生のような扱いですね」 「わかりましたわ。私も朝日の内面を見てあげますから、まずは貴女のことを教えてもらうことにいたしますわ」  ユルシュール様は、それまでより物理的に一歩踏みこんできた。友人のような気安さだった。 「朝日の好きな食べ物はなんですの?」 「え、ええと……申し訳ありません、今からルナ様を起こしにいかなければならないので」  それは本当だった。だけど屋敷へ戻ろうとしても、ユルシュール様は隣りに並んで話しかけてくる。 「好きな花はなんですの? 好きな香水はありますの?」 「好きな花はコスモスです……ってこの質問責め、ずっと続くんですか?」 「好きな色はなんですの?」 「あらま、ユルシュール様が楽しそう? まるで二人はお友達みたい」  もちろん卒業して元の性別に戻ったら、ユルシュール様は友人になってもらいたいけど……ううう、許してくれるかなあ。 「朝日、弁解しろ」 「はい。昨日は裏地の縫いつけまで終わらせるつもりでしたが、想定以上に時間が掛かり、目標の工程を完了できませんでした」 「君の仕事について弁解しろと言ったわけじゃない。どうして私の部屋へユーシェを入れたんだ。静かな朝が台無しだ」 「申し訳ありません。起床時のルナ様は、許可した人間以外が部屋の中にいることを好まれないと説明はしたのですが、ドアの前でべったりと張りつかれてしまいました」 「このままでは普段の起床時間より10分も遅れてしまうことに気付き、叱られるのを覚悟でユルシュール様共々入室いたしました」 「オーッホッホッホ! この私が自ら起こしてさしあげたのですから、感謝していただきたいですわ!」 「いいんだな? 私はこの屋敷の主であり、使用人に言えば、全ての部屋の合い鍵を持ってこさせることができるが、本当に謝らなくていいんだな?」 「明日の朝、君の穴という穴に穴子と穴熊とアナコンダを突っこんで目を覚まさせるが、謝らなくていいんだな? 今から所定の研究室に電話をかけて準備させるぞ?」 「ふう、わかりました……全く、朝から気の荒い女ですわ。これだから東洋の野蛮人は困りますわね。はいはい、ごめんなしょい。これでよろしくて?」 「もしもし? 私だ、桜小路家の次女だ。今晩までにアナコンダの用意を頼む。どれだけ値段がかかっても構わない。イキのいいやつを頼む」 「じょ、冗談ですわよね? あの、ごめんなさい。ちょっと余裕ぶってみただけですわ。許してくださいません?」 「わかった、許そう。だが注文したものはどうしようもないからな。朝日、今晩の料理係にアナコンダの調理を頼んでおいてくれ。誰とは言わないがスイス人が食べる」 「わかりましたわ! 謝りますわ! ごめんなさい! 穴子なら食べますから、そちらで許していただきたいですわ!」 「三回まわってワンと言え」 「こうですの? ワン」  ユルシュール様は三回まわってワンと言った。 「目の前でそれをすれば大抵の日本人は謝罪を受けいれる。勉強になったな」  ああ……またしてもユルシュール様に間違った日本教育を。でも指摘したら僕がアナコンダ料理を食べさせられるから言えない。 「で、何の用だ。まさか本当に私を起こしに来ただけか」 「ですわ」 「朝は紅茶を嗜みながら、ゆっくりと意識を覚ますことが私の愉しみだというのに……今日は最悪の一日になりそうだ」  ルナ様は、はあ、とわかりやすい溜息をついた。でも、大げさなジェスチャーほどつまらなそうには見えなかった。 「それと朝日。罰は罰だ、アナコンダは君が食べるように」  僕もルナ様の真似をして溜息をついた。主人と違って、僕は心からの溜息だった。 「え、本当に食べさせますの?」 「専門の料理店で既に調理済みのものを一口分だけな」 「朝日はすごいねえ」 「えっ?」  お嬢様方の朝食後。食器を片付けていたら、団欒中の湊に話しかけられた。 「縫製が上手なのは知ってたけど、すんごく丁寧。まつり縫いとか表から見ても全然わかんない。間隔も均等だし、全然生地が突っぱってない。できあがりに拍手しちゃうね」 「あら。ますます朝日が欲しくなってきましたわ」 「手先の器用さもありますが、縫製は経験を重ねれば重ねるだけ上達できると思います。私より優れた方は大勢いますから」  謙遜ではなく、縫製はデザインよりも大勢の人がその仕事に就いているし、趣味や好きでやってる人も多いから、上を見たらキリがないと思う。 「お裁縫が上手なのって、女として生物学的にランク高いよねえ」  生物学的? 「まあ何より集中力、それと本人の性格だな。生真面目で几帳面で、妥協を知らない性格なら完璧だ」  条件だけ見ればルナ様も縫製の技術は高そうだけど、何故かあまりミシンを走らせてる姿が想像できない。実行部隊より指揮官のイメージだからかな。 「そっか、朝日は真面目で集中力があるからか。私、飽きっぽいのがいけないのかなあ。ごめんねルナ、手が遅くて」 「それは私もです。ミシンは未だに慣れなくて、遅くてごめんなさい」 「いや、湊も瑞穂も、私の付き人でもないのに善意で手伝ってくれているんだ。文句なんてあるわけがない。それと、七愛も仕事が丁寧で非常に助かる」  ちなみに北斗さんは、縫製の実務経験があるため、公式なコンテストには参加できないみたいだ。この人も海外に渡って戦闘の経験をしていたり、色々と謎だ。 「ルナは衣装製作に関しては素直ですのね。私もお礼を言われるためだけに手伝おうかしら」 「てかユーシェも手伝ってよ。働き手は何人いてもいいんだし」 「私には私のすべきことがありますの。ですから遠慮させていただきますわ」  ユルシュール様だけは、桜屋敷から通う面子の中でルナ様の手伝いをしていなかった。  でも湊と瑞穂が特別なだけであって、自分のことは自分でやりなさい、それがコンテストなら尚更。って考え方が正しいんだと思う。その辺りは個の強さを重んじる欧州圏と、義理人情を大切にする日本人の違いかな。 「ま、他人事とはいえ、もちろん応援はしていますわよ。私のライバルなのですし、たかだか日本のコンテスト、今年の内に入選していただく程度でなければ、張り合いがありませんわ」 「そうだな、当然受賞を狙うつもりだ。手伝ってくれた君たちへの礼も含めてだ」  ルナ様の目は自信に満ちていた。まだ正式に学びはじめて一年目も経っていないから……なんて遠慮は全くない。 「今のペースでいけば、製作期間内に間に合うか、といったところだ。朝日、君の力に拠るところが大きい。よろしく頼む」 「勿体無いお言葉です。出せる力は全て注ぎます」  特別目立ちたい感情があるわけではないけど、皆から期待されるのは嬉しかった。  今は毎日が充実している。ルナ様は最悪の一日になると言っていたけど、僕は良い一日になることを願った。 「ねえ、今日は大蔵学院長が院内まで来てるみたいよ?」 「本当? この教室まで来てくれればいいのに。そだ、髪型整えとかなきゃ」  お兄様が学校へ来ていると知ったのは、教室へ着いてからだった。 「またあの男が来てるのか。入学式で忙しそうなことを言ってた割にはよく顔を見せるな」 「は、はい……」 「君は本当にあの男が嫌いなんだな。顔が真っ青だ」  はい。見つかると、人生に関わることなので。  湊も心配そうな目を向けてくれている。校内で事情を知っている唯一の人だから、そこにいてくれるだけで頼もしい。 「瑞穂じゃないけど、朝日は嫌いっていうより怖いのかもね。脅えてるように見える」 「私も彼のような強引な男性は苦手というよりも怖いです。覚悟を決める前に、こちらの間合いまで近付いてきて、目の前に立っていそうで」 「お嬢様、ご安心ください。そのために私がいるのです。何人たりともそのお身体に触れさせません」  北斗さんが瑞穂様の肩に手を載せると、周囲からほうっと息が漏れた。めくるめく百合の世界。 「そうそう! これだよこれ! ルナもこうでなくちゃ、朝日を守ってあげなきゃだ」 「立場が逆だが」 「だって相手は超傲慢まんマンだよ? こんな可憐で細っそい朝日が怖がるのも無理ないよ。みんなで守ってあげようよ」  湊は、なんとかお兄様が来たときに、僕が同じ場にいなくて済むような土台を作ろうとしてくれていた。 「朝日、どう思う。実際にどれほど怖いのか」 「はい。申し訳ありません、相対するだけで寒気が走るほどです」 「ふうん。そうか、わかった、仕方ない。次にあの男が来たら、目を合わせないようにして座っていろ。自然を装えるようなら、廊下へ逃げてしまえ」 「ありがとうございます。どうしても恐怖を感じてしまうので、お言葉に甘えさせていただきます」  今こうして話している間にも、教室のドアが開いてお兄様が入ってこないか不安になる。  そんな僕の気持ちを察しているのか、湊は笑顔を向けてくれた。 「よかったね、ルナが守ってくれるって。大丈夫、ルナは強いし言い返せる子だから、またあんなのが来ても適当にあしらって追いかえしてくれるよ」 「学院長代理なのにすごい言われ方だな」 「だって私もあの人だけは駄目! うー、人のこと悪く言っちゃいけないのに、あのいつも目の前の人を下に見てるような目と強引で強情で傲慢そうな性格がどうしても無理!」 「桜小路ルナはいるか」  強引で強情で超傲慢な人がタイミングよくやってきた。湊は目を点にしながら、ゆっくりとお兄様の視界からフェードアウトしていった。  僕も慌てて顔を伏せる。自分の机と一体化するように、気配を殺して小さくなった。 「学院長代理殿。私に直接ご用ですか」 「そうだ。一言で済む話だがな。君に報告がある」 「忙しい学院長代理ともあろう方が、たった一人の生徒のために出向いたのですか。ご苦労なことです」  ルナ様は相変わらず辛辣だった。慇懃無礼に淡々と告げる。  だけどあまりお兄様を怒らせるのは……本当に、謹慎処分程度は科されかねない。  え……でも笑ってる? 皮肉を言われて、あのお兄様が? ルナ様のことを気に入ってるとは言ってたけど、本当に……? 「そう、ここへ来た理由は君のためだ。俺は才能を認めた相手の顔をすぐ見たくなってしまうのが悪癖だ」 「では一言で済ませてください。自分の顔で学院長代理殿を愉しませるつもりはありません」 「クハッ、相変わらず生意気な淑女だ。わざわざ出向いた甲斐があるというもの」  その時、記憶の一部が瞬いた。お兄様が自ら口にした「悪癖」という言葉に思い当たるものがある。  この人は、才能のある相手が好きだった。それは本当だ。  だけどこのひとは、人の愛し方を知らないひとでもあった。自らに屈服させて服従させることをして、それを愛だと考えるひとだ。  まさかとは思うけど……ルナ様にとって悪い話を持ってきたんじゃ?  そんな予感はするものの、今の僕は主人の側にいることができなかった。 「先日、桜小路家から俺のもとへ連絡があった。君の父親からだ」 「っ!?」  ルナ様は声の一つも出さなかったけど、彼女よりも先に反応した人が二人いた。瑞穂様とユルシュール様だ。 「すぐに済ませて欲しいと言ったな。では今から伝える」 「待ってください!」 「なんだおまえは?」  お兄様は瑞穂様を見ると同時に、彼女の方へ踏みこんだ。しかも一歩じゃない、二歩、三歩と歩みよる。 「あ……」  元々男性が苦手な瑞穂様だ。近付いてくるお兄様の恐怖に、退くことも、動くことすらできなくなってしまった。目を見開いたまま固まっている。  そんな彼女とお兄様の間に、北斗さんが立ちはだかった。無言で睨みかえし、兄の威圧感から主人を守る。 「おまえも、なんだ……! これだから俺は、金ヅルとは言え、小便女に介添えを付けるのに反対したんだ」 「お嬢様、お下がりください」  北斗さんのお陰で、瑞穂様がいま以上に脅えることはなく済んだ。だけどもう、声を発することすらできそうにない。  瑞穂様は、見せしめとしてお兄様に黙らされた。その脅えた表情は、邪魔をすればこうなるぞとお兄様の意思を暗に示している。  それでも味方はもう一人いた。瑞穂様の結果を見ても、ルナ様を一人で立ちむかわせるわけにはいかないと、なお気丈に席を立った人がいる。 「お待ちいただきたいですわ」 「おまえもか。このクラスには教師に反抗的な生徒が多いな。甘やかされて育てられたのか?」 「お二人の邪魔をするつもりはありませんが、私たちの授業の準備の邪魔なのですわ。本当にルナの個人的な話でしたら、全く興味ありませんので別の場所でやっていただけないかしら」  ユルシュール様は、ルナ様が赤の他人に聞かれたくない会話だと察したみたいだ。堂々とした悪ぶり方で場所の変更を促す。  お兄様は言いかえさなかった。ユルシュール様が子どものように騒ぎたてては、緊張した空気が乱され、ルナ様と話をする場に適さなくなると思ったのかもしれない。 「だ、そうだが? どうする桜小路ルナ」  口答えをしたせいで、ユルシュール様はお兄様から目を付けられ、成績に響くかもしれない。でも彼女がそれを覚悟してくれたお陰で、ルナ様が話をしやすい場所へ移ることができる。  なのにルナ様は首を横に振った。 「一言で済むのなら、場所を変えるのは面倒です。ここで構いません」 「えっ!?」  ユルシュール様も、まだ脅えている瑞穂様も、目を大きくしてルナ様の顔を確かめた。ただ一人、お兄様だけが笑っている。 「私は無駄を省く人間が大好きだ。では……君の父親が、私に依頼した時の言葉を伝えよう。『クワルツ賞とやらを学校の力で辞退させてもらいたい』」  えっ……。 「『あの子をあまり社会の表に出したくない』」  お兄様の声は事務的で、面白がる様子も、嫌がらせの意図も見えないほどに感情がなかった。  その冷淡さが、いまの言葉は一切の脚色なく、ルナ様の父親が発した言葉と一文字たりとも違わないことを想像させる。  こんな時なのに、僕はルナ様の表情を確かめられなかった。その隣にいる兄に見つかることだけは、どうしてもできなかったから。  僕がそんな状態のまま、一人で兄の前に立つルナ様は淡々と返事をした。 「やはりそんなところか。想像通りだ」 「わかった、私から両親に伝えておこう。私がどこで何をしようと、今のあなた方には関係がない」 「現在、あなた方の世話になっていることは一つもない。今まで育ててもらった恩はあるが、それも桜屋敷を購入したことで報いたつもりだ」  え? 桜屋敷? 報いた? 「私は両親や兄姉の誰よりも資産がある。完全に独り立ちしているつもりだ。だから血の繋がりだけで私に賞を辞退させようなどと、そんな勝手は御免被る」 「いいな」  教室中が静まりかえっている中、お兄様は一人で手を叩いた。 「いいぞ。俺は家柄や家族に甘えている奴が嫌いだ。真っ向から打ちかえすとはやるじゃないか。気に入った」 「いいだろう、君には辞退を断られたと、俺からはっきり伝えておく。そして学校側は、桜小路ルナを全面支援するともな」 「それくらい気骨のある人間は、俺が最も好むところだ。もし喧嘩にでもなれば力を貸してもいい。」 「あなたの手を借りるつもりはない。それと、一言で終わるはずが随分と長引いたな。もう授業時間に割りこんでいるが」 「ん、そうだったか。わかった、目的は果たしたからもういい。後は衣装が完成するのを楽しみにしている」 「期待されなくても良い出来になる。あなたは学校の代表として、賞状だけを受けとってくれればいい」 「生意気な。だが敬語が取れているぞ。クハッ、クハハハハハ!」  強烈な高笑いを残して、お兄様は教室から去っていった。入れ替わりにテキスタイルの先生が入ってきて、何事もなく授業を始めるために号令を掛けた。 「大した統制だな。八千代以外は奴の犬か。どう思う、朝日?」 「えっ?」 「ん、どうした? まだ怖いのか。話を長引かせて悪かったな。できるだけ早く追いかえすつもりだったんだが」 「そんな、私のために……?」 「ルナ、あなた大丈夫なんですの?」  もう授業は始まっている。私語をする僕たちを見て、教壇に立つ講師は少し嫌な顔をしたけど、真顔でルナ様に問いかけるユルシュール様を注意しようとはしなかった。 「『大丈夫』の意味がわからない。私が何か、心配されるような態度でもとったのか? だとすれば、私にはユーシェの頭の方が心配だ」 「…………」  ルナ様の軽口に、ユルシュール様は普段のような言いかえし方はしなかった。  ただ彼女が、その碧い瞳の奥に、沈みこみそうな優しさをたたえているのだけは見てとれた。その目が緩やかな曲線を描き、口元が微笑んでいく。 「ええ、申し訳ありませんでしたわね。言葉が足りませんでしたわ」 「先ほどまでここにいた男の気味が悪すぎて、正面から見ていたルナが、吐きそうになっているのではないかと心配だったのですわ」 「ふっ」  くすくすと二人で笑いあう。未だに瑞穂様の肩を抱いている北斗さんも、その輪の中へ加わった。 「私もルナ様が心配です。あの男の演技がかった声が、ルナ様の記憶に残ってしまわないか」 「あ、私も心配! あの人の香水きつすぎて鼻痛いよ。ルナに臭いが移ってないといいやね!」  さすがに湊まで大きな声になると講師に叱られた。だけど僕たちは声を潜めながらくすくす笑った。  しまいにはノートの切れ端を使った、お兄様の落書き大会が始まった。体が馬だったり髭が生えてちょんまげだったり、どれも酷いもので僕も笑ってしまった。  考えてみれば、ルナ様が授業中に雑談や落書きするなんて初めてのことだ。そのお陰で、怖かった気持ちなんて忘れてしまうことができた。  検証その1、お兄様のことが嫌いな生徒。 「あの生意気な学院長、ルナ様に言い負かされていい気味です。さすがルナ様ですね、あの偉そうな男を袖にして。かっこいいし痺れてしまいました。ルナ様は江里口金属のことをそろそろ覚えてくれたでしょうか」 「大蔵家と対等に言い争えるなんて、ルナ様は本当に素晴らしい方ですね。胸がすっといたしました。我が成松重工も覚えて欲しいものです」  お兄様は袖にはされてない。というより、あの人に恋愛感情なんてものはないと思う。彼女たちの中では、ルナ様を好きなお兄様がちょっかいを出しにきた程度の、小学生レベルの話として出来上がってるみたいだ。  検証その2、ルナ様のことが嫌いな生徒。 「え、桜小路のやつスカしてっけど、マジであれマジでマジ、マジじゃね? やっぱあの子、実家でハミられてんだよ。肌とか白すぎて気色悪いもん」 「クワルツ賞とかチョーシ乗りすぎだよね。なんか一人で突っ走っちゃって? 誰も応援なんかしてないのにね。はあ、これで辞退とかなったら超ウケたのに。学院長もっと全力で潰せよ」  ルナ様のことを快く思ってない人たちからすれば、さぞ愉快な話だろう。穏便ではない家庭環境の一部を暴露された上に、せっかく通過した一次審査が取り消しになりかけたんだ。ゴシップ記事としてはこの上ない。  検証その3、お兄様のことが好きな生徒。 「やーっ! どうして大蔵学院長は私たちの教室ばかり来るの!? どうしよう、もしかして私たちのこと気にしてたりしないかな! 何度か来てる内に目を付けてもらえてたり!?」 「ふあー、髪の毛整えといてよかったあ……やだもう何あの顔、素敵すぎてもうーっ! それとあの声! あの香り! ああ、将来嫁ぐなら衣遠様の下がいい……」  あの幾つもの問題発言を聞いても好きでいられるのは才能だと思う。ルナ様に嫉妬をしてるわけでもなさそうだし、全員がこのくらい平和だったらよかったのにな。  ふう。  三時間目の終わり。心休まる場所へ来たのに、次から次へ教室内の人間模様が飛びこんできた。  別に情報収集しに来たわけじゃない。けど、ここにいると勝手に声が聞こえてきてしまうから、僕では解決しようがないことにまで考えが及んでしまう。  そう、いま気になることは……ルナ様の家庭の事情がなんだろうってこと。  父親と話したって聞いただけでユルシュール様、瑞穂様が反応した。ルナ様が不遇な扱いを受けていることは知ってる。そして父親の「社会の表に出したくない」という言葉。  表に出したくない……とはどういう意味だろう。思い当たるのはルナ様の健康上の理由。純日本人であるにも関わらず、その髪の色は通常とは真逆の白銀。そして色のない髪とは不釣合いなほど衝撃的な緋色の瞳。  生まれた時からそうだとすれば、ルナ様の肌を見て彼女の父親はどう思っただろう。  桜小路家は良家と呼ばれる家柄で、歴史も古い。  もし血脈を続けることのみを子孫に望んだ場合、自分と配色が異なる姿は、目に恐怖として映ったのかもしれない。  そして広いようで狭い財界の良家にそれだけの……言い方が嫌だけど、スキャンダルがあれば、僕が知っていても良いはずだ。少なくとも桜小路の家にそんな少女がいるとは知らなかった。  つまりルナ様は桜小路家の中で秘密の存在だったんだ。彼女が自立して、家を出るまでは。  彼女の幼少時を知らない僕は、想像でしか当時の光景を想像できないけど、表に出ない子どもだったんじゃなくて、表に出してもらえない子どもだったんだろうか。  もしルナ様が想像通りの過去を送っていたとして。誰かの慰めを必要としてるなら、僕にもできることがあるはずだ。  でもルナ様は……今日の彼女を見る限り、どんな過去があろうと、それを意に介さない素振りだ。  ルナ様が実家にいた頃の自分を否定しないのなら、僕がどうこうするという以前に、そもそも何もできることがない。  うん、そうだ。ルナ様が気にしてないのに、僕があれこれ考えても仕方ない。ユルシュール様と瑞穂様が庇おうとしたのも、二人が思ってたよりルナ様は気にしてなかったってことだ。  いま彼女の心を明るくするためにできることを考えるなら、クワルツ賞の衣装製作に渾身の誠意を注ぎこもう。  方針が決まったので教室へ戻ることにした。知りたいことは山程あるけど、ルナ様に聞かないとわからないことばかりだ。  そのルナ様が平然としてるなら、付き人の僕もしっかりしないと。 「おかえり。遅かったな」 「私のお腹が申し訳ありません。すぐ次の授業の準備をいたします」 「そうだな。もう教師も来る時間だ、急いだ方がいい」  ルナ様の準備は済んでいるみたいだ。僕に言葉を掛けた後は、自分のノートをじっと見つめている。  そのまま数秒動かなかった。でも何かを思いだしたみたいで、僕を見て「それと」と呟くような声を出した。 「君には言っておくべきだろうな。ちょっと耳を貸してくれ」 「はい?」  どうして内緒話?とは思ったけど、言われるままにルナ様の口元へ耳を近付ける。 「クワルツ賞は辞退することにした」 「え?」 「学院長代理殿は昼休みが終わるまでは校内にいると言っていた。この授業が終わったら伝えてくる」 「いずれ話は勝手に広まると思うが、協力してくれた連中には、朝日の方から先に伝えておいて欲しい。私が戻るまでに頼んだ」 「え? ええ?」  言葉が出てこない。なに? なぜ? クワルツ賞を辞退……?  ルナ様は通過点だと言っていたけど、あれほど力を入れていたのに……。  毎日、僕の進み具合を確かめて、口にはしないけど完成を楽しみにされていたのに……。 「朝日……?」 「は、はい」  返事はしたけれど、ルナ様が心配そうな表情をしている理由がわからなかった。何を聞かれて、何を答えるべきなのか頭の中がまとまらない。  なのに時間はまるでなかった。何から尋ねればいいのか迷っている内に、授業は始まっていた。 「では立体プリーツの〈型紙〉《パターン》の続きです」  授業の内容はさっぱり頭に入ってこなかった。黒板に描かれたものを追いかけていくだけで精一杯だ。  途中、何度かルナ様の表情を盗み見たけど、普段の様子とまるで変わらなかった。無表情のまま、淡々とノートをとっている。  その横顔を見て、改めてこのひと綺麗だな、と思った。 「では学院長室へ行ってくる。話がいつ終わるかわからない。今日の食事は私抜きで済ませてくれ」 「かしこまりました。あの、ルナ様……」 「朝日、すまない。あの男の気が変わって、いつ帰ってもおかしくはないから時間が惜しい。みんなに伝言を頼む」  きっと色々尋ねられると困るから、すぐにでも辞退しに行きたいんだ……。 「朝日どったん? なんか顔が暗いよ?」 「あ、はい……あの、ルナ様が先に食事を食べていて欲しいと」 「え? それで表情が暗いの? なんで?」 「いえ、食事が原因ではないのですが……」 「ルナはどこへ行ったんですの?」  ユルシュール様は勘が良かった。中々切り出せない僕の代わりに、ややキツめの口調で問いかけてきた。 「はい。学院長室へ」 「え、学院長室!? 一人で? 何しに?」 「今からお話いたします。ここでは周りに聞こえてしまいますので、場所を移しても良いでしょうか」  僕はお嬢様方を先導する形で教室を出た。幸い特別指導権所有上級生徒のいるこのフロアには、個別で話のできるサロンがある。  ルナ様に、部屋番号だけはメールで伝えておいた。お兄様との話がどの程度の長さになるかわからないけど……。 「えっ、ええええっ……クワルツ賞を辞退!?」  湊は大声が出ないよう音量に気を付けつつ、それでも大きな口を開けて驚いた。 「本気ですのね? 一度辞退すれば、今後は同じ賞に応募しても選考から外されるでしょうし、作った衣装を別の賞へ応募することもできませんわよ?」 「なんで!? そんなのもったいないよ、頑張ってたよね? 私も手伝ったし、朝日なんて毎日毎日遅くまで……せっかく完成しそうなのに、駄目だよ! 止めないと!」 「私も、ルナ様に最後まで製作していただきたいと思っています。ですが今頃、ルナ様は学院長室で……正式に、辞退を申しこんでいるでしょう」 「私は、お止めするべきだったのかもしれません。ですが、告げられたのが今の授業の前で、何も考えられずにいたら……昼休みに入ると同時に、ルナ様は止める間もなく教室を出ていってしまいました」 「せめて理由だけでも知りたかったのですが……」 「理由? 朝日なら理由はわかりますわよね?」 「え……? 学院長〈伝手〉《づて》に聞いた、ルナ様のお父様の言葉が理由なのでしょうか。でもルナ様は関係がないと仰られていたから、てっきり気にしていないものだと……」 「ううん、気にしないはずがない。ルナが自分から家族の縁を切らない限り」 「家族の縁……そんな大事になる話なんですか?」 「朝日は、ルナが実家でどのように過ごしていたか、知っていたのではなかったんですの? 今朝もそのことについて話していましたわよね?」 「いえ、私は何も知りません。今日の朝、ユルシュール様に見つかったときは、初めてその話を聞くところでした」 「それならば、朝日は謝らなくても良かったのではありませんの?」 「ルナ様の過去を興味本位で知ろうとしたことに変わりはないので……ユルシュール様の仰られていたことはもっともだと思い、反省いたしました」 「朝日は真面目ですのね。よく話を聞かずに叱った私が迂闊でしたわ」 「そんなことはありません。一度反省したにも関わらず、ルナ様がどうして辞退されたのか、そこに至る経緯を知りたいと思っています」 「話すつもりがあるなら、ルナ様は私に説明してくれているはずです。それがないということは私が知る必要はないのでしょう」 「ですがどうしてもルナ様に授けられるかもしれない栄誉を諦められません。皆様がご存知なら、どうか辞退する原因になった理由を教えていただけないでしょうか」  縋るように答えを求めると、ユルシュール様と瑞穂様は困惑した表情を見せた。  瑞穂様は最後まで迷っていたけれど、やがてユルシュール様は小さな溜息と共に申し訳なさそうな表情をした。 「メイドたちを注意しておいて、自分が人の過去を話すとは不細工な話ですわね」 「わかりました。ルナには後から私が謝っておきますわ。朝日は誰よりも衣装製作に協力していたから、理由も知らずに辞退されてはかわいそうですものね」  ありがとうございます。心の中でお礼を述べつつ、ユルシュール様の話を待った。 「……と言っても、大体察しは付いているのではないかしら。ルナは外見上の理由から、その存在を表へ出すことに両親が反対していたのですわ」 「あ……」  その理由を容易く想像できたからこそ、そうでないことを祈っていた。だって「それ」は、世界中のどこかで起きていて、歴史がいけないことだと認めているのになくならないことだ。  わかっているのになくならない。つまり「それ」に本当の解決策なんてないことを意味する。 「私が初めて会った時は、ルナがもう独り立ちしていた時だったからなあ」 「私と瑞穂は運が良かったのですの。ルナはそれまで屋敷の中で育てられ、外界から隔離されていたのですわ」 「それが母親の嘆願で、初めて社交の場へ出ることになったと聞いていますの。私たちはそのパーティーの日に偶然居合わせたのですわ」  母親の嘆願……ルナ様のお母様は味方なんだ。 「でも、ね? ただでさえ周りの反応を気にしていたルナのお父様の目には、初めて外の人間と交わる娘のはしゃぎ様も、しつけのなってない家の恥としか映らなくて」 「元の軟禁のような生活に逆戻りですわ。私たちが連絡を取れたのは、なまじ遠方に住んでいたせいで、ルナと会話する手段が手紙しかなかったからなのですわ」  ユルシュール様……「なまじ」なんて海外の方には理解しにくそうな言葉をご存知なのですね。 「その後、多少は緩和されたようですけど、ルナが独り立ちする時まで窮屈な生活を強いられたことは間違いあります」  何故「なまじ」はわかって、そんな簡単な語尾で間違えるのでしょうか……。 「独立してからは干渉されないと思っていたけど……やっぱりルナのことは気になるみたいね」 「当然ですわ。ルナの父親はプライドが高い人ですわよ。それが今では娘の、それも閉じこめていたルナよりも資産が下回って、彼女の動向が気になって仕方ないはずですわ」 「桜屋敷だって、元々は父親が資金繰りに困って売却に出そうとしていたものを、ルナが個人のお金で、実際の価値よりも高い金額で購入して救ってあげた形でしょう?」  あ、ルナ様が実家に報いたってそういうことだったんだ。 「それを自分への面当てだと捉えているくらいですわよ。娘の立ち位置が自分を上回ってしまわないか、心配で仕方ないはずですわ」 「面当てというか、それは……父親から購入したことを『父親への皮肉だ』と周りに話しているルナにも問題がありますけど、あの子も素直じゃないから」 「てことは、ルナが目立っちゃうと怖い目に遭うんじゃないかっていう心配性と、ちょっとおイタが過ぎるから『めっ、だよ』って気持ちがお父さんの中にあるってことでいいの?」 「ずいぶん前向きな解釈ですけど、そういうことだと思いますわ。今回のクワルツ賞の一次審査通過の報告を……雑誌社に関係者でもいたんじゃありませんの? 誰かから聞いて、即、止めに入ったというところですわね」  あくまで想像の域でしかないけど、ルナ様を止めた動機としては充分に成りたってる気がする。  その過去を知っていれば、実家から連絡があった、なんて切り出し方をされたら僕だって話を止めるだろう。相手が兄じゃなければ。 「ではルナ様はご実家に遠慮して辞退を?」 「そういうことになりますわね」 「ルナは優しい子だから。きっと一度は拒否したけど、色々と考えて……やっぱり家族の情を取ったんだと思う。本当は、私たちにも悟られないようにしたかったんでしょうね」 「辞退なんてしたら、父親に最後の最後で譲ってしまったと丸分かりですわ。全く意地を張るなら貫き通せばいいのに……戻ってきてどう言い訳するか見物ですわね」 「からかっちゃ駄目だよ! ルナだって、辞退なんてしたくなかったに決まってるんだから!」 「オホホホ、今の内に『じたい』という音で別の単語がないか探しておきますわ。『自体』『事態』『字体』、他にも『実態』『十体』『靭帯』」 「ユーシェもルナのことを心配してるんですから、素直に優しくしてあげればいいと思うのですけど。じれったいですね」 「じれったい! それも使えそうですわ!」 「もおおー。ほんと、あんまりイジっちゃ駄目だよ?」 「あら、私だけ怒られるのは心外ですの。時間があったのですから、ルナも私たちに相談すれば良かったんですわ。何でも自分一人で決めるなんて、もう少し友人である私たちを頼って欲しいものですわ」 「ん、まあ……でもそこはあの、ルナだし。そんな簡単に弱音吐いたりするわけないよ」 「はい。ずっと普段通りに授業を受けていらしたので、あのとき伝えられた言葉は、てっきり気にしていないものだと……」 「ルナの声を聞いていなかったんですの? 最後は敬語が取れていましたわよ」 「敬語? ですか?」 「そうですわ。最初はあの男と話すときに敬語を使っていましたわよね? それが父親の言葉を告げられてからは、私たちに対するときの言葉使いと同じになっていましたわ」 「あ……」  そういえば、あの時のルナ様の言葉は「想像通りだ」「関係ない」お兄様に対して敬語を使用していない。 「きっとあの男の人に、少しでも弱味を見せるのが怖かったんだと思う。心の中で歯を食いしばって立ち向かっていたのかも」  ルナ様が……怖がっていた? 心の中で耐えていた?  僕が敬語に気付いてあげられなかったのは、そのとき自分が、お兄様に弟だとバレないか脅えていたから。  そんな風に僕が怖がっているのを知って、ルナ様は巻きこまないように一人で耐えて……もしかして、僕が隣で手を握ってあげるだけでも、力になれたかもしれないのに。  あの入学式の日のように。  本来なら僕が自分の主人を守らなくちゃいけないのに、お兄様が教室にいる間は、ずっとルナ様から守られていたんだ……。  ルナ様、申し訳ありません。いつかこの恩を返せるよう努めます。 「朝日、あなたがそのように思い詰める必要はありませんわよ。勝手に一人で強がっているのはルナの方ですの」  慰めているのか、我が子を千尋の谷へ突き落とすタイプなのか、ユルシュール様は厳しかった。 「強がるなら最後まで強がればいいのですわ。そのせいで私に言い負かされようと、それはルナの自己責任ですわ。オホホホホホ!」 「そもそも、朝日には説明があっても良いと思ったのですわ。どうせ謝罪の一つもないのでしょう?」 「えっ? あ、私は、使用人です。主人であるルナ様に謝罪をしていただくわけにはいきません」 「使用人は奴隷ではありませんわよ?」 「それと説明がなくても、ルナ様が決めたことには従います」 「でも話してくれた方がよかったのですわよね?」  はい。それはもちろんです。だからこうして皆様に聞いているんです。  なんてことは使用人的に言えないので、黙って俯くことしかできなかった。 「子どもの頃は私に何でも相談してくれたのに。今では全く頼ってくれなくなりましたわ」 「そうなんですか? 子どもの頃のルナ様はどのような性格だったのですか」 「あの頃のルナは素直でしたわよ。私と手を繋いで歩きましたもの。当時はパーティー会場として使われていた、桜屋敷の夜の庭を二人で歌いながら」 「わあ、素敵ですね」 「オホホホ、幼い頃から美しかった私とルナが並べば、黄金の天使と白銀の天使のように映ったでしょうね!」 「おもちゃの缶詰みたいだね!」 「そんな二人が、どこをどうしたら今のような関係に?」 「私がスイスへ戻ってからも、ルナとはしばらく手紙でやり取りをしていたのですけど、一時期から急に返信が途絶えてしまったのですわ」 「それでも半年に一度は手紙を出していたら、途絶えてから三年でようやく返事が来たのですわ」 「そうしたらびっくりですわ! それまで丁寧で繊細な文章を書いていたルナが『しつこい馬鹿、もう手紙なんか送ってくるな(フランス語)』なんて失礼なことを書いてよこしたのですわ! ムキー!」  ああ……「ムキー」って口で言っちゃった……。 「それでユーシェはどないした」 「頭に来たから、その週末に飛行機のチケットを取って来日し、桜小路家まで押しかけてやりましたわ」 「さすがお金持ち、思いこんだらなんでも実行だね」 「その頃には今のような、私をからかって遊ぶ性格になっていましたわね。頭に来たから、スイスへ帰ってからは前にも増して手紙を送りつけてやりましたわ」 「ユーシェが頭に来た時は、むしろいい人になっちゃうんだね。そういうの私好きだよ!」 「あ、あら? 誉められているのかしら。そんな、わかっていたけど照れてしまいますわ。そんな、私の下着選びのセンスが世界一だなんて、は、恥ずかしいですな」 「誉めたのは性格についてだし、私が言いたかったことは一文字分も伝わってないけど、そういうところも含めて私はユーシェの性格が好きだよ!」  うん。そういう性格だから、ユルシュール様はルナ様と仲良くなれたんだろうね。 「私も似たような感じ。子どもの頃に『また遊ぼう?』って約束したから、何度か電話したんだけど、その度に取り次ぎの人に断られて」 「でも、東京へ来れば桜小路家に寄れると思って、その日をゆっくりと待ってた……久しぶりに会ったルナは少し雰囲気が変わっていたけど、昔のことは覚えてくれていて嬉しかった」 「最初は散々なことを言われたから、どうしようかと思ったけど」 「『欧州の黄猿』だの『欧州の田舎奇族』とでも言われたんですの?」 「ユルシュール様にはそんなこと言ったんですか。主人に変わってお詫びいたします」 「私も言われた。『京都のどすえガール』と『はんなりの宮瑞穂』かな?」 「申し訳ありません……」 「だけどそれでも帰らずにルナと一緒にいたら、次第に二人とも口数が減って……しばらく黙っていたら、ルナの方から『よく会いに来てくれた』って」 「それからは東京へ来る度にルナの家へ寄って、いつの間にか仲良くなってた」 「おおお、さすが瑞穂。心の扉を開いたんだね!」 「本当に、さすがですね……罵られても側にいるっていうのは、中々できないと思います」  ルナ様が攻撃的ながらも、曲がった方向に育たなかったのは、この二人がいたからかもしれない。  何か言われたらどこからでもすっ飛んでくるか、何を言われてもじっとただ待っているか。それでも側を離れずにいてくれる友人がいたから、一人も友達がいないなんてことにならなかったんだ。  両親と隔離されて、それでも優しさを忘れずに育ったことはそれだけで奇跡。  もし次に、ルナ様が弱っていたら。そのときは、僕が側にいられたらいいな。 「じゃああの……今から、ルナ様を迎えにいってきます。学院長室から出てくるはずですし」 「あ、だけどもう、教室へ戻っているのかも。だってほら……」  あ、昼休憩の予鈴だ。話が済んだのかはわからないけど、さすがに授業が始まるまでには戻ってるはず。お兄様も時間に余裕がない人だし。 「ああ、戻ってきたか。すまないな、間に合いそうになかったから、食事は一人で済ませた」  教室へ戻ると、ルナ様は一人で机に座っていた。  一見、普通の光景に見えるけど、これは珍しいことだ。ルナ様が一人で座っていると、誼を通じたい女生徒たちから声を掛けられるのが常だからだ。  それなのに、今日に限って彼女たちは、時々視線を向けつつ、すぐ脅えるように自分たちのグループだけの会話へ戻る。腫れ物に触れるような空気がルナ様を取り囲んでいた。  これは……まだクワルツ賞を辞退したことは伝わってないだろうけど、桜小路家になんらかの家庭の事情があると知って、ルナ様に声を掛けづらく思ってるんだ。  そうして欲しい。今のルナ様に、取り繕った表情をさせて、気を使うための言葉を考えさせたくなかった。  そして僕自身も、他の女生徒たちとは違う感情で、話し掛けられずにいる。  ルナ様に……感謝の気持ちと、慰めてさしあげたい想いが同時に湧きあがっていて、聞きたいことは山程あるのに、何から話せばいいのかわからない。  それは僕だけじゃないみたいだ。他のお嬢様方も、みな優しい目をしてルナ様を見守っている。 「……なんでそんな顔してるんだ君たち。悪い、はっきり言う。とても、気味が、悪い」 「ルナ。なにかお菓子食べる? じゃが的なお菓子もチョコ系もあるよ」 「オホホホホ、いつでも甘えてよろしくてよ」 「私たち、ずっと友達だからね。ふふ、ルナとの友情が嬉しい」 「ルナ様……うう、ルナ様」 「非常に腹立たしい……七愛、朝日の顔にケーキをぶつけていい。私が許可する」 「すぐに買ってまいります……生クリームとチョコケーキと……ウェディングケーキでよろしいでしょうか」 「ごめんなさいお許しくださいこの通りでございます」  平謝りしたら許してもらえた。だけど顔面ケーキが恐くて、学校にいる間は誰もルナ様と真面目な話ができなかった。 「ごちそうさま。今日は特別おいしかった……と、もしかして?」 「あ、はい。今日で衣装製作が終わ……しばらくお休みとのことなので、家事へ戻ることにしました。本日の夕食を作ったのは私です」 「昨日までろくに寝てないんだから、少し休んでも構わないものを。ありがとう、朝日の料理が私は一番好きだ」 「は、はい! ありがとうございます!」  いつになく優しい。いや、衣装製作中は僕に優しかったけど、今日は王女のような風格すら感じる。 「ルナ様、食後のデザートと紅茶も用意しております」 「ああ……そうか。すまない、今日は部屋で食べたいな。朝日は私の代わりに、みんなの話し相手になってくれ」  おいしいデザートで喜んでもらって、みんなで楽しく歓談すれば、少しはルナ様の心が休まるかな……と思ったけど、今日は一人になりたいみたいだ。 「あ、じゃあさ! ルナさ、後でさ、たまには二人でお風呂とか入る? それかみんなで入っちゃう?」 「ルナは人とお風呂に入るのが大の苦手ですわよ」 「ごめええええーん! 私まだそこまでルナのことわかってあげられてなかっとぅわ!」 「気にしてないから湊も気にするな。というかこっち来るな。触るな。こら。抱きつくな。やめろ。朝日、湊を引っペがせ。私は部屋へ戻る」  湊が僕の手で引っペがされると、ルナ様は軽く挨拶をして食堂から出ていった。 「ううぅ、またやってしまった……そうだった、ルナは必要な部分以外は、人に肌を見せるのが嫌な子だった」 「一人になりたいみたいだし、今日はそっとしておいてあげた方がいいのかもしれませんね」  瑞穂様の言うとおり、ルナ様は早く部屋へ戻りたがってた気がする。  表情にも心持ち疲れが見えた。実際、疲れてるんだと思う。会話をしている時も、与えられた質問は返せるけど、あまり話を長引かせない感がありありと伝わってきた。  ルナ様なら、きっと明日には元に戻ってるんだろうけど……。 「私はあとで寝る前にルナの部屋を覗いていくつもりですわよ」  みんなが大人の気遣いを見せる中、ユルシュール様だけは顔が生き生きとしていた。 「普段よりルナが素直ですわ。この機を逃すわけにはいきませんわ」 「あの、ルナ様は本当にお疲れの様子なので、程々にしていただけると……」 「でもルナの本音が聞けるのは今だけですわよ?」  え、本音? ルナ様の……。 「明日になってルナのよく回る頭が元に戻れば、真面目な話をしても適当にはぐらかされて終わりですわ」 「あ……そうかもしれません」 「今日のことでどうしても真面目な話をしたければ、今しかルナと本音で話せる機会はないのですわ」 「私はあの子に、小さい頃に見上げた月夜は美しかったですわと伝えます。普段なら笑われてしまいますけど、今日は頷いてくれると思いますの」 「でも、本当に一人で考え事をしたい時もあるだろうから、程々にね?」 「構いませんわ。一言だけでいいんですの」  一言だけ……僕もルナ様に、伝えられるなら。  守ってくれたことにお礼を言いたい。その時に守ってあげられなかったことをお詫びしたい。二言でいい。 「あの、私も……」 「ん?」 「あの、ルナ様から皆様のお相手をするように言われていたのですけど、申し訳ありません。先にルナ様のもとへデザートを届けてまいります」  お手製の杏のケーキと紅茶を載せたお盆を手に、僕は三人とその付き人たちに頭を下げた。  ユルシュール様は良いことを教えてくれた。ルナ様に今でしか聞けないことがあるように、僕にも今しか伝えられない気持ちがある。  ありがとうとごめんなさい。それだけでいいし、きちんとルナ様の部屋を訪ねる正式な理由もある。そのついででいいんだ。たった二言なんだから簡単だ。 「朝日やさしい! ルナが心配だから様子を見に行くのかな?」 「友人思いの朝日、素敵です。私もあのくらい大切に思われたい」 「瑞穂様、私がおりますよ」 「あの子の主人に対する気持ちは素敵。私の顔の次に美しいんじゃない?」 「まさかあの二人、怪しい関係ではありませんわよね?」 「それは七愛が応援する……初めて小倉さんが幸せになればいいと七愛は思った。主人に恋心を抱く気持ちは、七愛だってわかるから」  なんだか僕のことを色々噂されていた。  まあいいや、どうせすぐに戻るつもりだし、そもそもルナ様に尽くしてあげたいと思う気持ちは嘘じゃない。 「ルナ様、デザートをお持ちしました」 「ん、朝日か。入れ、鍵は開いてる」  ルナ様は机の前の椅子ではなく、ベッドに腰掛けていた。  ということはデザイン画を描いていたわけじゃないみたいだ。時間があるのにデザインをしないなんて、ルナ様にしては珍しい。  よ、よし言おう。デザートを置いたら「ルナ様が一人で学院長の部屋へ向かった際はお力になれず『申し訳ありません』」。そして部屋を出るときに「守っていただき『ありがとうございました』」。簡単だ。 「朝日、少し君と話がしたい」 「『申し訳ありません』」 「なんだ、駄目か。断られたら仕方ないな、部屋へ戻っていい」 「『ありがとうございました』」 「って違います、違うんです。今のはその、頭の中に二つの単語しか用意してなくて」 「よくわからないが、私の話に付きあえるならそこへ座って欲しい」  僕はルナ様の椅子をお借りして、彼女の正面から向きあい、目の位置を同じ高さまで下げた。 「先ほどは申し訳ありません。取り乱しました」 「君は時々一人でボケて一人で全てを解決しようとする悪い癖がある。主人を置いてけぼりにして話を進めるのは使用人として反省すべきところだ」  ルナ様の言ってることは一つも間違っていないので、僕は深々と頭を下げた。 「ごもっともです」 「ごもっともだとわかっているなら、私の過去を知りたいときは直接聞いてこい」  驚いて顔を上げた。 「何も知らないで謝ったりお礼を言われたりしていたら、朝日がとうとう手の届かないところへ行ったと疑うところだ」 「ん? なんだその顔? 私が何も知らないとでも思って油断していたのか?」 「油断……ではありませんが、見えないところから矢が飛んできたと言えばいいのか、その……」 「ユーシェから謝られた。私が籠の中の鳥であったことを朝日に話してしまったと」  ルナ様は種明かしを勿体ぶらなかった。 「私がユルシュール様にどうしても知りたいとねだりました。申し訳ありません」 「謝られても、私は最初から怒ってない。ただユーシェもそうだったが、どうしても謝ってくれるというなら、そうだな、わかりやすいくらい酷いことをしよう」 「あのっ!」 「具体的に何をしようかな。ユーシェには鋼鉄の乙女を断られたんだ。朝日には苦痛の梨でどうだろう」  あの拷問具は女性専用だから僕に使うのは無理です。というより使われたら死にます。 「申し訳ありません。申し訳ありませんと謝ったことを取り消させてください」 「わかればいい。ユーシェが言わなくても私から話すつもりだった。朝日に聞くつもりがあれば、の話だったが」 「えっ。そうだったんですか?」 「毎日3時4時まで私の手伝いをしてくれた君に、何の説明もせず辞退するのでは申し訳ない」 「いえ、使用人である私に、ルナ様が申し訳ないなどと心を痛める理由はありませんが……」 「そうか、理由はないか。君が辞退した訳を知りたいのであれば答えようと思っていたが、本人から心を痛めなくて良いと言われては、これ以上余計なことを話す必要はないな」  はい。僕はルナ様が話してくれるつもりでいたのに、他の方から先に理由を聞いてしまいました。これ以上のことは望めません。 「謝らなくていいなら、後は礼を言うだけだ。朝日。あの男が目の前に立った時、私の側にいてくれてありがとう」 「え?」 「君が近くにいてくれて心強かった。あの男が私の過去を聞いているのかは知らないが、君が隣の席にいてくれたから、父の言葉を告げられた時も言いかえすことができた」  あの時……僕が兄に震えていたとき? 「私は、ルナ様のために何もしておりません」 「いや、してくれた。一度言った通り、毎日3時4時まで起きて、平日の授業をこなして、それでも弱音も吐かず、嫌な顔の一つもしないで、私の衣装を作りつづけてくれた」 「だからあの男に立ちむかえた。朝日の姿が目に映った時、この人のために私は拒否しなければならないとすぐに考えた。私は君が報いてくれた時間分だけでも、主人の務めを果たさなければならないと思ったからだ」 「君が側にいる限り、他人の前で弱音なんて吐くものか」  この人は、教室でお兄様から守ってくれただけではなく、いまこの瞬間にまで僕のことを守ってくれた。  脅えていた僕に守られることで、一人で立ち向かわせてしまったことで、崩れていた僕のプライドを守ってくれた。 「ルナ様」 「ただ、今ここにいるのは私と君だけだ。だから少しの間、側へ来て欲しい」  無言で席を立ち、彼女の隣へ腰掛けた。今まで触れることはあっても、この上へのったことはなかった。とても柔らかいベッドだ。  だけどその柔らかさよりも、ルナ様は僕の二の腕を選んだ。小さな頭がこの身体に寄りかかる。ぬいぐるみのような軽さだった。 「ル、ルナ様っ?」 「今は君だけだから、弱音を言ってもいいだろう? さすがに今日は少し疲れた」 「ルナ様……ご立派でした。お一人で、学院長室まで行って」 「ああそうだ、それだけは謝らなくてはいけないな。一度は拒否したが、授業中に母の顔が何度も浮かんで自分を徹しきれなかった」  ユルシュール様から、ルナ様の母親は、籠の中のこのひとを外へ出そうとした方だと聞いてる。自分が我を張ることで、お母様に迷惑が掛かる事情があったのかもしれない。 「君には悪いことをした。あれだけ尽くしてくれたのに、何も残してやれなかったな。結局、辞退したんじゃ、最初に拒否した意味がないな」 「そんなことありません。見てはいなくてもわかります、ルナ様は学院長室へ行っても堂々と渡りあったのでしょう?」 「ああ、言ってやった。両親に言われて辞めるのではなく、私は私の意思で辞退してやると言ってきた」 「ルナ様は立派です。弱味を見せなかったのだから恥じることなどありません」 「その場に同行できず、申し訳ありません。そんな時にまで私をあのひとに会わせないよう、配慮してくれて」 「私のかわいい付き人を怖がらせたくない。それに時間を置いて冷静になってみれば、もうあの男に怯んでやる理由なんてなくなった」 「はい。それでこそルナ様です」 「だからその勢いで、実家にも電話を掛けてやった。〈携帯電話〉《ケータイ》になんて掛けてやらなかった。〈一般回線〉《いえ》に電話して、取り次ぎを経て、桜屋敷の主として父に替わらせた」 「まあ私が辞退したと言ったら満足気に鼻を鳴らしていたよ。だからこれきりだと告げてきた。これからは実家と縁を切ったつもりで生きると言ってやった」  ルナ様。腕に寄りかかられているから抱きしめることはできないけど、その小さな手だけは固く握りしめた。 「ま、元々私の方が金を持ってるんだ。彼らの要望を聞いてやるなんて、本当に慈善事業だな。いや、その時点では親孝行になるのか? うん、そうだ親孝行だ。そしてそのあと、すぐに親不孝な発言をしたんだ」 「なんと仰られたのですか?」 「これから私は必ずデザイナーとして成功してみせるが、その時は遠慮なく他人だと言ってほしい」 「末永く、どうぞご勝手に」  僕たちは同時にくすりと笑った。ルナ様の声が、普段よりも幼く聞こえた。  気付けば、ルナ様も僕の手を握ってくれている。腕に寄りかかる重さも、彼女の体重をはっきり感じられるものになっていた。 「あー……でも、そうだな。これで天涯孤独の身だ」 「え?」 「貯金があるからいいものの、いま死んだら看取ってくれる人間は誰もいないな。心持ち、少し寂しく感じる」 「結婚をするつもりもないんだ。私と付きあえる男性なんているわけがない」 「ルナ様を好まれる男性は多いと思われますが」 「根拠は」 「財産です」 「正直だな。君のそういうところは好きだ。だけど私が財産目当ての男と付きあうわけがないだろう」 「実際、起業した当初は、部下にもその手の男がいて、安心して会社を任せられなかった。今では忠実なゲイの男性に預けている。瑞穂のように男性が嫌いとは言わないが、恋愛をするつもりはない」  その手のことはあえて言わなかったけど、財産だけじゃなくて外見的にも綺麗なんだけどな。  でもルナ様が誰かと付きあってる、まして幸せな家庭を築いてる過程は仮定でも想像できない……あっ。 「幸せな家庭を築いている過程は仮定でも想像できないかもしれません」 「あ、でも」  ちょっと自信のあった僕の三段構えのダジャレは無視された。 「同性なら面倒はないし、結婚するのもいいかもしれない。貰ってくれるか?」 「え……えっ? 私? ですか!?」 「気の合う女性なら誰でもいいと思ったんだ」  えっ、どうしよう。結婚なんて考えたことないけど、ルナ様からプロポーズされた。  こういう時、八千代さんや他の先輩方ならどうするんだろう。断ってもルナ様なら「そうか」で済ませそうだけど、せっかく示してくれた好意を無碍にするのも気が引ける。 「悪かったそこまで深刻に考えるな。私も不純な関係は求めない」 「あの」 「ん?」 「ルナ様は先ほど、私に何も残せなかったと言いましたが、充分なものをいただいております」 「いただいて? 悪い、心当たりがない」 「あの、使用人の私が、青臭いことを申し上げてもよろしいでしょうか」 「許す。むしろ聞きたい。朝日の青臭い発言なんて楽しみだ」  本当に楽しみみたいだ。これまでそれなりに真面目な表情をしていたルナ様がニヤニヤし始めた。  いいんだ。自分でも少し恥ずかしいから。 「以前、ルナ様から楽しんで尽くすように言われました」 「ああ。言ったな。そういえば、君はあの時も青臭いことで悩んでいたな」 「はい。あの時は自分を不純だと思っていました。でもルナ様の衣装を作り、誉められながら完成していくのは本当に楽しいと感じました」 「もちろん毎日眠かったり、同じことの繰りかえしを何度もしたり、失敗すれば当然怒られたりもするのですけど、自分が製作の輪に加われているというだけで嬉しくて」 「自分では届かなかった世界へ、形は違っても足を踏みいれることができて本当に良い経験をしました。だから私は、充分なものをいただいたと思っています」 「うん、健気だ。朝日はいつまでもそうあってくれ」 「はい」 「なんだ、それで終わりか? もっとニヤニヤできる内容だと思ったのに、普通に微笑ましいだけだな。もっと言った後に、朝日が恥ずかしくて顔を上げられなくなるものが良かった」  そんなこと口にしたら、今後一生言われ続けるから嫌です。 「あの、デザインの道を捨てたわけではないんですが、ルナ様の型紙を作るのも楽しいと思って」 「思って?」 「ルナ様のお役に立てるようなら、卒業しても私を側においてください」  きっと、その時は今と違う姿になっているだろうけど。自分で言っておきながら、卒業後のことなんて現実味がないな、と思った。 「その『側においてください』は私が言った『貰ってくれ』と同義語だと思っていいのか?」 「や、あの、違います。えと、私たち女性同士ですし」  ああ。いつの間に僕は、自分から「女性同士」なんて言えるほどこの格好に馴染んでしまったんだろう。 「カナダでは、同性でも結婚できるらしいぞ?」  ていうか、あの、同性じゃないです。思い切り異性です。日本でも合法です。  性別のことで落ちこむ僕を見て、ルナ様は何か勘違いしたみたいで、面白そうに笑いながら見守っていた。  しばらくそのまま話題が途切れた。やがてルナ様は自然に頭を離して、デザートの方へ視線を動かした。 「さて、それじゃそろそろ朝日の作ってくれたデザートを食べようか。自分のせいだが、紅茶はすっかり冷めてしまったな」 「あ……すぐに入れなおしてまいります」 「ありがとう」  ポットを持った僕は、一旦みんなのところへ戻った。  そして戻ったせいでみんなから遅かったとかどうだったと聞かれ、結局全員をルナ様の部屋へ連れてきてしまった。 「朝日……君は紅茶をいれに戻ったんじゃなかったのか」 「申し訳ありません……色々話したと言ったら、根掘り葉掘り聞かれて、色々ごまかしはしたのですが逃れられなくなってしまいました」 「ルナ大丈夫? ルナの側には私がいるよ! トランプする? ゲームする? それとも木登りでもする? 今日は朝までだって付きあうぜうぇーい!」 「字体自体は、時代とともに実態を自在に変えるのですわ。オーッホッホッホ、私が慰めてあげますわよ!」 「ルナ、何でも話してね。私たち友達じゃない。わ、今の台詞にとっても友情を感じる。一度言ってみたくて」 「あー……」  それからルナ様はもみくちゃにされた。湊に手を握られ、ユルシュール様に頭を撫でられ、瑞穂様の胸に顔を埋められた。  名波さんだけは『金閣寺』を読んでるけど、サーシャさんと北斗さんはほっこり笑顔だし。僕もあの輪の中に混ざった方がいいのかな。  彼女たちが盛りあがれば盛りあがるほど、ルナ様の目は温度を下げて輝きをなくしていった。 「悪い。せっかくだが、もうデザートを食べてシャワーを浴びたら寝たいんだ。君たちの気持ちは充分に受けとったから、今日のところはここで解散とさせてもらいたい」 「えーっ! せっかく来たのに! 一緒に寝ようよ二人で。私の身体を枕にしてもいいかもだぜ?」 「その役目は七愛に譲ろう。二人で思う存分くんずほぐれついんぐりもんぐりしてこい。愛しあってこい」 「七愛の愛に協力してくれた……ルナ様のためなら、七愛は国宝だって燃やせるかもしれない」 「よく言った。今すぐ全員外へ追いだせ」  たとえ正主人でもある湊ですらも、今の名波さんには逆らえなかった。僕たちメイドが強烈なショルダータックルで廊下へ押しだされるのを見て、ユルシュール様や瑞穂様は渋々部屋から外へ出た。 「それではルナ様、失礼いたします」 「そうだな、また明日……あ、ちょっとだけ待て」  廊下へ出された僕たちが移動し始めようとした矢先。閉じる寸前のドアの隙間から、迷っているようなルナ様の声が聞こえてきた。  どうしたんだろう? 珍しく声に張りがない。 「ルナ様?」 「いや、今日は君たちにちょっとだけ心配かけただろう」 「だから、ほんのちょっとだけだぞ。ほんのちょっとだけなんだけどな。本当にほんのちょっとだけなんだけど、君たちありがとう」  言葉が終わると同時に高速でドアが閉じて鍵が掛けられた。最後の方はお礼が先か閉じたのが先かわからないほどだった。  でも僕たち全員、しっかりと聞きとっていた。誰ともなく顔を見合わせて微笑みあう。 「かわいい〜!」  瑞穂様にしては珍しいほどの大きな声。これは絶対ルナ様に聞こえてる。 「ルナ、素直に言ってくれればいいのに。どうしてドアを閉めたの? もう少し話しましょう?」 「さすがルナ、私もきゅんきゅんきちゃったよ。抱いてー! ルナ抱いてー! そして私にも抱かせてー!」 「ルナにお礼を言わせてやりましたわー! 今回は私の勝ちですわー! オーッホッホッホッホ!」  三人のお嬢様がドアの前でキャッキャと騒いでいたら、とうとう内側からドアを蹴る音が聞こえた。ルナ様、恥ずかしかったんですね。  あ、でもこの後でシャワーを浴びなくちゃいけないのに。浴室までの途中で誰にも会わないといいですね、ルナ様。  今日も癒しのお風呂タイムとその掃除を終えて、一日の締め。  今日はルナ様にとって良い一日になっただろうか。色々と残念なこともあったけど、彼女が将来大きく羽ばたくための必要な一日であったことを願う。  ウィッグを外し、ボディに被せて梳かしながらそんなことを思う。今日も一日ご苦労様。 「…………」  というかあの、毎日少しずつカットしてるんですよと言い訳してるけど、髪が伸びない僕って周りから見てどうなんだろう。そのせいで前髪は本当に毎日切ることになったし。  はあ。髪の毛が重くないと楽だなあ。そしてよく見たら地の後ろ髪はけっこう伸びてきた。あと何ヵ月すれば、ウィッグと同じ長さになるんだろう。伸ばしはじめて四ヵ月弱。まだ全然足りない。  ボブくらいになればごまかせるかな。うん、あと半年経ったらばっさり切ったことにして、そのときまでに伸びていた髪型にしよう。あまり伸びると後ろがもっさりしてそうだし。  というわけで、あと半年間のお付きあいですがよろしくお願いします。両手ぱんぱん!  湊の一回を除いて、ずっと自分の正体を隠しつづけてくれている相棒に恭しく手を合わせた。また明日よろしく。  ありがとう。おやすみなさーい。 「朝日? 夜中にごめんなさい。ちょっと開けてもらってもいい?」  おはようございまーす。  あわわわ瑞穂様だ。無視なんてできないし、すぐにウィッグを着けないと。 「いまドアを開けますので、少々お待ちください」  仕方ないからウィッグは簡単に止めた。落ちたりはしないだろうけど、少し心許ないかも。  ブラも……当然着けないと駄目かな。うう、ドア一枚隔てただけの距離で瑞穂様が立ってるのに、寝間着を脱いでブラをもそもそと着けなくちゃいけないなんて。とても恥ずかしい。 「お待たせいたしました……寝間着で申し訳ありません」  あれ瑞穂様、枕持ってる? 「ううん、格好なんて気にしない。こんな時間に訪ねてきた私が悪いんだからいいの」 「どうされました? なにかご用でしょうか」 「うん。朝日とお話がしたくて」 「あ、はい。私で良ければ。どうぞお入りください」  と言っても僕の部屋は使用人用だから、二人も入れば少し窮屈だ。 「何かご相談でも?」 「相談というほどのものではないけど、ここ最近は、ルナの衣装製作で朝日が忙しかったでしょう?」 「あ……はい。製作には時間がなかったもので……期限がなくなった今は、ゆっくり製作を続けておりますが」 「そう……朝日は衣装にばかり構って、私のことなんて忘れていそうだったから。寂しくて遊びに来ちゃった」 「い、いえ、瑞穂様のことを忘れたりはいたしません。食事の時にいつも顔を合わせていたではありませんか」 「だけど朝日は食事の時ですら、いつも衣装のことを考えていたでしょう? 話しかけても上の空で、朝日が全然構ってくれなくて寂しかった」  これじゃまるで恋人……友達ってこういうものだっけ?  はっ! よく考えたらこの屋敷へ来るまで、僕は友達なんていなかった! ということは僕より外での社会経験が長い瑞穂様の意見の方が正しい? 「私たち親友だよね? じゃあ今日は一晩一緒に寝ていい?」  うん、瑞穂様は正しくなかった。「親友だから」の後に説明があればともかく「親友だから一緒に寝てもいい」という論法はおかしい。  はっきり言って一緒に寝るのはとても良くない。ウィッグの外れる危険性が高いし、他にもブラがずれたりとか、メイド服より薄着だから、びったりに密着されると男の体とバレそうだったり。  というわけでごめんなさいしよう。だけどもっともらしい理由っていうと……。 「私の部屋のベッドは皆様のものと比べて作りが質素で、瑞穂様の睡眠を妨げる恐れがあります。眠りが浅いと明日の授業にも響きます。しばらくはお付き合いいたしますので、本日はそこまでにいたしましょう?」 「でも一度、朝日と朝まで話してみたい」 「いけません。私がルナ様や北斗さんに叱られます」 「一度くらい我儘を聞いてくれてもいいのに。もう。じゃあ私は、勝手に朝日のベッドで寝るから」 「えっ。いけません瑞穂様、今日は言うことを聞いていただきます。めっ」 「私が今日だけは自分の立場を使って言うことを聞いてと言ったら?」 「う。そ、それは困ります。でもお願いします。北斗さんにも迷惑が掛かります」 「ふふ『言うことを聞いてもらう』から『お願いします』になった。それなら北斗が許してくれるならいい?」 「え、もしかして……」 「うんそう。北斗には許可をもらってる。朝日に迷惑が掛からなければいいって」  わあ、満足そうな微笑み。それって、北斗さんは僕が断るのを見越して許可を出してるんじゃ。  だけど迷惑が掛からなければ、なんて言い方をされたら、立場的にとても断りにくい。でもこっちも人生に関わることだから一緒に寝るのだけは避けなくちゃいけない。 「え、ええと」 「うん」 「わかりました。一緒に寝ましょう」 「ほんとう!? ありがとう、朝日」 「でも『眠る』のはナシです。一緒にベッドの中で『寝る』だけです。少しお話したら、今日は部屋へお戻りください。ルナ様の手前もありますので、これでお許しください」 「うーん、ちょっと残念……でも、うん。朝日が我儘聞いてくれたから、それで充分。お話ができれば」  結局、一緒にベッドへ入ることになった。うっかり寝てしまわないように気を付けないと。 「朝日は優しい」  二人並んで狭いベッドに寝転がると、瑞穂様は嬉しそうに微笑んだ。 「私が我儘を言っても、嫌がってる感じが全然しない。強引な頼み方をしたのに、楽しそうにしてくれてる」 「瑞穂様とお話することは好きです。あまり遅くまで話して、瑞穂様の生活サイクルが乱れないか気になっているだけなんです」 「ずるいです。そういう朝日だって、衣装を作ってる時は毎日遅くまで起きて無茶してたよ?」 「ぅ、それを言われると返す言葉がないです」 「私が心配して声を掛けても『大丈夫です』としか言わなかった……朝日こそ自分だけは平気だなんて思っちゃ駄目でしょう?」 「うう。正直、自分だけは大丈夫だと思ってました。申し訳ありません」 「それと全然かまってもらえなくて寂しかった」 「そ、それは謝って許してもらえるものかわかりませんけど、ごめんなさい。次の時は瑞穂様と毎日の会話を心掛けます」  確かに大げさだったけど、言いだしっぺの瑞穂様にくすりと笑われた。  しかも額をこつんとぶつけられた。あの、近いです。ウィッグがバレないか怖いです。 「ふふ、ごめんなさい意地悪言って。朝日は困ってても真面目に応えてくれるから、楽しくて」 「それと……時間になったら、ちゃんと部屋に戻って寝るから」  瑞穂様の足がもぞりと動いて僕の足に重なった。慌てて体をうつぶせ気味にする。あまり密着すると、正体がバレる危険性があってよくない。 「でもよかった。朝日が私と話すのを好きだと言ってくれて。いつもよくしてくれてありがとう」 「いえ、よくしていただいてるのは私の方です。出会った当初から親しくしていただいて、気さくに話しかけたり、手助けをしてもらったり……」  そうだ、ちょうどいい機会だから聞いてみよう。 「もう教室に東京のご友人もできている頃合いだと思いますが、それでも私と特別仲良くしていただける理由はなんですか?」 「理由? 友情に理由なんてないと思うけど」 「瑞穂様が東京で一番最初に話した相手だからでしょうか?」 「うん……タイミング、は仲良くなる条件の一つだと思う。でもそれだけじゃなくて、どうしてか、朝日と話していると他のお友達よりも胸が熱くなる時があって」 「えっ?」 「別におかしな意味ではないのだけど……なんて言ってるのに、少し胸がドキドキしてる。ごめんね、今のところ本気で女の子と付きあうつもりはないから」 「でも朝日は女の子に人気があったりしない? 女性のみの歌劇団とも違う、不思議と惹きつけられる何かがあって……目? だったり、声? だったり……」  わ、うわわ。以前に「瑞穂様が無意識の内に僕が男だと気付いてたりしてあはは」程度のことを思ったことがあったけど、まさか本当にその可能性濃厚?  苦手なんだし、実家の方でもほとんど男性と会話をしなかったはず。それなのに異性だと認識してない異性と会話することで、少しだけ意識されてる、とか?  僕は僕で、最近はずっとこの格好だから、特に男女の関係なんて考えたことなかった。でも矢印を向けられてると思うと、湊のこともあるし、あまり楽観的でいてはいけないかもしれない。  困ったなあ。せめて瑞穂様の男性嫌いの理由でも分かれば、そういった部分が自分にあるなら極力抑えたり……ができるかもしれないのに。 「朝日? もしかしてそっちのケがある子だと思って引いてる?」 「えっ? そんなことありません。たとえそっちのケがあっても、今まで通り瑞穂様と仲良くできます。もし本気とのことでしたら、きちんと真剣に向きあってから答えを出します」 「やっぱり朝日は大げさ。でも嬉しい。よかった、朝日にまで嫌われなくて」 「まで」? 瑞穂様は「まで」って言った? 「朝日に嫌われたら、本気で落ちこんじゃうかもしれない」 「えと、この三ヵ月で皆様のことは大好きになりました。たとえ後ろから海の中へ突き落とされても、嫌いになんてなれません」 「ありがとう。私も朝日のことは嫌いにならない。何をされても、まず自分に理由を求めると思う」  掛け布団の中で、きゅっと袖を握る感触がした。空調が効いてるとはいえ、けっこう暑いのにより密着した。 「これからも良い友人でいてね」 「あ、はい私こそ。今は立場が違いますが、卒業してもし一人立ちできるようになれば、瑞穂様とも対等にお話できると思います」 「わ、嬉しい! よかった、朝日が敬語をやめてくれる日がいつか来るんだ。その日を楽しみにしてる」  問題は卒業した後も僕と仲良くしてくれるかであって。電話でならごまかし続けられるかなあ……。 「きっとこれからも、三年間、色々と朝日には話を聞いてもらうと思うけど……」 「はい、構いません。でもルナ様や、他のお嬢様方も頼りになると思います」 「ルナや湊、ユーシェも話しやすいけど、相談や悩みを打ち明ける時は朝日に聞いてもらうのが一番好き……」  そこまで言いかけて、瑞穂様は申し訳なさそうに僕を見た。 「ごめんなさい。私もしかして、普段は朝日と対等でいたいと言ってるけど、今の立場に甘えてるのかもしれない。朝日は私に対して嫌がったり、否定しないことを知ってるから」 「ふふ」 「え? なに?」 「ふふふ」 「な、なに? どうして笑うの?」  僕の反応が意外だったみたいだ。もっとしっかりと否定して欲しかったのかな。  だけど瑞穂様の言う「今の立場」を否定しようとしても、あと三年間はこのままだし、だったら笑ってあげた方がいいと思うんだ。 「瑞穂様が私に甘えてると仰っていたので」 「うん、言ったけど」 「甘えていただけるんですか? そういえば、いつもはにこにこしてみんなを窘めたり、まとめたりもすることがある瑞穂様が、今は子どもみたいだなと思って」 「ぅ」 「そういえば、二人きりのとき以外は、誰かに甘えている瑞穂様なんて見たことありません。だから甘えていただけるなら、誰も知らない瑞穂様を見て楽しむことにします。もっと甘えてください」 「朝日のいじわる」  僕の背中に両手がしがみつき、そのか弱い力でめいっぱい抱きよせられた。自然、瑞穂様の額に僕の膨らみが当たる。  あの、駄目です、それはまずいです。そこはパッドです。あまり密着されるとバレる危険性があります。とてもどうしよう。 「そう、朝日の前だと子どもになれるのかも。他のみんなには、こんなことできないし……本当に、朝日と話せなくて寂しかった。私、こうして甘えたかったのかも」  瑞穂様の額がぐりぐりと僕のパッドを揺らす。偽胸だと気付かれそうで怖いよ。  なんとか、なんとかしてこの状況を打破しないと。もうちょっとシリアス目の話に持っていけば、甘える空気じゃなくなるかも……。 「私、朝日にならなんでも話せそう。思ってることの全部を聞いてほしい」  はっ! ちょうどいいタイミングで話題の転換点が! せっかく瑞穂様がなんでも話せると言ってくれるなら、思いついたこともあるし尋ねてみよう。  僕と瑞穂様の、卒業後の関係にも繋がることだ。 「なんでもと言っていただけるのなら、以前から気になっていたことがあります。瑞穂様はどうして男性が苦手なのですか?」 「え? 男性?」  あっ、大成功した。瑞穂様の甘えたそうな空気が霧散して、表情こそ穏やかだけど、不快なものを頭に浮かべたみたいで眉に小さな陰が見える。 「男性が苦手な理由……はっきりした切っ掛けがあったわけではないけど、幼い頃に何度も嘘をつかれたことかもしれない……」 「嘘……ですか? 子どもの他愛ない冗談のような?」  瑞穂様はふるふると首を横に振った。あまり楽しそうな表情ではなかった。 「幼稚園へ通っていた頃、よく私にちょっかいをかけてくる男の子がいて。スカートの裾を引っ張られたり、私の嫌いな蜘蛛や百足を近付けてきたり……私、それがとても嫌で」  へえ。瑞穂様が通ってた幼稚園っていうと、受験もあってレベルが高いはずなのに。それでも嫌がらせなんてする男の子はいるんだ。でもそれって、瑞穂様のことが好きだったんじゃ? 「その男の子が、卒園式の日に私をお嫁さんにすると言ってきて。意味がわからなかった。どうして散々嫌がらせをされてきた人のもとへ、私が嫁がなければならないのかと。だからはっきり大嫌いです、って伝えて」  うゎあ。自業自得だけど幼い恋心撃沈。 「嫌がらせされて喜ぶ人なんているわけないでしょう? どうして男の子はあんなことするのか、そのとき初めて疑問に思って。私、そういう嘘にもならない、ちぐはぐな行動や言動が大嫌い」  ごめんなさい。女の子のふりをしている僕は、とてもちぐはぐな男です。 「そのあと学校でも、大して面識もないのに家まで来られたり、ほとんど話したことがないのに電話を掛けてこられたり。自分の都合に私を巻きこんで、そんなことも知らずに好きだという人たちが何人もいて」 「きもののデザインを勉強していた時に、恋愛感情は持ちませんと言ってくれた人もいたけど、私がコンテストで文部科学大臣賞を取った日に告白されたの。感動して気持ちが抑えられないからって」 「けど、彼はそれで良くても、私は嬉しかった気持ちに水を差されたようで。だから、今まで一緒に勉強して楽しかったです、でもお付き合いだけは絶対にできませんっ、て告白の途中ではっきりと言った」  っょぃ。瑞穂様っょぃ。聞いてるだけで、僕は断られた人たちの気持ちを考えてしまって胸が痛いです。 「そんな経験を何度もしているうちに、男の人は嘘つきだと決めてかかるようになって。それと……初対面で胸を見る人も駄目……そんな人ばかりで嫌になっちゃった」 「よくわかりました。話しにくいことを聞いてしまって、申し訳ありませんでした」  瑞穂様は芯が決まっていてブレないみたいだ。寂しいけど、卒業後は電話でやり取りするのがいいのかな。  何しろ今の話だけでも、男の人を容赦なくばっさばっさと切りすててる。きっと僕が男だと知ったら、取り付く島もなくなるだろう。 「あ、だけど私も朝日に電話したり、部屋へ押しかけたり……同じことしてる?」 「あ、いえ、全く違います。瑞穂様は嫌がっているのに訪ねてこられたようですが、私は瑞穂様が遊びに来てくれると嬉しいから別物です」 「ありがとう、大好き。やっぱり私、朝日が側にいれば一生独り身で過ごすのもいいかもしれない」  再びぎゅっと抱きつかれた。取り付く島どころか、今の瑞穂様は純粋なまでに甘えてくれている。  うーん、こんなに慕ってくれる人から、180度態度を変えて嫌われた場面を想像すると、それだけで心にこたえるなあ……。 「私、朝日だったら、どんなことでも受けいれられそう」  いつか性別を打ち明けられたとしても、仲良くしてもらえるかもしれない。なんて甘いことを考えたりもしたけど、瑞穂様に限ってはその可能性が無さそうだ。 「朝日?」 「えっ? は、はい。申し訳ありません、瑞穂様の前で物思いに耽ってしまいました」 「ううん、気にしないで。それよりも、朝日に聞いてみたいことがあるんだけど、いい?」 「はい。私で答えられることであれば、なんなりとご質問ください」 「うん。じゃあ聞くけど、朝日はとてもかわいくて才能もあるのに、その実力を自分のために使おうと思ったことはないの?」 「自分のためにですか。はい、夢を掴むために、服飾の勉強をさせていただいています」 「ううん、そうじゃなくて、えっと……たとえば芸能界? なんて」 「は」  芸能界? あまり縁がないからピンとこなくて、間の抜けた返事をしてしまった。 「それは、日本舞踊などの芸事を指してのことでしょうか? それならば多少の心得があります」 「それも一つの武器になるとは思うけど、そうじゃなくてもっと身近な……アイドル? なんて」 「あいどる。あまりに自分からかけ離れていて、具体的な想像ができません。あのように華やかな世界は、私に似つかわしくないと思ってしまいます」 「そんなことないと思う!」 「はい。そんなことありません」  肩をわっしと掴んで揺らされた。胸じゃなくて良かった。まるで厚みがないってバレるところだ。 「朝日は芸能界でも充分に通じるだけの外見をしているし、芸事も習っているなら、それを売りにできるかもしれない。きっと人気が出ると思う」 「それはさすがに買いかぶりではないでしょうか」 「ううん、本気でそう思ってる。本当は、初対面の時からそう思ってたし……」  初対面の時から?  それはもしかして、瑞穂様が僕にとても良くしてくれている理由に絡んでるのかな? ずっと過剰なくらい慕ってくれてるとは思っていたけど。 「朝日は全然興味ない? 女の子なら、一度はブラウン管の中に憧れり、したことない?」  むしろ犯罪者としてブラウン管の中に映るのが怖いです。 「興味はあります」 「本当?」 「ですが、私の立場は使用人ですし、何より服飾の世界で成功したいという夢がありますから、その道を目指そうとは思いません」  瑞穂様の好みを否定せず、自分の立場を根拠にして現実的な回答。これが一番角の立たない答え方だと思う。 「それじゃああいう衣装を着てみたいとは思うってことでいい?」  あっ。  読み間違えた。ここでもしYesに準ずる回答をしたら、それがいつになるかはわからないけど、アイドルの衣装とやらを着せられてしまう未来が見える。  でもここで否定すると、ちぐはぐを嫌う瑞穂様の心を傷付けかねない。首を僅かに縦方向へ振りつつ、はい着てみたいですと返事をした。 「わあ、きっと……ううん絶対似合う。チェックの衣装もかわいいし、ドレスっぽいのも似合いそう。どんな衣装なら朝日が喜んでくれるか、楽しみ」  もう着ることが決定してる! 「制服デザインの衣装もいいし、水着も似合いそう。朝日もその気でいてくれて良かった」  制服と水着は衣装というより、ただのコスプレだと思います……。  ちょっと困ったことになったかも? と思っていたら、瑞穂様は僕が黙っていることに気付いたのか、はしゃいでいた声を一時停止した。 「あ」 「ご、ごめんなさい。一人で盛りあがるなんて……私の悪い癖です」  僕は笑顔を崩してなかったとは思うけど、瑞穂様は怒ってるとでも捉えてしまったのか敬語で謝りはじめた。 「朝日の気持ちも考えずに……申し訳ありません」 「あっ、いえ! 謝る必要なんてありません。え、ええと、私いま、つまらなそうな顔に見えました? そんなことないんですよ? えいこの紛らわしい顔め!」 「瑞穂様を不安にさせたのはこの顔か! この顔か!」 「ああそんな、せっかくの綺麗な顔を叩かなくても。でも少し面白かったかも。くすっ」 「本当ですか? よかった」  でもそれきり、瑞穂様がアイドルの衣装の話の続きをしてくれることはなかった。  不安そうな表情だったけど、なにを思ったんだろう?  だけど理由を聞けるはずもなく、瑞穂様の笑顔を取り戻すために、できるだけ明るい方向へ話題はシフトしていった。 「申し訳ありません、やはりアイドルに興味はありません」 「そう?」  瑞穂様を喜ばせてあげたい気持ちはあるけど、彼女から嘘が嫌いだと聞いたばかり。だから正直に答えた。 「でも服飾に携わる人間として、衣装の構造や見せ方、色の使い方には興味があります」 「あ、朝日はその角度から見ちゃうんだ……うん、そういう楽しみ方も面白いかもね」 「はい。ですから、自分が歌ったり踊ったりする場面は想像できませんが、衣装のデザインをしてみたいという気持ちはあります。最近はパターンも?」 「うん、朝日らしい。だけどもし衣装を作ることになったら、朝日が試着することもあるかもね?」 「そうですね……アイドルの衣装なんて特殊だとは思いますが、たとえばテーマとしてそういうものを作ることになれば、試着する機会はあるかもしれません」 「じゃあその時を楽しみにしてる」  それ以降は思うところがあったのか、瑞穂様はアイドルの話を続けなかった。  代わりに憧れの恋愛や過去の恋話を聞かれて困ったりした。両方とも経験がないから答えようがない。  ん……。  目が覚めた。この日のあたり具合から考えて、今は5時くらい……かな。  でもなんだろう。いつもより肩がこってる。なんだか首の辺りがわしゃわしゃするし、何か寄りかかっているかのように体が重たい。  あ、気のせいじゃなかった……物理的に人が寄りかかってた。  完全に抱きつかれているせいで、体の密着度がすごい。下半身なんて、お互いの足を挟みあってぴったりと絡みあってる。  きのう話しこんだ後、そのまま寝ちゃったんだ。慌てはしたものの、瑞穂様を起こさないよう、そうっと自分の後頭部へ触れる。  ピンの位置はずれてるけど、ウィッグそのものは外れてない。奇跡かも。だけど迂闊にも程がある。人生が懸かってるっていうのに。  でもこれなら瑞穂様が夜中目覚めてたとしても気付かれないだろう。念のためブラの位置も確認。うん、ずれてない。  ああ……とうとう男に戻る時間が一時間に満たないまま一日を過ごしてしまった……しかもナチュラルにブラの位置の確認なんて単語を思い浮かべた自分になんていうかもう。  最近「ここまでは譲っちゃいけないライン」が日に日に後退してるんだけど、初日と比べてどの程度の位置まで下がってしまったんだろう。  初日はブラを着けるのも嫌だったなあ。昨日は慌てていたから普通に急いで着けたなあ。そこに躊躇はなかったなあ。  今日も線引きを下げよう。ブラを見られて恥ずかしい思ったら自殺……うん、普通にありそう。色や形にこだわるようになったら自殺。これでいこう。 「ん……」  あ。ヘコんでる場合じゃなかった。瑞穂様が息を漏らしたのに気付いて、ウィッグを固定させるためにピンの位置を手早く直す。 「ぉはよう朝日……私、朝日の部屋で寝ちゃって……」 「おはようございます、瑞穂様。お目覚めはいかがですか?」 「うん、起きたら朝日の顔があって……すごくいい気持ちで目が覚めた」  瑞穂様の指が僕の頬へ触れて、くすぐるように何度か撫でていった。その感触が心地いい。 「朝日と一晩、一緒に過ごしちゃった……お友達と二人で寝るのに憧れていたから、なんだか嬉しい。でもごめんなさい、ちゃんと部屋へ戻るって言ったのに」 「いえ、過ぎたことを謝っていただく必要はありません。楽しい夜を過ごせました、ありがとうございます」 「もしルナや北斗に何か言われたら、私が説明するから」  よかった。この様子なら、僕の性別に疑いを持たれた形跡は微塵もないみたいだ。  でも油断していたことに変わりはないから、今後はもっと用心しよう。バレたら一巻の終わりなんだ。もっと慎重に、注意を払って。 「朝日? 急に真面目な顔してる?」 「あ、申し訳ありません。少し考え事に耽っただけで、何の問題もありません」 「ふふ。真面目な顔もかわいい。やっぱり朝日は向いてる……と思うなあ」  向いてるっていうのは、昨日少し話したアイドルの話かな? でもごめんなさい。向き不向き以前に、性別的な問題があって無理なので。男性アイドルなら話は別だけど。 「実は夜中にも何度か起きて、しばらく朝日の寝顔を見つめたりしてた」  えっ……そ、それはなんて大変危険な状態に……ウィッグがずれなくて良かった……。 「その時にね、一度だけ寝言で私の名前を呼んでくれて。すごく嬉しかった」 「え? 名前……呼んだ?」 「うん。『瑞穂様』って。私だけじゃなくて、湊やルナの名前も出てきたから、少しだけ残念だったけど。『ルナ様、湊様』って」  愕然とした。  別に寝言を聞かれたことが恥ずかしかったんじゃない。いまショックを受けたのは、自分が睡眠時にも他人を「様付け」で呼んでいるという、心まで使用人に染まっているという事実だ。  瑞穂様やルナ様は普段からその呼び方だから、まだ許容できるけど……湊は駄目だ。湊に様付けしちゃったら、完全にただの使用人だ。  あああ……とうとう無意識下ですら心が使用人に……違うのに。今の立場は、あくまで演技なのに。ああ、あああ、あああぁ……。  僕が受けたそんな衝撃なんて露知らず、瑞穂様はにこにこと笑っている。 「寝てる朝日は天使みたいにかわいかった……ああ、写真に撮っておけばよかった」 「ただ、こんなにかわいいんだから、寝間着ももっとかわいいものを……あ、ごめんなさい。今のものが駄目って言ってるわけじゃなくて、もっと似合うものがあるかなって」 「えっ? あ、ありがとうございます」  動揺しているせいで、普段の通りに対応できない。言葉がすらすら出てこない。 「え、ええと、せっかくですが、使用人が屋敷内で派手な寝間着を着るわけにはいきません」 「そう? うん、そうかもね……でも下着くらいはかわいいものを着けていいかも? 今もずっと見えてるけど」 「ひゃっ」  あっ。  うわあああああっ! いま恥ずかしいと思っちゃったああああぁ! モロじゃなくて、襟口から肩紐が見えてる程度なのに……。  事前の線引きだと、この段階で自殺するところだった。男として譲っていいラインを少し下げといてよかった。  しかもそれだけじゃなくて、とうとう悲鳴まで女用に作った声が先に出ちゃった……使用人であること、女性であることが潜在的に刷りこまれていく……。  うう。既に一線は超えてしまった気がするけど、ここからさらにもう一線まで跨がなければ大丈夫……まだ大丈夫! ここまでは本能的な行動だ。きっと生きるために仕方なかったんだ。  自分から求めなければ大丈夫。それこそ、下着の色や形にこだわらなければ……そこを超えたら今度こそ自殺だ。 「そうだ朝日、今度一緒に下着を見に行こう? かわいいのを買ってあげるから。朝日もせっかくなら、かわいい下着を着けたいよね?」 「え? あ、はい。かわいいの着けてみたいです」  はい自殺ー!  なつっ。  あつがなつい。まだ七月の頭なのにこの暑さ。今年の八月はどうなってしまうんだろう。 「ああ、あっつぅい。こんな天気の中で庭掃除なんてとても……あれ、朝日? なんで冬服?」 「え、この炎天下に長袖、しかもタイツ!? 暑くないの? マゾなの? やっぱりうちのお嬢様の側にいると、苦痛が快感に変わっちゃうの?」 「あ、違います、自分の意思です。私、ルナ様ほどではないんですが肌が弱くて。日焼けしないように、長袖タイツ着用させてもらってるんです」 「苦痛が快感に変わるどころか、ルナ様から暑苦しいって言われちゃいました」 「うんだって暑苦しいもん」 「見てるこっちが汗出てきそうだもん。も、そういう事情があるなら、いいから中の掃除でもやってなさい」 「はい。ありがとうございます」  本当は肌が弱いんじゃなくて、単に露出を抑えたいだけだから、鍋島さんと百武さんに悪いことしちゃったな。  制服はやむを得ないけど、抑えられるところでは露出を抑えたいのが本音だ。今までなんとかごまかし続けてきたけど、なんだかんだ言っても身体は男だから。  性別に繋がる要素は僅かでも削っておきたい。そういう意味で、夏はとても危険な季節だった。  邸内は空調が効いてるから、この格好でも問題ないけど……外で買い物になったら着替えないといけないな。できれば外出は避けたいけど。 「小倉さん、いま手持ちの仕事がなければ、買い物をお願いします」  世の中はそんなに甘くなかった。 「お嬢様がキリマセンフェボンの季節のタルトをご所望です。他のメイドはみな手が埋まっていますから、小倉さんが行ってください」 「かしこまりました」  夏の服は生地も薄いし、汗かくと透けるし、ラインが出るし、厚着すると暑いし、いいことないなあ。桜屋敷から離れたら着替えちゃおう。 「ん?」 「あっ! 朝日、ごきげんよう」 「ごきげんよう、皆様。リビングへお集まりでしたか」  それぞれの付き人も交えてのお客様大集合。狭いリビングではないのに、この空間が窮屈に見えるほどだった。 「あ、皆様がお集まりでしたら、タルトは人数分用意した方がよろしいですか?」 「ああ、朝日が買い物へ行くのか。この暑い中、ご苦労なことだ」 「タルト? 買い物? 何の話ですの? なんだかおいしそうな香りがしますわね。ちなみにご存知だと思いますけど、スイス人はみなチーズフォンデュとタルトが美味しいものに限り大大大好きですわよ」 「はい。ルナ様から季節のタルトを頼まれまして、これから私が買いに出るところです。キリマセンフェボンは国内でも一、二を争うタルトの人気店です」 「なんですった! 私も食べてみたいですわ!」 「それなら私が、朝日と一緒にユーシェの分を買ってきてあげますね。二人で買い物なんて楽しみ」  う、瑞穂様が一緒だと男物に着替えられなくなる……仕方ないけど、ちょっと残念。 「あら、買い物は構いませんけど、瑞穂は甘いものを食べない方がよろしくてよ。いっそう太りますわよ? イベリコ之宮瑞穂になってしまいますわよ?」 「ユーシェ? もうその話を引っ張るのはやめましょう? 私もあれからダイエットしたんですよ?」 「ダイエットをしているなら、余計に食べない方がいいと思いますわよ」 「というよりも、食べてる時間がないだろう。朝日、人数分は用意しなくていい」 「ええ、瑞穂の分はダイエット用のこんにゃくだけで構いませんわ」 「こんにゃくもいらない。これからみんなは出かけるそうだ」 「ぃやぃやぃや。『これからみんなは』じゃなくて、ルナも誘いに来たんだってばさ。夏は外まっさかりだし、みんなで涼みに行こうぜヘイメン」 「悪い、断る、予定がある。君たちだけで行ってもらいたい。そうだな、ホテルの上層階にある最高級のプールを紹介しよう」 「や、プールは行きたいし楽しそうだけど、たまにはルナと出かけたいなーなんて? もし駄目ならリビングで『第一回! 伝説のタルト食べ放題選手権 〜太りざかりの乙女たちへ〜』を開催してもいいよ?」 「いい加減にするべきですわ! そんな選手権を開催しようものなら、豚穂が仲間はずれになってしまいますわよ。これ以上彼女を太らせて何をしようと言うんですの? もうデブネタはやめてあげるべきですわ!」 「仏の顔も三度まで! です! 面! 面! クッションで面!」 「痛いですわ! 痛いですわ! 本当は別に痛くないけど心が痛いですわ! 今回は親切で言ってあげただけですわ!」 「私は太ってもいいからルナと一緒に遊びたいよ? 予定ってなに? 終わるまで待ってようか?」 「デザイン画を描きたいんだ。あと一時間もしたら、一人きりでアトリエに篭るつもりだ。タルト大会が開けないのなら、三人で出かけてもらった方がいいだろう?」  ルナ様の絶対防御壁でもあるデザインを理由にした拒否。これを出されると反論は一切できない上に、屋敷へ残ってもルナ様と話すことはできないという、チートな切り札。  あ、てことは嫌な予感。 「そうだな。私が行けないのだから、朝日。君が代わりにみんなの相手をして欲しい。季節のタルトは別の人間に買いに向かわせる」  わあ、やっぱり……え、だけど待って。今回の場所はシャレにならないんじゃ。 「今からこのホテルに連絡して、プレジデンシャルスイートルームの申しこみを頼む。それとプールの利用もだ」  やっぱりプール! 「部屋が空いてなければそれに準ずるレベルでいい。まあこの時間なら問題ないだろう。プールは貸し切りが望ましいが、夏だし、難しいと思う。マナーの良い人間しかいないはずだから、そこは妥協してもいい」  そそそそそれは駄目です無理です! プールって水着で裸で、あの、僕男ですし、そんな、今でも肌が露出しないよう気を付けてるのに、しかも皆さんとなんて、ほとんど自殺じゃないですかー!  全身の毛穴がハイパー大開放した。冷や汗の量が全身の体液分くらい。口はぱくぱく、膝はがくがく、心はびくびく、心臓ばくばく。 「ああああのあのあの、私、水着なくて泳げなくて自信なくて」 「すぐ近くに店があるから、水着はそこで買うといい。それと、接待と悪い虫を払うために行くのであって、君が泳ぐ必要はない。最後に君の水着姿を気にする人間は誰もいないから自信などいらない」  返す言葉もございません。 「えっ、朝日の水着姿? しかもこれから買う? 私が選んであげる!」  ところが僕の水着を気にする人がここにいた。いよいよ逃げられなくなってきた。 「私も水着は持ってきていませんの。ですから朝日と一緒に選ぶことにいたしますわ。私、地元では湖の妖精と呼ばれていてよ、オホホホホ」 「黙れ湖の妖怪」 「どうせルナは泳げないのでしょう? ああ負け惜しみが愉快ですわーっ! 朝日? 一緒に試着して、水着の比べあいをしますわよ」 「試着室は別ですよねっ!?」 「も、もちろんですわ。もちろんなのですけど、そんなに嫌がられるとは思いませんでしたわ。そんな目が血走るほど嫌でしたのね……」 「残念だったな湖の妖怪。ははは、愉快愉快。よくやった朝日」  ごめんなさいユルシュール様。でも今はあまり迂闊な発言をしたくないので、フォローはできません。  ただ、このまま黙っていても、行き先がプールなのは変わらない……なんとか今からひっくり返す方法は……。  そうだ、湊!  他の二人が行きたくても、湊が強硬に場所を主張してくれれば、まだ変更できる余地があるかもしれない! いやむしろ、湊のバイタリティなら余裕でひっくり返せる! 「プ、プールかあ。そっか、水着かあ。ん、ま、まあ自信あるわけじゃないけど……うん、楽しみではある、かなあ。久しぶりだし」  湊……。 「ちなみに前の学校の話なんだけどね、同学年の中で唯一竹生島まで泳ぎきった女だったから、私も湖の妖怪って呼ばれてたんだよ!」 「『も』じゃありませんわ! 私は妖怪じゃなくて湖の妖精ですわ!」 「竹生島……」 「あら? 瑞穂、どうしましたの?」 「竹生島まで泳ぎ切った……? 竹生島のある琵琶湖は、ユーシェの地元の湖より大きいんですよ?」 「えっ? そうなんですの? あの雄大なレ・マン湖よりも広いんですの?」 「竹生島は、湖岸からどのくらい離れているんですか?」 「んとー、6kmだったかな? 往復で12km」 「12km……泳いだんですの?」 「それは……憚りながら、妖怪と呼ばれても差しつかえありませんね」 「そんなに誉めないでよぉ! あっははっはー、なんだか久しぶりに泳ぐのが楽しみになってきちゃったな!」  僕の気持ちは伝わらなかった。湊は二人と楽しそうに話して、止めようがないほど行く気満々だった。  バレずに……というよりも、生きて帰ってこられるかな、僕……。 「話はまとまったな。朝日が予約を済ませたら、みんなで行ってくるといい」 「んー……わかった、ありがとう! でも今度はルナも一緒にどっか行こうね?」 「そうですわよ? あまり私と朝日を目の届かないところで遊ばせると、勧誘して、貰っていってしまうかもしれませんわよ? 卒業してもルナの側にいるとは限りませんし」 「朝日は尻の軽い女じゃない。卒業しても私の側にいてもらうつもりだ」  卒業したら元の性別に戻りたいので、お側で仕事をさせてもらえるかはルナ様次第ですが。 「ルナの側……あ、ところで朝日は一緒に来るの? 泳ぐのも水着になるのも、嫌がってるように見えたけど」  はっ! いま瑞穂様がいいことに気付かせてくれた。同行を名波さんやサーシャさんに頼んで、僕はルナ様の側にいれば、プールは行かずに済むんじゃ? 「朝日は私の代理だ、必ず同行するように。これは命令だ」  だけどルナ様にぴしゃりと言いきられた。  そういえば前にも……GWだったと思うけど、似た様な状況があったのを思いだす。  一先ず自分のことは置いといても、みんなが遊んでる中、ルナ様は他のお嬢様と別行動に……だけどそれを僕が気にしたり、口になんてしようものなら、不快に思われるのはわかりきってることだし。  そんなことを頭に浮かべた僕の気配に気付いたわけじゃないだろうけど、ルナ様は片眉を下げながらこちらを見た。 「朝日、返事は?」 「まさか断らないだろうな?」と言いたげに、ルナ様の語気は鋭い。 「はい、かしこまりました。皆様と同行してプールへ向かいます」  それがルナ様のためにもなると考え、丁寧に返事をした。 「そこまで堅苦しくなくていい。君は普段からみんなと仲がいいのだから、普通に楽しんできてくれればいいんだ」 「はい、かしこまりました」 「理解してくれたのか、判断が難しい返事だな……」  言葉通り、ううんと唸りながらルナ様は難しい顔をしていた。  そんな僕の主人とは逆に、他の三人のお嬢様方は顔を明るくしてくれる。 「オホホホ。ルナの許可も出たことですし、今日は一日、朝日を私がお借りしますわ。なんならそのまま、スイスへ連れてかえってもよろしくてよ」 「駄目ですよ、ユーシェ。私の大切な友人が、そんな遠くへ行ってしまうなんて我慢できません。滅多に会えなくなってしまいます」 「あの、ユルシュール様、瑞穂様、両腕を奪われては電話が掛けられません」  お国柄ってわけじゃないだろうけど、ユルシュール様は、気に入った相手とのスキンシップを図るのがお好きみたいだ。  昔は隣に並ぶ程度だった瑞穂様も、いつの間にかユルシュール様に影響されてくっつくように。筋肉や身体つきに違和感を持たれて、性別バレしないかとても怖い……。 「水着。水着。わ、私も新しいの買おうかな。去年買ったやつだから形は古くないと思うけど、うううぅー。ううぅー。うううぅー!」  唯一の味方の湊はなにか葛藤してる。後でこっそり、プールでのフォローを頼めると……いいなあ。 「うう、緊張してきた。よぅしやるぞー! やったんぞー!」 「はは、妙に張り切ってるな。まあ他に客がいるとすれば、それなりの資産家の連中だ。新しい出会いでも期待してるのか?」 「そんなの、イラネ」  じゃあどうして気合い入ってるのか、という説明は特になかった。 「新宿を見た時も思いましたけど、渋谷の人の多さには驚きを超えて呆れを覚えますわ」  今日も歩いて目的地まで散策。そんな中、ユルシュール様は顔を顰めていた。 「チューリッヒもジュネーヴも、道路には多くの人が行き交い、毎日賑やかです。だけど、どうしてでしょう、品位というものが感じられませんわ」 「旧市街のような建物がないからでしょうか。この地域が発展し始めてからの歴史は、まだ50年程度しかありません」 「そういえばユーシェは京都贔屓でしたね。地元の人間としては嬉しいです」 「ですわ! 京都に比べて、風情が感じられないのですわ! 発展の中にも、歴史を感じられてこその風情ですわ! 瑞穂もそう思いますわよね?」 「私は故郷の町並みを愛しているけど、東京の景色も嫌いではないんです。この近代的な風景の中にも、学ぶべきところは沢山あるでしょう?」 「そうかもしれませんけど、それでも覚えるこの違和感はなんですの? んー……あ、わかりましたわ。景色とそこを歩く人々が融合していないことにちぐはぐさを覚えたのですわ」 「今も人とすれ違う度に視線を感じるのですけど、どうして日本人は海外の人間を珍しそうに見るんですの? それと私たちが話しかけた時もすぐに緊張します。世界的な都市という自覚を持って欲しいですわ」 「世界の色々な都市を回りましたけど、日本ほど外国人慣れしていない国も珍しいですわ。私たちの地元と、それほど外国人の歩いている比率は変わらないはずなのに」  周囲を日本人に囲まれて、ユルシュール様は度胸があるなあ。万が一、絡まれた場合のことを考えて、周囲の目線には気を使った。 「それとこの街は臭いですわ。この臭いだけは、恐らく一生慣れませんわ」  あー、と僕も瑞穂様も湊も頷いた。それぞれ思うところがあったらしい。 「ユーシェは鼻が特に良いですからね」 「そうでしたか。では地下鉄などは特に……」 「ですわ。臭いのせいで、私は地下鉄に絶対乗らないことにしましたの。そうですわ、帰ったらルナに臭いのことで文句を言ってやりますわ。普段好きなように言われている借りを返さなくてはなりませんもの」  ユルシュール様が張りきってる。ルナ様も容赦ないから、返り討ちにあわないといいけど。  でもユルシュール様が話題を振ってくれたお陰で、もうすぐ目的地だ。あまり皆様に時間を感じさせずに辿りつけたと思う。  だけどあと少しのところで、それまで無口だった湊が突然声を出した。 「あ、布屋さんだ」 「布? 生地ですの?」  生地と聞くと、目を輝かせてしまうのが僕たち服飾生だ。ここは以前、湊と出会った布屋。 「ね、テキスタイルで生地集める授業あったよね? 私まだ全然調べてないし、ちょっとだけ寄らせてもらってもいい?」 「もちろん構いません。私は、生地の名称や種類に関する知識が、まだまだ浅いですから」 「私も構いませんわ。逆に長居しすぎないよう、注意しなくていけませんわね」  お嬢様方が頷いたなら、当然僕に異論はない。プールで遊ぶ前に、軽く趣味と実益を兼ねた買い物をする形になった。  でも実際に行ってみれば、他のお嬢様方より僕の方がよほど楽しんでいた。  ユルシュール様は珍しそうに一フロア毎にゆっくり回っている。瑞穂様は店員さんに生地のことを尋ねたりしていた。  そんな中、僕は一人でルナ様のデザインを思いだして、それに合う生地を探していた。このフロアには、ベルベットもシルクサテンもシルクのタフタもある。どれも品質が良くて、肌触りがとてもいい。  ああー……この上品なサテンでルナ様がデザインしたドレスを作ったらぴったりだろうなあ……色も豊富だしこの質感たまらないなあ……接着芯もいいのを選ばないと……そうだ、裏地も見に行こう。 「ゆうちょ?」 「きゃっ!」  自分の世界へ入りこんでいたところに声を掛けられて、思わずびくっと震えた。  というよりも、いま一番落ちこむべきところは、またしても女用の声で自然に悲鳴を出してしまったことで……ああ。 「ゆうちょ? どうしたの? いま横から見てたら、警官が見たら不審に思われる表情浮かべてたけど」  今まで気付かなかったけど、どうやら僕は生地を見てると陶酔してしまう、悪い癖があるみたいだ。人前で恥ずかしい顔を晒さないように気を付けよう。 「ごめん、なんでもないよ。なに?」 「あ、てかここだと、普通に話した方がいっか。ごめんね、私がゆうちょって呼んだから。敬語の方がいいよね」 「んー、ユルシュール様と瑞穂様に見つかる可能性を考えたら、その方がいいかも。ごめんね、気を使わせて。ああ違う、申し訳ありません、湊様に気を使わせてしまって」 「や、逆だってば。朝日に気を使ってあげられなくて、ずっと謝らなくちゃと思ってて。私、事情を知ってて助けてあげなくちゃいけない立場なのに、つい一緒に泳げるのを楽しみにしちゃって……」  あれ、そんなこと気にしてたんだ。もしかして、屋敷を出てから無口だったのは、それで落ちこんでたのかな。 「ごめんね。朝日からメールを貰わなかったら、今でも浮かれてたかもしれない。水着なんて、やだよね心配だよね怖いよね。い、今からでも、私が強引に行き先変えちゃおうか?」 「そうしていただけると、大変助かるのですが……水着だとバレる危険性は高いですし。ただ予約はしてしまいましたし、予定を変えるとルナ様やユルシュール様がなんというか……」 「まあ私と瑞穂は朝日が全裸でもゆうちょだって気付かなかったし、腰にパレオさえ巻いとけばバレないとは思うけど」 「それはさすがに。体に違和感があると思います」 「いや違和感なかった。全然気付かなかった。素で疑わなかった」  あれ、そうなの? それじゃ僕大丈夫なの? それはそれで問題があるけど、バレることに比べたら目はつぶれる。 「では大人しくしていれば、意外と大丈夫だったりするのでしょうか」 「意外とっていうかぜんぜん大丈夫だと思うけど。だけどそれでも、私が気を使ってあげられなかったことは謝らなくちゃと思って」 「全然です。そんなことで謝らないでください。元々は自分の勝手で女性のふりをしているのですし」  湊の顔の角度がやや俯きがちになったから、自分のことで落ちこませてはいけないと思い彼女を慰めた。  でも湊はまだ顔を上げられずに戸惑っていた。それなら話題を別のものに変えて、喜ばせてあげる方向にシフトしたいけど……湊が喜ぶことって言うと?  朝日として対応してもらうことを湊から提案してもらった手前、周りに聞こえないよう、彼女の耳元までそっと口を近づける。 「僕も湊とプールに行くの、久しぶりだから楽しみだよ」 「えっ」  湊が顔を上げてくれた。それで充分。僕は自分の口元を湊の耳元から遠ざけた。 「少し不安でしたけど、湊様が外見上は大丈夫だと言ってくれました。何より味方として居てくれるから、もう心配はしていません」 「ゆう……ううん、朝日。ありがとう」 「あ……どうしました? なんだか二人で楽しそうに話して……」 「あらなんですの? 湊も朝日を自分のメイドにしようと狙っていたんですの?」 「そのとおりじゃあああー!」 「きゃーっ」 「なんですのーっ!?」  二人の首に腕を回して、湊はエレベーターへの移動を促した。もう元気いっぱいだ。 「よーし、やる気出てきた! 今日はいっぱい泳ぐぞー! 10km泳ぐ!」 「そういう本格的なのは他所でやって欲しいですの」 「へへ、フォローしてもらっちゃった。えへへへ」 「そして今度はどうしてにやにやしているんですの?」  これで全員、心置きなく楽しめると思う。あとは水着選びと、更衣室には注意しないといけないなあ。 「朝日ー。喉が乾きましたわ。ジュースをいただきたいですわー」 「はい。ただいま」 「朝日ー。体が固くなっていますわー。肩を揉んでいただきたいですわー」 「かしこまりました。それでは失礼いたします」 「朝日ー。今すぐジャンメール家へ仕えていただきたいですわー」 「駄目です」  肩を揉みながら毅然と拒否した。ユルシュール様は残念でもなさそうに、ふうと小さなため息をついた。 「たとえノリでも、朝日の承諾を得たという既成事実ができれば無理やり連れて帰りましたのに。残念ですなあ」 「はい。ユルシュール様なら、日本語を間違えながらそうおっしゃるだろうと思っていました。ですからもったいないお話であっても、お断りさせていただきます」 「まあいいですの。そのくらい素っ気ない方が、落とした時の喜びは大きいですわ。まるであのモンブランを踏破したかのように」 「その忠誠心が私に注がれると思えば、今はどんなに頑なであろうと許してあげますわ。卒業後が楽しみですわ、オーッホッホッホ」  申し訳ありません、卒業後にお会いする時は男として別人になっていると思います。仲良くしてください。 「朝日がパートナーになってくれるのなら、使用人ではなく、対等な立場でも構いませんわよ?」 「え……それはまた私には過ぎたご提案ですが、元がルナ様の使用人と対等に付きあうのは、ご実家の皆様から色々と言われてしまうのでは?」 「問題ありませんわ。朝日が私のお兄様と結婚すればいいのですわ」 「ですわっ!?」 「も、申し訳ありません……驚きのあまり、肩を揉む力が入りすぎてしまいました」 「よ、よろしくてよ……話題が唐突すぎて、今のは私にも非がありましたから……」 「でも悪い話ではないと思いますわよ。伯爵家である我がジャンメール家の一員となれるんですのよ? 朝日が家族になるのでしたら、私も大歓迎ですわ」 「い、いえあの、あまりに現実味がなさすぎて、どう返答すれば良いものか非常に困っているのですが」 「困る必要ありませんわ。それともジャンメール家の一員となることに抵抗でも?」  いえ、家柄ではなく性別の問題です。 「ええと、ユルシュール様に紹介していただいたとしても、私の素性が明らかになれば、ご家族がお許しになられないのでは?」 「お兄様は私と同程度に日本贔屓なのですわ。清楚で貞淑で夫に従い家に尽くす大和撫子を妻に迎えたいと常々から口にしてるのですわ」  思わずプールで泳ぐ瑞穂様に視線を向けてしまった。僕より彼女を勧めるべきだと思う。 「瑞穂を見ているのでしたら、あの子は男性が苦手ですわよ? お互いの顔を潰さないためにも、兄に紹介なんてできませんわ」  あ、それもそうか……だからって僕を紹介されても困るけど。 「朝日なら条件に合致すると思いますの。美人で、清楚で、家事もこなして……そして私の仕事のパートナーになってくれるのでしたら言うことなしですわ」 「せ、せっかくのお話ですが、まだ恋人のことは考えたことがありませんので……」 「そうですの。少し残念ですけど、その気になったらいつでも言えばいいですわ。今日の夜、家族の写真を見せるから私の部屋へ来なさい」 「はい」  まるでその気はないけど、呼びつけられたら拒否はできない。とりあえず頷くだけ頷いておいた。 「もしそれが現実になれば、家族の中に朝日という味方ができるのですけど……」 「え?」  ご家族の仲がよろしくないのですか?  なんて聞けない。危ない危ない。せめてもう少し遠まわしに「味方とはどういうことですか?」「ご家族のお話を聞いてもいいですか?」。このあたりで……ううでも、図々しいかなあ。 「おーい、湖の妖精!」  そして考えがまとまらない内に、湊から声を掛けられてしまった。ユルシュール様の意識もそっちへ向いた。 「泳がないのー? 妖精と対戦したいんだけどー!」  湖の妖か……湊はここへ来た時から、ずっと泳いでるのにも関わらず元気だった。 「妖怪相手に戦うほど馬鹿ではありませんの。沈められてしまいますわ」 「ヘイヘイ! ピクシー、びびってるー!」 「うるさいですわ半魚人」  湊なりに僕とユルシュール様を離して、性別がバレないように少しでも気を使ってくれたのかな? いや、あれは単に遊び相手が欲しいだけかも。  本当は僕も湊と泳ぎたい気持ちはあるんだけど、パレオが濡れて体のラインが出たら本末転倒だからそれはできない。  ていうかあの……そうじゃないと困るんだけど、未だに誰からも疑いを掛けられないのは……いやこれは現状を考えれば喜ぶべきだ。ヘコんだりしたら罰が当たる。変装完璧。超嬉しい。 「朝日もまだプールへ入っていないけど、泳がない……それとも泳げない?」 「あ……は、はい。泳げません。ですからプールは……はい、遠慮させてください。申し訳ありません」  いっそのことプール恐怖症くらいにしたいけど、それだと桜屋敷の浴槽だって似たようなものだしなあ。水嫌いってわけにもいかない。 「泳ぎなら教えてあげようか? 私、距離を泳ぐのは自信ないけど、速さならそこそこ出せるから」 「あ、うん。水の抵抗がなければ私と互角に泳げたかもだね! あ、でもあの、朝日は、うん、無理はしない方がいいかも。ほらあの、私たちレベル高いから。朝日も気を使っちゃうしね」 「そう?」  必死になってフォローしてくれてる……ありがとう湊。冗談でも水を浴びせられないようにしないと。 「朝日と一緒に泳ぎたかったから、少し残念……だけど、選んだ水着が朝日に似合って良かった。とってもかわいい」 「ありがとうございます。湊様も瑞穂様もよくお似合いですよ」 「そっ! そおかな? あは、あははは似合ってるかな。お世辞でも嬉しいや!」 「私も朝日と同じ水着を買って、おそろいにすればよかった……」  いま着ている水着は、瑞穂様が選んでくれたものだった。引っかかりがないからとても心配だったけど、最後の手段とばかりに、肌へ直接瞬間接着的なものでバッドをくっつけた。後で僕は痛い思いをするはずだ。  正直、試着の時は泣きそうだったけど、長めのパレオだけは絶対条件として断固譲らなかったのと、途中で覗こうとする瑞穂様を湊が防御してくれたから、意外とあっさり乗りきることができた。  むしろ問題だったのは更衣室……こっちは湊が恥ずかしがって、僕はトイレに行く振りをして、お嬢様方と時間をずらした。ついでにトイレで着替えを済ませた。  だけど帰りにもう一度着替えはあるわけで……ああ気が重い。お嬢様方より先に居なくなるわけにはいかないし。  早くこの修羅場から脱出したい……ここは地獄だ。 「はあー、今日は楽しいですわ。ここは楽園ですわあ」 「はい……とても楽しいです」 「これで朝日が私と一緒にスイスへ来てくれれば、もっと楽しいですわあ」 「申し訳ありません、それは無理です」  プールに入れないからユルシュール様と一緒にいる。そうしたら勧誘されて断りつづける。その繰りかえしだ。 「うー。てか朝日さ。ずっとユーシェの体触って……てか揉んでるよね」 「そうだ! 私もプールサイドで一休みしようかなあ!」 「こういう日が続くと優雅で良いですわね。次は海にも行きたいものですわ」  夏は僕にとって辛い季節だなあ。特に今年は色々と神経を削られそうだ。 「私はルナ様の側に――」 「駄目だ。みんなと同行だ」  最後まで言わせてもらえなかった。さすがルナ様、僕がなんて答えるかわかってたみたいだ。 「そこを重ねてお願いしたいのですが、私をルナ様のお世話に――」 「重ねるな。お願いするな。駄目だと言ったら駄目だ。私の言うことが聞けないのか?」  取りつく島もない。ルナ様は譲るつもりがないみたいだ。  だけどGWの時と違うのは、僕は呆れられていない。前回は話を言い聞かせようともしなかったルナ様が、僕を説得しようとしてくれてる。  そんなところを見たら、ますます彼女を一人にできなくなる。このままじゃ堂々巡りだ。僕は軽い頓智をしてみることにした。 「わかりました」 「わかった?」  ルナ様の目から疑いの光は消えてない。「同じことを繰りかえすなよ?」と言いたげに、訝しげな表情をしている。 「それはプールへ行くということか?」 「はい、出かけてまいります」 「どこに」とは言ってない。だから季節のタルトを買って戻ってきても嘘はついてない。 「おかしいな。一人で出かけるみたいな口ぶりだが?」 「いえ皆様と出かけます」  駅まではご一緒いたします。目的地は違うので別れますが。 「私の命令に従うと言え」 「はい。ルナ様の命に従います」  一番最初の。季節のタルトを買ってくるという命令に従います。  この時点で、完全にルナ様の側へ残るつもりになっていた。それはプールへ向かうより、屋敷に残った方が安全だという気持ちもある。  だけど一番の本音では、ルナ様を一人にしたくないという思いが強い。  同じことをすれば以前よりも怒られるのはわかっていて、しかも前回はルナ様の恩情で許してもらえたようなものなのに。  けど、それがわかっていても、彼女の側で何かの役に立って、喜んで、微笑んでもらいたい。  たとえ一瞬でも、ルナ様が僕を必要だと思った時は、側へ居られるようにしたい。あのGWに二人でお互いの作った料理を食べてからは、そんな思いが強くなっていた。 「…………」  ルナ様は難しい顔をしている。そしてしばらく悩んだ末に、新しい命令を僕に下した。 「季節のタルトはもういいから、湊とユーシェと瑞穂とプールまで同行し、三人と心行くまで遊んだ後でお茶を嗜んできて欲しい。それが済むまでは屋敷へ一歩たりとも足を踏みいれないように」  僕の頓智は完膚なきまでにバレていた。ぐうの音も出ない。 「ルナ様のお側にいさせてください」 「やはり戻ってくるつもりだったのか。もしそれをしたとして……いやたった今もそうだ、君は客人の前で主人を辱めているんだぞ。私は使用人に言うことも聞かせられない無能な人間だと」 「そそそそそんなこと思ってないよ!?」 「湊がそう思うと言っているわけじゃない。今後のことも踏まえて、同じ様なことをされると私が恥ずかしいと言ってるんだ」 「その気持ちはわかりますわ。人前で使用人に逆らわれては、私たちの立つ瀬がありませんものね。これは普段から桜小路家の教育がなっていないことにもなりますわよ、オホホホ」 「なんでユーシェはそゆことゆーかな! そりゃ私は、貴族社会的なうんたらかんたらはよくわかってないけどさーっ」  湊はユルシュール様の髪の毛のロール部分を握ってぶんがぶんが上下させた。痛くはないみたいだけど、シュールな光景だった。 「それと同行を断った彼女たちにも失礼だろう。それはどう責任を取るつもりだ」 「や、や、それも失礼とかないよ!? ほら朝日には朝日の仕事があるだろうって思うだけで! てか私、大切な人の側にいてあげたいっていう朝日の気持ちはわかる気がするよ?」 「優先すべきは使用人の気持ちよりも当家の面子、それと私の意思だ」 「そう? それじゃあ朝日の気持ちを聞いてみるだけでもどう? ルナの意思が変わるかもしれないし」 「朝日の気持ちが、私の意思に影響するとは思えないが」  そう。この場合、優先すべきは主であるルナ様の意思であって、僕の気持ちはそれに準ずるものでなくてはいけない。 「まあでも、聞こう。普段は素直で健気な朝日が、なぜ意地を張る必要があるのかは私も気になっていた」  あれ? 意外だ。誰の聞く耳も持たずに屋敷から追いだされるかと思ってたら、本音を聞いてもらえる機会が生まれた。  手料理のこと、デザイン画のこと、衣装製作の思い出、一緒にいたい理由は幾つかある。だけどここで大切なのは、細かい理由ではなく、ルナ様に僕がこの屋敷へ残ってもいいと思わせる一言だ。  そのための文章を浮かべては消し、添削しながら整えていくと、最後に残ったのはシンプルな言葉のみだった。 「朝日、君はどうして私の側にいたいんだ」 「ルナ様が好きだからです」 「……っ」  この時まで、ルナ様の健康の事情を気の毒だと思ったことはなかった。でもいま見たものは、その肌の白さが、僅かな紅潮を人の何倍も赤面してるように見せてしまう事実で、僕は彼女を初めて気の毒だなと思った。 「わあ、真っ直ぐ。私も朝日から、今の通りに言われてみたい」 「これ、言われた側は相当恥ずかしいですわね。朝日は本当に一途ですわ。ますますスイスに連れて帰りたくなりましたわよ」 「え、好き? あれ? 大切だからとかじゃなくて、す、好き?」 「あっ! いやあのもちろん、不純な意味ではないです!」 「あああ当たり前だ。そんな意味を持っていまの発言をしたのなら、今すぐここから出ていけ!」  出ていけ。その言語だけで、自分でも意外なほど僕は萎れてしまった。 「私はルナ様の質問に答えました。今日はお側にいてもいいでしょうか」 「客人の前でそんな情けない顔をするな。私の付き人なのだから、もっと堂々とする努力をしろ」 「では!」  ルナ様の手を強く握った。突然のことに、さすがのルナ様も目を丸くしていた。 「どうかルナ様を一人にさせないでください」  そうしろと言われたから堂々としたけど、少しオーバーヒート気味だったかもしれない。僕とルナ様の周囲、そしてその外側の空気には、明らかな温度差が発生していた。 「なんですのこの茶番劇」 「そうですか? 私は朝日が、今みたいに純粋な気持ちを口にできる人だから友人として選びました。彼女が嘘をつくとは思えないでしょう?」  外野の声を聞いて、ルナ様は耳まで赤く肌を染めた。やはり気の毒になるほど、その白い肌は彼女の感情を露骨に人前へ晒す。 「朝日、君は……どこまで私に恥をかかせれば」 「申し訳ありません。ですがルナ様の質問に答えなければと思い、私が意地を張った理由を話しました。これが本音です」  ぶん!と大きく腕を振って手を払われた。というよりも、その気になれば握りつづけられる程度のか弱い力だったけど、ルナ様の意思を尊重して僕から手を離した。 「わかった、もういい。七愛、サーシャ、北斗! 恥ずかしい話だが、うちの使用人はこの通り役に立たない。面目ないが、今日の彼女たちの外出は君たちに付き添いを任せる」 「ルナ様」 「朝日は普段通りに家事をすればいい。それが君の願いだったんだろう? 彼女たちを見送ったら、風呂掃除でもしていろ」 「私はデザイン画に集中するから、間違っても声を掛けるな。彼女たちが戻ってくるまで、アトリエから出るつもりはない」 「はい。ありがとうございます、お優しいルナ様」  たった一日をルナ様の側で過ごすだけで、大変なことになるんだなとわかった。さすがに今後は控えよう。  というよりこれだけ意地を張ったら、二度と同じ役目は言いつけられないだろうなあ。桜小路家のメイドとしては失格かもしれない。 「あ、そういえば皆様にも謝らなくてはいけません。私の我儘に付きあわせてしまって申し訳ありません。本当は、私とルナ様の間で解決しなければならない問題でしたのに」 「ううん、私が好きな朝日の新しい一面が見られたからいい。お陰でもっと仲良くできそうだから」 「瑞穂は甘いですわね。せっかく私たちが遊ぼうと言っているのに、客人を無視してルナを優先するとは失礼ですわ」 「申し訳ありません」 「でも、あのルナが顔を赤くしているところを見られたから許しますわ。それでも気が済まないなら、私に仕えるというのはどうかしら」 「申し訳ありません」 「あら残念ですわ。でも本当に、ルナが僅かでも顔を赤くして、人の好意に戸惑うなんて久しぶりに見ましたわ。そのために協力すると言ったのは以前の私ですし、今回だけは許してあげますわ」 「その代わり、次の時は私に付きあいなさい。いいですわね?」 「はい」  瑞穂様とユルシュール様には許してもらえた。あとは湊だけ……。 「好き……好き、好きって……なんじゃらほい……」 「いえその、恋愛的な意味ではありませんよ?」 「ほんと? ルナってほら男の子に興味なさそうだし、意外と女の子でもすんなりオッケーしちゃうんじゃないかなーって……」 「考えすぎです湊様。ルナ様はノーマルのはずです」  というよりも、僕と女の子が付きあう場合は問題なくノーマルな関係なんだけど。だけどそれをルナ様が知っても、恋愛関係に発展しない気がするのはどうしてだろう。  主人と使用人、だからかな。いっそ性別よりも、そっちの壁の方が高い気さえする。  やった、綺麗。  一時間かけてみっちり掃除した。この広さだからまだまだ出来ることはあるけど、普段の倍は床を輝かせた自信がある。  お風呂掃除なら、この冬仕様メイド服を着ながら涼しく続けることができる。今ごろ外の庭で暑い思いをしてるだろう鍋島さんや百武さんのことを思うと、ちょっぴり申し訳ない気分。  ようし、先輩たちのためにも掃除するところがないくらいぴっかぴかにする! 擦って磨いて汚れも全部取りはらう!  途中から楽しくなってきた僕は、モップを構えて裸足で全力駆けした。どうして人間は裸足になって駆けると、それだけで心が少年時代へ戻るんだろう。  しかも今なら男に戻っても誰も見てない。たまには男らしい動きをしないと、いつか元に戻ったとき、女の子の仕草が抜けずに気色悪い人になっちゃうかもしれない。そーれ、上段回し蹴りっ。 「小倉さん、こんなところに居たんですか」 「ひいゃあああああ!」  即座にスカートを押さえた。我ながら週刊少年的なラブコメの風が吹いた瞬間みたいだった。 「……なんですか、人の声を聞くなり悲鳴をあげないでください。まあ随分かわいらしい声でしたね」 「え、どうして落ちこんでるんですか。嫌味に聞こえたかもしれませんが、かわいらしかったのは嘘じゃありませんよ」 「ありがとうございます……」  かわいい……かわいい悲鳴を……またしてもナチュラルに……。 「あ、それでかわいらしいのは良いことだと思いますが、それだけで何でも許されると思ったら大間違いです。お嬢様が怒っておいでですよ」 「あ……それはその、私の我儘で」 「小倉さんの我儘で、買い物をさぼってお風呂掃除をしていたんですか? どうしてそんな経緯になったのか、説明してください」 「えっ?」  買い物って、もしかして季節のタルトのこと? それ以外に心当たりがない。 「季節のタルトを買いに出ようとしたら、ルナ様に止められて、お風呂掃除を言いつけられました」 「は? ああ、それじゃあ……お嬢様は他の誰かが買い物へ出たと勘違いされていたんですか?」 「いえ、それもありませんね。『朝日に頼んだはずのタルトはまだか?』とはっきり尋ねられました」 「えええっ」  なんでだろう、情報が錯綜してる。僕と八千代さんの会話が噛みあってない。  そんな、だって本当に「風呂掃除でもしていろ」ってルナ様から言われて……はっ! もしかして僕が我儘いったことに対するパワハラ兼お仕置き的な? 「違うんです、本当にルナ様から直接そう言われて……途中経過は色々あったのですけど」 「どうも、小倉さんがお嬢様に遊ばれている気がします」 「は?」 「おかしいと思います。小倉さんに買い物をやめる理由がありませんし、ここで掃除をしていることも、他のメイドたちに確認すれば、誰が指示したかはすぐにわかることです」 「小倉さんが、調べればすぐにバレるような嘘をつくとも思えません。数ヵ月共に生活していれば、それほど頭の悪い方ではないとわかります」 「八千代さんっ……ありがとうございます」  このお屋敷に八千代さんがいて本当によかった……あ、だからメイド長なんだ。 「とはいえ、お嬢様から言いつけられた以上は、買い物に行っていただきます。季節のタルトは午前中に売りきれることもある人気商品です。急いでください」 「は、はい、かしこまりました!」 「私から、仕事を理由に困らせるような遊びは、私の指示にも支障が出るのでおやめくださいと伝えておきます。小倉さんも気を悪くしないでください」 「いえ、気にしていません。お気遣いありがとうございます」  八千代さんは優しいな。さすがルナ様に手料理を振る舞われてるだけのことはある。  すぐに道具を片付けて、代官山へ向かうことになった。この分だと急いだ方が良さそうだし、ウィッグを外してる余裕はない、かな。  なつっ。  あつがなついのを忘れてた。私服に着替えたからメイド服よりはマシだけど、それでも外を歩いてると汗が止まらない。  この気温の中でタルトがくたびれてしまわないといいけど……でもこれを涼しい部屋の中で紅茶と一緒に食べたら、さぞおいしいだろうなあ。数が心配だったけど、まだまだ残ってて良かった。  こっそり自分の分も買っちゃった。ルナ様のものと分けて、冷蔵庫の中へ隠して後で休憩中に食べよう。へへ。  わあ、ケータイ。  不埒なことを考えていたから、必要以上にびっくりした。というかこのケータイ、仕事用だから番号知ってるのは桜屋敷の関係者だけなんだけど……。  さてどなたでしょう。はい、ルナ様。もしかして帰りが遅いとお叱りかもしれない。だって自分のタルトを選ぶのに、5分くらいかかってしまったから。 「はい、朝日です」 「ルナだ。いまどこにいる?」 「プププ・ラ・ダの近くです。5分もすればお屋敷へ到着いたしますので、あと少しだけお待ちください、ルナ様」 「ああ、もうそんなところか。帰ってくるのが早いな」  あれ? 僕の帰りが遅くて痺れを切らしたんじゃない? 「朝日、少し寄り道をしてから戻ってきてもらいたい。買ってきてもらいたいものがある」 「何なりと。ただタルトが傷んでしまいますので、20分以上かかる場所での買い物でしたら、一度お屋敷へ戻って冷蔵庫へ閉まってから向かいます」 「いやその辺でいい。水着を買ってきて欲しい」 「は?」 「水着とは水泳をする時に着用する衣服だ。私たちの授業で習う機会はないが、いずれデザイナーとして大成したら、水着のデザインをする機会がくるかもしれない」 「水着という単語は知っています。あの、ルナ様の?」 「私の水着は私がいなければサイズがわからないだろう。君のものだ。必ず買ってくるように」 「は、はい。それがルナ様の命令であれば」  水着? みんなとプールへ行くのは断ったはずだけど、もしかして今から向かえってことなのかな?  しばらく時間が経ったら、僕が逆らったことを腹立たしく思ったのかな……もう一度みんなの元へ向かえと言われたら、次は三度目、今度こそルナ様に反対することはできない。 「私は水着を買って、屋敷へ戻ればいいのでしょうか」 「そうだ。いま言った通り、私も自分のブランドを持てば水着のデザインをする時が来るかもしれない。そう思い立ったらすぐにでも描きたくなって、モデルが欲しくなった」 「え、モデル?」  どうやら僕は、ルナ様の側にいてもいいみたいだ。 「想像力を膨らませるために、できるだけ水着を着せるのに近い状態がいい。既製品を着ていると影響を受けそうだし、本当は全裸が好ましいんだが、それは君が嫌だろう?」 「はい。全裸はとても嫌です」  道端なのを忘れていた。すれ違った足の長い男性が「全裸」という言葉に反応して僕を振りかえり、もう一度僕を見ながら去っていった。 「今回は水着で我慢しよう。いい加減なものは選ぶなよ、意欲が萎える。自分で似合うと思うものを選び、屋敷へ戻って着替えたら浴室で待っていろ」 「よ、浴室? そんな場所でデザインをされるのですか?」 「私は構わない。机さえあれば場所は気にしない」 「アトリエは地下だし、屋敷内は空調が効いている。君が寒くないならそれでもいいが、まあ途中で湊や瑞穂が戻ってきて、騒がれるよりは目立たない場所の方がいいだろう」  あ、確かに他のお嬢様方に見つかると色々言われそうだ。特に瑞穂様は、僕に水着を着せたがっていたし。 「わかりました。それがルナ様のためになるのであれば」  本当は、タルトを届ける時に会えるかもしれないと思って期待してたんだ。アトリエに篭ると言っていたルナ様とは、夕食の時まで会えないと思っていたから。  それなのにルナ様のデザインの役にまで立てるのなら、場所も格好も気にしない。女性用水着にはまだ少し抵抗があるけど、ルナ様と仲直りできるならと思って、自分がとびきりかわいいと思うものを買った。 「ルナ様? 水着に着替えて参りましたー……」  もうルナ様が浴室へ来ているかと思えばもぬけの殻。  着替えて待っていろと言われたから、先に浴室へ来ちゃったけど……アトリエか部屋へ寄って、ルナ様に声を掛けてから来るべきだったかな?  んー……もう少し待って、それでも来なければ屋敷内へ戻ろう。  そんなわけで待ちぼうけを食らってたら、おかしなことに気が付いた。浴槽に水が張ってある。  僕が掃除した時は、水はなかったはずなのに。これだけ大量に使うと、水道代を気にする八千代さんに叱られるかもしれない。誰だろう……。  もし水の出所が開放されていれば、止めなくちゃいけない。そう思って浴槽へ近付いたのは我ながら迂闊だった。 「ええええいっ!」 「えっ?」  普段なら、まず出さないであろうルナ様の大声。毎日聞いているにも関わらず、主人の声だと気付くのが遅れた。  頭で認識できた時には、その意外さに気を取られ、まるで腰の入ってない素人タックルを真後ろからもろに受けてしまっていた。 「あれっ」  足場も悪かった。自ら入魂の出来栄えと誇った輝かんばかりの床。ぴっかぴかに磨いたタイルに足を滑らせて、そのまま浴槽の中へ転倒した。 「あ、あああぁぁーっ!」  ぷはあっ!  ひどい……浴槽の中に思い切り押したおされた。というか少し冷たい……これはお湯じゃなくて、むしろ水?  驚きはしたけど、追撃がないからすぐ冷静になれた。五感を使って状況を把握しようと試みる。  だけどその途中で邪魔になったのは、一番情報量が多い視覚からの認識だった。  ルナ様……が、水着? 「……ふん」  真正面に僕を見下ろしながら、ルナ様は満足そうな息を漏らした。 「驚いたか?」 「はい……けっこう、驚きました」 「じゃあ成功だ」 「成功なんですか?」 「お仕置きだからな」 「これはお仕置きだったんですか?」 「そうだ。君は私が買い物の件で嘘を付いたと八千代にチクっただろう。お陰で、実務に支障のある方法で朝日をからかうのはやめてくださいと怒られた」  あ、八千代さん本当に直訴してくれたんだ……。 「ですがそれでお仕置きという結果になるのでは、八千代さんの話の意味がないのでは?」 「朝日、それは違う。君がチクらなければ八千代にはバレない」  やっぱり直訴の意味がなかった……。 「というわけで、私を売ったお仕置きだ。朝日には、もっと従順になってもらわなくては困る」 「そ、それだけのために、わざわざ浴槽に水を張ったんですか?」  別に怒ってはないけど、この手の悪戯はとても困る。今回は無事だったけど、ウィッグが外れるかもしれないし、パレオとはいえ濡れれば体に密着するわけで、下半身のラインがとても危険だ。  そんな意味もあったから、少し強めに抗議しようとした。  だけど目の前にある表情が変わったのを見て言葉を忘れた。  ルナ様が、まるで子ども同士がじゃれ合うときのような、楽しげな、優しい微笑みを浮かべている。 「浴槽に水を張ったのはお仕置きのためだけじゃない。朝日と遊びたかったんだ」 「え?」 「朝日があんまり私に構うから、せっかく忘れかけていた、子どもの頃にしてみたかった遊びを思いだした。私は水の中で遊んだことがないんだ」 「水の中……プール、ですか。ルナ様がその気になれば、プライベートプールを作ることもできるのに」 「一人で遊ぶのはつまらないだろう。二人で遊んだら泳げないのがバレるじゃないか」 「ルナ様は泳げないんですか?」  ごぼっ。ちょ、頭押さえつけないでくださ……苦しっ……! 今のは僕が悪かったですけども! 「一度も経験がないと言っただろう。教わった上でできなければ、私に非があると認めてもいい。だが何も教わってない内から泳げないことを責めるのは間違っている」 「わかりました、失言です。ごめんなさい、許してください」 「ちなみに朝日は泳げるのか?」 「はい。スイミング教室で教わる程度の泳ぎ方なら一通り」 「そうか。じゃあたくさん教わることができるな。みんなが帰ってくるまで遊ぼう」  くすりと笑うルナ様の顔は、初めて外出した日の窓ガラスに写っていた自分の顔に似てる。 「このためだけに水着を買われたのですか?」 「ん? そうだ。最新の水着を自分で買ってきた。一人で外出するのは久しぶりだったし、余程珍しかったんだろうな。何人かのメイドに声を掛けられた。もちろん八千代と朝日には内緒にさせたが」  ルナ様が、苦手な太陽の下へ出てまで買い物に出た?  ああそうか、サイズを確かめなくちゃいけないから、自分で行かざるを得なかったんだ。 「だから朝日にバレないよう、風呂掃除を命じたんだ。掃除するのに時間が掛かって、外の様子がわかりにくい場所……ベストチョイスだったろう?」 「その後は、浴槽に水を張ってもバレないよう、買い物へ行かせたのも完璧だった。朝日が帰ってきて私の部屋へ来ないか心配だったが、君は素直だからな。待ってろと言えば浴室にいると思った。正解だったな」 「はい……想像もつきませんでした。ルナ様が、こんな準備をしていたなんて」 「アハハ、やった」  立場を忘れた、純粋すぎる乙女の笑顔。それを見た僕の胸に、熱い昂ぶりが込みあげてきた。  普通、こんな笑顔を見れば、それだけで明るい気持ちになるはずだ。だけど何故か顔が熱い。自分の潤目を隠すには、顔を水の中へ沈めればいいから簡単だった。  でも、だって、今のルナ様の笑顔は、ただこの瞬間が楽しかっただけのものじゃない。これは何年分もの、僕も含めて周りが騙されるほどの、それこそ本人ですらそう思いこんでいたほどの。  今日の湊の誘いにも興味がない素振りをしていたルナ様の、きっと、ずっと抱えていた、子どもように遊びたかった気持ちが、ほんのほんの、ちょっとだけの油断で表に出てしまった笑顔なんだ。 「ルナ様……」 「ん?」 「楽しいです」 「私も楽しい」 「抱きついてもよろしいでしょうか」 「そういう不純な関係は求めない」  ごぼぼっ。せっかく感動しかけてたのに沈められた。  でもさっきから潤目が止まらないから、いっそ頭ごと沈めてもらった方が楽だと思った。ウィッグだけはしっかり押さえないといけないけど。 「でもあの、不純とかそういうことではなく、本当に嬉しいんです。ルナ様から遊びに誘われたことが」 「いきなり突きとばされたのに怒ってないのか?」 「最初は困りますと思いました。でも今となっては、それさえも嬉しく思っています」 「私も嬉しかったんだ」  ルナ様の手が僕の頬に触れる。耳たぶへ微かに当たる小指がくすぐったかった。 「君は以前に叱られたことを二度も繰りかえした」  それまで優しく頬を撫でてくれていたルナ様の手に、むにりとつねって捻られた。でも自分が悪いので我慢した。 「君が頭の悪い人じゃないことはわかっている。それなのにそんな馬鹿な真似をして、その理由が私を一人にしたくないから、それだけだったと知ったときはやはり……」  今度はこつん、と額がぶつかった。いつの間にか、額、鼻先、頬、僕の顔のほとんどがルナ様に包まれている。 「君が私を大切に想ってくれる嬉しさは、私が主人としての対面を気にする理性に勝った」 「悪かった。認めるよ。君が側にいたいと言ってくれて嬉しかった。私も今日は、君と二人きりで遊んでいたい」 「ルナ様」 「だけど今日で二度目だ。次はもう駄目だ。今後、私が別の人間への同行を命じたときは、必ず従うこと」 「はい」 「その代わり、私も自分が一人になりそうな時は、他の者に同行を命じて、君は屋敷へ残すようにする。つまりそれでも命じた時はよっぽどのことだから言うことを聞いてくれ」 「はい。ルナ様に逆らいはいたしません」 「もう君の性格はよくわかった。不器用なほど一途に尽くしてくれるんだな。はいはい、私のことが大好き。それでいいな?」 「はい、ルナ様が大好きです」  思い切り水を浴びせかけられた。ルナ様が自分で言ったのに。酷い。 「ノリで言っただけなのにマジレスするな……あの、君、本当にそっちの趣味はないだろうな?」 「ありません。えっと、ないはずです」 「可能性を残すな……」  でも僕、男だから、この場合は何が間違っていることになるんだろう。  とはいえ、どんなにルナ様を慕っていても恋愛とは別物だと思う。僕も恋愛ってしたことないから、自信を持っては言えないけど、主人に対してそこまで節操なしではないはずだ。 「あ、そういえばまだ感想を聞いてなかったな」 「え? なんの感想ですか?」 「水着。私が人前でこれほど肌を晒したのは子どものころ以来だ。突きとばした勢いでごまかしたが、今だって実は相当恥ずかしいと思ってる。人生でほぼ初めて着たんだが、どう思う」 「え、初めて……」  そうだった。そういえばルナ様は、人前に肌を晒すのが嫌いな人だった。  そんな人が、僕だけのために初めての水着姿を見せてくれた? 「はっ……」 「ん……朝日、顔が赤いんだが……」 「い、いえあの、とてもよくお似合いです。素敵です。語彙が少なくて恐縮ですが、とてもかわいいと思います、よ?」 「なんだそのユーシェばりの不自由な日本語。おい、君、本当に大丈夫か? 本当に不純な気持ちはないな? 私たちは女同士だぞ?」 「わかっています。大丈夫です。その一線は超えません」 「そうか。ありがとう、世辞でも嬉しい。それから、朝日もかわいいと思う」  あれっ!  ななななんで「可愛い」なんて単語で喜んでる? 僕? これ喜んじゃいけないとこだから! あ、あれえ? あれえー? 「不純な関係は……」 「はい、わかっております……」  でも何故か顔の距離は近い僕たちだった。というか今さらだけど、この体勢は恥ずかしいです。 「明日から約6週間の夏季休校です」  黄色い歓声が沸いた。  学期末のホームルーム。担任教諭の夏休み宣言に、日ごろ慎みぶかいお嬢様方も今日ばかりは込みあげる高揚を抑えきれなかったみたいだ。 「はい、静かに!」 「まったく……この程度のことで浮足立っていては、これから先の長い夏が心配ですね。いいですか皆さん、きちんと自らを律して羽目を外しすぎることのないように」 「リッシテ・ハメオ?」  耳慣れない日本語ですわね、とユルシュール様は眉をしかめていた。 「サーシャ、どういう意味ですの」 「そうね、かいつまんで言うと、要は不純異性交遊の禁止を謳っているわ」  かいつまみしたね、随分と。 「夏、それは少女を雌へと変える魔性の季節。負けないで、誘惑に」  そして盛りますね、情感込めて。 「つまり山吹先生は、今年の夏も変わらず独り寂しい担任を差しおいてベタベタ男とイチャこくなよ小娘ども、と仰っておいでです」  もはや誹謗中傷ですね、そこまで行くと。 「すみません。そこのお付きの方、私語は控えてください」 「あら失礼。美リュームを絞ったつもりが、あまりの美声ゆえに図らずも場の円滑な進行を妨げてしまったようね。以後、気を付けるわ。美・サイレンス……」  サーシャさんは化粧品のポスターみたいな強めのアンニュイ顔で表情を固めて、そのまま口を閉ざした。あまりに存在感のある目ヂカラ。沈黙してなお雄弁なひとだった。 「えー、夏休み中の課題については各教科の先生方から伺っていると思いますが──」  しかし八千代さんは、視界を奪うアンニュイな彫像にも一切動じることなく、淡々とホームルームを進めていった。  その間、作品名『美・サイレンス』は数十秒ごとに『無言、艶っぽい』や『なんも言えなくて、夏』へと推移したけれど、それでも八千代さんは冷静に職務をまっとうし続けた。 「──というわけで、夏休み中の登校日については以上となります。ここまでで何か質問はありますか。はい、柳ヶ瀬さん」 「せんせー、彼氏いないってほんとですか」 「はい、とくに無いようですね。では次に休み明け、来学期以降の校内行事について大まかに説明しておきます」  八千代さんはあくまで冷静に職務をまっとうし続けた。  湊は周囲の生徒に促されて挙手したみたいだ。小声の「山吹先生は黙秘権を行使したよ」という結果報告が聞こえた。 「まず特筆すべきは、我が校の二大イベントのひとつ、9月に催される文化祭ですが……」  彼女が白墨を手にして黒板へ向かうと、その背後でにわかに生徒たちがざわめきだした。  いわく「山吹先生キレーなのに」「でも男に完璧を求めそうだから」「夜も神経質そうだし」「愛撫の手順が違いますとか説教始めそう」「ドン引きされて二回目がないタイプ」「単発消費型コンテンツ」。  教室内にひそひそと同情的な憶測が飛びかっても、八千代さんは〈頑なに〉《かたく》なにすべてを無視して板書を続けた。 「あたかもその様は、孤独を受けいれ、世界に背を向けて生きる彼女の人生そのものであった」  名波さんがナレーションを加えた。 「ひとりで風雨を凌げる者は強い。私は孤高を選んだ彼女の崇高な魂に敬意を払います」  北斗さんが風の精霊に祈りをささげた。 「本当は独り寝の夜が寂しいくせに、子供たちの前では決して涙を見せないあなたの強さ。ええ、たしかにそれもひとつの美だわ……」  感銘を受けたサーシャさんは、その強く儚い姿に名前を与えた。作品名『〈背中〉《せな》で泣いてる女の美学』。  振りむかない八千代さんに、教え子たちから万雷の拍手が贈られた。  いわく「山吹先生負けないで」「人生にはひとりの時間も必要」「今は自分と向きあう季節」「いつか運命のひとに出逢えるよ」「焦らなくても大丈夫」「適齢期なんて恐くない」「女は三十からが花道」。  みんなからの激励を受けても、それでもなお、八千代さんは振りむかなかった。 「私はまだ二十代です」  訂正。そこだけは看過できなかったみたいだ。 「ところで、他人事のように言う君たちには恋人がいるのか?」  教室は一瞬で静まりかえった。  みな何事もなかったように年間行事のプリントへ目を落とす。作品名『調和』。そのとき教壇からルナ様へ、一瞬ばかり送られた感謝の瞳を僕は忘れない。 「そして二大イベントのもうひとつがこちら──」  八千代さんも何事もなかったかのように、大きく綴った板上の催事名を示す。 「──フィリア・クリスマス・コレクション」  教室の反応は、おもに溜息とも感嘆ともつかない微妙な息遣いだった。  期待より不安。興奮より緊張。中には「たりー」とか「だりー」なんて、あからさまな無気力派もいるみたい。  だけど、僕はとても楽しみにしている。  それは入学当初から知らされていた、学院最大の年間行事。生徒たちの作品を発表するためのステージイベント。  もちろん一観覧客として楽しみにしているけれど、けれど、もしも大会規定で許されているならば。付き人の僕も、在籍生徒(ルナお嬢様)の手伝いという形でショーに関わりたい。  それは楽しいことだけじゃなくて、大変なこともいっぱいあるだろうけど、だけど最後にはきっと「ああ楽しかった!」って言える気がするんだ。  だから勿体ないなあって思う。なんでみんな、もっとわくわくしないのかなあって思う。 「フィリア・クリスマス・コレクション。なんだっけ、それ」  そもそも知らない子もいたようです。たぶんすごい少数派。 「湊、あなたそんなことも知りませんの? 入学式の日、なにを聞いていたのかしら」 「え? や、知ってるよ? 思いだしちゃったよ? アレでしょ、あの、クリスマスの……パーティー的な……? あっ、うん、そーだよね、そんな感じだよね」  ちらちら僕や瑞穂様の反応を窺いながら、湊は無謀な知ったかぶりを続けた。 「でー? お客さんとかが? 来ちゃうー……よね! そうそう、ウッジャウジャ来るんだよね!」 「でー? 音楽とか、もー? 流すのかなー? うん分かった、流すのね。そう、ガンガン流しちゃうよね」  観衆の声援。華やかな音楽。踊る照明。ステージの上で、自分たちの作りあげたドレスが脚光を浴びる。  それはいわゆるファッション・ショーで、将来プロを目指す生徒たちにとっては遥けき夢の予行演習だ。 「でー? 蝋燭立ててー? ケーキとかもー? あ、それはない? そっか、ケーキじゃなくてターキーとかね?」 「え、ターキーもない? あ、そう。寂しいクリスマスだね。んーと、じゃあ……え、なんだ? あとクリスマス、なにある? なに食べるの?」 「なにも食べません……湊お嬢様……」  そういうイベントではないのです。  彼女を救いきれなかった僕と瑞穂様は、自らの無力さと湊の食欲旺盛さとに泣いた。おもに後者に泣いた。 「ターキーだなんて庶民には贅沢が過ぎるのじゃなくて、湊? 日本人は日本人らしく、ナットゥーや倦怠期でも召しあがっていれば良いのですわ、ホーホホホ!」 「ハーハハハ! ユーシェは今日も元気もりもりだな!」  ユルシュール様の挑発は、いつも通りすぎてまるで効果がない。  代わりにどこからともなくコンコンコンコンと小刻みの金属音が聞こえてきた。  発生源を辿ると血走った形相の名波さんが、金髪ツインテールの藁人形に無数の釘を打ちこんでいた。僕は見なかったことにした。 「ねーねー、ユーシェに倦怠期勧められたんだけど、倦怠期おにぎりと倦怠期茶漬け、どっちがクリスマスに合うかなあ」 「うーん、辛子倦怠期は和風ですから、基本的にクリスマスには合わないんじゃないでしょうか」 「でも、洋っぽければ大丈夫じゃない? 倦怠期パスタとか」  ところで今更ですけど、ほんとに誰もツッコまないんですね倦怠期。 「でしたらフランスパンに辛子倦怠期とマーガリンをまぶした、倦怠期フランスなんてどうでしょう。お手軽だし、意外と美味しいんですよ」 「そうなんだ。それはフラ〜ンスって感じだね」 「湊、感想雑……」  はい、湊お嬢様は幼少時代からしばしば感想が雑でございます。 「ちょ、ちょっと……ねえ、そんなことより、この教室空調が効き過ぎではないかしら……私、急におぞましい寒気を催しましてよ……」 「ブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ」 「さ、寒い……まるで雄大なるアルプスの冬ですわ、ぶるぶるぶる……ああ、こんなとき私の可愛いモトカレがワインをぶらさげて駆けつけてくれたなら体が温まりますのに……」  年頃の少女が集う教室に震撼が走った。「元カレで温まる?」「まあ、なんて大胆な」「さすが欧米の子は進んでるわね」「マジかよ、あいつ見た目のわりにとんだビッチだな」「きっと下半身も緩しゅ〜る」。 「な、なんですった! 失礼ね、勝手に早とちりしてあらぬ噂を振りまかないで頂戴。モトカレはただの可愛い犬ですわ」  さらに激震が走った。「元カレはただの犬!?」「従順な性奴隷ってことかしら」「男を屈服させて歪んだ快感を得るのね」「マジかよ、あいつ見た目のわりにとんだドSだな」「きっと下半身も緩しゅ〜る」。 「ムキー! さっきからどなたですの! この誇り高きジャンメール伯が娘・ユルシュールの名を愚弄する不届き者は! サーシャ、即刻見つけだして引っとらえなさい!」 「サーシャ!? サーシャは何をしてますの!」 「『マジかよ、あいつ見た目のわりにとんだ淫乱肉奴隷だな』『まさに下半身も緩しゅ〜』……え? あら、お嬢様。呼んだ?」 「Omaekayo!」  ユルシュール様もときにはバラエティ番組で新しい日本語を覚えたりするようです。  ホームルームはいよいよ混沌まっさかり。 「どうやら皆さん、もう気持ちがすっかり夏休みに入ってらっしゃるようですね」 「うん、今日はいつになく脱線が多いね」 「脱線してるのは君たちだけだ。本線は止まらず進行してるぞ」 「えー、そして翌々年3月の卒業式についてですが……」  止まらず進行どころか、すでに列車は終着駅のホームへ侵入していた。 「どうしよう朝日、いつの間にか仰げば尊い感じになっちゃってる」 「残念です。フィリコレについては、私も早いうちから心の準備をしておきたかったのですけど」 「ようし、みんなで謝って話を戻してもらおう」 「先生ごめんなさい! 私たちは!」 「私たちは!」 「私たちは!」 「私たちは!」 「ぶっちゃけ話を聞いてませんでした!」 「聞いてませんでした!」 「聞いてませんでした!」 「聞いてませんでした!」 「楽しかった! 夏休み!」 「夏休み!」 「夏休み!」 「夏休み!」 「美味しかった! 倦怠期!」 「フランスパンとも意外に合います!」 「フランスパンとも意外に合います!」 「フランスパンとも意外に合います!」 「恐くなかった! 適齢期!」 「だって仕事が恋人だもの!」 「だって仕事が恋人だもの!」 「だって仕事が恋人だもの!」 「えー、それでは卒業証書を配ります。相沢さん──」 「待ってええええ……せんせえごめんなさいいいぃぃぃ……!」 「山吹教諭、すまないが話を少々戻してくれないか。フィリコレに関して、私ももう一度頭を整理したい」 「そうですか。真面目に聞いていた桜小路さんがそう言うなら仕方ありませんね」  八千代さんは予定調和のような芝居じみた溜息を漏らした。 「サーシャ。今日のあなたは少々血の気が余っているようだから、しばらく廊下の向こうで北斗に遊んでもらってらっしゃい」 「そうですね。お願いできますか、北斗」 「愚問です。瑞穂様の命とあらば、あの者の魂を大地に還すことさえ厭いません」 「フッ、圧倒的な美技に魂を抜かれるのは君の方だよ。ハハハ! さあ、おいで! 可愛いベビードール!」  仲良しのふたりは今日も元気にお外へ駆けていった。 「七愛もお願い、見届け役!」 「行ってまいります。七愛はお嬢様の千里眼。美しい〈眼窩〉《がんか》に〈嵌〉《はま》った二つの宝玉に代わり、七愛は見届ける。彼らの体が朽ちゆく様を」  ぶつぶつ呟きながら名波さんも出ていった。  そして八千代さんがホームルームを再開した。 「フィリア・クリスマス・コレクション。通称『FCC』または『フィリコレ』、あるいはシンプルに『ショー』」 「皆さんが授業の中で作りあげた作品を、ファッション・ショー形式で一般公開するイベントです」 「んー……」 「?」  いきなりルナ様が眉をしかめた。なんだろう。気になったけど、また話の腰を折るのも気が引ける。あとで聞いてみようと思った。 「開催日については現在調整中ですが、その名の通りクリスマス前後になるかと思います」  いまから5ヵ月後だ。楽しみだけど、この数字は長いような短いような。 「会場には一般のお客さまはもちろん、いわゆるプレスや業界関係者の方も大勢お見えになる予定です」  一例として、八千代さんはナンバーワン誌『クワルツ・ド・ロッシュ』をはじめ、錚々たる誌名やデザイナー名を羅列した。  それらを聞かされた僕らの目は丸くなった。 「驚きました。大がかりなイベントになるとは聞いてましたが、それほどまでに注目を集めているのですね」 「ねー? うちら、単に学芸発表会のおしゃれ版だと思ってたよねー?」 「う、うん」  そこに同意したのは、Noと言えない大和撫子だけだったけど。 「どどど、どうすっぺえ……そんな御大層な方々に、オラみたいな初心者が授業で教科書見ながら作った服なんか、とんとお見せできないだよ……」 「柳ヶ瀬さんは本当に何も知らないんですね。生徒一人一人の作品を発表するわけではありません。四人一組の班ごとに制作してもらうことになります」 「あー、そっか。そういや前に、グループ単位での授業もあるとかって言ってたっけ」 「はあ、よかった。それなら班の中で役割分担して、それぞれが得意分野を受けもてば……うん、それならどの班もそれなりに見せられる物ができるかもだ」 「はん、そんな心配いりませんわよ」 「どうせそういった世界レベルの方々は『あのJ・P・スタンレーがオーガナイズしたショー』を見に来るのであって、つまるところ、そこに登壇する素人学生のお遊戯作品なんてまともに見る気もないでしょうから」 「それは、ええ、たしかに……完全には否定しきれないかもしれません」  あらためて実感する。ジャンはこの世界じゃそれほど吸引力のある才能なんだ。 「だけど」 「だけどだ」  八千代さんの逆接に、ルナ様が同じ言葉をかぶせた。  それは私が言いたい、という悪戯な光がその目にきらめいていた。 「だけど、だからこそ、そういう連中のラクダみたいな目を、私たちの才能でかっ開いてやりたいとは思わないか?」  教室に一瞬の静寂が訪れた。  しかし僕がすぐに頷いた。 「素敵です」  僕は生徒じゃなくて、生徒の付き人だけど、許されるかぎりのバックアップをしたい。 「ふん」  まず、ユルシュール様が敢然と立ちあがった。 「先に言われてしまいましたわね。私も丁度そう思っていたところですわ」  続いて、瑞穂様が小さく手を上げた。 「うん……うん、ちょっと私も思うところあって……そういうの、いいかも……」  次に、湊が身を乗りだした。 「面白そうだな。オレも入れろよ」  最後に、僕がもう一度言った。 「素敵です。皆さま、お手伝いさせてください」  ルナ様は口の端を吊りあげて満足げに微笑んだ。 「決まりだな。いま決起した者は、放課後サロンに集合だ」  そんな僕たちを、八千代さんは慈母のような笑顔で見守っていた。 「うん、うん……立派な向上心です、先生嬉しいです。私にできることがあったら何でも言ってくださいね」 「あっ、それじゃひとつ分からないことがあるんですけど」 「なあに? なんでも聞いてごらんなさい」 「せんせー彼氏いないって本当ですか」 「ほーたーるのー」  長い夏休みの始まる前日、この良き日に、私立フィリア女学院では柳ヶ瀬湊の卒業式がしめやかに執りおこなわれたという。 「ま、帰ってきたけどね」  放課後。  特別指導室へ連行された湊が、遅れてサロンへやってきた。  どこか一皮剥けたような、一時間前とは違う柳ヶ瀬湊がそこにいるような気がした。 「ど、どうだった……?」 「うん。山吹先生は大人だったよ」  漠然とした質問に、淡々と解答する湊。 「ところでみんな、恋と愛の違いって知ってる? あのね、好きなひとのすべてを知るまでが恋で。すべてを知ってから、それを赦しつづけるのが愛なんだよ。ふふっ」  湊は顔が笑ってるけど目が笑ってなかった。 「朝日、どうしよう。湊が恋愛経験豊富っぽい香りを発してる」 「ど、どうしようと言われましても……」  空白の一時間。いったい湊はどれほど厳しい教育指導を受けたのだろう。 「やあ、朝日。なぜ人間という動物は、繁殖本能にいちいち恋愛などという名を与えて過剰に賛美するのだろうね。これも知恵の実を食して羞恥を覚えてしまった種の、逃れられない十字架なのかな」 「ルナ様、どうしましょう。湊お嬢様が自己啓発っぽい香りを発しておいでです」 「熱血少年漫画でも与えて小一時間ほどフタしとけ」 「ど、どうぞ、湊様。『デニムの玉子様』最新刊です」 「あっ、だめ! それはいま危険、違う方に目覚めちゃう」 「そうなんですか? じゃあ『里子のパスケ』は?」 「最悪。いまが旬」 「難しいんですね。じゃあ『スクラップラー牙』とか」 「それなら大丈夫」 「よかった、処方許可が出た……さあ湊お嬢様、こちらでゆっくり読む薬をどうぞ」 「ではその間に、私たちは話し合いの続きをいたしましょう」 「いやあ、カマキリって強いんだねえ」  しばらくして湊が、憑き物の落ちたような笑顔で戻ってきた。 「あ、お帰りなさいませ、湊お嬢様。ご気分はいかがですか」 「ん? へーきだよ? わりとマンティス」  Mantis[英]蟷螂。カマキリ。  うん。よく分からないけど、これこそ健全な湊だ。 「んだば、どうだいショーについては」 「ああ、大体アウトラインは固まったと思う。順を追って話そう」 「八千代の言によれば、フィリアコレクションには、生徒が授業の中で制作した作品を発表するということだったが……私はまず、そこが気に入らなかった」  八千代さんがショーの説明をしているとき、ルナ様の表情が不機嫌に歪んだのはそのせいだった。 「なんで?」 「当然だろう。授業は授業だ。効率的に技を磨き、感性を育て、知識や経験を積ませることに特化した場だ。その性格上、そこで生みだされるものが習作の域を出ることはない。私に言わせればな」 「うんうん、そっかー」  と言って僕を振りむいた湊の空笑い。 「……なんて?」 「ええと、おそらくルナ様は『習作』ではなく『作品』を世に出したいのだと思います」 「…………」  反論がなかったから、僕の推測は外れていないんだろう。 「ふん、さすがは我がライバル。やはり天才同士、似た考えに至ってしまうようですわね」 「ユーシェも?」 「ええ。学院から出される課題では、なんというのかしら、モチベーションが上がりきらないというか……」 「教室で大勢のいる中、さぁやれ! なんて言われましても、いまひとつ天才のインスピレーションが閃きませんのよね」 「瑞穂は?」 「学校の授業って、何時から何時までとかきっちり枠が決められてるけど、自分のペースで作業したいときってあるでしょう?」 「すごく調子いいときとか、何時間でも集中切らさないで続けたかったりするし。逆に体調が悪くて頭が回らないような日でも、学校の授業では機械的に手を動かさなきゃいけないし」 「なるほどねー。出来るひとには出来るひとの悩みがあるんだねー」 「私は出来ない子だから、単にフツーに授業受けてるだけじゃ追っつかないって意味で、みんなと一緒にがんばるよ」 「よく言ってくれた。そういう君だから、私は昔から評価してるんだ」  同感です。湊は昔からとても頑張り屋さんで── 「朝日はどうなの」 「…………」 「……え?」 「えじゃなくて、だから、授業だけで満足してたらフィリコレ戦えないよねって話。朝日の意見は?」 「あ、失礼しましたすみません。私も皆さまと同じように考えております」 「もっとも、私は正規の班員ではないので、意見させていただくのもおこがましいのですが……」 「朝日、くだらないことを言うな。八千代もああ言ってただろう」  ホームルームの最後にルナ様が確認してくれた。大会規定にはこんな条項があったらしい。  特別生徒(甲)は専属の使用人(乙)に対し、望むなら助力を請うことができ、本規定においてその範囲は限定しない。 「つまり我々は四人ともメイド持ちだから、桜小路班は総勢八名とも考えられるな」 「そうですわね。ジャンメール班は総勢八名とも考えられますわね」 「話は美かせてもらったわ!」 「ばばーん」 「な、なにィ! 馬鹿な、おまえたちは──」 「──伝説の柳ヶ瀬班暗黒三銃士!」 「な、なんですって……あれがあの伝説のジャンメール班暗黒三銃士……」 「お待たせして申し訳ありません、瑞穂様。花之宮班帝国遊撃隊、ただいま推参いたしました」 「よしなに。貴女方には期待してますわよ、ジャンメール班帝国遊撃隊」 「あのう、それではお言葉に甘えてご意見させていただきますけど、一応チーム名は統一しておいた方がよろしいんじゃないかと……」 「そうですわね。皆さんつまらないいがみ合いはやめて、朝日の言うとおりチーム名はジャンメール班に統一いたしましょう」 「まあ、名前なんて所詮は識別符に過ぎん。正直なんでもいい。ただしジャンメール班を除く」 「ムキー! 私だって本当は桜小路班以外ならなんだっていいですわよ!」 「あのう、ここは公平に、私たち四人以外のひとに決めてもらってはどうでしょう」 「あ、いいねそれ。じゃあ朝日、決めて」 「ぼっ……私!? なんでっ?」 「や、なんとなく。いちばん角が立たないかなーって。そんな感じしない?」 「ハア? そうかしら? 朝日・七愛・北斗・サーシャ……あら、たしかに朝日がいちばんまともですわね」 「HaHaHa! 参ったな、あのクソガキあんなこと言ってやがるぜ」 「どう、朝日? だれ班にするか決まった?」 「やっ、そんな、聞かれましても! 困ります、私には決められません!」 「大丈夫だよ、朝日の決定なら誰も文句言わないし」 「そうだよ? みんな朝日のこと、私ほどじゃないとは言え大好きなんだから。私ほどじゃないとは言え」 「この子なんで二回言った?」 「べっ、べつに私は、朝日のことが好きとかそういうわけじゃありませんわよ! ただ、まあ、よく出来たメイドだから? そういう意味では多少評価しておりますけど。多少評価しておりますけど」 「なにそれ、流行ってんの?」 「まったく、君たちは揃いも揃って朝日マニアか」 「ああ、そうだな。なんなら、もういっそ朝日班でいいんじゃないか」 「あはは……ルナお嬢様、そんな御冗談は……」 「ううん、それいい! 私、賛成! 私、賛成!」 「え?」 「わ、私だって賛成! 私だって賛成!」 「ええっ?」 「まあ、落としどころとしては悪くありませんわね。落としどころとしては悪くありませんわね」 「えええええええーっ!?」  こうして僕たちのチーム名は決まってしまった。  団体名『朝日班』。外国人プレス向けには『ライジング・サン』で登録した。 「ううう……ただのメイドが看板背負うなんて荷が勝ちすぎます……」 「和をはかるための旗頭として、君は適役なんだ。すまないが頼まれてくれ」 「はい……ありがたい栄誉を賜りまして、精一杯我慢します……」  なんだか名波さんの視線が痛い気もしますがそれも我慢します。 「よし、では今日のまとめとして所信表明だ」 「我が朝日班では、来たる12月のフィリア・クリスマス・コレクションにおいて、世界レベルのトップデザイナーたちから一定の評価を獲得するため、班員みなの力を結集し、もんのすげえ極上のドレスを作る」 「そのためには、他の生徒たちのように通常授業の課題で甘んじたりしない。休日や放課後等を費やし、一流と呼ばれる連中の目が引っくりかえるような、もんのすげえ極上のドレスを作る」 「せっかくこのメンバーでチームを組めたんだ。悪い意味での馴れ合いは無しだ、ときに厳しい言葉をぶつけ合う結果になろうと互いに妥協はせず、もんのすげえ極上のドレスを作ろう」 「以上だ。細かいことはおいおい詰めていくだろうが、ここまでで疑問点はあるか」 「なぜ当然のようにルナが仕切っているのか、それが最大の疑問ですけど、まあ今日のところはいいですわ」 「私がいま聞きたいのはひとつ。チーム内の役割分担ですの」  小さな緊張が走った。  ユルシュール様が確認したいのは、つまり服作りの要、デザイナーを誰が担当するのか。という点だろう。  どのパートも重要なことに変わりはない。だけどやっぱりデザイナーは花形だし、誰もが一度は憧れるところだ。  〈衒〉《てら》わずに考えれば、当然、学内でもっとも優秀な評価を得ているルナ様に白羽の矢が立つ。  もしここで当人が自ら立候補したなら、クワルツ賞一次審査通過という実績もあるし、ユルシュール様でさえ現実的な反論はできないだろう。  しかしルナ様は言った。 「民主的に決めようじゃないか」 「各自、フィリアコレクションでモデルに着せるためのデザイン画を実際に起こしてみよう」 「一点に限るとは言わないが、数ばかり多くても弊害がある……そうだな、一人三点にしようか」 「一週間後、その三点を持ちよって集合。メンバー全員で審査する。最終的には多数決になるかもしれないが、他に適切な選考手段が思いつかない。どうだ?」 「それで構いませんわ。要はその場の全員に、このデザインこそナンバーワンだと唸らせるようなものを描きあげてくれば良いのでしょう?」 「そういうことだ」  これ以上ないシンプルな決着方法だ。  それだけに白黒がはっきり付く。  付きすぎる。  破れた者は言い訳ができない。  それなら僕は── 「朝日。もちろん君もこのコンペに参加するだろうな?」 「…………」  無意識のうちに返答が一瞬遅れた。 「……よろしいのですか」 「無論だ。全力でかかってこい、悔いの残らないようにな」  重い言葉だった。余裕とも違うその頬笑みには、絶対王者の貫録があった。  優しくて厳しい、そんな頬笑みだった。 「ありがとうございます」 「悔いの残らないようにな」 「なんでみんな二回言うの?」  はあ。  終業式から戻った夜更け。今日も一日最後の癒しの時間を満喫していた。  楽しみだなあフィリコレ。  デザイナーの道は半ば諦めていたけど、このチャンスを生かしてがんばるぞ!  今日の夜からばりばりデザイン画を描くつもりだ。大蔵遊星の最高のデザインを作りあげてみせるんだ!  癒しを満喫しつつ、僕の体にはエネルギーが漲っていた。  でもそんな情熱が内側で燃えていたから。  僕はうっかりお風呂の中で眠ってしまった。  今までの疲れもあったし、学期末ということで気も緩んでいたんだと思う。  そんな油断をしたせいで――  自分が体にタオルを巻かずに入っていたことも忘れていた。 「あ……?」 「あ……」  時すでに遅し。目が覚めたときには全てが終わっていた。 「あ、あああのこれは……その」 「まさか……いやそんな馬鹿なとは思ったけど」 「付いてんじゃん」  こちらはこちらでかなりの衝撃だったご様子。僕が聞いてきた中でも珍しい部類に入る八千代さんの日常言葉だった。 「ああもう。やっぱり最初の時点で採用を蹴っておけばよかった……」  八千代さんがはあと深い溜め息を吐く。申し訳ありません。 「小倉さん」 「はい」 「警察には連絡しないから、出てって」 「温情なんてものは全くないけど、このことが公になれば、当家はお客様としてお越しいただいてる三家に言い訳ができないでしょ」 「皆さんには、小倉さんが激務のあまり病んでしまったと伝えておくから、今夜中に荷物まとめて出てって」 「は、はい。ただあの、最後になにかできることは――」 「いいから出てけッッ!!!」  こうして僕の桜屋敷での生活はあっさりと幕を閉じた。  暗転。  喜劇、大蔵遊星の夢。  今度こそおしまい。  この番組は大蔵グループの提供でお送りいたしました。  桜屋敷を追いだされた僕は、夜の青山をひた歩いた。  とりあえずりそなの下へ帰りたいけど、桜小路家から貸与されていた携帯電話は取りあげられてしまった。  元々使っていた携帯電話は充電が切れていて電源が入らなかった。  当然、お金なんてあるはずもなく。  このままじゃいけない。夜中に大きな荷物を抱えて、こんな場所を一人で歩いていたんじゃ職務質問される。 「はあはあ」 「はあはあ」  駅前まで来ればなんとかなるかなと思ったけど、終電も過ぎてるこの時間じゃ……。  僕は途方に暮れかかっていた。  もしも警察のご厄介になり、兄が出迎えになんて来た日には……。  それだけは、それだけは避けないといけない……そうだ。  渋谷なら夜中でも人が多いし、一人でいてもそれほど怪しまれないかもしれない。 「そうだ渋谷、いこう」 「はあはあ」  渋谷には確かに沢山ひとがいた。  今日から夏休みなのか、男のひとも女のひとも沢山いた。学生らしきひとも社会人のひとも大勢いた。  でも大きな荷物を抱えているひとはそんなにいなかった。  それも、こんなに疲れきった顔で――  誰も彼も楽しそうにしているこの街で――  ――僕の居場所なんてどこにもなかった。 「あんちゃん」  煤けた肌のボロをまとったおじさんだけが僕に声を掛けてくれた。 「兄ちゃん、電車代くれや」  残念、たかり目当てだった。 「ごめんなさい……お金はないんです」 「あ? 金ない?」 「ああもしかしてあんちゃん家出か」  そんな幸せな選択ができればよかったのだけど、僕にはそもそも帰る家がない。  またりそなのお世話係になり、今度は本当に目指すものもなく無為な毎日を過ごすくらいなら。 「…………」 「なんだったら俺ンとこ来るか? ダンボールだけどよ、ハハッ」 「はい……」 「あ?」 「お願いします」  誰かに仕えているのは楽しかった。自分にはそれが合っているのかもしれない。  桜屋敷での毎日が楽しすぎて、失ってしまったら急に全てががらんどうになった。  ごめんなさい。いつでも笑っているためにちょっと現実逃避というインターバルをください。 「僕、こう見えて料理も家事も得意なんです。ちょっといい家にお仕えしてた時期もあったんですよ」 「あそう。すごいな兄ちゃん。そういやいい匂いするわ」 「誠心誠意お尽くししますから」 「おおそっかそっか。ところで兄ちゃん、なんかかわいい顔してんな」  ぽんと尻を叩かれた。このひとが今日から僕の新しいご主人様……。 「屑が何をしている」 「えっ」  え。  えええ。  ええええええ。  なんでこんなところにお兄様が。天はここまで僕に試練を与えるのか。 「末端とはいえ大蔵家の人間がこんな場所で恥を晒すな……屑が!」 「なんだテメエ! カワイ子ちゃんを苛めるとご主人様の俺が容赦しねえぞ!」 「クズがアァ――ッ!」 「ぎゃいん!」 「ああっ」 「ぎゃいん! ぎゃいん!」  新しいご主人様は僕を置いて去ってしまった。 「ふん、屑が……だが遊星、貴様も屑だ。そこまで堕ちたか、殴る価値もない屑め……」 「…………」 「はい」 「この身は少し、現世を生きるのに疲れました」 「ん?」 「何か役目をいただけないでしょうか。今いた家は追いだされてしまいました」 「ふん、なるほどな……いいだろう、貴様には屑なりに使い途がある。だがその辛気臭い面ではどうにも使い勝手が悪いな」 「申し訳ありません。笑顔にも少し疲れました」 「ちっ……」 「まあいい、俺は一週間ほど日本に滞在する。その間の世話を貴様が務めろ」 「はい。ありがとうございます」  こうして僕は再び兄の下で飼われることになった。  才能のない僕は、兄に見るのも嫌がられて、すぐにまた別の場所へ移動させられると思っていた。けど兄は、この一週間は側においてくれた。  でもその少し安らいだ一週間も、もうすぐ終わる。 「本日は金倉野菜を中心としたメニューになります。メインは鶏もも肉のグリルです」 「皮は剥いでありますので、普通よりもさっぱりとした召しあがりになると思います」 「ふン、相変わらず料理だけは人並みにできるな」 「はい。ありがとうございます」 「だが俺の舌にちょうど合う味にはまだまだ遠い。俺が好む完璧な味付けを覚えろ」 「はい、かしこまりました……覚える?」  僕の仕事は今日で終わりでは? という目を向けると、兄は鶏肉を頬張りながら眉間に皺を寄せた。 「先日まで付きそわせていた専属の料理人が逃げた。一度調理ミスをした故に鉄板を叩きつけたら、それが不満だったようだ」 「これで専属料理人が変わるのも三度目だが、いい加減俺の好みを叩きこむのも面倒だ……だが遊星、おまえなら俺から逃げたりはできまいよ」 「屑の貴様でも、俺の好みを把握すること程度ならできるだろう。今日から俺に従え」  兄は再び鶏肉にかぶりついた。もっしゃもっしゃと咀嚼した。 「お味の方はいかがでしょうか」 「今しがた言ったばかりだが。俺の好みにはまだ遠い」 「その好みを今から学ぼうと思いました。濃い味付けが良いでしょうか。素材を生かした味付けが良いでしょうか」 「濃くしろ。美食家の連中に付きあってはいるが、俺は本来味付けだけなら泥臭いものが好みだ」 「はい。かしこまりました」 「あまり回数をかけ過ぎるな――貴様、なぜ笑っている」 「幼い頃より数えて、お兄様から直接物事を教えていただいたのは二度目だったと覚えております」 「それ故に幼い頃を思いだし、懐かしんでおりました。あの日の桜は美しかったと」 「ふン、気色の悪いやつめ。だが久しぶりに笑ったな。その顔を続けろ」 「はい。ありがとうございます、お優しい衣遠兄様」 「近い将来、貴様をどう使うか、それとも手元に残すかはその時の便利さで決める」 「かしこまりました。お気の召すままにこの身をお使いください、衣遠お兄様」  ただ贅沢を申して良いのなら、懐かしき日々を思いだせるあなたの側が好ましく思います。  だけど彼が鬱陶しがるのはわかっていたから、結局僕は何も口にしなかった。 「…………」 「ところで遊星、貴様は雌犬と呼ばれた母親の顔を覚えているか」 「母ですか? 最近、成長するにつれてぼんやりとして参りましたが、それでも輪郭がはっきりする程度には」 「そうか……ならば忘れそうなときは、己の顔を無理矢理にでも笑わせ、鏡の前に立つといい」 「私が母に似てきたのでしょうか?」 「生き写しと呼べる程度には……な」  兄が母のことを嫌っていたのは知っている。それは事実のはずだ。  にも関わらず、苛立たしく歪んでいるはずの表情を見上げてみれば、お兄さまは思いがけず── 「ふン。懐かしき日々……か」 「──────」  夏休みに入ってからお屋敷の中は静かになった。食事とお茶の時間だけ皆が顔を合わせるというような状態になっていたからだ。  お嬢様方はアトリエか自室にこもり、あるいはデザインに必要なものをお付きと一緒に買いに行く。僕もルナ様につきっきりだった。  ルナ様は一日に仕上げる枚数を減らして、十分に吟味しながら出品するデザインを選んでいた。もはや盤石といえる体制だ。 「……今、何時になった? 」 「あ……はい、11時53分です。もうすぐ昼食の時間ですね」 「私もだな、別に意地を張っているわけじゃないんだぞ」 「え……どうしたんですか? 急に」  鉛筆を動かす手を止めて、ルナ様がこちらを見る。僕は昼食の献立のことを考えていたので、すぐに何のことか思い当たらなかった。 「いや……ライバルだからと言ってな、こうして壁を作るのも、子供が意地を張っているように見えはしないかと思っただけだ」 「私はそうでもないと思います。緊張感は必要ですよ、良い物を作るには」 「……君は意外に、競争社会の原理を理解しているんだな。どういった人生を送ってきたのか、興味深い」 「は、はい……そう言っていただけて光栄です」  勝ったの負けたのっていうことは、生まれた時から僕を追いかけてくる現実だ。  でもショーに向けてグループを組んだのなら、競争よりもチームワークの方が重要だろうか。そんなこと、僕からみんなに意見していいものだろうか……。 「ああ、いや。一緒に悩めと言っているわけじゃない」 「今まで、皆と一緒にいるあいだにどれほど無駄に脳を使っていたのかということだ。会話は必要なことだな」 「……ということは、私から皆様にお声がけしても」  よろしいですか、と聞く前にルナ様は、書き途中で1時間も止まっていたデザインに、大きくバッテンを描き入れた。 「全員を連れてこい。君の顔はそろそろ見飽きた」  あんまりな言い方ではあるけど、今の僕には、それがルナ様なりの照れ隠しだと分かっていた。  思いのほか、お嬢様方は僕とルナ様の提案を喜んでくれて……みんな二つ返事で部屋から出てきて、ダイニングに集合してくれた。 「いくら勝負とはいえ、ずっと絵に向かっていると気が滅入ってしまいますわ。何ごとも優雅にこなしてこそ、良いものが生まれるというものです」 「リラックスしていなければ美は生まれません。僕など、話題が尽きればただの美しい置物に過ぎませんゆえ」 「置物なんてことないですよ、サーシャさんは」 「そう、それを待っていました。美しい僕とお嬢様が二人きりではツッコミ役を欠いています。ルナ嬢と朝日の名前をつい出しては、恥じらいに口を抑える日々でした」 「な、何を言っているのですか。人を勝手にツンデレ扱いしないでくだらない?」 「私も朝日がいないと落ち着かなくて、ため息ばかり……気がつくと幾つも憂鬱という文字を書いていたのよ」  無意識に憂鬱って書けるのは凄いな。とあさってな方向で感心してる場合じゃない。 「こう言うと器が小さいようだが、私の屋敷なのに一介のメイドが精神的支柱とはどういうことだ。説明しろ、朝日」 「それはねー、まあしょうがないってゆーか。だって朝日だもんねえ」  もう慣れなきゃいけないんだけど、湊が思わせぶりだとその都度ドキッとさせられる……こんな時だけ、兄様のような鋼鉄の心臓が欲しくなる。 「はー、でもなんか落ち着く。ご飯の時くらいはみんなで顔合わせようね、特にルナ」 「私は別に、こもりきりでも寂しくはないがな。デザインを描いていれば時間を忘れる」 「チッ……だったら余計なことすんじゃねえよ。お前らが呼びに来なけりゃ私がお嬢様にあーんってしてさしあげる予定だったんだよ、空気読めよ。こっちはただでさえ昨日から微妙に冷房にやられてダルいんだよ」 「七愛さんも元気そうで何よりです。夏バテには気をつけてくださいね」 「私の身体が弱いと思ったら、大いなる間違い。小倉さんの抵抗力を殺ぐ力だけは残してある」 「こら、食事時にやり合うな。それ以外の時なら、朝日に何をしようと構わんが」 「はい、ストップ。七愛、朝日が心配してくれてるんだからちゃんとお礼言いなさい」  湊に言われると、七愛さんはじっと見返してから、ゆっくり首をこっちに向ける……なんて迫力だろう。 「このお礼はいつか必ずする。末代までに」 「き、気にしなくてもいいですよ……僕は何もしてないので。冷えないように、あったかくしてください」 「私はお嬢様の座ったあとの椅子で暖を取っている」 「お、お尻がぞぞっと……私の見てない間にそんなことしてるなんて、もー。変わってるんだから」  湊は思わず席を立って、お尻を気にするようにスカートを直す。七愛さんはそれを見て乙女のように恥じらっていた……この人の愛は本物だ。 「高山を神と崇める、ある部族が言っていました。山で遭難した時に最後に縋れる熱は、人の温もりだと」 「そういうときは裸で抱きあうといいますね。私も朝日と遭難したら、ためらいなくそうするつもりだから」 「…………」 「七愛、名案と言わんばかりに無言で手を打つのはやめてね。瑞穂も大胆すぎ、幾ら友達でも恥ずかしいでしょ」 「瑞穂ならためらいなくやりそうだな。そしてうちのメイドも状況に流されそうだ」 「私にそういうイメージをお持ちでしたか……分かりました、しっかりします」 「想像力が豊かな朝日ちゃんは、色々考えちゃってたんじゃないの? もしほんとに遭難したら、とか」  湊の言葉にはもちろん、男の僕を牽制するニュアンスが含まれている。けど裸で抱き合ったら正体がバレるわけで、甘い想像なんて出来ない。 「高山といえば、私の故郷は世界に誇れる山ばかりですわ。時に、怖いところでもありますけれど」 「登山は美の追求にも似ていますね。頂点に上っても、さらに危険な高いところに立ちたくなる」  彫像のように美しいポーズを取ってサーシャさんが言う。デザインもそうだな……常に自分の限界に挑まなければいけない。 「この場にいる誰もがそれぞれの頂点を定めている。まだ、その次を考えるには早いな」 「おっしゃる通りです。少し尚早な物言いをしてしまいました……申し訳ござらん」 「サーシャさん、『ございません』です。武家言葉のようになっていますよ」 「うちのメイドの教育にご協力をたままり、ありがとうございますわ」 「たままりではなく、『賜り』です……だけど、よく勉強してるのね。えらいわ、ユーシェ」 「そうです、私は偉いのです。なにせ、デザイナーとして歴史に名を残すのですから。手始めに、ウィキ◯ディアを自分で編集しておきましたわ」  ユルシュール様はえっへん、と形のいい胸を張る。ルナ様が小さく肩をすくめて首をひねると、僕らは誰ともなく顔を見合わせて笑った。 「ちなみにウィキは自分で書き換えるのはルール違反だぞ。おまえのページは消しておくからな」 「ですのーーっ!?」  そしてルナ様はネット上のルールに厳しかった。貧血を起こしたユーシェさんを支えてあげると、サーシャさんは美しいポーズで頭を下げていた。  食事の後、そのまま午後のお茶の時間も一緒にしてから、お嬢様方はきっぱりと気持ちを切り替えて制作に戻った。  女の子は会話がエネルギーの源だっていうのを思い知らされる。決めていた時間が無かったら、まだ話が弾んでただろう。 「ルナ、少しいいかしら。二人だけで話したいことがあるんだけど」 「ん……珍しいな、内緒の話か? いよいよ朝日を自分の家に引き取りたいとか、そういう話か。やらんぞ」 「っ……ルナはやはり、時々凄く鋭いわね。朝日に関わる話っていうのは、当たってるわ」 「私ですか? どうぞ、何なりとお申し付け下さい」 「いいや、瑞穂はまず私と話したいと言っている。その意志を尊重してくれたまえ」 「は、はい……かしこまりました。それでは、私は外でお待ちしております」 「ありがとう、朝日。ごめんなさい、あなたも一緒に聞いてもらってもいいのだけど、面と向かって話すのはちょっと恥ずかしいから……」 「奥ゆかしきが美徳であるのは我が部族も変わりありません。お嬢様方、また後ほど」  北斗さんは執事らしく一礼して歩いていった。ルナ様と瑞穂様も、連れ立って歩いていく……たぶん、ルナ様の部屋でお話をされるんだろう。  僕はどうしようかな……とりあえず掃除でもしながら待っているとしよう。  青い空にセミの声が響く。夏も盛りで、日焼け止めをせずに外に出られないほど日差しが強い。  夏服とはいえ、さすがに暑いなあ……あまり汗はかかない方だけど、胸パッドから汗がにじんで、お腹の方まで伝ってしまう感じがする。  この一夏で、かなり体重が落ちそうだな……と思いながら歩いていると、外出していた八千代さんが帰ってきた。 「お疲れ様です、小倉さん」 「お帰りなさい、八千代さん。食事は外で摂られたんですか?」 「いえ、学院の食堂は夏休みは閉まっていますから。厨房を借りてもいいかしら?」 「あ、そんなこともあろうかといつでも作れるように準備しておきました。少しお時間をいただけますか?」 「お言葉に甘えたいところだけれど、あなたが仕えているのはルナ様なのですから。私のために、小倉さんの時間を使うのは……」 「私は大丈夫です、みんなと協力してお仕事は終わっていますから」  桜小路のメイドさんたちは、言うまでもなく優秀だ。八千代さんの教育が行き届いている……彼女は根っから先生に向いてるんだと思う。 「……じゃあ、お願いね。その前に、シャワーを浴びさせてもらってもいいですか?」 「今日は暑いですからね。私はそのあいだに、お食事を準備しておきます」 「少し見ていない内に、見違えていくものですね……お尻を叩いていた頃が懐かしいです」  八千代さんは自分の手を見つめる。僕も叩かれた時のことを思い出して……って、それはしなくて良いな。  八千代さんの昼食を用意したあと、僕もシャワーを浴びようかと考えていると……ポケットの中の携帯電話が震えた。 「はい、朝日です」 「今、瑞穂との話が終わった。部屋に戻ってきてくれるか」 「かしこまりました。あの、シャワーを浴びてからで良いでしょうか?」 「私が見ていないあいだに、そんなに汗だくになるようなことをしたのか? 破廉恥だな」 「そ、掃除をしてたんですっ!」  そして、八千代さんの食事を作ってた……とは言わなかった。八千代さんは遠慮がちにしていたから。 「電話口で大きい声を出すな、きんきんする。シャワーを浴びるなどというから、からかってみたくなっただけだ。じゃあ30分待つから来い」  電話が切れる。ルナ様もほんとにイタズラ好きだな……あんなこと言われたら、初心な女の子みたいにあたふたしてしまう。  ……シャワーか。僕も、シャワー浴びてきたら? なんて言う日が来るのかな……メイド服を着てるとまるで現実味がないけれど。  30分と言われたので、急いでシャワーを浴びることにした。ただでさえ、他の人に見られるわけにはいかない。  暑くてもかつらは気にならないけど、伸ばした分の髪が汗で首に張り付いてしまっていたから……さっと流すと、物凄く気持ちよかった。  二階に上がって、ルナ様の部屋にお邪魔する。ルナ様はこの短い空き時間にも、デザイン画を一枚描き終えていた。 「時間通りに来たな。その辺りは、君の美徳と言っていいところだ」 「ありがとうございます、ルナ様。瑞穂様とは、どんなお話をされていたんですか?」 「端的に言うなら、君はやたら瑞穂に気に入られているらしい。モデルとして借りたいと言われた」 「えっ……私をですか?」 「私からすれば、瑞穂のデザインする服は和の意匠を取り入れているから、本人が着るのが一番良いと思う」 「だが、瑞穂は朝日に着せることをイメージすると作業が捗ると言ってきた。それで、君を借りたいと」 「はあ……そ、それは光栄ですが。私はルナ様のお世話をするためにここにいるのですから、ここを離れるわけにはいきません」  ルナ様には恩がある。僕が瑞穂様を尊敬しているのは確かだけど……借りたい、といわれて簡単に頷くわけにはいかない。 「君もいっぱしのメイドらしいことを口にするようになったものだ。初めはどうなるものかと思ったが」 「しかしユーシェならともかく、瑞穂から頼まれてはな。一考もせずに突っぱねるわけにいかない」 「ということは……ルナ様は、私が瑞穂様の所に行った方が良いとお考えなのですか」 「デザインの仕上げまでの期間だけだ。君が足りない要素だと言うなら、それを欠いた瑞穂のデザインに勝ってもあまり嬉しくない」 「それに……実際に、瑞穂が持ってきた絵を見て分かった。初めはふざけているのかと思ったが、実に面白い」  ルナ様は机の上にある絵……おそらく、瑞穂様の置いていったデザイン画を見やって笑う。そこには雲を掴もうとする者が持つ、鋭い光が宿っていた。  ……瑞穂様の絵を評価しながら、同時に対抗心を燃やしている。その微笑みを見ると、僕の心まで震わされるような気がした。 「一応君の意志を聞いてからということで、返事は保留したが……」 「瑞穂のデザインが私より良かったときは、君をモデルにする。ショーの舞台に立ってもらうぞ」 「そうですか、私がモデル……ありがとうございます、そのような大任を……って」 「えぇーーーっ!」  声を限りに振り絞る。ルナ様はそれを予想していたようで、耳を塞いで涼しい顔をしていた。 「あまり大きな声を上げるな、誰かが心配してやってきたらどうする。まあ、私は君が狼藉を働いたと言うがな」  それは立場が逆じゃないかと思ったけれど、全然それどころじゃない……思考がまとまらない。  瑞穂様が、デザイン画のモデルとして僕を……という話だったのに。もしデザインが通ったら、僕がショーに……ぶっちゃけありえない。 「和を現代風にアレンジ……などという前衛的な発想は、原宿系の一つのジャンルとして存在していた。今は廃れてしまっているがな」  ルナ様はそういう服装もちゃんとチェックしてるんだ……だからこそ、今のモードを意識したものが自然に作れるんだろう。 「しかしトラディショナルな和の要素は、ワンポイントならトップデザイナーも取り入れている。瑞穂が作ろうとしているものもそれに近い」 「ちゃんと計算して、勝ちに行けるデザインを考えている。その周到さには、私も感じるものがある」 「何より私のメイドに目を付けて、アイドルに仕立て上げようという不敵な発想が気に入った」  あ、アイドル……やっぱりそうなんだ。僕はそこで、どうしてこんなことになったのか合点がいった。  瑞穂様はアイドル衣装の要素を取り入れた斬新な着物で賞を取ったことがある……つまり、一番の得意分野で勝負をかけようとしているんだ。 「い、いいんですか? 今までのルナ様なら、簡単に許可を出されるとは思えませんが……」 「君が嫌がりながらアイドルになる過程を見てみたいからな」 「これ以上無く単刀直入に言われた!」 「だから精一杯嫌がれ。恥辱にのたうち回りながら日本一のアイドルに上り詰めてみせろ」 「話が大きくなりすぎですっ! ぼぼっ、ぼっ……」  動揺のあまり、『僕にはそんなの無理』と言いかけてしまった……久しぶりに自分が男だと思い出す。 「暴君? 名君と言ってもらおう」 「ぼ、暴君だなんて……私は、そ、そうです。冒険と言おうとしたんです」 「冒険などはしていない。私は勝つ見込みがあると思ったから、瑞穂の意見を聞いてやることにしただけだ」  ショーに勝ち負けはないけど、ファッション業界の関係者が多く訪れる以上は、良い物を出して注目を浴びるに越したことはない。  学院の生徒たちの中で一番の注目を得ようとするくらいの気持ちがあってこそ、デザイナーという職業が現実味を帯びてくる……そう思えてくる。 「ユーシェと湊のデザインは……まあ、君が関わらなければ大化けはないだろうしな。その辺りはシビアに見ているつもりだ」 「私が……ですか?」 「君にはそういうところがある。人に影響を与えて、感化させるところが……瑞穂もそうだ」 「……私も君を雇ってから、丸くなったと言われる。主人と従者は価値観が似ることもあるが、私はそうはならないと思っていたのにな」  何だかすごく褒められてる……ルナ様がこんなに僕に甘いなんて、もしかして午後からは雷雨だろうか。 「何か実に失礼なことを思い浮かべただろう……罰を与えたいところだが、まあいい」 「瑞穂に私と話した内容を伝えてやれ。部屋を訪問することを許可する」 「あ……ありがとうございます、ルナ様」 「いいから早く行け。私の気が変わらないうちにな」  ルナ様は意地悪そうに笑うと、軽く手を振って退室を命じる。僕は深く一礼して、主人の部屋を辞した。  ルナ様の部屋から廊下に出てくると、そこには北斗さんの姿があった。 「北斗さん、ごきげんよう。瑞穂様はお部屋にいらっしゃいますか?」 「ええ、部屋でデザインを描かれています」 「お嬢様に何か御用でしたら、お訪ねになって良いと思いますよ。朝日なら大歓迎でしょう」 「ありがとうございます。北斗さんは何をなさってるんですか?」 「私ですか。先程までは廊下の窓から見える、空を流れる雲を眺めておりました」 「ある部族に、雲の形を見て吉凶を占う方法を学んだのです。私はその部族から『闘う鳥』と呼ばれていました」  北斗さんの好きなインディアンの話かな……闘う鳥って、闘鶏だろうか。ちょっと違うか。 「ちなみに雲は、幸運の訪れを予兆していました。我が主人に朗報が訪れるやもしれないと」 「その運び手は、朝日……もしや、あなたですか?」 「は、はい……朗報ということになるでしょうか。凄いですね、北斗さん」 「私はウソをつきません。というより、私が占いを学んだ部族がウソをつかないのですが」  静かに微笑みつつ、誇らしげに言う北斗さん。僕には彼女と同じくらい誇りに思えるルーツがないから、うらやましいと感じる。 「それでは……私は少し外に出てきます。お嬢様に会ったらよろしくお伝えください」  北斗さんは一礼すると、コツコツと靴音を立てて歩いていった。  僕も機会を見つけて、男の格好をしなきゃな……と思う。北斗さんと服装を交換したってことにしたら、男のかっこうでも言い訳が立つだろうか。  でもそれがルナ様たちに受け入れられたら、僕は男の格好してても、女の子にしか見えないってことになるんじゃ……。 「……深く考えないことにしよう」  どうやったら男らしくなれるんだろう、と真剣に悩み始める。卒業した後に、僕はちゃんとメイド服を脱げるんだろうか……。  瑞穂様の部屋の前に行く前に、身なりをちゃんと整える。エプロンもおかしくないし、かつらもずれてないよね……よし。 「はい。朝日ですか? そのノックのしかたは」 「あ、は、はい……朝日です。瑞穂様、入ってもよろしいですか?」  瑞穂様が答える前にドアを開けて、僕を部屋に招き入れてくれた。 「私と朝日の仲で、今さら何を言っているのですか。都合が悪いことなど、あるわけがないでしょう?」 「すみません、瑞穂様。でしたら、次からはお伺いを立てず……というわけにもいきませんし」 「ふふっ……相変わらず真面目ですね、朝日は。私も人のことは言えませんが……似たもの同士ですね」  ぎゅっ、と両手で僕の手を握ってくる瑞穂さま。あったかいなぁ……それに、いい匂いがする。  これは僕も使ったことがあるシャンプー、『紅椿姫』の香りだ。彼女の艶のある長い黒髪には、一番適していると思う。 「瑞穂様は、デザイン画を描かれていたんですよね」 「はい、かなり煮詰まってきました。もう少しなのですが、決め手が足りなくて」 「ですから、あなたの顔が見たいと思っていたんです。朝日の姿を見ると想像がふくらみますから」  だから嬉しそうなのか……そんな顔を見せられると、僕まで嬉しくなってしまう。  瑞穂様は僕の顔を見て、視線を下げて足下までを見る。その目は真剣そのものだった。 「あの……ルナ様から聞きました。瑞穂様が、私をモデルにデザインをしたいって言ってくれていること」 「あっ……そ、そうだったの。そうよね、ルナの性格なら後回しにはしないわね」 「私は初め思ってもみないことで驚きましたが……ルナ様は面白いとおっしゃっていました」 「そう言ってもらえると嬉しいけれど……ルナの絵には、私のデザインはまだまだ及ばないと思っています」  僕から見てもルナ様のセンスはひとつ抜けている。瑞穂様は洋裁が専門ではないのに、努力で差を縮めているとは思うけど……一歩届かないという印象だ。  けれど、洋装を基準にしたらという話になる。和装についての造詣の深さ、創作のセンスは、瑞穂様に追随する人はフィリア学院にはいないだろう。 「私は……正直なことを言うと、笑われてしまいそうなのですが……」 「遠慮なさらずおっしゃってください。私は絶対に笑ったりはしません」 「ありがとう。私は……実を言うと……」  いつも凛としている瑞穂様が、今日は一段と恥ずかしそうにしてる……不謹慎だけど、それを可愛いと思ってしまう自分がいる。 「朝日はアイドルになれる素質がある。だから、私自身の手でプロデュースしたいって思っているの」 「そうですか、私をアイドルに……プロデュース……」 「具体的には私の作った衣装を着て欲しいんです。あなたを見ているとインスピレーションが泉のように湧いてしまって……もう、止められないんです」 「むむ無理ですっ! わ、私はアイドルなんて全然その、あの、ほら大根足ですしっ」 「いいえ、あなたは完璧よ。出会ってから数ヶ月、私はずっと朝日を見てきたからわかるわ」 「もしKYT48に入ったとしても、2年はセンターを維持できる……それくらいの逸材だと、私は確信している」  だんだん、瑞穂様の目が……据わっているというか、何というか。乙女なんだけど、ちょっと行き過ぎた乙女というか……。 「ちなみに私が応援している南部いくらさんは、順位的には二桁後半だったんだけれど、前回の人気投票では大きく票数を伸ばしたのよ」 「自分で言うのもなんだけど、私には先見の明があると思う。もちろん、朝日を多くの男性の視線に晒すことには抵抗はあるけれど……」 「アイドルには女性ファンも居る。そう、例えば私。私を朝日の最初のファンにして欲しいの」  瑞穂様は僕の肩に手を置いて、きらきらした目で見つめてくる……睫毛がすっごく長いし、透き通った瞳だけど、ほんのちょっぴり怖かったりもする。 「……はっ。ご、ごめんなさい……つい、熱が入ってしまって……」 「いえ……瑞穂様は、本当にアイドルがお好きなんですね」 「言い訳の言葉もないわ。どう見ても、好き以外の何でもないものね……」  すっかり瑞穂様はしゅんとしてしまう。そして、僕の目を気にするように、控えめに見やってきた。 「……率直に言って、朝日はアイドルが好きな人をどう思う?」 「私は……そうですね。特定の芸能人を追いかけたりはしないですけど」 「でも、好きなものには深く入り込んで、それしか見えなくなることがあります。そういうものがあった方が、楽しいですよね」  僕だってそれこそ、瑞穂様がアイドルグッズを集めるのと同じくらい熱心に、有名デザイナーの情報やデザインを蒐集していた。  そして憧れを抱いて、自分もデザイナーになりたいと考えて……壁にぶつかった。初めて見つかった自分の好きなことにおいては、僕は凡才だった。 「……朝日?」  つい、自分のことを考えてしまった。僕は本当にデザイナーに近づけているんだろうか……そんな考えが、頭の隅を過ぎったから。 「弱気はいけないと分かっています。でも、好きなことを職業にするのは難しいなと思ってしまって」 「そうね……本当に難しい。時々、辛くなることもあるわ」 「それでも、一度夢に見てしまったから。夢を捨てれば、私が私で無くなってしまうわ」 「あ……」  ここに来る前に、りそなと話したことを思い出す。夢を見てしまったから、夢のためにここに来た。  ……瑞穂様も、皆も同じだ。持てる力をすべて一つの場所に傾けて、夢を実現させようと努力している。 「……ありがとうございます、瑞穂様。今の話を聞いて、初心を思い出すことが出来ました」 「い、いいえ……そんなこと。私の動機には、少し不純なところもあるから……」 「不純なんてことありません。アイドルの衣装を作るなんて、凄いじゃないですか」 「瑞穂様が作った服なら、私は着てみたいです」 「……本当に?」  最初は想像も出来なかったけど、瑞穂様に協力したい気持ちはある。ルナ様も認めた彼女の実力なら、素晴らしいものが出来るはずだ。 「メイドに二言はございません。それに拒否したら、ルナ様に叱られてしまいますし」 「ありがとう……朝日。ルナにもお礼を言わないといけないわね」 「アイドルをイメージした衣装というだけでは、学校のコンテストに出せないと思っていたから……可能性を認めてくれただけで、十分に嬉しいわ」 「私はルナ様のメイドですが、同時に瑞穂様のお友達です。心ゆくまで、デザインの仕上げにお付き合いします」 「ああ……幸せです。この感激を今すぐデザインにしたいのだけど、その前に……」 「朝日、楽に出来る服装に着替えてきてくれる? 長丁場になりそうだから」  これから、僕に着せることを想定したアイドル衣装がデザインされるのか……何かドキドキしてきた。  衣装を着ることになったら、完璧に演じきらなければいけない。瑞穂様の考える、アイドルの理想像を。  そして、瑞穂様がデザインをする過程を見ることで学ぶことも多いはずだ。それが僕の夢に近づくことでもあると思うと、迷いが晴れていくように感じた。  それから僕は、瑞穂様の部屋で作業の手伝いをすることにした。 「瑞穂様、お茶をお持ちしました」  居るだけでは落ち着かなくて、お世話をしたくなる……我ながら、メイドの心得が身体に染み付いてしまっていた。 「ありがとう。居てもらうだけで十分ありがたいのに、給仕まで……感謝してもし尽くせないわ」 「何かしていた方が落ち着くので、お気になさらないでください。私は課題を進めながら、側に控えさせていただきます」 「……本当に完璧ね、朝日は。アイドルはみんなの理想、優等生であるべき……というのは、私の単なる好みなんだけど……」  僕を見る瑞穂様の目が、何だかうるうるしてくる……今までも仲良くしてきたけど、それ以上になりつつある。  女の子同士でこれ以上仲良くなると、世間で言う百合になるんだろうか。いや、何を不純なことを考えてるんだ……良くない、そんな考えは。 「それを言ったら、瑞穂様もそうですよ。お優しくて、成績も優秀で……武道まで修めておいでになる」 「家で言われるままにしていたら、自然にこうなってたのよ。習い事をさせてくれた両親に、感謝はしているけれど」 「生まれる家によって、必然的に求められるものがある。朝日もそうでしょう?」 「……はい。でも個人が努力をするかしないかは、その人次第です」 「……そうね。初めから諦めていたら始まらないもの……朝日、デザインを見てもらってもいい?」  瑞穂様は話しながら描き進めていた絵を、僕に見せてくれた。地の画力が凄く高い……色鉛筆で彩色しているけど、淡い塗り方が何とも雅だ。 「パソコンで塗る環境もあるけど、私には紙に描いて塗るほうが合っているみたい。古い考えだと思う?」 「いえ、そんなことはないと思います。デジタルでもアナログでも、得意なやり方のほうが躍動感が出ますし」 「それに……常にアナログで描いていたら、サインを求められたりした時に困らずに済みますし」 「サイン……あ、あの。朝日は、私がデビュー出来ると思ってくれているの? デザイナーとして」 「当然です。皆さん、それだけの才能を持っていらっしゃいます」 「それに……瑞穂様は、お美しいですから。きっと、周りの人が放っておきません。自動的にスターになってしまいますよ」 「……わ、私は自分がアイドルになりたいわけじゃなくて。あなたが理想的だと言っているのに」  というか、みんな揃って反則的に可愛いからな……美人すぎるデザイナーさん、と言われて然るべきだ。 「このデザインの服を、朝日に着てもらう……考えただけで胸がときめきます。だからこそ、ひとつも心残りは作りたくないんです」  瑞穂様がずいっと絵を見せてくる。僕は私情を抜きにして、客観的にこのデザインを判断するべきだろう。 「和装をベースにしたアイドル衣装……華やかですね。でも……」  きもののコンクールでは瑞穂様の服は斬新に映るけれど、学園のショーでは状況は逆になる。  他のグループのきらびやかなデザインの中で、和装がバリエーションの一つで終わってはいけない。強烈な印象を残さないと……。 「朝日には清楚な服が似合うと思いますが、アイドルには躍動感も必要です。それを両立することが、ひとつのテーマになります」 「躍動感……瑞穂様は、歌って踊れるアイドルが好きなんですね」 「もう一つ必要な要素は……天性の愛嬌って言うのかしら。人に愛されるには、ふとしたときの笑顔が自然である必要があります」 「あ……私、それは苦手かもしれないです」  もしかしたらこれで、僕をアイドル化する計画から逃れられるかな……と思ったけど。瑞穂様は笑顔を崩さない。 「私と一緒にいるときの朝日の笑顔は、自然体で魅力的よ。心配はいらないわ」 「……何がなんでも私にアイドル衣装を着せるつもりですね」 「ええ、そう考えただけで次々にアイデアが湧いてきて……もう一枚仕上がりそう」 「えっ……もうですか?」  話しながら、瑞穂様は絶え間なく手を動かしているけど……こんなに早いなんて。さっき見せてもらったものとも全然違う。 「朝日が来てくれてから、5枚仕上げているわ。ある程度納得いくものだけ見せようと思って」  プレッシャーを与えないように、僕もじっと見てるわけじゃないけど……2枚どころか、5枚も。  ……そして、試行錯誤の中で徐々に洗練されていくのが分かる。このままいけば、瑞穂様はきっと……。 「……私は正直を言って、今のルナ様は、4人の中でも抜きん出ていると思っていました」 「そうね……ルナはきっと、名のあるデザイナーになるでしょう。この学院の中でも、比肩する人はいません」 「けれど、そんな人と競争出来ることを嬉しく思うわ。久しぶりに、誰かに本気で負けたくないと思っているの」 「ルナは親友ですが、今だけはライバルです」 「はい。負けず嫌いであることが、デザイナーの素養のひとつだと思います」  僕にはそういう要素が欠けている……彼女たちを見ていて、そういうことを思い知らされる。  天才が身を削りあっているその場所に、僕も居場所を作ることができているのなら……羨むよりも、得るものの方が大きいと思える。 「あと一枚書いたら、朝日の写真を撮らせてね。資料として、ある程度まとまった数が欲しいから」 「あ……は、はい。私の写真で良かったら、何枚でも……」 「そうだ……朝日は若い人達のあいだではやりだという、きらびやかな写真を撮る機械を知ってる?」  ゲームセンターとかに置いてあるやつのことか。僕も話に聞くだけで、実際に触ってみたことはなかった……りそなは女子校の友達と撮ったと言ってたかな。 「一度、お友達と一緒に撮ってみたかったんです」 「私も興味はありますが、なかなか触れる機会がなくて……」 「良かったら、私と一緒に撮りにいかない? 前に案内をしてもらったときに、幾つか見つけていたんです」 「かしこまりました。では、デザインを見せ合う日のあと、本格的に夏休みが始まってからにいたしますか?」 「ええ……でも、ルナに悪いわね。朝日をそんなふうに連れ回してしまったら」 「夏休みの間に、お休みをもらう日もあると思いますから。その時に参りましょう」 「……今年の夏は、楽しみなことがいっぱいありそう。心置きなく羽根を伸ばせるようにしたいわね」  瑞穂様は言って、静かに集中を始める。僕は彼女の集中を乱さないように心がけることにした。  夕食を終えたあとは、ルナ様のお付きに戻る。ルナ様は流石で、僕がいないうちに凄い枚数のデザインを上げていた。 「やたらと機嫌がいいな、朝日。どうした? 瑞穂がそれほど良くしてくれたのか」 「あ……そんなに顔に出てますか? 私」 「なかなか分かりやすいぞ。懐柔されたとしてもすぐに暇をやるつもりはないがな」 「大丈夫です、私は卒業するまでルナ様のメイドですよ」 「それも上から目線のようで何か腹立たしいな。わかった、ベッドに寝転べ。足を置く台にしてやる」 「淑女の発想ではない気もしますが……かしこまりました」 「うん、素直が一番だ。変なところを見たら、女同士といえど不敬罪を適用するからな」  ベッドに寝そべると、ルナ様は僕の腰のあたりに細い脚を乗せてくる。足を高いところに置く体勢が楽なのかな……。 「座りっぱなしでいると肩だけでなく、足も固まってしまうからな……そう、この凹凸がいいんだ」 「ルナ様、そんなふうになさらなくても。マッサージをいたしましょうか?」 「い、いや。君はやたらと上手いらしいからな……何か、主人としての尊厳を試されることになる気がする」  ユルシュール様は喜んでくれたけど、ルナ様がマッサージで蕩けてるところは想像出来ないな……見てみたい、という悪戯心も沸くけど、その後が怖い。 「今日はな、一人でも集中出来たぞ。私は君を適度に呼び出して、用件を申し付けるくらいが丁度いいのかもしれないな」 「……ルナ様。お休みが取れましたら、夏休みのうちに一日ほど瑞穂様と外出してもよろしいでしょうか?」 「君らはやたらとウマが合うな……瑞穂も、何がそんなに気に入ったのやら」 「まあいいだろう、私もりそなを家に呼んで遊ぶつもりだからな。君がいると出来ないことも色々と……」 「え、ええっ……りそな様と、何をなさるおつもりなんですか?」 「か、勘違いするな。私にはそういう趣味はないし、りそなもそうだ。単にネットゲームを別の部屋でやる、そういうオフ会だ」 「ほっ……よかった。でも、ゲームはほどほどにお願いいたします」 「しかしなんだ……その、番犬のような目は。りそなと君の関係を改めて知りたくなったな」  実の兄です……というか、僕そんなすごい顔してたのか。りそなはブラコンだけど、僕もたいがいシスコンだからな。 「さあ、洗いざらい吐け。私はそれを聞いたら寝るからな」 「お、大蔵家に仕える私にとっては、りそな様がその……不純同性交遊をされているとなったら、見逃すわけにはまいりません」 「それは誤解だったわけだが……君、普通に失礼だな。よし分かった、踏んでやろう」 「る、ルナ様……はしたないです。そんな格好で踏んだら、スカートの裾が……」 「君のような駄メイドに見られたところで大して痛手はない……ってなんだ君。今度は顔が真っ赤になったぞ」  ま、まずい……普通に男性として反応してしまった。ベッドの上でルナ様と一緒にいるのは、非常に危険だ。 「そろそろお時間ですので、私はそろそろ……失礼いたしまーすっ!」 「あっ、こら……逃げるな! いかなる命令を受けても逃げることはするなと、八千代に教わらなかったのかっ!」  そう言われてもなお、僕は逃げの一手しかなかった……気がついたら鼻血が出てしまっていたから。  僕の正体は簡単にばれてしまいかねないんだってこと、忘れちゃいけない。とりあえず氷水で鼻を冷やそう……出来ればついでに頭も。  そして、7月最後の日。僕らは学院に集まることになった。  お嬢様方は別々にお屋敷を出て、教室に集合することになっている。僕はルナ様と二人で、タクシーでここまでやってきた。 「さあ……乗り込むか。言っておくが朝日、私は瑞穂に負けてやる気はないぞ」 「承知しております。瑞穂様も、負けないとおっしゃっていました」 「くっく……初めは頼りないメイドかと思ったものだが。変われば変わるんだな」 「ルナ様に鍛えられておりますから」 「人のせいにするのか……そうかそうか。いい根性だ。私は反骨心のあるやつは嫌いじゃない」 「……しかし、今回は私か瑞穂がもらう。その次は私が一目置くくらいに、努力で才能を埋めてみせてくれ」 「……ルナ様」  ルナ様は自分でも似合わないことを言ったと思ったのか、顔を赤くしていた。 「ま、まあ君くらいでは努力しても上限はあると思うがな。パタンナーとしてプロを目指すほうが現実的だ」 「そうですね……私は、服を作ることが好きですから。何かの形で、その一端を担えたらと思います」 「……あまり殊勝にされると、惜しくなるな」 「え……?」 「何でもない。日差しが鬱陶しいから、早く行くぞ」  僕はルナ様に日傘を差して、彼女に太陽の光が当たらないように校舎まで付き添って歩いた。  夏休みの学院は静まり返っていた。先生の許可を取れば入れるとはいえ、あえて登校してくる人はほとんどいない。  まして、この学院に来るような家の人たちは、夏休みは海外に滞在するような人がほとんどだろう。そうでなくても、別荘持ちが少なくない。 「君にも休暇をやらないとな、と実感する瞬間だ。今は夏休みだったんだな」 「ルナ様も。明日からは少しお休みください」 「言われなくても、かなりの寝不足だ……夜型の私でも、さすがに連日はこたえる」  ルナ様は苦笑して目をこする。徹夜に付き合った僕も、それなりに疲れた顔をしてるんだろうな……。  教室には、すでに他の6人が来ていた。机の上にはそれぞれのポートフォリオが出してある。 「おっはよー! てゆーか二人共、時間ギリギリすぎ! 私なんて早く楽になりたくて10分前に来てるんですけど!」 「楽になるのはルナですわ。私に負けて、敗北の味を知ると良いのです。おーっほっほっほっ!」 「うちのお嬢様が眼中に無いとか暗に言ってんのかよ……無自覚な傲慢は永世中立国の伯爵家のお家芸か? その金髪をレースのハンカチに編みこんで、キレイなステッチにしてやろうか」 「相変わらず殺気を隠しもしないわね、あなた……今はグランド・バカンス、夏休みですよ? 少しは夏らしく、ハツラツとしたことでも言ってみなさい」 「湊お嬢様と二人きりの水泳大会を開きたい」 「はーい、その話はおしまい! それでは開会前に、瑞穂からコメントお願いね!」 「開会宣言ね、分かりました。私たち一同は、正々堂々と作品を持ち寄り、意匠を定めることを誓います」 「胸を張れるものを作ってここに来た。それが同じなら、誰にも文句はないだろう」 「正々堂々、誇りを賭けた勝負……出すぎたことを言うようですが、血湧き肉踊ります」 「あなたは湧かず、踊らず、歌わず、ただ黙って座って見ていてくれれば助かるのだけど」 「フッ……随分と警戒されたものだ。私からしてみれば、あなたの方がよほど面妖な……」 「め、面妖ですって!? この私の面のどこにそんな要素があるのか言ってみいや! マンマ・ミーア!」 「まあサーシャ、いつからイタリアの言葉を話すようになりましたの?」 「言ってみいやってその筋の人の映画っぽいよね。迫力が出そうだから、瑞穂に一度言ってほしい……あ、何でもないでーす」 「それを言うなら『覚悟せいや』だな。七愛なら言ってもおかしくなさそうだが」 「覚悟せいや、大蔵遊星……ついでに小倉朝日も」  二人分も憎まれてるって凄いな……と他人ごとのように考えてしまう。同一人物って分かったら、とりあえず七愛さんの目の前から離れた方がよさそうだ。 「言ってみいや……土佐のほうで、そんな話し方をすることもあったかしら」  そういえば……瑞穂様は上方出身なのに、完全に標準語だな。はんなりした言葉を使ったりはしないのだろうか。 「今日という今日はここで会ったが百年戦争と言いたいところですが、見逃してあげましょう。コモント・ディール・アデュー」 「百年目だ、と訂正はしておくが……確かに我々の因縁など、モニュメント・バレーの雄大な景色と比べれば小さなことだな」  この二人は、一度じっくり話した方がいいんじゃないかな……きっかけがあれば分かり合えそうな気がするから。  お嬢様方のデザイン画を順番に見せてもらい、評価をしていく。最初は湊のものだ。 「はー、恥ずかしい……みんなに私の絵を見られてる……」 「お嬢様が恥ずかしいのなら、私も同じだけ恥ずかしがる……身体が熱い……」  七愛さんは別の反応をしてるように見えるけど、まあ突っ込まないでおこう。今は真剣に湊の絵を見なきゃ。 「……短い間の勉強で、ここまでやるとはな。正直、驚いた」 「そうですわね、正直侮っていました。湊はいつも、勉強で苦労しているイメージがありましたから」 「ありがとう。でも私の、みんなのレベルには追いつけてないよ。それは自分で分かってるから」 「お嬢様……」 「客観的に言わせてもらうと、この形は一歩古い。もうひとつ先を行かなければな」 「だが、アクセサリーのデザインは新しいな。これは、自分で作れると思って描いたのか」 「うん、私そういうの得意だから。ありあわせの材料で飾りものとか作ってたし」 「これほどのものを、独学だけで作れる人はそうはいないわ。心強いわね」  みんなが湊のアクセサリーを評価している……七愛さんは珍しく、少し頬を赤くして恐縮していた。 「……お嬢様が褒められると私も嬉しい。ありがとう」 「そうやって素直に笑った方が良くってよ、あなた」 「主人が名誉を受ける喜びを、共に分かちあう。それを嬉しく思うことは、我々の数少ない共通点ですね」 「はい。この場にいる誰が褒められても、私は嬉しいです」 「メイド同士でやけに意気投合しているな……朝日、君は私の保護者にでもなったつもりか?」 「は、はいっ……自分の立場は承知しております。過ぎたことを申しました」 「素直じゃありませんわね、ルナは。さて、次は私ですわね……サーシャ」 「ウィ。それでは御覧ください、ユルシュール様の作品『我が愛すべきコルシカ島』にございます」 「……? ナポレオンはフランスの皇帝ですから、スイスにはあまり関係ないのでは?」 「というか、すでに名前を付けているあたりがナルシーだな。ナルシュールだな」 「あ、あなただってひっくり返したらナルじゃありませんの! むきーっ!」 「ナルシシズム、それは美。泉に映る自分さえ、私に恋をすることから生まれた言葉です」 「お嬢様の耳に偽りを入れないでくれるか? 彼女の耳に通るべきは真実のみ……なぜなら我が部族はウソをつかない」 「もう……すぐに脱線するんですから。私だってナルキッソスの故事くらい知っています」  故事というか神話かな。ナルキッソスのイメージは、なるほどサーシャさんにぴったりだ。 「それで、ナルシカ島だったのか。なるほど、『美の島』をモチーフにしたわけだな」 「地中海の海と、山のイメージですわ……ところで『なるほど』って、もしかしてナルと掛けたんですの?」 「揚げ足を取るな、そんなつもりはない……いい色使いだな。そこは評価してもいい」  水色と白を配したそのドレスは、女優さんが着てレッドカーペットを歩いていてもおかしくないほど華やかだった。 「コルシカには当家の別邸があります。お嬢様のバカンスに行きたい気持ちが、デザインに反映されておます」 「はあ〜……ゴージャス。私、こういう発想が逆立ちしても出てこないんだよね」 「麗しいですね……とても良いと思います」 「うん、なかなかのものだな。ユーシェ、だが『なかなか』だ」 「ふ、ふん……自信たっぷりですわね。そこまで言うのなら、あなたのものを見せてもらいましょうか」 「いいだろう。しかし、私のものと一緒に……瑞穂のものも見てもらおう」  ルナ様は瑞穂様の方を見やる。瑞穂様は少し驚いていたけど、あまり間を置かずに頷いた。 「分かりました、ルナがそう言うのなら……どうぞ」  ルナ様と瑞穂様が同時にデザイン画を出す。その瞬間、教室の空気が一変するのが分かった。 「……なんて憎たらしい女ですの。ここまでのものを、しれっと出してくるなんて」 「瑞穂お嬢様のデザインも……これぞジャパニーズ・フジヤマ。トレビアン」  ルナ様のデザインと瑞穂様のデザインは、洋と和の対極を成している。僕の目からは、どちらも甲乙つけようがない……。 「そうだとは思ってたけど、レベル高いよ二人共……次元が違いすぎ」 「……着物をベースにしたアイドル衣装。その向こう見ず、七愛は嫌いじゃない」  若い女性の中には、そういうのが凄く好きな人がいるからな……七愛さんも見るからにと言っては失礼だけど、そういう感じだ。 「和装の理解が深いからこそ出来ることですわね。お国柄を生かすのは良いアイデアだと思いますわ」 「ですが……奇を衒うイメージは拭えません。ルナのものは憎らしいですが、芸術面での完成度が高いと思います」 「私と瑞穂のものは君らから見て甲乙つけがたく、私のものは現在のモードに則っている。それだけの違いということだな」  ルナ様が総括すると、ユルシュール様と湊も同意して頷く。それを聞いていた瑞穂様は、静かに微笑んだ。 「そういうことなら。私は、主流を意識したデザインを選択する方が……」 「デザインの優劣で選ぶことが出来ないのなら、私はいずれかを選ぶべきではないと思う」 「……ルナ、それってどういうこと?」 「両方の衣装を準備しておく。そして、ショーに出るまでにどちらを出すか考えておけばいい」 「ショーに出るということは、モデルと服をセットで考える必要がある。瑞穂は朝日に着せようとすることで、モチベーションが倍以上に上がるようだしな」 「えっ……瑞穂、朝日に衣装を……?」 「え、ええ……朝日に着てもらおうと思ってデザインしたのよ。ここ一週間で三十枚ほど……」 「さ……三十枚ですの? このややこしい構造……いえ、難しい構造で……」 「お嬢様にとって着物のデザインは子供の頃からの嗜みですから」  瑞穂様が着物のデザインに慣れているといっても、この衣装は着物を超えた新しいジャンルだ。一枚考えるだけでも、バランスに苦労させられる。  それを僕に見せただけで30枚、習作を合わせれば100枚以上描いていた。モチベーションが数倍になるっていうのは、その数字が実証している。 「瑞穂、朝日。私は君たちに負けを認めたわけじゃないし、譲ったつもりもない」 「12月までに完成度を120%にしなければ、私が足下を掬うぞ。覚えておけよ」  ルナ様の言葉で、僕らのグループが採用するデザインが決まった。  桜小路ルナ、花之宮瑞穂。両お嬢様のデザインを用いて……ショーまでに、より完成度を上げられた方を出品する。 「よーし、肩の荷も降りたし。私も出来ることを精一杯やるよ。ありがとね、私のもちゃんと見てくれて」 「今回は控えに甘んじましたが、次の機会は私も最終選考まで残してみせますわ」 「ありがとう、みんな。私も負けないように頑張ります」  瑞穂様もルナ様も、常に研鑽を怠らない……高いところを飛ぶ鳥が、さらに高くを目指そうとする。  ふたりに引っ張られて、僕らも高いところに行ける。和やかに笑い合うみんなを見ていると、そんな未来が現実に来ると思えた。  僕らはデザイン選びを終えたところで解散した。今日までは学院の授業が続いていたようなもので、明日からは本当の意味で夏休みが始まる。  ルナ様は家に戻ってすぐ、シャワーを浴びてお休みになった。僕はまだ体力が残っていたので、他のメイドさんたちと一緒に屋敷の掃除をしていた。 「お疲れ様です、朝日。あとは私が引き継ぎましょう」 「はい、ありがとうございます。夕食の準備を始めさせていただきますね」 「その前に……差し出がましいことなのですが、一つお願いをしてもいいですか?」 「瑞穂お嬢様が、あなたを探していました。一言お礼が言いたいと」 「わ、私は……何もしていません。瑞穂様お一人の力です」 「瑞穂様は皆がひと目見て、良いと思うものをお作りになりました。私はただ、ご一緒していたというだけで……」 「そこに居るのがあなたでなければ、この結果は無かったでしょう。瑞穂様はショーの参加については、一歩引いて考えておられましたから」 「……そうだったんですか?」  瑞穂様は常に一生懸命で、そんな素振りを見せることはなかった。疑問を口にする僕を見て、北斗さんは少し考えてから話を続ける。 「お嬢様は……自らの進む道が正しいのかを悩んでいらした。両親の意にそぐわないことをすることに、迷いを感じていらっしゃいました」 「あなたはただ瑞穂様と共に過ごすだけで、その迷いを消してみせた。生半なことではありません」  そう言ってもらえることは、素直に嬉しい。けれど……僕はやっぱり、褒められるようなことはしてない。 「私は瑞穂様のお友達として、力になりたいと思いました。ただ、それだけです」 「……まさかこの東京で、花之宮に欲しいと思う人材に出会うとは思いませんでしたよ」 「星の導きであなたをもっと早く見つけていれば、お嬢様の左腕、右腕として仕えることが出来たでしょうに」 「あ、ありがとうございます……」  こんなに必要とされているなら、僕の幸せはメイドとしての人生にある……というわけにもいかない。 「スカウトに熱を入れすぎると、ルナ様にお叱りを受けてしまいますね……では、そろそろ私は失礼いたします」 「北斗さん、瑞穂様はどちらにいらっしゃいますか?」 「庭園にいらっしゃいます。部屋にいると、高揚した気持ちが落ち着かないとのことで」 「……あなたと出会ってから、瑞穂様は時折、歳相応の少女のような顔をなさる。私はそのことも、密かに嬉しく思っています」  北斗さんは唇に人差し指を当てて、これは秘密にするようにと仕草で示した。僕はそれに倣い、他言無用を約束して彼女と別れた。  庭園に向かう途中、僕はずっと胸の高鳴りを感じていた。  教室でデザインを選び終えたときは、瑞穂様はあまり喜びを外に出すことはなかった……けれど、彼女が気持ちを押さえていることが僕にも分かっていたから。  夕暮れに染まる景色。その中に立っていた彼女が、僕が来たことに気づいて振り返る。 「朝日……お仕事は落ち着きましたか?」 「これから、夕食の支度をするところです。その前に、少し時間をいただきました」 「ふふっ……ルナはずっと休んでいますから、朝日も休んでいていいのに」 「私は……初めは、メイドの仕事は大変だと思っていましたけど。身体を動かすことが、好きになってきました」 「そう……あなたをお嫁さんにする人は、きっと幸せでしょうね。男の人なんかにあげたくはないけれど」 「……そんな言い方をしたら、朝日は変だと思う?」 「……いいえ。私も時々、自分で考えることがあります」 「従者として主人に尽くしながら、八千代さんのように夢を追いかけて、実現させる。それは素敵なことです」 「そのためには、余所見をすることはない。誰かに恋をしたりはしない……と、心に決めていたりするの?」 「今は……そうですね。そうであるべきだと思っています」  湊に告白された時も落ち着いていられた。彼女のことを可愛いと思っても、心は大きくバランスを崩すことはなかった。  ……僕はその時点では、恋をすることよりも、正体を隠すことに必死だったから。  けれど、今は……今は、違うんだろうか。僕の心の中で、日増しに彼女の……瑞穂様の存在が、大きくなりつつある。 「じゃあ……朝日と私は、ずっと親友でいられるわね」  けれど『僕』の気持ちは、彼女のその言葉で封じ込められる。そうだ……僕らの間にある『好き』は、恋愛感情にはなりえない。 「……少し、心配していたの。私があまりあなたのことを好きと言っていたら……女の子同士で、ってみんなに心配をかけてしまいそうで」 「私はそういう気持ちじゃなくて……気兼ねなく、心を晒せる関係でいたいだけ」 「……瑞穂様」  僕には彼女の気持ちに応える資格なんてない。けれどウソをつき続けると誓ったのなら……。  『小倉朝日』は、瑞穂様の想いに応えられる。 「……あなたにとっては、そこまでの気持ちは重荷になってしまうかもしれない。でも……私は……」  同性だから……同性だと思っているから。瑞穂様の感情はとても純粋で、きれいなものだ。  それを汚すことをしないと約束するのなら。僕は自分の中に芽吹いた気持ちから、目をそらすことになる。  けれどまだ不確かな恋に向き合うより、瑞穂様の心に瑕を作りたくはない……その気持ちが、道を選ばせる。 「……重荷だなんて思いません。私は瑞穂様がそこまで言ってくださることを、光栄に思います」 「私はルナ様のメイドです。それでも良いと言ってくれるのなら……私を……」  そこから先を言うには勇気が必要だった。喉から音が出なくなるほど、自分の感情を制御できなくなる。  僕は今の今まで、気が付いてさえいなかった。  初めから、僕と友達になろうと言ってくれた彼女。  特別な存在として見てくれるようになった瑞穂お嬢様を……僕は。 「……私を、瑞穂お嬢様の親友と呼んでくださいますか?」  一時も引き延ばせば、心が割れてしまうように感じたから。僕は彼女との記憶が巡る前に、引き返すことのできない誓いを口にした。 「……朝日っ……!」  抜け落ちていた身体の感覚が、抱きしめられることで戻ってくる。  ……夏を彩るヒグラシの声と、柔らかく庭園に吹き抜ける風の中で。僕は、大切な人をこの腕に抱きとめていた。  彼女の顔がすぐ近くにある。木漏れ日の中で、その瞳は揚羽蝶の羽根のように美しく透き通っていた。  触れ合わせた胸から、温もりが伝わってくる。その女性らしい柔らかさを、僕はありのままに受け止める。 「……私のこと、親友と呼んでくれるんですか?」 「……ずっと、瑞穂様はそのように接してくれていると感じていました。私はそのお気持ちに、はっきりと応えることが出来ずにいました」 「ええ……ですから、私だけがあなたのこと……」 「そんなことはありません。私は瑞穂お嬢様のことを……」  女の子同士の親愛を表すときに、なんていう言葉を使えばいいのか……分からないけれど。今の僕には、ひとつしか思いつかなかった。 「……私は、瑞穂お嬢様をお慕いしています」 「……夢ではありませんよね。本当の私は、疲れて部屋で眠っているということはありませんよね……?」  夢であることが怖いと思うほどに、喜んでくれている。そう思うと、彼女を抱きしめている手が震えてしまう。  だから僕は、瑞穂様の肩に手を置いて距離を取った。親友として以外の気持ちを、感じてしまわないように。 「夢ではないです。瑞穂様は部屋では落ち着かなくて、ここに来たとお伺いしました」 「北斗ですか……朝日に教えてくれたのは。後でお礼を言わないといけませんね」 「……すみません、感極まってしまって、急に抱きついたりして。勘違いされるのが心配と、自分で言ったのに」 「いえ……みんな、分かってくれますよ。瑞穂様のお人柄を分かっていますから」 「……前に『不純な気持ちがある』と言いましたが、それでもですか?」 「目的のために頑張るのなら、それは不純ではないと思います」 「そ、そうですか……それだと、悩んでいたことにあまり意味が無かったような気がするんだけど……」  瑞穂様は恥ずかしそうに佇まいを直す。顔が赤らんでいるのも自覚していて、頬を押さえる仕草が可愛かった。 「今日は……私にとって、ひとつの記念日です。ルナやみんなにデザインを認めてもらえたことと……」 「私たちが本当の意味で、親友になった日……ですね」 「……はい。この日この場所を、私は忘れることなく胸に刻みつけます」 「もし、あなたが私の作った衣装を着て、ショーのステージに立ったら……また、ここで一緒に喜んでくれる?」 「……はい。約束しますよ」 「……ありがとう、朝日。指切りしてもいい?」  瑞穂様は小指を差し出してくる。二つの指が絡まると、瑞穂様はその手を少し上げてはにかむ。 「ゆーびきーりげーんまーん。ウソついたら……朝日を私の家に引き取ります」 「えっ……そ、それは……」 「ふふっ……冗談です。朝日は約束を破らないって、信じているもの」  嬉しそうに笑う彼女を見ているうちに、僕は……これまでよりも一層、女装に磨きをかけなきゃいけない。そんなことで、頭がいっぱいになっていった。  それにウソをついたらと言うなら、ここに居る僕自体がウソの産物だから。  ……瑞穂様は本当のことなんて知らなくていい。彼女が必要としているのは『小倉朝日』なのだから。  夕食のあと、お嬢様方がお風呂に入る。早く上がってきた湊が、ルナお嬢様を待っている僕に声をかけてきた。 「うーす。ちょい、私の話を聞いてもらおうか」 「う、うん……じゃなくて、はい。いかがなさいましたか」 「いかがも何もないよ。あれはどういうこと? どうして瑞穂が、朝日のために衣装を作るなんてことになってるの」 「前々から瑞穂が朝日のこと気に入ってるのは知ってたけど……何だか、親密さがぐっと深まってる気がするんですけど」 「そ、そうだね……でも、私は小倉朝日ですから。湊の心配するようなことは……ふぁっ」  定型的な言い訳をすると、湊はおもむろに僕の両方のほっぺたをつまんできた。これじゃまともに喋れない……。 「あのね、私が聞いてるのはそういうことじゃないの。みんな居ないからゆうちょの方で話して」 「……ふぁい。へも、ひゃれれらいんらけど」 「面白い顔でもしてもらわないと気が済まないに決まってるでしょ。あー面白かったー」 「ひゃ、ひゃれれら……はぶっ!」  湊は両方の手のひらで僕のほっぺたをむぎゅっとしてから開放した。どうやら僕は怒られているようだ。  ……って、当たり前だよな。湊は僕のことが好きって言ってくれてたから……。 「なに? その同情に満ち満ちた視線は。ここで柳ヶ瀬湊の敗北を宣告した方がいいかなーとか、しゃらくさいこと考えてないでしょうね」 「そ、そんなことないよ。僕はほんとに、瑞穂さんとはなんでもないし」 「そこを何とかなろうとしてるんじゃないの? そういうの、分かるから。瑞穂もなんか嬉しそうだし」 「ええと……そうだな。何から話そうか」 「瑞穂様は、僕をモデルにすると服のデザインが捗るそうなんだ。それで、夏休みに入ってから、ルナ様にお許しをもらって付き添いをしてて」 「あ、もういい。なんか詳しく聞くと、部屋で一人でうんうん唸ったり、憂さ晴らしに走ったりしてた自分が情けなくなるから」 「元から瑞穂はあれだけすごいのに、どうしてサポートまでしちゃうかな。私はどうして眼中にないのかなぁ」 「う……ご、ごめん」 「謝るな馬鹿者。私は別に謝られるようなことゆってないし。やるせないな、って言ってるだけだよ」  そんな話をされたら、僕はやっぱり謝るしかない……と思っていると、湊はふぅ、と深く息をついた。 「……それで? それだけじゃないでしょ、あれだけ瑞穂が嬉しそうにしてるのは。何した?」 「そ、そんな言い方しないで。ええと……僕は、瑞穂様と正式に親友になったんだ」 「ふーん。ふーんふーん。へえーー。ほぉーぉ。親友? マブダチと書いて親友と読む?」 「う、うん。今までは正式にそういうことは言ってなかったから、ちゃんと僕も親友にして欲しいって言ったんだ」 「……なるほど。瑞穂に男の子ってばらして、それで恋人になったとかいう急展開じゃないんだ」 「そ、そんなこと言えないよ。学院に通えなくなっちゃうし……」 「うん、それはそうだ。でもゆうちょ、女の子と親友なんてそんな上手く出来るの? 出来るんだろうけど」 「ちょっとでもその……し、下心とか。エッチなこと考えたら、それだけでルール違反なんですけど?」 「だ、大丈夫だよ。それもわかってて、親友になったんだから」 「ほんとかなあ……男の子って、寝ても覚めてもそういうことしか考えてないんじゃないの?」 「はは……そんなだったら、女性だけの学院には通えないよ」  けれど湊の言うとおり、このお屋敷のお嬢様方の仕草やお姿を見ていると、異性として意識することはある。  ……湊も例外じゃなくて、すごく可愛くなったと思う。好意には応えられなくても、それは素直な気持ちだ。 「じゃあ女の子の気持ちを理解して、女の子としてずっと親友でいるの?」 「うん……そうだよ」  肯定の返事をしても、自分でもわかるくらいに歯切れが悪かった。湊にも、それを気取られてしまう。 「はー、あんまりいじめるのも可哀想だし。私そんなつもりじゃなくて、その……」 「……が、頑張ろうねってこと。瑞穂のデザインで、朝日がショーに出るかもしれないんだし」 「それなんだけど……さすがにそこまで目立つのはまずいかなと思ってるんだ。完璧に演じきれるならいいけど、自分でも男っぽさが残ってると思うし」 「そうは言っても、瑞穂と約束しちゃったんでしょ? ルナも一緒に競い合おう、みたいな感じだったし」 「う、うん……でも他の女の子たちに混ざってショーに出たら、さすがに……」 「じゃあ、今よりもっと女の子らしくすればいいと思うよ。はい、もっと内股で歩いてー。少女まんがとかいっぱい読んでー」 「そ、そんな投げやりな。湊、僕のこと怒ってる?」 「……怒ってるように見える?」  そこでカチンときてしまったのか、湊の顔が紅潮する。せっかく和やかな雰囲気だったのに、地雷を踏んでしまった。 「私は怒ってないよ、怒るとしたら瑞穂の方だよ。私ならまだ情状酌量の余地はあるけど、相手は正真正銘のお嬢様なんだから」 「そんな子を、桜小路家のメイドさんがかどわかしたなんて知ったら……かどわかした? あってるよね?」 「……本当だよね。僕、最低だ。最低の女装男だ」 「ちょ、ちょっ……そんな急に、どん底まで落ち込まなくたって……」 「いや……幾ら夢のためでも、人には曲がった道に見える。僕は、それを忘れちゃいけない」  言ってくれた湊に、感謝しているほどだった。りそなにはもう、後ろめたさなんて口には出来ないから。  それなら僕を戒めて欲しい……今の湊がしたように。僕は瑞穂さんへの好意を、絶対外に出しちゃいけない。 「……でもゆうちょ、好きなこと勉強したくて来たんでしょ?」 「うん。僕にはそれ以上にやりたいことなんて、無かったから」 「そっかそっか。それなら私と同じだよ。自分のしたいことするのに必死になるのは、当たり前だと思う」 「でも……もし瑞穂にばれちゃったら、その時は正直に言わなきゃ駄目。ずっと隠すのは無理だよ」  湊の言うように出来れば、正直に言って瑞穂様が理解してくれたら……そう思う気持ちがあるのは確かだ。  でも、今さらどうやって言えばいいのか。考えただけで、胸が締め付けられるくらい苦しくなる。 「いつ正体がばれてもいいって覚悟がゆうちょにあるなら、私はもう何も言わない。ただ逃げるために正体を隠したいなら、協力は出来ないけど」 「……逃げてないんなら、いいよ。複雑なこと言ってるけど、つまり……」 「……僕は、まだ瑞穂さんに正体は知られたくない。出来れば、最後までそうしたい」 「瑞穂さんが友達と認めてくれたのが、『小倉朝日』である以上は。僕は、ウソをつき続けるよ」 「……裸とか見ちゃってるのにその開き直りは……って思わなくもないけど」  またも刺された……だが、湊にはこれくらい言ってもらった方がいい。 「それに正直言って、ゆうちょだって瑞穂のこと憎からず思ってる感じでしょ」 「う……き、綺麗な人だし、優しいって思うけど……」 「はぁぁ、胸が痛い痛い。ゆうちょと瑞穂の板挟みで、両方にウソつかなきゃいけなくなっちゃった」  そう言いながらも、湊は仕方ないなあというように笑う。僕の胸を締め付けていた痛みは、それでほころぶ。  ……そう、湊も優しいんだ。彼女は僕に、あえて釘を刺したんだ……このまま瑞穂さんの近くにいるには、生半可なことを考えていてはいけないと。 「一緒にアイドルになろーね、『小倉朝日』ちゃん。私の知ってたゆうちょは死にました、ここにいるのは瑞穂の理想のアイドルの卵です。わかった?」 「……それなんだけど、僕は瑞穂さんの方がアイドルに向いてると思ってるんだよね。今のはやりを調べてみたけど、大和撫子っていう感じが主流みたいだ」 「彼女は家のこともあって華道や茶道をやっていたから、立ち居振る舞いは完璧に品がある。歌謡も得意だっていうし、弓道と舞踊で鍛えた運動神経も抜群だ」 「そして僕には絶対マネ出来ないのが、彼女が生まれ持っているスタイルだよ。ユルシュールさんにウェストのことを言われてたけど、十分過ぎるほど細いから気にすることはないと思う」 「あー、はいはい……分かった、分かりましたから。なんだこれ、乙女心馬鹿にしてんのか」 「えっ……あ、そ、そういう意味じゃなくて。湊には、湊のいいところがあるよ?」 「言い訳でそういうこと言われるのが一番くるんだから……もー怒った! ベアハッグする!」 「いたっ、痛い痛い痛い……湊、あ、当たってるし痛い……」 「瑞穂の方がスタイルいいとか思ってるんだ。ごめんなさいね、私全然出るとこ出てなくて。申し訳なくて涙が出ちゃいそう」 「み……湊……やめて……ほんとに痛っ、痛い……」 「……朝日、湊。二人共、何をしているの?」  ……リビングでじゃれてれば、こういう事態になってもおかしくはないよね。うん、まあ普通かな。 「み、瑞穂……これはね、ちち違うよ? ちょっとその、勢いがついちゃったっていうかっ……」 「まさか二人がそんな関係になっていたなんて……い、いいの? 二人のご両親に、もう許可はとっているの?」 「ち、違う違う! 何にもナッシング! 私と朝日は健全な友達関係で、今のはちょっとしたコミュニケーションだから!」 「は、はい……その通りです。私が不躾なことをして、湊さまにお叱りを受けて……ご心配をかけて申し訳ありませんでした」 「……二人だけずるいと思ってしまうのは、はしたないかしら。湊、私と朝日はすでに一緒のおふ……」 「お、オフショルダーは可愛いんですけど、着こなしには勇気が必要ですよねという話をしてたんです」 「なんで急にオフショルダー……? 朝日、何か話そらしてない?」  ああ……もうダメか、だめなのか。僕が正体を明かさないままに瑞穂様の採寸をしたばかりか、同衾までも済ませてしまったことが知られてしまう。 「……そうね、一緒にオフショルダーの着こなしを練習しようという話をしていたのよ」 「ええっ、瑞穂が!? だだっ、大胆過ぎっ! 瑞穂はそんなに肌出したりしちゃだめっ!」  湊は瑞穂様の肩に手を置き、がくがくと揺さぶる……ここまで本気で心配するなんて、何て友達甲斐のある子だろう。って、他人ごとみたいに感心してちゃいけない。 「そ、そうね……でもアイドル衣装として、オフショルダーの可能性は否定できないから。肩を出したニットは定番でしょう?」  瑞穂様が見事に話を合わせてくれた……ルナ様なら見逃してくれなかっただろうけど、湊なら大丈夫かもしれない。我ながら失礼な思考だ。 「やー、瑞穂がそう言うのなら。肩出し和服って、それだけで大人の魅力があるよね。もちろん、ずり落ちない工夫は必要だけど」 「ステージ衣装としては採用は難しそうね。湊、アドバイスをありがとう」 「そんなそんな、私が瑞穂にアドバイスなんて……でも、ありがとう。参考になったなら嬉しいよ」  二人が和気藹々と話をしている……けれど僕が見ていることに気づくと、二人とも顔を見合わせて笑った。 「瑞穂、たまには部屋でお話ししよっか。朝日も一緒に来る?」 「は、はい……ですが、ルナ様をお待ちしないと」 「ルナはお風呂でユーシェと絶賛討論中だと思うわ。二人とも、火が点いてしまうと場所は関係ないですから」  しばらく話せなくなるということは、今のうちに話したいこともいっぱいあるってことだ。 「ふふっ……心配しなくても大丈夫よ、朝日。ふたりとも、足だけ浸かってお話していますから」 「それとものぼせたご主人様を介抱したいとか、朝日はそういうこと考える人だったり?」 「ま、まあ……それは、非常事態の時は仕方ありませんが……」 「どうせなら瑞穂にのぼせてほしいって? 朝日ってばだいたーん」 「お風呂は好きだけど、そこまで長く浸かることはないわね……火照ってしまったときは水を浴びますし」 「冷水は心臓の遠くから順にかけてくださいね、瑞穂様」 「……もー、普通に屋敷の誰より仲良しでしょ二人。意地でも二人になんかしてあげない」 「ふふっ……私は湊のことも好きよ。朝日はもっと特別っていうだけ」 「はいはい、おのろけはそこまで。友情を重んじるのなら、私の前でいちゃいちゃするの禁止ね」 「っ……い、いちゃいちゃって。私と瑞穂様は、そんなこと……」 「……朝日は私と仲良くするのはいや? 親友になると言ってくれたのに」 「うぐっ……そ、それは……」  瑞穂様の中では、いちゃいちゃっていうのは友達として仲良くすることだ。でも、湊の目が怖い……。 「友達でも適度な距離感が大事だよ。うちの七愛みたいになっちゃったら、時々気まずくなっちゃうし」 「……お嬢様に捨てられたら、もう生きていけない……」 「ひっ……ちょ、ちょー! いつから居たのいつから! あっ、今の違うから! 嫌いとかじゃなくて!」 「ほっ……良かった。七愛はお嬢様に嫌われてないなら、どうにか生きていける」 「はぁ……七愛も来る? 今日は朝日のこと、思う存分牽制していいよ」 「お嬢様の許しが出た。とりあえず小倉さんは布団で簀巻きにして、ベッドに転がしておく」 「……過激ね、七愛さんは。それも朝日に対する、親愛の感情の表れなの?」  絶対違うと思ったけど、七愛さんは微笑むばかりで何も言わない……簀巻きって初体験だけど、どんな感じなのかな。  簀巻きというのは本来は、ムシロで包まれることらしい。湊の布団でするのも何なので、僕は普通にその場にいることを許された。 「瑞穂はとにかく、朝日に対して節度のある距離を保たないとだめだよ。お風呂とか一緒に入るのは禁止ね」 「どうして? 私は裸のお付き合いをしてこそ、女性同士でも友情が深まると思っているわ」 「…………」 「七愛さん、どうしたんですか? そんなところで震えたりして」 「なんでもない。少し想像したらのぼせただけ」 「お風呂はいいからクワガタの話しようぜ!」 「くわが……? いいえ、それよりもお風呂のことです。私は朝日と一緒に入りたいです、夏休みは長いですし」 「うわ、この子頑固だ。朝日、押し切られたぁーとかゆってまた一緒に入ったら、ほんとに簀巻きにするからね」 「その時は私にお任せください。人を縛るのには慣れています」 「……あの、どうやって勉強したのかとか聞いてもいい? あまり気は乗らないけど」 「私の秘密を、お嬢様にお教えするのなら……二人きりの水泳大会の時がいい」 「や、今ここであっさり話してもいいよ?」  湊と七愛さんの鍔迫り合いを見て、瑞穂様はくすくすと笑っている……笑った顔がやっぱり一番きれいだ。 「二人きりの水泳大会……」 「えっ……み、瑞穂様? そこに反応を示すのはちょっと……」 「い、いえ。何も考えていないわよ? そろそろルナたちもお風呂から上がる時間ね」 「そだね、そろそろお開きにしよっか。七愛、また明日ね」 「畏まりました。おやすみなさいませ、お嬢様」 「小倉さん、私は一階の戸締まりを確認してくる。二階はお願い」 「はい。お願いします、七愛さん」  七愛さんは何も言わず、ただ僕と瑞穂様を見やって、小さく頭を下げて歩き去る。 「……あの、朝日。明日からの予定は決まっていますか?」 「ルナ様にはお伺いしていませんが……いかがなさいましたか?」 「前に、皆でプールに行ったでしょう? お盆に帰省する前に、もう一度行っておきたくて」  二人きりでプール……ばれる危険が大きいというか、普通に考えてばれない方がおかしいんだけど。  けれど、それを乗り越えてこその親友だと言う気もする。瑞穂様に寂しい思いはさせたくないし。 「かしこまりました。瑞穂様にお誘いをいただけるなら、予定を繰り合わせてもご一緒します」 「ああ……良かった。駄目かもしれないって、どきどきしていたから」 「ありがとう、朝日。でもそろそろ、敬語を使う必要はないわよ。二人きりの時だけは、親友として話して」 「い、いえ……そういうわけには。北斗さんの手前もありますし……」 「それではまるで、私が二人の仲を妨げているようではないですか?」 「わっ……ほ、北斗さん。お疲れ様です」 「お疲れ様です。瑞穂お嬢様、外出の際はいつでもお申し付けください」 「もう……居るのなら初めから声をかけなさい。心臓に悪いから」 「申し訳ございません、お嬢様……最初はお声がけするつもりは無かったのですが、看過できない話題でしたもので」 「しかし、咎め立てする気はございません。朝日に、私に気兼ねすることはないと言っておきたかったのですよ」 「北斗さん……」 「……ふたりの時は『瑞穂』と呼んで下さいと言っているのに、朝日はいつまでもそうしてくれないんだもの」 「うぅ……わ、分かりました。北斗さんも、皆様には内緒にしてくれますか?」 「告げ口はいたしませんよ。私の主人は瑞穂様です……彼女の意志に反することはしません」  北斗さんは僕の言葉を待ち、瑞穂様が期待に満ちた目でこちらを見ている……。 「み……瑞穂。これからも、よろしくお願いします」 「……嬉しい……三ヶ月もかかってしまうとは、思っていなかったから」  3ヶ月……出会ってからそんなになるのか。僕は感慨を覚えながら、自分で口にした彼女の名前の響きをくすぐったく感じていた。  北斗さんと一緒に戸締まりをして、ルナ様に就寝の挨拶をしたあと、僕は部屋に戻ってきた。  今日は色んなことがあったな……ルナ様と、瑞穂様……いや、瑞穂さんのデザインを両立して制作を進めることになった。  ひとつだけ作るよりも大変だろうけど、やり甲斐はある。僕はモデルとしても、立ち居振る舞いを身につけなきゃいけないわけだけど……。 「なんとかなるよね……」  これまでも、正体を知られずに来られたわけだから……僕はきっと大丈夫だ。  瑞穂様の衣装を着こなせるように、さらに女性らしいたしなみを身につける努力を……しなきゃ……。  いろいろと女性になりきる努力をしてきたけど、さらにハードルが上がってしまった……僕は一体、どこに向かおうとしてるんだろうか。  ……もはや開き直って、完璧な女の子を目指すしかない。瑞穂様の言うアイドル像に、及ばずながら近づけるように。  8月に入ってすぐ、湊は実家に帰省することになった。僕らは屋敷の前に出てきて、みんなで見送りをする。 「柳ヶ瀬湊、行って参ります! お盆過ぎたら帰ってくるね」 「小倉さん。お屋敷の手入れは、帰ってきたらしばらく私がするから」  七愛さんは湊との長旅が楽しみみたいで、すごく機嫌が良かった……朗らかな七愛さんを見てるとほっとする。 「気になさらないでください、仕事は好きですから」 「この屋敷に来た時から、私たちは仲間よ。水臭いことを言わないでちょうだい、マドモアゼル」 「そうです、我々は同じ時を分かちあった部族……トライブです。皆兄弟のようなものですよ」 「……そんな恥ずかしいことばかり言われても。体育会系すぎる」 「まあまあ、いいじゃん友達いっぱいで。七愛ももっと心を開いていいんだよ?」 「私の心の扉の鍵は、湊お嬢様専用」  そう言いつつも、七愛さんはまんざらでも無さそうだった。サーシャさんと北斗さんも笑っている。 「湊の地元の名産品は何ですか? アヅチ・キャッスルの置物でしょうか」 「お嬢様、ビワコオオナマズという怪魚が居るそうです。身の丈2メートル、ナポレオンフィッシュもかくやという……」 「そこまでおっきくないよ、おとなしいから滅多に出てこないし。さすがにそんなのがうじゃうじゃいたら、泳いで竹生島まで渡れないっしょ」  普通泳いで行っちゃいけないと思うんだけど、湊ならという気がしてくる。ワイルドっていいな。 「一瞬巨大魚のいる秘境をイメージしましたけれど、そういうわけでもありませんのね。肩透かしですわ」  行ってみないとわからない良さがあるんだろうな……田舎には一度行きたいけど、なかなか機会がない。 「お茶会に出せるお菓子と、ユーシェには安土城の置物買ってくるね」 「ありがとうございますわ。日本のお城は好きですの」 「ここからそう遠くない場所に、小河原城という美しいお城があるけど。一緒に見に行く?」 「それはいい提案ですわ……と言いたいところですが。ルナはここでデザインに励むのでしょう? 私も負けていられませんわ」 「ショーに出品しないと言っても、勉強すべきことは山ほどありますからね」 「春休みとかにぱーっと行こうよ。そういう飴があったら、私もいっそう頑張れるし」 「何ごとも締め付けて、緩めてが大事ですわね。そう、コルセットのように」 「ユルシュール様は、コルセットを着けてそのスタイルになられたのですか?」 「いいえ? 私は何もしなくても、ウェストが勝手にくびれてきますもの」 「ユーシェ……それは私に対する当てこすり? そんなことは決してないと思うのだけど、念のために聞いておくわね」 「そんなつもりはありませんが……瑞穂、この夏に2センチはウェストを細くした方が良いですわよ」 「お嬢様、言葉が鋭利な銀のナイフに変わっております。そのようなものは鞘にお納めくださいませ」 「ウララララララ!」  猛々しく威嚇するような声を発する北斗さんを、サーシャさんが牽制する。二人の実力はどうやら拮抗しているようだ。 「あっははー……ユーシェと瑞穂を置いて行くの、なんか心配になってきたよ」 「ウェストを2センチ細くすればいいのね……? 分かったわ、その挑戦受けて立ちましょう」 「まあ2センチ細くしたところで、私のサイズにはまだ届きませんけれど。おーっほっほっほっ!」 「朝日は瑞穂のことスタイル良いって言ってたから、今のままでもいいんじゃない?」 「そ、そうだったの……? 朝日、そんな……恥ずかしい……」 「あ……す、すみません。正直な気持ちとはいえ、瑞穂お嬢様の知らないところでそんな話をして……」 「なんですの、この茶番は。湊を送り出そうというのに、主役をさしおいて何をしているんですの?」 「そろそろエクスプレスのお時間です。湊お嬢様、七愛、車にどうぞ」 「うん、ありがと。それじゃみんな、仲良くして待っててね。ユーシェ、ルナや瑞穂と喧嘩しちゃダメだよ」 「心配しなくても、私は元から争いごとを好みませんわ。サーシャ、失礼のないようにね」  サーシャさんは湊と七愛さんを車の後部席にエスコートすると、自分は運転席に座った。  彼女は僕に向けてぱちりとウインクすると、車のスピードを上げて走り去った。  ……こうやって見ると、すごくかっこいいんだけどな。僕も人のことは言えないけど、世の中には色んな人がいるものだ。  見送りに出られなかったルナ様は、机に向かって本を読んでいた。僕が入室しても、顔は上げない。 「……湊たちがいないと、この屋敷も少し静かになるな」 「2週間ばかりのことです。すぐに、また賑やかになります」  僕がそう言うと、ルナ様は顔を上げた。その表情は、いつもと変わらず気丈に見える。 「そうだな。まあ連絡を取ろうと思えばいつでも取れるし。呼びつけてやればすぐに飛んでくるだろう」 「……ルナ様は、どうなさるのですか?」  湊と瑞穂様は、家族の元に戻るために帰省していく……けれどルナ様にとっては、ここが彼女自身の持つ家だ。 「親の顔を見たい……ということはない。顔を出しに来いと言われてはいるが」 「八千代の手前、盆くらいは帰った方がいいんだろうな。だが、帰ったところですることなどない」 「それなら市場に張り付きながら、新しいデザインを考えていた方がよほど楽しい」 「だから、私のことは気にするな。必要な時は呼ぶし、そうでない時は自由にして構わない」 「……私は、ルナ様の傍に控えております」 「……君がそう言うのは自由だが。私は、必要な時だけでいいと言ったからな」  ルナ様は再び読書に戻る。けれど、その目は本の文字を追うことなく、様子を伺うようにこちらを向いた。 「ま、まあ……なんだ、その。気持ちは嬉しいが、休みを与えるのも雇い主の義務だからな」 「ありがとうございます、お嬢様」 「君も暇を見て、適当に休めよ。その時に何をしていようと、私に後ろめたく思う必要はない」 「……昼までは皆で課題にでも手をつけるか。その後は好きにしたまえ」 「かしこまりました、お嬢様」  お昼まで、お嬢様方と一緒に夏休みの課題をこなした。優秀な二人と一緒だと、進みもすごく速い。 「ふぁ……ああ、すまない。昼下がりは眠気がくるな」  昼食のあと、ルナ様は紅茶をカップの半分ほど飲んだところで、眠そうに目をこすり始める。 「私も部屋で休ませてもらいますわ……ふぁ」  口元を隠して欠伸をすると、ユーシェ様はにじんだ涙をハンカチで押さえつつ、自室に戻っていった。 「ルナとユーシェはお昼寝? それなら、朝日を夕方まで連れ出してもいい?」 「待ちかねていたように言うんだな……ああ、連れ出すこと自体はかまわない」 「しかし休みを取っているメイドが多いし、あまり人数が減りすぎるのもな……」 「私が屋敷に残りましょう。この目が黒いうちは、この屋敷は聖域となります」 「うん、じゃあ頼む。瑞穂のことは朝日自身に任せよう。大蔵のメイドだったなら、護身術くらいは身につけているだろう?」 「いいえ、私が朝日を守ってみせるわ。花之宮家の人間は文武両道が信条だから」  僕も子供の頃から、色々と護身術の類は仕込まれている。身に危険が及べば、勝手に身体が動くくらいには。 「それで、どこに行くんだ? それくらいは聞いておこうか」 「朝日と一緒にプールに行こうと思って。ショーの舞台に立つために、いろいろと心構えが必要だから」 「ほう……それはうなずけるが、プールで何の心構えをするんだ」  ルナ様は楽しそうに聞く。横目で僕を見やるあたりが、彼女の小悪魔ぶりを際立たせた。 「アイドルは見られることに慣れないといけないから、まず、女の子同士から慣れていきたいと思って」 「うん、それは必要なことだな。だが、私は朝日に完全に羞恥心を捨ててもらってもつまらないと思う」 「扇情的な水着を恥ずかしげもなく着て、男どもに媚びを売るようなビッチになられても困るからな」 「なななっ、何を言ってるんですかお嬢様っ!」 「恥じらいを捨てるということではないのよ。自分を表現することに慣れて欲しくて……朝日は奥ゆかしいから」  瑞穂様がそれを言うのか……奥ゆかしい大和撫子のイメージが、そのまま具現化したような人なのに。 「そうだな、オドオドしたモデルではぶち壊しだ。最低限の度胸をつけてこい、ビキニまでは許可する。貝殻はやめておけ、笑ってしまうからな」 「……あの、楽しんでませんか? ルナ様」 「楽しいに決まってるだろう、他人ごとだからな。主人の暇を飽かすのもメイドの勤めだ、しっかり励めよ」 「私も恥ずかしいけど、朝日と一緒なら頑張れます。二人三脚でアイドルを目指しましょう」 「……かしこまりました」  がっくぅ、とうなだれつつ僕は瑞穂様の申し出をお受けした。ルナ様も乗り気じゃどうしようもない。 「出来れば写真を撮ってきてくれ。眺めて楽しみたい」 「お嬢様が水着で写真など……止めるべきか、それほどのお友達ができたことを喜ぶべきか……アゥワワワワ!」 「もう……興奮するとすぐ戦いの歌を歌うのはやめなさい」 「申し訳ございません、身体に部族の本能が染み付いてしまっているもので」 「なんだ、男装しているから女体を見ると照れるとかそういう面白いバックボーンはないのか。つまらん」 「照れるなどという感情の問題以前に、主人の肌を見るなど即目潰しの重罪です。暗黒の世界の底を這いずり回ることになりましょう」 「怖いことを言わないで、自分で自分を傷つけたりすることは絶対だめよ。主人としてのお願いです」 「はっ……身に余るお心遣いに、私のアメリカドクトカゲのように小さな心臓が高鳴っております」 「君のような人物がなぜ花之宮に仕えているのか不思議だな……自由過ぎるだろう」 「私の家は代々花之宮に仕えてきた一族です。花之宮に仕える前に、修行の旅に出る者が多いのです」 「我が敬愛すべき従姉などは、スペインで闘牛士をしてから日本に帰ってきたという屈強な女性です」  女性に対して屈強っていうのは、僕には寡聞にして想像がつかないな。筋肉質な人かな……だったらちょっとかっこいい。 「確か、本家にお仕えしている……アルハンブラさんだったかな?」 「非常に近いのですが、ほんのりと間違っています。あえて訂正はいたしませんが」 「およそ日本人の名前をしていないが……コードネームとは、名家のわりに斬新だな。朝日にも何かつけてやろうか」 「アイドルらしい呼び方をするとしたら、『こくあさ』というのはどうかしら」 「ふむ、コクが浅そうなカレーをイメージする良い名前……お、お嬢様。そんな目で見ないでください。発作的に屋敷の屋上から身を投げたくなります」  瑞穂様はいつも通りにこやかなんだけど、北斗さんには微妙な違いが分かるようだ……心底恐縮しきっている。 「あだ名か……こっくりさんとか、あさぱんとかでいいんじゃないのか?」 「さすがルナ、可愛らしい響きを出してくるわね。あさぱんは、私としてはかなりの好印象です」  こっくりさんの方が自信作だったのか、ルナ様はちょっと複雑そうだ。あさぱんだと何だかアナウンサーの人みたいだな。 「だけど……やっぱり朝日は元の名前が一番可愛いわね。名前をつけてくれたご両親に、感謝したいくらい」 「あ、ありがとうございます……」  両親がつけた名前ではないんだけど、瑞穂様に気に入ってもらえたのなら嬉しい。大蔵遊星って名前はどう思われるのかな……なんて考えちゃダメだ。 「ルナはニックネームで呼ばれたことはある?」 「ああ、ネットで知り合った友達が……って、自分で言うのは恥ずいな」 「ルナちょむ、ですよね」 「なっ……こ、こら朝日! 主人を辱めることを進んでするとは、見下げ果てたぞっ!」 「ルナちょむ……凄く可愛らしいわね。その名前をつけた方と、一度お話しさせてもらえないかしら」 「あー、朝日の知り合いでもあるから話すのはいつでも出来るぞ」 「朝日、今度紹介してもらってもいい? 帰省の後で良いですから」 「は、はい……分かりました。瑞穂がそう言うのなら、ぜひりそな様とご一緒に……」  ルナ様が、それを聞き逃すわけもなかった。ぴくりと眉を動かして、僕の方を睨めつけてくる。 「ほう……いつの間に名前呼びをするほど親しくなったんだ?」 「私からお願いしたの、もっと気軽に呼んでくださいって。積年の想いが、つい先日叶ったのよ」 「うちのメイドは隙あらばアプローチされるな……フェロモンでも出てるのか?」 「朝日からは隠し切れない気品が匂い立っています。あなたはやんごとなき身分ながら、あえてメイドを勤めているのだと私は妄想しています」 「そ、そんなことは……私は一介の、大蔵家に仕えていたメイドです」  占いも結構当たってるし、北斗さんの勘は侮れないな……一瞬バレてしまったのかと思うほど、的確な妄想だった。 「まあフェロモンが出てるほうが面白いから、そうしておこう。アイドルには向いてるんじゃないか?」 「瑞穂様はそういう方向のアイドルは、志向なされていないと思いますが……」 「……これからプールで朝日に教えようとしていることは、そういった面も否めないわね。グラビアアイドルという言葉もあるし」 「修行を終えて帰ってきた朝日が、さらに一段階上のフェロモンを放っていたら……私はどうすれば良いのでしょうか」 「その時は恋にでも落ちてやってくれ」 「そうね、アイドルはファンに恋をさせるものだから」 「私は花之宮家の執事です。他家の方にうつつを抜かすことなど……いえ、しかし……」 「本気で悩んでるように見えるのは気のせいか……? 朝日、よその執事をあまり誘惑しないようにな」 「北斗は女性だから心配ないと思うけれど……気持ちは分かるわ。私も朝日を見ていて、どきっとしてしまうことがあるから」 「……瑞穂、朝日への感情は友情か? 別にカミングアウトしてもらってもいいんだぞ」 「な、何を言っているの……ルナだって、同性でも綺麗だと思ったり、見とれたりすることはあるでしょう?」 「無いとは言わないけどな。自意識過剰と思われるだろうが、私より綺麗というのはハードルが高いぞ」 「それはその通りね……で、でも、朝日には朝日の魅力があるのよ」 「自分のことを言った以上は瑞穂の容姿のことも言うが、その胸は正直規格外だな。着物を着るにもつらいだろう」 「お嬢様の体型への侮辱と受け取ってよろしいのですか? ルナ様、あなたはユルシュール様とは一味違うと思っていたのに……」  北斗さんがトマホークの構えを取ろうとしたところで、瑞穂様が手を上げて制した。 「瑞穂のような胸をして、水着姿でアイドルの心得がどうとか言われたら、私ならさぞ不愉快な思いをするぞ」 「っ……あ、朝日。そういうつもりじゃないのよ、スレンダーなアイドルの方が私は憧れるもの」 「い、いえ。私は、瑞穂様のスタイルはとても素敵だと思っていて……あっ」 「お前も巨乳がいいのか……裏切り者。私に隠れて胸を大きくする体操でも、プエラリアでも何でも試していればいいんだ」 「胸ほど度し難いものはありません。私の意志に反してすくすくと膨らんで、困ったものです」 「……主人も主人なら従者も従者だな。私を本気で怒らせたくなかったら、それ以上は言うなよ」 「北斗はサラシで押さえつけているから、型崩れしないか心配で……」 「はっ……私の場合、この方が落ち着きますので」  北斗さんは瑞穂様の男嫌いを治すために男装してるんだよな。でも、瑞穂様はあらかじめ性別を知ってるからあまり意味が無いとも思える。  そのことは北斗さんも分かってると思うけど……今の状況を、どう考えているんだろう。 「さて……名残り惜しいですが、談話の時間はこれまでとしましょう。朝日、お嬢様のことをくれぐれもよろしくお願いします」 「ゆっくり新しい魅力を引き出されて来い。うちはこの誇り高き戦士が警護してくれるからな」 「お任せください。我がブラックホーク格闘術は対空、対地両方において無敵です。アワワワワ!」 「出来れば普通にしていてね」 「かしこまりました」  張り切っていた北斗さんが一気に大人しくなる。それを見てルナ様は、口元を押さえて笑っていた。  前に、皆で行ったプール。瑞穂様は僕らと勉強する前には、そこを二時間貸し切りにする予約を取り付けていた。  二度目の水着……もう慣れたとはいえ、やっぱり人の目に触れるのは恥ずかしい。 「朝日、こっちに来て。基本的なポーズを説明するわね」 「ポーズ……っていうと、やっぱりアイドルの?」 「ええ、写真集などでは定番になっているから、見たことはあると思うわ」  瑞穂様は言って、プールサイドに座る。僕は正直なところ、すでに正面から見られなかった。  というかうちのお屋敷に、水着姿を正面から見て平静で居られる人は一人もいない。中でも瑞穂様は……。 「……少し恥ずかしいけれど、アイドルの基本です。朝日も後で同じようにしてね」  瑞穂様はぺたんと女の子座りをして、僕のほうに微笑みを向けてきた。  あまりにも眩しくて、一瞬思考が止まってしまう。本物のアイドルも顔負けの、水際のヴィーナスがそこにいた。 「こうして上目遣いにするのが定番だけど……どうかな?」 「え、えっと……その……あのっ」  人は感動しすぎると何も言えなくなってしまう。賞賛するにも、言葉が足りないときがあるからだ。 「私も見よう見まねでやっているから……おかしくても、笑わないでね」 「い、いえ。その……私なんかより、瑞穂にはずっとアイドルの素質があると思う。それくらい凄いです」 「ふふっ……ありがとう、敬語を控えてくれて」 「朝日も同じようにしてみてくれる? 二人で可愛く見えるように研究しましょう」  可愛いとかそれ以前に……ボクは、水着を着るためにいろいろと締め付けているわけなんだけど。 「こういう角度はどうかしら……少し恥ずかしいけど、挑戦していかないと……」  髪をかきあげながら、瑞穂様がはにかむ。彼女の目を見ていられなくて、視線が下にずれてしまう。  そこにある、ルナ様が扇情的と表現した膨らみ。首筋から白い丘陵に流れるラインが、ため息がでるほど綺麗だった。 「うっ……く……」  どうやっても変化を抑えることが出来ない……無理やり抑えたところに痛みが走って、前にうずくまりそうになる。 「……朝日も気にしているの?」  胸に視線を感じたのか、瑞穂様が尋ねてくる。僕は反射的につい、と目をそらした。 「そっちじゃなくて、ウェストの方はどうかしら。ユーシェに言われて引き締めを頑張っているんだけど、やっと数ミリ絞れたのよ」 「あっ……は、はい。素敵なラインだと……い、いえ、なんといいますか……」  ここに来た目的を考えると視線をそらすわけにもいかないし、見たら見たで、視線が瑞穂様の女性的な部分に吸い寄せられてしまう。 「出来るだけ可愛いものを選ぼうと思ったんだけど、サイズが少なくて……ちょっと地味かな?」 「そ、そんなことは。すごく似合ってます」 「そう? ありがとう……朝日も可愛いよ、すごく」  親しげに話してくれる瑞穂様を見ているうちに、胸がずきずきと痛み始める。  ……親友になったのに。僕はすでに、最大の裏切りを犯している……本当に良かったのか、これで。  瑞穂様がこんなに無防備な姿を見せてくれてるのは、僕のことを信用しているからだ。  それにしたって……なんて学生離れした体型をしてるんだろう。胸ってこんなに大きくなるものなんだ……。 「あ……朝日? 顔が真っ赤になってきてるみたい……」 「……す、すみません。こういうシチュエーションに慣れてないので……女性同士といえど、照れてしまっています」 「そう? 朝日だってすごく素敵なのに……恥ずかしがらなくてもいいよ?」  微妙に会話がすれ違っている……瑞穂様は、僕が水着姿を恥ずかしがってると思ってるんだ。  実際は人に言えないような痛みに襲われながら、何とか平静を保とうとしてるだけだったりする。ここでバレたら僕は死ぬしかない……。 「暑いのなら、水に一度浸かった方がいいと思うわ。一緒に入りましょう」  瑞穂様が身体を起こして、こちらに手を伸ばそうとする。その瞬間、彼女のビキニに収まった豊かな胸が、ぱちんと弾けるように大きく揺れた。 「きゃぁっ……!」 「(きゃぁぁっ!)」  女の子みたいな悲鳴を出すのが申し訳なくて、なんとか押し殺す。頭が真っ白になったまま、ボクは目を見開いて眼前の光景に釘付けになる。  そんな、胸が大きすぎてビキニが取れるなんて……考えられない。きゅうくつな中に、弾力のあるものが収まっていたらそうなることもあるのか……。 「ご、ごめんなさいっ……まさかこんなに急に取れるなんて。きつく結んだはずだったんだけど……っ」 「いいっ、いいぇぇっ! おおっ、お気になさらずっ……じゃ、じゃなくてっ」 「ど、どうしましょう……朝日、ひもを結んでくれますか? 私はこうやって押さえているから」 「みみっ……みっ、みっ……」  見えてます……なんて言葉に出来ない。もう女物の水着を着てる苦しさなんて、忘却のかなたに飛んでいった。  痛みなんて通り越してしまった……この窮地を乗り越えたら、もう怖いものなんて何もない。いろんな意味で、極限のピンチを迎えている。 「ど、どうしたの? そんなに前かがみになって……お腹が痛いの?」 「すみません、少しだけ待って……うぅ……」  まさに地獄絵図だ……情けない。視界に入った桃色の部位が、頭に刻み込まれて消えてくれない。  耐えるんだ、僕は今小倉朝日なんだ。女の子だから痛くない、存在しないものが痛いわけがない。  僕は女の子、女の子、女の子……女の子! 「瑞穂、ちょっとじっとしていてください。すぐに結び直します」 「お、お願い……と言いたいけど、朝日、顔色が悪いみたい。無理はしないで、もう少し落ち着いてからでいいから」 「いいえ、一刻も早く結び直さないといけません」  自己催眠をかけることに成功した僕は、ひたすら使命感に燃えていた。北斗さんに瑞穂様のことを頼まれた以上、情けないことは言っていられない。  僕は後ろに回って、瑞穂様の水着の紐を手に取ったところで目を閉じた。そして元通りに結び始める。 「蝶結びでいいんですよね……私、得意ですから」 「んっ…もう少し引っ張っても大丈夫。そうでないと、また外れてしまうから」 「は、はい……これくらいで……」  水着の紐を引っ張ると、間接的に弾力が伝わってくる。その時点で僕の理性にヒビが入った。  瑞穂様と一緒にいると、僕は否応なく自分の性別を思い出させられる。女の子らしくなんて、夢のまた夢だ。  緊張のあまりに手の感覚が麻痺する。僕は感覚のない指先をなんとか動かして、蝶結びを成し遂げた。 「ありがとう、朝日。これなら、もう取れたりしないと思うわ」 「ど、どういたしまして……瑞穂は、海に行くときはワンピースの方が良さそうですね」 「そもそも不特定多数の人が居るところでは、恥ずかしくて水着なんて着られないわ。男性がいたりしたらもってのほかだから」  それほど恥じらい深い瑞穂様が、アイドルの心得を指導するために身体を張るなんて……なんてことをさせてしまってるんだ、僕は。  ……正直を言うと、なんて幸せなんだろうとも思ってしまう。女の子の水着姿が嫌いな男なんて、居るわけないじゃないか(開き直り)。 「さあ、朝日も同じようにして。視線を浴びても、表情を強張らせずに……アイドルは、いつも笑顔でないと」 「は、はい……それでは、失礼します。このような形でしょうか」  瑞穂様の前で、同じようにポーズを取ろうとする……しかし女の子座りは、僕の骨格では難易度が高かった。 「まあ……朝日は意外と身体が固いのね。これから毎日、私と一緒に柔軟体操をしましょうか」 「身体は、柔らかい方が色んなポーズを取れるし、良いと思うの。怪我もしにくくなるし」 「すみません、カチカチで……お酢を飲んだりするといいって本当でしょうか」 「お酢は健康には良いけれど、直接身体を柔らかくするということはないわ。日々の積み重ねが必要なのよ」 「では……早速、基本的な柔軟からやってみましょう。朝日、開脚してそこに座って」 「開脚……っ!?」  そんな姿勢を取ったら、さすがに……幾らなんでも、もう限界じゃないかな。あ、泣きたくなってきた。 「大丈夫よ、少しずつ負荷をかけていくから。痛い思いはさせないわ」  涙目の僕を見て、瑞穂様はしっかり勘違いをしていた。痛いといえば痛いけど、それより正体がバレる方が痛い。  無常にも瑞穂様は立ち上がって、僕の後ろに回った。そして促されるままに僕は足を広げて、股割りの姿勢を取る。足は120度くらいしか開いてない。 「み、瑞穂っ……だめ、これ以上は……無理……」 「これは開かなさすぎね……もう少し頑張って開いてみましょうか。ゆっくりいきます」  瑞穂様が後ろから、僕の両方の太ももの内側を持ってゆっくり足を広げる。痛いのは勿論のこと、この姿勢は……。 「っ……あ、当たってる……当たってます、瑞穂、胸っ……」 「ストレッチだから仕方がないわ。もう少しだけ広げて、そこで終わりにしましょう」 「うっ……うぐ……も……もう……」  もう駄目だ……股関節は悲鳴を上げているし、隠しているところも限界だ。沢山の限界が重なると、人は果たしてどうなるのだろう。もはや他人ごとだ。 「あ、朝日……身体が震えてきてるけど、大丈夫? もうちょっとだから、我慢してね……えいっ」 「ひ……ひぎっ……」 「ひぎ?」 「……ひぎぃぃぃぃぃっ!」  柔らかいものが後ろから迫ってきて、背中に押し付けられる。僕は前に押され、股を割られて悶絶する。  ……そんな夢を見ていた。いや、夢じゃないけど。 「朝日、帰ってきてからずっとそうしていますが……どうしたんです?」 「あ……だ、大丈夫です。瑞穂様は、どうされていますか?」  僕は悶絶してからよく覚えてないんだけど、なんとなく瑞穂様に優しくしてもらった気はする。そして、どうにか正体もばれずに済んだ。 「びっくりするほど朝日の身体が固いから、少しずつ柔らかくしてあげたいと……情熱を燃やされておりました」 「そうですか……すみません、お世話をかけてしまって」 「柔軟性は体質によるものもありますしね。瑞穂様は足が垂直に上がるほど柔らかいのですが、特に訓練はされていません」 「すごいな……やっぱり、瑞穂様の方がアイドルに向いていると思います」 「花之宮は旧華族の流れを汲む家柄ですから、お嬢様がアイドルになるというのは、現実的に許されないことです」 「瑞穂様がこちらのデザイナー学院を志望されたのも、アイドルに興味を持つことにご両親が反対されたからなのですよ」 「……そうだったんですか」  僕は瑞穂様のアイドル好きを、趣味の一環として捉えていたけど……そのために家を出るなんて、並々ならぬ覚悟があってのことだ。 「瑞穂様は和装にアイドル衣装の要素を取り入れて、見事に賞を取りました」 「それでもご両親は理解を示されない。花之宮の名前に瑕をつけるようなことはしてくれるなと、瑞穂様に言ったのです」  ルナ様も、家の反発を受けている……ファッションっていうものに対して、保守的な家は理解を示しにくいってことだろう。 「瑞穂様は少しだけ猶予が欲しいとおっしゃいました。最終的に家の指示に従うとしても、それまで時間が欲しいと」 「学院にいるうちに結果を残して、ご両親を説得したいということですか?」 「……そこまでは伺っておりません。私は、一介の従者ですから」 「ご両親の考えを変えることは難しい。伝統とは、一代で容易に変化させて良いものではありません」  長く続いている花之宮の家。瑞穂様は、歴史と伝統をそのまま引き継ぐことを望まれている。  そして彼女は、最後にはその期待に添おうとするんだろう。彼女の夢が、違う方向を向いていたとしても。 「しかし瑞穂様の情熱が、いつかご両親の心を動かすこともあるやもしれない。人生とは流転するものです」 「……北斗さんは、どうなると良いと思っているんですか? 不躾ですが、聞かせてください」 「新しいことをするには風当たりが強くなりますが……瑞穂様なら、それを乗り越えられると信じております」 「私もそう思います。瑞穂は、もう最初の階段を登っていますから」 「そうです。ここからは、皆で一緒に階段を上がっていくのですよ……少なくとも、12月のショーまでは」 「はい。自信がないなんて言ってられないですね、もう」 「その意気です。ショーにはテレビ局も入りますから、一気にあなたの知名度が全国区になる可能性もありますよ」 「と、とにかく……身体を柔らかくしようと思います。物腰ももう少し、お淑やかにしたいですし」 「キャラクター性もアイドルの武器の一つですよ。どうですか? 先住民系アイドルというのは」 「どうでしょう……日本に前例があったでしょうか」 「よろしければ部屋にお邪魔して、一晩中でも我が部族のことをお話しますよ。あなたとなら語り明かせそうだ」 「は、はい……北斗さんにお時間がある時に、ぜひ聞かせてください」 「さっそく一つお教えしましょう、我が部族の別れの挨拶です。ハコネ!」 「箱根? 外国の部族なのに箱根ですか?」 「ふふっ……あなたならそう言ってくれると思っていました。偶然、我が国の箱根と発音が同じなのですよ」  僕のリアクションが満足だったのか、北斗さんはとても嬉しそうにしている。ハコネか……。 「教えてくれてありがとうございます。私はそろそろルナ様のところに戻りますね。えーと……ハコネ!」 「まだ恥じらいがありますが、十分に荒野を吹く風を感じました。その調子ですよ、朝日」  瑞穂様だけでなく、順調に北斗さんとも打ち解けられてるな……この調子だと、ルナ様に怒られてしまいそうだ。  ルナ様は屋敷の窓から庭の方を見ていたそうで、僕と北斗さんが楽しそうに談笑しているように見えたらしかった。 「今日はこれから夕食までデッサンをしようと思う。朝日、脱げ」 「はい?」 「返事はいいから脱げ。今すぐ脱げ。恥ずかしくても脱げ。むしろ恥ずかしがれ」 「そ、そんなっ! 無茶苦茶じゃないですか!」 「私が常識人だといつ言った? 何時何分何秒? 答えられないなら脱げ」 「瑞穂にアイドルとして調教されてきたんだろう。だったら脱ぎっぷりで女優らしさを見せてみろ」 「あ、アイドルと女優は近いようにも見えますけど、一朝一夕じゃどっちも身につきませんっ!」 「減らず口を……私は不機嫌なときに言われる正論が一番嫌いだ。もういい、私がじきじきに脱がせてやる」 「どどっ、どうしてそこまで脱がせたいんですかっ!」 「そこに朝日がいるからに決まっている。りそなだってそう言うはずだ」  ルナ様とりそながどれくらい本性を見せ合っているか分からないけど……確かにりそなも、そういう理不尽なことを言いそうだ。 「私はひとつ気になっていたんだ、お前の胸が私より大きいのかどうか。見た目では実に微妙なところだからな」 「わ、私は、例え小さめでも、ルナ様のスタイルにとても合っていらして、調和が……」 「身分相応だと言いたいのか。今の君が何を言っても、もはや全部墓穴だと思うぞ」 「そんなこと言ってませぇぇんっ!」 「ふぅ……まあいい、わかった。スカートをちょっと持ち上げて、太ももを出したところでデッサンさせろ」 「うぅ……分かりました、それくらいでしたら」 「パンツを見せて何がそれくらいだ、このビッチ。やはり瑞穂に調教されたな?」 「そ、それ以上言ったら泣きますよ! 今日はただでさえ涙腺がゆるいんですから!」 「な、なんだ……変な脅し方をするな。泣きそうになるようなことがあったのか?」  僕は瑞穂様とのプールでの出来事を思い出す。恥ずかしい……穴があったら入ってしまいたい。 「よく分からんが……あまり気に病むな。そのうちいいことがある、って私がなぐさめてどうする」 「何か情緒不安定のようだから、とりあえず部屋で休め。夕食の支度は出来るか?」 「はい……大丈夫です。今日のメニューは、夏バテ防止にピリ辛にしようと思っています」 「落ち込んでいても料理に関しては信頼出来るな。色々言って悪かった、君は優秀なメイドだ」  ルナ様が心配してくれて、僕は何とか立ち直ることが出来そうだった。夕食の時は、なんとか瑞穂様と顔を合わせられそうだ……。 「……ん。あ、あれ……」  気がつくと、僕はベッドに寝転がっていた。そうだ……夕食の片付けをして戻ってきたところで、ちょっと休もうと思ったんだ。  机の上で充電しておいた携帯電話が振動してる。僕は起き上がって、電話を手に取った。 「はい、大蔵です」 「兄は気を抜きすぎ。妹は、正体が既にばれてないか心配になりました」 「あ……だ、だってりそなだったから。りそなの前では、僕は大蔵遊星だよ」 「まあいいです。確認しておきたいことがあって電話しました。兄は、お盆休みはもらえるんですか?」 「ルナ様に聞いてないの? 数日だけそっちに戻れると思うよ」  さっきの夕食の席で、瑞穂様が帰省の話をされたときに、ルナ様がそんなことをおっしゃっていた。 「ルナちょむはちょっと迷っている様子でした。だって兄がいないと、遊ぶ相手がいなくなりますから」 「あはは……遊ぶというか、僕が遊ばれてるというか」 「妹は友情と愛情の間で揺れ動いています。そこで妹、考えました。兄が帰ってくるのは1泊2日でいいです」 「兄に他の女性の匂いがしないかどうかは、1日で確認できますし」 「な、なんにもないよ……僕、真面目にメイドをしてるから」 「兄は何ごとも真面目ですが、諦めも早い。カミングアウトした方が楽だとか考えたことはないですか?」 「あはは……はぁ。今日はちょっとだけ、考えさせられたよ……」 「そんなことだろうと思いました。何があったんですか? 洗いざらい説明して楽になるといいですよ」 「その……僕、えーと、その。笑わないでよ?」 「あはははははは。事前に笑っておきました。もう笑いませんから、さあどうぞ」 「先笑いっていうのかなぁ、それ……まあいいや。僕、アイドルになることになったんだ」 「……は? すみません、さっきの笑いを撤回させてください。そのギャグは笑えません」 「ご、ごめん……いきなりそれだけ言ってもわけがわからないよね」 「はい、桜屋敷での三ヶ月の暮らしが、兄を壊してしまったのかと後悔に震えました。ふるり」 「あはは……りそなは大げさだなあ。僕は正気だから心配しないで」 「正気を失っていたら、兄を慕う妹の愛でなんとかしてあげます。奇跡とかが起きてなんとかなるでしょう」 「兄は本気でアイドルを目指しているんですか? 自分の可愛さに、鏡を見ていて気がついたんですか。ええ、今の兄は可愛いです」 「あはは……僕はそんなに自信ないよ。でも、友達が僕をアイドルにしたいって」 「正確には、12月にある学院のショーに、和風アイドルの衣装で出るかもしれないっていうことなんだ」 「かもしれない……ですか。兄たちがグループを組むと聞いた時は、ルナちょむのデザインになるのかと何となく思っていたんですが」 「ルナちょむは私の友達で、同時に目標でもあります」 「うん……僕も尊敬してる。すごいご主人様だよ」 「あまり褒めすぎると妹は焼き餅を焼きます。それくらいの心の機微はわきまえてください。私ブラコンです」  ブラコンって自分で言うのを躊躇しないのも、考えてみると凄いな……それを受け入れる僕も僕だけど。 「そういえばルナちょむが言っていました。兄はデザインはまだまだですが、パタンナーとしては光るものがあると」 「あ……そんなこと言ってくれていたんだ。何だか照れるなあ」 「妹はデザイナー、兄はパタンナー。そして公私共にパートナーというのも悪くないですね。ふふっ」 「りそなのデザインで服を作るのも面白そうだね。今度一緒に作ろうか」 「……兄は相変わらず鈍いですね。妹は呆れ気味です。でも、服を作る約束はToDoリストに書きこみました」 「学院のショーのモデルですか……兄は当初想定していなかった方向に向かっていますね」 「ルナ様のデザインで出場する場合は、僕は出ないんだけどね。あくまで、瑞穂さんのモデルだから」 「専属モデル……妹、不穏な気配を感じ取りました。兄は瑞穂さんに好意を抱いたりしていませんか」  女の子って、どうしてそういう勘が鋭いんだろう……僕はそういう素振りを見せたつもりは全然ないのに。 「それに聞き流しかけましたが、ルナちょむと争ってるってどういうことですか。主人に噛み付くなんて、兄らしからぬ見上げた度胸ですね」 「グループの中でも競争があった方がいいってことになったんだ。瑞穂さんのデザインも素晴らしかったから」 「……花之宮、瑞穂さん。金持ちの道楽学校かと思いきや、本物が集まるものですね」 「ちなみに、私も負けるつもりはありませんよ。兄たちより下の世代ではトップを取るつもりです」 「うん……そうしたら、兄様も僕らに対する見方を変えてくれるかもしれないね」 「私はそんなことは意識していません。下の兄と一緒に夢を追いかけているだけです」 「今はまだ、私たちより前にあの人がいます。けれど下の兄が本気を出したら、絶対……」  僕は……衣遠兄様に勝つなんてことは考えていなくて、ただデザイナーになりたいと思っていた。  彼という成功者が全てにおいて正しいなら、僕は勝ちたいと思わなければならない。他人より上でありたい、その競争心が無ければ生き残れない。  ……けれど。僕がしたいことは……突き詰めれば、服を作ること。デザイナーになれなくても、その仕事の一部に携わることでも良いと気づいた。 「……兄様に勝ちたいとは、僕は初めから思わなかった。それが答えだったのかもしれない」 「そうだな……けれどもし、勝つっていうことがあるのなら。兄様が僕に協力を求めてくれるくらい、立派なパタンナーになることなのかもしれないな」 「……あの人がそんな頼みをするときには、確かに負けた気分になるでしょうね」 「兄の気持ちは分かりました。私も今から一生懸命勉強します、コンテストへの出品も考えます」 「うん、一緒に頑張ろう。入学してくるまで待ってるから」 「……妹は、時々思います。女子校でなかったら、兄はもう、ミナトンあたりにかっさらわれていたのではないかと」 「か、かっさらうって……そんな言い方、女の子がしちゃダメだよ」 「ですが兄が女装しているからといって、絶対安心とは言えません。兄はいつまでも中身が男ですから」 「……それはそうだね。僕も、実感してるところだよ」 「そんな兄が、女性だらけの屋敷と学院で生活して……やましいことを考えないわけないです」  女の子たちと打ち解けていくほど、男としての苦しみは増す。僕はその都度、自分を戒めるしかない。 「あまり欲求不満になるようなら……いえ。妹、気の迷いを起こしました。今のは忘れてください」 「では、頑張ってください。ぐだぐだな締めで残念ですが、お盆は1泊2日でいいですから」 「うん、ありがとう。それじゃ、また連絡するよ」  りそなが何か言おうとしてたけど……兄としては気づかないふりをしないといけない部類のことだな。  ……欲求不満か。それが数値で測れるものなら、僕は相当ひどいことになっていそうだ。  お風呂に入るのが、さらに遅くなってしまった。この時間じゃ消灯されているかと思ったけど、明かりは点けたままになっている。  僕は急ぎ足でお風呂に向かった。それでもメイドさんらしく、スカートを翻さないように気を配る。  中身が男だから仕方ない、なんて言ってられない。僕は今まで以上に女らしくならないといけないんだから。  どうせなら誰か起こして欲しかったと思うけど、ぜいたくは言っていられない。  この時間だからいいよねという油断が、ずっと頭に乗っているかつらに手をかけさせる。取っちゃっていいか、どうせお風呂に入るんだし。  ――その一瞬の油断が、絶対のミスにつながる。僕の耳はちゃんと音を聞いていたけど、脳が事実を認めたがらない。 「……えっ?」  僕は今脱衣所の扉を開けた。けれど中からも、カラカラと戸を開ける音が聞こえてくる。 「(……だっ……!)」  駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だぁぁぁぁあっっぁぁぁっ! 「……朝日? のようで、朝日……でない……」  終わった……いや、まだだ。僕はこんなところで……けれど、どう考えても終わっている。 「……少し湯に浸かり過ぎたようですね……出直します」  カラカラ、と扉が閉まる。僕の心臓は活火山のように脈打ち、進退きわまって動くこともできない。  今日、女性の裸を目にするのは二回目だ……サラシで抑えていた時には分からなかった北斗さんの胸の膨らみが、時間にして数秒も見えてしまった。  令嬢と侍従の方の両方の裸を見るなんて……しかも北斗さんは下も穿いて……僕はもう死んだ方がいい。  悩んでいるうちに、再びからりと扉が開く。北斗さんはきょとんとした顔のままだった。 「うわっ……だ、ダメですっ、今開けたら私がいるんですよっ!?」  自分でも何を言ってるのか良くわからない。目を閉じればいいのに閉じない僕は最低だ、いやそれはもうわかってる。 「……これはどうしたことでしょう。朝日の髪が短くなって……夢から覚めることもなく……」 「だ、だから前っ! 前隠してください、もしくは私が出ていきますっ!」 「前……?」 「……前……私の裸……それがどうかしたのですか?」 「…………」  もしかして……北斗さんは裸を見せても恥ずかしくない人なのか。  部族の中には、常に上半身くらい裸で過ごす人はいるかもしれない。でも、下までっていうのはさすがにアメリカ大陸にいるかどうか分からない。 「……朝日の髪が短くなって……私は裸で……」 「……だ、だから……ダメなんです。北斗さん、見られたりしたら……」 「肌を見せることは、主人に対しても無礼……結婚する相手にだけ……」  ……あれ。北斗さん……もしかして動揺しすぎて、自失に陥ってしまってるんじゃ……。 「あ、あの……」 「……っ!」 「……トマホーク……狩猟用のスピア……武器、武器が必要です」 「ほ……誇りを守らなければ……朝日……お嬢様の親友……」 「ほ、北斗さん、落ち着いてくださいっ!」  北斗さんの目はもはや焦点が合っていなくて、顔も赤らんでいくばかりだ。人がこんなに赤くなったのを初めて見た。 「嫁入り前の身体を……見られた以上は、刺し違えてでも……髪の短い朝日っ……」 「ご、ごめんなさいごめんなさいっ……本当にごめんなさい!」 「謝って住むのなら……ぞ、族長は要りません……っ、く……」 「……かみの……みじかいっ、あさひ……きゅぅ」 「北斗さんっ、北斗さん! しっかりしてくださいっ!」 「……命に変えても……純潔……」  ……僕のこと、気がついちゃったんだ。せめてもう少し、ウィッグを取るのが遅かったら……。  絶望的な状況かもしれない。でも今は、北斗さんのことの方が先決だ……服を着せてあげないと。  僕は気絶してしまった北斗さんの身体を拭いて、服を着せて……他に行くところがないので、自分の部屋に運んできた。 「すぅ……すぅ……」  うちわを出してきて扇ぎ続けていると、だんだんと北斗さんの顔の赤みが引いてきた。  これだけ落ち着いてきたら大丈夫かな……でも、僕の正体がバレてしまってる。  北斗さんに言われたら、僕は……正体を明かすしかない。浮かれすぎていたんだ、と反省してももう遅い。 「ん……んん……」  ベッドの上で身体を起こすと、北斗さんはしばらくぼうっとしてからこちらを見やった。 「北斗さん、良かった……気分はどうですか?」 「……朝日? 私は一体……」 「朝日が来るまでお湯に浸かろうと決めて、1時間を超えたところまでは覚えていますが……」  1時間も……なんて忍耐力だろう。けれど倒れてしまったのは、のぼせたのも原因の一つだったようだ。 「朝日の部屋から返事が無かったところで、諦めるべきでしたね。瑞穂様にならって、裸の付き合いで親睦を深めたかったのですが」 「すみません、なかなか起きてこられなくて」 「いえ……私が勝手に遊び心を起こして待っていただけですから。気に病むことはありません」 「……あの、さっきのことは……謝っても、謝りきれないことをしたと思っています」  僕は深く頭を下げる。今は、ただこうするしか方法がない。 「い、いえ……気に病むことはありませんよ。私の方こそ、お礼を言うべき立場です」 「のぼせてしまった私を助けてくださるなど……あなたの細腕に宿る力は、戦士にも匹敵しますね」  北斗さんは笑顔でお礼を言ってくれる。その表情と言葉には、一片の陰りも感じさせない。  もしかして……そんな都合のいいことがあるのか。りそなが言ってた通り、奇跡は起こりうるものなのか。 「……私のこと、怒っていませんか?」 「感謝こそすれ、怒るなどあるわけがありません。私はそんなに理不尽に見えますか」  これは……そんなことがあるのか。もう、このお屋敷から出ていくところまで想像してたのに……。 「良かった……本当に」  僕はへなへなと膝から崩れ落ちる。張り詰めていた糸がぷっつり切れて、安堵感が全身に広がった。 「……しかし、何でしょう。呪文のように頭に残っているんです……『神の短い朝日』という言葉が」 「神が短い間だけ朝日をもたらす……意味深ですね。私も預言を授かることが出来たのでしょうか」 「……北斗さん、本当に覚えてないんですか?」 「その言葉以外には……そうですね、戦士としての誇り……トマホーク。槍。羽飾り……うっ、頭が痛い」 「お、思い出さないほうが良いです。忘れた方がいいこともありますから」 「……のぼせたところを助けてもらったということは……朝日に見苦しいものを見せてしまったということですね」 「どうか忘れていただけますか。もしくは、朝日の胸一つに納めておいてください」 「は、はい……分かりました。誰にも言いません」  もし思い出していたら、ここで僕は北斗さんに……それは怖いから考えないでおこう。 「……朝日、まだ起きていますか? 北斗も部屋にいないようなのですが」 「はっ……お嬢様、少々お待ち下さい。今扉を開けます」  北斗さんは声を張って返事をして、瑞穂様を部屋に迎え入れる。その姿を見て、北斗さんは何も言わずに笑った。 「北斗……こんな夜分にどうしたの? もしかして、あなたも朝日と……?」 「申し訳ありません、どうしても外せない用事がありまして。私はこれにて失礼致します」 「あっ……待って北斗、まだ話は……」  瑞穂様が呼び止めるけれど、北斗さんは部屋を出ていってしまう。残された瑞穂様は、後ろ手に持っていた枕を僕に見せてくれた。 「ごめんなさい、取り込み中だった?」 「大丈夫ですよ、北斗さんとの話は終わるところだったので」 「良かった。朝日が迷惑でなければだけど……また一緒に寝てもいい?」 「は、はい……そのために、こんなに遅くまで起きていてくれたんですか?」 「それだけの価値があります。朝日の隣で寝ると、すごく落ち着くので」 「……ひとりで寝られない、っていうことじゃないのよ?」  そう言う瑞穂様を、僕は少なからず可愛いと感じていたけど……努めて表に出さないように心がけた。  色んなことのありすぎる一日だったけど、無事に乗り切れた……今の心境なら、一緒に寝ても落ち着いていられるだろう。  瑞穂様が僕の布団に入ってきて、嬉しそうにしている。整った顔がすぐ近くに来ると、どうしても胸が早まってしまう……。 「……心配していたの。プールの後、朝日の元気がなかったから」 「でも、嫌われていなくて良かった……私たち、まだ親友になったばかりだものね」 「はい。私が瑞穂を嫌うなんて、あるわけないです。私の事情で、心配をかけてしまいましたね」 「……朝日にそうやって呼んでもらうたびに、自分の名前が好きになる。不思議ね」  けれど僕は、まだ心のなかでは『瑞穂様』と呼んでいる……他の人たちがいるとき、呼び捨てにしてしまわないように。  ルナ様もユルシュール様も、身分の意識は強い。僕が瑞穂様を瑞穂と呼べば、親友という関係でも咎めるだろう。 「私ね、みんなより帰省が遅いことを嬉しいと思っていたの。朝日と一緒にいられる時間が増えるから」 「そんなふうに言ったら、みんなに悪いから……内緒にしておいてね」 「はい。でも、みんながいなくて退屈ではないですか?」 「皆が居る時は皆と居る時の私。朝日といるときは、また違う私だから……そういうものでしょう?」 「あなたと居る時間は、私にとって特別なのよ。ルナやユーシェ、湊と一緒にいる時も楽しいけれど」  僕もまた、いけないことをしているという罪悪感よりも……彼女の笑顔を見て感じる嬉しさが勝っている。 「私も瑞穂と居ると楽しいです。今日のプールも、今こうしている間も」 「……少し恥ずかしかったけど、いい思い出になったね。今度は私が、朝日を助ける番が来ないかな」  もし水着が取れたら、その時点で本当のゲームオーバーだ……だから、僕は紐で結ぶ水着は着られない。 「初めにお会いした時、瑞穂は私を助けてくれた。今でも昨日のことのように覚えています」 「……朝日は私のこと、変な人だと思った? 急に友達になろうなんて言って」 「そんなことないですよ。少し驚きましたけど……」 「私、友達はそんなに多くないですから……嬉しかったです。必要としてもらえるって、素敵なことですね」 「……本当に最初からそう思っていたの? あんなにびっくりしていたのに」 「そ、それは……ええと。段々そう思うようになってきて……」 「勇気を出して言って良かった。気持ちは、言わないと伝わらないから」 「……私もそれくらい勇気があれば、と思うことはあります」 「朝日も何か、言いたくても言えないことがあったりするの?」 「それは……言えないことですので、言えません」 「そんな意地悪を言って……私だけに教えて、秘密は絶対に守るから」 「い、いえ……それだけはダメです。申し訳ありません」 「そこまで言うのなら、今のところは引き下がってあげる。でも、いつか必ず教えてね」 「……そ、それはどうでしょう」 「そんなに凄い秘密なの……? でも、そうね。人には、触れてほしくない部分もあるもの……」 「朝日が話したいと思えるくらい、立派な人になりたいな……」 「いえ……私が未熟だからいけないんです。ですから……」  話せる時まで待っていて欲しい……なんて言えない。迷う内に、瑞穂様は目を閉じていた。 「……おやすみなさい……朝日」  少し前から眠気を我慢していたのか、その目が開くことはない。美しい寝顔を見せて、瑞穂様は寝息を立て始める。 「……すぅ……すぅ……」 「おやすみなさい、瑞穂」  ずっと見続けていたいという気持ちを押さえて、僕は上を向いて目を閉じる。  僕の秘密を知りたい……その彼女の想いに答えれば、きっと傷つけることになる。  ここからは、もう距離を縮めることは出来ないけれど。僕は今のまま、瑞穂様の傍に居られればいい……そう、密かに誓った。  お盆の帰省から一日で戻ってくると、お屋敷は一層静かになっていた。  常勤のメイドさんたちはほとんど休みを取っていて、八千代さんと数名しか残っていない。  ルナ様も部屋で作業に集中することが多く、僕は一日の多くを自分の時間に当てることが出来た。  ラフを描くためのスケッチブックに、思いついた形を書き起こしていく……うーん、楽しいなぁ。 「小倉さん、夏休みの課題の進み具合はどうですか?」 「はい、ほとんど終わってます。今は趣味で作る服のデザインを考えてるところです」  八千代さんは僕のスケッチブックを手に取ると、一ページずつじっくりと見てくれた。 「ジャンのデザインの影響を強く受けていますね、小倉さんは」  ジャン……僕の尊敬するデザイナー、ジャン・ピエール・スタンレー。彼の学院に通っているのに、久しぶりに名前を耳にしたな。 「やっぱり分かってしまいますか。彼のデザインに憧れて、勉強を始めたようなものなので……」 「他のトップブランドの新作にも目を通しているようですね。勉強ぶりが伝わります」 「何ごとも、真似からスタートするのが良いかなと思っているんです。私には、才能がありませんから」 「一から絵を描くよりは、アレンジすることで構造と意図を理解して、自分のものにする方が勉強になります」 「私と瑞穂様は、どちらかというとアレンジが得意なタイプですね。ルナ様とユルシュール様は、一から作るほうが向いています」  先生としての目線で、生徒のタイプごとに教え方を変えてるのかな……すごい観察眼だ。 「湊様はまだ勉強を始めたばかりにしては、飲み込みが早いですね。それでも進度が厳しいとは思いますが」 「そうですね……でも、彼女は頑張っていると思います。こんな言い方をするのは失礼にあたりますが」  八千代さんは何も言わず、ただ微笑んでくれる。彼女が僕と同じ気持ちで居てくれるなら、湊は勉強において置いていかれたりはしないだろう。 「さて……スケッチの評価をしても良いですが、どうします? 私は厳しいですよ」 「うぅ……お手柔らかにお願いします」 「小倉さんはお仕事を頑張ってくれていますから、一割ほど優しくしましょう。それでは一枚目……」  僕は八千代さんに、細部に渡ってデザインをチェックされた。趣味の服なのに、クオリティがやたらと上がっていく。  りそなと作る服のデザインを考えてたんだけど。見せてみたら何て言うかな……後で画像を送ってみよう。  そんなこんなで毎日楽しく過ごしているうちに、お嬢様方が帰ってくる日になった。湊、ユルシュール様がまず到着して、お土産話を聞かせてくれる。 「はー、移動だけでかなり疲れた。近畿地方ってなんだかんだ言って遠いよね」 「電車が大変なら、ジェット機を使えばいいじゃありませんの」 「お嬢様と長い時間ご一緒できたから、電車でいい。高速バスならもっと良かった」 「移動は楽しかったけど、実家はやっぱり肩がこるよね。朝日はどうだった?」 「私は少しだけ実家に戻らせていただきました」 「朝日はすぐに帰ってきて、数日前から八千代に個人授業を受けてたぞ」 「個人……ねえ朝日、私の目をじっと見てみ?」 「え……ど、どうして?」  湊に言われて、彼女と正面から向き合う。相変わらず、きれいな目をしてるな……。 「……よろしい、やましいことはなさそうね。瑞穂とも仲良いんだから、これ以上八方美人しないように」 「お嬢様と私の目の前で見つめ合うなんて……憎い。今の私は間違いなく、般若の形相……」 「女性同士で見つめ合う……それもまた、美しいものですね。今僕の中に生まれた感情を、『萌ゆる』と言うのでしょうか」 「百合百合しいといえばそうだな。なあ、ユリシュール」 「思いついたから言ってみただけ、というのはやめてくださいまし。というか百合とは何なのです、花のことではないのですか?」 「七愛は語らない。決して他人ごとではないから」 「ユーシェのおみやげのチョコレート美味し。ああ、でも太っちゃいそう……でももう一個だけ」  湊はあからさまに聞こえてないフリをしてる。七愛さんはしおらしい表情で残念がっていた。 「百合というのは、薔薇の対義語らしいぞ。今スマホで調べてみた」 「薔薇は美しい僕に最も似合う花……いえ、深い意味はないのですが」 「サーシャも意味が分かっているんですのね。私だけ知らないというのは不愉快ですわ」 「朝日、教えてくださいませ。百合とは何の暗喩ですの? 暗喩って言葉を最近覚えたので使ってみましたわ」 「え、ええと……その、女性同士の恋愛関係のことです。男性同士は薔薇って言うみたいですね」 「なんだ、瑞穂と朝日のことでしたのね。それならそうと早く……」 「ゆ、ユーシェ。そういうこと思っても、あんまりはっきり言っちゃダメ。皆が本気にしたらどうするの」 「瑞穂の名誉にかけて言っておくが、彼女は筋金入りの男嫌いだぞ」 「ルナ様、それは全然フォローになってません……」 「男嫌いだから女性を好きになるわけじゃない。たまたま好きになった人が女性だっただけ」 「ウィ。いつの時代も愛こそが誠、全てを投げ打ってでも得る価値があるものです」 「前に瑞穂と朝日は一緒に寝てたからな。私の胸ひとつに抱えておくには大きすぎる問題で、どうしたものかと思っていたんだ」  このタイミングでばらすなんて……そしてルナ様はもう気づいてたんだ。それでも言わずにいたのは、彼女なりの優しさだろうか。 「朝日、私の部屋に来てくれる? ちょうど、試したい技があるんだよね」 「えっ……ちょ、ちょっと待ってください湊様。これには重大な理由があって……」 「理由とかどーでもいいから。とにかくもうね、朝日をしばらく私の部屋から出さない」 「そ、そんなっ……な、七愛さんっ」  七愛さんは僕と湊を二人きりにしたがらない……と期待する。けれど七愛さんの表情は静かだった。 「お嬢様……頑張って。七愛はここで、いつまでも帰りを待っています」 「うん、ありがとう。行くよ朝日」 「……や、優しくしてください」 「何言ってるの、私はいつでも優しいよ? 女の子には」  つまり男の僕には全く優しくないわけで。お仕置き、手加減してくれるといいなあ……。 「ああそうだ、言うのを忘れてた。今日の夕食、なんだっけ。あのピリ辛な奴で頼む。ハマったから」 「辛すぎるのはやめてくださいまし。私の舌はルナと違って繊細ですのよ」 「ユルシュール様は、トリュフの匂いを遠くから嗅ぎ分けるほどに美食家でございますから」 「……あんまりなことを思いついたが、さすがの私でも言わないぞ。トリュフ豚か、などと」 「むぎぃぃぃーーっ! というかサーシャ、それは美食家とはちょっと違うのではありませんことっ!?」 「大変失礼いたしました。ユルシュール様は松茸とエリンギの違いを見分けられるほどの……」 「食感がわずかに似てなくはないですけど、全然違うような……」 「キノコ以外のことを言わないと、いつか日本に置き去りにしますわよ」 「フォアグラとアンコウのキモ、キャビアと数の子を見分けられるほどの……というのはいかがでしょう」 「ええ、まあいいですわ。要は、私の舌がデリケートだと言いたかったんですの」  満足そうなユルシュール様を見たルナ様は、後ろを向いて肩を揺らしていた。サーシャさんも狙ってやっているんだろうか……実は天然かもしれないな。 「どれも食べたけど、高いだけでそんなに美味しくないよね。朝日の料理の方がずっと美味しいよ」 「こ、光栄です……ところで湊様……」 「あ、それとこれとは話は別だから。朝日は私の部屋に来るの決定で」 「湊は朝日に対してときどき過激だな……私のメイドを使い物にならなくしてくれるなよ」 「……私もお嬢様に、一方的に技をかけられ続けたい。小倉朝日……妬ましい」  ハンカチを噛んで悔しがる七愛さんに見送られ、僕は湊に手を引かれて部屋に連行されていった。  けれど湊は僕に技をかけたりはしなかった。どうやら僕とマンツーマンで一言言っておきたかったみたいだ。 「あのね、瑞穂はゆうちょが男だってこと知らないんだから。それをいいことに一緒に寝るとか……」 「……エッチなことしてない? 女の子同士だからいいじゃないぐへへ、とか」 「し、してないよ。してないしてない」 「私たちがいない間、他には何もなかった? 例えば……で、デートしたりとか」  ……二人でプールに行ったのは、デートなのかな。定義はともかく、今の湊には決して――、 「女の子同士だからデートじゃないとか、そういう言い訳いいから。さあ言いなさい」 「……一緒にプールに行ったんだ。アイドルとして、人に見られることに慣れようってことで」 「まずは二人きりから慣れていって、ショーの舞台に立てるように……」 「まさか……瑞穂のあの水着で? ゆうちょと二人っきりで?」 「……ぼ、僕急用を思い出したから。ごめんね湊っ!」  なんて、簡単に逃げられたら苦労しない。湊に腕をつかまれ、僕は無言でベッドに座らされた。 「……私もね、八つ当たりだって分かってるけど。好きな人が他の女の子と一緒にいたら、どうやったって割り切れないよ」 「一緒に寝てるなんて、私とりそなくらいの特権だと思ったのに……追いつかれちゃったし」 「……ごめん、湊」 「ごめんってゆーな。言われたら傷つくと思ってたけど、やっぱり傷ついた。弱いなー私」 「第一、瑞穂はゆうちょのこと女の子だと思ってるのに……それで焼き餅焼いてるなんて。勝手だよね」  湊は僕の隣に座り、そのまま俯いてしまう。けれど、その状態は長くは続かなかった。 「……こっちこそごめんね、勝手に怒って。うん、別の話しよ」 「湊……」 「うちの地元ってね、すっごい田舎なんだよ。ほら、写真撮ってきたから見せたげる。田んぼとか田んぼとか」  湊が見せてくれた携帯の画面には、田舎の美しい情景が写し出されていた。 「綺麗だね。こっちとは比べ物にならないくらい、自然が……この川なんて、水遊びできそうだ」 「……それを、ほんとはあっちで聞きたかったんだけどね」 「え……湊、何て言ったの?」 「え、なんにも言ってないよ。これから夏休みの課題やらないと、って言っただけだよ」 「瑞穂が帰ってきたら、みんなまとめて協力してもらっちゃおうかな。一人でやれるとこまでやったけど、結構しんどいから」  小さく舌を出して笑う湊。その笑顔に心を掴まれそうになって……けれど。決定的なところから、動いてゆかない。  写真を一枚ずつ切り替えて解説してくれる湊の横顔を見ながら、僕はひとつのことを思う。  もう一度、ここに来るときまで時間を巻き戻したのなら……僕は、彼女のことを好きになっていたのかもしれないと。  湊たちが帰ってきてから一週間が過ぎても、瑞穂様は戻らなかった。  一日一日がとても長く感じる。彼女のことばかり考えている自分に気づいては、何とか頭を切り替えようとする。  話すことが出来る距離に、話したい相手がいる。それが当たり前だった日々が、どれほど幸せだったか……。  なんて、感傷に浸っていても仕方ない。僕は無心になって、庭の花に水を遣っていた。 「ふぅ……」  ひと通り水をやり終えて、僕はハンカチで汗を拭った。そろそろお昼の支度を始めようかな。 「……あれ?」  突然、視界が真っ暗になる。僕は冷静に事態を把握しようとする……誰かが、目を塞いでる。 「……誰か分かりますか? 当ててみてください」  ひんやりとした、女性の手。そして、鈴の音のように耳にやさしい、涼やかな声。 「瑞穂……?」  この目で確かめる前に、親友としてその名前を呼ぶ。それくらい確信を持つことが出来ていた。 「ふふっ……元気だった?」 「ええ、おかげさまで。今着いたところですか?」 「はい……なかなか東京に帰してもらえなくて困りました。お母さまに協力してもらって、秘密で戻ってきたんです」 「学業の準備をしなければならないといっても、旦那様にとっては……家に帰るとお嬢様がいる毎日は、何にも代えがたいということです」  そういうことか……お嬢様方のご両親は、みんな少なからず娘のことを案じているだろうから。 「それにね、今日はもうひとつ、どうしても帰りたい理由があったんです」 「理由……?」 「今夜、大きな花火大会があるのよ。お屋敷からでも見えるっていうから、楽しみにしていたの」 「夏休みの最後の思い出作りです。朝日、お嬢様方のご予定は大丈夫ですか?」 「はい、皆さん今日はお部屋にいらっしゃいます」 「ありがとう。みんなにも話してくるわね。朝日もお仕事が落ち着いたのなら、一緒に行きましょう」 「良いのですか、お嬢様。もう少し、朝日と二人で再会を喜ばれては……」 「…………」  瑞穂様が僕の方を見て、恥ずかしそうにしてる……こっちまで顔が熱くなってきた。 「私は先にお屋敷に戻って、八千代さんに挨拶をして参ります。それでは」  北斗さんは一礼してお屋敷の方に歩いていく。残された僕らは、しばらく言葉を発することが出来なかった。  ……お互いの姿を見た時、どれほど嬉しかったのか。僕も瑞穂様も、それを表に出さずにいたけれど……。 「……目隠しでも、十分にはしゃいでしまっていると思っていたんだけど。まだ足りなかったみたい」 「……はい。思うようにしてください、瑞穂」  瑞穂様が歩み寄ってくる。そして途中からは飛びつくようにして、僕を抱きしめてくれた。 「朝日……ただいま」 「おかえりなさい」 「……あなたがいないと、こんなに寂しくなるなんて思ってなかった」  そう言う瑞穂様の目が潤んでいる。僕も感激しきっていて、気持ちが溢れそうになる。  ……僕らはお互いに、そこまでの絆を感じている。それを確かめられて、心はこれ以上なく満たされていた。 「ずっと朝日のことを考えていたら、居ても立ってもいられなくなってしまって……それで、戻ってきたんです」 「……嬉しいです。でも、私のために無理はしないでください」 「無理なんて……これはただの、私の我がままだから。あなたにこれからお願いすることを考えたら……」 「えっ……お願い?」  瑞穂様は少し僕から離れて、何かいたずらっぽく微笑んでいる……この展開は……。 「前から思っていたのだけど……朝日はお化粧は、あまり好きじゃないの?」 「い、いえ……その、ナチュラルメイクというか、そういう感じが好きなので……」 「それも可愛いと思うけど、チークを適度に塗ったり、グロスを塗ったり……どういったメイクが合うのかは、分かっておいた方がいいと思うよ?」 「……瑞穂は私にメイクをしたいんですね?」 「……た、試してみたいというわけではなくて。必要なことだから……」  図星を突いてしまって、瑞穂様はひどく動揺している……メイクしたい、と素直に言いづらいようだ。 「……朝日は、私にメイクされるのはいや? 他の人がいいの?」 「い、いえ。少し恥ずかしいというか、自分には似合わないと思っていて……」 「そんなことはありません!」 「み、瑞穂様……すごく近いです……」  鼻先が触れ合ってしまう距離に瑞穂様の顔がある。澄んだ瞳に、動揺した僕の顔が映っていた。 「メイクで印象は随分変わってきます。あなたの分かっていない魅力を、私が引き出してあげる」  火傷しそうなほどその視線が熱い……情熱って、体感できる温度があるんだなあ。 「向こうに居る間、空いている時間で考えていたんです。どんなメイクをしようかって……ああ、居ても立っても居られなくなってきました」 「そういう意味だったんですね……どれだけ私にメイクがしたいんですか」  いけないと思いつつも素で突っ込んでしまう。瑞穂様は顔を赤らめつつも、僕の言葉を否定しなかった。 「だって考え始めると止まらなくて……お化粧をしてる間は、朝日のスタイリストになれるんだもの」  恍惚として言う瑞穂様……僕の最初のファンになりたい、って言うのは心底本気みたいだ。 「わ、分かりました。瑞穂がそこまで言うなら、お願いします」 「……少し嫌がっている感じがするけれど、本当にいいの?」 「あはは……実を言うと本格的なメイクは初体験なので、緊張してるんです」  女装するための下地作りはしたけど、さらに発展したものはりそなに教えてもらってないからな……。  女性らしくなるには、メイクは必要な技術だ。瑞穂様に教えてもらって、きちんと身につけておこう。 「朝日、出来れば髪型もセットしたいのだけど……大丈夫?」 「そ、それはダメです。私、髪型はおばあさまに変えるなと言われているので」 「お祖母様から言われたことを守っているのね、朝日は……ああ、ますます奥ゆかしい」  こんなときだけお祖母様をだしにするのも卑怯かな……と思ったけれど、分かってくれてよかった。  でもウィッグつけたまま髪を上げたりしたらバレそうだな……自分で試してチェックしておかないと。  久しぶりに全員でお昼の食卓を囲んだあと、僕は自分の部屋に戻ってきた。りそなに電話をするためだ。 「もしもし、妹です。私も丁度電話しようと思っていたところです。運命を感じました」 「そうなんだ、ちょうど良かった。ところで相談があるんだけど……」 「とりあえず運命を感じた件についてレスをください。そうでないと、なぜなにりそなちゃんは起動しません。強制終了します」 「あっ、ちょっ……え、えーと。僕も運命的だなって思ったよ」 「多少言わされた感が否めませんが、まあいいでしょう。相談ってなんですか。女装のことですか」 「さすがりそな、どうして僕の考えてることが分かるの? すごいね」 「四六時中、兄のことばかり考えていますから。って言わせないでください」 「心配してくれてありがとう。それで、このウィッグなんだけど……」  僕は事情を説明した。要は、メイクしてもばれにくいウィッグに強化したいっていうことだ。 「少しずつ女性として仕上げていこうと思っていたら、普通にうまくいったので楽で良かったのですが。まだ飽き足りませんか?」 「飽きたらないというか……今の僕は、完璧な女の子にならないといけないからね。メイクも覚えるつもりなんだ」 「背徳的な香りがしてきたので、妹は少し躊躇していますが……分かりました」 「今より良い素材のウィッグを送ります。こんなこともあろうかと、幾つか目星をつけておきましたから」 「ありがとう、りそな。持つべきものは妹だよ」 「それで、メイクなんですが。もしかして女の子に手取り足取り教えてもらうとか、そういうお約束の展開ですか」 「……前に言ってた、ショーの準備のためなんだ」 「はぁ……徐々に女子化が進んでいきますね。そんなに女子力を鍛えてどうするんですか」 「目的と手段を履き違えては駄目ですよ。兄が女性になったら、私は男性にならないといけません」 「だ、駄目だよ? りそなはそのままが一番いいよ」 「……兄は妹を篭絡するのが上手いですね。いいでしょう、許しました」 「私も勉強で忙しいので、しばらくお助けりそなちゃんは使えませんよ」  さっきはなぜなにりそなちゃんって言ってたけど、気分で変わるのかな。それとも何かのネタかな……聞いたことのあるフレーズだし。 「うん、ありがとう。またウィッグが届いたらメールするよ」 「出来ればそれなりに手の込んだメールにしてください。それでは」  困ったときのりそな頼みになってるな……そろそろ自立しなきゃいけないと思うけど、自分の妹ながら凄く頼り甲斐があるからな。  でもこれで、メイクの時に髪を触られても大丈夫だろう。瑞穂様に残念な思いをさせずに済みそうだ。  夕食の後で、僕らは庭先で花火見物をすることにした。天気がいいから、ここからでも小さく見えるらしい。 「わざわざ皆で揃って見る必要も無いと思うがな」 「せっかくですから。屋敷から花火が見えるなんて素敵じゃないですか」 「雅なお家ね。四季の風情を、居ながらにして味わうことが出来るなんて」 「……まあ、私が欲しいと思った屋敷だからな」  言葉数は少ないけれど、ルナ様は少し嬉しそうに見えた。屋敷への思い入れを感じて、僕も温かい気持ちになる。 「しかし花火なんていう、日本中で飽きもせず垂れ流しているものを見て喜ぶ神経は、私には無い」 「あ、あはは……確かにいっぱいやってはいますけど……」 「えー、そう? 私なんて何度見ても飽きないけどなあ。実家から浴衣持ってくればよかった」 「浴衣? あんまり肌を出し過ぎるのは感心しませんわね。日本人は大胆すぎますわ、帯一つに全てを委ねるだなんて」 「浴衣にかぎらず、和服を着る時は下着をつけてはいけないと覚えておけよ。郷に入りては郷に従えだ」  昔はそういうこともあったけど、今は普通につけるっていうけど……瑞穂様はどうしてるんだろう。いや、普通に着けてるだろうな。 「ということは……瑞穂はいつも着物を着る時……な、なんてギリギリなんですの」 「着物の帯は、しっかり結べば簡単に取れたりしないわよ?」  ……あれ。今の口ぶりだと、まるで下着をつけてないと言わんばかりのような……。 「瑞穂は着付けが大変そうだね。帯で段差がつかないように、布を入れたりするんでしょ」 「はい。押さえつけなければいけないから、少し苦しいけれど……慣れれば平気よ」 「……そういう衣服なら、確かに私のような体型より、瑞穂の方が似合うのでしょうね」  ユルシュール様は今のやりとりに思うところがあったのか、瑞穂様をじっと見やった。 「ユーシェの場合は、私よりもっといっぱい布を入れないといけないわね」 「ええ。衣服によっては、むやみにメリハリがあっても良くないですわね。失言を謝罪します」 「いいえ、気にしないで。ユーシェみたいなスタイルは、洋服がすごく似合うから、それが羨ましいわ」  二人が和やかに話している横で、ルナ様は自分の胸を見下ろして小さくため息をついていた。 「……朝日、胸が大きいと気が大きくなるのか?」 「ど、どうなんでしょう……」 「ルナは着物着たりする? 行事のときとか」 「まあ、必要なときはな。予想通りによく似合うぞ、私は胸が無いからな」  ルナ様はやけになったように言い放ち、ティーカップを持ち上げて紅茶を口に運ぶ。謙遜しているけど、しっかりあると思うんだけど。 「あ、そろそろ時間だ。みんなー、西の空にちゅーもーく!」  湊に言われて、揃って西の方を見る。すると……。  濃紺の夜空に、色鮮やかな光が瞬く。それは過ぎ去る季節を彩る、夏の華。  音が遅れて届いてくる。合計で一万二千発という花火が、絶え間なく打ち上がり始める……。 「わぁ……さすがにちっちゃいけど、結構くっきり見えるね。音も聞こえてくるし」 「あの白い花火が良いですわね。何かインスピレーションを与えてくれそうですわ」 「あれは枝垂れ柳と言うんだ。あっちの黄色いのが菊、赤いのが牡丹だな」 「なんだかんだ言って詳しいじゃありませんの」 「何かでついでに見ただけだ。別に好きじゃない」  そう言うルナ様を見て、みんなが笑う。けれどルナ様は気を悪くするでもなく、微笑んで花火を見やる。 「花火を見た時だけは、さしもの私も『鍵屋、玉屋』と言いたくなります』」 「ジャパニーズ・粋というものですか。かーぎやっ、たーまやっ」 「リズムが後乗りになってる。普通にかぎや、たまやでいい」 「後乗り? 最近の若い子は、すぐに知らない言葉を使うんだから……」  様子を見に出てきた八千代さんも加わって、他の勤め人のメイドさんも庭に出てくる。花火見物はこれで、屋敷をあげての一大イベントになった。  色とりどりの花火が上がり続けている。二時間ほど続くそうだけど、お風呂もあるからそんなに長くは……、 「……あ……」  いつの間にか手を繋がれている。隣を見ると、しばらく静かにしていた瑞穂様が、何も言わずに僕の手を取っていた。  彼女は微笑むけれど、何も言わない。このままで居て欲しいという気持ちが伝わってくる。  夏は花火、秋には月を、そして冬は白雪。  ……お屋敷の皆と一緒に、季節の移り変わりを感じる。それが僕には、心から嬉しいことだと思えた。  もう一度桜の季節がやってきた時にも、一緒に居られますように。そう、花火に願いをかけてしまうほどに。  夏休みが終わって、今日から僕らは毎日学院で勉強するわけだけど……。  朝登校してきても、なんだか学院には活気がない。生徒を送迎する車の数も少なかった。  教室にいるお嬢様方の人数も、実際に少なかった。メイドさんだけが、主人の代わりに来ていたりもする。  けれど人数が少ないクラスを見ても、八千代さんは動じなかった。出席簿を開くことなく、僕らに告げる。 「家の都合などもありますから、夏休みは1日猶予を持たせています。出席は明日から取りますので」  そういうことなら、ある程度納得できるけど……八千代さんの表情を見ると、心中は複雑そうだった。  朝のホームルームのあとの休み時間になって、みんなが集まって話を始める。 「風通しのいい教室だな。あの学院長にしては、放漫なルールを許しているものだ」 「あの人を見返そうと思ったら休めないよね。休みボケですでに眠たいけど、意地でも寝ないよ」 「……それが大蔵遊星のためでも、応援せざるを得ない。悔しい」 「な、何言ってんの七愛……もー、なんでもそうやって結びつけるんだから」  自分の名前が出るとどきっとするな……湊も恥ずかしそうにしてる。 「と、ところで……今日のお休みが公認ということは、本格的な授業は明日からになるんでしょうか」 「課題で作ったものが大荷物だから、かえって良かったかもしれないわね。教室がいっぱいになってしまうし」 「そうですわね。課題で作ったドレスを全員が持ってきたら、ケースが外まで溢れてしまいますわ」 「一着作るだけでちょー大変だったよ。マーメイドラインでかっこよく見せるのって難しいね」 「普段通りの下着でドレスを着ても、見栄えはしないぞ。専用のものは新調したか?」 「え……せ、専用とかあるの? 私ドレスとか初心者だから、全然分かんなくて……」 「ビスチェやガードルを身につけるんですのよ。着物と同じで、ドレスにも専用の下着がありますの」 「……お嬢様にはきっとよく似合う」 「……朝日、何じーっと見てるの。もしかしてドレス姿とか想像してる?」 「は、はい……よくお似合いになると思います」 「似合うのは当たり前。想像するだけでも料金を取りたいくらい」 「この学院の体質上、頻繁にパーティがあって鬱陶しいかと思っていたがな。そういうことが無くて何よりだ」 「学院長代理の教育方針があるから、そういった催しは行いづらいのでしょうね」  お嬢様方が揃ってパーティに参加される姿を想像する。絢爛豪華というほかないな……彼女たちがドレス姿で、一堂に会したら。  休み時間が終わる直前に、八千代さんが戻ってきた。けれど、教本の類を手に持っていない。 「今日は出席者が少ないので自習とします。課題のドレスを持ってきた人は、現時点で提出してもらっても良いです」 「ですが、今日のうちに手直ししておいても良いですよ。私も居ますので、質問があったら来てください」  八千代さんは言って、教壇の前の椅子に座る。数少ないクラスメイトは課題を提出して、ごきげんようと挨拶して帰っていってしまう……まあそういうものか。  僕らだけになったあと、ルナ様は席を立って八千代さんの所に向かった。 「個人的にアドバイスを乞いたいところがあります。お願い出来ますか? 山吹先生」 「ええ、喜んで。皆さんのドレスも見せてみなさい、加点のコツを教えてあげます」  ルナ様と八千代さんの間の信頼関係……こうして間近で見せられると羨ましいな。 「……山吹先生がいつもより素敵に見える。湊お嬢様に沢山加点してくれるなんて」 「ユーシェ様は加点なんて無くても、それ以上が取れないほどの美しい作品を作っていらっしゃるわよ。さあ、御覧なさい」  サーシャさんは衣装ケースから、ユルシュール様の作った服を取り出す。しかし、それが広げられた瞬間に皆の表情が固まった。 「ルナがいかに布を減らすかでエレガントさを競おうと言ったので、こうなりました。はからずもエコに貢献してしまいましたわね」 「え……何これ、ひも?」 「どうやって着ればいいのかしら……」  湊も瑞穂様も完全に困惑している。おそらく身に着けたら、最低限の部分しか隠れないすごいデザインだ。  ルナ様は既に後ろを向いて肩を揺らしている。ユルシュール様ってほんとに素直だなあ……(褒め言葉)。 「ふっ、く……上手くやったな、ユーシェ。私でも、こんなに布を減らすことはできないぞ……くくっ」 「ようやく負けを認めましたわね。私の才能は世界に羽ばたくのですから、あなたなんかにいつまでも負けていられませんわ。おーっほっほっほっ!」 「山吹先生、このドレスの評価は……新しいということになるんでしょうか?」 「桜小路さんに騙されたことは考慮しますが、もちろんダメです。このまま出したら不合格ですね」 「ですのーーーーっ!?」 「くっ……お嬢様のスタイルをそのまま生かす最高のデザインだと思っていたのに。残念ね」 「というかこれを提出しようとする時点で、試着していないのが丸分かりです。こんな服を着たらバストの4分の3が見えますよ」 「ですわーーーーっ!?」 「や、着てなくてよかったと思うよこれ。着たらリオのカーニバルに連れてかれて、サンバ踊らされてたよ」 「僭越ながら、私も祭りの衣装に近いものがあると思っておりました」 「……山吹先生。美しい私が身にまとうことで、合格にすることを考えてもらえないかしら」 「フォアグラでも食ってろピザ」 「メルシー・ボーク!」  サーシャさんは罵倒を受けてその場に崩れ落ちた。なぜか唇に薔薇をくわえているあたり、本格的に傷ついてはいないようだ。 「なぜ『ありがとう』なんだ? ほんとに君はフランス人か」 「ショックを受けると、咄嗟に思いついたことを言ってしまうものですよ」 「ふふっ……朝日にそう言われると納得してしまいそう」 「はいそこ、いい雰囲気作らない。瑞穂は朝日を全肯定しない。半肯定くらいにしといてね」  湊が割って入ってきて、律儀に僕と瑞穂様の距離を広げる。瑞穂様は照れ笑いしつつそれに従った。 「今日のうちに見せてもらって良かったですね。提出期限まで、あと22時間もあります」 「な、何ですの……これから一日で服を仕上げろって言うんですの?」 「そうですの。良かったなユーシェ、今日ばかりはうちの朝日も貸してやるぞ。ほら、自慢の立体裁断を見せてやれ」 「くきーっ! ありがたいですけど言い方が気に食わないですわ! というか元はと言えばあなたのせいです!」 「湊にドレス用のインナーのことを指摘する知識があるくせに、自分のドレスが変だと思わない君がおかしい」 「桜小路さん、元はと言えばあなたが原因を作ったのですから。あまり言ってはいけませんよ」 「む……そうか。ユーシェ、ちょっと直して提出できるようにヒントをやろう。露出度を下げろ」 「不本意ですが、あなたに踊らされっぱなしですわね……そんな急ごしらえで、満足な評価が取れるんですの?」 「ええ、問題無いと思いますよ。元の形を生かしたままでアレンジしましょう」  八千代さんはユルシュール様に指示を出して、自分で修正させる。ルナ様も何も言わずにその手際を見守っていた。 「いいなー、私も直してもらいたい……先生、次はお願いしてもいいですか?」 「私も見てもらいたいです。少ししっくり来ないところがあって……」 「……私は指摘してくれれば自分で直します。頼んでいいですか?」  みんなに倣ってルナ様が敬語を使う。八千代さんはそれを見て、少しいたずらに微笑んだ。 「いいえ、桜小路さんには後ろから手を添えて時間をかけて教えます」 「……そんなに目に見えた贔屓をしていいのか」  ルナ様の可愛らしい反論を聞いて、みんなが笑う。八千代さんのこと、ルナ様は大好きだからな……。 「……朝日、何を嬉しそうにしてる?」 「いえ。学ばせていただくところが多くて、一瞬も見逃せないなと思っているところです」 「いいですわよ、朝日。その調子で、高慢ちき女に反逆の牙を突き立ててくださいまし」 「おい朝日、この女を拘束して更衣室に連れて行け。そこのサンバの衣装を着せるぞ」 「あやまちに気づいた私を倒さずに、そんなことが出来るとお思い? おいでなさい朝日、一丁揉んであげる」 「お嬢様の耳に卑猥な言葉を入れるな。やはり私とあなたは、雌雄を決しておく必要があるようだな」 「……? 今のどこに、変な言葉があったのかしら。朝日、わかる?」  『揉んで』のあたりだろうなと思ったけど、僕も改めて口に出すのは恥ずかしいから言わなかった。  今日も何だかんだで忙しくなりそうだな……僕も頑張って手伝いをしよう。  学院にある生地のストックを使わせてもらって、ユルシュール様のドレスはしっかりと形になった。 「朝日にカッティングをしてもらうと、本当に早いですね……一日では無理だと思っていましたのに」 「いえ、私の力は微々たるものです。皆さん、流れるような手際でした」 「あなたの技術が無くては、こうまでお嬢様のイメージ通りに決まらなくてよ。素晴らしかったわ」 「湊のコサージュも素敵でしたわ。メルシー・フィールマル」 「うん、こっちこそありがとう。二つ作って、提出するのどっちにしようか迷ってたから。ところでフィールマルってどういう意味?」 「最上級の感謝を表すときにつける言葉だったか」 「瑞穂、あなたにもお世話になりました。ルナは居ただけだから、お礼は言いませんわ」 「そうかそうか。私もあれくらいで何かしたつもりはないから、それくらいで丁度いい」  ルナ様の意見がアレンジに反映されているけど……ユルシュール様はちゃんと分かっていて、僕に向かって目配せしてみせる。 「間に合って良かった。あのドレスを提出させるわけにはいかないもの」  瑞穂様は僕がカットした布を、丁寧に縫ってユーシェ様のドレスに組み込んでくれた。これなら、どこのパーティに出ても恥ずかしくない。 「元のものでも芸術性は高かったですが、あまり肌を出すとセクシュアルになりすぎますからね。ユルシュール様はスタイルが良いですし」 「女性デザイナーが挑戦的なデザインをすることもあるがな。私はユーシェの試みを評価しているぞ」 「お黙りなさい、何度私を辱めたら気が済むんですの。顔がまだ熱いですわ」  ユルシュール様はそう言うけれど、一緒に服を作ったことでまた一つチームワークがよくなった。それぞれの役割が明確になってきている。 「あの、先生。話は変わりますけど、今月って文化祭があるんですよね」 「ええ。初めての行事ですから、職員の間でもどういったものにするかまだ決めかねていますが」 「皆で衣装を作って行う出し物なら、自由ということにしようと思っています」 「ユーシェ、日本の文化祭で一番受ける仮装を教えてやろう」 「一番に越したことはありませんわね。言うだけ言ってごらんなさい」  ユルシュール様のこういう素直さは、賞賛していい美徳だと思う……ルナ様が悪者みたいだけど。 「ベタだが、最も強いのはネコミミメイドだ。語尾に『にゃ』をつけると鉄板だな」 「あいにくですが、私の国では猫の鳴き声はミャオミャオですわ。そもそもネコミミメイドって何ですの」 「本物のアイドルしか出来ない服装ね。そう、例えば朝日のような」 「えっ……い、いえ、私なんて全然似合いません」  ここに居る女の子たちならみんな似合うだろうけど、僕はそれだけはやっちゃいけない気がする……猫耳のカチューシャをつけるだけで実現してしまうけど。 「ぜひ私に……と言いたいところだけど、大穴で七愛が似合いそうね」 「…………」  七愛さんは小さく口を動かして何か言っている。僕ははしたないながらも、そろそろと耳を近づけてみた。 「お嬢様が無類の猫好きだって知ってて言ってんのかよ。それは私がもうずっと昔に通った道なんだよ……憎い憎い憎い憎い憎い……」  ハンカチをギリギリ噛みながら七愛さんはサーシャさんを睨みつけている。しかしサーシャさんもさる者で、涼しい顔で前髪を鏡でチェックしていた。 「か、可愛いよね猫耳メイド。えーと、じゃあ仮装喫茶とかがいいんじゃないかな。文化祭の出し物」 「久しぶりに披露することになりそうですね。私が現地から持ち帰った民族衣装を」 「私も久しぶりに披露することになりそうね。純白の麗人としての真の姿を……」 「フェンシングのユニフォームを着て歩いていたら、さすがに警備員に連れて行かれますわよ」 「ウィ。分かりました、私はお嬢様の晴れの舞台を陰ながら見守らせていただきます」 「そうですね。みんな仮装では見分けがつかなくなりますから」 「なんだ、つまらん。朝日に面白い格好でもしてもらって楽しもうと思ったのにな」 「お言葉ですが……ルナ様も仮装しないといけないのでは?」 「む……そうか。それは考えてなかったな。有志だけが仮装するルールに変えてくれ」 「あら、あなたもお似合いだと思いますわよ? ネコミミメイド。良かったですわね、文化祭で着るのなら違和感がありませんし」 「そ、そんな格好をうちのメイドに見せられるかっ。しっかり楽しむに決まってる!」 「……朝日はルナに可愛い格好をして欲しいのね。私も恥ずかしいけど、検討した方が良いのかな」 「い、いえそんな……お嬢様方なら皆さん似合うでしょうね、と思っていただけです」 「へー、みんななんだ。朝日はお嬢様にメイド服を着せたいっていう願望があるんだね」 「ダメよ朝日、そんな背徳的な想像に身を浸しては。あなたの主人への忠誠はその程度なの?」 「どう見てもあなたの方が背徳の塊だと思うが……」 「朝日には綺麗なままでいて欲しいのよ。私が歩けなかった道を歩ける子だと思うから」  女装家のサーシャさんに言われると、別の意味があるように受け取れるな……考えすぎかな。 「君たちはすぐに脱線するな。私は文化祭でもメイド服など着ないぞ、それはきっぱり言っておく」 「皆さんが私服で学院に登校するというのも良いかと思っています。デザイナーは私服のセンスで、自分の志向を表現するものですし」 「それだと私は、やっぱりカジュアルな感じになるのかなぁ。みんなラグジュアリーだったらどうしよう」 「ドレスはとっておきの場面までとっておくのが、淑女というものですわ」 「ユーシェがお嬢様らしいこと言ってる……あ、お嬢様なんだった。たはは」 「しかし、ワンアクセントは入れた方がいいんじゃないのか。私は文化祭自体がどうでもいいが、他の生徒たちはそうではあるまい」 「そうですね。やはり、仮装して何かするのが定番でしょうか」 「だから、無難に仮装喫茶でいいんじゃない? それで、交代で店番すればコスプレしてる時間も短くて済むし」 「お嬢様がコスチュームプレイ……こんな僥倖が訪れるなんて。従者冥利に尽きるというもの」 「あなた、実は私たちの中で最もリビドーに溢れているわね……ちょっと感心したわよ」  七愛さんは否定せず、赤くなった頬を押さえて色っぽいため息をついた。湊はどう反応したものかと苦笑している。 「ふふっ……仮装喫茶、いいわね。これで、朝日に可愛らしい格好をしてもらう口実が出来そう」 「は、はい……でも私、いつもメイドの格好をしていますけど」 「はっ……も、もしかしてそのままで仮装だと言い張るつもり? 違うわ、それは制服よ」  瑞穂様は僕にコスプレさせたいみたいだな……さすがに、回避できるものなら回避したいんだけど。 「従者の皆さんも生徒であることに変わりありませんが、どちらかといえばお嬢様方の晴れ姿を、父兄の方々に見せる意味合いが強いです」 「私たちは一歩引いて見ている立場ということね。ウィ、よござんす」 「君は他の父兄に警戒されないように、奇っ怪な振る舞いを謹んだほうがいいな」 「あなたこそ奇声を上げて、花之宮の名前に瑕をつけないように心配しておくわ」  父兄の皆さんか……僕の場合、りそなってことになるかな。招待状を出したら来てくれるだろうか。  ちなみに僕もみんなも、二人のケンカをすでに自然なこととして受け入れていた。ケンカするほど仲がいい、というわけでもないけれど。 「じゃあ文化祭の出し物は、瑞穂に仕切ってもらって和風喫茶とかどう?」 「どうせなら、もっと恥ずかしい格好をした方がいいな。ランダムで着るものを選ばされるというのはどうだ?」 「サンバの衣装はやめてくださいましね、あまり露出度が高いとばかみたいですから」 「お嬢様……いえ、あえて何も申さないわ」 「なんですの、あのドレスは袖を通していないからノーカウントですわ。ボディに着せただけですもの」 「それでも十分、露出度は確認出来ると思うが……まあいい。そろそろ日が暮れるな」 「そうですね、お屋敷に戻ることにいたしましょう。給仕さん、片付けをお願いします」  サロンの給仕を担当している女性がやってきて、テーブルの片付けを始める。お嬢様方は席を立って、それぞれのメイドを伴って退出していく。 「……親が来る行事か。もう、子供ではないというのにな」 「……人それぞれです、ルナ様」 「そ、それに……ルナ様には、私がついています。私がルナ様の……」 「君か? 君は父兄というかメイドだが……まあいい」 「そうだな、人それぞれだ。初めから比べるつもりはないから、気にするな」  ルナ様はそう言って、僕の肩に手を置こうとして……少し見上げるような姿勢になって、顔を赤らめた。 「……いつも小さく見えるが、なんだ。君の方がずいぶん大きいな」 「ルナ様は、器が大きくていらっしゃいます……あたっ」  うまいこと言えたと思ったのに、ルナ様に怒られてしまった。指先でおでこをぺし、とやられる。 「器が大きいのは当たり前だ。そうでなくては、人を雇ったり、家に住まわせたりはできないからな」  胸を張って言うルナ様……良かった、すっかり元気だ。  ルナ様は髪を翻して歩いて行く。僕はその後を、少し遅れてついていった。  夕食の後、ルナ様の部屋で側仕えをする。お茶を入れたり、必要なものを取ってきたりっていう仕事だ。 「……ふぁ」 「ルナ様、もうお休みになられますか?」 「主人のあくびを観察していたのか……悪いメイドだ」 「まあいい、君と遊んでいる気力もない。私は風呂に入ってくる。今日の仕事は終わりでいいぞ」 「かしこまりました」 「……君は八千代と違って、私の風呂上りの下着を見繕ったりしないな。そうしろと言われたのか?」 「えっ……あ、は、はいっ……そんなこと、私には恐れ多くてっ」 「そうか……まあそのくらい良いんだがな。私はその程度には君のことを信頼しているぞ」  ルナ様が信頼してくれてる……それに答えなきゃ。でもした、下着なんて……。  湊に正体がばれてから、僕はなるべく洗濯以外の仕事を希望してる。この屋敷に来た時はさんざん見たけど、最近は全然だった。  自分の下着とはやっぱりわけが違う。聖なるものというか……いや、それじゃまさにヘンタイだ。 「どうした? 顔が赤くなってるようだが……同性の下着くらいで恥ずかしがるのか、君は。乙女か」 「お、乙女です……(見かけ上は)」 「ふむ……まあ、そうだろうな。君に経験があったら、世の中の清純派という言葉の意味が完全に崩壊する」 「……褒められているのかどうか、私には判断しかねます」 「褒めているに決まってる。私の個人的な好みだ」  ということは、僕は経験がなくて良かったんだな……童貞であり、処女だし。そんな自虐的なことを考えている場合じゃない。 「お嬢様が下着をお選びになっているときに、同室しているわけには参りません。失礼致します」 「新しいものが届いたから、合っているか見てもらいたかったんだが……仕方ない、八千代に言うか」  八千代さんが居てくれて良かった……と同時に、少し勿体無く感じてしまう。僕はルナ様の下着姿を想像しないように、スカートの裾をつまんで一礼して退出した。 「はぁ……」  なんとか凌げたけど……信頼が深まるほど騙さなきゃいけなくなる。そのことを分かっているつもりで、僕はまだ分かっていないんだ。 「あ……朝日、ここに居たのね。部屋に居ないから探していたのよ」 「瑞穂様……」 「『様』はつけなくていいのに……と言いたいところだけど、みんなの手前もあるものね」  ここだと、ユーシェさんが通り過ぎることもありうる。メイドの僕が瑞穂を呼び捨てにしていたら、きっと聞き咎めるだろう。 「朝日、今ルナのお手伝いが終わったところ?」 「はい。これからルナ様はご入浴されます。お嬢様も一緒に入られますか?」 「それも良い提案なのだけど……お風呂は後にするわ。今、朝日としたいことがあるから」 「これからメイクを……ということですか?」  すぐに思い当たって言うと、瑞穂様は微笑みつつ頷いた。 「お風呂に入る前がメイクの練習に一番いいから。道具も持ってきてあるのよ」  瑞穂様はプロが使うような、黒い大きなメイクボックスを出してきていた。 「お仕事で疲れているなら、無理にとは言わないけど……」 「いえ、まだ全然元気ですよ」 「ありがとう。朝日の部屋に行ってもいい?」 「い、いえ……お嬢様に、夜分に私の部屋にいらしていただくわけには……」  部屋に行ってもいい? っていう言葉で思い切り心を動かしてしまうくらいは、どうか許して欲しい。何に許しを乞うているのか……自分の良心だろうか。  僕は瑞穂様の部屋に招いてもらった。どのみち、夜分で失礼なことに変わりはないけど……待ち望んでた彼女に、つれないことは言えない。  メイクしてる時でもバレないウィッグ……のはずなんだけど。やっぱり緊張する……。  僕は座っているように言われて、瑞穂様はボックスを開けて支度を始めた。 「朝日は肌のきめがいつも整っているから……乳液と下地はこれにしようかな」 「瑞穂も、色々使い分けているんですか?」 「そうね、好きなブランドの新しいものはひと通り試しているわ……ファンデーションはもう少し明るめがよさそうね」  瑞穂様はカラーパターンを見ながら、僕の肌に合う化粧品を選んでいく。まるでプロのメイキャップアーティストみたいだな……。 「朝日、髪を上げてもらっていい?」  いよいよだ……僕はヘッドドレスを外して、恐る恐る前髪を上げていく。  外したヘッドドレスを瑞穂様は大事そうに預かると、僕の顔をじっと見て……だ、ダメだったのかな……。 「……おでこを出しても可愛い。そうじゃないかとは思ってたんだけど」  良かった……けど、気を抜いちゃいけない。瑞穂様が心ゆくまでメイクをするまで、僕は完璧な女の子に……そう、アイドルの卵の気持ちにならなければ。  おでこを全開にしたまま、僕は瑞穂様のするがままに任せる。まず、彼女は下地というのを肌に塗り始めた。  次はファンデーション……りそなの部屋でファンデーションのコンパクトを見たことがあるけど、自分がするとは夢にも思っていなかった。 「朝日はどうやって保湿しているの?」 「え、えーと……パックをしてます。化粧水を浸したもので」  ほんとはしてもしなくても変わらないんだけど……と言ったらりそなに怒られたものだ。女装するなら、三日に一度くらいはしておけと。 「それだけで、こんなに綺麗な肌になるなんて……すごいね、朝日は」 「ありがとうございます」  素直にお礼を言う。瑞穂様のほうが綺麗だと思うけど、それを言ったら褒め合いになるから。  男としての僕には、これほどに仲良くなれた同性はいない。そう思うと、親友という言葉の重みが大きくなる。 「……ちょっと待ってね、朝日。今私は……もしかして、とても凄いことを……」 「え……み、瑞穂……?」  瑞穂様は集中し始めて、僕の言うことが聞こえなくなってるみたいだった。  顔がすごく赤らんでいて、ぽーっとしてる……そんな瑞穂様を間近でずっと見ていると……。 「朝日……目を閉じて……」 「……あっ、は、はいっ」  一瞬、何のことを言われてるのかと思った……目を閉じないとまぶたに塗れないじゃないか。  ……しかし、目を閉じてメイクをされるっていうのは……間近で瑞穂様の吐息を感じて、凄くドキドキする。 「……こんなになるなんて……朝日、あなたっていう人は……」 「す、すみません……何か無作法があったでしょうか」 「どうしてもっと早く……ううん、焦っちゃだめ。完璧に仕上げなきゃ……」  ……メイクをされてるのに、瑞穂様は興奮なされているような……い、いいんだろうか。 「あ、あの……北斗さんに、このことは……」 「……ええ、言っておいたわ。朝日にお化粧をするために、二時間ほどかかるって」  2時間……長いのか短いのか分からないけど。優しく肌を滑るブラシがくすぐったいし、目を閉じてると落ち着かない……。 「あっ、動いちゃだめよ……ここは繊細なところだから」 「……(こくこく)」  僕はそれから彫像のように動かなくなり、瑞穂様の指示に従順なメイクモデルとなった。  どれくらい時間が経っただろう。ファンデーション、コンシーラーを塗ったあとには目尻にシャドーを、そして頬にチークを入れて……。 「ん……んむ……」  グロスを塗られた時に、僕は自分の中に残っていた男性の部分が、また一つ失われていくように感じた。 「このグロスは私も使ったことがあるんだけど……朝日はもっと似合うわ」  ブラシタイプのリップグロス。つまりそれは、瑞穂様の唇が……もう、僕は思考すべきじゃないのかもしれない。 「…………」  これで完成した……のかな。さっきから瑞穂様が動かないけど……。 「……ど、どうしたの? 瑞穂」  喋ってもいいのか迷ったけれど、ずっとこうしているわけにもいかないので恐る恐る尋ねてみる。すると……。 「……ふぁっ」 「ふ、ふぁ……?」 「私は今、アイドルの誕生を目の当たりにしているのね……」 「そ、そんなに凄いんですか……?」  鏡を見せてもらいたい気もするけど……瑞穂様がここまで言うってことは……。  ……自分が女の子として可愛いとか思ってしまったら、さすがに超えてはいけない一線を超えてる気がする。  でも僕は瑞穂様の親友で、女の子で……女の子が可愛くなりたいと思うことに、何も問題はなくて……。 「はぁ……こんなに近くで見ていられることが幸せすぎて……」 「喜んでもらえて良かったけど……瑞穂、そろそろお風呂に入らないと。遅くなっちゃいますよ」 「すぐに落としてしまったら勿体無いわ。この後は私の用意した服に着替えて、ポートレート撮影をするのよ」 「しゃ、写真ですか……?」 「アイドルはいつカメラを向けられても笑顔でないと。時にはウィンクも必要です」  まるでアイドル学校の先生みたいに、瑞穂様が言う。アイドル学校ってあるのかな……。 「う、ウィンク……私、全然したことないです。下手ですよ?」 「では、私がお手本を見せます。鏡を前にして、何度も訓練した成果を見せてあげる」  そんな訓練をしているってことは……やっぱり、そうなんだ。瑞穂様自身が、アイドルに憧れてる。  その夢を、僕に託してくれてるっていうことなのか。彼女の家のことを考えたら、アイドルを目指すなんてきっと許してはもらえないから。 「すぅ……はぁ……見ていてね、朝日。私じゃあんまり、可愛くないと思うけど……」 「……あなたのハートにドキュン☆」  ……何てことだろう、凄く可愛い。死語かもしれないけど、僕のハートはおもうさま撃ちぬかれてしまった。  しかし……敢えて言うなら、時代を遡るノスタルジーというか、そういうのを感じるセリフだ。 「あっ……や、やっぱりだめだよね。こんなの見せられても、呆れちゃうよね……」 「そ、そんなことないよ。あんまり可愛かったから、ぼーっとしちゃった」 「えぅっ」 「え、えう?」 「ご、ごめんなさい……嬉しくて変な声が出ただけ。気にしないで」  びっくりすると可愛い声を出すというのも、非常にアイドル的だ。僕なんかよりずっと才能がある。 「はい、次は朝日の番。自分なりに考えてやってみて?」  そうだ……そういう話だったんだっけ。見事にハートを撃ちぬかれて、何をしてるのか忘れてた。 「え、えっと……セリフはつけなきゃだめ?」 「実は、朝日のセリフはあらかじめ考えてあるの。『みんなの心に朝日がさんさん、小倉朝日です☆』」 「っ……」  あまりに恥ずかしいセリフ過ぎて、こっちが変な声を出しそうになる。朝日がさんさん……その発想はなかった。 「瑞穂……最近のアイドルより、昔のアイドルが好きだったりする?」 「え……どうして? KYT48のCDも全部持ってるし、モノクロハートVのメンバーのブログも全部見てるよ?」 「そ、そうなんだ……じゃあ、私の気のせいだったみたい」 「ふふっ、朝日も興味があるの? 私の部屋に来たら、色々見せてあげられるけど」 「え、ええ……ということで、決め台詞はまた今度……」 「プロデューサーは私、アイドルは朝日。あなたの売り出し方は私が決めるのよ」  絶対に言え、とそういうことか。僕も女(装してる人)だ、羞恥心など捨ててしまおう。 「……あなたの心に朝日がさんさん、小倉朝日です☆」 「……こうして見てみると、それでは『えへぺろ』に勝てそうにないわね」 「だったら言わせないでくださいっっ!!」 「ご、ごめんなさい……ふふっ、朝日に怒られちゃった」 「他にも色々考えてあるのよ。『朝日の名前、今まで何度ノートに書いただろう』とか」 「それは決め台詞じゃなくて、キャッチフレーズです……」 「『国民のみなさんの妹、小倉朝日です』とか。『I My Me 小倉朝日です』とか」  アイドルらしいといえばそうだけど、取り敢えず彼女のセンスは全体的に懐かしい。最先端のアイドルが好きなのに、どうしてこんなことに……。  結局僕は覚悟が出来ず、お風呂で落としてしまうまでメイクを落とした自分を見なかった。 「少しくらい見てくれればいいのに。すごく可愛いんだから」  あの流れで断ることも出来ず、またも瑞穂様とお風呂に入ってしまった……段々と、引き返せなくなりつつある。 「……でも、楽しかった。こんなに楽しいこと、とても一回じゃ足りないわ」 「駄目ですよ、衣装にも力を入れないと。ルナ様に勝てないです」 「そうね……そうだったわね。朝日に試着してもらうだけじゃなくて、みんなに見てもらうために頑張らないと」 「今だけは、独り占めさせておいてね。朝日の可愛い姿を」 「っ……は、はい……」  瑞穂様の言うことは、僕の琴線に触れ過ぎる……ときめきすぎで、胸が持たない。 「じゃあ……お休みなさい」 「おやすみ、瑞穂」 「……」  瑞穂様は何か言いたそうにこちらを見ている。もしかして……。 「……瑞穂、一緒に寝たい?」 「う、ううん……大丈夫。あんまり我がままを言うと、朝日を困らせてしまうもの」 「北斗が許してくれているからといって、あまり自由に振る舞うのも……実家への報告の時、困ると思うし」 「はい……分かりました。じゃあ、また瑞穂の気が向いたらですね」 「うん。近いうちにお邪魔するね」  瑞穂様は微笑んで、手を小さく振ってから部屋に戻っていった。  やんごとなき家の出なのに彼女は壁を感じさせない。北斗さんが彼女を敬う振る舞いを見る限り、花之宮は厳格な家のはずだ。  ……生まれた家で歩く道が決まるわけじゃない。自分で決めた道を信じて歩く瑞穂様を……いや。  僕はそんな瑞穂のことを、改めてすごいと思った。  翌日の学校は、一学期の頃の活気を取り戻していた。みんな、きっちり猶予期間は休みを取っていたわけだ。 「ルナ様、お久しぶりです。夏休みはいかがお過ごしでしたか? 紅葉水産でございます」 「あなたのところ、株価が底値で張りついてるんじゃなくて? ルナ様のお眼鏡にはかなわなくてよ」 「くっ……そ、そういうあなたのところこそ、投資に失敗して芳しくないと聞きましたわよ」 「今はどこも、海外戦略が苦しいわね。円高がもう少し解消すると良いのだけど」  かしましくお互いの家の近況について話し合う生徒たち。最近は不景気だから、市場にも停滞感があるのは否めないかな。 「君たちは経営のことで悩んでなどいないのに、なぜ自分のことのように話すのかと言いたくなるな」 「私は会社のことは良く分かんないなあ。聞いても教えてくれないし」 「家に縛られすぎてもいいことはありません。自分は自分、親は親くらいに思っていた方がいいですわ」 「そうね……私が経営のことに口を出したりしたら、お父様に過剰に喜ばれてしまうし」 「適度に距離を置くことで、見えてくることもあります。私が花之宮への憧憬を振り切り、異国で自己を見つめ直したように」 「そう。じゃあ、ずっと日本に居たら淑女になっていたかもね」 「……君はなんだ? 私のこの格好がそんなに気に食わないのか、初めから侮辱ばかりしてくるが」 「瑞穂お嬢様の男嫌いを克服するためと言っても、あらかじめ女性と知っていたら意味がないのではなくて?」 「私は十分男らしく振る舞っている。君と違ってな」 「私は自分の生き方をありのままに表現しているだけ。あなたのようなポーズだけの人間とは違うのよ」 「どうしてこうも血気盛んなんですの、うちの従者たちは」  ユルシュール様が火種になるケースが多い気がするけど、根本的に二人の立ち位置が対立している気もする。 「美学とやらがぶつかり合っているんだろう。正反対の属性を備えているしな」 「……そうなると、私と小倉さんは正反対。陰と陽……あなたが居る以上、私に陽が当たらない」 「そ、そんなことないですよ? 私より七愛さんの方が存在感ありますよ」 「……思ってもないことを言っていたら……と思ったけど。本気なら見逃してあげる」 「朝日も七愛も別のいいところがあるんだから、ひなたとか日陰とか決めないの」 「私なんてみんなと比べたら地味っ子すぎるから、あんまり比較とかしないようにしてるよ? はー、突出した個性が欲しいわ」  湊のこういう振る舞いこそが個性だと思う。いつも元気で、周りを明るくする才能を持っている。 「私は湊みたいに、活発な女の子になりたいと思っているけど」 「え? 朝日みたいに、大人しーい感じがいいんじゃないの?」  微妙に当て擦られてるけど、まあ仕方ないしな……今の僕は、素と比べると確かにおとなしい。 「言いたいことが言えるって、凄いことだと思うわ。学院長代理に怒ったりとか」 「あ、あれは……もう、何カ月も前の話なのに。よく覚えてるねー、瑞穂」  感心したように言ったあと、湊の表情が静かになる。これは笑って話せることじゃないというように。 「私には、あそこで怒らないとかありえなかったから」 「ほう……実は、あのいけ好かん男と因縁でもあるとか?」  ルナ様に言われて、湊はちらとこちらを見やる。あのとき僕のために怒ってくれたんだよな……湊は。 「……学院長代理、自分の弟をひどく言ってたけど。私はその弟さんが、そんな情けない人じゃないって知ってるから」 「だから……ムカムカして。ま、まあその人とはそんなに関係ないし、面識も無いんだけど……」 「…………」  嘘をついてまで、僕のことを庇ってくれる湊の気持ちはすごく嬉しい。けれど瑞穂は、知らない男性の話なんて全然興味はないだろう。 「湊がそこまで怒るのなら……その弟さんは、良い人なんでしょうね」 「(えっ……!?)」  思わず声を上げかけて、何とか押し殺す。それほどに瑞穂の答えが意外だったから。 「っ……お、お嬢様……?」  廊下でサーシャさんと闘っていた北斗さんが、超反応を示して戻ってくる。それを見て、瑞穂は顔を赤らめて笑った。 「そんなに大袈裟なことじゃなくて……湊の顔を見ていればわかるもの」 「友達が信頼している人なら、私も……いえ。無条件に信頼するとはいかないけど……男の人だというだけで、怖がってばかりいても仕方ないから」 「そうだな。過度に警戒した方が、男は図に乗るものだ。私のように、あのいけ好かん男をあしらってやればいい」 「うん。今度は睨まれたくらいで言葉に詰まったりしない……そう決めてるの」 「お嬢様……また一つ強くなられましたね……」  感慨深そうに北斗さんが言うと、瑞穂は労わるように肩に手を置く。 「そろそろ授業が始まります。話の続きは、またあとにしましょう」 「はっ……情けないところをお見せしました」  瑞穂の言葉通りに予鈴が鳴り、みんなが席に戻る。そして、廊下から八千代さんの足音が近付いてきた。  2学期の授業は、夏休みの課題で作った服をクラス全員で評価することから始まった。  自分で服の説明が出来なくてメイドに任せっきりの子も居るけど、力作も多い。みんな、服飾が好きで入ってきてるわけだから。  ……というか、色んな服を見られて楽しいなぁ。服には人の個性が出て、メイドさんとお嬢様のどちらが主導したかがよく分かる。 「やはりお三方の作品がひとつ抜けていますね。私のひと押しはルナ様ですが」 「花之宮さんの和装はさすがですね……私も和装の資格を、在学中に取っておきたいわ」  課題用に作った服が和服なのは瑞穂だけ。斬新なものではないけど、縫製には文句のつけどころがないし、胸が大きい人でも大丈夫なように考えて作ってある。  それもやはり、伝統の革新ということに変わりはないけど……基礎が出来ていれば、今までにない試みというだけで減点されることはなかった。 「ユルシュール様のは……ユルシュール様のスタイルじゃないと着こなせなさそうね」 「それはそうですわ、試着しているのは私ですもの。ちょっと野暮ったくなってしまいましたけれど」 「今からでも遅くないからリオデジャネイロに行って、思い通りの衣装でカーニバルに参加してこい」 「嫌ですわ、ラテンのノリはいかにも暑苦しいですもの。私はいつでも涼やかなレディを目指していますの」  だけど、自分で試着しながら仕上げただけあって物凄く似合いそうだ……スタイルがいいっていうのは、何を着ても似合うから反則だな。 「柳ヶ瀬さんのデザインは初々しいですわね。ドレス慣れしていないのがよく分かります」 「……付け合わせの装飾は、それなりに見栄えがしますけど。あのブローチはどこで買ったんです?」  湊の作ったドレスには、胸のところに青い宝石がはまったブローチがつけてあった……それがアクセントになって気品を感じる。 「台座から手作りしていますね、これは……細工物が得意なんですね、柳ヶ瀬さんは」 「あはは……まあ、その石はそのへんに落ちてるのを拾ってきたんですけどね」 「まっ……ふふっ、やっぱり生まれが上品でないと、石ころも立派な材料に見えたりしますのね」 「これは立派なブルートパーズですね……驚きました、こんな見事なものが採れるなんて」 「と、トパーズ……どうしてそんなものが……で、でたらめを言ってるんじゃなくて?」 「川で遊んでる時に偶然見つけたんです。それを知り合いのお店で研磨してもらって使いました」 「く……うぅ。ほ、宝石が採れるなんて、面白いところに住んでいらっしゃるのね……」  食ってかかっていたケメ子さんが、少し口惜しそうに一歩引く。ブルートパーズは凄く高い石じゃないけど、立派な宝石だからな。 「ドレスもシンプルですが、目立ったミスもありませんし。成富さんのドレスは、まち針が刺さったままでしたよ」 「あっ……ぬ、抜いたはずだったのですが。すみません、見落としていました」  八千代さん……ちょっとカチンときてたのかな。実際にまち針は残ってたから、早めに気づけて良かった。  文化祭の出し物は、事前に僕らが話していたとおり、仮装喫茶ということになった。  みんなで持ち回りで店番をする。そこで、仮装の内容を決めることになったんだけれど……。  クラスメイトの意見を黒板に書きだしていく八千代さん。そこに並ぶ単語を見て、ルナ様が感想を述べた。 「……なんだこれは。ネコミミメイド、ネコミミナース? ネコミミ以外の発想はないのか」  ルナ様も自分で、ネコミミメイドが最強の仮装って言ってたような……良かった、ユルシュール様が聞いてなくて。 「あら、可愛らしいじゃありませんか」 「文化祭といえば耳付きのカチューシャですわ」 「それは、遊園地か何かと勘違いしているような……い、いえ。私に発言権はなかったですね」  ケメ子さんはルナ様に見られて過剰に恐縮する。さっき湊を攻撃してしっぺ返しを食らったので、ちょっと凹んでいるみたいだ。 「そんなに怖がるな、私は猛獣じゃない。と言っても聞いてないか……」 「ルナの言う通り、ネコミミはお祭りの定番なんですわね。ハロウィンのカボチャみたいなものかしら」 「耳つけてると可愛いのは確かだよね。私にはそういうの、全然あわないけど。萌え系とかないわーって感じ」  絶対似合うと思うんだけど……肉球の手袋をつけて、尻尾まであったら完璧だな。なんて、友達を使ってなんて想像をしてるんだ……。 「ネコミミナースの朝日……新しいキャッチフレーズは『お注射の時間だにゃ♪』で決まりね」 「お、お注射……」  なぜ注射に『お』をつけるだけで、そわそわする単語に変わるんだろう。日本語って不思議だ。 「他に仮装の種類について意見はありますか? 無ければ、役割分担に移ります」 「もちろん私は除外だな。だって似合わないもんな、ネコミミ」 「あなたもクラスの一員である以上逃げられませんわよ。おーっほっほっ、自然に仕返しするチャンスが訪れましたわ。なんて気持ちいいんでしょう」 「あー、うざい。そんなに気持ち良かったらアヘ顔でもしてろ、私が許可する」 「アヘ顔……? なんですのそれは。サーシャ、私の代わりにやってみてください」 「さすがはお嬢様、業の深い命令をなさる。不肖ながら美しい私のアッへー顔、とくとご覧ください」 「うわ、なに? 七愛、なんで目隠し?」 「世の中には見なくていいものがたくさんある」 「アッへーって言うのはあれか。フランス的な発音か」 「ルナ様……心の底から他人ごとですね」 「ああん? なんだ、君は私にアヘ顔してほしいのか。とんだ不躾メイドだな。筆舌に尽くしがたい」 「そそそんなこと言ってませんっ!」  すでにルナ様の背後では、サーシャさんが放送出来ない顔をしてポーズを取っていた。クラスメイトの中でも賛否両論のようだ。 「……窓から放り捨てて、その上に着地してやりたいところだが、今は大目に見ておいてやる」 「ふふっ……北斗もようやく落ち着いてきたわね。いい傾向よ」  瑞穂にはサーシャさんが背景か何かにしか見えていないようだ……良かった、あの個性には僕は勝てない。 「皆さん静粛に。この時間で詳細を決めておかないと、放課後に残ることになりますよ」 「ウィ。美しいものをお見せしました」  八千代さんが言うと、お嬢様方は沈黙し、サーシャさんはアヘ顔を解除した。なんて切り替えの早さ……。 「では、グループごとにシフトを分けましょう。ショーに出るグループのままでいいですか?」  クラスのみんなが肯定の反応を返す。僕らもグループで集まって、話し合いを始めた。 「私も料理出来なくないから、厨房でいいぞ」 「待って、っていうことは……キッチンで料理してる人は、仮装しなくていいってこと?」 「私は決まったことには従いますわ。どちらでもいいというのが本音ですし」 「私がお料理を作って、朝日は接客がいいな。それしかないと思う」 「い、いえ……その、私はあまり表に出るのは……」 「そう? それなら、公平な方法で決めようか」 「朝日はデフォでウェイトレスにしてやってもいいが、厨房でも優秀だからな。うちのメイドの優秀さを知らしめたいという気持ちもある」 「んじゃ、ジャンケンで決めよっか。そしたら恨みっこなしだし、ジャンケン湊ちゃんって言われた私が圧倒的に有利だし」 「……お嬢様は実際に物凄く強い。野球拳で一枚も脱がせられない程度の実力」 「あ、あはは……二人きりで何してるんですか」 「ナニをしているかだなんて……いえ。美しくないことを口走るところだったわ」 「てゆーか野球拳とかルール知らないし。七愛がいきなり脱ぎ出すからびっくりしたよ」 「ああっ……お嬢様、言わないで。若気の至りが恥ずかしい」 「野球拳はまた今度朝日と北斗あたりにさせるとして、じゃあジャンケンでいいや。やるぞ」 「待っててね朝日、私は絶対に勝ってみせるから。じゃんけんをしたことはないけど、ルールは知っているわ」 「ジャンケンですか。日本とはルールが違うのでしょう? こちらでは4つ手がありますのよ」 「えっ、4つ? あ、それオールマイティ入ってるでしょ。グーチョキパー全部みたいな」 「なんて恐ろしい……そんな無敵の手、うちのお嬢様にふさわしいと言わざるを得ないわ」 「全員同じ手を出してしまって勝負がつかないだけですわね、それでは」 「それもそーだ。たはは、ごめんね発想が子供っぽくて」 「必勝手段でもあるのかと思ったが、無いのか。どうやったら負けない勝負が出来るんだ?」 「ジャンケンとは時の運です。勝者は神が選ぶのです」 「あんまり人数多いと全然勝負決まらないから、二人ずつでトーナメントしようよ。負け上がりね」  湊がトーナメントの図を書く……ちょうど8人だからな。負けた人が上がっていって、一番上に『ネコミミ(ハート)』と書き込まれた。  そして、合計6試合を経て、優勝(コスプレ)決定戦の舞台に上がったのは……。 「ルナ、少し待ってくれる? どうしてあそこでグーを出してしまったのか、まだ後悔してるのよ」 「わかった、頼みを聞いてやるから私の勝ちにしてくれ」  ルナ様が切羽詰まっている感じが伝わってきて、みんなが思わず笑ってしまう。 「……今笑った分だけ、後で笑えなくさせてやる」  僕は勿論、鋭い眼光で射抜かれてしまうけれど……この状況だと失礼ながら、可愛らしい子犬の風体だ。 「瑞穂様……私にはもう、ご武運をお祈りすることしか出来ません」 「大丈夫、公平な条件だもの……朝日が私の代わりにジャンケンしてくれないかななんて、全然思ってない」 「それが許されるんだったら、まず私の替え玉にするぞ。というか負けても替え玉にしようと今決めた」 「ルナ様、それは私が許しません。なぜなら私は、ルナ様に可愛らしい格好をしていただいても一向にかまわないからです」 「……分かった、そこまで言うなら実力で勝つ。瑞穂、私はチョキを出すぞ」  これは……心理戦か。チョキを出すと言われればグーを出したくなるけど、それを読まれてパーを出されたら負けになる。  それならグーを出さずにチョキを出せば勝てるけど、だけどその裏を……ってあれ、これってどのみち確率33%なんじゃないのか。 「分かりました、ルナ。あなたを信じます」 「ええっ、なんかそれすっごいダメな展開じゃない……?」 「わかりませんわよ、ルナの考えが一周回って本当にハサミを出すかもしれませんし」 「ウィ。やはり神のみぞ知る、ということですか」 「君と意見が同じというのは嫌だが、まあ真理だから仕方がないな」  ギャラリーの僕たちが緊張感を煽るような雑談をしているので、教室中の注目が集まってきた。もはやこれは、桜小路と花之宮の一大決戦の風体だ。 「さあ、始めましょう。私は逃げも隠れもしないわ」 「本当か? 私だったら、もし負けたら逃げたり隠れたりするが……潔いな」 「……ま、負けないから。負けた時のことを考えたら、勝負には勝てないわ」  それはその通りだな……こんな時に感心するのもどうかと思うけど。 「では行くぞ……念を押しておくが、一回勝負だ。じゃん、けん……」 「――ぽんっ!」  ジャンケンと言えど、死活問題となる勝負。二人が最初に出したのはパーだった。 「くっ……なかなかやるな、瑞穂。お前が素直にグーを出すと信じた私の上をいったか……っ」 「私もそれだけ大人になったのよ……っ、あいこで、しょっ!」  ここからは心理戦も何もない。二人は壮絶なあいこ合戦を繰り広げて……そして。 「あっ……!」 「……か……」  ルナ様がパー、瑞穂がグーを出して止まっている。奇しくも瑞穂は、全ての試合でグーを出して負けてしまった。 「……勝った……のか。朝日、私は負けていないか?」 「は、はい……私が知っているジャンケンのルールであれば……」  ルナ様のどこか哲学的な問いに肯定で答えると、彼女ははぁぁ、と溜息をついた……こんなに気を抜いてるルナ様の姿は珍しい。よっぽど嫌だったんだな、コスプレ。 「おめでとうございます、瑞穂。次は何のコスプレをするか決めないといけませんわね」 「ユーシェ、今はそっとしておいてあげなよ。瑞穂、燃え尽きちゃってるから」 「……朝日に着て欲しかったのに……どうして私……ますますお父様達に顔向けが……」 「問題ありません、私は物言わぬ石像のように沈黙します。聞かざる、言わざるということになります」  見ざるが入ってないのは、見ざるをえないからだな……北斗さんなら、目隠しをしたまま付き人が出来そうな気もするけど。 「たかがコスプレ。バレてもどうってことない」 「瑞穂のうちはそういうわけにはいかないんだよ。うちのお父さんだって普通にびっくりするよ」 「ただでさえ、実家の人間が鬱陶しいからな……コスだなんてことにならなくて良かった。本気で安心してる」 「可愛らしい格好だったら、態度が軟化するという期待もしづらいですし……私は秘密にする気でいっぱいでしたが」  八千代さんが悪戯っぽく言っても、ルナ様は言い返さない。その気力もないほど安堵してるんだろう。 「……はぁ。少し落ち着いてきました。とりあえず朝日、私のために衣装を作るのなら、それを私より先にあなたが身に着けてくれる?」 「ええっ……そ、それは……瑞穂様のお召し物に、袖を通すわけにはまいりません」 「そうね……ごめんなさい、未練がましくて。分かりました、決定に従います」  八千代さんは瑞穂の承諾を受けて、黒板に役割分担を書き記す。その右側に、『ネコミミメイド』『ナース』『チャイナ服』といった文字列が並んでいた。  午後からの授業は自習だった。課題の反省点をノートにまとめて出したら、終わった人から帰っていいと言われた。  僕たちは提出を終えてもまだ帰らずに、今度は12月のショーに向けての進捗確認をした。 「夏休みのうちに朝日に作業を進めてもらっていたが、やはり時間がかかるな」 「私の方も、見せられる形になるまではもう少しかかりますね」 「はー、うちら何にもしなくていいの? 心の準備だけはしてるけど」 「声を掛けられたら動けばいいのでしょう? 私達のような大物は、後ろでドンと控えていれば良いのです」 「君は大物と言っても、無駄に大きい部分があるだけだろう。瑞穂よりは小さいし、中途半端だな」 「コンプレックスが滲みでていますわよ、ルナ。そんな話、外でするのははしたないんじゃなくて?」 「生意気な……お前なんぞもげろ。それは言いすぎか、垂れろ」 「それだけは心配ですけれど、大丈夫ですわ。東洋の針の力で胸の筋肉を刺激すると、長い間維持できると聞きましたし」 「私、最近肩こりがひどくて。身体を動かしてないからかなあ……時々弓を引かないとだめね、鈍ってしまって」 「マッサージでも行ったらどうだ。女性がやっている医院なら、瑞穂でも大丈夫だろう」 「ええ、出来ればそうしたいわね……そういえばユーシェ、朝日はすごくマッサージが上手なんでしょう?」 「そんなこともありましたわね。ルナのメイドに仕えさせる心地よさも手伝って、天国みたいでしたわ。おーっほっほっほっ」 「朝日、そんな魔性のテクニックを隠していたのね……恐ろしい子」 「うちのお嬢様にもしてあげたいから、黙って私に教えるといい」 「気持ちは嬉しいんだけど、七愛は優しすぎるから駄目だよ。マッサージは痛いくらいがいいって言うしね」 「優しさが裏目に出た……七愛反省」  そう言いつつも嬉しそうな七愛さん。湊は二人きりのマッサージを回避できてほっとしていた。 「朝日にしてもらいたいなら、暇な時に頼めばいい。私は今、ジャンケンに勝ったから気分がいいんだ」 「本当に? ありがとうルナ、そのうちお願いするわね」 「あの、そういうことする時は私達にも言ってね。そっとしておいてあげる心の準備とか要るし」 「朝日に限って、お嬢様に不埒を働くということは無いでしょう。私は彼女を信頼しています」  こういう時は特に申し訳なく感じる……マッサージで変な気を起こすよりは、女性の身体のつくりの繊細さに感嘆するほうが大きいんだけど。 「ところで瑞穂、ネコミミナースってことになったけど大丈夫?」 「……忘れてしまうことが出来たら、どれだけいいかと思って。分かってるわ、現実は受け止めてる」 「本当に大丈夫か? あまり無理はするなよ」  余裕げに言うルナ様を見て、瑞穂は少しだけ恨めしそうにする……無理もないな。  でもグループごとにネコミミメイド、ナース、チャイナ服、魔女っ子なんてはっちゃけたラインナップだし、瑞穂が浮くっていうことはない。  さらに他のクラスも凄いことになってるみたいで、イベントごとに対するお嬢様方のパワーは凄いものがあると八千代さんも笑っていた。  その日の夜。僕は瑞穂の希望通りに部屋に呼ばれて、彼女の肩をマッサージしてあげることになった。 「じゃあ、よろしくお願いね。私の番が終わったら、次は朝日にしてあげる」 「い、いえ……私は大丈夫です、凝っているところも特にないので」 「もう……そこで遠慮されると、私の気が済まないわ」 「すみません、お気持ちだけ受け取っておきます。瑞穂がそう言ってくれることは、凄く嬉しいよ」 「そ、そう……私も本当はね、そんなに凝ったりしてないの」 「だから、少しだけでいいよ。朝日も疲れてるでしょう?」  むしろ元気になってきてしまったんだけど……好意のある女性としてじゃなくて、あくまで親友として触れないと。 「……朝日、顔が赤いよ? もしかして熱があるの?」 「(わっ……!)」  瑞穂が僕の髪を上げて、おでこをつけてくる。そうして数秒だけ触れさせて離れていく。  ……熱を測ってくれてるんだ、と分かっても。ただでさえ気持ちを抑えるのが難しいくらいなのに……堰が、切れてしまってる。 「……熱は……ないみたい」 「……瑞穂」  こんなの、どこか間違ってる。僕は女の子……瑞穂もそう思っているはずで。これ以上進むことは無いはずなのに。 「……朝日の目、すごく綺麗。ずっと、近くで見てみたかった」  こんなふうにして……女の子同士で、親友で。そんな二人が、唇を交わすことがあるんだろうか。  その柔らかく、艶やかな唇を塞いで。甘やかな感覚に身を任せて……そうして僕らは、まだお互いのことを親友と思えるだろうか。  ……女同士だと思っていても。こんな気持ちでキスを交わすのなら、それは恋人に他ならない。 「瑞穂……」 「……ま、待って……朝日……それは……」  名前を呼ぶと、瑞穂が喉をこくっと鳴らすのが分かる。そこに拒否するニュアンスは、感じ取れない。 「……瑞穂は、嫌?」 「……ううん。朝日がいいのなら……私は……」  そして、瑞穂が目を閉じる。僕らはこんなに、二人きりでいちゃいけなかったんだ……けれど、もう引き返すことが出来ない。  僕は瑞穂の肩に手を置き、そっと顔を近づけて……唇が吐息を感じるほどの距離に、 「瑞穂、朝日は来てるか? ちょっと頼みたいことが出来たんで、こっちに戻してくれ」 「っ……る、ルナ? 少し待ってね、今開けるから」  瑞穂は髪や服の乱れをさっと直すと、ドアを開けてルナ様を迎え入れた。 「ああ、居た居た。メイドたるもの、自分の部屋で控えていろ。主人が呼びに行って留守なんてありえないぞ」 「は、はい……申し訳ありません、ルナ様。以後気をつけます」 「……朝日も瑞穂も、何か妙な色気を感じるな。というか、なんだこのアダルティな雰囲気は」 「な、何でもないのよ。変なことなんてあるわけないじゃない、私たちは親友なんだから」 「は、はい……何もありません。ルナ様が思っていらっしゃるようなことは……」 「あぁん? その言い方はなんか引っかかるな。私が変な想像をしてたとでも言いたいのか」 「めめっ、滅相もないですそんなことっ!」 「る、ルナ……あまり朝日を虐めないであげて。私にも責任があることだから」 「虐める? どこが虐めてるんだ、私はメイドの素行を確認してるだけだ」 「……まあ、百合っていうことなら早めに言えよ。私も心の準備をしておかないと、その、何だ。照れる」 「…………」  ルナ様が来なかったら、僕らはキスしてしまっていたかもしれない……というか、僕から迫ってしまってた。 「しかし、瑞穂の気持ちは分からんでもない。うちの朝日は、時々女から見ても色気があるからな」 「る、ルナ様? それはあの、何と言っていいのか……」 「……それは否定出来ないから、何とも言えないわね」  瑞穂まで……ルナ様と何か通じ合ったように視線を交わしてる。そんな話をしていいんだろうか、お嬢様しかいないこの女性の園で。 「うちのメイドたちの間でもな、朝日は妙に人気があるんだ。髪をかきあげた時のうなじを見るとドキドキするとか、そういうたぐいの」 「えっ……そんな話、私は全然聞いていませんけど」 「だから、私は別にそういうことを思ってるわけじゃ……でも……」 「……朝日がみんなの人気者なら。それはそれで、良いことだと思う」 「くくっ……親友を他の女に取られないように気をつけろよ。私が知る限り、わりとガチなのが結構いるぞ」 「まあいい、君たちは一緒に寝るくらいの仲だからな。私も少しは空気を読んでやる……おやすみ」 「いいのよルナ、私の用事はもう終わったから。朝日、話に付き合ってくれてありがとう」 「いいのか? じゃあ、連れていかせてもらうぞ」 「はい。私は、ルナ様のメイドですから」 「……ふん。もう少し素直になればいいのにな、君も瑞穂も」  瑞穂はそう言われても、顔を赤らめて笑うしかないみたいだった……僕も同じ気持ちだ。ルナ様には、完全に僕らがそういう関係だと思われてしまった。  ルナ様の部屋に向かう途中で、ルナ様がぴったりと立ち止まる。そして、くるりと振り返った。 「……君は私のものだと言ったはずだが。最近、甘くしすぎたようだな」 「っ……も、申し訳ありません」 「しかし……所有している物を、欲しいと思われる気分は悪くない。悪くないが……」  自分でも気持ちを測りかねているみたいに、ルナ様は胸に手を当てる。僕は何も言わず、彼女の続きの言葉を待った。 「……そうか。そういうことか」 「……ルナ様?」 「いや。私は朝日の持っている実力を認めている。しかし君が私の手元に残るのかは、君の意志次第だ」 「私はユーシェをモデルにして服を作る。あの脳天気な女は、センスはそこそこだが身体は一流だからな」  センスも認めてるんだな……ユルシュール様が聞いたら喜びそうだ。  でも身体が一流っていうとつい、僕の本来の性別の琴線に触れてしまう。ナイスバディってことだもんな。 「グループを、2つに分けるということですか? ルナ様と、瑞穂様で」 「そう……湊には中立で居てもらう。そうしなければ、グループという体裁を保つことが出来ないからな」 「私は瑞穂と勝負をしようと思う。賭けるものは君だ」  いずれそうなるのかもしれないと思っていた。2つのデザインが並び立つということは、1つしか選ばれないっていうことだから。 「私は瑞穂が、それだけ君を欲しがっていると受け取った。今思ったわけじゃない、夏からずっと感じていたことだ」 「……もしそうだとしても。簡単に貰われていくことなんて、出来るわけがありません」 「……それはそうだな。学院にいるうちは、君は私のメイドだ」 「だが、その後まで永久就職を保障するわけじゃない。甘えてもらっては困る、ということだ」 「……はい。分かっています」  いつまでも、メイドのままで居ることは出来ない……いずれ、進む道を選ぶ時がくる。 「ありがとうございます、ルナ様。私のことを、そこまで考えていただいて」 「どこがだ? 私は全力でつぶしにかかると宣言しているだけだぞ」 「ショーにどちらを出品するかが、君の人生まで関わる問題になった。どちらも、君の手が入った服になるだろうにな」 「はい……そのつもりです。最後までお手伝いをさせてください」  ルナ様は主人で、僕は従者で。そして……これから、本気で競う相手にもなる。 「……言っておくが、私には勝てないからな。今日は部屋に戻っていい」  ルナ様はそういい置いて、自分の部屋に戻っていく。僕はその背中に向けて、深々と礼をする。  ……瑞穂が今の話を聞いたら、どんな顔をするだろう。より、衣装作りに熱が入るんだろうか。 「私が花之宮家のメイドになるかもしれない……って」  僕、男なのに……下手をしたら、ずっとメイドでいなきゃいけなくなってしまう。  ジャンの元で勉強がしたいという一心でここに来たけど。一生メイドを辞めることが出来ないっていう展開は考えてなかった……。 「な、なんとかなるよね……うん、そうだ」  口に出して言うと、少し気持ちが落ち着いた。  どのみち、ショーに向けての衣装製作に手が抜けないのは間違いない。僕が賞品だとかそういうことは、今は考えないようにしよう。  出し物を決めた次の日から、学院はだんだんと文化祭モードに変わっていった。  僕らも着々と準備を進めている……といっても、瑞穂は結局、接客するときのための衣装を、一度も僕らに見せてはくれなかった。 「まさか私の屋敷で、ここまで鉄壁の情報統制をされるとはな……盗聴器を仕掛けておけばよかったか」 「もしそのようなものが存在していても、私が事前に発見します。電磁波には敏感ですので」 「瑞穂、ウェイトコントロールは完璧に出来ていて? コスプレーとはいえ、自作の衣装を着る晴れ舞台に違いはなくてよ」 「そういう発音すると、シルブプレーみたいな感じだよね。サバ? みたいな」 「私たちの国の言葉を勉強してくれたのね。もう一つ教えてあげるわ、手紙を書く時に最後につける言葉よ……ジュ・タンブラス」 「絨毯? なんか多いよね、フランス語ってそういうの。充填とか、ジュネスとか」  充填……ジュテームとかのことかな。意味を初めて知った時はちょっと恥ずかしかった……『愛してる』だから。 「フランス語で、ジュは『私は』という意味ですからね」 「なるほどー。とりあえず、大事な手紙の最後にジュータンブラスって付ければいいんですね」 「……危険な予感がする。そこの変態メイド、意味を詳しく教えなさい」 「あなたを愛していますっていう意味よ。日本人でも、手紙の最後にディアって付ける場合があるでしょう?」 「女の子同士で手紙を出す時だけにしよう!」  ああ、僕に出してくれるつもりだったのかな……って自惚れ過ぎかな。いや、湊が僕をじっと何か言いたげに見つめてるし……。 「瑞穂、どうした? さっきから一言も喋ってないし、漬物ばかり食べてると身体に悪いぞ」 「あっ……そ、そうよね。ごめんなさい、ぼーっとしてて……そうよね、お味噌汁も飲まないと」 「瑞穂様、それは私の……いえ、私のものは全て瑞穂様の所有物ではありますが」 「はっ……ご、ごめんなさい。あんまり美味しかったものだから、上の空で……」 「あはは……私、今更だけどジャンケン負けてあげたら良かったかな」 「勝負に情けは無用と言いたいところですが……さすがの私も、これ以上鞭を打つ気にはなれませんわ」 「み、湊、ユーシェ。私なら大丈夫、ちゃんと心の準備は出来てる……から……」 「出来てなさそうだな……朝日、瑞穂がトラウマを残したら慰めてやれ。許可する」 「トラウマということは無いと思います。瑞穂様ならきっと、すごくお似合いになりますし」 「ありがとう、朝日……そう言ってくれると、気分が楽になります」  微笑んでみせる瑞穂だけど、可哀想に、いつもより少しほっそりして見えた……いや、いつもふっくらしてるということではないけど。 「お嬢様の衣装替えは、後ほどお披露目ということで……ご容赦のほど、よろしくお願い致します」 「あいあい。私も裏方を頑張るぞー、ユーシェとルナも一緒にー」 「私には裏方という言葉は似合いませんけれど。TDPをわきまえて、何も言いませんわ」  TDP……たぶんTPOと言いたかったんだろうけど、みんな分かってるみたいなので言わないでおこう。 「朝日が料理をするなら、私はふんぞり返って居れば済みそうだな。まあ、最低限は働くが」 「はい、屋敷と同じように働かせていただきます……いえ、今日は特別に頑張ります」 「考えてみれば、主にあさぱんのご飯で私たちの血肉が作られてるんだよね。や、なんか身体がムズムズしてきた」 「想像力が豊かすぎますわ……そんなことを言われたら、私までそわそわするではありませんか」 「……小倉さん、何か湊お嬢様を誘惑するものを混入して……?」 「まっ……私たちに媚薬を? けれど私には無毒のようね、元からあなたの美しさを認めているから」 「何を言っているんだ君たちは……朝日がそんなことをするわけがないだろう」  北斗さんはそう言ってから、僕のほうをじっと見やる。僕は北斗さんが味方だと思って、微笑みを返した。 「……あ、あまり見ないでくれないか。少し前から、朝日を見ると……何か、胸が……」 「ほ、北斗……もしかして、男性として朝日に惹かれているとか……? 「えっ、ええっ……そ、そんなことありませんよね?」  というか北斗さんは男装してるわけだから、中身は女性で、僕の正体は男性で……あれ、問題ないのかな。  いやいや違う大有りだ! 性別の問題じゃなくて、北斗さんが僕に好意を持つなんて、そんなこと……。  「い、いえ……何と言いますか。朝日を見ていると、不思議な気分になるのです……浮ついたことを言って、申し訳ありません」  前にお風呂で鉢合わせときはバレなかったはずだ。バレてないと思いたい。バレないでいてほしい(懇願)。 「主人も従者もそこまで入れこむか……ここまで来ると、何かあるのかと思えてくるな」 「あ、あのっ、ルナ様。そろそろお食事を切り上げませんと、お時間が……」 「あら、いけない。つい、女同士の会話に華を咲かせてしまったわね」 「……ツッコミも疲れたから、何も言わない。ふと、変態メイドが手術してるかどうかが気になった」 「こ、工事とかそういう生々しいこと言わない。ねえ、朝日」  そこで僕に振られても……今のところボク自身は工事する可能性はゼロかな、と内心で返答するしかなかった。  サーシャさんは微笑みつつ髪をくるくると指に巻きつけている……どっちなんだろう、結局。  ――そして僕らは食事を終えたあと、揃って学園にやってきた。  学園の周囲には、いつもより多くの車が行き来している……娘の晴れ姿を見に来た保護者の方々でいっぱいになっていた。  教室も文化祭モードに切り替わり、クラスメイトたちが比較的真剣に衣装合わせをしている。 「……な、何だか丈が短くありませんか? 足がこんなに出てしまっては、父に怒られてしまいます」 「それくらいしないと他のクラスと比べて目立てない、っていうことじゃなかった?」 「ちょっともう時間ないよ? 膝くらい、ストッキング穿いてごまかしときなよ」 「ちょ、替えの黒ストとか用意してないんですけど。メイドってまぢめんどいね」  出し物の喫茶店を開店する前に、早くも問題が発生してる……八千代さんは眉間を押さえてから、僕のほうに歩いてきた。 「小倉さんのグループの衣装はどうですか?」 「瑞穂様は私たちに見せてはくれませんが、しっかり完成していると思います」 「当日になってばたばたするなんて、優雅じゃありませんわね……まあ、困った時はお互い様ですけれど」 「実際にアクシデントが起きた時のために、リスクコントロールの良い予行演習になるか」 「素直に助け舟を出すと言わないあたりが、あなたの主人らしいわね」 「私はどちらかというと、そういうところを尊敬しています」 「……ん? 瑞穂はどうしたんだ、更衣室に行くと言って戻ってこないな」 「あ、出番が来るまで精神統一するって。開会式には出るから、安心してとも言ってたよ」  大丈夫かな……様子を見に行きたいな。でもうちのクラス、他のグループが全体的にばたばたしてるし……。 「開会式が始まる前に、とりあえず一番手の衣装をチェックしておきましょう。足が隠れればいいんですのね」 「こんなこともあろうかと、ストッキングとタイツはあらゆる種類を準備しています」 「そうですね……このスカートの色なら、焦げ茶のストッキングがいいでしょうか」 「どうせなら破いておいて、さらに父親にショックを与えてやれ」 「る、ルナさま……そういったご趣味があったのですか? 江里口金属です」  江里口さんもちゃっかりしているな……彼女の名前を聞いた回数がそろそろ2ケタに突入しそうだ。  文化祭の開会の挨拶をするはずだった兄様は、急用で運営を他の先生方に任せていた。  大蔵の長男である兄様に、ぜひ挨拶をと思っていた父兄の方々は多いみたいだ……そんな会話が聞こえてくる。 「本日は抜けるような晴天に恵まれ、このような吉日に、第一回フィリア女学院文化祭を開催できますことを喜ばしく思います」  ジャンに一目置かれている八千代さんは、先生の中でも重要なところにいるんだろう。壇上で挨拶していることを見て、改めてそう思う。 「……安心した顔してる?」  隣に座っていた湊が、僕の様子をうかがう。僕は確かに、兄様の顔を見ただけで畏まってしまうところがある……だから、否定はできない。 「……正直を言えば。そんなことではいけないと、分かってはいます」 「うん。私から言うのもなんだけど……そう思ってたら、十分だと思うよ」 「父兄の皆様方におきましては、お嬢様方がどのように学院生活を送られているかをご覧になり……」  八千代さんの話は続いている。父兄も一緒だからか、生徒たちにほどよく緊張感があって新鮮に感じられた。  文化祭が始まる。僕らはまず、他のクラスの出し物を見て回った。  賑やかで活気に満ち溢れた学園内を歩いていると、気分が昂揚してくる。これが文化祭か……デザイナー学院だから、普通とはまた少し違うけれど。 「……瑞穂? まだ固まっていますの?」 「……えっ? ユーシェ、何か言った?」 「本当に重症だな……気休めを言っておくと、祭りの時ならどんな格好でも許されると思うぞ。他人ごとだが」 「あぁぁ、最後の付け加えなくていいから。瑞穂、私がついてるよ! みんなで一緒に恥をかこう!」 「……恥というか……アイドルという職業は、やっぱり凄いなと改めて認識しているところです」  今朝から瑞穂の口調が固いな……緊張すると敬語になりがちとか、そういうことみたいだ。僕たちだけじゃなくて、いっぱいお客様がいるっていうこともあるけど。 「アイドル……そんなに愛らしい格好をするのですか? それとも、殿方の目を扇情的に惹くような……」 「男性のお客様が来たら、私は逃げます。接客を放棄していると見なされても逃げます」 「そんなことでは、和風メイド喫茶『みずほ』を開くことは不可能じゃないか?」 「そんな店名を認めた覚えはありませんっ!」 「お、ちょっと元気出てきたね。もう怒りでもなんでもいいから、エネルギーに変えちゃおうよ」 「……くん。そこらじゅうからいい匂いがしてきますわね。他のクラスも食べ物を売っているんですの?」 「お嬢様、鼻をきかせるのはノンですよ。またトリュフの件を言われてしまいます」 「あえて話題に出しているのはあなたじゃありませんこと……? それって不敬罪っていうんですのよ」  ユーシェさんはサーシャさんを伴って、他のクラスの出店で食べ物を買ってくる。けれど歩きながら食べるのは、まだ気がとがめるみたいだった。 「後先考えずに食べ物を買うんじゃない。それになんだ、チョコバナナって」 「庶民の文化を理解するとかいうコンセプトでやってるとこがあるんだよ。なんだ、結局お嬢様ってゆったってりんごあめとか食べたいんじゃん」 「……何を見てるんですの? 朝日。あげませんわよ」 「い、いえ……口の周りを汚さないよう、お気をつけください」 「目のつけどころがときどきシャープね、朝日。お嬢様が食べるところをじっと見ていてはだめよ」  サーシャさんに考えてることを見抜かれて、顔がかぁっと熱くなる……今の僕は乙女とはとてもいえない。 「ユーシェ、教えてやろう。それはな、チョコレートだけ舐めるのが作法だぞ。かぶりつくのはマナー違反だ」 「順番に食べるのなら、なぜチョコレートを付けるんですの?」 「……ルナお嬢様は、時々高度なことを言う。実は……すごい?」 「え、チョコレート舐めるのがなんでダメなの? 手についたりしたら舐めるよね、普通」  湊が無邪気に言うと、七愛さんは胸を抑えて後ろを向いてしまう……妄想してるんだな、今まさに。 「お嬢様にそのようなことをさせるわけには……チョコレートは鬼門ですね。夏場のジェラートも然りです」 「どこか落ち着いて食べられるところに行きましょうか。ユーシェもずっと持っていると大変でしょう?」 「さすが瑞穂、食べ物に反応して一気に落ち着きましたわね」 「ところでそれの食べ方なんだけど、スイスから来た人はルナの言うことに従わないと逮捕されるそうよ?」 「た、逮捕……おやつの食べ方一つで。チョンマゲなんてヘアスタイルを考えつく国は、法律も意味不明ですわね」 「くくっ……なかなか言うようになったな、瑞穂。その方が私の好みだ、どんどん言ってやれ」 「煽らない煽らない。瑞穂はこう、優しくてお淑やかでいてくれないと私の目標がなくなっちゃうよ」 「……湊お嬢様は変わらなくていい。一秒ごとに一番綺麗」 「や、私なんてまだまだっしょ。ポリシーとか結構簡単に崩したくなる方だから。例えば髪を下ろしてみようかなとか」 「……あっ。立ちくらみが」 「ど、どうしたんですか七愛さん……貧血ですか?」 「……髪を下ろして、指を艶やかに舐めるお嬢さまを想像して……というか離して。触らないで」  思わず傍にいたので抱きとめてしまったけど、七愛さんはぐいぐい押して離れる……貧血どころか凄く元気だ。 「ま、また、朝日に助けてもらっておいてそんな邪険にして……その上抱きしめてもらうとか……」 「……もらう?」 「いい言ってません、全然言ってません。分かった七愛、ちょっと校舎裏に来なさい。女同士で腹を割った話をしようじゃないの」 「……お嬢様、目がちょっと怖い」  珍しく湊の迫力に押されている七愛さん。そのまま二人は連れ立って歩いていってしまった。 「まだ私たちの出番までは時間がありますし……湊なら、時間までに戻ってくるでしょう。どこかでゆっくりしたいですわね」 「そうだな。ふぁぁ……既に眠くなってきたぞ。文化祭って退屈だな」  二人が話しながらサロンの方へと歩いていく。それを見ていた瑞穂が、楽しそうに口元を隠して笑った。 「ふふっ……みんなを見ているうちに、少し緊張がほぐれてきたみたい」 「良かった……私たちでは、代わることの出来ない役目ですから」 「……私はまだ諦めてないのよ、朝日にも可愛い衣装を着せること。でも私の衣装だと、サイズが……」 「ウェストではなく……こ、こほん。朝日、察してください」 「はぁ……また恥ずかしくなってきました。今日一日が終わるまではどうしようも無さそう」 「元気を出してください、瑞穂様。一緒に出し物を成功させましょう」  ルナ様が「歩きまわると出番が来る前に疲れる」というので、僕らはお昼までほとんどサロンで過ごした。 「全て見て回るのは骨が砕けますわね。興味を惹くものだけ見てもくたびれましたわ」 「砕くのはやりすぎだ、折れるくらいにしておけ。複雑骨折か」 「ユルシュールお嬢様は、見物客に配慮して階段で移動されましたゆえ。まさに骨が砕けんというありさまです」 「まあ、帰ったあとに朝日にお願いすれば骨も元に戻りますわ。私の疲れを取って、同時に忠義も鞍替えしてくださいまし」 「あはは……鞍替えはできませんが、私に出来る限りでご奉仕いたします」 「つまらないですわー。お祭りの時くらいガードを緩めてくれればいいのに」  ユルシュール様は不満そうに言って、買ってきた食べ物に手をつけはじめた。おでんか……僕もちょっと食べてみたい。イベントの時は違う味がするっていうし。 「学生の出し物より、今ホールでやっている芸能人のイベントの方が人手が多いというのもどうかとは思うが」  そういうイベントもあるから、学院には多くの報道陣が取材に来ていた。中には、生中継を行なっている局もあるみたいだ。 「少し歩くと放送局の取材が来て大変ですわ。営業スマイルしないと、学院の評判が落ちかねませんし」 「ほんとほんとー。でも校舎裏だったらガラガラだし、心置きなく話ができたよ」 「改めて姉妹の契りを結んできた」 「あら、麗しいこと。私はジャパニーズ・ヤンキー式の洗礼でも受けているのかと思っていたわ」 「え、私グレたこととかないし。七愛は舎弟じゃなくて、大事な私の友だちだよ」 「……友達だけじゃ……と言っていたらきりがない。時間が来た」 「私たちも行きましょう、瑞穂様が準備を済ませているころですし」 「済んでいるといいがな。瑞穂のあの感じでは、おそらく……」  僕らは午後の部の最初から店番をすることになっている。瑞穂は一足先に教室に行って、着替えを済ませてるはず……なんだけど。  どこかで予想していた通りの光景がそこにあった。北斗さんが、教室の扉の前で仁王立ちしている。 「お嬢様はまだ、準備ができておりません。しばらくお待ちください」 「だからといって締め出しをされても困るな。私たちも準備があるんだが?」 「乙女の心を開くには、最愛の友の言葉が一番よ。朝日、お願いしていい?」 「は、はい……分かりました。北斗さん、私一人なら入っても良いですか?」 「朝日もお嬢様の衣装は、まだ見ていないのでしょう?」  そう……瑞穂は、僕にも内緒で衣装を作っていた。彼女は僕のことになると元気だけど、自分のことになると途端に引っ込み思案になってしまう。 「……実を言うと、私も見せてもらっていないのです。お嬢様は、衣装合わせも一人でされて」 「そうだったんですか……やっぱり皆の前に出る前に、見ておいた方がいいですね。360度から」 「瑞穂様……あなたの親友を行かせます。どうか、心を開かれますよう」  北斗さんは祈るように言って、扉を開けてくれる。僕はこくりと息を飲んで、部屋の中に足を踏み入れた。 「……失礼します。瑞穂お嬢様、朝日です」  外にはみんなが居るので、敬称をつけて呼ぶ。けれど、瑞穂の姿は……、 「あ、あれ……?」 「……私はここにいませんよ?」  カーテンの後ろに隠れて、瑞穂が顔だけ出してこっちを見てる……真っ赤な顔で、お茶目なことを言ってる。 「……ふふっ」 「あ、ああっ……笑った。そうなるって分かっていましたけど、傷つきます」 「ごめんなさい……でも、あんまり瑞穂が可愛かったから」  何か、懐かしい気持ちになる……りそなも、そうやって拗ねて隠れたりしてたことがあったな。  大きくなるにつれて、人前で泣いたり、我がままを言ったり……そういう気持ちを隠していく。僕はそうなるのが早かったというか、子供の頃のほうが冷静だった気がするけれど。  だから、今の瑞穂を見ていると純粋に羨ましいと思う……温かい気持ちになる。 「……そんな目で見ないでください。自分でも子供っぽいことをしてるって、分かってるんですから」 「もう少しで開店です。だから、私に見せて慣れておきませんか?」 「……あぅ」 「あっ……す、すみません。緊張しすぎて変な声が出て……」 「そんなに気にしないでください。私は可愛いと思います……えぅ、っていうのも」 「そ、そう? 家ではすごく怒られる癖だったんだけど……」  瑞穂が見せてくれる仕草なら、何でも僕は好きだ。言葉に出来なくても、そう思わずにはいられない。  ……僕は卑怯なんだろうか。口に出して言わないと決めているのに、彼女をどんどん好きになっていってしまう。 「……みんな、瑞穂を待ってます。瑞穂がいないと成り立たないんですから」 「仮装喫茶の看板娘って、アイドルみたいなものだと思うし……だから私に、お手本を見せて欲しいな」  敬語をやめて言うと、瑞穂が潤んだ目をぱちぱちと瞬く……少し、卑怯な言い方だったかな。  ルナ様がいたずらっぽく話してたことを思い出す。あまり驚くとまずます瑞穂が恥ずかしがるので、僕は途中で言葉を抑える。 「……情けないところばかり見せて……ううん、迷ってる場合じゃなかった……」  そう言って、瑞穂はカーテンを引く手を揺らす。そして……。  隠れるのをやめて、瑞穂が僕の目の前に出てくる。その衣装は……仮装の案として上がっていたうちの一つの、ナース服だった。 「……看護士さんになりたいわけでもないのに、こんなかっこう……変だよね。でも、私たちの班はナースっていうことになっていたから……」  瑞穂は凄く恥ずかしがってるけど……こんな可愛い姿を見られるのなら。この衣装になったのは、全然悪いことじゃないと思ってしまう。 「似合ってます……って言うと、逆に恥ずかしい?」 「……恥ずかしいんだけど……良かった、かも。変だったら、みんなに迷惑をかけるし……」 「それなら、みんな可愛いって言ってくれるよ。瑞穂のご両親は来るの?」 「両親が来ないから、自由にした部分もあって……一回作り始めると、色々凝りたくなって……」 「それで、そんなに本格的なナース服を作ったの?」  あのとき出た案はネコミミづくしだったけど、そればかりは一線を越えられなかったのかな……。 「……語尾に『にゃ』をつけるっていう話もあったんだけど……それはさすがに……」 「凄く可愛いね。普段は恥ずかしくて、なかなか出来ないことだけど」 「……普段じゃないから、いいのかな? ハレの日だから」 「うん。恥ずかしがるより、堂々としたほうがいいよ。それだけ似合ってるから、誰も変だと思わない」 「うん……でも男の人が来たら、朝日が接客を代わってくれる?」  そこは瑞穂にとって譲れないところかな……僕はキッチンに入りつつ、店内の様子にも気を配ろう。 「……っ!?」  あとはみんなで準備をして、午後からの開店を待つだけ……そう思った矢先、けたたましい警報音が聞こえてきた。  校舎全体が騒然としている気配が伝わってくる。そして、教室のスピーカーが小さくノイズの音を立てる。 「あ、あー。ただいま学園の火災報知器が鳴りましたが、原因は調査中です。皆さん、落ち着いて続報を……」  ――そんなこと言ってる場合じゃない。もし校舎のどこかで火災があったなら、早く避難しないと。  避難訓練なんて春先にやって以来だし、文化祭に向けて訓練したわけでもない。外で待っていたルナ様たちにも動揺が走っていた。 「まずいわね……火が出た場所が分からないって、警備はどうなってるのよ」 「……クレームがあって、学園内の監視カメラは最小限に減らされた。教室の中は原則的に映してないらしい」 「階段に人が殺到している。このままでは……」  従者のみんなも、不測の事態に動揺している……このままパニックが続けば、惨事にもなりかねない。 「瑞穂……私たちも外に出ましょう。避難経路は幾つか用意してあるはずです」 「……いえ。私は逃げないわ、朝日」 「北斗、私の声が聞こえますか!」  瑞穂が突然、大音声で声を張る……その声は、警報とどよめきの中でも、この階全体に響き渡りそうなほど大きかった。 「はっ、ここに居りますお嬢様っ!」 「避難経路を確保して、皆さんを誘導しなさい! 私も外に出て声をかけます!」 「承知いたしましたっ! 皆様方、どうか落ち着いてくださいっ! 慌てては怪我をするやもしれません!」 「私たちも行くわよ。この学院の存続に関わる問題……みすみす事故なんて起こさせてなるもんですか」 「私はお嬢様たちを誘導する。どうぞこちらへ」 「っ……あんまり人数多くてもダメなのかな。分かった、うちら下の方で声掛けするから!」 「こらユーシェ、腰を抜かしてるんじゃない! 肩を貸してやるから走れ!」 「い、いきなり大きな音がしたものですから……大丈夫ですわ、一人で走れます」 「朝日、ルナたちのことはお願いしました! 私は北斗と共に行きます!」  瑞穂の決意は固い……教職員の人に任せようと言っても、きっと聞かないだろう。  それなら。瑞穂がみんなを助けたいのなら……僕が北斗さんと一緒に、瑞穂を守る。 「私も一緒に行きます……ダメだと言われても、ついていきます!」 「……わかりました。でも、何か危ないことがあったら、その時は何をおいても逃げて」  そのときは、瑞穂のことも連れて行く……それを言葉にはせずに、僕は瑞穂に頷きを返した。 「経路は2つあります! こちらの経路は、ゆっくり行かなければならない方を優先してくださいっ!」 「エレベーターは停止しています! 落ち着いて階段に回ってください!」 「連れの方は下に降りて、避難してから探してください! 各階で誘導を行なっているので、上階にはもう誰もいません!」  混乱する人たちに向けて声を張り続ける。その甲斐あって、僕らと同じ階、それより上の階にいた人たちは全員が避難を完了した。 「煙は出ていないみたいで良かった……朝日、北斗。私たちも急ぎましょう」 「はいっ!」 「はいっ!」  避難を終えて一時間もすると、警報が鳴った原因が明らかになった。  ある教室の照明の配置が、警報機に近すぎて……熱で反応してしまったらしい。火が出なかったので、スプリンクラーまでは起動しなかった。  勿論、文化祭はそこで中断になってしまったけど……みんな無事だと知らせを聞いて、生徒も教職員の皆さんにも笑顔が戻ってきた。 「何も無かったからいいが……下手をしたら、学院の存続に関わるところだったな」 「本当に。ですが保護者が来ている時に、こういうことがあったのは荒療治になったかもしれませんわね」 「学院長代理も出先から戻ってきたみたいだし、改めて話があると思うよ」 「そうね……こういったことがあった以上、保護者への説明は早い内に必要だと思うわ」  瑞穂が言うと、彼女にみんなの視線が集中する。瑞穂はどういうことかと目をぱちぱちと瞬いていた。 「瑞穂、凄かったね……いきなり物凄い大きい声出して。あれでパニックになってた人、みんなびっくりして止まってたもん」 「花之宮の演説といえば、知る人ぞ知る名物だからな。さすが、いい声をしている」 「私もびっくりしましたわ、部屋の中から凄い声がするんですもの。気付けにはいい薬でしたけれど」 「実に勇ましいお姿でした。瑞穂お嬢様の勇気に敬意を表します」 「……小倉さんと北斗も。三人ともまだ校舎に残ってると聞いた時は、みんなショックで気絶しかかった」 「……私は落ち着いていたぞ。うちのメイドはしぶといと分かっているからな」 「あはは……私とか一番ショック受けてたかも」  僕が学園から出てきた時、湊が飛びついて抱きしめてくれたからな……思わず涙が出そうになった。 「…………」 「……お嬢様、いかがなさいました?」 「い、いえ。何でもないわ、大丈夫」 「皆さん、ここでしたか……すみません、肝心の時についていることが出来なくて」 「気にしないでください、先生。私たちも、自分たちだけで何も出来ないほど子供ではありません」  ルナ様は他のクラスメイトも居る手前、敬語を使う。八千代さんの方が、どうするか躊躇しているように見えた。  ……ルナ様のことがすごく心配だったに違いない。彼女は目もとをハンカチで抑えて涙を隠す。 「……無事で何よりだ、お互いに」 「はい……はぁ、情けないところを見せてしまいましたね。教師としてしっかりしなければ……」 「これから、集会が行われます。大蔵学院長代理から保護者の方々への謝罪と、閉会の挨拶があるそうです」 「……報道陣が来ていたから、被害がないとはいえ外部に知れてしまった。正式な説明は必要だろうな」  あの兄様が謝罪……容易に想像がつかない。僕は自分のことのように緊張を覚えながら、みんなと一緒に教室を後にした。  ホールに集まった人たちは、朝と比べると目減りしていた。用事があって出られない人も多いんだろう。  それでも生徒のほとんどは残っているし、保護者の半分も彼女たちに付き添っている……兄様の話次第では、学院の危機管理へのクレームがより具体化するだろう。  着席して待っていると、兄様が姿を見せた。壇上のマイクを手に取って、話し始める。 「本日は、フィリア女学院文化祭にご出席いただきありがとうございます。学院長代理の大蔵衣遠と申します」 「緊急避難を行うような事態があったと報告を受け、出先からすぐに戻って参りました。催事の日に留守にしていたことを、まずお詫びいたします」  ……兄様が頭を下げている。威風堂々とした彼が頭を垂れると、保護者の方々もそれに倣っていた。  上に立つ人間は頭を下げてはならない……それが大蔵で僕が叩きこまれた帝王学だった。けれどそれが最良の解にならないことを、兄様も僕らも今は理解している。  けれど……顔を上げる時の瞳の怜悧な輝きが消えていない。兄様は必要だと判断したから、ためらいなく頭を下げたんだ……。 「学院の警備は、生徒の皆さんを迎えるにあたって、必要最低限のものに削減していました」 「学ぶ上で、煩わしいことは全て取り去る……それは学院の存在意義を、最も忠実に表す指針です」 「しかし……生徒たちの要望を受け入れすぎたがゆえに、今日のような事態を招いた。そのあたり、今後の学院を運営していくゆえでの反省としたい」 「削減していた避難訓練は、一学期に一度ずつ実施。学院内の警備設備の点検、警備員の人件費にも予算を当てさせていただきます」 「それも、生徒の安全を思ってのこと。ご令嬢の輝かしい将来のために、保護者の方々にはご理解を頂きたい」  いつの間にか、兄様は謝る立場ではなくなっている。盤上がきれいに逆転してしまっていた。  はじめに頭を下げて……それから娘の安全のためにと言われれば、反論する親はいないだろう。  もちろん、学院のこれまでの体制に疑問を持ってる人も見受けられる……けれど場の空気はもう、兄様に支配されている。 「……食えないやつだ。頭を下げっぱなしでは終われない、ただの意地にも思えるが」 「うぅ〜、なんかすっきりしなーい。でもこの場を丸く収めないと、学院の存続にも関わるし……」 「警報ひとつで、大げさなことになるとも思えませんが。休校になってもつまらないですし……しかしまあ、腑に落ちないことは否めませんわね」 「みんなが無事なら、それでいいんじゃないかしら。ね、朝日」 「はい。私も、そう思います」  あれほど傲岸不遜なところを見せていた兄様が頭を下げた。頭を下げない人っていうのは得だ……だって、一回だけで凄く深く謝ってるように見える。  ……そんな、ひねたことを考えていちゃいけない。これは、文化祭の幕引きをする式でもあるんだから。 「これで、文化祭は閉会とさせていだたきますが……その前に」 「校舎の上層階から、避難を誘導してくれた生徒がいた。何でも……看護士の格好をしていたそうだが。まあ、仮装か何かだったのでしょう」 「パニックを起こした生徒の中で冷静さを失わず、皆の避難を誘導してくれた。生徒、教職員を代表して、私から謝辞を述べさせていただきたい」  兄様が言うと、ホールの中に拍手が起こる……誰のことだか分かっている人は、瑞穂に視線を送っていた。  僕も彼女に拍手を送る。ルナ様もユルシュール様も、みんなタイミングは別々だけと手を叩き始めた。 「……恥ずかしい。私は無我夢中だっただけなのに……」  兄様は壇上からもう居なくなっている。兄様も素直に人を褒めることがある……名前の分からない相手でも。 「場の空気を明るくして、文化祭を締めるためか……いや。野暮は言うべきじゃないな」 「このまま行くと、文化祭のMVPは瑞穂に決まりですわね。まさにナイチンゲールですわ」 「そ、そのことは……非常時だからできただけで……もう、言わないでください」 「……報道クラブの子が、写真を撮ってた。文化祭のことを載せる学内紙に載ると思う」 「そのような新聞を長い間掲示させるわけにはいかないな……30分掲示したあと、全て片付けさせます」 「ふふっ……その時は私も手伝うわよ。一人じゃ手が足りないでしょう」  文化祭限定の仮装を、ずっと掲示されていたら困るしな……瑞穂のことを褒められるのは嬉しいけど。 「これを持ちまして、第一回フィリア女学院文化祭を終了させていただきます。後方の出口よりご退席ください」  八千代さんが改めて締めの挨拶をすると、皆が席を立って移動を始める。 「……何だかんだで長い一日だったな。帰るぞ、朝日」 「来年は平和に済むといいですわね。今年とは違う出し物もやってみたいですし」 「演劇とかやりたいな。あのクラスの一体感っていうか、そういうのも青くさくて良くない?」 「演劇……ますます朝日に期待がかかってきますね。演技も練習しておきましょうか、私の家の劇場で」 「あ、あはは……少しずつ段階を経て、大きなところで練習したいです」  そう言いつつも、女装がまだバレていない僕は演技力があったりするのかな……なんて考えていた。文化祭が無事に済んだからといって、気楽にも程があるけど。  帰宅して夕食を取ったあと、お嬢様方が入浴する。そのあいだに、僕は片付けを済ませて部屋に戻った。  文化祭の時に騒ぎがあったことを、僕はりそなに知らせておくことにした。学院のことは、彼女もいつも知りたがっているから。 「……っていうことがあって、今日はちょっと大変だったんだ」 「高層ツインタワーですから、火事の対策はしておいた方がいいですね」 「そうだね。りそなも入学したら避難訓練することになると思うけど、気をつけてね」 「う……高層階から階段を使って降りるんですか。それは、生徒が嫌がるのも納得できますね」 「もしもの時の備えは必要だよ。まあ、僕も一緒に在学してる間なら、何があっても助けるけどね」 「……兄はそういうことをためらいなく言うので好きです」 「あ、あはは……どうしたのりそな、そんなこと急に言われたら恥ずかしいよ」 「その反応もわりとキュンときました。ああダメです、これはもうダメです」 「というか、私学院で警報が鳴ったこと知ってました。テレビ中継を見ていましたから」 「そうだったんだ……どういう場面を映してた?」 「実は……兄と、もう一人女性みたいに整った顔の男性が映ってました。あと、すごく大きな声を出しているナース姿の女の人です」  ……夢中で気が付かなかったけど、あの時テレビカメラに映ってたのか。恥ずかしいな……。 「途中で中継が終わってしまったので、ネット上でも結構騒動になってたんですよ。『フィリア女学院オワタ』『全焼乙ww』とか雨のように書き込まれて」 「う、うん……ごめん、連絡するのが遅れて」  そこまで情報を把握していたら、幸い無事に解決したことも知ってると思うんだけど……。 「そんなこんなで、しばらくぶりに、兄の顔が見たくなりました。出来たら、会いにきてくれますか」 「うん、いいよ。スケジュールは何とか調整してみる」 「……ごめんなさい、実は私が兄に会いたいのは、もうひとつ理由があります」 「え……?」  りそなは少し迷う素振りを見せる……息遣いで分かる。この子がこういう態度を見せるときは、おそらく……。 「長兄が遊星兄のことを気にしてる素振りを見せたんです。うちに来て、様子を見に来るまではしてませんが」  ……やっぱり、兄様のことだった。僕は胸を殴りつけられたような衝撃を感じつつ、動揺を声に出さないように努めた。 「……それは、どういうこと?」 「……あの、長兄の言ってるままですから、気を悪くしないで聞いてください。私も本当は、こんな言い方は嫌です」 「うん、分かってる……僕は大丈夫だから」  そう言って促しても、りそなは口を開くことを躊躇っている……畏怖している対象の兄様の言葉を、そのまま口にするには勇気が必要だろう。 「……『負け犬がどこで遊んでいるかなど興味はないが。俺には、奴の動向を知る権利がある』」 「『大蔵の名を持つ以上、駒として使われる心の準備をしておけ。売り物として価値を高める努力はしていたはずだ』」  僕が大蔵の血を引く者として、様々な教育を受けてきたこと……それが、売り物としての価値か。なるほど、兄様が言いそうなことだ。 「……うん。ありがとう、りそな……辛かったね」 「……そして、兄の現況の写真を渡せと言ってきました。政略に使おうとしているのかもしれません」 「現況か……『大蔵遊星』として写らなきゃいけないんだね。分かった」 「私に任せてください。長兄の気分を害さない程度に、写真を見た人が兄に求婚する気を起こさないくらいの、絶妙な写真を作ります」  サブリミナルな情報を写真に仕込むとかかな……りそななら、それくらいのスキルがあってもおかしくないけど。 「大丈夫、僕に求婚したいなんて人は居ないよ」 「……大丈夫じゃないから心配してるんです。分かってるのに、分からないふりをしないでください」 「うっ……ご、ごめん……」  誰も僕に好意を持たないなんて言ったら、僕は文字通り最低だ……湊に、りそなに、そして瑞穂に、顔向けができない。  ……けれど僕は女装していてもいなくても、初めから恋愛音痴だ。 「……分からないふりか。そうだね……りそなの言うとおりだ」 「妹が傍にいたいということ、冗談として捉えたりしていませんか。それも分からないふりをされそうで、時々不安になります」 「う、うーん……わ、わかった。りそながずっと結婚しなかったら、責任を取って一緒に暮らすよ」 「……奥さんと仲良くしないといけないですね。でも奥さんって口に出したら胸がざわめきました」 「まあそれはいいです。家で写真を撮る必要があるので、近いうちに会いましょう」  場所も指定なのか……屋敷の部屋を閉めきってこっそり、なんてわけにはいかないようだ。 「……そういえば、今日あの兄様がみんなの前で頭を下げたんだよ。警報が鳴って、大騒ぎになったから」 「ふふっ……それは痛快ですね」 「うん。でもやっぱり、兄様は兄様だった」 「ラスボスとしては一番やっかいなパターンですね……転んでもただでは起きないとは、プレイヤー泣かせにも程があります」 「でも、今日の兄様は、僕らの夢を守ってくれた。感謝しないといけないね」 「そういう言い方をしたら、あの人は……面と向かって罵倒されるよりもずっと、嫌な顔をしそうです」  僕らは電話越しに笑い合う。深刻な空気も、二人で話しているうちにいつの間にか吹き飛んでいた。  入浴とお風呂の掃除を終えてから、ルナ様の部屋に伺う。彼女はすでに、文化祭から日常に意識を切り替えていた。  彼女は来年の装園賞に向けて描いているデザインを、幾つか僕に見せてくれる……僕はそのひとつひとつを見て、胸の高鳴りが抑えられなかった。 「わぁ……どれも素敵ですね。これ、試しにモデルを作ってみてもいいですか?」 「ん……君は、瑞穂のほうに付いていてやらなくていいのか。賞に出品する服まで手伝ってくれるのか」 「は、はい……あの、そんなに色々と手を出すのは、やはり良くないでしょうか」 「いや、そんなことはない……助かるが。私のデザインのパターンを作るのは、そうとう骨が折れるだろう」 「就寝前に少しずつやりたいと思っています」 「……作るかもわからない服のパターンを?」 「実現出来るかどうか、実現出来ないのであればどうすればいいのか。そういうことを考えるのは、凄く楽しいですから」 「そうか。じゃあ、遠慮なく頼む」 「はい。では、何点か絵をお預かりして良いですか? 厳重に保管しますので」 「……朝日。今日のことだが……君はどうして、私と一緒に逃げなかったんだ?」  この部屋に来てからずっと、感じていたことではあった。ルナ様の態度が、いつもより硬い……。 「瑞穂や北斗のことを案じていたのは分かる。君の選択は正しかった」 「……しかし、一つの答えが出た。君はああいう場面で、私ではなく瑞穂を選ぶ」 「……ルナ様、それは……」 「そんなやつの手を借りるわけにいかないと言ったら……君は、私の狭量を責めるか」  そう言われてしまったら、僕には返す言葉がない。責められるとしたら僕のほうだ。  僕はルナ様のメイドとしてしか、ここに存在しないのに……あの時、瑞穂の近くにいることを優先した。そこに、迷い一つ感じていなかった。 「……済まない。私は自分が主人として、あまりにも不甲斐なかったから……君に当たっているだけだ」 「なんだろうな……君が瑞穂たちと一緒に走っていくのを見て、何も言えなくなった。湊も同じだったようだが」 「私が行っても、大したことは出来ないのにな。北斗と瑞穂、そして君の運動神経にはかなわない」 「そうです。私は丈夫ですから……自分にしなければならないことがあると思いました」 「瑞穂が心配だったと言え。そうだろう?」 「……はい。ルナ様の、言うとおりです」  僕はもう誤魔化すことはしなかった。ルナ様は少し拗ねたような顔をしていたけれど……。 「……子供じみたことを言ってしまって、自分が嫌になるな。今日はもういい、明日になったら今のことは忘れてくれ」 「忘れることが出来るほど、私は器用ではありません」 「……そうだな。君はいつも一筋縄ではいかないし、柔弱なようで頑固だ。従順とは言いがたい」 「だが、そういうことなら私も気兼ねなく君を利用させてもらう。私も、私のしたいようにする」 「はい。それでこそ、私の尊敬するルナ様です」  ルナ様に認められることが嬉しい気持ちと……瑞穂の親愛を嬉しく思う気持ち。それは、どちらかを選ぶようなものじゃない。  ……いや、『分からないふり』はもう止めにしなきゃいけない。ルナ様は、僕が迷いなく瑞穂様についていったところを見て……言うなれば……。 「……焼き餅……?」 「……朝日、何をひとりごとを言ってるの?」 「あ……み、瑞穂。どうしたんですか、こんな夜更けに」 「朝日に、今日のことのお礼を言おうと思って……部屋に行っても、いつまで経っても戻ってこないんだもの」  ルナ様の部屋に入ってから、もう3時間も経ってる……瑞穂のこと、かなり待たせてしまったみたいだ。 「……なんて、冗談です。簡単にしびれを切らしたりしません、座禅で鍛えていますから」 「ルナはお仕事ですか? それとも、デザインのほう? 「はい。既に、来年のご予定まで考えておいでです……私もこれから、パターンを試作してみます」 「そうですか……私も朝日がCADをやっているところを見てみたいです。パソコンの扱いは苦手なので」 「いつでもお見せしますよ。私の数少ないとりえですから、お役に立てるなら嬉しいです」 「……いつも一緒に寝たいとか、甘えてばかりでもだめだと思って。親友は、一緒に切磋琢磨しないとね」  けれど瑞穂がそう言ってから、30分も経たないうちに……僕らの部屋の電気は消えてしまった。 「こんなことだと、初めから一緒に寝にきたみたいに思うよね……」 「いえ、この時間ですから……明日も早いですし、もう休んだほうが良いです」 「……ルナが頑張ってる間、私は朝日を待ってるだけで……呆れちゃうかな、こんなことだと」  そう言ってはにかむ瑞穂が愛らしく感じて、その髪を分けてあげた。僕の立場では烏滸がましい行為だと知りながら。 「今日の瑞穂は凄く可愛かった。写真を撮れなかったのが残念だったね」 「報道部の人が撮った写真があるけど……どんなふうに写ってると思う? 変なところだったりしたら……」 「可愛いか、かっこいいかのどちらかだと思う。瑞穂のことだから」 「……朝日は優しいね。私なんて、そんなに言ってもらうほどのことないのに」  話しているうちに、瑞穂の反応が緩やかになって……やがて、その目が閉じられる。  皆を助けようとしたときの凛とした姿。そして、今見せてくれている僕を信頼しきった姿……。  両方ともを見られる自分は、どれだけ贅沢をしているんだろうと思う。 「……おやすみ、朝日……お疲れ様……」 「お疲れ様……瑞穂」  一日の疲れを労う言葉をお互いに掛け合う。すると、間もなく僕にも心地良い睡魔が忍び寄ってきた。  文化祭が終わって一週間後。学院の片付けも終わり、すでに平常授業に戻った。  朝食の席で、僕の作ったオムレツを口に運んでいた八千代さんが、不意に食事の手を止めて言った。 「この場で聞くのも何ですが……皆さん、ショーに向けての進捗はどうなっていますか?」 「ああ、八千代にはまだ言ってなかったな。私のグループは、2つの派閥に分かれているんだ」 「私とルナの衣装のふたつとも制作を進めて、最後にどちらを出すか選ぶことになっています」 「そうですか。仲違いをしたというわけでないなら、競争は良いことですね」 「ルナ様も瑞穂様も、既に誰もが認める形で実力を示されていますし。グループとしての出品が確実であれば、口出しはいたしません」 「ああ、良かった……怒られちゃうかと思った。八千代さんの眉毛がぴくぴくしてたから」 「この家で何をおいても従うべきは、ルナではなく八千代ですものね。私も喧々諤々ですわ」 「意味は近いですが……その場合は『戦々恐々』ですね、おそらく」 「そう、それです。私も何か違和感を感じていたんだけど、別に間違っていないような気もして……」 「というかケンケンガクガクって何ですの? 自分で言っておいてなんですけど」 「喧々囂々と、侃々諤々が混じってる。誤った表現」 「七愛は文系はめっちゃ強いよね、文学少女だから。いつも気づいたら本読んでるし」 「強い感情を内に秘めている人間こそ、それを言葉に表すために本を読むのよ。あなた、詩作でもしてみたら?」 「変態メイドが今に至るまでの人生を書いたら、それなりに形のついた小説になると思う。あなたが書くべき」 「私? 私の人生なんて、決しておもしろいものじゃないわよ。ただ、美しいという言葉が出てくる回数が多いだけ」 「私の場合、『ウソをつかない』という言葉が多いでしょうか。あとは……ポゥ!」 「北斗、食事中に突然大きな声を出してはダメですよ」 「も、申し訳ありません……つい気持ちが昂ぶってしまい。ああ、私はいけない戦士だ……」  ポゥ! がこれで無くなってしまったら、それはそれで寂しいな……何だかんだ、耳に馴染んでるだけに。 「ユーシェ、今からでも語尾に『ユル』を付けるキャラに変えたらどうだ。バカウケでモテモテになるぞ」  それはいかにもゆるキャラになりそうだな……って、こんなこと言ったら場に冷たい風を吹かせてしまう。 「女子校でモテてどうするんですの……まあ、そんなことで殿方に人気が出てもどうかと思いますけれど」 「そういうのは二次元だから許されるんだよ。私がネコミミつけてもギャグでしかないよね」 「いや、十分似合うと思うぞ。試しに語尾に『にゃ』を付けてみろ」 「えっ、ちょ、なんでやらなきゃいけない流れになってるの……? ルナも物好きだねえ」  湊もまんざらじゃないみたいで、みんなの顔を見てから小さく咳払いをする。そして……。 「いらっしゃいませニャー! とか?」  なぜに、どこかの店員さん的な設定なんだろう……それは置いておいて、今のは……。 「可愛過ぎて脈拍が乱れた……危なかった」 「ふふっ……若くて可愛い子は、それだけで得をしてるわね。みずみずしさを感じたわ」  おおむねみんなの評価は良好だった。湊はその気になれば、萌えっ娘になれるっていうことだ。萌えっ娘ってなんだろう。 「……『いらっしゃいませにゃん♪』の方がよくないかな?」 「瑞穂様、何かおっしゃられましたか?」 「にゃっ……い、いえ。今のは間違いです、『にゃ』のことを考えすぎていただけです」 「だから、私の国ではミャオミャオだと言っているではないですか。人の話を聞いてくださいませんこと?」 「……お嬢様方は、いつもこんなお話を? 小倉さん」 「は、はい……」  やっぱり怒られるかな……お嬢様にあるまじき状態だもんな。出会った初めからこうだけど。 「ネコミミはルナ様にこそ似合うと思います。今度買ってきましょうか」  八千代さんはとてもいい笑顔で言う。そうだ……八千代さんは、ルナ様で遊ぶのが大好きだった。 「や、八千代っ! 何を言い出すかと思ったら……っ」 「プライドの高いルナが語尾に『にゃ』を付ける光景……いいですわね。さすがメイド長、いいセンスですわ」 「恐れ入ります。ルナ様、しっぽはいかがなさいますか? 肉球の手袋は……」 「つつっ、つけるか馬鹿者っ! いや、つけたとしても全力で朝日に押し付ける!」 「い、いえ……私よりルナ様の方がお似合いになりますから。ね、瑞穂」 「ということは、私のコスチュームはあまり似合ってなかったのね……い、いえ。友情を重んじて、ここは朝日の味方をするわ」  すごく似合ってたんだけど、そんなふうに褒めるとルナ様に白い目で見られてしまう……ここはぐっと我慢だ。 「じゃあ私も便乗しちゃおっかな。ルナちゃんの、ちょっといいとこ見てみたい♪」 「ええい煽るなっ! 私はそんな格好絶対にしないからなっ!」  涙目でみんなを威嚇するルナ様を見て、八千代さんはすごく幸せそうだ……この人は、まさに桜屋敷の裏番長だな。  10月に入ってから、店舗経営・管理の授業が始まった。みんなゆくゆくは店を出したいと思っているから、熱心に勉強している。 「湊お嬢様は数字に強いですね。電卓を打つ指が、目にも留まらぬ速さでした」 「収支の計算とか、そういうの得意だから。昔はうちの会社の事務員になろうと思ってたしね」  家が大きくなって、彼女には新しい夢ができた。そうじゃなかったら、僕は湊と再会出来なかっただろう。 「適材適所とはこのことですわね……私はどうも、細かい計算は苦手ですわ」 「そうね……でも、金銭感覚をしっかり身につけないと。いつまでもお父様たちに頼っていられないし」 「あらゆるものには原価がある。それを売り上げから引けば利益だ、単純な話だな」  原価と利益をリストアップすると膨大な項目になるわけで……ユルシュール様の気持ちもよく分かる。  実際の経営ではもっと複雑になるし、ユルシュール様の言うとおり分担が必要だ。一人で経理とプロデュースを両立出来る人も、中にはいるけれど。 「ルナはもう、経営者だもんね。こういうの、得意中の得意でしょ」 「数字の計算もいいが、結局はセンスと商才がものを言う。流行り廃りで、一瞬で置き去りにされる業界だ」 「そういう意味では、株と似ているのかもな。株は安い時に買い、高い時に売る。それだけの話ではあるが」  マネーゲームも夢を叶える上では、一つの手段だと思う。タネになる資金が必要だし、才覚が無ければ博打にすぎないけど。  ……昔、株のやり方も教わったな。パソコンの画面上で資産が増えたのはいいけど、終わった時には全て持っていかれてしまった。 「……しかし株で成功するよりも、ブランドの名を100年残す方が難しい。それは、歴史に名を残すということだからな」 「ルナは目標が高いっていうか、すでに世界を見てるよね。実際、世界に通用するレベルだし」 「ルナはそんなに頭の回りが速かったんですのね……私より少し、コンピュータに強いくらいかと思っていました」 「それほどでもある。というかお前と比べたら、ネアンデルタール人と新人くらいの差があるぞ」 「むきぃぃぃぃ! 私に進化をさせないつもりですか!?」  ネットで見たところによると、世の中には『進化キャンセル』というものがあるらしい。Bボタンを押すと……って、それはゲームの話だ。 「ルナと勉強で勝負するのは怖いかも……だって、100点を取らないと勝てそうにないもの」 「なんすかその、遥か高みで戦いを繰り広げる神々みたいな発言……ああ、私ってほんとに地に足が着いてる」 「大丈夫、私にとっては天上天下湊様独尊」 「それは聞き捨てならないわね……と言いたいところだけど。主人に対する敬意は、侵していい領域ではないわね」  少し前なら、僕は従者みたいな思考をする度に自分を咎めていたけど……今となっては、そういう気持ちはすっかり抜けてしまった。 「はい、私もルナ様を尊敬しています」 「私は親友として、朝日を尊敬しています」 「じゃあ、回り回ってみんな私を尊敬しているということで良いですわね。ああ、ルナを除いてですが」 「……えっ?」 「くくっ……素で驚かれてるぞ、ユーシェ。寝耳に水とはこのことだな」 「ど、どうして尊敬してくだらないんですのっ! 私は血筋に沿った高貴な振る舞いをしていますのにっ!」 「いたしかたありません、私らはこの国では異邦人。ザビエルが日本にやってきた当時も、長い苦節の時を過ごしたと言いますし」  不当な評価を受けている、ということかな……でも高貴というより、ユルシュール様は親しみやすい雰囲気だ。 「私はちゃんと尊敬していますよ、ユルシュールお嬢様。あと、『くださらない』です」 「うっ……そのタイミングで間違いを訂正されると、さらに私の立場が悪くなるのですが。気のせいですか?」 「ああ、気のせいだ。日本に来て半年経つのにその体たらくかなんて、誰も思っていない」 「そ、そうですか……それは良かったですわ」 「そうです、ルナお嬢様がウソをつくことなどありえません。我がお嬢様の朋友が、そんなことをするはずなど」 「北斗……それはそれで私の良心が痛みます。ユーシェ、安心してね。あなたは十分高貴に振る舞っているわ」 「……えっ、思ってないよ何にも。私も金髪にしたら高貴に見えるかなとか、不良なこと考えてないよ」 「お嬢様はいうなればシンデレラ。今私は、とても上手いことを言った」 「……私のガラスの靴は、多分誰も拾ってくんないよ(チラッ)」  思いがけず湊に切ない目で見られてしまった……ガラスの靴って、僕を王子様に見立ててるってことだよな。 「……私もそんな気がするな。まずデザイナーになれるかどうかだが、なったらなったで仕事ばかりで一生を終えそうだ」 「ルナがそう言うなら私もそうですわ。恋愛より何より、ルナに勝つことの方が面白いですもの」 「お嬢様……サーシャはその覚悟を汲み取りました。ご実家に何度言われても、お見合いの話はぴしゃりと断り続けます」 「どの家でも同じような悩みがあるんだな。瑞穂様も、ことあるごとに求婚話を持ってこられて……まあ、私が居る限り不本意な結婚など、絶対にさせない」 「わお……世のお嬢様のみんなが待ってた言葉だよ、それ。執事の鏡だね、北斗さんは」 「……女執事。考えてみればそれなりにマイナージャンル」 「ルナのように自立していたら、自分の意志決定も効くんだけど……私も出来るだけ早く、自分の力で身を立てないと」 「ですわね。日本は好きですから、永住したい勢いですけれど……卒業したあとの行き先が決まっていなければ、スイスに戻るしかありませんし」  話を聞いているうちにふと考える。フィリア女学院が無かったら、僕は今頃どうしてただろう……。  ……今となっては、想像も出来ない。多分兄様の付き添いをして、兄様にとって必要な役割を果たすだけだっただろう。  僕もりそなも、今はやりたいことを選ぶだけの自由を与えられている……でも、それはずっとじゃない。  進む道を決めて、ここが僕の居場所だと言うことが出来なければ。その時は……兄様の所に戻るしかない。  お嬢様方だけの授業の時間。僕は教室で、ルナ様と瑞穂のショー向けのデザインの写しを見ながら、ノートパソコンにデータを入力していた。  ……誰もが才能を持って、夢を追いかけている。そんな彼女たちを傍で見ていれば、力添えが出来れば。僕は、居場所を見つけられるだろうか。 「おや……朝日。休憩は取らないんですか?」 「あ……はい。少し、考えたいことがあったので……」  北斗さんは何も言わずに歩いてきて、僕のとなりの席に座った。きびきびとした男性的な仕草は、男の僕でもかっこいいと思う。 「先ほどから、少し様子が変でしたね。何か、思うところでも?」 「時間がいっぱいあるだけに、これでいいのかと思える部分もあって。それこそ、デザインだけで頭をいっぱいにしてない自分が中途半端に思えてきたんです」 「……それは、そんなに悩まなければならないことかな?」 「え……?」  北斗さんからそんなことを言われるとは思ってなかった。彼女はすごくストイックな人だと思っていたから。 「ユルシュールお嬢様も言っていたとおり、適材適所だよ。誰もが同じことをしていたら、世の中は回っていかない」 「性格だってそうだ。学院長のように特化した人間もいれば、和を以って尊しとなす……それを体現する人も、また必要だよ」 「自然に、ありのままが一番いい。無理をしているよりはね」 「……北斗さんは達観してますね。私もそれくらい、大人になりたいです」 「私のことを大人だと思うなら、それは私が色んな人を見てきたからかもしれない。部族に伝わる知恵は、この日本で生きる10年を、ひとときで与えてくれる」 「君にもあの雄大な光景を見せてあげたい。悩んでいることが、何もかも小さく感じられるから」  ……また、自然に口説かれてるみたいな空気になる。彼女が女性と分かっていると、どうにも不思議な気分だ。 「……瑞穂様との衣装製作は進んでるのかい? 最近、話を聞かないけど」 「文化祭の間は作業を止めていたんですが、そろそろ再開しようと思っています」 「君なら、どちらかに肩入れしたりはしないだろうし……全力で2つの服を作ることになるわけか」 「はい。時間が足りないなんてことにならないように、今から難しそうな部分のモデリングをしています」 「へえ……凄いな。これが、ルナ様のデザインを立体化したものか」 「はい。縫い目を少なく形成したいので、パーツをいかに減らして裁断するかを考えているところです」 「なるほど……むっ」 「……北斗さん?」  北斗さんの表情が不意に真剣になる。彼女はひとつ呼吸をおいたあと……、 「何奴だ、名を名乗れっ!」  突然北斗さんが声を張る。すると、廊下を走りさっていく音が聞こえてきた。 「……どうしたものか。隠れてこちらの様子を伺うような輩には、言い訳は無用という気もするが」 「様子を伺う……でも、どうして僕らを……?」 「考えられることは幾つかありますが……まさか、あの男がそこまでするとは……」 「あの男?」 「……いや、確証もないことを言うのは尚早でした。朝日、衣服のデータの扱いには十分に気をつけてください」  そうか……ルナ様がクワルツ賞の一次を通った話は、学院内でも有名だ。彼女の作るデザインには、既にかなりの価値が生じている。 「ありがとうございます、北斗さん。これからは注意して、絶対にデータを漏らさないようにします」 「紙データの扱いも気をつけなければいけないね。金庫に入れるようにお願いしておこう」  北斗さんは手帳にその旨を書き込むと、僕の席の後ろにすっくと立った。 「あの……どうして後ろに立たれるんですか?」 「朝日が作業をしている後ろから狙われてはいけないから。私が後ろにいる以上、なんぴとたりとも盗み見はできないよ」  背後から視線を感じて落ち着かないんだけど……北斗さんの好意は無碍に出来ないし。このまま作業を続けよう。 「……時々朝日を見ていると、本気で分からなくなる時がある。自分が本当は、男なのではないのかと」 「えっ……どどっ、どういう意味ですかっ……?」  振り返ると北斗さんの頬がぽっと染まっている……僕の背中を見てそうなったっていうのか。 「いや……気にしないで。戯言と思ってもらって構わない」 「私が変なのか、君が特別なのか……どちらにしても、益体もない話だ」  北斗さんは自分の感情を測りかねているみたいだった。やっぱりお風呂でバッタリの後から、彼女に何かしら変化が起きてしまってる気がする……。  少し気になる出来事はあったけれど、今日の授業も無事に終わった。  みんな帰っていく中で、僕らは残ってショーの衣装制作の作業を行う。気がつけば10月、そろそろ作品を完成させなければならない。  いくつも取り寄せた布を机の上に置いて、ルナ様がひとつずつ風合いを確かめる。瑞穂も同じようにして布を選んでいた。 「……もう少し光沢がある方がいいか。色味はこっちだが……」 「では、このふたつを提示して発注し直しましょうか」 「いいのか? 生地選びがこれ以上遅くなると、制作に支障が出てこないか」  僕の発想なら、間に合わせることを優先するけど……ルナ様の全てを肯定したい。押さえつけられたら、芸術の翼は広がらない。  ……籠の鳥という言葉を聞いたから、というわけじゃないけど。僕はルナ様の従者として、彼女の服を作る時は彼女の考えに染まりたいと思う。 「試作段階でしたら、別の布でも試せますから。実際の生地を100%生かせるように準備をしておきます」 「……そうか。分かった、間に合うものとして発注する」 「私のほうは……朝日、これとこれのどちらがいいと思う?」  瑞穂は忌憚なく僕に意見を尋ねてくる……僕の意見が参考になるのかって、前まではどうしても考えてしまっていたところだ。 「私は……こちらの生地が面白いと思います。徹底的に新しいことをした方が良いですから」 「そうですね……私もそう思っていたのよ。嬉しいわ、朝日と同じ感覚を共有できて」 「朝日がカットをしたら、私が縫うんですのね……何か緊張しますわね。まあ、私の手元が乱れることなんてありませんけれど」  縫製の技術は、誰が突出して優れてるということもない。湊はまだミシンの使い方をマスターしてないけど、飲み込みは早いほうだ。 「ルナと瑞穂の絵にあったアクセサリー、もうちょっとで出来るよ。ルナの方はもう出来てるけど、瑞穂のも出来たら見せるね」 「ああ、それで頼む。私だけインスピが高まっても、少々勝負としてフェアじゃないからな」 「ありがとう、ルナ。ライバルに塩を贈るなんて、やっぱりあなたは潔い人ね」 「湊の手腕を評価しているということでもある。ベタな言い方だが、このグループならどう転んでも勝てる……そういう面子が揃ったと思う」 「だ、だから無駄にプレッシャーを増さないでくださいませんか? あなたの服を縫うというだけで、つるりと手元が狂いそうですのに」 「ユーシェはそんなことする子じゃないでしょ。きっちりやって、ルナにドヤ顔してくれるんでしょ?」  湊は空気を和ませるためか、少し挑発的に言う。ユルシュール様は巻き髪を手で跳ね上げつつ笑った。 「そう言われては、ひとつのミスも許されませんわね」 「覚えておきなさい、ルナ。あなたの命運は私が握っていますのよ……これから私のことをユルシュール様と呼びなさい」 「いやだ。じゃあ君のメイドに縫い子をさせよう」 「ウィ。ご指名とあらば、私の手腕を見せざるを得ませんやな」 「サーシャが高い技術を持っていると分かっていて指名したのですか……さすがルナ、恐ろしい子ですわ」 「私もお嬢様を補佐するため、ひと通り会得しておりますよ。染色も経験しておりますので、ご所望の色があれば染め上げてみせましょう」 「も、もういいですわ……私が一番グループに必要ないなんて、そんな結論は認められませんし」 「私もちょっと手先が器用じゃなかったら、要らない子になるとこだったよ。良かったー、持つべきものは趣味だね」  湊のアクセサリーは、僕も出来たら一つ欲しいくらいだ。趣味じゃなくて、仕事として成立すると思う。 「あ、そーだ。朝日のピンクッション、新しいの作ってあげよっか?」 「いいんですか?」 「朝日のチャームポイントだもんね。いつでもご主人様の服のほつれを繕います、みたいな」 「なんだ、そんなつもりだったのか? それ。私の服がほつれてるなんてあるわけないだろ……あっ」  ルナ様の袖口から糸が出てる……なんてタイミングだろう。ユルシュール様は肩を竦めて笑った。 「あとで朝日に繕ってもらったらいいですわ。いいですわね、主人と従者で仲がよろしくて」 「最近は瑞穂との方が仲がいいがな。なんだ君ら、そろそろ出来てるのか」 「で、出来てるっていうことはなくて……私たちは清いお付き合いをしているだけよ。ねえ朝日」 「……お嬢様がお付き合いなどと口に出されると、つい反応してしまいます。不純異性交遊をする悪い子はいねがー、と」 「ジャパニーズ・ナマハゲね。あなたには良く似合いそうじゃない、民族衣装みたいで」 「もし私がそんな格好をすることがあったら、真っ先に君の所に行くよ。悪い子というか、悪だからね」 「美しさが罪というの……? だとしても、私には裁かれる謂れがないわ」  どんな話の流れからでもこうなるな……二人はいつか和解出来るかと思っていたけど、やっぱり宿命の好敵手なのかもしれない。  今日は、僕は厨房に入らなくていいことになっている。ルナ様の部屋でお付きをしようと思って、僕は着替えてから部屋を出た。  階段を上がるためにエントランスに向かう。リビングを通り抜ける途中で、話し声が聞こえてきた。 「ありがとうございます……」  エントランスで瑞穂が他のメイドさんと話をしてる……どうしたんだろう。  話していたメイドさんが居なくなったところで、僕は何かを持って立ち尽くしている瑞穂に近づいた。 「……どうしたの、瑞穂」 「……朝日」  瑞穂の手には封筒があった。どうやら、実家から送られてきたみたいだ……花之宮の家紋が押されている。 「いえ……すみません、何でもないんです」  瑞穂は言って、歩いて行ってしまおうとする。けれど階段を登る前に立ち止まった。 「……だめだよね、こんな急に他人行儀になって。親友だって言っておいて……」 「私は……瑞穂が言いたくないことなら、無理には聞かない。でも、できるなら……」  聞かせてほしい。そう言う前に、瑞穂は少し力なく微笑んだ。  瑞穂が外で話したいというので、僕は彼女について外に出てきた。  しばらく、瑞穂は何も言わずに花を見ていた。高ぶっていた気持ちを、話す前に静めているかのように。  急かすことはない。気持ちを静かにして待っていると……瑞穂がこちらを向いて、ついに口を開く。 「……私の家はね、もとはただの呉服屋だったの。歴史を遡ると、江戸時代くらいから続いているのよ」 「……花之宮家は、公家の家じゃなかった?」 「そう、本家はね。私たちの先祖と花之宮家の間で婚姻を結んで……私たちの家は、花之宮の分家になったの」 「私の先祖は、堺でも名前を知らないもののない大商人だった。有り余るお金の次に人が欲しがるのは、いつの時代も名誉……簡単には手に入らない『血筋』だったみたい」 「私たちは分家だけれど、婚姻を結んだときに家督を本家の人間に譲った。その人が、舞踊の家元をしていた」 「それで私の家は、代々舞踊の家元を継いでいくことになった。初めは男の人が家元だったけれど、途中で男の人の跡継ぎが途絶えて、女性でも継げるようになった……」  ……瑞穂は花之宮の分家の出身。家は、日本舞踊の宗家でもある。  それが、彼女が少し沈んで見えることと、どういう関わりがあるのだろう……と考えて。僕は一つのことに思い当たる。  女性が家元を継ぐということなら……瑞穂が、後継者にあたる立場のはずだ。 「……瑞穂は、家元を継ぐっていうこと?」 「……いえ。私は、家元に必要な一番大切な資格を持っていないから」  それは何かと聞くことをためらう。薄々と想像がついているから……なおさら。 「一度家元の血が絶えそうになってから……跡継ぎには、血を残せるかどうかという資質が求められるようになった」 「私も、そのために婚約を強制されそうになった。でも、男の人のことをそんなふうに受け入れる気には、絶対になれなかった……」 「……物心づいだ時から日舞の練習はしてきたけれど。私は家元を継ぐために結婚を決めるほど、全てを捧げることは出来なかったのよ」  瑞穂は少し寂しそうに笑う。僕はその笑顔に込められた感情を、少なからず察することができた。  舞踊を習っていたことを一度も言わなかったのは……彼女が後継者となることを諦めたから。それが、今も彼女の中で大きなこととして存在している証拠だ……。 「でも……日舞からは遠ざかっても、私はやっぱり、芸事が好きだった」 「自分で演じるのと同じくらい、見ていることも好き。ステージに立つアイドルの姿を見ていると、凄く気持ちが晴れやかになった」 「そのうちに思ったの。私の家は服飾と繋がりが強いから、服を作る勉強をして……アイドルが着るような衣装を作りたい、って」  そう思って、服飾の勉強を始めて……彼女は『きもの想像コンクール』に出品して、賞を取った。そういうことになるんだろう。 「だから、きものをアイドル衣装のようにして作ったんだね……」 「……最初からそうするつもりじゃなかった。家の方針で、着物のコンテストにしか出品出来なかったのよ」 「私は……その時は、ただ反発してたのかも。何もかもを縛ろうとする家に反抗して、驚かせたかった」 「それが成功したのかは分からないけど……賞を貰えた時は、嬉しかった。私は好きな事をしてもいいんだって、そう思えたから」  そう言ってはにかむ瑞穂を見ていると、純粋に凄いと思う。僕はそうやって、自分の道を切り開くことがまだ出来ていないから。 「……日舞のことは、今はどう思ってるの?」 「……私が継がないから、従妹の女の子が継ぐことになるって。きっと、この手紙に……」  瑞穂は言って、封筒を開けて確認する。彼女の思った通りの内容だったのか、その表情がはっきりわかるほど曇った。 「継がないって言っておいて……落ち込むなんて。私、未練がましいよね……」 「……そんなことないよ。私の方が、ずっと……」  一度は諦めたのに。兄様にも匙を投げられたのに……僕は、夢を捨てられなかった。  瑞穂が僕に近づいてくる。そして彼女の腕がふわりと広がり、正面から抱きしめてきた。 「……もう少しだけ傍にいて。朝日……」 「……大丈夫。落ち着くまで、幾らでも待つから」  甘い香りの中で、柔らかい女性の身体に触れても……僕は、今だけは落ち着いていられた。  瑞穂がアイドルを好きになった理由……服飾を志した理由。それが、彼女が今まで語らなかった部分に秘められていた。  隠し事が一つ消えて……僕は、彼女の心に、また一つ近づいたように感じて。  同時に胸の奥に生まれた棘が、痛みを増していく。  ……瑞穂が日舞を諦めたのは、男性に対する不信があるから。僕はそれを聞いてもなお、彼女を騙しつづけられるのか……。  いつか、こんな日々に終わりが来て……僕は、瑞穂の傍に居られなくなる。  『大蔵遊星』であることに悩んだことなんて無かった……それが当然のことだと享受してきた。  夢のために作った仮の姿だった『小倉朝日』が、実像を持ち始めている。それが消えるとき、僕自体が消えてなくなってしまうほどに。  夜になってから、僕はルナ様に学園であったことを伝えた。僕らを監視しているような動きがある……なんて、物騒な話になってしまうけど。 「……なるほど。デザインはデザイナーにとって財産だ。私もそれが狙われるほどの存在になった、というのは考えられなくはないな」 「はい。絶対に外に漏れないよう、セキュリティを徹底します」 「君、そんなに言い切れるほど自信があるのか? 大蔵のメイドは優秀だな……まさか、データを身体を張って守ろうと言い出すとは」  男としての僕は、自分の身を守るくらいの力はある。でも、今の僕はそういうイメージは持たれていないだろう。  そして情報を守るということに関しても、十分に教え込まれた。機密を漏らすようでは、僕は大蔵の一員として機能しないから。 「……ただ、一つ気がかりがあるとすれば」 「ショーの衣装は、事前に提出して審査がある……か」  そう……僕は学院の人たちを信用しているけれど、ひとつ気がかりがある。  ルナ様がクワルツ賞の一次選考を通過したとき、兄様はすぐに駆けつけてきた。  兄様はクワルツ賞で最優秀賞を取ったことで、その後の有名ファッションデザイナーとしての道筋をつけた。  つまり兄様こそが、もっともクワルツ賞の価値を理解している。賞を取れるかもしれないルナ様の服の価値を、高く評価している……。 「……まあ、ショーに出す衣装とクワルツ賞に出すものは違うが。もし盗用するとしても、意味はあるまい」 「いえ……ショーに向けてデザインされたものは、恐れ多くも申し上げますが。クワルツ賞に出品されたものと同じか、それ以上のものだと思います」 「む……そうか。君が私情を抜いて客観的にそう思うのなら……ショーとクワルツ賞は、延長線上にあると考えることもできるな……」  けれど、僕のことが兄様に知れてしまったら……兄様はきっと、僕のことを潰そうとする。  ルナ様、そして瑞穂様のデザインで、僕らがショーを無事に終える……そんなことを、黙って見逃してくれるとは思えない。  一度挫折した僕を、兄様がどう見ているのか。それは、入学式の談話で十分に身にしみていた。 「……でも、これは全て推測です。私が作業をしているタイミングで、誰かに様子を見られていたというだけで」 「そうだな。だが、北斗の勘もあるのなら看過はできない」 「注意を喚起してくれて感謝する。瑞穂にも、気をつけるようにと言っておいてくれ」 「かしこまりました。それでは、今夜はそろそろ失礼いたします」 「うん、ゆっくり休んでくれ」 「……はぁ」  兄様に疑いを向けてしまった……僕とりそなは彼に育ててもらったとも言えるのに、僕は兄不孝だろうか。 「……今日の話をしてきたんだね、朝日。どうだった?」 「北斗さん……」  一階に降りる階段のそばで、北斗さんが僕を待っていた。歩み寄ってきて、心配そうに声をかけてくる。 「注意しよう、ということになりました。それしかありませんから」 「そうなるだろうね……気をつけるしかない。追い討ちをかけるようだけど、今日のことがあってから、何か胸騒ぎがするんだ」 「星の位置も、波乱が起こることを暗示している。くれぐれも気をつけて……あいまいなことを言ってすまないけど」  北斗さんはそう言いおいて、自分の部屋に戻っていった。  ……北斗さんは、何を感じ取っているのか。それに気がつかないほど、僕も鈍くない。  きっと彼女は遠からず、はっきりと思い出してしまうだろう。僕と、お風呂場で会った時に……僕がウィッグを外して、男の姿を見せていたことを。  ――そして、二週間後。僕がりそなと会う約束をした日曜日がやってきた。  今は、手元に男装をする用意がない。何かの間違いで、男の服を見られたらそこでばれてしまうから。  一度実家に帰って、りそなに写真を撮ってもらって……早めにお屋敷に戻ってこないと。 「よし……これくらいかな」  僕は外に出かけるためにカバンに物を詰める。完全に女の子とはいかないけど、持ち物が少しずつ女子に染まってしまった……。  まず、瑞穂の影響でメイク道具を持ち歩くようになった。女性の気持ちを理解するように努めるうちに、僕の女装は少しずつ完成に近づいている。 「いや、近づいている……じゃなくて」  誰もつっこんでくれないので、自分でつっこんでおく。それすら忘れたら、僕はもう後戻りができない。  エントランスに向かう途中でリビングを通ると、瑞穂の姿があった。 「朝日、ちょうどよかった。今、お部屋に行こうと思っていたの」 「今日、夕方まで時間はある? また、朝日に東京を案内して欲しいなと思って……」 「あ……ごめんなさい、今日は用事があって。夕方まで戻れないと思います」 「そう……うん、分かった。今日はひとりで出かけようかな……」 「北斗さんについていってもらったほうがいいよ。瑞穂はどうしても目立っちゃうから」 「そうなのよね……私って悪目立ちするのかな。原宿や渋谷に行くときは、周りの人たちの格好を見て合わせたほうがいいと思う?」  周りの人たち……ってギャル率が高いから、そっち系の格好だろうか。そもそもギャルって死語かな……。 「瑞穂はどんな格好をしても目立っちゃうっていうか……本当に、アイドルみたいな顔立ちだから。スカウトの人だって声をかけてくるよ」 「もう、それは朝日のほうって言ってるのに。人の言うことをきかない人なんて知りません」 「う……ご、ごめんなさい……あっ」  瑞穂は初めから怒ってなくて、謝る僕を見てくすくすと楽しそうに笑う。 「ふふっ……ごめんね、ちょっと意地悪しちゃった。こんなこと、滅多に言わないのに」 「あはは……瑞穂のことは怒らせちゃダメだね、って今思ったよ。すごく迫力があるから」 「えっ……そ、そんなに? 眉間にしわが寄っちゃってた?」 「ううん、全然」 「あ……今度は朝日がからかったの? もう、意地悪」  こういうやりとりにも慣れてしまって、すごく心地よく感じる。女の子同士でじゃれるのは、初めはそわそわしたものだけど。 「あまり引き止めても駄目だよね。行ってらっしゃい、気をつけてね」 「はい、行ってきます」  外に出てきてから、僕は屋敷をふと振り返った。北斗さんに忠告されてから、薄もやのような不安がある。  僕は何かを見落としていないか。考えてみても答えが出ないまま、時間だけが流れてしまっている。 「ああ……ダメだ。切り替えないと」  屋敷を出て、りそなの所に着いたら……僕はひととき、『大蔵遊星』に戻る。  いつの間にか僕は、その時を待ち望んですらいなかったことに気がつく。  この屋敷で皆と一緒に過ごしているあいだに……僕は今までの人生で一番、尊い時間を過ごしていたんじゃないかと思う。  もちろん、りそなと過ごしていた時間も同じくらいに大切だ。だから、ちゃんと兄の顔に戻らないとな。  りそなが手配してくれた車で家に戻る。移動している最中も、誰かに偶然見られたりしていないか気になって仕方がなかった。  もとは大蔵のメイドということになっているから、何ら問題は無いんだけど……心配しすぎも良くないか。  家に着いた僕は、久しぶりに男性の服装に着替えた。あまりに懐かしすぎて、勝手を忘れてしまっている。 「……はは……落ち着かないや。大丈夫かな、これで」  服を着ても馴染めなくて笑ってしまう。僕は男として生まれてきたはずなんだけど……。 「全体的に、兄の仕草が女性寄りになった気がします。いえ、気持ち悪いということではないですが……」 「え、えーと……コホン。僕、僕。僕は変わってないよ、りそな」 「そうですね、そこは切り替えてください。私としても、兄に再会した感をもっと味わいたいです」 「……僕、りそなに兄さんらしいことって何かしてたっけ?」 「……言われてみると、たいしてしてませんね」 「あ、あはは……僕ってもしかしなくても、物凄くふがいないんじゃ……」 「いえ、ウソです。こうやって無理を聞いて戻ってきてくれただけでも、十分に兄らしいです」 「僕こそ、兄様が気にしてるってこと教えてくれてありがとう」 「学院でも何度か顔を合わせかけたけど、ぎりぎりでセーフだったと思う。卒業まで、何とか……」 「……それが、少し気になります。半年も放置していたのに、『遊星はどうしている』と突然電話をかけてきましたから」 「兄は、上の兄に顔を見られたりしませんでしたか……? 妹は、それを心配していました」 「……そう言われると、100%っていう自信は持てない。でも、ばれてたら僕は……」  その時点で、フィリア女学院には居られなくなる……そうならないように、兄様と交渉するしかない。 「今更ですが……あまりにも細い糸を渡っているような気がしています。兄の資料に、学院長代理が何かで目を通してしまったら……」  衣遠兄様なら、多少のメイクや変装でごまかしていても、僕の正体を見ぬいてしまうだろう。  兄様が学院長だと知るのが、入学する前だったらしっかり対策を考えられたのに……なんていう弱音は、絶対に口にできない。 「……すみません、心配性で。衣遠兄様のことを考えると……怖くなってしまって」 「情けないですね……兄に、学院に行くように言ったのは私なのに。一年したら兄の後についていくなんて、簡単に言ったりして……」  りそなの手が震えている。僕が不安な顔をしていたら、彼女を安心させられない……だから、僕は笑った。 「大丈夫……何とかなる。りそなは、何も心配しなくてもいいから」 「……お兄さま」 「そんな顔してたら、幸せが逃げちゃうよ。りそなは、いつも余裕げでいてくれないと」  涙がにじみかけた目を、りそなは顔を赤らめつつハンカチで押さえる。僕はそれを引き継いで、彼女の目もとを拭ってあげた。 「……余裕げという言い方は、何か生意気そうです。妹、生意気ですか?」 「ううん。りそなは、僕の世界で一番かわいい妹だよ。大好きだよ」 「あ……」  りそなは驚いたように僕の顔を見上げる。もちろん妹としてだけど、今の言葉にウソはなかった。 「……そんな甘い言葉で素直に喜ぶ自分が嫌です。私の扱いが簡単だと思ってませんか」 「そんなことないよ、本当に感謝してる。いつもありがとう」  りそなの髪を梳くようにして撫でる。最初は少し驚いていたりそなも、途中から僕のするがままに任せてくれた。 「……写真を撮るだけのつもりだったのに。今日の兄は、家族サービスが旺盛すぎませんか」 「りそなに久しぶりに会えて嬉しいから。早く、一緒の学院に通えるようになるといいね」 「そうすると、私はルナちょむに仕えている兄を遠目に見ていることになりますが……」 「……主人と妹で扱いの差がありすぎると、妹は不機嫌になりますよ」 「うん、心配しなくていいよ。僕はメイドだから、りそなにも『りそなお嬢様』って言うからね」 「それは……言われてみると、なかなか気持ちいいですね。私、Sなんでしょうか」  もしかしなくてもそうだと思う。ルナ様と気が合うのは、彼女と近い価値観を持ってるからだと思うから。  僕は何枚か写真を撮って、兄様への近況報告に使ってもらうことにした。それとは別に、りそなと二人の写真も撮っておく。 「……兄の部屋でふたりでこんなことをしていたら、仲良し兄妹みたいで恥ずかしいですね」  りそなはそう言いつつも、デジカメの画面に二人の写真を映して嬉しそうに見てる……ちょっと照れるな。 「りそな、どこか行きたい? 今日は夕方まで時間をもらってるから、遊びに行けるよ」 「本当ですか? でしたら、妹は兄を連れて買い物に行きたいです。流行のトレンド視察です」 「うん、いいよ。外に出る時の服装は、どうしようか……」  女装に戻ってりそなと歩く……それも考えたけれど。せっかく男に戻れたのに、という気もする。 「……そのままがいいです。そのままだったら、男の人が声をかけてきたりもしないでしょうし」 「女装兄は、賑やかな街に出たら3分で声をかけられます。違いますか?」 「う、うん……そうだね」  男のときはさすがにそんなことなかったのに、女装してから普通に声をかけられるようになってしまった……。  そういうことは無しにして、りそなの買い物に付き合いたい。女装するための服を持っていって、途中でどこかで着替えてから帰ることにしよう。  渋谷に来るのも、随分と久しぶりだ。相変わらず若者でごった返していて、活気に満ち溢れてる。 「人が多いのは苦手ですが……兄が居ると、あまり気にならなくなります」 「良かった、やっぱり男の格好で……」  女装した僕が声をかけられてしまうなら、りそながそうならないわけがない。駅前で通りの女の子を眺めてる男性が、みんなりそなに目を留めていた。 「そんなに見られるようなかっこうはしてないはずなんですが……私、浮いてますか?」 「ううん、気にしないでいいよ。ほら、渋谷だったらもっと凄い人たちが歩いてるから」 「比較対象が前衛的な人たちすぎますが……まあいいです。まずは901に行きましょう、そのあとはセンター街です」 「あ……りそな、手を繋いで行こうか。混雑してるから、はぐれるといけない」 「……は、はい。兄がそう言うのなら、そうしてあげなくもないです」  りそなは僕の差し出した手をきゅっと握る。小さくて温かい手……こうやって歩くのは久しぶりだ。 「……あの、私の体温高くないですか。汗ばんできたら遠慮なく外してください」 「あはは……そんなこと、気にしないよ。兄妹なんだから」 「何か兄がやたらと優しいです……どうしたんですか。長い間女装していて、反動が一気にきたんですか?」  確かにこの格好をしているうちは、男らしく、兄さんらしくありたいって気持ちはあった。夕方になれば、もう一度小倉朝日に戻らなきゃいけないから。  僕はりそなが行きたいところに全てついていった。買ったものは宅配便で家に送ってもらって、身軽になった後で最後に喫茶店に入ることにした。  りそなの学校での話や、今興味を持ってるファッションの話を聞いて、僕の考えを話す。何気ない時間だけど、それこそが僕らに必要なものだった。 「その子は友達の友達が富豪だから、大蔵なんて目じゃないとか言ってました」 「それで、私は言ってあげたんです。『あなたはいるかどうかも分からない誰かに頼るんですか?』って」 「あはは……友だちの友だちが本当に居るのかは分からないしね。でも、あまり辛辣にしちゃだめだよ」 「はい、分かってます。私が大蔵というだけでケンカを売ってくるなら、それなりに対応するというだけです」 「……まあそのわりに、うちの長兄をテレビや雑誌で見て目をつけて、『紹介してくれない?』と言ってきたりもしますが。なんなんでしょうか」 「そういうこと、今もあるんだね……僕もどこから聞きつけてきたのか知らないけど、いっぱい言われたな」 「私たちと長兄の関係を把握せずに言われても困ります。恩は確かに感じていますが……」  仲が良いというわけじゃない。むしろ僕らの兄様に対しての感情のほとんどは、畏怖で占められている。 「……りそなは、結婚がどうとかいう話をされてたりしない?」 「なんとか避けられています。そのために私、こういう格好をしてる面もありますし」 「いざとなったら家出して、ルナちょむにお世話になろうと思っています」  ルナ様なら、りそなのすることを助けてくれると思う。彼女がとても情に厚いことは、近くにいてよく分かっているから。 「色々と状況は変わってきたけど……悩んでることがあったら、僕に迷わず相談するんだよ」 「……兄に会えないことが悩みだったので、それは今日で解消しました。優秀な兄ぶりでしたよ」 「そっか……良かった。僕、ちゃんと男として振る舞えるか心配だったから」 「エクセレントと言ってもいいです。撫でてあげましょうか? さっき、私にしたみたいに」 「そ、それは……人前では恥ずかしいかな」  悪戯っぽく笑うりそな。いつの間にか、こんな女の子らしい顔もするようになったんだな……。 「じゃあ、次回までとっておきます。手帳に書き込みました」 「う……ま、まあ大丈夫だけど。その普通にするだけだよね?」 「……膝枕もしますが、なにか?」  僕は今日、そんなに理想の兄に近かったんだろうか……それは嬉しいけど、妹とはいえこの歳で膝枕っていうのは、どうなのかなと思ってしまった。  喫茶店の会計を済ませて、外に出る。そして、りそなと一緒にタクシー乗り場に向かう途中……。 「ん……」 「電話ですか? 出てもいいですよ」  りそなに言われて、僕は携帯を取り出す。そして、発信者の名前を見た。  ――大蔵衣遠。どうして、このタイミングで……。  僕の表情を見て、りそなが何が起きたのかを察する。僕は空元気で微笑んでから、通話のボタンに触れた。 「……もしもし。遊星です」 「フン……お前に連絡する手段など、残しておく意味も無いかと思っていたが。なぜ俺の不在に留守をしていいと思えるのか。理解に苦しむ」  第一声から、兄様は容赦なかった。言い返すひとことだけで、全身の力が必要なほどに威圧される。 「それは……僕にも、したいことがあるから……」 「したいこと? お前は俺と同じようにデザインを志し、そして挫折した。それでお前の『したいこと』は、終わりじゃなかったのか」  僕は諦めてない……諦められなかった。けれどそれを口に出せば、それで終わってしまう。 「……まあいい。お前にはしてやられたよ……放置しておけば大蔵のパーツとして機能しているかと思えば、自分から家を出たそうだな」 「妹の口止めもあったようだが、人の口に完全に戸は立てられん。まして大蔵に仕える連中に、俺の言うことに逆らう奴などいない」 「その前提を、くぐり抜けられるとでも思っていたのか……いつまでもそんな茶番を続けていられると、夢でも見たのか?」  ――血の気が、砂のようにざぁっ、と音を立てて引いていく。氷を飲み込んだような感覚……身体の中心から、痛みを伴う冷たさが広がっていく。  行き交う人の中で、僕は何も答えることが出来ずにいる。そんな僕を見るりそなの顔には、少なからず怯えがあった。 「……半年も感知せずにいたんだ、俺もまだ甘いということだろう。お前に関心が無いから気が付かなかった、などと言うつもりもない」 「おまえが何を考えて、俺の懐に潜り込んできたのかくらいはわかる。おまえはスタンレーのデザインに惹かれていたな……真似事のようなこともしていたはずだ」 「俺がスタンレーの代わりに学院長代理を務めると知った時は、どう思った? 生きた心地がしなかったはずだ。違うか?」 「……兄様、僕は……僕はまだ、この道を……」 「分かっている。分かってるからこそ、俺はお前に絶望を突きつけてやる」 「お前は俺の言うことさえ聞いていればいい。俺が興味を無くしたのなら、それだけの価値の玩具として存在していればいいんだ」 「……壊れた人形にふさわしい遊びをしてやろう。お前たちは、ショーに出ることは出来ない」 「っ……それは、それだけはやめてくださいっ! ショーは僕だけじゃなく、みんなの……」 「だから俺は言っているんだよ……愚かな弟よ」 「山吹から報告を受けて聞いた。お前のグループはふたつに分かれていて、『小倉朝日』は花之宮の娘のデザインで、モデルとしてショーに出ると」 「……どうして、そこまで……」 「聞いたからだよ。俺はショーに出る全てのグループの情報に目を通した。その上で、桜小路ルナのグループはどうなっているかと山吹に尋ねた」 「そう言われて答えない道理があると思うか? 残念ながら、無いんだよ」  兄様はどこかの段階で僕の正体に気づき……そして、一つ一つ駒を進め始めていた。  それはきっと、今も。けれど僕は、この場から逃げるという選択さえ出来ない……りそなが居るから。 「文化祭で警報が鳴ったのは、お前にとっては不運だったな。俺があの時出先から戻った理由……それは、俺も中継を見ていたからなんだよ。片手間にな」 「警報が鳴り始めて、俺は画面に目を向けた。するとどうだ……俺の弟と、看護師姿の女が声を張っているじゃないか」 「お前の姿だけなら、まだ見逃してやれたかもな……だが、声はいただけない。普段は演技をしているんだろうが、張った声を誤魔化すのは至難の業だ」  ……あの時。僕らの前で、保護者と生徒たちに頭を下げた時には……兄様は、もう気づいていたんだ。 「『これで、文化祭は閉会とさせていだたきますが……その前に』」 「『校舎の上層階から、避難を誘導してくれた生徒がいた。何でも……看護士の格好をしていたそうだが。まあ、仮装か何かだったのでしょう』」 「『パニックを起こした生徒の中で冷静さを失わず、皆の避難を誘導してくれた。生徒、教職員を代表して、私から謝辞を述べさせていただきたい』」  ……映像を見ていてなお、兄様はあんな言い方をした……僕に、気づかせないために。  いや……もし『テレビ局の中継で見た』と言われていても。僕は何も疑問に思わないままに過ごしていただろう。 「あれから俺は、花之宮の娘とお前の関係を調べさせた。随分と親しくしているそうだな」 「……それは同時に、あの娘が今のお前にとって最大の弱みであることを意味する……そうだな?」 「何を……何をするつもりなんですか、兄さん……っ!」 「だから言ったろう、俺は不出来な玩具で遊んでるだけだ。お前が身分不相応に欲しがったものを、全て奪ってやる」 「そのために俺は、腰を上げる必要さえない。お前も知っているんだろう……? 花之宮瑞穂が、どうして実家を離れて東京に来たのかを」  ――舞踊の家元……その血筋を残すために、結婚をさせられそうになって。彼女はそれを拒否して舞踊の道をあきらめた。  その理由を突き詰めるのなら……『男性に対して不信感を持っている』。その一点に行き着く。 「……そろそろだな。あまりくだらんウソは好かんが、俺を責める資格はお前にはない。お前もまた、ウソをついてたんだからな……はははははっ……!」  哄笑とともに通話が切れる。電話を持つ手に力が入らず、僕は力なく腕を下げて、顔を上げて目の前を見る。  ――どうして兄様の電話を、ここで受けてしまったのか。  どうしてもっと早く、女性の姿に戻らなかったのか……。  時が止まったように、何も聞こえなくなる。目に映るものを否定する言葉で、頭の中が埋められていく。  行き交う人の中に、彼女が立っていた。紛れもなく瑞穂が、僕のことを見つめていた。  その目は僕を映していても、それを認めたがっていないように見えた。彼女は小さく首を振って、唇を震わせる。 「……そんな……そんなこと……」  瑞穂と僕の間だけ、人波の中で空隙ができる。僕はまだ、喉が引き攣れて声を出すことも出来ない。 「髪が……格好も……でも、どう見たって……」  身体の感覚が、まるでなかった。足が地面についていることすら分からないほど、現実味というものが失せていた。  ……夢であってほしい。ただ、ひたすらそう願っていた……この場所から、彼女の視線から逃げ出したかった。 「……朝日……朝日なの……?」  そうであってはならない。言ってしまえば、僕は……。  ……けれど瑞穂はもう、理解してしまっている。男の格好をしても、僕が『小倉朝日』であることを。  りそなのことを伺う力さえ残っていない。向かい合う僕らを怪訝な顔をして見る人たちを、気にする気持ちさえ湧いてこない。 「……違うよね? そんなことないよね……だって、朝日は……」 「っ……」  女の子のはずなのに。そうやって唇が動いたのを見て、僕は思わず顔を伏せた。  ……どこか、油断していたんだ。りそなのために……それ以上に、僕自身のために、少しでも長く男に戻っていたかった。  どれだけ贅沢なことを考えていたんだろう。女子しか学べないところで学ばせてもらって……それで男の自分も大切にしたいなんて。  そうやって驕っていた僕は、瑞穂の前に正体を晒して……ルナ様の家に来てから、ここに至るまでの全てが。後悔という感情で、埋め尽くされてしまおうとしている。 「……お願い……違うって、そう言ってくれるだけでいい。言って……あなたは、小倉朝日じゃないって」  ……そう言って、ウソを続けることが出来るだろうか。僕には、兄様を責める資格なんてありはしない。  初めから、間違っていた。間違っていても夢を追いかけることが正しいと思った……でも、それは。  もう、続けることの出来ない嘘。 「……僕は……小倉朝日です。あなたが知っている……」 「……っ」  彼女の目が見開く。知らない人を見るような色が、見る見るその顔に広がっていく。 「……どうして……っ?」  傷つけたいなんて、思っていなかった。彼女を守りたいと、そう思っていた。  小倉朝日としてでもいい。親友と呼ばれたことを、彼女をそう呼べることを、心から嬉しいと思った。  ……彼女に好意を抱く自分を律しようとしながら。恋をしている相手の傍に居られることの幸福を、甘受し続けた。  それがすべて、彼女にとって耐え難い裏切りに変わると知りながら。 「親友になってくれるって言ったときも……私のこと、内心で笑っていたの? あなたのこと、女の子だと思って接する私をっ……!」 「……笑ったことなんてない。僕は……」 「嘘をつかないでっ! 私が……私が男の人が苦手だって言った時も、優しい顔なんかして……っ」 「全部……全部、嘘だったんじゃない! 私と出会ってからのこと、全部……っ!」  もし知られてしまったら。その時はどれだけ責められても足りないだろうと思っていた。  彼女は初めから、僕に優しい笑顔を向けてくれた。友だちになろうと言ってくれた。  ……そうやって過ごしたこの半年の時間。積み重ねた思い出が、砂のように崩れていく。  覚悟をしていたはずなのに。大切な人に責められる痛みは……声すら出ないほどのものだった。 「あなたをアイドルにしたいって言った時は、どう思っていたの……?」 「最初は……突然なことを言うと思った。でも、僕は……あなたの期待に応えたいと思ったんだ」 「……朝日の顔をして、そんなことを言わないで。聞きたくない……」 「……ごめん、瑞穂」 「私の名前を呼ばないで……あなたは、朝日なんかじゃない……!」  言葉をかけることさえ、今の僕には許されていない。僕は今まで、ずっと嘘をついていたんだから。  ……瑞穂に認められないのなら……朝日という名前に、どれほどの価値が残るだろう。  夢を追うために作った名前が、いつの間にか別の価値を持つようになっていた。瑞穂に親友として認められたことで。  ……けれど、もう、取り返しがつかない。  嘘をつくのなら、最後までそうしているべきだった。そうすれば、彼女を傷つけずに済んだ……。  でも、本当に僕はそうしたかったのか。どこかで、自分が本当は男だっていうことを、気づいて欲しがっていたんじゃないのか。  彼女が男性を苦手にしていると聞いた時に……正体を明かして、嫌われることが怖いと思った。  ……それなら、嘘が露見するまでに、彼女を傷つけてしまわないように。もっと早くに離れるべきじゃ無かったのか……。 「……あなたのことは……私は、誰にも言わない」 「でも……あなたとはもう、普通の顔をして話せそうにありません」  俯いていた瑞穂が、顔を上げる……その目は初め、僕を他人として見るように努力しているように見えた。  ……けれど。その表情が崩れて。瞳が潤んで、涙がぽろぽろとこぼれて夕日の中で軌跡を残す。 「……っ」  瑞穂は泣いている顔を見せないように走り去っていく。なのに僕は、彼女の名前を呼ぶことも出来ない。 「……お兄さま……」  妹に心配をかけちゃいけないと思った。でも僕にはもう、彼女を安心させるために笑うだけの力さえ残っていなかった。 「……ごめん。りそな……情けないところ、見せちゃったね……」 「強がらないでください。私だって少なからず、ショックを受けてます……兄はそれ以上のはずです」 「……そうかもしれない」  立ち尽くす僕に、憐れむような視線を……あるいは、好奇の視線を向けてくる人たち。無理もない、と思うと自嘲めいた感情が湧いた。 「僕は……」  もう、あの屋敷には居られなくなる……瑞穂に知られてなお、皆に隠し通すなんてことは出来ない。  ……瑞穂がそんな僕を、どんな目で見るのか。今はそれが、一番怖くて……。 「……気休めを言っているかもしれませんが。私からも働きかけます……兄は、元の格好をして桜屋敷に戻ってください」 「ルナちょむに許してもらえるか……それが一つの関門になりますが。もう誤魔化せないのなら、認めてもらうしかないんです」 「……そうだ。りそなの言うとおりだね」  肯定しながらも、僕は望みがすでにないと分かっていた。どうやっても認められるわけがないから、僕は自分の正体を偽ったんだ……。 「……さっきの電話は……衣遠兄様からですか……?」  僕は頷きを返す。りそなは唇をかんで、悔しさを顔に出した。 「私が兄を家に呼ぶことも……その期日も。全部、衣遠兄様は知っていて……」  ……そして、瑞穂が今日ここに来るように仕向けた。それでも偶然が重ならなければ、瑞穂が僕の姿を見つけることは無かっただろう。  けれど……今日、兄様の思惑の通りになってしまった。もう、昨日までに時間を巻き戻すことは出来ない。 「りそなは悪くないよ。兄様は僕の正体を知っていて……僕に、罰を下そうとしていた」 「もし、今日僕の正体がばれなかったとしても……兄様が知っているなら、いずれはこうなってたんだ」 「……私は……悔しいです。どうしていつも無関心なのに、こんな時だけ……」 「衣遠兄様は、僕のことで遊んでるって言っていた。全部、思いつきなんだ……兄様にとっては」  泣いているりそなを送って、僕は重い足を引きずってタクシーに向かう。妹を、日が暮れる前に家まで送ってあげないといけない。  けれど頭の中は別の考えで埋め尽くされている。正体を告げた時に、屋敷の皆がどんな顔をするか……。  ……でも、逃げることは出来ない。結果として屋敷に居られなくなっても……もう、嘘は終わってしまったから。  りそなを家まで送ったあと、僕は女物の服に着替えて家に戻ってきた。  瑞穂に正体が知れてしまったのに、まだ偽り続けることに意味があるんだろうか。  ……瑞穂は、みんなに全てを話してはいないだろう。だから僕は、瑞穂のことを諦めることが出来たなら、このまま正体を明かさずにいられるのかもしれない。  でも、そうすることにはどれほどの意味もなかった。  誰かに露見してしまったのなら……少なくともこの屋敷のみんなには、嘘をつき続けられない。  瑞穂の悲しそうな表情を思い出す。正体を知っている湊以外は、あの失望に満ちた目で僕を見るだろう。  ……けれど、逃げることが出来ない。全てを失うとしても、先に進むことしか……。 「……小倉さん。夕方までに戻るのではなかったのですか?」 「……申し訳ありません。罰を受けます」  責められることをしたら、罰を受ける。それが当たり前だった頃の自分に、僕はいつの間にか立ち戻っていた。  厳しい顔をしていた八千代さんは、ふぅ、と小さくため息をつく。少なからず、彼女の心労を感じさせる吐息だった。 「小倉さんに会えるかもしれないと、瑞穂お嬢様が出かけられて……戻ってこられてから、ずっとお部屋から出ていらっしゃいません」 「北斗さんに事情を聞きましたが、何も話してくれませんでした……小倉さん、何か知っていますか?」  小倉さんと呼ばれるたびに胸が痛む。僕は、そう呼ばれていてはいけない……瑞穂に否定された名前だから。  北斗さんはどこから見ていたんだろう。あの時は気が動転して、彼女の姿まで確かめている余裕がなかった。 「とにかく、無事に帰ってきてくれて良かった……ルナ様も、心配されていましたよ」 「……あの、メイド長。これから、皆さんにお話しなければならないことがあります」 「……急に『八千代さん』で無くなるということは……やはり、何かあったのですね?」  僕は頷きを返す。八千代さんは逡巡していたけれど、リビングに皆を集めるように取り計らってくれた。  入浴の時間だったけれど、みんな先に僕の話を聞くために集まってくれた。  湊は僕の様子から、何の話をするのかを薄々と察しているようだった。 「あ、あれ? どうしたのこのシリアスな空気……」 「瑞穂はまだ出てこないのか? というか朝日、夕食まで帰ってこないとは何ごとだ。夜遊びしたい年頃か」 「時々あなたにも感心しますわね……この空気、気づいていませんの? 朝日も今までになくシリアルな顔をしていますし」 「ノンノン、お嬢様。シリアルではなく、シリアヌではありませんでしたか?」 「サーシャさん、今はぎりぎり踏みとどまりましたが……もう少し違う間違え方をしたら、あなたの綺麗な顔にもみじが出来るところですよ」 「変態メイドの語彙は危険。湊お嬢様の耳が汚れる」 「や、私朝日が心配で全然話を聞いてないから」 「……それで、どうした。こんな夜中に全員を集めたんだ、それなりに真剣な話だろう」 「それなりというか……朝日、大丈夫ですの? 顔が真っ白ですわよ」  僕は自分がどんな表情をしているのかも分からない。まともに何も考えることが出来ていなかった。 「小倉さん、無理はしなくていいんですよ。もし体調が悪いのなら、日を改めても……」 「……いえ。最初に……申し上げます。私は、皆さんに対して……」 「ちょ……ちょっと待って、朝日。何があったのか知らないけど、それは……っ」 「……湊お嬢様?」  言ってはいけない。湊がそう言いたいのはよく分かる……けれど僕は、首を振った。 「私たちに対して……? その続きはなんだ」  彼女が僕を従者にしてくれたから、僕は夢を追いかけることが出来た。  ――それを今、自分の手で手放す。夢が、夢のままで終わる。 「……僕は、皆さんのことを、ずっと裏切っていた。嘘を、ついていたんです」  その一言を口にしたとき、場の空気が凍りついた。誰もが目を見開いて、僕のことを見ている。 「……何を、言っているんですの? あなたが、裏切り……そして、『僕』って……」 「ち、違うよ……裏切ってたとかじゃなくて、ゆうちょは……っ」 「お嬢様方……申し訳ありませんが、今はお静かに。小倉さんの話は終わっていません」 「…………」  ルナ様は何も言わない……けれど、その唇が震えている。赤い瞳に僕を映しながら、もっとずっと遠くを見ているように思えた。 「……『僕』と言ったわね。撤回するつもりはない……覚悟があると思っていいのね?」 「さ、サーシャ……ちゃんと考えて言っているんですの!? それでは朝日が、まるで……っ」 「……はい。僕は……『小倉朝日』でもなくて、女性でもない」 「僕の本当の名前は……『大蔵遊星』です」 「大蔵……まさか、りそなの……?」 「……男……小倉さんが……?」 「…………」  みんなの視線が、『小倉朝日』を見るものから……知らない誰かを見る目に変わっていく。  瑞穂がそうだったように……みんなが知っているのは朝日で。ここに座って、正体を明かした僕じゃない……。  僕は椅子を引いて立ち上がると、その場で深く頭を下げた。全員に向けての謝罪だった。 「僕は皆さんを騙していた……それは事実です。言い訳のしようもありません」 「……瑞穂お嬢様のことに、あなたのことが関わりがあるのですか?」 「僕が男であることを、瑞穂さんに知られました……今日、町で会って……」 「瑞穂さんが男性を苦手にしていると知っていながら、僕は……最悪の形で、彼女を裏切ったんです」 「……ここに帰ってくることも許されないと分かっています。皆さんの前におめおめと顔を晒して、本当のことを言って……それ自体が、もう必要の無いことだっていうことも」 「ゆうちょ……もういい、もういいからっ……!」  湊が僕に取りすがって、頭を下げることを止めさせる。  彼女にも嘘をつくことを強いた……僕を好きでいてくれることを知りながら。  ……なんて、甘い。全てが上手くいくと思っていた……その僕の驕りは、罰せられて然るべきものだった。 「……だが……逃げずに、戻ってきた。必要がないはずなのに、なぜだ?」 「そんな死にそうな顔をして戻ってきて……正体を告げて。そうしてから居なくなれば、私たちが喜ぶとでも思っているのか……?」  ……正直に言ってしまえば。僕はこの後のことさえ、考えていなかった。  前に進むことが出来ない。時間がまともに流れていく気がしない……後悔で、全てが塗りつぶされている。 「……『メイド』じゃない僕に、この家に居ていい理由はありません」 「……ふざけるなっ!」  ルナ様が大音声を張る。その小さな身体から出せたとは信じられないくらい、激情に満ちた声だった。 「お前の気持ちはそんなものだったのか……? 大蔵の人間が女装までして、私の従者として仕えて……」 「そこまでして選んだ道を、簡単に捨てられるのか。捨てていいと思えるくらいのものだったのかっ!」  ルナ様に胸ぐらを掴まれても、僕はただ彼女を見返すことしか出来ないでいた。そのうちに、ルナ様の手からすっと力が抜ける。 「……もういい。お前の気持ちはよく分かった……好きにすればいい」 「ルナっ……!」  部屋を出ていくルナ様を、湊が追いかけていく。七愛さんは八千代さんに一礼して、その後に続いた。 「……私はもう少し、朝日の……いえ。遊星さんの話を聞かせてもらいたいですわね」 「……サーシャさん、あなた……気づいていたんですね? 元から、小倉さんのことに」 「気が付かないわけにはいきませんでしたよ。朝日は美しい……私はその美しさの本質を、見抜いただけのことです」 「……皆を驚かせないように。遊星さんのことを思って、黙っていたんですのね」 「不粋なことを言わずにいたほうが、楽しくなるかと思ってね……けれど、残念なことになってしまったなあ」 「小倉さん……あなたの今後をどうするか、私たちには考える時間が必要です」 「はい……すべて、決定に従います」 「……そこまで全てを否定するのはおやめなさい。私があなたを『小倉朝日』と呼び続ける理由が分からないほど、子供ではないでしょう」 「ルナや瑞穂の気持ちは、同じ女性として良くわかりますが。私はあなたが、いたずらに嘘をついていたとは思えませんわ」  ユルシュールさんは立ち上がって、僕の席の傍らに近づく。  彼女は僕の肩に手を置こうとしたけれど……僕の顔を見て、途中でびくりと手を止める。 「す、すみません……って、なぜ私が謝っているんですの。殿方だからといって、意識させないでくださいまし」 「ふふっ……お嬢様、男性だからといって恋してはいけませんよ。横恋慕になってしまいます」 「なっ……ななっ、何を言ってるるんですののっ!? 私がここ恋だなんてっ、ひっ、ひとぼれめとでででもっ」 「コホン……緊張感のない方々ですね。ユルシュール様、どうか落ち着いて。深呼吸をしてください」 「すぅ……はぁ。ふう、多少落ち着きましたわ。恋ではなく、単に女性が男性に変わったのですから、慣れるまで時間がかかるということですわ」 「ユルシュール様のお気持ちは分かりました。ですが小倉さん……あなたには、しばらく謹慎してもらわなければなりません。ルナ様と瑞穂様は、あなたを見ると気持ちを乱されるでしょうから」 「……メイド長がそう仰るのであれば。私も、何も言うことはないわ」  サーシャさんが言うと、ユルシュール様は何か言いたげにする。けれど僕はあえて席を立ち、三人に向けて一礼して部屋を後にした。  部屋に戻ってきた僕は、りそなから来ていたメールを見ていた。大丈夫なのかと心配するメール……。  僕は正直に、しばらく謹慎することになったと伝えた。『心配要らない』なんて、逆に心配させてしまう。  ただ流れる時間を待ち続けていると、逆に時間は流れてゆかない……まるで、止まっているみたいに。 「……はい。どなたですか……?」  返事をしても、声は聞こえてこない……その理由を察した僕は、誰かを確かめる前にドアを開けた。 「……あ、あの。ごめん、急に……ちょっといい?」 「うん……でも、いいの? 七愛さんが心配しないかな……」  七愛さんは湊の気持ちを知っていたから、『大蔵遊星』のことを良く思っていなかったはずだ。 「いや、それが……七愛、思ったよりゆうちょのこと悪く言ってなかった。なんか、すっごい落ち込んでたから逆に可哀想になったのかな」 「あ……そ、そうじゃなくて。可哀想とかじゃなくて……うー。言葉が難しい……」  いつもなら『ちゃんと伝わってる』と言えるけれど、今の僕はそれだけの力さえ残っていない……我ながら、抜け殻みたいだ。 「……瑞穂、今はショック受けてるかもしれないけど。許してくれるよ、きっと」 「……ありがとう。でも……言われたんだ、僕は『小倉朝日じゃない』って」 「当たり前のことだよね……フィリア女学院に入るためだけに、作られた名前だったんだから。僕が大蔵遊星だと知れたら、小倉朝日はいなくなる」 「……なんだその、さっきから全部諦めてるみたいな言い方。なんで? ねえなんで?」 「湊……」  優しく語りかけてくれていた湊が、ルナ様と同じように詰め寄ってくる。そして僕の両肩に手を置いて揺さぶってきた。 「なんでそんな、全部終わったみたいな顔してるの。なんも終わってないよ、始まったばっかじゃん」 「しっかりしろ、ゆうちょっ! 何のために、私が今まで黙っててあげたと思ってんのっ!」 「ひとにまで付きあわせといて、自分の嘘がばれたら一抜けたって、一番ずるいじゃん! そんな情けないやつじゃないでしょ、ゆうちょはっ!」  湊は僕のことを揺さぶって、気持ちの丈をぶつけてくる。その目から涙がこぼれて、ぽろぽろと頬を伝った。 「はー……もうやだ。なんで私が泣いてるんだろ。バカゆうちょ……ぐすっ」 「……ありがとう、湊。でも……僕は八千代さんたちの決定に従うよ」 「自分がしたことのけじめはつけなきゃいけない。僕は、それだけのことをしたんだ」 「……ねえ、どうしてそんなことになっちゃったの? 瑞穂、帰ってきた時凄い顔してたよ」 「真っ青になって、部屋に駆け込んでいって。ただごとじゃないっていうのは、私もわかってた」 「……ゆうちょ、もしかして……『朝日』だったときに、瑞穂に何かした? 答え次第じゃ、私も心を鬼にしなきゃいけないんだけど」 「それは……してない。誓ってもいいよ」 「じゃあ、私は許した。元から怒ってさえいないけどね……今の、怒ったうちに入んないから」  湊は照れ笑いして言う。そんな彼女を見ていると、心の端が言葉になってこぼれた。 「……湊は、どうしてそんなに……」 「どうしてそんなに優しいの? とか言ったら、バックドロップするよ。本気で首の骨を折りに行くから」  湊はふん、と腕を折り曲げて力こぶを示してみせる……けど、そんなにはっきり主張はしなかった。 「……ていうか、ゆうちょは自分のしてきたことを無かったことにしすぎ。ちゃんと勉強してたし、仕事だって頑張ってたじゃん」 「私たち、みんなゆうちょに助けられてたよ。ルナだって……瑞穂だって、そのはずだよ」 「だって、あんなに楽しそうだったじゃん。私が羨ましいって思うくらい、瑞穂と親友してたよね? どうなんだこら、思い出したか」 「……忘れてない。忘れられるわけないよ」  湊と話してるうちに、いつの間にか力が湧いてきていた。言葉を返すことさえままならなかったのに……。 「うん……そっかそっか。じゃあいいよ、もう言わない。あとは私、見守ってるからさ」 「なんて……勝手に盛り上がって、勝手に落ち着いて。変だよね、私……たはは」 「……ありがとう。いや、ありがとうじゃ足りないよ」 「……ん。たぶんね、ルナは私と同じ気持ちだと思うんだ。それで……」 「ルナは私があげられない言葉を、ゆうちょにあげられると思う。だから、あの子のこと待ってなよ」 「待ってるだけでいいのかな……ここに居ると、瑞穂が気に病むかもしれない」 「……それはあるかもしれないけど。だからって、逃げるのは無しだよ。ゆうちょも、瑞穂もね」 「私は瑞穂が極端なことしないように見てることにする。あの子も思いつめてるみたいだし……」 「思いつめてるって……まさか……っ」 「……自分を傷つけるとかじゃなくて。あの子、決めたら譲らないところがあるから……」 「あ……七愛が来たみたい。15分って言っておいたけど、あっという間だった」 「うん……ありがとう。おやすみ、湊」 「おやすみ。せっかくの休みなんだから、しばらくゆっくりしてなさい。時間が解決することもあると思うし」  湊は最後まで僕を励まして、部屋を出ていく……そして、七愛さんが代わりに入ってきた。 「……君は美しくない処女だと言ったけれど、それは当たり前の話だった。なぜなら大蔵遊星は童貞だから」 「っ……そ、それだけを言うために入ってきたんですか?」  七愛さんは溜飲が下がったような顔をしている……よっぽど言いたくて仕方がなかったんだろう。 「湊お嬢様と友情のままで居てくれるなら、七愛は大蔵の子息を少しだけ許す気持ちになる」 「……本命が瑞穂様というのは話の流れでなんとなく分かった。違う?」  七愛さんの突然の発言に、湊がびっくりして音を立てる……大丈夫かな。 「叶わぬ恋に胸を焦がす苦しみを、少しくらい味わうといい」 「はい……すみません。今まで、騙していて」 「人生は騙し騙されるもの。今回は、あなたの方が上手だったというだけ……」 「……私に触れたりしたことは忘れて。男に触られたなんて、私の記憶から消し去りたい」 「は、はい……ごめんなさい」 「……湊お嬢様と、夜に二人で話させてあげるのは今日だけ。私たち以外でも、色目を使ったら許さない」 「そんなことしたら、僕は本当に……どうしようもなくなります。これ以上下なんてないのに」 「そういう意味じゃなくて……まあ、いい。自分の立場を弁えているのは良いこと」 「明日は私と湊お嬢様が仲良くなって帰ってくるところを、そっと窓から伺っているといい。それじゃ」  七愛さんはわざと挑発的に言うと、部屋を出ていく。湊と歩きながら、何か話しているのが聞こえた。  ……二人の気持ちが嬉しくて、底まで落ちていた気持ちが少しだけ浮上した。  でも……今はまだ、この部屋で待つしかない。ルナ様が、男だと分かった僕に対してどんな結論を下すのかを。  謹慎の処分を受けてから、僕はほとんど部屋から出ることをせずに過ごした。  僕が男性であることを知っているのは、瑞穂と北斗さん……そして、あの夜に同席していた人たちだけ。  他のメイドさんには、僕のことは伏せられていた。僕が大蔵の人間だと知れば、見る目が変わってしまう……そう判断されて。  僕は部屋にいるあいだも、女装は続けていた。食事をするときに、どうしても他のメイドさんと顔を合わせなければならないから。  学園の授業については、僕は八千代さんのはからいで、風邪で休んでいることになってる……勉強の内容は、湊が僕に伝えてくれていた。 「……やっぱり、良いな」  僕は時折ルナ様のデザインのデータを呼び出して眺めたり、どう縫製するかを手持ちの布で練習したりしていた。  ……ルナ様の信頼を無くした僕が、仕事を任されるとは思えない。けれど湊は、僕のグループでの役目は変わっていないと教えてくれた。  それよりも、何よりも……瑞穂の様子が、大きく変わりすぎて。発注した布が届いても、風合いを確かめることさえ出来ていないのが現状だった。  そうして、二週間ほどが過ぎて……11月の一週目が終わろうとしていたころのことだった。  メイドさんたちに呼ばれて昼食の席にやってくると……いつもと、まるで空気が違っていた。 「朝日、謹慎処分もそろそろ退屈じゃない? ルナ様も、いい加減許してくれたらいいのに」 「いえ……私は、それだけのことをしましたから。ご心配をかけて申し訳ありません」 「ううん、気にしないで……あっ、そういえば。さっき瑞穂お嬢様と北斗さんが屋敷に戻ってきたんだけど、聞いた?」 「何かあったの? 最近瑞穂お嬢様も元気なかったし、家の方から何か言われたとか?」 「それが……瑞穂お嬢様が、学園で倒れたんだって。最近食事がしっかり取れていなくて……貧血だったみたい」 「っ……」  動揺を隠しきれずに顔に出す。瑞穂が倒れた……食事が出来てないなんて話も聞いてない。 「見るからに痩せてしまわれて……朝日は何があったか知ってる? 仲が良かったじゃない、瑞穂様と」 「これは、聞いていいものかと思ってたんだけれど……瑞穂様が体調を崩されているのは、朝日さんと仲違いをしたからだったりしないかしら」 「……申し訳ありません、私からは何も……」 「そうなの……朝日さん、今からでもいいからお見舞いしてさしあげたら?」 「それはダメよ、謹慎中は他のお嬢様の部屋に出入りしてはいけないことになっているから」  そう……彼女の言うとおり。瑞穂が倒れたと聞いても、僕は会いに行くことすら許されていなかった。  会うことは出来ないと分かっていても、僕はまっすぐ部屋に戻る気になれなかった。  2階に上がり、瑞穂の部屋の方向を見た時。扉の前に立っていた北斗さんが、こちらを見た。 「…………」  初めは、肌に感じられるくらいの敵意を感じた。瑞穂を誰より大事に思ってる彼女が、僕に対してどんな感情を持っているかは分かっていた。  けれど北斗さんは、一度目を逸らして視線を切ったあと、僕のほうに向かって歩いてくる。 「……君の顔を見たら、もう少し自分が怒るのかもしれないと思ってた。けれど、やっぱり違ったよ」  北斗さんはそう言って苦笑する。僕は彼女の心情がわからず、ただ見ていることしかできない。 「少し話がしたい。瑞穂お嬢様は一人にして欲しいとおっしゃっているから……私も、ここには居られないんだ」 「……わかりました。外までご一緒します」  冬の近づいた庭園は、少し物寂しく感じる。しばらく北斗さんは遠くの空を見ていたけれど、不意に振り返ってこちらを見やった。 「……謹慎している間、瑞穂お嬢様がどうしていたか。本当は言うべきではないのだろうけど……」 「私は、今ばかりは……忠義よりも自分の心に従おうと思う」 「瑞穂様は、どんなふうに過ごされていたんですか……?」 「まず……目に見えて、食事を摂る量が少なくなった。学院の授業は、気丈に受けていたのだけど……」 「数日前から体調を崩して、不調を皆には隠していた。けれど、今日は皆の目につくところで倒れてしまったんだ」 「救急車を呼んで、病院で点滴をしてから屋敷に戻ってきた。お嬢様は大丈夫だと言うけれど……私の目には、あまりに痛々しいお姿だ」  僕はそれほどまで大きな傷を、瑞穂の心に残してしまった。いつも元気だった彼女が、そこまで変わってしまうなんて……。 「……瑞穂様は、最も必要としていた大切な人を失ってしまった。その空白は、代わりのものでは埋まらない」 「君にこういうのは酷だと思うけど、言うよ。瑞穂様をここまで追い詰めたのは、大蔵遊星……あなただ」  僕の本当の名前を呼んで、北斗さんは冷たく僕を眇める。けれどそれも、それほど長くは続かなかった。 「私は……君のことを分かっていたのに、見てみぬふりをしようとしていた」 「……もしかして君なら、と期待したんだ。瑞穂様の男性に対する意識を、変えられるかもしれないと」 「君と風呂場で会った時に……私は、君の正体を見ていた。かつらを外した、男性としての姿を」 「……僕は、貴女の裸を見てしまった。そのことも、叱責されるべきことです」 「……それはそうかもしれない。私は、怒るべきなんだろうね。従者である前に女だったのなら」 「でも、そうじゃない。本当はね……私は瑞穂様の男性恐怖症を治して、家に連れて帰るようにという使命を帯びていたんだ」 「……瑞穂さんのご両親は、跡継ぎとして瑞穂を諦めていない……?」  北斗さんは静かに頷く。従妹が継ぐという手紙が来たっていうのは、瑞穂に対する揺さぶりだったんだ……。 「男装なんてしても、瑞穂様の気持ちは変えられない。私はそう分かっていて、ポーズを取っていただけだった」 「……問題を、先延ばしにしていただけなんだ。どうすることも出来ないままに」  北斗さんは自嘲めかせて言う。それはいつも凛とした強さを感じさせる北斗さんが、初めて見せた弱い姿だった。 「……だから私は、君に期待した。君のことが、個人的に気に入っていたということもある」 「瑞穂様に仕える者として……彼女が親友として選んだ君には、私には出来ないことが出来る。そう思っていた」  そこまで言って、北斗さんは僕に頭を下げる。止める前に、彼女はそのままの姿勢で言葉を続けた。 「……済まない。私は君と何も話し合うことをせず、抱えているものを打ち明けず、ただ期待をかけていただけだった」 「従者として、できることを尽くさずに……ただ、見ていることしかしなかった……」  この2週間のあいだ……僕が部屋にいるあいだに、北斗さんは瑞穂のことをずっと見ていた。  ……そうして、彼女も傷ついたんだ。大切な人が悲しむところを見て、平気で要られる人なんていない。  僕の足元に、ぽたぽたと水滴が落ちる……北斗さんは、頭を下げたままで泣いている。 「顔を上げてください、北斗さん。あなたが自分を責めることはないんです……悪いのは、僕なんですから」 「……お嬢様を追い詰めたのは君だなんて言って。ひどい裏切りだ……君に全てを任せておきながら、手のひらを返したようにそんなことを口にして……私は……」 「……いいんです。僕だって、問題を先送りにしていた」 「瑞穂や、みんながくれる時間に……甘えすぎていたんです。居心地が良くて……とても、優しかったから」  北斗さんの肩に手を置くと、彼女は躊躇いながらも顔を上げてくれる。泣いている顔は隠して見せなかった。 「本当に済まない。私は……もう少し早くに、君に会って話さなければならなかった」 「……何があったんですか?」 「……少し前の文化祭の報道が、瑞穂様の父上……旦那様の目に触れてしまった」 「警報の中で声を張る瑞穂様を見て……旦那様は、手元に引き戻したいという気持ちを強くされた」 「今は私のところで止まっているけれど、じきにルナ様に、そして学院に親書が送られるだろう。瑞穂様を返すようにと」 「……そうなったら、瑞穂は……京都に……?」 「今の瑞穂お嬢様は、創造する行為に注ぐ力を無くされている。ここに残り、学院に通う動機が薄れてしまっている……」 「正月には、必ず実家に戻らなければならない。その時に今の瑞穂様の姿を見せたら……この屋敷に戻ることは、二度とできないと思っていい」  娘を案じている父親が、傷ついて痩せた姿を見たら……どんなことをしてでも取り返そうとするだろう。 「瑞穂様にも、『どうしても東京に戻る』と主張する気力は残っていない。夏休みに帰省した時にも、かなりの苦労を必要としたのに……」  瑞穂が帰ってくるのが遅くなったことを、ただ待ち詫びていただけで終わらせた。  ……本当は、もっと真剣に考えるべきだったんだ。瑞穂と実家の関係……そして、彼女がどんな状況で東京に来ているのかを。 「今の瑞穂様は心を固く閉ざしている。誰の言葉も耳に届かないだろう」 「それでも……私は、最後まで君に望みをかけなければならない。お嬢様と共に過ごした時間では、誰にも負けるつもりはないけれど……」 「君にしか……君じゃないとダメなんだ。瑞穂様を救うには……」  彼女を失望の淵に突き落とした僕に、手を差し伸べる資格があるのか。触れることさえかなわない……そんな未来しか、今は見えない。  ……もう一度、拒絶されることが怖かった。積み上げた時間の全てを、この手で壊してしまったあの日から。  その日の夜、僕は食事を摂らなかった。食べようとしても、満足に喉を通ってくれなかった。  それで、瑞穂に少しでも申し訳を立てようっていうのか……今まで、彼女がどんな状況か知らずにいたのに。  何を考えても、正の方向に向かわない。このまま待っているわけにいかないのに、部屋を出ることさえできない。  偶然にでも、瑞穂に見られることが怖い。正体を知られてなお、女装を続けている僕を見られることが。 「『私の名前を呼ばないで……あなたは、朝日なんかじゃない……!』」  ……彼女が好きでいてくれた、親友になってくれた朝日は、もういない。僕は……『大蔵遊星』は、瑞穂にとって必要な人間じゃない。  このまま消えてしまいたくなる。謹慎が決まってから、ルナ様とは一度も言葉を交わしていない……姿を見る機会さえ、与えられていない。  必要とされていない。価値がない。  ……励ましてくれた人たちのことを考えると、こうしているわけにはいかないのに。  僕の心を占めているのは……僕が笑っていられたのは。皆が揃って、笑っていてくれたからなんだ……。  ……眠ってしまっていた。どれだけの時間が過ぎただろう……耳には、ノックの音が聞こえている。  ノックは続いている。控えめだった音が、さっきより少し大きくなっている……僕はベッドから身体を起こして、ドアに近づいた。  ドアを開けると、外に居たのは……。 「……主人を無視するとはいい度胸だ。いよいよ、君の雇用について見直さなければな」 「ち、違います……無視だなんて、私は……」  ルナ様はきっと僕を睨みつける……彼女は、僕の解雇を告げに来たのか。そんな考えが頭を過ぎる。 「男だということを隠して……女装までして。大蔵のメイドどころか、君はりそなの兄だった」 「りそなから電話がかかってきて、必死で謝られたよ。何でもするから兄を許してくれ、とな」 「……妹は何も悪くありません。悪いのは、全て……」 「……それが気に入らないと言っている。悪い? 悪いと思うのか、自分のしたことが」 「私のメイドになったことも、学院に入ったことも。皆と知り合い、共に学んだことも……全て、君の中で後悔する罪悪でしかないというのか」 「……そんなことはありません。けれど、皆さんを騙してまですることではなかった」 「今では……そう思っています」 「……違うだろう。正直に言ってはどうだ、君が何に罪悪感を覚え、絶望しているのかを」  ルナ様はそう言って……初めて会った時からも見たことがなかったような、冷たい笑みを浮かべた。 「……寂しいんだろう? 瑞穂に嫌われた今、君は全てを失ったような顔をしている」 「世界で自分が一番不幸だと、何も言うことなく、行動することなく、その態度で主張している……違うのか?」 「……私は……」  否定することが出来ない。今だって僕は食事を摂らないことで、瑞穂と同じだけ傷つきたいと願っただけだ。  ……何もせずにただ待ち続ける僕の姿は。不幸だと主張する、子供のように見えて……ルナ様の、みんなの不興を買っていたのだろう。 「……申し訳ありません。私はまだ、自分を罰することが足りませんでした」 「やせ我慢をしなくていい。今の君の言葉は全てが強がり、虚勢だ。私はそれを否定しないし、それほど傲慢でもない」 「私は放逐されて震える羊に、気まぐれで情けをやろうと思っただけだ。それが愛情などと、生半可なものだと勘違いはしてくれるな」 「……ルナ様……何を……?」 「私が言いたいことが分かるか……? 朝日。分かるのなら、答えてみろ」 「……いいえ。私には……ルナ様の、お考えは……」 「……分からないのなら教えてやる。そこでじっとしていろ」  ルナ様は言って席を立つ。そして僕の目の前まで歩いてくる。  僕は頬を打たれることを覚悟して、目を閉じる。今の体たらくは、それだけの罰を受けて然るべき罪だ。  けれど、頬はいつまでも打たれることはなかった。代わりに、ルナ様の手が僕の両肩に置かれる。 「……ルナ様……?」 「こういう時は、そちらから跪くものだ。でないと、やりにくい」  ルナ様に従って、僕はその場に膝をつく。そうすることに、何の抵抗も感じなかった。 「本当は……こんなふうに甘やかすのは、私の性には合わない……」  僕の頭を抱きしめるようにして、ルナ様が言う。  ……どうしてこんなに安心するんだろう。僕よりも小さな女の子……その温もりを感じているだけなのに。  けれど……彼女は、かけがえのない僕の主人で。他の人が僕に与えられないものを、惜しみなく与えてくれる。 「私はいつも、君に厳しくしてきた。君がうまくやったと思っても、簡単に褒めたりはしなかった」 「身びいきをしたくはなかったからだ。身内だからという理由で、君の評価を水増しするようなことはしたくなかった」 「そんなつまらない意地を張っている私に……君は、素直に褒める機会を与えてくれた。時に努力をして、時に自分の天分を私に見せることで」 「……僕は……あなたに、認めてもらいたくて……」  いつからか、僕の目から熱いものが流れ落ちていた。それを察するように、ルナ様が僕の後ろ髪に優しく指を通してくれる。 「……そんな君だからこそ、瑞穂も親友になりたいと思った。それ以上の気持ちを抱いた」 「君は確かにウソをついた。私に対しても、全てに対しても……けれどそれは、自分に正直であるためだったんだろう?」 「けれど……けれど僕は……瑞穂が男性を苦手にしているって知っていながら、その気持ちを裏切ったんです」 「許されるようなことじゃない。許して欲しいなんて、とても言えない……」  声が震えることさえ許されないと知っていた……けれど、もう感情を抑えきれなかった。  子供のように、彼女に縋りついて泣きたかった。そうしないのは……もう、ルナ様が僕をメイドではなく、『大蔵遊星』として見ているから。 「……確かに君は、瑞穂を驚かせた。けれど私は……この状況になってみても、まだ確信している」 「瑞穂が君を憎むことなどありえない。気持ちはそう簡単に風化するものではないんだ」 「私は君が男だと知っても……初めは憤りを感じもしたが。瑞穂のことを思えば、私の感情など些細なものだ」 「……君は私に、よく尽くしてくれた。男であっても、それは変わらない」 「……申し訳ありません、ルナ様……僕は初めから、何もかも……」 「いい。もう言うな……色々考えた末に、私もこうしているんだ」  ルナ様は労るように僕の背中を撫でてくれる。その拙い手つきに、とめどもなく涙がこぼれる。 「君は男であるということを、対外的にはまだ隠さなくてはならない」 「しかし学院長代理……君の兄は、最悪の場面で君の正体を人々に暴露しようとするだろう」 「……僕が瑞穂様の衣装を仕上げて、ステージに立つとしたら。その時に……」  ルナ様は答えを言葉にはせずに、ただ頷く。瑞穂が思っていた通りの夢を叶えることは……もう、できない。  『小倉朝日』として、彼女の親友になった。彼女が僕をアイドルにすると言い出した時、初めは驚かされたものだった……けれど。  彼女は、初めからずっと真剣だった。恥ずかしいことでも大真面目にやって、僕にアイドルとしての気構えを教えてくれようとした。  メイクだってそうだ。彼女は僕のことを心の底から、『可愛い』と言ってくれた。  僕にはアイドルなんて無理だ……そんな気持ちを薄れさせてしまうほど、瑞穂の笑顔は眩しかった。  一緒のベッドで夢を語った。それは、僕が男として彼女に出会っていたら存在し得なかった時間。  ……その寝顔を愛しいと思ったのは、いつからだろう。思えば、初めからだったのかもしれない。  その全てが、今は僕を責め苛む。時間は戻らない……取り返しがつかないことがある。  こうなるかもしれないと分かっていたのに。僕は……やっぱり、分かっていなくて。  享受するべき痛みと苦しみに耐えられないで、ただ涙を流すことしかできない。 「……君と瑞穂が同じ方向を向くようになって。私は……それを見ていて、羨ましいと思っている自分に気がついた」 「君の主人として過ごして……君を信頼するようになった自分が、心地よかった。人を信じられるというのが、いかに安らぐことかを思い知らされた」 「……だから私は。いっそのこと、君を奪ってやろうかと思っていた。私の元に取り戻して、永久就職でもさせてやろうかと」 「……ルナにそう思ってもらえるような資格は、僕には……」 「君は私が男に興味を持たれるとしたら、財力にだと言ったな」 「その時から、立場は逆転していたんだ。私は……君が男であろうと女であろうと、『欲しい』と思われるような輝きを身につけたいと思った」 「私は確かに金を持っていて、それがステータスの一つであることは否定しない。だが……それでは、あまりに空虚過ぎる」 「……一人の人間として、君に見て欲しいと思った。君が瑞穂に対して、そうしていたように」  ……僕が何気なく口にしてしまった言葉が、ルナの心を変えた。僕はそれに気づきもしないで、瑞穂のことばかりを目で追うようになっていた。 「だが、今の君の目は好きにはなれない。私の欲しかった小倉朝日とは違う……大蔵遊星とは、そんなに情けない男だったのか」 「……どうした、言い返してみろ。私みたいな生意気な女に、そこまで言われて腹は立たないのか?」 「……生意気なんて、そんなことない。僕は、ルナのそういうところが……」  言おうとしたところで、ルナ様は指で僕の唇に触れて言葉を押しとどめた。 「尊敬している……という言い方にしておけ。好きとかそういうのはな、違う意味でも私には言うな」 「……うん。ありがとう、気づかせてくれて」 「うんじゃなくて、はいだ。それに男だとバレたからといきなり『様』を取るな。君が私の従者であることに変わりはないぞ」 「君にはこれからも、『小倉朝日』で居てもらわなければ困る。新しい付き人を探すのは面倒だからな」  ルナ様はそう言って……赤い瞳を少し潤ませて、はにかむように笑う。その眩しいくらいの輝きと共に、僕は自分が誰で、どうあるべきかを思い返した。  ――私は。これからも、『小倉朝日』であり続けたい。 「ありがとうございます……ルナ様。こんな私を、受け入れてくれて」 「……なんだ、笑えるんじゃないか。だったらこの世の終わりみたいな顔をしてるんじゃない。大げさな奴だ」  ルナ様は僕から離れて、顔を赤らめる。僕は優しい気持ちになって、気がつけば微笑んでいた。 「しかし……さっき言った通りだ。瑞穂の衣装を着て、君がショーに出るのは不可能だと思ったほうがいい」 「……はい。ショーには、ルナ様の衣装で、ユルシュール様にモデルを……」 「短絡的に考えるな。私は自分の服を出すことは無いと思っていたんだ……最後の手段として考えておけ」 「……それにショーに出ることを諦めるのは。君が瑞穂のことを諦めるのと同じだ……違うか?」 「……でも、他に方法が……」 「だから、考えることをやめるなと言っている。君がしたいことはなんだ? そのために出来ることは?」  僕がしたいこと……それは。瑞穂が笑ってくれていた頃に戻ること。  ……いや、違う。戻ることは出来ない……戻れるわけがない。  『小倉朝日』としても、『大蔵遊星』としても……瑞穂に受け入れられたい。そうしなければ、生きる意味を失っているのと同じだから。 「答えが分かったのなら、私にも出来ることをしよう。今のこの屋敷にある閉塞した空気を、私自身も打破したいからな」 「今ばかりはルナに同じですわ。瑞穂が引きこもってばかりでは、うちのサーシャのライバルも消沈したままで落ち着きませんし」 「ふ、二人とも……もしかして、聞いてたんですか?」 「私にはルナみたいな励まし方思いつかないから、聞いてるしかなかっただけだよ。なんかいきなり入ったらダメそうだったし」 「あなたが殿方だったということを落ち着いて考えると、その……恥ずかしくなってしまって。声をかけられないで、申し訳ありませんでしたわ」 「私は考えに考えた末に……これからも変わらず、あなたの友人で居たいと思いました。ちなみにルナよりも優先度が高いですわ」 「あー、別にどうでもいいがな、ユーシェにどう思われていようと。湊、あきらめはついたのか?」 「え、ついてないよ。つくわけないじゃん。でも一人で泣いたりしないから心配しないでいいよ」 「その時はサーシャを泣き女として派遣しますわ。意外に良い声で鳴きますわよ」 「トリュフ豚……もといナルシュールの方が良い声で鳴くんじゃないのか? 朝日を欲しいと思っていた一人だろう」 「それは否定しませんが、今の私は友情に生きる女になりましたのよ。どうです、好感度が上がる一方でしょう」 「はい。ありがとうございます、ユルシュール様」 「……殿方と分かってから敬語を使われると、別の気持ちよさがありますわね。エクスタシーと言うのでしょうか」 「や、それ行き過ぎだから。むしろ行くところまで行っちゃってるから」 「ゆうちょ……か。私と愛称が似てるなんて奇遇だな。やっぱりうちのメイドで一生終えるか」 「ユルちょ、シューちょ……くっ、確かに私の名前では馴染みませんわ」 「私なんてミナトンだよ? トンってなにげに女の子のあだ名に使っちゃダメだと思うんだよね。重そうだし」  最近僕らのことを気遣って口数が少なかったみんなが、賑やかに話してる……それを見るだけで、感謝せずにはいられない。 「……ありがとう。ごめん、心配かけて」 「あー、もう全然気にしないで、私たちは大したことしてないから。ここぞというときはやっぱルナだよ」  ルナ様は言い返さず、少し照れて髪を撫で付けている……それを見て、みんなで顔を見合わせて笑う。 「ちなみにゆうちょ、まだ『私』って言わなきゃ駄目だよ。みんなが正体知ってても、それはダメだよ。ルールだから」 「あなたに卒業までクラスメイトで居てもらうためには、必要なことですわね」 「……はい。私は……皆様に会えて良かったと、今心からそう思っています」 「あ、あぁん? 大げさだな。むやみに恥ずかしいことを言うと、今からでも女装男と罵ってやるところだぞ。ちなみに君は変態だ」 「これ以上無く単刀直入に言われた!」 「……でも、何だか嬉しいです。変ですね、ヘンタイって言われて喜ぶなんて」 「本当ですわ、ヘンタイは当家のサーシャだけで結構だと思っていましたのに」 「いい変態と悪い変態がいて、ゆうちょは……今の瑞穂からしてみたら、悪い変態のほうだね」 「こ、こら……せっかく元気づけてやったところだったのに。意外に私よりSだな、湊は」 「だって私、ゆうちょのこと前から知って黙ってたし。瑞穂への気持ち誤魔化してることも、ずーっと見てたし」 「多少つらく当たってしまうのも無理はありませんわね。乙女心を傷つけた罪、それなりに償ってもらった方が良いでしょうか……ふふふっ」 「ああ、私も傷ついたぞ。これはもう、私の無茶を十回くらい聞いてもらわないとわりに合わない。今からアルプスに行って天然水を汲んでこい」 「ゆうちょだったらそんなのお茶の子さいさいだよね。ジェットで行ってこい、ジェットで」 「そ、そんな目立つことしたらお兄様になんて言われるか……」 「お兄様? お兄様だと? なんだ君、心の底からあの男に服従しているのか。それで情けなくはないのか」 「兄弟の情もあるでしょうが、あなたと学院長代理は相まみえる定めにあるのですわ。覚悟を決めて剣をとりなさい」  確かに……お兄様に気持ちで負けていたら、何も出来ない。本当の剣じゃなくても、心の剣を握らないと。 「あ、今何か中二病っぽいことを考えなかったか? 面白そうだから言え、大蔵遊子」 「小倉朝日ですっっ! ……じゃ、じゃなくて。それでよろしいんですよね?」 「遊子ってなんかすっごい遊んでそうな感じするよね。ゆうちょも実際遊んでるけどね」 「あ、あの……湊、どうして時々辛辣だったり、優しかったりするの?」 「え? 辛辣じゃないよ、全然甘いよ。ゆうちょはいいよね、モテモテで。モテの星から来たモテモテ星人だこりゃ」 「……湊、そうだったんですのね。その気持ち、6割くらい理解できますわ」 「いちいちツッコミ所を作るのはやめてくれ……時間がいくらあっても足りない」 「とにかく元気が出たなら行け、今すぐ瑞穂にぶつかって砕けてこい」 「……はい。みんなのおかげで、そうする勇気を持つことが出来ました……ありがとう」 「……女装してるゆうちょの笑顔にドキッとするっていうのは、ちょっといけない感じするよね」 「男性でも女性でも色気がある……ということですわね。ところでその胸、パッドなんですの?」 「言われてみればそうだな……ま、まあ、男だろうとメイドを続けさせるからどうでもいいが」 「どうなってるのか見たいですわー。ですわですわ……胸板がぺたん、ってなっているんでしょうか」 「ホルモン注射とか打ってないよね? ゆうちょ。モロッコに旅行とか」 「い、行ってないよ……証拠は見せられないけど」 「……胸板のほうなら、大して問題はないと思うのですけれど。見せてくださいませんか?」 「うわっ……い、いきなり何を言ってるんだ。こんなとこで脱がせた事実が出来たら、落ち着かないだろう!」 「私たちも、ずっと女性だと思わされていたのですから……事実を知る権利があると思いますわ」 「何も知らないとはいえ、身体を触られたりしましたし……同じだけの辱めは受けてほしいですわね」 「ゆ、ユーシェ、やめようよそういうの……ゆうちょの胸板なんて見たって……」  湊はそう言いつつ、真っ赤な顔でちらりと僕を見る……その視線が、今はパッドで膨らんでいる胸の上をすべっていった。 「……あ、赤信号、みんなで渡れば怖くない……って、瑞穂に悪いかな……?」 「……二人共興味津々か。そこまで言うなら仕方ないな……おいユーシェ、めくってやれ。私は興味ないから、向こうを向いてるが」 「この期に及んでそんなことを言うなんて、潔くないですわ……ん。あの、改めて聞くのですけど、ほんとに男性なんですの?」 「ちょ、そんな距離近くして脱がせなくても……わ、腹筋……」 「ご、ごめんなさい……」  ユルシュール様に服を脱がせられて、お腹から胸の下くらいまでを見せる。湊は顔を真っ赤にして、ユルシュールさんはこくんと息を飲んでいた。 「……ルナ、指の隙間ががら空きですわよ」 「わ、私は、朝日をモデルにして寸法を決めてたんだから、今更見るまでもないしな……言いがかりをつけるな」 「でも何ていうか、女の子としてちゃんと許容される範囲のお腹だよね。ゆうちょ、調整してる?」 「トレーニングをしてないから、自然にこれくらいになってきたんだよ。夏ごろには、もうほとんど見えなくなっちゃってたし」  視線が落ち着かないので、服を元に戻す。これから瑞穂に、今の気持ちを伝えようっていうのに、心を乱してはいられない。  ……でも、これほど前向きになれたのはみんなのおかげだ。僕は心の中で、この子たちににどんなことをしても恩返しをしようと誓った。  皆に背中を押されるようにして、部屋を出る。すると、廊下の窓から外を見ている北斗さんの姿があった。 「……おや。さっきまでとは、眼の色が変わっている。さすがはルナ様とお嬢様方だね」 「北斗さんも、ありがとうございます……ようやく目が覚めました」 「……これは君にとって、いつかは越えなければならない試練だった。通過儀礼のようなものだ」 「いえ……まだ、何も終わっていません。湊が言ってました、始まったばかりだって」 「……そうだね。けれど今の君の目を見ていると、信じられる。ずっと終わらない闇はない」 「いろいろ弱気も口にしたけど、私は君を信じることにした。この言葉は撤回しない……なぜなら」 「部族の戦士は、嘘をつかない」  彼女が言わんとすることを推し量り、先回りして言うと……北斗さんは本当に一瞬だけ、女性らしくはにかむ仕草を見せる。  それを長く見せないままに、彼女は僕の隣を歩き去っていく。残された僕は……瑞穂の部屋の前まで歩いて、閉ざされた扉の前に立つ。 「……瑞穂、お嬢様。私です……朝日です」 「…………」  返事はない。けれど、僕は彼女が聞いてくれていることを信じた。  扉越しに言葉を尽くして、どれだけ彼女に届くだろう。届くと思うことさえ、驕りなのかもしれない……でも。  ――その時。静まり返った音のない廊下に、扉の向こうから聞こえたかすかな衣擦れの音が届く。  瑞穂は起きてる……そこに居る。だから僕は、もう迷わなかった。 「瑞穂は、私の顔を見たくないと思うから……このままでもいい。私が伝えたいことを、言います」 「私は、ずっとあなたを……皆さんを、騙していました。それは、私が夢を叶えたいという我がままのためでした」 「……子供の頃に、私はあるデザイナーを知りました。ジャン・ピエール・スタンレーというひとです」  フィリア女学院を創設したデザイナー……僕に初めの夢をくれた存在。今でもその名前を口にすると、胸に特別な感情が生まれる。 「彼のデザインは……教えられたことだけをしていた、家に従うことだけが生きる道だと思っていた私に、違う可能性を教えてくれました」 「私の親も、兄も、デザイナーとして活躍して名前を残しています。私も同じ道に惹かれて、一度は服飾を学ぶために学院に通いました」 「けれど私には、才能がなかった。ルナ様やあなたのように、あまたの星の中でその輝きを主張するだけの天分はなかった……」 「私は一度夢を諦めて、もとの生き方に戻ろうとしました。大蔵の次期当主である兄の邪魔をせず、大蔵家の駒となる……そうなるはずでした」  僕は自分の全てを晒すつもりで、扉の向こうの瑞穂に届くように話しかけつづける。  ……心を晒せる関係でいたいと、瑞穂が言ったことを思い出す。こんなことになって……彼女と隔てられて初めて、そうする勇気を持てるなんて、遅すぎたとわかっているけど。 「けれど、妹のりそなが……瑞穂と会った時に連れていたあの子が、私にあることを教えてくれました」 「スタンレーが、日本にデザイナー学校を開く。りそなはそれを知って、私に入学するように後押しをしてくれました」 「もちろん女子校に行くなんて、男の私には不可能なことでした。けれどもし女装して潜り込むことが出来たら……私はもう少しだけ、夢を追いかけられると思ったんです」 「名目があったとしても、間違っていること……それを分かっていて、私はりそなの友人だったルナ様の所に女装をして訪れ、メイドとして勤められるようにお願いしました」 「……ルナ様は私が男性であると知らず、快諾してくださった。あなたの知っている通りの、ルナ様らしい毅然とした態度で、何人も面接するのが面倒だからといいながら」 「私は学院に教師として務める八千代さんの代わりに、ルナ様の付き人になった……そうして。あの日、町であなたと出会った」 「……私と友だちになりたいと言ってくれたとき。瑞穂は、そんなことを言われても困るかもしれないけど……どこか、救われていたんです」 「女装をしている自分を変だと思う気持ちは消えなかった。目的のためでも、ずっと正体が露見することに怯えていました」 「瑞穂がいてくれて……瑞穂が、私のことを女性として見てくれて。そのことを嬉しく思いながら、私は本当は男なんだってプライドがあって、内心で葛藤したりして」 「……勝手ですね。女性のフリをしているのに、その実……男として見られたいだなんて。心までは屈したくないという気持ちがあったのかもしれません」 「私は……とても、甘かった。嘘が終わってしまえば全てを失くすと知っていたのに、いけるところまで行こうとしか考えなくなっていた」 「……私をアイドルにしたいと瑞穂が言った時も。そうできないと知っていながら、あなたを裏切りたくはないという理由で、口をつぐみました」  そこまで言うと、自嘲の念が胸から一気に溢れ出た。けれど……まだ僕は半分も話しちゃいない。 「……裏切るというのなら。私は初めからあなたを裏切っていたのに」 「途中から、私は……あなたの優しさに甘えていた。自分がしていることを忘れて……ただ、あなたと過ごす時間を楽しいと思うばかりだった」 「あなたが男性を苦手にしていると分かっていたのに。あなたが私を女性として見てくれている……そのことを、利用していた」 「……そうして私は、あの日……親友と呼び合うと決めたときに、もうひとつ嘘を重ねました」 「あのときには、もう……私はあなたのことを、異性として意識していました。恋を、していました」 「でも、私は……あなたにとっては女性の、『小倉朝日』。それこそ一生、自分の正体を明かすことは出来ない」 「そう思った私は……恋をしていることから、目を背けました。親友として傍にいられたら、それ以上に望むことはないと思いました」 「自分を守ろうということだけを考えて……あなたを裏切っているという前提を、都合よく忘れて。親友という言葉で、あなたとの距離を縮めようとしたんです……」  それが恋にならないという言い訳で。瑞穂が僕を女性として見ていることも、言い訳にして……。 「……私は……それでもふとした瞬間に、あなたに恋をしていることを自覚せずに居られませんでした」 「その笑顔のためになら、何でも出来る。あなたの夢を一緒に叶える、力添えがしたいと思いました」 「……あなたはもう、私と服を作るなんて嫌だと思う。それでも、改めてお願いします」 「私に、あなたのデザインしたあの衣装を作らせてください。最後まで、仕上げさせてください」  部屋の中からは何の反応も返ってはこない……物音一つ、聞こえない。それが彼女の返答であったとしても……。 「私はあなたのデザインを、データにして手元に残しています。あとはカッティングをして、縫うだけです」 「前にあなたと決めた布地を使って、私はショーの日までに衣装を形にします」 「……あなたの意見を欠いて、ルナ様に勝てるかは分かりません。それでも、負けるつもりでは作らない」 「瑞穂が認めてくれるように、これからひたすらに服のことだけを考えます」 「……私と一緒に、もう一度アイドルを目指そうと思ってくれるように。それが今の、私の定めた目標です」 「皆さんが許してくれなかったら、こうしてここにいることも出来ていません……瑞穂がどうしても嫌だと言うなら、この場でいなくならなければいけない」 「……瑞穂の気持ちを聞かせてくれませんか。一言だけでもいいんです」  待っていても言葉は返ってこない。待ち続けることも瑞穂の負担になる……。  彼女は点滴を受けてから家に戻ってきてる……無理強いはできない。 「……私は、瑞穂の衣装を作ります。もしそれがいけないことなら、北斗さんに伝えてください」  最後にそう言って、僕は瑞穂の部屋の前から離れる……すると、階段の近くにみんなが揃って、こちらを伺っていた。 「……天の岩戸は、やはり簡単には開かないな。しかし、その必死さを見ると何も言えない」 「今の瑞穂の心を開くのは、カルカソンヌ城塞を攻略するより難しそうですわね……難攻不落ですわ」 「ゆうちょは答えを見つけたんでしょ? んじゃ、頑張るしかないね。私の作ったアクセサリー、明日学園で見せてあげる」 「ありがとう。でも、瑞穂の許可を得られてないから……」 「そんなことを強要することも出来まい。アメノウズメは確実に岩戸が開くと思って、踊ったと思うか?」 「報われない労力だったとしたら、慰めてやる。ほら、そこのメイドたちも待ちわびているぞ」  ルナ様に言われて、物陰に隠れていたサーシャさんと七愛さん、八千代さんが恥ずかしそうに出てきた。 「こ、コホン……ルナ様の許可が出たようですので、明日から通学を許可します。くれぐれも、周りの生徒には内密にするのですよ」 「元からばれてなかったから、私が言わなければ大丈夫」 「こら、言ったら七愛のことしばらくの間『風車のお七』って呼びつづけるよ」 「……それはそれで悪くはないですが、まあ黙っていてあげることにする。小倉さんは美しい童貞になるべき」 「あ、あの……どうしてそこにこだわるんですか、七愛さんは」 「花は散るからこそ美しい……朝日は男性と女性のどちらで、その花弁をぶふっ」 「あまり露骨なことを言わないでくださいまし。朝日が困っているじゃありませんか」  ユーシェさんにほっぺたを変形させられたサーシャさんは、頬をさすりながら一歩下がる。 「……ところでどどっ、童貞なんですの?」 「そういえば、屋敷に来たばかりのころにそんな話もしたな……思い返せば若気の至りだ」 「そ、そういう話はもういいから。サーシャさんだけ経験者ってことで……私たちにはまだ早いぜっ」 「そうだね、君たちにはこういう話はまだ早い。朝日となら、してもいいかと思えるけどね」 「あ、あはは……それは私を買いかぶりすぎです」 「……なんだ、まだ瑞穂に許してもらってないのにもうへらへらしてるのか? 気を抜くには早いぞ」 「は、はいっ。承知しております」 「ルナみたいなのをツンデレっていうんだよねー。朝日のこと、自分のことみたいに心配して見てたくせに」 「だだっ、誰がそんなことするか! 上手くいかなさすぎて、家出したら面倒だと思ってただけだっ!」  そういうことになる可能性も、もちろんあった。僕は瑞穂に否定されたままだから。 「ほっほっほ、気分がいいですわ。うろたえるルナを見ていると」 「笑い方のコントロールは上手くしないと、途端に加齢臭が漂ってきてしまいますよ。もっと声を張らねば」 「おーっほっほっ、って瑞穂に聞こえるじゃありませんの! バカをさせないでくださいませっ!」 「はあ……君たちは。ずっと立ってて疲れているんだ、漫才に付き合ってるヒマはない。私は休む」 「朝日、とりあえず明日の朝食が関門だね。瑞穂、落ち込んでからも同席はしてるから」 「瑞穂お嬢様のご様子次第で、小倉さんには自室で食事を摂ってもらう可能性もありますが……」  申し訳なさそうにする八千代さんに、僕は笑いかけた。無理は全然していない。 「私がいないほうが、瑞穂お嬢様が落ち着いて食事を摂れるなら……少しでも食べて欲しいから、私は部屋で摂らせていただきます」 「……ん。私の作業を手伝うときなんかは、いちいち部屋に戻らなくてもいいぞ。もう怒ってないから」 「あ、またルナがなにげに可愛いことゆってるー。はぁ、どうしようゆうちょ。私、女の子に胸がときめく体質に変わってきちゃったよ」 「……それはとてもいいこと」 「私ではルナの内に秘めた高慢ちきを表現出来ませんが、真似をしてみましょうか。『もう怒ってないから』」 「くぅっ……脳みそからっぽの金髪女が、調子に乗って言いたいことを……っ」 「頭の中に適度に余裕がある女性のほうが、男性は惹きつけられるものだよ。ねえ、朝日」  男性としての意見を求められる。サーシャさんは何気なく聞いたつもりだろうけど、僕は微笑んで首を振った。 「今の私は女性ですので、男性の気持ちは分かりません」 「ふふっ……なかなか言うようになりましたね。初めから、それくらい開き直っていたら良かったのに」 「それはそれでどうかと思うが……ああ、そうか。洗濯物から手を引いたりしたのも、私たちを意識してたのか」 「……マッサージの時のことを思い出しました。実家に知れたら、朝日は切り捨てられますわね」 「私もそれなりの思いをしたよー。というかゆうちょを知ってただけに、あの時のショックったらなかったね。清水の舞台に行きたくなったね」  僕が男性だと分かったことで一気に恥ずかしいものになった思い出を、お嬢様方が思い返してる……これは、しばらく言われ続けそうだな。 「……自業自得」  僕の肩をぽんぽんと二回叩いて、七愛さんが部屋に戻っていく。サーシャさんも同じようにして歩きさった。  翌日の朝。僕は久しぶりに、他のメイドさんたちと同じように早起きして、朝食の準備に参加した。  そして、ルナ様の隣に座って食事の補佐をする。そうして待っていると、瑞穂がダイニングに姿を現した。 「おはよう……みんな」 「うん、おはよう……瑞穂、今日から朝日も一緒だけど……」  瑞穂はこちらを少しだけ見る。その瞳にある感情は、今の僕には汲み取れない……。 「……しばらくぶりね。元気みたいで、良かった」  僕の方を見ずに、瑞穂はかすかに微笑んで言う。その仕草は北斗さんが、辛さを隠しきれずに表に出すほどに力ないものだった。 「それより……ごめんね、昨日は。急に帰ってしまったりして……大したことはなかったのよ」 「もう、ショーまでさほど時間が残っているわけじゃない。無理はしないようにな」 「そ、そうだよ……瑞穂が朝日に着せてあげるんでしょ? ルナとユーシェのほうは、もうちょっとで仕上げってとこまできてるよ」  湊は果敢に、その部分に触れてくれる。瑞穂はぴくりと反応したけれど、すぐに答えを返さなかった。 「……朝日はこれからも、グループの一員として動いてもらう。私の方も手伝うし、瑞穂も手伝う」 「そうですわ。ちゃんと指示出しをしなくては、朝日も満足に……いえ、ええと……」  ユルシュール様は瑞穂を責めるような口調にならないよう、苦心してる……その優しさは、瑞穂にも届いたようだった。 「……小倉さんの……体型に、合わせているから。そのまま作れば、問題ないわ」  その呼び方は、少なからず胸を締め付けるものではあった……けれど、簡単に挫けられない。 「朝日の手腕を信頼している……ということだな。分かった、もう口出しはしない」 「瑞穂、あとで私の担当したとこにチェック入れてね。元気出てからでもいいよ」 「……その……ああ、あの、今更ですけど謝りますわ。瑞穂、あなたに失礼なことを言ったこと」 「ご飯はいっぱい食べた方が……その、いいですわ。朝日の料理を美味しそうに食べるあなたは、とても魅力的でしたもの」 「…………」  瑞穂は目の前に用意された、和風の朝食を見る。僕が用意したもの……彼女に、少しでも食べてもらいたくて。 「た、食べなきゃだめだよ……瑞穂。だって、朝日があんなに一生懸命……っ」 「……湊」  ルナ様が湊の言葉を制する。そう……僕の心が通じることを、強要することは出来ない。  それでも不安で、目を閉じずには居られなかった。もう一度拒絶されてしまったら、僕は……。 「瑞穂……っ」 「お嬢様……っ」  ふたりの驚いた声が聞こえて……僕は目を開ける。すると、瑞穂が食事を口に運んでいた。 「……おいしい」 「……っ……」  感極まった北斗さんは、顔を隠して肩を震わせている。同席したみんなが、安堵の微笑みを見せていた。 「どうしたの……? みんな。早く食べないと、遅刻してしまうわよ」 「何をひとごとみたいに言ってるんですの……誰のせいで涙もろくなっていると思っているのですか」 「まったく……いい性格をしてる。これからもしっかり食事してくれ、うちで預かったら痩せこけたと言われては困る」 「ええ……ごめんなさい。もう、大丈夫だから」  まだ少し弱々しいけれど、瑞穂はここに来てから一番自然な微笑みを見せる。彼女の視線がこちらに向くことがなくても、今はそれだけで嬉しかった。  学院でのショーに向けての準備は、着々と進んでいた。本番で使うホールでのリハーサルも、既に始まっている。  僕たち以外のグループも、残って作業をしている。けれどルナ様は、ご自分の服は人前では見せなかった。 「……瑞穂が倒れたことが、学院から実家に報告された。おそらく、学院長代理の差し金だろう」 「まさか先生が、放課後に残るなと言うなんて……生徒の生活に干渉するなんて、やりすぎですわ」 「この学院の体質上、仕方がない……名家の出身者に対しては、実家の意向に沿うしかない」 「うーん、そういうのあるんだ……ルナのことといい、ほんとなんで、娘をのびのびさせてくんないんだろ」 「娘が倒れるなんて、一気に過保護になるパターンだから仕方がない。落ち着くまでは少しかかりそうだね」  今日のサーシャさんは男性らしい感じだ……真剣なときは、そうなる傾向にあるのかな。 「元からそうだが、これでは公平な勝負とはいえないか……朝日、どうなんだ?」  ルナ様には強がるなと言われた。素直に今の気持ちを言うと……。 「……大丈夫です。私は、瑞穂がこの服をデザインする過程を見ていましたから」 「彼女が何をしたいのか、どこを目指しているのか……考えながら作ります」 「うー……朝日はそんなに瑞穂と分かり合ってるんだ……とか言ったらうざい子だよね。分かった、頑張れ朝日!」 「ルナの方の縫製も終わっていますし、私で良ければいつでも力を貸しますわよ」 「だから君は、覚醒して一皮剥けないとダメだと言っているだろう。うちのメイドを助けようという気持ちは買うがな」 「皮が剥けるほど日焼けするなんて嫌ですわ。私の白い肌はそう、スイスの宝石と言われてもいい感じですもの」 「……やはり恋かな。デザイナーは恋をしないと、いいものは書けないのか」 「文章家もそう。破滅的な恋愛をしてる人は、それだけ人の心を動かせる」 「破滅的な恋愛……わ、私は何も考えていませんわよ。瑞穂と朝日と私で……そんなことありえませんわ」 「あー、これ以上話をややこしくするな。そろそろ家に戻るぞ、ユーシェには試着をしてもらうから付き合え」 「ふふっ……いいのですか? 私はあなたの技術を吸収して、あなたを超えてゆきますわよ」 「ああ、いいんじゃないか。それくらいしないと私には百年経っても勝てないからな」  ルナ様たちが帰宅の準備を始めたので、僕もそれに倣った。帰ってから、作業の続きをしよう。 「ユーシェの朝日に対するお気に入り度ばかりが強調されてる気がする……ちくしょう、後で抱きついてやる」 「み、湊……お嬢様。抱きつくのはその、いけません」 「あ、カチンときた。もう決めた、友情とかどうでもいいから抱きつく。私のほうがユーシェより好きじゃないとか思われたら困るし」  湊の闘志に火がついてしまった。僕も真っ向からその友情を受け止めよう……って、何だか変な方向に僕の器が広がりつつあるような。 「こら、何にやにやしてんの。油断すると後ろからいくよ?」 「あっ、やめてやめて……でも抱きつく時は言ってね、びっくりするから」 「う、うん……言ってからにする。それはね、私だってね……結構未練がましいことしてるってわかってるし……」  ……だからこそ、湊の気持ちを大事にしたいって思うことを。彼女に対する償いの一言で片付けたくはない。 「私は、湊のことを大事に思ってる。そのことは、ずっと変わりません」 「……はぁ。『朝日』でふられても実感ないよ? それで、ふらふらしちゃうんだよ」 「でも……ありがと。私のことは気にしないでいいよ。どうせなら幸せになって、いっぱい妬かせて」  湊はそう言って笑うと、僕より先に教室を出ていく。彼女が背中を見せるあいだに、その頬から流れたものが夕日の中できらめきを残した。  ……深夜の2時を回ろうという時間。どうしてもしっくりこないところがあって試行錯誤しているうちに、こんな時間になってしまった。  目蓋が勝手に重くなる。ちょっと休むだけ……ここが終わるまでは、僕は……。 「……はっ」  意識が簡単に落ちそうになった……今日はもう、寝るしかなさそうだ。昔はどれだけ徹夜しても大丈夫だったのに。  ……昔はりそなとオンラインゲームをしてるうちに、朝を迎えてたんだけど。そのころと比べると、全然充実してるといえるな。  お手洗いに行って、部屋に戻る。そして、暗いリビングを通り抜けていこうとしたとき……。 「……ん?」  誰かが階段を上がっていく足音が聞こえた。音を殺していたけど、どうしてもゼロには出来ない。  ……っ、まずい。僕の部屋、カギを閉めてなかった……瑞穂様の衣装を出しっぱなしなのに……!  慌てて部屋に戻る。僕の頭には、前に教室で誰かに見られていたときの記憶がよぎっていた。  まさか、家に忍び込んでまでデザインを盗むなんてことは……いや、可能性はゼロとは言い切れない。 「……っ、ああ、良かった……」  部屋に駆け込むと、机の上の衣装が目に入った。良かった、何も変わったことは……、 「……あれ?」  衣装のとなりに、折りたたんだ紙が置いてある。それは、デザインノートのページを切り取ったものだった。  それを手にとって広げたところで……僕は自分でも驚くくらいに、ぽろぽろと涙をこぼしていた。  紙に書かれている絵がにじまないように、はしたなくも袖で涙を拭う。そうしても、しばらく涙が止まらなかった。 「……瑞穂……」  その紙片は、僕が行き詰まっていたところに対しての、瑞穂の指示書だった。  ……どうして彼女がここに来たのか。自分のデザインの難しいところを知ってて……それを気にかけて。  身体が弱っているのに、こんな時間まで起きていて……僕にこの紙を渡す機会を待ってくれてた。  今日の朝の瑞穂の姿を見て、僕は仕方ないんだと諦めていた。嫌われているところからやり直すのは、スタートラインに戻るのと同じなんだと。  けれど……違ってた。彼女は僕の知ってる瑞穂のままで……優しく笑っていた彼女のまま、何も変わってはいなかったんだ。 「ああ……僕は全然だめだ。でも……」  デザインを盗みに人が入ったのかもなんて思った自分が情けなく感じる。けれどさっきの足音は……瑞穂じゃなく、どちらかといえば北斗さんのようだった。  ……彼女も見てくれている。僕に賭けてくれている、言葉はなくてもそれが伝わってくる。 「……よしっ」  きっぱりと涙を拭ったあと、僕はふたたび作業を始める。疲れなんて吹き飛んでしまった……瑞穂の指示を見て、身体が水を得た魚のように生き生きとしている。  窓の外を見やると、そこには冬の気配がする夜空……ショーの日まで、残された時間は限られてる。  ……僕は衣装を着ることが出来ない。それをどう解決するかはまだ、答えが見いだせていない。  それでも僕は、もう立ち止まることはしない。僕はひとりじゃない……みんながいて、そして瑞穂もいてくれる。それがよく分かったから。  ……ショーの3日前の夜。もう少しで仕上げられるというところで、僕は12月に入ってからの三度目の徹夜をした。 「…………」  言葉が出てこない。形になった服は、僕の目の前に置いてあるけれど……まだ、『完成』じゃないからだ。  瑞穂の指示書は毎日ではなかったけれど、あれから3度届いて、そのたびに僕の作業を進めてくれた。  ……最後に書いてあったこと。『少し胸周りに余裕があるので、詰め物をしてください』という文章。  どうして胸周りを広くしたか……瑞穂なら、僕が誰の寸法を参考にしたか気づいてるはずだ。衣装の型紙も、僕が不在のときに瑞穂が見られるようにしておいたから。  顔を合わせて作業をすることはできなかった……けれど、紛れもなく二人で作った衣装。  その衣装に必要な最後のピースを揃えるために、今日のリハーサルの前に……瑞穂に、お願いをしなきゃいけない。 「……よし」  僕は衣装ケースに作った衣装をしまい込み、外に出る支度を始める……顔を見たらクマがひどいことになってそうだから、隠しておかないと。  朝食の準備を済ませて、遅れてダイニングルームに顔を出すと、何か様子がおかしかった。  他の皆が揃っているのに、瑞穂の姿がない……北斗さんも。みんな、何があったのか口に出しかねている。 「……瑞穂お嬢様は、つい先ほど京都に戻られることになりました」 「……そんな……」  事態が理解できない……昨日までは、食事の席で姿を見ることは出来たし、実家に戻るなんて話もしていなかったはずだ。 「今日までここに居るためにも、瑞穂と北斗はかなりの無理をしていた。父親に一度実家に戻るように言われても、断り続けていたんだ」 「……けれど今日、花之宮の使者が家に来てしまいましたの。それで、そのまま……」 「なんで……なんでそんなことになるかなあ……朝日、毎日あんなに頑張ってたのに……っ」 「ルナ様の衣装で、ユルシュール様がショーに出る。もう、それしか……」 「いえ……朝日、衣装自体は完成してるんでしょう? あなたが着て、それで判断するわけにはいかないの?」  僕が衣装を着てショーに出るという可能性は、お兄様に知られた時点で絶たれてしまっている。  けれどお兄様は、僕が学院にいること……そして、僕たちのグループがショーに出ること自体には、何の干渉もしてこなかった。  理由として考えられるのは、瑞穂に僕の正体が知られた時点で、兄様の目算は達成されていたということだ。  それ以上、僕が何かをするとは思ってない……衣遠兄様の中で、僕は一度夢を諦めた落伍者のままなのだろう。 「……ひとつ、謝っておきたいことがある。私はフィリアコレクションに出すデザインを、クワルツ賞に回そうと思っていた」 「ユーシェには相談済みだ。それは朝日と瑞穂に、哀れみをかけているわけじゃない」 「私がデザインをすると前置きをして、そのままフィリアコレクションに出品すれば……前回の賞で一次通過を喜んでいた、学院長代理の思惑通りになりはしないかと考えた」  お兄様はクワルツ賞をステータスにしている……それに手が届く可能性のあるルナ様のデザインに、興味を示していた節もあった。 「だから、あの男が狙うタイミングを外してやろうと思ってな。それに私は……正直言って、瑞穂のデザインが、思った以上に好みだったんだ」  ちょっと恥ずかしそうにルナ様が言う。だからこそ、彼女が本音を語っていることがよく伝わった。 「……しかし、好みだからぜひ作れ、なんて言えるわけがない。慣れ合う空気は作りたくなかったんだ」  ルナ様の話を、みんな神妙に聞いてる……そう。ルナ様は、僕が誰のサイズに合わせて衣装を作ったかをわかっている。 「もう少し待てばいいと思った。ショーに賭けるしか、朝日と瑞穂が和解する機会はないと思った」 「……北斗が、朝日に瑞穂の指示を届けていることは私も知っていたんだよ。深夜に北斗を見かけて問い詰めたら、教えてくれた」 「そして、朝日は……それだけ精力的に制作に没頭すれば、多少なりと痩せて自分のサイズが変わってしまうのに。それに構っている様子がまったくなかった」  制作を始めてから、僕の体重は3キロ以上落ちている……服の腰回りが、かなりゆるくなってしまってる。 「私の優秀なメイドは、そんなことを見落とすわけがない。つまり朝日は、自分がショーに出る可能性を考えてはいなかった……そうだろう?」 「……はい。おっしゃるとおりです」  何もかもルナ様の言うとおりだった。僕はその洞察を、頭を垂れて肯定する。 「なるほど……そういうことだったんだ。でもさ、ぶっつけでお願いして、瑞穂が受けてくれると思ったの?」 「私が言うのもなんですけれど、瑞穂は素直になれないだけですわ。だってこの私が、朝日を男性だと知っても嫌いにならなかったんですもの」 「……私も最初は殺意が湧いたけど、長く続かなかった」 「物騒なことを言うわね……私なんて、両手を上げて賞賛したいところだったのに」  七愛さんは男の僕にはなみなみならぬ感情があったからな……殺意と言われても納得してしまう。 「小倉さん、初年度のショーは確実に成功させなければならないものです。出場される方々は、何度も予行演習をしているのですよ」  妥協ができなかったとはいえ、ここまで制作に時間がかかってしまった……それで本番を成功させようなんて、八千代さんが不安に思うのも無理はない。 「……とにかく、私たちのグループは今日のリハーサルには出られない。全員が当日に賭けるしかない」 「私は瑞穂を連れ戻せるように働きかける。さっきはあっという間の出来事だったが、今になってだんだん怒りが湧いてきた……このままでおくものか」 「うちの実家のほうにもお願いしてみる。京都なら近いし……瑞穂の実家、有名だからその気になったらすぐに乗り込めちゃうよ」 「かしこまりました、お嬢様。実家の同僚に連絡しておきます」 「リハーサルは全員で見学しておきましょう。段取りを頭に入れておかないと」 「ウィ。瑞穂お嬢様の動きがあったら、すぐに対応出来るよう準備しておきましょう」  僕と瑞穂が作った衣装は、必ずお披露目してみせる。一時は地に足がつかないほど動揺した僕の心に、もう一度熱が戻ってきた。 「皆さん……ありがとうございます。私も、最後まであきらめません」 「最後までハラハラさせられますね……ですが、私も覚悟を決めました。このまま見守ることにします」 「ああ……済まないな、心配をかけて。ショーに出られなかったら、成績にゲタを履かせる準備をしておいてくれ」 「あぁ〜、そんなことしたらあの学院長代理が何て言い出すか……ゆうちょ、じゃなくて朝日と瑞穂。信じてるかんね!」 「正直なところ、神に祈りたくなってきますわね……」 「朝日、あとで完成した衣装を見せてもらうぞ。ちゃっかりしてる君なら、そつなくやっていると思うが」  ルナ様の言うとおり、みんな期待の目を向けてくれている。僕は身が引き締まる思いで、尊敬する主人に向けて頷いた。  今日はショーのリハーサルのために、通常の授業は行われない。一日中、生徒たちが持ち時間の中でウォーキングなどの確認をしている。  僕らはユルシュール様を仮のモデルとして、段取りを確認した。  ……本番で瑞穂に着てもらうなんて、本当に夢物語のような話だけど。僕と瑞穂が目指した夢は、まだ終わってはいない。  ウォーキングをしてポーズを決めて、ユルシュール様が戻っていく……それを見届けながら、僕はいつしか、拳を胸元でぐっと握りしめていた。  リハーサルを終えて帰る前に、僕たちはサロンに集まった。ここでなら、他の人たちに見られることなく、衣装を見せられる。  僕はケースから、完成させた衣装を取り出す。そして、みんなの前に広げて見せた。 「……ボディを持ってこい。瑞穂のものを。見るからにサイズが小さい」 「はー……そ、その前に。このクオリティは……朝日、これひとりで縫ったの?」 「……魂がこもってるとはこのこと。小倉さんの執念はすさまじい」 「七愛に褒められるようだと、執念という意味では日本一かもしれないわね」 「はー……あ、あら? これ、腰のところが私のサイズと変わらないじゃないですの」 「原因が原因とはいえ、瑞穂は激痩せしてたからな。普通に食事出来るようになったとはいえ、完全に戻ってはいなかった」  瑞穂の姿を見られる数少ない機会に、僕は彼女の体型の変化を見ていた……それで作業が遅くなったっていうこともある。 「……そこまでして瑞穂に着て欲しいのなら、どうして言わないんですの。じれったいにも程がありますわ」 「……申し訳ありません。何も相談しないで進めてしまって」 「そうまで突き動かされる、盲目になれる動機があるっていうのは、素敵なことよ。大切にしたほうがいいわ」 「サーシャさんはほんとに朝日に甘いよね。やっぱり似たもの同士だと思ってるとか?」 「朝日のことは、元から気に入っているけれど……辛い恋愛をしているとなるとね。そういう子は、応援したくなるのよ」  辛い……といえばそうなんだろうか。もう2ヶ月近くも、瑞穂と会話らしい会話をしてない。  ……時々夢に見るのは、春から秋にかけての、彼女との思い出。些細な出来事さえ、今はかけがえのない記憶だ。 「雑談はそこまでにして……意見は一致してるようだな。私たちのグループは、この衣装を出品する」 「……瑞穂と北斗に連絡を取ろうとしているが、未だ不通だ。湊のほうは?」 「ひとり、花之宮のほうに向かわせましたが……二人は既に実家に戻っていて、そこからの動きはつかめません」 「うぅ……それって、自分から出てきてくれないと誘拐とかになっちゃわない?」 「瑞穂も北斗も、朝日の考えは分かっているはず……それで戻らなかったら女がすたりますわ」 「ああ、瑞穂ならやってくれる……そう思わないと、今日は眠れそうにないな」  ……何とか瑞穂か、北斗さんに連絡を取らないと。電話が通じるかどうか、やってみるしかない。  夕方から何度も二人に連絡しようとしたけれど、電話の電源は一度も入らなかった。  時間は刻一刻と流れていく……ショーの開演まで、既に10時間を切っている。  意識を失いかけたとき、机の上に置いていた電話が振動した。僕は即座に手に取り、発信者を確認する。 「はい、朝日です……北斗さんっ!?」 「朝日……良かった、起きていてくれた。済まない、連絡が遅れてしまった」 「実家に戻ってから、瑞穂様と父上が話される機会まで時間が空いてしまってね……」 「……瑞穂は、どうしているんですか?」 「……結論から言うと、瑞穂様は……いや、それは本人の口から聞いてほしい」 「これから東京に戻るけれど、私たちの動きは感知されている……追っ手を振りきるのは至難の業だ」 「ショーの衣装はどちらに決まった? それ次第で、私たちは……」 「っ……私たちの、瑞穂の衣装に決まりました……っ!」 「けれどあの衣装は、瑞穂が居ないと完成しない……お願いします、北斗さん。瑞穂を……っ!」 「そうか……良かった。やはり朝日は成し遂げていた……私は君のことを誇りに思う」 「……まずい、もう気づかれたようだ。また後で連絡する!」  北斗さんの電話が切れる。瑞穂は……何があったのか分からないけれど、もう実家を離れてる……。  京都から東京に……新幹線でも2時間以上かかる。そして今の電話の様子だと、まっすぐ向かえるかどうかもわからない。  ……絶対に、時間までに戻ってきてくれる。携帯を閉じたあと、僕は西の方角に向けて祈るしかなかった。  ――翌日。フィリア女学院の第一回学生コレクションには、僕達が想像していたよりも多くの観衆が訪れていた。  開演を待つホールには、すでに満員の観客が入っている……テレビ局の取材も多く、カメラがいくつかステージに向けてセットされていた。 「私たちの出番まで、あと2時間……控え室には1時間前には入っておかなければならないから、実質1時間だ」 「あぁ〜……無事に近くまで来てるといいけど……」 「……当家のメイドも、杉村さんたちの逃亡に手を貸した。ちょっと揉めたけど、大丈夫」 「まさか追手なんてものが、この日本で出てくるとはね……北斗なら大丈夫だと思うけど」 「瑞穂も運動神経は良かったですし、そう簡単に捕まるとは思えませんわ。一度親元に戻ってあげただけでも、義理を果たしていると思いますわよ」 「あまり大きな声で言うな、保護者も見に来てるんだ……いよいよ始まるぞ」  開演の時間が来て、ホールが静かになる。そして……兄様とジャンの二人が、挨拶のために壇上に上がった。 「ご来場の皆様、まことにありがとうございます。これから、学院生の作った服をご覧いただきますが……」 「彼女たちはまだ学び始めて一年目。二年、三年と醸成されていく過程の、始まりをご覧になっていると考えていただきたい」 「未完成、未成熟、無思慮。しかしそれこそが、彼女たちという原石が持つ輝きです。最後までお楽しみください」  ……一年目だから未完成。それでも大目に見てやってほしいという、兄様らしさを感じさせる言葉。  けれど……兄様の言う『原石の輝き』が、観客を魅了することも出来るはずだ。 「衣遠が言い忘れてたから俺から言うけど、このショーの結果次第で来年のクラスを編成するから」 「心配しなくても、審査員は全部で10人居る。色んなジャンルのスペシャリストだから、偏ったことにはならないよ」 「俺も久しぶりに学生のショーなんて見るから楽しみにしてる。んじゃ、始めようか」  掴みどころのない語り口で言うと、ジャンは手を振って審査員席に移動する。兄様もそれに続いた。  着席して間もなく、会場の音楽が切り替わる。そして、スクリーンにはイメージ映像が流れ始めた。  照明がステージ上を照らしだす。次の瞬間、最初のグループのモデルが裾から出てきて、キャットウォークに歩み出ていく。  ……僕の目には、オーソドックスに映るカジュアル。けれど笑顔を見せるモデルさんは、それぞれに輝いて見える。  いつしか僕たちは、ショーに釘付けになっていた。そう……今目の前で繰り広げられている光景こそが、僕たちがイメージしていた目標の一端なのだから。  ……刻一刻と時間は流れていく。前半のショーは60分あり、そこで控え室に入れなければ、失格になってしまう……。  ひとり、またひとり。ウォーキングをして、ポーズを決めて……カメラのシャッターが会場に瞬く。  そして、第一部の30組のうち、15組目……半数が登場して、衣装を披露した。  隣を見ると、ルナ様の手が震え始めている……照明を浴びた真っ白な相貌は、血の気が引いて青ざめて見えた。 「……寒いな。暖房の効きが悪いのか」  そんなわけはない……この会場の熱気だ。けれどルナ様の手は、凍えてるみたいに小さく震えている。  その手を温める資格が僕にあるのか。ただの従者の僕が……そんなためらいは、数秒も続かなかった。 「……瑞穂にも、早くそうしてやれると良いな」 「……はい」  彼女の言葉を聞いたときに、心から思った。ルナ様に仕えることができて、僕は本当に幸せだと。  それからは流れていく時間を、怖いとは思わなくなった。無心になって、16組目の衣装を眺め……、 「……!」  電話が振動する。僕は周囲のお客さんに非礼を詫びながら、客席の出入口へと走っていった。  ホールから飛び出してすぐ、僕は電話のボタンを押した。続いて、サーシャさんたちも駆け出してくる。 「北斗さん、今どこにっ……」 「朝日……ショーの出番まで、まだ時間は……」 「あります……間に合いますっ! あと30分で控え室に入れば……っ」 「今、品川にいる……瑞穂様も一緒だ。どうすれば一番早く、青山まで……」 「サーシャさん……品川までお願いします! そこで北斗さんと瑞穂様が待っていますから!」 「乱暴なことを言うわね……20分で帰って来なきゃいけないなんて」 「分かったわ、少しでも時間を稼いでおいて。間に合わせてみせるから」  サーシャさんはそう言いおくと、スカートの裾を摘んで走っていく……こんな時でも走り姿は優雅だ。 「品川……なぜ新幹線に乗った時点で連絡しない。詰めの甘いやつらだ」 「ですが、これで間に合うことは決まったようなものですわね。朝日、準備をしますわよ」 「よっしゃー! 一発景気よくぶちかますよ! えい、えい、おー! しゃーこらー!」 「湊お嬢様……かっこいい」 「バカだ、バカが二名ほどいる。だが、今ばかりはそれもいいか」 「しかしすまないが、朝日……君はここでお役御免だ。男性の君を、控え室には入れられない」  ……最後の最後に、僕は自分で作った衣装の着付けも……瑞穂が無事にステージに上がれるかどうかも。全て、観客席で見届けなければいけない。 「大丈夫だよ、ゆうちょ」 「泥船に乗ったつもりで、任せておいてくださいませ」  あなたの船なら、泥舟でも沈んだりはしない。僕はそう口には出さずに、力強く頷きを返した。  第二部の開演を待つホール。もう、控え室には入れなくなる時間……それでも僕には、様子を確かめる手段がない。  控え室に入ったみんなの携帯電話の電源は切られている。ショーの前に集中力を高めているときは、ささいな雑音も邪魔になってしまうから。  僕もさっきと同じように、電源を入れておくことは出来ない……ボタンを押して、真っ暗になった携帯をしまう。  そうして顔を上げたとき、審査員席でジャンと話していた兄様が、狙いすましたようにこちらを視線で射抜いてきた。  ……その微笑の意味はわかる。勝ちと負けという言葉が僕と兄様の間にあるのか分からないけれど……彼は、『勝った』と思っている。  今までの僕なら力なく目をそらすことしか出来なかった……でも、今日はそうする気にならなかった。  ――僕は笑っていた。畏怖の対象でしかなかった兄様に向けて、笑顔を見せていた。  長い距離を、僕は兄様と視線を合わせ続ける。どうしてそうする気になったのか……それは。  もう、僕はひとりじゃない。この学院で出会った人たち……あんな素晴らしいひとたちと一緒にいて、何を卑屈になり、怖がることがあるっていうんだろう。  その時、バックヤードでざわめきが起こる……何が起きたのか。あの兄様が目を見開いて驚き、ジャンが子供のように目を輝かせている。  間に合ったんだ……全速で迎えに行ってくれたサーシャさんに感謝する。ありがとう、と音もなく口が動いた。  そして今。ルナ様が、ユルシュール様が、湊が、七愛さんが。僕らの衣装を、彼女に着付けて……。  開演を告げる照明。白く染まりゆく視界の中……まるで、幻みたいに。  舞台の袖から、姿を現したのは……僕が縫い上げた衣装を身に纏い、薄くきらめくような化粧をした瑞穂だった。  誰もが言葉をなくす……兄様が席に着くことさえ忘れている。ジャンもまた、瑞穂の姿を目で追うことしかしていない。  その静々とした品のある足取り……少し憂いを帯びた表情に、僕は見覚えがあった。  ……そう。日本舞踊の呼吸だ……瑞穂の全ての動作の呼吸、視線の送りかた。それは、一朝一夕で身についたものじゃない。  家元になるために修行を積んだ彼女は、舞踊を身体で覚えている……和を体現する所作が、あの衣装をもっとも映えさせると理解してる。 「……きれい……」 「あの子、女優さんか何か……? ちょっと今までと、レベルが……」 「あの子だよ、きものコンテストで賞を取った……でも、こんなに美人だったか……?」  見とれていた人たちが、口々に賞賛の言葉を口にする。それを自分のことのように嬉しく思いながら、僕は瑞穂の一挙手一投足を見つめる。  成績が上位だった僕らのグループは、ショーでも単独で、多めに時間を割り当てられていた。瑞穂はゆっくりとキャットウォークを歩いて、その先端に近いところに立つ。  ……そして、微笑んだ瞬間。会場のカメラがいくつも、目がくらむばかりに瞬く。  それでも瑞穂は笑顔を絶やさない……会場の三方に向いて笑顔を向ける。魅了されたみたいに、みんなその姿に釘付けになっている。  やっぱり……そうだ。彼女は、僕のことをアイドルにしたいと言ってくれたけれど……。  彼女は既に、芸事で脚光を浴びるための素養を備えていて……僕もまた、彼女の魅力に惹きつけられたひとりだ。 「…………」  瑞穂がもう一度正面を向いたとき。暗い会場の中で、彼女の目が僕の姿を探し当ててくれた。  彼女が笑ってくれている……僕も笑っている。心の中にあったわだかまりが消えて、優しさで満ちていく。  ……僕は彼女のことをどう思っているのか。親友で……大切で。それだけじゃ、もうずっと前から足りなくなっていた。  僕は、瑞穂のことが好きだ。ひとりの男として、彼女のことを愛している。  遠い距離をはさんで、見つめ合う時間……その数秒が、限りなく永遠に近づく。  けれど……時間はやっぱり流れていて。瑞穂は背中を向けて、静々とキャットウォークを戻っていく。  最後に肩越しに会場を省みる……浮世絵にもよくある、見返り美人図のような立ち姿。その瞬間、どこからか拍手が起こって一気に会場を包み込んだ。  次の人が出てくることが出来ないくらいの轟音。裾から姿を見せた、次のグループのモデルさんたちに少し申し訳なく思いながら、僕も拍手に加わる。  立ち尽くす兄様の背中を叩いて、ジャンが何ごとかを話しかけてる……そこで兄様は我に返って、首を振ってから席についた。  ルナ様の衣装ではなかったこと……そして、会場の空気を完全に瑞穂が支配したこと。その両方が、兄様にとって思いもよらない展開だったはずだ。  ……兄様が正しくないことをしてたわけじゃない。謝らなきゃいけないのは僕のほうだ……だけど。  こんなことを、今まで一度も考えたことはなかったけれど。兄様を見返すことが出来て、すごく嬉しい。  りそなにそんなことを話したら、彼女は笑うだろうか。そんなふうに思う僕を、咎めるだろうか……どちらにしても。  久しぶりに、時間が流れていくことが幸福だと思える。次のグループが出てきて拍手が落ち着いても、僕の胸はずっと高鳴り続けていた。  第二部が終わり、いよいよ審査員が評価を出す。出場した時点で成績は決まっているから、あくまでエキジビジョンとして審査が行われる。  兄様、ジャン、八千代さん……そして何人かの、国内の著名デザイナー。芸能事務所の社長さんも出席していて、熱心に議論を交わしていた。  ジャンが兄様をなだめている様子が何度か見られたけれど、結局兄様が折れたみたいだった……スタンレーも飄々としてるようでいて、言う時は言う人だから。 「皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより、第一回フィリア女学院、学生コレクションの審査結果を発表いたします」  そうして、もう一度舞台の袖から姿を現したのは……観客席の大勢が予想していた通り。 「デザイン・パフォーマンスの両面が評価されて、審査員の皆様の満場一致で決定いたしました。最優秀賞は……」 「桜小路ルナさんのグループです。デザイナーは、花之宮瑞穂さん」 「今回はデザイナー自身がモデルとして出場しています。皆様、大きな拍手をお願いいたします」  割れんばかりの拍手の中でも、瑞穂は動じずに応えている……僕が抱いていた、恥ずかしがりで照れ屋のイメージはどこにもない。  彼女の家柄を考えれば、子供の頃から注目を浴びていておかしくない……僕が知っているのは、芸事から退いたあとの彼女でしかなかった。  ……今まで知らなかった一面を知っても、僕は惹かれていく一方だった。自分の中にある熱狂を抑えてじっとしていることが、じれったく感じるほどに。 「花之宮さんはきものコンテストでも受賞されていますが、今回もその延長上にあるデザインのようですね。素晴らしかったです」 「ありがとうございます。お着物としては珍しい趣向ですが、楽しんでもらえたらと思って作りました」  瑞穂が朗らかに挨拶をする……元気そうな声がホールに反響して聞こえて、全身に嬉しさが広がる。 「花之宮さんのグループは、コンペをしてデザインを決められたそうですね」 「はい、みんなでデザインを出し合いました。私は桜小路ルナさんのものが良いなと思ったのですが、そのルナさんに推していただいたんです」  瑞穂はルナ様のものを推していたから、ルナ様の言葉がなければ服を作ることはなかった……そのことも、あとでルナ様にお礼を言わなければと思う。 「アクセサリーの担当は柳ヶ瀬湊さん。ユルシュール・フルール・ジャンメールさんは、着付けの手伝いと髪結いをしてくれました」 「それでは登場していただきましょう、瑞穂さんの衣装を作ったグループ、〈朝日班〉《ライジング・サン》の皆さんです」  ルナ様、湊、ユルシュール様が順に出てくる……拍手を受けると、ちょっと恥ずかしそうにしていた。  三人とも僕の姿をすぐに見つける。湊は小さく手を振り、ルナ様とユルシュール様は満足そうに笑っている。 「けれど……本来この服は、私ではない人のためにデザインしたものだったんです」 「そうなんですか? 花之宮さんにぴったりに作られていますが……」 「その人は、布のカッティングから縫製までを担当してくれました。この服は、ほとんどその人が作ってくれたようなものです」 「……その人は桜小路ルナさんの付き人ですが、今はゆえあって、ステージには来られていません。客席から見守ってくれています」 「なるほど……その方が、花之宮さんのサイズに合うように服を作ってしまったと。でもその戦略は成功だったと、私は思います」  僕だってそう思ってる……僕よりも瑞穂のほうが、あの衣装はよく似合う。 「その、本来モデルをされるはずだった方。そして、服を作られた方のお名前は……?」 「……彼女の名前は、小倉朝日といいます。私の、かけがえのない友人です」 「小倉朝日さん、会場で見てくれてますでしょうか、あなたの作った衣装が最高評価を取りましたよ」  先生が少し盛り上げ気味に言う……『小倉朝日』がここにいると気づいた生徒がこっちを見ている。その視線に憧れるようなものを感じて、身に余る光栄に頬をかく。 「でも、その朝日さんが着たところも見てみたい気がしますね。元はそれを想定してデザインされたのなら」 「はい……私もそう思います。だから、近いうちに着てもらいます」  瑞穂が少しいたずらに言うと、壇上の三人も顔を見合わせて笑う。こんなときに言われたら、断るに断れない。 「花之宮さんのファッションショーは後日、個人的にも開催されるということですね。これからもチームワークを大切にして、切磋琢磨していってください」 「それでは皆様、改めて若き才能にあたたかい拍手をお送りください」  先生が言うと、他のグループのモデルの子たちも全員壇上に出てくる……絢爛豪華とはこのことだ。  周りの人たちが席を立って拍手を始めたり、退席する人も出始める……僕はその中でも最後まで残って、ステージ上のみんなに拍手を送り続けた。  ショーが終わって観客が帰っていく中、後片付けが始まる。他のグループの子たちは、既に打ち上げの話をして盛り上がっていた。 「見たか? 朝日。あの傲岸不遜な君の兄が、言葉もなく私たちの衣装を見ていたぞ」 「ちゃっかり、ルナが代表者として名前が出ているあたりが、抜け目ないというか何というかですわね」 「あはは、まあいいじゃん。うちらも一緒に出てきて、スポットライトを浴びちゃったわけだし」 「皆さん、本当にお疲れ様です」  サーシャさんと北斗さん、瑞穂は一足先に家に戻っている……瑞穂はやはり疲労が出て、表彰の後に貧血を起こしてしまった。  ……心配だけど、瑞穂のことばかり追いかけていたら、逆に瑞穂に怒られてしまいそうで……僕は、みんなに気遣ってもらっても付き添いはしなかった。 「さっきの寒気は気の迷いだったが、今日の午後から本当に雪が降るらしいぞ」 「え、ほんとに? 東京でこの時期に雪降るのって珍しいよね」 「日本で雪を見るのは始めてですわ。スイスほど綺麗ではないのでしょうけど、楽しみですわね」 「そうですね……楽しみです」 「……降った後が大変。靴が濡れるし、あまりいい事はない。お嬢様が好きだから、許すけど」 「積もったら雪合戦しようぜ! 朝日バーサス、他の人全員で」 「そ、それはちょっとひどいような……それに私、投げ返してもいいんでしょうか。お嬢様方に」 「私にぶつけたら、雪だるまの中に埋めるというルールでどうだ」 「私は顔にぶつけられたりしたら、ちょっと本気になってしまうかもしれませんわね。雪の妖精と呼ばれた私の本領を発揮しますわ」 「大丈夫、小倉さん。石を入れたりはしない」 「こら、また怖いこと言って。いい加減七愛も、朝日と仲良くしなさい」 「……いろいろお疲れ様。片付けは途中まででいいから、早く屋敷に戻るといい。瑞穂お嬢様が待ってる」 「……デレると結構普通なんだな。つまらないから、どす黒いままでいいぞ」 「どす黒い……ルナお嬢様にそう言われると照れる。私も捨てたものじゃない」 「不思議な価値観ですわね……黒いより白いほうがいいに決まってますわ」 「君のパンツの話なんか聞いてない。ヒョウ柄でも穿いているっていうなら、指をさして笑ってやるが」 「私にはそんな派手なものは似合いませんわ。ルナのほうが意外と似合うんじゃありませんこと?」  二人が鍔迫り合いをしているところを見ると、何だか凄く安心する……戻ってきたんだ、もとの僕たちの間に流れていた空気が。 「ほら、朝日。ガールズトークなんて聞いてないで、そろそろ引き上げていっちゃって」 「ああ、タクシー使っていいぞ。私たちは後でまた、サーシャが車を回してくれるそうだ。そうしたら、八千代も一緒に帰る」 「かしこまりました。ありがとうございます、皆さん」 「……『ございます』、ですの?」  ユルシュールさんの言わんとする意味がわかる。ルナ様は仕方ないなというように、湊は親指を立てて、七愛さんは目を閉じて笑う。 「ありがとう、みんな」 「……今日だけは特別に許してやる。あとで顔を合わせるときは、私のメイドに戻っておけ」 「はいっ!」 「や、そこで元気に返事っていうのも……いいの? それで」 「ルナはメイドとしてくらいは、朝日を独占したいんですのよ。きっと。私は第一の友人の位置がいいですわね」 「えっ、ちょっ……じゃあ私は幼馴染み? それって友達と同じじゃない?」  湊がうろたえ始めたのを見て、七愛さんがすっと近づいてくる。そして、僕の耳元でささやいてきた。 「小倉さん、もう行って。お嬢様が愛人になるとか言い出したら、私はあなたを刺さなきゃいけない」 「そ、それは危険ですね……でも、絶対ないと思いますけど……」 「……そう?」 「こ、こら七愛! 仲良くしなさいとは言ったけど、そこまで距離を近づけろとは言ってないから!」 「同僚として忠告をしていただけです。これからを生き抜くための処世術を」  生き抜くという言葉がリアルに聞こえる……当たり前のことだけど、僕は生涯一途でなければいけないな。  先に出させてもらって、学院の外に出る。するとルナ様の言っていた通りに、雪が降り始めていた。  朝はそれほどでもなかったのに、吐息が真っ白になる。僕はかじかむ手をコートのポケットに入れて、タクシー乗り場に向かった。  屋敷の玄関に入ると、そこで北斗さんが待っていた。僕の姿を認めると、歩み寄ってくる。 「……済まない、ギリギリまで時間がかかってしまって。実家で車を借りて、大阪の駅まで移動して……それから新幹線を使ったんだ」 「大変でしたね……間に合って、本当によかった」 「生きた心地がしなかった。こんなときに限って、新幹線のダイヤが乱れてしまっていてね」 「私は情けないほど動揺していたけれど……お嬢様は落ち着いていたよ。学院に来たとき、自分に求められる役割も分かっていらっしゃった」 「……朝日は、瑞穂お嬢様のために衣装を作っていた。私も、途中からは気づいていたよ」 「北斗さんだったんですね、瑞穂お嬢様の指示書を届けてくれていたのは」 「いや……最後だけは、瑞穂様が自分で行って確認された。『どう見ても私のサイズなんです』と笑っていらっしゃったよ」 「その笑顔を君に見せられたら、もっと早く安心させてあげられただろうにね」 「……瑞穂お嬢様は、どこにいらっしゃいますか?」 「部屋で休んでから、行くところがあるとおっしゃっていた。君にならわかるだろう」 「……私も少し疲れたから、部屋で休ませてもらうよ。たかが500キロの強行軍で、情けないことを言うようだけど」 「いえ……本当に、お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」  北斗さんは頷くと、自分の部屋に戻っていく。その後ろ姿が見えなくなるまで、僕はずっと頭を下げ続けた。  瑞穂が部屋を出て、どこに向かったのか。僕は歩いていく間に、あの日のことを思い返していた。 「『今日は……私にとって、ひとつの記念日です。ルナやみんなにデザインを認めてもらえたことと……』」 「『私たちが本当の意味で、親友になった日……ですね』」 「『……はい。この日この場所を、私は忘れることなく胸に刻みつけます』」 「『もし、あなたが私の作った衣装を着て、ショーのステージに立ったら……また、ここで一緒に喜んでくれる?』」 「『……はい。約束しますよ』」  庭園に出ると、雪が先ほどよりも強まっている。  ……瑞穂は、僕を待っていてくれるのか。ここに来るまでに、少なからず感じた不安が……。  そこにいる後ろ姿を見た瞬間に、全て消えて。僕は夢の中にでもいるかのように、ふわふわとした地面を、導かれるようにして歩いていく。  足音が聞こえたのか、彼女がゆっくり振り返る。その艶やかな黒髪に雪の粒が触れて、さらりと滑り降ちていく。 「……ごめんなさい、早く戻ってきてしまって。本当は待っていようと思ったのだけど」 「……いえ。瑞穂お嬢様のの身体が、第一ですから」  まだ僕は言葉遣いを、出会ったころのように丁寧にする。瑞穂はそれを咎めることはせず、小さく微笑んだ。 「夏休みに入る前だったかな。ここで約束したときのこと……少し前まで、忘れようと思っていたの」 「私は、あなたに酷いことを言ってしまったから……覚えていても、仕方ないって思ってしまってた……」 「……私だって。瑞穂が傷つくとわかってたのに……」 「……私に嫌われると思ったから、言えなかったんだよね?」  親しげに話しかけてくれる瑞穂……それだけで、感情の堰が切れてしまいそうになる。  彼女への愛しさと、安堵……今すぐにでも抱きしめたいという気持ちが、溢れて。  ……でも、それはしちゃいけない。まだ僕は確かめていない……瑞穂の気持ちを。 「私が、男の人が苦手だって言ったから……朝日がいたら、一生独りでもいいって言ったから?」 「……はい。私は……瑞穂のことを、好きになってしまっていたから。親友のままでもいい、傍にいたいと思ったんです」 「男性としてだったら見てはいけないこと、話せないこと……一緒には出来ないこと。それを、幾つも積み重ねてしまっていたのに」 「取り返しのつかないことになると分かっていました。瑞穂を悲しませることをしてるんだと……なのに……」 「……あのとき、私は色んなことを考えてた。朝日が男性だったと分かって……すごく怖くなったの」 「子供の頃にいやな思いをしたからって、あなたには関係のないことなのに……まるで、世界に自分が独りぼっちになったみたいに、寂しくなった」 「……食事をすることも出来なくなって。そんなことしても意味があるのかなと思うようになって……私、朝日とずっといっしょに居られると思っていたから……」  僕もそう思っていた……けれどそれは、先のことを考えないようにしていただけだ。  大蔵遊星に戻ったとき、瑞穂との関係がどうなるのか。正体が露見したときに考えればいいとしか思っていなかった。 「……でも、ひとりで考えているうちに思ったの」  瑞穂の目から涙がこぼれる……けれど裏腹に、彼女は笑ってるように見えた。  ……感情が限界に達したら、誰でもそうなってしまう。笑うしかないくらいに辛いことだってある……。 「私があなたにわがままを言って……友達になろうって言って。それで裏切ったのは、私の方なんじゃないかって」 「たとえ男の人でも……朝日が私に優しかったことは変わらない。そう気づいた時には、もう……」 「……どうやって謝ればいいのか、わからなくて……ただ遠くからあなたの顔を盗み見ることしか、できなかった……っ」  ……僕は瑞穂が見てくれてることに気づかないで。逆に、彼女の横顔を伺うだけで罪悪感を感じてた。  けれど、すれ違っていた僕らは……一緒に服を作るという共通の目標があったからこそ、ずっと繋がっていられた。 「……私だってそう……瑞穂のことを、ずっと見ていました。姿を見られるだけで嬉しかったから」 「瑞穂が実家に戻るかもしれないと聞いた時に、もうなりふりは構ってられないと思いました」 「ルナ様も、みんなも、背中を押してくれた。瑞穂の衣装を作ることをあきらめるなって……」 「あきらめたら、それは瑞穂のことを諦めてるのと同じだからって。そう言われて、自分の気持ちに改めて気が付きました」  ずっと、遠回りをしてきた。一生伝えることは出来ないと、胸の中に封じ込めた想い。  ……それを、ようやく彼女に伝えられる。何も隠すことなく、ありのままの心を晒して。 「……私は、瑞穂のことが大好きです。こんな私でも、受け入れてもらえるのなら……ずっと一緒にいたい」 「……本当にいいの? こんなに我がままで、子供で……意地になってしまう私でも……」  北斗さんは、瑞穂が僕の前で見せる顔が好きだと言っていた。そう……大人びた彼女の、あどけない表情。  それを見られることは、幸福以外の何物でもない。今までも……そして、これからも。 「これから一生かけて、あなたを悲しませた分だけ……笑わせてあげたい」 「……親友じゃなくて、恋人になりたい。もうこれ以上、瑞穂のいない時間が耐えられないから」 「……朝日……っ」  瑞穂が駆け寄ってくる。僕は彼女の身体を受け止めて……その細い肩に手を置いて、抱き寄せた。 「うぐっ……うぅ……私も……私も、朝日がいないとだめ……生きていけない……っ」 「あなたがいないと全部真っ暗で……色がなくて。何にも見えなくて……息をすることも苦しくて……」 「……私がもっとしっかりしていたら、こんなに傷つけなくて済んだよね……ごめんね、瑞穂……」 「ううん……私……私こそ、酷いこと言って……ひっく……あ……朝日じゃないなんて……っ」 「あの時の私は……本当にそう。自分が男だっていうことにこだわりすぎて……女装してる自分を、恥ずかしがってた」 「……でも、今は違う。私は『朝日』も捨てないままで、瑞穂の恋人になりたい」 「だって……私は朝日として、瑞穂に出会ったんだから。男になったからって変わってしまうのは、違うよね」 「……ありがとう……ありがとう、朝日……」  大蔵遊星としての僕を受け入れられたら……と思うとき、僕は同時に小倉朝日を否定していた。  けれど今は違う。そのどちらも僕で……女装を続けているあいだ、『小倉朝日』も本当の僕だ。  ……兄様は分かってはくれないと思う。けれど僕らは、瑞穂と一緒に結果を残すことが出来た……だから、胸を張れる。  僕は小倉朝日で……フィリア女学院の生徒で。これからも彼女たちと一緒に、学び続けていくんだと。  外では雪が降り続いているけれど、屋敷の中にいると熱気を感じる。いつもの活気が戻ってきたからだろう。  帰ってきたみんなと、夕食の席を囲む。元気になった瑞穂を、誰もが気構えすることなく受け入れていた。 「あー、それじゃ、なんだ。みんな、お疲れ様」 「お疲れ様ー! 瑞穂、最高だったよー! さっきも言ったけどまた言うね!」 「いろいろと肩の荷が降りましたわね……傍から見れば仲直りしたいってわかりますのに、二人とも意地っ張りなんですから」 「ユーシェ……あまり言わないで、自分が一番良く分かっていますから」 「素直になるのが一番ね。さらに本音を打ち明けやすくなるように、とっておきのワインを開けましょうか」 「私は飲めないから、八千代とでも飲んだらどうだ。七愛も強そうだな」 「そうですね、クリスマスは仕事がありますし……今のうちに、少しはお祝い気分を味わっておきましょうか」 「……メイド長が若干やさぐれてる。そういうことなら、私はお酌をする」 「私は泣いちゃいそうだからそういうのはいいや。誰が泣くって言った? 何時何分何秒?」 「情緒がちょっと不安定ですわね……何をそんなに気に病んでいるんですの?」 「……私の気持ちを理解したかったら、十年前くらいにタイムスリップすればいいと思うよ」 「朝日……というか遊星さんのことですの? ああ、分かりましたわ……湊が何を考えているのか」 「私が何を考えてるっていうのさー! もー怒った、ケーキ食べてやる! やけ食いしてやる!」 「ちょいちょい湊のテンションがおかしくなるな……食べ過ぎると、年明けの身体測定で泣くことになるぞ」 「ルナお嬢様は冷静ですね……朝日を取られてしまうことに、思うところがあったりしないのですか?」  僕と瑞穂は一瞬視線を交わしてから、ルナ様の様子をうかがう……すると、小さく嘆息されてしまった。 「朝日が私の付き人をやめるというなら言いたいことの一つもあるが、そうでもないって言ってるからな」 「はい、卒業までお仕えさせていただきます」 「両手に花どころじゃ済まないね……これは。でも朝日、遊びでうちのお嬢様に手を出したら、その時は手袋を君に投げつけることになるよ」 「……とりあえずルナの方が危ないのではないでしょうか。そろそろアトリエに入れてあげようとか言っていませんでしたか?」 「ん。まあそのときは瑞穂には我慢してもらうことになるな。一回中にこもると、一段落するまで出て来る気にならないし」 「え、ええ……でもルナ、朝日とその……主人と従者の関係を超えるようなことは……ね?」 「……一つ間違うとそういうこともあったかもしれないと思うと、何か腹立たしいな」 「ほんと、女装なんかしてるからモテるんだよ。そろそろ脱いでりそなと同じ髪型にしてこい」 「え、えーと……そうしたら、背の高いりそなみたいになると思うよ」 「自分が女顔だっていうのを開き直ってるのか。たくましいやつだ」 「……その妹さんは、正真正銘の女性? そういうことなら、敬意を持って接することができそう」 「瑞穂様にとっては、義理の妹……ということになるのでしょうか。仲良くなれると良いですね」 「ほ、北斗……そういうお話は、まだ気が早いです」 「あらあら……それは婚約ということですか? 近頃はスピード婚がはやっているって言いますものね」 「……顔が笑っているのに八千代が何か怖いのは気のせいですか?」 「心配はいりませんよ、春は誰にでも訪れるものです」  八千代さんはこの中では最年長だからな……恋愛の話も聞いたことがないし、そのあたりはちょっと気になるところだ。 「……久しぶりに小倉さんにメイドの心得を指導したい気分です。八つ当たりじゃないですよ?」 「ほどほどにしてやれよ、嫁入り前の身体なんだから」 「こ、怖いこと言わないでくださいっっ!!」  桜屋敷の食卓は、完全に以前の活気を取り戻した……いや、ある意味以前よりもみんな元気になってる。  これだけみんなに釘を刺されると、瑞穂となかなか二人きりにはなるのは難しそうだ……焦らずに機会を待ったほうが良さそうだな。  屋敷の中で最後にお風呂に入らせてもらって、掃除も終わった。  今日までの疲れはあるけど、不思議と眠気を感じない……瑞穂とのことがあって、幾らでも元気が湧いてくる感じがする。  ……もうすぐクリスマスか。屋敷の皆でパーティをするのかな……瑞穂と二人で過ごすっていうのは、彼女もいろいろと気にしそうだ。  ともすれば瑞穂との距離をもっと近づけたいと思ってしまう……あまりそういうのを態度に出すと、瑞穂は乗り気がしないんじゃないだろうか。  少しずつ、急がなくてもいい。瑞穂の傍にいられるだけで、十分幸せなのだから。  布団の中に入ると、電気毛布でほんのり暖まっていた……けれど雪が降ったあとで、少し肌寒い。  こんなときこそ、瑞穂が傍に居てくれたら。彼女と一緒に眠ったときの、あの温かさを思い出してしまう。  ……異性だと分かったあとでは、一緒に寝たりは出来ないだろうな。恥ずかしさが違うだろうし。 「……っ」  そんなことを考えているうちに、控えめなノックの音が聞こえてくる。心臓が、途端に早鐘を打ち始めた。  僕は動揺を見せないように、急がずにベッドを抜け出す。そしてドアに近づくとき、声が聞こえた。 「朝日……もう寝ちゃった……?」 「……いえ、起きてます」  ドアを開けて、瑞穂を部屋に招き入れる。明かりの点いていない部屋の中で、彼女はすごく緊張しているように見えた。 「……今、寝るところだったの?」 「はい。まだ寝付けそうになかったですけど、明日も早いですから」 「そう……そうよね。明日も早いし、早く休んだほうがいいよね」 「瑞穂お嬢様は、寝付けないんですか?」 「……改めてお願いしようと思って。そんなに丁寧じゃなくて、前みたいに……親友みたいにしたいなって」  電灯をつけていない部屋の中。カーテンを通した淡い月の光だけが、瑞穂の紅潮した顔を浮かび上がらせる。 「良かった……私も、瑞穂をもう一度、名前だけで呼びたいなって思ってたから」 「……いいの? 私、我がままばかり言って……」 「私も我がままを言ってたから。子供だったって、反省してる」 「……瑞穂のことをひとりの女の子として見てるのに。それを言わないのも、我がままだよね」 「……朝日が朝日のままでいてくれて、嬉しかった。私と一緒にいた時間は、嘘じゃないってことだから」 「男の人だってわかっても……思い出してみても、全然嫌じゃなかった。一緒に寝たことも、採寸をされたことも。町を、腕を組んで歩いたことも」 「……お風呂のときのことも。いつからか、湊の様子が変だった理由に気づいて、なるほどって思っちゃった」  湊はそれほど時間をおかず、僕の正体に気づいたから……それは、周りのみんなには、彼女の様子が変わったように見えてたんだろう。 「あのとき……他の女の子と、朝日が男の人のかっこうをして歩いてるのを見て。生まれて初めて、何も考えられないくらい心が乱れたの」 「頭の中はどうしてって言葉でいっぱいで……朝日のことが、世界で一番大嫌いになりそうになった」 「……嫉妬してたんだよね、きっと。あの子と手をつないでる朝日が、楽しそうだったから」  でも、あの時一緒にいたのは妹のりそなだ。それは、ドア越しに伝えていたから……瑞穂は少し申し訳なさそうに笑った。 「妹さんを大事にするって、素敵なことなのに……ごめんなさい、ひどい勘違いをして」 「りそなは、瑞穂と話したがってたよ。あの子は勘が良くて、私の好きな人が瑞穂だって気づいていたから」 「そうなんだ……私、ヒステリーだと思われたかな。今度、ちゃんと会って謝らないと……」 「あの子なら大丈夫だよ、きっと」  りそなは人の気持ちがよく分かる子だ。昔から、周りの人達に、どう自分が大蔵であることを見せようかを考えてきたから。  ……りそなも、フィリア学院に入れたら……その時は。この屋敷で一緒に暮らせたらいい。 「……みんなでまた、一緒にお買い物に行きたいね。りそなちゃんに似合う服を選んであげたりしたい」 「りそなも服には独自の美学があるから……瑞穂はゴスパンク系とか興味ある?」 「すごく可愛いと思う。朝日にも似合うと思うよ、そういう服」 「美人姉妹で、合わせて衣装を着るのもいいと思う。私は写真を撮ってあげる」  ……そうか。瑞穂は女装してる僕のことを好きになってくれたから、顔立ちの似てるりそなも同じくらい好感を持ってくれてるんだ。 「そのときは、三人揃って撮ってもらったほうがいいよ。瑞穂は、私のアイドルだから」 「うん、私も一緒に……」 「……えっ? わ、私はアイドルなんてそんな……ステージの上に立つときも、すごく緊張してたし……」  アイドルに必要なのは度胸と恥じらい。相反するようだけど、僕はそういうものだと思っている。 「私は瑞穂のことをアイドルにしたいな。瑞穂には、ひとつのホールをいっぱいにした人たちを、魅了するだけの力があるんだから」 「……そ、それはちょっと。だって、朝日が衣装を着て欲しいみたいだったから……サイズだって、私に合わせて作ってあったし……」 「朝日と仲直りしたかったから……必死だった。だって私、もう帰る家がなくなっちゃったから」 「えっ……そ、それって、もしかして実家で何かあったの?」  北斗さんもそんなことを言ってた……実家に帰れないくらいのことって、一体何があったんだろう。 「……その……私が文化祭でテレビに映ってしまったこと、実家に知られていたの」 「あんな格好をさせるために学院に行かせたんじゃないとか、桜小路の娘の悪影響を受けたとか……そんなことを次々に言われて、なんだか嫌になってきちゃって」 「あげくのはてに結婚相手は見つけておいたから、この見合い写真から選べなんて言われて。それまではおとなしく聞いていたんだけど……」 「……また、爆発しちゃった?」  なんとなく想像ができて言うと、瑞穂……日頃はお淑やかでおっとりしているけど、溜め込んだものを一気に解放してしまうタイプなんだな。 「私には好きな人がいます。その人と一緒に生きていきます……って言って、飛び出してきちゃった」 「ばかだよね……朝日に酷いこと言って、許してくれる保証もなかったのに」 「……でも、びっくりしちゃった。朝日が大蔵の人だって分かってから、追手が来なくなったの」 「私の家も、かなり大きい方だと思うんだけど……やっぱりすごいね、朝日は」  僕やりそなの立ち位置は、大蔵の人間でありながら、あまり表に出てはいけない……言うならば、ルナ様の状況にも近いものがある。  けれど『大蔵の血を引いてる』ということは、僕と瑞穂にとってプラスに働いたみたいだ……自分の生まれにこんなに感謝するのは、生まれて初めてだ。 「でも……私は朝日が大蔵の人じゃなくてもいい。そんなこと、関係ない……」 「……私は、朝日のことが大好き。男の人としても、親友としても」  そこまで言われて……何もせずに彼女と眠って、次の朝を迎えられるほど。僕は、抑えのきくほうじゃなかった。  ……いや。生まれて初めて、焦がれるほどに思ってる……瑞穂が欲しい。自分だけのものにしたい。 「……さっき、思い出しても全然嫌じゃなかったって言ったね。それは、キスをしそうになったことも?」 「…………」  瑞穂は言葉に出来ないくらい恥ずかしがってる。僕はそんな彼女が愛おしく感じて、自分から歩み寄ってその肩に手を置いた。 「……朝日……」 「……目を閉じて、瑞穂」 「遊星さん、って言ったほうがいい……かな……?」 「ううん。今から『僕』って言うと、瑞穂がびっくりするといけないから」 「…………」  瑞穂は返事をしないけど、否定もしてない……男性が苦手な彼女が、僕だけは特別に見てくれるとしても。それでもいきなり男らしくするのは違うと思った。  僕は朝日として、彼女を抱きたいと思った……客観的に見たら、女の子の気持ちで、男の身体で抱くっていう、倒錯したものに見えるかもしれないけど。  僕らは僕らで、他の誰かに倣うことはない。僕はこの装いのままで瑞穂を求める……それが一番、自然な姿だと思えるから。 「ん……」  瑞穂の唇をそっと塞ぐ。かすかな吐息がこぼれて、僕の聴覚を愛撫する。  ……柔らかいけれど、いっぱい話したからか少し湿り気を欲しがってる。僕は瑞穂の唇に優しく吸いついて、しっとりと湿らせた。 「……ちゅっ。ん……んぅっ……はぁっ……あむ……」  苦しくないように息継ぎをはさみながら、瑞穂の唇を求めて、甘美な感触を味わう。  ……キスってこんなに夢中になるくらい、気持ちがいいものなんだ。唇に心地よさを感じるなんて、初めての感覚だった。 「ふぅっ……ん、んむっ……ちゅっ。ちゅっ……ん、んんっ……」 「ちゅっ……んむ。はむ……んくっ。んむっ……ちゅ……」  少しずつ触れ合うことへの緊張がなくなっていく。僕が唇を吸うと、瑞穂がそれにぎこちなくも応えてくれる。  僕は瑞穂に口を開いてもらって、舌を少し差し入れてみる。すると、瑞穂も恐る恐る、舌を伸ばしてきてくれた。 「ふぁっ……ちゅ……んむ。ふむ……んっ……んくっ……」  舌先を触れ合わせるうちに、互いの唾液が混ざり合う。瑞穂が喉を鳴らすのを恥ずかしがってるのか、薄く開いた目が潤んでいた。 「ん……ごめんね、瑞穂。あまり加減できなくて……」  少し苦しい思いをさせたかなと思って尋ねると、瑞穂は真っ赤な顔で笑った。 「……私も夢中になってた。キスって、すごいんだね」 「……うん。私もそう思う」 「ふふっ……朝日、女の子みたい。でも、違うんだよね……」 「やっぱり変かな……でも、『僕』っていうのはしたくないんだ。今は」 「……今のはちょっと、頼れそうな感じがしたかも。そういうふうなら、私は……」 「……うん。出来るだけ優しくするよ。胸がドキドキして仕方ないけど……」  そう言うと、瑞穂はそっと手を伸ばして、膨らみのある僕の胸に触れる。 「良かった……私だけじゃなかったんだ」 「み、瑞穂……」  瑞穂が僕の手を引いて、自分の胸元に持っていく。ブラに収まった凄く大きな膨らみ……そこに手を宛がうと、ふにゅ、と柔らかく受け止められた。  ……鼓動が伝わってくる。それにしても何て感触だろう……服の上からなのに、感激して声も出ない。 「……色んな意味ですごいね、瑞穂は」 「こんなにドキドキさせてるのは……朝日だってこと、わかってる?」 「うん……嬉しいよ、すごく」 「ん……ちゅっ。ん……んむっ……っ、はぁっ……あっ、んふっ……んむ……っ」  愛おしいという以外に、何も考えられなくなる。夢中で口づけを交わしながら、僕は瑞穂の華奢な肩を抱く。  そして、そっとベッドへと導いていく。最後は彼女を、柔らかいマットの上に、押し倒すような姿勢で横たえた。  一度瑞穂の身体を離すと、彼女は自分からベッドに寝そべる。そして、どうしていいものかという視線でじっと僕を見つめてきた。 「……ここからがいっそう恥ずかしいよね。私も、脱いだほうがいいかな?」 「ううん……お部屋は暖かくしてるけど、朝日が風邪を引くと困るから。私が先に……」  瑞穂はそろそろと服をはだけて、僕に下着を見せてくれた。  大きな乳房が、可愛いブラのカップにはち切れんばかりにきゅうくつに収まっている。痩せたと言っていたけど、胸は小さくならなかったみたいだ。  ……春にサイズを測らせてもらったとき、僕は既に男として反応してしまっていた……でも、こんなふうに見る日が来るとは思ってなかった。 「……触ってもらったほうがいいのかな。私、よく分からなくて……」 「うん……やってみるね。これくらいだとどうかな……」  僕は瑞穂の胸に右手を伸ばして、左のブラのカップに触れる。そして、指にほんの少し力をこめた。 「はぁっ……あ……ご、ごめんなさい……」  ため息みたいに、瑞穂が切ない吐息を漏らす。あまり可愛くて、僕は思わずじっと瑞穂の顔を見てしまった。 「……こんなはしたない声……恥ずかしい……」 「いや……もっと聞かせて欲しいな。あんまり可愛いから、どうしようかと思った」  瑞穂の胸に触れたままの手に、激しい鼓動が伝わってくる。指の力を緩めると、鼓動が少し落ち着きを見せた。  一度胸に触れるのをやめて、瑞穂の頬にかかっていた髪を分ける。そして彼女の耳に触れて、首を撫ぜるように指を滑らせた。 「……んっ……くすぐったい……」 「……心の準備は出来た? もう一回触るよ、瑞穂の胸」 「う、うん……今度はなんとか、声が出ないように……」  やっぱり我慢したいんだな……どうなるだろう。僕は瑞穂の両方の胸に触れ、撫でるようにして手を滑らせた。 「……あ……うぅっ……やっぱりだめ……触られると、我慢できない」 「……気持ちいいっていうこと? だったら、もっとしたいな」 「う、うん……もうちょっと強くても大丈夫……ふぁっ……ん、んんっ……」  さわさわと胸に触れて、時折きゅっと押し込んでみる。ブラ越しに揉むまですると、少し痛くさせてしまうかと思ったから。 「……私も気持ちいい。瑞穂の胸、私がいつも支えてあげてたいくらい」 「そんな……そんなことされてたら、落ち着かない……っ、あっ……ん……」  冗談を言うと、瑞穂は生真面目に答えてくれる。火がついてきてしまって、僕は瑞穂のブラのカップの下のところに、指先をなぞらせた。 「……取ったほうがいいの?」 「うん……見せてほしい。まだ恥ずかしい?」 「…………」  頷きたそうにしている瑞穂を見て、微笑んでしまう。僕も緊張して手が震えているけれど、彼女には不安を見せずにリードしてあげたかった……例え僕も初めてでも。  瑞穂は背中に手を回して、ブラのホックをぷちんと外す。そして、器用に腕を抜いてするするとブラを引きぬいた。  瑞穂は胸を抑えていた手をそろそろと広げて、隠すことなく見せてくれる。仰向けになっても形の崩れないお椀型の胸が、呼吸に合わせて上下している。 「……そんなに見ないで」 「……綺麗だよ、瑞穂の胸。うらやましいくらい」 「……舞踊のお稽古をしていたころは、凄くいやだったの。着物が似合わないから」 「そういう悩みもあるんだね……ごめんね、気が付かないで」 「ううん……朝日が気に入ってくれるなら、それが一番嬉しい……」  瑞穂はいつ触られるのかと緊張してるみたいだった……びっくりさせないようにしないと。  彼女はただでさえ、京都から戻ってきてショーに出たばかりだから。出来るだけ労ってあげたい。  そっと手を伸ばして、乳房を直接手のひらで包み込む。たぷとした肉感的な手触りは、手を伝わって身体の芯にまで響いてくるほど魅惑的だった。 「あ……んっ。んんっ……朝日……」 「あっ……瑞穂、大丈夫? 痛かった?」  瑞穂は指先を僕の手に触れさせて、ふたたび元に戻す……痛くはなかったみたいだ。 「……触られてたら、声が我慢できなくなりそうだから、不安になって」  もうみんな眠ってる時間だから……声が聞こえてしまわないかは、確かに気になるところだった。 「……じゃあ、出来るだけ我慢して……っていうのは、つらいかな」 「う、うん……頑張ってみる。もう一回してみて、朝日」  瑞穂に言われるままに手を伸ばして、両方の乳房に触れる。そして、手のひら全体を使ってむにゅ、と上の方に押し上げた。 「っ……」  吐息だけ漏らして瑞穂が反応する。僕はそのまま、ゆっくりと手を動かして、ふにゅ、ふにゅっと乳房を揉み始めた。 「んっ……んんっ。んぅっ……く、うぅっ……ふぁっ……」  初めは我慢していたけれど、だんだん彼女の身体が震え始めて……甘い喘ぎが、耳をくすぐり始める。 「……可愛いよ、瑞穂。我慢しないで、聞こえたりしないから」  瑞穂の乳房を揉みながら、人差し指で柔らかい乳首をつつき始める。押しこむようにすると、みるみるうちに硬さを増して尖ってきた。 「はぁっ、はぁっ……あ……だめ、先は……あぅぅっ……ん、くぅぅっ……!」  乳輪をなぞるように指を這わせる。まだ摘んだりはしないで、緩慢に揉みながら指先でいじり続ける。 「……んっ……朝日、すごく上手……自分で触っても、こんなふうにならないのに……」 「えっ……瑞穂、触ったことあるの?」 「……誰にも言わないでくれる?」 「うん、言わないから教えて」 「その……前に朝日とキスしそうになった後にね。寝ようとしても、身体の火照りがひかなくて……」 「……ちょっとだけ胸を触ってみたんだけど……あんまり気持ちよくなくて。私、感じないのかなと思ってた」  ……こんなに赤裸々に教えてもらうと、僕まで恥ずかしくて……そして。  今触れて、感じてくれてることがすごく嬉しい。自分で慰めようとしてたなんて……親友の時から、そんなに好きでいてくれてたんだ。 「女の子に対してそういう気持ちになるなんて……と思ってた。私、変なのかなって……」 「……結果的には、僕だったら男でも女でも、どっちでも良いってことになるのかな」 「……で、でも、朝日は男の人だから……その……」  瑞穂の視線が僕の下半身を控えめに見やる……見た目は変化はないけれど、それは女装のために常に抑えつけているからだ。  彼女の反応を見てるうちに、高ぶりきってしまって……痛いというか、痺れてるような状態になっていた。 「ご、ごめんね……夏に、プールで股割りなんてして。痛かったよね」 「あはは……あれも、今はもう良い思い出になってるよ」  少し緊張が解けてきたところで、僕は愛撫を再開する。もう少しそのきれいな胸に触れていたい気もしたけれど、ゆっくりしすぎると風邪をひかせてしまう。 「瑞穂、今度はこっちの方……見せてもらってもいい?」  僕は瑞穂の寝巻きの下をするすると引っ張って脱がせた。絹のようになめらかにきらめく太ももと、可愛らしい下着が露わになる。 「……脱がされるのって、子供の時、乳母の人にしてもらって以来かも」 「僕が子供のときはどうだったかな……わ、すごくすべすべしてる」 「あっ……うぅ……さわさわしないで……くすぐったい……」  太ももを撫でられて、瑞穂は身をよじって逃げようとする。僕は触り方を変えて、内腿をむにむにと掴むようにしてみた。 「……んっ……んん。気持ちいいけど……それはちょっと違うかも」 「今日は疲れてると思うから。マッサージしておいた方が、明日に響かないと思って」 「……んっ、んぅっ……んふっ……」  だんだんと、指圧する位置を下着の方に近づけていく……ついにショーツのクロッチまで指が辿りつく。  ……恥丘って言うのかな……少し盛り上がってる。ここの下のところ……まだ布地に覆われてる部分が、瑞穂の大事なところだ。  僕はそこに触れる前に、一度身を乗り出して……瑞穂の乳首にキスをして、逆側の乳房を揉み始めた。 「ちゅっ……あむ。れろっ……」 「んっ……く、うぅ……っ、そっちの方が、気持ちいい……胸のほうが……まだ……」  瑞穂が僕の頭を抱えるみたいにする。僕は顔を上げて瑞穂と見つめあってから、今度は逆側の乳首に吸い付き、ぺろぺろとネコのように舐め始めた。 「んっ、はぁぁっ……うぅっ……もっと強く吸って……」 「……これくらい? ちゅっ……」 「そう……そう、それくらい……はぁっ……あっ、うぅんっ……あさひ……」  だんだんと瑞穂の感じ方が激しくなってくる……少しずつ高ぶりつつある。  僕は熱心に乳房に吸い付き、時折乳首を唇ではさむ。逆のほうの乳首をくいっとつまんで、ふにふにと指で挟んで愛撫し、時折全体を揉みこむ。 「はぁっ、はぁっ……もう大丈夫……下のほう……」 「ちゅっ……んん。ごめんね、夢中になっちゃって……」  淡い明かりの中で、瑞穂の乳房がてらてらと濡れ光っている……夢中で吸い付いていたのと、身体が熱くなって、汗ばんできてるのと両方だ。  ……そして。瑞穂の足を広げて見やると、ショーツにさっきまではなかったかすかな染みが出来ていた。 「触るよ……瑞穂。初めは、この上から……」 「ふぁぁっ……うっ、くっ……んぐ……んくぅぅっ……!」  大きな声が出てしまって、瑞穂は大きく髪を振り乱す……そんなに気持ちいいんだ。僕はショーツの濡れた部分をなぞる指を、思わず止めて見つめてしまう。  ショーツの生地越しにも、秘裂から愛液が滲み出してくるのが分かる。瑞穂のそこはくにゅくにゅと柔らかくて、そして熱かった。 「……だめ……聞こえちゃう……」 「……うん。でも、我慢しないと次に進めないよ?」 「……朝日が上手だから……もうちょっと手加減してくれないと、私……」  はじめて結ばれることへの期待で、感じやすくなってるのか……それとも瑞穂は元から敏感なのか。  ……僕が天然で上手っていうことは考えづらい。エッチなことに、才能ってあるのかな……。 「じゃあ、ゆっくりするよ……まだ、脱ぐのは恥ずかしいよね?」 「ここは……まだ、見られたら死んじゃいそう……」  そうだよね……僕だって、自分の男の部分を瑞穂に見せるときは、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。  僕はそろそろと再び指を伸ばす。そして、濡れているところを、じくじくと指で上下に擦り始めた。 「……っく、ふっ……う、んふっ……はぁぁっ……ん、やぁぁっ……」  瑞穂の下着の染みがどんどん広がっていく……すごく濡れてきてる。高ぶりが押さえきれなくて、僕はこくんと控えめに喉を鳴らした。 「……瑞穂、気持ち良さそうだね。どのあたりがいいの?」 「……今朝日が触ってるところ……はぁんっ……んんっ……!」  痛くさせないように、中指と人差し指を上下させてこする。すると、瑞穂はシーツを掴みしめるくらいに感じてくれた。  すごく濡れてきてるから、そろそろ脱がせてあげないと……そう思ってショーツの腰のところに指をかけると、瑞穂は首を振っていやいやをした。 「はぁっ、はぁっ……だめ……まだ見られたら……」 「そ、そっか……うーん……」  自然に流れで脱がせてあげられたらいいけど、そこまでの技術は僕にはない。強引に脱がせるなんて、絶対にしちゃいけないことだし……。 「……そろそろ、朝日のほうも……してあげたい」 「えっ……ぼ、僕?」  途端にうろたえてしまう。自分がするのはいいけど、してもらうとなると話は違った。 「う、うん……分かった。じゃあ、脱ぐから向こうをむいててくれるかな」  瑞穂は律儀に、ベッドに寝転んだまま向こうを向いてくれる。けれど、後ろをちらっと伺ったりするのが可愛かった。 「……こういうこと言うと、変だと思うかもしれないけど。朝日、きれいなおしり……」 「っ……こほっ、けほっ。瑞穂、そんなしみじみ……」  花之宮のお嬢様に、おしりなんて言わせていいのか……いや、屈託がないのは可愛いんだけど、でも。 「……水着の時も後ろから見た時、そう思ってたの。きゅっとしてて形がいいなって」 「そ、そうなんだ……あはは……」  女の子だと思われてた時から、僕は体型を観察されていたのか……それでよくばれなかったものだ。  りそなにもお尻が大きいって言われたし、女らしい体型ということに関しては自信を持っても……いや、過剰な自信は身を滅ぼしそうだな。  僕は寝間着の下を脱いで、押さえつけていた部分の拘束を解く。屋敷の中でじっと見るのは久しぶりだ……僕の男性の部分は、けなげにしっかり機能を果たしていた。  ……つまり、思いっきり膨張してしまってる。開放感とこれからしてもらうことへの期待で、鈍い快感がずきずきと常に走り続けているくらいだった。  もう一度下を穿いてからベッドにそろそろと上がると、瑞穂は身体を起こしてこっちを向く。彼女はそろそろと近づいてきて、僕の寝間着を改めて震える手で脱がせた。 「……これが、朝日の……」  女物の下着がこれ以上恥ずかしく感じることもないだろう……いっぱいに膨らんで主張するそこを、瑞穂は息もできないくらいに凝視しながら、ついに僕の下着を降ろした。 「ふぁっ……」  そこを見た瑞穂は、小さく声を漏らして驚く。やっぱり、ここだけは苦手かな……と思ったけれど、その目は嫌悪感は感じさせなかった。 「……ど、どうかな……やっぱり、私のイメージには合わないかな」 「……う、ううん……そうじゃなくて。こんなの、どうやって隠してたの……?」 「そ、それは……説明はちょっと、切ないものがあるっていうか……」  見られるよりも、隠してる方法を知られる方がさらに恥ずかしい。はさんだり、抑えたりしてるわけだから。 「……これが朝日の……男の人の部分……」 「うぅ……じっと見られると……」  我慢しようと思ったけど、視線がくすぐったくてどうしようもなくなる……も、もうだめだ……。  ぴくん、と僕の男性の部分が震える。それを見た瞬間、瑞穂はびくっと大きく震えた。 「ひぅっ……」 「……ご、ごめんね。驚かせちゃって」 「……こ、こっちこそごめんなさい。じっと見てたら、突然動いたから……」 「結構、ひとりでにそうなっちゃうっていうか……」 「……触ってみてもいい?」 「……う、うん。ちゃんとお風呂では、綺麗にしてるから」 「うん……いいにおいがする。朝日のにおい」 「っ……く……」  自覚がないだけに、すごくエッチなことを言ってても分からないんだろうけど。  触られてすらいないのに、先走りが流れてきそうだ……あまりに瑞穂が純粋すぎるから。  瑞穂の指先が、僕のものにそろそろと近づいて……今まで他人に触れられることがなかったそれに、ついに愛しい人が触れた。 「はぁっ……あ……」  まだ少し皮をかむっていたのに、瑞穂の指が這うとつるりとピンク色の亀頭が顔を出す。その瞬間に、僕は吐息が漏れるほど感じてしまった。 「……痛くない?」  そう言いつつ、瑞穂は鈍く脈を打つ僕の肉棒に、上下に指を往復させてくる……張り詰めた幹に絶えず快感が走って、僕は思わずシーツを掴みしめた。 「うん……大丈夫。気持ちいいよ……」 「……朝日も濡れてきてる。私と同じなんだ……」 「……うん……そうだね。凄く感じてるから」 「どういうふうにしたら、気持ちいい……?」  瑞穂の指が、僕の肉棒に巻きつけられる……握られてる。そこからは、どうしたらいいか分からないみたいで、彼女はそのまま戸惑っていた。  僕は彼女の手に手を添えて、上下に動かすように促す。 「こういうふうにすると……あっ、あぁっ……!」 「……こうして、こすればいいの? んっ……」  小さく喉を鳴らしながら、瑞穂は肉棒を握ったまま手を上下に動かし始めた。ぎこちなく、きゅっ、きゅっとこすられ、絞り上げられる。 「ふぁっ……く……うぅっ……」  瑞穂の手が上下するたび、とてつもない快感が生まれる。僕はそれでも、愛撫してくれる瑞穂からは辛うじて目をそらさなかった。 「……もっと気持良くしてあげるには、どうしたらいい?」  瑞穂は熱っぽい瞳で僕を見つめながら尋ねてくる。そのあいだも、手はぎこちなく僕のものを擦り続けている。 「……口で……いいかな。いやだったら、そのままでも十分……」  言葉通り、あと少ししごいてもらえば、僕は初めて人の手で射精することになる。誰にも見せたことのない姿を、恋人に見せることになる……。 「……こういうふうに?」  瑞穂は肉棒に口を近づけると、桃色の舌を出して……ぺろ、と味見するように表面を舐めてきた。 「うぅっ……あっ……く、んんっ……」 「……ちゅっ。ちゅっ……気持ちいい……?」  愛おしむようにキスをしてから、瑞穂が尋ねてくる。僕は言葉も無く頷きを返した。 「ふふっ……朝日、可愛い。返事もできないなんて」 「……下手に話したら、いつでもいっちゃいそうで……うぅ……」 「ちゅっ……こうやってキスするだけでも気持ちいいの?」  「うん……瑞穂の唇、柔らかくて……ふぁっ……!」  説明しようとしたところで、瑞穂が舌を使って先の方を責め始める。まだぎこちないけど、舌の先端が、雁首を偶然にちろちろとなぞった。 「あ……い、いく。いきそう……ごめん、もう……」 「いっぱい濡れてきてる……朝日、このまましてるとどうなるの? ちゅっ……」  間隔の開いた愛撫だから辛うじて耐えられているだけだ……続けてされたら、少しも我慢できない。 「……あの……保健で、勉強したと思うんだけど。その、子供を作るための……」 「……あっ。う、うん……わかった。出ちゃうっていうことね」  顔が火を噴くような思いで、僕は頷きを返した。ちょっとしただけでいきそうなんて……。 「我慢しなくてもいいのよ……? 無理すると、身体に悪いかもしれないし」 「……う、うん。でも、好きな人の前で出すっていうのが……恥ずかしくて……」 「……恥ずかしがらないで、いっぱい見せて。朝日の可愛いところを」  瑞穂は言って、僕のものに手を添えて……小さな口の中に入れてくれようとする。 「ふぁ……あむ。ん、んむ……おっひい……」 「くぁぁっ……あっ、あぁ……瑞穂……」  泣けてきそうなくらい感じる……瑞穂の口の中は温かくて、柔らかくて。僕の一番感じる部分に、余すところなく粘膜がからみついてくる。 「ん……んむっ……ちゅ……ちゅぷっ。ん、んくっ……」  苦しそうに喉を鳴らしながら、瑞穂はくわえたまま動いてくれようとする……さらに奥に数ミリ口に入れただけで、もう限界みたいだった。、 「んふっ……んっ、んん……ふぁっ。ごめんなさい、全部入らない……」 「ううん……それだけでも気持ちいいよ。ありがとう……」 「良かった……じゃあ、もう一回いくね。は……ぁむ。ちゅぷっ……ちゅっ……」 「……ぁ……あ、そう……そのまま……」 「ふむ……んむ。ちゅっ……ちゅるる。ちゅぷっ……ふむんむ……?」  何を言ってるのか分からない……けど、気がついたら瑞穂の手が、精嚢を下から支えるようにしていて。そのまま、やわやわと袋ごと揉みしだき始めた。 「んぁっ……あっ、はぁぁっ……ぅ、み、瑞穂……そ、そこは……っ」 「……んむ。ちゅぷっ……ちゅっ……じゅるるっ……ん、んぐっ……」  初めは亀頭を口に含むのがやっとだったのに、いつの間にか半分くらいまで口に入れてくれてる……苦しそうだけど、それでも離さずに動き続ける。 「あっ……あぅ……っ、く……瑞穂、もう少し続けて……そうしたら……っ、くぅぅっ……!」  瑞穂の頬にかかる髪を耳にかけるようにして、煩わしくないようにする。瑞穂は目を開けることもせず、そのまま愛撫を集中して続けてくれる。 「んぐ……んむ。ちゅぷ……ちゅぷぷっ……じゅぷっ。ちゅぷっ……ふぁ……」  一度僕のものを口から出したあと、瑞穂は続けて裏筋をなぞるように舌先で責めてくる。その瞬間、すぐそこまで来ていた熱が堰を切って吹き上がった。 「あ……あぁっ……い……いくっ……!」 「ふぁ……っ」  大きく痙攣したあと、僕のものの先端から、びしゅっと勢いよく精液が吹き出した。 「くっ……うぅ……ま、まだ……来るっ……!」  一度目の余韻の中で、さらに大きな波が来る。瑞穂の見てる前で、再び噴水みたいに白濁が吹き上がる。 「こんなにいっぱい……よっぽど我慢してたのね、朝日……」 「……うん……ごめん、かけちゃって……」  こんなふうに射精したことがないから、自分でもどうやって出るのか知らなかった……。  ……少しくらいはしておいた方が良かったかな。精液がかかった瑞穂の顔を見ると、すごく申し訳ない。 「……いっぱいかかっちゃったけど……朝日のなら、嫌じゃないかも」 「……あ、ありがとう。でも、早く拭いたほうがよさそうだね」 「これって、ついたままだとかぶれちゃったりするの?」  それはどうだろう……とりあえずタンパク質だから、乾くとあまり良い匂いはしなさそうだ。 「と、とにかく拭いちゃおう……ちょっと待ってて、瑞穂」  僕はベッドから降りて、瑞穂の顔を拭くのに良さそうなものを探す……化粧水が含まれてるコットンしかないけど、これなら丁度よさそうだ。 「ん……ありがとう……あとは自分でするから、大丈夫……」  瑞穂は途中からは自分で顔と手を拭く……何とも気恥ずかしい。 「……朝日、大丈夫? 疲れてない?」 「う、うん……私は全然元気。瑞穂は?」  顔を綺麗にしたあとで、瑞穂は僕を見つめて……その視線が、下に下がっていく。 「あっ……ご、ごめん。今、ちゃんと穿くから……」 「……今日は、続きは出来ないの? 私と朝日は、まだ……」  結ばれてない。そこまで瑞穂に言わせてしまうなんて……リードするどころか、僕はやっぱり全然だ。 「……私は、全然大丈夫。瑞穂が平気なら……今日、最後までしたいな」 「……最後じゃなくて、初めの一回目って言って。さみしいから」  ……一度愛撫してもらって、その手でいかせてもらっただけで……楽園の一端を見るような、そんな気持ちだっていうのに。  こうして愛し合うことを、何度も重ねていく。それは今までは知らなかった、恋をすることの大切な一部。 「……これからもよろしく、瑞穂」 「うん……私こそ。朝日が喜んでくれるように、頑張るから」  感激で胸がいっぱいになる……こんな気持ちのままひとつになれる。  初めては、一生に一度しかない。忘れない……この雪の夜のことを、ずっと。  正面から一つになろうとしたけれど、思っていたより難しかった……身体を合わせると、瑞穂の入り口の位置が確認できない。  何度かしてみてうまくいかなかったので、僕は瑞穂に後ろを向いてもらうことにした。 「……朝日、これなら大丈夫?」  瑞穂がシーツの上で、後ろにいる僕を伺いつつ言う。白くて大きい桃みたいなお尻が、ふるふると魅惑的に揺れた。  そして、胸が重力に従って、上を向いてたときより大きく見える……少し動くだけでたぷん、と大きくたわんでいる。 「……あの、このままだと恥ずかしいから……早く入れて……」 「……うん。ちょっと慣らしてみてからにしよう……指を入れるね」 「う、うん……入るかな……」  瑞穂はまだ、何も受け入れたことがない……それなら、十分に解しておいてあげたい。  僕は指を舐めて濡らしてから、ぴったりと閉じた陰唇に触れて、くいっと広げてみた。 「ふぁっ……だ、だめ……広げないで……」  溜まっていた愛液が、つぅっと糸を引いて伝い落ちようとする。それを指でぬぐって、どんな味がするのか舐めてみた。  ……何て言えばいいんだろう。薄い塩味というより何より、エッチな味がする。 「……いくよ、瑞穂。力を抜いて……」  ひくつくピンクの秘肉に誘惑されて、瑞穂の膣口に指をそっと差し入れていく……温かくて、愛液に滑って意外に滑りがよかった。 「んっ……は、入ってきてる……朝日の……ゆびっ……、はぁぁっ……」  第二関節くらいまで入れて、僕は一旦指を止める……瑞穂がお腹に力を入れて呼吸するたび、きゅぅぅ、と締め付けてくる。  ……ここに入れるのか……そんなことをしたら、どれだけも持ちそうにない。下腹部に熱い疼きを感じながら、ゆっくりと指の抜き差しを始めた。 「ふぁっ……あっ、あんっ……ん、んふぅぅっ……、んむぅっ……!」  くちゅくちゅと水音を立てて、傷つけないように優しくかき回す。瑞穂は声を押さえるために、手の甲に口を押しつけてくぐもった声を上げた。 「……あぅぅっ……んんっ……あ、朝日……だ、だめ、そこは……舐めたりしたらっ……、はぁぁっ……!」  瑞穂の陰裂に指を入れたままで、周りに舌を這わせてみる……愛液の味が、さっきとは違って感じる。 「ちゅっ……れろっ。いっぱい濡らしておいた方がいいから……もう少し続けるよ」  にゅる、と指を中から引き抜くと、シーツにぽたぽたと露が落ちる。僕はそれに構わずに、濡れた花弁を下から上にぺろりと舐め上げた。 「……あ……あっ……あ、朝日……だめ……さっき、私……」  何となく瑞穂が言いたいことは分かったけれど、僕は全然構いはしなかった……好きな人なら、何も気になりはしない。 「……気にしなくていいよ。瑞穂のここ、美味しい……ぺろっ。ちゅっ……んむ……あむ……」 「ふぁっ……あぅぅっ……く、くぅぅんっ……ん、んんっ……!」  陰唇を唇ではさんだり、舐めあげたりするうちに、瑞穂の感じる場所がわかってくる……陰裂のお腹の側のほうにある、小さな膨らみ。そこが一番感じるみたいだった。  ……クリトリスっていうのかな。僕はそこを、指でじくじくと押したり、つまんだりし始めた。 「はぁぁっ……あっ、あぁっ……だめ……そこは触っちゃだめぇっ……!」  感じ方が全然違って、瑞穂が手を伸ばして愛撫を止めようとする……やっぱり、凄く良いところなんだ。  ……もう、これくらいで大丈夫だろうか。もっとしていたいけど、瑞穂も声を出しすぎて疲れてきてる。 「……そろそろ入れるよ、瑞穂。もう少し、足を広げて」 「……うん。焦らなくていいから……ゆっくりね……」  さっきは上手く入らなかったけど、これなら……入れるところが見えやすくて、間違えたりすることは絶対ない。  ずっと高ぶりきったままでジンジンと痺れているものに手を添えて、僕はさっきまで指を入れていた陰裂に、先端をそっと押し当てた。 「んっ……あっ、滑っちゃった……」 「そ、そっちはだめ……こっちの方だと思う……んっ……」  瑞穂は心配になったのか、自分で手探りで入り口を示してくれる……なんて扇情的なんだろう。  僕は導かれるままに、ふたたび膣口に肉棒を当てる。そして、ずれないように手を添えたまま先端を押し込んだ。 「んっ……んんっ……入って……きてるっ、朝日……っ、んぐぅぅっ……!」 「くぅぅっ……あ……あぁっ……」  なんて締め付けだろう……万力か何かみたいだ。けれど痛みと同等に、締め付けられたものが快楽に喘ぐ。 「いた……痛い……」 「瑞穂……くっ、うぅ……」  さらに瑞穂の腰を引きつけ、肉棒を進ませたところで……繋がったところから、赤いものがにじんでくる。  ……血が出てしまってる。抜いたほうがいいのかと、僕は腰を引こうとする。そのわずかな動きだけで、射精を意識するほど凄まじい快感が走った。 「……瑞穂、ごめんね……こんなに痛くさせて……」 「……私こそ……我慢しようと思ってたのに……こんなに痛いんだと思わなくて……」 「でも、大丈夫……次は我慢出来ると思うから。朝日を、受け入れてみせるから……」 「……ありがとう。もう一度、ゆっくりいくよ……」  血が出ているのを見て、無理はさせられないと思ったけれど……瑞穂がそう言ってくれるなら、先に進みたい。 「……くぅっ……うぅ……うぐっ……ん、んんっ……!」  再び、肉棒がゆっくりと瑞穂の中に埋没していく……半分を過ぎたところで、さらに締め付けがきつくなり始める。 「いた……痛いけど……痛い……っ、あぁっ……!」 「っ……!」  瑞穂が声を上げた拍子に、肉棒が狭い所を押し開いて奥まで達した。さっきまで侵入を阻まれていたのが嘘みたいに、それは突然に訪れた。  ……痛いって素直に言った方が良いのかもしれない、と思う。それで逆に、緊張が緩んで……いや、そんなことは今はいい。 「瑞穂……全部入ったよ。ありがとう……」 「……うん……良かった……さっきは、無理かもしれないと思ったから……」  僕もそうだ……不安だった。こうして一つになれている僕らを、自分で想像出来ないくらいに。  ……少しずつ実感が湧いてくる。瑞穂の中に受け入れてもらって……何て幸せで、心地の良い行為なんだろう。 「動くのは、もうちょっと待って……まだ痛くて……」 「うん……大丈夫だよ、いくらでも待てるから。あまり痛いなら、いつでも止めていいし……無理はしないで」 「……お腹に杭が刺さってるみたい……すごく痛いけど、ちょっとずつ慣れてきてるから……」  お腹に杭……痛いどころの話じゃない。けれど瑞穂の言葉通りに、少しずつ膣内の緊張が緩んできている。  ……これなら、動けるかもしれない。けれど僕は、瑞穂の許しを得るまで、彼女の腰をさするようにして労りながら待ち続けた。 「……朝日……ありがとう、待っててくれて」  瑞穂の声が少し楽になってる……まだ痛みはあると思うけれど、無理まではしてない、それがわかる。  僕は慎重に、瑞穂の形のいいお尻に手を添えて……まず、少しだけ腰を引いて肉棒を半ばまで抜いた。 「っ……あぁ……瑞穂の中、気持ちいいよ……」 「んんっ……んっ……朝日……遠慮しないで、動いて……」 「うん……くっ、うぅ……」  もう一回奥まで肉棒を差し入れる……瑞穂の臀部に僕の腰が当たって、完全に密着する。  根本から先までぎゅうっと締め付けられたまま、ゆっくりと律動を始める。あまりに気持ちが良すぎて、一回動くごとに気が遠くなってしまう。  ……あまり長くもちそうにない。ぬるぬると柔らかい襞に絡みつかれて、ぎゅうぎゅうに締め付けられて……少しの間も、快楽が絶えることがない。 「……瑞穂……痛いのは、もう大丈夫……?」 「んっ……今はもう、ちょっとだけ……慣れてきたら、そんなでもなくなってきたから……んんっ……」  時折瑞穂の漏らす吐息が、少しずつ色を変えてきてる……初めは痛みを感じさせたのに、今は違う。 「……あっ……んん……朝日、もうちょっと早くしても……いいよ……っ、はぁっ……んっ……」  もう少し早く……今でもいきそうなのに、そんなふうにしたら長くは持たない。  けれど瑞穂の言葉に答えて、僕は身体を起こして心なしか腰を入れる速さを上げた。ぱん、ぱんっとお尻に腰がぶつかる音が立ち始める。 「んっ……んぁっ。く、うぅっ……ん、んふっ。はぁっ、あっ……んんっ……」  瑞穂が次第に感じ始めてる……でも、最初からいかせてあげるのは難しいかもしれない。  それなら、僕は素直に感じて、我慢せずに達した方がいい……まだ、彼女には痛みが残っているんだから。  徐々に射精を意識し始める……すると、一度腰を入れるだけで勇気が必要になる。  近づく頂から逃れることは出来ない。ここからどうやって動くのか、考えなければいけない岐路にきていた。  僕は前に身体を倒して、突き動かされるたびに揺れている瑞穂の乳房を揉みながら動き始めた。 「はぁっ……ん、んんっ……朝日……もっと触って。気持ちいい……」 「良かった……こうした方が良いかなと思って……っ、くぅ……」  覆いかぶさるようにして動きながら、左手で乳房を揉み、乳首を指でつまむ。柔らかい乳首が立ち上がってきたところで、今度は逆側の乳房を右手ですくって揉みしだく。 「くぅっ、うぅ……っ、んぅっ……もっと強くして……」  思うままに愛撫しているつもりなのに、まだ強くしてもいいなんて……揉み潰すくらいにぐにゅぐにゅと乳房をこね回しながら、僕は次第に限界を感じ始めた。  愛撫をしながら動けば、それだけ高ぶりが増す……一度腰を入れるたびに、快楽が核心へと加速度的に近づいていく。 「……はぁっ、あ……あぁっ……いくよ、瑞穂……もう一度……」 「うん……いつでも……っ、いつでもいって……朝日……っ、あっ、くぅぅっ……!」  覆いかぶさるような姿勢のまま、僕は近づく快楽に抗うことなく、腰を振り立て始める……一度、二度、三度。熱くとろけた肉洞を往復するうちに……。  ……目の前が白く瞬くような間隔……もう、抑え切れない。そう知っていながら、僕は情欲のままに、愛する人の身体に肉棒を突き入れて快楽を貪った。 「ふぁっ、あぁっ……あ……あぅぅぅっ……!」 「く……ぁぁっ、いく……っ!」 「……ぁ……あぁっ……」  瑞穂の一番深いところで、最後は静かに絶頂が訪れて……トクン、と熱いものが肉棒の先から流れ出していく。 「くぅっ……うぅ……朝日のが……出てる……っ」  一回目の脈動で既にいっぱいになった膣内に、さらに精液を送り込む……さっき口で出してもらった時よりも、遥かに深い快楽に身を浸しながら。 「はぁっ、はぁっ……瑞穂……」 「……朝日のが、いっぱい……熱い……」  射精のあとに訪れる圧倒的な脱力感に耐えながら、僕は辛うじて身体を起こす。そうして、繋がったままの肉棒をぬるりと抜きさった。  開いたままの膣口から、しばらく置いて精液が流れ出てくる。打ち付けているうちに少し赤くなった太ももに、泡だった朱混じりの精液が伝っていく。 「……中で……ごめん、断りもせずに……」 「ううん……大丈夫」 「朝日のこと……信じてるから。私のこと、裏切らないって……」 「……うん。もしものときは、責任は取るよ」 「……朝日の赤ちゃんだったら……早い内に欲しいな……」 「……ありがとう」  ベッドに倒れ伏したままでも睦言に答えてくれる瑞穂を、今は労ってあげたい。だから僕はありったけの想いを込めて、彼女の頬にそっと口づけをした。  身体を起こして膝に力を入れ、僕は次第に腰の動きを速め始める……今までビクともしなかったベッドが、小さく軋み始めるくらいに。 「ふぁっ、あぁっ……くぅ……んっ、んぅっ……はぁぁっ……」  あまり激しくしすぎるのは、『朝日』らしくない……だから僕は、最後のタガを外さずに動く。  早く動いては、ゆっくりに抑えて……そうするうちに、瑞穂の中のぬるみが増して、全く抵抗を感じなくなっていた。 「瑞穂……っ、もう……いく……いくよ……っ」 「はぁっ、あぁ……きて……朝日……ふぁっ、あぁ……くぅっ……うっ……うぅっ……」  高い声が出そうになって、瑞穂は思い出したように抑え始める……けれどその方が感じるみたいで、膣内が断続的にぎゅうっと僕のものを締め始める。  その中で数度動くと……痛いくらいの締め付けの中で、身体の芯から熱いものがせり上がってくる。 「……く……うぅっ、いく……っ!」  最後まで僕は腰を振り立てることはせず、瑞穂の白いお尻に優しく手を添えたまま、頂きに向かって膣奥まで肉棒を突き入れ……そして。 「んんっ……く、ふぁっ……!」  射精の前兆を感じたところで、僕はぐっと堪えて肉棒を引きぬく。そして、瑞穂のお尻に滑らせるように肉棒を押し当てた。 「はぁっ……あっ、んんっ……くぅぅっ……」  精液が迸り出て、瑞穂の白いお尻にかかる。そのたびに、瑞穂はため息のような声を出して身体を震わせる。  ……ふるふると動くお尻を見ていると、ものすごく誘惑される。けれど開いた膣口から赤い筋が伝って、僕はすぐに我に返った。 「瑞穂……ありがとう、気持ちよかったよ……」 「……私も……最後のほうは、気持ちよかった……」  瑞穂は辛うじてベッドに倒れこまないように踏みとどまりながら、僕の言葉に答えてくれる……。  彼女の言うとおりなら、次はもっと気持ちよくしてあげられる……そうしたい。僕だけがこんなに気持ち良くても、釣り合いが取れていないから。  僕たちは交代でシャワーを浴びてから休むことにした。一緒に入らないのは、お屋敷の皆の手前もあるからだ。 「……朝日のこと、洗ってあげたかったんだけど……でも、もし見られたら心配だから」  シャワーの後も、瑞穂は自分の部屋に帰らずに居てくれた……北斗さんは承諾済みだ。  でも……僕と瑞穂が結ばれたことまでは知ってるだろうか。彼女もそういう話題に慣れてないところがあったから、ちょっと心配だ。 「瑞穂、北斗さんは……その、僕らのことは知ってるの?」 「ううん、北斗に言ったりしたら気絶しちゃうから。でも、薄々と分かってはいるみたい」 「そ、そうなんだ……よく許してくれたね」 「それが……私が実家で啖呵を切った時から、北斗が前よりずっと言うことを聞いてくれるようになったの」 「相当の迫力があったんだね……私も見てみたかったな」 「……そんな、人ごとみたいに。朝日と結婚するって言って出てきたのよ?」 「……うん。プロポーズは、時期を見て改めてするよ」  ためらいもなく答える。彼女がいなくなることなんて考えられない……僕の全部を捧げたい相手だから。 「……その時は、もう一度言ってくれる? 私のこと……」 「うん。瑞穂は、私のアイドル……ううん。僕のアイドルだよ」 「……あのね。私、必要なときが来たら……朝日を『遊星さん』って呼ぶこと、いやじゃないから」 「私はあなたのことを愛してる……男の人のかっこうでも、好きなようにしてね。最初は意識しちゃうと思うけど……」 「卒業してからは、元に戻ると思ってたけど……だんだん、女装を解く想像ができなくなってきてるんだ」 「……考えてみたら、解いても顔はそのままだから……かつらを取っても平気かも」 「寝る時は取っていてもいいのよ。少し煩わしいかな、と思うから」  そうか……外していいのか。でも瑞穂と一緒に休む時にかつらを取らないのも、もうすっかり慣れてしまった。 「……あっ。やっぱりだめ……お屋敷にいるうちは、男の人に戻るのは……」 「間違えてみんなに見られちゃったら……遊星さんのこと、好きになっちゃいそうだから……」 「えっ……そ、そうかな?」 「例えば湊は感激して抱きつきそうだし……あ、もう聞いてるのよ。遊星さんが好きだったっていうこと」  いつの間に……そうか、さっきお嬢様方でお風呂に入ってたからな。僕の知らないガールズトークがあったに違いない。 「ルナだって、ユーシェだって……それに、うちの北斗だって朝日を意識してるみたいだし」 「そ、それは……」 「……北斗はね、裸を見られた相手と結婚しなきゃいけないって家訓があるのよ。もしかして、朝日……」  だから北斗さん、あんなに動揺して……ただ恥ずかしがっているだけにしては、倒れたりするのは変だよな……言われてみれば。 「……朝日? 人の話はちゃんと聞きなさい」 「あっ……う、うん。聞いてるよ?」 「もう……ふらふらしてたら、さらわれていっちゃいそうだから。私が、傍についてないと」 「……だから今日からは、一日おきくらいでいっしょに寝たいな。私の部屋に来てもいいし」 「あ、あはは……一日おきなんだ」 「ルナもみんなも、本当は気にしてると思うから……このお屋敷に住まわせてもらっているうちは、規律はある程度守ろうと思って」 「……卒業して一緒に暮らせたら、その時は……ね?」 「……うん」  もしかすれば、ルナ様のところでパタンナーとして雇用されて……ということもあるけど。何だかんだで、僕たちが桜屋敷から離れる日は、遠い未来の話になりそうだった。  ショーが終わった後の学院は、すっかりリラックスムードになっていた。 「……ふぁぁ。だめだな、緊張感が無くなってしまって。さすがの私も気が抜けたぞ」 「本当ですわね……昼までしか授業がなくて良かったですわ」 「もうすぐクリスマスだから、みんなその話ばっかりしてるね。心ここにあらずって感じ」 「あ……そういえば、そんな時期でしたね」  学院に来る前にも、イルミネーションが取り付けられているのを見かけた。夜になったら綺麗だろうけど、その時間はお屋敷に戻ってるから……ちょっともったいない。 「朝日は、瑞穂と二人で過ごしたいとか……?」 「えっ? キリスト教圏の催しものなのに、私たちがパーティをするなんて変じゃない」 「七面鳥を焼く。小倉さんがさばくところから披露してくれる」 「あなたもケーキを食べて、シャンパンを開けることに異存はないわけね。私はとっておきのチーズを用意しましょう」 「そ、それはちょっと……サバトを行なっているような空気になってしまいます」  七面鳥もいいけど、お嬢様方の好みのクリスマス料理を用意しないとな。瑞穂はクリスマス自体に興味がない……か。  考えていると、瑞穂が僕の様子を伺っていた。そして、みんなの様子も見てから言う。 「あの……仏教徒の私も参加していいのかしら、クリスマスは」 「宗教的なことは気にしなくていいんじゃないか。私は無神論者だしな」 「私は全ての美は、神が与えたもうたものだと思っております。信仰する神はアフロディテとヴィーナスということになるでしょうか」 「国旗が十字なのでよくキリスト教に熱心だと思われるのですが、実際はそうでもないですわ。私の家はプロテスタントですが、ミサにも滅多に行きませんし」 「うちはなんだろう……仏教かな? おばあちゃんに数珠もらって持ってるし」  大蔵は無神論というか、創始者が神様みたいなところがあった。でも時と場合に応じて、相手の宗教を否定せずに許容する寛容さはある。  ……僕は母さまが亡くなってから、神様はいるものだと思ってる。天国がなかったら寂しいから。 「……朝日はどう思う? クリスマスって、私もお祝いしていいのかな?」 「あ……は、はい。いいと思います、せっかくの行事ですから……皆様、そろってお祝いいたしましょう」 「この時期にテレビをつけると、そんな話ばかりやってるからな。ケーキ業界の陰謀に違いないが」 「あと、ホテル業界の陰謀」 「え、なんでホテル? 寒いから家の中でお祝いしたほうがいいじゃん」 「……わ、私はツッコミを入れるのがめんどくさい。他の連中に任せた……そうだ、ユーシェのところは三つ星ホテルを経営してたはずだな。説明してやれ」 「何を説明してほしいんですの? 確かにクリスマスの宿泊予約は難しいって聞きますけれど……」  本気で疑問符を浮かべているユルシュール様。クリスマスが恋人にとってそういう日だとは、全く考えてない……心が澄みわたりすぎてまぶしく見える。 「三つ星? あそっか、ホテルのご飯って美味しいもんね。でも背伸びしなくても、手作りのパーティ料理のほうがわくわくするよね」 「ふふっ……そうね。クリスマスは普段と違って、私たちがキッチンに立つのもいいかも」 「あたふたしている朝日を観察するほうが楽しい気もするが、まあいい。たまには身体を動かさないとな」 「実家に居たらありえないことですから、ちょっぴり痛快ですわね」 「ウィ。お嬢様が料理をされるのであれば、是非内密にお願いいたします。私は美しいという罪以外は、謝罪する気がなさげです」 「中途半端な日本語で、エベレストより高いプライドを披露されてもな。『なさげ』だとか、乱れた日本語をお嬢様に聞かせるな」 「生きた日本語を使おうと思って、勉強した結果だよ。休暇中、しかるべきところに出入りしてね」 「しかるべきところ? あー、なんかみんなの言ってることがよく分かんない。七愛、教えてー」 「……クラブとか。サーシャは、夜な夜な外に出ていって帰って来なかったりする」 「夜にこそ行くべきところがありますから。もちろん、ジャンメール家のメイドとして恥ずかしくない行動を取っているわよ」  一気にサーシャさんについての謎が増えてしまった……今度連れていってもらおうかな。 「朝日はそういうところに出入りしてはだめよ、アイドル入り前の身体なんだから」 「えっ……そ、そんな気配は全然無いと思います。むしろ瑞穂お嬢様のほうが」 「ああ、そうだった。きのうネットで見たんだが、うちの学院のショーの様子が写真と一緒に紹介されてたぞ」 「なんて書いてあったんですの? あなたの工作じゃありませんこと?」  ルナ様は『君がいうな』という顔をしてから、スマートフォンを操作して件の画面を出した。 「ほら、ここに。『アイドル新旋風 今、ファッション学校のショーが熱い!』って見出しで……」 「えっ……?」  瑞穂が目を丸くするのも無理はなかった。画面にはどう見ても、はにかみながらインタビューを受ける瑞穂の姿が映っていたからだ。 「ちょっ、何これ! 凄いよ瑞穂、なんかいっぱい事務所が目をつけてるって! 関係者談、って書いてある!」 「出どころが曖昧な感じ……ゴシップ記事によくあるけど」 「ふぅん……悪意的なことは書いてないわね。ショーに招かれてた芸能関係の人が動いているっていうのは、ありえない話でもないでしょう」 「しかし……このことが実家に知れるのは、少し心配です。瑞穂お嬢様はどうお考えですか?」 「え、ええ……どうしようかな、と考えていたのだけど」 「ひとつ、いいことを思いつきました。お父様の意向に従いつつ、私が私の夢を追いかける方法を」 「……そっちの方向に行くか。まあ……それも瑞穂らしいか」  ルナ様は、ご両親と決別せざるを得なかった……そんな自分と瑞穂様を比べているんだろう。 「ルナだって、ご両親のことはちゃんと心配してるじゃない。顔を立ててあげたりして……」 「心配というか……産んで、育ててもらった以上は、必要なことだからな。ただの義理立てだ」 「そればかりはルナに同意せざるを得ませんわね。自分の立場がどのようなものかは、重々分かっていますし」 「私はまだ時間がかかりそうですけど、瑞穂と同じように探してみせますわ。自立しながら、家と付き合っていく方法を」  凛々しい顔で言うユルシュール様を見ると、サーシャさんは感慨深そうに微笑みを浮かべる。  ……瑞穂が何を思いついたのか。それは、またあとで聞かせてもらおう。  終業式が近いので、授業のほとんどは冬休み中の課題の説明に宛てられた。  ショーを終えたあと、次に作りたい服を考えておくようにという課題。クラスメイトは頭を悩ませていたけど、お嬢様方はいつもしていることだと涼しげな顔だった。  一日の授業を締めくくる、帰りのホームルーム。教室にやってきた八千代さんが、瑞穂の方をちらりと見やってから話を始めた。 「皆さん、授業はどうでしたか? ショーが終わって気が抜けていると言われていますから、冬休みの間には引き締めておいてください」 「何か連絡事項のある人は……ありませんか。では、着席のままで良いです。お疲れさまでした」  僕らも挨拶をして頭を下げる。お嬢様方が席を立つ中で、八千代さんは瑞穂の席までやってきた。 「花之宮さん、少しお時間をよろしいですか? お話したいことがあるのですが」 「はい。どれくらい時間がかかりそうですか?」 「手間は取らせないつもりですが、1時間ほど」 「分かりました。あとで、職員室にうかがいます」  瑞穂が了承すると、八千代さんは会釈をして教室を出ていく。帰り支度を始めていたみんなが、気づいてこちらにやってきた。 「このタイミングで話があるとは、少し気になるな……」 「山吹先生もそんなに深刻な顔はしていなかったし……私は大丈夫だから、心配しないで」 「私たち、瑞穂に対して過保護モードだから。でも八千代さんだったら、そんなに警戒しなくてもいいかな」 「瑞穂の実家から何か言われた……ということでなければ、問題なさそうですわね」  その可能性が否定出来ないから心配だ……瑞穂は『大切な人と一緒に生きていく』と言って、実家を出てきたわけで。  その大切な人っていうのは……照れるけど、僕なわけで。そのことで実家に何か言われるのなら、彼女をひとりにしてはおけない。 「あの……私、瑞穂様のお話が終わるまで待たせていただいていいでしょうか」 「……そんな深刻な話じゃないかもしれないけれど、いいの?」 「まあ、放っておいても北斗が瑞穂を連れて帰ってくるだろうが。まあいい、特別に許す」 「そのかわり、クリスマスを……その、二人で過ごすとかはするな。本当は、うちのメイドは恋愛厳禁だ」 「……片想いは恋愛に入りますか?」 「そんな、遠足にバナナが入りますか? みたいなふうに聞かないの。てゆーか片想いアウトにしたら、どこにセーフになる人がいるっていうの。連れてきてみ?」 「……初めて湊お嬢様に対して、指摘らしい指摘をさせていただきますが……『バナナはおやつに入りますか?』の間違いではないかと」 「なんですっと? ピクニックにバナナを持っていくことすら日本では許可が必要ですの? というかバナナを選択すること自体、なかなか無い発想ですわね」 「ブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ」  不穏な気を発する七愛さんを見て、サーシャさんは僕に近づいてくる。そして、そっと耳打ちしてきた。 「お嬢様はそもそも、遠足の経験がないから。ピクニックといっても、庭と言う名の野山でするものだと思っているのよ」 「なるほど……」  庭先という感覚だったら、家で食べるものが食べられるもんな。出来立ての料理を野外で食べるというのも、広義的にはピクニックと言えなくもない。 「サーシャさん、朝日の1メートル以内に近づく前には私に許可を取ってください。出来ればでいいのですが」 「……その『出来れば』に情熱を感じました。お言葉に従いましょう、マドモアゼル」 「ありがとうございます……み、みんな? そんな、怖い人を見るような顔で見ないで」 「1メートルか……私と朝日の距離感だと、そのラインを超えることはそうないな」  足を置く台にされたりしてるときは、1メートルどころかゼロだったりするけど……あと、飲み物をテーブルんに置くときとか。 「朝日、そうでもないって顔してない……? も、もしかして。私たちの知らないうちに、部屋でふたりっきりになったときに……」 「湊のエネルギーには感心しますわね……そんなことばかり心配していたら、私なら疲れ果ててしまいそうですわ」  ユルシュール様は言ってから、僕と瑞穂の顔を交互に見やる……そして、ぽっと頬を染めた。 「……さっき言っていたことの意味がわかりましたわ。おふたりとも、ほほっ、ホテルの予約を取るのなら、私の実家にご用命くださっても構いませんことよ?」 「……どうしてホテルなの? あっ、朝日が私を旅行に誘ってくれるのね。嬉しい!」  そして瑞穂は、一線を超えてもそういう話題には疎かった……僕のほうが、恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。 「まんざらでもない顔だな……後で小言のひとつでも言わせてもらう。瑞穂、職員室に行かなくていいのか?」 「あっ……そうね、そろそろ行かないと。また後でね、みんな」  瑞穂は鞄を持って、教室を出ていった。僕はお嬢様方の見送りをするために、いったん学院のエントランスに向かった。  見送りをして戻ってくると、他の生徒たちが僕の方を見て噂をしている……なんだろう。  どうやら僕らがショーで結果を出して、僕がパタンナーだってことも知れ渡っているらしい。僕をスカウトしたい、なんて声があちらこちらから聞こえてくる。  といっても僕はまず、りそなの服を作らなければいけなくて。その後だったら……なんて、八方美人しちゃいけないな。  瑞穂と八千代さんが話をしてるサロンにやってくる。すると、八千代さんが出てくるところだった。 「ああ、小倉さん。花之宮さんを待っていたんですか?」 「はい。あの、先生……不躾ながらお伺いします。どんな話をされたんですか?」 「ふふっ……そんなに心配することではありませんよ。ショーのあと、学院にいくつか問い合わせがあったという話です」 「詳しい話は、花之宮さんに聞いてみてください。あなたにも相談したいとおっしゃっていましたから……では、私はまだ仕事が残っていますので」 「はい、お疲れ様です」  八千代さんと会釈をして別れる。僕はサロンに入って、瑞穂の姿を探して……そして、すぐに見つける。  その顔が、少し赤らんでる……照れてるのかな。でも、どうしてだろう。 「朝日……来てくれたのね」  周りを伺うと、僕たちふたりきりだ……これなら、ちゃんと恋人として話せる。 「うん、ちょっと早いかと思ったんだけど。瑞穂、なんの話をしてたの?」 「……え、ええと。さっきみんなで話している時も、そういうことがあるかと思っていたんだけど」  瑞穂はもじもじと手を組み合わせて、指を動かしている……嬉し恥ずかしい、というような面持ちだ。 「……あのね、私がショーで表彰されたところが、芸能事務所の目に止まったみたいで」 「えっ……それって、スカウトされたっていうこと?」  そういうことがあるのか……本当にワンチャンスをものにした形だ。あのショーでのパフォーマンスは、それだけ素晴らしかったと僕も思う。 「私は考えさせてくださいって言ったんだけど……それは逆に、家を説得するためにいいかもしれないと思って」 「えっ……アイドルってことなら、ご実家は許してくれないんじゃ……」  瑞穂は僕の反応を予想していたみたいで、にこにことして聞いている……何だかうろたえてる自分が照れくさくなってしまう。 「日舞の名取で、歌手や女優もされている方がいるから……そういう方面は否定していないわ。もちろん、成功するのは難しいことだけど」 「山吹先生から実家に問い合わせたら、『芸事を磨くのはいいことだから、社会で経験を積んでから家を継ぐかどうか考えてくれ』って返答が来たそうよ」 「それで……ひとまず私のことを、卒業までよろしくお願いしますって言ってくれたみたい」 「良かった……許してもらえたんだね。瑞穂がこっちにいること……」  瑞穂と家の間に亀裂が出来てしまったらと心配していた。家族の繋がりが切れることは、どんな事情があってもけして幸福とはいえないから。 「……遊星さんが大蔵の人で……家の中でどういう立場に置かれているかっていうことも、お父様は知ってた」  僕の母は、父の正妻じゃない……父のはからいがなければ、僕は大蔵の名前をもらってはいなかっただろう。 「お父様は素性を知ったうえで、私の男性嫌いを直してくれたからって喜んでた。一回、会って話がしたいって」 「親心に心配してくれてたのかな。私がずっと、男の人に心を開けなかったら……って」 「……男性嫌いが直ったっていうより、朝日だけは特別に受け入れられるっていうだけなんだけど。それは、仕方ないよね」 「接することが必要な機会はあるかもしれない。でもそういうときは、僕や北斗さんがいつもついてるから」 「……うん。そういうことなら……改めて、朝日に申し込みます」 「私はあなたと一緒に夢を追いかけたい……だからね、もっと自分の衣装を目立たせたいと思って。そのためには、自分で服を着て、表に出ることも必要だと思うの」 「お父様もね、日舞一本では世間に浸透させづらいし、和服離れも進んで悩んでいたんだって。それで、ショーに出てる私を見て、思うところがあったのかな」  新しいコンセプトの和装を、最も似合うモデルの瑞穂が着て世間に紹介する……そうすることで生まれる成果は、既にショーで証明されている。 「もっと目立たせていく……か。確かに、それは大切なことだね」 「花之宮も時代に合わせて対応していかないと。私のかわりに後を継ぐって言っていた子も、もとは芸能界に入りたかったみたいだから……彼女は彼女で、夢を追って欲しいし」  伝統芸能に携わる人は、それだけに限らず多岐にわたって活躍している場合がある。保守的な花之宮が、その流れに追随する……その決断には、並々ならぬ覚悟が必要だろう。 「あのショーが色んなことを変えたんだね。みんなのおかげで、瑞穂のお父様が気持ちを動かされたんだ」 「そうね……北斗は自分は何も出来なかったって言うけれど……そんなことない」 「みんなが居てくれたから、ショーに出られた。この恩は、一生かかっても返さなきゃ」  そう言って笑う瑞穂を見ているうちに、僕はひとつの質問をしてみたくなった。 「瑞穂はあのお屋敷に来るとき、こういうことになるって想像してた?」 「ふふっ……それはね。あの日、朝日のことを町で見つけてから、何かが起こりそうって思ってた」 「それくらい、あなたのことを初めて見た時にときめきを感じたの。女の子だと思っていたのにね」  僕も彼女と出会った日のことを、きっと忘れないだろう。あの春の、賑やかな街角を。 「……ありがとう。好きになってくれて」 「うん……私こそ。これからもずっと、好きでいさせて……」  誰もいないことを確かめてから、僕は瑞穂の肩に手を置く。そして、そっと顔を近づけた。 「んっ……」  唇を触れ合わせると、瑞穂はまだ慣れないみたいでぴくんと反応する。 「……ん、んっ……」 「……息、止めてなくてもいいんだよ?」 「……ふぁっ」  唇を離してあげると、瑞穂は恥ずかしそうに笑う……あまりに可憐すぎて何も言えない。 「……少女まんがとかでよくあるけど、実際に自分がそうなるとは思ってなかった」 「最初のときも我慢してたの?」 「あのときは、息をするのも忘れていて……今日は前より、緊張してないみたい」 「僕も慣れてきた……のかな。でも、学院では控えめにしないとね」 「女の子どうしで、じゃれてるようにしか見えないと思う。お菓子を口移ししてました、とか」 「……じゃあ、帰ってからしてみようか。どんなふうになるか」 「……それは、もう一回キスしてくれるっていうこと?」 「うん……そう。今からも」 「……ちゅっ。ちゅっ……んっ……んん……」  瑞穂のことで頭をいっぱいにして、キスのくれる甘い幸福にひたる。学院の近くを走る車の音が、かすかに耳に届いていた。  授業がお昼までだったから、帰ってきてもまだ日が高い。みんなはどうしてるだろう。 「朝日は、家に戻ったらすぐに仕事を始めるの?」 「ううん、夕方になるまでは何もないよ。あとでルナ様に指示をもらいに行こうと思ってる……瑞穂?」  瑞穂が僕の袖口をきゅっと掴んでくる。こんなに寒いのに、彼女の顔は熱っぽく真っ赤になっていた。 「……あ、あの。もう少し一緒に居たい」 「……うん。クリスマスの日はデート出来ないから……今日は、お屋敷でっていうことにしようか」 「本当……?」 「ルナ様のところに行ってからだよ。それで、少し時間をもらってくるから」 「ありがとう……朝日、優しいから好き」  かたときも離れていたくないって思うのは、二人とも一緒だ。僕らは同じ気持ちでいることが気恥ずかしくて笑い合う。 「……どっちの部屋にする? 私の部屋に来てもいいし、朝日の部屋に行ってもいいし」  どっちがいいかな……部屋の防音が効いているのはわかってるから、どちらでも構わないんだけど。  ……って、僕は何を期待してるんだ……そんなことばかり考えてるのはよくない、不純だ。 「…………」  でも瑞穂もちょっと期待してくれているような……こんなお昼から、いいんだろうか。  とりあえずそれは置いておいて、どっちの部屋に行ってもらうかを決めよう。  2階に上がって、ルナ様の部屋の前に立つ。そしてノックする前に、ちょんちょんと肩をつつかれた。 「ルナ様ならお休みになられているよ」 「あっ、北斗さん……お疲れ様です」 「お嬢様から話は聞いたかい? ショーの前と後ろで、状況が劇的に変わってしまったこと」 「それもこれも、朝日が頑張って衣装を形にしたからだ。改めてお礼を言うよ」 「いえ……私も夢中で作っているうちに、楽しいなと思っていましたから。そんな状況じゃないと、怒られてしまいそうですが」 「いや。悲壮な覚悟をして作る服というのも、あるといえばあるのだろうけど……被服は着る側も作り手も、楽しむことが理想だと思うよ」  北斗さんの言う通りだと思うので、僕は首肯した。久しぶりに、北斗さんがはにかんだ笑顔を見せる。 「……私はもう、君のことも主人として接するべきなんだろうか」 「しゅ、主人……私は、一介のメイドですから」 「いずれは瑞穂様と……ということなら、私は君に仕えることになる。二君を持つというのは果たしていいことなのかどうか……」 「私は、北斗さんのことを……その、ひとりの友人だと思っていますから。これからも同じように仲良くしたいです」 「友人……そうか。はっはっはっ……」 「そうだね……私も君とは友人のままがいい。そうして、瑞穂様を主人と呼び続ける。忠臣は二君に仕えずだ」 「はい。これからもよろしくお願いします」 「……あまりそんな、子犬のような目で見ないでくれないか。君が男だっていうのを、未だに疑いたくなる」 「あはは……あっ」  そういえば北斗さんは、裸を見られたら結婚しなきゃいけない掟があるって聞いてたんだ……本当かどうか、僕は確かめる責任がある。 「す、すみません北斗さん、あの……私、その、見ちゃったから……で、でもっ、結婚は……っ」 「……瑞穂お嬢様から聞いてしまったんだね。そう……だから私は、君の男性の姿を見たことを思い出しても、なかなか認められなかったんだ」 「心配しなくてもいいよ、気持ちの整理はついている……私は、こう考えることにしたんだ」 「今の君は誰が見たって女性に見える。そのかっこうで私の前に居てくれているうちは、私は掟に従わずに済む」 「えっ……じゃ、じゃあ。私がもし、男性の格好をしていたら……」 「……その時のことは、その時に考えよう。それじゃ」 「あ、あのっ……それだと北斗さんは、ずっと……ま、待ってください!」  北斗さんは呼び止めても、手を上げて応じただけで歩き去ってしまう。  北斗さんがずっと瑞穂のお付きをしているとしたら、僕は彼女の心の平穏のためにも、ずっと女装をしてないといけない。  瑞穂と恋人として過ごすうえで、男らしく振る舞う必要があるときは……そのときは、北斗さんに誠心誠意をこめて謝るしかないな。  自室に戻ってくると、瑞穂が制服のままで、僕が作業机で使っている椅子に座っていた。 「おかえりなさい、朝日。ルナはどうしてた?」 「ルナ様はお休み中で、北斗さんと少し話してたんだ」 「そう……北斗が従わなきゃいけない、掟のことを話してたの?」 「それは、私が女性の格好をしていれば大丈夫っていうことになったから」 「わぁ、素敵。それなら、朝日はずっとそのまま、女の子の朝日のままでいてくれるのね」 「う、うん……瑞穂の婚約者としては、男に戻らないといけないけど。それ以外は、女装してないとね」 「……婚約者……」 「……あれ? あ、ご、ごめん。まだ婚約者っていうのは、気が早かったかな」  実家に報告すればいろいろ言われると思うけど……反対されて瑞穂を諦めるなんて、絶対にあり得ない。 「ううん……嬉しい。朝日がそこまで考えてくれてて」 「お父様もね、自分たちより、大蔵の方が結婚に対して厳しいかもしれないって言っていて……いざというときは、うちで養子に引き取るって言ってくれたの」 「……瑞穂のお父さんにも挨拶しないと。初めは怖い人かと思っていたけど……」  瑞穂のお父上は、娘のことを心配してただけなんだ……本当に。  そんな愛娘を連れていってしまう僕には、良い感情が無いのかと思っていた。でも、それは思い込みだったみたいだ。 「瑞穂のお父さんは、僕のことは……女装してることは、もう話した?」 「ええ。さっき実家に電話をしたのよ、朝日とのことを認めてくれたことのお礼をしようと思って」 「そのときに、女装のことも話しちゃった。女の子みたいに綺麗で、私より可愛いって」 「そ、それは……随分と、思い切ったことをしたね」 「ううん、大丈夫。日舞には、女形もあるから……お父様も、女性の着物を着て踊ることがあるの」 「それで、一度稽古をつけてみないかって。それだけ女性のたしなみが身についているなら、一番の関門は超えてしまっているから」 「私が日舞を……?」 「ええ。そうしたら……私が実家に帰って家元を継ぐとき、夫婦で出来るし……」 「お母様は、お着物のデザインを教えてくれると思う。でも……朝日は、和服にはあまり興味がないのかな」  僕が志していたのは、ジャンのような先鋭的なデザイン……母さまと暮らした異国の風合いを感じさせる服だ。  でも……瑞穂のデザインした衣装を作ってるとき、僕はとても楽しかった。そうやって新しく、好きなものを見つけることだってあるんだ。 「瑞穂は、これからも和風の衣装を作り続けるの?」 「……進路は出来れば、卒業した後に決めたいと思っているの。だって私は、まだ朝日をアイドルにすること、全然諦めてないもの」 「あはは……芸能事務所の人たちは、瑞穂をスカウトしたいみたいだけど」 「そ、それは……私がみんなの前に出たから、そういうことになっただけで……」 「瑞穂はまだ分かってないんだね……自分が本当に可愛いんだってことを」 「アイドルが恥ずかしいからって、そんなこと言ってもだめよ。私より朝日のほうが可愛い」 「ううん、瑞穂のほうが可愛い。それだけは譲れないから」 「……もう。先に譲れないって言われたら、何も言えなくなっちゃう」 「うん……でも、本当に可愛いと思ってる。今だって」  制服姿の瑞穂は、町の人みんなが振り返らずにいられないくらい可憐だ。国民的美少女と例えても、大げさじゃないくらい。 「……朝日、この制服ってどう思う?」 「あ……ご、ごめん、じっと見ちゃって。やっぱり似合うな、と思ってて……」 「うん……朝日の目を見てれば、何となく分かるっていうか……その……」 「ち、違うよ? ちょっとその……ええと、純粋に可愛いなと思ってたんだよ。本当に」  真昼のうちからそんなことを考えてると思われたくなくて、取りつくろってしまう。けれど、それで誤魔化すことが出来るほど彼女は甘くはなかった。 「……朝日? 私の目を見て、同じことを言ってみて」  瑞穂は少し真剣な顔をして、じっと僕を見つめてくる……僕はその視線に向かい合おうとするけれど、照れて目をそらしてしまった。 「……うちの学院に制服があってよかったな……なんてしみじみ思ってたら、変だと思うよね」 「……そんなに気に入ってくれてるなら、早く言ってくれたらいいのに」 「こういうことは、素直に言いにくいから……恥ずかしいよ」  交際を始めたときっていうのは、こうなんだろうか。二人きりになると、自然に意識し始めてしまう。  お屋敷に暮らしている以上、二人だけで過ごしたり、一緒に出かけたりする時間は多くはとれない。そのこともまた、僕の気持ちの後押しをする。  ……瑞穂も同じ気持ちでいてくれてるのがわかる。彼女が僕を見る目が、次第に熱を帯び始めているから。 「朝日……」  キスをする前に、言葉はもう必要なくなっていた。僕は瑞穂の肩に手を置いて、そっと頬に触れる。 「……んっ……」  彼女の柔らかな唇をふさぐ。僕はもう、その感触を身体で覚えてしまっている。 「ちゅっ……んむ……」  瑞穂に倣って目を閉じて、唇を重ねて、優しく吸い合う行為に没頭する。二人がキスを交わすかすかな水音と、衣擦れの音だけが耳に響く。 「……ふぁ。朝日……もうやめちゃうの?」 「このまましてると、止まれなくなりそうだから……こんな明るい時間から、いいのかなと思って」  みんな帰ってきてる家でするっていうのは、大胆というか……下手をしたら、急いで着替えたりしなきゃいけない可能性もある。 「……朝日は暗いところでしないと、恥ずかしい?」 「僕じゃなくて、瑞穂のほうが……前にしたときより、全然見えちゃうよ」 「朝日になら見られてもいいし……見て欲しい……」 「っ……そ、そっか……」  話してるうちに、徐々に僕のほうが瑞穂に押されてきてしまう……今の一言で、もうおさまりがつきそうもなくなってしまった。 「……じゃあ……しようか、瑞穂」 「……は、はい」 「あはは……本当に可愛いね、瑞穂は」  つい敬語になってしまった瑞穂が愛らしく思えて、僕は彼女の艶やかな髪を撫でる。瑞穂はくすぐったそうにしながら、髪に触れる僕の手を握った。 「……まだ慣れてないから、優しくしてね」 「……うん」  もう一度キスを交わして、互いの意志を確かめ終わる……窓からは、午後の暖かな光が差し込んでいた。  瑞穂はベッドに座って、僕の方を見やる。制服のスカートから覗いたひざが眩しく見える。  僕の視線が恥ずかしいのか、瑞穂は足を閉じたそうにしてる……その仕草が、僕の目にすごくコケティッシュに映る。 「見せたいって言ったのに恥ずかしがってるなんて、ダメかな……潔くないよね」 「そんなことないよ。恥ずかしがってても、見せて欲しい……っていうと、意地悪かな」  聞いてみると、瑞穂は顔を真っ赤にして僕の表情をうかがう……その恥じらいこそが、僕の身体の芯を熱くするひとつの要素だった。 「あまりじっとは見ないでね……って言っても無理かな」 「あはは……ごめんね、じっと見ずにはいられないと思う」 「……恥ずかしい……」  瑞穂はそう言いつつも、スカートの裾を引っ張る。そして……その下に隠されていた、すべらかな脚が露わになった。 「……んくっ」 「……朝日、喉が鳴ってる。そういえば朝日、喉仏が全然出てないね。男の人って出るんでしょう?」 「昔から、男っぽくならないなと思ってて……そのままで、ここまで来ちゃったんだ」 「……でも、やっぱり本物の女の子にはかなわないな」 「っ……」  柔らかそうな太腿……その奥にある、可愛い下着。瑞穂は恥じらいつつも、そこを見る僕の視線を甘んじて受けていた。  制服の彼女にこんな扇情的な格好をさせている……そう思うと、正直な僕の半身が、熱く火照って疼き始める。 「……触るよ、瑞穂」 「あっ……ん、んん……や……くすぐったい……」  両手で足を広げるようにして、太腿を撫でる。一時は痩せてしまっていたけど、むっちりとした健康的な肉付きに、すごく安心させられる……。 「よかった……瑞穂、一時はすごく痩せちゃって心配だったけど。すっかり戻ってるね」 「……んっ……くぅ……ユーシェにも自慢できるくらいだったのに……朝日のごはんが、美味しいから……」 「……気になるなら、一緒に運動しようか? 私も最近、運動不足だから」 「うん……朝日に嫌われちゃったら、困るから……あっ、あぅぅっ……」  話しながら、僕は瑞穂の内ももをすべすべと撫でて、時折ほぐすようにむにむにとつかむ。  ……僕はやっぱり男なんだな、って思う瞬間だ。大切な女の子の身体に触れて、こんなに感激しているんだから。 「……はぁっ、はぁっ……朝日……あ、あんまり触ると……んぅっ……」  僕は次第に、触れるところをショーツのほうに近づけていた。少し冷たかった瑞穂の太腿は、もうすっかり熱くなっている。  そこからは、惹きつけられるような甘酸っぱい匂いがする。瑞穂が感じてくれてる証拠だ……すごく嬉しい。 「あ……瑞穂、濡れてきちゃってる。そろそろ脱いだほうがよさそうだね」 「……ぬ、濡れてるっていうのは……恥ずかしいから言わないで」 「あ……ご、ごめんね。恥ずかしいことばっかり言って……私、はしたないよね」 「……そういうことしてる時だから、仕方ないけど……もう、心臓がどこかいっちゃいそう……」  それだけドキドキしてくれてるんだな……僕もそうだ。瑞穂のこんな姿を見てるうちに、理性がだんだん薄れてしまいかけてる。  ……もっと瑞穂に感じて欲しい。けれど彼女を驚かせないように……気持ちが少しずつ高まっていくように。くれぐれも慎重になる必要があった。 「瑞穂……腰を浮かせて。私が脱がせてあげる」 「……朝日、あんまり『僕』って言わないのね……女の子としてるみたいな気分になっちゃう……」 「え、えーと……大丈夫、ちゃんと男だから」 「……そうなんだけど……朝日がもし本当に女の子でも、私……って、少し考えちゃって」 「……もしそういう世界が別にあっても……女の子同士でも、瑞穂と恋人になりたい。そう、本気で思ってる」 「……うん。私も……」  瑞穂が腰を上げてくれたところで、手をスカートの奥に差し入れて、下着の腰の部分に指を通す。そして、するすると下ろしていく。 「……ど、どうぞ……ごらんください」  テレビのキャスターさんみたいな口調で言う瑞穂。緊張すると敬語が出るのが、くせになってきてる……そういうところも可愛い。 「恥ずかしかったら、スカートは自分で上げなくてもいいんだよ」  それでも瑞穂は自分でスカートを持って見せてくれる。こうして見てみると、瑞穂はかなり薄い……というか、ヘアが申し訳程度にしか生えていなかった。 「……このほうが、朝日がしやすいかなと思って」 「うん……ありがとう。足はもう少し開いて……」 「あっ……や、やぁぁっ……」  足を広げる瞬間、瑞穂が耐えかねたような声を出す……けれど、力を抜いてくれる。  まだ触れていないそこから、蜜が一筋こぼれている……僕はそれを、人差し指でそっと拭い取った。 「ふぁっ……あっ……あぁ……んんっ……」  淫蜜をまとわせた指先を膣口に差し入れる。するとピンクの秘肉がひくつきながら、くぷくぷと僕の指を半ばまで受け入れてくれた。 「はぁ……っ、あぁ……あっ、だめ……そこ……そこは……」  人差し指を差し入れたまま、ゆっくり、気が遠くなるほどゆっくりかき回す。そうすると、さらに愛液がにじんできて滑りが良くなってきた。  ……前より濡れやすくなってる……膣内を一本の指でマッサージしていくと、瑞穂は時折引きつるような息をして身体を震わせていた。 「瑞穂……どのあたりが気持ちいい?」  指をかき回しながら尋ねると、瑞穂は僕の手を押しとどめるようにしながら、辛うじて答えてくれた。 「あっ……そこ……そのあたり……ふぁぁっ……あぁぁっ……!」  瑞穂が感じてるのは……半ばまで指を差し入れた先、少し広くなっているところ。その上のざらついた部分に指が当たると、ぴくぴくと膣口の括約筋が締めてくる。  僕はいったん指を引きぬいて、粘性の出てきた愛液で彼女の陰部を濡らす。そうしてから、今度は一番長い中指を膣口に差し入れていく。 「……っ、んぁ……あぁっ……朝日……私、もう……もうだめ……いきそう……」  前より濡れ方が激しいし、時折我慢するみたいに震えているから、そうなのかなと思っていたけど……。  ……瑞穂のいきそうな時の顔、すごく可愛い。時折僕の愛撫を止めようとしてやめる彼女の仕草に、悪戯心をくすぐられてしまう。 「……こっちの方も一緒にするよ、瑞穂」 「だ、だめ……もういきそうって言ってるのに……っ、はぁぁっ……あぁっ、あっ……ぁ……」  僕は右手の中指をにゅるにゅると瑞穂の秘洞に出し入れしながら、もう片方の指で陰核をいじり始める。  前にも触って、彼女が感じると分かっている場所……そこを、人差し指と親指で挟み込んで愛撫する。 「ふぁっ……あっ、あぁっ……んっ、んぅぅぅっ……!」  両手の指を使って愛撫を始めていくらも経たないうちに瑞穂が足を広げたまま、何度か身体をのけぞらせて震える。  中に入れた指がぎゅぅっと長く締め付けられたあと、力が抜けて解放される。僕はしばらく指を動かさず、陰核を攻めるのもやめて、瑞穂の様子を見ていた。 「……はぁっ、はぁっ……朝日、大丈夫……? 疲れてない……?」  肩で息をしながら、僕のことを案じてくる瑞穂……彼女は本当に優しい。 「全然元気だよ。瑞穂の可愛い所を見てると、無限に元気になるから」 「そう……あっ、ま、待って……んんっ、だめ……まだいったばかりで……っ、ふぁぁ……!」  瑞穂の返事を聞いたところで、ふたたび愛撫を再開する……今度は指を二本に変えて、ゆっくり奥まで入れてみた。  ……ひだを押し分けて奥までいっても、まだ余裕がある……僕のを入れると、ちょうど奥に当たるくらいだったからな。 「あぅぅっ……くっ、うぅ……ま、また……んぁっ……あっ、はぁぁっ……!」  瑞穂が身体を震わせ始めたところで、僕は中に入れていた指をぬるりと引きぬく。ぽたぽたと愛液が落ちて、シーツの上にしみを作った。  ……瑞穂の中は熱くて、もうどろどろになってる。けれど一つになる前に、もう一回いかせてあげよう。  あげよう……なんて、自分の頭がおかしくなってしまったのかと思う。でも、瑞穂が可愛いから仕方がない。 「くぅぅっ……うぅっ……だ、だめ……これ以上いったら、もう……っ」 「……もう、続けられなくなっちゃうかな?」  瑞穂は弱々しく頷く……そうか、あんまり可愛いからって無理をさせちゃいけないな。 「……も、もう一回だけなら……我慢出来る……かも……」  ……またも、くらくらするほど可愛い反応をされてしまった。僕もそろそろ、我慢できなくなってきた……そろそろ瑞穂の中に入れたい。  押さえつけた部分に鈍い痛みを感じながら、僕はさっきよりも感じさせてあげられるように、皮を被った陰核を指で弄り始めた。 「ひぅっ……ん、んぁっ……あっ、や……やぁぁっ……、はぁっ……ぁっ……」  親指で陰核の皮をきゅっと押し上げて剥く。そしてその中に見えたピンク色の小さな突起を、両手の人差し指で交互にぷにぷにと押し始める。 「ぁ……あぁ……っ、んぅぅっ……だめ……いく……いくっ……」  皮を被ってる部分なのに綺麗にしてある……こんなに敏感なところなのに。偉いな、なんて思ってしまう。  さらに充血して膨らんできた陰核を両手の薬指で弄りながら、残りの指で陰唇をなぞるように愛撫し続けた。 「……ふぁぁぁっ……!!」  二度目は一度目よりも深く達して、瑞穂は足を広げたままでビクン、ビクンと断続的に身体を震わせる。 「……可愛かったよ、瑞穂。気持ちよかった?」 「……はぁっ……あぁ……っ、んんっ……」  すぐに返事をすることも出来ずに、瑞穂はあさっての方向を見てる……ちょっとやりすぎたかな、と心配になったところで、瑞穂の震えがようやく止まってきた。 「……そろそろ指じゃなくて、朝日のが欲しい」 「……一日じゅう抑えつけてたけど、大丈夫かな?」 「大丈夫……朝日のならなんでもいい。もうがまんできない……」 「う、うん……わかった。すぐ入れてあげる」  我ながら何を言ってるんだろうと思うけど、もう恥ずかしがってる場合じゃない。僕は拘束を剥がして下着を脱いだ。  そうして振り返ると、瑞穂が制服をはだけている……そして、上着を脱いだところで僕の方を恥ずかしそうに見た。 「……熱くなってきたから、私も脱ごうと思って」 「そうだね……冬だっていうのに。私もすごく熱い……」  暖房を切っても問題ないくらい、瑞穂を愛撫しているうちに熱気がすごいことになっていた。あとでシャワーを浴びないといけないな……。  瑞穂は自分が座ってしてもらったからと、今度は自分から動いてすると言ってくれた。  僕がベッドの上に寝そべると、瑞穂はそろそろと跨いでくる。そうしてスカートをめくり上げると、既に天上を向いているものを見て息を飲んだ。 「……朝日、やっぱり大きい……こんなの、どうやってしまってるの?」 「そのあたりはもう、慣れとしか言いようがないね……意外と、何とかなるものだよ」 「そうなの……? でも、これからは無理しないでね。痛かったら言ってね」  ここまで労ってもらえるだけで、ありがとうって言いたい気分だ。僕は自分の男の部分に、辛い思いをさせすぎているから。 「……瑞穂、そろそろいいかな」 「そ、そうね……いきます。かちかちに硬くて……それに熱い……」  瑞穂のあたたかい手が、僕の半身に添えられる。そのときに指が皮に触れて、つるんと亀頭が剥き出しになった。 「あっ……く……」 「ご、ごめんね朝日、大丈夫? 痛かった?」  少しひっぱられるような痛みはあったけれど、それよりも気持ちいい方が大きい……鈴口から、とろりと先走りが流れてしまう。 「私は大丈夫……早く、瑞穂とひとつになりたいな。待っているほうが、苦しいから」 「……うん。待たせてごめんね……んんっ……」  剥き出しになったピンク色の亀頭が、ぐぶっと瑞穂の入り口にはまる。僕が肉棒の根本を支えると、瑞穂はそのままそろそろと腰を下ろしてくれた。 「あぁっ……入って……朝日の……ふぁぁんっ……!」 「うぁ……あぁっ……瑞穂……」  一度目につながった時とは違う……十分に濡れそぼった瑞穂の膣は、僕のものをきつく締めながら奥まで受け入れてくれる。  ……一瞬、我を忘れてしまいそうになるほどの快楽。一度目の行為は気持ちによる感動が大きかったけど……今は、ただひたすら大きな快楽に感嘆するほかない。 「……ま、待って……朝日。思った以上に気持ちよくて……動けない……」 「うん……私も……私も、すごく……いいよ……」 「……はぁっ、はぁっ……あっ……あぁ……すごい……」  瑞穂はぎこちなく腰を動かし始める……ぎゅうぎゅうに膣内に収まっていた肉棒が、絞り上げるように引きぬかれ、再び奥までじゅぶっ、と音を立てて受け入れられる。 「ふぁっ……くぅ……うぅんっ、ぁ……はぁぁっ……」 「くぅっ……うぅ……瑞穂、もう少しゆっくりでいいよ……すぐにいっちゃいそうだから……」 「……んんっ……私だって……もう、二度もいってるから……朝日も、それだけ……いってもいいよ……っ」 「う、うん……じゃあ、こっちからも動くよ。瑞穂……」  僕の場合は、短時間で二回もいくのは無理かな……と思ったけれど。瑞穂はもう痛くないみたいだし……前より激しくしても大丈夫だろう。  服の生地をひっぱって伸ばしてしまわないように気をつけつつ、瑞穂の腰に手を添える。そうして、ゆっくり突き上げるように腰を動かし始めた。 「はぁっ……あっ、あぁ……くぅぅっ……うっ、うぅんっ……」  次第に瑞穂の感じ方が変わり始める。愛液にぬるんだ瑞穂の中は、どんな角度で肉棒を突き入れても柔軟に受け入れてくれる……何も心配することなく、快感に浸っていられる。 「くぅっ……うぅ……瑞穂……」 「んぁっ……あぁ……はぁっ、ぁ……ん、んくぅぅっ……うぅっ……」  瑞穂はもはや夢中になって、僕の胸に手を添えるようにしてバランスを取り、腰を動かしている。  僕のものはぬるんだ柔肉で、絶え間なく摩擦され続ける……もう少し我慢出来るかと思ったけれど、逃れられない絶頂が近づいてくる。  僕は大きく揺れるブラに収まったままの瑞穂の胸に手を伸ばして、下から支えるようにして揉む。すると、瑞穂も手を添えて応えてくれた。 「はぁっ、はぁっ……あぁ……朝日……初めてのときと全然違う……」 「うん……僕も、気持ちいい……凄くいいよ……っ、あぁ……」  ぎしぎしとベッドを軋ませながら、僕は瑞穂の身体を跳ね上げるようにして動き続ける……時折胸に触れたり、腰に手を添えたりしながら。 「ああ……いく。そろそろいくよ……瑞穂……っ!」 「きて……我慢しないで……いっぱい出して、朝日……はぅぅっ……!」  じゅぷっ、じゅぷっと音を立てながら、最も感じる粘膜をこすり合わせる……愛液でぬるみきり、熱く蕩けた膣道の奥壁に、僕の肉棒がちょうどこすれる。  膣奥……つまり子宮。そこを突きあげないように加減しつつ、僕はすでに快楽で痛いくらいに痺れきった肉棒を、一心に愛する人の中に送り込みつづけた。 「くぅっ……あ……いく……っ!」 「……ふぁっ……ぁ……出てる……朝日のが……」 「……ぁ……あぁっ……」  瑞穂の中で、僕のものが大きく脈動して……下半身から熱いものが溢れ、肉茎の中を走って迸り出ていく。 「はぁっ、はぁっ……」  瑞穂が息を落ち着けているあいだに、彼女の中から精液が逆流してくるのが分かる……少し前にしたばかりなのに、こんなに出るものなんだ……。  ……子供が出来たりとか、現実的に考えないといけないな。そろそろ抜かないと……このままだと、続けてもう一度したくなってしまう。 「……瑞穂、腰を浮かせてもらっていい?」 「……また大きくなってきてる……私は、朝日に二回してもらったから……んんっ……」  瑞穂が僕のものを受け入れたまま、再び腰を動かし始める。ぐちゅっ、と音がして、奥から精液が押し出されてきてしまうのがわかった。 「み、瑞穂……このままするなんて……い、いいの……?」 「……いいの。朝日が気持ちよくなってくれたら、それが一番……っ、はぁっ……あっ、んんっ……」 「うぁ……あぁ……瑞穂……」  いったばかりで続けてするなんて……と思ったけれど、瑞穂が動き始めて間もなく、肉棒の芯からじわじわと快楽が広がり始める……さっき射精する前と、遜色のない感覚だった。 「朝日……朝日の胸は、このあたり……?」  瑞穂が僕の服越しに、胸のあたりに触れる……愛撫してくれようとしてる。僕は彼女の手を導いて、乳首にあたる部分に手を触れさせた。 「ここが、朝日の……くぅっ……うぅっ、ぁ……はぁぁっ……」 「私も……瑞穂が、もっと気持ちよくなれるように……うぅっ……あっ、あぁ……」  乳首を手でまさぐられる快感に耐えながら、僕は瑞穂とつながった部分に手を伸ばして、挿入しながら瑞穂の陰核を人差し指と中指で擦りはじめた。 「くぅっ……ぅ……あっ、あぁっ……いく……またいきそう……っ」  その言葉通りに、愛撫に応じて瑞穂の中がきゅうきゅうと喜ぶように締め付けてくる……二度目の頂きに上り詰めるまで、僕は一心に動き続ける。 「……あ……あぁ……僕も……僕も、また……いくっ……!」 「あっ……ぁ……はぅぅぅっ……!」  瑞穂は髪を振り乱し、白い首元をわななかせながら絶頂に達する……僕はそれを見届けたあとで、彼女の腰を浮かせて肉棒を引きぬいた。 「はぁぁっ……!」  一度目で全て出し切ったと思っていたのに……肉棒の先から熱いものが幾度も迸り、瑞穂のお腹のあたりを汚していく。 「……っく……ぅぅ……ぁ……」  僕は最後の一滴までを自分の手で絞ったところで、急速な脱力感に襲われる……僕が連続でするのは、二回が限界みたいだった。 「……いっぱい出たね、朝日……あっ……出てきちゃう……」  僕のもので塞がれていた瑞穂の膣内から、とろとろと精液が溢れてくる……もうシーツがぐちゃぐちゃになってしまってる。  精液と愛液の匂いが混じって、部屋に入っただけでしていたことを悟られてしまうくらい……ほんとに凄かった。 「……気持ちよかった……初めが痛かったから、怖かったのに……全然違ってた」 「うん……私も、前より良かった。次も気持ちよくさせてあげられるよう、頑張りたいな」 「……次はとりあえず、朝日の服を脱がせてあげてからしたいな」  僕のことも愛撫してくれようとしていたからな……直接胸を触られてたら、いくのを我慢してから抜くなんて無理だっただろう。  愛撫した手で触れるわけにいかないから、今は撫でたりして労ってあげられないけど……シャワーを浴びたあとで、いっぱい瑞穂を抱きしめてあげたいと思った。 「瑞穂、部屋に戻って待っててくれるかな。出来るだけ早く行くから」 「うん、分かった……あっ」  瑞穂は何かを思い立ったという顔をする。そして、何故だか頬を赤らめた。 「どうしたの? 瑞穂……顔が赤いよ?」 「い、いえ……なんでもないのよ。折角だから、なんて何も考えていないわ」 「せっかく……?」 「時間はまだあるから、朝日も急がずにルナの所に行ってきて。それじゃ、また後でね」  瑞穂は軽い足取りで、先にお屋敷に入っていく……どうしたんだろう。後で瑞穂の部屋に行けば分かることか。  ルナ様は夕方まで休まれるとのことで、僕はいったん部屋に戻ってきた。  途中で北斗さんに会って、一緒に部屋まで来てもらう。そして、瑞穂と二人で過ごしたいとお願いすると……。 「ははは……そうか、お屋敷の中でデートか。だったら、私は不粋をするべきじゃないね」 「ありがとうございます、北斗さん」 「……明るいうちから、ということはないと思うけれど。くれぐれも瑞穂お嬢様の部屋に近づかないように、みんなに言っておいた方がいいか」 「っ……え、ええと……そういうことは無いと思います。まだ、交際を始めて間もないですし」  花之宮の令嬢と、結婚前に……なんて、ご両親に心配をかけてしまう。というか、僕は瑞穂のお父さんにたたっ斬られてもおかしくない……歴史の長い公家だしな。 「……どちらかといえば、旦那さまはその……複雑な気分ながら、待ち望んでおられるというか、何というか」 「え……ど、どういうことですか?」 「その……大蔵家の血を引く跡取りが生まれたら、という期待をなさっているということです。もちろん、お二方の意志が最も尊重されるべきですが」 「そ、それはいくらなんでも気が早いんじゃ……い、いえ、責任を取らないということではなくてですねっ」 「……責任? も、もしや……朝日、既に瑞穂様と……」  あっ……い、言ってしまった。北斗さんの立場を考えると、絶対言っておかなければいけないことだけど……。  即座に槍で貫かれるということは無いだろうか……と思っていると。北斗さんは、ふっと相好を崩した。 「初めて出会った頃は、小さな少女だった瑞穂様が……もう、そんなに大人になられて……はっ」 「……などとしみじみ言える立場では、私は全くないですね。こんな私では大人になるどころか、貰い手はないでしょうから」 「そんなこと無いですよ、北斗さんはとても魅力的だと思います」  男装していても、北斗さんの本質を見ぬいて見初めてくれる人はいるんじゃないかな……と思う。  けれど北斗さんは、なぜか僕に熱い視線を注いでくる……こ、これは……どうしたことだろう。 「……初めは君にアプローチして、男装を磨こうと思っていたのに。いつの間にか、逆転してしまったね」 「えっ……そ、そうだったんですか。でも仕方ないです、私は……」  男だったから……北斗さんのことを初めは美男子と思っても、それはあくまで男性の視点からだ。 「いや、一本取られたよ。君は完璧に女性だったし、これからもそうであり続けるだろう……私はもう、男装の必要さえなくなってしまいそうだ」 「それは……そうかもしれませんね。でも、北斗さんが自然だと思う姿が一番良いと思います」 「……自然……そうか。大自然とともに生きる、その心を私は忘れかけていたような気がする」 「私はこれからも、自分のスタイルを崩さないよ。君と末永く、友情を築いていくためにも」 「……私は北斗さんとも、ずっと一緒にいられるんでしょうか?」  付き人とはいえ、ずっと付き添っているのかどうか……それは決まったことじゃない。北斗さんは即答はせずに、考えこむような仕草を見せた。 「……仕事というよりは、もはや生き方のようなものなんだ。花之宮に仕え、瑞穂様の傍にいるということは」 「だから、私は朝日とずっと一緒にいることになるね。文字通り、末永くよろしく頼むよ」  北斗さんは右手を差し出してくる。僕はそれに、迷うことなく手を差し出して応えた。 「……その……お屋敷で他の部屋の音が聞こえることは、そう無いと思うけれど。自重しないと、皆様方に知られたらいいわけがきかなくなってしまうよ」 「は、はい……」  今度は、簡単に北斗さんの言うことを否定することは出来なかった……彼女に対して、ウソをついてはいけないということを思い出したから。  お茶の準備をして、ポットとティーセットをトレイに載せて二階に上がってきた。  北斗さんはあんなふうに気にしていたけど、部屋に行ったくらいでそういう雰囲気になったりするものなのかな……。  明るいうちだったら、瑞穂は真面目な子だから絶対そういうことはしないと言いそうだけど……僕自身も、そんな大胆なことは……。  ……あまり瑞穂が可愛かったら、どうなるかわからない。初めての時のことを、ふとした瞬間に思い返してしまうくらいだから。  僕は瑞穂の部屋の前に立って、軽くノックをする。このときに片手でトレイを支えるっていうのが、メイドになってから身についたことの一つだ。 「瑞穂お嬢様、私です。入ってもよろしいですか?」 「ちょっと待って……うん、これでいいかな。朝日、入ってきて」  許可が出たところでドアを開けて中に入っていく……すると、瑞穂の姿が初め見つからなかった。 「瑞穂……? どこに行ったの?」 「……朝日、ひとつ約束して。これから、どんなものを見ても、びっくりしてそのトレイを落とさないって」  声は右の物陰から聞こえてくる……というか、本気で隠れるつもりはないみたいで、服の端が既に見えている。あの衣装は……もしかして。  僕はショーの日のことを思い出していた……司会の先生が、『瑞穂のファッションショーは、後日個人的にも開催される』と言っていた。 「……大丈夫、心の準備はできてるよ。出てきて、瑞穂」 「はい……行きます。しっかり見ていてね、朝日」  そして瑞穂が、少し間を置いてから……僕の目の前まで歩いてくる。ショーの時は遠くにしか見られなかった、あの衣装を身にまとった姿で。  瑞穂は静々と僕の前に歩いてくると、くるりと回って全身を余すこと無く見せてくれた。 「……控え室で着替えてしまって、朝日に見せられなかったから。いつ見せようかと思っていたの」 「……ありがとう。こんなに近くで見られるなんて……やっぱり似合うね、瑞穂に」 「自分で作った服を着るのって、凄く恥ずかしかったんだけど……みんなと朝日が作ってくれたものだから」  そう言って、瑞穂ははにかんだ笑顔を見せてくれる。彼女に見とれていた僕も、微笑みを返した応じた。 「これを着ると、今は誇らしい気持ちになれる。沢山の人に見られても、胸を張れる……これが、私たちの衣装だって言えるわ」 「うん……私たちみんな、そう思ってる。これからも、一緒に素敵な服を作り続けていこうね」 「今更言うのもなんだけど、私の服って変わっているでしょう。朝日はルナの衣装の方が、本来の志向に近いんじゃない?」 「……今でも、最初にルナ様の絵を見たときの驚きは忘れない。けどそれは、唯一じゃないから」 「星の瞬く夜空みたいなものだよ。才能を持った人たちは沢山いて、それぞれに輝きを放つ」 「……私はあなたの中で、ルナよりも輝いていられてる?」  誰かへの対抗心を見せることの少ない瑞穂が、これだけは譲れないという顔で尋ねてくる。  僕はいくらも迷うことはなかった。彼女の姿はあのショーの日と変わらず、まるで世界中の光の粒を集めたように、僕の心を照らしてくれていたから。 「月も花も、同じように輝くことに変わりはない。瑞穂は、私にとってたった一つの花……」 「……一番愛おしくて、一番近くにいたい。そのことは、いつも覚えていて」 「朝日……」  彼女が名前を呼ぶ。僕の心から、愛しさが水のように溢れ出す……そして、止められなくなる。 「……ん……」  ……北斗さんが心配してたとおりになったな。僕は少し気恥ずかしく思いながらも、瑞穂に始まりを告げるキスをした。 「ちゅっ……だめ、朝日。もうちょっと……んむ。んぅ……ちゅっ。あむ……」  瑞穂はキスが好きみたいで、なかなか僕を離してくれない……でもそれも嬉しいから、僕は彼女が満足するまで、唇と舌を絡め合わせる。 「ちゅ……ちゅっ……ふぁ……」  唇と唇の間に、透明な糸が伸びる。二人とも、てらてらになってしまってるんだろうな……舐めたり、吸ったりしすぎているから。 「……朝日、触ってもいいよ? 衣装はどのみち、クリーニングに出すから」 「う、うん……今日は積極的だね、瑞穂」 「……分かってる? この格好をしたのは、朝日にかわいいって思って欲しいからだっていうこと」 「……それはそうだね。そういうことなら、私も……わ……」  すっと手を伸ばして、衣装の上から瑞穂の胸を持ち上げてみる……服の上からでもその豊かさがよく分かる。  ……こうしたほうが興奮するっていうか……くるものがあるな。直接触ったときの感覚を覚えてるから、期待がますます高まってしまっている。 「んっ……朝日、今日はどういうふうにしてほしい?」 「……そ、そうだね。うーん……私もこういうこと、慣れてないから……あまりやり方を知らなくて」 「……そう言いながら……んぅ……さっきから、胸を触ってるけど。胸が好きなの?」 「あっ……ご、ごめん。私も男の人っていうことかな……大きい胸が好きなんて」 「朝日は……ルナくらいのほうが好きなのかな、って思ってた。胸パッドがあまり大きめじゃないから」 「あまり大きいと、ずれたら一発でばれちゃうからね。ばれない、っていうのが前提の女装だったから」 「……お風呂に入っても気づかないなんて、私が鈍かったのかな? でも、湊もあのときはまだ……」 「う、うん……あの後のことだよ、湊が私のことに気づいたのは」 「そう……少し複雑だけど、許してあげる。今となっては私はいいけど、湊は見られたら恥ずかしいよね……」  これは俗にいうところに、勝利宣言なのでは……って、瑞穂はそういう子じゃないな。  ……そして僕は、瑞穂の胸から手を離しても、その余韻に浸ってたりする……大きい胸っていいな(確認)。 「あ……」 「……? どうしたの、朝日。やっぱり胸が気になるの?」  まだ二回目なのに……ちょっと言い過ぎだろうか。でも、どういうふうにしてほしいかって聞かれたし……。  ……そんなふうにして気持ちいいのかな? という疑問はあるけど。僕は男性としての好奇心を発揮して、瑞穂にだめもとでお願いしてみることにした。 「あ、あの……胸でしてもらうっていうのは、だめかな」 「……胸? 胸でするって、なにをすればいいの?」  それはそうなるよな……僕だって、ストレートには言いづらい。  大きな胸ではさんでしてもらう……ポンパドゥール夫人という人が始めた技術だそうだけど、自分がしてもらおうとする日が来るとは思っていなかった。 「その……私のを、瑞穂の胸の間にはさんでもらって……そのままこするっていうか。手や口の代わりに、胸を使って……」 「あ、朝日……頭がおかしくなってしまったの? 突然、そんなことを言い出すなんて……」  い、言われてしまった……確かに、僕が変になったと思われてもしかたがないけど。ああ、申し訳なくて土下座をしたくなってきた。 「……胸で……してほしいのね。上手く出来るかわからないけど、それでもいい?」 「う、うん。お願いしてもいいかな……気持ちよくないってことは、無いと思うから」 「そ、そうね……手で触ったりしても気持ちよさそうだったから……胸で触るのも、その延長よね」 「……せっかく着たんだけど、衣装をはだけないと。はしたないかっこうでごめんなさい」 「……っ」  恥じらいながら、瑞穂が可憐な衣装をはだけて、健康的な艶かしい肌を晒す……その瞬間、僕は思わず息を飲んでしまった。 「……朝日、お布団を敷いてくれる? 畳の上でするよりはいいと思うから」 「あ……は、はい。かしこまりましたっ」 「自分で言っておいて、そんなに緊張してるなんて……ふふっ。朝日、可愛い」  というより、瑞穂の肌を見ると僕は頭が上がらなくなってしまう。彼女になら、進んでお尻に敷かれたいな……物理的な意味じゃなくて。  布団を敷いて、その上にお邪魔して……スカートの中で男性の部分の拘束を解いて、そのあとで瑞穂に見せる。 「……改めて見ると不思議ね、朝日にこんなものがついているなんて」  昼の光が窓から差し込む中でまじまじと見られると、何か爛れた生活を送ってる気がしてくる……けれど、こうなったら引き返すことは出来ない。 「あ……大きくなってきてる。これをはさめばいいのね……」 「う、うん……あっ、やっぱり、これはちょっとまだ……」  二回目でこんなことさせるなんて、気の迷いだ……と言う前に。瑞穂は大きな胸で、半分くらい大きくなった肉棒を挟み込んできた。 「わ……す、凄い……」  僕のものが、瑞穂の胸の谷間にすっぽり収まってる……ぴっちり挟み込まれてしまってる。 「あ、朝日こそ……凄く熱い。脈もすごいみたいだけど、平気?」 「う、うん……平気だよ。こうしてるだけで気持ちいいし……あ……」  快感がぴりりと肉棒の芯を走って、先から透明な露がこぼれる。恥ずかしくて顔が熱くなってしまった。 「前みたいに濡れてきてる……気持ちいいっていうのは、間違いないのね。はさむだけでいいの?」 「え、ええと……はさんで、動いてみてくれるかな。少しでいいから……ぅっ……あぁ……」  お願いすると、瑞穂は僕のものを胸で挟み込んだまま、ゆっくりと身体を前後にゆする。  少し冷たくて弾力のある乳房に、熱い肉棒がこすれる……ジンと痺れるような快感が広がって、僕は思わず小さく喘いでしまった。 「……あっ、抜けちゃった。逃げないでおとなしくしていてね……もう少し強くしていい?」 「あ、あまり強くされたらいっちゃいそうなんだけど……ふぁっ……!」  お腹のほうに反り返ってしまう僕のものを、瑞穂が逃がさないようにぎゅっと強く挟み込む……柔らかい肉がぐにぐにと押し付けられて翻弄される。 「んっ……これなら抜けなさそうね。朝日、気持ちいい……?」  露が垂れてしまっても、瑞穂は気にせずに強く僕のものを挟んだままゆっくりと動く。前後だけでなく、乳房を手で支えて上下にも擦ってくれる。 「……凄く気持ちいい。ありがとう、瑞穂」 「ううん、あまり上手に出来なくて……んっ……ごめんね、朝日……」  確かにじれったいくらいの愛撫だけど、おかげですぐに達しなくて済んでいるところもあった……滑らかにされたら、それこそ瞬殺だったと思う。  きめ細かでたっぷりとした瑞穂の乳房は、僕のものを優しく包んでくれる。圧迫を強めると、皮が剥けて先端の感じるところが露出し、かすかに摩擦される。 「ちょっと引っかかる感じがする……朝日が痛くないように、濡らした方がいいよね」 「大丈夫、私は……あっ……」  瑞穂は恥ずかしそうにしながら、つぅ、と唾液を僕の肉棒に垂らす。すると先走りの露と混じって、僕のものがちょうどよく濡れて滑りが増した。 「……舐めたりもするから、いいかなと思って。朝日はいやだった?」  はにかみながら聞いてくる瑞穂に、僕は首を振って応える。瑞穂がするなら、どんなことでも嫌なわけがない。  ……それに、つばを垂らすところがすごくエッチで……なんて、言えないけど。瑞穂は嬉しそうに微笑むと、再び乳房で僕のものをこすり始めた。 「んっ……い、いやらしい音がしてる……いいのかな、こんな……」  ぐちゅ、ぐちゅっと僕のものが瑞穂の胸の間を出入りする。にゅる、と亀頭が顔を出して、ぬぶぬぶと飲み込まれることを繰り返す。  ……こんなに凄いことだったんだ、胸でするって。愛撫のしかたの一つだと、僕は甘く考えてた……想像以上に淫靡きわまりない行為だ。 「……どうしたの? ぼーっとして……あまり気持ちよくなかった?」 「う、ううん……違うよ。凄くいい……夢を見てるかと思うくらい」 「そう……良かった。あ……本当、また濡れてきてる……」  僕の先はだらしなく口を開けて、とろとろと先走りを垂らしている。瑞穂が動くたびに走る快楽を、我慢しきれていない感じがする……。  濡れた乳房と肉棒が擦れあう音が、耐えようとしても理性をくすぐり、突き崩す。僕は布団を掴んで、絶頂の寸前で辛うじて耐え続ける。 「くっ……ぁ……あぁ……もうそろそろ……ダメかも、しれない……っ」 「もう少しでいきそう……? 最後は口で受けたほうがいいのかな……前は飛んじゃったから」 「うっ……く……あ、あんまり……エッチなことを、言うとっ……うぁぁ……」  ビクビクと肉棒が震えて、快楽に耐えかねた僕の中枢神経が、精管へと熱いものを送り込む。それを寸前で堪えると、とろりと再び透明な露が垂れた。  ……先走りだけで、一回射精したくらいの量が出てしまってる。こんなになるんだ……僕の身体は。 「はぁっ、はぁっ……瑞穂……」  僕の快楽に奉仕し続けてくれる彼女の名前を、敬愛を込めて呼ぶ。すると瑞穂は、蕩けそうなくらい熱い視線を僕に向ける。 「……朝日のそんな顔を見られるのは、私だけ……なのよね……」 「う、うん……他の人には、とても見せられない……うぁっ……あぁ……」  瑞穂は僕の顔を見ながら、ひざを使って、乳房の谷間で僕の肉棒を上下に擦り始める。慣れてくると、徐々に摩擦が早まり始めた。 「うっ……うぅ……み、瑞穂……もう少しゆっくり……くぅっ……!」 「……いつでも出していいのよ? 今度は、口で受けてあげるから」 「そ、そんなこと……駄目だよ……身体に、よくない……っ」 「そうなの……? 朝日の身体でつくるものなら、そんなことないと思うけど……んぅっ……」  ずっとしてもらってるばかりで、失念していたけど……彼女の桃色の乳首がぴんと立って、僕の愛撫を欲しがっているように見える。 「あっ……だ、だめ……してる時に触られると、気が散ってしまうから……んんっ……」 「こりこりに硬くなってる……瑞穂も興奮してるんだ」  乳首を指先で摘んでふにふにと解すと、瑞穂の愛撫が止まる……それどころか、身体が跳ねるくらい感じてしまってる。 「ふぁっ……も、もう……悪戯する子は……」  瑞穂は咎めるみたいに言いつつ、僕の愛撫を我慢しながら、対抗するようにお返しをしてくれた。 「う……くっ……いく……いくよ、瑞穂……っ」 「うん……朝日、最後は……一緒に……私の胸に、手をそえて……」  僕は瑞穂に言われるままに、彼女の両の乳房に触れて、自分のものを挟み込むようにぎゅっと寄せた。 「そう……このまま動くね……私は大丈夫だから、好きなだけ強くして……んっ……んんっ……」  加減を自由にしていい……ということなら。僕は瑞穂の胸を揉みしだくようにして、ぎゅっ、ぎゅっと断続的に寄せ始めた。 「んぁっ……あぁっ……くぅ……いつでもいって……遠慮しないで……っ」  瑞穂の言葉のひとつひとつが、射精を押し留めていた堰を切っていく。僕は最後は少しだけ腰を動かして、自分から快楽を求めるように動かした。 「うっ……ぁぁっ……い、いく……っ!」  胸を寄せていた両手を離して、僕は仰け反るようにして絶頂に達する。一気に吹き上がった精液が、先端からぶしゅっと間欠泉のように吹き上がった。 「きゃっ……」  ……口で受けてくれると言ってたけど、そんな余裕はなかった。白濁が何度も走って、瑞穂の顔から胸にかけてを汚していってしまう。 「……はぁっ……ご、ごめん……またかけちゃって……」 「ふぁ……まだ出てる……」  瑞穂の胸に挟み込まれたまま、僕のものがふたたび震えて精液をほとばしらせる……これで、一度目の射精は打ち止めだった。 「……気にしなくてもいいのよ。勢い良く出るものだから、我慢するほうが身体に悪いし」 「うん……ありがとう。瑞穂は優しいね……」 「……そのぶんだけ、後で優しくしてくれると嬉しい……んんっ。目に入っちゃいそう……」  瑞穂にかかった精液を綺麗にしてから、僕は今度は彼女に布団に横になってもらった。  改めて衣装をまとった姿を目にする……ステージ上でみんなを魅了したアイドルが、今僕の目の前で素肌をさらしている。 「朝日……大丈夫そうだったら、入れてみて……」  スカートをめくって足を開いてもらう。そうして指先で確かめてみると、もう愛撫の必要もないくらいに濡れていた。  僕のものはすでに硬さを取り戻して、ぱんぱんに張り詰めている……向きを変えることも大変なくらいだった。 「あ……う、うん……そこ……そのまま……」  肉棒の先端を割れ目に押し付けると、瑞穂が正解を示してくれる。僕は彼女の太ももの裏に手を添え、挿入する体勢を整えた。 「いくよ……瑞穂」 「はぁぅっ……ぅ……入って……入ってくるっ……あさひ……」  前は正面からではうまく入らなかったのに……今度は上手くいった。僕のものは瑞穂の濡れた膣内をぐぶぐぶと押し割り、一気に奥まで埋没する。 「……す、凄い締め付けだね……相変わらず……くぅっ……」 「はぁっ、はぁっ……ごめんなさい、緩められなくて……くぅぅっ……うぅんっ……」  瑞穂のお尻に腰が当たるまで、深くひとつになる。肉棒の根本から半ばまでの締め付けがきつくて、痺れるみたいな快感が伝わってくる。 「……動いて……今日は、だいじょうぶ……痛くない……っ、あぁっ、あぅぅっ……」 「ゆっくり動くからね……無理はしちゃだめだよ……くっ……」  腰を抜く時に、柔らかいひだが容赦なく絡み付いてくる……十分に潤った瑞穂の中は、締め付けこそ強いけれど引っ掛かりを感じることはない。  僕は膝に力を入れて、前後にゆっくりと律動を始める。そのたびに濡れた粘膜が擦れあい、じゅぶっ、じゅぷっと水音が立った。 「くっ……うぁ……あぁっ……はぁっ、だめだ……気持ちよすぎて……」 「ふあっ……くぅっ、うぅっ……私も……私も、頭が……頭が、おかしくなりそう……っ、あぁっ……!」  さっきは僕がおかしくなったのかと言われてしまったけど……今は、瑞穂が同じくらい感じてくれてる。  僕は少しでも彼女が気持ちよくなれるように、奥に入れたままで腰をゆっくり回すようにして、感じる場所を探そうとした。 「あ……あぅっ……んくぅ……あさひ……」 「うん……どうしたの? 瑞穂……」  瑞穂が何か言いたげにするので、僕はいったん腰の動きを止めた。つながったままでも、瑞穂の中は時折、思い出したようにきゅぅっと吸い付いてくる。 「……その……押しつけたところ、当たって……気持ちいいなって思って……」  挿入して腰を回すときに、クリトリスがこすれて気持ちよかったっていうことらしい。 「これ、クリトリスってところだと思うんだけど……中に入れるよりも気持ちいいの?」 「……同じくらい……朝日のも、気持ちいい」 「っ……そ、そっか……うん、分かった。じゃあ、一緒にしてあげる」  僕は身体を起こして、ゆっくりと律動を始める。そして、結合部の上にあるクリトリスに手を伸ばして、親指で皮を剥いて弄り始めた。 「ふぁっ……あっ、あぁっ……あぅぅ……っ、くぅぅんっ……、はぁっ……あぁ……っ!」 「いっぱい声が出てるね……それに。中のほうも、気持ちよさそうだよ」  陰核への刺激に反応して、瑞穂の括約筋がきゅっと締まる。僕はそれを心地よく感じながら、肉棒を彼女の奥へと突き入れ続ける。  奥のほうまで潤いきって、結合部から愛液が泡と一緒ににじみ出てくる。僕はそれを拭い取って舐めとりながら、再びクリトリスを攻め始める。 「あっ……あぁっ……あぅぅ……ふぁっ……あ、あぅぅっ……くぅ……」  瑞穂の身体を突き動かすたびに、大きな乳房がぷるん、ぷるんと残像を残して揺れている。僕は手を添えて胸が揺れないようにして、ぎしぎしと動き始めた。 「はぁっ、あ……いく……いきそう……あさひ……」 「うん……いいよ、我慢しないで……私はまだ、大丈夫だから……」  瑞穂の胸を両手で交互に揉みこみ、乳首を人差し指の先でつつきながら、僕は絶えず動き続ける……止めると、彼女の性感が落ち着いてしまう感じがしたから。 「くぅぅっ……うぅ……もっと……もっとぎゅっとして……いっぱいして……っ」 「……これくらいでも平気?」  瑞穂の求めに応じて、僕は十分強くしているかと思ったけれど、乳房を強く揉みしだきながら、乳首を摘み上げながら、彼女の身体が跳ねるほど腰の動きを激しくした。 「あっ、あぅ……ぅぅっ……く、ふぁっ……あぁぁ……っ!」  瑞穂が悲鳴みたいな声を上げて、びくびくと身体を反らせる。同時に長く強い締め付けが襲ってきて、僕は動くのを止めて顔を上げた。 「はぁっ、はぁっ……ぁ……あぁっ……」  もう一度小さく身体を震わせると、締め付けが緩んでいく……僕は彼女の頬にかかる髪をよけてキスをしてから、身体を起こして腰を引いた。  半分ほど肉棒が抜けると、とろとろと愛液が流れて、僕のお尻のほうまで伝っていってしまう……まるでお漏らしをしてしまったかのような濡れ方だ。 「……いっちゃったんだね、瑞穂」 「……だ、大丈夫……朝日は、まだいってないから……」  一度出させてもらっているのに、そんなことを言ってくれる瑞穂は凄くけなげだと思う。  動かずに待っていると、締め付け方が元に戻ってきた……瑞穂の呼吸に合わせて、きゅっ、きゅっと締めてくれる。 「……もう一回……きて。次は、朝日がいくまで我慢できるから」 「うん……ゆっくりするからね」  僕は瑞穂の太股を労りを込めてさすってから、彼女の腰に手を添えて、再び動き始めた。 「あ……あぁっ……くぅ……うぅんっ、んふっ……あっ……あぁ……」  瑞穂が既にいきそうになって、それを我慢してるのがわかる……膣内が突き入れるたびに、ぎゅっと締め付けて喜んでくれている。  離すまいというかのように、にゅるにゅると絡み付いて、吸い付いてくる……ここに入れて今まで持っていたことが不思議なくらい気持ちがいい。 「ふぁっ、はぁっ……あぁ……いい……気持ちいい……あさひ……」 「くぁっ……あぁ……気持ちいい……僕も気持ちいいよ、瑞穂……っ」  つい『僕』と言ってしまうけれど、瑞穂の耳には入ってないみたいだった……もう、意識が朦朧としてるみたいだ。  ……それでも、こう思う僕は酷いだろうか。もっと、意識が飛んでしまうほど気持ちよくさせてあげたいなんて。 「あ……だめ……そこは……またいっちゃう……くぅぅっ、んぁっ……あぁっ……!」 「今度は一緒にいこう、瑞穂。もう一度、可愛いところを見せて……」 「うぅんっ……だ、だめ……朝日が……朝日がいくまで、私っ……あぁぁっ……!」  瑞穂の片方の股をつかんで腰を動かしながら、もう片方の手でクリトリスを弄り始める……きゅっとつまみ、傷つけないように濡れた指でこする。 「くぅっ……ぁ……いく……私もいくよ、瑞穂っ……」 「きて……来てっ、朝日……私、もう……もうっ……だめ……あっ……はぁぁっ……!」  泣いてるみたいな声を出して、瑞穂が二度目の絶頂に達する。それは一度目よりも激しく、長い波だった。 「うぁ……ぁぁっ……!」  瑞穂が達したあと、僕は無心に腰を動かして、追いかけるようにして絶頂に向かう……そして。 「くぁっ……あぁ……」  僕は瑞穂と深く繋がったままで、二度目の射精をする。彼女の絶頂にともなう締め付けが続く膣内に、おびただしく熱い精液を迸らせる。  ドクン、ドクンと激しい脈動が続く……僕の情欲のすべてが、愛しい人のなかを満たしていく。 「あっ……あぁ……いっぱい出てる……」 「……はぁっ、はぁっ……くっ……」  最初の大きな脈動のあとも、小さな波が続く。精管を大量の精液が通り抜けて、芯に鈍い痛みを感じる……。 「……朝日……大好き……」 「……私も、瑞穂のことが好きだよ……これからもずっと……」  僕は少しのあいだ、瑞穂と見つめ合う……繋がったままの性器を意識することなく、ただ自然にそうしたいと思ったから。  ……そして。こうして身体を起こしていることにさえ距離を感じて……僕は前にそっと身体を倒して、彼女の胸を苦しくさせないように気をつけながら、覆いかぶさってキスをした。  その日の夜、僕たちは半ばみんなの公認で、二人一緒のベッドで眠ることになった。  夜になると一層冷えこみが増すけれど、二人なら寒さは苦にならない。すぐそばにいる瑞穂から、甘い香りがふわりと届く。 「……ふふっ」 「どうしたの? 瑞穂……嬉しそうだね」 「初めて朝日と一緒に寝た時のことを思い出していたの。懐かしいなって」 「……これからもずっと、朝日と一緒にいられるのね」 「うん……もう、裏切ったりしない。約束する」 「本当に? じゃあ……もう一度、指切りしましょうか」 「……嘘をついたら、瑞穂の家に引き取られる……って約束したね。本当になっちゃった」 「そんなこともあったね……そのときは冗談のつもりだったけど」 「気持ちをこめて言ったことって、現実になるのかもしれない。朝日が言ったことも全部、現実になっているでしょう?」  夢は現実に訪れたりはしない。叶うことはないなんて、一度は諦めていたこともあった。  ……けれど、今の僕は違うと言い切れる。夢はずっと遠くに存在し続けて、そこに辿り着くための道を探すことが、生きていくということなんだと。 「僕の夢は……デザイナーになることだった。今は、少しだけ違ってる」 「……これからも輝きを増していく瑞穂のそばで、ずっと見てる。君の夢が、僕の夢でもあるんだ」 「……ありがとう、朝日。そして……遊星さん」  恥ずかしそうに言う瑞穂。遊星さんか……やっぱり嬉しいな、男としても認めてもらえるっていうことは。 「……私は……朝日のデザインも、好きよ。あたたかい感じがして……」 「……すぅ……すぅ……」 「……ありがとう」  眠る間際の瑞穂の言葉が、僕に新しい目標を生む。そして、揺るぎない誓いに変わっていく。  瑞穂と二人でデザインをした服を作りたい。そして、彼女に着てもらおう。  花之宮と大蔵が婚姻を結ぶことになれば……いや、その前にも乗り越えなければならないことはいっぱいあるけれど。  彼女と一緒なら、僕はもう迷わない。彼女を守り続けていく……そうして、幸福になろうと思う。  「生まれてきて幸せです」。そう、母さまに言ったころの頃の僕が、心のどこかで笑う。  そのころの僕に、今は胸を張って言うことができる。  苦しいこと、哀しいこともあるけれど……きみは大切な人に出会い、生涯幸せであり続けるんだと。  ――そして時は流れて……学院で迎える、二度目の春がやってきた。  僕と瑞穂がどうしているかというと……フィリア学院の、春のコレクションに参加してる。  前回のショーが評判になって、冬だけだったコレクションが春にも行われることになった。生徒たちは準備で悲鳴を上げてるけど、充実した日々を送ってる。  ショーの舞台のバックヤードで、僕は瑞穂が準備を済ませるのを待っていた。着替えは終わっているけど、彼女は出番に向けて一人で意識を高めている。 「まったく……いいのか、本当に。他の女子も普通に着替えてるところで……」 「お固いことはもう言いっこなしですわ。朝日は朝日として、卒業まで過ごすのですから」 「それは兄様の今後次第でもありますけど……今のところ、大丈夫そうですね」 「彼はあくまで、スタンレーの代理ですから。スタンレー自身が小倉さんを認めたのですから、彼もこれ以上言うことはないでしょう」  パタンナーとしての評価は、僕はフィリア女学院においては最高の位置にあった。  もちろん、花形のデザインでは認められてないけれど、勉強は続けている。瑞穂と一緒に服を作るには、僕も凡才なりにセンスを磨かないといけないから。 「あ……瑞穂、準備出来たみたい。朝日、行ってあげたら?」  控え室から瑞穂が出てきたところで、湊が教えてくれる。僕はステージの裾で出番を待つ瑞穂の元に向かった。  春のコレクションでは、瑞穂は珍しく洋装のドレスをデザインした……場面に応じて、どちらのニーズにも答えていくのがデザイナーだと言って。 「……今度こそ、朝日に出てもらおうと思ったのに。仕立て直す時間が足りなくて残念ね」  このドレスを僕に着せたい……なんて、瑞穂は思っていたんだけど。僕は瑞穂に着て欲しかったから、彼女のサイズに合わせて作ってしまった。 「私がそういった衣装を着るのは、ふたりだけの時にしたいです。みんなには、とても見せられるものではないので」 「そんなことないのに……これは、元はあなたのためにデザインしたものなんだから」 「けれど、瑞穂のために作ってあります……私が着たら、胸が余っちゃいますよ」 「もう……自分でそんなふうに作っておいて。朝日の意地悪」  そう言いながら、瑞穂は笑ってる……僕だって。今はどんな話をしていたって、楽しくて笑いが耐えない。  そのとき、会場の方から拍手が聞こえてきた……前回のショーで最高評価を取った、瑞穂のことを紹介するアナウンスが会場に響いている。 「いよいよだね……めいっぱい楽しんできて」 「うん。朝日も見ていて、あとで思うところがあったら聞かせて」  瑞穂の笑顔が、眩しくこの目に焼きつく。彼女はこれからも、その衣装と……モデルとしての完璧さで、輝かしい道を歩き続けるだろう。  そうして辿りついた先には、きっと僕らのまだ知らない光景が待っている。  僕は割れんばかりの拍手が響く会場に向けて……彼女の姿を待っている人たちのところへ、送り出す言葉をかけた。 「行ってらっしゃい、瑞穂」 「はい。行ってきます!」  初めてのデザイン画は、どこへしまったか忘れてしまった。  兄の見様見真似で描いてみたことがある。もちろんいま見れば、子どもの落書きに毛が生えた程度のものだと思う。それでも一生の宝物にしようと大切にファイリングした。  でも学校に入って一枚、十枚、百枚と描いていくうちに、最初の一枚がどのデザインかわからなくなった。  見失うと美化されるのはお約束だ。兄に見向きもされなかったそのデザイン画は、僕の中では割とよくできていたことになっている。  全然思いだせないくせに、今の僕には想像もできない斬新なアイデアを生みだしていたんじゃないか、とか。  日に日に服の仕組みを身に付けていくと、デザインが窮屈になっていく。その自覚はあるから、こうして時間がなくなると、初めの一枚を見たくなるのが常だった。  実際に見つかると、存外大したことなくて、苦笑いするだけなのはわかってるんだけどね。  そんな過去の栄光にすがらなければならないほど、今の僕には時間がなかった。この一週間で百枚のデザイン画を描いたけど、これというのは一枚だけで、残りの二枚は「この中で選ぶなら」だ。  先週決めたことの一つ。「無駄に数だけあっても意味がない、デザイン画は一人三点までにしよう」。ルナ様が言いだしたことだけど、反対する人は誰もいなかった。  だから、あと二枚。そのうち、せめて一枚は納得のいくものを描きたい。  もしかしたらギリギリになったこの時間に、奇跡的なデザインが生まれるかもしれない。人間、為せば成る。火事場のクソ力。死なばもろとも。  この疲れきった頭に思考力が残ってるとも思えないけど、脳から液が出て覚醒することもあるらしい。最後まで諦めちゃいけない。  リミットは、登校する支度を考えたらせいぜい8時。あとどのくらい時間が残って……あれ、鳥の声? わ、もう4時半だ。  それでも残り3時間半の間に自分の夢が残っているのかと思うと諦めきれない。  ショーの衣装製作が始まれば、僕はパターンを任せてもらえるかもしれない。でもそうなると、デザインに掛けられる時間はぐんと減るはずだ。  だからここが分岐点だ。夢だったデザイナーを目指すか、現実として期待されているパタンナーに集中するか。今日は遠慮のない意見を全員から得られるだろうから、そこでこれから先を見極めよう。  もし、天才と思っていいルナ様やユルシュール様を僅かでも唸らせるような作品を描けたなら、デザイナーの勉強を続けよう。  だけどまるで可能性を見いだせなかったら、その時は……。  描こう。  メランコリックになったら想像力に気付きが生じた感覚を覚えた。今なら思い出のデザインに近いものが描けるんじゃないかと、根拠のない自信が湧いてきた。 「ん、朝日か。おはよう」 「おはようございます……朝食に遅れて、申し訳ありません」 「朝日がこんなにゆっくり起きてくるなんて珍しい」 「いえ、起きてくるというよりも……もしかすると寝ていないのでは? 小倉さん、せっかくの美しい肌が荒れていますよ」  この人は女性なのに、自然な言葉で口説こうとしてくるなあ……。 「お気遣いありがとうございます。でも仮眠は取りましたので……」 「いかにも仮眠といった感じだな。朝日が私よりも後から朝食の場へ来るなんて初めてだ」 「面目ありません……」 「別に面目ないこともないが。普段は大人しい朝日が必死になっているところなんて、見て楽しみたいじゃないか」  今週はルナ様が便宜を計ってくれて、クワルツ賞の時と同じく家事一切は免除してもらっていた。自分のデザインをショーに使ってもらえるチャンスだし、僕も今回は素直に甘えていた。 「でもこの時間に起きてくるということは、朝日のデザインは完成したんだ? わあ、楽しみ」 「あ、はい……一応は。ルナ様と瑞穂様は……聞くまでもないみたいですね。湊様とユルシュール様は?」 「ユーシェは教室だ。彼女は今回のことを真剣勝負だと捉えているみたいだからな、今朝は一緒に食事などできなかったんだろう。見かけたメイドの話によると、6時には制服を着て学校へ向かったみたいだ」  さすがユルシュール様。プライドが高いというか、普段は明るく接していても、デザインのことになると良い意味で神経が過敏になるみたいだ。 「湊はまだ寝てるって。先ほど名波さんが来て『もう少しだけ寝かせてあげてください』って言ってた。きっと夜遅くまでデザイン画を描いてたんじゃないかと思う」  そっか、湊も……デザインに関しては一番経験が浅いけど、手を抜こうとしない真っ直ぐさは昔のままだ。 「気分は優れないのかもしれないが、朝日も朝食を口にした方がいい。いま運ばせる」 「あ、いえ、自分で用意いたします。先輩方の手を煩わせるわけにはいきません」 「では私が用意しましょうか? いつもご馳走になっていますから、たまには小倉さんに手料理を振る舞うのも楽しそうですね。肉と魚、どちらが良いですか?」 「あの、お米か……せめてパンを」 「ハハハ、大地の民はトウモロコシ! それとアピオスを食べれば元気充分。ポゥ!」  うん、やっぱり口説く、口説かないなんて話とは別次元に住んでいる人だった。美形なのに勿体ないなあ。  でも緊張感はほぐれて助かったかもしれない。 「んー、緊張するねぃ。いや私、見せるの恥ずかしいくらいだから、むしろ観客側として緊張してるんだけどさ」 「そのようなことはありません……七愛はお嬢様のデザイン画を見て、三跪九叩頭の礼を行うところでした。まだまだ死んではいけないと思うことができました……生きようと七愛は思った」 「やー、もちろん全力で頑張ってはみたけどさ。でもやっぱり、なんかこー、どっかで見たものしか出てこないんだよね。たはー」 「私も洋裁には自信がないから、ルナとユーシェのデザインを見るのが楽しみ。あとは……朝日はどう?」 「え? 私ですか?」 「あ、そう! 私も聞きたい。自信の方はどうだい朝日」 「ええと……」  当然、自信作のつもりだ。それこそ過去に描いたものから、ずっと温めていたデザインまで、頭にある全てを出して三点を選んできた。  だけどこの場で「絶対選ばれると思いますよ!」とまで言えないのは、心のどこかで自信がないからなのか、僕の性格によるものなのか。  そう思うと、いつでも自信が揺るがないルナ様とユルシュール様って凄いな。それともああいう性格だからこそ、良いデザインが描けるのかな。  ちょっと不安になってきた……。 「朝日が即答しないのも珍しいけど、キリッとして悩んで落ちこんだ? これは?」 「自分の全力は出せたけど、これから挑む相手に不安があるといったところでしょうか」  正解です。頷きはしないけど、否定もできなかった。 「見事な散り際を期待してる」 「見事……だといいのですが。無様でなければ」 「あ、朝日、弱気になっちゃ駄目! 七愛もそゆことゆわない!」  ルナ様もユルシュール様も、登校は別というところがまた。決戦場は教室だ。 「頼もう!」  夏休みの教室に他の生徒の姿はなかった。いたのは二人、天然のブロンドを頭の両脇で結わえた自信家のお嬢様とその従者――  ――あれ? 普段の自信満々を浮かべた表情じゃ……ない? 「ごめんねユーシェ、遅くなって。結構早くから来てたんだよね?」 「デザイン画を描いていたから問題ありませんわ。時間なんていくらあっても足りませんもの」  え?  普段は余裕を見せているユルシュール様なのに、いくら時間があっても足りない? そんな言葉が出てくるとは思わなかった。  本人も自らの失言に気付いたみたいだ。難しい顔で次の言葉を探してるように見える。  そして無言のまま数秒が過ぎたあたりで、ルナ様が入ってきた。 「悪い、待たせた。他のみんなと同時に家を出たんだが、忘れ物をして、一度屋敷へ戻っていた」  僕の主人の側には、車の運転をしてくれた北斗さんが付いている。  普段なら付き人の僕が運転できないことを申し訳なく思う。ただ、今日ばかりは別行動で良かった。今だけはルナ様の従者ではなく、大蔵遊星として向きあいたい。  大蔵遊星としてということは、女装してることになるけど。うん。そこは、いい。 「では早速始めようか。この中でデザインを出さない者は……」 「僕はデザイナー志望でも、趣味でデザインをしているわけでもないから。皆様の補佐に徹させてもらうよ」 「私も同じですね。自分が前に出るつもりもありませんし、瑞穂お嬢様のお手伝いさえできれば構いませんので」  二人は最初からこのスタンスだった。クワルツ賞の時も、ルナ様の手伝いをするわけではなく、自分の主人の補佐に回っていた。  それと名波さん。 「七愛はお嬢様の付属品であって自分じゃないから。お嬢様が金閣だとすれば七愛はその手前の雑草。金閣を写真に収める人はいても、雑草を撮る人はいない……七愛という存在は概念」 「そっかそっか! じゃあ次は七愛も一緒に描こうね!」  名波さんの言っていることはほとんど理解できないけど、一番気の毒なのは、他の誰よりも湊が彼女の言葉の意味を理解していないところだ。 「じゃあ七愛は描いてないみたいだし、描いてきたのはこの五人か。一番期待感の薄い私からいく?」 「どんな理由ですの。ここへ来た順なら公平ですわよね。私のものから出しますわ」  これは……さすがユルシュール様。  三点ともレベルが高い。どれもショー用の衣装として、全く問題ないものばかりだ。  でも意外だったのはユルシュール様の表情。これだけよくできたものを出してきたなら、もっと自信満々に解説を始めそうなものだけど、黙って僕たちの反応を見守ってる。  全員、一度は感心の息を漏らした。この三枚の内の一枚が選ばれるかもしれないと、全員が一度は考えたと思う。 「んじゃ次、私!」  二番手は湊だった。本人が自信はないと言ってるだけあって、その表情はユルシュール様と対照的なほど明るい。 「じゃじゃん! どーん! ずばーっ!」  ……なるほど。  僕は「普通によくできてるね」って作品を見たときのリアクションが下手だ。というより上手い人がいるなら見てみたい。  前の学校で、校内では成績優秀でも、コンテストにはまるで縁がなかった僕のデザイン画を見るときに、きっと先生が同じ思いをしてたはず。 「湊らしいな。普通にかわいいじゃないか」  さすがルナ様、ナチュラルに上から目線。でも見せる側としては一番わかりやすい反応だろうし、この対応は正しいのかもしれない。 「そ、そうかな。けっこう頑張ったからね。この学校入ってから、今回が一番頑張ったかも。たははは」  湊も喜んでる。ルナ様は感想を聞く相手として向いてるのかな……あ、でも、意見を求めたらとても辛辣な言葉が待ってる気もする。 「次は私のものを。どうぞ、お願いします」  瑞穂様は……あれ、普通の洋服?  というより、洋服ですらない? アイドルのステージ衣装みたいな……てっきり和裁を絡めたものか、それを元にしたデザインだと思ってたけど、これはええと……。 「瑞穂。これはその、本気か?」 「うん。せっかくだから、ここでしかできないことをしてみようと思って描いたんだけど、どう? それと、私のデザインが選ばれた場合、モデルは朝日がいい」  僕がこのひらひらを着るんですか……。 「あははははは! 朝日が着たらまるでアイドルだこれ!」 「日本人の感覚と違うことを前提に、私としてはないですわ」 「はい、欧州の方には受けいれづらい衣装かもしれませんね」  いえ日本人でも首を傾げるレベルです。というか、衣装って言っちゃってるし……。  でも少しほっとしたような残念なような。瑞穂様が自分の土俵でデザインをしたら、僕より実力が勝ってることは確かなんだし。だけど純粋に、彼女の着物のデザインを見てみたかった気もする。 「では来た順番ですと、次に見せてもらうデザイン画は……朝日のものですわね」  あ。人のことを考えてる場合じゃなかった。次は僕だ。  瑞穂様のやや場違い感のあるデザイン画で一旦は空気が和らいだ。実際、湊と瑞穂様はにこにこしてるし、付き人の三人の立ち方もリラックスしてる。  だけど僕の番になった瞬間、ルナ様とユルシュール様の目は鋭くなった。僕が本気でショーに作品を出したがってることは隠してないし、その点では主人と使用人の間柄を気にしなくていいとルナ様も言ってくれてる。  本命の二人にライバルとして認めてもらえている。それが却って自分の自信に繋がった。 「お願いします」  結局「どのコンテストに出しても通用する自信があります」と言えるデザインが描けたのは一枚だけだ。後はどう見ても数合わせ。自分でも通ると思ってない。  それでもこの一枚を最後まで磨いて、手を加えては戻し、戻しては新しいディテールを加えて完成させた会心の一作。  この作品を描いた以上、遠慮しようなんてことは思わない。お兄様が昔、コンテストの場ではアピールも作品の一部だと言っていた。  今回は相手が身内だから説明は口でするしかない。本気でショーに作品を出すつもりなら、堂々と図々しくならなくちゃいけないんだ。 「この服は『人と人との繋がり』をテーマに作成しました。よく街中で同じ服を着ている人を見掛けたり、友人と被ったりして気まずい思いをすることがあると思います」 「そんな場合のために、着こなしだけで何通りもの顔を見せられる服というものを考えました。ショーに出せるデザイン性を保ちつつ、その上で、大勢の人が購入することのできる生産力を目指した……」  無言でいたユルシュール様と違い、僕は聞かれてもいない内から話しはじめ、長々と説明を続けた。三分間は喋っていたと思う。少なくとも、これで本気なんだということは伝わるはずだ。 「……と、ここまでです。私たちの作品として、ショーに出せるデザインであると信じています」  その時点で僕の喉は乾き気味になっていたけど、なんとか事前に用意していたアピールポイントは言いきった。それ以上言葉が続かないとわかったのか、数秒経ってからルナ様がうんと頷いた。 「朝日。いいと思う」 「えっ」 「うん、ショーの衣装としての見た目もいいし、学校のイベントとして考えた場合『一般の客に売れそうなもの』という部分は評価の対象になると思う」 「あ……」  初めてデザインでルナ様に誉めてもらえた。  というよりも彼女に評価してもらったこと自体が初めてだけど。入学してから、ずっとルナ様の隣の席でデザイン画を描いてきたけど、彼女が僕の握るペンの先に興味を持ったことは一度もなかった。  だけどこうして感想を口にしてもらえると、本当に嬉しい。できればこれから先も、ルナ様が気にしてしまうくらいのデザインを描きたい。 「で、他の二作品については? 説明を加えておきたい箇所があれば」 「え? あ、次のデザインは……」  他の二作品に関しては、それほど期待をしていなかったから、どういうテーマを持って描いたのかも記憶が薄い。  かと言って「こっちはそれほど深いテーマはありません」なんてことは言えない。描いた時は、確かこんなことを考えていたというその記憶を頼りに、なんとか残りのアピールも終えた。 「うん」  ルナ様は、そんな中身の軽い説明も真面目な顔で聞いてくれた。デザイン画を描いたときに自分のやりたかったことを、しっかり覚えておけば良かったと申し訳なくなるくらいだ。  ユルシュール様は真顔のまま。湊と瑞穂は驚きながら僕の描いたものを見てくれていた。  とりあえず自分にできることは終えた。後はルナ様のデザインを見て、みんなに選んでもらうだけだ。 「それじゃ最後は私か。今回は特に力を入れてみた」  ルナ様が机の上に出したデザイン画は、やはり相当にレベルの高いものだ。すぐ僕の頭に、どうすればこのイメージを現実の世界で衣服として再現できるか、その型紙の引き方と生地選びが浮かびはじめた。  いや、それじゃ駄目だ。みんなの選考が終わるまでは、自分の作品が選ばれた場面を想像しなきゃ。  それにしても、ようやく一つのデザインを仕上げた僕と違って、ルナ様は三作品ともショーに出せるようなものを描いてきた……それが才能のあるルナ様と、無いものを無理に絞った僕との差なんだ。  それでも、この三つの作品と比べられる段階まで行けば、もしかするかも……。 「今回はクワルツ賞のときみたいに、なんかこういかにもコンテストーって感じの愉快デザインじゃないんだね」 「普通に失礼だな、なんだ愉快デザインって。今回の対象は前衛的なデザイナー様たちじゃない。観客にキャッチーな印象を与える必要がある」 「出展する作品をショーのカラーに合わせることは能力として必須だ。このドレスなら縫製の面でも講師たちから評価を得られるだろう」 「すごいね、ほんと気合い入ってるのがビシビシ伝わってくる。最優秀賞とか冗談じゃなく本気で狙えそう」 「まあ最優秀賞を狙うことだけに意識を向けたわけじゃないんだがな」 「え?」 「業界関係者も大勢来るみたいじゃないか。絶好の機会だと思ったんだ」  あ……。  クワルツ賞のときのルナ様を思いだした。あの時も一次選考通過には喜ばず、その上の受賞も超えて、さらに先のデザイナーへの道が拓けることを考えていた。 「もし小さな囲み記事でも、雑誌に載ればモアベターだ。見る人間は必ずいる」  以前にもルナ様から同じ話をされたはずなのに、すっかり目の前のことだけに頭の中が染まっていた。  そうだった。あくまでここは通過点で、僕は、その先を見ないといけないんだ。ルナ様は一つ上のステップに進めば、またすぐその三歩先を考えるだろう。  しまったあ……最優秀賞どころか、僕の作品はショーに「出る」だけで目標が完結してた。ルナ様やユルシュール様と作品を競うことばかり考えて、その先のことは想像をしようともしなかった。  迂闊なんてものじゃない。目の前の一歩をゴール地点としていた作品が、三歩先まで見据えた作品より優れているわけがない。それも実力が競っているならともかく、最初の段階から僕が劣っているんだ。  一つのデザインを磨けばいい、なんて問題じゃなかった。その時間で、もっと幾つもの作品を描くべきだった。 「さて、選考に入ろう。意見を聞くのは、デザインを出した五人でいいな?」  この時点で選ばれるものは決まっていた。ユルシュール様も黙って目を閉じている。 「んー……ルナの、かな」 「私もルナの作品を選びます。他の皆さんのデザインも素晴らしかったですけど、その中でも一際輝いて見えます」 「私も、ルナ様のものを選びます」  僕は認めた。そしてこれからは、服飾に携わるためにデザインではない道を探そうと決めた。 「…………」  ユルシュール様だけは選ばない。全員、どう切り出すべきか迷っている表情だった。あの、ルナ様でさえも、一瞬だけ言葉を選ぶ仕草を見せた。  その隙を突いて、ユルシュール様の従者は主人に恥をかかせまいと前へ出た。 「お嬢様、貴族に必要なものは?」 「……っ」  美しいスイスの貴族は、一度だけその口の端を悔しそうに歪めた。けどそれも一瞬のこと。 「ルナのもので構いません。他に、ありませんわ」  その誇りにかけて、丁寧な口調で選考を終えた。 「私は当然、自分のデザインを選ぶ」 「全員一致で選ばれたことを誇りに思う。この衣装を私たちのため、必ず良いものに仕上げよう」  才能のある人も無い人も頷いた。もちろん僕も。  たとえ今は悔しくても、全員のために力を尽くそう。それがきっと何よりも、自分のためになるから。  おめでとうございます、ルナ様。  その後は、短い時間で役割分担を行った。  全体の指揮はルナ様。他のメンバーは縫製やアクセサリー作り。手が空けば何かできることは必ずある。  その中で、僕だけは特別な役目を授かった。 「〈型紙〉《パターン》は朝日だ」 「はい」 「〈型紙〉《パターン》がなければ、衣装を縫うどころか裁断すらできない。今回は特殊な生地を使う予定もないから、その分の手間もない」 「朝日が作業を終えるまで、私たちにできるのは、せいぜいが生地を選ぶか装飾品を作る程度だ」 「はい」 「何が言いたいかわかるな?」 「はい。重要な部署を任せられたことに対して自覚を持てと」 「もちろんそこも大切だが、それだけじゃない」  ルナ様の指が僕の手を撫でる。 「君に期待してる、と言ってるんだ」  この手の場面でいつも思う。ルナ様は人をその気にさせるときの笑顔が、優しすぎてずるい。  触れられた場所に視線を向け、再び顔を見たときは既に微笑んでいた。手のひらで転がされるように体が熱くなる。 「はい。必ずやご期待に添えるよう、誠意を込めて尽くします」  デザイナーを諦めたばかりなのに、もう自分が活躍できることを期待して胸が昂ってる。また認められたいと願ってる。  だけど不純だとしても、いい。僕の才能をルナ様が保証してくれた。この人たちと同じ世界へ足を踏みいれられる。  今日は徹夜に近い状態の人もいるから、明日からの製作に備えようとルナ様が提案した。  みんなは楽しそうにしていたけど、僕は新しい服を作る期待感に満たされて、気持ちが全然落ちつかなかった。少しでも早く製作に取りかかりたい。  夢は敗れた。でもこんなにわくわくしてるのも初めてなんだ。 「……あ、そうだ。大切なことを忘れていたが、モデルは今回も瑞穂でいいな?」 「朝日じゃないんだ?」 「仮縫いの衣装を確かめるときも、ボディより人間に着せた方がいいからな。製作のメインとなる朝日とは別にモデルを立てたい」 「前回と同じく、瑞穂がモデルとして適任だろう。胸が大きすぎるのだけは、相変わらずの欠点だが」 「実はあれから、サイズが1cm大きくなったみたいで」 「あん?」 「私も1cm増えましたの。夏は痩せるはずなのに、おかしいですわ」 「あ、私もなんだよ。なんだろ、お屋敷の料理が体を成長させる栄養分で満ちてるのかな?」 「ルナはどうですの? 成長しまして?」 「ああん?」  大変な任務を与えられてしまった。  ルナ様の衣装の型紙を引くとなると相当に重要なポジションだ。気を引きしめてかからないと。  もし適当な仕事なんてしたら……ルナ様の意にそぐわないものを作ってしまったらと思うとぶるぶるぶる。  い、いやでも、やり甲斐のあることだと思わないと! チャンスはないよりもあった方がいいに決まってる。  ようしやるぞ! 今度こそばりばり才能を見せて、この世界で生きのこるためのきっかけを掴むんだ!  入浴後の癒しのひととき。期待感と焦燥感に囚われたままはや一時間、僕は部屋の中を無駄に行ったり来たりしていた。  早く作業に取りかかりたい。だけど昨日からの徹夜で体が疲れてるのもたぶん事実だ。  気持ちが先走りすぎちゃって、体がどのくらい疲れてるのかよくわからないってのが本音なんだけど。  冷静に考えれば今から始めれば製作期間はかなりあるし、間に合わないなんて、よほどのことがない限り起こらないはずなんだ。  でも自分のせいで、なんて考えると恐ろしい。ルナ様は特定の個人を責めたりはしないだろうけど、期待してるとまで言われたんだ。僕の責任が強いに決まってる。  どうしよう。もう一度、今まで習った型紙の勉強のおさらいをして、明日からに備えようかな。  いや、ルナ様に休めと言われてるんだから今日は休もう。無駄に頑張って体力をなくしたんじゃ、きっと僕の主人から怒られる。  おやすみなさい。  …………。  あ、やっぱり軽く練習だけでもしておこうかな。 「朝日。ちょっといいか?」 「わあごめんなさい寝ます!」 「いや寝るなここ開けろ」 「どうぞ、紅茶です」  キッチンから入れてきたお茶をお出ししつつ、ちらりと様子を覗き見する。  なんだか難しい顔をしてる……どんな用件だろう。  てっきり明日に備えて喝を入れにきたとか、僕が暴走してないか確認に来たのかと思ってた。だけどそのどちらとも違う重い空気……。  でもこちらから急かすわけにもいかないし、ルナ様が話しはじめるのを待つしかない……。  うう、判決を待つ被告人みたいだ。僕なにも悪いことしてな……え、してないよね? 「君は」 「ひゃい」  疑心暗鬼になっていたところで声を掛けられたから噛んだ。違うんです、ふざけてるわけじゃないんです。 「君は、私に対して尽くしてくれている」 「え? あ、はい。自分にできることは何でもいたします」 「そう。よくやってくれている。その献身ぶりは高く評価したい」 「しかし……だからといってこれほどの無茶を言っていいものか、自分でも悩んでいる。今から投げる質問に、よく考えて答えてほしい」 「はい? よく考えて……ですか?」  わりと真面目な話だったみたいだ。喝とかお叱りとか、根性論を叩きこみにきたわけじゃないらしい。 「はい。何か私にできることがあれば、なんなりと仰ってください。できる限りの期待に応えたいと思います」  ルナ様が言いよどむくらいだから、きっとそれなりに無理難題なんだろう。  それでも諦められないから僕のもとへ命令ではなく頼みに来た。  その期待には応えたいなと密かに心の中で覚悟を決めていた。 「相談というのは、明日から取りかかってもらう衣装なんだが」 「はい」 「九月が終わるまでに仕上げてもらいたい。ショーは十二月だが、それよりも三ヵ月早く製作を終えてほしいんだ」 「九月……はい、可能かと思います」  思ったよりも無茶じゃなかった。夏休みをフルに使い、八人もの人数で進めれば、むしろ時間が余るくらいかもしれない。  ただグループ単位での作業は初めてで、慣れないことも多いだろうから、そのシステムに慣れるまでが苦労するだけで。 「そのあと……十一月なかばに二着目、ショーまでに三着目の衣装を仕上げてほしい」 「え」  続きは喉の中で抑えた。ええええええええ。  さすがにこれは無理難題と呼んで差し支えない注文だった。三着? ショー用の衣装を三着?  一着目は夏休みという日中も製作に回せる時間があるからいい。だけど他の二着は学校へ通いながら作るわけで……やってみなければわからないという面はあるけど、相当に無理がある。  でもここで弱音を顔に出せばルナ様が諦めるかもしれない。だから心の中で驚くのに留めておいた。 「自分でも無茶を言っているのはわかってる。だが朝日だから聞いてみたんだ」 「これまで懸命に尽くしてくれた朝日だから、無理を言ってみたくなったんだ。途中で諦めたり泣き言を口にしそうな相手なら、そもそもこんなことは言わない」 「まずは一着目を期間内に仕上げられるかで時間を計ってくれればいい。返事はそのときでも構わない」 「いえ、ルナ様の頼みとあらば、寝る間を惜しんででも挑みたいと思います」 「本当か?」  そのとき、ルナ様の顔が「話して良かった」と言わんばかりに、ぱっと明るくなった。  それを見てしまった今、僕はどうしてもこの願いを叶えてあげたい気持ちになってしまった。 「はい。ただ、寝る間を惜しんでなんとかなるものなのか、現実的な計算はしなければなりません」 「衣装のデザインはどのようなものですか? ディテールなどは多いのでしょうか」 「衣装は今日出した三枚のデザインのうちの一枚。着るのはユーシェだ。もう一着は残りの一枚。それは湊にモデルを務めてもらう」 「それは……」  両方共ドレスだ。手間と時間は覚悟しなくてはいけない。  それでもなんとか表情に出すのを抑えたら、ルナ様はその考えを話しはじめた。 「今回の狙いは二つ。一つは、ショーには一着のドレスを用意することがせいぜいだと思っているだろう。他の生徒も一着でいいと思ってる連中が多いはずだ。その中で三着作る」 「規定の中にモデルは一人でないといけない、とは書いてなかった。三着揃えてあの学院長代理や教師たちのド肝を抜けば爽快だろう。最優秀賞間違いなしだ」 「その三着とも縫製がしっかりしていれば、デザイン面だけでなく、制作の指揮をとる君の評価にも繋がるだろう。良い機会だと思う」  それは特に兄が喜びそうな部分だ。彼は細かいところまで手を抜かない作品を好む傾向がある。だからいやらしい部分を念入りにチェックする。 「もう一つの理由は──私がデザイナーとして花形になるが、どうしても他のメンバーは陰に隠れることとなる」 「だから彼女たちを着飾らせることで、華やかな道を歩かせてやりたい。栄光の瞬間を舞台の上で感じてほしい。テーマは私たち自身だ」 「私のデザインした衣装を着て、三人の友人が華やかな舞台に立つ……それが夢なんだ」 「どうだろう。この話を受けてくれないか?」  いや無理です。  ルナ様が友人のために、華やかな舞台へ立つことを贈り物としたい。そんな話を聞かされたんじゃ、断ることなんて無理です。ルナ様は本当にずるいひとだと思います。 「一点だけよろしいでしょうか?」 「ん? なんだ? 今回は君に無理を強いているからな。何でも言ってほしい」 「ルナ様は舞台に立たれないのですか?」  僕の質問に、ルナ様はきょとんとした。まるでそのことを考えてなかったんだろうか。  そしてすぐに溜め息がちな息を吐いた。やや自嘲気味にも見えた。 「この身長ではモデルとして不適格だろう。せっかく衣装を用意してもらったとしても台無しだ」 「それとこの外見の私が舞台へ立つことに、いささかの抵抗を覚える。他のみんなは華やかな場に慣れているだろうが、私は衣装を着て観客の前に立つのは柄じゃないよ」 「そうでしょうか」 「今まで表舞台へ立つことは禁じられてきたからな。正直に言えば少々怖い」 「あ……申し訳ありません。余計なことを申しあげました」 「君ならいい。こちらも頼っている以上、思っていることは遠慮なく言ってもらいたいからだ」  心遣いが足りなかった。ルナ様の家庭の事情は聞いていたはずなのに。  クワルツ賞のときのような家族に対しての遠慮はもうないのかな……でもそれは聞きづらくなった。  遠慮なく思ったことを言ってもいいと許可はくれたけど、彼女の家庭の事情を続けて二度も話題にするのは少し無神経が過ぎる。  そしてこの時点で、しばらくは睡眠不足の毎日を送る覚悟は決まった。 「わかりました。私の力で役に立つのであれば、この半年間の時間はルナ様の為に全て注ぎこむ覚悟です」 「ありがとう。心ばかりだが給金に手当ても付けさせてもらおう。ショーが終わればボーナスも出したい。よろしく頼む」 「かしこまりました」  才能あるひとに頼られると、体の奥がじんとして仄かに体温が上がる。  まずは九月の一着目から。全力を尽くして挑んでみよう。  でもこの分だと、このあとますます寝られなくなるような……ただでさえ寝不足が続きそうなのに。 「というわけで、昨日まで小倉さんはデザイン画に集中していましたが、今日からは本格的にお嬢様の衣装を作ることとなります」 「本人は製作と家事の両立を希望しましたが、ルナ様から小倉さんは衣装に集中させて欲しいと直々の指名がありました」 「今回はルナ様も特に力を入れていて、また、製作には相当の時間と労力が掛かります。小倉さんが疲れて休んでいる場合もあると思いますが、皆さんも気を悪くしないように」 「一番新人の私が、家事を手伝わずに申し訳ありません。お嬢様のために全力を注ぎますので、どうかお力添えください」 「暖かく見守ってやって欲しい」  今日の朝礼は、ルナ様も参加してのものだった。  僕からお願いしたわけでもなく、八千代さんから依頼したわけでもない。僕が起こすより早くルナ様はエントランスで新聞を読んでいて、そのまま朝礼に参加した。  僕のことを思いやってくれたのかな。やはりルナ様はお優しい人だ。 「朝日。お嬢様のパタンナーを勤めてるんだって? もしその道で成功して、お嬢様がブランドを設立した際はチーフパタンナーに大抜擢かもよ」 「すごいじゃーん! 未来の稼ぎ頭かもね。今の内に仲良くしとこーっと」 「もちろんお嬢様のお役には立ちたいですが、まだまだ未知の世界の話です。それにプロのパタンナーになりたければ、現場で三年の下積みは必要ですし、すぐに抜擢なんて夢のまた夢ですよ」 「まあまあ、お嬢様はそのくらいの期待をしてると思うよ? ほら頑張って。もうクワルツ賞みたいなことにはならないでね」 「それは……はい、きっと。お嬢様を支えてみせます」 「やぁーだ、朝日ってまさかお嬢様とイケナイ関係!?」 「馬鹿なこと言わないの。はいはい、私たちは今日も掃除洗濯料理の支度するよ」  先輩方は嫌味の一つもなく、僕のことを応援してくれた。 「この屋敷には良い人ばかりですね。本当に、感謝することしきりです」 「偏屈な私の下で使用人を務めているくらいだからな。皆、心が広いんだよ」  ルナ様、ご自分で言わなくても。  だけど感情を読みにくいルナ様が、先輩メイドの皆様に感謝していることがわかってちょっと良かった。  あ、僕のことも、ちょっとだけでいいから信頼してくれてるといいな。まだ日が浅いから、贅沢は言えないけど。 「さて朝日。それじゃ早速、製作に入って欲しい」 「はい。とってもやる気に満ちています。今ならテンション最高値です」 「テンションは下げてもらいたい。細かい作業をするのに暴走気味のやる気は邪魔なだけだ」  駄目出しされた。やっぱりルナ様は手厳しい。 「というわけでほどほどに頑張ってもらいたいんだが、その前に一つ聞きたい。どうして君は制服を着てるんだ」 「はい。学校へ登校するためです。部屋は手狭ですし、瑞穂様のボディは学校にしかないので、製作は基本的に教室で行うつもりです」 「夏休み中は、事前申請しなければ教室には入れない仕組みだが」 「八千代さんに確認済みです。本日の許可はいただきました。日直の先生が見回りに来てくれるそうです」 「根回しがいいな。さすがは朝日、そういうやる気の見せ方は好ましい」  誉められた。やっぱりルナ様はお優しい。 「ただ、学校にも機材はあるが、食事や申請の手間など、何かと面倒だろう。それと私も朝日と打ち合わせたい場面が多々出てくるはずだ」 「はい」 「というわけで、朝日には専用の仕事場を用意する。付いてきてほしい」 「専用の仕事場……え、私にですか? えっ?」  まさかショーの衣装用に一部屋作ったというのだろうか。彼女なら可能ではあるけど、工事の期間が短すぎる気もする。  ルナ様は階段を下りていってしまうので、黙って付いていくしかなかった。  え? 階段下りる? この屋敷で地下にある部屋って……。 「ここだ」 「今日からここを好きに使っていい」  咄嗟に返事ができなかった。 「ここへ来るのは久しぶりです。やっぱり素敵な場所ですね」と言おうとした矢先に言われたからだ。え? ここ? ここが僕の仕事場?  え……だってここはルナ様の大切なアトリエで、よほどの用事がない限り、声を掛けることも許されていない場所で……えっ?  呆然としたまま突っ立っている僕を見て、ルナ様は少しだけ意地悪な微笑みを浮かべた。 「そんな反応をしてもらえると嬉しいな。朝日のことだから、感動してくれているんだろう?」 「いえ……感動する以前に、まだ状況が整理できていません。だってここは、ルナ様の、ルナ様だけの聖域じゃないですか」 「聖域……って、大げさにも程があるな。まあでも、ここへ来ると集中できるのは確かだ。ああそうだ、私の聖域だ。それを衣装が完成するまでの間、君に貸そう」 「え、だって……いいんですか?」 「いい。許可する。ほら鍵だ」  ルナ様が手ずから僕に握らせてくれた。よりにもよって、その時に感動が爆発してしまった。 「ルナ様!」  思わず目の前の人を抱きしめた。だってなんかもう。感動で何が何やら。 「お……ぃ……もしかして、いま感動してるのか」 「はい感動しました! だって私も自分のアトリエを、ここを真似たものが欲しいと思っていたのに! そんな憧れの場所を使わせていただけるなんて、もう何てお礼を言えばいいのやら」 「ありがとうございますじゃ駄目なのか」 「ありがとうございます!」 「こふっ……あ、朝日は力が強いな……そろそろ辛くなってきた」  こんな大切な場所を貸してもらえるなんて、これは信頼の証だと思いたい。嬉しい。そしてルナ様の信頼に応えたい。 「真心を込めて製作いたします。決して期待を裏切らないように努めます」 「けほ、こほ……ああ、やっと解放された……ん、裏切らない? そうして欲しい。君には期待してる。必要なものは用意しておいたから、好きに使うといい。とりあえず製図用紙とシーチングは山ほど用意しておいた」 「あ、それとクワルツ賞のことがあっただろう。瑞穂のボディは彼女が学校で用意したものとは別に作っておいたんだ」 「他に欲しいものがあれば……まあ君の性格上、当家のメイドには頼みにくいだろうから、通販でも買い物でも好きに行け。この桜小路家の身分証さえあれば、大抵の生地屋で現金がなくても買い物ができる」 「数々の心配りをありがとうございます。これ以上ないほど充分な環境です。これより贅沢を望んだらバチが当たります」 「あ、でも、その間のルナ様はどこでデザイン画を?」 「部屋で描く。というより私も含めて他人のことは気にするな。ただ製作に集中して欲しい」 「はい。あ、でも……その間、ルナ様のお世話は誰が?」 「だから気にするなと言っているのに……別に誰でもいい、屋敷にはこれだけ人がいるんだから、必要なときは適当に呼ぶ。それと私は一人じゃ生きられないわけでもない」 「ですがルナ様が紅茶を飲みたくなった際は、誰が用意をすればいいのかと……」 「普通に八千代じゃ駄目なのか。直子でも賢子でもいい」 「ですがルナ様がおやつを食べたくなったときは、誰が作ってくれるのかと……」 「子どもか」 「ルナ様がデザイン画を描くのに用紙が足りなくなったら、誰が買い物へ行けばいいのかと……」 「わかった、私もここでデザイン画を描けばいいんだな? どうしても集中したいときは部屋へ戻るが、それで満足なんだな?」 「はい!」  嬉しそうに机の上へダンボールを載せる僕を見て、ルナ様は少し呆れた顔をしていた。テンションが高くてごめんなさい。 「朝日とルナがいないからつまんない」 「そうです」  怒られた。製作序盤から苦戦していた僕の数少ない安らぎの場、そしてみんなとの交流の場は、説教タイムと化していた。 「今日もう朝からいなくてびっくり家中さがしまわったよ? え、なにどこいたの二人」 「昼食の際にも説明しましたがアトリエです」 「聞いたけどもさあ、製作に集中するとは言ってたけどさーあ? ほんとに一日中出てこないとは思わんかったよ? もう滋賀県民びっくり」 「京都府民もびっくりしました」 「そうか。たった一日いなかっただけでこんなに文句を言われるとは、東京都民もびっくりだ。だが跪け県民府民。君たち地方民が大都会東京都の人間に口答えする権利など最初からない」 「あっ、反撃できないこと言われやがった私。どうしよう、こういうときに滋賀県民はなんて言えばいいのかな。だって事実田舎だし新幹線の駅も一つしかないよ」 「京都も一つしかありません。そんなところで戦っては駄目です、歴史を主張しましょう。昔は近畿が首都だったんですよ?」 「あ、そうなんだよ。滋賀県も紫香楽宮とか近江宮とか首都になったことがあるんだよ? えへん」 「瑞穂はともかく、湊は紫香楽宮にも近江宮にも住んでないだろう。過去の首都からも離れた滋賀の片田舎じゃないか。もう一度言うが、田舎じゃないか」 「すごいようちの田舎! いま住んでるとこは人口けっこう多くてスーパーとかもあるけど、お爺ちゃんの住んでる地域は人口100人いないよ!」 「平安時代から人口変わってなさそうだな」 「ルナ様、そろそろ柳ヶ瀬家全体への批判にもなりかねませんので、そろそろご容赦ください」 「あ、これだあ……ルナの毒舌に朝日のフォロー。今日一日求めていたものはこれだあ」 「これでこそ休日です。安心しますね」 「なのに二人とも全然遊んでくれないし」 「仕方ないだろう。朝日が型紙を引かなければ、君たちが縫製することもできない。そのために、彼女は文字通り一日中製図用紙とにらめっこしていたんだ」 「え、じゃあこれから毎日こう? 二人ともずっとアトリエの中にこもる感じになんの?」 「はい。私が終わらなければ製作が進みませんので、しばらくは集中したいと思います。完成まではアトリエで寝食をすることも厭いません」  湊と瑞穂様は絶望的な顔をした。そんなに遊びたかったんだろうか。 「え、じゃあ私たちの富士登山は? 車で行く東京二十三区食べ巡りツアーは?」 「遠慮する。それでも私を連れていくというなら絶交する」 「とは言いつつ、いくらルナでも鎌倉へあんみつを食べには行きたいでしょう?」 「わかった。今すぐ取りよせる。冷凍バイク便が嫌なら、材料と料理人をここへ呼びよせよう。だから製作が終わるまでは遠慮したい。他のみんなは私たちに気を使わず、存分に遊んできてほしい」 「せっかくの夏休みなのにー……」  湊はぐってりとしながら机に顔を載せた。教室だと他のお嬢様方の目が怖いけど、この屋敷だとその辺は気が楽だ。 「あ、でもお盆くらいは休むよね? 私、さっき話したお爺ちゃんの家行くの大好きなんだ。超田舎だけど超楽しいよ。川あるよ山あるよ湖あるよ」  あ、それは楽しそう。昔の湊は実家の話をよくしてくれたけど、のどかな田園風景なんて僕の知らない世界だからずっと憧れてた。 「そうですね、ぜひ一度行ってみたいと思います」 「あ、ほんと? そっか、朝日と二人で実家かあ……」 「ん? さっきまで全員が前提の話じゃなかったか? そしてなぜ顔を赤くする」 「その後は私の実家にも来てね。両親に紹介するから」 「瑞穂もなぜ顔を赤くする」  ルナ様はふうと溜息をついた。そしてやや仰々しく頭を下げる。 「本当にすまない。せっかく期待していただろう夏休みの企画を潰すのは心苦しいんだが、本人が休みたいと希望するまでは、朝日をそっとしておいて欲しい」 「もしどうしても退屈だというのであれば、午後の紅茶で良ければ私が付きあおう。朝日は今日一日の間、ほとんど休憩も取らずに進めていたんだ。集中させてやりたい」 「え? じゃあほんとに休みなしなの? お盆も?」  湊の目がまっすぐ僕に向けられた。とても楽しみにしていたっぽいところをすごく断りにくいんだけど……。  アトリエまで提供してくれて、僕に大切な役目を与えてくれたルナ様が頭まで下げてるんだ。今の僕には、どうしても無碍にできない。 「申し訳ありません。よほど順調に進まない限りは、製作を続けたいと思います」  再びの湊と瑞穂様の絶望顔だった。しかも今度はやや真面目気味の。  それを見て顔を歪めたのは、今まで黙っていたユルシュール様だった。 「二人とも、いい加減にしたらどうなんですの。ルナがショーに対して、どれほど真剣に向きあっているかわかっているんですの?」 「ユーシェ、いいんだ」 「よくないですわ。私とルナの立場が逆なら、貴女が言ってくれていたはずですもの。ですから私が言いますわ。二人とも、朝日の邪魔をするなら実家へ戻って友人と遊べばいいのですわ」  ユルシュール様の言葉の剣はいつにも増して鋭い。  今朝からずっと、彼女は口数が少なかった。できるだけ表へ出さないようにしてるみたいだけど、自分の作品が選ばれなかったことは、彼女にとって相当痛恨の出来事だったんだろう。  それでも、自分が負けた相手の応援をしてくれるところを見ると、ルナ様と本当に仲がいいんだと安心する。とはいえ、ちょっと言い方がキツすぎる気もするけど。 「ごめんなさい……」 「申し訳ありません……夏休みだからと、浮かれていました。『休みたいときはいつでも遊びましょう?』と言うだけのつもりが、一日も休みがないと聞いたら、朝日が辛くないものかと思ってしまって……」 「あ、あら。こちらこそ言いすぎましたわ、ごめんあばずれ」 「ユーシェ、日本語が間違ってる」  助かったとでも言いたげに、ルナ様が笑う。確かにこの場面でユルシュール様の天然には、救われるものがあった。 「もう一度謝るが、すまない。私だって、自分のデザインした衣装の縫製を頼むのだから、もっと朝日とみんなを交えさせて、コミュニケーションを大切にするべきだとわかっているんだ」 「ただ実際に作業をするのも朝日で、しかも彼女は、こちらが願う以上の働きを見せてくれた。それなら私ができることは、他のことに気を使わず、集中できる環境を用意することだけだ」 「というわけで、私のために尽くしてくれる朝日の時間を奪わないでやってほしい」 「うん……ごめんね。私も自分の出番がきたらがんばるから」 「私もです。皆で大文字焼きを見るのは来年にします」 「皆様、ありがとうございます。明日は今日以上に、自分の役目を精一杯こなします」  今年の夏休みは製作に掛かりきりだけど、それも青春みたいで楽しそうだ。みんなで一つのものを製作すると、こんな気持ちになれることもあるんだな。 「フフ。これじゃ朝日は、休みたくてもとても休めないな」 「いえ、休みがなくても構いません。望むところです」 「そうか、じゃあ任せた」  あれ? あっさり?  というか今さら気付いた。ルナ様の言ったとおりの気がしてきた。ここまで仰々しい話になってしまった以上、一日ならともかく、二日連続の休みなんて入れられない空気だ。  もちろん最初からそのつもりだったけど……あれ? もしかして僕、手の平の上で転がされてる?  夕食後に一服はしたものの、それからはずっと型紙を引いていた。  ルナ様は机の前でずっとデザイン画を描いている。恐らく視界の隅で僕が動いてたり、製図用紙を広げる音やハサミで切る音でうるさいだろうけど、邪魔になってないだろうか。  でもルナ様には「気を使うな」と言われてる。半ば僕からお願いしてここに居てもらってるようなものなので、こちらが遠慮するわけにもいかない。  というより、気を使って自分の作業にもたついたりしたのがバレると、ルナ様から叱られるのは目に見えてる。そういう勘の働き方は神懸かってるからなあ、僕のご主人様。 「いま私のことを考えてるだろう。自分が立てた製図用紙の音でも気になったのか」 「なんでわかるんですか! 怖いです!」  これはもう勘が鋭いとか、そういう次元じゃない。なんで? もしかして僕は、自分じゃ気付いてないだけで考えてることをぼそぼそ呟いてる? 「今まで机とにらめっこしていたのに、急に私の方を見て動きを止めていたら馬鹿でもわかる。しかも途中まで授業と同じように使っていた製図用紙を丁寧に扱いはじめたしな」 「うう、ルナ様の推察通りです。デザイン画を描くときに気が散ったりしないかと」 「メインは朝日だと言っただろう、私が描けるかどうかは二の次だ」 「それに、今日一日側にいたが、その程度の雑音で描けなくなるようなことはない。むしろ気を使われていると気付いたときの方が意識をもっていかれる」 「申し訳ありません……」 「いいんだ。ちょうどいま部屋へ戻ろうと思っていた。どうも今日は、私自身の集中力がいまいちだ」 「それはやはり私がいるせいでは?」 「だから違うと……あ、いや。そうでもないか。ただ君のことが気になっているのは、ネガティブな意味合いじゃない。どうしても自分の作品ができていくのを見るのは楽しい」 「あ……」  まだ平面上の図形でしかないとは言え、いま僕が引いている型紙は紛れもなくルナ様のデザインした衣装だ。 「だんだん形になっていくところを見ていると心が踊る。かと言って、あまりじろじろ見ているのも自分のデザイン大好きっ子みたいでカッコ悪いしな」 「い、いえ、そんなことはありません。喜んでいただければ、やる気がより湧いてきます」 「ありがとう。だけど私に見つめられては、朝日がやり辛いだろう? こちらも気持ちが浮ついてしまうし、今日はここで止めることにした」  ルナ様がうわついている……普段クールなルナ様が? しかも、僕が衣装を作るところを見たらわくわくした、なんて理由で? 「フフ。これじゃまるで、遠足が楽しみで寝られない子どもと同じだな」  はい、その通りです。そしてルナ様が童心に近い気持ちでいてくれてると思うと、こちらの心まで明るくなってきました。 「朝日はどうする? 今日は終わりにして、一緒に部屋へ戻るか?」 「いえ。なんだかやる気がむんむん湧いてきました。今日はもう少し遅くまでやっていきます」 「まだ初日だから、あまり飛ばしすぎないようにな。衣装製作にどれだけの時間がかかるかわからないが、最低でも二ヵ月は必要だろうから無理はするな」 「はい。ご期待に添えるようがんばります」 「どうだろうな。君に対する私の期待は大きいんだ。それに応えようとすれば身がもたないぞ」 「いえ、今回の私は、ルナ様からの期待が大きければ大きいほどモチベーションに繋がります」 「そうか、それなら嬉しい。私には朝日が必要なんだ、力を貸してほしい」  必要……自分の存在に対して、これほど頼もしい言葉が他にあるだろうか。 「……まさか、泣かないよな?」 「えっ!? ななななに突然言ってるんですか、感動はしましたけど泣きませんよ」 「いや君、自分に前科があるのを忘れたのか。めっちゃウル目になってたことがあっただろう」 「ないです」 「すごいな。絶対覚えてるくせに、さっぱりした顔で平然と嘘をついたな。無駄な言い訳を付けないあたりに、誤用の意味での確信犯的なものを感じさせる」  だって恥ずかしいですから。 「でも、ルナ様から力を貸してほしいと言われたことは本当に嬉しいです」 「ん?」 「以前にも話しましたが、ルナ様はいわゆる天才と呼ばれる部類の人間だと思います。その人に頼られているのかと思うと、諦めかけていたこの業界でやっていけるという自信が生まれてきます」 「実は、今回のショー用のデザインに自分のものが選ばれなければ、デザインは諦めようと思っていたんです。自分ではもう少し引きずるものかと思っていたのですが、それさえも気にならなくなるほど今が楽しいです」 「こうしてルナ様に必要とされて、この世界で自分にできることが見つかり幸せです。この作品に関われて本当によかったと思います」  思いがけず自分のことを語ってしまった。だけどルナ様は部屋へ戻らずに聞いてくれている。 「私には実力がありませんでした。でもルナ様には間違いなくそれがあります」 「私が諦めた夢を、ルナ様が叶えてくれればと……自分の夢をルナ様に託したいです」  僕の話に耳を傾けてくれていたルナ様は、これ以上言葉が続かないことを知ると、うんと頷いて組んでいた腕を解いた。 「朝日。裾を汚さないようにしゃがめ」 「すそ? ですか?」  汚さないようにと言われると、正座はできないな。体育座りのように体を畳みつつ、お尻を浮かせて、スカートを押さえるように膝を抱える。 「しゃがみました」 「自分勝手に夢を託すな」 「縦に痛いです」  頭の中心線にチョップが落ちてきた。実際には痛くないけど、気持ち的には真っ二つにされた。 「どうして私が他人の諦めた夢を押しつけられなくちゃいけないんだ。そんなものを抱えていたら、私まで挫折することになりそうだ。いい迷惑だ」 「迷惑ですか」 「大体なんだ今のは。『この作品に関われて幸せだ』って、まだ作品はできてもいないし、途中で満足されても困る。あまりに私が置いてけぼりで、呆然とさせられたじゃないか」 「仰るとおりです」 「そんな状態で夢を託しますなんて言われた私は、どう反応すればいいんだ。ただただぽかんだ」  手厳しい。今日は比較的優しいと思っていたのに、ルナ様はルナ様だ。 「人に望まれた道を進むのは、実家を出たときにもうやめた。私には私のやりたいことがある」 「はい。ごもっともです」  本当だ。迷惑だった。自分に置きかえてみれば、ある日突然お兄様から「今日から貴様は俺の道を行け!」なんて言われたら、心の底から迷惑だ。 「だから私に託すのではなく、君の新しい夢を見つけるといい」 「新しい夢、ですか」 「うん。君が一つの夢を諦めたというのなら、いま歩んでいる進路の先にある新しい夢を見つければいい」  いま歩んでいるということは、たとえばパタンナーとして? 確かに今は、それが一番楽しい。 「朝日の夢の場所が私の目指す先と同じ方向を向いているのなら、それほど嬉しいことはないな」 「それは私に、これから先も側にいろと言ってくれているのでしょうか」 「そこまではっきり言われると恥ずかしいな。だけどそういうことだ。何十年もの時間を共にして構わないと思える相手は、一生の内で何人も見つかるわけじゃないだろう。偏屈な私なら尚更だ」 「だから私は君がいい。一生の内の数人の一人が、私の求める才能を持っていてくれたなんて、そんな奇跡は一度きりかもしれない」 「大切にするよ」  両の頬がルナ様の左右の手で包まれた。  しゃがんでいる僕はルナ様を見上げる格好になっていた。彼女の言うとおり、こんなに素敵な出会いが一生の内で他にあるだろうか。  やがて、僕に幸福を与えてくれた両の手は離れていった。僅かな時間だったのか、それがとても長い時間だったのか、まるで感覚がない。 「ルナ様の夢と……私の夢が同じ場所で重なるために、必要な実力を付けるための努力をします」 「うん。自信を持て。君が才能を認めた私が、君のことを必要だと言ってるんだ」 「今回なんて将来の夢のいい予行練習になるじゃないか。スケールの小さいコレクションだと思えばいい。力を合わせて成功させよう」 「はい」 「じゃ、私はそろそろ部屋へ戻る。朝日も無理はしないように」 「はい。ルナ様の言葉は守ります」  はあ、どきどきした……頬に触れられたときは、不思議な神々しさと紅い瞳の高貴な色気に頭を染められて、脳が溶けるかと思った。  でも嬉しかった。自分が役に立てることもそうだけど、僕もルナ様を必要としていいと言われたことで、独り善がりじゃないんだという安心感が生まれた。  ここのところ使用人としての自分に納得しちゃってたから、気持ち的な部分で対等になれたのは大きい。ルナ様からただ与えられるだけじゃなく、今の立場のまま、僕からも彼女に何かを与えることができるんだ。  今は技術と献身しか手元にないけど、その力は惜しみなく彼女の衣装製作に注ぎたい。服飾生としての希望と、僕の居場所を与えてもらったんだから、それは当然だ。  だけど他にも、たとえば物理的なものでもお返しができるといいな。この屋敷にいる僕としてできることで彼女に認められる何かを贈りたい。となると服?  と言っても、僕がデザインした服を贈っても、彼女にセンスで劣ってるからなあ。喜んではくれるだろうけど、それなら本人に欲しい服を描いてもらって、それを形にした方が技術の向上という部分でも有意義だ。  うん、そうしよう。彼女のデザイン画を服にしよう。  実はアトリエに来たときから気になっていた。昨日、ショー用の衣装を決めるときに持ちよったデザインは三点。それとは別に、恐らく没作にしたデザイン画がアトリエには何枚も重ねてある。  その比較的描いた日が新しいと思われるもの……つまりショーに出す予定で描いたデザイン画が、割と無造作に机の上へ出してあるから驚いた。  選ばれたのは、いま僕が作っている衣装だけど、この没の中にも良いデザインがいくつもある。  というよりも、この中の一着が僕はとても気に入っていた。月をテーマにした淑やかだけど妖しい雰囲気を纏ったドレス。  ただ、この衣装を着るなら、瑞穂様じゃなくてルナ様に着てほしい。  綺麗だけど着るひとを選びそうなデザインだった。だから描いた本人のルナ様も、ショー用の衣装としては推せなかったんだと思う。  そんなデザイン画だから、もしルナ様が与えてくれるなら、欲しいなと思ってたんだ。  それが衣装製作中は、このアトリエを使っていいことになった。それならデザイン画を貰わなくたって、いつでも見ることができる。  この衣装を形にしたら、ルナ様は驚いてくれるんじゃないかな。  この衣装を贈ったら、ルナ様は子どものように笑ってくれるかもしれない。  そして僕の前だけでいいから、この衣装を着てほしい。  今の僕にはこのデザインを形にできる自信が生まれてる。型紙も、縫製も、一人でも全部やろう。  優先すべきはショーのための衣装だから、完成がいつになるかはわからない。でも裏でこつこつと作ってみよう。  ショーの衣装の製作中は、個人的な製作の時間は一日に二時間までと決めることにした。無理をするなと言われたばかりなのに、寝る時間を削っている僕をお許しください、お優しいルナ様。  手縫い疲れた……。  仮縫いのシーチングは全て手縫い。粗く縫ってはいるものの、今回の衣装はドレス。それはもう膨大な量だった。  その分、人海戦術でなんとかなるんだけど、それでも量が多かった。そしてものがドレスだから一人では着られず、下着姿の瑞穂様に僕が着せるわけで、その間、湊の視線がとてもとても痛い。  だって「水着の上から試着しましょう」なんて言う方が怪しいし……むしろ湊から提案して欲しかった。  そして直した箇所はほどいて、型紙直して、裁断して、再び縫って、その直す箇所が袖だったりどこまでも直線縫いが続くスカートの一部だったりすると、もうとてもしんどい。手縫いで余裕の20m。  さらに型紙を引いてるのが僕だから、修正をお願いしづらい。お嬢様方に「ここ5mm詰めたいので、貴女に縫っていただいたところをバラして、も一度縫いなおしてもらってもいいでしょうか」はとても言いにくい。 「製作のために遠慮することは許さない。完成度を高めるために朝日は図々しさを覚えろ」と言ってくれたルナ様ですら、二回目の直しが入ったときは頬がひくついていた。三回目はやや涙ぐみながら僕一人でやった。  だけどそれも今日まで。明日はようやく本番用の生地を裁断できる。ただここまでくるのにスケジュールが遅れて、睡眠時間も二日続けて四時間に減ってしまった。  寝不足で色々な部分が荒れたり気が抜けたりすると、そもそも女じゃないから、らしさが薄れてバレる危険性が高まりそうだし……ほどほどにしないと。  今日はここまでにしよう。アトリエのドアに鍵を掛けてエントランスへの階段を上がった。  あれ?  ケータイが鳴ってる。そっか、アトリエには電波が入らないんだっけ。  その掛けてきた相手は……あれ、少し意外……。 「はい」 「今まで何度掛けても通じなかったんですが。どこにいたんですか」  りそなだった。僕が今より前にアトリエから出たのはお風呂に入ったときだから、三時間くらい通じなかったんだ。 「ごめん、地下にいて」 「地下だろうと、ルナちょむの屋敷内で電波が入らないなんてことはないはずです」 「あ、ええと、アトリエは圏外みたい。いま十二月のショーに向けた衣装製作をしてて」 「は? 夏休みにも服を作ってるんですか? 長期休みなのに全然帰ってこないと思ってたら、そんなことしてたんですか。バレる危険性を考えたら、こちらへ戻ってきた方がいいですよ」 「いや、今年は帰らないよ。ルナ様が真剣に衣装製作をしてて、しかも僕に期待してくれてるから」 「はあああ?」  あ、りそなの機嫌の悪さがどんどん増してきた。これは正当な理由を元に、一度間を空けよう。 「最近は電話もなかなか掛けてこないと思ったら、帰らない? 期待してくれてる? あの、一応聞いておきますが、ルナちょむの付き人でいるのは演技ですよね?」 「あ、あ、というか誰か来たらまずいから、部屋へ戻ったらかけ直すね。今はまだ廊下にいるんだ」 「ああ、いいです。私の要件は一言で済みます。妹、明日はそちらへ窺います」 「え?」 「やはりルナちょむから聞いてないんですか。あまりに兄が帰ってこないから、こっちから出向くことにしました。明日、行きます。もう決定事項です」 「そうなんだ? それなら僕に話があっても良さそうなのに」 「知りません。とにかく明日、そちらへ出向いて血の繋がった兄を連れて帰ります。今の内に荷物をまとめておいてください」 「え? 無理だよ、衣装製作が忙しいって言ったよね?」 「うるさいです、そんなのこっちの家でやればいいでしょう。明日の朝10時、それまでに仕度を済ませてください」 「ちょっ、りそな……あっ」  切られた。最後の方は相当機嫌悪そうだった。  うーん……よく考えればりそなには不義理だったかもしれない。帰省をしないならしないで、連絡の一本は入れるべきだった。衣装製作で頭がいっぱいだったから……。  りそなは僕のために協力してくれてるし、帰らないにしても、顔だけは出した方が良さそうだ。  だけど僕に連絡がなかったのはどうしてだろう? りそなが僕の元の主人(設定だけど)ってことをルナ様が忘れるとも思えないし、連れて帰るなんて言ってるなら一言あってもいいのに。  一時か……ちょっと遅い時間だけど、ルナ様起きてるかな。  自分の部屋へ戻るつもりだったけど、僕はフロアの違う二階へ向かった。寝るのはもう少し後になりそうだ。 「ルナ様。夜分に申し訳ありません、朝日です」 「朝日? 鍵は掛かってないから入っていい」 「失礼いたします」  ルナ様の体はベッドの上にあった。起こした上半身を僕に向けている。 「りそな様から連絡がありました。明日、こちらへお見えになると」 「ああ。朝日には私から伝えると言ったんだが、信用しなかったようだな」 「信用ですか?」 「彼女が来ることを私が朝日に伝えないとでも思ったんじゃないか」 「そんな疑いは持たないと思います。理由があるわけでもありませんし」 「いや何を言ってるんだ。正しいのは彼女だ。事実、私は君に彼女が来ることを伝えてないだろう」 「あれ?」 「彼女が来たらお茶の一つでも振舞うだろうが、君をその席へ呼ぶつもりはない。理由ならある。朝日をしばらく返せと言ってきたんだ」 「はい。私もそのように言われました」 「なんて答えた」 「衣装製作が忙しいのでお断りいたしました。今の私の主人はルナ様です」 「大変に気分がいい」  ルナ様は歯が見えるほどの笑みを浮かべながら、体の向きを変えて、ベッドを下りはじめた。 「ルナ様、そのままで結構です。わざわざ私のために一度入ったベッドから出なくとも」 「朝日を誉めたい。まるで前の主人のことを気に掛けなかった君の従順さに満足したんだ」  というより、そもそも僕はりそなに仕えてないからなあ。  でも困った。この流れだと、とてもりそなの顔を見たいだなんて言えない。 「私を信用せず、人のものにちょっかいを出そうとした態度は気に入らないが、朝日が断ったなら、私の憤りは充分すぎるほど収まった。いやむしろ勝ち誇りたい気分だ。朝日はとっくに私のものだと」 「はい。ルナ様のものです。何よりもルナ様のことを優先いたします」 「君は、その、なんだ。いや、相変わらず大変に気分はいいんだが、こっちが恥ずかしくなることを平然と言うな」 「ルナ様もこちらの顔が赤くなるほどのことを仰られるときがあります。私も本音を言った方が良いのかなと思いました」 「従順だな」 「はい。そのつもりです」 「健気だな」 「はい。感謝しています」 「…………」  言葉もなしに、ちょいちょいと手招きされた。ルナ様の前まで歩を進める。 「しゃがめ」 「はい。これでよろしいですか?」 「うん。今から頭を撫でる」  えっ。頭を?  他の場所ならともかく、頭に触れられるのだけは避けたい。何故ってウィッグが外れたら一巻の終わりだから。  そんな恐れが顔に出てしまったのか、ルナ様は興がそがれた様子を見せた。 「……ああ。朝日は頭を撫でられるのは嫌いだったか。それは失礼した」 「いっ、いえあの、昔から頭を押さえつけられることに恐怖を覚えてしまう性格で……申し訳ありません」 「いや全然? 知らずに触れようとした私が悪い。そうだな、言われてみれば、上から押さえつけられるというのは中々不快だ」  そんなことを話すルナ様はとても不快そうだった。 「本当に申し訳ありません……」 「気にしてないと言ってるだろう。なんだ? 私が器の小さい女だと言いたいのか?」  はい。 「言っておくが不機嫌になどなってないからな?」  だってめっちゃ顔に出てますもん。  しかも僕が否定せずにいたら、ルナ様はみるみる口を尖らせていった。 「君は黙秘を貫くつもりかもしれないが、目がはっきりと言っている。私が君の頭を撫でられなかった程度のことで機嫌を損ねている器の小さい主人だと」  あ、もしかして今の話の流れは、僕にとって良い傾向に向かってるんじゃないか。 「いいえ、器が小さいなんてことはありません。ルナ様はお優しいお方ですから」 「ん……まあ、わかればいい」  ルナ様は一応の納得をしてくれた。だけど今なら僅かだけどムキになってくれている。  よし、ここが攻めどき。彼女の負けず嫌いを刺激しよう。 「ただ、りそな様が誤解していることだけが心配です。ルナ様の器はモモンガの使うデミタスカップよりも小さいと」 「朝日、明日の製作は10時から一時中止だ。彼女にモモンガとまで言われたら黙っていられない。連れてかえらせはしないが、朝日と会わせる程度のことは彼女に許可しよう」  やった成功!  ぬぐぐ、ハードチュールを重ねて縫うと固い……しかもこの後ギャザーもあるのに……あっ、針が折れッ!?  工業用ミシンの針が折れた……それじゃあどうやって縫えばいいんだろう。針が悪かったのかな。レザー用の針に変えてみた方がいいのかも。 「おはよう、朝日。探してもいないと思ったら、朝から衣装を作ってたのか」 「あ。おはようございます、ルナ様。衣装製作と言っても、瑞穂様に試着していただかないと次へ進めないので、パニエを作っていたのですが」 「仮縫いのときに使用していたやつがあるじゃないか」 「せっかくなので、全て手作りにしてしまった方が良いかと思いまして」 「君はもしかして、私よりも妥協しない性格なのか」  やや呆れた声を出しながら、ルナ様は僕の手からパニエを取りあげていじり始めた。  縫い目の線をしっかり確かめてる……ルナ様は僕が妥協しない性格だと言ったけど、目の前でこれだけチェックをされたら妥協のしようがないと思う。 「はっ。私は製作をしにここへ来たんじゃない。もうすぐりそなが来るのに、君がいないから呼びに来たんだ」 「えっ、もうそんな時間ですか? 申し訳ありません、意識が衣装の方に集中してしまい……」  本当だ、9時半だ。りそなが来るのは10時と言っていたのに、迎える仕度の手伝いを全くしていない。 「申し訳ありません、すぐに準備いたします」 「ああ、お茶や紅茶の仕度はできているから問題ないんだが」 「では八千代さんに全て任せてしまったのですね。後で謝っておきます」 「いや、君は衣装製作をしていたんだから、そこに謝る必要はない。ただ一つ気になっているのは、君は私への態度と比べて、りそなに対しては割と冷淡だな」 「は?」 「これから来るというのに、あまり気にしてなかったように見える。前の雇用主だろう? それとも、雇用関係が終わればそんなものかと思ったんだ」  あ、しまった。そういえば僕は、ここへ来る前はりそなに仕えていたという設定だった。実際には妹だから、どうしても肉親らしい気安さが出てしまい、ルナ様はそこが気になったみたいだ。  ここで「りそなにはそうでも、ルナ様には違います」なんて言っても説得力皆無だ。だけどルナ様に不義理な人間だと思われたくない。どうしよう。 「りそな様とは、電話番号も交換していて、メールなどのやり取りも頻繁なので……」 「電話? それとメール?」  ルナ様の目が丸くなった。元雇用主と、関係が終わってもプライベートな付きあいをするのは意外だったのかもしれない。  確かにお兄様が役員を務める企業を見ても、彼の部下でお兄様と個人的に仲良くしてる人の話は聞いたことがない。あの人の場合、少し特殊な気もするけど。 「私は朝日からメールをもらったことがないな」 「はい。一緒に住んでいますから、メールを送る要件があれば直接お部屋へ伺います」 「もっともだ」  ルナ様は仮縫いの衣装をいじりながら少しだけ黙った。だけどすぐに躊躇いがちな大きさで口を開く。 「でも君がりそなに送るメールの内容は『要件』という単語が使われるほど堅苦しい内容なのか」 「え? いえ、他愛のない近況などですが」 「そうか。ところで近況を伝えに、わざわざ部屋を訪れたりはしないな。まあ雑談をしに部屋を訪れることはあるかもしれないが、君からは特に用事もなく私の部屋へやってくることはできないしな」  これは……ルナ様、メールをしてみたいのかな。  僕は黙ってポケットからケータイを取りだした。ルナ様の目の前でメールを打つ。 「何をしている?」 「はい。知人に近況などを伝えるメールを」 「ここは圏外だ、メールは送れない。大体、主人の前で断りもなく携帯電話を開くとは何事だ」 「はい。申し訳ありません」 「八千代に言って注意させるところだが、すぐに客人が到着するから今日はもういい。りそなを迎えに玄関へ行くぞ」  ルナ様は一人でずんずか階段を上りはじめた。慌てて後を追いつつ、懲りずにケータイを取りだして文章を作る。  当然アトリエからは送れなかったが、階段の途中で電波は最大になった。そこでパネルの送信と書かれた部分に触れる。 「ん、メール? フン、どうせ仕事関係の業務的なメールだろう」  仕方ないな、と言った体でルナ様はケータイを確認した。ここからだと何のメールを見ているのかわからないけど、僕が送ったものだとすれば内容はこうだ。 「ルナ様への初メールです\(^o^)/喜んでいただけたでしょうか?」  ルナ様はケータイをしばらく見つめていた。心持ち、頬が赤い。こういうときに肌が白いと目立って大変だな。 「朝日」 「はい」 「顔文字がかわいくない」 「そんなことありませんよ。大人気です」 「私はもっとかわいい顔文字を使うんだ。後で見せてやる」 「はい。楽しみにしておきます」  よかった、喜んでもらえたみたいだ。りそなへの不義理疑惑も解消できたし、ルナ様からのメールも楽しみで一石三鳥だ。 「本日はこの炎暑の中、ようこそ当家へお越しくださいました」 「どうも。久しぶりです……少しやつれましたか」 「そんなことはないと思いますが……ささ、ルナ様もお待ちかねです。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」  直接の連絡を受けたからには君が出迎えるべきだろう、とルナ様から言われ、りそなの応対は僕が任された。  向かう先はルナ様の部屋。普通は応接室を使いそうなものだけど、りそなは気の置けない友人だから、自室でもいいらしい。  そんなわけで階段を上が……ってたのに、後ろからぐいと襟を引っぱられた。 「んぐっ! り、りそな様、後ろから襟を掴まれると苦しいです。喉元いっぱいいっぱいです」 「誰もいない階段でしか話ができないからです。他のメイドさんたちに会話が聞こえても困るでしょう」 「それは困るけど……」 「あの、怖いくらいメイド業が板についてますけど、それでいいんですか」 「もちろんよくないけど、完璧になりきれって教えてくれたのはりそなだよ」 「ええまあそうなんですが。そうなんですが、血の繋がった兄のそんな姿は正直キモいです」 「そんなこと言われてもどうしようもないよ。だって僕はルナ様のメイドなんだし」 「い、妹の前で躊躇せずにメイドとは……どこまで染まってるんですか」 「だってルナ様は、本当によくしてくれてるから」 「心から今の環境を受けいれ始めている……?」  りそなの眉間に溝が生まれた。その目がキッと細くなる。 「兄は一度やはり我が家へ帰るべきです。そうでないと、心から女になってしまいます」 「心から女になりきれって言ったのはりそななんだってば」 「だったら同じ私が、今の状態は危険ですと言えば納得してくれるはずじゃないですか。一度ガス抜きをしましょう。実家で男としてのリハビリをしましょう」 「それは無理。衣装製作が本当に忙しいんだ」 「嘘でしょう? 本気で帰ってこないつもりですか?」 「うん」 「もう長いことネトゲも放置してますよね? ギルドの皆からも見捨てられてしまいましたよ?」 「あ、僕のアカウント消しちゃっていいよ。もうオンラインゲームは二度とやらないと思う。服を作ってる時間の方が楽しくて」 「兄が廃人を廃業しようとしている……!」 「こふっ……りそな、力が強く……呼吸が……死んじゃう……」 「妹、こうしてはいられないです。ルナちょむに直談判してきます」  案内役の僕を放りすてて、りそなはとっととルナ様の部屋へ向かってしまった。まるで勝手知ったる自分の家。作法的なものを忘れて、ドアを何度もノックしてる。  やがてドアが開き、勝手に一人で入っていってしまったので、僕も慌てて階段を駆けあがった。 「ルナ様、申し訳ありません。お客様の案内の役目もこなせず……」  空気重い。  気の置けないほど仲がいいはずなのに、何故か直接会うと話をしようとしない二人だった。 「え、ええと……ルナ様、以前にお会いしたのは一ヵ月以上前のことですし、ご挨拶などされてはいかがでしょう」 「聖剣グレタカリバーを売ってくれ。世界に五本しかない剣を三本もガメてるんだろう? もうとっくに他のプレイヤーにもバレている」  本日、りそなに対して初のお言葉がオンラインゲームの話ですか……。  僕たち三人が共通してプレイしてるオンラインゲーム「ウイングクエストポータブル」は、同じギルドのメンバーで親密度の値が高い相手だと、アイテムの譲りあいができる。 「これ以上がめ続けると、君の評判を下げるだけだ。事実WQP関連の掲示板で君の名前が挙げられたり、つぶやかれたりしているのを目撃している。今が譲り時だ」  正確には、りそなががめていたのは五本です。先月、いらないよと言ったのに僕にニ本くれたので三本になりました。ちなみにりそなの親密度一位が僕。  ルナ様が手に入れられなかったのは、きっと八千代さんに任せるのを忘れるほど、デザイン画を描くことに集中していたせいだ。ちょうどショー用のデザインを決める前日にアイテムが解放されたから。  というか僕はオンラインゲームを辞めるつもりだし、ルナ様が喜んでくれるなら譲りたいんだけど……それはりそなが怒るだろうし、オンライン上だと僕とルナ様は面識がないからそれはできない。 「金に糸目はつけない。1000万Gでどうだろう、リアルマネーならGの十分の一を出す」 「ルナちょむの生声を久しぶりに聞きました。それに免じて超特価で売ってもいいです。他人に」 「くっ、私の足元を見るとは……わかった、2000万G出す。別のレアアイテムを付けてもいい。神槍ゲイボルグでどうだ」 「ルナちょむが人に頼みごとをするとは珍しいです」 「頼んでない、交渉だ」 「そうですか。でもいくら積まれたところで、売るつもりはありません」 「ちっ……」  ああ、WQPの話でみるみる険悪に。  場を取りもつのも僕の役目だ。ここは何かおいしいものでも口に入れれば、明るい話題でも生まれるんじゃないかと考えた。 「あ、そうだ! ただいまお茶とお菓子をお持ちいたします!」  キッチンに、僕の故郷で設立された会社の紅茶がある。それを見れば共通の思い出が浮かんで、りそなの機嫌が直るんじゃないかと思いついた。  それとルナ様の好きなピエラナイ・エルメのマカロンも用意してある。きっと二人とも笑顔をみせてくれるはずだ。そのあとで僕が楽しい話題を振ればいい。 「すぐに用意いたしますので、少しだけお待ちくださ――」 「提案ですが、売るのではなく交換条件といきましょう。グレタカリバーをただであげますから、このひと一週間返してください」  えっ、僕?  僕の一週間分の時間は200万円の価値かあ……ちょっと評価が過剰すぎる気がした。 「断る」  僕の価値が200万円を超えた。 「朝日は私の衣装製作に欠かせない人材だ。この人の時間を一日足りとも他人に譲るつもりはない」 「ルナちょむの方が、私よりよほどがめついじゃないですか……三年間一緒にいるのだから、少しくらいは返してください」 「嫌だ。それと勘違いしてもらっては困る、朝日は私のものだ。『返す』ではなく『貸して』くださいと言ってもらいたい」  りそなの眉がギリリと歪む。だけどルナ様に仕えている立場の僕には妹のフォローができない。 「どこまで強欲なんですか。もはや許せません、このままではWQPの世界に血で血を洗う大規模な戦争が巻きおこりますよ。私の勢力とルナちょむの勢力で決闘です」 「構わないが? もっともWQPの世界だけで済めばいいがな。私のギルドのメンバーには警察関係者も数多くいる。彼らが本気を出せばリアル世界に干渉して、大人げない圧力をかけることも……ククク」 「お二人とも紅茶はいいのですか? お菓子もありますよ? マカロンおいしいですよ?」 「ルナちょむは、随分と私を甘く見ているようですね。先日、私たちのギルドのオフ会がありまして、どうやら自衛隊員が数多く参加しているようです。中には幹部もいるそうで、彼らを怒らせればどうなるか」 「ほう? 君とは仲良くやっていけそうだと思ったが、どうやら見込み違いだったようだ。いや実に楽しくなってきたじゃないか。今日から金の力にものを言わせて、有名プレイヤーの買収をするとしよう」 「ならこちらは金の力にものを言わせて、私の味方が全体の参加者の三分の二を超えるまでに陣営を膨らませてみせましょう。質より量で圧倒してやります」  なんだか無関係な参加者のリアル生活まで脅かすような事態になってきた。この二人、よく今まで喧嘩せずにいられたなと思う。 「ルナ様、いけません。あまりオンラインゲームに力を入れられては、衣装製作が遅れてしまいます。この際、アカウントを捨ててしまってはいかがでしょう」 「なっ!? ルナちょむのアカウントを捨てるなんて、そんなことをしたら、私の張りあいがなくなってしまうじゃないですか。馬鹿なことを言わないでください、あなたは一体誰の味方なんですか?」 「昨日から言っている通り、私はいつでもルナ様の味方です」 「大変に気分がいい」 「ああっ……」  りそなは両手を目蓋に被せて天を仰いだ。どうして何度も言ってることを聞いたんだろう。 「朝日、よくはっきりと言った。とても清々しい気分だ」 「はい。この三年間は、全ての時間をルナ様と共にできればと思っています」  ルナ様が満足気な顔を浮かべつつ、こいこいと手招きするので側まで寄った。目の前まで立つと、腰にしゅるりと腕が巻きつく。  りそなに見せつけるように、ルナ様は僕の体へ頬を寄せた。そんな子どもみたいな主人がかわいくて、僕も彼女の肩へ両手を載せた。りそなが涙目になっていて、ちょっとだけごめんなさいと思った。 「ここまでのやり取りが全てままごとに思えるほどの完全勝利だな。そう、要は君が製作と休養とどちらを選ぶかのシンプルな選択だったんだ」 「はい。今は衣装製作以外のことは考えられません」 「もういい朝日。いい、いいんだ。何も言うな。私に敗者をいたぶる趣味はない」 「あの人は、いつの間に心の芯からルナちょむの使用人に……しかもそのことをまるで拒否していない」  うん。最初は色々な葛藤があったけど、三年間はルナ様の使用人でいるって決めたんだ。この人は僕のご主人様。誰に聞かれても否定するつもりはないよ。 「わかりました、もういいです……この分だと、お正月も帰ってこないのでしょう。こうなれば、やはり来年になったら私も入学するしか……」 「いい家庭教師を紹介しよう」 「じゃあいまルナちょむが抱きついてる使用人で」 「それは断る。朝日に会いたければ、また遊びに来るといい」 「いいです。しばらくはオンラインの生活もやめて、真面目に服飾の勉強します」 「あ……来たばかりなのに、もうお帰りになられるのですか。まだお茶の一杯もお出ししておりません」  帰り支度を始めていたりそなは、恨めしそうに僕たちを睨んだ。というよりも僕を見ていた。 「そんないイチャっぷりを見せつけられながら紅茶を飲んでも美味しくないです。むしろ世界最高級の茶葉を使って、世界最高級の〈執事〉《バトラー》が入れたお茶でも不味くなりそうです」 「つまりそこの主従二人は、客の前で堂々とイチャつくなって話です」 「申し訳ありません」  りそなから見れば肉親が女性と抱きあってるわけで、確かにあまり見たくない光景かもしれない。僕もお兄様やお父様が見知らぬ女性と抱きあってたら気力が減退すると思う。言えないけどごめんね。 「じゃ、帰ります。見送りはいいです」 「そんな水くさいことを言わないで欲しい。朝日、二人で玄関まで見送りに行くぞ。さ、抱っこしてくれ」 「イチャこいてるあなた方を見たくないからいらないと言ってるんです。来るなら二人とも自分の足で歩いてください。てか来るな」  でも結局、ルナ様は僕に抱っこされずりそなを見送った。やっぱり普通に仲がいいみたいだ。 「しかしりそなは随分と君にご執心だったな。まさか不純な関係でもあるのか?」 「なななないですないです。あったら大問題です」 「まあ同性で恋愛をするとなると世間体はよくないな」  いえ、近親相姦です。 「まあでも私は、他人がする分には嫌悪感を持たないから安心していい。我が国では認められてないというだけで、然るべき国で籍を入れるなら何の問題もない。マサチューセッツ州では同性で結婚ができるらしいぞ」 「はい。ですが現在その予定はありません」  同性婚は認められても、近親婚を認める国はありませんので。  ただ、結婚はさておき、りそなが僕のことを気に入ってくれてることは知ってる。後でフォローのメールだけは入れておこう。 「それでは、アトリエに戻ります」 「ああそうだな……っと少し待て」 「はい?」 「さっきは悪ふざけで過剰なスキンシップをしてすまなかった」 「え……いえ、そんなことは」  あるのかな?  というより、今までにも似たようなことはあった気がするけど、どうして今だけ? 言われてみれば、普段よりも密着度が高かった気はするけど。  なんだろう。改めて意識すると、ルナ様から抱きしめられたという事実が意外だ。水着のときも驚いたけど、肌が触れる、見えるのに抵抗がある人なのに。 「不快だったか?」 「あ。そんなことはありません。本当です、嫌じゃないです。嫌ならきちんと嫌だと言います」 「それならいいが、どうもりそなに対しては、私の負けず嫌いが特に酷い」 「そうなんですか? それはやはりオンライン上でライバルだからでしょうか」 「いや今回の件に関しては、彼女が君の元雇用主だからだ」 「え?」 「君とりそながどの程度仲が良かったのか知る術はないしな。つい、私の方が朝日と仲がいいんだと見せつけたくなって、過剰なスキンシップをはかってしまった」 「そんなことは仲がいいことの証明にはならないと、わかってはいるんだが」 「そう……だったんですか?」 「そうだった。自分のものアピールしたくなった」 「はい……ルナ様のもの、ですが」  というよりも、思いだすと恥ずかしいです。抱きしめられたときは、自然と意識してなかったのに。  うー……ん。なんだろうこの落ちつかなさ……。 「…………」 「…………」 「……まあその、お詫びというわけじゃないんだが」 「はい?」 「なにか朝日に与えたいと思うんだ。りそなの前で私をはっきり選んだことも嬉しかった。希望があれば何でも言っていい」 「何でも……え、何でもですか?」 「嬉しそうだな。目を輝かせるほど欲しいものがあったのか。メイド長の座とか、今後の人間関係に支障が出そうなものはやめてくれよ」 「私だけのために描いた、ルナ様のデザイン画が欲しいです」 「何でもと言ったのにそれでいいのか……」  ルナ様の声には、明らかに呆れの色が混じっていた。  ただ、呆れを混ぜる本体の色は、嬉しかったみたいだ。小さな息とともに、ルナ様は優しく微笑んでくれた。 「君は本当に私のデザインが好きだな。普通なら気でも使ったのかと勘繰るところだが、朝日から言われると素直に嬉しい」 「はい大好きです」  何故かルナ様は僕から一歩分遠ざかった。 「ああ『私のデザイン画が大好き』か……すまない、君の百合疑惑がまだ晴れてなかったんでな」 「もしかして、私がルナ様のことを好きだと言ったように受けとられて?」 「いちいち説明するな」 「申し訳ありません」 「アンニュイに目を逸らすな。頬を染めるな」 「大人しくアトリエでルナ様をお待ちしています」 「そんな従順な犬のように……くそ、かわいいな」  ルナ様は「犬がイメージから離れない」とぶつぶつ呟きながら階段を上っていった。色々な犬種があるけど、僕のイメージはなんだろう。そして犬をテーマにした服ってどんなデザインになるんだろう。  そういえばまだパニエを作ってる途中だった。続きをしよう。  あ。でも、りそなが帰ったのなら、瑞穂様に着てもらって仮縫いを終わらせちゃった方がいいのかな。それから裁断、それが終わったらいよいよ縫製だ。  やっと本番用の生地が使える。裁断で失敗ができないから緊張はするけど、仮縫い用のシーチングと本番用の生地ではテンションの上がり方が全然違う。  それじゃ瑞穂様を呼んでこよう。  あれ。  早い……ルナ様、もうデザイン画を描いてくれたんだ。時計を見ると、玄関で別れてから10分しか経ってない。  今さらあの人の怪物ぶりには驚かないけど、あまりに早いからちょっと心配になってきた。もしかして僕の渡すものだから適当に描いたのかな。  いや、ルナ様はどんな時でも手を抜くような人じゃない。そう信じてアトリエの入り口まで迎えにいった。 「お待たせしました……えっ?」 「ちーっす。朝日はここにいるかと思って遊びに来ちゃったんだぜ」 「怪物じゃない……?」 「誰が怪物だよ。てか怪物ってなに? 滋賀県にはチュパカブラがいるよ」 「いないよ。なに適当言ってるの。で、どうしたの?」  もしかして本気で遊びに来ただけなのかな。 「うん。りそな来てたんだよね? 私も話したかったなと思って」 「あ……そっか、りそなと面識あるもんね。ルナ様と話してすぐに帰っちゃったから、湊を呼ぶ時間もなかった」 「ま、しょんがないよね。たはは」  残念だなーと言いつつ湊はアトリエの椅子に腰を下ろした。  あれ? ここにいるの? とは思うけど、それを口にしたら追いかえしたがってるみたいですごく感じ悪い。でもルナ様の許可なく、アトリエに人を入れちゃっていいのかな? 「そーいえばだよ? ゆうちょと二人で話すのも久しぶりかも?」 「え? ああ、うん。ここのところずっと衣装製作で忙しかったから」 「そうだよ、全然話してないよ! キホンどこ縫ってとかそこ縫ってとか、衣装に関することばっかりだよ」 「うーん……」  りそなと会わせてあげたかった気持ちはあるし、僕で良ければ話し相手になった方がいいのかな。 「じゃあちょっと話そうか。どうせ瑞穂様がいないと進められないし」 「そっか、仮縫いだっけ……? じゃあ一度、一階へ戻って瑞穂にメールしてくる。そのあと私の話に付きあっておくれよ」 「あ、うん。それなら全然。ここなら外に声も漏れないし、昔のことでも話そう」 「わ、ゆうちょと昔話したいしたい! すぐメールしてくるから絶対待ってて! ついでに飲み物とお菓子もとってくるから!」  湊は高速で階段を駆けあがっていった。そんなに僕と話すのを楽しみにしてくれてるんだ。うん、製作を始めてから全力で走ってきたし、たまには気を抜いてみるのもいいかな。 「そうそう、あの頃からりそなはかわいい服好きだったね。私なんか全然男の子みたいだったから、りそなの趣味とかわかんなくてさー。このひらひら邪魔じゃんとか思ってた!」 「りそなのこと泣かせたこともあったもんね。ひらひら歩きにくくない? ひらひらドアに挟まったりしない? なんてりそなの部屋で服を散らかして」 「たははー! あったなあそんなこと。それは次に会ったら謝らなくちゃだね。違うんだよ、イジメるつもりじゃなかったんだよ? でもほらあの、好きな子に意地悪する的な? 好きっていうか、かわいい子?」 「じゃあお詫びとして湊もりそなみたいな服を着てみるとか?」 「ひいゃあああああ! 無理無理、ゴスとかロリは無理っしょ! 私そんなん着たら、周りに違和感しか与えない自信あるよ! てか違和感しかない予感だよ!」 「そこまで否定しなくてもいいのに。意外と似合うかもよ?」 「やーめよーよ。ゆうちょの方が似合っちゃったりしたらヤだし。てか絶対ゆうちょのが似合うんだよ。もう着なよ。着ちゃいなよ。ゴス着ろよ。そしてロリも着なよ。似合えよ」 「やだよ。着ないよ。似合いたくないよ。そもそも好きで女装してるわけじゃないからね?」 「好きで着てなくても似合うものは似合うんだよ? いま着てるメイド服も全く違和感ないし、メイド服とゴスとロリって形が似てる気がするし。妹のりそなも似合ってるし、兄妹だからきっとハマるよ」 「でもゆうちょのお兄さんが着たら笑う」 「あ、それは笑う。というよりこんなこと話してるのがお兄様にバレたら、とんでもないことになりそう」  二人で口を開けて笑った。湊と二人のときは、気を使わず話せるからリラックスできる。 「ていうか普通のゆうちょにも久しぶりに会いたいな。ヅラ取って」 「ウィッグって言って。駄目だよ、誰が来るかわからないし」 「てかメイド服も脱ごうよ! そだ、服交換する? これならズボンだし、まだ我慢できる気がする! 私もメイド服着てみたいと思ってたんだ」 「湊は似合うと思うけど、僕はやだよ。だってこの年で男がホットパンツって、そっちの方が恥ずかしい気がする。低学年の小学生じゃないんだし、ジャパニーズロッカーでもないし」 「スカートよりはマシだと思うんだ」 「や、や、駄目だよ。だって着替えどうするの。僕の前で下着になるのヤだよね?」 「あ、あーっ! ボタン外さないでって。あ、ちょ、待って、駄目だってば! 駄目だよ、バレるバレる!」 「へへー、メイド服脱がしてやるぜー。ヅラも取ってやるぜー」 「ウィッグって言って!」 「朝日、作業中にすまない」 「……何をしている?」 「あ、ルナ! やほろーい」  びっ  くりしたああああああああ。ルナ様は鍵を持ってるんだった。ドアが分厚いから、まさか会話は聞こえてなかったと思うけど、ウィッグを外したりしてなくて良かった。  慌てたせいで呼吸が乱れ、息が荒くなる僕。軽く暴れたから、恐らく顔も赤くなってる。  そんな僕の顔を、冷めた目をしたルナ様がじっと見つめていた。会話してる湊の方に、視線を向けるべきだと思うんだけど……。 「りそな来てたんでしょ? 呼んでよ! 会えなくて寂しかったから、朝日に相手してもらってたところ」 「ほお……それは邪魔して悪かったな」  ルナ様の視線が、机の上のペットボトルとスナック菓子へ移動した。  今さらだけど……僕にとって神聖だったルナ様のアトリエが、なんだか俗なものに……俗っぽいものに……。  たとえるなら、二人だけの秘密基地が同級生に発見されて、気付いたら皆のたまり場と化していたような……。 「ルナ様……その、申し訳ありません」 「なんのことだ? 謝られる覚えはないが。ああ、てっきり君は製作をしているものだと思っていたから、ここへ入ったときに気を使ったことだけは、損をさせられた気分だが」 「ルナは何しに来たの?」  湊はルナの話の途中で(僕にとって)とんでもない質問をした。なにしろ湊だから、欠片も邪気のない笑顔をして尋ねたものの、まるでアトリエの持ち主であるルナ様が後から来たひと扱いだ。 「ああ、まあその。なんだ。朝日に――」 「朝日! 湊から仮縫いをしてるって聞いたけど……あ、ルナもいるんだ」  ルナ様の言葉が途中で遮られた。よりにもよってのタイミングだった。 「あ、ごめんね瑞穂。朝日が製作しようとしてたのに、続きができないみたいだったから。あれ? ところでルナが持ってるそれ、なに?」 「朝日に、デザイン画描いてきてやったぞ……」 「ど、どうもありがとうございます。あの、ルナ様が私のためだけにデザインを描いてくれて」 「ほんと!? すごいじゃん、見せて見せて! わ、すごい! かわいい!」 「本当、さすがルナ。朝日が着たらとても似合いそう」  あ……一番に感想を言いたかったのに、湊と瑞穂様に先を越された。 「はい、嬉しいです。私だけのために、これほど素敵なデザインを用意していただけるなんて、ルナ様に感謝いたします」 「そうか。まあそうやって喜んでもらえると嬉しいな。で、感想は?」 「かわいいよね!」  僕が聞かれたのに湊が答えた。 「ルナにしては普段着っぽいデザインだよね? これならいつでも着られるかも」 「は、はい。きっとカジュアルを意識してくれたのですね。ルナ様はショーで見栄えの良いものだけではなく、こういった普段着もかわいく作れるので尊敬します」 「朝日ならこのデザインの服が作れそう。よかったね、ルナ」  違います。よかったのはルナ様ではなく作り手の僕です。 「でもやっぱり朝日はこういうかわいいのが似合うんだよ。私の言った通りだったね」 「え、ええ? それは、その」 「え、何の話? 朝日にかわいい服が似合う? 私もそう思う! ちょっとフリフリっぽいものや、チェックの制服みたいな衣装も似合うと思う!」 「だよね? なのに『私には似合いません』なんて必死に否定してたんだよ」 「いえその、メイド服でもどうかと思うのに、ゴスやロリとなれば余計に……」 「私は似合うと思う。朝日はもう少し自分の見た目を気にして? 色々な種類の服を試してみるのがいいんじゃない? 試しに私の部屋にある服も着てみる?」 「あの、本当に私は今のままで充分――はっ!」 「…………」  あ、ああ。一番お礼を言いたいルナ様が話に加われてない。疎外感を覚えているのか、つまらなそうにしてる……いや、不機嫌そう?  だけどルナ様は、目の前の二人のような積極的に話へ加わってくるタイプじゃないし。かと言って、仮縫いにこれから付きあってもらう瑞穂様を邪険に扱うのは避けたいし。 「でもルナのこのデザインはかわいい。朝日もこれを着てかわいくなりたいと思うよね?」 「うっ。そんな、かわいくなりたいなんてことは……」 「じゃあ着たくないの?」 「そんなことはありません。ええと……そうだ。こんな素敵な服は私に似合いませんよ」 「もういい。君のためになんて二度とデザインしてやらない」 「ごめんなさい!」 「あ、ルナが行っちゃった……どうしよう。仮縫いの続きは朝日がいればできそう?」 「はい……それは、大丈夫です」 「あ、じゃあ私はここで見てるから、手伝えることがあればいつでも声掛けてね」 「それではそろそろ真面目にやりましょう。さ、始めよう?」  本人がいないと衣装は着せられないので、仮縫いは瑞穂様の帰省前に終えておきたい。ルナ様を追いかけたい気持ちはあるけど、期間のこともあるから僕は泣く泣くこの場に残った。  なんとか仮縫いは無事終わり、これから本番用の生地で裁断というところまで今日は辿りついた。  夕食のために一階へ上がると、アトリエは電波が入らないから受けとれなかったけど、ルナ様からメールが来ていた。そういえばルナ様、メールをしたがってたような……。  もしかして怒ってるんだろうか。でも感情を見せたがらない人だし、そんな露骨なことは書かないか。じゃあお叱り? それとも淡々とした業務命令?  どきどきしながらメールボックスを開いてみた。  ヽ(`Д´)ノ  ルナ様が怒ってる……。 「というわけで謝りにきました」 「律儀だな君は」  夕食後、食事が終わり、ルナ様が入浴を済ませたところで彼女の部屋を訪れた。 「あんなもの、一時の冗談だと思って、気にしなくても良いものを」 「ですが、これでもうルナ様からデザイン画を描いてもらえなくなったらと思うと悲しいです。どうかお許しください」 「まだ私にデザイン画を描いて欲しいのか。その気持ちは嬉しいが、しばらくは駄目だ。つーん」 「ああ、ルナ様が拗ねてしまった……申し訳ありません。決してルナ様を疎かにしたわけではないんです……」  しばらく2時30分の針のように頭を下げて、それでもルナ様がそっぽを向いているのを知ると、僕は床にぺたんと座りこんで、そこでもう一度頭を垂れた。 「待て、朝日。それではまるで土下座じゃないか。遊びならいいが、真面目にそういう卑屈な態度を取られるのは好きじゃない。品性は捨てるな」 「はい。申し訳ありません」  余計に怒られてしまった。だけど少しはルナ様の胸に届いたみたいで、仕方ないなといった風にルナ様は微笑んでくれた。 「わかった。デザイン画はそのまま君にあげるつもりだが、一度仕切りなおそう」 「仕切りなおし?」 「元は君へのお詫びに贈り物をするという始まりだっただろう。デザイン画は私の労力と想像を贈っただけで、金額面で言えば用紙代とほんのちょっとの画材代だけだ」 「充分幸せです」 「もっとその喜びを目の前で見たい。だから今ここで選んでもらうことにした」 「は?」 「この部屋にあるものの中から欲しいものを一つ選べ。何でもいい。どんなものでも拒否はしない。金銭が良ければ、後で売却しても構わない」 「そそっ、そんなことしません!」 「うん、君ならそう言うだろうとわかってて言った。というわけで選ぶといい。欲しいものがないというのは、私がちょっと傷付く」  今の言葉で「何もいりません」という答えは封じられた。もちろん遠慮しなければ、この部屋にあるものはどれもルナ様の好みで、質だっていいものばかりだから欲しいものはある。  でも図々しくなるなら、ルナ様の手作りのものが一番嬉しい。  ただ、過去に描いたデザイン画のほとんどはアトリエにあるし、ここでそれを求めたら「じゃあ先ほど描いたものは気に入らなかったのか」ということになる。  他に欲しいもの……あ。 「見つかったか?」 「はい」 「何を見ている? 朝日が欲しいと思ったものは……」  僕の視線の先にあったものは、ビーズで出来た、いかにも手作りのブレスレット。 「あれか?」 「はい」  ルナ様のビーズ細工や刺繍は、本職のためじゃなくて純粋な趣味らしい。  一人でもできる趣味を選んだみたいだけど、それだけに一人きり期間の長かった彼女の腕は一級品だ。ちょっと寂しい話ではあるけど。  販売品として並んでいても、違和感のないレベルのものを作るルナ様。でもいま目にしたブレスレットは、よく言えば手作り感の温かみに溢れた……はっきり言えばルナ様にしてはちょっぴりお粗末。  それだけに欲しいと思った。きっとあれは、ルナ様がまだビーズアクセサリーを始めたばかりの時期の作品だ。 「…………」  あれ?  何でもいいと言ってたルナ様が即答しない? もしかして何か思い出の品とか……僕いまやっちゃってる? 「他にも色々とそれなりに価値のあるものが選べると思うんだが……あれでいいのか」 「は、はい。ご迷惑じゃなければ」 「迷惑じゃないが、君の迷惑にならないかと思ったんだ。見てわかると思うが、出来は悪いだろう」 「はい」 「はは。期待通りの答えだ。朝日なら、ここは本音で答えるだろうと思ってた」 「はい本音です。でもその不慣れなところに、ルナ様らしさが出ているのではと思いました。さらに言ってしまうと、今の作品は既製品と区別が付かないので、選ぶ自信がありませんでした」 「誉めすぎだ」 「先ほど私の本音を当てたルナ様なら、今回も世辞か本音かを見分けていただけると思います」 「いい気分だ。持っていけ」  ルナ様は自らブレスレットを手に取って、僕の下まで持ってきてくれた。  近くで見るとより不細工……でも色合いはいいし、愛着の湧く形だ。 「一応、言い訳しておく。ビーズのアクセサリーとしては、私が一番最初に作ったものだ」 「えっ」 「だから形が悪くても許せ。よりにもよってこんなものが欲しいと選んだ君が悪いんだ」 「え、ええええ。いや、あの……そんな大切なものだとは思わず、ど、どうしましょう」 「どうしましょうも何も、もう一度与えたものだ。いらなければ捨てていい」 「捨てません! ただ、ルナ様にとって手放せないものだったのかと思うと、とても……」 「いや実は、なんだかんだあって私の手元へ戻ってきたが、一度捨てたものなんだ。私としてはその程度の思い入れしかない」 「…………」  そこまで言われては、お返ししますというわけにもいかない。少し悩んだけど、ルナ様の処女作を受けとることにした。 「ありがとうございます、大切に扱います。これからは肌身に着けて過ごそうと思います」 「無理して着けたりしなくていい。ビーズのブレスを着ける女学生なんて、そういないだろう。朝日が喜んでくれればそれでいいんだ」 「そうですか……じゃあ大きなイベント事や節目のときは着けることにします。ルナ様のご加護がありますように」 「私は神格化したのか……」  嬉しそうにブレスを握りしめる僕を見て、ルナ様はやや呆れた顔を浮かべていた。 「ルナ様の初めてのものをいただいてしまったので大切にします」 「びっくりするほどいやらしい言い方だな。悪いが女性に身体を捧げるつもりは今のところ、ない」  そんなつもりはなかったのに、言われて初めて自分がとんでもないことを言ったのに気が付いた。  というか僕は男ですが、ルナ様から身体を捧げられることはないと思います。そんな場面が全く想像できない。  もはや意地を張るべきじゃないのでは。  そう思ったのは、接着芯を切る時にメイド服の袖口がとても邪魔だったからだ。生地が広くなればなるほど、メイド服はとても邪魔。  本当なら半袖Tシャツに短パンで作業したい。折しも季節は夏。薄着になっていい季節。  気温に関しては、アトリエの空調はルナ様が画材を多く置いてるから、こっちがこだわれば徹底的に好みの設定ができる。それと薄着になれば性別がバレる危険性も増すから今の格好の方が都合はいい。  でもやっぱり縫製には邪魔だなあメイド服。僕は衣装製作に集中しなくちゃいけないし、部屋着に着替えても問題はないはず。  だけどルナ様の付き人としては、彼女との立場を示すため、常にこの格好で側にいたい……。  間違えた。やっぱり着替えよう。よく考えたら、僕は本物のメイドじゃなかった。いつからこの格好にプライドまで持ってたんだろう。  もしかして心のどこかで、卒業してもメイドでいたいと思ってるのかな……対等な立場じゃなくてもいいから、ルナ様から時々からかわれたりしながらも、彼女の役に立つことで大切にしてもらえるなら……。  でも僕が男である以上、それは叶わない夢だ。もっと現実を見よう。  すぐに部屋へ戻って着替えてきた。多少は動きやすい格好に……。 「あら、朝日……だいぶやつれていますけど、どうしましたの」 「あ、ユルシュール様。お出かけですか?」 「ええ。瑞穂も湊も今日まで帰省ですわよね? サーシャも買い物に行かせてしまったから一人で退屈なのですわ。散歩でもしようと思いましたの」 「ルナ様は誘っていただけないのですか?」 「誘いましたわ。でも裏地が綺麗に縫えないと苦戦していて、それどころじゃありませんでしたわ」 「ああ。きのう私が頼んだところです。裏地は慣れてないと縫いにくいですよね」 「ショーなのですから、裏側は適当でいいのに……そこまで観客に見られることはありませんわよ」 「でもショー用の衣装は、新規のものでも提出物扱いですよ。審査員に教員が参加してる以上、完成度も評価の対象となってしまうのではないでしょうか」 「面倒ですわね……」  そう。兄は、誰も気にしないようないやらしい部分を調べたがる面倒な人なんです。  僕のハウススクーリングのときの製作物も、先生が良しとした作品でも、角の処理が分厚い、バイアスの柄が1mmズレてる、裏地の直線縫いが曲がってると散々だった。  でもそのお陰で、技術は格段に上がった。ある程度は自信もついたし、今だって時間があるから丁寧に作業できる。兄が審査員を務めるだろうことを想定すれば、彼が気にする箇所もわかってる。 「でも今は朝日も製作はお休みなのですわよね?」 「え? いえ、今からアトリエに向かうところでした」 「そうなんですの? 普段と格好が違うから、てっきりルナに言いつけられて買い物にでも行くのかと思いましたわ」 「あ、これは……メイド服は縫製のときに邪魔だったもので。あとは気分転換も含めて着替えました」 「あら、気分転換なら私の散歩に付きあっていただきたいですわ。体調は優れなさそうですけど、小一時間カフェで話す程度なら問題ないですわよね?」 「えっ……いえ、体調は問題ありませんが……」 「庭園でのお茶会なら人数が多いときの方が良いと思いましたの。今日は近所のカフェで寛ぎますわよ」 「サーシャさんはまだ戻られないのですか?」 「欲しい鞄の新作が出たから、並ばせに行かせましたの。直接購入できないか交渉したのですけど、あのブランドの社長とデザイナーは頑固で……仕方ないから、センスを信頼できるサーシャに任せたのですわ」 「戻ってくるまで暇なんですの。付きあっていただきたいですわ」 「そう……ですね。はい、ユルシュール様のお誘いですし、お供いたします」 「本当ですの? 言ってみるものですわね、朝日と二人きりでカフェなんて絶好の勧誘タイムですわ。楽しみですわ」 「いえ、あの、勧誘されるのは困ります」 「いいから行きますわよ。もちろんお茶代は私が持ちますから、好きなものを頼むといいですわ。嬉しいですわ。楽しみですわ」  期待に応えられないから勧誘されるのは困るけど、ユルシュール様がこんなに楽しそうにしてくれるなら一緒に出かけられてよかった。喜んでるときは本当に普通の女の子だな、ユルシュール様って。 「〈暑〉《あ》っついですわ、苦しみですわ……朝日を連れだしたのは失敗だったかもしれませんわね……」 「いえ、大丈夫です……暑さはお気になさらず」 「そうですの……ただこれは、体調が悪くても万全でも、辛いことに変わりはありませんわ」 「ですね……なつはあついです。早くカフェに急ぎましょう」 「これだから日本は……私の故郷ジュネーヴでは、この季節でももう少し過ごしやすいですわよ」 「そうですね……スイスは涼しそうなイメージがあります」 「朝日もスイスに興味を持ちましたの? 良いところですわよ、一度来てみればいいと思いますわよ。今度、私と一緒に帰省するのはどうかしら、オホホホ」 「自分にそこまでの価値があるかはさておき、拉致されて監禁されそうな気がします」 「いいえ、パスポートを奪って帰れないようにするだけですわ。朝日には好きで当家へ仕えていただかなければ意味がありませんもの」  それでもパスポートを奪われたら何もできません。 「こうして話していると、スイスへ戻りたくなりませんか? ユルシュール様はなぜ帰省しなかったのでしょうか。湊様も瑞穂様もご実家へ帰られたのに」 「私ですの? まあ一言で済ませてしまうと、あまり家族と仲がよくありませんの」 「えっ?」 「天使のように愛らしい私は、お爺様から溺愛されて育ちましたの。私も素直に甘えましたから、日本へ来たことも含めて、兄妹の中では家財を使って一番好き勝手にしているのですわ」 「あまり兄や姉に良い顔をされないのも、まあ当然ですわね」 「でも仕方ありませんわよね。私が一番美しく生まれ、一番可愛らしい性格だったんですもの。天使の祝福が私に与えられた以上、愛されることを自ら拒否する理由はありませんわ」  すごい。ものすごい自分全肯定。ある意味ルナ様以上。  僕も……いや誰でも自分のことをこんな風に愛せたら、毎日がとても楽しいだろうなと思う。ユルシュール様のように、外見に説得力がなければただのイタイ子だけど。 「まあ天は二物を与えないという言葉は、日本人のくせによく言ったものですわね」 「え? ユルシュール様でも上手くいかないことはあるのですか? デザインの才能もあり、日本語も堪能なのに」 「あ……ええ、一人で全てができるとは思っていませんわ。差し当たっていま欲しいものは優秀なパタンナーですわ。言いたいこと、わかりますわよね?」 「ごめんなさい、私はルナ様の従者なので」 「オホホホホ、よろしくてよ。以前にも言いましたけど、ルナに義理を尽くすところも好感度高いのですわ。ところで朝日、お茶の前に少しだけ買い物に付きあっていただきたいですわ」  小一時間って言ってたけど、思ったより長くなるのかも。衣装製作、今日の目標まで進められるかなあ。 「思ったより買い物をしてしまいましたわ。サーシャに迎えに来させるべきだったかしら」 「この程度の荷物なら私一人で問題ありません。何なりとお申し付けください」 「……でもおかしいですわね? 朝日の服を買ってあげようと思ったのに、どうして私の服ばかりになってしまったんですの?」  それは贈り物を受けとってしまうと、ユルシュール様に恩が生まれてしまうからです。 「朝日? 欲しいものがあれば、いつでも私にねだればいいですわ。将来への投資と思えば、金額に糸目はつけませんの」  将来の投資ってもろに言ってる……。 「申し訳ありません、私にはルナ様が……」 「朝日には物欲もありませんの? 一体どこから攻めればいいのか悩みますわ……」  諦めるという選択肢はないらしい。むしろ手を握られて「離しませんわ」とアピールされた。  こんな会話をカフェでもしたから、ちょっぴり遅くなっちゃった……けど頑張れば挽回できる、かな。 「ただいま戻りました」 「えっ? あれ、ルナ様……」 「朝日!?」 「あら、なんですのルナですの? 裏地は縫いおわりましたの?」 「縫いおわったからアトリエに向かったところだ。朝日がいると思ったからな……」 「あ、では私を探していたのですね」  続けて、申し訳ありませんと謝罪の言葉を述べようとした――ら、その前にルナ様の目がキッと強くなった。 「ああ、探していた。君が真面目に製作をしていると思っていたからな。まさかユーシェとふらふら遊びに出ているとは思わなかったが」 「え?」 「私ももう少し、ゆっくり進めればよかったのかな。怠け者の使用人が私の作業の終わりを待っているのではないかと心配して、無駄に急いでしまった」  え、あれ? もしかして、製作をさぼって遊んでいたと思われてる? 「あの……申し訳ありません」 「なんですの? 刺のある言い方ですわね。朝日が責められているんですの?」  隣に並ぶユルシュール様は、握っていた手の持ち方を変えた。何故か指同士が絡みあうような、親密度の高い握り方だった。 「ああ、かわいそうな朝日……あれほど普段から真面目にやっているのに、少し出かけただけで怒られてしまうなんて酷いですわ」 「少しじゃないだろう。私は30分前にアトリエを訪れたんだ。そのときには誰もいなかった」 「たった30分で叱られたのでは、朝日はおちおち休憩もとれませんわね」  普段のルナ様なら軽く言い返せる嫌味の気がした……んだけど、今日は珍しくユルシュール様の挑発に眉を釣りあげた。 「朝日だけじゃない。私だって縫っているのに、ユーシェは何をしてるんだ。チームの一員として手伝ってくれる約束だろう」 「ええ、手伝っていますわよ? だからといって、睡眠も取らずに、体を削って働くとは誰も言ってませんわ」 「一日の内、授業の時間に当たる六時間も製作に費やしていますのよ。それも休暇中の時間を使って。まさかこれ以上手伝えというのではありませんわよね?」 「それは……ユーシェの言うことも一理あるが、朝日はだな……」 「何を言っていますの!? 朝日こそ、毎日、私たちの倍は製作に努めていますわよ? ルナも知らないわけではないでしょう? あなたどうしてしまったんですの?」 「い、いえ、いいんですユルシュール様。これからは、より一層の努力をいたします」 「ルナの言っていることはおかしいですわ。朝日が毎日アトリエに篭っているから、完成まで三ヵ月はかかりそうな衣装の製作が、倍の速度で進んでいますのよ?」  それは……だけど、僕の側から言えることではないし、たったいま遊びに出ていたことには変わりないし……でもそれを言えば、誘ったユルシュール様とルナ様が喧嘩しそうだしどうすれば……。  と思ってルナ様の様子を覗えば、小さくぷるぷると手が震えていた。 「うるさい」 「は?」 「うるさい、よくそこまで喋るな。君なんか喋るシュールだ。そんなこと、朝日の努力を私が知らないわけないだろう」 「だったら……」 「だったらユーシェこそ、朝日を連れだすな。朝日が私を誘わずに、自分から遊びに出たいなんて言うはずないだろう。どうせユーシェが勝手に連れだしたんだ」 「ええ、私が誘いましたけど……え、なんですの? 一時間借りるだけでもいけませんの? 朝日と出かけるときは、いちいちルナの許可が必要なんですの?」 「うん」 「そうなんですの!?」  僕もびっくりした。声にこそ出さなかったけど、隣で大きな口を開けたユルシュール様と同じ程度には驚いていた。 「え……それはおかしくありませんの? 朝日の役目には、私たちのお世話もありましたわよね? それと朝日にも自由と人権というものがありますのよ?」 「朝日にはいま、製作のため家事を休ませている。つまり君たちの世話も一時解除だ」 「それと朝日は、私の衣装製作を好きでやっていると言ってくれたんだ。だから部外者のユーシェに朝日の自由をどうこう言われる筋合いはない」 「ルナ……あなた、どうしてしまいましたの? もう少し聞き分けが良いというか、傲慢ではあっても、その中に今までは優しさがありましたわよ? 少し朝日を酷使し過ぎではありませんの?」  ふう、とユルシュール様は溜め息を吐き、僕の手を引いて、肩をくっつけてきた。かわいそうな朝日、と小声で添えられた。  そのとき、僕はルナ様が心配で彼女を見ていた。  そしたらびっくり。いつも淡々としていたルナ様が、みるみる肩を怒らせてその顔を真っ赤に――わあ。  ユルシュール様は何も気付いてないらしく、僕と体をより密着させる。 「そうですわ、こんな使用人の気持ちを考えない主よりも、思いやりがあって朝日を大切にする私のもとへ来た方が――」 「うるさい」 「は?」 「うるさい。喋るな口を開くないま以上朝日にくっつくな」  ずん、とルナ様が足を前に踏みだした。小さな体が、鉄の塊に化けたかのような一歩だった。 「朝日は私の従者だ。ユーシェの荷物を持たせるな」 「朝日が毎日毎日、自分を酷使して私に尽くしてくれているとユーシェもいま言ったじゃないか。そんな朝日を荷物持ちに使ったりするな。もっと大切に扱え、馬鹿」  はっと気付いて手にぶら下げた荷物を見る。もちろん離すわけにはいかないけど、ルナ様は僕がユルシュール様の荷物を持っていることに怒ってる……? 今までそんなことは何度もあったのに。 「しかも荷物を持たせた反対側の手はなんだ。どうして朝日の手を握ってるんだ。それは私のだ。私の手だ。離せ。今すぐに手を離せ。私の衣装を作ってくれる、その大切な手を今すぐ離せ、馬鹿」  まるで子どもの言い分に、僕はただただぽかんとしていた。そのせいで、ユルシュール様がより強く握ってきたときも、特に手を離そうとはしなかった。 「ずいぶん勝手な言い草ですわね。帰って来たときは、勝手に出かけるな、ふらふら遊ぶなと朝日を責めていたくせに」 「うるさい。それは言葉のあやだ。何度も見に来たのに、朝日がアトリエにいないから……」  見に来た? 何度も? 30分前と今の二回かと思ってたら、それ以外にも何度か確かめにアトリエへ?  あ……その間、ユルシュール様と季節のデザートをのんびり食べてた……。 「あらそうですの? ごめんあそばせ、朝日は私とメロンのケーキを楽しんでいたものですから。オホホホホホ」  ユルシュール様、酷い! いまそんなこと言わなくても! 「もっ、申し訳ありません! ルナ様のお気持ちも知らず、私は、その」 「朝日!」  それまで挑発されても大声は出さなかったのに、ルナ様が語気を荒くして僕の名前を呼んだ。  でもそれは怒っているような声じゃない。それどころか、ルナ様は恥ずかしげに視線を斜め下へ逸らした。 「裏地、縫ったんだ……」 「えっ?」 「裏地、綺麗に縫えたんだ。だから朝日に見て欲しかったんだ」 「これなら朝日の役に立つと思う……だから、早くアトリエまで見に来てくれ」 「ルナ様……」 「言いすぎて悪かった。待ってる……」  それ以上は怒っているのか、恥ずかしいのか、それとも言いたいことを言って素直になったのか、ルナ様は地下のアトリエにふらりと消えてしまった。 「ルナ様……」  なんていじらしい……。  全力で申し訳ありませんでしたと土下座したくなった。タイミングの問題、ではあるんだけど、出かけることを最初にきちんと言っておけばよかった。  あ、でも、雨降って……じゃないけど、素直なルナ様が見られてちょっと嬉しい……。  なんて、しばらくルナ様のことを考えて呆けていたら、隣から笑い声の息が漏れる音が聞こえた。 「オホッ、オホホホホホホ! 今日のルナは挑発しがいがありましたわ!」  喜んでいた。それはもう艶々した顔で。 「あんなルナが見られるなら、もう少し朝日を私に付きあわせても面白そうですわね」 「あ……いえその、申し訳ありません。ケーキをごちそういただいたにも関わらず恐縮ですが、荷物をユルシュール様の部屋へ届けたら……」 「ですわね。早く行ってあげた方が良いと思いますわよ。私も途中から、ルナがどこまで昔のように戻るのか、楽しんでしまいましたわ」 「え?」 「昔のルナは、あのくらい素直でしたわよ? その辺りのことを話してあげても良いのですけど、今からまた小一時間ほどルナを待たせてしまいますわよ。よろしくて?」 「あっ。そうでした。申し訳ありません、お荷物を運ばせてください」 「本当ならルナの目の前で朝日を勧誘して、からかって遊びたいところですけど……何事も一歩ずつですものね。夕飯のときに引っこまれても困りますし、今日はこの辺で許してあげますわ」 「お礼を言うことでもないのですが……ありがとうございます、お優しいユルシュール様」 「その代わり、スイスに来る件は前向きに考えていただけますわね?」 「無理です。申し訳ありません、ユルシュール様」  だってそんなの、ルナ様をアトリエで待たせてるだけでも申し訳ないのに、スイスへなんて行ったら滅多に会えなくなる。  ルナ様が今みたいに寂しがってくれるならお側にいたい。 「ルナ様、お待たせいたしました。遅くなりまして申し訳ありません」 「12分待った」  ルナ様が拗ねてる。こんな一面を見せてくれるとは思わなかったから、申し訳ない気持ち以上に、胸がむず痒くて心地いい。 「ルナ様に縫っていただいた裏地を見せていただいてよろしいですか?」 「ん」  差しだされた。その縫いあわせた部分を確かめる。 「綺麗な直線ですね。私もこのレベルで仕上げられるよう、ルナ様を見習わなくてはいけません」 「私の技術が君に敵うわけがないだろう。世辞が過ぎる」 「本音です。ルナ様に誓って嘘はつきません」 「ではビギナーズラックというやつだ。私には縫製の経験が少ないからな」 「はい。何度もやり直した中に優れた仕上がりを見つけ、そのやり方を何度も経験することで、技術は向上するものだと思います」 「私も本職の方々に比べれば子どものようなものです。卒業までに、ルナ様と磨きあっていければ良いなと思います」 「そうか」 「それにつけても、この縫い目は綺麗だと思います」 「たった一箇所の出来を何度も誉めるな。逆に恥ずかしい」 「私に誉められたのでは喜べませんか?」 「いや……ありがとう」  そっぽを向きながらではあるけど、ルナ様は喜んでくれた。そんなルナ様を見られることが僕も嬉しい。 「ルナ様自らのお手が加えられたと思うだけで、衣装の格も上がるというものです」 「大げさだ」 「はい。大げさに感動しました」 「…………」  ぐい。と裾を引っぱられた。その隣へ腰を下ろす。 「またユーシェにスイスへ来いと勧誘されたのか」 「はい。ですがお断りしました」 「当然だ。それより君の心が動いてないかの方が心配だ」 「勿体ないお話ではありますが、今はルナ様の側にいることしか考えられません」 「まだ自分の技術が、ルナ様のお役に立てるかどうかもわかりません。私もお側へ置いていただくために必死です」 「君がいい」 「ルナ様……」 「たとえ性格が気に入っていても、私は実力で評価する。だから努力しろ。向上しろ。卒業しても私と共にいられるための苦労をしろ」 「私は、ずっと君がいい」 「はい。ルナ様のパートナーであり続けられるようにいたします。そのためにも衣装の出来は、びしびし厳しい目でチェックしてください」 「ふん」  ルナ様はまだ完成していない衣装を手に取った。うんうんと何度か頷いたあと、裾を指さして僕に見せる。 「それじゃ早速言わせてもらう。ここのまつり縫いの部分で僅かに布がつっている。やり直せ」 「はい。かしこまりました、ルナ様」  ルナ様の指示を受けて、僕は衣装製作を始めた。無言のままルナ様と二人きりでミシンを走らせる時間は、言葉では表せないほど幸せなひとときだった。 「やー、久しぶりに帰ると地元もいいね。言うても新幹線で2時間半だけど、半年ぶりだとなんかこう歓迎とかされてさ!」 「はいこれお土産の超おいしいバームクーヘン! 歓迎はされながらも、並ばないと買わせてもらえなかったやつ!」 「私からもお土産です。地元の銘菓アジャーリ餅です、たくさん買ってきたから皆で食べてください」 「ひぃやっはー! 私はみんなが遠慮する中、一人で次から次へと他人のお土産を食べることで地元じゃ有名だった女だぜぇ!」 「えっ。旅行から帰ってきた側が遠慮なく食べるんですの? 二人は故郷も近いのですわよね?」 「スイスのお土産は?」 「ありませんわ。私は帰ってませんの」 「山岳民族で湖のほとりという点では、滋賀県もスイスも似たようなものだろう。ユーシェも連れていってやればよかったものを」 「滋賀県にはとても行ってみたいのですけど、なんだか引っかかる言い方をされましたわね。刺がありましたわよね?」 「ない。純粋に、山岳部は豪雪地帯で、標高が高いと言いたかっただけだ。ちなみに海岸線がないという部分でも共通している」 「ユーシェにとっては海産物はさぞ珍しいだろう。ほら私のタコをあげよう。好きなだけ食べるといい」 「私、タコは食べられませんわ。あなた、私にタコ焼きを食べさせて悲鳴をあげさせたから知っていますわよね?」 「ああすまない、すっかり忘れていた。ここは素直に謝るシュ〜ル」 「…………」  ユルシュール様は無言でルナ様を睨んだけど、睨まれた側は平然とした顔で、瑞穂様のお土産の一つである漬け物をぱりぱり食べていた。 「朝日に甘えていたくせに生意気ですわ」  ばりん。ルナ様の咥えていた漬け物が、大きな音を立てて割れた。  そしてすぐに振りむいたかと思ったら、後ろにいた僕が睨まれた。もちろん何も言ってないので、何度も何度も首を横に振る。 「え、ユーシェはいまなんて言ったんですか? 興味をそそられる話題だった気がするんです」 「聞かなくていい。事実に基づかない誹謗中傷冒涜だ。全く腹立たしい、裁判になったら私の金の力を舐めるなよ」 「瑞穂ならわかりますわよね? ルナがまるで子どもの頃のように、朝日に甘えていたのですわ」 「朝日、今すぐあの女の口をふさげ。あの適当極まりない日本語をこれ以上喋らせるな。命令だ」 「ですが、食事中に口をふさぐのはあまりにも……」 「朝日。君はユーシェの食事と私のプライドとどちらが大切だ。このままでは桜小路家の沽券に関わる。やれ」 「ええと……」 「朝日は私のお願いが聞けないのか?」 「あ、本当。いつもよりお願い口調になってる」 「ですわよね?」  度重なるルナ様イジリに、とうとう本人が耐えきれなくなった。大きな音を鳴らして席を立つ。 「私は他人をイジるのは好きだが、自分がイジられるのは苦手だ」 「とんでも傲慢だね!」 「特に今日は座っているのも耐えかねる。朝日、食事は部屋まで運んでくれ」 「え? はい……あ、でも」 「朝日……」 「あ、はい。かしこまりました」  ルナ様のねだるような目にこちらが耐えかねて、多少の行儀の悪さは許容してしまった。 「悪いが失礼する。君たちはこれに懲りて、二度と今日と同じ話題を出さないように。山吹教諭もイジメは駄目だと言っていた。それが私のためでもあるし、君たちのため、引いては人類のためになる。わかるな?」 「ルナが私をからかわなければ済むだけの話ですわ。私はかませ犬じゃありませんの」 「いいだろう、今後は控えめにする。では」  手をシュピっと立てて、ルナ様は食堂から出ていった。 「ルナに二連勝ですわ……」  ルナ様が姿を消したあと、ユルシュール様は感動に打ちふるえていた。今までよほど悔しい思いをしてきたんだと思う。 「でも滋賀とスイスに海岸線がない事実は揺るがないよね!」 「そんなことは些細な問題ですわ」 「些細か?」 「ルナが素直になったというだけで進歩ですわ。可愛気が蘇ってきたではありませんの」 「本当。素直なルナはとてもかわいい。朝日と並べて愛でたい」 「今も思うことそのまま言ってるって意味では素直だと思うけど。子どもの頃はもっと素直だったん?」 「目がキラキラしてましたわ」 「表情の基本形は笑顔だった。手を握ったら、強く握りかえしてくれて、どこへ行くにも駆け足で」  目をキラキラさせながら、手を握って笑顔で駆けるルナ様……そんな子がいたら、瑞穂様じゃなくても愛でたくなりそうだ。  ルナ様、普通にしてればお人形さんと変わらないもんなあ。 「あの、そのルナ様が、あまり表情を表に出さなくなった理由は――」 「運んでくるのが遅い」  もっと早く聞けばよかった。ルナ様が戻ってきてしまった。 「もういい、自分で運ぶ。君に運ばせて、また私が甘えてると言われても困るしな」 「はい、申し訳ありません。ルナ様が持てない分のみ、私が運ぶことにいたします」 「わかった。それと私は、君に甘えてなんてないからな」 「はい。よく理解しております、ルナ様」 「よろしい」  それからのルナ様は、部屋で二人きりになっても普段通りだった。  昼の安心できるルナ様もいいけど、やっぱり僕は少し偉そうなくらいのルナ様が落ちつく。もう半年間も一緒にいるんだから。  あ、もう半年間もメイドのままだっていま気づいた……それと帰る気もないから、今年はずっとメイドのままかあ。  あ……。  しまった、朝だ……今日から学校なのに……。  完撤しちゃった……。  今日から学校が始まる。ということは夏休みとは違い、当然授業中は衣装製作ができなくなる。  だから夏休み最後の日に少しでも進めておこうと思っていた。それが、あと一時間、あと一時間で進めていく内に、気付けば取りかえしのつかない時間にまで達していた。  とうとう太陽が……朝日は輝いてるのに、僕という名の朝日は沈みそうだよ……。  そんな駄ギャグを考えてしまう程度には、頭が疲れきっていた。  とりあえず顔を洗って……でもこのままだと、くたびれた顔を晒すことに……? 少し、多めにファンデでも塗ろうかな……。  メイクの技術はアイリーン先生から学んで身に付けてる。冷たい水で身を引きしめ、新学期早々気を緩めないよう、ルナ様を起こしに彼女の部屋へ向かった。 「こうして制服で食事をするのも40日ぶりか」 「制服はいいね! なんかこう、心も身体も引きしまるね!」 「夏の間に痩せたみたいで困りますわ。また胸がしぼんでしまいますわ」 「お肉を食べればいいのに」  う……。  お嬢様方が会話されているのに、話の流れが全く追えない……その瞬間でしか記憶力が働かない……。  いま何か質問されたら、受けこたえができそうにない……ルナ様付きのメイドとして、ぼーっとしていたなんてことになったら恥ずかしい。  ルナ様に恥をかかせるわけには……でも、頭が働かない。どうしよう……。 「ね? 朝日もそう思うよね?」 「あ……」  じまった、いま完全に意識がトンでた……質問の内容どころか、話の主題がなにかすらわからない……。 「朝日さんは海外育ちだから、朝食はパンの方が好みなんじゃないかな」 「えっ」 「あれ、ごはん食が好きだった?」 「え、ええと、どちらも好きですけど、最近はごはん食が好きです」 「ほらやっぱごはんだよ。日本人の心に訴えかけてくるなにかがあるから」 「はい。私もごはん食でないと、特に朝は落ちつかなくて」 「チーズのない食事なんて日本へ来るまで想像できませんでしたわ……そうですわ、ごはんにチーズをのせて、醤油をかけみたらどうですの?」 「ありえません……」 「ではチーズと海苔を重ねて、納豆をくるんで……」  どんな流れでこんな話になったのかはわからないけど……サーシャさんがフォローを入れてくれたお陰で助かった……。  食事の終わり際、お嬢様方が部屋へ戻る間に、サーシャさんを捕まえてお礼を言うことにした。 「サーシャさん、さっきはすみません……助かりました。朝から頭がぼーっとしていて……」 「ん? なんの話?」 「私が答えに困っていたら、質問の内容を教えてくれたので……」 「話の流れで普通に聞いてみただけだけど?」  サーシャさんとぼけてくれてる……なんて優しいんだろう。ありがとうございます……。 「それはそれとして、頭がぼーっとしてるのは何故ですか? 見たところ顔色も悪いようですね」 「衣装製作に焦るあまり寝てない、とか?」 「はい……お恥ずかしい話ですが、一睡もしてません……」  僕の健康状態を聞いた二人は、目に心配そうな色を浮かべつつ、厳しさの表れた顔を向けてきた。 「他家の方に仕事の在り方を説くのも失礼かと思いますが、この道の先達としてのアドバイスです。いくら主人のためとはいえ、普段の生活を疎かにするのはいかがなものかと」 「はい……ごもっともです」 「しかも今日は新学期初日ですよ。もっと体調に気を配るべきでしたね。同情はしますが、助けられません。今日一日をどう過ごすかは、小倉さんがよく考えて決めることです」 「ま、使用人生活を長く続ければ、誰でもこういう無理をしなくちゃいけない場面が何度もあるけどね。ルナ様に休みを乞うのも大切だよ?」 「はい、よく考えて……決めたいと思います」  でもよく考えてみると言ったって、僕はいま思考力が低下してるんだった。  少しずつルナ様と良い関係を築けてきているのに……新学期初日から主人を一人にしてしまうのは……僅かながらでも得た信頼をなくすことになるんじゃ……?  そう思うと、無理をしてでも学校へ行かなくてはいけない気がする……若いんだから、一日くらい大丈夫だ……。 「無理をして、道端で倒れてしまうといい……そしてそのまま朽ちていくといい。誰にも助けてもらず『薄情者!』と叫んで地べたに寝転がっているといい……」  というか僕が道端で寝てたら……名波さんが車道へ捨ててしまいそうですね……でもお陰で、少しだけ目が覚めました、ありがとうございます……。 「それじゃ朝日、また後で。と言ってもほんの5分だが」 「はい。教室でお会いできるのを楽しみにしています」 「大げさだな……」  メイクをし直す必要はあったけど、顔を洗ったら、かなり目が覚めた。これでしばらくは意識をはっきりさせられる。  最近は、ルナ様、ユルシュール様は車で、湊と瑞穂様は徒歩でというのが登校の常になっていた。  特に湊がいるのは心強い。彼女の明るさは、きっと学校へ着くまでに元気を分けてくれるはずだ。 「よっし! それじゃ私たちも学校へ行こう!」  あつっ!  九月だからと思って油断してた……しまった、今はまだ残暑厳しい太陽光がギラギラ眩しい季節……うう、太陽は罪なやつ……。  さっきルナ様に、教室で会えるのを楽しみにしていますと言ったけど……あながち間違ってないかもだ……無事に辿りつけると、いいなあ……。 「朝日? 元気がないみたいだけど、もしかして体調が悪い?」 「あの日ですからご心配なく」 「はい、問題ありません……あまりの暑さに、少し目眩を覚えただけで……」  登校するからには自分の身体に責任を持たないと……だけど名波さんにツッコミを入れる元気すらないのは、我ながら少し心配かも……。 「え、朝日のあの日ってどの日? もしかして、瑞穂の言ってた通り体調悪いの?」 「多少寝不足なだけで……授業が始まれば集中します。大丈夫です」 「えっと、無理は駄目だよ?」 「はい。自分の健康の管理はいたします。もう教室にルナ様も着いているはずですし、急ぎましょう」  学校に着いて、一時間目で様子を見よう。もしどうしても駄目そうなら、今日は本当にギブアップした方がいいのかもしれない……。  そんな弱音が頭をよぎる程度に、太陽光は僕の体力を奪っていった。瑞穂様に腕を抱かれているはずが、軽く寄りかかるほど足がふらつき始めた。 「朝日が私に寄りかかってる……嬉しい。支えてあげるね。なんだかとっても親友みたい」  瑞穂様は嬉しそうだけど……。 「新学期は色々なイベントが続きます。メインは十二月のファッションショー。これは来年以降のクラス替えにも関わるので、充分に準備をして臨んでください」 「他にも歌舞伎鑑賞やアパレル企業の見学などもありますが、まずは再来週の文化祭です」 「ただ、今年は初年度ということもあり、展示できるような成果物はありません。また、皆さんの作品はショーで披露することになりますから、文化祭は本当にお祭りと考えていただいた方が良いですね」 「せんせー! 文化祭には、他校の男子を招待しても良いって本当ですかー?」 「その言い方は語弊があります。招待するのは、あくまで生徒関係者と当校で認めたファッション業界の関係者のみです。風紀を乱す行為は許しません」 「とは言ってもねえ?」 「ルナ様のご家族や、名のある男性方がいらっしゃるのかと思うと、ねえ?」  なんだか教室が色めきたっている……。  でも僕は、背筋をまっすぐ伸ばすのに意識を向けることで精一杯だった。  この机に……突っぷしてしまいたい……もう……。 「服飾のイベントが行われない服飾学校の文化祭になんの意味があるんだ。くだらない」 「絶対言うと思った」 「こうして声を抑えて話すだけ良心的だと思ってほしい。いくら私でも、同級生たちが楽しみにしているイベントを面と向かって馬鹿にするつもりはない」 「その言い方は、ここにいる私たちは文化祭を楽しみにしていないことが前提ですわね?」 「少なくとも、私と瑞穂は全く期待していない。瑞穂なんて見てみろ、今からブルーになっているじゃないか」 「男性が……せっかく空気の良い女学院なのに、どうして男性が……文化祭でも来校禁止にすればいいのに」 「いやいや私は楽しみだよ? 模擬店とかそういうの好きだからね! 何やるかは知らないけど、なんかもう焼いたり回したり上からソース塗ったり色々するよ?」 「言っておきますけど、タコ焼きを作るのでしたら、私は文化祭を休みますわよ」 「海外の人ってほんとにタコ食べないんだね?」 「食べる人もいますけど、私は駄目ですわ。でも他のことなら楽しそうですから、積極的に参加させてもらいますわよ」 「お、さすがユーシェ! そだよね、楽しまないとね!」 「本当に、楽しみにしているお祭りを邪魔するのは心苦しいんだが、衣装製作にも力を入れてくれよ? ショーは十二月だが、早くできあがるに越したことはないんだ」 「強制できることではないが、二人は少し朝日を見習え。昨日だって夜遅くまでミシンを走らせる音が聞こえていたんだ」  え……ミシンの音?  突然、意識がクリアになった。頭の中が怖いほど冴えわたる。  どうしてルナ様が……そんな遠くまで……彼女の部屋まで聞こえるはずはないのに。 「どうして」と声に出そうとした。けれど、驚いたことで頭におかしな脳汁でも流れこんできたのか、澄んでいたはずの頭はたちまちサイケな色に渦巻いて、最後に視界を強烈なフラッシュが襲った。 「うんまあ朝日は頑張ってるね」 「でもそれは私たちが怠けているのではなく、朝日が勤勉なのですわ」 「そのせいで今朝まで無理をしていたようですし」 「そうだ。朝日がどれだけ私の衣装に尽くしてくれているか知っているだろう? その姿を見て健気だと思うなら、私のためではなく、朝日のために――」  ルナ様が誇らしげに僕の顔を見たところまでが、視界として捉えた最後の記憶だった。 「――え、今朝まで?」  視界が遮断された次は触覚だった。体がなにかにぶつかったんだとは思うけど、痛みを全く感じない。 「朝日っ!?」 「わああああ、ゆっ――朝日いいいぃ!?」 「人工呼吸しなくちゃ!」 「余計な真似をしてはいけませんわ! サーシャ、先生を呼んできなさい」 「あああああだめだめだめ先生呼んじゃ絶対駄目! わたっ、私が医務室まで運ぶからいいよ! 私の実家、ほら、運送屋だから運ぶの得意だし!」  あ……性別がバレないよう、湊が……僕を、助けてくれてる……。  ありが、とう……。  だけど聴覚からの情報もそこまでだった。僕の意識は粘り気のある重力に取りつかれ、暗い世界へと落ちていった。 「あさひ」  はい。 「あさひ。ここを見てくれ」  はい、ルナ様。レースですか? 「皺が寄って上手くいかない」  アイロンをしっかりあてて、潰してから縫うんです。ほら綺麗にできました。 「朝日」  はい。 「朝日。また縫い代を開かずに縫ってしまった」  はい、ルナ様。私が解きます。その間にルナ様は、袖をしつけで止めておいてください。 「朝日」  …………。 「朝日」  ルナ様。私は「朝日」ではありません。 「君は朝日だ」  ルナ様、申し訳ありません。私は朝日じゃないんです。 「なにを言っている。君は朝日だ」  本当に申し訳ありません。私は……僕は朝日じゃないんです。 「君は朝日だ」 「もし君が朝日じゃないというなら、今までの君のままでいて欲しい。君が朝日じゃないと名乗っても、私に尽くしてくれる君だけが、私にとっての朝日なんだ」 「私には朝日という君が必要なんだ」  ルナ様……。  ルナ様に許していただけるなら、私は……朝日のまま側にいたいです。 「私も側にいて欲しい。君とはもっと色んなことを話したい」 「もっと……私のことを知ってほしい」  ルナ様……。  ルナ様の……お側にいたいです。 「いま側にいる」  いま側に……? いえ、もっと近くに……。 「これ以上ないほど近くにいる」  これ以上? 私にはルナ様が見えませ……。 「目を開いたらどうだ?」  あ……。 「ルナ様……」 「やっと目を覚ましたか」  ……あれ? 「ここは……」 「ん? 大丈夫か? もしかして、自分が倒れたことを覚えてないのか?」 「そこまでは覚えています……ただ、そのあとは……そして今の状況も全く……」 「ここは医務室だ」 「医務室?」 「そうだ。サーシャが倒れた君をここまで運んだ。ジャンメール家と縁のある医師を呼び、ここで診察をさせた」 「サーシャさんが……ここまで」 「ジャンメール家は医療機器の販売で大きくなった家だからな。ユーシェとサーシャの紹介なら信用できる」 「学院付きの医師もいたが、朝日は私の大切なメイドだ。今後、通院する可能性も考えて、こちらで用意した人間を使わせてもらった」 「そうですか、サーシャさんがここまで……それと診察……」  診察っ!? 「し、診察したというのはいつの話ですか!? 私は、そのっ……」  あ、やば。大きな声出したら、頭がふらついた。 「大丈夫か? いつの話も何も、君が倒れたのは朝のHRの直後だ。私たちは授業があるから教室へ残り、サーシャのみが付き添って、診察にも立ちあった」 「サーシャさんはなんと言っていましたか……?」 「医師の診断では、寝不足と過労とのことだ。少し寝て休み、今日一日を安静にして栄養のある食事を摂れば、すぐに回復すると言っていたそうだ」 「はい……」  寝不足に過労。やっぱり夏の完撤はよくなかった。今日は大人しく休んでいよう。 「あっ! いえその、そ、それだけでしょうか? サーシャさんは他に何も?」  思わず頭のてっぺんを確かめた。ウィッグはずれてない。奇跡だ……それか、誰かが普段よりさらに強く固定してくれたか。 「ん? ああ、それだけだったと思う。何か気になることでもあるのか? 蒙古斑が残っているとか」 「お見せすることはできませんが、大人のお尻をしています……」  どういうことだろう? 医師に診断されて、性別がバレてないはずがない……それとも、顔だけを見て判断したとか?  どちらにしても僕が男だということをルナ様は知らないみたいだ。そうでなければ、こんなに優しい顔を向けてはくれないだろう。 「よかった……」 「ああ良かった。朝日が無事で何よりだ」  ルナ様とは安堵した部分が違うけど、自分の安全に自信が生まれて、気持ちが落ちついた。気持ちが落ちつけば、頭の中もようやく正常稼動し始めた。柔らかなベッドが心地いい。 「あ、では今は食事休憩の時間ですか? ルナ様がここにいるということは……」 「いや三時間目の途中」 「は?」 「朝日のことが心配になって授業を抜けてきた。なに、どうせつまらない服飾史の講義だ。それほど真面目にやらなくても問題ないだろう」 「い、いけません、私のために単位を一つ落とすなんて。使用人のために成績優秀者のルナ様が……」 「せっかく人が心配してやったのに、その言い方はなんだ?」 「えっ? あ、いえ、そんなつもりでは……」 「朝日が心配で、具合が悪いふりをしてまでここへ来たというのに」 「はい……心配してくださり、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしました」 「迷惑じゃない。実際、講義もつまらなそうだったんだ」 「まさか講義を休みたかっただけではありませんよね?」 「どうだろうな?」  ルナ様がくすくすと笑う。その邪気のない笑顔に困ったけど、今も僕の服を握るルナ様の手は心配そうに力が入ったままだから、僅かに苦味を交えつつ微笑みを浮かべた。 「悪かった」 「え?」 「朝日があまりに楽しそうな顔で製作を続けてくれるから嬉しかった」 「はい、毎日が充実しています。ルナ様は間違っておりません」 「だけどそのせいで、君が無理していることに気付けなかった」 「いえ、たった一ヵ月で音を上げる私の身体が弱かったんです」  それにこうして心配していただけるだけで充分です。先ほど、夢の中でまで声を掛けつづけてくださいました。 「毎日四時間しか寝ずに、指示を出すのにも気を使いつつ、全体の進行をしていれば誰でもそうなる」 「ですが、この仕事を本気で目指すなら、今後もこのような場面は多々あると思います。今の内に慣れておかなくてはいけません」 「とはいえ、無理をさせたのは事実だ。それに、その……今」 「いま?」  今、なんだろう。二時間以上ベッドの上で休んだせいか、体に痛みや疲れは感じない。 「私に対して心配が?」 「ああ。君が寝ている間、ずっと心配になる寝言を繰りかえしていた。自分は朝日じゃない、と」 「えっ……」  えっ。えっ、ええええええ。もしかして、目が覚める前の呼びかけと問いかけは、現実に僕が口にしていた……全部ではないだろうけど、途中からは夢現のまま会話していたのか。  うっ、うわあ……僕、かなりとんでもないことを口にしていたような……朝日じゃないって何度も……。 「うつ気味になっているのではないかと心配した。君の普段の性格からすれば想像しにくいんだが、あれほど何度も本人であることを否定されれば不安にもなる」  女ではありません……どころか、男ですとはっきり口にしていればおしまいだった。もっと気を張らなくちゃ……。  違う、気を張れなくなっていたんだ。最近は慣れてきたと思っていたけど、性別を隠しつづけることに、ずっとストレスを抱えてたんだ。何ともないときは気付かなくても、弱っていれば表に出てくる。  これからも、この格好を続ける限りは無理をしちゃいけないってことだ。自己管理が甘かったと思わざるをえない。 「さっきは自覚をさせるため、たとえ自身が否定しても、君は私にとって朝日だと言ったが」 「君が君でいてくれれば、名前なんてどうだっていいんだ。今は主人として君の名を呼ぶ必要があるから『朝日』のレーベルを大事にしてるのであって、本当に大切なのはその中身だ」 「たとえ朝日であることを否定しても、私に仕える君自身までは否定しないで欲しい」 「ルナ様……」  まるで、僕の正体を知っても、側にいて良いと言ってくださっているようです。  人を抱きしめたいと初めて思った。感謝なのか、感激なのかはわからないけど、目の前の人を抱きしめたい。  だけどそんな大それたことを口にしていいのだろうか。男女を抜きにしても、お互いに何かを求めていいのは彼女で、僕にはその権利がない。 「眉間に皺が寄っている……また何かおかしなことを考えてないか」 「はい、考えてました……あ」 「『あ』ってなんだ。いまおかしなことを考えていると発言した件はスルーするつもりか」 「そういえば、ルナ様はなぜベッドの中に? 看病していただいたことには感謝の気持ちで胸がいっぱいですが、なにもこんな窮屈なベッドへ入らなくても良かったのでは?」 「いやこれ、学院のベッドにしてはゆとりがある方だと思う。まあただ、正直に理由を言うなら」  ルナ様は何度かそうしているように、僕の頬へ手で触れた。ベッドで温まっていたせいか、指の先にうっすらと桃色の彩りが見える。 「気を失うほど私に尽くしてくれた君が愛しくなった。その奉仕の美しさを愛でたくなった」 「あ……」 「だから触れたくなった。実際、寝顔は見ていて飽きないほど可愛かった」 「…………」  なんだろう、この心地は。胸の奥が手で握られたように、とても切なくなった。 「だ」 「ん?」 「抱きしめて、良いでしょうか」 「…………」 「ルナ様の身体を、抱きしめさせていただいても、よいでしょうか」  何故だろう、言えば言うほど胸が締めつけられる。そんなことをしていいのだろうかと、自分の言ったことにまるで反するような不安さえ浮かんできた。 「いや……その。別に勢いで『抱きしめちゃいますね』くらいの軽い聞き方なら、私は何も言わなかったと思うんだが」 「はい?」 「なんか今の言い方はガチっぽくて嫌だ」 「ガチっぽく……」  胸の「握り」の力が弱まっていった。というより全然切なくはなくなった。 「ええと君、本当にそっちのケはないよな?」 「ありません」 「ありませんが、先にベッドへ入ってきて、私の身体に触れたり、頬を撫でたりしたのはルナ様です」 「朝日が反抗的なことを言っている……! やはり過労のあまり、心が病んでしまっていたのか」 「ルナ様から嬉しい言葉を幾つもいただいたので……」 「あーわかった。疑った私が悪かった。今日は許す。朝日がそうしたいなら抱きしめていい」 「はい」  その小さな肩を抱きしめた。緊張も抵抗もない。自然と僕の両腕の中へ包まれてくれた。 「朝日」 「はい」 「製作のことだが、12月までまだまだ時間はある。君のお陰で何日分も早く進んだんだ」 「今日の件もあるし、しばらくは体調をよく考慮して作業すること」 「はい。ご心配をお掛けしました」 「謝られるよりお礼がいいな」 「はい。私を引きたててくれて、ありがとうございます」 「君こそ私のもとへ来てくれてありがとう」 「はい」  時計を見たら授業は四時間目に入っていた。本来なら僕は諫めなければいけない立場だけど、そんなことも忘れて残り一時間を抱きしめ続けた。 「サーシャさん」 「ん、なに? どうしたの、親からはぐれた仔羊みたいな顔して」 「いえあの……医務室まで運んでいただいたそうで、ありがとうございました……ご面倒をお掛けしました」 「いいんだよ? 朝の時点で、自己責任だからといって突き放しちゃった責任も感じてるしね」 「いえそれは、当然のことなので……それで、その」  なんて聞けばいいんだろう。とりあえずお礼も言わなくちゃいけなかったし、捕まえて話しはしたものの「診察のときに僕の体見ましたか?」なんて自爆めいたことは聞けない。 「え、ええと……」 「ハハ、意地悪はよくないかな。うん、わかってるよ。だってホラ、僕は肉体的に男だから」 「それってやっぱり……その」 「というより最初からわかってたよ。よく出来ているとは思うけどね。僕からすれば、まだまだ甘いよん」 「はい……それで黙っていてくれたのは、あの」 「ああ、全然悪いことは考えてないよ。僕は気持ちがわかる立場の人間だからね? 君がどこまでそのままでいられるか、全面的に味方してあげたいと思ってんの」 「ありがとうございます」  そっか……それで色々と便宜を計ってくれたんだ。もしかして僕が気付いてなかっただけで、今までも陰に応援はしてくれてたのかな。  湊の他にも味方がいたんだ……それも見返りを求めない、無償の人が。本当にありがとうございます。  だけどごめんなさい。唯一違う点といえば、サーシャさんは進んでやっている側ですが、僕は卒業したら二度と女装はしないと思います。 「それにしても、可愛い顔した朝日さんが、まさか想像以上に大きな――」 「ううん、なんでもない。いいよ、私は全て知らなかったことにするんだ」 「なにを見たんですか!?」 「それとは全く関係ないんだけど、乳首は顔の見た目通りとてもかわいかったよ」 「…………!」  べっ、別に、男同士で胸を見られたくらいで恥ずかしがる必要ないし。必要ない……んだけど、何故か胸を腕で覆ってしまった時点で、自らの尊厳を恥じるべきだと思った。  あ、でもサーシャさんは法的に異性だから恥ずかしがっても問題ない。よかった。 「え、なんですか? 朝日がかわいかったと聞こえましたが、一体なにが?」 「最近の瑞穂は、朝日が製作で忙しいせいか、どこかがおかしくなっていますわね……朝日、うちの使用人が迷惑を掛けていたら、お詫びいたしますわ」 「い、いえ、迷惑どころか助けていただいたので、お礼を言っていたところです」 「よかった……朝日が無事で、本当によかった」  教室へ戻ったとき、湊も心配そうに何度も声を掛けてくれた。彼女にも感謝しなくちゃいけない。 「あ、講義のノートはとってあるから。二人とも写していいよ」 「助かる。この礼は返すから、私で助けられることがあればいつでも言ってほしい」 「てか私、いっつもルナや朝日に教えてもらってばかりだけどねー!」 「あ、それと授業以外のことも伝えておいた方が良いのでは? 二人が戻ってくる前に、軽く教室のみんなで多数決を採って」 「多数決?」 「そう。文化祭の出し物を何にするか」  ルナ様の眉毛がぴくりと上がった。興味がないとはいえ、参加させられる以上、自分にも何らかの役目が回ってくると思ったんだろう。 「あまり低俗な内容だと困るが、私が反対すると影響力が出てしまうことは自覚しているからな。いいだろう、どんな出し物でも受けいれよう」 「わ、よかった。きっとルナが嫌がると思って、二人が戻ってくる前に決を採りましょうと私が提案したんだ」 「ちょっと待て、おかしいだろう。今の時点で私が嫌がることだと決定してるじゃないか。どういうことだ、今すぐ山吹教諭を呼べ」 「山吹先生、関与してないよ。文化祭実行委員が話を進めたから」 「私たちのクラスは猫耳喫茶をやることに決定したから」 「反対だ……」 「授業を休んだのに、我儘言っちゃいけません」  ルナ様と言えど、あまりにさぼりが明らかだったため反論ができなかった。僕たちのクラスはみんなで猫耳を付けてお客様をお迎えする「猫耳喫茶」で決定らしい。 「前の学校ではね、自主製作の映画やったよ。ビデオカメラ使ってのおままごとみたいなやつなんだけど、まあ撮ってる私たちは意外と真剣にやってるわけだよ。これで映画界に旋風巻きおこしちゃうぜ! 的な」 「ヒロイン役の湊お嬢様は本当にお素敵でした……それはもう、涎が出るほどに……そして涎を垂らしていた男子たちを殺したくなるほどに……!」 「逆に二年のときは超適当。占い屋やったんだけど、占いなんか誰もできねーよって。当たり前なんだけど、準備してるうちに『え、一応形だけは整えた方がよくね?』って話になって急遽手相とか調べはじめたり」 「日本の学校のお祭りは色々なことをしますわね。スイスの学校にも似た行事はありますけど、模擬店なんてものは行いませんでしたわ」 「まあ総じて思い出にならなかった文化祭はなかった! あの始まる前まで『真剣にやるのかっこ悪くね?』的な空気から、徐々に『てかやらない方がかっこ悪いでしょ?』的な空気に変わるのがね。うん青春してた」 「青春……!」  あ、瑞穂様の肩が震えてる。友情に飢えてる彼女の前で「青春」なんて、心が熱くなる友情キーワードは危険すぎたかもしれない。 「湊、私も青春したい……! 私もクラスのみんなと一緒に、放課後に日が沈むまで作業して差し入れを渡したり……方向性の違いで喧嘩したり、その後で手を握りあって仲直りしたい」 「まあ私たちがやるのは喫茶店だし、準備はメイドたちに任せちゃったし、机や食器もお金の力で解決しちゃったから、そんなにやることなく今日の前日まできちゃったんだけどね!」 「ああ……みんなで協力したかったのに……」  最初こそ「服飾生だから自分たちで衣装を作ろう!」みたいな話もあったみたいだけど、調度品が高級すぎて自分たちの作った衣装だと浮くんじゃない? 的な発想から、結局は既製品でいいかという結論に達した。 「ま、関係者の皆様も来るのでしたら、学校行事とはいえ無様な喫茶店にはできませんから、私たちのレベルに相応しい調度品で揃えるのも仕方ありませんでしたわ」 「私が用意した『スマイセン』の食器は皆さんのお気に召したようで嬉しかったですわ、オーッホッホッホ!」 「和風喫茶なら私の家からも良い茶碗を用意したのですけど、披露できなくて残念です」 「でも一般入学の子たちも来るみたいだし、一点しかないものを用意して割れちゃったりしたら大変だよ?」 「ですの!?」 「その可能性は考慮されていなかったのですか?」 「あれ? もしかして特注品とかあった? だったら使うのやめた方がいいよ?」  だけど貴族のプライドにかけて、一度用意したものを引っこめるわけにはいかないんだろう(明日だし)。ユルシュール様の顔は複雑な表情のまま固まっていた。 「あーでも一般生の子たちも来るのかあ。普段はあんまり接点ないけど、せっかくだから私もそっちの模擬店に行ったりもしたいなあ」 「はい、とても楽しそうですね」 「不逞の輩が近付いた場合は実力行使も厭いませんので、男子のいる場所での単独行動はお控えください」 「お、お手柔らかにね?」  明日の文化祭を前に、三人とその従者たちは楽しそうに期待を高めていた。  でもその声が明るくなり、音量も上がっていくと気になるのが、一切口を挟まないルナ様だ。  いつかは話が途切れるのはわかってたけど、それまでに心の準備をしておきたいなあ。  と思っていたら案の定、三人が一息ついたところを狙いすましたかのように、ルナ様が手にしていたカップを音を立てながらソーサーへ置いた。 「話が盛りあがっているようだが、私は先に部屋へ戻らせてもらう。これで失礼する」  それまで笑顔を浮かべながら黙っていたけど、とうとう我慢の限界に達したみたいだ。ゆっくりと席を立ちあがった。 「あ……うん、おやすみ。明日は楽しもうね!」 「ルナの用意した『ロイヤルハゲ』の食器も素敵でしたわよ。ごきげんよう」 「おやすみなさい、ルナ。今週は縫製をあまり手伝えなくてごめんね」 「気にするな」とでも声を掛けそうな場面だけど、ルナ様は「おやすみ」とだけ言いのこしてリビングから出ていった。  つまり内心では「文化祭もいいが、少しは衣装製作のことも気にしろ」と思ってるのがひしひし伝わってきた。ルナ様にとって文化祭は遊び、メインはあくまで十二月のショーだ。 「朝日、そんな申し訳なさそうな顔をしなくても良いですわよ。ルナのことなら、私たちの会話に水を差さないよう、あの子が珍しく我慢しているのが伝わってきましたから」 「ええ。以前なら、たとえ明日が文化祭でも『朝日一人にやらせてないで君たちも製作を手伝え』とはっきり言っているところだから」 「たーはは、ルナのことを気にせず盛りあがっちゃったこっちも、申し訳ねーですーって気持ちになるしね」 「い、いえそれは。前日なのです、明日を楽しみにして話をするのは当然のことです」 「ま、でも、あの子の尊大でひねくれた性格を知っているのですから、挑発していると受けとられてもおかしくない空気ではありましたわよね。そう思うと、あの子は随分丸くなりましたわ」 「朝日の影響が大きいと思う。クラスの手伝いをしつつも、朝日は製作も続けていたから。ルナも文化祭中は製作を休んでいいと言っていたのに」 「それでも私たちに腹を立てていたのは、朝日だけが続けていたから、少しは手伝って欲しいと思っていたのですわね」 「ま、こちらはこちらで忙しいのですから朝日のようにはできませんけど、あの子が気にするのも仕方ありませんわ」 「はい……ルナ様は、お優しいです」  特に最近はそう感じる。今だって、以前なら文化祭の話になった時点ですぐに部屋へ引きあげそうなところを、笑顔を絶やさずにみんなの会話を聞いていた、というだけでも変わられた。  瑞穂様の言うとおり、そこに僕の影響が少しでもあるのだとすれば、自分という人間がルナ様に認められている証拠であって、とても嬉しい。 「もう少し……その優しさが、周りに伝わりやすいと良いのですが」  口にしてからはっとした。主人の性格を批判するなんて、従者として大問題だ。  でも一度発した言葉は取りかえしがつかないし、お嬢様方も同じことを思っていた空気だ。 「あの話し方に助けられた部分も沢山あるけどね。実際、こっちが言いにくいことでもズバズバ言うし。ルナは両親と別に自分の力で成功してる子だから、偉そうっていうより立場的に偉いし」 「ですわね。今ではあの喋り方が接する側としてもスタンダードになってしまいましたわよ。ただ、人をからかうのだけはやめていただきたいですわ」 「あれは大半の場合、ユーシェの方が仕掛けるから……」 「ただ、勿体ないとはいつも思う。せっかく内心が優しくても、あのキツさだと初対面では反感をもたれてしまうから。私たちは事情を知ってるから気にせずにいられるけど」 「事情……」  気付いたようにその単語を繰りかえしたら、周りの目がみんな一様に丸くなっていた。 「朝日は何も聞いてませんの? あの子が誰に対しても攻撃的になってしまった理由ですわ」 「はい。尋ねたこともありませんでした」  入った頃は、ただの変わった人だと思ってた。いま考えるとそれも酷いけど。  でも接していく内に、どうしてだろうと思うことは多々あった。  だけど僕は卒業してもルナ様の側にいられると決まったわけじゃない。だから気になることはあっても、彼女と仲良くできるなら、知らないままでもいいと思っていた。 「気になるなら本人に聞いてみれば? 先月だったかな、朝日になら話してもいいって本人が言っていたから」 「私に? ですか?」 「うん」 「私が聞いても良い話なのでしょうか?」 「駄目なら駄目ってルナは言うよ。私も仲良くなってから、割とすぐに聞いたし」 「そうですか……わかりました。話の流れで自然に聞けそうな機会があれば尋ねてみます」 「うんうん、それがいいよ!」  もしそれを知ったら、今よりももっとルナ様を知ることができるのかな。  お嬢様方と別れて部屋へ戻っても、ルナ様のことが気になっていた。  正直に言えば、彼女をいま以上知ることに戸惑いを覚える。  半年間で、出会った頃には想像もできないほど、ルナ様との関係は深くなった。  だけど僕は、卒業してからもルナ様の側にいられるかは不安定な状態であって……もしかしたら手酷く拒否されるかもしれない立場だ。  この性別のことを僕はまだ隠してる。  今はこの業界で生きていくことに希望を持った。その技術を高めようと新しい目標もできた。  だけどそれを身に付けたとしても、ルナ様の側にいられるかは、まだわからないんだ。  ……けど、それを考えても、ルナ様のことを知りたいと思う気持ちは収まらなかった。  それなら細かいことも大切なことも後回しにして、いま思うことを尋ねてみよう。  明日の文化祭が終われば、そんな話をできる時間もあるのかな。あるといいなあ。 「くだらない……」  教室の隅。同級生たちに聞こえないよう気を使いつつ、ルナ様は僕だけを聞き役にぼやき始めた。 「これが服飾に携わる生徒のすることか。喫茶店の衣装が自作というならまだ頷けるが」 「まあまあ。時間もありませんでしたし」 「ただのおままごとじゃないか」 「おままごとは、仲間意識を高め、協調性を計るのには適していると思います」 「悪かったな、協調性が不足していて。私はおままごとなんてしたことないんだ」 「子どもの頃から私が側にいればよかったのですが」 「…………」  あれ? 否定されない?  もしかして僕とおままごとをしてみたかったと思ってくれたんだろうか。今度ふたりきりのときに、駄目元でお誘いしてみようかな。 「まあ文化祭の意義には納得した。というよりも、私がくだらないと言ったのはそこじゃない」 「なんだ猫耳って。意味がわからない。私が喫茶店に入ったとして、それを頭に付けた人間が給仕に来たら、猫耳引っぺがして床に叩きつけるぞ」 「頭の上へ着けているのに、ルナ様の手が届くでしょうか?」  睨まれた。今のは僕が悪かったと思う。 「なるほど、何故猫耳なのか少しだけ趣旨がわかった。朝日が恥ずかしがるなら、君の頭に猫耳を着けるのも面白いな。つまり恥ずかしがる女性を見て楽しむ喫茶店ということだな。風俗じゃないか」 「いえ、お客様はかわいいアイテムを身に付けたかわいい女の子であって、決して嗜虐趣味や羞恥プレイ目的で訪れるのではありません」 「というよりも自分たちが好んでやってる以上、羞恥プレイの体をなしません」 「朝日はそんなものを着けて人前に出ることになったら、恥ずかしいと思わないのか」  はい。猫耳以上に恥ずかしい女装をすでにしているので。 「ルナ様にやれと命じられれば、全く気になりません。ためしに着けてみましょうか?」  支給されて手にしていた猫耳を頭の上へのせてみる。ルナ様はふうんと言った程度で、特に反応を示さなかった。 「私はそんな格好をさせられることになったら絶対に嫌だ。朝日も外せ、みっともない」 「外しちゃうの!?」  遠くから温かい目で見守っていた瑞穂様がすっ飛んできた。僕は猫耳を外しながら、申し訳ありませんと謝った。 「ああもったいない……朝日にかわいいアイテムなんて、すごく相性が良くて素敵だったのに……アイドルみたいで」 「そうか。じゃあ朝日を好きなだけ使っていいから、私は見逃してくれ。いつの間に決まったのか知らないが、私のホール担当の時間を朝日に変えて、朝日のキッチン担当の時間を私に変えてほしい」 「こりゃー、ルナにも協力してもらわないと困るよ! みんなも自由行動の時間は欲しいんだから。ちゃんと自分の当番は守ってね、はい猫耳」  ルナ様は差しだされた猫耳を手に取ると、そのまま僕に渡してきた。仕方ないので着けておいた。 「わあ、かわいい」 「うぅ、かわいいけど心情的に納得いかない……てか朝日にも手伝ってもらうけどルナも。はい着けて」 「嫌だ。私は裏方に回る。私の使用人と役割を変えるなら、なんの問題もないはずだ。大体、私に接客業が向いてないことは君たちもよく知っているだろう。朝日が適任だ」 「オホホホホ、クラス全員で決めたことも守れないなんて、ルナは子どもですわね」 「集まってくるな。どうして次から次へとこっちに来る。開店の準備をもっと真剣に進めたらどうだ」 「何もせずに朝日と話していたルナから言われたくありませんわ」 「うるさい。ユーシェのくせにまっとうなことを言うなんて生意気だ」 「それとクラスの一員である以上、普段の立場は忘れて自分の役割を果たしてもらわなくては困りますわよ」 「正論だ」 「いーやーだ! 私は猫耳など着けたくない!」 「こっちはただの我儘だ!」 「わかった、君たちがそこまで言うなら、自分の責務は果たそう。ただ、余計な装飾は着けたくない。普通にエプロン着けてウェイトレスをするのではいけないのか?」 「駄目。はい、着けて」 「面白そうですわ、私が着けてあげますわ」 「ここまで嫌がってるなら許してくれてもいいじゃないか。君たちはいつから嗜虐趣味に目覚めたんだ……っと」  猫耳を手ににじり寄るユルシュール様から逃れようとしたルナ様だけど、じりじりと横に移動した数歩目で湊の両手に捕まった。 「なっ!?」  がっちりと肩を押さえつけられたルナ様は身動きをとることすらできない。湊すごい。さすが昔、僕相手に関節技の練習をしただけのことはある。体のどこを押さえれば人が動けなくなるかわかってる。 「湊、なにをしている? これは立派な暴力行為だぞ?」 「ううん、ルールを守らないルナにお腹とかをくくってもらうためだよ」 「そうそう、一度着けてしまえば、後はどうでもよくなるはず。さ、いま見ているのは私たちしかいないから。覚悟を決めて?」 「やっ、やめろ、朝日助けて! あ、あ――っ!」 「ルナ様……申し訳ありません」  僕は僕で北斗さんに腕を拘束されていた。とんでもない怪力でホールドしながら「申し訳ありません」と優しく囁く北斗さんの声には、もし僕が心から女性なら惚れてしまうだろうなと思える色気があった。 「あら、普通に似合いますわ」 「ほんとだ。普通にかわいい」 「これだけかわいければお客さんが来ても大丈夫。もう怖くないでしょう?」 「……〜〜〜っ!!」  頭に猫耳を装着されたルナ様は、涙目になり、歯を食いしばりながら羞恥プレイに耐えていた。 「君たちは……こんな精神的リンチのような真似をして楽しいのか……」 「クラスの全員が同じことをするのに、会議へ出席もしなかったルナだけが拒否できると思っているんですの?」  言いかえす余地がないほど正論だった。  だけどユルシュール様に言い負かされることをルナ様が良しとするはずもなく、余計にぎりりと歯を食いしばらせることになった。 「まあルナ様も猫耳を? 大変素敵でございます、江里口金属でございます」 「本当、これほど愛らしいお姿を目にできるなんて、この上ない眼福でございます。成松重工でございます」 「桜小路さん、成富ホールディングスのケメ子よ。今日の貴女は素敵ね」 「てかさー、この手のかわいい系アイテムが肌とか髪の色に本気で映える気だよね。もう一日ホール出てもらった方がいんじゃね?」  しかもありがたいことに皆様が誉めてくれるので、ああ、ルナ様の顔の赤さがとんでもないことに。 「朝日は?」 「は?」 「朝日の感想は? 今のルナを見てどう思う?」  即座にルナ様の視線の刃が僕の喉元へ突きつけられた。そのお気持ちを察するに「余計なことを言ったらギロチン」。  でも、だからと言って嘘は言えないし、ルナ様の容姿を否定するなんてできないし。 「自分の主人を愛でてしまいたいと考えるほど、かわいらしいと思います」  その一言は当然余計だった。 「あっ」 「さぁあああひいいいいいいぃ!!!」  どうしよう、超怖い。ルナ様、大変怒っていらっしゃる。  だけど動けない。湊が押さえてるから動けない。圧倒的な腕力の差。 「……ッ!」 「…………」 「湊。手を離してくれたら、今夜『たれや』のバームクーヘンをごちそうする」 「あい」  そんな酷い。湊はものに釣られて、あっさり手を離した。頭の猫耳を外したルナ様が、僕に向かってまっすぐ歩いてくる。  かわいいって言ったのは僕だけじゃないのに、何故。 「朝日」 「はい」 「これを渡しておこう。ホール担当になったときは使うといい」  猫耳を手渡された。その指先まで赤く染まっていた。それを見た僕はとりあえず頭を下げた。 「も、申し訳ありません」 「謝る必要はない。私はこんな場所で君を叱ったりするほど弁えない人間ではないつもりだ」  あれ? 怒られない?  許しを得ずに顔を上げると、その目はまだ微かに潤んでいた。 「そう。人前では過激になりそうだから、ここでは叱らない」 「それと許すつもりも全くない。続きは屋敷へ戻ってからだ」 「ルナ様、お許しください」 「嫌だ。私が味わった以上の羞恥を与える。たっぷりかわいがってやる。そこの君たちすまない、道を開けて欲しい」  ルナ様に声を掛けられ、このプチ騒ぎを見るため輪を作っていた生徒たちの一部が囲みを解いた。 「ルナ様、素敵でした。江里口金属でございます」 「ルナ様、可憐でございます。成松重工でございます」 「ありがとう、感謝する、とても嬉しい」  掛けられた声に一つ一つ応え、ルナ様は教室の出口まで辿りついた。ドアを開いて廊下へ出る直前、半身分だけ振りかえった彼女は、僕だけを見てにたりと笑う。  意味するところはおそらく「いま同級生に掛けられた言葉の数だけの屈辱を君に返す」。  ああ……今夜は衣装製作ができそうもないなあ。一体なにをさせられるんだろう。コスプレ程度で済めばいいけど。 「ルナ様から『かわいがってやる』なんて……もしかしてあのメイド、ルナ様と親密な関係?」 「素敵……ルナ様とあの愛らしいメイドなら、私、女同士でも許せるわ。ううん、むしろ美しい」 「ケメ子よ。私を差しおいてルナ様の愛を独り占めするなんて……あのメイド、やるわね」  僕とルナ様の関係を誤解した、おかしな声まで聞こえてきた。  そんな可愛らしい関係では、ないです。顔面ケーキくらいは覚悟しておかないと……。  ところが、思っていた以上に事態は深刻になってきた。  開店時刻になってもルナ様が戻ってこない。一応みんな事情は知ってるだろうけど、仕事をしない理由が恥ずかしいからでは、いくらなんでも印象が悪くなりそうだ。 「小倉さん、お嬢さ……桜小路さんは?」 「それが、十数分前に教室を出ていったのですが、まだお戻りになられず……」 「ちょっとからかいすぎたかな?」  湊も反省顔だ。僕とルナ様の担当まではまだ時間があるけど電話してみよう。まさか屋敷、それも電波の通じないアトリエには戻ってないと思いたいけど。 「あの、一度ルナ様を探しに行ってきます」  八千代さんと湊に言いのこして廊下へ向かった。心当たりは全くないし、この学院は広すぎるから、電話が通じないと探しようがないのも確かなんだけど、動かないわけにもいかない。  学院内で迷子のお知らせなんてしたら、ルナ様はそれこそ屋敷へ戻っちゃうだろうなあ……先にメールで「学院内放送しちゃいますよ?」って脅しちゃうのもアリかな?  いやでもそんな脅迫めいたことしたら「君の首に懸賞金をかけたことを学院内放送するぞ?」と逆脅迫されても仕方ないな。うん、ルナ様の行きそうな場所を地道に探そう。  それにしても、来客が増えたから廊下も歩きにくい……あれ、あの女性客、僕を見てる? 「あの」 「はい?」  こっちを見てると思ったら声まで掛けられた。  え、もしかして、以前に会ったことあるのかも? でも女装を始めてからに限定すると、半年しか経ってないわけだし、一度でも話したことがあれば思いだせそうだ。  すぐに忘れそうな外見ってわけでもないし……ぱっと見は30代半ばってとこかな? それと教養もありそうだ。落ちついた表情に加えて、声の出し方が上品で、柔らかい。 「なんでしょう?」 「この教室に桜小路さんという方がいると思うのですけど」  あ、良かった。どうも僕とは初対面ぽい。一応、注意は払いつつ。 「ルナ様に何かご用件でしょうか?」 「ルナ様? あなたは……?」 「はい。私はルナ様付きのメイドで、小倉朝日と言います」 「ルナ様付きって……え、あなたが? ああそう、今はあなたが……それじゃあの子を呼んできてくれる?」  ん?  敬語が消えた……というよりも、やんわりと命令形? その上、ルナ様をあの子呼ばわり?  ルナ様と知りあいみたいだけど、もしかして桜小路家の関係者? まさか親類とか……。  それか、全く逆に知りあいを装って、プライベートの場でルナ様に取り入りたいという類の人かもしれない。どっちにしても少し厄介そうだ。 「ルナ様はお忙しい身なもので、私でよければご用件を承りますが」 「お付きじゃ駄目なの。あの子を呼んできて」 「取次も私の役目ですので。お名前とご用件の概要だけでもお伺いしてよろしいでしょうか」 「丸目と言えばあの子にはわかると思う。教室にいるの?」 「あ、お待ちください。いまは教室におりません」  おっとりとしてはいるけど、やや強引な人だ。いないと言っても、この場から離れようとしないし……。  あ、そうだ。ルナ様と縁のある人なら、八千代さんが知ってるはずだ。仲の良い人なら教室の中で待っててもらってもいいし、面倒なひとなら僕に合図してくれるだろう。 「ただいま確認してまいります。少々お待ちください」  女性は少し安堵したように見えた。だけどすぐに取り次ごうとしない僕の態度に、苛立ちを覚えはじめたようにも感じる。  この人が桜小路本家のひとだったりして、後から怒られないといいなあ。  すでに教室の中はお客さんでいっぱいだ。それなりの家に生まれたお嬢様たちが奉仕してくれる、というのが男性たちの心を掴んだんじゃないだろうか。  瑞穂様だけはキッチンから出てこないけど、こちらはルナ様と違い「男性嫌い」という真っ当な理由があるから北斗さんがホールを務めることで許されてるみたいだ。  とと、八千代さんを探さないと。 「小倉さん、桜小路さんは見つかりましたか?」 「あ、いえ。ルナ様に会いたいという方から話しかけられて、まだ電話での連絡もしていません。どうもルナ様のお知り合いのようなのですが、私には心当たりがなく……山吹先生なら知っているかと思いまして」 「本来なら私が対処しなければいけないのですが、ルナ様を探すことも後回しにできず、ご協力いただけないかと相談にきました」 「はあ、そうですか。なんという方ですか?」 「『丸目』と名乗っていました。珍しい名字なので、本当にルナ様の知りあいなら山吹先生に心当たりがあるのではと」 「丸目……」  八千代さんは伝えた名字を口の中で繰りかえしたあと、思案する風に首を傾げた。 「丸目……!?」  そして数秒で何かに思い当たったのか、大きな目を開けて驚いた。  その動揺した様子は、周りの興味を引きそうなほどだ。慌てて辺りを窺う素振りを見せ、八千代さんに「目立っちゃいますよ」とアピールをする。  だけど八千代さんの勢いは止まらなかった。まるで僕がその人であるかのように、鋭い目付きを向けてくる。 「小倉さん、外見はどのような人でしたか?」 「えっ、と……30代半ばくらいの、おっとりした……あ、眼鏡を掛けていました。綺麗な顔立ちで、身長は私と同じ程度でしょうか」 「間違いありません。今すぐ追いかえしてください」 「えっ?」 「その人は、お嬢様にとって害でしかありません。すぐに廊下から……いえ、この学院から追いだしてください」  学院なのにお嬢様呼び? ときどき言い間違えることはあるけど、今の八千代さんの意識は完全にルナ様付きのメイドだ。 「追いだして、よろしいのですか?」 「お嬢様に二度と会わせたくありません。すぐそこにいるんですよね? お嬢様が教室へ戻ってきたら鉢合わせてしまいます。早く行きなさい!」 「は、はい!」  最後の方は反論を許さない口調で言いつけられた。慌てて廊下へ引きかえす。  が、お待ちくださいと伝えたにも関わらず、件の彼女は教室へ入ってきた。焦っているのか、目の動きが常に忙しない。  その目が僕の姿を捉えてようやく動きを止めた……と思ったら、その先にいる八千代さんを見て、完全に固定された。 「八千代……!? あなた、どうしてここに? ルナの付き人は、その子のはずじゃ……」 「出ていきなさい。ここはあなたの来る場所ではありません」  八千代さんは僕を押しのけ、食ってかかるように相手を威圧する。大した迫力ではあった。  だけど相手は色々な事態に備えていたのか、普通なら引さがりそうなところを待ってましたとばかりに睨みかえす。 「八千代! 私からの電話を取りつがないようにしたのはあなたの指示でしょう? どういうつもりなの!」 「どういうつもりも何も、自分がしたことをお忘れですか? あなたこそ、どういう神経をしていれば、ルナ様のもとへ現れたりできるんですか?」 「だからって話もさせないなんて何様のつもり? あーあ、桜小路ルナ様のメイド長になったからって、随分と偉くなったじゃない、あなたも!」 「何をっ……」 「せ、先生どうしたんですか?」 「先生? あなた、ここで講師なんてやってるの? ふぅ〜ん、そんな人が外部のお客様を追いかえしたりしたら駄目じゃない」 「くっ……誰が客だと……」 「こ、ここは教室です。それも文化祭中の……言い争ってはいけません」  相手のゴネ得だ。場所が悪い、それと立場が悪い。ここはルナ様の通う学院の教室で、僕たちが騒ぎを起こせば恥をかくのは桜小路家だ。  しかも八千代さんが講師であることまでバレてしまった。生徒の父兄がいるかもしれない、この教室で口論を続けるのは圧倒的に不利だ。  相手はそれがわかっていて、わざと大きな声で騒いでいるんだ。クレーマーの常套手段と言っていい。 「……あなたが誰からチケットを入手したか調査します。もし金銭などで不正に手に入れていた場合、私は関係者としてあなたを追いだすことができます」  普段の八千代さんなら、相手にせず、今みたいに淡々と処理したかもしれない。  だけど、きっと、警備員がここへ来る僅かな時間さえも待てず、すぐに教室から追いだそうと感情的になる理由が八千代さんにはあったんだ。  その回避しようとした事態。事情はわからないけど、恐らく彼女の危惧していただろうことは、ルナ様が戻ってきた時点で現実となってしまった。 「何の騒ぎだ? 八千代……?」  八千代さんは焦って一歩踏みだそうとした。だけど、どう急いでも、入り口に立っていた招かれざる客の方がルナ様に距離が近い。 「ルナ様、お久しぶりです! 丸目でございます、その節は大変失礼いたしました。どうか、もう一度だけ、私の話を聞いてください」 「あなたは……」  ルナ様の視線が、自らに頭を下げる女性から外れて、教室内を一周した。僕にも、八千代さんにも、給仕を務めていた湊やユルシュール様の顔もその目に写していく。  聡いルナ様はそれだけで状況を把握したのか、元の位置に視線を定めて、優しい声を女性に掛けた。 「話をしても構わないが、私にも都合がある。込みいった話なら場所も変えた方がいいだろう。廊下に出て待っていてくれ」 「いえ、どうかご一緒にいさせてください。もう片時もルナ様の下を離れたくありません。お慈悲を……」  それが、話をさせてもらえないまま追いだされることを恐れているのは、誰の目にも明らかだった。  彼女はそれほどまで必死になって、ルナ様に縋りつかなくてはならない事情があるんだ。その様を八千代さんは憎々しげに見つめている。 「どうか、どうか……」 「私の誇りにかけて約束は守る。ただ、どうしても心配だと言うのなら……朝日」 「はい?」 「そのブレスを数分だけ返してほしい」 「ブレス……あ」 「悪い。しばらくでいい。君にあげた大切なものだから、私の約束の証として使いたい」 「はい、ルナ様の仰せなら。少々お待ちください」  僕の手で外したブレスを受けとったルナ様は、自分に縋る女性にそのアクセサリーを渡した。 「これは……?」 「あれは……」 「先日までは、さほど大切にしていたわけでもなかったが……」 「今は私の大切なものだ。それを持っている限り、私が会話を拒否するどころか、あなたが逃げようとこちらから取りかえしに追いかける」 「約束の手形としては充分だろう。廊下で待っているように」  それまでは丁寧に話していたものの、これ以上は譲歩しないと言った体で、ルナ様は厳しく言いつけた。  立場が弱いと思われる女性は従うしかなかった。ルナ様の手形を片手で握り、渋々と廊下へ向かう。  その去り際まで、八千代さんは不快感を隠そうともしない目で彼女のことを睨んでいた。 「さて。それでは――」  ルナ様は教室の中を見渡し、ホールを務めていた生徒の頭にある猫耳をしばらく見つめた。  だけどやはり抵抗があったみたいだ。それは諦めて、教室内の全員に声が届く中央のあたりへ移動した。 「お騒がせしてごめんニャ」  ニャ?  お客様だけでなく、同級生たちも、みんな頭に疑問符を浮かべていた。ルナ様が、ニャ? 「お客様にはご迷惑をお掛けしました。いま起きた些細なやり取りは忘れて、どうか我がクラスの模擬店を楽しんでいっていただきたい」 「さあみんなも。お客様の紅茶が冷めてしまった。お代は全て私が持つから、温かく淹れなおしたものをお客様に差しあげてくれ」  そのルナ様の声で、呆けていたホール担当の生徒たちが目を覚ました。  さらにルナ様は一人一人の居場所を回り「すまなかった」「あとでまた詫びる」と声を掛けつつ、次の行動をてきぱきと指揮し始めた。  教室内で、資産のヒエラルキーの頂点に立つルナ様だからできる力技の回復術。僕たちの喫茶店は、すぐ賑わいを取りもどした。 「さて、あらかた指示は終えたか。後は……」  次は自ら出向かず、今は担任である自分のメイド長と同居する三人を手招きした。それと、僕のことも。 「あれだけ場の空気を重くしてなんだが、今から少し単独行動をとる時間が欲しい。この借りは必ず返す、私の担当を代わってもらえないか。クラスのみんなにも、後から充分に謝罪する」 「仕事を変わるくらいなら構いませんわ……でも」 「ルナ様、一人であの女と話をされるおつもりですか?」  何かを言いかけたユルシュール様を遮って、八千代さんがルナ様に尋ねた。今日の八千代さんは本当にアグレッシブだ。 「賛成できません」 「では保護者同伴で行けとでも? 山吹教諭、あなたが付いてくるつもりか?」  完全にルナ様の使用人へと戻った八千代さんと、あくまで学院内での立場を貫くルナ様。この場合では、どちらの意見に分があるかは明白だった。 「気持ちはありがたいが、自分の役目を忘れているんじゃないか。君はこのクラスの担任だろう、私だけに構うべきじゃない」 「では担任として、持ち場を離れることを許しませんと言ったら?」 「もう相手と約束をしてしまった。欠席扱いでも成績を減点するでも、それ以上の罰則でも受けいれる。退学とまで言われると困るが」 「…………」  八千代さんは力なく項垂れる。自分の主人がスマートな言い訳を使わずに、不器用に覚悟を晒してくれている。ここで言うことを聞いてくれるとは思わなかったんだろう。  だけど何かに気付いた途端、力を取りもどした目で僕を見た。 「私が駄目なら、小倉さんを連れていってください」 「えっ」 「小倉さんなら、ルナ様が側にいて安心できるはずです」 「朝日か……そうだな、朝日は私に優しい。側にいてくれたら心強いと思う」  もちろんルナ様に優しくします……と言おうとしたけど、僕以上に優しい彼女の紅い瞳に声を一瞬出せなかった。 「でも私は、自分のことをなんと言われても構わないつもりだが、朝日のことを傷付けられたら冷静でいられないかもしれない」 「あ……」 「弱味を作りたくないんだ」  えっ、弱味?  件の女性に声を掛けられてから、これまでどこか他人事のように聞いていたけど、今のルナ様の言葉に初めて当事者であることを自覚した。  僕が、ルナ様の弱味……? 「それに、彼女がここにいるのを見たときから、一人で話をするつもりでいたんだ。これは私の問題だ。けじめは自分でつけるつもりだ」 「では私たちの力もいらないということですの?」 「何を言ってるんだ。私が猫耳を着けずに済んだのは、君たちが私のホール担当を代わってくれているからだ。感謝してる」  軽いジョークを言えるだけの余裕を見せて、ルナ様は小さく微笑んだ。 「いってくる」  僕たちは、戦地へ赴くように颯爽としたルナ様を黙って見送った。  その中でも一際暗かったのは僕だと思う。だって、僕はルナ様のためなら、何を言われても耐えるつもりはあるのに。ルナ様が一人で行くことを決意していたのもあって、言いだせなかった。  ルナ様に連れていってもらえなかった。そのことに、自分が思っていた以上のダメージを受けているのにも驚いた。 「はは、江里口さんも東京ゲイーズコレクション行ったんだ? 僕に言ってくれればゆっくり見られるスタッフ席を用意したのに。あ、VIP席? なんだ、僕も誘ってくれれば良かったのに」 「成松さん、久しぶりだね。父親の口利きでね、それでも二浪したけど僕も来年から医大生だよ。君も困ったら僕の病院に……んん? 九州は遠い? そう言わずに寂しいから遊びに来てよ」 「フゥー、全くレベルの高いクラスだな。服飾生なら見た目にこだわるかわいい子が多いはず、っていう僕の狙いは間違ってなかったみたいだ。しかも全員が有名企業の子女。最高だな、このクラス。フゥワァ〜!」 「おっと、あれはまた、とびきりかわいい子猫ちゃんがいたものだ。そこの君、注文をいいかな?」 「はい」 「コーヒーと……それとできれば君を一日注文したいな」 「コーヒーに弱味はお付けいたしますか」 「は?」 「コーヒーに弱味と弱音はお付けいたしますか。それと私は役立たずなのでプライスレスです」 「そう……あ、いいです。どんなにかわいくても、日本語通じない人はちょっと」  なるほど、声を掛けられた場合に、一本ぶっ飛んじゃってる人の真似はありかも。  ただ、それを抜きにしてもショックは大きい……ふう。最近はルナ様からかなり信頼をされてるだなんて、自惚れたりもしてたから。 「てかあれだよ? 朝日はいま自由時間だから、ウェイトレスさんしなくてもいいんだよ?」 「私も働いてるつもりはないのですが……ルナ様がいなくなってしまったので、居場所に困っていて」 「とりあえずバックヤードきてよ。ユーシェと瑞穂の担当してるキッチンに余裕出てきたから、ようやくお屋敷のメンバーで話せるようになったとこ。八千代さ……山吹先生もいるから」 「あれ、山吹先生も……?」 「どうしてもお嬢様のことが気になって仕方がないもので。担任として失格ですけど、今は開きなおって、桜小路家のメイド長として小倉さんと話すことにします」 「山吹先生、ルナのこと大好きだよね」 「はい。恐れながら、今では家族のようなお方だと」 「母性ってやつかー」 「姉妹愛ですが」 「……とは言っても、やはり今の立場ではとれる行動に制限があります。本音では、今すぐにでもお嬢様のもとへ駆けつけたいのですが」  それは多分、桜屋敷に住む全員が同じ気持ちだ。湊にユルシュール様、瑞穂様は、ルナ様自信が信頼しているほど親切な友人たちだ。  今ではもちろん僕も。ただ、この中で一番行動に自由のある僕が、ルナ様から一番はっきり「来ないように」と言われてしまっている。  どうしよう。ルナ様のもとへ行かなくても、力になれる方法を考えないと……。 「私は学院の講師として、学院内にいる間は、自分の時間の全てをお嬢様のためだけに使うことはできません」 「ですから小倉さん、あなたが行ってください。お嬢様にはあなたが必要です」 「え?」  僕はアフターフォローの方法を考えていた矢先だったから、八千代さんの言葉は意外だった。 「私、ですか?」 「はい。ここ最近のお嬢様と小倉さんの仲が大変深まっていることは、傍から見ていてもわかるほどです」 「そ、そうでしょうか?」 「正直、嫉妬しますよ。あんなに安心した顔のお嬢様を見ていると」 「クワルツ賞のときに衣装製作を手伝ったことで、お嬢様から小倉さんへの信頼は格段に強くなりました。きっかけを得て、あなたの誠意を受けいれる体勢ができたんです」 「夏休み中は脇目も振らずにお嬢様の衣装製作に注力したんですよね? そのことはお嬢様の心の奥へ誠意を感じさせるのには充分でした」 「お嬢様を助けてあげるには、他の誰よりも、小倉さんの誠意が必要なんです」 「ですが、八千代さんが同じことを言ったときは、ルナ様に認められませんでした。自分の弱味になるから、と……」 「ルナ様は、あの女性が私を攻撃すると思ったのでしょうかか……たとえば口汚い罵声で」 「どんな言葉で叩かれようと、耐えられるつもりでいました。それを咄嗟に伝えられなかったこと、それとルナ様からそこまでの覚悟が認められてない間は……アフターフォローに回った方が良いのかと」  無理に駆けつけて、けじめをつけると言っていたルナ様を動揺させるわけにもいかなかった。立ちむかうべき相手がどんな人かも僕は知らないからだ。  だけど八千代さんに首を横に振った。 「いいえ、それではいけません。お嬢様が立ちなおったあとから声を掛けても、その頃には一人でいられる強さを回復させてしまいます」 「一人でいるべきだと決めてしまえば、お嬢様は再び殻を閉ざしてしまいます。自分は誰も頼らずに生きていくべきだと意思を固めてしまうでしょう」 「す、少し話が大げさなのでは?」 「大げさではありませんわ」  キッチン側の手が空いたみたいだ。ユルシュール様と瑞穂様が持ち場を離れて話に加わってくれた。 「あの子は実際にそうして強く生きてきたのですわ。そのために必要な財力はありますもの」 「ただこのままでは、いつまで経っても、あの桜屋敷で一人きりのまま生きていくことになりますわ。そろそろ誰かに弱音を吐いても良い時期だと思いますの」 「ま、ただ、私たちが相手では、あの子にも意地があるでしょうし……」 「特にユーシェにはね! 絶対弱音とか言わないだろうね!」 「オホホホ、それほど誉められると照れてしまいますわ」 「そもそも誉めてないからね!」 「今の小倉さんなら、お嬢様が頼るのに適任です」 「でも、ですから私は、ルナ様から……」 「違います、お嬢様は小倉さんを認めなかったのではありません。自分のためにあなたが傷付くことを恐れたのです」 「どんな心ない言葉を掛けられても、ルナ様のことを悪く言われるよりマシです」 「罵声や悪口の類ではありません。あの女性がルナ様にしたことを知ったとき、小倉さんは必ず怒りますから」 「私が、怒る?」 「そうです。お嬢様はそれを厭いました。自分のためにあなたが怒り、悲しみ、深く傷付くことを恐れたんです」 「私たちの失敗は、お嬢様が何故いまのようなものの考え方をするようになったのか、小倉さんに話していなかったことです」 「いまのような? ですか?」 「以前に言いましたわよね? 子どもの頃のルナは、今よりも遥かに素直で、明るい性格だったのですわ」 「それを今の生意気で傲慢で不遜で口が悪くて人をすぐからかって高笑いする攻撃的な性格に変えたのは、あの女のせいなのですわ、ムッキー!」 「言いすぎ!」 「痛いですわ!」 「私は今のルナの性格も好きだよ! 根っこは優しいんだから!」 「痛いですわ! どうして肩を叩くんですの!?」 「覚えておいて。それがジャパニーズ・クラシカル・ツッコミ」 「あの、もしかして、それを今から私に話すつもりですか? ルナ様のいない場所で聞いてしまっても良いのでしょうか」 「昨日も言ったけど、本人は、朝日なら聞かれても話すつもりだと言ってた」 「私たちもこんな事態が起こるなんて想像もしてなかったんです。小倉さんとお嬢様はゆっくりと打ち解けて、自然と話す機会があるものだと思ってました」 「最初から知っていれば動揺する理由もなくなるでしょう? 小倉さんには知っていてもらうべきだったんです」 「だからこの話を聞いたあとは、一人で立ちなおってしまう前のお嬢様を探しに行ってください。お願いします」 「は、はい」  な、なんだかシリアスっぽい話の空気だぞ。しかもこの後、教室を出てルナ様を探しに行かないといけないんだ。よしがんばろう。 「とりあえず、場所変えようかー……こそこそ話するにも限界があるし」  人気のない場所っていうと、この状況だと……サロンかな。  この面子の仕事が被らない時間は割と短い。穴埋めをしてくれてるサーシャさんや北斗さんにお礼をしつつ、少し駆け足気味に移動を始めた。 「時間もないので手短に言います。さっきここで私と言い争ったあの女性は、私の前にお嬢様の付き人を勤めていた人間です」 「付き人……私と、八千代さんの前の?」 「はい……もしかしたら私の前に数人いたかもしれませんが、私の番になるまで、定着したひとが誰もいなかったんだと思います」 「ですから、私も実際に自分の目で見たわけでありません。今から話すのは、お嬢様から聞いた話と、本家のメイドたちの情報を総合してまとめたものです」  一呼吸おきたかったのか、単純に喉が乾いたのか、八千代さんは紅茶を口に含んだ。 「……あの丸目というメイドですが、元は本家でそれなりに真面目な仕事をしていたそうです。その後に人が変わったのか、最初から猫を被っていたのかは知りませんが」 「その地道な仕事ぶりが認められ、まだお嬢様が生まれていない内から、その世話係になることが決められたそうです」 「あらまあ。きっと口先が器用だったのですわ。あんな女だと知っていれば、我が子の性格の形成に関わる、大切な世話係を任せるはずありませんわ」 「どうでしょう。でもきっと、当時、鼻が高かったことは確かでしょうね。ユーシェの言う通り、大切な役目を与えられたのもあるし……」 「十数年掛けて育てたその子が、大人になって良い家へ嫁げば、自分の華やかな暮らしにも繋がるから」 「はい。丸目も大いに期待したことでしょう。ですが、生まれてきたお嬢様は、その外見上の理由でお父上様から歓迎されませんでした」  辛い、なあ。この話は一度聞いていても。 「恐らく落胆はしたでしょうが、それでも丸目は諦めませんでした。お父上様に、何度も外へ出る機会を申しこんだようです。この辺りの話は、本家のメイドから聞きました」 「それこそ『お嬢様は美しく育っています』『どこへ出しても恥ずかしくありません』と持ちあげること頻りだったそうです」  少なくともその頃は本音だったと信じたい……けど。 「恐らく見栄ですわ」  ユルシュール様はばっさり切りおとした。 「女というものは、一度高くした鼻を低くすることはできない生き物ですわ。選ばれたときにさぞかし周りに自慢したでしょうし、立場が一転したときは、周りの噂、陰口に怯えていたのですわ」 「ですから、逆転を狙ったのですわ。自分の見栄のためだけに、ですわ」  八千代さんは黙ってユルシュール様の声を聞いていた。だけど場が静まりかえると、自然な流れのように話を再開する。 「一方で部屋へ閉じこめられたお嬢様は、人前では騒がずに大人しくすること、最低限の挨拶以外は黙っていること、常に笑顔を浮かべて決してそれ以外の表情は浮かべないことを教えこまれていたそうです」 「でも私たちと会ったときのルナはとても楽しそうで……」 「……私は何も知らず、外にまで連れだしてしまいましたわ」  その気持ちは共有できる気がする。自分の部屋だけで完結していた世界が、どれだけ広いか知ったときの感動は、子どもの理性なんて簡単に吹き飛ばしてしまうから。 「でもそんなの間違ってないよね!?」  うん、と僕は頷く。だけど他の頭は頷けない。この世界にはこの世界の過ごし方があるからだ。 「間違ってないよ。うん、間違ってないのに……」 「間違ってはいませんが、お父上様の目には、丸目の話とまるで違う姿に映ったのでしょう。お嬢様は再び本家の屋敷の一室で籠の中の鳥となりました」 「……それでも人前に出した以上、人からお嬢様のことを尋ねられる機会が増えたのでしょう」 「いずれ表に出さざるを得ない日が来ることも考慮し、お父上様は月に一度ほど直々にお嬢様の教育をするようになりました」 「私は桜屋敷へ来て半年間になりますが、まだルナ様のご両親とはお会いしたことがありません」 「紳士的な方ですわよ。学校法人の理事長ですもの。人格者でなければ務まりませんわ」 「私も考え方には頷けるところがありますの。自分の家族には『ひとの上に立つ者には相応の振る舞いが求められる』という教育を施しているようですわ」  それは……正しいかどうかはわからないけど、少なくとも間違ってはいない。僕の兄も近い考えを持っているだろうし、ユルシュール様だってそうだ。 「ただ……お父上様は、お嬢様に対して極端な接し方をしたのです」 「大人に対する口調と変わらない厳しい言葉が、大きな声で掛けられたようです。本家のメイドたちは、お父上様がお嬢様の部屋から出てきたあとは、その機嫌の悪さに苦労したそうです」 「それは愛情の問題もあったでしょうし、それまでの教育を丸目に任せていて、まるで自分とは違う考え方をしていたことも原因のようです」 「丸目は、お嬢様が自分の都合のいい存在に育つよう、正しい言葉で同じ内容を洗脳のように説きつづけていました。『お嬢様はひとに優しくあるべきです』と」 「それも、間違ってはいないように思えますが」 「ええ、間違ってはいません。ですが丸目のそれは、大人しく、口ごたえをしない存在、そして自分に甘い人格を作るだけの洗脳でした」 「どんな人間であろうと、外へ出られないお嬢様にとっては、実際の母上様よりも母親として頼っていたのだと思います。丸目の言葉を何でも受けいれようとしたのでしょう」  その頃、ルナ様の実際の母親はどうしていたんだろう?  そんな疑問が湧いたものの、話の邪魔になるから今は黙っておいた。この世界では、乳母に世話を任せてしまうことはよく聞く話だ。 「お嬢様は、閉じこめられた部屋の中で幼いなりに考えたことと思います。自分はひとに優しくありたい、ひとを傷付けない人間になりたいと。それこそがひとの上に立つ人間のあるべき姿だと」 「ですからお父上様がなぜ怒るのかも理解できず、その教えに逆らい続けたと言っていました」 「命令は口にできない、ひとに何かをしてもらうためには物事を頼むべきだと」 「自分が全てを得ようとしてはいけない、裕福は全員で共有するものだと」 「ひとの欠点を見つけるなんてことはできないと。短所は必ず長所にも成りうると幼いながらに信仰のように思いつづけたのだと思います」 「それは、今も変わっていません。ルナ様はお優しい方です」 「はい。ルナ様の根底は変わっていません。ですがその優しさを逆手に取り、丸目はお嬢様を軽く扱いはじめました」 「決死の思いで臨んだ披露の場で信用をなくし、教育の分野でもお父上様に介入され、丸目は完全に面目を潰された形になったのです。彼女は、お嬢様の成長にまるで期待をしなくなりました」 「諦観した丸目は仕事が雑になり、日々の家事ですら忘れることがありました」 「そんなことはすぐにお父上様のもとへ伝わります。それでもお嬢様は丸目を庇い、そのことがさらなる増長を招いているとも気付かず、ひたすら優しくあろうとしたのです」  ふと思う。その純粋さは良いことだろうか。純は美しいと見做される場面が多いけど、紛争地帯へ無防備で赴き非暴力を説こうとする行為は果たして美挙だろうか。  そこで何も為せずに撃たれて死ねば、兄なら鼻で笑うだろう。それは現実を知らない籠の中の鳥が悪いのだと。  だけど僕はそう思えない。正しく生きる術を誰からも教わらなかったルナ様は責められるべきじゃない。無知が罪だと言うなら、知を与えないのは誰の責任だ。 「やがて、桜小路家に長く居られないと悟った丸目は、解雇される前に少しでも多く自分の益を得ようとしたのでしょう」 「彼女はあることに目を付けました。お嬢様が外出できない以上、与える遊具や菓子は全て丸目が用意していたのです」 「あの女は、お嬢様のために使うべき遊具代や菓子代を着服し始めました」 「犯罪、ですわね」  たとえ遊具や菓子代と言えど、高価なものばかりを集めれば月に何十万にもなるだろう。籠の中の鳥に不満を言わせぬ為の餌なら、桜小路家もある程度は許容したはずだ。 「ルナは何も気付けないのに……酷い……」 「本来用意されるべき品々より質の落ちるものばかりが与えられ、それでもお嬢様は丸目にお礼を絶やしませんでした」 「その爛漫さを愚かだと笑い、あの女の嘲りは日に日に増していき、やがてお嬢様の陰口を隠そうともせず他の使用人たちに話すようになったのです」 「私はその頃から桜小路家に出入りし始めましたから、実際にその言葉を耳にしています」 「決してお嬢様に好意的ではなかった本家のメイドたちも、彼女の陰口の〈質〉《たち》の悪さには顔をしかめるほどでした」^chara02,file5:06  ん? 「今でも忘れません。あの女は、外にも出られず、部屋の中で一人過ごすお嬢様のことを――」  はっとした。しばらく話に聞き入っていた僕たちは、八千代さんが語気を荒くするまで、感情的になっていると気付けなかった。 「――あの女は、自分が与えた安物の菓子を嬉しそうに食べるお嬢様のことを……白い、ハツカネズミのようだとッ!」 「いけません!」  今度は八千代さんがはっとなった。廊下にまでは漏れないよう抑えたけど、僕の声は彼女の頭によく響いたみたいだ。  ただ、気を付けないと。咄嗟だったから、地の声に近くなってしまった。 「そんな言葉が聞きたいわけじゃありません。ルナ様の話を続けてください」 「そ、そうでしたね。言わなくても良いことを……ごめんなさい」  八千代さんは今の告白をよほど悔いたのか、唇の奥を固く噛みしめていた。  だけど僕だって、自分の敬愛するひとをそんな風に……それも生の声として聞いたら、爆発していたかもしれない。だから八千代さんを責める気は全くなかった。 「……結果から言うと、丸目が口にした陰口の数々はお父上様の知るところとなり、彼女は解雇されました」 「それでも着服の件が明るみになったのは、かなり後になってからのことでした。メイドたちは知っていましたが、お嬢様本人がそのことをお父上様に話さなかったからです」 「お嬢様は最後まで甘く……いえ、優しくあることを貫きました。それは彼女の意地だったのかもしれません」 「ですがあの女は最後の最後まで……家を出るときに、お嬢様の部屋から目ぼしい私物を持ちだし、それらを全て売りはらって金銭に変えたのです」 「そこまで……最低になれる人間がいるんですね」 「そのときお嬢様の心を折った決定打は、彼女が作った初めてのアクセサリーです」 「え? アクセサリー?」 「はい。お嬢様の生まれて初めての作品です。まだ丸目がお嬢様の教育に熱心だった頃に作った、ビーズのブレスレットがあったんです」  思わず自分の腕に手を当てた。今は無いはずなのに、不思議と存在を感じる。 「その作品は丸目から過剰なほど誉められたそうです。『初の作品でこれだけ美しいものが作れるなら、お嬢様には才能がある。きっと将来は芸術の面で優れたお方になる』と言われたそうです」  きっと幼いルナ様が、敬愛する父に見せるため拙い全力を注いだのだろう。当時の年齢を考えれば、賞賛に値する出来だったことは事実だ。 「お嬢様はあまりの嬉しさに、そのブレスレットを丸目に与えたとのことでした。生涯の宝物にすると言われ、当時は非常に照れくさかったと自嘲気味に話していました」 「その生涯の宝物は、彼女が私物を持ちさったあとの部屋で……ごみ箱に捨てられていたとのことです」  僕は手首を握りしめた。悔しい。そして痛い。  ルナ様があのブレスレットを部屋へ飾っていたのは、自分への戒めとして……簡単にひとを信じないようするためだったんだ。それを僕にくれたときの気持ちを思うと……。 「お嬢様は完全に意気を消沈し……お父上様の教えに、従うことにしたようです」 「人前では決して弱味を見せず、対人関係においては威圧的な部分を前面へ出すようになったのは……そのときからなんです」 「それが、ルナ様が攻撃的になった理由ですか」  それじゃあ……今でも心の奥では、誰が相手でも笑顔で、柔らかく接したいんじゃないだろうか。  時にひとを傷付ける自分の言葉を悔いて、それでも堂々としなければいけない立場を省みる日々が多かったんじゃないだろうか。 「今でもお嬢様は、心が弱りそうなときは荒らされた自分の部屋を思いだし、鋼鉄の鎧をまとった自分を前面に出すのだと思います」 「あの子はそれができる子なのですわ。弱気になっても、辛い思いをしても、一人で生きるために心を強く保てる性格に育ったのですわ」 「はい。今のお嬢様が彼女のスタンダードです。決してもう、人前ではしゃぐことようなことはないでしょうね」  いや……。  ある。  僕は一度だけルナ様の子どもみたいな笑顔を見たことがある。あの日の彼女は、本当に純粋な天使のようだった。  そうか。僕は一度ルナ様の笑顔を見てるんだ。みんなはそのことを知らないだろうけど、期待される理由としては充分だ。  もしいま誰かが側にいて欲しいとルナ様が頼っているなら、僕が役に立てるかもしれない。 「きょう再び丸目と会って、お嬢様の心は浅くか深くかはわかりませんが、傷付いているはずです」 「傷は修復すればより固くなります。そうなると、小倉さんに開きかけたお嬢様の心は、再び閉ざされることになります」 「わかりました、ルナ様を探しに行きます」  もうやるべきことはわかった。僕はルナ様の信頼を手に入れる。そのために今すぐに会いたい。 「大丈夫ですか? 私はお嬢様と今の状態まで打ち解けるのに数年間かかりました。それをたった半年ですよ? あっさり跳ねかえされるかもしれません」 「あのブレスレット……」  僕が呟くと、八千代さんは安心した顔を見せた。 「あのブレスレットは、私が欲しいと言ったら、ルナ様が与えてくれたんです」 「そのときの気持ちを思いだしてもらえれば大丈夫です。過去は過去、今のルナ様には私たちが付いてます」 「そうですね。私もあのブレスレットを小倉さんが持っているのを見て安心しました。小倉さんは何も知らない内から、お嬢様の心の中へ入りこんでいると」 「もし時間切れで、手遅れになって、ルナ様が最初にお会いしたときの感情に戻っていたとしても……それでもちょっとはルナ様の心に食いこんでみせます。これから先も仲良くできるように」 「まだ例の女と話している最中かもしれませんわよ? 鉢合わせたらどうするんですの?」 「話を聞く前なら、昔の話を聞いたところで熱くなっちゃったかもしれません。けど、もう大丈夫です」 「朝日は大人ですわね。私はいま会ったら平手打ちしてしまいますわ」 「私も叩いてしまいそう。ルナから聞いてないことが沢山あったから……色々なことを知って頭に来ちゃった。八千代さんは教室で見かけたとき、よく我慢できましたね」 「いいえ、熱くなってしまいました。自分の役目を忘れるくらいには。本当は私も平手打ちしたかったですよ」 「みんな暴力は駄目だよ。叩いたりしたら捕まっちゃうよ?」  いや、湊はブレーンバスターしそうなんだけど。  だけど僕だってひとのことは言えない。もし過去を聞かされて、熱くなって、そこを刺激されてたら、平手打ちくらいはしてしまったかもしれない。  もしそれを暴力だと過剰に騒がれてたら……ルナ様が不利な立場におかれる。  ルナ様の言うとおりだった。みんなから話を聞き終えるまで、僕はまだ行くべきじゃなかったんだ。  だけど、もう大丈夫。 「ごめんね。一緒に行きたいし、すごく力になりたいんだけど……幼馴染みすぎて、私たちがいると強いルナでしかいられないと思うから」 「こっちの仕事は任せといて!」 「お嬢様を見つけたら、空メールでも良いので連絡だけはください」 「もしルナが弱っていたら、私たちの前に引ったててくるといいですわ」 「そ、それは駄目ですよ? ルナ様の弱ってる顔は、ユルシュール様にだけは見せられません」 「あら、朝日がいっぱしのナイト気取りですわ。女のくせに生意気ですわ」  ごめんなさい、実は男です。僕は四人に頭を下げると、すぐに廊下へ飛びだした。  と、勢いで廊下へ飛びだしたものの、考えなしに走りまわっても、この広い学院内で見つかるはずがない。  冷静になって考えよう。ルナ様がどこにいるか。あの女性と話すために、どこへ行ったのか。  まず、学院の外には出てないと思う。ルナ様は太陽光を嫌いだから。日傘も持っていかなかったし、相手が運転できたとしても、話の流れ次第では帰りがどうなるかわからないのに、車に乗るはずがない。  範囲を狭めてこのビル内。階数が相当多いから、下から上まで探すとなるとかなりの手間だ。僕も行ったことのないフロアがほとんどだし。  だけどそれはルナ様も同じのはず。彼女はその外見を知らない人間の前へ晒して、目立つことを好まない。普段から行動範囲はこのフロアに限られてる。  二人きりで話すならサロンが理想的だけど、いま確かめられるドアは全て開いている。てことはここでもない……。  そのとき、ふと目に入った窓の外の景色。こっちの廊下は混雑してるのに、ビルの間の高架連絡通路には人影がまるでない。  そういえば向こうの棟ってあまり行かない。作りはこっちと同じだって聞いてるけど……。  来年の一年生が使うと聞いたような? まだ向こう側を使うだけの人数が学院に集まってないんだ。  ということは文化祭でも使ってない……。 「すみません、ちょっと通してください」  何人かの男子に声を掛けられたけど、全て無視して廊下を突きすすんだ。ルナ様が向こう側にいるかもしれない。  連絡通路に着いてからは一気に人が少なくなった。教師もいないんだから構わない。全力で突っぱしった。  なるほど、作りが変わらないから勝手もわかる。教室、サロンの位置まで同じだ。  しらみ潰しに探すつもりではあるけど、最初に向かったのは僕たちの教室。  ゆっくり話すつもりがあるならサロンへ行く可能性もあるけど、相手は招かれざる客だ。ルナ様の性格を考えれば、立ったままで充分だと考えるんじゃないか。 「ルナ様!」 「朝日……?」  果たして彼女はそこに居た。椅子と机のないがらんどうの教室の中、ぽつんと一人で窓の外を眺めていた。  ルナ様はその場から動こうとしない。仕方なく、僕の方から彼女のいる窓際へ歩みよった。 「一人か?」 「はい……ルナ様を探していました」 「どうして?」 「心配だったので」 「八千代から連れていってくれと頼まれたとき、断ったのに」 「ルナ様の幼少時になにがあったのかを聞きました……」 「みんなが勝手に話したのか?」 「申し訳ありません」 「謝らなくてもいい。朝日からねだったわけじゃないだろう」  ルナ様は普段の態度で接してくれる。  手遅れだったんだろうか。もう誰も頼らずに生きていくと決めてしまったのかもしれない。  その表情の奥を読みとろうとしても、僕の目には判別がつかない。ルナ様の瞳は澱みがなく、濁りもない。 「あの、話の内容は……」 「話すほどのことでもない」 「ですが、やはり心配です。過去の話を聞いたあとでは、なおさらです」 「不快感が増すだけだ」 「そのためにここへ来ました。ルナ様がどのような思いをしたか、知っておきたいんです」 「本当は、ルナ様と共にその場へいたかったんです。せめてお気持ちだけでも共にさせてください」 「君は真面目だな」  ルナ様はふいと目を逸らした。空しかない窓の外を見つめていた。  あれ? いや、見ているのは空ではなく……窓に写っている自分? 「金の無心だった」 「はい?」 「今は日銭にも事欠く生活らしい。その上、借金まであるとのことだ」 「もはやどの金融会社からも相手にされず、300万を貸して欲しいと頼まれた」  空いた口が塞がらなかった。  そのあとすぐに体が震えた。そんなことができるなんて、もはや最低の人間どころじゃない。悪魔だ。 「どうやら非合法の金融会社にも手を出したようだ。今日なら確実に用意できると話を付け、文化祭の日まで支払いを待たせていたらしい」 「平日では、私に近付くことすらできないからな、この日を待っていたんだろう。私がこの学院の生徒だと、どこで聞いたのかは知らないが」 「それは、つまり……」 「藁にも縋る思い、という類のものではないだろうな。私なら頼みこめば借りられるとタカをくくっていたんだろう。実際、土下座もされた。情にも訴えかけてきた。無論、断ったが」 「断ったのですか」 「まさか情に絆されて『はいどうぞ』と貸すだなんて思ったのか? 過去の話を聞いたんだろう? 情に絆されるどころか、積年の借りを返せて多少なりともすっきりした気分だ」 「それは……」 「どうやら彼女は、今の私を知らなかったようだな。昔とは違う。今ははっきりと断ることができる」 「よく、頑張ったんですね」 「何がだ? 私は頑張ってない、普通のことをしただけだ。盗人に金を貸せと言われて渡す馬鹿がどこにいる」 「辛かったですよね」  ルナ様は今でもお優しい方だ。昔の話を聞くに、相手にどれだけ苦渋を舐めさせられようと、哀れな面を見せられた上で頼まれれば、どうしても見捨てられない心を植えつけられてしまっている。  ルナ様が企業や屋敷でひとを使うため、非情であろうとするには、どれだけその身が切りさかれるような思いをしてきたことだろう。  その身体に鋼鉄の鎧をまとうため、ルナ様は自らの身体に釘を打って鉄片を固定した。  一度でも甘い心を見せれば、それ以降は耐えられないんだ。だから駄目だと思えばすぐにでも人を切ったし、悪びれないのも、全て自分を守るためだ。  そんな彼女が、どれだけ手酷い裏切りを受けているとしても、一度でも心を開いたひとを見捨てられるはずがない。  それも一度は母親代わりとも言えるひとを相手に。それを知られた上で、ルナ様は、自分の一番弱い、特に思い出の深い部分を、何度も何度も突かれたんだと思う。  相手はルナ様にそういう甘さを植えつけて育てた側だ。弱点なんていくらでも知っている。悪魔のような呼びかけで、甘さ、弱さを引きずりだそうとしたに違いない。  それをルナ様はたった一人で、鞭で打たれるよりも辛い思いをして耐えきった。  たとえ大げさな嘘でも、見捨てられれば殺されてしまうと相手が言えば、優しい僕の主人は、その嘘と同等の恐怖を味わい、今にも泣きたい気持ちで立っていたはずだ。 「相手を突きはなしたときのルナ様は、とても辛かったはずです」 「いくらなんでも私を過小評価し過ぎだ。それとも聖人のようだと過大評価しているのか?」 「私は、今まで何度もルナ様に助けられてきました」  思えば僕は、一番最初から助けられていた。  入学式の日にどうしようもなく弱っている僕を見て、ルナ様は耐えきれずに、期待を裏切られれば自分が傷付くのを覚悟してでも守ってくれていた。  あのとき手を握ってくれたルナ様は、いつか裏切られるだろうという恐怖で、隣で震えている僕と同じほどに脅えていただろう。その心を表にはほんの欠片も見せずに。  出会ってたった一ヵ月の、僕のために。己を愚かだと罵りながら。それでも見過ごせなかった。 「入学式の日も、クワルツ賞のときもです。ルナ様の優しさはよく知っているつもりです」 「主人としての務めだ」 「初めて作ったアクセサリーも、与えてくれました」 「欲しいと言われたから渡しただけだ。他意はない」 「ですがあの日、渡す前に一瞬だけ迷っていました」 「あのブレスレットは、ルナ様が裏切りを受けた象徴そのものです。そのアイテムを渡してしまうことで過去を繰りかえし、私をどこまでも信じてしまうことが、ルナ様は怖かったのだと思います」 「その意味に気付いたとき、嬉しさのあまり涙が出るかと思いました」 「なんのつもりだ。私を決めつけるな。不愉快だ」 「ルナ様は喜んでくれていたんです。あのときは、初めての作品を見抜いたことで感心してくれたんだと思っていました」 「でも違います。ルナ様は、自分の部屋に私が踏みこんできたことを喜んでくれていたんです」 「私物を持ちだされ、荒らされて一人きりになった部屋で佇んでいたルナ様は、私が扉を開けて迎えにきたことを歓迎してくれたんです」 「気持ちが悪い。浸るな、私の過去を自分好みの話に脚色するな。抽象的な表現をすれば私が感動するとでも思ったか?」 「事実はもっとシンプルだ。何故こんなものが欲しいのか不思議に思ったが、君が想像以上に喜んでくれたから可愛いやつだと思っただけだ」 「私は、ルナ様を裏切りません」 「なんだその陳腐な言葉は」 「裏切りません。今までに二度も守っていただきました。そのときの言葉を今も忘れていません。『自分を捧げて私に尽くせ』と言われました」 「たった半年間ですが、ルナ様のために尽くしました。それは自分の夢のためでもありましたが、その才能にも、人柄にも、愛らしい顔にも憧れました。このひとのためにと心から思いました」 「違う。それは利己的な感情だ。私の才能が君の役に立つという損得勘定の計算だ」 「ルナ様が本気でそう思っているなら、あのとき、浴室に二人きりで遊んだ日の笑顔はありません」 「ルナ様の……一度きりの油断で生まれた微笑みは、これほどまでに愛らしいと思った表情はありませんでした」 「そんな、たった一日のことなんて、覚えてるわけがないだろう」 「いいえ。ルナ様が忘れるはずがありません」 「私を決めつけるな」  ルナ様は目を逸らした。唇を小さく噛んで、戸惑うように睫毛を伏せる。 「君と出逢ってから半年だ。その間のたった一日のことなど覚えてない」  その瞳が目蓋に覆われる寸前、その輝く朱色が僅かに澱んだ。 「……そうだ覚えてない……ただ、君が余計なことをいうから、この半年間の出来事は色々と思いだした」 「え?」 「君が尽くしてくれたのは確かだな」  普段なら「そんなことはありません」と謙遜していただろう。だけど今は、主人の言葉を黙って受けとめた。 「わかった。その誠実さに報いるため、一つだけ本音を話そう」 「ルナ様の本音、ですか?」  小さな頭がこくりと頷く。それまで動こうとしなかったルナ様は、ようやく自分から僕のもとへ歩みよってきてくれた。 「昔の使用人と再会して、私は悔しかった」 「ずっと昔に終わったと思っていた過去だったのに、今でも侮られていた」 「あの日のことを教訓に、誰も頼らずに一人で生きてきたと思っていた私が、未だに縋れば逆らわずに甘い顔をすると思われていたことがとても悔しい」 「ルナ様……」  鉄壁の甲冑を固定するため、彼女の体へ打ちこんだ釘の一つが抜ける。その穴から漏れた赤い血液には体温が通っていた。  今こそ言葉を掛けるべきだ。ルナ様がようやく見せてくれた小さな心の隙。それを埋めるために僕はここへ来た。  だけど頭に浮かぶのは、ルナ様が口にしたものと同じ、悔しいという感情だった。  当然だ。ルナ様の苦労をまるで無視されたんだ。慈愛を封じこみ、尊大さを身につけ、鋭利な言葉で相手と共に自らを傷付けてきた彼女の数年間が冒涜されたんだ。  悔しい。ルナ様と同じほどに悔しい。  だけどいま必要なのは、負の感情を込めた言葉じゃない。かといって、彼女の悔しさを慰撫するための言葉でもない。もっと前向きな未来を語るべき言葉であるはずなのに。  それなのに、僕は悔しさを消すことができない。これほど自分の心の未熟さを恨んだこともなかった。彼女の、彼女のための、彼女の心に触れるための言葉を……。 「…………」 「これで……わかったな?」 「え?」  必要な言葉は思いつかなかった。  僕は悔しさを消せなかった。それより前に心を落ちつけたルナ様は、もう穏やかな口調に戻っていた。 「私はこんな思いをしたくない。そのために、誰かを心から信頼することは二度とない」 「しばらく忘れかけていたが、私はそうすることを決めたんだ」  嫌だ。  そんなのは嫌だ。まるで無関係な他人への悔しさのせいで、僕とルナ様の半年間が否定されるなんて嫌だ。  僕とルナ様の関係は、お互いだけのものであるべきだ。僕がいま秘めている彼女への想いは、自分の中で何よりも優先されるべきものなんだ。  ぶつけたい。この心の奥にある熱さの、ありのままを目の前のひとに知ってほしい。  もっと熱さを。滾るように火を求める。もっと熱さを。この想いを。  たとえルナ様に否定されても、僕はどこまでも追いかける。拒否されるのは怖くない。いま恐れるべきことは彼女を見失うことだ。 「八千代だってユーシェだって、彼女たちのあの掛け値のない優しさを心のどこかで穿って見ている。私はそういう程度の低い人間だ」 「ルナ様」 「だからすまない。今まであれほど尽くしてくれた君のことだって、信頼なんかしてないんだ」 「でもいま、話してくれたじゃないですか」 「なに?」 「ルナ様の本音を話してくれました。その気持ちを聞かせていただきました」 「気まぐれだ」 「もっと全てを教えてください。一つきりではなく、ルナ様の本音を幾つも聞かせてください」 「嫌だ。私は君を信じたわけじゃない」 「明日、私の前から君がいなくならない保証なんてどこにもないんだ」  たった今まで、ルナ様を敬愛しつつも、どこか手の届かない気持ちがあった。それは僕が男で、卒業すればルナ様の前からいなくならなくてはいけないせいだ。  卒業すれば男としてもう一度出会うしかないと思っていた。一から関係をやり直すしかないと思っていた。  その未来をなくそう。ルナ様は僕を拒否しない。卒業しても僕はこのひとと共にいる。彼女の側から離れない。  そう思えばこそ改めて言える。躊躇わずにはっきりと言おう。心を込めて。  大切なひとは目の前にいる。僕は両腕を伸ばしてその心の鎧ごと彼女の身体を抱きとめた。 「裏切りません!」  何度か繰りかえして、陳腐だと言われた言葉。だけど今の彼女には否定されなかった。 「私はルナ様のことを裏切りません。置いていただける限り側にいます。今後は、もう……」 「もう?」 「私には、身体上の理由があって、卒業後まで一緒にいられるかわからなかったんです」 「な……」 「申し訳ありません。だけど、卒業後も側にいたいと言っていた気持ちは嘘じゃありません。どうすればいいかわからなかったんです。ただ、お側にいたいと願っていただけで」 「だけどルナ様に必要だと言っていただけるなら、これから先、いつまでもお仕えいたします。一生、使用人で構いません。あなたの側にいるためなら、どんな努力だってします」  小さな身体を強く抱きしめる。怖いくらいに胸が熱い。図々しくもこの身体をずっと抱きしめていたいと願う。  どうしてひとが愛情を示すときに抱きしめるのか。こうしているとよくわかる、僕は自分の主人が愛しい。  この小さく細すぎる身体を自分の腕で抱きしめられているのかと思うと、たまらない情動が湧きあがる。 「朝日は……」 「はい」 「朝日は、いつも痛いくらいに尽くしてくれて……それは、よく知ってる」  より強く抱きしめる。胸に当たっていたルナ様の手が拳に変わった。 「それは、知ってるんだ。でも私は、君のことを信頼しないと決めて……」 「信頼できないのなら用いてください」 「私のことを好きに使ってください。道具の動きを信じずに用いるひとはいません。信頼ではなく、信用だって構いません。今はそれで充分です」  単純な言葉遊び。それでもルナ様は笑わない。真剣な力で僕の制服を鎖骨の上で握る。 「この二ヵ月間……」  自分のデザイナーとしての夢を賭けたデザインを描いてからちょうど二ヵ月。この夏休み、今から僕のしてきたことが評価されると言っていい。 「この二ヵ月間、ルナ様の想像した衣装を形にすることだけを考えていました」 「そのためだけに思考と身体を費やしました。ルナ様と共に衣装を製作し、共に過ごした二ヵ月間は、本当に心から楽しいと感じた毎日でした」 「この二ヵ月間まで信じられないというのなら、その目で私たちの衣装をもう一度見てから否定してください。針の穴の一つ一つを確かめて、裏切ったと思う数だけ私を針で刺してください」 「私を道具として使っていただくだけで構いません。どうか私を信じてください」  本当に、それでもいいと思ったんだ。このひとが本気で針を刺すというなら、そう思わせた自分の作業の不実を恥じたい。僕の言っていることは大げさなんだろうか。  そのとき、それまで僕の制服を固く握っていたルナ様の手から力が抜けた。 「…………」 「え?」 「ふざけるな……」  一度目はぼんやりと。まるで自分に向けて呟くように。 「ふざけるな、馬鹿」  そして今度ははっきりと僕を見据えて。彼女は僕を罵った。 「何度、確かめたと思ってる」 「何度も、何度も確かめたんだ。君が一日進めるたびに確かめた。縫い目も、皺の付き方も、シルエットも」 「そのたびに……何度、君の仕事に感激したと思ってる。君は一度だって手抜きしなかった。毎日続けていても、少しの妥協も見せなかった。その誠実さに、何度感謝したと思ってる」 「怖かった。君のことを信じてしまう自分が心から怖かった。だから私を裏切ってくれと祈り、何度も何度も確かめたんだ」 「だが、そのたびに私の祈りは、君の誠実さに敗れさった。私が叱りつけた日でさえ、君は丁寧な仕事をしてくれた」 「手にした衣装越しにその愛情が伝わってきた。いつしか私は思うようになった。このひとは美しいひとだと」 「夏休みの最後の日、私は君の部屋の前までは行ったが、作業の進行具合を確認しなかった。もう疑う必要はないと引きかえした」 「君は本当に尽くしてくれた。私の……契約上の主人でしかない、赤の他人の私の衣装を、本当に自分の夢が詰まっているかのように扱ってくれた」 「今さら確かめるまでもなく、君が裏切らないことなんて、私が一番よく知っているんだ」  ぐずりと鼻の音が鳴った。それは勿体なくもいま目の前で涙を流してくれているルナ様の音かもしれないし、気付いてないだけで僕も泣いているのかもしれない。  良かった。真面目なだけが取り柄だと思っていた僕が、ルナ様に才能を認められて、その役に立てて本当に良かった。  ルナ様を抱きしめて体の感触を確かめる。温かくて、柔らかい。その心を守っていた鉄の鎧なんて、もうどこにもなかった。 「泣くな」 「泣いてません」 「泣いてるだろう。私を元気付けるために追ってきた君が泣いてどうする」 「泣いてません」 「わかった、恥ずかしいんだな。よし、君は泣いてない。それじゃ遠慮なく大切なことを言うからよく聞け」 「え?」 「私は誰も信じないつもりでいた。これから先、ずっと一人で生きていくつもりでいた。もう誰にも裏切られたくなかったんだ。だけど――」  ルナ様の手が僕の頬に触れる。天使のように美しい指だった。 「今まで尽くしてくれた君のことすら信じられなければ、私は私の知る他の誰よりも最低の人間だ」 「ここへ来てくれてありがとう。こうして話さなければ、私は君を二度と信じようとせず、私が軽蔑する人間に成りさがるところだった」 「ありがとう、朝日」 「ルナさまっ……!」  駄目だ、こらえきれそうにない。どんなに強がっても、涙が溢れて止まりそうもない。  このままじゃ大泣きしてしまう。その前に言わないと。ルナ様がその心の奥深くを晒してくれたんだから、僕も自分の秘密を打ちあけないと。ごめんなさいルナ様、僕は男―― 「朝日……」 「んっ」  ん?  唇になにか柔らかいものが触れた。  それは天使のような指や、いま抱きしめている身体よりも柔らかいものだった。たとえるなら女性の唇。  違う。これはたとえじゃなく、本物の女性の唇だ。ルナ様の唇は柔らかいんだな。  それで、その唇が僕のどこに触れているのかっていうと……。 「ん……」  キスしてる!  え、えええ? あれ? 僕いまルナ様とキスしてる? 嘘? だってルナ様? 主人であるはずのルナ様が? 僕とキス?  実は僕、外国育ちだけど初めてで……というかルナ様もきっと初めてですよね?  だけど最大の問題はそこじゃなくて! たったいま「男」だと告白しようとはしてたけど、僕まだ言ってないよね? うっかり漏らしちゃったりしてないよね!?  僕はいま「朝日」で、まだ「女」なんだけど……え? えええ? 「ふッ……」  なんて混乱を僕がしている間に、ルナ様はそっと唇を離していった。その目蓋の伏せった顔に色気がある。頬に触れる指先がくすぐったい。  ルナ様はもう落ちついてる。だというのに、僕はいま正に混乱真っ只中で、もはや何を言っていいかもわからないような脳の状態に……ああーああーあああー。 「…………」  ルナ様、なにも言ってくれないし……頭の中がまだめちゃくちゃだけど、僕から聞いた方がいいのかな。 「ぇ、えぇとルナ様。ぁの――」 「――わっ」  話の邪魔になるほどケータイが震えはじめた。発信者を見ると八千代さん。 「連絡がないけど、お嬢様とはまだ――え、合流できた?」  そういえば空メールでもいいから連絡をするように言われてた。僕はひとしきり謝りたおし、話が済んだら戻ってくるように言われてしまった。 「怒られてしまいました……」 「そうか。シフトに長いこと穴を開けてしまったからな。そろそろ戻ろう」 「えっ?」  キスについてなんの説明もないんだけど……戻るの?  と思ってルナ様を見たけど、じろりと睨みかえされただけだった。 「なんだ?」 「い、いえその」 「おかしなやつだな。先に歩いてる」 「ま、待ってください!」 「断る」 「えっ……ええっ!?」  ルナ様はどんどん先に歩いていってしまう。気のせいか、普段よりも歩みが速かった。 「ル、ルナ様お待ちください」 「なんだ?」 「あ、ええと……色々なことを話しましたが、一番大切なことを確認させてください。私はこれからもルナ様の側にいても良いのでしょうか」 「当然だ。君から一生私に仕えるといってきたんだろう」 「はい! ありがとうございます、お優しいルナ様」 「私のパタンナーになれば、使用人なんて立場はなくして対等な関係でも良かったんだ。勿体ないことをしたな」 「いえ。またこうして、近くにおいていただけるだけで満足です」 「そうか。じゃあ二度と朝日は離さないつもりだ」 「ルナ様……」  そこまでの信頼をしていただけて、本当に嬉しく思います。 「ところでさっきの……最後の……ですが」 「そうだ。気分がとてもいいから、今すぐユーシェの髪の毛を掴んで振りまわしたくなった。朝日、先に戻ってる」 「あっ……ルナ様、廊下を走ってはいけません」  走るルナ様なんてのもレアだ。その姿も今は、ただただ自分の主人が愛しく見えた。  今日の夕食は豪勢だった。  ルナ様的に、仕事を代わってもらったことに対するお礼のつもりらしい。  その内容も、休暇中だった有名中華料理店の一流料理人を呼んで、求められた材料を揃えて、屋敷のキッチンで調理させるという豪気なものだった。  ルナ様が馳走を振る舞うとみんなに言ったときは、てっきり自分が作るのかと思ったから困ったなと思っていた。  だって文化祭が終わってからずっと動揺してるし、泣いたり大きな声を出したり……あとはルナ様を想う気持ちが止まらなかったりで疲れてた。  でも他のひとに任せてくれるなら楽でいいな。僕もおいしいものが食べられるかもしれないし。それと一流料理人の技術が見られるのも嬉しい。  まあ……それとは別に、見てて一番嬉しいのは、いつになく楽しそうなルナ様の顔だったりするんだけど。 「今日はルナの隣に座らせて。たまにはこのくらいの距離で食事をするのも、悪くないと思わない?」 「思わない。なんだこれ。肩が触れてるんだが。これでどうやって食事をしろと」 「いつも朝日とばかりくっついていたから。今日はルナにおかずを食べさせてあげる。『あーん』してあげるからね?」 「まるで私が瑞穂に食べさせてほしいかのような言い草だが、わかった、理解をしてもらえないのならはっきりと言う。うざい」 「ふふふ?」 「なんだその、私は全部わかってますよ顔は……腹立たしいことこの上ないな。花之宮家の当主を呼んでこい、どうしてこんな育て方をしたのかについて説教してやる」 「わかったよ、私も反対側から挟めばいいんでしょ」 「二人ともさすが関西圏の人間だな。私の言葉がまるで通じないから会話が成りたたない。ちょっと待て、両側から肩をくっつけられると腕がまるで動かせない。やめろ、動けない」 「大丈夫、腕が動かせなくても、私たちが食べさせてあげるから」 「はい、あーん! 小龍包!」 「ポゥ!?」 「やめろ、やめ、熱っ! わかった、私がなにか悪いことをしたなら本気で謝る。だから小龍包はやめ……やめろ馬鹿、箸で割るなって。熱い! これはもしかして私が気付いてないだけで、君たちは怒ってるのか!?」 「怒ってはいませんわ。ただ、ルナが一度教室を出てから、戻ってくるまでの出来事に関する説明が一切ないので、少し冷たいんじゃありません?と思っているだけですわ」 「だから朝日と、少しシリアスな話をしたんだ。会話の内容まで説明するのは許してくれ。私たちも乙女なんだ。シリアスな話をしたときの心の内を明かせというのは辛すぎる」 「やああああああああぁんもぅ!」 「肩をくっつけたまま身体を振るな!」 「だって文化祭中に二人きりで真面目な話をしただなんて、まるでアイドルの舞台裏ドキュメンタリーDVDみたい!」 「女同士の熱い友情なんてもう素敵すぎて……混ざりたい! でも無関係な位置からも見ていたい!」 「お嬢様、飛ばしすぎです。少々はしたないのでお控えください」 「北斗、もっと言ってやれ。この恥ずかしい会話をさっさと終わらせろ」 「ルナが恥ずかしがるなんて珍しいね! すんごくかわいいよ、はい小龍包まる一個あげちゃう」 「熱い! さっきからなんなんだ君たちの異常に高いテンションは。本当にもう許してくれ」 「仕方ありませんわ、私たち全員、ルナの帰りを待っていて気が気ではなかったのですわ」 「なんでだ。おかしい。私のことより目の前の文化祭に集中しろ。君たち全員来店してくれた客に謝れ」 「照れくさそうに帰ってくる二人を見たときの気持ちの上がり具合はなんとも言えませんでしたわ」 「本当。朝日と目を合わせられないルナはとっても可愛かった。私もそんな体験してみたい」 「頼むから……許してくれ……」 「ははー……」  ルナ様が困ってる。他のお嬢様方はシフトの穴埋めをしてくれたり、心情的にも応援をしてくれたわけだから、怒るに怒れないでいる。  普段なら自分がイジられたりすれば部屋へ戻ってしまうのに、今日はきちんと我慢して付きあってる。そんなルナ様を見てるのも嬉しい。 「ん……」  あ、目が合った。 「…………」 「…………」 「…………」  目を逸らされた!  ルナ様……どうしてだろう、目を合わせてもらえなかった。 「いいなあ、私もルナみたいに朝日と真面目な話をして、意見をぶつけあいたい。そのあと手を握ってお互いを認めあったり」 「そんなこれぞ青春みたいな真似はしない」 「最後には抱きしめあったり」 「…………」  ルナ様は真面目だなあ。ここで黙っちゃうと抱きしめあってたとバレてしまうので、嘘でもいいから普段のように毒づいてください。 「朝日とならキスしてもいいのに」 「……!」  ルナ様はど真面目だなあ。口にした小龍包を噴きだしかけてる。だけど今のは僕も思わず顔を伏せてしまったので、ルナ様は悪くないと思います。あと顔が熱いです。 「あつい かお」 「朝日が照れてくれる。嬉しい」 「はっ。瑞穂様、からかうのはおやめください」  それとありがとうございます。照れていたのはルナ様に対してなんですが、このまま否定しなければ僕の不審な態度をごまかせそうなんで、もうなんでもいいです。 「最近の瑞穂は少し本音気味で怖いですわ。個人の性的指向を否定するつもりはありませんけど、身内のような人間が女性同士でキスをしている場面はあまり見たくありませんわね」 「…………」  わあ。ルナ様が机を叩いた。  でもそこで怒るとキスしてたのがバレるからやめてください。 「サーシャに謝れ!」  キレたのをごまかすために罪を他人へなすりつけた! 「サーシャは性別的に『女』ですわよ。そしてサーシャの想い人は男性ですわよ?」 「私はそんな平面的な話をしているんじゃない。ユーシェ、君はスイス人だろう。欧州の恋愛観はもっと雄大で非常に進歩している。保守的な恋愛観などクリエイターを目指す我々には不要だ」  もうやめてください。言い訳がましくなるほど、なにかを疑われても仕方なくなってきます。だってさっきから、サーシャさんが僕とルナ様を見比べてにやにやしてますし。  だけどルナ様があんな風に否定するってことは、僕とのキスをなかったことにしたり、意識してないってことは……ないんだろうな。  そう思うと、こっちもなんだか落ちつかない。この気持ちはなんだろう。 「んんー……?」  あ。湊も僕のこと見てる。もっとしっかり前を見ないと怪しまれる。  ただ、ルナ様は最後まで自分から僕と目を合わせようとしなかった。  でも何が間違ってるって、実は同性同士のキスじゃないってことなんだけど。  そのあとは、喋れば喋るほどイジられることに気付いたルナ様が黙ってしまった。話題の中心は文化祭の出来事へ移り、その場にいなかった僕とルナ様は聞き手に回った。  長風呂してしまった。  普段から長い方ではあるんだけど、今日はいつにも増して長く浸かっていた。考え事が多かったから。  昼間の出来事を振りかえっていたのもあるけど、主題はむしろこれからのこと。ルナ様に自分の性別を打ちあけるなくちゃいけない。  なんとなく普段の倍以上も身体を洗ってた。磨いてどうなるものでもないけど、大切な話のときは身を清めて、心も浄めて……みたいな。  普段なら浴室の帰りは、ここを通過して自分の部屋へ戻るんだけど……。  今日は階段をやや重い足取りで上がる。あのときは勢いで言えそうだったけど、いざ改まって打ちあけるとなるとキツいなあ……。  大丈夫。僕はルナ様を信頼してる。ルナ様からも同じだけの信頼をいただいてる。二人の心は同じ。  自分の場合に置きかえれば大丈夫だってわかるはずだ。たとえルナ様が男だったとしても、僕の心は変わらな――  けっこう変わるかなあ。  いや変わらない! 一瞬でも失礼なことを考えた僕を許してください。何があっても、ルナ様のために誠心誠意お仕えすることを誓います。  余計なことを考えたせいで足取りが二倍に重くなったけど、ここで逃げるなんて許されない。 「ルナ様、よろしいでしょうか。朝日です」 「朝日か。ドアは開いてる」 「夜分に申し訳ありません、失礼いたします」  ルナ様はベッドに入っていなかった。何か書きものをしていたみたいで、机の上にA4用紙と画材が散らばってる。  あれ? 画材? あれはもしかして、文章じゃなくてデザイン画?  普段なら美麗な衣装が描かれているはずの場所には、蛇がのたうち回ったような、少なくとも日本語ではない文字列が並んでいた。キリル文字のようで、サンスクリットも連想させ、楔形文字のような……。 「なんだ?」 「あ、いえ。デザイン画を描いていらしたのかと思ったのですが、違うようなので」 「いや、君の言う通り、ここに座った直後はデザインをするつもりでいた。だがどうにも頭の中がまとまらないから、適当に落書きをしていた結果がこれだ」  あ、本当に意味のない文字の羅列だったんだ。というか文字ですらない。 「こんなことは初めてだ。今までは、机に向かえばデザインの世界へ没頭することができたのに」  ルナ様……。  僕も同じです。今日のことを振りかえり、これからのことを考えると、きっと今は他のことなんて手につかなくなります。 「それで、用件は?」 「はい、ルナ様と二人きりで話ができればと思い、お邪魔いたしました」 「…………」 「ルナ様?」  即答の多いルナ様にしては珍しい。なにか考えてるみたいだ。 「もしご都合が悪ければ出直します」 「都合が悪い……と言えば悪いが、それだと君が本当に帰ってしまうからな」 「明日に改めた方が良いでしょうか?」 「もしかしたら来るかなとは思っていた。来たら来たで仕方ないとは思っていたが、君なら私が二人きりで話すのを避けていたことくらい気付いているだろう」 「避けないでくださいよ」 「まあ、悪い。明日になれば、もう少し気持ちが落ちつくと思ったんだ」 「お互いに昼間の温度を体に残したままの方が話しやすいかと思い、今日の内にお訪ねいたしました」 「…………」  目を逸らされた。そうやって避けられると、僕までルナ様をまっすぐに見られなくなる。 「ルナ様のもとへ行ってもよろしいでしょうか」 「ん……そうだな、話があるなら……あ、いや待て」  ルナ様はすっくと立ちあがり、静かな足取りでベッドまで移動すると、すとんと小さく腰掛けた。その位置が、ベッドの中心から一人分ずれている。 「隣に座って話そう」 「はい」  返事は普通にできたけど、なんだか隣に並ぶだけで緊張する……。  ルナ様の右側に腰掛ける。その瞬間、ルナ様と自分の肩が2度ほど高くなったのがわかった。 「なんの用だ?」 「そうですね、まず……」  僕は男です。  その告白をしにきた。だけど、万が一拒否されたときのことを考えると、他に聞いておきたかったことを尋ねてしまいたい。 「今日は色々とありましたが、今は幸せな気持ちでいます」 「うん」 「その幸せな気持ちの最中に聞くのは野暮かと思いましたが、どうしても気になるので聞かせてください。昼に訪ねてきたあの女性から言われたことは気にしていないのですか?」 「ん? ん……そうだな」  ルナ様の顔の彩度が一気に落ちた。当然だと思う。何も良い気分のときにこんな話をしなくても、と思う。  だけど僕が気付いていないだけで、ルナ様の心はまだ傷付いているかもしれない。 「結局、追いかえしたという結果だけで、途中のことは聞いていませんでした」 「辛い思いをして突きはなしたのだと思いますが、吐きだしたいことがあればぶつけてください。全て受けとめるつもりです」 「今の私は、ルナ様からそれほどの信頼を得ていると自惚れているつもりです」 「いや」  そ、とルナ様の指が僕の手に触れた。お互いの中指の先が重なりあう。 「自惚れじゃない。今の君から求められれば、全ての過去を話しても良いと思えるだけの信頼をしている」 「ルナ様」  中指に軽く力が加わった。そのくすぐったさが心地良かった。 「本当に疲れた。辛かったというよりも、疲れたんだ」 「彼女の話に耳を貸すつもりはなかったが、彼女を置いて教室へ戻れば、次はどこへ現れるかわからないだろう。私に縋っても無駄だと教えるために、最後まで全く動じずに話を聞いてやる必要があった」 「勝手にべらべらと桜小路家を出てからの顛末、その惨めさ、私といた頃の華やかさを語られると、さすがに気が滅入った。同情したんじゃない。ひたすら哀れだったんだ」 「それは、やはりルナ様がお優しいからです。私ならうんざりとしてしまうかもしれません」 「君こそ、その手の負の感情を見せたことがないだろう。ああでも、きっと君のそんなところにも救われたんだ」 「私のですか?」 「そう。君は私の前だといつも笑っているだろう。だから私も自然と笑っていた。君の顔を思いうかべたら、自然と笑顔になっていたんだ」 「今日はみんなの助けを借りたー……湊も、ユーシェも、瑞穂の顔も思いうかべた。七愛も、サーシャも、北斗も。一人一人の使用人の顔も。当然、八千代の顔も大きな力になった」 「でも最後に浮かんでいたのは君だった。そんな私の顔を見て、彼女は頼みこむのを諦めたよ。それまで土下座もされたし、足に縋りつきもされた。見捨てられれば、命が危ういとも言っていた」 「だけど彼女が諦めたのは、私が朝日の顔を思いうかべているときだった。きっと私は勝ったんだ。君の笑顔を借りて」  気付けば、僕たちの手は自然と絡みあっていた。指と指の隙間を埋めあい、しっかりとした力で握りあっていた。 「諦めた途端、彼女は一転して私に罵声を浴びせてきた。それこそ誰でも思いつく単語の限りを並べたんじゃないか。わざわざ君に聞かせるつもりはないが」 「殺してやる、とも言われた。今にも掴みかかってきそうな顔をしていたよ」 「ルナ様……!」 「平気だ。そこまで覚悟のある相手なら、最初から二人きりになったりはしない。多少の暴力は覚悟していたが、それもなかった」 「ルナ様、危ない真似はおやめください。もしそのお体に傷の一つでもあれば……」 「さすがに丸腰じゃない。非常用ボタンの付いた通報装置は持ってる。二、三発は覚悟していたという意味だ」 「それでも、逆上すれば何をするかわかりません」 「悪かった。自分でけじめを付けたい気持ちがあったんだ。私が罵られるところを君に聞かれたくない気持ちもあったしな。許せ」  こつんと肩に何かがぶつかった。ルナ様が軽く頭を僕の腕にのせたからだ。 「彼女はしばらくは未練がましそうに残っていたが、私が動揺していないのを見るとやや放心気味に帰っていった」 「その後は君が言っていた通り、少々罪悪感と戦ったりもした。でもこれだけは言っておくが、私はそこまで甘いわけじゃない。君が言うほどなんでもかんでも救いたいなんて思ってない」 「子どもの頃とは考え方も感じ方も変わってるんだ。あれだけ好き勝手された相手に大金を要求され、それを断ったからと言って気にかけるような甘ちゃんでもない」 「まあ、その後の暮らしを思えば多少気の毒にはなるが、それも最初から自業自得だ。働きさえすれば死ぬわけじゃない。私が手を差しのべてやる義理はない」 「本当ですか?」 「本当だ。君は私が、それだけの気持ちの切り替えもできないと思っているのか。そんなに慈善事業がしたければ、とっくに今とは別のことをしてる」 「私には彼女よりも守らなくちゃいけないものが沢山あるんだ」  この分なら本当に大丈夫そうだ。まだ落ちこんでるんじゃないかという僕の危惧は、取り越し苦労だったみたいだ。 「ま、だから大切なものは何があっても守りたいと思う……」 「はい?」 「朝日。君は身体上の理由で、卒業まで一緒にいられないかもしれないと言っていたが……」  きたっ!  とうとうこの瞬間がやってきた。言わないと。僕は男だって。 「先に聞いておくが、病気か何かか?」 「あ、いえ……体は至って健康です。ここ数年、病気に罹ったことはありません」 「というと、実は身体上の理由ではなく、金銭の問題だったりするのか? こういうのはよくないのかもしれないが、私は君だったら、ある程度の大きな額でも……」 「ちちち違います! 家族に借金もありませんし、自分の身の丈にあった生活をしているつもりです。金銭面で不自由を感じたことはありません」 「それに金銭の問題は、どんな信頼関係だろうと壊す恐れがあります。ルナ様との間に、それだけは持ちこみたくありません」 「そうか……よかった、君がそう言ってくれるひとで。私も金が絡むことで人が変わる瞬間を何度か見てきたからな。安心した」 「ただ、そのどちらでもないとすると、私には想像もつかない問題を抱えているのだろうが……」 「は、はい。実はその話をしに今日は来ました」 「うん。でもそれは君の都合だ。私の都合も聞いてくれ」 「は?」 「いや、実は『身体上の理由』という部分が怖い。急を要することならすぐに聞いてやりたいが、卒業まで引きのばせる問題ならちょっと待て。覚悟を決めるのに時間が欲しい」 「…………」  ルナ様がとてつもなく弱気なこと言ってる……。  どころか、歳相応の普通の女の子になっちゃってる……ルナ様……。 「他ならぬ君の問題だから、私だって何でも受けいれたいと思っているんだ。ただ『何でも』の想定をして、色んな覚悟を決めておきたい」 「たとえば実は君がサーシャと同じ悩みを抱えていて、将来は男になりたい、体も男にしてしまいたいと思っているパターンなども考えたんだが」  んぐっ!  か、かなりニアピンです……男になりたいどころか、男の体です。 「君が男になるなんて問題だったら、今日明日にでも受けいれるというのはちょっと難しいな」  全力でアウト――!! 「数日は立ち直れないかもしれない。こんなにかわいい私の朝日の体が、胸毛や脛毛で穢れたり、あまつさえ筋肉で逞しくなるなんて考えたくもない」  あ、危なかった……あわわわわわ、いくら強固な信頼関係を結んだと言っても限度があった。よかった、言わなくて。この問題に触れるのは少し早かったんだ。 「あとは、君の中に多重の人格が潜んでいるとかな。あるいはどこかの国で養成されたSPとか。突拍子もないことを色々考えた」  いえ、いま挙げた中にビンゴありました。あんまり突拍子なくないです。 「ただ、そのレベルの問題でも、受けいれるようになりたいと思う」 「は」 「君を失いたくない。君がいてくれて良かった。朝日が私の下へ来てくれた幸せを、いまとても噛みしめている」 「今日はこの気持ちに水を差したくない。だから君の都合もあると思うが、もうしばらく抱えている問題を話すのを待ってほしい。そうだな、できれば……ショーが終わるまでは」 「は、はい。ルナ様にそう仰っていただけるなら、私から異存は特にありません」 「頼む。せっかく覚悟をして訪ねて来てくれたのだろうが、今は幸せな気分に浸っていたい」 「ひとを信じられることが、これほど幸せだと感じたことは久しくなかったからな」 「ルナ様……」  う、うん。ルナ様の言うとおりだ。何でもかんでも急ぎすぎればいいってものでもない。  思いきり核心を突かれたけど、それだって時間が経てば受けいれてくれると言ってるんだ。今は全てを打ちあけられていないとしても、いずれ来るその日を信じて待っていよう。 「朝日は……」 「はい?」 「朝日も、私と同じ気持ちを少しでも感じてくれていると嬉しい」 「はい、もちろんです。ルナ様にそこまで言っていただけて、心から幸せです」 「そうか」  ルナ様が顔を僕と逆側に向けたと思ったら、それまで握っていた手がはらりと解けていった。  あれ? 割と良い会話をしていたと思ったけど、どうして手を離して……。 「これは念の為に聞いておくが。いやあくまで念の為なんだ」 「君の問題というのは、女性ながらに女性しか愛せないということではないよな?」 「あぃうっ……!」 「違う! そうだと決めつけてるんじゃない! 確認をしているだけだ!」  だけどルナ様は目を合わせてくれなかった。そっぽを向いたまま大きな声を続ける。 「そんなことで動揺されると、まるで私が図星をついたみたいじゃないか。違うなら落ちついて違うと言えばいいんだ。馬鹿じゃないのか、全く」  確かに僕も動揺していますが、ルナ様も顔が真っ赤です。  というよりも、まるで自分がそのことを責められているような気になった。正直なところ、使用人の身ではあるけど、少しだけ言いかえしたくなった。だって……。 「ルナ様の……」 「ん?」 「ルナ様は、そう仰られますが、私は……その」 「なんだ。今さら遠慮する必要もないだろう。言いたいことがあるならはっきり言え」 「では、はっきりと言います。ルナ様は私が不純の気持ちでいるかのように仰られますが、昼間にキスをしたのはルナ様からでした」 「――……〜っっっ!!」  ルナ様が腰から上を大きく捩った。腰の骨が心配になるほど、その身体を不思議な体勢に捻っていた。もちろん僕がいる側とは真逆の方向に。 「君はなんてことを言うんだ、主人に対して心配りというものがないのか。自分の発言に気を使え、少しは遠慮というものを覚えろ」 「言っていることが数秒前と180度リバーシです。ルナ様は遠慮するなと仰られました」 「うるさい馬鹿。私がその話をずっと避けていたのは気付いていただろう。もうこの話は嫌だ」 「でも私、初めてだったんです」  ばふん! とうとうルナ様がベッドへ横倒しになった。これ以上体を捻るのは、人間の可動域的に無理だったんだろう。 「んッ、くっ……そ、それは悪いことをした」 「いえ全く。初めての相手がルナ様で、よかったと思っています」 「……〜〜〜っっ!!!」  ばふん! ばふん! 横倒しになったルナ様が跳ねる。取りみだすとはこういうことだと、体で表現してくれていた。 「ルナ様も初めてでしょうか」 「はい、そうだが」 「後悔はされていませんか?」 「していない。後悔するくらいなら最初からしない」 「よかった……」 「…………」  ルナ様が腕を使ってゆっくりと上半身を起こす。まだこっちは向いてくれないし、腕は震えているけど。 「ルナ様……」 「なんだ……?」 「どうして、私にキスしたのでしょう?」  僕はずばりルナ様の真意を聞いてみた。 「どうしても何も女性同士の心愛のキスだ。主従としてなんの問題もない」 「問題ないのでしょうか」 「ない。それとも君は、なにか特別な感情でも持ったというのか」 「はい」 「は?」  僕が違う答えをすると思っていたらしい。ルナ様がようやく僕の顔を見てくれた。 「先ほども言いましたが、嬉しかったです」  赤い瞳がぱちくりと開き、その瞳孔までがよく見えた。 「思いだすと胸が昂ぶり熱くなります。こんな気持ちは初めてです」  目の前の顔が瞳と同じくらい赤くなった。肌が白いせいで、相変わらず顔色が他のひとよりもわかりやすいというかわいそうなひとだ。  だけどそんなところも愛しいです。 「もし、望んでいいならもう一度――」 「はぶっ!」  ぶん!と何かが飛んできた。ルナ様の手の平だった。  攻撃的な類のものではなく、僕の口を塞ぐためだけのスタンプだ。まったく痛くないけど、その小さな手が顔のど真ん中に貼りついた。 「そういう不純な関係は求めない」 「むぐ」 「今日はもう部屋へ戻れ。明日になれば少しは頭も冷えるだろう」  僕は求めすぎたみたいだ。もう一度というのは欲張りだった。  こくりと頷いたら手が剥がれた。言葉に従うことをわかりやすく示すため、ベッドから立ちあがって深々と頭を下げる。 「贅沢が過ぎました。お許しいただきありがとうございます、お優しいルナ様」  僕が丁寧に頭を下げたことで、ルナ様も主人モードに戻ったみたいだ。まだ仄かな熱量は残っているものの、その肌色は普段と大差ない。 「夜分に失礼いたしました。明日の朝、いつもの時間に伺います」 「おやすみ」 「おやすみなさいませ」  ドアを閉じると、体の中の熱が部屋の中へ吸いこまれていくかのように穏やかな気持ちになった。  でも愛情の強さは変わらない。興奮に似た熱情がゆっくりと溶け、じんとした愛しさに変わっていくのを感じる。ルナ様が愛しい。  ドアは閉じているのに、僕はその正面に体を向けて突ったっていた。中にいるひとのことを想うと、いつまでも、一晩中でもここで立っていたい錯覚にとらわれる。  これは忠誠? 奉仕の心? いや違う。それは今までだって持っていた。この半年で生まれ育った、秘めた想いが胸の中を占めていく。  すぐに自覚した。僕はルナ様が好きです。愛しくて憧れて、恋しています  最初は彼女の才能への憧れかと思ってた。長い時間を共に過ごして生まれた思慕の心かと思ってた。  だけどそれらを含めて、今はあなたのことが好きです。抱きしめたときの感触が忘れられません。  本当は、まだ少しだけここにいたい。でも彼女がドアを開けて、その顔を見てしまえば愛しくて触れたくなる。 「おやすみなさいませ」  部屋の中で口にした言葉をもう一度繰りかえした。明日の朝もお会いできることを期待しながら。  と思ってたら、本当に本人が出てきた。それもドアを僅かだけ開いて、そこから覗きこむように。 「ルナ様?」 「ひとつ、言いわすれた。オランダでも同性で結婚できるらしいぞ」 「えっ? それはどういう……」  僕の質問に返事どころか、言葉が届いているかも怪しい早さで、ルナ様はその姿を消してしまった。  いつもあれだけ冷静だったのに。普段の言動を思いだすと、自然に笑みがこぼれて抑えきれなかった。 「ルナ様……お慕いしています」  ドアの真ん前にいれば届く程度の声で呟いた。だからきっと、今の言葉はルナ様に届いてはいないだろう。  それをいいことに、僕は同じ言葉を何度かドアに向かって発した。おそらくルナ様はもうベッドの中だ。だからこの声も届かないだろう、きっと。 「朝日、喉が乾いた」 「はい、ただいま。湊様からいただいた、滋賀は土山の煎茶をお煎れいたします」 「あら、素敵。ルナ様のためにメイドがお茶を煎れようとしているじゃない。きっと温度も渋さも好みを熟知しているんでしょうね」 「そうでしょうとも。ルナ様の好みは全て熟知しているのよ。これはもう忠誠だけではなく愛情がないとできないことよ」 「あ、いけないな。私としたことが次のデッサン用の鉛筆を切らしていた。朝日のものを借りてもいいが……」 「来週も使うことになるでしょうから、購買部で買ってきます。ルナ様はお茶でも飲みつつ、教室でお待ちください」 「本当は二人きりでいたいのに、ルナ様のためなら一人で買い物へ行くのも厭わないなんて。美しい主従関係……ふふ、主従関係だけで済めばいいけどね?」 「本当、献身的なんて言葉では表せないくらい一途な奉仕……もしかして本当に体まで捧げているんじゃ……きゃあ」 「成松さん、それは想像が過ぎるんじゃない? でももしそれが事実だったら……きゃあ」 「朝日、待て。やっぱり私も一緒に行く」 「まあ、ルナ様とそのメイドの小倉さん……校内デートでもしてるのかな?」 「駄目よ、小河さん。あまり騒いで本人たちに聞こえたら可哀想。きっとあまり噂にならないよう、注意してるはずだから」  ごめんなさい、聞こえてます。  僕の前を歩くルナ様は何も言わないけど、きっと聞こえてはいるんだと思う。反応しないようにこらえているだけで。  かと言ってこちらからもルナ様に振りにくい話題だ。  文化祭以来、僕とルナ様は同級生たちの間で話題になっていた。  いや同級生どころじゃない。一般クラスの子たちにまで噂が広まっているらしい。  その内容は「校内初の百合ップル」。どこで見ていたのか、何が噂になったのか、僕とルナ様は以前より親しく……それも格別な親密さで接しているという噂だった。 「桜小路さん、買い物にでも行くの? ケメ子よ。最近は随分とそちらのメイドと仲が良いようね。もしかして買い物は口実で、二人きりでいるために教室を出たの? なんて。ウフフ」  中にはずばりな質問をしてくる女生徒もいた。しかも答えを聞かずに去っていった。  ルナ様は髪の色が目立つから、移動しているだけで目に付くんだろうなあ……。 「全く、ひとの噂とは怖いものだな。男女間ならまだしも、朝日と歩いているだけで、どうして好奇の目に晒されなければいけないんだ」 「と、わわっ」  ルナ様が急に足を止めるから、後ろを歩いていた僕はぶつかりそうなほど接近してしまった。 「……っ!」 「も、申し訳ありません。考え事をしていたもので」 「ち、近い!」  ぐいと胸を押された。決して強くはない力が僕とルナ様の距離を開ける。 「申し訳ありません……」 「あ……」 「違う、怒ったわけじゃない。なんだその子犬のような顔は。君なら私の言いたいことはわかってくれるだろう?」 「はい」 「教室でもおかしな噂が立っているようだから、誤解を招かないようにしただけなんだ」 「はい」 「だ、だからそんな、寂しそうに笑うな」  ルナ様は素早く両目を動かし、周囲にひとがいないか窺った。 「朝日」 「はい」 「これでどうだろう」  僕の手がきゅ、と握られた。それほど長い時間じゃなかったけど、ルナ様と手が繋がった。  あまり噂を立てられたくないと思ってるはずが、僕を元気付けるためだけに羞恥心を殺して……。 「嬉しいです。私のためにありがとうございます、お優しいルナ様」 「幸せそうな顔をするな。それじゃ本当に子犬だ」  呆れたように呟くルナ様は、それでも決してつまらなくはなさそうにしていてくれた。  最近のルナ様は僕にとても優しい。衣装製作に入った頃から当たりが柔らかくなったのは変わらないけど、なんていうかそれ以上に、僕個人が大切にされている。  隣に並んでいるだけで楽しい。きっとルナ様もそう思ってくれている。  そう。きっと思ってくれてる。それが僕たちが噂の的になっている問題の根幹だった。  だって噂というよりも事実なんだから。まだ付きあってるわけじゃないし、カップルではない。だけどそれに準ずるほど今は親しい。  それだけに、以前なら気にもならなかったことが、次々と問題となって浮上してきた。まず、文化祭の次の日の朝から駄目だった。  文化祭の日の夜、ルナ様は朝になればお互いに冷静になると言っていたけど……。 「ルナ様、おはようございます。朝日です。もうすぐ登校の時間ですが、お目覚めですか」 「ああ、朝日か……もう起きてるから、入っていい」 「失礼いたしま……」 「……っ」 「……なぜそっぽを向く。おはようの挨拶くらいしたらどうだ」 「お、おはようございます。今日も良い朝ですね」 「人の目を見て話せ」 「失礼いたしました。おはようございます」 「…………」 「今朝は早かったのですね? 昨晩は早い時間に眠ることができたのですか?」 「いや、全然寝られなかった」 「え?」 「何度も寝ようとしたんだが、どうにも眠りが浅くて困った。起きては眠り、眠っては起き、うつらうつらしている間に、結局この時間だ」 「そうでしたか……睡眠不足で授業中の集中力が削られないでしょうか。それがとても心配です」 「そういう朝日は? 普段より肌の艶が、どうも……」 「あ、私はうつらうつらどころか、中々寝付けないので、思いきって衣装製作を続けていました」 「君は。昨日は色々と精神を消耗したはずなのに、それでも私の衣装を作ってくれていたのか」 「あ、はい」 「献身的だな」 「というよりも、ルナ様への気持ちが膨らんでいたので、むしろ丁寧に仕事ができたと言いますか……」 「ルナ様に関わることを考えていられるので、自ら進んで制作を楽しんでいました」 「…………」 「朝からそういうことを言うな。今日一日の間、君の顔を見られなくなるだろう」 「はい。申し訳ありません」 「……まあ、せっかく早く起きたんだし、二人で紅茶を楽しもう」  あれ以来、ルナ様を起こしに行く度、同じような会話を繰りかえしてる。  しかも困ったことに、今までは割と僕の前で格好が雑でも気にしなかったルナ様が、あまり肌の露出をしたがらなくなった。  それは他人に自分の白い肌を見せたくない……というわけではなく、単に照れてるだけっぽい。  それってもう、僕に対して、僅かでも恋愛感情があると認めてるようなものなんじゃ……。  学校でもそう。ふとした拍子に肌が触れることもあるし、今みたいに顔が接近することもままある。その度にルナ様は何らかの反応を見せてくれていた。  昔みたいに、僕をイジって遊んだりもしない。どころか、ユルシュール様が僕をからかったりしようものなら報復に出る。  それは教室で噂にもなるよ。自分でも大切にされてるなって思うくらいだから。  あ、ルナ様に大切にされてルナ。どこかで使ってみようかな。  ちなみに二人きりだとそんな感じだけど、他のお嬢様たちと一緒にいるときは、振る舞いに気を付けようとルナ様の方から提案してきた。  だけどあまり上手くいっていない。たとえば昼食のときも。 「先ほどの休憩時間に、クラスの方からおかしなことを聞かれましたわ」 「ほう? とうとうスイス人であることを疑われはじめたか。いいだろう、相談に乗っても構わない」 「ルナと朝日が、屋敷では一緒に寝ているのかと聞かれましたわ」 「…………」 「それと入浴も一緒にしているのか聞かれましたわ。そんなことはありませんわよとお答えしたら、皆さん残念がられていましたわ」 「何故そんなことを聞くのか問い質したら、ルナと朝日が付きあっているという噂が流れているそうなんですの」 「本当!?」 「根も葉もない嘘だ。どうしてそんな話になったのか、詳しく事情聴取をしたい気分だ」 「全くですわね。女性同士でそのようなことはあるはずないのに。きちんと私が、ルナに限って断じてありえませんわと答えておきましたわ」 「使用人に手を出すだけでも考えられませんのに、女性同士だなんて笑ってしまいますわ。オーッホッホッホ!」 「そういえばユーシェ、紅茶に醤油を混ぜると美味しいという話を耳にしたんだ」 「あら、そうなんですの? 私も醤油は好きですから、良い組み合わせだと思いますわ。では早速、最高級のダージリンと香川県の高級醤油を混ぜてみることにいたしますわ」 「こふっ」 「朝日、どうして相談してくれなかったの?」 「はい。改まって相談する用件がありませんでした」 「朝日とは親友だと思っていたのに……ルナに関わることなら私にだって一大事でしょう? どうして正式にお付きあいするまで話してくれなかったのかがわからない」 「正式にお付きあいはしてないからだ」 「うん、中々周りに打ちあけにくいことだと思う。でも私だけは二人の味方だと忘れないでね」 「私もルナ様のお味方をいたします……それと小倉さんの味方をしてあげたいと思う日が来るなんて……」 「素晴らしいことだと思います……主と使用人においては、たとえ同じ性別であろうと、愛があれば交際しても構わないとルナ様は自ら体現してくださいました……」 「おお……美しい……ルナ様の愛は金閣のように美しい……七愛もそのような愛に憧れます……」 「君たちは、どうしてもそっちの方向へ話を持っていきたいようだな。いいだろう、受けてたつ。二人とも関西の人間だったな。朝日、明日の二人の朝食は納豆づくしにしてやれ」 「全く、誤解も甚だしいですわね。まあ美しいものに憧れる気持ちは誰にでもありますわ。そのような事実が無根であることは私たちが理解していますから、安心すればいいですわ。ね、湊?」 「ん? んん、うん……た、たはは、でも最近、仲がいいのはホントだなって」 「朝日は私に至誠の心を見せて尽くしてくれているからな。大切に扱うのは当然だ」 「そ、そーだよね! やっぱり恋愛は、正常な方がいいと思う……よ? あれ? ルナは正常か。たは、たははは」  そういえば湊の様子がおかしかった。彼女には、近い内に僕の気持ちを打ちあけるべきかもしれない。  それで協力が得られなくなる……なんてことは湊に限って考えたくないけど、その覚悟をしてでも話すべきことだ。僕が湊の気持ちを知ってしまった原因は不正なものだったから。 「朝日? なにを考えている?」 「あ、いえ。本日で衣装製作も終わりそうだなと」 「ああ、そうだったな。それも君のお陰だ。放課後が楽しみだ」  隠したり、打ちあけたり、大変だなあ、僕とルナ様の関係は。  ルナ様が同性愛に抵抗を示している間は、面と向かって好きですとも言えないし。早く諦めてくれるといいんだけど。  あれ? でも僕は男だから正常? ルナ様の覚悟ができて、そっちも早く打ちあけられるといいなあ……。  ルナ様が超人的だと思うところは、人前でも緊張しないところだと思う。  僕はけっこう駄目な方。手元を見られながらだと意識する。料理でも機械の組み立てでも気にならないけど、それが縫製だったり絵を描いたり、服飾に関することだと途端に緊張する。  たぶん、自信がないからだ。以前に兄の目の前でミシンを走らせたことがある。そのときの僕の指先を凝視する目を思いだすと、未だに手が震える。  でも大丈夫、あと少し、もう少しで、縫いおわる。 「何をそんなに緊張しているんだ。明日がショーというわけでもないんだから、失敗したってやり直せばいいだけだろう」 「誰もがあなたのように図太い神経を持っているわけではありませんのよ。ルナはもっとひとに見られるということを意識した方が良いですわ」 「私は他人の視線に敏感な方だろう。ひとから見られることには昔から慣れてるんだ」 「だったら朝日の気持ちを理解してあげたらどうですの? ルナに見られていると思うと、それだけで普段よりも緊張すると思いますわ。席を外す程度の気遣いをしてあげたらどうですの?」 「嫌だ。私は完成する瞬間を見たいんだ」 「要は外界からの情報を遮断して、自分の世界だけに没頭できるかどうかだろう。他人の目など気にするな」 「ですから、それはできるひとの理論であって、朝日に強要するのは間違いですわ。予想はしていましたけど、あなた、ひとにものを教えるのが致命的に下手ですわね」 「そんなことはない、私はひとに指示するのが得意だと自負している。朝日、君はどう思う」 「完成しました」 「あーっ! ユーシェと話していたせいで、朝日が縫いおわる瞬間を見逃したじゃないか。どうしてくれるんだ」  どうしてくれるというか、後でお礼を言います。ルナ様の目を引きつけてくれて、ありがとうございますユルシュール様。 「朝日、もう一度縫え」 「いえ、あの、試着の段階で修正箇所が出てくると思いますので、まだ手を加える必要はあるかと」 「てか早く着てるとこ見たい! 瑞穂、着て着て、早く着て! ていうか着ないとここで剥いてやっちゃうぜゲヘヘ」 「湊が着替えを手伝ってくれるの? 一人じゃ無理だと思ってたから助かる。ありがとう」 「どういたしまして」  性的なネタは真面目な回答に弱い。湊は頬を赤らめながら、瑞穂様と試着室へ入った。 「それにしても、朝日は頑張りましたわね」 「え? ありがとうございます」 「ルナも今回は素直にお礼を言った方がよろしいですわよ。何か褒美を与えても良いくらいですわ」 「ん? まあ、それは。朝日、なにか欲しいものはあるか?」 「ルナ様のデザイン画を」 「君はいつもそれだな。まあ悪い気はしないが、たまにはもっと欲張って欲しいものだ」 「では二枚ください」 「そういう欲張り方じゃあない。まあいい」  ふん、と軽く鼻を鳴らしつつ、ルナ様はそっぽを向いた。 「二人きりのときに聞く」 「えっ? あ、はい」 「それならもう少し詳しいことも聞けるだろう。教えてくれないと吐くまでたっぷり可愛がる」 「はい……」 「それが嫌なら、今のうちに欲しいものを考えておけ。既製品でだ」 「はい」  ルナ様が、人前で甘いことを言ってくれてる……ユルシュール様が、僕たちの間に恋愛感情があるなんて、微塵も考えてないから言えるんだろうけど。  でもサーシャさんが(必要以上に)にこにこしながらこっちを見てるので……あのひとは僕が男だって知ってるから、その笑顔の意味するところがなおさら怖い。名波さんは僕とルナ様の恋愛を大歓迎してるし。 「おーい、着替え済んだよ!」  やがて試着室の方からお呼びがかかった。湊の嬉しそうな顔は、そのことで衣装の出来をバラしてしまっているようなものだった。  ルナ様は静かに、ユルシュール様は大きな足取りで堂々と進んでいく。僕は手首に針山を付けて、二人のあとを追いかけた。 「瑞穂様、お綺麗です。とてもよく似合っています」 「そう? あまり洋装のドレスって着る機会がないから楽しい」 「いいなあ、私も瑞穂見てたら着てみたくなったかもだ。でもこれ不思議だね! 試着のときよりもーっと綺麗に見えるね!」 「はい。完成したと思うと輝きが違って見えますね」  にこりと笑う瑞穂様の優雅さは、この衣装を着るのに相応しいひとだと思われせてくれた。気品にはどうしても育ちの差が伴う。 「朝日は感動してる?」 「はい。ちょっとウル目になってるかもしれません」 「この二ヵ月、ずっと製作に集中していたから当然だと思う。もう一人、同じくらい感動してるひとがいるみたいだけど」 「……ん?」  全員の視線を浴びて、後方にいたルナ様は眉を釣りあげた。 「もちろん自分の衣装が完成したんだ。嬉しいに決まっている」 「あら、ルナも目が潤むほど感動しましたの?」 「自分じゃわからない。まあ、こうしてモデルに着られてる完成品を見るのは初めてなんだ。それなりの青臭い感動に襲われてるのは認める」 「おめでとう」  ルナ様への祝辞を告げて、瑞穂様は試着室へ戻っていった。調整する箇所は思っていたより少なかった。 「喜んでいただけたので安心できました」 「うん、気分がいい。それと朝日、改めてありがとう。君は本当によくやってくれた」  腕で腰をぎゅ、と抱かれた。本当に、素直に愛情を示してくれるようになってくれて嬉しい。 「そしておめでとう。ここにいる全員が朝日のことを認めている。君の才能は確かなものだ、誇りに思っていい」 「はい。ありがとうございます」  返事はできるだけ簡潔に答えた。これはルナ様の衣装で、いま祝福されるべきなのは僕の主人だと思ったからだ。  だけど内心では、太陽を直接見るほどにルナ様の言葉が眩しかった。自らの意思で決めた道。そこで花開いた自らの才能。自らが認めた、共に歩いていきたい人の存在。  この喜びを忘れないようにしよう。ルナ様が祝福された陰に自分を感じることができる。  僕の喜びは彼女の夢をこの世界で具現化すること。だから表には出なくてもいい。夢を描くのは彼女だけでいい。それが僕の〈規則〉《ルール》ではなく〈作法〉《マナー》。  それと恋愛の面でも陰から喜ばなくちゃいけない。今はまだ堂々とルナ様を抱きしめたりはできない。でもせっかく彼女から密着してくれているんだから……。  さりげなく手だけは重ねておいた。僕はルナ様の手に触れることが大好きになっていた。 「ルナ様、私からも改めて申し上げます。衣装が完成して、おめでとうございます」 「ありがとう。君に祝ってもらえると、嬉しさもひとしおだ」  その言葉を聞いて満足したのか、瑞穂様は試着室へ着替えに戻った。他のみんなからもほっとした空気を感じる。  ただその中で、湊だけは浮かない表情をしているのが目に入った。  湊には、やっぱり話さなくちゃいけないな。できれば、今日の夜にでも。  自分でも喜びに水を差したくはないけど、ルナ様の心へ尽くしたように、これは今まで協力してくれた彼女に対する誠意だ。  とはいえやっぱりちょっと気が滅入るかなあ。  元気を分けてもらえないかと思って見たルナ様の方を見たら、彼女もいつの間にか難しい表情を浮かべていた。  なんだろう? ルナ様もなにか考え事をしている? 「しかし衣装が完成したいま、やはり一点だけが心残りだな」 「え? 心残りですか?」 「瑞穂の胸が大きすぎるな。主張しすぎて邪魔だ」 「ルナ様、それはモデルを選んだ時点でわかっていたことです。どうしようもありません」  その後、衣装は「念のため」屋敷へ持ってかえった。考えたくはないけど、同級生の嫌がらせがないとは言いきれないからだ。  みんな思っていたのかもしれないけど、誰も言いだせない中、ルナ様自身が「私は妬みと嫉みには慣れている」と言って、僕に持ちかえることを命じた。  彼女らしい、当然の配慮とも言える。  屋敷へ戻ってからは、ルナ様が上機嫌のまま夕食を終えた。  ルナ様の口元から微笑みの色が消えることは一度もなかった。普段が淡々としてるだけに、その嬉しさの度合いが窺える。  ただ、それでぬるくなったかといえばそんなことは全くなく「今日は機嫌がいいから水は差さないでおくが、明日になったら反省会をする」と、相変わらず厳しかった。  ルナ様の言い分としては「なぜ八人もいて制作に二ヵ月もかかったか」ということだった。  ごもっともだけど、湊と瑞穂様は初心者同然、名波さん、サーシャさん、北斗さんは主人のサポートで、自分は直接縫製をせず、主人にやり方を教えたり手本を見せたりだったから戦力としては……だった。  ルナ様は熱心に手伝ってくれたけど、彼女は自分で常日頃から言っているように、縫製の腕はそのデザインの才能と比べてあまりに平凡だ。ユルシュール様も同じタイプ。  そして僕は、まとめ的な位置を任されていたにも関わらず、実は自分の衣装の製作をちまちまと進めていた。  ルナ様には秘密で作っている彼女へのプレゼント。クリスマスを目標に制作を進めてる。  毎日3、4時間しか寝ていないのも、実はこれが原因の一つだった。こっちの衣装の製作に毎日二時間は割いていたからだ。いつか倒れたときは心配してくれたのに、無理をして申し訳ありません、ルナ様。  だけどこれからも、こっちの衣装製作も続けることをお許しください、ルナ様。  ルナ様を驚かせたいから、アトリエで作るわけにはいかない。しばらく夜の時間は、自分の部屋へこもりきりになりそう……。  あ、というか、そもそもアトリエは勝手に出入りできなくなるのかな。当然と言えば当然だけど、ここしばらくは二人きりの空間だったから少し寂しい。  それと、あそこと学校にしかルナ様のボディがないから、今までこっそりと仮縫いしてたのも、やりづらくなるなあ……アトリエに入るのが駄目だと言われたら、内緒にするのを止めないと駄目かなあ……。  いま話したらどのくらい驚いてくれるかな。やはり人間の性とでも言うのか、せっかく贈り物をするなら喜んでほしい。彼女の笑顔が見たい。  ルナ様への恋心はもう自覚してる。たとえ同性だからと彼女に受けいれられなくても、二人きりになりたいと願うのは自然だと思う。  これが恋かあ……高揚感が少し痛くて、でも気持ちいい。ルナ様の声が聞きたい。理由もなく触れられたい。  その場面を想像するだけで幸せになるなんて、今まで生きてきた中でも、どれだけ不思議なことだろう。  わっ。  恋に惚けて動きを止めていたら、布団の上に置いていたケータイが鳴った。拾いあげてその発信者に胸を詰まらせる。ルナ様だ。 「はい。朝日です」 「出るのが遅い」 「そんな、時間にしてものの数十秒もかかってません」 「ん、そうか……朝日の声が聞きたかったから気が急いた。すまない」 「あ、そういうことでしたら、私もルナ様のお声を聞きたいと、ちょうど思っていたところでした」 「同じ時間に同じ願いを思いうかべるとは、なんて幸せなことなんでしょう。ありがとうございます、ルナ様」 「君は。あまりに素直すぎるのも考えものだな。なんだか恥ずかしくなってきた」 「私を相手に……恥ずかしくなった、のですか?」 「うん……失言だ。すかさず忘れろ」 「はい。たとえ日本語がおかしくても、ルナ様のお言葉とあれば忘れます。ですが、幸せな気持ちだけは抱えたままでも良いでしょうか」 「君は。よくそんな言葉がすらすらと出てくるな。どんどん恥ずかしさが増してきた」 「私を相手に恥ずかしさが増したのですか?」 「もういい、認める。私は人にストレートな好意を向けるのが苦手だ。どうせ私はひねくれ者なんだ」 「だから今だって、すぐにでも電話を切りたいほどむず痒いのに、君が喜んでくれている様を聞いていると、この辛いほどのむず痒さから逃げられなくなるんだ」 「おかしい、矛盾してる。本当に暴れたくなるほど辛い。だけど君との繋がりをここで切りたくない」 「ルナ様、今度は私の方が恥ずかしくなってきました」 「それだ。朝日、それがいい。君が恥ずかしがっていると、私の心はとても安定する。私は主人だ。与える側だ。もっと私みたいに辛く、むず痒くなってくれ」 「はい。もうすでに心が張り裂けそうなほど、心臓が高鳴っています。あまりの鼓動の速さに、呼吸が苦しくなるほどです」 「そうして私のことを考えていてほしい。大変に気分がいい」  ああ。もう僕はルナ様から、充分な愛情をいただいているんじゃないだろうか。  だけど彼女の理性や性的嗜好はノーマルすぎて、これだけ愛しい言葉を送ってくれていても、最後の一線だけは越えようとしないことをわかっている。  どの程度までなら許されるんだろう。僕の主人は前衛的な考えをしている割に、こと恋愛に関しては「正常」から脱するのをひどく嫌うひとだ。  仕掛けるなら、既に性別を偽るという異常を犯した僕からだ。もっとルナ様からの熱烈な想いが欲しい。  あまりの愛しさに、彼女の常識を裏切ってみることにした。 「ルナ様」 「ん?」 「あの、呼吸が苦しいと先ほど言いました」 「ああ、言われたな。どうしてだろうな? これも忠誠心の賜物か」  この期に及んで、ルナ様はまだ正常であるためのお遊びをしようとする。  そんなズルさは、彼女から健気だと言われた僕ですら、恋情を求める亡者に変える。 「忠誠心ではありません。もっとベクトルの異なる想いです」 「ん?」 「お慕いしております、ルナ様」 「……っ!」  ちょっぴり一線を踏みだしてみた。どうとでも解釈できる曖昧な単語で。  しばらく言葉がない。ここまで僕を支配して、それでもまだ正常を貫こうとするルナ様のズルさに、あえて乱れた呼吸を聞かせることで対抗した。 「…………」 「ふっ、不純な関係は求めない」 「はい。よく存じております」  まだルナ様が、普通ではない想いを認められないのはわかってるつもりだ。  だけど、まだ受けいれられないとしても、自分を拒否されることのない自信もあった。ルナ様はどんなに苦しくても、僕を離したりはしない。 「……君は意地悪だな」 「そうでしょうか。ルナ様がそう感じたとすれば、主人に対して大変な失礼をいたしました。謝罪いたします」 「言い返さないのか? 先に意地の悪いことを言ったのはルナ様だ、だとか」 「自分の立場は心得ています。どうしようと、天地が逆さまになっても、私とルナ様の関係を考えれば、万に一つもこちらの勝ち目はありません」 「ルナ様から謝れと言われれば、どんなに切ない想いをさせられようと、私には屈服する以外の選択肢が用意されていません」 「君、卑屈さが上がってないか? いつからそこまで真面目になった。先月まではもう少し柔軟性があったように思うんだ」 「それは仕方ありません。先月とは気持ちが違いますから」 「…………」  ルナ様は一言分だけ呻いて喋るのをやめた。だけど、僕も会話を繋ぐ言葉が思いうかばない。  またしてもしばらく沈黙が続いた。もちろん居心地の悪さはなかったけど、気持ちのやり場の見つからなさがとても歯がゆい。  やがて小さな呼吸音と共に、ルナ様の声が聞こえてきた。 「朝日。今すぐ受話器に口を付けろ」 「は?」 「いいから付けろ。いいか、私がいいと言うまで離すなよ。絶対にやってると信じるぞ?」 「ん、んひ」 「はい」と答えたつもりだけど、意味を為さない単語になった。受話器に唇を付けているからまともに喋れない。  また少しの沈黙が生まれた。でも今度はその時間が短く、すぐに溜め息のようなルナ様の息遣いが聞こえてきた。 「もう口を離していい」 「はい。離しました」 「ちゃんとくっつけていたか?」 「はい。ルナ様に誓って」 「そうか。私もいま受話器に唇をくっつけた」 「は」  え? それはつまり、意味するところは電波を通した間接キス……。 「あ、あの。ありがとうございます」 「うん。だが勘違いするな。あくまで主従の契りに基づく誓いのキスだ。世間的に見ても全く問題がない」  問題ない、かなあ? そんな話は聞いたことがないけど、ここで真実を告げても即座に通話が終わって僕が損をするだけだ。野暮なツッコミはやめよう。  その代わりと言ってはなんだけど。 「では、お互いのセカンドキスと認めてよろしいでしょうか」 「……っ!」  なにかばさりと音が聞こえた。あまりの恥ずかしさに布団の中へ飛びこんだのかもしれない。 「君は。よくそんな乙女ちっくなことが平然と言えるな」 「平然ではありません。これでも勇気を振りしぼりました」 「というか、どうするんだこれ。明日の朝はお互いに、普通の温度で顔を合わせられるんだろうな?」 「はい。私は一晩寝れば問題なく接せられると思います。寝られなければ自信はありませんが」 「そうか。私はこれから一度、シャワーを浴びてくる。頭を冷やさなければ、寝付けそうもない」  あ、いいな。僕もシャワー浴びたい。  顔を洗うだけでもいい。ルナ様がいなくなった頃合いを見計らって浴室へ行こう。  万が一、直接いま会ったらとても危ない。ルナ様が踏みだせないとわかっているのに、僕が混乱して抱きしめかねない。だから時間はしっかりと空けよう。 「……本当はこの電話、君を呼びだそうと思ってたんだ」 「は?」 「衣装が完成してから、二人で話してなかっただろう。きちんとお礼を言おうと思ったんだ」 「でもいま会うのはよくない。たとえ君が会いたいと言っても、私がよくない。というわけで、とてもお礼を言いたいがまた明日にする」 「はい。その感謝のお気持ちはしっかりと心に受けとめました。ありがとうございます、お優しいルナ様」 「そして、せっかく会いたいと仰っていただけた気持ちを無駄にしてしまい、申し訳ありません」 「君が謝る必要はないだろう。私も調子に乗ってしまったんだ。どうも最近は自分の節度に自信が持てなくなってきた」 「そんなことはありません。ルナ様は至って健全です」 「君は酷いな。ひとを散々悩ませておいて、そういうことを言う」 「申し訳ありません。私も最近は多くを求めすぎて、自制の心に自信が持てなくなってきました」  くすりと柔らかい息が聞こえた。丁度いい頃合いだ。 「また熱が高くなると困る。そろそろ浴室へ向かう」 「あ、通話を終わらせる前に一つだけ確認をしたいことがあります。私はまだアトリエの鍵を預かっていますが、今後もあの場所を使わせていただいても良いのでしょうか」 「ん? まあ、そうだな……君ならいいだろう。邪魔したらぶつが」 「はい。お手柔らかにお願いします」  よかった、アトリエは使わせてもらえるみたいだ。まだ内緒で制作を続けることができる。 「それではこれで失礼いたします。掛け替えのない時間を与えていただき、ありがとうございます。おやすみなさいませ、ルナ様」 「君もできるだけ早く寝るように。もし明日の朝に君が寝坊したら、私は自分の責任だと捉えてしまうだろうからな」 「おやすみ」  まだ言葉の端に熱量を残したまま、僕たちは通話を終わらせた。  ふう……途中で一度、窒息死するんじゃないかってほど呼吸が乱れたけど、最後は温かい気持ちになれてよかった。  これなら明日も兄妹のような気持ちで見守ることができます。愛しいルナ様。  ただ、愛しさが溢れすぎたせいで、体力も相当使ってしまった。製作の続きは明日にしよう。  しばらくはルナ様のシャワーが終わるのを待って……そのあとに二階へ向かって……。  そう。今日はこれから、果たさなきゃいけない大切な義務がある。部屋の外に出ることが決まってたから、ウィッグだってこうして着けている。  でも気持ちを落ちつけたいし、まずはシャワーかな……あれ?  誰か来た。随分といえば、会話の終わったちょうどすぎるタイミングで……。 「はい。どなたですか?」 「朝日? ごめん、私、私」 「湊様でしたか。いま鍵を開けます」 「たははは、こんな時間にごめんよう。お邪魔していい?」 「あ。はい、もちろんです。衣装製作を終えたばかりで散らかっていますがどうぞ」 「てかいま誰もいないし、ドア閉じなくても普通に喋れたんじゃ?」 「一応、念には念を入れて。バレたら終わりだし」 「それもそっか」  湊は僕の部屋へ入ると、ちらちらと机の上や出しっぱなしの裁縫道具に視線をやった。  もう一つの衣装はまだ仮の生地だし、ぱっと見ても何がなんだかわからないだろうし、大丈夫かな。湊ならバレても黙っててくれそうだし。  というよりも、今でも大きな秘密を内緒にしてもらってる。それと、僕も彼女の内緒の話を知っている。正確には大蔵遊星に対して内緒にしたいことを小倉朝日が知っている体だけど。  だけど今回は知らない振りができない。いくら約束だからと言っても、彼女の気持ちを知っている以上、僕に好きなひとができたら、今まで誠実に付きあってくれた義理は果たすべきだ。  そう。僕も今日中に湊の部屋を訪ねようと思っていた。彼女からやってきてくれたのは良い機会だ。 「僕も話したいことがあるから、湊の話が済んだら聞いてもらってもいい?」 「どんとこいや。あ、ごめんなさい。ちょっと優しめでお願いします」  湊は正座し始めたと思ったら、両手を膝の先で合わせて深々とお辞儀した。丁寧だなと感心した。 「優しめっていうか、むしろばっさりいくのが優しさなんだけど」 「ん?」 「いやもしかしたら、ゆうちょと私の話の内容、同じじゃないかなって」  土下座の状態から、少しだけ額が浮いた。その目はまだ床を見たままだ。 「ゆうちょさ、ルナのこと好き?」 「ん……」 「恋愛として」 「うん」  自分でも思った以上にばっさりだった。それが優しさだと本人が言ったにしても、たった数度のやり取りで、湊の長年の思いを断ちきった。  できれば早く顔を上げて欲しい。僕が湊を切る側なのに、彼女が頭を下げているこの体勢はあんまりだ。  もしかして湊からすれば、この土下座みたいな格好もおふざけのパフォーマンスで、おどけていないと耐えきれないのかもしれない。  だけど僕はそこに乗っかっておどけていい側じゃない。終始真摯に湊と向きあうべきだ。 「ルナ様のことが好きになった。彼女の希望もあってまだ男だってことは話してないけど、ショーが終わったら打ちあける約束をしてる」 「ルナ様も、僕のことを想ってくれてると思う。もし性別のことで拒否されれば僕には謝る方法すらないけど、今の二人の関係なら大丈夫だっていう自信がある」 「まだコクってはない?」 「うん。ルナ様は女性同士の恋愛にまだ抵抗があって、それを受けいれるよりも、僕が自分の秘密を明かす方が先になるんじゃないかと思ってる」 「でも、今の時点でも、信頼以上の愛情を持って接してくれてるのも痛いほど感じてる」 「そかぁ……」  顔は伏せてるけど、湊の苦笑いが目に浮かぶような声だった。  ありがたいことに湊は僕に未練を持ってくれてる。きっと、付きあうまでは、と思ってくれてる。そしてその後は、もしかしたら別れるかもしれないから、と言ってくれるかもしれない。  だけどここまで協力してくれた湊にだからこそ、自分の想いの強さを突きつけておきたい。 「湊。僕の話は自分の気持ちを伝えることだけじゃなくて、お願いがあるんだ」 「お願い? え、なんだろ。けっこうきっついことかな」 「そうかもしれない。湊の前で、というより人前では節度を守るようにするから、僕がここへ残ることを許してほしい」  がばりと湊が顔を上げた。その目がまん丸に見開いてる。 「それって……」  ようやく正面の位置で目を合わせられた。 「ただでさえ学校側を騙してる僕がこんなことを言うのは図々しいと思う」 「でもようやく、この世界で自分のできることを見つけたんだ。ルナ様との恋愛もあるけど、ここへ来た元々の目標にようやく手が届いたばかりなんだ」 「できる限りの配慮はするつもりだから、この屋敷へ残るのを許してほしい」 「それって、私がゆうちょのこと追いだそうとするってこと?」 「湊が追いだすんじゃない。でも僕は君に頭を下げて頼むべきだと思う」 「ないよ、ないない! そんなことない! 私がゆうちょを追いだすなんてありえないよ。そんな、自分じゃない子と付きあうからって出ていけなんてこと言わない」 「だってここを出たら、ゆうちょは行き先ないんだよね? いくらなんでも、私がフラれたからってそんなことさせないよ。私だって、出ていくまでの根性はないしさ。そんな、誤解されるのは、たはは困るなあ」 「思う存分いちゃつきなって! せっかく幸せになったばっかりでしょ? そりゃくっつきたい盛りだ! そういうの我慢するのは健康にもよくないな、うん」 「湊」 「てかあの、ゆうちょがいてくれないとほんの少しの可能性もなくなっちゃうしね! まだその付きあうって決まったわけじゃないし、その先だってあるわけだしね?」 「湊。ありがとう、ルナ様と一緒にいさせてくれて」 「う、うん」 「これから先、どんなことがあってもあのひとの側にいたいと思う」 「うん、そうしなよ」 「もし三年の間は想いが叶わなくても、彼女のデザインのために尽くしたいと思う」 「うん」 「絶対に、離れたくない」 「うん……」  この時点で、痛々しくて見ていられないほどだった。  もう鼻の頭が真っ赤になってる。さっきから返事が短いのは、そう答えたいんじゃない。長く喋ると我慢できずに涙がこぼれてしまうんだ。  だけど「もう帰って」とは言えない。僕の責任は、彼女が諦めて部屋を出るまで、この子に向かってルナ様への愛を誓いつづけなくちゃいけないことだ。 「ごめん、湊。僕は、ルナ様のことが好きになったよ」 「うん゛」  彼女が耐えられたのはそこまでだった。 「んぐっ、んっ、くっ……んぐうっ」 「あれ? なんで泣いてんだ私。たは、こうなる予定じゃなかったんだけど。なんだこれ止まんない」 「やだなあもう、なんか、我慢してるんだけど。たはは、やだな引かれるな酷いな。ふぐっ……や、ほんとこんなつもりじゃなくてね?」 「潔く引いとけば私にチャンスあるかもでね? いまも言ったけど、この先なにが起こるかわかんないんだし。ここでポイント下げてどうするんだっていう」 「湊、駄目なんだ。ごめん」 「わかってるよ! あっ、ちが……違くてね、ひうっ……自分に腹立つんだよ。ここでいい女見せてポイント稼ごうっていう狡さも嫌だし、泣かないつもりだったのに、言うこと聞かない涙腺にも、もうっ」 「しかも相手に考えてること全部バラして、もー馬鹿だよねっていう! 違うよ、もっとカッコよくフラれるつもりでさっ……爽やかにたははって笑って、親指立てて『がんばれよ!』みたいなの」 「つかさ、あれだよ。『あなたに好きなひとがいてもいいから、私は好きでいてもいいですか?』みたいなの。あれ言おうと思ってたんだ。超お決まりだよね? あはは無理無理、あんなの誰が言えんのこんな場面で」 「ふぐッ、ひっく……! ごめええん、ゆうちょ……わたし、全然ダメだあ……! やっぱゆうちょが好きだよお」 「なんかあの、もっと真面目に服飾の勉強すればよかったんだな! たは、たはははっ……ぶびっ、んひぐっ……ぷはは、声までなんかだらしなくなってきた」 「だってゆうちょのために女の子らしくしてきたんだもんねえ、元々はがさつで、笑い方だってゲタゲタ声あげちゃう品のない笑い方直そうとして、それでようやくこれだもんねえ……たは、たはははっ……!」 「でも大丈夫だからあっ……言ってること矛盾してるけど、私、ほんとに全然大丈夫だからっ! 意地はってでも二人の邪魔とかしないから……私こそ、ここにいさせてね」 「うん、ありがとう。ふたり分のお礼を言うよ」 「もうっ、ひっどいなあゆうちょはさ。生まれ変わったら付きあうねみたいな無駄な希望持たせようよ」 「うん。ごめん」 「…………」 「ほんと……ごめんねえ。この顔、他の子に見られるわけにはいかないから。鼻水止まったら部屋へ戻るから、それまでここにいさせて」 「はい、タオル。ティッシュもあるよ?」 「あーもう! ほんっとゆうちょは希望持たせてくんないなあ! こんな顔してるときに拭くもの渡されたら、みっともなくて、二度と告白なんてできないよ!」  でも、ごめん。僕はルナ様のことが好きだから。  だけど最後の言葉は呑みこんだ。ここまで来れば、湊はもう充分にわかってくれてる。 「ただ、一緒に暮らす上で、僕にできることは言ってね? 湊には今でも性別を黙ってくれてるだけでお世話になってるんだから」 「無理に意地を張られても、いつかお互いが辛いことになりそうで」 「わかった。じゃあ私に気を使わないで。もうほんとあれだよ。実のとこ、しつこいし情けないけど、実はゆうちょが女の子という存在を好きになっただけでも、こっちは進歩なんだから」 「でも……」 「いいよもう、むしろ無理してでもいちゃいちゃしてよ。ふだん我慢してたら裏でめっちゃ濃いラブ会話するでしょ。さっきの電話みたいに」 「……あれ、やっぱり聞いてたんだ?」  通話が終わってから、訪ねてくるタイミングが良すぎた。もしかしてと思っていたけど、今日は本当に湊を深く傷付けた日だ。  だからと言って、自分の態度を軟化させちゃいけない。 「電話の内容は自覚してたから、窓際に寄って、声は小さくしてたつもりだったんだけど……」 「ううん、ちゃんと嬉しそうな声が聞こえてきた。瑞穂とか突然遊びに来そうだし、気を付けた方がいいと思う」 「うんわかった。出来る範囲で気を付ける」 「あのときにドアの前で体育座りをしていた私の気持ちが、ゆうちょになんて一生わからないんだ」 「ま、でもその声を廊下で聞いてたら思った。これなら私、目の前でやられても普通に接することができそうだなって」 「ありがとう」 「いま、物分りがよくていい女だと思った? 抱けよ」 「ルナ様が好きだから」 「やっぱ悔しいいいいい! ルナならいいかと一瞬だけ思ったけど、やっぱり羨ましいいいい!」 「私、明日から銀髪に染めようかな。髪の両脇にリボン付けて」 「ごめんね」 「うー、わざわざツッコミどこ用意したのにスルーかあ……くそぅ。一から出直しだあ」  最後まで態度を一貫したことが功を奏したのか、最後には湊も深刻な態度を出さずに会話してくれた。これからもこの幼なじみが、一番辛い思いをしなくて済むように接したい。  それと、湊はああ言ってくれたけど、やっぱり屋敷の中では節度を守らないと。  そもそも僕とルナ様は、表面上は女同士だから両想いになっても過剰な進展なんてことはそうそうないはず。なんだけどな。 「妙な噂を耳にしたんです」 「ほう」  朝食前。他のお嬢様方より先にダイニングへ来ていた僕とルナ様を捕まえて、八千代さんはそう切りだした。 「八千代。他人の噂なんて気にしても無駄だ。我々を取りまく社会は常に目まぐるしく動いている。必要な情報を自分で得る環境を作ることが肝心だ。どう思う朝日」 「はい、ルナ様の仰ることが正しいと思います。それでどのような噂だったんですか、八千代さん」 「君は。コウモリだって手の平を返すまでにもう少し時間を置くだろう。今日の朝日は反抗的だな。えい、脇をつっついてやれ」 「わ、脇は駄目です。お許しください、ルナ様。くすぐったいです」 「ハハハ朝日はかわいいなあ。ほらほら、私の手の届かないところへ逃げるなよ。これは命令だ」 「ルナ様と小倉さんが、友人というか、主従の枠を超えて仲が良いと聞きました」  僕たちは沈黙した。ルナ様にしては珍しく、小さく唸りながら次の対応に困っているように見えた。 「八千代、君はいつからそんな荒唐無稽な噂を信じるようになった。私と朝日の性別を言ってみろ」 「はい、女性です。だからこそ、万が一の間違いがあってはいけないと確かめているんです」 「女子校にはその手の噂が付き物らしい。まさか自分がその対象になるとは思わなかったが、彼女たちも夢見がちなお年頃だからな。八千代も広い心で受け流してやれ」 「私は恐れながらルナ様を実の妹よりも肉親のように思っています」 「それは知っている。八千代が私を実の娘のように大切にしてくれていることは感謝している」 「私はまだ20代です。肉親同然のひとが、真っ当な恋愛の道を踏みはずそうとしているのに、放置できるわけがないでしょう。小倉さんも……」 「は、はい」 「まさか最初から、そのつもりでお嬢様に近付いたわけではありませんよね? だとすれば、学校はともかく、屋敷でのお嬢様付きの役目を他の者に……」 「八千代、待て。わかった認める」  びっ 「確かに私は朝日を特別気に入ってる。恋愛感情とまでは言わないが」  くりしたあああああ。「認める」なんて言うから「朝日を恋人にしたいと思ってる」とでも言いだすのかと期待した。  だけどそう言われたら、僕は八千代さんの前で「恋人です」と認められるのかな。もちろんルナ様が勇気を出してくれたら、その気持ちには応えるつもりだけど、付き人を解任されるのは少し困る。 「目に掛けることが悪いと言っているのではありません。その、恋愛……にまで発展するのはよくないと言っているだけです」 「恋愛をするなら男性を選んでください。その方面にまるで初心なお嬢様が健全な恋をなさるのでしたら――」 「自分は関係ないような言い方をしているが、八千代から恋愛方面の話はとんと聞いたことがない」 「――初心なお嬢様が健全な恋をなさるのでしたら、たとえ初心な私でも全身全霊を賭けて応援いたします」 「まあ全力で恋愛に反対されるよりは、応援すると言ってもらえた方がマシだな」  ふう、と軽い息を吐いたルナ様は、横目でちらりと僕の顔を窺った。 「朝日のことなら安心していい、美しいものを愛でているまでだ。今の季節で言えば可憐なコスモスに触れたくなるような感覚だ。コスモスの花言葉は少女の純潔、誰が手折るような真似をするか」 「はあ、そうですか」 「そうなんだ。もう少し私を信じろ。朝日のことは心から信頼している。だがそれと恋愛は別物だ」 「はあ」  明らかに信じていない目と返事だった。だって実際、当事者の僕だってルナ様に愛されてると思っているから。 「ときに八千代――」 「はい?」 「自分で言うのもなんだが、私はこの先、一生恋愛なんて知らずに生きていくものだと思っていた。心から興味がなかったしな」 「仮にだが、そんな私が恋愛感情を知ったとすれば、相手が倍の年齢だろうとゲイだろうと、獣だろうと触手だろうとただの絵だろうと、まあその、ん、んんッ……ど、同性でも、喜ぶびっ。喜ぶべきことじゃないか」 「喜べません。あとおかしなところで噛まないでください。疑いが強まります。それと、倍の年齢だろうと結婚はできますが、同性婚は我が国において認められていません。子どももできませんし」 「違う、いま現在においての話だ。たとえ不条理な出来事に起因しているとしても、欠けていた感覚が目覚めるなら、それは大変貴重な体験じゃないか」 「普通の男性を選んでください」 「フン、話は平行線だな。八千代がこんなにわからず屋だとは思わなかった、感情的になり過ぎるあまり、意固地になって話が通じなくなっているじゃないか。もういい、この話はお預けだ」  ルナ様は強引に話を預けた。預けたというより、棚の上へうっちゃった。  そんなことが朝にあったから、今まで気になっていたことを聞いてみることにした。  次はファッションプランニングの講義の時間だ。少し出遅れたせいで、教室からホールへの移動は二人きり。  質問をするのにちょうどいい。歩いているルナ様の背後から問いかけた。 「ルナ様」 「ん?」 「以前から気になっていたのですが、ルナ様は八千代さんから注意されれば受けいれるのですね」 「その言い方だと、私がひとの注意をまるで受けいれない女みたいだな。正しい意見を受けれいるだけの目と耳は持っているつもりだ」 「それで、どうして藪から棒に八千代の話を始めた?」 「ルナ様は、八千代さんのことを随分と信頼されているなと」 「ん……?」  ルナ様の足がぴたりと止まった。不思議そうに僕の顔を見上げてる。  しばらくして、歩きながら話すことでもないと思ったのか、僕の正面に体を向けてうんうんと何度か頷いた。 「八千代が側にいてくれた頃は、私が一番荒んでいた時期だったからな。悪態も〈吐〉《つ》いたし、棘も刺した」 「それでも離れずに辛抱強く我慢して、そんな私を宥めたりせず、叱って育ててくれたんだ」 「最初のお付きと別れてから何度かメイドが変わったが、どのひとも私を懐柔しようとして失敗し、一ヵ月ももたなかったんだ。罵詈雑言を飛ばしていたのは私だから、彼女たちを責めるつもりは毛頭ないが」 「逆に八千代は最初からうるさくて、だからこちらも一番毒づいたのに、結局は彼女が最後まで側に残ってくれた」 「こんなひともいるんだなと思ったから、それまで否定していた、ひとと接することを見直したんだ。そんな経験があって、今でも彼女の説教には感謝してる」 「なるほど、よく理解できました」  一番辛いときに側にいてくれたなら、八千代さんを信頼するのも当然だ。むしろ、そのときに彼女がいてくれなかったら、今頃ルナ様はどうなっていたんだろう。  ルナ様が八千代さんのため、服飾に関わる仕事への許可を出したのは聞いていた。この二人の間には年月分の積み重ねがあるんだ。 「ま、感謝しているとはいえ、私が同性愛者などと馬鹿なことを言われては困るが……」 「で、何故いまそんなことを聞いた?」 「はい? あ、突然というわけでもないんです。以前から気になっていて」 「嫉妬か?」 「は?」 「ジェラったのか? 私と八千代の間には入りこめないと考えて悔しかったのか?」 「安心しろ。八千代とは本人も言っていた通り家族的な親愛の情で繋がっているが、君との関係は八千代のそれとは全く違う。彼女が年上で、君が同年代というのも大きい」 「はい……ありがとうございます。でも、嫉妬なんてことは……」 「そういえば大人しい朝日が、以前から八千代にだけは対抗心を持っていたな。一緒にいた時間という絶対的な数字には勝てず、悔しかったのか?」 「そう拗ねるな。八千代には悪いが、今は君が私の一番側にいるじゃないか」 「いえ、そんな、嫉妬はしてません」 「私は朝日が妬いてくれた方が嬉しい」  そこまで素直に言われると、事実を認めようとしない自分が恥ずかしくなる。 「……はい。八千代さんには勝てないのかな、と少し心配になりました」 「普段は、瑞穂だったり、ユーシェだったり、私の方が妬かされてばかりだからな。少し気分がいい」  周りに誰もいないせいか、ルナ様が僕の手に触れてくれた。もうなんだか、とても恥ずかしい。 「ルナ様」 「ん?」 「お気遣いありがとうございます。お陰で少し自信が付きました。これからもルナ様から大切にされるよう、努力いたします」 「服飾の勉強さえ怠らなければ、君自身はそのままでもいいのに。努力する必要なんてないぞ?」 「いえ、もっとルナ様のお気に入りでいたいです」 「…………」  急にルナ様がぷいとそっぽを向いた。照れてくれたのかな? 「あ……私の質問で時間をとらせてしまいました。すぐに授業が始まります、ホールへ急ぎましょう」 「あー……あそこ、懐かしいな」 「は?」  あそこ? って、どこ?  ルナ様の視線の先を追ってみると、いつか渡った隣の棟への連絡通路があった。  懐かしいって、最近渡ったばかりだけど……あ、最近と言っても、文化祭のときだからもう一ヵ月も前だ。  でもどうして急に? 「ちょっと寄っていこうか」 「……は?」 「だから。懐かしいじゃないか、ちょっと向こうの棟の教室へ寄っていこう」 「は!?」  意味がわからないので聞きかえしてしまった。だけどルナ様は、僕の態度がいかにも不服そうに口を尖らせていた。 「寄っていく? 寄っていくって単語おかしくないですか。だってこれから授業なんですよ?」 「同じ学院内の空き教室へ入ろうと言っているだけじゃないか。そんなに驚くこともないだろう」 「驚きますよ。私普通です。どうして始業時間が迫っているのに、誰もいない空き教室へ行かないといけないんですか、しかも理由もなく」 「理由ならある、私が行きたいと言っている。君の主人は誰だ? いつから私に反論できる立場になった? 私に行くと決めた場所があれば、君はなにを差しおいても同行するべきじゃないのか?」 「だ、駄目です。八千代さんなら絶対に止めます。だから私もルナ様をお止めします」 「君が私を止めるのか」 「わっ!」  ぐんと襟を引っぱられた。そんなに力はないけど、逆らうわけにもいかずに、僕は腰を曲げてルナ様に顔を近付けた。 「だ、駄目です、授業をさぼるなんて」 「さぼるんじゃない、教室へ入るのがちょっぴり遅れるだけだ」 「私も八千代さんに負けられません。相手がルナ様であろうと、駄目なことは駄目だと言います」 「ふん」  今度は顔の両側を掴まれた。ぐいと引かれ、ルナ様の顔が目前まで迫る。 「だ、駄目で――」 「八千代を気取るのは百年早い」 「でも」 「私の我儘を聞いてくれないと、嫉妬したことを八千代にチクる」 「困ります」  八千代さんから「私はそういうのいいです」「小倉さんの方が信頼されていますよ」「やっぱり問題のある関係ですか」と、どのパターンでも相手にもされないことが容易に想像できる。  それに気を使われると今後の人間関係に関わるし。僕はルナ様に屈し、彼女と共に連絡通路を渡った。 「こっちの教室は本当に使ってないんだな。文化祭の日のままだ」 「はい……」 「君が立っていたのはその辺りだと思う。私は窓際だから、この辺かな」 「はい……」  ルナ様に屈しはしたものの、僕はまだ主人を諫められなかった自分に反省していた。  そんな風に軽く落ちこんでいる僕を見て、ルナ様は少し困ったように眉を釣りあげた。 「そんなに落ちこむな。君は私の我儘に振りまわされただけだからいいじゃないか」 「次はがんばります」 「今は付き人としての使命感に燃えなくていい。昔の朝日は、もっと素直に私の言うことをはいはいと聞いてくれてたのに……嫉妬は女を変えてしまうものなのか」  恋愛の哲学らしい言葉を口にしつつ、ルナ様はさめざめと悲しんだ。でもごめんなさい、嫉妬はしましたが僕は男です。 「わかった、降参だ。次また同じような状況があれば、君の注意を受けいれる」 「本当ですか?」  落ちこんでたらルナ様が折れてくれた。ありがとうございます、お優しいルナ様。 「だから今だけは甘やかすように。せっかく学院内で二人きりなんだ」 「え?」 「私の部屋やアトリエならともかく、屋敷の外へ出て二人きりなんて機会はそうそうないだろう」 「はい」 「嫉妬した君が愛しかったんだ。どうしても愛でてやりたくなった」  えっ。  ルナ様が二人きりになりたくて、僕を人気のない場所へ連れてきた? それってつまり……。 「勘違いするな。不純な行いを求めてるわけじゃない。私は純潔の関係を望む」  純潔と言われても、どこまでを指して純潔というのでしょうか。もう唇を重ねてしまっているのに。 「愛しいと感じた君を美術品に触れるのと同じ感覚で愛でたいと思っただけだ」 「美術品とまでルナ様から言われると、さすがに照れてしまいますね」  最近は「なんで? 男だから、女性として見られて照れちゃ駄目」という疑問もなくなってきた。この格好を受けいれたわけじゃないけど、ルナ様に愛されるなら今の自分も嫌いじゃない。  愛される……でも、自分からそれを求めてしまうのは、男として、元の自分として、ぎりぎりの一線だという気もする。  このままだと、小倉朝日の存在が大きくなりすぎてしまいそうだ。 「朝日」 「はい」 「手を握っていいか?」  ルナ様はずるい。僕が頷いたときには、三本の指を握ってしまっている。事後承諾だ。  だけど胸がときめくばかりで、全く拒否する気が起こらない。もっとルナ様に愛でて欲しい。誰よりも愛されたい。 「ん……」 「どうした? 唇をまごつかせて、何か言いたいことがありそうだが」 「いえ、その。どうすれば良いものかと」 「どうすればいいもないだろう。喋るなとは言ってない。思ったことを言えばいい」 「ですが、口に出しづらく」 「いつもの朝日に戻ったな。そのくらい従順だと嬉しい。私はひねくれ者だからな。注意されると、正しいことでも反発したくなるんだ。逆に君が健気だと、こちらも素直になれる」 「はい」 「それで? 思っていることはまだ言えないのか? 私は君が何をどうしたくて迷っているのか知りたい」 「ですが」 「仕方ないな。私が一押ししてやろう。そうすれば言えるな?」  手を強く握られた。この時点で、今から発せられるルナ様の言葉に逆らえないことを悟った。 「求めろ」 「私を愛でてください」  求めてしまった。ルナ様の命令とはいえ、小倉朝日として。  少なくとも今は男に戻れない。たとえ約束を早めて、僕の秘密をいま告白しろと言われても、この時間だけは小倉朝日でいたい。  そうしないとルナ様から愛でてもらえないとすればこのままがいい。  絶対強者のルナ様から好きに扱ってもらうのも……あ、あれ?  よく見れば、ルナ様はルナ様で、どこかあらぬ方角へ目を逸らしていた。 「それでは」 「はい」 「私を抱きしめろ」 「ええええええ」 「何故そこで驚く! 愛でてほしいと言ったのは朝日の方じゃないか。私は悪くない。不純じゃない」 「ままままるで、私だけが不純のような」 「文化祭の日、今いるこの場で私を思いきり抱きしめてきたのは誰だ」 「はい、私です」  返す言葉もありません。あの日はひたすらに愛しいと思いました。 「ただあの、愛でるという表現だったので、てっきりルナ様の方からぐいぐい押せ押せでくるのかと」 「黙れ、うるさい、痴女か。というよりだな、私の方が背が高ければそれでもいいんだが、その」  あ、ルナ様から抱きしめてもらうと、しがみついてるみたいになってしまうんですね。  わかりました。これ以上言わせては主人に恥をかかせることになりますので、失礼いたします。  言葉には出せないそんなことを思いながら、僕はルナ様の後頭部へ手を回した。 「このような感じで良いでしょうか」 「ん」  改めて抱きしめると、その体の小ささがよくわかる。僕は決して男の中では身長が高い方じゃないのに、ルナ様の額が当たるのは僕の胸だ。 「文化祭のときよりも力が弱いな」 「あの日は気を遣っている余裕がなかったので、ルナ様の苦しさも考えずに力いっぱい抱きしめたんです」 「苦しくないから、もっと強くてもいい」 「はい」  言われるがままに強く抱きしめてみる。彼女の速い鼓動が伝わってくるほど、自分の動悸も伝わっていそうで、とても怖い。 「ん、いいな。このくらい強く抱きしめられた方がいい」 「はい。ルナ様が自分の腕の中にいると思うと、私も胸が高鳴って、触れているだけで気持ちいいです」 「私も気持ちいい。ただ想像以上に何も見えない。文化祭のときもこんな景色だったのか思いだせない」 「あの時は私も夢中だったので……」 「朝日の顔が見たい。悪いが、少し前屈みになってもらってもいいか?」 「はい」  少し膝を落として、顔の位置を近付ける。お互いがその気になれば、見つめあってしまいそうだ。  そうなったら、きっと僕たちは抑えきれない。それがわかっているのか、僕もルナ様も目を合わせることだけは避けている。 「さ、さすがにこの距離だと、多少は恥ずかしくなってくるな」 「は、はい。ここまで顔が近いと、その、ルナ様の息が温かくて」 「温かいだけなら良かった、君の息は熱い」 「はい。自覚できるほど体が熱いです」 「これはあくまで主従の親愛の情を示しているだけだぞ? 何を熱くなっているんだ?」 「申し訳ありません。ルナ様が愛しいので」 「私も愛しいが、君ほど不純じゃない。女性同士でこれ以上の関係は求めない。ところでそれはそれとして、もっと強く抱きしめていい」  あまりに意地の悪いルナ様の言葉に、従順だった小倉朝日も顔の熱さ程度には反撃をしたくなった。 「ルナ様は……」 「ん?」 「ルナ様は、気付かれてないようですが」 「私が? 何に気付いてない?」 「お身体のことなので、今まで口にしては申し訳ないかと思い、黙っていました。ですが、今後のためにお伝えいたします」 「君なら身体のことだろうと遠慮しなくていいが。それで、私が?」 「はい、ルナ様は。その肌が白く、透きとおるように美しいため、興奮をすると、その熱量が如実に顔へ出てしまうんです」 「は……」 「恐らく傍から見れば、私よりも、その瞳よりも、ルナ様の肌は赤くなっています」 「はあっ……!」 「ルナ様こそ、最初からどうしようもないほど熱くなっているんです」 「うわあああ……!」  腕の中から、ルナ様の悲鳴が聞こえてきた。大きな声ではなく、羞恥の中へ溶けるような、半液体の声だ。  あまりの羞恥に耐えられなかったのかもしれない。ルナ様の体の重さが増した。僕が支えなければ、崩れおちているかもしれない。  だけどそれも仕方ない。本人は隠していたつもりでも、今まで羞恥を覚える度に、周囲には伝わっていたと宣告されたようなものなのだから。それこそ過去にまで遡って。 「うっ、くうっ、くうう〜っ……!」  ああ。ルナ様が、恥ずかしさに耐えきれず唇を噛んでいる。なんて愛らしい。 「ルナ様」 「なんだ……!?」 「そのお気持ちをお察しいたします」 「君には無理だ。この羞恥は過去最大のものだ」 「気の毒に思います。でも、だからこそ、ルナ様をとても愛しいと思います」  愛しくなって頬ずりした。 「くッ……!」  だけどその行為は挑発として受けとられたみたいだ。 「わ、私だけは……」 「え?」 「私だけはずるい!」 「はい……?」 「君は、私の気持ちを察したと言ったな」 「はい。感情を隠したがるルナ様が、よりにもよって羞恥の度合いのわかりやすい体質であることは、とても気の毒に思います」 「じゃあいま私がどれほど恥ずかしい思いをしているかもわかるな?」 「はい。大体は」 「それなら同じ目にあってもらいたい。今すぐ目を閉じろ」 「え」  ルナ様の狙いはぴたりと当たった。僕はみるみる自分の顔に、全身で一番熱い血液が集中していくのを感じた。 「えええええええええええ」 「なにを驚いているんだ! 勘違いするな!」 「勘違いするなと言われましても、目お閉じろとゆうことわ」 「目を閉じるだけだろう。何を想像しているんだ、何もしない!」 「でででですが、それなら目を閉じる必要もないのでは?」 「今は恥ずかしくて君の顔がまっすぐに見られない。その顔を正面から見たいだけだ」 「それは……」  僕もルナ様と目を合わせられないから、言いたいことはわかるけど。  じゃあ本当に何もしないのかな。でもこっちが見えないのに、相手からは見られてると自覚できるのは、それだけで相当恥ずかしい……。 「い、嫌ではないのですが、心の準備ができないというか。恥ずかしくて無理です」 「君は私の命令に逆らえるのか。今回は命令だ。羞恥のど真ん中で溺れさせられた私の気持ちを君も味わえ」 「それは私の責任と全く関係ありません……ただの八つ当たりです……いえ八つ当たりですらないです……ただの流れ弾です……」 「うるさい。真実を教えてくれたことには感謝するが、世の中はときとして親切が大きなしっぺ返しに化けることもままあるんだ」 「……さあ、もう一度言うぞ。命令だ、目を閉じろ。いいか絶対開けるな。目蓋を開いたら、一度解雇して、私が寂しくなるまで帰ってくることを許さない」 「はい。わかりました」  これは求められているんだから喜ぶべきことだ。僕の顔を見たいと言ってくれているんだから。  ただ「もしかしたら」という期待が拭いきれない。ルナ様がしばらく見ている内に、愛しいと感じてキスまでされたらどうしよう。頭が真っ白になるかもしれない。  興奮のせいで張りさけそうな心臓を抑えつけながら、僕は好きなひとの前で目を閉じた。  そして一秒後にあっさり裏切られた。  これはキスだ。絶対キスしてる。あの日の柔らかい感触と同じ。間接キスなんてものじゃない。明らかなキスだ。  頭は真っ白にならなかった。だけどひたすらに羞恥と高揚と切なさが理性を押しつぶした。 「んんん――っ!」 「んっ、む……ぷはっ。ふう……いいか、絶対に目を開けては駄目だ。これからもっとするつもりなんだ」  何を!?  呼吸をしているのも辛い。それほど息が熱い。もう呼吸をしているのが口なのか鼻なのかわからなくなってきた。 「目を閉じている朝日は本当にかわいいな……ん、むっ……」 「ん……ん、んんっ……」  再び柔らかい感触が唇を覆う。何も見えないけど、温かい何かが重なっているのだけはわかる。  触れる瞬間までは羞恥に耐えていた。だけど不思議と次第に落ちついて、自分からも求めたくなってきた。 「ん……んっ……ん」 「んむぅ……ん、む……ちゅっ」 「ん、んむっ……」 「れろっ……」 「っ!?」  どうしても愛しさに耐えきれず、舌の先で自分の唇に触れているものへ触れた。やはり柔らかい。  それに対してルナ様は、始めこそ体を強ばらせたものの……。 「んっ……」 「んちゅ……ちゅっ、れろっ……れろんっ」 「んちゅ……ちゅ、ちゅう……れろっ、ちゅぱっ……ちゅう」  恐らく僕と同じように、舌先で求めはじめてくれた。いまこの口に触れているものが彼女の舌だとすれば、なんてかわいらしくて愛らしい。  つるり、つるりと唇に触れていたものが僕の舌と絡みあう。それは鬩ぎあいを繰りかえしていく内に、淫猥な唾液の音を発しはじめた。 「んちゅ、ちゅ、ちゅう……れろ、れろぉ……んちゅ、ふはッ……」 「ちゅるっ、れろっ……ん、ちゅぷ、れろっ……れろ、れろんっ」 「ん、んん、んむ……れろっ。れろ、ちゅう……れりゅっ……ん、む、むむっ……ちゅう」 「れろ、んちゅぅ……ちゅるっ、れろっ、ん、はッ……ん、れろ……ちゅ、んぅ……」 「ん……はあっ……ふッ……はあ」  だけど僕たちはまだ子どもだった。この行為以上のお互いの求め方を知らず、また、徐々に戻ってきた理性が、今日の僕とルナ様をここまでで終わらせた。 「ふっ……」  ルナ様の唇が遠ざかっていくのがわかる。すぐ目の前にいるとわかっていても、一度触れた唇を離すだけで途方もない切なさを覚えた。 「朝日……目を開いても構わない」 「はい……」  う。  しまった。目を開けたらルナ様と見つめあうことになるのはわかってた。当然じゃないか。 「…………」 「…………」  どうしよう。僕はルナ様をホールへ連れていかないといけない立場なのに、まだこの甘い余韻に浸っていたい。  もう一度だけ……目を閉じたままだったし、僕もルナ様の顔を見ながらキスをしたい。 「あの」 「ん?」 「あの、今のですけど」 「今の。今のがどうした」 「いえその、キス……をしたので」 「ほう? 誰がそんなことをした?」 「は?」 「私と君は女同士じゃないか。キスなんてするわけがないだろう。君はその目で確かめたのか?」 「目を閉じろと仰ったのはルナ様です」 「そうだな。君は私の命令を守って目を閉じていた。したがって何も見ていない」 「つまり君の言っていることには何一つ根拠がないということだな。目で見ていないものは信用できない」  このひとは僕をここまでときめかせておいて、女性同士の恋愛は不純だというつもりなんだろうか。 「目で見ていなくてもわかります。私の唇には確かな感触がありました」 「果たしてそれは私の唇だろうか」 「え?」 「それはよく似た別の何かだったんじゃないか? 君はその目で見ていないんだろう? 目撃者だっていないんだぞ?」 「あの温かさと柔らかさは、文化祭の日に触れたルナ様の唇でした」 「まるで温かくて柔らかいものが私の唇を除いて他にないような物の言い方だな。人間の触覚は非常にあやふやだ。君は唇に水餃子を押しつけられただけかもしれないだろう?」 「もう意味わかんないです!」 「私たちは女性同士で、友人にも似た主従関係だ。清いままでいようじゃないか」 「あの、それじゃあもう一度キス、なんていうのは……」 「女性同士でキスするなんて馬鹿なことを言うな。不純な関係は求めない」  あっさり拒否されてしまった。最初から自分だけが目を開いているつもりでいたなら、ルナ様の鉄壁のディフェンスを侮った僕がいけなかったんだ。  でも結局はキスをしてもらえたわけだし、それなら僕も嬉しいし、この立場のままでもいいかなあ  結局幸せなことに変わりはないから、現状を前向きに受けいれた。こういう流されやすいところはよくないのかな。 「ではそろそろホールへ向かいましょう。他の皆様が心配されているかもしれません」 「そうだな、そろそろ授業に出よう……あ、それと朝日」 「はい?」 「言い忘れたが、デザイナーに同性愛者は多いらしいぞ。ゲイとかな」 「は?」 「では先に廊下へ出ている」  もしかして、自分の照れ隠しでキスをなかったことにしたから、僕が落ちこんでたら気の毒だと思ってくれたのかな。  大丈夫なのに。だけどルナ様の恥ずかしがり屋なところも、少し遠回しな愛情表現もとても愛しい。  本当に優しい方だ。お慕い申し上げております、ルナ様。 「う。寒っ」 「ね、寒くなったねえこの頃。まだ十一月になったばっかりなのに、ねえ? 秋ってどこいった?」 「枯葉集めて落ち葉焚きでもやる? お芋焼いて、お嬢様方に配って……あーでも、皆様は焼き芋なんて食べないか」  焼き芋なら湊が好きそう(偏見)。 「ちなみに焚き火で焼き芋をする場合、どのような方法で焼くんですか?」 「え、やったことないの? 朝日って料理上手いのに、どこかしら抜けてるよね」 「ほらこの子、海外育ちだから。マンチェスターだっけ? イギリスには焼き芋ないの?」 「あの国は食文化が未熟なので、焼き芋なんて洒落た料理はないです」 「洒落てるか? そもそも焼き芋って料理?」 「ああ、なんだか話してたら食べたくなってきた。作っちゃおうか焼き芋」 「じゃあお嬢様方にお菓子を作る名目で、台所から二、三個多めに持ってきちゃいましょうか?」 「えー、でも八千代さんの管理厳しいよ? お嬢様方が食べてないのを知ったらすぐに見つかるよ?」 「あ、それは大丈夫です。あとで本当にスイートポテトを作ればいいんです」 「いや私も焼き芋よりそっちがいいよ。作ってよスイートポテト」 「それだともう、最初の趣旨からは全然遠ざかっちゃいますね。元々、暖まるために焚き火をして、その流れで焼き芋を作ろうって流れでしたよね?」 「だったら最初から暖かい屋敷の中で、焼き芋よりおいしい朝日のスイートポテトを食べた方がよくない?」 「そっちのがいいけども、私たちはホラ、落ち葉集め兼掃除中」 「それどころか手を止めてお喋り中」 「え、だったらもう休憩にして焼き芋食べた方がよくない?」 「でも焼き芋食べるには焚き火が必要。そのためには落ち葉が必要。てことは掃除が必要」 「じゃあ休憩して焼き芋食べるために働きますか」  あははと笑って、僕たちは持ち場へ戻った。  でも別れたはずの鍋島さんと百武さんは、すぐに僕の元へ集まってきた。 「あれ? 一点に集中して落ち葉を集める作戦ですか?」 「や。ていうか今さらなんだけど、朝日は何でここにいるの? まだお嬢様の衣装製作終わってないんでしょ? なんだっけ二着目?」 「はい。さっきまでアトリエで縫ってたんですけど、朝からこもりきりだったので疲れちゃって。体を動かそうと思ったんですけど、せっかくならお手伝いをしようと思ったんです」 「あ、皆様の仕事を息抜き代わりにしているわけではないのですが」 「真面目だなあ、この子。たまには仕事も本職も関係ない時間の使い方覚えなよ? 朝日かわいいし、恋愛だってその気になればできるでしょ?」 「この仕事してると新しい出会いが少ないからね。一回の出会いを大切にした方がいいよ。てか彼氏作ったらこっちにも紹介してえ。合コンしよう合コン」 「朝日ならいける! かっねもち! かっねもち!」 「社長夫人! 社長夫人!」  合コンするとしたら、僕は社長を連れてくる側かあ。紹介できるような男の友人……いないなあ。自分の兄くらいしか思いうかばない。 「小倉さん」 「あ、八千代さん……」  二人の先輩は光の速さで持ち場へ戻った。八千代さんが見逃すはずはないから、後で軽く怒られちゃうかな。 「お嬢様が探していましたけど、今日の制作はお休みですか?」 「いえ、休憩していただけです」 「休憩で掃除……たまには家事や服飾とは別の息抜きを覚えた方が良いと思います」  鍋島さんや百武さんにも同じことを言われた……人生の先輩方にこれだけ何度も言われるなら、趣味でも見つけた方がいいのかも。 「あ、それでルナ様はどちらに? アトリエですか?」 「ああ、部屋から出てきたところでした。自分の足で小倉さんを探すと言っていたから、アトリエには戻ってないと思います」 「そうですか。わかりました、私も屋敷内を回ってみます。ありがとうございました」  ルナ様の用件はなんだろう? 心当たりは沢山あるけど、デザイン関連のことかな?  とりあえずどこから探そう? 目的が僕なら、部屋へ向かってる可能性がある。どうせあそこは行き止まりだし行ってみよう。  そう思って途中の食堂まで差しかかった……ら、別のお嬢様二人を見つけた。 「あ。朝日、ちょうどいいところに。お茶菓子はどこにあるのかと思って」 「や、や、別に桜小路家の台所を漁ってたわけじゃないよ? 七愛とか北斗さんに頼もうと思ったんだけど、たまには自分たちで台所まで行って、食べたいもの探してみようかって話になって」 「あ、そうでしたか。お二人でしたら何なりと。冷蔵庫は説明するまでもなくこちらで、他のお菓子はこの棚です」 「ありがとう。それじゃあこの中から選ばせてもらおうかな……というより、朝日も一緒にどう?」 「はい? 一緒に、ですか?」 「そう。私たち、庭でお茶会をしてたから。最近はそういう機会もあまりなかったし、たまには朝日とも話したい」 「ユーシェも一緒だよ」 「あ、せっかくのお誘いなので、ご一緒したいのですが、私のことをルナ様が探しているみたいなんです」 「じゃあルナも誘おう! 他のメイドさんに頼んで、見つけたら庭へ来てもらうようにしよう!」  湊らしい回答だ。確かにそれなら問題なさそうだ。  ルナ様が、まず参加しないだろうという一点を除いて。今日は肌寒くはあるけど天気は良好。日差しは強い。 「……やはり、ルナ様を探してからにします。その後でお邪魔いたします」 「そ? 朝日がそういうなら、私たちは全然」 「遊びにきてくれるだけで嬉しい。それじゃルナを見つけたら……あ」 「ん?」  びっくり。噂をすればなんとやら、ルナ様本人がやってきた。  現れたのは、やはり僕の部屋のある方角からだ。玄関での選択は間違ってなかった。 「朝日、ここにいたのか。探してたんだ」 「私たちもルナのことを探してたところ」 「私たちも……ん? 瑞穂と湊が?」 「ううん、朝日も含めて三人とも。屋敷の庭でお茶会をしていて、ルナにも声を掛けたいと話していたから」 「お茶会?」  ルナ様は窓の方へ視線をやった。そう。彼女には本人の意思とは別に健康上の事情がある。  過去に同じシチュエーションで誘ったときも、別段、残念でもなさそうに断っていた。  本当に興味がないだけなのかは微妙なラインだからわからない。だけど最近は、少しだけルナ様のことがわかったつもりになっている僕の予想だと、彼女も誘われたらやっぱり嬉しいんだと思う。  ただ、途中で部屋へ戻ることになったら、周りにも迷惑が掛かり、自分自身も悔しい思いをすることになる。  その傷口を極力小さくするように心掛けて……今では、誘われた時点で断れば、限りなくダメージを0に近付けるように自分を仕立てあげたんじゃないだろうか。  そんなルナ様は、いつの間にか窓から視線を外して、僕の顔を見ていた。 「そうか、みんないるのか」  あれ? 即答で断らない? 「日差しも和らいできたようだ。今日は参加させてもらおう」  えっ!  と、心の中で声をあげたけど、ルナ様が僕をまっすぐ見ているから、驚いた表情をするのだけはなんとか抑えた。 「本当? ルナも来てくれる? 楽しくなりそう」 「お、おおおおおー! じゃあ私、日差し避けにテント張るよ! ほらこの屋敷のすぐ近くに小学校あったよね? 借りてくる!」 「私は運動会の放送委員か」 「パラソルもあるから大丈夫だと思う。心配なら日焼け止めいっぱい塗ってあげる。はい、背中を出してうつ伏せになって?」 「夏のビーチか」 「瑞穂の手で塗るの? それともこう漫画みたいに、むむむ胸を押しつけて!? うはー! それはエッチだ! 他人がされてるのを横で見てみたい!」 「夏のギャルゲーか」  いちいちツッコミを入れつつ、ルナ様は一度部屋へ向かった。日傘を持ってくるらしい。  何が嬉しかったって、食堂から出る際に、僕を見てくすりと笑ってくれた。さすがにここまで考えると自惚れが過ぎるかもしれないけど「君と一緒なら楽しめそうだ」と言ってくれてる気がした。  以前なら、それでも来てくれなかったかもしれない。僕との諸々、制作を手伝ってくれたお嬢様方への感謝、日差しや気温、色々な条件があるだろうけど、結局のところ「行きたくなったから」が一番の理由だと思う。  ルナ様は丸くなった。いつかは他人に毒突くことなんてしなくなるんじゃないかと思う。  ルナ様がやってきたことには、ユルシュール様も驚いていた。  でもすぐに察してくれたのか、優雅な微笑みをたたえて「ようこそ」とこの屋敷の主に声を掛けた。ルナ様は軒下に設置したパラソルの下で、太陽光を厳重に避けながら微笑みを返していた。 「少し曇ってるくらいでちょうど良かったのに。今日は天気が良すぎて、もう」 「夏以外で太陽に文句言うひと初めて見た」 「いいぞ。私も太陽なんか嫌いだ。もっと貶してやれ。朝日も夕日も白夜も朝日もみんな大嫌いだ」 「いま『朝日』が二回ありませんでした?」 「私が君のことを嫌いだなんて言うわけがないだろう? それとも私が信じられないとでも言うのか? 主人を疑う朝日なんて私の知っている朝日じゃない。素直じゃない朝日なんて偽日だ。大嫌いだ」 「わかりました。嫌われたくないので信じます。ルナ様は私を嫌いだなんて言いません」 「大変に気分がいい。素直な朝日は好きだ」 「私も大好き。でもね、最近は思うんだ。朝日を京都へ連れて帰りたいのは山々だけど、ルナとの友情も大切にしなくちゃいけないって」 「瑞穂……一応その、伝えておくが、我が国において同性は結婚できないんだ。女性同士だと不毛なだけだ。もし多少なりとも本気の要素が混じっているなら、健全な恋愛を求めたほうが良いと言っておく」  ごめんなさいルナ様、説得力がまるでありません。  むしろ最近は、このまま女で居続けなければ、付きあってはもらえないんじゃないかと不安になっているほどです。  昔、ルナ様が男性と付きあうとしたらどんなひとを選ぶのか、まるで想像ができませんでした。でもこんなひとであってください。 「朝日、鏡をじっと見つめてどうしたんですの? サーシャの悪い癖が伝染りましたの?」 「自分に見惚れるのは、悪いことじゃあ――ないぜ!?」 「じゃあ私も鏡を見る。ちくしょー、私ももっと釣り目がちで顔ちっちゃくて、背が低ければなあ……」 「オホホホ、それではルナのようになってしまいますわよ?」 「や、だからルナになりたいなってね!」 「あら、そうなんですの?」  ごめんね湊。僕の好みに近付こうという努力は嬉しいけど、ルナ様を好きになった理由は外見だけじゃないから。 「どうせなら私のようになりたいと思えばいいのですわ。よくご覧あそばせ、真似をしようにもルナと湊では決定的に体型が違いますわ。身長は縮められないし、胸の大きさは変えられるものではないでしょう?」 「ルナになりたいと思うくらいなら、体型が近くより美しい私の真似をすれば良いのですわ! 髪の美しさを保つ秘密と、肌の美しさを保つ秘密、どちらでもお答えしますわよ?」 「そういえばユーシェは、十二月のショーに出す予定の私の衣装が大好きだったな」 「してませんわ、そんな話。私の美しさとは何かを話しあっていたのですわ。都合の悪い話だからと言って、自分のしたい話だけをするのはやめていただきたいですわ」 「呑んだくれて帰ってきた日の私のお父さんみたいだね!」 「ちなみに呑んだくれた日のお母さんはお父さんよりひとの話を聞かないけどね! 私も将来そうなる予定だよ!」 「女性がはっきりとものを言うのはいいことじゃないか。私は亭主関白や男尊女卑という、この国に根強く残るふざけた慣習が大嫌いだ」 「朝日はもう少しはっきりと意見を言ってもいいと思う」 「いえ、このままで問題ないのだと思います」 「ん?」  よかった。僕とルナ様なら、亭主関白とは確実に逆パターンだ。  あ、というより結婚はさすがに発想を飛躍させすぎだ。だけど僕とルナ様の間で普通の彼氏彼女期間って想像できないし、もし付きあえたら意外と近い将来の話なのかも? 「うちの朝日はもう駄目だ。一人でにやけたり悩んだりしている」 「じゃあ十二月に使う衣装の話に戻すけど、進行具合は今どのくらいなの? 夏休みほど切羽詰まってはいないみたいだけど」 「あれ、おかしいですわー。私の美しさについて質問が寄せられるはずでしたわー」 「努力は認めるが、ユーシェの場合は素材の良さによる部分が大きいから、美しさの秘訣を聞いてもあまり興味がそそられない。以上」 「で、その美しゅールに着せる衣装だが、一度衣装を完成させて朝日が要領を掴んだのか、製作自体は順調だ」 「ただあと一着作るし、元々の時間がないから、間に合うかどうかはぎりぎりのラインだが」  一着目が、八月、九月で二ヵ月。今回の衣装が十月を使って、あと半月で一ヵ月半。残り期間も一ヵ月半……うん、ぎりぎりだ。 「まあ前回は、生活に支障が出るレベルで製作を強行して倒れたメンバーもいたから、今回は適度に力を抜くように厳しく言いきかせてある」 「はい。最近はちゃんと寝るようにしました」  僕が倒れたあの日、性別がバレなかったのは湊とサーシャさんの協力があったからだ。よく無事に済んだと思えるほど絶体絶命だった。いま思いだすだけでも冷や汗が出る。 「というより、三着も作るなら最初からその通りのスケジュールを組めば良かったのですわ。どうして一着目にあれだけ無理をするのかと思っていましたから、驚きましたわ」 「一着目にどれだけ時間が掛かるかわからなかったんだ。縫製の経験的にも不安要素があったし、一着目の完成が十月に割りこむようなら諦めようと思っていた」 「全員に無理をしろというわけにもいかないし、話せば君たちは夏休みを潰して協力してくれるかもしれないだろう。だから言いだせなかった」 「またそうやって、普段は生意気なくせに、妙なところだけ気を使う……その性格は直した方がいいですわ」 「結局は一人で全てを抱えこんでいるだけじゃありませんの。話してくれなければ、私たちが相談に乗ることすらできませんわ。なんのためのグループですの?」 「そうだな、今は反省してる。今後は君たちのことをもう少し頼るよ」 「あ、あら、そうですの? なんだか素直に非を認められてしまうと、張りあいがありませんわね……」  ユルシュール様はつまらなそうにしているけど、以前のルナ様なら確実に言いかえして二人の争いになっていたと思う。  ルナ様が入学する際に「協調性を学ぼうと思う」と言っていたけど、その目標は少しずつ達成に近付いてると思う。 「三着全てができあがれば、充分なアピールになると思ってる」 「そうだと思うよ! 他の子たちのグループは、一着で済ませる子がほとんどみたいだし。ちょっと浮いちゃうくらいかもしれないね」 「浮いて当然ですわ。私たちのクラスでこれだけ真面目に衣装製作をしているひとは他にいませんもの。最初に作った一着だけでも最優秀賞に選ばれると思いますわよ」 「どうだろう。一般入学の生徒たちは、真剣にやっている連中が多いからな。本気で勝利を狙うなら、こちらも全力で挑むべきだ」 「それに私たちの勝利はショーで一番になることじゃない。見学に来た業界関係者たちの記憶に私たちの名前を覚えさせることだ。それができて初めて私たちの勝ちだ」 「その為には、浮くどころか圧倒するほどでなくては困る。私たちの衣装を見て、来年からは、真剣に取り組む流れが全生徒の間で自然になるほどの存在感が必要だ」 「ショー全体のレベルが上がれば、初年度だからというだけではなく、来年からも来場者が増える。卒業製作の際には、業界に対して最高のアピールをできる環境を、自分たちで用意しようじゃないか」  うん、と僕も含めた四つの頭が頷いた。他の三人は手を叩いてルナ様の意思を褒めたたえている。 「とはいえ、私も三着作りあげる自信はなかった。だから手の届くところまで来られたことに感謝している」 「最初からテーマは決まっていたからな。三着揃って、ようやく私の衣装が完成するんだ」 「テーマですの?」 「ああ。私の友人三人が私の衣装を着て舞台に立つ。それが理想としたステージなんだ」 「う」 「お」 「きゃ」  少し照れくさそうに微笑むルナ様を見て、その友人たちは三者三様の表情を浮かべた。 「ま、まあ? そこまで言っていただけるなら、私もデザインの勝負をした甲斐があるというものですわ。そうですわね、私はルナの友人ですものね」 「うん。いつかまたお互いに手を取って、この庭園を夜中に歩きたいものだな」 「ぴっ」 「ぴっ」てなんですか。スイス式の悲鳴でしょうか。  あまりにルナ様が素直だったせいか、錯乱したユルシュール様は顔を真っ赤にしたまま、しばらく口をぱくぱくさせていた。  わかります。素直なルナ様は天使ようにかわいらしいですよね。 「私も? 私もルナの友達?」 「当たり前だ。いつも明るく前を走ってくれる湊には感謝してる」 「うひゃー! こいっつは照れるわあー! 金魚みたいに口バクバクさせてるユーシェの気持ちもわかるね! 私、ルナが相手なら素直に勝てないやと思えるよ!」 「なんの話だ?」  僕の話です。 「照れるね惚れるね嬉しいね。たはー、ほーんと友情っていいね! 瑞穂も友情を深めなよ。もっともっと応援したくなれるよ」 「はい」  瑞穂様はユルシュール様や湊とのやり取りを聞いて、とっくに期待を抑えられなくなっていた。頬が紅潮し、今か今かと自分の番を待ちかまえている。 「ルナ。私にも言って」 「ああ。ここまでひねくれて育ってしまった私に、嫌な顔を一度もせずに付きあってくれる瑞穂は、尊敬できる私の大切な友人だ」 「こっ、呼吸が……! 私としたことが、はしたない……北斗、酸素を……早く、酸素ボンベを……!」  興奮しすぎた瑞穂様は呼吸困難に陥っていた。飢えた人間に、いきなり大量の食物を与えてはいけない。受けつけきれずに内蔵を壊してしまうから。  それと同じように、瑞穂様は大量の友情を受け止めきれずにふらふらしていた。でも気持ちはわかる。  だけど本音を伝えるのはいいとしても、ちょっと素直になり過ぎじゃないかな? 明日から別人のように性格を変えられるとも思えないし、何かフォローはしておいた方がいいんじゃ……。  と心配していたら、ルナ様も考えは同じだったらしい。見守る僕に「大丈夫だ」と言わんばかりに頷いてみせる。 「私は素晴らしい友人たちに恵まれて幸せだ。どうやら私の愛情も受けとってもらえたみたいだし――」 「――私に愛を与えられたのなら、君たちは奉仕の精神に則って労働で感謝を示すべきだな。明日から全員馬車馬のように働け。遠慮は要らない、その日一番頑張った者には、愛の証として私が頭を撫でてあげよう」 「やった。撫でて」 「くぅーん!」 「誰が犬ですの!? 誇り高き私を犬扱いして、どういうことですの? 友人として抗議いたしますか!?」 「日本語の文法間違えてるな。それと犬だなんて言ってない。湊が勝手に鳴き声を出しただけだ」  ルナ様は僕たちの空気を普段の温度まで戻すと、日陰の中ですっくと立ちあがった。 「みんなに働けと言っておいて、私自身が寛いでいたのでは士気に関わるからな。そろそろ部屋へ戻ることにする」 「ん……あら、せっかくルナとの紅茶の時間は久しぶりなのに、もう行ってしまうんですの? まだ先ほどの文句も言いたりていませんわよ」 「すまない。日陰にいても太陽光の影響は充分にあるし、あまり長時間外に出ているのは怖い。また夜の茶会にでも誘ってくれ。今後は時間に余裕があればできるだけ応じたい」 「あ、夜のお茶会なんていうのも素敵かも。しばらくは寒い時季が続くけど……」 「それも春の終わりまでお預けですわね。残念ですけど、仕方ありませんわ」 「紅茶はとても美味しかった。誘ってくれてありがとう、みんなはもう少しゆっくりしていくといい。ただ、その後は、もう二ヵ月の間だけ力を貸してほしい」  頭を下げているわけでもないのに、ルナ様から頼まれると腰が低く聞こえるから不思議だ。 「クワルツ賞のときの借りを返したいんだ」  クワルツ賞……そういえば、衣装をきちんと作るのはあのとき以来だ。  あの賞も、審査に通れば最終的には三着の衣装を作る。自分のデザインした三着の衣装を世間に見てもらう、という部分を考えれば、クワルツ賞のリベンジとしては成立する。  だけどその賞の名前は決して明るくはない記憶も呼びおこした。僕は口にできなかったけど、同じことを感じたひとがルナ様に声を掛けた。 「クワルツ賞……あの賞とは規模も違いますし、そもそも事前に名前が出ないという時点で状況は全く違いますわ。ですが」  一瞬だけ躊躇うも、ここにいる人間は事情を知っているからと判断したみたいだ。ユルシュール様が言葉を続ける。 「ご実家の方は大丈夫なんですの?」  今回のショーには関係ないと思って気にしてなかったけど、ルナ様が実家の妨害を受けて賞を辞退したことがあるのは事実だ。  まさか学院の行事にまで干渉してくることは……でも、それは僕の常識だ。彼女の家族がどういうひとなのか、一番よくわかっているのはルナ様だ。 「心配はいらない」 「ルナ様……そう、言い切れるのですか?」 「クワルツ賞の辞退で義理は果たした。これ以上の干渉をすると言ってきたら、それこそいい機会だ。もはや頼みを聞いてやる義理はないとはっきり突きつける」 「その上で圧力をかけてくるようなら、私にとっては将来の行方にも関わる明確な敵だ。それこそ大人気ない財力で黙らせてやる。血の繋がりがあっても容赦はしない」  迷いのない物言いに、僕たちは何も言えなかった。  次の言葉をお互いに探りあっている。その様子に気付いたのか、ルナ様は苦味の混じった笑顔を浮かべた。 「すまない、クワルツ賞のことは余計だった」 「いえ、私の方こそ余計な心配をしましたわ」 「ユーシェが謝るなんて、私はよほど真顔で話していたんだな。それは恥ずかしい」  ルナ様は、今度は苦味の抜けた笑顔を浮かべてくれた。そしてすぐ僕に指示を出す。 「せっかくの楽しい空気を壊してしまった。朝日、ピエラナイのマカロンを出してあげてくれ」 「あそこのマカロンおいしいよね!」  スイーツはいつだって女の子たちの空気を明るくしてくれる。はしゃぐ湊を見たルナ様は、今度こそ部屋へ戻っていった。  でもやっぱり僕は……気になるなあ。以前なら君が気にする必要はないとでも言われそうだけど、今なら本気で心配していることを伝えれば拒否はされないと思う。  あとでルナ様の部屋を訪ねよう。誰にも邪魔のされない深夜にでも。  お茶会を終えてからは、恙無く何事も進めることができた。  三人のお嬢様たちはお茶会のお陰でモチベが高くなり、今日の工程は順調に消化できた。ルナ様自身も楽しそうに刺繍を進めてくれていたし、進行の具合に良し悪しはあるけど今日はかなり良い方だ。  というわけで、僕も部屋で物思いに耽る程度の余裕が生まれた。製作以外のことは一分たりとも考えられない日に比べればすこぶる上等。  今からルナ様の部屋を訪ねる前に、聞いておきたいことと、僕の知っている彼女を取りまく家庭環境をまとめておくと……。  まず僕は桜小路本家に顔を出したことがない。ルナ様がご両親の収入に頼って生活しているなら、雇い主は本家になるわけだから、ご挨拶に窺って当然だ。だけど彼女は自活していて、僕の主人は徹底してルナ様だ。  だから彼女の家族の情報は、メイド内の井戸端会議で噂話として入ってくるくらい。  ルナ様を腫れ物みたいに扱っている、とか……起業家として成功している今では妬みや嫉みも混じっているとか。  でもそれは最初からネガティブフィルターを通した感想で、情報としては極端な一面からしか見ていない。本家のメイドと桜屋敷のメイドの仲が悪いのも関係して、鵜呑みにはできない。  僕の兄も怖いひとだけど、慈善事業を施した地域の住人からは感謝されてるって話だもんなあ。  いま僕が持ってる情報は、ルナ様とその父親は仲が良くないということ。  原因は、ルナ様を外見だけで疎んでいたこと、育ちかけていた彼女の性格を否定したこと。向こうからすれば、そんな風に侮っていたルナ様が、資産の面で自分を超えて、それがプライドに触ったこと。  うーん、見事にネガティブなものばかり。まだ情報が一方的とはいえ、今のところルナ様のお父様に関しての良い材料は、同じ貴族のユルシュール様が考え方は認めてるってことかなあ。  じゃあ母親は?  そっちは気にしたことがなかった。まだお亡くなりじゃなければ、とうぜん本家にいるはずだ。  そのひとは現在の情報量だと味方とも敵とも判断し辛い。できればルナ様の保護者であって欲しい。  ご兄弟もいるみたいだけど、井戸端会議上の話では、それぞれ家を出てるみたいだ。  とりあえず、僕の知ってるルナ様の家族の情報はこんなものかな。  本人がどれほど実家のことを意識しているかはわからない。もし全く気にも留めてないというなら、二人だけの時間を作ってちょっぴり恋愛的な時間になれば嬉しい。  よし。記憶の整理はできたし、そろそろルナ様のもとへ向かおう。  目的はルナ様に元気でいてもらうこと。胸に愛をひとつ抱えて部屋を後にした。 「ルナ様、夜分に失礼いたします。朝日です」 「朝日? どうしたこんな時間に。いま鍵をあける」  声を聞いた印象だと、寝てはいなかったみたいだ。訪れた理由を確認するまでもなく、鍵を外して扉を開いてくれた。 「もしかして、まだ製作を続けていたのか? 遅れはないはずだし、無理はするなと……」 「あ、いいえ違います。ルナ様とお話できればと、お邪魔させていただきました」 「ああなんだ、私と話したかっただけか?」 「はい」 「ふうん」  ルナ様の口元が小さく微笑んだ。僕が会いにきたことを喜んでくれたみたいだ。 「話をするなら飲み物とお菓子も欲しいな。朝日の好みで構わないから、フレーバーティーを用意するように。茶菓子はクッキーがいいな」 「まだ歯は磨かれてなかったのですか?」 「あとでもう一度磨く。せっかく夜に部屋まで来たんだから、一時間くらいは話していくんだろう?」  もう23時なんだけど、明日の朝は大丈夫かな。でもルナ様が嬉しそうにしてくれているから、彼女のお気に召すままの注文を用意するためにキッチンへ向かった。 「昼の茶会は楽しかったな」  僕が紅茶をトレイに載せて戻ってくると、紅茶を手渡したときにはルナ様が話しはじめていた。 「お茶会ですか?」 「そうだ。今日はあまり長い時間はいられなかったが、これからはああいった時間を増やしていきたいと思う」 「皆様も喜ばれると思います」 「おかしな連中だな。どうして私が参加すると喜ぶんだ。私が機嫌悪そうにしていても、部屋へ閉じこもっていても声を掛けてきて」 「ルナ様のことを好きなのだと思います。そのような友人に恵まれたことをお喜びください」 「うん」  紅茶を口に運んだ後のルナ様の唇から、ほうっと息が漏れた。運んできたばかりだから、少し熱かったみたいだ。 「ただ……まだ、一人では不安も多い。朝日も一緒にいてほしい」 「不安? ルナ様は皆様とお話しすることが怖いのですか?」 「んー……怖い、というかだ」  ルナ様は眉を寄せて渋面を作った。こんな表情も見せてもらったのは最近だ。 「自覚はあるが、私は口が悪いだろう。努力はするが、そうそう直るものでもない。誰かフォロー役が必要だ」 「はい。そういうことでしたら、いつでも側に控えているようにいたします」 「ありがとう。ほら、褒美だ」  ルナ様がクッキーの一つを手に取って僕の口元へ運んできた。  一瞬だけ戸惑ったけど、手で受けとらずに、口を開いてダイレクトに咥えこんだ。でもさすがに、そのまま齧るのは主人の前でどうかと思ったので、指を使って口の中へ押しこんだ。 「かわいい生き物にものを食べさせるのは楽しいな」 「餌付けされている気分です」 「餌付けしてるんだ。もう一枚どうだ?」  ルナ様の手で差しだされた食べ物を拒否するわけにもいかない。僕はもう一度パクついた。  そしたら今度は自分で口の中へ押しこむ前に、ルナ様の人差し指が、つん、とクッキーのお尻を押した。その指の先が僕の唇に触れるまで押しこんでくる。  彼女の指が触れたところで、それでもまだ引こうとしないから、歯を使わずに軽く指の先を挟んだ。それが嬉しかったのか、ルナ様の人差し指が唇の稜線を撫でていく。少しくすぐったい。 「じゃれたかったのですか?」 「そうだ。じゃれたかった。なんなら、そこへ座ろうかな」  ルナ様の目が僕の膝の上を見ている。その小さな身体をここへのせたら、後ろからしっかりと抱きしめたい。ルナ様にも甘えてほしい。  だけどその前に。このまま流されてしまわないように唇をルナ様の指先から離した。その手を握って、追いかけて来られないようにする。 「ん? どうした?」 「いえ、この手の触れあいをしてしまうと、時間が足りなくなってしまうので……その前に私の話だけはしておきたいと」 「ああなんだ、朝日にはちゃんと話題があってここへ来たのか。それは邪魔をして悪かった」 「いえ、これはこれで嬉しかったんです。私が話しはじめる前から、待ちきれないとばかりにルナ様が喋りはじめてくれたので」 「私との会話を、ルナ様がそれほど楽しみにしてくれているとは思いませんでした。そう思うと愛しくて、つい悪ふざけに興じてしまいました」 「仕掛けたのは私だ。君が謝る必要はない。で、話とは?」  会話が照れくさかったのか、早くくっつく時間が欲しいのか、ルナ様は僕の話を急かした。 「はい……ご実家のことです」 「実家?」  怪訝そうな顔をされた。だけどすぐそれに気付いたのか、柔らかい表情を取りもどす。 「私が欲しいと両親のもとへ談判でもしに行くのか?」 「ち、違います。私たちは女性同士です、ルナ様」 「冗談だ。話の腰を折ってすまない」  謝ってはいるけど、話が深刻にならないよう、配慮してくれたのかもしれない。だとすれば、ただの冗談ではなく、必要な一言だったという気もする。  それと、もしかしたら近いうちに冗談ではなくなるかもしれないので、覚悟しておいてください、ルナ様。 「今日のお茶会で、ご実家の話が出ましたが」 「ああ、そんな話題も出たな。気にしたつもりはないが」 「はい。ですが、以前のことがあるので、私が気になりました。ルナ様は、本当にそれで良いのかと」 「ん?」 「もし無理をしてご決断されたなら、その気持ちを分かち合えないかと思いました」 「文化祭のときは、私が何も知らずにルナ様の支えになるのが遅くなりました。もしお嫌でなければ、なぜご実家に遠慮する気持ちを持っているのか、教えていただけないものかと……」 「私の支えになりたいのか?」 「はい。知ることで力になれる場面があるのなら、聞いておきたいと思います」 「じゃあキス」 「は?」 「キス。してくれるなら話してもいい」 「はっ!?」  え、えええ。キスってあの、いつも建前上は認めないと言われてるのに?  真面目な話をしてるときに酷い。そんなことを言われたら、どうしても頭の中が恋愛に傾いてしまう。 「いぇあの、しし、したいとは思うのですが、今まで駄目だと言われてきたもので、あのっ」  ああもう、自分が情けない。もっと真剣にルナ様の過去と向きあわないと。 「で、では。ルナ様からお許しいただけるなら、この後の話を聞くためにも失礼いたします!」 「冗談だ。不純な関係は求めないと、いつも言っているだろう」  顔に平手をぺちんと当てられた。ひとの気持ちをここまで盛りあげておいて、ずるい。 「朝日」 「はい」 「少し語ってしまうかもしれないが、聞いてもらってもいいか?」 「はい」 「少し恥ずかしいことを口にするかもしれないが、それでもいいか?」 「はい。お待ちしています」 「待つな。まあ、最後まで聞くというのならいいだろう。いま言った通り、こちらが恥ずかしいことを語る場面があるかもしれない。ここへ来い」  ルナ様はベッドの縁へ腰掛け、その隣をぽんぽんと叩いた。以前にも同じ場所で話した覚えがある。 「正面から恥ずかしいことを言わされるのは困る。隣同士がいい」 「はい。かしこまりました」  そういう理由があったんだ。僕は彼女の望むままに、その隣へ腰を下ろした。 「私は実家に対して遠慮をしたと思ってはいなかったんだ。いや、結果的には遠慮をしたんだが、昔からそういうものだったから気付くのが少し遅れた」 「え?」 「私が何かをして家の中で話題になると、母親がいつも悲しむんだ」 「だから子どもの頃はそういうものだと思っていた。私は母を悲しませないために、表舞台に立ってはいけないんだと」 「私は表の世界には出ず、誰かの話題に出ることもなく生きていくものだと思っていた」  のっけから重い話だった。それも、僕が知っている彼女の過去にも触れる、聞いていて辛い部分だ。  だけどそれなら、やはり彼女は無理をしている可能性がある。主人の支えになりたい僕は、この話を避けるわけにはいかなそうだった。 「誰からも話題にされずに育つなどと、どうしてそんな悲しいことを仰るのですか?」 「言ったろう、母親が悲しむんだ。私の名前を聞いたり、私の存在を思いだしたりするとな」 「私の母親は良家の出身で、何一つ不自由なく育ち、温厚で優しく、夫の言うことに従う典型的な大和撫子だ」 「まあ瑞穂のような感じか。一時期は心労で入院したりもしたが、今は元気に本家の屋敷で過ごしているよ」  あ、お元気いらっしゃるんですね。亡くなったとか、そういう話じゃなくてよかった……。 「ただ瑞穂と違って、真面目で小さいころから決められたこと以外はしなかった」 「本当に親切で、世の中にいる変わった人間の存在は知ろうともしないひとだったらしい」 「何故お母様の性格をひとから伝え聞いたように話すのですか?」 「そのままだ。ひとから聞いた話がほとんどなんだ、私が母と実際に会って話したことは数えるほどしかない」 「私が生まれた直後、髪も肌も白い娘を見て、母は涙を流して私に謝ったらしい」 「生まれてすぐの私を、屋敷の中の隔離された部屋へ閉じこめたのは父だ。だがそう頼みこんだのは母だった……私が表に出れば、辛い思いをするからだと言ったようだ」 「え?」 「わかったか? そうなんだ。彼女は生まれてすぐの私を見て、そう思ったんだ。祝福でもなく喜びでもなく『かわいそう』だと」 「生まれてまだ何もしていない内から、私が一番最初に向けられた感情は、母の憐れみだったんだ」  すでに何度も同じこと考えて、諦めを何度も経験しているのか、ルナ様の表情はこの話に慣れきっていた。  だけど話すこと自体には慣れていないのか、僕の顔を見ようとはしなかった。淡々と虚空を見つめている。 「私は何も憐みを向けられる理由がなかった。なのに母は、生まれてきた私をかわいそうだと言った」 「当時の世話係だった丸目に聞いた話では……母は、私を嫌っても憎んでもなかったらしい。生まれるまでに愛を込めた分、純粋な気持ちで『人より運が悪く生まれてしまったもの』として悲しむんだ」 「ルナ様……」  ふと昔の自分を思いだした。僕も望まれぬ子として生を受け、それを自覚していた頃もあった。  だけど母は、産みおとした僕の一生を(恐らくは)望んでくれた。祝福をしてくれた。  それが許されなかったルナ様は、何を光として歩いてきたんだろう。 「初めて母に会ったのは二歳のときだった。父は嫌がったらしいが、そのときは丸目が何度も願いでて、会えば気持ちが変わるかもしれないと説得したみたいだ」 「そのときの母は人とはあまり会わず、屋敷で療養していたらしい。私を産んでから心痛で内蔵が弱り、しばらくは動けなかったそうだ」  それもルナ様が物心のつく歳になり、全てを知ったときには辛い事実だっただろう。慰めることも、自分を主張することも、謝ることもできずに、母親が自分のせいで体を痛めていたんだから。 「私は母というものをよく知らなかったし、初めて会ったときは『誰?』という気持ちが強かった」 「ただその頃は、世話係以外の人間に会える機会すら滅多になかったからな。単純に嬉しかったんだと思う。気持ちまでは覚えてないが『はじめまして』と挨拶したのは記憶に残ってる」 「母はそんな私に対して、最初から頭を床へ擦りつけ、泣きながら謝罪を繰りかえした」 「私は『ごめんなさい』の意味は知っていたけど、謝られる理由がわからなかったから、このひとは誰かと間違えて謝っているんだと思っていた」 「でも、それはやはり私のことだったんだ。それ以来、私が自活できるようになるまで、母と再び会うことはなかった」 「家族の中では私の名前すら禁忌になっていたらしい、思いだすと母が泣いてしまうからだ。私は母の記憶の中にいてはならない人間になったんだ」 「いっそ罵倒された方が楽だったのかもしれないな」  それまで冷静に話していたルナ様の手に、初めて僅かな力が加わった。叶うことのない過去の希望を口にしたせいで、握った拳が小さく歪む。  だけどすぐにそれが詮なきことと気付いて、彼女は淡々とした口調を取りもどした。 「感謝することもできないなら、生まれてきたことを謝ってしまえば楽だったかもしれない。だけど彼女はそれすら許してくれなかったんだ」 「そんな、いけません。生まれきたことを謝るなんて。ルナ様がここにいることを否定して欲しくありません」 「ありがとう。でもどのみちそれは無理だったんだ。私は部屋に閉じこめられていて、自分から会いに行くことはできなかったからな」 「それに母の子どもは私だけじゃない。兄も姉もいる。私のせいで、これ以上彼女を苦しめて独り占めして、病の床へつかせておくわけにはいかなかった」  この言葉のニュアンスから察するに、ルナ様の兄や姉も味方ではなさそうだ。 「いつか私は自分が表に出たいとは思わなくなった。私を見れば母が苦しむ。私の名前を聞けば母が悲しむ。それならずっと部屋の中にいればいいと思ってたんだ」 「いっそのこと無知でいれば良かったのかもしれないが、それまでに丸目に与えられた本を読んでいたせいで、知識だけはあるのが辛かった」 「世間には学校というものがあっても、私は父親の金の力で単位を買い、本を読むか絵を描くかの毎日だ。知識だけは増えていくが、それを生かせる場は永久に来ないと思わされる絶望感」  どこかで聞いた話だった。決定的に違う点はあるけど、閉じこめられていたことも、外の世界に淡い期待を抱いたことも。  だけど家族という味方が一人でもいたことが僕とルナ様の大きな違いだ。  喋りつづけて少し喉が渇いたみたいだ。ルナ様は冷めた紅茶を飲みほし、その苦味を味わうように口を歪める。  その話の継ぎ目に僕は自分の話を挟んだ。 「私は……」 「ん?」 「私は幼い頃、母と二人きりで狭い部屋の中へ閉じこめられて暮らしていました。その母はもういないのですが」 「とても不自由で、ルナ様とは違い、あまりものも与えられませんでした。そのせいか、母を恨んだこともありました。その言葉を口にしたせいで、私を産んでしまったことを謝られた日もありました」 「事実なのか?」 「はい。いずれ、きっと、お話すると思います。ルナ様から許可をいただいたときに」  だけどまだ僕の秘密を明かすことは許されてない。今は説明できる範囲の過去の話をしよう。 「私の母もいつも謝ってばかりで、それでも私は産んでくれてありがとうと感謝することができました」 「自分でそう思っている内に、母は私が側にいたことを喜んでくれていたのではないかと思うようになりました。もちろん確かめたわけではないのですが」  できればルナ様のお母様もそうあって欲しい。だけど気休めは言えない。 「私の持論ですが、好きになった相手は、同じだけ自分のことを好きになってくれるのだと思います。恋愛だったり、期待だったり、余計なものを求めない限りは、ですが」 「君は難しいことを言うな。相手に何も求めない愛情なんてあるのか」 「そう思いこんでいれば、相手から好きになってもらえなくても、自分の愛に余計な気持ちがあるからだと、他人のせいにしなくて済むのかなと思うんです」 「そこまでいくと宗教だな。でも、うん。君は君の母親から愛されているよ。確かめようがないんだから、それは事実だ」 「それなら私も、いつかは母から愛してもらえそうだな……少なくともそう思いこむことはできる」  チープな信仰ではあるけど、ルナ様の表情が苦しそうではなくなった。  だからきっと僕の哲学は、抱えていてよかったんだと思います。産んでくれてありがとう、お母さん。 「それで……ルナ様が閉じこもり、その後はどうなったのですか? ずっと部屋にいたら、いまここにはいませんよね?」 「うん。私は部屋から出ないよう決めた……んだが、ユーシェと瑞穂に出会って、表の世界の楽しさを知ってしまった」 「それでも数年は大人しく閉じこめられていたんだが、君も知っての通り……丸目がいなくなったことで人間不信になった時期があったんだ」 「そのときに、母が悲しむのは私をまだ愛してくれているからだと思うようになった」 「それならいっそ、大きな失敗をして嫌われれば私のことを単に忌むようになるだろう。万が一成功すれば、母は私を認めてくれるんじゃないか、と考えた」 「そこで新しく世話係になった八千代に頼み、父から与えられる養育費の一部を小遣いとして貯金してもらうことにした。それを一年半貯めて、株に手を出したんだ」 「いっそのこと多額の損失を出してしまえば、家からも追いだされ、すべてが吹っきれるような気がしていた。いま思えば厭世観みたいなものだったな。反省している」 「しかしそれが大当たりしてしまい、結果大きな軍資金が手に入った。そのあとは君も知ってる通り。ソーシャルアプリに手を出して、それも大成功し、安定した投資と企業経営に切りかえた」 「部下に恵まれたこともあって、この通りの生活だ。いや運が良かった」 「お父様やお母様から、お誉めの言葉はあったのですか?」 「まったく。父は自分の代で経営を悪化させたこともあり、忌み子扱いしていた娘に総資産で上をいかれ、余計に私を厭うようになったよ。プライドの高い父だからな」 「母は相変わらず、私の話題が出るたびに、産んだことを謝りながら大泣きするそうだ。プレゼントなども贈ってみたが、完全に逆効果だったようだ」 「やがて桜小路家全体が私を頼らざるを得なくなり、それでも父は頭を下げることができず、命令することもできず、最終的に母が泣きながら私に融資の依頼をしてきた」 「そうなったとき、プライドに苦しむ父と、未だに私への罪悪感に苦しむ母に、いい加減疲れてしまった。私は彼らと離れて生きることに決めたんだ」 「彼らの損失を埋めるだけの額で桜屋敷を購入し、私は実家と縁を切った。そうすれば母が私を娘として扱うこともないだろうと割り切り、自分の好きな世界で表舞台を目指すことにした」 「もう彼らに遠慮するつもりはない。だから本当に、私は無理なんてしてないんだ」 「ですがルナ様は、情が深いお方です。本心ではお母様のことを考えてしまい、心を痛めていないかが心配です」 「ああ、君の言うとおりだ。割りきったつもりになっても、案外脆いものだな。クワルツ賞のときは『私の名前が雑誌に載れば今は体調を持ちなおした母が寝込む』と父に言われ、情けなくも私は屈した」 「屈したという類のものではありません。ルナ様はお優しいだけです」 「それでも折れたことに変わりはないだろう? やはり私は彼らと自分を切りはなせないのかと、それなりに落ちこんだ」 「ルナ様……そのときに悩みを聞いてさしあげられず、申し訳ありません。お一人で辛かったでしょう」 「いや? そのときは八千代に話したから、一人で抱えこんだりはしなかった」 「わっ!? な、なんだ朝日、怖い顔して。怒ってるのか?」 「怒ってません」  何故か僕は八千代さんにだけは嫉妬心が強かった。こういう感情はよろしくありません、ってわかってるのになあ。 「だけど今回は本当に大丈夫だ……今回とクワルツ賞では、決定的に違う部分があるだろう」 「決定的に、ですか?」 「そうだ。クワルツ賞は私個人の作品だが、今回はグループでの出展だ。湊やユーシェ、瑞穂の名前も懸かってる」 「私一人で作ったものじゃないんだ。そう考えたら、私個人の事情は気にならなくなった。私の家族が悲しむからと言って、大切な友人たちの手間と時間を無駄にさせるつもりは、ない」 「今度こそ私は、彼女たちと共に前へ進むんだ。いつまでも過去に拘る家族に囚われたくない。彼らには自力で立ちなおってもらうしかない」  たとえ頭ではわかっていても、情に囚われる苦しさはあるはずだ。それでもしっかりと前だけを見据えている。  これなら本当に大丈夫だ。目がはっきりと前を見てる。その声にも力強さがある。 「ルナ様、ご立派です」  自信に溢れた僕の主人を見て、これほど頼もしいと思ったことはなかった。  それと同時に、彼女の過去の切なさに、愛しさも大きく膨れあがっていく。  そんな熱のこもった視線に気付いたのか、ルナ様は斜め下からちらりと僕を見上げた。 「それと、もうひとつ今回の賞を譲れない理由がある」 「はい? なんでしょう」 「君は鈍いな。私がいま大切にしているものと言えば、友情だけじゃないだろう」 「と、言いますと?」 「君の未来だ。あの作品が認められれば、君の実力の証になるだろう」 「あ、はい。そうですね、とても嬉しく思います。一度は諦めかけた世界へ残ることができますから」 「もっと喜んでいい。最優秀賞を得て才能が認められれば、永久に私の側にいればいいんだ」 「はい、永久に……えっ?」  驚いた瞬間に手を握られた。その肌が熱い。 「私が将来、共に歩いていきたい一番の相手は朝日だ」 「一生努力し続けて、私のパートナーでいて欲しい。服飾の世界だけの話じゃない。心も体も君の全てが欲しい」  全身がぶわりと総毛立った。寒いんじゃない、むしろその逆だ。  顔のすぐ下で、紅い瞳が揺らめきながら僕を見上げてる。吸いこまれそうなほど美しい紅だ。 「私じゃ届かない。今すぐキスをしろ。命令だ」 「ルナ様……ですが、まだ目を閉じておりません。このままでは、その瞬間を私がはっきりと見てしまいます」 「君は本当に鈍いな。それでいいと言ってるんだ。君が女性だろうと構わない」  突然、僕の両袖をがわっしと掴まれた。続いて、皺が寄るほどの力で握られる。これでもかと言わんばかりに強く!  その静かだった紅が、情熱の炎を灯して燃えあがった。 「不純な関係を求めたいんだ」 「ルナ様っ……」 「ルナ様っ!」 「んっ!」  止まらなかった。乱暴な強さで彼女の唇を奪う。  情熱的なキスをした。強く唇を押しつけ、どちらからともなく舌を絡める。唾液を奪い、飲みこみ、相手に飲ませて、それでもまだ求めあう。  その強い愛撫は、お互いの呼吸が苦しくなるまで続いた。やがて一筋の唾液に繋がりを残して、僕とルナ様は荒い呼吸を吐きながら唇を離した。 「はあっ……」 「はぁ、はっ……ごくっ……」  混ざりあった唾液を飲みこむその顔は、とても誇りの高い僕の主人とは思えない。銀の淑女が淫らに蕩けた目で僕を見上げている。 「朝日……」 「はい」 「確認しておきたい。君は私と恋人関係でいたいか? それとも主従関係を続けたいか?」 「えっ?」 「君が望むのなら、私は対外的に自分の恋人だと宣言してもいい。もちろん黙っていても構わないが、その選択権は君に委ねる」 「私を好きにしたければ恋人を選べ。好きにされたければ主従関係のままでいい」 「えっ……」  えええええええええええ。  どどっ、どうしよう。なんだか大変な選択権を与えられた。これは僕の人生において割と重要な分岐点という気もする。  いやっ、でも……ここまで好きになってる以上、彼女を拒否するつもりはないし、でもだからと言ってルナ様を好きにするのって……。 「あ、あの。それは恋人関係を選んだ場合、普段の生活もそのようにしなければならないのですか?」 「君が明かしていいというならそれでも構わない。が、隠しておきたいなら、普段は主従関係を続けることになるな」 「なんだ? 私を好きにしたいのか? ちなみに私は朝日を好きにしてみたい」  はっ……ルナ様の手が脇のファスナーに!  あ、ああうう、僕だって、今はルナ様と結ばれたい。だけどまだ秘密を明かすことは許されてないし、この流れのまま大切な告白を終えてしまうのも……うう、うーっ! 「朝日が嫌じゃなければ……いいか?」 「あっ……!」  とうとう小さな細い指が服の中へ割りこんできた。脇をつつかれた瞬間、自分でも意識せずに甘い声が漏れ、甘いくすぐったさに体が震える。  ま、まだ駄目ですルナ様ーっ! ああでも、ここで拒否するなんて空気的にありえないし……こうなったら、ここぞというときに使おうと思っていた最後の手段を使うしかない。  ごめんなさいルナ様! いつか必ず体は許します! 「ル、ルナ様っ!」 「うん」 「きょ、今日はあの日なのでっ!」 「どの日?」と我ながらツッコミたくなる言い訳だった。 「…………」 「ふっ……」 「ル、ルナ様?」 「ふふっ、ふっ……あははっ」 「あははははは! あーっはははははは!」  爆笑された。僕の両袖を握りながら、大きな口を開けて笑っている。  ごめんなさい……こんな形で。だけど本当に、まだ駄目なんです。申し訳ありません。  それはそれとして、ルナ様のこれだけ屈託ない笑顔は久しぶりだ。  心を許してくれてるんだなと実感した。 「あははは……そうか、今日はそうだったのか。それなら仕方ないな」 「あ、あの、申し訳ありませんでした」 「ですが、ショーのあとに全てを告白したいと思います。ルナ様にも、その日までに私の秘密を聞く覚悟を決めると仰っていただけましたし……」 「そのつもりだ」 「ルナ様が覚悟を決めるまでに先ほどの選択肢の回答も用意しておきます。ですから、その」 「その?」  僕は男でありながら、こんな言葉を口にしなくちゃいけないんだ。その羞恥に耐えかねたけど、今は言わなくちゃいけない場面だった。 「ショーの日の夜に、全てを捧げたいと思います」  言っちゃった……。  もう。二階から飛びおりたいです。本当に。  とてもルナ様の顔が見られないでいたら、彼女はぽんぽんと腕を叩くことで慰めてくれた。 「誰にでもあることだ。朝日の、どこか抜けてるようで、でも家事は完璧で、それでもやっぱりどこか抜けてるところに愛嬌を覚える」 「だから今日はここまででいい。理由も君らしくていいじゃないか。愛情が膨らんだ」 「お恥ずかしい限りです」 「恥ずかしがる君がかわいい、と言ってるんだ。せっかく結ばれるなら、やはり最優秀賞に選ばれた夜がいいな。うん、ますますショーに向けて燃えてきた」 「あ、あの。こちらは緊張してきました」 「私も適度に緊張してる。でもそれ以上に楽しみだ」 「はい。私もルナ様が栄光の舞台に立つ瞬間の、一番側で見ていたいです」 「はは、朝日にしては珍しく贅沢な希望だな。でも許す。そのためにショーまでは全力を尽くそう」 「はい」 「さて、それでは……」  ルナ様はちらと時計に視線を向けた。話も長くなった。もうそろそろいい時間だ。  それに限界まで熱くなったこの空気を壊したのに、いつまでも僕がここにいるのはマナー違反という気がする。 「明日の朝に響かないよう、失礼した方が良いでしょうか」 「そうだな。一緒に寝たいところだが、私が我慢できずに襲ってしまっても困るだろう」 「ル、ルナ様は、そのような真似はされないと信じています」 「どうだろうな? オオカミだって雄ばかりじゃない。雌の個体も狩りはする。さ、食べられない内に部屋へ戻れ」 「はい。おやすみなさいませ、お優しいルナ様」  熱気の高まった部屋の中とは違い、廊下は十一月の適度な寒さに保たれていた。  少し震えるほどだけど、火照った体を冷ますには丁度いい。僕は何をするわけでもなく、暫くその場に立っていた。  はあ……ルナ様は堂々としてるなあ。まるで立場が逆だよ……。  一瞬、ルナ様になら抱かれたいと思ってしまった。彼女の方が体も小さく、力も弱いのに不思議だ。  今日はいい夢が見られそうだ……。  だけど一度昂った胸の火照りは中々冷めず、ベッドに入っても眠気は中々訪れなかった。  カレンダーを眺めていたら、ふと気が付いた。フィリコレまでの期間が、残り一ヵ月弱。  八月から製作し始めて、いま振りかえると早かったなあと思う。時間なんてあっという間だ。  そしてまだ完成していない残り二着を衣装を見て苦笑する。大丈夫かな。間に合うのかな。  先週の頭にユルシュール様の衣装は完成した。そして今は湊の衣装……これは間に合うと思う。というより間に合わせる。  問題は、内緒で作っていたルナ様の衣装。こっちは……フィリコレまでに完成させるのは無理……。  残り一ヵ月。その期間をフルに使ったとしても厳しいと思える進行度だ。しかもショー用の衣装と違って、作るのは僕一人。  そして優先すべきは当然ショーの衣装。目標をバレンタインに延期しよう。  ってバレンタインは女の子から男の子へのイベント! 僕が狙うとしたらホワイトデー!  だけどバレンタインにルナ様から何か与えていただけるとも限らないし、やはり僕から贈るのが良い流れだと思う。  二人の空気的にはルナ様の「彼女」だし。ふう。  作りかけの衣装を手に取って確かめる。本当は、この衣装を着てルナ様にフィリコレの舞台へ立ってほしい。  だけど衣装が間に合いそうもないし、そもそも完成していたとしても、彼女は舞台に立つのなんて拒否することが目に見えてる。  でもせっかく他の三人が舞台へ立つのに、ルナ様だって……と、どうしても考えてしまう。まあその、間に合わせられない僕が言えることじゃないんだけど。  でも今のところよくできてると思うんだ。この衣装を着たルナ様が、真っ暗な空間の中、色とりどりの電飾に照らされて舞台の上へ立ったら……。 「朝日、起きてるか?」  わあ! 「今朝は早く起きたんだ。朝日を驚かそうと思って起こしにきた。寝起きの顔を見てやるから、ほら開けろ」  うわわわわ、ルナ様だ。あまりこの部屋へは来ないのに、よりにもよって内緒にしたい衣装を手に抱えてるときに!  隠す場所を探してみた。目に映ったのは、僕がこの屋敷へ来たときの鞄。このサイズなら、衣装だって畳めば入るはず。 「ルナ様、もう少々お待ちください。いまそちらへ参ります!」  ばたんと鞄を閉じて、すぐにドアの鍵を開けた。短時間で済んで本当に良かった。 「お、おはようございます、ルナ様。お待たせいたしました」 「フフ、そんなに慌ててどうしたんだ。私に見られたら困るものでもあったのか?」  はい、そうです。 「ん、そういえば朝日の部屋へ来たのはいつぶりだ? 少し散らかっているようだが」 「申し訳ありません。ここのところショーの製作が三着分もあったもので、衣装の生地や、仮縫いのシーチングまで置き場所に困って……」 「それはすまない、私のミスだ。朝日班の縫製チーフとも言える朝日には、せめて製作の期間だけでも違う部屋をあてがってやるべきだった。仕方ない、私の部屋への引っ越しを真剣に検討しなければいけないな」  どうしてそうなったんですか。しかも真顔で。相部屋は性別がバレるので無理です。  でも……あのルナ様が恋愛脳になってると考えればとても幸せなことだ。少し意外ではあるけども。 「というか半年以上も住んでいるのにタンスも見当たらないが。朝日、そういうときは遠慮しなくていい。君は私たちにとって必要な人間だという自覚を持て」 「あ、はい……鞄で事足りていたもので。申し訳ありません」 「確かに大きな鞄だな。形もいい。どこの鞄だ?」 「あ! 開けては駄目です、その、色々と入っているもので!」 「ほう? そんなことを言ったら、私が見たくなるに決まっているじゃないか」 「本当に駄目なんです、その鞄だけはお許しください!」  少なくとも今は。ルナ様への衣装が入っているので。  すでに開けようとするモーションへ移行していたから、後ろから抱きしめて体の自由を奪う。ルナ様は僕の腕の中でくすくすと笑っていた。 「ル、ルナ様?」 「すまない。朝日と朝からじゃれ合うのは楽しいなと思ったんだ」 「ルナ様」 「こんな体験したことなかったからな。楽しい。もっと子どもの頃から悪戯をしておくべきだった」 「あ……」  ルナ様のそれは、恋愛脳じゃなくて子どもになっていたんだ。 「みんなの前でこんなことはさすがに出来ないからな。私は朝日に甘えてばっかりだ。すまない」 「そんな、謝ることではありません。ルナ様が遊びたいと仰るなら、私はいつでもお付きあいします」  腕の力を拘束から抱擁に切りかえる。ルナ様の体は、細いけれど女性の柔らかさをしていた。 「いつでもと言ったな? いつでもという約束は、常に私の側にいないと守れないぞ?」 「はい、いつでもお側に付き従います。万が一側にいないときはケータイでお呼びください。すぐに駆けつけます」 「そうか、いつでも側にいてくれるのか。じゃあ約束だ、嘘を付いたら許さない」 「はい、約束は守ります。どんな遊びがいいでしょう。昔に出来なかったことが良いですか?」 「私も今さらおままごとをするつもりはない。そうだな、二人で衣装作りでもして遊ぼうか。人形や動物の服を作るのも楽しそうだ」 「そ、それは……遊びというより、商売が成りたちそうですね」 「それと二人で刺繍するのもいいな。朝日のハンカチに私の名前を入れてやるんだ。編み物もしようかな」 「ルナ様は本当に衣服に関係するものがお好きなのですね」 「好きだ。最近は特に。みんなと服を作るのは楽しい」  元々が服飾に対してストイックなひとだったけど、これで心から製作を楽しみはじめたら、どんな素晴らしい衣服ができあがるんだろう。  ルナ様を見てるだけで楽しい。服作りに参加させてもらえるのは、もっと楽しい。 「ルナ様は編み物の経験がおありですか? セーターなどの大物は、ショーが終わってからだと今年の冬に間に合いませんよ」 「それなら私は、冬休みの間に朝日のマフラーを編んでやるんだ。時間があればセットで手袋も付ける」 「ルナ様の手作りなんて、とても贅沢ですね。勿体なくて使えません」 「与えたら使え。出来が悪ければ無理はしなくてもいいが」 「ルナ様に限ってありえません。やることが多くて、今から冬休みが楽しみです」  そのときには僕の立場がどうなってるか、少し怖いけど。  だけど約束したから大丈夫。不安を覚えなくていいように、腕の中のひとをより強く抱きしめる。 「ルナ様。キスを求めても良いでしょうか」 「君もねだるようになったんだな。だけどドアは閉めてからの方がよくないか」 「はい。そういたします」  ルナ様に言われた通り、外から見えないようにドアを閉じた。今日はこの部屋で、僕とルナ様だけの秘密がまたひとつ生まれた。 「朝日。スイス観光局のパンフレットですわ」 「ありがとうございます?」  昼休み。昼食を終えて寛いでいると、ユルシュール様に冊子を差しだされたので、ぱらぱらとめくってみた。  何故これを? とは思ったものの、読みすすめていくと非常に興味がそそられた。雄々しきアルプス、美しきレ・マン湖。 「朝日の不幸はスイス……いえ、ジュネーヴを訪れた経験がないことですわ。あの美しさを知れば、朝日はすぐにでも永住したくなるはずですわ」 「あとは私に任せておけばよいのですわ。永住権を得るにはスイス人と結婚するのが一番ですわよ。良いひとを紹介してさしあげますわ」 「はい。勿体ないお話ですが、お断りさせていただきます」 「私も朝日の海外永住をお断りいたします。連れてかれると非常に困るので」 「ではジュネーヴを一度訪れてみるだけでもいかがですの? そのあとジャンメール家へ立ち寄ればいいのですわ」 「先週に私のために用意していただいた衣装の出来は素晴らしかったですわ……私たちも手伝っているとはいえ、それをまとめた朝日の腕と言って差し支えありませんわ」 「やはり私は朝日が欲しいんですの。一度、我がジャンメール家の環境を見てみるだけでもいかがですの? 選択肢を始めから潰してしまう必要はありませんわ」 「い、いえ、私はルナ様の下を離れるつもりはありませんので……わっ!」  ユルシュール様が僕の腕をむぎゅりと抱いた。その体の中心線に、僕の腕が押しつけられる。 「む」  体は細いのに、二の腕だけはその豊満な胸の中へ埋もれていた。  ユルシュール様のスタイルは、純粋に芸術の対象として尊敬できるものだった。欧州に住んでいた頃に見た彫像のいくつかを思いだし、素直にほう、と感心してしまった。 「私、本当にあの衣装を着られるなんて光栄ですわ……デザインがルナという点は気に入りませんけど、〈型紙〉《パターン》の美しさと縫製の丁寧さは他に類を見ませんわ。朝日の才能は素晴らしいですわ」 「ど、どうも。こちらこそ光栄です」  僕を表して「素晴らしい才能」なんて言われる日が来るとは思わなかった。しかも、充分に才能豊かなひとの口から。 「その才能に加えて、容姿・性格・勤勉さ……すべてが美しいですわ。美しいものを求めるのは人間の根源的な欲求、私は朝日を自分のものにしたいのですわ」 「二度と日本へ帰りたくなくなるほど楽しませてあげますわ、オホホホホ!」 「オホおォおッ!」 「朝日、いま戻った。で、この性悪シュールは、また君をスイスへ連れていこうとしているのか。私の朝日を拉致しようなどと、今すぐ日本に居たくなくなる目に遭わせてやりたい」 「いま……とんでもない痛みが……あなた、何をしましたの……?」 「後ろの処女をストローで奪おうとしただけだ。刺さらなかったのは残念だが」  ルナ様がユルシュール様の初体験の相手になりかけた紙パジュースを机の上へどんと置いた。山羊ミルク味のヨーグルトだった。 「瑞穂は?」 「玉露が切れたから購買部で買ってくるって。てか私いまナチュラルに説明したけど、玉露売ってる購買部って普通ないし普通買わないし普通ロッカーに常備しないよね」 「購買部の玉露なら私も買ったが。実に良い品質だった。しかし残念だ。瑞穂がいれば、朝日をスイスへ拉致るなどという狡シュールを叱ってくれただろうに」 「その上、拉致だけでは飽きたらず、朝日を見ず知らずの男と結婚させるだと? 全くもって忌々しい」 「こんな女が側にいると、おちおち用を足しにもいけない。朝日、次から私が席を立ったときは行き先を問わず同行するように」 「ルナ様やりすぎです!」  やや本気で怒ってるところを見ると、引きぬきは今後一切許さないことを厳重に注意してるみたいだ。  それと、少しだけ嫉妬も混じってるのかな。嬉しいけど、少しやり過ぎてる。 「申し訳ありません、ユルシュール様。今すぐ医務室へお運びいたします」 「僕が美当てするから大丈美だよ。さ、お嬢様。パンツ脱がしますよ」 「やめて! 蒙古斑が見えちゃう!」 「そんなものは我々欧州人の体にありませんわ……それとサーシャ……ここで脱がしたら……許しませんわよ……」 「あ、しまった。ストローを尻に刺したのではジュースが飲めない。仕方ない、この山羊ミルクはユーシェに譲ろう。初体験の相手になるかもしれなかったんだ、大切にするといい」  ユルシュール様は黙って紙パジュースにストローを刺すと、紙パ本体を握って、自分の下着を掴んだサーシャさんに山羊ミルクを浴びせかけていた。 「白く染まる僕も美しい……! 題名『銀髪の求道者を襲う白の悲しみ』」 「フー……最近のルナは丸くなったと思ったのに、今日は容赦ありませんわね」 「すまないな。だがユーシェも自分の右腕を掴まれて『美しいからよこせ』と言われたら本気で抵抗するだろう?」 「おや? わざわざたとえを用いなくても、普通に『サーシャを奪われたら困るだろう?』でいいんじゃないのかな?」 「それではルナ、当家のサーシャと朝日の交換でどうですの」 「『銀髪の求道者を襲う黒の悲しみ』……!」 「サーシャに不足があるわけじゃない。だがそれでも朝日を手放すつもりはない。そうだな、あと三世紀くらいは」 「ちくしょお、長いッ!」 「『天から降って来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまう永遠。この呪わしいもの』……桜屋敷で永遠に過ごすといい、小倉さん……フォーエバァ」  名波さんも(以前よりは)言ってることがキッツくない。僕と湊の間にあったことを知ってるわけじゃないだろうけど、僕たちの間に距離が空いたと感じるものがあったのかもしれない。  いま話している彼女たちとの和気藹々とした雰囲気。まるで普通の学校へ通う学生たちそのもの。  平穏な日常というものに、充分な居心地を感じていた。  ああ、楽しい。今なら僕は、次の瞬間に要人を暗殺しようとしたスナイパーの誤射で頭を撃ちぬかれても「楽しかった!」と笑って死ねるかもしれない。  だけど人生は喜劇だ。楽しむべきは演者ではなく、楽しんでいる演者がすっ転ぶところを見守る観客だ。  屋根裏部屋から地下のワイナリーへ落下するのは、いつだって演者が自分の位置を忘れて浮かれているときなんだ。  そんなシンプルな演出を、僕はクラスメイトたちの他愛のない会話で思いだすことになった。 「やったあ、今日は大蔵学院長が来てるらしいよ。噂によると、今日だけじゃなくてしばらく学院に通うって」 「え、え、今日の私の髪型どう? 少ないチャンスなんだから、一発で目に留まるような格好にしないと!」 「っ」  ルナ様と過ごす毎日の中で、その不安を忘れていた。いや、忘れようとしていた。いつでも一人になると小さな不安があったのに、僕は朝日だからと現実から目を背けていた。  楽しかった世界が一瞬で凍る。笑顔のまま貼りついた表情は、せめて周囲に不安を気取られないよう配慮した最後の理性の表れだった。 「朝日」  それでもいち早く僕の異常に気付いたルナ様は、すぐに声を掛けてくれた。 「君も聞こえたのか? あの男が学院内にいるようだな。だが君が会う必要はない。もし教室まで来たら、声でも掛けられない限り大人しくしていろ」 「ルナ様……申し訳ありません」 「謝る必要はない。生理的に受けつけないんだろう? 私だって不快なものを好んで視界に入れようとは思わない」 「君があの男の何をそれほど嫌っているのかわからないが、あの強引な性格は、瑞穂のように拒否反応を示してもおかしくない」  いえルナ様、嫌っているのではなく、あのひとが怖いんです。  とは思うけど、理由を口にできるわけもないので、ただ頷くだけに留めておいた。  この幸せの中にいると、彼の恐怖がより大きなものとして全身へのしかかる。立っているだけで体が鉛のように重い。自律神経が乱れ、頻脈が自覚できるほどになる。 「朝日、大丈夫? 無理はしない方がいいよ、どうしても駄目なら、医務室へ連れてってあげるからね?」 「ありがとうございます、湊様……はい、皆様にご迷惑を掛けるようでしたら従います」  いっそのことその方が良いのかもしれない。今や兄への恐怖の正体は、元々の絶対的従属関係からくる強者への恐れというだけのものじゃない。  僕がいま抱えている、将来への展望、心地良い生活、そして愛するひと、その全てを失う可能性を含んでいる。  意思は希望を生み、希望は夢を育て、夢は世界を変える――そう信じて立っていたら、この世界はまるで変わっていなかった。  そんな絶望を目の前に突きつけられていたから、僕はいま過去よりも彼の存在に脅えてしまっていた。 「だけど朝日、まったく別の問題かもしれないが、君があの男を恐れる理由はないんだぞ?」 「え?」 「あの男は、才能のあるものは認めると言った。君は私たちが求めた才能を持っていたじゃないか。私が守るまでもなく、君はもう彼と向かいあえるだけのものを持っているんだぞ?」  いえ、それは……兄が、僕の才能なんかを認めるわけがありません。  なんて思ってはみたものの、ルナ様の言葉に戸惑った。僕はいつからこの世界が元のままだと決めつけていたんだろう。  もしかして世界を変えられると夢見ている僕が、とっくに変わっている世界の中で、ただひとりここは過去の世界だと錯覚しているだけなんじゃ―― 「みんな、いる!?」  思考は途中で中断された。僕が何かに気付くよりも、流れていく現実の時間の方が速かった。 「瑞穂? そんなに息を切らせてどうした」 「ルナ、落ちついてよく聞いて」 「私が落ちつく、というよりも慌てているのは瑞穂じゃないか」  瑞穂様がシュールなギャグでも口にしたのかと思って、その場にいた全員が軽い笑い声をあげた。  だけど瑞穂様の表情は真剣そのもので、笑い声にも全く反応を示さなかった。 「購買部に置いてあった新聞を見たら、きのう学院長が……大蔵学院長代理が開いたコレクションの記事が載っていたんだけど」  衣遠兄様の話題? 先ほど聞いたばかりだったこともあって、再び耳にしたその名前に嫌な胸騒ぎを覚えた。  この時期にコレクションを開くこと自体はおかしくない。ただ、きのう開催されたということは、今頃は取材や注文で兄は身動きが取れないはずだ。  それなのに、彼が学院長としてやってきていることがおかしい。その違和感が胸騒ぎと繋がり、とてつもない不安が湧きあがってきた。 「その記事には写真も載っていて……」  瑞穂様はみんなが見やすいように、机の上にそのページを広げた。幾つかの写真が並ぶ中、瑞穂様の指先にその場の全員の視線が注がれる。  その直後に全員が表情を凍らせたのは、瑞穂様の声が先だったのか、記事の内容に気付いた方が先だったのか―― 「私たちの衣装が、あのひとのコレクションに出てる……」  ――僕たちは衝撃の事実を目の当たりにした。  そこに載っていたのは、確かにルナ様のデザインした衣装だった。  それも一着じゃない。いま作っている湊が着る予定の衣装も合わせて、ルナ様のデザインした三着分全てがそこにある。  だけど紛れもなくそうか、と言われれば微妙に違う。当たり前だ。僕が作った本物の衣装は桜屋敷にある。万が一のことがないように持ちかえり、衣装部屋のタンスにしまってある。  でもその衣装と兄がコレクションに出した衣装は、二つ並べれば、後出しになった側が真似したと言われても仕方ない出来だ。  そして記事になってしまった以上、後出しになったのは僕たちの側だった。 「これって……私たちの?」  誰もが呆然としている中、湊が最初に口を開いた。服飾に対して、一番の無知故かもしれない。 「こ、これって偶然? こういうのってよくあることなのかな! まあ音楽だってよく聞くよね、有名な曲と偶然フレーズが似ちゃうとかって……」 「こんなこと、ありえませんわ……」  湊の質問に答えたのはユルシュール様だった。ルナ様はまだ目を見開いて言葉を発せずにいる。  当然だ。この学校の生徒が、学院長の立場にあるデザイナーの服を真似てショーに衣装を出展した。  それ自体は、大蔵衣遠に憧れた生徒の微笑ましいおイタとして、観客の苦笑いを買うだけで済むかもしれない。  だけどそれは僕たちの衣装に対する最大級の侮辱だ。デザインしたルナ様は滑稽な少女として扱われ、その衣装を着て舞台を歩く三人は道化でしかなくなるだろう。  最優秀賞なんてもっての外だ。  その未来を即座に予想できてしまったんだろう。ルナ様は未だに呆然としている。怒りでも悲しみでもなく……ひたすら呆気にとられている。 「抗議しましょう」  立ち直りが早かったのは瑞穂様だった。彼女は他の三人よりも先に事実を知っていたから、これからどうすべきかを考えていたのかもしれない。 「これは明らかに盗作と言える範囲だと思う。恐らく学院長は私たちの作品をどこかで目にし、そのデザインを盗んだと考えるのが自然でしょう」 「その当人は、ちょうどいまここへ来ているんだって。何の因果かはわからないけど、この機を逃せば海外へ逃げられてしまうかもしれないから」 「偶然とはいえ、不幸中の幸いだと思う。すぐに行きましょう」  偶然? それは本当に偶然だろうか?  あまりに話が出来すぎてる。喉を支えさせながらも、僕はなんとか声を出した。 「先に事実を知っている人間を増やした方が良いのでは……私たちがあの衣装を作っていたことは、少なくとも夏休み後にはクラスの皆様が見ています。証人になっていただいた方が……」 「だけど、それも、どちらが先か私たちしか知らない以上は……」  それはわかっていた。でも僕は、彼女たちが四人がかりでも、兄に立ちむかえる場面が想像できなかった。 「ルナ? ショックだとは思うけど、いつ居なくなってしまうかわからないから」 「…………」 「ルナ?」 「……ああ」  瑞穂様が二度呼びかけて、ルナ様はようやく返事をした。その肩が小さく震えだしている。 「ああ、そうだな……ああ、そうだ!」 「こんなことが許せるか! 自分の学院の生徒にデザインをさせ、それを衣装にして臆面も無くコレクションに出すなど!」  ルナ様が手にしていた新聞をぐしゃりと握りつぶした。彼女にしては珍しい、本能的な暴力を伴った怒り方だった。 「これは、あってはならないことだ。場合によっては、この学院自体がそのために用意されたのではないかと疑われても仕方がない」 「今すぐ学院長室へ向かう。来られない者は来なくていい、これは恫喝も辞さない争いになる。気弱な者は来るべきじゃない」 「行きますわ。私も許せませんもの」 「も、もちろん私も行くよ!」  四人のお嬢様方は、三人の付き人を従えて動きはじめた。その時点でも立ったままだった僕は、慌てて彼女たちを追いかけようとした。  だけど膝ががくつき、一歩目を踏みだすことすらできなかった。 「朝日」 「申し訳ありません。私もいま、ルナ様と共に……」 「君は来るな」  僕の動きは主人の声で静止された。 「いま言った通り、これは争いになる。君が彼に恐怖を覚えていることは知っているし、それを今さら責めようとは思わない」 「朝日には別の用件を頼む。八千代にこのことを不足なく伝えておくように」 「ですが、文化祭のときに続いてまた……」 「違う、逆だ。文化祭のときと同じ状況だと理解しろ。今回は私にも余裕がない、もしものときに君を守ってやることができない」 「私のために今できる最善のことを考えてほしい。それは無理をして同行し、私たちの弱点になることじゃない。現実性のない根性論はただの愚行だ」  ルナ様の目は真剣だった。信頼している相手でも過大評価せずに状態を把握し、現状の打破を優先事項としている。  いくら頼みこもうと、無理を聞いてもらえる場面ではなかった。 「はい、わかりました。八千代さんに連絡をいたします」 「すまない、朝日を信じているからこそ頼んだ。それと私たちが戻ってきたときのために、紅茶を用意して待っていてくれ」  従者に余裕を見せようとしてくれたのか、最後に軽く微笑んで、ルナ様はこの場から出ていった。  一人残された僕は、放心したように脱力しためために、音を立てて椅子へ腰を落とした。  兄への脅え、ルナ様への心配、そして明日に対するとてつもない不安に包まれて動くことすらできなかった。  十数分前の平穏な日常に、何を考えて過ごしていたか、もう思いだせなくなっていた。  我に返らされたのは、携帯電話のバイブの強さだった。  ルナ様からの呼びだしにすぐ気付けるよう、バイブが強めの機種を選んで良かった。もしかして、やはり側にいてほしいと思ってもらえたのかもしれない。  だけど画面に表示された番号はルナ様のものじゃなかった。  この時、なまじ自分の記憶力が良かったことを恨んだ。11桁の番号に見覚えがある。  どうして。彼がこの番号を知っているはずがない。この携帯電話は大蔵遊星としてものではなく、桜小路家で支給された小倉朝日としての番号だ。  朝日として受けるべきか。遊星として応えるべきか。どちらにしても地獄だ。  出たくはない。だけどここで逃げればどうなるかは容易に想像がつく。この番号が知られた時点で、僕がいまどこで何をしているか、管理されていると考えるのが自然だ。  念の為にドアの鍵を掛けつつ、喉の調子を整えた。僅かでも女性らしさが出てはいけない。湊と話すのとは訳が違う。 「はい」 「俺だ。貴様の兄、衣遠だ。久しぶりだな、雌犬の子。貴様と話すのは本当に久しぶりだ」 「故に名前くらいは名乗ったらどうだ。それとも自分の名前を忘れるほど愚か者だったか」  やはりこの電話の持ち主が僕だと割れていた。朝日の声で出たら大変なことになっていた。 「いえ、自分の名前を忘れてはおりません。私は大蔵遊星です」 「貴様は愚かだ。だがそれでも……より愚かなる母親に与えられた己の識別子程度は、頭の片隅に留めておいたか」  お母様に対するこの物言いは、今に始まったことではなかった。兄は以前から「雌犬」の存在を疎ましく思っていたことは、自分の名前と同じ程度には覚えている。 「では貴様に問う。愚かなる弟よ、貴様はいまどこで何をしている?」  きた。  兄は核心を突いてきた。この答えは慎重かつ、即答でなくてはいけない。兄に内緒でりそなの下から離れ、桜小路家にいることが不自然ではない説明をしなくてはならない。  ルナ様はすでに兄のもとへ向かっている。りそなにも口裏を合わせなければならない。  それでもルナ様のもとには湊とサーシャさんがいる。メールが間に合えば時間稼ぎをしてくれる。  本人の知らないうちに、兄を偽る共犯になってもらわなくてはいけない。これも問題だ。でもあの二人なら。  その間にりそなに連絡をつけよう。ルナ様には……彼女の準備ができていなくても、もう黙っていられない。この場を無事に乗り切ったあとで全てを打ちあけよう。  ルナ様は、事の是非は後から問われるとしても、追いつめられたときに甘えることは許してくれている。りそなには後で可能な限りの礼を尽くさなくちゃいけないにしても、協力を請うことはできる。  全てが限りなく細い糸だけど、今は縋るしかなかった。 「りそなお嬢様の命で、他家の使用人を務めています」  これがベストな回答だと判断した。りそなに確認さえされていなければ。 「ほう? 俺には連絡が入ってないな」 「申し訳ありません。りそなお嬢様から伝わっているものかと。恐らくお嬢様も私から連絡をしているものと捉えていたのだと思われます」 「なるほど、それならば責任は貴様に被ってもらわなくてはならないな。やはり貴様は愚かなる弟だ」 「はい、私の伝達ミスです。いかなる罰でもお受けいたします」  それで全てが明るみに出るわけではなければ耐えられる。ルナ様に説明と謝罪をする時間さえ得られるのなら。  ひとつ確かなのは、これで半年以上続けてきたメイドごっこが終わりだということだ。そのことにだけは、こんな緊張と恐怖の中だけど寂しさを覚えた。 「罰か。罰とは本来成長を促すために与えるのであって、貴様のような愚弟には必要のないものだ」 「だが安心しろ。この俺が貴様に施しを与えてやろう。愚かなる弟よ、甘んじて罰を受けろ」 「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様」  どうか、全てが無事でありますように。この期に及んで、夢のようなことを僕は願った。 「それで貴様はいまどこの誰に仕えている」 「それを口にした場合、相手方へ迷惑は掛からないものでしょうか」 「無駄な引き伸ばしをするな。俺は自分が知らずにいたことを相手方へ謝罪しなければならない。どのみち愚かなる妹にも確かめる。さっさと言え」 「桜小路家です」 「本家か。別の家か。あの家には、俺の学院の生徒でもあり、本家とは別に暮らしている娘がいたはずだが」 「はい、その方です。桜小路ルナ様です」 「なるほど、あの女か。あの女は中々に見所がある。仮とはいえ、良い家へ奉公に出たものだな」 「あ……」  僅かではあるけど、兄がルナ様を誉めた。  ルナ様のことを認めているのは知っていたけど、はっきり言われると、その喜びは感動を覚えるほどだった。  兄の言う通り、僕は愚かなる弟なのかもしれない。ルナ様を認めてくれたことで、呑気にも目の前のひとへの感謝を覚えてしまったから。  ルナ様を認めてくれてありがとうございますと、実の弟らしい無邪気さで兄に近付こうとしたのだから。 「では聞こう。桜小路家に仕えているということは、あの娘が当学院へ連れてきているメイドを貴様も知っているはずだな」 「は……」 「知っているはずだなと聞いている。顔くらいは見たことがあるだろう。俺は学院で一度見かけたな」 「気になって後から調べた。『小倉朝日』という名前だったな」 「……!」  咄嗟に返事をしなければならないのに、なにを言えばいいのかわからなくなった。  兄は「小倉朝日」の存在を知っている。それならバレることは時間の問題じゃないか。  それでも一縷の望みはあるんじゃないかと、僕は演技を貫いた。 「ほとんど……話したことはありません。ルナ様の付き人ですから、他のメイドたちとはあまり話をする機会がなく……私も、見かけた程度しか」 「見掛けたのか? 俺も桜小路家の娘がクワルツ賞の審査を通ったときに、一度だけ見かけたんだ。実に驚いた。今は亡き雌犬の顔にそっくりじゃないか」 「あの顔を見れば、父上もさぞかし驚かれるだろうよ。あの女は、愚かなる父親が特に入れこんでいた女だからな! 実によく似て育ったものだ、まるで生き写しだ!」 「桜小路家から譲り受け、縛りあげて父上の前に引きだしたら、どんな顔をするだろうな? そのメイドを側に置き、今の立場を忘れて引退したいと言いだすかもしれないなあ」 「そうなれば、大きな手柄を得て本家の後継の座は俺のものだ。ひと一人差しだせば労なく大蔵家を手に入れられるとは、簡単な話だなあ! クハッ! クハアッ! クハハハハハァ!」  電話の向こう側で高笑いする兄の声を聞いて、僕は絨毯に膝を付いてしまった。  涙が顔から垂れおちるほど溢れでてきた。兄は僅かでも希望を持たせて、その後で全てを粉々にするつもりだったんだ。僕はまんまと乗せられてしまった。  最初から全てを認めて謝れば良かったんだろうか。 「お許しください……」 「駄目だ。おまえは罰を受けると言った。これから俺のもとまで来てもらう」 「桜小路たちが、いま俺の部屋の前まで来ているらしい。この電話が終わり次第ここへ招くつもりだが、貴様もその場へ来てもらう。拒否は許可しない」 「それだけは、どうか……お許しください。お嬢様方の前で正体を明かすことは……」 「貴様の要望を聞くかは俺の胸の内ひとつだ。せいぜい哀れに振る舞え」 「これでも情けをかけてやっているつもりだ。貴様が、最初から犬のように媚びていれば、文字通り犬として扱ってやるつもりだった。首輪を付けて、全裸で校門の前へ繋ぎ、生き晒しにしてやっていた」 「だが愚かなる弟が、散々躾けてきたにも関わらず俺に逆らおうとした。賢しらではあったが、無い知恵を必死に絞り、この場を切りぬけようとしていたじゃないか」 「それが単に俺の恐怖を忘れただけか、それとも、桜小路の躾がよほど行き届いていたのかを……確かめたい」 「…………」  もはや逆らう手段は残されていなかった。 「今すぐにここへ来い。それができなければ生き晒しにしてやる」 「はい。お兄様の命に、従います」  力なく電話を切る。どうすればいいのかわからない。  だけど、逆らう気力までなくしたつもりはなかった。拳を握りしめ、この状況を打開する方法を模索する。  いまルナ様へ電話すれば兄に気付かれる。せめてりそなに状況を伝えておきたかったけど、何度コールしても彼女には繋がらなかった。  八千代さん……にも話せない。自分が男性だと打ち明けるには、きちんとした場が欲しい。あのひとはルナ様の味方でもあるけど、他の生徒たちも守らなければいけない常識を必要としている。  事前準備は何もできない。それでも行くしかない。ルナ様が学院長室にいる以上、人質を取られているようなものだ。  脱力している場合じゃない。無理矢理にでも膝に力を込めて、兄の待つ場所へ向かった。  学院長室へ入る前に、いっそのことウィッグは取ってしまおうか考えた。  僕が性別を隠していると知って、あの兄が黙っていてくれるとは思えない。  だけどもしかすると、男だと明かす前に、何かしらの要求をしてくる可能性はある。  負荷を掛けて楽しむだけか、何らかの役割をさせようとするか、それか別のパターンだとしても、ある程度の要求を飲めばこの場をやり過ごせるというのなら、屋敷へ戻ったときに自分でみんなに打ちあけたい。  肉親の前にこの姿で出るということ。羞恥ではなく情けなさと惨めさが伴ったけど、この引け目を抱えたまま兄と会えば、話を始めた時点で主導権を握られてしまうから、いっそのこと開きなおった。  声も朝日のままでいい。行こう。  ドアの前にあるインターホンを鳴らすと、兄から一言「入れ」と返事があった。 「失礼します」  ドアを開けると、僕の視線の直線上にいる二人の顔が目に映った。振りかえるルナ様と、座りながら机に肘をかける兄だ。  机からルナ様の立つ位置までは割と距離があるはずなのに、何故か二人は並んでいるように見える。僕の信仰の対象と畏怖の対象。 「朝日……!」 「ふん……」  僕が来ることを聞かされてなかったのか、ルナ様は目を見開いて僕を見つめていた。  他のお嬢様方もルナ様の周りに立っている。だけどどうしても僕の目は、ルナ様と兄の二人を見てしまう。 「どうしてここへ来た? 君は来なくてもいいと言ったはずだ」 「俺が呼んだ」 「あなたが呼んだのですか? なぜ朝日を?」  兄の言葉にルナ様は驚きを継続させた。ただしその視線の先にいるのは、質問を投げた相手ではなく、あくまで僕だ。 「そこに立っている者が俺のスパイだったとしたらどうする?」 「えっ」  ドキリとした。まさか兄の狙いはそんなことだったのか。  ルナ様の側にいる僕は彼女の情報を一番抱えている。その上、元は大蔵家の使用人。条件は充分だった。  現に、ユルシュール様と瑞穂様の目には戸惑いの色が生まれた。当然だ。ルナ様は過去に一度、使用人に裏切られて苦い経験をしている。  ルナ様の過去を知っている二人にとっては、デザインを奪われた今の状況からすれば、スパイという言葉はどれほど親しい人間でも疑うに足る。  罪を被せて苦しませる。そんなことのために僕をここへ呼んだのだろうか。 「そいつは俺の言うことを何でも聞く傀儡だとすれば――」 「ありえません」  違う、と僕が口にするよりも早く、ルナ様が兄を見てはっきりと言った。 「りそなを疑うつもりも最初からありませんが、何より私は朝日を信頼しています。裏切りなどはありえません」 「ふん。才能はあるが、おまえには利口さが足りないようだ。感情に流されて現実を見誤るのは愚か者だ。良いことを教えてやろう、スパイというものは――」 「戯言は結構!」  ルナ様が兄を一喝した。顔が見えなくても、その声を聞けば僅かばかりの戸惑いもないとわかる。 「自分が賢いなどと誇るつもりはありませんが、現実を見誤るのが愚か者だとすれば、胸を張ってあなたよりも自分が優れていると言いましょう。私は正しい!」 「なぜならば、疑う要素が少しでもあるのならともかく、朝日の潔白を示すのに対して、私が躊躇する理由は微塵もないからです!」 「ルナ様……」  過去にあれほど手酷い傷つき方をさせられたというのに、同じ付き人という立場の僕をそれでも信じていただけるのですか。 「どうやら情に絆されているようだが、裏切り者が取り入るときは、まず対象の情を得ることに腐心するものだ」 「確かめてみれば片がつく。貴様は俺のスパイか?」 「わかっているな?」という笑みが向けられた。魔女狩りに遭った犠牲者に、焼きゴテを突きつける異端審問官のように。  だけどそれなら迷うまでもない。彼女に二度と裏切りを味わわせない誠意は、僕の何よりも優先するべき位置にある。 「違います、あなたのスパイではありません。私は桜小路ルナ様を裏切りはしません」  僕は主人を見習い、毅然として立ちむかった。 「ならば誰がユダだ? まさか桜小路家のメイドを全員庇うわけにはいかないだろう?」 「手遅れでしょう。あなたの失敗は、朝日を真っ先に疑ったことです。あなたが出鱈目を言っていると彼女が示した以上、最早あなたの言は信用するに値しません。その手の揺さぶりは私に通じないと思ってください」 「それよりも朝日に疑いをかけようとしたことで、あなたは一つの事実を明確にしました。昨日のコレクションに使われた一部の服は、私のデザインの盗作だと」 「俺はスパイだと言っただけで、何の情報を得ようとしたかは言及していないが」 「それは、私のデザイン画と今の言質を照らしあわせれば誰でもわかることでしょう。この会話はすべて録音しています」  名波さん、サーシャさん、北斗さんが、録音機を取りだして手に掲げた。ルナ様は兄に対して、一歩も遅れをとっていない。  しかしその不利だと思われる状況でも、兄はその笑みを消さなかった。 「青い連中が勇ましいな。全てを明るみに出せば、世間においては全て正しいものが勝つと思いこんでいる」 「だが余興が過ぎたのは事実だ。今の騙りは、そこに立っている人間が、どの程度の信頼をされているのか確かめようとしただけだ」 「なるほど、これほどの信頼を得ていれば、俺に対する畏怖を抑えうるのかもしれないな。少々自信は折られたものの合点がいった。では本題に入ろう」 「言質を取った以上、私たちには用がありません。こちらは引きあげさせてもらいます」 「今回の件に、桜小路の本家が関係しているとしてもか? 当主だけではなく、おまえの母親もな」  体を翻そうとしたルナ様が動きを止めた。他のお嬢様方は、驚いて兄を見るばかり。 「遅れてきた人間のために説明をしてやる。俺は招いた客が来るまで話を待てと言ったが、桜小路家のご息女は従う理由がないと言い、ここで勝手に話を始めた」 「曰く、俺のコレクションの作品に自分のデザインした服があると。つまり盗作である、場合によっては訴えると言ってきた」 「こちらとしても否定するつもりはない。良いデザイン、実に好評だったよ」 「最低だな」  ルナ様が放つ侮蔑の言葉に対して、否定する人間はこの場にいなかった。  何しろ、僕だって未だに信じられない。プライドの高い兄が、ひとの作品を自分のものと偽って世に出すことが、逆に信じられなかった。 「このことをスタンレーは知っているのでしょうか? だとすればこの学院の評価は地に落ちるでしょう。一年での閉校を覚悟してください」 「おまえたちが事を明るみに出せばな」 「出さない理由がありません。あなたの独断であり、社会的責任を取るというのなら、和解の可能性も考慮しますが」 「それと謝罪も必要ですわね。犬のようにですわ」 「ジャンメール家の息女か。大人しくヨーロッパの学校へ進学していれば、才能を埋もれさせずに済んだかもしれないが」 「負け惜しみですの? ルナの言うとおり、私だって引くつもりはありませんわよ」 「それは桜小路家の息女に判断を委ねた方がいいだろう。何せ事が公になれば、俺も説明せざるを得ない。今回の件を依頼してきたのが桜小路家であることをな」 「なっ!」 「…………」  桜小路家の関与を知り、動揺したのはルナ様以外の三人だった。当人は予想でもしていたのか、まっすぐに兄を睨んでいる。 「今回のショーの招待状は、当然ながら生徒の家族にも送る。スタンレーが来ると一部で情報が流れたこともあり、注目度は比較的高くなった」  ジャンが来る?  こんなときなのに、僕の胸に興奮が湧いた。ジャンに、僕が型紙を引いた衣装を見てもらえるかもしれないんだ……。  いや……何を考えてるんだ。今はルナ様のことに集中するべきだ。眼前の敵から目を逸らしてはいけない。 「さて、ショーの注目度の高さに気付いた桜小路家の当主は、クワルツ賞のときと同じく、娘の作品が出展されることを嫌ったようだ。それは実力を認めているという一面もあるだろうが……」  その目が舐るようにルナ様の全身をなぞっていった。それでも僕の主人は、兄を睨みつけたまま微動だにしない。 「ただし、桜小路家の思惑があったとしても、こちら側におまえの参加を拒否できる理由はなかった」 「成績を見ても優秀で、生活態度を見ても文句を付けられる点がほとんどない。強いていえば外出を伴う授業の参加をしていない点だが、それは使用人を代理とすることを学院側が許可している」 「クワルツ賞のときとは違い、俺は明確に断るつもりだった」 「だが当主だけでなく、その妻――つまりおまえの母親だ。彼女からも泣きながら懇願された」 「やめなさっ――」 「出しゃばるな花之宮の息女! 調べたところ、おまえは男性が苦手だとわかった」 「いいのか? 男の声で大喝されても! 無様に尻をつき、はしたない姿を晒すことになるぞ、クハハハハ!」 「ひっ……!」  兄は、生徒の盗作という、生涯の汚点に成りうるほどの事をするに当たっては、ルナ様の集められるだけの情報は集めたのだろう。その同居人のことも。  その身内をルナ様は手を広げて庇う。北斗さんと共に瑞穂様の前へ立ち、兄の目を遮った。  だが僕は目にしてしまった。気丈に立つルナ様の広げた手に、爪の食いこんだ痕がある。それは母親の話を出された彼女が、怒りを抑えるために拳を握った証左。 「私の母の話だったはずですが」 「その通りだ。二度と覚悟のない女を俺の目の前に出すな、不愉快だ。そこの柳ヶ瀬の女、貴様もだ。柳ヶ瀬の家など、俺が当主となった暁には、どうとでもできることを覚えておけ」 「わ、私の家は関係ないっ……」 「口答えするのか? この場で俺の力を見せてやろうか! なんなら潰すのではなく、父親に言いつけて貴様を愛人にしてやろうか。男というものを教えながら、たっぷりと躾けてやる」 「やっ……」  たじろいだ瞬間を兄の目で睨まれ、湊は気力を奪われてしまった。  たった数度の言葉だけで、ルナ様の味方は半分にまで減らされた。主人を攻撃されるわけにいかないのでは、その付き人たちも動けない。  ほんの一瞬前まではこちらが主導権を握っていたはずなのに。まるで体のあらゆる部位に毒牙を埋めこみ、獲物の全身が弱るのを待っている蛇のように、ルナ様に隙が生まれる瞬間を狙っている。 「さて、おまえの母親だが……電話口の向こうで泣きながら懇願してきた。おまえが表に出ては『かわいそう』だから許してくれと」  ルナ様……。 「人目に付いては憐れまれるから救ってやってくれと。我が娘をどうか、人前に出さないでやってくれと! 惨めな声でこの俺に縋ってきた。クク、クハハ……クハハハハハハ!」  ルナ様!  本当なら、今すぐ側へ駆けつけて、その手を握って差しあげたい。  だけどその行為は、彼女が弱っていることを兄に知らせるようなものだ。だから動けない。その悔しさを共に耐えることしかできることがない。  ルナ様……僕は、常にあなたの側にいます。どうかそのことを忘れないでください。 「桜小路家の当主夫婦からそのように願い、請われ、その憐れさに同情した俺は一案を思いついた」 「それが、事前におまえたちの衣装をこの俺が使ってやることだ。そうすれば自分のデザインが世界で認められたことにもなるだろう? 誰も悲しまない方法で、だ」 「おまえのデザインを手に入れるのは簡単だ。学院で何度も製作をしていたようだし、〈教員〉《山吹》に提出されたショー用のデザイン画を見るのは、学院長の立場なら容易い。あとは俺の会社にて製作をすればいい」 「この話を聞いて、おまえの母親は俺を救世主のように扱ったぞ。何度も何度も礼を言っていた。先ほどのおまえではないが、その声も録音してある。聞かせてやろうか?」 「必要ない」  拒否しなければ、兄は本気で娘を否定する母の声を聞かせるつもりだろう。それを悟ったルナ様は首を横に振って断った。 「俺が捕まれば、このことも明るみに出るだろうな。桜小路家の家庭内の確執だ」 「娘を蔑んだと世間に知られれば、教育者としてのおまえの父親の信頼は崩れ、母親が恐れたように娘は笑いものとなるだろう」  もはや兄の目はルナ様の一挙手一投足を見守っている。少しでも弱みを見せれば即座に噛みついてくるつもりだ。  それでもルナ様は、その小さな体をまっすぐに伸ばして主張した。 「構わない。あの人たちとは縁を切った。今後どんな苦難に立たされようと、自分たちだけで乗りきってもらうしかない」  だけどやはり心の動揺は隠しきれなかった。兄の目が汚い喜悦に染まった色でどろりと濁る。 「敬語が取れたぞ?」 「もはや使う必要がないからだ」 「そう意地を張らない方がいい。俺を訴えるのを諦め、ショーには通常の授業で作成した服で参加すると約束しろ」 「それと今後は、院内にいる限り、学院長である俺の言葉には逆らうな。これができれば、ここまでの無礼を許してやろう。おっと、ただし――」  にたりと笑った目は、ユルシュール様に向けられた。あまりの品の無さに、清廉な彼女が思わず半歩後ずさるほどだった。 「――無礼を許すには、おまえら全員の謝罪は必要だがなあ? 犬のように、だ」 「くっ、この下衆っ……!」 「俺は下衆ではないよ、ユルシュール=フルール=ジャンメール。その証拠に先日スイスへ赴き、貴様の実家を訪ねてきた」  ユルシュール様の目が大きく見開かれた。本当に、嫌になるほど、この兄はひとの心が動揺した隙を見逃さずにカードを切る。 「ジャンメール家の医療機関で使用する、新しい看護服を提案してきた。貴様の祖父には大変気に入ってもらえたぞ」 「どうやら随分と末の孫を可愛がっているようだったな。俺の学院の生徒だと伝えたら、手を握ってよろしく頼むと言われたよ。これからは良いビジネスパートナーになりそうだ――」 「あ……」 「――その俺を下衆と?」  自分の知らない間に実家へ踏みこまれ、侵食するための種子を蒔かれていたと知ったら、どんな気分になるだろう。  ユルシュール様は、その白い肌を見てわかるくらい青くしてしまった。気の強い彼女が絶句してしまっている。  とうとうルナ様は丸裸で兄の前へ立たされた。 「どうやら他の三人は俺との和解に否定的ではなさそうだが……」  彼は仕上げとばかりに優しく微笑を浮かべる。 「桜小路ルナ。おまえはどうする? 今ならまだ屈服するための条件は緩やかな方だと思うが?」 「断る。盗作など、断じて許すわけにはいかない」 「なら次は、丸目とかいう女から買ったおまえの過去の話をしようか?」  この兄は……どこまで情報を握っているんだろう。  愕然とするしかなかった。現に湊、ユルシュール様、瑞穂様の顔にはありありと絶望の色が表れている。 「広めたければ勝手にするといい」  それでも僕の主人は不正と理不尽に抗った。 「私の家の話というから最後まで聞いてみたが、どうやら持ち札はそれで終わりのようだな?」 「ふん……」 「交渉は決裂だ。私の過去をあらゆる知人、関係者たちに話したければ話せ。それはもはや私にとって、恐れるだけの理由にならない」 「私には支えがある。信頼できるひとがいる。そのひとは私の過去の全てを受けとめてくれた」 「それならば私も受けいれることができる! 信頼できるひとが今までの私を認めてくれたのなら、どこに私が自分を否定する理由がある」 「彼女が側にいてくれる限り、私は何者からも逃げるつもりはない!」  ルナ様……そこまで僕を必要としてくれていたのですね。  それも、僕をまるで必要としなかった兄の前で。涙が出るほど嬉しかった。  僕はここにいてもいい。不安定で今にも崩れそうな立場で立っている人間にとって、どれほど心強い言葉だろう。そして僕も、彼女がいる限り何者にも立ちむかいたい。  その覚悟で兄を見据える。彼は机に顔を向けて笑っていた。 「クハハ……なるほど、よくわかった。以前のクワルツ賞のときは弱かったおまえが、どうしてここまで耐えられているのかがな」 「一人では耐えられる強さがないから、依存することで弱さを隠していたのか。そして奴も、自らの才能の無さを補うため、寄生することで宿主の実力を自らの腕だと錯覚し、喜んでいるといったところか」 「確かに身を寄せあえば、多少のことには耐えられるかもしれないなあ? だがそれでは何の解決にもならない」 「今ここでそれを確かめてやろう。おまえたちの関係は、片方が潰されればおしまいだ」  ようやくおまえの出番が来た。そう告げるかのように兄の目が向けられた。  今の話から想像するに、彼は僕とルナ様の信頼に気が付いた。となれば、それをへし折る方法を用いてくるはずだ。 「一人でぶつぶつと気持ちが悪い。交渉が決裂した以上、私は失礼させてもらう。みんなもいこう」 「桜小路。おまえは最も信頼している使用人が自分を裏切らないと言った。それはそこに立っている気色の悪いメイドのようだが」 「だがやつは、おまえに明かしていない秘密を持っているぞ?」 「なに?」  不穏な声だった。今までの中でも、特に苛立ちが前面へ出た声だ。  それだけ聞き捨てならなかったんだろう。それがハッタリであるかも検討せず、ルナ様は足を止めた。 「朝日のことだろうか? まだ揺さぶりをかけようというなら無駄だ。私は彼女を疑うことはしない」 「教えてやろう。そこにいるのは、おまえの使用人『小倉朝日』ではない」  ばくんと胸が鳴る。僕はこの時点で、兄が何を言うのかすぐに察しがついた。 「とうとう精神や概念の話で逃げるつもりか? そんな漫画や小説のような話に付きあうつもりはない」 「ルナ様……」 「ん?」  いっそのこと自分で打ちあけてしまいたい――そうは思ったものの、僕が兄より先に事実を告げたところで、ルナ様の心の準備ができていないことには変わりがない。  ルナ様自身が受けいれるのに時間が欲しいと言った僕の秘密。それを今ここで、丸裸のルナ様が聞かされて耐えられるかどうか。 「ルナ様! 手を――」  だからせめて手を握ろうとした。いつもそれしてお互いを支えてきたように。 「その男は――俺の弟『大蔵遊星』だ」  ルナ様の手はすぐそこにあった。  だけど僕はその手を握れなかった。肌が触れようとした瞬間「男の子が女の子の手を握っていいのか」なんて子どものような迷いが頭をよぎり、自分から手を引いてしまった。  だけどそれが全てだ。僕はいま、同居人たちの前で男だと曝されてしまったんだ。 「何を馬鹿な」  ルナ様はその事実を一笑に付した。  その明るい声は、自分で打ち明けようと決めていた僕の心を怯ませるには充分だった。 「お伽話が過ぎる。あなたは私が男だと言われて、それはびっくりですねと驚くのか」 「ならば本人に確かめるのが一番わかりやすい。遊星、おまえの性別をここで明かせ」 「…………」  ルナ様は信じていない。もしかして、ここでとぼければ隠し通せるんだろうか。  いや、全く現実味がない。今まで隠せていたのは、彼女たちが最初から僕を「女性」だという前提条件で見ていたからだ。  今の一言で、何気ない行動の一つ一つを監視されれば、あらゆるところからボロは出る。僕は一度もみんなの前で着替えたことがないんだ。  だけどルナ様の心を傷付ける……それだけが今はとても怖い。 「朝日?」  ようやくルナ様の目が僕の顔を見た。そして恐らく、この時点で血の気が引いた僕を見て不審に思っただろう。  湊は俯いている。ユルシュール様はルナ様と同じく、真顔で僕を見ている。瑞穂様だけは、何の冗談かという顔でまだ笑っていた。 「そんな……荒唐無稽な話をなぜ朝日に……」 「ではその長い髪を思いきり引きずりおろしてみろ。制服を脱がせて胸の膨らみを確かめた方が面白いか」 「なんてふざけたことをっ……」 「ここまで言われて否定するような真似はできないだろう? 愚かなる弟よ、俺がその気色悪い服を力づくで脱がせる前に自らの口で明かせ」  兄が席を立った。実力行為に出ても、こちらにはサーシャさんと北斗さんがいる。僕が必死に逃げれば、表には出られるかもしれない。  せめてこの兄のいない場所でルナ様に打ち明けるべきだ。そう思い、ドアに向かって走ろうとした。 「逃げれば、この女を裏切ったと見做していいな?」  それは兄が決めた何の強制力もない規則。だけどその言葉に僕は逆らえなかった。  逃げれば兄は僕が裏切ったとルナ様を責めるだろう。残されたルナ様は、僕のいないこの部屋で兄と戦えるだろうか。  不可能だ。僕はルナ様を置いて、この部屋からいなくなることができない。 「私は――」 「え?」  全員の視線が僕に集まった。  その中で一際目に付いたルナ様の瞳は、何の濁りもなく澄みきっていた。 「――僕は、男です」  僕は告白した。ルナ様を裏切りたくない一心で。 「嘘、でしょう? だってどう見ても女の子だし、胸だって……」 「申し訳ありません、事実です。兄が知った以上、隠すことはできません。僕は皆さんを騙していたことになります」 「うそ……信じない」 「だって私は今まで……あなたとどれだけ触れあってきたと思ってるの?」  胸がずきんと痛んだ。瑞穂様の顔も……今では、ルナ様の顔も見られない。 「朝日が男だったなんてことになったら、私……過去のことを思いだすだけで……」 「瑞穂待って! 朝日は……ううん、ゆうちょの話を聞いてあげて……!」 「『話を聞いて』ということは、朝日が男性だというのは事実なのですわね」 「あ……」 「お嬢様!」  湊が驚いた顔を浮かべたときには、瑞穂様が体を支える力をなくして崩れおちていた。  その体を北斗さんが抱きしめる。その目には怒りの色が表れていた。  その光景を兄は愉快そうに眺めている。もっと荒れろと次の火薬を探しているようにも見える。 「桜小路。おまえが裏切らないと言った人間は、こんな基本的なことすら話していなかったようだ。信頼が聞いて呆れる」  ルナ様はいま、心の中でどのような顔をしているだろう。願わくば、兄の言葉に耐えるだけの強さを宿していますように。  たった一人にさせてしまい、申し訳ありません。今すぐその手を握りたいのに、あなたにだけは拒否されるのが怖い。 「今までにどんな会話をしてきたのか知らないが、この男は腹の中で、常に正体がバレることを恐れながらおまえと話していたことになる」 「卑怯な心を抱えて交わした言葉の中から、信頼は生まれない。おまえたちの関係は実に惨めだ」  そう、惨めだ。今の僕を表すのにこれほど適した言葉はない。 「その証拠を何度でも叩きつけてやろう! 遊星、もう一度おまえの性別を言え」  兄の命令ではあった。だけど二度目は口に出せそうもない。これ以上ルナ様を追いこむ手助けはしたくない。 「どうした! まだ未練があるのか!? 上手く誤魔化してきたのだろうが……その心こそが、この女への裏切りだと知れ! どんなに取り繕おうと、貴様は〈偽物〉《おとこ》だ!」 「だからなんだ」  僕の手をルナ様が握った。  思わず顔を上げた。ルナ様は普段通りの顔で兄を睨みつけている。 「学院長代理、あなたは滑稽だ。『彼』と私の会話の一つも知らずに、何を指して卑怯だと言うんだ?」  彼……ルナ様が、僕のことを「彼」? 「滑稽? 俺が?」 「先ほど、彼が正体を明かすことに恐れを抱いていると言ったな。お生憎様だ。彼は私に性別を明かそうとした。逃げたのは私の方だ」 「私が受けとめてさえいれば、瑞穂を脅えさせることもなく、あなたに付けこまれることもなかっただろう」 「彼は最初に私を騙し、私は後になって彼から逃げた。そのことで周囲に迷惑を掛けたことは認める」 「だが二人が認めあってからは、私たち自身が交わす言葉の中に、お互いを卑怯だと感じる気持ちは欠片もなかった」 「彼は打ちあけることを決めていたし、私もいずれ受けとめるつもりでいた。全ては前向きな感情だ。そこに信頼を疑う余地はない」  ルナ様は、表情も声も普段のままだった。そこに強がっている様子は感じられない。 「私たちは心が弱い。だから個々の強さを手に入れるまでは、二人で支えあっていくつもりだ。私がデザインをし、彼がそれを〈型紙〉《パターン》にしたように」 「ほう?」 「もっと恐ろしいことだって考えたんだ。本人が否定しても、不治の病や、それに伴って余命が僅か……あるいは将来は記憶がなくなる、逆に過去のものがない。その他、多分に空想的なことも考えた」 「それに比べれば、たかだか性別が違う程度の事情は受けいれてやる。彼は彼だ。私が信頼したその人のままでいてくれるなら、心だけでなく体を裸にして見せても構わない」 「私の大切なひとだ」  彼女の手に力が入った。握られた箇所が痛いくらいだ。  だから僕も同じだけの力で握りかえした。もう大丈夫。  顔をまっすぐに上げてルナ様の隣へ並んだ。彼女が認めてくれるなら、兄はもう怖くない。これから全世界にだって謝罪しにいける。 「ありがとうございます、お優しいルナ様。僕の口から打ちあけられず申し訳ありません」 「君は自分のことを『僕』というのか。個人的には朝日のままの『私』がいいな」 「性別が明かされた今となってはお許しください」 「それと『朝日』と呼べばいいのか『大蔵さん』と呼べばいいのかも判断しかねる」 「屋敷へ戻ればお好きな呼び方で構いません。でも今は本名でお呼びください。一応、肉親の前ですし」  その肉親は、まだ薄く笑ったままの目で僕たちを見ている。 「そうか、君の兄の前だったな。だがすまない、その兄は近々裁判沙汰に巻きこまれるかもしれないぞ」 「君の肉親だから容赦をしてやりたいが、ここまでされてはさすがに腹が立った。君と瑞穂の間に信頼関係を取りもどすのも時間が掛かりそうだしな」  彼女はまだ、怒りの表情が消えていない北斗さんの腕の中で眠っている。 「はい。お許しをいただけるまで、瑞穂様には何度でも謝罪をしたいと思います」 「そうだな、それが最優先事項だ。北斗、瑞穂は……」  ルナ様は僕の手を離して、彼女に触れようとした。  しかし北斗さんは首を振った。彼女の怒りは相当深いみたいだ。ルナ様を相手にしても怯む気配はない。 「……すまない。一度、意識が戻ってからゆっくり話そう」  他に事情を知らなかったユルシュール様は、あまり反応を示していなかった。七愛さんは珍しく表情を驚いたものに変えているけど、怒っている様子は見受けられない。 「どうやら午後は授業どころじゃなくなりそうだ。全員で屋敷へ戻ろう、それが最優先事項だ」 「学園長代理も、君の性別を明かすことが目的だったようだ。それが私たちの仲を裂き、混乱させ、そのどさくさに紛れることが、盗作を認めさせるための最後の手段だったとすれば、残念だが当てが外れたな」  ルナ様は淡々と言いはなった。彼女の中では既に、兄の盗作に関しては決着がついた話なんだろう。  だけど兄の笑みは消えてなかった。むしろ、より嫌らしくなったと言っていい。程度が悪くなることはあっても、兄は一貫してこの種の目を浮かべていた。 「俺の目的がその男の性別を明かすことだと誰が言った?」 「ん?」 「余興が済み、本題へ入るとは言ったが、今はまだ前座のようなものだ。まあ気味の悪い格好をした男が、泣きながら主人に許しを乞う場面は見たかったが……」 「では改めて本題に入ろう。桜小路、おまえも知っての通り我が学院は女子の入学しか許されていない」  あ……。  そんな大切なことが頭からすっぽり抜けていた。ルナ様に拒否されないことを恐れるあまり、現実に振りかかるだろう諸問題への対策がまるでできていなかった。瑞穂様のこともそうだ。  女子校……ということは退学か。とても残念だけど。  ルナ様に才能を見出してもらって、衣装の製作だって寝る間も休んで、出来たものが認められて、僕の人生はこれからだと思っていたのに、全てがなくなった。  でも仕方ない……服飾の道は、他の進路を選ぶしかないんだ。 「…………」 「院則には、付き人と言えど男子は認められないことが規定されている。もっとも、付き人を認めているのは信用ある生徒にのみ限っていたため、審査などは行わなかったがな」 「そこに同じような真似をしている男もいるが、奴は本国において戸籍上、女だと判決が出ている。我が国の法に照らしあわせれば認められないが、海外の判決が絡んだ場合、騒がれると人権団体が厄介だ」 「あら、昔と違って今日は優しいじゃない」 「……おまえに関しては、スタンレーからの口添えもある。俺に逆らわないことを条件にな」 「だが! 愚かなる弟よ、貴様は正真正銘の男だ。まったく駄目だ。認められない。当然のことだが……この学院から出ていけ」 「はい」  こればかりはどうしようもない。どんな言い逃れを考えようと、規則として決められている以上は動かしようがない。 「……もしかして、それが取り引きか」 「ん?」 「彼の退学を取り消す代わりに、盗作の件を黙っていろということか」 「ルナ様?」  そんな訳はないと思ったけれど、彼女は真顔で兄を睨んでいた。僕の主人は堂々と交渉をするつもりでいる。 「ルナ様、それは……」 「学院の規定を変えさせるほどの大事だ。今年の十二月のショーを諦め、そこの男にデザインを三つばかり売ってやったと思えば安いものだ」 「ここにいる全員の許可は必要だが、君と共に卒業までいられるのなら、その話に乗ってやってもいい」  今まで盗作の件だけは譲る気配のなかったルナ様が、初めて兄に対して譲歩する姿勢を見せた。それも僕のために。  ルナ様……は、僕のためと言えど、自分の正義に反することのためなら意見を曲げないと思っていた。  それほど僕を必要としてくれているということだ。それと同時に、兄が依存といい、彼女も自分のたちの心が弱いと認めたように、今の僕たちはお互いに寄りかかる部分が大きくなっていた。  僕はルナ様を弱くしたのかもしれない。だけどこうして彼女が優しさを表に出すようになったのも、二人で支えあうようになってからだ。  本当なら折れるべきじゃないと言いたい。けど、悔しくても、僕は彼女に身を任せるしかなかった。 「わ、私はもちろんいいよ! ゆうちょといられるなら、その……一年くらい、我慢したって……」 「随分と自分の使用人には甘いことですわね」 「ユーシェ!」 「わかっていますわ。ただ、瑞穂がなんと言うかまではわかりませんわよ」 「クク……」  瑞穂様を見守る僕たちのことを兄は嘲るように笑った。 「なんだ」 「早とちりが過ぎる。その条件ではまるで、俺がおまえのデザインを使いたいがために話を持ちかけているみたいじゃあないか?」 「自惚れるな小娘。俺が望んでいるのは、そこにいる愚かなる弟の追放だ。それもただの追放では生温い。才能無き人間が俺の理想郷に紛れこんだこと、後悔させなければ気が済まん」  兄の表情から笑みが消えた。その鋭い視線が僕を正面から射抜く。 「俺が話しているのは遊星、貴様だ。この学院は元より、貴様がここで関わった全ての人間の才能を穢した罪……その浅はかな夢を失うことで、悔いて詫びろ」 「才能無き凡石の貴様が世の邪魔にならないよう自らを戒めるか、藍田より生じた玉をその愚かな額に叩きつけて割り共に朽ちるか。このどちらかが貴様の取るべき選択だ」 「つまり黙ってこの学院から去り――この学院だけではなく、生徒に関わる全ての事柄から手を引き、海外で暮らせ」 「…………」 「当然、桜小路家からも去れ。この女には才能がある。その類まれなる性質を貴様の凡庸さで濁らされ、汚されては人類の損失だ」 「彼を手放すつもりはない」  僕が答えるより先に、ルナ様が兄の言葉を遮った。しかし、それでも彼は宣告をやめない。 「貴様が黙って日本を去ること、それが一つ」 「もう一つの選択肢は、遊星、貴様が恥を知らず世の中の才能を一つ潰したいというのなら――この女と共に俺の学院を去れ」 「えっ……」  ルナ様と、共に?  その言葉に目の前が真っ暗になった。兄の目に漂っていた澱みが頭の上から降りかかり、僕の視界を覆う。声が出ない。  それは、ルナ様を退学にするということですか?  他人から見れば決して特別ではないのかもしれない学院生活。  だけど僕にとっては初めての充実した八ヵ月間。それはきっとルナ様も。友人たちに囲まれ、己の夢を掴むために才能を磨く華やかな毎日。  ルナ様の入学してからの八ヵ月間を……これから先の輝かしい日々を奪われたくない。  そのとき、僕の心にじくりと何かが刺さった。  ルナ様に、ルナ様の未来のために、酷いことを考えるひとを僅かながらでも憎いと思った。  敬愛するべき肉親を。誰かの為になりたいと願ったこの心が、こんなひとなんていなくなればいいのにと思ってしまった。 「たとえこの後に盗作をしたと叫んだとしても、現時点での学院長は俺であることには変わりがない。おまえを退学にする権利を現段階で有している」 「無論、理由がなければ、俺の独断で退学を決定するのは無理だ。だが見ろ、この不届き者を!」  兄に指でさされても、僕はたじろぐことすらできなかった。 「なぜ使用人たちに審査をしなかったか? それは生徒じゃあないからだ。彼女たちは持ち物だ。おまえたちの授業道具の一環だ」 「だが授業の道具と言えど、規定で禁止されているものを持ちこんではいけない。当然だろう? どの学校にも同じ規定がある。知らなかったでは済まされない」 「特にこの男の犯した罪は重い! 見ろ、そこで目を閉じて気を失っている可哀想な生徒を! 同級生の中には、事実を知れば、彼女と同じく気絶するほどのトラウマを抱えてしまう生徒がいるかもしれない!」  弁解も言い訳も通用しない。というよりもできない。現実に瑞穂様は倒れ、北斗さんは怒りを顕にしているんだ。  兄の澱みが、骨を軋ませるほどの重量となってのしかかる。  どうかルナさまだけはまもらせてください……。 「桜小路。責任は全ておまえにある。意思のない道具に責任は問わない、罰を受けるべきは主であるおまえだ。床に手を付き、己の友人たちに詫びるがいい……」  それまで鋭い言葉で僕たちを責めたてていた兄は、そこでふとルナ様に穏やかな目を向けた。  いつかルナ様のデザインを見たときに、その才能を慈しんだ優しい目だ。 「……と言いたいところだが、おまえの才能は惜しい。俺が自ら鍛えてやりたい」 「また、この愚かなる弟を野放しにした点については俺にも責任があり、またこの程度の男に関わりおまえの才能が失われるのは不憫だ」 「だから俺は救いを与える。今回だけは特別に、遊星、貴様が罪を被ることで許そう。桜小路ルナの才能を評価するのなら、貴様が出ていけ! 二度とこの至宝の石座になろうなどと過ぎた夢を見るな!」 「なんて……残酷な決断を朝日に迫るんですの」 「酷いよ……」  そう。このひとは酷いひとだ。だけど。  今ならまだ、兄はルナ様を許してくれる。退学などと過度な処分はせずにいてくれる。  ルナ様に会えなくなるなんて嫌だ。彼女も僕がいなければ、と言ってくれた。  だけど僕には、この八ヵ月間が眩しすぎる。自分のことなら耐えられた。でもルナ様が笑っていた日々だけは。 「図々しいにも程がある」 「あ……」 「盗作をした男が長の座にいる学院に私が固執するとでも? そちらこそ、こちらの譲歩を無碍にしたこと、後悔させてやる」 「後からあなたを追う私という才能に脅え、今は傲岸不遜に笑っているがいい。道はひとつじゃない。挫折しようと、頓挫しようと、私は必ずあなたのいる場所へ昇ってみせる」 「ほう……」  駄目です、いけません。兄はやると口にしたことはやるひとです。  次にルナ様が言葉を発したときが最後だ。そう考えたとき、すでに僕の思考回路はひとつの場所へ向かっていた。  あなたは僕の太陽なのです。 「ではこの石ころに躓き、坂道を転げおちるといい。クワルツ賞の審査も辞退したおまえだ。これで俺までも敵に回せば、もはやこの業界で生きのこる術はない」 「くどい――」 「お許しください……」  か細くはあったけど、僕の声は室内によく響きわたった。  懸命に声を絞りだした。ごきゅりと唾が喉をくだっていった。  ルナ様が、驚いた顔で僕を見ている。湊も、ユルシュール様も。驚いていないのは兄だけだ。 「お兄様の命に従います……海外にでもどこへでも移りすみます……」 「クハッ……」 「朝日?」  ルナ様は僕を使用人だった頃の名前で呼んだ。もしかすると、そうすることで自分の命に従うのではないかと思ったのかもしれない。  だけど申し訳ありません。今の僕は、大蔵遊星です。 「お許しください……お兄様の仰るとおり、この身で出過ぎた夢を追いました……皆様には二度とご迷惑をお掛けしません」 「ですからルナ様をこの学院から追うことだけは……どうか、どうかお許しください」 「朝日っ!」 「クハッ、クハハハハハハ! クハハハァ、アアァーハハハハハァ!」  涙も出てこない。涙を流すことも許されないからだ。この兄は、泣けば許されると思っている人間を嫌う。  それどころか笑顔が浮かんできた。誰にも責められないための、ひどく汚い笑顔だ。 「いいぞ愚弟! イギリスで見かけて以来、久方ぶりに貴様と再開した気分だ! そうだ、貴様はそういうやつだった! 殴られながら礼を口にする、卑屈で下品な子どもだった!」 「ならばそれ相応の態度を取れ! 今までの兄に対する無礼を詫びろ、貴様の頭の位置はそこじゃない!」 「はい……」  もはや憎しみも消えてなくなった。あれは一瞬の錯覚だったのか、懇願して縋ることしか頭に浮かばない。 「おゆるしください……おゆるしください」  僕は膝を付いて頭を垂れた。恐らくすぐに両手も床へつくだろう。  だけど頭の中にはルナ様の姿だけが浮かんでいた。卒業式に、輝かしい友人たちに囲まれ、栄光の未来へ進む美しき僕の主人が―― 「朝日っ……」 「ふざけるな!」  ――僕の主人は、目の前にいた。 「君はいつまでも私の側にいると言った。その約束を違えるのか!?」 「目を覚ませ! 君は頭を下げなくていい。今すぐ立ちあがり、私の隣へ並べ!」  その小さな体躯をまっすぐに伸ばし、下から仰ぎみる姿は本当に凛々しい。このひとに仕えていたことを心から誇りに思う。  だけど、このひとを……大好きなひとの将来を盾にされては。 「いけません……ルナ様のこれからを潰してはいけません。そのためなら何だってします」 「自己犠牲に浸るな、それで私のためになると考えているのか? 未来を選ぶというのなら、君が側にいることは私が栄光を掴むための絶対条件だ!」 「わかっています。側にいたいと思います。必要としてくれていることも感じています。私は、ルナ様と共にいなくてはいけません」 「ですが、どうしても……ルナ様に、この学院を共に辞めてくださいとだけは、この身が裂けても言えないんです!」 「僕の口から、未来を諦めてくれとだけは言えませんっ……」  たとえそれが自分の意志ではなく、何かに操られて言葉にしたとしても。この口から僕の声で発せられた言葉だとすれば、その罪過に耐えられるとは思えなかった。  これまで何度も壁に行く道を塞がれてきたルナ様の道を……せっかく階段に足をかけていたのに、やり直してくれと自分の口からはとても言えない。  僕はいつの間にか、兄ではなくルナ様に向けて頭を垂れていた。  これから先の道を違えてしまう可能性があることを……約束を守れなかったときのことを思い詫びていた。 「朝日……違うだろう?」  そんな僕にも、ルナ様は激情を抑えて語りかけてくれた。 「共に進むとはそういうことじゃないだろう? 易しい道に一人分の幅しかないのであれば、私は喜んで茨の道でも歩んでみせる」 「どうして私を頼らない。なぜ私に無茶を言ってくれないんだ。君を信頼していると言っただろう?」 「間違えば教えあい、苦しければ寄りかかり、許せなければ叩きあい、それでも共に歩くのが私たちの関係なんだろう?」 「君となら構わないんだ。学院など辞めろと言ってほしい。二人で別の道を探して、長い時間が掛かっても、必ず最後には成功しようと言ってくれ」 「頼む……いや」  切なくも悲痛な声だった。子と別れる母の声はこういうものだっただろうか。 「お願いだから……謝るのではなく、一緒にいてほしいと言ってくれ」  嬉しかった。このひとの、僕をどこまでも求めてくれる優しさが。  愛しています。心からお慕いしています。もっと、千の、万の言葉を重ねて伝えてよかったと悔いるほどに。  今の僕にはあなたさえいれば何もいりません。  今この言葉を一つでも、いや、ルナ様を愛するための表情の一つでも見せれば、彼女は即断するだろう。  だから、その優しさが――これほど彼女の苦しさがわかっていても、やはり僕には彼女から制服を奪うことができなかった。 「ごめん、なさい……」  もはや彼女の顔は見られなかった。 「…………」  願いが叶わないと知ったのか、ルナ様はとうとう声を発する力をなくした。 「クク……」  それを事の終焉と悟ったのか、断罪人がゆっくりとやってくる。 「中々に良い見せ物だった。納得いかない点は多少あるが、この女なら才能を優先すると期待した俺の買い被りだろう」 「それでも遊星、貴様の面は非常に良かった。そうして這いつくばっていろ。貴様は雌犬の子なのだ。二本足で立つな。さて……」  兄がルナ様の様子を窺う。彼女は腕をだらりと下ろしていた。 「これでおまえからの辞退がない限り、今回の処分は、大蔵遊星を学院からの追放の一点のみとする。桜小路ルナは関与していなかった被害者として、明日も通常通りの通学を許可する」 「十二月のショーだが、今回は授業で作成した服を着用しろ。おまえならそこそこの作品には仕上がっているだろう? 他の生徒のデザイン画なども見ているが、あれなら通常の提出物でも充分だ」 「それと、俺のコレクションにおまえのデザインを使用したことは他言無用だ。迂闊に口を開けば、そうだな……そこの愚かなる弟に罪を被せるか」 「どこまで……彼を追いこむつもりですの」 「充分に寛大な処置だと思うがな。あとは桜小路。おまえが余計な真似をしなければ……ん?」  ルナ様は兄に一言も返事をしなかった。  いや何も聞こえていないかのように、脱力している。やがてゆっくりと僕のもとへ近付いてきた。  ルナ様はそれでもまだ……優しい顔をしていた。 「君は……行くあてがあるのか?」  もちろん僕にはわからない。答えられなかった。 「元々住んでいた部屋へ連れていく。そのあとはすぐに海外へ移住だ。行き先は教えない」 「体は大切にすること」  ルナ様は、まるで兄の声など聞こえていないかのように話しかけてくれた。 「きっと、また会うんだ。君がいないと、私は本当に駄目だからな。だけど、次に会うときは、もう少し私が強くなっていると思う」 「だからそのときは、もっと私を頼ってくれ。力のない主人ですまない」 「……ちっ」  僕たちがこの部屋へ来てから、初めて兄が不快そうな顔をした。  怒りや嫌悪はあっても、いま起こったことに対して不満めいたものを見せたのは初めてだった。己の決めた筋とは違う展開に、納得がいかなかったんだろうか。  ルナ様は、兄を相手に最後の一矢を報いた。 「ここまで精神が弱かったとは計算外だ。桜小路ルナ、おまえは才能がずば抜けているものの、まずは心の強さを手に入れることが肝心だ」 「これも全て、そこの愚物の影響かと思うと腹立たしい……だが遊星、貴様はここに残れ」 「そして他の者は全員出ていけ。この男との別れには挨拶も許さん。ちっ、忌々しい……」 「ルナ……」 「ルナ?」  ルナ様は動かない。まだじっと僕を見てくれている。  彼女と目を合わせられず、僕は下を向いているのに。この顔を見るまで動かないといった覚悟すら感じる。 「煩わしい、ひとを呼んで、無理やり連れだしてやるか……それが嫌なら出ていけ!」 「ルナ……いきますわよ。動けないなら、腕を引いてでも歩かせますわ」 「これ以上は二人とも辛いだけですわよ」 「ルナ……ゆうちょも、ごめんね……」  ルナ様は二人の友人に肩を支えられて部屋から去っていった。  兄はしばらく窓の外を見ていた。みんながいるときは余裕を崩さなかった彼が、今は苛立っているようにも見える。 「ちっ、愚かなる弟よ……いい加減、その気色の悪い格好をやめたらどうだ。まるであの雌犬を見ているかのようだ」 「いや、替えの服がないのか……遊星、ここを動くなよ。準備ができ次第、貴様は元居た部屋へ連れていく」  やがて兄も去った。部屋に残ったのは僕だけだ。  僕は両手をついて、まだ地面を見つめつづけていた。でも顔を上げるわけにはいかなかったんだ。  あの聡い兄は、僕の顔を見れば気付いてしまう。まだ希望を捨ててないことに。  だからルナ様の顔も見られなかった。きっとこの目を見れば彼女には伝わる。  僕はまだあなたとこの国に残ることを諦めていません。この学院で共に学ぶ夢を捨てていません。  そのためには、兄に気付かれてはいけませんでした。ルナ様を退学にさせるわけにはいかなかったからです。あなたがそれでいいと言ってしまえば、この学院で学ぶ夢が絶たれてしまうからです。  僕がひざをついてから、あなたが掛けてくれた言葉の一つ一つが嬉しくて、僕はずっとお礼を言いたかった。  まだ夢は捨てていません。僕が毎日笑って過ごすためにはあなたが必要です。この一ヵ月の間だけ待っていてください。  最後まで信じてくれていてありがとうございます! 僕はきっとあなたのもとへ行きます! 「さっさと入れ」  兄は苛立ち気味に扉を開いた。どんと背中を突きとばされた僕は、よろめくように何歩か前進した。 「今日から、ここがまた貴様の部屋だ。外には出なくていい。日がな一日中寝て起きて食事をして寝ろ。豚のように過ごせ」  兄は機嫌が悪いみたいだった。それは学院長室を出たときから続いていた。 「遊星。俺は今からすぐにヨーロッパへ向かう。一ヵ月は日本へ戻ってこられないスケジュールだ」 「その間に、俺は本家に行き、父親と話を付けてくる。貴様は奴に飼われろ。これほどあの雌犬の色が濃く出ていれば、息子だろうとあの男は貴様に溺れる」 「孫のように甘えろ。奴を骨抜きにしろ。大蔵家の財産は俺が継ぐ。貴様は腑抜けになった父親の世話だけをしていればいい。奴が死んだら俺が自由を与えてやる」 「……お兄様は」 「なんだ?」 「僕に才能があれば、認めてくれますか?」  兄の眉がぴくりと上がった。彼が不愉快だと思っているのはすぐにわかった。 「日本へ来る間際に、この身の内にある才能を試すと仰られました。その言葉はまだ認められるでしょうか」 「貴様に才能はない。俺が与えた機会を無駄にした貴様にはそう告げたはずだ」 「余計なことを考えるな。無能は思考を無駄に重ねる。故に無能。思考回路を切れ。黙って俺に従え」 「僕は誰かの為になる大人になりたいと願ってきました」 「ならば今のままで問題はない。俺の為に生きろ」 「ですがそれと同時に、いつも笑いながら楽しく生きようとも思いました」 「ひとを幸せにするには、自分も幸せになることが大事なのだと気付きました」 「僕がお兄様の為になるのなら、あなたから愛されたいと思います」  突然、兄の目が見開いた。罵声が飛ぶのかと思いきや、彼はそうしなかった。  彼は言葉を口にするより、体に直接怒りをぶつけてきた。僕の喉元へ腕を突きつけ、そのまま体重を乗せて床へ押したおす。  苦しいけど喉を押さえつけられて咳も出せない。寸前まで顔を近付けて、兄はその表情をぎりりと歪めた。 「図に乗るな雌犬の子! 俺が貴様を愛するだと? 天地がひっくり返っても有りえない!」 「俺は貴様を手に入れるだけだ! 貴様が俺に施せるものなど何もない、ただ俺が一方的に与えるだけだ!」 「う……けほっ」 「役に立てば使ってやることも考えたが、やはり貴様は雌犬の子、母親と同じ使い方しか用途はない! 愛されるのではなく、搾取されるために生きている!」  兄はしばらく呼吸に苦しむ僕を見ていたが、抵抗がないことを知ると、興味をなくしたように立ちあがった。 「愛してほしいなどと、その顔で口にするとはッ! まるで……本当にあの雌犬だ……」  兄は乱れた自分の服を直しながら息を整えた。 「もう一度言うが貴様は何も考えるな。一ヵ月間、この部屋で大人しくしていろ」 「もし再び俺の下から離れて、桜小路家の……桜屋敷と言ったか、あの家や他の場所へ逃げれば、俺はあの女を退学処分にする」 「他の連中も無事に済むと思うな。それが嫌なら黙ってここにいろ」 「お兄様」 「なんだ」 「荷物だけは桜屋敷へ取りに戻っても良いでしょうか。あの鞄は母の形見です」 「形見……?」  兄は首を捻った。そのようなものがあるのか、記憶を辿っているんだろう。  あまり真剣に考えられると困るな、と思った。形見なんていうのは嘘だから。 「……貴様が取りに戻る必要はない。使いの者をやって取りに行かせる。貴様はあの屋敷へ近付くな」 「一度だけお願いします。余計なことはいたしませんので、どうか鞄だけ取りに行かせてください。母の形見を他人に触れられたくないのです」 「……あまり多くのことを要求できる立場だと思うなよ」  警戒の色が濃くなった。だけど折れるわけにはいかないから、ここは縋ってでも願いを聞いてもらわないといけない。 「今後は、母の面影を胸に抱いて生きていきたいと思います」 「…………」  このひとに家族愛なんてものが通じるとは思えなかったけど、それでも他に方法のない僕は頭を下げ続けた。  そして、まさかその言葉に憐憫を覚えたわけではないのだろうけど―― 「いいだろう、愚かなる弟よ」  ――兄は奇跡的に折れてくれた。 「ただし今後、おまえの外出には俺の部下を監視につける。それと、あの屋敷の場所なら、今日は夜までに帰れるだろう。必ずこの部屋の電話から俺に連絡を入れろ」 「それと今回だけだ。今後、桜屋敷へ近付けば何かを企んでいると見做す」  兄の視線が部屋の中にあるパソコンの位置へ移動した。正確には、その周辺の配線だ。 「遊星、桜小路を人質に取られた貴様に手があるとも思えないが、つまらないことを考えるな」 「貴様の通信記録はすべてチェックする。この一ヵ月でおかしな真似をすればすぐ俺の知るところになると思え」 「桜小路のもとへ戻ろうとすれば、すぐにあの女の退学処分を考える」  兄は荷物を手にすると部屋の出口へ向かった。 「もっとも、あの女に頭を下げた貴様が、受けいれられるとも思えないがな」  最後に嘲笑を残して、兄はこの部屋から出ていった。  よかった。何時間も外に出ていたら気付かれるだろうけど、多少の外出程度なら可能みたいだ。もちろん、常に監視がいるかもしれないことは警戒しなくちゃいけないけど。  それと問題は、この部屋に何があるかで……。  部屋の中を見回してみる。久しぶりだなあ、この部屋。学院へ通ってる間は一度も来なかったのに、僕が出ていったときからそのままだ。  そうだ、全てがそのままか確認する必要がある。ミシンと裁縫道具だけは……あ、あった! これがなければ何もできないから……よかった。本当に昔のままだ。  違う点と言えば、いつも遊びに来てたりそながいないことくらい……あ、あれ?  ベッドの中で何かが蠢いてる……もそもそと掛け布団が持ちあがって……あれは?  布団の中から出てきたのは妹だった。目を真っ赤にして、ひどくやつれてる。  でもその場にいて動こうとしない。話しかけてもこないから、僕は自分で彼女のもとへ行く必要があった。 「りそな……?」  返事がない。聞こえてないってことはないだろうけど……と思い近付いた僕は、その顔が見える位置でようやく気が付いた。  りそなの唇が動いている。何も話しかけてこないんじゃなくて、小さな声しか出なかったんだ。 「ごめんなさい……」 「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」 「りそな。大丈夫だから」  ぽんと肩を叩くと、その体がぶるっと震えた。脅えてる。 「りそな。本当に大丈夫だから。ごめんね、僕だけが目を付けられれば済む話だったのに、巻きこんじゃって」 「突然上の兄がやってきて……携帯電話を奪われました。よくも今まで黙って好き勝手な真似をしてくれたなと……」 「これまでの経緯と下の兄の連絡先を聞かれて……逆らったら、地の底まで落としてやると言われて……言われるがままになってしまいました」 「仕方ないよ。あのひとに逆らえるひとなんて、大蔵家の中にはいないから」 「ごめんなさい……怖くて、兄を酷い目に遭わせないでくださいと言うのが精一杯でした」 「私は、大人しくしてろと言われて……下の兄をここへ連れてくるから、今後は外へ出ないように見張り、食事の手配をしろと言われました」 「携帯電話は取りあげられたままにされて……しばらくは通信も管理するとのことでした」  だから僕が電話したとき、りそなに繋がらなかったんだ……。 「僕を守ってくれようとしたんだよね? 見てなくてもわかるよ。怖かったよね。ありがとう、りそな」  すすり泣くその顔を胸に押しあてる。今まであまり兄らしいことをしてあげられた覚えはないけど、こんなときくらいお兄ちゃんぶっていいのかな。  言いだしたのはりそなだとしても、彼女はその後もずっと無償の協力をしてくれていた。  果たしてこれほど怖がっている妹にこれ以上の助力を願っていいものか迷う。  だけどこれからも行動にある程度の制限が掛かっている以上、りそなの協力は不可欠だ。僕はこの妹に頭を下げて頼みこむしかなかった。 「りそな」 「はい」 「泣いてるりそなにこんなことを言うのは自分でも酷いとは思うけど、僕はまだ……りそなに手助けして欲しいことがあるんだ」 「…………」  りそなが大きく開いた目で僕を見上げた。 「僕は今でも桜屋敷へ帰りたい。衣遠兄さまが怖いとは思うけど、それでも意に沿わない場所へ連れていかれるよりも、同じ夢を追えるひとたちと一緒にいたい」 「ルナ様の下へ戻りたい。りそなに協力をして欲しいんだ」 「協力……何をすればいいんですか?」 「僕があまり頻繁に出入りしていると勘づかれそうだから、買い物や連絡をお願いしたい」 「勘付く? 買い物? どういうことですか?」 「僕は兄さまから逃げて、隠れていたけど、それは自分が認めてもらえないとわかってるからだった」 「でもね、やっと正面から向きあえる自信が付いたんだ。兄さまには才能が無いって言われた僕だけど、ルナ様や他のみんなが、今は認めてくれるようになったから」 「認めてくれてる……正面から向きあう? 上の兄と? これ以上なにをするつもりですか……?」  りそなの脅えが目で見てとれた。僕たち兄妹は、兄から無能だと散々に罵倒されてきた。正面から、なんて一年前の僕なら考えられなかったと思う。 「十二月のショーに僕の作った衣装を出して、兄さまのいる目の前で最優秀賞を取るんだ」 「デザインはルナ様でも、型紙を引いたのが僕で、その作品が兄さまの認める基準に達していれば、僕がこの先も服飾を学ぶことを許してくれるかもしれない」 「最優秀賞を取ったルナ様が、兄さまに僕が何をしたか伝えてくれれば……」 「あのひとは、才能を認めた相手には敬意を払ってくれるから」 「でも」  りそなが俯いた。だけど、言いにくいとわかっていながらも、僕に現実を告げる。 「あなたは自分で言っていた通り、上の兄から才能が無いと言われているじゃないですか」  そう。僕は兄を失望させ、だからこそこの八ヵ月間は隠れて学校に通うことになったんだ。でも。 「でも、ルナ様のデザインが僕の実力を伸ばしてくれたんだ」 「彼女から必要とされたとき、心から力になりたいと思えて本当に頑張った。デザインをやりたかった頃は型紙を引いたり……別の道は考えたことがなかったけど」 「他に目的があって学んでいた頃と、本当にそのひとから必要とされたいと思って挑んだ自分には、完成した作品に雲泥の差があったんだ」 「そして僕にはその方面の才能があった。いま出来たものを兄に見てもらえれば頷かせる自信がある」 「でも認められなかった場合には……」  うん。一度目よりも、もっと大きな挫折を味わうだろうね。 「だけどあの厳しいルナ様が、僕の腕を認めてくれたんだ」 「え?」 「嘘だと思うなら、僕の作った衣装を見てほしい。協力するか決めるのはそれからでもいい」 「だけど逃げたり、機嫌を窺ったりせずに堂々と挑んで駄目なら、挫折は覚えても諦めたりはしないと思う。それなら、いつかもう一度挑むことだってできると思う」 「…………」  りそなはしばらく困っていた。あの兄に挑むなんて、ついさっき恐怖を叩きつけられたこの妹には、考えられなかったんだろう。  だけどその震える手は、伸ばした先に頼れる力があると願って……。 「……土台、無理な話です」 「そう思うだろうけど、今回はわりと自信があるんだ」  それだけのものを仕上げてきたから。その完成した衣装を作った自信がなければ、あの兄の威圧感の前にぺしゃんこになっているだろう。 「……違います、そっちじゃないです」 「え? じゃあ無理って?」 「女装して入学を提案したときも、ルナちょむに紹介したときも、能動的に動いたのは私じゃないですか」 「兄が自分から私に頼んできたことなんて、子どもの頃の日本の紹介くらいしかないんです」 「そんな兄に『協力して欲しい』なんて言われたら、妹、どんなに膝がガクガクしてても断れませんよ」  そう話すりそなの体は、とっくに震えが治まっていた。  一人称もわりと普段通りな感じだ。僕の熱意にりそなが応えてくれたみたいだ。 「それと上の兄に脅されるまま、全てを打ち明けてしまった負い目もありますし」 「それはいいよ。僕だってそんな状況に追いこまれたら、隠し事なんてできない。こっちこそ、りそなを一人きりのまま兄さまと向きあわせた負い目があるよ」 「じゃあ結婚でいいですよ。ほら昔の話もしたついでに、あの頃プロポーズ云々の会話があったことも思いだしましょう」 「あ、ごめん……僕はいまルナ様の恋人で」  あれ? 主従関係だっけ? でも主従関係だと今まで通りだからニュアンスが伝わらないしなあ。  それからしばらくりそなが不貞腐れたので、機嫌を直すのが大変だった。  僕の目指すものはルナ様のドレス。本来はショーに使う予定のなかった個人的なプレゼント。  時間としては相当厳しい。今まで作ってきた衣装は、八人掛かりで一ヵ月半。メインで作業していたのは五人で、今回は途中まで進んでいることを考慮にいれても、残り時間が一ヵ月なのはキツい。  でも一日中、時間はあるわけだし……とにかくやるしかない。生活に必要な時間を除いて、他の一切を製作に注ぎこむとしても。  できれば誰か一人でも協力してくれると嬉しい……けど、ひとが僕の部屋へ出入りすれば目立つし、難しいかもしれない。  事前に連絡もしておきたいけど、今もこうして兄の監視が付いていて、外へ出ても電話ができない(さっき電話ボックスへ入ろうとしたら制止された)。  りそなの携帯は取りあげられたらしいし、パソコンもメールを全てチェックすると言われている。  僕は桜屋敷を直接訪れるしか手がなかった。どのみち鞄は手に入れなくちゃいけないんだ。  桜屋敷に……えっ。  インターホンの前に北斗さんが立っていた。普段の空気とは違う印象、だけど……。  まだ門の前に着くまでは、屋敷の屋根を見て胸に込みあげるものがあった。  今朝は同じ建物の中で普段通りの……幸せな毎日を送っていた時間を思いだすと涙が出そうだった。  そんな郷愁にも似た感情で頭を埋めつくしていたところに、予想外の光景と出会ったから、僕は多少なりとも面を食らった気持ちになった。 「……来たな」 「北斗さん……どうしてここに――」 「――ぶッ!?」  有無を言わさぬままの鳩尾への一撃。その余りの衝撃に、膝の力が抜けて膝をついてしまった。 「かはっ……」  無防備な状態での急所への攻撃はよく効いた。気を失いそうになったけど、ここで倒れたら終わりだという気持ちが意識を繋いだ。  声を、出さないと……。 「北斗さん、これは……?」 「貴様を待っていた。今を逃せば、二度と会うことはないかもしれないからな」 「よくも瑞穂お嬢様を騙してくれたな……私は嘘が嫌いだが、今回貴様のしたことは、好き嫌いの問題じゃあない」 「私の誇りがかかった問題だ。よくも私の愛するひとを傷付けてくれたな」  それは……。  瑞穂様が僕の性別を知って……気を失ってしまったことだろうか。  いや、それだけに収まる話じゃないのかもしれない。今までの楽しかった全てが不実の下に行われていたことだと知って、とても僕を許すことなど出来なかったのかもしれない。  そうか……僕は、自分とルナ様のことばかり考えていたけど……傷付いたひともいるという現実を忘れていた……。 「申し訳、ありません……けふっ」 「謝って済むかああっ!」 「ごふっ!」  今度は爪先が腹部へ刺さった。もはや体重を支えることができず、僕は地面へうつ伏せになった。  僕を監視に来た兄さまの使いは黙って見ている。この状況になれば手を出すなと言いつけられていたんだろうか。 「立て、この卑怯者! 戦いもせずに負けを認めるつもりか!」 「ごめ、んなさい……許して、ください……」 「許せるか! たとえ他の全員が許したとしても、お嬢様を悲しませた貴様を私だけは許さん!」 「すみま、せん……すべて、僕の勝手です……」 「相手に許しを乞うだけか!? 貴様に正義はないのか!」 「正義……僕の、正義は……」  ない。如何なる事情があっても、自分の都合で彼女たちに不誠実を働いたことだけは、正義の証明のしようがない。  謝るしかない。だけど瑞穂様に会いたいと言っても、北斗さんは許してくれないだろう。こうして何度でも打ちのめされるだけだ。  もしこの問題を解決してくれるものがあるとすれば、膨大な時間……だけど今は時間がない。ここで諦めるわけにもいかない。 「正義は……いま許しを乞える理由があるとすれば……」 「聞こえない! 言いたいことがあるなら顔を上げろ!」 「僕の、正義はっ……」 「僕の正義は……過去にはありません!」 「なに?」  顔を上げた。殴られて、痛くて、考えなんてまとまらないけど、せめて何かを言わなくちゃいけないのなら、思いつくままに告白するしかない。  たとえそれで相手をより怒らせるとしても、黙っていたら何も進まない。 「服を作ります!」 「なにっ……」  ここが告白できるギリギリだった。監視が付いている以上、ショーのことは言えない。だけど北斗さんに納得してもらうには本音しかない。 「それしかできないので、服を作ります! 皆の笑顔を取りもどせるような……これが作りたかったんだと、僕たち全員が一目でわかる服を作ります」 「今までの楽しかった日を思いだせるような服を作ります」 「それがどうして正義になる」 「それしか瑞穂お嬢様や、他のみんなの笑顔を取りもどす方法が思いつかないからです」 「今朝までのことは、何度考えても言い訳できません。だから何度でも謝ります。でも今は、みんなをもう一度笑わせるためのきっかけを作りたいんです」 「…………」  ごつん、と爪先が脇に当たった。そして僕は仰向けにひっくり返された。 「全てあなたの勝手な言い分ですね」 「はい……その通りだと思います」  僕の言葉が通る道理がないんだ。謝って、謝って、許しを乞う。それ以外にできることが思いうかばない。  だけど彼女が許してくれるきっかけがあるとすれば、ルナ様の力添えがないと無理だ。彼女が笑ってくれれば、瑞穂様だってくすりとしてくれるかもしれない。  今は僕のことをどう思っているかわからない他のひとたち……湊やユルシュール様にも言えることだ。僕はルナ様の力を借りないと、友情を回復することもできない。  だからルナ様ともう一度会うための服を作りたい……。  でもそれらを望むのは僕の勝手だ。瑞穂様は僕と仲直りしたいわけじゃない。ルナ様も僕に服を作って欲しいだなんて言ってない。  全て僕が今朝までの日々を取りもどしたいと願っているからだ。 「……痛いですか」 「はい……痛いです」  本音を言えば、今にも意識が飛びそうだ。頭が揺れて、胃の中のものを全て吐きだしそうだ。 「瑞穂様はもっと深く傷付いたと思います」 「はい……申し訳ありません」 「謝って許される問題ではありません」 「はい」 「が、問題をどうにかしたいという意思がお嬢様にはあります」 「え?」 「先ほど心を癒そうとお嬢様に話しかけたところ、またあなたに会いたいと仰るのです」 「え……」  瑞穂様が? それはとても嬉しいけど……でも。 「いえ、あなたを許すと仰られたわけではありません。嫌いにもなったし、しばらくは顔が見られそうもないと仰られました」 「ですが気絶している間に見た夢は、あなたを交えて、桜屋敷の全員でお茶を囲んでいる風景だったそうです」 「矛盾していますが、瑞穂お嬢様はあなたが許せないのと同時に、昨日までの日々をまた送りたいと願っているのです」 「それは……」  なんてありがたい想いだろう。  瑞穂様も僕と同じように、今朝までの時間を掛け替えのないものと思ってくれていた。  僕が男だったことは、思い出の強さの分だけ彼女を傷付けたけど、その反面、取りもどしたいと願う未練として可能性を残してくれた。  お礼を言いたい。でもいまそれを口にしたら、北斗さんから叩かれてしまいそうだ。 「一番の解決策は、あなたが性転換手術を受けることなのですが……」 「ひっ」  北斗さんの声が冗談を言う口調ではなかったから寒気が走った。 「まあ性転換は次善策としましょう。あなたは一度倒れても顔を上げました。戦士の誇りを見せたとかろうじて認めます」  正義を聞かれて叫んだことか……言ってる内容はともかく、出せるだけの大声を出した甲斐はあったみたいだ。 「あなたに正義があると言うなら、それをやってみればいいでしょう」 「ですが、もし、お嬢様をより傷付けるのであれば……こんなものでは済まないと思ってください」 「はい」  僕が痛む体を押さえてなんとか頷くと、北斗さんは門を開いて屋敷の敷地内へ足を踏みいれた。 「わかっているとは思いますが、私は君を許していない。体が痛むとは思いますが手助けはしません。後は一人でなんとかしてください」 「はい……」  言葉通り、北斗さんは僕を寝転がらせたままにして、門を閉じて行ってしまった。  北斗さんが怒るのは当然だ。だから僕を見捨てていっても、厳しいどころか当然……なんだけど、彼女は最後まで顔だけは攻撃しなかった。  それが情によるものだったらとても嬉しい。入学する前の三月から数えて、九ヵ月間も一つ屋根の下で毎日合わせていた相手の顔は攻撃できなかった……なんてのは図々しいか。  でも困ったなあ。監視のひとは鞄を持ってくれたりはしないだろうし、インターホンを押すこともできない。このままじゃ警察のご厄介になるかもしれない。  体が、動かない……このままじゃ、鞄を持って帰る力なんてとても……。 「朝日!?」 「えっ」  上から降ってきた声に思考を中断された。出所へ視線を向けてみれば、メイドの先輩だった二人が驚いた表情で僕の顔を覗きこんでいる。 「髪は短いけど、朝日……だよね? どうしたの? なんでこんなところで倒れてるの!?」 「お腹押さえて痛いの? い、いま、救急箱持ってきてあげるからね、手当てしなくちゃ!」  北斗さんが呼んでくれた……? だけど彼女たちは、僕の性別と、今日なにが起こったのかを知って声を掛けてくれているんだろうか。  何も知らずにいたとして、胸もない今の僕を見れば明らかに普段とは違うことがわかるはずだ。  それを知って、どう思うのか……そしてどういう扱いに変わってしまうのかが怖い。 「待ちなさい!」 「あ、八千代さん……」  だけど僕のもとへ辿りつく前に、門を開けようとした二人はメイド長に止められた。 「先ほど話した通り、そこで寝ている方はもう当家のメイドではありません。敷地内へ入れることは許しません」  あ……そんな通達がされていたんだ。 「鞄を取りに来ると連絡は受けています。いま部屋へ取りに向かわせてますから、それを渡したら帰ってもらいます」  今さらながらに、僕はもうこの家の人間じゃないんだという実感が湧いてきた。  小倉さんじゃなくて大蔵さん。使用人じゃなくてお客様。本来の立ち位置だ。  そのことをこれほど残念に感じるとは思わなかった。  心まで使用人になりきってしまうことを嫌った時期もあった。だけど今は一番下っ端のままでいいからこの屋敷の中へ入りたい。  でもその時間は永遠になくしてしまった。たとえこの先、僕がこの屋敷へ戻れる日が来たとしても「朝日」として先輩たちに接することは二度とない。  事実を知れば彼女たちも僕のことを厭うだろう。男が女性の中にひとり混じって平然としていたんだ。快く思うはずがない。 「ごめんなさい……」  呟くことしかできなかったから、僕の謝罪は大音量で喋る二人の先輩の声に遮られてその耳に届かなかっただろう。 「なんでですか! 手当てくらい、いいじゃないですか!」 「怪我してるんですよ? そんなの赤の他人でもほっとかないじゃないですか!」 「いけません。お嬢様が部屋へ閉じこもっているのは誰のせいだと思っているんですか。お客様の中に深く傷付いている方がいます」  ルナ様は、部屋の中にいるんだ……しかも閉じこもりきり。  全て僕のせいで……それじゃあ八千代さんが怒るのも無理はない……。 「大体、私たちの中で一番朝日を大切にしてたのは八千代さんですよ?」 「そうですよ! 実家の妹と、ルナ様と、新しい妹ができた、っていつも喜んでたのに」  えっ。  八千代さんが? 僕のことを……。 「自分の後継者ができたって嬉しそうに言ってたじゃないですか」 「そりゃ朝日が男だってのは私たちも驚いたけど……」  解雇ってことだけじゃなく……性別も男だってことを全員が知ってる?  なのに怒ってない? 気色悪いとも思わずに、庇って、手当てまでしてくれようとしてる? 「男だって聞いて驚いたけど……でも、それとこれとは別ですよ! 朝日が今までしてきたことを思いだして、それでも手当てしちゃいけないんですか」 「こんないい子ほかにいませんよ! いっつも笑って、嫌な顔ひとつせずに毎日毎日雑用やって、学校だって忙しいのに……朝日が大蔵さんだったからって何か問題ありますか?」 「お嬢様がよく喋るようになって、みんなの前に顔を出すようになって、屋敷の中が明るくなったのだって、朝日が来てからじゃないですか!」 「朝日をやめさせないでくださいよ! せめてこんなすぐの解雇は考えなおしてください!」 「休憩のときに話しました。私たち、朝日にいてほしいと思ってます! 全員ですよ!?」  顔を手で覆った。  鼻を啜ると打撃を受けた脇腹が痛い。それでも涙が止まらない。何度も顎をしゃくりあげた。  僕はこの桜屋敷へ来てよかった。  これほど多くのひとに歓迎されたことなんてなかった。ここで僕がやってきた全てのことが報われたんだ。  こんなに美しい屋敷が他にあるだろうか。花が咲いた春は目を見張った。夏の青さも快かった。今はとうとう葉が散ったというのに、それでもこの場所から見上げるこの屋敷は美しい。 「八千代さん!?」 「八千代さん、救急箱だけでも……八千代さん?」 「……あなたたちは」 「え? なんですか?」 「あなたたちは、私が納得しているとでも思っているんですか」 「あなたたちよりも、私の方が小倉さんと付き合ってきた時間は長いんです。それなのに、悔しくないとでも思ってるんですか」 「私が、どんな気持ちでお嬢様を任せたと思ってるんですか!? 小倉さんを一番大切に思ってるのなんて私に決まってるじゃないですか!」  八千代さんまで……。  充分です。最初は雇うのに反対だと言っていた八千代さんに、そう言ってもらえただけで。 「だけどお嬢様を守るためには仕方ないんです、あなたたちもこらえなさい!」  そう。もし屋敷内へ入って、ルナ様と鉢合わせたりすれば、監視のひとになんて言われるか……兄は退学にするとまで言ったんだ。  みんなに迷惑を掛けないためにも、一度引きあげるべきなんだろうか……鞄だけは手に入れたかったけど……。 「探し物はこれ?」 「えっ……」 「わっ!」  動けない僕の頭上数センチの場所へ、投げつけたらひとを殺せそうなサイズの鞄が降ってきた。  作りかけの衣装が入った、僕の鞄だ。 「持ってけ……」 「名波さん、サーシャさん……」 「ここのおうちの方の替わりに、鞄を持ってきてあげたよ」 「桜小路家のメイドが身動き取れない以上、他所者の僕たちがなんとかするしかないよねえ? うちとこのお嬢様は、彼の味方をしても退学にされるだけの美由がないしね」 「ようやく会えた大蔵遊星……滅すべき七愛の怨敵……必滅、滅殺、ああ殺してえ、こいつマジ殺してえ」 「えええーと、殺しちゃ駄目だよ?」 「うるせえ馬鹿、こいつを殺すことだけを願いながら七愛はここ数年生きてきたんだよ。地面に寝転がりやがって最高のチャンスじゃねえか。チャンス! チャンス! いま殺害チャンス!」  もはや小声じゃなかった。よほど僕が憎いのか、音量マックスで七愛さんがはしゃぐ。 「はいそこまで。君のお嬢様もきっと窓から見てるよ?」 「……ちっ。お嬢様に手助けを頼まれてなければ、遠慮無く頭の上へ鞄を落としたのに……」 「ま、ぞろぞろ連れだっていくのもそっちに迷惑が掛かりそうだし、私が担いでいっちゃおうかな」 「え……わっ!」 「そこのストーカーのお兄さん。彼は歩けないんだから、今の住処まで連れてってあげるくらいはいいよねえ?」  サーシャさんは監視役に一言注意してから僕を担ぐと、片手に鞄を持って歩きはじめた。その光景を三人のメイドと七愛さんが見守っている。  大っぴらに僕の味方ができない八千代さんだったけど、その力強い瞳はまっすぐに僕の目と繋がっていた。 「朝日! また一緒に働けるのを待ってるからね!」 「負けないでね! それとお嬢様のことを見捨てないで!」  遠ざかっていく桜屋敷。またここへ帰ってきたい。いや、きっと帰ってくる。 「どん底は味わったかい?」 「え?」 「打ちのめされて、誰一人味方がいなくて辛かっただろう? 痛くて寂しかっただろう?」 「はい……」 「それじゃあここからは上がっていくだけじゃない。さあ美返しの始まりだ」  そうだ。光が見えてきた。名波さんとサーシャさんがいるってことは、湊やユルシュール様は僕を見捨てないでいてくれてるってことだ。  いや、サーシャさん風に言うなら美捨てないか。頼もしい美カタたち。 「歩きながら話そうか。美しい声でね」  監視役のひとは必死に付いてきたけど、サーシャさんは長い足を大股に開いて歩く。いつも僅かな距離が開いた。  それも都会の雑踏の中じゃ、僕たちが小声で話せば会話なんて聞こえない。ここが勝負だ。気を引きしめて伝言を頼もう。 「でもこうして肩に担がれながら青山を歩くっていうのも恥ずかしいですね」 「ま、普通じゃないってのは見てわかると思うよ。後ろから黒服付いてきてるし」  サーシャさん海外の人だしね。 「このまま表参道を通って原宿まで行ったら、もっと恥ずかしいんだろうなあ」 「そうだね、その前にどこかで休みを取って、一人で歩けるくらいに回復できたらいいんだけど」 「じゃあ抱えてもらってる間に僕の話をしてしまいますね」  ちらりと監視役の様子を見る。彼は僕の行動を目で見張るのが目的らしく、細かい会話まで気にする様子はなさそうだ。 「僕はフィリコレに衣装を間に合わせるつもりです」 「へえ。すごいね」 「僕が作る衣装はその鞄の中に入っています。元々がルナ様のために用意しようと考えていたドレスだから、着られるのも彼女だけです」 「でも間に合うかどうかギリギリの時間です。だからショーの前日まで縫っていたいんです」 「君一人で?」 「はい」 「デザインは見てないけど、この前まで作っていた衣装と同じ程度のものを、同じ美オリティで仕上げるのなら、まず間に合わないね」  サーシャさんは指を折って計算していた。折って伸ばしてを三セット。数えて今日から三十日。 「一からというわけではないんです。裁断まではもう済んでいて」 「うん、それでも間にあわないよ。一人なんだよね?」 「はい……」  囚われの身の僕には頼れるひとがいない。りそなは……手伝ってくれるかもしれないけど、ほとんど素人だ。 「だから、一人でも手伝ってくれるひとはいないかと……外に出れば監視がいるし、面会が許されるかはわからないけど、僕の部屋でなら……」 「みんなに聞いてはみるよ。だけど難しいかもね」 「はい」 「ルナ様は来られないし、瑞穂様はまだ君を許せない。うちのお嬢様もああ見えて戸惑っていてさ。実はどうしていいか迷ってるんだ」 「可能性があるとすれば湊様くらいかな……それと彼女の従者」 「サーシャさんは来られませんか?」 「これでも僕、プロなんだよ? スタンレーと一緒に二年も服を作っていた時期があるんだよ。だから今までも、お嬢様のサポートに徹してたんだ」 「学生の作品にプロが手を貸しては、曲がりなりにも、ショーに全力をかけている他の生徒たちに悪いじゃない? だから、お嬢様が望んでもそれはできないなあ」 「そうですね、それは……いけませんね」  本人の意思を無視して加わってもらっても、朝日班以外のひとに製作を任せるのと同じことだ。 「君がプロとしてやっていくなら、こういう場面はこの先何度もあると思う。企業に入っても、展示会の締め切りに終われて、普段は綺麗なお姉さんが企画室にすっぴんでクマ作って寝泊りしてるのなんてザラだしね」 「今回で言えば、見た目を重視にして全体の質は落とすことだよ。それができなければ間に合わない。リミットは延ばせないんだ。君の腕の見せ所だよ」 「はい」  でもルナ様は僕の衣装を丁寧だと誉めてくれた。  自分に対する誠意で満ちていると、縫い目の一つ一つまで確かめてくれた。その言葉を聞いてしまった僕が、しかも彼女の着る衣装を以前のものより妥協して、なんてできるのかな。  ルナ様に自分の作ったものを愛してほしい。よくやったと誉めてもらいたい。今となっては彼女への気持ちが枷になった。 「だけどそれでも……間に合うかどうか分からないね」 「やります」 「確証はできないよね? その場合は別の衣装を使わなくちゃいけない。テーマやデザイン画を提出しなくちゃいけないから、リハーサルまでには間に合わせないといけない。大丈夫?」 「前日、引きとりに来てください。その日までに完成させておきます」 「直接的に言った方がいいのかな。期待させておいて『間に合わなかった』は彼女たちの信頼を粉々にするよ」 「間に合わせたものが、君たちの望むクオリティに達していなかった場合は、元の衣装が受賞の可能性が高かっただけに、選考に漏れると惨めな思いをするかもしれない」 「今回が駄目でも、長い人生、挽回の機会は何度か巡ってくるかもしれない。でも今回の結果が失望に終われば、君が彼女たちと仲直りするためには絶望的なダメージを受けることになる」 「それだけの覚悟はあるのかなと聞きたいんだ。残酷だけどね」  サーシャさんの言ってることはもっともだ。きっと僕だけに限らず、この選択は誰もが一度は迫られる類のものだ。  だけど今回は少し条件が違う。僕の夢は、彼女たちと同じ学校へ三年間通い、共に卒業すること。そしてルナ様の下で、この業界に居続けること。あまりにも時間がなさすぎる。  選択権なんて最初からなかった。覚悟を決める時間すらない。 「やります。最後まで諦めません」 「ウィ、ムッシュ。何も手の出せない僕を許してくれるかな」 「せめて祈りだけでも。神のご加護を」  サーシャさんが神を信仰してるのは意外だった。自分の美しさしか信じてないと思ったのに。  僕が祈りを捧げるとすれば、やっぱりルナ様かな。挫けそうなときは、どうか夢の中で叱ってくれますように、両手ぱんぱん!  部屋へ戻ると、さすがに監視役のひとは消えてくれた。  と言っても通信手段はなし。ネットはできるけど、どうせ全て管理されてるんだ。あの兄のことだから、全ての履歴を確認しないとも限らない。  悔しいから、無駄に適当なページを見たり開いたりしておこう。えいえいえい。  りそなと連絡を取りたいけど、彼女も僕がいなくなるまでは通信が制限されているのだと思う。僕と彼女が繋がっていることは兄もわかっているはず。  ルナ様に一ヵ月後のことが伝わっているかは、サーシャさんを信じよう。  それよりも今は自分のするべきことを。彼も言っていた通り、時間がどれほどあっても足りない。  鞄を開く。そこには僕の最愛のひとに贈るための衣装がしまわれていた。  ……まだ、衣装なんてものじゃないか。今のままじゃ羽織ることもできない。  ただの生地からドレスを作る。最初に完成させたひとは凄いと思う。何日かかったんだろう。僕は今から一ヵ月でそれをやる。  りそなに頼むものは……大抵のものは揃ってるけど、ルナ様のボディだけがない。こればかりは自分ではどうしようもないし、本人どころか試着をしないでショーに出すのは無謀というより不可能だ。  だから次にりそなと連絡が取れたときは、サイズをルナ様に合わせたボディの注文をしておいてもらおう。彼女のサイズなら頭に叩きこんである。  やろう。まずは身頃の縫いあわせから。これからは一秒たりとも無駄にしないつもりで進もう。  鞄の中から衣装を取りだすと、下にはメイド服や予備のウィッグも入っていた。  思わず苦笑いした。気分は出るかもしれないけど、さすがにこれを着て作業をする気にはなれない。  でも九ヵ月間を共に戦った戦友を見ていると、桜屋敷での自分の部屋を思いだすことはできた。  やがてアイロンも温まり準備完了。ミシンの糸調子もきつ過ぎず緩過ぎず。  そーれ、ダダダダッ。ダダダダッ。  毎日毎時間ミシンを走らせているひとからすると、いかに技術を高めるかだったり、時間をどれだけ早められるかだったり、それか心の無にすることを心掛けているかだったりするのかもしれない。  でも僕はまだ感慨深さだったり、生地が縫いあわされていく喜びに無邪気でいられる段階だった。  ずっとお屋敷でもやっていたけど、やっぱり衣装ができていくのは楽しい。  ダダダダッと。ダダダダッ。  休憩の合間に入ったトイレで感心した。  僕の立場は微妙だった。大蔵家の人間ではあるけど、所詮は傍流。しかも直系の末妹の世話係という位置まで落ちた僕には、使用人や家政婦などはいない。家事は全て己で行う。  しかし傍流とは言え大蔵家の血族。嘲笑を愛想と見間違える歳ならともかく、成長した今となっては、兄の部下には面と向かって僕を雑に扱えるほど豪胆なひとはいない。  つまりは、いかに監視役と言っても、少なくとも本人たちの目の前で、僕と同じ施設を使用するわけにはいかない。  ましてや正統な血を引くりそなが使用したとなれば、たとえ膀胱がはち切れようと、彼らはドアを開けることすら許されない。  その隙を付いた彼女からの手紙が、便座の上に置かれていた。部屋へ訪れることさえわかっていれば、同じ手を使って、今後はりそなとの秘密通信が可能になる。  軽いスパイ気分に興奮を覚えたけど、手紙の内容自体は僕を落胆させるものだった。 「オンライン上にいないかと思い探してみましたが、ルナちょむには会えませんでした。メッセンジャー上にもいないところを見ると、パソコンを立ちあげていないのかもしれません」 「ネットカフェに寄ろうともしましたが、上の兄の部下に止められました」 「明日、半年ぶりに学校へ行ってみようと思いますが、教師たちは上の兄の息のかかったひとばかりですから、あまり希望は持てません」 「力になれなくてごめんなさい。明日はまたそちらへ伺いますから、上の兄に聞かれたくない連絡があるなら私と同じ方法で知らせてください」  りそな……お願いしなくても、自分から動いてくれてたんだ。  結果は惨敗。だけど仕方ない。これはりそながしてくれたこと。想定してたわけじゃない。  時間はないけど、あまり派手な動きもできない。りそなには毎日ではなく、五日に一度くらいの割り合いで確認してもらおう。  それとルナ様との連絡のことばかり考えていちゃいけない。衣装の製作だって時間がないんだ。  やろう。  再び机の前に座り、ミシンを走らせた。  ダダダ ダダダ ダダダダダ  ダダダ ダダッ ガキン! ダダン ダン  糸調子がおかしくなった……やり直そう。  大好きなひとができました。  そのひとは素敵なひとです。最近はそのひとのことばかり考えてしまいます。  少し意地っ張りだけど、とても優しいひとです。辛い過去を抱えていますが、ぼくと出会ったいまは幸せだと言ってくれました。  そのひととはしばらく会っていません。しばらくと言ってもたった一週間なのですが、一日三秋とでも申しましょうか、いまのぼくにとっては一つの季節を無為に過ごしたも同然に感じてしまうほどです。  それでも寂しいと感じないのは、会えない日の切なさよりも、次に対面したときの喜びを期待しているからでしょう。彼女とは再会の約束を交わしています。  贈り物も用意しました。気障に思われないか少し心配ですが、ぼくはどうしても、このボールガウンを着た彼女が華やかな舞台に立つところを見たいのです。  彼女は綺麗なひとですが、恥ずかしがり屋な面もあるから、このようなローブデコルテの衣装は着られないと仰るかもしれません。  でもぼくは彼女に脚光を浴びてほしいのです。  輝かんばかりの才能を持ちながらも長い時間を籠の中で過ごしてきた彼女には、それが定まった事項から外れていても、幸せになる機会が与えられて然るべきだと思うのです。  その瞬間の彼女の笑顔を思うだけで、ぼくがどれほどの幸せな想いを抱くかおわかりでしょうか。  だから一週間や一ヵ月ぽっち会えなくてもちっとも寂しくなんてないのです。  ただひとつ寂しいと思うことがあるとすれば、ぼくが彼女を愛しすぎるあまりに、あなたから愛された日々を忘れてしまわないかということです。  ですから彼女と次に出かける機会があれば、あなたと過ごした故郷を訪れ墓参りに伺います。  長らく不義理をいたしました。久方ぶりの挨拶が恋人の紹介ですから照れる気持ちもありますが、彼女は美人で、何よりも心の綺麗なひとですからきっと喜んでもらえると思うのです。  あなたがその日を心待ちにしてくれると、ぼくはとても嬉しいです。  最近のぼくはそんなことを考えながらまいにち服を縫っています。 「手伝いには誰も来られない」 「そうですか」 「かわいそうだな、とは思うけど」  全員の使いとして来てくれたのは名波さんだった。  表向きは、桜屋敷の僕の部屋に残っていた私物を持ってきてくれたとのことだった。  取り次ぎは困って兄に確認をしたものの、持ってきたものの内容を全て確認しろと兄に無茶ぶりをされたらしい。僕の私物の大半は洋書だ。  かわいそうな取り次ぎのひとは、名波さんから「おまえが盗らないか見張る」とさらなる酷い扱いを受けた。  さらに名波さんが来たことに気付いたりそなが、上の階からひょこひょこと僕の部屋へやってきて、そのことを教えてくれた。  みんなの近況だけでも聞かせてくださいと兄に頼みこむと、なんとか部屋の中へ来てもらうことまでは成功した。  見張りの黒服はいたけど、名波さんが突然服を脱ぎだし「セックスするから出てけ」と言ったため、混乱した黒服はすぐ兄に連絡を始めた。そのお陰で、いま僅かだけど会話する時間を得た。  名波さんは手段を選ばないひとだ。でもなんでサーシャさんじゃなくて彼女が来たのかわかった。サーシャさんが同じことを言いだしたら大変なことになっていた。  だけど名波さんとの会話の内容自体は、以前のりそなの手紙と同じく明るいニュースにはならなかった。 「ルナ様は……最近は部屋に篭りがちで、みんなといてもあまり喋らなくなった」 「そう、ですか……」 「『小倉朝日』の代わりのお付きは、探しているということにはなってるけど、実際にはまるで探そうとしてない……ルナ様も見つけるつもりはないと思う」 「外出を伴う授業も、日傘と車を駆使して参加してる……私たちがレポートを渡すと言っても聞かない……『朝日』がやってきたことは全て自分がやるって」  ルナ様……。 「山吹メイド長は表向き態度を変えないように振るまってる……明らかに溜め息は増えたけど。お屋敷の中も決して明るい雰囲気じゃない……」 「スイス人もルナ様に合わせてあまり喋らなくなった……あのひとも従者と部屋に閉じこもる時間が多くなった。花之宮様もそう……あまり笑わなくなった……」 「だから湊お嬢様は来られない……いまは湊お嬢様だけが全員のムードメーカーだから……」 「あのひとだけが、一週間前までの桜屋敷の明るさが完全に消えないようにしてる……いま湊お嬢様がいなくなれば、二度とあの日の空気は戻らない」 「湊が……ありがとう。やっぱり湊は強いな」 「そう、お嬢様は強い……だけどいま、教室内はあなたがいなくなったことで、他の生徒たちは面白がって……ルナ様を始め、私たちの班は陰口や嘲笑の中に晒されてる……」 「その声からルナ様を守ろうとして、湊お嬢様は余計な失笑を浴びてでも無理をして笑ってる……だから七愛も来られない……いまあのひとを支えられるのは七愛だけだから……湊お嬢様だって、本当はぼろぼろで……」 「…………」  僕のせいで、みんなが傷付いてる。想像するだけで辛い。  でもその思いはすぐ七愛さんに看破された。 「おい『自分のせいだ』なんて悲劇のヒロイズムに浸ってんじゃねえぞ」 「おまえのせいだなんて言うまでもなくわかりきってんだよボケ。泣き言並べるなら最初から目の届かないところに消えろよ。ここで私の話を聞いてるからにはやれることがあるんだろ。さっさと始めろよクソが」  相変わらずのぶつぶつ口調ではあるけど、七愛さんは思ってることを伝えてくれた。よそ見なんてせずまっすぐに僕を見てる。 「はい。わかっているつもりです、やります」  七愛さんに睨まれてやる気が湧いてきた。今は鞄の中に隠してある衣装のことを思いうかべた。 「弱音は吐かないで続けます。湊が以前の空気を繋いでくれてるならなおさら」  一ヵ月だけ頑張ってほしい。それだけにいい加減なものは作れないという思いが強くなった。 「それでも、もし手伝ってもらえるなら、靴や装飾品の用意だけはお屋敷の方でお願いできると……この部屋だとパーツも用意できなくて、どうしても準備できないんです」 「…………」 「デザイン画はルナ様が持っているはずですから……名波さん?」 「お嬢様はここへ来たいと言ってた……」 「え?」 「お屋敷にいなくちゃいけないとしても、一分でも、一時間でも手伝いをしたいと言ってた……でも七愛が湊お嬢様を止めた」 「それは……どうしてですか?」 「お嬢様はまだ恋する気持ちを吹っ切れてなくて……大蔵遊星も傷付いている今は、縋るものがあれば甘えてしまいそうだから……」 「お互いに傷の舐めあいだけで付きあってしまう可能性があるから……それは七愛が許さない」 「そんなことはしません」  即座に答えた。でも、そうは言ったものの―― 「でも、ありがとうございます」  ――名波さんの言葉はもっともだとも思っていた。  本音を言えば、この一週間だけでも相当に辛かった。兄への恐怖、有限の時間、ルナ様や皆の心配、万が一兄や誰かが確かめに来たときのための警戒……神経をそれなりに磨りへらした。  そして精神のダメージは体の弱っているときが一番表に出やすい。誰も管理してくれない中で、毎日遅くまで一人でミシンを走らせ、次の日も早起きするのは一種の戦いだった。  そんな時に「もういいよ」と言ってくれるひとが側にいたら、余程強靭な精神があるひとでも甘えてしまうだろう。  追われている意識と緊張感。この二つを自分の中から消してはいけない。 「みんなの状況を聞いたら、甘えていられないことがよくわかりました。一日も気を緩めずにいます」 「今日は来てくれてありがとうございました。その、また来られる機会があれば話を……」 「警戒されなければ」  名波さんがちらりと見張りのひとに視線を向けた。彼は電話が終わったらしく、こちらへ戻ってくるところだった。 「もう話をする時間もないから……最後にひとつだけ。自分でプレッシャーをかけておいてなんだけど……」 「え?」 「ここへ来て一目でわかった。明らかに体力の限界……そんな顔じゃ、何かしてることが監視の人間に気付かれてもおかしくない……」 「休んだ方がいい」  名波さんに心配されるなんて……なんて冗談を挟もうと思えないほど、彼女の表情は真顔だった。  心配しているというよりも、純粋にこれはいけないと思っている目だ。たった一週間で、僕はそれほどやつれてしまったんだろうか。 「ご忠告ありがとうございます」 「スイス人の従者からも、あなたが無理をしていないか、衣装を見て確かめてきてと言われていたけど……七愛は縫製にそれほど詳しくないから……」 「ンンッ、衣遠社長からの連絡が入った。セックスは男女間、それと性欲処理のみの愛人に限り認めると……」 「その必要はない、もう断られた」 「マジで?」  七愛さんはその言葉を最後に帰っていった。  性欲処理の愛人……ってことにしておけば、密会もできるし、部屋へ来てもらうこともできるのか、なあ……僕の立場じゃ無理か。  ただ、そんなことを考えるのに割く時間もあまり無い。サーシャさんの危惧が当たっているからだ。  やっぱり僕は縫製のクオリティを以前より下げることができなかった。足りない時間は……睡眠を削ることで補った。  今日も見張りのひとがいなくなってから、すぐにミシンを走らせた。誤魔化しや張子の虎じゃいけない。あの兄は衣装の完成度まで確かめるんだ。  丁寧に、以前と同じものを。針で一山掬うなら正確に。失敗しても腐らずに。ミシンで縫うときは曲がらずに。  一針、一針に僕の未来が繋がっていると信じて。ここから桜屋敷までは、どれほどの距離を縫えば辿りつけるだろうか。  たいせつなひとができました。  そのひとたちと共に過ごせて幸せでした。そこで見たもの、得たものの中には、いままで知らなかった多くの人間らしいものがありました。  毎日だれかが笑っていた気がします。喜びのときも、哀しみのときも、共に助けあい、真心を尽くしあったと思います。  不束者ながら、このぼくも年頃の男女のように、相談を受けたり、自分から話したりもしました。  あなたと話す上でこの言葉を使うのは気が引けますが、それは恐らく「家族」のようなものだったのだと思います。住んでいたお屋敷はぼくの「家」と呼べる場所になったのだと思います。  家族とは共に過ごし、家には帰るものだと聞いています。だからいまは少し遠いところにいますが、ぼくはいつかそこへ帰るのだと思います。  あなたはそれを薄情だと言うでしょうか。  いいえ、きっと喜んでくれるのだと思います。  いつかぼくがあの屋根裏部屋を離れて、あの大きなお屋敷ではない別のどこかで暮らすのだと、覚悟をしてくれていたのだと思います。  ありがとうございます。  そして祝福をください。ぼくはいまこんなにも幸せです。  帰る家と迎えてくれる家族と出会うことができて、心から幸せです。  ぼくはいまもそんなことを考えながらまいにち服を縫っています。 「もういいじゃないですか」  不覚をとった居眠りのあと、目が開けてみればりそなが部屋へ来ていた。  彼女の手には封筒。その中には大量の原稿が入っている――ことになっている。  二週間前に名波さんから注意を受けた僕は、監視や、兄の息がかかったりそなの付き人の目を欺くため、寝ていない理由を偽装する必要があった。  考えた末、小説家を目指していることにした。絵や音楽と違い、文章なら適当な文字の羅列を印刷しただけでも、監視の目には内容が判別できないからだ。  しかも数ヵ国語を使いわければ効果覿面だ。彼らがいかに優秀でも日本人。馴染みの薄いアラビア語やヒンディー語の文章では何が書いてあるかもわからないはずだ。  文章自体は適当な個人の小説を拝借した。それを自分が書いたものとして印刷し、りそなに読んでもらっているという体をとった。  これが思ったより僕とりそなの秘密通話の役に立った。小説の話にかこつけて「らしい」会話ができるからだ。  だけど日に日にりそなは僕を止める側に走っていた。 「現状の完成度が六割ですか? 計算が合わないでしょう。どうやっても間に合いませんよ」 「でも最後まで仕上げたいんだ。諦めるわけにはいかないし」 「それならせめて妥協してください。今のままでは兄が死にます」  大げさだよ……とは言いたいけど、たったいまもいつ落ちたのか記憶になかった。  これからさらに睡眠時間は削られていく。遅れていればより追いつめられるのは当然なわけで……ここまで来ればあとは根性論だ。 「これでも毎日寝てはいるんだ。まだ削れる時間はあるよ」 「寝てると言っても四、五時間でしょう? それもずっとやり通しで……これ以上睡眠時間を削るつもりですか? 何にそれほど時間がかかっているんですか?」  僕はパソコンにアラビア文字で単語を打ちだした。「始末」。  生地は端の始末をしないと、当然ながら糸がぼろぼろと解けていく。縫製で最も時間の掛かる作業の一つだ。  それも処理をしなければならない範囲の多いドレスのディテールの一つ一つに至るまで。  機材も資金も道具もパーツもない今の環境では、ロックミシンの処理ができない部分は手縫いでやっていくしかない。  桜屋敷や学校と比べて、僕の個人の所有物では設備の不足は否めない。アイロンなんてかなり時間を取られる重要なアイテムなのに、家庭用に毛が生えた程度のものしか持ってない。  生地の刺繍が済んでいたことがまだ救いだった。だけど飾りつける為のパールは、やはり手縫いで付けないといけない。まだ気の遠くなるほどの単純作業が残っている。  なんてことまでは言えないし、長文を打ちはじめては怪しまれるから僕は黙った。 「……まだ諦めるつもりがないんでしょう」 「ごめん」 「私に手伝えることはないんですか。兄と同じ思いをしてもいいです」 「…………」  ほぼ素人とはいえ、手伝ってもらえるならとても助かる。部外者ではあるけど、プロとは違い、お兄ちゃんのお手伝いを妹がする程度なら、朝日班の誰も気が咎めないだろう。  りそながちらりと付き人に目を向ける。彼からすれば、僕たちが余計な真似をすれば自分が責められることになるので、とても帰りたそうにしている。  彼に罪はない上にとても悪いことをしている気分になるから、僕はあまり目を合わせないようにしていた。 「……久しぶりに兄で遊びたくなりました」 「え?」 「女装しなさい。久しぶりに弄ってあげます」 「は、えっ……いま!?」 「そうです、今です……っしょ」  りそなは服を脱ぎはじめた。普段から装飾の多い服装を好む彼女の貴重な肌が露出される。 「何してるの!?」 「兄も着替えなさい……馬場! 私の部屋から何着かの服と下着を持ってきなさい!」 「それと私の下着姿を少しでも見たら兄に言いつけますよ」  不幸だったのは今回の付き人の馬場というひとが執事だったことだ。突然のことだったから、兄の部下に適任の女性がいなかったのだろうか。  馬場さんは慌てて部屋から出ていき、上の階にあるりそなの部屋へ向かっていった。彼がいなくなると、りそなはすぐに服を着直した。 「以前に名波というひとが使った手の妹版です。さすがにセッ……言えませんし」  倫理的にも問題あるけど、それ以前に、りそなの羞恥心的な問題で単語すら口にできなかったみたいだ。 「これで数時間なら手伝えます。私の下の兄に対する過度な好意は、上の兄も知っているでしょうから、最後の二、三日は『別れたくない』という理由で泊まりこみます……下着で」 「そ、それはまずいよね? りそな的にも恥ずかしいよね?」 「羞恥心とか言ってる場合じゃないでしょう。ほら兄もメイド服に着替えなさい。せっかく衣装もそこにありますし。馬場が入って来られないよう、戯れる振りをします」 「妥協できないならその程度は我慢しなさい。これが最後の手段です」 「これはこれで兄さまが知ったらとんでもないことになりそうだけど……」  でもあと一週間なら、兄も僕をイギリスへ移してしまえば終わりだと考えるかな……。 「前日は上の兄も日本へ着いているでしょう。この部屋へ来ないよう、私が彼を引きつけておきます……本心を言えば怖いですが」 「最後の最後までありがとう、りそな」 「姫と呼びなさい。昔のように」  血の繋がっている家族の中にも、たった一人だけど僕の味方がいた。  それがもし、幼い頃に一度きりの母の約束を破った行為の……彼女が良いことをしたと誉めてくれた行動の結果だとすれば、あれはやはり正しい行いだったのだと思う。  名ばかりじゃない「家族」がいてくれて良かった。本当に救われた。 「だけどもしりそなが無理をするなと言っても……僕は倒れるようなことになっても、今回だけは最後まで縫いつづけると思う」 「…………」 「それどころか、もし僕が寝たら間に合わないのだとすれば、針で刺してでも意識を覚ましてほしい。もし自分が僕を甘やかしてしまうと思うのなら、協力は……」 「姫と呼んでください」 「そうすれば、私はあなたの大抵の願いは聞いてあげられます。あなたを傷付けても、あなたが望むことの為に行動をします」 「ありがとう……姫」  それから毎日、りそなは僅かな時間だけでも手伝いに来てくれた。時には大胆な演技も必要となったけど、兄からの注意を「この一週間を下の兄との末期の別れと思っている」と跳ねのけた。  それと嬉しい誤算だったのは、りそなの縫製の腕が、僕の考えていたものより遥かにレベルが高かったことだ。  彼女は来年、本気でフェリア女学院へ入学するつもりだったらしい。その為の努力の成果みたいだ。  その献身のお陰で、最終工程まで一日か二日分の時間は確実に稼げたと思う。  けど時間は足りず、僕は寝る時間を削り、睡眠欲を刺激しないため食事も最低限に減らし、入浴の時間すら削った。  こんな汚い体をしていたら、たとえルナ様が迎えに来てくれても会うことなんてできないな。  でも衣装さえできれば、僕はこの部屋でりそなからの報告を待てばいい。  明日になれば桜屋敷の誰かが衣装を取りに来てくれる。それまでに間に合わせさえすれば。  間に合わせるんだ。ルナ様と出会ってから、桜屋敷へ訪れてからの一日ずつを思いだしながら。  そうして一週間、人間らしい生活を捨てて、僕はルナ様の衣装を作るためだけの針子になった。  それでも前日の夜更けになってまだ――最後の工程だけが残っていた。 「それじゃ私は、上の兄を引きつけに出かけます。最後まで諦めないで」  りそなの声を聞いたとき、僕は三日も寝てなかった。ぼんやりとした目で手を振りながら彼女を部屋から送りだした。  前略。  十二月も末に近付いて参りましたが、イギリスにはもう雪が降ったでしょうか。  かれこれ一ヵ月近くも外出していないので人から伝えきいた話ですが、どうやらこちらは寒いようです。雪こそ降っていませんが、マフラーや手袋などの防寒具は必須とのことでした。  いつか二人で体を温めあった寒い日のことを思いだします。僕が側にいなくては凍えてしまうのではないかと心配になります。  いまあなたは一人で震えていませんか?  あなたに会って話したいことが沢山あります。  伝えたかったことも沢山あります。泣きたくなるほどの愛情も、叫びたくなるほどの激情も抱えています。  また、会いたいです。あなたはいま、ぼくに会いたいと願ってくれますか?  ぼくと過ごしたあの日に帰りたいと思ってくれていますか?  …………。  嘘です。  僕は、ひどい嘘をつきました。ごめんなさい。何度あやまっても足りないかもしれません。  ぼくがいま一番に会いたいのはあなたではないんです。  ぼくがいま、一番に話したいのはあなたではないんです。  あなたに会うことはもう叶わないのだから、もしも願いが叶うのなら、ぼくはなにを差しおいてもあなたとの再会を望まなければなりません。  でも、違うんです。  どうしても、ぼくは彼女に会いたいんです。  泣きたくなるほどの愛情も、叫びたくなるほどの激情も、いまはすべて彼女のために捧げる感情なのです。  また、会いたいです。ぼくは彼女に会いたい。彼女が一人で震えているのなら、いますぐに駆けつけて抱きしめたい。  もう過去に戻りたいなんて思いません。たとえあなたに感謝の言葉を告げられるとしても、彼女と離れることになった一ヵ月前に戻れるとしても、ぼくは時間を戻したいなんて思いません。  だから明日の彼女にいますぐ会いたい。会って、ぼくはいま幸せですと告げたい。  あなたの笑顔はぼくの世界を変えてくれました。過去が変わり世界は輝き、生まれてきて幸せだと感じました。  彼女の笑顔は世界をまた新しく変えてくれました。明日が変わり未来は煌き、生きていて幸せだと感じています。  彼女は僕を「必要だ」と言ってくれました。お互いを求めあう間柄とはなんて素敵な関係でしょう。  あなたはぼくの幼い頃に、誰かのために何かをしようとした僕の行いを「とても良いこと」だと言ってくれました。  その教えはきっと正しかったんです。彼女のためにと願ったぼくは、いまとても幸せな気持ちでいられるからです。  だから僕は今すぐ彼女のもとへ行かなければなりません。気丈ではあっても、まだまだ世間に不慣れな彼女を僕が支えてあげなければいけません。  彼女がもし弱っているのなら、泣いているのなら、僕はいますぐにでも「良いこと」をしたい。  彼女に会いたい。すぐにでも駆けつけたい。  僕はいまルナ様に会いたい!  ありがとうお母さん! 僕は幸せです!  たとえこの願いが及ばず彼女と離れさせられようと、次があるさと笑って生きれば幸せなんだという気持ちがある限り、僕はどんないまを過ごしていても楽しかったと胸を張って言えます!  だからなんの衒いもなく一番の願いを言います。  会いたい。  ルナ様に会いたい。  僕の大好きなひとにもう一度会いたい。  大好きです、愛しています。  また二人で未来を目指す日を夢見させてください。  舞台は世界です。夢なら大きな方がいいでしょう? 笑ってくれて構いません。僕もめいっぱい笑います。  あなたの側で、あなたと笑いながら、沢山の服を作りながら生きていきたい。  好きです。  ルナ様のことが好きです……。  愛しています……。 「私も愛してる」  愛してます……僕も……。  愛して……。 「ルナさま……?」 「ほら、また会っただろう?」 「絶対、会えると思ってたんだ。約束したからな。私は君との約束は破らないんだ」 「ルナ様……」  頭がなにか柔らかいものの上にのせられている。これはルナ様の体……? 「でも君の方はひとつ約束を破っている。体を大切にしろと言ったのに、少しやつれているじゃないか」  からかうようにルナ様が僕を責める。  でもその手はとても優しく額の上を撫でていった。たまらなく心地良い。 「ルナ様……どうしてここに……」 「君が前日になったら衣装をこの部屋まで取りに来てほしいと言ったんだろう」 「言いました……でも、ルナ様本人が来てくれるなんて、思いませんでした」 「私以外に誰が来るんだ。君もいま、私に会いたいと言ってくれていたじゃないか」 「寝言を……言っていましたか?」 「言っていた。恥ずかしいほど愛情を訴えてくれていた」  聞かれてたんだ。自分が口に出していたのも驚いたけど、それ以上に本人に聞かれてとても恥ずかしい。  何度も、愛してるって……言った気がする。  しばらく羞恥に戸惑って喋れなかった。ルナ様はそんな僕を上から見下ろして、楽しそうにしていた。  だけど羞恥の心は僕の意識をはっきりとさせ、現実の世界に残っている大切な問題を思いださせた。 「あ……」 「どうした?」 「衣装が……まだ完成していないんです。あと一つだけですけど工程が残っていて……僕は途中で寝てしまって……しかも、縫っている最中だったのに」  千鳥がけの裾始末。縫い方としてはまつり縫いよりも手間の掛かる千鳥がけを選んでしまったから、ルナ様に待ってもらうことになる。一時間掛けても終わる作業じゃない。 「終わった」 「え?」 「終わったんだ。君が三時間ほど眠っている間に、私が最後の裾の始末を終えた」  三時間? そんなに自分が寝ていたことにも驚いたけど、じゃあルナ様はその間ずっと僕を起こさずに手縫いをして? 「ルナ様に、そんな手間と時間の掛かることを……」 「君が自分でやろうとしていたことだろう? そのうえ君は、ただ終わらせようとしていたんじゃない」 「まつり縫いでは、裾を靴で踏んでしまったときに引っかかる可能性がある。そう考えたから、自分の手間よりも私のことを優先して、より大変な千鳥がけを選んだんだろう?」 「こんな状況でも着る人間のことを……私のことを考えて、手間を惜しまなかったんだろう?」  ルナ様の手が頬に当たった。親指の先が唇の端に当たっている。 「君は相変わらずだな」 「私のためなら手抜きなんてしない。妥協なんて覚えない。諦めようとしない」 「君の作った衣装を見ればわかる。ほんの少しも疑う余地のないほど、私に対する誠意と愛情が込められていた」 「いいえルナ様こそ……いつも僕に感謝して……僕を必要としてくれました」 「そのひとのためにどれほど尽くそうとしても、ルナ様に喜んでいただけたときの顔を思うと、苦労が苦労でなくなり、結局は自分のためになることばかりです」 「これでは誠意ではありません、もっとルナ様のために……尽くさせてください」 「いつか自分の愛で潰れるぞ?」 「大丈夫です。ルナ様は僕をコントロールするのがお上手ですから」 「ふん」  頬がつねるように引っぱられた。でもそれは故意ではなく、手に力が入ってしまっただけみたいだ。 「君は本当に私のことが好きだな」 「はい、大好きです。お慕いしています」 「私も好きだ」 「愛しています」 「私も愛してる」 「会いたかった」 「僕も……たった一ヵ月の間を何年の別れにも思い……」 「また会えるとわかっているのに……ずっと、ずっとお会いしたいと願っていました……!」 「ありがとう……!」 「ルナ様……!」  その手を握った。彼女も握りかえしてくれた。 「また会えるとわかっていたから……ずっと笑っているつもりだったのに、会いたいと思ったときに声を聞けないと、苦しくなってしまう気持ちが切なくて……」 「お会いできて幸せです……僕はあなたのことが好きです……!」 「私も好きだ……大好きなんだ君が……いつでも側にいてほしいんだ、君に……!」 「愛しているんだ……愛しているから……!」 「ルナ様……!」 「今は……君の主人じゃない。そのままで愛してくれていい……!」 「ルナ……」 「ルナっ!」  名前を呼んだことで愛情は膨れあがり、抑えきれなくなった僕たちはお互いの体を抱きしめた。めいっぱいの力で抱きしめあった。  口付けを何度も交わしあった。求めあう気持ちは、僕たちをより深い行為へと導いていった。  ルナをベッドへ横たわらせ、僕は彼女の顔を上から眺めていた。  膝枕をしてもらっていた体勢から、体を起こしてルナを横に倒したら「背中が痛い」と言われたからだ。柔らかいこの場所まで運んできた。  そのあとは何をすればいいのかもわからないまま、こういうものだろうとボタンを自然に外してしまった。  正直、自分がこういうことをするとは思ってなかったから、どうしていいかわからない。でもここまで運んじゃったのも僕だしなあ……。  しばらく考えていたら、それまでそっぽを見ていたルナ様の目がこちらへ向いた。 「君……」 「あ、はい」 「……なぜ敬語?」 「いま僕、敬語でした? あ、本当だ。敬語ですね」 「わかっているなら直せ」 「え、無理ですよ。十ヵ月弱も敬語で接してたのに」 「まさかとは思うが……君、ちょっと私のことを呼んでみろ」 「ルナ」  様。は飲みこんだ。Sの発音を口から漏らしそうになった瞬間、睨まれたからだ。 「さすがに一度呼んだから名前は大丈夫か。だがそれはいいとしても、私と君の間柄で敬語もないだろう」 「そうでしょうか」 「君は。言ってる側から直す気ゼロだな。りそなから聞いたが、君はあの傲慢な男の弟なんだろう? 傍流とは言え大蔵家の人間なら、私に対して気を使う必要がない。しかも同い年だ、敬語はよせ」 「はい。理解しております」 「もう君アレだろう。口調こそ敬語だが、私のこと馬鹿にしてるだろう。それはおちょくってるレベルだ。対等に喋れ」 「無理ですよう。お会いしてからずっと使用人として仕えてきたのに」 「くっ。君のことは真実好きだが、ここまで根が深いとさすがに不安を覚えるな。どうしたらあの傲慢な男の弟がこんな謙虚に育つんだ」 「生い立ちについてはいずれ話しますが、わりとどんよりした話になるので、いまは明るい話題を優先させたいと思います」 「敬語をやめろと強く命令すればやめるのかもしれないが、それでは何の意味もないしな……」  ルナはぶつぶつと対策を考えた後に「仕方ないな」と呟いた。  なんだろう、怒ってる感じではないみたいだけど……あれ、顔が赤い? 「はっきりと言うが、君は私の恋人だろう」 「は、はい。そうです」  ホントにはっきり言うなあ。面と向かって言われるととても照れる。ルナの赤くなった理由がわかった。 「これから色々なひとに紹介する機会が増えるんだ。そのときまで私に敬語を使われては困る。君は、この桜小路ルナの恋人という自覚を持って、私を含めた世間と接しろ」  なるほど。ルナの恋人になるなら、度胸や肝っ玉もこれからは鍛えなくちゃいけないな。 「うん、わかった。これからは気を付ける。まだ咄嗟のときは自然に出ちゃうこともあるだろうけど」 「ん。いいぞ、直ったじゃないか。これからはその調子だ」  僕が使用人だった頃に、敬語を使う自分がルナの恋人として紹介されたら不安に思ったはずだ。これからは朝日としての自分が見たときに、ルナの恋人として許せる男子でいるように心掛けよう。 「さて、第一ステップが済んだところで、もう一つ要求がある」 「うん、いいよ。何でも言って」 「あの兄から名前は聞いたものの、私はまだ君から正式な自己紹介を受けていない」 「あ」  本当だ。今日までルナと会ってなかったから、すっかり忘れてた。 「恋人として、君から正式な挨拶はされたいものだな」 「その通りだね。遅れてごめん、それじゃ改めて。大蔵家の次男、遊星です。生まれはマンチェスター。好きなひとは桜小路ルナさん。尊敬しているのは、僕の世界を変えてくれたジャン」 「桜小路家の末女ルナだ。将来はデザイナーになるのが夢だ。服飾のこと以外にあまり興味はないが、最近ハマっている恋愛にはのめり込んでみてもいいかなと思っている。他の好みは私より君の方が知っている」 「それと改めて告白もしたい。僕はルナと付きあいたい」 「お受けしよう。君のことが好きだ」  お互いの自己紹介が終わるとくすりと微笑みあった。これで正式な交際のお申しこみができた。 「嬉しいな。お屋敷では『不純な行為は求めない』って拒否され続けたから。好きだって言葉も言えなかったし」 「君は正式な付きあいができると知っていたからいいじゃないか。私が同性を好きになってしまって、どれほど一人で悩んだと思ってる」 「あ。そ、そうだね。それは申し訳ないことしたかも。同性と付きあおうなんて踏みこむには、相当の勇気がいるね」 「それも最後は私から認めたんだ。あのときの私の緊張が君にわかるか」 「ごめん」  僕は素直に謝った。あの日のルナは本当にかわいかったから。  でもこんなこと言ったら怒るかもしれないけど「不純な関係を求めたい」なんて言われたから、同じくらいドキドキはしたんだよ。 「と、いうよりだな……」 「え?」 「『不純な行為』というだけなら、いまもしてるわけだが……」 「あ……そ、そうだったね」  だけどそんなこと言われたら胸が熱くなってくるからやめて欲しかった。  あ、いや……熱くなった方がいいんだ。朝日のときだって、ルナにあと少しで体を許そうと思ってたんだ。許す側が今とは逆だけど。 「じゃああの……今から進めようと思うんだ」 「宣言されると困るが、拒否はしないから好きにしてくれ」  ルナは目を逸らした。きっと、相当に恥ずかしいんだと思う。 「そんな心理状態のルナにこんなことを聞くのは申し訳ないんだけど……」 「ん、なんだ? 遠慮はしなくていいと言っただろう。堂々と振るまえ」 「この後ってどう続けるかわかる? マンチェスター時代にも保健体育のスクーリングは受けてなくて……あんまり興味なかったから自分で勉強したりもしてないし」 「君は。うら若き乙女になんてことを聞くんだ。しかも未経験の私に手ほどきをしろと?」 「こればかりはいま調べる時間もなくて。本当にごめん」 「まあ君の生い立ちも知らないし、お互いのためだから文句は言えないな……他の女性を知らないというのはそこそこ気分もいいし」 「そうなんだ?」 「朝日の初めてのひとには私がなりたいと思ってたんだ」  それは……どうなんだろう。僕に遊星を望んだのはルナなのに。 「じゃあまずは、順当に服でも脱がしてみたらどうだ。自分で脱げとは言うなよ」 「……いいのかな」 「自分で言わせて今さら何を。こっちが君のことを剥くぞ」  ルナにむんずとシャツを掴まれた。でもきっと勘違いしてるから首を横に振る。 「まだ僕の知らないルナの肌を見てもいいのか確かめておきたいと思って」  やっぱり予想外だったみたいで、ルナの目が丸くなった。  人前で肌を見せることに抵抗を覚えているルナだ。水着姿までは自分から見せてくれたけど、あまりに図々しくこちらから踏みこむことは憚られた。  それがくどいと思われるか、好意だと受けとってもらえるかは本人次第だけど……。 「もちろん他の相手なら嫌だ。本当のことを言えば興味本位で目を向けてくる相手には、顔を見られるのも嫌悪する」 「でも君になら構わない。私の体と心で君に隠すべき場所なんてひとつもない」 「ルナ……」  ルナは僕の言葉に対してネガティブな反応なんてしなかった。 「じゃあ今の言葉を借りて、ルナの心の中を見せてもらう気持ちで」 「うん。こちらの準備はできてる」 「開くよ」  シャツを開くと、生地より白いルナの肌が露になった。  綺麗だな……日焼けの跡なんて少しもない。まだ誰も足跡を付けていない雪原みたいだ。 「あー……」  ルナは目を微妙に動かしつつ、手で一度隠そうとして、でもいけないと思ったのかまたすぐに元の位置へ戻した。 「しかし君はあれだな。やはり服を脱がすのは慣れているな」 「『やはり』ってどうして?」 「自分でも着ていたから。勝手はわかってるだろう」 「うーん、女装してた話を今されると微妙な気持ちになるかも」 「似合ってた」  嬉しくない。話題を変えたくて彼女の体を見ていたら、ちょうど適した話の種を見つけた。 「この下着、もしかしてお気に入りだった? 洗濯してるときにローテーションが多かったから」 「君、間違っても屋敷のみんなにそういうこと言うなよ。私だから許すが、訴えられたら負けるからな?」  そうだった……僕もルナだから気楽に話しちゃったけど、あまりに不謹慎だった。 「まあでも今のでだいぶ照れは軽減された。触れても構わない。よしこい」  ルナが覚悟を決めてる内に……と思い、下着の上から手をのせてみた。 「なるほど、君の第一手はそれか。ふん、予想通りだな」 「将棋みたいだね」 「これも一種の勝負みたいなものだろう。私は君に声をあげさせてみせる」  出るのかなあ、声……。 「ええとじゃあ次は……そうだ、肌に触れるね」 「肌?」 「うん。ルナが僕の初めてのひとになりたいと言ってたように――」 「君じゃない、朝日だ」 「うんじゃあ、朝日の初めてのひとになりたいと言ってたように、僕もルナの肌に触れる初めてのひとで嬉しい」 「……まあ初めてだな、確かに。採寸のときにべたべた触ってきた八千代を除けば」 「恋人の前で他の女の話はやめて」 「乙女か。君は相変わらず八千代に対する嫉妬心が強いな」  うん、強いよ。今でも勝ててるか不安だし。  悔しいのでルナの公認の下で触れるという自信を持って、その首筋を指でなぞった。 「ん……」  一応、知識はあまりないって話はしたけど、男性と女性の大人を喜ばせるために何をすればいいか。授業で習ったことはある。あまり頭には入ってないけど。  ただそれは恋人との睦言ではないから、服の脱がし方なんてものは教わらなかった。知識の断片として残っているのは愛撫の方法。  僕は指に続いて、ルナの首筋へ舌を這わせた。 「んっ……」  そのまま鎖骨、肩のライン、閉じた脇へ舌を這わせて丹念に舐る。 「んっ、ふッ……ほ、ほう……なかなかくすぐったいじゃないか」  胸の周辺を舐めていくと、彼女は息を微かに乱しながら体を小さく震わせた。  その肌が紅潮し始めてる……ルナの特徴というか、その興奮が視覚としてわかりやすい。  気の毒だと思うけど、今の僕にとってはありがたい。何しろ初めてだから、何が正しいのかもよくわかってないんだ。  下着が邪魔で外してしまおうかとも考えたけど、今はまだ彼女の許しを得てないから、露になっている肌を舐めつづけた。表に出ている肌は全て触れてしまおうという気持ちで舌を這わせた。 「くっ、んっ、ふうっ……ふッ、はっ……は、はは、君はこんなときでも丁寧だな……私の身体を大切に扱ってることが伝わってくる……」 「ん……んっ、うっ……そうして一心に舐めてもらっているとだな……まるで君が従順な犬のようで……はは、かわいいじゃないか……んっ」  肌がかなり紅潮してる。ルナの興奮が高まってるんだ。  よくわからないけど、上半身だけでも反応してくれるものなのかな? それともこれが正しい? ルナが喜んでくれてる? 「いま気持ちいい? これで合ってる?」 「君は……聞くな、私に……自分の感覚で続けろ……」 「うん……」  元から主人に従順でいたつもりだし、犬のようだとルナが言うならそのイメージでいこう。上品で従順で、主人を喜ばせるためだけに舌を這わせるような……。 「んっ……うっ、君……より、なんだかねっとりと……」  唾液を先端へたっぷりと付け、舐めるよりなぞることを意識して……彼女の反応を確かめつつ、息の乱れる場所を探しながら……何度も。 「ん、んんッ……! よ、よせ、くすぐったさが増した……んっ、はっ……はあっ、んっ……」 「うっ、くっ……んっ、なんだこれ……んんっ、はッ……やっ、君……ちょ、はっ……んんっ!」 「はっ、ああッ……な、んか私の肌……おかしいぞ、こんなにくすぐったいのは……ううっ、ひっ」  こういうものなのか、それともルナの身体が反応しやすいのかな?  いずれにしても今のところ成功してるみたいだ。じゃあ次のステップ……。 「他の場所も、舐めたいと思う」 「な、なるほど……君に任せよう」 「というわけで、制服は脱がせてしまおうと思う」 「くっ、私が朝日の制服を先に脱がすつもりでいたのに……!」  ルナは朝日に未練たっぷりだなあ。ちょっと自分に不安を覚えてきた。 「ふふ、ふふふふ……これは相当に恥ずかしくなってきたぞ?」  大丈夫かな。笑ってるみたいだけど、怒ってるわけじゃないと信じたい。照れ隠しだと嬉しい。 「じゃあ続きを……」 「待て待て待て。待て待て待て待て」  腹部へ顔を近付けたら、わっしと頭を押さえつけられた。けっこうがっちりと掴まれていて、弱い力ながらも本気なのが伝わってくるから抵抗できない。 「やめた方がいい? ルナの嫌がることはしないよ」 「嫌じゃない。君を相手に、拒否をしたりはしないが、ここを舐められたら自分がどうなるか怖い……ので、心の準備がしたい……」 「あ、そういえば性別を明かそうとしたときも心の準備を待たされたような? もしかしてルナって」 「臆病と言いたいのか」  はっきりとは言いにくいから小さく頷いた。ルナは顔を真っ赤にしながら僕を睨みつけていた。 「普段から臆病なつもりはない。ただ言い訳を許してもらえるのなら、私だって恋愛自体が初めてなんだ」 「うん。すごく嬉しい」 「私も嬉しい。そして私の心を少しでも汲んでくれるのなら、初恋で、しかも相手が同性だと思い、勝手のわからないまま不安で仕方のなかった心情をある程度察してほしい」 「大丈夫。最初から責めてなんてないよ」 「そう言われると助かる。正直、君が打ち明けようとしてくれたときに私が話を聞いていれば、今回のように引きはなされることもなかったんじゃないかと反省していたところだ」 「お互いにひととの付きあいに未熟な部分が沢山あるんだよ。何も反省することなんてないよ」  愛しさが溢れたから、お腹に抱きついて、その窪みにキスをした。ルナの口から甘い息が漏れた。 「今のは……ちょっと気持ち良かった」 「心の準備はできたっぽい?」 「かかってこい」  気持ち良かったと言ってくれるなら、この好意を続けてみよう。ルナのお腹全体を舌で舐めていくと、カタツムリが這った跡のように唾液の道筋ができていく。 「ん、ふふ、ははっ……く、くすぐったいな。はは、んっ、ふうっ……んんっ、ふっ……」 「はは、ははは……脇はよせ、んっ……よ、よせ……んっ、はっ、んうっ……! ま、まっ……んんっ、んッ!」  ルナのおなか綺麗だな……これでもかと言うほど無駄な肉がない。本当に、折れてしまいそうな……。 「んっ、まて、なにかおかし……んっ、はっ、んんっ、やっ……ヘ、ヘンな声が漏れっ……やっ!」 「んっ、ふあっ、はっ……ん、んんっ、んっ、くっ……や、やめっ……んぅ、んッ……う、ううぅ……」 「わ、私が待てといったら待て……んんっ、くぅ……うぅ、んっ……んんッ!」 「でも、もう主従関係ってわけじゃないし」 「うう、私の朝日はこんなに生意気じゃなかった……んっ、んんんッ……はっ、はあっ」  ルナは文句を言ってるけど僕は朝日じゃないので無視をした。  代わりに、ガーターベルトの上に着けている下着を注視する。生地の中心部の色が濃くなっている。  ハウプトマン先生が、女性の本音を確かめる方法が二つあると言っていた。一つはヒールの音の高さで、もう一つは下着の色だ。  先生の顔を思いだしたら、真剣に聞いていなかった彼の授業の内容も思いだした。女性の身体を喜ばせたいのなら、反応を確かめながら優しく、ときには情熱的に愛してあげるといい。  僕はルナの下着を二本の指でゆっくりと押してみた。 「ん、くっ……! ふ、触れる前に一声かけて欲しいものだな……」 「一声かけたら乙女にそういうことを聞くなと言われるかなって」 「正解だ……だけど私の朝日は、そんなに小賢しいことを言ったりはしなかった……んっ、んうっ、んんぅ……んッ!」  くにくにと指を動かすと、ルナの声は徐々に熱度を上げていった。  それどころか、指に絡まる粘液の量も増えてきた。これは、こういうものでいいのかな。 「んっ、ふっ……んんっ、ふ、ふふっ……その辿々しさがいいな……朝日らしくて安心できる」  朝日じゃないのに。くにくに。 「はッ、やっ……声が漏れ……んっ! ううっ……やっ! やっ、はッ、んんっ……!」 「よ、よくわからないが……こ、これはもういい……んんッ……次のステップへ進もう」 「次のステップ?」 「君の身体にある、私にはないものを私にしかない場所へ入れるのが最終目的だろう……さあこい」  それは下着を脱がすということでいいのかな。とても怒られそうなんだけど。  ただ、それ以前の問題として……。 「えっと、趣旨はわかった。僕も何をするのかは理解できてると思う」 「そうでないと困る。今日は君と一つになりたいと強く願っている」 「でも諦めざるを得ないかもしれない。どうも僕の準備ができてなくて」 「準備? 君、嫌なのか」 「嫌なんて気持ちは全然ないよ。ただあの、体の準備っていうか」 「よくわからない。そんなもの百聞は一件に如かずだ、見せてみろ」 「恥ずかしいから無理」  ルナの表情が強張った。言いたいことはとてもわかる。でもここまでは自然な流れだったし、何のムードもなしに服を脱げというのは無理だよ。 「つまりは私の体は見たいが、自分の体を見せるのは嫌だと……と、言いかえしたいところだが、君の身体の事情も気になる。まずはそっちから相談してみろ」 「いや、あの。してなくて」 「なにを」 「…………」  周りに誰もいないのはわかっていても、普通の声で口に出すのが憚られたので彼女の耳元で囁いた。 「なに、ぼっき?」  だけど僕の彼女への気遣いは粉々にされた。この手の単語はルナが嫌がるかと思って小声で聞いたのに。 「私には経験がないから対処法がわからない。君は今までぼっきをしたことがあるのか?」 「ルナの声でその単語は聞きたくなかったかも……次からは指示代名詞でお願いしていいかな……」  そう伝えた僕が悪いのは重々承知なんだけど、辞書的な言葉で言わないとルナが理解できなかっただろうしなあ……。 「いや君、それは私を神聖化し過ぎだ。光栄だが」 「あ、問題はまさにそれだと思う。僕にとってルナは性欲の対象じゃないというか」 「非常に気分が悪いな。なんだそれは。私は君に女性として認識されていないのか。じゃあ一体、どういう対象だというんだ」 「ルナのことは尊敬と憧れの対象として見てたんだ。それにとても綺麗な体をしてるし、芸術品として見てる感覚の方が強いよ」 「大変に気分がいい」  ルナは寝転がりながらも、満足気な顔で背中を反らした。そのままの体勢で、僕に制服のポケットから携帯電話を取りだせと指示をする。 「君の言い分は一理ある上に、私の心を愛情で満たし、充分に満足させた。いいだろう、桜小路ルナの名にかけて、君の身体上の問題はなんとかしよう」  できるかなあ。この時点で既に「これで体が反応しなかったらルナに恥をかかせる」というプレッシャーで、僕の心情的に興奮とは逆のベクトルへ向かってるんだけど。 「その単語をケータイで検索すれば……くっ、余計な画像を見てしまった。非常に気分が悪い……だが問題は解決した」 「どうやら性的興奮によって起こる現象らしい。ということは、君の性的嗜好を調べれば解決する。今までどのような場合に君の体は反応した?」 「あ、あんまり意識したことないかなあ……女性の裸はヌードデッサンで何度も見てきたし、今までそういう経験をしたいと思ったこともなかったから……」 「喜んでいい。この私が恥を忍んで卑猥な画像を検索した。これを見るといい」 「グラマラスな外人さんだね」 「海外育ちにはこっちの方が良いかと思ったが、外人の画像では駄目か……では日本人ならどうだ」 「多分この体、手術してるね」 「冷静だな……それなら二次元ではどうだ」 「目と胸が大きいね」 「君に性的興奮をもよおさせるのはかなり面倒そうだな……ん、待てよ。要は君に羞恥心を覚えさせればいいわけだな? この私も服を脱がされたときは、恥ずかしながら君の顔が見られなかった」 「そういう……ものですか?」  確かに服を脱げと言われたら恥ずかしいと思うけど、しばらく経てば、今のルナみたいに慣れてしまいそうな気もする。 「君に恥じらう顔には心当たりがある。今すぐウィッグを着けろ」 「え?」  この状況で想定もしていなかった選択肢に、思わずきょとんとしてしまった。  だけどルナは否定しようとしない。どうやら本気みたいだ。 「え、ウィッグってあそこにある……今すぐ? どうして?」 「君はこの私が信じられないのか。今は私の言葉に従え。わりと自信がある、間違いなく君は興奮する」  しないと思うけど……というより、こんなことで興奮はしたくない。  でもルナの目におふざけの色はなかったから、渋々ながらもウィッグを着けてみた。 「朝日」  桜が満開になったかのような喜色全開の声だった。 「会いたかった……できればメイド服か制服の姿で会いたかったが、今だけはそのままでも許そう。私の大切な朝日だ」 「お、大蔵遊星の存在意義が軽くなってきたよ?」 「朝日は私に対等な口の利き方などしない。きちんと敬語を使え。朝日になりきれ」  僕は呆然とした。この子は一体なにを言っているんだろう。 「敬語をやめて、自分の恋人であることを自覚しろと言ったのはルナだよ?」 「それは普段の問題だ。ウィッグを取っている状態の君は、日常会話まで敬語を使おうとしていただろう。それは非常に問題があるので注意した」 「だがここまでの会話を聞いているに、その悪癖はもう直っただろう。睦事の戯れにまで堅苦しいことを強要しようとは思わない。つまり今は朝日になりきれ」  言ってることに一理あるような無理でしかないような。あまりの言い分に僕は言葉が出せなかった。 「それでは約束の性的興奮についてだが」 「え?」 「胸を見せろ」 「は?」 「いま言ったままの意味だ。シャツを捲り、私に胸を見せてほしいと言っている」  ルナの口調は主人であった頃のものだった。 「い、いやその。なんだか、この格好でその命令は恥ずかしくて」 「敬語を使えと言っている。そして胸を見せろ」 「は、恥ずかしいです」  僕は思わず目を逸らした。そしてそのとき、とんでもない事実が自分の身体を襲っていることに気が付いた。  少し大きくなってる……!  よくない、これはいけないと思えば思うほど、身体の反応が増してきた。しかもこの状態に気付かれたらと思うと……! 「胸が嫌なら足でいい。ズボンを脱げ」 「ええっ!?」 「私がいまどんな格好をしているか見えてないのか? 私が脱げと言ったら脱げ」 「む、無理です。できません」 「どうしてだ。これから私たちは繋がるんだろう? それには服を脱がないと進めないじゃないか」 「先ほども申しました通り、体の準備ができていません。だから無理です」 「ほう」  次の瞬間、とてつもない速さの手が僕の大切な場所を掴んだ。抵抗する余裕も恥ずかしがる暇もなかった。 「やっ」  あ。しかもこの十ヵ月間、散々練習してきたものだから、うっかり女性らしい悲鳴を口から。 「朝日。大きくなってるな?」  わしわしと手を握られた。初めて触れられ、その上に弄ばれて、ますます大きくなっていく自分の体。 「そ、そんな場所を、そのお手で掴んではいけません……ルナ様」 「私に『様』を付けて呼んだな?」  嬉しそうな顔だった。僕の心は完全に朝日の頃に戻ってしまっていた。 「強引な真似をしてすまないと思っている。でも君に興奮したと認めさせるための方法がこれしかなかった」 「そんな君の顔を見ていたら、私も興奮してきたみたいだ。さ、これなら始められるんじゃないか?」 「うう……はい」 「まだ抵抗があるみたいだが、自分の名前を言ってみろ。間違えたら手を捻る」 「小倉朝日です……」 「不満そうだな」  指でくりんと先端を捻られた。意識せず震える僕の体。 「小倉朝日です」 「うん、良し。じゃあ一つになろう」  ルナ様から求められた。僕は嬉しさと複雑さで戸惑いながらも、繋がりやすそうな形に体勢を移行した。 「それと出来ればメイド服がいい」 「はい、ルナ様の言うことに従います……」 「朝日の体におかしなものが付いている……」  そして自分から言いだしたにも関わらず、ルナ様は入り口に宛てがわれた僕の体を見て眉を顰めさせていた。 「えと、それなら見ない方がいいのでは」 「そうする。それと正直に言えば、自分の体に異物が入っていく様を見るのも中々に怖い」  もっとルナ様から僕の体が見えにくい体勢にすれば良かったのかな。でもスカートが邪魔だったし、お互いにこの体勢が一番進めやすそうだから許してほしい。 「まあそれも朝日と繋がると思えば耐えられるか」 「あの、先ほどから疑問には思っていたのですが。ルナ様は『朝日』のときは呼んでくれるのに『遊星』のときは名前を一度も呼んでくれていませんよね?」 「そうだったかな。覚えてない」 「私は覚えてます。『君』としか呼んでくれてません。『遊星』って呼んでください」 「まだ恥ずかしい」  ルナ様はぷいすとそっぽを向いた。 「大蔵遊星のことは私の中で将来を誓った婚約者という位置付けだ。以前から話を何度も聞いて恋焦がれている許嫁みたいなものだな」 「それは、ちょっと嬉しいですね。照れます」 「対して朝日は私の恋人だ」 「意味がわかりません」  前に、湊からも似たようなことを言われたけど、そんな風に切りわけられるものなのかな。 「大蔵遊星とは大人になってから分別のあるお付きあいをしよう。それまでは朝日とバカップルのような日々を過ごしたい。彼女は誰にも渡さない。超好き。愛してる」 「嬉しいですけど目を覚ましてください。そのひとたち同一人物です。遊星も朝日も同じひとです」 「違う。断じて違う。一粒で二度おいしい」 「今ここでウィッグを取ればいいのでしょうか」 「絶対取るな。これは命令だ。よし、これでいい。朝日が私の命に逆らうとは思わないからな」  悔しいけど、確かに逆らえなかった。朝日としての僕の心はそう出来上がってしまっている。 「私は朝日とまだまだ恋をしたいんだ。初めてのキスや、空き教室で抱きあったときのような胸の昂ぶりが恋しい。二人きりのときは朝日のままでいて欲しい」 「はあ」 「気のない返事だな。もっとしゃきっと!」 「はい」  本音を言えば女装はやめたい。というよりもここまで来ると僕だけじゃなく、ルナ様もヘンタイだと自覚してほしい。  だけど喜んじゃってるし、どうしても朝日のままがいいみたいだし、言っても絶対聞いてくれないし、僕は抵抗するのを諦めた。 「あ。ところで大変なことに気が付きました」 「今度はなんだ。この状況で興奮しないと言うのなら、次は足で踏んでやる」  いえ、僕はMじゃありません。と思いたいです。 「私が着替えている間、ルナ様に明日の衣装を着てもらえば良かったと思いまして。せっかく下着姿になっていただいたもので」 「序盤から気付いてはいたが、君には性行為の途中だという意識が足りないな」  ごもっともです。でも大切なことでもあるんです。 「このままだと行為の後に私が力尽きてしまいそうで……本当はまだ、微調整をしなくちゃいけないのに」 「ん、明日のことを心配してるのか。大丈夫だ」  ぽんと腕を叩かれた。何故か僕は、ルナ様にこうしてもらうとすごく安心する。 「君が寝ている間に合わせてみたら怖いほどぴったりだった」 「ですが、どれだけ体に合っていても調整は必要ですよ?」 「鏡の前で動いてみたが問題なかったよ。愛のなせるわざだな。まあ私を信じろ」  多少の気休めはあるだろうけど、ショーで見せる上での出来栄えに関わる問題があれば、ルナ様も先に言うだろう。 「それと明日、舞台へ立つ私のことも考えてくれ。これまでの一生は、表舞台に立つことを禁じられつづけてきたんだ」 「あ……」 「元々私だけはモデルになるつもりはなかったんだ。君との繋がりがなければとても勇気が出ない。力を貸してほしい」  そうですね……明日は、ルナ様の輝かしい未来の始まりになるはずです。  そのために勇気が必要だと言うなら……僕との繋がりが勇気になると言うのなら、これまでの想いを全てぶつけて求めあいたい。 「わかりました。ひとつになりましょう。大好きです、ルナ様」 「うん。君のことを愛してる」  ルナ様の秘部へ宛てがった先端を手でぐいとめりこませる。 「んくッ……!」  話には聞いたことがあるけど、やはり痛みが伴うものらしい。ルナ様の表情が苦痛に歪んだ。 「ルナ様……」 「気にするな……こんなことで止めていては、いつまでたっても終わらない」  確かにまだ先端がめり込んだだけだ。ルナ様が気にするなと言ってくれるなら……。  手だけではなく、腰も上げてさらにめり込ませる。僕の上に乗る小さな体の向きが歪んだ。 「い、たい……が、痛いということは入ってるということだ。いいぞ、朝日……」 「はい……でも、本当に無理だと思ったときは言ってください……痛みで気絶してしまっては、明日の舞台に立てません」 「気絶するほどの痛みになることもあるのかな……今ならそれも信じてしまいそうだ……ぐッ」  みしり、みしりと先端が体内へ埋めこまれていく。  でも確実に進んではいる。ただ、これを最後まで進めるには……僕だけの力じゃ……。 「ル、ルナ様……」 「なん……だっ?」 「申し訳ありません……もっと腰を、沈めていただければと……」 「もっともだ……こ、これでっ……どうだ?」  ルナ様が自らの体に異物を挿入させようとして、痛みに耐えながら腰を下ろしている。  肉の裂ける感触が伝わってくる。その痛まさしさに、思わず彼女の顔から目を背けようとした。 「君は私が痛がっているようじゃ……くっ、せっかく硬くしたのに……ん、ぐっ……また元に戻ってしまうんじゃないか?」 「えっ……?」 「ほら」  ルナ様の指が伸びてきたかと思ったら、僕の耳の中へ人差し指を差しこみ弄りはじめた。 「あ、わっ……んぅ、くすぐったい、です……」 「だ、だろう……? その方が君は喜ぶんじゃないか……くうっ!」 「ルナ様……」 「愛でてやる……んっ、くっ……から、その間に済ませろ」  痛みに耐えながらも僕を気遣うその心に感動しかけた……けど、今は愛情を胸に染みわたらせてはいけない。もっと愛欲に溺れるべきだ。  だからルナ様の指の動きに神経を集め……その快感に身を預けてみた。 「ふあっ、あっ……くすぐっ、たいです……ルナ様……」 「かわいい……とてもかわいい、いいぞ……ぐッ……! ほら、なんだか、固くなってきた……」  ルナ様の指摘通り、彼女の中へめり込む僕の体は、耳を弄られる前よりも硬くなっていた。  そのせいか、入りやすくなっているのがわかる……それと自分の先端も少し気持ちいい……。 「ルナ、様……」 「うん……あとッ、少しだ……んんっ、くッ……!」 「ルナ様……お慕いして、いますっ……ルナ様……」 「い、一気に沈めるから……君も、同時に腰をあげろ……いいな?」 「は、はいっ……ルナ様の命に従いますっ……!」 「いくぞっ……んぐぅうっ……せー、のっ!」 「あッ、ぐあっ……! ああああっ、くうッ……!」  膜を突きやぶる音がして、僕の体がルナ様とひとつになった。  視覚で確認できる。二人の体は隙間のないほど密着している。彼女の体の重さを感じられる。 「うッ、くっ……う、ううぅ、うぐぐっ……」 「ルナ様……繋がっています。ルナ様の体の中を……感じます」 「そ、それは何より……少し、体力を使いすぎた感はあるがな……はは……」 「それと、とても痛い……強がってはみたが、やはり相当に痛い……これは、一度だけでいい……」 「い、痛みは一度きりと聞いています。今後はないと……思います」 「本当か……? 私はこの痛みの原因となる膜は再生するもので……しばらく経験をしていないと、再び痛みが伴うと聞いているが……?」 「ど、どうなんでしょう。私も詳しいことはわかりません。申し訳ありません」 「頻度がどの程度かわからないからな……これから月に一度は付きあうように、こんな思いをするのは二度と嫌だ……」  月に一度……それが僕たちの年代の恋人にとって、多いのか少ないのかわからない……。 「ただ、肉体的にはさておき、精神的にはとても充実しているのはわかった」 「え?」 「とても愛しい……君と繋がっていることを思うと、これほど心が満ちたりた気分になるとは思わなかった」 「ルナ様……」  それは僕も同じです。こうしてルナ様の中にいると、とても温かい気持ちになれます。 「今日だけでなく、また君と繋がりたい。抱きあいたい。もっともっと」 「はい。その機会はこれから何度もあるはずです。もう離れることはありませんから」 「そうか……じゃあ進めようか。また痛い思いをするのは嫌だからな。今日のうちに何度もして慣れさせてほしい」 「はい。あ、でも……少し待ってください。その、ルナ様の痛みを思い、体がまた……」  硬さを失ってしまっている。好きなひとの苦しむ顔を見ていたんだから当然だ。 「このままだと抜けてしまいそうで……申し訳ありません、またルナ様に弄ってもらうか……その、からかっていただくかを……あの」 「はは、自分の口でそんなことを言うとは思わなかった。君もなかなか自分の好みがわかってきたじゃないか」  恥ずかしくて返事ができなかった。はい。申し訳ありません。 「ま、でもせっかく愛しさを感じてるんだ。あまり虐めたりはしたくない」 「はい……そう、なのですか?」 「うん。だから私なりに努力をするから……君も体を動かしてみろ」 「努力、ですか?」 「あえて恥ずかしい思いをしよう。この胸を見せる」 「えっ」 「これ、で……どうだろう? 興奮、しないか?」 「あ……」  した。思わず胸がドキリとした。  今まで隠されていたルナ様の肌を僕の前に晒してくれている。そのことで興奮が高まった。 「あ……私の中で膨らんだのがわかる。どうやら成功だな」 「は、はい……とても恥ずかしいですが」 「私も恥ずかしい。だから君もその程度は我慢して……続きをしてもらいたい」  これなら動かしても問題なさそうだ。試しにルナ様の中を一往復する。 「んッ……!」  まだその声には痛みの色が強い。でも構わずに突きはじめた。 「んくッ、くっ……ぐっ、ま、まだ痛いッ……けど、このまま……!」 「は、はいっ……わかっています」  とはいえルナ様の体の中は相当に窮屈だ。  ある程度の硬さがなければ、すぐにでも抜けてしまいそうで……この痛みの伴う声では、正直に言えば心配してしまう気持ちが強い。  それならルナ様が協力すると言ってくれた心に甘えたい……。 「ルナ様……」 「くっ、ふうっ、んんッ……な、なんだ……?」 「そのお体を弄ることをお許しください」 「……えっ……な、なにを……?」  痛がるルナ様の体に手を伸ばし、胸の突起を指でつまむ。 「なッ……」 「ななななななにをっ……恥ずかしい真似をっ……!? んっ、くッ……ううっ……!」 「も、申し訳ありません……これも、その、行為を続けるために必要と言いますか……」 「ぐくッ……な、なら許可するっ……んっ、ふうっ……!」  くりくりと彼女の先端を指で転がす。その行為にルナ様は余計に顔を赤らめた。  でもその恥ずかしがる顔は、僕の興奮を高めてくれた。 「はッ……はっ、はあっ……こ、これでっ……続けられそうですっ……」  硬度を増せばしっかりとルナ様の体の中を往復することができる。その速さを徐々に増していった。 「そ、そうか、よかった……んっ、はあっ……うっ、ううっ、んっ……くッ……」 「さ、最後まで……はは、最後ってなんだ……んっ……んっ、んんッ……ううっ、くっ……!」 「いや……最後になればどうなるのかくらいは……んッ、はあっ……知ってる……朝日の、最後の瞬間を見たい……」 「わ、私が見られる側ですかっ……!?」  でも実は、ルナ様に言われる前から、彼女の中を往復する度に体の中から何かが迫ってくることに気付いていた。  それはとても怖くて……でも抑えきれない衝動で、行為を続ける度に大きくなっていく。 「私は……そこまで詳しい方じゃないが、君たちにとって抑えきれないほどの欲求だと聞いてる……」 「その瞬間になると……気持ちいいんだろう?」 「うっ……」  それは僕も聞いてる。だから怖かった。  でも言われてしまうと認めざるを得ない。現に僕の体の動きは速くなっている。止まらなくなっている。 「もしかして……んんッ、ふうっ……今も、気持ちいいのか……?」 「うう……は、はい……恐らくは、そういうことだと思います……」 「ふ、ふふ、楽しみだな……私は……ふッ、はあっ……朝日が一番気持ちよくなった瞬間の顔を見たいんだ……」  えっ……。 「さぞかし可愛いんだろうな……ふふ、ふふふ……その瞬間をしっかりとこの目で見て……んッ! んんっ、くっ……んんんっ! あとでたっぷりと愛でてやる」  なんて酷いことを考えて……そんな顔を見られたら恥ずかしいのはわかってるのに。  でも僕もここでやめられない……もう、自分の中の何かを外へ出したい気持ちになってしまっている。 「それとできれば声も聞きたい……嘘でもいいから、喘いでほしい……」 「無理です……それと駄目です……そんな顔を、見ないでください……」 「自分だけのことだと思うなよ……? 条件は私も同じだ……はあっ、んッ……い、今だって君に見られているんだし……」 「え……それは……?」 「私も痛みがだいぶ和らいで、少し、なんだか……感覚が変わってきたんだ……だから、君も……」 「は、はい……」 「君の、したいように動いてみてほしい……もっと体を……好きなようにしていいから……」 「はっ、はあっ……あっ、くッ……ん、んんんっ……君のことが……好きだ」 「ルナ様……そんなことを言われたら、立場も節度も考えずに求めてしまいそうで……」 「それでいいと言ってるんだ……んっ!」 「くっ……!」  気持ちいい。でもこのままじゃ充分にルナ様を突けない。下からじゃない方がいい。  そう思った僕は、彼女の足を肩へ掛けつつ、その体を横に寝かせた。  そして自分は挿入したまま上半身をがばりと起こす。  これなら……自分で好きなような体を動かすことができる……。 「は、はは……相当恥ずかしい体勢だなこれ……こんな格好で、しかも足をここまで開くなんて……」 「も、申し訳ありません……でも、このままなら最後までいけそうで……」 「恥ずかしいと言っただけで、止めるつもりはない……んっ、くふッ……! このまま、続けてほしい……」 「はいっ……」  いつの間にか、僕とルナ様の接合部からは粘液の混ざりあう音が聞こえていた。  汗と、血液と、ルナ様の体から出た液体が掻きまぜられて……かなり卑猥な音だ。 「んッ、ううっ、あっ……んっ、んんっ、はッ……ふっ、はあっ、んッ……ふっ」 「はっ、はあッ、あっ……んっ! んんんッ……ふッ、ううっ、はッ、はあっ、はっ……!」  ルナ様の声から痛みを連想させる色が消えてきた。その代わりに艶っぽく、甘い色が濃くなっている。 「あ、ああ、ああっ……んッ、はっ、あぁ……んっ! ふッ、はっ、ああっ……ん、くッ……んんんっ!」 「君と……こんな風になれて嬉しい……んっ、はッ……もっと、顔をよく見たい……んっ、んんっ、はッ、はあっ」 「はい……はっ、はあっ……私も、ルナ様の顔が見たいです……大切なひとの顔を……」 「はっ、ああっ、ふッ……んっ、くっ……ん、んんっ、はッ、あっ……君は……」 「本当に、今まで尽くして……ああっ、君がいないと……私は……あ、ああっ……大好きだ……大好きなんだ……」 「ルナ様……お慕いしています……愛しています、お側にいさせてください……もう、離れたくありませんっ……」 「もう、絶対に離さない……離れないから……あ、ああッ……あ、ふうっ……あ、ううっ……んっ!」 「もっと……感じたいから……もっと……もっと、君のことを……愛しい……愛してる……」  求めあい、重なっていく心に、もはや他のことが一切考えられなくなってきた。  ルナ様と暮らしたい、これからも側にいたい、お尽くししたい、二人で夢を叶えたい……そんな想いが、高く、高く昇っていく。 「ルナ様っ……ルナ様、ルナ様あっ……大好きです……もっと心を感じさせてください……」 「あっ、はあっ、ふあっ……ああッ……わ、わかった……みんなが、なぜこの行為をするのか……」 「えっ……?」 「どうしようもなく、愛しくなるからだ……相手を感じたくて仕方なくなるから、こうして繋がりたくなるんだ……」 「君と繋がれて嬉しい……今より強く……最後まで止めずに続けてほしい……んっ、ああっ、くっ、ふあっ……」 「あっ、はあっ、ああっ、んっ……あっ、ふうっ、くっ……んっ! んんっ、はッ、ああああっ……!」  ルナ様は止めずに続けてほしいと言ってくれたけど、今はもう途中で速度を落とすこともできそうにない。  気持ちいい。たまらなく気持ちいい。体も、心も、全てを彼女の中に出してしまいそうで気持ちいい。 「はッ、はあっ……ふあ、あっ……うあっ、うう……わた、私はっ……」 「んっ、くうっ……あ、ああっ、はッ……ああ、あっ……んッ……! んっ、ふっ、ううっ……」 「うあっ、あっ、はあっ……はッ! あ、ああっ、うう、くッ……ん、んんっ、はッ、あああっ……!」 「わた、しも……これは……ああっ、あっ、はッ……気持ちい、いと思うから……最後まで……」 「はいっ……も、もう、出て、しまいそうで……なにかが……もう、我慢……できませんっ……」 「最後までしていいから……んッ、んんんっ……! あッ、はあっ、ああ、あ、ああああっ……!」 「あ、あああ、あ、ふっ……あっ、んんんっ! くっ、あっ、やあっ、あっ……あ、あああっ……ふああっ」 「ああっ、ふっ、ああっ……で、出る瞬間は……ちゃんと、言うんだぞ……? それと……んっ、絶対、顔を隠すな……んんっ!」 「は、はい……ルナ様の命に、従いますっ……」  さっきから何度も吐きだしそうな欲求を力任せに抑えている。でも体の芯に力を込めるのもそろそろ限界だった。 「はっ、ふうっ……はっ、はあっ、うあっ……ああっ……」 「はっ、ああああっ……あ、ああっ、ううっ……んっ! くっ、これで……君の声が聞けたら最高なのに……」 「うっ、んくっ……はあっ、はっ、はあ……」 「あ……」 「はっ……はッ、ぁ……あ、ふうっ……ん、ううっ……」 「いい……とてもいい……んっ、はあっ……あっ、ああっ……はッ、あああっ……ふああああっ!」  ルナ様に喜んで欲しくて、意識してそれっぽい声を出してみた。  だけどそれは自分が思っていたより僕の情感を刺激したみたいで、みるみる込みあげるものが限界まで膨らんでいく。 「あっ、はあっ……あ、ああっ、あ、くうっ……ああっ、う、んんッ……んっ、はあっ」 「はっ、ふああっ……は、はあっ、ふっ……んくっ、んッ! んっ、はっ、はあ、はああっ……ふうっ」 「ルナ様……申し訳、ありません……もう、限界です!」 「ふ、ふあっ……は、はは、いい子だ……きちんと言えたな……それじゃあ最後まで、一気に……出る瞬間も、言うんだぞ……?」 「はいっ……!」  もうこれ以上はそのことしか考えられない。最後の瞬間へ目掛けて不乱に体を振る。 「あ、ああッ、あっ、はっ、んんっ……! んッ、はあっ、あっ……! あああっ、はッ、ふあっ、ああああっ!」 「好きだ……愛してる、ずっとこうしていたい……好きだ……大好きだ! 君の全てを捧げてほしい……」 「はッ、やっ、あああっ……んっ、くッ……はッ、あっ、ああああっ! やっ、ふあっ、はッ、あ、あああっ! あっ! あああああっ!」  快感が一きわ膨れあがった瞬間、僕は彼女の中から自分のものを引きぬいた。 「あ、くっ、んんっ……ルナ様、もう、出ますっ!」 「あ、ああッ、あ、はあっ、ああああっ、んっ、ああああああっ――」 「あああああっ! あっ、ああああああああ――っ!」 「ルナ様……ルナ様あああああっ!」  美しかったルナ様のへそに、足に、僕の体液が降りそそいでいく。  それはビュクビュクと何度か続けて残滓を吐きだし、それもなくなって、次第に数滴が垂れるだけになると……硬度をなくして垂れさがってしまった。  ただ何より……怖いのは。  こんなものでルナ様を汚してしまったことも怖いけど……こんな気持ちよさを知ってしまったことが恐ろしい。胸が切なさでたまらなくなるほどの快感だ。  だけどルナ様は、新しい汚れを知ってしまった僕を見て……。 「朝日……」 「気持ちよかったか?」  優しく微笑んでくれた。  こんな天使のようなひとを穢したのに笑ってくれた。僕はそのことに救われたと同時に、強い愛しさを覚えた。 「とても可愛かった」 「う、嬉しくないです」 「君は自分のことに夢中で、私の顔なんて見てる余裕はなかっただろう?」 「それは……はい。ルナ様の顔は見てません」 「大変に気分がいい」  ルナ様は喜色満面の笑みで僕をにこにこと見つめた。しかも僕の触れてはいけない場所に手を伸ばしてきた。 「ル、ルナ様……お許しください。今日はもう無理です」 「ああいや、もう一度しようとは思わない。私も相当くたくたになった。正直に言えばもう寝たい」  と言いつつルナ様は僕の大切な場所をむんずと握った。 「ひうっ……!」 「ただ少しでも長く、君と話していたいのも事実だ……しばらく離れていたのもあるし、今は本当に君が愛しい」 「だからこういう悪戯もしたくなるんだ。そもそも私はあまりに男性の体というものに無知で……ん、どうした?」 「わ、わかりませんが……いま触られると、耐えるのも辛いほどに敏感になっているみたいで……」 「ほう?」  そんなことを言ったらどうなるかなんてわかっていた。なのにどうして僕は口にしてしまったんだろう。 「ル、ルナ様、これは耐えられない系の感覚です。他に良いたとえが思いつきませんが、耳の中になめくじを入れられるというか、口の中を何度もくすぐられると言いますか」 「それに、ルナ様と愛情を語りあい気持ちが強いです。お互いに抱きあいながら、ゆっくりする時間が欲しいと……」 「その時間はあとで作る。今は君の体の異常が治る前に、心行くまで弄ってあげることが先決だ」 「む、無理です……お許しください」 「私の体にこんなものを掛けて、何もされずに許してもらえるとでも?」 「そ、それは……ご容赦ください」 「そもそもなんで外に出したんだ。君の初めてを体の中で受けたかった。たった一度の機会じゃないか馬鹿者」 「恐れながらそのようなことをすればおしべとめしべが大変なことになるのは、ルナ様もご存知のことかと思います。まずはデザイナーとして成功しましょう」 「ん、そこは夢を見るデザイナーと現実的なパタンナーの違いだな。なるほど、君の言うことももっともだ」 「はい。聞き遂げていただき、ありがとうございます。お優しいルナ様」  よかった……なんとか無罪放免で済んだみたいだ。というより言いがかり同然だったから、そんなことで弄られるのはちょっと困る。 「だけど私にこんなものを掛けた言い訳がまだ済んでないな。その弁明があるまで、敏感になっているという君の大切な場所を弄る。ほらほらほらほら」 「ひああああああっ! だ、駄目ですルナ様、その可憐な手で、そんな汚い場所を……ひぃんっ! お許しください!」 「よほど敏感になっているんだな。ああ楽しい」 「ひっ、やっ、やめっ、ふあああっ……!」  そのあと僕は、ルナ様が気の済むまで玩具にされた。けどそれも一ヵ月ぶりだから、とても楽しかった。  また……お会いできて幸せです。  どうかこれからもこのような日々を……与えてください、ルナ様。  それから僕はしばらく眠っていた。  寝るつもりはなかった。ルナとのせっかくの時間を一秒でも無駄にしたくなかったから。  でも寝不足の限界で、体力は残ってなくて、何より僕を撫でてくれるルナの手が心地良くて寝てしまった。  だけど、どうしてもルナと話したかった。  だからとても目蓋は重かったけど、何度かの微睡みの末にはっきりと意識を覚醒させた。  この次に微睡んだときは、朝まで起きられないのを覚悟しながら……。 「これじゃあまるで私は本物の娼婦じゃないか」 「娼婦?」  目の前の天使が、その外見とちぐはぐなことを言うから聞きかえした。 「来て、抱かれて、報酬を貰って帰る。これじゃあ本当に娼婦だなと言ったんだ」 「愛があるから娼婦とは全く異なるものだと思うよ」 「彼女たちにだって愛はある。一晩の恋か、永遠の愛かの違いはあるが」 「でも僕たちは恋人だよ? きちんと告白もしたのに。それじゃ恋人と娼婦はなにが違うの?」 「次の日の朝を共に迎えるか迎えないかの違いじゃないか」 「それはどちらも同じだと思うけど……」 「対価を受けとって用事も済んだら恋人の顔をする必要がないだろう。ただしリピートの可能性がない客に限る」  この話題に拘るなあ。もしかして僕が寝てたから拗ねてる? 「君の寝顔を見つめていたら、眩しすぎるから目を閉じていたんだ。居眠りしてたわけじゃないさ」 「どうして急に似非イタリア人みたいになった。全く紳士的じゃない」 「べつに君が寝ていたから怒ってるんじゃない。娼婦というのは、ここへ潜りこむために使った方便だ」 「方便? というより潜りこむって?」 「ここへ入るために強引な手段を使った。りそなの部屋へ遊びに来た友人という体にした。まず作戦を練るにも、あいつに会わなければなんともならないと思ってな」 「偽名は月路桜。あの学院長代理が聞いたらすぐにバレそうだが、一日ならごまかせるだろうと思ったんだ。りそなに一発で伝わらないと意味がなかったし」 「大変だったんだぞ。さすがにこの外見じゃ怪しまれると思って、かつらを被って、カラコンまで入れて。私の苦手な化粧までしたんだ。肌の色を濃くみせるために」  なるほど……それなら名前と写真程度でしかルナを知らない、管理人や付き人なら騙されるかもしれない。この特徴的な外見が逆に功を奏した。でも。 「ルナ……肌に影響が残らないといいけど」 「パッチテストはしたし一日程度なら大丈夫だろう。それよりもこの工夫を誉めろ」 「うん、ありがとう」 「で。りそなと一度会ったんだが、彼女は君の部屋で製作を手伝っていたみたいじゃないか。その間は彼女の部屋で待機した。ここからがわりと強引だった」 「強引?」 「りそなが出かけ、私が彼女の部屋へ残るために付き人を騙した。君がイギリスへ旅立つ前に、筆おろしをさせてあげたいとりそなが交渉してくれた」 「ぶっ」 「あと一日だし、兄には内緒で……という話だ。本人、つまり君も望んでいるみたいだし、日本の最後の思い出を作ってあげたい。私も相応の金銭さえもらえば了解している。という話で、袖の下も含めて納得させた」  じゃあ僕はいま筆おろしをしていることになってるんだ。りそなの付き人さんの中で。うん、実際にしちゃったんだけど。 「で、りそなから合鍵を受けとってここへ来たというわけだ」 「制服はその一環として役立った。実はこれ、明日の朝まで帰れなかったら、衣装を持って直接学校へ行こうと思って持ってきたんだ」 「君の兄に隠したい理由として、彼の学院の生徒だから、援交がバレて退学になったら困るというのを主な理由とした。くれぐれも内密に、ということで了解してくれたよ」 「それは……ご迷惑をお掛けしました」  苦労をかけさせたことについて詫びると、ルナはくすりと小さな笑みを浮かべた。 「こちらこそ悪かった。前もって連絡ができなくて」 「あ、ううん、全然。嬉しかった」 「遅くなってすまなかったな」 「こっちこそ何も手を打てなくてごめん。外出すると監視がつくから手紙も出せないし……ケータイは取りあげられて、ネット上の通信は全て管理されてたから。りそなも同じ」 「だからひたすら衣装を作ってた……ルナならなんとかして取りに来てくれると思って」 「うん。間に合って良かった。一人で不安だっただろう?」 「もし今回が駄目でも、次があると思ってたから。怖くなかったよ」 「でも全く連絡も取れずに一人きりは……心細かっただろう?」 「……うん。一度だけ、本当に一度きりだけど、もしこのまま会えなかったらどうしようって思った」 「すまない」  ルナは僕を両腕で抱きしめてくれた。その温かさに夢じゃないことを再確認する。 「手を打てなかったことを謝るのは私も同じだ。私は君と違って、間に合わなかった」 「間に合わない……?」 「そうだ。私も君の実力をあの学院長代理に認めさせようと思って、衣装を作ろうとしたんだ。サーシャに話を聞く前から」 「え……?」  初耳だ。七愛さんはそんなことを言ってなかった。 「君がデザイン決めのときに描いたデザイン画があっただろう? あの衣装を作ろうとしたんだ。君がいないから私が型紙を引いて」 「君のデザインで最優秀賞を取れば、あの男が君を見直すんじゃないかと思ったんだ」  僕と同じ考えだ……ルナは、諦めてたわけじゃなかったんだ。 「だけど私は君と違って全然駄目だったな。ろくに生地の裁断までも進まなかった。私一人じゃ、仮縫いすら終わらないんだ」 「みんなに頭を下げて頼んでも、湊もユーシェも瑞穂も君のように要領よくは進められないだろう? あまり出来の良くない衣装になった。君の衣装とは並べられない出来だ」 「すまない」 「そんなこと……聞いてないよ。湊は大変だって聞いてたし、ユルシュール様も落ちこんでいて……瑞穂様も怒ってるって」 「全て事実だ。湊は私たちを励ましてくれたし、ユーシェは彼女なりに解決策を考えていた。瑞穂は傷付いていたけど、決して君のことを嫌ってはいなかった」 「だから衣装を作りたいと私が頼んだときに、みんなは賛成してくれた。君をまた桜屋敷へ連れもどすために、力を貸してくれたんだ」 「君に伝えなかったのは、期待をさせてはいけないと思ったんだ。こちらに期待を持たせることで、君の心を緩ませてはいけないと。君に一人で無理をさせて、私は酷い恋人だ」 「そんなことない……ルナの言ってることは正しい。知ってたら、甘えていたかもしれない」 「ありがとう……厳しい心でいてくれてありがとう。お陰で最後までやれたよ。あと一歩届かなかったけど」 「あんなのは届かなかったなんて言わない。君ならすぐにできたことじゃないか」 「私はやっぱり一人じゃ駄目だ。次に会うときは強くなると約束したのに、全く恥ずかしい話だ」 「違うよ……」  いつの間にか、涙がこぼれ始めていた。  恋人の前で男が泣くなんて、どれだけかっこ悪いんだろう。だけど、止まらない。 「ルナが僕のために頭を下げるなんて……そんなに、強くなってくれていたなんて思わなかった」 「ありがとう……ルナがそこまで僕のために尽くしてくれたことが嬉しい……」 「私だっていつも同じ気持ちだった。尽くされるとは感謝することだ」 「みんなが、僕のために力を合わせてくれたことが嬉しい……」 「みんな君のことが好きなんだ。今でも戻ってきて欲しいと思ってる」 「それだけじゃない……みんな、ルナのことが好きだから……ルナが負けずにいるから手を貸してくれたんだ」  涙を流すということが、これほど体力を使うことだとは思わなかった。  それなのに止まらない。目蓋を開いているだけの力すら削られていく。僕はルナの腕の中で赤ん坊のように泣きつづけた。 「ありがとう……」 「僕の好きなひとが、僕と同じ気持ちでいてくれてありがとう……」 「僕のたいせつなひとたちが、僕と同じ未来を見ててくれてありがとう……」 「みんなが……僕の大好きなひとを好きでいてくれてありがとう……」 「あとは任せておけ」 「今度こそ、君の力になってみせる。絶対、君のしてくれたことを無駄にしない」  赤子は安堵すれば寝てしまう。今の僕も母の腕の中で包まれた時間のように心が安らいでいた。  遠い、記憶の中。きっと今なら世界の全てに感謝することができる。  やがて涙も止まっていた。だけどそれが何時頃のことだったのか、僕は意識がなくなっていたから知らない。  ん……ぅ。  朝……随分ひさしぶりの……こうして朝日を浴びることなんて……。  朝日……いや、いまの僕は遊星で……でもルナがお気に入りだから、きっとまた朝日にならなくちゃいけないんだろうな……。  昨日はルナと会えて嬉しかったな……。  もし朝日のままいれば二人で一緒にいてもいいと言ってくれるなら……いっそのこと、それならずっと朝日でもいいかなあ……。  ルナと一緒に……。  いられるなら……。  …………。  ルナは?  体に掛けてあった布団をばさりと捲る。丁寧に首まで被せてくれていた。  もしかしなくても、布団を掛けてくれたのはルナ? だとすれば彼女はもうこの部屋にいない……?  改めて窓の外を見る。朝日と思っていた日光は、すでに南天の高い位置まで昇っていた。どう見てももう朝じゃない。  ショーの開場は10時から……と、時計を見るのが怖い……。  いや、まさかね。まさかだよね……いくらなんでも、こんな日に僕を置いたまま行ってしまうなんてことは……。  11時!  絶望的な時間だった。い、いや、諦めるのはまだ早い。開場が10時で、開演が11時だったはず……今から学院まで電車が噛みあえば最高速で30分。ぎりぎりラストには間に合う。  起こしていってくれても……と嘆きながら最低限の支度をしていた僕の目に入ったのは、スヌーズ機能の切れた目覚まし時計だった。起きられる環境だけは整えておいてくれたみたいだ。  出かける間際、自分の作った衣装がないことにふと気付く。  ルナは試着をしたと言ってくれていたけど、大丈夫だろうか。  いや、ルナに限って服飾のことで気休めや嘘は言わない。僕は信じて、黙って観にいこう。  ショーの登場順はこの一ヵ月の間に教室内で決めているはず。ルナたちが後半を選んでいることを願おう。 「今から出かけます。見張りが必要なら一緒に来てください」 「今日は兄が日本へ来ているはずなので、今から会いに学院へ向かいます」  管理人室へ連絡を入れ、部屋を出る寸前。ボディに着せてあるメイド服とウィッグが視界に映った。  フィリア女学院へ行くのに、この二つのアイテムを着けずに行くのって、もしかして初めてじゃないかな。  思いかえしてみたけど記憶になかった。今さら少し恥ずかしい。  でも今日は女の格好はなしで行くんだ。  途中で同級生に会って好奇の目で見られるかもしれない。だけどそれも引っ括めて、覚悟を決めていこう。  ルナの勝利を観るために。  電車で移動中、停車中に窓から渋谷の景色が見えた。  電車の中から「マルカン」も見える。学院へ通ってる間は何度もお世話になった。  それと、湊と数年ぶりに再会した場所でもあった。  久しぶりに会った湊は、昔と変わらず元気で明るかった。  でもそんな部分も含めた男勝りな彼女が、とても女の子らしくなって、しかも僕のことを好いてくれた。  湊には感謝しなくちゃいけないことが沢山ある。何度も助けてもらった。彼女がいたから救われた部分が数多くある。  会いたい。早く会ってお礼を言いたい。これからも楽しい会話で何度も笑わせて欲しい。  この道を脅えずに堂々と歩くのも久しぶりだ。  日本で一番のファッションの中心地。大手を振ってまっすぐにその道を進んでいく。  そういえば桜屋敷へ初めて向かう日は恥ずかしかったな。ここで声を掛けられて、男だとバレるのが怖くて、困っていて……瑞穂様に助けてもらって。  そう、瑞穂様だ。彼女はいつも優しかった。なにか困ったことがあると、すぐに庇ってくれて、いつでも笑顔で……。  その笑顔を曇らせた。だけどもし僕の作った衣装が認められたら、また以前のように笑顔を向けてくれるだろうか。  また会いたい。会って誠意を込めて謝りたい。そして願わくば、これからも良い友人として接したい。  青山へ着くと、賑やかだった表参道からのひとの流れも多少落ちついた。  ここは買い物で何度も通った。ルナの好きだったケーキ屋もあるし、みんなで服を観に店を回ったこともあった。おいしいマカロンの店もあるし、ユルシュール様は何軒かお気に入りのカフェを見つけていた。  ユルシュール様は真面目なひとだ。服飾に対する真摯な思いはルナと同じか、それ以上かもしれない。  彼女から学ぶべきところはまだまだある。競いあっていければお互いの大きな成長になると思う。  彼女に僕の作った衣装を見てほしい。遠慮のないユルシュール様だからこそ気付かせてくれることがある。  きっと今回の衣装は誉めてくれるんじゃないか。そんな自信がある。そして舞台に立つルナ様のことを喜んでくれるんじゃないか。  そして桜屋敷……。  一ヵ月前と何も変わってない。葉の落ちた樹が寂しくなったとは思うけど、その佇まいは僕がいた頃と……いや、僕が初めて来た頃から変わらない。  だけど中に済む僕たちは大きく変わった。  ルナ。いや、ルナ様。僕の主人。  今は僕の恋人。それでも主人としての威厳を崩さない誇り高いひと。  彼女からは強さを与えてもらった。彼女自身も強くなった。  彼女はこれから大きな舞台に立てるひとだ。その実力を発信できるだけの環境を作る強い心を手に入れた。  その側にいたいと思う。これからも隣にいられたらと思う。  そのための大きな一歩を踏みだす日が今日であって欲しい。  時計を見ると11時40分。これならまだ最後には間に合うだろう。どうかその瞬間に立ちあいたいと思う。  これまで長い不遇の時期を過ごした僕の恋人が。  僕の主人が輝ける一歩を踏みだして、全ての表と裏がひっくり返される瞬間。  光と影が、幸と不幸が、太陽と月が逆さまになる興奮をこの目で見たい!  エレベーターの中で、係員の腕章を着けた生徒たちと一緒になった。  彼女たちは少し大げさなくらい熱気のこもった声で話していた。 「まるで月から降りてきた妖精みたいだった!」  着替えが済んで、舞台袖で出番を待つ生徒の中にそんなひとがいるらしい。  この時点で僕は涙ぐんでいたかもしれない。でも悲しくて涙ぐんだんじゃない。ひとは誰しも感動を覚えたときにこうなるんだ。  扉の前は静かだ。まだ終わってないと信じてる。僕は大きな扉の取っ手を掴んで――  ――いま万感の思いを込めて。  感動の中へ飛びこんだ。  ――そこにあったのは、歓声、熱狂、万雷の拍手。  その最後方で、全てが見渡せる最高の場所で、僕はこの感動を眺めていた。  みんながいる。みんながいて、全員が僕たちの衣装とルナに酔いしれてる。  ずっと彼女が求めていたものがこの会場中を埋めつくしていた。 「綺麗……ルナ、本当に綺麗」 「Bravo! 完璧なウォーキングですわ! 今回ばかりはあの子を誉めてあげますわ!」 「ルナ最高! ありがとう! あの子はわしが育てた!」  湊が手を叩いてる。ユルシュール様が叫んでる。瑞穂様が涙を流してる。  だけど彼女たちだけじゃない。八千代さんも名波さんも、サーシャさんも北斗さんもりそなもいる。全ての観客が、呆然とした一瞬のあとに歓声を巻きおこしていた。  これまでの作品たちがどんな評価を受けてきたのか僕は知らない。  だけど他と比べたりしなくていい。する必要がない。この衣装を誉めたたえてくれる沢山の歓声と拍手を僕たちはいま受けてめていた。  その拍手はなかなか鳴りやまなかった。歓声の渦に打たれてぼうっとしていた僕は、しばらくしてようやく気が付いた。ルナの出番がショーの最後、大トリだったんだ。  僕は夢のような出来事の中にしばらく身を浸していた。  この手を叩いている人たちが賞賛を贈るのはルナに対してだ。デザイナーとして、衣装を自ら着て歩いたモデルとして、その姿は忘れられないものになるだろう。  僕の存在なんて誰も知ることはない。でも、それでいい。  こんな感動を味わえるなら、僕は彼女の影でいい。輝く月に寄りそう影のままがいい。  この感動はなかなか醒めなかった。名残惜しそうに手を叩く音と、そこかしこから聞こえる話し声はなかなか止まない。  仕方なく現実は夢を終わりへ導いた。担当の教員が時間の限界を覚えてマイクを手に取り舞台の脇へ立つ。 「ただいまご来場いただいた皆様の投票を集めております。お手元のタッチパネルにチェックを入れ、送信ボタンを押してください。投票は一度きりですので、よくご確認の上での操作をお願いいたします」  投票するためのタブレットは僕の手になかった。最初から観ている客にしか渡されてないんだろう。当然と言えば当然だった。  集計まではまだ時間があるみたいだ。僕は行き先を求めて、しばらくその場に立ちつくした。  観客席は満員だ……立ち見がいるくらいだから、最後の最後に来た僕が座れる場所なんてなさそうだ。  投票なんて無視して帰る客が大勢かと思いきや、数人が僕の脇を通っていくだけで誰も去ろうとしない。みんな、一人の女性の上に栄光が輝く瞬間を見たいんだ。  前方が来賓者席、後方が生徒席みたいだ。湊たちは声を掛けられる位置にいるけど……まだ仲直りができたわけじゃないのに、僕からは声を掛けづらい。  それに同級生たちもいるだろうし……髪型や服装が違うとはいえ、さすがに気付かれるだろう。十ヵ月近くも一緒にいたんだから。  ここで大人しくしていよう……。 「せいっ」 「あうっ」  何の予告もなしにひざかっくんをされた。振りかえれば恋人がいた。 「君にこれを与える」 「与えるって……なにこれ?」  ルナが首に付けてたパールのネックレスだ。何の意味があるんだろう。  もしかして、スポーツの選手が優勝した時にユニフォームを観客席に投げたりする感じの意味合い? 不思議な感覚をしたひとだ。 「来たのか」 「それは……来るよ。僕たちの未来にも関わることだし」 「というよりルナはどうしてここにいるの。いますごい歓声だったんだよ。こんなところにいたら騒ぎになるよ。その格好、目立つんだし」 「ああ、すまない。でも君の顔が見えたら共に喜びたい衝動が止まらなくなった。数時間前まで愛しあっていたんだ。当然だろう?」  どうしてそんな恥ずかしいことを言うかな。僕は黙らざるを得なくなってしまった。  あ、そうだ監視。僕の後ろに控えてるんだった。 「このあと二人で兄のところへ話をしに行くんで、それまで報告するのは待っててください。ほら、兄も発表の準備で忙しそうですし」  と、監視役の人には断りを入れつつ。 「そのコサージュ、よく間に合ったね。衣装も一着作ってたんだよね?」 「ああ。君の衣装が完成したときに『任されたアクセサリーが間に合わなかった』じゃ話にならないからな。これらだけは最優先で仕上げた」 「それとデザインのときは意識してなかったが、月下美人の花言葉が思ったより気に入ったからどうしても用意したくなった」 「『ただ一度だけ会いたい』だっけ?」  一度きりじゃ困るけど、そのくらいどうしても会いたいと思っていたのは僕も同じだ。 「私の目の前で言うか。優秀な君でも花言葉までは知らないだろうと思って話したのに。ちっ、黙ってれば良かった」  ルナは文句を言いつつ僕から目を逸らしてしまった。その先には舞台がある。  数分前まで立っていた自分を思いだしたのか、徐々にルナの表情は落ちつき始めた。 「あとは結果を待つだけだな。なかなか心地いい緊張だ」 「僕は前半を見てないからかなり緊張してる。今までどんな作品があったのか――」 「集計が終わりましたので、当学院の理事長であるJ・P・スタンレー氏より発表と総評を述べていただきます」 「――っ!」 「あ……」  ジャン……も来てたんだ。僕の憧れた二人、ルナともう一人が同時に舞台へ上がる。  あのひとの口から僕たちの未来を発表されるんだ。喜ぶとしても報われない結果になるとしても、彼の言葉なら悔やまずに済む気がした。 「衣装を来た生徒は、全員壇上へ並んでください」 「…………」 「えっ……あれ? ルナもあそこにいないとまずいんじゃ?」 「もう少し時間が掛かると思ってたんだ。素でまずいな」  ルナはひゅるっと身を翻して舞台の裏側へ駆けていった。  え、えええっ……どうか間に合ってください……と僕が祈っている間に舞台の上では挨拶が始まっていた。 「あー……」 「やるじゃん日本人」  今日も学院理事に相応しくないお道化た挨拶。その外見に反して流暢な日本語が、そのちぐはぐ感をさらに増していた。 「なんていうかさ、あるんだよな時々。期待せずにふらっと寄った古着屋で、ばっかみたいに安いスゲエいい服見つけちゃったみたいの」 「いやごめんな、本当は期待してなかった。でも今は来てよかったと思ってるよ。昨日食ったとんかつもそんな感じだったな。あの地味めのもっさい店構えなのにやたら上手い店。なあイオン、なんて名前だっけ?」 「進行を妨げるなスタンレー。おまえの食った夕飯のメニューなど誰も興味はない」  憧れのひとの隣に僕の恐れるひとがいる。  だけど不思議といまは以前より怖くない。腹が据わったからだろうか。 「ああいや、悪い。でもさ、やっぱ違うと思うんだよな。ロクにこの子たちの面倒見てない俺じゃなくてさ。『最優秀』なんて肩書きは提出物に残らず目を通してる、イオン、おまえが発表するべきだよ」 「ふん」 「いやなんか決まった瞬間悔しそうだったし? 自分の口で言うのが嫌なら代わってやってもいいけど?」 「進行を妨げるな。たかが発表をするのに嫌も何もない。奴はその方が喜ぶと思っただけだ」  え? 奴? 「発表しよう。フィリア・クリスマス・コレクションにおける栄えある初年度の最優秀賞に選ばれたのは――『桜小路ルナ』おまえだ!」  一瞬呆けたあとに重大な発表をされた僕は、反応するのが周りよりもワンテンポ遅れた。  沸きおこる喝采はルナが舞台にいたときよりも大きく僕の耳を打つ。  しかしそこで祝福を受けるはずの女生徒は舞台の上にいなかった。兄の声が響いたきり、ショーの進行は止まっている。 「遅れました」  一人、舞台袖から現れた女生徒は、明らかに走ってきたとわかる息の乱れを整えつつ、兄の待つ中央へと進んだ。  眉を吊りあげる兄の顔を見て、舞台の上でジャンが爆笑していた。観客席では湊も爆笑していた。 「この学院における初の栄光を授かり大変な名誉を感じています」  そしてルナはお手本のように上品な受けこたえを述べた。それを聞いた兄の顔は多少落ちついたものの、まだ不満そうな色は隠しきれていなかった。  だけど兄は明らかに不満そうなでも、進行が乱れることを嫌うひとだ。  この場面では何も言わず授賞式を優先した。賞状を手に取りルナの前へ差しだす。 「これは賞状とトロフィーだ。それと来年度から編成する《特別育成クラス》への進級を約束しよう」 「ん、これは間違っています。賞状に私の名前しか記載されていません」  こんな場面だというのに、ルナはいちゃもんを付けはじめた。八千代さんも暗闇でもわかるほどこめかみに血管を浮かびあがらせていた。切れてしまわないかとても不安だ。  お願いルナ。普通に済ませて。 「今回はグループでの製作だったはずです。班員全員の名前か、せめて班名が記載されていないと賞状は受けとれません」 「生意気な。最優秀賞を取りけしてやろうか」 「まあまあ。一度与えようとしたものを取りさげたんじゃ賞の権威が落ちるぜえ?」  ジャンがルナの両肩にぽんと手をのせた。まるで保護者だ。  ところでジャンの手が肩にのってる今のルナが羨ましい。僕は昔から彼の手が好きだった。  だというのに、ルナは自分の肩にのるジャンの手を煩わしそうに見ていた。コミュニケーションを図ろうとしてきた父親を煙たがる娘そのものだ。  手を払わなかっただけよしとしたい。 「ていうか、だから、俺は言ったんだよ。『班の名前を書いた方がいいんじゃ?』って。イオンが頑なに嫌がるからさ」 「なんだっけ『ライジング・サン』? 俺は日本名の響きの方が好きだな。ええーと……」 「『朝日』班です」 「そうそれ。じゃあイオンが嫌なら俺が書いてあげるよ。ちょっと借りるよ」  ジャンは兄の手から賞状を取りあげると、マジックを持ってこさせてひょいひょいと文字を書きくわえていった。  ルナは隣でそれを見つめていたけど、ジャンの手が進むにつれて、その表情が驚いたものに変化した。  どうしたのかな……?  だけどそれはネガティブな意味合いではなかったみたいで、改めてジャンから渡された賞状をルナは黙って受けとっていた。その所作のひとつひとつが美しい。 「じゃあ、シャープな感想はイオンにまかせて、こっちはまとめに入ろうかな。ルナ、その衣装いいよ。才能を感じる」 「これから先、君みたいな子がわらわら出てくるならこの学院も安心だ。日本の服飾業界を盛りあげてやるぜくらいの気持ちで頑張ってよ」 「はい」  煙たがりはしたものの、ルナはお父さんに逆らったりはしなかった。反抗期は済んでいたみたいだ。 「ま、でもその衣装はちょっとずるいよな。作ったの誰?」  ジャンの言葉に会場中が目を丸くした。あの兄ですら驚いた顔をしてる。 「おいスタンレー、その言い方はやめろ。まるでこの女が外部に製作を依頼したみたいじゃないか」 「あ。ごめんな、言い方悪かった。そんな、外部の人間とかじゃこの感じは出ないんだよ」 「技術とかセンスじゃないんだよ、この味は。だからこそ、そこに技術とセンスが乗っかったときに生まれる……あー、なんだっけほら、君たちの国で言うじゃん」 「『神服』ってやつ?」  ルナの袖をつまんで、僕の作った衣装をジャンがぴらぴらとめくる。  そのミシン目も手縫いのあともじっと見つめてる。それがとても優しい目だからわからないけど、ルナも邪魔をしたりはしなかった。 「いいだろう。私の自慢の衣装だ。本当はまあ、あと三着あったんだが」  紅い瞳がじろりと兄を睨む。もちろん彼がそんなことを気にするはずもなく、ふんと鼻を鳴らしただけで謝りもしなかった。 「でもさあ、ここ女子しかいないよな? それでこの味は無理があるって。愛情てんこもりだろ。何これ姉妹? だけど同学年だから、それも無理だよなあ」 「どれだけ信頼しあってどれだけお互いを大事にすれば、こんな衣装が生まれるんだよ。ずるいよなあ、独り占めしないでその方法を教えてよ」 「教えても何も……いま御自分で言ったでしょう? 私のことを、好きで好きで仕方ないやつがいるんです」  あっ。まずい、ルナのことだから、誰が衣装の制作をしたか、本当のことを言いかねない。  退学扱いの僕が製作に関わったことについて、こちら側の解釈としては、そもそもが兄の盗作から始まっているし、僕の処分に関してルナは受けいれるとは言ってない。  だから他の生徒たちへの後ろめたさはありつつも、こちらにも言い分はあるから、衣装の出来の良し悪しを判断基準にしましょう、というのが僕のスタンスだった。  だけど兄は自分が間違っているとは欠片も思ってない。僕が作ったことを口にしたら、兄は容赦なく最優秀賞を取りけしにするだろう。  もちろん授賞式が終わったら、型紙を引いたのは僕だと話すつもりでいる。授賞式さえ終えてしまえば、先ほどジャンが言ったとおり、簡単に取りけしたりはできないと思う。  桜屋敷の全員の苦労に報いるため、この場で賞だけは貰っておいて欲しい。だからお願い。言わないで――  ――そんな心配をしたけれど、ルナも今回だけは賞が欲しかったらしい。 「ひとつ教えておいてあげましょう」 「ファッションデザイナーには同性愛者が多いらしいですよ」  あくまで製作に関わったのは「朝日」という考えのもとに行動してくれた。 「あっはははは、女の子同士かあ。そっか、それもいいなあ。でもさ、やっぱ恋愛は健全な方がいいよ。性嗜好は問わないけど」 「うん、クリエイターがまだ若いうちは、恋愛で馬鹿ンなった方が神作も生まれるってもんだよな。そうだイオン、俺いいこと思いついた」 「思いつきで方針を変えるのはやめろと普段から言ってるだろう。実務をこなすのは俺なんだ」  にこにこ微笑むジャンの顔を見て、兄はうんざりとした目を彼に向けた。  それでも兄が彼から離れないのは何故だろう。もしかしたら、僕とルナのように深い信頼関係があるのかもしれない。  もっと軽い間柄かと思っていた。あの兄にも親友と呼べるひとがいるんだな。 「まあどうせ俺の言葉など聞かないんだろう。いいこととやらを言ってみろ」 「もっとさ、日本人には恋をさせた方がいいよ。来年から共学にしよう。もちろん女子クラスと男子クラスは分けるけどさ。もう一個クラス作ろう」  ざわめく会場、溜め息をつく兄。そして舞台の上のルナは、目を大きく開いて最後方にいる僕をまっすぐに見た。 「それで、いいよな? うん決まった。それじゃ今年の日本校の総評に入ろう」 「オシャレして、外に出て、恋をしろ。イオン、この言葉、来年から院則みたいなのに加えといてもらえる?」 「断る。そもそも学院長である俺に恋をするつもりがない」 「あそ? んじゃ次の入学式になったら俺から話すよ。みんなありがとう、今年のショーは楽しかった! また来年、アデュー!」  総評を終えて、ジャンは舞台上から姿を消した。  一分や二分でいいから話したかったけど、今から追いかけても捕まえられないだろう。彼はのんびりしてるくせに、いつも出発は慌ただしい。  でもしっかりとプレゼントだけは残してくれた。共学校になれば兄に脅えず、堂々とこの学院へ通うことができる。  僕が来年から、改めて彼の下で学ぶための機会を与えてくれた。  舞台の上のルナはまだびっくりした顔のまま僕を見つめてる。  僕は彼女に向けて手を銃型に構えてBAN!と撃ちだした。ちょっとキザだけど僕の憧れたひとの真似だ。  見事に心臓を撃ちぬかれたルナは胸を押さえて笑いはじめた。  来年からルナの後輩だ。まだ合格したわけじゃないし、兄とも話さなくちゃいけないけど、最優秀賞の衣装を作ったんだ。自信はある。  受験は二月。あの兄は僕だけに特別な試験を課すかもしれない。でも機会さえもらえれば挑むことはできる。  あと二ヵ月間めいっぱい努力すれば、またルナや桜屋敷のみんなと一緒に学校へ通うことができる! 「ルナ、おめでとう!」  今まで月に影に徹していたけど、あまりの嬉しさに僕は大きな声をあげた。  その声が舞台まで届いたかはわからないけど、湊もユルシュール様も瑞穂様も、その従者たちも、みんなが僕の嬉しそうな顔に気付いて振りかえった。 「え、えー……それでは朝日班の最優秀賞受賞を祝いまして」 「祝いまして」 「祝いましてぇ」 「皆様のご尽力ありがとうございました! かんぱーい!」 「乾杯!」 「完敗!」 「いまなんかユーシェの発音おかしくなかった?」  それぞれが近くにいたひととグラスをぶつけ合い、大きな音が重なりあって一つになった。 「あら、こういうときはシャンパンではありませんの? どうして烏龍茶なんですの?」 「あ、麦茶の方が良かった? 最近は冬でも麦茶おいしいよね」 「いえ、お茶ではなく……こういうときは炭酸ではありませんの?」 「じゃあ炭酸の入った紅茶のやつ注いであげるよ。何年か前に出たけど、あんまり好評じゃなかったやつ」 「そういうわけではなく……あ、あらららなんですの? これは注がれた分は私が飲まなければなりませんの?」  日本人の口に合わないものは欧米人の舌にも合わなかったみたいだ。ユルシュール様はあまりおいしくないと渋い表情を浮かべ、そのあとに濃い烏龍茶を飲んでやはり苦いと渋い顔を浮かべていた。 「朝日は飲み物は何がいい? 私が持ってきてあげる」 「い、いえ瑞穂様。お客様である瑞穂様が使用人の私のために立ちあがるなどいけません。どうか私にお任せください」 「でも朝日は大蔵家のひとじゃない? それなら私と同じ立場だと思う」 「それは大蔵遊星の話であって、今の私は小倉朝日と申しますか、あの」 「そうだよオオオォー!」 「わぁ」 「きゃ」 「ゆうちょは? ゆうちょどこー!? なんで朝日の格好なの!?」 「湊、格好なんて言わないで。朝日は朝日。湊のいうゆうちょさんはお休み」 「いやだって、私もゆうちょに会うの久しぶりなんだよ? さっきショーの会場にはいたじゃん、ゆうちょと話したい!」 「駄目。私はまだ大蔵さん……これだと妹さんと紛らわしいかな? 遊星さんのことは許してないから」 「いやだってそこにいるのって、朝日の格好してるゆうちょ……」 「ううん、ここにいるのは朝日。私の友達の朝日。そうでないと、まだ一緒にいられないからこのままじゃないと駄目」  不思議なもので、瑞穂様は僕が「朝日」でいる間は話しても触れても平気みたいだ。  ルナと湊も同じことを言っていたし、人間の意識ってすごいなと思う。それこそスタンレーの言っていた味方を変えれば世界そのものが変わるってことなんだと思う。  とは言っても見方の変わらないひともいるわけで、あまり触れたりすると北斗さんの目が怖い。 「はい、朝日のための麦茶。朝日には私が注いであげる」  思いきり密着された。これは色んな意味でいけない気がする。 「や、や、や、それは駄目だよ瑞穂。ほらね、朝日はね? そっ、そにょ、ルナとね? 付きあったりね? しっ、してるしね?」 「ルナは嫌?」 「別に。女性同士で抱きあっていたところで心配はない」 「ほら」 「いいんだ!? いやっ、女性同士じゃない……よ?」 「湊は面白いことを言うな。朝日は女に決まってるじゃないか」 「私もそう思う。朝日を男性扱いするなんて酷い」 「前にもこんなんあったなあ。普段食べるアイスは普通棒付きだよって言ったら、この人たち300円以上のカップのやつしか食べないせいで、私が変わったアイス食べる人扱いされたよ。常識ねじ曲げるからなあもー」 「ていうかゆうちょ……朝日はヤじゃないの?」 「今日いちにち朝日のままでいたら、今までのことを許してくださると瑞穂様が仰ってくださいましたので……」 「な、なるほど。それなら仕方ないっかあー……まあ一日だけなら」 「朝日は明日もこのままでいてね。今までと同じ時間分だけ朝日でいたら許してあげる」 「あれれ! 要求の内容が過激化したよ!」 「というよりも、それがこちらの許容できる最低条件です。お嬢様が良いというまでは、この屋敷内で『小倉朝日』として過ごしていただきましょう」 「ほ、北斗さん……」  北斗さんの目は鋭かった。彼女はまだ僕を許すと言ってない。 「やあねー、いつまでも引っ張る女って。男らしくないのよねえー」 「あ、サーシャさん……今回は本当にありがとうございました」 「いいのよん。君も辛い思いしてがんばったんだもんね。それを知ってるくせに、あの女は愚痴愚痴と認めるだの認めないだの」 「本当なら私は認めたくないんです。ですが瑞穂お嬢様からこれならという提案があり、また、私としても、お嬢様の男性嫌いが直る糸口となりそうだから許容することにしたんです」 「少し劇薬のような気もしますが、毒物も使い方によっては治療薬になります。お嬢様の男性嫌いは根深い。小倉さんほどの条件が揃わなければ会話すらままならないでしょう」 「お嬢様の男性嫌いが直ったときに私は初めて君を許しましょう。悪いことはするなよ」 「は、はい。肝に命じます」 「えっらそうーに」 「北斗は厳しすぎ。朝日を叩いたって聞いたけど、きちんと謝った? まだ済んでなければ今ここで謝りなさい」 「怒りのあまり野蛮な行為に走りすぎました。お許しください」 「い、いえ、いいんです。そんな、謝らなくちゃいけないのはこちらの方で。瑞穂様にも」 「わかりました。これから時間を掛けてゆっくり聞くことにするから」  瑞穂様が内心でどれほど傷付いているかはわからないけど、今日は笑顔で接してくれている。彼女の言うとおり、これから時間を掛けてゆっくりと許してもらおう。 「私も許さないとは言いましたが、話もしたくないというわけじゃないんです。きちんと普段から誠意さえ見せてくれれば、これからも仲良くしていきたいと思います」 「小倉さんにはこの言葉を送りましょう。『風上に立つものは戦士だ。敵の矢を受けずに済むから。風下へ立つものは猟師だ。バッファローの匂いを嗅ぎつけるから。風を味方にできない者は愚か者だ』」 「良い言葉ですね」  恐らく戦士としての心得なんだろうけど、僕とは関わりがなさそうだからこの場では流した。 「うぬぬそうか……ルナはくっついたり抱きついたりは許すのか……いやでもそれって自分が傷付くだけじゃ……でもでもううううぅ〜……!」  湊は葛藤していた。彼女にこそ北斗さんの言葉が必要なんじゃないかと思う。 「くそこんなやつ助けなきゃ良かった。なに帰ってくるなり女の格好してんだよ。おまえ男だろキメんだよボケ。どんな言い訳しても男は男なんだよ。女になりてえならモロッコ行け余計キメえけどなクズが」  名波さんは絶好調だ。彼女とはとても目が合わせられず、僕は黙って麦茶を飲んだ。 「さて……そろそろ頃合いだな」  一番騒がしかった僕たちのエリアの話が落ちついた頃を見計らって、ルナはすっくと立ちあがった。 「賑やかに楽しんでくれるのは嬉しいが、やはり真面目に礼を述べる場面も必要だと思う。諸君、今回は私の為にありがとう」 「なぜルナ一人の為みたいな言い方をしてますの?」  ルナがシリアスな話をしようとした矢先に邪魔をしたのはユルシュール様だった。 「ん、言葉が足りなかったか。君たち、今回は馬車馬の蹄鉄のごとく誠心誠意私だけの為に尽くしてくれてありがとう。心から感謝しようと思う」 「ルナの為ではありませんわ。グループ全体の為に力を貸したのですわ」  ユルシュール様は突きさすような声でルナの言葉を遮った。それだけは認めないという強い意思が感じられた。 「どうしてだユーシェ。私が恋人を助けたいから手を貸してくれと頼んだときは『私の力で良ければ好きなだけ使っていただいて構いませんわ』と頼もしいことを言ってくれたじゃないか」 「そっ、それは、友人が困っているなら当然のことですわ! いまそのようなことを言わないでいただきたいですわ!」 「私は今日着た衣装は、元々の予定だった三着を作った経験があるからこそ完成したと思っている。あの衣装はいわば全員で作ったものだ」 「ありがとうユーシェ。君の気持ちは嬉しかった。私は君という友人を持って本当に幸せだ。感謝してる」 「そっ、そんな、よろしいのですわよ。そのように素直なことを言っていただけるのでしたら……オホホホ、まあ手を貸したということにしても良いですわ」 「というわけで、今回は私with神友達ということで賞を得ることができた。まあ全体の功績を見れば私5:その他5と言ったところだが、その微力を捧げてくれたことには心から感謝している」 「やはりなんだか納得がいきませんわ!」  ユルシュール様がぶるんと首を回すと、その髪の毛がサーシャさんの顔にばちんと当たった。痛そうだ。 「結局、最後に作った衣装は使われませんでしたし……」 「ん、すまない。言いだしにくかったんだが、実はそれを詫びようと思っていた。寝る間も惜しんで協力してくれた衣装をショーで使わずにいて悪かった」 「あ、あら、いいんですのよ。確かに朝日が作った衣装と比べれば、どちらが優れているかは一目瞭然ですわ」  その衣装を僕はまだ見せてもらってない。四人が「朝日に見せるのは恥ずかしい」と言うので、仕舞われてしまった。  いつか時間が経ったときに、全員が許してくれるなら見てみたい。僕のデザインがどんな衣装になったのかを。 「というわけで、君たちの努力に報いるため何らかの謝礼がしたい。欲しいものがあれば遠慮なく言ってほしい」 「朝日」 「大蔵遊星さん」 「ゅぅちょ」 「欲しいものができたときは、後日遠慮なく言ってほしい。以上、この話はこれでおしまいだ」  ルナは自分から切りだしておいて、要求が無茶ぶりだとわかると即座に話を断ちきった。さすが一企業の主。不利な交渉は受けつけない。 「じゃあはい……私はあります」  そんな中で手を上げたのは、人見知りなわりに今日は桜屋敷へ来たがった僕の妹だった。 「なんだブラコン妹。君の要求など安易に想像がつく。大蔵遊星を何日貸せばいいんだ。三分なら手を打とう」 「それは正月と盆に無理やり実家へ連れもどすからいいです。それよりも、こちらは死活問題を抱えてしまったんです」 「下の兄が心配で見守っていれば……まさか、あなた方にいいようにされた上の兄の八つ当たりを、もろに食らうことになるとは思いませんでした……」 「私はせいぜい一般の受験者と同じ程度の勉強しかしてないんです……下の兄と同じ課題を出されるとか……どうすれば合格できるんですか……」 「それは……ごめん」  りそなの嘆きはもっともだった。ショーのあと、僕と共に兄に立ちむかってくれた彼女は、その代償としてとばっちりを受ける羽目になった。  つまりはこういうことだ。  ジャンが去ったあと、僕は兄と正面から話す必要があった。  兄との関係は何一つ解決してなかったからだ。彼は僕をイギリスへ送るつもりであり、桜屋敷へ逃げればルナを退学にするつもりでいただろう。  だからルナの着替えを待って、りそなと合流してから、あらん限りの勇気を振りしぼって声を掛けたその結果―― 「遊星? 貴様、何故ここへ来た」 「はい。衣遠兄さまと話をするために来ました。そのために監視を付けて外出の許可を取りました」 「今日は退学にした貴様のような者の来るべき日ではない。この華やかなショーに水を差すな。さっさと立ち去れ!」 「お兄様は、ルナの衣装のどの部分を評価されたのですか?」  僕は兄の言葉を無視して、いきなり本題から入った。その方が彼の好みにも合っているだろうし、余計な言葉を挟む余地のないほどこちらも必死だった。  その態度に普通なら苛立ちを覚えるものかもしれないが、兄は逆に興味を持ったみたいで出口へ向かおうとする足を止めた。 「私にも評価を聞かせていただきたい」  ルナも僕の隣に並び、堂々と兄に向かいあった。 「この学院の生徒として、最も発言力のある審査員の感想を聞くことは、今後の成長にも繋がるはずです。あなたに拒否する理由はないでしょう?」 「あなたが今学年の代表だと認めた人間が、自分の実力を伸ばしたいと言っているんです。私の衣装の何が他より優れていたのかを教えていただきたい」 「後日、他の審査委員の寸評と共に俺の評価した点もまとめておく。それまで待てないのか?」 「待てません。それでは明日にでも彼があなたに連れていかれてしまいます」 「ふん、そんな理由で認めるはずがない。年が明けるまで待て。おまえの採点はそれからだ」  話に足を止めたものの、兄の態度は辛辣だ。  だけど兄の言いたいことはわかってる。「俺と話をしたければ、興味をそそらせるだけの材料を見せてみろ」。 「お兄様!」 「衣遠兄様、私からもお願い申しあげます」 「貴様……無能な妹が俺に意見をするつもりか? 同じ血を引いているというだけで、才能のない貴様など、我が大蔵家に有益な男に嫁がせる以外の用途などない。縛りつけられて暮らしたいのか」  兄の強烈な視線を受けて、りそなは怯えたように小さくなった。僕に対しては親しい話し方ができるりそなも、兄の前では蛇に睨まれた蛙でしかない。 「この場ではどうしても答えていただけないのでしょうか?」 「くどい。そのつもりはない」 「ではこの衣装のパタンナーを務めたのが彼だと言えば?」 「なに?」  兄は疑問符の伴う声を発した。  けど、その表情はそれほど大きな変化を見せなかった。それは、大したことではないと判断しのか、あるいは気付いていた……? 「学院長代理殿は最優秀賞という形で、彼の作った衣装を認めています。今からその才能を否定するには無理があるのでは?」 「才能があれば認めるとあなたは言いました。彼に服飾の技術を学ばせることは、あなたの主義に適っています」 「それともこれだけの才能を見殺しにするつもりでしょうか? ならばあなたは自らが宣言した才能至上主義という芯を否定することになる」  ルナも必死だった。兄の掲げる旗へ疑問を投げかけ、突破口を作ろうとがむしゃらになっている。  普段は淡々としているルナが、今は声を荒げるほど懸命になっていた。 「学院長代理殿が教育者としてここへ立っているのは、極端ではあっても考え方に鋼鉄の芯があるからだ。その根拠を失ったあなたなど、もはやここにいる価値がない!」 「桜小路……」  兄が呻きに近い声を発した。  その声を聞いて、数人の教師が近付いてきた。ルナは過去に何度か兄と揉めているのを知られている。学院長室にも乗りこんだし、教室で言い争いに近い言葉のやり取りもあった。  それを警戒した教師たちが、いざとなればルナを止めるために近付いてきたんだろう。  だが兄は、開いた手を真横に伸ばして彼らが話の邪魔をすることを拒否した。  明らかに不快を示していても、兄は自分が認めた相手との対談を疎かにはしなかった。 「ならば、この場で見せてみろ」 「え?」 「この男がその衣装を作ったという証拠を見せてみろ」 「三日後にこの男を、父のもとへ連れていくという話が済んでいる。準備や移動時間を考えれば、おまえたちに与えてやれる時間は相対している〈此時〉《いま》だけだ」 「おまえの腕を見せてみろ愚かなる弟。才能が証明出来ればイギリス行きは取りけしてやる」 「そんな無茶なことを言わなくても……」  いまこの場で? 目の前で即興で目に映る服の型紙でも引けばいいんだろうか。  でもやるしかない。それくらいしか思いつかない。そう思って教室へ向かおうと振りかえった瞬間、ルナの手が僕の腕をぐっと掴んだ。 「この場で何かをする必要はない。証拠なら、〈理事長〉《スタンレー氏》からもう貰っているからだ」 「なに?」 「これだ」  ルナは手に抱えていた賞状を広げた。そして名前の欄を指で差す。  兄もルナが示した箇所を見ている。りそなも同じように視線を向けた。当然、僕も。  そこには元々書いてあったルナの名前と並べて、汚い日本語でこう書いてあった。 「桜小路ルナ と 遊星くんの愉快な仲間たち」 「ジャン……?」  誰が書いたかはすぐにわかった。彼しかこんなことができるひとはいなかったからだ。  だけど僕の名前を覚えていてくれるなんて思わなかった。それもあの場にいなかったはずの男のことなんて。 「彼がやったものだという自信がなければ、このように班名を変えてサインなど入れないでしょう」 「なんで……ジャンが? 僕のことを覚えて……どうして?」  この場で戸惑うべきは兄だった。信頼をおくパートナーが、己の否定してきた弟を認めた。それによって自らも僕を認めざるを得なくなったんだ。  だけど呆然としているのは僕で、兄は落ちついていた。舌打ちを一度入れ、息をゆっくりと吐くように話しはじめた。 「奴は四月からおまえが入学していることに気付いていた」 「えっ?」 「俺がおまえの存在について奴と話したのは、クワルツ賞の際に気付いた六月以降だ。気付くのが遅いと笑っていた」 「『どうして女の格好なんてしているのか分からないが、相変わらず面白い奴だな』とも言っていた」 「奴のことだ。飄々とした振りをして、おまえがなんという名前で入学しているか程度は調べているだろう」 「『朝日班』などと名前が付いていた時点で、奴はあの衣装を作ったのがおまえだとわかっていたはずだ」 「…………」  ジャンが……僕のことを覚えていて、しかも同じ世界へ足を踏みいれたことを認めてくれた……?  憧れのひとが……僕のことを。 「ならばこれで彼が日本に残ることを許してくれますね」 「ちっ」  兄は憎々しげに舌を打った。  その表情も大きく歪んでいた。「心から」とまでは付けなくていいほどの。 「おまえが最初からその才能を俺に見せていれば、面倒なことにならずに済んだものを」  兄の言葉は相変わらず辛辣なものだった。でも何故だろう。不思議と全く怖くない。 「目覚めるのが遅いぞ愚図が」 「申し訳ありません……」 「謝らなくていい。彼が才能に目覚めたのが遅い? それは逆だ」 「なに?」 「彼が遅かったのではなく、あなたに彼の才能を見る目がなかったのだと私は思います。何故なら、彼は私のデザインを型紙にした時点で、素晴らしい技術を持っていました」 「恐らく学院長代理殿は、既存の授業で使う教材しか用意せず、彼の能力を計ろうとしたのではありませんか?」 「パタンナーに必要な能力は、どれほど肌に合わなくても、与えられたデザインを〈型紙〉《パターン》にする力です。でも私も彼もまだ若い。好きなもの、魅力あるものを与えられればやる気も湧くし全力を傾けられる」  ルナの言っていることは全て予想でしかない。  なのに何故だろう。全てが僕の思い出を刺激する。  そう。あの頃は兄に認められたくて、そのために兄のデザインを毎日見て、いつしかその才能を敬愛していた。 「彼がその当時、恐らく一番望んでいたもの。兄であるあなたのデザインを型紙として引かせてみれば、もっと早く彼の才能に気付けたのではありませんか?」 「小賢しい。一生徒が、学院長である俺に講釈とは何様のつもりだ」 「ですが」  僕は口を挟んだ。否定されたくない部分があったからだ。 「今でも僕は、お兄様から仕事を任されてみたいと思っています」 「お兄様によくやったと喜んでいただけることを期待しています」  その期待に一日も応えられなかったこと。不甲斐なさ。兄への心苦しさ。それがいつか僕の心を折った正体だった。 「…………」  兄の顔が見られない。怖いのでもなく、後ろめたいのでもない。  そう。言ってみれば子どものような、誉められてたくて仕方ない感情。だけどその心を見透かされたくなくて、まっすぐに親の目が見られない。  そんな気恥ずかしい気持ちで僕は兄の顔が見られなかった。  それから数秒経っただろうか。兄が珍しく無言でいたと思ったら―― 「えっ?」  僕の頭を撫でてくれた。 「遊星」 「は、はい」 「今回の桜小路に着せた衣装は悪くなかった――」  悪くない……ルナがクワルツ賞のときに兄から言われた言葉。 「――あれがおまえの才能なら俺の役に立つ。これからは全てを投げうってでも、その力を伸ばせ」 「誉めてやろう」 「おにい……様」  次の瞬間、兄の胸に引きよせられた。あまりの腕力に逆らうことができず、僕はされるがままに抱きしめられた。 「む」 「あ」 「よくやった。おまえを大蔵家の男子として、この俺の弟として認めよう」 「お兄様……」  いつかルナに向けられていた優しい目が僕を見ている。  頭をわしわしと撫でられる中、僕はその体に夢中でしがみついた。 「ありがとうございます……これからも、努力いたしますっ……」 「泣くな遊星。泣けばおまえは女だ。大蔵家の女子として扱うぞ」 「駄目だろうそれは。なんだ学園長代理殿は。この妹と同じブラコンか」 「そ、そうです。そういうのは、いけませんと思います」 「何を血迷っている。あまり馬鹿げたことを言うと、愚かなる妹よ、貴様の処置は容赦しないぞ」 「も、申し訳ありません……」  頭上から深い溜め息が聞こえた。兄が自分の胸から僕の顔を引きはがす。  優しい目はもう終わり、今はもう普段通りの衣遠兄様の目に戻っていた。 「遊星。俺はおまえを認めたと言ったが、来年、共学校となったこの学院へ入学するのなら受験はしてもらう。優先的な処置は一切しない」 「はい」 「わかっているだろうが、学院長の弟が他の人間より劣っていては示しがつかない。よって、おまえの試験には特別な課題を与える。当然、難易度は高いものと思え」 「はい。兄様からそのように扱っていただけることを誇りに思います」  ふ、と小さな息を漏らし、兄は僕から離れた。時計を見て時間を確認すると、よほど予定が狂ったのか顔を顰めていた。 「さらばだ遊星。次に日本を訪れた際はおまえのもとへ顔を出そう」 「来なくて結構です。彼が住むのは私の家ですから拒否権はこちらにある」 「黙れ。遊星、俺の力となれるよう生きている間は一瞬たりとも気を抜くな」 「彼は将来、私のパートナーとなる予定ですが」 「黙れ」  兄は苛立った口調で振りかえった。しかし最後に何か思いだしたのか、顔を半分だけこちらに向けて切れ長の目で僕を見る。 「それと遊星。おまえは母親に似てきたな」 「は……そ、そうでしょうか」 「瓜二つだ。その顔で父に見つかるな、手篭めにされるぞ」  それは言葉通りの意味でしょうか。さすがにそれはないと思うけど、額面通りに受けとると怖すぎる。 「もっとも俺もそのつもりでおまえをイギリスへ連れていこうとしたわけだが……」 「奴との約束を破断にしたことで、多少の恨みは買うだろうな。まあいい、それ以上の収穫はあった」 「君の家はブラコンばかりだな。いや遊星コンプレックスだからゆうコンか? 少し気持ち悪いぞ」 「ル、ルナ。兄様は真面目な話をしてるんだから、あまり茶化さないで」  きちんと兄に許してもらったお礼を言おうと思っていたのに。ルナはこれまで煮え湯を飲まされてきたことがよほど腹に据えかねているのか、兄に対して冷淡だった。  兄様も怒ってないといいけど……。 「……そういえば」  時すでに遅し。  ルナにからかわれて、かなりのフラストレーションが溜まっていたのか、兄は今日の中で一番恐ろしい声を発した。 「りそな」 「はいっ!」  ああ、かわいそうなりそな。狙いを定められたことに気付いて、気の毒なほど緊張してる。 「貴様は来年は受験をするのか? 先ほど遊星に話した通り、俺の妹である以上、同じ試験を受けてもらう」 「えっ」 「えええ……」  絶望的な宣告だった。りそなには僕と違って下地のようなものがないんだ。  無情にも、兄はりそなに話を聞く時間すら与えなかった。彼はそのままイギリスへ向かったらしい。 「あんまりです……どうして私がこんな試練を受けなければ……」 「ええとごめんね、りそな。僕からも兄様に少しでも柔らかくしてもらえないかお願いしてみるよ」 「それで上の兄が許してくれるとも思えませんが……ありがとうございます。頼りにさせてもらいます」 「うん。私も協力しよう。責任の一端を感じて心が痛い」 「一端どころかルナちょむが元凶ですが?」 「具体的には空いた時間に私が勉強を見てやろう。この私の貴重な時間を割くんだ。感謝するように」 「下の兄はどうしてルナちょむと付きあうことにしたんですか……上の兄の女版みたいじゃないですか」 「ルナはとても素敵なひとだよ。りそなも仲良くしてね」 「ところでりそな。私の授業料だが 〈W・Q・P〉《ウイング・クエスト・ポータブル》 の『聖剣グレタカリバー』で手を打とう。それとここ一ヵ月は忙しくて全くやっていなかったからな。幾つかのレアアイテムをいただくぞククク」 「最低ですね知ってましたけど!」 「ちなみに私を味方につけると、もれなく現役講師の八千代も付いてくるぞ」 「や、勝手に付けないでください。私は家事と学校の二足の草鞋で忙しいんです」 「というよりゆうちょと一緒に勉強すればいいだけだと思うんだ!」 「あ、でも、僕が勉強する時間って夜遅くだから、りそなが通うのは無理かな?」 「どうして遅いんですか? 放課後は何をしてるんですか」 「え、家事。ルナのお世話しないといけないし」 「は? まだメイド続けるんですか? 普通に家へ戻ってくればいいじゃないですか」 「でも僕、桜屋敷が好きだから。でもここへ住むには瑞穂様のことがあるから、この格好じゃないといけなくて」 「嬉しい。朝日は朝日のままでいてね」 「うあー、普通のゆうちょに会えるのはいつになるんだろ。来年の四月まで我慢かああー」 「ええ〜? 帰ってくればいいじゃないですか、帰ってくればいいじゃないですか」 「スイスに来ればいいのですわ、スイスに来ればいいのですわ」 「でも他のメイドの皆さんたちも帰ってきてって言ってくれたし……あ、皆さんも来てくれた」 「やほー、おかえり朝日ー」 「明日からまた一緒に働けるね。よかったよかった」 「ご迷惑をお掛けしてすみません。これからまたよろしくお願いします」 「八千代さんも朝日が帰ってきてよかったですよね」 「まあ、戦力としては期待してます。今回のように問題を起こすことが多いのは気になりますが」 「まーたまた、一度頼りにしてるって認めちゃったんだから、素直に喜べばいいんですよ」 「八千代さんに頼りにされてると思うと、なんだか少し照れちゃいますね」 「なんだこの馴染んでる兄。いや姉? もうやだ」  今日は楽しかった。  一ヵ月の間、黙々と縫っていたことが報われた思いだった。桜屋敷へ帰って来られて本当によかった。  この部屋を使うのも、半年ぶりくらいの感覚。いやっほーぅ! 僕の部屋さいこーぅ!  んふー……やっぱり自分の部屋はいいなあ。僕もうここ大好き。  広さで言えば、昨日まで住んでいた僕の部屋の四分の一程度の大きさだ。  ルナは「別の部屋を用意しようか?」と言ってくれたし、りそなも「帰ってくればいいのに」と散々言ってくれた。  けど断った。広い部屋が嫌なわけじゃないけど、この部屋は心が落ちつくとでも言えばいいのか、僕はここがとても安らぐ。  まあ……昨日まではいつ兄様が来るのか脅えていたし。ここはここで誰が訪ねて来ないか気を張る必要があったけど……。  今では兄様とも和解できて、男だからと脅える必要もない! なんて幸せな毎日なんだ!  心が晴れ晴れする思いだった。過去を振りかえってみても、これほど幸せを感じた時間はないかもしれない。  あの日、りそなの提案に乗ってみて良かった。このこともいつかまたお礼を言わなくちゃ。  それと僕を雇ってくれたルナにも。彼女がいてくれたから、ここまで大きな幸せを得ることができた。  胸を張って言える。心から素敵な出会いをしたと思う。ここまでに至る過程も、こうして幸せを感じている今も、きっとこれから先の楽しいことが山ほど待っている未来も。  今はショーという目標を終えて、僕は試験を抱えているけど、ルナはぽっかりとやることが空いている状態だ。  今なら時間が余ったりしてるのかな。ルナのことだから、今もデザイン画を描いてるのかな? さすがにモデルを務めたから疲れて寝てるのかも。  んー……。  ルナと会いに部屋へ行こう。  今まであまり恋愛なんて考えたことはなかったけど、一応これでも年頃ではあるんだ。顔が見たいという理由で部屋を訪れてもおかしくない……。  あれ?  誰か来た。みんな疲れて眠ってるのかと思っていたら意外と元気なひともいるみたいだ。  瑞穂様だったらウィッグを着け、着替えもしなくちゃいけない。まず相手を確認しようと声を掛けた。 「はい。どなたでしょう?」 「私だ」 「ルナ!?」  驚いた。今から部屋へ行ってみようと思ってたのに、その当人が訪ねてくるとは思わなかった。  さすがルナというか……もしかして僕相手に読心術でも心得てるのかな。昔からよく考えを読まれていた気がする。 「いらっしゃい。狭いけどどうぞ……って持ち主のルナのそんなこと言うのは失礼か」 「…………」 「ルナ?」 「ああ。夜分に突然すまない。体を休めているところにお邪魔して悪いな」 「ルナこそ、今日はモデルを務めて大変だったよね? 体力を相当削られたと思うけど、お疲れ様」 「ふむ」  あれ? 廊下の方を見てる? というよりもドア?  しばらくドアノブを見つめていたと思ったら、ルナはかちゃりと鍵を掛けた。そしてずんずんと部屋の中央へ進んでいく。 「ルナ?」 「いや、君も疲れているとは思ったんだが」  思ったんだが? いつもすぱすぱものを言うルナにしては歯切れが悪い。遠慮している印象すら受ける。 「ルナ、僕相手に言いたいことがあるなら遠慮しないで。何でも思ったままのこと話してもいいよ」 「そうか。じゃあはっきりと言うが、昨日は二人きりだったとはいえ、私と君は一ヵ月近く離れていたわけじゃないか。また、大きな舞台を終えて、それなりに感動やその余韻が残ってる」 「みんなと騒いで、楽しい時間を過ごしたがそれも終わり、今から二人きりになれる時間なんだ。君は私に会いたいと思わなかったのか」 「もちろん思ったよ。ルナと話したいって」 「君の言うとおり、私も慣れないモデルを務めてそれなりの体力と精神を削られたんだ。こういうときは男から来るものなんじゃないのか」 「あ……そうだね、まだメイド気分が抜けてなくて。少し遠慮しちゃってたかも」  どうやら僕の考えを読んだんじゃなくて、純粋にルナが会いたいと思ってくれただけみたいだ。  嬉しい。示しあわせたりしなくても重なった二人の意思に、愛情の繋がりを覚えた。 「でも本当に言い訳じゃなくて、今から訪ねようと思ってたところにルナが来てくれたんだ。ごめんね」 「ほう」 「久しぶりのこの部屋も嬉しくて。ルナへの愛情確認も含めて、しばらく余韻に浸ってた」 「そうか。それなら悪い気はしないな」 「ううん。それでも期待を裏切っちゃったことは確かだし、お詫びになんでもするよ」 「なんでも?」 「うん」 「それなら……」  ルナは天蓋付きの自分のベッドに比べれば、随分とシンプルな僕のベッドを見つめた。 「ここに座ってほしい」 「え、それだけ?」  特に困るようなことでもないし、言われるままにベッドへ腰掛ける。もうちょっと我儘らしいことでもよかったから少し意外だった。 「これでいい?」 「その上に座らせてもらいたい」 「え?」  一瞬、どの「上」かわからなくて確認してしまった。でもすぐに気付いた。僕の膝の上だ。  ルナを膝の上へのせての思い出話。なるほど、楽しそうだ。  でも提案した本人はいざ口にしたら照れたのか、そっぽを向いてしまっていた。 「そんな素敵なことなら僕からもお願いする。はい、どうぞ」 「ん……じゃあ、お邪魔する」  膝を上をぱんぱんと叩いて綺麗にしてみせる。後ろ向きに座るルナは、勢いをつけてはいけないと気遣っているのか、恐る恐る静かに腰を下ろしてきた。  昔、馬になったときはこんな気の使い方しなかったのに。今となっては彼女の中で黒歴史なんだろうなと思ったけど、少し意地悪だから口にはしなかった。 「今日はお疲れ様。本当に素敵だった」 「ん、そうか……別に着る側は本業じゃないから、誉められてもどうというほどのことでもないんだがな」 「身長が小さいとせっかくの衣装の印象が小ぢんまりとしたものになってしまうし、どうしても歩いたときに迫力が出ない。実際、他の班はみな一番身長の高い者をモデルに選んでいた」  こればかりはフォローしても仕方ない。そういう風になっている事実なんだ。 「でも純粋に綺麗だったよ。だから最優秀賞に選ばれたんだと思う」 「君の作った衣装の出来が良かったんだ」 「ルナのデザインのお陰もあるよ」 「そうだな、そっちは誉められると嬉しい。私がこれから戦っていく分野だからな」 「ただ、あの衣装はルナが着ることを想定して僕も作ったんだ。だから『着る人』としてのルナも今回は評価してほしいと思う」 「ん……」 「素晴らしい舞台だったよ」 「うん。今日に限ってはウォーキングを誉められるのも嬉しい。二度とやりたくないが、君の想像した世界を描けたなら誇りに思う」 「ううん、想像以上だった」  後ろから耳たぶにキスをすると、ルナの肌が紅潮していくのが見えた。前に照れちゃったから指摘しないけど、本当に恥ずかしがっていることを気付かれたくないルナにとっては気の毒な体質だな。 「ちっ、まんまと喜んでしまった……とても気分がいい」 「喜んでるなら悔しがらなくても。これからそんな機会を増やしていきたいのに」 「それ自体は否定しないが、やはり恥ずかしいんだ」  でも意地っ張りな言葉とは裏腹に、後頭部を僕の胸にくっつけてきた。  こちらとしてもこんな風に素直だと反応しやすい。ルナの頭のてっぺんに軽く顎をのせた。 「あ、そういえば一つだけ確認しておかなくてはいけないことがあった」 「ん? なに? 大切なこと?」 「わりと今後の生活に関わることだと思う」 「そ、そうなんだ。なんだろう、言ってみて?」  重い話じゃないといいなあ……なんて思いつつ、そんな心当たりがぱっと出てこない。 「湊の初恋のひとって君だよな……」  重い話だった……。 「うん……そうだよ。だけどもうごめんなさいはしたよ。湊も困るだけだから気は使わないでって言ってた。けど、うん」 「ああ。できるだけ人前で恋人色を出すのはやめよう。今日もりそなが恋人とか付きあってるとか何度も言うから気になってたんだ」 「あまりやり過ぎても向こうが勘付いて困るだけだろうし、自然にできるといいね。とりあえず二人きりのときは恋人らしくしていいと思う」 「そうだな……うん」 「うん……」  うん。  避けて通れない話題のひとつではあったけど、こんな幸せ真っ只中のときに言わなくても。  あ、じゃあ今のうちに聞きたかったことを聞いておこうかな。 「そういえばさ」 「ん?」 「今日の朝、僕が寝てる間にルナは学校へ行っちゃったけど、起こしてくれてもよかったのに」 「私は一晩の思い出を作るための女ってことになっていたからな。起こしても一緒には出られなかっただろう」 「そうだけど、起こすだけ起こしていってくれても。実は寝過ごしそうになっちゃって」 「まあ何日もろくに寝てなければそうなるだろうな。あまりに安らかな寝顔で起こすのが忍びなかったというのもあるし」 「あとはまあ、私にも葛藤があったんだ。君の作った衣装が舞台に出るところは見せてやりたいが、本業ではない自分がモデルをしているところを君に見られるのはやはり抵抗が強かったんだ」 「だから目覚ましだけはセットして、君の運に任せる方法を取った。結果は相当に悪運が強かったみたいだが」 「うん。ルナの登場を見られて本当に良かった。純粋に感動したんだ」 「ん……だからその話は恥ずかしいからあまりするな」 「今まで表舞台という華やかな場を追いつづけてはきたが、自らの体を多くの視線に晒すというのは本当に魂が削がれる」 「本職を尊敬するよ。そういう意味ではいい経験になった。今後はモデルという人種に、心からの尊敬を持って接することができるからな」 「あれだけ堂々としてたのに」 「馬鹿。精一杯だったんだ。内心はどきどきものだった」 「とはいえ君を連れていかせないために、度胸が据わっていた面もあったな。緊張はしたけど、今までの君との会話のひとつずつを思いだして、やるしかないという覚悟も固まっていた」 「ありがとう」 「絶対に……離れたくなかったんだ」 「ありがとう……ルナの覚悟のお陰でこうしていられることに感謝する」 「うん……」  ルナを抱きしめる腕の力を強くした。一歩手が届かなければ、こうして触れることができなかったんだと思うとたまらなく怖い。  だけどそんな未来はなかった。こうして僕たちはお互いを求めあえるんだ。 「ん……」 「…………」 「いや実は……」 「え?」 「緊張した場面を思いだすと、体が熱くなるものなんだな。ここへ来たのは、ひとりでショーのことを思いだすと、どうにも落ちつかないからという理由もあったんだ」 「あ、はい……え?」 「君ともっとくっつきたいなと思ったんだ」 「…………」  そんなことを言われると、キスしたくなる。二度目に触れあわせたときのような情熱的なキスを。 「ええと……」 「ん?」 「こっちを向いて……目を閉じて?」 「求められている。君からそんなことを言ってくれるとは思わなかったな」  それは、まあ。ルナとのキスは好きだし。スマートに進めたいからあまりがつがつ求めようとは思わないけど。 「うん……ただ、求められるのもそれはそれで嬉しいが、やはり私は以前のように君を好きなように扱いたいとも思っている」 「すごいこと言ったね今」  ルナにSっ気があるのは知ってたけど、こんなときにまで現れるとは思わなかった。 「君は忘れているみたいだが、以前に回答を保留にしたままの質問があったのを覚えているか?」 「え?」 「私と君の関係だ。普通の恋人関係でも構わないが……私の主導がいいなら、以前の主従関係もやぶさかではないと思ってる」 「は?」 「前にも聞いただろう。恋人関係がいいか、主従関係がいいか。今ここで決めておこうじゃないか」 「その代わり、知っての通り私は多少サドっ気があって無茶もする。ようはノーマルでいましょうという選択か、アブノーマルな関係になりたいかという選択だ」 「え」  えええっ……そういえばそんなことを聞かれた記憶はある。  わりと重大な選択だとそのときは認識してた気が……確かに前者から後者への移行はできそうだけど、後者を一度認めてしまったら、もう二度と逆らえない気がする。  だけど「ルナ様の好きにしてください」なんて言ったら、どんなことになるか想像はつかないのに、酷いことになるのだけは確実だ。  考えるまでもない気はするけど……どうしよう?  うん、ルナに主導を渡したら酷いことになるのはわかってるし……。 「やっぱり男として彼氏らしくいたいと思うよ」 「うん。君が望むならそれで構わない」 「なんだかまだ少し慣れない気持ちはあるけど」  でも実はルナとの触れあいもあるかなと思ってたから、一人の間にケータイからネットを見て、色々調べたりもしてみた。昨日(正確には今日)よりは上手くできるはず。  んしょ、とルナを膝の上から下ろす。 「ん?」 「いや、対等な立場だからどっちがリードっていうわけじゃないんだけど、少しこっちからしたいことを言ってみようかなと思って」  ルナの細い肩をきゅっと抱く。その目がちらりと僕の手を見ていた。 「なるほど、君のしたいことか。それも興味あるな」  正面からこうして見ていると、ルナの顔はとても整っているのがよくわかる。  このひとは美人だ。少し肌や髪の色に反応して、きちんとまっすぐに顔を見るひとが少なかったのかもしれない。  だけどこうして正面にいればわかる。自分には勿体ないほどの綺麗なひとだった。 「キス、したいと思ってた」 「キスか。悪くない。私も君としたいと思っていた」 「こうして肩を抱かれ、君の手に扱われながらキスをするとは思わなかったが。少し緊張をする」 「ルナ、目を閉じて」 「ん。まあいいだろう」  ルナはあくまで対等な立場を意識している様子で、一度僕の言葉を吟味してから目を閉じた。 「ん」 「んっ……」 「んむ」  素直にキスを受けいれてくれてる。最優秀賞を取ったときの流れから考えて、わりといい雰囲気だ。 「ん……」  首筋にキスをした。ぴくんとルナの身体が震える。 「んっ……」 「ん、ん、ん? 意外と手が早いな。いや君だからいいんだが、積極的だな」 「朝日のときにルナからされたようにしてみようと思って」 「それは困る」  びしりと拒否された。 「なんで?」 「だって私と朝日は主従関係だったんだ。今の君と私の関係とは違う」 「そのまま同じことをするわけじゃないよ。ルナの積極性を真似しようと言ってるだけで」 「当たり前だ。同じことなんてされてたまるか」 「私が朝日をどれだけ弄りたおしたと思ってるんだ。スカートをぎりぎりまでめくれなんて言われたら、たとえ将来の夫だろうと私は八千代にチクる」 「お願いやめて。他人を巻きこむのはずるいよ。というか自分が言ったことだよ?」 「私が言ったのは朝日に対してだからいいんだ。朝日は私の言うことを何でも聞いてくれるからな」 「ルナは朝日ばっかり好きだなあ。遊星も好きになってよ」  よいしょと持ちあげ、再びルナを膝の上へ載せた。 「君、けっこう力あるな……」 「男の子だからね」 「そんな力で押し倒されたら、非力な私じゃ抵抗できないな」 「強引なことはしないよ。ルナに嫌われたくないから」  柔らかく肩を抱く。ルナは自分で言った通り、無駄だと思っているのか抵抗はしなかった。  続けて耳たぶにキスをした。背後から咥えこみ、ちろりと舌を這わせる。 「ん……」  ぺろぺろと耳たぶを舐めていくと、ルナの身体が少し震えているのに気が付いた。 「くっ……く、くぅ……!」  くすぐったそう……。  でも今はルナを抱きたいと思ってしまっているから、愛撫を続けようと耳の中へ舌を差しこんだ。 「ほおおぉぉおおおぉおぉお……」  ルナはなんとも言えない微妙な声をあげた。 「なんだそれは……尋常じゃないくすぐったさだ……よしわかった、やめよう」 「今日は最後までしちゃ駄目?」 「君、ストレートだな。恥ずかしくなってきた」 「恥ずかしいかな。ルナが来てくれた時から思ってたんだけど」 「ほう。そのつもりでいたと」 「うん。ショーのこととか一ヵ月どうやって過ごしてたかとか、話したいこと、語りたいことが多すぎて実は困ってたんだ」 「全部話すには時間がないし、これからゆっくり話していきたいと思ってたところで」 「だけど気持ちだけは抑えきれないから、ここでぶつけたい。ルナが許してくれるなら肌と肌で触れあいたい」 「それは君、ずるいだろう。今日の出来事や離れてた間のことなんて出されたら、私に拒否ができるはずもない」 「じゃあどうしても我慢できないことがあれば言ってね」  ぺろりと耳たぶを舌でなぞった。 「無理ぃ……」  まさかの二秒で降参だった。 「じゃあここなら?」  首筋に舌を這わせる。あまり刺激しすぎないようにそっと。 「くすぐったぃ……」  どうしても駄目みたいだった。 「じゃあ服の上からなら」 「うん」  ルナは敏感みたいだ。朝日のときもけっこう触れたことはあったと思うけど、そこまで反応してないのは気持ちに拠るところが大きいのかな。  服の上から胸をゆっくりと揉んでみる。 「……ん」 「気持ちよかったら言ってくれると嬉しい。僕も経験がなくて、どうすればいいのか実はよくわかってないから」 「もうちょっと続けてみないとなんとも言えないな」 「うん」  言われた通りにしばらくルナの胸を柔らかく揉んでみる。 「んー……」 「どう?」 「んー……」 「やっぱり露出してる肌に触れちゃ駄目?」 「さっきみたいなのはごめん被る。耐えられるはずがない」  くすぐったいのは駄目みたいだ。 「じゃあ足なら?」 「足……まあいいだろう」  この体勢だと足も触れにくいし……ちょっと体勢を変えてみよう。よっこいしょ。  そしていざ触れてみると、ルナの足は折れそうなくらい細いということを実感した。 「しかしだからといって、何故こんな恥ずかしい体勢になった……」 「大丈夫、後ろからなら見えないよ」 「普通に上からまさぐるんじゃ駄目だったのか」 「すぐに逃げられそうで」  よく私のことをわかってるじゃないかと言わんばかりの鼻息が聞こえた。ルナのこういう弱点ですら得意げに対応するところはかわいいな。 「どうしても駄目なら言ってもらいたいけど、少しでいいから我慢してね」 「後がないから少し厳しくなったな」  指先をルナの内腿へ当てた。あまりくすぐったがらないといいけど……。 「終了……」  ルナはまるで我慢ができない子だった。 「もう少しだけ頑張ってみて欲しいな」 「本当にもう少しだけな」  一瞬でも触ったら、即座に終了宣告されそうな気配だ……。  仕方ないので直に触れることは諦め、ガーターベルトを着けているのを幸い、その上から指でなぞってみた。 「はッ……」  ぶるりと身体が震えた。たった少し、しかも布の上から触ってそれだと、直の肌なんて無理だった。我慢できない子だなんて言ってごめんね。 「はっ、ふッ……はっ、ううっ……」 「はあっ……あ、はぁ……っ、んっ、ううぅ……はっ……」 「ぅ……ど、どうだっ? 今回はわりと我慢できてる方じゃないか? 少しくすぐったいが、私もこれなら大丈夫だ」 「よかった! さすがはルナ、意思が強いよ」 「まあな」  ルナは勘が鋭いから、おだてるのも簡単じゃなかった。ガーターの上からさらにさらさらと指でなぞる。 「はっ……は、あっ……ううぅ……んッ! うう……くすぐったすぎる……!」 「はあっ、あっ……やっ、ああっ……うあっ……あ、ああっ……んっ! はッ……あっ」 「うああっ……んっ! ふっ、はあっ……あぅ……き、君にこんな扱われ方をする日が来るなんてな……」 「僕を朝日とカウントしなければ、まだ出会って二日目だけど」 「うるさい夫。愛の深さに日数なんて関係あるか。もっと丁重に扱え」 「これでも丁寧にしてるつもりなんだ」 「もう足はいい……くすぐったくて疲れた」  と言われても、露出してるところは全て駄目だしされたし、他に感じてくれそうな場所もない。  考えた末、それなら最初からここに触れてみようという結論に達した。 「えっ……」  ルナの大切な場所に下着の上から触れてみる。意外なことに、指の先にネトネトした粘液が絡みついてきた。  ルナが気持ちいいと思ってくれてたのかな? 「ひうっ……! そ、そこは一番駄目だろう……!」 「でもここは最後には触れる場所だから、今の内に慣れておくのも手かも」 「くっ、確かにどのみち触れることには変わりないか……わかった、我慢する」  指で力を加えながら、時間を掛けてその周辺をこねた。 「うっ、ひっ、ひうっ……なっ、くっ……このくらいでっ……んんッ!」 「はあっ……や、やっぱり駄目かもしれない……ひうううっ!」  ルナの意思が弱い……普段はあれほど意思が強いのに。  だけど身体のことだから、我慢できないものはできないか……あれ?  ふと指に感じた違和感。今まで自分だけが力を加えていると思ってたけど……ちょっと指に力を加えるのをやめてみよう。 「はっ……はっ、ううっ……こんな、ことはっ……んっ!」 「んんッ……! んっ、はっ……は、ううっ……んッ!」  ルナが自分から身体を押しつけてくれていた。  駄目だと言いつつも、気持ちよくなろうとする努力はしてくれてたみたいだ。  それならもう少し続けてみよう……。 「んっ、はっ、ああっ……くっ、こんな声っ……はっ、ああっ」 「ふあっ、あっ……あ、ああっ……んっ、くううっ……はっ、はあっ」  ルナの動きに合わせて、深追いしない、押しつけてきたら軽く力を加えてあげる、を保ってたら嫌がったりはしなくなってきた。  だんだんそれが自然になってきた。ルナへの愛撫が上手くできている。 「はっ、ああぅ、あっ……ふっ、はッ……んんんっ……はッ、ああっ、くっ……」 「ううくっ……! んッ! ああぅ、うっ……くっ、夫から好きなように扱われるこの悔しさ……くっ!」  悔しいんだ。  というか夫って。嬉しいから先へ進んでみた。自分の指をルナの中へ侵入させる。 「ふあああああああっ……!」  びくん!と跳ねるほど反応した。あのルナが……というか。 「昨日血が出てたのと関係してるんじゃ……まさか痛むんじゃないよね!?」  だとしたら今日は行為自体が中断だ。あまりに大きな反応を見て、不安になった僕はそう尋ねた。  だけどルナは不満気な声で……。 「くっ……! そ、そんな心配のされ方をしたら、事実を答えなくてはいけないじゃないか……!」 「君のしたことに対して、快感を得た私が我慢できずに声を漏らした! なにか問題でも!?」  怒られた。 「君は行為の途中で喋りすぎだな。もう少し無口な対応を求める」  ぷんすかされた。ごめんなさいとしか言い様がない。  じゃあ続けるねとも言えない僕は、黙ったまま指を動かした。 「あああぁふううううっ……! い、いきなり再開するなら、それくらいは教えてほしいんだがっ!?」  なんという手のひら返し。ここまできたら一度徹底的に怒られて、ルナの求めるものを知ることにした。 「気持ちいい?」 「そんな恥ずかしいことを言うひとがっ……ああああっ、あっ! やっ、ひうっ! やあっ! 感想なんて聞くなっ」 「次は人差し指を鉤型にして、内壁を掻くようにして暴れさせるよ。あと中指も入れるね?」 「か、解説はよせ、どんな羞恥プレイっ……ああ、あああっ……ふあっ、あはッ……やっ、うああっ! 黙ってしてもらいたいっ……!」 「…………」 「あああっ、あ、ひあっ……あ、ひゃあうっ! 指、駄目っ、馬鹿、ああっ、あああっ……へ、返事くらいほしいっ……!」  ルナって……もしかして……。 「はあっ、もうっ、指は嫌だ……かと言って、舌はもっと嫌だ……」 「それじゃ何もできないよ……?」 「最後まで……すればいいだろう……? 今なら……」  最後まで……。  もちろん始めたからには、最終的にするつもりではあったけど、改めてルナから言われれてごくりと唾を飲んだ。  今のルナにしても大丈夫かなという不安と、昨日は女装してたから、初めて男として……という緊張もある。 「とにかく指はもう嫌だ……」  ルナはぐったりしてる。僕はやや出しにくい状態に苦戦しつつも自分の体の一部を取りだし、ルナの入り口へ宛てがった。 「あっ……ああああああっ!」  それは昨日の苦戦が嘘に思えるほど、ずるりと一気に彼女の中へ呑みこまれた。 「きつかったら言ってね……ふっ?」 「んっ! ああっ、くっ……ふっ、はあっ、んんんんっ……んっ!」 「はあっ、あっ、ある意味きついがっ……これをしないと、君が満足しないだろう?」 「うんじゃあ、最後まで……」  ルナは僕の上で動きにくい体勢だ。腰を両手で掴み、下から彼女を突きあげた。 「はっ、やっ、ああっ、やっ……! やあっ、はッ、なっ、ああっ、ううっ……」 「なんで私がこんな声をっ……ううっ、必死に腰を振る君を冷静な目で見下ろしてやるつもりだったのに……!」  そんなこと考えてたんだ。どうりでやたら余裕ぶりたがるとは思ってた。 「昨日はここまでじゃなかったけど……」 「…………」 「昨日は、半分くらい痛みが混じってたんだ……だから今日とはぜんぜん感覚がちがう」  あ、それで……でもそれを理解してるってことは認めたってことで……。 「それは、ルナが感じやすい体質ってこと――」 「んんーっ! んっんんーっ! んんんんっんー!」  口を必死に閉じて声を出さないようにしてる。 「できれば素直に気持ちよくなってくれると嬉しい。僕も気持ちいいし」 「うそだ……まだ全然余裕あるじゃないか……あああっ、ふうっ、はあっ……!」 「もしかしたら気持ちよくなるには時間かかるのかも。昨日もそうだったし」  自分がその快感に辿りつくため、腰の動きを速めてみる。そのせいでルナが前のめりに倒れてきた。 「あっ! やっ、なんだ、こんなのっ……はっ、聞いてないっ……」 「はあっ、あっ、ああっ……! んっ、ふあっ、あっ……んんっ……んっ、あああ!」  僕の敬愛した、愛しいひとが足を広げて乱れてる。  複雑な心境だった。彼女を汚したくなかった自分もいるし、こんなに感じてくれて嬉しいという気持ちもある。  頭の中に舞台へ立ったルナの姿が浮かんできた……あの、この世の何よりも美しいと思ったひとを今こうして自分が愛してる……この背徳感に似た感情が、僕の快感を押しあげ始めた。  この時間がとても愛しい……。 「ふっ、あっ、はっ……! ああっ、やっ、んっ……あ、ああああっ!」 「もっ、ああっ、くっ……ああっ、ふああっ……ううっ、んっ! んっ、はあっ……」 「うううっ、私の、夫は……なかなか意地悪だなっ……ううっ、朝日に会いたい……!」 「うん、わかった……ふっ、次は、ルナの希望通りにするっ……朝日になって会うよ」 「本当か!?」 「嬉しそうだね……もっと遊星も好きになってってば」 「だから愛してると言ってる……でも恋人とは……んっ! はっ、あああっ、あっ……朝日とは色んな大切な時間を共有したから……」  これも複雑な気持ちだけど、やっぱり嬉しい。ルナがそう望むなら二人分愛してほしい。 「ああっ、ぁ、ああっ……もうっ……きつっ……はっ、あああっ」  快感に耐えられず前のめりになり始めたルナは、とうとう僕の体から降りて椅子に掴まった。 「はああっ、あっ、ううっ……な、なんだこの体勢っ……こんなの、やだっ……」  自分の格好を瞬時に理解したルナは、そのポーズの恥ずかしさに耐えきれず首を横に振った。 「ごめん、ルナっ……僕はこのままがいいっ……」 「えっ……?」 「気持ちよくて……このままだと昨日の……最後のあの……」 「君が気持ちよくなったときの……出そうなのか?」  見えないと思うけど頷いた。だけどきちんと伝わっていたみたいで、ルナは腕にぎゅっと力を込めて、もうこの体勢を嫌がらなくなった。 「ルナ……?」 「あ、朝日ばかりを想っていると不安にさせただろう……?」 「そうじゃない……んんっ、はっ、んんくっ……! ちゃんと君のことも愛している……その証明として……ああっ、はッ、ああっ……」 「この耐え難い格好も受けいれるっ……君なら許すっ……だから私のことも許して欲しいっ……あああっ」 「将来、私の隣へ並ぶのは君だ……どこへ出るにも、どこへ行くにも君と二人がいい……だけど朝日は……私が疲れたり、デザインのアイデアが欲しいときに……」 「どうしても必要なんだっ……だから君たち二人を愛してやまない……はあっ、あっ、ああっ……浮気者の私を許してほしいっ……」 「今日はこの体を捧げるから……許して、愛してほしい……」 「そんな……」  同一人物なのに……だけど、ルナにとっては別人……とも言い切れない、思考や記憶は共有してる特別な存在……。  ルナからの深く、大きな愛情を感じて、動きが止まらなくなった。  彼女の腰を抱えて懸命に体を振る。気持ちいい。どうしてもこの体で達したい。 「あああっ、あっ、ふあああっ……ああっ、あっ……ああっ……!」 「あんっ! ううっ、こんな、乱れた声っ……ああっ! あっ、あああっ……自分じゃ、出さないと思ってた……!」 「でも今は……抑えられないっ……ああっ、あっ……もうっ……あああっ、このまま……最後までっ」 「ルナっ……僕も、愛してるからっ……すごく、深く愛してるっ……」 「ああっ、んっ、くっ……! ああっ、はっ、あああっ……あっ、やっ、くううっ……んんっ!」 「うあっ、ああっ、はっ、あああっ……やっ、くっ……あんっ! ああっ、ふあっ、ああああっ、あっ!」 「もおっ……どう、なってる……こんなの……ああっ! あっ、もう、わたしはっ……君がっ、好きだっ……!」  その言葉が止めとなった。迸る想いが自分の先端に集中する。 「ごめんっ……これは、もうっ……このまま、出そうっ……!」 「構わないっ……どうしてもらってもいいっ……君の、好きにっ……!」  ルナは細く美しく、その小さな体躯は儚げだった。その美しさに何度も何度も自分の体を叩きつける。もう限界はすぐそこだった。 「ああっ、あっ! ああっ、やっ! くうっ……あああっ! あっ! ああっ、あああんっ!」 「やあっ、はっ、乱れっ……ああっ! あっ、はッ、ふああっ……ああっ! あ、ああっ!」 「ああああっ、あっ、うあっ、あああっ、あっ、あああっ! あっ、ふあっ、あ、ああああっ……!」 「出るっ……!」  ルナの下半身をしっかと掴んだ。噴きだす瞬間、一気にその体から自分を引きぬく。 「あっ、あああっ! あっ! あああっ、あっ、ああああっ!」 「あああああっ! ああっ、あああああああああ――っ!」  体の奥から迸る溜まった愛情の全てをルナの体に飛びちらせた。 「はっ……はっ、はあっ……」 「ああっ……あ、はあっ……ああ、あっ……」  ルナはぐったりと椅子に体を預け、僕は彼女の腰を支えに体を保っていた。  自分の体力を全て搾りだしたような疲労感が……。 「ああ……あー……気持ちよかった……」  ルナは珍しく自らの快楽を認めていた。 「そんなによかった……? 僕もすごく良かったけど……もう動けないくらい」 「ああ良かった……自分でも驚いた……もう全力を使いはたした」 「良かった……それだけ愛してくれてるってことだから……」  嬉しかった。ルナと深い愛情を重ねられた気がして。  こんなに幸せな疲労感……あんまり知らないな……。 「ああよくわかった……愛情は、大げさなくらいのことを口にした方が盛りあがるな……」 「そうだね、愛情は言ってもらった方が……大げさな……」  大げさ?  そんな気持ちで固まっていたら、勘付いたのか、ルナがこちらをちらりと振りかえった。 「いや、二人同時に愛してるとか、浮気して済まないとか、許してほしいとか……本気で言うとでも思ったか?」 「愛してるのは確かだが、あまり話を大げさにするつもりはない。普通に好きだ。それだけだ」 「…………」  酷い……。  僕は自分の体を支えきれず床に倒れた。柔らかい絨毯敷きのお嬢様方の部屋と違い、僕の部屋の床は固かった。 「大丈夫か……? おーい」 「けっこう感動したのに……深くて大きい愛情だって」 「悪かった。まあ……大げさに言っただけだ。ちゃんと十分の一くらいは言った通りのことを思ってる」  十分の一か……うん、そのくらいでも僕のことを色々考えてくれてるならいいかな。 「それと次は朝日だと約束したのは忘れてないからな。楽しみにしてる」  もう僕も朝日も愛してもらおう。同じくらいの愛情で。  ただ先月までのやり取りも楽しかったし、ルナには「ルナ様」でいてもらうのもいいのかな。 「じゃあ主じゅ……」 「そうだ。主従関係でいくなら部屋へ道具を取りに戻らないとな」  道具ってなに!?  なんだかとてもよくない響きがする。絶対にひどいことになる未来が想像できる。  それでも主従関係を選んでいいのかな。  ……まあ、でも。ルナも今は昔ほどやんちゃしないし、そこまでひどいことにはならないだろう。  そうだよ。今はこんなに優しいし、ちょっとからかわれる程度かも。 「じゃあやっぱり主じゅ……」 「そうだ今の内にパソコンを起動させておいてくれ。ある画像を参考にしたいんだ」  ロクでもない画像の予感がする! 「え、画像ってなに? それは僕が見てもいいの?」 「なにを言っている、健全なお子様には見せられない。君は黙って私の言うことに従うんだ。主従関係を選んだ場合はな」  す、すごくいやらしい顔で笑ってる。  これはもう一度だけ考え直した方がよさそうだ。どうしよう……。  うん。もうある程度覚悟は決めよう。ひどいことされるつもりでいこう。 「うんじゃあ、やっぱり主じゅ……」 「さてこれでようやく朝日との初体験だ。もちろん君は初めてを奪われる覚悟はできているな?」  死刑宣告わーい!  どど、どうしよう? いまはっきりと死刑宣告されたけど? 男としてありえないことを言われたけど?  しかもはっきり「朝日」って言ったけど、それでも僕は? 「これだけは確かめておきたいんだけど」 「なんだろう」 「朝日だけじゃなくて、僕のことも、もっと好きになってくれるんだよね?」 「乙女だな」  僕の初めてを奪うと言ってるひとから、むしろ呆れられた。 「もちろんだ。君のことをより深く愛したいから言っている」 「じゃあ着替えるから一度外に出て待っててもらってもいい?」  僕がルナの要望を聞きとげると、彼女はこちらの想像以上に喜んでくれた。 「良かった。以前の約束が気になっていたんだ。これでようやく朝日との誓いを果たせる」  僕と結ばれたいってルナから言われたときのことかな? だとすれば、当時の僕はとんでもない約束をしてしまったんだ。  でも彼女が喜んでくれるなら、それもいいのかなあ、なんて思ってしまった。あまり深く考えず。 「では今から私も部屋へ一度戻って準備をしてくる。さて、あの道具はどこへしまったかな……なにぶん二ヵ月前の話だからな」  でももう少し深く考えれば良かったといま思った。 「あ、それと私は朝日との初めてのキスが最高の思い出なんだ。あの日の雰囲気を出すため、制服で待っているように」  しかも注文が多くなってきた。本当に大丈夫なのかな僕。 「まあ本来なら夏服なんだが……脱ぐと寒いだろうし今回はこれでいく」  ルナ様はいつになく積極的だった。  腕を組んで仁王立ち。普段のやる気のなさが嘘みたい。でもちょっとかっこいい。 「さて朝日」 「はい」 「今日は私の方がリードする立場ということで、君には色々無理なことを言うかもしれない。だから先に言っておく」 「はい」 「私は君が好きだ」 「は、はい」 「どのくらい好きかと言えば、君にならいま以上の全てを捧げてもいいくらい好きだ。だから君も全てを私に捧げて欲しい」 「はい。でも何故いまそんなことを?」 「ちょっと強引なことをするかもしれないが、私が君を愛していることだけは疑わないで欲しいという意味だ」 「はい」  ルナ様は本当に僕をその気にさせるのが上手だなと思った。今なら痛いこと以外は我慢できると思う。 「じゃ、まずは――」  ちらりとルナ様の視線が僕のスカートを見た。う、いきなり何かきそうな予感。 「その状態で下着を膝まで下ろしてもらおう」 「いきなりヘンタイちっくですね」  どうせ脱がされると思って、タイツじゃなくてニーソにして良かった。タイツごと脱ぐと変態度が上がる気がする。 「私が歯で脱がせたりしないだけマシだと思ってほしい」 「ええと……」  時間を引きのばそうかと思ったけど、ルナ様は未だ仁王立ちだ。これは甘やかしてくれそうもない。  とりあえず愛してると言ってくれたし、最初は素直に言うことを聞こう。  僕はスカートの中へ手を入れ、するすると膝まで下着を下ろした。 「そういう仕草も練習したのか?」 「一応、女性らしく歩いたりするための練習くらいは。でもそれ以外は素です」 「なるほど。じゃあ次はベッドに腰掛けろ」 「はい。普通に座ればいいんですか?」 「そう。そして座ったらスカートを持ちあげてもらう」 「な、なんだかヘンタイ度が増してきましたね……」  しかもルナ様は僕の目の前にぺたんと腰を落とした。真ん前だ。 「あの、その距離だと恥ずかしいのですが……」 「では君は、私が君と初めて結ばれたときに服を脱がされて恥ずかしくなかったとでも?」 「はい。脱がせたの僕でした……」  そっか、言われてみればおあいこだったんだ。自分がした時は罪悪感がなかったなと今更ながらに反省した。  でもやはり目の前にいられるのは、とても恥ずかしい思いをした。 「ルナ様」 「なんだ」 「恥ずかしいのであまり見ないでください」 「乙女か」 「というよりもどうして電気が点いてるんですか。恥ずかしいので消してください」 「少女か」  ツッコミ代わりに手の中のものをぎゅっと握られた。ルナ様に触れられてると思うだけで、不思議と硬くなってしまっていた。 「しかしあの日は、君にこんなものが付いていたのかと思い、正直げんなりしたものだが……」 「申し訳ありません」 「いや、謝ることじゃない。ただこうして自分に余裕がある状態だと、そこまで嫌なものでもないな」  ルナ様は右へ左へ僕の大切な場所を動かした。とても恥ずかしいです。 「あ、痛くなかったか。すまない」 「いえあまり……というより全然。それどころか、その……」 「気持ちいいのか?」  小さく縦に頷いた。ルナ様に主導権を握られている以上、嘘をついても意味がない。 「朝日、大変だ」 「こ、今度はなんでしょう」 「さっきまで『そこまで嫌なものでもない』だったものが『愛しくて仕方ない』ものに変化した」 「微妙な光栄です」 「好きなひとが気持ちよくなるというのは、非常に嬉しいことだな……なんだか胸がきゅっとなる」  ルナ様、その言葉にこちらもきゅっとなりました。 「で、実はその、気持ちよくなる方法というものを調べてみたんだ」 「は?」 「いやだから、前回私たちはあまりにも無知だっただろう。だからどうすればいいのか……調べたんだ」 「し、調べたとはどうやって?」 「まあその……ネットで」  愕然とした。  あの誇り高き僕の主人が、ネットで……何を調べたって……。 「朝日、大変だ。どんどん萎びてきたんだが、これは私の責任なのか。非常に申し訳ない気持ちになってきたんだが」 「うう、いけませんルナ様……あの美しくも気高いルナ様が、インターネットで中学生が検索するようなワードを打ちこんでいたのかと思うと、そのようなことをさせてしまった自分の不甲斐なさにが……」 「君……朝日になると本当に入りこむな。もはや遊星さんの面影が欠片もないぞ」 「ごめんなさい、今日はもう無理です……私の愛しいルナ様が……検索ワード……」  いまルナ様の検索エンジンを空の状態でクリックするとどんな単語が並ぶんだろう。想像するだけで胸が切ない。 「あー……どうも私の責任みたいだな。わかった、私が悪かった。いまネットで見た気持ちいいことをしてあげるから期待しろ。というか期待されないと悲しい」 「ルナ様が……あんな動画やそんな動画を……」 「朝日の悪いところは入りこむと私の言うことですら聞かないところだな。まあいい、こっちも朝日を愛でたくて仕方ないんだ。いくぞ」  僕はもはや意識はなく、虚ろな人形のようになっていた。糸の切れた操り人形だ。  だけどその糸をルナ様が無理やり括りつけて操り人形を復活させた。 「えっ……」 「あむっ……んむ、んんんん」 「えっ、ええっ!? えええええっ!?」  僕びっくり。びっくり通り越してぽっくりいきそう。ルナ様が? 僕の愛しいルナ様が? 何を!? 「頭がおかしくなってしまわれたのですか!?」  べれろり。 「んッ……!」  ルナ様の舌が僕の敏感に部分にべたりと貼りついた。今までに知らない快感が僕の芯をビンと震わせた。 「ル、ルナ様いけませんっ……桜小路ルナ様ともあろうお方が」 「んむっ……ぷはぁ。私はそんな大層な者じゃないぞ」 「ですがルナ様がそんな、口っ……く、口で、その……私の……」 「驚いたか」  こくこくと何度も頷く。ルナ様は心から満足そうに微笑んでいた。 「これはとても気持ちいいらしい。しかもこちらが主導権を握れるという優れものだ」 「さらに、ここから朝日の顔を眺められると思うと……悪い、ぞくぞくしてきた」  ドSですね。 「朝日にするのを楽しみにしていたんだ。邪魔をするなよ」 「でっ、ですがその、きたな……ぃものを……」 「ふん」  ぴち! と指で先端を突っつかれた。また僕の中心の芯にぶるりと震えが走った。 「私だって他の人間のものなら想像するのも嫌だ。誰が触るか。見せられたらギロチンにかけて切りおとすレベルだ」 「だが先程も言ったが、朝日のはこう……愛しいな。全く汚くない。むしろいま愛情が膨らんでヤバいくらいだ。あぁ……むっ」  ルナ様は再び僕の体の一部分を咥えこんだ。ねちょりと唾液が付着する。 「んむ……んむ、ちゅっ……れろ、んれおっ……れろ、れろおっ……」 「んちゅ、ちゅっ、んむ、れろぉ……んるるぅ……ちゅっ、れろ、れりゅっ……ん、ちゅっ」 「んふふふふ……んちゅ、ちゅっ、れろっ……れろ、れろんっ……れおっ、れっ、れろぉ……」 「う、うぅゎ……」  考えられない。想像できない。いまされていることが信じられない。  あのルナ様が。プライドの高く僕の主人であるルナ様が、僕の汚い部分を咥えている。  ここから見るルナ様の姿は怖いほどに妖艶だ。元から妖しい空気も纏っていたひとだけど……今日の空気は特別蠱惑的だ。 「んむっ、じゅっ、ちゅうっ……れろぉ、れろっ、んれろ……じゅるっ」 「れろ、ちゅぱっ、んちゅうぅ……れっろ、れお、んむぅ、れろんっ、ちゅぱっ……ん、むむっ……ちゅ」  しかも何が一番怖いって……こんなことをされた僕自身がいま……とても、気持ちいい。  ルナ様の咥えている箇所が硬くなりきってる。痛いくらいに張りつめてる。僕はつまりルナ様にもっとして欲しいと思っている。  気持ちいい……でもそれを口にしたら、ルナ様にこの行為を求めることになる。 「んちゅっ、ちゅっ、じゅぶ、んっ、れろっ……んぷ、ちゅ、じゅうぅ……ちゅば、ちゅばっ、ちゅぶ」 「んじゅぶっ、じゅっ、じゅるっ……れろれろ、んむぅ……れろ、ろれっ……んちゅ」  僕の中で神聖な位置にあったひとが、僕のためにこんなことを……どう対応していいかわからない。でも、自分から求めていいものかはわからない。  どうしよう……ルナ様、気持ちいい、です……。  その時、思わずルナ様の顔を見てしまったせいで、僕の表情を窺っていたその目を視線がぶつかった。  とても目を合わせつづけることができず、僕は目を逸らした。それを見たルナ様がにたりと笑う。 「ぷは……君、恥ずかしいのか?」 「…………」  黙って頷いた。嫌な予感がする。 「気持ちいいのか?」  もう一度黙って頷いた。れろ、と舌の先端で舐められた。 「反応が大きくないから詰まらない……」  じろ、と睨まれる。そんなこと言われても。 「朝日、これは命令だ。声をあげろ」 「はっ!?」  嫌な予感は的中した。めちゃくちゃな注文が飛んできた。 「感じたら声をあげろ。我慢したら許さない。私にはわかるんだ。君のここ、反応するからな」  ぶんぶんと首を横に振った。ルナ様はそんな僕を嬉しそうに見ていた。 「我慢したら」  ルナ様の指が伸びてきた。触れてはいけない場所に先端が当たる。 「挿す」  このひと本気だ……。 「では再開だ。あー……れろれぉれろ」 「んッ……」 「声」  つぷり、とルナ様の人差し指が進行した。僕は観念した。 「んむっ……ちゅう、ちゅぷっ……れろ、れぉ、れおんっ……んちゅ、んぷぅ……れろれろ、んちゅっ、ちゅっ」 「れろ、んちゅっ、んちゅっ……れろ、んっ、んむっ、ぐっ、んぐっ……んじゅぶううっ……んちゅう」 「はッ……」  つぷり。声を出さないと殺られる予感。  だけど声を出すって、どんな風に出せばいいんだろう。よくネタで聞く「あん」とか「うん」でいいのかな。 「んじゅるる、れろれろれろ、んぬるるるるっ……」 「あはん、あんあんあ、ああんあん」 「あっあー。ああっーあー。うんうん。うっふん」  ズブリ! 「……――〜っ!!」  第一関節までは、いったと思う。 「んじゅっ、じゅぷっ、んっ、るれれれっ……んぬるぅ……じゅるぅっ、んっ、れろっ」  ルナ様はもはや言葉では注意しない。ふざけたら挿すという無言の威圧感だけが伝わってきた。  そんなこと言われても……本当にどうすればいいかわかりません。 「んぷっ、んちゅ、じゅるっ……んちゅ、んじゅるっ……はっ、ちゅぱっ、んむっ……じゅぷ! じゅるっ」 「あっ、はッ……あ、ああっ、ふッ……んっ」  仕方なく、それっぽいと思われる演技をしてみた。第一関節以上は刺さってこない。 「じゅるっ、じゅりっ、んじゅるっ……ちゅぱ、じゅぽっ、じゅぽ! じゅぷっ!」 「んれっ、れろっ、じゅるるぅぅ……るれれれ、ちゅうっ……れろれろ、んじゅるっ」 「はっ、はあっ、ふッ……あ、んっ、ふはッ……んっ、あっ」  声を出していたら、ルナ様が僕をじっと見上げているのがわかった。  明らかに口の動きを観察してる。酷い。声なんて出したくないのに。 「じゅぱっ、じゅぷ、んじゅ、ちゅっ……じゅっ! んじゅっ、ちゅ、じゅうっ!」 「あっ、やっ、んんっ……はッ、んっ、あっ……やっ、はッ……」 「れろれろォ……んじゅっ! じゅぷっ! じゅるんっ! んちゅっ、ちゅ、じゅるううっ!」 「ふっ、はッ……あ、ああっ、んっ……ふあっ、あっ、なん、かっ……あっ」  ルナ様の指が体内でぐにぐにと動く。恐らく「なんだ?」と言ってるっぽい。指で話すのやめてください。 「あの、前にした、ときのっ……出そうな、感じでっ……」 「んじゅっ! じゅぽっ! じゅるんっ! じゅぽ! じゅぽぽっ! じゅぽんっ!」  出そうって言ったら激しくなった!  ここにきて、ルナ様の手が僕の部分を握って、ごしごしと扱きはじめた。 「なんッ……! それっ、駄目、ですっ……おねがっ……お願い、しますっ……!」 「じゅぽっ! じゅぽんっ! ぢゅぽ! じゅぶるっ! じゅぽおっ! じゅぽ! じゅぷううぅ!」 「じゅるるっ! ぢゅぽんっ! ぢゅぽ! じゅぽんっ! じゅぷ! ぢゅぶるっ! ぢゅっ! じゅんっ!」  ルナ様は僕のお願いなんてまるで聞いてくれなかった。唾液に塗れたぐちょぐちょの部分を扱かれ、先端は咥えられ、止めに指でぐりぐりされた。声を出すのを忘れていた。 「はッ、でちゃっ、あっ、あっ! やっ、ふあっ。あ、ルナ、さまっ……ふあっ、あっ!」 「じゅぷるっ! じゅぷじゅぽっ、じゅぶんっ! ぢゅるるる、んじゅっ! ちゅ、じゅぽっ!」 「じゅぱっ! じゅぶじゅぶっ、んじゅっ! ぢゅぱあぅ! じゅるっ、んじゅっ! じゅるっ!」 「あ、ああっ、ひうっ……! はッ、あ、ああっ、でま、でますっ……だから、くちっ……!」 「じゅぶるっ! じゅぶんっ! じゅぶる、じゅぼっ……ぢゅるうっ! ぢゅくっ、んじゅるっ!」 「だっ、だから、でちゃいまっ――」  手でルナ様を押さえようとした。だけどその瞬間、指が第二関節まで突っこまれ、僕は絶句した。酷い。 「あううううっ――!?」 「じゅぶるっ! じゅぶんっ! じゅぽっ! じゅぶるっ、じゅうっ! ぢゅるっ!」 「ぢゅぼ、じゅぽっ! じゅぽん! じゅぷるぅ、じゅぱっ! じゅぼおっ!」 「あ、あ、ああああ――っ! で、でまっ――!」 「ふあっ! あっ! ああああああぁ――っ!」 「んむっ!? んむっ、ぐっ、んむむっ……! んむっ……じゅるっ、じゅるぅ……ごくん」 「ちゅっ、ちゅう、ちゅうぅ……ちゅっ、ちゅむ、じゅるううぅ……ごくん」  発射させられた上、出したものを全部飲まれ……おまけに吸いあげられて、本当に全部を飲まれてしまった。 「はあっ……はぁ、はっ……ふぁ」 「はッ、はあっ、ふはっ……はは、ははは……よーしよし、よくがんばった……」  ルナ様の中で、僕の扱いは芸をひとつ覚えた犬のようだった。 「ひどい、です……こんなの……普通、本当にするんですか……?」 「気持ちよくなかったか?」 「…………」  僕は沈黙した。出してしまった以上、言い訳ができない。 「君が良かったのなら、みんなするんだろう。私も見ていて楽しかった」 「いえ、この際、快感があるかどうかは別としても……ルナ様の、口に……口の中に」 「ん?」 「出してしまいました……申し訳ありません」  何度も伝えたつもりだったけど、結局はルナ様の口の中に出してしまった。あんなものを出されて嫌じゃないひとはいないだろう。 「非常にまずかった」 「申し訳ありません……」 「でもとても愛しかった」 「え?」 「愛しくなって止められなかった。朝日、好きだ……かわいい。私にとって君以上に愛しいひとなどいない」 「だから全く嫌じゃなかった。むしろ口の中に出してほしかった。だから無理やり出させた」  あんなもの出されて嫌じゃないひと……いた……。 「だけどやっぱり恥ずかしいです……それと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」 「許せ」  ルナ様は僕の下半身に抱きついて、内腿や足の付根や、時には萎びた部分にキスを加えた。  どうやら敏感になっているみたいで、ルナ様の唇が触れると思わず震えた。それを見たルナ様が、またくすりと笑う。 「君は本当にかわいいな。もうずっと朝日のままでいいんじゃないか」 「それは……嫌です」 「ん? もしかして本当に嫌だったのか? それなら悪かった……正直に言ってほしい」  これはからかわれているんだろうか。それとも天然で言ってるなら……でもルナ様はこういったことにはまるで無知みたいだし。 「朝日?」 「き、気持ちよかったです……」 「んん?」 「ルナ様に求めてしまうくらい気持ちよかったです……だから、怖いんです」 「こんなことをしてくださいと、ねだるわけにはいきません。ですからあまり追いつめるのは……」 「追いつめてない。普通に求めてくれればいいじゃないか。気持ちいいなら言ってくれ」 「無理です。ルナ様に、もっと激しくとか、こうして欲しい、ああして欲しいなんて言えません」 「そこは遠慮しなくていいと言っているのに」 「で、ではルナ様は私に求められますか?」 「――あン?」 「前回は恥ずかしがっていらしたので……私にこうして欲しい、ああして欲しいと言えますか?」  少し強引気味に最後まで持っていかれたことと、羞恥心が相まって、僕は拗ねた口の利き方をしてしまった。  それはもちろん大失敗だった。 「朝日……せっかく可愛かったのに、そういうことを言うのか……君はわかっていないようだが、私と君には主人と従者という違いがある。君がその関係でいたいと言ったんだ」 「は、はい」 「まだ私の言うことは聞くんだよな?」 「そのつもりです」 「ではちょっぴりお仕置きをしよう。まだ最終目的まで達してないしな」 「さ、最終目的……」  そうだった。ルナ様の目標は別のところにあったんだ。それを叶えてあげる目的で始めたことだった。 「朝日、四つん這いになれ」 「は?」 「四つん這い。ギャグじゃないぞ。さあほらほら」  あ、もしかして僕……触れちゃいけないルナ様のスイッチ押しちゃってる?  だけど彼女の命令に逆らえるはずもなく、僕は両手両膝を付いて犬のような格好をした。 「いいなこれ」  僕はあまりのことに体を震わせていた。 「朝日の大切なところが丸見えだ。支配感がすごい」  僕がいま見ているのは自分のベッドだ。愛しいはずの主人はいない。  ルナ様は僕の後ろ側へ周り、下着を脱いだ下半身のスカートを捲りあげていた。  つまりなにも着ていない。ルナ様の前で、自分の一番恥ずかしい部分を見せている。  嫌なわけじゃない。だけどとても恥ずかしくて、ルナ様に見られている、見せてしまっているという罪悪感でいっぱいだった。 「これはまずどうしようか?」  つん、と剥きだしの先端をつつかれた。抵抗ができない。 「ル、ルナ様」 「なんだろう」 「ルナ様は嫌ではありませんか」 「全く。さっきも言ったが、君の体である限り、どの部分だろうととても愛しい」  ちゅ、とキスをする音が聞こえた。普通にしただけなら聞こえるはずがないから、わざと音を立てたんだ。 「では続きをするが、絶対に逃げるなよ。逃げたら挿す」  また挿されるんだ。 「ではー……れろっ」 「――!!」  どっ、こっ、をっ、舐っ、めっ……! 「ルっ、ルナっ、ルナルナルナ、ルナ様……!」 「誰だルナルナ様。何をされているのかわかっていなければそれでいい。続きをする」 「んー……れろ、れろっ……れろんっ、れろっ」 「ルナ様、それだけはっ……ひうっ、愛しい、ルナ様に……そんな……」 「一番、汚いところを……ひっ、ううっ……ひうっ!」 「遅かれ早かれ、君の体の全ての場所に舌を這わせるつもりだ」 「私の指と舌で触れていない部分がない体にする。君の全ては私のものだ」 「ルナさま……」 「れろっ、れろ、れちゅ……んちゅ、ちゅっ、れろっ……」 「ふあっ、ひっ、ううっ……あっ、ひあっ、んっ……!」  愛しいひとに汚い場所を舐めさせている罪悪感と背徳感は、僕の体をより敏感にさせた。 「ん、んー……ちゅっ、ちゅっ、れろ……そろそろいいか」 「えっ……?」 「次の段階へ進む。最終目的は忘れるなよ」  う……ここまで来たら逃げられるとも思えないけど、次はもしかして……。  ぬぷり。 「ルナ様――っ!? 逃げたら挿すって言ったのに、私まだ逃げてませんよ!?」 「違う、待て、落ちつけ。事実を確かめるまでは現実を受けいれるべきじゃない!」 「現実ってなんです!?」 「君は前を見ていろと言っただろう。目で見えるものが真実だ。君の主人を疑うな」  そんなこと言ってる間にも、ルナ様の指はずぶり、ずぶりと入りこんできた。 「ルナ、様っ……ちょっと、痛いです……」 「知っている。私も最初は痛かった。体内へ異物を挿入されるというのは中々に恐怖だろう」 「うう……ルナ様、信じてます……」  指が進む度に舌がべろりとそこ付近を舐める。潤滑油にしてくれてるんだ。  しかも侵入してきた指が、ぐにりぐにりと尺取虫のように動いている。中を拡げられてる感覚だ。 「ルナ様……あまり、気持ちよくはありません……」 「ん、そうかおかしいな……もう少し時間がかかるのかもしれない。少し待て」  ぐにぐにと動くルナ様の指。だけど実際に反応がないとわかったんだろう。ルナ様の指の動きが緩慢になってきた。 「……詰まらないな」 「は?」  とんでもない声が聞こえた。 「ルナ様……あのいま私、けっこうとんでもないことされてるんですけど、それで詰まらないと言うのはあまりといえばあんまり……」 「じゃあなにか君が喜ぶ方法はないか教えてほしい」 「わかりません……申し訳ありません、私も初めてなもので」 「そうか、そうだったな」  ルナ様が動きを止めて、じーっと観察を始めている。  なんかこの格好のまま待機するのって、ちょっと間抜けっぽい……。 「やはり本丸か」 「は?」  ルナ様は指を挿したのとは別の手で、わっしと僕の体の一部を擦りはじめた。 「なっ……?」 「ここが気持ちいいのは確かだろう」  わしわしと上下に擦られている。わりとその力に手加減はない。 「なっ、なんっ、待っ……ルナ様っ……!?」 「朝日、声をあげろ。命令だ」 「うう〜ッ……!」  わしわしと上下に動く手。ぐにりぐにりと中を動かす指。完全にルナ様の手で弄ばれている感覚が、惨めではないけどどうしようもない屈服感に僕を苛ませていた。 「はっ、はあっ、はッ……」 「やっ、くっ……ルナ様、これ……いつまでっ……!」 「私の最終目的は君の初めてだと言っただろう」 「ふあッ……!」  しかも恐ろしいことに、ルナ様の手で弄られたそこは、一度出したばかりなのに大きく硬くなりはじめた。 「ん? 朝日、反応してるみたいだぞ? 楽しくなってきたかもしれない」 「はっ、はあっ……ルナ様……あの、こんなのっ……!」 「二本目を挿れる」 「うううっ……うくっ、ひうっ……!」 「朝日……とても楽しい。君の体が反応しているとよくわかる」 「そう、いうのはっ……ううっ、普通逆、ですっ……!」 「君が主従関係を選んだんだろう。私は念も押したし、好き勝手にすると言ったはずだ」  反論できない。確かにルナ様から事前に提案はあった。選んでしまったのは僕の方だ。  わしわしと上下に擦られる場所が気持ちいい。あのルナ様の綺麗な細い指で掴まれてるのかと思うと……。 「あ、また大きくなった」 「ごめんなさいっ……!」 「謝らなくていいと言ってるのに……じゃあこういうことされたらどうするんだ?」 「れろっ……ちゅ」 「ひっ……!」  先端を舐められた。あの唾液と粘膜の感触が、僕の敏感な場所を刺激する。 「れろっ、ちゅっ……ん、また大きくなった。しかもぴくぴく震えてる」 「朝日、私はこういう反応が見たかったんだ。切なそうに、もどかしそうに、私の手の中で踊る君の体を弄りたかったんだ。愛しい」  このひと本物のドSだ……もう今さらすぎて諦めがついてきたけどっ……! 「ルナ様に……」 「ん?」 「ルナ様に喜んでもらえるなら……それが私の喜びです」 「朝日…………いやそんな格好できゅんとさせられても」  ちゅ、とまたキスをされた。敏感な場所に。 「はっ……はっ、あっ……」  どうしよう。このままだと多分果てて、そのまま終わりにできそうな気がする。  だけどルナ様は僕の初体験を楽しみにしてくれていたし……しかも相当。  でもここまでで、かなり痛々しいほどのことをされてるのに、これ以上のことがあるのかと思うと……。  ここが最後の分かれ目だと思う。黙っていればここで終われる。ルナ様に言えばいま以上の大惨事が待っている。  僕はそれでも……?  うん。ここまでで充分だ。後は彼女の為すままに身を任せよう。 「ほらほら。出していいぞ、ほらほらほら」  わしわしと擦られる。こんな格好で……それも好きなひとに見られてるのに。  今は何が辛いかと言えば、ルナ様の顔も見られないし、手を握ることもできない。ただされるがままになってるだけだ。 「ルナ様……ううっ、私は……」 「ん? どうした?」 「ルナ様のことが、好き、です」 「…………」 「いやだから、この状況で私の胸をきゅんとさせることを言われても。こんなことしかしてやれない」  また先端を舐められる感触がする。胸が切なくなっているいまの状態だと、体がやけに敏感な反応をする。 「れろっ、ん、れろっ……ちゅう……ん?」 「な、なんでしょう?」 「そういえばさっきからこれ、ずっとぷるぷるしてる」 「え……どういうことで……」 「こんなのはどうだ……うぁむ」  ルナ様が咥えたのは、僕の先端と指が刺さっている間にあるものだった。  敏感に縮まったそれを口の中へ丸ごと咥えられ、硬直するほどの快感が全身を襲った。 「ふああああああっ……あ、あひぅっ……ふあっ!」 「んむ……んむ、んむ、ぷはっ……」 「おお……指の締めつけがすごい。よほど気持ちよかったんだな」  とても答えられない。だって言葉にするまでもなく、身体が反応してしまっているから。 「じゃあここを口でして、こっちは手で……それで今日はいいな?」 「ふあっ……は、はいっ……」  ルナ様の口が再び僕の身体の膨らみを丸呑みにし、手はわしわしと最後の上下運動を繰りかえした。 「んむ、んちゅ、んむにゅっ……んむぅ、れろっ、れられられら……んむにゅっ……」 「はッ……はあっ、はっ、はっ……あ、ああッ、あっ……」 「んむちゅっ、むちゅ、んむっ……ちゅべろっ、んちゅ、ちゅう……れろ、れろぉ……れろっ」 「んちゅうっ、ちゅちゅばっ、れろれろっ……んむ、ちゅっ、んっ、ちゅぶっ!」 「ふああっ、あ、あっ……ルナ、さま、またっ……私、もうっ」  わしわしと擦られる手の動きは快感を限界まで搾りだし、僕の先端に急速な射精感をもたらした。 「あ、ひぅっ、ふあ、あっ、やっ――!」 「あっ、ふあ、あ、ああっ……ふあああああっ!」  乳牛のように搾りだされた僕の精液は、ぼたぼたとベッドの上へ垂れおちていった。 「よーしよしよし」  しかも扱いまで牛そのものだった。 「いっぱい気持ちいい思いをしたな? それじゃあそろそろメインディッシュの朝日の初体験を……」 「う、うう……」  応えたい。応えてあげたい。  その為にここまでしてきたのに。ここで倒れたら、ここまでの行為が何の意味もなかったことになる。 「でも無理です……ごめんなさい」 「はっ?」 「なんだそれ……あ、朝日!? それでは私の初体験はどうなる! ちょ、なっ……朝日ーっ!?」  だってルナ様がやり過ぎるから……。  ルナ様に何度も揺り動かされたけど、もう体はぴくりとも動かなかった。申し訳ありません、お厳しいルナ様。  自分が辛くてもたった一度きりのことだし、あんなに目を輝かせてくれていたルナ様の楽しみを優先してあげたい……! 「ル……ルナ様っ!」  僕は意を決して声を発した。 「どうした? このまま気持ちよくしてあげるつもりだ」 「そ、それは嬉しいのですが、せっかくルナ様が楽しみにしていた……その」 「ん?」 「このまま達したら、もう体力残ってません……初体験、できません」 「…………」  ぴたりとルナ様の手の動きが止まった。僕の後ろの部分よりずるりと指を抜きだす。 「君、嫌だったんじゃなかったのか」 「はい?」 「嫌だったんじゃないのか。黙っていれば、このまま流すこともできたのに」 「はい……正直、怖いですし、痛いのも嫌です。他のひとなら耐えられません」 「ですがルナ様なら……ルナ様のことは心からお慕いしているので、私を独占したいというのなら、全てを捧げても構いません」 「恥ずかしいですが、きっと初めての体験をする女性はこんな気持ちなのでしょう。もちろんルナ様もそうだったと思います」 「それなら私も自分にできることを全部させてください……」 「…………」  ルナ様は無言で僕の下半身を抱きしめた。熱い息が伝わってきた。 「君は本当に私のことが好きだなー……」 「はい。普通なら逃げだすことでも耐えられます」 「ありがとう、嬉しい。君の告白を無駄にしないために、今から君の全てを奪う」  ルナ様はごそごそと紙袋を用意し、僕に指示をして仰向けに寝っ転がらせた。  天井を見ながら思う。染みってどこにあるのかな。 「では始める」  ルナ様は手術でも始めるような口調だった。  こんな格好をさせられて、今すぐ死にたい。好きなひとの前で、これ以上ないほどの屈辱的な体勢だ。  でもルナ様のものになると自分に言い聞かせると、不思議なくらい気持ちが落ちついた。  手には何かとんでもないものを持っている。あれが僕の体内へ入るんだろう。 「ただひとつだけ疑問なのですが、それはどこで手に入れたのでしょう?」 「どこって……専門店で。ヅラと帽子とサングラスを装備して私が買ってきた」 「ルナ様が!?」  僕はこんな体勢なのに首を何度も横に振った。それはいけませんという意思を何度もルナ様に見せた。 「いけません……桜小路ルナ様ともあろうお方が、そのような店に……」 「君はそればっかりだな。まあ私を神聖視するのはいい。気分は悪くない。だが君との初体験にこれは必要だ」 「通販で買ったら八千代にバレるだろう。それと君を苦しませないための知識も必要だったんだ」 「それなら私に言いつけていただければ、自分で買ってきましたのに」 「いや……それは気の毒だろう。囚人の穴掘りどころか、死刑囚に自分が一番痛い思いをすると思われる処刑道具を作れと命じるようなものじゃないか」 「ただひとつ申し訳ないのは、これは君が女性だと思っていたときに買ったものだ」 「だから大きい。前用と後ろ用はきちんと別に売っているらしい。後ろはまた別の機会にと思っていたから買っていない。少々キツいかもしれないが許して欲しい」 「はい……ルナ様の為なら」 「それと無茶を言うが、できれば最初はかわいい声をあげて欲しい。あまりに痛々しいと、さすがに続けられなくなる」  ルナ様は僕の後ろの穴へとろりとした液体を垂らした。ローションだ。 「あ……」 「やはり怖いか?」 「恐怖は伴うものだと覚悟していました。あとはその……ルナ様の優しさをいただければ、何事にも耐えられます」 「愛している。この先いかなる未来があろうとも、今この胸にある気持ちだけは本物だ」  ルナ様の指が僕の体内へ刺さり、優しく左右に動き、その入り口を拡げた。 「あの、ルナ様。ショーの前日、私を部屋まで迎えに来てくれたこと。私にとって、あの光景が恋人としての一番の思い出です」 「私は君とのファーストキスだ。涙をこらえるのに必死だったな」  ルナ様は手の中のものにキスをして、たっぷりと舌を這わせ、自らの唾液を付着させた。自分の体の一部だ、という意思表示だろう。 「もちろんショーで優勝したときは別です。ただ二人だけの思い出となると別に、あの」 「朝日」  ルナ様が僕の入り口にぴたりと先端をくっつけた。 「もう一度言う。愛している」  僕の恋人である主人はとても優しく笑った。優しく、とても怪しく淫靡な微笑みだった。 「わ、私もルナ様のことがっ――」 「――〜〜〜ああああぁぁぁっっ!」  意地でも痛みの伴う悲鳴はあげなかった。ルナ様は「かわいい声がいい」と言ったからだ。 「はっ……ふあっ……ああぁ……ルナ様……」 「思った以上にすんなり入った。おめでとう、これで先端だ」  ルナ様はそれの底辺に手のひらを当てて、ぐいと押しこんだ。事前の準備が良かったのか、あれだけ大きいと思っていたものが、僕が想像していたよりすんなり入った。 「あと朝日かわいい。それじゃ、もう少し我慢して欲しい」  ぐいぐいと押しこんでくるルナ様。痛いとは思うけど、耐えられないほどじゃない。  むしろ初体験のときに血が出たルナ様に比べれば……楽なんじゃないだろうか。 「はい、初体験完了」  ルナ様の声になんとか顔をあげてみれば、あれだけ大きかったものがずっぽりと入ってしまっている。 「お、終わったんですね……嬉しいです。これで全て奪っていただけて、正真正銘ルナ様のものですね」 「いいのか、自らそんなことを認めて」 「はい。後悔することなど何もありません。ただ愛しいだけです」 「愛い奴……大丈夫か? 痛くはないか?」 「はい。圧迫感はありますが、痛みはそれほどでもありません。ルナ様との繋がりが嬉しいので」  その言葉は喜んでもらえたのか、ルナ様は僕の体をそっと撫でた。 「ああ……なんだろう、この征服感にも支配感にも圧倒的な独占欲……これで朝日が身も心の完全に自分のものだと思うと、恍惚のあまり軽く昇天してしまいそうだ」 「くっ、いまこんなときに、むくむくと衣装のアイデアが出ては消えていくのが憎いっ……! 私の人生の中でも最大級の想像力の解放だ。だがここで終わらせるわけにはいかないから、アトリエには行けないっ……!」  ルナ様は僕に差したままの状態で、むんずと大切なものを握った。  完全に萎れていただけど、ルナ様に握られたことで幾分の硬さを取りもどす。 「ルナ様、ルナ様のデザインは兄も宝だと言っていたので、もしこれはというものが浮かんだら、私はこのままにしてデザイン画を描きに行っても……」 「今の私には後世に残るデザインより君の方が大切だ」  ごしごしとルナ様が僕の体を摩擦し始めた。 「はっ、んんっ……そんな、ルナ様が、服飾のことより大切なもの……なんて……んっ!」 「今はな。愛が勝る。ところでかわいいな君」 「はっ、あっ、ううっ……んっ、はあっ、あ、ああっ……」  ここへ至るまでの責めで充分準備が出来ていたことと、ルナ様の手の動きが思った以上に僕を刺激して、すぐに体が昂ぶってきた。 「私の為に、意識して声を出してくれたのか? もうなんか君、私が何をすれば悦ぶか熟知してるな」  声の出し方は、ルナ様の初体験のときの真似をしてるだなんて言えない……意識して出さないと声なんて出ないから。 「は、はいっ……これからも、お側にいたいのでっ……んっ!」 「はっ……ル、ルナ様のパートナーとして、型紙を引いていきたいので……んんっ! 見捨てられたくありませんっ……ふあっ……!」 「私が君を見捨てることはない。何があってもだ」 「ルナ様は天才なので……ぁ……私より優れたパタンナーを見つけるかもしれません……でも、技術を磨いて、身体もお尽くしいたしますから……」 「どうか、末永く愛してくださいっ……あ! あぁぁああっ!」  ルナ様の手がいよいよ高速になってきた。もうこれ以上は我慢できない。 「ル、ルナ様……はっ、ああっ、ふっ……」 「ん? どうした?」 「あ、あの、このままというのは構わないのですが……その、この角度だと……んっ!」 「うん、顔にかかるな」 「…………」  最初からそのつもりだったんだと悟った僕は、ルナ様の手に身を委ねた。 「はっ、あ、ああっ……ううぅ、うっ、はっ、はあっ……」  うぅ……こんな状態なのに気持ちいい。心も身体も開発されて、ルナ様の物になっていくことを自覚してる。 「ふあっ、あ、あああっ……! うっ……やっ、あ、あああっ!」  もういっそ……これからもルナ様から好きなように扱われたいと思うくらい……。 「ああ、あああっ……ルナ様、あ、あああっ……もちませんっ……!」 「充分だ。君の愛をこれでもかと思うほど受けとった」  ルナ様は僕の身体にキスをした。そしてどういうつもりか刺さったものを抜いていく。 「はっ、はあっ、あっ……ううっ、あっ、はああっ……もうっ……!」 「朝日。本日最後の命令だ」 「は、はいっ……」  止めの瞬間。ルナ様は僕の先端を握ると同時に、しっかり一度抜きかけたものを一番奥まで挿しこんだ。 「イけ」 「ああああっ! ああ、あっ! ああああああああ――っ!」  今日は既に一度出しているにも関わらず、僕は自分の顔に汚れたものが到達してしまうほどに噴きだした。  一応、顔は背けたものの、せいぜい正面からの直撃が横からで済んだ程度のもので、自分で自分を汚した事実に変わりはなかった。 「はっ……はあ、はっ……ルナ様……」 「…………」 「ルナ様、苦しかったですが、ルナ様の為さることでしたから気持ちよく思いました……ルナ様?」 「いや……」 「大丈夫ですか? 何があったのですか?」 「大宇宙の真理を掴んだ」 「は?」 「最後の瞬間の朝日の顔がかわいすぎて、私の脳裏に神々が纏うべき衣服の構想が垣間見えた」 「…………」  僕のご主人様が壊れてしまった。 「しかしそれは閃光の如く、まさに刹那の輝きとして瞬いただけで消えてしまった。同じものを見るには、朝日の初体験を再び奪わなければいけないが、それはもう無理だ」 「こんなことは初めてだ。よほど朝日が好きなんだな私は。あの映像を脳裏に留めておけなかった自分が悔やまれる」  普通、壊れるのはこんなことされた僕だと思うんだけどな。 「まあいいか……いずれ、また違う映像が見られるかもしれないしな」 「というわけで、君が最高の表情を浮かべると、私は神憑り的な発想が降りてくる。これからもよろしく頼む」 「いえあの……できれば今日の一度で」 「いや、これからもするが? 私が君のことをどれだけ好きだと思ってる」 「…………」  本当に酷いひとだ。  好きだと言われば僕はもうそれだけで逆らうことができない。思わずこくんと頷いてしまった。 「フゥー……もしかしたら、私にはサドっ気があるのかもしれないな」  この期に及んでなにを言ってるんですかルナ様……。  あなたは正真正銘のサドです……サド「っ気」ではなく、マルキ・ド・サドを佐渡ヶ島の海岸に放りすてて一人で新潟へ帰るレベルのサドです……自覚してください……。 「さてそれじゃあこのままの顔なのもかわいそうだし……二人でシャワーを浴びにいきたいな」 「はい……そうしたいです」 「でも、とりあえず疲れたし一旦寝るか。誰か来ても困るから、浴室は深夜に行こう。顔を拭くだけで我慢してくれ……さ、こっちを向け」 「はい、手ずから拭いていただけるだけで充分です。ありがとうございます、お優しいルナ様」  僕の顔を起こしたルナ様は、そっとキスをしてくれた。まだ顔が汚れてるのに。 「君の顔を汚れてるなんて思わない」と言ってくれた。僕は幸せです。  でもこの後すぐ遊星に戻れるかとても不安です……恥ずかしくて顔が見られません……。  しばらく眠っていたらしい。  目が覚めたのは、単に眠りが浅かっただけなんだと思う。  ただ掛け布団を着ているのに寒いな、と思った。  おかしいな、ルナがいるはずだ。元々狭いベッドなのに、こんなに寒いわけがない……。  次にまだ目を開いていない内から眩しいなと思った。  こんな深夜に明かり……?  明かりの差す方へ顔を向けるとルナが窓際に椅子を置いて座っていた。  まだ僕には気付いてない様子だった。  窓の外を見上げている。明かりはそこから入ってきたんだろうか。でも月に明かりがそこまで強いとは思えないけど……。  というより何が驚いたって、窓を開けてる……? 「ルナ……寒いかも」 「ん、起きたのか」  声を掛けるとすぐに返事をしてくれた。でも窓は閉めてくれない。 「寒くない? 十二月なのに」 「すまない。昼に興奮した分の残り火を冷ましていたんだ。もう少しだけでいいからこのままにさせてくれ」 「ん……いいよ」  本当は少し寒いけど、ルナがそう望むなら。 「月を見てるの?」 「いやなんとなく空を見ていた。でも目についてしまうから、やはり月を見ているのかもな」 「よく見える?」 「少し雲が邪魔だ。ああでも、今は綺麗に見えるな」  ルナが空の方へ意識を戻した。まだ窓は閉めてくれそうもない。  黙ってると寒いし、せめて話相手にはなってもらおうかな。 「何を考えてたの?」 「ん? ああ……別のことを考えようとしていたんだが、どうしても今日の……もう昨日かな、昼間のことを思いだして困っているところなんだ」 「ショーの景色を頭に浮かべると、今でも体の中がじんわりと熱くなってくるんだ。頭と体を冷やしているのに、全く意味がないな」 「それだけ熱い出来事だったんだよ。僕もしばらくは忘れられないと思う。夢で見る度に喜べそう」 「それが私にとってよくないなと思ったんだ」 「え?」 「言い方は悪いが、ショーと言っても学院内の規模だろう? そこで最優秀と言っても、世界的なコンテストと比べて知名度があるわけじゃない」 「このまま満足していると、次の目標に気持ちがなかなか移ってくれないんじゃないかと思ったんだ」 「私たちの最終目標はプロのデザイナーになり、自分たちの店を出すことだ。少しでも時間を無駄にすることはできない」 「……ということを自分に問いただしていた」  さすが……というか、ルナと言えばルナらしい。 「あ、もし聞いていて嫌な思いをしたならすまない。せっかくの喜びに水をさすつもりはないんだ。ただ私が、自分の心配をしているだけだ」 「それもあって君を起こさないでいたんだ。何も今日くらい、と自分でも思うからな」 「ううん。そういう気持ちでいることは大切だと思うよ。少し見習わなきゃと思うくらい」  僕はどうしても受動的で、ルナの行動待ちみたいなところがある。デザインがなければ服が作れないって理由はあるにしても。 「それに、そこまで真面目なルナが、ここまで引っぱっちゃうくらい昨日のことは嬉しかったんだと思うと、頑張った甲斐があったと思える」 「うん、昨日のことは特別だった。私が何かの『賞』をきちんともらったのは初めてだからな」 「しかも君との共同の作品となると嬉しさもより強くなる。抑えきれなくなってくる。だから余計に困るんだが」  ルナは自重気味に小さく笑った。だけどそれは否定的な笑みじゃない。 「その喜びを抱えつつ、昨日のことを引きずらないようにするため……明日からまた新しいデザインに励もうと思う」 「そのためには君の協力が不可欠だ。これからも力を貸してほしい」 「もちろん。だけど僕が力になれるのはデザインが決まってからで、ルナが苦労して描いてる間は何もできないよ?」 「君は忘れたのか? 私は朝日を弄ると創作意欲が増すと言ったじゃないか」 「えっ……それ、まだ続いてたんだ。じゃあルナと二人きりのときも朝日でいろってこと?」 「デザイン画を描くときだけでいい。でもそのときは色んなことをさせてもらうと思う。私のデザインのためだけに」 「う、うんいいよ……でもお手柔らかに」  苦笑いを浮かべる僕を見て、ルナは楽しそうに微笑んだ。  もしかしたら、今も僕の困る顔を見て良いデザインの一つか二つ浮かんでるかもしれない。  そんな意地悪なお姫様だけど、いまこうして見ている笑顔は天使としかいいようがない。  困ったひとに惚れちゃったなあ。でも大好きだ。 「君がいないと私は駄目なんだ、全てにおいてそうだ」 「その代わり、君が支えてくれるなら強く大きく輝いてやる。この業界で私という光が大きくなれば、いずれ君も自然と輝くだろう」 「私ばかりが太陽として表に出てしまうが、今こうして見ていても月は充分に美しい。太陽と月のような関係でいて欲しい」 「もちろんそのつもりだけど、太陽と月なら逆だよ? 朝日の僕が月で、月を意味するルナが太陽ってことになるから」 「たとえ話に茶々を入れるな」  声は不満気だったけど、ルナの顔は笑っていた。  その笑顔を見ていたら、寒いのはどうでもよくなってきた。でも風邪を引いたら困るから布団を体に巻きつける。 「僕も月を見たくなっちゃった。隣に行くね」 「だったら布団を脱いだらどうだ。簀巻きみたいな格好だぞ」 「だって寒いから。よかったらルナも一緒に丸まって温まろう?」 「ああ全く、冬の夜空を見て少しだけ浸っていたのに台無しだ。仕方ない、月を見ながら抱きあおう」  僕たちは月に見守られるなか抱きしめあった。  冬の空気の中、体を寄せあうことで存在を確かめあうかのように。  お互いを深く求めあい、月明かりが雲に隠れるまで、僕たちは微笑みながら抱きあい続けた。 「ねー、ゆうちょー」 「なーにー」 「なんでゆうちょはいっつも朝日の格好してるの?」 「それはね、瑞穂様が僕のことをまだ許してくれてないからだよ」 「なぁるほどー。それは大変だあ」  家事をする僕の隣で、行儀の悪い女の子はごろんと仰向けになってポテチを口の中へ放りこんだ。 「湊、それは行儀悪い……というより、その体勢、足元側に男の子がいる場所でやっちゃ駄目だよ」 「だあってえー、最近、女の子やめてもいいかなーって思うようになったしぃー」  ぽぽいぽいと続けてポテチを口の中へ放りこむ。ばりばりと歯で噛み砕く音が聞こえた。 「でもね、この前かっこいい男の子見たヨ! 男子部にね、身長私より10cmばっか高くて、華奢で女の子みたいな声なんだけど、雰囲気がすごくいいの。ありゃモテるね」 「あー、そのひと彼女さんいるみたいですよ。しかもかなり熱愛中です。手作り弁当とか持ってってます。彼氏の方が」 「ぬあぁー! 夢も希望もない!」  湊はとうとう寝っ転がっていたソファーから転げおちた。 「てか、男子部の方はどう? もう慣れた? 慣れまくり?」 「慣れまくりだよ。もう今のクラスで八ヵ月目だから、男の友達もできたし。まあ、家には呼べないけど」 「そりゃそうだよねえ。てか男の子だとしても顔かわいいしょ? その辺どうなの?」 「どの辺なの。ないよ、そんなの。だいたい僕、学校でも恋人いるってはっきり言ってるし」 「でも朝日のことは話してないんでしょ?」 「うんまあ、それは……受けいれられないひとの方が多そうだし」 「あさひー!」  男子部の話をしていたら、その世界を許せないひとがやってきた。僕が学校から帰ってくるなり着替えてウィッグを着けるのも、彼女からこのままがいいと言われてるからだ。 「よかった朝日、たまにはお話でも── あ、湊……下着が見えてます」 「見せてんだぜ、かぱぁー」 「あ、もしかして二人もお話してた? 何の話?」  セクシーポーズを取る湊を一切無視で、瑞穂様は彼女がさっきまでのっていたソファーへ腰を下ろした。 「朝日の男子部の方はどう? って話」 「ああ、朝日はかわいそう……あんな地獄へ落とされて……でもあそこへ通ってるのは、朝日ではなく大蔵遊星さんだから私の大事な朝日は無傷。大丈夫」 「はい……えと、はい。そんな感じです」 「はあ。教室に朝日がいないのはやっぱり寂しい。こうして屋敷へ戻ってくればまた会えるからいいけど、あの頃の楽しかった日々に戻りたい。うう」 「どうしてもお望みとあれば、こっそり着替えて遊びにいきます。まあその、服飾系はエキセントリックな方も多いので、アンタッチャブルを覚悟すれば、村八分にはならないと思います」 「女子部の方へ来てくれるの? 朝日、優しい! やっぱり私たち友達だもんね」  瑞穂様に駆けよられて手を握られた。いつも思うけど、僕に触っていいのかな。 「でも瑞穂、私たち所詮はただの友人だから。その子の一番優先するべきは恋人だよ」 「あ、そうだ私、ルナから朝日を見つけたら呼んでくれって言われてた……今年の衣装製作の打ち合わせしたいって」 「あ、はい……アトリエでしょうか、すぐに行きます」 「暇だから私も行くー」 「親友だから私も行く」  僕たちは三人連れだってルナのアトリエへ向かった。 「ルナともあろう者がメンズの服を作るなんて……勝負を避けたということは、私の不戦勝ということでいいんですのね?」 「勝負なら去年しただろう。私の衣装が選ばれたじゃないか」 「違います、今年こそが真の勝負となる予定だったんですわ。それなのに朝日ばかり優先して、私のことなんて考えない……あなたの恋愛はいつもそうですわ!」 「日本語の順番がおかしい。私が両刀みたいだからやめろ」 「私はいつもあなたのことを考えているのに……あなたにとって私は過去の女なんですのね。悲しいですわ」 「そうか、そこまでわかりにくく喋るということは、もはや故意だとみなしていいな。いいだろう、抱いてやる。めくれ」 「えちょっ……ななななにをなさっ……あ、待って待まっ、心の準備がッ……あっ、アッー!」 「ただいま参りましたー……あ、お邪魔だったでしょうか」 「別に。ユーシェが私に気のあるような発言を繰りかえすから、そういうことを冗談でも言うとどうなるか、身体に叩きこんでいたところだ」 「そっ、そんな発言した覚えはありませんわっ……ううっ、私の初めての体験を……」 「まだ紛らわしい言い方をするのか。いいだろう、望み通り第二関節までいってやる。まくれ」 「ひぎぃ!」 「ああっ、ルナとユーシェがそんな関係に……素敵だけど友人としてどう対応するべき? だって朝日がかわいそう……あ、でも失意の朝日を慰めて私が付きあうという展開も?」 「ないよ! ざあんねん!」 「どうしてルナはお尻ばかり狙うんですの……他の場所を狙われても困りますけど……」 「ん? それはまあ、私が挿したことのある場所は、そこしか経験が――」 「そおいえばルナ様に呼ばれていたと聞きましたが!」  僕は乱れた若者の性風俗を正すために無理やり会話を途中で打ちきった。 「ああ、そうだった。いや、製作を進めたいから試着して欲しかったんだが、瑞穂がいるんじゃ今は無理だな……まあ夜にひとりでアトリエに来い」 「体格は当然同じなんだから今のままでも大丈夫ですよ?」 「まあそうだが、イメージってものがあるだろう。この衣装は私の恋人ではなく、夫となるひとに着てほしい」  ルナ様がボディに着せてある衣装を見た。  そこにあるのは僕の衣装。今年のルナ様はメンズのデザインを描いてきた。  昨年、最優秀賞を取った自分の衣装と対になるデザインだ。 「ルナ様、ありがとうございます。最初見た時は言葉にできないほど感動いたしましたが、今ではこの衣装を見る度にルナ様への感謝というはっきりとした感動を覚えています」 「感謝だけか?」 「いえ、他にもありますが、この場ではちょっと。皆様もいるので」 「どうせ『ルナ様への愛情』とかいうつもりですわ」 「もう言われなくてもわかるんだから、はっきり口でゆっちゃえよ!」 「ルナと朝日の関係は素敵……あの衣装が朝日ではないひとの為ということだけが引っかかるけど、とっても美しい関係だと思う」  はい、皆様の仰る通りです。この衣装ができあがっていく度に、ルナ様への止めどない愛情が溢れてきます。  好きです。愛してます。お慕いしています。これからもずっとお側に居させてください。 「それにしても……もう二度とモデルをするつもりはなかったのに」 「『一度だけ舞台の上を二人で歩きたい』と、愛しい夫から頼みこまれては仕方ないな」 「この格好では返事がしにくいので、あまり意地悪なことを言わないでください。嬉しくて、こそばゆいです」 「夫と嫁を同時に手に入れて大変気分がいい。だから衣装製作をしたいところだが……ま、今は無理だ」 「じゃあみんなでお茶の時間にでもするか。秋摘みのいい茶葉が手に入ったんだ」 「あれっ! ルナが話のわかる子になってる!」 「どんな人間でも成長はするもので――ひぎぃっ!」 「じゃあ私はお茶菓子を用意するね。紅茶に和菓子もいいものだと思う」  お嬢様方三人は先に階段を上がってしまった。  アトリエに残る僕たちは微笑みあう。まだ作りかけの衣装を見つめ、その完成する日の夢を見る。  きっとまた僕の世界は変わる。だけど愛しいひとだけは変わらない。  新しい自分になって彼女に寄りそおう。 「また今夜。朝日、次こそ私の旦那様を連れてきてくれ」 「かしこまりました、私の愛しいルナ様」  優雅な一時を過ごしましょう。愛を込めて。  フリルとレースだけで作ったブラウスに、箇所箇所で円形のカットを入れて大胆に。逆にスカートは短くタイトなチューリップで──  ──いや、これだと舞台の上では、思ったより映えないかもしれない。  客席からの興味を集めるには、そうだな、スカートは引きずるのを前提に裾を5m伸ばして……うん、生地を幾層にも重ねることで、あえてフロアに立ったときのデコボコなフォルムを──  ──いや、それでは鑑賞用に過ぎるか。審査には一般のお客さんも参加するんだ、美観ばかり追求して実用性に乏しいと悪印象を与えてしまうかもしれない。  ではテーマ性を持たせてみるとか。たとえば……人生? シンプルなワンピースをベースに、あちこちメジャーやDカーブルーラーといったツール類をくくりつけ、全身で僕らの目指す道を表現──  ──うん、テーマはともかく、縫製まったく関係ないね。図工だね。  駄目だ。やる気だけはあるのに、気持ちがはやりすぎて空回りしてる。  はあ。  一度、机から離れてベッドへ寝転んだ。その休憩時間すらもったいないと焦る自分を抑えつける。  今日から衣装製作が始まった。そのためのデザインを来週に決めることを考えれば、普段の授業でどんな課題を出されるよりも時間が足りない。  一週間でどれだけのデザイン画を描けるだろう。そして数を描いたとして、その中から幾つ、ルナ様やユルシュール様に通用するものが生まれるだろう。  その、デザインを決める日をXデーに、自分のデザイナーとしての未来を賭けることにした。  何も悲観的になっているわけではなく、衣装製作が始まれば、しばらくはデザインどころじゃなくなるからだ。  僕自身、クワルツ賞の時に任されたパタンナーの役割を務めたい気持ちがあって、そうなれば数ヵ月はデザインどころじゃない。  それなら今後三年間、どっちつかずでいるよりも、可能性があればデザイン、もし何も見いだせなければパターンに打ちこむ。それがこの世界に残るための最善だと判断した。  だから今回のデザインに、過去の自分の全てを出し切りたいし、悔いの残る時間を過ごしたくない。やる気だって充分だ。  そう、そのくらいの覚悟をしてる。して……はいるんだけど。  だけど盛りあがる気持ちとは裏腹に、描いたデザイン画の出来は一向に芳しくない。どうしてだろう。必死になればなるほど、想像力が貧弱になっていく錯覚にとらわれるのは。  人間は追いつめられると、感覚が閉じていくものなんだろうか。  しばしばアーティストの人が吸ってはいけないものを吸ったりする事件が耳に入るけど、彼らは心身とも弛緩させることで何かの扉を開こうと思ったのかもしれない。  でも僕は今のところ良くないことをするつもりがないので、別のストレスコーピングが必要になる。  僕の癒し術はお風呂。それと料理──おいしいものが出来ればモアベター。  うん。何か冷たいデザートでも作ろう。夏だし。  そんなことをしてる暇はないよと、頭の何処かがうるさく警報を鳴らすけど、今はデザインと別のことに意識を向かわせるのが重要だと思いこんでみた。  そんな理由で始めた深夜の気分転換は──  ──大当たり。  我ながらプチ感動した。葡萄のゼリーを作ってみたら、思いの外よく出来た。このまま自分だけで楽しむのが勿体ないくらい。  もう一つ作って、ルナ様に持っていこう……あ、でも2時だ。もう寝ちゃってるかなあ。 「―――――――、――――。―――――? ――――――――?」 「――――、―――。――――――、―――――――――――――――――――?」  ん?  玄関の方から声がしたような? でも今はゼラチンを混ぜてるから、キッチンを離れられない。 「―――――――――! ――――――――――――――――――――――。――――――――――」 「―、―、―。――――――――――――――。―――――――――――――――――、――――――――――――――――――――――――、―――――――――――――――――?」  やっぱり声が聞こえる……こんな時間に誰だろう。  とりあえずゼリーの準備は終わったので、冷蔵庫に入れて冷やすだけの状態にした。声のする方へ向かおう。 「―――――――! ――――――――――、―――――――――――――――。―――――――――――――――――――――――――!」 「――――――――――――――――、――――――――――――――――?」 「―――――――――――……! ――――――――――――!」 「 (/ω\*) 」  わっ!  な、なんだろう、壁になにかを投げつけた? もしかしてただ事じゃない雰囲気? 喧嘩でもしてるなら止めに行かないと。  でも急ごうとしていた足は途中で止まった。玄関へ近付くにつれ、声がはっきりと聞きとれるようになり、その会話主たちが喧嘩をする間柄ではないと気付いたからだ。 「サーシャ、私の言うことが聞けないんですの? いまは一枚でも多くのデザイン画を描かなければなりませんの。そう、今からなら……明け方までに最低でも10枚。普段の倍のスピードで描かないといけませんわ」  普段? 天才肌のユルシュール様が、そんなに普段からせっせとデザイン画を描いてる印象ってないけど……シャシャっと一発で決めちゃうイメージだ。 「ですが用紙がなければ何もできないでしょう? お嬢様が目覚めた頃には枕元へ用意しておきます。さ、おやすみなさいプリンセス」 「いいえ、寝ませんわ。私のような凡人が、ルナのような天才に挑むんですのよ? 普段通りの生活を送って勝てるとでも思っているんですの?」  凡人? ユルシュール様は謙遜してるのだろうか。だけどサーシャさん相手に謙遜……するかなあ。  あ、思わず聞き耳立ててた。人の会話を盗み聞きなんてよくない。 「描いて描いて、倒れるまでは描きつづけますわ! 眠るのはその時で構いませんの。今回を逃せば、製作が終わるまではルナと勝負する機会がありませんわ!」 「私はクワルツ賞のときのような思いは二度としたくないのですわ!」 「お静かに、お嬢様。この時間とは言え、誰が突然来るかわかりませんよ?」 「誰もいませんわ。そこの階段から下りてこない限り、ここには誰も来ないはず――」 「あのー、いかがなさいましたか?」 「!?」 「あ……そういえばダイニングの奥は、朝日さんの部屋でしたね。あれまお嬢様、大・失・敗」 「用紙とおっしゃられていましたが、デザイン画を描くための用紙ですか? でしたら私の部屋にございますから、お分けして……」 「よっ、用紙の買い物の話を知っている……どっ、どこから聞いていましたの!?」 「どこから……今までキッチンに居たのですが、こちらの方から大きな音が聞こえてきたので、ダイニングへ移動しました。たしか普段の倍、デザイン画を描くというお話だったような……」 「…………!」 「ああ……あの、お嬢様が机を叩いて、花瓶をひっくり返したときですか。ごめんね朝日さん、後片付けは済ませておいたので、花瓶代を倍額弁償で許してもらえるかな。八千代さんには明日話しておくよ」 「サーシャ……それっ、それどころではありませんわ。朝日に、私たちの会話を聞かれたかもしれませんのよ……」 「あの、顔色が優れないようですが……本日はサーシャさんの勧めに従って、お休みになられた方がよろしいのでは?」  ユルシュール様は驚愕の顔を浮かべたまま固まっていて、僕の問いかけにも返事がない。しばらくそのまま見守っていた。サーシャさんもにこにこ笑っていた。 「あ……そういえば自分のことを凡人と仰られていましたが、そんな謙遜をなさらなくてもユルシュール様には才能があると思います」 「!!!」 「サーシャ、今すぐ朝日を私の部屋へ連行しますわよ! 拘束してよ!」 「ユルシュール様、最後だけ子どもみたいな言葉になってしまって……え、あれっ? わわっ、サーシャさん待って、担がないで――わ、わーっ……むぐっ!」 「深夜に大声を出しちゃ駄目だよ」  軽々と担がれた上、手で口を押さえられた僕は、何の抵抗もできずにユルシュール様の部屋へ連行された。 「ですわ」  ユルシュール様は困惑を浮かべた表情で、自分の顎をつまんでいた。  だけど困惑しているのは僕も同じで、一体なぜここへ連れて来られたんだろう。  凡人とか謙遜の話をした辺りで、連行するのを決めたみたいだけど……普段が自信家だから、自分が一度でも謙遜したと思われたくないのかな。 「困りましたわ……実に困りましたの」 「あの、今日のことは話すなと言われれば、誰にも口外はいたしません」 「信用できませんの。朝日はルナのメイドですわ」 「いえ、いくらルナ様と言えど、他人のプライバシーの侵害になるようなことは話しません」 「では実はいまルナが起きていて、明日の朝に『深夜に騒がしいようだが何があった?』と聞かれたら、なんて答えるんですの?」 「ユルシュール様にお会いしましたと伝えるだけで、特に会話の内容までは話しません」 「では会話の一部が聞こえていて、デザイン画やルナに勝てないという〈件〉《くだり》が聞こえていたら、なんと説明するんですの?」 「…………」 「やはり信用できませんわーっ」 「ももも申し訳ありません! 違うんです、ちょっと言い訳を考えただけで、咄嗟に言葉を思いつかなかっただけなんです!」 「そんな様子をルナの前で見せたら、即座に隠し事をしているとバレますわ。もっと必死に隠してもらわないと困りますわ!」 「はい……最善は尽くします」  だけどそれで信用できないと言われても、事実に対して嘘を付けばどうしたって矛盾は出てくるし、僕にだってどうしようもない。 「一応聞いておきますけど、今すぐ私に仕える気はありませんわよね?」 「それは……はい、できません。申し訳ありません」  特に今は最後になるかもしれない覚悟でデザインに挑んでる。ルナ様の付き人を辞めて、学校から去るわけにはいかない。 「わかりましたわ……では、こういたしますわ。サーシャ」 「ウィ」 「今すぐ朝日の部屋を捜索して、何か人に言えないような秘密を探してくるのですわ。それを以て、お互いの口封じにいたしますの」 「駄目ですーっ」  仮に部屋を徹底的に調べられたら、男である物的証拠が出てくる。基本的にバレるようなものは持ちこんでないけど、万が一のための替えのウィッグ。あれだけは良くない。 「部屋だけはどうか……むぐっ!」 「大声は駄目だって。隣の部屋は僕だからいいけど、さらにその隣は北斗なんだ。あの子は音に敏感だよ」 「うー……ん、勝手に部屋を調べるのは気が引けてきましたわ。ただでさえ今は、お互いにデザインで競いあっている身ですし……」 「朝日。自分の落ち度とは言え、私は人に知られたくない話を聞かれてしまいましたの。というよりも、ルナにだけは知られるわけにはいきませんわ。それは私がこの国へ来た意味がなくなることと同じですの」  もがいていたら憐れに思ってくれたのか、ユルシュール様の口調が頼みこむ風に変化した。 「私はどうしても安心したいのですわ。そのために貴女の秘密を一つだけ教えていただきたいんですの。私も自分の秘密があるから人には決して喋りませんわ」 「お嬢様は秘密を守るためなら、口止め料でもお支払いになるでしょう」 「ええ、それでも構いません。ですが、金銭の繋がりでは必ずうっかりが生まれてしまいますわ。人に心からの注意を求めるためには、秘密の共有が一番の鎖になると思いますの」  ユルシュール様の必死さが伝わってきた。そこまで下手に出られると、僕も本当に申し訳ない気持ちになるんだけど……。  でも、でもごめんなさい。僕の秘密だけは、話すわけにいかないんです。 「無理強いしていることは承知ですわ。慰謝料が必要なら、在学中はお支払いいたします。どうか貴女の秘密を教えてください」 「ユルシュール様……先ほど玄関で聞いた話ですが、それほど必死になって隠すような秘密だとは思えません。ただユルシュール様が努力をして、ルナ様の実力を認めている。それだけのことではありませんか?」 「ええ、それだけですわ。それだけのことをルナに知られるわけにはいきませんの。私が必死に努力をしているなんてことは……」 「私には、ユルシュール様が何を恐れるのかわかりません。努力をして、それを知られることをなぜ恐れるのですか」 「ですから、全て聞こえていたのでしょう? 私には才能が無いからですわ」 「それは、謙遜でしょうか? 私もユルシュール様のデザイン画は見たことがあります。その才能に憧れました。羨ましいと思っています。ルナ様と同じほどの才能を持った方だと思っています」 「それは、何百、何千と描いたものの中から、特に優れたものしか人には見せていないからですの。見栄と思っていただいて構いませんわ」 「それを見栄と言われても、誰でも同じことをすると思います。失敗もあれば、期日に間に合わせようとして、無理やり搾りだしたデザインを使わざるを得ないときも……」 「あの子に、それがありますの?」 「え?」 「ルナにそれがありますの? 朝日が部屋へ行った時、あの子が当たり前のように描いているデザイン画が、人より一度でも劣っていたことがありますの?」  あ……。  ない。言われてみれば、ルナ様のデザインを見て、僕が口を出せると思ったことは一度もない。あまりに自然と才能の形が生みだされるから、違和感を覚えることも忘れていた。  僕が普通だと考えた「失敗作」が、あの人の手で描かれたことはなかった。たとえ本人が気に入らない作品でも、僕から見れば垂涎の一品だ。  ルナ様が普通じゃないことに気付いたと察したのか、ユルシュール様はサーシャさんに命じて、棚から一冊のファイルを持ってこさせた。 「開いていただけますか」 「え……あ、はい……」 「それは、私が先週描いたデザインの一部ですわ。遠慮はいりません。感想を聞かせていただきたいんですの」  言われるままにぱらぱらとファイルをめくってみる。決して人より劣ってはいないけれど、その先を生みだすための下敷きとなるデザインだったり、どこかで見たことのあるデザインばかりだった。  たとえばこれ……今月のクワルツ・ド・ロッシュに載っていたものと似てる気がする。 「朝日は同じ雑誌を見ているからわかりますわよね? それは、今月の記事で見たデザインが気に入ってしまい、その影響が頭から離れないまま、それでも無理やり描こうとして生まれたものですわ」 「ですからその『表に出さないもの』のファイルに入れたんですの」 「いま見ても悔しく思いますわ。雑誌の服を作ったパタンナーと同じ方にそのデザイン画を見せれば、一度世の中に生みだされたものと同じ服ができるでしょうね。これでは猿真似と変わりませんわ」  僕にも覚えのある話だ。だけどデザイン画に限らず、人の影響を受けた「まま」の作品を世に出してしまうのは、誰でも一度は経験をしたことがあると思う。  それでもユルシュール様は自らの才能を恥じるように目蓋を伏せた。悔しさよりも、悲しさが表れた顔をしていた。 「ルナは天才ですわ。それは間違いありません」 「それをわかっていても、私はあの子に負けたくないのですわ。だけど自分の才能が及ばないことも自覚してしまいました。ですから彼女の倍以上の努力をするしかないのですわ」 「でもあの子の前で、ボロを着て泥の中を進むような姿は見せたくないのですわ。私はあくまで白鳥でなければいけませんの。たとえ水の中でもがいていても、優雅な姿で毎日を送らなければならないのですわ」 「それは……先ほど言っていた見栄、なのでしょうか」  自分で聞きながら、僕は「違う」とはっきり思った。女性の見栄は時として大きな力になるし、その心をネガティブに捉えようとは思わない。だけど、ユルシュール様の表情は、それだけじゃないことを語っている。 「もちろん見栄もありますわ。ですがそれ以上に、悔しいんですの。私は、スイスの服飾学校へ通っていた時に――むぐっ」 「お嬢様、待って」  僕の口を何度か押さえた手が、今度はユルシュール様の口を押さえた。小さく首を振り、主人が頷いたのを確認してから、その手を離す。 「彼はルナ様の従者ですよ。今から話そうとしていることは、貴女が、この国へ来た理由の全てです。打ち明けてしまって良いのですか?」  サーシャさんは、僕を警戒しているわけではなく、ユルシュール様の確認のために話を止めたみたいだ。その証拠にこちらは見向きもしない。自分の主人だけを見ている。  僕も、半ば脅迫紛いにここへ連れて来られたと思っていた。こんなシリアスな話を打ち明けられるとは思っていなかったから、ユルシュール様に確認しておくことにした。 「ユルシュール様。私は、話が聞こえてしまったとは言っても、ユルシュール様の才能を疑ったりはしていませんでした」 「自分がルナ様に及ばないと謙遜したことを聞かれ、恥じて、怒っているものだと勘違いしていました。ですから今までの話も、打ち明けられなければ気付くことはなかったかもしれません」  そう。サーシャさんはこの先を止めたけど、ここまでの話の時点で、軽々しく部外者に話せる内容じゃなかったはずだ。  それなのに打ち明けてくれたのには理由がある? それを確かめてたくて聞いてみた。 「どうして私に?」 「……朝日はいま、勘違いをしたと言いましたけど」 「その朝日の勘違いが、長続きしないからですわ。だって用紙を買いに行かせたあとの話を全て聞いていたのでしょう? 私には自分の才能がないことを晒すしかなかったのですわ」 「い、いえ、ユルシュール様に才能がないだなんて、言われなければ思いもよらないと言いますか……正直に言えば、今でも素晴らしいデザインを生みだせる方だと思っています」 「それは買いかぶりというものですの。朝日は一時的に忘れているだけですわ。私が口にしたことを思いだせば、ルナより劣っていることに気付くはずです」 「ユルシュール様が口にしたこと?」  なんだろう。思いだそうとはするけど、情報量が多かった上に、そのあと慌てさせられたからすぐには出てこない。 「思いだせませんの?」 「はい……申し訳ありません、すぐには」 「時間が経てばきっと思いだすのですわ。でもいま思いだしてもらわなくては、私がもう一度言わなくてはならなくなりますの。だからもう一度よく考えていただきたいですわ」 「うー……ん。申し訳ありません、思い当たりません」 「……仕方ありませんわね。ではもう一度言いますわ。私は、クワルツ賞のときのような思いは二度としたくない、と言ったのですわ」 「クワルツ賞のとき……」  そういえば言ってたような?  でもクワルツ賞のときに辞退したのはルナ様で、ユルシュール様が辛い思いをする理由はなかったような? 「ライバルであるルナ様の辞退を悲しく思った……とか」 「あら、朝日は意外と鈍かったんですのね。これなら黙っていてもバレなかったかしら」 「いいえ。放っていたら気付いたでしょう。情報を整理していけば、すぐに」  情報……ユルシュール様は衣装製作に関わらず、一人でデザイン画を描いていて……あ、そういえば八千代さんから受賞の話を聞いたときに、気付けばいなくなっていたような?  さらにはその前……桜屋敷で古雑誌を整理していたとき、やけにクワルツ・ド・ロッシュ誌の発売日を気にしていたような……  随分とクワルツ賞について詳しくご存知だったし、あまつさえ参加してもいいとまで言っていたけれど……。 「もしかして、ルナ様が受賞したあの回に、ユルシュール様も応募していたのですか?」  口にしてから配慮が足りなかったと気が付いた。でもユルシュール様は怒らずにいてくれて、その代わりに、苦みの混じった笑顔を浮かべながら目を逸らした。 「ルナは初めて応募したコンテストで一次審査通過。私はスイスに居た頃から、欧州のコンテストに何度も応募して、未だに一度の受賞経験もありませんの」 「公の場で二人の結果が出たのは初めてでしたから……悔しかったですわ」  ユルシュール様は過去のこととして余裕を見せようとしたんだと思う。でも失敗した。その可憐な唇を赤くなるほど噛みしめる。 「私はこのことをルナはおろか、八千代にも話していませんの。もう気付いているとは思いますけど、はっきりとした形で負けるのが怖かったのですわ」 「笑ってしまいますわね。普段あれほど強がっている私が、公の場で負けるのを恐れて、応募したことすら付き人であるサーシャにしか話せなかったんですもの」  応募してから発表までは二カ月間。三月と言えば、ユルシュール様が日本へ着いたばかりの頃で、自信と希望に満ちあふれていた時期のはずだ。  それでも、勝負の開始のゴングを避けた。それもルナ様には隠して一方的に。人によっては卑怯だと捉えるかもしれない。  だけどプライドの高い彼女が、その間にどれほど自らを恥じて傷ついていたかは、想像するにあまりある。 「そんな私の器の小ささを知っているのは、自分と、サーシャ、それといま知った朝日だけですの」 「このことをルナに知られるくらいなら、死んだほうがマシですわ」 「器が小さいなどとは思いません。ですが、勝負を避けた理由を知りたいとは思います」 「正直に言えば、私はまだルナ様とユルシュール様に決定的な差があるとは思っていません。たとえ十枚の中からでも、千枚の中の一枚でも、優れたデザインを生みだせることに変わりはありません」 「そのユルシュール様が、ルナ様に負けるのを恐れた理由はなんですか?」 「その理由は、お嬢様が先ほど君に聞いてもらおうとした話だよ」  サーシャさんはまだ情報の開示を認めなかった。ユルシュール様に向けて首を振る。 「それはお嬢様の内心に関わる大切な話だと私は思ってるんだ」 「だからこちらの勝手な都合を押しつけて申し訳ないけれど、君にも協力を求めたいんだ。この話を聞いたら、お嬢様の言うとおりに秘密を一つ教えて欲しい」 「それは……」 「些細なことでもいい。僕のお嬢様を安心させるための、誓いの証が欲しい」 「…………」  困った。サーシャさんの言うとおり、僕は彼女たちに従う義務はなくて、一方的に断ることもできる。  でもそうすれば、露見を恐れてユルシュール様は間違いなくスイスへ帰る。ひょっとしたらルナ様とも疎遠になってしまうかもしれない。今の彼女はそれほど弱い人に見える。  そしてもう一つ。卑怯な真似をしてでも服飾の世界で勝負をしたいという気持ちが、こんな格好で性別を偽る自分の姿と重なった。  話の内容によっては性別のことではなく、大蔵の人間であることを明かそう。それだけで秘密の価値としては充分なはずだ。 「わかりました。ユルシュール様の話のあとに、僕の秘密を打ち明けます」 「ありがとう。本当に勝手を押しつけているのに……感謝いたしますわ」  普段の彼女は鳴りを潜めて、ごく普通の、自分の未来に悩める女の子がそこにいた。 「私が逃げた原因は、自分の思い上がりと劣等感によるものですわ」 「スイスの服飾学校にいた頃、私はクラスの中でも成績優秀者に入る部類でしたの」  それは……どこかで聞いたことのあるような話だ……。 「ファッションの本場、欧州の学校で成績が良いことに気を良くして、私は家でも学校でも今以上の自信家だったのですわ」 「本当に、あの頃は気付いていなかったんですの。校内では持て囃されていても、応募したコンテストは悉く落選。それすらも、審査員の見る目がないものだと思っていましたわ」  なんだか……すごく僕と似た環境にいるような……。  違う部分と言えば、僕には完璧すぎる兄がいて、ユルシュール様のような自信は持てなかったことだ。  あ、ということは、ユルシュール様が劣等感を覚える対象になるのは……。 「事実、担任はいつも私のデザインを褒めていましたわ。コンテストに出せば優勝間違いなし、落選しても、欧州は広いですからと慰めを言いそえて」 「でも私が三年生になって半年たった頃、ルナがデザインの勉強を始めましたの。メールでやり取りをしていた私は、先輩として純粋に彼女を応援しましたわ」 「そしてある日。学校に入りたいと言っていた彼女を驚かせようと、そのデザインをデータでもらい、学校へ持っていったんですの。私の作品として提出し、教師からのアドバイスを伝えてあげようと思ったんですわ」 「それは、親切だったんですね?」 「ええ。朝日も人に贈り物をするときは驚かせてあげたいと思うでしょう? その程度の軽い気持ちだったのですわ。まだデザインの勉強を始めて一ヵ月目のルナを喜ばせようと思ったんですの」  その先を聞くことに、一度待ったをかけたかった。でも話し手はユルシュール様だ。彼女の語りは止まらない。 「ルナのデザインを見た担任はまず驚き、次に、目を輝かせて私を褒めたたえましたわ」 「本当に感動した眼差しというものを初めて知りましたわ。今までのデザインで、一番素晴らしいと言われましたの。これが本当に優れたものを見た人間の反応なのだと、ただ呆然としましたわ」  ごくりと唾を飲みこんだ。ユルシュール様の話のはずなのに、僕は自分がその場にいることを想像した。 「何度も何度も絶賛されましたの。その声を聞いた他の教師たちも集まってきて、まるでパーティーの主役のようでしたわ。数枚の中からならともかく、たった一枚で、ですのよ」 「それは、私が人生で初めて味わった屈辱でしたわ。まるで、魔法のドレスと共に、顔まで別人に変えられたシンデレラのように。唖然としていた私も、次第に悔しさが込みあげてきましたの」 「教師たちは、その作品をコンテストに出そうと言いました。私は怒るわけにもいかず、まだ未完成だからと断りましたわ。逃げるように職員室を出る私を、教師たちはさぞ不思議に思ったことでしょう」  救いを求めるようにサーシャさんに視線を向ける。だけど彼は目を閉じて、黙って彼女の思い出を聞いていた。 「私はそのとき初めて卑怯な真似を……ルナを喜ばせようとして、したことなのに……その事実を伝えなかったんですの」 「それどころか、なんとかして担任のあの目を私に向けさせようと、必死になってデザイン画を描きましたわ。普段の何倍も描きました。悔しさが私に疲れを感じさせなかったのですわ」 「でも教師たちの反応は、いつもの優しい言葉ばかり。ルナのデザインを見た時のように、本物の感動は卒業まで得られませんでしたわ」 「それまでの私が、いかに教師から甘やかされていたかわかりましたわ。それは家柄のこともあるでしょうし、単に期待をされていなかったのかもしれませんわ」 「でも、今のユルシュール様は……ルナ様に及ぶほどのデザインを描けています」 「ええ、努力しましたもの。私もただ落ちこんでいたわけではありませんの。スイスの学校を卒業したのが九月。日本の学校の入学式が三月と聞いて、その半年間は死に物狂いでデザイン画を描きつづけましたわ」 「その努力が報われたのか、その半年間で、少しは周りに認められるものを描けるようになりましたわ。卒業してからも何度も学校へ通って、何十枚かに一枚は、教師たちを驚かせることができましたの」  ここからが僕とユルシュール様の違いだ。僕はこの道を諦めようとしたけど、彼女はボロを着て、泥の道へ足を踏みいれてでも前に進んだ。 「私はスイスでの進学を捨てて、ルナのいる日本へやってきましたわ」 「その時は既に、劣等感に潰されそうだったんですの。ルナのデザインを超えられない、ルナのデザインのように感動されないと思う気持ちが、強烈なライバル心を生んだのですわ」 「ルナ自身も、私がライバル視することを喜んでくれましたの。目標にし甲斐があると言ってくれて……彼女の知らないところで、どちらが優れているかは決着が付いているのに、ですわ」 「さすがルナ様、口は悪くてもお優しい」 「とはいえ私も劣等感の塊になっていましたから、ルナに弱気なところは見せられず、あの子もあの性格だから、今のような言い争いをする状態になってしまったのですわ」 「ああ……上手く噛みあえば、とても仲良くなれる二人なのに」 「そういうわけで、私はルナの前で醜態を晒すわけにはいきませんの。そんなことになれば、いま自分を支えている気持ちが折れてしまいそうなんですもの」 「本音を言えば、毎日水の中でもがいているようなものですわ。ルナの前では余裕を崩すわけにはいきませんし、夜になれば寝る時間を削ってデザイン画を描いて、それも彼女の倍は描かなければならないのですわ」 「あの子の側にいるのも、自分とどれだけ差が付いているかが、見えていないと不安なだけなのですわ。だけど、今でも、差は開いている気がして……」 「そんなことはありません、私はユルシュール様のデザインが好きです」 「ありがとう。朝日は、初めて私の部屋でデザイン画を見せたときにも、本物の輝いた目で褒めてくれましたわ」 「あ……」  そういえばリビングにいたユルシュール様は、デザイン画を見て感動した僕に「お互いがんばろう」と言ってくれた。 「スイス時代の教師の目に劣等感を覚えて以来、人にデザインを見せる時は、相手の目を気にしてしまうようになりましたの」 「その点、朝日は本物でしたから信頼できますわ。それと、その時に聞いた天才と呼ばれた兄と比較されるという話……少し、自分の姿と重ねあわせてしまいましたわ」  くすりと自嘲気味に笑うユルシュール様は、ようやく普段の調子を取りもどしてきたように見える。 「さ、これが今まで隠していた、本当は弱くて才能のない私ですわ。なにか聞きたいことはありまして?」 「ええと、聞きたいことというわけではないのですけど」 「ですわ?」 「ユルシュール様が言ってくれたように、恐縮ですが、自分と重ねあわせてしまいました」 「ユルシュール様のことを応援したくなりました。今度はこちらからお願いします。一緒にがんばりましょう」 「…………」 「相変わらず朝日は素直ですわね。ルナと大違いですわ」 「主人と性格が同じでは従者は務まらないと思うのですよ。同属嫌悪というじゃない」  珍しく真顔でいたサーシャさんも、普段のおちゃらけた調子に戻ってる。ユルシュール様の劣等感を覚える話は完全に終わったみたいだ。 「さて、それじゃ朝日くんの秘密を教えてもらおうかな?」  うっ。そしてまたしても暗い空気になりそうな流れ。  どど、どうしよう。ここまで打ち明けてくれたユルシュール様の誠意に応えるなら、自分が男だと言うべきだ。  でも「それはさすがに無理ですわ」と一刀両断にされたら返す言葉もない。受けいれられなかったら、せっかく和解したのに、全てが崩壊する危険がある。  やっぱり大蔵家の話題でお茶を濁すべきかなあ……だけど彼女の気持ちに応えてあげたい……! 「なにを悩んでるの? 大丈夫、うちのお嬢様はグローバルな世界で生きてきてるから、大抵のことには寛容だよ。性別とか」 「はい。ユルシュール様がお優しいのは、今の話を聞いていてよくわかりました。ですが私にも相当の覚悟がいる話で……」  ……あれ? 性別?  引きつった笑いを浮かべた僕に向けて、サーシャさんは自分の胸をぱんと叩いた。 「ちなみに僕は知ってるよ。だって君、その道に入ってせいぜい半年か一年でしょ? 幼い頃からガチで続けてる僕から見れば、全然ぬるいもん」  その道……ガチで続けてる……そういえばサーシャさん、学校では女装してたりしたから……。  僕の性別バレてる!  どどっ、どうしよう。というよりバレてるものはどうしようもないんだけど、この格好をして初めて他人から指摘された。  サーシャさんもやってることだから恥ずかしく思う必要はないんだけど、今まで自分が必死に隠そうとしてたのも気付かれてたと思うと、ははははは恥ずかしいいいいぃー! 「あら、なんですの? 何を二人で分かりあってますの? そうだ、決めましたわ。朝日はその秘密を打ちあけていただきたいですわ。それ以外、認めませんわよ」  お、追いつめられた……自分で言わなくても、もはやサーシャさんがバラす気満々だ。  何かがごくんと喉を下っていった。な、何から話そう。 「あ、あの。ぼぼ、ぼ、僕は」 「なんですの? よく聞こえませんわ」 「ぼぼっ、ぼっ、僕はですねっ。その、あのっ……」 「なんですの? というよりぼそぼそ話していて何も聞こえませんわ。ぼぼぼ?」 「でっ、ですから僕はっ! 男なんです!」 「オホホホ、ほんとですの? あら、すごいですわね。じゃあ男の体をしてるんですの?」  うん。今まで女と信じてくれていたなら、こんなものだよね。僕もルナ様から「私は男だ」って言われたら、似たような反応になると思う。 「はい、男の体です。まずはウィッグを取ります」 「いいですわよ。どうぞ?」 「←こんな感じです」 「ですのーっ!?」 「男に戻ると、今まで着ていたメイド服が恥ずかしいのでウィッグを着けます。これで信じていただけたでしょうか」 「ででっ、で、ですのですわですのですの……全く気付きませんでしたわ。胸は?」 「パ、パッドです」 「見せなさいですわ」 「はい」  僕がエプロンを脱ぎ、上半身を露にしてブラを外すと、ユルシュール様はですわですわと何度も繰りかえした。 「というわけで、恥ずかしいから着ます。そんなわけで、これが僕の秘密です」 「驚きましたわ……サーシャは気付いていたんですの?」 「ウィ。恐らく深い事情があるのかと思い、彼の気持ちもよくわかるので今まで黙っていました。あと数年すれば僕たちでも騙せるようになりそうだけど、フッ、まだまだ甘いね」 「はい。甘くていいです。卒業したら男に戻るつもりなので」 「それはやはり、フィリア女学院で学ぶために変装したんですの?」 「その通りです。女性しか募集がなかったので、やむを得ず女装したのですが、自分でもここまで上手くいくとは思っていませんでした」 「充分ですわよ。サーシャはわけのわからないことを言っていますけど、朝日の方がよほど女性に見えましたわ」 「キーッ!」  サーシャさんはハンカチをぎりぎり噛んだ後、急に女装を始めた。女装道の先輩としてのプライドがあるみたいだ。 「やはり私の方が美しいよねえ……! フフフ、フィリア女学院でも自ら正体を明かすまで、誰も気付かなかったしねえ?」 「というよりもショックでした。サーシャさんが男性だと明かしてもユルシュール様の同伴が認められているので、それなら僕も性別を偽る必要がなかったのかと……」 「サーシャは肉体はどうあれ、本国では『女性』と認められていますけど……」  お兄様に気付かれたら終わりだし、結局はこのままだっただろうけど。 「というよりも、どうしてまだ女装しているんですの?」 「あ、はい。採寸などもあったので、今さら引くに引けなくなったと申しますか」 「ああ、そうですわよね。私も下着でしたし……」  ユルシュール様はそこまで言いかけて、はたと何かに気付いた。恐らく僕がいま考えているのと同じことだ。 「朝日は男性なのですよね? 見ましたの?」 「申し訳ありませんとしか申し開きようがありませんと申しますか」 「ありませんではありませんわよ? サーシャ? あなたも朝日が男性だと気付いていて、どうして私が下着姿になっているのを止めなかったんですの?」 「私は全ての女装男子の味方……彼の正体を明かすなんて、その時点ではできませんでした。同じ苦しみを分かち合う私たちの誇りに賭けて……!」 「女装男子の誇りよりも大切な、ジャンメール家の使用人としての誇りを忘れているんじゃありませんの!?」  ユルシュール様は手近にあったHカーブルーラーをサーシャさんの股間へ叩きこんだ。 「ヘヴンッ……!」 「朝日っ!」 「ははははははい」  まさか僕も同じものを叩きこまれるんだろうか。恐怖で背筋が伸びきった。 「敬虔な神の僕である私を穢した覚悟はできていますのね? ジャンメール家では、ナルシスト過ぎて女性に害のないサーシャですら、緊急時以外は私の肌に触れるのを禁じていますわよ?」  神の僕の悪魔がいる……! ユルシュール様の手にはDカーブルーラー。Hカーブよりも形状が攻撃に適してる。 「しかも私だけではなく、他のクラスメイトのものも見ていますわね? 瑞穂や湊に至っては、一緒に入浴したと聞いていますけど、間違いありませんわね?」 「はい。償っても償いきれるものではありませんが、入浴の一件以来、そういった事故は避けるようにしています。今後はいっそう気を付けますので、どうか卒業までは見逃していただけないでしょうか」 「許せと言われても、瑞穂が知ったらトラウマになりかねませんのよ? 大体、ルナは何を考えているんですの? あの子がそんなことを許すなんて……」 「いえ、ルナ様にも本当の性別は話しておりません。私は主人も欺いていることになります」 「……ですわ?」  深く頭を垂れる僕に対して、ユルシュール様は意外そうな声を発した。 「あ……ルナも知らないことですの? あの子にも話していない秘密でしたの?」 「はい。このことを知っているのは、私の妹と、幼なじみの湊様。それとユルシュール様だけです」 「そうですの、ルナも知らない秘密を私に……ふうん」  まだ機嫌が直ったとは言えないけど、ユルシュール様は小さく微笑みながらしばらく何事かを考えていた。  そして口を引き締めたと思ったら、頭を下げていた僕と同じ高さに視線を合わせてくれた。 「貴方のしたことは許されることではありませんけど……今後、女性に迷惑が掛かることを一切しないと誓うなら、卒業までは黙っていてあげますわ」 「えっ」 「本来ならルナに話して放逐するところですけど、私もサーシャを女性として学校へ届け出ていますから、あまり人のことを責められる立場でもありませんの」 「いま全てを明らかにしても、瑞穂が塞ぎこんで、桜小路家の名前に傷が付くだけですわ。隠すなら、卒業まで徹底して隠し通しなさい」 「それに加えて、卒業後は10年間、女性のための慈善活動を行うこと。これが私からの条件ですわ」 「はい。ありがとうございます」  湊は好意のみで許してくれたけど、ユルシュール様が寛容でいてくれたことには感謝しなくちゃいけない。もう一度深く頭を下げた。 「……まあ、ルナの知らない秘密を話してくれたことは気分が良かったですわ」 「え?」 「ですから、ルナの知らないことを私が知ってると思うだけで心地いいのですわ。オホホホ、精神的な部分で優位に立った気分ですわー」  ルナ様に対して、ライバル心が本当に強いんだなあ。ユルシュール様はにこにこしながら僕の頭をよしよしと撫でた。 「これからは私が影の保護者になってあげますわよ。いつでも頼るといいですわ」 「はい。感謝いたします」 「それと朝日からも私にパタンナーとして協力を……あ、デザイナーとしてでも構いませんわ」 「いえ、ユルシュール様には見逃していただいた形ですし、今回は自分のデザインを捨てて、全面的に協力いたします」 「ですの?」 「その、本当は、今回でデザイナーとしての見込みがなければ、デザインの道は諦めて、パタンナーとして頑張ろうと思っていたんです」 「ですが先ほどのユルシュール様の話を聞いて、努力をすれば才能に勝てるという場面を見てみたくなりました。私の今のままではとてもルナ様に及ぶデザインは描けませんが、ユルシュール様ならと思って」 「ユルシュール様がルナ様に勝つ場面を見てみたいというのが今の本音です。それが自分のためにもなるのだと思います」 「勝手に朝日の将来を押し付けられても困りますけど、どうせルナには勝つつもりなのですわ。協力してくれるというなら、喜んでお受けいたしますわよ」 「はい。ユルシュール様のデザインが勝れば、僕のお兄様に対する劣等感も少しは消えると思うんです」  ふふっ、とユルシュール様は微笑んでくれた。同盟成立だ。  僕もユルシュール様も才能がないわけじゃない。だからこの道にしがみつきたい。でも本物には勝てない。そんな弱い物同士の肩の寄せ合いだった。 「でも本当にいいんですの? あなたは主人と敵対することになるんですのよ?」 「ルナ様のデザインが選ばれたときは、製作にお尽くしいたします。それに元々は、僕一人でも戦うつもりでしたから。ルナ様も今回は対等に戦うことを認めてくれています」 「あ、そうでしたわ。朝日もデザインを出すつもりでしたわね。では対等な相手に協力していただくのですから、私も朝日のことを使用人としてではなく、同じ目線で強力してもらわなくてはいけませんわね……あ」 「どうされましたか?」 「いま気付いたのですけど、女装してまで潜入したということは、朝日の名前はもしかして仮のものですの?」 「はい」 「あら、そうでしたの。サーシャは本名のままで通していましたから気付きませんでしたわ。朝日の名前はなんて言うのかしら?」  大蔵遊星……でもこれを言うと、大蔵家のことも知られちゃうな。  だけど仮で付ける男の名前も思いつかないし、ここまで話してるなら打ち明けてもいいだろう。ユルシュール様が黙っていてくれる条件は、卒業後も付きあっていくことが前提になっているし。 「大蔵遊星です」 「ユウセイさんですわね。覚えましたわ」 「大蔵遊星。『華麗なる一族』大蔵家の一員じゃないですか。君はジャンメール家にまるで劣らないセレブな人間だったんだね」 「は?」 「そんなことはありません。僕はしょせん妾の子ですから」 「お待ちになって。え、よくわかりませんでしたわ。ジャンメール家に劣らない? 大蔵家というのは、どれほどの家柄なんですの?」 「現在だけで比較するなら、桜小路家では比較対象にならない程の財産を持った家ですよ。はいこれお嬢様、去年の世界長者番付のここ」  ユルシュール様の目が彼女の故郷までふっ飛んだ。ついでに両脇の髪束までまっすぐ跳ねあがったように見えた。  しばらく固まっていた彼女は、我に返ると手にしていたルーラーを放って、ぱたぱたと自分のスカートを整えた。 「今まで数々の失礼を口にしてごめんあばずれ。それほどの家の出の方だとも知らず、私ったらお恥ずかしい真似をしてしまいましたわ」 「ごめんあそばせです。あと通常ご自身の感情に『お』は付けません。あと僕は苗字が大蔵というだけの人間です、畏まられる立場ではありません」 「そ、そうですの? それでもあの、今後は対応を改めますわ」 「それだとルナ様に勘づかれてしまう危険性があるので、どうかこれまでと同じ扱いをしてください。うっかり出てしまうと困るので、二人きりの時も朝日の名でお呼びください」 「あ、あら、そうなんですの? というよりも、普段から使用人として扱われて嫌だったりしませんの?」 「昔からの性分ですし、このお屋敷に入ってからも四ヵ月経ってます。もう慣れちゃいました。こんな生活も意外と楽しいですよ」 「朝日さんは心が広いんですのね、オホホホホ」 「あの、さん付けはやめてください。今まで通りの対応をお願いします」 「わ、わかってますわ! わかってはいますけど、こちらも緊張してしまいますの。その、しばらくは許していただきたいですわ」  緊張しちゃ駄目なんだけど……。 「あ、もしかして? 遊星さんが比較された天才の兄とは、大蔵〈衣遠〉《イオン》学院長代理のことですか?」 「はい」 「そうなんですの!?」 「へえ……」 「そ、それは比較対象とされるには、私以上の手強い相手ですわね……今まで知らない相手だからはっきりとした苦労までは掴みにくかったですけど、あの人と比べられるなんて……朝日が不憫ですわ」 「そんなことないですよ。割と元気です」 「これから二人きりのときは、朝日の扱いは気を使うようにいたしますわ」 「いえあの……ほんと今まで通りでお願いします」  その後もユルシュール様の対応は丁寧で、あらゆる言動が普段より控えめだった。  やっぱり大蔵のことは話すべきじゃなかったのかなあ……。  乾拭きをして、はいおわりっ。  今日もお風呂掃除を終えてすっきり。家事は免除されてるけど、最後に入る以上は後始末だけでもしておきたい。  というより、そうさせてもらえないと気になってデザインどころじゃなくなる。  ただ改めて見ても、簡易版とはいえ、この浴室の広さを一人で掃除してるのって我ながらすごい。部屋着に着替えながらそう思った。  そして部屋へ戻ってデザイン画……が今週の流れのはずだった。  でも今はその後にもう一仕事残ってる。深夜一時からの密会が恒例となっていた。  この合言葉も恒例の一つだ。 「リバプール」 「ザイール」 「イスタンブール!」 「昨日はマンホール=チアガール=エイプリルフールでしたけど、何か私に言いたいことでもありますの?」  合言葉は毎日変わる。初日にサーシャさんが始めてから、特に疑問もなく続けてきた。 「やだなあ、ただの合言葉ですよ? 毎晩深夜に二人で勉強会をしてると知れば、彼女が主人に怒られちゃうじゃありませんか」 「こんな深夜に訪ねてくる人なんて、他にはいませんわ。さ、朝日。座って」  ユルシュール様の手にはデザイン画の束。僕の持っている枚数の倍はある。 「自信作は後ろに回しましたの。その、ちょっと最初の方は出来が悪いかもしれませんけど、後に行けばどうしてそうなったのか分かりますわ。試行錯誤を繰りかえしたのですわ」 「相変わらず難しい日本語をご存知ですね」 「洽覧深識ですわ。ささ、早く見ていただきたいですわ。朝日の感想を聞きたいですの」 「はい」  一時までデザイン画を描けるだけ描いて、深夜の勉強会。それが僕たちの今週の流れになった。  ユルシュール様は本当に努力家だった。毎日30枚以上のデザイン画を描いて僕を待っている。50枚なんて日もあった。  それでも昼間は普段と変わらない生活を送っている。湊なんて苦戦して部屋から出てこないのに、オンオフをきちんと過ごしてこの枚数はすごい。  自分のペースを崩さないのにも驚く。ルナ様から「調子はどうだ?」と聞かれても「余裕ですわ」と返せてしまう。本当は、焦ったり不安だったり、内心で色んな感情が渦巻いているはずなのに。  その証拠に、二人きりだと素直だ。よほど心配みたいで、ちらちらちらちらと、ちら多めに不安そうな表情を浮かべて、デザイン画を見る僕の顔を窺っている。 「え……と、最初の方のデザインも思ってることを素直に言った方がいいですか?」 「駄目ですわ! いま朝日が見ているあたりは、私もなにを言われるかよくわかっている部分ですわ。結構ですわ。そこはいいですわ。どんどん進めていただきたいですわ」  本人が失敗作と言うだけあって、少し前衛的な部分が先走りした感は否めない。でも、面白そうなデザインなんだけどな。  そんなデザインが幾つか続く。僕の表情を見て困った顔をするユルシュール様が、普段の余裕ぶりからは想像もできないほど弱気だった。  なんだか微笑ましいな。 「いま笑いましたわ。酷いですわ」 「違います。馬鹿にしたのではなく、かわいらしいと思っただけです」 「ほんとですの!? どれですの? そのあたりのデザインに、かわいいと思えるものがあったなんて思いませんでしたわ」 「あ、デザインではありません。不安そうなユルシュール様の顔が、です」 「……っ」  我慢してる。本音を言ったつもりだけど、からかうような形になっちゃってごめんなさい。  以前なら言いかえしてきてもおかしくないのに、顔を赤くするだけで耐えているのは、僕の素性を知ってしまったからみたいだ。  対応は変わらずにとお願いしても、どうしても気になるみたいで気持ちお淑やかだ。きっと色々我慢してーる=フルール=ジャンメール。  だけどその我慢が顔に出ちゃってるところがユルシュール様らしい……。 「ま、また笑いましたわね。酷いですわ」 「いえ、今のもユルシュール様の顔のことです。息を止めたように顔が赤いので」 「……〜っ!」  とうとう手がぷるぷる震えだした。どうしよう。割と僕たち切羽詰った状況なのに、緊張感が台なしだ。 「でも本当に、以前のように接してくださいね」 「別に以前も今も我慢なんてしていませんわ」 「以前はもっと思っていることをストレートに言っていただけていました」 「じゃあ言いますわ。もっと真面目にデザインを見ていただきたいですわ」 「あ、ごめんなさい。ちゃんと見ます」  そうなんだ。ユルシュール様は焦っているだろうし、今は不安で仕方ないはずだ。僕も真剣にならないと。  改めて真顔でデザインを見る僕をユルシュール様は真顔でじっと見つめていた。  あれ? この一枚だけ顔が異常に長い。きっと急いで描いて色を塗ったから、顔にまで気が付かなかったのかな。 「ど、どうしてくすりと笑ったんですの。またおかしな顔にでもなってましたの?」 「はい。異常に長いです」 「長い! 私の顔、長かったんですの!?」 「はい。見てください、この一枚だけ異常に長いです」 「あ、デザイン画でしたの……そうですわね、長いですわ。失敗作ですわね。驚いてしまいましたわ」 「どうして驚いて……あ、もしかしてご自分の顔のことだと思ったんですか?」 「……っ!」 「一度叱られたので、今回は真面目にデザイン画だけを見ていました。ユルシュール様の顔は見ていませんよ」 「も、もうっ……」 「はい?」 「もう朝日の言うとおり、我慢なんてしませんわっ! 酷いですわ! 恥ずかしかったですわっ!」 「痛いです痛いです。ごめんなさい、前髪引っ張らないでください。あ、後ろ髪も駄目です、取れちゃいます」  あはは、緊張感なくなっちゃったけど楽しい。あ、でもこのデザイン画いいなあ。 「冷たい飲み物をお持ちしました」 「ありがとう。朝日も飲むといいですわ」 「いただきます。でも、こんなにのんびりして良いのでしょうか。まだ明日の朝までに時間はありますが」  時計を見ると午前二時過ぎ。もうひと踏ん張りできる時間は残ってる。  でもユルシュール様はすっきりとした顔をして、昨日までの緊張感が嘘のような余裕を見せていた。 「デザインは良いのですわ。二人で選んだこの三点に決めました。それに今から描いた後に見てもらったのでは、朝日の寝る時間がなくなってしまいますわ」 「大事な一日ですから、私の睡眠時間などは気にしなくても良いのですが」 「いいえ、気になりますわ。朝日は私のために時間を割いてくれたのですし、何より、自分の進む道についての決断を先延ばしにしてくれたのですわよ?」 「そう……ですね、確かに僕のデザインが選ばれることはないと思います。でも――」  自分の描いたデザイン画を手に取ってみる。こうして見ても悪くはないし、授業で提出する分には、それなりに良い評価を得られる出来だと思う。その僕が今回は諦める理由。 「――でも、ユルシュール様のデザインは、全員に選ばれるかもしれません。素晴らしい出来栄えになりました」  きょう見せてもらった最後のデザイン画。出来の悪い順と言っていたから、一番自信があったんだと思う。  見た瞬間に僕も「これです」と口にした。その声を聞いたときの、ユルシュール様のはにかんだ微笑みが忘れられない。 「デザインを見た瞬間、この衣装を完成させるにはどうすればいいか、型紙やテキスタイルのアイデアがむくむくと湧いてきました」 「作り手の想像力を掻きたてるというのは、デザインとしてとてもよく出来ている証拠だと思います」 「嬉しいですわ。だって私も朝日と同じですの。このデザインを見ていると、頭の中に生地や装飾のイメージが次々に湧いてくるのですわ」 「今までは、完成品が想像できないデザインは描けませんでしたの。だけどこの時だけは、こんな衣装を見てみたい、着てみたいという憧れが先に生まれて、子どものように純粋な気持ちで描けたのですわ」 「初めてデザイン画を描いた時の気持ちが思いだせた気がするのですわ」  理想だけでは現実は生まれない。でも現実に裏打ちされた理想を生みだせるのなら、それは確かな完成形だと思うんだ。 「きっと、朝日が毎晩見てくれたからですわ」 「え?」 「朝日は私のデザイン画を最初から誉めてくれて、感想が信頼できる人でしたの。その人が毎日、私の良い部分を伸ばそうと真剣にアドバイスしてくれるから……」 「毎日が楽しくて、朝日に早く見てほしいと思うと、次々にデザインが湧いてきましたの。追いつめられたように描いていた時よりも、頭の中の邪魔な壁が取りはらわれたように澄んだ気持ちで机に向かえましたわ」 「ありがとうですわ、朝日」 「いえそんな……それに、ユルシュール様の努力があってこその――」  そこまで言いかけた時点で、サーシャさんがノノノンと指を振りながら僕の口を塞いだ。 「こんなにお嬢様が喜んでいるんだから、お礼は受けいれてあげて欲しいな」  なるほど、一理ある。こういう時のための言葉が日本語には用意してあった。 「失礼しました。感謝の気持ちを嬉しく思います。どういたしまして、ユルシュール様」  くすりとユルシュール様が微笑んでくれた。できるだけ同じ表情を浮かべて彼女と向かいあう。 「あらやだ。何このいい雰囲気」  だけどしばらく微笑み合っていたら水を差された。 「お嬢様、大蔵家はジャンメール家と比較しても劣らない家柄。二人が結びつけば家の発展のためになるでしょう。ああ、なんて素晴らしい出会い。おめでとうございます」 「そういう冷やかしは大嫌いですわっ」  サーシャさんの頭にメジャーが直撃した。痛くなさそう。 「今後とも、それこそ卒業してもお付きあいをしたいと考えているのですから、ぎこちなくなるような茶々はやめていただきたいですわっ」 「いや実はね? 僕としては二人に結ばれていただけると、ジャンメール家において、女装男子としての居場所が安定するので、なんとかこの話が実現しないかと」 「なんて素敵な〈薔薇色の人生〉《ラ・ヴィアン・ローズ》!」 「どうして私がサーシャの個人的な趣味のために、一生のパートナーを決めなければならないんですの?」 「でもパタンナーとしての腕は認めているのですよね? 女性だと思っていた頃は、彼女が欲しいと何度も言ってたじゃありませんか」 「……まあ、その気持ちは今でも変わりませんわ。いいえ、今回はデザインでも助けられて、ますますスイスへ連れていきたいと思いましたわ」 「でも朝日は、卒業したらルナと働きたいのではありませんの? デザイナーの夢は捨てないとしても、パタンナーとしてルナから必要とされるかもしれませんわよ?」 「それは……ルナ様から必要とされれば、それまでの恩返しも含めて、彼女の気持ちに応えたいとは思います」  自分から言い出したのに、ユルシュール様は拗ねたような表情で目を逸らした。否定した方が良かったのかな。 「ただ、ルナ様が僕の性別を認めてくれるとも限らないので」 「あ、そうですわね。卒業したら全てを打ち明けるつもりですの?」 「わかりません。もっとルナ様に触れて、許していただけると確信が持てれば話すと思います。でもそうでなければ、彼女を傷付けないためにも、朝日としてお会いすることはなくなるかもしれません」 「そうですの……そうですわね、私も朝日にある程度の信頼があったからこそ、女性として共に生活していたことを許せたんですもの」 「ルナがどこまで許容してくれるかは、彼女次第ですものね」  拗ねた表情を引っこめて、ユルシュール様は二、三度頷いた。そしてすぐにぱっと明るい表情を浮かべてみせる。 「でも朝日? 私なら事情を知っているのですから、いつでも受けいれてあげますのよ? 今すぐ私に仕えても構いませんわ」 「いえあの、卒業したら使用人はやめたいので」 「あら、そうでしたわね。ではパートナーではいかがですの?」 「嫁いだほうが早いと思いますよぉ? ユルシュール=フルール=オオクラニナール」 「冷やかしをヤメール!」 「ハッタオサレール!」  自ら華麗に一回転して地面に倒れるサーシャさんを尻目に、ユルシュール様は僕の側までやってきた。 「今すぐに返事をくださいとは申しませんけど、卒業までに欧州へ来ることも考えておいていただきたいですわ」 「あ、はい。考えておきます。お誘いいただき、ありがとうございます」  彼女に求められるパタンナーの技術が、この先どれほど伸びるかもわからないから、過剰評価な気もするけど……。 「でも仕事のパートナーとして選ぶなら、ルナ様と組んでも良いのでは?」 「ルナへの対抗心は、私の大切な情熱の一つですの。これをなくしたら、デザインをするエネルギーが減ってしまいますわ。ですから彼女とは常に一定の距離を置きたいのですわ」 「あ、なるほど……ユルシュール様は気持ちがお強いのですね。僕はルナ様のデザインに圧倒されて、自信をなくしてしまった側なので」  憧れた気持ちもあるけど、その反面に、彼女は僕とは違う世界の住人なんだと思えるだけの、インフェリオリティはあった。 「だけどもし、今回のデザインでユルシュール様のものが選ばれれば、もう少し頑張れそうな気がします」 「ですの?」 「です。ユルシュール様が、努力は才能に及ぶということを今ここで見せてくれました。このデザイン画を見た時に、それだけの期待が生まれました」 「僕もユルシュール様に負けない努力をすれば、もっと自分を高められると思えました。それは、なんだかちょっと嬉しいです」 「ふふ。まるでもう選ばれたかのような口ぶりですわね。ルナはきっと素晴らしいものを描いてきますわよ」 「いえ、負けたくありません。ルナ様には申し訳ありませんが、今回は自分のためにも、ユルシュール様のデザインを応援したいと思います」 「もちろんルナ様の気持ちも察したいとは思いますが、彼女自身から、今回は主人だと思わなくていい、真剣にやれと言われているので……」 「嬉しいですわ。朝日が初めて、ルナよりも私を選んでくれましたわね」  でも、と小さく言葉尻に添えて、ユルシュール様は優しく笑う。 「このデザイン画は私だけの作品ではありませんわ。朝日と作った二人の作品ですの」 「そんな。描いたのも、想像したのも、ユルシュール様お一人の努力の賜物です。僕は見せていただいたものに対して、思うままの感想を口にしただけです」 「その存在が大きかったと言っているんですの。それとも私と一緒なのが嫌なんですの?」 「ちち違います、そういうわけではありません。ただ、ユルシュール様が生みだしたものに対して、自分の影響力を主張するのは、あまりに図々し過ぎると思っただけです」 「事実ですもの構いませんわ。もし私が描いたものを素晴らしいと思ってくれるのなら、その為に自分がどれほど貢献したかを誇っていただきたいですわ」 「はい」  ルナ様の衣装製作をした時にも思ったけど、自分を感動させてくれるものを生みだせる人に必要とされる喜びは、何物にも代えがたい幸福だ。 「ただ、ルナに申し訳ない気はしますわね。二人がかりで挑んでいるのですし、あの子の付き人を借りているのですし」 「必要だと言われれば、僕はルナ様にも協力いたします。ですがあの方は、デザインに関して、人の助けを求める方ではありません」 「まあ、そうですわね。一人でも二人でも、より良いデザインが見られるなら、逆に喜ぶタイプですわね」  ルナ様は負けず嫌いではあるけど、自分が認めたものには敬意を表する人だ。だからこのデザインを見れば、どうして僕がユルシュール様に協力したいと思ったか、理解してくれるだろう。 「朝日。もう一度言いますわ。ありがとう」 「あ……感謝するときくらいは遊星さんとお呼びした方がよいかしら」 「いえ、この屋敷にいる間は朝日で構いません。それと、どういたしましてユルシュール様」  明日のためにはもう休んだ方がいいはずなのに、それから僕たちは、一時間も今週の苦労を笑いあった。  ん……。  ノックの音……まだ騒々しくはないけど、徐々に音が大きくなり、叩く間隔が小さくなってきてる。  ということは、起きてるか確かめてるんじゃなくて、僕を起こそうとしてる……僕を起こそうとする人なんて……。  八千代さんっ!?  眠気と布団がふっ飛んだ。八千代さんが来たってことはいま何時!? もしかしてヤバい!?  と思って手にした時計が示す時刻は6時12分。起きようと思っていたのは7時。そういえば今の僕は、家事をお休みさせてもらっているんだった。  きのう寝る前に見た時間は3時56分。もう少し寝たいかも……と思いはするけど、焦ったせいで完全に目が覚めてしまったし、ドアの前では誰かが僕を起こそうとしてる。 「いまドアを開きますので、少々お待ちください」  ウィッグと下着をつけて支度をする。なんだか、これに慣れちゃってる自分も嫌だなあ。 「お待たせいたしました。まだ寝ていたもので、大変失礼いたしました」 「朝日と別れたのが二時間前なのですから、まだ寝ていて当然ですわ」 「あ……ユルシュール様? おはようございます」  寝起きの僕に対して、既に完璧なまでの身支度を整えているユルシュール様。一体いつ寝て、いつ起きたんだろう。そしてその美肌の秘密はなんだろう。 「あっ。お、お客様の前で寝起きの顔を……申し訳ありません」 「私と二人きりなら気を使わなくても良いですわよ?」  ユルシュール様はずんと部屋へ入ってきたかと思うと、僕と正面で向かいあって、後ろを見ないままドアを閉めた。 「それにしても……今まできちんと見たことがありませんでしたけど、朝日の部屋は狭いですわね。元々住んでいた部屋は、この何倍もあったのですわよね?」 「はい。でも、無理を言ってここへ住まわせていただいているのですから、今の部屋に不満を感じたことはありません」 「服飾に対して健気ですわね」  本棚に並ぶ背表紙を幾つか抜きだして読んでみたり、部屋の中をきょろきょろと見回してみたり、ユルシュール様は僕の部屋に興味を持ったみたいだった。  その視線の先がある箇所で留まった。慌てて着替えたせいで気付かなかったらしく、閉じた引き出しから女性ものの下着がはみ出ていた。 「う、うわあぁあぁあ」  慌てて開いて、しまって、閉じる。これだけ恥ずかしい思いをしたのは久しぶりだ。性別がバレた時よりも恥ずかしい。  そんな僕の様子を気味悪がったりせずに、ユルシュール様はころころと笑って眺めてくれていた。 「私はサーシャと共に暮らしているのですから、その程度のことは慣れていますわよ? 二人で下着を買いに行くこともありますわ」 「そ、そうですか。ありがとうございます。あの、色々と救われました」  これが湊だったら、さすがに顔を引きつらせていると思う。ユルシュール様の付き人がサーシャさんで本当に良かった。 「慌てる朝日は見ていて楽しいですの。オホホホ、可愛らしいですわよ」 「男性として、可愛らしいと言われるのは少し……抵抗があります。特にこの姿だと」 「この屋敷内では朝日として扱って欲しいと言ったのは貴方ですわよ?」 「はい。受けいれます。お誉めいただき、ありがとうございます」  とても恥ずかしいですが。しょんぼりする僕を見て、ユルシュール様はまだにこにこと笑っていた。  というかユルシュール様、すごく機嫌が良いみたいだな……。 「それでご用件はどのようなものでしょう?」 「あ、そうでしたわ。今から学校へ行くので、朝日を誘いに来たのですわ」 「は」  学校へ行くのになぜ僕を? と思って、きっと表情にも出たのだけど、ユルシュール様は気付かなかった。  ええと、どうしよう。やんわりと断りたいけど、当然付いてくるものだと思ってるっぽいから、はっきり言った方がいいのかも。 「あの、使用人の僕が、ルナ様を残して家を出るわけにはいきません」 「あら、今回は使用人の立場を忘れて、対等な立場でデザインをしても許されているのですわよね? それなら先に出ようと文句はないはずですわ」 「それはデザインについてと、その作業をする環境についてのみ許されていることです。私生活の部分でルナ様を無視することはできません」 「私が一緒に来てと言っているのですわ。なにか問題ありますの?」 「はい。僕はルナ様の付き人なので」  それまで機嫌の良かったユルシュール様の顔にムッとしたものが加わった。さもありなん。 「どうせルナは、北斗の車で行くのでしょう? 朝日は関係ありませんわ」 「ですが、許可もなく勝手に行動するわけにはいきません。ルナ様に、他のお嬢様と同行するため、別行動をしたいと申しでるわけにもいきません」 「ルナに対して忠実ですわね」  いよいよ機嫌が悪くなってきた。きちんと理由を言えば、普段はこんな我儘を言う人じゃないんだけどな。 「あの、気になっていたのですが、どうしてこんなに朝早く出るのでしょう。皆様はこれから朝食をとり、それから出かけると思います。一緒に出かけるのではいけないのですか?」 「…………」  あれ?  てっきり怒ってるのかと思いきや、ユルシュール様の頬に僅かな赤みが加わった。 「朝日にだから話しますわよ」 「はい」 「湊や瑞穂には申し訳ありませんけど、私はルナだけを見て、あの子と真剣に勝負をするつもりでいますのよ」 「勝負の場へ着くまで、ルナと仲良く会話なんてできませんわ。そんな緊張している顔をあの子に見られたくありませんの」  あ、なるほど。この人はルナ様に対して、いつでも余裕を見せていなくてはいけないんだった。 「それなら私に気を使わず、向かっていただいても構いません」 「でもせっかく朝日と二人でデザイン画を描きあげたのですわ。勝負の場にも二人で挑みたい」 「朝日と、一緒にいたいのですわ」  ユルシュール様……アドバイスにもならない感想を述べていただけの僕を、そこまで評価してくれていたのですね。 「でもごめんなさいやっぱりルナ様に怒られるので無理です」  深々と頭を下げたら、途端にユルシュール様が耳まで顔を真っ赤にした。これは照れてるんじゃなくて、うん、怒ってるだけだ。 「朝日……」 「はい」 「将来、貴方が私に仕えることになった時、今日のことはしっかりとお仕置きしますから、楽しみにしているといいですわ!」  ですから将来まで使用人を続けるつもりはないんです。  なんてことを言える空気でもなく、プライドの高いお嬢様はドアを閉じて怒ったまま出ていってしまった。ごめんなさい、ユルシュール様。  はあ、緊張してるはずなのに、悪いことしたなあ……でもユルシュール様と話していたから、そろそろ僕もルナ様を起こしに行かないと。  そんなわけで仕度を始めようと部屋の中を振りかえった瞬間だった。  何故か僕の部屋の窓の外でユルシュール様が立っていた。 「あの、ユルシュール様……何故そこに? というかこの短時間で、一度お屋敷を出て、窓の外まで回りこんだのですか?」 「さ、さっきはああ言ってしまいましたけど」  僕の質問には答えず、ユルシュール様の方は小さく震えていた。 「朝日には感謝していますわ。ルナと顔を合わせられないことも本当ですけど、それとは別に、朝日には外で朝食をごちそうして、教室でお礼を言うつもりだったんですの」 「怒ったりして申し訳ありませんわ。そ、それではいってきますわっ」  そこまで一気に喋ると、両側で髪を結わえた金の髪は窓の前から駆けさってしまった。一言を挟む余地もなかった。  一緒に行けなくて本当にごめんなさい、ユルシュール様……。 「ユーシェは?」 「学校へ向かったらしい。朝早くに、制服を着て出かけるところをうちのメイドが見かけたとのことだ」 「どうして一人で?」 「それは知らない。まあ大方、今日がデザインを決める日だから、私たちとの馴れ合いを好まなかったんだろう」  はい。その通りです。 「ユーシェが余裕を見せないなんて珍しい」 「それだけ今回は真剣なんだろう。私はユーシェのそういう真面目なところが好きだ」  今日もルナ様はナチュラルに上から目線だった。まるで緊張していない手つきで、食後の紅茶を口へ運ぶ。 「あ、ただユーシェを見掛けたという使用人が気になることを言っていたな」 「ユーシェは泣いてるのか怒ってるのか微妙な表情で顔を赤くし、肩を怒らせながら早足で歩いていったらしい。付いていくサーシャが大変そうだったと言っていた」  それは……僕を連れて三人で行く気満々だったのですね。ユルシュール様、本当に申し訳ありません。 「朝日はユーシェの態度に心当たりはあるか?」 「ないでちゅよ!?」 「あ、ああそうか……考え事でもしていたのか? 突然話を振って悪かった」  ルナ様を超えるために、二人で努力をしてました。とは言えなかった。ユルシュール様はがんばってる自分を見せたくないみたいだし。 「そういえば、朝日も気合いが入っていた割には余裕があるな。ショーの衣装のデザインを決めるから、もう少し暴走気味な朝日を期待していたんだが」 「あ、はいそれは……なんとか、納得いくものができました」  ユルシュール様の作品が。自分の作品ではないです。 「納得いくものができた? わあ、それは楽しみ。朝日の描いたデザインを早く見てみたい」 「えっ? あ、いや、私のデザインはそれほど期待するものでもないと言いますか。あ、あ、でも納得はいっているので努力はしたと言いますか」 「自信あるのかないのかどっちなんだ」 「ある……はずです」 「既に自信なさそうなんだが……」  でもユルシュール様のデザインには自信があります。それはもう、本当に。それだけに、ルナ様への罪悪感が割とある。  裏切っているわけではないし、本人が「デザイナーとして立候補するからには、私がいるからと言って遠慮をするな。妙な気の使い方をしたら蒸し焼き」と言っていた。僕は蒸し焼きにされるのは嫌だ。  だからと言って「ルナ様に勝つため、ユルシュール様に協力しました」なんてことは口にできるはずもないので、お詫びの印として腕に縒りをかけてデザートを用意した。 「サクランボのゼリーを用意しました。朝のデザートにいかがでしょうか」 「ん、私だけにか?」 「わ、すごくおいしそう。私も少しもらってもいい?」 「駄目だ。私はサクランボが大好きなんだ。朝日、随分気が利くな。どうしたんだ?」 「はい。ルナ様への愛情を込めてみました。自信作です」 「顔がつやっつやしてるな。そうなんだ、朝日が自信あるときはそんな表情だ。デザートのときはこの表情と考えれば、デザインの方には自信がないのか?」 「ある……はずです」 「煮えきらないな……」  二人で納得できるものを作りあげたんだ。あれが採用されれば、努力次第でルナ様のようにデザインができるという希望が生まれる。自信を持っていこう。うん。 「あっ」 「皆さん、ようやく来ましたのね。オホホホ、早くこのデザインを見せてさしあげたいと楽しみに待っていましたのよ」  ユルシュール様は、一足先に待っていた教室でデザイン画を描いていたみたいだ。  普段通りに見えないこともないけど、その態度に緊張の一端が覗いている気がするのは、僕が彼女の内側を聞いてしまっているせいなのかな。 「そんなに自信作ができたのか。それは楽しみだな」  対して、天然で緊張感が全くないルナ様。恐れながら、もう少し固くなっていただいてもいいです。 「ではさっそく始めよう。待ちくたびれていたようだし、ユーシェのデザインから見ようか?」 「望むところですわ。では私からはこれを」 「ん」  二つの紅い瞳が見開いた。湊や瑞穂様も表情を明るくしているけど、それよりもルナ様の驚き様は大きい。 「これは、素晴らしいな。テーマは花と湖、ユーシェの故郷ジュネーヴか」 「その通りですわ。説明もなしによくわかりましたわね」 「それだけよくできている。このデザイン画の中に、ユーシェの思うジュネーヴがよく表現されていて、衣装の中にドラマがある。エレガントの一言に尽きるな」 「オホホホ、随分と批評家然としたことを仰りますわね。デザインを語るなら、私に実力で勝ってからにしていただきたいですわ」 「ん。そうか、すまない。感想を述べただけだけのつもりだったんだ」  ルナ様がユルシュール様に対して素直だ。それだけこのデザインを認めたということなんだと思う。  続いて湊、瑞穂様がデザインを見せたものの、ルナ様が褒めたこともあって僕たちの作品の印象は強かった。どうしても「いいね」「よくできてる」の感想に留まっている。もちろん、僕の作品も。 「最後は私か……今回はクワルツ賞と違い、学校のコンテストだということを考慮したんだ。前衛的だったり個性を主張し過ぎるよりも、観客に受けいれられやすい土壌で自分を出すことに意識を向けてみた」 「朝日がいれば、型紙や縫製にも期待できるだろう。教員からも評価されやすいよう、基礎的な部分を踏まえつつ、ちょっとした応用が目に付くような作品を心掛けた」  ん、これは……さすがというか。  ルナ様のデザイン画には華がある。それは彼女の描く生の線に不思議な魅力が備わっているのもあるし、何百枚の中の一枚のはずなのに安定感がある。  ユルシュール様もすぐに惹きこまれたみたいで、ぐっと息を呑みこんだ。でもすぐに持ちなおして、微笑みを浮かべてみせる。 「オホホホ、さすがは私のライバルですわ」 「ありがとう。では投票しようか。従者はそれぞれ主人に入れるだろうから、デザインを出したこの五人で意見を出しあおう。遠慮は厳禁だ」 「我が強いと思われようと、私は自分の作品に自信がある。だから私の衣装に票を入れる」  決定するための方法はシンプルながら多数決。一番言い訳を許されないやり方ではあるけど、一番結果がわかりやすく、各人の意思もはっきり見える。  ショーでも審査員と観客の投票で優勝が決まるから、これが一番の決定方だと思う。  そして明らかに優れているルナ様とユルシュール様のデザイン画。この二つに関しては、個人の好み次第で票が分かれると思う。  好みで言えば、僕はどうしても思い入れの強いユルシュール様のデザインに気持ちが向いてしまう。きっと彼女も自分の作品に票を入れるだろうから、湊か瑞穂様次第で―― 「なかなか意見が出ないな。湊はどうだ?」 「うーん、このレベルの作品に私の意見を混ぜていいものかわからないけど、ぱっと見で受けた印象でそのまま選ぶならルナかな」  えっ。  僕よりも先に湊が票を入れた。ルナ様本人の票と合わせて、これで二票目だ。数の有利はなくなった。 「私も、ルナのものに入れます。本当に、個人的な好みなんですけど」  あ……。  もしかしたらユルシュール様のものが選ばれるかもしれないと思っていた微かな興奮は、僕の想像より遥かに呆気無く消えさった。  せめて、もっと躊躇ったり、選ぶのに時間が掛かったりすると思ってた。そんな、わかりやすいほどの差はなかったはずだ。  ユルシュール様の顔が見られない。いま目を向けたら、まるで二人が協力し合っていたとバレてしまうみたいで。  だからいま僕は普段通りでいなくちゃいけない。ルナ様の衣装で決定した時、僕ならなんて言うだろう? 「おめでとうございますルナ様」? 「それでは皆で力を合わせて製作を頑張りましょう」?  どちらにしても、これ以上は多数決を続ける意味がない。誰かがユルシュール様の投票を促す前に、ここで決議を終わらせよう。 「ルナ様」 「朝日は?」 「私は」  あれ? なんだか悔しさが湧いてきた。 「ユルシュール様のデザインに票を入れます」  どうして。発言の意図を自分に問いただしたかったけど、その時点で、一度出た言葉は引っこみがつかないこともわかっていた。  心臓がばくばく言ってる。ああそうだ。すぐにわかった。僕は、ユルシュール様のデザインに、どうしても一票を入れたかった。  だけどその後に、残酷な質問が待っていることもわかっていたから抑えようとしたのに。言葉を発した瞬間にルナ様から声を掛けられて、何を発言していいかの取捨選択が咄嗟だったから誤ってしまった。  彼女のことを考えずに、自分の言いたいことを口にしてすっきりしてしまった。  避けるべきだった質問がルナ様の口から発せられる。 「朝日はこう言ってるが、ユーシェはどう思う?」  もう結果の決まった票決に対して、ユルシュール様は自らの口で決着をつけなければならない。 「ルナのものを選びますわ」  そしてその真意はともかく、ユルシュール様はチームの和が乱れない最良の答えを口にした。 「そうか、ありがとう。光栄に思う。多数決が済んだ以上、朝日にも納得をして参加をしてもらいたいんだが」 「あ……それは、もちろんです。全力を尽くします。自分の意見が通らなかったからと言って、不貞腐れるような真似はいたしません」 「では心を入れかえて、気持ちよく製作をして欲しい。朝日は型紙製作、縫製と実作業面で中心になってもらう。製作期間中はチームのために尽くして欲しい」 「はい」 「っしゃ、頑張ろう! 私はできること少ないけど、なんかこう色々丁寧にやるよ!」 「私も朝日に色々と学ばせてもらうつもりで参加してみる。それと、手縫いには自信があるから任せて。よろしくね」 「はい。よろしくお願いします」  湊や瑞穂様から声を掛けてもらったけど、申し訳ないことに半分程度しか頭へ入ってこなかった。  だってユルシュール様が気になって仕方なかったんだ。だけど彼女はルナ様へ票を入れた時から黙りこんでいて、最後まで僕と目を合わせてくれなかった。  ああ……。  自己嫌悪。その自己嫌悪にも自己嫌悪。現在、精神的に負のスパイラル真っ最中。  どうしてあの時、決まったことを覆すような発言を……や、それは間違ってないから、考えが何周もしてるんだ。  ユルシュール様の──いや、僕たちの──デザイン画が、ルナ様のものより優れていると本気で思ったのなら、それを口にして悪いことはないはずだ。  だけど正直な気持ちなら何でも口にしていいのかと言えば、世の中はそれほど真っ平にできているわけじゃない。感情とタイミングが複雑な起伏を作り、削れて、盛りあがって、複雑な地形ができあがる。  今回の僕はユルシュール様のボコボコの岩礁みたいになった心情の海へ、全速力で猛突進したようなもので……見事なまでに座礁した。  教室での多数決の後、ルナ様ならすぐにでも作業を始めたいと思っているはずなのに、湊がほぼ徹夜で作業していたのもあって、今日は休養日になった。  その後の昼食にはユルシュール様も参加した。本当は傷付いているはずなのに、微笑みさえ浮かべて気丈さを見せる彼女を見ているのは心が痛んだ。  だけど普段より言葉数が少ないのは明らかで、さらに僕とはほとんど目を合わせることはなかった。たまに視線がぶつかっても、すぐに逸らされた。  もうすぐ夕食。このままだと、話もしないままもう一度顔を合わせることになる。そこでまた胸に靄のかかったような思いをするくらいなら、直接会って話した方がすっきりするはずだ。  よし行こう。もしかしたら会ってもらえないかもしれないけど、部屋の中にいて一人で悩んでるよりマシだ。  だけどその前に、どうしても話を聞いておきたい相手がいた。  目的の場所へ辿りつく前に、ユルシュール様と鉢合わせしなければいいのだけど……と思いつつ階段を上がる。 「〈美〉《おや》」 「あ、サーシャさん?」  彼が主人と一緒でないことに、僕は安堵する。その指先でくるくる踊る銀色の鍵。愛車・トレ美ああ〜ん号のイグニッション・キーだ。 「お出かけですか?」 「うん。買い物へ行こうと思ってね」 「今からですか? もうすぐ夕食ですし、言いつけてくだされば、僕か当家の使用人が――」 「ノン」  まだ言い終えてない内に、サーシャさんの指が僕の言葉を遮った。クルマの鍵ごと、人差し指が揺れる。 「他の人にはわからないものなんだ。私じゃないとね」 「そうですか? でも、目的のお店とお品を教えていただければ……」 「ノン。お嬢様が故郷で好きだった味に、一番近いお菓子を選んであげたいんだ」 「え? お菓子ですか?」 「そう、スイスのお菓子。早くしないと夕食が始まっちゃうから、急いで行ってくるよ。〈またね〉《サリュ》」  あ……もしかして、ユルシュール様を慰めるために?  きっと、言葉は尽くしたのかもしれない。そして慰めの次は彼女を喜ばせるために、言葉とは別のものを探しに行ったんだ。  彼女の好きなお菓子は、この屋敷ではサーシャさんしかわからない。たとえばルナ様が落ちこんでいたとして、彼女の好みをそこまで把握してない僕には真似できない行動だ。  付き添ってきた期間の長さは、何物にも代えがたい武器だ。羨ましい。  ただ、羨んでいても何も起こらない。僕は僕の考えた今すべきことを為すために、二階の北側奥の部屋へ向かった。 「ルナの衣装を選んだ理由?」 「うん」  最初に訪れたのは湊の部屋。どうしても聞いておきたかった。 「その、正直、二人のデザインにそれほど差があったとは思えなくて。湊がどうしてルナ様の方が良いと思ったか、その理由だけでも知りたい」 「自分でもしつこいとはわかってるんだけど、ルナ様の衣装製作に、何の迷いもなく没頭するために」 「よっぽどユーシェの衣装が気に入ったんだね」 「ん、まあ……ああまで一つに票が集中しちゃうと、僕の美的感覚はおかしいのかなーとか不安になって」  僕自身が関わっていたから、とは言わないでおいた。湊はふうんと呟いてから、デザイン画を見たときの気持ちを振りかえった。 「うーん、私は一番素人だから、衣装にしたときおもしろそうとか、技術がどの程度いるかとか、その手のことはわからなかったんだけどさ。たはは」  となると直感かな……それはもう個人の好みだから、偶然としか言いようがない。 「んー、なんか私がこんなこと偉そうに言うのもなんなんだけどさ。いつものユーシェより、ルナっぽいデザインに見えた気がした」 「え?」 「なんだろ、少し意識したのかな? 全然そんなことないのかもしれないけど、私はそう感じちゃったんだよ」 「ちょっと普段のユーシェっぽくないなー……って。素敵なデザインだなと思った。でも純正ユーシェじゃない気がした。ほんと、ちょっとだけだったけど」  あ……それは気付かなかった。だけどユルシュール様が誰よりも実力を認めているのは、ライバルとして見なしているルナ様のはずだ。  影響を受けているなら、今で言えば僕もそうだ。二人で無意識の内に、ルナ様のデザインに寄せてしまっていたんだろうか。  だとすれば、僕にも責任はある。少し安心した。それなら、きちんと謝る理由がある。ユルシュール様に対して、訳もなくただ頭を下げることにはならない。  湊の選んだ理由を聞きにきてよかった。 「あ、ゆうちょだから話したけど、こんなこと絶対他の人に言わないでね? ルナかユーシェに言おうものなら、久方ぶりのローリング・クレイドルするよ?」  幼い頃に自分の部屋の絨毯で苦しんだ思い出が蘇った。 「う、うん。絶対言わない。というかプロレス技はもう永久封印しようよ」 「わかってるよ。わかってはいるんだけど、時々体が無性に技を掛けたがってる時があって。ゆうちょは? 私とプロレスしたくなる時ない?」 「ない。絶対。ダメ。絶対」  これ以上いると体が危ない。時間もないし、次の人の部屋へ向かうことにした。 「ルナの衣装を選んだ理由?」 「はい。他言はしないので、理由を聞かせていただけないかと思いまして」  次に訪れたのは瑞穂様の部屋。彼女の側には北斗さんがいた。 「票を入れたときにも言ったけど、個人的な好みじゃ駄目?」 「それは色使いやディテールの面でしょうか?」 「うん、そうだと思う。感覚的な部分だから、言葉で表すのは難しいけど」  今度こそユルシュール様の実力とは別の問題かな。それなら、ただ運が悪かったと言える。  そう思った時に、北斗さんが「私の所感ですが」と言葉を挟んできた。 「今回ユルシュール様がテーマにされたものは故郷のジュネーヴでした。お嬢様も旅行された経験があり、掛け値なしに素晴らしい街だと仰られていましたが」  ユルシュール様のテーマを否定しないよう、北斗さんは前置きをしつつ。 「和の文化をこよなく愛する瑞穂お嬢様の好みを考えれば、マイナスとまでは申しませんが、同程度に良いと感じたデザインのどちらかを選ぶことになった場合は、不利に働くことになるかと思われます」  それがどこまで瑞穂様の感覚を捉えているかはわからないけれど、いかにも説得力のある指摘をした。 「もし、どうしてもそのテーマで勝負をするのであれば、この国で発表する場合に多かれ少なかれ関わってくる問題かと」 「実際の衣装にしたときは、スイスをまったく知らない相手にすら、かの国の景色を連想させるほどのアイデアが必要になってくるものと思います」  これも説得力がある……僕もユルシュール様と同じく育ちが海外だから、国民性という課題にはまるで無頓着だった。 「私もマンチェスターの生まれで、海外で暮らした経験が多く……想像が及びませんでした」 「申し訳ありません。我が国は海外の皆様から驚かれるほど、未だに鎖国時代の気質が抜けていないのです」 「私の親戚には、未だに横文字すら使わない人もいるくらいだから。ユーシェには悪いことをしたのかも」 「あ、いえ、そんなことは。全てを踏まえた上で、多数決という形なのですから」  瑞穂様は少しほっとした顔をした。自ら力不足と認めていた湊と違い、選ばれなかったのは瑞穂様も同じ。ユルシュール様の悔しさは想像できるはずだ。 「でも北斗は割と開放的かも。海外で暮らしていた経験があるから?」 「大地の民は全てが平等で差別はありません。ポゥ!」  瑞穂様と北斗さんからも貴重な意見が聞けた。感謝しないといけない。  よし。これで気になっていたことは解決した。ユルシュール様の部屋へ行こう。  瑞穂様の部屋とユルシュール様の部屋は、お互いの使用人の部屋を挟んで並んでいる。いま訪ねて部屋を出て、数歩も進めば目的地の前に着いた。  会うのを拒否された場合はどうしよう。そんな想像が頭に浮かぶと、ノックをする手に躊躇いが生じる。  だけど夕食までそれほど時間があるわけじゃないし、今ここで声を掛けないと、食事中が気まずくなる。今後のためにもいくぞ――あ、あれ?  いざノブを掴もうと手を伸ばしたら、ドアが少し開いていることに気が付いた。  その上、隙間から僅かに声が聞こえる。誰かが部屋にいるわけでもなく、電話というわけでもない――というよりも、そもそも会話をしていない。 「………………」  ユルシュール様は、ドアが開いていることに気付かないまま、声を漏らしてしまっている?  ドアを閉じれば、誰かがいたと気付くだろう。その相手がわからないままだと、夕食に来られないかもしれない。  何事もなければ、ノックの後で返事を待たずにドアを開けたことにすればいい。それなら僕が非礼を謝れば済む。  だけどもし、僕が考えている通りだったなら……どうしよう。サーシャさんを呼びたいところだけど、彼はいま出かけてしまっている。  部屋の中を覗くという行為に抵抗はあったけど、このままでは他の誰かに聞かれてしまうかもしれない。そっと隙間に目を当ててみた。  電気は点けてないみたいだ。暗くて、目をこらさなければよく見えない。  あ……。 「ううっ、うっく……くっ、ううっ……」  ユルシュール様は、ベッドに載せた肘の上へ顔を被せて泣いていた。  いや、泣いている……んだと思う。もし声が外へ漏れたらと、必死に堪えようとしている。  だけど彼女の意思とは裏腹に、人間のすすり泣く声は、どんなに我慢しても想像以上に大きい。さらに、きっと彼女の想定外だろうことに、ドアが閉まりきっていなかった。  だから僕が気付いたんだ。そして彼女は、まだこちらの気配を露程も感じとっていない。 「うぐっ……くっ、んううっ……!」  その証拠に、大きな波が来たのか、袖を噛むように声を殺しながら顔をより深く埋めた。あの高貴で品性を重んじるスイスの貴族が、僕の前で鼻を啜っている。  これ以上、自分の存在を隠して見ているわけにはいかない。それに、廊下を誰が通らないとも限らない。  叱られるのを覚悟して、彼女の部屋へ足を踏みいれた。その時点でも、まだ人が入ってきたことに気付いていないようだった。  だけどドアを閉め、鍵をかける音で、ようやく人の気配を感じとった。その蒼い瞳がひときわ大きく見開かれる。 「〈神さま…〉《MonDieu》…」  他領に入りては他領に従うが貴族、という誇り高きジャンメール伯の教えを遵守するユルシュール様が、いまこの遥か異邦にあって人知れず故郷の言葉を漏らした。  神よ──天に乞うほど彼女は〈慄〉《おのの》いていた。泣き顔をひとに見られてしまったことを。  僕は一瞬、我を忘れた。蒼い目をみはった彼女の〈稚〉《いとけな》い表情、そしてその輪郭をなぞる涙の輝きが、あまりに神々しく、美しかったから。  しかし、僕が呆けたのは一瞬だった。細かく震える唇は、恐慌の前兆。まずい。闇の中、速やかに彼女のもとへ滑りこむ。 「ひっ」 「ぃいいやああっ――むぐっ!?」  ユルシュール様が雷よりも大きな悲鳴をあげそうになった瞬間、僕は彼女の口を両手で押さえていた。 「むっ、むぐっ、むぐぐっ……!」 「申し訳ありません。ですが大声を出しては人が来てしまいます、事情はこれから説明いたしますので、どうかお静かに」  僕は咄嗟に錆びついた記憶を掘りおこし、彼女の故郷の公用語であるフランス語で囁いた。 「むっ、むぐ……んぐ」  ユルシュール様は納得してくれたみたいだ。手をゆっくりと離し、彼女の体を自由にする。  さぞかし怒っているだろう……と思いきや。ユルシュール様はその場にぺたんと座りこみ、目蓋を伏せがちにした表情で俯くだけだった。 「ユルシュール様?」 「怒っては……いませんわ。なぜ、朝日がここに……?」  返ってきたのは日本語だった。誇り高きジャンメールの教え。しかし、声にも体にもまるで力がない。普段の騒々しさが嘘のように、いま目の前の彼女はか弱かった。  元気付けてあげたい……でも今はまず、自分の不誠実な行動の弁解をしないと。 「申し訳ありません。僕がここにいる理由を聞いても許せないようなら、いくらでもお叱りください。先ほどユルシュール様の部屋を訪ねようとしたら、ドアが開いていて、部屋の中から声が聞こえたもので……」 「あ……私、そんな迂闊なことを? 他の誰かに聞かれていたら、自殺ものですわね」 「そんな、自殺なんて恐ろしいことを言わないでください」  肩へ手を当て、気力を注入するかのように彼女の体を揺する。さすがに大げさな冗談だったのか、彼女も自嘲した笑みを浮かべて、ごめんなさいと謝った。  ……だけど謝りつつ、彼女の大切な言葉は聞きのがさなかった。ユルシュール様は「他の誰かに聞かれていたら」と言ってくれたけど、それは僕になら聞かれてもいいとも捉えられる。 「ユルシュール様、どうして泣いていたのですか?」 「…………」 「もし僕で良ければ打ち明けてください。地面に穴を掘って叫ぶよりは、お力になれると思います」 「王様の耳はロバの耳ですの? 地面に穴なんて掘るわけにはいきませんの。だってあの物語の最後は王様に……いえ、この屋敷で言えば、お姫様に全てを聞かれてしまいますわよ」 「泣いている理由なんて、この姿を見られた朝日以外の人には話せませんわ。朝日は……ええ、朝日だけは、最後まで協力してくれたから、求められれば話しますけど……」 「聞きます。いえ、聞かせてください。きっと、ユルシュール様と同じ悔しさを味わえるのは、僕だけですから」  一週間、僕たちはデザイン画を見せあって意見も言いあった。だから今回のことに関しては、彼女の気持ちを僅かでも理解できるのは僕しかいないという自負がある。  先ほど肩へ触れた手に力を込めると、ユルシュール様の体が密着した。今の彼女には、このくらいの強い支えが必要だ。 「朝日……」 「そう、朝日だけ……私も、貴方だけが理解できると思いますわ。その貴方が聞かせてくれと言ってくれるのなら、話したいと思っていますの……誰かに、聞いてほしいと思っていたんですの」 「私は今日の多数決で……湊と、瑞穂がルナの衣装に票を入れた瞬間、平静を装って、自分を保とうとしましたけど、本音では」  ユルシュール様が僕の手に触れる。今度はこちらが支える形ではなく、彼女の方が僕を引きよせた。 「本音では……私たちの作品が選ばれなくて、心から悔しかったですわ」  その言葉を口にするのも悔しかったのか、ユルシュール様は小さく震えはじめた。それと同時に、僕の胸の中へその顔を深く埋めた。 「こんなに悔しかったのは初めてですわ。クワルツ賞の時よりも悔しかったですわよ。せっかく、朝日と二人で、本当に良いデザインができたと喜んでいたのに……」 「はい。とても良いデザインでした」 「毎日、楽しかったのに……本当に、頑張りましたのに。朝日も、今回のものが選ばれれば、デザインを諦めないと言ってくれましたわよね。来年の、その先について話したことも、無駄になってしまいましたわ」 「自分が滑稽で、とても惨めですわ。きっと選ばれると信じて疑わなかった自分が……情けないですわ」 「そんなことはありません。何も恥じることはない作品でした」 「でも、選ばれなければ意味がありませんわ。作品を世に出すことも、今以上の誰かに見てもらうこともできませんもの」  一度選ばれなかったデザインを他のコンテストに回したりすることは、彼女のプライドが許さないんだろう。つまりあの作品は二度と陽の目を浴びることはない。 「だからこそ悔しいですわっ……共に努力した人と手を叩いて成功を喜んで、華やかな舞台へ上がることを一瞬でも夢見ることができたのに……!」  感情が昂ったのか、再びユルシュール様の目に涙が溢れだしてきた。  ユルシュール様は今とても弱っている。この人は弱くはないけど、決して強くもない、精神的には普通の女の子だ。強がることはできても、打たれることには慣れてない。  完全に弱ってしまっている。ここに追い打ちを一撃でも加えれば、デザインの道を諦めてしまいかねない予感すらする。  なんとか彼女を慰めてあげたい。その細い身体を抱きしめながら、どうすれば元気を取りもどせるか考えた。  ユルシュール様は感情の揺れ幅が大きい人だ。今もこうして泣いているし、楽しいときは笑い、喜んだときは素直にはしゃぐ。  喜怒哀楽の喜楽が駄目で、力に変えられる感情を起こさせるなら……。 「僕は、本当に良いデザインだと思いました」 「はい。私もそう思いますわ。だからこそ、このまま世に出ず眠ってしまうことが悲しいのですわ」  僕は今から確実に怒られることを言う。ごくんと喉が鳴るほど唾を呑みこんだ。 「だから僕はユルシュール様のデザインに一票入れました。どうしてユルシュール様は票を入れてくれなかったんですか」 「なんッ……」  逃げられたり、引っぱたかれたりしないよう、腕の中の体を拘束するみたいにがっしりと抱きしめる。ユルシュール様の目は驚いたように僕を見上げていた。 「ユルシュール様は諦めないものと信じていました。だから僕たちのデザインへの票を入れて欲しかったのに」 「なっ、なにを言っているんですの?」 「同じ投票をして他の人がルナ様の作品に何票入れても、僕は今でもユルシュール様のデザインに一票を入れます」 「あなたはっ!」  至近距離からのユルシュール様の怒声。鼓膜が破れるかと思った。 「あなたは何を言っているんですの? まだ私のことを馬鹿にしたいんですのっ!?」  じたばたとユルシュール様が僕の腕の中でもがく。エネルギッシュなユルシュール様が復活した。  今はこれでいい。デザインを辞めるなんて言いだすよりよほどマシだ。これから、爆発したエネルギーを別の感情に転換させてあげればいい。 「でも僕は本当に良いデザインだと思うんです。たとえ一人でも票を入れたかったんです」 「しつこいですわ! それに、往生際まで悪いですわ! 大体あの時だって、既に票決が決まって済んでいた話をぶり返して……!」 「私たちがルナのデザインに票を入れなければ、みんなが困るだけだと考えなかったんですの? 潔く負けを認めることは敗者の責務、プライドですわ!」  力ではこちらに分があるといっても、怒ったユルシュール様はじたばたとがむしゃらに暴れつづける。疲れを知らないかのように、動かない腕に力を入れ、戒めから必死に逃れようとする。 「それにあんな状況では、まるで私のために票を入れたみたいで……あれでは、余計に惨めですわ!」 「思い入れがあったことは否めません。個人的な感情があったことも否めません」 「やっぱり……!」  腕を解放させようと、ぐぐぐと限界まで力が入りはじめた。足もエビのように跳ねて、遠心力を使って僕の力を跳ねのけようとしてる。  さすがに限界を感じた僕は、彼女を押さえつけて動きを封じるため、抱きしめたまま床の上へ押したおした。 「きゃっ!」 「だけど僕も諦められないくらい好きだったんです」  ほとんど鼻の頭はくっついていた。至近距離からの告白に、ユルシュール様は言葉をなくした。 「僕はあのデザインについて、充分なプレゼンテーションを受けています」 「え? あ……あ、ああ、好きって、デザインのことですの?」 「僕は間近でよく見ていたし、ユルシュール様がどういう気持ちで、どのようなテーマを込めていたか知っているから、作品を他のみんなより理解できていたんです」 「それなら票を入れてしまうのも、仕方ありません。だってどこが優れていて、衣装にしたときにどうすればより輝くか、僕は知っているんですから」 「でも……そんな、個人的感情で」 「瑞穂様は、和の文化をこよなく愛する人です。だから今回のテーマは、彼女が感応し辛いものだったのではないかと北斗さんが分析していました」 「あ……」 「僕はマンチェスターの生まれで、海外を転々として暮らしていました。欧州に住んでいた時期もあります。だから気付けませんでした」  僕が納得したのと同様、ユルシュール様にも思う部分があったみたいだ。その表情から怒気が抜けていく。 「ですから作品としては悪くなかったんです。後は、僕に思い入れがあったのと同様、投票した人が受けた個人的な感覚の差だけで」  そしてごめんなさい湊。今から黙ってろと言われたことを話そうと思う。あとでプロレス技受けるから。 「湊には、今回のユルシュール様のデザインは、ルナ様の影響が僅かながら入っているように感じたと言われました」 「良い影響ならともかく、同じ土俵に上がっては、オリジンであるルナ様に分があります。もしかすると僕が参加したことで悪い影響があったのかもしれません」 「そんなことありませんわ!」  全力で否定された。だけど怒っているわけではなく、僕を否定しないための強く、優しい意思だ。 「朝日に手伝ってもらったことで、悪い影響が出たなんて考えもしませんわ。貴方がいなければ、私は行き詰った末のデザインしか生みだせなかったはずですわ」 「ありがとうございます、お優しいユルシュール様」  ユルシュール様の吐息がほうっと漏れた。密着している胸の辺りで、とくんと脈の鳴る音が聞こえた気がした。 「本当は、僕もチームのためを考えるなら、ルナ様に投票するべきだと思いました。だけどその理性が働いても、僕たちのデザインに票を入れたかったんです」 「…………」  ユルシュール様は困ったように目を逸らした。子どものような、僅かに口を尖らせた顔をしている。  でも最後には受けいれてくれたみたいで、今度は暴れるのではなく、僕の胸を手できゅっと握ってくれた。 「そこまで言われると……嬉しいですわ。私の作品を愛してもらえて、二人で描いた甲斐がありましたわ」 「その、さっきは選ばれなければ意味がないなどと言って、申し訳ありませんわ。ここまで愛してもらえたなら、あのデザイン画を描いた意味は充分にあったと思いますの」 「はい。大切にファイリングしてください。元気が欲しいときに見せていただきたいです」 「私も、弱りそうだったり、迷ったときに見れば、力が湧いてきそうな気がいたしますわ」  ふふっと二人で微笑みあう。もう大丈夫そうだと思い、僕は彼女から体を離した。 「……もう少し、くっついていても良かったのですわよ?」 「え? あ、でも苦しくありませんでしたか? というより申し訳ありません」 「苦しくはありませんでした……あ、いえ、重かったですわ! 私に苦しい思いをさせた責任を取っていただきたいですわ!」 「あ……はい。叱られる覚悟はしていました。何なりと罰をお与えください」  正座をしてユルシュール様と向かいあう。僕の真似をしたのか、彼女もしばらく正座のまま考えて、やがて呟くような声を出した。 「これからも私に協力していただきたいですわ」 「協力?」 「ですわ。今まではショー用のデザインを描くためという目的がありましたけど……今後は良いデザインを生みだすために協力していただきたいですわ」 「それは、呼ばれたときにユルシュール様の部屋へ来れば良いのですか?」 「私が部屋にいるときはいつでもデザイン画を描いていますから、来たいときに来てくれれば良いですわ」 「はい。承りました。今後ともよろしくお願いいたします、ユルシュール様。また毎日が楽しくなりそうで、嬉しいです」 「楽しまれては困りますわ。これは罰ですのよ」 「はい。誠心誠意を込めてお手伝いいたします」 「当然ですわ。それとあと一つ……」 「あと一つ?」  ユルシュール様に指でくいくいと引きよせられ、正座のままで姿勢でにじり寄った。今度はなんだろう? 「やっぱり安心するから……もう少し触れていたいですわ」 「えっ……は?」 「わ、私が人前で泣いたことなんて、本当に久しぶりなんですのよ。朝日にはそれを見せたのですわ。もっと感激していただきたいですわ」 「こんなにありのままの自分を見せたのなんて……初めてですわ」 「あ……は、はい。嬉しく思います」 「で、では、どうするんですの?」 「この、くらいでしょうか」  控えめに手を握る。だけどそれは逆に恥ずかしかったみたいで、顔を真っ赤にしたユルシュール様にぶんぶんと首を横に振られた。  手では駄目みたいだ。肩が触れるように、その隣へ座る。 「では、このくらいでしょうか」 「足りませんわ」 「ではこのくらいでしょうか?」  数cmほど体を寄せてみた。だけどユルシュール様は納得していないように首を振った。 「……だっこ」 「は?」 「だっこ。していただきたいですわ」  よほど恥ずかしかったのか、希望を出した瞬間、高速で反対側を向かれてしまった。  その動作があまりにかわいかったので、少し吹き出した後に、彼女の身体を抱きかかえた。 「きゃっ」 「軽いです。さすがユルシュール様、見た目通りですね」 「ま、まあ軽くて当然ですわ。それより先ほど、息を吹きだしたように聞こえましたわよ?」 「申し訳ありません」 「認めてしまいますのね……朝日は意外と意地が悪いですわ」  ユルシュール様は僕の膝の上で気持ちよさそうにしていた。そのまま夕食まで、二人きりでくっつきながら時間を過ごした。 「あ、それと……そろそろユルシュール様に、正しい日本語をお教えしたいのですが」 「ですの?」 「ほとんどの現代日本人は、言葉の最後に『ですの』『ですわ』を付けて使いません」 「ですのーっ!?」  うう、型紙を引くことすらまだ終わってない……。  八月頭、僕はルナ様からの要望に応えられず苦しんでいた。  せっかくルナ様が僕にアトリエを開放して、夏休みでも作業できる環境を整えてくれたのに。  僕がアトリエを占拠してしまっているため、ルナ様は自分の部屋でデザイン画を描かざるを得なくなっている。早く終わらせてお返ししなければ。  そのルナ様からの希望は、九月末までに衣装を完成させることだった。  今から二ヵ月あるし、クワルツ賞のときよりも仕事を振れる人数が多い。  期間的には充分なんだけど……出だしで躓いていては、縫製の指示をみんなに出すこともできない。  もう八月に入って一週間が過ぎようとしているのに、湊や瑞穂様が何もできずに待ちぼうけを食らっている。  本人たちは「ゆっくりでいいよ」と言ってくれてるけど、序盤は比較的やる気の強い段階だ。その時期を無駄に消費していくのが自分の責任だと思うと……ああああプレッシャーが。  うう。でもプレッシャーを覚える機会すらなかった時期に比べれば、目の前にやるべきことがある今はなんて幸せなんだろう。  それとルナ様には申し訳ないことに、今はこの時間になると、もう一つやらなければならないことがある。 「こんばんは、お邪魔します」 「朝日」  ユルシュール様の部屋へ入ると、スイス人の貴族はデザイン画を描く準備万端で迎えてくれた。 「おまちしていました。いつもありがとう」  最近「ですわ」がなくなった。  そのぶん探り探りのぎこちない日本語だけど、方言(ですわ弁)一本で育ってきたひとが〈訛〉《なま》りを落とすっていうのは大変なことなんだろう。  だけどユルシュール様は努力のひとだから、きっとすぐにでも綺麗な日本語を習得してしまうだろう。たぶん。 「きょうもふたりでデザイン画を描くのがたのしみです」 「はい。よろしくお願いします」 「ささ、座っていただきたい」 「座っていただきたいですわ」と言いそうになったのを途中でぶった切ったものと推測。 「朝日が来るまでにも、いくつか描きためていたんです。これなんて、どうです?」 「わ、珍しくカジュアルですね。ああ、ユルシュール様は山が好きだから登山服……はい、面白いと思います」 「本当ですか。うれしいです。こんなのもあります。どうですか」  次々にデザイン画を持ってくるユルシュール様は、溢れんばかりのあどけなさと愛らしさを見せてくれた。  だけど最近は毎日こうだ。気持ちはすごくわかる。自分の描いたものを気兼ねなく見せられる相手というものは本当にありがたく、親しみも生まれてしまう。  それだけに冷たい対応だととても悲しくなる。よくできたと思ったデザインを期待を込めて兄のもとへ持っていき、その返事代わりに向けられたまるで興味のなさそうな目は今でもトラウマになってる。  それもユルシュール様と学んでいて楽しいと思えることの一つだ。彼女は自分だけではなく、僕の描いたものをいちいち丁寧に見てくれる。  きっと認めてくれているんだ。あまりデザインを評価されたことのない僕にとって、それも仄かな感動になっていた。 「今日は中々いい雰囲気だなあ。これは私がいなくなればキスなんてしちゃうんじゃないかなあ」 「冷やかしは、やめなさいと、言ってるでしょう」  色鉛筆が三本サーシャさんの頭に突きささった。ユルシュール様はダーツが得意らしい。 「きょうは何時までいられますか? わたく……〈私〉《わたし》は明日のよていもないし、おそくまでやるつもりです」 「そうですね、日が変わるまでくらいは……」 「一時くらいまで付きあってもらえません? 今日は最初から誉めてもらえたから、このまま続けていればよいデザインが生まれそうな気がするんです」 「私もお付きあいしたいのですが……」 「そうそう。彼女には本業の衣装製作もあるんだから。無理を言っちゃ駄目だよ、お嬢様」  サーシャさんがノンノンと指を振ると、ユルシュール様はわかりやすいほどの拗ね方をした。頬がぷうと膨らんでる。  この拗ねる表現って世界共通だったんだ。 「朝日の本業はいまやこちらです。朝日だって〈型紙〉《パターン》を引くよりデザイン画を描いていた方がたのしいでしょう?」 「はい、デザインをするのはとても楽しいです。ですがルナ様の衣装作りにも、最近は楽しさを見出していて、その……」 「朝日はデザイナーを目指しているんじゃなかったの? まあ、その……パタンナーとしての腕前は私も評価しているし、欲しいと思っている才能ですけど、でも朝日自身はデザインの方が好きでしょう?」 「それでも最近は、ユルシュール様のデザインを見ていても、こんな形にしたら面白いな、とか、私が服にするならこうするな、なんて考えてしまうんです」 「嬉しいです! ううーん、それなら型紙を楽しんでもらうのもありですね。こうして一緒にデザインをしている時間も、本当に楽しいのでなくしたくないですけど」 「同じ悩みを抱えていて、同じ程度の実力を持っている相手なんて、今までいませんでしたから。朝日との時間は本当に有意義です」 「そんな、ユルシュール様と同じ実力だなんて買いかぶりすぎです」 「でも私は朝日からアドバイスを受けると、自分の描いたものがぐんと良くなる時間を得ていますから。それもひとつのデザインの才能だと思います」  う、ううーん、正直嬉しすぎて歯がゆいなあ。僕がデザインの才能を誉めてもらえる日が来るなんて。 「私の才能を伸ばすという行為は、世界の宝物を作りあげることです。ルナの衣装製作より優先されるべきです」 「そもそも十二月まで時間があるんだから、急いでやらなくてもいいんです。ルナは何をそんなに急いでるのですか?」 「あ、それは私もわかりませんが……でも進捗状況は常に気にしているみたいですね。最近ちょっと胃が痛いです」 「遅れてるもんね、予定より」 「そ、それは、無茶な予定を組んだルナが悪いんです」  サーシャさんが苦味の混じった笑顔を僕に向けた。「遠慮を知らないお姫様でごめんね」という言葉が暗に伝わってくる。  ユルシュール様は気が利かないひとではないし、ルナ様が普段言うほど我儘なひとでもない。  でも僕との時間を譲らないのは、この夜の勉強会をよほど楽しいと思ってくれているからだと思う。それは嬉しかったり、やっぱり少しは困っていたり。  だけど自分が楽しい気持ちもあって、結局は毎日通ってしまっていた。元々は「来たいときに」という条件だったのに、いつしかユルシュール様が「来てくれるもの」と錯覚するのも無理はない。  だって楽しいし、普段とは違うユルシュール様も見てて飽きないし……罪悪感もあるし、いつかはルナ様の衣装製作に全力を傾けなくちゃいけないとわかってはいるんだけど。 「ユルシュール様は夏休みの間にご実家へは戻られないのですか?」  なんて、できるだけ当たり障りなく予定を聞いてみたり。 「ええ。お祖父様には会いたいと思いますけど、他の家族とはあまり仲が良くないんです。日本にいた方が気が楽ですから」 「だから夏休みの間はずっとこうしてデザインの勉強ができますね。楽しみです!」  彼女が帰ってる間に、衣装製作の方はガッと集中して進めてしまおう。なんて計画も見事に頓挫。  この勉強会を楽しんでる僕自身の問題と言えばその通りなんだけど……困ったな。楽しいけど困ったなあ。  そして部屋へ戻ったときに絶望を味わう。今日もあまり進まなかった。  明日もルナ様に進展具合を聞かれるだろうな。  本当に申し訳ないし、もう少し必死になってもいいと自分でも思う。  ルナ様をおざなりにしてるんじゃなくて、ユルシュール様との時間を大切にしているだけだ。だけどそれも……もう少しなんとかしないと。  明日はユルシュール様に話して、衣装製作を優先させてもらおうかな。 「進み具合が良くないな」  やっぱり言われた。 「君一人に負担を掛けて申し訳ないとは思っている。だがもう少し時間を気にしてもらいたいのも事実だ」 「はい、申し訳ありません」 「その為に家事一切はみなくていいことにしているわけだしな。あまりに作業が遅いまま放置していたのでは、他のメイドにも示しがつかない」 「はい」 「まあ君のことだ。私の作品だからと完成度を意識しすぎるあまりに、手が遅れてしまっているんだろう。その気持ちは大切にしてもらいたい」  ああっ、ルナ様の信用が針のように心へ刺さる。もちろん良い物を作りたいという気持ちは大いにあるけど、ではそのために全てを捧げているかと問われれば反省する点も沢山ある。 「申し訳ありません。手を尽くします」 「すまない、頼む」  本当、頑張らないとな……あとでユルシュール様に、今日の夜は部屋へ行けない旨を伝えよう。 「あら、どうしたんですか?」  その矢先に本人が通りがかったから、僕も少し慌てた。 「朝日……と、ルナ? 何の話ですか?」 「ああユーシェ。最近『ですわ』と『ですの』が聞けなくて寂しいな……また面白い日本語を喋ってほしいですわ」 「ですの。それで何の話をしていたんですか?」 「朝日の型紙が遅れているだろう。その件について話していた」 「申し訳ありません。ルナ様だけではなく、他の皆様の予定にも関わってくるというのに……」 「朝日は朝起きてから入浴まで一日中やっているでしょう? 彼女で駄目なら、私たちの誰がやっても無理です。元々の予定組みに問題があるんじゃありません?」 「ん、つまり総指揮の私に問題があると」 「そうです」  ん?  あ、あれ? 僕のことを庇ってくれるのは嬉しいけど、話がおかしな方へ向かっているような?  でも規定の時間内で全力を出している、それを責めるべきじゃないというユルシュール様の言葉にも筋は通ってるし、庇われている側なのもあって、宥めるための上手い言葉が思いつかない。  でもルナ様に問題があるということだけはないような? 「責めるどころか朝日の功を労うべきじゃありません? ルナは厳しすぎます」 「朝日の献身は理解も感謝もしているつもりだが……」 「でしょう?」 「それにしても随分とうちの使用人に優しくなったものだな。何があった?」  ルナ様は数秒考えたあとに「ああ」と声を漏らした。 「なんとなくユーシェの気持ちはわかったが、それでも甘やかされては困る」 「こう言っては何だが、たとえ私のスケジューリングに無理があるとしても、言うべきときに注意をしなければ進行が遅れるだけだろう」 「朝日がかわいそうです」 「もちろん朝日の努力とかかっている負担は認めている。それは理解していると説明した上で注意をしているつもりだが」 「朝日がかわいそうです」  正論に対して真っ向から感情論で反論するユルシュール様。  フォローしたいけど、遅れている原因の自分が「まあまあ」なんて言葉を口にできるわけもなく。 「ありがとうございますユルシュール様。これからも一層の努力をいたします」 「朝日は日頃から充分努力をしています」  僕のフォローすらも感情論で真っ二つのユルシュール様だった。 「埒が明かないな。こうなったら朝日に決めさせよう。君はどちらの支持をする?」 「は!?」  なんて惨いことを言いだすんだろう。結果のわかりきったこの状況で。 「朝日が今後どういう対応をするかで決着をつけようじゃないか。その方がユーシェもわかりやすいだろう?」  ルナ様は軽くお怒りのご様子だ。そうでなければ、こんな残酷な決着のつけ方を選ばないはずだ。  しかもユルシュール様は(何故か)自分が選ばれると信じているに違いないきらっきらした目で僕を見てる。勝利を確信しきっている目だ。 「ぃぇそのどちらが、ではなくルナ様のお言葉を重く受けとめ、ユルシュール様の優しさを胸に抱いて今後は製作に臨みたいと……」 「玉虫色の答えはいい。私とユーシェはいま、意地を譲れない状態にある。どちらの味方をするのかと聞いている」  酷い。こんな純粋な目をしたユルシュール様に現実を見せろと。蒼い瞳が美しすぎる。  しかし鮮烈の紅い瞳はだんまりさえも許さなかった。 「君がいま学院へ通えているのは誰のお陰だ?」 「ルナ様です」 「ではどちらの味方をするべきかわかるな?」 「ルナ様です」  僕が頭を下げながら告げた瞬間、ユルシュール様の表情がぴきりと固まった。 「大変に気分がいい。というわけで決着はついた。失せろ負け猿」 「うっ、ううっ……負けてなんていませんわ」 「ではもう一度聞こう。朝日、君は誰の味方だ?」 「ルナ様です」 「朝日の臆病者!」  ごめんなさい。でもルナ様には逆らえません。 「まだ醜態を晒すつもりか? さっさと去るがいい。猿だけにだ」 「上手くもなんともありませんわ、この馬鹿主従!」  大きな声を残して、ユルシュール様は怒って行ってしまった。  申し訳ありません、ユルシュール様……後で部屋に顔を出してフォローしておかないと。 「馬と鹿だと、身長差で考えれば君が馬で私が鹿だな。ん? 鹿ってどう鳴くんだ?」 「朝日、今日の夕飯は鹿鍋にしよう。鳴き声を確認したあとで君が捌いて……」 「嫌ですよ!」  いくらルナ様には逆らえないと言っても、従えない命令もあることにはあった。  ルナ様と別れたあとは、これ以上遅らせるわけにはいかないので型紙に集中した。  でも今日の夜は部屋へ行けないことだけは伝えておかないと……。  夕食のときは機会を作れなかった。仕方ないので、いつも通っているお風呂の後に寄ってみることにした。  まさか会ってくれないなんてことはないと思いたい。 「ユルシュール様、朝日です。よろしいでしょうか?」  ドアは内側から開いた。  とりあえず会ったら謝ろう。部屋の中へ足を踏みいれると、ドアのすぐ側にひとが立っていた。  わっ。  怒って……はいないみたいだけど頬を膨らませてる。100%拗ねている。 「ユルシュール様……が自らドアを?」  こくん。と一往復分の首肯。拗ねてはいても自ら出迎えてくれたらしい。 「今日は来ないつもりかと思いました」 「あ、いえ実は……今日は衣装製作をしようと思います。デザイン画を描くことはできないので、謝りにきました」  わあ。ほっぺた膨らんだ。どころか少し涙ぐんでる? 「はは、お嬢様が甘えてる。まるで大旦那様に洋服を買ってもらえなかったときみたいだよ」 「そ、そうなんですか? 大旦那様……ということはユルシュール様のお祖父様でしょうか。ユルシュール様が甘えていたと聞いていたので、洋服でしたらいつでも買ってもらえたものかと……」 「お祖父様は孫娘を溺愛はしていても要所では厳しいひとだったよ。理由もなくただ欲しいとねだっただけじゃ、何も与えてはくれないひとだったな」 「そんなときはいつもその顔になってたよ。でも私も直に見るのは久しぶりだな。スイスを出て以来かな?」 「デザイン画を描かないということはもう来ないんですか? 今日で終わりですか?」 「違います、また一緒に学びたいと思います。ただルナ様から怒られなくなる段階まで進めさせてください」 「ある程度まで製作が進めば、また私の部屋へ来るんですね? それならいいですけど……」  ユルシュール様は聞き分けがないわけじゃなかった。残念そうにはしているけど。 「わかりました、その件はお待ちしていることにします。ですが朝日に言いたいことはもう一つあります」  じろりと睨まれた。う、来たか。 「どうしてルナの味方をしたんですか? てっきり私のことを選んでくれると思っていたのに」 「それは……申し訳ありません。私のお仕えしている方はルナ様ですからご容赦ください」 「それはわかりますけど、それでも私を選んで欲しかったんです。朝日とはデザイン画を通して親密になれたと思っていたんです」 「私もそう思っています。この一週間でユルシュール様には自分の内側を晒し、ユルシュール様からも今までに見たことのない多くの表情を見せていただいたと思っています。とても光栄に思っています」  目の前の顔がぱあっと明るくなった。本当、そのときの感情がわかりやすいなこのひと。 「それならルナが無茶を言えば少しくらい逆らってもいいのです。そもそも遊星さんは大蔵家の人間でしょう?」 「は、はい」  本名を呼ばれてどきりとした。湊は僕をあだ名で呼ぶし、りそなも「兄」と呼ぶから、久しぶりだったせいだ。 「本当の使用人ではないのですから、あまりに理不尽なことを言われたら言いかえしてください」 「私と仲良くしている方が困らされているのを黙って見ているなんてできません」 「それはきっと私の正体をしっているからです。もし私を元の使用人のままの立場で考えていただければ、ルナ様の態度は当たり前のことばかりです」 「ルナ様がいなければ、私は今の学院へ通うこともできません」 「ぅ」  学院から居なくなられては困ると思ったんだろう。ユルシュール様が口ごもった。 「ですから今日のことはお許しください。それでもユルシュール様のお気持ちは嬉しかったです」 「…………」  ユルシュール様はそれでもしばらく納得いかなそうに目を逸らしていた。 「ごめんなさい、お気持ちに添えなくて」  それでももう一度謝った。すると彼女も目は逸らしたまま照れくさそうにして……。 「わ、わがまま言ってごめんなさい」  僕の言い分を認めてくれた。やっぱり根は素直なひとなんだ。 「…………」 「な、なんだかこういうときは」 「はい?」 「ですわを付けたくなりますわ。ごめんなさいですわ」 「あはは。はい、バランス的にはちょうどいいかのかもしれませんね」  なんだかんだで半年近く「ですわ」を聞いてたから、それでこそユルシュール様って気もするし。 「では、ユルシュール様にもご理解いただけたようですし、今日のところは……」 「そ、そうですね。むしろ製作を終わらせて、早くこちらを優先できるようにしてもらいたいものです」  そうすれば二人のひとに角が立たない。これでめでたしめでたしだ。  そんな時に、突然鳴ったドアの音。その位置は比較的下の方だった。  この屋敷で一番身長が低いひとを考えると、もしかして……? 「どなた? 鍵なら開いていますからどうぞ?」 「では失礼する」  やっぱりルナ様だった。 「朝日の部屋へ行ったらいなかったから、ここかと思ったんだ。正解だったな」 「あ……申し訳ありません。製作は今からしようと……」 「いや、いい。昼間のことがあったからな。君の性格を考えれば、ユーシェのフォローへ来るのは当然だ」  うんうんとルナ様は頷いた。その仕草が僕を責めるためのものではなく、むしろ感心している様子だったから安心した。 「だがユーシェが朝日を我が物顔で扱っているのは気に入らない。部屋へ入る前に聞こえたぞ。早くこちらを優先しろだと? 私の使用人をなんだと思っている?」  うっ。聞こえちゃったんだ。 「デザイン画のことです」と説明したいけど、ユルシュール様は人知れず努力してデザイン画を描いているのをルナ様に内緒としているから言えない。  ルナ様が表れてから、ユルシュール様は普段の態度に戻っていた。フンと鼻を鳴らして正面から相対する。 「言ったとおりの意味です。あなたのように有能な人間を雑に扱う主人より、私のような心優しい人間のもとへ来た方が、朝日の為だということです」 「ほう。私のメイドをそれほど気に入ったのか。だがもう昼間のことを忘れているようだな。朝日は私の命令に逆らえない」  ルナ様の口端がにやりと邪悪に曲がった。はいこれから朝日に無茶ぶりしますよというサインだ。 「朝日。腕立て伏せ30回。この場で」 「え?」 「私に何度も同じ命令を言わせるな。腕立て伏せをしろ。一度聞きかえしたから難易度を上げる。指立て伏せ50回だ」 「か、かしこまりました!」  僕が両手を床に付けてうつ伏せになると、ユルシュール様の顔はみるみる赤くなっていった。 「いっち、にーぃ、さーん……」 「おや実に美しいユ美立て伏せだ。私も負けてられないな」  何故か僕とサーシャさんは横に並んで指立て伏せを始めた。常日頃から鍛えているサーシャさんのペースは早かった。 「好きでやっているサーシャはともかく、朝日に理由もなくこんなことをさせるなんて許せません!」 「それも私の気分ひとつだ。朝日、それが終わったらスクワットだ」 「は、はい。かしこまりました……十七、回っ……!」 「迸る汗すら『美・サマーアゲイン』……」 「やめさせないと許しませんわーっ!」 「お、久しぶりにですわが出たな。いいぞユーシェ、私はそっちの君の方が好きだな」  結局、ユルシュール様がルナ様の体を揺らしはじめたのでスクワットは許してもらった。  でも僕とユルシュール様が相当仲良くなっていることをルナ様に知られちゃったなあ……デザイン画のことまでバレないといいけど。 「だいぶ気に入られてるな」  部屋から出て二人で廊下を歩いていたら、ルナ様から指摘された。 「その……ようですね。ありがたいことだと思います」 「きっとデザインを決めた日に、君がユーシェに一票を入れたからだな」 「え?」 「その瞬間に彼女がどう思ったのかはわからないが、自分のデザインを認めてくれた相手に好意を持たない人間などいない」 「しばらく経って思いだしたら、嬉しくて仕方なくなったんだろう」 「ま、その点で私は残念だったわけだが、君の本音はユーシェの心に届いたんだ。よかったな」  実際は仲良くしてもらってる理由の中の色々な要因の一つなんだと思う。  でもあのとき一人で主張したことも、いま考えると、とても大切だったのかもしれない。 「はい、仰るとおりかもしれません。嬉しく思います」  あの時は自分の感情だけでものを言って……と悔いたりもしたけど、ユルシュール様のデザインが好きだと言えて良かった。 「それもあって少し妬いたから意地悪をした。悪かったな」 「あ、いえ。自分のものだと妬いていただけたことを嬉しく思います」 「それと昼間のこともだ。ユーシェの言うことにも一理ある。私の段取りには無理があったのかもしれない」 「え?」  意外だった。ルナ様が自分の決めたことに疑問を覚えるなんて。それも、本来口にしてはいけない僕の前で。 「まあそれでも、九月末までを目標とすることは今のところ変えずに進める。よろしく頼む」 「はい」  衣装製作とユルシュール様の応援、どちらも同じくらい頑張れればいいなと思った。  あついっ!  真夏に長袖メイド服。汗を拭きながら歩いていた外人さんが、門の外から驚愕の目で僕を見ていた。ジャパニーズイズクレイジー。  いえ僕は暑いです。そして日本人全員が僕みたいに長袖を着ているわけではなく、さっきから他の通行人の方々も、僕をおかしなひとを見る目で見ていきます。  違うんです皆さん! 僕には長袖を着る理由があるんですよ! 「あら朝日、何をして……随分暑そうな格好ですね」 「ユルシュール様、こんにちは。違うんです、この格好には事情があるんですよ。見てください、本日の当家を」 「あら、何かおかしな点でもありました?」 「普段よりメイドさんの数が少ないね、圧倒的に」 「正解です。今日はお休みの方が多いんです」  日本の二大休暇正月とお盆。最近では正月は仕事に出ても、お盆だけは休むひとも多い。 「当家のメイドのシフトは、休みが重ならないように八千代さんが充分気を付けているんですが、今日はとうとうたった三人という状況です」 「八千代さんは学院の仕事でどうしても予定を外せず、今日ばかりは新人メイド小倉朝日の復活です。ルナ様の製作も気になりますが、家事の忙しい午前中だけはこうして手伝うことになりました」 「なるほどね」 「長袖なのはどうしてです?」 「あまり露出する部分を増やすと、それだけバレる危険性が高まるので……」 「良い判断だね」 「別に良い判断じゃありません。朝日は水着の姿でも気付かれなかったんですよ? それを今さら半袖になったところで、何の問題があるんですか」 「それでも充分怖いですよ」 「今にこの炎天下の中で倒れますよ。介抱でもされたら、一巻の終わりなんじゃありません?」 「あ、それは一理あります……」 「我儘お姫様のせいで寝不足だしね。2時まで付きあわされちゃって」 「し、仕方ないでしょう! 昨日はアイデアの浮かび具合がとても良かったんです。朝日にどうしても見てもらいたかったんです」 「あ、はい。昨日はとても良かったと思います。特にアール・デコ風のデザイン画は、どこか懐かしくて、だけど現代風にアレンジされていて、ユルシュール様の雰囲気に合ってとてもエレガントというか」  わあ。  嬉しそう……喜んでもらえると僕も嬉しいけど、いま仕事中だしなあ。あまり長話はできない。 「もっとその話をしましょう。朝日はいま仕事中なんですか?」 「はい。申し訳ありません、昼食の済む13時までは身動きが取れません」 「その後は?」 「14時まで自分の休憩を取ったら、ルナ様の衣装製作に入ります。申し訳ありません、ユルシュール様」 「んー……では仕方ありません。サーシャ、一旦部屋へ戻って13時から出かけることにします」 「ウィ」 「え? 一度戻られるのですか? お出かけの支度も済んだのに……」 「朝日と食事をします。一時間しか空きがないのでしたら、当然こちらが合わせます。付きあっていただいても良いですね?」 「はい、ユルシュール様のお誘いですから喜んでお受けします。ご一緒いたします」 「後で朝日が怒られてはかわいそうですから、ルナに一言断りを入れておきましょう。サーシャ、行きますよ」 「お姫様の我儘に付きあってくれてありがとう。またあとでね、子猫ちゃん」 「子猫ちゃん……?」  その言葉も不思議だったけど「我儘」の方も気になった。  自分の出かける時間をずらして、僕の予定に合わせてくれて、迷惑が掛からないようルナ様にも断りを入れてくれて。  これのどこが我儘なんだろう。確かに一ヵ月前だったら、こっちの時間をずらせと言われていたかもしれないけど、今はここまで気を使ってくれてる。  ユルシュール様は僕に対して優しくなった。  そして優しくなる毎に、無邪気で天真爛漫な笑顔を見せてくれるようになった。  そんな彼女の表情は、元の美しさと相まって天使みたいだ。ここ最近で、今さらのように気付いた。 「時間もありませんし、早くどこかにお店を決めないと……」 「はい。ただいま探しております」 「サーシャがいれば走らせて探させるのに……全く、浴衣を着たいなどと言ってる場合ではありません」  サーシャさんは急にそんなことを言いだして、僕とユルシュール様の食事が済んでから合流することにしたらしい。  主人を僕に預けて浴衣に着替えるというのもすごい話だけど、出かける際、やけに丁寧な頼まれ方をされたのも気になる。何を期待されているんだろう。 「あ、朝日、あそこでいいです。二人であの店へ入りましょう」 「はい。かしこまりました」  ユルシュール様の向かった先は、いつか湊と入ったことのあるカフェだった。  食事というより軽食といった趣になった。だけど僕もユルシュール様も、元々食べる量は少ない方だからちょうどいい。  それにしても……渋谷で外人は別に珍しくもないけど、その中でもユルシュール様は特に目立つなあ。  まずブロンドが美しすぎる。次に異常なスタイルの良さ。これだけで人目を集めるには充分だった。 「あ」 「どうしました?」 「せっかくだから、着替えを用意して、朝日に男性の格好をしてもらえばよかったと思ったんです」 「どうしてまた?」 「どうしても何も、それが自然な姿でしょう?」  あ、本当だ。最近は自分でも女装の方が正常だと思ってるからいけない。 「まあいいです。それよりもデザインの話をしたいです」 「あ、はい。と言っても、昨日の感想の繰りかえしになってしまいそうですが」 「それもそうですね。ではせっかくだし話題を変えます。朝日はまだ私のパタンナーになるつもりはありません?」 「はあ……」 「今回のルナの衣装製作を見ていても、とても綺麗な型紙を引けています。私の作品にも欲しい技術です」 「そろそろルナには見切りをつけて、私と一緒にスイスへ行くべきです、オーッホッホッホ」  ルナ様に見切り……なんてものは付けられない。  だけどユルシュール様のデザインに興味が湧いているのも事実だ。  そもそもルナ様に卒業後も使ってもらえるとは限らないし、三年間は精一杯やるとしても、その後のことはまだ考えられない。 「はい……スイスへ、一度行ってみたいですね」 「は?」 「あ、いえ、私は生まれが海外なので、向こうで暮らすことに抵抗はまるでないんです」 「ただ一度、見ておきたいなあって……ユルシュール様が生まれ、育った場所がどのようなものか見ておきたいと思ったんです」 「あ、あら。それは嬉しいです。きっと気に入っていただけると思います」 「はい。もしルナ様に認められず、それでもユルシュール様が私の評価をしてくれるのなら、向こうで仕事をすることも考えてみたいです」 「もちろん今はルナ様に仕える身ですから、引きぬきというわけにはいきませんが、卒業後の話でしたら、前向きに検討いたします」  もちろんこの後の二年間、自分の技術を高める努力は怠らないようにしなくてはいけない。  ユルシュール様が僕を評価してくれてるのも、彼女の求める技術が自分にあったからだ。いまお誘いをいただいていることに甘えず、もっともっと必要としてもらえるようになろう。  そんなことを密かに思いつつベーグルを口にした。 「…………」  ん? 「初めて朝日が……私の勧誘を前向きに考えてくれました……」 「あ、いえ……どうしたって今は無理だし、あくまで先の話です」 「それだけで充分です。今までは歯牙にもかけてもらえなかったのに」 「以前にも、デザイン画を見せていただいて心が動いたことはありました。むしろ心配なのは自分の技術です」 「いいんです、そのような返事がいただけただけでも一歩目は充分というものです」 「これからばりばり勧誘いたします……うふふ」 「ル、ルナ様の前ではご遠慮ください」  その後はサーシャさんが合流しに来て、二人で今日の予定を消化しに出かけていった。今日は「BON踊り」を見たいらしい。  だけどその後はまた部屋へ来てくださいねと言われたので、今夜も寝る時間は遅くなりそうだった。 「今日から二学期だ!」  湊は学院から離れた位置で力強く拳を握った。 「間に合わなかった!」 「私、服飾の学校とかって宿題なんてないと思ってた!」 「それ以前にさ、この年になると、宿題って自動的に新学期前に終わるものだと思ってた! どうしてまだ終わってないんだろう私!?」 「湊お嬢様、大丈夫です。七愛はいつもお嬢様の味方です。叱られる時も立たされる時も、屋敷へ戻って気まずい思いをする時も……」 「ちょ、みんな聞いてよ! きのう八千代さんに『同じ屋敷に住む誼みとかありませんか?』って聞いたら『滋賀のお土産ありがとうございました。とても美味しかったです』ってぜんぜん関係ないこと言うんだよ!?」 「はい。『地元に一週間も帰省して遊んできたんだから、言い訳なんて通ると思うなよ』という関連付けで良いかと思います」 「どうして瑞穂も帰省したのに、きちんと宿題終えたりするの!? これじゃ私一人が悪者みたいだよね!」 「朝日と、海とプールと水着と海とデートとホテルに行こうと思ってたから、帰省する前に済ませちゃった」 「夏は少女を雌へと変えるね!」 「でも実際には海はおろか、お祭りにも花火にも行けなかった……」 「花美?」 「朝日、酷い。いつも私の誘いを衣装製作があるからと言って断ってばかりで……」 「申し訳ありません瑞穂様。ルナ様から期待をされていたもので」  というより海とプールは無理。水着はとても神経を磨りへらされるので、もう着たくない。それとホテルも無理。 「花美……それは新しい美のカタチ。『海岸に咲く全裸の美』……トレ・美アン」 「そういえば一学期のルナは期限を気にしてピリピリしてたけどさ。最近は言わなくなったね?」 「言われてみれば、今朝は随分と穏やかだったような……」 「一週間も遅れているので、呆れられてしまったのかもしれません」  製作は順調と言いがたかった。  ルナ様に時間のことで何度か注意を受けたけど、厳守すべきは「質」だった。出来が悪くなるくらいなら、納得いくまで続けろとのことだった。  つまり時間を気にしつつ、丁寧にやれってことだから……こちらも常に心掛けていることであって、実際にルナ様のチェックも厳しく、結果として進行は遅れてしまった。  実力不足で申し訳ないことをしてしまった……それでもルナ様はイライラをぶつけてきたりはせず、注意をするときは冷静に、正しい言葉で指摘してくれた。  だけど最近は、縫製のやり直しはあっても、ペースを上げろとは言ってこなくなってしまった……うう、申し訳ない。 「まあまあ、製作に関しては私たちの力不足もあるし。朝日一人が悩んだりすることでもないよ」 「うん。グループなんだから、問題は全員で共有していこう?」 「はい。ありがとうございます」  製作については誰も手を抜いてるわけじゃない。客人である彼女たちにいま以上の努力を求めることはルナ様でもできなかった。  宿題ネタでテンションを上げていた湊もしんみりしてしまった。うーん……。 「ごめんなさい、せっかくの学期始めですから、もっと明るくできればと思ったのですけど……」 「そうです! もっと明るくいきましょう!」  みんながしんみりした中、ユルシュール様だけはご機嫌だった。 「今年の夏休みはとても楽しかったです。東京探索もできましたし、ああ素晴らしいお休みでした!」 「ううっ。ちくしょう、バイタリティは誰にも負けない自信があったのに。今年のユーシェの夏・充実っぷりを見てると、私も実家なんかに帰省してる場合じゃなかったぜ」 「ユーシェは私たちの中だと、朝日とルナの次に製作もがんばっていたのにね」  そう。ユルシュール様はルナ様と僕の扱いについて言い争ってから「では普段助けてもらっている分、今度は私が朝日を手伝います」と平日はみんなより二時間多く製作に参加してくれた。  それでも土日は東京探索を欠かさず「O-MATURI」や「HANA-BI」を存分に楽しんできたらしい。近所のカフェやスイーツの店も開拓していた。 「なんかユーシェ夏休みはずっと楽しそうだったね! いいことあった?」 「ええ、とても。終生のホモを得たと言いますか、自分を高めるきっかけに出会ったと言いますか。ひととの交わりがこれほど大切だったのかと、目からおぼこが落ちたようでした。切羽詰ったというものですね」 「日本語に関してはライバルを見つけて切磋琢磨した方が良さそうだけどね!」 「慣用句を三つも使って……ユーシェは本当に楽しそう」  その楽しさの原因は、今の話を聞くにどうも僕みたいだ。  夏休み中、衣装製作で苦戦した時期以外は、ほぼ毎日ユルシュール様の部屋へ通ってたからなあ。  その間に自信のある作品も幾つか生まれた。「ちょうど良いタイミングのコンテストがあれば、応募してみる」なんてことまで言っていた。  特に「これ!」っていうデザイン画が二人の間で生まれたときのユルシュール様の笑顔は……本当に、見ていて清々しくなるくらい無邪気で、今みたいに、はしゃぎたくなる彼女の気持ちもわかる。 「二学期も楽しくなる予感がします」 「まずは宿題を切りぬけてから……だけどな!」  八千代さん……いや、山吹先生のお叱りを、果たして湊は無事に免れることはできるのだろうか。乞うご期待!  湊が山吹先生に呼びだされた昼休み。僕たちは彼女の帰りを待って寛いでいた。  話題提供者として活躍する湊がいないと、わりと会話はまったりめの進行だった。今は瑞穂様の「今年は京都でこんなお寺に行きました」話のターン。  だけどその話も、聞き手が、旅行は好きでも参拝などは辛いルナ様、お寺と神社をごっちゃにしているユルシュール様だったせいか、いまいち盛りあがりに欠けた。僕は好きだったんだけどなあ。  少し残念そうにした瑞穂様は、次の話題を探して考えこんでいる風だった。その間に僕は彼女のお土産の煎茶を煎れる。宇治の煎茶は舌にまろやかだった。 「あ、そういえば……再来週には文化祭があるね」 「文化祭……」  ルナ様はうんざり顔だった。 「あの学院長様の行う文化祭だから、悪趣味ではあっても、それなりに楽しめるものだと期待していたら……はあ、ただのお祭り騒ぎだろう?」  確かにあの兄が、模擬店やコンサートをよく許可したものだと思う。そういうの嫌いどころか、そもそも何故行うか理解すらできなそうなのに。  それはルナ様も同じだった。もしかしてルナ様は、性格的にお兄様と近いものがあるんだろうか。 「初年度ですから展示するものもありませんし、仕方ないのだと思います。十二月にはフィリコレがありますから、衣装を用意するにもそちらの準備で手一杯ですし」 「だからと言って、喫茶店はないだろう」  ルナ様は僕たちのクラスの出し物にも不満みたいだ。 「本音を言えば反対だったんだ。だけど私が反対すると、気を使う連中が教室内にいるだろう?」  はい。半数以上は。 「しかもなんだ、メイド喫茶? メイドなら本職がいるじゃないか。何の面白味もないだろう」 「いえ、お客様は楽しむのではないかと」 「私も楽しみです。古来より、王が平民の真似をして楽しむというお話は多いじゃありません? 下々に混じってみるのも良い趣向だと思います」 「私はやらないぞ……みんなに悪いから裏方は務めるが、もしウェイトレスも担当することになったら、朝日、君が代われ」 「かしこまりました」  ちょっとだけルナ様のメイド姿を見てみたいと思ったのは内緒だ。 「朝日のメイド姿……ああ楽しみ。とても楽しみ」 「君、毎日見てるだろう」 「お屋敷と教室で見るのでは色々と違うから。ただ、朝日が男性に囲まれてしまわないかとても心配……」  そっか、男性も関係者の父兄だったり、たくさん来るんだ。それは少し心配……同性から見ると、女性にでは気付かない男らしい部分があるかもしれないし……来週は特に気を使って女の子らしくしよう。 「私も声を掛けられてしまうでしょうね! それはもう多くのひとに!」 「顔はいいからな」 「スタイルもいいし……あ」 「ただいまどっせーい……」  疲れきった顔の湊が帰ってきた。 「湊、いいところへ戻ってきたな。ちょうど今、つまらない話題になりかけてたんだ」 「どうしてそんな酷いことを言うのです?」 「いやー、こってりしぼられたー……普段から、食っちゃ寝食っちゃ寝してたのを見られてたのが痛かったー……遊びにも行ったし」 「あ、や、でも太ってはないからね!?」  湊は特定の誰かを見ながらではなく、その場の全員に言い訳をした。普通に細いんだから、そんなこと思わないのに。 「たーはは、食っちゃ寝は言いすぎたかな! でも食っちゃごろ寝、食っちゃごろ寝くらいはしてたかな?」 「さぼってるようにも見えなかったけど? 何の課題が残ってたの?」 「デザイン画二十枚……」 「私が夏休み中、一日に描いたデザイン画の平均的な枚数だな」  湊はその場に体育座りでしゃがみ込んだ。下着が見えているから、あまり教室ではやらない方が良さそう。あとで教えてあげよう。 「一日一枚は守ろうとしたんだよ? でもほら帰省したから? そこからペース崩れちゃって、そのあともずるずると?」 「その枚数なら今日一日で終わるでしょう? 描けばいいのです」  湊は体育座りをしたまま、とうとう横向きに床へ寝転んだ。目が民衆を率いる自由の女神のようになっていた(日本語訳:「あいつらやっつければいいんだよな?」)。 「ブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ」 「もう私、ショー用にデザインした三枚のやつを宿題として提出しようかな……どうせもう使わないし」 「問題はないはずだけど、別の目的があって描いたものって、なぜか課題には使いにくいよね」 「というよりも、そこまで苦戦する課題だった?」 「いやそりゃあユーシェは天才肌だから問題ないかもしれないけどさ。こっちはやっちゃんせんせーに明日も絞られると思うと気がヘヴィなんだよ」  本人いないと好き勝手呼ぶなこの子は。やっちゃん誰? 「あ、そういえばやっちゃんせんせいからユーシェがどこにいるか聞かれてた。たぶんサロンですって答えたら、じゃあ後でもいいか的な空気だったけど」 「私です? どうしてです?」 「それは私じゃわからないけどさ。なんか片手にユーシェのデザイン画持ってたよ。今朝見たやつだからユーシェので間違いないと思う。七愛ー、のど渇いたからお茶ちょーだい」 「ふ、ふぅん。私のデザイン画……先生ったらどうしたんです? きっとまた誉められてしまうのですね」  余裕のある振りをしてるけど、内心ではそわそわしてることが僕にだけはわかった。  でも本当になんの用事だろう。夏休みに描いたものなら、僕が見てもいい出来だったし、ポジティブな話ではあっても、ネガティブな話にはならなそうだけど。 「このお茶……何煎目?」 「あ、二煎目です。茶葉を変えましょうか」 「あ! じゃあ、うちの地元の土山茶使ってよ。宇治に負けないくらいおいしいよ」 「あ、お屋敷でも湊のお茶はおいしかった。私も賛成」 「うんうん。じゃあ私、取ってくるよ」 「あ、湊は戻ってきたばかりでしょう。私が取りにいってあげます」  サーシャさんを含めた全員が「え?」という顔をした。もちろん僕も。  だってユルシュール様が他人の持ち物を取りにいくって……どういう心境? 「ちっ、私の持ち物なら全力でパシらせたものを」 「その代わり朝日をお借りします。一人で湊の鞄をごそごそと漁っていると、何か浅ましいことでもしていると誤解されそうですから」 「え、だからってなんで朝日? サーシャさんでいいんじゃ」 「サーシャは今そこで美の化身と化しているからです」 「我が渾身の『美勒菩薩』……これぞ東西文明の融合、シルクロードを体で表した美しきポージング」  サーシャさんは親指と薬指を繋げ、美しき仏の手を自らの体で演出していた。 「朝日と一緒なら私も行――」 「ぞろぞろ行く必要はありません。いきますよ朝日」  ええとと思ってルナ様を見れば、呆れにも似た付きあってあげろという表情で顎をくいと動かした。 「最近ユーシェは朝日がお気に入りみたいだからな。二人で話したいならそう言えばいいものを。勧誘はされるなよ」 「お気に入り? なんて?」 「そういえば前よりもよく会話しているような……」  もしかしてデザイン画のことかなと思ったので、僕はユルシュール様の後を追いかけた。 「きっと薔薇をテーマにした、あのデザイン画が良かったんだと思います」  ルナ様の言うとおり、ユルシュール様は僕と話したくてたまらなかったみたいだ。 「もしかして優秀な作品だから、校内に展示したいなどの話かもしれません」 「はい。そうなったら本当に嬉しいですね」 「あのデザインも、きっかけは朝日が『ユルシュール様は薔薇がお好きなのに、モチーフとしては使われないんですか?』と聞いてきたからです」 「そういえば返事を聞いてませんでしたけど、何か理由があるんですか?」 「あまりにベタすぎて、幼い頃から何度も使っていたんです。でもやはり美しいものには魅力があって当然でしたね。自信作が生まれたんですから」  オホホとユルシュール様は最後に笑った。この笑い方だけはなかなか直せないみたいだ。  サロンから教室まではさほど離れてない。目的のものを手にした僕たちは、廊下の窓際で少し二人きりの時間を作っていた。  コロコロと笑うユルシュール様は、人目に付く場所にも関わらず、部屋で二人きりの時のように幼い笑顔を浮かべていた。  まだ何に使うか決まったわけでもないのに。でも明るい期待をするのはいいことだ。 「あ、ユルシュールさん。小倉さんも?」  珍しい組み合わせ? と言いたげな目で八千代さんこと山吹先生から声を掛けられた。 「あ」 「なんですか? なにか私にご用事ですか?」  対して、何か期待感が表に出てしまっているユルシュール様。  余裕のある自分を演じるのは慣れているはずなのに、僕の前だからか、少し演技が下手だった。そんな彼女が微笑ましい。 「ええ、実はユルシュールさんを探していたんです。夏休みの提出物のデザイン画を見せてもらいました」 「は、はい」 「素晴らしい出来でした。今までの提出物の中でも、群を抜いて良い作品だと思います」  八千代さんはユルシュール様の夏休みの課題を手にしている。  その作品は、ちょうど今まで話していた薔薇がモチーフの服だった。 「それで実はお願いがあって……今年の文化祭のステージイベントの一つに、デザインコンペがあるんです」 「一般のクラスからは参加者がいるんですけど、私のクラスからは参加者が少なくて困っていたんです」 「宿題もメイド任せの子が多くて。過去の提出物と比べれば、誰が描いたかはすぐわかるんです。メイドの作品をコンペに出そうというひともいないでしょう?」 「でもあなたの作品は間違いなく自分で描いたものだし、この出来なら担任としての顔も立ちます。参加してくれませんか?」  ユルシュール様なら、欧州にいた頃にこの手の経験を何度かしていると言っていた。だから経験的にも慣れているはずだ。  そう思って彼女の様子を窺えば、唇が微かに震えていた。 「しっ」  そして自信満々に見せる為のポージング。 「仕方ありませんね」 「担任から直々に声を掛けられたんじゃ、参加しないわけにもいきませんから」 「そうですか。ありがとうございます、助かります」 「いいえ。模範として作品を展示されるのは、スイスにいた頃から慣れっこです」  心強いですね、と言いのこして山吹先生は参加の登録をしに職員室へ戻っていった。  後に残る僕とユルシュール様。もうこの時点で、隣で立つ体がうずうずしてるのが伝わってくる。 「朝日」 「はい」 「待たせてしまっているから、今はサロンに戻ります」 「けど今夜はどんなに衣装製作が忙しくても、私の部屋へ……いいですね?」 「はい。お伺いします」 「お待ちしてます!」  リンゴみたいな頬をしたユルシュール様の笑顔。こんな顔をしていたんじゃ、みんなにはしゃいでるのがバレちゃうんじゃないかと不安になった。 「嬉しいですわーっ!」 「ですわ」が出ちゃった。  それだけ嬉しいんだと思う。ユルシュール様はくるくると部屋の中で回転し、ばふんとベッドへ腰を下ろした。 「まあ優れているものが評価されるのは当然のことですけど? ですがタイミングというものもありますし」 「それがようやく認められたという気持ちです。たとえ担任個人のセンスと言っても、数ある提出物の中から私の描いたものが選ばれるとは嬉しいです」 「おめでとうございます」 「これで一位を取ったらどうしましょう。校内では、ショーに先んじて、ルナよりも私の方が評価されてしまいますね」 「はい。そういうことになりますね」 「ま、まあ、あくまで学院内でのお遊びであって、対外的な影響力は全くありませんけど? それほどムキになるイベントではありませんけどね」  さすがに途中から恥ずかしくなったのか照れ隠ししてる。  夕食時に話したときは、湊も瑞穂様も「すごーい」という反応だった。ルナ様だって「さすがユーシェだな。私も頑張らなければ」と刺激を受けた様子だった。 「当日が楽しみですね、ユルシュール様」 「はい。他にどんな作品が出されるのかは知りませんが、はっきり言って今回は自信があります」 「はい。良い作品ですから」 「違います。良い作品だから、というわけではありません」  ユルシュール様はふるふると首を横に振った。それは謙遜かと思ったけど、そんなわけでもなかった。 「私一人の作品では、まだ自信に根拠が持てないんです。でも今回のものは、遊星さんも最初から、夏休みの課題の中では一番いいと言ってくれていたから自信があって」 「えっ」  突然、本名で呼ばれたからドキリとした。 「私の自信が正しかったと示されるのが一番嬉しい。この方法は間違ってなかったんだと思います。遊星さんとお互いを高めあっているんだと実感が湧いたようです」 「は、はい」  まだ本名を呼ばれていることの動揺が抜けていなかった。本当、久しぶりだから何故か緊張する。 「嬉しくありませんか?」 「え?」 「私たちの作品が選ばれて、嬉しくありませんか?」 「いえそんな! もちろん嬉しいに決まってます。ただ『私たち』と言っていただけるほどのアドバイスをできたわけでもありませんし、あくまでユルシュール様個人の実力かと」 「私一人では生まれなかったと思っています」  ユルシュール様はベッドに腰掛ける位置を少しずらした。彼女の右側のスペースが、やや広めに空いた。 「一ヵ月も付きあっていただいたのですから、あなたが私に与えた影響は大きいと思います」 「はい、ありがとうございます。でもそれは僕も同じです。ユルシュール様と共にデザイン画を描くのは楽しかったです」 「でしたらもう少し喜んでください」 「喜んでいます。ぜひコンペで一位に選ばれれば良いなと思います」 「そこまで言ってくれるのなら、共同制作者として」  ぽんと、ユルシュール様は自分の隣のスペースを叩いた。 「ここへ座っておめでとうと言ってほしいです」 「はい」  ユルシュール様の隣へ座ってみる。そのクッションは柔らかかった。 「サーシャ」  そして僕が隣に座ると、彼女がまずしたことは自分の付き人の名前を呼んだことだった。 「飲み物を作ってくるのです。ふたり分です」 「ウィ」  あれ? サーシャさんがいなくなった?  気付けば僕とユルシュール様は部屋で二人きりになった。 「遊星さん」 「はい」 「以前から思っていたのですけど、遊星さんはジャンメール家より格式高い家の生まれなのに遠慮が過ぎます」 「いえ、私は正統の血筋ではないので、本当に実家では居場所がないんです」 「だから今の立場も、あながち間違っているとは言えないのかもしれません」 「それなら正嫡の座を手に入れるくらいの野心を見せればいいのです」 「あの兄ですよ? 立ちむかおうとは思いません」  自分が衣遠兄さまと睨みあっている姿は、想像するだけで噴きだしそうになった。力不足にもほどがある。 「わかりました。でもそこまでとは言わなくても、私と二人のときはもう少し対等に接してほしいです」 「もっと一緒に喜びを分かちあいたいんです」 「本当に、喜んではいるんですが。表現力が不足していたら申し訳ありません」 「ほらまた……瑞穂ではありませんけど、敬語はやめて話してほしいです」 「それは……いざというときに人前で対等の言葉が出てしまいそうで」 「でも湊とはそれで続いているのでしょう?」  確かに、湊のことを例に挙げられると反論は思いつかない。 「対等の立場でないと、私も自分がどうしたいのかがはっきりと決まらないんです」 「どうしたいか? というと?」 「本当にスイスへ来てもらいたいか、ならばその立場をどうするか、ということです」  あ、勧誘されてる。でも最近は、一度だけでも、卒業したらスイスを訪れてみたいと思っている。  今はルナ様がいるから絶対に無理だけど、ユルシュール様と服作りするのも最近はすごく楽しそうだと思うようになった。 「とにかく今は、遊星さんの意識改革のステップを踏みたいんです」 「その方法がユルシュール様への敬語をやめるということですか?」 「それが望ましいですけど、すぐには無理なんでしょう? それなら順を追っていきましょう」 「まずは私のことを『ユーシェ』と呼んでほしいです」 「えっ?」  ユーシェ。他のお嬢様が共通して呼んでいるユルシュール様のニックネーム。 「二人きりのときは許します。私のことを馴染んだニックネームで呼んでほしいです」 「どう……しましょう。そんな大それたことが許されるのかどうか……」 「私がいいと言っています。さ、一度呼んでみていただきたいです」 「ユーシェ」  一度、口にしたら妙に馴染んだ気がした。これも海外育ちで、ニックネームが日常生活にも存在する世界だったからだろうか。 「では私も。遊星さん」 「なんでしょう、ユーシェ」 「う。あだ名と敬語は合わせ辛いですね。確かにこの呼び方のあとは普通に話してしまいそうです」 「想像以上に効果覿面で嬉しいです。今後、二人きりのときはそう呼んでいただきたいです」 「でもユーシェだって僕に対して敬語ですよ?」 「それはこの喋り方で日本語を学んでしまったからですよ、遊星さん」 「それはなんだかずるい気がしますよ、ユーシェ?」 「親しくなればお互いに自然と敬語はなくなると思います、遊星さん」  くすくすと笑いあった。ユーシェの狙い通り、朝日から遊星に意識改革をされた気がする。 「ところでいま気付いたんですけど『遊星』と『ユーシェ』は似てますね、遊星さん」 「はい。でも、だからなんだ程度の発見だと思いますよ、ユーシェ」 「あら成松さん、中々にメイドの格好が似合っていましてよ。やはり素材が良いと何を着ても光るものね」 「そんな江里口さんこそ。たまにはこのような格好も面白いものですね、ホホホホ」  僕たちのクラスの出し物、メイド喫茶。お嬢様方はそれなりに自分たちの格好を楽しんでいた。 「やあ君たち、当家の制服が気に入ってもらえたようで何より。各自の家の制服というのも面白かったが、やはり統一性を持たせた方が店舗としてはわかりやすいかと思ったんだ」 「さすがルナ様、私たちでは気付かないところに着眼されるのですね。全てルナ様の仰るとおりでございます。江里口金属です」 「本当、とても素敵な衣装だと、小倉さんを見ていて常々思っていたのです。でもこれだけ素敵な衣装だと、とても模擬店とは思えないかもしれませんね、品がありすぎて。成松重工でございます」 「本当、そこいらのメイド喫茶とは制服の質が違いますものね。ところでルナ様はお召にならないので?」 「ああ。私はこの髪もあって好奇の目に晒されることは避けたいんだ。今日は裏方に専念させてもらうことにした。代わりにクリーニング代は当家で負担するから許してもらいたい」 「そのような事情でしたら、私どもは一切気にいたしません。給仕の方はお任せください。成松重工でございます」 「ありがとう、常子さんに勝子さん。この恩は忘れない」 「いいえ、ルナ様のお役に立てて光栄です! 江里口金属でございます!」 「成松重工もどうぞお忘れなく!」  ルナ様だけは上手いこと言ってメイドの衣装から逃れていた。いやこの場合、避けたかったのは衣装そのものではなく、模擬店などを出す一般的な文化祭か。 「やはり私はこの手の騒ぎが苦手だ。生来、楽しむということが苦手なのかもしれないな。時々自分が情けなくなるが」 「真面目で服飾にストイックな部分はルナ様の長所かと。その結果があのデザインだとすれば、それは天から与えられた選ばれし才能です」 「大げさだが気分はいいから許す。しかしあれだな……朝日、ちょっと耳を」 「はい?」  くいくいと指で招かれたので、ルナ様の口元へ耳を近付ける。僕の主人は悪戯っぽく笑いながら、小声で囁きかけてきた。 「みんなには悪いが、朝日ほど似合っている子は他にいないな」 「そうでしょうか。皆様、とても可愛らしいと思いますが」 「朝日が一番だ。鼻が高い」  くすくすと笑うルナ様の声に、誇らしい心と照れくささを覚えた。  いや照れくさくない! メイド服が似合って可愛いと言われて喜ぶのはよくない! 「私たちは日頃、そうそう出会いなどないからな。今日は君も男性から声を掛けられる機会が多々あると思う。一応、言っておくが」 「『この人なら』と思う相手がいれば、恋愛をしても構わない」 「今日一日くらい自由に行動しても構わないから、いつでも相談するように。朝日が好きになる男性などいたら見てみたい」 「お心遣いありがとうございます」  でも100%ないと思います。僕が男性と結ばれても、あちらもこちらも悲しい思いをする未来しかありませんので。 「そういうルナ様は男性に興味がないのですか?」 「不健全かもしれないが、全く無い。まあこの容姿を見て声を掛けてくる物好きもいないだろうが、万が一いたとしても現状では財産目当てとしか思えないから煩わしい」  個人的にも、ルナ様がお付きあいするひとがいるとすれば、誰もが憧れるような男性であって欲しい。完全に僕の我儘だけど。 「でもいずれは考えなければいけないことですよ?」 「だったらいずれが自然に来たときでいい。私の場合は両親からの希望もないしな……ああそうだ、iPS細胞。あれでいい。私の子孫は君に任せた」  ルナ様は明らかに適当な発言をしてから教室の外を覗いた。廊下に見慣れない顔がちらほらと見えはじめている。 「早速、客が来たな。このクラスの生徒を一人でも落とせれば玉の輿確定だからな、さぞかし大勢の客が集まるだろう」 「それじゃあ私は奥へ引っこんでいる。君は最初からシフトが入っていたな。こちらのことは気にしなくていいから、クラスのために全霊を尽くせ」 「はい。桜小路家の恥とならないよう、真心を込めてお客様をお迎えいたします」  ルナ様は教室の一部に作ったバックヤードへ入ってしまった。さて、僕はルナ様の分まで働かないと。  でもちょっと怖いなあ。バレるのが怖いから、あんまり男のひととは話したくないなあ。 「へい嬢ちゃん、おっぱい一丁特盛ねぎだくギョクで」 「偽乳です」 「朝日はなにか注文ない? 私、ウェイトレスって自分の天職だと思うんだ。だってホラうちの実家配送業だから、ものを運ぶのが昔から得意で」 「楽しそうですね、湊様。よくお似合いです」 「え、マジ? そう? たはは、そんな似合ってるとか自分じゃ思ってなかったけど、誉めてほしいひとに言われると嬉しいもんんだね、たへへ、うへへへへ」  湊は鼻の下を伸ばしてでへでへしていた。メイドさんがそんな顔をしてはいけません。 「やー、でも楽しいね! 私こういうの大好きなんだ。お祭り騒ぎとか、なんかみんなで楽しいことやるのとかさ。この学院にもこういうイベントがあって良かったよね!」  湊はルナ様と対極の考え方をしていた。湊のこういうところが好きなんだろうな、ルナ様。 「てかさなんかさ、朝日と同じ格好ってのがまた楽しいね。へへへ〜、並んで写真撮りたいぜええ」 「やだ……写真だけはやだ……ルナ様が写真嫌いだから本当に感謝してるくらい、写真はやだ……」 「あ、後世に記録を残したくないんだ? そういえば二人でプリとかも撮ったことないよね。いつか一緒にゲーセンも行きたいんだけれども」  どうして湊は僕の事情を知ってるのに、この姿で一緒に写真を撮りたいと思うんだろう。むしろ嫌じゃないのかな。 「ちょっといいですか。君たちと一緒に写真撮ってもいいかな」 「あ、そういうサービスはやってませーん」 「すごいね朝日、モテるね人気だね。記念すべき声掛けられ一人目だよ」 「いや今の湊だと思うよ」 「そう? ま、どっちでもいいんだけど、なんか混みはじめてきたね」 「ね、君たちクラブとか興味ない? 今度美容系とアクセ系のガッコの子も集めて、ファッションショーみたいなイベント開くんだけどさ。来てみない?」 「あ、ナンパっぽいのはお断りさせていただいておりまーす」  湊は寄ってくる男子をばっさばっさ切りおとした。人気高いんだね。 「ういー、注文とは別のお誘いが多い。そりゃルナも瑞穂もバックヤードに引っこむよね」 「やっぱりそういう目的のひとが多いのかな?」 「どうなんだろう? でもこの世界も広いわけじゃないから、知りあい関係も多いみたいだね。江里口さんとか成松さん、さっきから挨拶されっぱなしだし」  確かに、さっきから「お久しぶり」「お元気ですか」の声が多い。ときどきお誘いをしてる男の人もいるけど、そういう人は逆に「誰?」という感じで相手にされないみたいだ。  もしかして湊がさっきから声を掛けられ続けてるのは、関西の出身だから、こっちではそれほど顔を知られてないからなのかな? あ、六人目に声掛けられた。 「ところで君、見たことないけど、どこかの家のメイド? 僕の家に来ないかい、君になら特別なお給金を出してもいいけど?」 「あ、申し訳ありません。私は桜小路家に仕えておりますので」 「え、本物のメイドさん?」 「あれ?」  他の男性客まで集まってきて途端に囲まれた。どうしようこれ。 「君の雇用主は誰? ちょっと直にお話しさせてもらいたいんだけど? ていうか使用人なんてやめて、若社長夫人として第二の人生歩んでみない?」 「君、レベル高いねぇ〜、僕と結婚すれば海外暮らしも夢じゃないよ? お父様さえ死ねば財産全部転がりこんでくるんだ。まずは二人で遊び行こうよ」  ああ。元が使用人なら浮気しても強気に出られるし、下手に権力ある家だと気を使って苦労するから愛人として便利なんですね。  ところでここに集中されると、他のメイドさんとの兼ね合いが悪くなるからやめてください。主人同士の関係はさておき、これでも各家のメイド同士は仲良くやっているんです。 「あの、仕事がありますので。あの、そう。呼びこみがありますので。失礼します」  人の間を縫ってこの場からの脱走を試みた。これじゃ仕事にならないので、仲の良いメイドの子にゴメンねと片手を立てて教室を出る。  というかこのフロアにはこの教室しかないのに、廊下にもひとが多い……。  その視線がまたこちらに集まった。ちょっと勘違い風のひとみたいで嫌だけど、でもこのままだと、現実問題としてクラスに迷惑を掛けそうだ。  ほとぼりが冷めるまでトイレにでも入って休憩することにした。が、その途中――  僕以外でも捕まっているひとがいるのを発見した。  すぐに気付いた。ユーシェは海外のひとだから、こっちにはそれほど知りあいがいないんだ。  ナンパ目的のひとなら掘り出し物を見つけた気分だろう。だってユーシェは僕なんかより遥かに綺麗で「持っている」オーラを纏った真性美人なんだから。 「なんです? なぜ私の前に人垣ができたんです?」 「おお……こんな天使は初めて見たよ。海外の有名なドールそのものじゃないか。君になら全財産を捧げてもいいよ」 「高貴な家の出の方だとお見受けします。この名刺を受けとっていただけませんか。よろしければ、今度最高級の夜景が見えるレストランで食事をご一緒していただけませんか」 「チューかあ、ジブン法律とか関係ないんスけどぉ、今から国際結婚とかしてもらえねっスかあ? あとなんスかその爆乳。マジ白人パネェんスけど、日本人とかもうどうでもよくなってきちゃったんですけど!?」 「私はフォ……」 「ああ、日本人にも積極的なひとがいるんですね。よろしいんじゃないです? まあ以前なら、お断りするまでをワンセットにして、話だけはお聞きするのが礼儀だと思っていたんですけど」 「ごめんなさい。今は気になっているひとがいますから、お話するのもご遠慮します。また来世でお声がけください」  えっ。  初耳だった。ユーシェに気になってるひといるんだ……でもここ最近で男のひとと話す機会なんてあったかな?  …………。  え、僕? まさかね? 「まあ私に声を掛けるのなら、服飾の技術を身に付けていることは必須です。私、自分を高めてくれるひと以外と付きあうつもりはありません」  服飾の技術……自分を高めて……って最近聞いたばかりのような。  …………。  僕!?  いや。お断りする為の一環として口にしただけかもしれない。さすがに発想が大胆すぎる。  だけどもしそうだったら、僕はどう応えよう。  湊の時はそういった感情が持てなくてごめんなさいをした。でもユーシェに対しては少し戸惑うところがある。  彼女とデザインをするのは楽しいし、目指す場所が一緒で、同じ悩みを抱えている者同士の連帯感みたいなものがある。  それと何より、彼女の弱さを知っている数少ない人間として、その気丈な心でまっすぐに立っている細い身体を支えてあげたいと思う。  僕にだけ見せてくれる表情は本当に愛らしくて、男として純粋に守ってあげたいという気持ちが強い。  だけどその心を恋と結びつけるには、僕はあまりにひとと交わる経験が不足しいてる。  湊のこともあるし……困ったな、いまこんなことを考えさせられるのは。これから先も共に暮らして行かなくちゃいけなくて、まだまだ部屋にも通いたいのに。 「『この人なら』と思う相手がいれば、恋愛をしても構わない」  何故かルナ様の言葉を思いだした。  妙に落ちつかない。この格好をしてることがなんだか急に恥ずかしくなってきた。  やっぱりトイレで一度頭を落ちつけよう。どうも心が焦っていけない。 「朝日ー。休憩時間だよ、お疲れー」 「あ、はい。お休みいただきます」  休憩に入りつつシフト表を確認する。僕はルナ様の分もウェイトレスを勤めなくちゃいけないから、もう一度出番があって……次は二時間後か。  けっこう間が空くなあ。制服に着替えるか微妙な時間だ。メイド服のままだと声を掛けられることも多いし。  でもルナ様と一緒にいれば大丈夫かな。という判断で、この格好のまま過ごすことにした。  そのルナ様は瑞穂様と一緒にバックヤードにいるはずだ。と、覗いてみればわりと戦場。しかもけっこう混みあってる。  ああ……あのルナ様が瑞穂様のフォローを受けながら働いている。無愛想な表情のままケーキセットの準備をしている姿が、なんて微笑ましい。そのエプロン姿も素敵です。  でもお客様にお出しするときは、ケーキのフィルムは取ってあげてください。  そんな不慣れなところが、また好感度高く、僕がしばらく入り口の裾からルナ様を見守ってしまった。なんていうか小動物的な愛らしさに満ちている。 「朝日」 「わぅ」 「何を慈愛に満ちた目で見守っていたんです?」 「はい。ルナ様が働いている姿に感動していました」 「あ、本当ですね。あのルナが人の集まりに混じって共同作業を……成長したんですね」  僕とユーシェはその姿を涙ながらに眺めていた。その様子を他の生徒やお客さんたちが奇異なものを見る眼差しで見守っていた。 「あ、ルナを見守るのもいいけど、自分のことを忘れていました。私の成長も気にしてほしいです」 「ユルシュール様の成長ですか?」  一応、人の居る場所では「ユルシュール様」呼びを守ることにしていた。彼女から望まれたわけじゃないけど、メイドと対等に付きあっているのも不自然だ。 「ちょっと二人で話したいんですけど、ここだとひとが多すぎて……今が休憩時間なら、少し付きあっていただけます?」  くい、と袖を引かれた。強引に引きずっていかない辺り、僕への対応が丁寧になったなと思う。  ユーシェも成長してるのかもしれないけど、僕とユーシェの関係も成長してる。  でもそれって、さっき言ってたユーシェの気持ちと関係してるのかな、うーん……。 「とりあえずサロンにでも行きましょう」  ただ、僕が悩んでいるとは言っても、顔に出してはユーシェに申し訳ない。今は何事もなかったかのように笑顔で対応した。 「いまホールでデザインコンペが行われてるんです」 「もう?」  慌ててスケジュール表を取りだして現在時刻と照らしあわせると、確かにホールの時間割はデザインコンペに割り当てられている。 「始まる前にちょっとだけ覗いてきたんですけど、ひとの入りも中々でした。今頃は私のデザインも発表されているんでしょうね」 「え、じゃあユーシェがここにいたら駄目じゃないですか。せっかくなんだから観に行かないと……っ?」  肩で二の腕をぐいっと押しあげられた。ユーシェの頬が軽く膨らんでいる。  ユーシェってこんなにスキンシップをする方だっけ? なんだか僕の前ではどんどん子ども化してるような?  今頃はコンペで作品が展示されてるだろうから、緊張が高くなってテンションが上がってるのもあるんだろうけど、それにしても楽しそうだ。  こんな悪戯みたいなことをされると、なんだか保護欲の方を刺激されてしまう。 「以前にも言いましたけど、遊星さんと二人で喜びたいんです」 「はい。私もユーシェと一緒に喜びたいです」 「鈍いです、違います。一緒にホールへ行って、一緒に観たいですと言ってるんです。サーシャは私の代わりにウェイトレスをやってくれるそうですから、二人きりです」 「あ、一緒に……」  彼女の言うとおり、二人並んでユーシェの優勝の瞬間が観られたら最高だ。一番近くでおめでとうと言ってあげられる。でも。 「ルナ様を置いて、長時間ひとりで行動するのは……」 「言うと思いましたけどっ」  笑顔のユーシェがくっつけた肩をぐいんぐいんと回して二の腕を攻撃してきた。くすぐったいし、子どもみたいなじゃれ合いが楽しい。 「もう……ルナのことを気にしてばかりです。私のことも忘れないでほしいです」 「ごめんなさい、私も行きたいんです。でもわかってください」 「最初からわかってました。どうせ遊星さんがルナより私を優先してくれるとは思いませんから」 「でもそんなわかっていることで拗ねるほど子どもでもありません」 「肩で攻撃してきたのに」 「しましたけどっ」  一際、力の強いタックルをぶつけられた。しかも正面から。でも体が軽いせいで痛くない。  僕の周りをうろうろして、構って欲しくなったら体当たりしてきて。その髪型が垂れた耳を連想させてプードルみたいだ。 「どうせそう言うだろうと思ってたから期待なんてしてません。でもルナと一緒なら観にきてくれます?」 「ルナ様を誘って?」 「そうです。本当は二人きりがいいけど、無理は言えませんから我慢してあげます」 「ルナ様と一緒に……はい、それなら行けると思います」  どうせ彼女は予定を決めてないだろうし、コンペの内容は服飾に関わることだから、むしろ興味を持ってくれそうだ。 「では、先に行って待ってますから、必ず来ていただきたいです」 「はい」 「あ、でも」  僕がさっそく教室へ向かおうとして体を翻したら、ユーシェは何かを思いだしたように声を出して引きとめてきた。 「はい?」 「遊星さんがあんまり近くにいると、素の声が出てしまいそうだから、少し立つ位置の距離は開けていただきたいです」 「ルナの前では、まだ余裕を見せていたいですから。はしゃぐわけにはいかないんです」 「ユーシェが二人で喜びたいって言ったのに」 「それは屋敷へ戻って、部屋に帰るまで我慢します」 「はい、わかりました。楽しみにしています」 「あ、それともう一つだけ」  コンペの終わりまであと30分。自分の中でちょっと時間を気にしつつ、何か言いたそうなユーシェの言葉を待った。 「遊星さんにお聞きしますけど、日本人が消極的というのは本当です?」 「日本人が? どうなんでしょう。私は海外育ちなので、あまりネイティブの皆さんの比較対象にはならないかもしれません」 「じゃあ遊星さんは積極的なんです?」 「どうでしょう。でも夢を叶えるためなら、何事も積極的に挑もうと心掛けるようにはしています」 「ふぅん」  ユーシェはほくそ笑むようにくすりと笑った。さっきまでの無邪気な表情と違う、普段の彼女に近い自信家らしさを表に出した笑みだ。 「海外育ちなら知ってると思いますけど、私たちの地域の女性は欲しいものがあれば自分から取りにいきます」 「はい」 「じゃあ今夜、お部屋でお待ちしてます!」  その言葉を最後にユーシェはサロンを出ていった。 「えっ……」  それってつまり、恋にも積極的ですよって表明? 「…………」  どうしよう。今日の夜までに返事を決めないといけないくらい早急?  さすが欧州、ぐいぐい来るなあ。  でも向こうの女性は断った場合、一瞬で気持ちを切りかえてドライになるから、今後の生活にまで気を使わなくていいのはとても助かる。  でも今だって夜に二人で会って、同じ夢を目指して、笑いながら好きなことを助けあって。今みたいに楽しくじゃれ合ってるなら、ユーシェのアピールとしては充分すぎるかもしれない。  あとは踏みだす覚悟、なのかなあ。  でもこれでただの勘違いだったら、僕の気持ちのやり場に困りそう。そのときは責任取ってね、ユーシェ。 「君、どこへ行ってたんだ。運命の相手にでも巡りあったのか?」 「どうなんでしょう……あ、いえ違います。男性ではありません」  一瞬だけルナ様に驚いた顔をされたので、慌てて否定した。 「というか君、人気ありそうだな。素直だしかわいいし、いかにも尽くしてくれそうだし。実際家事もできるし、凡そ女としての欠点が見当たらないじゃないか」  凡そ男であることが最大の問題です。欠点はなくても欠陥品です。 「そんな女性を独り占めできるとは光栄だな。だが花の命は短いというし、私でさえ素晴らしいと思える男性がいたら紹介するからな」 「ルナ様が素晴らしいと思う男性とはどのような方ですか?」 「ん? んー……ハチ公?」  人間ではありませんでしたか……。  どのような「人」ですかと聞けば良かった。でも考えてその結果なら、覆ることはなさそうですね。  せめて歴史上の人物なら、肉体系がいいのか学者がいいのか判断ができそうだったのに……。 「つまり私は犬と結婚させられるんですか……?」 「嫌なら自分で相手を見つけることだ。というより動物と朝日は相性よさそうだな。犬に押したおされる朝日。うん、かわいい」  ユーシェのペットのモトカレに襲われた記憶が蘇った。 「せめて人間がいいです……」 「君の男性の好みも、いまいちわからないからな。ああスタンレーか」  あ、それいいかも。今後、好みの男性を聞かれたらそう答えておこう。 「そうだ。ルナ様こそデザイナーの中に好みのひとはいないのですか?」 「あいつらゲイばかりだからな。スタンレーもきっとゲイだ」 「紛うことなき偏見ですね」 「まあでも、私は個人の性嗜好には寛容だからな。自分で同性愛に踏みこもうとは思わないが、たとえ君がその道の人間でも、こちらに被害が及ばない限りは否定しないと伝えておく」 「なになに、楽しそうな話題?」 「いえ、この話題はもう終わりです。大丈夫ですルナ様、私はノーマルですからそのつもりはありません。だからと言って、まだ特定の方と付きあいたいとは思いません」 「そうか。じゃあ朝日が群がられて鬱陶しいだけだから、表に出る必要もないな。サロンにでも行って寛ぐか」 「はい、かしこまり――」  あ、畏まっちゃ駄目だ。ホールへ行かないと。 「――そうでしたルナ様。私、見ておきたい催し物がありまして」 「君が? それほど有志による素人歌舞伎『隅田川花御所染』が観たかったのか?」  ちょっと見たかったんですかルナ様……確かに下の階の教室で上演中ですね。 「ホールでデザインコンペをやっているのはご存知ですか? ユルシュール様のデザイン画も出品されているはずです」 「ああ、この子どものお遊びのようなお祭りの中で、数少ない真っ当な企画だな。服飾が絡んでいる企画というだけで好感が持てる」  やった、ルナ様が興味を持っている。これなら誘いやすそうだ。 「では今から観に行きませんか? もう結果発表の段階かもしれませんが、ユルシュール様の作品が優勝しているかもしれませんし」 「そうだな。私の作品も出品しているし、うん、観に行っておくか」 「え?」  初めての情報だったせいか、ルナ様の言葉の意味がするりと頭の中に入ってこなかった。 「え、出品……されていたんですか?」 「参加するつもりはなかったんだが。興味はあったが、学院内のみのイベントだろう? 今は一日でも衣装製作の方に力を注ごうと思い、やめておくことにしたんだ」  言葉は選んでいるものの「所詮お遊びだろう?」という意味に感じられた。それでもルナ様が、はっきりものを言わないのは、ユーシェに対する気遣いだろうか。 「だけど昨日の夜に八千代から相談されたんだ。出品予定の作品の一つが雑誌の丸写しだったとわかり、慌てて参加を取りけしたらしい」 「そんなことで穴を空けては八千代の面子にも関わるだろう? だからその場で部屋にあった物の中から仕方なくといったところだったんだが」  仕方なく……それならさすがに。でもルナ様の作品?  嫌な予感がした。いや、ルナ様の作品なんだ。「嫌」な、なんて言葉を使っちゃいけない。僕は馬鹿な使用人だ。でも。だけど。 「ルナ様、行きましょう。発表が、終わってしまうかもしれません」  自分でも気が逸っているとわかっていた。でも僕は急ぎたい。すぐにでも行かなくちゃいけない気がする。 「朝日、待て。歩くのが早い。ひとにぶつかるぞ、ちゃんと避けろ」  男性に肩をぶつけて何度か謝った。中にはそれをきっかけに声を掛けてくるひともいたけど、自分でも意識しないうちに瞳孔が開いていたらしい。相手が笑顔を引きつらせて遠慮してしまうほどだった。  会場に付いたのは予想通り結果発表の段階だった。  その頃には観客も増えていたらしく、ユーシェの言っていた「なかなか」ではなく「それなり」の生徒やその父兄が立ちながらスクリーンを見守っている。  そんな中、僕だけがこの場にいる全員とは別のものを見ていた。最後列から順に黒い頭を数え、その中にいるはずのブロンドを探す。  一際目立つその髪の色はすぐに見つかった。少し呆然とした顔で、他の観客と同じ場所を見つめている。 「当学院の教員五名と来賓客五名による投票の結果、優勝は」  僕が彼女を見つけたのは、壇上の教員が結果発表を口にし始めた矢先だった。もちろん側に寄れるはずもなく、そのまま―― 「こちらの作品です。『水仙』をテーマにした、非常に美しいデザイン画ですね。見る側にどのような生地を使い、どのように服が仕上がるのかを期待させることがとても上手くできています」 「続いて準優勝はこちらの『薔薇』をテーマにしたドレスです。こちらも王道のモチーフを使った良い作品です、ポイントは……」  ――そのまま、彼女の期待が粉々にされた瞬間の表情を眺めることしかできなかった。  大きな拍手の中、フィリア女学院の制服を着た女生徒たちの囁きが聞こえてきた。「あれ誰の作品?」「どこのクラス?」このコンペは、結果が決まるまで出品者の名前を明かしていないみたいだ。  つまり桜小路家の名前は一切の効果がなく、純粋な実力だけで優劣が決められたことになる。 「優勝したこの作品は……桜小路ルナさん、の作品ですね。フィリア・クリスマス・コレクションでの活躍にも期待をしたいと思います」 「私が一位か。気分は悪くないな」  名前が発表されると同時に再び起こる拍手。その栄誉を受けるべきルナ様は、いつの間にか僕の隣に並んでいた。 「おめでとうございます……」 「ルナ様、ありがとうございます。そしておめでとうございます」  八千代さんが僕たちに声を掛けてきたのは、拍手が徐々に収まってきた頃だった。 「ルナ様のお陰で助かりました……昨日の夜という突然のことではありましたが、お願いしてよかった」 「八千代、今はいい。後で話そう」 「――と、失礼いたしました。他の参加者もいるのに」  八千代さんは口を押さえたが手遅れだった。  ユーシェが僕たちの会話に気付いていた。正面を見ていた顔の向きが変わり、その目が僕たちを捉えている。  その頬の動きを見逃さなかった。ユーシェは確かに笑おうとした。砕けたガラスの心を精一杯の強がりで保ち「ま、今回はお遊びですから譲ってあげます!」と言いたかったはずだ。  彼女は今までそうしてきたはずだ。ルナ様の前では余裕を崩さない。それが彼女の誇りだった。  だけどこの瞬間、不幸にも、一番先に目が合った相手は僕だった。  笑おうとした表情が崩れていく。見るも無残に砕けていく。心と、小さなプライドが。 「ユーシェっ……」  ここで僕は失敗を重ねた。目を合わせるべきでも、声を掛けるべきでもなかった。  そのせいで強固に続けてきたはずの彼女の演技が、たった一人の観客の前でパアになってしまった。 「うっ」  長い下睫毛の端に涙が溜まる。ルナ様の前でその姿を晒さない為の選択肢が、彼女には一つしか残されていなかった。 「どいてっ……!」  ユーシェは僕たちのいる場所と反対側の扉へ向かった。コンペが総評に入っていた為、結果だけ見て帰りはじめた客の流れと合い、彼女はすいすいと人波を掻きわけて進んでいく。 「あっ……」 「朝日?」 「ルナ様、申し訳ありません……腹部の調子がおかしく、医務室へ行って参ります!」 「調子がおかしいと……そんなに慌てながら言われても説得力が――朝日?」  ルナ様に高速で頭を下げて廊下へ飛びだした。だってもしもユーシェが途中でこらえきれずに涙をこぼし、それを教室の誰かにでも見られたら……!  急いで追いかける必要があった。二人きりのときに見たあどけない笑顔を思いだすと、彼女を守らなければいけない衝動に駆りたてられたからだ。  しかし慌てて廊下へ出たのは失敗だった。そこには文化祭の客が大勢いて、直線を追いかけるだけのはずが、むしろ距離は遠ざかった。 「ユーシェ、待って!」  地声かと思われるほどの声を思わず漏らした。だけど追いつけず、僕がエレベーターのボタンへ触れたときには、扉が閉まり右側の階数表示がぐんぐん下がりはじめた。  エレベーターが速い……もう一台はまだ一階にある。このままじゃ追いつけない。  そうだ、隣には階段があったはず……! 「ああ、いた。朝日、どこへ……」  ルナ様への申し訳なさは確かにあった。だけど今は、ユーシェの為になる僕でいなくちゃいけないという思いが自分の体を衝きうごかしていた。  三段くらいすっ飛ばして、半ばジャンプしながら駆けおりて、たまのひとの壁には謝って道を空けてもらってやっぱり駆けおりて。  息が切れるのも忘れて駆けくだったものの、やはりエレベーターの速度には追いつけず、僕が一階に付いたときは、ユーシェの乗ったエレベーターにひとが乗りこみ始めていた頃だった。  だけどそれを見て希望が湧いた。ひとが乗りこんでいるなら、一階に着いてからそれほど時間が経ってるわけじゃない。ユーシェが途中で降りてないかってことだけが心配だけど、まだ近くにいる可能性がある。  学院の外に出て辺りを見回す。闇雲に探すより考えよう。僕がユーシェなら……。  人前で泣きたいわけじゃない。誰かに見つけてほしいならともかく、数秒待てば間に合ったエレベーターでも僕から逃げたってことは本気で一人になりたいんだ。  それと彼女は頭の良いひとだから、感情的になっても理性は常に働いてるはずだ。荷物を置いて屋敷へ戻ったり、逆に自暴自棄になって目的もなくどこか遠くへ行ったりはしないだろう。  この建物の周辺で、人目に付きにくい場所。開けた大通りとは逆側の木陰の中。  この辺りは人工的に作った小さな茂みが多い。近い場所から順に枝を掻きわけながら木々に隠れた場所を探してみた。  果たして彼女はいた。入り口から数えて三つ目の大きな茂みの中で、顔を手で覆って泣いていた。 「ユーシェ」  できるだけ明るく。決して慰めの色が濃くならないように注意しながら声を掛けた。 「遊星さん……いえ、朝日」  ここではまだ万が一のことがあればいけないと思ってくれたんだろう。やはりユーシェの理性は働いてる。 「好きなように呼んでいただいても構いません。いざとなればなんとでも誤魔化せます」 「それよりも置いていかれたから驚いちゃいました。最近は仲良くしてもらえているから、何でも話してくれるのかなと思っていたんです」 「ええ……あなたに話せないことなんてありません。ただ考える時間が欲しくて……」 「こんなときに考え事をするならむしろ二人の方がいいですよ? ほら悲しいときに一人で考えこむと、悲観的に物事を捉えちゃうじゃないですか」 「『デザインを辞める』なんて言いだすんじゃないかと怖くなっちゃいました」 「…………」 「間違っていません……少し、そんなことも考えて……しまって」  その言葉を聞いて、追いかけてきて良かったと思った。  強くなるために一人で心を落ちつけたいときならいい。でも今回は徹底的に弱っていて、立ち直れないかもしれないから一人になりたかったんだ。  でもユーシェは負けず嫌いでまっすぐなひとだから、立ち直れないなんてことはない。もう一度強がるためのきっかけを与えてあげたい。 「デザインを決めたときも、選ばれなかったときは悔しかったけど、その後に楽しいことが沢山あったじゃないですか。まだあと二年間もあるんです。大丈夫です」 「でも、クワルツ賞、フィリア・コレクションのデザイン決め、それと今回……日本へ来てたった半年で、三回もはっきりとした形で負けてしまったんですよ?」 「こんな思いをあと何度もしなくていけないのかと思うと……それも、二度目三度目と期待が大きくなる度に、負けてしまったときの悲しみも大きくなるばかりです」 「その度にこうして泣いてしまわなければならないのは辛すぎます……しかも今回は、ルナの見てるところで涙を見せてしまって……」 「いいんですよ泣いたって。月並みな言葉ですが、悔しさは成長の為のバネです。きっと悔しさが大きくなったのは、それだけ良いものが生まれた証です」 「一人が辛いなら、今は私がいるじゃありませんか。私はユーシェを応援します」 「それは、嬉しいですけど……でも今回だって二人がかりで挑んだようなものなのに、ルナに勝てなくて……」 「やっぱりあの子は天才なんです。天才型の人間には、私程度では及びもしないのだと……今回つくづく思いました」 「今回も自信があったんです……なのに、あの子のデザイン画が出た途端の見ていたひとたちの反応……私もすぐにわかりました。やはりルナのデザインには華があるんです……あれは本物です」 「確かにルナ様は天才型のひとですが、違うんです。それだけじゃありません。彼女に華があるのは、あの才能に胡坐をかいているだけじゃないからだと思います」  そもそも実力で二人に劣る僕が彼女たちを語る資格はないけど……だけど僕のことを頼ってくれてるユーシェならと思い、自分の考えを伝えることにした。 「ルナ様は才能がある上に努力を重ねるひとです。僕たちが成長しているように、あの方も常に以前と同じ場所にはいません」 「才能のあるひとが努力をする。その姿が作品に映るからこそ輝くんだと思います」 「では余計に……」 「敵わないじゃありませんか」と言いたげなユーシェに否定の意味で首を振る。 「だけど追いつけないなんてことはないと思います。今すぐになんてのは無理ですよ。まだ半年じゃないですか」 「期待が大きくなるほど追いついているということですから、むしろ半年で随分と近付いたんだと思います」 「その代わり、近付けた分だけ負けたときの悔しさは上がるから、そこをどう乗りきるかだと思います。辞めるなんてのは一番もったいない選択肢です」 「……私は競う相手すらいずに、いつも兄の期待との戦いでしたから。はっきり相手が見えるユーシェが羨ましいです」 「でも、あの子の視界に私が入っているのかも怪しいです」 「入っているかではなく、入っていきましょう。今回のデザインも本当に良かったと今でも思います。ルナ様がいなければ優勝だったんですから、自身を持って」 「あの子は、昨日の夜に参加を決めたって……そんな咄嗟に出した作品にも敵わないんですよ?」 「ルナ様がいつでもその時に描く一枚の中へ賞を取る意思を込めているのは、ユーシェも知ってることじゃないですか」 「それでも私たちだって、十枚描けば一枚はルナ様に匹敵するものができます。ルナ様が百枚描くなら千枚描けば勝負になるんです」 「相手が地道に数を重ねるという努力の王道を行く以上、私たちに楽な道なんてないのだから、同じ方法で挑みましょう」 「もう……朝日の言うことは、全部まっすぐなことばかりです。もっと近道を辿る知恵を貸してくれてもいいんですよ? でも……」  不満気に、ぎゅっと服の二の腕を握られた。中々のお力。  だけどよかった、手を握るだけの元気を取りもどしてくれた。 「でも、泥臭い努力なら自信があります。それしかやってきませんでしたから」 「はい。表の美しさと裏の泥臭さ。その対照が私はとても好きです」 「きっとそのコントラストが輝く日が来ます。簡単に勝ってもつまりません。二人で三年の間に追いつきましょう」 「二人で三年……」  その言葉にユーシェが反応をした。袖の握り方を変える。  外側から奥側へ。それは僕に一歩歩みよるためだった。  あ、距離がすごく近くなった……? 「あの。デザインのことはわかりました。まだ努力を続けることにします、いつか花を開かせるために……辞めたりはしません」 「だけど今の私を弱気にさせている理由の一つは……ルナの前で、今まで隠してきた弱さを見せてしまったことです」 「それは……」  困った。あのときルナ様が見ていたかは問題じゃない。そこで耐えきれなかったことが問題なんだ。  口喧嘩に負けて悔しがることはあっても、デザインで負けて悔しがることはしない。それはあくまで自分に自信があるから――という余裕が嘘であることを公にしてしまった。  それも僕もユーシェも喜んでいたからあまり口にしなかったけど……今回は「文化祭の企画のひとつ」であって、ショーなどに比べればお遊びのようなもの。それに本気で悔しがってしまった。 「でも今まで、たとえ強がりでも意地を張ってこられたのに、どうして今日だけ……」 「わかっているでしょう?」  下から見上げるように睨まれた。でも怒っている目ではない。 「私だって悔しい時は、強がらずに、意地を張らずに、本当は素直な気持ちをぶつけたいに決まってます」 「今までは、泣きたくても笑って、余裕のある振りをして、どれだけ自分が惨めな思いをしてきたか……それでもルナにだけはその顔を見せるわけにはいかなくて……」 「でも今日はルナよりあなたの顔を先に見てしまったから、強がりたくなくて、甘えたくて、すぐにでも飛びついて全部の気持ちを吐きだしたくなってしまったんです」 「あなたのせいです……私の本音を見て、それなのに優しくしてくれるあなたがいるせいで、私はもう意地を張る自分が嫌になってきたんです……」  ぎゅうと服を握る手の力が強くなる。ユーシェが脇と肘を締めたせいで、僕たちはまた近付いた。 「えっと……ごめんなさい。私のせいなら、どう責任を取れば良いでしょう」 「もうルナの前でも強がれないかもしれません……私が今まで努力をしてこられたのは、自分でも驚くほどの負けず嫌いだからです」 「でもその負けず嫌いを支えていた、私のプライドは折れてしまいました……これからもルナをライバル視するには、負けず嫌いに変わる心の力が必要です」 「は、はい」  それはなんだろう。わかるような、わからないような。 「弱っているのをごまかすために口にしていた憎まれ口の代わりには、応援してくれる強い言葉が必要です」 「泣きそうで挫けそうな心を隠すための高笑いの代わりには、甘えさせてくれる優しい言葉が必要です」 「あの才能の塊であるルナと戦っていくためには、私を支えてくれる、信頼できるひとの存在が必要不可欠なんです」  じっと僕を見つめる瞳の奥に熱い火種が燻りはじめた。 「私がいま一番頼れるひと……わかるでしょう? 朝日……あなたがいつも側にいてくれることが必要なんです」 「これから三年間、私のことを支えてくれませんか? 今の私はあなたがいないと駄目です。もう意地っ張りではいられないんです」 「私、本当は甘えたがりなんです。実家ではいつもお祖父様に甘えていました。本当は弱くて、泣き虫で、でも負けず嫌いで我儘で、こんな自分を甘えさせてくれるひとが欲しいといつも思ってるんです」 「夏休みが始まってからの……私と一緒に笑いあいながらデザイン画を描いて、本音を見せれば真面目すぎるほどに向きあってくれて、そんなあなたでいて欲しいんです」  瞳の奥で炎が揺れている。蒼い火の揺らめきは美しかった。 「それはもちろん続けます。三年間、やらせてください」 「以前にも言いましたが、ユーシェがルナ様に勝つことは私の自信にも繋がるんです。私だって自分のために、努力が才能を上回る瞬間を見たいと思っています」 「だから一緒にいさせてください」 「甘えるのはいいんですか?」 「それは……」  それを許すということは、ユーシェと一番親密なひとになるということだ。  それが何を示すのか、わかってはいるつもりだ。  それでもこんな状態になって、彼女を支えてあげたいと思ってる。どんなものからも守ってあげたいと思っている自分がいるなら、逃げるのはやめよう。 「甘えていいです」 「え?」 「甘えてください。受けとめたいと思います」  僕は約束した。今の立場は考えずに。 「じゃあ早速ひとつお願いしたいことがあります」 「はい。何でも言ってください」 「抱きしめられたいです」  蒼い瞳の奥が燃えあがるのを見て、乞われるがままに密着する体を抱きしめた。  抱きしめた瞬間、炎が胸に飛び火したかのように熱くなった。なんだろう。初めての感情だ。 「あ……」 「もう……駄目です。抑えきれません。ルナの付き人のままでいいから、私はあなたを自分のものにしたいです」  僕の腕の中でユーシェもしっかりと体を寄せてきた。足も腕もお互いの体がより絡みあう。 「私の側にいてほしいです……私のものになっていただきたいんです」 「もちろん側にはいるつもりですが、付き人になるのは……私にはルナ様が、ユーシェにはサーシャさんもいるので」 「誰が付き人として私のものになって欲しいと言いました?」 「え?」 「私はあなたに、恋人になって欲しいと言ってるんです」 「ええっ!」 「この体を好きにしていい許可を与えます。だから私のものになっていただきたいです」  体をぎゅうとめいっぱいに密着させて、ユーシェは情熱的な言葉で告白してくれた。  今日の夜に言われるんじゃないかと覚悟はしてた。それが少し早まったから動揺はした。  でも言われたときにどうするかは、ユーシェを抱きしめた時点で決まっていた。 「ユーシェは……普段は勢いでごまかせても、真面目な話になると、まだ少し日本語が辿々しいね」 「え?」 「まだ立場的にはルナ様の使用人だし、隠していくことが増えてこれから大変だと思うけど……」 「でもごめん、気持ちが抑えられない。ユーシェのことが好き」  ユーシェの瞳の炎が大きく歪んだ。  この炎はやけに綺麗だと思ったら、湖の中で揺れてたんだ。目蓋いっぱいに水が溜まっている。 「もうっ……」 「語彙が足りません。すごく嬉しいのに、今の感情をなんという言葉で表せばいいのか思いうかびません。嬉しい。幸せ。楽しい。それだけじゃ足りない気がします」 「好きです、好きです。今もどんどん好きな気持ちが大きくなっています。好き、大好き。好き」 「もっとくっつきたい。これでも足りない。もっともっと強く抱きしめられたい。好き。切なすぎて苦しい。好き、大好き。もっと情熱的に抱きしめて」  情熱的に。力強くでいいのかな。肩と後頭部に手を当て、思いきり引きよせた。 「それだと……」 「え?」 「それだとできないでしょう?」 「何を?」 「口付けです」  どくんと胸が鳴った。胸に詰め物がなければ伝わってるかもしれない。  躊躇わないユーシェの瞳が閉じていく。僕が戸惑っている時間はなさそうだった。  情熱的な体の絡みあいとは裏腹に唇が振れるだけのキスをした。  あれほど大胆に好き好き言ってくれたユーシェの頬が赤く染まっている。本人いわくヨーロッパの女性は積極的らしいけど、その中でもスイスの少女は思ったよりも可憐で純情だった。  当然、それほど長い時間触れているわけでもなく、僕とユーシェは唇を離した。 「ふふ」 「はは」 「キスしちゃいましたね」 「うん。キスしちゃったね」 「ふふ、ふふっ、ふふふふふ。初めてキスしちゃいました」  天使のようなキスの後に妖精のように悪戯な微笑み。見た目の派手さに反して、ユーシェは無邪気なまでに純情だった。 「胸の鼓動が痛いほど弾けました。まだ苦しいくらいです。もう気持ちが止まりません」 「うん。たった一度のキスだけでこんなにドキドキするものだとは思わなかった」 「もっとしたいです。もう一度触れあうだけのものをしましょう? そして、その後に情熱的なキスをしていただけますか?」 「もっと。もっとです」  甘えてくるユーシェは本当に可愛かった。この笑顔ならデザイナーを諦めることもないだろうし、僕が力になれて本当に良かった。  今はもう、胸の昂ぶりを抑えるためだけにキスしたい……。 「んんッ!」  だけど突然の訪問者に、僕たちはキスをした時よりも鼓動を速める結果になった。 「まさか」としか言い様がない。だってこの声はよりにもよって。 「あ、あ、ああああなたは……」 「ルナ(様)!?」  まさかの僕のご主人様(日傘付き)だった。  いや……まさかってこともないか。ルナ様は一部始終を見ていたし、僕とユーシェを探しに来ても不思議じゃない。 「で、ででっ、ですわですですわ……」  ユーシェが混乱してる……お陰で、僕の方は動揺が小さめで済んだけど。  それでも呼吸が止まりかける程度には驚いたし、血液の流れもそうとう速い。よりにもよってこの人に見られてしまうなんて。  とりあえず抱きあっていた体を離して……問題は、今回のこれをどこからどこまで見ていたかだけど……。 「いやすまない」  ルナ様はまず謝った。 「邪魔するつもりはなかったんだが、さすがに誰の目にも付かないとも限らないこの場所で、これ以上続けるのはどうかと思ったんだ。実際、私が見つけたわけだしな」  ルナ様も少し動揺していた。身近な人間同士のキスは何を思わせたのか、微妙に顔が赤かったり、自分のスカートを意味もなく引っぱったり。落ちつかないみたいだ。 「ま、まあ特に我が国は同性間の恋愛に対して開放的だとは言いがたいからな? 見つかったら悪い噂を流されかねない……」 「私は寛容な方だから偏見はないつもりだ。ユっ、ユーシェがそうだったとは知らなかったが」  まだ解雇されるわけにはいかないので、僕もユーシェも「実は男なんです」とは言えなかった。 「ま、まあそういうわけで、君たちの恋愛自体は否定しない。公序良俗に反しない範囲なら好きなようにやってくれ。土曜や日曜に二人で出かけたりするときは言ってくれ、八千代に内緒で便宜を図ろう」  動揺しつつも、ルナ様はなんとか目の前の事態に対応している上に気まで使ってくれた。さぞかし混乱しているでしょうが、申し訳ありません。 「だがそれはそれとして」  が、急に顔を引きしめると、それまでの態度とは一転して、急に声が厳しくなった。 「朝日に聞きたい。衣装製作が遅れている原因は、まさか恋愛絡みということじゃないだろうな」  それは、返事に困った。  恋愛絡みではないけど、ユーシェ絡みではある。だけど彼女のせいだとは言いたくない。 「いえ、そんなことはありません。偏に私の技術の無さが原因です」 「ではユーシェは一切関係ないな? やましい心がなければ、私の目を見て言ってみろ」  僕は馬鹿だ。  ルナ様への後ろめたさはありつつも、ユーシェの手伝いをしていた。それがわかっているなら、この場でも要領よく答えるべきだった。  なのに、それができないとわかっていて、目を逸らすことすらできなかった。 「…………」 「どうした」 「毎晩、二人でデザイン画の勉強をしていました」 「そっ、それは私が言いつけたんです!」 「私は朝日と話している。朝日、続けろ」 「その夜の勉強会が楽しくて、遅くまでお邪魔してしまい、次の日に眠くなることもありました。そういった日の製作の具合は、決して芳しくないことにも気付いていました」 「わっ、私が引きとめたりしたんです! それに、朝日はきちんと時間分は製作をしていましたし、そもそも夜まで製作をやれとは言わないでしょう?」 「実際の進行がどうこうじゃない。私に対して、朝日が胸を張って製作をしていたと言えるかを聞いてるんだ」 「ユーシェ、これ以上私と朝日の話に口出しするなら解雇も辞さないぞ。そうすると朝日は学校にいられなくなる。いいのか?」 「うっ……」 「それで、どうなんだ朝日。私に対して堂々と最善を尽くしたと言えるか」 「申し訳ありません……」 「申し訳ありませんじゃない、はっきりと答えてほしい」 「ルナ様から進行が遅れていると言われたにも関わらず、後ろめたい思いをしつつも、彼女の部屋へ通ったことがありました」 「しかもそのデザイン画は、ユーシェが私と競うためのものだろう? 君は私を倒すため、ユーシェに協力をしていたのか」 「そういうことになります」  今日のコンペだって、ルナ様が参加した時、真っ先に思ったのはユーシェが傷付かないかということだった。  言い訳のしようがない。僕はルナ様に顔向けが出来ない。 「ふん、決定的だな。君は本来の業務である私の補佐を疎かにして、私事である恋愛を優先したんだ」  ルナ様は罪状を読みあげた。となれば次に下されるのは判決だ。 「朝日、君のここまでの働きは評価する。だがこれは私のプライドの問題でもある。君は今後、衣装製作に参加しなくていい」 「そんな!」  ユーシェは反抗を見せてくれたけど、この決定は覆らないだろう。ルナ様は怒っているんだ。 「それとユーシェ、君もだ。朝日を欠くのは痛いが、後の製作は私と湊と瑞穂でやる。君たちは好きにデザイン画でも描いているといい」 「考えなおしていただきたいです! 朝日がそんなに悪いことをしましたか?」 「それは恋人である君の意見だろう。この場合優先されるのは、総指揮である私の方針だ」 「そもそも当家の使用人と勝手に付きあい始めた君が、私に対して堂々と物を言える立場か? 恋愛は自由だが、私に対して一言もなしとは勝手が過ぎる」 「うっ……」  正論だった。それがどこまで本気だったかはさておき、ユーシェは過去に僕の勧誘もしている。ルナ様はジャンメール家に正式な苦情を入れられる立場だ。 「湊と瑞穂に正式な理由は、まあ言えないな。君たちがさぼって遊んでいたということにしておく」 「私のせいで……朝日は真面目にやっていたのにっ……」  ただでさえ弱っていたユーシェは、責任を感じて悔しそうに顔を歪めた。それを見たルナ様は、まるで対照的にニヤリと口端を釣りあげる。  そして僕たちに向けて意外な提案をしてきた。 「そんなに悔しければ、君たちでもう一着衣装を作ってみればどうだ?」 「は?」 「えっ?」  僕もユーシェもルナ様の言っていることがわからずにぽかんとした。もう一着? 衣装を?  嘲るような表情を浮かべたルナ様は、こんな風に続けた。 「私と勝負したいんだろう? それなら十二月のショーまでにユーシェのデザインした衣装を作ってみせろ」 「当然、ユーシェの付き人であるサーシャもそちら側だ。朝日がいて三人掛かりなら、間に合わせるのはそれほど難しいことでもないだろう? ただしこちらの人員は割かないのが条件だ」 「フィリコレの概要を見たが、一グループに付き一着しか舞台へ出してはいけないという決まりはない。時間的な問題が不安だったが、こちらは君たち抜きで十一月に完成といったところだろう」 「まあ本来なら私の衣装のみだが、君たちが挑んでくるなら、こちらも売られた喧嘩は買う主義だ。私のものとユーシェのもの、二つ並べて歩かせてやろう」 「もっとも? 貧相な出来では、私の衣装と比べられて大恥をかくことになるかもしれないがな」  ルナ様は最後に、あっはははと挑発めいた笑いを発した。それは……つまり……。  フィリコレの舞台でルナ様に挑むチャンスをユーシェにくれるということですか? 「いいんですか?」 「私は一向に構わない。なんなら八千代に相談して、賞を取ったときはどちらか一つに絞ってもらおうか。そうすればユーシェの望み通り白黒がはっきりする」  ルナ様の衣装がどんなものかはわかっている。縫製に手を抜いたつもりは全くないし、こちらも大作を用意しなくてはいけないだろう。  でも、しばらくはルナ様と競う機会がないことを考えれば、チャンスを貰えるだけでも充分だ。 「やりましょう……衣装を作りましょう!」  僕はユーシェが当然のように挑もうとしているのを前提で声を掛けた。  でも。 「…………」  ユーシェは弱りきった目を地面に向けるだけで、自分から挑もうとは言いださなかった。 「ユーシェ?」 「私……でも」  弱気になっている表情はついさっき見たし、泣いている顔も何度か見た。  でも今みたいなユーシェの顔は……こんなに脅えているのは初めてだった。 「もし、今度勝てなかったら……」 「それどころか、ルナの作品が最優秀賞に選ばれて、自分は佳作にも選ばれなかったら……私……」  あの強がりで意地っ張りなユーシェは見る影もなくなっていた。  ルナ様の前では……それどころか、僕とサーシャさんの前以外では決して弱音を吐かなかったユーシェが、敵すべきルナ様の前で自らの肩を抱き、こんなにも……無様な姿を晒している。  見ているだけで辛かった。  このたった一日で……その間の出来事と言えば、僕と付きあったことで、ユーシェはこんなにも弱くなってしまったのか。  僕という存在は、ユーシェを弱くしただけだった?  励ますことすらできなかった。これだけ脅えている少女に鞭を打つような真似が、どこの誰にできるというんだろう。 「ユーシェ……」 「…………」  挑発していたルナ様ですら言葉もない。嘲笑を引っこめて何か思案している顔でユーシェを見つめていた。  必死に考えてはいるけど、彼女に掛けるべき言葉が思いつかない。  こんな時、恋人だからできることがあるはずなのに。手を握ることも抱きしめることも今はできない。 「……まあユーシェがそういう態度なら仕方がないな」 「ル、ルナ様?」  駄目だ。ルナ様が引いてしまった。  このあと僕はルナ様に付いていくべき? それとも叱られるのを覚悟で、ユーシェに付くべき?  色々な心配が頭の中をぐるぐる回った。だけどそれがまとまるより先に―― 「朝日、土下座だ」  ――またしても意外な提案がルナ様から飛んできた。  いや提案というよりも理不尽? それとも不条理? 「朝日、聞こえなかったのか? 土下座だ。土下座」 「DO-GAY-THAT?」  腕を組んだまま、人差し指を下に向けてくいくいと動かしている。 「と……言いますと?」 「君は土下座を知らないのか? 日本で二番目に誠意を示す謝罪方だ。ちなみに一番はSEP-PUKUという」 「いえ……やり方は知っております。私がいま何故それを?」 「君が私への非を認めたからだろう。製作メンバーから外されるだけで済むと思ったのか? 君たちが勝負に勝って初めて相殺だと思っていたが、辞退するなら仕方ない。手を抜いたことを謝罪しろ」 「しなければどうなりますか?」 「ギロチン」  ルナ様は首を横に掻っ捌くジェスチャーをしてみせた。つまりクビ。  ユーシェの前で……付きあったばかりのひとの前で、そんな真似を……でも。  逆らえるはずもなく、僕は恋人の前で地面に膝と手を付いた。その姿を見たユーシェの目がみるみる丸くなる。 「なっ……私の恋人がなにをっ!?」 「ルナ様。申し訳ありませんでした」  僕は額を地面すれすれにまで接近させた。 「きちんと額を地面につけろ」 「申し訳……ありませんでした」 「何をして……何をさせているんですのっ!?」  相当焦っているのか「ですの」が出た。あるいは怒ってる? 「ふん」  しかしルナ様はユーシェの声を無視し、土下座する僕の背中の上に腰掛けてきた。その手でぱんぱんと尻を叩く。 「……――っっっ」  あまりの光景にユーシェの絶句する息遣いが聞こえた。僕も自分の恋人がこんな真似をさせられたら同じようになると思う。 「ふん、なんだ? 当家の躾になにか文句でもあるのか? 朝日は私の『持ち物』だ。いや失態を犯した今は『ペット』とでも言うべきか? えい、乳揉んでやれ」  申し訳ありませんルナ様、それはパッドです。 「なっ、ななっ、なっ、なにを……わた、しの恋人に……愛しいひとにっ……! なにをっ……なにをさせているんですのっ!?」  ユーシェは体を斜めによろめかせ、声を戦慄かせながらもルナ様を止めようとした。  だけどルナ様は意にも介さない。どころか尻を叩いたりパッドを揉んだりやりたい放題だ。 「ん? そういえば、朝日はいまユーシェの恋人だったな。ユーシェ、君の恋人は私のペットだ。ほらほら朝日、私に詫びろ。ぺしんぺしん」 「あーっはははははは楽しいなあ! 朝日、私は馬に乗りたい。この体を載せたまま四つん這いになれ」 「かしこまりました」  僕は両腕両膝を立たせ、ルナ様の要望通り馬になった。 「そうら、スレ、イプ、ニル! スレ、イプ、ニル!」 「んぎぎぎぎぎぎぎぎッ……!」  僕とキスした際の天使のような表情が嘘に思えるほどの形相をユーシェは浮かべた。その様はまるで憤怒のあまりに血の涙を流すインドの不動明王ことアカラ・ナータ。 「許、せませんっ……そのひとは、私とキスを交わしたっ……私の好きなっ……私のデザインを素敵だと誉めてくれたっ……そのひとを……馬にっ……尻に敷いてっ……!」 「絶対に……許せませんっ!」 「ん、なんだ? 許しゅーる? 許せなしゅーる? よく聞こえないな。朝日、一体あの子はなにをそんなに怒っているんだ?」 「それはその……私を好きでいてくれる為に……」 「そんなノロケは聞いていない。君の耳は節穴か」  ルナ様の指がにゅるんと耳の穴へ侵入してきた。 「ひゃんっ」 「ですの――っ!?」 「ようし、このまま教室まで帰ろう。朝日は私を乗せた馬のまま四つん這いで進め」 「かしこまりました、ルナ様」 「もっ、もうっ……!」 「はっ! ルナ様危ない、お逃げを!」 「わっ」 「ゆるせませんわ――っ!」  間一髪! 両手を伸ばして突っこんできたユーシェとぶつかる直前、ルナ様は僕から飛びおりると、慌ててその場から離れた。  だけど僕たちは勘違いをしていた。ユーシェはルナ様を突きとばそうとしたんじゃなかったからだ。 「私のっ……わたしの、愛しいひとっ……!」  伸ばした両手は僕を抱きしめるためのものだった。その腕を首に巻きつかせ、柔らかい頬を擦りつけてくれている。  優しい手が僕の後頭部を撫でている。やがて充分に愛情を確かめると、ユーシェはゆっくりと頬を離した。 「こんな真似、二度としないでください……いいえ、私がさせません。あなたをルナから守ってみせます……!」  その目がぎらりと敵を見据えた。その視線の先にいるルナ様は、転んでスカートに付いた土を払っている。 「ルナっ……さっきの勝負、申しこんであげます! 私の最高のデザインと、朝日の珠玉の〈型紙〉《パターン》を用意して、フィリコレでは完璧な衣装を見せつけてあげます!」 「せいぜい私の引き立て役として、隅っこで縮こまって恥ずかしい思いをしながら顔を真っ赤にして座っているといいんです! ばーかばーか!」  すっかり元に戻ったユーシェは、それでも腕だけは優しく、でも力強く抱きしめてくれていた。 「私は愛するひとの為なら、怖いものなんて何もありません! あなたにだって負けません!」  ユーシェが手に入れた新しい力は「愛」だった。  日本人同士じゃ恥ずかしいけど、彼女が言えば不思議と決まる言葉。この美しいブロンドと碧眼には怖いくらいハマりすぎる。  プライドだけで戦ってきたお姫様は、愛する僕と共に戦う騎士姫と化した。「誇り」と「愛」を両方備えつつ守る強力な姫君だ。 「ふん、いいだろう。ただし私も絶対に負けるつもりはない」 「私の衣装が万が一ユーシェのものより劣ると評価された場合、朝日を君にくれてやる。自分のメイドにでもなんでもするといい」 「言いましたね! 女子に二言はありませんけどいいですね!?」  そんな日本語はないけど、ユーシェの意思だけはよく伝わってきた。この魂の熱さは、まさに日本の武士そのものだ。 「今の言葉を宣戦布告として受けとろう。今日から私とユーシェは戦争状態だ」 「朝日、立場的に君も敵ということになるが、最低限の私の世話はこなしてもらわなければならないから、お互いに譲るべきところは譲ろう」 「さしあたって当面の間は現状と同じく、朝日は私の身の回りの世話以外の家事を免除することとする。それでいいな?」 「はい。ありがとうございます、お優しいルナ様」 「ああそれと、他人の前では『ユルシュール様』呼びの方を忘れないように。それじゃ私は先に戻っている」  ルナが居なくなると、すぐさまユーシェは僕に唇を被せた。人生、そして付きあってから二度目のキスだった。  しばらく抱きあったまま残り、この場所を離れる前にもう一度キスをした。最後のキスも唇を触れあわせただけだったけど、わりと長い時間唇を重ねていた。 「え? 朝日が抜けるってなんで? てかルナ何したの」 「ルナ? いくら朝日が使用人だからって、あまり酷いことをしては駄目でしょう? 朝日がいたからここまで進められたのに」 「どうして私が何かしたことになってるんだ」  夕食後の歓談。ユーシェのいないリビングで、ルナ様は何故か叱られていた。 「違う、私が朝日をイジメたわけじゃない。ただちょっと意地の張りあいの結果、ユーシェの作品もショーに出すという話を私の独断で決めてしまった」 「そのために一番型紙を綺麗に引ける朝日をユーシェに付かせることにした。君たちも自分の作品を出したいはずなのにすまない」 「え、私は全然いいけど、それってつまりユーシェのためだよね? てかルナ何したの」 「ルナ? そんなにフォローをしてあげないといけないほどユーシェに何をしたの? あまり酷いことをしては駄目でしょう?」  いいことをしてもルナ様は叱られていた。 「面倒だからツッコミは割愛するが、別にユーシェに花を持たせてやろうなんて話じゃない。むしろコテンパンにしてやるという目論見だ」 「えー、喧嘩はやめてね? そういえばユーシェも、夕ごはん食べたらすぐ部屋へ戻っちゃったし」 「うん、友人同士で気まずくなったりするのはちょっと……私も苦手」 「いえ、ルナ様は自分と勝負したがっているユルシュール様の挑戦を受けるためにあえて……」  あ、やば。余計な口を挟んだらルナ様の怒りを買った。 「あー、そういえば今日のコンペで一位がルナで二位がユーシェだって? それでかあ」 「ユーシェの意識を高めるために、次の目標を自分で作ってあげるなんて……好敵手と書いて親友みたい。お互いを高めるために競いあう、私もそんな関係の友人が欲しい」 「朝日、さすが君は敵陣営だな。こんな精神攻撃を私に仕掛けてくるとは」 「ももも申し訳ありません。そうだ。私、一度ユルシュール様の様子を見に行ってきます」  心の中でルナ様に何度もごめんなさいと謝りつつ、ユーシェのいる彼女の部屋へ向かった。  ああ、でも……湊にはいずれ時期を見て話さないといけないな。瑞穂様は、いっそ女性同士で付きあってますと打ち明けた方が、受けいれてもらえそうな気がする。 「ようこそ王子様」 「やめてください。メイド服の王子なんていません」  サーシャさんは事情を全て聞いた上で微笑ましそうに祝福をしてくれた。  元々応援するとは言ってくれていたけど、なんだか今の関係になってからだと話すのが気恥ずかしい。 「ただあの誤解のないように言っておくと、僕は女装が好きなわけではなく、事情があってこの格好をしているだけで……」 「お嬢様? せっかく王子様が来てくれたのだから、一度手を止めてはいかが?」 「お話があるなら、この一枚を描きおえてからでいい?」 「うん、もちろん。邪魔してごめんね」 「おやまあ、恋人より仕事を優先させて怒られるのは男の役目なのに……ごめんね、見ての通り学院から戻ってきて今までの間、夕食の時間を除いてずっとこうなんだ」  良かった、ユーシェの目が生き生きしてる。  昨日までの楽しそうなユーシェも見てて可愛いなと思うけど、デザインに集中してる僕の恋人はかっこいい。  毎日のデザイン画を描く時間も楽しかったけど、目立った賞やコンテストがない分、どこか目標に欠けて、のほほんとしていた。  こんなに鬼気迫る空気の彼女を見るのは、ショーのデザイン決めのために描いていたとき以来だ。 「ま、じゃあ、うちの姫に代わって、僕が美相手しようか……初恋は美しいよね。美しすぎて美なるものの中でも爽やか過ぎる美しさだよ。でも久々に触れてみたくなってね? ちょっと話を聞かせてよ」 「あ、はい。でもあまり恥ずかしい質問は困るかもしれません」 「うふん。じゃあ尋ねるけど、君って恋愛したことないよねえ?」 「はい……そうですね、彼女が初恋のひとです」 「君から言いだした、なんてことがないのはわかってた。というより、今もまだ世間の初恋患者たちみたいに、好き好きちゅっちゅー! ってカンジじゃないんじゃない?」 「そんなことありませんよ。今もドキドキしてます。これでも浮かれてます」 「んふん。恋というのは七つの過程を辿ると呟いたひともいたけれど、君の場合はあれだね」 「感嘆は彼女の才能を見てから起こり、自問は自分の才能と照らしあわせて起こり、お互いの才能の完成品を想像して楽しむところから希望が始まっているね」 「そうなんですか?」 「うん。彼女から求められたことによって、恋愛とは似て非なる感情をそれと錯覚し、いま頃になって本物の恋が生まれ、混ざりつつ、固まってる段階じゃないかな?」 「君が元々愛していたのは彼女の才能と直向きな努力であって、引きかえせなくなった今となっては、恋人を好きでいるために自分の恋愛を刺激する要素を彼女の中に探している段階だね」 「つまり君が服飾の才能で憧れる相手、たとえば君のご主人様がお嬢様と同じ場面、同じ状況を辿ったとしても、そこに君との恋愛が発生していたかもしれないということさ」 「さすがにそんなことはありませんよ」  ルナ様が僕に告白なんて想像できないな。もし「君の才能が必要だ。永久に側にいてほしい」なんて言われたら……。  …………。  あれ? ちょっと嬉しい? もちろん恋愛感情ではないけれど。 「未熟な恋に幸あれ! ああ何も知らない青年の心はとても矛盾と間違いに満ちていて美しい!」 「終わりました」  サーシャさんの頭にシャープペンシルが刺さった。痛そう。 「まだ付きあって初日の段階で何を吹きこんでいるんですか。私だって、遊星さんが生まれた時から私を愛する為だけに育ったとは考えていません」 「可能性ならルナにも湊にも瑞穂にもあるでしょう。要はきっかけとタイミングが私たちの恋愛にぴたりと嵌ったということです」 「それでいいの?」 「もちろんこの出会いを運命だと言うなら遊星さんは私の運命のひとです。ただこの感情を持つまでに至った経緯にドラマはあっても脚本はなかったはずでしょう?」 「私があなたを好きになり、好きになってもらうための行動が、世界中のどの女性よりも早かったということです」 「それが成立した時点で、他の可能性は全て消えました。もうこの道は戻れないのですから、過去にありえた恋愛なんてこの胸が嫉妬に燃えるだけですから、考えないで欲しいです」 「はい」  というよりも、僕はそんなこと思いもしなかったのに。サーシャさん酷い。 「とにかくもう理屈ではないんです。ここまでの経緯を辿るのは自由ですが、今はどんなに後悔しようと反省しようと一度火の点いた愛しさは消えないんです」 「うん。僕もユーシェのことがたまらなく好きだよ」 「サーシャ!」 「ウィ。狭山のお茶を買いに行って参ります。往復二時間程度でしょうか」  ここでまさかのサーシャさん退場だった。  悪いことをするつもりはないけど、ジャンメール家では恋人とはいえ未婚の男性と娘を二人きりにしていいんだろうか。 「遊星さん」 「はい」 「ウィッグ……取ってもらってもいいですか?」 「あ、うん……これでいい?」  メイド服だけど。 「もう……」 「え?」 「もう!」 「もう! もう! もうもう!」 「え? ええ?」  ユーシェが突然僕を叩きはじめた。もちろん全然痛くない。 「ユーシェ? さっきのサーシャさんとの会話を怒ってる?」 「違います、私に嫉妬をさせたあの馬鹿メイドは後で厳しく叱りつけます! それよりも、遊星さんがここへ来たことです!」 「うん、邪魔してごめん。用事はなかったんだけど、ユーシェがどうしてるかなと思って」 「理由なんてなくていいんです……でも、今日から早速ルナに勝つために取りくもうと思っていたのに、遊星さんの声を聞いたらとても集中なんてできません」 「私たちは今日から恋人なんですよ? 想いが燃えて仕方のない日なのに、これであなたのことを考える以外に私ができることはなくなりました」 「せめていつもの時間に……いいえ、一時間でも遅く来てくれれば、あと数枚はデザイン画が描けたんです」 「やっぱり邪魔になっちゃった?」 「違います、意地悪な言い方はやめてほしいです。邪魔じゃありません、愛しくて仕方ありません。でもだからこそ、ルナとの勝負も疎かにできない焦る私の心を察していただきたいんです」 「ああこのままじゃ辛いです! 抱きしめてほしいです! 早く! 強く!」 「うん」  求められるままにユーシェの体を抱きしめた。  冷静な振りをして実は内心ドキドキしてるけど、ここで僕まで付きあった初日の情熱を隠さずに見せたら、それこそ止まらなくなってしまう。  顔を手に当てて伏せるユーシェの肩をぎゅっと抱く。彼女はとても恥ずかしがり屋で、耳たぶまで赤色に染めていた。 「あう、ああぅ、あの……あぁ……苦しい……胸が張りさけそうで苦しいです」 「あああもう私……こんなに興奮していては今夜は寝られないです……かといって頭が恋でいっぱいでデザインもできません……」 「もっとです……もっと抱きしめてもらわないと……もう私、今日はこのまま寝たいです」 「さすがにサーシャさんが許してくれないと思う」 「じゃあ今だけでも構いません。ベッドに遊星さんの香りを残していただきたいです」  くいくいと袖を引っぱられた。まあ自分で言うのもなんだけど、メイド服着てる今なら大丈夫、かな。この格好で間違いは起こりようがない。自分が情けなくて。  ユーシェと一緒にベッドへ寝転がってみる。さっそく彼女は体育座りを横倒ししたように丸まって、僕の胸に額を擦りつけてきた。 「私、甘えるのが大好きです」 「小さい頃は重症で、家族の誰かに手を握られてないと嫌でした」 「久しぶりにこうして体がくっついていますけど、やはり気持ちいいです。遊星さんしかお願いできるひとはいませんから、今のうちにいっぱい甘えておきたいです」 「ユーシェは本当、女の子だね。夢見るお姫様って感じがする」 「ええ。私は時代が時代ならお姫様ですよ。城だって持っています。それより遊星さん、そろそろいいんじゃありません?」 「なにを?」 「キー……」 「スー……」  恥ずかしかったのか、言い終わったあとにユーシェは体を丸めて足をじたばたとさせた。 「ユーシェ、丸まってたらキスできない」 「おでこ空いてます」  丸まりながら言われても。微笑ましいからおでこにキスをした。 「ほっぺた」 「はい」 「鼻の頭がいいです」 「はい」 「最後に唇……」 「ん」  唇に触れたら、すぐにまたユーシェはじたばたと照れはじめた。  そんなやり取りを四、五回繰りかえしたと思う。ひとつわかったのは、ユーシェは僕にキスされるのが大好きってことだった。 「はー……」  十月と言えど長袖だとまだ暑いなあ。  玄関の掃き掃除の手を止めて、眠たい目蓋を一擦りした。このぬるい気温は眠気を誘発する。  昨日もユーシェの部屋で遅くまでデザイン画を描いた。  今回の衣装はユーシェのだって決まってるから、僕はあくまで勉強の一環として。だけど肝心の彼女のデザインがまだ決まらない。  いいのは何個か出たんだけどなあ……ふゎあふ。 「あれ朝日? なんで掃除してるの、朝日は家事を免除でしょ」 「ほんとだ朝日だ。衣装製作やらなくていいの?」 「あ、おはようございます。私はルナ様の製作を外されてしまったので……」 「そうじゃなくてユルシュールお嬢様の。朝日が一緒に作るんでしょ?」 「はい……そうなんですけど、実はまだデザインが決まってなくて」 「私、実は衣装のことなんて全然わからないんだけど、デザインがないと衣装って作れないの?」 「あんたホント何も知らないんだね。てか普通に考えればわかるっていう。デザインはこんな服作りましょうっていう大元でしょ。色も形も決まってない服を何から作んのよ」 「え、じゃあ朝日はいまやることないの?」 「そうなんです。だけどルナ様のお手伝いもできないし、だったら家事のひとつでもしてないと落ちつかなくて」 「メイドの鑑だね」  本当、前日の夜遅くまで起きてても、次の朝起きるときは早く目覚めるこの体はなんとかしたい。  お陰で授業中眠くならないか心配……ふわぁふ。 「あら皆さん、おはようございます」 「あ、おはようございます」 「おはようございます」 「皆さん、毎日朝早くからご苦労様です。少し散歩に出ますからお構いなくです」  ユーシェは軽く頭を下げて、優雅に朝の東京の街へ出ていった。  さすがに周りにひとがいると、僕と目を合わせても動じない……うーん。 「あのスイスのお嬢様は、ほんっとオーラ出てるよねえー。まずプラチナブロンドのブルーアイって時点で反則だけど、スタイルまで人間離れしてるもんね」 「いま四人のお嬢様がこの屋敷にいるけど、外見だけで言ったらその中でもお嬢様☆THE☆お嬢様って感じだもんねー。瑞穂様もいいけど、あの漫画みたいな存在はどこを取っても世界のテンプレだよね」  僕の恋人が誉められてる。 「振るまいからして完成されてるもんねえー。あでも、どうして日本語だけはあんなに変なんだろ。一時期ずっとですわですわ言ってたよね」 「や、日本語完璧に身に付けるのは無理だって。あのひとその中でも綺麗な方だよ。ですわも最近直ったから大分よくなってきたし。まだちょっと変だけど」  僕の恋人が弄られてる。 「あ、でも最近の喋り方の法則がちょっとわかってきたんです。元が『ですわ』『ですの』だから、そこから『わ』『の』を抜いた喋り方をしてるだけみたいなんです」 「なぁるほどねー。それでどこかぎこちないんだ」 「きっと言葉遣いを気にしなくてもいい本国だと、パーフェクトお嬢様なんだろねー。あでも、向こうにはあのレベルがごろごろいるのかな?」  いいえ特別綺麗だと思います。ユーシェは愛されて然るべき容姿をしてると思う。  僕の恋人なので自慢しにくいけど。 「あのお嬢様と付きあう男がいるとしたら、どんなのなんだろね」  こんなのです。 「超理想高そうだよね」  そうでもないです。 「あーでもあのクラスになると、自由に恋愛なんてできないんだろうね。家のしきたりとかに縛られて? 相手も同じくらいの家のひと連れてこられてさ」 「でもその相手が王子様だったりしたら素敵じゃん。あのクラスなら可能性あるわけでしょ? なんとか王室のプリンスとか笑い話じゃなくてリアルにあるわけでしょ?」 「だけど王子様相手でも超厳しそー! 断りも入れずに手に触れたら、パシーン! って叩かれそう!」 「そりゃあんだけのパーフェクトボディにやすやすと触れたらねー! それこそおさわりだけで時価数十万円のレベルでしょ!」 「ただいま戻りました。あら、まだ玄関にいます? この辺り一帯を掃除してたんじゃありません?」 「さーてそろそろ休憩終わり! 全然さぼってなんかいませんよ?」 「そうそう、この辺は朝日の分担だから邪魔しちゃいけなかったね! よろしこ!」  二人の先輩メイドは八千代さんにチクられてはたまらないとばかりに逃げさった。  桜屋敷は今朝も平和だなあと思う。こういう日常が僕は大好きだから、明日も時間があれば朝掃除しようと思った。 「じゃ、そろそろ掃き掃除再開するから――あれ?」  ぐっと体が引きとめられた。力の入っている地点を見ると、時価数十万の手が僕の指先を握っていた。 「え、あれ……ユーシェ?」 「遊星さん」 「ユ、ユルシュール様。ここは公道ですから、誰が聞いているかわかりません。お許しください」 「じゃあ朝日のままでいいですから……少しだけ甘えては駄目です?」  お家のしきたりどころか、ユーシェは自由恋愛を大絶賛お楽しみ中だった。 「駄目です、見つかってしまいます」 「でも昨日もデザイン画を描いただけで、全然甘えてないですよ?」 「だって自由に甘えていい環境だと、ユルシュール様が無限にくっついてデザイン画が描けなくなるから、サーシャさんに監視してもらおうってことになったんじゃないですか」 「だけどもう二日もキスしてないです……」 「二日前に、唇が触れてない顔の部分がなくなるまでキスをしました」 「足りません。もっと欲しいです。いっぱいキスしたいです」  すでにユーシェの顔は甘え顔だった。僕の肩にごろごろと頬を擦りつける。 「ユルシュール様。鍋島さんと百武さんが、ユルシュール様は完璧なお嬢様だって言ってた」 「そうですか? よく言われます」 「男性に厳しくて、甘えた声なんて出さなそうって」 「甘えたいです。どこでもいいから触れてほしいです」 「王子様とお付きあいしそうなんて話してたよ」 「私の王子は遊星さんです」 「パーフェクトボディだって誉めてた」 「全部あなたのものです。触れたいです?」  今なら構いませんという超小声を耳元で囁かれた。うう、くっつきすぎだよ。ルナ様に見られたら大変なことになりそう。 「ユルシュールお嬢様に小倉さん、おはようございます。お嬢様は随分と早いお目覚めですね」 「ええ、気持ちの良い朝だから散歩に出ていたのです。では失礼、オホホホホホ」  八千代さんの影が見えたときに、ユーシェは高速で僕から離れて直立不動していた。  きっと今ごろ最後まで甘えられなくて、不完全燃焼でやるせないエネルギーが体内に溜まってるんだろうなあ……部屋へ戻ったら暴れそう。だからここじゃ駄目だって言ったのに。 「ところでなぜ小倉さんがここに? 家事は免除のはずですよね?」 「他にやることがありませんでした」 「今日のデザイン画は自由です。私に見て欲しいひとは教壇まで持ってきてください」  八千代さんは教壇の前に座り、別のクラスの提出物だと思われるデザイン画をチェックし始めた。  基本的にデザイン画の授業は自由に描いていい空気だから、時間がない今の僕とユーシェにはとても助かる。 「朝日ー、用紙ちょうだーい」 「はいどうぞ」 「一枚百万円」 「朝日ー、アイデアちょうだーい」 「それは私も欲しいです」 「一枚百万円」 「い、いや冗談だ。そんな物欲しそうな目で見るな」  ルナ様のデザインだったら、お金を払って買う価値が充分にあるなと思ってしまった。 「大体、私と勝負をするのに、その私からデザインのアイデアを借りてどうする。勝っても自分が虚しくなるだけだろう」 「そうでした。申し訳ありません」 「私は虚しくならないからいつでもアイデア募集中だよ! 今を生きるのに必死だよ!」 「で、どうなんだ」 「何がでしょう」  ルナ様は一寸きょとんとすると、指をくいくいと動かして小声での会話を求めた。 「どうなんだユーシェの調子は」  ちらり、とユーシェの様子を窺ってみる。  真剣な顔で机に向かってる。多分、周りの声もあまり耳に入ってない。 「とにかく枚数だけは描いているのですが……」  下手な鉄砲……というわけではないけど、惜しい作品は何度かあった。  だけど本人が納得しなかった。僕が「これなら」と口にしても、じっと僕の目をしばらく見つめたあと、いつも首を横に振るだけだった。 「ルナには聞きづらいだろうけど、私たちで良ければいつでも相談してね?」 「私はいま自分が相談相手を求める立場だがな!」 「はい。皆様ありがとうございます」  三人とも温かいなあ。ルナ様は宣戦布告とか言ってたのに、なんだかんだでユーシェのこと気にかけてくれてるし。 「でも本当、一緒に組んでやるからと言っても、朝日は随分ユーシェのことを気にかけてるね? 『ありがとうございます』なんて」  うっ……しまった、ナチュラルにユーシェのことを自分の恋人的感覚で扱っちゃった。  受けとり方によっては偉そうに聞こえるかもしれないし、こういうとこ気を付けないとな……。 「ま、まあ仲が良いのはいいことじゃない、か。んんッ!」  それと事情を知ってるルナ様は、普段は何事も上手く捌けるのに、僕とユーシェの関係については毎回動揺気味だった。  それは、まあ。ただでさえ女子校だから恋愛話が少ない上、ルナ様はその手の会話をする機会がなかっただろうに、友人と使用人が女同士(片方の正体は男だけど)で付きあってたら対応に困るだろうなあ。  ルナ様でも経験値が不足し過ぎてると動揺するんだ。「恋愛なんてくだらないな」とでも言いそうなものだけど、そこは気も使うし興味もあるみたいだ。 「私はいま恋の相談相手も募集してるんだあー……」  それと湊……ごめんね……。  お掃除終わり、後始末終わり。  今日も一日お疲れ様でした。森羅万象のあらゆるものに挨拶をしつつ頭を下げる。  朝日としての活動はこれでおしまい。後は、遊星としてユーシェの部屋へ行くところだけど……。  んー。  今日は朝日のままもう一働きすることにした。  ユーシェの部屋を訪ねるに当たって、飲み物を作り、それと一緒に果物を剥いていくことにした。  美容に厳しいユーシェだから、夜はお菓子を食べないかもしれないけど、そのときは僕とサーシャさんで食べよう。  頑張ってるユーシェのために何かしたい。恋人の喜んでくれる顔を想像して、彼女の部屋へ向かった。 「いらっしゃい、王子様」 「あら、どうしてメイド服なんです?」 「あ、うん。台所へ寄ったりしてたから、一度部屋へ戻らずにそのまま来ちゃった」 「それとウィッグも外して……」 「このウィッグけっこう固めてあるから、いったん外すと着けるのが面倒なことに気が付いて」 「前は短い時間ならいいかと思ってたんだけど、この前部屋へ戻るときに八千代さんと会って話しかけられたときは、適当にピンで止めただけだから生きた心地がしなくて」 「ほとぼりが冷めるまではって感じだね」  サーシャさんは元々性別を隠してないひとだから、僕の苦労を大変とも思わずにくすくす笑っていた。 「でも部屋へ戻らずまっすぐ来たにしては、少しここへ着くのが遅かったね、お嬢様がお待ちかねだったよ」 「別に待ちかねてなんていません。来てくれるとわかっているのだから、焦ったりはしません」 「ごめんね、ユーシェ。果物と飲み物を用意してて」 「わあ、ありがとう。サーシャ見て? 私の恋人は、こんなに優しくて気が利くひとです」  さすが欧米。自分の恋人に対して、謙遜やその手の感情は全くないらしい。わざわざ席を立って僕の手を握りに来てくれた。 「ウィ。遊星くんはよく出来た子です」 「でもよく出来すぎて、うちのお嬢様が甘えてしまわないか心配だ……こうして彼の優しさにずるずると甘え、やがて堕落し、今はまだ保っていたスタイルもやがてはコエルシュール=フトール=ジャンメール……」 「柿でも食べて黙るといいです」  サーシャさんの口の中へオレンジ色の果実が突っこまれた。 「トレ美アン……! スイスにはないこのエキゾチックな味わい、まさにジャパニーズ・フルーツの代表格……!」 「私のために遊星さんが剥いてきてくれたのですから、全部食べるんじゃないですよ」  ユーシェは使用人に厳命しつつ椅子の上へ戻った。机の上にはデザイン画が十数枚ほど。  今日はまた、夕食後の時間だけでよくこんなに描いたなあ……あ、授業の分も含まれてるのかな? 「早速見ていただいていいです? 私はその間に次の一枚を描きすすめておきます」 「うん。今日はどんなデザインがあるのか、楽しませてもらうよ」  僕は椅子を借りて、ユーシェのデザイン画を一枚ずつめくっていった。  ユーシェはなんていうか、わかりやすいな……出来が悪いと思ったら最初の方に持ってくる。  でも本当なら、少しでも出来が悪いと思ったときはひとの目に付かないところへ封印するだろうから、全てのデザインを見せるのは相当信頼してくれてる証拠だ。  というわけで最後の一枚が本命……ん、これはいい……んじゃないかな?  ルナ様の衣装と並んだときのことを考えてみる。あの衣装と並んだときに見劣りはしないんじゃないだろうか。  後は縫製の方で頑張ればなんとか……ん?  わ。  ふと顔を上げたらユーシェが間近まで迫ってきていた。そして僕に気付かれたことを知ると、またすぐに席へ戻っていった。  その後はまた黙々と手を動かしはじめた。 「ユーシェ。この最後のやつ、いいんじゃないかな」 「いいです。今回のデザインはどれも使いません」 「え? 本当にいいと思うよ?」  僕は自分が認めた一枚を両手で持ちユーシェのもとへ歩みよった。 「ユーシェ? このデザインじゃ駄目かな?」 「駄目です。使わないといいました」 「ショー用のデザインを始めてから、その中でも一番じゃないかな」  二度は言わないとばかりにユーシェは返事をしなかった。その表情は淡々としてるけど、眉間に僅かだけの溝ができている。  ここしばらく、僕に対してのユーシェの態度は明るいものばかりだったから、こんな風に機嫌の悪くなったユーシェを見るのは久しぶりの気がした。 「あ、もしかして見た瞬間のリアクションが小さかったのかな。ごめん、どうしたらイメージ通りの衣装ができるか考えてたんだ」 「そうじゃありません」 「じゃあ一度打ちあわせだけでもしてみようよ。もしかしたら良くなる部分の提案ができるかもしれないし、そうすればもっといいデザインになるかも?」 「遊星さん。私は使わないと二度言いましたよ」  あ……空気が良くないな。これ以上この衣装を勧めたら、ユーシェが爆発しそうだ。  いまこの衣装の話はできなそうだから、機嫌が良くなるのを待って、頃合いを見て話すことにしよう。  でも少しほっとした。ユーシェは恋愛の方で僕にだだ甘だけど、それがデザインにまで及ぶことがなくて良かった。  ただ、うん。デザインに限らず、創作物に他人が言及することはとてもデリケートな問題だから、ユーシェの頭の中がデザイナー脳になってるとすれば、きっと今はとても危険な状態だ。 「じゃあここまでの分は終わりにしよう。僕も今からデザインを始めるから、ユーシェの続きができたら教えて」 「いま一枚できました」 「あ、じゃあ見せてもらうね。うん、これもいいと思う」 「…………」 「ユーシェ?」  あ、機嫌悪そう。なんだか負の連鎖が続いてる予感。  言葉で誉めても引いても駄目なのがひしひしと伝わってくる。それならいっそのこと全軍撤退しよう。 「……今日はやめておこうか。僕は部屋へ戻るから、明日また見に来てもいい?」 「ここに居てほしいです」 「え?」 「まだ帰らないでいただきたいです」 「うん、それはもちろん……じゃあもう少し」  浮かせた腰を再び椅子に落とす。うーん、ユーシェ的には僕に帰ってほしいのかと思ったけど、ひとの心を読むのは難しい。  大人しく自分のデザイン画を描こうと思い、手の中にあったユーシェの作品を彼女に差しだした。 「これ、ありがとう。それと、もし僕の態度に悪いところがあったのならごめん」  ユーシェは少し俯きがちに僕が差しだしたものを受けとった。だけど目は逸らしている。 「だけど充分にいいデザインだなと思ったんだ」  その言葉を口にした瞬間、ユーシェがその手を強く握りしめた。持っていたデザイン画がみしゃりと潰れる。  その目の端には涙が滲んでいた。 「充分じゃ駄目です……」 「え?」 「充分じゃ、駄目なんです……その程度なら、今までにだって何度もあったんです」 「だけどそれで三度も及ばなかったんです。今回は『充分に』じゃいけないんです」 「そう……うん、今までがそうだったって言うなら、ユーシェの納得がいくまで描くべきだと思う」  こくんとユーシェが頷いた。このメンタルの状態で続けられるかな?  実際、なかなか手を動かそうとしない。僕の頭もとても創作ができる状態じゃないし……うーん。  よし。それならいっそのこと、腹を割って話しあおう。 「ユーシェ。デザインは明日以降にして、今日はもう諦めてもいい?」 「え?」 「今後も今日と同じことが起こるなら、僕の意見の出し方をここで話しあっておくのも近道かなと思うんだ。僕の意見を大切だと思ってくれるならユーシェの気持ちを聞きたい」 「大切もなにもこの作品は、私と遊星さん二人のものです。お互いが認めたものでなければ舞台へ出す意味がありません」 「じゃあ聞くけど、このデザイン画はどうして駄目だったの?」  僕は先に見せてもらった束の中から、一番良かったと思ったものを取りだした。 「このデザインについては感想すら言えなかったから。『いいんじゃないかな』って言ったきりで」  それの何が気に障ったのかはわからないけど、ユーシェには大切な理由があるはずなんだ。 「一番最後に用意しておくくらいだから、僕が見るまで自信はあったんだよね? どうしてそれが駄目になったのか聞きたい」  ユーシェはすぐには答えず悩むような仕草を見せた。  葛藤してる様子だ。もしかしたら彼女らしからぬ「言っていいものか」なんてことを考えてるのかもしれない。 「ユーシェ。僕たちの為に、思うところがあるなら言ってほしい」  僕は重ねてお願いした。 「もしそこで僕が怒られても、今後、意見を言うときに遠慮したりしないから。ね?」 「だって!」  数度の懇願のあと、ユーシェはようやく僕にデザイナーとしての顔を見せてくれた。 「遊星さんの目です!」 「目?」 「そうです。以前に言ったでしょう? 私がルナとの決定的な差に気付いた理由のひとつは、その作品を見たときの教師の目だったと言いました」 「それ以来、私の作品を見たときに、相手の目がどのように反応するか確認してしまうようになったんです」 「そんな自分が卑屈で、嫌だと思うのに……だけど何よりその反応を信じてしまう自分がいるんです」 「うん、わかった。じゃあ次も頑張ろう」 「え?」  ユーシェの本音が聞けて良かった。言われてみれば、僕も皆に時間の心配をされて、急がなくちゃと考えてた。  急いでも納得できるものじゃなければ意味がない。今回はそういう衣装だった。 「僕には待ってることしかできないけど、ユーシェの次のデザインも楽しみにしてる」 「それだけですか? 私の、その、卑屈な部分とか……」 「自分の作品を見たときの反応を気にするのなんて当たり前だよ。だけどそれでも自分を卑屈だと思うなら、僕にはもう話したからいいやって思えばいいんじゃないかな」 「今はいい作品を生みだすことを一番先に考えよう。それと大丈夫」 「いま聞いても僕は全然気にならなかった。ユーシェのことを変わらず好きだよ」 「う……でもなんだか、私が慰めてもらってるような気になります」 「それでユーシェが良いデザインを生みだせるなら、今はなんだって受けいれよう。大丈夫、何があってもお互いの気持ちは、きっと変わらないよ」 「…………」  ユーシェは黙って僕の袖を握った。子どもみたいだ。  その頭をよしよしと撫でる。これじゃ本当に兄妹みたいだな……。 「あらやだ」  数秒ほどユーシェの頭を撫でて喋らずにいたら、部屋の中にいたサーシャさんが口に手を当てて驚いていた。 「気付いたら柿を全部食べちゃった! あらやだ! あらやだ!」 「ちょっと川崎市まで行って買ってこようかな。全部食べるなって言われたのに、このままじゃお美置きされちゃう!」  サーシャさんは突然一人で話しはじめたと思ったら、外へ出てからドアに鍵を掛けて柿を買いに出かけてしまった。  サーシャさんって、僕とユーシェに進展して欲しいと思ってるのかな。 「遊星さん」 「うん?」 「もう少し慰めてください……」 「うん。これでどう?」  言葉で慰めようにも、話したいことはもうほとんど言葉にしてしまったから、態度で示すことにしてユーシェを両腕で抱きしめた。 「もっと……」  額と目蓋にキスをする。その涙の跡を舌を伸ばして舐めとった。 「遊星さん」 「はい」 「苛立ったりしてごめんなさい」 「僕の反応も悪かったから仕方ないよ。僕も自分のデザインに期待通りの反応が返ってこなかったときの寂しさっていうか、悔しさというか……何度もあったから」 「でも遠慮しないで欲しい。僕に気を使うより今は作品が大切だし」 「ありがとう。本当にごめんなさい。でも……苛立ってはいても、遊星さんがいなくなったら気持ちがもっと悪い方へいってしまうとわかっていて……」 「だから引きとめてしまいました。デザインを描きおえたら、素直になって、たくさん謝って……遊星さんが許してくれるなら、たくさん甘えさせてもらおうと思ったんです」 「いいよ。甘えて。ユーシェに甘えられるの好きだよ」 「じゃあ……」  ユーシェは僕を見上げて、自分の頬を無防備に晒してみせた。 「キス……」 「はい」 「口にも」 「んっ」 「ユーシェは本当にキスが好きだね」 「はい。どんどん甘えたくなるんです。だからもっと下にも」 「え、下?」  唇の下……というとここしか思いつかなくて、あごにキスをした。 「もっと下へ」 「もっと下……?」  乞われるがままに受けいれて、ユーシェの細い首筋に唇で触れた。 「はっ……」  ぶるりとユーシェが体を震わせる。漏れる吐息も体をよじるその仕草も、どちらも女性らしく官能的だ。 「もっ……と下……ううん、そのあたりを……」 「うん」 「はッ……はっ、ふッ……は、ぁ、あっ……」 「もっ、と、して……ください……私、もう……」  ユーシェの手が僕の背中を握りしめた。もどかしげに指が動いている。 「…………」 「あの……」 「はい」 「もっと慰めてくださいと言ったら……この気持ちを最後まで鎮めてくれますか?」 「うん。ユーシェに従う」  姫君に仕える従者のように。僕は彼女への従属を申しでた。 「あ、遊星さんは英国紳士なのに、リードしてはくれないんですか?」  くすくすとユーシェが笑う。その冗談に軽いジョークで返してあげたかったけど、僕は神妙な面持ちで事実を告白した。 「実はぼんやりとした知識はあるんだけど、この先をどう進めればいいのか習ってなくて」 「ふうん? 遊星さんは家事でも服飾でも知識が豊富なのに、そういう一般的なことは知らないんですね」  ユーシェは意外そうに目をきょとんとさせた。男で知らないのってやっぱり特殊なのかな……。 「もしユーシェの理想と違ってたらごめん。これからはきちんと学んでおく」 「いいえ、お気になさらずとも大丈夫です。そういうことでしたら、私が進めてあげます」  ユーシェは本当に積極的だった。よろしくお願いします。 「ではまず――」  ユーシェ主導で進めることになったものの。 「どうしましょう……」  まさかのユーシェもよくわかってない状況。 「まあ私も初めてのことですから全てを把握しているわけではありませんが」 「うん」 「話に聞いたところによると、まずは触ってみましょう」 「じゃあ怖かったら言ってね?」  手で頬に軽く触れてみる。ユーシェの体がぶるりと震えた。 「た、多分このままで合ってると思います。続けてください」  と言われてもどこを触れば。  ユーシェの指示は大雑把だった。でも「どこどこを触ってください」という回答を期待するのも酷だ。  ので、顔全体にふわりと触れてみた。 「んっ……ふふ、くすぐったいです」 「楽しそう。くすぐったい方がいい?」 「なんとなく、こう、何かをされているという実感があります。続けてください」  くすぐったい場所なら男女でもそうは変わらないと思う。  とういうわけで今度は耳付近をくすぐってみた。このあたりはルナ様に触れられるときにくすぐったかった。 「やっ、ふっ……ふふっ、くすぐったい」 「ユーシェ、楽しそう」 「はい。くすぐったいのを感じる度に胸が僅かに緊張します」 「じゃあもっとくすぐってみる」  今度はさっきくすぐったいと言われた首筋へ。指の動きを実際、くすぐることを意識して動かしてみる。 「はっ、は、んっ……ん、ふッ……はっ、んっ」 「な、なんだか胸の緊張が増してきましたよ? 期待と緊張と不安がいい感じですよ?」  ユーシェもドキドキしてるのか、日本語がちょっと不自由になってきた。 「んっ、ふふっ……ん、ふうっ……」 「もっ……と、いいです……大胆、でも……少し、慣れてきましたから……」 「じゃあ服を脱がすけど平気?」 「だ、大胆ですね……でも、そのくらいはっきりしてた方がいいです」 「他のひとなら引っぱたいているところですけど……好きなひとが相手だと胸が高揚するんですね」  適した日本語が見つからなかったのか、ユーシェの言葉は辞書的だった。  言われてみれば、日常的に起こりうる感情ならともかく、こういう非常事態の心理状態に適した単語って少ない気がする。非常事態故に使用頻度が少なくて、開発する必要がないのかな。 「緊張します……いざ見られるとなると私の心が熱を帯びます」  とても辞書的だ。たとえば湊なら……いや湊とこういうことをするわけじゃないけど、彼女なら「ドキドキするねー」とでも言いそうなところだ。  ユーシェに日本の擬態語を理解してってことに無理があるし、別に必要のないことではあるんだけど、いずれ事故が起こりそうで怖いなあ。  僕がそんなことをぼんやり考えている間に、ユーシェはもそもそ(擬音語)と服を脱ぎはじめていた。 「こ、これで……」  ユーシェがかなり頑張ってる。肌も紅潮してるし、声も少し弱気になってる。  だから少しでも緊張を解したいと思って、彼女の喜びそうな言葉を掛けつつ励ましていくことにした。 「ユーシェの体は綺麗だね」 「そうです……とても光栄なことだと思ってください。スタイルには自信があります」 「うん。誰も否定できないと思う」 「それが全てあなただけのものです」  そう。普通ではありえないことだと思いながら触れなくちゃいけない。  最初に見た時から天使のような外見だと思ってたし……うん……ちょっと弄られやすいから、その美しさを残念なものにしてることは否めないけど。  というよりルナ様さえ弄らなければ、ユーシェは普通に上品なお嬢様なんだと思う。きっと日本語を使わなくていい環境ならこの子の雰囲気全然変わりそうだな……それもある意味失礼で、申し訳ないとは思う。 「体はいいけど心は駄目よ……」  でもこういうこと言っちゃうからなあ。 「それはルナ様から? サーシャさんから?」 「よくわかりましたね。日本の女性がかわいく思われたい、ここぞという時に使う言葉だと聞きました」 「もしかして他にも教わってない? だとすればどんなものが?」 「私、初めてじゃないけどいい?」 「セクハラで訴えますよ」 「私がオバちゃんになっても愛しつづけてくれるよね? 派手な下着はとても無理よ。若い子には負けるわ」  あのひとたちは、ユーシェが取りかえしのつかない事態に陥ったらどうするつもりだったんだろう。他にも何個かの酷い単語を教えてもらった。 「言いにくいけど、それは全部嘘だなあ……いつもの、っていうか適当に教えられてる」 「なんてこと!」 「ちなみにどんな意味なんです?」  僕はユーシェの耳元へフランス語で囁いた。彼女の髪の毛がびよんと跳ねた(ように見えた)。 「ユーシェはそのままでも充分かわいいから大丈夫」 「フォローになっていません。言葉でも愛情を伝えたいと思うのは当然です。あの二人どうしてくれましょう」 「ううん。それについて文句を言ったら何かあったと自分で明かしてるようなものだから……」 「ううっ、悔しいです……遊星さんを好きだと自覚してから、いつ言おうか楽しみにしていたのに……!」  いっそのこと知らんぷりした方が良かったのかな。だけどこんなことがある度に「そんなにがっつかないでよ」って言われるのも嫌だしなあ。 「ちなみに本当はなんて言えばいいんです?」 「あんまり定型文は考えない方がいいと思う」  僕はこの話を早く終わらせたくて、ユーシェの鎖骨にキスをした。 「はっ……」  今度は顔じゃなくて体に触れる。くすぐったいのが好きみたいだから脇へ手を当てて動かしてみた。 「うっ……ふっ、んんっ……」 「そ、その感じでいいのかもしれません……体の芯が震えるような……」 「ふっ……ん、んくっ……はっ……」 「んっ……ふふ、いいです……恋人らしくなってきました……」 「もう少し、純情な遊びもしたかった気もしますけど……」 「え? 早かった……?」  ユーシェが期待してるから……と思ってたけど、一度目は断るくらいの方が良かったのかな。 「あ、ごめんなさい、嫌なわけでは全くないです……」 「ただ、二人で出かけたり、デートしたり……手を握るのにも緊張するようなときめきに憧れていた時期もあったと思いだしただけです」 「でも初めてのキスも情熱的なままにしてしまいましたし、二人でデートしてもお友達と出かけるような感覚でしょう? 朝日と並んでいるとどうしてもそう思ってしまいます」 「ごめんなさい……」 「ですから、責めているわけではないんです。これはその……そうです、少し臆病になっているだけです」 「自分が少女や乙女といったものからこの数時間の間に変わるのかと思うと、名残惜しさや子どもだった頃の思い出や……そういったものが急に湧いてきただけで」 「だからみんな夢中になるんじゃないかと思うよ」  いわゆる世間的な男女がこういったことを望んでるのは僕でも知っていることだ。 「切なさがあるから気持ちいいんだと思う」 「そうかもしれませんね。胸が締めつけられるような、でも先へ進みたい、そんな感覚です」  手を下着の上からのせ、ユーシェの膨らみをぎゅっと握る。 「ふっ……や、やはり胸に触れられると特別な気がします……」 「そうだね、あまり触れていい場所じゃないから」 「綺麗でしょう? 丁重に扱ってください」  ユーシェの希望通り、丁寧に力を入れる。ここは鼓動の速さが伝わってくる場所だ。  肌の色よりもユーシェの心の変化がわかりやすい。 「ふっ、んっ……ん、はっ……んぅ……」 「ん……はあっ……そう、ゆっくり……丁寧に……んっ」 「もっと、力を入れていいです……そう、遠慮しなくて構いませんから……んっ」 「このままでいい? それとももっと大胆に進めた方がいい?」 「あ……そういえば、私がリードしている方でしたね……んっ、ふうっ……」 「で、では待ってください……いま、全部見せてあげますから……」  ユーシェが自らの下着に手をかける。まさかそこまで大胆に進むとは思ってなかったから少し驚いた。 「す、すごいことでしょう? でもこの姿を見せることで愛情の強さを感じてください」 「震えてる」 「も、もちろんです。恥ずかしいですから。それに怖い気持ちもあります」 「ここからは僕がするよ」  ユーシェがここまでしてくれたのなら。彼女が強がりなのが知ってるんだから、僕だって少しは責を負うべきだろう。 「できます? 私の体に興味があるわけでもなさそうですし」 「うん、がんばってみる」 「えっ……興味を持つのはがんばることですか?」 「あ、いや単純に綺麗だなって意味で……あの僕、ヌードはデッサンで見慣れてるから、性欲とはまたかけ離れてるところにあって」 「特にユーシェはスタイルいいから。美術品みたいなものだと思う。綺麗すぎていやらしい気持ちが湧かない。本当」  明らかにユーシェがショックを受けて愕然としているから、僕は自分にできる最大限のフォローをした。 「芸術品、芸術品。あ、モデルとか?」 「うう……整いすぎているというのも、問題なのですね……」  あ、整ってる自覚はあるし、自信がなくなったわけじゃないんだ。よかった、傷付いてるわけじゃなさそうだ。 「でも確か男のひとにも興奮してもらって、その場所が大きくならないと最後までは無理だったような……なってます?」 「ううん、全然……」 「そうですか……私、ちょっと太った方がいいのかも……」  ユーシェが落ちこみかけてる。返事は保留してその地肌に指で触れる。 「んっ……!」 「ぅ……や、やはり直に触れられると、とても緊張が増して……んっ」 「うっ……う、んっ……! 敏感になって……んっ、はっ……やっ」  地肌が露出した胸も手の平の全面でぎゅっと揉んだ。当然、下着の上からとは感触が全く違う。  きっと……うん、こうして続けていく内に性欲は湧いてくると思う。 「んっ、はっ……ん、ふっ……っはぁ……んっ」 「ん、あっ……はっ、はぁ、あっ……いいです、そう……はッ……」 「はっ……あ……んっ……もっと……くっつきたいです……あの……抱きしめてほしいです……」 「うん」  全裸のユーシェと密着すると、彼女は口をぱくぱくとさせてキスを求めていた。 「んっ……」 「んむっ……んむ、ちゅっ……ちゅう……」 「んむ、んっ、ちゅう……れろっ……ちゅう……れろっ……」 「えろっ……れろ、んちゅっ……ちゅう……ちゅっ、ちゅう……」 「んむっ、はっ……ユーシェは、キスが好きだね」 「はっ、はあっ……はい、好きです……んっ……全身にして欲しいくらいです」 「した方がいい?」 「お願いできるなら……好きな場所に……」  首、鎖骨、肩、二の腕と続けてキスをしていく。その次に触れたのは胸だ。  どうしても目立つ場所があるから、そこに唇を軽く当てる。ユーシェの口から漏れる息がより甘くなった。 「はっ……あ、ぁ……ああっ……はっ、はあっ……んっ」 「はあ、はっ……ん、んぅ……あっ、はっ、やっ……! はっ……ぁ……あっ、んっ……」 「あ……はっ……私、ちょっと……いえ、かなり……体が痺れるような、感覚に……なってきましたよ……?」 「状況を解説しなくてもいいよ?」 「でも、お互い初めてだから、その方がわかりやすいかと思って……んっ、はあっ……」 「気持ちいいなら言ってほしいかも」 「気持ちいいというか……やっぱりくすぐったいというか……んっ」  かぷ、と胸の突端を唇で挟む。ユーシェは触れていた肌をぶるっと震わせた。  さらにキスを下へ進める。視線の先にはユーシェの一番隠している場所。今も腿が閉じていて見えない。  そこにもキスをするべきかと思い、内腿に触れる。 「ちゅ、ちゅっ……」 「はっ……やっ、そのあたり……特に敏感で……」 「あ、やっ……はっ、あ、はッ……んっ」 「んッ、ふっ……ん、は、はぁ……あっ、はあっ……ふっ」  この先……徐々に開いてきてる、足の間……にもキスをするべきか。  でも最終目的はここに入れるらしいから、まず見てみないと話にならない。 「ユーシェごめん、足開いて」 「ぅ……」  ちらと迷っている視線を僕に向けたものの、ユーシェはゆっくりと自ら足を開いた。  柔らかい金髪に包まれたそこに口を付ける。頬に当たっていた内腿がきゅっと締まった。 「はっ……」  ユーシェのそこは粘液が付着していた。舌を使い、粘液を舐めとるように表面を撫でていく。 「は……はっ、はあっ……んっ、はッ……」 「ああぁ……はっ、ふうっ……ん、んんッ……ぅ……んっ」 「はっ、あ、ああぁ……んっ、はっ……ふうっ……」  ユーシェのここに入れられるか検討してみる。  ぬるっとしてる……。  入るようになってるんだから、あとは自分がきちんと入れるだけの状態になっていればいけるんじゃないだろうか。  痛いっていうのは知ってるけど、できるならやはり痛みはない方がいい。僕は唾液を多めにユーシェのそこへ擦りつけた。 「ユーシェ」 「はい……」 「今からユーシェに入れてみようと思うよ」 「はい……少し怖いですけど」 「スピード勝負の気がするから、できるだけ早く挑もう」 「そうですか……? わかりました、お任せしますね」 「えっと、体勢的に考えたら、寝てもらった方がいい……のかな? 位置的に」 「はい……ところで肝心なことをひとつ聞いていいですか?」 「うんいいよ。なに?」 「大きくはなったんですか?」 「全然……」 「そうですか……」 「でもきっと他のひとはできてるんだし、きっとなんとかなるよ」 「そういうものですか?」  でないと困る。僕はユーシェをベッドへ寝かせて……。 「あ、じゃあ服を脱がないと……」 「あ、そうだね。僕も脱がないと……あ、でも全部は脱がなくていいのかな」  僕はスカートをめくり下着を―― 「…………」 「どうしました?」 「あ、いや、女性物の下着だから、ユーシェが引かないかなと思って」 「大丈夫です。どうぞ脱いでください」 「う、うん」  女性物の下着を膝まで下ろし、スカートをめくる。  その様子はユーシェはじっと見ていた。僕のその場所までちゃんと。 「はあー……見た目は女性なのにそんなものが付いてるのは不思議な気分です」 「それは……恥ずかしいな……」 「私が見ている前で形が変わっていくんですけど……ていうかこれ、最初の状態より硬くなってません?」 「なんでだろうね……見られてたら大きくなった……ごめん」 「もしかして見られていたら興奮しました?」  そうかもしれないけど、どうしても認めたくなかった。自分がとてもヘンタイさんだと認めることになりそうで。 「感想も言った方がいいですか?」 「それはなんかヤダ……」  僕はユーシェの入り口に自分の先端を当てた。そういえば急いだ方がいいんだった。 「じゃ、いくね」 「はい……お願いします」  二人で接合部を見つめつつ不安な顔。  果たして初めてで上手くいくんだろうか。だけど他のひとはこれでいいわけだし、ユーシェと最後までしてみたい気持ちはある。  これが恋人の証、とまでは言わないけど、二人の関係が深まるひとつの形であることは確かだ。  終わるまで自分の硬さが保つことを祈りつつ、ユーシェの中へ向かって前進を始めた。 「んっ……!」  先端をめりこませようとするも、やはりそう簡単にはいかない。  ぐいと腰を前に出すも入らない。位置が悪いのかと思って、手で先端の当たる場所を調整する。 「んくっ……! んっ……はっ……!」  入らない……位置は間違ってないと思うんだけど、やっぱり始めるまでに時間をおいたのがいけなかったのかな。 「ど、どうぞ遠慮なくっ……?」 「うん……進めようとしてるんだけど、入らなくてっ……」  しかも不安に思ったことが的中した……硬さがなくなってきた……これじゃとても入らない。 「ユーシェごめん……」 「な、なんですっ……?」 「やっぱりさっきの……感想教えてもらっていいかな」 「感想?」 「その……僕のを見た」 「小さかったときはよく見えませんでしたけど、大きくなってからはつるんとしてかわいいと思いました」  なんでこれで大きくなるかな……でもこれで続けられそうだ。 「んっ……!」 「ふっ……」  先端が少しめりこんだ……でも最初さえ入れば全部いけるものかもしれない。 「えいっ……!」  手も使って押しこんでみた。親指でぐいと奥へ押しだしながら腰を前に進める。 「んぐッ……!」  い、今のは明らかに痛そうな声だった……ユーシェの痛そうな声を聞くと、途端にこっちも……硬さがなくなる……。 「んぐぐっ……くっ……ん? んんっ……?」 「な、なか、なかなかにっ……ま、まあ覚悟はしていましたけどっ……」 「ご、ごめん……すぐ済ませるからっ……」  と言いつつ自信がない。すぐ済ませられるものなのか……硬さももつかわからないし。 「ん、んうっ、んぐぐぐっ……んくっ……だ、あぐぐあぐあああっ……!」 「けっ、けけっ、けっこう痛いですわねっ……だ、だだっ……あああああっ……」  ですわになってる……理性が働いてないってことは相当痛いってことじゃないかな……。  めりめりと肉の裂ける感触はするものの、不思議と進む気配は全くない。こういうものだろうか。 「ごめん一気にいってみる……! えいっ……!」 「あ、ちょっとまだ無理かもしれま……あぶっ! あぐぐっ……ん、んぐっ……あううっ……!」 「痛いっ……あ、ああッ……いたっ、いだだっ……むり、むりかもしれまっ……いた、痛いですわっ!」 「いた、いたたっ……いったあああぁー……! 無理っ、無理ですわっ……これ無理……いだっ、いたたたたっ……!」 「えいっ!」 「ひぎぃ!」  ユーシェの手が高速で飛んできて、僕の胸元をわっしと掴んだ。 「あ、ああ、あああああ……い、いいいいっ……」 「無理……無理です……ごめんなさい、今日はここまで……」 「う、うん……こっちもどのみち駄目そう……硬くなくなっちゃって……ユーシェがかわいそうで」  ユーシェの最後の悲鳴を聞いて、完全にへこたれてしまった。  ユーシェはぐってりと力尽きてしまった。よほど体力を使ったらしい。 「う、うう……こんなに難儀するなんて……一体なにが悪かったんですの……?」 「事前準備が足りなかったのかも……僕も今度調べてみる……なにか間違ってたのかもしれないし」 「うう、まだ痛いですわ……体を裂かれるようでしたわ……」 「うん、裂いてたからね」 「血が出るかと思いましたわ……」 「うん、出るものらしいからね」 「うう……二人の愛はとても深いというのに……悔しいですわ……」  ユーシェが落ちこみかけてる……何かフォローできるといいんだけど。  その頬を優しく手で撫でる。彼女の喜びそうな言葉を考えた。 「もしかしてユーシェは他のひとよりきついのかも。ほら、体が細いから」 「なるほど」  そんなことがありえるのかはわからないけど、とりあえずこれでユーシェは納得してくれた。 「それと遊星さんのも大きかったのかも……」 「そうでもないよ」  十一月……。  カレンダーを見てさすがに危機を覚えた。この日数はいけない。  ユーシェが今日中にデザインをあげたとしても、いち、にぃ……一ヵ月半ちょい。  服のデザインにもよるけど、ドレスくらいの大物だったらわりとデッドライン。  今回に限っては「最優秀賞を取れると確信できるものを作らなければ参加する意味がない!」を目標にしてきた。  だからデザインは全てユーシェに任せて、どんなに残り日数で焦りを覚えても口を出さないできた。だけどさすがにこうなってくると……。  しかもこちらの人数は、僕、ユーシェ、サーシャさんの三人。ルナ様の製作をした時よりも圧倒的に人数が少ない。  しかもサーシャさんはあくまで「お手伝い」を表明してるし。うう……。  急かしたくなかったけど、今日の内にユーシェと話してみようかなあ。でも厳しくできるか心配だ。 「ルナ様、朝になりました。そろそろお目覚めの時間です」 「おはよう。もう起きて着替えも済んでいるから安心していい。もう少ししたら朝食に向かう」 「はい、かしこまりました」 「うん……あ、いや待て」  途中から呼びとめはじめたルナ様の声を聞いて、僕はこの場から去ろうとする足を止めた。 「朝日。今朝は二人で食事をしないか」 「え?」 「朝日と二人で食べたくなった。部屋で待っているから、朝食を私の分と君の分を用意して持ってきて欲しい」 「はい。ルナ様がそう仰るのであれば従います」  なんだろう? この時期にってことはユーシェの衣装絡みかな。  ルナ様も心配してくれてるんだ。口ではユーシェをコテンパンにすると言っていたけど、僕の主人は優しいなと思った。 「朝日と部屋で二人きりの食事というのは初めてだな」 「はい。お誘いいただきありがとうございます」 「お誘いというか、話があるから呼んだだけだ。昨日、君たちはまた夜にデザイン画を描いていただろう。その間に私の衣装が完成した」 「えっ」 「屋敷へ持ってきて、アトリエで作業をしていたんだ。私たち三人と、七愛と北斗でささやかな打ちあげもした」 「君たちも誘おうかと思ったが、さすがにこの状況では嫌味にしか聞こえないだろう。先週あたりからユーシェもピリピリし始めたし、君にだけ伝えておく」 「おめでとうございます……」 「思えば君の型紙なしでは、あれほど綺麗なシルエットで完成はしなかった。礼を述べておく」 「いえ、ルナ様のデザインあってこそです。私の力は微々たるものです」  そうか……ルナ様の衣装、完成したんだ。  ルナ様から任されて、新しい道だと思って懸命にやって……僕にとっても思い出深い衣装だ。最後まで完成した姿をぜひこの目で見たいと思う。  そんな風に思いを馳せている僕をルナ様は愛しそうな目で見つめていた。  だけどその視線に気付いた瞬間、衣装製作が遅れていたときに僕を叱りつけた厳しい目になって―― 「それでユーシェの衣装はどうなってる?」  気にしていたことを聞いてきた。 「まだデザインが仕上がっていません……」 「今日から十一月だ。どんなデザインになるのかは知らないが、いい加減製作が間に合わない段階じゃないのか」  はい。仰るとおりです。僕も自分の部屋で同じことを考えました。  そして僕とルナ様、二人の考えが合致するということは、認識が正しいということだ。みんなも同じことを考えているかもしれない……時間に迫られているユーシェを除いて。 「こう言ってはなんだが、デザインを描く側は自分の気に入ったものができない間は、縫製の手間ならなんとでもなると思って、ずるずる時間を引きのばしてしまうんじゃないかと思う」  想像する側と形にする側の常だ。ユーシェは理想を追わなくちゃいけないけど、僕は現実を見なくちゃいけない。僕まで一緒に夢を追ったら、そこには何も生まれない可能性すらある。 「縫製にしても、私が手伝わないのは二人ともわかっているだろう」 「湊や瑞穂は頼まれれば手伝いはするだろうが、それでは最初の条件は達成できなかったことになる。君たちが悔やむことになるんじゃないか」 「はい……」 「多少厳しいことを言っても、君がユーシェを監督してあげるべきだと思う」 「ありがとうございます。自分だけでは決めかねておりましたが、今日の間に時間を見計らってユルシュール様と話すことにいたします」 「デザイナーを目指すのかパタンナーを目指すのかは知らないが、君は基本的に優しすぎる。時には嫌われることも辞さないほどの厳しさを持たなければ良い作品はできないぞ」 「これだけ遅れているからにはそのつもりでやっているんだろうが、中途半端なものを出すくらいなら舞台には出ない方がいい」 「最悪、今回は諦めるという選択肢も現実味を帯びてくると覚えておけ」 「はい」  同い年で服飾を学んでる時間は僕の方が長いはずなのに、ひとの上に立ってるひとの言葉は説得力が違うなと思った。 「あ、それとわかっているだろうが、私が君にこんなことを言ったのはユーシェに話すなよ。これはあくまでユーシェとは関係ないところで交わされた私と君の雑談だ」 「はい」  そしてユーシェへの気遣いも忘れない。ルナ様が優しいのはわかっていたけど、もしかしてこのひとは、僕の思ってた以上に親切で友達想いのひとなんじゃないのかな。 「ありがとうございます。ユルシュール様もデザインだけはひとの手を借りず頑張っているようですから、最後まで自力で仕上げることを私も望みます」  ふう。これで間に合わなかったら「僕はなんの為にいたの?」って自分でも思う。ユーシェに頑張ってもらわないと。  いつ話そうかな……機会があるといいけど。ん?  少し考え事をしていたら、ルナ様が僕のことをじっと見つめていた。 「なんでしょう?」 「あ、いや。私の前ではユーシェを普段通りに呼んでもいいんだ」 「あ、はい……」  そっか、ルナ様は僕たちが付きあってることを知ってた。でも人前では様付けが慣れてるから、なんだか今さら普段通りには呼びにくい。 「…………」 「そ、そういえばだな」 「はい?」 「いやその……」  なんだろう? こんなにはっきりしないルナ様は初めてかもしれない。  僕相手にルナ様が口ごもることってなんだろう? 「ええとだな……」 「いや、君とユーシェは付きあってるじゃないか……付きあってるんだろう?」 「はい」 「ということは二人で出かけたり、手を握ったり……」 「やはりキ、キスとかはしたりするのか――んんッ!」 「…………」  キス程度でこれだけ動揺してるルナ様に「未遂ですけど初体験の寸前までいきました」なんて言ったらどんなことになるんだろう。 「ルナ様もわりと恋愛に興味がおありなんですね」 「自分の恋愛には全くないんだが。私も年頃の乙女だからな、どんなことをするのか興味はある」  同じ質問をユーシェに聞いたりもするのかな……その場合彼女はどう答えるんだろう。  ルナ様より先に進んで得意がるのかな。それとも女同士だから、あまり多くのことは話せないのかな?  放課後にファーストフードの店にでも入って、恋愛話をしてるルナ様とユーシェの姿が想像できない……そういう普通に女学生してる二人も見てみたいと思うんだけどな。 「あっ、申し訳ありません」 「気を付けていただけます?」 「も、申し訳ありません。前を見ずに歩いていました」 「お嬢様、よくなくてよ?」 「あ……そうでしたか。こちらこそ言いすぎました、許していただきたいです」 「…………」 「やっほろユーシェ、休憩だよーん。息抜きでもどうだい?」 「湊、ごめんなさい。いまとても忙しいんです」 「ジュースだけでも買ってきてあげよっか?」 「いえ大丈夫です……あの、ごめんなさい。本当に一分でも惜しいんです。集中させていただけません?」 「う、うんごめん。ちょっと空気読めなかった。がんばってね」 「ごめんなさいねえ、湊さま」 「たはは、怒られちったい」 「…………」  だいぶ気が立ってる。やっぱりユーシェも時間がないとわかってるみたいだ。  それでも僕と二人のときは普段通りのユーシェだからそこまで心配してなかった。改めて見るとメンタル面がボロボロだ。  そういうところも僕が支えてあげたかったのに、苛立たせたくないと思って、ついその話題を避けてきてしまった。 「ちょっとわかるなあ」 「え?」 「私も『きもの創造コンクール』の締め切り間近は今のユーシェみたいだった。すごくピリピリしてて」 「ええー!」 「瑞穂様が? 想像できません」 「せっかく心配してくれる周りのひとたちの誰からも話しかけられたくなくなって、きもののデザインを考えること以外に使う時間が本当に煩わしくて。夕食を食べる時間さえもったいないと思ってた」 「あはは嘘だあ、私たちを驚かせようとして。機嫌悪い瑞穂なんて存在するわけないよ、都市伝説だよ」 「北斗にも八つ当たりしちゃったよね?」 「はい。あまりに遅くまで起きているので、そろそろお休みくださいとお願いしたら、こんな焦るばかりの気持ちのままで寝られるわけがないとお叱りを受けました」 「あばばば瑞穂でもそんなこと言うんだ……都市伝説は事実だったんだ。怖いよう」 「いいことじゃないか。本来、製作中はそのくらい神経を尖らせていて当然なんだ。無論、全てが終われば迷惑を掛けた相手へのフォローは必須だな」  嘘です。ルナ様がフォローなどされるとは思えません。 「私はそういうヒリついた空気を求めてこの学校へ入ったのに、みんなのんびりと暮らしてばかりだ。一年に一度は、クラス全員が殺気立っている日があってもいいくらいだ」 「やだよそんなの、楽しくやろうよ。平和が一番。ラブ&ピース、イェイ!」 「うん、基本は仲良くできるのが一番だもんね。この苦しい時期を超えたら、みんなでユーシェを労ってあげよう?」  このままじゃユーシェの人間関係に多くのひびが入ったり、最悪嫌われてしまう……と思ってたけど、この三人に関しては全く問題ないみたいだ。  良い友人がいてよかったね、ユーシェ。  とはいえ、あの三人は特別ユーシェに対して優しいだけで。 「なんなんですか、あのスイス人! ただのお笑いキャラかと思っていたら、プリプリカリカリ……何をそんなに切羽詰ってるのか知らないけど、あの髪の毛掴んでまっすぐに伸ばしてやりたい!」 「桜小路さんの取り巻きじゃなければ、あんな女ハブよハブ! 無駄に大きな胸して、白人だからって何なんですかあれ? 針でつついて割ってやろうかしら!」  ああ……やっぱりこうなってしまった。  恋人の悪口は聞きたくなかった。だけど多分にユーシェが苛立っていることが原因だから、いま表にいる彼女たちを一方的に責めるわけにもいかない。  要はデザインが完成すればいいんだけど……。 「ユルシュール様」 「朝日。なんです?」  ユーシェは僕に対してだけは機嫌の悪そうな素振りを見せなかった。  愛情を感じられるのは嬉しいけど、恋人ばかり優先になってしまうのもちょっと困る。これって贅沢な悩みなのかな? 「朝日?」 「あ、ごめんなさい。今日の昼食ですが、製作についての話し合いをしたいとお願いし、皆様と別行動にしていただきました。私と一緒にサロンへ来ていただいてもよろしいですか?」 「朝日とですか? ええ、そんな誘いならもちろんご一緒します。嬉しい」  本当、こうしてると天使そのものの笑顔なんだけどな。  もちろん僕だってユーシェと二人きりになれる時間は嬉しい。  だけど今はルナ様が言っていた通り、厳しく接しないといけない時だ。  本当、その役目が自分には向いていないとよくわかる。好きなひとの為、と自分に何度も言いきかせた。  大丈夫、ユーシェは僕を嫌いになったりはしない。愛だろ、愛っ! 「んー……んふん?」 「サーシャ? どうしたんです?」  サロンへ入ってユーシェと向かいあってみたものの、何故かサーシャさんは廊下に立っているままだった。 「んー……男の子の顔になってる子がいるじゃない?」 「朝日のことです?」 「ええ。せっかくいい顔してるのに、逃げ道を用意しちゃうのもよくないなって思うのよ」 「かと言って逃げ道を塞いじゃうのもよくないのよね。だから私は外で待ってるわぁん」 「言っている意味がよくわかりませんね……朝日はわかります?」 「うん、なんとなくは」  ユーシェがサーシャさんに甘えないよう、自分の存在をこの場から消した。  だけどユーシェが落ちこんでしまった時に何の支えもなかったら、それこそ追いつめられてしまうかもしれない。  サーシャさんは僕が何を話そうと、その後カバーできるだけの環境を整えてくれたんだ。 「あ、もしかして……気を利かせたつもりなんです?」  何も知らないユーシェはユーシェで、とてもポジティブな勘違いをしていた。 「別にここで二人きりになりたいとまでは……あ、でも、学院でこういう機会は滅多にないかもしれません」 「そうですね、ここなら遊星さんと呼べます。遊星さんに甘えられるなら嬉しいです」 「学校でなんて照れてしまいますけど、このくらい大胆なこともたまにはいいかもしれません。どう思います?」  ユーシェは僕と二人きりになれたことが心から嬉しいみたいで、ほっとした安らぎの顔を見せていた。  この安心しきった顔を曇らせないといけないなんて想像するだけで辛い。  本当は抱きしめてあげたい。僕に自分は弱い人間だと打ちあけてくれた恋人に、どこまでも甘えさせてあげたい。  でもそれ以上に、栄光の舞台に立つという目的を見失わせたくない!  攻撃的にならないように。甘えられる余地を残さないように。ごくんと唾を呑みこんで、笑顔と真顔の中間を意識しながらユーシェの目をまっすぐに見た。 「遊星さん?」 「ユーシェ。今日から十一月なんだ」 「フィリコレまで一ヵ月半しかないけど、このままじゃ衣装が完成しないよ」  僕の言葉に、ユーシェはその蒼い瞳を丸く大きく見開いた。 「これまでのことは良いデザインができるまでの過程だったと捉えよう」 「どうすればいいかをここで考えよう?」  自分自身わかっていて、苛立って、何度も自問自答したはずのユーシェが、僕を怒鳴ることも考えられた。  だけどユーシェは、長い睫毛を伏せ目がちにして、自らの非を認めた憂いのある表情を浮かべていた。 「ごめんなさい」 「自分でも、どうしていいかわからないんです。寝て覚めて日付を見る度に、遊星さんを待たせていることを思いだして、最近は朝がいつも苦しいです」 「だけど最初からルナに敵う実力がないのか、それともこの先に私が彼女と同等以上のデザインを生みだせるのか、それすらもわからないんです」 「デザインは良くなってる」 「昨日見せてもらったデザイン画も衣装にすればきっと綺麗だと思う。でも」 「はい。わかっています」  ルナ様には敵わない。 「……私も、十一月になった今日が選択の日だと思っていました」 「え?」 「敵わないのがわかっているデザインで衣装を作り駄目元で挑むのか、それともいっそ諦めてしまうのか」 「私がデザインを生みだせない以上、そのどちらかを選ぶしかないのはわかっていたんです」 「敗北を認めるしかない怖さで苛立ち、脅えを隠すために遊星さんに甘えて……そうして誤魔化してきても、時間が限界だということはわかっていたんです」 「ユーシェ……」  これがたとえば縫製の技術を見せるデザインで挑んだり、ギミックのある服を作り、インパクトで勝負する方法も考えられる。  だけどルナ様の衣装を作ったのは僕なんだ。それも時間のある時期に丁寧に作った。同じ人間が作るんじゃ、それを勝負の肝にすることはできない。  ギミックにしても、今から考えたものじゃ子どものお遊び程度になってしまう。ひとの意表を衝くということは、緻密な計算と技術の検証が必要だ。 「相手が大きすぎるんです」 「それでもここまで諦めずにきたのは、遊星さんと良い衣装を作りたいからです。共に二人で喜びあいたかったからです」 「一度だけルナに挑めるかもしれないと思ったあのデザインが、また生みだせるのではないかと思ってしまったからです」  結局は投票で選ばれず、使われなかったあのデザイン……。  だけど確かにあの時はルナ様に匹敵する衣装のイメージができた。実際、僕だってどうしても一票入れたくて、それが原因でユーシェから怒られたほどだった。  それならやっぱりユーシェに才能がないわけじゃない。でもそこに拘りつづければ、今のユーシェと考えが全く変わらないことになる……。 「それなら……諦めてしまうくらいなら」 「え?」 「みんなを頼ってみたらどうかな」  ユーシェの目が再び丸くなった。だけどまたすぐに悲しげに伏せっていく。 「本当に、あと一歩だと思うんだ。何かアドバイスを求めることで、僕たちにはなかった発想が生まれるかもしれない」 「諦めるくらいなら、プライドは捨てて頼りになるみんなに聞いてみようよ。ルナ様は駄目でも、湊や瑞穂様が……」 「でも衣装製作に参加してもらうことになるのですよね?」  ユーシェは辛そうな声で僕に尋ねた。  きっと彼女自身、悩みに悩んだことだったのかもしれない。 「言葉でも技術でも、製作に参加していただくことには変わりがないでしょう? ルナの出した条件は『自分たちの人員は割かない』というものです」 「プライドはいりません。ここまで来て格好を付けようとも思いません。茨の道で傷付くのも、泥水の中を泳ぐのも、最後に栄光の舞台へ立てるのなら覚悟ができるつもりです」 「でもその栄光にひと欠片の傷が付いてしまうのなら、私たちが勝負を挑む意味はあるんですか? 美しい衣装が作りたいだけなら、十二月のショーに拘る必要がないでしょう?」  僕が厳しくできたのはここまでだった。か細いユーシェの体を強く抱きしめる。 「遊星さんと勝利の喜びを分かちあうことが、私にとっては最優秀賞よりも大切なことなんです」 「もしそこに後ろめたさが少しでもあれば、何の意味もないことなんです」 「せめて最初の条件が違っていれば……いいえ、いまそれを言っても仕方がないのもわかっているんです……」  こんなぼろぼろの精神状態で、それでも毎晩挫けずに、これまでと劣らないデザインを生みだし続けてきたユーシェの辛さと苦悩を知った。  それでも諦めきれない僕は、彼女を戦いの場へ突きだすという選択を取った。 「ユーシェが今日を選択の日と考えていたなら」  もし最後の夜にユーシェの中へ神が降りてきてくれれば、全てが祝福に変わるかもしれない。 「まだ今日の夜があるよ。頑張ってみよう」 「はい」  恋人を神頼みで戦いに赴かせる。僕はなんて酷い男なんだろう。  その日の夕食は重苦しかった。  別に全体の空気が重かったわけじゃない。ただ僕の心がとても重かった。  かろうじて笑顔は浮かべてるけど、いま何か話題を振られても、相槌を打つ以外の対応ができる自信がない。  それは多分ユーシェも同じで、微笑んではいるけど明らかに沈黙してる。  元気な声で話す湊と明るく応える瑞穂様には、こちらの都合で会話へ加わらず申し訳ない。 「いやーこっちのシジミは上品すぎて、おいしいけどあかんわ! やっぱシジミのお味噌汁は、地元で食べたときの方が口の中で砂がジャリジャリしておいしいね! 琵琶湖のシジミは最高だ!」 「琵琶湖の砂はおいしいんだ? 滋賀県の食文化は面白いね」  なんだかツッコミ待ちの異文化交流みたいな会話をしてるけど、残念ながら参加できる余裕がない。 「…………」  ルナ様は時々探るような目で僕とユーシェの顔を交互に見た。  だけどその口数の少なさから察したものがあるみたいだ。ふうと深い息を何度か吐いていた。  もちろん諦めてるわけじゃないし、それに先のことを考えれば、来年にもショーはあるし、コンテストだって沢山ある。  そう。これからもルナ様と勝負して、ユーシェの自信を取りもどす機会は何度もあるんだ。  だけど戦って負けたならともかく、勝負の場にも立てないのは悔しいな。  いや、もう気持ちが諦めかけてる。そんなのいけない、僕がいま守るべきものがあるとすればユーシェを信じる心だ。 「BWKのSZMはSZMの中でも特においしい超SZM、略してSSZMなんだよ。さあ瑞穂も最高級セタシジミを食べよう!」 「うん、楽しみ。ところでシジミって食べるものだったの? 私、出汁を取るためだけに入ってるんだと思ってた」  シジミ会話は絶好調。ユーシェの本心としては、食事が終わればすぐにでも部屋へ戻って、一分でも長くデザインに力を入れたいはずだ。  もう食べ終わってるみたいなのに、よく部屋へ戻らないな……そうとう我慢してるんだろうか。  ユーシェは箸置きに箸の先端を載せ、膝の上へ手を置き、やや肩を小さくして座っていた。 「はー、シジミのお味噌汁おいしかった! あれユーシェ、お味噌汁のまない? 私、もらっちゃっていい?」 「どうぞ」 「五臓六腑に沁みわたるね! 味だけじゃなくてひとの優しさがね!」  食卓に残っているメニューは、いま湊が口にしているお味噌汁だけだ。  一気に飲みほした湊は、大きな音を立ててテーブルへ器を置き、ごちそうさまと明るく告げた。  それに合わせて、丁寧に頭を下げる瑞穂様と、ぼそりと呟くようにごちそうさまを告げるルナ様。普段ならリビングへ移動して、食後の歓談をしつつ紅茶とデザートを楽しむのが常だった。  実際、湊はそのつもりで体を出口へ向けた。瑞穂様とルナ様はゆっくりだ。ユーシェも椅子をキィと引き立ちあがった。  そう立ちあがった。肩を震わせて。  そのことに気付いた僕は、はっとなってユーシェに注目した。座っていたときは小さく見えた肩が……いや肩だけでなく胸が堂々と張っている。  その様子に気付いたのは、彼女の従者と僕だけだった。移動しようとする他の三人と従者たちの背中を見ながら、ユーシェがすうっと息を吸いこむ。 「待って!」  そして彼女は食堂中に響く大きな声で、移動しようとしていた全員を呼びとめた。 「ん……?」 「なんだ?」  呼びとめられた側は少なからず驚いたみたいだ。  八つ当たりか、それとも癇癪を起こして……? そんな風に捉えたかもしれない。  だけど今日で舞台に立つことを諦めるか否かの選択に、追いつめられたユーシェが取った行動は―― 「皆さんにっ……聞きたいことがあります」 「どうか教えていただけませんっ……?」  呼びとめたときのように叫ぶような音量ではないものの、それでも充分に大きな声でユーシェは言った。  その言葉にどきりとした。教えを乞うということは……ユーシェは舞台へ立つために、勝負の条件を覆そうとしてる?  昼休みに彼女自身が「言葉でのアドバイスは技術を借りることに等しい」と言っていた。そしてルナ様が呈示した勝負の条件は「三人で作りあげること。こちらの人員は割かない」というものだ。  勝負の場に立つことすらできないよりも、ユーシェは純粋な勝利を捨てて、挑戦権だけでも得ようとした?  その覚悟に残念な思いと静止したい気持ちがないこともない。でもユーシェが自身がそれでもいいというのなら……。  僕はそう思った。僕の無念よりもユーシェの気持ちを優先してあげたい。  だけど何よりも真っ更な勝利と栄光に拘ったのは、むしろユーシェの方だった。 「私の……皆さんが思う私の良いところ……」 「私の長所だと思える点があれば教えていただきたいんです」 「長所……?」 「私の中にある、隠していても内から外へ溢れでる美点を知っていれば……そんなものがあれば、どうか教えていただけませんかっ……?」 「その……ゆっ、友人として……」  僕はてっきり、デザイン画をみんなに見てもらい、どうすれば良くなるかを聞くのかと思っていた。  だけどユーシェが求めたのは、もっと根源的な……己の美点を教えてもらうことで自信と輝きが増せば、それは作品の美しさにも表れるというプリミティブな発想。  だけど毎日デザイン画を書きつづけた結果、発想が行き詰まり、右も左もわからなくなったユーシェにとっては、心境にポジティブな変化をもたらすことは何よりも大きな道しるべとなりうるのかもしれない。  そのために直接的なアドバイスではなく、自分自身の良さを引き伸ばそうとしたユーシェの質問は、ルール違反には当たらないと僕も思う。あくまで日常の会話で起こりうる範囲だからだ。  でも、こんな真剣に自分の長所を聞くことなんて彼女はできただろうか?  それこそ話の流れで「僕のいいところ教えてよ」程度なら聞けるだろうけど、相手もそれに準じた答えになる。こんな青春の問いかけみたいな真似をするには、相当の勇気がいったはずだ。  プライドをかなぐり捨ててこんな教えを乞うことが、彼女にとってどれほど勇敢な行為なのかこの場にいる全員が知っている。  泣きそうになりながら頭を下げる今のユーシェを僕は何よりも美しいと感じた。  そしてそれは彼女たちにも伝わったのか―― 「ユーシェの長所? シジミのお味噌汁くれるところ」  ――いや伝わりきってなかった。ユーシェがなけなしの分を集めてありったけの勇気でぶつけた問いに、湊は雑談程度の回答を投げかえしてきた。  でもこの場で一番最初に答えてくれた湊の優しさは、ユーシェにとって何よりもありがたいことであっただろう。 「あとは自分の立場にすごくプライドを持ってるところ。そういうのって、えばるのは簡単だけど、ユーシェの場合は自信を持つための実力が裏打ちされてるから」 「ユーシェがとんでも綺麗なのだって、普段の努力あっての賜物だよね? そんなのよっぽど自分に厳しくしないとできないよ。私にはできないや」 「私はユーシェの友人思いなところが大好き。ユーシェはきっと裏切るなんて、発想自体がないんだろうなと思えるほど信じられる」 「クワルツ賞のときも、ルナの心配を心からしているのが伝わってきた。そんな誠意のあるひとを私は誰よりも好みます」 「そこで私の件を引き合いに出すか……こちらまで恥ずかしくなるだろう」 「そういう照れくさいの大好き。青春って気がして」  衒いなく、真心を込めて答えてくれる二人の友人に、ユーシェの顔に驚きが貼りつけられた。  それとも驚いているように見えて、単に感動してるだけかもしれない  そして友情に応えてくれる大きな愛情を抱えているのはこの人も同じだ。 「これは、私も答えていいものか? いや、何も気兼ねする必要はなかったな。いま交わしているのは、ただの雑談の延長だ」 「私はユーシェのまっすぐさを尊敬してるよ。馬鹿みたいなほど直線的に突っこんでくるそのまっすぐさは、私を助けてくれたこともあると告げておこう」 「私みたいにひねくれてしまったら手遅れだ。ユーシェにはその馬鹿みたいなまっすぐさを失わないで欲しい。ああ馬鹿みたいだが」 「うるさいです……ルナに馬鹿馬鹿言われる筋合いなんてありません、このばかっ……」  憎まれ口を叩くユーシェの声はとても優しかった。 「私はその郷土愛を大切にして欲しいと思います。自らの祖国を愛するその心は、大地への感謝を忘れた現代の人々に必要なものだからです」 「一発ギャグとして優秀なおめでたい頭(笑)」 「ううーん、長い間一緒にいるせいで今さら答えにくいのは確かかな……だけど、僕がお嬢様の美点を一つ挙げるとすれば、美しいところだよ。外見も中身もね」  自分の番を終えたサーシャさんは「さ」と僕のお尻を叩いてきた。  う、確かに言わなきゃいけない流れだけど、自分の恋人を誉めるのか。知ってるひとがいるこの環境だと恥ずかしいなあ……でも。 「――私は、ユルシュール様の負けず嫌いなところが大好きです」 「ライバルと競う為、一人の共のみを連れて海外で暮らせるという、強い生き方を選べるその心に私は何よりも憧れます」  その強さは昔の僕にはなかったものだから。今は、色々なひとを見習って、そうではないと願うけど。  全員の気持ちを聞いた僕の好きなひとは、恋人の言葉を守るためなのか精一杯の強がりをした。  瞳にたっぷりの涙を浮かべているのも関わらず、笑顔を作って僕たちに感謝した。 「ありがとう……これなら今の自分に生みだせる最高のデザインを描けそうです」  迷いが晴れた顔だった。これならできると確信を持たせてくれる表情を見せた。 「おいおいデザインの為に聞いたのか? だとすれば約束が違うだろう」 「違います……あなたたちがどれほど私のことを好きか、確かめたかっただけですっ」  ごしりと目元を擦り、涙を拭いたユーシェはもう前しか見ていなかった。 「全くみんなしてそれほど私のことを敬愛していたなんて……これも貴族として生まれた宿命ですから仕方ありませんね!」 「知っていると思うが、旧爵位で言えば瑞穂の方が上だという事実を忘れるなよ」 「ああ今すぐ頭の中の輝きを出力しなくては! 体を磨いたらすぐにでもデザインを始めたいので失礼します。皆さんごきげんよう。Salut!」  ユーシェはぱたぱたと駆けながら部屋へ戻っていった。  後で、お風呂に入った後くらいに訪ねてみようかな。その時には素晴らしいデザインが生まれてるかもしれない。 「先ほどユルシュール様の大きな声が聞こえたように思ったのですが、何かありましたか? 電話に出ていたので、すぐに来られませんでした、ごめんなさい」  そして八千代さんを除け者にしていたわけではないけれど、担任の先生の前で青春活劇を演じる羽目にならなくて良かった。今の会話を八千代さんに聞かれてたら、ルナ様や僕がにやにやした目で見られそう。 「すごくいいよ!」  日の変わる寸前、ユーシェの部屋を訪れた僕は、彼女のデザイン画を見て声をあげた。 「あ、やば……地声が出ちゃった。でも、うん、いいと思う」  わりと緊張しつつユーシェから受けとったデザイン画を見てみれば、何の心配もいらなかったんだと思わされる出来だった。  今まで積み重ねてきたものが、全て一つに合わさって良い部分だけを抽出したような……一枚だけでなく、どれも今までに見た一日の最も良かった作品と同程度のクオリティを保っていた。  やっぱり色々と行き詰っていただけで、ショーに出せるものを描けるだけの実力はあったんだ。心の持ち方を変えただけで、これほど生き生きと意欲に満ちた作品ができるとは思わなかった。  その中でも一際輝いていたデザインは、僕が選ぶとユーシェもこれにしたいとお互いの意見の一致するものだった。 「嬉しいです……良い作品を生みだせたこの感動を……この喜びを遊星さんと分かちあいたかったんです」 「今日の昼休みに、声を掛けてくれてありがとうございます。あの話しあいがなければ踏ん切りがつかなかったかもしれません」 「私に厳しくしてくれてありがとう……そしてその間にも、優しさをずっと感じていました。感謝しています、私の恋人は本当に素敵なひとです」 「なに言ってるの。これだけ素敵なデザインを描いたユーシェはもっと素敵だよ」 「もうっ。いい加減、我慢の限界です!」  ユーシェは飛びつくように抱きついてきた。この遠慮のない大胆さは、日本人だと中々踏みこめない感覚じゃないかと思う。 「ああ……愛しい。たまらなく愛しいです。今日のような喜びがあれば、私は何度でも良いデザインを目指せる気がします」 「思えば、七月に遊星さんがデザインを見始めてくれたときからそうでした」 「遊星さんが私の良い部分を伸ばそうと懸命にアドバイスしてくれるから、楽しめて、すっきりとして、頭の中が澄んだようになり、納得できるデザインが生まれたのでした」 「私、誉められて伸びる子なんですね。これからは、もっとたくさん誉めてください」 「でもここまで毎日、辛い思いをしながらデザインをし続けたことも、最高の一枚を完成させるためのパーツになっているんだと思うよ?」 「ということは、ユーシェは何日も辛い思いをした分を溜めて、最後に誉めると、我慢した分だけ良いデザインを生みだせるのかも」 「そ、そんなの嫌です。意地悪を言わないでほしいです」 「うん。ごめん」  だけど本音を言えば、自分の言ったことはあながち間違ってないと思っていた。  負の足し算を溜めて溜めて、最後に一度マイナスを掛け算すれば、それまでのエネルギーがぼんとプラスになって……みたいな。  その辺は芸術家っぽいのかもしれない。ユーシェは万が一デザインが駄目なら陶芸をやったりすれば花開くのかも。 「はあ……ルナたちや、クラスの心当たりがあるひとには、謝らないといけませんね」 「そうだね。もしそれで中々許してもらえなかったとしても根気よく頑張ろう。中々許してもらえずに辛い思いをしたら、慰めてあげるから」 「はい。ありがとうございます。こんなに頼りになるひとと共に歩めて幸せです……」 「ああ……なんだか恍惚感にも似た喜びが弾けて……」 「とても体が熱いです。これはその、今日はこれから……とても情熱的な……」 「あ、そうだ。今日はこれから型紙引かないと、ただでさえ遅れてるんだし」  僕が自分の使命に燃えて立ちあがると、ユーシェはぽかんとした顔をした。 「ユーシェはありがとうって何度も言ってくれたけど、感謝してもらうのはこれからだよ。このデザインを最高に生かせる型紙を引くね」  僕の責任は重大だ。時間は一ヵ月半しかない。  その為には今日からでも挑もう。すぐにでも始めたい。 「食事を終えてすぐに部屋へ向かったユーシェの気持ちがわかったよ。僕も頑張る」  何しろ今度は、僕が型紙を引きおえるまではユーシェが作業に入れないんだ。  待たせないようにするから共に頑張ろう。そう思って視線を向けた恋人は、なんだか口を尖らせていた。 「ユーシェ?」 「恋人らしい空気も欲しかったのに……」 「えっ? あ……ごめん」 「でも私の衣装の為ですし、すぐにでも取りかかりたい気持ちはわかりますから、責められません」 「でも本当に嬉しかった後だから、今日こそ遊星さんと……全てを忘れてしまうほどの我を忘れた夢中さで求められると思ったんです」 「遊星さんに触れられたり……し、舌で触れてもらったり、私を弄んでもらったり……さ、最後には好きにされたいと思ったりも……したんです」 「こんなに身体が熱くなっているなら、恥ずかしいことをされても……私」  それはつまり、以前失敗した初めてを……ってこと?  なんだか目を合わせにくくなって、僕もユーシェもお互いに目を逸らした。  これは彼女の勇気を汲むなら、こちらからお願いすべきことなのかな……。 「ユーシェ」 「はい」 「今日はこのデザインを仕上げてくれたんだから、ユーシェの願いを何だって聞いてあげたい」 「――!!」 「そこまで言ってくれるなら僕は……」  君のことを愛してあげたい。柔らかく、そっと彼女の頬に触れた。 「お嬢様が良いデザインを描けそうと言っていたから、乾杯のために飲み物いっぱい買ってきたわよ!」 「ただ、三連休とは言え、羽目を外しすぎちゃ駄目よ? 私たちはこれから衣装製作をするんだから」  僕は咄嗟に手を引っこめていた。いくらサーシャさんが味方だからと言って、さすがに目の前で愛の睦言を囁きあうのは恥ずかしいというより辛い。 「女に、恥をっ、かかせないでっ、いただきたいですわっ!」 「えっ、なに!? なに? なんなの!? なんでお嬢様が私のレイピアを振りまわしてんのっ!?」  うーん、ユーシェもすごい告白をしてたし、僕もその気になろうとしたし、彼女が怒るのも無理ないのかも。  サーシャさんは全然悪くないけど、しばらくは好きにさせてあげよう。こんなに楽しそうなユーシェの笑顔は久しぶりだし。  その日は遅くまで話しこんでしまった。でも部屋へ戻ると同時に、僕は戦闘を開始した。よし、間に合わせるぞ! 「おはようございます、ルナ様。そろそろ登校のお時間です」 「ああ、もうそんな時間か。やはり朝から刺繍はよくないな。入りこめそうになった矢先に現実に引きもどされて不完全燃焼だ」 「さすがルナ様、刺繍もお上手ですね。今度ぜひご一緒したいです」 「大丈夫か……私はユーシェをからかうのは好きだし、色々な分野で競うあうことは大好きだが、恋愛面で嫉妬されるのだけは自分に経験がないから非常に困る」 「いえあの、ユーシェは二人で話していても嫉妬はしませんよ?」 「それは相手を信頼しているという名目の無神経にもなりかねないぞ? たとえば自分に置きかえてみたらどうだ」 「ユーシェが他の女性と楽しげに言葉を交わしていたとすれば君はどう思う?」 「微笑ましいと思います」  女性同士で会話してるだけですから。 「まあこういう類のものは、概して自分の目で見るまで事の重大さに気付けないだろうしな。君も自分だけが特別だと思わない方がいい」 「はい、気を付けます」  女性相手ならなんの問題もないけど、とりあえず肯定の返事をしておいた。 「よし。それはいいとして……君、そろそろユーシェの衣装の型紙を終えて、縫製まで入ってるみたいじゃないか」 「はい。大変楽しみながら続けています。恐縮ですが、ルナ様のものより良い衣装を仕上げるつもりでいます」 「そうでないと張りあいがないからな。楽しみにしてるよ」  ここまでお膳立てまでしていただき、ありがとうございます、お優しいルナ様。  ただここまでだ。衣装に関して、ルナ様は譲ったり手を抜いたりはしないだろう。つまりここからは本当の意味での真剣勝負だ。 「さて、二体出す以上、観客の目に平等な映り方をする演出を考えなければいけないな。今日の昼休みにでも、ユーシェも交えて全員で話すか」  演出かあ……最近はまた、めっきりと明るくなったユーシェだから、ルナ様と喧嘩になりそうだ。 「私はポコポコした電子音が好きなんだ。ユーシェの選ぶ曲はエレクトロニカじゃない、テクノだ」 「いますね、何でもテクノにしたがるひと。音の違いがわかっていない証拠です。区別が付いてないのは日本だけで、音楽本場ヨーロッパではジャンル分けがはっきりされています」 「えー……これどっちもあんまり区別つかない。てかずっと同じとこ繰りかえしてるだけだし……サビは? Aメロとかは? 歌とかないの?」 「ああ……日本人はAメロBメロサビの定型パターンが好きだな。だけどそれがない音楽もあるんだよ湊」 「思い切って日本のポップスとかどう?」 「もっとアンビエント寄りのものがいい」 「ルナの選ぶ曲は本場ヨーロッパに済む私には合いません。皆さん、私の方が最先端です。私の選ぶ曲を使っておけば間違いはありません」 「それなら同じくらい間違いのない、ジャパニーズポップスがいいと思う」 「ユーシェが持ってくる曲はどれも余計な音が入りすぎていてうるさい。あとボーカルなんてもちろん不用だ。そんなに声が欲しいなら、ユーシェがマイクを持って一人で歌っていればいいんだ」 「ムキー! なんですって!」  ああ……ユーシェ、ムキーって口で言うのは直らないのかな  やっぱりこの二人は喧嘩し始めたけど、それだけ仲がいいみたいだ。音楽に罪はないと言って、お互いのお気に入り曲を交換し合っていた。 「私のジャパニーズポップスも誰か曲を交換しない?」  誰も名乗り出ない。その分野については、ルナ様もユーシェも自ら入っていこうとはしなかった。 「最近はまた素敵な曲が一段と増えて……あ」 「お食事中に失礼します。少し気になったことがあったもので」 「山吹教諭。いや、この場所なら八千代と呼んだ方がいいか?」 「どちらでも構いません。それよりルナ様、大切なご相談が」 「ん? 周りにひとがいてもいい話なのか?」 「はい。というよりここにいる全員に関係することです」  それまで楽しげに笑顔を浮かべていたひとも、八千代さんの真顔を崩さない様子を見て、徐々に顔付きを引きしめていった。 「確かこのグループは『朝日班』という名前だったと思いますが」 「はい。恥ずかしながら、そう決められてしまいました」  なんて自虐気味に愛想笑いを浮かべて空気を和ませようかと思ったものの、八千代さんは全く調子を崩さずにじっとルナ様を見た。 「朝日班では衣装を二着用意しようとしていましたね?」 「ああ。まだ片方のデザイン画は提出していないが、私とユーシェ、二人の衣装を出そうと思っている。いまその演出について話しあっていたところだ」 「ルナ様。その件ですが、ルールを変えられました」 「ルール?」 「学院長から直々の指示がありました。ショーに出す衣装は、一つの班につきモデルは一人までとのことです」 「えっ!?」  僕も驚いたけど、それより大きな反応をしたのはユーシェだった。  大きな声を出してみんなの視線を集めたあと、眉間に大きな皺を作って八千代さんを見つめる。 「どういうことですか? そんな決まりはなかったはずでしょう!?」 「それが、先ほどやってきた学院長から突然そのように言われて、私たちも戸惑っているんです」 「ただ、今のところ二着以上出そうとしているグループは、私たちが把握している中には朝日班しかなく、他の先生方は反対する理由が特にないんです」 「学院長が強硬に出てしまうと、私も言いかえす理由に乏しく……」 「そんな……」  ルナ様かユーシェのどちらかを選ばねばならないとすれば、舞台へ立つ権利があるのはもちろんルナ様だ。元々がルナ様の予定だったし、衣装も既に完成してる。  ユーシェもそれはわかっているはずだし、そんなことでルナ様と争うつもりはないだろう。  絶望的な宣告だった。ルール自体を変えられてはどうしようもない。大前提が通用しないことになる。  文化祭から僕とユーシェのやってきたことが、全て茶番になってしまったような酷い話だった。  本人も意識していないのか、ユーシェは膝を付いてしまっていた。力が入らないのか、そのままぺたんと尻餅をついた格好になる。 「ユーシェ、大丈夫!?」 「学院長代理はここへ来ているんだな? 八千代、案内しろ。私が交渉しに行ってやる」 「朝日は……」 「えっ」  学院長。つまり兄の前に僕が?  問われるまでもなくそれは無理だ。兄に正体がバレてしまえば、フィリコレどころかその日を待たずして退学になる。  だからと言って、こんな時に何もできないのは……。 「朝日、心配するな。君があの男に恐怖を覚えてしまうのはわかっている」 「私が単独で話を付けてきてやる。行くぞ八千代」 「はい」  ルナ様は方針を定めると直ぐ様サロンから出ていった。相変わらず颯爽とした決断力だった。  それに対して、僕はまだ呆然としていた。困難を覚悟して、対策を練って、それでも進んできたけど、予想もしないところからの天災には太刀打ちのしようがなかった。  僕にできることは、落雷の一撃を受けたようにしゃがむユーシェを見て、学院長室へ飛びこみにいきたい本能を抑えることだけだった。 「すまない……!」  学院から戻ったきたルナ様の一言目は、現状を打開できなかった無念の謝罪だった。  昼休みが過ぎたあと、よほどショックが強かったのか、ユーシェはサーシャさんに付きそわれ、一人屋敷へ戻った。血の気の引いた顔は本人の意思を確認するまでもなく心配になるほど弱っていた。  ルナ様はユーシェが帰った後から教室へ戻り、難しい顔をして、放課後に再度交渉へ出向いた。  僕たちはユーシェの部屋でルナ様の帰りを待っていたけど、その結果が出たらしい。  当然、製作なんてできる状態じゃなかった。 「すまないってことは駄目なんだ? 向こうはなんて言ってた?」 「それが、まるで話が通じないんだ。私も驚いてる」  そう話すルナ様は、まるで未知のものでも見たかのような目をしながら交渉を思いだしていた。 「以前はもう少し、少なくともこちらの話は理解できる相手だと思っていたが……何を聞いても一点張りなんだ」 「『朝日班の班長を連れてこい』と。私が代表でいいと話しても『グループ名が朝日というならその本人を連れてこい』としか言わなかった」 「あまりに言葉が通じないから、八千代も話に参加して説得してもらったが駄目だった。とにかく『朝日という人間を呼べ』しか言わない。こちらが勝手に話を進めてもだ」 「挑発も交渉も何もかも通じなかった。とても取り引きができる相手とも思えなかった」  百戦錬磨のルナ様でも、言葉の通じない相手との交渉はできなかったらしい。  その異質さを思いだすかのように、あのルナ様が自分の腕を抱いて不気味がっていた。  手の打ち様がない状態に全員が戸惑っている。ただ、一つだけ打てる手があるのもみんなわかっていた。 「あの学院長は数日間、日本へ滞在するらしい」 「え?」 「昼の間は、しばらく学院長室にいるらしい。話があるならいつでも来いとこちらを拒否している風でもなかった」 「だが他の人間が行ったところで、私と同じことになるのは目に見えているだろう。つまり……」  そう。向こうの要求がそれである以上、他に解決策の思いつきようがない。 「私が行けばいいんですね」  僕の声にユーシェがびくりと身体を震わせた。事情を知っている湊も不安そうな目を向けてくれている。  でも、それしかないんだ。向こうが僕との対面を望んでいるなら、条件に乗って交渉するしかない。  名指しをしている以上、朝日という生徒になんらかの確信めいた悪意があるはずだ。  それもこのタイミング、この仕掛け方をしてきたということは、僕がユーシェの衣装を手伝っていることも知っていると考えていい。 「私も同行しよう」 「いえ……その、お気持ちは嬉しいのですが、自分で決着を付けようと思います」 「ん? もしかして、今まで脅えていたのは生理的なものだと思っていたが、君はあの学院長と因縁でもあるのか?」 「はい、あのひとを恐れています。今回の要求も、私を自分の目の前に引きだすためなのだと思います」 「酷い……」  瑞穂様が兄のやり様に不浄なものでも見るかのように嫌悪感を表した。 「きっと以前、朝日に交際を申しこみ、あなたがそれを断ったのでしょう?」  こんな時に勘違いも甚だしかった。 「ずっと避けられ続けてきたからって、朝日ともう一度会うためだけにそのような策を弄して……なんて卑怯で狡猾な真似をするんでしょう」 「好きな相手にちょっかいをかける……それがどれほど不快なことかわかっていないんだと思う。男性はすぐにそういう真似をするから」 「朝日、負けちゃ駄目だからね? 交際を要求されたりしたら、セクハラで訴えてしまいましょう。今の時代ならきっと戦える。負けないで」 「はい。ご心配いただきありがたく思います。お心遣いに感謝します」  瑞穂節にすっかり毒気を抜かれた僕は、兄に軽い同情すら覚えていた。こんなところで僕との交際を望んでいるという酷い扱いを受けているだなんて、夢にも思わないだろう。 「……まあ。これからどうするか、大体の方針は決まったな」  さすがにルナ様は瑞穂様の話を真に受けてはいないようで、今後の対応を考えてくれていた。 「君は今週中に学院長室を訪れ、あの男の要求がなんなのか聞いてこい。できるだけ早い方がいい。いつ状況が変わらないとも限らないからな」 「その要求の内容によって、私たちにできることがあれば協力は惜しまない。ただし独断はしないこと」 「どんな因縁があるかはわからないが、どうしても交渉の場に立つのが不可能だと感じた場合は遠慮なく言ってほしい。同行するのは構わない」 「はい。ありがとうございます」  その決定がされた時点で僕たちは解散した。兄と僕の仲が良好ではないことを知っている湊は、無理はしないでねと言ってくれた。ありがたい。  後で部屋へ戻ったら、りそなにも連絡しないといけないな。  後に残ったのは僕の恋人とその従者。  僕は明日、兄と会うつもりはなかった。ユーシェが一度落ちついた段階で話をしたかったからだ。  だけどベッドの上へ腰掛けている今のユーシェは、放課後の時よりも顔に生気が戻っていた。 「遊星さん……」 「え?」 「遊星さん。以前に聞いた話では、学院長はあなたのお兄さんなのでしょう?」 「うん」 「ということは……彼と顔を合わせれば、遊星さんがどうなってしまうのかはわかります」 「今回のショーは諦めましょう。遊星さんが学院からいなくなるよりもその方が良いです」  ユーシェは覚悟を決めているみたいだった。目を閉じて、首をゆっくりと横に振る。 「でも参加するために、ここまで努力してきたのに?」 「遊星さんとの学生生活には変えられません」 「この勝負に勝って、自信を取りもどすと言っていたのに」 「遊星さんが、この学院で学べなくなることの方が重要です」 「せっかく素晴らしいデザインが出来上がったのに」 「…………」  それだけは心残りだったらしい。ユーシェの表情が暗く曇った。 「本当は悔しいんだよね?」 「はい……」 「当然です……何度も悔しい思いをして、その度に励まされて、舞台上で挑める機会を経て……」 「デザインもあんなに苦労して、ようやく二人共が認めるものを用意できたのに……あんなに喜びあったのに……」 「それが全て、たった一瞬の出来事でなくなってしまうなんて……!」  両手で顔を覆うユーシェの頭を抱きしめる。背中の方で、そっとドアの閉まる音がした。 「僕もユーシェの為なら兄と戦う」 「名指しをされた時点で、正体がバレていることは覚悟したんだ。それならいま逃げても意味がないよ」 「ユーシェの喜びを叶えてあげたい。その為に戦うのは怖くないんだ」  より強く抱きしめる。腕の中の少女は、もう泣き声を隠そうとはしていなかった。 「勝って、二人で前に進もう」  ユーシェの泣き声は悔しさや悲しみから生まれたものじゃなかった。愛しいその頭が、何度も僕の言葉に頷いてくれた。 「失礼いたします。事前にお約束をいただきました小倉朝日です」 「入れ」  ここのところ、ずっと製作に掛かりきりだったから、放課後が訪れた頃は日が暮れていることに気付かなかった。  朱色の光が降りそそぐ中、お互いに顔を見て頷きあう。僕も緊張しているし、ユーシェの顔も固い。  だけどお互いの緊張を半分ずつ受けもてば、最初の一歩目を強く踏みだせる気がした。 「失礼します――」  学院長室の奥に座る兄は薄く笑いながら部屋へ入ってきた僕たちをまっすぐに見ていた。  そこに意外なものを見たという様子は少しもない。やはり僕が遊星だと知っていたんだ。 「――昨日、桜小路ルナ様が申しあげた件についてお話に伺いました……」 「クッ……」  久しぶりに見る兄の姿は嫌になるほど変わっていなかった。  この半年弱の間に、もしかしたら天変地異が怒って丸くなっていないか、なんて期待もしたけど、そうやすやすと奇跡は起こらないみたいだ。 「クハッ、クハハハハハ……」 「クァハ! クァハハハハハハハァ! 遊星! なんだそのみっともない格好は!」  遠目からだったり後ろ姿なら誤魔化せたかもしれないけれど、正面から向きあってしまえば隠すことなど不可能だった。 「クハァ……貴様が第一声でどう出るか楽しみにしていたが、まだ女を演じようとするとはな。やはり貴様は愚かなる弟だ、遊星」 「はい。私は兄の言うとおり愚か者です。ですからこのような行為も別段、恥と思わなくなりました」 「ほう?」 「たとえば私が大蔵遊星としての風体を整え、賢い真似をしてこの部屋を訪れたとしても、兄は私を小倉朝日ではないと追いだし、後日、今と同じ格好で表れる私を嗤い、二重に愉しむつもりであったでしょう」 「愚か者には愚か者の格好で充分です。このような姿でお話させていただくことをお許しください」 「なるほど、雌犬の子は自らの毛を斑に扮することで憐れみを誘い生きてきたか。嘲られるのも一つの才能なら、貴様の滑稽さは認めざるを得まいよ」  僕の髪の先から足の爪先までを兄の視線がなめていった。 「だが遊星、何らかの間違いであろうと、貴様にも大蔵の血が流れていることを思いだすと、その滑稽さを目の当たりにしていては身の毛が弥立つ。気色の悪い偽の髪の毛を今すぐ取れ」 「はい」  僕は兄の言葉に従いウィッグに手を当てた。 「…………」 「いや、やはりそのままでいろ。取る必要はない」 「は?」 「貴様はあの女に生き写しの如く容姿が似てきた。その姿は雌犬の哀れさを連想させる」 「大蔵の血族としてより、あの女の産みおとした生き物だと思えば、俺の不快さも多少は和らぐ」 「はい。かしこまりました」  兄の狙いはわからないけど、逆らう必要もないと思ったので、このままでいることにした。 「そういえば、りそなに電話が繋がりませんでしたが……」 「あの愚かなる妹の協力なしに、貴様がその格好で入学などできるわけがないだろう。貴様がここへ来るまで連絡ができないよう、携帯電話は取りあげてある」  なるほど……りそなは兄に相当責められたんだろうな。 「さて、貴様の供は二人か。この時点で驚いていないということは、貴様の性別は最初から知っていたということになるな。乳臭い子どもは取るに足らないが……」 「もう一人はおまえか……この学院にいるのは知っていたが、まさか愚かなる弟とつるんでいたとはな」 「…………」  え? 「サーシャさんは兄の知りあいだったんですか?」 「知りあいねえ……もうちょい深い関係よねえ? 他人の人生変えたくらいには」 「俺とおまえの間に利害で語られる以外の関係などを作るな」 「あの、それはどういう……」 「愚かなる弟よ。いま貴様と過去の話などするつもりはない」 「本題へ移る。その必要がなければここから出ていくといい」  兄とサーシャさんの関係は気になるけど、その話の間に自分の気勢が殺がれるのは僕としても本意じゃない。  改めて覚悟を決め、目の前の兄の顔を正面から見た。 「用件は一つです。ここにいるユルシュール=フルール=ジャンメールさんのショーへの参加を認めてください」 「うン? 誰が参加を認めないと言った? 当学院の生徒には、漏れなく平等な参加の機会を与えているはずだが?」 「僕たちの班は桜小路ルナさんの衣装をショーに出す予定です」 「あの女の作品か。楽しみにしている」 「はい。桜小路さんの作品は、この学院のショーを大いに盛りあげてくれると思います」 「ですが、それに劣らずここにいる彼女の作品も素晴らしいデザインです。どうか同時に参加を認めてもらえないでしょうか」 「それは俺の関知するところではないな。貴様たちが内輪で決めればいいことだ。今回のショーに参加できるのは、どちらか一つだ」 「一着に限定することの意味が感じられません。複数の衣装を舞台に出して、何の問題があるのでしょうか」 「それは学院長の俺が決めるべきことで、貴様が口を出すことではない……が、あえて答えてやるとすれば、自分たちの衣装の中で一番良いと思えるコーディネートの力を見る為だ」  たとえ思いつきでも、学院長である兄にある程度まっとうな理由を付けられては反論のしようがない。 「今回のコレクションの規定が渡されたときには存在しないルールでした」 「最初からその条項が規定に盛りこまれていれば、桜小路さんとジャンメールさんは別の班として参加していたかもしれません。これは学院側のミスではないでしょうか?」 「貴様たちの目的は舞台へ上がることか? 一番優れた衣装をショーに出したいというのなら、最初から貴様の班員全員が納得するデザインをこの女が描けば良かっただけの話だ」 「先ほども言ったが、それは貴様たちが内輪で決められるレベルの話だ。こちらが規定を変える必要はない」  わかってはいたけど、兄は僕の考える理責め程度には「学院長」という権限を盾にした無茶な反論を幾つも用意していた。  このまま僅かな理を探したところで、兄が認める気配はない。 「それと遊星、どうやら大切なことを忘れているようだが、貴様は当学院に『女性』として登録されている」 「この重大な違反を桜小路は知っているのか? ショーへの参加が一着二着などという問題ではない。場合によっては貴様らの参加取り消し、桜小路への罰則も考えられる」 「むろん貴様の退学は前提だがな。その上にどれだけ負荷を付けるかという話だ」 「そんな!」  ユーシェが悲鳴をあげた。自分が参加するしないの問題が、こんな話に発展するとは思っていなかったんだろう。 「たとえ罰則があったとしても、それは私の起こした問題に関わることであって、あなたが気にかけることではありません」 「ですが、遊星さんが退学というだけで……」  明らかに親密な相手に向けられた今の表情と声を兄が聞き逃すはずもない。彼はニヤリと頬を歪ませた。 「ほう? 貴様らは交際でもしていたのか?」 「なるほど、道理でよく躾たはずの貴様が、俺によく刃向かってみせるものだと思っていた。恋愛は人間を馬鹿にするというが、今の貴様たちが正にそうだ」 「変わんないわねえー。あんた言ってることが昔と同じじゃない。恋愛感情があるから人間は性に対して高尚でいられんのって前から言ってんでしょ」 「子孫繁栄の為だけにセックスすんなら動物でもできんのよ。あ、あんたできないっけ不能だから。じゃ、動物以下だわ」  喧嘩をしても不快な表情を見せないサーシャさんが、兄に対しては明らかに挑発的な態度をしてみせた。 「いま俺を挑発する意味はないと思うが?」 「や、挑発じゃなくて、これ本音垂れながしただけだから。メンゴメンゴ。お詫びにセックスしてやろうか? あんたの不能のソレ勃させてやるよ」 「クク、残念だが俺は、大蔵家の血統を守ること以外に性行為の理由を持たない」 「これだから不能は……」 「性行為には危険が付きまとう。得られる快感よりもデメリットの方が遥かに大きい。その結果がそこにいる雌犬の子だ」  兄らしい考え方だ。性欲を簡単に自制するだけの精神力をこのひとは持ちあわせている。 「快感を得たいだけなら、現代においては他にいくらでも方法がある。損得を考えれば、性行為や恋愛行為は時間的、金銭面、体力的な面でデメリットが多すぎる」 「恋愛が精神的に高尚だと? 損得を図ることのできない人間こそが、俺は下等だと思うがなクハハハハ」  兄は僕とユーシェを見比べて笑った。まるでいま正に性行為中の家畜を見るような目をしていた。 「では衣遠兄様。もしも彼女がショーへ出ることで、兄様にメリットが生ずるのであれば、参加を認めていただけるでしょうか」 「ん?」  兄の説に乗った上での発言。それは意外にも彼の興味を引くことができた。  珍しく兄の機嫌が良くなった。ちょうどいい話の流れだ。  勝負をかけるならいまだと思った。 「兄様は才能のない私が、過ぎた夢を持つことに腹を立てておいでです」 「その通りだ。屑は屑らしく身のほどを弁えろ、愚かなる弟よ」 「ではこれでいかがでしょう。彼女の衣装が最優秀賞を取れなかった場合は、私は兄の言うことに何でも従うことにいたします」 「それはメリットではないな。俺は元々そのつもりで貴様を日本へ連れてきたが、まるで役に立たないが故に愚かなる妹のお守りを任せた」 「だがそれすら満足にこなせなかった。そんな貴様が、俺の為に僅かでも役に立てると本気で思ったのか?」 「はい。今のままでは満足なお役には立てません」 「ですから再度教育を授けていただき、お役に立てるようになるまでは幼年時代を過ごした屋根裏部屋にて自活して暮らしたいと思います」 「ほう……」  兄の目に興味が湧いたようだった。 「ショーへの参加を認めていただけるのであれば、大人しく実家へ戻ります」 「そうすれば兄の目に付くこともなく、そのお心を煩わせることもなく、ただ大蔵家の為に尽くせるかと思います」 「それはどういうことですか? 負ければ遊星さんと私が二度と会えないということですか? そんな条件を付けるくらいなら、私はショーに出なくても構いません!」 「たとえ退学になろうと、他に参加できる賞やコンテストはいくらでもあります。今回に拘る必要はありません」  兄は焦るユーシェの姿を愉しそうに見ていた。学生なりに悩み苦しんでいる僕たちという見世物に、彼は興味を持ってくれているようだ。 「この女はこう言っているが、どうする遊星?」 「説得します。今すぐには無理かもしれませんが、これからよく話しあいます」 「ふン……だが、貴様の言葉だけでは不安が残るな。俺は貴様もその乳臭い女も信用していない」  兄はしばらく考えた。そして彼なりの理論が完成したみたいだ。 「ならばこの女が条件を飲みたくなるようにしてやろう」 「自ら明かしてしまった場合に責任は取らないが、もし最優秀賞を本当に取れるのであれば、在学中の三年間は女として遊星を扱ってやる」 「……え?」 「女子校に男をメイドとして登録した桜小路の責任も問わない」 「それがこの女の一番の望みだろう? この男と卒業までいられるのなら、条件として悪くないはずだ」  これには少し僕も驚いた。せいぜいがショーまでの間は在学を認める程度の話だと思っていたのに。 「随分と破格の条件ですが……」 「桜小路の衣装より優れているものを作れると言ったな? それだけの才能が本当にあるのなら、この女は俺が期待していないのとは裏腹に、人類の宝ということになる」  兄の才能至上主義は、たとえ現段階で見下している相手でも、可能性があればその対応は寛大だった。 「それと遊星、貴様の才能ももう一度だけ試してやる」 「衣装製作に参加するのは、貴様たち二人のみだ。他の人間の協力は認めない。その上で最優秀賞が取れるのであれば、貴様にも才能があるということになる」 「二人……サーシャさんの参加は認められませんか」 「そいつはスタンレーが独立し、今のような名声を得るまで、毎日が修羅場だった《始まりの二年間》を支えた〈伝説の七人〉《スタッフ》の一人だ」 「え!?」  僕の憧れのジャンの下で働いてた? それも最古参のスタッフの一人だったって……。 「一人でも実力が高すぎる。従って二人で製作を行ってもらう。これが条件のひとつだ」  聞きたいことが増えたけど、兄はサーシャさんのことは些細な問題であるかのように話を進めた。確かに今はそれどころじゃないんだけど……。 「もうひとつの条件は桜小路が全く手を抜かないこと。俺が明らかにクワルツ賞の時よりも劣っているものを製作したと判断した場合は無効だ」 「それは問題ありません。彼女の衣装は完成しています」 「ならば近々確かめに行くと桜小路に伝えておけ。縫製の出来が悪い場合、俺が直々に指導を加えてやる」  それは贔屓に当たらないでしょうか。とは思ったけど、兄は思いの外ルナ様を気に入っているみたいなので、特に余計な口は出さずにおいた。 「最後の条件は……そうだな」 「遊星、貴様が敗れればどのみち故郷へ送りとどけることになる」 「はい」 「万が一にも日本に未練が残らないよう、貴様の性別は全校生徒に明かす……そうだな、貴様の肛門に経文を突きさし、全裸で校門の前に縛りつけ胸に『女の格好をしていました』と書いて晒してやる」 「ええっ!?」 「警察に捕まった際は『個人的な趣味だ』と答えろ。これが最後の条件だ」 「そ、その条件は、あまりお兄様にメリットがないと判断しますが?」 「そこの愛し愛される女の前で、貴様が無様を晒す。これ以上の愉しみはそうそうない。俺は大蔵家の血を引きながら才能のない貴様が反吐が出るほど嫌いだ」  とうとうはっきり言われた……そうでもなければ、そもそもこんなちょっかいはかけてこなかっただろうけど。 「はっ。メリットデメリット言ってるあんたも感情で動いてんじゃない」 「その通り。この愚かなる弟の存在は、自らの恥部とでも言うべき汚点だ。この俺の唯一の弱点と言っていい。それ故に視界から消しさりたい」  何か言える立場ではないけど、兄にここまではっきり嫌われると少しだけ胸が苦しい。無能な弟でごめんなさい。 「貴様たちが勝てば、俺は二つの才能の原石を見つけたことになる。もし敗れれば、遊星、貴様を俺の視界から排除できる。俺にはメリットしかないな」 「いいだろう。この条件で納得するのなら、この俺の特別推薦枠という名目で貴様たち二人の参加を認めてやる」 「はい。私はそれで構いません」  ルナ様と別枠の方が、勝敗がはっきりとわかりやすい。 「本当にいいんだな? 俺は審査員の一人で、確実に桜小路を支持すると思うが、それでも構わないな?」 「はい」 「ならば後は、そこの女が納得するかだな」 「…………」  ユーシェは黙りこんでしまっていた。  僕と離れ離れになることはありえない。だけど三年間を共に過ごせることが一番の理想だ。  兄と僕がユーシェを置いて話を進めていくから、少し考えつかれてしまったのかもしれない。 「貴様が納得しないのであれば、この男は退学処分になり、行く宛はなしだ。ジャンメール家で抱えるつもりかも知れないが……貴様たちが交際していることを俺からジャンメール伯に伝えてやる」 「やめて!」  ユーシェの目が見開いた。大切な娘と勝手に付きあい始めた帰る宛のない男を住まわせてくれる家があるとは思えない。 「そんな……ことはやめて」 「ふン。貴様には才能の可能性があるという。ならば手は出さずにいてやる」 「ただし貴様自信が無能の類ならば、遊星との関係など破綻させてやる。無能な人間同士が新たなる無能な人類を生みだすなどこの世の癌だ」 「ああ……どうしてこんなことに」  兄との対談は終わった。残ったものは大きな希望と圧倒的な絶望。  弱り切ったユーシェを支えるのに僕は必死だった。  だけど二人きりで話せば、きっと安心させてあげられる。むしろ絶望はいま乗りきったんだと僕は信じていた。  兄との対談が終わった僕とサーシャさんは、ユーシェを連れて屋敷へ戻るつもりだった。  でもできなかった。ユーシェが完全に意気消沈して、ろくに歩けないほどだった。  このままじゃみんなに報告もできない。止むを得ず、少し休んでから屋敷へ戻ることにした。 「ユーシェ大丈夫? ごめん、こんなに辛そうな思いをさせるとは思わなかった」 「お嬢様、水を。さ、鼻を開けて」 「サーシャさん、無理です。今のユーシェにはツッコミも入れることはできません」 「お嬢様、水を。さ、下の口を開けて」  下ネタは苦手なので口にはしませんが、突っこまれる方も無理です……。  サーシャさんは何度か主人を笑わせようとしたけど、ソファーにぐったりと体を預けたユーシェは反応すらしなかった。  その隣へ座り手を握る。あまりに無反応だから少し心配してたけど、肌に触れると柔らかく、とても温かかったから、ほっと安心することができた。  しばらく握りつづけていたら、ようやくむくりと頭を上げた。だけどその表情は、普段と比べてあまりにも暗いものだった。 「私……」  声にも覇気がない。どこかぼんやりとしている。 「何か悪いことをしたんでしょうか」 「自分でもついキツいことを言ってしまったり、カッとなったりする性格なのは知っています。でも直そうとしてきましたし、普段はひとには親切に接するようにしてきたつもりです」 「デザインに対しても努力をしてきましたし、誓ってズルはしていないつもりです。真面目にやっていれば、いつか報われると信じて……」 「なのにどうして、せっかく描いたデザインのために、愛しいひとと離れ離れにされなければならないんですか……?」 「大好きなひとと、喜びを分かちあいたかっただけなのに……私の好きなひとと……」  ユーシェは今にも子どものように泣きだしてしまいそうだった。 「誰かに勝とうとするからいけないんでしょうか……ひとに勝ちたいと思うから……」 「違うよユーシェ。聞いて。ユーシェは何も悪いことをしてないから」 「じゃあどうしてこんな目に合うんですか? 私は遊星さんと一�にいたいです。離れたくないんです」 「二人でデザインをして過ごせるなら、大きな企業や独立したデザイナーじゃなくても構いません……実力に合った生活で構いません」 「遊星さんが私のデザインを笑いながら誉めてくれる毎日を過ごせるなら、小さな洋品店でいいんです……」 「ユーシェには才能があるんだから、そんなこと言わないで。弱気になる時は誰でもあると思うけど、そんな言葉を口に出しちゃ駄目だよ。というより」  ユーシェの体に触れていない方の手で彼女の顎を持ちあげた。その蒼い瞳に正面から目を合わせる。 「というよりごめん。僕はショーの結果が最優秀賞を取っても取れなくても、ユーシェから離れるつもりはないんだ」 「え?」 「学院長室へ入る前に話せば良かった。ごめんね驚かせて。こんなに落ちこむとは思わなかった」 「いやこの場合、そこまでショックを受けてくれてありがとうかな? ユーシェが納得しないとしても、もっと怒る方に感情が向かうと思ってたから」 「ごめんね、僕は自分の兄を騙したんだ。最優秀賞を取ったらもちろん約束は守ってもらうけど、取れなかったときは逃げちゃおうと思って」 「はっ?」  ユーシェの目がぱちくりと開いた。 「別に放逐されても死ぬわけじゃないし、それをきっかけにお仕事を見つけて一人で暮らそうかなって」 「兄さまも怖い人みたいに血眼になって追いかけてくるわけじゃないだろうし、彼の生活範囲に近付かなければ大丈夫だと思うんだよね」  ユーシェの口があんぐりと開いた。 「ちょっと甘えちゃうけど、交通費さえあればスイスへ行っても構わないし……英、仏、独語は使えるから暮らすのには困らないと思うんだ。その、仕事もちょっとは自信あるから」 「ルナ様には事情を話して許してもらわないといけないけどね。でもあのひとは優しいから、一度目は駄目でも何度も謝ればいつか許してくれるんじゃないかと思う」 「ルナ様に許してもらえたなら、僕を解雇して、絶縁してもらえばいい。兄は彼女のことを気に入ってるし、彼女自身が僕に黙された被害者であれば危害を加えたりはしないよ」 「あとはユーシェに対して兄がちょっかいを掛けてくることだけが不安だけど、僕はジャンメール家に仕えてるわけじゃないから、兄にはユーシェを表立って責められる理由がないんだ」 「離れたくないとユーシェが言ってくれるなら、密に連絡を取りあって二人で乗りきろう」 「だからユーシェと離れ離れになることなんてないよ。大丈夫」  握っているユーシェの手が震えていた。わなわなと震えていた。 「だけど学院を辞めさせられた後は一人で暮らせても、ショーに参加できるかできないかは兄さまの気持ちひとつでしょ?」 「だからそれだけは認めてもらわないといけなかった。逆にそれさえ認めてもらっちゃえば、後のことは適当でも良かったんだ。生きてればなんとなるよ」 「じゃあどうして……ショーにそこまで拘ったんです? 別に無理して参加しなくても……」 「だって兄さまに僕の正体がバレてると気付いた時点で、あのひとが僕を退学にするのは決定事項だと思ったから」 「それならいっそのこと、ショーが終わるまで延命させてもらった方がいいと思ったんだ。一ヵ月分、多く学院にいられるなら……」 「まさか、最優秀賞を取ったら三年間認めてもらえるっていうのは、想像してなかったけどね。ラッキーだったね」 「遊星さん……」 「それにどうせ退学になるなら、やっぱりショーには参加して思い出にしたいし……」 「遊星さん」 「えっ?」 「もう!」  握ってない方の手がぶんと振りあげられた。思わずおどけて体を丸めてみせる。 「どうして言ってくれなかったんですか! もう! もうっ!」  ぽかぽかと頭を叩かれた。明らかにじゃれついている強さで、全然痛くない。 「『故郷の屋根裏部屋』とか『負けたらもう会えない』なんて言うから、本気で心配したんです、ひどいです!」 「ごめん。あんなに落ちこむなんて思ってなかったから。でも言われてみれば、最近のユーシェは弱ってばかりだから、気付いてあげるべきだったかも」 「誰が弱ってばかりなんです?」 「デザインの締め切りのときとかー……今日とか?」 「う……だって……」 「最近はもう強気だったころよりも、弱気な顔のユーシェばっかり浮かんでくるようになっちゃった」 「もうっ、仕方なかったんです!」  とうとうがばりと被さってきて、抱きつくような形でそのまま押したおされた。ソファーの上で仰向けになる。 「『遊星さんと会えなくなる』なんて言われたら、落ちこむに決まってるじゃないですか。今はもう毎日恋で胸を締めつけられて、好きで好きで愛しくて、仕方ない時期なんですよ?」 「あ、でも実は、僕も兄さまも故郷へ行くと言っただけで、会えなくなるなんて言ってなかったりするんだよ」 「むううううぅうきいいいいいいいぃー」 「あああやめてくすぐらないで。ひゃっ、あはっ、あははっ」 「うう……本当に、本気でいなくなると思って……お父様に逆らって、駆け落ちしてでも一緒にいようと思ってたのに」 「あ、そういえば、暮らすのは小さい洋品店でもいいなんて言ってたような?」 「やっ」 「あれ嬉しかったなあ。僕もそういう素朴で夢のある生活にも憧れる。ちょっと大げさだったけどね」 「ばかですわひどいですわ! もうもうもう! もうもう!」  ユーシェは牛のようにモウモウ言いながら、僕の胸に体を押しつけてきた。 「あはは」 「おっ、お詫びとしてキスが欲しいです。キス。してくれないと私からします。いっぱいキスしてください」 「キス。キスです。キスしたいです。キスしてください。キス」 「あ、うん……だけどそろそろ気付いた方がいいかも。サーシャさんがずっと見てる」 「若いっていいわねえ。和解しただけに」  急に老けこんだように見えたサーシャさんは、サロンに残っていた湊の土山茶をずずずと啜っていた。 「アジャーリ餅がまた、お茶に合っておいしいわあ」 「サーシャならいいです。それよりまだお詫びのキスをいただいてません」 「あの、サーシャさんの前では、まだこんなに甘えられたことなかったはずだよ。やっぱり人前は良くないよ」 「う……」 「まだ学校の中だし、後で部屋へ戻ったら」 「わかりました。約束ですからね?」  ユーシェがようやく僕の上からどいてくれた。あんなに沈んでたのに回復するのは一瞬だなんて、げに恐ろしきは乙女心の気がする。  だけどこの上げ幅と下げ幅が、兄さまの言うところの恋愛感情の無駄なところなんだろうな。確かに生産性を考えたら、上がってるときの幅を考えても、下がってるときが悪すぎるかも。  なんて考えてしまう僕は、やっぱり兄さまと同じ血が流れてるのかな、と思ってちょっとだけ嬉しかった。 「じゃ、戻りましょうか?」  土山茶二杯目に入っていたサーシャさんは、まだおばあちゃんらしい挙動でのっそりと動きはじめた。 「あ、待ってください、その前に……そのお茶を飲みおえるまでで良いので、サーシャさんからも話を聞かせてもらえませんか?」 「私に? あらなあに?」 「兄とのことです。知りあいみたいでしたけど、どんな関係があるんですか?」 「あら、それは私も気になってました。サーシャはあまり自分の過去を話さないから……スタンレーのアトリエにいたというのは知ってましたけど」 「あらあら、おばちゃんの過去なんて聞いてもつまらないわよ」  そう言いつつも、サーシャさんはこぽぽとふたり分のお茶を注いでくれた。アジャーリ餅という瑞穂様のお土産のお菓子付き。 「では主人の私からお願いします。何があったか知りたいです」 「んー……まあ細かい人間関係ははしょって核心だけ先に話しちゃうと、私ってジャンのことが好きだったのね」 「えっ」 「あら」  あまりに自然な話し方だから、違和感みたいなものが全くなかった。そうなんだ、ジャンのことを……。 「ジャンとは結構小さい頃からの付きあいでね? 私は小さい頃から女の子の格好してた時が多かったから、家族にも近所の子からも馬鹿にされたり、嫌がられたりしたんだけど、ジャンだけは違ったのよ」 「あのひと適当だから、性別なんて本人が男か女か決めれば体なんてどっちでもいいじゃん? 程度の気持ちだったんでしょうね」 「あ、わかります……僕はジャンのそういうところに憧れて」 「好きなひとが憧れ、なんて言われると、やっぱり嬉しいわあ」  好きなひと……ってことは、サーシャさんは今でもジャンのことが好きなんだ。 「で、まあー……彼が服飾の道へ進んで、私は彼の側にいたくて、何かの役に立ちたくて」 「思えば純粋だったんだろうなあ。見返りなんていらないと思ってたよ。独立するから手伝ってくれって言われたときは本気で感動した。本当に、側にいられればいいと思ってた」  あ、サーシャさんの言葉遣いが……男性っぽく。  少しの間、思い出に浸ったりしたいのかな。 「で、忙しい時間を駆けぬけて二年ー……みんなの努力の甲斐もあって、徐々にあのひとは認められはじめたんだけど」 「まあ有名になれば当然周りにひとは増えるんだよ。当然だよね。わかってたことだよ」 「でも当然、彼が私に避ける時間は減っていくわけでー……なんでだろうね。その頃には私なにやってんだろって思うようになってた。見返りなんて、一緒にいる時間なんて求めなかったはずなのに」 「ま、彼、モテたしね。側にいるのも側にいられないのも辛いなって思う時間が増えてきて、昔のようにひた走れなくなったわけ。その時から私が一番嫌いだったのがー……」 「あ、うちの兄ですか」 「ウィ。イオンはジャンの同級生だけど、別々の道を歩いて、同じ頃に同じ程度に有名になってたんだ」 「あの男の何がムカつくって、私たちの仕事の結果を見てはジャンにアドバイスすんの。ここが効率悪いとか、この衣装のデザインがよくないとか。他社の赤の他人がなんなのよとか思ってたよ」 「でももっとムカついたのは、あの男、ジャンの前だと笑うんだよ」 「ジャンの前だとフッツーに笑うの。普段は絶対笑わないのに。あ、本当の意味で友達なんだなー……とか思ってたら、ある日私のとこ来て言うわけよ。『おまえはジャンに恋愛感情を持っているのか?』って」 「『奴はこれから二年が大事な時期だから会える時間はさらに減る』って。『それが耐えられないのなら、ジャンの期待を裏切る前に出ていけ』とか言うの。ほとんど初対面だよ? 馬鹿じゃないの? って」 「兄が……そんな、余計なおせっかいを?」  するわけない、と思ってた。そういう人間関係の細かい心の機微を重要視しないひとだ。  それとも、重要視するからこそ、そういった可能性のある人間を排除して、確実な生産性を求めたんだろうか。 「でー、すんごいムカついたんだけど、実はソレ、私の核心突いちゃったんだよね。ずっと同じこと考えてた。ジャンの気を引くために、わざと大きなミスをしてやろうなんてことまで考えてた」 「や、もう泣いたね。一晩中泣いた。何が悔しかったって、十何年も側にいた私よか、ぽっと出のあの男の方が、ジャンのことを誠実に信頼してて、嫌われ役まで買って出てんのよ」 「ちょおおおおー嫉妬した。あの男の方が私よかジャンのこと好きなんじゃんって。それが何より悔しかった。結局見返りを求めてた私と違って、あの男はジャンに何も求めない掛け値なしの友人なのよ」 「で、次の日にジャンと話しあって、一晩中飲んだくれてお別れちゃんちゃん、ってワケ。おしまい」 「はあー……」  ごめんなさい。僕はいまサーシャさんの過去よりも、あの兄が友情という心を内側に宿していたという事実に驚愕しています。  しかもそんな、青臭い春みたいな真似を……この話を兄にしたらどうなるんだろう。だけどまだとても、聞いてみる勇気はない。 「ま、大分色んなトコはしょってあるけど、そんなことがあったのよ」 「それほど面白い話でもありませんでした。私と遊星さんの方が、よほどドラマチックな恋愛をしてます」 「ユーシェ……自分から聞いたのに」  むしろ僕はもっと兄の話を聞きたい。だけど女性言葉に戻ったサーシャさんはそれ以上語らず、くすくすと笑うだけだった。 「ま、そんなわけで今でもあの男は大嫌いなの。この学院のトップとして、入学式で再会したときはどうしてやろうかと思ったけど、ま、過去のことだしね。こっちが大人になって許してあげたわ」 「え? 今の話はサーシャが一方的に嫉妬していただけで、学院長代理は悪くないですよね? あら?」  人には色んな歴史があるなあ……もしもジャンと話す機会があれば、サーシャさんのことをどう思ってたのか聞いてみたい。  というわけでユーシェが立ち直ったから、屋敷へ戻ってきたものの、みんなへの報告もわりと問題だった。 「で、どうだった?」 「はい……とりあえず舞台へ出ることは認めてもらいました。学院長特別推薦枠ってことで……ユルシュール様の単独で枠をもらいました」 「ほう。それは重畳」 「で、あの男が何の条件もなしに認めるとは思えないが、何を引き換えにした。それと結局朝日はどうして目を付けられたんだ」  ですよね。  ルナ様には迷惑を掛けることになるかもしれないし、お屋敷を出る可能性もあるから打ちあけたいとは思っていた。  だけど勝てばこれまで通りでよく、負ければ男性だとせっかく許してもらってもお屋敷を出なければいけないわけだから、全て話すより黙っていた方がお互いの為だとユーシェと話しあった。  心に申し訳なさは残るけど、それは今までも同じだ。毒を食らわば皿まで、自分の勝手で話すよりも隠すなら隠しとおすことにした。  ただ問題は現実との辻褄合わせなわけで。 「ユルシュール様が負ければ、学院長とお食事をご一緒することになりました」  結果、瑞穂様の勘違いをそのまま使わせてもらうことにした。ごめんなさいお兄様。 「そんなことでいいのか……わりと単純だな、あの学院長。君はそれでいいのか」 「私は許せません。セクハラで訴えましょう」 「い、いえ、それでユルシュール様が参加できるのであれば、私は構いません」 「まあ、学院長権限を利用した不正は気になるが……私としても、ユーシェが〈単身〉《ピン》で舞台に立てるのなら、それはそれで楽しみだ」 「だがいいな? 私は絶対に手加減するつもりはない」 「構いません。そこでお互いの衣装を競わせましょう」 「わかった。では朝日、残り日数も少ないし、間に合わなかったということがないように全力を尽くせ」 「私もユーシェの衣装を楽しみにしている」 「はい」  僕が頭を下げ、報告は済んだ。あとは衣装を完成させるだけだ。  だけど部屋へ向かおうとした矢先、ユーシェがずいと前に出てルナ様の前に立った。 「ルナ」 「なんだ?」 「色々とありがとうございました」  ユーシェが頭を下げた。いま正にライバルだと認めている相手の前で。 「あなたが助けてくれなければ、私は自信も目標も持てず、二年生になるまで無為な日々を送っていたかもしれません」 「多くの人の前で、あなたと衣装を並べて競う舞台を用意してくれてありがとうございます」  ルナ様は少し目を丸くしてユーシェを見つめていた。それを見る湊と瑞穂様も。 「ですが、お礼は一度だけ。次は私が最優秀賞を取ったときに言います」 「『私の引き立て役になってくれてありがとう』と。それでいいですね?」 「ああかかってこい。私が絶対の勝者だということを教えてやる」  こうして見ていると、ユーシェはルナ様に出会えて本当に良かったと思う。  それで思い悩んだこともあっただろうけど、ルナ様がいたお陰でユーシェの成長は何倍も早くなったんじゃないかと思う。  近い実力を持った相手という存在は、生涯の宝物だと思った。それが友人ならなおさら。 「私に勝てるものなら、朝日を卒業後に連れていって学院長代理でも悔しがらせるといい……」 「えっ!」  瑞穂様が反応した。ルナ様も失言に気付いたらしく、口を手で覆っていた。 「どういうこと? 今回の舞台でルナに勝てば朝日を連れていってもいいの? 本当?」 「ああでも今年は参加できない……ルナ、来年も同じ条件でいいよね? でないと公平じゃないでしょう? ユーシェも、私に勝たないと認めないから」 「みんなごめんね、来年の私は違う班で参加することになると思う」  一人の天才に火が点いた。そういえば瑞穂様は、着物の方世界では同世代で一位になったひとだった。  その才能については実績によって疑う余地がないから、ルナ様もユーシェも、来年はもっと成長できるかもしれない。  ふう。  部屋へ戻って、ユーシェのサイズのボディに着せてある衣装を見る。まだ完成度は三割程度。  今日も製作を続けたい……でもちょっと疲れた。  ユーシェの心配ばかりしていたけど、あの兄と正面から話をするなんて初めての経験だった。  今まで口答えなんて許されなかったけど、今日はユーシェの為と思ったら駆け引きまですることになった。思いだすと、今さらのように心臓がばくばくする。  これがひとを好きになる力だとすれば、僕はユーシェを好きになれて良かった。  いま別れたばかりなのに、またすぐに会いたくなってきた。自分がそんな気持ちになるなんて、少し意外だ。  そんなに欲は強い方じゃないと思ってたんだけど……。  ん。  ノック……でもユーシェのこと考えてた矢先に、っていうのはタイミングが良すぎる。だけどもしかして?  そんな軽い期待を持ちつつ、ドアを開けた。 「あ……」 「ご、ごめんなさい、別れたばかりなのに。部屋へ戻る途中で、急に会いたくなってしまって」 「僕も。ちょうどいまユーシェに会いたいと思ってた」 「…………」  嬉しそうにしてる。少しはにかみながら頬を赤く染める彼女は、本当に純粋な女の子なんだなと思った。 「あ、この部屋、椅子が一つしかなくて。ベッドに座って話そう?」 「はい、失礼します」  二人で並んで布団の上に腰掛ける。お嬢様方の部屋のものに比べたら、それほど柔らかくないけど。  ほとんど肩を密着させてきたユーシェは、とても自然に手を重ねてきた。 「遊星さん……」 「ん?」 「その、お兄さんと話している時……」 「うん」 「とても堂々としていましたね」 「私は戸惑うだけでとても……一人だったら、簡単にやり込められていたと思います」 「あのひとが相手じゃ仕方ないよ。僕もずっと怖いと思ってたから」 「でも今回は、兄に立ちむかうきっかけになって良かったと思ってる」 「きっかけに?」 「うん。兄の下から離れてこのお屋敷へ来たけど、いつかはまた正面から話す日が来るのかなっていうのはずっと考えてたんだ」 「その時のことを考えると、どうしても兄と向きあって話す自分が想像できなくて、どうしようかずっと困ってた」 「だけど今回、ユーシェがいてくれたお陰で、自分のことだけじゃないと思ったら自然と強くなれた」 「私のお陰、ですか?」 「そう。自分だけじゃ自信が持てなかったけど、ユーシェと素敵な衣装を作ってるお陰で、これなら舞台に上がっても大丈夫だって思えることができたんだ」 「その自信さえあれば、あの兄と話すのも怖くなかったよ。だって絶対負けないと思ってるから、いざって時に引いたりすることがなくて、付けこまれることも脅えたりすることもなかった」 「負けたらどうしようって考えなくていいのは大きいよ。本当に諦めずに素晴らしいデザインを描いてくれてありがとう」 「遊星さん……そこまで言ってもらえて嬉しいけど……私だって」  手の握り方が変わる。指を絡めあい、親密になっていく。 「ルナには及ばないと思っていた私を励まして、応援して、力を引きのばしてくれたのは遊星さんです」 「何度も泣いていた私に自信を付けてくれたのが遊星さんです。一人で強がっていた頃のままでは、きっと視界が狭くなって、ルナと競うどころではありませんでした」 「私、彼女に勝ちたいです。勝って、遊星さんが信じてくれた衣装を認められたいです」 「いつか二人で話したように、才能で劣る私でも天才に勝てるんだと示したいです」 「うん、それもあったから、兄に負けたくないと思えたんだ」 「え?」 「ユーシェにとってルナが敵わないひとだったように、僕にとっては兄こそが劣等感を覚える対象だったから」 「僕たちが一人じゃ敵わなかった相手に、二人で少しずつ力を分けあえば手が届くんだってところを見たい」 「だから参加したかったんだ。僕の夢でもあるから努力が才能に勝つところを見てみたい」 「はい。私もこのままじゃ悔しいですから、ルナに勝ちたいです」  お互いの気持ちを話して微笑みあうと、ユーシェの目の端にうっすらと涙が滲んできた。蒼く深い、底の見えないような瞳が揺れる。 「あの……」 「うん」 「キスを……情熱的なキスをください」 「うん」  ユーシェの手が僕の頬に当たり、その瞳がそっと閉じていった。  情熱を伝えるために握っていた手を解き、彼女の体を強く抱きしめる。  ユーシェが何度も望んでいた口付けを交わした。  なのに不思議と彼女の涙は止まらなくなった。喜んでくれているはずなのに、ぽろぽろと大粒の涙を何度もこぼした。 「んっ……」 「ん……」  その涙がこぼれて僕の手に落ちたとき、とても温かかった。  こんなに温かいんだから、きっと彼女は幸せで泣いているんだと思うことができた。 「情熱的」と希望された以上、このままで終わらせるわけにもいかない。  というより僕自身、ユーシェとのキスは好きだ。求めたい気持ちもある。 「ん……」 「んっ」  自然と触れるだけのキスから、徐々にユーシェの唇の中まで舌が伸びていった。 「んんっ……」 「んむ……ちゅっ……」 「んっ……んん、ふっ……んむっ……ちゅっ」 「んむぅ……ふふっ、ん、むむっ……んーっ……」 「ん……」  キスしながら笑ってる。ユーシェが楽しそう。 「んふっ……ふふふっ」 「んふふふー……んふ、ちゅっ、れろっ、れろ……」 「はっ……んむ、はっ、んむぅ……んちゅ……」 「ちゅっ、れろっ、ん、はあっ……ん、んんっ……」  僕の頬に当てられた手が、愛しそうな動きでくすぐるように何度も撫でてくる。 「はっ、はあっ……んちゅ……はっ、ユーシェは、本当にキスが好きだね」 「はっ……ふうっ……あんまり、キスが好きではありませんか……?」 「ううん、大好き。だけどユーシェとこうしてたら、ちょっと怖いかも」 「怖い?」 「うん。ずっとこうしてたいような……ずるずる堕落しちゃいそうな気がする」 「ふふ、あの真面目なあなたをキスの虜にできるなんて、私の愛情がそれだけ強いと思ってもいいですか?」 「天使というか、小悪魔的というか……」 「私は惑わしているから悪い方です。あなたはとてもピュアですよ」 「ピュアって……」  褒め言葉? 「今もほら……キスから先へ進もうとしないし……何でも求めていいんですよ?」  ユーシェが僕の手を握り、彼女の胸へ誘った。 「あ……」  ユーシェの膨らみに僕の手がのった。しかも上から力を加えられたため、中へむにりと手が沈んだ。  ユーシェは大胆だけど……これも、うん、僕があまり積極的に進めないのが問題かもしれない。  女の子に頑張らせてばかりなのもどうかと思うし、恋人なのだから求められている空気のときは応える努力をしよう。  僕も恋愛は全てが初めてだから、どうしても辿たどしくはなってしまうと思うけど。 「んむ……」 「んんんっ……はむっ……んっ」  再び舌を求め、当てられた手には力を込めた。 「んっ……んっ、んふっ……ちゅう……はあっ……」  ユーシェの胸に確かな力を込めてしっかりと揉んでみる。彼女の息が大きく漏れた。 「はっ……んふぅ……ふっ、はあっ……」 「んっ、ふっ……はっ……ん……ちゅう……れろっ……はっ」  ゆっくり円を描くように胸の全体を捏ねてみる。  サイズが大きいから、感触がしっかりしてるというか……手の中の質感がとても魅力的だ。 「んむ、むぅ……ちゅっ、はっ、あむっ……はあっ、れろ……」 「れろぉ、れろっ……あむ、ちゅう……んむ、はっ……ん、むうっ……んっ」 「はあっ……うう、もっと……今日は、求めていただきたいです……」 「ん……」  こくりと頷くと、ユーシェの手は僕の首へ巻きつき確かな愛情の込められた力で抱きしめてきた。 「はっ……んむ、はあっ……ふっ……ん、むむっ……んっ」 「れろぉ……はあっ……あ、ふううっ……んむ、ちゅうぅ……れろ、ちゅっ……」 「んむうっ、れろっ、はっ、はあッ……れろぉ、れろれろ……ん、ごくっ……んむっ」  ユーシェの興奮がはっきりわかるレベルで増してきた。舌の動きがより激しくなり、僕の手に対する反応も大きい。  一応これでも前回の失敗の反省を生かして、ちょっとだけ勉強をした。  あくまで独学だから絶対に正しいとは言えないけど、メイドの先輩にも相談したりして、経験談などを聞かせてもらった。  立場が逆だから頭を使わなくちゃいけないところはあったものの、とてもタメになった。ちょっと食いつきすぎて引かれたりもしたけど。  ここで……前回、ユーシェへの気遣いが足りなかった部分を……。  僕は胸に触れているのは別の手を彼女の下半身へ伸ばした。 「んむっ……!?」  スカートの中へ差しこみ、下着へと手を伸ばす。その布地の上から二本の指を使ってマッサージをした。 「んんっ……! はっ、ぷはっ……そ、そんなっ……!?」  あ……すごく動揺してる。まだ早かったのかな……それとも嫌だった? 「よかった……私の体に興味を持ってもらえた……!」  ユーシェの動揺はもっと根源的な部分に端を発するものだった。 「う、うう……私の体には反応してもらえないと不安になっていたら、ようやく……!」 「えっと、ごめん。でも本当に、ユーシェが綺麗だからそういう気持ちになりにくいだけで、ちゃんとしてみたい気持ちはあるよ?」 「あと自分の方にも原因があって、この格好とか……せめてウィッグは外した方がいいのかなって」 「でもウィッグを取った状態で、女性物の制服を着ているのも嫌です」  ごもっともだね。 「さ、どうぞ。怖い気持ちもありますけど、今はそれよりも大事なときです。私の体を好きにしてください?」 「うん……」  これだけ素敵な体をしてる女性が「私の体に興味を持ってもらえて嬉しい」という反応をしたことは、自分にとても問題があることなんだと認識した。  でも今は他に優先するべきことがあるから、そっちに集中して……!  僕はユーシェの下着の中へ手を差しこみ、彼女の体内へ指を挿入した。 「あぐッ……!? いたあっ……!?」 「えっ」  悲鳴のような声が上がった。どうして。 「い、痛かった? 痛かったよね、ごめん!」 「い、いえ、この程度……た、ただ、そんな一気に指を入れてしまって、大切なものを指で失ってないかが怖いです……」  あああ僕はなにか失敗したんだろうか。先輩メイドの犬塚さんが「中で指を動かしてもらった方が気持ちいい」と言ってたのに。 「ど、どうぞ続きを……愛の為なら問題ありません……!」 「うんじゃあ……」  ユーシェの中で指を動かし、ぐにぐにと波打たせた。 「んくっ……激しっ……! ご、ごめんなさい、もう少しゆっくりで……」 「ご、ごめん!」  ごめんね……先輩メイドの上瀧さんが「男って出し入ればかり拘るけど、掻きまわしてもらった方が感じるんだよね」って言ってたから……。  きっと彼女たちは上級者だったんだ。初めてのユーシェに同じことをしてごめん……。 「で、でもっ……少し慣れてきたかもしれません……」 「えっ?」 「指が入っていることに……続けて、ください……」  ユーシェが健気なことを言ってくれている。  自分の不甲斐なさを恥じつつ、できるだけゆっくりと彼女の中で指を波打たせた。 「はっ……はっ、ふっ……ん、んくっ……」 「はあっ……ふっ、んっ、んんっ……! ん、い、いいです……きっと……ん、んうううっ……!」 「大丈夫? 痛かったら無理しないで」 「問題ありません……もっと続けて、ください……」 「うん……でも辛いときは言ってね、何か勘違いしたまま続けてたら怖いし……」 「い、いえ……この前とは進め方が違うので……勉強、してくれていたのかと……」 「私と結ばれるために努力をしてくれていたことが嬉しいので……痛みなんて感じません……」 「ユーシェ……」  そんなことに気付いてくれたんだ。じんわりと嬉しさが湧いてきて、彼女にもう一度しっかりとキスをした。 「んむ……んっ、ふうっ……んんっ、んっ、んんんっ……んうっ……」 「んっ、はあっ……んんっ……んっ! んっ、あっ……い、今の少しよかったです……んっ!」 「んんっ……んっ! んっ、はっ……あっ、ふうっ……んっ! ん、んくうっ!」  指を入れてから体を硬直させていたユーシェだったけど、徐々にその力が抜けてきた。  どころか僕に体を寄りそわせるように密着させてきた。 「はっ、はあっ、ふっ……んっ、くうっ……んっ!」 「ううっ……んんっ! んっ、はっ、ふあっ……あ、ああっ、んっ、やっ!」 「あ、ああっ……ううっ……あ、あの……んっ!」 「なに? まだ痛みがあったりする?」 「い、いえ逆です……だいぶ慣れてきたと思うので……」 「その、以前はできなかったことの続きを……」 「うん」  ユーシェが望むなら今がいいんだろう。  僕は彼女をベッドへ運び、その体を横たわらせた。 「じゃあユーシェの体の準備が出来てる内に……」 「はい」  前回と同じ体勢には不安があったものの、他に良い案もないからこのまま進めることにした。  ユーシェに乗ってもらったり、後ろからっていうのもあるみたいだけど、とりあえずこれが基本形だと犬塚さんも言っていたからその言葉に従ってみることにした。基本は大切だ。 「今回も焦ることはないから、耐えられなかったら無理はしないで」 「はい、そうします。これから先も一緒にいられると信じて、焦ることはしません」  そう。兄に機会を与えてもらえたんだから、これからは時間があるはずなんだ。  だけど一抹の不安はある。その不安を消したい気持ちと愛情が重なって、気持ちが止めどなく込みあげてきた。  切なさと愛しさが重なって、ユーシェを深く愛したくて仕方ない。 「じゃあ今から……」 「はい」  入り口に手で当てて、腰をぐっと前に進めた。 「んくっ……! き、来ました……!」 「入ってるのってわかるんだ?」 「もちろんです……触れているのを感じますっ……」 「じゃあ一番奥まで触れたい」 「は、はいっ……んくっ……んくくっ……!」  めりめりと彼女の中を裂いていく感触は前回と変わらずだ。  だけど気のせいか進みが良い気がする。以前の、これは無理だという空気じゃない。  腰を前に進め、めりめりと裂いていく。ユーシェの表情が苦悶に変わった。 「んくっ、くっ……! はっ、んぐっ……ど、どうですかっ……?」 「悪くないと思う……いま半分くらい」 「そんなに……? ではあと少しですねっ……!」  先端が入りこんでる。今回は僕の中に、何も考えなくていいくらいユーシェと絡みあいたいという気持ちがあるのも大きいと思う。  ユーシェの体の受けいれ態勢もできてる。思い切り押しこんだ。 「うぐっ……! んっ、くっ……あ、くっ……あ、あ、あぁ……」 「はっ、ああっ、あっ……あ、ああっ……ど、どうぞ、きてくださっ……」 「あああっ……んっ、はっ……あ、ああっ……いたっ……くっ……んうううううっ!」  ユーシェの一際切なそうな声と共に、彼女の中に僕の全てが入った。  距離がなくなったその頬に顔を近付けキスをする。それまで必死な顔をしていた僕の態度の変化に、ユーシェは痛みを表情に残したままこちらを見た。 「あっ……もしかして……」 「うん……一番奥まで入ってる。ユーシェと繋がったよ」 「本当ですか……? 嬉しい……」  僕たちの接合部からは、痛々しくも赤い血が流れていた。  それでもユーシェは純潔を散らしたことを喜んでくれた。その顔を見れば精神的にも受けいれてくれたことがよくわかる。 「僕もユーシェとひとつになれて嬉しい」  このまま離れずにいられる気がして。こんなこと言っても、せっかくの喜びに水を差すだけだから口にはしないけど。 「痛みは?」 「あります。でも針を指に刺してしまったときの方がよほど痛いです。」 「そういうもの? その痛みが続いたりしてる?」 「そうですね、じんと痛いですが……それならなおさら動いてもらって早く慣れたいと思います」 「ユーシェの準備ができてるなら」  僕は基本の動きとして聞いていた通り、彼女の入り口まで一度引き戻すと、再び一気に突きさした。 「んぐっ……!」  まだ血液の残るその接合部に根本まで叩きつける。ユーシェの声は悲痛だったけど、もう一度繰りかえした時には痛みの伴う要素が薄まっていた。 「んっ、ぐっ……くっ、はっ……ん、んんッ……!」 「あっ……くうっ、はっ、んうッ……あ、ああっ……あっ!」 「んっ……まだきついけど、でも抜き差しできるようになってきた……」 「は、はいっ……どうぞ、最後まで進めてください……んっ!」 「ふっ、はっ……ん、んんっ……んんんんっ……はっ、ふはっ……」 「うっ、くっ……まだ痛い、けど……それより愛しさが、上回って……」  ユーシェの手が僕を求めてくれている。その手を握り、指を絡めた。  本当は抱きしめたい。思い切り密着して、キスもして愛情を確かめあいたい。  だけどこの体勢を変えるにも、いまきっと痛みに耐えてくれているユーシェの協力が必要で……。 「んんっ、はっ、んっ……はあっ、んくっ! んっ、はっ……」 「もっと……ひとつになりたい……体の中まで感じたい……んくっ、あ、ああっ」 「切ないです……んっ! ああっ、はっ……好きです……好きです、愛してますっ……!」  本当に愛情が積極的だ。 「ユーシェ……」 「はい……んっ、なん、でしょうっ……んんっ……!」 「抱きあいたい」 「えっ……このまま……?」  こくんと頷く。彼女の積極的な愛情に甘え、ねだってみた。  それを聞いてユーシェからも望んでくれたら……と期待していたら、彼女は接合部が外れないように気を使いつつ、むっくりと体を起こしてきた。 「触れあって……顔も間近で見られるなら、私もその方がいいです」 「最後まで達してくださいね……どんな風にしてもらっても構いませんから……」  絡めていた手を引いてその体を抱きよせる。膝の上にのせる形で下からユーシェを突きあげた。 「はあっ……! はっ、あっ……んっ……ああっ……」  少し動きにくい。だけどユーシェの顔が目の前にあるというのは、これ以上ない幸せだ。 「もう痛くない?」 「そうっ、ですね、だいぶ……痛みは引いてきました……はっ、ああっ……」 「だからもっと、好きに動いてッ、いいんです……私の体で満足していただきたいですから……んっ!」 「満足っていうか……もう充分すぎるくらい愛情を感じてるけどっ……」 「駄目です……もっ、もう……んっ! 離れたくなくなるくらい……どこまでも愛してもらわないと……んんっ!」 「もう離れないって言ったのに」 「愛情と肉体の両方で虜にした方が……んっ、確実でしょう……?」  肉欲……性欲には周りと比べて少ない方だと思ってたけど……。  今は気持ちいい……というより、この動きを止めたくない。ここで終わりになんてできなくなってる。 「ユーシェ……」  キスをする。もう自分が君のものだと誓約するかのように。 「んっ、んむっ……んっ! んむ、んっ、はっ……んむっ、ちゅっ」 「はっ、はあっ、ちゅっ、んっ! んむっ……ちゅう、はっ……」 「はあっ、はっ……キス、好きです……ああっ、もっと……もっとください……!」  ユーシェの声を聞いて高まってきた。これが……もしかして……。 「んうっ! ううっ、あっ、あああっ! やっ、あんっ……あっ、ふあっ、ひうっ!」 「うあっ、あっ、ううっ……んっ! あふっ……あ、あああっ! あんっ! や、ああっ、やっ!」  ユーシェの中に体の中の何かを出したい感覚が湧いてきた。  これがなんなのか少し怖い。この気持ちを知ってしまえば戻れなくなる気もするけど、その相手がユーシェならそれも構わないと思える。 「はっ、ああああっ……あっ! やっ、さらに激しく……んっ!? あっ、ああっ」 「ご、ごめんっ……なにか……このまま出ちゃいそうでっ……!」 「そ、それでいいんだと思いますっ……そのまま続けてください……途中で止めないでください……!」 「そうしたい……このまま、最後までしてみたい……ユーシェっ……!」  お互いに強く抱きしめあう。最後の瞬間に向けて僕は全力で腰を突きあげた。 「ああっ、あっ、あああっ……あんっ! やっ、はっ、ああああ、あっ……あっ!」 「はああっ……こ、これですっ……こういう、情熱が欲しくて……熱くなりたくて……!」 「ああっ、あっ! やっ……ああっ、はッ……んっ! あんっ! あ、ああああっ! あんっ!」  もう抑えきれない。きっとこのまま出してしまう。これがどういうものなのかは知っていたけど、こんなに理性じゃ言うことを聞いてくれないものだとは思わなかった。 「はっ……出るっ……!」 「あっ、ああっ、あっ、出して、くださいっ……そういうものだと聞いていますからっ……!」 「あああっ、あっ! あんっ! やっ、はッ、んく、はああっ……ひうっ、あ、ああぁ、あんっ!」 「やあっ! やっ、ああっ! あん、あっ、ふあ、あっ! ああっ、やっ! やああうううっ!」 「あ、ああ、ああああっ……!」  止まらなくなった情動が僕のその場所へ集中して、切ないまでの何かを迸らせた。 「あっ、くうっ……ごめん、もう出るっ……!」 「ああっ、あ、ああああっ、はッ、ふああああっ……!」 「あああああっ、あっ、ああああああ――っ! ああっ、あああああっ……!」  ユーシェは最後まで大胆に、僕の中へ自分の体を押しこむようにしながら大きな声をあげた。  ユーシェの中へ全部出してしまった。まだ彼女の体内へ刺さったままの僕の部分が噴出を続けている。 「はあっ、あっ、すごいっ……ああっ、もっ、こんなに激しい……」 「ああっ、あっ……はっ……ああ、これって……はっ、気持ちよすぎて……」  怖い。  こんなことを一度覚えてしまったら、何度でも求めてしまいそうで怖い。僕はユーシェにしっかりとしがみついた。 「ああ、嬉しい……! こんなに、これほど激しく夢中になっている顔を初めて見せてもらいました……!」  だけど僕の怖さなんて軽く思えるほど、ユーシェは声を輝かせて喜んでいた。 「え? え、あの……」 「今まで落ちついていて、優しくて……熱い言葉を口にしても、常に紳士な態度は忘れなかった遊星さんが……」 「本当に、夢中になって……他のことは何も考えずに私を求めてくれた……嬉しい……」 「…………」  そっか……ユーシェの言ってることが僕にとっては怖いことだったけど、彼女が喜んでくれているなら、それも許されるのかもしれない。  大丈夫、ユーシェと一緒にいれば自分が変わることはない。変わっても悪い方向へ行ったりはしない。  彼女に抱きついて、色んな不安を打ちけした。 「あ……ところでひとつだけ……心配が……」 「え? なんですか……?」 「その、夢中になったっていうかなりすぎて……ユーシェと繋がったまま僕……」  出しちゃった。  それがどういうことを意味するのかは、いかに性行為に無頓着だった僕でも知っている。 「何があっても責任はとるから」 「そ、そうですね、少し急ぎすぎた感はあります……ですが、もしものときはそれはその……」 「有無を言わさず実家の人間を説得できると思うと、それはそれでいいのかなと思ってしまいました」 「うん」  でもそうなったら学生結婚かあ。仕事はあるからいいけど……。  だけどメイドの父親っていう不思議な存在に育てられるのは、うーん……教育上よくない気もする。 「ああ今日はとてもいい日になった……好きです……好きです、もう離れません」 「うん、ここまで深く結ばれたら離れたりなんてできないよ」 「はいっ」  この温もりは武器になる。目の前の愛しい顔を見てそう思った。 「てか実際のとこどうなの?」 「なにが?」  ふらりと訪ねてきた湊に主語のないまま心配された。  兄に勝負を挑んでから、衣装製作は急ピッチになった。  元々人員が少なくて急いでたのはあるけど、緊張感がさらに増した。だから最近の僕は、食事や入浴の時間を除いて部屋に閉じこもりきりだった。  そこへやってきた湊から質問を受けた。口を動かしつつも手は止めない。 「だっておかしいと思うに決まってるよ。お兄さんがゆうちょとデートして何の得があんの?」 「うん。そうだよね」  先週説明した、ショーへ参加する為の兄の条件。僕が男だと知っていて、兄と血が繋がってることも知っている湊が不自然に思わないはずがなかった。 「あの時は事情あるのかなと思って黙ってたけど、もしかしてなんか大変なことになってたりする?」 「うん……負けたらお屋敷出るとかそんな感じ」 「ええー! 駄目だよそれ!」  湊はぶんがぶんがと首を振った。結んだ髪が前後左右に舞った。 「駄目とは思うけど、選択肢がそれしかなくて。逆に最優秀賞取れば卒業までいていい、って言うし」 「えー。じゃあルナに相談した方が良くない? わざと負けてもらうとか……」 「そんなことできないよ。それにルナ様に限って、衣装に手を加えたり、力を抜いたりは絶対しないと思うよ?」 「そォーだけども! でもでもゆうちょが居なくなるなんてやだし!」 「あ、でも、みんなと連絡取れなくなるなんてことはしないよ。ちょっと身を躱して、今までのお給金を使って一人暮らしでもしようかなって」 「ん? 一人暮らし? ゆうちょが?」 「うん。どのみち男だってバレた時点で、退学は決まってたようなものだし、それなら自由に生きてみようかと思って」 「ただ、兄に見つからないようにしないといけないから、ほとぼりが冷めるまでは関西にでも行こうかな?」 「…………」 「ユーシェの居ぬ間に押しかけ女房……アリだな」  湊はうんうんと頷いて納得してくれた。 「あ、だけどもちろん負ける気はしないよ。全力で勝ちに行くつもり」 「ユーシェの衣装っていま作ってるその服だよね? うん、確かにかわいい! ゆうちょが自信あるのもわかる気がする」 「正直なところ、どう? 両方の衣装を見てる湊が審査員だったら、ルナ様とユーシェの衣装、どっちに票を入れる?」 「え? わ、私? わわわどうしよう。ちょっと応援したい気持ちもあるし、ユーシェ……かな?」 「でも気分によってはルナにしちゃうかもしれない。どっちもかわいいよホントに!」 「貴重な意見ありがとう。同じくらいだって言ってもらえて安心できたよ」 「ユーシェのデザイン、本当に素敵だったから、僕が縫製で台無しにしちゃったらどうしようかと思ってた」 「そんなことないよ。ちなみにこれ、テーマとかあるの?」 「あ、テーマは――」  その後、幾つかの言葉を交わして、湊は自分の部屋へ戻っていった。  心配してくれたことも嬉しかったけど、貴重な意見をもらえたことが何より嬉しかった。  湊の印象を見る限り、やっぱり反応は悪くない。ユーシェにおめでとうと言いたい。  だけど僕もそう思っていたように、湊も「二着とも同じくらい良い」が感想だった。  それだと確実とは言えない。もちろん勝負は水物だから絶対なんてものはないけど、互角だとすればこちらに不利な要素が一つある。  兄が審査員の一人だということ。  彼はルナ様の応援をはっきり表明している。どのくらいの影響があるのかわからないけど、投票形式だとすれば、一票が確実に失われることになる。  審査員が十人や五人……三人なんてことになったら一票は大きい。  何か工夫を……それは一週間前から悩んでいることだった。  型紙もできて、衣装そのものにはもう手を加えられないから、何か装飾品で工夫をしたい。  かと言ってアクセサリーだって作ろうとすれば時間が掛かるし……何か時間を掛けずに衣装のレベルを上げられるような方法があれば……。  作品のテーマに合った……。  …………。  ふと思い立って、パソコンで調べ物をしてみる。でも中々思い通りにはいかず。  色々な方法を模索してみるも、どうやっても無理がある。現実的じゃない。  だけど意外性のある本物がひとの胸を打つのも確かで……特に兄はそういったものを好む節がある。  必要なものは資金と……これは今までルナ様に仕えてから、一度も使ってない給料がある。九ヵ月分の金額はけっこう大きな数字にまで膨らんでいた。  あとは非現実的なものを叶えてくれる不条理なもの……僕の考えられる上で、一番それに近いのは「大蔵家」。  頼んでみよう。家庭内で唯一の味方である妹の携帯電話に連絡を入れてみた。 「はいもしもし妹です。助けてください」 「もしもし先週はごめん兄です。どうしたの?」 「上の兄が日本にいる間は同じマンションに住んでいて……ばったり出くわすと生きた心地がしません」 「それは……僕が学校へ通うのに協力してくれたせいだよね。本当にごめん」  りそなと連絡を取るのは、先週、兄に性別のことがバレて以来だった。  りそなは「そもそも言いだしたのは自分だからいいです」と言ってくれたけど、相当こっぴどく責められてだろう。しかもあの兄に。 「今はもう何も言われない?」 「はあ、あまり私のことには興味がないみたいですから。下の兄のことは気にしてるみたいですけど」 「なんだかイギリスに連れて帰るとか、嬉しそうに上の兄が言ってましたけど本当なんですか? 大丈夫なんですか?」 「うん。実はいま結構困ってて、兄さまから出された条件によっては実家の屋根裏部屋へ連れもどされる、なんて話もしたんだけど……」 「そ、それはいけません。妹にできることがあれば、何でも協力はしますが」 「うん、実はその言葉に甘えさせて欲しくて。大蔵家の傘下にある貿易会社に無理を言って欲しくて……うん」 「な、なんだかとんでもないことしますね……いいんですかこれ。無駄遣いにも程がありますよ」  それでも思い残すことはないようにしておきたい。兄との勝負に負けたら僕は退学になるんだから、やり残したことがあれば一生後悔する。  これで敗れて一文無しになったら、四畳半のアパートで逃亡生活を送ろう。それでも、きっとすっきりして敗れたら笑って暮らせるはずだから。 「じゃあ最後にホックを付けて……」 「手が早いですね。私もこのくらい出来るようになればいいのに」  ショーの前日、23時。  この段階でもまだ出来あがってなかった衣装が、いまようやく仕上がろうとしていた。いま僕がやっている最後の最後の仕上げをすれば完成。  わりとかつかつの進行だったけど、本音を見せてくれるユーシェと明るいサーシャさんのお陰で、苦しくても最後まで追いつめられている空気は感じなかった。 「今回は色々反省もありますけど、この経験を次回に生かしたいです」 「ユーシェが自分で衣装を作る必要はそうそうないんじゃない? 卒業したらサーシャさんが手伝ってくれるんだし」 「んふん」 「いいんです。この衣装の製作で、自分で服を作る楽しみも覚えました」 「自分で? え、指示出してたのは遊星くんで、お嬢様は言われたことやってただけなのに自分で? え?」 「まあこの衣装は差し詰め私と遊星さんの愛の結晶というところでしょうか」 「遊星分とユルシュール分が9対1くらいの結晶だけどね?」 「さっきからなんです。私だって、寝る時間を削ってミシンを走らせました。これほど服を作るのに努力したのは初めてなんです。もっと誉めてください」 「ユーシェはすごく頑張ったよ。僕はユーシェにどこを縫ってもらったか知ってるから、どのくらい丁寧に縫ってたのか全部わかるんだ」 「まあこれで本気の八割といったところです。オホホ」 「お嬢様、かなり面倒な女に成り下がってるけど大丈夫? 遊星くんにフラれちゃわない?」 「そんなことありません。私と遊星さんは深く愛しあってますから。ね?」 「あ、できた。やったよユーシェ、完成した!」 「え、このタイミングで?」 「お嬢様、せっかく長い時間を掛けた衣装が完成したのですからもっと喜びましょう。やっったああああああああキエエエエエエエエエェ」 「そ、そうですね、では私も喜ぶことにします。ヨーロレッイッヒー! ハイホー! ハイホー!」 「あ、じゃあ僕も参加する。わあああああああぃやたあああああああ!」 「ア゛アぁあー美ぁるヴぁるヴぁヴぁ美ぁあああぁ゛ぁ゛ぁぁあアアー! うア゛あぁあああー! ギャギャン! ギャン! 美ュイイイィーン!」  僕たちは三人で輪を作って手を繋ぎながらくるくる回った。気付けばモトカレも加わってくるくると回っていた。 「うるさい。瑞穂お嬢様は明日、モデルを務められる身で緊張しているんだ。今日はもうお休みになられている、だから騒ぐな」  隣の部屋の北斗さんに怒られた。怒られるのはわかっていたのに、どうしても衣装の完成した瞬間はこんなことになってしまう。 「フン! 自分だって、毎朝5時に庭でポゥポゥ雄叫びあげながら踊りまわってるくせに、一度や二度のヨーデルがなんだっていうんだ! 草原の民のくせに心の狭いやつだな、まったく!」 「サーシャはどうして北斗とは仲が悪いんです? 私と瑞穂は仲いいですよ?」 「あの女とは何かと合わないんだよ。彼女たちは肉でも齧りつくのが基本だし、武器だって大雑把だしね。なんていうか美しくないよねえ」 「ねえねえユーシェ。今はそんなこといいからそれよりも」 「そんなこと? あらやだ。この子、かわいい顔してちょっぴり美つ礼」 「最後に試着しようよ。まだ時間があるから微調整もできるし、ユーシェが着たところを見てみたい」 「あ、あらそうです? まあ、試着は必要ですね。では着てみましょうか」  瑞穂様の試着には立ちあえなかった僕たちは、これがプチ打ちあげみたいなものだ。  試し着は調整のために何度もして、衣装を着た姿は見てるはずなんだけど、そういう時はシルエットに集中してるから、ユーシェも含めた完成像には意識が向かないのが常だった。  やっぱり作業として着てもらうのと、いざ完成品を着てみましょうというのでは全然違う……。 「遊星さん?」 「え?」 「もしかして遊星さんが着せてくれるんですか? 私、てっきりサーシャが着せてくれるものだと思っていました。改めて遊星さんの前で下着姿になるのは少し恥ずかしいですね」 「あ、違うよごめん、僕は出てる」  わあ……言われてみれば、以前はもう少し気を使えてたと思うんだけど、恋人になったことと自分の格好もあって、感覚がおかしくなってた。  テンションが高くなってるのもあるけど、あとはやっぱり……ユーシェの身体を見ちゃったからなのかな。  思いだしたら少しドキドキした。ちょっと男として成長したのかも。僕。  やがて内側からノックする音が聞こえて、サーシャさんに中へ招かれた。 「お邪魔します……」  あ。  ユーシェが……お姫様みたいだ。  想像していたよりも実物は強烈だった。妖精の世界から抜けだしてきたような、純真で無垢な少女のはずなのに、でも不思議な色気が漂っている。  自分の恋人にも関わらず、こんなひとと並んで歩ける男性はとても光栄だろうなと思った。 「ど、どうです? ぱっと見は問題なさそうですけど?」 「問題どころか、よく似合ってる」  この姿を見て、自分たちの衣装が完成したんだとわかった。  腰に飾られた花はスイス三大花の一つ、ゲンチアナを生地で作った。さらにその青は、花の色だけではなく、雄大な湖をも表している。美しき彼女の祖国。  これにまだアクセサリーや靴や髪型も整えて、舞台ではもっともっと綺麗になるんだ。  綺麗という言葉はまだ取っておいた方がいい。それ以上の言葉が本番で見つかるかわからない。 「遊星さん?」 「ん?」 「感想は? それだけですか?」  だけどユーシェから求められてしまった。  それ以上も思いつかないけど、他に使うべき言葉も思いつかない。僕は照れくさかったけど、ユーシェの目を見ながら微笑んだ。 「綺麗だよ、本当に」  こんなに素晴らしい女性でも、自分の姿に不安があるものなんだろうか。 「嬉しいです」  僕の前ではすぐに泣いてしまうユーシェは、今日も目の端に涙を浮かべて微笑んだ。  衣装は丁寧にしまわれて、サーシャさんが部屋へ運んでいった。  僕は着替えたユーシェと部屋に残った。「本番の前日は恋人と話して眠るものだよ」はサーシャさんの持論。  でもそれは正しい気がする。ユーシェはとても不安そうに僕の腕を抱いていた。  あんなに素敵な姿を見せてくれたのに。 「ユーシェ」 「はい」 「もしかしてまだ不安?」 「まだというより、衣装を着てからずっと不安です」 「どうして?」 「遊星さんの衣装が本当によくできていたから、です」  ユーシェはより強く僕の腕を抱きしめた。 「あれで最優秀賞を飾れなかったら、どう考えても私のせいです。それが怖くて」 「そんなわけないよ」  僕が笑うと、ユーシェの腕に責めるような力が加わった。 「どうして確実に取れるなんて言えるんですか? そんなのどこにも確証はないのに」 「ん? あ、僕は『そんなわけない』って言ったのは『最優秀賞』のことじゃなくて『私のせい』の方だよ?」 「え?」 「もしユーシェが普段通りの自信を持ってランウェイを歩けなかったら、不安を持たせたまま舞台へ送りだした僕にも責任はあるよ」 「恋人でパートナーになるんだから、ユーシェを精一杯強がらせてあげるための心を植えつけてあげたい」 「ユーシェの自信も二人で作ろうよ。だからどんな結果でも自分のせいだなんて思わないで」 「はい……」 「私、まだ一人で強がってた頃のくせが抜けなくて……本当は弱いんだから、もっと周りのひとを頼ればいいのに」 「でも自信を付けてあげることはできても、最後にあのランウェイの先端まで歩くのはユーシェだから。その時は今までで一番の強がりが必要になるよ」 「強がるんですか?」 「うん。強がりも意地っ張りも、ここぞって時には必要だと思うんだ。どんなに自信があっても最後の一歩はユーシェが踏めるか踏めないかにかかってるから……」 「その時だけは、人生で一番の強がりで踏みこんで」  大真面目に言ったつもりなんだけど、ユーシェは小さく噴きだしていた。僕の肩にぐりぐりと額を押しつける。 「わかりました。伊達に何度負けても強がっていたわけじゃありません。他の誰よりも一歩前に進んでポーズを決めてみせます」 「でも、その途中までは、遊星さんが自信を付けて送りだしてくれるんですよね? さあ、私の心に揺るがない芯を入れてください」 「というより、あれだけ素敵だった自分を見ても、まだ不安が残ってるの?」 「そんなの本番になるまでどんなひとが、どんな衣装を着て出てくるかわかりません。それも全部ふっ飛ばしてくれるほどの自信をください」 「さっき、衣装が完成する寸前に、サーシャさんから『フラれちゃわない?』って聞かれてたけど」 「え?」 「そのあとユーシェが『愛しあってますよね?』って僕に聞いてきたけど」 「そのあと衣装を着たユーシェを見て思った。こんなに綺麗なひとをフったりするひとがいるはずないよ」 「世界で一番綺麗だった。愛しあってるよ僕たちは」  言葉のあとにキスをした。感動屋のユーシェはまた涙を流していた。  こんな泣き虫で最優秀賞なんて取ったらどうなってしまうんだろう。  でも大丈夫。ユーシェが泣くのは、人前じゃなくて僕の前だけだから。  少しだけ唾液を交換して、やがて僕たちは唇を離した。 「そろそろ寝よう? 明日は本番だから」 「はい……」 「…………」 「……遊星さん」 「なに?」 「キスで終わりですか?」 「我慢できないほど体が熱いですけど、今日はこれで終わりですか?」  泣いてしまって情熱が込みあげてきたみたいだ。少し苦しそうなほど息が熱かった。  でも、うん。ごめん。 「明日、おめでとうと一緒にいっぱい尽くすから」 「ぅ……」  昨日も遅くまで縫っていたし、心配だから今日は大事をとった。 「もう。信じられません。私からの誘いを断ったんですよ?」 「明日、一番輝く女からの誘いを断るなんて、何度も機会はありませんからね?」 「うん。だからこそ大切にとっておきたい。明日はもっと素敵になってるから」 「今日ならいっぱい尽くしてあげたのに。明日は疲れてそれどころじゃありません」  拗ねられちゃった。でもはっきり「明日、一番輝く」って言ってくれた。  僕もそう思う。明日のユーシェは、あんなに綺麗だった今日のユーシェより、きっと綺麗なんだ。  焦った。  焦ってる。焦りまくってる。どうしてこんな日に、と我ながら思う。  りそなから聞いた担当者さんの携帯電話に、朝から何度も何度も連絡した。謝りつづける彼に言っても仕方がないのだけど、焦る僕にあまり正常な判断はできなかった。  今朝到着するはずの飛行機が遅れているらしい。なんで。よりにもよって。こんなときに。  緊張してる生徒はいるけど、焦ってる生徒は僕くらいかもしれない。控え室の中で溢れだしそうな焦燥感に耐えている。  本当は意味もなくうろうろと歩きまわりたい。でも他の参加者に悪いから我慢した。  なんだってこんな素敵な日に、こんな思いをしなくちゃいけないんだろう。今日はずっと楽しみにしていた――  ――フィリア・クリスマス・コレクション  ジャンが理事を務める学院ということで、フィリア女学院は設立当初から評判にはなっていた。  だけどその観客数は学院関係者の想像以上には集まったらしい。初年度にしては多すぎる程の来場者が訪れた。  目的は「スタンレーの学院で開かれるコレクションショーを見に行った」という部分なんだけど、出てくるものは見られるわけで。  かわいそうなのは、一年目から大勢の観客の目に晒される生徒たちで――ぶっちゃけ一年目から、そんな大層な衣装は作れません。  さすがにこれではと思ったのか、学生のショーの後でお兄様のプチコレクションみたいなものもやるらしい。兄もいよいよ学院長として色々大変だなと思う。 「あら……パンフレットを見る限り、スタンレーも衣装を見せるんですね。これなら観客は喜ぶと思います」 「本当ですか!?」  わああ、ほんとだ、いつの間に決まったんだろう。お兄様のプチコレクションと一緒にやるんだ。すごい! 「楽しみですね……ああ、早く終わらないかな前半のショー。きっと先月行われたコレクションの服ですよね。写真では何度も見たけど、本物が見られるなんて」 「ナチュラルに失礼ですね、このメイド……それより今日は一日側にいてもらいます」 「今日に限っては、サーシャではなく朝日が私の付き人なのですから、きちんとサポートしてほしいです。さっきからそわそわしてどうしたんですか?」 「あ、はい……申し訳ありません」  はしゃいだら一瞬だけ焦りを忘れることができたけど、もう時間が押していた。開演は11時。今はもうリハも終えて9時。時間がない。 「朝日、飲み物を……」 「ははははい。えと、何がよろしいですか? カレーパンですか?」 「なぜ食べ物……はあ。あんなに優秀な朝日が、今日はどうしてしまったんです?」 「やあ。朝日がいないから朝から不便だ。そろそろ返せ」 「返すわけないでしょう。衣装を作ったのが朝日なんですから、サポートしてもらわなくてはなりません」 「こちらも元々は朝日が作っていたんだが……まあグループも違うし仕方ないか」  ルナ様の視線がちらりと僕に向けられた。悪いことはしてないけど、何故か僕は目を逸らしつつ髪をいじった。 「その朝日といえば調子が悪そうだな。大丈夫か……なんだか焦ってるように見える」 「明らかに焦っているんですけど、何度理由を聞いても『ユルシュール様はお綺麗です』と意味のわからないことしか言いません。日本語が不自由になったのか心配です」 「ユーシェにそこまで言われるとは、朝日が気の毒だ」 「あら、私の日本語力を馬鹿にしないでいただきたいです。ルナは普段から話す相手がいませんし、私の方が上手になってしまったかもしれません。オーッホホホホ」 「半年くらい前までは、レストランで会計をするときは『さわるだけならタダよ』だと教えたら、素直に言ってくれたのに……」 「ああ、そんなこともありましたね。その件も含めて、今日は過去の借りを全て返します」 「そんなに自信作なのか」 「ええ、自信作ですとも」  ルナ様の真面目なトーンの声に、ユーシェの周囲にも緊張感が走った。 「きっとその目を見開かせて感嘆の声をあげさせたあとに、同じ口で完敗だと言わせてみせます」 「ルナは今まで負けたことがあまりないでしょう? 先達としてアドバイスいたしますけど、傷付いた心には、冬なら温かいココアがいいですよ」 「それは為になるご助言をいただき痛みいる。だが今日は家にシャンパンしか用意していないからな。家の者にスイス製品のココアを注文しておこう」  一般の生徒たちは二人のことを知らないせいか、そのやり取りを聞いて驚いた顔を浮かべていた。  顔を引きつらせながら笑みを浮かべるユーシェ、腕を組みながら余裕を見せるルナ様。普段通りの二人の構図だった。 「……どうやら手心を加える必要はなさそうだ。まあ最初からそんなつもりもないが」 「あら負けた時の言い訳用ですか? 今の内にせいぜいスケールダウンをさせる改造をしておくといいんです」 「この段階で衣装に手を加えるやつがいるか。今から瑞穂に着替えさせる。あとは仕上げを御覧じろだ」 「ん……とはいえ、ユーシェの出番は私たちの後だから、舞台そのものは見られないか。悪いが順番にはこちらが恵まれたな」 「ぅ……じゅ、順番など関係ありません」  ユーシェは強がっているものの、今回で言えば順番は先がよかった。  同級生たちの衣装は正直、ルナ様のものと比較になる出来ではないから、その後に彼女の衣装が出てくれば、相当のインパクトになるはずだ。  そして一度観客が沸いた次の順だと、どうしても印象は前のものに持っていかれる。  それを引っくり返すにはルナ様の衣装よりも強いインパクトが必要だけど、以前の湊の反応を思いだしてもそれは難しい。  印象点ではアドバンテージを負ってしまった。その決定は事前にくじで決めたから、言い訳のしようもない。 「ではこちらは瑞穂の準備があるからこれで失礼させてもらう。ユーシェは自らモデルを務めるんだろう? そろそろ支度をした方がいいんじゃあないか?」 「い、言われなくてもっ!」  ルナ様はユーシェの顔を数秒見つめたあと、嬉しそうにこの場を去っていった。その先には、椅子に座って化粧を始めた瑞穂様と湊の姿がある。 「くっ、余裕を見せて……負けてられません! 朝日、こちらも始めます!」 「はい、バイクは用意しました!」 「いえ、バイクは乗りません。それよりも朝日、少し落ちついてほしいです。どうしたんですか?」 「も、申し訳ありません。私の方がユルシュール様より焦っているなんて……すぐに落ちつきます。ごめんなさい」 「……朝日、少し廊下へ出てもらっていいですか?」 「はい?」  メイクを始めなくていいのかな、と思ったけど、今は彼女の言うことを何でも聞いてあげたいから、共に廊下へ向かった。 「廊下に出ましたが――」 「――わっ!?」  いきなり抱きつかれた。確かに女同士だから騒ぎになるほどおかしくはないけど、でもどうして? 「ユーシェ?」 「わ、私の安心の一つは、朝日……が側にいてくれるからです」  本当は「遊星さん」と呼びたい心をユーシェは必死に抑えて我慢してくれた。 「ルナと話していた間も不安だったんです。あの子の自信は全く揺るがなくて、言いかえすのにも私は精一杯で……」 「それでも朝日の顔を見る度に、私は自信を持ちなおして気持ちを前向きにしているんです」 「そんな時に朝日が焦っていたのでは……」 「ユーシェ……ごめん」  自分の策に囚われすぎて、目の前の大切な基本を忘れるところだった。 「ユ、ユーシェと呼んでは駄目です。中に聞こえてしまいます」 「あ、そうでした。じゃあ改めて、申し訳ありませんユルシュール様。勝利に拘りすぎるあまり、きのう自分が言ったことも忘れていました」 「今度こそ大丈夫です。たとえ触れていなくても、いつも私が手を握っていると思い、安心してください」 「はい。お願いします、今は朝日が一番の頼りです」  ほんの少し前まで、ルナ様と言い争っていたひととは思えないな。唇で額に触れたかったけど、さすがにそれは我慢した。 「……ところで、何をそんなに焦っていたんです? 何度も携帯電話を取りだしていましたけど」 「あ、はい……実は、もし間に合わなければ落胆させてしまうと思い言わなかったのですが、ユルシュール様の自信と輝きを増すために、用意したものがあります」 「私の輝きを?」 「はい。先ほどルナ様との会話を聞いていて……あのルナ様にも、一つだけ隙があることに気付きました」 「え? ルナに隙?」 「はい。ルナ様は『この段階で衣装に手を加える奴がいるか』と仰いました」 「ルナ様は昨日まで衣装をより良くする方法を考えていたようですが、ここまで来てようやくその考えを止めました」 「でも、私たちはもう一つだけアクセントを加えられるんです。きっと良い形に作用します」 「ルナ様より一歩上をいけるんです」 「ルナよりも……一歩上に?」  ユーシェの目に期待の炎が燃えた。勝利への野心と言っていいかもしれない。  ただしこれは恐ろしい諸刃の剣だ。間に合わなかったら大変なことになる。ここで封印しなければならない。 「ですが、その頼んだものの到着が遅れていて……届き次第、バイク便で持ってきてくれるらしいのですが、確実ではありません」 「だから一旦忘れてください! 今のままでも勝てる気持ちでいましょう!」 「は、はい」  洗脳するかのように強く言った。ユーシェが落胆してしまったら、全てが台無しだ。  話すべきではなかったかも、と少し焦りを覚えるけど、頷いている以上、ユーシェを信じるしかない。 「……では、控え室に戻りましょうか」 「そ、そうですね……あ」 「二人とも、衣装を搬入してきたわよん。さ、お着替えをしましょうか――」 「――ええっ!? まさかの公開百合プレイ!? それはさすがに……私も混ぜてえっ!」 「緊張しているからと言って、騒ぎすぎないでください もうすぐ来賓客も見えられるんです!」  これからショーへ出るのに叱られた。こんな生徒他にいないと思う。  やがて開場時間になり、大ホールから声が聞こえはじめた。  その声は徐々に大きくなり、多くのひとが来ていることを予感させた。もう残り時間は、あまりない。  時計を見る。リハーサルでは僕たちの出番は開演から30分後で、出番の10分前までに舞台袖へ向かうこととなっている。  もちろん早く行ってもいいけど、まだ飾りつけが終っていない僕たちは当然動けない。  もしここに残っていても、時間になれば教師が呼びに来る。それが本当のタイムリミットだ。  できれば飾りつけにも10分は時間が欲しい……早く到着して欲しい。  そんな心の焦りはあったけど、二度とユーシェを不安にさせないよう表面は笑顔を浮かべていた。  だけど、とうとう華やかな音楽が鳴り、フィリア・クリスマス・コレクションは開演を迎えた。  最初に舞台へ立つ生徒はもういない。どころか、控え室にいた半数の生徒が舞台袖へ向かってしまっていた。  ユーシェは椅子に座り沈黙している。サーシャさんは彼女の隣へ座り、穏やかな微笑を浮かべていた。  まだ動けない。そんな僕たちのもとへやってきた影が三つ―― 「ユーシェ」 「私たちは先に舞台袖へ行っている」  ――ルナ様に湊、それとルナ様の衣装を着た瑞穂様……が立っていた。  三人ともが余裕のある表情を浮かべている。モデルであるはずの瑞穂様も、まるで散歩にでも出るような穏やかさで微笑んでいた。 「舞台へ立つのが楽しみです」  ルナ様の衣装を信じているからなのか、天性の性格なのか、瑞穂様の所作に乱れは全くない。昨日の夜に緊張していたなんて、とても信じられなかった。 「君たちの出番は私たちの次だ。そろそろ準備をした方がいいと思うが……」 「いや、余計なお節介だな。それじゃあユーシェ、楽しみにしてる」  ルナ様は舞台袖まで付きそうのだろうか、瑞穂様と共に控え室の出口へ向かおうとした。  だけど瑞穂様とルナ様が振りかえろうとした瞬間……。 「ルナ。それと湊、瑞穂」  それまで沈黙していたユーシェが顔を上げた。微笑んでいる。 「どうした?」 「最高のショーにしましょう」  その言葉を聞いて、ルナ様は目を軽く見開いた。  瑞穂様と湊はそれほど気にせずに軽口で返事をしたけど、ルナ様だけは深く、しっかりと頷いた。 「ああ。まだ私たちのことを知らない観客たちの度肝を抜いてやろう」  そして彼女たちは、振りかえらずに控え室を出ていった。  やはりあの衣装は目立つらしく、控え室からいなくなると同時に小さな声が聞こえはじめた。「すごい衣装だったね」「あんなの優勝に決まってるじゃん」「観客席から見たかったな」。  その評価に対して、当然だけど嬉しい気持ちもある。だけど一方で、負けていないという自負がある。  それはいま目の前に座っている、僕の恋人の着た衣装。  だけど彼女は、その華やかな衣装に似つかわしくない顔をしていた。  ルナ様たちがいたときは、まだ堂々とした表情を浮かべていた。それが今は……。  これは僕が、余計な希望を口にしてしまったからなんだろうか。 「まだ勝つための手がある」と言われたら、期待してしまって当然だ。その手がいつまでも届かない不安は、ユーシェの自信を削り、奪っていったんだろう。  僕のせいだ……でも自分が不安そうな顔をすることだけはできない。もう彼女を脅えさせないと約束したから。  サーシャさんは子どもを寝かしつけるような顔で微笑んでいる。彼女はきっと、今回でユーシェが最優秀賞を取っても取れなくても、その成長に繋がると思っているんだろう。  確かに、それは素晴らしいことだ。  でも、僕は彼女を勝たせてあげたかった。何度も見た悔し涙の代わりに、恋人の満開の笑顔を見たかった。  時計を見ると、ルナ様が控え室を出てから5分経過している。もしショーがスムーズに進んでいて、教師が予定より早く迎えに来たら、この不安なままのユーシェを舞台へ立たせなくちゃいけないことになる。  僕は意を決して、ユーシェの手を握った。 「ユルシュール様」 「あ、もう……向かいますか?」  彼女の声は気丈にも明るかった。ただ、表情だけが気持ちに付いてきていない。 「そうですね、そろそろ時間……ですね」 「はい。ですが、まだ座っていて構いません」 「え?」 「これからユルシュール様に度胸を付けて差しあげます」 「ど、度胸?」  そんなものを今ここで? という表情だった。もしかしたら、自分の不安な表情に気付いてないのかもしれない。  本当は、優しい言葉がいい。だけど今は時間がない。  手を握るのじゃ足りない。抱きしめただけじゃ言葉を掛ける時間が足りない。 「ユーシェ」  彼女にだけ届く声で言った。そしてその戸惑う顔を確かめてから、僕は一歩踏みこんだ。 「えっ……」  この格好のまま、ひとの見てる前でユーシェの唇にキスをした。  もちろんそれは一瞬のこと。すぐにキスする前の位置に戻った。 「いき、なり何を……」 「私の元気を全て込めました」  できることがこれしかなかった。それはこんな大切な場面では、相手によっては逆効果になるかもしれないけれど……。 「これが私からユルシュール様にお渡ししようと思ったものです。私からの贈り物です」 「より良くするアクセントと言っても、たったこれだけのことです。こんなつまらないものだったんです」 「ごめんなさい」  僕はこのキスが最初からの予定だったと嘘を付くことにした。  本物はいま運んでいる最中だと説明したから、少し考えればすぐにバレる酷い嘘だ。  だけどこんなチープな嘘で、ユーシェの気持ちが少しでも安心できるならと思ったんだ。 「これで、ユルシュール様の笑顔を見せてください」  届けたものは嘘だけど、いま胸の中にある気持ちだけは本当のことを伝えた。 「…………」  しばらくユーシェは驚いた顔のまま僕を見つめていた。  でもその瞳に力がこもる。明るい光が戻ってくる。 「もうっ」 「恥ずかしいです……もうっ」  ユーシェはこんな土壇場でも笑ってくれた。  ショーの直前の緊張して仕方ないときに、普段僕に向けてくれる、恋人に見せる為の笑顔を浮かべてくれた。  この笑顔があれば大丈夫。この素敵な笑顔を見せられて落ちない男なんていない。  ちょっと他のひとに見せるのは悔しい気持ちもあるけど、自分のミスがあるから今日だけはこの会場に来ている全てのひとに、この天使の笑顔を与えてあげることにした。 「朝日」 「はい」 「朝日はいま、私の笑顔が見たいと言いましたけど……」 「はいっ」  みるみるユーシェの顔が明るくなっていく。みるみるユーシェが輝いていく。恋するユーシェが一番輝いてる。  やっぱりユーシェは甘えっ子なんだ。キスが大好きで、恋が大好きで、それとちょっと照れるけど、僕のことを大好きでいてくれるとても素敵な女の子だ。  そのユーシェが握っていた手にぎゅっと力を込めてくれた。 「朝日は私の笑顔が見たいと言いましたけど――これから最優秀賞を取って、最高の笑顔を見せてあげます!」 「はい!」  いきましょう! 舞台へ!  口にしなくても、僕たちはお互いの言いたいことがわかった。二人同時に席を立つ。 「すみませーん! 小倉朝日さんいらっしゃいますか!」 「えっ……」  僕の本物の贈り物が届いたのはそんなときだった。  思わず時計を見る。まだ余計の時刻にはなってない。まだ間に合う。 「うわ、なんだここ。かわいい子だらけだし、みんなすごい服着てるし……あ、小倉さん、いますー!?」 「わ、私です! 私が頼んだ者です! サーシャさん、ユルシュール様の衣装に飾りつけの用意をしてください!」 「ウィ」  サーシャさんも立ちあがる。もう時間がないことはわかりきっていた。会計を済ませ、直ちにその荷物を机の上へ運んだ。  丁寧に厳重に、冷たく梱包されたそれは、僕が思っていたよりもずしりと重い。その包み紙を急いで、でも慎重に開く。  その包み紙の中を見たユーシェは、口に手を当てて驚いた。 「あ……これはっ?」 「ユルシュール様、お座りください! 今からお着けいたします!」  髪にも靴にも衣装にも、飾りつけをしなくてはいけない。  慌てて最後の準備をする僕たちを周りの生徒たちは何事かと見つめていた。  だけどその仕上げの意味を知り、ユーシェが飾られていくにつれ、彼女たちは歓声をあげ――観客席よりも前に、控え室を感動で包んでくれた。  一際大きな歓声が上がった。  僕たちの前の番だった。ルナ様の衣装が万雷の拍手で迎えられ、大勢の喝采を浴びて感動を起こしている。  僕とユーシェは、舞台の袖で手を握りながらその声と音を聞いていた。  その途中でふと気付いた。後ろには次のグループのモデルがいるから話せなかったけど、今なら僕たちの声は誰にも届かないんじゃないか。  ――ねえ、ユーシェ。 「なんです?」  やっぱりルナ様たちはすごいね。 「ええ。とはいえ、この結果はわかってはいたことですけど。あの子は私のライバルですから」  勝てるかな? 「どうでしょう? 勝てるかどうかはわかりません」 「というよりも……実はもう、勝ち負けなんてどうでもよくなってきました」  へえ? 「あの子も負けず嫌いですから、どのような結果でも、お互い意地を張って、精神論から水掛け論に発展するだけかもしれません」  そうかもね。 「笑わないでください。でも、これだけは自信を持って言えます」  なんだろう。聞いていい?  僕が尋ねた瞬間、またしても大きな拍手が巻きおこった  瑞穂様が退場していくところだ。今日一番の衣装の活躍に、観客は最後まで感動を惜しみなく捧げた。  その音が止むまでユーシェは言葉を待っていた。僕に届かないと思ったからだろう。  やがて瑞穂様が舞台から居なくなるのがはっきりと見えた。  出番だ。お互いに手を強く握りあう。そしてすぐ一瞬で離した。 「遊星さん、行ってきます」  ユーシェが一歩目を踏みだした。コツン、と靴の音が鳴る。 「今から私――」  拍手の音が消えた今。一歩目を踏みだした位置からでも、ユーシェの声は僕の耳に届いた。 「――誰よりも輝いてきます」  一瞬の空白があった。  新しい感動に誰もが目を凝らした。視覚情報が脳へ辿りつき、理解するのに時間が掛かってるんだ。  おいおいこれはどういうことだい? 一つ前の衣装が一番だと思ってたのに、今度の衣装も素晴らしいじゃないか!  パン、と最初の手が鳴った。  続いて、パン、パンと鳴りはじめた。やがて音が強い風のようにうねりを作る。  やがてそれは一つの流れとなり、大きな嵐となって、会場中を怒涛の拍手と歓声で吹きあらした。  その音を待っていたわけじゃないだろうけど、ゆっくりと間を置いてからユーシェは歩きはじめた。  ただ、一歩目が遅れたせいか、歩調が速い。風を切るように進んでいく。  それが彼女にはよく似合っていた。堂々と歩み、怖いものを知らず、一直線に進んでいく。  自信に溢れたその足取りは、彼女が普段見せる誇り高き貴族の姿そのものだ。僕にしか見せない甘えた恋人の面影は一切ない。  会場に歓声がまだ続いていた。僕の想像と違い、瑞穂様の時にも劣ってない。  それは単純に衣装の出来なのかもしれないけど、堂々とした歩みに加え、その奇跡的なスタイル! 小さな顔! そして誰もがその輝きに見とれる美しきブロンド!  そのインパクトは前後の不利を覆してしまったのかもしれない。ユーシェの美しさに、老若男女全てを問わず、魅了されてしまっていた。  このままなら最優秀賞を取れるかもしれない……いや、まだ!  視界の先に見知った姿が小さく映った。舞台の先端、誰よりも衣装が見える場所に兄が座っている。  彼は手を叩いても、声を発してもいなかった。冷静な目でユーシェを見つめている。  あの兄がユーシェに票を入れることはない。その不利を覆すには、やはりもう一押しが必要だ。  その為に誰かが僕の仕掛けに気付いてくれることを願った。今のままでは、ただの飾りとしてしか見做されない。  会場中にそのことを知らせてくれる、感動屋で大きな声の、博識なひとが必要だ。それも一人じゃいけない。何ヵ所かで気付いてくれなければ……。  だけど一人に与えられた時間は、元からそれほど長くない。ユーシェはもう、舞台の先端に達していた。  もう? と僕が焦りを覚えてしまうほどだった。歩みが速かったせいか、先端へ到着するのも早かったんだ。  そこで間が生まれた。ユーシェはよほど正確に把握しているのか、余った時間をポージングに使う。先端でツイと足を見せ、そこから―― 「あ」  ――カツーン。  と、左足の踵を舞台の先端へ打ちこんだ。  本当にギリギリだ。あと一歩進めば舞台から落ちている……というよりも、踵以外の靴部分は空中にせり出している。  ユーシェはきのう僕に告げた言葉通り、他のモデルの誰よりも前へ最後の一歩を踏みだした。  その時、ユーシェが踏みこんだ衝撃のせいか、衣装から外れた飾りつけが舞台の下へ落ちた。  そこは兄の席の間近だった。舞台のよく見える席で、その首が微かに動く。  兄は一度床へ視線を向け、その後驚いたような速さで首を舞台上へ向けた。そこにはユーシェが立っている。兄の角度は彼女の髪。  僕のいる舞台袖から顔なんて見えるはずもない。だけど不思議と、ここから兄の口の動きが見えた気がした。 「Edelweiss?」  それが隣に伝染したのか、舞台前列で頭がちょこちょこと動いた。「エーデルワイス?」  最前列の言葉が伝染していく。その花の名前を知ったひとたちはパンフレットへ目を向ける。  学院の用意したパンフレットには、モデルの名前と作品のテーマが書いてあった。ユーシェの衣装のテーマは「美しき我が祖国」。  衣装に飾られた「ゲンチアナ」。さらに高貴なるブロンド。そして「エーデルワイス」。それらが結びついたとき、全員がピンときたに違いない。 「ああ、彼女はスイス人なんだ」と。  そして彼らの中で漠然と美しかったその衣装が、意味を理解した美しさに変わった瞬間――  再びの大きな拍手が巻きおこった。  以前に、北斗さんから言われたことがあった。「故郷をテーマにするなら、我々日本人にもわかりやすくすることです」。  知名度で言えばこの花は圧倒的だ。かの国の国花。美しき山々に咲く純白のイメージ。  純潔を体中に飾ったユーシェは、ようやくひらりとその身を翻す。遅れた時間は、帰りも速い歩調で取りかえすのだろう。  だけどその最後に、ユーシェは酷いことをした。  いや、観客に対してはサービスだ。ユーシェが酷いことをしたのは僕に対してだ。  あの、僕にしか見せなかった素敵な微笑みをウインクと共に会場の全員に与えてしまった。  恋人の僕が保証する。あの衣装を着たユーシェに、この大喝采の中であの笑顔を見せられたら、どんな男でも虜にされる。  悔しい。だから抱きしめよう。ここへ戻ってきたら、思いきり抱きしめて彼女を独り占めしよう。  天使のような僕の恋人は、会場中にその小悪魔的な魅力を振りまいて、最後まで堂々とした歩みでこの熱狂を終わらせた。 「最高だよ!」 「……ですよ?」  言いなおした。思わず普段通りの声が出てしまったからだ。 「当然ですわっ……この程度、問題ありませんわっ!」 「ですわ」になってる。  この時点で、相当がんばったんだなとわかる。今はまだ心臓の動きが速くてへとへとなんだね。お疲れ様。  控え室は出番を終えて喜んだり、笑いあったり、ユーシェのように疲れて休んでるひとがいたり、わりと女子校に夢を持っている男性には見せられない混沌(カオス)な状態になっていた。  その中でもユーシェは……たったいま、純白の天使のように舞台を歩いていた女の子には、とても見えないだろうなあ。  歩きやすいよう、動きやすいように、その飾りつけや壊れやすいパーツをサーシャさんと外していく。ユーシェはぐったりと椅子に寄りかかりながら渡されたペットボトルの水を飲んでいた。スイス製のやつだ。 「ふうっ、全く……この、程度っ。この、わた、私にかかればっ……なん、な、なんてこと、ありませんわねっ!」  ガクガクだ。 「ユーシェって、人前で歓声を受けるのは慣れてるのかと思ってた。地元では優秀な生徒だったみたいだし」 「その言い方だと、私がこの程度でっ……こたえているかのような、言い方ですわねっ……」  うん。ガクガクだからね。 「ま、まあ私は全然こたえていませんけど……モデルを務めたのは初めてです。ああいうものなのかと思いました」  あ、直ってきた。 「後でビデオを観て研究し直しますけど、次があればもっと上手にできるはずです。誰でも一回目が慣れないのは仕方ありません」 「……ほんの少しは緊張しましたし」 「うん、緊張しぃって感じじゃないよね、ユーシェは。でもちょっとプレッシャーみたいなものはあったのかも」 「観客に対する緊張じゃなくて、今まで頑張ってきた分の思いとかそういう、思い入れっていうの?」 「そんなセンチな気持ちになった覚えはありません。ま、仮に、ほんのちょっとはあったとしても……」  ユーシェがちょいちょいと僕を手招きするので、なんだろうと顔を近付けた。 「ここじゃ言えませんから、後でお屋敷で話しましょう?」 「ユーシェ」  どんなにカッコ付けてたくさんの男性を魅了してきても、やっぱりユーシェは甘えたがりの恋人だった。 「ユーシェ……うわっ、なんだこの子。ぐったりしてる」 「してません」  さすがユーシェ。ルナ様にはだいぶ本音を見せてると言っても、引きしめるところは引きしめるらしい。一瞬だ。 「まずはおめでとう。中々の歓声だったな」 「そちらこそ。素晴らしい盛りあがりでした。私がいなければ一番だったと思います」 「そういえばユーシェは、卑猥な足を見せて歓声を得ることにだけは成功していたな」 「違います! あれはそういうポージングをしただけです! そもそも卑猥じゃありません!」 「いやいやあの足のお陰で歓声だけは一番だったかもしれない。まあその一瞬だけで、終始盛りあがっていたのは私の衣装だが」 「ええ、前座としては良い出来でした。舞台を温めておくということをよく知っていますね」  他の休んでいる生徒さんたちが、本気で心配した目をしながら僕たちを見ていた。  はい、ごめんなさい。僕たちのクラスだとこれは日常です。 「全くひとが労いにきてやれば……君はショーの後でも変わらないな」 「労いにきたなら最初から言えばいいんです」 「ルナ様は最初から言ってました。おめでとうございます、って。先に絡んだのはユルシュール様です」 「朝日……あなたは所詮、ルナのメイドですね。信用できません」 「……もっとも、もうすぐ私の物になっていただきますけど?」  ユーシェはまだ自信を崩さなかった。「最優秀賞を取れば朝日はくれてやる」。その言葉をルナ様に突きつける。 「……最優秀賞は私だ。それは譲らない」  ルナ様は動じなかった。ふうと小さな息を吐く。  だけどその後に、彼女にしては珍しい、からりとした笑顔を浮かべた。 「最優秀賞は私だ。だがユーシェ、楽しかった。久しぶりに全力で遊んだ気がした」 「遊びではありません。こっちは真剣なんです」 「私だって真剣だ。だがなかなか真剣をぶつけ合う相手もいないからな」 「君というライバルを持って、私は幸せ者だ。今だから話すが、君がスイスから留学して来ると言ってくれた時、共に服飾を学ぶ相手として、これほど頼もしいひとはいないと思ったよ」 「ん……なんです? まるで私がこれから死ぬみたいに最後の挨拶を……それともルナが死ぬんですか?」 「違う、少し浸りたくなった。そんなシリアスな気持ちになるくらい感動しているし、ユーシェの衣装は素晴らしかった」 「そうなんです?」 「ああ。やはり私の先輩だな。競い甲斐のある相手だ」  ルナ様に賞賛されて、今のユーシェはどういう気持ちなんだろう。  きっと複雑な心境なんだろうな。自分では相手を上の位置へ置いていたのに、相手は対等に扱ってくれていたんだから。 「これからもお互い、より良い衣装を作っていこう」 「当然です」  ユーシェはそのまま数秒黙った。これ以上は話すこともないと思ったのか、ルナ様は瑞穂様のもとへ戻りかけた。 「…………」 「あ、あの。ルナ」 「ん?」  振りかえりかけたルナ様は、引きとめる声に足を止めた。だけどその声を掛けた相手は、目線を逸らしている。 「昔、あなたが見せてくれた……私が学校へ持っていくといったデザイン画ですけど」 「ん? ああ、ものすごく懐かしいな。どうしていまその話を?」 「ちょっと思いだしたんです。ちょっと思いだしただけなんですけど……教師たちにとても評判が良かったなと思ったんです」 「彼らは間違ってなかったんですね。成長したルナは、今では幾つもの優れたデザインを生みだせる実力を身に付けたのですから」 「ん、そうか。懐かしいな……少し気恥ずかしい」  この話は、ユーシェがルナ様に対して劣等感を持ちはじめたきっかけだった。  それを打ちあけられたいま、ユーシェもルナ様に対して、少しだけ対等に近付けたのかもしれない。 「うん。気恥ずかしいが、見てもらったものが誉められると嬉しいものだな」 「ありがとう。さてこれから結果発表だ。準備ができ次第、瑞穂は先に向かわせる」 「ええ、私もすぐに舞台へ向かいます」  照れくさがっていたユーシェも、ルナ様に爽やかな笑顔を向けていた。  元から仲は良かったけど、この二人の友情は、これからはもっと深くなりそうな気がする。  ユーシェを取りまく全てが正の方向へ進んでいく。  この舞台へ立つまでに色んなことがあったけど、無理をしてでも参加できて良かった。  あとは結果発表だ。ここまで来たらユーシェに勝たせてあげたい。  僕の中で最も輝いていたのは間違いなくユーシェだけど、それがわかった上でも、やっぱり彼女に栄光を与えて欲しかった。  舞台の上には、今日の参加者たちが各々の衣装を着て一列に並んでいた。  彼女たちの前に立ったのは、世界的デザイナーでもある大蔵衣遠。  今回は厳粛な場でないせいか、女生徒からの声援も多かった。観客の期待も高まっている。 「生徒諸君、今日は中々楽しめた――正直に言えば、最初は期待をしていなかった」 「だが、中には目を見張るべき作品があった! このような作品が今後も生まれ! 才能ある人材が、世に出やすい環境が作られることを願う――さて」  兄がマイクを掴んだ。発表をするつもりだ。 「今回は来場者からの票と、我々審査員の票を集計し、独自な計算法で総合点を決めた。無論、我々審査員の点数が高いものの、そこは了承していただきたい」 「得票数が一位と二位の作品は僅差であり、その作品は並んでいたこともあり、非常に鬼気迫る対決に見えたと俺は思う。実際に観ていた者はみな同じ気持ちだろう」 「その票数は最後まで並んでいたため、俺の一票が決着をつけた」  あ……。  それは駄目だ。兄がどちらに投票するか、僕はすでに知ってしまっている。  やはりいざ現実となると怖いもので、憧れた三年間の学院生活が音を立てて崩れていく。 「フィリア・クリスマス・コレクション、初年度に選ばれた最優秀作品は――」  兄の手が上がった。まっすぐに立てた手を、雷のように振りおろす。 「ユルシュール=フルール=ジャンメール! おまえの作品だ!」 「えっ……」  本人も兄の票が決着と聞いて、覚悟はしていたらしい。状況が理解できていない顔だった。 「えっ……え?」 「何をしている、おまえの勝利だ。早く賞状を取りに来い」 「はい……」  あの大胆なウォーキングをしたモデルとは思えない足取りで、ユーシェが静かに壇上を歩んでいく。  やがて兄の前に立つと、目の前に差しだされた賞状を見て目をぱちくりとさせた。 「どうした。受けとれ。何ら恥じることはない。おまえは勝者だ」 「才能ある人間には勝利する権利がある。おまえはその才能で栄光を勝ちとった。これは誰もが認める結果だ。許されない勝利ではない」 「誇れ! 素晴らしい服だった!」 「あっ……」 「ありがとう……ございます」  ユーシェは強がれなかった。  こんな大事な場面で、多くのひとの目の前で、隠していた本音を曝けだしてしまった。  泣き虫で甘えたがりな僕の彼女は、いまとても素直な少女の顔を見せていた。 「ありがとう、ございます……光栄、ですっ」  嫌悪していた兄の前で泣くことは悔しいだろうと思う。他にもルナ様や湊、瑞穂様も、まだその涙を見せてないひとの前で拭っても拭っても溢れてくる大粒の涙をこぼしている。  本当は余裕を見せたいはずなのに。それでも全てのひとへの感謝が止まらず、ユーシェは顔を手で覆う。 「うぐっ、くっ……申し訳、ありませんっ……少々、お待ちください」 「ちっ、おまえは才能があるものの、精神的に成長をするべきだ。俺は涙を流す女が嫌いだ」 「だが今日は他にも素晴らしい衣装があった。それらの中で最も優れていると認められ、感動を覚えない奴を俺は優秀だとは認めない」 「今日だけはおまえの感動が止むまで俺はこの姿勢のまま待とう! それが俺の才能に対する敬意だ!」 「くっ……ううっ、くっ……ありがとう、ございますっ……!」  おかしいな。僕が見たかったのは、栄光に輝いて、最高の笑顔で笑うユーシェだった。  だけど今のユーシェも最高に綺麗だと思える。  だけどこの後は……泣きやんだら、その時は笑って欲しいと思った。  やがて、まだ涙はこぼれていたものの、それが小粒になった頃、ユーシェはようやく賞状を受けとった。  兄は教員から時間を示されていたものの、ふンと鼻を鳴らして、再びマイクを握った。 「ジャンメール家の末妹、才能ある少女。おまえには聞きたいことがある」 「え?」 「正直に言おう。俺はおまえのデザインは気に入ったが、最初はそれでも票を入れないつもりでいた」 「だがこの花……たったこれだけの間に枯れてしまったが」  兄はショーの途中で床へ落ちた花弁をユーシェに見せた。一瞬の輝きののち、萎れてしまった白い花が指に挟まれている。 「これはスイスの国花、エーデルワイスだな」 「花を衣装と認めない輩はいるかもしれないが、俺は違う。この世のありとあらゆるものは、人間が着られるものならば、それは衣服として認められるべきだ」 「何より、この花は美しい。これが造花ならば俺は感動を受けなかっただろうが、生きたこの花には、明らかな輝きを放った生命力があった」  ユーシェは困っていた。兄の話を聞き、気まずそうに頷いている。 「だがこの花は夏の花だ。どうやって手に入れた? 科学者の知りあいでもいたか」 「それは……」  ユーシェの目が観客席に漂う。兄も察したようで、同じように周囲をぐるりと見渡した。 「小倉朝日、おまえだろう。出てこい」  僕だ。あくまで影の協力者である僕が、あんな華やかな舞台へ呼ばれていいんだろうか。 「何をしている。時間が押している、早く来い」  だけど兄から叱られてしまった。怒らせても怖いので、僕は恐る恐る壇上にのぼった。 「今の話は聞いていただろう。ジャンメール家の末妹に代わり、説明しろ」 「はい」  一応、観客全員が聞いてるから……マイクで説明しないといけないんだろうなあ。 「まず前提として、この花は『セイヨウウスユキソウ』……『エーデルワイス』ではありません」  観客席がざわめいた。唯一、説明がなくても見抜いたユーシェだけは、困った表情をしている。 「この花は同じ科の『ウスユキソウ』という花で、高山地帯ならスイス以外にも咲いています。日本にもあります。ただ、時期は同じ夏ですから、高山地帯でも季節が逆になる南米から取りよせました」  観客席がさらに大きくざわめいた。兄だけは一人で納得している。 「たった一日……いえ、ほんの数分間のことですから、エーデルワイスを連想させるものとして使いました。彼女にはこれが似合うと思ったんです」 「なるほど、よくわかった。その工夫は認めよう」 「ただ念の為に言っておく。繰りかえしになるが、これはジャンメール家の末妹のデザインが優れていた故に、この感動を起こしたものだ。同じことをやってもただのお遊びにしかならない」  同じことはできません。というのが大半の意見だと思うけど、兄はそれができてしまうひとなので、観客席の心の声には最後まで気付かなかった。  僕の説明が終わると式は再開し、兄は発表を続けた。僕はここにいていいものか迷ったけど、兄が舞台袖で待てというから、言われた通りの場所で立っていた。 「では最後に最優秀賞を取った感想を述べてもらう。ユルシュール=フルール=ジャンメール、前へ出ろ」  もうユーシェは泣きやんでいて、賞状とトロフィーを片手にマイクを受けとった。  兄は僕の隣へやってきた。何の罰を受けるのかと思って脅えたけど、いまの兄からは威圧感を覚えなかった。 「遊星」 「ひっ」  兄は容赦なく本名で呼んできた。袖には誰もいないとは言え、怖すぎる。 「はい。なんでしょう」 「勝負の件だ。これで、おまえが三年間この学院へ通うことを許す。周りにバレた時は……俺が揉みけしてやるからすぐに知らせろ」 「はい。ありがとうございます」  どういう風の吹きまわしだろう。兄の優しさは逆に恐ろしかった。 「…………」 「…………」 「あの、衣遠兄さま」 「なんだ」 「ひとつだけ質問を許していただけるでしょうか」 「くだらないことでなければ、勝利の褒美として答えよう」 「はい。兄さまはユーシェには票を入れないと仰られていました」 「それがどうして心変わりしたのでしょう?」 「ふン、その程度もわからないのか。弟よ、理由は三つある。ひとつはおまえの仕掛けを見て素直に感心したこと」 「はい」 「二つ目は、区から来た来賓客の審査員の一部が、ジャンメール家の末妹を認めつつも『日本人であるから』桜小路に票を入れたこと。俺は国籍などに拘る愚物が嫌いだ」  そんなことがあったんだ。じゃあ本当のところは、さらに票を獲得してたんだ……すごいよユーシェ。 「最後に、実際によくできた衣装だったということだ。それがなければ確実に桜小路に入れていた」 「はい。ありがとうございます、お優しい衣遠兄さま」  でも結局はそれに尽きると思う。ユーシェの衣装が素晴らしかったから。それが一番の理由だ。 「あの縫製はおまえがしたと思っていいな? 〈型紙〉《パターン》もおまえらしいな」 「あ、はい」 「悪くなかった。おまえを卒業後に使うことも視野に入れておこう。その為にこの学院で才能を伸ばせ」 「兄さまの下で……?」  意外な提案だった。一度は捨てられた僕のことをもう一度使おうとしてくれるなんて。 「はい。衣遠兄様に認めていただいたことを嬉しく思います」 「ふン。まだ認めたわけではない、せいぜいその腕を磨け」  それでも兄が僕の隣に立ってくれるなんてことは今までなかったから、口には出せないけれど、今こうしていることを嬉しく思った。 「ジャンメール家に送りこみ、繋がりを得るという使い途もあるがな」 「あの、そ、それは……あ、ユーシェが喋ろうとしています。聞いてあげてください」  壇上ではユーシェがマイクを握り、観客席の前でスピーチを始めようとしていた。  ユーシェは、少し照れくさそうに、でも嬉しそうにしている。  今までずっと憧れてきた栄光の舞台。その中心で、彼女はまっすぐに前を見た。 「最優秀賞をいただき、ありがとうございます。まだ感動をしています」 「この受賞はもちろん私ひとりの力ではありません。多くのひとに支えられています。そのひとたちにも心からお礼を伝えたいと思います」  観客席からは口笛や歓声。ユーシェはその見た目もあって、人気みたいだ。 「ただ、せっかくの受賞に水を差すようですが、私は学院長の言っていたように才能のある人間ではありません」  その発言は隣のひとを刺激しそうで怖かったけど、兄は黙って話を聞いていた。 「私には才能のあるライバルがいます。私は彼女と何度か競い、一度も勝てずにいました。その人が多くの人から認められはじめた頃、置いていかれる自分に不安を覚えたこともありました」 「ですが今日、初めて彼女より私の衣装が認められ、自分のやってきたことが正しいのだと自信を持つことができました」 「これでようやく彼女と同じ舞台に立てた気持ちでいます。私のライバルは才能の豊かな人です。これからも素晴らしいデザインを生みだして、私を何度も驚かせてくれると思います」 「才能のない私は、これからも何度も何度も彼女に挑もうと思います。その度に悔しい思いをするでしょうが、何枚でもデザイン画を描きつづけます。ひとが努力と呼ぶことを、しつづけようと思います」 「だってそれだけが、才能のない私が輝くことのできた、唯一の理由だからです」 「やー、おめでとっ!」 「おめでとう、ユーシェ」  ユーシェが受賞したプチ打ちあげ。僕たちは教室へ集まり、パックジュースで乾杯した。 「オーッホッホッホ! それほどでもありません!」  ユーシェは賞状を広げながら二人の前で謙遜していた。 「まあ勝負は時の運といいますし、この〈勝利〉《しょうり》もたまたまです。これからはこの〈勝利〉《しょうり》に自惚れず、今後も〈勝利〉《しょうり》を続けていけるように〈勝利〉《しょうり》していきたいと思っています」  あれ? あんまり謙遜してない? 「や、でもほんとよくできてたよねユーシェの衣装!」 「そちらには〈経験の浅いひと〉《みなと》もいらしたから。その点こちらは朝日と私のみですから優秀でした」 「衣装だけじゃなくて、着てるユーシェもすごく綺麗だった」 「今まで磨いてきたスタイルのお陰です。勝因は〈ウエスト〉《みずほ》でしょうか」 「じゃ、私たち負けた組だからそろそろ帰るね」 「うんそうしよう。今日はおめでとうユーシェ、じゃあね」 「あ、あらもう終わり? もう少しみんなでお祝いできると思ったのに……」  自分の何が悪いか、本気でわかってないんだろうか。ユーシェは寂しそうに二人を見つめた。 「や、や、そんな寂しそうな顔しないで。てかさ、実際さ、ルナがさっきからいないんだよ」 「あ……ルナ様はどちらへ?」 「どこだろうね? でもルナも負けず嫌いだから、やっぱり悔しかったんじゃないのかな?」 「ま、のこのことやってきて余裕同然の顔で『おめでとう』と言われるよりマシです。ルナは今まで私がした悔しい思いを少しは味わえばいいんです」  ルナ様……が、まさか部屋で泣いたりしてる? ちょっと想像できないけど……。  いやでもユーシェのときだって「まさか!?」って感じだったし、あってもおかしくない。  僕もあとで屋敷へ戻ったら顔出した方がいいのかなあ。 「ていうか負けて落ちこんでるときって、どんなとこでヘコむの? どんなことしてるの?」 「……なぜ私に聞くんです?」 「やはり一人の方がいい? それとも声を掛けてもらった方がいいの? それとも一人になりたい振りをしつつも構ってもらいたい面倒くさいタイプ?」 「ですから、なぜ私に聞くんです? 言っておきますけど、私は今回勝った側です。見てくださいこの賞状! 最優秀賞と書いてあります!」  ユーシェは嬉しそうに賞状を突きだしたが、既に見てもらうのは十二回目なので、仏の瑞穂様といえど、さすがにげんなりし始めていた。 「あ、じゃあジュースも空になっちゃったし、そろそろ屋敷へ戻るね。もしルナも戻っているのなら、三人で乾杯するのも少し気になるし」 「そだね! ユーシェも一緒に帰る? 屋敷へ戻ったら、ポテチ食べながら賞状の話を聞いてあげるよ」 「あ、いえ……私はもう少し余韻に浸っていたいので、教室へ残ります」 「私も、今日はユルシュール様にお付きあいしようと思います」 「そなんだ。ま、あんまり寒くなり過ぎないうちに帰ってきなよ。あと今日は本当におめでとう!」 「ごきげんよう。ユーシェ、長い間追いかけてきた願いがようやく叶ってよかったね」  親切な挨拶を残して、関西コンビの二人は教室を出ていった。  後に残ったのは僕たち二人。サーシャさんは衣装を屋敷へ運んでいき、今はもう自分の部屋にいるはずだ。  今日はショーが終わったらすぐに帰った生徒も多く、この教室はもう一時間以上、他の生徒が入ってこなかった。 「……二人きりですね」 「え? はい、二人きりですね」 「もう二人きりですよ。どうして敬語なんです?」 「あれ? えーと流れ、かな? うんもう大丈夫だよ。というか制服の時は二人きりになる機会はあんまりないから、その」  実は、ちょっと恥ずかしかった。  朝日のままで喋るのは、それほど恥ずかしくないんだけど……ってそれも立派に変態さんかな。女装になれないよう気を付けないと。 「でもよかった。二人きりになったら話したいことが幾つもあったんだ」 「私もです。その中でも、お礼は何度言えばいいのかわからないほどです」 「でも一番驚いたのは、あの花です。一日二日で取りよせられるものでもないでしょうし、予め準備していたんですか?」 「うん」 「輸送費は? 普通の金額ではないでしょう?」 「大丈夫。今まで桜小路で働いてきたお給金でなんとかしたから」 「いけません。半分は私に持たせてください。ポケットマネーでなんとかなると思います」 「うーん」  本当は自力でなんとかしたかったけど、知っちゃった以上は、ユーシェの性格上、受けとらないとこれからずっと言ってくるだろうなあ。 「うん。わかった、半分。二人で作った衣装だからってことでね」 「はい。あれがなければ最優秀賞は取れませんでした。それだけではなく、励ましてくれたこと、衣装を作ってくれたこと、私がデザイン画を描くのに付きあってくれたこと……」 「文字通りこの受賞は二人でひとつです。本当なら舞台にも二人で立ちたかった……もう私の半身と言っても過言ではありません」 「僕も、そう思ってる。ユーシェと二人でデザインをして、この道で生きていければなあ、って……」 「なっ!? そ、それ、はっ……遊星さんがスイスへ来てくれるということですか?」 「うん。前向きに検討する」 「ああ……今まで何度お誘いしても受けいれてもらえなかったのに。遊星さんがあのお兄さんから逃げて、いっそスイスへ来てくれればどれだけいいと思ったか……」 「嬉しいですっ、幸せですっ。早くその日が訪れてくれないか困ってしまうくらいです」  ユーシェが飛びついて抱きついてきた。じゃれつくような頬ずりを受けながら、その後頭部をよしよしと撫でる。 「だけど、日本でもう少し色々なことをして、ユーシェと楽しい時間を過ごしたい気もするんだ」 「はい。遊星さんと一緒ならどこにいても嬉しいです。でも一度はスイスへおいでください」  抱擁の力は徐々に強くなってきた。でもこれ、万が一誰かに見られたら女同士にしても言い訳できないだろうなあ。  誰か来ないことを切に願いたい。校内恋愛の噂は、色々と面倒そうでちょっと。メイドが百合だと噂になったら、ルナ様にも迷惑が掛かりそうだし。  うーん、屋敷へ戻ろうかな? 「…………」 「あの、遊星さん」 「ん?」 「きのう私から誘ったときは、遊星さんは失礼にも断りました」 「えっ」  据え膳食わぬは、なんて言葉がヨーロッパにもあるのかな。  というより空気がそっち方面に向いてる気がする。向きを変えたいけど、いい話題転換が思いつかない。  ま、まさかここで……ってことはないだろうけど、屋敷へ戻ってからなら、ユーシェと抱きあっていたいし、そういうのもやぶさかじゃない。照れるけど。 「昨日はほら……本番前だったし? 体力的にもユーシェが辛いかなと思ったから」 「では今ならいいんですね?」  え゛っ。  という声はなんとかこらえた。せっかく喜んでるユーシェが拗ねてしまう。 「わ、私はこれでも、あの会場で一番に選ばれたんです。今日に限って言えば、この学院内で最も魅力的な女だという自信があります」 「今日だけじゃなくて、ユーシェはいつも魅力的だよ」 「うれしいですっ」 「わ、わ、わ」  ユーシェが体重を預けて、僕を壁へ追い詰めにかかってる。 「好きです好きです。遊星さんに誉めてもらえると一番嬉しいです」  わああ。かわいい、けど、せめて場所……。 「遊星さん。この学院で一番の女性が、なんでもしてあげます。どんなことをしても構いませんし、どんなことでもしてあげます。魅力的だと思いませんか?」 「待って。ここ、教室だよ?」 「だってもう我慢できません。屋敷へ戻ったら、皆さんが改めて打ちあげをしてくれるかもしれませんし」 「それは一理ある……けど、ここじゃなくても」 「私……あんなに大勢のひとから喝采を浴びたのに。遊星さんからは興味を持ってもらえないなんて……」 「もー!」  あまりに押せ押せでこられて、僕はその体を抱きしめてしまった。  そしたらユーシェは猫になってごろごろ甘えはじめた。世間的に女同士の認識だから……いざとなったら、採寸してましたでごまかそうかな……。  そして目立たない方がいいとわかっていたのに、何故か制服を脱がせて机の上に載せてしまった。  というのも、さすがにユーシェを床へ寝かすのは躊躇われたからだ。シャツは白いし、僕たちも靴を履いてるし。  寝かせたら汚れてしまう……と思って机の上へのってもらったんだけど……。 「細いからなりたつことだね。えと、バランス悪くない? 大丈夫?」 「はい、大丈夫です。ちょっと腰から下が怖いので、しっかり支えてほしいです」 「それで、どんな風にしてくれます? キスはいっぱいしてくれます?」  ユーシェは積極的だし……とりあえず早く早くと急かされたので唇にキスをした。 「鍵は掛けてきたけど……誰も来ないといいなあ」 「こういう場合に鍵付きのドアっていいですね」 「ううん、こういう場合は滅多にないよ。今はかなりの非常事態だよ」 「はあ……ふだん生活してる空間での営みは、胸の高揚がいつもより少し大きいです」 「明日から……あ、もう冬休みだから、来年、この机を見る度に今日のことを思いだしてしまいそうで怖いです。キスしたくなったらどうしよう?」 「どうしようも何も、他のひとの前でキスなんてできないよ?」 「私はしてしまってもいいのに」  んふー、とユーシェは得意顔。今日のユーシェはいつも以上に自信家で甘えん坊で無敵モードだ。  ちなみに机はユーシェのものを使った。さすがに他人様の机は使えません。 「はっ! そうだ、せっかくだからルナの机をベッド代わりにして、過去の遺恨をここで晴らして……!」 「そんなの駄目だよ」  おかしなことをこれ以上言わせないようにキスをする。そうしたら首の後ろに両腕を巻きつけられてしばらく離してもらえなかった。 「ぷは……こ、こんなにがっちり抱きつかれたらキスできないよ」 「じゃあ早く愛してください。もう体の中で滾っているものが抑えきれなくて、今にも爆発しそうなんです」  受賞したときの興奮を引きずっているのか、ユーシェの顔はもう火照っていた。ゆっくり進めていたんじゃこっちが襲われかねない。 「ふふ、恥ずかしいです。でも今はこの高揚感も心地いいです」  ユーシェは本当に絶好調だった。ほとんど肌着のみの姿でも気にしない。 「早く愛がほしいです。愛してほしいです」 「今からいっぱい愛するつもりだよ」 「ひゃ」  首筋にキスをすると、甘い声が漏れた。  しかも首に顔を近付けたら、ユーシェの方からぐいと胸を押しつけてきた。大きすぎて体にめり込む。  してくださいってことなのかな……まだ慣れてないから、ユーシェから求めてもらった方が僕もありがたいけど。  胸をむにむにと揉んでみる。 「んっ……ふうっ……」  柔。  わかってたけど柔らかい。下着の上からでも、右へ左へ自在に歪む。 「んっ、ふっ……はっ……はあっ……」 「んっ……んっ、はっ……んっ、んん……」 「んっ……なんだか今日は前のときより……」 「ん?」 「いえ……なんでも……」  ユーシェは呟きながら目を逸らした。その頬が赤い。  前のときより反応がいいのかな……? 「胸……大きいですよね……」  そのことをごまかすかのように、ユーシェは別の話を振ってきた。 「今さらですけど……というより自分ではどうしようもありませんけど、胸は無くてもよかったと思います……」 「衣装作るのが大変だった?」 「はい……この一ヵ月ほど、自分の体型を恨んだことはありませんでした……」  胸が大きいと大変だよね。綺麗に見せようとすると、型紙に余計な線入れないといけないし、ラインが微妙だったときに直すのも大変だし。 「そうだね、ルナ様くらいでよかったかも」 「本当に女性の体に興味ありませんね。普通男性は大きい方が喜ぶらしいですよ? この大きさがあなたのものですよ?」 「でもシャツとか作りにくいし」 「私の胸の魅力より服飾……ちょっと屈辱です。愛してほしいのに」 「あ、ごめん。悪気はなかったんだ」 「ではこれでどうです」  ユーシェは自らシャツのボタンを外し、ブラまでずらして、ばんと胸を露出させた。ド迫力。 「ちなみにこれがどれだけ贅沢なことかわかっていただきたいです」 「うん。ユーシェの顔が真っ赤だからわかるよ」  ユーシェが自分の身体に興味を持ってほしくてがんばってることがよくわかった。  その突端にキスをする。そして唇でころころと転がした。 「んっ、ふっ……はあっ……んっ! んっ、くぅ……」 「はあっ、やっ……ふっ、はっ……んっ! んっ、んんっ……!」 「ふあっ……む、胸ってこんなに……感じる場所だとは思いませんでした……んっ!」 「気持ちいい? ユーシェが望むならどれだけでもしていい」 「はあっ、そんな……うれ、しいことを……好き……もっとして……好き……」 「ううっ、もう……胸、だけじゃ……あの、別の場所も……んっ!」  剥きだしになっていた足の付け根にキスをする。そのまま腿の裏側を舌でなぞった。 「はっ……! やっ、ううっ……くすぐった……!」  指でなぞりながら、舌で丁寧に舐めていく。唾液の跡がいやらしい。 「はっ、ふうっ……はっ、ん……ふふ、まるで奉仕してもらってるみたい……」 「間違ってないかも。今日はユーシェがして欲しいことをいっぱいしてあげたい」 「一番に選ばれたんだから、そのくらい恩恵があってもいいと思う」 「じゃあ今してるところ……その先も……してください」 「うん」  いきなり本命だ。そしてもう下着にはっきりと影ができるほど湿っている。  下着の上からそこに口をつけ、舌を動かして刺激してみた。当然だけど布の味。 「ひゃッ……! やっ、あっ……前の時より、感じます……」 「はっ、はあっ……んっ、ひっ、んんッ……やっ、もっと……はあっ、んっ、ひうっ……」 「はあッ、んっ! やっ……ん、ふっ……んふ、はッ……あ、やっ……んんんっ……んぅ!」 「そ、んなっ……体の芯を弄られてしまうと、もうそれだけで……はあっ、はっ……」  机の上でユーシェが乱れる。腰をしっかり抱きつつ、舌での愛撫をユーシェの敏感な箇所へ近付けた。 「んッ! んんっ……はっ、そこは、つつかれると……はあッ、はっ……んんんッ!」 「はッ……あっ、ふあっ……んっ! んンっ、ふっ……ヒあっ! あ、はッ……ん、んんっ!」 「はあっ……好きです……好き……愛しい……大好きなひと……はっ、んんっ! はッ、やっ、ひあんっ!」 「もっと……んっ! もっとしてくださ……ひあっ! あっ、ふあっ! やっ、やあっ……きゃんっ!」  感度高い……直でしてあげた方が喜ぶのかな?  下着をずらして舌を差しこむ。直で触れた途端、ユーシェの尻がぶるっと揺れた。 「あ、やッ……! そん、なっ……やっ! ひあっ、あ、ああっ! ひゃんっ! ひんっ!」 「あ、ああっ、そ、んなっ、ひゃうっ! やっ、ううっ、んくっ、ひうっ! やっ!」 「もっ、まだ……ちょっと、しかしてもらってないのに……ひっ、ううっ、やっ……ひぅんっ!」  す、すごぉ……机に滴るくらい垂れてきた。それもまだ舌だけでしか触れてないのに。  やっぱりその、今日の興奮を引きずってるっぽい。でないとこんな……ここまで……それとも今までが抑えめだっただけで、これが普通? 「はっ! やっ! も、もうっ! これだけでっ……やっ! ひっ! も、ああッ!」 「はあっ、切なっ……あ、ああああッ! やっ、体が、おかしッ……や、ふあっ! あ、ああっ、足りなっ……ああっ!」  舌先で、ぐりぐりとユーシェが感じる部分を責める。 「ああっ、あっ! ひっ! んんっ、あッ……ああっ! もっ、と……ああっ!」  わああ。机の上にどんどん溜まってきた。その上、ユーシェが自分からどんどん恥ずかしい体勢に。  ユーシェは、見てるこっちが恥ずかしいくらいに足を広げはじめた。もちろん自分の意思じゃないだろうし、時々気付いたように慌てて閉じようとする。  だけど舌先がユーシェの核に当たった瞬間、すぐにまただらしなく広げてしまう状態だった。 「やあっ、わた、しっ……こんなっ……恥ずかしっ……やっ……! 貴族の、娘がっ……こんなっ……」 「はあっ、あっ、やッ……ああっ! んッ、はあっ、あっ、んんッ! ふあっ、はっ、ん、くっ……!」 「やっ……な、かも……して、くださっ……あっ、はあっ!」  求められているけど、これで指を入れたら大変なことになるとわかりきってる。  でも、ユーシェが喜んでくれるなら……という気持ちでぬぷりと指を差しこんだ。 「あ……ああ、あっ……ああっ……!」  舌の動きもそのまま、核をくりくりと弄りつつ、差しこんだ指をぐにりと一回転させた。 「もっ……! あ、ああっ、はッ……! ああっ、あっ、ああっ……!」  びくんと大きくユーシェが震えた。それに合わせて、指でぐりんとユーシェのそこをつまみあげた。 「ああああああああぁぁ――っ!」 「ふあっ、あっ、あああぁぁああっ……! ひあああっ!」  ぶるぶると何度も震え、ユーシェは一際大きな嬌声をあげた。その足が硬直したように爪先まで力が入っている。 「あっ、ああっ、あっ……はあっ……」 「はあっ……あっ……ふあぁ……あ、あぁ……わたし……」  だ、大丈夫かな、声とか外に……少し心配になったよ。 「すごいね……ユーシェ、大丈夫?」 「う……うぅ、は、恥ずかしいことを聞かないでください……私……こんなになるなんて……」 「でもこれは……あなたのことが好きだからです……本当に……好き……好きです……」 「わかってる。僕も好きだから」 「キス……」 「うん」  キスをするとユーシェ少し落ちついた。自分の痴態が相当に恥ずかしかったみたいだ。 「口と指だけでこんな……もっと……肌を感じたいのに……」 「ごめん、やり過ぎだった?」 「い、いえ、自分が恥ずかしかったという話です……私……」 「私も、してあげたい……それと、もっとして欲しい……」 「えっと……僕は大丈夫だけど、ユーシェはいいの?」 「はい、もっと深くまで……最後まで繋がりたい……」 「いっぱいしてもらえて……私もたくさんしてあげたい……もう何も考えなくていいくらいに……」 「ん、んー?」  難しい注文だなあ。最後までする前に、ユーシェはいま自分がされたことと同じことを僕にしたいみたいだ。  そんなわけで自然とこういう形になった。  二人で舐めあったりしているうちに体勢が崩れ、お互いの秘所へ目的地を目指し、やがて寝転がり僕たちは求めあった。というか床。なのでせめて制服は脱いだ。  本当、止める間もなく自然とユーシェがそこにまでキスしたときは驚いたけど……何も言わなくても咥えてしまったのにも驚いた。  大丈夫かな……ユーシェは勢いでやってしまったものの、我に返って恥ずかしがったりしてないかな……? 「むっ、はっ、ちゅぱ、んっ……んむ、んっ、ちゅう……んむ、はッ、はあっ、んむっ……」 「はっ、ちゅぱ、ちゅぽっ……ちゅぽん、じゅるっ……じゅぽ、じゅぽっ……! んっ、はあっ……」  我に返らない!  ううぅ〜、ユーシェは夢中になってたからいいけど……いっそ何も考えずにいられれば良かった。  一度恥ずかしさを覚えてしまった僕は、まだ少し動揺してる。舌でつついたりはするものの、自分がされているから集中できない。 「んむっ、はっ、ちゅぱっ……じゅぽ、じゅぽっ! んむ、ちゅっ、んじゅる、るるぅ……」 「ちゅぅ……はっ、はあっ、んっ、ちゅっ……んむ、はっ……好きです……んむっ」  うわ、ユーシェに口でしてもらうと、気持ちいい……。  う……こんなの、いいのかな……貴族の娘のユーシェにこんなことさせて……しかも僕もユーシェのが……目の前にあるし。 「んむっ、はっ……して……くれないんですか……?」 「あ……ごめん、ユーシェにしてもらうのがあんまり気持ちよくて、ぼーっとしちゃって……」 「んむっ! じゅぷっ! じゅぽっ! じゅるるるるぅ! じゅぱっ! ぢゅぱあっ!」  やる気が出た!  尽くしてくれるのは嬉しいけど、ユーシェがあとで恥ずかしがっちゃいそうで不安かも……でもそんなの今さらか。  求められたし、僕もユーシェにしてあげたい……。  両手を使ってユーシェの大切な場所を開く。そこへゆっくりと舌を挿しこんだ。 「んむっ、ちゅぱっ……んむっ?」  舌をれろれろと入り口で動かす。這わせるように、つつくように形を変えて責めてみる。 「はっ……んっ、ふあっ……ああ……」 「んむっ、ちゅうっ……あっ、ああっ……やっ、んむぅ……ちゅうぅ……ふあっ」 「はあっ、気持ちいい、です……あっ……はああっ……ふぅ……わ、わたし、も……」  なんかもう……自分たちが獣みたいだ。でもユーシェにされながらしてあげてると、どんどん没頭していくような……。 「んむっ、ちゅっ、ちゅぱっ……はあ、はあっ……んっ! んんッ……はあっ、あっ!」 「好きです……これほどひとを愛しいと思うことがあるなんて……あむっ……ちゅう、じゅうぅ……」 「じゅぱっ! じゅぽ、んむっ、んむむっ……ふあっ、あっ……んむっ……じゅぷっ! じゅぽ、じゅるっ!」  気持ちよくて、ユーシェに任せてしまいたい感覚に陥ってきた。  だけどこの格好だと一応僕は使用人。お客様にしてもらったりってのも……奉仕しないと。  ユーシェの入り口は僕の唾液と彼女の愛液でべとべとだ。  指を二本当てて、彼女の中へ滑りこませた。さしたる抵抗もなく呑みこまれていく。 「はあああぁぁぁっ……!」  挿入の感覚に反応したのか、ユーシェが快感にまみれた声を漏らした。その足にぎゅっと力を入れたのがわかる。  ユーシェに呑みこまれた指を彼女の中で蠕動させるかのように動かす。快感が強いのか、ユーシェの愛撫が止まった。 「はっ、ああっ! あっ……やっ……くぅ……んっ、ふあっ……ん、ふぅ……」 「ううぅ……はっ、ふあぁ……んっ! はあっ……あぁ、うっ、やっ……」  次にじゅぷじゅぷと彼女の中を出し入れした。溢れるほどの愛液のせいか、まるで抵抗なく手を動かせる。 「ああっ! あっ! あああっ……はっ、ああっ……ううっ、はッ……あっ」 「そんなこと、されたら……ああ……この、愛しい部分を……はあっ……」 「ふああっ! あっ……やっ、そんな激しくされたら、私ができなっ……ううっ、す、少し待って……!」  待ってと言われたので、指の動きはぴたりと止めた。代わりに舌で彼女の核を愛撫する。 「はっ、ううっ、そっ……んなっ……あっ! はっ、ううっ……そんな意地悪を……」 「うっ、ううっ……ん、れろっ……ちゅ……」  ユーシェの責めが今まのものと少し変わった。咥えるのではなく、舌を這わせて愛撫する。  その範囲が徐々に広がっていき、次第に元々していた部分からも遠ざかってきた。 「え……」  ユーシェの舌は本体を舐め、その次の膨らみを舐め、足の付け根の間も通って……。 「んぶっ、んっ、んんんーっ……れろっ、れろぉ……んっ、れろ、べろっ……」  声をこらえつつ、彼女の舌は僕が最も触れてほしくない部分に到達した。  つまり後ろの穴だ。 「うえええっ!?」  しかも僕が反応したのを察知したのか、舌の動きが激しくなった。唾液をたっぷりと付け、べろんべろんと舐めまわす。 「やっ、そんなの駄目だってば……! ユーシェにそんな……ふっ……!」  しかも思ったよりくすぐったく、力が抜ける。僕の手と舌の動きが止まったことに気付いたユーシェは柔らかい声で……。 「待ってって言ったのに酷いです……お返しです」 「いいいいいいうううっ!?」  それまで舐めていた場所へ、指をずぶりと挿しこんだ。  もう。なんだかもう。こんなことされるとは思わなかった。  正直に言えば痛くはない……だけどものすごく怖い。どうして僕はこんなことをされてるんだろうという不安が一番怖い。  その上、先程の返しとばかりにユーシェの指がぐにぐにと動く。苦しくはないけど屈辱的。 「ユ、ユーシェっ……そんなの……」 「でも……私もされましたし……大丈夫です、爪は外してますから……」  いやつけ爪だからとかそういう問題じゃなくて……ううっ!?  ユーシェは指を挿したまま前の方をぱくりと咥えた。そのまま舌を絡めて舐めまわす。  そうしたら妙な快感が走った。今までとは違う感触に、ユーシェの口の中で惨めにも大きくなってしまう。  ユーシェは挿した指をミミズのように動かして掻きまわす。それと同時に前を口でされるのは、自分を開発されてるみたいだった。  今まではそれなりにまっとうなことしかしてこなかった気がするけど、これは。  いくらユーシェが付きあってる恋人とはいえ、完全に支配されてる……。 「ちゅっ……じゅるっ、ちゅうぅ……ちゅぱっ」 「はっ……んくっ……!」 「あっ……その息遣い、かわいい……ふふっ」 「酷い……というよりこれはいくらなんでも……」 「同じことを私にしたのに……んんむっ、ちゅっ……」 「だ、男女じゃ全然違うでしょ……んんくっ!」  力が抜けそうだ……でもここでへたったら後はユーシェから好きなようにされるだけだから、男の意地を張って彼女を責めた。 「んんっ、むっ、れろっ……はっ、ふあっ……はっ、んっ……くっ」 「じゅるっ、じゅぷっ! ちゅぱっ、んっ、ちゅううぅ……じゅぷっ! じゅううっ!」 「んむっ、ちゅっ、じゅるるぅ……じゅぶっ! じゅぷ、んぽっ……はあ、はっ……んっ」  ユーシェはこれを……わかっててやってるのかな。  いやきっと天然だ。ネットはひと通りできるみたいだけど、彼女がこの手の行為について自主的に調べるとも思えない。  とても恥ずかしい……けどこんなことをされたら、少なくとも僕は他の女性のもとへいけない。  もうユーシェから離れられない……最初から離れる気は、ないけど……。 「ぴちゅ、ちゅぱっ……んちゅうぅ……ちゅぱっ! ちゅば、んちゅ、れろっ……」 「はっ、ふあっ、んっ……気持ちいいです……もっと……」 「んちゅっ! じゅる、じゅぱっ……じゅぽ、んじゅるっ……ちゅぱっ! ちゅうっ」  ユーシェは僕の下半身をぎゅっと抱きしめた。本当に、愛しいと思ってくれてる力が伝わってくる。 「ふはっ、はっ……あっ! ああっ、ううぅ……こんな……自分が、こんなことしてるなんて、信じられません……」 「ぷはっ……え……? うん、それは僕も……ユーシェはこういうの嫌いだと思ってた」 「もう……愛しすぎると、怖いものは何もなくなるんですね」 「だからお互い様だってば。いまも、ユーシェから一生離れられないなと思ってた」 「うれしい……!」  あ、いや……ロマン的な話じゃなくて、こんなことされたらって意味があったけど。  だけどユーシェが喜んでくれるなら、勘違いもそのままにしておいていいかな。 「ユーシェ……」 「はい……?」 「最後までする? ユーシェが、疲れてなければ……」 「いえ、したいです……そのくらいの体力は残ってます」  本当は泣いたりもしたから疲れてると思う。  だけど僕も繋がりたいと思っていたから、少しだけ頑張ってもらうことにした。 「途中で辛くなったら遠慮せずに言って」 「はい、大丈夫です……これにしがみついていれば大抵のことは」  ユーシェは机に被さる格好で、僕に大切な場所を晒していた。  それにしても後ろから見るとよくわかるけど……足長いなあ、ユーシェ。  腰も細いし……お尻も超小さい。偶然なのか、ジャンメール家に美人が多いのか、スイスに美人が多いのか。 「じゃあいきます」 「はい。よろしくお願いします」  今までずっとしてもらってたから、そんなに長くはもたないかもしれないけど……。  ユーシェの綺麗な肌と体型を見つめつつ、体重を上からのせるようにしながらユーシェの中へ挿入した。 「はあっ……! うっ、んうっ……! や、やっぱり指とは違います……ね」 「そういうもの?」 「はい……安心感というか、温かいというか……相手がわかっているからかもしれませんけど」 「うん……言われてみれば安心感、あるかも。包まれてるっていうか」 「そういってもらえると嬉しいです。私の身体で、最後まで果ててください」 「果てるんだ」  わかってて言ってるのか、単純に日本語が苦手なのか微妙なラインだ。  僕は一度息を吐いてから、ユーシェの中で動きはじめた。最初はゆっくり、確かめるように。 「はっ……んっ、ふうっ……はっ、ああっ、はっ……あ、あああっ、あっ、ふあっ……!」 「んっ、んうっ……んっ! あっ、ああッ、あうっ……! あ、ああ、あぁ……あ、あああっ!」  スムーズに進むことがわかってからはリズミカルに。テンポを上げて突きはじめた。 「ふあっ! あっ! ああっ、ふッ、はあっ……やっ! ああっ、くぅ、はッ……あ、あああっ、あっ……!」 「いっ、いいっ、です……気持ちいい……気持ちいいですっ! ああっ、あッ、はあっ……あ、あああっ!」  う……やっぱり、すぐに高まってきた……ユーシェの中、すごく気持ちいい。 「ユーシェ……締めつけられて、なんかもう……あまり長くもたないと思う……!」 「そ、それは私もですっ……いっぱい、してもらったから……もう充分に、高まっていて……」  ユーシェの言葉が嘘ではないと示すように、接合部には何度も掻きまぜられた粘着液が溢れている。 「ああッ! あっ、やっ……んッ! んんっ、はッ、もっ、ああっ……あ、やあッ……!」 「ふあっ、あっ、くうっ……あ、ああああっ……好きですっ……うう、あっ、愛しい……そう思えるこの瞬間が好きです……」 「はあっ、あっ、あああッ……やっ! あうっ、あっ、んんっ……ん、くうっ!」  お互い、息が乱れて荒くなってきた。限界が近い。 「うああっ、あっ、んッ……ああっ、はッ、もっ……ああっ、私っ……ああっ!」 「私……なんて、幸せなんでしょう……はッ、ああっ、ようやく悩んでいた自分から一歩踏みだせて……んんっ、くっ……栄光の舞台にも立てて」 「その感動がまだ胸に残っている中……こうして、愛しいひとに愛してもらえるなんてっ……!」 「本当に幸せですっ……好きです……私の、パートナーでいてください……んっ、ううっ……」 「僕だって……ユーシェのデザインが大好きだから、もっと色んな夢を見たい……一緒にいられるならすごく嬉しい!」 「ああっ……うっ、くっ、私っ……も、もうっ……その言葉だけでっ……!」  確かに締めつけがすごく強くなった。僕も限界に近付いてる。 「ユーシェ……もう、あと少し……だと思うっ……!」 「は、はいっ……最後まで……最後まで熱く……愛してくださいっ……!」  ユーシェの肌とぶつかり合う音が教室内に響くほど大きくなった。昇りつめるまであと少し。 「あああっ、あっ、ふあっ、あああっ……あっ! やっ、ふっ、んんっ……あ、ああっ、あああっ……!」 「ふあっ、ひっ……んんんっ! あっ、はッ、あああっ! あ、ああっ、んうっ……あ、ああっ! ああっ!」 「ごめんユーシェ、もうもたないっ……!」 「い、いいですっ……ここで、もうっ……私も、今がいいですっ……!」  あとは吐きだすだけの動きが自分を本能だけで動かした。 「あ、あああっ、ふあっ、あ、あああっ……んっ、はあッ、はっ、あああっ……!」 「ふあっ、はッ、あああっ、んうっ、んっ……! くっ、はッ、あああっ、あっ……!」 「やああっ……あああっ、あっ、はっ……ああっ、あ! あああっ、あああああっ!」 「んっ……!」  弾けだす瞬間、僕はユーシェの中から抑えきれないそれを引きぬいた。 「ああああああっ! あ、あああああああ――っ!!」  ユーシェの一際大きな声と共に噴きだした液体は、彼女の美しい体の上へ振りかかり、その肌を汚していった。 「はっ、ああっ、ああ……あ、ああっ……」 「はっ、はあっ……ごめん……すごく気持ちよかった……」 「どうして謝る必要があるんですか……? 私はこんなに幸せだと思っているんですよ?」  体はぐったりとしたユーシェだったけど、息を乱しながらも声ははっきりとしていた。 「最後の方は……本当、自分勝手に動いちゃったから……」 「いいんです、その方が嬉しかったんですから」 「今日という日に幸せを追加してくれてありがとうございます……ふふっ」 「う……でも、せっかくの日にこんな場所で、少し申し訳ない気持ちも」 「私たちの馴染みの場所なんですから、ここでいいです。ちょっと明日以降は、勉強中でも今日のことを思いだして、照れてしまったりするかもしれませんけど……」  冗談なのか本気はユーシェはくすくすと笑った。こんなことをした後なのに、天使を連想させる無邪気さだ。 「あとは、体が回復するまで……二人でくっついて座っていたいです……」 「うん、そうしよう……」  というよりその時間が楽しみだった。ユーシェとまったり色んなことを話したい……。 「あと途中で言いませんでしたけど、この机、最初に寝転がされた時のものと違って、ルナの机です」 「うええっ!?」 「オホホホ……今日の勝利と合わせて、ルナに今まで泣かされた分の逆襲をしてやりました……これで思い残すことはありません」  この事実を知られたら、今までにないレベルの酷い目が待ってる気がする……この秘密は墓まで持っていこう。  僕たちは少し恥ずかしい経験をした後、疲れてはいたけど身なりだけは整えて二人で壁に寄りかかった。  それから徐々に体を寄りそわせて座っていたら、明かりは自動的に消えてしまった。  それでもまだ僕たちは教室にいた。見回りも来ないし、ここにいても警備員は来ない。  屋敷へ戻れば何の気兼ねもなく一緒にいられるし、みんなも心配して待っている。それがわかっていても、腰を中々上げなかった。  どうしてだろう。だるい、とか動きたくないわけじゃない。  隣にユーシェがいる。これからもずっと側にいてくれるのに、どうしてここに……。 「あ」 「遊星さん?」 「思いあたったかも?」 「何をです?」 「この教室から動きたくない理由」  ユーシェは僕の腕に頭を載せつつ、不思議そうに首を傾げた。何のことだと思っているんだろう。 「ユーシェが今日、この学院で一つ目の願いを叶えて」 「はい。夢が叶いました」 「その嬉しさが残ってるから、今日っていう日が終わって欲しくない……」 「ううん、ショー自体が僕の中ではまだ続いてるのかも。ずっとここにいれば、終わらないんじゃないかって」  その一日が終わって欲しくない感覚。無駄な抵抗だとわかっていても、それでも明日になるまでここにいたいのかもしれない。 「今日という日が輝きすぎてたんだ、きっと。こんなに素敵な感動、今までにはなかったから」 「その気持ちは賛成できますし、今日という日が輝かしいのは確かですけど、一日が終わらなければいいというのは……」 「逃げ、かな?」 「いえ、逃げでもないと思います。余韻に浸ること自体は誰でもありますし……こうして腕に抱きついているのも、遊星さんのぬくもりの余韻です」  ぎゅ、と抱きしめられた。というかさっきのことを思いださせられるとやや恥ずかしい。 「ただ、余韻に浸る前に、もう少し私との将来に期待して欲しいです」 「ユーシェとの?」 「そうです。私は今日だけでなく、これからいっそう輝くつもりです」 「今回以上に、苦しい思いも努力もするでしょうけど……遊星さんと共に困難を乗りこえ、励ましあえば、今日よりももっと輝かしい一日が過ごせると思います」 「これからもっと舞台を大きくして……楽しみです」 「そうだね、それは楽しみかも。その時もユーシェがモデルを務めるのかな?」 「あれはもう、私がやる必要はないからしばらくいいです……」  本音を言えば、ユーシェが衣装を来て歩いてるところをもう一度見たいから、モデルを務めて欲しいけど、それは自分のデザインができたときにお願いしよう。 「わかった。じゃあ名残惜しいけど、次に期待して今日は屋敷へ戻ろうか……あ、そうだ」 「どうしました?」 「せっかくだから、ショーの締めに、ここで誓いを立てておこうと思って。これからもユーシェを支えることを約束する」 「誓いって……どこでですか?」 「教壇を祭壇に見立てて」  教室の前方。そこへ僕はユーシェと一緒に移動して、仮の祭壇を挟んで正面から向かいあった。 「これでどう? けっこう雰囲気出てない?」 「ええ、なかなか雰囲気はいいですけど……でもこれって」  結婚式ですよね? と言いたげにユーシェは真面目な顔をした。もう少し軽いものだよ、という意味で微笑んでみせる。 「大蔵遊星は、ユルシュール=フルール=ジャンメールが意地を張る時も、強がる時も」 「あら、おかしいです。普通の宣誓と違う気がします」 「泣いている時も、甘えてくる時も」 「待ってほしいです、おかしいです。そんな言葉は普通宣誓にありません。もっと別の時はないんですか」 「不安になっている時も、もうなんか沈んじゃってどうしようもない時も」 「酷いですあんまりです。あんまりそういう意地悪なことを言われると、もう一度甘えたくなるからやめてください」 「前を向いている時も、堂々と歩いている時も」 「夢に向かって歩いている時も、努力が実って誰からも認められた時も」 「誰よりも輝いている時も側で支えることを誓います」 「ん……お遊びでも嬉しいものですね。最後の方は胸がときめきました」  ユーシェは頬を赤く染めながら、こほんと一度咳をした。 「それなら次は私から誓いを立てます。ユルシュール=フルール=ジャンメールは、大蔵遊星が私のことを愛してくれる時も、愛してたくて仕方ない時も、愛が溢れて仕方ない時も」 「僕もうユーシェのこと大好きなんだね」 「私を抱いてる時もキスしてる時も、今日みたいに激しいことをしてしまった時も」 「う、うん」 「あと私の手でかわいらしい声をあげてしまった時も」 「ごめんなさい許してください」 「どんな時でも信じて頼ることを誓います」  何故か僕の時は性的なネタが多かった気がする。ユーシェの中で僕は、そういうことが好きなイメージなんだろうか。 「でもこれでなんとなく、僕たちのフィリコレが締まった気がする」  これなら気持ちよく桜屋敷へ帰れる。だけど教壇から移動したら、ユーシェに袖を掴まれた。 「待ってほしいです。まだ一番大切なことを済ませていません」 「というと?」 「指輪の交換です」 「それはごめん……用意してない」 「ああ……エーデルワイスを用意してくれた遊星さんだから、実はそこまで準備してるのかとちょっぴり期待してました」  そこは少しがっかりだったらしい。ユーシェは残念そうな顔をした。 「ま、でもいいです。もうひとつの方は小道具などいりません」 「というと、ユーシェの好きなこと?」 「はいそうです。この儀式をフィリコレの締めにしましょう」  ユーシェはもう照れもしなかった。そっと手を伸ばして僕との触れあいを求める。 「誓いのキスを」 「うん」  彼女が一番輝いたその夜、僕たちは自分たちの祭壇で永遠の愛を誓いあった。  東経46.2 北緯6.1  大きなビルはあるけど素朴な町並み。澄んだ空。美しい湖。どこからともなく聞こえるヨーデル。  花は町の至る所に咲き、音楽と芸術の香りがどこからともなく漂ってくる文化的な格調高さ。  そして目の前に映る大きく白い山。  その国は彼女の言うとおり、とても美しい国だった。 「すごいね、空気が綺麗――少し肌寒いけど、気持ちいい」 「でしょう? 遊星さんなら、この美しさを理解してくれると信じてました」  僕はいま夏休みを利用して、人生初のスイスへ訪れていた。  理由はもちろんユーシェに誘われて。スイス旅行なんて普通なら軽々しくできるものじゃないんだけど、彼女は渋谷から原宿へ出る感覚でさらりと飛行機のチケットを持ってきた。  メインの目的はジャンメール家への挨拶。孫娘を溺愛しているというお祖父さんとお会いするのは少し怖かった。  けど以前から大蔵家(というより兄)とジャンメール伯は付きあいがあったらしく、僕の身元が分かると対応が寛容になった。  ご両親はユーシェに対してわりとあっさりしていて、彼氏を連れてきてもそんなに反応自体を示さなかったけど、放蕩娘だからこんなものですとはユーシェの談。 「スイスの何がいいかと聞かれれば、いま一番嬉しいのは遊星さんが男のひとの格好をしているところです」 「それはスイスと関係ないなあ」 「でも未だに日本では朝日のままです。本音を言うと不便です」 「不便?」 「だって人前で抱きついたりキスしたりができないでしょう?」 「ユーシェ。抱きついたりキスしたりは外でするものじゃないよ?」 「だって遠出して、遊星さんに男性の格好をしてもらおうと思っても、瑞穂が絶対に付いてくるから……私と遊星さんの愛のある生活はどこにあるんですムキー!」 「待って、瑞穂様も僕も悪くないよ。正体明かしてないんだから仕方ない」 「でも湊はとても協力的です。あの子は素直で本当に良い子。将来ジャンメール家で使ってあげてもかまいません」 「いや湊は使用人の家系じゃないよ」 「最悪なのはルナ……あの女、わかってるくせに……!」  ユーシェは日本への暮らしに思いを馳せ、憎々しげな表情を浮かべた。  それはある日の出来事だった。 「なに、連休?」 「はい。今度の土日なのですが、ルナ様の予定がなければお休みをいただけないかと……。」 「それはもしかして、ユーシェと出かけたりとかそういう理由か」 「あ、よくおわかりですね。他ならぬルナ様なのでお話しますが、ユーシェがたまには二人きりになりたいと言うので、旅行なんていいかなと」 「なるほどな、学校や屋敷では、何かと不安が多いのも頷ける。セクシャルマイノリティが安心できる場所が欲しいというわけか」 「よしわかった。心置きなく休むといい。君は普段からよく働いているからな。一日や二日どうってことはない」 「はい。ありがとうございます、お優しいルナ様」  ルナ様は僕とユーシェのことを理解してくれている。  優しいご主人様を持って幸せだ。この時はそんな風に思っていた。 「この二人、今度旅行に出かけるらしいぞ」  いきなり裏切ってきた。ユーシェは、げっっふーいと言いながら、口に入れたコロッケを危うく噴きだすところだった。 「せっかくだからみんなも行ったらどうだ。私は外出をあまり好まない都合で遠慮するが、湊や瑞穂が同行する分には問題ないだろう?」 「え、旅行? じゃあ朝日と一緒にお風呂入ったり出来るんだ。ユーシェ、私も行っていい?」 「いい……です……よ?」  断る理由が思いつかない。ただでさえルナ様付きのメイドを連れていくという不可解な状況なんだ。  そしてユーシェがどれだけ秘密裏に進めようとしても、僕がルナ様に休暇届を出さなくちゃいけない都合上、どうやったって絶対にバレる。  ルナ様に相談したくても、僕はどうしても「ユーシェといちゃつきたいのでお休みください」とは言えなかった。ユーシェに何度頼まれても駄目だった。  とうとうある日、ユーシェが自らルナ様のもとへ直談判しに行った。 「ルナ」 「どうした」 「朝日のことですけど」 「うん。彼女はいつもよくやってくれている。実に優秀なメイドだ」 「その優秀なメイドは私のものですよね?」 「ああそうだ。ショーの時に、そう約束したからな」 「今の立場的には、ルナにメイドがいないと困るだろうと思って、私の親切で貸してあげてるんです」 「いや、実に助かっている。このまま自分のメイドに返してほしいくらいだ」 「助かっているなら、私の親切をありがたく思い、黙って朝日に休暇を取らせてください」 「言っている意味がわからない。休暇なら認めているじゃないか」 「それをみんなの前で口にするなと言ってるんです!」 「ユーシェ、それはいけない。私たちは親友だ、隠し事なんて良くないぞ。みんなでオープンに仲良くやっていこうじゃないか」 「こ、このっ……全て知ってるくせにっ……! わかりましたわ! はっきり言います!」  ユーシェは悩んだ末に正攻法で対抗することにした。 「朝日と二人きりでいちゃつきたいから休暇を合わせてくれと言っているのですっ!」  うわあー恥ずかしい。僕はとてもルナ様の顔が見られず、顔を伏せた。 「女性同士でいちゃつきたいとか何を馬鹿なことを言ってるんだ君は。不純な関係は認めない」  でも正攻法すら返された。鉄壁の防御だった。 「…………」 「もしかして……ルナは私にショーで負けたことを根に持ってます……?」 「何のことかさっぱりだ。私はそんなに器の小さい女じゃない」  だけど許してくれないルナ様だった。  ルナ様はとても負けず嫌いなお人で、そしてとても微妙な逆襲をしてくる方だとよくわかった。  ユーシェはどうしても男性の僕と遊びたいらしく、とうとう海外旅行を計画した。そこまで行けば瑞穂様も諦めるんじゃないかという考えだ。  スイスは国内よりさらに日数が掛かる旅行になるから、僕はルナ様に話をせざるを得なかった。  もちろんルナ様は大喜びで瑞穂様にチクったけど、残念、今回は彼女も実家へ帰省中だった。 「さすがに帰省の予定がなくても、スイスまでは来なかったと思うけど」 「私もそう思いたいですけど、いかんせん友情に餓えた虎のようなものですから、付いてくる可能性もあながち捨てられません」 「いっそのこと瑞穂様には話しちゃう? 男性って明かさずに、女性同士でも許してくれると思う」 「それで瑞穂が『女同士でもアリなんだ』と開き直ってしまったら、誰が花之宮家に責任を取るんです?」  わあ……ありえそうな話だから怖い……そして自分が女性として横恋慕される変な自信がないこともない……。 「でも今回の旅行は二人きりだから嬉しいです。みんなでの旅行は、その時はその時で。遊星さんと自分の故郷を歩けるなんて幸せです」 「うん。いつか僕の故郷にも行きたいな。実家に寄りたいとは思わないけど、連れていきたい場所ならあるんだ」 「あ、それはとてもいいアイディアです。遊星さんのご両親にもお会いしたいです」 「うん。お母さんに会ってほしいなと思う。きっとユーシェのことを気に入ってくれるから」 「な、なんだか照れてしまいますね。めいっぱい着飾っていかないといけません。まあ私ですから何を着ても美しいとは思いますけど、その中でも最高の服を選ばないといけません」 「いっそのことショーの衣装とか着ていく?」 「それもいいですけど、あの衣装はここスイスじゃないと……あ、そうでした。今日はその目的でここへ来たんです」  ユーシェは足元を注意して歩きはじめた。それは前からユーシェが僕に見せたいと言っていたものを探す為。  昨年のユーシェが一番輝いていた日。僕は本物を用意できなかったから、ユーシェはどうしても自分の大好きな花を見てほしいと言っていた。 「遊星さん、これが我が国の国花、紛うことなき本物のエーデルワイスです!」  あの日、僕たちの勝利に導いてくれた栄光の花を見て、より僕たちの思いを強くしたいと願っていた。 「綺麗というより可愛らしい花だね。実は僕も本物を見るのは初めてで」 「もし遊星さんがスイスへ来てくれれば、この季節は毎日だって目にすることが出来ますよ?」 「前向きに検討するね」 「はい! ふふっ、最近は私の思う通りにすべてが進んで、本当に幸せです。恋も夢も友情も」  スイスに永住かあ。自分では実感が湧かないけど、ユーシェがそう望むならいつか本当にそうなってしまいそうな気もする。  彼女は夢を叶える力を身に付けてしまい、僕もそれに協力すると言ってしまった。  ユーシェの笑っている顔を見られたら幸せだと思うようにさせられたから、この子が本当に願うなら、僕は他のどんな理由も差しおいても彼女の望みを叶えてしまうかもしれない。 「ユーシェ」 「はい?」 「笑ってみて」 「え? なんです急に? 今も笑っていたと思いますけど?」 「もっと幸せそうなユーシェの顔が見たくなって。そうしたらスイスに永住したくなるかもしれない」 「本当ですか!? あ、ま、待ってくださいね。今から過去で一番楽しかった思い出を頭に浮かべます。ええと……」  僕の恋人が最高の出来事を思いだそうと頑張っている。その間に心のカメラを用意した僕は、指だけでフレームを構えておいた。  ユーシェは岩場に近付き、茎から落ちてしまっていたエーデルワイスを髪に翳した。 「こんな感じでいかがです?」 「うん最高!」  彼女が笑うと世界が輝く。幸せそうな笑顔に僕は心からの拍手を送った。  夏休みに入ってから、お嬢様方はそれぞれにデザインに取り組んでいる。  食事の時にも顔を合わせないことがあるくらい集中していて、みんながちゃんと食事しているのか心配だ……お付きの人がついてるから心配ないとは思うけど。 「今日も暑いなぁ……」  冷房を効かせ過ぎないように、屋敷の中は風通しを良くしているけれど。吹き込んでくる風はぬるい熱風というか、温風というかだ。  僕は飲み物の替えを用意して、ルナ様のところに戻ろうというところだった。ピッチャーに水と一緒に入れた氷が、カランと動いて音を立てる。  夏休みに入ってすぐ、ルナ様のアトリエに入る許可をもらえた。感激のあまり、僕は子供のようにはしゃいでしまったものだ。  よし、午後からも頑張ってルナ様のお手伝いをしよう。僕は気合いを入れなおして……、 「……あれ?」  ざん、と植物に水を撒く音が聞こえてくる……誰か庭にいるのかな。  僕はピッチャーを冷蔵庫に入れる時間も惜しくて、そのまま水音が聞こえてくる庭のほうに向かった。  メイドさんの誰かが水を撒いているのかな……と思うと、そこには二人の姿があった。 「うりゃー! 七愛、たまにはこうやって涼しくなるのもいいでしょ?」 「お嬢様と一緒に遊べるのなら、私は何でもいいです。えいっ」  ……え、えいって。七愛さんが何だか、いつもより幼く、少女みたいな顔をしてはしゃいでいる。  湊と同級生っていうから、不自然でもないんだけど……これは、僕に見られてもいい姿なんだろうか。 「はー、冷房は28度って決めてるけど、こんなに暑いとさすがに限界だよね。水の気化熱もばかにならないっていうかね」 「……ですから、二人きりのプールで涼を取るというのも良いかと。何度も提案しています」 「それを言う時に七愛が頬を染めなくなったら考えよう」 「小倉さんだったら二人きりでもいいと思っていませんか……?」 「え、ま、まぁ……そりゃ朝日は、何ていうかその……」  男だからね……プールにふたりきりで行ってもいいなんて、僕の正体を知らない七愛さんにも言いづらいだろう。 「……ん。こっちを見てる視線を感じる……そちらを犯人です」  ちょっと文法的に変な言い方をしつつ、七愛さんがこちらをビシッと指差す。 「っ……ご、ごめんなさい。水を撒いている音が聞こえたので、様子を見に来たんです」 「んぁ? 朝日、ルナのとこついてなくていいの? あの子に言っといてね、冷房病には気をつけやーせって」 「大丈夫です、当家の冷房は最新鋭ですから。自動的にお嬢様にとって最適な温度に調整してくれます」 「勝手に27度以下になってたら負けた気がするじゃん。オートマとか禁止、マニュアルにしときなさい」 「……湊お嬢様、車の免許を取られるんですか? でしたら、私も一緒に学校に通います」 「地元的には、車がないと足がないも同然やからね。それはもー、考えとかなあかんと思うよ」  湊の地元の近畿的な言葉が出てるな……暑くて標準語に直す気力もないのかな。  ……ということなら、元気を出してもらいたいな。そういえば、もうすぐ土用の丑の日だ。 「湊お嬢様、うなぎはお好きですか?」 「う、うなぎ? えっ、何それ……もしかして夜のおかしっていうこと? うなぎのお菓子?」 「……やっぱり小倉さんに対して、特別視している傾向がみられる。苦々しい苦々しい」 「そ、そうじゃなくてですね、普通にうな重とかです。うなぎを食べると、夏バテにいいって言うじゃないですか」 「なんだ、そゆことか。恥ずかしい勘違いさせないでよ、いきなりうなぎとか言い出して」  僕が素だったら、『うなぎって単語でそこまで妄想しちゃだめだよ』とたしなめるところだけど……もちろん、今は言えない。 「うなぎを池に入れて、小倉さんに捕まえさせる。それを屋敷の一同で鑑賞するというのは……」 「やーん、ぬるぬるー。とか言ったりしてね。朝日はうちのお屋敷のアイドルだし、みんな拍手喝采だよねー」  うっ……何だか女子の連帯感を感じる。そして僕は疎外感。まだ女の子になりきれていないツケが、こんな時に返ってくるなんて……。 「あ、あの……うなぎのつかみ取りは置いておいて、お水はいかがですか?」 「おー、気が利くねえ。でもこれ、ルナのとこに持ってくやつだったんじゃないの?」 「小倉さんなら、もう一度入れ替えてくれる。氷が溶けてしまってるから」  七愛さんの言うとおり、この暑さではすぐに氷が溶けてしまう。水差しの中は、もう氷のかけらしか残っていなかった。 「うちらも一息ついたら、作業の続きに戻るよ。ありがとう、様子見に来てくれて」 「……今回ばかりは、邪魔ではなかったと言っておいてあげる。ありがたく思うといい」 「あはは……ありがとうございます。はい、どうぞ」  僕は水差しからふたつのグラスに水を注いで、湊と七愛に渡す。片手でトレイを持ってここまで出来るようになるには、結構慣れが必要だった。 「んっ……美味しい」 「はー、本当に暑いときは水に限るわ。これなに? ちょっと酸っぱさがあるけど」 「塩漬けのライムを少し入れてあります」 「そっか、いっぱい汗かいてるからか。朝日はさすがだね、気遣いがすごいっていうか」 「気を遣い過ぎると、早くハゲる……でも、評価はしておく」 「あ、あはは……髪は多いほうだって言われているので、その心配はないと思いたいです」  けどウィッグつけっぱなしだし、ちょっと心配かな……蒸れてるまではいかないけど、心頭滅却しても汗は完全に抑えられない。  湊と七愛さんの首筋にもうっすら汗がにじんで、髪がはりついてる……夏ならではの、女性の魅力を感じる瞬間だ。 「んくっ……ぷはー。朝日、グラス足りないなら私の使っても……あっ」 「いえ、お嬢様の使ったグラスを、私が使うわけには……」 「湊お嬢様がそう言っているのに、申し出を受けないなんてありえない。それとも、そんなに嫌?」  七愛さん……僕の正体を知ったら、その提案をしたことが、僕への怒りに変わってしまいませんか。思ってるうちに、湊のグラスに七愛さんが水を注いでしまった。 「……いいよ? 飲んでも。それくらい、気にするほうが変だよ」 「えっ……じゃ、じゃあ。こちらから飲みますね」  僕は七愛さんにトレイを持っていてもらって、湊が口をつけたほうと逆から飲もうとして……、 「……ていっ」 「あ……ん、んくっ……」  湊が僕が飲む寸前に、グラスをくるりと反転させてしまう。そして、彼女が唇をつけたところに、僕も唇を触れさせて……冷たい水が、喉を流れ落ちる。 「……い、いいじゃん、別に。あえて逆から飲むとか、そういう気を遣わなくても……」 「は、はい……申し訳ありません、せっかくのお嬢様のお心遣いを……」 「……そしてお嬢様が私のグラスを使えば完璧」 「あー、うん、えっと……そうだ、地元でペットボトルが一本しか余ってなかった時にしよう」 「……私の唇がついたグラスでは飲んでもらえない……当たり前だけど、胸に穴が開いた気分」 「あ、朝日が飲んであげればいいじゃん。私と間接キスしてるからもう関係ないよね」 「えっ、あ、あの……そんな……七愛さんの気持ちもありますし」  七愛さんは僕(朝日)のことも、そんなに好きじゃないはず……と思ったんだけど。今回に限っては、なぜかまんざらでもない顔をしていた。 「……仲間はずれにされるのは嫌」  そんな目で見られたら、僕は、僕は……いいのかなぁ。でも湊も引き返せなくなっているし、ここは友情を重んじるしかない。  僕は七愛さんが唇をつけたグラスから、意を決して水を飲んだ……ああ、こんなことして許されるんだろうか。 「んく……っ」 「……おいしい?」 「は、はい……とても。ありがとうございます、湊様」 「……湊お嬢様が女性の顔をしている。もとから女性だけど、そういう意味ではなくて」 「そうだよ、私はこれくらいで普通だよ。ねー朝日」  そう言われても、湊の顔がほんのり赤らんでいて……とても楽しそうで。  僕は彼女と出会った子供のころのことを思い返していた。そして、彼女の無邪気さが、その後の僕をいかに変えたのかっていうことも。  いったんリビングに戻ってきて、僕は水差しに氷と水を入れなおして、キッチンから出てきた……すると。 「……遅い。ずいぶんと遅いと思ったら、何を楽しそうに遊んでいる」 「あっ……る、ルナ様。見ていらしたのですか?」 「私が外に出られないと思って、見せつけているのか……? いい根性だ。さすが私の見込んだメイドだな」 「申し訳ありません……すぐに戻るつもりだったのですが、湊様たちが水撒きをしていらしたのを見て、涼しげだなと思いまして」  遊んでいたと言われればその通りだから、言い訳にはなっていない……僕は頭を垂れて謝罪を示した。 「……私が外に出られないと思って、見せつけていたわけじゃないのか」 「い、いえっ。そんなことは絶対にありません!」  二回も念を押されるとは……僕は自覚せず、ルナ様にひどいことをしてしまったみたいだ。反省しないと。 「そ、そうか……いや、済まない。朝日がそんな、意地の悪いことをするわけがないのにな」 「……そのまま湊たちの所に行ってしまうんじゃないかと思って、心配したぞ。ばかもの」 「っ……」  ルナ様のいじらしい言葉を聞いて、心臓が高鳴る。口に出せないけど……なんて可愛いんだろう、僕のご主人様は。 「まあいい、私も出てきてしまったからちょっと休憩だ。もう少ししたら戻ってくればいい」  ルナ様は言って、僕の用意した水を一口飲んでから、リビングを出て二階に上がっていった。いったん部屋で一息つかれるみたいだ。  ……どうしよう、ついていった方がいいかな。と考えていると……右後ろの頭らへんに、ちりつくような感覚を覚える。 「ゆうちょ、今ルナにときめいてたでしょ」 「えっ……そ、そんなことないよ。湊、もしかしてずっと見てたの?」  僕をゆうちょって呼ぶってことは、七愛さんとは別行動みたいだ……先に部屋に戻ったのかな。 「それで、ルナが可愛いから、ついていこうっていうんでしょ」 「っ……か、可愛いからっていうことじゃなくて。僕は、ルナ様の付き人だから……」 「あ、僕って言った。誰か聞いてたらばれちゃうよ? もっと気をつけなさいね、朝日ちゃん」 「うぅ……どうしたの湊、さっきは上機嫌だったのに」  聞いてみると、湊は顔を赤らめて目をそらす。思い返せば子供の頃から、拗ねてる時はこんな感じだ。 「……ルナのとこに行きたかったら、通行料としてときめき税を支払ってもらおうか」 「と、ときめき税……税なの? それはどういう基準で徴収するの?」 「私から見てルナに一回ときめいたら、私を5分かまう。消費税だって今のとこ5パーなんだから、別に高くはないよね」 「五分……それなら大丈夫かな。ルナ様も、部屋で休憩されているから」 「じゃ、じゃあ……私のデザイン見てみてよ。まだ未完成だから、アドバイス欲しいっていうか……」 「うん、いいよ。僕のアドバイスだと、ルナ様たちにかないそうにはないけど……」 「……ううん、やっぱりいいや。ゆうちょ、ルナのとこ行っていいよ」 「……湊、遠慮してるの?」  湊は頬をかきつつ、気恥ずかしそうに照れ笑いする。 「や、今気がついたんだよ。これは真理だと思うんだけど……ゆうちょ、聞きたい?」 「うん。真理って?」 「恋する乙女はうざい。ゆうちょにうざがられたら、私はそれなりのダメージを負うことになるんだよ」 「そ、そんなことないよ。僕は全然、そういうふうには思ってないし……」 「僕がルナ様にときめいてたって言うけど、その……さっきの湊は、負けないくらい可愛かったよ」 「はぅぁっ!?」 「は、はぅぁ?」  湊は心臓のあたりを抑えてぷるぷると震えている……僕は何か、大変なことを言ってしまったんだろうか。 「はぁっ、はぁっ……し、死ぬかと思った。ゆうちょ、そういうのいきなり言うのなし。死ぬから」 「し、死んじゃだめだよ、深呼吸して落ち着いて」 「すぅ……はぁ……じゃ、じゃあそれがときめき税でいいや。ね、もう一回言ってみ?」  死んじゃうんじゃなかったのかな……嬉しくて死んじゃうってことなのかな。って、僕は何を上から目線で考えてるんだ……そういうのはよくない。 「そ、そういうことか……ごめん、僕も意識すると、恥ずかしくなってきたよ」 「えー……今の意識してなくて言ったの? じゃ、ルナに意識せず言ってたりもするんだ。可愛いとか好きとか愛してるとか」 「い、言ってない言ってない……あっ、でも『好き』とは言ったかな」 「……えっ?」 「ち、違う違う! そういう意味じゃなくて……えーと、恋とかじゃなくて……」 「へー……恋とかじゃないのに、好きとか言っちゃうんだ。ゆうちょの好きってそんなに軽いんだ」 「うぅ……湊だって、ルナ様のことは好きじゃないの? ユルシュール様や、瑞穂様のことだって」 「それはそうだけど……あっ。じゃあ、ゆうちょって私のこと……」  そ、そう言われてみれば否定は出来ないけど……今の流れで『湊のことも好きだよ』なんて言ったら……。  僕が言葉を探しているあいだに、窓の外から蝉の声が聞こえてくる。見つめ合うことしか出来ない時間が過ぎていく。  ……こんなふうに変わっていくのか。きっかけとはそういうものなのか。湊の目に僕が映っていて、僕の目にも同じように彼女の姿が……、 「……湊お嬢様、そちらにいらしたんですね」 「ままままつげボンバー! くらーっしゅ!」 「はぶっ! み、湊……お嬢様、痛いれふ……」 「あぁっ、ごめんねごめんね、今さっき思いついた技を出したくてしょうがなくてもー」 「……まつげボンバー?」 「え、えっとその……アレだ、朝日のまつげが長いから、対抗心で生まれた技とか……そういう説明じゃだめ?」 「お嬢様がそうだというなら、七愛は従う。お嬢様が言えばカメはウサギより速く走るし、キリギリスもアリよりもせっせと働く」 「私は湊お嬢様の睫毛も、すごく長いと思います」 「うそだー、エクステしないと朝日にはかなわないよ。朝日、天然でバシバシのヅカ睫毛だもん」  母さまも長かったし、歌劇に出られそうなほど美しいひとだったから……湊の言うことは、あながち間違いじゃない。 「……小倉さん、一度男装してみたら? ヅカといえば男役」 「えっ……だだっ、ダメです私は、そんなの全然似合わないですからっ」 「ただの冗談。そんなに動揺しなくてもいいのに……そこまで男嫌いとは思わなかった」 「男嫌いねえ……まあ、それはそうかもね。そっちの方には興味ないよね?」 「お、おっしゃっている意味が、私にはよく……あっ、ひどいです。笑ったりして」  うろたえる僕を見て、湊は楽しそうに笑っている……悪戯っ子だな、本当に。  ……やっぱり僕は、さっきからちょっとヘンかもしれない。湊の悪戯っぽい仕草を見て、感じたことといえば……。  『そういうところも可愛い』と言ったら、湊はどんな顔をするだろう……なんて、いつもの僕なら考えもしないようなことだった。  その日の夕食のメニューは、言っておいたとおり〈鰻〉《ウナギ》にした。  八千代さんに相談したら、つてのある料亭から活きのいい鰻を白焼きにして送ってもらえた。 「ウナギ……初めは見た目でご遠慮したいと思ったけれど、なかなか悪くないわね」 「ウナギって、いったい何なんですの? あんなに身体が長くてクネクネとして、魚だなんて信じられませんわ」 「長くてヌルヌルしてるやつなら他にもいっぱいいるよ? アナゴとか、どじょうとか」 「アナゴまではいいが、〈泥鰌〉《ドジョウ》までは手が出ないな……いかにも泥臭そうだし」 「そういうイメージがあるけれど、そんなでもないのよ。栄養もあるし、夏が旬じゃなかったかしら」 「一度、泥鰌を使った柳川鍋をご用意してみましょうか。お試しということで、他の料理と一緒に出しますので」 「そうですね……ルナ様が、どうしてもお召し上がりになられないということも考えられますし」 「ということは、その柳川というのを食べれば私の勝ちですわね。そうなると、逃げるわけにはいきませんわ」 「ちょっと変わった魚が食べられるくらいで偉いのか? じゃあくさやとかエイヒレでも食べればいい」 「くさや……あれだけは外国の人にはお勧め出来ない。あなたたちはまあいいけど」 「聞いたことはあるわよ、ブルーチーズと並び称されるくらいの代物でしょう? 口に入れるには勇気が要りそうね」 「発酵食品だけは、世界を回っても受け入れられませんでした……特にカナダのイヌイットが作っていた、キビヤックという食べ物は……くっ、食べられない自分が情けない」 「発酵食品は保存が効きますから、なんでも食べられるに越したことはないですね。非常時にマーマイトを食べられないと命に関わってきます」 「……ナチュラルに耳慣れない単語が出てきたが、なんだ? マーマイト?」  あっ……そ、そうだった。みんなマーマイトのことなんて知らないよね……クセのある発酵食品で、パンに塗って食べたりするんだけど。 「……なかなか波乱のある人生を送ってきたみたいね、朝日さんは。まあ、その話はおいおい聞くとしましょう」 「は、はい……ビタミンが豊富なので、健康にいいというだけです」 「うなぎを食べてれば十分なんじゃないか? ビタミンAが豊富で、目の疲れにもいいんだろう」 「そっか、そこまで考えてくれてたんだ……明日の朝日が拝めるのも、このうなぎ様のおかげなんだね」 「……小倉朝日のダブルミーニングだと思わないで」  七愛さんに言われて気がついた。湊はおどけて、僕に向かって拝むようなポーズを取る……何か照れるな。 「私たちがデザインでこもっているうちに、朝日と湊の友好が深まっていますわね……」 「本当にな。私が気づいたら、庭先で水をかけあいながらキャッキャウフフとかしてたしな」 「小倉さんはそんなことはしていません。していたのは、私と湊お嬢様です」 「今日の暑さは、童心に返って水のかけあいしても許されると思うよ。かけた端から乾いちゃってたし」 「お嬢様たちのおかげで、午後からは涼しくなりましたね。他のメイドたちにも、気づいたら水撒きをするように言っておきます」 「……ところで小倉さん、うなぎのお代わりはありますか? ユルシュール様の重箱が空になっていますよ」 「久しぶりに食欲が出てしまって……これがウナギの魔力ですのね。さすが、映画になるだけはありますわ」  そうか……確か、そういうタイトルの映画がカンヌ映画祭で賞を取ったんだよな。僕が物心づく前のことだけど。 「それで……お代わりはありますの? 居候ですから、二杯目はそっと出しますわ」 「まあ……ユーシェ、日本の侘び寂びが身についてきたのね。もう日本語も完全に使いこなせていますし、いつ日本に帰化しても大丈夫ね」 「もしお嬢様が帰化されたら、そのときは日本の通名が必要になるわね……」 「古川ゆる子くらいでいいんじゃないか。ユーシェの名前は、ユルのイメージが強いからな」 「案外、普通の名前を提案してきましたわね……特に目くじらを立てるところもありませんが、もう少しきらびやかにできませんの?」 「……考えてみたけど、古川ゆる子ってすごくない? ユーシェの名前以外の何物でもないよ」 「スイス人をガン無視するあたりがルナ様らしい」 「『ガン無視』なんて言葉を使ってはいけません。私にジェネレーションギャップを感じさせないでください」 「メイド長の気持ちはよくわかります。私も町を歩いていて、若者たちの言葉の乱れに頭痛を感じてしまうことがしばしばありますので」 「まあ、日本語が堪能になってきたといっても帰化の予定はありませんわ。日本人でいい人が見つかったら、話は別ですけれど」 「そうね、急なことを言ってごめんなさい。スイスだって、素晴らしい国だものね」 「地元にみんなで行くのとか恥ずかしいかもしれないけど、一回行ってみたいな。ユーシェの国だから」 「……そう言ってもらえるのなら、いずれ案内することもあるかもしれませんわね。私の実家に行くということでなく、観光気分で考えておきましょう」  ユルシュール様がそう言ったところで、僕はいったん席を立たせてもらった。彼女のうな重の代わりをお持ちするためだ。  ……ユルシュール様、実家とは折り合いが悪いのかな。今の言い方から、なんとなくそういう空気を感じた。  けれど、今は僕が個人的に興味を持つのは失礼にあたる……あまり、他家の事情に首を突っ込んではいけない。  夜半はアトリエには行かず、ルナ様は自室で描き上げたデザインのチェックをしていた。 「そろそろ君は戻っていいぞ。私は、自分が納得行くまで考えたいからな」 「いえ……差し出がましいことを申し上げますが、主人が重要な決定をされるところに、立ち会わないのは寂しいことです」 「メイドのいうことじゃないな、それは……ふふっ。まあいいか」 「……代わりの紅茶を入れてきてくれ。アイスじゃなくていい、身体が冷えるからな」 「かしこまりました」  久しぶりに熱い紅茶を入れたので上手くいくか心配だったけれど、ポットの中で葉がジャンピングしている……これで成功だ。お湯の温度が低すぎるとこうならない。  もちろんこのままじゃ熱いから、冷ましてから持っていく必要がある。あまり抽出しすぎるとカフェインが濃くなって寝付きが悪くなるから、見極めが大切だ。 「紅茶の匂いがすると思ったら……朝日、まだ起きてたの? ルナの部屋でお手伝い?」 「うん、もうコンペの日まで時間がないから。ルナ様は提出する絵を決めて、仕上げに入ってるよ」 「そっかー……私もやれることはやったって感じだけどね。やっぱね、アレだ。勉強不足」 「事前にこんなこと言うの、情けないなあと思うんだけど……あー。ごめんね」  湊は言うつもりは無かったんだろう……でも、僕の顔を見ると口をついてしまった。いつも元気な彼女が、今は少し沈んでしまってる。  僕もルナ様たちのデザインを見ると……『うわぁ』としか言えなかった。だって、僕が憧れてるデザインと遜色ないものだったから。 「湊は十分に頑張ってるよ。経験者が多い中で、よく折れずに頑張ってると思う」 「僕は一度学校に通ったから、勝手がわかっていたけど……もし未経験だったらと思うと、泣けてくるくらいだからね」  男のくせに泣きそうだとか、恥ずかしいけど……取り繕っていたら、気持ちは湊に伝わらないと思った。 「……私が頑張ってるの、それはデザイナーになりたいっていうのもあるけど。今は、ゆうちょが居るのが大きいんだよね」 「それに、みんなも居る。かなわなくたって、すごいライバルが一緒に住んでてくれる……毎日凹んでるけど、同じだけ楽しいよ」 「なんて、ちょいMっぽいこと言ってるね。今の編集で切っといて」  湊は指でハサミを作って、チョキンとする仕草を見せて笑う。僕は笑って……ジャンピングの終わったポットに視線を移した。 「紅茶、ホットで飲むんだ。冷房で身体冷えてるから、ちょうどいいかもね」 「うん。目が冴えちゃうかもしれないけど、湊も飲む?」 「いいの? ルナのために淹れたのに……」 「ポットにいっぱい入れても、ルナ様は一杯しか召し上がらないことが多いから」 「そっか……じゃあ、もらおうかな。待ってて、カップ取ってくるから」 「僕の分を使ってもいいよ。もう、そういうことを気にしなくてもいいんだよね?」 「……ルナとカップ使い回しとかは、ちゃんと意識しなよ。私みたいに大雑把なのとは違うんだから」 「そんなことないよ。湊は十分……いや、すごく女の子らしいと思うよ」  今日はこんなふうに、素直になれる機会が多くて……自分でも驚くくらいに、いつもなら照れることでも、怖気づかずに言葉にできる。  ……湊が遊んでいるところを見て、昔のことを思い出したからかな。彼女のことを、昨日までよりずっと気にしてる自分がいる。 「な、なんでそんな……急に私に甘過ぎない? ゆうちょ、変なものでも食べた?」 「食べ物じゃ変わらないよ。ああ、うなぎパイっていうのを食べたら変わるかもしれないけど」 「なんかやらしいことゆってる……ゆうちょ、もしかして夏休みになると開放的になっちゃうタイプ?」 「うーん……どうだろう。今すごく元気ってことは、そうかもしれないな」 「……じゃ、じゃあさ。開放的になっちゃったついでにさ、その……私、お盆になったら、」 「……また遅いと思ったら、こんなところで油を売って。私がデザインを選ぶところを見たいというのは、その程度の軽い気持ちだったのか?」 「あっ……る、ルナ様、違います、今からルナ様の部屋に行くところで……」 「もういい、私ひとりで決める。紅茶もいらない」 「あぁっ、ちょっ、ルナが拗ねてる! 朝日、行って! 後ろからタックルしてでも止めて!」 「タックルはしないけど、行ってきます! 湊お嬢様、今のお話の続きは、またにいたしましょう!」  僕は『朝日』に戻って、ルナ様を追いかける……聞かれてはいないみたいだったけど、今のは危なかった。 「ルナ様っ!」  気が抜けていたことを反省しつつ、僕はルナ様が階段を上がっていく途中で追いつく。彼女は立ち止まると、そのまま待っていてくれた。 「……や、やはり紅茶は必要だな。遅れてきた君が悪い、淹れなおしてきてくれるか」 「はい、かしこまりました。良かった……ルナ様に許していただけて」 「湊が拗ねたなんて言っていたが……別にそういうわけじゃないからな。私の足を一階に向けさせた、それが納得いかないと言っている」 「君が戻ってこないからしびれを切らしたなんて思うなよ。思ったらミニスカートを穿かせるぞ」 「そ、それは……すみません、次からは気をつけます。湊お嬢様にも、お願いしておきますので」  そう言うと、ルナ様は湊のいたダイニングルームの方に視線を送る。そして、少し申し訳なさそうにして顔を赤らめた。 「……そんなお願いはしなくていい。友人なら、別に遠慮することはないからな」 「あ……ありがとうございます、ルナ様」 「いいからお茶を入れてこい。今度湊に捕まって遅くなったら、そのときは恥ずかしい格好でデッサンするからな。君が一番いやがるコスプレだ」 「そ、それだけはお許しください……私には、可愛い格好は似合いません」 「問答無用だ。私は部屋に戻るからな、10分以内に来い」  紅茶を淹れなおすには十分な時間をくれてから、ルナ様は部屋に戻っていく。姿を見せた湊は、少し申し訳なさそうに照れ笑いしていた。  そして、全員でデザインを見せ合う日がやってきた。  集合時間に、ルナ様と八千代さんと一緒に学園にやってくる……教室で見せ合うことに決めていたから。  他の車に分乗してきたお嬢様方が、エントランスで待っている。みんな、それぞれにポートフォリオのケースを持って緊張した面持ちだ。 「夏休みの学院って、不思議な空気ですわね。静まり返ってますわ」 「事務の方と、警備の方以外は来ていませんからね。2階以上は、ほぼ無人と言ってもいいでしょう」  夏休みのうちは、学院には先生が同行しないと入れない。八千代さんはそのためだけに、僕たちについてきてくれていた。 「……八千代、私に肩入れすることはないからな。公正に判断してくれ」 「いいえ、デザインは皆さんで決めてください。教師から指示をすることが主旨ではありませんから」 「私はそういった判断は抜きにして、楽しみに見させてもらおうと思っています。ゆくゆくは皆さんも私と同年代の、新鋭デザイナーですからね」 「……私は同年代だけど、杉村さんと変態メイドは?」 「そこであえてメイド長を外すあたりに、生存本能を感じるわね。私は年かさの女性ほど美しいと思うけど」 「サーシャさん、いま何の女性と言いましたか? 少し聞き取りづらかったので、復唱してください」 「マドモアゼル八千代……そなたは美しい。生きろ、と申し上げました」 「全く違う気もしますが、よしとしましょう。あまりおべっかを使われても、気分の良いものではないですよ」  八千代さんは口調に反して、優しくサーシャさんをたしなめる。年齢の話は、まだ全然気にすることないと思うんだけどな。 「四捨五入という言葉に敏感になる年頃だからな……私たちはまだ、ずいぶんと余裕があるが」 「大人になっても友達でいようぜ! って、ちょっと気が早いか」 「友達……友達ですか。まあルナも広義的には、私にとってそういう関係性なのでしょうかしらね」 「そんな婉曲的に表現しなくても、友達以外の何物でもないわ。特に私と朝日は親友ね」 「友情で結ばれた4人のお嬢様方が、今まさにデザインの地平でぶつかり合わんとしている……ああ……アワワワワワ!」 「……広いところで叫ぶとすごく響く。恥ずかしい」 「……コホン。失礼いたしました、それでは参りましょうか」  反響する自分の声に顔を赤らめつつ、北斗さんが瑞穂をエスコートして歩いていく。『アワワワ……』という猛々しい北斗さんの声が、しばらく耳に残り続けていた。  夏休みの、静かな教室……いつもは気にすることもないけれど、何だか懐かしいにおいだと感じる。 「うわっ……暑い。誰だ、教室で見せ合うなどと言ったのは。冷房を20度まで下げろ、風は最大にしろ」 「この建物の近くに高い建物がありませんから、直射日光が凄いですわね……まるでオーブンですわ」 「……限界まで下げた。まだ風がぬるい」 「東京砂漠ってこのことだよね。うちの田舎のほうだったら、こんなに暑くなんないよ。木とかいっぱいあるし、水も綺麗で冷たいし」 「それは、一度見てみたいですね。お屋敷のお庭も、都会の中の自然といえばそうですが……」 「湊はお盆には実家に帰るんでしょう? そのときに、朝日も一緒に……というのはどうかしら」 「えっ……み、瑞穂、何で私の気持ちを見ぬいて……じゃ、じゃなくて。駄目だよ、朝日はルナのメイドなんだから」 「いや、盆まで家にいることを強制はしないが、勧誘は後にしてくれ……じゃあ、見せるぞ」  ルナ様が言うと、お嬢様方がそれぞれの面持ちでデザインを書いた用紙を取り出す。そして、ひとつひとつ別の机の上に並べられた。  総勢9名で、ひとつひとつのデザインを鑑賞する。湊は緊張のあまり、落ち着かなさそうな素振りを見せていた。 「……皆さん、本当に時間をかけてこの一枚に辿り着いたことがわかります」 「ウィ。線の一本にも、なみなみならぬ乙女たちの情念を感じるわね」 「あなたと表現が似通うのは微妙だけど、私も同じ意見。中でも湊お嬢様の絵が素敵」 「ふむ……私たちは、それぞれがお嬢様の絵に一票入れるから。お嬢様同士の意見を重視して、決めていただくことになりますね」 「そこは公正に判断してもらった方が良いのだけど……分かりました。ひとつずつ見ていきましょう」 「えっ……いいよいいよ、それじゃ私の絵がじっくり見られちゃうことに……うぅ恥ずかしひ……」 「そんなに怖がらなくてもいいですわ。私たちだって、絵を見せる時は少なからず緊張していますもの」 「そうだな……この緊張はいつまで経っても慣れるものじゃないぞ、かかった時間も苦労も審査する人間には関係ないからな」 「そうなんだ……みんな、こういうの慣れてると思ってた。私だけじゃないんだね」  湊が言うと、お嬢様方は顔を見合わせ、照れくさそうに笑いあった。 「デザインを見せることって、自分の頭の中を見せてるようなものだから。でも、恥ずかしいのと同じだけ、見せたいっていう気持ちもあるのよ」 「ですわね。見てもらって気持ちよさを味わうために、デザインを勉強しているようなものですわ」 「ユーシェの性癖も暴露されたところで、早速評価といくか……まずは私から行こう」 「さすがルナといったところね。独創的で、それでいて今の流行の先端を意識している」 「……さすが、私のライバルですわね。抜け目がないというか……さっきから粗探しをしているのですが、なかなか出て来ません」 「最後の三枚から一枚にする時に、欲しい要素はいくつか犠牲になっているが……ごてごてしたのは趣味じゃないからな」  ルナ様がデザインの嗜好を言葉にする機会は貴重だ。僕はすかさず、みんなの目につかないようにメモをとっておく。 「次は瑞穂か。私は正直……こういうのは結構好きだな。私が自分でやれそうにない、という意味もあるが」 「和ものはルナは手がけていないものね。嬉しいわ、違う分野でも評価してもらえて」 「和服には一度袖を通してみたいですが……これは、可愛らしいアレンジですわね。瑞穂の好きな、アイドル衣装ですの?」 「こ、これは……瑞穂、うちらのグループのモデルってことは、自分で着ることになるんじゃないの」 「もし私の衣装が選ばれたら……そのときは、朝日に着てもらおうかなと思ってるの。デザイナー特権として」 「わ、私ですか……? この和風のデザインは、瑞穂お嬢様にこそ似合うと思いますが」 「私に似合うのなら、朝日にだって似合います。だって、髪の色が同じ黒の系統だから」 「あー、それを言われると納得せざるを得ないかも。黒髪にはぴったりだもんね、和服系」  湊も瑞穂お嬢様の意見に乗ってくる……こんな可愛いのを完全に着こなしたら、僕は一生男だなんて胸を張れなくなってしまう。 「うちのメイドが着るかどうかは置いておいて、次だ。ユーシェのものを見てみよう」 「……というかルナのあとに私のを見るって、なかなか皮肉な趣向ですわね」  ユルシュールお嬢様のデザインは、ルナ様と同じ系統にあるものだった。彼女らしい、軽やかで優雅なデザイン……けれど、少しおとなしい印象を受ける。 「私とは発想を得ているところが近いな。このデザインになった経緯が、なんとなく想像できる」 「くっ……何ですの、その上から目線は」 「……まあ言ってしまうと、私もこれに近い絵を描いたことがあるっていうことだ。見せてもいいが」 「そ、そんな……これだと思うデザインを、やっと考えついたと思いましたのに……不覚ですわ」 「近い絵を描くほど嗜好が近いということではないですか。意外に、同じ方向を向いているということかしら」 「そうですね……今のモードを意識すると、どうしても近くなってきますから。あとは細部の処理で違いが出てくると思います」 「そうだな、ここにダーツを入れるのはよく考えてあると思うぞ」 「今さら加点されても仕方ありませんわ……覚えていなさい、次の機会はあなたの砂肝を抜いて見せますわよ」 「や、それを言うならドギモだよ。スナギモってふつうの人にはないと思うよ」 「ユーシェならあってもおかしくないな。石とか拾って食べるもんな」 「当たり前のように言われると、そうだったかと思えてしまって困りますわね……石なんて食べるわけありませんわ。何を言ってるんですの」 「砂肝の話をするお嬢様方というのも、シュールな光景ですね」 「そんな日もあります。誰にでも、砂肝の話をする可能性はある」 「そうですね、生きとし生けるものは、すべて神からの賜りもの。感謝しなければなりません」 「脱線するにも程があるわね……それで、お嬢様のデザインは美なのかしら?」 「美かどうかと言われたら美だろうがな。朝日はどう思う」 「とても良いデザインだと思います……ですが、私はルナ様のデザインを推します。ずっとお近くで見てきたという思い入れもありますが」 「くぅぅ……こんなことなら、もっと早く朝日を本格的に凋落しておくべきでしたわ」 「……審議の結果、それは『篭絡』ではないかと七愛は推測した」 「そう、それですわ。七愛さん、私の通訳になりませんこと?」 「頭痛がしそうだからいい。寿命も縮まる……ストレスで」 「七愛、それは夏バテじゃなくて? うなぎを食べたばかりだというのに、見た目通りにひ弱ね」 「……ツッコミに疲れた。お嬢様のデザインを見るがいい、下郎ども」 「ひぁぁっ、大人しくしてたのに振られたぁぁ! このまま存在感無くひっそりしていこうと思ってたのに……」 「ほんとに恥ずかしがり屋だな……朝日、上から下まで舐めるように視姦してやれ。許可する」 「きょ、許可していただいてもそんないやらしい見方はしませんっ!」  デザイン画の話なのに、湊は自分の身体をかばっている……ああ、男の僕が申し訳なさを感じてる。 「湊のデザインは……なるほど。湊はボーイッシュな方面かと思っていましたけど、意外に乙女志向ですわね」 「あー、うー……こ、こういうの好きなんだよね。他の学校のガールズコレクションとかも参考にしたりして……」 「基本に忠実だし、どうやって作るかも考えてある作りだな。だが湊、もっと冒険してもいいんだぞ」 「そうね、私たちはチームだから。難しい意匠も遠慮なく提示してもらってかまわないのよ、誰かが可能にする技術を持っているから」 「うーん、そっかー。って、私難しいこと考える頭もまだ無いんだよ。はー、勉強不足だー」 「私はこのアクセサリーや、カフスのデザインは評価するわ。細かい部分にセンスが光るわね」 「……そんなことを言っても変態メイドの評価は変わらないけど、ありがとう。君は私の友人のようなものだ」 「では、私からも……このアクセサリーの石は、何をイメージしているのですか? 星のような輝きを感じますが」 「私、石を集めるのが好きなんです。川遊びとかの時に、きれいな石をよく拾ってて……そのうちの一つが、ブローチに使えそうだなと思って」 「天然石ですか。過去には石のティアラを作って賞を取った方もいますし、面白い試みですね」 「私もそう思います。湊お嬢様の瞳のように、キラキラしていて……見ているだけでわくわくしますね」  さらさらと賞賛の言葉が出てくるので、僕はそれを深く考えず口に出す。すると、湊は目と口を見開いて、信じられないという顔でこちらを見た。 「わ、私のなんて全然みんなのに勝てないよ? キラキラとか大げさだよ、光ってないよ全然。オーラとか皆無だし」 「い、いえ……宝石がお嬢様の瞳のようにきらきらしているな、と思って。例えが変だったでしょうか」 「お嬢様を天然で口説くのは禁止。女同士とはいえ、私の目の前では許さない」 「よくありますわね、瞳のきらめきが美しいという口説き文句は。朝日は王子様みたいなところがありますのね」  そ、そうか……目がきれいって、口説いてることになるのか。湊が緊張してるのもそういうわけだったんだな。  いつまでも鈍いままじゃいられない。自覚がないと言い訳をして、湊の心を揺さぶるようなことはしちゃいけない。 「はっはっ……ユルシュールお嬢様、小倉さんは女性なのですから、王子というのはあんまりじゃありませんか」 「でも朝日さんに口説かれたら、世間知らずなお嬢様なら導かれていってしまうでしょうね。禁断の花園に」 「こら、勝手に人のメイドを変なところに引き込むな……脱線してないで、湊のデザインを評価するんだ」 「いっぱい勉強していると思うけど、もうすこしエッジが欲しいかも。人に強い印象を残す切れ味というか」 「ぱっとこの服で出てきても、良く出来た服で済んでしまいますわね。街歩きにも使えそうで良いですが」 「はー……やっぱりそうだよね。エッジかー、何回やっても手堅くまとまっちゃうんだよね、どうしても」 「それはそれで、ひとつの適性ではあります。私もどちらかといえば、柳ヶ瀬さんに近い発想をしていましたから」  八千代さんは先生モードで、生徒として湊を呼ぶ。それで場の空気が一気に引き締まった。 「ですがショーに出るときのファッションは、見ている人に鮮烈な刺激を与えなければいけない。驚きのないショーは退屈ですから」 「なるほどー……よく分かりました。私に足りないのは、みんなを驚かせる奇抜さなんですね」 「初めは驚かせて目を惹き、じっくり見せて魅了する。そこまで行ければ完璧に近いな」 「そうなると……やはり。く、悔しいですが……何というかその、る、ルナの……」 「うん……やっぱりルナは凄かった。これで負けたのなら、私も悔いはない」  メイドのみんなは、お嬢様の意見を尊重している……七愛さんも、今は何も言わなかった。 「みんな、評価してくれて感謝する。私たちのグループは、私のデザインでショーに出る。それでいいな?」 「うん、ルナのが一番いいよ。なんかすがすがしいよね、ここまで差が出ると」 「……また……負けたんですの? 私は……」 「ユーシェのデザインも私は好き。だから、そんなに落ち込まないで」 「私も好きです。高原の風を感じるような、爽やかで上品なデザインでした」 「ふ、ふん……なぐさめは要りませんわ、私はそれほど弱くありません。ですが……」 「……ありがとう」  ユルシュール様はそれだけ言うと、自分の絵をしまって部屋を出ていってしまう。 「ユルシュールお嬢様……ごめんなさい、私たちは先に戻らせてもらうわね」  サーシャさんはユルシュール様のあとを追いかけていく。みんな、呼び止めるべきかどうかを迷っていた。 「ユルシュールさんも、これまで多くの競争を経験しているはず。これくらいのことで折れる人ではありません」  ショーはそういう意味でも、全員が参加することになっているんだろう……兄様は競争に勝つことは、生きる上で避けられないことだという思考の持ち主だ。 「私も負けるわけにはいかないからな。何度でも競えばいい、勝負の機会は一度じゃない」 「そうだよね。私も次はもうちょい頑張ってみるよ、ついてくの大変だけど」 「一緒に頑張ろう。今回はルナのデザインで衣装を作るけど、それで学ぶことも多いと思うし」 「わ、私も……全力で、サポートさせていただきます」 「うん、期待してる。ところで瑞穂、モデルとして問題が一つだけある。胸を小さくしてくれ」 「そう言われても……どうすればいいのかな。朝日、胸を小さくするにはどうしたらいい?」 「ここはサラシを使うしか……いや、お嬢様に窮屈な思いはさせられない。くっ、どうすればいいんだ……」 「朝日くらい小さいとちょうどいいんだが……私はあまり、乳袋などは取り入れたくないんだ」 「ち、乳袋……そんな過激な名前を口にしちゃだめっ! 破廉恥だと思われるよ?」 「しかし他にどう表現しろと……おまえの胸が大きすぎるのが悪い。何を食べたらそうなったんだ」 「食べ物のせいじゃなくて、遺伝だと思う。お母様もすごく大きくて、お着物に困ってるから」 「遺伝で胸の大きさが決まるんだったら、私はどうなるんだ……ま、まあ気にしてないがな」 「桜小路さん……いえ、ルナ様は今のお姿が最も可愛らしいですよ。お姿を見るたび惚れ惚れします」 「はい、私もそう思って……」 「やっぱりそうやって天然で口説くんだ……朝日、みんなを手当たり次第に褒めるの禁止」 「それは私も提案したいと思っていた。小倉さんは危険」 「そ、そんなことないですよ? 私は本当に、純粋な気持ちで……七愛さんだって、スタイルはいいと思いますし」 「っ……お、お嬢様では飽きたらず私まで。節操のない処女というのは、矛盾していると思う」 「……何か私も耳が痛くなってきたな……私と小倉さんは、どこか似ているんだろうか?」  確かにそうかもしれないな……彼女は男装、僕は女装という違いはあるけど。 「デザインも決まったし、そろそろ帰るぞ。帰ったら食事をして、それからまた打ち合わせをしよう」 「そうですね、その頃にはユルシュールお嬢様も落ち着いていらっしゃると思います」 「落ち込んでたらみんなで励ましてあげればいいよ。ユーシェだから、案外もうさっぱりしてるかもしれないけど」  少なからずショックを受けているのは間違いないけど……確かにユルシュール様なら、次にはけろっとした顔を見せてくれそうな気がする。  ……それとも、僕が知らないだけで、彼女にも繊細な一面があるんだろうか。そんなことを考えているうちに、ルナ様が自分のデザインに『決定』と入れていた。  八月に入っていた。  十二月のショーに向けた皆さまお集まりでの服作りは、すっかり夏休みの日課となっていた。  まだまだ完成には遠いけど、いまのところ万事が予定通り……いや、予定よりも順調に進んでいるぐらいだ。  当初の意欲が日ごと形となってゆくにつれ、僕らの士気も目に見えて高まっているのだった。  しかし、もちろん、ときには挫折や苦悩だってある。 「あーーーーもーーーー!」  たとえば今日は湊が爆発した。 「消えてしまいたい」  そして落ちこんだ。 「どうかなさいましたか、湊お嬢様?」 「どうもしない」  どうもしないとは思えない声が返ってきた。 「むしろ、どうもしない自分に軽く凹む」 「ていうか、どうでもいい存在でしかない自分に激しく凹む」  湊は作業を続けながらも、器用に体を斜めに倒していた。 「随分と抽象的な愚痴だな」  ふだん手を動かすと口が動かなくなるルナ様が、ちょうど区切りのいいところだったみたいだ、ティータイムの語調で入ってきた。 「聞いてやろう。論旨を明確にして、さあもう一度話せ」 「え?」  湊は「作業中の私語は慎め」などの反論を想定していたようだ。一同の視線を集めると、急に口が重くなった。 「や、その、べつに、改まってメーカクに語るほど深刻なこっちゃないんですけど」  なぜ敬語。 「ただ、その、みんなすごいなあ……って」 「ええ、私がすごいことは知ってますけど。なんですの、今更」 「今度は抽象的な嫉妬か?」 「ちゃうねん。そもそもワテ、嫉妬できる土俵にすら立ってないねん」  なぜいんちき方言。 「お相撲の話?」 「ちゃうでゴワス! ちゃうでゴワス!」 「い、痛っ……肩を叩かないでください」  でも湊が落ちこんでるのは確かみたいだ。いつもなら軽く十ツッパリは続く張り手が、わずか四ツッパリしか続かなかった。  かと言って、悩みを相談したいわけでもなさそうだけど。  気分転換にでもなればと思い、僕は作業を止めて席を立った。 「皆さま、新しいお茶をお淹れしますね」  今日は名波さん北斗さんサーシャさんがそれぞれの事情で留守。この場にメイドは一人しかいないから、僕が皆さまの分までお世話することになっていた。 「朝日いいよ、私がやるよ」 「え?」  予期せぬ申し出と共に湊が駆けよってきて、結果、僕らは体をぶつけるようにしてドアノブを同時に掴んでしまった。 「ひゃっ」 「うわっ」  ふたり、弾けたように手を離す。思わず素の声が漏れてしまった。 「いちいち手が触れあったぐらいで過剰反応するな。意識し始めの男女か」 「ち、違います、ぶつかったことにびっくりしたんです」  たぶん。 「そんなことより、朝日の悲鳴はまるで殿方みたいでしたわ。良家に仕える子女としてアルマジロ行いですわよ」  日本語の慣用句には疎いけれど、洞察力には秀でているユルシュール様だった。 「ま、まさかそんな、そそ、それを言うならセンザンコウでございますわよ」  僕は混乱してわけの分からないことを口走っていた。 「ん……そういえばたしかに朝日は、ときどき妙に男らしい声をあげることがあるな」  ぎくぎくっ! 「い、いえ、そんなことはございませんですわホーホホホ」 「あー、それ私のせいかも」  混乱してスイス的な女性らしさをアピールしていると、僕の素性を知る幼馴染みから助け舟が出された。 「朝日にはよくカラオケの練習に付きあってもらってるんだけどさ」 「男子パートの駆け声とか合いの手も極力リアルにやってもらってるんだよ。へいへいダミ声出してこー、とか結構スパルタでムチ飛ばして」 「そ、そう! それなんですよ! 湊お嬢様ありがとうございます! ありがとうございます!」  湊の素晴らしい機転に、思わず感謝が口をついてしまった。 「君はなぜムチを飛ばされて礼を言うのか」 「しかも気持ち悪いほど感激して……そんなにムチが嬉しいのかしら……」  おかげで別方向の疑惑が生じた気もするけれど、それはそれとして最大の危機は去った。 「湊、ずるい。そんな楽しそうなカラオケ、私も入れてほしい」 「いいのかい、うちのダミ部は厳しいぜ。遊びじゃなく本気で全国を目指してる猛者揃いだからな」 「うん、これから毎晩ダミ声のボイトレがんばる。あめんぼ・あかいな・あいうえおー!」  やがて紅白ダミ声歌合戦が始まり、僕にかけられた嫌疑は気付けば雲散霧消していた。  湊のおかげだ。湊、ありがとう。 「ちょっと貴女たち! なんて野蛮な声を出してますの、良家の子女としてセンザンコウ行いですわよ」  あっ、ユルシュール様がまた日本語を間違えていらっしゃる。  またルナ様が嘘を教えたのかな。いたずら好きで困った主人です。 「で、湊。結局君は何をぼやいてたんだ」 「え? あー」  え、私ぼやいてたっけ? あー、ぼやいてたか。みたいな顔。 「や、私この班で、一番いらん子だなーて思って」  あっさり風味の自虐だった。 「要のルナは当然として、朝日も瑞穂もユーシェも、誰一人欠けたら駄目って面子じゃん?」 「ええ、そうね。要の私は当然として、朝日も瑞穂もルナも、誰一人欠けてはならない存在ですわね」 「それに引き換え、湊さんのおミソっぷりったらもう」  湊にはいつも地味なパートに当たってもらっている。黙々と単調な作業を繰りかえすうち、ナーバスになってしまったのかもしれない。 「そんなことありません。湊お嬢様だって大事なチームの一員です」  僕は偽りなく告げた。皆さまも同意して頷いた。 「そうだよ。私たち、湊がいてすごく助かってるよ」 「すごく……助けてるか、私?」  湊は懐疑的になっていた。 「たとえば? 具体的に」 「ぐ、具体的に言うと……」  瑞穂様は目を逸らした。 「……いろいろ」  しかも具体的に言えなかった。 「何を言いだすかと思えば……案ずるな、湊」  そこで助け舟を出してきたのがチームの要ルナ様だ。 「気負わなくていいんだ。君の戦力など最初からまったく当てにしてない」 「ザ・ショック!」  善意の伝え方がびっくりするほど不器用なルナ様だった。 「湊、あなたの存在は本当に助かっていますわよ」  ああ、いよいよユルシュール様さえもが、見兼ねて慰めの言葉を。 「今日のようにサーシャたちが不在の日は、とくに重宝しますわ。よく働いてくれますものね。コピーとか、お茶汲みとか、買い出しとか」 「結婚までの腰掛けOLか!」  わあ、西洋の貴族のご息女が、ハリセンで後頭部ひっぱたかれてる。 「おまえら、もっとマシな慰め方はできんのかー! はい、次!」  それから僕たちは「湊がいてくれて良かった100の理由」を議題に小休止した。  その夜。  服作りもメイド仕事も終え、ひとり部屋でまったりしていた時間帯。  入浴仕度を整えながら、そういえば湊の悩みって何だったのかなあ、なんて昼間の件を思いだしていたら。  扉が叩かれた。  出張(自称)から帰ってきたサーシャさんだった 「やあ仔犬ちゃん、素敵な夜をお過ごしのところ済まないね。今日はうちのお姫さまが世話になってありがとう」  わざわざお礼を言いに来てくれるなんて、意外と律儀なひとだ。 「いえいえ、こちらこそ楽しくお仕事させていただきました」 「そのお礼というわけではないけれど、これは今日の旅のお美やげだよ。どうか受けとっておくれ」 「えっ、そんな! 結構ですよ、気を遣っていただかなくても」 「なあに、遠慮はノーサンクス。ほんのつまらない物さ。それじゃグッナイ、夢で待ってる」  ウィンクと投げキッスを残して彼? 彼女? は去った。  部屋に戻って、いただいた紙袋を開けてみると、古き良き観光地名物・三角ペナントだった。  閑雅な寺社をバックに、サーシャさんが艶めかしい半裸姿で女豹のポーズをきめている図案。  つまらない物という言葉がよみがえって、思わず「ほんとだあ」って言いそうになったけど言いません。ひとの価値観は多様です。  ところでこれ、いったいどこのお土産なんだろう。肝心の地名に、あられもないサーシャさんが被ってて判読不能……  そしてまたノックの音。  僕はペナントを紙袋に戻してドアを開けた。 「夜分に失礼いたします」  今度は北斗さんだった。 「小倉さんに置かれましては、本日わたくし共の主人が世話になりましたこと、深くお礼申しあげます」  彼女は言葉どおり深々と頭を下げた。 「いえいえ、こちらこそ楽しくお仕事させていただきました」 「それはそれといたしまして」 「はい?」 「ときにお尋ねします。清楚可憐で知られる瑞穂お嬢様が今宵、北欧系デスメタルバンドのデスPVをご覧になりながら熱心にデスボイスの発声練習をデスなさっているのですが、なにか心当たりはございませんデスか」  あります。デスあります。  だけど北斗さんの手に大振りの戦斧が握られていたから、僕は桜屋敷がデスCDのジャケットアートよろしく血の惨劇に染まる事態を恐れて、首をぶるんぶるん横に振った。 「知りません。デス知りません」 「そうデスか、では良い夜を。汝に精霊の加護デスあらんことを」  そして罪人には血の裁きあれ。などとデス呟きながら北斗さんはデス去った。  禍々しい戦斧を死体のように引きずるその背中を、僕はしばらく見送った。  ごろごろと重く響くその低音は、まるで不吉な雷鳴のようだった。  チェアーに戻って生あることを大地の神に感謝していると、また扉が叩かれた。  サーシャさん、北斗さん、と来たから次は彼女だろう。  三人とも普段は、自由というか奔放というか好き勝手というか……な生き方だけど、流石はプロ。仕事のこととなると後輩の僕なんかにも、きちんと礼儀を通されるのですね。  そういうところ、かっこいいなあって思う。 「はいはい、お待ちしておりました名波さん」 「どっこい柳ヶ瀬さんだ!」 「あれ? なんだ、湊か」  言葉選びを間違えたら、湊が険しい顔になった。 「なんだ湊か!?」 「あっ! いや! 違っ……うんですよ、湊お嬢様。てっきり七愛さんだと思いましたので……」 「こ、こんな夜更けに……部屋で七愛を待っていた……?」  険しさが増していった。 「あわわわわ」  僕は彼女を部屋へ引きいれて「なんだ湊か」に至る経緯を説明した。 「やっぱりサーシャさんも北斗さんも来たんだ」  説明したら嫌疑はあっさり晴れた。証拠物件として提出した三角ペナントが効を奏したのかもしれない。 「同じ同じ。私も七愛の代理で来たから」 「代理?」 「うん、あの子から伝言。『きょう一日、主人が世話になりました』だって」 「あ、なるほど。でしたら名波さんには、こちらこそ楽しくお仕事させていただきましたとお伝えください」  なぜ当人が直接いらっしゃってくれないのかは……うん、聞くまでもないか。 「ああっ! 違うよっ? べつに七愛が『朝日』のこと嫌ってるわけじゃないよ?」 「そ、そうなんだ」  これが世にいう、優しい嘘というものですね。 「たぶん七愛は気を利かせてくれたんだよ」 「どういうこと?」 「だから、その、口実をくれたって言うか……私がゆうちょの部屋へ行きやすいように……」  湊は下を向いて不明瞭に呟きながら、サーシャさんの三角ペナントをふにゃふにゃと弄んでいた。 「あ、もしよかったら、それあげるけど」 「いらない」  そこだけは正面きって明瞭だった。  僕はあははと笑って、彼女もくすっと吹いて、穏やかな一瞬が流れた。  そして静寂。 「うん。それだけなんだけど」  湊は座ったまま、背筋を反らし気味に伸ばした。 「さて帰るか」とも「さて別の話でもしようか」とも言いだせる曖昧な姿勢で一瞬止まる。  しかし彼女がどちらを望んでるかは伝わってきた。  僕は立ちあがった。 「ちょっと待ってて。お茶淹れてくる」 「わあい、さんくー」  湊は尾てい骨を支点に、体をゆったり後ろへ傾け……ようとして急停止。 「じゃなくて! だから逆! ゆうちょ座っててよ、そういうのはフツー女子の仕事でしょーが」 「ええー? そういう考え、前時代的じゃない? いまは男女同権の世の中だよ」 「そうかもだけど、今はそういう思想的な話じゃなくて。なけなしの女子力見せたいっていう、恋する乙女的な話だから」  恋する、なんて臆面もなく言われて、頬に血が集まるのを感じた。 「い、いいの! 僕だって、お茶を淹れるのは単なる趣味なんだから」  赤くなった顔を見られたくなくて、逃げるようにキッチンへ駆けだした。  というわけで、紅茶を囲んで深夜のおもてなし。 「……あ」  ひと口ふた口含んでから、湊がカップを止めた。 「こないだ淹れてもらったのと違う」 「分かる?」  感想を求めて淹れたわけじゃないけど、やっぱり気付いてもらえると嬉しくなる。  お茶を淹れるのが趣味、なんて言って飛びだした手前、適当なものは出せないと思ったから。 「なんて言うか、ほら、香りが……」  くんくん、と湯気を鼻腔に刺す湊。 「……うん、なんて言うかだよね」  香りを表す語彙というものは、あらかじめ意識して会得しておかないと、なかなか咄嗟には出てこないものだ。 「果樹園のほとりに吹く風のような、優しい土の香り?」 「おー、そんなだ! ゆうちょ、すごい」  ティーブレンダーのハミルトン先生が口にした形容を拝借しただけなのだけど。 「こないだのと違う茶葉なん?」 「〈農園〉《ファーム》は違うけど、基本的には同じものだよ。差が感じられたなら、それは淹れ方のせいだと思う」 「湯温と蒸らし時間に気を遣って、香りが立つように淹れてみたんだ。でも寝る前だから、味は薄目にしてあるよ」 「はー……すごいね、本格的なんだね……」 「全然だよ。僕はプロから教わったレシピをマニュアル通りに実践してるだけだもん」  もし本格的と謳うならば、より高度なセンスや経験を便りに、素材や環境に合致した細やかな微調整が為されるべきだろう。 「いやいや、そんなことを簡単に言えちゃう時点で十分すごいやって話さ、要は」 「そんなことないってば。僕の場合、調理の基礎が一通り身についてるから、ちょっと他人よりアドバンテージがあるだけだよ」 「うん、だから、そういうところがさ」  彼女は左腕を伸ばし、僕の前に手のひらをかざしながら言った。なんの身ぶりだろう。 「はぁー」  脱力して、腕もぶらり。 「昔は木登りだって魚獲りだって、私の方が上手かったのになあ」 「わあ、懐かしい! そうそう、缶蹴りもドッジボールもウイクエごっこも湊は最強だったよね」 「たはは……あれはあれで、実は子供なりに必死だった部分もあったんだけどさ」 「ほら、都会の学校でしょ? 田舎からやってきた転校生、っていうキャラに望まれる役どころがあるんだろーなーとか」 「そうなんだ……でも格好よかったよ」  そうだ。日本に来るまでずっと籠の中の鳥だったぼくに、みんなと笑いながら走る楽しさを教えてくれたのは彼女だった。  外の世界を知らなかった青白い僕に、いろんなことを教えてくれたのは湊なんだ。  だから。 「なんだか弟に身長を越された姉の気分だなあ。ゆうちょはいつの間に私より出来る子になっちゃったんだよ、もう」  だから、僕の頼もしい幼馴染みがそんなことを言うから、びっくりしてしまった。 「なに言ってるの?」  思わず真顔で訊いてしまった。さっぱり意味が分からない。 「だーってさ」  湊はおどけて唇を尖らせてみせた。 「なんか遠いなあって思うじゃん」 「そりゃーゆうちょは昔から出来る子だったけど、今よりはもうちょっと届きそうな距離だった気がするんだよなあ」  ふたたび手のひらを突きだし、ぱくぱく開いて、また下げた。 「昼間だって私、ぜんぜん役に立ってなかったし」 「だから、そんなことないって言ったじゃない」  サロンでの雑談を思いだす。  被服の勉強を始めて間もない湊が、一日の長がある僕らに対して劣等意識を感じるのは仕方ないのかもしれない。  だけど。 「僕の方こそ、湊にはさんざん助けられっぱなしなのに」 「ええ?」  疑わしげに苦笑しながら、彼女はカップを口元へ運ぶ。 「そうだよ。今日だって、ルナ様やユルシュール様に僕の秘密がばれそうになったとき、咄嗟に助けてくれのは湊だよ」 「今日だけじゃなくて、今までにも同じようなこと何度かあったけど、そのたび湊が助けてくれたんだよ」 「そうだっけ?」  ずずー、と音を立て啜る無作法は、彼女なりの照れ隠しに聞こえた。 「でも、そんなのは、たまたま私がゆうちょの事情を知ってるからじゃん」 「うん。湊でよかった」 「いつも信頼できる湊がそばにいて、いざというとき助けてくれる。そんな安心感が、僕の支えになってるんだ」 「だからすごく有難い。いてもらわなくちゃやだ、困る」  僕は相手を正面から見据えて断言した。 「…………」  彼女は一瞬、呆けたように固まった。 「……お、おう」  しかしすぐに頬が赤くなった。声はひっくり返っていた。 「わか、わかった。助けてやる。どんと来い」  言葉のわりに目を合わせようとしない、湊のどぎまぎした反応で気が付いた。冷静に考えると、僕はいま結構恥ずかしいことを口走ってしまった気がする。 「あ、あの……」 「そういうわけで……僕は湊が必要だと思ってるから……」 「いいヨいいヨ! 木登りも魚獲りもじゃんじゃん助けてあげるヨ! たははは!」  僕らは互いの紅潮した表情を隠すように、正反対の壁へ向かって話しかけていた。  だって──  ──声に出してみると、なんとも言えない実感が胸の奥をくすぐったんだ。  この甘くてこそばゆい感覚はなんだろう。  マンチェスターのどの先生にも習ったことがなかった。  それから紅茶一杯ぶんのぎこちない静寂を経たものの。  二杯目を淹れるころには、僕らの幼い冒険譚を語りあってけらけら大声で笑っていた。  その夜の僕は、他の誰でもない大蔵遊星だった。  八月もなかばに差しかかり、いよいよ暑さがピークを迎えるころ。  ほとんどの同級生が、国内外の避暑地で優雅な休暇を満喫しているころ。  僕たち──通称「朝日班」は、フィリアコレクションに向けて、毎日のように桜屋敷あるいは学園に集まっていた。 「ああもう、なんですの、この国の蒸し暑さったら。アルプスの涼やかな風が恋しいですわ」  サロンは空調が効いて適温だと思うけれど、ユルシュール様には物足りないのだろうか。 「もう少々、室温を下げた方がよろしいでしょうか?」  本音をいえば、ルナ様のお体に障りそうだからこのぐらいでご勘弁いただきたいのだけど。  主人の様子をうかがうと、視線がぶつかった。 「ここは私の部屋じゃない。構わず好きにしろ」 「……と言いたいところだが、構う必要はないぞ朝日。その女はただ不平をこぼしたいだけだ。温度を下げれば今度は寒いと言いだすに決まってる」 「な、なんですって! つまりこのユルシュールが、フレキシブルに言を操る弁舌巧みな才女とでも言うつもり!?」 「言ってねえ言ってねえ」 「ユルシュール様ってポジティブに怒るんですね」 「ただの天然じゃない?」  サーシャさんは首を傾けて苦笑した、 「ルナお嬢様のおっしゃる通りなのよ。うちの姫ったらちょっぴり退屈を催したものだから、誰かとお話がしたかっただけなの」 「もし瑞穂様や湊様がいらしたら、もうちょっと穏やかな滑り出しもあったのでしょうけど」 「相手がルナ様だけだと攻撃的なもの言いになっちゃうんですね」  本当は仲いいのに。僕とサーシャさんはくすくす笑った。 「瑞穂お嬢様と北斗が帰省中だから、しばらくこんな感じが続くかもしれないわね」 「そうですね」  班のみんなが頑張ってるのに自分だけ、なんて瑞穂様は気に病んでいらしたけど、彼女には花之宮としての公務があるのだから仕方がない。 「ユルシュール様は、本当にお国へ帰らなくてよろしかったのですか?」  ホームシックになるほどあの家に執着はありませんわ、とのことだったけれど。 「私も長いことあのお嬢様に仕えてるから、本音と強がりの見分けぐらいは付くつもりよ。あの子はいま楽しくて仕方ないのね」 「桜屋敷での生活が、ですか?」 「それもあるでしょうけど、何より服飾のお勉強が、よ。ああ見えて勤勉なんだから、うちのお姫さま」  ああ見えて……っていう言い方は、貴族の従者として無礼が過ぎる気もするのだけど、サーシャさんが主人を自慢するその様はとても誇らしげだ。  こういう主従の形もあるんだな、って思う。 「あら? ところで、瑞穂お嬢様は京都なうとして……湊お嬢様は?」 「あ、そういえば遅いですね」  サーシャさんが来るちょっと前、ぶるぶる震える携帯電話を掴んで外へ出て行ったのだけど。 「ふふん? オトコと長電話でもしてるのかしら」 「えっ? まさか」  何故だか僕は、サーシャさんの冗談を笑って返せなかった。 「そんな驚くことじゃないでしょ。あの子好きなオトコいるんだから、長電話ぐらいは」 「ええっ」  何故だか僕は、不穏な焦燥感に駆られた。 「だ、誰ですか、誰と長電話を……」 「湊様の想い人、オークラ・ユーセーだっけ?」 「あ、ああ……そっか……」  僕のことだ。  何故だか僕は安堵していた。 「ふぅーん」  そんな僕の百面相を、サーシャさんは大人の微笑で見守っていた。  湊が戻ってきたのは、それから程なくしてだった。 「やー諸君、長いこと席を外しちゃってメンゴメンゴ!」  死語を振りまいてのご登場だった。 「失礼いたしました」  七愛さんも三歩後ろで小さく頭を下げる。 「湊、遅いですわよ。貴女のせいで、私はルナに弁舌巧みな才女と罵られてしまいましたわ」 「メンゴメンゴ! でもそれ誉められてるよ!」 「お嬢様、先ほどの件は……」 「よーし、作業再開だ! 張りきってこー! 私、雑用だけど!」  湊はいつにも増して元気だった。白々しいくらい元気だった。  なにかあったのかな、と思ってしまう。 「では湊、早速ですまないが──」  ルナ様は紙束の中からデザイン画を一枚引きぬいた。 「──こいつを職員室にいる八千代に見せて、感想を聞いてきてくれ」 「畏れながらルナ様、そのような雑務に湊お嬢様のお手を煩わせることはございません。どうぞこの七愛めにお申しつけください」 「いや、湊に頼みたい。八千代の評を直接聞くことは、フィリアの生徒として得る物もあるはずだ」 「おっけー、お届け物なら柳ヶ瀬運輸にお任せだよーん! ぶっとび〜!」  湊は死語を振りまきながら廊下へ飛びだしていった。  やっぱりどこか白々しいように思える。 「さて」  そう感じたのは僕だけじゃなかったようだ。 「七愛。話したいことがあるなら話せ」 「は、ですが……」 「湊に口止めされてるのか?」 「いえ、明確には」 「みだりに他人のプライバシーへ踏みこむほど私は暇人じゃないが、君も湊も、なにか喉元に留めているのが傍で見ていてどうにも具合悪い。集中の妨げだ」  例によってまたそんな憎まれ口を叩いてしまうのですね、お優しいルナ様。 「お話しなさい、七愛。私たちは同じカマドウマを食した仲間ですのよ」 「何かあったとしたら、湊お嬢様にかかって来た電話よね。誰からだったの?」  みんなに心配されていると分かって、名波さんはためらいながらも口を開いた。 「柳ヶ瀬の奥様からです」  柳ヶ瀬夫人、すなわち湊のお母さま。  ご主人ともども大蔵の家にいらしたことがあるから、僕も面識はある。二人とも気取ったところのない、大らかで明るいご夫妻だった。 「それは、どんなご用件で……」 「旦那様が過労でお倒れになったそうです」 「えっ」  名波さんは説明した。  幸い大事には至らなかったが、いまは検査入院として床に伏しているとのこと。  しかし柳ヶ瀬運輸の業績不振など心労も重なって、目に見えて痩せほそってしまったらしい。  近頃はひとりで大都会へ行ってしまった娘の話が増えたらしい。 「不幸中の幸いというべきかしらね。いまは夏休みだから、里に帰って元気な顔を見せてあげるといいわ」  珍しく真面目なことを言うサーシャさんの声は、まるで慈母のようだった。このひとは将来いいお母さん(お父さん?)になるなと思った。 「しかしお嬢様は電話口で、夏休みもショーに向けての準備で忙しいから、見舞いには行けないとおっしゃっていたんです」 「そんな」  たしかに、みんなで全力を出しきろうって誓いあったけど。 「ふん、半人前が一端の口を。湊が戻ってきたら帰省勧告を突きつけてやる。いいな?」  ルナ様が班員の同意を求めた。もちろん誰にも異論はなかった。 「ありがとうございます、しかしそれだけではなく実は……」  不意に名波さんが僕の方を向いた。 「小倉さん、お願いがあります」 「え? 僕?」  一方的に怨敵と呼ばれて数ヵ月。僕に対してこんなにも神妙な七愛さんを見たのは、これが初めてかもしれない。どんな願いでも叶えてあげようと思った。 「あなたの親戚であるという、大蔵遊星……さんと連絡を取りたいのですが」 「無理です」  それだけは叶えられない願いだった。  つい考えるより先に答えが出てしまったけど、なぜここで突然その名が出たのだろう。  理由だけでも聞いておこうと思ったそのとき、威勢よく扉が開かれた。 「ただいまー!」 「帰れ」 「なんでっ!?」  帰省勧告は言葉が足らなすぎて、ただのいじめだった。 「湊お嬢様、すぐにでも帰省なさってください」 「へ?」 「申し訳ございません。実は皆さまに、旦那様の件をご報告させていただきました」 「七愛っ……!」 「ああ、責めるな。七愛は私の命令を拒否できなかったまでだ」 「いいえ、この〈咎〉《とが》は命をもって償います」  名波さんは床に坐して介錯を待っていた。 「そんなことより、湊!」  そんなこと呼ばわりでスルーされたけれど。 「あなた、勘違いも甚だしくてよ。この天才ユルシュールが率いる優秀な我が班は、数日ばかり一人二人の欠員が出たところでどうということはありませんわ」 「そうよ、湊お嬢様。貴女の不在期間は、うちのユルシュール様が馬車馬のように働きますもの」 「えっ」 「えっ」 「そ、そこは私が馬車馬のように働きますので」 「分かったか、湊。分かったらもう一度言う。帰れ」 「たはは、みんなありがとね」 「でも、だいじょぶだよ。ただの検査入院だって言うし。団結力が売りの朝日班なのに、私だけ何日も休むわけいかないよ」 「湊だけじゃない、瑞穂も帰省してる」 「ああ、そうだな。君が帰省を拒むほど、すでに帰省してここにいない瑞穂を悪者扱いすることになるな」 「み、瑞穂は仕方ないよ、事情があったんだもん」 「そう言うなら、君のそれだって事情だ」 「あ、そっか」 「……いやいやいや、じゃなくて。瑞穂の家には昔からの伝統とか、土地のしきたりとかあるんだもん」 「でも、うちのお父さんのは、極論ただ娘に逢いたいってだけもん」 「湊お嬢様」 「逢いたいと言ってくれる親がいるのは、とても幸せなことですよ。親孝行はできるうちに沢山しておくべきです」  僕は本心を語った。 「うん……そうだね……」 「まだごちゃごちゃと面倒を言うようなら、私もいよいよ『湊がいたところで役に立つことはない』などと非情を口にしなければならなくなる。君は私まで悪人にしたいのか」 「…………」  湊はしばらく黙りこんでいたけど、やがてはっきりした声で言った。 「みんな、ありがとう。だけどルナ、もうひとつ我儘を言わせて」 「なんだ」 「朝日を貸して。お父さんはこの子にも逢いたがってるの」 「えっ?」  突然のことに僕は驚いた。  しかし僕以上に目を丸くしたのが名波さんだ。 「お嬢様? あの、それは……」 「あとで説明する」 「は、はい……」  だけど主人に制されて、ふたたび三歩後ろへ戻った。  僕は湊に目配せした。どういうこと?  彼女も僕を見ていた。そういうこと。 「朝日か……ふぅー……」  ルナ様は長い息をついていた。 「パタンナーを持っていかれるのは正直厳しいところだが、事情が事情だからな」 「ですわね。帰ってきたらその分、朝日には馬車馬のように働いていただかないと」 「……だそうだ。朝日、あとは君が決めろ」 「いえ、私はルナ様にお仕えする身ですから……」 「〈休暇〉《やすみ》を取ればその限りではない。〈他人〉《ひと》のせいにするな、自分の意思で選べ」 「は、はい」  ルナ様は興味のなさそうな表情だった。  だけどこの数ヵ月を共に過ごしてきて、彼女の表には出にくい心情を幾度か垣間見てきた。  だから分かる。本心では僕に残ってほしいと思っている。  僕はまぶたを下ろして深く呼吸した。  彼女は「選べ」と言った。  ルナ様か、湊か。  自らの心に向きあったとき、最初に浮かんだのは──  ──湊だった。 「ルナ様、すみません。二日ほど休暇を申請させてください」  僕は選択の結果を告げた。 「私は湊お嬢様に随伴いたします」 「……了解した」  返答は苦笑混じりの一言だけだった。  何に対して笑ったんだろう。ルナ様を選ばなかった僕が、その理由を知ることはないような気がした。  それからしばらくして。  湊が洗面所へ行くと言って席を立ったので、僕もちょっとの間を置いて後を追った。 「やっぱり来てくれた」  角を曲がったところで彼女が待っていた。  話したいことがあるのは同じだったんだろう。 「とりあえず、ありがと。ゆうちょが来てくれるなら、お父さんも喜ぶよ」 「いちばん喜んでるのは私だけど、なんて言ったら不謹慎かな」 「うん……どうかな……」  正直に言えば、僕も喜んでいる部分はあった。  このあいだ湊の故郷の話を聞いて、いつか一緒に行ってみたいなんて思っていたから。 「おじさんは本当に大丈夫なの?」 「うん、それは全然。過労と心労は事実だろうけど、会社の規模を小さくする決心がついたら元気になって、もう毎日病院食おかわりしてるって」 「そうなんだ、よかった……」 「でも、ゆうちょが親孝行しろって言ってくれたから、ちょっと娘のかわいい顔見せ行ったる」  湊は白い歯を覗かせてにっかり笑った。  その笑顔は事実かわいくて、事実ひとを元気にする力があると思った。 「でもあのひと、本当は私よりゆうちょの顔を見たいんだよ、どーせ」 「あはは……それで、その件なんだけど」  僕は湊の冗談を受けとめてから、気になっていたことを訊ねた。 「どうしておじさんは、子供のころ何度か顔を合わせただけの僕に、いまそこまで会いたがってるの?」 「それは……うん、まあ、会えば分かると思う。直接聞いて」 「ふーん? わかった」  思えば陽気でおしゃべり好きなひとだった。単にわいわい昔話をしたいだけかもしれない。  しかし問題はここからだ。 「あの、聞くまでもないことだけど……僕は大蔵遊星として湊の実家へ行くんだよね?」  当然だ。湊の家族が会いたがってるのはかつて会った懐かしい男の子であって、小倉朝日なんて名乗る知らない女じゃない。 「うん……」  当然のことなのに、湊の返事も歯切れが悪い。問題があると彼女も分かっているんだ。  僕はさらに聞いた。 「帰省には名波さんも?」 「うん……できれば……」  僕は大蔵遊星として湊の家族に会う。  しかし名波さんの前では小倉朝日でいなければならない。  それは難題だ。 「今回のことでいちばん心配してくれたのはあの子だし、それでなくてもずっと私のそばにいてくれたのに、こういうときだけ仲間外れって言うのはちょっと……」 「それに、なんか……なんて言ったらいいか分かんないけど……誰かいてくれないと、本当にただ好きな男の子と二人きりで旅行するみたいになっちゃうし……」 「え、えっと、うん、そっか、そうかもね」  最近ちょっと変だ。  前にも増して、湊から好きって言われると体が熱くなる。  たしかに僕も、こんな状況で浮かれてたら、それこそ湊のお父さんに対して不謹慎だ。 「そろそろ潮時なのかな」 「えっ?」 「名波さんには、そろそろ僕の秘密を明かした方がいいのかもしれない」  僕の提案に、湊は口を開けて固まった。 「どのみち不審がられてると思うんだ。おじさんは大蔵遊星に会いたいって言ったのに、湊は小倉朝日を連れて行く……七愛さんにしてみれば、この時点ですでに話が合わないもん」 「それは、そうなんだけど……でも」 「不慮の事態でうっかりばれちゃうぐらいなら、こっちから打ちあけた方がまだましだと思う」  いままでさんざん騙してきて、いまさら誠意がどうこう言える問題でもないだろうけど。  でも、だからこそ。 「僕はこれからもずっと、湊と一緒にいたいって思ってる。だから湊と一緒にいる名波さんとも、誠実に向きあいたいんだ」 「そ、そうなんだ……ありがと……」  湊は俯いて縮こまってしまった。 「うん……そう言ってくれるなら、私も嬉しいけど……」 「あなた方なにしてますの、こんなところで」 「うわああああっ!」  突然の乱入者によって極秘会議は中断された。  だけど、なにか小さな一歩を踏みだした気がする。  そのあとユルシュール様を交えて三人でお手洗いへ向かう途中、僕と湊は何度か視線を絡めてこっそり頬笑み合った。  なんだろう、なんか、楽しいなあ。 「朝日、ニヤニヤしてどこ行きますの。そちらは男子トイレですわよ」 「きゃあああ!」  せめて悲鳴には女の子らしさを盛ってみました。  桜屋敷に戻って、みんなで夕食をいただいたあと。  部屋へ戻る前、僕は他のひとの目を盗んで、そっと湊に目配せした。昼間の続き、話す?  彼女は待っていたように頷いた。うん、おっけー!  だからお屋敷がまどろみに包まれるころ、僕は湊の部屋を訪れた。 「小倉です。湊お嬢様、いらっしゃいま……」 「どええええええええええっ!?」  その瞬間、ドアの向こうでから只ならぬ悲鳴がほとばしった。 「みなとっ!?」  かつての血がたぎる──脳裏で元傭兵のイワノフ先生がGOと叫んだ。  ぼくは右足でドアを蹴破り、左足で中へ踏みこむ。 「湊っ! だいじょう──」 「──ぶ?」  あれ……?  押し入った先は、女子ふたりの和やかなティーパーティーだった。 「び、びっくりしたぁ……どうしたの、突然」 「あ、いや……てっきり非常事態かと思って、つい……ものすごい声がしたから」 「ああ、それ七愛。ちょっと話してたら、びっくりさせちゃって」 「へえ、どんな話? ですか?」  さりげなく敬語を付けたしながら、名波さんの前にちょこんと座る。  彼女はホラー映画のクリーチャーみたいな顔で微動だにしなかった。代わりに湊が答えた。 「昼間の話」 「昼間? っていうと……」  名波さんがこれほどのショックを受ける話。  だらだらだら。嫌な汗が出た。 「え、ひょっとして……」 「たはは、七愛ったら誘導尋問が上手くてさー……私も昼間ゆうちょがああ言ってくれたのが嬉しかったもんで、ついついヒント出しすぎちゃったよね。メンゴメンゴ」 「え、ええええっ!?」  がしっ──  ──恐ろしい形相の名波さんに頭頂を鷲掴みされた。 「ひいっ!」  殺意の滲んだおぞましい眼光が光る。脳裏でイワノフ先生もぶるぶる震えていた。 「大蔵遊星……」 「は……いや、えっと……」  思わず返事をしそうになって途惑った。 「お嬢様のお心を奪った、真の怨敵……その名は大蔵遊星ェェェ……」 「貴様だったのかああああああああ!」 「きゃああああああ!!」  らしさ、かなり盛ってみました。  頭皮、もといウィッグをズルッと持ってかれちゃって台無しだったけど。 「あわわわわ」 「なにか……言いのこすことはあるか……」 「え、えっと……」  僕は夏らしくサッパリしてしまった頭で必死に考える。  何も思いつかなかった。 「メンゴメンゴ」 「キエエエエエェェェ──ッ!!」  ぶっとばされました。  善は急げという。  湊の里帰りは、翌日の決行となった。  特急列車の予約状況などから、出立はちょっと遅めの昼過ぎ。  僕は発車時刻までにデパートやショッピングビルを覗いて、足りない旅行用品を揃えることにした。  だから、ひとつ屋根の下に暮らしている僕らだけど、今日の待ち合わせは外にしてもらったんだ。  それにしても。 「なんか……落ちつかない……」  僕はいま大蔵遊星として、男の格好で繁華街の真ん中に立っている。ウィッグも付けてない。もし知っているひとに会ってしまったらどうしよう。  小倉朝日の姿でないとかえって緊張するっていうのは、いよいよ末期な気もする。そもそも「男の格好」なんて区分け自体が、すでに健全な男の発想じゃない。 「うーん……」  やけに短く感じられる自毛をもしゃもしゃ掻きまぜながら、ふたりの到着を待った。 「ごめーん、遅れて」  集合時刻の数十秒前。湊と七愛さんが大きなトラベルバッグを転がしながら現れた。メンゴメンゴはもう飽きたみたいだ。 「大丈夫、時間には間に合ってるよ。僕がちょっと早く来過ぎちゃっただけだから」  すごく楽しみで、じっとしてられなかったんだ。なんて言えないけれど。 「いやー、間に合ったってもギリ過ぎだよね、ホントごめん。ゆうべなかなか寝付けなくてさ。七愛もそうなんだって」 「へ、へぇー」  だけど眠れなかった理由は、湊と違うのでしょうね名波さん。 「七愛は謝らない。彼女……いやさ彼は、私に悪夢のような現実投下し、安らかな眠りを妨げたまさにその張本人だから」 「ですよね……」  名波さんの恨みの視線は、昨日までのそれより一層厳しくなっていた。  今回ばかりは至極まっとうな反応だとも思う。  名波さんに関しては、最悪、性犯罪として告発される結末まで想定していた。それに比べれば、彼女ひとりの白眼視ぐらいはむしろ寛大な措置だ。 「正直、まだ頭の整理が付かない。一生、付く気がしない」 「それはあまりに常軌を逸した、恥ずべき行為。七愛はとこしえに嫌悪し、ひたすらに軽蔑する」  かたや僕はとこしえに反省し、ひたすらに謝罪します。 「だけど慈悲深い湊お嬢様が、許してあげてと七愛にすがる。湊様の願いは何物にも優先されるべき」 「ゆえに七愛は今日より未来において、表面上あの男を赦し、あたかも受けいれた態を装うのであった」  え、ええと、ここはありがとうございますと言うべきなのでしょうか。 「うちの七愛、優しいよね。なんか言葉は小難しいけど、要は許すってことでしょ?」  いえ、要は許さないってことだと思います。主人に命令されたから黙認するってだけで。 「おいおい、出発前から暗いぞう。元気出せ、男の子!」 「う、うん、そうだね」  背中を叩かれて、はっとした。  みんなの好意でもらった休暇だ。お見舞いが主目的とはいえ、せっかくだから楽しませてもらおう。 「よーし、張りきって駅へ行くぞー」 「おー!」 「……っ!」 「す、すいません!」  名波さんが険しい目でこっちを見るから、思わず委縮してしまった。  だけど、彼女の目が捕えたのは僕じゃなかったらしい。 「あれは……うちのクラスの……」 「ん? 誰かいた?」 「はい。名前は記憶してございませんが、たしか湊お嬢様のクラスの糞ビッチどカス女が……いえ、クラスの方が、向かいの歩道に」 「ええっ」  湊の同級生ということは、もちろん僕の同級生でもある。 「ど、どうしよう、ばれなかったかな……」 「この距離なら大丈夫だよ。髪型ちがうし」 「そんなことでいちいち狼狽するチキンハートなら、無理して男の格好なんかして来なければよかったのに」 「む、無理なんかしてません。僕はこれが自然体なんです」  さっき緊張していたのは内緒です。 「おう、とっとと行くぜ。付いてきな、野郎ども」  僕は男らしさを強調するため、ポケットに手を入れ外股気味に闊歩した。 「あっ、ルナ様」 「きゃっ! ちが、ちがうんです、僕は私じゃなくてっ」 「きめぇー」  内股気味に縮こまっておろおろする僕を、名波さんが心から軽蔑した目で睨んでいた。  よく晴れた旅行日和。  車窓の景色も上々で、わくわくが止まらない。  もう旅は始まってるんだなあって実感する。 「ねえ、湊の田舎ってどんなところ?」 「滋賀だよ。湖」 「う、うん」  ちょっと質問が漠然とし過ぎたかもしれない。 「湊の実家はどんなところにあるの?」  まさか湖の真ん中ってこともないだろう。 「んー? 商店街の中。申し訳ないぐらいフツーな感じだよ」 「へえぇー」  ある土地のスタンダードが、他の土地の者にとってもスタンダードであるとは限らない。湊の言う「普通の商店街」が楽しみだ。  ホテルや旅館が集まったいかにもな観光地とは違って、その土地に暮らす人々の日常的な生活臭を雑味の残ったまま感じられそう。 「ちなみに旦那さまの柳ヶ瀬運輸は、オフィス街に立派な自社ビルを構えておいでですので念のため」  名波さんが柳ヶ瀬家の威光を誇示するように付けくわえた。 「そのビルも買い手が見つかり次第、手放すって話だけどねー」  ある種の謙遜なんだろう、湊は自慢話を笑い話へと落とした。  笑っていいものか、微妙だったけれど。 「不景気のばかやろー! って叫びたいけど、最近の電車、窓開かないし」 「近代化のばかやろーだね」 「大蔵遊星のばかやろーです」  和やかに駅弁を囲みながら、僕らはあははと笑──  ──えないですよ!? 「あの、名波さん……いまの流れで大蔵遊星ばかやろーって、それ全然脈絡なくないですか?」 「はい、ないです。ただ言いたかっただけですから」 「わあ、言いたかったならしょうがないですね!」  あはははは。  僕らの笑顔を乗せて電車は走る。  そして辿りついた先は、さながら柳ヶ瀬さん家の湊ちゃん凱旋パレードだった。 「よう、湊! 帰ってきたのかい。どうだ都会の暮らしは、ええ? 合コンやるときはおっちゃんも呼んでくれよ」  商店街では昔から顔なじみだって聞いてたけど、本当だ。湊が通りがかるだけで、みんな嬉しそうに店先から声をかけてくる。 「あら湊ちゃん、お帰りなさい! 寂しかったわあ、元気? 合コンやるときはおばちゃんも呼んでね」  そんな湊を誇らしく思った。周囲のみんなを笑顔にする、それが僕の幼馴染みだ。 「ほう、柳ヶ瀬んトコの末っ子か。ちょっと見ない間に綺麗ンなったのう。合コンするならワシも呼ぶんじゃぞ」  湊も両手を振ったり、ひょこっと跳ねたり、ひとと話す嬉しさを騒々しいぐらいに全身で表現する。 「ただいま、おじさーん! おばちゃん、元気だよー! おっちゃん、ありがとー! あとみんな合コン合コンうるせー!」  これが湊だ。  僕は懐かしさを覚えた。  そうだ。フィリ学では狭量な同級生たちの目を気にして、柄にもなく教室の隅で小さく息をしているけれど、これが生来の柳ヶ瀬湊だ。  かつて僕が追いかけた、あの可愛くて格好いい背中だ。 「大蔵遊星……なにを見てるの」 「うん、やっぱり湊はすごいなって。こんな大勢のひとに愛されてる。湊も歩けば知人に当たる、って感じだよね」 「あ? うちのお嬢様を犬扱いしてんじゃねえよ、このオス犬が。てめえのチワワ並みの短小包茎ソーセージもぎり取ってドーベルマンに喰わせたろかコラァ」 「なないー? どーしたのー?」 「いえ、お嬢様を性的な目で見る不審な男がいたので、少々釘を刺しておきました」  だ、誰のことだろう。 「ゆうちょ、今日なに食べたい? 希望あれば材料買ってくけど」 「えっ? なんでもいいけど」  ソーセージ以外なら。 「……あれ? もしかして、湊が作ってくれるの?」 「せっかくの実家キッチンだからね。ここでやらなきゃ、いつ女を上げるんだって話じゃん?」 「わあ、楽しみだなあ」 「すみません。ブタください」 「あ、おお、柳ヶ瀬さん家のお手伝いさん。何に使うんだい、焼き肉? カレー?」 「儀式」  名波さん、そんな名前の料理はありません。 「ところで湊ちゃん、その人は彼氏?」 「えっ」 「こ、この人は……前に話した幼馴染みの……」 「ああ! この子があの? 初恋の?」 「お、おばっ、おばちゃん声っ! 声、大きい大きい!」 「なんんじゃい、この坊主が柳ヶ瀬の跡取りだって?」 「ち、ちがうって! ちがうの、まだそんなんじゃないの! 「ちょ、待って、やめて、騒ぎ大きくしないで! 今が大事な時期なの! 温かく見守ってえええ!」  ばたばた走ったり、わたわた振りまわされたり。  ご年配とも友達みたいに接している湊は、折目正しい作法に捕われた僕らなんかより、よほど大人びて見えた。 「え……? みな、と……?」  その騒ぎを新たに聞きつけたのは、スカートの膝丈が東京の子たちより十センチほど長い、地元の学生グループだった。 「えええ! うっそ、マジ湊じゃん! 帰ってきてたの!?」 「おおお、キヨちゃーん! あ、カイホー! わああ雨森もいるー! え、なにソレみんな真っ黒ー! ってか、めっちゃ部活ルックなんですけど、えー、なに部なに部? 軟式なに部?」 「軟式とかねーし、つかクロス持ってんじゃん、ラクロス以外ありえなくね?」 「知ってるー! ラクロスこーゆーんでしょ! こーで、こんなで、すぽーんってやつでしょ!」 「湊、相変わらず雑ー。つか、いつまでいんの? みんな呼んでどっか行こうよ。あと合コンしようよ」  なぜこの街のひとたちは老若男女問わず合コンにがっつくのか問題はさておき。  湊の腕に抱きついてはしゃぐ、あの同窓生のきらきらした目を見れば分かる。素朴な田舎町の賑やかな教室が容易に想像できる。 「湊はこっちの学校でも人気者だったんですね」 「こっちの学校『では』」 「…………」  名波さんは独り言みたいにつぶやいた。  独り言みたいだったから、僕は返事をしなかった。  いまの学校では微妙に浮いてしまった感のある湊を、この旧友たちが知ったらどう思うだろう。  もし僕の影を追いかけていなかったら、湊は今でもこの街で、誰からも愛されながら伸び伸びと輝いていたのだろうか。 「その脳天気な頭でも少しは理解してもらえた?」 「えっ」  不意の問いかけだった。いま名波さんははっきり僕を見上げていた。独り言ではなかった。 「なぜ私が、大蔵遊星という存在を快く思えないのか」 「あ……」  分かった。理解した。この街にいれば嫌でも気付く。  僕自身、いま近しい考えに至っていたのだから。 「本当は逆恨みだってことぐらい分かってる。正直に言えば、湊お嬢様が慕うほどの相手がひどい人間であるはずないことだって、頭では理解してる」 「でも納得できない、口惜しい。もし大蔵遊星という偶像に惑わされてなければ、お嬢様はいまでもくだらない嫉妬や蔑視に晒されることなく、心穏やかでいられたんだ」 「あの浅ましいドカス共……! ハッ、上流階級なんて糞くらえだよ。湊お嬢様はずっとここにいるべきだった。ずっと私たちの灰かぶり姫でいてほしかった」 「大蔵遊星のためにガラスの靴なんか履いて、お城の社交界へ飛びこんだのがいけなかったんだ」 「名波さん……僕は……」 「謝ンじゃねえぞ? オトコ女のインポテンツ野郎。おまえが謝ったら、お嬢様の必死な願いがいよいよ空虚で惨めなものになる。それだけは絶対に許さない」 「七愛は大蔵遊星が大嫌い。七回殺しても足りないぐらい。だけど──」 「──もう分かってる。本当はずっと前から分かってた」 「あなたのことを想ってるときのお嬢様が、いちばん輝いてる」  その言葉を、名波さんは歯噛みするように絞りだした。 「ダボが!」  そしてやり場のない憤りを片足に込めて、砕かんばかりに石畳をひと踏みした。 「……同感です」  謝ることを禁じられた僕は、せめて湊の美しさを讃えた。 「そう、奇遇……あなたも大蔵遊星が嫌いなの……」 「…………」 「いや、違いますよ? 僕が同意したのはそっちじゃなくて、湊がいちばん輝いてるのくだりですよ?」 「ハア〜ア? テメエごとき新参の脳天気チワワ野郎に、うちのお嬢様の何が分かるんだよ、あ? チョーシくれてンじゃねえぞコラ。いわすぞコラ。ケツの穴にシジミ詰めて琵琶湖の底に沈めンぞコラ」 「お、お手柔らかにお願いします、先輩」 「お待たせー! いやあ、ラクロスって難しいんだねえ……」 「……うん? どうしたの、ふたり。何この空気」  問われて、僕と名波さんは一瞬互いを確認した。  それは世にいうアイコンタクトの一種だったかもしれない。 「なんでもないよ。ちょっと湊の話をしてただけ」 「え? え? どんな話? 私、なんか付いてる?」 「お伝えするほどのことではありません。さあ、お嬢様、参りましょう」 「ええええっ、ちょっと待ってよ! どこ? ねえ、どこに付いてんの! 七愛ー! ゆうちょー!」  黄昏どきの商店街を歩きながら、僕はあらためて来てよかったと思った。  湊のことも、名波さんのことも、前よりずっと好きになれたから。 「うわーきめえ。なんかあの短小包茎の童貞野郎、こっち見てんだけど。なんか勘違いしてねえかアイツ。やっべ、見てる見てるムネ見てるキモいキモいキモい。あー肌腐るわぁー、あー通報してぇー」  うん、まあ、相手はそうでもなかったみたいだけど。  そのあと病院へ赴き、柳ヶ瀬の主人──湊のおじさんと数年来の再会を果たした。  僕らは大いに歓迎され、面会時間ぎりぎりまで、二時間ぐらい話しこんだと思う。  一升瓶が出てきたり、名波さんをメイド服に着替えさせたり、父の痴態を憂う湊の悲鳴が飛びかったり、およそ病室とは思えない賑やかな空間だった。 「おじさん、すごく元気だったね」 「思いだしたくない……」  過労と心労と聞いていたけど、健常な湊の方がよほど憔悴していた。 「湊様の笑顔は、化学物質にも優る極上の向精神薬です。湊様が笑えば、泣く子もヘヴンです」 「私、ほとんど笑ってなかったけど」 「あはは」  そういえば湊はずっと振りまわされていた。 「おおお、遊星君! 久しぶりだなあ、本当に来てくれるとは! いや、これはめでたい、酒を開けよう」  おじさんは病床にありながら存外顔色もよく、比較的壮健そうに見えた。 「いやあ、娘が大蔵さん家のご子息に再会したという話を聞いてね。こりゃあ是が非でも好い仲になってもらおうと思ったわけだよ。めでたいめでたい、酒を開けよう」  むしろ普通に元気だった。 「だはは、病人の頼みというのは断りにくいものだからな。君を連れてきてほしいと無茶を言って良かったかもだ。さあ、酒を開けよう」  むしろ元気を持てあましていた。 「もしもし、母さんはいるか? 今日は大蔵さん家の坊っちゃんがそっちに泊まる、みんなで盛大なパーテーの準備をしてお迎えしなさい。せっかくだからこっちでも酒を開けよう」  むしろ飲みたかっただけかもしれない。 「あああもう恥ずかしいなあ! ゆうちょ、いいよ帰ろう。お父さん、明日は私ひとりで来るから!」  湊はおじさんの一升瓶を奪ったり、僕の腕を引っ張ったりと、終始てんやわんやだった。 「はあ……うちは娘ばかり三人だから、一緒に朝まで酒を注ぎあえるような〈倅〉《せがれ》が欲しかったなあ。ちらっ?」  おじさんは酒瓶を抱きながら、なぜか時折こちらを見ていた。 「ところで遊星君。話は変わるんだが、君は将来結婚したら、妻の父親をなんと呼ぶつもりだね。パパ? ダディ? ムサシ? アッいけね、武蔵って俺の名前じゃん、だはは!」 「七愛、あのおっちゃん黙らせて」 「心の七愛はいつだって湊お嬢様のしもべ……だけど書面上の七愛は旦那様のしもべ。旦那様に解雇されたら、七愛はもうお嬢様のそばにいられない……」 「ああ旦那様、旦那様。晩酌でしたら、この卑しい雌犬めにお供させてください。煙草の吸殻はツーフィンガーで頂けばよろしいでしょうか」  名波さんは手を擦りあわせて大いなる権力に迎合していた。 「ところで遊星君、娘とはどの程度まで進んだのかね」 「コラ!」 「ところで遊星君、湊の部屋の合鍵を渡しておこう」 「オラ!」 「ところで遊星君、合コンの予定があったら呼んでくれ」 「オンドルァ!」  そして僕らは静かにしなさいと看護士さんに怒られた。  だけどいっぱい笑った。  あんなひとがお義父さんになったら、毎日家に帰るのが楽しくなりそうだ。  いつか僕が大人になったら、ボーヌのワインで乾杯したいと思った。 「でも、うん、この部屋はないね」 「ないです」 「ごめんなさい」  柳ヶ瀬の家の湊の部屋には、とても子宝に恵まれそうなインテリアがいたるところに配置されていた。  どう見てもおじさんの手引きによるルームメイクだった。 「旦那様の過保護にも困ったものです」  待ってください名波さん。保護が過ぎると書いて過保護です。然るに「保護」と呼べるのでしょうか、これは。 「私、こんなの触りたくない。七愛、悪いけど片しちゃって」 「ぎりぎりぎりぎり……!」  名波さんは歯を噛みしめ、肌に爪を立て、必死の抵抗力で湊からの指示を無視していた。  ああ、なるほど……柳ヶ瀬の旦那様から、片付けるなって命令されているのですね……。 「うわあーん、ムサシ最低やあああ! 多感な年ごろの娘の部屋に、こんなん撒きちらすなやあああ」 「あはは……愉快なお父さんだとは思うけどね」 「それはキミ、傍で見てるだけだから言えるんだって。一度アレの子になってみーって」 「あっ! や! べつにそんな、深い意味はないよ! パパとかダディとかムサシ的な意味じゃなくてね!」  僕は何も言ってないのに、湊は勝手に弁解を始めた。 「でも、うん……ゆうちょとお父さんが一緒に並んでる朝食とか、ちょっと想像すると笑えるかもだね。ちらっ」 「や、そんな、見られても……」 「ぎりぎりぎりぎりぎり!」  名波さんの激しい噛み締めが、矛先とそのニュアンスを変えたような気がする。  異なる種類の視線を双方向から浴びせられ、いろんな意味で居たたまれなかった。 「なに赤くなってんだテメエ。意識してんのか? あ? 不能のくせに色気付いてんじゃねえよ童貞。んーだ、そのモジモジ。おまえ自分のこと可愛いと思ってんだろ。図々しいんだよ、ブサイク国のブサイク王子が」 「で、でも真面目な話、いいお父さんだと思うよ」  僕には実質的な意味での父がいないから、評価できる立場ではないかもしれないけど。 「そう? じゃあ、ゆうちょがそう言うならそうなのかな」  僕のしつこさに観念した態で、ようやく湊は認めた。  本当はそんな面倒な手続きを踏まなくても、彼女がいま帰郷しているこ自体、親を大事に思っているいる何よりの証拠なのに。 「うん……ありがと……」 「ありがとね、ゆうちょ。なんか……そう言ってもらって嬉しいな……」 「……湊?」  なんだろう。  家族が誉められれば嬉しいのは、それは、たぶん、誰だってそうだろうけど。  いま疲れたように俯いてしまった湊の、この「嬉しいな」は、ごく一般的なそれと何かが違う気がした。 「……! ……!」  名波さんは事情を分かってるみたいだ。左右非対称に歪めた不良少年みたいな顔で僕をにらみ、しきりに顎で命じていた。  マンチェスター時代に少しだけ齧った、ハドラー先生の読唇術を試してみる。  慰めろ? はて……どういうことだろう。よく分からないまま、僕は湊に声をかけた。 「元気ないね。なにかあった?」 「え、なにが? なにも?」  湊は顔を上げながら否定した。 「ッ! ッ! ッ! ッ!」  その後ろではいよいよ名波さんが玉の汗を飛ばして、激しく頭をモッシュ&シェイキングしていた。 「え、っと……」 「湊……ひょっとして、おじさん元気に見えたけど……本当は、危ない状態、とか……?」 「(訳:慰めろッつってんだよ! ムサシ殺してどーすんだダボが!)」  名波さん方面からティッシュの箱が飛んできた。不正解だったらしい。 「違う違う違う! それはほんと違う!」  いつの間にかまた俯いていた湊が、ふたたび顔を上げて否定した。 「たはは、紛らわしかったね、ごめんごめん」 「そーゆんじゃなくてさ、んーとね、んー……」  湊は微笑を絶やさず、深刻にならない言葉を探しているみたいだった。 「うちのムサシ、最近ちょっとディスられ気味だったからさ。そういうの耳に入ってくるたび、なんかこう、もにょっとした気分になってたんだよね」 「……」  名波さんがむっつり頷いた。正解。これが湊の懸案事項らしい。  そういえば、近ごろ柳ヶ瀬運輸の経営が芳しくなく、徐々に内外からの突き上げが増してきたという噂には覚えがあった。 「ああいう気性のひとだから心労なんて無縁だと思ってたけど、意外と繊細だったのかなあ。それか──」  ──それか、あるいは、彼ほど豪胆の者でさえ胃を痛めるほど、柳ヶ瀬運輸は危機的状況に追いこまれているのか。  とは、誰も口に出さなかった。  久しぶりに会ったおじさん、だいぶ痩せてたもんね。  それも言えなかった。 「景気がどーとか、株価がこーとか、そういう難しいことは正直ぜんぜん分かンないんだけどさ」  みんなで黙っていたら、ぽつりぽつりと湊が喋りはじめた。 「私の知ってるお父さんは、毎日朝早くから夜遅くまで仕事して会社おっきくして、地域活性がどーこーで地元のひとたちに愛されて……っていう、そういうひとなんだよね」 「そりゃさ、私の知らないとこでは、お父さんのせいで損しちゃったひととか、大変な目に遭っちゃったひととか、いるとは思うんだあ」 「そういうひとらが怒ったり文句言ったりするのは、まあ、仕方ないんだろうなーって思うよ? でもさ」 「なんも関係ないうちのクラスの子とかがさ、私のことはまだしも、お父さんの会社を面白半分に悪く言ったりするのはさ……」  湊はそこで言葉を切って、代わりにたっぷり溜息を吐いた。  ちょっとコミカルに肩を落として、すっくと立ちあがる。 「まーいいや、湿っぽい話は。ね、なんかお腹すかない?」  それで彼女は終わろうとしていた。 「お姉ちゃんたち、下でまだ食べてると思うから──」 「湊は立派なひとになるよ」  だから僕が終わらせなかった。 「『不幸も不条理も、いずれはその大きさに比例して自らの糧となる』。だから、立ちはだかる生涯や困難が大きいほど、僕らは成長できるんだ」  古い友人の受け売りだけど。  かつて彼が僕へ贈ったように、僕も誰かへ贈りたかったのかもしれない。 「立派なひとになる湊を、僕はいつもそばで見守っていたい」 「…………」 「……うん。見てて。がんばる」  それからほどなくして、僕たちは眠りに就いた。  新鮮な感動や興奮が次々と訪れた、めくるめく一日。旅の疲れは結構溜まっている。  眠るのが惜しくてまだまだ夜更かししたい気持ちもあったけれど、早く眠ればその分、明日は長くなるから──  ──おやすみなさい、夜の向こうの立派なひとびと。 「ぎりぎりぎりぎり……!」  ちなみにこれは、名波さんが寝ていた僕の首を絞める音です。 「七愛が朝からお父さんと大乱闘してたよ」 「どういうこと?」  さすがの名波さんも、自らの雇い主と乱闘できるとは思えないけど。 「なんかあの、だからほら。今日でゆうちょ帰るじゃん?」 「うん。お見送りありがとう」 「七愛はね、ゆうちょのことを心からお見送りしたかったんだって」  絶対嘘だ。僕と湊を監視して、あわよくばホームから線路へ突きおとすためだ。 「でもお父さんがね、またなんかあの、二人きりで感動的な見送りしろとかなんとかでね」  はい。うん。それはなんとなく想像できる。 「そんでゆうちょをどうしても見送りたい七愛と、それを阻止するお父さんの間でとても派手な大乱闘が。七愛が今回ばかりは死を賭しても譲れないとかなんとか」  でも来られなかったってことは、あの体力派っぽいお父さんが力尽くで止めたんだ。  ただしばらく会えないのに、名波さんと挨拶もできないのは寂しい……。 「まあそんなわけで、私一人のお見送りになっちゃってごめんだよ」 「ぜんぜん。むしろ見送りに来てもらっちゃってごめんだよ。あと一時間も待ってないといけないのに」 「え? あれ? 新幹線10時のやつじゃなかったっけ?」 「ううん11時」 「えええええ。お母さんが早く行かないとゆうちょが間に合わないとか言うからてっきり! それで私、時間ないわりにゆうちょはゆっくりしてるなーと思ってたら……そういうことかああ!」  お母さんが故意だったのかどうかはわからない。 「ただ一人でも大丈夫だよ。新幹線の駅まで行けばなにかあると思うし。本屋でもあれば……」 「滋賀の駅なめんなよ。新幹線の駅だろうと何もないかもだぜ。本屋なんて夢見すぎ」  大げさに言ってるのかと思ってたら目がマジだった。 「それにここでサヨナラってなんか寂しーよ! ちゃんと時間いっぱいまで見送らせてよ!」 「うん、湊がそんな風に言ってくれるなら。ありがとう」  湊が、僕を送りたいと思ってる気持ちも少しは理解してるつもりだし。 「でも、じゃあ、どうしようか? どこか喫茶店でも入ろうか」 「あー……でもこのへん、知りあいだらけだからなー。近所のお爺ちゃんお婆ちゃん集まってきて、その話聞いてたら一時間過ぎさりそう」 「それも高校野球とか相撲とか、今ここでその話じゃなくてもいい話題で」 「なるほど、そこまでわかってるってことは、過去にそのパターンが何度かあったんだね」  湊ってお年寄りに好かれそうなタイプだから。ちなみに僕もお年寄りから気に入られることに関しては、ちょっぴり自信あったりする。 「だけどこれだけ暑いと外っていうのもね」 「ん? あ、あー……外かあ。そっか、外でもいいね。要は外で涼しいとこか」 「何か思いついた?」  ここは湊の地元だし、彼女のお勧めがあるなら、完全に任せようと思っていた。 「うん、私が昔から遊んでたとこ。きっとゆうちょにも気に入ってもらえると思うんだ」 「へえ?」 「山道だけどいい? てか駅のすぐ裏が山道でごめんね」  その場所は駅から歩いて10分程度らしい。僕は湊の後に付いて炎天下の山道を歩いた。 「どっせーい!」 「あー」  なるほど、こういうことか。  湊が僕を連れてきれたのは山間に流れる川。  子どもの頃に、湊から聞いたことがあった。春は桜が咲き、夏は鮎が釣れ、秋は紅葉が舞い、冬は少し寂しい日本の原風景。  その頃はまだ、知識としては知っていても「水が流れる場所」を見たことがなかった僕は、湊の話にとても憧れを持った。  本当、何のこともない他愛ない話の数々だった。だけど僕はとても憧れた。そして行ってみたいと思った。  言わずに「思った」。それが口にしても実らない願いだと知っていたから。  だけど湊は、何も言わずにいたにも関わらず、僕が行きたいと思っていることに決めつけていた。  その思いは変わってないんだろう。僕が喜んでくれると思っているんだ。  その通りだよ湊。ありがとう。  その頃の口にしなかった思いを、僕よりも覚えていてくれたことが嬉しい。 「どっせーい!」 「あはは」 「どっせーい!」 「冷たくて気持ちいいね」 「よけろや!」  湊はご立腹だった。 「普通こーゆーのよけたりするよね! こう『やめろよ冷たいだろキャ☆』みたいなの!」 「なんで男が最後に『キャ☆』って言うの?」 「たとえだよ。そんなことより、もっと川辺の王道イベントを楽しもうよ!」 「他にはどんなイベントがあるの?」 「まあほんとならバーベキューと花火なんだけどね! 時間ないからそれはできないや、たはははは!」  バーベキューと花火。すごいなあ、想像したこともない遊びだ。  ルナ様やユルシュール様ならさぞかし呆れるだろうと思う。瑞穂様でかろうじて笑ってくれて、だけどとても肉なんて焼けないだろうなあ。  湊らしい。こんな些細な、だからこそ僕が憧れてしまうようなイベントは、実に湊らしい。 「そんでさー、鮎釣ってその場で焼くのがおいしいんだー。塩かけてさー」 「来年も来たいね」 「ほ?」 「来年も。一緒に来たいね」  よほど意外な発言だったのか、湊の動きが止まってる。 「…………」 「湊?」 「まあそれは……同じ学校にいれば、当然進学して二年生になるのも同じなんだけど」 「でもまたここまで来てくれるんだ?」  湊にしては珍しい、やや真面目なトーンの声だった。  そういえば一年先の約束なんてしたことなかったなあ、と思ったのは昔の話か今のことか。 「誘ったらまた遊びに来てくれるんだ?」 「そうだね……うん、湊となら」 「湊となら?」  でないとここまでは来なかったと思う。  二人きりになるのがわかっていてここまで来たというのは、期待を持たせてるということだ。  湊に中途半端な期待は持たせたくない。だから僕はここにいるということは、色んな覚悟がそれなりにあってのことだ。 「…………」 「た、たははは! なんか私だけ特別みたいな言い方だな! そっかそっか! そんなにここ来て喜んでくれたんだ!」 「あ、じゃあさ! じゃあまあ……あの、調子に乗って悪いんだけどさ! まあうん、あの、少しだけ図に乗った質問していいなら……その」 「私のこと、いまどのくらい想ってる?」  それはどこか逃げ道を用意した質問だった。  期待値より低い答えを受けとって、軽い笑いと共に落胆と共に安堵し、次へ進む為の糧にする現在地確認みたいな儀式だ。  あの湊でもこんな風に臆病になるんだと思った。  でも当然か。僕は一度突き放してるんだから。 「昔とは違うと思う」  だから僕は湊のぼんやりした期待値の範囲より、さらにあやふやな答えを投げた。  湊も答えに困っている。それが良いことなのか、単純に喜んでいいことなのか。  ただどちらにしろ、悪い方には進んでないと判断したみたいだ。 「そっか!」  最初の期待値よりは高かったみたいで、喜んだ笑顔を見せてくれた。  とりあえず今はこのくらいでいいのかなと思う。僕自身、湊の恋愛はあまりに健全すぎて、自分の環境から離れすぎていて気持ちと現実の隔離が大きすぎる。 「もー、ゆうちょってばドキッとさせんなよ、へへへ! どっせーい!」  でもあの答えで嬉しそうな顔をするって、どれだけ低かったんだろう湊の期待値。 「どっせーい!」  数日間は湊と離れるし、まずはお屋敷へ戻ったら、日々の生活へ意識を戻して考えてみよう。 「よけろや!」  夏休みが明けて、二学期が始まっていた。  十二月のショーに向けての衣装作りは、ときに座礁に乗りあげながらも、少しずつ着実に進んでいる。  学園で作業をするとき、僕らはだいたいサロンに集まる。  あの特別な空間は、事実上、いまや僕たちの占有領域だった。  授業が終わったあと、そのまま全員が容易に合流でき、部外者に気を遣うこともなく集中できる場というのはとても恵まれた環境だ。  ちなみにお茶やお茶菓子も食べ放題です。ときおり学び舎にいるという現実を忘れ、自宅と錯覚することさえあります。そろそろソファーに寝転がって漫画を貪り読む妹の幻覚が見えそうです。  というわけで、今日も放課後サロンに集まった朝日班なのです。 「あら? 今日は一人足りませんのね。なんと言ったかしら、あの存在感のない小さい方……あ、ちなみに小さいというのは身体的なことではなく、人間性のことですのよ」 「サーシャ? あの人間が小さい方は、大事な作業をサボタージュしてどこへ逃げたんですの」 「イェス、マイレディ。真面目なルナ様のお姿が見えず心配なら、素直にそう言ってしまった方が早いんじゃないかな?」  学内では決して女装を解かないことがポリシーだったサーシャさんも、最近は「この空間だけは私の美を思いのまま解き放てるわ!」と鼻息荒いです。 「ルナだったら、どうしても外せない所用だとか言って、もんのすごぉーく不本意な顔して先に帰ったよ!」 「あら、そうでしたの……それは慶ばしい限りですわね……あの人間の小さい方がいらっしゃらないのなら、今日は作業が捗りそうですわ……ほうほう」 「ユーシェ、寂しそう……よっぽどルナと遊びたかったんだね。いつもの元気な高笑いが、夏バテしたフクロウみたいになってる」 「ルナ様も然りですよ。不本意な顔で帰った理由の30%ぐらいは、ユルシュール様と遊べなかったことですからね」 「さあ皆さーん。今日はきびきびやりますわよー。鬼のいぬ間に洗濯ですわよー」 「ユーシェがことわざを間違えなかった!」 「そんなにショックだったんですね。ユルシュール様、お可哀そうに……」 「今日、うちのプリンセスは新しいパンプスを買ったのさ」 「それをルナ様に見せびらかしてやいのやいの言いあらそい、十の罵倒の末に、一の賞賛をいただいて帰る遊びを楽しみにしていたんだ」  ルナ様の誉め言葉って、そんなパンドラの底の希望レベルに稀少だったんだ……。 「ユーシェ? しっかりして、大丈夫?」 「え? ええ……もちろん大丈美大丈美ですわ……」 「重症だな……公衆の面前であんな薄ら寒いギャグを口にする奇人は初めて見た、正気じゃない」 「今日はルナ様に代わって、ユルシュール様に陣頭指揮を執ってもらおうと思ってたのですが……」 「えっ? でも悪いですわよ。そんな、ご不在の間に抜け駆けするようなやり方……」 「だめだね」 「だめですね」  仕方ないので今日は解散することになった。 「朝日、それじゃ今からデートしない?」 「えっ……デ、デートですか?」  なかば強引に湊に引っ張られて、カフェやショップをまわった。 「女の子同士ならいいかな?」  湊はさらに手を絡めてくる。恋人繋ぎだ。 「ちょ、ちょっと、湊っ……」  小声で幼馴染みの名前を呼んだ。 「なに、今日はちょっとヘンだよ……」 「私、ゆうちょを落としにかかってるから」  湊は物怖じもせずに言った。  僕はどきどきと高鳴る鼓動を抑えきれなkった。  桜屋敷に戻ってから、湊からたくさんメールが来た。  それにすべて返信する僕も、満更ではないってことなんだろう。  今まで知らなかった甘い感情。  なんだかまるで恋人同士になったみたいだ。  これが付き合うってことなら、僕はいま間違いなくその魅力に惹かれている。 「朝日、入るぞ」  部屋にルナ様がやってきた。 「単刀直入に聞こう。もしかして最近、湊は浮かれてるのか?」 「え?」 「最近クラスの者から、立て続けにそういう意味合いの質問をされた」 「調子に乗っている、などというあからさまな言葉ではなかったが、明らかにそう言いたげな口ぶりだった」 「私は普段なら人の陰口など気にしないんだが……どうも胸騒ぎがする」 「気のせい……だと思いますが」 「とりあえず十分注意しろ」  ルナ様はそう言って去った。  湊は、そして僕は、恋におぼれはじめているだろうか。  今日はフィリア女学院文化祭。  僕らのクラスの出し物はコスプレ喫茶だ。  みんなでコスプレ衣装に着替えてお客様をお迎えしたいのだけど── 「くだらん。誰がやるか」  ルナ様は断固拒否した。 「男性のお客さまがいらっしゃるのでしょう?」  瑞穂様は引き籠った。 「祭りでしたら私がスイスのお祭りの美しさを教えてあげますわ。待っていなさい、ホーホホホ」  ユルシュール様はどこへともなく去った。  うーん、残るは湊ぐらいなんだけど、どこへ行ったのかなあ。 「あ、あさひー」 「え?」 「ち、チラシあげるぴょん」  振りかえると、バニーガール姿の湊がいた。  で、でもこれ、ずいぶん刺激的な格好だな。 「たはは、似合わないよね、私がこんなの……」 「ううん、すごく似合う」 「えっ」 「だ、だから、あんまり他のひとに見せてほしくない……」 「ええっ!」  なんて話していたら、背後から鋭い声がかけられた。 「な、何をやってるんです!」 「柳ヶ瀬さん……?」 「あなたのような素行の良い子が、神聖な学び舎で白昼堂々、なんて破廉恥な格好をしてるんです!」 「えっ」 「いえ、これは、うちのクラスの模擬店の衣装で……」 「いくら衣装とは言え、生徒の家族も来る文化祭で何事ですか!」 「で、でも……事前に衣装をお見せして、学校側の許可をいただいてるんですけど……」 「そんな申請は出てませんし、出たところで学園が通すわけないでしょう」 「うそ! そんなはずありません、うちの実行委員の子たちが申請してるはずです」 「いいえ、受けとっていません」  衆人環視の中、露出の高い道化じみたコスチュームで説教されている湊。  通りすがるひとたちがくすくす笑って通り過ぎる 「なんですの、あのはしたない格好」 「やっぱり庶民の方はこの学校に相応しくありませんわね」 「……っ」  湊の顔が目に見えて真っ赤になった。  僕たちはみんなで湊の周りを囲み、場所を変えて八千代さんに潔白を説明した。 「そうだったの…」 「これはゆゆしき問題ね。実行委員の生徒を呼びだして、なんらかの処置を取るべきかしら」 「いや……いまは待ってくれ。物的証拠がないことには、どうせ『うっかり忘れてた』『ごめんごめん』などと、のらりくらりかわすだろう」  こういう問題は根が深い。僕たちは頭を抱えた。 「あら? どうなさったの皆さん、フェスティバルだと言うのに、お通夜のような雰囲気ですのね」  天才的な間の悪さでユルシュール様も戻ってきた。 「あら湊! その格好、素敵ですわね! バニーガール、というのでしたわよね!」 「ユ、ユルシュールお嬢様! どうかお静かに!」  その話題はいま非常にデリケートな問題です! 「ハア? なに言ってますの朝日、湊はこんなにバニーガールが似合っていますのよ!」 「湊がバニーガールだなんて大胆ですわ! でも湊ならバニーガールもよく似合っていてよ! さぞかし多くの殿方をとりこにしたのでしょうね、なにしろ湊のバニーガールですもの!」 「あいつは悪意がないときの方がよっぽどひどいな……」  その夜、僕は湊の部屋を訪れた。 「ここまであからさまに嫌がらせされるとは思ってなかった」  湊が初めて弱音を吐いた。 「私、やっぱり目に付くのかな…普通の学校へ行けばよかったのかな」 「この学校に湊が来てくれて、再会できて良かった」 「今は湊に男として惹かれ始めてる、もしかしたら恋かもしれない」 「え…」 「ゆうちょがそんな風に言ってくれるなら、卒業までずっと頑張れる」  湊は笑った。  そのときドアがノックされた。 「湊、いる?」  ドアを開けると瑞穂さまだった。 「夜遅くにごめんね、急いで伝えた方がいいと思って……」 「あれ、朝日もいたの?」 「え、ええまあ、ちょっと……それで急用というのは?」 「うん、あの、いいニュースではないのだけど……」  瑞穂お嬢様の話はまさに凶報だった。  湊の実家──柳ヶ瀬運輸の経営状態が、いよいよの段階まで下がってきたという。 「電話……するの恐いな……」  そう言いながらも湊は勇気を出して電話した。 「もしもし、お姉ちゃん? あ、あの……」 「うん、でも……」  電話の向こうで、なにか湊を諭しているみたいだった。 「じゃあ、切るけど……うん、なにかあったらすぐ報せてね……」  湊が電話を切ったあと、柳ヶ瀬の状態を聞いた。  おじさんもおばさんも全国の支店を回っているらしい。 「朝日も瑞穂もありがとね……だいじょうぶなんだって……へへ」  だけど湊の顔色は明らかに大丈夫じゃなかった。 「大変だとは思うけど……気をしっかりね。協力できることがあったらなんでも言って?」 「うん、へーきへーき……今は頑張れるから大丈夫」 「うん……ありがと……」 「うん……」  湊は僕らの話をほとんど聞いていなかった。  湊に対してのクラスメイトの風当たりが強くなっていることは、10月に入ってからは桜屋敷のみんなが認識するところとなっていた。  登校して学園のエントランスに向かうまででも、生徒たちの視線が痛い。湊もそれを実感しているはずだけれど……。  教室に近づくほど周囲の空気が険悪になっていく気さえする。僕は湊のことを案じて、ついに声をかけた。 「湊お嬢様……」 「ん? なに、そんな暗い顔して。幸せが逃げちゃうよ?」 「……いよいよ、気に食わないな。そろそろ実力行使に出るべきなのか? 私は」 「気にしたら負けというのが日本の流儀かと思っていましたけど、無視すると逆につけ上がるというケースみたいですわね」 「……原因が分かれば、そいつを生かしておかないのに」 「気持ちは分かるけど、まだ押さえたほうがいいよ。証拠を掴んだら、拷問具の準備をしても許されるけれど」 「君にも正義の心はあるんだな。私も正々堂々としない姑息な人間には、神の雷を落とすことも必要だと思っている」 「私も……友達を傷つける人は、許しておけない。湊、あなたのことは私が守るから」 「あはは……みんな、ありがと。でもホント、大丈夫だから。我慢してたらおさまるよ、きっと」  そうやって気丈に笑う湊を見ていて、僕は自分の無力に拳を握らずに居られなかった。  子供じみた誹謗中傷なんて、なりふり構わずにやめさせたい。  けれど……湊と僕が仲良くすることが、みんなを怒らせてる原因だとしたら。僕は湊と、もっと距離を置いておくべきだったんだろうか。  そんなこと、考えたくもない。僕は湊のことが好きで……せっかく自覚したこの大切な気持ちを、無かったことになんて出来ない……。  僕は湊を守るために、何が出来るのか。考えていると、授業はあまり耳に入ってこない……けれど、そうしたら入学した意味がなくなる。  ……ルナ様のことを見守って。授業に集中しながらもどこか元気のない湊の横顔を見て……クラスメイトたちを見回して。  授業中でさえ、湊のことを見て何か言っている子がいる。怒るなんてことはずっと忘れていたのに、僕は人を憎んでしまっている……。  幸せであるということは、笑うということだ。笑わなきゃいけない……湊も、そしてみんなも。  一時限目が終わったあと、僕はルナ様に断りを入れてお手洗いに行かせてもらった。  少し個室でひとりになって頭を冷やしたい……目の奥が熱くなるほどの怒りで、冷静でいることも難しくなってきてる。  どうして湊が苦しまなきゃいけないんだろう……湊が僕と仲良くすることが、そんなにいけないことなんだろうか。  頭を抱えそうになったとき、トイレにクラスの女子たちが入ってきた。そして、鏡に向かいながら話を始める。 「柳ヶ瀬運輸の倒産は間近みたいよ」 「っ……!」 「えっ、それって……もしかしなくても、やりすぎたんじゃない?」 「だから、ちょっとやばいんじゃないかって……あの子たち、大げさに親に吹き込んじゃってたみたいでさぁ」 「うちの娘が不愉快な思いをさせられた程度で、取り引き打ち切りとか……大人げないよね。柳ヶ瀬運輸、これまでは贔屓にしてたくせにさ」 「うわー、親ばか……そんなことで会社潰されたらたまんないよね、せっかく大きくなったとこなのに」  胸が痛いほど、心臓が脈を打ってる……そんなことがあっていいのか、ありえるのかという、やるせない気持ちが広がっていく。 「龍造寺さんたちも、そこまで親を煽らなくてもいいのにね」 「えっ……!?」  湊を攻撃していた人たちの名前が、ついに僕の耳に入る。僕は思わず声を上げて、トイレのドアを開けて外に出た。 「……どういうことですか? 私の身分で伺うことではないかもしれませんが聞かせてください。お願いします」 「い、今のは……その……わ、私たちは全然知らないから。龍造寺さんたちが柳ヶ瀬さんが男と遊び呆けてるとか、そういうこと言うから……」 「うちらは親に言ってないけど、他の子たちが結構チクっちゃって……ほ、ほんと関係ないから!」  ルナ様のメイドの僕に話を聞かれた……そのことで、女の子たちは動揺しきっていた。  ……何ていうことなんだ。クラスメイトたちの告げ口で、湊の実家の会社が危なくなるなんて……どう考えても、常軌を逸してしまってる。  教室に戻ってくると、湊と七愛さんの姿がなかった。ルナ様たちの様子を見れば、どういうことなのか、話さなくても理解できてしまう。 「……湊は気分が悪いそうだ。保健室で休んでから授業に戻る」 「無理もありませんわ、こんな空気の中では……深呼吸することすら不快ですもの」 「朝日……どうしたの? 顔が真っ青になってる」 「はい……ルナ様に、ご相談したいことがあります」 「ん……なんだ。話しにくいことなら、こっちに来て話せ」  ルナ様は座ったまま髪をかきあげ、形のいい耳を見せてくれる。僕は彼女の傍らに近づき、耳元でさっきの出来事を説明した。 「……湊お嬢様のご実家、柳ヶ瀬運輸の状況が芳しくありません。その原因を作ったのは……」  告げ口をしているようだけど、事実なら仕方ない……理由を知った今、もう湊への誹謗中傷は止めさせなければいけない。 「……子供が子供なら、親も親だな。感情で動くなど、ひとつの企業を率いる者のすることか」  ルナ様が怒りを口にする……それが聞こえていたのか、クラスメイトたちが驚いたようにこちらを見た。 「な、なんで桜小路にバレてるわけ? チクったの誰だよ……ちょ、出て来いよ!」 「ま、まずいって……うちらがやったって知られたら、桜小路にうちらの家まで……っ」  龍造寺さんと円城時さん……いつも仲が良く二人で行動していた彼女たちこそが、湊を攻撃していた主犯だった。  ……どうしてそんなことを。やりきれない気持ちを感じても、今は唇を噛むことしかできない。 「何が起きていたのか……湊に対してお前たちが何をしたのか。全て話してもらう」 「次の授業は、幸い自習ですし……十分過ぎるほど時間はありますわね」 「うちら何にもしてないし、勝手にうちのパパが……」 「そ、そうだよね、そこまでしてって頼んでないし。柳ヶ瀬運輸が潰れようが、そんなの知ったことじゃ……」 「言い訳は後でしてくれるか。私はもう、あまり冷静で居られそうにないんだ……怒るなんて馬鹿らしいことなのにな」 「……私も。どうして人にやさしくできないの? あげつらって、憎しんで、蔑んで……そんなことばかりして楽しむくらいなら、頭上に浮かぶ雲でも眺めていればいい」 「そのほうがよっぽど有意義なことに、違いはありませんわね……」 「……クラスのお嬢様方に、事情を聞きましょうか。そうしないと始まらないわ」  サーシャさんが言うと、北斗さんも何も言わないままに、薄く目を開く。その気迫のこもった視線を受けて、隠し事の出来る生徒はいなかった。  8月に、龍造寺さんたちは僕……男の姿に戻った僕と、湊が一緒に外出しているところを見た。  男と遊んでるなんて生意気だと思った。龍造寺さんと円城寺さんは、元から湊や、湊と仲良くしてる僕らのことが気に入らなかったらしい。  成り金が自分たちと同じ学園に入ってきて、自分たち以上に青春を謳歌している。そんなふうに一方的に妬んでいた彼女たちは……父親に、あらぬことを吹き込んだ。 「それでも飽き足らず、クラスの半数を巻き込んで……柳ヶ瀬運輸は、大手の取り引き先を一気に失った」 「そして……経営状態が悪化し、倒産の危機に瀕している。そんなことを話して、お前らは笑っていたのか?」 「だ、だから……うちらそんなことになるなんて思ってなくて……」 「だいたい桜小路だって調子乗ってたっしょ? うちらのこと見下して、それで……」 「そんなことは、湊の家のことには関係ないのに……ひどいことを……」 「……私も家の力なんて借りたくありませんけれど、あなたたちに同じ事をしてあげましょうか? それくらいには、私は湊のことを大切に思っています」 「っ……ごめんって言ってるじゃん! 何でうちらが全部悪いみたいに言うの!?」 「そうだよ、柳ヶ瀬がこんなとこ来るから悪いんじゃん! うちらとは住む世界が……、」  言ってはいけないこと……この教室で、みんなが耳にする形で、口にされてはいけないこと。  ……それを言ってしまった彼女を。僕は今、どうしても許すことが出来なかった。 「いい加減にしてくださいっ!」  みんなの動きが止まる……ルナ様も、ユルシュール様も、瑞穂様も。僕はそれに構わず、今の身分にはそぐわないと知りながら、もう我慢することができなかった。 「湊お嬢様は、皆さんと同じ……服飾が勉強したくてここに来た。それに、家柄や資格が関係あるんですか!?」 「そういう人たちの集まる学園かもしれない……けれど。そうやって仲間を排除することに力を使って、学べることがどこにあるっていうんですか」 「……もう、やめてください。傷つけられて、傷つけて……みんな、笑えなくなって……」 「……夢を見る権利は誰にだってある。それを、あなたたちが奪うことは出来ない……!」 「…………」 「……あ、あの子が悪いんじゃん。なんか男連れで楽しそうにして……そういうとこ、見せつけられる気持ちとかあんたにわかるの?」  そう言われて、僕は気がつく。どうしてこんなに憤っているのか……それは。  湊をこんな状況にしてしまった原因は……僕だっていうことが、分かっていたから。  僕が男の姿で湊と歩いたから、龍造寺さんたちの不興を買った……それで、柳ヶ瀬運輸が大変なことになっていることにも気づかなかった。 「朝日も湊とは親しい……私は友人と、自分の従者の誇りを守るためにも、目には目をという報復を考えなければならない」 「っ……そ、それだけは……パパに迷惑がかかるようなことだけは……」 「…………」  ルナ様の『報復』という言葉を聞いたところで、二人が完全に戦意をなくす……二人は、桜小路の力が自分たちの家よりも大きいと理解してる。  もちろん、ルナ様と桜小路の本家の力は同一じゃない。けれど何も知らない龍造寺さんたちは、完全に桜小路を敵に回すことへの恐怖で震えあがっていた。 「湊にそこまでした以上、自分たちが同じ目に遭っても文句はないな?」 「ひっ……」 「私もこれほどの怒りを覚えたことはありません。及ばずながら実家に報告します」 「以下同文ですわ」  桜小路、花之宮、ジャンメール家……3つの家を前にして、龍造寺さんたちの顔が蒼白になる。  同じように柳ヶ瀬運輸の経営悪化に加担した人たちも一緒だ。我先にとルナ様たちの前に出て、許しを請おうとする……。 「ご、ごめんなさい……それだけは勘弁して! もし桜小路に圧力かけられたりしたら、うちなんて……っ」 「なんでもするから、ほんとマジ反省したから。うちと取り引きをやめるとか、そういうのだけは……っ」 「……そこまで言うくらいなら、初めからやるな。取り返しのつかないこともあるんだぞ」 「本当に……柳ヶ瀬運輸が、窮地を乗りきれるといいのだけど……」 「この中に、柳ヶ瀬運輸の状況に詳しい人は居ますの? 潰そうとしていたのですから、見ている人は居るはずですわね」  龍造寺さんと円城時さんは、勿論分かってるようだった……その表情に、明るい要素は欠片もうかがえない。  ――そのとき、教室の扉が開く。そこには、血の気の引いた顔で、息を切らせた湊の姿があった。 「湊……」 「……ルナぁ……どうしよう……私、どうしたら……っ」  ほとんど泣いているのと変わらないような声で言って、湊はふらっとバランスを崩す。僕は一も二もなく駆け寄って、湊の身体を支えた。  教室の入り口には、焦燥しきっている七愛さんの姿がある……僕と湊の姿を見て、彼女は唇をかみしめて目をそらした。 「どうした……何があった? 落ち着いて話してくれ」 「……うちが……うちの会社が……」 「そんな、まさか……!」 「…………」  湊が皆まで言わなくても、僕らは理解せざるを得なかった……龍造寺さんたちの悪戯が、取り返しのつかない事態を招いてしまったことを。 「……うちの会社が、倒産して……債権者のひとが、いっぱい家に来てるって……実家から、連絡が……」 「……大丈夫です、湊お嬢様。私がいます……みんなだって……っ」  簡単に解決することが出来る問題じゃなかった……けれど今は気休めでも、湊の心を落ち着けてあげたかった。 「……はっ」 「うわぁ……私、取り乱しちゃってた? ごめんなさい、お騒がせだったよね。私のことは気にせずに、みんな……」 「そういうわけにもいかない……柳ヶ瀬運輸を倒産に追いやったのは……」  ルナ様ははっきりと言えずにいる……けれど、湊は事情を察したようだった。クラスのほとんどが、湊への後ろめたさと、あまりの出来事に青ざめている。 「……なに? 私たちが責任取れとか言うの? 無理言わないでよ、私たちだけでしたことじゃないんだし」 「そ、そうだよ。こんなくらいで潰れちゃうんだし、遅かれ早かれ……ひっ!」  龍造寺さんたちが憎まれ口を言う途中で、サーシャさんと北斗さんが前に出る。その眼光は、刺し貫かれそうなほどに鋭かった。 「……お嬢様方、それ以上は何も言わないでおいていただけますか」 「あなたたちは、取り返しのつかないことをした……例え遊びだったとしても。その意味が分かっているの?」  二人の気迫を前にして、誰も動くことも、声を出すことも出来ずにいる……その緊張を破ったのは、湊だった。 「……はぁ。お父さんとお母さんに迷惑かけて……私、スーパー親不孝だ……」 「そんなことない……湊お嬢様は、何も悪くありません。私が軽率なことをしなければ……」 「何があったのかまだ把握できてないけど、それは後で聞かせて。私、実家に連絡取ってくるから……さっきは電話、途中で切れちゃったし」 「……湊お嬢様、七愛は……七愛は……」 「七愛も行こう。みんなも一緒に来てくれる……? 私、一回ここから出ていったほうがいいと思うから」  湊の言葉に、誰もが今更に胸の痛みを覚えているようだった……でも、もう全てが遅い。 「……湊に何かあったら、私は君たちを許さない」  赤い瞳に燃えるような怒りを宿して、ルナ様は龍造寺さんと円城寺さんを正面から睨みすえる。二人はもはや言葉もなく、小さく手と唇を震わせていた。  サロンで湊は携帯電話を使って、実家に連絡をする……何度か試みて、ようやく通じた。 「お母さん……うん、私は大丈夫。ああ……謝ったりすることないよ、お母さんたちは何も悪くないよ」 「っ……く……うぅっ……」  湊の気丈な声を聞いて、七愛さんが口元を覆い隠して泣く。騒ぎを聞いてやってきた八千代さんが、彼女の肩を撫でてあげていた。 「それよりも大丈夫なの? お願いだから無事でいてね、私が行くまで待っててね……えっ……」  湊が驚きの声を上げてから、ルナ様に電話を渡す。代わって欲しいと言われたらしい。 「はい、お電話を代わりました……桜小路です。いえ、私の方こそ力が及ばず……申し訳ありません」 「……そうですか……はい、湊にはそう伝えておきます。いえ、本当にお気になさらずに。私も出来るだけのことをします」 「私は湊のことを引きうけます……七愛も。お母様も、どうかご自愛ください」  ルナ様が言って、もう一度湊に電話を代わった。 「……うん……分かった。くれぐれも無理しないで、お母さん」  母と娘の挨拶を交わして、通話が終わる……湊の目から、溢れた涙がぽろぽろと頬を伝って落ちる。 「……こんな時まで私のこと心配してくれて……じ、自分たちだってぜんぜん、平気じゃないのに。私だけ帰ってこなくていいとか、ありえなくない……?」 「……今、ご実家に戻るよりは……少し落ち着いてからが良いと思います。ルナ様、そういうことですよね……?」 「ああ……しかし……」 「……クラスメイトのことなんて気にしなくていい。湊には、私たちがいるわ」 「ですが……湊、今は少し休んだ方がいいですわ。これから授業に出るのは、あまりに……」 「え? 私は全然平気だよ、お母さんにも、これからも学校に行けって言われてるし……ほんと、大丈夫……」 「……お嬢様、ご無理はなさらないで。私が家まで付き添います」 「私たちは湊が明日来たときのために、クラスメイトたちと話をしておく……湊は、今日は休め」 「……たはは。みんな、心配性なんだから。私は大丈夫だよ、起こったことは何とかするしかないしね」 「今日はみんなのお言葉に甘えて、早退させてもらうね……あっ……」 「湊お嬢様っ……!」  やはり、湊は一人で歩けないほどに憔悴している……七愛さんが湊に駆け寄って肩を貸すと、湊はそれでも、顔を上げて笑って見せた。 「私の家のこと、あまり気にしすぎないで……みんなには、笑ってて欲しいから。じゃあ、また家でね……」 「失礼いたします」 「学園の前までハイヤーに迎えに来させます。屋敷に戻ったら、私に一報を……いいですね、七愛さん」  七愛さんは頷きを返すと、湊を支えたままで、学園のエントランスへと歩いていく。  ……こんな状況でも、湊は最後まで笑っていた。僕は何もできない自分への憤りのあまりに、手のひらに爪が食い込むほどに拳をきつく握りしめていた。  その日の夜。夕食のあと、僕はルナ様の部屋で、ショーの衣装の制作を進めようとしていた。  湊は夕食の席には姿を見せたけれど、やはり心ここにあらずで、みんなが言葉をかけてもあいまいに相槌を打つだけだった。 「っ……」  型紙に合わせて切り抜いた布を、仮留めして縫う……まち針を打つときに、僕は自分の指を刺してしまった。  薄皮一枚とはいかず、血がかすかに滲んでいる。こんなミスをしたのは久しぶりだった。 「作業に身が入らないのなら、君は邪魔だ。出ていけ」 「申し訳ありません、ルナ様……」  集中するので、作業を続けさせて欲しい……今は、そう言えなかった。僕の心のほとんどを、湊のことが占めているからだ。 「湊が心配ならそう言え。しばらく朝日の手はいらない」 「……パターンができている以上、縫製は自分たちでもできる。湊の話を聞いてやれ」 「……申し訳ありません」 「少し暇をやるだけだ。ずっと使い物にならなかったら許さないからな」  服を作る作業が手につかないようじゃ、僕はルナ様の傍に居る資格が無い。  湊はどうしているだろう……これから、どうなるんだろう。そんなことを考えてばかりいるより、彼女の顔をひと目見て、言葉を交わしたい。  僕はルナ様の部屋を辞して、湊の部屋に向かう。彼女の部屋の前に立つと、小さく物音が聞こえてくる。 「湊お嬢様……私です。朝日です」 「あ……朝日? どうしたの、こんな夜中に」 「お嬢様と話がしたくて……すみません、急に」 「……いいよ、入ってきて」  内側から、ドアが少し開いて招き入れられる。僕は少し緊張しながら、湊の部屋に足を踏み入れた。  湊は大きめのバッグを出してきて、中に荷物を詰めている……それを見て、僕の頭に一つの考えがよぎった。 「湊……どこに行くの? こんな、大荷物で……」 「私、やっぱり一旦実家に帰るよ。ここに居てもお父さん、お母さんは何も教えてくれないしね」 「帰ってみたら全部分かると思う。私がまだ、こっちで学校に行ってていいのかどうか……」 「……分かった。何かあったら、僕に言って。頼ってほしいんだ、湊に」 「や、だから何が起きてるのか帰ってみないとわからないから。もしかしたら、大したことないかもだし」 「……ってこともないよね、うちが倒産したってニュースになってたし。テレビに映ったうちの実家、ほんとにてんやわんやだよ」  倒産は多くの場合、不渡りが生じた時に起こる……ここ数ヶ月で、柳ヶ瀬運輸はそれほど資金繰りが悪化していたということになる。  大口の取引先がいくつも柳ヶ瀬運輸をボイコットすれば、こんな事態は簡単に起こりうる……初めは小さな悪意でも、雪だるま式に膨らんでしまった……。 「こんな時に話すことじゃないけど、湊のことを放っておけなくなってる。自分にできる全てのことをしても守りたい」 「……ゆうちょ」  湊が僕の名前を呼ぶ……朝日じゃなくて、遊星を見る目で見てくれる。  僕らはどちらともなく、少しずつ距離を近づけていく。湊の細い肩に手を置いて、真近で宝石のような瞳を見つめる。 「じゃあ、もし嫌じゃなければ一つだけお願い…」 「なに?」 「キス……」  そのふたつの文字の意味が理解できると……僕はいつものように狼狽したりはせずに。  出来る限り今の想いが伝わるように、微笑んで……湊の艶やかで、花のような香りのする髪に触れた。 「……だめ?」 「……ダメじゃない。嬉しいよ、湊」  僕は湊に近づいて、彼女の目を真近で覗きこむ。はにかむような、恥じらうような……。  初めて出会った頃の、幼い面影がほんの少しだけ残っている……けれど僕らはもう、あの頃と同じ子供じゃない。 「……女の子の格好でキスしていいの?」 「うん……今は。でも、いつかは……」  男として……湊が子供の頃に好きになってくれた僕自身で。彼女の想いに応えたいと、そう思う。  吐息がかかることさえ、湊は恥じらう仕草を見せる。僕はそんな彼女を愛おしいと思いながら、少しずつ唇を近づけていく。 「んっ……」  やがて唇が触れ合う。湊の唇は信じられないくらいに柔らかくて……唇同士が触れ合う感触は、あまりにも甘美で。 「……ふむ……んむ。ちゅっ……」  触れ合うだけで満足できなくなって、僕らは拙く唇を吸い合い始める。幸福が身体中に広がっていくみたいで……それまでに感じていた悲愴を、ひととき忘れる。  せめて、キスをしている時くらいは……初めて、恋人としての誓いを交わす間くらいは。ただ、互いの存在の優しさだけで全てを浸していたい。 「……ちゅっ」  もう一度吸いあったあと、僕らはようやく唇を離す。しばらく湊は目を開けずに、頬を紅潮させて恍惚とした顔を見せてくれていた。 「……ほんとにしてくれると思わなかった。言ってみるもんだね」 「……守りたいって言うのは、好きっていうのと同じだから」 「好きって言った……? 今」 「うん……言ったよ。そうじゃなかったら、キスなんてしない」 「……ルナと、主人と従者のちゅーとかしてない?」 「してないよ。僕らは、表面上は女性同士だからね」 「表面とかいって……男の子だったら、ルナみたいに可愛い子、意識しないわけないのに」  それは……彼女の言うとおりかもしれない。ルナ様を初めて見た時から、彼女を評する言葉はひとつしかない……とても、綺麗な女の子だと思う。  ……でも、僕は湊のことだけを見つめている。そうなったのは、湊が僕をずっと見ていてくれたからだ。 「これからも……キスは、湊としかしない。約束するよ」 「……私もゆうちょ以外とは絶対やだ。ゆうちょが他の子に取られたらとか、夢に何度も見るくらい……不安で……」 「……答えを言うのが遅くてごめん。もっと早く、気がついていたら良かった」 「ううん……いいよ。だってこうやってキスしてくれたから」 「好きだって言ってくれたから……これからは、そういう夢を見られると思う。いいよね?」 「……僕も湊の夢を見られるといいな。いや、それなりに見てるんだけどね」 「……えっちな夢だったりして。お姉さん怒んないから言ってみ?」  今のところ、そんなに具体的な夢は見られてない……僕はそういう行為を想像したり、あまりすることが無かったから。  ……この数カ月、女性として暮らしてきたからだろうか。僕は湊との、心の繋がりから大事にしたいと思ってる。 「私はね……結構見るよ。ゆうちょの出てくる夢」  けれど……こんなことまで言われてしまったら。夢の話をしているのに、目を覚まさずにはいられなくなる。 「……どんな夢か、って聞いてもいいかな」 「ゆうちょが女の子に幻想とか抱いてないって分かったら……教えてあげてもいいよ。そのうちね……」  話しているうちに、僕はいつから二度目のキスをしようかということで頭がいっぱいになっていた。  キスの甘美さ……真近で見つめ合いながら交わす睦言が、湊が欲しいという気持ちを強めていく。 「んっ……ふぁ……あむ。ちゅっ……んふっ、ゆうちょ……っ、んむぅっ……」  抱きしめるほどに衝動が強まる。彼女の胸の膨らみが僕の胸に当たる……そこにあるのは、ブラに覆われた借り物の胸だけれど。  狂おしいほど愛おしいと感じながら、湊を傷つけてしまわないようにという抑えが働く……本当は壊れるくらいに抱きしめたいのに。 「ちゅっ……湊……舌を出してみて……」 「んふぁっ……れろっ……んむ。れろっ……ちゅっ……あむ……ふむんむ……」  小さく可愛い舌を恐る恐る伸ばしてくれる湊。僕は舌先を触れ合わせてから、絡め合わせるようにして、そのまま唇を重ねる。  ……フレンチキスって言うんだっけ、こういうの。フレンチという響きは可愛らしいけれど、それは情熱的な愛欲の口づけを意味する。 「あむぅっ……んむ……ん、んふっ……ちゅっ。ん、んぅぅっ…」  湊の頬から首筋まで手を這わせて、そのまま後ろ髪に手櫛を通すようにしながら引き寄せる。唇だけじゃ飽き足りず、彼女の身体を愛撫してあげたくなる……けれど。  僕は手を離して、長い口づけを終わりにする。このまま進みたいという気持ちと……湊を取り巻く状況を天秤にかけた結果だった。  僕らはキスを終えたあと、ベッドに座って寄り添う。湊は僕にもたれかかって、胸が当たることにも構わず、寄りすがるようにしてくれた。 「……ゆうちょ、どうしてやめちゃったの……? キス、あんまり好きじゃない?」 「ううん……このまま行くと、止められそうになかったから」 「そ、そっか……男の子だもんね。ああいうことすると……したくなっちゃうよね」  湊の手が僕のスカートの、太腿の上のあたりを撫でる。それだけでも、抑えている部分が膨張してずきずきと快楽と痛みに苛まれる。 「今はそれどころじゃないけど、帰ってきたら大切なことを話そう……伝えたいことが、まだいっぱいあるんだ」 「私も。ゆうちょから好きになってもらうためにきっと帰ってくる」  そう言う湊の手を握って引き寄せると、膝枕をしているような姿勢になる。そのまま湊は、じっと動かずに穏やかな息を立て始めた。  ……こんなに好きになってしまったら、離れることが寂しくなる。それでも……湊が両親に会いたいという気持ちは、とてもよく分かる。  だから、僕は湊を待ってる……彼女が戻ってきたとき、状況を好転させる方法を考えておかないといけない。  ……倒産した柳ヶ瀬運輸をどうするのか。方法は既にいくつかは思いついている。  世の中に、どうにも出来ないことなんてない。今回もきっとそうなんだと、今は信じるしかなかった。  湊が実家に戻って数日後。  龍造寺さんと円城寺さんの姿は、学園の中では見えなくなった。 「12月のショーが行われる理由の一つとして、オートクチュールのような服作りを学習するという側面があります」 「将来ブランドを立ち上げるとき、ショップは主に展示のために使い、個人の依頼を受けて受注製作するような仕事の仕方を選ぶ人もいるでしょう」 「どんな体型にでも合わせるために、使える技法について考えていきましょう」 「例えば体型の特徴について、どんなことが考えられますか? そう、肩幅や骨盤の個人差ですね……」  普通の服飾学校なら、かなり後半に専攻する内容……基礎ができているから、応用の授業が主になる。  経験者が多いこの学園で、湊は人一倍努力していた……それなのに。  僕がもう少し注意深く行動していたら、湊はここに居られた。彼女の努力を、無にせずに済んだ……そんなことばかり、頭の中を巡っていた。  ルナお嬢様は龍造寺さんたちに然るべき報復を行うべきだと言ったけれど、湊は首を振った。  ……けれど龍造寺さんたちは、自分から学園を自主退学していった。自分たちのしたことへの良心の呵責と、何よりルナ様たちのことを恐れたからだろう。  湊は誰も憎んだりしていなかった……そんな彼女が戻ってきて学ぶことが出来るようにならなければ、あまりにも理不尽だ。  一日の授業を終えて屋敷に戻ってきたところで、僕は理屈を超えて、『そのこと』を感じ取った。  湊が戻ってきている……屋敷に彼女が居ることが分かる。この半年で、僕はそれほどに屋敷の空気に馴染んでいたということか。 「……七愛?」 「……おかえりなさいませ、ルナお嬢様」  七愛さんはぺこりと頭を下げると、顔を上げる……その表情には、少なからず疲労が見てとれた。 「状況報告のために、後ほどお時間をいただければと思います。お嬢様は、お部屋に……」 「そうか……分かった。会いに行ってもいいのか?」 「はい……」  七愛さんは僕らに道を譲ってくれる。僕のことを見ても、何かを言う気力もないみたいだった。 「あ、あの……こんなことを言うのは無責任かもしれませんが。元気を、出してください」 「……無責任かもしれないと思うなら、それは善意。受け取っておく」  七愛さんはいつもの調子を少しだけ取り戻して言う。僕はルナ様と一緒に、湊のいる二階に上がった。 「初めは君一人で話を聞いてきてくれ……そのほうが、湊も話しやすいだろう」 「かしこまりました」 「……こう言うのも何だが、気をしっかり持てよ」  ルナ様は言って、自分の部屋へと入っていった。僕は礼をして主人を見送ってから、湊の部屋に向かう。 「湊お嬢様、私です……朝日です」 「……朝日? 入っていいよ」  いつもより、やはり元気がない……僕は胸に痛みを感じながら、ドアのノブに手をかけた。  湊は僕が入ってきても反応せず、ベッドの上で片膝をかかえていた……けれど僕が近づくと、足を床に下ろす。  長い前髪が、彼女の表情を覆い隠している……それだけで、どんなことがあったのか察することが出来た。 「……お父さん、お母さんの無事だけでも確かめたかったのに」 「うちの会社の周りに、人がいっぱい押しかけてて……お金を返せとか、明日からどうすればいいんだとか、そういう怒鳴り声が聞こえて……」 「……私、七愛と一緒にそれを見てることしか出来なかった。お父さんたちがどこに居るのか……わかんなくて……」 「……それで、戻ってきたんだね」  湊はこくりと頷く……そのとき、彼女の頬に二筋の涙が流れて、ぽろぽろと落ちる。 「お父さんとお母さん……私のこと、いつも心配しててくれるのに。私は肝心なときに、何にもできない……っ」 「何か出来るとか思ってたのに……そんなの思い上がりだった。私には、何にも……っ!」 「……大丈夫。大丈夫だよ、湊……だから、泣かないで」  僕は湊の目元にハンカチをあてて、彼女の涙を拭う。それでも止まることなく、涙は流れ続けた。  ……湊は凄く優しい子だ。そんな子に、こんな悲しい涙を流させちゃいけない。  まして僕は……彼女のことが好きで。彼女が居ない間にもずっと、力になりたいと思い続けていたから。 「……僕の実家の力を借りよう。両親には財産がある……きっと、柳ヶ瀬運輸を助けられる」 「ゆうちょ……」 「兄様を説得しないといけないし……借りたものは返さないといけない。けれどそれは、僕が大蔵のためだけに生きれば、解決することだと思う」 「……ダメだよ、ゆうちょ。それは絶対……そんなことさせられない」 「大蔵の……ゆうちょの実家のために生きるっていうことは。ゆうちょの夢を、捨てることになるんじゃないの?」 「……他に、方法がない。僕は何をしてでも、湊のことを助けたいんだ」  湊の両肩に手を置いて、僕は訴えかける……けれど。湊は俯き、おさげが揺れるほど強く首を振った。 「会社を立て直すのって、すごくお金が必要なんだよ……? 債権者の人たちだって、鬼みたいな顔で回収に来てた。私と七愛が二人でも、怖くて近づけないくらいだった」 「……ゆうちょにそこまで迷惑かけられないよ。お兄さんに目をつけられちゃったら、ひどいことになるよ」 「そうなったら……私はゆうちょに会ったこと自体を、後悔しちゃうかもしれない。私と出会わなかったら、ゆうちょはもっと幸せになれたのにって」  湊の言葉を聞きながら、僕は痛感する……大人に近づいたつもりでいながら、自分がまるで子供だっていうことを。  彼女は未来のことまで考えて……僕の幸せを、思ってくれているのに。僕の考えは、あまりにも……。 「……ごめん、僕が浅はかだった。こんな時にだけ家の力を借りるのは、都合が良すぎるね」 「……ううん、ゆうちょの気持ちは凄く嬉しかった。それだけで、十分だよ」  湊はそう言って気丈に笑う……泣いたあとの赤い目で笑っても、それはやせ我慢でしかないのに。  ……他に、出来る事を探さないと。このままじゃ、湊は……学園に通い続けることも、東京に残ることも難しくなってしまう。  初めに話をするべきは、ルナ様だ。彼女はこの屋敷の主なのだから。  僕は湊が落ち着くのを待って、ルナ様の部屋へと連れていった。  いつの間にか、夜の帳が落ちていた。  ルナ様に、湊から事情を説明する……家に債権者が押しかけていて、両親と連絡が取れなくなっていることを。 「……ひとつ言っておくと、湊の両親のことについては心配ない。既に桜小路の方で手配して、消息はつかんである」 「借金で夜逃げしたというわけじゃない。株式投資していた人間がやけになって押しかけているんだ。経営責任を追求しようというのだろう」 「しかし……今回のケースは特殊過ぎる。湊の父親には非はない」 「だが資金を調達して立て直すというのは現実味がない。柳ヶ瀬運輸は事前に、従業員全てに解雇通告を出している……倒産は計画的なものだった」 「急速な業績の悪化の中そういう判断をしたのは、なみなみならぬ覚悟が必要だっただろう。ショックも大きいだろうしな……」 「私は君の父親が、それほど弱くないと信じている。湊はバイタリティの塊だからな」 「……ありがとう、ルナ。お父さんとお母さんのこと、調べておいてくれて」 「場所は言えないが、親類の家の近くにあるシティホテルに滞在しておられる。湊のことを心配していたよ」 「……会うまで少し時間はかかるが。湊は勉強しながら、待っていればいい」 「……ううん。家が大変なのに、私だけ今まで通りってわけにはいかないよ」  湊が言うと、ルナ様が目を見開く……彼女が言うことの意味を、明晰な彼女はすぐに悟っていた。 「私もうちのために、お金を稼げることをしようと思う」 「いきなり働くというのは、簡単に勧められない。そんなことさせられると思ってるのか?」 「でも、そうするしかないよ……幸い、東京だったら働くところはいっぱいあると思うし」 「この家を出るまではお世話になる。ここに居た分のお礼は、少し待ってて。私、頑張って働いて……」 「……はぁ。力が抜けることを言ってくれるな……いきなり他人行儀になるとは、今までの人間関係を完全否定だな」 「私、もう社長令嬢とかじゃないし。身分とか関係ないって思ってたけど、やっぱりあるんだよね。いっぱい嫌がらせされて、私もさすがに学んだよ」 「子供のころだったら、何かされても跳ね返せたのにね……こういうのって、どうにもならないんだね」 「……どうにもならないことなんて……」  僕が、もっと早く気づいていたら……なんてことは言えない。ルナ様は、まだ僕の正体を知らない……。  こんな状況になってまで隠しておくべきなのかと思う。けれど葛藤しているうちに、ルナ様が口を開いた。 「柳ヶ瀬運輸は、それだけ大口の取引先に依存してしまっていた。小さな取り引き先との関係が、疎遠になってしまっていた部分もある」 「それについては、湊の父君も思うところがあったようだ。まだ終わるつもりはないとおっしゃっている」 「だから、まだこちらで受け入れることにはしていない。しかし、いつでもそうする準備はある」 「……お父さん……」  まだ娘の顔を一目見ることは出来ないけれど……湊のお父さんは頑張っている。それを聞くと、湊の目に少なからず光が戻ってくる。 「東京には働き口がいくらでもあると言ったな……ではそのうちの一つが、私の家であることも否定はするまい?」 「ルナ様……今、なんておっしゃいました?」  このお屋敷も、働き口の一つ……それって、つまり……。 「湊、君にはうちの屋敷で働いてもらおう。そうすれば、出ていく必要はないだろう」 「同情しているわけじゃない、仕事は先輩のメイドたちに厳しく指導してもらう。朝日だってこの半年で経験を積んだ、湊に教えられることは多いだろう」 「卒業するまでの生活費が気になるなら、それは投資してやる。君が無事に卒業して、うちの社員になるための先行出資だ」  ルナ様は朗々と湊を救うための提案をしてくれる……あまりの頼もしさに、僕は思わず、自分の主人に惚れなおしてしまいそうな気持ちだった。  惚れるといっても、そういう意味じゃなけれど……男の僕でも憧れるほどの、毅然とした姿。ルナ様は、やはり凄い人だ……。 「……ダメだよ、幾ら友達でもそれは出来ない。甘えるために友達になったんじゃないよ」 「私は必要な準備ができたら、屋敷を出ていく……そうしないとダメだよ。筋が通らないよ」  湊の言葉の途中で、ルナ様が動く。小さな身体で、自分より少し背の高い湊に詰め寄り、襟首をつかむ。 「ルナ様っ……!」 「甘ったれるな。私は路頭に迷いそうな働ける人間を使ってやると言ってるんだ、感謝しろ」 「もちろんこの屋敷で仕事をする以上、私に敬意を払い、雇い主として接しろ。無礼な態度は許さない」 「衣装を一緒に作った腕は評価する、だから私の下で働け」 「金がないんだ、友人に縋りついてでも働け、そして自分で稼いで両親を立ち直らせてやれ」  ルナ様の剣幕に、湊は完全に気圧されていたけれど……襟を掴んだルナ様の手に、そっと自分の手を重ねる。 「……甘ったれてるつもりなかったけど。それが甘ったれてるっていうんだよね……ルナ、ありがと」  感謝の言葉を口にして、湊が微笑む。ルナ様は今度は自分がたじろぐみたいにして、恥ずかしそうに手を離した。 「分かればいいんだ、分かれば……あれだ、私の目が黒いうちは、友人に変なバイトはさせられない」 「えー、私ってそんなに信用ない? お弁当屋さんとか、喫茶店とか、女の子でもできそうな仕事をしようと思ってたんだけど」 「……ふん、どうせ私の考えは汚れている。効率の良い金の稼ぎ方が、先に頭に浮かんでしまうからな」 「うん、それもルナらしいと思うよ。それに私って、喋るのとか好きだから、そっち系もいけそうって思うよね」 「でも残念なんだけど、私ってお父さんと幼馴染の男の子しか、まともに男の人と会話したことないんだよ。女の子を接待する仕事とかないかなぁ」 「メイド喫茶なんかいいんじゃないか? あれって、女性客でもご主人様って言うんだろ」 「さすがルナ、知識が幅広いね。ここの仕事だけじゃ足りなかったら、いいバイト紹介してくれない?」 「すっかり元気が出たようで何よりだな……いいか、うちを出ていくなんて言うなよ。黙って出ていっても、100人のハンターを放って見つけ出すからな」  ルナ様なら本当にそれくらいはしかねない……と、僕らは久しぶりに笑い合う。すると、控えめなノックの音が聞こえてきた。 「誰だ?」 「……七愛です。入ってもよろしいでしょうか」 「ああ、かまわない。ちょうど、君のことも話そうとしていたところだ」  七愛さんは畏まった様子で部屋に入ってくる……そして、和やかな空気の僕らを見て意外そうな顔をした。 「君の主人と、これからのことを話し合っていた。結果として、湊は通学しながらうちで働いてもらうことになった」 「あの、私は……」 「おまえは今日から我が家の使用人だ。湊の使用人のままでは、給料が滞ってしまうからな……君への報酬も、私が持つ」 「私と七愛、同僚っていうことになるんだね。これから一緒に頑張っていこうね」 「ああ、湊様ぁ……」  七愛さんが湊に抱きつく。今ばかりは湊もそれを受け止めて、泣いている七愛さんの背中を撫でてあげていた。 「よしよし……ごめんね、心配かけちゃって。でも私、もう大丈夫だから」 「私には、厳しいことも言うけど……その100倍くらい優しい親友もいるし。みんなも居てくれるって分かったから」 「だ、だから優しくしたわけじゃなく、労働に対する対価をだな……」  そんなふうに照れるルナ様を見ながら、改めて思う……彼女は他に類を見ないほど優しく、尊敬に足る人物だと。 「ルナ……いえ、ルナお嬢様。なんでもしますから、私を使ってください」 「ああ、聞き入れた。皆にも、事情を説明しておかないといけないな」  夕食の準備は、他のメイドさんたちが整えてくれていた。みんな集まったところで、湊は自分のことを話し始める。 「私の家の会社……柳ヶ瀬運輸は、倒産しました。お父さんは再建を考えているけど、すぐにはできそうにありません」 「だから私は……ルナのところで、働かせてもらうことになりました。仕事をしながら、授業を受けようと思います」 「……分かりました。学院の授業料は一年分支払われていますから、通学は問題ないと思います」 「その先は、私が彼女の授業料を支払おうと考えている。卒業後は、私の起こす会社に就職してもらうつもりだ」 「優秀な人材に引き抜きをかけたわけですわね……そういうことなら、私は朝日が欲しいですわ」 「私も……って言ったら、空気が読めてないのかな。朝日のこと、私も見込んでるんだけど……」 「状況は変化していくものです。きっと柳ヶ瀬運輸にも、良い風が吹きますよ」 「そうよ、柳ヶ瀬運輸は急成長を遂げた企業でしょう? 湊お嬢様の父上は、優れた手腕を持つ経営者のはずよ」  サーシャさんの言葉に感謝するように頭を下げながら、湊は神妙な顔でみんなの顔を見回した。 「使用人としてけじめをつけるために、今後はそれなりの扱いをしてください。私を呼ぶ時、『お嬢様』っていう必要はありません」 「……といっても、私たちに変わりはないわ。北斗、湊の気持ちを尊重してあげて」 「なかなか緊張するものですね……湊、というのは」 「いっそのことミナトンと呼んでやってもいいぞ」 「どうやって呼んでもいいです。とにかく私のことは、しっかりルナのメイドだと思ってください」 「しっかり……ですね。分かりました、湊さん。あなたの気持ちを尊重しましょう」 「……実家が立ち直った時には無礼を詫びる。それまでは、許してくれるか」 「今は後先ないんだからそんなこと気にしないよ。えっと……ルナお嬢様」 「うっ……な、なんか湊に言われるとかゆくなるな。普通に呼んでくれ、普通に」 「かしこまりました……なんてね。分かったよ、ルナ」  少し悪戯っぽく言う……良かった、湊とお嬢様方の関係に、大きな変化はないみたいだ。 「とりあえず、部屋の配置換えをしようと思う。そのままでもいいが、それでは他のメイドに示しがつかない」 「七愛は、他のメイドと同じ部屋に暮らしてもらう。朝日と湊は、今日から二人で住め」  ルナ様があまりにさらりと言うので、一瞬意味が分からなかった……たっぷり、遅れて5秒後。 「ええええー!」 「ええええー!」  僕と湊は声を揃えて驚嘆する。配置換えは分かるけど、どうして一緒の部屋に……わけがわからない。 「湊はなんだかんだ言って弱っている。最近仲がいいみたいだし、朝日が支えてやれ」 「か、かしこまりました……」 「あ、あの……ルナ様、湊お嬢様……いえ、湊さんは私と同じ部屋というわけにはいかないのですか?」 「七愛と同じ部屋では湊の貞操が危ない」 「くっ……自分の普段の行動を考えると否定できない。さすがルナ様、私の新しい主人……」  七愛さんは小声で呟きながらも、ルナ様の言うことには絶対服従のようだった。 「いいな……私も桜屋敷に勤めたら、朝日と同じ部屋になれたのに。湊がうらやましい」 「申し訳ありませんが、そればかりは従者として止めざるを得ません」 「仲良くね、二人共。ケンカしちゃだめよ」 「この二人こそが怪しい気がしなくもないのですが……まあいいですわ」  ユルシュールお嬢様の勘は、実はほとんど当たっていた……僕と湊はもう、キスを交わすような関係なのだから。  湊の方を見ると、照れ笑いしている……彼女は全然嫌がってない。僕も正直を言うと、少しどころじゃなく嬉しいって気持ちがあった。  入浴のあと、湊は今日からすでに僕の部屋にやってきて、一緒に休むことになった。  元から大きいベッドだから問題はないけど……いいのかな、という思いはある。 「ルナ様に話した方がいいんじゃ……」 「いま、ただでさえ問題起こしてるのに、同じ時に性別バレはやばいんじゃない?」 「そうだね……」 「それにゆうちょとなら同じ部屋でも全然……嬉しいよ。着替えたりするとき大変だけど……」 「……ゆうちょなら、もう見られてもいいかな。それとも私の裸なんて、興味ない?」 「っ……そ、そんなこと。あるわけないけど……だからって、見ていいわけじゃないよね」  ただでさえ二人きりで、意識してるのに……ふとした時に、彼女の身体に触れたくなってしまう。  僕にはそういう衝動はないと思っていたけど……湊に対して、強く異性を意識することもなかったはずなのに。  今は全然違う……湊のことが愛おしくて、それを抑えることすら難しくて、いつも葛藤してる。 「……今日はもう寝ようか。いろいろあって、疲れてると思うし」 「う、うん……了解。電気、私が消そうか」  湊は立ち上がって電気を消す。そして僕が先に、湊は後からベッドに入ってくる……一緒に寝るんだっていう事実が、ようやくリアルに感じられてくる。 「ドキドキするなあ………」 「僕も……」  湊はすぐ隣で目を閉じて寝ようとするけれど、僕の視線に気がつくとすぐに目を開けた。 「……ゆうちょ、さっきはごめんね。助けてくれるって言ったのに、無理とか言って」 「ううん……いいんだ。僕は、家の力を頼りすぎていたから」  それは自分の力で湊を救うことにはならない……結局、ルナ様の力を借りなかったらどうにもならなかった。 「本当は、凄く嬉しかった。私やっぱり、ゆうちょを好きになってよかったと思った」 「……今は可愛い感じになっちゃってるけど。私の好きな人は、やっぱりかっこいい人だった」  そこまで言ってくれるのは……きっと、彼女だけだ。そこまでの好意を向けてくれるから、僕は彼女が大切なんだと、好きなんだと気がつくことが出来た。  ……触れたいという気持ち。僕は確かに彼女を求めているけれど……今はまだ。 「んっ……」  一緒に眠るっていうのは、いつでもキスが出来る距離にいるということ。僕は湊の唇をそっと塞いで、しばらく彼女の存在だけを感じた。 「……キスしてほしいっていうの、ばれちゃってた?」 「……いや。僕がしたいと思ったんだよ……湊もそう思ってくれてたなら、嬉しいな」 「じゃあ、次は私からしてもいい?」 「うん……んっ。んむ……」 「ちゅっ……ちゅっ。ゆうちょ、大好き……ありがとう……」  湊の言葉を聞いて、胸が熱くなる……小鳥のようについばむあどけない口づけが、さらに彼女を愛しくさせる。  これからも、一緒に居られる。今はそのことの幸せを、二人で確かめていたかった。  湊が家に戻ってきて、今日から一緒に学園に通う日々がまた始まる。 「……すぅ……すぅ……」  鳥の声に目を覚ます。すると、湊が僕の胸に腕を乗せて、寄り添うようにして寝息を立てていた。 「……あ、ゆうちょ。おはよ……」 「おはよう、湊。よく眠れた?」 「ふぁぁ……うん、なんかストーンって落ちるみたいに寝ちゃった。最近、まともに寝られてなかったから」  心労が重なっていたんだな……そんな時、傍にいられなかったことを後悔する。 「……ゆうちょは知ってる? 少女まんがによくある、朝チュンっていうの」 「朝チュン……ああ、そういうことか。何となくわかるよ」 「ああいうの、見るだけで照れてたのにね……自分がそんなことしてるの、信じられない」 「一緒に寝て起きるくらいなら、普通にあるんじゃないかな?」  幼馴染みだったらなおさらありそうだ……と考えて、僕は朝チュンが、どういう過程を経て訪れるのかに気がつく。 「……恋人同士で寝た後のことを、そうやって言うんだよ。言わなくても分かろうよ」 「ご、ごめん……鈍かったね。でも、そういうことはまだ早……くはないよね」  途中で湊が切なそうな顔をしたので、僕は思わず撤回した。自分が何を言ってるのかを理解しながら。 「くっついてると自然に……何ていうか……」  湊は何か言いたそうにしながら、僕の胸のあたりを撫でてくる。そこにあるのは、まだ律儀に身に着けてるブラだった。 「……一瞬、ゆうちょに胸があるのかと思っちゃった。あんまり自然なんだもん」 「あはは……今は見せてあげられないけど、ぺったんこだよ。心配しないで」 「だったらもうちょっと男らしくして欲しいなー……うりうり」  ほっぺたをぷにぷにと人差し指でつつきながら湊が言う。部屋着の襟元から、彼女の豊かな胸の膨らみ……その稜線が見えてしまってる。 「……湊って、結構大きい?」 「わ……セクハラだ。ゆうちょがそんなこと言うなんて……やっぱり男の子なんだね」 「……ごめんなさい」  素直に謝ると、湊は笑いながら僕の頭を撫でてくれる……こんなに仲睦まじくしてていいんだろうか。そう思ってしまうほど、幸せな朝だった。  今日は仕事を手伝いたいという湊と一緒に、朝食の準備をした。  ルナ様、ユルシュール様、瑞穂様……お嬢様方の好みに合わせると、ブランチもそれだけ作らなければいけない。 「ゆうちょ今までこんなことやってたんだ、すごいね」  それぞれの席に配膳を終えると、湊が僕のことを褒めてくれる。 「毎日やってると慣れてくるものだよ。湊も、飲み込みがいいからすぐに出来るようになるよ」 「うぅー、それはゆうちょが自分の能力を過小評価しすぎ。私も出来ると思ってたけど、ゆうちょの方が全然上手だもん」 「けど私にもプライドがあるから、一個くらいは絶対勝つよ。おふくろの味。卵焼きで勝負だ!」 「卵焼きか……シンプルだからこそ難しいんだよね。うん、今度一緒に作ろう」 「……はぁぁ。ゆうちょはそうやって、笑顔だけで私を骨抜きにしてくれるよね」  僕だって……と言うことは、今は出来ない。『僕』というのは、湊の前だけで使っていい言葉だ。 「おはよう、朝日。湊……どうしたんだ? 二人揃って」 「ふぁぁ……ぁふ。なんですの朝日、そんなに注目しないでくださいませ。私のあくびがいかに愛らしいからといって」 「はふ……ふふっ、私にも伝染っちゃった。朝日にも伝染らないかな」 「ふぁぁ……あいたっ。み、湊さん……おしりをつねらないでくださいっ」 「え、私そんなことした? してないよ、朝日のおしりが腫れちゃったら困るし」  ……あれ、これはもしかして焼き餅を妬いてるのか。そう考えると、お尻くらいは仕方ないのかと思えてくる。 「尻をつねられて恍惚としてるんじゃない……ドMか? ドMなのか、君は」 「そ、そんなことは……虐めないでください、ルナ様」 「……朝日はどんなリアクションをしてても可愛い……はぁ。一緒に寝たりできるのは、当分は私だけだと思ってたのに。湊がうらやましい」 「あはは……ひぎぃ!」  今度はつねられるんじゃなくて、尻肉を思い切りむんずと掴まれた……しかもルナ様と湊の二人から。 「……大きい尻なのに、何か引き締まってるんだよな。朝日のスタイルは謎が多い」 「私は何となくやってみただけだよ」  いや、絶対そうじゃない……瑞穂のことでジェラシーしてたに違いない。ジェラシーするっていう言葉の使い方は変だろうか。  みんなで席について朝食を始める。すると、すぐに湊が元気に宣言した。 「今日の朝ごはんは私が作ったんだよ!」 「そうか。ユーシェにやろう。私は朝日のを食べる」 「瑞穂にあげますわ。私も朝日のを食べます」 「朝日にあげますね。私も朝日のを食べます」 「迫害された!」 「あはは……まだ湊さんは練習中ですけど、味は私と変わりませんよ」 「小倉さんは自分の技術が卓越していることを理解した方がいい……けれど君のお墨付きなら、湊さんのものも口にする機会があるだろうね」 「遠回しでもなんでもないわよ……朝日の方を食べたいんでしょう、あなたも。まあ、私も美のためには朝日の料理を口にせざるを得ないけれどね」 「……私はメイドで、湊さんの同僚。全て食べさせていただきます」 「美しい友情だ。だが私は、朝日の料理がちょっとふざけた美味さだから仕方なく口にしているんだ。許せよ、湊」 「うぅ、分かってるよ。私だって食べたいもん。でもいいよ、私の作ったぶんは朝日と私と七愛で食べるから」 「うん、美味しい。湊、でももうちょっと焼き時間を短くして、調味料はもう少し加減して……」 「やっぱり迫害されてる!」 「……万里の道も一歩から。湊さんの場合は二歩目でゴール」 「ずいぶんと一歩の幅が広いな……うん、今日も美味い。さすが朝日だ」 「せっかくですから湊の料理もいただきましょうか……あら、ほんとに無難な味ですわ」 「湊らしい、素朴な味がするわね」 「精進いたしますので今後も試食にお付き合いください……朝日、後で料理のこつ教えてね」  湊はあくまで、真面目に使用人として働く気だった。彼女なら、僕を追い抜く日もそう遠くは……いや、ハードルを上げるのはやめておこう。  湊が授業に復帰しても、クラスメイトはもう悪意を向けてくることはなかった。  龍造寺さんと円城寺さんは湊のことを有ること無いこと、クラスメイトに吹聴していた……けれど、そのほとんどが嘘だったことを、みんなはもう理解していた。  湊が男性と一緒に歩いてたという部分は、否定できない事実だ……その男性は僕だから。でも、それ以外の中傷が否定できて良かった。 「潔白を証明しておきますが、江里口金属は柳ヶ瀬運輸との取引を打ちきってはおりません」 「成松重工もです。ちょっとした風評程度で、会社同士のことにまで口を出すのはどうかと思いましたし……」 「ケメ子は初めから興味ないわ、そんなこと……でも、止めなかったことは後悔してる。ごめんなさい、柳ヶ瀬さん」 「え、あ、うん……ほんとは私も、詳しくはわかってないんだ。うちの会社がこうなっちゃった経緯は」  湊は気丈に対応してる……けれど柳ヶ瀬運輸との関係を断ってしまった家の子は、湊を見ると凄く複雑そうな顔をしていた。  ……少なからず大きな傷は残っていて、まだ湊の家がどうなるのかも分からない。けれど湊は……。 「しばらく休んじゃったけど、またよろしくお願いします」 「……何か私たちに出来る事があったら言ってください。今回のことでは、責任を感じていますから」 「そうなってから気がつくというのも遅いですが……湊さんを見ていて、教えられた気がします」 「私たちは家のことを気にしすぎてた。服飾に貴賎はないし、どんな家の出でも、同じ方向を目指してここに来たことに違いはないわ」  本当に目からうろこが落ちたかのような変わりぶりだ……こうやって人は成長していくものなんだろうか。 「……ありがとう。本当は言わなくても済むことなのに、ちゃんと言ってくれて」 「私たちは傲慢でしたが、反省はします。そうしなければ、あなたに向ける顔がないから」 「今まで、あなたの家のことをバカにしてすみません。あの……私たちが、とても言えたことじゃないけど……」 「友達になりませんか、なんて。この歳になって言うとは思ってなかったわ」  三人がそれぞれに湊の答えを待っている……龍造寺さんたちの行為を知っていて、見て見ぬふりをした彼女たちを許せるのか、許せないのか……。  湊がどちらを選ぶのか、僕は初めから分かっていた。彼女は誰も憎んだりしない……決して。 「私にはルナたちが居るから。その次の友達で良かったら、入れてあげてもいいよ」 「……柳ヶ瀬さん。ありがとうございます」 「そこから始めるしかありませんわね……授業が終わったら、サロンでお茶でもしませんか? 結構な人数が集まると思いますけど」 「まだ、あなたを面白く思っていない人はいるけれど。味方の方がずっと増えたっていうことを覚えていて。ケメ子よ」  三人は自分たちの席に戻っていく。何を話したのか、と周囲のクラスメイトに興味を持たれていた。 「……良かった。やっぱり私、どこか怖いと思ってたから……学園に来ること」 「時間は戻らないが……心根の底まで腐ったやつが全てじゃなかったか」 「そうですわね……ああ、次はデザインの授業ですけれど。湊、どんな絵を描きますか?」 「今日は私たちが、文字通り傍についているから。楽しい授業にしようね」  お嬢様方が微笑みあうところを見て、七愛さんが目を赤くしている……安心したんだな。 「悪いと思うなら初めからやるな、雌豚どもが」  と思いきや、七愛さんはクラスの人達への怒りを口にする。 「だ、駄目ですよそんな……雌豚なんて」 「……今ので悪態は最後にする。湊お嬢様が笑っているのなら、私はそれでいい」  七愛さんは言葉通りに、憤りを胸の奥に仕舞いこんで、いつも通りのクールな彼女に戻った。 「今からは、ここで小倉さんの正体を明かしたらという想像をして楽しむことにする……ふふっ」 「そ、その笑いは……七愛さん、もしかして本気じゃないですか?」 「残念ながら私は、湊お嬢様が悲しむことは出来ない身体」 「身体ですか……湊お嬢様の従者として、あなたほど適任な人はいませんね」 「そう……従者でいたかったけど。同僚になったらなったで、彼女に尽くしたい気持ちは変わらない」 「今は私も、同じ同僚です。と言ったら、怒りますか?」 「……そんな気はない。湊お嬢様の心の支えは、認めたくないけど……実家に向かっている間も、大蔵遊星だった」 「負けを認めたわけじゃないけど……私と湊お嬢様の人生に、あなたが多く関わっても……別に迷惑では無いような気がしないでもない……という気の迷い」  物凄く遠まわしだし、最後に思い切り否定してるけど……ちょっとだけ、ほんの少しだけ、僕のことを認めてくれたのかな。 「……何見てんだよ」 「ふふっ……いえ。七愛さんらしいな、と思って」 「あぁ? ちょっと評価が上がったくらいで調子乗ってると許さないからな」 「ご、ごめんなさい……もう言いません。でも、ありがとうございます。私のことを認めてくれて」 「……あまり邪魔したら、私の方が湊お嬢様に嫌われるから妥協してやってるだけ。勘違いしないで」 「こら、また喧嘩してるの? いい加減仲良くしないと……」 「……次の授業が始まります、湊……さま」 「……いいよ、無理しない呼び方で。いつもありがとうね、七愛」 「っ……は、はい……身に余るお言葉です、湊お嬢様……」  湊の言葉ひとつで、七愛さんの顔が真っ赤に染まる……本当に大切なんだな、湊のこと。  そういう意味では、僕と七愛さんは同じ気持ちを共有出来るはずだ。少しずつでも、認めてもらう努力をしないとな……。  昼食の時間も、まるでみんな憑き物が落ちたみたいに、湊に対して変に注意を向けたり、噂話をされたりすることもなくなっていた。 「……こうも綺麗に解決するとは、思っていなかったが。皆、結局話題に飢えていただけなのかもな」 「色んなところでストレスを溜めているのでしょうね。学院長がああですから、上から押さえつけられるような空気もありますし」 「こんなことで解決するなら、もう少し早く手を打っていればよかった……ごめんなさい、湊」 「あ、それなんだけど……もう落ち込んでても仕方ないから、落ち込まないことにしたんだ」 「学園に行けって言われてる以上は、これまで通りに勉強して、みんなとお喋りしたりしようかなって」 「それでいい。君の生活はこちらで保証する。仕事と勉強くらい、両立してみせてくれるんだろう?」  ルナ様が言うと、控えていた七愛さんが前に出る。そして、お辞儀をしてから話し始めた。 「私が今までより仕事を多く担当します。湊様は、勉強するのが仕事と考えてください」 「私は全然平気だよ。いざ朝日と一緒に朝食作ってみたら、びっくりするくらい楽しかったし」 「ルナたちが、朝日と私の料理で迷うくらいまで練習するから。はー、燃えてきたー!」 「ということは、私たちももう沈んだ顔はしていられませんわね。当の本人がふとましいですもの」 「ユーシェ、ここで間違えるのはちょっと……たくましい、ね」 「それくらい図太くならないとやってられないよ。なんぴとたりとも、私の心を折ることはできないぜ!」  そう言っておどけつつも、湊は僕をちらりと見て恥ずかしそうにする……憔悴しきった姿を知ってるのは、僕とルナ様、七愛さんだけだからな。 「ショーに向けての衣装製作のお手伝いも、再開しなきゃ……もしかして私が居ない間に、結構進んでる?」 「日程に余裕がありましたから、湊が戻るまで止めていましたわ。グループワークですもの」 「放課後からさっそく再開しましょう」  これで学園生活は元通り……いや、より結束は固くなり、湊への風当たりもなくなった。  ただ、湊の家のことだけは常に胸に引っかかっている……彼女の父親が頑張っている今、僕らはまだ待つことしかできないけど。  放課後は教室に残って、ショーの衣装製作を進める。  このまま製作が進めば、12月のショーよりずっと早く完成できそうだった。  夕食の時間のあと、屋敷のみんなが順番にお風呂に入る。  いつも僕が最後だったけど、今日から順番が変わって七愛さんが最後になった。 「はぁー……生き返る……」  男性嫌いの七愛さんが僕の後……っていうのは、少し申し訳ない。だから、すごく念入りに洗ってからお風呂に浸かった。  初めのころはお風呂でバッタリのアクシデントもあったけど、もうそういうことが無くて落ち着く。  もちろん、何かの事情でいきなり誰か来ることもありえるから、警戒はしてるけど……大丈夫そうだ。  お風呂から上がって出てくると、控えていた七愛さんがやってくる。 「七愛さん、次は湊さんの順番ですけど……どうなさいました?」 「変な毛が落ちていたら困るから。湊お嬢様が入る前に、チェックしておく」 「えぇっ……だ、大丈夫ですよ。ちゃんと綺麗にしてありますから。ピカピカですよ」 「風呂椅子を舐められるくらい綺麗にしたとか……? むしろ舐めたとか?」 「わ、私はどれだけ変態なんですか……あなたの中で。そんなことしません」 「湊お嬢様と一緒の部屋だから、常に変なことを考えているはず。男は信用できない」 「そ、それは……」  そんなことはないと毅然として言ったら、それは湊への気持ちに嘘をついていることになる。 「真剣だったら……いえ、真剣でも許さない。命の保証は出来ないけど、その覚悟があるなら……」 「……七愛さんの、湊への気持ちは分かってるつもりです。でも、私は……」 「分かってるのにお嬢様をさらっていくなら、それはわかってないのと同じ」 「う……そう言われると痛いです」 「……あなたはあきらめるつもりがないし、お嬢様にはあなたが必要。もう答えは出てる」  七愛さんは言って、浴室の方に歩いていこうとする。今の言葉の意味は……。 「七愛さんっ」  呼び止めると、七愛さんは足を止める。そして、静かに振り返って……僕のことをまっすぐに見つめた。 「お嬢様を裏切らないこと。大事なことを忘れないこと。くれぐれも私を怒らせないこと」  七愛さんはもうそれ以上話をするつもりはないと言わんばかりに、今度は立ち止まることはなかった。  ……それを守ることが出来れば、僕は湊を求めてもいいんだろうか……いや、そうじゃない。  最後に大切なのは、僕が湊をどれくらい想っているかだ。人に許されたから触れたいというわけじゃない。  部屋に戻ってくると、交代で湊が浴室に向かった。僕は彼女が戻ってくる前に、学園の課題を進めた。  例題のデザインを見て、アレンジを幾つか考えて、それが良いと思う根拠を文章にして書く。楽しいけど、自分のデザインに自信を持ち切れない僕にはわりと難題だ。  僕が好きなデザイナーは、こうするから……っていうのが一番楽な答えだ。僕に才能がなくても、僕の好きな人たちには才能がある。  そう……ルナ様みたいに。今日は彼女の部屋でお付きをしていないから、あまり話せていない。  ルナ様は湊のために、心配りをしてくれている……湊と仲が良い僕が、出来る限り傍にいられるようにと。  それは嬉しいことだけど……ルナ様への恩は大きくなるばかりで。男としての意地が、少しでも恩を返したいという気分にさせる。  そのとき、ドアが軽くノックされた。もうそれだけで、湊だと分かるようになってきた。 「はい、鍵は開いてますよ」 「はー、いいお湯だった……時間が決まってなかったら、浴槽で大の字になりたいところだったね」 「ふふっ……だめですよそんな、はしたないです」 「女の子だってたまには、何も気にせずに自由になりたいんだよ。私が言うかって感じだけど」  湊は笑いつつ、タオルで髪を拭きながら僕の隣に座った。シャンプーのいい香りがする。 「ちゃんと乾かしてから寝るから、大丈夫だよ。ゆうちょも大変だね、かつら」 「つけたままドライヤーで乾かせますから。たまに、皆さんの居ないところでは外しています」 「……ゆうちょに戻ってもいいのに。口調が朝日だと、女の子かと思っちゃうよ」 「あ……うん、そうだね」 「あとで、髪を乾かしてあげる。そうしたら、今日はもう休もうか。明日も早いしね」 「うん。明日もよろしくお願いしますね、先輩」 「先輩……あ、メイドさんのっていうこと?」 「考えてみればそうだよね。デザインだって、ゆうちょは元から勉強してたんだもんね」 「一緒の部屋だったら、教えてもらえることいっぱいあるよね。先輩っていうより先生だこれ」 「僕に出来る事なら、何でも教えられるよ。二人で居られる時間は、勉強の時間にしようか」 「……半分くらいにしない? あの、私ね。結構我慢してるんだけどね」 「……湊?」  気がつくと、湊が瞳を潤ませてこっちを見つめている……言葉にしなくても、どうしたいのかが伝わる。 「キスだけじゃ足りなくなっちゃったから……ゆうちょ……」 「……いいの? 湊」 「……お、女の子から言わせるとかデリカシーないよ」 「うん……そうだね。僕は湊の身体に触れたい」 「っ……」  湊の顔が驚くほど赤くなる……リンゴみたいだ。彼女は動揺しきって、どうしていいのかというようにそわそわし始める。  そして、ついに覚悟を決めたようにこっちを見る。少し不安そうにしながら、彼女は自分の胸に手を当てた。 「……さ、触っていいよ。その……声が我慢できなくなったら、止めちゃうかもしれないけど」 「うん……ありがとう」 「わっ……わっ、わっ……ゆうちょが男の子になってる……」  僕が湊の華奢な身体をベッドに横たえると、湊は恥ずかしいのか足をぱたぱたしていた……あどけない仕草に、思わず微笑んでしまう。  ベッドに寝そべった湊の顔を覗きこむと、彼女はすっと目を閉じてくれる。キスしようとしていることを、言わなくても分かってくれていた。 「んっ……んむ。ちゅっ……あむ。ちゅっ……ん……」  彼女の唇はしっとりと潤っていて、とても柔らかい。小鳥のようなキスを交わすだけでも、幸福感とささやかな官能に包み込まれる。 「……ちゅっ。ん……んぁっ……ゆ、ゆうちょ……」  しばらくキスを続けていると、それだけじゃ足りなくなってくる。僕は触れたいと言ったとおりに、彼女の肩に置いていた手を、胸のふくらみにそっと重ねた。 「な、なんか……変な感じ……んんっ……」  パジャマとブラ越しに胸の膨らみを優しくさする。さわさわと触っていると、湊が身をよじって吐息を漏らした。  そのまま手を下にすべらせて、足に触れる……適度に締まっていながら柔らかい太腿を、すべすべと撫でる。 「やっ……ァ……あっ……だめ……」 「……くすぐったい?」 「……わ、わかんない……でも触られると、じわじわきてる」  くすぐったいだけなら愛撫にはなりえない。僕は湊の反応に少なからず高ぶりを覚えて、彼女の身体を服の上まさぐることを止められなくなる。 「うぅ……は、恥ずかしいからそっちの方はまだ……あっ……!」 「あ……ご、ごめん。痛かったかな」  夢中になりかけていた僕は、湊の反応で我に帰る。湊は足の間をかばうようにしながら言った。 「……そっちはまだだめ。ゆうちょ、急に男らしくなりすぎ」  太腿をさすっているうちに、手が……湊の大事なところに当たってしまったんだ。 「私、声が出るの恥ずかしいから……え、エッチはここじゃ無理かも……」 「……うん、分かった。じゃあ、今日はいっぱい触らせてくれるかな」 「い、いっぱい……声が出たらまずいっていうのに、いっぱいしたいと申されますかっ」 「……ごめん、僕も我慢できなくなってきてて……今日は最後までしないけど、このままだと……」  湊の身体を触ったことで、寝るときだけ自由にしてる僕のものが、がちがちに膨らんでしまってる。  触らなくても、脈に合わせてずきずきと快感が走ってる……このままいくと、僕は夢精してしまうんじゃないだろうか。 「……男の子のほうが我慢出来ないんだよね、きっと。ましてゆうちょ、ずっと押さえてたし」 「ゆうちょが苦しいなら、私は……彼女として出来ることをするよ。やり方はよくわかんないけど……」  そういうことなら……もう少し彼女の身体を触って、見てみたい。この抑え切れないほど熱い昂ぶりを、鎮めてもらう前に。  触れるだけじゃなく、その先に進む……そう自覚すると、急に緊張が増してしまう。 「……ゆうちょ、見たいんだよね? 私の……」 「うん……見せてほしい。恥ずかしいと思うけど……そこをなんとか」 「ま、まあ下着までだったら、そんな……ねえ、見せてるし……」  湊は言いながら、パジャマの裾に手をかけて、自分でたくし上げてくれる……透き通るような健康的な肌が、淡い明かりの中に浮かび上がる。 「……は、はい。今はここまで」 「うん……わあ、縞柄にフリルがついてるんだね。ブラジャーって、つくづく芸術品だね」 「シンプルなのも持ってるよ。で、でも……ゆうちょが近くにいたら、おいそれと気をぬけないし」  言葉を交わしていると、少し緊張が和らぐ……僕は落ち着いて、そろそろとブラの上から湊の胸に手を重ねた。 「んっ……や、やらしい手つき……ゆうちょのエッチ……」  重ねるだけじゃ足りずふにふにと揉み始めると、湊が子供みたいに口を尖らせて言う。  ……カップ越しでもすごい張りを感じる。僕はみずみずしい肌、そのお腹を撫でるように手をすべらせた。 「……うぅ。お腹撫でられると、なんかおちつく……動物か私」 「きれいなお腹だね……彫刻みたいにくびれてる」  ユルシュール様も美の女神に愛されたようなモデル体型だけど、湊は筋肉が適度について引き締まってる。だから、お腹のラインがすごくきれいだった。 「ごろごろ〜……って、お腹はもういいから。ネコ化しそうだからやめて」 「湊の場合、ちょっとやんちゃなネコだけどね……えい」 「え、えいって……ひゃっ、ちょ、ゆ、指……んんっ……」  ブラのカップに上から指を差し入れると、魅惑的な弾力の中を指が進んでいき……湊の乳首を探し当てる。 「ん……ま、待ってみようかちょっと。そこ触られたら声出るって分かってて……ふぁっ……」 「……どんどん固くなってくるよ?」 「そ、それは触られたら当たり前……んっ、んん……んぁっ……」 「……あんまり同じとこばっかりされると……あっ……や、やば。ほんとだめ……」  湊の手から力が抜けてくる。僕はもうしばらくこりこりと指先で乳首を愛撫してから、湊の頬から首筋にかけてを撫でた。 「……はー……ゆうちょに翻弄されてる。私も早くしてあげないと、負けっぱなしだ……」 「湊があんまり可愛いから……僕はずっと負けてるようなものだよ。全然冷静でいられてない……」 「……手加減してくれないと、この先いけないんだけど……声抑えるの大変で、腹筋が筋肉痛になりそうだし」 「う、うん……そんなに我慢しなくても大丈夫だと思うよ?」  そう簡単に、他の部屋に声が聞こえたりすることはないだろう。このお屋敷は、他の部屋の音がほとんど聞こえないように設計されてる。  そして僕の部屋の音を聞くには、廊下からドアに耳を当てるしか無いはずだ。絶対にみんなには悟られないと思う。  い、いや……さすがに七愛さんでもそんなことは。いや、七愛さんだからこそありうるのか。 「聞こえてるかも、って思うだけでも生きた心地しないよ……今の私たち、この家のメイドなのに」 「……それでも、やめたくないな」 「……男らしいけど。私もそういうゆうちょを待ってたけど。でも、いちおう怒っとくね」  湊は拳を突き出して、ぽこ、と僕の頭にのせる。全然痛くないけど頭をさする僕を見ながら、湊は背中に手を回して、ブラのホックを外した。  ブラを引き上げると、形のいい乳房がぷるんと露出する。思わずこくんと息を飲んでしまうほどに綺麗な形をしていた。  採寸したときは瑞穂お嬢様がずば抜けて大きかったけど、湊もすごい。美乳というのは、こういうことを言うんだな……。  お椀型をしていて、横向きに寝そべっていても形が崩れない。あまり綺麗で手が震えてしまう……そんな僕の手を、湊が自分で取って胸に導いてくれた。 「んっ……ゆうちょの手、あったかい……」 「……柔らかい。湊の胸はすごいね……すごく綺麗だ」 「う、うん……褒めてくれるのは嬉しいけど、同時に恥ずかしいから。褒め過ぎは禁止ね」  感激と賞賛でいっぱいの僕は、口を開けばその都度湊を褒めたくなる。  初めて触れた女性の胸……作り物の自分の胸も相当にリアルだとりそなは言っていたけど。やっぱり本物は全然違っている。 「……手、ゆっくり動かしてみるね」 「お、おう……断りは入れなくていいよ、聞かれると逆に身構えちゃうし……んぁっ……!」  乳房全体を優しく揉むと、湊が甘い吐息を漏らす。感じてくれてることを確かめて、僕は続けて手を動かした。 「ん……な、何だかわかんないけど……とにかくすごい……んんっ……」 「ゆうちょが私の胸……さわってる……」  湊は自分の胸が触られるところをじっと見ている。僕が指先で乳首をつつこうとすると、耐えかねたように目をそらした。 「……何もしなくても、ひとりでに立ってきてる」 「そ、その報告はいらない……うぅっ……や、やば……むずむずしてきた……」  指先で小さな乳輪をなぞるようにすると、敏感にぴんと立ち上がってくる。湊は落ち着かないみたいで、ひざをすり合わせるような仕草をする。 「んっ……んん。んぅ……っ、ちょ、ちょっと待った……そこばっかりはだめって……ゆうのに……っ」  形のいい乳首に誘惑されて、僕はそこばかりに愛撫を集中させてしまう……コリコリとふたつの指で交互にほぐしていると、湊の様子が変わり始めた。  ずっと湊の胸を愛撫しているうちに、本能的な欲求が生まれてくる……吸い付いてみたい、という。 「だ、だから……胸は感じるから……声でちゃうから……っ、んぁっ……!」  ちゅっ、と音を立てて湊の右の乳首に吸い付く。甘い声の響きに誘惑されて、僕はちゅっ、ちゅっと何度も吸い付くことを繰り返す。 「うぅ……き、気持ちいいんだけど……変な声出ちゃうから……っ」 「……可愛い声だよ。でも、そうだね……」  僕たちは、ルナ様のお世話になっているんだから……あまり傍若無人にしちゃいけない。  でも……湊の身体に触れるほど、愛撫するほど、理性が揺らいでしまう。好きな人のこんなに愛らしい姿を見せられ続けたら、僕は……。 「はぁっ……あぁ……な、舐めるのだめ……吸うのも……ふぁぁっ……んっ、んはっ……」  彼女の右の乳首に吸い付き、もう片方の胸を揉みながら、指先で乳首をくりくりと転がす。それをしばらく続けてから、一度唇を離した。 「もう片方もするね……」 「も、もう片方って……ひゃんっ……う、うぅっ……んぁぁっ……あっ、はぁっ……」  湊が愛撫に身を任せてくれる……もう、咎めるようなことが全くない。  今日はまだ、これ以上はしないと言ったけど……湊の様子を見てると、やはり止められなくなってくる。 「湊……」  僕は湊の太腿をさするようにして愛撫を始める。すると、恍惚としていた湊がぴくんと反応して、慌てて尋ねてきた。 「さ、最後までしちゃうのはやばくない……? みんなに聞こえちゃうよ……?」 「……ごめん、約束だったね。今日はここまでにしよう」 「違うよ……私がゆうちょにしてあげる番だよ。私は十分気持ちよくしてもらったから」 「えっ……ほ、本当にいいの?」 「上手く出来るかわかんないけど……ゆうちょにお返ししないと寝れないよ」 「……こ、恋人なんだから……一方的にしてもらうのは、だめだよ。だから私もしなきゃ」 「うん……ありがとう、湊」  僕がパジャマの下を脱ぐあいだ、湊は恥ずかしそうに視線を逸らしていた。  ……久しぶりにまともに見るな、大きくなってる自分の……妙に生々しく感じて恥ずかしい。 「湊……準備が出来たよ」 「う、うん……わっ……」  湊が僕のを見てびくっと身体を震わせる。僕も相当恥ずかしいけど、そればかりでもいられない。 「お、おっきい……これ、どうしたらいいの? さわったら気持ちいいの?」 「うん。ええと……握ってこすったりすると、だんだん良くなるんだよ」 「そうなんだ……ゆうちょは、自分でしたことあるの?」 「う、うん……少しだけね」  男性で自慰をした経験がない人は、女性よりずっと少ないと思う……性欲だって、若いうちは男性のほうがずっと強いんだと聞いた。  ……湊はそういうことをしたことがなさそうだ。エッチなことはほとんど、彼女には未知のことのように見える。 「……恋人同士だと、どうやってするの?」 「同じように手でしたり……口でしたりもするっていうけど。それは、向き不向きが……」  言いかけたところで、湊がそろそろと近づいてくる。そして、張り詰めた僕のものにそろそろと触れてきた。 「じゃあ、口でするね。ゆうちょも口でしてくれたし」 「っ……み、湊……っ」 「んぁ……かぷっ」 「ひっ……」  湊は僕のものに手を添えると、大きく口を開けて先端からかぶりついた。  ……いや、口に入れてくれようとしたんだけど、亀頭の半分くらいまでしか入らない……暖かい口内の粘膜にこすられて、じわりと快感が広がる。 「はぁっ……やっぱりおっきい。入んないよ、これ……つんつん」 「ご、ごめん……くっ……」 「謝ることないよ、私が頑張らなきゃいけないとこだよ。もう一回いくね……かぷっ」 「あ、当たってる……(歯が)……」  もちろん痛くはないんだけど、歯の感触が敏感な部分に触れると生きた心地がしない……湊は歯が当たらないように気をつけて、いったん口に入れるのをあきらめる。 「挑戦はあとにして、いっぱいキスしてあげよう……ちゅっ。あむ……んむっ。ちゅっ、ちゅっ」 「うぁ……っ、く……うぅ……」  文字通り、湊は僕のものにキスの雨を降らせ始める。口に入れようとするよりも、純粋に愛撫としてその口づけは心地よかった。 「ちゅっ……ちゅぅぅっ。あむ……これ食べちゃってもいい……? はむっ。ちゅるるっ……」  横からくわえるようにしてしゃぶりつき、思いついたように舌先でちろちろと愛撫してくる……敏感な棒の芯に快感がジンと響いて、先端から透明な露をこぼしてしまう。 「あ、なんか出てきた……食べてもいいって言ったから、出してくれたの?」 「く、口に入れるものじゃないと思うけど……うぁっ……」 「なんか……えっちっぽい。これ吸ってみたら、女として一皮剥けるかも……かぷっ」 「……ちゅぅぅぅ」 「くっ……ぁ……」  拙くも僕の先端を口に含んで、湊は音を立てて吸い付く。鈴口に至るまでいっぱいに満たしていた先走りが、全て吸い取られていく。  背中に這い登るような快感を覚えて、思わずいきそうだと口にしそうになる……先走りっていうのは、射精の前兆だから。 「ふぁ……あむ。ちゅぷっ……じゅぷっ。はむ……ちゅっ」 「口に入れるより、こっちの方が感じてる……ゆうちょ。ちゅっ……ちゅっ……」  湊はそう言うけれど、僕はもうそれどころじゃなかった……口の中で浅いストロークでこすられても、キスされても、全てが射精につながりうる快感だった。  全身に力を入れて必死に耐え続ける……僕のものが愛撫されている光景を直視していると、もう達してしまいたいという誘惑が首をもたげる。 「み、湊……もう、いきそうなんだけど……」 「あむ……いきそうってなに? どこ行くの? ちゅっ……あむ……んん、またたれてきた……」 「ううっ……い、いくっていうのは……出そうっていうことだよ……」 「出しちゃうの? えー、どんなふうに出るんだろ……あ、手でするのもやったげる。ごしごし」 「……っ……そ、そんないきなりしたら……うぅっ……く、あぁっ……」  湊が舌でボクの先端を丁寧にねぶりながら、脈の走る肉棒を握ってしごいてくる。一気に射精感が膨れ上がって、耐えるのを諦めそうになる。  しかし快楽の波は絶頂のすれすれを行って、何とか堰を切らずに済んだ……かわりに、先走りが止まらずにとろとろとあふれ出し始める。 「こんないっぱい出して大丈夫……? からからになっちゃいそう……ちゅっ。ちゅぅぅっ」 「あ……あぁっ……く、うぁっ……あぁ……」  なすすべもなく、性器をしびれさせ、熱く広がる快楽を受け止め続ける……シーツを掴んで、それこそ乙女のように身をよじらせる。 「ゆうちょ……気持ちよさそうな声出てる。もういっちゃっていいよ?」 「い、いいって言われても……」  いくら好きな人に愛撫を受けているからといって、遠慮なく絶頂に達することに羞恥を感じる。  誰にも見せられない姿を見せる……それが恋人として必要なことなら。ボクは快楽を押し止めていた理性を、閉ざした扉を開くように、少しずつ解き放っていく。 「じれったくなってきた……あむ。ふぁ……んぐ。んむ、ふむっ……ちゅぷっ……ちゅっ……」 「っ……くぁ……ぁぁっ……!」  湊はさっきまで半分も入らなかった僕のものを、一気に口の中に入れていく。暖かくぬめる感触と、押し付けられた舌の感触が、ついに僕を忘我へと導く。 「ふむ……ん、んむぅっ……ちゅっ……ちゅぷっ。じゅぷっ……」 「……い……いく……っ、湊……っ!」 「ふむっ……!?」  熱いものが肉棒の中心をせりあがってきて、激しい脈動が起こる。瞬間、熱いものが僕の体を突き抜けて、湊の口にふくまれた先端から迸った。 「ふぁ……んむ。口に入っちゃった……」 「ご、ごめん……出してもいいよ。ティッシュを持ってくるね」 「ん……んくっ。だいじょぶ……けほっ」 「っ……もしかして、飲んじゃった?」  湊は少し苦しそうにしながらこくりと頷く。もちろん、美味しくはないっていうの表情をしながら。  そして握った僕のものがまだ硬いままだってことに気づくと……彼女は、あろうことか、精液にまみれた手を舐めて、もう一度愛撫を始めようとする。 「み、湊っ……も、もういっちゃったのに……」 「……ゆうちょ、まだ元気そうだよ? ぜんぜん硬いし……現に、気持ち良さそうだし」  湊……思ったよりエッチなことに積極的なんだ。初めはしごかれても鈍い痛みしか感じなかったけど、すぐに熱く官能が広がり始める。 「もう一回いかせてあげたら、今日は終わりね……あむっ。ちゅっ……ぺろっ……」 「あ、ありがとう……うぁっ……くぅぅっ……」  一度いかせて余裕が出てきたのか、湊は感じる場所を探し始める。舌を亀頭の裏の筋にちろちろと這わせて、皮をむいて露出した傘の裏を、指先でこすってくる。 「あ……また……またいく……湊……っ」 「あむ……ちゅっ。いっぱい出していいよ……?」  湊が言いながら、ぎゅっ、ぎゅっと肉棒をしごき立ててくる。精液と唾液で濡れ光る肉棒がにゅるにゅると彼女の手でこすられ、快感が一気に限界を超える。 「……っ、あぁ……っ!」 「きゃっ……!」 「うっ……く、うぅっ……」  間をおかずに二度も出したことがないから、知らなかった……全身が震えて、言うことをきかない。  僕のものは初めだけ最後の力を振り絞るみたいに大きく震えて、湊の顔に白い情欲がかかってしまう。  そのあとは濃い精液が、とめどなくとろとろと溢れ出てくる……腰から下の力が全然入らず、体勢を保っているだけでやっとだった。 「……何ともいえない匂い……ゆうちょ、こんなにいっぱいためてたんだ」 「うぅ……あんまり言わないで」  同年代の女の子たちが一緒に住んでいる中で、自慰はなかなか出来ない……罪悪感もあるけど、そこまで性欲が強かったらメイドなんて務まらない。  僕はこの半年で、自分が聖人に近づいたんじゃないかと思っていたけど……全然だった。この快楽に、少しでも長く浸っていたいと思ってしまう。  ……同時に、こんなにしてくれる湊を愛しく思う。いっぱいかけてしまってるから、一刻も早く拭かないといけないんだけど……。 「わー、すっごい……髪についたの、洗面所でとってこないと。ゆうちょ、変なとこについてない?」 「ええと……うん、これで大丈夫かな」  顔をきれいにすると、湊は恥ずかしそうにぺろっと舌を出して笑う。僕も気恥ずかしくて、顔がひとりでに熱くなる。 「よかった、私でもちゃんとしてあげられて。初めてでも何とかなるんだね」 「凄く上手だったよ、湊。ありがとう」 「あ、ゆうちょまだひざが笑ってる。そんなに気持ちよかったんだ」 「どうなっちゃうのかと思ったよ……声が聞こえたらいけないって、湊が言ったのに」 「男の子はそんなにあえいだりしないと思ったんだけど……ゆうちょ、あんあん言ってたね」 「あ、あんあん……うぅ、言っちゃってたよね。ああ、恥ずかしいな……」 「あはは……気にしなくていいよ。可愛いゆうちょも、私は好きだなって思ったし」 「だから溜まってたら言ってね、いつでもしてあげる……って何言ってんだ私」 「冷静になるとだんだん恥ずかしくなってきた……きょ、今日は顔を洗ったら寝よう。明日から健全なふたりに戻ろう」 「えっ……」  口でして貰うだけで十分すぎるほどだけど……僕は正直なところ、湊と仲良くするのがとても好きだった。  ……抑えてた分だけ性欲が強いのかな、僕は。客観的に考えると、もうちょっと自重するべきだ。うん、それは間違いない。 「……なんてね。やめられるわけないよね、こんな楽しいこと」  湊は悪戯に微笑んで言うと、外をうかがってから部屋を出て行く……僕が洗面所に行くのは、タイミングをずらした方がよさそうだ。  またしてもらえるのかな……いや、一緒の部屋にしてくれたルナ様の好意に乗ずるようなことはいけない。  けれど僕も湊も、その日を境に少しずつ歯止めがきかなくなっていった。  恋愛は人を盲目にするという。湊が東京に残れるという安堵、そして誰にも見られない二人の部屋という環境が、僕たちをどこまでも正直にさせてくれた。  11月に入ってから、少し肌寒くなってきた……けれど朝起きるのが、一人の時よりつらくない。  一緒のベッドに、湊が眠っているから……恋人の温もりがそばにあると、何よりも暖かく感じる。  夜はじゃれ合ったり、口でしてもらったり……ということが、ほとんど一日もおかずに、ここ最近は数日連続で続いていた。  きのうの夜は真面目に授業の予習をして寝た……そして朝を迎えて。 「わ……やっぱり。ゆうちょ、朝こっち向かないと思ったら……」 「ん……んん……」  布団がそろそろと剥がされている……まだちょっと寒い。まだ目覚ましは鳴ってないし、もう少しだけ布団の中で……、 「……普通に起こすのもそろそろ飽きてきたし。とか言い訳しつつ……ひぇぇ、おっきい……」  何だか下半身がスースーする……朝はその部分に血が集まっているから、心地よいといえばそうなんだけど。 「……っ! み、湊っ……何してるの?」 「……寝てればいいのに。これ、すっきりさせといてあげるよ?」 「す、すっきりって……こんな、朝から……」 「ちょっと早めに起きたから、シャワー浴びればばれないよ……はむっ」  いきなり湊が口をいっぱいに開けて、僕のものを口に半ばまで含む。温かく濡れた感触に包みこまれて、声を上げそうなほどの快楽が生まれる。 「んぐっ……んん。ゆうちょのを一日に一回可愛がってあげないと、物足りなくなっちゃって……ちゅっ」 「そ、それは……嬉しいんだけど……っ、くぅ……っ」  ここ最近で、生涯で一番エッチなことを集中的にしてる……射精した回数も、湊にしてもらってから既に両手で足りないくらいだ。  たまにお嬢様方や、同僚のメイドさんに『やつれましたか』と言われるくらい……湊はそれくらい好奇心が旺盛だった。  けれど、僕のことが大好きだっていう気持ちが伝わってくるから……愛撫されるたびに悶え苦しむほど感じて、そのたびに湊を好きになっていた。 「ゆうちょ、このぷよぷよしてるの食べちゃっていい? 白玉みたいでおいしそう……あむっ」 「そ、それは食べ物じゃなくて……ひぎぃっ……!」  湊がやわらかい唇で精嚢をあむあむと愛撫しながら、肉棒をしなやかな手つきでしごいてくる。もはや、初めての時のつたなさはどこにもなかった。 「んむ……私のこと、エッチだなんて思わないでよね。いっぱい焦らしたゆうちょのせいなんだから」 「くぅぅ……み、湊には……かなわない……うぁぁっ……い、いく……」 「えー、もう? 最近一回いっちゃうとくにゃってなっちゃうじゃん。しっかりしなさいっ」  湊は僕に優しく喝を入れつつ、ぎゅっ、と肉棒を握る。僕はほぼいきそうになって、シーツを掴んでのけぞってふるふると震える。 「あ……あぁ……だ、ダメだよ……耐えられない……こんなのっ……」 「そっか……じゃあ、二回出しちゃおう。もういっちゃえ、こちょこちょこちょ」 「っ……ふぁぁぁっ……!」  恋人になって、朝からこんなことしていられる……それは紛れもない幸せで、文字通り天国にいきそうなほど気持ちも良かったけれど。 「むー……ゆうちょの、ぐったりしてる。早くおっきくなるようにくわえてよっと。あむっ……ちゅぷっ……」 「み、湊……もうちょっと待って、そしたら自然に……あぁ……」  ……愛されるっていうのは、体力が必要だ。湊の頭を撫でて愛撫への感謝を伝えながら、まったりした意識の中でそんなことを考えていた。  みんなが起きてこないうちにシャワーを浴びて、登校の準備をする。湊はちょっと反省してるみたいで、申し訳なさそうな顔をしていた。 「今週はほとんど毎日しちゃってるね……もうちょっと控えめにしないと、ゆうちょも身体がもたないよね」 「あはは……大丈夫だよ、湊。そんなにやわじゃないから」 「そうだよね、まだお肌つやつや……なんだけど、疲れが顔に出ちゃってるよ」 「そうかな……湊がしてくれるのは嬉しいし、毎日でも全然構わないよ」  湊は安心したように笑ってくれたけれど、まだ気がかりがあるようだった。 「お父さんたちが大変な状況で、ルナにも迷惑かけてるのに良くないのかな…」  まだ、湊のお父さんたちから状況が動いたという知らせはない。もう月も変わったし、そろそろこちらから行動を起こしてもいい頃合いだ。 「あ……ゆ、ゆうちょ、ごめん。お父さんからかかってきた」 「っ……うん、僕もここに居ていいかな」 「一緒に聞いてて。話の内容、聞こえないと思うけど……ゆうちょがいたら、安心できるから」  湊は電話のボタンを押し、お父さんと話し始める。その声は、思ったよりも弾んでいた。 「もしもし……うん、私は平気。ごめんね、一度帰ったんだけどお父さんたちに会えなくて」 「そっちこそ、声が元気そうで安心したよ……元気がとりえ? あはは、こんな時に冗談言って……」  湊は笑いながらも目元を拭っている。お父さんが元気そうで何よりだ……僕も胸がジンと熱くなる。 「うん……やっぱり家の方は大変なんだね。それで、大阪……弁護士さんからの連絡が来たら、どうするか決まるんだね」  柳ヶ瀬運輸の倒産に際して、裁判も起こるだろう……弁護士さんと相談して行動するのは自然な流れだ。 「えっ……わ、私とゆうちょは別に……な、何にもないってことは……」  湊はお父さんに何か恥ずかしいことを聞かれたのか、顔を赤らめてこちらを伺う……あのお父さんなら、何を言いそうか想像はつく。 「お、お付き合いは……してるんだけど。おおっ、押し倒すとかっ、何言い出すのっ」 「もう……娘に言う冗談じゃないでしょ。うん、お父さんも元気でね。近いうち、顔見に行くから」  湊は電話を切ると、赤くなった目を気にしながら、とても嬉しそうに微笑んだ。 「良かった……ホントに良かったぁ。お父さんもお母さんも大丈夫だって。無事でいるって」 「うん……本当に良かった。湊、会いに行くときは僕も一緒に行くよ」 「だ、だめだよ……ゆうちょはしっかり勉強してないと。夏休みの帰省とは、わけが違うんだから」 「……それくらいの気持ちでいるんだ。僕はもう、片時も湊と離れていたくない」 「夢を追いかけることは確かに大事だけど……それよりも、大切なものがあるってわかったんだ」  女装をして、ルナ様に雇ってもらって、フィリア女学院に入り……僕はもう一度、自分がデザイナーになれるのかどうかを試そうとしていた。  ……けれど本当にデザインがしたいのなら。大切な人を守ることをしてからでも、何十年遠回りをしたとしても、別に構いはしないじゃないか。それが、夢というものだ。 「……いいの? 私なんかが、ゆうちょの全部をもらっても」 「全部あげるよ……もらってほしい。それを迷うのなら、湊にあんなことしてもらってないよ」 「……私、ゆうちょが好きで仕方ないからしてただけだよ。お父さんも、私にそうしてほしいみたい。押し倒しちゃえとか言ったりして」 「そうするのは、僕のほうかもしれない。そんな時まで受け身じゃ、甲斐性がないからね」  僕は湊に近づいて、その華奢な身体を抱きしめた。湊は僕の背中に手を回して、胸に頬を寄せてくる。 「私……ゆうちょを好きになって良かった。報われないかもしれない、って思ってたんだよ」 「……私はゆうちょがいたら、それでいい。どこにでも行けるし、強くなれるよ」 「うん……僕もだよ。君を守るために、強くなろうと思う」  恋をして盲目になっているわけじゃない。誰かを愛するというのはそれくらいに純粋で、真っ直ぐなことだ。  湊が僕を想っていてくれたのと同じように、僕も彼女を愛する。ひたむきに、迷うことなく。  学園の授業が終わったあと、12月のフィリア・クリスマス・コレクションに向けて衣装製作を続ける日々……その充実した日々も、ついに終わりを迎えようとしていた。 「……これで、あとは試着をして調整。それで完成となりますね」 「うん……思ったより時間はかかったが、それでも良いペースだった。みんな、ご苦労だったな」 「あなたのデザインということで心から晴れやかとは言えませんが、服が完成するのは嬉しいですわ」 「今日ばかりは、グループの団結、そして私と朝日との友情が深まったことを喜びましょう」 「あ……は、はい。でもあのですね、少々近い、近いです」  瑞穂お嬢様が僕の手と自分の手を絡め合わせて、至近距離で見つめてくる……この距離の詰め方は、もう心に決めた相手がいてもどきりとしてしまう。 「み、湊お嬢様……」 「んー? いいよ、私そんなに心狭くないよ。だってこれから、私がルナに抱きつこうと思ってたし」 「なんで矛先が私なんだ……? まあいいが。暑苦しくなったら剥がさせるぞ」 「そんなつれないことゆって。ルナだって嬉しいって顔が言ってるよ?」 「服が完成したのがな。友人とはいえ、そんなに遠慮なく触られたら普通怒るぞ」 「っ……」 「あら、女の子同士のじゃれ合いで顔を真っ赤にして……朝日はプラスチックですのね」 「それを美しく言いかえると、プラトニックというのではなくて?」 「うっ……日本語ならまだしも、英語を間違えるのは言い訳できませんわね。今のはわざとですわ」 「どちらでもいいから、私達も友情を確かめあいましょう? えいっ」 「あぁー……暑いですわ、離れてください瑞穂。朝日だって寂しそうにしていますし」 「そそっ、そんなことは……ど、どうして皆さんで私を見るんですか」 「朝日が一番いっぱい頑張ってくれたからじゃない? いっせーのーで……」 「……湊お嬢様、私もするんですか?」  結局七愛さんの呼び方は、どうしても『お嬢様』に戻ってしまうようだった。それで馴染んでいるし、何も問題ないと思う。 「七愛はどうしてもじゃないけど、こういう時くらいはみんなに合わせた方がいいよ」 「……勘違いしないで。お嬢様がそうおっしゃっているから参加するだけ」 「私は遠慮しておくわね、いちおう男だから。あとで一対一でハグしてあげるよ」 「どさくさに紛れて、何を破廉恥な……君は本当に、」  北斗さんがサーシャさんに苦言を呈する途中で、教室のドアが開く。そこには、八千代さんの姿があった。 「皆さん……ショーの衣装が完成したようですね。お祝いしたいところですが、少しお話する時間をいただけますか?」  八千代さんはみんなに向けてそう尋ねてから、湊の方を見やる……彼女の話したいことは、湊に関わりがあるようだった。  衣装の完成を喜んでいた僕は、その先のことを考えていなかった……湊も同じだった。  けれど、それを考えなければならない時が来た。八千代さんは、僕らのことをずっと案じてくれていた……それこそ、当事者の僕ら以上に。 「今の状況は落ちついているので、言い出しにくかったのですが……」 「学院では、一部の特別な生徒に、付き人を従えての通学が許可されています……ですが、湊さんの家の現状では、来年の学費が支払われることは期待できません……」 「一部の特別な生徒」たりえる条件はいくつかあるのだけど、寄付金という名目で一般の生徒よりも多額の授業料を納めていることが前提だったはず。  そもそもフィリア女学院は、一般生徒でさえ良識的とは言い難い学費を要求されるセレブ校だ。いまの柳ヶ瀬家に、果たしてそれだけの余裕があるのだろうか。 「そういうことなら……湊と七愛も、ルナの付き人の扱いにすれば良いのではないですか?」 「いいえ、付き人は一人までと定められています……それに学費の問題は、やはり回避できません」 「それは問題ない。私は、湊をうちの屋敷で雇用することにしたから」 「……ううん、ルナ。やっぱり私、お父さんたちのところに帰るよ」 「……湊、本気なの?」  湊は瑞穂お嬢様の問いかけに、笑って答えてみせる。そして、八千代さんに向き直った。 「今日の朝、父から電話がありました。弁護士さんと相談して、これからどうするかを考えるそうです」 「私は、父の近くで、いつでも駆けつけられるところに居たいと思います。迷惑もかけないように、自活を考えます」 「……今まで、ずっと甘えてましたから。学院に通わせてもらったのも、いい夢見たなって思ってます」  みんな言葉もなく、湊の述懐に耳を傾けている……お嬢様方は驚いていたけど、ルナ様の表情は静かだった。  湊の性格なら、今のようなことを言い出すだろうと、予想していたかのように。 「でも、夢も大事だけど、もっと大事なのが家族です。今日の朝電話がかかってきて、そう思いました」 「……みんなのことも、家族みたいに思ってました。でもお父さんとお母さんも、同じ家族です」 「だから……もう、無理言えないかなって。ルナの気持ちは嬉しかったけど……だからこそ、甘えちゃいけないと思うんだ」 「…………」  ルナ様は目を閉じている。もう湊の決意が固く、変えられない……それを、この場にいるみんなが理解してる。  ……僕は彼女に感謝している。ここにいて、一緒に学んで、衣装を作ってくれた皆のことを……湊と同じように、家族だと思っている。  だからこそ、道を選ぶ。僕は湊と共に歩く……そのために、本当のことを口にしなければならない。  大切な人と一緒に行きたい。僕にとって、湊がどんな存在なのか……その意味を曲げずに伝えるには。  僕は……『大蔵遊星』に戻らなければならない。そうすることが許されるはずのない、この場所で。 「……皆さんに、話さなければいけないことがあります」 「小倉さん……どうしたんです? それは、湊さんのことに関わりがあるのですか?」 「はい……今まで、ずっと秘密にしてきたことです。このまま卒業まで、話すつもりはありませんでした……でも」 「湊がここを離れるのなら、私も一緒についていきます」 「湊……いま、『湊』と言いましたか?」 「小倉さん……君はいったい……」 「……朝日、その続きを聞かせて。あなたの秘密って……」  瑞穂を悲しませる……僕は決して許してもらえはしないだろう。けれど、言わなきゃいけない。 「私は……いえ。僕の本当の名前は、『小倉朝日』ではありません」 「僕の本当の名前は、大蔵遊星と言います……ルナの友人の、大蔵りそなの兄です」  そこまで一息に言うと、全員が目を見開いて僕を見つめる……ルナ様と、瑞穂様のショックが特に大きかった。 「そんな……嘘……朝日が男の人だなんて……」 「……君が、男……? 正気で言ってるのか……?」 「……やっぱり、そうだったんだね。君には他の女性に無いものを感じていたよ」 「……これまでお嬢様や私を謀ってきて、よくも正体を晒せたものだな。私が君を許すと思うか?」  瑞穂のことを考えれば、北斗さんがそう言うのは分かっていた……僕は彼女に打ちのめされても文句は言えない。 「……待って。私だって、遊星の正体を知ってた……知ってて、黙ってた。罰せられるなら、私も同じ」 「……性別を偽ることが罪であることは理解しているはず。それでもフィリア女学院で学びたかった、というのですか……?」 「はい……全てを懸けても、そうしたいと思いました。夢を、あきらめられなかったんです」 「……綺麗事を言うな。全てを懸けるだと? 君はそれすら投げ出そうとしているじゃないか」 「私のところに潜り込んできて……信頼を得ておいて。それで……っ」 「ルナ……ごめん、私が全部悪いんだよ。私がもっと上手く学校で立ちまわってたら、こんなことには……」 「湊さん……それでも、小倉さんが性別を偽っていた事実は変わりません。それを知ったことで、心を痛める方もいるのですよ」 「それが分かっていて、正体を明かした……どれだけ残酷なことをしているか、理解しているのですか」 「……八千代さん。私よりも、ルナのことです……彼女は私より長い間、朝日と一緒に……」 「……君が男であったという事実は、正直頬を張ってやりたいくらいに腹立たしい」 「しかし……君は私の衣装を完成するため、貢献してくれた。私の付き人としてよく務めてくれた」 「それを差し引いて、ようやく溜飲を下げてやれる……瑞穂はどうだ?」 「……遊星さん。あなたの頬を打って、それで痛むのは私の胸と……『朝日』の心です」 「だから私は……あなたを許してあげます。『朝日』と過ごした時間は、今でもかけがえのないものですから」  それは、男である僕とは距離を置くということを意味する……それが瑞穂さんにとっての、最大限の譲歩だ。 「……ありがとう」 「北斗……あなたも遊星さんには何もしないで。私は、傷ついてなんかいないから」 「……良かったな、大蔵遊星。お嬢様の御心に感謝しろ」 「ほっ……どうなることかと思いましたわ。遊星さん、私もあなたに怒ったりしてませんわよ」 「うちにも一級の変人がいるのですから、今更女装くらいで驚いたりはしません」 「お嬢様の粋なはからいに感謝しなさい、朝日さん。命令があれば、君に美しく剣を向けていたところよ」  サーシャさんはきらりと鋭い眼光を向けてくる……けれど彼女自身は、少しも怒りを感じさせなかった。 「……あなたの秘密は分かりました。それで、湊さんと一緒に行きたいというのは……」 「はい。僕は恋人として、湊を守りたいと思っています」 「っ……ゆ、ゆうちょ。そんなこと、いきなり……」  みんなの前でのプロポーズにも近い言葉……けれど、正体を明かした時ほど、さほど驚いたりはしなかった。  一番ショックを受けているのは七愛さん……だけど、意外なことに敵意を向けてはこない。 「僕は一度は、夢を捨てた人間です……兄に才能が無いと切り捨てられ、それを甘んじて受け入れていました」 「けれど、僕に夢を見させた人が、この国に服飾の学院を作るという……それを見て、もう一度胸がうずきました」 「僕には皆さんのような、天性の発想はありません。やはり本物は違うと、ルナ様、瑞穂様……ユルシュール様を見ていて、思い知らされました」 「そんな皆さんと一緒に服を作れること自体が、僕にとっての至上の幸せでした。ルナ様のデザインを形にしたい、それが僕の夢になっていました」 「……衣装製作が終わって、ルナ様の服が完成して……僕はこの学院に来て良かったと思った。今度は、夢を夢のままでなくすことが出来たから」  僕が言っていることはすべて……ルナ様の言う、『綺麗ごと』だ。  ……でも、嘘じゃなかったことを伝えたい。僕が服飾の世界に、生きることそのものに近い憧れを抱いていたこと……。  フィリア女学院で学んだ時間は、決して遊び心での寄り道などではなかったのだと。 「今まで使っていただいていたのに、自分勝手に出ていくと言いだしてごめんなさい」 「僕は実家に戻っても、生き方を選ぶ自由はありません……だけど、今の僕には守りたいものがある。どうしても手放せないものが出来ました」 「湊を幸せにしたい。湊のために働いて……一緒に歩いていきたい。今は、そう思っています」 「…………」  湊のほうを見て微笑みかけると、彼女の両方の瞳から、ぽろっ、ぽろっと雫が落ちた。僕も気がつくと、自然に目から涙がこぼれていた。  ルナ様はずっと黙って聞いていてくれた……けれど、ついに口を開く。 「自分勝手にも程があるな」 「……だが友人の幸せのためと言われては仕方ない。具体的にはどうするつもりなんだ?」 「それは……湊と一緒に考えようと思います」 「……私も、ずっと二人で暮らしていきたい。それが、許されることなら」 「……何ですのこの展開。無茶を言ってるはずですのに……二人が泣いていたら、つられてしまいますわ」 「ええ……本当に。急に色々驚かせて……勝手なんだから……」 「許されるも何も……選択の余地がないだろう。まったく……」 「……もっと早く××しておけば良かった……くっ……」  七愛さんがぽろりと本音をこぼして、袖口を噛みながらこちらを睨みつけてくる……これは、一生受け止めなければならない怒りだ。 「……私は、今後のことを改めて相談したかったのですが。これでは、まるきり悪者じゃないですか」 「いいえ……八千代さんは、湊のことを真剣に考えてくれた」 「だから私達も、同じだけ真剣になりたいんです。お金のことは、ずっと続いてく問題なので」 「メイドのお仕事も、本職の人たちより出来てないのに……それで学校まで通わせてもらうのは、やりすぎです」  湊は重さを感じさせず、明るい調子で言う……彼女は本当に、自分の決めたことに迷いがない。  学院であった出来事……そこに恨みつらみはなく、前を向いてる。そんな彼女だから、僕が傍で支えていなければと思う……無限に強い人なんていないから。 「今まで当家で働いた分だ、持って行け」  ルナ様は八千代さんを呼んで、封筒にお金を入れさせる。八千代さんはそれを湊の前に置いた。 「えっ……こ、こんなに!?」  湊が封筒を手に取って中から札束を引き出す。このくらいの金額か……ヘビーだけど、生きていくことならできる。 「ルナ様、ありがとうございます…たった20万ですが、これを元手に頑張ります」 「大金だよ!?」 「その程度で生活できるはずがありません……私もお出しします」 「それは駄目だよ。いくら友達でもただでお金は貰えない」 「ですが二十万しかないのでは一日しかもちません」 「いや大金だよ!?」  湊と僕らの金銭感覚は大幅にずれていた……僕もこれからは湊に合わせよう。  大蔵の家のお金は僕のお金ではない、一円を無駄にするものは一円に泣く……それを肝に銘じよう。  ルナ様からの支度金を受け取り、僕らは明日の朝には家を出て、湊の実家の方に向かうことになった。 「七愛さん、あなたはこの家に残ってください」 「わ、私も……湊お嬢様と一緒に……」 「一度に優秀なメイドを何人も失っては、仕事のローテーションに問題が……と言うのは建前ですが」 「あなたには、連絡役として残っていて欲しいんです。湊さんと遊星さんの動向は、私達も気になりますから」 「……分かりました。湊お嬢様のためなら残ります」  七愛さんは真摯な面持ちで頷いてから……ゆらり、と僕の方を仰ぎ見る。 「……お嬢様に何かあったら、絶対に許さない。文字通り、死ぬ気で守って」 「はい。あなたの大切なお嬢様は、僕が……」 「……その言い回しが気に入らない。持っていかれた感がすごい……やっぱりここで刺し違えたほうが……」 「七愛、私の分も勉強しておいて。無責任なこと言ってると思ったら、遊んでてもいいよ」 「なるべく早く、七愛のお休みが終わるように頑張ってくるから。また一緒に暮らせるように」 「……七愛はその言葉を信じて、一日千秋の思いで待っています」  湊は七愛さんと固く握手を交わす……七愛さんはそれだけでは足りなさそうだったけれど、八千代さんの目前では自重していた。  翌日。僕は湊と一緒に、トランクケースに荷物を詰めて部屋を出てきた。  学院に行く前のお嬢様方、そしてメイドのみんなが送り出してくれる。代表するように中央に立っていたルナ様が、一歩前に出て言った。 「飢え死にするくらいなら、いつでも帰ってこいよ」 「年度内は休学扱いで、来年以降の学費については、私からは干渉しない。それでいいんだな」 「うん……十分だよ。本当にありがとう、ルナ」 「今生の別れというわけじゃない。意外にあっさり戻れたりするかもしれないし……なあ、大蔵兄」 「はい……そういうこともあるかもしれませんね。人生は、分からないものです」 「……本来の君は、どういう話し方をするんだ? 今は丁寧な口調だが」 「僕、って言ってましたわよね。私はまだ正直、それに慣れることができそうにないですわ」 「髪を短くしても、朝日と顔に変わりはないのよね……ずるい」 「瑞穂さん……親しくしてくれて、ありがとうございました。本当に嬉しかったんですよ」 「……顔を見ていると文句が言いたくなるから、早く行って。私、あなたのこと嫌いです」 「ご、ごめんなさい……気安かったですね」 「何をショックを受けた顔をしているんだ? 慣れるには時間が必要だ、当たり前のことだろう」 「……私も同じだ。だから、次に会うまでには慣れておこう」 「美しい日々を過ごしなさい、若人たち。貧乏でも、二人ならそれなりに楽しいわよ」 「全然貧乏じゃないです、ルナにこんなに貰って……これだけあれば、地元なら半年は軽くもちます」 「……あまり苦しいようなら、私にも連絡してください。パンの耳で過ごすなんてことは許しませんよ」 「私も仕送りが出来ますから、非常時には言ってください」 「うん、ありがと……七愛こそ身体に気をつけてね。電話しようね、また」  七愛さんは携帯電話を取り出して愛おしげに頬ずりする……電話の時間が長くなりそうだな。  僕らはみんなに手を振ってお屋敷を出る。見慣れた庭を出ていくまでにも、何度も振り返って手を振った。  東京駅から新幹線に乗る。今の時間からなら、昼下がりには着けるはずだ。 「……こんな時に言うのもなんだけど。わくわくしない?」 「うん……そうだね。これから、どんなことがあるのか……楽しみだよ」  困難があっても、二人で乗り越えてゆけると思うから……何も怖くはない。  りそなには、落ち着いたら連絡しよう。ルナ様も、どう説明したものかと頭を悩ませていたけど……りそなはきっと、僕の言葉に耳を傾けてくれる。  湊の実家の様子を見に行ったあと、僕らは早速住む場所を探すことにした。 「ネットで探すのもいいけど、うちのお父さんの知り合いの不動産屋さんを紹介してもらったから。安くていいところを見つけてくれるって」 「そっか……でも、今日から入居するのは難しいんじゃないかな?」 「ううん、いくつか候補の部屋を用意してくれてて、決まったところで鍵を渡してくれるって」 「とりあえず行ってみよっか。自分たちの足場を固めておいて、お父さんたちを射程距離に捉えればいいよ」 「そうだね。住む場所が決まったら、すぐ会いに行こう」  湊のお父さんと知り合いだという不動産仲介業のおじさんは、自分で持っている物件だというアパートを僕らに紹介してくれた。 「ここはいいとこですよ、去年リフォームしたばかりでね。水道、電気はバッチリだし、この価格帯じゃ珍しくエアコンまでついてます」 「これから寒くなってきますから、冷え込んで来る頃には暖房器具も貸しますよ。うちの母親が大家をしてますんでね、言ってください」 「家具つきで、こんないい物件そんなに無いですよね……うん、決めた。ゆうちょ、ここにしよ」 「家賃は……そ、そんな値段で部屋が借りられるんですね。すごいな……」 「柳ヶ瀬さんとこが大変だってのに、うちも何もしてあげられませんで……」 「お嬢さんのために役に立てるなら、勉強させてもらいますよ。他の入居者の方に申し訳ないですから、値引きはこれくらいが限度ですけどね」 「いえ、十分です。それで、今日からここに住んでもいいんですよね?」 「ええ、そのつもりで。契約書の類はうちで作成して送りますんで、あとで書類に捺印して持ってきてください」  不動産屋から、この家はそんなに遠くない……商店街から少し足を伸ばせば住むから、郵便を使うまでもなかった。 「それにしても羨ましいですね、若い二人で新生活。自分の新婚時代を思い出します」 「し、新婚……ゆうちょ、新婚さんだって。私達、そういうふうに見えるのかな」 「み、湊……落ち着いて。それくらいで首を絞められてたら、僕の身体が……」 「仲が良くて何よりです。それで他の物件、見なくていいんですか?」 「うーん……じゃあ、見せてもらいます。おじさん、事務所に戻らなくて大丈夫?」 「今日は柳ヶ瀬さんのために、一日空けてあるんですよ。これくらいじゃ、あの人への恩は返しきれませんけどね。はっはっはっ……」  湊のお父さんは、地元ですごく人望があるんだ……感心する僕を見て、湊は自分のことのように照れていた。  結局最初に見せてもらった物件に決めて、次は生活に必要なものを買いに出てきた……すると。 「おっ、湊ちゃん……ああ、でかい声で呼んじゃまずいか。すまんね、コソコソしちゃって」 「八百松のおじさん、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。私の名前までは、うちに来てる人たちは知らないから」 「おう、そんならいいんだけど。んで、うちの前を通りがかったってことは……」 「うん、野菜を買いに。ほんとは、帰りに寄ろうと思ってたんだけど」 「そこの兄ちゃん……いや、姉ちゃんか? 失礼なこと言ってたら許してくれな、がっはっはっ!」 「は、はい……ええと、一応……じゃなくて、正真正銘男です」 「おう、よく見りゃそんな格好してらぁ……って、男? 湊ちゃんが男と里帰り……?」 「私の旦那さんなんです。今のところは候補だけど。ね、ゆうちょ」 「はい。今日から、この町で一緒に暮らすことになりました」 「ひゃぁぁ……たまげたなあ。あの小さかった湊ちゃんが、結婚ときたかぁ……」  八百屋のおじさんは、しばらく僕らをしげしげと眺めていた。そしてつるりと剃り上がった頭をぺしっと叩いて、にやりと笑う。 「ってことは、いっちょ盛大にお祝いせんといかんわなぁ。おーい!」 「なんだなんだ? おおっ、湊ちゃん! また別嬪さんになって!」 「あらー、きれいな男の子。うちのバカ息子とは大違いだわ。いい男捕まえたねえ、湊ちゃん」 「湊ちゃんが帰ってきた時のためにと思って、すき焼き肉用意しといた甲斐があったわ。ほら、持ってき」 「ああー、こんなにー……もう、あんまり大歓迎するとこれからも甘えちゃうよ?」 「ええって、この商店街はみんな、柳ヶ瀬さんの家族みたいなもんやから。米は重いからこれ、台車使い」 「おっ、そんなん使うならうちのもまだ持ってけるがな。ちょうどブロッコリーのいいのが来とるで」 「明日の朝までなら大丈夫だから、うちのパンも持ってって。これは夕ごはんにいいやつ」 「湊ちゃんが太ったらどうするんや、旦那さん愛想つかしてまうで。なあ? あっはっはっ!」 「あはは……そんなことないですよ」 「私がおばちゃんになっても、っていう歌あったよね。ゆうちょ、好きでいてくれるんだ」 「なんや、結婚するんか? やったら肉持ってけ。しゃぶしゃぶでもしてお祝いすりゃええ。なんならうち来るか?」 「しゃぶしゃぶなら白菜もあった方がいいけど、旬はまだ早いわな。あっはっはっ」  みんな凄く朗らかだな……東京の、いつも何かに急いでいる感じが全然しない。  東京には東京の良さがあり、湊の地元にも良さがある。僕は早くも、この町が大好きになれそうだった。 「おう、なんか騒いどるで出てきてまった。布団とかないやろ? うちで引き取ったけど二束三文やから、やるわ。持ってけ」 「えっ……そ、そんな、布団なんて。さすがに持って帰れないよ?」  湊が慌て始めたところで、近くでクラクションが鳴る。何事かと思って見やると、帽子を被った運転手のおじさんが歩いてきた。 「柳ヶ瀬運輸には世話になってたんでね、幾らでも足に使ってやって。んじゃ行こか。どこまで?」  あれよと言う間に僕と湊は布団や大量の食料品と一緒に、タクシーに乗せられていた。  パン屋のおばさんが周りの店の人達に声をかけて、買い物袋に幾つか、飲み物などを入れてくれた……もはやこれだけで、数日は過ごせそうなくらいだった。  湊と二人でアパートの部屋に戻ってきてから、もらってきたものを冷蔵庫に入れて整理した。 「こんなにもらっても食べきれないから、日持ちするものとか作りおきしよっか」 「あ、それは僕も考えてた。節約のために、ネットでいろいろ情報を集めたんだけど……」 「ゆうちょ……20万円じゃ全然ダメみたいなこと言ってたのに。いつの間にそんな勉強してたの?」  20万円と、これから湊のお父さんの知り合いから斡旋してもらう仕事……その稼ぎでいかに自活するか、僕はネットを使えるうちに調べられることは調べていた。  けれど意外なことに、このアパートには光回線が引かれていて、使用料が家賃に含まれていた。これなら、一応持参してきていたパソコンを繋げばネットが使える。 「節約レシピならいろいろ見られるよ。えーと、この食材で何ができるかな」 「最初くらいは、しゃぶしゃぶでいいんじゃない? せっかく良いお肉もらっちゃったし」  すき焼きとしゃぶしゃぶが同時に出来るだけの食材が揃っている……台所の棚の中には、気を効かせてくれたのかカセットコンロまで入っていた。 「うん、じゃあ初日だけは。据え膳食わぬは、ってこういう時に言うのかな」 「……ゆうちょ、なんかエッチっぽいこと言ってる」 「あ、いや……そ、そっか。そういうふうにも聞こえるよね、ごめん、まだこっちに来たばかりなのに」 「来たばかりでも、恋人になってからはもう結構経っちゃったよね。今日なんて、新婚さんとか言われちゃうし」 「……少しずつ実感が湧いてきたよ。これから、湊と二人で暮らしていくんだって」 「うん……凄いよね、全然不安とかないんだよ」 「ゆうちょのこと、責任とって私が養ってあげるとか、そんなことまで考えてるの。笑ってもいいよ」 「あはは……」  笑ったところで、湊は僕のほっぺたをつまんできた。 「……やってみただけ。悪い?」 「ううん。嬉しいよ……僕も湊と、同じことを考えてたから」 「今まで誰かの保護下で暮らしてきたけど、ようやく独り立ちできた……大事な人と、ふたりで」 「今まで一番なにも持ってない場所からのスタートだけど、湊と同じで……不安もないし、やる気が満ち溢れてるんだ」  明日からのことも、楽しみで仕方がない。湊と一緒に、どうやって生活を安定させていくか……。  もちろん、お屋敷のみんなやりそなのことは気になるけれど……それよりも。 「僕は湊と一緒にいられるなら、ずっと元気でいられる。どんな状況でも頑張れるよ」 「……私ね、ずーっとこういうふうに、ゆうちょと一緒に居たいって思ってた」 「ゆうちょがどんな人になってるか、不安に思うこともあったよ。朝日がゆうちょだって知った時は、頭が真っ白になったし……恥ずかしい思いもしたし」  あのときは、僕もどうなってしまうのかと思った……湊次第では、僕はあのときにお屋敷を追い出されてもおかしくなかった。  正体を知られるまでに、僕は湊の気持ちを聞いて、お風呂まで一緒に……普通だったら、その場で警察に突き出されても文句は言えない。  けれど、湊は許してくれた……僕の秘密を守ってくれた。  彼女がくれた時間で、僕は自分が尊敬する主人……ルナ様の服の製作に携わることまで出来た。どれだけ感謝してもし足りない。 「でも……女装してても、ゆうちょはゆうちょだった。私が小さい頃に憧れて、ずっと好きだった人のまま」 「……僕は湊のことが好きだった。でもそれは、ずっと恋愛の好きじゃなかった」 「一人の女の子として、湊を見てる……大切に思う。そんな自分が、今はとても好きなんだ」 「自分の好きなことや、夢を追いかけるのも、幸せのかたちだと思う。だけど……」 「……私と一緒にいることが、今のゆうちょの幸せ?」 「うん。湊が教えてくれたんだ、女の子を好きになるっていうのがどういうことか」 「う……全然躊躇ないね。ゆうちょ、そういうこと言うの恥ずかしくないの?」 「恥ずかしいけど、二人きりで嘘をついても仕方ないからね」  そのひとことで、空気が明確に変わる……照れていた湊が、頬を赤らめたままでじっと僕を見つめてくる。 「……私はずっと好きだったのに、簡単に逆転しちゃうとか。ずるいよ、ゆうちょ」 「……違うよ。湊が好きでいてくれた分だけ、何とか追いつこうとしてるんだ」 「でも、全然まだ追いつけてない。それくらいに、湊の気持ちは……」  僕の中で、大きな感謝と共に存在している。それが愛情というものだと、僕は湊に教えてもらったんだ……。 「んっ……」  湊の肩に手を置いて、唇を重ねる。何度も交わすキスのうちで、この一度は特別な意味を持つ。  ……言葉にして確かめなくてもいい。この口づけこそが、始まりを意味するものだった。  畳に布団を敷き、その上に湊が横たわる。  桜屋敷のベッドでもこんな彼女の姿を幾度となく見た……僕も湊も、好きになると抑えが聞かないほうみたいだ。  けれど、今日は今までとは違う……途中までで終わることはない。湊は緊張に瞳を潤ませている。 「……ずっと、途中までしか出来なくてごめんね」 「いや……十分過ぎるくらいだったよ。湊はどんどん上手になっていくから」 「だって、楽しいんだもん……ゆうちょの反応が可愛くて」  大きな声を出さないようにしてると、僕は乙女のような仕草で我慢するしか無かったから……それを湊は、可愛いと思ってくれたようだった。 「かっこいいゆうちょも好きだけど……可愛いほうもいいかなとか。そっちのほうも目覚めちゃったよ」 「湊も両方あると思うよ。今日は、可愛い方を見せてくれるかな」 「お、おう……出来ればそうしたいけど。照れくさかったら、凄い野太い声とか出すかも」  どんな時でも、湊は女の子らしい可愛い声をしてると思う。けれど僕は彼女の冗談を訂正せず、笑いあい……。  彼女の服に手をかけて、脱がせていく。最後の一枚……可愛らしいパンティは、湊が自分で脱いでくれた。 「綺麗だよ、湊」 「や……そういうの、今は全部恥ずかしい……」  湊は隠したそうにしながらも、手で覆ったりせずに見せてくれている……美しい形をした乳房と、くびれて少し腹筋の浮いたお腹のライン。彼女は本当に無駄のない身体をしてる。 「布団かぶらないと寒いかなと思ったけど……まだ何もしてないのに暑い。お風呂入りたい……」 「気にしなくていいよ……うん、湊はいつもいい匂いがする」 「ええー……匂いフェチとか? ゆうちょ、色んな趣味を隠してたり?」 「あはは……そんなことないよ。湊が大好きっていうだけだよ」 「だからってくんくんされても……ふぁっ……」  彼女に覆いかぶさるように身を乗り出して、首元に顔を埋める……すごく落ち着く。 「……み、耳……耳ですか最初。いままでそんなこと……んんっ……」  顔を埋めてから、僕は湊の耳に唇を近づけて、ぺろっと舐めた。何だか、そうしたい気持ちになったからだ。 「くすぐったい……うぅ。耳で感じるとか……くぅっ……うぅんっ……」  湊の頬に触れながら、僕は耳を伝って、首筋まで舐めたり、キスをしたりして愛撫していく。  アパートの中にちゅっ、ちゅっと小さく水音が立つ。緊張で抑えこまれていた熱情が、少しずつ高まっていく……。  僕は鎖骨のあたりまでキスをしてから、顔を上げる。そして、改めて彼女の乳房を真近で見た。 「……なめていいよ? ゆうちょ、なめるの好きみたいだし」  ちょっと素直じゃない言い方をしながら、ちらっと湊が期待するように見てくる……理性がどうにかなりそうなほど可愛い。 「じゃあ、お言葉に甘えて……」  僕は湊の服に手をかけ、するすると脱がせ始める。ブラのホックも、抱きしめるようにして背中に手を回し、指先だけで外した。 「いくよ……あむっ」 「ふぁっ……あ、あむって……そんなふうに……んっ、んぁぁっ……」  湊の乳房に手を添えて、乳首を口に含むようにしてしゃぶりつく。  吸いながら引っ張るようにすると、水まりのような弾力を感じさせる乳房が伸びる。そこで唇の力を緩めると、ぷるんと乳房が定位置に戻る。 「次は逆側も……ちゃんと見てないとダメだよ」 「うぅ……み、見てらんないそんなの……ふぁっ……く、うぅっ……」  逆側の乳首に吸い付き、感じてる湊の顔を見ながら舌を出して、乳首を舐めて転がす。  湊の桃色の尖塔はすぐにぷっくりと立ち上がってくる……てらてらと艶やかに濡れ光って、もっと愛撫したいという気持ちにさせる。 「はぁっ……あっ……む、胸ばっかり……ゆうちょ、そんなに好きだったんだ」 「今までは控えめにしてたんだ。湊は胸ばかりされるのは、あんまり好きじゃない?」  尋ねている間は愛撫を止める。湊が嫌がってないのはわかるんだけど、集中して愛撫するのは良くないかもしれない。 「舐められてるの見ると、たまらないっていうか……気持ちいいんだけど……」 「……恥ずかしい?」  尋ねると、湊は僕の頭に両手を添えて、優しく髪を梳いてから……わしっ、と痛くない程度につかんできた。 「……このまま、ゆうちょを絞めおとしたくなるくらいの気持ち」 「そっか……じゃあ、気をしっかり持たないとね。ちゅっ……あむ……」 「……うー……気持ちいい。ゆうちょ、なめるの上手……」  湊は負けを認めたみたいに、僕の頭を撫でてくれる。それが嬉しくて、僕は夢中になって湊の胸にしがみついた。 「はぁっ……ぁ……んっ……んぅっ……くふっ……」  乳房に手を添えて優しく乳首を吸いやすいようにして、唇と舌で存分に愛撫する。  唇も湊の乳房もべたべたになるくらい舐めてから、次は指で弄りはじめる……だんだん、湊の反応が変わってきてる。 「となりの人に聞こえそうで、やっぱり声出せない……」 「……そうだね。ちょっと抑えぎみの方がいいかもしれない……ごめん、好き放題しちゃって」 「ほんとだよ……そんなにしてたら皮がむけちゃうよ」  そうだな……胸が良くなってきたとはいえ、もう愛撫は十分だろう。僕も十分に堪能した。  ……ずっと前戯だけみたいなじゃれ合いをしてきたから、焦らずに進められてる。僕は湊としてきたことを思い返しながら……今まで一度も目にしなかったそこを覗きこんだ。 「……顔から火が出そう……死にたい……」  湊に足を広げてもらって、そこを真近で見る。これが、湊の……。  初めて見るとショックを受けるなんてことを聞いたことがあったけど、そんなことは全然ない……花弁のような陰唇がぴったりと閉じている。  ……ここをどうしたらいいだろう。ここ全部が感じるのかな……やってみないと分からない。 「ちょっ……うっ、うぅ……な、なんかあったかいのが……」 「うん……ごめん、舐めてるよ」 「あぁ〜……お風呂入ってないのにいきなり……うぅ、綺麗にはしといたけど……ん、んんっ……?」  陰裂を下から上に、ぺろりと舌を出して舐め上げてみる。湊の反応は……まだよくわからないみたいだけど、しっかり濡れてはいる。 「……恥ずかしくてよくわかんないな……パンツの上から触ったほうが気持ちよかった」 「んむ……まあ、そう言わずに。こういうふうにしたら、どうかな?」  僕は花びらを唇ではさんで、はむはむと動かしてみる。覗いたピンクの膣口から、半透明の愛液が滲み出してきた。 「ん、んー? ……ちょっと待って……な、なんかっ……なんかっ……」  陰唇も感じてるみたいだけど……僕はひとつ先に進むことにする。両手の人差し指で花びらを広げて、ひくつく柔肉を、ぴちゃぴちゃと犬のように音を立てて舐め始めた。 「く……うっ、うぅっ……ふぁ……ァっ、はぁっ……あぁっ……」  あまり大きな声を出しちゃいけない……なんてことを意識していられないほど、湊が甘い声を上げて感じ始める。  舐めているうちに僕は、舌がある部位に当たると、湊の反応が大きいことに気づく……そこがおそらく、皮を被ったままのクリトリスだ。  陰裂の上にある小さな豆。そこを責めたい気持ちに駆られつつ、僕は黙々と舐める愛撫を続ける。 「はっ……あぁ……あんっ……ゆ、ゆうちょ……気持ちいいよ……っ」 「……良かった。初めては痛いっていうから、いっぱいしておこう」 「い、いっぱいって言われても……うぅっ……く、んぁぁっ……」  湊は僕の頭に手を添えて、仰け反るようにして感じている……すでに愛液が僕の唾液と一緒に、おしりの方まで伝ってしまっている。  布団が濡れてしまうな……これからは、お尻の下にタオルを敷いたほうがいいかもしれない。思ったよりも女の子の濡れ方ってすごいんだな。  湊もそろそろ限界みたいだ……僕も抑えきれなくなってきてる。  僕は愛液をまとわせた人指し指をさらに舐めて濡らしてから、彼女の秘裂に慎重に差し入れた。 「ふぁ……な、なに……指……? んっ、んんっ……!」  にゅるにゅるとうごめく湊の中を、襞をかきわけて指が進んでいく……人差し指一本なのに、狭いと感じるほど締め付けてくる。  ある程度進んだところで指をゆっくり回転させる。そして、浅く抜き差しするように動かしてみた。 「うぅっ……や、やだ……それ、音するからっ……くぅぅっ……」  くちゅくちゅと立つ音が恥ずかしいみたいで、湊が僕の手を止めてくる……すでに指を伝って出てきた愛液が、手のひらにまでたれてきそうだった。 「じゃあ……これが最後。そうしたら、次は……僕のを入れるよ」 「う、うん……くぅっ……んぁぁっ……」  僕のものよりは細いけど……事前に少しでも慣らしておかないと。そう思って、指を二本揃えて彼女の膣内を広げていく。 「……さっきより気持ちいい……いきそう……っ」  いく……そうだ、いっぱい気持ちよくなれれば、湊も僕と同じように、『いく』んだ。  淫らな水音を立てないように、ゆっくりと指を出し入れする……どろどろに熱くなった湊の膣内は、時折耐えかねたようにビクビクと震えている。 「……ゆうちょ、そろそろいいと思う……このまましてたらいっちゃうから……」 「そうだね……うん、分かった」  指を引き抜くと、とろりと絡みついた愛液が糸を引く。指を抜いたあとも、陰裂は少し開いたまま、蜜を垂らしつづけていた。 「んっ……お、おっきい……入るかな、これ……」  僕は膣口に先端を押し当てて、愛液で滑りを良くしようと考える。それだけでも、湊が不安そうな顔をした。  指二本でも狭かったそこは、僕のものが容易に通り抜けることは出来そうにない……初めはやっぱり苦労しそうだ。 「あんまり痛かったら、途中でも抜くから。湊の身体が一番大事だからね」 「……痛くても、やめなくていいよ。私は、今日ゆうちょと……したいし……」 「ずっと待ってたんだから……やめちゃだめだよ。最後までするの」 「……ありがとう。いくよ、湊」 「うぅ……痛いのがなかったら、嬉しいだけなのに。エッチって大変だね、いろいろ」 「……私が口でしてあげてたのが、下から入ってくるんだよね。すごいよね」 「……いっぱいしてくれて、ありがとう。ごめんね、僕は今までいかせてあげられなくて」 「いいよ、処女なのにいっちゃうとか変だよ。これからいっぱい……言わないけど」  これ以上なく緊張しながら、僕らはその時を迎えるまで、微笑みながら言葉をかわし続ける……そして。 「……ぁ……あぁっ……!」  腰を前に押し出すようにして、陰裂を僕のものが押し割って侵入していく。  暖かい膣内に、僕のものが少しずつ飲み込まれていく……指を入れておいても、効果があったのか分からないほどに、湊の中は狭かった。 「……くぅっ……!」  途中で引き返すべきか、湊の中を傷つけてしまってないか……本当に奥まで入るものなのか。 「い……痛い痛い……っ、ひーひーふー……ひーひー……ってこれ違う……っ」 「っ……うぁっ……!」  湊がラマーズ法で呼吸を始めて、自分で笑う……その瞬間、湊の緊張が一瞬ゆるんで、僕のものが一気に奥まで入った。 「はーっ、はーっ……これ、入ってるよね……? いた……痛いけど……」 「うん……は、入ってるね……」  結合部に視線を送ると、陰裂の中に僕のものが9割ほど埋没している。締め付けがきつすぎて、肉棒の感覚が麻痺してしまっていた。  ……痛いのなら、多少なりと出血しているだろう。このまま動いていいものなのか……。 「さ、さて……ここからどうしたものか。ゆうちょ、これで気持ちいいの……?」  湊は痛みをにじませつつも、僕に尋ねてくる……だんだん湊の中の感触がはっきりしてきて、肉棒にじわじわと快楽が広がり始める。 「……このままじっとしててもいきそうな気はするけど……湊の中、あったかくて気持ち良いから」 「私の中、あったかいナリ……とか言ってる場合じゃないよね。うぅ……はらわたがよじれる……」 「な、内臓が……大変だ。病院って、この時間にも空いてるかな」 「う、ううん……そうじゃなくて、今笑うと、ほんとの意味でお腹が痛いってこと」 「……どのみち心配だね、あとで怪我してないか見てみないと」 「いいよ、ほっといたら治るよ。こんなところ見せるの恥ずかしいし……」  普通に話が出来るくらいに緊張が緩んできた……あれほどきつかった膣内が、少し緩くなってる。 「……ゆうちょ、そろそろいいよ。まだちょっと痛いけど、我慢できそう」 「うん……分かった。そっと動くよ、湊……」 「うぅっ……く、んんっ……ぁっ……んぅっ……」  ゆっくりと腰を引いて、もう一度入れる……ぬるついた柔襞にこすられ、僕のものに強烈な快感が広がる。 「うぁ……ぁぁっ……凄い……湊の、中がっ……からみついてきて……締まって……」 「ど、どういたしまして……んんっ……くぅ……あぅっ……ん、んぁっ……」  初めは一度動くたびに、あまりの快楽に止めなければいけなかった……すぐに達してもおかしくない。  そうするべきなのかもしれないと迷いながら動くうちに、何とか射精を耐えながら快楽を感じることが出来るようになってきた。 「湊……まだ続けても大丈夫かな……」 「う、うん……全然私は……平気……っ、あっ……あんっ……」  湊の言葉どおりに、言葉に甘いものが混じってくる……少しでも痛みから意識がそれるように、僕は揺れている乳房の片方に手を伸ばした。 「ふぁっ……ぁ、あぅっ……うぅ……っ、ゆうちょ……」  僕の手に自分の手を重ねて、湊が熱っぽい瞳で見つめてくる。僕の手は愛撫を続け、熱く蕩けた膣奥へと、いきり立った肉棒の抽送をつづける。  ……こんなに本能のままに動いているのに、僕の頭は裏腹に、彼女のことを繊細に、大切な扱いたいと考えている。  本能に従うのなら、このまま……初めての時くらいは。強まり続ける快楽の中で、理性的な思索は官能に埋もれていく。 「湊……もう……いきそうだ……っ」 「はぁっ、はあっ……あっ、あぁっ……いつでも……いつでもきて……っ」 「私の……っ、なかに……ゆうちょ……っ、あぁっ……!」  僕の肉棒が、射精の前兆に熱く脈動する。その瞬間、湊の膣内が応えるように、吸い付くように肉棒を締め付け始めた。  生きもののように動く膣肉に肉棒がこすられ、今まで以上の快感が訪れる……僕は気が遠くなるように感じながら、湊の腰に手を添えて最後の律動を始めた。 「うぁ……あぁっ……、湊……っ!」 「ふぁっ……ぁ……はぁぁっ……」  初めの一度の脈動は、湊の中で訪れる。遅いと感じながら肉棒を抜き去った瞬間、快楽に蕩けきった肉棒が大きく震えて、熱い精液を迸らせていく。 「……あったかい……ゆうちょの……いっぱい出てる……」 「くっ……ぁぁ……っ」  湊の身体に精液がかかるところを見てさらに波が訪れ、激しい脈動を生む……同時に、目の前の景色が薄れるような脱力感を覚えた。 「はぁっ……はぁっ……ゆうちょ、気持ちよかった……?」 「……ごめん、中で……」 「ううん……大丈夫。してる間、ずっと中で出してほしいって思ってたから……」 「……い、いいの?」 「うん……」  子供が出来たら、それこそ湊のご両親にスーツを着て挨拶に行って、いろいろあるんだけど……。  いや、それは覚悟の上だ。そして湊が許してくれるなら、全然問題はない……って、開き直りすぎか。 「あんまり気にしすぎると寿命が短くなるよ? 一秒でももったいないよ」 「……ありがとう、湊」 「うん……たはは、心配ないって。あ……出てきてる……」  湊の中をいっぱいにした僕の精液が、あふれてきている……僕はティッシュを取ってきて、拭いてあげようとする。 「じ、自分で出来るから……拭かなくていいよ、恥ずかしいし」 「うん、でも湊がしてると間に合わないから」 「うぅ……ゆうちょ、楽しんでない……? ああ、もうお嫁に行けない……行ってるけど……」  湊は僕に拭かれている間、ふるふると身体を震わせてる……ちょっと気持ちいいみたいだ。 「……ゆうちょ、おっきくなってない? もしかして今ので……?」 「ご、ごめん……我ながらエッチなことしてるな、とは思ってたんだけど」 「……まだ夜は長いよ?」 「え……み、湊?」  彼女が何を考えてるか分かってはいた。僕が元気だと、立たなくなるまで抜こうとする……そんな、ちょっと過激なところがあったから。 「ゆうちょがしたくなくても、私が上に乗っかるよ。痛いの済んだから、元気になってきちゃった」 「え、えーと……」 「ゆうちょがしたいのなら、私はどんなかっこうでもするよ。ねえねえ」  本当にかなわないな……湊には。これから当分の間、僕は彼女に操縦されることになりそうだ。 「じゃあ……よ、四つん這いになってもらえるかな」 「わ……ゆうちょがついに本性を出したね。男らしいね」  四つん這いってやっぱりそう思われるのか……後ろからの姿勢だと入れやすいかな、というだけの理由なんだけど。  ……入れやすいって、処女を奪ったばかりなのに何を考えてるんだ僕は。エッチなことで頭がいっぱいじゃないか……。 「……あの、恥ずかしいんだけど。これって丸見えじゃない?」  湊は布団の上に四つん這いになって、すでにスタンバイしていた……身体が冷えてしまうし、あまり待たせちゃいけないな。 「いくよ……湊。くっ……」 「……もうちょっと上……うん、そこ……っ、ふぁぁっ……!」  湊の柔らかいお尻をつかみながら、腰を前に押し出して一気に奥まで入っていく……初めての時よりずっとスムーズに、奥の奥まで入っていく。 「っ……き、きつい……湊、もうちょっと力を……抜いて……」  根本の血が止まりそうなほどの締め付けに、思わず弱音を口にしてしまう……何て気持ちいいんだろう。 「そ、そんなこと言われても……力入っちゃうし……っ、あぅぅっ……」  なんとか少しだけ腰を引き戻すと、湊が敏感に反応して声を上げる……まずい、こんなことだと3回も動いたら達してしまう。  何とか我慢するしかない。動きやすいことは動きやすい姿勢だから……無心になるしか……。 「くっ……うぅっ……あぁ……」 「んっ……んぁっ……恥ずかしい……おしり、見えてない……?」  確かに……おしりの穴と陰裂はすごく位置が近い。けれどそんなことを意識することも出来ないほど、愛液に潤った膣壁に包まれ、肉棒が快楽に喘いでいる。 「うぅっ……あ……い、いく……」 「ふぁっ……だ、だめ……まだいっちゃだめ。早いよ、ゆうちょ……っ」 「そ、そんなこと言われても……うっ……くぅっ……」  あまりに気持ちよすぎて泣きたい気持ちになってくる……肉棒が脈動しかけるたびに、動きを止めてやり過ごすしかない。  けれど、これじゃ湊は大して感じられないだろう。もう出してしまうことも覚悟して、連続して動くしかない。 「あっ……あんっ……あぅぅ……ゆうちょ……気持ちいい……そのまま動いて……っ」  粘膜がこすれ合うじゅぷっ、じゅぷっという水音が立ち始める。湊の真ん丸な臀部に僕の腰が当たると、パンパンと音が立つ。  芯まで蕩けそうな熱い快感を味わいながら、僕はひたすら耐えて動き続ける……セックスは忍耐だ、と結構まじめに考えてしまう。 「はぅっ……くぅんっ……んぅっ……奥まで……あたってる、ゆうちょの……ふぁぁんっ……」  奥までぬるんだ肉壁を何度も貫くうちに、少しずつ締め付けが和らいでくる……思い出したような締め付けがきついものの、腰を動かしながら話す余裕ができてきた。 「湊……大丈夫? 痛くはない……?」 「うん……うんっ、大丈夫……ふぁぁっ……!」  僕は腰を動かしながら、身体を前に倒して腕を伸ばし、ぷるぷると揺れていた湊の乳房を揉み始めた。 「はぅぅっ……うぅんっ……ゆうちょ、すごい……もっとぎゅって……ぎゅってしてっ……」 「こ、こんなにしてるのに……平気なの……?」  僕は膝に力を入れて、湊の両方の乳房を掴み締めるようにしながら、乳首をこりこりと解しながら腰を突き入れる……手に伝わる肉感に、ますます官能が強さを増す。 「ふぁぁっ……い、いく……ゆうちょ、いきそう……っ」 「うん……僕も……僕も、もうっ……」  乳房をひとしきり揉んだ後で、僕は湊の腰を労るように撫でながら、可能な限り早く腰を振りたて始めた。 「あっ、あんっ……はぁぁっ……んぁぁぁぁっ……!」 「……っ、いく……っ!」  最後にぐりぐりと湊のお尻に腰を押しつけたあとで、辛うじて引きぬく……すると、僕の肉棒がひくついて、遅れて夥しい量の白濁液がほとばしった。 「んぅぅっ……んっ、んぁぁっ……ま、まだきてる……すごい……」  湊は身体を仰け反らせて震えながら、僕の射精をその体で受け止める。彼女の紅潮した肌に、とろりとした精液が降りかかり流れ落ちていく。  二度目の射精は、やはり一度目より体力の消耗が激しい……気がつくと、僕は汗びっしょりになっていた。 「はぁっ……はぁっ……凄かった……くっ……」 「……まだ出てる……ゆうちょの……」  湊は身体に精液がかかっているのが分かるみたいで、恍惚とした様子で後ろに手を伸ばし、かかった精液を拭い取る。 「んん……すごいいっぱい……ゆうちょ、やっぱりまだ元気だったね……」 「さすがにもう限界だよ……湊の中、凄く気持ちいいから。我慢するのも大変なんだ」 「そんなにすごいんだ……ゆうちょが我慢してるとこ、見てみたい……」 「あはは……情けない顔してそうだから、見せられないよ」 「私としてるとき、ゆうちょがそんなになってるなんて……勝ったって感じ……えへへ」 「うん……湊は凄いよ」 「……次はゆうちょが勝っちゃってもいいよ……? 今日は二回いっちゃったけど……次は、私が……」 「っていうことは……良かった。湊、さっきはいけたんだね」 「うん……いかされちゃった。私、激しくしてもらうの好きみたい……」 「ゆうちょにめちゃくちゃにされたいっていうか……そんなこと言ったら、笑う?」 「ううん……湊が気持ちよくなれること、なんでもしたいと思うよ」 「これからいっぱいして、慣れていこうね……ゆうちょ、大好き」 「僕も大好きだよ、湊……」  心地良い疲労感と、それ以上に充足を感じながら、僕らは睦言を交わしつづけた。  そのあとは、二人でお風呂に入る。桜屋敷の10分の1もないお風呂場だったけれど、身体が触れ合うくらいの空間が、今の僕らには心地よかった。  お風呂から上がったあとは、湯冷めしないように早く休む。桜屋敷にいた頃よりも夜は冷え込んで、僕らは布団の中で身を寄せ合っていた。 「明日からお仕事だね。ゆうちょ、一緒に頑張ろうね。私、早起きしてお弁当作るから」 「僕も一緒に作るよ。二人で暮らしていくんだから、家事は全部分担しよう」 「そんなこと言っといて……ゆうちょ、私がうかうかしてたら全部やっちゃいそう」 「お屋敷での生活習慣が身についちゃったからね。掃除洗濯、買い物と炊事は常に頭にあるんだよ」 「ふふっ……ゆうちょ、立派にメイドさんしてたもんね。七愛も感心してたよ、私と二人のときに」  七愛さんは僕の目の前じゃああだから、甘いところは見たことない……湊の僕への心情を考えてくれた部分はあるだろうけど。褒められていたことは素直に嬉しい。  屋敷の話題が出ると、湊は少し申し訳なさそうにする。今はまだ、気にせずにいられなくても無理はない。 「巻き込んじゃってごめん……ゆうちょは、まだみんなと一緒に勉強できたのに」 「ううん。僕は全然後悔してないし、これからすることもないよ」  僕は湊の頭を撫でてあげながら言う。いつも気丈な彼女が、今はどこかあどけなく、子供のように不安げに見えるから。 「仕事、全力で頑張るよ。大変かもしれないけど、一緒に頑張っていこう」 「……ゆうちょ。ありがとう」  大蔵の力を頼れば、もっと効率的なお金の稼ぎ方は幾らでもある……けれど、今必要なのは、僕と湊のふたりで自立するだけの収入を得ることだ。 「僕……この小さな部屋でも、自分の城を持てて嬉しいんだ」 「今までの環境は恵まれてたけど、どこか甘えがあったと思う。男として湊を幸せにするって、胸を張って言うことが出来る状態じゃなかった」 「こうして二人で暮らせてるのも、ルナ様の援助のおかげで……僕の力じゃない。だから、彼女に貰った資金を戻して、そのまま残せるくらいに頑張ろうと思う」 「この状況で貯金するんだ……お給料、二人合わせてもそんなにないかもだよ?」 「無理をするって言ってるわけじゃないよ。町の人たちが優しくしてくれるからこそ、甘えずに自活していきたい」 「うん……私もそう思う。お父さんが町の人に慕われてるからって、頼りきりじゃいけないよね」 「いつかはこうやって、独り立ちしなきゃいけなかったんだ。卒業まで服飾の勉強を続けるつもりでいたけど、それが永久に出来なくなったわけじゃない」 「……どういう形でも、庇護を離れて生きるっていうふんぎりをつけられたのは、湊のお陰だよ。ありがとう」  何度も口にした感謝の言葉……それはひとつずつ積み重なり、不安を消していく。  湊の頬から涙がこぼれる。彼女は目元を拭いながら、心のうちを伝えてくれた。 「うん……私こそありがとう。ううん、ありがとうじゃ足りない」 「……私、ゆうちょのこと幸せにするから。幸せに出来るように、頑張るから」 「こんな状況で何言ってるんだって思うだろうけど……ゆうちょを不幸にしたら、一緒になった意味がないから」 「僕は湊がいたら、それだけで幸せだよ。何があっても、それだけは忘れないで」 「……うん。私もゆうちょが居たら、それだけで……ふぁぁ……」 「あはは……眠くなってきちゃったんだ。おやすみ、湊」 「ゆうちょの話聞いてたら、安心して……ぐっすり寝られそう……」 「……おやすみ……すぅ……」  湊は目を閉じて、寝息を立て始める。僕は彼女の頭をそっと撫でて、近くでその寝顔を見つめていた。  兄さまや大蔵の人たちには若さ故の過ちと言われるかもしれないけど、精一杯湊と二人でやってみせる。  ……そういえばなかなかりそなに連絡するタイミングがなかったな。と思って携帯を見やると、メールの着信ランプが点滅していた。  枕元の携帯を手に取り、湊を起こさないようにメールを開く……すると、軽く10件を突破していた。  そのうちのひとつ、『兄が家を出たと聞いて』というりそなの題名のメール……どんなことが書いてあるのか、だいたい想像はついていた。 「ルナちょむの家を出たって何ですか。正体バレもして、おかげで私はルナちょむにさんざん釘を刺されました。針のむしろです」 「そういえば兄とおそろいのピンクッションを作りました。私もこれで入学準備万端です。とか思っていたら何ですかこの展開は」 「ミナトンと恋人になって家を出たとか、私に黙ってなんですか、兄は私を妹だと思っていないんですか? 人を人とも思わぬ仕打ちという意味です」  耳が痛い……というか、僕は妹に対してまったく筋を通さなかったからな。驚くくらい薄情に思われても無理はない……明日にでも電話して謝らないと。 「しかし休学ということでちょっと安心しました。退学したら、兄と一緒の学院に行けません」 「私に出来ることがあるか分かりませんが……とりあえず、お金が無かったら仕送りするので、ひと段落したら会いに戻ってきてください」 「くれぐれもお願いします。というか駆け落ちということだったら、正直やってらんねえです\(`Д´)/」  顔文字が思い切り怒っている……そうだ、りそなを一人にしておいて良いわけなかった。今さらに変な汗が背中を流れ落ちる。 「無事ならメールくらい返してください、携帯を見守るお仕事も疲れましたので。私のお兄さまは、そんなに薄情ものでないと信じています」  こんな時だけ『お兄さま』なんて……僕は頬をかきながら、メールの返信を打ち込み始める。  そうこうしているうちに、またメールが届く……こっちに来てから色々立て込んでて返せなかった。これはなかなか寝られそうにないな……。  僕はりそなへの返信を送り終えて、次にルナ様のメールを開いた。 「おい、無事で着いたなら連絡くらいしろ。私の貸した20万、耳をそろえて返すまで取り立てるからな」  給料としていただけたんじゃなかったんですね……ええ、ルナ様ならそういうこともあるかと思ってました。  ……なんてことはなくて、ルナ様なりの優しさだと思いたい。でもこの場合、『ちゃんと返します』って返信するしかないな。次はユルシュール様だ。 「朝日、湊、お元気ですか? 私は変わらず美しいです。貴女たちも大変だと思いますが、いつでも心は美しくないといけませんわよ──美るしゅ〜る」  ……何だろうこの、ルナ様の香りのするメールは。けれど文面自体は、おそらくユルシュール様の言葉を聞き取って打ち込んだものだろう。  ありがとうございます、ユルシュール様もお元気で、なんて無難な文面を返しておく。次は……瑞穂様だ。 「拝啓 元気にしている? 私はね、朝日がいなくなってから、つがいを失ったおしどりのように元気がないの」 「いつもあなたのことを考えては、ため息をガラスに吹きかけて絵を描いてるわ。↓こんな感じ」  瑞穂様……窓ガラスのくもりで山水画を描くのは、才気煥発にも程があります。 「そのうちお休みを取ってそっちに行こうかなと思っているけど、朝日も帰ってこられるならいつでも来て。そう、次の日曜日にでも。一緒に原宿のアイドルショップに行きましょう?」 「あ、あなたが男の人だっていっても、私の前では女装をしてもらわないと困りますから。あしからず」  ……それでいいのなら、僕は東京に戻るときは女装をしよう。もちろん、湊の気持ちを一番に考えるけれど。  他にもいっぱい来てる……割愛するのはなんだから、メイドのみんなの中から七愛さんのものを選んで開いた。  怖いけど、見ないほうがもっと不安だ……過激なことが書いてありませんように。 「大蔵遊星、君は蜘蛛の糸という話を知っているかい?」 「私があなたにそれを垂らしたなら、途中まで登ったところでハサミで切る。奈落に落ちろ」  ……考えすぎかもしれないけど。七愛さんはもしや、女性の勘で僕と湊が男女の関係になったことを察しているのでは……と思うと、この文面も無理はないと思える。  しかしそれだけで終わらず、文章が下にスクロール出来た。そして出てきたのは……。 「子供作ったりするなよ、お嬢様はまだ若いんだ、お前と違って将来あるんだ。お嬢様の優しさに甘えて中途半端なことしたらただじゃすまさない」  ……七愛さんと分かりあえるかと思っていたけれど……湊を思っているという意味では、気持ちを共有できそうな気がしたけれど。  今さら理解するのもなんだけど、七愛さんは僕のことが嫌いだ……それは仕方がない。僕は生まれてから一番、メールの返信に悩むことになりそうだった。 「朝だー! おはよー!」 「おはよう湊、もうお弁当出来てるよ。朝食はパンを焼こうか、それともご飯を……」 「私の方が遅かった! だんなさま早い! 早起きすぎ!」 「あはは……お屋敷と同じタイミングで起きたら、やたら余裕があって。湊はゆっくり着替えて」 「……だんなさまってどさくさ紛れに言ったけど、それについてのコメントは?」 「みんなに湊を奥さんだって紹介出来る日が楽しみだよ」 「わ、模範解答だ。私のツッコミを許さない気だ」 「まあまあ。それで、パンにする? それともご飯?」 「んー、そだねえ。せっかくもらってきたし、パンにしようかな」 「バゲットは硬いからどうしようかなと思ったんだけど、レンジにトースター機能もついてるんだね」 「庶民のレンジは色んな機能が詰め込んであるからね。さー、着替えよー」  湊は張り切って、着替えを持って脱衣所に入っていく。うーん、何だかドキドキするな……屋敷でも何度か、『着替えるから後ろ向いてて』と言われたことはあったけど。  ……とりあえずパンを焼こう。と思っても、僕の聴覚が恐ろしく鋭敏に、かすかな衣擦れの音を聞き取る。 「ゆうちょ、覗いたりしてないよねー?」 「しししてないよ、ちゃんとこっちで待ってるよ」 「あはは、言ってみただけー。ゆうちょ、いつまでもピュアだね」  ついに大人の階段を登ったといえるのに、確かに僕は……湊に異性を意識するだけで、未だに緊張している。  ……僕はどんどん彼女を好きになっている。結ばれても、二人で暮らしてもなお、恋しさが募るばかりだ。 「あい、おまたせー。洗濯ものはどうしよっか、私たち留守になっちゃうし」  そうだな……女の子の下着を夕方まで放置していたら、ちょっと危険かもしれない。この町がいい人ばかりといっても、全員が知り合いじゃないし。 「そうだ、ゆうちょのパンツで防御しとこう。男らしいパンツっていっぱい持ってる?」 「比較的シンプルなのしか無いけど……トランクスなら、湊の下着は隠せそうだね」 「だね。部屋の中に干してもいいけど、天気がいいと外に干したいよね」 「うん、そうだね。僕ので防犯効果があるといいけど……」  僕はいったんベランダに出て、すでに干してあった湊の衣類を、僕の服で隠した。二階の部屋だけど、こうしておくに越したことはない。 「はー、ゆうちょが居てくれて良かった。頼れる旦那さまって感じだよね、こうして見ると」 「困ったことがあったらすぐ相談するんだよ、だいたい解決出来ると思うから」 「やーんもー、頼り甲斐ありすぎー。ご飯まで作ってくれるし。当たり前みたいに洗濯してるし」 「これはもう、私も頑張って稼がないとだね。ゆうちょをヒモにする勢いで」  ヒモか……というか専業主夫か。向いているかもしれないと思ったけど、今は汗をかいて働きたい。 「仕事は、商工会の人が紹介してくれるんだよね。早めに出た方がいいかな」 「うん、7時になったら出よう。はー、でも外寒そうだね。ちゃんと着てってね、ゆうちょ」  僕らはひとしきり話してから、席について食事を始める。昨日貰った食材で作った朝食は、お屋敷のものと大きな差はなかった。  僕と湊は戸締りをしてアパートを出ると、その足で商店街にある商工会の事務所に向かった。 「やあ、柳ヶ瀬さんとこのお嬢さんだね。お父さんから話は聞いてるよ」 「確か夏祭りのときに、東京で勉強してるって聞いたけど。地元でゆっくりしたくなったんかい?」 「は、はい……いろいろありまして。しばらく、この町でお世話になります」 「いつでも帰ってきてええからね、最近若い人は都会に出てくばっかやから。うちの娘も、大阪の方に出とるよ」  それが地元民の素なのだろう、少し訛りのある口調で世間話をしながら、商工会の会長さんはいくつかの資料を出してくれる。 「印刷工場の仕事と、大学の学食の仕事があるんだけど。話に聞くぶんには、学食のほうが大変みたいだね。大きいごはんの釜を運んだりするからね」 「ゆう……じゃなくて、遊星はどっちがいいと思う?」  さすがにこういう場で愛称は礼儀に反するからな……けれど湊の言う『遊星』ってすごく新鮮だ。名前を呼ばれただけでドキッとする。 「じゃあ、僕が学食のほうにしよう」 「うん、じゃあ私は工場にします。男女は関係ないですか?」 「両方とも、男女同じくらいの比率の職場だよ。今回の募集では、特に指定はされてないね」 「ありがとうございます。面接などは……」 「ああ、大丈夫大丈夫。即戦力ってことでの募集だから。今日だけ時給が下がるってこともないしね」  東京のバイトは結構試用期間というのがあると聞いたけど、地方は良心的だな……今は千円の違いでもありがたい。 「それにしても二人共、べっぴんさんだね。これは評判になりそうだ」 「あはは……おじさんたら、お上手ですね」  僕も男だと分かってるはずなのに、それでも別嬪さんと言われてしまった……湊も分かっていて、悪戯っぽく僕を見やって笑っていた。  僕は大学の学食に行って、三角巾と割烹着を着て、大量の野菜の皮を剥いたり、米を研いだりといった仕込みを担当することになった。 「あらー、あんた手際いいわね。こういう仕事、前にもしてたの?」 「はい、ご主人様の食事を作る仕事を……あっ」  サラリとご主人様と言ってしまった……変に思われないかな、と思ったけれど。 「ほんと大したもんよ、普通は新人さんだと倍くらい時間かかるもんね。仕込み終わったら、別の仕事も教えていい? 人出が足んなくてね」 「はいっ、何でもやります。ぜひ教えてください」 「……怒らないでほしいんだけど、大蔵くんって男の子よね? こんな綺麗な子見たことないわ、東京でスカウトとかされなかった?」 「あはは……そんなことないですよ」  そんなこんなで、僕は職場の人たちにも受け入れられ、夕方まで一日忙しく働いて、帰途についた。  色々と思っても見なかった出来事はあったけど……家に帰ってからの湊との報告会で、いろいろ話したいと思う。  給料が振り込みになるまでは、日当を現金で受け取る。封筒の重みを感じながら、僕は家の近くまでバスに揺られた。  商店街でバスを降りたところで、湊からメールがあった。『お疲れ様。買い物してるから、そのへんで見つけて』とのことだった。 「あ、ゆうちょ、お疲れ様ー! メールでは聞いてたけど、どうだった?」  昼休みに『うまくやっていけそう』とメールはしてあった。終わったあとも、その感想は変わってない……むしろ。 「うん、いい職場だったよ。先輩方も良くしてくれたし」 「それがねえ……ゆうちょ、やっぱりすごいよ。もう、商店街でも評判になっちゃってる」 「え……ぼ、僕のことが? どうして?」 「商工会から紹介したから、会長さんが私たちの仕事ぶりを気にしててね」 「大学に電話して聞いちゃったんだって、ゆうちょがしっかりやってるかどうか」 「そしたら、もう天井知らずにゆうちょのこと褒めちぎってたって。すごい子が来た、って、商工会に来る人全部に言ってるらしいよ」 「そ、そうなんだ……普通に仕事をしてただけなんだけど、褒めてもらえたのは嬉しいな」 「ゆうちょにとって当たり前のことが、周りの人にはすごいことなんだよね。私も鼻が高いよ」 「それで、またこんなにもらっちゃった。半分は自分で買ったんだけどね」 「た、食べきれるかな……もう冷蔵庫いっぱいだし」 「仕事始めのご祝儀だと思って受け取ってきたけど、お父さんたちにお裾分けしたいくらいだよ」  僕たちは二人共、そんなに食べるほうじゃない……生活にはまったく問題がなく、2日で安定してしまったようだ。 「そうだ、給料は湊に預けておくよ。しばらくは現金で受け取ってくるから」 「え……いいの? ゆうちょ、欲しいものとかないの?」 「うん、今のところはないよ。湊は女の子だから、いろいろ入り用だと思うし……」 「……ねえ、どうしてそんなに人間が出来てるの? 全然非のうちどころがないよ?」 「そんなことはないよ、普通だよ。昔からレディ・ファーストなんだ」 「……右よし、左よし。荷物よし」  湊はきょろきょろと周りを見回してから、持っていた買い物袋を降ろして僕に向かって身構える……そして。 「わっ……み、湊、こんな町中で……」  湊は思い切り、僕の胸に飛び込んできた。一歩後ずさるだけでなんとか受け止める。 「いいの、誰も見てないって確認して抱きついたから。ゆうちょ、だーいすき。かっこいい」 「っ……湊……」  無邪気にそんなふうに言われると、何というか……愛しくてしょうがなくなる。けれどここじゃ、いちゃついているといずれ見咎められてしまう。  僕は湊の背中を撫でて落ち着いてもらう。そして、湊が置いた荷物を変わりに持った。 「……はー、このへんに誰もいない公園とかないかな。抱きついてくるくる回るやつがやりたい」 「そういうことなら、探してみようか。湊のリクエストには答えたいし」 「ほんとに? よーし、ゆうちょのことくるくる回しちゃうよ。ジャイアントスイング的に」 「えっ、回されるのは僕なの?」 「一本勝負だよ、勝ったほうが今夜の主導権を握るんだよ」 「……なんて勢いで言ってみたけど、毎日は大変だよね。ごめん、今のは冗談」  湊が恥じらいを取り戻したところで、逆に悪戯心が湧いてくる……僕は耳を塞いで、拙い演技をした。 「……えっ? 今なんて言ったの? 聞こえなかったよ」 「……き、聞こえてなかったんならそれでいいよ。たはは……」  ということは……今夜も……想像しただけで未だにぼーっとしてしまう。  昨日が初めてだったっていうのに……こんな頻度でいいんだろうか。湊もはっきりとは言わないけど、期待するような目を僕に向けていた。  夕食の時間に、僕らは二人でお互いの仕事場について詳しく報告し合った。 「印刷工場って持ち場がいろいろあるんだけど、私は刷り上がりを検品する仕事をしたんだよ」 「印刷物がきれいに出来てるかどうか、チェックする仕事だね。どうだった?」 「うん、だいたい綺麗にできてるんだけど、たまーに紙ががたついてたり、落丁してるのがあったりしてね」 「めくるときも慎重にやらなきゃいけなくて、最初は時間かかったけど、わりとすぐ慣れたよ」 「湊は注意力があるから、そういう仕事は向いてるね」 「ていうか、服を作るのもミリ単位のずれが命取りじゃん。そういうのには敏感なんだよね、うちらは」  そういうことか……学院で勉強したことが、少なからず役に立っているんだ。  僕はメイドとして働いたことが、学食での仕事に直結してる。東京での日々が、ここでの生活の礎になってくれている……。 「ゆうちょの仕事ぶりは、すっごい評判だったんだよね」 「まだ初日だしこれからだよ、最初だけと思われても困るし」 「学生さんからも評判良かったみたいだよ、あの学食の異常な美人誰?って」 「男だよ!?」  湊の話によると、学食に男子学生から何件か、今日から働き始めた僕について問い合わせがあったようだ。 「三角巾に割烹着だったら仕方ないよね。ゆうちょ、顔だけ見たらどう見ても女の子だし」 「そうか……三角巾だと女性に見えるかもしれないね。って、それはそれでショックだよ……」 「何言ってんの、それだけ綺麗だから女装とか出来るんじゃん。一種の才能だよ、そこまできたら」 「女装が懐かしくなったりしたら、たまにはしてもいいよ。なんちゃって」 「あはは……そうそうすることは無いと思いたいな」  学食に女装して通勤したら、どんなことに……いや、冗談でも考えるべきじゃないな、そんなことは。 「湊も……その、美人だから。工場で騒ぎになったりしなかった?」 「あー、それなんだけど……どうしようか迷ったけど、捨てるのもしのびなくて……」 「……?」  湊は持って帰ってきていた荷物の一つ、紙袋を持ってくる。そして、中から取り出したのは……大量の封筒だった。 「その場で捨てちゃうことも出来ないから、持って帰ってきたんだけど……申し訳ないけど、読む気はないんだよね」 「それって、もしかして……全部ラブレター?」  湊は困ったように笑って頷く。10通じゃきかない……湊、初日からものすごい人気だったんだ。 「お昼休みにいきなり渡されたのが最初で、お仕事終わって帰るときにはこんなになってて……」 「仕事中にこんなの書いてるなんてダメだと思うから、読まないけどね。来週の燃えるゴミの日に出しといてね」  10人以上の恋心を、僕の手で葬るのか……いや、僕がするべきことだな。少し申し訳ないけど、きっぱりと捨てさせてもらおう。 「それで終わりかと思ったら、商店街で買い物するときに……」 「ええっ……ま、町でも声をかけられたとか?」 「たはは……驚くよね。私だって驚いたよ、ていうか正直言ってちょっと引いたよ」  湊はまたも、困ったように頬をかいて頷く。 「私が帰ってきたっていうの商店街で評判になってて、昔の同級生の人たちがね……」 「全然話したことないような人まで、買い物してるときに声かけてきて。みんな、前から好きだったとかそんなこと言うんだよね」 「いきなり言われても困るし、私にはゆうちょがいるし。全部断ってきたよ」  あっけらかんと言う湊。僕は安心すると同時に、すごい女の子を恋人にしてしまったな……と感嘆する。 「しゃべったことある人もいたけど、私って親しみやすいけど、社長令嬢で高嶺の花的な存在だったんだって」 「七愛もいつもそばに付いててガードしてくれてたしね」 「でも会社が倒産したって聞いて、七愛もいなくて……チャンスだとか、そんなふうに思ったみたい」 「いやいや、私にはだんなさまが居るしって言いたくなっちゃって、実際言っちゃったんだけどね」 「言っちゃったんだ……それは、一発でとどめになりそうだね」 「それが、全然諦めてくれなくて……ゆうちょの写真見せても、女の子とルームシェアしてるとか、都合よく勘違いされちゃってさ」  ……これほど男らしい写真を撮りたいと思ったことはなかった。僕には今、奇跡の一枚が必要だ。 「とにかくアドレス聞きたいとか、そういうこと言う人もいたけど。仕事に出るとき携帯持ってないとか、そういう言い訳で切り抜けてきちゃった」  持ってるんだけどね、と湊はカバンから携帯電話を取り出す。お茶目な仕草に微笑みながら、心底からの安心と、深い感謝を覚える。 「家まで聞きだそうとするから、早めに終わったのに時間潰すしかなかったよ。商店街の人達にも、内緒にしといてってお願いしといたよ」 「好きになってもらえるのは嬉しいけど……ううん、こうなったらね、申し訳ないけど必要ないものって言わなきゃいけないよね」  湊は紙袋をそのまま玄関先に出す。そして、申し訳ないという言葉通りに手紙に両手を合わせた。 「ありがとう、みんなの気持ちは無駄にしないからね。いや、この時点で無駄にしてるけど」 「……ありがとう、湊」  僕のことだけを見ていてくれる。その迷いのない気持ちが、すごく嬉しかった。 「ラブレター捨ててありがとうっていうのも……それで嬉しいって思う私も、ひどいよね」 「うん……でも、仕方がない」 「……ゆうちょ、焼き餅焼いてくれてる。えへへ、なんか嬉しい。独占欲とかあるのかなって思ってたから」  少し前までは言われるままに生きていた僕には……独占欲なんて、ありえない感情だったけれど。  ……今になって、七愛さんの気持ちが分かる。自分の好きな人が、誰かに心を奪われるなんて……想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。 「独占欲……僕にも、あるみたいだよ。ずっと、僕だけの湊で居て欲しい」 「わ……そ、そんな、情熱的な。ゆうちょ、ごはん食べて元気出ちゃった?」 「う、うん。湊、お風呂に入ってきていいよ」 「……一緒に入ろうよ、せっかくだから。ね?」 「昨日みたいに、布団が凄いことになっちゃったらその……困るし……」  話してるうちに、お互いに気持ちが高まってしまって……お風呂から上がってきたらしようとか、どうやって切り出そうとか、そんなことを考えてた。  桜屋敷で、お風呂に湊と瑞穂が無邪気に入ってきてしまったころが懐かしい。あの時とは全然違う気持ちで、混浴することになりそうだ……。  先に湊に入ってもらって、僕は後から服を脱ぎ始める……脱衣所は、ひとりずつしか入れない広さだからだ。 「ゆうちょー、まーだー? 風邪ひいちゃうよー」 「もう準備できたよ……えーと、タオルは巻いたほうがいい?」 「……どうせすぐ取っちゃうし、いいんじゃなーい?」  いいんじゃなーい? と言われても……すぐ取っちゃうのか。  もう、これくらいで恥ずかしがる関係じゃないし……と開き直ろうとしつつも、僕は前を隠して風呂場に入った。  二人で背中を流し合って、浴槽に浸かろう……というところで。僕は湊に文字通りつかまってしまった。 「……嬉しいんだけど、不安になるよ。こんなことばかりしてていいのかな?」 「あー、そんな意地悪言って。さっき洗ってる時から、おっきくしてたくせに」 「この子は正直なのに、ゆうちょは素直じゃないよね。ねー、困った旦那様だね」  湊が僕の恥ずかしいところに話しかけている……そして返事をせずにいると、ちょん、と指先でつつかれた。 「ひぅっ……」 「わ、ゆうちょの声がかわいい……そんなツボついちゃった? つんつん」 「くぅ……そ、そのあたりはちょっと……あっ、く……」  爪が綺麗に切られた指先で、裏の筋の部分を的確につついてくる……その都度快感が広がり、僕は風呂椅子に座ったままでのけぞった。  さっき自分で洗ったから、綺麗ではあるんだけど……明るいところで見られるとまだ恥ずかしい。 「これが昨日、入ってたんだよね……信じらんない。こんな太くておっきくて……」 「あ、あんまり言われると……その……くっ……」 「……最初は変な形だと思ったけど、こうして見るとかわいいよね。いい子いい子……」  湊は愛おしげに僕のものを撫でてくれる……エッチなんだけど、それでいて可愛らしい仕草だ。  こうしてると、仕事の疲れも忘れてしまう。僕もこういう行為が好きだと認めざるをえない。 「じゃあ、口でするね。一回出しちゃってもいいよ……あむっ」  湊は口をいっぱいに開けて僕のものをくわえる。やはり、辛うじて入るくらいの太さだった。 「んぐ……ふむ。ちゅっ……ちゅぷっ……ちゅっ、んむっ……ふぁ……っ」 「……ゆうちょ、気持ちいい?」 「あ……ご、ごめん。あんまり良いから、浸っちゃってた……」 「ん……気持ちいいならいいよ、べつに。ぺろっ……もうえっちな汁がでてきた……」  湊の身体を洗ってあげたときに、僕はかなり興奮してしまっていた……湊から口でしてくれると言ったとき、感激していたのは言うまでもない。 「くっ……う……うぅっ……上手になったね、湊……もういきそうだ……」 「ちゅっ……ちゅっ……もう……? ゆうちょ、早くない?」 「もうちょっと我慢しないとだめかな……くぁっ……!」  湊は僕の弱音に愛撫の手を緩めるどころか、ふたたび大きく口を開けて、僕のものをを半ばまで含む。そして、手を床について支えて、ゆっくりあごを上下させ始めた。 「ふぁ……んっ、んぐ……ちゅっ。ちゅぷっ……ふむむ……んむっ……ちゅぷっ……」  生暖かい口内で、感じる部分に余すところ無く粘膜が触れる……湊は口の端から涎がこぼれてしまうほど、熱心にディープスロートを続けてくれた。 「んぐ……ふむ。んくっ……んむぅっ……ふぁっ。あごが疲れちゃった……」  開放されるまでに僕は一度達しかけて、辛うじて踏みとどまった……けれど、湊の手は僕を休ませず、根本から先へとにゅるにゅるとしごいてくる。 「ぁ……あぁ……い、いく……ほんとにいく……」 「ん……出してもいいよ。いっぱい我慢して、えらいね……あむっ……ちゅっ……」  がちがちにいきり立った肉棒をしごきながら、先端にしゃぶりつき、舐めて愛撫する……その波状の快楽に、ついに射精を抑制する意志がへし折られる。 「くぁ……あぅっ……く……うぁぁっ……!」 「あ……」  熱いものが下半身を駆け抜けて、肉棒の先から勢い良く吐き出される。湊は薄く目を見開いて、その瞬間を凝視していた。 「出てる……すごい、びくびくって……きゃっ……」 「くっ……はぁっ、はぁっ……」  湊の言葉に応えるように、沈静化しかけた僕の肉棒が不意打ちで精液を放つ。湊の言うとおりしばらくビクビクと震えて、ようやく脈動はおさまった。 「……お風呂でよかったね、やっぱり。口で受けないと飛んじゃう」 「あはは……いつも、ありがとう……」  脱力感の中で、湊のいつもの苦労をねぎらう。顔にかかったりすることは少なくないし、湊はそれを見越して口で受けてくれることもあった。 「……次は口で受けてあげようかな。まだ出るよね、これ」 「す、すぐには無理だよ……もうちょっと落ち着いてから……」 「そうかなあ……まだおっきいんだけど。いっちゃった後って、しばらくだめなんだっけ」  ……ダメっていうこともないんだけど、いいのかな。こんな、精液にまみれてしまったものを舐めてもらうなんて。  お風呂でしてるんだから、一回綺麗にしてから……ということでどうだろう。少し時間をおけば、僕も回復するし……と考えている間もなかった。 「……いいや、もう。待ってるのめんどくさいし」 「ふぁ……あむっ。んむ……ふむむ。ちゅっ……ちゅぷっ……」 「み、湊……早い……もうちょっと考えさせて……うぁぁっ……」  精液に濡れた僕のものを、湊が再び口に含んでしまう。容易に慣れる味ではないと思うんだけど……彼女は、全然構わないようだった。 「ふむんむ……んむむ。ちゅっ……んくっ……」  のどを鳴らして、精液と一緒につばを飲み込む……大丈夫だろうか。  けれど僕の心配をよそに、湊の眉が一瞬寄っただけで、口での愛撫が中断されることはなかった。 「なんとも言えない味……でもこれくらい飲めなかったら、愛情が疑われるよね。あむっ……」 「くぅ……い、いや、気持ちは嬉しいけど、出しちゃっても……いいと、思うよ……」  湊が頭を動かすたびに、ぬるぬると肉棒が口腔の中でこすられて息が止まりそうな快感が走る。彼女に愛されていることを疑いようもない。 「んむ……んっ……んぐっ……けほっ、けほっ……の、喉突いちゃった……」 「ご、ごめん……もう綺麗にしてもらったから、そろそろ……」  すごく気持ちいいんだけど、口でばかりしてもらうのも悪いかな……と思い始めていた。というより、正直に言ってすぐにでも湊の中に入れたい。 「……ちょっと物足りないから、最後までする……あむっ。ちゅっ……じゅぷっ……ちゅぷっ……」  湊の口の中に、僕のものがふたたび出入りし始める。時折歯が当たってひやりとするけど、それを差し引いても十分過ぎるほど気持ちがいい。 「あ……み、湊……もう……もう我慢できない……っ」  湊の肩に触れて訴える。湊は頷いて、僕の肉棒の根本を握って支えながら、最後のスパートを始めた。 「ふむっ……んむっ。ちゅっ、ちゅぷっ……ちゅぅぅっ……んくっ……じゅぷっ……ちゅぷっ……」  湊が口をすぼめるようにして吸い付いてくれた瞬間、快楽が限界を越える……そして何度かストロークされたところで、その瞬間が訪れた。 「い……いく……っ!」  快楽にしびれきり、ぬめる粘膜に余すところ無く愛撫された肉棒の先から、熱い精液が迸り出る。 「…………」  湊は何も言わずに、僕の射精を受け止めてくれる……苦しそうでも、驚いている様子もない。 「……湊……大丈夫……?」 「んん……んくっ……」  さっきも飲んだのに、今のも全部……湊の喉が何度か動いて、嚥下されていくのがわかる。 「……ちゅぅぅっ」 「……っ、あぁ……」  湊は最後の一滴まで絞り尽くすみたいに吸い付いてくる……その瞬間、全身に突き抜けるくらいの、ぞわっという快感が広がった。  目の前に白く火花が散るほどの快楽……まだ僕が知らないことが、僕の身体には沢山ある。  それを湊が引き出してくれる……男女の行為は、本当に奥が深い。 「ありがとう、湊……まだ、元気は残ってる?」 「……んむ……」  湊が頷いてくれると同時に、二度も果てた僕のものが息を吹き返し、硬さを増し始める……。  もしかして僕も湊も、絶倫なんじゃないだろうか……それとも、若さゆえか。  一緒にお風呂場に入って、どれくらい時間が経っただろう……口でしてもらってる間に、もう15分は過ぎただろうか。  どういう姿勢ですればいいのか……と考えたあげく、湊にお風呂のふちに手を突いてもらって、お尻を向けてもらうことにした。 「湊、もう少し足を開いて……あっ……」  足を開いた途端に、ぽたぽたと愛液が垂れ落ちる……湊も気づいていて、恥ずかしそうに後ろを伺った。 「……ゆうちょが可愛い声出すからだよ。責任……取ってね……」  この場合の責任っていうのは……そうだな、考えるまでもない。僕はなお硬さを増したものを、すでに濡れている湊の陰裂に当てた。 「あっ……」  にゅる、と卑劣の上を肉棒が滑って、その上の小さな穴に触れる。 「あっ、ちょっ……そ、そこ違う……」 「ごめん、滑っちゃって……でも、何だか入りそうな気がするね」 「ちょちょちょっ……ほ、ほんとに入れたいなら止めないけど……」 「あ、やっぱだめ。だめだめだめ……それはだめ……」  入れてもいいのか……と一瞬誘惑されたけど、まだチャレンジするには早い。僕の常識において、お尻は性交で使用する部分じゃない。  ……でも、可愛いおしりだな。そんなことを真剣に考えながら、僕は膣口を指で広げて、今度はずれないように肉棒に手を添える。 「入れるよ……湊。力を抜いて……」 「う、うん……あ……っ」  湊のくびれた腰に手をかけ、一気に引き寄せるようにしながら、僕は一番奥まで湊の膣内に肉棒を押し入れた。 「はぁぁっ……あぁっ……は、入ってくる……ゆうちょの……っ」 「くっ……や、やっぱり締まるね……凄く……」  最初に入るときは緊張からか、痛いくらいぎゅうぎゅうに締め付けてくる……動くのが怖いくらい気持ちがいい。 「……お腹の奥、当たってる……ゆうちょ、入れるの上手になってるね」 「確かに当たってるね……ちょうど届くところに……」  これが湊の子宮だろうか……きのうより肌と肌の密着感があって、僕の骨盤が湊のお尻をたわませるくらいに押し付けられている。 「い、痛くなくなるとやばいね……ほんと気持ちいい……」 「うん……僕もいいよ、湊。ゆっくり動くね……」  湊の形のいいお尻に手をついて、ゆっくりと腰を引く。膣内は十分に潤っていて、肉棒が抜けた部分が愛液に濡れ光っている。 「くぅっ……うっ……うぅっ……んっ、んん……んぁっ……」  腰を引いて、そして入れる。一番奥に入ってぐりぐりと腰を押し付けるようにすると、湊はくぐもった声を漏らす。  もっと感じさせてあげたいけど……急ぐと、こちらがすぐにいってしまう。肉襞が絡み付いて、男性器の敏感な部分を耐えず刺激し続けていた。 「どうしよう……すっごい気持ちいい……」 「良かった……まだ痛いかなって、少し心配だったから」  きのう、一度は湊をいかせてあげられたと思う……今日もそうしてあげたい。  僕が2回いったんだから、湊も……女の子は一度に何回くらいいけるんだろう。寡聞にして知らないけど、複数回いけるようなら……。 「ふぁっ、あぁっ……もっと早くして……私、全然っ……平気……はぅっ、今の……今のとこ、いい……っ」  湊の膣内のお腹のほう……肉棒の裏筋にこすれる、ざらついた部分。そこが感じるみたいだ。そこを狙って、時折緩急をつけて腰を動かす。 「あっ……あぁっ……だめ……い、いくっ……くぅぅ……」  湊はいきかけて身体をそらせたのに、我慢してしまう……どうしたんだろう。僕は彼女の腰を撫でつつ、動きを緩めて尋ねてみた。  ……と言っても、浴室にはパンパンと腰がぶつかる音が絶え間なく続き、濡れた肉の立てる淫靡な水音が響いている……こんなに良かったら、とても止められない。 「湊……どうしたの? さっき、いきそうになってたのに……」 「うぅっ、くぅ……ゆ、ゆうちょに早いって言っといて……私が3分でいっちゃうとか……っ、あぅぅっ……」  湊は今もいきそうになるのを我慢しながら話してる……僕はそれでも容赦せずにピストン運動を続ける。 「……我慢せずにいってくれたほうが嬉しいな……じゃあ、こういうのはどう……?」 「ど、どうって……はぅっ……くぅぅ……こ、この人全然容赦ない……っ、はぁぁっ……!」  湊は入れてるときに胸を触られるのが良いって分かってる……僕は手を伸ばして、片方の乳房を揉んで乳首をつまみながら、出来る限り律動を速くした。 「何度でもいっていいよ……湊……っ」 「あぅぅっ……うぅんっ……あっ、あぁ……いい……気持ちいい、ゆうちょっ……」  僕は身体を倒して湊の背中にキスをしてから、腰を動かすことに集中する。湊の白い双臀に指を食い込ませて、一心にピストンを続け…… 「ふぁっ……あぁ……はぁぁっ……んんっ……!」 「くっ……」  湊が身体を反らして、耐えかねたような声を出す。その瞬間、奥まで入れたものが根本から先まで、今までにないほどの膣圧で締め付けられる。  まるで射精を導くようにきゅぅぅ、と吸い込まれるように感じる……辛うじて耐えると、筋肉が弛緩して僕の半身が解放される。 「……い、いかされた……途中から意地になって、我慢してたのに……」 「そっか……すごいね、湊。こんなに我慢できるなんて……」  僕の勝ちだね……と言ったら、湊はさらに負けん気を起こしてしまう。愛を交わすときは、どこまでも素直にならないと意味がない。 「これから、いっぱいいかされそう……ゆうちょより多くなっちゃう……」  いった回数がってことかな……数えてたとしたら、僕はもう10回以上は彼女の手でいかされている。  ……これで2回めだから、まだまだ追いつかなさそうだ。もっと頑張らないとな。 「……そろそろ、動いても大丈夫かな?」 「う、うん……ゆっくりね。いったばかりで結構……うっ、またそんな奥まで……」  ちょっと余裕が戻ってきたな……うん、何回いかせてあげられるかどうか頑張ってみよう。僕はそんなことを考えつつ、湊の腰に手を添えて律動を再会した。 「あ、あのっ……ま、またいきそう……やばいやばい、ほんとやばい……」  湊は五分くらいでいってしまう状態になってしまっていて、僕がいきそうになる前にいくことを何度か繰り返していた……気持ちはいいけど、そろそろ腰が……。 「ふぁぁっ、い、いく……待って待って……今度いったらもう……もうっ……」 「これで……もう4回めくらいかな……っ」 「……はぁぁっ……あぁっ……い、いくぅぅっ……!」  湊の中がきゅうっと締め付けてくる……僕は動くのをやめて、彼女の腰を撫でていたわりつつ、落ち着くのを待つ。  一度絶頂に達するのも相当の体力を使ってる……そろそろ僕もいかないと。湊には、5分以上我慢してもらわないとな……。 「はぁっ、はぁっ……もうおかしくなりそう……エッチってこんなすごいんだ……」 「うん……ずっと続けてても飽きないくらいだけど……そろそろ、一緒にいけるように頑張ってみようか」 「う……わ、私いきすぎだよね……わかってはいるんだけど、全然我慢できない……」 「もうちょっとだけ我慢できたら、僕もいけると思う。さあ、いくよ……っ」 「ゆ、ゆうちょが……あんっ、体育会系のりに……なってる……っ、くぅぅっ……うぅっ……」  急に官能が押し寄せてしまわないように、僕はつとめてゆっくり動き始める。にゅるにゅると奥まで肉棒が達して、亀頭を残して抜くことを繰り返す。 「くぅぅ……あ、あの……それ、普通に気持ちいいんだけど……っ、はぅぅ……っ!」  湊の感じる部分には、普通に当たってしまう……ここを狙うと、湊はさっきだと本当にすぐいってしまった。 「あっ……うぅっ、くぅ……いく……いやいや、いっちゃだめなんだって……っ、はぁぁんっ……!」  ぶんぶんと首を振りながら、湊は僕の突き入れに耐え続けている……おかげで、次第に僕も射精を意識し始める。 「もう少しでいきそうだよ……頑張って、湊」 「うぅ……ひつじが一匹、ひつじが二匹……はぁっ……くぅぅっ……ひ、ひつじが一匹……あぁぁっ……」  3つ数えるのすら無理なんだな……可愛い。僕はサディスティックになりつつあるな……よくない傾向だ。 「もう……もういいよね……私、頑張ったよね……っ、あぁっ……くぅぅっ……い、いく……」  きゅっ、きゅっと断続的に湊の膣内が締まり始める。その中を何度か貫くと、快感が一気に堰を切ってふくれ上がった。  肉棒が痺れて、いうことを聞かなくなる……射精を堪えるという意志が、熱い白濁の衝動に押し流される。 「あ……僕も……僕もいくよ、湊っ……!」 「ふぁっ、あぁ……っ、もう……もうだめぇぇっ……!」 「くぁぁっ……!」 「くはぁっ……ぁぁ……」  二人同時に身体を震わせて、絶頂に達する。僕は一度目の脈動の後で腰を引き抜き、少し赤くなったお尻に肉棒を押し付け……そこで射精が始まる。 「はぁっ、はぁっ……いっぱい出てる……ゆうちょのが……」  半刻も湊と繋がり続けているあいだに、精液が再びつくられてたみたいだ……本能に嘘はつけない。 「……ありがとう、我慢してくれて。いっぱいいかせてごめんね」 「……ごめんってことは……ないけど……うぅ、もうぐったり……」  長い間同じ姿勢をとり続けて疲れてるんだろう……僕は労りの気持ちを込めて、彼女のお尻を撫でる。  ……いや、お尻じゃなくて腰だろう普通。こんなことしてたらまたすぐに僕は、性懲りもなく……。 「……なんか完全に負けた気分……ゆうちょに全部持っていかれた……」 「はは……そんなことないよ。僕は湊にはかなわないよ」 「うぅ……その言い方もなんかなぐさめられてるみたいでやだ……」 「私だけしてるうちは、かわいいゆうちょだったのに……」  お屋敷にいる間は僕は愛撫だけで、湊は口と手で何度もしてくれた……おかげでげっそりもしたけど、今思い出しても初々しい気持ちになる。  ……エッチしたから一皮剥けたのかな、文字通り。ああ、僕の思考はもうだめだ……朝が来たら切り替えないと。 「……絶対仕返ししてやる。負けっぱなしの私じゃないんだから……ぐぅ、力が出ない」 「あはは……それじゃ僕たち、なんだか戦ってるみたいだね」 「毎日が勝負だよ、ほんとに。男と女の、プライドをかけた……はぁ、気持ちよかった。今夜はよく寝られそう」  それが最終的な総括なら、何も問題はないな……とりあえず僕はシャワーのお湯を出して、湊の身体を綺麗にしてあげようと思った。  仕事を始めて生活が落ち着き、二週間が経った。  初めは頻繁にメールを送ってきていた東京のみんなも、僕らが上手くやっていると知ると安心してくれたみたいで、夜のメールの返信ラッシュは落ち着いていた。  七愛さんは湊がうまくメールしてくれたみたいで、殺意のこもったメールは来なくなった。もし東京に戻ることがあっても、出会い頭に刺されたりせずに済みそうだ。  けれど、別の問題が浮上していた。僕は割烹着を着てるだけで、普通に男として振舞っているのに……男性ファンの増加が止まらない……。  今日は日曜日。僕と湊の勤め先はお休みなので、ふたりで買い出しに出てきた。  湊が女性ものの下着を買いに行っているあいだ、僕は通りで待っていたんだけど……通り過ぎた若い男性が、何かに気づいた顔で戻ってくる。 「あ、あの……君、今何してんの? もしヒマだったら、俺と……」  これで25人目……僕はそろそろ、愛想笑いがひきつってきていた。東京でも声をかけられて困ったけど、まさかそれ以上なんて……。 「あ、すみません、連れがいるので。それに僕、男です」 「ご、ごめん、分かってて声かけた。うちの学食に来てる子だよね? ゆうちゃん、っておばさんに呼ばれてる」  ええー……僕、男なのに。男だって知ってて声をかけてくるのか……。 「うちの大学でうわさになってるよ、君。男だって分かってるやつもいるけど、それでも君くらい美人だったら……」 「すすすみませんっ、僕用事があるのでっ……」 「あっ、ちょっと……お、男かどうか確かめさせてっ! 俺そしたらあきらめつくからっ!」  いったん僕はその場から逃げ出し、別の経路から戻ってくることにした。買い物一つでも変な体力を使ってしまう……困ったなあ。  しかし帰ってくると、さらに事態が悪化していた。僕のちょっと前を歩いていた三人が振り返り、獲物を見つけたような顔で見てくる。 「大蔵さん! 大蔵さんがいるぞ! やっぱりこの辺に住んでるんだ!」 「僕らとお話しませんか! 学食でひと目見た、あの日あの時あの場所で!」 「あっ、逃げた! うぉーい、むぁぁってくだすわぁぁぁいっ!」 「だ、だから僕は男なんですってばっ! 捕まえたって、なんにも面白いことありませんからーっ!」  確かに古来から衆道は存在していて、ボーイズラブとか、そういうものもあるっていうけど……。  僕の見た目が見た目だから、そういう興味を持たれることは少なくなかった。でもそれは、一部の人の性質だと思っていたのに……。  ……ひげでも生やしたらさすがに諦めてくれるかな。僕はりそなに連絡して、付け髭を手配してもらおうかと本気で考えていた。  湊は下着を買い終わっても、まだ色々と物入りみたいだ。メールが来て、もう一時間かかると言われた。  早めに合流すると、湊を巻き込んでしまう。さっきから発見されるたびに逃げて、さすがに少し疲労を感じていた。  湊は大量にもらったラブレターのことをけろっとスルーしてしまったそうで、工場や町の人たちは既に心を折られていた。見事な対応だと思う。  商店街の人はみんな湊の味方をしてくれるし、一人歩きでも男性に絡まれたりはしない……つまり危機が続いているのは、僕だけということになる。  湊を守りたいと言ったけど、僕が誰かに守られたい気分だ。いや、情けないこと言ってちゃだめだ……毅然として対応すれば、きっと分かってもらえるはず。 「……というわけなんだけど、どう思う?」  僕は物陰に身をひそめて、電話先の妹に尋ねてみた。彼女ならスマートな助言をくれると期待してのことだ。 「兄が男性にもてるなんて、昔からのことですが……男性の服装に戻っても、というのは意外ですね」 「考えられるのは、女装を続けて色気が出てきたのではないかということですが……まあ、乙です」 「お、乙って言われても……それで、男らしく見せるために協力をお願いしたいんだ」 「やです。そっちが住みづらくなったほうが、東京に泣いて帰ってきやすいと思ってますし」 「そっちに行くために時間取ってもいいですが、私も忙しいんです。こうやって電話してくれたことは評価してますけど」 「兄が私を頼ってくれると、普通に嬉しいです。私、忘れられてないなと確認できますし」 「絶対忘れないから、心配しないで。今は遠くにいるけど……」 「……そのまま居なくなったりしないでくださいね。兄にGPSの発信機を身につけさせたいくらいです」 「大丈夫、絶対どこにも行かない。電話が止まるようなヘマもしないよ」 「私もですね、何か出来る事はないかと考えてます。兄をそのまま婿にやるわけにはいきません」 「だって私、ブラコンですから」 「うん……僕も妹として、りそなのことを想ってるよ」 「……ミナトンが羨ましいです。小さい頃から兄が好きで、こうやって独り占め出来て。完全にリア充ですね」 「まあいいです、困らせてばかりだとほんとに逃げられちゃいますし」 「ヒゲなんて生やさなくても、スーツでも着てグラサンでもすればいいですよ。送りましょうか?」 「いや……情けないことなんだけど。今の状況をりそなに話したら、それだけで気持ちが楽になったよ」 「兄が男性にもてて困るなんて、ほんとただの愚痴ですね。次は私を喜ばせる話をしてください」 「うん。僕はりそなのことが大好きだよ。電話に出てくれてありがとう」 「……これから留守電にするので、今のセリフをもう一回吹き込むといいですよ。妹は意外と単純です」 「お兄さま、どうぞご無事で。ミナトンにもよろしく言っておいてください」  思わぬお願いをされたな……ちゃんと吹き込んでおくつもりだけど、改めて言うのは恥ずかしい。 「あのー……電話終わった? ちょっといいかな、君」  また声をかけられてしまった……どうやってごめんなさいしたら、走って逃げずに済むだろう……。 「すみません、僕男なので……」 「……えぇっ? そ、それはそれは……凄いな、まるっきり女の子だよ。いやいや驚いた」  あれ……普通のナンパの人とは違うみたいだ。僕のことを、妙に熱のこもった目では見てない。 「ああ、申し遅れました……僕は大阪のほうでメイド喫茶をやってます、広橋と言います。わかります? メイド喫茶」 「メイド喫茶……ですか? その店長の方が、僕に何かご用ですか……?」 「ええ、それがですね……まあ、君なら男でもいいや。それくらい綺麗だしね、うちの店の子も喜ぶかもだし」 「うちの店、ちょっと主力の子がひとり抜けちゃって困っててね。出来れば穴を埋められる逸材が欲しくてね」 「で、僕の地元がここなんですけど、最近評判の美人が二人居るっていうじゃない。これは、と思って引き抜きに来たんです」 「はあ……でも、僕はやっぱり男ですし……」 「いや、その物腰と容姿なら大丈夫。僕が太鼓判押しますよ。条件も悪くないと思うんで……こんな感じです」  広橋さんが見せてくれた紙には、週五日勤務、一日最大8時間で、平均月収は……大学の学食より5万円も高い。  移動の時間はかかるけど、仕事の内容もそんなに大変じゃない……これなら、湊のお父さんに仕送りすることすら可能になりそうだ。 「うちの店は待遇もいいと思うし、ちゃんとしたルールを設定してやってますんでね。いかがわしいことは全然ないですよ」  ……湊に相談しないと決められないけど、条件はとてもいい。けれど……。 「あの……今の僕の仕事は、商店街から斡旋してもらったものなんです。ですから、確認させてください」 「うん、いろいろあると思うんでね、それは無理にとは言いません。でも君ならきっと、うちでも人気出ると思うんだよね」 「それが実は男の子って、結構痛快じゃない。さっきから追いかけ回されてるし、アイドルだよもう。なかなかない才能だよ」  口が上手というか、少しお調子ものな感じもするけど……思ったことを率直に言ってる感じがして、信用してもいいと思える。 「じゃあ、考えておいてください。いい返事を期待してます」  広橋さんは僕に仕事内容を紹介する紙をくれて、商店街の人並みに紛れて歩いていく。僕は鞄に書類を大事にしまって、湊に相談することにした。  それから湊と合流して家に帰ってきたあと、僕はメイド喫茶にスカウトされた件について相談した。 「そういうことなんだけど……僕は、悪い話じゃないと思う。お店のことを調べてみたけど、個人資本のわりにしっかりしてるみたいだし」  湊は紙にしっかりと目を通してから、顔を上げて僕を見やった。 「……私がやりたいって言っても、駄目かな? この仕事」 「あ……多分、大丈夫だと思う。たぶん広橋さんは、僕と湊をスカウトに来たんだと思うから」 「そうなの? ど、どうしてだろ……ゆうちょが町で評判になってるから?」 「湊も十分すぎるほど評判になってるよ」  広橋さんに僕らの評判が届いたのは偶然だけど……縁がなければ、そんなことにはならないとも思う。 「じゃあ僕と湊、二人で出来るかどうか聞いてみよう……そのまえに、商工会の会長さんに話を通しておかないとね」 「そうだね、二週間でやめちゃうなんて早すぎるしね……わかった、私が電話する」  湊は携帯電話で商工会の会長からもらっていた名刺の電話番号を打ち込み、電話をかけた。 「……もしもし、柳ヶ瀬です。あっ、はい、ちょっと折り入ってお話したいことがあって……」  湊はスカウトを受けたことを説明し、仕事を変わるかもしれないけれど大丈夫かと尋ねる。すると……。 「あ……そ、そうですか。ありがとうございます」 「え……? そんなお話もあったんですね。いえいえ、とんでもないです」 「いろいろありがとうございます。はい、父にも伝えておきます。失礼します」  湊は電話を切ると、安心したように胸を撫で下ろす……そうしてから、にっこりと笑った。 「紹介しておいてなんだけど、会長さんは私に工場勤務はもったいないって思ってたんだって」 「彦根城や観光案内の仕事を斡旋してくれるとか、そんな話もあったみたい。でも、もっといいのが見つかったなら良かったって」 「よかった……じゃあ、次は僕の番だね。少し待ってて」  僕は広橋さんからもらった紙に書いてあった番号に電話をかける。何度かコールすると……。 「はい、広橋です」 「あ……も、もしもし。先ほどお会いした大蔵です」 「あ、さっきの子ね。電話だと声の印象変わるねー、ちょっと男の子っぽいね。あ、男の子なんだった」 「あはは……男っぽいって言われるのは、僕としては嬉しいことです」 「そうなんだ、じゃあうちで働くには結構覚悟が必要だねえ。あんまり無理強いできないか」 「い、いえっ……出来れば、ぜひ働かせてください。僕と、もうひとり居るんですけど……」 「……君の目から見て、その子は可愛い? メイド店員として人気は出そう?」 「はい、とても可愛いです……というか、僕の恋人です」 「おお……それはそれは。やー、前代未聞だね。実は男の子のメイドさんと、恋人のメイドさんが同時に勤務なんて」 「あ、あの……ということは……」 「二人いても全然いいですよ、助かります。初めから、評判の美人ふたりをスカウトに来たからね」 「……あれ? もしかして君の恋人って、柳ヶ瀬さんって言う子だったりする?」 「はい、柳ヶ瀬湊と言います。僕は、大蔵遊星です」 「はぁー、やっぱりだ。そういうこともあるんだねえ……柳ヶ瀬運輸の娘さんて言えば、綺麗だって有名だもんね。うちに来てくれて嬉しいですよ」  湊はこっちではそんなに有名なんだ……彼女が自覚がないだけで。僕はそんな子に好きになってもらえていいんだろうかとさえ思えてくる。 「大蔵くんはあれだ、コードネームっていうか、メイドさんとしての名前を考えておいてね。女性として勤務してもらうから」 「あ……それなら、もう決めてあります」 「そうなの? 用意がいいね。それじゃ、早速明日から来てください。僕は昼前には店に戻ってますんで」 「はい、よろしくお願いします!」 「あー、忘れてた。うちの制服があるんだけど、仕立てるのに結構時間がかかるんですよ」 「うちのメイドから借りてもいいんだけどね。ふたりから制服を変えようかと思ってるんで……そのデザインも決まってなかった。あー、どうしたもんだろ」  結構行き当たりばったりだな……というか、僕と湊が即日スカウト出来るとは思ってなかったんだろう。 「あ、そうだ……僕の方はメイド服を持っているので、それで働けませんか?」 「えっ、そうなの? あれ、じゃあ経験者っていうこと……? 道理でオーラが出てるわけだ」  お嬢様に仕えるメイドをしていた……という意味では、メイド喫茶よりも本格的かもしれない。 「分かりました、通勤のときに持ってきてもらえると助かります。絶対じゃないんで、できたらでいいからね」 「……ど、どうだった? 今の話を聞いてて、何となく分かったけど」 「うん、大丈夫だった。メイド服も持参のでいいって。着慣れてるからちょっと助かる」 「ああこれね。ルナもこんな場面を見越して渡してくれたんだろうけど」 「絶対予想もしてないと思う」 「だよね。これきっとルナなりに私たちの同棲生活を気遣ってくれた結果だよね。ありがとうルナ。私のメイド服姿、けっこうゆうちょに好評で週に一度は使ってます」 「不純な目的で使用してごめんなさいルナ様。違うんです、僕から希望したことは一度もないんです」 「湊が手近にあったという理由だけでこの服を着たりするから、あくまで普段着の一着として使用しただけなんです。申し訳ありません、お優しいルナ様」 「相変わらずルナへの忠義すごいなこの子。てか見てほら、また着ちゃった。似合う?」 「うん」 「私のメイド服姿の感想が二文字!」 「じゃあなんだよ、私の感想が二文字なら、ゆうちょが着たらどんだけのもんだっつんだよ。おまえちょっとこれ着てこい」 「え……どうして僕は似合うよって誉めたのにからまれてるの」 「や、久しぶりに朝日に会いたいと思っただけなんだけどねー」 「いま目の前に朝日いるよ。今すぐ会いなよ。こにちはー、朝日でーす。好きな朝日は初日の出でーす」 「キミゆうちょだよ。まず髪型違うし。それと朝日はもっと素直だから、そんなルナみたいな喋り方しない」 「やめてよ。ルナ様はもっと喋り方丁寧だよ。ルナ様を馬鹿にしたら僕怒るから」 「私が怒るわ。キミ彼女の前でなに他の女に様付けしてんの。どうしてもルナに様付けしたかったら、今すぐ朝日になって出直してきやがれコンチクショウ」 「いいよ、ルナ様の為なら全然普通に着替える。だって僕、ルナ様を呼び捨てになんてできないし」  そして僕は湊の計略に乗せられ、まんまと着替えさせられた。ウィッグ付きで。 「かわいい」 「そう? 久しぶりだからちょっと違和感」 「いや私よりかわいいなコンチクショウ」  僕は八つ当たりされていた。 「なにもー、なんでそんなかわいいの? うっはー。これ女の私でも、階段昇ってるの見かけたら慌てて真下へ走るかもだぜ」 「犯罪だからね?」 「ねえねえ朝日、ちょっと来て。朝日のこと撫でたい」 「僕、遊星だけど」 「…………」 「あ、もしもしルナ? 君のとこのメイドどうなってんの、私に口答えするんだよ。ちょっと先輩メイドの教育が行き届いてないんじゃないの。八千代出せ八千代」 「やめてよ!」  というよりルナ様なら僕も話したいから変わってよ! 「あ、山吹先生お久しぶりです。はい湊です。いやあ先生もお元気そうで何より……え? 教育が行き届いてない? さあ何のことだかさっぱり」  そして本当に八千代さんが電話口に出てきて、叱られた湊は涙目にさせられていた。 「はい、元気です。寒い時期ですから、ルナ様もお身体にはお気をつけて……はい、はい。ありがとうございます、お優しいルナ様。私は東京に住んでいた頃と全く変わっていません」  そのあと電話を代わってもらった僕は、ルナ様と久しぶりのお話をさせてもらった。 「なんだよ完全に朝日モードだよ。フンだ、私よりルナにばっかり優しいよ」 「あ、湊とですか? はい、とても仲良くやってます。毎日が楽しいです。いつも笑ってばかりです」 「ありがとうございます。ルナ様にそう言っていただければ、私も幸せに暮らしていられます。またいつかお会いできる日まで、どうか健やかなままで。おやすみなさいませ、ルナ様」  ルナ様は僕と湊のことを心配して、温かい言葉を掛けてくれた。本当に優しいひとだ。 「あのね湊、ルナ様が僕と湊が楽しく過ごしているか心配してくれて――」 「ううっ、うっ、ううう〜……ルナ、ルナああああっ……なんて優しい子だよぅ」  わあ。  感動屋の湊は涙をぽろぽろこぼしていた。というかそれ、本物の涙? 「それとゆうちょオブ朝日の言葉にも感動したっ……! 私もうゆうちょ大好き! そして朝日も大好き!」 「う、うん、ありがとう。僕も湊のこと好きだよ」 「うわあああー、さっきは生意気なこと言ってごめんなさい! 今すぐゆうちょオブ朝日を喜ばせてあげたい! わ、私、今すぐ二人とも抱くー!」 「わあ」  僕と朝日は押し倒された。空気的に断りにくいけど、ここのとこ毎日なのは体力的に大丈夫かな。 「私は悟ったね――」  何故か湊は上級者ぶっていた。 「エッチってのは楽しくやるべきだ!」 「その考え方自体に異論はないけど、どうして今それを?」 「ゆうちょをおちょくり、朝日を愛してみたいからだ!」  まあこんな格好させられた時点で、こんな展開がわかってはいたけど。 「というわけで今日はイメージプレイでいこう! 私! 秋葉原という土地を詳しく知らずに来てメイド喫茶に初めて入った性質の悪い強面のお兄さん!」 「テンション高いなあ……」 「朝日! 当店の人気ナンバー1メイド! はいスタート!」 「止めるどころか、異論を挟む余地もないんだね」 「おうおう姉チャン、メイドさんなンやってなあ。メイドさんちゅうたら何でも言うこと聞いてくれるんやろ」 「脱げや」 「店長、警察呼んでもらえますか――」 「それをやったらイメージプレイ終了だよ!」  強面のお兄さんは慌てて僕を引きとめた。弱気な強面のお兄さんだ。 「ゆうちょ? こういうのはお互い入りこまないと楽しくないよね? 二人の協力の元に為されるべきことだと思うよ? 君は共同生活において――」  何故か僕は説教をされた。 「じゃあ設定を変えよう。私はシモネタ大好き風のレストランのエロ店長。朝日は当店の人気ナンバー1メイド。いいね?」 「人気ナンバー1っていうのは必要なの?」 「その方が萌えると思うんだ。はいそれじゃスタート! あーおほんおほん。小倉君、ちょっといいかね」 「はいなんでしょう店長」  とにかく湊が楽しそうにしているので、僕は付きあってみることにした。 「君も当店のナンバー1になったことだし、自覚も出てきたと思う」 「人気が出るということは、それだけ覚悟がいるということだ。君も追われる立場として不安も多いことだろう。そこで閉店後に二人で特別レッスンをしたいと思うのだが」 「はい」 「迷惑な客が来た際の対処法についての勉強をしよう。一流のメイドは接客も一流。どんな難題が降りかかろうと、慌てず騒がず落ちついて対処するんだ」 「というわけで、まずは俺が強面の兄ちゃん役をやろう」 「また強面だ!」 「脱げや」 「しかも言ってることさっきと同じ!」 「この店のために俺が新メニュー考えたったから姉チャン作ってみいや」  どうしても今日はこの展開をやりたいってことなんだろうな……僕は諦めて従うことにした。 「じゃあはい、スカートめくって」 「え、ここから素……? それは拒否権ないの?」 「まあまあ私を信じて。気持ちよくしてあげるから、はい座って」  とりあえず湊から勧められるまま椅子に座った。 「はいじゃあ、デコレーションします」 「なにしてるの!?」  湊はどこかから持ってきた生クリームの入った絞り袋で、僕の身体の一部をデコレーションし始めた。  しかも生クリームだけに留まらず、チョコペン、チョコスプレーまで装備しての完全遊ぶ気満々だ。 「実は今日、知り合いのおばちゃんとこで大量にこの手のアイテムが余っちゃったらしくて。少しお裾分けもらってきた」 「やめようよ……食べ物粗末にしたら駄目だよ?」 「粗末にしないよ、全部舐めとるから」 「…………」  そういう問題なのかな、これ……。 「じゃあいただきます。れろり」 「んっ」  う……行為自体は誉められたものじゃないけど、舐めとられるのは気持ちいい……。 「いやこれナイスアイデアじゃない? 前からしょっぱくて舐めにくいとは思ってたんだよ!」 「これならガンガンいけちゃうね。はいそれじゃあもっかい付けてー」 「うう、なんだろうこの背徳感。やっぱりやめよう……」 「んー……れろっ」 「んっ」  気持ちいい……。 「れろ……ぴちゃ、れろっ……ん、ちゅう……れろっ、んっ、れろっ」 「うは、あまぁい……れろっ、れろ、ぺろっ……れろ、ちゅう……れろっ」 「んふふふ……最初はこのプレイに否定的だった朝日ちゃんも、随分と気持ちよそうな顔してるねえ? ええ?」 「また新キャラ? 今度はなに?」 「気持ちいいなら素直にそう言ってくれれば、もっとよくしてあげるよ? ほらほら、ぺろりぺろり」 「うっ……湊、上手になった?」 「何度もしてるからね。ゆうちょの喜んでくれるツボはわかってきた。ん、れろっ……れろれろ、るろろぉ……れろっ」 「れろん、れろっ……れろ、るろぉ……れろぉ、れろっ、んっ、れろっ……生クリーム、足りなくなってきた」 「あ……じゃあこのアブノーマルなのは終わり?」  よかった……ちょっと気持ちよかったけど、あんまり普通じゃないことをやりすぎて癖になるのも……。  まあ生クリームなんてそうそう用意できないか。 「じゃあ次ははちみつ祭りの開催だ! ヒャッハー!」 「ちょっと!?」  今度は僕の身体の一部が飴色に覆われた。 「や、やめようよ、はちみつ祭りとかそういうのいいから……」 「ハニー・サンライズ・フェスティバルの開催だあ!」 「英語もいいから……」 「ゆうちょの性欲はどこにあるの? なにをすれば喜んでくれるの? はちみつだよ? 普通考えなくない? 喜ぶべきだよ?」 「普通がいい」 「れろん」 「うわっ……」  ローションのような液体に包まれての舌の感触は滑らかだった。 「れろ……れろぉ、ちゅぷ……あはは、あまーい。れろぉ……んむ、れろっ……」 「ぺろ、れろっ……んちゅう……れろっ、れりゅ、れろっ……ちゅぷぅ」 「はっ……う、ぅ……気持ちいい、けど……」 「しかもはちみつ効果でお肌もすべすべに違いないかもだ」 「こんなところすべすべにしてどうするの……やめてよ」 「あははっ。ごめん、そんなかわいい顔でやめてって言われると、昔のゆうちょみたい」 「だから逆効果なんだぜ。よけい可愛がってやりたくなっちゃうかもだ」  またはちみつかけてる……もう全くやめる気ないこの子。 「でも反応してる僕にも責任あるのかな。うん。わかった認めるよ。気持ちいい」 「よっしゃゆうちょが乗ってきた! じゃあたっぷり気持ちよくしたげるから、まあまあ楽しんでってよ」 「れろぉ……んっ、れろ……」 「ん……気持ちいい」 「はっ、はあっ……れろ、れろっ……んちゅ、れろっ……れろぉ」 「ちゅっ、ちゅ、れろぉ……れろ、れろっ……んむ、れろっ……はっ、はぁ……んちゅっ」 「れろっ、ん、れろ、んんっ……おいし……あまぁい……へへ」 「湊はいっつも僕を楽しませようとがんばってるなあ」 「そう? いっつもこんなもんだよ私」 「別に深い考えとかあるわけじゃないし、せっかく一緒に暮らすなら楽しい方がいいもんね、毎日……」 「うん毎日」 「毎日……これからずっと一緒だもんねえ。毎日楽しくしたいよね」 「ありがとねゆうちょ。私と一緒にいてくれてありがとうだよ。ほんとうに」  それまでけらけら笑っていた湊の動きがぴたと止まった。 「あー……なんでちょっぴりメランコリックになるようなこと言うかなあ……って言ってないか。楽しく暮らそうって言っただけか」 「そういえば僕も毎日楽しく暮らすのが夢だった」 「え?」 「もう遺書まで決まってるんだ。だから湊と一緒でよかった。本当、毎日が楽しくなるから」 「おーい、はちみつ塗ったくられた状態でなにゆってんのこのひと」 「なんだよーしんみりさせて途中でやめさせようって魂胆かよう。ちっ、少し作戦に乗っちゃったよ。そんなにはちみつが嫌かい?」 「うん、普通に嫌だよ。湊にされるのは嫌じゃないけど、生クリームとかはちみつはもういい」 「せっかくゆうちょはこういうの好きかなと思って用意したのに」 「どうして僕がはちみつ塗られるのが好きと思ったのか聞きたい……」 「頭きた。これから本気でイジめてやっから覚悟するんだな!」  湊ははちみつをポイ捨てして、もぞもぞと僕の足の間に潜りこんできた。最後までする気満々だ。  ここまで来たら、僕も、うん、湊にしてもらおう。恋人が愛しいし。  今度は湊がはちみつの残りを舐めとるかのように、ぱくりと咥えこんだ。  れろりと舌が絡みつく。さっきは冗談で言ったけど、本当に湊は上手くなってしまった。 「れろ……ちゅ」 「んー、れろれろれろ……れろろ……ちゅう、ちゅぱっ」 「んむぅ……ちゅぱ、ちゅぷっ、ちゅぶっ……んちゅうぅ……ぷは」 「はあ……うんやっぱり甘い方が舐めたときに舌が絡みつく強さは違うよ? 我ながらナイスアイデアだと思ったんだけどなあ」 「絶対最初はそんな狙いなかったよね? 普通に遊んでただけだよね?」 「ヘン、なんだよぅゆうちょは。朝日みたいな顔ばかりしやがって」 「紛うことなく朝日だからね」 「てかまだ正体知らなかった頃に、この子かわいいなあ、将来絶対素敵な彼氏見つけて幸せになるんだろうなあ、と思ってた自分が死にたい」 「自分ではそこまで言われるほどだと思ってなかったけど、そういうものなの?」 「だってこっち来ても男の子にモテてるんでしょ? 男の子に告白された数は? 女の子に告白された数は?」 「比較したくない……」  客観的な事実として数字で比較されると一目瞭然だった。 「そんな人気の女の子を独り占めできるなんて幸せ者だね私は。はいゆうちょ声出して」 「絶対ヤダ」 「じゃあ出させる。んむっ……ちゅぷ、ちゅうっ……」 「う……ん、はあっ……」  なんだかおかしな方向に誘導されたけど。  声……はさすがに出ないよね? 湊はけっこう大きな声出す子だけど、正直、他のひとがどういう風にしてるのかわからないから、そもそも声を出すのが普通なのかどうかもわからない。 「ちゅぶ、ちゅうっ、ちゅるるぅ……ちゅぱっ、んちゅ、ちゅっ……じゅる、じゅぱっ」 「じゅぱっ、じゅぽっ、んじゅるる……じゅぷ、じゅるっ、んじゅるぅ……じゅぽんっ!」 「ぅ……」  気持ちいい……さっきまで何度も舐められたのもあって、もう昂ぶってきた。 「うわあ……朝日の顔でそんな切ない顔されると、本当に女の子としてるみたい。レズとか百合ってこういう感覚なんだ」  喋ってる間も、湊はがっしゅがっしゅと僕の身体の一部を擦っている。 「朝日のこういう顔、見たいと思ってる子いっぱいいるんだろうなあ」 「やめて……素で傷付くから」 「ああ、ごめんごめん。ちょっと私も感覚おかしくなってた。んじゃ、したげるね」  再び口の中へ体の一部が呑みこまれ、僕はすぐ限界寸前まで追いこまれた。 「はっ、はあっ……」 「んじゅっ! じゅるっ! じゅぽっ、んじゅっ……れろろろ……れろっ、れろ、じゅるうっ!」 「じゅっぷ、じゅぷ、んちゅっ! んじゅううぅ……じゅぱ、じゅぽっ、んちゅっ!」 「ちゅぱ、ちゅるっ……じゅぶっ! ぢゅっ、ぢゅるっ、ちゅぱっ、じゅぽぽ……んじゅうっ!」 「はっ、で、出ちゃっ……!」 「じゅぽ! じゅぽっ! ぢゅぽんっ! ぢゅぶ、じゅぶるっ! じゅぶんっ!」 「やっ――はああっ……んっ!」 「ふああっ……あああああっ……!」 「んぶっ!? んむっ! んむ、んむむっ……んぐ、ごくっ……ふはっ……ふぅ……」 「ふふ……ふはははは……やってしまった……あっさり朝日に声を出させてしまった」  湊は今世紀稀に見るドヤ顔で果てた僕の顔を眺めていた。  それがあまりに悔しくて、僕はとても認めたくない気分になった。うんそう、声なんて出してない。 「違うよ。今のあれ、ただ目の前に蚊が飛んできたから驚いただけだし」 「え、うそ?」 「本当。湊にされたからとかじゃ、全然ないし」  僕はそっぽを向いた。これを認めることは、心が犯されたのと同義だと思った。 「ていうか、冬に蚊なんて飛んでるわけないよ?」 「飛ぶよ。一年に一回くらい。超高速でバヒューン!って」 「うわっ、朝日が生意気なこと言ってる……お屋敷じゃこんなこと絶対なかったのに」 「つーん」  だけどそれは新たなる戦いの火種を投下しただけだった。 「わかった……じゃあもう一回やる」 「えっ……」 「もう一回やるよ。それで声出さなかったら朝日の勝ちでいいよ」 「も……」  もう一回って。いま出したばかりで、敏感になってるのに。 「じゅぷっ! じゅぽっ! じゅるっ、んじゅっ! じゅるっ、じゅるるっ!」 「ひっ! だ、駄目だってば……やっ、湊、待って……んっ! ふあ、あっ!」 「ふうっ……じゅぶっ! じゅぽ、じゅるっ! んじゅっ、ちゅっ、はっ……んじゅるっ! ちゅばっ!」 「ご、ごめんっ、やっぱ無理っ……はっ、やっ……! んくっ……ううっ」 「んふぅー……じゅぷじゅぷじゅぷっ! んじゅっ、じゅるっ、ちゅぱっ!」 「はっ、や、ごめんなさい……はっ、はあっ、んっ……やっ」 「じゅぶっ! じゅぶ! ちゅるっ……れろれろ……んちゅっ、ちゅうっ」 「じゅぽっ、じゅるっ、んちゅうぅ……ちゅばっ、ちゅぽっ、んちゅうっ」 「無理……声、出したから……だから、待って……」 「ん……ぷはっ、あれ降参? 朝日、参ったするのはやーい」 「だってこれ、僕が負ける条件ははっきりしてるけど、湊には負ける要素ないよね……無理だよ、勝ち目ない……」  体から力が抜け、僕がくてりと体をしならせると、湊の目がキラキラ輝きはじめた。  え……うそ、参ったしたのに……? 「朝日はかわいいなあ……これはちょっと、女でも惚れそうになる。私、自分がノーマルだと思ってたけど、ちょっと怪しいなあ、たはは……」 「う、うん……惚れてくれるなら許して?」 「でもほらさっき嘘を付いたお仕置きをしないと」 「というわけで指を入れます」 「やめて!」  だけど湊の動きは速かった。じわじわ殺すタイプではなく、瞬殺の動きで自分の唾液を僕の後ろに付着させる。 「ダイジョブダイジョブ、前は前でちゃんとしたげるから」 「えっ、待って、だってされるとキツいからやめてもらったのに……んっ!」  ぬぷり。湊の指が僕の体内へ侵入した。 「うわあ……ゆうちょの中、あったかい……」 「ううっ、うっ……湊にこんなことされるとは思わなかった……」 「や、ごめんね、朝日の顔見てたら目覚めちゃって。でも大丈夫、女の子と付きあうにしても朝日だけだから」 「男だよ」 「そっか、男の子か。じゃあこの中途半端なままじゃ朝日も困るだろうし、最後までしてあげるから」  いやもう充分してもらったけど……と言っても「大丈夫大丈夫」としか言われない気がしたから、僕はもう抵抗するのをやめた。 「じゅぷっ! んじゅっ、ちゅぱっ! ちゅううぅ、んちゅっ……じゅぷ、んじゅるっ!」 「んじゅっ! ちゅうぅ……ん? ちゅぱっ、ちゅっ……んふふふー、ちょっとへこたれてたけど元気出た」 「じゅるっ、ちゅぱっ、ちゅうっ、んちゅっ……ちゅ、んちゅっ、ちゅば、ちゅばっ!」 「はっ、はあっ……あ、ふあっ……ま、またっ……」  込みあげてくる射精感。もう手にも力が入らず、僕は喘ぎ声をあげることしかできなかった。 「じゅぶっ! じゅぽっ! じゅるっ! じゅるるっ……んじゅっ!」 「はっ、やっ、無理っ……はっ、はあっ、んっ、くっ……!」 「ちゅぱっ! じゅばっ! じゅぽっ、ちゅばっ、じゅるるぅ」 「じゅぷっ! じゅぶぶっ! じゅるるっ! ぢゅうううっ!」 「出っ、ちゃ……あ、ふあああああっ!」  インパクトの瞬間、湊が僕の顔を今世紀稀に見るドヤ顔(二回目)で見ていたのが悔しかった。 「やっ、んっ! んんっ、やあっ……! あ、あああああああっ!」 「んぐっ……じゅるるっ……んぐっ! んぐ、ごく……ごくん……ちゅうぅ……」  湊は二度目の限界を超えた僕の部分を吸い、最後の一滴まで絞りつくした。 「ぷは……朝日、今度は量が少ないよ?」 「当たり前だってば……もう無理……」  というよりしばらく無理……明日もし湊が誘ってくれたとしても、ごめんなさいしよう……。 「朝日ー、私の彼女になってくれる?」 「湊様とはお友達です……」  湊から人生三度目の告白もされたけど、今度はお断りさせてもらった。  僕らがメイド喫茶に勤務し始めて、2週間が過ぎた。  勤務先には電車で移動する必要があるけれど、時間的には大学の学食や、工場に通うのと大差はなかった。  僕はメイド服を着ると、水を得た魚みたいに身体が動いてしまって……すぐに仕事に慣れ、新しい職場に馴染むことができていた。  休みの日は湊と合わせてもらうことが出来た。6日勤務で1日休みなら、メイド喫茶の休日と被る……シフトも同じ時間で大丈夫だった。  メイド喫茶にはじゃんけんだとか、オムライスに絵を描くとか、コーヒーを目の前で入れるというサービスがある。人気のあるメイドさんは、そういう時によく指名される。  その指名回数が貼りだされて、下位の人は発破をかけられたりする。僕の順位はというと……。 「ちくしょー、またしてもトップをゆうちょに取られた……私、また三位だよ」 「元トップの嬉野さんが、『小倉さんには負けたわ』って言ってたよ。すっごいいい顔してたよ」」 「嬉野さんの接客技術は凄いと思うんだけど……どうして僕が一位なんだろうね」 「うわっ、天然だ。天然で一位を取ったことをアピールしてる……トップの余裕を感じるよね」 「ご、ごめん……本当に不思議だっただけなんだ」 「女として自信なくすなー。ゆうちょは指名されすぎて、最近疲れてすぐ寝ちゃうし。ふんだりけったりだよ」  そうは言っても、ほぼ毎日仲良くしてるんだけど……前は二時間とか平気でエッチしていたけど、最近は自嘲気味になったというだけだ。  しかし湊は拗ねてしまったみたいで、体操座りで向こうを向いてしまった……何ともせつない。 「今日はお休みだから、元気だよ。しばらく出来なかった分、いっぱい頑張るから」 「湊の食べたいものを作るし、何でもするよ。だからこっちを向いて」  必死にお願いしてみると、湊のリボンが反応するみたいにぴくぴく動く……そして。 「……なんてね。ゆうちょに負けるなら全然気にしないよ」  振り返った湊は、そのまま僕の膝の上に身体を預けるようにして甘えてくる……まるで大きなネコみたいだ。 「メイド喫茶って、来るお客さんの目がきらきらしてるよね。男の人だけじゃなくて、女の子同士のお客さんとかも来るし」 「うん……そうだね。想像してたのとはちょっと違ってた」  あまりに出来すぎた話で、最初は身構えていたけど……仕事を始めて一時間で、僕の心配は消えていた。 「店長さん、『小倉朝日』って名前だけで、もうひとつの店をやってけるくらいだって言ってたよ」 「それで、嬉野さんを1号店のトップに置いて、ゆうちょを2号店のトップにするのもいいって言ってた」 「一つの店にスターがふたりいると、人気の食い合いになっちゃうから」  確かに、それは少し感じていた……うちの店の集客は日々良くなっていたけど、席数が足りなくて、待ち人数が多いと帰ってしまう人も多い。 「2号店は、メイド喫茶の本場で勝負するために、東京で出店したいらしいよ」 「資金があれば、すぐにでもお店を出せるんだけどね。私達が頑張れば、そのうち実現するのかなあ」 「うん。それくらいの気持ちで仕事をすれば、広橋さんが雇ってくれた恩にも報いられると思うよ」  こっちで暮らし始めて感じるのは、他人との繋がりにどれくらい支えられているかということ……どれだけ有難いものかということだ。  メイド喫茶に勤務し始めたのも、ひとつの繋がり……大切にしたいし、可能性があるのなら模索したい。  その日の夜、明日に備えて休もうかというところで、瑞穂お嬢様から電話がかかってきた。 「そう、メイド喫茶で仕事を……メイド喫茶?」 「恥ずかしながら、少し前から勤めさせていただいています。湊と二人で」 「どこのお店? 可愛い制服のところ?」  あれ……瑞穂お嬢様の食いつきがいいな。アイドル好きは、確かにメイド喫茶好きに通じるものがあるけど……お気に入りの人を贔屓にするという意味で。 「こちらでは人気のある店で……」  僕は店名を教える。すると、瑞穂お嬢様も知っているみたいで、『ああ』と感嘆混じりの返事をした。 「あのお店の制服を朝日が……居ても立っても居られないわ、お店ごと買います」 「す、すみません……私、桜屋敷に居た頃のメイド服を着て勤務してるんです」 「そうなの? だったら朝日だけ、すごく本格的なメイドさんってことにならない?」 「湊もそうです。私と湊の制服、すごく評判がいいんですよ。本物の面目躍如ですね」 「この制服で、東京に二号店を作ろうっていう話も出てるんです」 「え? 作れない理由が何かあるの? 朝日のお店、そんなに繁盛してるのに」 「まだ、それだけの資金がないんです。もう少し時間がかかりそうですね……それで、瑞穂様。お嬢様がたの近況は……」  話題を変えようとしたけど、瑞穂お嬢様が全然返事をしない……どうしたんだろう、と思った瞬間。 「私が出資します!メイド喫茶大好きです!」 「え……えぇっ、み、瑞穂お嬢様、それは……」 「東京は確かにメイド喫茶の激戦地だけど、朝日と湊が居れば勝てるわ。いえ、もう勝ったわ」 「か、過去形ですか……でも、そんなに大金を……」 「お金のことは心配しないで、何とかするから。朝日が出ていってから、何か出来ないかとずっと考えてたの」 「お店を出したら、朝日を店長にしましょう。それだけ人気があれば、カリスマ店長として一気に有名になると思う」 「店長さんの連絡先を教えてください、すぐに相談します。さあ、さあっ」 「は、はい……」  瑞穂お嬢様の熱意に押され、僕は広橋店長の電話番号を教えた。男性だと言うと、北斗さんに代理で通話させると言っていた……彼女の男性嫌いは相変わらずだ。  数日後には、花之宮家とうちの店との間で提携契約が結ばれ、姉妹店が東京に出店することになっていた。  急な展開だけど、本当のことだ……前々から言われていたとおり、僕は二号店の店長として、東京に行くように言われている。  湊は両親のことを考えて、こっちに残る必要がある……そう思っていた。けれど……。  しばらく連絡のなかった湊のお父さんから、電話がかかってきた。湊は急いで電話に出る。 「お父さん……うん、私は大丈夫。ゆうちょと二人で、元気にやってる」 「ちゃんと暮らしていけてるよ。お父さんのおかげで、町のみんなも良くしてくれたし……」 「……えっ!? ほ、本当に……?」  湊が驚いたような声を上げる……何があったんだろう。彼女は目を見開いて、その瞳を潤ませている。 「……良かった……ほんとに良かった。お父さんのことも、みんなが助けてくれたんだ……」  その言葉を聞いて、僕は頭上にかかっていた薄い雲が、晴れていくように感じていた。  ……僕の軽率な行為で始まってしまった、湊の家の長い苦しみ……それが、今終わろうとしてる。 「借金いっぱい……大丈夫、私たちも協力する。お父さんお母さんに、産んでもらった恩返しだよ」 「……そのために、ゆうちょと一緒にもう一度東京に行きたい」  湊は僕の方を見やりつつ言う……僕は胸がいっぱいで、ただ頷くことしかできない。  彼女に手招きされ、僕は受話器を分けあって、湊のお父さんの元気そうな声を聞いた。 「お父さん、ゆうちょもここに居るよ」 「おう、お父さんたちも頑張るから。遊星くん、また夏にでもこっちに来てくれよ」 「その時は、お父さんって呼んでもらっても一向に構わんよ。あ、今はどっちかっていうとビッグダディがマイブームな」 「はい……お父さんが一番喜ぶ呼び方を、考えておきます」  お父さんがうれしそうに笑う気配がして、電話が切れる。湊は電話を大事そうに握って、こぼれた涙を拭った。 「……もうちょっと、こっちで暮らすことになると思ってたのに。2ヶ月も経ってないよ」 「うん……でも、本当に良かった。お父さんのことも、僕らのことも」  僕らはもう一度夢を追いかけられる……東京で。何も、諦める必要なんてなかったんだ。  この町で色んな人にお世話になった……明日は、お礼を言って回ろう。  そして、約束しよう……僕らはここで受けた恩を忘れない。また会いにくるって。 「……湊」  僕は湊と見つめ合う……どうするかは、もう決まっている。 「帰ろう! 東京へ!」  お世話になった人たちへの挨拶周りをして、僕らは東京への電車に乗った。  結果的に短い期間で戻ることになってしまったけれど……みんな、快く送り出してくれた。  柳ヶ瀬運輸の再建の目処が立った……だから湊は元通り、また東京で学べる。そのことを、誰もが喜んでくれていた。  僕らは再びデザイナー学院に入ろうと決めていた……フィリア女学院ではなく、他の学校に。  僕は『大蔵遊星』として……男性として、湊と一緒に学びたい。そう思うようになっていたから。  メイド喫茶では、女性の『小倉朝日』として勤め続けることになるけど……ゆくゆくは湊と結婚することを考えると、男としての地盤も築かないといけない。  ジャンに憧れてデザイナーを目指したけれど……僕は彼の下では学べなかったけれど。  大切な人と一緒に夢を追いかけるという動機が、今は僕の行動原理を占めている……恋をすることで価値観が変わったことを、後悔してはいない。  東京に戻って、僕らはどちらが言い出すこともなく……この場所にやってきた。  瑞穂お嬢様にもお礼を言いたい。ルナ様、ユルシュール様にも挨拶したい……メイドのみんなにも。  けれど授業のある昼間は、みんなは屋敷にはいない。また出直すことになるかもしれないと覚悟していた。 「……あ……っ」 「……みんな……」  お嬢様方が、揃って玄関口に姿を現す。まるで、僕らのことを待っていたかのように。 「まったく……ショーの準備で忙しいときに。戻ってくるなら、冬休みにしてくれ」 「何言ってるんですの。朝日……いえ、遊星さんたちが帰ってくるから、休んで迎えるって言い出したのは誰だったかしら」 「朝日……良かった、元気そう。メイド喫茶の店舗はもう見た?」 「いえ、こっちにまっすぐ来ましたから……もう一度皆さんにお会い出来て、本当に嬉しいです」 「……うん、お疲れ。私は別に心配なんかしてなかったが」 「素っ気ないふりをしても駄目ですよ、ルナ様。こういう時は、もっと素直になりませんと」 「じゃあ素直に言ってやる。今さら帰ってきてなんのつもりだ、君はもう私のメイドじゃないぞ」 「ルナ様のおかげです、今僕らがこうしていられるのは。ルナ様に、メイドとして仕えていたから……」 「ちゃんと生活出来るようになったよ。ゆうちょ、メイド喫茶の店員兼店長なんだよ」 「守るべきものが出来ると、こうも違うんだね……朝日さん、ここに居たころと全然違う目をしてるわ」 「……女装でメイド喫茶の店長というのは、凄いことなんじゃないか?」 「朝日は女性で、遊星さんは男性。そこを間違えないで」  瑞穂お嬢様が言うと、みんなは困ったように笑う……彼女はどこまでも本気だからだ。 「あれ……七愛は?」 「さっきまで、そこに居たのですが……あ、あら……? 屋根の上にいるのは、もしかして……」  屋敷の屋根の上に、ひとりの人影が見える……あれは、な、七愛さん……!? 「……2ヶ月の孤独が、私を絶望に追いやった。私はふたりの前で千の風になる」  七愛さんは持っていた匕首を取り出す。みんなが唖然とする中、湊が屋根の上の七愛さんに向かって叫んだ。 「ま、待って七愛っ! うちのお店、全然人手足りてないからっ!」 「……人手?」 「そうっ、うちで一緒に働こうよ! なんなら、また一緒に暮らしたっていいよ!」 「…………」  長く考えるような間を置いて、七愛さんが屋根から姿を消す。そして、普通に玄関口から歩いて出てきた。 「……ルナ様、メイド長、お世話になりました。私、転職します」 「ほう……メイドの引き抜きか。やってくれるじゃないか、朝日、湊」 「生意気なことをするなら、店ごと買収をかけてやってもいいが……しばらくは様子を見てやる」 「その代わりと言ってはなんだが、頼みたいことがある。朝日」 「は、はい……私にですか?」  僕はルナ様のメイドだったころの自分に立ち戻る。ルナ様は少し恥ずかしそうにしながら、持っていた封書を僕に渡してくれた。  そこに書かれてあることを見て、僕は目を見開く。クワルツ賞、一次審査通過のお知らせ……。 「……っ、ルナ様、おめでとうございます!」 「ほんとに憎らしいですわよね。付き人を失って動揺していると思ったらこれですもの」 「一次審査を通ったから、パターンを引く人間が必要だ……朝日、君に頼みたい」 「ルナ様……でも、私は……」 「君が忙しいことは分かってる。だが、それでもお願いしたい……私が信頼できるパタンナーは君だけだ」 「私が学院を卒業したら、二人とも一緒に働く気はないか? メイド喫茶も、ずっと続けられる仕事でもないだろう」 「……ルナ……いいの? 私、そんなに才能ないよ……?」 「適材適所って言葉があるだろ。湊には、湊のとりえがある……私はそれを必要だと思ってる」 「フィリア女学院の学費は少し高すぎますが……必要な技術を教えてくれる学校は、他にもあります」 「あなたたちは、本気で服飾を学んでいました。まだ、勉強を続けるつもりなんでしょう?」 「はい……八千代さんは全部お見通しですね。私たちは、他の学院に通って勉強するつもりです」 「ゆうちょと、一緒に勉強したいんです。ごめんね、ルナ……我がまま言っちゃって」 「ああ……気にするな。湊が遊星を好きなのは、十分過ぎるほど分かってる」 「だから君らは私が起こす会社の社員として、式を挙げてもらう。それが友人としての、せめてもの望みだ」 「ルナ様……」  僕は彼女のことを、尊敬出来る……好感を持てる女の子だと思っていた。何度も、それを確かめさせられるばかりだ……。 「ルナ……ありがとう……っ」  湊は心からの感謝を口にする。そんな彼女の瞳から、ぽろぽろと透明なしずくがこぼれ落ちた。 「その時は、私ももちろん出席して冷やかしてあげますわ。ブーケは要りませんけれど」 「私も。これからも朝日の友達として、近くで見守っていたいし……もちろん、湊もね」 「ユーシェ、瑞穂も……ありがとう。私、みんながいてくれて良かった……」 「……どうせまた、式で泣くことになるんだろ? 今から泣くと干からびるぞ」  そう言うルナ様の赤い瞳も、さらに赤らんでいる……この場にいるみんなが、湊からもらい泣きしてる。  けれどそれは、悲しい涙じゃない……これから幸せになることを、泣きたいほど嬉しいと思ってる証。  ……人生には、色んなことがある。時に辛いこともあるし、遠回りをしたりもする。  それでもこんな素敵な人たちが、傍に居てくれるなら……大切な人が、必要としてくれているなら。  思い描いた夢は、いつか必ず現実になる。その長い道の途中に、紛れもなくこの瞬間、僕たちはともに立つことができていた。  ルナ様の衣装が出品された、クリスマス・フィリア・コレクションを観覧した翌日。僕らのお店は、あるビルの1フロアを借りて開店した。 「すいませーん、注文いいですか?」 「はーい、今行きまーす! 七愛、5番テーブルさんのお片づけお願いね」 「はい、今すぐに。店長?」 「私ですか? はい、今行きます……あ、じゃあ七愛さんはレジの方お願いしますね」 「……ちっ。おまたせしました、3500円になります」  七愛さんは問題児のようなポジションだけれど、その無愛想ぶりがいいと人気で、うちの店ではナンバー3の地位を固めていた。  僕、湊、七愛さん、あとはバイトの子が6人という小さな店だけど……何とか回すことは出来ている。 「七愛さん、12番さんでケチャップの文字入れをお願いしまーす」 「……失礼します、ご主人様。好きに入れてもいいんですか……『〈怨〉《オン》』」 「うん、あと申し訳ないんだけど、僕のことを悪し様に罵倒してくれるかな」 「……向上心の無い者はばかだ」 「あぁ……死にたくなる……メイドさん、君の言葉は僕に生の実感をくれるよ」  七愛さんはぺこりと頭を下げてこっちを通り過ぎる時に『クソ虫が』と呟いている……特殊性癖の人なら、この罵倒も喜んでくれそうだ。  これで健全なのかと思う人もいるだろうけど、意外に上手くいっている。みんな、違うファン層がついているからだ。  むしろ七愛さんのような強烈なキャラは、僕らの店に欠けていた要素と言える。広橋さんに連絡すると、さっそく罵倒を担当する人を雇ったと言っていた。 「おまたせしました、ご注文をどうぞ……あ、はい、あーんパフェですか?」 「これはですね、食べさせてあげることはできないんですけど、わたしたちみんなであーんって言います」 「……それで1000円は良心的すぎる」 「良質なサービスがうちのモットーですからね……はいお客様、あーん」  僕もすっかり慣れてしまったな……老若男女を問わず、メイドとして笑顔を振りまいている。  そのとき、さらにお客さんが2組同時にやってくる……もう席がいっぱいで、待ち合いスペースも満席という状態だった。 「申し訳ありません、ただいま満席で……えっ、外でお待ちいただけるんですか?」 「ありがとうございます! 席が空き次第ご案内いたしますので、少々お待ちください」 「……待っているあなたたちに、七愛が手品を見せます。ここにあるのは何の変哲もない閉じた本」  七愛さんは湊を楽しませるためと、自分の趣味で手品を会得していた……それも彼女の人気の一因となっている。  そんなこんなで、僕らの店は大きな問題にぶつかることもなく……毎日、楽しく営業することが出来ていた。 「ありがとうございましたー! いってらっしゃいませ、お嬢様!」  湊が元気に挨拶をする……メイド喫茶ならではの、『いってらっしゃいませ』という送り出し方で。 「……だんなさま、奥さま、おかえりなさいませ。ご案内いたします」 「柳ヶ瀬さん、5番のご主人様にお料理をお願いします」 「はいっ、うけたまわりましたメイド長! お待たせしました、季節のフルーツのロールケーキです!」  繁盛店として特集されるようにもなって、どんどんお客さんは増えていく。お店の経営は、完全に軌道に乗ったといえる状態だった。  もう少し人を増やして休みが取れるようになったら、僕は湊とデザイン学校の受験勉強を始めるつもりだった。  来年度から入学するなら、試験は1月……もうほとんどの事項を履修してるとはいえ、試験と名のつくものに手は抜けない。  営業時間は夜遅くならない時間までだ。本店では夜間にお酒を出しているけど、二号店はまだディナー営業を本格的には行なっていない。 「今日もお疲れ様でした、皆さん」 「……お疲れ様。湊お嬢様、また明日」 「うん、おつかれー」  七愛さんは当面は、桜屋敷に暮らしている……八千代さんに気に入られてる彼女は、家を出ずにお金を貯めることを勧められていた。  あとになって知ったことだけど、僕がいなくなったあと、ルナ様はお付き無しで学院で過ごされていた……七愛さんは、八千代さんに頼まれてそんなルナ様を見守っていた。  彼女は恩義というものに、とても忠実な女性だ……けれど湊は、そろそろそんな彼女と、普通の友達に戻りたいと言っていた。  悪い意味じゃなくて、彼女は紛れもなく、自分にとっては親友なのだからと。  冬の夜の空気は冷たいけれど、ふたり肩を寄せあって歩けば、寒さはそう感じない。  僕は店を出る時は、細心の注意を払って、女装を解いていた。そんな僕だけど、未だにお店では人気のままだ……。 「これでいいのかな……? 僕、男なのに。そろそろ裏方に回ったほうがいいんじゃないかな」 「何言ってんの、私より人気あるんだから。これからもエースとして活躍してくれないと」 「学校に通うようになったら、僕がずっと店に出るわけにはいかないし……」 「大丈夫、七愛がいるよ。七愛、もうお店のこと全部分かってるし……店長になっても、下の子をしっかり教えてくれると思う」 「私たちは夜のシフトも作って、学校が終わったあとでも仕事出来るようにしよ」  勉強と仕事の両立は大変だ……ルナ様も、こんなことを言ってくれていた。 「別に、屋敷に住んでもいいぞ。君たちの部屋はそのままにしてあるし」  ルナ様は家賃をかなり安めに提案してくれたけれど、屋敷でメイドのお勤めを出来ない以上、それは申し訳なかった。 「お店のこともありますし、近くに住むことにします。そのおかげで、東京で自活する地盤が出来ましたから」 「ルナ……色々考えてくれてありがとう。本当に感謝してるけど、私たち二人で出来るだけやってみるよ」 「そうか……わかった。だが朝日、湊。君たちはうちの社員になるってことを忘れるなよ」  僕はもう一度、ルナ様の服の型紙を作らせてもらっている……お店が終わったあとや、休みの日に少しずつ進めている。  やはり、僕は服を作ることが好きだ……それも、ルナ様のような才気の溢れたデザインで。  けれどそれを職業にするのは、もう少し先になる。勉強した後でも遅くはない。 「……ゆうちょ、プレゼント何買った?」  もうすぐクリスマス……だから僕らは、それぞれに内緒でプレゼントを買った。まだ、ふたりとも互いに何を贈るのかは知らない。 「湊が喜びそうなものを選んだ……けど、はずれてたらごめんね」 「ううん、何でもいいよ。ゆうちょがくれるものなら、なんでも嬉しいよ」  本当は少し不安があった……だけど、僕は誓いを形にしたいと思った。  湊の誕生石をあしらったリング……僕の分はまだないけれど、エンゲージリングとして贈るつもりだ。  そうすることにしたのは、湊のお父さんから言われたこともある。湊のお父さんに仕送りをしたとき、それがそのまま送り返されてきて……。  うちの娘に、指輪を買ってやってほしい。自分たちは大丈夫だ……と。 「……クリスマス、雪が降るんだって。積もるかな?」 「どうだろう……積もったら、桜屋敷に遊びに行こうか。みんなで雪合戦をしよう」 「あはは、それいいかも。でもクリスマスくらいは、やっぱり二人で過ごしたいな」 「……うん」  僕は寄り添う湊の体温を感じながら、返事をする……すると、湊が笑う気配がした。 「ゆうちょ、大好き。これからもずっと一緒だよ」  出会ってからどれだけの月日が経っただろう……僕はふと、そんなことを考える。  ……傍に居られなかった歳月より、彼女の気持ちに気づけなかった時より。僕らの前に続いてる時間は、ずっと長い。  だから、もう二度と離さない……ようやく見つけることの出来た、かけがえのない相手の温もりを。