「しんちゃぁーん……」 それは僕を呼ぶ声。僕を探す声。 「しんちゃーん、どこー?」 「どこにいるのー……」 彼女の声はいつも、風の音にかき消されてしまいそうなほど、小さく、心細げだった。 「しんちゃぁーん、どこぉー?」 すぐ応えてあげればいいのに、僕は口を閉じ、彼女に見つからないよう、ゆっくりと移動する。 「しんちゃんってばぁー」 彼女の声が近づいてくる。 小走りに、けれどたどたどしく、こちらへ駆けてくる足音が聞こえる。 僕は、自分たちよりも背の高い植物の影に身を隠すと、息を潜めた。 「どこにいるのー? しんちゃーん……」 すぐ側から聞こえるようになった声も無視。飛び出して、驚かせてやりたい気持ちも我慢する。 むせかえるほどの花と緑の香りに鼻をくすぐられ、くしゃみが出そうになるのも我慢。 「しんちゃん……いないの?」 僕を見つけられず、彼女は迷っているみたいだ。足音が遠く、近く……ゆっくり、右へ左へと揺れ動く。 「もう、帰っちゃったの……?」 花畑の奥まで入ってきたものの、不安に駆られたのか、とうとう彼女は脚を止めてしまった。 「もう、おうちに帰っちゃったの……?」 おうち――僕の家。広くて大きくて、いつだってコーヒーの香りがかすかに漂っている空間。 「しんちゃん、ひとりで帰っちゃったの……?」 彼女の家は、僕の家の裏。いつもなら手を繋いで、一緒に帰る場所。 「しん……ちゃん……」 今にも泣き出しそうな、彼女のくぐもった声。 だけどこの時の僕は、ちょっとしたイタズラ心から始めたかくれんぼを、やめるにやめられなくなっていた。 この頃――まだ子供だった僕らにとって、この背の高い花が咲き誇る場所は、絶好の隠れ家だったから。 この頃――まだ子供だった僕は、彼女を困らせることにちょっとした楽しみを覚えてしまっていたから…… 「しんちゃん、戻ってきて!」 「…………」 「わたし、いい子にしてるから、お迎えにきて!」 「…………」 「しんちゃん……」 「しんちゃぁん……」 「しんちゃあん……」 「う……」 「うぅ……」 あ、まずい――そう思った時には、もう遅かった。 「う……うわぁぁぁああん」 花畑の真ん中で、彼女はひとり立ち尽くして、盛大に泣き始めていた。 「あぁもうっ!」 こうなるって、わかっていたはずなのに。 僕のせいで泣かすんだって、わかっていたはずなのに。 今さらのように後悔しながら、僕は隠れていた場所から飛び出した。 「!」 一瞬、怯えたようにびくりと身体を震わせて、泣き声すらも飲み込んだ彼女は…… 姿を見せた相手が僕だとわかると―― 「しんちゃん見つけた!」 さっきまで泣いていたのがウソのように、笑顔を浮かべた。 「あ……えっと」 どうしてそんな風に笑えるんだろう? どうして喜んでくれるんだろう? さっきまで、僕は彼女をひとりぼっちにして、寂しくさせて、泣かせてしまったっていうのに…… 「しーんちゃん」 嬉しそうに駆け寄ってきて、僕のことを疑う様子もなく、ニコニコと顔を覗き込んでくる彼女。 僕はただただ後ろめたくて、恥ずかしくて……黙って彼女の手を握った。 「あっ……えへへ」 そのまま彼女を引っ張って、家の方へと歩き始める。 「しんちゃん、帰るの?」 問いかけてくる彼女の声にも、僕は答えない。 ただ、手の平から伝わる彼女の手の感触だけが、やけに熱くて、柔らかくて……照れくさかった。 「……うん、帰ろうしんちゃん」 いつまでも答えない僕に呆れるでもなく、彼女はきゅっと、手を握り返してきた。 決して力強くはない。彼女にしてみればきっと、精一杯握り返してきているんだろうけど…… それはとても弱々しくて……くすぐったいぐらい優しく、包み込んでくるような握り方だった。 「しんちゃんがいてくれて、よかった」 その声につい、脚を止めて振り返ってしまう。 「しんちゃんと一緒で、よかった」 彼女はまた、顔をほころばせる。 どこまでも僕を信じている様子で。どこまでも僕と一緒にいるのが楽しげな様子で。 「……っ」 だから僕は思い知る。 僕は…… 僕は彼女の、この…… 彼女が浮かべる、花のような笑顔が大好きだったんだ。 「…………」 「……すぅ」 「…………んんぅ……」 「……たーくーもぉー」 「やっと見つけたと思ったら……まったく真一ってば」 「…………」 「ホント、呑気な顔して寝ちゃってさ」 「おーい、真一~?」 「寝ぼすけしんちゃん、朝ですよ~」 「…………」 「…………」 「…………」 「……起きないわね」 「ちょっと真一~、この純情可憐な幼なじみを ほっといて、いつまで寝てんのよっ」 「…………すぅ」 「まったくもう、失礼しちゃうわね!」 「そっちがその気なら……」 「すぅー……」 「…………」 「そんな無防備に寝てると、今すぐここで裸に ひん剥くわよ、〈西村真一〉《にしむらしんいち》っ!!」 「!?」 耳元に雷が落ちたのかと思うほど、頭の中で彼女の声がぐわんぐわん轟いている。 「おっはようー、ネボスケ真一クン」 「…………せ、芹花?」 「はいそうですよー、幼なじみの〈水島芹花〉《みずしませりか》さんですよーだ」 「おまけに品行方正、成績優秀、生徒会副会長にして クラスのまとめ役、隣の花屋“すずらん”の美人看板娘 その2! 水島芹花さんですよーだ」 「そんな今さらな自己紹介、わざわざしなくても……嫌と いうほどわかってるし」 おまけに、いくつかウソが混じっているし。 そもそも品行方正な人間が、こんな場所でいきなり『ひん剥く』とか叫ばないと思う。 彼女の恐ろしいところは、本当に僕のジーンズぐらい下ろしかねないところだ。 「あんたこそ、今さらそんなありきたりの反応する前に、 まず起こしてあげた幼なじみに感謝の言葉を述べなさい よ」 ……幼なじみ、か。 夢の中、あの花畑に立ちすくんでいた幼なじみと―― 「ん?」 この、元気で遠慮を知らない幼なじみとは、似ても似つかない。 違うといえば、今いるこの場所だって…… つい、ゆっくりと周りを見回してしまう。 ここはあの、花畑じゃなかった。 見上げればどこまでも広がっているような青い空に、蒼い海。 観光に訪れた人は決まって、この光景を綺麗だって言うけれど…… 僕には色褪せ、くすんだ景色にしか見えない。 見慣れた景色。同時に、見飽きた景色。 僕は、どうしてここにいるんだろう? 僕はどうして、ここにひとり残っているんだろう? 「なぁにぼおっとしてるのよ」 「……いや、そもそも僕がこんなところで寝ていたのは、 誰かさんに待ちぼうけをくらわされたからだよな、と 思い出して」 「ぎくっ」 「あ、あはははははは、まぁほら、いつものことじゃない」 「いつものこと、ね」 悪びれない芹花に、ため息しか出てこない。 強引に付き合わされた買い出しの帰り、浜辺でビーチバレーをしている集団を見つけて―― 芹花は『わ、あの子たち楽しそーう! ちょっと混ぜてもらってくる』なんて言って、僕の返事も聞かずに駆け出していってしまったんだ。 で、僕はといえばその大学生らしい女性たち+幼なじみの、華やかでかしましい輪に加わる気にもなれず…… 近くの草むらでぼぉっと座り込んでいる内に、ついうとうとと……眠気に襲われ、横になってしまったと。 「真一も混ぜてもらえばよかったのよ。とっても気さくな 人たちで、楽しかったわよ♪」 「芹花が楽しかったなら、それでいいじゃないか」 立ち上がりながらそう答える。千切れた草花がジーンズに張り付いてきていたけど、払えば簡単に落ちた。 「ったく、それもいつもの反応だけど……いいの? 接客業がそんな無愛想で」 まるで、家業は僕が継ぐものだと、決めつけんばかりの言い草だ。 「無愛想なつもりはないけど……それに、家なら今は 兄さんがいるし」 「って言ったって、どうせ今日だってあたしが連れ出さな かったら、一日中カウンターでぼぉっとしてたくせに」 「ぼぉっとじゃなくて、手伝い。アルバイトだよ」 「せっかくの夏休みに?」 「せっかくの夏休みだから」 大して大きくもないこの町でも、海に面しているおかげで多少は観光客がやってくる。 僕の家にとっては、常連さん以外のお客さんが立ち寄ってくれる、少ないチャンスのひとつだ。 「真面目というか、なんというかねぇ……」 「……ん?」 「……何?」 芹花は何に気づいたのか、不意に僕へと近づくと、匂いをかぐ仕草をみせる。 「くん……くんくんくん」 居心地の悪い思いを感じている僕に構わず、芹花は満足した様子で一歩離れると、にんまりと笑みを浮かべた。 「コーヒー飲みたくなっちゃった。おごって♪」 「……また?」 ふと思い当たって、腕を上げ、自分の袖口を顔に近づけてみる。 ――さっきまで寝転んでいた草むらの、草の香り以外に、わずかだけど慣れ親しんだ移り香が鼻をくすぐった。 挽かれる前のコーヒー豆の、香り…… 「いつものことじゃない」 「それは香りのこと? それともおごりのこと?」 たまにはきちんとお代を払って欲しい。いつも僕のおごり扱いなんだから。 「あら。しんちゃんってば、長年顔を突き合わせてきた 幼なじみから、情け容赦なく残り少ないお小遣いを 巻き上げるひどい男だったの?」 「芹花に限ってはそれでいいかも、という気がしてる」 「ひどっ! そんなケチな子に真ちゃんを育てた覚えは なかったのに。よよよよよよ」 「僕も育てられてないよ」 そう答えてみても、これが精一杯の反論。 結局は同じ方向に帰るんだから、ウチへ寄るついでに、当たり前のように、芹花はコーヒーを注文するに決まってる。 いつものこと。変わらないこと。 いつから始まって……いつまで続くのか、わからないこと。 「それにしてもさ」 「何よ。コーヒーじゃダメ? ならピーチジュースと オレンジヨーグルトケーキのセットでもいいけど?」 「高くなってるから、それ」 コーヒー単品250円。ドリンク+ケーキのセットは550円。ちなみにケーキ単品なら400円。 「そうじゃなくてさ、これ」 僕は、芹花が『今日どうしても必要なの!』と言い張って買った、ちょっとした雑貨の入ったビニール袋を持ち上げた。 正直、中身はとても少なくて、軽い。 「これ、わざわざ僕が付き合わなくてもよかったんじゃ ない?」 芹花の荷物持ちに付き合わされるのは、今に始まったことじゃないけど……それにしても今日は強引というか、あまり意味がないというか。 「…………」 芹花は呆れたように空を見上げた。 「な、何?」 芹花は答えず、しばらく何もない空を見つめて…… たっぷり5秒は黙っていたかと思うと、急に僕へと顔を向け直して、唇を尖らせた。 「だから、な、何?」 「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~」 呆れられた。ものすごく呆れられた。 「あのねぇ……」 そう呟くと、芹花は人差し指を空に向けて立てた。 「空はこんなに青いっていうのに――」 「……あんたの顔が曇ってたから、誘ったの」 「……?」 「ま、それがいつもの、この季節の真ちゃんだけどさ」 「なんだよそれ。意味がわからないんだけど」 「わからないことが罪、って意味よ。心優しい幼なじみに 対しては!」 「???」 「……はぁ、もーいいわ。 そうね。コーヒーにストロベリーワッフルもつけてくれ たら、許してあげる」 「いやそれじゃ、ケーキセットと変わらないから」 「細かいことは気にしないの♪ さ、行こ行こ行こ」 「あー……もう」 芹花がさっさと歩き出す。まるで何事もなかったみたいに、軽く笑って、屈託なく。 僕らの家がある方向へ。軽くスキップも踏みそうな勢いで、迷いのない足取りで。 もうお互いに、誰かに手を引かれなくても、ひとりでだって帰れる家へ向かって…… これまで数え切れないほどの回数を行き来した、海と家とを結ぶ道。 遠く陽炎すら立ち上りそうな、熱をはらんだ空気。 ぽつぽつと立ち並ぶ家々の、垣根や塀は、夏の陽気と海風にさらされて、すっかり乾いている。 芹花とこうして肩を並べて、この道を歩くのも……もう何度目だろう? それはきっと何日とか、何年単位で数えた方が早い、途方もない時間の繰り返し。 「暑くなってきたわよねー」 「うん」 「そういえば毎年のようにさ、今年は梅雨が長い~とか、 いつもの夏より寒い~とか、お母さんやお姉ちゃんが 言ってるけど」 「うん」 「あたしたちにとって夏っていったら、産まれた時から こんな感じよねぇ?」 「うん」 「……真一って、夏でも冬でもパンツ一枚で寝る派?」 「うん……うん?」 ふたりで家へと向かいながら、芹花の話に相づちを打っていたら、いつの間にか睨みつけられていた。 「あんたさぁ、女の子が話してることにはもうちょっと、 真剣に耳を傾けた方がいいと思うんだけど?」 「聞いてるよ」 「とてもそうは思えないんですけど~。何、今の 『うん、うん』って頷くだけの態度。てきとーに 流されてるようにしか思えないんですけど~」 「だって、同感だったし」 特に反論するようなことじゃなかった。 何より芹花の言うことだから、下手に逆らうと余計大袈裟に騒ぎ立てるだろうし。 「……今、『どうせ芹花の言うことだから、適当に流して おこう。触らぬ神に祟りなし。虎の尾を踏むのは損。 臭いものには蓋』とか思わなかった?」 「そこまで思ってないよ」 「じゃあどこまで思ってたのよー!!」 「内緒」 「白状なさい、この偽善者!!」 「そこまで言う……ん?」 その時、背後から軽やかなベルの音が聞こえた。 僕たちの後ろから近づいてきた自転車が、ぶんぶん腕を振り回して僕に抗議していた芹花と、危うくぶつかりそうになっている。 「芹花、こっち」 「え、きゃ――」 自転車に乗ったおじいさんが、会釈しながら横を通り過ぎていく。 「あ、ごめんなさい」 自分が車や自転車の邪魔になるような位置にまで踏み出していたことを、芹花もやっと自覚したみたいだ。 「真一もごめんね。ありがと」 「僕は別に」 田舎なので、車なんかの交通量が多いのは幹線道路の方だけだからなぁ。この辺りじゃ今みたいに、自転車とすれ違うのがせいぜいだから、油断するのもわかる。 「やっぱりもつべきものは、よく気が回る幼なじみねー」 さっき、まったく気が回らないって言わんばかりに、怒られていたような……? 「いやー、やっぱりあたし、真一がいないとダメね~。 本当は頼りにしてるのよ、うん」 「心にもないこと言わなくていいよ」 「あ、やっぱりわかる?」 芹花はまったく悪びれた様子もなく、ぺろっと舌を出した。やっぱり。 まぁ、お互いにわかってるからいいけど。長い付き合いなんだし…… そんな、いつも通りのやり取りを続けている内に、家の前へ着いた。 芹花の家はすぐ隣の花屋──“すずらん”だ。で、ウチはといえば…… 「何してんの、さっさと入るわよ」 「……やっぱり寄っていくんだ?」 「当たり前じゃない。さ、コーヒーにワッフルに イタリアンスパゲッティ♪」 「いや待って、なんか増えてるから」 「お。お帰り。芹花ちゃんもいらっしゃい」 「おっじゃましまーす!」 「ただいま父さん」 カウンターにいたのは、父さん──〈西村真彦〉《にしむらまさひこ》ひとりだった。あとは客席に何組かのお客さん。 僕の家は、ずっとこの場所で喫茶店を営んできた。店名は“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”。 「おじさん、あたしメロンソーダ。真一のおごりで」 「結局そうなるんだ……」 注文が飲み物だけに減ったから、いいけど。水のグラスを出してくれた父さんは、大体の事情を察しているのか、苦笑を浮かべながら頷いていた。 「真一は?」 「僕はいいよ。それより……兄さんは?」 店内を見回しても、接客している人はほかにいない。父さんがひとりで店番しているのかな……? 「学生時代の友達から連絡があったとかで、少し前に 出かけたよ」 「じゃあ、今日はもうあがり?」 「ああ」 「それなら僕、手伝うよ」 ウチは家族経営だ。父さんが店長で、兄さんが店員。僕はたまに手伝い。 なので奥へ行ってエプロンを取ってこようとしたら── 「いいよいいよ」 「今日はもう、私ひとりで大丈夫だから」 「でも」 「いいから。せっかく芹花ちゃんも来てくれているんだし」 父さんは軽く頷いただけで、芹花の注文したジュースの準備を始めてしまう。 「おじさん、人手不足だったら、あたしがウェイトレス やりましょうか? 夏休みの間だけでも」 「ありがとう。でも大丈夫だから、気にせずゆっくりして いきなさい」 「今はいいですけど、お昼時とか大変そうじゃないですか、 いつも」 「そうでもないさ。最近、駅前にチェーン店もできたから ね。こっちにまでお客さんは来てくれないよ」 父さんはさらりと、まるでウチが儲かっていないようなことを口にした。 長年ここで営業し続けただけあって常連さんも多いし、経営に困っている様子はないんだけど…… 「少なくとも、真一が不景気な顔と地獄の底から這い出て きたゾンビみたいな声で『いらっしゃいませ~』なんて 接客するより、」 「あたしがか~わいいメイド服とか着て、『いらっしゃい ませご主人様ぁ~♪』ってやった方が、断然お客さん 増えると思いますよ!」 「ゾンビは地獄じゃなくて、墓の底から這い出てくるもの だと思う」 「なんでそっちにつっこむねん!?」 怪しい関西弁風の叫びと共に、ぺしと軽くはたかれた。 「だってさ……」 僕自身、自分みたいな男より、女の子が接客した方が受けはいいと思う。 けど、母さんがずいぶん前に他界して以来、父さんは再婚もしていないし、子供は僕と兄さんの男兄弟だし…… 「芹花がウェイトレスをしたいんなら、止める理由は ないかなぁって」 「……えっ」 「えって、自分で言ったんじゃないか」 「いやっ、あの……ねぇ。ほ、ほら! このお店って、 ウェイトレスの衣装なんてないしさ」 「あるよ」 「えぇえっ!?」 「ずいぶん昔に用意したものだけど、今でも使えるはずさ。 奥にしまってあるから、出してこようか?」 「いいいいいいえいえ、結構です! ほらっ、サイズとか 合わないだろうし」 芹花の奴、なんで急にもじもじし始めたんだろう? 「S・M・Lの3種類あったはずだけどなぁ」 「おじさんそこまで本気!?」 「いや、私が用意したわけじゃなくてね」 苦笑、とも少し違う……どこか懐かしそうに、父さんは小さな笑みを浮かべていた。 察したらしい芹花の声が、小さく窺うようなものになる。 「あ……ひょっとして、おばさんの?」 「うん。昔は雅人も真一も子供だったから、アルバイトの 女性をお願いすることもあったしね」 それはそうだ。母さんも幼い僕らの世話におわれて、お店に出られないことがあっただろうし。 母さんが亡くなった後、父さんは再婚もせずにひとりで店を切り盛りしていたわけだし…… 「え、じゃあ、おばさんが着たわけじゃないの?」 「着たこともあったよ」 「それじゃますます着れませんって! 形見みたいな物 じゃないですか!」 「そこまで大袈裟に考えなくていいよ」 「あいつが、誰かに着てもらえるようにって、楽しんで 選んで決めたものだし」 「いやでも、だって…… ねぇ、真一だってそう思うでしょ?」 「いや。いいんじゃないかな」 「……ずいぶんあっさり言うのね」 「だって芹花、着たいんでしょ?」 使わずにしまいこんでいるより、ずっといいと思う。 「だから……着たいか着たくないかと言われれば、それは 着たくないわけじゃないけれど」 「かといって、あたしにそんな可愛い服が似合うかと いえば、それはまた別問題なわけであってぇ~~~」 「着てみてから言えばいいのに」 「恥かいてからじゃ遅いもの!!」 「今度、クリーニングに出しておくよ」 「おじさんも待って! ちょっと待って! 心の準備が できるまで待って!」 「万が一、ひょっとして、どうしようもなく、猫の手も 借りたい! ってことがあったら……」 「お、おねーちゃん連れてくるから!」 「いや、香澄さんは花屋で忙しいだろうし」 僕はちらりと、窓の外に見える芹花の家へ目を向けた。 芹花のお母さん・春菜さんと、お姉さん・香澄さんが、今も働いているはずだ。 「どうせあたしはヒマそうに見えますよ~だ」 「見えるだけじゃなくて、本当にヒマ――」 「誰のためにヒマつくってやってあげてると 思ってんのよー!!」 ほかのお客さんが何事かと驚いた顔をこっちへ向ける中、父さんだけが面白そうに目を細めていた。 「……兄さん、遅いな」 夜になってやっと、芹花は帰った。最後までぷんぷんしてたけど。 けれど兄さんは、夕飯の時間になっても帰ってこなかった。 父さんはまだ店番をしている。今頃は閉店までのあとわずかな時間に、お気に入りの古い曲をかけながら、常連さんとくつろいでいると思う。 「さて、と」 僕はひとりで食事を済ませることにした。いつものことなのでご飯はもう炊いてあったし、あとはレトルトのカレーが温まるのを待つだけ。 父さんは店を閉めてから食べるだろうから、ご飯は保温に。兄さんは……今日はこの分だと帰ってこないか、外で済ませてくるだろうなぁ。 「明日の朝か昼、チャーハンかな」 残りそうなご飯の後始末方法を考えながら、温め終えたカレーを器に移した。ご飯はもうよそってある。 「いただきます」 ひとりきりのリビングで、ひとりだけの食事。 昔は母さんもいて、父さんや兄さんとも一緒に食卓を囲んだ時間が多かったように思うけど…… 「…………ウェイトレス姿なんて、覚えてもいない」 母さんなり、お手伝いの人が着ていた姿を見ていても、よさそうなものだけど。 むしろ、覚えていると言ったら―― 「しんちゃん、これ、かわいい……かな?」 夏の空に映える、薄緑のワンピースに身を包んだ彼女がもじもじと恥ずかしげに聞いてくる。 お母さんに新しく買ってもらったという、シンプルで清楚な印象を受ける、彼女にとても似合ったワンピース。 黙ったまま、目をぱちくりさせている僕に不安を感じたのか、彼女がもう一度尋ねてくる。 「これ、かわいい……?」 「う……ん」 「かわいい?」 「かわいい、んじゃないかな?」 「ほんと?」 「ホント」 「んっ……ふふ……」 小さく微笑む彼女。 控えめな態度がかえって、抑えきれない嬉しさを現していたように……今なら思える。 「これでね、しんちゃんのお店、お手伝いするの」 「僕のじゃなくて、お父さんのお店だよ」 「でも、しんちゃんのおうちでしょ?」 「でも、僕のお店じゃないよー」 「それに、きれいなお洋服でお仕事したら、きたなく なっちゃうって、お母さん言ってたもん」 「そう……なの?」 「きれいなお洋服にコーヒーついちゃったら、 大変なんだって」 「そう……なの!?」 なけなしの知識、聞きかじったばかりの話。 それを口にしただけで、彼女は跳び上がらんばかりに驚いていた。 「どう……しよう」 「うーん……」 スカートの部分を軽く握り締め、もじもじと左右に身体を揺らしている彼女。 「これ、お母さんが買ってくれたの……」 「うん」 そう言っていた。だから汚したくないんだろうってことぐらいは、当時の僕にも想像がついた。 「でも、お手伝い……したいの」 「ジュースはこんだり、ケーキはこんだり、おりょうり はこんだりしたいの」 「う~ん……」 彼女があんまり必死に訴えかけてくるので、僕は少し考え込んでしまった。 子供心に、なんとか彼女の力になりたくなっていた。 彼女の願いを――彼女の願いだからこそ、叶えてあげたかった。 「ん~……あ、そうだ! エプロンつけたら?」 「エプロン?」 「うん。いつもお父さんや、お母さんがつけている、 エプロン!」 「エプロン!」 バンザイでもするみたいに、彼女は両手を挙げた。嬉しげに目を細め、エプロンエプロン♪ と繰り返す。 そんなにまでして手伝いたかったのかな?嬉しいものなのかな? お店で働くなんて、大変なのに…… 「しんちゃんもいっしょにやろ!」 「え……ええ?」 「いっしょに、やろ?」 「僕は……いいよ」 「それじゃ……わたしもやらない」 「どうして?」 わからなかった。あれほどやりたがっていたのに。ついさっきまで嬉しそうだったのに。 彼女の笑顔が、曇ってしまっていた。 「ねぇどうして?」 「…………だって」 「どうして? なんで?」 「……だって…………」 「?」 「…………」 彼女は言い淀んでいた。彼女はこちらを見ようとしなかった。 彼女の笑顔が急にしぼんでしまったことに、僕は動揺するしかできなかった。 「だって…………」 ねぇ、キミはどうして……笑ってくれないの? 翌朝、僕がまだ開店前のカフェに顔を出すと―― 「おう! おはよう真一」 「お、おはよう……」 昨夜、僕が起きている内には帰ってこなかった兄さん──〈西村雅人〉《にしむらまさと》が、カウンター席に座っている。 開店前のはずなのに、店内にはもう、豆を挽いた芳ばしい香りが漂っていて…… 兄さんの手元には、コーヒーカップがご丁寧にソーサーつきで置かれていた。 「ふあ……ぁぁあーあ」 「……朝帰り?」 「ん? あぁ、学生時代の友達と飲んでさ。明け方帰って きて、ついここでコーヒー淹れてる間に寝ちまって」 兄さんはテーブル席のソファをあごでしゃくった。 「お前、朝飯は?」 「キッチンにあったもので、もう済ませたけど……」 「そっか。お前がまだだったら、自分の分と一緒になんか つくってやろうかと思ったんだが」 「まだご飯残ってるよ。昨夜のだけど」 「そりゃあもったいないな。よし、なんかつくるか」 そう言って兄さんが立ち上がりかける。……そこで、初めて気がついた。 兄さんが座っていたスツールの横に、モップが立てかけてある。 床を見渡すと、綺麗になっているみたいだし…… 「ひょっとして、フロアの掃除してくれた?」 「ん? ああ、起きて手持ち無沙汰だったからさ」 「…………」 「お前はまだ寝てたっていいんだぞ。せっかくの夏休み なんだし」 「……いいよ。手伝う」 「そうか?」 兄さんのちょっと呆れたような声を背に、僕は雑巾を取ってこようとした。 別に当番が決まっているわけじゃない。僕らがやらなくても、いつもなら父さんが何も言わずに、ひとり黙々と開店準備を済ませてしまう。 僕も兄さんも、自発的に、手の空いた時に手伝っているだけだけど…… 「窓拭き、まだだよね?」 「ん。ああ」 ……兄さんの、余裕のある態度に、なぜか胸がもやもやざわめいた。 つい兄さんから目を逸らして、窓の外を見てしまう。 そして……その時、窓の外に見えたのは――隣の家からウチの店へと駆け寄ってくる人影だった。 「あっ」 「ん? どうした?」 「いや……」 あっという間に、僕が見つけた人影――長い髪をなびかせながら走ってきた女の子が、勢いよくドアを開く。 「おーっす真一! 今日も元気してるー?」 「……鍵が開いてるかどうかぐらい、確認してから入って こようよ」 「え? なんで? 開いてたからいいじゃない」 「一応、開店前だよ」 普段なら、開店前は掃除を始めるまで、お客さん用の出入り口は鍵がかかっている。 それが開いていたのは……兄さんの仕業、だろうなぁ。 「さっき外を軽くはいたからなぁ、開けっ放しだった」 「やっぱり」 ため息をつく僕に構わず、芹花は遠慮なしに店の奥へと入ってくる。 「何よ何よ何よ~? 朝から不健康な顔しちゃって~?」 「そんなんじゃ今日一日、元気に乗り切れないわよ! 明るい一日は明るい笑顔と元気な挨拶から!」 「……お客様、店内ではお静かに願います」 「ひどっ! なんて他人行儀な。だいたいほかのお客さん なんてまだ、だぁ~れもいないじゃない」 「芹花が騒いでいたら、開店時間になってもお客さんが 入りにくく感じるよ」 「それはそのお客さんの自由です。あたしがいつでも元気 よく人に挨拶するのも、あたし自身の自由です。自由で 平等豊かな国ニッポン! 何か問題ある?」 「はいはい」 「適当にあしらおうとするのは逃げ、負けを認めたのも 同然よ! 文句があったらちゃんと言い返す、言いたい こともちゃんと言う!」 「ないってば」 「んもうっ、張り合いないわね~」 いくら張り合ったって、僕が負けるに決まっているから。元気な芹花にも、何事にもそつがない兄さんにも、僕は敵わないから…… 「芹花ちゃんは今日も元気で可愛いね」 「やん、いつもながらありがとうございまぁす!」 「真一も、それぐらいの社交辞令が普通に言えるといいん ですけど」 「俺のは社交辞令じゃなくて、本音だよ」 「もうっ、雅人さんってば。あたしなんか相手にしてない で、お姉ちゃんとかもっと釣り合う相手にアタックして くださいよ~」 香澄さんと、兄さんか……確かに、年齢的には釣り合っているけど…… 「香澄ちゃんかぁ、高嶺の花って感じだなぁ。 俺にとっては」 「え~、お似合いだと思いますよ。雅人さんとお姉ちゃん。 落ち着いててぇ、しっかりしてて」 「…………ねぇ、芹花何しに来たの?」 朝から兄さんに、香澄さんとの縁談を勧める近所のおばさんみたい――と言ったら、きっと怒られたと思う。 「おおっとそうだった。あんた、ヒマ?」 「……さっき、開店前だって言ったよね?」 「ふむ。さっき、開店前だって聞いたわね」 「だから、その準備があるんだってば」 「そうね。その準備は大切よね」 「…………」 「で、その後は?」 「その後は……」 「その後真ちゃんは、今日も一日ここで過ごすわけ~?」 「真ちゃん言うなよ」 「幼なじみっぽくっていいじゃない」 「っぽくじゃなくて、事実そうだし」 「なら問題ないわよね、真ちゃん♪」 「だから真ちゃん言うなよ」 その呼び方は、もっと小さい頃にこそふさわしかったと思う。例えば―― 「お前らホント仲いいなぁ」 「よくないよ」「よくないよ」 あ。ハモった。というか、真似された? 「って、真一なら言うと思った♪」 「ぷっ」 「兄さん……そこで笑った理由は?」 「いや、仲がいいというより、真一がすっかり 芹花ちゃんの手の平の上で遊ばれてるなと思って」 「そうですね。真一のことなんて全部お見通しですから」 「自分からそういうこと言うかなぁ」 「底が浅いのよ、あんたは」 「……そこまで言うかなぁ」 「やっぱお似合いなんだから、デートにでも行ってくれば いいのに」 「いや、似合わないから」「いや、似合わないから」 「……また」 「だから言ったでしょ、お見通しだって♪」 「……本当にお似合いだと思うんだけどなぁ」 「勘弁してよ兄さん」 「昨日だって一緒に出かけてたじゃないか」 「あれは無理矢理連れ出されただけだし」 「あ、今日は雅人さんも一緒にどうです?」 ……は? 「お邪魔じゃないのかい?」 「ぜーんぜん。真一だけだとホント会話が弾まないって いうか、ひとりでいるのと変わんないっていうか」 「……そんなに言うなら、兄さんと芹花だけで出かければ いいのに」 そもそも今日『は』って……今日『も』僕を連れ出そうとしていたのかな、芹花は。 「やん、すねないでってばぁ、真ちゃぁん」 「そうだぞ。芹花ちゃんは今日だって、お前を誘いに 来たんだろうし。ねぇ芹花ちゃん?」 「ん、まぁ、そうですねぇ」 やっぱり。 「また? 今日も? こんな時間から?」 「こんな時間も何も、夏休みよ? 子供の頃はもっと早い 時間から起きて、ラジオ体操してたじゃない」 「……ああ。あとセミ採りとか」 「あったわね~。脱皮しようとしている幼虫をふたりで じぃーっと観察したり」 「家で水着に着替えて、そのまま海まで駆けていったり」 「あの頃は若かったわぁ……スクール水着に浮き輪なんて、 今じゃ恥ずかしくて恥ずかしくて」 「お店の冷凍庫にあったケーキやアイスを、芹花が ひとりで食べ尽くしたり」 「そうそう! 夢だったのよね~、業務用の容器に たぁっぷりと詰まったラムレーズンアイスを、 飽きるまで舐め尽くすの」 「――って、誰がそないなことしたねん!!」 「ノリツッコミとは。やっぱりお似合いだ」 「いや似合ってないし」 あと、芹花がアイスをつまみ食いしたのは事実だし。さすがにひと箱全部じゃなかったけど。 「クラスでそんなことしてたら、夫婦漫才とか言われない のかい?」 「やだもう雅人さん、学園じゃこんな真似しませんよぉ」 「あたし、こうみえて品行方正成績優秀な優等生で 通ってるんですから」 うんまぁ、間違ってはいないけどね。 「どつき漫才となら言われたことあるよ」 「誰よそんな失礼なこと言ったのは!?」 ……ほらね。たった今もまた、どつかれたんですけど、優等生さん。 「……〈宗太〉《そうた》だよ」 「……ほぅ」 クラスで一番仲が良いと言える男友達の名前を出すと、芹花の目がギラリと光った。 ……ような気がする。 「あの役立たず生徒会長様が、そんなことをねぇ……」 「ふーん、そう。そうなんだぁ……へぇ~~~。 次の登校日が楽しみねぇ、ふっふっふっふっふっふっ」 「……まぁ、登校日よりも前に、その内ここへ顔を 出しそうな気がするから。店内では暴れないでね」 「いやねぇもう、こんなにお淑やかな幼なじみを捕まえて」 ……その淑女に、またはたかれたんですけど、優等生さん。 「朝からにぎやかだね」 「あ、おっはようございます、おじさん! お邪魔して すみません」 「いいよ。自分の家だと思って、くつろいでくれて」 「はーい。うふふっ、おじさんやっさしー!」 「…………」 まぁ、今さら他人行儀もないけれど、店の一角を自分の家のように思われてしまうのは、ちょっとどうなんだろう? 父さん、芹花を甘やかしすぎじゃないかなぁ?昨日といい、特にここのところ、そういう場面が多くなっている気がする。 「残念だけど父さん、芹花ちゃんは真一を迎えに来た みたいだよ」 「そうなのかい。それは確かに残念だ」 「ああっ、雅人さんも! 雅人さんも一緒にですってば、 ねっ?」 「いやいや、若いふたりを邪魔するのはちょっと」 「じゃあお姉ちゃんも誘います! 2対2! それなら いいでしょ?」 「ダブルデートか、ふむ」 「デッ……!? デェ……デ……そそそそうですねぇ、 お姉ちゃんと雅人さんは、デェ~トでもいいですよぉ。 おほほほほほほ」 「ダブルでもないし、デートでもないから」 「魅力的なお誘いなんだけど、なぁ」 僕の否定はさりげなくスルーしておいて、兄さんがチラリ、と父さんに視線を向けた。 父さんはあっさり頷く。 「構わないよ、行っておいで」 「父さんまで」 「店は私ひとりで十分さ」 また、だ。父さんはいつもひとりで……僕らには自由にさせてくれて…… 「ならせめて、ナプキンや砂糖の補充ぐらいはしてから 行くよ」 「芹花ちゃん、ちょっと待っていてもらえるかな?」 「あ、はい! もっちろんですよ~」 「快諾感謝。じゃ、ちょっと待っててね」 兄さんは芹花に向かって軽くウィンクすると、テーブル周りの整頓に向かった。 明け方帰ってきて、さっきまであくびしていたことなんてまるで感じさせない、軽快な動きだった。 父さんは何も言わない。黙って兄さんの好きなようにさせて、自分はカウンターの中に入った。コーヒーやケーキの準備をするんだろう。 そして僕は……僕は…… 「…………じゃあ僕、窓拭くから」 さっきまでするつもりだった手伝いを、やり直そうとした。そのぐらいしか思いつかなかった。 「ん? なら、手伝うわよ」 「……いいよ」 「そう?」 スツールに座りかけていた芹花が、腰を浮かしていた。そのまま、待っていてくれればいいのに…… 「……すぐ、済むし」 窓はそれなりに数があるから、慣れていてもすぐ終わる作業じゃない。それぐらい、芹花もわかっているだろうけど…… 「ん、わかった! 心ゆくまでお務めに励みなさぁい!」 と、スツールにもう座り直して……僕たちが準備を終えるまで、ただじっと待っていた。 「それじゃあおじさん、真一をお預かりしまーす!」 「子供じゃないんだから……」 結局、開店時間の間際まであれこれ手伝ってから、僕たちは芹花に急かされるようにして店を出た。 「さぁさぁ、今日はどこへ行こうかしらね~!!」 「腕引っ張らなくても。 それに、決めてなかったの? どこ行くか」 「決めてから誘ってたら、それこそデートみたいじゃない」 「あんた、あたしと『じゃあお昼に駅前で待ち合わせて、 映画館で今流行りのラブロマンスを観て、それから 喫茶店でお茶しよ♪』な~んて、行きたいわけぇ?」 「遠慮します……」 僕らには今さら、似合わないにもほどがある。 「わっかればいいのよ、わかれば。 楽しいことはどこにだってあるんだから、 行き当たりばったりでも問題ナシ!」 「前向きだなぁ」 「前向きなのかなぁ?」 「さっすが、雅人さんはわかっていらっしゃる! それに引き替え真一ときたら、やっぱり……」 「悪かったね」 別に、ほかに予定もないから、芹花の気まぐれに付き合うのは構わないけど…… 「いいけど芹花ちゃん、香澄ちゃんは?」 「…………へ?」 「へって、誘うんだろ?」 「誰を?」 「香澄ちゃんを」 「お姉ちゃん? うーん?」 「……ひょっとして、忘れてる?」 「はっ……そんっ!? な、わけないじゃない!! お姉ちゃん、そうお姉ちゃんも誘わなきゃねぇ~。 ハハハッ」 ……芹花が香澄さんのことをすっかり忘れていたのは、兄さんを誘う口実として名前を出しただけだからなんだろうなぁ。 「遊びに行きたいからって、適当なことばっかり言ってる から」 「失礼なっ! あたしはいつだって本気よ!! この口は 本音しか言わない、ウソをつかない素直な口だって、 超有名なんだから!」 「宗太が、俺と対等に戦えるのは芹花だけだ、女らしい 遠慮もつつしみもない口だからな、って言ってたけど」 「イツっ」 「あんたも宗太もいっぺん、すぐそこの砂浜に埋めて あげましょうかぁ~……」 「遠慮します」 このままじゃまた漫才が始まりそうな僕たちのことを、兄さんがしげしげと眺めていた。 「やっぱりお似合いのふたりだと思うんだが」 「遠慮させて頂きます☆」 「言うと思った」 「素直で可愛い芹花ちゃん☆ ですもの。 そうよ! あんたとデートみたいな真似したくないから、 お姉ちゃんも誘おうとしたんじゃないの!」 「思い出してくれたんなら、別にいいけど」 兄さん……がいるとなんだか気を遣うけど、香澄さんはあまり気を遣わなくて済むし、暴走する芹花の相手を僕ひとりでしなくて済むし。 「……あんたさぁ、そんなにお姉ちゃんと一緒に行きたい わけ?」 「え? なんで」 「顔に出てた。『こんな口やかましい幼なじみじゃなくて、 香澄さんみたいにお淑やかなお姉さんと一緒がいいん ですぅ~』って」 「いや、そんなこと思ってないし。 そもそも僕とじゃなくて、兄さんを誘うなら香澄さんも 一緒に、って話だろ?」 「あ。うん、そりゃぁ、そうなんだけど……」 自分から言い出しておいて、何を言っているんだろう、芹花は。 「なるほど。本音しか言わない口、か」 「やだ、雅人さんまで疑うんですかっ? 心外だなぁ~。雅人さんだけは、あたしの味方だって 思ってるのに」 「もちろんだとも。俺はいつだって、芹花ちゃんと真一の 味方さ」 「真一はほっといていいです」 「ひど……」 「さぁって、お姉ちゃんお姉ちゃんはっと―― って、いるじゃない。何黙ってるのよ!」 「え?」 “すずらん”の方へ叫ぶ芹花につられて、そちらを見てみると…… その人――芹花のお姉さん・〈水島香澄〉《みずしまかすみ》さんが、ずっとそこで僕たちのことを見ていたのか、ニコニコと微笑んでいた。 その場の空気が変わったように感じたのは、彼女の方から流れてきた、花の香りのせいなのかな? 香澄さんは柔らかい雰囲気そのままに…… 「おはよう真一くん、雅人くん」 穏やかな挨拶を送ってくれた。 「あ、うん。おはよう」 「今日も早いね」 「雅人くんこそ、朝から元気じゃない。 さっきお店の前掃いているの、見たわよ」 「いやぁ、俺はほら、朝まで飲んでただけ」 「相変わらずねぇ」 「…………」 「お姉ちゃん、いたんならそう言ってよ」 「楽しそうだったから、口を挟むのもいけないと思って。 ごめんなさい」 エプロンをしているってことは、お店の手伝いをしている最中だったのかもしれない。 むしろ僕らの方がお邪魔なんじゃ……? 「みんなでこれからお出かけ?」 「香澄ちゃんは今日、講義ないの?」 「やだ。講義はしばらくお休み。もうずいぶん前から 夏休みなのよ。真一くんたちと一緒」 「一緒どころか、お姉ちゃんの方が休み長いじゃない」 「ふふ。ごめんね」 「あーそっか。学生はみんな休みか。どうも自分が 卒業して以来、季節の感覚がくるってね」 兄さん、弟が毎日家にいるんだから、そこは意識してよ。 「で、家の手伝い? せっかくの休みなら、羽を伸ばせば いいのに」 「そーそー。お姉ちゃんも真一と一緒で、ほっとくと ずぅっとお店にいるんだから」 「だって……お店にいた方が、涼しいから」 「あー……」 「そりゃあ……否定できない理由だわ」 「でしょ!」 一見、香澄さんなら『お花が好きだから』とか言うのかと思ったけど、クーラーも効いてるもんなぁ。 「お母さんひとりじゃ大変だしね」 「……芹花が遊び回ってるせいじゃないの?」 「何を言うかぁ! あたしだって毎日毎日がんばりまくり よ!!」 「ウソつき」 いつもウチの店に来て時間をつぶしているだけで、芹花が家の手伝いをしているところなんて、ほとんど見たことがない。 「本当よ。芹花ちゃんの方がむしろ、いつもがんばってる んだから」 「……え? そうなの?」 「ええ。私が朝起きるのが苦手な分、芹花ちゃんが早起き してくれてね。水やりとか済ませてくれているの」 「あと、私が大学へ用事があって出かけている時とか、 さりげなく家にいるようにしてくれてね。 本当によく気を回してくれているのよ」 「……ホントに?」 「やっ、えっとお姉ちゃん? そのぐらいで……」 「そうそう。この前なんて、業者さんから間違って トラック一台分届いたお花があって、困っていたら 芹花ちゃんが、」 「『あんたらのミスでしょ! 持って帰んなさい!』って 代わりに怒ってくれて。頼もしかったわ」 「それはなんだか想像がつく……」 「そんなとこだけ信じるなっ!!」 「……痛い」 「ふふ。芹花ちゃんがお手伝いしているのは、いつも朝早 くとか、夕方とか、夜とか、真一くんがお店のお手伝い で忙しい時間だから、気づかなかっただけかもね」 「そうなの……かなぁ?」 「いいわよ別に、真一に信じてもらえなくったって!」 「あ、いや、そうじゃないけど」 香澄さんは昔から、芹花には甘いところがあるから……大袈裟に言っているような気もして。 「本当のことよ」 「……はあ」 こう、柔らかく微笑みながら言われてしまうと、信じるしかないんだけど。 「あら、みんなでお出かけ?」 「春菜さん、こんにちは」 芹花と香澄さんのお母さん――〈水島春菜〉《みずしまはるな》さんは、香澄さんと並ぶと姉妹にしか見えない時がある。 「お母さんごめん! お姉ちゃん借りていい?」 「あら。別にいいわよ、私がいるし」 「え? 私も誘われていたの?」 「言ってなかったっけ?」 言ってないと思う。 「芹花ちゃんが、真一を誘うついでに、俺たち年寄りにも お情けで声をかけてくれてさ」 「ついでとかお情けじゃないですっ!!」 「それって、私たち年寄りはお邪魔じゃないの?」 「お邪魔でもないし年寄りでもないでしょうがっ!!」 「あらあら、香澄や雅人くんが年寄りだと、私は どうなっちゃうのかしら?」 「春菜さんはいつまでもお若くていらっしゃる。 ウチの父さんなんか、最近すっかり老け込んじゃって」 「そんなことないわよ。真彦さん、いつだって若々しくて 凛々しいじゃない」 「そうですか? 春菜さんにそう言ってもらえたなら、父さんも喜ぶと 思いますけど」 「…………」 なんだろうこの、ご近所が軒先に集まって……えーっと、井戸端会議? 「って、話し込んでる場合じゃなくて! お姉ちゃんもたまには遊びに行こうよって話!」 「でも……」 「いいからいいから、行ってらっしゃいな。 お隣さんの頼もしいお兄ちゃんたちに誘ってもらえる なんて、嬉しいじゃない」 「真一はお兄ちゃんっていうより、ひねくれていて手の かかる弟って感じだけどね」 「悪かったね」 「真一くん、ごめんなさいね。ウチの子ったら 素直じゃなくて」 「こう見えて芹花が一番頼りにしてるのは――」 「そこっ! 何か勝手な想像で、あり得もしない情報を 吹き込もうとしてないっ!?」 「あらあら、怒られちゃったわ。ふふふっ」 「はぁ」 春菜さん、元々気さくな人だったけど、ここのところその性格に磨きがかかっている気がするなぁ。年々若返っている、というか。 「さぁ香澄、いつまでもみんなを待たせちゃダメよ。 お店のことは気にしなくていいから、行ってらっしゃい」 「……うん。ありがとう、お母さん」 香澄さんが申し訳なさそうに外したエプロンを、春菜さんが笑って受け取る。 「行ってきまーす!」 「はい、行ってらっしゃい」 「すみません、それじゃ」 「ごめんね、お母さん」 そして僕が会釈して、4人でその場を離れる。春菜さんは店の前に立ち、僕らを見送ってくれた。 「……ホント、仲が良くてよかったわぁ」 「それで、どこへ行くの?」 「ああ、まだ決めてなかった」 「そうなの?」 目を丸くして、確認するように僕らへ顔を向けてきた香澄さんに、肩をすくめて事実だと認める。 「だから、決めずに歩き出すのやめようよ」 「まず一歩を踏み出すことが大切なのよ! 考えるのはそれから、まずは行動あるのみ!」 ……言ってることは正しいっぽいけど、結局は行き当たりばったり? 「それならそうねぇ……映画とかどうかしら?」 「映画っ?」 「うん。観たい映画があるの」 「なら、とりあえずはそれでいいんじゃないか? 映画館まで行けば、周りに店もあるし」 「結局デートコース?」 「だから、デートじゃないって言ってるでしょっ!!」 「こだわるなぁ」 この面子で歩いていて、今さら同級生やご近所さんにはやしたてられることもないのに。 「芹花ちゃんは、真一くんたちとデートするの、嫌なの?」 「そういう意味じゃなくてっ!! デートってのはほら……こう、もっとカッコイイ相手と するものでさぁ~」 「かっこよくなくて申し訳ないっ」 「雅人さんはカッコイイです! 間違いなく! 理想の頼れるお兄さんって感じだもの!!」 「その点……」 芹花が横目でこっちを見るので、肩をすくめておく。 「悪かったね」 今さら兄さんと比べられて……自分が男として敵うとは、思ってもいないけど。 「まぁまぁ、みんなで行きましょ。何も恥ずかしがること ないし」 「そうだな。芹花ちゃん、こんな男たちで申し訳ないが、 ここはぐっとこらえて」 「だから、雅人さんは別に悪くないし……」 「…………」 「……真一のことだって、別に責めてるわけじゃないから」 「うん。わかってる」 芹花がついヒートアップして、心にもないことを口走るのも、悪気がないのも、もう慣れてる。 だから、気にするほどのことじゃ……ない。 「やれやれ」 「電車、ちょうどいい時間にあるといいわね」 その声を合図に、僕らは隣町――映画館のある場所までつながっている、最寄りの駅へと向かった。 この辺りの電車は、1時間に数本しかない。 ただこの時は運良く、僕らが駅に着いてすぐ電車がやってきて―― 映画の上映時間にもちょうどいいタイミングで、隣町に着いたのだけれど…… 「ぐっ……」 「雅人くんどうかしたの? なんだかすごい汗……顔色も 悪いわ」 「すまない……今頃になって、昨夜飲んだ酒がまわって きたみたいで……」 「まさか、電車に揺られて、酔った?」 「面目ない……」 何やってるんだ、兄さん…… 「大丈夫? 二日酔いかしら?」 「雅人さんにしては珍しい」 「我ながら情けないよ、はは…… 俺はどこかで休むか……いや無理だな、悪いけど帰るよ」 「ええっ? ここまで来たのに?」 「ああ、すまない……映画館の中で2時間とか…… 耐えられそうに……ウゥッ」 今にも吐きそうだな……ついさっきまで、普通に振る舞っていたのに。 「仕方ないわねぇ」 香澄さんがちらりと、映画館のチケット売り場へ目をやった。 上映時間が迫っている。次の回は……当然だけど、数時間後だし。 「雅人さんが落ち着くまで、どこかお店に入る?」 「いや、気を遣わないで……帰って、寝ればだいじょ…… ウゥ」 そう言って兄さんはよろよろと、今さっき出てきたばかりの改札へと戻る。足下もおぼつかなくなっていて、ちょっと心配だ。 「一緒に行こうか?」 「バカ。女の子ふたり、放り出す気かよ。 最後までエスコートしてきてくれよ、俺の代わりにさ」 「…………」 兄さんはそう言って無理に笑うと、今度こそ本当に改札に入ってしまった。 「……本当に大丈夫なのかしら?」 「雅人さんだから、ねぇ」 「…………」 結局、僕らは兄さんの様子を気にしつつも、映画館の中に入り…… 「これこれ、私が観たかった映画は」 「ふーん? 恋愛モノ? よさそうね、ヒロインの子 可愛いし。彼氏役もカッコイイ」 「それがねぇ……ふふ」 「?」 「観てのお楽しみ。きっと驚くわよ」 そう言う香澄さんに促されて、ある一本の映画を観ることにした。 「ちょっと……やだ何これ、怖くない……?」 「最近のCGはすごいのねぇ」 「そうじゃなくって、純愛モノのはずなのになんで…… ウギャッ!?」 「芹花、静かに」 「だってだってだって! ドバァーって出てきて グシャッってして、ビョーンって伸びて!!」 「とても作り物とは思えないわねぇ。 どうやって撮影しているのかしら?」 「お姉ちゃん冷静すぎ!!」 「芹花は周りに迷惑過ぎ」 「だってこんな話だって聞いてないものっ!!」 「あら、また出てきた」 「ンキャアァァァァーッ!? ズモモモモモモッ!? ンガアァァァアアアァアァァアアアァー!!」 「恥ずかしい……」 薄暗がりの中から、ほかのお客さんがこっちに向ける視線を感じる。咳払いも聞こえたりして……本当にごめんなさい。 一見純愛モノだと思った映画が実は、ゾンビになった彼氏を助けるため、ヒロインがマシンガンと日本刀を手に大暴れする話だったなんて、確かに予想できなかったけど。 「あの銃すごいわねぇ。何発撃てるのかしら? あら。また新しいお化けが出てきた」 お化けというか、腐りかけた虎の身体に、蛇や犬の頭を強引にいくつも載せたような怪物だけど。芹花はもう青ざめて、目を回しそうになっている。 「香澄さん、こういうの平気なの?」 「だって、作り物じゃない」 「そうだけど……怖いとか、気持ち悪いとか」 「正体がわかっているものは、怖くないわよ」 「……それとも、芹花ちゃんみたいな反応をした方が、 女の子らしいのかしら?」 「ンギャアアァァァーッ!! ヒイイィィィ!? ウッゥゥウゥゥ…………ギャーッ!! また出たーっ!?」 「……女の子らしいのかなぁ?」 「可愛いと思うわよ、ふふ」 「周りに迷惑かけてるからなぁ……香澄さんを 見習って欲しいかな」 「え? 私?」 「うん。やっぱり大人だな、って思う」 「ありがとう。でもどうかしらね?」 「?」 「感情を素直に表せるって、とてもいいことだと思うわよ。 そうできるなら、そうした方がいいと思うもの」 「そうかなぁ……」 「ちょっ、それ以上近づいちゃダメ!! 後ろ後ろ後ろ……いけぇっ、撃っちゃえ! そんな気持ち悪いのやっつけちゃってーっ!!」 とても勇ましい悲鳴をあげ続ける芹花を見て、香澄さんは楽しそうに微笑んでいた…… 「た、楽しかったわねーっ!」 「……楽しんでたんだ、あれ」 「やーね~、そうに決まってるじゃない。おほほほほほ」 「いやどう見ても怖がっ――」 「今すぐ忘れろさぁ忘れろ! 雅人さんや宗太に喋ったら、タダじゃおかないから ねっ!」 「いや言わないけどさぁ」 叩かれたところが痛い…… 「ごめんね芹花ちゃん。ちょっと意表をつく内容だとは 思ったんだけど」 「ぜ、ぜぇ~んぜん平気だってば! うん。気にしないで、 ちょおっと感動して、声が大きくなっちゃっただけだか らっ」 きっと香澄さんに悪気はなかったんだろうけど、意表つきすぎだと思う。 「……むしろ、真一。 あんた、あんな映画観といて顔色ひとつ変えてない なんて、絶対どっかおかしいわよ」 「そう?」 「そのとぼけた返事っ、だからイラッとするのよねー」 「んー……」 そう言われても、なぁ。 「いいからもうっ、今日はとっことん付き合いなさい!」 「はぁ?」 それはまぁ、いつも通りといえば、いつも通りのことだからいいけど…… それから芹花に引っ張り回されるようにして、ファーストフードにカラオケ、ダーツ、ウィンドウショッピングにゲームセンター…… そして…… 僕らはまた電車に乗って、元の町へと戻り…… あとはまた、ウチの喫茶店でおごらされる――いつものパターン。そう思っていたんだけど…… この日は少しだけ、様子が違った。 「そういえば昨日、知らない人たちとボール遊びしたん ですって?」 「僕じゃなくて芹花がだけど。なんで知ってるの?」 「芹花ちゃんがお夕飯の時、楽しそうに話してくれたから」 「真一のノリが悪いって、愚痴ってただけよ」 前を歩いていた芹花が、口を尖らせながら振り向く。 「どこに誘っても、何をしても、真一ってば つまんなさそうな顔しちゃってさ。愛想が悪いって」 「そうかなぁ」 つまらないってわけじゃない。ただ…… 「今日だってそう。心ここに非ず」 「…………」 「どこか遠くをぼおっと見てたり、昨日なんか寝ちゃった りしてさ。それをつまらなさそうと言わずに、なんて 言うのよ」 ……ただ僕は、考えてしまうだけなんだ。 もしここに……今この場所に…… “あの子”がいたら――って。 “あの子”がいたら、笑ってくれているのかな、って…… 「ねぇ、真一」 「――あたしと一緒にいるの、つまらない?」 「……どうして、そんな風に思うの?」 どうして、急にそんなことを言い出すの? 「だって」 何か言いかけて、芹花は少し唇を噛んで―― 「ごめん。気のせいだわ、きっと」 あっさりと、自分で言ったことを引っ込めた。 そうかもしれない――一瞬頭に浮かんだ答えを、言葉にせず飲み込む。 いくら芹花相手だからって、冗談でも言っていいことと、悪いことがあるから…… 「……そんなことないよ」 「…………」 「あの、芹花――」 「ねぇ、ふたりとも」 僕の――僕たちの、理由もわからず気まずい雰囲気をやんわりと断ち切るように、香澄さんが声をかけてきた。 「ちょっと寄り道しましょうか?」 かすかに潮気の混じった風。揺れる緑の葉や、天を仰ぐ黄色の花弁から漂う、花の香り。 ――その場所は、夏の香りに満ちていた。 「ここ……」 ここは、“あの子”の好きだった場所。 僕と“あの子”が、よく遊んだ場所。 「へぇ。今年ももう、こんなに咲いてたんだ」 「ええ。私もこの前見かけて、驚いちゃった」 「…………」 “あの子”がいなくなってから、僕はここへは滅多に来なくなっていた。 芹花や、香澄さんとも、来たことはほとんど……なかった。 「真一くん」 「あ、うん」 「もっと芹花ちゃんに甘えていいのよ」 「お姉ちゃん!? と、 突然ななななななななな何言って……!!」 芹花の顔が、見る見る内に紅くなっていく。 「……えっと、どういう意味?」 あんまり突拍子もないことを言い出した香澄さんに、つい探るように尋ねてしまう。 「だって、真一くんって毎年夏になると、元気ないから」 「……それはまぁ、暑いし」 元気がないから、芹花に甘える???なんだかまだ結びつかない。 「芹花ちゃんは真一くんを元気づけたくて、 毎日誘ってるんだし」 「おっ、お姉ちゃん! あ、ありもしないこと勝手に決めつけて言わないでっ」 「そう? だって心配なんでしょ? 真一くんのこと」 「幼なじみだからっ! お隣さんだから、不景気なツラしてるのが…… ほっとけないだけよ!!」 幼なじみ、だから―― 幼なじみだったから、“あの子”の笑顔が……忘れられない。 「――真一」 「ん」 「……お姉ちゃんの言うこと、真に受けなくていいからね」 「うん」 「……それだけ?」 「あ、うん」 僕がそれだけしか返事を返さないと……芹花の瞳が少し揺れた。 「…………」 「あんたってさ……わかりにくいのよ」 「?」 「怒ってるのか、不愉快なのか、悔しいのか、 悩んでるのか」 「楽しいのか、嬉しいのか、面白いのか、喜んでるのか」 「寂しいのか、辛いのか、落ち込んでるのか……」 「肝心なことは、なんにも口にしないんだもの」 「そう……かな。ごめん」 「だから、文句を言ってるわけじゃなくてっ!」 「芹花ちゃんは、真一くんを心配しているだけよ」 「おっ、お姉ちゃん!?」 「毎日のように、真一くんが何か思い悩んでるんじゃない かとか、芹花ちゃんは心配なだけ」 「だから、やめてよお姉ちゃんってば――」 「私も、芹花ちゃんと同じ気持ちよ」 「…………」 香澄さんからは柔らかく微笑まれて……芹花からは、ふて腐れたような顔で見つめられて…… 「……僕、そんな風に見えたの?」 僕は自分の顔を撫でるように、手で隠していた。 「…………はぁ」 「見えたわよ。なんだか遠くを見ちゃって、昔を 懐かしむっていうの? 心ここにあらずというか」 「………………」 「別にそれが悪いことだとは思わないわ。 あんたにだって……あたしが知らない、想い出のひとつ ふたつはあるんだろうし」 ――芹花、と香澄さんは、お隣の幼なじみ。 ――想い出の彼女は、裏に住んでいた幼なじみ。 ふたりは、入れ替わるようにこの町へやって来て……いなくなった、別々の幼なじみ。 「あんた、心から笑ってる?」 僕の幼なじみたちは……心から笑ってくれているのかな? 僕は……心から笑えていないのかな? 「あのね、しんちゃんのお店、すき」 「僕じゃなくて、父さんのお店だよ」 「でも、しんちゃんがいるから、すき」 「しんちゃんのおうちだから、すき」 「しんちゃんのそばにいると、ふにゃ~ってね、 なんか楽しいの。嬉しくて、笑っちゃうの」 「だからわたし、しんちゃんのお店、すき」 父さんのお店――僕の家。“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》” その店名の意味は…… フランス語で――『笑顔』 「あんた、心から笑ってる?」 「……どう、かな。 考えたこともなかった」 「ったく……」 「ごめん」 「だからっ、あたしは別に、 あんたに謝って欲しいわけじゃなくて!」 「真一くんに笑って欲しいだけ、よね?」 「うぅぅ」 「そうか……ごめん」 「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!! あーもうっ、そんなんじゃないんだってばっ!!」 「もっとしゃきっと前向いて、笑いながら歩いてないと、 真一が色々損するわよっ!!」 「いだっ!!」 「イツツ……」 昼間、芹花は最後に僕の背中を思いっ切り叩いた。 「……容赦なかったな、あいつ」 痛かった。今でも背中がじんじん痺れている……というと大袈裟だけど。 「跡、ついてるかも」 風呂でシャワーを浴びた時にも一瞬ビリッときたぐらいだから、赤い手型ぐらいはついているかもしれない。 「水着の時や日焼けした時にこれをやられたら、 笑えないって」 今日はまだ服を着ていたからよかったけど、これからの季節、一緒に海へ行くこともあるだろうし…… 「それも毎年のことだけど……イテテッ」 気にしだしたらまた、背中がヒリヒリ痛み始めた。いや、気のせいだとは思うけど…… 「……気に、してるのかな?」 ベッドへ横になってずいぶん経つのに、眠気が訪れない。最初は、背中が気になるせいだからかと思っていた。 けど…… 「笑って欲しい……笑いながら歩け……か」 香澄さんと芹花に言われたことを思い出すと、背中ではなくて――胸の奥が軽くうずく。 「……そんなに笑っていないかな?」 思わず自分の頬を軽く引っ張る。 「……痛い」 意識して笑わないようにしているわけじゃない。無理に我慢しているわけでもない。 ただ…… 「ただ……笑って、本当にいいことがあるのかな?」 「しんちゃんのそばにいると、ふにゃ~ってね、 なんか楽しいの。嬉しくて、笑っちゃうの」 「ふにゃって」 「ふにゃあ~ってね。顔がこう、ぷぅ~って」 「…………」 「ぷぅーって。ね? えへへ」 「ヘンだよ、それ」 「え……」 「ヘンだよ、ぷーとか、う~とか」 「ヘ……ン?」 「かわいくない」 「!?」 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 「ふぅ……」 どうして彼女はあんな真似をしたんだろう。 どうして僕は、あんなことを言ってしまったんだろう。 「……はぁ」 痛い。 チクチク、チクチクと。叩かれた背中に残る感触が。 チクチク、チクチクと。昔、あの子に告げた心ない言葉が。 「痛いよ……」 「おっはよー真一!!」 けろっとした顔で、今日もまた芹花が姿を見せた。昨日、まるで何もなかったみたいだ。 「……どうしてそう、芹花は朝イチから元気なのさ?」 「朝イチって、もう開店時間でしょ? 一日の始まりと しては遅いぐらいの時間よ!」 「僕の一日は今から始まるんだよ」 「昨日は開店前から掃除してたのに」 「あれは一日が始まる前の……え~っと、下準備」 「遅い! 昔はラジオ体操へ一緒に行くのに、明け方から 起きて準備してたじゃない!」 「それは芹花が部屋まで押しかけてきて、無理矢理起こし たんじゃないか」 それも勢いよく僕の上へ飛び乗ってきて馬乗りになって勢いよく揺さぶられたんだよなぁ……さすがに最近じゃ、そこまでしなくなったけど。 「そこまでしないと真ちゃんが起きないっていうなら、 またやってあげてもいいわよ~」 「え」 「ただし、あたしが乗っかる代わりに、ぶっ厚~い辞書を 2~3冊、鳩尾めがけて投げ落とすけど」 「勘弁してください……」 朝っぱらから激しい痛みと呼吸困難に襲われるのは、ご免被りたい。 「朝から尻に敷かれてるなぁ、真一」 「いや、そういうのとは違うと思う」 「真一じゃ敷いても薄っぺらいんで、すぐお尻が痛く なっちゃいますよ」 「そりゃ手厳しいな、ははっ」 「それも違うと思う……」 ……いや、いいんだけどさ。僕がこういう扱いになるのは、いつものことだし。 「あ、いらっしゃいま――」 ドアベルの鳴る音に、反射的に応えていた。芹花にからかわれているよりも、接客している方が何も考えずに済む。 でも、開いたドアから入ってきたお客さんの顔を見て、その声は中途半端に止まってしまった。 「あっ」 「あら?」 「え、雪下さん?」 「……西村くんと、水島さん? ああ、奇遇ですね」 入り口で目を丸くしていたのは、クラスメイトだった。 一学期の終わりに転入してきたばかりの、〈雪下美百合〉《ゆきしたみゆり》さん。 「よしっ、あたしの名前、ちゃんと覚えててくれたみたい ね! 合格!」 「ええ。転入早々お世話になりましたもの。 終業式以来ですね」 「ええっと、おひとり様ですか?」 知り合いに他人行儀な口調で接客するのは、なんだかむずがゆい。けれどこれが仕事だから、しないわけにもいかない。 「何よ真一、あたしと雪下さんがこれから感動の再会に 涙ぐみながら抱き合おうっていうのに、空気を読まずに 割り込まないでよ」 「あら。抱き締められちゃうんですか、私? それは魅力的なシチュエーションですね」 「ああ。華やかでいいねぇ」 兄さんまで何言って…… 「ここ男所帯だからね~、たまにあたしが来てあげないと、 こうなんていうの? 女の色気……じゃなくて」 「紅一点として、水島さんが潤いを与えている、と?」 「そうそれ! 客寄せ・呼び込み・広告塔として、健気に 働く紅一点! 真一はそんなあたしに、もっと感謝して いいと思うのよね~」 「働いてないし。それに、接客を邪魔するのは立派な 営業妨害だと思うんだけど」 「邪魔言うなっ!!」 「えっと……お話しを聞いた限りだと、西村くんが こちらの店員さんで、水島さんは……常連さん、 ということでいいんでしょうか?」 「そうだね」 さすが雪下さん、冷静な分析をありがとう。 「西村くんは、アルバイトですか?」 「ううん、ここ、僕の家だから」 「…………えっ!?」 「正確には父さんの店、だけど」 「そ……そう、だったんですか……」 たまに知り合いが来ると、みんな決まって困った顔をする。 僕だって、たまたま入ったお店にクラスメイトがいたら、それだけでも驚く。ましてやそこが、その子の家だなんて聞いたら、どういう態度をとっていいのか迷う。 だから、こういう反応には慣れているつもりだった。慣れているつもりだったんだけど…… 「まさか……こんなことって……」 雪下さんのソレは…… 「それじゃ西村くん、子供の頃からこのお店で、 お手伝いを?」 「え? あ、うん。まぁ」 「そう……そうだったんですね! そう、まさか……ふふっ」 これまで訪れたどのクラスメイトもみせたことがない、不思議な反応で…… 「こんなことがあるなんて……来てよかった」 「?」 彼女の口調はどこか、なんというか“熱”を帯びていた。 「今日まで何かと家の片付けが忙しくて、なかなか来られ なかったんです」 「やっと落ち着いたところで、散歩がてら町を歩いていて 思い出したから、それで」 「あ、ああ? そうなんだ」 ……思い出した? 「はい! そうしたら…… あなたが、そうだったなんて……ふふっ」 ……なんだろう、雪下さんのこの反応は。 僕に会ったからといって、こんな嬉しそうに笑みをこぼすクラスメイトは、これまでいなかった。 笑ってくれる子なんて……昔の……あの…… 「あー……あのね! 子供の頃から出入りしてるから、あたしにとっても 家みたいなものなんだっ」 「あ、そうなんですね。 それじゃあ、おふたりは幼なじみ……とか?」 「そ、そうねっ。そうよ、うん」 「でも……お付き合いしているわけでは、ないですよね?」 「!? ま、まっさか!!」 「ないです」 「よかった。それを聞いて安心しました」 「ええっ!?」 「あああ安心って……まさか! 雪下さん、この ぼんくらのこと……」 「おふたりがデートしているところをお邪魔してしまった んじゃないかって、少し心配だったもので」 「あ……ああ、ああ~! そっ、そうよねー」 そういう見方もある……のかなぁ? 「うん大丈夫、そんな気遣いは無用! あたしはここに、 タダでジュース飲みに来てるだけだから~」 「それもないから。たかるなって」 「何よ、幼なじみから憩いの一時を奪うつもり!?」 「このお店は、人を笑顔にするための場所でしょ? だから店名だって――」 「…………」 笑顔――その言葉にチクリと、昨夜みた夢を思い出して胸を突かれる。 父さんのお店――僕の家“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”その店名の意味は…… 「ふふっ……ふふふっ」 ……今、雪下さんが浮かべているような、本当に楽しそうな――“笑顔”。 「あー、ちょっといいかな?」 結局立ち話に付き合わされている雪下さんに、兄さんが声をかけた。 「俺はこいつの兄で、同じくここの手伝いをしてる、 雅人といいます。よろしく」 「あ、はい。私は、雪下美百合といいます。 転入してきてまだ日も浅くて、おふたりには何かと お世話になりました」 「そうか。いやこっちこそ、ふたりをよろしく」 「兄さん、何その挨拶……」 転入生の子によろしく、って。普通は『慣れないと大変だろうね』とかじゃないかなぁ。 「お前と芹花ちゃんの会話に自然と入り込める相手なんて、 そうそういないだろ? だからさ」 「そうかなぁ?」 「そうなんですか?」 僕らは別に、クラスで浮いているわけでもなければ、人を寄せ付けないようにしているつもりもない。 芹花が元気すぎて、ほかの男子が遠巻きに見ていることは多いけど…… 「だってほら、あとはあの、ヤンチャ坊主ぐらいだろ。 お前たちのノリについてくるのって」 「ヤンチャ坊主って……あ~」 「ああ、わかります。いつも一緒にいる、あのもうひとり の男子ですよね? 名前は……え~っと」 「宗太か」 「おっはようみんな、今日も青春してるかぁい!」 「宗太……」 タイミングよく飛び込んできたのは誰だと思ったら、今まさに話題に挙がった当の本人――〈久我山宗太〉《くがやまそうた》だった。 まるでこの瞬間を見計らっていたみたいだ。 「宗太! ほかにお客さんがいたらどうすんのよ、 恥ずかしい!!」 芹花も似たようなノリでいつも入ってくるじゃないか、と言いたいのをぐっとこらえる。 「何を今さら。それに、この時間店にいるのなんて、 真一と芹花とまさ兄と、あとはマスターぐらい……って」 得意げに(どうしてここで得意げなのか、僕にはわからない)店内を見回した宗太が、目の前に立つ雪下さんに今頃気づいた。 「よ! 雪下さんじゃないか!」 「……えーっと……久我山くん……でしたよね? こんにちは、お久しぶりです」 「く、合ってはいるが、思い出してもらうまで若干の タイムラグがあったな」 「ご、ごめんなさい」 そういえばさっきも本人がいないところで、『もうひとりの男子』って、考え込んでいたような。 「やーい、影の薄い男~」 「ふ……いいさ、生徒会長などしょせんは縁の下の力持ち。 黒子に徹して目立たない方がいいのさ!」 「負け惜しみにしか聞こえなーい」 「本当にごめんなさい! 記憶に自信がなくて、つい」 「転入してきてすぐ夏休みになったんだから、顔と名前が 一致してなくても無理ないって」 と、思わず雪下さんに助け船を出したら、芹花と宗太から疑わしげな眼差しを向けられてしまった。 「お~や真ちゃん、雪下さんの味方するんだ~」 「女になんか興味ない、って顔をしてた真一も、 美人転入生には興味を惹かれたか」 「やだ、久我山くん。西村くんには私なんかより、もっと 美人の幼なじみがいるじゃないですか」 「え? 美人? 美人ってあたし? あたし!?」 「雪下さん、お世辞でからかうのはやめて……」 「お世辞って言うなっ!」 「あら。私はウソなんてつきませんよ、ふふっ」 「確かに、芹花の見た目は悪くない。 だが口よりも先に手や足が出――」 「なぁ~にか仰いましたかしらぁ~、 久我山宗太生徒会長様ぁ~」 「なんでしたら今すぐにでも、『元』生徒会長として、 故人の偉業を讃えてあげてもいいんですけど~」 「わ……わかったか真一、これが『口は災いの元』という こと……だ」 「今さら身体を張ってもらわなくても、僕は骨身に染みて いるよ」 「そ、そうか……ではさらば、だ」 「久我山くん!?」 「大丈夫、いつものことだから。10秒もすれば復活して くるし」 何より店の入り口付近で遊ぶのは、迷惑だからほどほどにして欲しい。 「はぁ……」 「みなさん、いつもこんな感じで、このお店に集まって いらっしゃるんですか?」 「あたしはほら、隣に花屋が見えるでしょ? あそこが家だから」 「俺も芹花と同じぐらいの頃に真一と知り合って、 それからちょくちょく……だよな?」 「確かそうだね。小学生の頃から」 「本当にあっさり復活したわね、あんた」 「ふっ。不死身さも生徒会長に必要な資質だからな」 「あらそうだったの? なら今度は、タイムカプセルに 封印して、校庭の片隅に埋めてあげる」 「20年後ぐらいに『ああ、そういえばそんな奴もいたわ ね』って思い出してはあげるけど、永遠に掘り返しては あげないから」 「永・遠・に、絶・対・に・ね☆」 「そうか……できれば桜の木の下に頼む。 毎年春に新入生と卒業生、出会いと別れを見守る存在に、 俺はなりたい」 「ちっ、この程度じゃこたえないか」 「ふははははっ! 何年お前にけなされ続けてきたと思うんだ!」 「宗太、それまったく自慢にならないから……」 「なるほど。みなさん小学生の頃から……」 ……このやり取りに動じていないところは、確かに雪下さんって馴染むのが早いのかも。 「雪下さんもこの店に通ってたなんて、知らなかったよ。 引っ越してきたばかりの割には、お目が高い」 「そうですか? うーん……そうかもしれませんね」 そこで雪下さんは、なぜか宗太ではなく僕を見て―― 「ここに来ればいいことが起こるに違いない。 そんな予感があったんです」 「?」 「だから私も、今日から毎日ここへ通っちゃいます」 「何しろ西村くんのお宅ですからね、通わないわけには いきません。ふふっ」 「えっ?」 「むっ……」 「おっ?」 「ふふふっ」 また、だ。また彼女はなんだか、意味深なことを言って……幸せそうに微笑んで…… 「これも、運命っていうんでしょうか。ふふっ……」 「ほう、運命! 運命ねぇ。 これはますます……」 「ますます何かしらぁ~、久我山宗太生徒会長様ぁ~」 「いや……俺はまだ何も……実質言って、ない……」 「ただ……これまでお互いをまったく意識してこなかった 真一と芹花の前に、雪下さんという美人転入生ライバル が出現!」 「真一を巡って、恋のトライアングル・バトルが始まる 期待大!!」 「だなんてことを、口にすべきか否か迷っていただけだ」 「誰が!」 「真一を!」 「誰と!」 「何を!」 「するのよ!」 「せ、芹花ぁぁ~~~、照れの表現にしては、それは過激 すぎ……げふっ!? え、えぐるように、打……つ、 なぁ……」 「ぐ、おぉぉ……ぉ……」 「ぜぇっ、ぜぇ、ぜぇっ……その妄想たくましい口を 閉じなさい! 寝言は気絶しても言うなっ!!」 「ふふ……ふふふっ」 はぁ……雪下さんが楽しそうだからいいけど、宗太は何を言ってるんだか、まったく…… それからようやくのことで―― 「お待たせしました、ご注文をどうぞ」 席に着いた雪下さんの前に、僕はおしぼりと水を運んで、注文を尋ねていた。 なぜか彼女は、芹花や宗太の着いたカウンター席ではなく、ひとりで窓際のテーブルに座ることを選んだ。 窓際にある席のひとつへと進み、流れるような自然さで腰を下ろした様は、まるで店に入った瞬間からそこに座ると決めていたみたいだった。 「ここが、いいんです。 ……ごめんなさい、ワガママを言って」 ウチとしては別にどの席でも、お客さんの自由に座ってもらって構わなかったし、宗太も芹花も気にしている様子はない。 「このお店って、昔から西村くんのお宅で経営されて いるんですか?」 「ん? ああ、ずっと個人経営だけど……?」 不思議なことを聞かれた気がした。この店の経営者が変わるなんて、考えたこともなかった。 僕の戸惑いが顔に出ていたのか、雪下さんが頭を下げる。 「ああすみません、失礼なことを聞いてしまって」 けれど彼女はメニューも開かず、水やおしぼりにも手をつけず、また僕をまっすぐ見て問いかけてくる。 「ほら、途中から代替わりしたなんてことも考えられる じゃないですか。先ほどはつい、何も考えずに喜んで しまいましたけど」 「喜ぶ? なんで?」 「…………」 雪下さんがまた、僕を見つめる。揺らがない視線が僕を捉えている。 「…………覚えては、いませんか?」 「え?」 「ちょうど、この席だったんですけどね。ふふっ」 「???」 もったいぶるように、雪下さんが笑みを浮かべる。 僕は言われたことの半分も理解できないまま、伝票を持って立ち尽くしていた。 「……ごめん。どういう意味?」 「……もう。思い出してくれないなんて、西村くん意外と 女泣かせな人なんですね」 「え!? ええっ!?」 「罰として教えてあげません。 それよりも――」 これが重要だと言わんばかりに、雪下さんの顔から笑みが消える。 さっきからわけのわからない言葉で振り回されている僕としては、今度は何を言われるのかと、つい身構えてしまう。 「――オレンジヨーグルトケーキ、ありますか?」 「は……い?」 「オレンジヨーグルトケーキ、です」 ないんですか?そう確認するように、雪下さんの瞳がみるみる悲しげな色に染まる。 「や、あるよ。うん、あるけど?」 昔からある、ウチの定番メニューのひとつだ。 ただ、特別有名なものでもないし、別に宣伝してもいない。ほかの商品と同じ、数あるメニューのひとつ…… それなのに雪下さんは、ぱぁっと顔を輝かせて―― 「それ、それをお願いします!」 「……えっと、ドリンクとのセットにする?」 「……あ! ああ。そうでした、ごめんなさい。 私ったらつい、飲み物の注文忘れて」 今度こそ慌てて、雪下さんはメニューを開いた。 なんだろう。ケーキが好きなのかな?飲み物のことは二の次にしてしまうぐらい。 「うん、ブレンドでお願いします」 「……はい。かしこまりました」 ケーキに比べて、飲み物はひどくあっさりと定番のメニューを選んだ彼女は―― 「……ふふっ」 やっぱりなぜか、またひどく楽しそうに微笑んでいた。 それからというもの…… 「いらっしゃいま、せ」 「こんにちは」 「えっと、ご注文は?」 「オレンジヨーグルトケーキ、と……アイスティーを。 ストレートで結構です」 「あ、いらっしゃい」 「こんにちは。 オレンジヨーグルトケーキ、ありますか?」 「うん。お飲み物は?」 と…… 「ふふっ」 彼女は本当に毎日のように、店へ顔を出すようになった。 「いいの?」 「何がですか?」 「その、毎日ウチなんかへ来てて」 一応、夏休みの宿題をテーブル上に広げたり、文庫本を読んでいたりと、彼女なりに満喫してくれているみたいなんだけど…… 何度か飲み物を注文し直すだけで、日が暮れるまでずっとここに座っているんだよなぁ…… 「ウチ『なんか』なんて、言っちゃダメです」 「えっ?」 「素敵なお店じゃないですか。 おいしいケーキに飲み物、そして素敵な店員さん」 「は、はぁ」 そんなに持ち上げられても、恥ずかしいというか困るというか…… 「それなのに、『なんか』なんて、自分で自分を〈貶〉《おとし》める ようなことを言わないでください」 「あ、うん。ごめん」 「……ふふっ」 「?」 「西村くんって、本当に真面目ですね」 「……どうだろう」 自分では、つまらない奴なんじゃないかと思う。芹花にもよく言われているし。 「……何かありました?」 「ん、何かって?」 「……私の抱いていた西村くんのイメージと、『今』の あなたは、少し違う気がして」 「何か……変わらなければいけないような何かが、 あったんじゃないかなって」 「僕のイメージって」 まだ出会って、ひと月ぐらいしか経っていないはずだ。 毎日教室で顔を合わせて、軽く挨拶を交わして、たまに芹花たちと校内を案内したり、雑談の輪に加わっていたぐらいで…… そのぐらいの付き合いしかない僕を、彼女はどんな風に見ていたっていうんだろう? それとも…… 「私の知っている西村くんは……そうですね。 このお店の店名みたいに、人に笑顔をくれるような人 ……だったんですよ」 その口振りはまるで…… 「しんちゃんのそばにいると、ふにゃ~ってね、 なんか楽しいの。嬉しくて、笑っちゃうの」 「まるで、昔から僕を知ってるみたい」 「知ってますよ」 「えっ?」 「知ってます……けど」 そこで彼女は少し表情を曇らせて…… 「やっぱり、本当のことはまだ教えてあげません♪」 「え? ええ……」 「さ、今日のお薦めブレンドはなんですか? それをセットでお願いします」 「あ、あぁ、うん。 オレンジヨーグルトケーキと、だよね」 「はい。オレンジヨーグルトケーキです♪」 「ふぅ……」 結局今日も、雪下さんはウチの店で日が暮れるまで過ごしていった。 その間、僕が店番をしている時、雪下さんは何かと話しかけてきた。 ほかのお客さんがいない時を見計らって、邪魔にならないようにしてくれた辺りが、芹花や宗太とは違うところなんだけど…… 話題の大半はとりとめもないことだった。クラスメイトについてや、近所のおいしいお店・買い物ができるところ、遊びに行く場所…… この町に住んで長い僕にとっては、どれも当たり前のことだった。けれど、転入してきたばかりの彼女にとっては、どれも新鮮な話題だったらしい。 けれど、それ以上に彼女が知りたがったのは…… 「西村くんのこと、聞かせてください」 「僕の……こと?」 「はい。なんでもいいんです。 趣味とか特技とか、女性の好みのタイプとか」 「う、うーん……」 「はぁ……」 あんな、答えに困るようなことを聞かれても……ちょうど顔を出した芹花が、話をうやむやにしてくれたからよかったけど。 「……どうして」 どうして彼女は、僕に興味をもつんだろう? この町の地理には詳しくなくて、それでいて僕のことは知っているような素振りをみせて。 「……昔、どこかで会ったのかな?」 覚えていない。思い出せない。 ただただ彼女は、毎日のように店へ来ては、にこにこと嬉しそうにケーキを食べていて…… 「毎日のようにケーキを食べて、か……」 「おぃしい~」 “あの子”も毎日のように、店へ遊びに来ていた。 その度に父さんが、気を利かせてケーキを出してくれた。 「真ちゃんちのケーキ、おいしい」 「うん」 「真ちゃんといっしょに食べると、おいしい」 「う、ん?」 「ふたりでいっしょに食べると、おいしいよね?」 「う……うん」 「ふたりで……一緒に、か」 あの子が好きなケーキは……なんだった、かな? 「ええっと、あとは……グラニュー糖? 父さん、まとめて届けてもらえばいいのに」 店で使う材料がいくつか足りなくなって、僕は駅前の繁華街へ慌てて買い出しに来ていた。 まぁ父さんは、帰りに少し遊んでくるといいなんて、呑気なことを言っていたけれど…… 「いつもより多く注文が入ったらどうするのかなぁ」 父さんは大らかというか、あまり細かく在庫や材料をチェックしていない。ゼロでなければ大丈夫、という感覚らしい。 その辺り兄さんはいい加減なようでいて、きちんと余裕をもたせておこうよと、苦笑しながら父さんの代わりに在庫をチェックすることが多い。 それで今日も、ケーキの材料がいくつか不足気味なのに気づいたわけで…… 「僕たちがいるから大丈夫だ、なんて……父さんは」 僕は父さんみたいに、なんでもつくれるわけじゃない。兄さんみたいに気が回るわけでもない。 できるのはせいぜい接客と、こうした買い出し、お使いぐらいで…… 「はぁ……あれ? 向こうにいるのは……」 雪下さんだ。隣に……誰だろう、スーツ姿の男性がふたりいる。 「いや、こんなところでお嬢さんにお会いできるとは」 「ええ、そうですね」 「これから食事なんですが、よかったらご一緒にいかが ですか?」 「……ナンパ?」 まさかね。昼間からサラリーマンが、夏休みの学生を? 「昼食にしては遅くありませんか?」 「いやぁ、我々は食事にありつけるだけ、マシですよ」 「お父様は食事も満足に摂らずに、あちこち駆け回って おいでですから」 「…………」 お父様?知り合いなのかな? 「――あ!」 と、雪下さんと目が合った。 「ごめんなさい、カレが来たので、失礼します」 「え、ええっ? そうでしたか」 「これは……すみません、お邪魔したかな」 「……カレ?」 まさか……それって…… 「さ、行きましょう、西村くん」 「え……ええ!?」 「すみません、それではここで」 「あ、はあ」 「失礼します」 半信半疑といった様子で首を傾げているふたりの男性が、まだこっちを見ている前で―― 「西村くん、早くっ」 「あっ!?」 雪下さんは僕の腕に自分の腕を絡めると、強引にグイッと引っ張って、その場から離れようと駆け出した。 「ちょ、ちょっと雪下さんっ」 「いいから、早く……お願い」 「…………」 彼女が僕の耳に口を寄せてささやいた声は―― ……初めて聞いた、すがるような声だった。 「……よかったの?」 「いいんです。むしろ助かりました」 スーツの男性たちが見えなくなるどころか、たっぷり10分は歩き続けてさっき出会った場所から離れると、ようやく雪下さんは脚を止めてくれた。 するりと、組まれていた腕も彼女の方から離れていく。 「……ごめんなさい、ダシにしてしまったみたいで」 「いや、それはいいんだけど」 あの人たちに、僕が“カレ”だなんて言って―― 「大丈夫なの?」 「何がですか?」 きょとん、と彼女は目を丸くしている。 自分の方が振り回したのに、なぜあなたが私を心配してくれているの、と言うように。 「僕がその……アレだなんて、あの人たちに誤解されたん じゃ?」 「あ、ああ」 ぽん、と手を打って、雪下さんはようやく理解の色をみせた。 「私的には問題ありませんけど?」 「いや大問題でしょ」 「大丈夫ですよ。あの人たち、父の部下ですから」 「え、あ。会社の人?」 こくん、と頷くと、雪下さんはくすくすと笑った。 「別に私の父、そんなに偉いわけじゃないんですけど、 あの人たちは会う度に私にまで、ヘンに気を遣って くださるので」 「……からかった?」 またこくんと、彼女はくすくす笑いながら頷いた。 「ええ。今頃お昼ご飯を食べながら、噂話をしているん じゃないかしら?」 「『おいどうする』『どうするったって、まさか娘さんが デートしているところに出くわしました、なんて言える か?』って」 「あー……」 まぁ、言えないよな、普通は。他所の家庭の親子関係に、下手をするとヒビを入れかねないようなこと。 「ところで、何か用事があったんじゃないですか?」 「ん、ちょっとね。買い出し」 僕は手に持ったままの荷物の袋を、掲げてみせた。中には、先に買っておいた食材なんかが入っている。 「お夕飯のですか?」 「店の備品。ケーキの材料とか、細々した物」 「へぇー。そんな大変なお手伝いまでしているんですね、 さすが西村くん」 「いやそんな大したことじゃないし。 本当なら、業者さんに頼んで届けてもらってもいいはず だし」 それをするほどの量じゃないし、急ぎだから、というわけで僕が買いに来たんだけど。 「でも毎日お店にいて、お手伝いして、これじゃ夏休み ほとんど遊べないんじゃないですか?」 「うーん……芹花がたまに、強引に誘いに来るから。 それなりには遊んでいるんじゃないかな?」 「水島さん?」 「と、宗太とか」 「ああ。3人で?」 「だけ、でもないんだけど……」 兄さんとか、香澄さんとか……なんだかんだで、マメに連れ出されるからなぁ。 ここ数日、雪下さんが来てた時は、店番が多かっただけで。 「ひょっとして西村くんって、私の見ていないところで モテモテなんですか?」 「そんなことないよ」 「夜な夜なこの繁華街へ繰り出しては、女の子をとっかえ ひっかえ」 「してないって!」 「ふふっ、冗談です」 「もうっ……」 「いいなぁ、私も一緒に出かけたいです」 「え――わっ」 雪下さんは何を思ったか、不意に僕の横へと寄り添った。 また腕を組まれるんじゃないかと思って、心臓が大きく跳ねる。 「ほら、買い残しはありませんか? 一緒に行きますよ」 「え、いや、でも」 「私、今日は暇なんです。この後お店に行こうかと思って いたぐらいで」 肘がぶつかる。髪の毛からいい香りがしてくる。 「えっと、ウチ?」 お互いの吐息すら届きそうなほど近くで、雪下さんは頷きながら喋る。 「ええ。またケーキを食べに行こうかなって」 「オレンジヨーグルトケーキ」 「はい。でも、西村くんに会えたから、今日はこれで満足 です」 「ええっ?」 どうしてそこが満足なのか、わからない。 「さぁさぁ、どこへでも付き合っちゃいますよ♪」 「いやでも」 「なんならまた、腕組んじゃいましょうか?」 「え、え、えええっ?」 たじろいでいる内に、彼女の指が僕の肘に触れる。 そのまま腕を絡めてこようとする彼女の動きに、思わず腰が引けてしまう。 「こ、今度誰かに見られたら、まずいんじゃ?」 「誰かって?」 「そ、宗太とか、兄さんとか……」 絶対誤解される。誤解どころか、あのふたりに見つかったら、とんでもない尾ひれをつけた噂を撒き散らされる。 「ふむ…… そこで水島さんの名前は出てこないんですね」 「……え」 「ちょっと安心しました」 「な、何に?」 「いえ、こちらの話です。ふふっ」 「???」 「――あ。それともまさか……西村くんって」 「女の子には興味がなくて、本命は男の子――久我山くん だったり!?」 「違うよっ!!」 どうしてそこで宗太の名前が! 「そうですか? 見られて困る相手といって、一番に あがってきたのが彼の名前だったので、てっきり」 「てっきりにも程があるよ!」 「じゃあ、お兄さんとの禁じられた関係」 「いや、それもあり得ないから……」 「ふふ、ふふっ、ふふふふふっ」 ……心から楽しそうに笑っている彼女を見ていると、どうやら遊ばれている・からかわれているらしい……とは思うんだけど。 「はぁ……雪下さんって、もっと真面目な子だと思ってた」 「そうですか? 確かに、学園では猫を被っているかも しれませんね。にゃん♪」 「…………」 彼女が両手を自分の頭の上に乗せている。猫耳のつもりか、猫の手なのか、微妙なところ。 まさかこんなノリで話してくる子だなんて、本当に思わなかった。 どうしてこんな急に、ご機嫌なんだろう……? 「あら、真一くん?」 「香澄さん?」 「……あら」 ……雪下さんに腕を組まれていたら、本当に洒落にならないところだったかも。 「こんにちは。お買い物?」 「あ、うん」 「お隣は……お友達かしら?」 「はい。クラスメイトの、雪下美百合といいます」 「ああ。じゃあ芹花ちゃんとも同じクラスね」 「あ、はい?」 「私、芹花ちゃんの姉で、水島香澄といいます。 よろしくお願いしますね」 「あ……ああー、なるほど。 はいっ、こちらこそよろしくお願いします」 ふたりしておじぎし合っている。礼儀正しいところは似ているのかもしれない。 「香澄さんも、隣の花屋に住んでるんだ」 「あ、じゃあ西村くんのお店にも」 「ええ。たまにだけど、行くわよ」 「ケーキ、おいしいですよね! 私は毎日のように通っています」 「あら。よかったわね、真一くん」 「あ、うん、まあ」 「もう毎日楽しくて。この町に引っ越してきて、本当に よかったです」 「あら。雪下さんは、転入生なの?」 「ええ。夏休み前に慌ただしく」 「そっか。それじゃまだ慣れなくて、大変じゃない?」 「大丈夫です。西村くんがいますから」 「ええ? 僕?」 「さ、この辺りを案内してください、西村くん」 そう言って彼女は、僕の腕ではなく、いきなり手をとって―― 「ほら、早く早く」 「ちょ、ちょっと、雪下さん!?」 ぐいぐいと僕を引っ張って、その場から離れようとする。芹花以上に強引な勢いだ。 そして……つながれた手の平が、柔らかくて、温かい。 「すみません水島さん、私たちここで」 「はい、いってらっしゃい」 「ごめん香澄さん、また!」 「うん、気にしないで。いってらっしゃい」 「それじゃあ失礼します」 「ちょ、ちょっと、待って、雪下さん――」 引っ張られるままにつんのめった僕の背中に、香澄さんのどこか呑気な声が聞こえた。 「あらあら。 芹花ちゃんがヤキモチ妬かなければいいんだけど」 「はぁ、はぁ」 「どうしました、西村くん?」 「どうも、こうも……」 思った以上に強引な雪下さんの歩みについていくだけで、足がもつれてしまった。 「雪下さんこそどうしたのさ、一体」 「何がですか?」 「急に、この辺りを案内して欲しいだなんて」 急に、香澄さんから離れるみたいにこんな…… 「急に思いついたんです」 「いやまぁ、うん。そうだろうけど」 だからって、あんな風に急いで別れなくても。 「西村くんは、この辺りでも遊んだりするんですよね? きっと、水島さんたちと」 「あ、うん、どうだったかな」 確かに、芹花や宗太に付き合わされて、この辺りを歩いたことだってあるけど。 「うらやましいです」 「え」 「ずるいです。悔しいです」 「な、何が?」 「水島さんたちはこの町で、西村くんと遊んだ想い出が、 きっと山ほどあるんですよね?」 そう言って僕を見る雪下さんは、急に子供っぽい……すねているような様子だった。 「さっきのお姉さんも、水島さんも、ほかのみんなも。 西村くんとずっとつくってきた想い出があるのに」 「私には……それがない。 この町に、そんなにいられなかったから……」 「雪下さん……」 「転校して、転入して、引っ越して、離れ離れになって」 「仲良くなる暇もなくて、覚えている余裕もなくて」 「だけどこの町だけは……この町のことだけは」 ふっ、と雪下さんの肩から力が抜けた。 「あなたのことだけは、あのケーキのおかげで覚えていた のに」 「あなたには、私の知らない友達がいる。離れていた間の 想い出がある。それは、当たり前のことかもしれません けど……」 「……それって」 また、だ。 雪下さんが度々みせる、僕のことを昔から知っているような素振り。 「……それとも、私の勘違いですか? あれはあなたではなくて、別の誰か?」 つぅ、と。彼女の冷たい手が、僕の顔に伸ばされて、頬を撫でる。 「……本当に、覚えてはいませんか?」 「僕……は」 「子供の頃」 「子供の……頃?」 「それこそたぶん、あなたと水島さんたちが出会った頃」 「僕と、芹花が……?」 「私が、想い出をつくらなくなった頃。 残したくないと考え始めた頃」 「想い出を……残したくない?」 「だって辛いじゃないですか。大好きだったものと、 場所と、人と、離れ離れになるのは」 大好きだった、あの子と……別れるのは辛い。 「キミは……いや」 まさか、そんなはずない。 だって僕は、“あの子”の名前を覚えている。“あの子”と雪下さんは、違う。 「……誰か、思い出しているんですか? 私以外の、誰かを」 「あ、いや」 目の前に、自分のことを尋ねてきている人がいるのに、僕の記憶に残っているのは、“あの子”の面影ばかりで。 「ご、ごめん」 慌てて謝ると、雪下さんの目が少し細められた。 「……西村くん、正直者過ぎます」 「こういう時はウソでもいいから『そんなことない、 キミのことしか考えていないよ』と答えるべきです」 「そ……そっか」 「……ふふ。でもそんなウソ、すぐ見抜いちゃいますけど ね。だから西村くんは、そのままでいいんですよ」 す……っと、雪下さんの手が僕の頬から離れていく。 「あなたの中にはきっと、誰かが大切な想い出として 残っているんですね。ずっと、ハッキリした形で」 冷たい指先の感触が、なぞるように、名残惜しげに。僕の肌から離れていく。 「あーあ。いいなー、やっぱり。うらやましいです」 「……なんでそんな」 「わかりますよ」 そこで雪下さんは、ぷくっと頬を膨らませた。私、ふて腐れてるんですよ、と言わんばかりの顔だ。 「女の勘、ってやつです」 「……う、うーん」 ……そういえば芹花にもこの前、言われたばかりだっけ。 「…………はぁ」 「見えたわよ。なんだか遠くを見ちゃって、昔を 懐かしむっていうの? 心ここにあらずというか」 「……ごめん」 やっぱり謝ってしまう。女の子ふたりから言われるってことは、僕は相当重症なんだろう。 「悪いと思うのなら……」 ふて腐れているポーズを崩さないまま、雪下さんは僕の背後を指差した。 「あれをおごってください」 彼女の指先を追って僕が振り向いた先にあったのは、アイスクリームのチェーン店だった。 ピンクや紫なんかの派手な色で、看板上に店名とアイスをデフォルメしたマークが踊っている。 「え……っと、アイス?」 「はい」 ニコニコと、さっきまでのふて腐れっぷりはなかったことみたいに、雪下さんが笑っている。 「オレンジとヨーグルトのダブルトッピング。 それで許してあげます」 「……えっと」 「ふたりで一緒においしいものを食べると、2倍おいしい 気がしませんか?」 そう言って、彼女は僕の腕にしがみつくと、アイスチェーン店の方へと引っ張り始める。 「ゆ、雪下さん」 「今はまだいいですよ。無理に思い出したりしてくれなく ても」 本当は思い出して欲しいけれど――そんな言葉が続くんじゃないかと、そう思えた。 「私はまだしばらくは、ここにいられるはずですから。 その間に、想い出づくりに協力してください」 「想い出、づくり」 「そうです。まずは手始めに、ふたりでアイス」 抵抗する間もなく、お店の中へと引っ張り込まれて―― 「甘い想い出づくりには、ぴったりだと思いませんか?」 そう、曖昧に笑って言った。 アイスの後は、ゲーセンにカラオケに映画に…… 結局半日近く、彼女の言う『想い出づくり』に付き合わされた。 「想い出に……したいのかな?」 僕がいつまでも“あの子”のことを覚えているように。雪下さんも、僕のことを覚えようとしてくれている? 「……それはどうだろう?」 別れるのが辛いから、想い出をつくらない――そんなことも口にしていた。 それに、僕のことを昔から知っているような素振り。 「……わかんないな」 彼女の中には、僕の知らない僕がいる。そんな気すらしてきた。 例えば僕が忘れているだけで、昔本当に会っていたのかもしれない。 それとも、僕に似た“誰か”との想い出を、彼女は僕に重ねているだけなのかもしれない。 お互いに、肝心なことは何も言わないまま、駅前で別れてしまったから……彼女も僕の、“あの子”の話を知らないままだけど。 「……いいのかな、これで?」 芹花や雪下さんの言うように、普段から僕の態度に“あの子”に対する何かが滲み出ているとしたら…… それはたぶん、初恋とかそんな、甘酸っぱい想い出なんかじゃなくて―― トラウマに近い、傷跡。 どうしようもない、後悔。 “あの子”に対する、考えても仕方のない償い。 「はあ……」 僕の中に、“あの子”に対する何かが強く残っている結果がこれだとするなら…… 雪下さんの想い出にいる“僕”は、一体何を、彼女にしてしまったんだろう…… 「オレンジヨーグルトケーキ、ありますか?」 「雪下さん……」 今日もまた、雪下さんはウチの店に顔を出した。 ただいつもよりもちょっと遅くて、午後3時になろうという頃だった。それに―― 「なんで、制服?」 彼女が着ているのは、ウチの学園の制服だった。今日は登校日じゃなかったはずだけど…… 「ちょっと、登校しなければいけない用事があったもの ですから。転校と転入を繰り返していると、何かと 面倒なんです」 『はぁ……』と悩ましげなため息をついた姿が、どことなく芝居じみていた。 「困っちゃいますよね。せっかくの夏休みだというのに、 しかも保護者が忙しいからって、私が代わりに あれこれと」 「……ひょっとして、本当に疲れてる?」 「え?」 「あ、いや。そんな風にちょっと思えただけで」 いつも明るい彼女だけど、なんだか今は、ワザとそう振る舞っているような気がした。 無理に冗談っぽくしようとしているというか…… 「さすが西村くんですね、わかっちゃいました?」 「いや、あの、本当になんとなく、そう思っただけで」 むしろ普段は、芹花に『気が利かない・鈍い』と怒られているぐらいだし。 ただこの前、一緒に遊んで回った時に…… 彼女の、普段見ないような顔をいくつか見たから……なのかな? どうだろう…… 「ふふっ、まめに通った甲斐があったんでしょうか? 西村くんが私のことを心配してくれるなんて」 「そんなんじゃ……」 「あら。心配してくれないんですか?」 「ああっ、そういう意味じゃなくて!」 「冗談です。 嬉しいですよ、西村くんが気にしてくれるだけで」 「う……うん」 慣れないことはするもんじゃない、と思った。女の子を気遣うなんて、僕がしていいことじゃない。 「疲れてる、というわけではないんですけど…… 正直に言えば、ちょっと憂うつかもしれません」 「え、ユウウツ?」 「はい」 「父の仕事柄、引っ越しが多いですからね。こういう 手続きにはもう慣れちゃったつもりでも……」 彼女はそう言って、持っていた鞄に視線を落とした。その中に、何か書類が入っているのかもしれない。 「そういった用事で職員室や事務室へ行く度に、『ああ、 ここにもあとどれぐらいいられるんだろう』なんて、 ちょっと考えてしまって」 「ああ……」 ウチの学校へ突然転入してきたように、また突然転校してしまう可能性もあるのかな。 いつまでここにいられるかわからない。だから想い出をつくれない…… でも本当は、想い出をつくっておきたい……?だからこの前も僕と一緒に遊んで、ここにも通っている? 「だから、元気ないんですよ。こう見えても」 「そう……なんだ」 元気なように見える彼女と、元気がないと言う彼女―― 「はい。ですから励ましてください」 彼女が本当に欲しい言葉は、なんなんだろう。 「え……っと、じゃあ。……フレーフレー、とか?」 「ぷっ。なんですか、それ」 吹き出された。目の前で雪下さんが、面白そうに笑い転げている。 「あは、あははっ……もう! 西村くん、そういうのじゃなくて」 「う、うん?」 「あるじゃないですか、このお店には。 人を笑顔にさせてくれる素敵なケーキが」 「あ……ああ、いつもの?」 「ええ。いつもの、アレ。お願いします」 オレンジヨーグルトケーキ――言葉よりも何よりも、彼女の好きなもの。 「あ、でも……」 「?」 「すまないね。今日はうっかり材料を切らしてしまって、 品切れなんだ」 「え……そう、なんですか」 「私の発注ミスだ。申し訳ない」 「いえ、そんな……」 父さんも、雪下さんがここ最近よく通ってくれて、いつもあのケーキを注文していることは知っているはずだった。 だけどこの前、僕が慌てて買い出しに行ったように……本当についうっかり、材料を切らしていた。間の悪いことに、兄さんもそれに気づかなかった。 「あ……すまない」 「もしもし……ああうん、そうだね。 少し待ってもらえないか。今、店に出ていてね」 最近はそれに、父さん少し忙しそうだしなぁ…… 「…………」 雪下さんは、いつものケーキがないというだけで相当ショックなのか……すっかり黙ってしまっている。 「あ、あの」 「はい」 「ほかのはどうかな?」 「え……」 「ラムレーズンとか、ストロベリーソースのチーズケーキ もお薦めだよ」 「……ふふ、さすが西村くん。商売上手ですね」 「いや、そういうつもりじゃ」 ただ、彼女を励ましたかった。冗談すら口にできず、ごまかしようもなく、本当に元気がない彼女を。 「ふふっ、わかってますよ。冗談……です」 そう言いながら、雪下さんの表情はどこか、寂しそうに見えて…… 「――昔もそんな風に、あなたが薦めてくれたから」 「え……昔?」 また、だ。 彼女の中の“僕”が、彼女にした何か。 今度もまた、その“僕”が彼女の中にいる。 「教えて」 「……えっ?」 「僕はキミに何をしたの? 僕は何を忘れているんだ?」 「西村くん」 「このままじゃ、僕は」 「僕は……気になって」 わからないこと、気になること、ずっと気に病んでいることばかりで――もうこれ以上、何も考えられなくなってしまう。 「そっか……そうですよね。困りますよね、こんな思わせ ぶりなことばかり、私が言っていたら」 雪下さんはそう、少しうなだれて言うと…… 「私はあなたの、たぶん初めてのお客さんなんです」 そう告げた。 「僕はキミを何か傷つけたんじゃないかな……?」 「え? そんなことは」 「だって僕が何かしたせいで、キミの想い出に残っている んだとしたら」 それは相手を傷つけたか、傷つけられたか。僕が“あの子”にそうしたように、忘れられないほどに、彼女にもひどいことをしたんじゃないかって。 そんな不安と……何よりも、彼女に対して申し訳ない気持ちになる。 「……安心してください、逆ですよ」 「え……逆?」 うなだれた僕の顔を覗き込んできた彼女の目が、きらきらと輝いていた。 「心配性ですね、西村くんは。逆なんです」 「むしろごめんなさい、私のせいで気に病んでしまって いたなら」 彼女はそう言って、頭を下げて―― 「あなたは私に、笑顔をくれたんです」 そう告げると、顔を上げて微笑んだ。 「どういう……こと?」 「本当に昔のことです……もうすっかり、済んだこと」 「私がこのお店に初めて来たのは……隣町に一時、住んで いた時のことです」 「親子3人、ちょっとした散歩のつもりで、ここまで 歩いてきて……」 「休憩のつもりなんだと思いました。それまで入ったこと のなかった、このお店に入ったのは」 「昔からケーキが好きだった私は、お店に入ってすぐに、 どのケーキを注文しようか、メニューとにらめっこを していました」 「だからしばらく気づかなかったんです」 「両親の会話が、だんだんととげとげしいものになって いたことに」 「父も母も、基本的にはいい人なんです。仕事が好きで、 家族が好きで、自分の好きなものに対してとても 献身的に働ける人」 「だけど、父は仕事がうまくいきすぎて、次々に任された 重要なプロジェクトにのめりこんでいって……」 「なかなか家に帰れないどころか、一年の内ほとんどを 出張や単身赴任で過ごしていて……その日は本当に、 久しぶりに顔を合わせていたんですけれど」 「母も、私を育てるのにあまり手のかからなくなった頃 から職場に出たい、仕事に復帰したいという願望が 強くなっていたらしくて……」 「元々、それなりに名の知れた服飾デザイナーだった母 ですから、早く仕事を再開しないかというお誘いも あったらしく……」 「お互いの仕事を尊重し合っていた父と母は、自分たちが “夫婦”という関係を維持していることに対して、ふと 疑問を抱いてしまったようなんです」 「家族のために働いているはずだったのに、家族と 会えない父」 「家族は好きだけれども、仕事で活躍する父を見て、 自分もまた働きたいという思いを強くしていた母」 「そんなふたりの、ちょっとした言葉の行き違いが、 その場で爆発してしまったんです」 「口論はいつしか大声での怒鳴り合いになり、私はお腹を 空かせていたことも忘れて、別人のように怒り散らす 父と母をただ怖々と見つめるばかりで……」 「そんなところに、あなたがケーキを持ってきてくれたん です」 「僕……が?」 「間違いない、と思いますよ。同い年ぐらいの男の子」 「その子が、注文もまだしていない私たちのところに、 ちょっと恥ずかしそうに『オレンジヨーグルトケーキを どうぞ』って」 「マスターからのサービスです、なんて…… ケンカを始めた私たち親子をなだめるために、お父様が 気を利かせてくださったんでしょうね」 「それも角が立たないように、あなたと私、子供たちを うまく使って」 「父さんが……」 僕自身が覚えているか、思い出せるか、といえば…… 残念だけど、僕の記憶はどこまでも曖昧で、深い霧の中に霞んでいたけれど…… 「おいしかった」 「自分でもどうしていいかわからないような状況で、ただ その男の子に勧められるまま、ケーキにフォークを 入れて口に運んで……」 「嬉しかった。その時と同じ味が、今もここには残って いたから」 「…………」 「私の両親はその後、結局離婚してしまいましたけれど」 「あなたは、ここにいてくれた」 「…………僕は」 彼女が語る僕の想い出は、まるで現実感がなくて…… 話を聞いた今でもどこか、誰かと間違えているんじゃないか? 美化されていないか? って、気になるけれど…… 「だから私、この場所が大好きなんです」 「あのケーキがあって、あなたのいる、このお店が……」 「……オレンジヨーグルトケーキ、今度から絶対、 切らさないようにしておくよ」 そう、せめてそう告げると……彼女はぱっと顔を輝かせた。 「よろしくお願いします、あの時の可愛い店員さん♪」 「うん……」 僕は本当に、彼女をこんな風に笑わせた、その“想い出の僕”なんだろうか……? 自信はなかったけれど、今だけは、それでいい気がした。 「へえ、あの雪下さんに、そんな想い出があったのか」 「うん……」 ふたりで夕飯を済ませながら、僕は兄さんに尋ねられるまま、雪下さんとの話を聞かせていた。 あの後、父さんは急に出かけてしまって、代わりに兄さんが店番に入って…… 「あの子がお前にやたらと懐いていたのも、そういう理由 だったんだなぁ」 「…………」 いつも以上に僕へ話しかけてくる雪下さんを、兄さんは興味深そうに眺めていたんだ。 「……それにしても、父さん遅いね」 「ああ。だな」 話題を変えようと思ったんだけど、兄さんはあまり気にしていない様子だった。 無理もないか……兄さんと父さんは昔―― 「……ん? 店の前、か?」 「車? 誰か来たのかな?」 もう閉店時間はとっくに過ぎているけれど、確かに店の前で車が停まって、誰かを降ろしていったみたいだ。 少しして、家の方の玄関が開く音がして―― 「ただいま」 「なんだ父さんか。タクシーでも拾ってきたのか?」 「ああ。ちょっと荷物もあってね。 あまり歩かせるのも可哀相だったし」 荷物? 歩かせる? 「ん、客?」 「お客というか、な…… こんな時間にすまないが、お前たち、 上の階のひと部屋を掃除してくれないか?」 「何? 急に」 ウチは住居兼店舗なんだけど、父さんが『将来大家族で同居したくて』という理由で、部屋数だけは多い。 田舎だから、安上がりに広い家を建てられた、とも言っていたけれど…… 今、その家に住んでいるのは、僕たち男3人だけ。無駄に余っている部屋のほとんどは、扉を閉めたまま、中にうっすらとホコリが積もっている。 「実は今日からひとり、家族が増えることになった」 「……えっ?」 「はぁ?」 「ん~~~~っと、聞き間違えじゃないよな? ひとり増える? 家族が?」 「ああ」 「ああ、じゃないだろ! 再婚でもするのかまた!?」 だとしたら三度目だよ、父さん…… 「そんな大事なこと、ひと言も説明なしにいきなりする なよ! もう子供じゃないんだから、事前に言って おいてくれれば別に反対しねーけどさ――」 「いや、今回はそうじゃなくてだな」 「じゃあ何さ? ……まさか、隠し子でもいたんじゃないだろうな!?」 さすがにそれは初耳だよ、父さん…… 「違う。私の子供は、お前たちだけだ」 「…………」 「将来のことはわからないが」 「わからないのかよ!」 父さん…… 「お前たちが結婚することだってあるだろう。 でも今はそうではなくて、だな」 「さぁ、入っておいで」 「?」 父さんが、リビングと玄関を結ぶ廊下の方へ声をかけた。 こちらからは影になっていたそこから、恐る恐る……といった様子で、リビングの中に―― 小柄な、ひとりの女の子が入ってきた。 「遠縁の子を預かることになってね。 駅まで迎えに行ってきた」 「あと一通り、当面生活に必要そうな物を買い揃えてきた から……雅人。すまないが、玄関にある荷物を」 「いや運ぶけどさ。だからそういうことは、事前に相談 しろって。一緒に迎えにだって行った方がよかったのに。 どっちにしろ、えーっと」 「…………」 誰だっけ? と兄さんが首を傾げる。 思い出そうとして、思い出せない……しばらく会っていない親戚の顔を、久しぶりに見た時のあの感覚。 だけど……僕にはもっと、強く、重なるイメージがあって…… 「真一は、覚えていないか? 昔よく一緒に遊んでいただろう」 「う……」 「真ちゃん」 「ま……さか。 やっぱり……」 「真一?」 別人、だと思った。だって今目の前に現れた彼女は、無表情だったから。 「昔、ウチの裏に住んでいたんだが」 別人だと思った。だって昔の彼女は、よく笑っていたから。 「ちょっと事情があってね。 引っ越してしばらく離れていたんだが、今回彼女だけ 戻ってきたんだ」 「…………」 別人だと思った。だって昔の彼女は、こんな風に僕から目を逸らさなかったから。 「〈荻原杏子〉《おぎわらきょうこ》ちゃんだ。仲良くな」 「…………」 別人、じゃなかった。 その名前は、確かに“あの子”だった。 「……ん、ぅ……朝か」 やかましく響く目覚まし時計の音で、僕は目を覚ました。 「……いつ寝たんだろう?」 昨夜は目の覚めるような出来事があって、なかなか寝付けなかった。 明け方近くまで悶々と、これからどうしたらいいのか、考えても仕方のないことを繰り返し自問自答していた気がする。 「……いきなり、同居だもんなぁ」 昨日の夜のことを思い出して、思わず頭を抱える。 なんの相談も、予兆もなく―― “彼女”は僕の前に現れた。 突然のことに、今でも戸惑っているのが自分でもわかる。 「かわいくない」 「!?」 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 「あ~……」 彼女と昔交わした会話が頭に浮かんできてしまい、僕は慌てて頭を振った。 ただでさえそんな関係なのに……扉を開けたら、廊下に“彼女”がいるかもしれないなんて…… 「どうしよう……と言っても、仕方ないけど」 父さんが決めた以上、僕だけ反対しても仕方ない。 兄さんは、可愛い女の子と同居することは大歓迎だ、なんて言っていたし。 「……仕方ない。うん、仕方ない」 僕はため息をひとつついて、洗面所へ向かおうと部屋の扉を開けた。 「……あ」 「……っ!?」 いきなり当の本人と出くわして、僕は固まってしまった。 「あー、ええと」 頭が真っ白になる、ってこういう状況なのかな? 何を口にしていいのか、わからない。 「あ……ぅえ?」 僕と鉢合わせた杏子の方も、目を白黒させている。 ひょっとしたら、同じように頭が真っ白になっているのかもしれない。 「え、えーっと……」 相手も同じかも……と思ったら、少しだけ気持ちが落ち着いた。 喉の奥に引っかかっている何かを、無理矢理押し出す努力をしてみる。昨夜だって、ろくに話もしていないし…… 「お、おはよう……荻原、さん」 「あ…………っ」 ……杏子が、驚いたような表情で、僕の顔を見つめ返してきている。 「え、えっと……おはよう?」 思わず、同じ挨拶を繰り返してしまう僕。 「……う……ん」 「あっ」 杏子は小さく頷いたようにも見えたけど…… 次の瞬間には僕に背を向けて、廊下の向こうへと去ってしまった。 「う、う~ん……」 「何してんだ?」 「うわっ!? ……兄さん、驚かさないでよ」 杏子に気をとられていた僕は、後ろから声をかけられるまで、そこに兄さんがいたことにまったく気づかなかった。 「驚かすつもりはなかったんだけどな」 「俺も杏子ちゃんに挨拶しようとしたら、急に駆け出す もんだから、お前が何かしたのかと」 「してないよ」 「本当か~?」 「本当だって」 それどころか、まだまともに挨拶も交わしていない。 「……ふむ」 僕がウソをついていないとわかったのか、兄さんは少し考え込む素振りをみせて―― 「ま、久しぶりの再会で、お互い距離感がつかめないかも しれないけど、こういうときは男の方が気を遣って やるんだぞ」 兄さんはそう笑いながら言うと、ぽんと、僕の頭を軽く叩いて立ち去っていく。 「…………」 そりゃ、杏子とは僕の方がよく遊んでいたから、兄さんにとっては他人事みたいなものかもしれないけど…… 「気楽に言わないでよ……」 僕らにしかわからないことがある、と、なんだか偉そうにため息をつきたい気持ちだった。 「……!」 僕がリビングに顔を出すと、杏子が息を呑んだ。 「……お、おはよう」 「…………う……ん」 小さく頷いてくれる杏子。 一応、返事というか、態度で挨拶を返してくれている、とみていいのかな。 「荻原さんも今から食事?」 「あ…… ……うん」 ……微妙な返事だなぁ。 「…………や、やっぱり、いい」 「え?」 「お、お腹、空いてない……から」 「なんだ。杏子ちゃん、いらないのか」 見れば焼いたトーストを皿に載せて、父さんがキッチンからやってきていた。 「朝食は抜かない方がいいと思うんだが」 「そう……だね」 ……やっぱり、避けられているのかな、僕。 「もうちょっとかな」 父さんたちと開店準備を済ませてから、僕は洗濯を始めた。今日は僕が当番だったからだ。 「……そういえば杏子は、洗濯物どうするんだろう?」 当番どころか、彼女の服を誰が洗うのかなんて話題も、昨日はしていない。 長旅で疲れていたらしい杏子を、父さんが気遣って、すぐに休ませたこともあるんだけど…… 「なんか……聞きづらいな」 僕らが、女物の……それこそ下着まで洗うのは、気がひける。 やっぱり、杏子本人に洗ってもらうことになるんだろうな。 「だとしたら、ウチの洗濯機の使い方を教えなくちゃ」 ……誰が? 「……僕、なのかなぁ?」 父さんは基本的に喫茶店の仕事。兄さんは……面倒見はいいはずだけど、杏子に関しては今朝の様子からも、僕に任せようとする気がした。 「はぁ……」 洗濯終了の合図が聞こえたので、蓋を開けて洗濯物を取り出す。 あとはこれを干すだけなんだけど…… 「……今日もいい天気なんだけど、なぁ」 どうしよう、どうしようと、朝からずっと迷っている気がする。 杏子と顔を合わせる度に、困ってしまう自分がいる。 「……悩んでも、仕方がないんだろうけど」 今はとりあえず、洗濯物を干そう。できることから片付ける。 「あっ」 「わっ」 考えていた矢先に、不意にドアが開いて、杏子が顔を覗かせた。 僕がいるとは思っていなかったのか、杏子はその場で固まってしまい……僕も濡れた洗濯物を手にしたまま、動けなくなった。 「う……」 「……西、村、くん」 「あ、うん……」 名前を呼ばれて、違和感を覚える。 昨日再会してから初めて、呼んでもらったから……か? 「……西村、くん、も……お洗濯……?」 「あ。ああ」 「……ん。なら、あとでいい……」 「え、あ」 「あ、あれ?」 ……彼女は一体、何をしに来たんだろう? 「あとでいい……って、あっ」 顔を洗いに来たのか、それとも……ひょっとして、洗濯をしに来たとか? 「遠慮しないでいいのに……」 思わずそう呟きながら、内心『僕がいたからだろうな』と、やっぱりため息をつきたくなった。 「ん……あ」 「……!」 ベランダに洗濯物を干して、下に降りようとしたところでまた、杏子と出くわした。 「……うぅ」 昨夜掃除して、杏子の荷物を運び込んだばかりの部屋の前で…… 彼女は僕の顔を見るなり、ドアノブに手をかけて、部屋の中へと逃げ込もうとしているように見えた。 「ま、待って!」 「!?」 びくんっ、と身体を大きく震わせて、杏子が動きを止める。 まるで、ギクシャクとしか動けない、ゼンマイ仕掛けのロボットの玩具みたいだ。 「ご……ごめん、驚かせた?」 「…………んーん」 僕が恐る恐る謝ると、杏子は一瞬考えてから、ふるふると首を左右に振った。 「そうじゃなくて……ただ」 「ただ……?」 「……ううん。 西村くんのせいじゃ……ないから」 また、だ。また違和感を覚える呼び方。 「わたしの……せい、だから」 「せい、って?」 何が? なんで? 何を気にしているの? 尋ねたいことはいっぱいあるのに―― 「……ごめんなさい」 パタンと、彼女は扉を閉めて、その向こうへと姿を消してしまった…… 「…………」 店番をしながらも、杏子のことが気にかかる。 彼女はどうして、あんな態度をとるんだろう?どうして急に、ウチで引き取ることになったんだろう……? 父さんは、あまり詳しい事情を話してくれなかった。 元々口数の多い人ではないけれど……それにしても…… 「……なんだい?」 「あ、ううん。なんでも」 「…………」 「やっほー真一! 今日も暗い顔してるわね~、 しゃきっとしなさい!」 「こんにちは、お邪魔します」 「あ、れ? 珍しいね、ふたり一緒に」 芹花は開店直後に押しかけてくることが多くて、雪下さんは基本的に午後のティータイムが多いから、僕には珍しいふたり組に見えた。 「そこでバッタリ会ったのよ」 「あ……そうだ、聞いたわよ~真一、あんた最っ低ね!」 「え? 何? なんで?」 急に怒り出した芹花の態度に首を傾げると、雪下さんが申し訳なさそうに話に割り込んできた。 「いえ、あの……私が昔ここに来たことがあって、 西村くんに薦めてもらったのがきっかけで、 あのケーキを好きになったと説明したら……」 「女の子にとって大切な想い出を、相手の男が覚えてない なんて……サイッテー!! でしょうがっ!」 「あ……ああ」 確かに、僕の記憶は曖昧だ。雪下さんと幼い頃に会ったかどうか、今でもハッキリとは思い出せないでいる。 「ごめん……」 「いえ本当に、謝らないでください。 私の勝手な思い込みで、西村くんを困らせたく ありませんし」 「美百合~、ダメよ真一を甘やかしちゃ! そんなこと言ってたら、真一は一生思い出さないわよ!」 「あら、それはそれで困りましたね。ただでさえ私は、 芹花ちゃんより西村くんとの想い出が少なくて、 嫉妬しているのに」 「……あんた、さらりと何言ってるのよ」 「正直な気持ちですけど♪」 「はぁ、こんなののどこがいいんだか」 「あら。西村くん、いい人じゃないですか。ねえ?」 「いや、僕本人に聞かれても」 どこまで本気なのか、相変わらず雪下さんの言っていることはわかりにくい。 それにしても…… 「なんかふたりって、すごく仲良くなってない?」 「そう? 普通よ普通」 「だって、いつのまにか名前で呼び合っているし」 「いつまでも苗字で呼び合うなんて、余所余所しいじゃ ない。クラスメイトなんだし。ねぇ?」 「ええ。先ほど、お店の前でばったりお会いした時に、 弾みでお互いに呼び合ってしまったもので。なら このままでいいか、と」 「ふーん」 女の子同士って、そういうものなのか…… って、あ! 「そうか……名前だ」 「ん? 何よ」 僕が杏子と話していて覚えた、違和感は……お互いに苗字で呼び合っていたからだ。 昔は、それに今だって心の中では、名前で呼んでいるのに…… 「……ううん。 西村くんのせいじゃ……ないから」 そんな風に、余所余所しく呼ばれたものだから…… 「はあぁ……」 「あら、大きなため息」 「ひとつため息をつく度に、幸せがひとつ逃げていくん だって、飽きるほど言ってるんだけどねぇ」 「芹花ちゃん」 「あ、はい? なんでしょう」 「紹介したい子がいるんだが、今日、春菜さんや 香澄ちゃんは家にいるかな?」 紹介したい子、って……杏子のこと? 「あ~、お姉ちゃんはいますけど、お母さんはどうかな。 さっき、出かけるようなことを言っていたから」 「ちょっと見てきますね!」 芹花は詳しい理由も聞かずに、店の外――隣の“すずらん”へと駆けていった。 「私、遠慮した方がいいですか?」 ややこしい話とでも思ったのか、雪下さんが遠慮するようなことを言う。 「いや。ウチでひとり女の子を預かることになってね」 「キミともクラスメイトになるかもしれない。 会ってもらえないかな?」 「あ、そうなんですか。 そういうことでしたら」 「う、うーん……」 大丈夫……なのかな? 「うぅ…………」 父さんが杏子を呼びに行って、連れてきた。 芹花はまだ、家から戻ってこない。まだ春菜さんを探しているのかな? 「えっと……親戚の、荻原杏子……ちゃん」 そして結局、僕が雪下さんに杏子を紹介する羽目になって…… 「私は、雪下美百合といいます。西村くんのクラスメイト なんです。よろしくお願いしますね」 「うん。……よろしく」 雪下さんが差し出した手を、杏子はぎこちなく握り返す。 表情は固いけれど……僕と話しているときよりは、喋り方がハッキリしているような…… 「んー……ふむ」 「ん……」 雪下さんも、杏子があんまりおどおどしているように見えるものだから、不審に思ったのかもしれない。 「……んっ」 と思ったら、ニッコリ笑っている。 「えっと、荻原さん」 「はぃ……」 「お好きなケーキはありますか?」 「えっ。……ケーキ?」 「はい。こちらのお店、ケーキがとてもおいしいと思うん ですけど、荻原さんはどうですか?」 「……おいしい、と思う」 「ですよね。私なんて、毎日のように通っていますし」 「うん」 「私の一押しはオレンジヨーグルトケーキなんですけれど、 荻原さんはどれがお好きですか?」 「え……っと」 杏子はそこで僕――からはすぐ目を逸らして、父さんにお伺いを立てるような視線を向けた。 「杏子ちゃんは昔よく、ストロベリーケーキを食べていた よ」 言いながら父さんはショーケースへと向かうと、小さな円柱の上にイチゴが一粒載った、ストロベリーケーキを取り出した。 「せっかくだから、食べるかい? サービスだ」 「え? えっ、え」 「可愛らしいケーキですね、荻原さんにぴったり」 「で、でもっ、でも」 「遠慮しなくていいよ。このまま売れ残ったら、もったい ないしね」 「う、うぅ」 「私が言うのは差し出がましいですが、せっかくのご厚意 ですもの。遠慮せず、戴いてよいと思いますよ?」 「………………」 そこでようやく、というべきか……杏子はちらちらと、救いを求めるように僕の方を見た。 「……えっと、僕も、食べていいと思うよ」 人気商品のひとつだから、売れ残るなんてことは滅多にないんだけど。 父さんがせっかく気を利かせてくれたんだから、ここは素直に食べていいと思った。 「でも……えっと」 「一緒に食べましょう?」 雪下さんのテーブルには、まだ手をつけられていないオレンジヨーグルトケーキとアイスティーのセット。 「で、もっ」 「おいしいケーキを囲んで、お話しして……お友達になり たいです」 「お友……達?」 「ええ。西村くんとはもうお友達――いえ、ご親戚なんで しょう? 私ともお友達、せめてお知り合いにはさせて ください」 「友……達」 「友達です」 「友達……」 杏子はまたおずおずと、僕の顔を窺った。 声をかけたときは避けられていたけど、この場では僕以外、ほとんど見知らぬ人だから……ってことなのかな? 「…………」 杏子はなおも、少し迷う素振りをみせて―― 僕が、黙ってゆっくり頷くと、ようやく雪下さんに向き直った。 「…………あり、がとう。ごめんなさい、いただきます」 「はい♪」 「あ、っと。ごめん、僕のだ」 携帯が鳴り出したので、慌てて取り出して見てみると、着信表示に芹花の名前が出ていた。 「もしもし?」 「あ、真一? やっぱお母さん出かけちゃったみたいなん だけど、どうする?」 「あー……ちょっと待って。 父さん、春菜さんいないって」 「ふむ。まぁ後日改めて挨拶してもらおうか」 「せっかくだから、あとで近所を案内がてら、香澄ちゃん にだけでも、杏子ちゃんを紹介してあげてくれ」 「あ、うん」 つまり僕に、杏子を連れて行ってこい、と。大丈夫かな…… チラリ、と杏子たちの方を見ると、雪下さんお気に入りの窓際席にふたりで移動していた。 ふたりの前には、父さんが用意したストロベリーケーキとオレンジヨーグルトケーキ、そして飲み物。 「ね、おいしいですよね! このクリームのまろやかさ、 舌触りときたら……」 「うん」 はむはむと、ケーキを口に運んでは食べている杏子の様子が、なんだか子供っぽく見えておかしかった。 けど……杏子は僕が見ていることに気づいた途端―― 「――!! ん、んん……」 慌てて顔を背けてしまった。 「…………はぁ」 僕が“ただの親戚”から“友達”に戻るまでには、まだしばらくかかりそうだ。 「……あ、芹花。待たせてごめん。 あとでひとり女の子を連れていくから、香澄さんと 待ってて」 「――は!? 女の子!? 何それ聞いてない!!」 「聞かずに出てったんじゃないか……」 「どーいうことなのよ!! 誰よその子!! なんで真一があたしたちに挨拶させようとするのよ!!」 「僕じゃなくて、言い出したの父さんだから……」 「わけわかんなーい!! 説明しろぉーっ!!!!」 結局、電話の向こうで騒ぎ立てる芹花をなだめつつ、雪下さんと杏子がケーキを食べ終えるのを待って…… 「……はぁ、それならそうと、早く言いなさいよね」 杏子と、なんとなく雪下さんも一緒になって、僕らは“すずらん”を訪れていた。 「大変だったのよさっきまで。芹花ちゃんったら『真一が 女の子を紹介したいだなんて、どういうことよー!!』 って、大騒ぎして」 「お姉ちゃんっ!!!」 「確かに、誤解を招く表現ですねぇ」 「雪下さん、面白がらないで……」 「更にライバル登場! って感じで、楽しいじゃない ですか。主に芹花ちゃんが」 「美百合! あんたまで何言ってんの!?」 「はー…………」 杏子はすっかり圧倒されてしまっている。 やっぱり、芹花のノリについていけるのは、僕たちぐらいなのかなぁ? 「えっと、そろそろ改めて挨拶してもらってもいい?」 まだ僕が、杏子を『ウチでしばらく暮らすことになった親戚の子』と紹介しただけだ。 実際、詳しい事情は僕も聞かされていないから、これ以上話しようがないんだけど…… 「ああ、そうね! 初めまして、あたしは水島芹花。 この花屋“すずらん”の美人看板姉妹、その妹の方って 覚えてくれればいいわ」 「あ……はい。よろしくお願いします」 「同い年なんでしょ? 敬語じゃなくていいって」 「あ、うん……」 「……美人看板姉妹って、つっこんだ方がいい?」 「私もおんなじように自己紹介した方がいいのかしら?」 「いえ、香澄さんは普通にお願いします」 「ん~、ちょっと残念」 残念なんだ…… 「初めまして荻原さん、私は水島香澄。芹花ちゃんの お姉ちゃんです。これからよろしくね」 「よ、よろしくお願いします……」 朗らかな香澄さんに対して、杏子はやっぱりどこかまだ、ぎこちない。表情も硬いままだ。 「杏子ちゃんも、そんなに固くならなくていいのよ? ご近所同士、仲良くしましょう?」 「……は、はい」 「何よ~、元気ないわよッ! ほら、声を出して出して!」 「……ぁう。 ……ごめんなさい」 「やだ、謝ることなんてないって」 「ん……うん。 ごめんなさい……」 硬い表情のまま俯く杏子を見て、芹花が困ったように頬を掻く。 あんまり杏子が怯えるから、調子を崩されているみたいだ。 「さっきお伺いしたんですけど、荻原さんは昔、 この辺りに住んでいたそうですよ?」 「あら? じゃあ、どこかで会っているのかしら?」 「……そんなに、長く住んでなかったから」 「小学生ぐらいまで、でしたっけ?」 「ん……」 「じゃあウチと入れ替わりかしら? 私たち、芹花ちゃんが小学生の頃、ここに越してきたの よ」 「…………」 「ちょっと、真一」 「うわっ!?」 芹花が急に、僕の襟首を掴んで店の影へと引っ張り込む。 「どうしたの、いきなり?」 「あの子ってさ、なんていうか……人見知り?」 「あー……そうなのかな」 「美百合やお姉ちゃんとは、少しは話せるみたいだけど」 少し寂しげな口調で、芹花が呟く。 「笑ってくれない相手って、やりにくいのよ、あたし」 「笑わ……ない?」 「気づかなかった? あの子さっきから、くすりとも しない」 「…………」 名前以外に覚えていた、もうひとつの違和感。 「しんちゃんのそばにいると、ふにゃ~ってね、 なんか楽しいの。嬉しくて、笑っちゃうの」 昔あんなによく笑っていた杏子が――笑わない。笑ってくれない。 「昔からあんな感じなの?」 「いや」 「じゃあ、何かあったとか?」 「わからない」 「本当に? 何も聞いてないの?」 「うん……」 聞いてない。何も、本当に聞いてない。 ただ……覚えていることは、ある。 「かわいくない」 「!?」 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 「そうだっ。杏子ちゃん、引っ越してきたばかりで何かと 入り用でしょう?」 「あ……はい」 「だったら、ちょうどいいものがあるわ」 香澄さんが一旦、店の中へと入った。そしてすぐに、ひとつの小さめの箱を持って戻ってきた。 「これ、どうかしら?」 「…………?」 香澄さんが差し出した箱を受け取ると、杏子は恐る恐るといった感じで蓋を開けた。 「……あっ」 箱から出てきたのは、仔猫の写真がプリントされた可愛らしいコーヒーカップだった。 「この間お買い物に行った時、つい衝動買いしちゃったん だけど、今使ってるカップがまだ現役なの」 「だからよかったら、杏子ちゃんに使って欲しいなって」 「でも、それじゃ」 「ああ。引っ越し祝いみたいなものですね。 私も何か差し上げた方がいいのかしら」 「そんな」 「このカップ、可愛くないかしら?」 「可愛い……です、けど」 「それなら、ぜひ使って」 「ん……んん」 香澄さんの問いかけに、杏子が小さく俯く。 見方によっては頷いたようにも、ただ困っているようにも見えた。 「ん、お帰り」 「あれ? 兄さんだけ?」 黙り込んでしまった杏子を連れて店に戻ると、父さんの姿がなく、代わりに兄さんがカウンターに入っている。 「なんだか急用らしくてさ。店番代わってくれって」 「……言ってくれれば、すぐ戻ってきたのに」 隣にいたんだから、声をかけてくれれば僕が店番になってもよかった。 そのつもりで言ったら、兄さんが軽く片方の眉をつりあげた。 「お前、杏子ちゃんをみんなに紹介してたんだろ? 最後まで付き添ってやらなくちゃ」 「…………」 「うぅ……」 結局、香澄さんたちとの話はあまり盛り上がらず、困った顔の3人を残して、僕と杏子は店に戻ってきたんだ。 だけどひとつだけ…… 「お? 杏子ちゃん、何かもらったのかい?」 「ん、んん……」 香澄さんに渡されたマグカップ入りの箱を、杏子は返すことができなかった。 香澄さんもにこにこ笑っているようでいて、芹花同様押しが強いところがあるからなぁ…… 「誰からもらったんだい?」 「……お姉さん」 「香澄ちゃんか。納得」 うんうんと、自分のことみたいに、兄さんが嬉しそうに頷く。 「でも……」 「でも、なんだい?」 「…………」 「嬉しくない?」 「んーん」 ふるふると、杏子が左右に首を振る。 対する兄さんはさっきからまるで、幼稚園の先生みたいに優しく話しかけていた。 「香澄ちゃんのことだ。きっとそれをあげることで、 杏子ちゃんに喜んで欲しかったんだと思うよ」 「わたし、に……?」 「ああ。俺にも、何をもらったか、見せてくれるかな?」 「……ん」 一瞬だけためらって……杏子は兄さんに向けて、箱を開けてみせた。 「マグカップか。さすがいい趣味してるな、香澄ちゃんは」 「う……ん」 「杏子ちゃんはそれ、可愛いと思う?」 「……うん」 「使ってみたい?」 「…………うん」 「なら遠慮しなくていい。素直に受け取っておきな」 「で、でもっ」 「お礼とか、お詫びとか、考えなくていいんだよ」 「……っ」 そんなことを気にしていたのか……?兄さんのひと言に、杏子が驚いた顔をみせる。 「ははっ、やっぱりそんなことを気にしてたのか。 杏子ちゃん、顔に出てるよ」 兄さんにそう言われた途端…… 「ふあぁぁっ……!?」 杏子は珍しく大きな声を出すと、一気に店の奥――自宅へつながる通用口へと、駆け込んでしまった。 「あらら、調子に乗りすぎたかな?」 「いや……それより、よくわかったね」 「ん、何が」 「杏子の表情」 僕にはそんな、杏子の考えが顔に出ているようには、見えなかった。 「いやぁ、ハッタリみたいなものさ」 「……ええっ?」 「まだウチに来て半日足らずだけど、あんな子だろ? 状況からしてそうかなって、推測しただけさ」 大したことじゃない、と言わんばかりに、兄さんは軽く肩をすくめた。 「父さんがいたら、もっとうまく話を運んだのかも しれないけどなぁ」 「こういうとき、くそっ、父さんにはまだまだ 勝てないのかって思うよ」 「それを言ったら……」 「ん?」 「それを言ったら、僕なんて」 朝から満足に話もできていない。 いくつか引っかかることはあるけれど、なんの解決にもなっていない。 僕が昔、一番仲が良かったはずなのに…… 「……お前も、顔に出やすいなぁ」 「えっ?」 「そんな深刻に考えるなって。慌てずゆっくり、一緒に 暮らしてる内に、なんとかなるって」 そう言ってぽん、と僕の肩を軽く叩くと、兄さんはまた仕事に戻っていった。 「慌てず、ゆっくりって言われても……」 杏子があんな様子なのに、ゆっくり話せる機会なんて、本当にあるのかな……? 「…………」 「…………」 いろんな意味で、僕は途方に暮れていた。 単純に、蒸し暑い! ということもあるけれど…… 今日になって急に、杏子に町を案内するついでに、買い出しに行ってきてくれ、と兄さんに頼まれ―― 「…………」 杏子とふたりだけで強引に放り出されて、どうしたものかと困っていた。 焦らず、ゆっくり……なんて言っていたくせに、この状況には兄さんの作為を感じる。 こんなときに限って、芹花も、香澄さんも、雪下さんもいない。 「ごめんなさいね~、せっかく寄ってくれたのに。 みんな出かけちゃったから、今日は私が店番なの」 「いえ……」 「でも、私も杏子ちゃんにご挨拶できてよかったわ。 真彦さんから聞いてはいたんだけど」 「これからどうぞ、よろしくね」 「……はい」 「はぁ……」 「…………」 いつもに増して、セミの声をうるさく感じる。 杏子は相変わらず、硬い表情で、唇を結んでいた。 「……どこか、行きたいところってある?」 僕がそう聞くと、杏子は俯いたまま首を小さく横に振る。 「まだ……いい」 「まだ?」 「…………」 まだ……って、いつか行きたいところがあるのかな? ウチの周りは、彼女が住んでいた頃とあまり変わっていない。 せいぜい……ウチの裏にあった、彼女の家がなくなったぐらいだ。 「……とりあえず、隣町へ行こうか?」 「……うん」 昔の面影を残していて、色々なことを思い出しそうな場所よりも……だいぶ発展して様変わりした場所へ。 僕たちは逃げるように、自宅から離れていった。 「あっちにカラオケボックスができて、こっちには ゲームセンター」 「うん……」 「ショッピングプラザも、確か3年前にオープンして、 どこもビルになっちゃって」 「うん……」 「喫茶店や、ファーストフード……ああ、コンビニも増え たんだ。この辺りまで来れば、買い物で困ることはない よ」 「うん……」 「…………」 「…………」 あんまり、興味ないのかな…… この前、雪下さんと来た時、彼女はすごくはしゃいでいたけれど…… 「……ねぇ、きょ――」 「……!」 つい、『杏子』と名前で呼びかけそうになって、言い淀んだ。 その瞬間、彼女の肩が驚いたように揺れたのが、わかってしまったから。 「ええっと……荻原、さん」 「あ…………うん」 やっぱり、小さな返事……ぎこちない答え。余所余所しい……空気。 「……えっと、興味のあるものとか、ない?」 「え……興味?」 「うん。趣味とか、好きなものとか」 「……特には」 「あぁ……そう」 どうしようかな……このまま帰っても、なんだか意味がないし。 そのときふと、通りがかった店のショーウィンドウに、猫のヌイグルミがあるのを見かけた。 「あっ」 「……んん?」 脚を止めた僕に向かって、不思議そうに小首を傾げる杏子。 ひとりで先に行くのが怖いのか、それとも一応、一緒に歩いているのだからと待っていてくれているのか…… 「きょ……荻原さんって、猫、好き?」 「猫……?」 「うん。猫」 香澄さんからもらった猫柄のマグカップを、ちょっと気に入っていたみたいだし…… 「昔……さ。猫の大きなヌイグルミが、お気に入りじゃ なかったっけ?」 「!? ふわ……っ」 子供の頃、本当にまだ小さかった頃……自分よりも大きな猫のヌイグルミをウチの父さんからもらって、すごく喜んでいたことを思い出した。 クリスマスだったか、誕生日だったか……そこまでは覚えていないけれど…… 「なんか、ずるずる引きずって歩いていたの、思い出した」 「うぅ……」 杏子は頭を抱えるようにして、その場にうずくまってしまう。 「ご、ごめん! イヤだった……?」 「……じゃない、けど」 「ん?」 「そうじゃない……けど」 「恥ずかしい…… そんなこと言うなんて、真ちゃん、イジワル……」 「え、あ」 真ちゃん――懐かしい呼ばれ方だった。 芹花たちが冗談で僕を呼ぶときのようなものではなくて、幼なじみの……昔馴染みの呼び方で…… 「あ……ええっと」 杏子も、僕のことを懐かしい呼び方で呼んだと気づいたのか、急にあたふたと落ち着きをなくしている。 これなら、今なら、昔のように自然に―― 「きょ――」 「お、真一~?」 「!?」 急に呼ばれて、誰だろうと慌てて辺りを見回したら―― 「宗太……」 「よう、今日は店番いいのか?」 「あ、ああ。今日は親戚の子を案内している途中で……」 「親戚? さっきまでそこにいた子が?」 「え……あれ!?」 その場にいたはずの杏子が……いなくなっていた。 「俺がお前に声をかけた途端、びくんって跳ね上がって、 ズダダダダッ!! ってものすごい勢いで駆けて いったぞ」 「ウソ……」 「だからてっきり俺は、お前がついにナンパでも始めて、 しかもいきなり相手を泣かせるような真似でもしたん じゃないか、と」 「してないからっ!」 なんてことを言い出すのかな、宗太は。 「いやでも、今はそんなことより、杏子を探さなくちゃ」 「キョウコ? その子の名前か?」 尋ね返してくる宗太に、僕はハッキリと頷いた。 「うん。荻原杏子――それが彼女の名前で、 僕の幼なじみだ」 「――いない、か」 宗太が手伝ってくれるというので、僕たちは手分けして杏子を探し始めた。 ……なんでも宗太は、一度見た女の子は忘れないらしい。 それが本当かウソかは別にして、僕は自宅へと戻るルートを、宗太が繁華街の辺りを探してくれている。 「はいもしも――」 「こぉぉぉぉぉぉぉの、 バカ真一ーーーーっ!!!!」 「うわっ!?」 携帯の向こうから響いてきた怒鳴り声は、芹花のものだった。 「あんたねぇ、何やってんのよ一体!!」 「ごめん、事情はメールした通りで」 「こういう大事な話は即、直接、電話しなさいよっ!! 危うく見過ごすところだったんだから!!」 「ご、ごめん」 「とにかくっ、杏子ちゃんが迷子、と思っていいのね?」 「ああうん、そうなんだ。 昔住んでいたし、大丈夫だとは思うけど」 「あの人見知りな子が、ヘンなのに絡まれたりしたら 大変でしょ。もちろん探すの手伝うわよ」 「助かる!」 「お礼は、カフェラテとオレンジシャーベットのセットで よろしく。お姉ちゃんと、美百合にも言っとくから」 「頼りになるよ」 「あんたもたまには頼りになるとこみせなさいよ。 じゃね!」 「ふぅ……」 芹花に応援を頼んだのは、正解だったと思う。 杏子だって子供じゃあるまいし、って思うけど…… あんなに人見知りで、笑わない子になってしまった杏子を、ひとりにしておくのは心配だった。 「いない……か」 ひょっとしたらと思って、海岸の方から花畑へ。 「ここ……でもない」 それから神社―― 森と――子供の頃、杏子とよく遊んだ場所を一通り巡って…… 「はぁ、はぁ……あ、あれ!?」 家の近くにまで戻ってみたところで、道端にしゃがんでいる杏子らしい姿を見つけた。 「杏子!」 「!?」 びくん、と小さな影が震える。 人を心配させて、こんなところにひとりで戻ってきて…… 「まったくもう、何して――」 「う……えっと……」 「……あれ?」 杏子は道端に置かれた段ボール箱の前に、しゃがみ込んでいた。 ……そしてその段ボールの中には、タオルに包まれた仔猫が1匹。 「……捨て猫?」 「……たぶん」 杏子はじっと、段ボール箱の中を見つめて動かない。 「どうして……こんなところに」 「……猫のこと? それとも」 ぽつぽつと、こちらを見ないまま、杏子が返事を返してくれる。 それはこれまでのぎこちなかった会話より、ずっとずっとマシなもので―― 「両方。まず、杏子とはぐれて心配した」 「……ごめんなさい」 杏子が俯く。声にも張りがなくなった。 「見つかったんだからいいよ。宗太も、自分が驚かせた せいじゃないかって、反省してた」 「宗太?」 「さっき、僕に声をかけてきた親友。久我山宗太」 「今度ちゃんと紹介するよ。どうせ店にも顔を出してくる だろうし」 「うん……」 とりあえずその宗太や芹花に、杏子の無事を報せようと携帯を取り出した。 「…………」 杏子はまたじっと、段ボール箱の猫を見つめている。 申し訳なくて俯いているのか、それとも…… 「……ふう」 とりあえずメールで、宗太と芹花、あと香澄さんや雪下さんに連絡を入れておく。 芹花にはまた『こういう大事な話は電話でしなさい!』と怒られそうだけど、あまり大事になっているのを、杏子に聞かせたくなかった。 「……よっと」 メールを作成して、送信。そして携帯はポケットに放り込んで、杏子に向き直る。 「……帰る途中で、見つけたの?」 「うん……ごめんね、ひとりで帰ろうとして」 「ん」 しまい込んだ携帯が、早速鳴り始める。相手は宗太か、芹花か、ほかの誰かか。 今は無視して、画面も見ずに保留ボタンを押す。 「一緒に帰ろう」 「でも……」 杏子は仔猫から目を離さない。その場から動こうとしない。 「その猫、連れて帰るわけにはいかないよ。 ウチ、一応飲食店なんだし」 「うん……そうだよ……ね」 ウチの場合、店と家が分かれているから、家の方で飼うことができるかもしれない。 それに最近じゃあ、猫を放し飼いにしている喫茶店もあちこちにあるけれど……父さんがそういうやり方は好きじゃないらしい。 動物を売り物にしているみたいで可哀相だ、って言っていた。 「でも……このままじゃ、かわいそう」 「……うん」 それはそうだ。炎天下じゃなかった分まだマシだけど、こんな小さい仔猫を放り出すなんて…… 「この子、行く場所ないの」 「うん」 「行く場所があったら、ここにはいない。残ってない。 きっと、お母さんのところへ帰るの」 「お母さん」 「…………」 お母さんのところへ、帰る。 帰りたくても、帰れない。 そういえば、杏子の家族って―― 「あ……!」 ぽつり、と僕の頬に雨粒が当たった。周囲に銀色の糸が、垂直に落ちてくるのも目に入る。 「こんな時に……」 「…………どうしよう」 杏子も雨に気づいて、顔を上げて困った様子をみせる。 「んんっ……」 僕と目が合うと、また猫に視線を落として……はぁ。 「わかったよ」 「……え?」 「とりあえず、雨に当たらない場所へ運ぼう。 ウチ……の軒先だけでも借りて」 父さんを説得するのが大変そうだし……兄さんはどっちの味方につくか、わからない。 だけどこのままじゃ、杏子もきっと帰らない。だから…… 「帰ろう。ウチに」 「……帰って、いいの?」 「いいよ。猫も一緒に」 「真一くんと同じおうちに……帰って、いいの?」 真一くん、か。 さっきは真ちゃん、今は真一くん…… でも、西村くんのままよりは、いいかもしれない。 「帰ろう。一緒に」 もう一度、強く繰り返した。 雨足はだんだん強くなってくる。 僕が内心で焦っているのは、雨に打たれることがわずらわしいのと……そして…… 「…………うん」 彼女が、頷いてくれるかどうか、わからなかったこと。 「帰る。一緒に、帰る」 そう言って、彼女は少しだけ……泣きべそをかいた。 「元の場所に戻してきなさい」 仔猫を連れて帰った僕たちを見て、父さんはため息混じりにそう言った。 入り口の前で傘を差し、あるいは軒先で雨をやり過ごしながら、押し問答を続けていた。 「雨なんだし、せめて今晩くらいは……」 「ダメだ」 「……っ」 その落ち着いた、けれどはっきりとした拒絶の声に、仔猫を抱えていた杏子が身を縮ませる。 父さんのこの反応は予想していた。でも、ここで引くわけにはいかなかった。 「真一、ウチは飲食店だ。猫を飼うのは衛生的にも問題が ある……っていうのは、お前もわかった上で言ってるん だよな?」 「うん」 そんなことは百も承知だ。 それでもこんな雨の中、仔猫を……そして杏子を放り出しておくことなんて、できない。だから連れ帰ってきた。 「面倒は僕がちゃんとみる。店の中には入れないし、 世話もちゃんとするよ。だから……」 「そうは言っても、なぁ」 頭を下げて頼んでも、父さんはむっつり腕を組んだままだ。 でもそのとき―― 「あ、あのっ!」 僕の後ろに隠れるようにしていた杏子が、一歩前へ出て、僕の隣に並んで、声を張りあげた。 「あのっ……わたしからも、お願い、します」 そして仔猫を抱いたまま、頭を下げる。雨に濡れたままの髪の毛から、雫がこぼれる。 「わたしも、面倒みますからっ。だからっ!」 「……ううむ」 店の玄関先に、杏子の髪からこぼれた水滴が、小さな染みをつくっていく。 「……父さん。とりあえずふたりに、シャワーを 浴びさせた方がいい」 「……そうだな。いつまでも濡れたままでは」 「でも猫は」 「仕方ないだろう……家にあげるのは」 「えっ……じゃあ」 「引き取り手が見つかるまでだぞ」 父さんの横顔には、苦笑が浮かんでいた。 「それにさっき言った通り、ふたりで面倒を見て、 店には入れないこと。わかったね?」 「はいっ!」 「は、はいっ! ……ありがとう、ございますっ」 ふたりして、父さんにもう一度頭を下げる。 その間に父さんは、店の中へと戻っていった。 「……それにしても珍しいな」 「何が?」 「いやお前が、父さんにケンカを売るなんて」 「僕は別に、ケンカしようなんて」 「男が我を通すっていうのは、誰かと、あるいは何かと ケンカするってことさ」 そう言って兄さんは僕の胸を、裏拳で軽く叩いた。 「とにかく早く風呂入ってこい」 「あ、でも、杏子ちゃんと一緒に入るのはまだ早いから やめとけよ」 「ふわぁわっ!?」 「兄さん!!」 しかし、それからが大変だった…… 「真一くん、そっち! そっち行った!」 「こなくそっ!!」 僕と杏子が一緒に風呂へ入るわけにはもちろんいかなかったから、別々に猫の面倒をみようとして大失敗。 僕らだけでなく、猫も雨に濡れていたから、身体を洗おうとして……嫌がって逃げ回られて。 結局ひとりじゃ抑えきれないからって、服を着たまま、まず猫を洗うために一緒にお風呂の洗い場で悪戦苦闘。 ……結局僕らがシャワーを交代で浴びたのは、夜になってからだった。 更に大変な日々が続き…… 「こら、それは玩具じゃないぞ!」 仔猫が遊んでいたモノを慌てて取り上げると、恨めしそうに鳴かれた。まったく、こいつは…… 「どうか、した?」 様子を見に来た杏子の足下に、仔猫がすり寄る。自分の恩人が誰か、わかっているみたいだ。 「……よしよし」 ……もしくは、自分を一番甘やかしてくれる相手は誰か、か。 「……〈小賢〉《こざか》しい奴め」 僕は杏子の腕に抱かれた仔猫にため息をつきながら、いままでそいつが遊んでいたもの――お店のハンコを手の中で転がした。 「なんだったの?」 「お店で使うハンコ。 どうりでどこにも見当たらないわけだよ……」 「ご、ごめんなさい」 「いや、杏子……ちゃんが謝ることじゃないよ。 そいつの手の届くところに、貴重品を置かないように しないと」 「そ、そうだね……」 相変わらず時々ぎこちなくなる僕たちの会話を他所に、仔猫がのんびりあくびした。 ほかにも…… 「ひゃぁっ!?」 「……杏子?」 真夜中、僕が廊下を歩いていると、杏子の部屋から悲鳴が聞こえてきた。 「杏子!? どうかした?」 ドアを叩き……鍵がかかっていなかったので、悪いと思いつつも慌てて開けると―― 「……あぅぅ」 そこには、ベッドを見つめてうめく、寝間着姿の杏子がいた。 「杏子、一体どうし――っ?」 「あわっ、し、真一くん!? これは、その……」 ……見ると、ベッドの真ん中に染みができていた。 水でもこぼしたようなその跡は…… 「まさか……」 「ち、違うよ!? わたしじゃないよ!?」 「いや、うん、えーっと」 ……どう尋ねていいのかわからない。 まさか杏子が、この歳になって……まさか、ねぇ…… 「あっ」 泣き出しそうな顔をしている杏子の、その足下に……仔猫が姿を現した。 「ひょっとして、こいつの仕業?」 「うぅ……真一くん、やっぱりわたしのこと疑ってた」 「いや、だって、うん」 冷静に考えてみれば、染みが広がっているのは掛け布団の上。人間がその…… 「わたし、お……おもらしなんか、しないよ」 「だ、だよね、うん」 そんな、ハッキリ言わなくてもいいのに。 杏子は足下にすり寄る仔猫を抱え上げると、その頭を軽くぺちぺちと叩き始めた。 「もうっ、もうっ、もうっ!」 「……ぷっ」 「し、真一くん、笑わないでぇ……」 恥ずかしげに顔を真っ赤にする杏子に構わず、仔猫は満足そうに鳴いていた。 またあるときには…… 「あれ、お前は日向ぼっこか?」 洗濯物を干しにベランダに出た僕は、柵の近くで丸まっている仔猫にそう声をかけた。 ホント、気持ちよさそうだよなぁ……と考えながら、洗濯物を干し始めたところで…… 寝ていたはずの仔猫がむっくりと起きだし、手すりの間から外へと顔を突き出した。 「お、おい?」 そのまま何を思ったか、手すりの隙間からなんとか抜け出して、外へ――何もない空中へ出ようともがいている!? 「うわぁっ!? 危ないって!」 慌てて捕まえようとしたけれど、仔猫は素早く僕の手をすり抜けて、今度はベランダ中を走り回る。 「ええい、おとなしく――うわっ」 「どうしたの――きゃっ!?」 「わっ!?」 猫を追いかけるのに夢中だった僕は、ベランダにやってきた杏子に気づかず、そのままの勢いでぶつかってしまって…… 「し、真ちゃんっ!?」 僕たちはもつれるように倒れ込んでしまい…… 「ご、ごめん!! 大丈……夫?」 ふにょん。 「……えっ」 「ふあぁぁあっ!?」 「ご、ごめんっ!!」 押し倒すような格好になってしまったので、慌てて飛び起き、杏子から離れる。 ……さっき、どこに触ってしまったのかは、深く考えずにおこう。 「うぁうぁう……はうん……」 なんだかヘンな声を出してうずくまってしまった杏子のことは……恥ずかしいので、僕も見れない。 そ、そういえば肝心の仔猫は…… 「……あ」 仔猫は、干したばかりの洗濯物に飛びついては、それを引きずり落としていた…… 「……せ、洗濯、し直し?」 「…………うん、そうだね」 そして…… 「し、真一くん、ととと、とめて~っ!」 「え?」 普段聞かない杏子の大声に驚いて振り返ると、ずぶ濡れになった猫を追いかける、ずぶ濡れの杏子が、僕に向かって走ってくるところだった! 「ま、まだ洗ってる途中なのに……っ」 状況から考えると、仔猫の身体を洗っていたらその途中で逃げられてしまった、というところなのかな? 「よし、任せて!」 僕は気合いを入れて、仔猫を待ち構えた。ウチの廊下はそう広くはないし、取り逃がすことはないだろう。 仔猫は杏子の伸ばした手をかわしながら、まっすぐ僕の方に向かってくる。 そのままの勢いで僕の脇を駆け抜けようとした仔猫の首根っこを、すかさずキャッチ! 「よしっ!」 と、そこに―― 「ひゃぁぁっ!?」 「うわぁっ!?」 仔猫を追いかけていた勢いのまま、杏子がこっちにつっこんできた!! ふにょん。 「……えっ」 「ふあぁぁあっ!?!?」 「ご、ごめんっ!!」 とっさに抱き止めたものの……なんだかまた、柔らかい身体を触ってしまって…… 「し、真一くん!!」 「ごめんっ!」 ……猫のおかげか、いつの間にか普通に、杏子と話せるようになっていた。 でもそんな毎日も―― 唐突に終わりを告げることになった。 「引き取り先、見つかったぞ」 昼過ぎに帰宅するなり、兄さんが僕と杏子の目を見ながらそう言った。 「近所に、やたらと動物好きな人がいたのを思い出してさ」 「さっき一緒に飯を食いながら事情を話したら、 ふたつ返事でオッケーしてくれたよ」 「本当に!?」 「……っ」 「ああ。猫も飼ったことあるし、世話の仕方にも詳しい。 何より優しい人だからな」 「それなら、安心……だね」 父さんと約束していたことだ。飼い主が見つかるまでなら、面倒をみてもいいって…… 「よかった……よね」 「……うん」 だけど僕たちは、積極的に飼い主を探していなかった。 芹花や宗太たちには事情を説明したけど、引き取ってくれるよう無理に頼んだりはしなかった。 「……お別れ、するの?」 「……そうだね」 杏子の腕の中ではすやすやと、もうすっかり慣れた様子で仔猫が眠っている。 その幸せそうな寝顔とは対照的に、杏子の表情は暗い。 ウチに来た直後の、あの固い印象に戻っている。 「すぐ、そのお相手が引き取りに来てくれるから、 支度しておけよ」 「……っ」 杏子がぎゅっと、猫を抱く腕に力を込めた。眠っていた仔猫が軽くみじろぎをする。 ここ数日、彼女は付きっきりで、仔猫の面倒をみていた。情が移る――っていう言葉を使うには、十分な時間だったと思う。 現に僕も、仔猫と離れがたい気持ちになっている。思わずそっと、杏子に抱かれたままの猫の頭を撫でてみる。 「真……ちゃん」 懐かしい呼び方で、彼女が僕の名を呼ぶ。 それはどこか、すがるような響きを帯びていて…… 「……杏子」 僕も、懐かしい呼び方を……今では気恥ずかしい呼び方で、彼女の名前を呼んでみる。 「…………」 「…………」 お互いに、言いたいことはわかっている……のかもしれない。 けれど、僕は…… 「……支度、僕がしておくよ」 「!!」 「…………うん」 仕方なく……仕方なく、納得したような声。 だって約束だから。 ウチで飼うのはあくまで短い間……そう決められていたことだから。 その短い間でも、猫のために用意した毛布や餌、トイレなんかがあって…… 「全部、片付けなくちゃ……」 それは僕がやる。せめて杏子にはもう少しだけでも、あの仔猫を抱かせておいてあげたいから。 「真ちゃん」 もう一度、背中に懐かしい呼び声がかけられたけど…… 僕は振り向かずに、リビングを出て行った。 「この子がそうなんですねっ!」 「はい。どうか、よろしくお願いします」 「…………」 約束の時間になって、僕と杏子は仔猫と一緒に相手の人を出迎えた。 本当に優しそうな女の人で、しかもペットショップの従業員でもあるらしく──この人なら、きっと仔猫をちゃんと育ててくれると実感できる相手だった。 「…………」 「……っ」 相手の人に引き渡す直前、仔猫が一声切なく鳴いて、杏子の表情が歪んだ。 それでも……彼女もわかっていたらしく、一歩前に出ると、仔猫を新しい飼い主に手渡した。 「……うっ」 「うっ、あぅ……」 「……確かにお預かりします。大切にしますからね」 「お願い……っ、しますっ」 泣き出しそうで、それを一生懸命こらえている様子の杏子に、里親になってくれた女性が静かに頭を下げる。 「!! ……う、ぅぅ……ぅぅ……」 「杏子……」 僕は杏子の手をとり、そっと握り締めた。 「……あ」 杏子の手は小さく震えていて、今にも消えてしまいそうなほど、はかなげで頼りない。 その、今にも消えてしまいそうな小さな温もりを……僕の手で包む。 「し、しんいち、く……」 「また会えるよ」 ご近所さんだから、見せてもらおうと思えばいつでも行ける距離だ。 それに何より、一度離れ離れになった相手とだって、また何かのきっかけで巡り会って、話せるようになるっていう実例が―― 「僕らだって、会えたんだから……」 「真……ちゃん」 「お帰り。杏子」 「…………うんっ」 「ありがとう……」 その時、確かに……彼女は微笑んでいた。 僕は、何も言わずに彼女を見守ることにした。 僕が何か言ったところで、彼女の仔猫に対する想いの代わりには……ならない。きっと、何を言ってもダメだと思う。 僕にできることはただ、彼女と一緒に、遠ざかっていく里親さんと仔猫を見送ることだけだった…… 「……ばいばい」 そう、彼女が隣で小さく呟いた。 「……そういえば杏子って、洗濯物どうしてるの?」 「……え?」 仔猫を見送った後、僕らはふたりでリビングのソファに座っていた。 何をするでも、何を話すでもなく、ただぼぉっと……脱力した身体をソファに預けていたんだけど。 「バタバタしていて、これから一緒に暮らしていくのに、 なんの相談もしていなかったなぁと思って」 「う、うん」 不思議そうな様子ながら、しっかりとした頷きが返ってくる。 少しでも前を向いて歩かないといけない――と言ったのは、芹花だっけ。 「一応、兄さんや僕が交代で、食事をつくったり、 洗濯したりしてたけど」 食事はなんとなく、できあがると杏子を呼んで一緒に食べていた。それはこれからもそれでいいと思うんだけど―― 「……お手伝い、した方がいい?」 「あ、食事の?」 「うん」 「いやうん、無理にしなくていいけど」 「でも……悪いし」 「ちなみに……料理、つくれるの?」 「うん。お母さんとふたり暮らしだったから」 「お母さんが出かけているときはいつも、ひとりで 食事つくっていたし」 「そ……うなんだ」 杏子のおばさん……うっすらとしか覚えてないけど、なんとなくわかる。 今の杏子に似て、おとなしそうな人だった。 だけど……あれ?おじさん、いなかったかな……? 「自己流……だから、真……一くんたちの好みに合うか、 わからないけど」 「ん……なら、一度つくってもらって、兄さんと 父さんにも食べてもらおう」 「うん」 相変わらず表情は固いけれど……本当にだいぶまともに、会話できるようになってきたなぁ。 「あとその……洗濯、なんだけど」 「あ……うん。ごめんなさい…… みんなが使っていないときに、洗濯機借りてた」 「いやそれはいいよ。僕たちの服と一緒に洗うのは、 イヤだろうし」 だって、女の子だものなぁ……服はまだしも……下着、とか。 「んん……っ」 「ご、ごめん、ヘンなこと聞いて」 「んーん」 ふるふるふるっと、杏子が首を左右に振る。 「……ちょっと、恥ずかしいだけ」 「う、うん」 なんだか……以前とは違う気まずさが、ふたりの間に漂っていた。 それから何日かして―― 兄さん・杏子も揃っての朝食中に、父さんが珍しく僕たちに頼みごとを口にした。 「悪いんだが雅人か真一、お前たちふたりのどちらか 今日の午前中、店番をしてくれないか?」 「それはいいけど、急にどうしたの?」 いつもなら、自分が店番しているからいいと、僕たちにむしろ出かけるように薦める父さんが……珍しい。 「今日はちょっと、人と会う約束ができてな。 そう時間はかからないんだが……」 「へ~え」 「僕は別にいいけど」 芹花が押しかけてきそうだけど、店番から離れられない理由があれば、意外とあっさり納得してくれる。 それに……父さんには猫のことで、ワガママを許してもらったこともあるし。 「ま、俺もいいよ。今日は夜、ちょっと出かけたいぐらい だし」 「昼過ぎには戻るよ。すまないな、ふたりとも」 「いいよ」 「ああ」 と、僕たち親子の会話が一段落したところで―― 「……あの」 控えめに、杏子が声をあげた。 「ん? どうかしたのかい?」 「ええと……」 父さんに問い返された杏子が、言葉を探すように視線を泳がせる。 「…………」 しばらくさまよっていた視線が、僕の姿を捉えた。 思わず見つめ返すと、杏子は慌てたように俯いてしまう。……僕に一体どうしろと? 「ええと」 「…………」 兄さんも、父さんも、杏子の次の言葉を待っている。 だけど杏子は言い出しにくそうに、俯いてしまっている。 「……ええっと」 彼女が声をあげたのは、店番の話をしている時だった。なら、なんでそこで? 「ねぇ、杏子」 「ん……」 「ひょっとして今日、杏子も出かける用事があるとか?」 「……んーん」 首を左右に振られた。違ったみたいだ。 「なら、もしかして……店番を手伝ってくれる、とか」 「……う、うん」 首を縦に振られた。まさかの正解!? 「みんな働いているのに、わたしだけ……じゃ」 「いやぁ、家の掃除や洗濯を手伝ってもらえるだけでも、 十分だって」 この前、食事当番や洗濯の話をしたせいでもないだろうけど……最近杏子は家事を手伝ってくれるようになった。 といっても決して積極的ではなくて、今みたいに『何か言いたそうにしているな~』と思ってみていると、洗濯物を畳んだり、野菜を切るのを手伝ってくれる感じだけど。 そんな杏子が、接客業の手伝いなんて―― 「ふむ。本当にやってみるかい?」 「ちょっと、父さん!?」 ただでさえ人見知りな杏子に、何を―― 「……んー、本人と父さんがいいんじゃ、なぁ」 「兄さんまで。さっきはいいって」 「そう思ったんだけどさ。万事、何事も経験だろ?」 「それに本人がやる気なら、俺たちが止めていいもんでも ない」 「そんな……でも」 「どうするね、杏子ちゃん?」 僕の心配を他所に、杏子は父さんの問いかけに、小さく頷いていた。 「あ、えっと……お手伝い、したいです……」 「決まりだな。頑張れよ、真一」 「……え? なんでそこで、僕に話を振るのさ」 「なんでって、杏子ちゃんが店に出るんなら、 仕事を教えたりする人間が必要だろ?」 「それだったら、杏子ちゃんと一番歳の近い真一が フォローするのが、自然だって」 「兄さんの方が教え方うまいはずでしょ」 正直、僕だって店で接客するのは結構緊張するのに、ほかの人の面倒までなんて…… 「なら杏子ちゃん自身に決めてもらおう。 さ、俺と真一、どっちがいい?」 「ちょっと、兄さん!」 「ええっと……」 杏子は最初、困ったような顔をしていたけれど…… 「よ、よろしく、お願いします……」 そう言って…… 僕の方に頭を下げてきた。 「うう……」 「そんな緊張しないで。いきなりオーダーをとらせたりは しないから。まずは掃除とか」 「ああ。終わらせといた」 「兄さんっ」 接客じゃない、簡単な仕事からやらせようと思ったのに。 「可愛い女の子に接客してもらった方が、お客さんも 喜ぶさ」 「それにどうせウチは常連さんばっかりなんだから、 杏子ちゃんっていう新しい家族を紹介する、いい機会さ」 「家……族?」 「あれ? 違った?」 兄さんのとぼけた声に、杏子はふるふるふると首を横に振って―― 「お、お世話になっています……」 そんな、とんちんかんなことを言った。 「いやいや、こちらこそ」 「はぁ……」 何やっているんだか。 とにかくこうなったら、多少の失敗は大目にみてくれるような常連さんが……そう、芹花や雪下さんみたいに、杏子のことを知っている人が来てくれるのを祈ろう。 彼女たち相手なら、杏子だって緊張せずに接客でき―― 「あ、いらっしゃいませ!」 誰が来たのかと、期待についいつもより大きな声でお出迎えしたら―― 「はろう、まいふれんど!」 「……はぁ」 「おい待て! なんだその期待はずれと言わんばかりの ため息は!!」 「いや、微妙だなぁ~っと思って」 「俺の存在が微妙だとでもっ!?」 「うーん……どうだろう」 「そこは否定しろよ、親友!!」 「い、いらっしゃい……ませ」 ほらやっぱり、杏子だって途中で声が小さくなった。 「おお、キミはこの前の。 あの時は驚かせてすまなかった!!」 「い、いえ……」 ほらもう、杏子逃げ腰だし…… 「話は聞いた。真一の親戚で、今度我が校に転入してくる んだろ?」 え…… 「あ、そう……なのかな?」 杏子も初耳だと言わんばかりの顔で、僕を見る。でも僕だって、そんな話は初耳だ。 「……おい生徒会長」 「なんですお兄様?」 「今の話、本当か? どこから聞いた?」 兄さん……ちょっと真剣だな。少し厳しい目つきで宗太を見ている。 その雰囲気が伝わったのか、宗太が戸惑う。 「あ、いやぁ。この前生徒会の用事で学園に行ったとき、 顧問の教師からちょっと」 「真一の親戚が、二学期から通うことになっているから よろしくって」 「そう……なの?」 「そう……なのかな?」 「父さん、まただんまりか」 僕らは揃って、そんな話を聞いていなかった。でもそれってつまり…… 「わたし……夏休みが終わっても、 ここにいられる……?」 「そういうことみたいだけど、でも」 いいの? と思わず尋ねそうになった。 だって僕らは、彼女がどうしてウチに引き取られたのかさえ、知らされていない。父さんに聞いても、曖昧な答えしか返ってこない。 つまりそれは、聞いてはいけない何かがあるわけで……それが長引くっていうことは―― 「……よかった」 「え……」 「わたし、頑張るから…… これからもよろしくお願い……します」 当の本人が、その状況を歓迎している……? 「……ふーむ」 兄さんが深々と、腕を組んでうなる。僕も同じ気持ちだった。 「……あ、あの」 杏子が恐る恐る、僕たちの様子を窺う。 「…………ダメ?」 「いや、ダメとかそういうことじゃなくて……」 「ああ。杏子ちゃんはそれでいいんだね?」 「ん……っ」 ハッキリと、杏子は縦に首を振った。これまでみたいに、遠慮がちではなく、ハッキリと。 「……だってさ」 「う……ん」 本当にそれでいいのか、僕にはまだわからない。杏子のことは、昔のことも、今のことも、わからないことだらけだ。 でも…… 「真ちゃん……お願い」 「…………」 「……うん。わかった」 「これからもよろしくね」 「――うん!」 捨てられていた仔猫みたいな目で見つめられたら、放り出すわけにはいかないじゃないか…… 「……あの~、そろそろ注文してもいいっすかね?」 リビングに顔を出すと、ちょうど兄さんがキッチンで料理をしているところだった。 「まだ少しかかるから、先に風呂入ってこいよ。 今日は疲れたろ」 「あー……そうだね、ありがとう」 フライパンを操りながら話しかけてきた兄さんに、ぼんやりした頭で返事を返すと、僕は脱衣所へ向かった。その足取りもなんだかだるい。 結局今日は半日、杏子にお店の仕事を教えたり、常連さんに彼女を紹介したりと……普段の倍は働いた気がする。 「人に教えるのって、大変なんだなぁ……」 もう喋るのもおっくうだ。このまま湯船に浸かったら、そのまま寝てしまうんじゃないだろうか。 「風呂……風呂……」 これから少なくとも夏休みが終わるまで……ひょっとしたら二学期、三学期と、杏子はここにいる。 その間、ずっとお店を手伝ってもらうとしたら―― 「……それはやっぱり、いいことなのかな?」 杏子は一生懸命、仕事を覚えようとしていた。 やっぱり笑顔を浮かべるのは難しそうだったけれど、緊張している様子にもどこか、頑張っている意気込みが感じられた。 「彼女が、ずっと、ここで……か」 それなら昔のように、いつか、普通に笑ってくれる日も、くるのかな…… 「…………」 ………… 「…………」 「え、えっ……と」 「し、しんちゃ……ん?」 「……え?」 「ふぇ……っ」 「…………んぅ」 「きゃ……っ」 「きゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」 「ごっ、ごめんっ!!」 僕は慌てて、脱衣所のドアを閉めた。 「え? えぇ? なんで? どうして!?」 「うぅぅぅっ。みら、みられ……っ」 「ふええええぇぇぇぇぇぇーんっ!!!!」 「ごめんっ!! 本当にごめん!!」 やっぱり、昔のような笑顔を見られる日は、まだ当分先のことになりそうだった…… 「んー……」 朝だ。また朝。 ここのところ、杏子と一緒に暮らすようになって、色々無意識に緊張しているのか……少し疲れている気がする。正直、もう少し寝ていたい気分だ。 でも、店の手伝いもあるし…… 「ふあ……あ、れ?」 仕方なく起き上がって、目覚まし時計を止めて……よく見たら、いつもより少し早い時間を指している。 「なんで……こんな時間に目覚ましをセットしたん だろう……?」 まだ完全に目覚めていない頭で考える。 考える……考え…… 「――あ、今日は!!」 「きゃっ」 「あっ! あぁ、ごめんっ」 「う……ううん」 着替えて慌てて部屋を飛び出たところで、杏子と危うくぶつかりそうになった。 この前、脱衣所でつい覗くような格好になってしまってから、ちょっと気まずかったんだけど…… 「あ、れ……?」 「ん?」 杏子が僕を見て、不思議そうに目をぱちくりさせている。 「……制服?」 「あ、ああ。そうだよ、ウチの学園の制服」 今日は登校日だったのだ。 だからいつもより――というか、一学期登校していた頃と同じ時間に、昨夜目覚ましをセットし直していたんだ。 そういえば……彼女に制服姿を見せるのはこれが初めてだった。 「杏子は二学期から通うんだよね?」 「う、うん」 同じ家に住んでいる子と同じ学園に通うことになる――っていうのは、やっぱりちょっと背中がかゆくなる気分だ。 未だにその辺りの事情も聞かされていないし…… 「……芹花辺りが迎えに来そうだなぁ」 「?」 「すぐ隣だからね。杏子のこと、一緒に行こうって誘いに 来ると思う」 「一緒、に?」 「うん」 芹花の性格的に、間違いないと思う。 さすがに僕はもう、学園に行くときにあいつが迎えに来たり起こしに来ることはないんけど―― 「真一ーっ!! まだ寝てるのーっ!!」 「うわっ!?」 「あの声……芹花ちゃん?」 「どうせ、夏休み中だから油断してるんでしょーっ!!  今日は登校日よー、起きなさーいっ!!」 あれ? 「あいつ……」 たぶん、先に起きていた父さんか兄さんを捕まえて、上がり込んで、階段の下から叫んでるな……あれは。 「ごめん、そんなわけだから行ってくるよ」 「あ、うん」 ……気づけば普通に彼女と話していた。制服を着ていたりしたおかげ、かな。 「……あ、あのっ」 「ん?」 「……お、おはよう」 「あ……うん。おはよう」 「ん」 そういえば、まだ挨拶すらしていなかったなぁ…… 「――遅い!」 階段を下りていくと案の定、制服姿の芹花が仁王立ちしていた。 「遅くない、起きてたって」 「どーだか。どうせ慌てて起きたんじゃないの~? 髪の毛くしゃくしゃよ」 「う……」 飛び起きたのは確かだし、まだ顔も洗えていないし…… 「早くご飯食べて、支度済ませて。 杏子ちゃんの準備ができたら、すぐに行くわよ!」 「は?」 「いやだから、杏子ちゃんも今日一緒に行くんでしょ? それで迎えに来たんだけど」 「いや、杏子は二学期からだよ。 というかなんで知ってるの?」 「宗太からそう聞いて……は? 二学期?」 「……んん?」 ちょうどそのとき、僕の後からゆっくり階段を下りてきていた杏子が、リビングへとやってきた。 「お……おはよう、芹花……ちゃん」 「おっはよう!」 「……って、確かに私服ね」 「登校しないからね」 「??」 「ねぇ杏子ちゃん、今日は一緒に登校……しないの?」 「う、うん……まだ、制服も届いてないし……」 「……真一~、あんたはなんて聞いてた?」 「僕は宗太から、杏子が二学期から学園に通うって。 あとで父さんに確認したら、確かにそうだって」 もっとも父さんは、それ以上のことはなんにも教えてくれないんだけど。 「……あたしさ~、宗太に騙された?」 「どうかな?」 同じ情報を聞いて、芹花が勘違いした可能性もあると思う。 「あ~~~もうっ!! せっかく杏子ちゃんと一緒に 通えるって、楽しみにして来たのに!!」 本当に杏子を迎えに来たのか…… 「てっきり僕をたたき起こしに来たのかと」 「ああ。それはついで」 「ついでですか」 ついでで、ご近所迷惑になるような大声を出さないで欲しい。 「ふっふっふ……みてなさい宗太。あたしの楽しみを 奪った罪は大きいわよ~」 「貴重な二度寝タイムすら惜しんで起きたっていうのに!」 杏子のことがなければ、二度寝する気だったんだ…… 「――まぁでも仕方ないか。 杏子ちゃん、二学期になったら一緒に行こうね」 「う、うん。……よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしく~♪ あ、なんだったら今から下見に来る? あたしたちと一緒に行けば問題ないから」 「え……えぇ?」 「いや問題大アリだから。杏子は制服だってまだないって 言ったろ?」 「転入生が下見に来るぐらい、よくあるじゃない。 あたし、美百合が私服で来てたの見たことあるもの」 「雪下さんが?」 ……前に少し聞いた、手続きうんぬんってやつかな? 僕と話したときは制服姿だったけど……転入前なら確かに、前の学校の制服か、私服で来るよな。 「まぁ気が向いたらでいいから。 なんだったらお姉ちゃんと一緒に来てもいいし」 「えっと、香澄……さん?」 「うん。店番ないときなら、付き添いしてくれると思うし、 場所も知ってるから」 「勝手に決めていいのかなぁ」 「いいのよ!」 「う、う~んっと……」 困った顔の杏子に芹花は、『ぜひ前向きに考えといて』などと、余計困らせるような声をかけていた…… 「――ねぇ芹花」 「ん~?」 食事や支度を済ませて、芹花と一緒に家を出て、僕は気になっていたことを早速尋ねた。 「なんでさっき、杏子をしつこく誘ったの?」 「しつこかったかなぁ。お節介なのは、自覚してるけど」 そう言いながら、芹花はあまり反省した様子もない。 「杏子ちゃんが人見知りっぽいのは、わかってるけどさ」 「うん」 一緒に暮らしている僕や、同じようにほぼ毎日顔を合わせている芹花でさえ、やっとなんとか普通に話せるようになったばかりだ。 正直、あんな様子で新学期から学園に通えるのか……心配だった。 「だから今の内に、少しでも学園に慣れておいた方が いいかな~と思ったわけ」 「慣れるって……杏子が?」 「そ」 「夏休み中だったら、いる人間も少ないでしょ?」 「今日みたいな登校日だって、昼になればみんなさっさと 帰るんだし」 「まぁ、そうだね」 今日の午後まで残ったり、夏休みでも毎日のようにいるのは、部活動の連中ぐらいじゃないかな。 宗太や芹花たち生徒会役員は、たまに集まっているみたいだけど…… 「人のいない内にどんな場所か見ておけば、いきなり 二学期になって通うより、少しは楽なんじゃない かな~って。気持ち的に」 「……杏子が?」 「そ。杏子ちゃんが」 ……つまりあれは、芹花なりの気遣い、だったのかな。 「……芹花にしては気が利いてる」 「あたしにしては、は余計よ!! 失礼しちゃうわね~」 「ご、ごめん。でも」 「でも何よっ」 「安心した。芹花のことだからきっと、杏子を放って おかないだろうなって、思ってたから」 「それって……ほめられてるの?」 「そのつもりだけど?」 最初は、ノリが合わなくてちょっと苦手そうにしていたけれど…… 芹花なら杏子みたいなタイプの子を、無視したり放っておいたりはしないだろうって、思った通りだった。 「芹花、優しいし」 「あぅアっ!?」 ……なんか、これまで聞いたことのない、ヘンな動物みたいな声がした。 「あ、あんたがあたしのことをほめるなんて……っ! ななな、なんの悪だくみよ!?」 「悪だくみって……」 正直な気持ちを言っただけなのに……なんで? 「ハッ!? まさか、宗太とグルになって、あたしに 手の込んだ罠を仕掛けてるの? 杏子ちゃんまで ダシにして」 「いやしてないから」 ……信用されてないのかな、僕は。 「……僕が芹花をほめるのが、そんなにおかしい?」 「おかしいわよ!!」 ……即答された。 「だって、これまでぜんっぜん、あたしに対する気遣い なんかこれっぽっちもなかった真一が」 「いきなりあたしのことをほめるなんて…… ほめるなんてほめるなんてほめるなんてっ!!」 「あーりえないわねっ!!」 「ひどい……」 「あんた……最近、美百合とか杏子ちゃんとか昔馴染みと 再会したもんだから、なんか変わったんじゃない?」 「え? どうだろう……そんな自覚はないけど」 もし少しでも何か変わっているなら、もう少しふたりに対してもうまく向き合えると思うんだけど…… 「……ずるいなぁ。 あたしの方が付き合い長いはずなのに」 「え?」 「な~んでもないっ!!」 「あら? 芹花ちゃん、いないと思ったら」 「あ、香澄さん。おはよう」 立ち止まって少し話し込んでいたら、店の中から香澄さんが出てきた。 「おはようございます。 芹花ちゃん、真一くんのところへ行っていたのね」 「正確には真一じゃなくて、杏子ちゃんのところね」 いやうん、それで正しいからいいんだけど。 「制服ってことは、ふたりとも登校日?」 「うん。だから今日、お昼いらない。 生徒会の集まりもあるし」 「それなら、言っておいてくれれば、お弁当用意したのに」 「いいわよ、適当にどっかでなんか買って済ませるから」 「うーん、それなら今からお弁当つくって、あとで持って いってあげるわよ」 「そこまでしなくていいって。 お姉ちゃんだって忙しいでしょ?」 ……杏子には香澄さんに頼っていいようなことを言っておいて、自分は遠慮するんだなぁ、芹花って。 「大丈夫よ。今日はお母さんがいるから、店番も頼めるし」 「レポートは? あたしたちより長い夏休みだからって、 その分、量があるんじゃないの?」 「それはもう、半分片付いているし」 そう言って、香澄さんが胸を張る。 「ウソ……あたしまだ、手つかず」 「おーい、生徒会役員」 「だ、大丈夫よっ、夏休みが終わるまでには間に合わせる から!」 「いやそれ、当たり前だし」 芹花も、宗太もなんだけど、ふたりとも本気を出せば課題なんて簡単に片付けられそうなタイプなのに、毎年なかなか手をつけないんだよなぁ。 で、結局夏休み終わり近くになって、僕がいつも手伝わされて…… 「少しは香澄さんを見習いなよ。ねぇ?」 「あら、芹花ちゃんだって、やればすぐよね?」 「すぐだけど~、すぐですけど~」 「今年は生徒会で夏休み明けの企画を考えたり、 杏子ちゃんの面倒をみたり、真一にケーキをおごらせ たり、ジュースをおごらせたりで忙しいのよ!」 「いや逆ギレされても」 あと、おごらされるのは勘弁して欲しいし、忙しさにだって関係ない。 「ん~、なんだったら私が手伝おうか? 課題」 「ホントっ!?」 「いやダメでしょ」 「真一くんも一緒に、お勉強会にしましょう。3人で いっぺんに片付けちゃえばいいのよ」 僕はともかく…… 「さすがお姉ちゃん、頼りになる~♪」 「だって楽しそうじゃない、そういうのって」 香澄さんは、芹花に甘いなぁっていつも思う。妹のことが本当に好きなんだ。 「あの、ところでふたりとも」 「ん?」 「何?」 「結構話し込んじゃってるけど、時間、大丈夫なの?」 「……あ」 「ああぁぁあぁっ!?」 「ゼェ、ゼェ、ゼェ……」 「ぎっ……ギリギリせぇ~ふぅぅぅぅ……」 ふたりして走って走って、なんとかギリギリのタイミングで教室に滑り込んだ。 「危なかったな、真一」 ……そう声をかけられても、喉がカラカラで答える気力もない。 「夏休みボケってやつか? ダメだぞー、日頃から 早寝早起きを心掛けないとな」 「……そ、宗太こそ……毎晩、遅くまで……」 「俺は品行方正、全校生徒の模範たるべき生徒会長だぞ? 夜更かしや夜遊びなんてするものか!!」 「そ……そう……」 深夜に突然電話をかけてきて、ゲームの攻略方法を尋ねてきたやつと同一人物とは思えない…… 「しかし、意外だな。 お前たちふたりが揃って遅刻しそうになるなんて。 なんかあったのか?」 「あ……ああーっ!! そうだ、思い出した!! 宗太、あんたよくも人を騙してくれたわね!!」 「は、なんのこ――」 「とぅんっ!?」 ……今日はよく、獣みたいな声を聞く日だと思った。 「杏子ちゃん、今日からじゃないじゃない!! さっき本人から、二学期になってからだって 聞いたわよ!!」 「ああ。だから俺もそう言っ――」 「言われてないっ!!」 「私も久我山くんから、杏子ちゃんが登校してくるはず だって伺いましたよ。今日」 「え? そうなの? というかおはよう」 「はい、おはようございます」 「ほれみなさい、証人がいた!」 「そんなこと言ったかなぁ」 「ウチの店に来たときは、確かに『二学期から』って 言ってたけどね」 「そうだろ! そうだよなっ、いやぁ、さすが! もつべき者はウソをつかない親友だなぁ」 「あたしたちがウソついてるっていうの!?」 「それは聞き捨てなりませんねぇ」 「いやぁ、っていうか聞き間違え?」 「あたしと美百合が揃って聞き間違えるなんて、ちょっと 考えにくいんだけど?」 「はい。確かに私は久我山くんから、杏子ちゃんは 登校日に来る、と伺いました」 「うーん……」 事の真偽はともかく…… 「そうよね! 間違いなく宗太が言ったのよね!」 「ええ。この耳でハッキリと聞きました」 「我が校の生徒会長にはもうちょっと、自分の言動に 責任をもって欲しいのよね~」 「きっと久我山くん、自分が口にしたことも忘れてしまう ぐらい、お忙しいんですね……」 このふたりもいつの間にか、すっかり仲良くなってるなぁ。気が合うのかな? 「あのふたりって、お前を巡る恋のライバルじゃ なかったっけ?」 「僕が芹花に殴られそうだから、そういうネタにするのは やめて」 「うぐげほはぁっ……!?」 「だぁいじょうぶよぉ。殴る相手は間違えないから」 「私は、どちらでも構いませんけれど。ふふふ」 ……相変わらず暴力的な芹花と、相変わらずどこまで本気かわからない雪下さんも、健在だ。 担任が顔を出してすぐ、出欠を確認して、連絡事項を口にして……ホームルームはあっという間に終わり、解散となった。 「考えてみれば非効率な話だなぁ。これだけのために出て くるなんて」 教室内にはもう、僕らとほかに数人が残って、雑談しているだけだ。 「だから生徒会の用事とか、杏子ちゃんをつれてくるとか、 色々まとめてやっちゃえばいいのよ」 「杏子はともかく、生徒会の用事って?」 「今度の球技大会について、さっさと決めちゃおうと 思って」 「ああ。休み明けの?」 二学期の球技大会は学園の行事だけど、運営や企画内容は生徒会の主導ってことになっている。 「うむ。同じクラスに会長と副会長がいるんだ。 顔を合わせたときに話は済ませるに限る」 「おふたりとも、よく西村くんのお宅で顔を合わせている ような気もしますけど」 「あれはプライベート」 「こっちは公務だからな」 ……僕にはこのふたりの、その区別がよくわからない。 「それじゃあ、僕は先に帰るよ」 「あ、なら私も」 「まあ待て、ふたりとも」 立ち上がろうとした僕の肩を押さえながら、宗太が僕らを引き留めにかかる。 「せっかくだから聞いていき給え。生徒会役員の密談を 耳にできるチャンスなんて、そうそうないぞ」 「毎日のように、お店で聞いている気がするけど……」 「あれはプライベート」 「こっちは公務だからな」 ……僕にはやっぱり、その区別がよくわからない。 「大体、僕たちがいても仕方ないだろ? 役員じゃないん だし」 「つれないなぁ~。いいじゃないか、お前たちの意見も 参考にしたいんだ」 「ほかの役員、み~んなサボリだしね」 「……それ以外にもきっと、理由があるよね?」 「こっちがこの暑い中、全校生徒のために働いてるのに、 ふたりだけ涼しい家に帰るのが許せない」 ……それが本音か。横暴だ。 「あら、そういうことなら私、遠慮なく意見しちゃいます よ?」 「もちろんよ。どんどん発言してちょうだい♪」 「雪下さんは転校してきて初めての学校行事だしな。 いい想い出になるよう、協力してくれ」 「想い出づくりということなら、喜んで♪」 「……はぁ。 それで、まずは何をどうするの?」 「とりあえずは、種目だな。球技ってひと言で言っても、 色々あるわけだし」 「美百合はどんなのがいい?」 「できるだけ一般的なものの方が、ありがたいですね」 「ルールが複雑な競技だと、部活動でやっている人以外 には理解するのが難しいですから」 「それなら……例えば、バレーボールとかは?」 「サーブとか、順番わかりますかね?」 「体育の授業でもやってるけど、どうかな? 真一はどう思う?」 「う~ん、野球ぐらいメジャーだったらわかるけど」 「ごめん、あたしは野球のルールわかんない」 「私もです」 「あれ? そうなの?」 「女の子はあんまり興味ないからなぁ、野球って。 それに道具も色々必要だし、場所もとる」 「それなら、サッカー……も場所はとるか」 「野球よりはわかりやすそうだけどな。 女子にも知ってる子がいる……かな?」 「ごめん、あたし知らないや~」 ……なんで、球技大会なんて企画しているんだろう、芹花。 「私は、野球よりは知っていますけど…… それに男女の違い、といえば単純に体力差もあります よね。その辺りのハンデはどうするんですか?」 「まずクラス別に分けて、そこから男女に分ける。 男子と女子は別リーグだな」 「リーグってことは総当たり? やっぱりトーナメントの方が、燃えない?」 「負けた人たちが暇になるんじゃないかな?」 「真一の言う通りだな。一回戦負けしてほかのクラスの 試合を見てるだけ、っていうのは悲惨すぎる」 と、ここまでは結構真面目な話し合いだったんだけど…… 「あ~あ。でも実際やるのは休み明けなのよね~。 夏休みの間はなんの行事もない、っていうのが寂しいわ」 「うむ。一理ある」 「そうだ、花火とかやりましょうよ! みんなで海岸へ 繰り出して、こうワ~ッと一斉にバ~ンって!! 夏らしく!!」 「そういうことなら、俺は肝試しを提案しよう。 納涼というなら、これは外せない」 「それ、生徒会で主催するつもり?」 「無論だ!」 「学園の許可、下りるんですか?」 「校外学習、って名目にすればいいのよ。 林間学校とか、合宿とか」 「ああ。それなら肝試しも花火もうまく カモフラージュできる」 「でしょ? バッチリ!」 「そんなに甘くはないと思いますけど」 「何よ、どういう意味?」 「だって、例えば肝試しなら、やるのは当然夜ですよね? もし暗がりで事故でも起こったら?」 「心配性ねぇ。そんなの大丈夫だって」 「自分だけはケガをしない、事故に遭わない――そういう 人ほど油断して、実際に事故に遭うんですよ?」 「む……」 ……なんだか、雲行きが怪しくなってきたような。 「林間学校にせよ合宿にせよ、学園が公認する行事で 事故が起こったら、責任問題ですから」 「どさくさ紛れに肝試しや花火大会をやろうなんて、 そんなの見逃してくれるとは思えません」 「そ、それなら、泊まりがけの夏期講習って形にして、 その息抜きに肝試しを、必要なら教師にも参加して もらってさ」 「それ、どのぐらいの規模を想定しているんですか?」 「え? 規模?」 「まさかとは思いますけど、生徒会が全校生徒に 呼びかけて……じゃないですよね?」 「いや、そのつもりよ? どうせ泊まり込みなら、 みんな一緒の方が楽しいでしょ?」 「非現実的です」 「なんでよ!?」 「生徒全員を収容できる宿泊施設なんて、予算も大変 でしょうし、場所も限られるんじゃないですか?」 「集団で移動することになれば、周辺に思わぬご迷惑を かける可能性もありますから、そこもしっかり 管理しないといけませんし」 「管理するわよ!」 「会長と副会長以外、みんなサボっている生徒会で?」 「う……」 「え、えーっと……」 「な、なら、有志のみ参加、ってことにして人数を絞れば いいでしょ!」 「参加できなかった人はどうなります? 仲間はずれにされたみたいで、気分が悪いですよ?」 「もうっ!! さっきから聞いてたら何よ、美百合ってば 文句つけてばっかり! 話が進まないじゃないっ!」 「無理なことばかり言っていたって、 形にはならないでしょう!?」 そんなに睨み合わなくても……なんだかどっちも、ムキになっているみたいだ。 「最初から無理無理って決めつけていたら、その方が形に ならないわよ!」 「実現可能なプランをひとつずつ積み上げていった方が、 効率的です」 「夢がないわね!」 「現実的な女、と言ってください」 「むっかぁぁぁぁぁぁぁ!!」 「ねぇちょっと、ふたりとも――」 「待て、真一」 思わず止めに入ろうとしたら、ここまで黙って見ていた宗太に押し止められた。 「ふたりともだいぶ熱くなってる。 今、下手に口を出したところで、火に油を注ぐだけだ」 「そうかもしれないけど……」 「こういう熱はな、ふたりとも納得できる形で冷まして やらないといけないんだ」 「?」 と、宗太はパァンと、大きく手の平を打ち合わせた。その音に何事かと、芹花と雪下さんが揃ってこちらを向く。 「おふたりさん、どっちも有意義な意見をありがとう。 大変参考になったよ」 「別に、あんたのために提案してるわけじゃないわよ」 「無理矢理話をまとめるおつもりですか? 私たち、まだ お互いの意見に納得していません」 ……仲が良いのか悪いのか、宗太を責めるふたりの息はぴったりだった。 「いやどっちの話も無視できないし、かといってこのまま じゃ平行線っぽいからさ」 「それはまぁ……」 「確かに……」 平行線、と言われた点に自覚があるのか、ふたりが揃って目を逸らす。 「だろ? だからここはひとつ、ジャンケンでもなんでも、 勝負して勝った方の意見を採用するってことにしたい」 「ええぇ~!?」 「それはちょっと、ずいぶん乱暴なやり方じゃありません か?」 「ジャンケンがイヤなら、スポーツでもいい」 「どうもさっきの話を聞いていると、ふたりとも球技には 詳しくないみたいだけど、それがかえっていいハンデに なりそうだ。つまり公平な勝負ができると」 「…………」「…………」 「真一、この話し合いはそもそもなんだ?」 「え? あ、球技大会のこと、だよね」 「ああ。ちょっと話がずれたが、 今日の議題は球技大会で何をするか、だ」 「そこで元々、明日は生徒会が体育館を使えるよう、 申請を出しておいた。今日決めた競技を試しにやって みるつもりでさ」 「それって、単に遊びたかっただけじゃ……」 「細かいルールの把握とか、実際にやってみたときに 起こる予想外の事態に備えてだ。な、芹花?」 「そ、そうね。それで?」 「お前ら、そこで明日勝負しろ」 「はぁ?」「はぁ?」 「勝った方が負けた方に、素直に『ごめんなさい』と 謝って、一緒に行事を盛り上げる約束をするんだ」 ……いつの間にか、球技大会以外の行事をやる前提で話を進めてないか、宗太? 「ふたりが後腐れなく、一致団結して協力してくれれば、 球技大会も夏休み中の行事も成功間違いなし! ここは 俺の顔を立てて、ついでに水に流すためにも、さ」 「な、なーんか……」 「私たち、勝っても負けても、久我山くんに利用される だけなんじゃ……」 「ぎくっ」 ほら、ばれた。 「い、いやだなぁ、俺は純粋に、ふたりの仲がこれ以上 ぎこちなくなるのを見かねて、だな」 「それはまぁ、ちょっとカチンとはきたけどさ」 「うーん……確かに、まだスッキリはしませんけど」 ……結局宗太が割って入ったのって、熱を冷まそうとして中途半端に温度を下げただけなんじゃ? トロ火になっただけ、というか…… 「よしわかった! なら明日の勝負、 勝った方には副賞として真一をつけよう!!」 「はぁっ!?」 「むっ」 「いやちょっと待って! わけわかんない!」 「ここまできて話を引っ込められるか! ふたりには是が非でも、勝負してもらう!!」 宗太……もう手段と目的を見失ってるよ。 「――わかりました。勝負しましょう」 「え、ええっ!?」 雪下さんが燃え上がった!? 「西村くんを賭けて、となると私も引き下がれませんから。 芹花ちゃんに頭を下げさせたい気持ちも、正直あります し」 「いやでも、だからって……ええ!?」 「やるんですか? やらないんですか?」 「芹花ちゃんがのってこないなら、先ほどの話も、 西村くんも、私の勝ちということで……」 「一日好きにさせてもらいますね♪」 「好きにって、ひょっとして僕を?」 「はい。デートでもしてもらいましょうか、ふふっ」 「ええ――」 「あーもうっ!! わかったわよ、やるわよ、やれば いいんでしょ!!」 芹花も無駄に燃え上がった!? 「真一なんか正直ど~~~でもいいけどっ!! 売られたケンカは買う主義だからっ! さっきの話も 納得してないからっ!!」 「だから美百合との勝負、受けて立つわよ!!」 「そうこなくては」 「くっ……なんだろうこの、自分で持ち出した条件で むなしくなる気分は。どうして真一ばかりがこんな……」 「だからあたしは、真一なんかどうでもいいんだって!」 「ふふふっ」 うう……僕の意志は関係ないのか。 「そっ、それで? 勝負は何で決めるわけ?」 「おう、そうだな……」 芹花と、そして雪下さんの顔を見比べると、宗太は重々しく頷いた。 「ふたりにふさわしい、淑女のスポーツ……」 「…………」「…………」 「ひとりの男を懸けて競う、熱い戦い……」 「いや、競わなくていいから」 「それは、ドッジボールだ!!」 「…………はぁ?」「…………はぁ?」「…………はぁ?」 「ドッジボールだよ。ルールが簡単で誰でもわかる、 実力差も大してでない。いい勝負だろ?」 「……いやまぁ、わかるけどねぇ」 「1対1でやるんですか?」 「いや、さすがにそれじゃあ、当たってすぐ勝負がついて しまうからな。助っ人を入れて、そうだな……3対3に するってことでどうだ?」 「助っ人ねぇ」 「西村くん!」 「はい?」 「西村くんはもちろん、私を助けてくれますよね?」 「え、ええっ!?」 「あ、美百合ずるい!!」 「早い者勝ちです」 「まだ真一は返事してないじゃない!! 真一、あんた当然、あたしの味方よね!?」 「ええっ、いやちょっと待って!!」 ふたりが僕の方を凝視している。その横で、宗太がいじけている。 「……なぜふたりとも、俺には声をかけずに、真っ先に 景品に声をかけたのだろう」 「西村くん、さぁ、今すぐこの場で選んでください!」 「わかってるわよねぇ、真一……あたしを選ばなかったら、 どんな目に遭うか……」 「ええぇぇぇっ!?」 これってどっちを選んだとしても、待っているのは地獄なんじゃ……? 「僕は……芹花に味方するよ」 ごめん雪下さん。ここで芹花の味方をしておかないと……あとが怖い。 「さすが真一、わかってる~っ! ご褒美にハグしてあげよっか?」 「結構です」 味方ができてよっぽど嬉しかったのか、ハグとまではいかないけど、芹花が僕の腕をとってピョンピョン跳ねる。 対する雪下さんは…… 「いいでしょう、西村くんは今から敵です」 ものすごく冷たい眼差しで、僕たちのことを見ていた。 ……いや、睨まれてるのは僕?芹花じゃなくて!? 「……あの、雪下さ――」 「それでは、今日はこれで失礼します。 ……何かと準備がありますので」 それだけ言うと、雪下さんは振り返ることなく教室から出て行ってしまった。 「……結局声をかけてもらえなかった」 宗太ががっくりと、その場に崩れ落ちた。 「何よあんた、美百合とそんなに組みたいわけ?」 「いや、真一がそっちについたなら、俺が向こうに つかないと不公平だろ? 戦力的に」 3人中ひとりが男になる、という意味なら確かにそうだ。 「美百合のことだから、今頃もう、雅人さんに声をかけに 行ってるんじゃない?」 「うそぉん!?」 「兄さんか……」 実現したら、ちょっとどころじゃない強敵になりそうだなぁ……兄さんと雪下さんのペアは。 「待って雪下さん! 久我山宗太を、 久我山宗太をよろしくお願い致します!!」 宗太は選挙運動のように叫びながら、教室を飛び出していった。 「何やってんだか」 「はぁ……」 「……芹花?」 「…………」 宗太がいなくなった途端、教室が静かになってしまった。 さっきまで景気よく喋っていた芹花が、途端に口を閉ざしてしまったからだ。 僕の腕を放した彼女は、手近な席に座り直すと…… 「あぁぁぁぁぁ、あたしのバカ!! ま~たやっちゃった!」 机に突っ伏していて、大声で叫んだ。 「せ、芹花?」 「ごめん、なんにも言わないで、わかってる!」 「意地張って、引っ込みつかなくなって、心にもないこと 言って、そりゃ美百合だってムキになるわよ~!!」 ……どうやら、盛大に反省している様子だった。 「……間違っていたら、あれなんだけど」 「……何よ」 「芹花は、みんなが楽しむのが第一で、準備とか段取りは あとで考えればいい、って思ってる?」 「……そうよ、悪い? 真一にしてはよくわかったわね」 「はは…… うん、悪くないよ。芹花の考え方は、僕もいいと思う」 「…………でも、美百合にはうまく伝わんなかった。 ケンカになっちゃった」 「ケンカしたって、いいじゃないか」 「…………」 「一度で伝わらなかったら、何度でも話し合えばいい。 そういう頑固なところが芹花のいいところじゃないか」 「……真一」 「何?」 「いった~っ! 何すんのさ!?」 「ほめ言葉になってない。むしろけなしてる」 「えぇっ?」 「ま……しょうがないわよね。 それがあたしなんだもん」 芹花が勢いよく立ち上がった。表情は……いつもの笑顔だ。 「勝負をするって決まったからには、 何がなんでも勝ちにいくわよ!」 「いや、そこまで張りきらなくても」 「とっとと帰って特訓よ!」 「……え?」 「え、じゃない! ほら、行くわよ」 芹花が僕の腕を掴み、そのまま抵抗する暇もなく、教室の外へと引っ張られていく。 「でも、体育館が使えるのって明日なんじゃないの?」 「ドッジボールの練習なんて、 ボールさえあればどこでもできるじゃない」 「それはそうだけど」 「とりあえず、海行きましょ海。 あそこならちょっとくらい暴れても問題ないし」 暴れるって、一体どんな特訓をさせられるんだ…… 「ふむ。この辺りでいいでしょ」 そう言って芹花が立ち止まったのは、いつだったか彼女が大学生のお姉さんたちとビーチバレーをしていた辺りだった。 「さ、真一。さっさと道具をお出し!」 「……はぁ」 「ほらほら、時間は有限なんだからね! キビキビ動く!」 「はいはい」 やる気満々な芹花の様子に軽く圧倒されながら、僕は家に寄って取ってきたバレーボールを出した。 軽くて投げやすいし、練習ならこれで十分だろう。 「それじゃあいくよー」 「どっからでもこい!!」 気合いの入った芹花目がけて、僕は手に持ったボールを軽く投げた。 と、あっさり捕られた。 「ちょっと! 何よこのへろへろ球は!」 「いや、だって危ないじゃないか。 顔にでも当たったらどうするんだよ」 「あたしはそんなヘマしないわよ、ぜ~んぶかわすから 大丈夫!」 「大体ドッジボールって、相手に当ててナンボでしょうが。 そのつもりで投げなさいよ」 確かに、芹花はルールを知らないだけで、運動神経はいい方だけど…… 「……そういえば、雪下さんって運動できるんだっけ?」 「ぶはっ!」 いきなり顔面にストレートで、ボールをぶつけられた。痛い。 「むぅぅ~」 「いきなり投げないでよ……」 「これくらいちゃんと捕れ! ボーっと突っ立ってるから そんなことになるのよ! ふんっ!」 芹花が苛立たしげに鼻を鳴らす。……なんで急に不機嫌になってるんだ? 「ほら、さっさと投げ返してくる!! やる気あるの!?」 今日は、思っていたよりもハードな一日になりそうだ。……明日、筋肉痛になってなければいいけど。 「あ、いたいた」 しばらく芹花とキャッチボールを繰り返していると、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。 「……香澄さん?」 「もう、真一くんも芹花ちゃんも学校にいないんだから。 探しちゃったじゃない」 「え? あ、携帯――」 何しろ運動するからって、目の届く場所に荷物と一緒に置きっぱなしだ。 「え、お姉ちゃん? 何かあったの?」 「もう、今朝言ったじゃない。 お弁当持っていこうかって」 香澄さんはそう言うと、手にしたバスケットを掲げてみせる。 「……ああ、そういえば」 今朝方、そんな話をしていたような気がする。バタバタしていたので、すっかり忘れていた。 「うわ、ホントにつくっちゃったの? あとで真一に おごらせるつもりだったから、別によかったのに」 「香澄さん、ありがとうございます」 香澄さんは僕の財布を救ってくれた恩人だ…… 「真一くんに喜んでもらえて嬉しいわ。 余分につくってきたから、一緒にどうぞ」 「あ、あたしだって喜んでるからね? 誤解しないでよ?」 「ふふっ、わかってます」 ヘンな気遣いは無用、とばかりに、香澄さんが微笑む。 芹花は素直じゃないだけで、香澄さんの料理好きだからなぁ。 「それはそうと、ふたりとも、こんなところで何をして いたの?」 香澄さんが、もっともな疑問を口にする。 傍から見たらバレーボールをぶつけ合っているヘンなふたり組にしか見えなかっただろうし。 「特訓してたのよ」 「なんの?」 「真一の無気力具合を叩き直そうと思って」 「違うだろ……実は雪下さんと芹花が、ドッジボールで 勝負することになって」 「あら、懐かしい。 ドッジボールなんて言葉を聞いたの、小学生以来だわ」 「子供っぽい勝負だなって思ったでしょ?」 「そんなことないわよ。一緒にやりたいくらい」 「そう? なら――」 「真一~、お姉ちゃんを盾にして地獄の特訓から逃げよう としても、無駄よ」 「そんなつもりじゃないって」 ただ、一緒にやれたら楽しいだろうなって、そう思ったんだけど。 「お姉ちゃんちょっと待ってて。まずは足腰立たなくなる まで鍛え抜いて、ヘトヘトになったところで食事にする から」 「どんだけ激しい運動をさせるつもりなんだ……」 「食べてから運動したら、吐くわよ」 「……せめて食休みくらいはさせてください」 「……真一くん、大丈夫?」 「なんとか……」 「その割には、ずいぶん辛そうだけど?」 陽が傾くまで続いた芹花の特訓は、運動部の人間じゃない僕にとっては、本当に地獄のような時間だった。 で、当の本人はけろっとしているし。 「……明日、筋肉痛で動けなかったら、どうするつもり だよ」 「例えそうなっても、無理矢理引っ張っていくけど?」 「鬼だ……」 「失礼な! あたしの貴重な一日をせっかく費やしたんだ から、それを無駄にされるのは許せないのよ」 「横暴だ……」 「ふふっ」 「? な、何よ、お姉ちゃん」 「ううん。ただ、もしかして私はお邪魔だったかなって」 「なっ!? 何言ってるのよ!?」 「お邪魔どころか、香澄さんが時々止めてくれなかったら、 本当に倒れていたかも……」 足腰がものすごくだるい。というかすでに痛い。 「明日の勝負が楽しみねぇ。見に行ってもいいかしら?」 「来なくていいわよぉ~っ、もうっ!」 今日は早く寝よう…… 翌日、空は雲ひとつない快晴で、絶好のスポーツ日和だった。 といっても、僕たちがこれからドッジボールをするのは、体育館の中なんだけれど…… 「何、ボーっと空なんか見てるのよ?」 「昨日の特訓が功を奏しててさ。 今まさに筋肉痛の真っ最中なんだ」 「運動不足なんじゃないの? 日頃からちゃんと運動して ないと、今はともかく後が大変っていうわよ」 「それ、兄さんも言ってた……って、あ」 「今度は何よ?」 「兄さんで思い出した。 もうひとりの面子はどうするの?」 「……え?」 僕の問いかけに、芹花がぽかんと口を開いた。 もしかして、芹花も忘れてた? 「だからさ、今日の勝負って3対3だろ?」 「…………あぁぁぁぁぁぁっ!!!!」 「やっぱり忘れてた」 「ちっ、違うわよ! 真一があんまりだらしないから、 探してる暇がなかったのよっ」 「うん、まぁ、それでもいいんだけど」 「よかぁないでしょ……自分のせいにされて、 スルーしないでよ」 「いや納得しちゃったから、つい」 僕の特訓に夢中になって、というのは確かにその通りだろうし。 「ヘンなところでものわかりがいいんだから」 「で、本当にどうするの?」 「……う~」 相手は兄さんと、ひょっとしたら宗太も加えて3人。 僕らふたりだけで対抗するには、ちょっと厳しいなぁ…… 体育館に着いてみると、どこで噂を聞きつけたのか、十人前後の見物人がいた。 それに、バスケ部やバレー部も練習の手を休めて、こっちを面白そうに見ていて……いいのかな? 「いざとなったらその辺にいる使えそうなやつを とっつかまえて……」 何やら物騒なことを呟きながら、芹花が周囲に剣呑な眼差しを向けている。 「芹花、敵は向こうだよ?」 「あ~ん?」 僕が指差し、芹花がぎろりと視線を巡らせた先に―― 「おふたりとも、おはようございます」 「逃げずによくぞやってきたな、我が親友たちよ」 不敵な笑みを浮かべる雪下さんと、どうやら彼女のチームメイトに収まったらしい宗太が、そこにはいた。 「今日は正々堂々、お互いに頑張りましょうね」 「ずいぶんと余裕じゃない」 「それはもう。勝つのは私ですから」 「言ってくれるじゃない。 その自信、粉みじんに砕いてあげるわ!」 挨拶もそこそこに、早速火花を散らすふたり。……ふたりとも、ヘンにやる気満々だから困る。 「宗太は結局、雪下さんと組むの?」 「ああ。ぜひにとのお誘いでな」 「本当は、私ひとりでも十分なんですけど」 ……あてにされていないみたいだよ、宗太。 「それよりおふたりさん、あとひとりは?」 「う、くっ」 聞かれたくないことをズバリと言われ、芹花が言葉に詰まる。 「いや、それが、さ」 「あ~、みなまで言わなくてもわかってるって」 「?」 「芹花が真一とのデートに夢中で、3人目を探すのを すっかり忘れていたって――」「ひっ!! 待て待て、俺はただ友人たちの新しい門出を 祝福しようと……」 「ど こ か ら」 「聞 い た の よ」 「そ ん な デ マ !」 「ぐお……ぉ……ぐあ……ごあぁ……もはや会話の 余地すら、ない……か……」 「ぜぇっ、ぜぇ、ぜぇっ……勝負の前に無駄な体力 使わせないでよ、まったく」 イチイチそんな、宗太の冗談に反応するから…… 「でも何、その話」 「昨日おふたりが海岸で楽しそうに遊んでいたって、 いろんなところから噂で聞きまして」 「遊んでたんじゃなくて特訓だってば!!」 「あー……」 クラスメイトの誰かに見られたのかな? 「私、妬いていいですか? 妬いていいところですよね? この怒りを勝負にぶつけていいところですよね? ふふふふふふふふ」 「いや誤解だし……怖いから勘弁してください」 「まったくもう、誰よそんな迷惑な噂広めたの!」 「ああ。私たちに教えてくださったのは――」 「おはようふたりとも」 「……お、おはよう」 「香澄さんに、杏子!?」 「なんでお姉ちゃんが……?」 「昨日、見に来てもいいかしらって、相談したじゃない。 それでせっかくだから杏子ちゃんも誘ったの」 「ん……」 そういえば昨日はあまりにも疲れていて、杏子とはろくに話もせずに寝ちゃったような…… 「だからって、あたしたちのことネタにしてばらまかなく てもいいじゃない!!」 「私はただ、芹花ちゃんたちがどうしているのか聞かれた から、楽しそうだったわよ、って答えただけで」 「やっぱり妬いていいところですよね? いいですよね? 杏子ちゃんもそう思いませんか?」 「あ……うん」 「いや許可しないで杏子」 「あぅうん」 「杏子ちゃん、私の味方をしてくれないんですか?」 「あー……ぅぅぅ」 「あら、杏子ちゃんはあたしたちの味方よねぇ? なんたってこっちには、同居人の真一がいるんだし」 「えぇっと……うぅんん」 「待てみんな! 俺のために争わないでくれ!!」 「あんたのためじゃない!!」「あなたのためじゃありません!!」 「おぅふっ!? ……か、顔はやめてくれ……会長に とって顔は命……」 宗太……杏子を助けるために割り込んだんだとしても、そこまで身体を張らなくても。 「杏子、大丈夫?」 「う、うん……」 「ここまで来るの大変だった?」 「平気……香澄さん、いたし」 「それもそうか」 「うん……」 「二学期から通うことになるんだから、あとでゆっくり 見て回るといいよ」 「うん……ありがと」 「ええいっ、いいところだけもっていきやがって!!」 床に這っていた宗太が立ち上がった。 「あ、お帰り」 「『あ、お帰り』じゃないよまったく。 おちおち寝てもいられない」 「あら。いいのよ永遠に眠っていてくれても」 「なんなら眠るのをちょぉっと手伝ってあげましょうか? 試合前の景気づけにちょうどいいわ~……」 「さようなら久我山くん。短いお付き合いでしたけれど、 私……あなたのこと忘れません! うっ、うぅぅっ、ううっ」 「キミたち……こんなときだけ仲直りしないでくれる?」 「ふあー……」 「学園に来れば毎日こういうのが見れるよ」 「う、うん」 「俺を見せ物か珍しい動物みたいに扱うな!!」 「で、なんの話だったっけ? そこの珍獣会長さん」 「お前たちが、メンバーを3人揃えずイチャついてたって 話だ」 「もういっぺん地獄見とく……?」 「すみませんごめんなさいさすがにもう結構です朝食が 逆流してきそうなんで勘弁してください」 「3人揃っていないのは私たちもですし、この際2対2で 始めましょうか?」 「あれ? 雪下さんたちもふたり?」 てっきり、最初の話通り3人揃えているとばかり思い込んでいた。でもよく見てみれば、それらしい人はいない。 「ええ。西村くんのお兄さんに声をかけてみたんですが、 ふられてしまいました」 「なんでも今日は、愛する人のところへ行くんだとか……」 「……兄さんも適当な理由で断るなぁ」 いかにもウソくさい。 でもちょっと、ほっとしたけれど。あの兄さんを敵に回したら、勝てる気がしない。 「俺と雪下さん、芹花と真一……面子的には問題ないけど、 やっぱりもうひとりは欲しいなぁ」 「ふたりだけじゃ、ゲームとしてイマイチこう……」 「それなら、私たちを入れて」 「えっ!? 私たちって、香澄さんと……杏子?」 「…………ふぇ!?」 杏子が驚く中、香澄さんが微笑みながら頷く。 「昨日話を聞いてから、久しぶりにやってみたいなぁって 思ってたの」 「で、でも……わたし……できるかなぁ」 嫌がるかと思ったけど、杏子も満更でもなさそうだ。ちょっと踏ん切りがつかないだけ、という感じだなぁ。 「……ありがたい申し出ですけど、どうしましょう?」 「……まぁ、話が早くていいんじゃないか? 芹花と雪下さんさえよければ」 「ん、まぁ、いいけどね。身内みたいなもんというか、 身内そのものなんだけど」 「あ、芹花が香澄さんを選ぶと、ちょっと角が立つか」 「えこひいきするようなお姉ちゃんじゃないけどね」 「敵に回るときにはちゃんと、芹花ちゃん相手でも全力で 戦うわよ」 「よし真一、お前が選べ」 「僕が?」 「香澄さんと杏子ちゃん、どっちか指名しろ。 先にその権利を譲ってやる……でいいかな、雪下さん?」 「ええ、構いませんよ」 「なんでまた僕が――」 「まぁいいからいいから、さ、どっちにする?」 「うふふ」 「……っ」 「じゃあ、香澄さんで」 「あら。ありがとう、真一くん」 「…………」 香澄さんと芹花は姉妹だから息も合うだろうし、それが自然な組み合わせだろう。 「いよっし! 花屋“すずらん”の看板美人姉妹、その 実力をみせつけてやるわ!!」 大丈夫……だよな? 内野同士でのパスは禁止など、細かいルールの確認をしてから、チーム毎にコートに分かれた。 「それじゃあ、真一は外野よろしく」 「ちょっと待って、それって、香澄さんが内野に入るって こと!?」 「大丈夫っ! 私だって、運動神経は芹花ちゃんには 負けてないんだから」 「いや、そこは競うところじゃないし」 女の子ふたりを内野において、自分だけ安全地帯へ出るのは抵抗があるんだけど…… 「いいから任せておきなさいって。ふっふっふ……」 芹花の顔には、悪戯っぽい……というだけでは収まらない、何か確信犯的めいた表情が浮かんでいた。 「……何、企んでるんだ?」 「向こうのチームで一番怖いのは宗太よ。腕力もある 男だからね」 「だから、まずはあいつから脱落してもらうわ。 ……ふっふっふ」 雪下さんたちのチームは、内野に宗太と雪下さん。外野に杏子が、心細げに立っていた。 杏子はどう見ても運動が得意そうには見えないし、背もこの中で一番低い。トスボールで競るのも、相手のボールを受け止めるのも難しいだろう。 「だから相手はあの配置で、狙うのは宗太……まあ、 わからない作戦じゃないけど」 「ふっふっふ~♪」 「……ほどほどにね」 一抹の不安を覚えつつ、僕は外野へと下がった。 審判役を買って出てくれた運動部の男子が、笛を鳴らしてトスボールを上げる。 いよいよ試合開始だ。 「久我山くん、拾ってください!」 「任せろ、ここが俺の最大の 見せ場ぁぁぁぁぁーっ!!」 いやまだ、始まったばかりだし。 芹花と競り合った宗太が、自分たちのコート内にボールをはたき落とし、まずは雪下さんチームがボールを確保。 「よっしゃあーっ! 女子供相手でも容赦しねぇー!!」 大人げないことを言いながら宗太が、自分で拾い上げたボールを投げようとして―― ――固まった。 「……おいおい、そんなのありかよ?」 たぶん宗太は、芹花を狙おうとしたんだと思う。僕でもそうする。 でも、それはできそうになかった。なぜなら…… 「ふふっ」 宗太の目の前には、満面の笑みを浮かべた香澄さんが立ちふさがっていた。 センターライン越しとはいえ、ものすごく近くに。 「くっ」 宗太が右に避けようとすれば右に、左に避けようとすれば左に、香澄さんは意外と(失礼)素早くついていく。 「……あの、香澄さん。そんなに近くにいられると、 大変投げ辛いのですが……」 「だって、芹花ちゃんがこうすれば必ずボールが 捕れるって教えてくれたの」 「……うぐぁあ、芹花ぁぁぁ」 「んべぇー」 宗太からは死角になっている、香澄さんの後ろに隠れるようにして、芹花が……たぶんあっかんべーをした。外野にいる僕には、よく見えないんだけど。 「投げないの?」 「勘弁して下さいよ……」 「ほらほら、どうしたの生徒会長? 早く投げないと いつまでたっても終わらないわよ? なんなら、 味方にパスでもすればいいじゃない?」 その場合、内野同士のパスは禁止なので、ボールは杏子に渡さなければいけない。 それはちょっと……うん、危なっかしいよな。 「ふぇっ!?」 「……芹花~、お前というやつはぁぁぁ」 ぎりぎりと歯噛みしながらも、宗太はなんとか香澄さんを避けようとしているけれど、香澄さんもぴたりと宗太に貼りつく。 宗太が一旦距離をとっても、香澄さんはうまくあいつと芹花の間に立ちふさがっていた。 「ちなみに、お姉ちゃんの顔にボールを当てたりしたら、 顔面が陥没するまで地味に殴り続けるから~」 「ひ、卑怯者!」 「さあ、とっとと投げろっ!」 「く、ぅぅぅうぅ…………やむなし!! 頼む杏子ちゃん!!」 「あ、うんっ」 芹花に急かされた宗太は、結局杏子にパスを出した。相手チームの外野にボールが出ていく。 「わわっ……とと。 え、ええと」 「え、えいっ!」 危なげな手つきでボールを受け取った杏子が、近くに居た芹花に向けてボールを投げる。 けど―― 「よっ」 明らかに威力のないボールを、芹花は難なく受け止めた。芹花の目論見通りだ。 「いっただきーっ!!」 「くっ!?」 すかさず芹花は宗太を狙い、その脚へ見事にボールをぶつけた。これでひとり目! 「おーっほっほほ!! ささっ、外野と交代しなさい」 「わかってるよ。あ~あ」 早々に退場が決まった宗太は、つまらなそうに肩をすくめて外野に出ていく。 そしてルールに従って、入れ替わりに杏子がコート内に入ってくる。 「……ぁう」 「敵はずいぶんな手をつかってきますね…… 負けずに頑張りましょう、杏子ちゃん!」 「……う、うんっ」 戸惑いの表情を浮かべる杏子の手をとって、雪下さんが力強く告げる。 ボールは雪下さんの側から、試合再開! 「いきますよ、香澄さん!」 「きゃっ」 雪下さんは宗太と違って、容赦がない。 速攻でボールを投げつけて、慌てた香澄さんはそれを取り落とした。 これで2対2か…… 「ごめんね、芹花ちゃん」 「気にしないで。お姉ちゃんはちゃんと仕事を果たした から! あとはあたしと真一の出番よ」 香澄さんと入れ違いに、今度は僕がコートに入る。 「うわ、結構狭いな……」 外野から見るのと、実際に内野にいるのでは、ずいぶんと印象が違う。 「すぐやられたりしないでよ?」 「……善処します」 「はぁ、頼りないわね~」 芹花が、僕の答えに不満そうにため息をつきながらボールを拾い、そして、身構える雪下さんへと投げるふりをして…… 「お姉ちゃん、パス!」 「えっ……しまった、フェイント!?」 「杏子ちゃん、ごめんなさいね」 「はぅっ!?」 香澄さんが外野から投げたボールが、杏子の腕に当たった。これで、残るは雪下さんただひとりだ。 「ご、ごめんね……」 「気にしないでください、杏子ちゃん。 私も不覚でした……仇は必ず取ってあげますから!」 「……うんっ」 雪下さんに慰められて、杏子が外野に戻っていく。 宗太は一度ぶつけられているので、交代はない。つまり、内野に残っているのは雪下さんひとりだけ。 「さぁ、どうするの? おとなしく負けを認めるなら、 手荒なことはしないけど?」 「ご冗談を。勝負はまだまだ、これからです!」 「言うじゃない……なら、引導を渡してあげるわ!!」 「散っていった久我山くんや杏子ちゃんのためにも、 負けられません!」 ふたりが、コートのセンターラインを挟んで対峙する。 ……たぶん、僕のことはすっかり忘れて。 「……僕、いない方がいいのかな?」 助けを求めるように宗太の方へと視線をやると、視線で諦めろ、と告げてくる。 「はぁ……」 「いたっ!?」 「あれ、真一? まだいたの?」 「味方の芹花が言う、そのセリフ!?」 「ごめんなさい西村くん、外野で待っていてくださいね~」 「……うん。邪魔しないから、気の済むまでふたりで どうぞ」 僕が外野に出るのと同時に、激しい攻防が始まった!! ふたりとも正確な狙いで投げつけるものの、きっちり受け止めて逆襲に転じる。 雪下さんも運動は苦手じゃないみたいだ。芹花を相手にして、一歩も引かない。 「なかなかっ、やるじゃないっ!?」 「芹花ちゃんこそっ!」 「まさか、ここまで対等とは思わなかったわ!!」 「それはお互い様です、よっ!!」 「……なんか、楽しそうだな」 ふたりとも、笑顔を浮かべている。 もう、当初のいざこざなんて忘れてしまったような楽しそうな様子で。 「あ……!?」 「もらったっ!」 雪下さんが足を滑らせた隙を見逃さずに、芹花がボールを投げつける。 狙いは脚──体勢が崩れたところを狙われて、ボールを避けることも捕ることもできず…… 「やったぁ! あたしの勝ちねっ!!」 芹花の勝利宣言が体育館中に、高らかに響き渡った。 「それじゃあ、杏子を」 「!」 確かに杏子は、運動が得意なように見えないけど…… その小さな身体にすごい力を秘めている! ――かもしれないじゃないか。もしかしたら。 「……うぅ、大丈夫かな」 「大丈夫大丈夫! 今からあたしたちは仲間よ。 一緒に頑張りましょう!」 「…………う、うん」 親しげに肩を叩く芹花に、杏子が今にも泣き出しそうな硬い表情で頷く。その姿は、なんというか…… 「杏子ちゃんが可哀相になってくるな、なぜか」 「巻き込んじゃって悪かったかしら?」 「せっかくだから杏子ちゃん、内野やってみる? スリル満点で面白いから」 「で、でもっ」 「だいじょーぶだいじょーぶ。 痛いのは最初だけだからっ!」 「…………し、真一くんっ」 杏子の助けを求めるような視線が、僕を捉える。 「あ~……芹花。 杏子は心の準備とかできてないだろうから、 まずは外野に入ってもらったら?」 「え~?」 「……わ、わたしも、それがいい……かな」 僕の言葉にのっかるように言っただけでも、普段の杏子からすれば信じられないぐらいの自己主張だ。 今日の芹花は、雪下さんとの勝負に熱が入り過ぎていて周りが見えていないみたいだし。 「まぁ、しょーがないか。真一、頼むわよ」 「うん」 大丈夫……だよな? 内野同士でのパスは禁止など、細かいルールの確認をしてから、チーム毎にコートに分かれた。 審判役を買って出てくれた運動部の男子が、笛を鳴らしてトスボールを上げる。 いよいよ試合開始だ。 「久我山くん、拾ってください!」 「任せろ、ここが俺の最大の 見せ場ぁぁぁぁぁーっ!!」 「くっ!!」 「よしっ!」 宗太とのトスボールでは、僕の方が競り勝った。 「ぐはぁっ!? 俺の、俺の見せ場が……」 宗太がうちひしがれている間に、芹花がボールを拾い上げる。 「いっただきっ!!」 「しまったっ!」 宗太が慌てて中央のラインから下がろうとするが――遅い!! 「ぐひゃあっ!?」 「まずはひとりっ!」 渾身のボールが脚に当たり、宗太はそのまま外野へ。 勢いよく跳ね返ったボールが、今度は僕の手元にやってきた。 「よ~し……」 僕も少しはいいところをみせないと―― 「あ」 そう思ってボールを構えたものの…… 「西村くん、手加減してくださいね?」 「真一くん、信じているからね?」 相手チームの内野は、女子ふたりだった。 「真一! 遠慮することはないわ、あたしが許す!!」 「西村くん、『まさか』私や香澄さん相手に、 『まさか』全力なんてだしませんよね!?」 「ダメよ、真一くん。女の子にはうんと優しくしないと」 「……香澄さんまで」 好き勝手なことを言う3人に、気力がそぎ落とされる。 内野でボールを回すのは禁止だったから、外野に回そうかな…… 僕は脱力しきった腕を振り上げて、外野にいる杏子にパスを送ることにする。 ちゃんととれるか怪しいから、軽く投げて…… 「あ……」 「真一くん、手加減ありがとう」 「あぁ!?」 気の抜けたパスボールを、僕と杏子の間に入った香澄さんが掠め捕っていた。 「ちょっと真一! 何やってるのよ!?」 弁解する暇もなく、香澄さんが手にしたボールで僕に狙いを定めて―― 「ごめんなさいね」 「くっ……!?」 かわそうとしたけれど、間に合わなかった。腕にボールを当てられた僕は、外野へ退場することになる。 「さよなら西村くん。ごめんなさい、迷わせるような ことをして」 「うん……」 「あぁもう!! 杏子ちゃん、この役立たずと交代よ!!」 「え、う、うん」 杏子は始めから外野にいたから、僕と入れ替わりに内野へ入るルールだ。 「頑張って」 「……う、うん」 残り2対2だから、勝負はまだわからない。 だけど…… 「杏子ちゃん、ごめん!」 「ひゃぅっ!?」 案の定、杏子はあっさり雪下さんに当てられてしまい、すぐさま外野へと戻ってきてしまった。 「……ご、ごめんなさい」 「いいって、よく頑張ったよ」 「そうそう、気にしないで。ここから大逆転劇を みせてあげるから」 たったひとり内野に残った芹花が、気勢をあげる。だけど状況は圧倒的に不利だ。 「降参なら受け付けますよ?」 「冗談でしょ? これからが面白いところじゃ――ない!!」 声を張り上げると共に、芹花が渾身の力でボールを投げる。 「く……っ!?」 雪下さんはそのボールを正面で受け止めた……けど、ボールの勢いに押されよろめく。 「……結構、やりますね」 「そっちこそ、よく止めたじゃない!」 「今度はこっちの番ですっ!」 「――っとぉ!? ふん、このくらい、どうってことないわよ!」 ふたりとも正確な狙いで投げつけるものの、きっちり受け止めて逆襲に転じる。 雪下さんも運動は苦手じゃないみたいだ。芹花を相手にして、一歩も引かない。 「なかなかっ、やるじゃないっ!?」 「芹花ちゃんこそっ!」 「まさか、ここまで対等とは思わなかったわ!!」 「それはお互い様です、よっ!!」 「……なんか、楽しそうだな」 ふたりとも、笑顔を浮かべている。 もう、当初のいざこざなんて忘れてしまったような楽しそうな様子で。 だけど勝負には、いつしか決着がつくわけで…… 結局、雪下さんが外したボールが外野にいた宗太の手に渡り…… 「これで試合終了、だな」 「きゃっ!?」 あっけなく、芹花は背後からの攻撃を受けて、アウト。 この瞬間、雪下さんのチームの勝利が確定した。 「僕は……雪下さんにつくよ」 「本当ですかっ!」 「う、うんっ」 答えを聞いた雪下さんが、僕の手を握ってぶんぶんと振り回す。 確かに楽しいってことも大事だけど、無理を言ったところで、通らないものは通らない。こういうときこそ、きちんとした計画が必要だと思う。 「やったぁ♪ ありがとうございます、西村くん!」 「そ、そこまで喜んでもらえるとは思わなかったよ」 「へぇぇぇ~……仲のおよろしいことで」 まるで死刑宣告のような、凍り付いた声が耳に届いた。 「いい度胸ね真一……わかってるわよね~?」 「……あの、芹花サン?」 「ふたりまとめて叩き潰してあげるから、 覚悟しなさい!」 「そう簡単にいくと思いますか?」 うろたえる僕を他所に、雪下さんが芹花に挑発的な視線を向けていた。 「私、負けられない戦いから逃げる趣味はないんです」 「へぇ、余裕じゃない。あたしに勝つつもりなんだ?」 「行き当たりばったりで行動するような人に、 負けるとは思えません」 「むっかぁぁぁあ~っ!!」 「あの、ふたりとも、落ち着いて」 「真一は黙って」 「……はい」 「それじゃあ明日、雪下さんがどれくらいの腕前なのか、 見せてもらおうじゃない」 「望むところです。きっと驚きますよ?」 「――ふんっ」 芹花はつまらなそうに鼻を鳴らすと、そのまま教室から出て行ってしまった。 「……宗太」 「うん?」 「なんだか、余計にこじれた気がするんだけど」 「気がする、じゃなくて間違いなくこじれたな。 芹花はともかく、雪下さんも結構言うじゃないか」 「…………」 「他人事みたいに言って……自分だって煽ったというか、 話をこじれさせたくせに。楽しんでただろ?」 「はっはっは――」「――すまん!」 「責任とって、芹花の方は俺が落ち着くように話して みるよ。お前は……」 宗太が、さっきまでとは打って変わって黙り込んでしまった雪下さんに、軽く視線を向ける。 「……了解」 「おう。んじゃ雪下さん、悪いけど俺、お先に」 「……はい」 そして宗太は僕に軽く手を振ると、そのまま教室を出て行った。芹花の後を追いかけるつもりだろう。 あとは…… 「……西村くんは、芹花ちゃんを追いかけなくていいん ですか?」 「え、どうして?」 「だって……」 雪下さんにしては珍しく、歯切れが悪い。 言葉を濁すなんて、らしくない。 「……さっき、言ったろ? 僕は雪下さんにつくって」 「それは……嬉しかったです、けど」 「芹花ちゃんと西村くんは……その、 幼なじみ、なんですよね?」 「うん。だけど芹花には、宗太もいるし」 「…………転入してきたばかりの私には、 あなたしかいない」 「いや、そういう意味じゃなくて」 「ふふ……事実ですもの。だけど」 「あなたひとりがいれば、私には十分なんですけどね。 ふふっ」 「ん……」 雪下さんにはいつも過大評価されているみたいで、こそばゆい。 僕は照れ隠しに、慌てて話題を変えた。 「あ、えっと、雪下さんはドッジボールの経験は」 「プロ級ですよ」 「ふふっ、冗談です。小学生の頃に授業でやった記憶は ありますけど……」 「あー、うん。まぁそうだよねぇ」 結果的には予想通りの答えが返ってきたけど、それよりも僕は、彼女がまた冗談混じりに笑顔を見せてくれたことが嬉しかった。 「う~ん、どうしよう。特訓とかする?」 「特訓、ですか?」 「いや、ただの思い付き。芹花ならそうしそうだなって」 「……そんな不思議そうな顔しないでくれる?」 「あ、ごめんなさい。まさか西村くんが、そんなに 勝ちたがるとは思わなかったので」 雪下さんは軽く頭を下げた後、おかしそうに笑った。 「いや、あれ? 雪下さん……勝ちたくないの?」 さっき芹花とやりあっていたときは、すごく挑発的だったから、当然勝ちを狙っているのだとばかり…… 「……正直なことを言えば、勝ち負けにはあまり。 どちらが勝っても尾を引きそうですし」 「ん~……芹花はさっぱりしてて、根にもつタイプじゃ ないから、それは大丈夫じゃないかなぁ」 「それはなんとなくわかりますけど、でも……今回は、 あなた絡みですから」 「あなた?」 「ええ、西村くんのことです」 「なんで?」 「だって、勝ったらもらえるんでしょ。西村くんのこと」 ……真顔で『当然ですよね』という態度をとらないで欲しい。 「副賞とかってあれは、宗太が適当に言い出しただけで」 「私と芹花ちゃんにとっては、冗談じゃ済まない 問題ですよ」 「いやそんな、うーん」 「ただでさえ杏子ちゃんなんていう、いきなり同居を 始めたライバルの登場で、心穏やかではいられない ですし」 「ええっと、雪下さん?」 いくらいつもの調子を取り戻したからといって、窓の外、遠くを見つめながら、そんな思わせぶりな言い方をしないで欲しい。 「はぁ……私は長年離れ離れになっていて、ただでさえ 不利ですし、芹花ちゃんもどれほど内心焦っていること か」 「……そろそろ本題に戻らない?」 「むぅ。乙女にとってはこちらが本題ですよ?」 「実は明日の勝負、本当はしたくなくて話を逸らしてると か?」 「…………」 雪下さんが口をつぐんだ。 当てずっぽうだったんだけど、さっきも、あまり勝敗にこだわっていないみたいだったし…… 「……本当はいつだって、仲良くしていたいじゃない ですか。どんなときでも」 ぽつり、と雪下さんが呟く。 「いつまでいられるか、わからないんですし」 「…………」 雪下さんには常に、『転校』の可能性がついてまわるらしい。 顔を覚える間もなく、頻繁にクラスメイトが変わる羽目になる彼女にとっては…… 「どうせ想い出をつくるのなら、大事にしたい」 「雪下さん……」 「せっかくイベントをするのなら、ちゃんと実現できて、 形になるようなものがいいなって……それで」 雪下さんの表情が、悲しそうに陰る。 誰よりも想い出を大事にしたい彼女にしてみれば、芹花の提案はいい加減なものに映ったのかな…… 「ダメですね、私。身勝手な気持ちで、 場の空気を悪くしちゃって……」 「ダメなんかじゃないよ」 「え?」 「そういうのって、素敵だと思う。そんな理由なら、 きっとケンカすることにも意味はあるよ」 「そう、でしょうか?」 「それに、雪下さんが今言ったことを聞けば、 芹花だってすぐに折れると思うよ?」 「そ、それは止めてくださいっ!」 「どうして?」 「だって、恥ずかしいじゃないですか……」 「え?」 「西村くん相手だから、こんなこと喋っているんです。 あまりほかの人に知られたくないんですよ、本当はっ」 「そ、そうなの……?」 「うぅ……」 ……てっきり、芹花たちにも話していることだと思っていた。 やっぱり彼女の本音はどこにあるのか、よくわからない。 雪下さんとふたり、学園をあとにした。とりあえず明日のことは明日考えよう、という心境だった。 「……あの、もしよろしければ、西村くんのお宅に 寄ってもいいですか?」 「えっ? ああ、お店?」 「はい」 「遠慮せずどうぞ。雪下さんはもう、ウチのお得意様なん だから」 「オレンジヨーグルトケーキしか頼みませんけどね、 ふふっ」 「…………あ」 僕たちが店の前へと辿り着いたとき、ちょうど家の方から杏子が出てきた。 「あっ、杏子ちゃん!」 雪下さんは声をあげて駆け寄ると、喜びを全身で表すように杏子を抱き締める。 「わっ!? ……美百合ちゃん?」 「こんにちはっ、お出かけですか?」 「うん……お散歩」 「そうですか。う~ん、ちょっと残念」 杏子を解放した雪下さんは、少し首を傾げてみせた。 「残念、なの?」 「できれば杏子ちゃんとも一緒に、ケーキを食べたい なって思っていたので」 「……うぅ」 まぁ、ウチに来れば杏子もいるからなぁ。当然の発想か。 杏子は困ったような表情を浮かべる。 いきなり雪下さんに誘われたのが意外で、どう答えていいのかわからないのかもしれない。 「う…………」 で、こっちにすがるような目を向けてくるものだから…… 「いいんじゃない? 一緒に食べてからでも、お散歩は 行けるよ」 「ん……うん」 僕が助け船を出すと、杏子は少し考えるような素振りをみせてから、ゆっくりと頷いた。 気を遣わせたと思ったのか、雪下さんが申し訳なさそうな顔になる。 「あの、無理に予定を変えなくてもいいんですよ?」 「んん……」 杏子は言葉を返すよりも、むしろ雪下さんの袖を掴んで、お店の方へと引っ張った。 「……よろしいんですか?」 「…………うん」 ふたりがそのまま、店の扉を開ける。 「いらっしゃい――おや」 入ってきた僕らを見て、父さんが目を細める。 杏子が雪下さんの手を引いている姿が、微笑ましい姉妹のように見えたのかもしれない。 「ただいま。お客様おふたりだよ」 「ああ。いらっしゃい、雪下さん」 「こんにちは、あの――」 「オレンジヨーグルトケーキでございますね、お客様」 父さんが珍しく、少しおどけた口調で注文を先読みした。雪下さんも微笑んで頷く。 「あと、レモンジュースをセットで。 杏子ちゃんは何にします?」 「……ん、んと」 「僕、着替えてきて店を手伝うよ。 杏子はその間に、ゆっくり決めてくれればいいから」 「う、ん」 杏子が遠慮がちに頷くのを見てから、僕は一度奥へと引っ込んだ。 「杏子ちゃん。明日、学校にいらっしゃいませんか?」 「え?」 僕が店に戻りカウンターへ入ったとき、雪下さんと杏子の前には、もうそれぞれケーキセットが置かれていた。 雪下さんはレモンジュースと、いつものオレンジヨーグルトケーキ。 杏子は桃のジュースと、悩んだ末に雪下さんと同じ、オレンジヨーグルトケーキを選んでいた。 「実は明日、芹花ちゃんとある勝負をすることになって しまって」 「勝負……?」 「はい。ですがあまりその、気が進まなくて」 「……イヤなの?」 「イヤというか、うん。早く仲直りしたいんです、本当は」 僕にしていたのと同じような話……だけど確かに彼女は、想い出に関する話題だけは、杏子の前では口にしなかった。 「でも今さらやめるわけにもいきませんし……ただ、 その場に杏子ちゃんが来てくれたら、少しは場の 空気が和らぐかもしれません」 「和らぐ……かなぁ?」 杏子にとっては、学園はまだ知らない場所だ。 そこに誘われるだけでも、ちょっとためらうことだろうに…… 「西村くんも、杏子ちゃんが応援してくれたら 頑張れますよね?」 「ん? ああ、えっと……」 少し考えてから、僕は頷いた。杏子も二学期から通うことになるんだから、雰囲気に慣れておいた方がいい。 そう、芹花も言っていたことを思い出したからだ。 「そうだね。きっと普段以上に頑張れる気がするよ」 「ほら、ああ言ってますし」 「……わ、わかった。けど」 「学園って……どこ?」 とりあえず杏子は明日、僕と一緒に登校することになった。 そして翌日…… 体育館に着いてみると、どこで噂を聞きつけたのか、十人前後の見物人がいた。 それに、バスケ部やバレー部も練習の手を休めて、こっちを面白そうに見ていて……いいのかな? 「なんでこんなに人が?」 「ギャラリーは多い方が燃えるだろ?」 不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた、我が生徒会長の仕業だった。 芹花以上に、なんでもお祭り騒ぎにしたがるやつだ。 「ああそうだ、誰か、審判に入ってくれないか?」 ついでのようにそう言って有志を募ると、あっという間に試合の体裁を整えていく。こういうところだけは、やり手の生徒会長っぽい。 「審判をその人たちに頼むのはいいとして、ルールは?」 「それも合わせて、これから説明する。 少し待って――」 説明をしようとした宗太を押しのけて、握り拳で気合い十分といった様子の芹花が、声をあげた。 「ルールは簡単! ドッジボールで勝負して、 負けた方が勝った方の意見を呑む! それだけ決まってれば十分でしょ?」 「……それはさすがに端折り過ぎじゃないか? あと、副賞の真一を忘れるな」 「いやそこは忘れていいから」 僕の懇願を無視して、宗太が一歩前に出る。 一度体育館内を見回すと、観客にも聞こえるような大きな声で説明を始めた。 「まず、対戦競技はドッジボール。 内野と外野に分かれてコート内に入ってもらう」 「内野の人間は相手にボールを当てられたら外野へ。 外野には最初にひとりだけ置いておき、その人物は 内野で最初にリタイアした人間と交代で中に入る」 「内野から外野へ行った人間の復活はあるんですか?」 「なしにしよう。一度当てられたら、内野にはもう戻れ ない。結果として、チーム全員が当てられたら負け、 逆にひとりでも内野に残っていれば勝ちだ」 「ちなみに、特に芹花に注意しておくけど、顔面―― というか、首から上は危険なので狙わないように。 もし当たっても、それはセーフとする」 「あんたが敵じゃなくて残念だわ……」 そう、結局芹花は宗太とチームを組んだらしい。宗太の奴、落ち着かせるとか言っていたくせにむしろ煽ったんじゃないかな? 「あと、内野でのボールの受け渡しは禁止だ」 「どうして? 問題ないんじゃないかな?」 「問題はないが、盛り上がらない。 俺がつまらない!」 あー、無駄に胸を張って言い切っちゃった、この人。 「真面目な話をすると、内野同士でのボールのやり取りを 許すと、例えば芹花にボールを集中させて……」 「あたしが真一を狙い撃ち」 「すんなっ」 「とまぁ、ワンサイドゲームというか、意外性がないん でね。公平に、公正に、かつお互いにあまり卑怯な 手を使わずに勝負を決めたい」 「つまり、誰にボールが渡るかによって、勝負の行方も 変わるから?」 「面白いだろ?」 いや、そこでニヤリと笑われてもなぁ。結局そこに行き着くのかってだけで。 「はーい質問っ! 外野は?」 「外野同士でボールをやり取りするのは、構わない。 やり取りできるってことは、外野にもう、ふたり 追い出されてるってことだろ?」 「内野にひとりしか残っていない状況なんだから、 そのぐらいは大目に見てもいいだろう」 「……あ」 「どうした真一」 「……3対3、ってこと忘れてた」 「え、あ!?」 僕と雪下さん、ふたりしかチームで考えていなかった。 「はっはっは。大丈夫よ、あたしたちもふたりだから」 「え、そうなの?」 「あー、そうだった」 芹花の言葉に、宗太が気まずそうに頬を掻いた。 「生徒会メンバーの誰か、と思ったんだけど、相変わらず サボリでさぁ」 ……大丈夫なのか、ウチの生徒会。 「2対2でやっちゃう?」 「いやさすがにそれじゃあ、盛り上がらないだろ」 「盛り上がるのが前提なんだ?」 「そういうことなら――」 と、聞き覚えのある声が、観客の中から聞こえた。 「私を混ぜてもらえませんか?」 「お姉ちゃん!? なんでここにいるのよ!!」 「昨夜芹花ちゃんが話してくれたんじゃない、今日は 雪下さんと雌雄を決する大事な勝負なんだ、って」 「だから見に来て……ドッジボールって聞いたら、 懐かしくて一緒にやりたくなったの」 「お姉ちゃん……こっちは本気だっていうのに、遊びか 何かと勘違いしてるでしょ……」 いや、十分遊びだし。 「ん~、そちらが身内を出してくるなら、こちらも 応援団を呼ばないといけませんね」 「応援団って……あ、まさか」 「杏子ちゃん、ちょっとこちらへ」 「…………ふぇ!?」 呼ばれた杏子が目を丸くしている。僕と一緒に登校して、雪下さんの応援をするはずが…… 「私たちと一緒に戦いませんか!?」 「え、え?」 「無茶言うなぁ」 香澄さんはまだしも、杏子がこの手の競技が得意だなんて、思えないんだけど…… 「ふむ。これで人数の問題も解決か」 「いいの?」 「気になる点があるとすれば、チーム分けだな。 それぞれひとりずつ候補を出したわけだけど」 芹花と雪下さん、僕と宗太、香澄さんと杏子。前の4人はともかく、あとのふたりは…… 「どう思う? このままだと俺たちの組に香澄さんが、 お前たちの組には杏子ちゃんってことになるが」 「うーん」 杏子は雪下さんと仲が良いから、このままがいいだろう。 「いいよ、それで」 「お前がそれでいいなら……雪下さんは?」 「問題ありません。杏子ちゃん、よろしくお願いします」 「う……うん」 杏子は自信なさげだったけど、その分僕らでカバーすればいい。そう思った。 「じゃあそれぞれ、配置についてくれ」 「それじゃあ、私と杏子ちゃんが内野に入りますね」 「な、内野?」 「いいの、それで……?」 ふたりの内どちらかがやられるまで、僕は外野ということになる。 「真打ちは最後に登場してください。 西村くんは、私たちの切り札になるんです」 「……わかった」 これは芹花と雪下さんの勝負だからな。 気が進まないようなことを言ってはいたけど、雪下さんが主役なんだから、彼女の考えに従おう。 芹花チームの内野は、芹花と宗太。香澄さんが外野に回っていた。 審判役を買って出てくれた運動部の男子が、笛を鳴らしてトスボールを上げる。 いよいよ試合開始だ。 「くっ!!」 「負けるかぁ、ここは俺の、 檜舞台ぃぃぃーっ!!」 雪下さんと宗太が、宙に浮いたボールを競り合う。にしても宗太、ここはまだ試合開始直後…… 「あっ!?」 「いっよし! ナイス俺!!」 ボールを奪ったのは、宗太だった。やっぱり身長差が厳しかったか…… 「さぁて、どうするかね……」 宗太はボールを手に、こちらのコートに視線を送っている。 そこでは杏子が隣にいる雪下さんを真似て、腰を低くしてボールを捕る構えをみせていた。 「……うぅ」 その明らかに不慣れそうな様子を穴と見たのか、宗太が杏子に向かってボールを投げようとして…… 「ひゃぁっ!?」 「うっ!?」 その瞬間、自分が狙われていることを悟った杏子が、大袈裟に身をすくませた。 「……ええと」 「何やってるのよ、宗太! 試合はもう始まってるのよ!?」 「そんなこと言ったってさぁ……」 芹花のヤジに、宗太が困ったような表情で頬を掻いた。 まあ、杏子にあんな反応されたら、投げられないよなぁ。 「ぅううっ」 「……しょうがねえな」 結局、宗太は雪下さんに向かってボールを投げる。……かなり気の抜けた感じで。 そんなボールを雪下さんが逃すはずもなく、簡単に受け取るとすかさず、カウンターで宗太を狙う! 「えいっ!」 「っ!? ったく、なんてこった……」 アウトになった宗太が、とぼとぼと外野へ移動する。 ある意味、杏子と雪下さんの連携にやられたようなものだけど…… 「意外と早く出番がきちゃった」 宗太に代わって香澄さんが内野に入り、ボールは芹花の手に。 「まったく、使えない生徒会長様ね」 そう言いながら芹花もボールを振りかぶって、杏子を狙う――けど。 「ひゃあぁぁ……っ!?」 やっぱり杏子は大袈裟な動作で、その場にしゃがみこんでしまう。あれじゃあ、ちょっと可哀相で当てられない。 そう思ったら―― 「逆にそれが狙い、よっと!」 軽い掛け声とともに、ボールが飛ぶ。 当たっても大して痛くなさそうな球威で、緩やかに放物線を描く軌跡で。 それは動きの止まった杏子目がけて、ゆっくりと近づいて…… 「杏子、避けて!」 「え、え?」 「もらった!」 杏子はまだ動けない。だけど―― 「そうはいきませんよっ」 「えっ!?」 確実に杏子を仕留めるはずだったボールは、横合いから飛び出した雪下さんの手に掠め捕られた。まるで、バスケのパスを止めるみたいに。 「大丈夫ですか、杏子ちゃん?」 「う、うん。……ありがとう」 「ちょっと、そんなのアリ!?」 「狙われた人がボールを捕らなければいけないなんて ルールはありませんよ?」 「それはそうだけど……」 「――西村くん、はい!」 芹花が口ごもった隙に、雪下さんがこっちにボールを回してきた。咄嗟に動けなかったのか、芹花はこちらに背中を向けたままで…… 「もらった!!」 「ウソやだ――」 「えっ!?」 「あたたっ……」 「お姉ちゃん!?」 芹花を狙った僕のボールは、割って入ってきた香澄さんの腕に当たって、弾かれてしまった。 「あぅ……ごめんね、芹花ちゃん。 ボール捕れなかったわ」 「……ううん、ありがと」 芹花ににっこりと笑いかけると、香澄さんはそのまま外野へと移動する。 だけどこれで、3対1…… 「……真一」 「え、何?」 「よくも、お姉ちゃんにボール当ててくれたわね?」 「だって、そういうゲームだから……」 「とっとと内野をひとりアウトにして、すぐにコートに 引っ張り出してあげるわ! ……覚悟しなさい?」 ……あの、本気で怖いんですけど!? 「せいっ!」 香澄さんがアウトになったことでさらに火が点いたらしい芹花が、雪下さんに向かってボールを投げる。 「……っ」 なんとか捕ることはできたけど、雪下さんの表情に余裕はない。 「――はっ!」 「よっと」 逆に、雪下さんが投げたボールを、芹花が難なく捕る。 「こっちはひとりだし、真一が入ってくる前に 美百合には退場してもらうわよ!」 「っ! そう簡単にやられたりしませんよ!」 ふたりの間で、ボールの応酬が続く。 どちらも一歩も引く様子がなく、そのままの状態が続くかと思ったんだけど…… 「あっ!? しまった」 「きゃぅっ!?」 「杏子ちゃん!?」 白熱していた芹花の手からすっぽ抜けたボールが、まだ内野に残っていたもうひとり――杏子の顔面を直撃してしまった。 「……あ、えっと」 呆然とする芹花を他所に、雪下さんが杏子へと駆け寄る。 「杏子ちゃん、大丈夫!?」 「う、うん……」 なんとか頷き返すけれど、杏子は鼻を押さえて座り込んだままで、その目の端には、大粒の涙がたまっていた。 「大丈夫? とりあえず保健室に……」 「私、一緒に行ってきます!」 「……で、でも、勝負が」 「そんなことより、杏子ちゃんの方が大事です」 「……ダメ」 「え?」 「美百合ちゃん……仲直りにきたんだから、 ここで止めちゃ、ダメ」 「杏子ちゃん……」 仲直り――勝ち負けではなくて、芹花との仲直りこそが大切。どちらにしても、途中でやめたら意味がない、か。 「杏子ちゃんには、私が付き添うわ」 「……はい。お願いします」 「…………」 雪下さんはしゃがみ込んだまま頷いた。芹花はまだ、呆然と立っている。 「で、どうするのふたりとも?」 「……え?」 「杏子は、続けてくれって」 たぶん、芹花には聞こえていなかっただろうことを伝えると、彼女の顔が苦しげに歪んだ。 「……でも、大丈夫かしら、あの子?」 「大丈夫、ですよ」 立ち上がった雪下さんのその顔に、迷いはなかった。 「続けましょう。杏子ちゃんの頑張りを無駄にしないため にも、ここはハッキリ決着をつけないと」 そう言うと、雪下さんは足元に転がっていたボールを拾い上げた。 「だから、芹花ちゃんも全力でお願いします」 「……わ、わかってるわよ!」 「試合再開だ! 特別ルール、外野もなし! 完全に1対1の戦いとする!」 審判が笛を鳴らし、試合が再開された。 「えいっ!」 「なんのっ!」 ボールのやり取りは相変わらず続いたけれど、やっぱり芹花の動きが悪い。 「あなたの本気は、そんなものですか!!」 「う……っ」 「杏子ちゃんに、申し訳ないって思うのなら!!」 「……っ!」 「最後まで、手を抜かないでください!!」 「わかって……るって、言ってるでしょ!!」 「っっ!!」 芹花の、渾身の一撃を受け止めた雪下さんの顔が痛みに歪んで…… 「せいっ!!」 「きゃっ!?」 目にも留まらぬ速さで投げ返された雪下さんの一撃が……芹花の肩に当たった。 「美百合ちゃん、おめでとう」 「杏子ちゃん、大丈夫でしたか?」 「うん……平気」 戻ってきたばかりの杏子が、まだ少し赤い鼻で雪下さんに頷く。 「ほら、芹花ちゃん」 「……うん」 そこへ、試合が終わってからずっと表情の暗かった芹花が香澄さんに押されてやってくる。 「……あの、杏子ちゃん」 「ごめんなさいっ!!」 「ふぇ?」 突然頭を下げた芹花に、杏子が目を丸くする。 「女の子の顔にボールを当てちゃって…… 本当にごめん!」 「へ、平気……っ。あの、平気、だから……ね」 「わたしが……きちんと避ければ、よかったんだし……」 「わ、わたしこそ、試合に水を差して……ごめんなさい」 「いやいや、ミスしたあたしが一方的に悪い! ほんとごめんなさい!」 お互い頭をぺこぺこ下げあっていて、端から見ると滑稽に見えたりもする。 「まあまあ、そうやってふたりして頭下げ合ってても 始まらないだろ」 「それじゃあ、3人で仲直りしましょうか」 「……3人? あ、うん、3人」 「え、あっ」 雪下さんの言葉を理解した杏子が、芹花と雪下さんの手を取り、自分の手を重ねる。 「3人……」 「……いいの?」 「はいっ! 仲直り、です」 そう言って、雪下さんは満面の笑みを浮かべた。 「うーん……香澄さんをこっちにもらってもいい?」 「あら? スカウトされちゃった」 「ひどい真一っ、 あたしたち姉妹の仲を裂くつもりね!?」 「そんな大袈裟な」 その方が戦力が均等になるような気がしたんだけど……どうかな? 「わたし……どっち?」 「こっちよ杏子ちゃん、ふたりであたしたちを捨てた 真一を、メッタメタにしてやりましょう!」 「人聞きの悪い言い方しないでよ……」 「ふむ。まぁ、俺も異論はないが、雪下さんは?」 「私も構いませんよ」 「なら決まりだ」 「それじゃあ頑張りましょうね、真一くんに雪下さん」 「私も名前で呼んでください」 「それじゃあ、美百合ちゃんね」 「はい」 ふたりがにこやかに挨拶を交わしている。うん、こっちの方は問題なさそうだ。 それに引き替え…… 「杏子ちゃん、日頃真一に対して溜めているストレスを 発散するチャンスよ!」 「ス、ストレスなんて……」 杏子、芹花にヘンなこと吹き込まれなきゃいいけど…… 「それじゃあ、始めようぜ」 審判役が笛を鳴らし、試合が開始される。 僕は雪下さんの指示で外野にいた。しばらく、自分と相手のチームを冷静に観察できる場所だ。 「よっし、いくわよ~!」 相手チームの内野は、芹花と杏子。雪下さんと競り合って先攻を勝ち取った芹花が、鼻息も荒く雪下さんを狙ってボールを投げる。 しかし雪下さんは、芹花の剛速球を難なくキャッチ。って…… 「……男がふたりとも外野でいいのかなぁ?」 宗太が、向こうの外野でふんぞり返っている。 「さぁこい! 俺に巡ってこいチャンス!!」 「食らえ美百合!!」 「そう簡単にはいきませんよっ!!」 「この、やるわね!! だったら――えいっ!!」 「っと。 甘いですね、それで隙をついたつもりですか!?」 「……むう。巡ってこないな、俺のターン」 コートの中は、芹花と雪下さんの独壇場だ。 香澄さんも、杏子も、ほとんどボールに触っていない。 と―― 「あっ」 「ぎゃんっ!?」 宗太の顔面に、芹花の投げたボールが直撃した。 正確に言うなら、芹花の手からすっぽ抜けたボールが、勢いそのままに宗太目がけて飛んでいったんだ。 「ててて……この、味方殺し!!」 「いいから早く拾ってきなさいよ、遠吠えなんかしてる 暇があったら!!」 「な、なんという開き直り……」 ボールは転々と、コートの外に転がっていた。見物人もいない方向だった。 いかにも仕方なく、といった感じでボールを拾ってきた宗太が、コートの中へボールを投げ入れる。 「あんな暴力女にボールは渡せん、香澄さんどうぞ!」 「あらいいの?」 「あんたこそ味方殺しじゃない! 何、敵にボールを 送ってるのよ!!」 「これを『敵にドッジを送る』というのだ。この前授業で 習っただろ?」 『敵に塩を送る』のことなら、それは中学の歴史で習った んじゃないかな、宗太。 まぁあと、ルール的にはあっている……はず? 「は~い。ふたりとも、いくわよ~」 「ふたり? あ……」 香澄さんが投げたボールが、山なりに芹花に向かって飛んでいく。 当然のように、芹花はそのボールをキャッチした。 「甘いわよ、お姉ちゃん」 「あら? う~ん、力加減が難しいわね~」 「香澄さん、きますよ!」 「そりゃっ」 「きゃっ」 「どっへい!?」 また当たった……宗太も災難だなぁ。 「んもう……へい、香澄さん」 「あら、またいいの?」 「宗太ぁぁ~っ! あんたも敵と見なすわよ!!」 「……なんだか、 しっちゃかめっちゃかになってきたなぁ」 僕の感想は、あながち間違いじゃなかった。 芹花と雪下さんはかなり真剣勝負を繰り広げるんだけど、ほかのメンバーが…… 「ひゃああぁぁっ!?」 杏子は悲鳴をあげて、すぐその場にしゃがみこむばかり。 「あ~もうっ! お姉ちゃんも、避けてるだけじゃ 盛り上がらないでしょ!?」 「それはそうだけど、芹花ちゃんの投げるボールって 痛そうだから……」 「それは何? あたしが馬鹿力だとでも言いたいわけ!?」 「それ、被害妄想よ~?」 香澄さんは、ひたすらよけてばかりで、たまにボールを拾って投げても、ゆるゆるのふわふわ球だったりする。 で、宗太は―― 「ふぎゃんっ!?」 「げふんっ!!」 「どりゃっひゃーっ!?!?」 とまぁ……外野なのに、なぜか一番ボールをぶつけられていた。 「……なんだか、僕の出番はなさそうだなぁ」 「あ、そ~れ」 何度目かの、香澄さんによる山なりボールが、明後日の方向へ飛んでいく。 あまりに緊張感の続かない状況に、見物人も減ってきていた。 「……香澄さん」 やや硬い表情の雪下さんが、香澄さんに声をかけるのが見えた。 「うん? どうかしたの?」 「いい加減、真面目にやってくれませんか?」 「あら、なんのこと?」 「さっきから香澄さんの投げるボールは、ずいぶんと捕り やすいものばかりです。失礼ですが、わざとやっている ようにしか見えません」 「ごめんなさいね、ボールを投げるのが苦手なのよ」 「それにしては、かわすのはお得意ですよね?」 ……なんだか、雲行きが怪しくなってきてないか?あのふたり。 「でも、それを言うなら美百合ちゃんもじゃないかしら?」 「私、ですか?」 「さっきから、芹花ちゃんばっかり狙っているみたい だけど」 「それは――これは私と芹花ちゃんとの勝負ですから」 「でも、ただ勝ちたいのなら、もうひとりの方を狙おう、 なんて考えたりもできないかしら?」 「…………」 「…………」 「杏子ちゃんは、大切な友達です」 「私にとっては芹花ちゃんが、大切な妹なの」 「……埒が明きませんね」 「そうね~。そろそろ状況を動かさないと、 お昼になっちゃうわ」 「え……えいっ」 いつのまにか、たまたまボールを拾った杏子が、雪下さんたちの方向へそれを投げた。 頑張っているのはわかるんだけど、香澄さんの投げるボール以上にヘロヘロなものが…… 「あらっ?」 「……あれ?」 「あらら、私アウトになっちゃったわ」 あっけなく、棒立ちのままだった香澄さんの胸に当たった。 「それじゃあ真一くん、交代ね」 「あ……はいっ」 さっさと外野に向かってくる香澄さんと入れ替わりに、コートの中へと入る。一体何がどうなっているんだ? 「香澄さん、パスです」 「は~い。ごめんね、杏子ちゃん」 「ふぇ?」 「ひゃっ!?」 ……電光石火とはこのことだろうか? 雪下さんからのパスを受けた香澄さんが、状況の変化に反応の遅れていた杏子に、あっさりとボールを当てた。 「……お、交代か」 これでイーブン。本当に、急転直下。いきなり試合が動き出した気がする。 「やっと勝負らしくなってきたじゃない!! それじゃあ、いっくわよ!!」 「うわっ」 ボールを手にした芹花が、明らかに僕を狙っている。なので、慌ててその場から逃げようとしたら―― 「西村くん、ごめんなさい」 「え――うわっ!?」 雪下さんに、謝罪の言葉と共に服の裾を引っ張られて僕は体勢を崩した。 「あだっ!?」 「はっはっはっ、入ってすぐアウトとは情けないな」 「うーん……?」 笑う宗太の横で、僕を仕留めたばかりの芹花が、雪下さんを見て何か考え込んでいた。 「……ひょっとして、そういうこと?」 「…………」 ふたりの間で短いアイコンタクトがかわされたと思うと、芹花が急に、宗太の背中に隠れた。 「……待て、芹花。どうして俺を盾にするんだ?」 「いいから、黙ってボールを喰らいなさい」 「待て待て待て。なぜだ? 外野であれだけ喰らったのに、 またどうして!?」 「つまり、その外野にすっ込んでろってことよ」 「あ~、なる……」「ひでぶしっ!?」 「ふぅ……」 雪下さんの容赦ない一撃が、宗太の腹筋を直撃し、これでコート内に残ったのは、芹花と雪下さんだけで…… 「あ」 そこで僕もようやく気づく。芹花と雪下さんは、ふたりだけで決着をつけたいんだ。 「これで邪魔者はいなくなったわね」 「ええ、一発勝負でどうです?」 「いいわね~、西部劇みたい」 宗太が外野に蹴り出され(本当に芹花が蹴った)、代わりのようにボールがもうひとつ投げ入れられた。 「香澄さん」 「ふふ」 もう、ドッジボールでもなんでもない。 向き合って、お互いにボールを構えて、相手にぶつけた方が勝ち。よけられたら負け。 「……せーの、でいきましょうか」 「承知しました。では――」 「せーの――!!」「せーの――!!」 みんなが見守る中、ふたりはお互い目がけて全力でボールを投げつけて……!! 「うくっ……!?」「うくっ……!?」 ふたりが同時に倒れた。相打ちか!? そう……誰もが思ったとき―― 「はぁ……私の勝ち、ですね」 ひとりだけ立ち上がって勝利を宣言したのは、雪下さんだった。 その手には、しっかり受け止めていたボールが掲げられていた。 決着がつくと早々に、僕たちは体育館をあとにしていた。 『お腹が空いたから早くお昼にしましょう。みんなで』と、当事者ふたりが口を揃えて言ったからだ。 「美百合って、なんで運動も得意なのよ? ずるい。あんなに動けるなんて、計算外だったわ」 「芹花ちゃんこそ運動部でもないのに、あれだけ動き 回って、なんで息を切らしていないんですか?」 ふたりはすっかり元通りというか、お互いの力を認め合った感じ。 「いやぁ、青春だねぇ」 「でも、いいのかなぁ?」 「何がだ?」 「結局、どっちの意見が通ることになるのさ、これ」 「なんだお前、そんな細かいこと気にしてたのか?」 「いや、その細かいことのせいで今の事態になってた はずだけど?」 「それよりも、副賞の方が問題だと思うがな」 「んぐっ」 ふと気づけば、楽しげに会話を交わしながら前を歩いていたはずのふたりが、立ち止まってじっと僕のことを見つめていた。 「む、むぅぅ……」 「ん~~~……」 「な、何かな」 「……保留、かな?」 「保留ですね」 「は……?」 「もらっても役に立ちそうもないし、あの副賞」 「インテリアとして飾っておく分には、とても癒やしに なりそうですけど」 「え~? 悪趣味じゃない?」 「そうでしょうか? 私の部屋にはぴったりです」 「……なんの話をしているのさ」 わけがわからなくなってきた僕に、香澄さんが笑いかけてくる。 「ねぇ真一くん。 カフェでお弁当ひらいても、怒られないかしら?」 「あ、そういえばお姉ちゃん お弁当作ってきたんだっけ?」 「そうなの。今日のは自信作よ」 香澄さんは笑顔でそう言って、手に持ったそれらしき包みを見せてくるのだが…… 両手で少し重そうに持っているそれは、やたらと量が多く見える。もしかして……? 「……あの、ものすごい大荷物になっていませんか? まさかそれ、全部お弁当?」 「男の子もいるから、これくらいでちょうどいいのよ。 杏子ちゃんもいっぱい食べてね?」 「は、はいっ」 「まったくも~……明日からダイエット決定ね」 芹花の体型でダイエットなんて必要無いと思うんだけど…… ……いや、それよりも。 「……いいのかなぁ、本当にこんなうやむやで」 「問題ないない! ノリ悪いぞっ!」 「問題を先送りされたような気がして」 「いいんだよ、それで」 「うん?」 「みんなで騒いで、結構楽しかっただろ?」 「それは、まあ……」 「バカ騒ぎしてくだらないことなんて忘れてしまうのが、 一番いいんだよ」 「…………」 ケンカしてたことなんて忘れたみたいに、芹花と雪下さんが笑い合っている。 確かにそれだけ見たら、これでいいのかもしれない……と思えてきてしまう。 「何しろ、1年に1回の夏休みなんだ。うじうじして たって仕方ない。ぱーっと騒がなくちゃな!!」 「……そういうところ、ホントうらやましいよ」 芹花にしろ、宗太にしろ。雪下さんや、香澄さんも。杏子だって、彼女なりに懸命に。 「楽しもうとしてるんだな……」 この夏を。今というときを―― 「次は海だな」 「……は?」 久しぶりに、夢をみた。 昔、杏子と遊んでいた日々。 花畑でかくれんぼをしたり、カフェでケーキを食べているところ…… じゃなくて―― 「ほーら何やってんのよ真一! さっさとあんたも参加しなさい――よっ!!」 「きゃっ!? んもうっ、やったわね芹花ちゃん! それっ!!」 「ふぅ……夏はアイスオレンジヨーグルトケーキに 限りますねぇ」 「それ……おいしい?」 「んん……ん」 なんだこれ……もしかして……海? なんかおぼろげで……よく見えない。 「夏に海で遊ばずして、どこで遊ぶというの!!」 「海……いいですよね。 潮風の香り……ヤキソバの香り……」 「海の家を端から端まで、 食べ歩きするのもいいわよね」 「それ……楽しい?」 「どうかなぁ……」 味次第っていう……気が……する。 「これから楽しくするのよ。 杏子も手伝って」 「う、うん……」 ん……誰かが側で喋っているような…… 「ったく、まだ起きないなんて……よっと」 ぼんやりした頭が声の主を割り出すよりも早く、閉じた瞼の上から光が差し込んでくる。 「う……っ」 その眩しさに、思わず身をよじった。と同時に、掛け布団が引っ張られる感覚。 「……あ」 身体を起こすと目の前には、今にも僕の布団を引きはがそうとしている芹花の姿。その横で、杏子もおろおろしている。 「……何してるんだよ?」 思わずジト目で見返した僕に、不機嫌そうな声が返ってきた。 「何って、起こしてあげようとしたんじゃない」 「感謝されこそすれ、そんな目で見られるいわれは ないんだけど?」 「だからって、どうしてそう乱暴な起こし方をしようと するのかなぁ……」 「……ちっ」 今の舌打ちは、聞かなかったことにしよう。 時計を見ると、この前登校したときよりも更に早い時間だった。カフェの開店準備にもまだ早い。 「今日は何? 杏子まで付き合わせて」 「え、えと……」 「何よ。こんな美人あ~んど可愛い幼なじみに起こして もらって、いったいなんの不満があるわけ?」 「そんなこと言ってないって」 「文句を言う暇があったらさっさと支度する!」 「支度? なんの?」 今日は登校日じゃなかったはずだし、芹花だって制服じゃない。 ほかに、どこかへ遊びに行くような約束も、特にしていた覚えがない…… 「あんまりのんびりしてるなら、あたしたちがあんたの クローゼットを引っかき回して用意するけど、いい?」 「女の子に見られちゃ困るようなものが出てきたって、 知らないわよ~」 「見られちゃ困る、もの……」 「そんなものないから。 杏子も顔を赤くしないで」 「うぅ。ごめんなさい……」 朝から何を言い出すんだろう、まったく。 とはいえこの様子じゃ、芹花の中では僕(たち)と出かけるっていうのはもう、決定事項なんだろうな。 「それで、何を用意すればいいの?」 「水着とタオルね。あとはまぁ、念のため着替えかしら? 男だからそれだけあれば十分でしょ」 「というと、海?」 ついさっきみたばかりの夢を思い出す。まさか、正夢? 「当然! 学園や市内の狭いプールになんか、 行ってられるもんですか」 「だからって何もわざわざ、こんな混みそうな日に 行かなくても……」 窓の外には青空が広がっていて、雨の心配なんてまったくなさそうだった。今日も暑くなりそうだ…… 「だーから、呑気な海水浴客がわらわら押しかけてくる よりも早く行って、場所取りや着替えを済ませるん じゃない」 それでこんな時間か…… 「わかった? わかったらさっさと支度する! でなきゃその格好のまま、海へ叩き込むわよ」 「ちょっと待ってよ。 水着なんてどこへ置いたか……」 とりあえずクローゼットを開けて、普段は着ないものを突っ込んである辺りをさぐる。 「なんで、すぐに取り出せない場所にしまってあるのよ」 「この夏は水着を着る予定なんて、なかったんだよ」 「なにそれ。信じられない。せっかくの夏休みなのよ? 海とかプールとか、水着がなくちゃ 始まらないじゃない!」 「芹花にとって、夏っていえばそれなんだ?」 「真一は違うの?」 「僕? 僕は……」 「夏といえば宿題かな。それも山のような」 「……はぁ。ねぇ杏子、どう思うこれ?」 「ど、どうって」 「普通、健全な男の子っていえばさ、可愛い幼なじみを いつプールに誘おうかって悩むもんだと思うけど」 「そう……なのかな?」 「水着姿を見たいっていう、下心ありきでも別にいいんだ けどさ。真一にはそれすらないんだもの」 「み……水着、見られるの?」 「ん? そりゃそうでしょ。一緒に行くんだし」 「……ふあぁぁぁぁ」 ……ひょっとして杏子は、芹花に誘われたものの、女の子だけで行くと思っていたのかな? 「と、あ、あった」 クローゼットの奥から、去年着た水着が見つかった。まぁ、これで大丈夫だろう。 「準備できた? それじゃあとっとと行くわよ!」 「待って。せめて普通の服に着替えさせて」 起き抜けの僕としては、顔も洗いたかった…… 手早く身支度を調えて、水着なんかは適当にバッグへ詰めた。 芹花たちは『お店で待ってるわよ!』と言っていたから、慌ててカフェまで下りていく。 と―― 「お、来た来た!」 カウンターに、見慣れた顔の男が座っていた。 しかもそれだけじゃない、窓際のテーブル席や、ソファに見知った人が何人も…… 「宗太? それに香澄さんに、雪下さんまで」 「おはよう、真一くん」 「おはようございます」 「あ、うん。おはよう」 挨拶を返しながら、僕は呑気に缶コーヒーなんか手にしている宗太に近づくと、小声で尋ねた。 「何がどうなってるの?」 「何って、コーヒーを飲みに来たのさ。 ついでに友達の顔も見に、な」 「……それ、ウチのコーヒーじゃないよね?」 宗太が持っているのは明らかに大量生産品だし、そもそも店のコーヒーを淹れられる人間が今ここにはいない。 父さんはリビングでくつろいでいたし、兄さんは昨夜から帰っていなかった。 「開店前にみんな揃って……しかも荷物も持っているって ことは、まさか」 「ひょっとして、あたしたちだけで行くと思った~?」 ニヤニヤと、芹花が『してやったり!』と言わんばかりの顔をしている。 だけどその横にいる杏子は、僕と似たり寄ったりの表情を浮かべていた。 「こんなに大勢で……行くの?」 「あら? 言ってなかったっけ?」 絶対言ってなかったんだろうなぁ…… 「言い出しっぺは芹花? それとも宗太?」 「はてなんのことかしら~?」 「俺はただ、出無精の友人に、ちょっとしたサプライズと ひと夏のメモリーを提供したかっただけなんだ」 「そんな、どこか遠くを見ながら語らないでよ」 向いている方向は、どう見ても壁だし…… 僕はひとつため息をついてから、宗太に改めて尋ねた。 「僕に内緒で、今日海に行こうって、みんなを誘って いたんだね?」 「正解!」 宗太は手にした缶を掲げてみせるけど、当たっても嬉しくない。 「芹花ちゃんなんか昨夜から楽しみで楽しみで仕方なかっ たらしくて、夜中まで起きて、今日何を着ていこうか 選んでいたものね」 「ちょぉぉぉぉぉぉっと待って! お姉ちゃん何さりげなくばらしてるのよ~~~っ!!」 「まったく、本当に行き当たりばったりなんだから」 はぁ、と悩ましげなため息をついた雪下さんだけど、旅行にでも使えそうな大きめでお洒落なバッグを持っている辺り、事前に話を聞いていたんだろうなぁ…… 「美百合、まだ怒ってるの?」 「怒りもします。ついこの間、物事は計画的に進めるべき だって言ったばっかりなのに」 それで周りを巻き込んだ大騒ぎになったものなぁ……冷静になって考えてみると、ただのドッジボールなんだけど。 「確かに強引に連れ出したのは悪かったわよ。話したのも 昨日だし。でも予定とか、なかったでしょ?」 「そういう問題じゃないでしょう?」 「美百合……時は待ってくれないのよ。 思いついたら即、行動に移さないと!」 「……確かにその通りだし、見習いたくもあるけど、 芹花の場合いきなりすぎるんだもの」 『芹花』? 呼び捨て? 「昨日だって話ついでにって、 急に買い物へ行こうだなんて言い出して」 「だって、今日着る水着選びたかったんだもの」 「それを前日じゃなくて、せめて3日前にやろうって 言ってるの」 ……雪下さん、この間の一件で何か変わったのかな? 芹花のことを呼び捨てにしたり、口調も少し砕けているような……? 「すまない、遅くなったっ」 いきなりドアが開いたと思ったら、いないはずの兄さんが飛び込んできた。 「兄さん? 泊まりじゃなかったの?」 「ああ。そこから直行」 それ以上野暮なことは聞くなよ、と言わんばかりにニヤリとされた。 友達と飲み明かしていたんじゃないのかな……? 「ひょっとして徹夜? 大丈夫なの?」 「問題ないさ。俺は付き添いみたいなもんなんだし、 ビール飲んで寝かせてもらうよ……ふあぁ」 「え~? 雅人さんも一緒に遊びましょうよ。 そのつもりで誘ったんだし」 「俺の分まで真一と遊んでやってくれ。 ほっとくと店の手伝いばっかりしてるんだから」 「それはまったく同感です。今日も説得するのに 苦労しましたから」 「…………」 説得も何も、当日になって強引に連れ出そうとしてるんじゃないか……とは、言っても通じないんだろうなぁ。 「それじゃ行きますか、我らがパラダイスへ!」 「オー!!」 ぞろぞろとカフェを出て、海岸へと向かう。 「まったく、歩いて行ける範囲に海があるんだから、毎日 行ったっていいぐらいなのに」 「小学生の頃はそうしてなかったっけ?」 「おじさんか、ウチのお母さんが都合のいいときだけね」 「子供だけじゃさすがに行かせてくれなかったじゃない、 あの頃は」 「そっか」 毎日のように芹花が押しかけてきて、強引に連れ出される――というパターンが、その頃から続いているような気がしたんだけど…… 「…………」 「杏子とも、海へはあまり行ってないよね?」 「ん、うん……お母さんが危ないからダメ、って言って いたし……わたしも、泳ぐの得意じゃないから……」 「いつも……この近くで、遊んでたよ」 「そうだね」 花畑や、近くの神社なんかの、家の本当にすぐ近くでばかり遊んでいた覚えがある。 「何よ、あたしより杏子とのことの方を、よく覚えてる わけ……」 「ん? 何?」 「あっ、いやっ、なんでもっ」 「?」 「ふたりともいいじゃありませんか、西村くんと遊んだ 想い出があるだけ」 「私なんて、ケーキをご馳走になった1回だけなん ですよ?」 「それをきっちり覚えているあんたがすごいわ……」 「それはもう、嬉しかった想い出ですから」 「ごめん、なんかそれだけで……」 「西村くんが謝ることじゃないですよ!」 「ヘンなところで責任感じるわよね、あんたって」 「いやなんか、うん」 「そこでどもるなー!! いいところだって言ってるんだから、ハッキリ 〈侠気〉《おとこぎ》みせなさいよ!!」 「いいところ、なのかな?」 「ええ。いいところですよ。ね、芹花」 「しまった。ついほめちゃった……」 「ほめられたようには聞こえなかったから、大丈夫」 「大丈夫じゃないわよ~!」 「んんっ」 「ん? 杏子ちゃんも何か?」 「ん、んーん。いいの……」 「遠慮しなくていいのに。西村くんを囲んでみんなで言い たい放題なんて、そう何回もある機会ではないですし」 「言いたい放題されていたんだ、僕……」 「そうよ杏子! この際だから、真一に文句があったら ハッキリ言ってやりなさい!!」 「も、文句なんて…… でも……あの……」 「ん? なぁに? 苦情? 要望? 恨み言?」 「それとも愛の告白ですか?」 「ち、ちがっ…… ただ、あの……」 「ん~?」「ん~?」 「…………お、お天気よくて、よかった……ね、って」 「…………」「…………」 「そうだね。晴れていてよかった」 「うん……」 「……ねぇ雅人さん。どうして真一ばかりがもてるん ですかねぇ?」 「さぁ? 今流行りの、草食系ってやつじゃないのか?」 「それもう古いですよ…… 草食系だからもてるってわけじゃないし」 「じゃ、あいつの人徳だろ。どこかほっとけないところが、 女心というか、母性本能をくすぐるとか」 「それ、人徳というか、一種の才能ですよ。 俺もそう生まれればよかった……くぅっ」 「ふふっ。確かに真一くんって、可愛いものね」 「香澄さんも真一みたいなタイプが好みなんですか!?」 「ん~、どうかしら? 真一くんは私にとっても、弟みたいなものだから」 「俺にとって芹花ちゃんが妹みたいなもんか」 「え~!! あたし、雅人さんなら十分、恋人候補です よ!!」 「ははっ、そいつは嬉しいな」 「ったくもう、兄弟揃って~。これでも一応あたし、 女なんですけど~」 「……あれ? 兄弟揃ってって、僕も入ってる?」 「あんたが一度でも、あたしのことを女扱いしてくれた ことがあった? あっても殺すけど」 「どっちにしてもダメじゃないか、それ」 「少しは気を遣いなさいよってこと!!」 「芹花ちゃんは真一くんのこと、昔から大好きだものね」 「お姉ちゃん!? さらりと恥ずかしいこと言わないで!」 「ふむー。やはりライバルが多いですねぇ」 「いや、冗談でもあんまりそういうこと言わないで」 「さて。誰がどこまで冗談なんでしょうね? ふふっ」 「はぁ……」 「…………」 「ふふっ」 「……雅人さん、俺ら、お邪魔だったりしますかね?」 「確かにそんな気がするな」 「ちっきしょー!! 海のバカ野郎ーっ!!!!」 「あ、着いた」 「それじゃあたしたち、更衣室借りて着替えてくるわね」 「ああ。俺はパラソルやボート借りてくるよ」 「あ、兄さん、手伝うよ」 「あ、ひとりで大丈夫だよ。お前はこの辺りで場所取りし ながら、そこで傷ついてる少年を慰めておいてくれ」 「うるうるうるうるうる……」 「広いなー、海は……何もかも、忘れさせてくれそうだぜ、 はははははは……」 ……宗太が砂浜に膝を抱えて座り込んでいる。 「んじゃまたあとでね~」 女性陣はきゃいきゃいと騒ぎながら、更衣室を借りに海の家へ。兄さんも同じく、レンタルのパラソルやボートを探しに行った。 「はぁ……」 「なんだよリア充。 恵まれた状況のくせにため息なんかついて」 「恵まれている……んだよね、やっぱり」 遊びに誘ってくれる友達がいて、話しかけてくれる女の子がいて…… 普通に考えたら、それは幸せなこと。 「なんだよなんだよ不服かぁ?」 「俺なんてなぁ、俺なんてなぁ……どんなに努力しても ここ数年、もてた試しなんてないんだぞっ!!」 「宗太は、後輩とかにもてるタイプだと思うんだけど」 「あ? そうかぁ?」 「うん。ノリのいい生徒会長だって、人気あるじゃない」 「その人気ともてるっていうことは、若干違う気もするが」 「だけど僕なんて……自分で言うのもなんだけど、 ノリ悪いし」 「まぁ、確かにな。今日だって事前に話していたら、『僕 は店の手伝いがあるからいいよ。みんなで行ってきて』 って言っただろ。きっと」 「だから僕には内緒にしてたの?」 父さんも今日のことを知っていた。だから出がけに『店のことは気にせず、遊んできなさい』とまで言われた。 「まぁな。芹花もそうした方がいいって言ってたし。 ま、あいつの場合は半分性格だろうけど」 「強引に引っ張り出すの、好きだものね……」 「それだけじゃなくて、ま、あいつなりの気遣いなん だろうけどさ。お前がヘンに悩まないようにって」 「う~ん……結局悩んじゃうんだけどね」 「贅沢者め~。素直に喜んでおけばいいのに、何をまだ 悩むんだよ」 「……みんなにそこまでしてもらっているのに、僕は みんなに何をしてあげられるんだろうな、って」 「見返りなんて求めてないぞ?」 「だから余計困るんだよ。僕はみんなに……何もして いないのに」 ずっと感じていたことだった。 僕の反応を見て、楽しんでくれているというのなら、それでもいい。 けど…… 芹花がお節介をやいてくれるのも……雪下さんが親しげにしてくれるのも…… 香澄さんが微笑んでくれるのも……杏子が僕にすがるような目を向けてくるのも…… 「僕は、それに見合ったことをちゃんとできて いるのかな、って」 「…………」 「そんな風に考えられるお前だからこそ、みんな構って くれてるのさ」 不意に声をかけてきたのは、兄さんだった。パラソルやボートらしい荷物を、腕に抱えている。 「あ、お帰り。早かったね」 「予約しておいたしな。宗太くんはパラソルを、真一は シートを敷いてくれ」 「了解!」 言われた通り、レジャーシートを用意し、宗太がその横にパラソルを突き立て、兄さんはボートを膨らませ始める。 「……ねぇ兄さん」 「ん~?」 これも借りてきたらしい空気入れで、兄さんはせっせとボートを膨らませ続ける。 「さっきの話だけど……」 「ああ」 「周りがやってくれることを『当たり前だ』と思っている 奴よりは、『申し訳ないな』って思う奴の方に、人は 力を貸したくなるもんだ、ってだけのことさ」 そう言う兄さんは、僕らの手伝いを必要とせず、ひとりでボートを膨らませている。 「若い内は周りの世話になってもいいんだよ。 いつかちゃんと、借りを返せば」 「そんなこと……できるのかなぁ?」 「できるさ。いや、できるようになる。 借りだとずっと感じていればな」 そこで兄さんは初めて、僕の方へ目を向けた。 「俺だって、家を飛び出したときは、父さんに 借りっぱなしだったんだぜ?」 「…………」 「戻ってきた今、やっと借りを返し始めたところさ…… よっと、こんなもんか?」 目の前では兄さんの膨らませたゴムボートが、立派に完成していた…… 「おっ待たせ~!!」 僕たちも交代で水着に着替え終えた頃、女の子たちも戻ってきた。 いつも以上に芹花のテンションが高い。 「ヒュ~♪ みんな綺麗だ」 「…………」 「ふっふ~ん♪ さすが雅人さん、わかってる」 「よく考えてみたら、水着を着たの、 今年初めてなのよね」 「ちょっと恥ずかしいですね、やっぱり」 「芹花の水着姿はもう見飽きているけど、ほかの みなさんはなかなか新鮮で――」 「へぐぅっ!?」 「あたしだって、今日のために水着新調したんだけど?」 「す、すまん、気づかなかった……」 「おぐぅっ!?」 「何もトドメまでささなくても……」 「諸悪の根源は元から断たないとなくならないのよ」 「そう……」 芹花がいる限り、宗太に〈安寧〉《あんねい》の日々は訪れないんだろうなぁ…… 「……それで、どうよ?」 「え?」 「だから、その……真一はどう思うわけ?」 急に、芹花は少し恥ずかしそうに手を握り合わせている。 「当然似合ってるよなぁ、真一?」 「ええと……そうだね、似合ってると思うけど」 「ま、まあ、そうよね。当然っ!」 「私はどうですか、西村くん?」 恥ずかしげにしていた雪下さんが、それでも見て欲しいのか、僕の前に来る。 「う、うん。いいと思う」 「ふふっ、ありがとうございます。 杏子ちゃんもほめてあげてください」 「……っ!?」 次に指名(?)された杏子が、慌てて雪下さんの後ろに隠れてしまう。 「あんっ、もうっ、そんなに恥ずかしがらないでも 大丈夫ですよ?」 「は、恥ずかしい……よ」 杏子はふるふると首を振って、雪下さんの背中にしがみついたままだ。 「でも、せっかく着たんですし、ね?」 「あぅぅ……」 それでも動こうとしない杏子の背中に、香澄さんが近づいて…… 「こちょこちょこちょ~」 「はぅんっ!?」 香澄さんに突然わき腹をくすぐられて、驚いた杏子が飛び出してくる。 「あ、可愛い」 「あぅえうっ!?」 ぼっと、杏子の顔が真っ赤になった。 「ね、もっと自信もっていいのに」 「そうですよね、妬けちゃいます」 「うぅぅ……」 一方で、香澄さんは香澄さんで、大人の魅力というか……スタイルのよさに目を惹かれてしまう。 「みんな似合ってるよ。うん、いいと思う」 「ふふっ、ありがとう」 「うーん、恥ずかしいけど、やっぱりほめられると嬉しい ですね」 「はぅん……」 「……むぅ。あたしのときよりずいぶん素直に感想が出て きてなぁい?」 「妬くな妬くな。これが真一クオリティ」 「ぶぼっ!?」 ……宗太が焼けた砂の中に、顔面から突っ込んだ。 「宗太くん、大丈夫?」 「ぶべっ…… 俺の心配をしてくれるのは、香澄さんくらいです……」 「芹花ちゃん、いきなり殴りかかったりしちゃ駄目じゃ ない。ちゃんと言ってからじゃないと」 「言われてからでも、殴られたくはないです……」 「お姉ちゃん。人にはね、何をおいても相手を 殴らなくちゃいけないときがあるのよ!」 「あってたまるか、そんなとき……」 ……今日の宗太は、どうも愚痴っぽかった。 「いっくよ~!」 「きゃっ、あっ!? やったわね~? ……えいぃっ!!」 「うわぁぷっ!? ちょ、お姉ちゃん、本気出し過ぎ!!」 「あら、先に仕掛けてきたのは芹花ちゃんよ?」 「……カニがいる」 「ふぅ……いい天気。こういうところで飲む冷たい ジュースは、最高ですね」 みんなそれぞれ、海を満喫している。 早く出てきた甲斐あってか、心配していた人出もそれほどじゃないし、のんびり過ごせそうだ。 「お前もこんなところでぼーっとしてないで、誰かと 遊んでくればいいのに」 「兄さんこそ、本当にいいの?」 「ああ。俺はこいつさえあれば――」 ぷしゅ、と泡立つ音を立てて、缶ビールが開けられる。 「んぐっ、んぐ……ぷはっ!」 「こいつさえあれば、夕方までだって荷物番をして いられる」 「眠たくなったら言ってよ。代わるから」 「ああ。だけどそれまではいいぞ、本当に遊んできて。 宗太くんだってナンパしに行ったんだろ?」 「みたいだね」 「俺は俺の幸せを探しにいくっ!」 そう叫んで宗太が旅立ったのは、もう1時間ぐらい前のこと。お目当ての相手を見つけられたのかなぁ。 僕は……ひとりでふらふらしても仕方ないし…… 「……あれ、杏子はどこへ行ったんだろう?」 さっきまでその辺りで何かを探している様子だった、杏子の姿が見えない。 「……ナンパとかされてなければいいけど」 あの性格だから、ヘタに声をかけられると、怖くて身動きできなくなってしまうかもしれない。 ちょっと心配になったので、彼女を探してみることにした。 「……あれ?」 ちょっと歩いたところ、僕たちからは岩陰で見えなくなっていた砂浜に、杏子がしゃがみ込んでいる。 「……何やってるんだ?」 気になって、ゆっくり近づいてみると…… 「…………」 「…………」 「……………………」 「……………………」 すぐ側まで近づいても、杏子は顔も上げない。僕に気がついていないのかな……? そして彼女が見つめている砂の上には……小さな貝殻がひとつ。 「…………」 「…………」 貝殻が気に入ったのかな?飽きることなく、ただ見つめているだけに思えるけど…… 「…………あっ」 貝殻がもぞもぞと動き出した。ヤドカリだったんだ。 動き出したヤドカリを、杏子はまたしばらく見つめていたけれど、やがておもむろに手を伸ばすと、貝殻のてっぺんに軽く触れた。 「ちょん」 するとヤドカリは、慌てた様子で貝殻に引っ込んでしまう。 「……ちょん」 同じことを繰り返すと、今度はヤドカリが顔を出した。様子を窺っているみたいだ。 「ちょん」 あ、また引っ込んだ。 「……楽しそうだね」 「え……ひゃっ!?」 僕がいることに本当に気づいていなかったのか、杏子が驚いた様子で立ち上がる。 ヤドカリもその隙に、せかせかと逃げ出している。 「ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」 「……う、ううん。大丈夫」 そうは言うものの目には少し涙が浮かんでるし…………今度からは、もう少し考えて声をかけよう。 「ごめん……ヤドカリ、逃げちゃったね」 「み、見てたの……?」 「う、うん」 「ひゃうぅ……」 恥ずかしそうに頭を抱えてしまった。見られたくなかったのかな? 「ヤドカリ好きなの? それとも、貝殻が綺麗だったとか?」 「……うぅ、うーん。そういうのも、あるけど」 「あるけど?」 「ヤドカリは、お家がどこにでもあるんだなって 思って」 「……ああ」 ずっと背負っているものな。それがまるでうらやましいように、杏子は口を開く。 「どこへ行っても……何をしていても……ヤドカリの お家はすぐ側にあるんだよね」 「……うーん、そうかもしれないけど」 「ヤドカリだって、ずっと同じ家に住んでいるわけじゃ ないからね」 「え……?」 「生きていくには食べ物が必要だし、大きくなったら新し い家を探さなくちゃいけないし……」 「そのために、いつも動き続けているんじゃないかな」 「新しい居場所を探し続けて」 「居場所を、探して……?」 「そうだよ」 「……そうなのかな」 杏子が砂浜に目をやると、ヤドカリはまだ、目の届く範囲にいた。 それでも懸命に、どこかへ向かって歩いていく。 「……いいところが見つかるといいね」 「そうだね……」 なんとなくふたりして、ヤドカリの姿をしばらくその場で見送っていた…… 「……あれ? 芹花は?」 ついさっきまで、香澄さんと水をかけ合っていた芹花の姿が見えず、香澄さんだけが、雪下さんと話し込んでいる。 「わっ!!」 「うわっ!?」 突然背中を押されて、僕は前のめりに倒れそうになった。 「あははっ、驚き過ぎ!」 「……心臓に悪いよ」 怨みがましい視線を送るけれど、芹花はどこ吹く風で笑い続けている。 兄さんは、ビールを飲みながら素知らぬ顔だし。 「ごめんごめん。真一がなんか、誰かを探して〈血眼〉《ちまなこ》に なってるみたいだったからさ、隙だらけで」 「どこの水着美人に目をつけたのよ~? ん~?」 「いやそんなことしてないし…… 探していたのは、芹花だよ」 「…………へ?」 あれ? なんかきょとんとしてる。 「え、え~と……姿が見えなくなったから、どこへ 行ったんだろうと思ったんだけど」 「あ……あー!! そうよ、そうよね。 べ、別に、あたしに見惚れてたってわけないわよね~。 そんな今さら~」 「お姉ちゃんや美百合も杏子もいるんだから、目の保養 には困らないでしょうし。あはっ、あははははっ……」 「何言ってんだか……それより、もう遊ばないの?」 ここへ戻ってきたということは、飲み物でも取りに来たのかと思えた。香澄さんと兄さんがクーラーボックスに、何本もペットボトルを用意してくれていたんだ。 「まさか! まだまだ泳ぐわよ」 「だと思った」 海に来て、芹花が遊び倒さないわけがない。でもならなんで、ここへ? 「だけど、ひとりで泳いでも仕方ないからさ。 真一、あそこまで競争しない?」 「あそこって……ええっ?」 芹花が指差したのは、沖合に浮かぶ小島だ。 それほど遠くはないけれど、行って帰ってくるには結構、体力を使いそうだ。 「あれくらい、大したことないじゃない。 真一だって泳げる方だし」 「得意なわけじゃないよ。芹花と勝負になるほどじゃない のは、知ってるだろ?」 何気に運動全般が得意な芹花は、昔からプールの授業でも早い方だった。 僕はごく普通に、溺れずに泳げる程度。 「ったくもう、ほんっとうにノリ悪いわね!」 「ここは『いいだろう、俺の泳ぎを見せてやる!』って 気合いをみせるところでしょ」 「僕に何を求めてるのさ……」 「いいから、さっさと始めるわよ。 負けた方が今度お昼をおごるってことで!」 「え? ちょっと待った!?」 自分が得をしそうな条件を一方的に告げて、芹花は海を目がけて猛ダッシュ! 仕方なくというか反射的に、僕も立ち上がると慌てて芹花の後を追った。 「ふたりとも~、気をつけてな~」 「ぷはっ、ほら~真一! 遅い遅いっ!!」 もうだいぶ先を行く芹花が、余裕をみせているつもりか、時々止まっては振り返り、僕を挑発してくる。 対する僕はといえば、引いて寄せる波に動きを邪魔されて思うように前に進めない……何かコツとかあるんだろうか? 「運動不足なんじゃない? バタ足が全然なってないわよ~っ」 「こんのっ!」 気合いを入れ直して手足を動かす。芹花が足を止めている間に、少しずつ差を縮める。 「おっと、結構慣れてきたみたいね」 慌てた様子もなく、芹花が再び距離を開こうとするが、そうはいくか! 「くっ!」 「あはははっ! あたしを追いかけてごらんなさ~い!!」 「ぷはっ、くっ……どこの、はぁ、お姫様、だよっ!」 「ぷはっ! お、きたきた! オ~ニさんこ~ちら、手の鳴るほ~うへ!」 「はぁ……くっ、ぷはっ! もうっ! からかうなっ……て!」 「あはははっ! あ~、楽し~~~い!!」 「は~い、あたしの勝ち~! 真一も結構頑張ったけど、まだまだね~」 僕がようやく追いついた頃には、芹花はとっくに目的地の岩場に上がって、僕を見下ろしていた。 「ぜぇ……ぜぇ、ま、まいった……」 半分海水につかったまま、岩場にしがみつく。 息を整えないと、上に上がることもできそうにない。ちょっと熱くなり過ぎた…… 「ちょっと、本当に大丈夫? なっさけないなぁ」 「はぁ……悪かった、ね」 「ん~……でも」 「ふぅ……?」 「ちゃんと本気で追いかけてきてくれたから、ちょっと 嬉しかったかな?」 少しだけ頬を紅くして、髪の毛を指に絡めながら、芹花がしおらしいことを口にした。 「はぁ……ふぅ……これ以上おごらされちゃ、 たまらないからね」 「むっ。何よぉ、そんな理由?」 「そういう……勝負じゃない、か?」 「はぁ。まったくもう、真一らしいわ」 芹花は僕に、追いかけてきて欲しかったんだろうか? そういえば、こんな風にふたりで泳いだのは、何年振りだろう……? 「――ほら、手、貸してあげる」 「……?」 まだ半身が海に浸かったままの僕に、芹花が屈んで手を差し出してきた。 「上がる気力もないんなら、あたしが手伝ってあげる。 素直に感謝しときなさいよ、ね?」 「…………」 少し考えてから、僕は……彼女の言葉に従って、腕を伸ばした。 つないだ手が少し温かくて……照れくさかった。 「真一くん、ちょっとお願いがあるんだけど」 「あ、はい?」 香澄さんはどこだろう……と探していたら、向こうから僕に声をかけてきた。 「日焼け止め塗るの、手伝ってくれない?」 「え、あれ? 先に塗ってなかったんですか?」 「実は出がけにお料理をつくっていたら、ギリギリに なっちゃって」 ああ。なんか、みんなの分までお昼用につまむ物を用意してきてくれたものな。 「ここへ来てすぐ、芹花ちゃんに海へ引っ張り込まれた ものだから、塗る暇がなくて」 「ああ……」 芹花は水着を披露すると、準備運動もそこそこに、香澄さんを連れて、海へ駆け込んでいったものなぁ…… その芹花は、今度は雪下さんを引っ張り出そうとしている。 ビーチチェアでくつろいでいた雪下さんは、嫌がっているみたいだけど…… 「あれ? じゃあ芹花たちも塗ってないとか?」 「美百合ちゃんは塗ってきたみたい。 杏子ちゃんにはさっき言っておいたんだけど……」 辺りを見回すと、杏子は日陰で砂浜をじっと見つめている。何か面白い物でも見つけたのかな? 「でもじゃあ、芹花は……?」 「若いっていいわよね。肌の心配しなくて」 はぁ、と悩ましげなため息をつく香澄さんも、まだ十分若いと思うんだけど。 当の芹花は、嫌がる雪下さんを羽交い締めにして、無理矢理海へ連れ込もうとしている。 ふたりともそれぞれ、何をそんなムキになっているんだろう? 「で、真一くんに、背中を塗って欲しいんだけど」 「あ、はい……」 「……はい?」 「背中に塗ってちょうだい、これ」 にこにこと香澄さんが差し出してくるのは、日焼け止めの入った容器。 「え、ええっと、僕が?」 「ええ。真一くんが。自分じゃ手が届かないもの」 「せ、芹花とか、兄さんに頼めば……って」 「ぐがー……ぐぐぐぅ……ぐがー……」 ……兄さんはいつの間にか、酔い潰れて眠っていた。 「芹花ちゃんはまだ遊んでいるみたいだし、ね?」 「……はぁ。はい……」 「よいしょっと」 香澄さんはワンピースを脱ぎ、レジャーシートの空いているところに、迷う素振りもみせず寝そべってしまった。 しかも、その……水着のブラまで外して…… 「さ、早く早く。急がないと、海で遊ぶ時間が なくなっちゃうんだから」 無邪気に笑う香澄さんの背中が、無防備に僕の方に向けられている。 ……宗太とか、なんでこういうときに限っていないんだろう? 「……あの~、やっぱり芹花か、杏子を呼んできますよ」 男の僕が香澄さんの素肌に触れるのは、やっぱりちょっと……まずい気がする。 「え~、もうこんな格好になっている私を、真一くんは おいていくの?」 「え!? いやいや、でもっ」 「早く、ね? お願い」 ……そんな色っぽい言い方で、おねだりしないで欲しい。からかわれてるのかな、僕。 「……仕方ない。いきますよ」 「ええ。よろしくお願いします」 ……要はさっさと終わらせてしまえばいいんだ。誰かに見つかったりする前に、一気に! そう考えて、日焼け止めをたっぷりつけた手を、思い切って香澄さんの背中に押しつけた瞬間…… 「ぁんっ」 「!?」 なんか、すごい声を出された。 「あん……もうっ、真一くん。優しくして?」 「ご、ごめんっ」 いきなり驚かせてしまっただけ……みたいだ。今度は優しく……ゆっくりと撫でるように…… 「んんぅ……あっ……あぅんっ……」 「!?」 またなんだか、悩ましげな声が出た!? 「ぁっ……真一くん、そこダメ……くすぐったい……」 「あ、あぁ、ごめんなさいっ」 そこってどこだ!? 「万遍なく、隅々まで引き伸ばすように塗ってね……」 「は、はい……」 隅々までって、どこまで触っていいんだ!? 「ひゃうんっ……あっ、あん……んんん……あふっ」 「…………」 「ん、んん……んあぁぁ……はふっ……んぅぅ……」 「……………………」 聞こえない、聞こえない。集中集中。 「あぁ……真一くん、上手……はぁぁ……」 きっ、聞こえない、聞こえない! 集中集中! ……と、集中すればするほど、手の平に触れる感触がわかるようになってしまう。 香澄さんの白い肌はなめらかで、触っている方も心地よくなってくるというか…… 「ん……んくっ、んんっ、はぁぁ……や、んっ……」 「か、香澄さーん、どこまで塗ればいいんですかっ!?」 「……ふぇ? ああ~……そうね~……」 なんだかすごい、ぼぉーっとした返事だ。 「このままぁ、太腿もお願いできるぅ~?」 「いや、そこは自分で塗れるでしょっ」 手の届かないところだけじゃないのかっ!? 「ん~、でも、結構気持ちよくて…… このまま寝ちゃおっかな~」 「あの、ホント勘弁して下さい……」 ものすごく心臓がドキドキしている。これは拷問なんじゃないだろうか。 「え~、残念。よいしょっと」 「ありがとう。あとは自分でやるわ」 「……はい」 日焼け止めの容器を香澄さんに返す。 ちょっとほっとして……同時に、自分から言っておいてなんだけど、少し名残惜しい気もして困る。 「ねぇ」 「はい?」 「芹花ちゃんにも塗ってあげてくれる?」 「殺されますよ俺!?」 香澄さんだからこそ、僕なんかに触れさせてくれたんであって…… 芹花に同じことなんてまずできないというか、絶対本人が拒絶する。 「そっか、残念。ふふっ」 くすくす笑う香澄さんに、ちょっと小悪魔な一面を感じた日だった…… 「我、ただいま帰還せり~……」 宗太が戻ってきた、と思ったらそのまま、シートの上に倒れ込んだ。 「波打ち際に、俺の天使はいなかった……しくしく」 「なんだ、ことごとく敗退か?」 「ナンパなんてものは、金持ちとイケメンにしか許され ない行為だと、改めて痛感しました!」 「こんな格差社会、 爆発してなくなればいいのに!!」 「何を言っているんだか……」 「それはそうと、雪下さんがひとりで散歩してたぞ」 「あれ?」 見れば確かに、さっきまでチェアでジュースを飲んでいた、彼女の姿が見えない。 「彼女も美人だからなぁ、ひとりでいると危ないんじゃ ないかと思ったんだが」 だったら、宗太が気を遣ってやれよと思うんだけど…… 「……ほかに美人がいて、そっちに夢中になった?」 「ああ! 童顔なのにものすごい巨乳で!!」 「つい、そっちへふらふら~っと」 「ったく……」 宗太に呆れながら、つい立ち上がっていた。 「お、雪下さんが気になるか?」 「……そうなのかな?」 確かに、気になるといえば気になるけど…… 「健闘を祈る!」 ビシッと敬礼されても、僕は…… 「いやうん、行ってくる」 「おうよ。雪下さんのことは、お前に任せた!」 何を言っているんだか……そう思いつつも、僕は雪下さんを探しに歩き始めていた。 てっきり、彼女は散歩でもしているのかと思ったんだけど…… 「…………」 彼女を見つけたのは、人目につかない、岩場の陰だった。 「むむ……」 ちょんちょんと、なんのつもりか、爪先を波打ち際に何度もつけている。 「あの、雪下さん?」 「えっ!?」 「あ……ああ、西村くん」 慌てて水辺から飛び退くと、彼女はニッコリと笑ってみせた。 「どうしました、こんなところへ?」 「いや、雪下さんこそ……どうしたの?」 こんなところで何をしていたのか、僕の方が気になる。 「…………」 彼女はためらいがちに何度か僕を見て…… 「……あの、これから私が言うことは、 秘密にしてもらえますか?」 「あ、うん」 僕がわけのわからないままに頷くと、なんだかひどく言い辛そうに、口を開いた。 「実は、その……私、泳げなくて」 「…………え?」 「だ、だからっ、カナヅチ……なんです」 「えーっと……」 この前、ドッジボールでは結構な運動神経をみせた雪下さんが……泳げない? 「水が怖いとかじゃないんですよ? ただなんというか、こう手足を動かそうとすると、 うまく勘が働かないというか」 「はぁ……」 「……呆れてます?」 拗ねるような目つきで睨まれ、僕は慌てて首を横に振った。 「あ、いや、あまりにも意外で……」 「意外ですみません……自分でも、 子供みたいで情けないです」 雪下さんは今度こそ本当に拗ねて、そっぽを向いてしまう。 「ああいや……ほかの人には言ってないの?」 「だって……恥ずかしいじゃないですか」 「う~ん。みんな、そんなことで笑うようなタイプじゃ ないし……言えば宗太だって、どこか別の場所へ 遊びに行こうって企画を変えたと思う」 参加者全員が楽しめること、がモットーだからな。宗太は。 「……芹花が、楽しそうでしたから」 「え?」 「久我山くんも、香澄さんも。杏子ちゃんだって……」 「そんな空気を、私のひと言で壊してしまうのが 嫌だったんです」 雪下さんが、眩しいものを見るように目を細める。 「だからって、雪下さんがひとりで我慢することない」 「でも……」 「雪下さんにだけ、嫌な思いをさせたくないよ。 みんなだってそう言うと思う」 「だけど」 「友達でしょ?」 「友達……」 そのひと言を噛み締めるように、雪下さんが繰り返す。 「友達……かぁ」 「それに、これだって大切な想い出でしょ? 雪下さんが泳げないから楽しめなかったなんて、 そんな想い出にはしたくない」 「……それは、そうですね」 くすりと、雪下さんが笑う。 ちょっと弱々しいけれど、いつもの彼女に戻ったように。 「そう言われてしまうと、私も楽しまないわけには いきませんね」 「うん。だから何か」 別の遊びを考えて――そう提案しようとしたところで、彼女が一歩僕に近づく。 「……雪下さん?」 「私に、楽しい想い出をください」 「え?」 楽しい想い出? 「西村くんの手で、私を……」 そう言いながら彼女は、僕の手をとって…… 「この手で、私を……」 「ええっ!?」 「泳げるようにしてくれませんか!!」 「あ……はい?」 「う、うわ……」 彼女の手をとったまま、一緒に海へと入った。まだ浅瀬だけど、雪下さんは心細げな声をあげた。 「もっと足を上げるようにして。 バタ足は、慌てなくていいから」 「は、はい……」 「大丈夫、力を抜けば自然に身体が浮くから。 暴れるとかえって沈んじゃうよ」 「わ、わかりま――わぷっ!?」 「落ち着いて! 大丈夫、ゆっくり、ゆっくり」 人に泳ぎを教えるなんて初めてだったから、落ち着いていないのは僕の方だった。 なるべく客観的に雪下さんの泳ぎを見て、気になることを口にしていく……それだけで精一杯。 でもそんな僕の指示を、彼女は懸命に聞こうとしている。 「西村くん、放さないでくださいね!」 「うん、大丈夫。ちゃんと掴んでいるから」 握り合った手に力がこもる。彼女が一生懸命すがりついてくる。 「はぁ、はぁ……」 「大丈夫、その調子、ゆっくり、ゆっくり」 「せ、芹花も、こんな風に、教わったんですかっ?」 「え?」 「せっ、芹花は、西村くんと、こんなことを」 「ああ、いや。あいつは僕なんかより、始めっから泳ぎが うまかったから」 こんな風に人に教えるのは初めて――そう正直に話すと、雪下さんは少し嬉しそうに笑った。 「よかった……ちょっとだけ、勝った、気分」 「えっ、何?」 「なんでもありま――わぷっ!?」 「ちょっ、雪下さん!?」 「けほっ、けほけほっ」 「大丈夫……?」 「えぅ……水、飲んじゃいました」 それだけじゃなく、短い時間だったけど、彼女にとっては慣れない特訓で、とても疲れているみたいだった。 「……今日はこのくらいにしておこうか?」 「ごめんなさい、全然上達しなくって」 「いや、こういうのは一朝一夕でどうにかなるもの じゃないよ、きっと」 「それに、夏はまだ終わりじゃないから」 「あ……それじゃあ」 「ん?」 「また、付き合ってもらえますか? みんなには内緒で……」 「あ、うん……僕でよければ」 「ふふっ、こんな私を知っているのは、西村くんだけです もの。ぜひよろしくお願いします」 彼女はなぜだかひどく嬉しそうに、そう僕に笑いかけてくれた…… 「堪能した!!」 宗太が夕陽に向かって、仁王立ちで叫んでいる。その姿は、ちょっと恥ずかしい。 「……帰る準備手伝ってよ」 へとへとになっている身体を無理矢理動かして、僕はレジャーシートを畳んでいた。 兄さんは、レンタルしたパラソルなんかを返しに行っていて、女の子たちは着替え中だ。 「楽しいと、生きる活力がわいてくるな! 次も何か楽しいことを考えないとな!!」 「……また何かやるの?」 「当たり前だ!! 花火にスイカ割りに夏祭りに肝試し! 夏の風物詩はまだ山ほど残っている!!」 「……いいけど、今度はちゃんと事前に知らせてね」 「お? お前も少しは、前向きに遊ぼうって気に なったか?」 「前向きとか後ろ向きってあるの?」 「お前が誰かを誘って、ふたりきりで遊びに行くように なるのが、最終目的だからな」 「そこまで行って初めて、前向きを極めることになる」 「よくわからないというか、ふたりきりって」 それは世間的にはデートというんじゃないかな?宗太と兄さん相手の場合は除くとして。 「あ~あ、もう帰らなきゃいけないなんて、残~念」 「あっ」 着替え終わった女の子たちが、戻ってきた。夕陽に照らされた顔は、みんな満足げな笑顔だった。 「大丈夫ですか、杏子ちゃん?」 「ん……大丈……夫」 ……違った。杏子だけは疲れたのか、もう眠そうだった。 「ねぇねぇ、明日はどこ行く?」 「もう明日の相談?」 「さすが芹花、話がわかるな!」 「んもう、疲れ知らずなんだから。 明日ぐらい休めばいいじゃないですか」 「ふにゃ……」 雪下さんが抱き締めている杏子はもう、こっくりこっくり、首を不安定に揺らしていて、とてもとても眠そうだ。 「夏は短いのよ!! 立ち止まっていたらもったいないわ!!」 「でもそろそろ、夏休みの宿題にも手をつけないと、 危ないんじゃないの?」 「ううっ……仕方ない。 明日はカフェで宿題やるかぁ~」 「なぜウチ?」 「そりゃあ、ただでジュースが飲めるから」 「またおごらせる気?」 「そりゃあ、ただでジュースが飲めるから。 お昼もおごってもらう約束だしね~!」 「勘弁してよ……」 「あたしとの勝負に負けたんだから、つべこべ 言わない! 男らしくないわよ!!」 「おごらずに済むなら、男らしくなくても いいかな、とか……」 「わかってないな、真一」 「芹花はな、なんでもいいから理由をつけて、お前に 会いたいだけ――」 「うごごげごぼごっ!?」 「……荷物を増やさないでくれる?」 ぴくぴくと、倒れたまま起き上がろうとしない宗太を見て、これは結局僕がかついで帰ることになるんだろうなって、ため息が出た。 「置いていってもいいんじゃない?」 「ひどいことを言う」 「なら、今日楽しかった記念碑として、 きっちり埋めていきましょう」 「か、勘弁してくれ……」 そんなやり取りを聞いて、香澄さんや雪下さんが笑う。僕も、宗太には悪いけどちょっと楽しかった。 夕焼け空にみんなの笑い声が、吸い込まれていく…… 雪下さんや、なんとか復活した宗太とは途中で別れ、眠い目をこする杏子をみんなで囲んで帰宅すると―― 「……あれ?」 店の出入り口に、『本日臨時休業』の札が出ていた。 「父さん、店休んだのか? 珍しいな」 「そうだね……」 僕らがいなかったから、人手が足りないと思ったのかな? 普段なら、ひとりでも切り盛りしてしまいそうなんだけど…… 「あっれー?」 隣の家から響いてきた声に振り向くと、さっき別れたばかりの芹花と香澄さんが、不思議そうに首を傾げている。 「お休みにするなんて、聞いてないけど……」 「どこ行っちゃったのよ、お母さん」 「あれ?」 向こうも同じ? いったい、なんで。 「お帰り」 「お帰りなさい」 「あ、れ?」 僕たちの声を聞きつけたのか、父さんが中から出てきたのはいいとして……どうして、春菜さんまでウチに? 「ああー! お母さん、なんでこっちにいるのよ」 「…………」 春菜さんの姿に気づいて、芹花が駆け寄ってくる。 香澄さんは……何か、ちょっと表情を硬くしている。 「ごめんなさいね、ちょっと用事があって」 「ちょうどいい。みんな、ウチにあがってくれ」 「みんなって、ここにいるみんな、ってことかい?」 兄さんが、少し真面目な声で問いかける。 見ると香澄さんと同じように、少し硬い表情を浮かべていた。 「ああ」 「…………」 父さんは、言葉少なに頷くだけで……春菜さんは、微笑んでいるだけで…… なんなんだろう、この空気は……? 「…………」 「ん……んん……?」 半分眠りかけていた杏子も、顔をあげた。 「さて、と」 香澄さんと春菜さんが飲み物を並べて、全員が思い思いにテーブルを囲んで座る。 芹花や杏子は、困惑したような表情を浮かべている。僕もまったく同じ気分。 ただ、兄さんや香澄さんは何か想像がついているのか、少し落ち着いている……ように見えた。 「それで父さん、話って?」 「ああ」 兄さんに答える代わりに、父さんは、隣に座った春菜さんに視線を送った。 春菜さんがゆっくりと頷く。 「あのね……そろそろ、いいかなって思って」 「いいかな、って……何よ」 芹花が居心地悪そうに、自分の肩を抱く。 杏子がその横で背筋を伸ばして、じっと父さんたちを見つめている。 「いつか、お前たちには話そうと思っていたんだが、 タイミングがつかめなくてな」 そう言う父さんの顔には……どことなく、気恥ずかしさが浮かんできていた。 「実は、父さんと春菜さんは……」 「春菜、って、呼び捨てにしてくださいと言っているのに」 「う、うむ」 ……え? 「ええ……? ちょっと、何よ、その」 まるで恋人同士みたいな雰囲気――そう、芹花は続けたかったのかもしれない。 だけど父さんの次のひと言は、僕たちの想像をもう一歩越えていた。 「私たちは、籍を入れようと思う。 まあ、再婚というやつだ」 「…………」 再婚って…… 「――えええっー!!!?」 僕の代わりに、芹花が大声をあげてくれた。その勢いで立ち上がってもいる。 杏子は目をまん丸にしていて……兄さんと香澄さんだけが、『やっぱりね』というように、ため息をついていた。 「そんなことじゃないかと思っていたけど……」 「そう、ね。本当にそうだなんて、ちょっと驚いたけど」 「えっ、いやでも」 ふたりが仲が良いのは知っていたけど……ええっ!? 「突然のことでごめんなさい。 でも、ふたりで話し合って決めたことなの」 「これからは、ここにいる全員が本当の家族になる。 よろしく頼む」 父さんの声が、どこか、ほかの誰かを指しているように聞こえた。 籍を入れる?父さんと春菜さんが一緒になる? 父さんと春菜さんが結婚すれば当然、香澄さんや芹花は僕たちと『家族』になる。 その、今まで築いてきた関係が大きく変化する事実をはいそうですかと抵抗無く受け入れるのか? そして…… 杏子はどうする? どうなる? このまま同居を続けるのか?父さんはどうするつもりなのか? 「………………」 僕はこの先どうなるのか、どうしたらいいのかさっぱり思いつかず、しばらく何も考えることが出来なかった。 カーテンの隙間から日差しが差し込み始めている。 「……朝か」 夕べ、父さんと春菜さんから、ふたりが結婚するという話を聞かされて…… 「いきなりすぎるよ……」 先に相談ぐらいしてくれてもいいのに……と、つい思ってしまう。 「父さんはいつも……」 杏子のことも、春菜さんのことも――僕たちにはなんの相談もなく決めてしまって…… 「…………」 だからって、反対できるものじゃないことくらい……わかる。 再婚は、父さんと春菜さんの問題。杏子のことは……反対したって、彼女が可哀相なだけ。 「……だから、いいんだけど、さ」 「おーい、真一。そろそろ起きて手伝ってくれ~」 ドアの向こうから、兄さんの声が聞こえてくる。 そういえば今日、父さんは春菜さんと一緒に出かける予定だから、店は僕と兄さんで開けなくちゃいけないんだった。 「……今行くよ」 着替えを手早く済ませて廊下に出ると、あきれ顔の兄さんがため息をついていた。 「……ま、気持ちはわかるけどな。 今日は人手が足りないから、頼むぞ」 「……わかってるよ」 「わかってるなら、いいけどな」 「…………」 わざと軽い口調で僕の言葉を繰り返した、兄さんの表情は明るい。 兄さんは、父さんと春菜さんの結婚について、なんとも思っていないのかな……? 「さて、これからは父さんも忙しそうだし、 俺らが代わりに頑張らないとな」 「……そうだね」 兄さんのあとについて階段を下りる足取りが、気分的にちょっとだけ重くなった。 「……で、それはどういうこと?」 開店前の掃除を終えてひと息ついていると、兄さんがいそいそと店の扉に貼り紙をしている。 「どういうことって、臨時休業の貼り紙」 「店を開けようって、準備していたのに?」 「ん~、俺はそのつもりだったんだがなぁ」 兄さんは僕を見て、それからちらりと奥の通路へ目をやった。 「あ……!」 「杏子?」 「…………」 いつからそこにいたのか……あまり元気そうには見えない杏子が、店に顔を出していた。 「杏子ちゃんおはよう。寝不足なら、ゆっくり休んでいて くれて構わないよ」 「今日は店を休みにするつもりだから、一日静かだし」 「ん、うん……」 「真一も、寝直した方がいいんじゃないか?」 「いや、僕は別に」 「いかにも寝てませんって顔してる奴を、接客には 出せないって」 「…………」 確かに、父さんたちの話が気になって、ろくに眠れなかった。 もしかして、杏子も同じなのかな? 「真一くん……平気?」 「うん、大丈夫だよ」 「ま、父さんからは元々、今日は休みにしてもいいって 言われていたしな」 「そうなの?」 「ただ、これからは俺たちだけでも店を回せるようにして おいた方がいいと思ってさ」 「何かと忙しくなりそうだし」 「ん……」 父さんと春菜さんの結婚準備……それはわかる。 じゃあほかには? これから何がある?芹花や香澄さん、杏子はどうする? どうなる? 「おはよう。お休みの貼り紙が出ていたけど、 入ってきちゃまずかったのかしら?」 「いやいいさ、家族会議みたいなもんだったし」 家族会議…… 「そっちこそ、店はいいのかい?」 「ウチもお母さんが、お休みにしていいって」 「それもそっか。親が揃って出かけてるんだし」 「ったく、いい年して今頃ふたりでイチャイチャしてんの かね」 「前からお母さんは、おじさまのこと好きだったみたい だし。今日も嬉しそうに出かけていったわ」 「ホント、何考えてんだか」 「あ、芹花」 「…………」 いつも通りの香澄さんに比べて、芹花はどちらかといえば杏子と同じような顔をしているように見えた。 「芹花ちゃんもテンション低いなぁ。真一たちと 同じような顔してるぜ」 「え、僕?」 「……あーあ。こいつみたいなひどい顔してるなんて、 ちょっとショックだなぁ」 「芹花ちゃん……」 「ちょっと気付けが必要だな。 待ってろ、今コーヒーを出すから」 「いいの? お休みなのに」 「新しい妹たちへの、ささやかなプレゼントさ」 「!」「!」 「……ふふっ」 「妹……」 そうだ…… 父さんと春菜さんが結婚すれば当然、香澄さんや芹花は僕たちと『家族』になる。 「ちょっと驚いたけど、まぁ、考え直してみればいい話だ な。隣の美人姉妹が妹になってくれるんだから」 「私もまさか、お兄ちゃんができるとは思わなかったわ」 「ははっ。今後ともよろしく」 「妹に、お兄ちゃん……か」 ちらり、と芹花がこっちを見た。 僕たちは……僕と芹花は、兄と妹になるのか。それとも姉と弟になるのか。 ……実感が湧かない。 昨日までケンカしたり、振り回されたり、一緒に遊んだり笑ったりしていた相手が……『きょうだい』だなんて。 「これからよろしくね、真一くん。たぶん、一緒に暮らす ことになると思うから」 「え……」 「……お姉ちゃん本気?」 「本気も何も、それが自然な流れじゃない?」 「自然って……」 そこでまた、芹花が僕を見て…… 「……真一ときょうだいっていうこと自体が、不自然よ」 「…………」 そう……だよな。やっぱり。僕だってそう思わないわけじゃない。 だけど―― 「芹花ちゃんは、お母さんが再婚するのはイヤ?」 「そういうわけじゃないけど……」 「でも、お姉ちゃんは平気なの? あたしたちに何も 相談しないで、いきなりあんな」 結婚することにした――そう、断定的な宣言をされて。 「そうね」 ふたりも春菜さんから聞かされていなかったらしい、父さんとの再婚。 心構えも何もないまま、急に告げられた決定事項。 「でもお母さん、幸せそうだったわ」 「…………」 そう……春菜さんが浮かべていた幸せそうな笑顔を見たら、文句なんてとてもその場では言い出せなかった。 「ほら、コーヒー」 黙り込んだ僕たちの近くに、兄さんがコーヒーを置いていく。 「考え込んだって仕方ないぜ。決まっちまったもんは、 決まっちまったもんなんだからさ、前向きに これからのことを考えていかなきゃ」 「これからのこと……」 「…………」 杏子だって、これからどうなるのか。このまま同居を続けるのか。父さんはどうするつもりなのか。 「……ねえ、みんな」 考え込んでしまった僕たちを見かねてか、香澄さんが微笑みかけてくる。 「パーティーしましょうか」 「……パーティー?」 「せっかくのおめでたい話なんだもの。おじさまと お母さんに改めてね、おめでとうってお祝いして あげるの」 「いいね~。どうせなら今日、ふたりが帰ってくる前に 何か仕込もうか。サプライズ・パーティーな感じで」 「…………」 「……何言ってんだか」 「ん……んん」 「みんな、そういうのは……嫌?」 「……嫌ってわけじゃないけど」 「いいじゃない、そんなことわざわざしなくても」 「お母さんたちだってふたりっきりになりたいから、 今日だって出かけてるんだし」 「それは、そうかもしれないけど」 「……昨日の今日で、急におじさんのことを 『お父さん』って呼べって言われたって」 そうだよな……僕は、春菜さんのことを『お母さん』って呼ばなくちゃいけないわけだ。 「そういうのは、慣れてきてからでいいのよ」 「別に今晩そうして欲しいわけじゃないの。 ただ、お祝いしてあげたいだけなんだけど……」 「それこそ……慣れてきてからでいいんじゃない?」 「今はちょっと、考えさせてよ。まだ……気持ちが 整理できないの」 「芹花ちゃん……」 気持ちが整理できない――まさにその通りだと思う。 これから先どうなるのか、どうしたらいいのか、さっぱり頭に浮かんでこない。 そんな不安な状況を、兄さんや香澄さんは、あっさりと受け入れているようだけど…… 「……俺と香澄ちゃんで、記念品だけでも選んでおこうか。 ふたりの結婚祝いに、とりあえず何か贈っておいて」 「そう……ね、うん。焦らなくてもこの先、いつでも パーティーはできるわよね」 「…………」 まさか香澄さんも……ああ見えて意外と、動揺しているのだろうか。 焦らなくても――そのひと言が、香澄さんもまた今の状況に実は戸惑っているような気がした。 僕らと、同じように…… 「……もう、お昼かぁ」 リビングでぼおっとしていたら、いつの間にか時間が経っていた。 兄さんと香澄さんは、父さんたちへ贈るお祝いの品を探しに、買い物に出かけた。 芹花は、最後までどこか不満そうな顔で、“すずらん”へ戻っていった。 そして杏子も、自分の部屋に戻ってしまって…… 「……あ」 その時ちょうどリビングに、杏子が入ってきた。 「ん、どうしたの?」 「う、うん……」 僕がリビングにいたのが想定外だったのか、杏子は困ったようにもじもじと、ドアのところで立ちすくんでいる。 「……僕のことなら気にしないで」 「ん、んん」 「あ……」 小さくお腹の鳴る音がして、杏子が顔を真っ赤にした。 「あ、ひょっとして、お昼ご飯?」 「……うん。朝から何も食べてなくて、何かないかなって 思って」 「あぁ……」 遠慮しないで言ってくれれば、朝飯の材料だってあったのに。 この家で暮らすようになってもう何日も経っているけど、時々杏子はこんな風に、ヘンな遠慮をしてしまう。 「待ってて、すぐに……そうだな、チャーハンでよければ 作れるよ」 「い、いいよ、自分で何か作るよ」 「いいって」 僕は杏子の返事を待たずに、ソファから立ち上がった。 キッチンに入ると冷蔵庫から、昨日の晩ご飯の残りや野菜、卵を取り出す。 野菜を適当に切って、卵とご飯と一緒に炒める。 調味料で味付けをするまでの間、杏子はずっと扉のところに立ったままだった。 「…………」 「…………」 「……座って待ってていいよ?」 「う、うん……」 そう言っても、杏子はまだ動こうとしない。 ……まだ遠慮しているのかな? 「……えっと、それならさ」 「ん……」 「お皿と、レンゲ。用意しておいて」 「あ――うんっ!」 思いの外、大きな声で返事された。 弾かれたように杏子が食器棚に向かう。 ……イヤイヤっていう感じじゃなくて、むしろ喜んでというか。 「んしょ」 さっきまでの、何をどうしていいのかわからない様子とは打って変わって、一生懸命食器を探している様子は、まるで初めてのお使いを頼まれた子供みたいだった。 「はい、お待たせ」 味の方はあまり自信がないけど、皿によそったチャーハンを杏子に差し出す。 自分の分も用意して、テーブルの向かい側に座った。 「ありがとう……」 考えてみたら、これまでは父さんや兄さんが一緒にいるか、ふたりのどちらかが杏子の分まで用意していた。でなければ、ふたりと一緒に杏子も手伝っていた。 ふたりだけで昼ご飯というのは、初めてかもしれない。 「遠慮しないで言ってくれれば、これからもすぐ用意する から」 「ん……」 それでも……杏子は遠慮がちにレンゲを手に取ったものの、ご飯には手をつけようとしない。 「……あのね、真一くん」 「うん?」 「わたし……何かお手伝い、ほかにもできないかな?」 「手伝い?」 「うん……家事とか、お店のこととか」 「……今でも手伝ってもらっていると思うけど」 僕らがお店に出ている時には、杏子に洗濯物の取り込みをお願いすることがあるし。 お店のことだって、開閉店時の掃除とか、食器洗いとか、たまに注文を運んだりもしてもらっている。 「でも……これから、おじさんとか、大変そうだし」 「…………」 父さんの再婚――厳密に言えば再々婚なんだけど、その支度がある。 香澄さんが言っていたように、春菜さんたちと同居するのなら、そのための支度だって。 「わ、わたし、頑張るよ」 レンゲを握り締めて、杏子がちょっと必死な感じで訴えかけてくる。 「なんでもするから。おうちのことでも、お店のことでも、 なんでも言って」 「う、うん」 正直、ちょっと驚いた。 杏子がこんなに一生懸命、僕に話しかけてくるなんてあまりなかったことだし、何より…… 「ウェイトレスさんなら、ここに……いられる?」 「杏子……」 僕らは家族が増える。 でも杏子はどうする? 彼女は、家族じゃない。父さんはまだ、そのことについては何も言っていない。 「そんな、無理にしなくても。 ほら、二学期からは一緒に学園にも通うんだし」 「授業が終わったら、すぐ働くから」 「杏子」 「わたし、ここにいられなくなったら、わたし……」 俯いて、彼女はそれ以上何も言わなかった。 僕も……何も言えなくなった。 『それは父さんが決めることだよ』と、言ってしまえば簡単だったのかもしれない。 でもそれは、あまりにも無責任な気がして…… 結局、目の前の昼ご飯は、すっかり冷めてしまった。 誰もいない店内を、窓から入ってくる光が夕焼けの赤に染めていく。 僕はまたぼぉっと、ひとりカウンター席に座り込んで、漠然と考え込んでいた。 「今度はお隣さんが家族の一員、か」 唐突過ぎる出来事の連続に、気持ちがついていかない。杏子とだってまだ、さっきみたいにぎこちないのに…… いきなり増える家族と、どんな距離感で接すればいいのかわからない。しかも、それが芹花たちだなんて。 「あ、すいません、本日休業で――」 店の扉を開けっ放しにしておいたのは、失敗だった。 そう思いながら、聞こえたドアベルの方へ顔を向けると…… 「なんだ? 今日はサボリか?」 「なんだ、宗太か」 「なんだとはなんだ。俺は客だぞ? 一応」 「一応な時点で怪しいものだよ」 「だいたい、表に『本日休業』の貼り紙しておいて、 客も何もないだろ」 「それ、自己否定」 「中を覗き込んでみたら、親友がせつなそ~な顔でたそが れてたんだ。声ぐらいかけるのが、思いやり・優しさっ てもんだろ」 「その気持ちだけ半分もらっておくよ」 気持ちというか、この大したこともないやり取りに、ちょっと救われた気分になる。気が楽になるというか。 「で、なんかあったのか?」 「…………」 宗太の言葉が、僕の胸に突き刺さった。内心が顔に出ていたのかな。 「ここへ来る前に、隣に寄ったんだが」 隣――花屋“すずらん”。それは香澄さんと芹花の家。 「隣も休みな上に、芹花の奴がメールにも答えない」 「だから電話をかけたら、一瞬出たけど、 不機嫌そうに切られたよ」 「そうか……」 「ケンカでもしたのか? それともまさか……」 「まさか?」 「煮え切らないふたりが、何かの弾みでついに男女の 一線を飛び越えてしまい――!!」 「ないよ、そんなこと」 弾みで芹花と、なんて……考えられない。幼なじみなんだし、それに今度は…… 「じゃあ香澄さんか? 杏子ちゃんか?」 「女の子と何かあったわけじゃないって」 「それじゃまさか、雅人さんと……!?」 「兄さんとも、何もないから」 「ん~、でもそうしたらお前の場合、あとはおじさんと ケンカ……なんてわけないし」 「…………」 「まさかとは思うが、そのまさかか?」 「いや、そういうわけでもないんだけど」 ケンカのしようもない…… 僕らにはもう、どうしようもないことだから。父さんたちが決めてしまったことだから。 「宗太……例えば、なんだけどさ」 「おう。いいぞ、例え話でもなんでも」 「僕と宗太が実は兄弟だった、 とか言われたらどうする?」 「……はぁ? ウチの両親は、浮気なんかしないぞ。 万年バカップルだからな」 「それは知ってる。例えばだよ」 「……ん~、想像するにあれか。重要なのは、友達だと 思っていた相手が、実は家族だったってところ?」 「そんな感じ」 血のつながりはないけど…… 「急に、これまでとは違う関係になってしまったら、 どうしたらいいのかなって」 「そりゃどうしようもないだろ」 「うわ、あっさり投げた」 「投げたわけじゃない。認めただけだ」 「認めた?」 「浦島太郎は竜宮城から戻った時、驚いたと思うんだよ」 「はぁ?」 「だってさ、これまで子供だった子が急に大人になってい たり、自分の親や周りの大人たちがもう、年寄りになっ て死んでいたりしたわけだろ?」 「まぁ……そうだね」 なんで突然、昔話? 「で、彼は考え抜いた挙げ句、現実を受け入れた」 「玉手箱を開けて、これまで目を逸らしていた時の流れに 身を委ねたわけだ」 「…………」 「竜宮城に戻ったってよかったはずだし、地上で新しい 人生を始めたってよかったはずだ。だけど彼は、 周りの人と同じように歳をとった」 「玉手箱の中身を知らなかったから、じゃなくて?」 浦島太郎は乙姫から、いざとなったら玉手箱を開けるように言われていたら……じゃなかったっけ? 記憶が曖昧だ。 「玉手箱を開けたっていうのは、なんとかしたいって 思ったからだろ? 『あ、ラッキー♪ 俺、このままで いいや~』とか思わないでさ」 「そもそも、自分が大好きだった親や、知り合いのところ へ帰りたかったからこそ、竜宮城を出てきたわけだし」 「…………」 「周りの状況が変わるなら、お前にできるのは受け入れる か、拒むか。その二択ぐらいだろ?」 「だからどうしようもない。答えは出てる」 「いや、答えはお前が選ぶしかない」 「……それを決めかねているから、相談したんだけどな」 「ご愁傷さま。慰めだけはしてやるよ」 「……ありがと」 どうしたいか、ね。 僕は玉手箱を開けるべきなのか。それとも、蓋をしたまま、そっとしまっておくべきなのか…… 夜になってしばらくすると、父さんが春菜さんを連れて帰ってきた。 デートか、結婚式の打ち合わせか……なんて兄さんは言っていたけれど、法律上の手続きやら、お世話になっている人への挨拶回りなんかをしてきたらしい。 「真一、お前、部屋の場所を変えたいか?」 「え、どういうこと?」 父さんからの、〈藪〉《やぶ》から棒な質問に戸惑う。 「あのね、ちょっと申し訳ない気がするんだけど、 私たちやっぱり一緒に住みたいと思って……」 「香澄ちゃんや、芹花ちゃんの部屋をどこにするか、 考えていたんだ。お前や雅人も、部屋を変えたければ いい機会だと思ってな」 「部屋……」 その言葉を聞いて、やっぱり心がざわつく。 芹花たちが引っ越してくる……これは全部、現実なんだ。 「雅人くんは?」 「俺は今のままで構わないですよ」 「むしろ女の子たちに選ばせてあげてください。 俺たちと同じフロアじゃ、嫌がるかもしれない」 「雅人くんや真一くんなら、大丈夫だと思うけど……」 「やっぱり、杏子ちゃんと同じフロアの方が、香澄たちも 安心するのかしら?」 「ん、ん……」 父さんたちは、新しい生活に向けて、楽しそうに未来を語っている。 僕は……どうしよう?何をどう、選ぶべきなんだろう…… 宗太に夕方聞かされた、玉手箱の話が頭をよぎる。 もし、箱を開けてしまったら……その先で、何が起きるのだろうか? 「……また、眠れない」 父さんと春菜さんの話に付き合って、一緒に夕飯を食べて、風呂に入って課題をして…… 一見いつも通りの、夏休みの一日が終わろうとしているのに……心の中がもやもやして、寝付けなかった。 だから夜風にあたって、少し頭を冷やそうと思ったんだけど…… 「……ふぅ」 ひとりでいると余計に考え込んでしまう。ますます眠れなくなってしまう。 「……どうしたものかな」 「あっ」 「ひゃっ!?」 ……ベランダにやってきた杏子が、いきなり悲鳴をあげた。 「ご、ごめん……誰もいないかと、思って」 「あ、ああ。こっちこそごめん、驚かしちゃって」 「う、うん……」 「眠れなくて……って」 ひょっとしたら杏子も?そんな風に思ってしまう。 「…………」 「ん……」 彼女も今回の再婚話には、思うところがある様子だし…… 「――杏子は、さ。今の部屋のままでいいの?」 父さんたちがさっき話題にしていた、部屋割りのこと。杏子は特に意見も言わず、ずっと俯いていた。 「今のままでいい……」 「ここにいられるなら、今のままでいいから……」 「杏子……」 この子はどうして、そんなにここにいたがるんだろう? 親御さんのところに帰りたいとは、思わないのかな……? 「……わたし、ここにいられるのかな?」 「それは……大丈夫じゃないかな。 その前提で父さんたちも話していたみたいだし」 「…………」 「真一くんは……どうするの?」 「どうしようかな……」 部屋はこのままでいいと思ってる。 まぁ、芹花が何かワガママを言い出したら、移動することになるとは思うけど。 「決められない……?」 「部屋のこと? それだけなら、別に……どこでもいいん だけど、さ」 「……ほかに、決めなくちゃいけないことが、あるの?」 「……そうかもしれない」 漠然と胸に抱えている不安。 それを認めるべきか、無視するべきか。玉手箱の蓋を開けるべきか、閉じたままにしておくか。 「父さんたちが再婚するのは、いいことだと思う。 でも……」 「……でも?」 「僕らは、どうしたらいいんだろう?」 杏子が、この家に同居し続けていいのかどうか、不安を覚えているように。 僕もこのまま、ここにいられるのかな……? 「真一くんは……どうしたいの?」 「……杏子は、このままがいいんだよね?」 「このまま……」 「……うん」 杏子は少し考えてから、小さく頷いた。 「このままでいたい……このままでいられたら、いい」 「そうか……うん、そうだね」 父さんが再婚しても――芹花たちと同居することになっても―― 「このままでいたいね。僕らは」 僕と杏子は、このままがいい。このままでいたい。それが一番いいのかもしれない。 僕の答えを聞いて、杏子が少しだけ……はにかんだように見えた。 「そう、だね。……そうなるといいね」 「……うん」 その時、ひときわ強く夜風が吹いて、僕と杏子の髪を揺らした。 僕たちは、本当にこのままでいられるのかな――? 次の日の昼―― いきなり『神社で待ってる』とメールで呼び出されて、慌てて駆けつけてみると…… 「遅い!!」 開口一番、芹花に怒鳴りつけられた。 「ハァ、ハァ……きゅ、急に呼び出してそれ?」 「察しなさいよ! わざわざこんな、人目のないところに 呼び出したんだから、緊急かつ重要な用件だってわかり そうなもんでしょ!」 「そ、そう思ったから、慌てて来たんだけど……」 「その割には、顔がにやけてるじゃない」 「えっ?」 言われて気づいた。 芹花の怒鳴り声を聞いて、なんだか胸がすっと軽くなっている。 「……気味悪いわね。まさか怒られて喜ぶ、ヘンな趣味に でも目覚めたの?」 「そんなんじゃないよ、ただ」 「ただ、何よ?」 「芹花が昨日より元気そうだったから、安心しただけ」 「!?」 ……うろたえたようにたじろぐ芹花は、珍しい。 「……ったく、それこそ察しなさいよ。元気なわけない じゃない」 「え、そ、そう?」 「……あんな話聞いて、平気でいられるもんですか」 「あぁ……やっぱり、再婚のこと?」 「決まってるでしょ」 「だよね……」 つまりその話をしたくて、でも家じゃいつその当人たちに聞かれてしまうかわかったものじゃないから、僕をここへ呼び出した、と。 「ねぇ、どうする?」 「どうするって言ったって」 「だって、このままだと、その……」 このままだと、僕らは家族になる。それは別に、悪いことじゃないはずだけど…… 「だけど、止めるわけにもいかないだろ?」 「そりゃあ、お母さんが幸せなのはいいわよ。 なんにも言うことない」 「でも……」 「でも?」 「このままだと、あたしたち『姉弟』になっちゃうのよ?」 「ああ、『兄妹』になるね」 「…………」 「…………」 お互い、しばし沈黙。 微妙に『きょうだい』のニュアンスが違った気がするけれど、あえてそこには触れなかった。 「とにかく、急に姉弟なんて言われても困るのよ。 ましてや相手があんたなんて」 「悪かったね」 「まったくよ。その上、ひとつ屋根の下で生活なんて、 有り得ない」 「あぁ……部屋割りの話、聞いたんだ?」 「聞いたわよ。雅人さんならともかく、あんたと同じ フロアなんて、絶対嫌!!」 「そこまで言わなくても……気持ちはわかるけど」 僕がため息混じりに言った言葉に、芹花が眉を吊り上げた。 「気持ちはわかる? 本当にあんたにあたしの気持ちが わかってるっていうの?」 「いやだから、同年代の男と一緒に生活するのは抵抗が あるだろうって」 「やっぱり何もわかってないじゃない!」 「そうね、わかるわけないわよね、真一なんかにっ!」 そう言って、芹花がそっぽを向く。 なんだろうこの、いつもとは微妙に絡み方が違うというか…… 「わかるわけないのよね、真一には!! ああそうね、 あたしの気持ちなんか、わかるわけないわよね!!」 「気持ちって?」 「――っっっ!」 いきなり真っ赤になった芹花は、頬を膨らませて…… 「あっ、あんたみたいな頼りない奴を、これから先、あ、 あたしの弟ですって人に紹介するのが嫌だってことよ!」 「か、考えただけでイライラするわっ!」 「なんだよ……それなら僕は、芹花のことを 『可愛くない妹ができたって』って言う」 ああ、売り言葉に買い言葉だなぁって、自分でも自覚してしまう。 こんな幼稚なやり取りを、もう何年も繰り返してきたんだよな、僕たちふたりは。 「こっちこそ願いさげよーだ! ……バカ」 捨て台詞のようにそう言うと、芹花は僕に背を向けて、境内から飛び出して行ってしまった。 「……なんなんだよ」 ケンカしたのだって、初めてじゃない。だけど…… 今日の芹花は確かに、僕の知らない何か……わからない気持ちに苛立っているように見えた。 「……ふぁあぁぁ」 「ふふっ。真一くん、寝不足?」 「ああ……うん、ごめん」 「謝るようなことじゃないわよ。お客さんだって、 私ひとりしかいないんだし」 「うん……」 香澄さんは、今日は店の当番を芹花が引き受けてくれたとかで、朝からウチの店に来て何か勉強している。 僕はといえば、今日も春菜さんと出かけていった父さんの代わりに、店番をしていた。 「……ふふっ」 「ん、何?」 いきなり、楽しげに笑った香澄さんの笑顔が、とても自然で……ちょっと可愛かった。 元々美人だとは思っていたけど、こんな風に笑う人だったっけ? 「元々、真一くんたちとは家族同然のお付き合いをさせて もらっていたけど」 「本当に家族になるんだなって思ったら、ちょっと 嬉しくって。ふふっ」 「…………」 胸の中にもやっとした何かが、沸き起こる。重たくて、せつなくて……苦しい何かが。 「香澄さんは……父さんたちが再婚して、いいの?」 「えっ?」 きょとんと、香澄さんが意外そうに目を丸くする。 「いいも何も……ううん、いいことじゃないの?」 「いいこと……だとは思うけど」 「真一くんは反対なの?」 「反対……じゃ、ないけど」 反対なんか、できないけれど…… 「……しょうがないか。いきなりだったもんね」 「……芹花ちゃんも困っているみたいだし」 「……うん」 「大丈夫よ。少し経てば慣れるものだから」 慣れる? 本当に? この、香澄さんの笑顔を見る度に、なんだか言い表せない気持ちになることも、全部……? 「なんだ、今日はこっちにいたのか」 奥から出てきた兄さんが、香澄さんに話しかけた。 「うん。芹花ちゃんが店番してくれているから、 私はお勉強」 「たまには遊びにでも行けばいいのに、真面目だねぇ」 「妹を働かせておいて、自分だけ遊ぶわけにはいかない わよ。雅人くんも、真一くんばかり働かせちゃダメよ?」 「ははは、俺は俺で働いているからいいんだよ。 なんだったら、“すずらん”の方も手伝おうか?」 「えっ?」 兄さんのひと言に、香澄さんよりもむしろ僕が驚いた。 「ん、何、意外そうな顔してんだ?」 「家族になるんだから、俺たちだって“すずらん”を 手伝って当然だろ?」 「あぁ……それは、うん、そうかもしれないけどさ」 これまでだって、男手の足りない“すずらん”を手伝うことはあった。 けれどそれは、あくまで『お隣さん』だからであって、『家族』だからというのとは、意味がまるで違って…… 「助かるけど、あまり無理しないでね? 当分は私もいるから大丈夫だし」 「春菜さんがウチの家事とか面倒みてくれることになるん だろうから、その分俺たちが埋めるってだけさ」 「父さんも真一も料理の腕は悪くないんだけどな。 ああ、春菜さんの手料理が楽しみだ」 「それは味の保証をするけど、私もお手伝いしますからね。 お母さんにはできるだけ、楽をしてもらいたいもの」 「孝行娘だねぇ。香澄ちゃんこそ、もっと楽して いいんじゃないの?」 「私は……いいのよ。お姉ちゃんだもの」 一瞬だけ――そう呟いた香澄さんはほんの一瞬だけ、視線をさまよわせた……気がしたけど。 「雅人くんもお兄ちゃんなんだから、ばりばり働いてね」 次の瞬間には何事もなかったように、笑みを浮かべていた。 「真一は、いいのかい?」 「だって、真一くんは弟じゃない」 「…………」 弟……弟、か。 「真一くん、お姉ちゃんにどんどん頼ってね!」 「あ……うん」 「おいおい、そこは素直に甘えておくところだろう」 「もしくは、『僕の方こそ、お姉ちゃんを支えるから』 とかなんとか」 「そんな二択……いきなり突きつけられても、困る」 「真一くん?」 「いきなりお姉ちゃんって言われても……」 「僕たちは幼なじみで、家族ぐるみの付き合いをしてきた けど、いきなり本当の家族なんて言われても……」 「何をどう話せばいいのかわからないし、 どう感じればいいのかもわからない」 「僕は……どうしたらいいのか、わからない」 本当は、兄さんや香澄さんを見習って、新しい『家族』との付き合い方を考えるべきだって、頭ではわかっている。 父さんたちにも、素直におめでとうって言ってあげたい。 だけど、今、こんな状況で、こんな話を聞かされても。 「僕は……困る」 「真一くん」 「……っ」 「そんなこと言わないで」 そう、香澄さんが悲しげに僕を見て、口にした言葉が…… 「……ごめん」 僕には何よりも辛かった…… 「こんにちは、西村くん」 「ああ、いらっしゃい」 次の日――今日は普通に営業することになったカフェに、雪下さんがやってきた。 「昨日、臨時休業だったみたいですけど、何かあったん ですか?」 「え……あ、いや」 思わず俯いてしまう。 家庭の事情だから、あまりお客さんに話すようなことでもないし…… 「……浮かない顔してますね、西村くん」 「そ、そうかな」 「ちょっと失礼」 「わっ!?」 雪下さんが不意に近づいてくると……僕の額に自分のおでこを当ててきた。 「ふむ……熱はないようですね」 「ちょ、ちょっと」 彼女が喋ると、その吐息が僕の顔にかかる。 甘い吐息を吐き出す唇が、艶やかに光って見えて…… 「ふふふっ、元気、少しは出ました?」 「え……あ、うん」 「ではいつものケーキセット、お願いします」 そう言って軽やかにいつもの席――窓際のテーブル席に向かった彼女の髪からも、甘くかぐわしい香りが流れてきて…… 僕の胸は、悩み事なんか消し飛んでしまうぐらい、ドキドキと高鳴ってしまっていた。 「……あれ?」 「……はぁ」 注文を揃えて運んでいくと、今度は雪下さんの方が元気なく、窓の向こうを物憂げに眺めていた。 いつもなら楽しそうに、笑顔を浮かべているのに…… 「あの、雪下さん?」 「……え? ああ、ごめんなさい。 ありがとうございます」 彼女は、僕が手に持ったトレイを見て、すぐになんの用件か察したんだろう。 だけど今の僕が気になっていたのは、メニューを運ぶことよりも、彼女の浮かべていた表情だった。 「どうかしたの? なんだか……」 「え、なんだか?」 「……元気なさそうに見えた」 それも一瞬のことだけど。今はもういつも通りの、明るくて社交的な雪下さんだ。 「あら? さっき西村くんから、おでこ伝いに何か イケナイものでももらってしまったんでしょうか?」 「は、え? イケナイもの???」 「風邪とか、疲れとか、恋の悩みとか?」 「ええっ? ないよ、そんなの」 「ないんですか?」 「特に恋の悩み辺りは、ないならないで喜ばしいような、 残念なような」 「もう……勘弁してよ」 「ふふふっ、失礼しました。冗談ですよ」 雪下さんは、いつものイタズラっぽい笑みを浮かべてから…… 少し、真面目な顔になった。 「私よりも、西村くんこそ本当に、大丈夫ですか?」 「え、えっと……」 「寝不足、あるいはただの疲労。それだけなら構いません けれど……」 「あなたこそ、悩み事があるって、顔に書いて ありますよ?」 彼女はそう言って、伸ばした腕、その指先を僕の頬に当てた。 そして本当に、そこに文字が書いてあるかのように、指で僕の頬をなぞる。 「……家庭の事情」 「えっ?」 「いや、もし本当に僕の顔に何か書いてあったら…… きっと、そういう言葉だと思う」 「…………」 触れた指先に誘われるように、自然と言葉がこぼれていた。 雪下さんになら……話してもいいって、自然にそう思えた。 「実はさ……父さんが再婚することになったんだ」 「あら。それはおめでとうございます!」 「……って、ご本人に言った方がいいのかしら?」 「そうしてあげて。でも、ちょっと困ったこともあって」 僕は、トレイの上に載せたままだったコーヒーやケーキをテーブルに移しながら、彼女に小さくささやきかけた。 「父さんたちがずっと隠していたこともあって、僕らは みんな、戸惑っているんだ」 「お相手の方に問題がある、とかではないんですね? 失礼な言い方かもしれませんが」 「それはまぁ、ないんだけど……」 ふと、窓の外を見てしまう。そこからは、隣の花屋もよく見えた。 「……まさか」 僕の視線を追った彼女が、目をぱちくりとさせる。 「そう。お隣の春菜さん」 「芹花や、香澄さんのお母さんでしたよね?」 「うわぁ……まさか、そんなことあるんですね」 かなり正直に驚いているというか、雪下さんにとっては意外なことだったみたいだ。 まぁ、意外とか驚きといえば、僕らもこの前からそうなんだけど。 「幼なじみのことを本当に家族だって思うには、ちょっと 時間が必要かなって」 「時間……」 その言葉を噛み締めるように、雪下さんは俯いて繰り返した。 そして、顔を上げた彼女は―― 「時間なんて、私にはない」 「えっ……?」 ひとりごと……にしては、ひどく強く、重い口調だった。 「……ううん、なんでもありません」 なんでもない……ようには見えなかった。ひどく思い詰めた表情で宙を仰いだ彼女は―― 「これは、私の問題ですもの」 そう宣言して、大好きなオレンジヨーグルトケーキにも手をつけず、じっと考え込んでしまった。 「しんちゃぁーん……」 「しんちゃーん、どこー?」 「どこにいるのー……」 ――久しぶりに、夢をみた。 子供の頃の杏子が、僕を探している夢を…… 「しんちゃん、いっしょに帰ろ?」 一緒に……どこへ? 「しんちゃんのおうちへ」 僕の……家? 「しんちゃんのおうちへ行きたい」 どうして、僕の家なの……? 「しんちゃんのおうちがいいの」 だから、どうして…… 「なんでもするから。ここにこのままいられるのなら、 なんだってするから!」 「!」 「だからこのまま……このままでいさせて。 ここに、ずっと……いさせて」 「…………杏子」 彼女は言っていた。このままでいたいって。 僕もそれを望んでいる。このままでいたいって。 「……はぁ」 父さんたちが再婚して、芹花たちが家族になって―― 僕がそれに巻き込まれるのは、仕方ない。家族だから。 でも杏子は関係ない。関係ないんだから…… 「……あまり、不安にさせちゃいけないよな」 再婚の話を聞いて以来、彼女の心細そうな態度がずっと、気になっている。 だからあんな夢を見る…… 「杏子……」 僕は彼女に……何かしてあげられるのかな? 翌朝── 「ふぁ……」 少し寝坊して店に下りていってみると、父さんがもう開店準備を始めていた。 「おはよう」 「あ、ごめん。手伝うよ」 「いいさ。もう終わる」 父さんは仕上げのつもりか、床をモップがけしていた。 言われて見回してみれば、テーブルの上も、窓も、どこももうきちんと整えられている。 「今日は店番も特にしなくていいから、自由に 過ごしなさい」 「…………」 父さんはよく、こんなことを言う。 それが厚意や親心から出ている言葉なんだっていうのは、わかる。 それでも……それでも、時々こう感じてしまう。 僕は、役に立っていないのかな? って。 兄さんが家に戻ってきてからは特に、僕がいなくても店が廻るようになっているから―― 僕は…… 「父さん」 「なんだい?」 「僕たちは、このままここにいていいのかな?」 「…………」 モップを動かす手を止めて、父さんが僕のことを静かに見つめる。 僕は僕で、自分がなんでそんなことを口走ってしまったのか、今さら理由を考えていた。 ここにいていいのかどうか、不安がっているのは杏子。 けれどひょっとしたら、僕も同じ立場なのかもしれないと思えたから……? 彼女に親近感を覚えて、同じようにこのままでいたいと願って、だから―― 「……僕たちというのは、お前と誰を指しているんだい?」 「あ……いや」 父さんに指摘されて、自分が何かまずいことを言ってしまった気分になる。 口ごもる僕に、父さんはあくまで静かに、もう一度尋ねてくる。 「……私たちの再婚が、みんなを不安にさせてしまって いるのかな?」 そうじゃない――と言ってあげたい。 だけど現に……僕と杏子は不安に駆られている。 「すまないな……お前たちを困らせるつもりはないんだが」 「あ、いや……」 「春菜さんに対するけじめ……というか、な。好意を 向けてくれた相手に対する責任、というのもある」 「もちろん、相手が春菜さんだからこそ、そうする気に なった。そしてなった以上、彼女の家族まで引き受ける のが筋だと考えた」 だから芹花や香澄さんも一緒に住む。それはいい。 だけど―― 「……杏子は?」 「杏子ちゃん、か……」 僕たちはまだ、彼女がこの家に来た理由も聞かされていない。 「……彼女のことはいずれ、話せる日もくるだろう。 今はただ、ここでゆっくり過ごして欲しいと思うだけだ」 「ここで……ゆっくり?」 「ああ」 「じゃあ、杏子を追い出したりなんてことは?」 「おいおい。そんなことをする人間だと思われていると したら、親としてさすがに悲しいな」 「ご、ごめん」 父さんは苦笑を浮かべて僕に近づくと、ぽんぽんと優しく肩を叩いてきた。 「もし、杏子ちゃんが不安に思っているようなら、お前の 口から言ってやってくれ。ここにいていいんだと」 「う、うん」 「そしてお前にも、余計な心配をさせてしまっているよう なら、すまない」 「いいよ……それはいいんだ」 僕はきっと、ひとりで勝手にいじけていただけだ。自分がこの家にいる理由がなくて、一瞬途方に暮れただけ。 それよりも今は杏子を、早く安心させてあげたかった。 考えてみれば芹花や香澄さんだって、杏子のことを可愛がってくれている。だからきっと大丈夫。 杏子は、ここにいていいんだ―― 「杏子、起きてる?」 僕は店からすぐに家へ戻ると、杏子の部屋を訪ねた。 ドアをノックして、反応を窺う。 「杏子?」 「……真一くん?」 「……えっと、どうかしたの?」 「あ、うん。さっき父さんと話したんだけどさ」 「おじさんと……?」 「うん。あのさ、父さんはやっぱり、杏子もここにずっと いるつもりで話していたみたい」 「そう……なの?」 「再婚とか、それは父さんたちの問題だから。 杏子は気にせず、ここにいていいんだ」 「…………」 「杏子?」 喜んでくれるかと思ったのに、杏子はなんだかまだ、悩んでいる様子だ。 「……わたし、邪魔じゃないのかな?」 「そんなことないって」 「……芹花ちゃんや香澄さんたちも、一緒に住むんだよね? わたし、ふたりみたいに役に立てるか……」 「そんなこと気にしなくてもいいんだ」 「でも……」 「みんなだって、杏子にはそんな遠慮、しないで 欲しいって言うと思うよ」 「そう……なの?」 「保証するよ。あのふたりは――」 僕の幼なじみだから、よくわかる。そう説明しかけて、声が喉の奥で止まった。 杏子だって、僕の幼なじみだ。なのに僕はまだ、彼女のことを―― 「真一くんも……」 「真一くんも、わたしがここにいていいって、 思ってくれる……?」 「当たり前だろ」 同じ気持ちだと思っていた。 夕べ、ベランダで話し合った時、僕たちは同じことを望んでいるんだって、少しだけ感じた。 だけど…… 「…………ありがとう。ごめんね」 「あ……」 小さく呟いてドアを閉めた彼女を、止められなかった。 僕はまだ、彼女にとって―― 「かわいくない」 「!?」 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 心を許せる相手じゃないんだ…… 次の日―― 「ふぅむ」 「…………」 「…………」 結局、僕と杏子はあの後まともに会話できていなかった。 昨日の夕食の席でも、今日、朝食の席でも、彼女の顔を見るのが……気まずい。 僕らが黙り込んでいるのを兄さんが不思議そうに見ているのがわかって、なお気まずい。 そんなところに父さんが、不意に声をかけてくる。 「――雅人か真一、すまないが今日の午前中、どちらかに 店番を頼みたいんだが」 「ん、出かけるのかい?」 「ああ」 「あ、じゃあ僕が」 働いていた方が、気が紛れる――そんな逃げ腰な動機だったけれど、役に立ちたいという気持ちもあって、僕は店番を引き受けようとした。 ところが兄さんが―― 「そうだな。真一と、杏子ちゃんに頼めるかな」 「…………ふぇっ?」 いつもなら『俺がやるから真一は休んでいていいよ』って言い出しそうな兄さんが、よりにもよって杏子まで指名してきた。 「いやぁ、俺もちょっと用事があるのを思い出したんだわ」 「でも今日の午前中は混みそうだからなぁ、杏子ちゃんに 手伝ってもらえると、安心なんだが」 兄さんはちょっと白々しくそう言うけど、僕にはその意図がつかめない。 「ふむ……そうか」 「こ、混むかなぁ?」 普段通りなら、ひとりでも十分廻せる日だと思うんだけど。 「そうだな。杏子ちゃんにも手伝ってもらえると、助かる」 「え……」 父さんまで……不慣れな杏子を、ふたりしてどうしてそんなに推すんだろう? 大体、杏子が僕と一緒にやりたがるとは思えない…… 「わ……わたしで、よければ」 「えっ」 「わたしでよければ、お手伝い……します」 顔は俯いたままだけど、杏子はそうハッキリ口にしていた。 「そうか、ありがとう。 ――頑張ってな」 「う……ん」 こくりと頷いた彼女は、相変わらず僕の方は見ないままで…… ……これは、どうしたものだろう? 「…………」 「…………」 本当に、どうしたものだろうか? 開店してしばらく経つけれど、こんな日に限っていつもよりも暇だった。 混む気配なんてまるでない。 「…………」 「…………」 店に流れるBGMのほかには、わずかにいるお客さんがコーヒーカップをソーサーに戻した時に立てる、かすかな食器の音がたまに聞こえるだけ。 「…………」 「…………」 僕はカウンターの中で待機している。 杏子はトレイを胸に抱き締めて、カウンターの横で待機している。 「…………」 「…………」 ふたりの間に、会話はない。 僕は、どうしたいんだろう?杏子はどうしたいんだろう? 「! い、いらっしゃい……ませ」 「あら? なんだ、今日は杏子がお手伝い?」 「う、うん」 「あたしも手伝おうっか?」 静かだった店内に芹花の声が響く。 それだけでなんだか少しほっとしてしまうのが、情けないと言えば情けなかった。 「暇なの?」 「そうでもないけど、カウンターがあんただけだと、 杏子が大変なんじゃない?」 「どういう意味さ」 「どうもこうもあんた、お客さんと杏子の両方に気を遣い ながら働くなんて器用な真似、まだできないでしょ? おじさんや雅人さんじゃあるまいし」 「…………」 そう言われて、思わず杏子の方を見てしまう。 確かに、僕が気を遣ってあげるべきなのに……本当に気が回らないというか、気が利かないというか。 「そ、そんなことないよ?」 「杏子ぉ、何もそんな真一を庇わなくてもいいのよ? どうせあたしが来るまで、黙々と仕事してただけでしょ」 「…………」 ぐうの音も出ない。 「それにどうせ、今後はみんなで一緒にやることになり そうだしさ。この3人でやってみるのもいいかなって」 「え……あ、ああ」 確かに、同居すれば自然に、お互いの店を手伝うことになると思う。 杏子がカフェの手伝いを始めたように、香澄さんや芹花がウチの店を手伝ったり、逆に僕らが“すずらん”を手伝うことだってあり得るんだ。 「芹花ちゃんも、ウェイトレスさん……するの?」 「いやまぁ、向いているとは思えないんだけどねぇ」 「でもどうせ、忙しくなったらみんなで助け合い、って ことになるんじゃない?」 そんなことを言う芹花に、いつもと少しだけ違う……違和感のようなものを感じて口を開く。 「なんだか、同居することに対して、ずいぶん前向きに なってない?」 「……いつまでもあたしひとりで駄々こねてても、 しょうがないでしょ」 少し唇を尖らせてそう言ってから、芹花はこめかみに指を当てて、困っているような顔をしてみせる。 「それにさぁ、毎晩毎晩お姉ちゃんに切々と訴えかけられ てるのよ。『お母さんの気持ちを考えてあげて』って」 「……ああ」 実の子に再婚を反対され続けるのは、悲しいだろうなぁ。だから僕も、父さんにあまり強く反対できないわけで。 でも、杏子の立場を考えると…… 「…………」 「……また杏子ばっかり見てる」 「ん?」 「なーんでもないっ。さ、何から始めればいい? あぁ、その前にエプロンの予備ある?」 ――そんな風に芹花はひとりでさっさと話を進めると、父さんたちが戻ってきた昼過ぎまで、カフェに笑顔を振りまいていた。 「ふぃー」 芹花はカウンター席に着くと、ひとつ大きく息をついた。 戻ってきた父さんたちと昼食時のピークを乗り切ったばかりで、店内の空気もどこかまだざわついている。 「お疲れ様。芹花ちゃんも杏子ちゃんも、真一も、 そろそろあがってくれていいよ」 そう言う父さんに、兄さんも声を合わせる。 「ああ。あとは俺たちに任せて、飯でも食ってきなよ」 「は~い。では遠慮なく」 「ん、んん」 芹花はエプロンを外して早々に手を挙げたけれど、杏子の方はちらりと僕の顔を窺ってきた。 本当に手伝わなくていいのか、気にしているのかな? 「……あまり忙しくない時間帯に、店員ばかり何人もいて も仕方ないよ」 「ん……うん」 僕自身、この後特別やることがあるわけではないので、困ってしまうんだけど…… 「こんちはーって、こりゃまたお揃いで」 「宗太」 「やっほー」 カウンター席でひらひらと手を振る芹花の横に、入ってきた宗太が座る。 「芹花にしては気の抜けた挨拶だな。 ひょっとして、カフェの手伝いでもしてたのか?」 「……よくわかったわね。なんで?」 「慣れないことして疲れた、って顔してる」 「…………」 「あとは脱いだばかりと思われるエプロンとか、 いつもなら真一におごらせてドリンクのひとつも あるはずなのに、それがないとか」 「とまぁ、状況証拠から推測してみた」 「ああ。じゃあ真一、あたしマンゴージュース」 「じゃあって」 無理に注文しなくてもいいのにと思いつつも、耳敏い兄さんがすでにグラスを用意しているのを見て、僕は諦めのため息をついた。 「くっ、久我山くんは……?」 「ん?」 「ごっ、ご注……文」 自信なさげに俯く杏子を、宗太がまじまじと見ている。 「ひょっとして、杏子ちゃんも手伝ってたの?」 「んっ、ん」 「へえ。じゃあアイスコーヒーひとつ」 「か、かしこまり……ました」 消え入りそうな声で答え、杏子が伝票を書き込む。 そんな彼女を見守っていた父さんが、微笑んでアイスコーヒーの用意を始めた。 「ふーん」 「何?」 「いやなんか、色々変わってね?」 「まぁ……そうだね」 みんなの様子を興味深そうに眺めていた宗太の隣に、僕も腰を下ろす。 「杏子、あんたももう休みなさいよ。こっち座って」 「ん、うん」 注文を父さんに伝え終えた杏子も、芹花の隣に座る。僕と杏子の間に、宗太と芹花がいる形で並んだ。 「杏子ちゃんはなんとなくわかるけど、芹花はなんでまた 今日、ここを手伝ってたんだ?」 宗太が、事情を知らない人間からすればもっともと思う質問を、当の本人に投げかけた。 「……今度、この家の子になるからよ」 どこか素っ気なく答えた芹花に、宗太が大袈裟に仰け反る。 「何っ!? ついに真一と結――」 「こぉんっ!?」 「なっ、殴るわよ!!」 「……もう殴ってるじゃアリマセンカ。ぐすっ」 殴られた頬を痛そうにさすりながら、宗太が椅子に座り直す。 いつものこととはいえ、杏子が目を丸くしていた。 「しかし芹花が西村家に嫁ぐ以外に、何をどうしたら そうなるんだ?」 「……父さんと春菜さんが、再婚するんだよ」 「にゃにゅほっ!? それはまた……おめでとうございます!」 不思議な驚き方をして、宗太がちょうどアイスコーヒーを持ってきてくれた父さんに挨拶する。 「ありがとう」 「はぁー……なるほどねぇ。どうりで」 宗太がそう言って、僕の顔をちらりと見る。 この前相談して、浦島太郎の例え話をした時のことでも思い出したのかな。 「世の中、いろんなことが起こるもんだ」 「何よ、他人事みたいに」 「他人事、っていうほど冷めているつもりもないんだが なぁ」 「一応、お前らの友達だから、気に懸けているつもり なんだぜ、これでも」 苦笑して、宗太は芹花と杏子の方を向いた。 「まぁでも、なんとかしようとしてるみたいで、安心した」 「…………」 「泣きたいことがあったら、いつでも俺の胸に飛び込んで こい! 365日いつでもオッケー!」 「はぁ? あんたの胸だけはごめんだわ」 「はっはっは!! 言うと思った!!」 そう明るく言って、ずずずっとアイスコーヒーに口をつける宗太。 芹花が心底呆れたようなため息をつく。 「はぁ……何しに来たのよあんた」 「んぐっ、お客に向かってそれはないだろ~。 お前らの顔を見に来たわけだし」 「つまり、いつも通り暇だと」 「それを言ってくれるな。ほら、お前らだって暇そうに してるじゃないか。俺が来ていい退屈しのぎになったろ」 「あたしたちはひと仕事終えて、これから食事なの。 退屈を持て余している自分と一緒にしないでよね」 「おおっ? 飯? 俺も行く行く」 「そこに食いつくとか……どこまで脳天気なのよ、 あんたは」 とはいえ、宗太のこの明るさは、時々見習いたくなる。 僕と杏子だけで店番していた時に比べたら、ずいぶんと場がにぎやかで、いい雰囲気だと感じてしまう。 「杏子ちゃん、なんか食べたいものある?」 「え、あっと……ん、んん。 あまり、お腹空いてないし……」 「ちょっと、杏子を怯えさせるんじゃないわよ!」 「いやいや待て待て、俺は普通に誘っただけでだなっ?」 僕もこれぐらい、気軽に杏子を誘えるといいんだけど。結果はともかくとして。 「でも杏子、本当にお腹空いてない? せっかくだから みんなでご飯行きましょうよ」 「ん、ん」 「ほら、真一からも何か言ってやれって」 「ん、僕?」 「お前が彼女の手を引っ張ってやらなくて、誰がそうする んだよ」 「…………」 子供の頃、確かに僕らはよく手を繋いで歩いた。 けれど今……僕にその資格があるのかな? 「なんでも言って。おそば、お寿司、ファミレス、 ファーストフード、どれでもこいつらがおごるから!」 「えっ。ちょ、待て、俺たちかよ!?」 「んんっ」 昔、彼女の笑顔を曇らせてしまった、僕に……今の彼女を誘う資格は、あるのかな? 「ああそうだ、出かける前にすまないが……」 父さんが思い出したように言って、奥から何かを取り出してくると、カウンターの内側で切り分け始めた。 そして僕らの前に次々に出されたのは……皿に載せられた、パイ生地のお菓子だった。 「わ、アップルパイ?」 「うまそうですね~!」 漂ってくるシナモンの香りに、芹花と宗太が目を輝かせる。 杏子も興味深そうに、じっと自分の前に置かれた分を見つめている。 「忙しくなる前に仕込んでおいたんだ。これまで店で出し ていた物とは、形や味を少し変えてみた。試しに食べて みて欲しい」 「そういうことなら遠慮なく~♪」 これからお昼にしようっていうのに、芹花は嬉しそうにパイにフォークを突き立てた。 そういう僕も、これぐらいならと、同じように食べているんだけど。 「おいしい……」 最初に口を開いたのは杏子だった。 生地はサクサクとしていて、焼けたリンゴのほのかな甘さが口の中に広がる。 そして今までのものよりも、香りが一層強くなっている気がした。 「いや、本当にうまいですよ、これ」 「うん。これなら今すぐ売り出しても問題なし!」 みんなが口々にあげる言葉に、父さんが満足そうに頷く。確かにこれは、すごくおいしい。 「そういうことなら、せっかくだ。誰か名前を付けてくれ ないか?」 「名前……名前かぁ」 「え、アップルパイじゃダメなの?」 「それじゃあこれまでのと同じじゃない」 「新商品なんだからこう、ガツンとインパクトのある 名前を付けなくちゃ!」 「斬新すぎる名前だと、かえって引かれるぞ」 「でも、せっかくだから、ちゃんとした名前を付けて あげたい」 意外と杏子が乗り気だった。この新しいアップルパイを気に入ったのかな? 「でしょー? ほら、杏子はわかってる」 「だけどせめて、一発で何かわかる名前にしておかないと、 いちいち『これなんですか?』って聞かれて面倒だと 思うぞ」 「その時は、作り方を簡単に説明すればいいんじゃない?」 「作り方っていうか、アップルパイだって言えば済むよう な」 「だからそれじゃ、オリジナリティがないでしょ、 オリジナリティが!」 「ここにしかない味! っていうところを 推していかないと」 「ここにしか……ここにしかない……」 その言葉を噛み締めるように繰り返した杏子が、ふと顔を上げた。 「それじゃあ……『スーリル風アップルパイ』?」 「…………」 「え、えっと、ごめんなさい」 周りの反応が不安になったのか、杏子が頭を下げる。 「いや、謝ることじゃないって。 僕はわかりやすくていいと思うけど?」 「だけど、なんでスーリル?」 「店の名前だからだろ?」 「う、うん。そうなんだけど、ね」 理由を問われた杏子が、もじもじと、恥ずかしそうに説明する。 「みんなが、このアップルパイを食べて、笑ってたから」 「あ……」 “〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”その名前の意味は、フランス語で「笑顔」。 杏子も昔よく、ここでケーキを食べては……笑っていた。 「……それじゃあ、その名前にしようか」 「えっ」 本当にいいんですか? そんな風に言いたそうな杏子に、父さんが優しく微笑んで、頷く。 「ああ。みんなが、いつでも笑っていられるように」 「んっ…………」 恥ずかしそうに俯いた彼女の顔が、どんな表情を浮かべているのか…… 僕の位置からは、あまりよく見えなかった。 結局芹花に押し切られる格好で、改めて昼食を、国道沿いのファミレスで摂ることになった。 「先にデザート食べちゃったわね~」 杏子も含めた4人でてくてくと歩いていく。 ……本当に僕らが彼女たちの分までおごらされるのかどうかは、会計の時になるまでわからない。 「なぁなぁ」 「ん?」 少し先を歩く芹花と杏子に聞こえないようにか、宗太がそっと僕に尋ねてきた。 「お前らはいいとして、杏子ちゃんはこの先 どうなるんだ?」 「……一応、このままウチで暮らすことになっているけど」 僕も気になって、父さんに確認したばかりのことだ。 宗太から見ても気になるのなら、杏子本人はどれぐらい心配しているか…… 「ふーん」 「ならやっぱり杏子ちゃんのことは、お前がしっかり 守ってやらないとな」 「…………」 「なんだよ、イヤなのか?」 「そんなわけない……けど」 当たり前のように言ってくる宗太に、少したじろいでしまう。 まるで、杏子の保護者はお前だろと、決めつけられているみたいだ。 「さっきも言ったろ。お前以外に誰がいるんだよ」 父さんや兄さんがいる――そう答えたくなった。 けれどそれを言ってしまったら…… 「……確かに僕も本当に、あの家にいる意味がなくなり そうだ」 「ん?」 「いや……」 前を行く芹花と杏子の会話に、耳を澄ませてみる。 「いやぁ、杏子は今使ってる部屋のままでいいんじゃない。 あたしたちは適当に、空いてる部屋もらうつもりだし」 「でも……いいのかな?」 「いーのいーの。杏子だってやっと落ち着いた頃でしょ? 今になってまた荷物動かすの、面倒だろうし」 「ん、んん」 なんだかんだで芹花も、杏子と一緒に暮らすことを考え始めているみたいだ。 彼女に任せていれば、杏子は安心して暮らせるかもしれない。 香澄さんや、春菜さんだっている。あのふたりが杏子を邪険に扱うとは思えない。 「お前とお互いに気を遣っているままじゃ、 杏子ちゃんだって居心地悪いだろ」 「…………」 それを言われてしまうと……確かにその通りだ。 和やかに杏子を囲む輪の中で、僕だけが浮いている。 「お前なりに杏子ちゃんに歩み寄ろうとはしてるんだろう けど、お前の性格からして、杏子ちゃんから歩み寄って くれるのを待ってる節があるんじゃないか?」 「……見てたみたいに言うね」 「何しろ生徒会長だからな。全部お見通しさ」 「生徒会長は関係ないでしょ」 冗談めかして胸を張る宗太に、苦笑する。逆に宗太は、ふざけた表情を引っ込めた。 「そんな俺でも、お前と杏子ちゃんの間に昔、何があった かまでは知らないけどさ」 「…………」 「引っかかっていることがあるんなら、まずはそれを スッキリさせるところからなんじゃねーの? 悩むのはそれからだ、若人よ!」 「……同い年のくせに」 「ふははははっ、生徒会長は同学年の奴らより、 精神年齢がプラス5歳されるのだ!!」 「なぁ~にバカなこと言ってるのよ、さっさと来なさい!」 宗太の声が聞こえたらしく、芹花が振り返っていた。 杏子もつられてこちらを見ている。 「…………」 「あ……」 目が合うと、杏子は慌てた様子で一度視線を泳がせてから…… 「……ん」 またこちらの様子をちょこちょこと窺ってくる。 「ちなみに副会長になると、プラス5歳老け込むという オプションがだな」 「そんなもんはいらなーい!!」 宗太と芹花のバカなやり取りを聞きながら…… 食事中も僕たちは、お互いの様子を窺うような時間を過ごした。 そしてまた次の日も―― 「…………」 「…………」 僕と杏子は、午前中の店番を任されていた。 父さんが、再婚に備えて色々と忙しいのはなんとなくわかるんだけど…… 兄さんは……なんだろう? 急に忙しくなった様子で、家を留守にすることが多くなった。 「…………」 「…………」 とはいえこのまま会話がないんじゃ、昨日の繰り返しだ。今日は芹花も顔を出さないし…… ここは僕の方から何か声をかけるなりしないと、杏子もやりづらいままだろう。 何か……何か、何か……何か。 「き、昨日はよく眠れた?」 「…………」 僕の質問に、杏子は首を横に振るだけで答えた。 か、会話が続かない…… 「きょ、今日はいい天気だね?」 「うん……」 当たり障りのない話題も続かない…… 「…………」 「…………」 そして結局、元通り…… ついこの前までは、少し会話できるようになってきた、と思っていたんだけど…… 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 「……はぁ」 やっぱり僕はまだどこかで、杏子に嫌われているんだろうなぁ。 「…………あ、あの」 「うん?」 「……お昼、何、食べたい?」 こっそりため息をついていたら、杏子の方から声をかけられた。 じっとこちらを見つめられ、意表を突かれた気分で、つい尋ね返してしまう。 「え、っと……お昼?」 「うん。……今日はわたしが、お当番だから」 「そ、そうだったっけ。じゃあ、えっと」 予想外の事態に戸惑っている頭では、ついさっきお客さんに注文されたばかりの料理ぐらいしか思いつかなかった。 「……スパゲッティ、頼める?」 「うんっ」 彼女は大きく頷いて、またトレイを胸に抱いて客席の方を向いた。 「…………」 そしてまた、静かな時間が流れ始めたけれど…… 今日のそれは、あまりイヤな感じがしなかった。 「ごちそうさまでした」 「お……お粗末様でした」 昼には兄さんが戻ってきてくれた。 なので3人で一番忙しい時間帯を廻した後、兄さんに店番を任せて僕たちは休憩に入った。 なんでも兄さんは先に『愛情たっぷりのうまい飯』を食べてきたから、昼飯はいらないそうで……カノジョでもいるのかな? とにかく僕はリクエスト通りに、杏子に作ってもらったスパゲッティで遅い昼食を済ませたところだった。 「あ……あのっ」 「ん?」 「お……おいし……かった?」 「うん。おいしかった。僕よりうまいんじゃない?」 お世辞抜きにそう言った。 僕は父さんのレシピ通りの、店で出しているものしか作れない。 それに比べて杏子の料理は、なんだか家庭の味という感じがして、新鮮だった。 「そ、そう。……よかったぁ」 「…………」 胸に手を当ててほっとしている杏子を見ていると、よくわからなくなってくる。 僕は嫌われているのか、警戒されているのか。単に気を遣われているだけかもしれない。 でも…… 「また、作るね」 「ん、うん?」 「また今度、作るから……食べてくれる?」 「……うん」 「ん」 彼女は彼女なりに、僕に歩み寄ろうとしてくれているのかなって、信じたくなる。 「ただいま」 「あ、お帰り」 「お帰りなさい」 用事を済ませたのか、父さんが帰ってきた。春菜さんも一緒だ。 「あら、今日のお昼は誰が作ったの?」 「あ、わ、わたし……です」 慌てて立ち上がった杏子に、春菜さんが微笑みかける。 「そう、家事ができる人がいると助かるわ。これから 一緒に暮らすことになるけど、その時はよろしくね」 「あ、えっと……はい」 「香澄はともかく、芹花はあんまり料理を覚えてくれなく てねぇ。おばさん困っちゃうのよ」 「ん、んん」 春菜さんもやっぱり、杏子が同居する前提で考えてくれているんだなぁと、また少し、ほっとした。 「それじゃ春菜さん、私は店に出るので」 「もう。春菜って呼び捨てにしてくださいな」 「ふふっ、いってらっしゃい」 「あ、僕たちももう戻るよ」 そう言って、杏子の方を見る。彼女も同じ気持ちだったらしく、すぐ頷いてくれた。 「雅人もいるし、ふたりは今日もうあがりでいいさ」 「え、でも」 「せっかくの夏休みなんだ。ふたりでどこか遊びに行って くるといい」 「え……っと」 杏子がお伺いを立てるように、僕へと視線を向けてくる。 僕はといえば、父さんがこう言い出した時には素直に従うしかないことを、経験則で知っていた。 「……じゃあお言葉に甘えて」 「ああ。楽しんできなさい」 僕の返事に父さんは、満足そうに微笑んで、店へと向かった。 「う~ん、おばさんももう少し、真彦さんとのデートを 楽しみたかったんだけどなぁ」 「デート!」 「大人はそういうわけにもいかないものね。真一くん、 杏子ちゃん、代わりに楽しんできて」 「いや、代わりにって、僕たちは……」 デートってわけじゃあ……と、困って杏子を見ると、彼女は顔を真っ赤にして、落ち着きをなくしていた。 「えと、えっと……ああ、んん」 ……なぜかその場で、立ったり座ったりを繰り返している。 「あら可愛い。いいわねぇ、若いって」 「あうあう」 ……最後には頭を抱えて、杏子は座り込んでしまった。 「真一くん、ちゃんとリードしてあげなくちゃダメよ?」 「え、ええっと……はぁ」 曖昧な返事をするしかなかったけれど…… 杏子とゆっくり話をするには、いい機会かなとも思った。 「……なんだか、懐かしい気がする」 「え?」 「こうして、ふたりで歩くの」 「……そうだね」 彼女がウチに住み始めて間もない頃に、ふたりで出かけた時は、昔のことを思い出しそうな場所を、あえて避けた。 その時はまだ、お互いに再会したばかりで、今以上にどう接していいのかわからなくて…… だから『西村くん』『荻原さん』なんて、ひどく他人行儀な呼び方もしていた。 「他人、か……」 「んっ……?」 僕の何気ない呟きに、杏子が敏感に反応してくる。 「あ、いや、なんでもないよ」 「……そう……なら、いいんだけど」 僕の一挙一動、ひと言ひと言を、彼女は気にしている。 それは時に、まるで何かに怯えているようにも見えて。 「真……一くん?」 ……これを一日中、家の中でもやっていたら、それは気が休まらないように思えた。 「……ねぇ、杏子」 「う、うんっ」 今もまた、僕に声をかけられて、彼女は背筋を震わせた。 それでいて逃げ出すわけでもなく、じっと次の言葉を待っている。 「杏子はどこか、行きたいところとかある?」 「んっ……」 前に出かけた時にも、同じような会話を交わした。 あの時、彼女は確か…… 「まだ……いい」 そんな風に言っていた。 まだってことは、いつか行きたいところがあるのかなって、少し引っかかった覚えがある。 「今日は、杏子が決めていいよ。どこにでも付き合う」 「ん……」 春菜さんは僕にリードしろなんて言っていたけれど、それじゃあこれまでと同じだ。 彼女が少しでも、肩の力を抜いて過ごせるようにしたいから…… 「遠慮しないで、好きなところを言って」 「真一くん……えと」 本当にいいの?そんな風に、目で訴えかけてくる。 だから僕は、黙って頷いた。 「僕に、杏子のお気に入りの場所を教えて」 「……ん」 杏子はためらいためらい、何度もこちらを窺いながら…… 「……どうしよう、かな」 少し悩んで、考えて…… 「…………真一くんが、よければ……なんだけど」 「うん?」 まだ少し遠慮がちに……彼女はこう言った。 「……一緒にお散歩、する? わたしがいつも、廻っているところを」 「うん。喜んで」 「んっ」 「あっ、杏子」 不意に駆け出した杏子が、数メートル先で慌てて立ち止まり、恥ずかしげに振り返る。 「こ、こっち……」 「ああ、うん」 いつもひとりで、こっちから廻るのか――そう納得して、僕は彼女のいる方へと進む。 ふたりで、並んで歩くために…… 焼けつくように熱い日差しも、木陰に入ると少しだけ和らぐ。 「ふぅ」 ここまでじりじりと、路面の照り返しもあって暑い思いをしてきた。 だから余計に木陰の空気をひんやりと感じて、ほっと息をついてしまう。 「涼しい、でしょ?」 意外と汗もかいていない様子で、杏子が振り向く。 「うん。ちょっとほっとした」 「この時間はいつも、こんな感じ」 よく来ているのか、杏子の口調が少しだけ得意そうだった。 「子供の頃は暑いとか涼しいとかあんまり気にしないで、 この辺りを走り回っていたはずなんだけどなぁ」 ハンカチで汗を拭いながら、昔は元気だったなぁなんて、年寄り臭い感慨を抱いてしまう。 思い返してみれば、この森にもよく、セミ捕りに来ていたはずだ。 たまにカブトムシやクワガタなんかも見つけて、おおはしゃぎしていた気も…… 「……真一くん、昔ここでカブトムシの幼虫を見つけて、 わたしに見せた」 「え。あ、ああ」 「…………あれ、ちょっと、気持ち悪かった」 「だよね……」 ぶよぶよっとして、やけに太いイモムシみたいだものな。今にして思えば、女の子が気味悪がるのもわかる。 「でも、ね」 「その子を家に持って帰って、きちんと世話して、成虫に なるまで育てて……楽しそうだった」 「そんなことも……あったっけ」 「ん」 杏子はこくんと、頷いた。 僕は彼女の語る想い出を、頭の中でぼんやりと渦巻いている光景のひとつから探し出すのがやっとなのに…… 「わたし、よく覚えてるよ。楽しそうだった」 杏子は迷いなく、そう言い切った。 「ここにもよく、お参りに来たんだよ」 森を抜け、神社へと辿り着く。 足場の悪い林道も、杏子は通い慣れた様子で進むものだから、僕の方がむしろここまで来る間に置いていかれそうになった。 「お正月とか、大晦日とか、夏祭りとか」 「はぁ……お散歩っていつも、こんな風に懐かしい場所を 廻ってるの?」 なんとなく尋ねると、杏子はゆっくりと頷いた。 「うん……だけどね」 「?」 「わたしにとってこの町は、どこも懐かしい場所だよ」 「どこも?」 「どこも。全部。どこだって」 そう言って、杏子は僕の顔を見る。 「……真ちゃんと、一緒に過ごした場所だから」 杏子は泳ぎが苦手だったから、海で遊んだ記憶はあまりない。 「みんなでお散歩はしたよね……」 子供だった僕らには、必ず親がついてきていたから、ちょっとした家族団らんの場にもなっていた……はずだ。 「その頃は、お父さんとも、お母さんとも一緒だった」 それが、今はひとり―― 「……家には、連絡とってるの?」 彼女の事情が、僕にはまだわからない。 父さんも本人も話そうとしないってことは、触れない方がいい話題なのかもしれない。 案の定、彼女は少し寂しげに、首を横に振った。 「待っていてって、そう言われてここに来たから……」 「待つ?」 「…………」 それは連絡を、なのかな。それとも…… 「それより、ね」 杏子は話題を変えた。 さりげなくというには少し無理があるけれど、こちらの方がより重要だと言わんばかりに。 「たまにここに来るんだよ」 「……誰が?」 「前に拾った、仔猫の飼い主さん」 「えっ……あの?」 杏子がウチに来て間もない頃に拾って、里親に出した仔猫の……まさかその人? 「ここに、お散歩に来てたから……偶然会って、それから よく挨拶してるの」 「あの子、見る度におっきくなってるんだよ。 みゃあみゃあ鳴いて、わたしにも懐いてくれてる」 「……覚えてるのかもね。自分を拾ってくれた人だって」 「……だと、いいな」 ぽつり、と杏子は少しだけ寂しそうに呟いた。 「猫は忘れっぽいから……」 それからふたりで、よく遊びに行った公園や、一緒に通った駄菓子屋、線路沿いの野原なんかを見て回った。 そのいくつかはもう、この変化に乏しい町でも時の流れによって姿を変えていたけれど…… 杏子のお散歩コースは、僕たちの想い出をなぞるような場所ばかりで、昔を思い起こさせるのに十分だった。 小柄な杏子がてくてくと、疲れも見せずにいくつもの場所を廻るのに驚くと同時に…… この町にはこんなにも、僕たちが一緒に過ごした場所があったのかって、改めて驚かされた。 「いや、違うか」 「……何、が?」 「杏子も言っていたように、この町はどこも、懐かしい 想い出がある場所なんだね」 「……そう」 「どこに行っても必ずあるし……」 「逆に……ここ以外には、ないの」 「杏子?」 「ここ以外には、真一くんとわたしの想い出は…… どこにもないんだよ」 「ほら、はやくはやく~」 「ま、まってよぉ」 「あ……」 見知らぬ子供がふたり、僕たちの脇を駆け抜けていく。 まるであの頃の僕らみたいに…… 「ったくもう、おいてっちゃうぞ」 「……じゃあ、手、つないで?」 「え……やだよ、はずかしい……」 「うぅ……」 「そ、そんな目で見るなよ」 「つないでぇ」 「……わ、わかったよもうっ。ほら!」 「うんっ♪」 男の子がぶっきらぼうに差し出した手を、女の子が嬉しそうに握る。 追いかけ、追いつき、離れず、手を繋いで、一緒に…… ふたりはしっかりと繋いだ手をそのままに、笑いながら花畑を駆けていく―― 風が強く吹いて、背の高い花を一斉に揺らす。 まるで、久しぶりに訪れた僕たちに『お帰りなさい』と告げるように。 「……あんな風に、ここへよく来てたよ……ね?」 同じことを考えていたのか、杏子が僕に確認するように話しかけてきた。 「……うん」 「いつも一緒に遊んだ」 「うん」 「いつも……ふたりで一緒にいて、楽しかった」 「……うん」 かくれんぼをして、泣かせたこともある。 心にもないことを言って、離ればなれになった。 それなのに……それでも、彼女は楽しかったと言ってくれる。 「いつもね、ここまでお散歩して……それから、 真一くんのおうちへ帰るの」 「僕のうち」 いつも一緒に、手を繋いで帰っていた場所。今は一緒に暮らしている――カフェ。 「カフェと、このお花畑が……この町で一番好きな 場所なんだよ」 ああ、だから…… だから彼女はいつも、ここへ来ると笑顔だったのか―― 「しんちゃん、はいこれ!」 「……何これ?」 「かんむり! かぶせてあげるから、しゃがんで!」 「うん」 「……はいっ、えへへ。 しんちゃんかわいい♪」 「……お、男の子なのに、かわいいなんて」 「いや?」 「いや、じゃないけど」 「じゃあ、おうちまでつけてて」 「ええ~」 「それでね……ずっと、だいじにしてほしいの」 「……なんで?」 「えっと、ね――」 「わ、わたしだと思って……ほしいから」 「……?」 「これ、わたしの代わりに、しんちゃんのお部屋に置いて くれれば……」 「わたしはしんちゃんとずっと一緒にいられるかな、って」 「そういえばあれ、すぐ枯れちゃったんだよな……」 ドライフラワーにでもできれば、よかったのかもしれない――なんて、今になって思う。 当時の僕はただ恥ずかしくて、その反動で家に持ち帰ってすぐその冠を放り出してしまい、ダメにしてしまった。 「……なんか、杏子を泣かせるようなことばかり、 していた気がする」 かくれんぼにしても、花冠にしても、彼女が笑顔を浮かべていた時にも―― 「……もしかして、お花の冠の……こと?」 僕の呟きから連想したのか、杏子が尋ねてきた。 「覚えてるんだ?」 「だって……真ちゃんとの想い出、だから」 杏子は一瞬驚いたような顔をして、すぐに顔を赤くして俯いてしまった。 この場所でも、カフェでも…… 彼女は俯いてばかりで、笑顔を浮かべることが……ない。今はなくなってしまった。 「……やっぱり、僕のせい、なのかな?」 「……え?」 風の音に邪魔されてよく聞き取れなかったらしく、杏子が聞き直してきた。 「いや……昔、ここへ来た時はいつも、杏子は 笑っていたなと思って」 「…………」 「この場所に来て、よく昔の杏子を思い出してた。 その中でいつも杏子は……笑ってた」 「……そ、そんなに……?」 昔の話が恥ずかしいのか、杏子はやけに慌てているように見えた。 そんな彼女に、僕は――謝るなら今かと思ったんだ。 「ごめんね」 「ん、んん……?」 「昔、杏子を泣かせるようなことばかりして」 「そ……そんなこと、ないよ……」 消え入りそうな声が、風に流れていく。 「杏子が笑っている時に、ヘンな顔だなんて言ったことも あって……」 「あ……」 「イヤな思いをさせたんじゃないかなって……ずっと、 気にしてた」 「だから、ごめん」 「……んっ、んーん」 ふるふると首を横に振る杏子の顔が、風になびく髪に邪魔されて、よく見えない。 ただ彼女にも、僕がいつのことを謝ろうとしているのか、それが伝わっていることだけはわかった。 「かわいくない」 「!?」 「そんなの、かわいくない」 「……ぅ」 「かわいくないよ」 「あ、あれは……あれは、ね、わたしが勝手にね、 真ちゃんに笑って欲しくて」 「兄さんとケンカしたか、なんとなく恥ずかしかったのか、 そんな……子供じみた理由できっと、心にもないことを 言ってしまって」 「……それは違うよ、真ちゃん」 「え……?」 杏子は俯いたまま、けれどハッキリと―― 「あの日は、ね……わたしがお引っ越ししなくちゃ いけなかった日で」 顔を上げた杏子の瞳が……涙に濡れていた。 「真ちゃんが大好きだった……お母さんの、 命日だったから」 「!?」 「お引っ越しすることを、真ちゃんにずっと言い出せなく て……」 「でも、最後に泣き顔見せたくなくて、わたしは無理に 笑おうとしてて……」 油断すると風の音にかき消されてしまいそうなほど、彼女の声は小さく掠れていて…… 「けど真ちゃんは大好きなお母さんのこと思い出していて、 そんな気分じゃなくて……」 「なのにわたしがおかしなことをしたから、 だから……だから……ね」 僕自身が気づいていなかったこと、知らなかったこと、考えもしなかったことを、彼女は口にして―― 「謝りたかったのは、わたしの方……なの」 下げる必要もない頭を、下げた。 「……やめてよ杏子」 「…………」 「僕は……僕は、さ」 口にすべき言葉を探す。 謝罪? 贖罪? それとも―― 「僕は本当は、杏子の笑顔が好きだったんだ」 「!?」 杏子が顔を上げた。その表情は、驚き一色に染まっている。 「可愛いって、思ってた。なのに僕は……」 素直じゃなかった――その反省を込めて、僕の方が頭を下げる。 「ごめん!」 「え……えと」 戸惑っている杏子の声が、風の音に混じって聞こえる。 「それじゃ……でも……う、うん、と」 彼女の口から何を言われても、何をされても、僕は全部受け入れる覚悟で…… 「あ……あうぅっ!」 「え……きょ、杏子!?」 僕が気づいて顔を上げた時にはもう……杏子の小さな背中が、遠ざかっていくところだった。 家の方へ向かって、僕を置いてひとりで―― 彼女は駆け去ってしまった。 「……はぁ」 仏壇に飾られた母さんの遺影に手を合わせて、ため息をつく。 杏子に言われるまで、最近では命日を意識する気持ちも薄れてきていた。 父さんに言われて『ああ、そういえばそろそろだね』なんて会話を交わしてから、墓参りに行く日を相談したりするぐらいで…… 「子供の頃は、もっとこだわっていたはずなのに」 それとも、母さんが亡くなった直後だったのかな…… 杏子が引っ越す直前、僕を励まそうとしてくれたっていうのは―― 「しんちゃんのそばにいると、ふにゃ~ってね、 なんか楽しいの。嬉しくて、笑っちゃうの」 「ふにゃって」 「ふにゃあ~ってね。顔がこう、ぷぅ~って」 だから余計に、癇に障った?だとしても…… 「はぁ……」 あれは杏子なりに、精一杯僕を元気づけようとしていたんだ。 なのに僕は……その時の状況すら、満足に思い出せないでいる。忘れかけている。 ただ、彼女に申し訳ないことをした――その気持ちだけをずっと引きずって、原因を考えもしなかった。 そして状況に流されるまま、ずっとそのまま、杏子に連絡を取ろうともせずに今日まで…… 「……あっ」 「きょ、杏子」 「……ご、ごめんなさいっ」 「あ……」 僕の顔を見るなり、杏子は逃げ出すように出て行ってしまった。 あの花畑から戻ってきて以来、ずっとこんな調子だ。 彼女に置いてけぼりを喰らわされて、わけのわからないまま家に戻ると、杏子は先に帰っていたんだけど…… 「…………はぁ」 満足に話もできない状態が続いている。 下手をしたら、同居を始めた最初の頃よりも避けられている気がする。 「……怒らせちゃったのかな?」 というよりも、呆れられた?昔のことをろくに覚えてもいないことを。 「はぁぁぁ……」 自分でも意識していないぐらい、僕はその日、ため息をひと晩中ついていた。 「それじゃすまないが、あとは頼んだよ」 「真一、ちゃんと杏子ちゃんをフォローしてやれよ」 「う、うん」 「…………」 父さんと兄さんが出かけてしまうと、カフェの中は僕と杏子のふたりだけになってしまった。 「…………」 杏子は今朝になってもまだ、僕の顔をまともに見ない。 用があって出かけた父さんたちの代わりに、店の手伝いを申し出てくれたのはありがたいんだけれど…… 「……お、お水」 「ん?」 「お水、撒いてくるねっ」 「あ……」 「……はぁ。これから暑くなるのに」 杏子はどこかぎこちない動きで外に出ると、店の前に水を撒く支度を始めた。 屋外にある蛇口にホースをつないでいるところで、やってきた宗太に声をかけられている姿が、扉のガラス越しに見えた。 声まではさすがに聞こえないけれど、宗太とは結構普通に話しているように見える。 「なんだかなぁ……」 「よう。朝からご苦労さん」 「いらっしゃい……」 「ん? なんだぁ。お前は機嫌悪いのか?」 「お前は、って」 誰かと比べられているような言い回しに少し怪訝な気分にさせられながら、一応はお客様なので水を用意する。 扉の向こうから杏子が、接客のために戻ってきた方がいいのかどうか迷っているような顔をしていたので、軽く頷いておく。 すると杏子は、少し慌てた様子で視線を泳がせてから、ぺこりと頭を下げて…… 手にしていたホースからあらぬ方向へと水を撒いてしまい、余計に慌てていた。 「大丈夫かな?」 「ん? ああ、杏子ちゃんか。 楽しそうだからいいんじゃね」 「楽しそう?」 「ああ」 僕の差し出した水のグラスを一気に受け取ると、宗太はぐいと一気に呷った。 「ぷはぁっ! この1杯のために生きてるな」 「安い人生じゃない、それ……」 「何を言う。水だって時と場所によっては、宝石以上の 価値が生まれるんだぞ」 「炎天下の中歩いてきて、干上がった喉を潤してくれる この水は、まさに至高の一品!」 「はいはい…… それで、杏子が楽しそうって?」 「おーい、先にオーダーとってくれないか、店員さんよ」 「アイスコーヒーでしょ」 そう答えながら僕はもう、グラスの中にたっぷりと氷を入れ始めていた。 「……見抜かれてるのもなんか悔しいな」 「つか、俺のことと同じぐらい杏子ちゃんのことも 見抜いてやれよ。ありゃどう見たってご機嫌だろうが」 「そう……なのかな? う~ん」 言われてまた杏子のことを、ガラス越しに眺めてみる。 彼女は、店の前にある植え込みにも水をやっているところだった。 その表情が少し優しげかな……と感じた次の瞬間。 「!!」 僕が見ていることに気づいて、杏子はまた慌てた様子で、くるりと背を向けてしまった。 「う、うーん。避けられているようにしか思えないん だけど」 言いながら、手元で用意していたアイスコーヒーを宗太に差し出す。 宗太はそこにガムシロップをたっぷり放り込むと、ストローでかき混ぜながら僕に尋ねてきた。 「俺はまたてっきり、お前がなんかしたのかと思ったぜ」 「なんかって何さ」 「抱き締めてこう、ぶちゅ~っとか」 自分で自分を抱き締めるようにして、唇を尖らす宗太。 「……セクハラだよ、それは」 『同居人』にそんなことをしたら、避けられるどころでは済まないと思う。 「いやほらいつだっけ、みんなで飯食いに行く途中で、 お互い歩み寄れとか言った覚えがあるからさ」 「その結果として、杏子ちゃんの機嫌がいいのかなぁ~と 思ったんだが」 そう言ってストローを口にした宗太が、アイスコーヒーを吸い上げて顔をしかめる。 「甘過ぎた……」 ふざけながらガムシロップを入れたせいか、よくかき混ざっていなかったのかもしれない。 「……はぁ。だからって、いきなり抱き締めるとかないよ」 「じゃあ何したんだよ~。 怒らないから、オジサンに教えてごら~ん?」 宗太が『へっへっへ』と語尾につけ、こちらに興味津々な視線を向けてくる。 「いや……一緒に散歩しただけだってば」 「散歩? どこ行ったんだよ」 「僕たちが小さい頃よく遊んでた場所を、ひと通り」 「ってえと、あれか、森とか神社とか海岸とか」 宗太も、杏子や芹花ほどではないにしても、僕とは子供の頃からの付き合いだ。 だから、この近所で遊んでいた場所といえば、大体思いつくところは一緒だった。 「あと、最後に花畑」 「ふーん。そこで何かあったのか?」 「……あった、といえばあったんだけど」 「抱き締めてぶちゅ~っか! あそこ、意外と人目を避けられる、穴場だからなぁ」 宗太がまるで、自分がそういう経験があるみたいに、不敵な笑みを浮かべていた。 ……けれどたぶん、絶対人づてに聞いただけの話だと思う。 「そんなことしてないってば。 ただ……」 「ただ、なんだよ」 「……杏子がいきなり、走って先に帰った」 「……お前、杏子ちゃんに何言ったんだよ」 半分呆れ、半分戸惑い。宗太はそんな表情を浮かべていた。 「抱き締めてぶちゅ~はともかく、俺の中ではだいたい 108パターンの状況を想定していたんだが、 そのどれにもあてはまらないぞ、その結果は」 「……後学のために今度、その108パターン全部、 レポート用紙にまとめてくれる?」 「企業秘密につき却下」 ……絶対考えてないな。 「にしたって、想定外は想定外だ。話が飛びすぎてて よくわからん」 「いや、まぁ……うん。昔のことを謝ったらそうなった、 というか」 「ほほう。昔のことを、ねぇ。 そこをもうちょい詳しく、というか先に言え」 「詳しく、って……」 母さんの命日で、杏子が引っ越す日に、せっかく励ましてくれた彼女に心ないことを言ってしまった。要約すればそういうこと。 杏子は悪くなくて、むしろ僕が一方的に悪いだけのことだから、話してもいいかと考えて、宗太に説明した。 「なぁるほどねぇ。そりゃお前が悪いわな」 案の定、宗太にはあっさり切って捨てられた。 「ま、こういうのは大抵、女子の方が総じて大人だからな」 「彼女が自分のことを二の次にして気遣ってくれたことを、 ガキだったお前がわからなくても無理はないけど……」 そんなことを悟ったような口調で言いつつ、宗太はまた、外で水撒きを続けている杏子に目を向けて…… 「……それだけにしちゃ、ご機嫌過ぎねぇ?」 と、少し首を傾げた。 「そうかな?」 杏子がご機嫌だということ自体、僕はまだ半信半疑だ。 僕に向き直った宗太も、今度はもうひとつ自信がないらしく、腕を組んで考え込んでいる。 「彼女にとってはそれぐらい、胸のつかえがとれること だったのかもしれないけどなぁ……」 「でも、謝っただけで、ああなるもんかね?」 そこで僕たちは申し合わせたように、また外へと目を向けて―― 「!?」 ……こちらを見ていた杏子とばっちり、目が合ってしまった。 そして杏子は駆け去り……こそしなかったけれど、物陰に隠れてしまった。 「……やっぱお前、ほかにもなんかしたんじゃねーの?」 「なんかって何さ」 「だからぁ、例えば彼女に『髪が綺麗だね』って褒めたり とか、『好きだ』って告白したとか、抱き締めて ぶちゅ~ってしたとか」 「だからそんなことしてないって」 「……あ」 ひとつ、彼女に告げたことを思い出した。 褒めたのは髪じゃないし、好きだって言ったのも告白の類ではないけれど―― 「おっ!? 身に覚えあり、って顔だな」 「う、う~ん。でもそれこそ、違うんじゃないかなぁ?」 「なんだよ、いいから言ってみろって! やっぱ抱き締めてぶちゅ~か!?」 「だから違うって――」 「ちょっと、聞き捨てならない言葉が聞こえましたねぇ」 「ホント……誰が誰にセクハラしたのよ」 「うぉわ!」「うぉわ!」 芹花と雪下さんの突然の登場に、僕らはすっとんきょうな声をあげてしまった。 「まさかとは思いますけれど、西村くんに限って 突然、野獣のように誰かに襲いかかったんじゃ ありませんよね?」 「……それはそれで燃えますけど」 「美百合、あんた最近方向性がおばさんっぽい」 「ええっ!? そんな……!!」 「ただちょっと、今年の夏は『攻める女』というテーマで いこうって、そう思っていただけなのに……」 「攻めでも受けでもいいが、どこから現れたんだ!?」 「真一の家の方から。お母さんが、どうせ一緒に住むんだ からって、もう合い鍵もらっててさ。 せっかくだから使ってみた」 「私はそこでたまたま芹花と会ったので、一緒に。 ふふっ、驚きました?」 「できれば、正面からの入店をお願いします……」 お客さんが来るとドアベルが鳴るから、逆にそれが鳴らない限り、油断している。 しかも従業員や家族しか使わない、店の奥にある通用口からこっそり来られたんじゃ……気づくのだって遅れるよ。 「で? ホントになんの話をしてたのよ」 「真っ昼間から男ふたりで、杏子を追い出して密談なんて、 ひどくない?」 「杏子ちゃんは、自分から進んで水撒きを引き受けた らしいぞ」 「俺が来た時にはもう外にいて、当の本人の口から聞いた」 「で、その杏子ちゃんがご機嫌なように、俺には見えるん だが」 「へぇ? 杏子が」 そこでまた、申し合わせたように、みんなが外へと目を向ける。 「んっ……」 今度は予め身構えていたのか、杏子はみんなの視線を受け止めても、慌てることがなかった。 むしろ芹花や雪下さんに向けて、軽く手を振るぐらいの余裕を見せている。 「……確かに、ご機嫌みたいですね」 「何かいいことあったのかしら?」 「ええっ? ふたりまでそう思うの?」 宗太の言い分にあっさり同意した芹花と雪下さんは、あれこれ好き勝手に推測し始めた。 「おうちのことで、何かあったんでしょうか?」 「そういえば、しばらくその辺りの事情は聞いてないわね」 「元々何も聞かされてないけどね……」 「……あ。以前、仔猫を拾ったことがあったんですよね? その子と再会した、とか」 「実は結構会ってるらしいよ。僕も昨日知ったんだけど」 「へぇ~、そうだったんだ。 って、なんで真一がそんなこと知ってるのよ?」 「あ、いや……昨日、たまたま話を聞いて」 「真一と“ふたりで”散歩してきたらしいぜ。 で、それ以来杏子ちゃんはあんな感じなんだって」 宗太が『ふたりで』という部分をやけに強調して言うと、途端に芹花と雪下さんの動きが、ぴたりと止まった。 「……って、それじゃ考えるまでもないじゃない」 「ふーむ。そうなりますかねぇ…… ちょっと残念ですけど、仕方ないのかしら」 「えっ?」 女の子ふたりが天井を仰いで、どこか遠くを見るような表情を浮かべていた。 そしてひとつため息をついてから、揃って僕の方へ顔を向ける。 「デートしたからに決まってる!!」「デートしたからに決まってる!!」 「……わよね」 「……ですよねぇ」 「はぁ~」「はぁ~」 「いやだから、ただの散歩だし。 なんでそこでため息?」 「ため息もつきたくなるわよ、あんたの鈍さにはっ!」 「まぁあとはそれこそ、ご本人に聞いてみなければ、 わからないことでしょうけど……」 そう言って、雪下さんが店の表へ目をやった。 僕たちのやり取りが気になるのか、杏子が首を傾げている。 「――よし! 美百合、一緒にちょっと聞こう!」 「あら。いいんですか、そんなことをして?」 「な、何がっ」 「だって……」 一瞬、雪下さんはためらう……というか、芹花を気遣うような目を向けた。 芹花はその視線を受けて、ちょっとだけ目を逸らした。そしてほんの少しためらいがちに、口を開いた。 「……何事も、ハッキリさせなきゃ始まらないじゃない」 「あたしには……そう! 真一の姉として、こいつが 杏子になんかしてないか知る、義務があるから義務が!」 「なんか、って……」 しかもいくら家族になるからといっても、芹花が僕の『姉』だなんて、ちょっと想像つかない。 「お姉さん、か……」 「なら私はさしずめ、ひと夏を駆け抜けた、通りすがりの 女というところでしょうか。ふふっ」 「?」 雪下さんまでどこか寂しげに笑うと、彼女は芹花の手を取った。 「では少し、杏子ちゃんに事情聴取といきましょうか!」 「う、うん……そうねっ!」 「真一、ケーキセット3つ! オレンジヨーグルトケーキ とアイスティーで大至急用意してっ」 「えっ……ええ?」 「何を始める気だ……って聞くのも野暮、か」 宗太はこれから芹花たちが何をどうするのか、半分予測できているみたいな顔で、肩をすくめた。 「そうね。これは、女同士の話し合いだから。 男子禁制よ!」 「ふふっ」 「…………?」 結局、僕は何も教えられないまま…… 芹花と雪下さんは杏子を店内に呼び戻すと、僕が用意したケーキセットを持って、家の方へと引っ込んでしまった。 女3人、これから杏子の部屋で大事な話をするから、男は絶対入って来るな! と言い残して…… 「……どういうことだろう?」 「自分で考えろ」 ずずーっと、宗太がアイスコーヒーを飲み終える頃になっても、3人はカフェに戻ってくることはなく…… 「ありがとうございましたーっ……ふぅ」 夕方まで、僕ひとりで店を回すことになった。 宗太も途中まで皿洗いぐらいは手伝ってくれたんだけど、『アイスコーヒー1杯でこき使うな!』と笑顔で言って、ピークを過ぎた辺りで帰っていった。 「うっわぁ……散らかってるなぁ。飲食店として どうなのよ、これ」 ようやく――といった感じで奥から姿を見せた幼なじみの第一声が、それだった。 ひとりではオーダーをこなすのが精一杯だったものだから、一部のテーブルはまだ食器が片付けられていなかったり、ナプキンが切れたままだったりする。 普段、きちんと整理整頓が行き届いている店内を見慣れていると、今のそれは戦場の跡みたいな散らかり様だ。 「宗太が手伝ってくれなきゃ、もっとひどい有様になって いたよ」 「あっ、ひょっとして、杏子ちゃんがお手伝いするはず だったんですか?」 「ごめんなさい、彼女は気にしていたんですけど、 私たちが引き留めてしまって」 「いやもういいけど…… その杏子は?」 家の方から姿を見せたのは、ふたりだけだ。肝心の杏子がいない。 「いやまぁ、その……ねえ?」 「恥ずかしくて今は、西村くんの顔を見れないそうです」 「…………はい?」 面食らった僕に、芹花と雪下さんがそれぞれ微妙な――芹花は何か言いにくそうな、雪下さんはちょっと楽しんでいる風な表情を浮かべた。 「あそこまでまっすぐで、一途だと……うん、勝てる気が しない」 「そうですね……私も、年期の長さでは負けないつもり でしたけど」 「…………」 ふたりともどこかさっぱりしたというか…… そう、いつだったかドッジボール対決を終えた後と同じような表情を浮かべていた。 「完敗ですよね」 「そうね……あーあ。あたしもあんな風に、可愛い性格の 女に生まれたかったなぁ」 「……一体、なんの話をしていたのさ」 「…………」「…………」 「な、何?」 なんだか睨みつけられている気がする。 「……はぁ。どうしよう、このバカ」 「まぁまぁ。 やっぱり気になりますか、西村くん?」 呆れた様子の芹花をなだめてから、雪下さんは僕に尋ねてきた。 「……うん、気になる」 「どういう理由で?」 「え……理由?」 じっと、雪下さんは真顔で僕のことを見つめていた。 「はい。気になるからには、それ相応の理由があるはず です」 「なんとなく、とか、興味本位で……というわけではない ですよね?」 「それは……うん。そうだね」 ただ気になるわけじゃない。 花畑で杏子とやり取りした言葉のいくつかが、僕の中に浮かんでは消えて……心を波打たせていた。 ひょっとしたらあれが……もしかしたらこれが…… そんな風にひとつひとつの言葉を思い返す内に、不安に駆られる。心配になる。 「……そうね。宗太のバカがここにいたら、単に 面白がって首を突っ込んでくるところでしょうけど」 芹花もそこで僕を見て、静かに言った。 「真一は、当事者なんだから」 「当事者の割には、ないがしろにしてしまいましたけれど ね。ふふっ」 「い、いいのよ。どうせこいつはその場にいたって、 『ああ』とか『うん』しか言わないに決まってるん だから」 「ん……つまり、僕が返答に困るようなことを、3人で ずっと話していたの?」 僕がふと、芹花の言葉から連想したことを尋ねると、ふたりは困ったように顔を見合わせた。 そして―― 「……き、聞いたらあんたも恥ずかしいだけよ」 と、芹花は途端に耳を真っ赤にしてそっぽを向き…… 「ふふっ……そうですね」 「女の子は元来奥ゆかしい生き物ですから、殿方が 聞いたら困るような、本音を抱え込んでいるんです」 と、雪下さんには煙に巻かれた。 「それでもなお、聞きたいというだけの理由が――」 雪下さんの真剣なまなざしが、もう一度僕に問いかける。 「あなたには、ありますか?」 「……うん。ある」 「え、真一……?」 これまでなら、ふたり(と杏子)がここまで隠そうとするのであれば、深く追求しなかったと思う。 そうすることが悪く思えて、きっと遠慮していた。 けれど僕には……杏子のことだけには、どうしても引っかかりを覚えてしまうんだ。 「……僕が、杏子をまた傷つけたんじゃないかって、 心配だから」 「え……そんなことは」 「…………」 「昔、さ。杏子の笑った顔が好きで、可愛いって思って たのに……」 「たまたま機嫌が悪かったからって、『可愛くない』とか 『ヘンな顔』とかなんて、心にもないことを言って しまって」 母さんの命日だったとか、子供だったからとかなんて、理由にはならない。 僕が彼女に、ひどいことを言ってしまった事実に変わりはない。 そしてせっかく再会したのに、僕はまた同じように、彼女へ告げるべき言葉を間違えたんじゃないかって思えて…… 「だから今、避けられているのもまたそのせいじゃ ないかって、ずっと引っかかっていて――」 「って、バカ!!」 つかつかと歩み寄ってきた芹花が、いきなり僕の胸を叩いた!! 「って!」 「ホントバカ! 真面目過ぎ! 堅物! 鈍感! 悲観し過ぎ!!」 芹花は矛盾するような単語を並べながら、僕の胸を拳骨で殴り続ける。 「え……あ、いや、ちょっと?」 けれどちっとも痛くない。芹花の拳には、力が入っていない。 「うぅぅ~……」 「まぁまぁ、よかったじゃないですか、芹花」 戸惑うばかりの僕を見かねてか、雪下さんがそっと芹花の肩を抱いて、僕から引き剥がした。 そして芹花の耳元に、何かそっとささやく。 「……私たちの目は節穴じゃなかった、ってことですよ。 だって西村くん、こんなにいい人なんですもの」 「そういう問題~……?」 そして芹花は、わけがわからないままの僕をキッと見据えると―― 「真一ってばさぁ……」 僕の方を見ながら、その手はきつく、雪下さんの袖を掴んでいた。まるですがりつくみたいに。 「ひょっとしてずっと……あたし……ううん、あたしたち と会う前からずっと、そんな風に杏子に対して申し訳 ない気持ちを抱いていたわけ?」 「……そうだね」 気づけば彼女のことを思い出していた。 ずっと彼女に謝りたいと願っていた。 この町には……杏子との想い出ばかりが残っているから。 「私たちは眼中なし、かぁ……さすがにちょっと、 堪えますね」 「…………わかってたけど、ね」 僕には聞こえないように、ふたりがぼそぼそと短い会話を交わしていた。 それはたぶん彼女たちが言うところの、“僕が返答に困るようなこと”。 だから芹花は、何事もなかったように顔を上げて、また僕に質問し始める。 「その、杏子に申し訳ないって気持ちは、幼なじみとして のもの? それとも……」 「芹花」 黙って芹花の言葉を聞いていた雪下さんが、その時だけは、短く名前を呼ぶことで話を遮ろうとした。 けれど芹花の声は……止まらなかった。 「――それとも、男と女としてのもの?」 「……いきなり何さ?」 「はぐらかさないで」 芹花からの突拍子もない質問。 「…………」 僕は即答できなかった。 男と女――恋とか、愛? 「……どうなのよ?」 畳みかけてきた芹花の声が少し震えていたように思えたのは、気のせいか。 「……わからない」 「わからない?」 「うん……当たり前すぎて、わからない」 芹花の眉が寄った。雪下さんも少し、小首を傾げたみたいだった。 杏子のことをただ『幼なじみ』と呼ぶには、離れていた期間が長すぎた。 彼女のことを想っている時間が、あまりにも長すぎた。 彼女のことを思いわずらい、気に懸け、その笑顔をまた見たいと願う時間が……空気を吸うように、毎日の生活に溶け込んでいた。 「でも、杏子のこと嫌いじゃないんでしょ?」 「うん、嫌いじゃない。むしろ好きだと思う」 「ただこの気持ちが友達としてのそれなのか、 そうじゃないのか、よくわからないんだ」 「もしかしたら、昔ひどいことを言ってしまった……その 償いとか同情とか……そういう気持ちでしかないんじゃ ないかって思えて、仕方なくて」 「……そんな風に迷って、苦しむってことは、もう答えは 出ているような気もしますけど」 「…………」 芹花や雪下さんの顔には、いつしか苦笑めいたものが浮かんでいた。 「そうね。杏子のために何がしたいか、どうしたいかが 重要であって、そのきっかけが何かなんて関係ないわよ」 「そもそも、ただの償いや同情だけなら、そんな風に 苦しんだりすらしないわよ。ひたすら『申し訳ない、 申し訳ない』って思うだけで」 「迷うということは間違いなく、それ以外の感情が入って いる証明」 「過去に何があったかと、真一の気持ちは別でしょ?」 「僕の、気持ち……」 杏子に対する、僕の気持ちは…… 「ただいま――っと、なんだ。ふたりだけか」 ちょうど帰って来た父さんと兄さんが、店内を見渡す。 芹花と雪下さんの姿はあるのに、杏子の姿が見えないことを不思議に思ったみたいだ。 芹花はさっきまでの態度がウソみたいに、明るく笑って父さんたちを出迎えた。 「ふたりともお帰りなさ~い」 「杏子ちゃんは今、休憩中です。 ね、西村くん?」 「あ、ああ。うん」 雪下さんに軽く目配せされてしまったら、話を合わせるしかない。 「……では、今日はもうそのままあがってもらおう。 あとは私がやるから、真一ももういいぞ」 父さんはそう言って、早速散らかったテーブルを片付け始めた。兄さんもそれを手伝う。 「あ、僕も」 「いいさ。お前は杏子ちゃんと休んでこい」 「う……」 杏子と、かぁ。 今、僕が杏子のところへ行って、顔を合わせてもらえるかな? 杏子の名前を聞いた芹花と雪下さんは、軽く微笑み合ったかと思えば、さっさと店を出て行こうとしているし。 「んじゃ、あたしたちは帰りましょうかねぇ、美百合」 「そうですね。あとは若いふたりにお任せして。ふふっ」 「同い年でしょ。見合いじゃないんだし」 「はぁ……もう美百合~、ふたりで傷心旅行にでも 出かけない~?」 「いいですねぇ。温泉とかどうですか? ちょうど 気になる場所があったんですよ……」 まるで聞く耳もたないといった様子で、ふたりは出て行ってしまった。 「…………ふぅ」 仕方ない。気になるのは確かだから、杏子の部屋へ行ってみるか…… 「杏子?」 部屋のドアをノックしてみると、中で人が動く気配があった。 「し、真一くんっ? きゃっ」 「だっ、大丈夫?」 なんだか、物の落ちる音がしたような…… 「へ、平気……」 だけど彼女は、ドアを開けて出てくることはなかった。ドアの側、すぐ向こうにはいるみたいだけど…… 「あの、さ。えっと……芹花と雪下さんは、もう帰ったよ」 「そう……なんだ」 「父さんたちも帰ってきて、今日はもう、カフェの 手伝いしなくていいってさ」 「そう……」 「だから、その……」 だから、どうする? 顔が見たい?話がしたい?聞きたいことがある? ……何をどう話して聞くっていうんだ? 「そうだ、散歩」 「ん……?」 「散歩に行こう」 「お散歩……?」 「うん、今から。ダメかな」 「…………」 「一緒……に?」 「うん、一緒に」 杏子は僕の方を見ようとはしないで、俯いたままだったけれど…… 「…………うん」 確かに頷いてくれた。 「さて、と。どこへ行こうか?」 「…………」 「昨日と同じところを廻る? それとも、どこか遠くまで 足をのばしてみる?」 「ん……」 といっても、もう日が傾きはじめているから、あまり遠出すると、帰ってくる頃には夜になってしまいそうだけど。 「じー……」 「ん?」 「ひゃっ」 ……なんだか視線を感じたので見たら、慌てた様子で目を逸らされてしまった。 誘えば出てきたし、嫌がっている様子もないんだけど……目だけは合わせてもらえないなぁ。 「あら?」 「香澄さん」 どうしたものかと少し考え込んでいたところで、香澄さんが通りかかった。 「お出かけ?」 「うん、ちょっと散歩に。香澄さんは?」 「お買い物の帰りよ。お散歩なんていいわねぇ」 「……か、香澄さんも……行く?」 「えっ?」 見れば杏子は、香澄さんの服の袖を掴んでいた。 まるで、迷子がお母さんを見つけたところのように見える。 「あら、私が一緒で、いいの?」 「ん」 「…………」 僕とふたりっきりじゃ、やっぱりイヤなのかなぁ……? 「そう、いつも杏子ちゃんはこの辺りを廻っていたの?」 「ん……」 杏子は、香澄さんの背中に隠れるようにして歩いている。 僕からはちょうど、彼女の顔は隠れて見えない。 「確かに懐かしいところばかりね。私もよく芹花ちゃんや 真一くんと遊んだ覚えがあるわ」 「ん……」 「そういえばそろそろ、お祭りがあるんじゃないかしら?」 「え?」 「ああ。毎年ここでやってるやつ?」 ほかに大したイベントのある町じゃないから、毎年のように宗太や芹花と一緒に、露店目当てで来ている。 「今年は、杏子も一緒に来る?」 「えっ!?」 ……何気なく聞いたら、ひどく驚かれた。 「そうね。美百合ちゃんも誘って、みんなで来たら 楽しいんじゃないかしら?」 「香澄さんもね」 「もちろん。ふふっ」 「み、みんな……なら。うん……みんなで……」 「?」 杏子はどこかほっとしたように、繰り返し『みんなで』と言っていた。 やっぱり、避けられているのかなぁ……でもそれにしては…… 「それにしても、夕方になっても暑いわね。 どこかでアイスでも食べましょうか?」 「ああ、賛成。杏子もどう?」 「んっ、うん。アイス、食べたい……」 話しかければ、答えてくれる。一緒に来てくれる。ただ、目を合わそうとしないだけ。 「……う~ん……」 「……あらあら」 考え込みながら歩き始めた僕と、その場でもじもじしている杏子を見比べて、香澄さんが少し笑ったように思えた。 「んー……」 「……ん?」 「ひゃっ」 「…………」 ここ何日か、相変わらず杏子の様子がおかしい。 「……んん」 「――杏子」 「あっ、はい!」 「……今の内に休憩とる?」 「あ……ん、んんっ、ここに……いる」 「そ、そう……」 今日は父さんもいるし、今はそんなに忙しくもない。 手伝いの合間、手持ち無沙汰な様子でカウンターの前に立っている杏子が、時々僕の様子を窺ってきては……今みたいな会話を繰り返していた。 「ん……んん」 今もまた、ちらちらとこちらを見られている。 居心地が悪いわけでも、気まずいわけでもないんだけど、どこか落ち着かない。 どうしたものかなぁ…… 「おっはよう~♪ おふたりさん、青春してる~?」 「芹花……宗太みたいだよ、そんな恥ずかしい挨拶」 「うわ……最悪の例えね、それ」 「……あ~なんかでも、今ならあいつがこんなセリフ 言いたくなる気持ちがわかるかも」 「ん?」 自分だけ納得したようなことを言って、芹花がカウンター席に着いた。 すかさず杏子が、水とおしぼりを用意する。 「ご、ご注文、はっ?」 「それより杏子~、少しは進んだ?」 「そっ、そんなすぐには……無理……だよ」 「進むって、何が?」 「女同士の会話に割り込んでくるんじゃないわよ」 「ま、夏休みの課題みたいなものよ。うん」 「そ、そうそうそうっ」 「…………」 杏子って、ウチの学園に通うのは2学期になってからだから、そもそも課題なんてもらってないんじゃ? 「おお? おっはよう~♪ みんな揃って、 青春してるか~い?」 入ってくるなり僕らの顔を見て、そんなことを叫ぶ宗太に、芹花ががっくりと肩を落としていた。 「……あたし、やっぱりこいつと同レベルなんて、ヤダ」 「いきなり失礼な。何を言い出す」 「真一と杏子の顔を見ていたら、あんたがさっき言った ようなセリフがぽろっと出てきてね。自己嫌悪に 陥ってたところなのよ」 「ほうほう? 真一と杏子ちゃんを、ねぇ」 「んっ……」 宗太が僕と杏子をじろじろと眺めるものだから、ふたりして居心地が悪くなってしまった。 「もう、それよりご注文は?」 「ああ、真一先生に家庭教師をお願いしたい」 「は?」 見れば宗太は珍しく、勉強道具が入っているらしい鞄を手にしていた。 「いや、課題で一箇所よくわかんないとこがあってさ。 これはひとりで悩んでいても仕方がない、誰かに 知恵を借りることは恥ではない!!」 「……と、そう思ってさ」 「何よ、それならあたしが今この場で見てあげよっか? スペシャルサンデーで手を打とうじゃない」 「たけぇよっ! それに俺は、どうしても真一と部屋でふたりきりに なって、一緒に課題をやりたいんだ!!」 「ええっ?」 「キモッ。男同士なんて、不潔」 「不潔なのっ!?」 「ヘンなところに食いつかないで……」 「最近、真一とふたりっきりで過ごす時間もなかった からな」 「久しぶりに……じゅるり」 「久しぶりに何する気よ……」 「じゅるり???」 「あー、まともに反応しなくていいから」 「普通のお客さんならともかく、俺らが店の中で 勉強道具広げてたら、迷惑だろ? だから、 真一の部屋でと思ってさ」 「最初からそう言えばいいのに……別に構わないよ」 父さんの方を見ると、何も言わず頷いてくれた。杏子もいるし、お店の方は大丈夫だろう。 「よし、んじゃ早速お邪魔するぜ~」 「うん。 杏子ごめんね、お店の方はよろしく」 「ん、うん……」 「ああっ、真一はなんて薄情なんでしょう!」 「杏子、あたしたちはあたしたちで、女同士の幸せを 見つけようね!」 「えっ……ええ???」 ……やっぱり、芹花と宗太はノリが似てきているんじゃないだろうか? 「で、課題は何が終わってないの?」 部屋に入ってそう尋ねると、宗太は悪びれた様子もなくこう言った。 「あ、悪いな。ありゃウソだ。実は全部終わってる」 「はぁ?」 「お前の部屋に入るための口実さ。 あ、逆にお前の課題、見てやろうか?」 「なんだってそんなウソを……じゃあ、その鞄は?」 「……俺だってなぁ、真一。人に見られたら恥ずかしい 物のひとつやふたつは、あるんだぜ」 「ああ、エッチなDVD?」 「ストレートに言うなよっ、恥ずかしいだろ!」 「それに今どきは、DVDじゃなくて、〈BD〉《ブルーレイディスク》な? エロさが全然違うんだぜ!?」 誰か、クラスの男子に借りたんだろうなぁ。みんなで交換している時があるから。 「いやそれよりも、だ。 ちょっと芹花や杏子ちゃんの様子が気になってな」 「ふたりの?」 「杏子ちゃんはほら、なんか機嫌よさそうというか…… ここんとこ、やけに可愛くね?」 「…………」 「おっと! 待て待て誤解するなっ。 俺は別に杏子ちゃんを狙ってるわけじゃねーよ」 「えっ……あ、いや、そんなことを考えたわけじゃない けど」 「その割にはお前、今、『俺の女に手を出すな』みたいな 顔してたぜ?」 「ええっ!? そんなつもりは……」 「してた。おっかない顔」 「……そうなのかな?」 「だぁもう、自覚もなしかよ。んじゃ想像してみろ」 「俺じゃなくてもいい、杏子ちゃんにそこらのナンパ男が 近づいて、彼女を口説いているところを」 「…………」 「ほら! 怖い顔になった!」 「ええ……いやでもそれは、ほら……」 「杏子ってハッキリものを言えないところがあるから、 そんな相手に絡まれたら大変だろうなっていう」 「んじゃ別に、ルックスが良くて顔も良くて非の打ち所が ないイケメンが、杏子ちゃんに言い寄っているところ でもいいぞ?」 「手近なところだと、雅人さんとか」 「…………」 「……お前、メチャクチャ怖い顔になってるぞ。まぢで」 「ああ、うん。 兄さんはそんなことしないと思うんだけど……」 兄さん相手じゃ、勝てる気がしない。そう思ってしまったんだ。 ……でもじゃあ、『勝てる』って?僕は杏子を誰かと争って……自分のものにしたいのか? 「相手が雅人さんじゃあ、尻込みするか?」 「だから、兄さんはそんな」 「うん。雅人さんは別に、杏子ちゃんを口説いたりしない と思う。俺もだ」 「みんな、お前に怖い顔されたくないからな」 「だから、僕は……」 「逆に、だ。杏子ちゃんはお前と出歩くようになって、 ずいぶん機嫌がいい」 「まぁ、相変わらず表情や言葉には出てこないんで、 わかりにくいっちゃわかりにくいが」 「さっき“すずらん”の前で香澄さんとも話したんだが、 3人で出かけたこともあったんだって?」 「ああ、うん。ちょっとした散歩程度だけど」 「その時、香澄さんはお前らを見て『ああ、昔のふたりは いつもこんな感じだったんだろうな』って、微笑ましい 気分になったらしい」 「昔……みたいに、ってこと?」 香澄さんは、昔僕と杏子が一緒にいた時のことは知らないはずだ。 けれどその香澄さんが、今の杏子を見て、昔はきっと……って思ったってことは……? 「いい感じに、肩の力が抜けてきてるのかもな。 杏子ちゃん」 「……だと、いいんだけど」 あとは昔みたいに、笑顔を見せてくれればって思う。 目を逸らされてばかりの今は、難しいかもしれないけれど…… 「で、まぁ、杏子ちゃんはひとまず置くとしても、だ」 ずっと立っていた宗太が、その場にどっかりとあぐらをかいて座り込む。 つられて僕もテーブルを挟んで、腰を下ろした。 「……芹花たち、な~んかおかしくね?」 「んん?」 「なんというか……憑き物が落ちたみたいに、といえば 聞こえはいいんだろうけど、見方によってはやけっぱち というか」 「……そう、なのかな?」 「雪下さんだってここんとこ、カフェに顔出してないん じゃないか?」 「…………」 言われてみればここ数日、彼女の顔を見ていない。 毎日のように来ては、オレンジヨーグルトケーキを注文していたのに。 最後に彼女と会ったのは、確か…… 「あ。女の子3人で話していた日以来、か」 「やっぱそういうのか~。先に帰るんじゃなかったなぁ」 その日、やけ気味に皿洗いを手伝ってくれた親友が、後悔先に立たずという様子で頭を掻いている。 「話の内容は大体想像できるんだが」 「え? できるの?」 「……まぁ、逆にお前には想像できないだろうことも、 わからなくはない」 「?」 「その話のあとで、芹花となんか話したか? 雪下さん相手でもいいけど」 「ああ……うん、まぁ。ふたりから色々聞かれたけど」 「ほう? なんて?」 「……杏子のことをどう思ってるのか、って」 「……女ってのは、時としてひどくストレートだねぇ」 宗太が感心したようなことを言いながら、ひどく悲しそうな顔で天井を振り仰いだ。 「自分が傷つくかもしれないとわかっていても、 そんな残酷な言葉を吐けるなんて」 「まぁいいさ。それは芹花と雪下さんの問題だ。 で、お前はなんて答えたんだよ?」 「……わからない、って」 「はぁ?」 「好きか嫌いかで言ったら、好きだよ。 ただそれが、幼なじみとしてなのか……」 「昔、ひどいことを言ってしまった彼女に対する、 罪滅ぼしみたいな気持ちなのかもしれないって 思うと……」 「子供の頃からずっとそんな気持ちでいたから、今さら 改めてどうこう考えても……」 「はぁ…… お前、それ、そのまま芹花たちにも言ったの?」 「うん」 「このバカ」 宗太にしては短く、ストレートな言い方だった。 「それ、『色々あって素直に頷けないけれど、僕は杏子の ことが好きです。彼女のことをほかの誰よりも一番大切 に想っています』って、認めているようなもんだぞ」 「そう……かな?」 「言い回しの問題と、自覚の問題かもしれないけどな」 「そして、無自覚なお前が一番残酷」 「僕……が?」 「ああ。芹花にも、雪下さんにも、ひょっとしたら 杏子ちゃんにもな」 「…………」 「ま、杏子ちゃんが好きだっていうところからはぶれて ないみたいだから、そこは文句のつけようがない」 「芹花たちだって、相手が杏子ちゃんじゃ、ま、仕方ない かなって思うだろう。杏子ちゃんってさ、どこか ほっとけないところがあるから」 「真一が支えてあげれば、みんな安心するんじゃねーかな」 「僕に……それができるのかな」 「できるできないじゃなくて、したいかしたくないか、さ」 「で、お前は明らかに――」 「……うん。それは、そうだね」 ずっと、僕の幼なじみでいてくれた芹花と―― ずっと、僕に好意を向けてくれていた雪下さんよりも―― 僕は……杏子のことを―― 次の日、僕は杏子を遊びに誘った。 『どこか行きたいところはある?』と尋ねたら―― 「……海」 そんな答えが返ってきたから、僕たちは今、ここにいる。 泳ぎがあまり得意でない杏子だから、波打ち際に足をつける程度だったり、前にみんなで来た時と同じように浜辺でヤドカリを観察したりと…… そんな風にふたりでゆっくり、静かに時を過ごした。 これといって、何か話をしたかったわけじゃない。ただ…… 「寒くない?」 「へーき……」 「そっか」 「うん」 自分が彼女に抱いている気持ちはなんなのか、彼女は僕のことを本当はどう想ってくれているのか……確かめてみたかった。 ゆっくり……僕らなりのやり方で…… 「……ヤドカリ」 「そうだね」 規則的な波の音が、時間の経過を遅く感じさせる。 杏子と一緒なら、このままずっとこうしていても飽きない……そんな気持ちにさせられる。 「あ……」 ヤドカリの方は、僕たちの気持ちなんてどこ吹く風といった様子で、とことんマイペースに砂の中へと潜っていってしまう。 「あー……」 せっかく見つけたヤドカリが姿を消してしまう様子を、杏子は残念そうに見つめていた。 ところが、一度姿を消したヤドカリが、またふと顔を覗かせた。 「あ……」 何か忘れ物でも思い出したように地上へ這い出て、元来た方――杏子の傍へと歩いてくる。 「ん、んん」 「……よかった」 「え……?」 「杏子が、楽しそうで」 「ふぁ……!?」 「わ、わたし……ヘンな顔、してた?」 「え? いや、そんなことないけど?」 「…………」 突然立ち上がった杏子に驚いて、ヤドカリも逃げ出してしまっていた。 その姿があっという間に、砂の陰に消える。 「どうしたの?」 「う、うん……」 杏子は自分の顔を手で隠すようにして、その指の間から僕の方を窺うように聞いてきた。 「は、恥ずかしい、っていうのもあるんだけど……」 「?」 「……真一くんが、わたしと一緒にいて、 楽しいのかな? って、ちょっと心配に……」 「え?」 杏子は僕から視線を逸らすと、もじもじと自信なさげに呟く。 「わたし、芹花ちゃんや美百合ちゃんみたいに、 明るくないし……」 「香澄さんみたいに、優しいお姉さんってタイプでも ないから……」 「一緒にいても、つまんなくないかな、って……」 「そんなことない。楽しいっていうか、嬉しいよ」 自然とそんな、正直な気持ちが口からこぼれていた。 「ずっと離れ離れだった杏子と再会できて、今またこんな 風に一緒に過ごせて……それだけで嬉しいんだ、僕は」 「ふぁぁぁ……っ」 「杏子こそ……僕と一緒にいて、楽しくない?」 「んーんっ、んん!」 「よかった……」 「…………」 恥ずかしいのか、杏子は僕に背中を向けてしまった。 表情こそ見えなかったけれど、爪先で砂をかき混ぜている仕草が可愛らしい。 「……この前も言ったけど、僕は杏子の笑顔、好きだよ」 「んっ……」 「子供の頃の笑顔、忘れたことがなかった」 忘れられなかった。 今にして思えば、たぶんこれは――初恋。 「だから、もっと笑ってくれると、嬉しい」 「う……」 僕のお願いに、杏子はゆっくりと振り向いて…… 「……が、頑張って……みる」 そう言って、顔を真っ赤にすると、俯いてしまった…… 「ん~……」 海岸で話してからというもの―― 杏子はよく、自分の顔をよく触っている。 接客の合間に、頬を撫でたり、指で押してみたり…… 「ん……んん」 「…………」 「あっ! ひゃっ!?」 僕にその仕草を見られていることに気づくと、慌てて自分の顔を手で覆い隠す。 「うぅ…………」 そんな様子が、可愛くて微笑ましい。 彼女が笑顔を見せるよりもむしろ、僕の顔に自然と笑みが浮かんでしまう。 「あ、いらっしゃいませ」 「よう」 「なんだ、宗太か」 「なんだとはご挨拶だな。コーヒーくれ。アイスな」 そう無遠慮に言って、宗太がカウンター席に着く。いつもの光景、いつものやり取り。 「了解。ちょっと待ってて」 「い、いらっしゃいませっ」 「おうっ、今日もお店の手伝い? ご苦労さん」 「お、おじさんも、雅人さんもいないから……」 「んじゃ、朝から真一とふたりっきり? 大丈夫? こいつ鈍いから」 「悪かったね」 「し、真一くんは優しいし……一緒にいると、楽しいから、 平気……」 「へぇ」 「あ……うぅぅ」 なんだか恥ずかしいことを言ってくれた杏子が、観葉植物の陰に隠れた。 「へぇ~」 宗太は明らかに面白がっている様子で、僕にとぼけた声を向けてくる。 「へぇぇぇぇ~。だってさ」 「うん、まぁ、ほっとした」 「おや。もっと照れるかと思ってた」 「そりゃ、恥ずかしいよ」 けれど彼女が、喜んで楽しんで、いつか笑顔を浮かべてくれるようになるのが……僕の希望だから。 それをハッキリ自覚した今となっては、それほど恥ずかしさもこみあげてはこない。 「ふーん。なんか、腹が据わったって感じだな」 僕の反応を見た宗太は、満足そうに笑ってスツールに腰掛け直した。 「そう?」 「芹花じゃねぇけど、何年幼なじみやってると思ってん だよ」 「…………」 「ま、ならあとは時間の問題だろうな。 同じ家に住んでるんだし」 「そう……だといいね」 本当に、あとはゆっくり……杏子が無理せず、自然に笑えるようになってくれれば…… 「あ、いらっしゃいませー」 と、今度は男性ふたり連れのお客さんが入ってきた。 見覚えのない顔だし、観光客みたいだ。ふたりとも、派手な縞模様のシャツを着崩している。 ふたりはずかずかと店内に入ってくると、窓際のテーブル席にどっかりと座った。 「うわ、ギャル男か? 今時まだいるんだな」 宗太が小声で言う感想は聞こえなかった振りをしておく。どんな格好だろうと、お客さんはお客さんだ。 杏子がいつものように、水とおしぼりを人数分持ってその席へ近づく。 まだあたふたしている感じは拭えないけれど、手伝いを始めた頃に比べたら、自分からお客さんに近づいていく分、ずいぶん物怖じしなくなったと思う。 「い、いらっしゃいませ。ご注文は……?」 「へぇ。可愛い子じゃん。小動物系ってやつ?」 「ちょうどいいや、オレたちと遊びに行かない?」 「!」 「え? あ、あの」 「おいおいおい……こんなとこでナンパかよ」 空気を読まない奴に引っかかる女がいるもんかうんぬんと、宗太はそれでもさすがに遠慮して、小声で言っているけれど…… 僕はことの成り行きから目を離せなくなっていた。 自然と、カウンターの中から店内へ出て行く扉に手をかけている。 「うぶな感じがたまんないねぇ」 「キミ、声かけられたの初めて? んなわけないよね~、 可愛いからもてるでしょう?」 「え、いえ……あの……」 「店員さーん、この子ひとりお持ち帰りしていい? キャハハッ」 「うはっ、手もちっちゃくてカワイイ~」 「ひゃっ!!」 ふたりは少し、酔っぱらっていたのかもしれない。海水浴場ではよくあるトラブル。 何より相手はお客さんなんだから、どんなに迷惑な人でも、丁重にご遠慮願うべきなんだと思う。 だけど、ひとりの男の手が、杏子の手を掴んだ時―― 「い……いやっ」 「!!」 僕は頭に血が上っていた。 「お前ら……!!」 宗太が叫んだ時にはもう、僕はカウンターから飛び出して、杏子をそのふたりの男から引き剥がしていた。 掴まれていた手を払い除け、杏子を庇って男との間に立つ。 「真ちゃんっ!」 「んだてめぇ……」 「お客様。当店でこのような迷惑行為はご遠慮願います」 「てめぇには関係ねぇだろ。やんのかコラ!」 男たちがすごみ、立ち上がって睨みつけてくる。 店内にいたほかのお客さんも、騒然と成り行きを見守っている。 正直、怖い。視線を集めるのも苦手だ。だけど…… 「真ちゃん……っ」 背中に庇った杏子が抱きついてきてくれただけで……震えが、止まった。 「……杏子に手を出したら、ただじゃおかない」 「あん?」 「彼女は僕の大切な幼なじみだ。これ以上 おかしなことをしたら、許さないっ!!」 「うっ……」 「ふわっ……」 僕が渾身の力を込めて睨みつけると、思いの外、僕に突っかかってきた男たちはひるんだ。 「あ、あ~、もしもし警察ですか?」 「ええ、今、喫茶店の中で暴れようとしているふたり組が いまして~、ええ」 カウンターの方から聞こえてきた声に、男たちの顔が引きつる。 「お、おい……」 「……ケッ! 胸クソ悪い店だぜッ!!」 腹いせのつもりか、男のひとりがテーブルをがつんと蹴る。 後ろに隠れた杏子が、ビクンと身体を震わせたのが伝わってきた。 けれど男たちは、僕が怯むことなく睨み続けていると、急に居心地が悪くなった様子で出入り口の方へと尻込みしつつ移動した。 僕だけでなく、宗太や、ほかのお客さんも一緒になって睨んでくれていた。 結局、男ふたりは最後は何も言わず、顔を見合わせると、そそくさと出て行った。 「…………ふぅ~~~」 ドアが閉まるのを見届けると、緊張の糸が切れたのか、僕はみっともなくその場にへたり込んでしまった。 「お疲れ~、かっこよかったぞ、真一!」 「はは……宗太もありがとう。ナイスフォロー」 近づいてきた宗太が親指をグッと立て、得意満面といった笑みを浮かべていた。 ほかのお客さんたちも、一緒になって笑みを浮かべてくれている。 ああ……近所のおじさん常連さんたちからは、『西村のちっちゃい方も、男になったのう』なんて声が聞こえる。ちなみに、『おっきい方』だと雅人兄さんになる。 「っと、杏子、大丈夫?」 慌てて背後を振り仰いで、立ったままの杏子を見上げる。 彼女は最後まで立っていたのに、自分はまだ立ち上がる気力も戻ってこないなんて、情けない…… そう、思ったんだけど…… 「うん……大丈夫」 「そう……よかっ……た?」 不思議な気がした。 あんな、杏子にとっては驚くようなことがあったばかりだというのに、彼女は―― 「わたし……嬉しい」 彼女は、これまで見せたことのないような笑みを浮かべていて…… 「真ちゃんがかばってくれて……嬉しい」 本当に嬉しそうに、表情をほころばせて…… 「ありがとう。真ちゃん……」 昔を思い起こさせる、笑顔を見せながら……僕に、お礼を言ってくれた。 僕はカウンターの中でグラスを拭きながら、ボーっと店内を眺めていた。 昨日杏子が見せてくれた笑顔が、頭の中に焼き付いて離れない。 あの時見せた杏子の笑顔を思い出すだけで、どうしてか鼓動がやけに速くなった。 「……はぁ」 思わず、ため息がこぼれる。 日をまたいでおさまるどころか、余計に意識してしまっている自分を自覚した。 昨日だってあの後、杏子とまともに目が合わせられなくて困ったっていうのに…… 「……くん」 でも、あれは卑怯じゃないだろうか? 完全に不意打ちだったし、心の準備も―― 「……真一くん?」 「うわっ! あ、あれ、杏子? どうしたの急に――」 「……さっきから呼んでた」 そう言って、少し不機嫌そうに頬を膨らませる杏子は、昨日の一件以来、その表情が豊かになったみたいだ。 対する僕はというと、なんだか目のやり場に困って視線が泳いでしまう。 胸に手を当ててみると、鼓動が信じられないくらいに速くなっていた。 「そ、そうだった? ごめん、気がつかなくって」 「……大丈夫? 顔赤いよ?」 「なんでもないからっ! それで、どうかした?」 「……あ、うん」 杏子は自分の指同士を絡めながら、ためらいがちに頷く。 けれどもすぐには言葉が出てこないみたいで、その視線が僕と自分の指先の間をいったりきたりしていた。 「……あの、その」 以前なら逃げ出してしまいそうな雰囲気の中、杏子は必死に言葉を探しているみたいだった。 頬を真っ赤に染めて、口をパクパクさせている。 その姿はまるで警戒心の強いリスみたいで、今、僕が何か言ったらその拍子にどこかへ逃げていってしまうような気がした。 「…………」 「……さ……さん……」 「さん……ぽ……」 「……散歩?」 「……と」 「散歩と?」 「……っ!」 杏子は慌てて否定するように、首を横に振った。ジェスチャーでゲームでもしてるみたいだな。 「……しん……い……ち」 「くん……と」 「僕と?」 「……うん」 杏子は……本当に恥ずかしそうに、はにかんで言う。 「また……お散歩、行きたいなって」 「え……えっ? ホント?」 「……んっ」 僕の言葉に、杏子が何度も首を縦に振る。杏子の方から、僕を誘ってくれた!? 「う、うん! じゃあ、お昼まで待ってて。 その頃には手が空いてるだろうし」 よし、それまで仕事を頑張って片付けよう! すると、そんな僕の袖を杏子が小さく引いた。 「…………」 「……?」 「おじさん……今からでもいいって」 「え?」 驚いて父さんの方を見ると、お客さんと談笑していた父さんが、こっちを見ながら頷き返してきた。たぶん、行って来いって意味だろう。 「…………」 「あの、ダメかな?」 「あ、いや、大丈夫! すぐ準備するからっ!」 僕は杏子に店の外で待っているように伝えると、急いで身支度を整えに自室へと走った。 「…………」 慌てて準備を済ませてから出ていくと、杏子が少し緊張した面持ちで僕のことを待っていた。 「……っ!」 「ごめん、待たせちゃって」 「ううん、大丈夫」 そう言って小さく浮かべた微笑みに、僕の方がドキリとしてしまう。 「……あっ」 そんな僕の視線に気づいた杏子が、耳まで真っ赤にしながら俯いてしまった。 それを少し残念に思いながら、僕はゆっくりと歩き始めた。 「それで、どこに行こうか?」 「……あのね、わたし、行きたいところがあるの」 すぐ隣に並んだ杏子が、またはにかみながら言った。 彼女との距離は今までよりも近くて、少し傾けば肩が触れてしまいそうだ。 「…………」 「…………」 昨日までとまるで違う距離感に、また鼓動が速くなる。 横目に杏子を見てみると、彼女も恥ずかしそうに顔を伏せていた。 何か話さなきゃいけないと思うんだけど、話題が全然浮かばない。 ちょっとした息づかいまでもが伝わってきそうなこの距離に、僕も杏子もまだ慣れることができずにいた。 「……真一くん。こっち」 「あ、うん」 杏子の案内に従って歩いて行く内に、僕は自分たちがどこに向かっているのか、やっと気がついた。 「……この先って」 「……うん」 僕と杏子の想い出の場所には、今日も変わることなくヒマワリの花が咲き乱れていた。 「この間来た時は、わたしが逃げ出しちゃったから。 そのこと、ちゃんと謝ってなかったし……」 「ごめんね、真一くん」 申し訳なさそうに謝る杏子を、僕は慌てて止めた。 「いや……僕の方こそ」 あの時杏子が駆け出したのは、きっと僕の言葉が原因だ。だから、むしろ謝るのは僕の方だ。 そんな風に考えていた僕に向かって、杏子は静かに頭を振った。 「わたし、嬉しかったの」 「真一くんに、その……」 「笑顔が……好きだった、可愛いって思ってたって…… そう言ってもらえて。だから……」 「笑わないようにしていたわたしは、今、そんな風に 真一くんに褒めてもらえる笑顔を浮かべられないん じゃないかなって、心配で……」 「あ……」 僕が、もっと笑って欲しいなんてことも言ったから、それで余計に気にしていたのかな…… 「ごめん! 僕、また余計なこと言って、杏子を困らせて しまって!」 「んーん」 杏子はまた、首を横に振った。その仕草と表情はどこか、優しげだった。 「真ちゃん、わたしに笑っていいよって、許してくれたん だもの。だからわたし、頑張る」 「でも、それじゃあ……杏子は僕の言葉に振り回されて ばかりで」 「わたしが、そうしたいの。ダメ?」 「ダメ、じゃないけど……」 僕の気が済まない……そんな考えが顔に出ていたのか、杏子がほほ笑んで手を合わせた。 「……それじゃあ、その、ひとつお願い、聞いてくれる?」 「うん。いいよ、なんでも言って」 意気込む僕に、杏子は恥ずかしそうに、けれど期待のこもった目でお願いを告げてきた。 「それじゃあ……ねぇ、真一くん。 『真ちゃん』って、呼んでもいい?」 「え、そんなことでいいの?」 「うんっ!」 それって、昔の呼び方に戻るだけなんじゃ……今でも何かの拍子に、時々出てきていたし。 夏の色彩を背にした杏子が、満足そうに頷き返す。……その顔には、記憶の中と同じ笑顔があった。 その笑顔の眩しさに目を細めた僕に、杏子が不思議そうに聞いてくる。 「? どうかしたの?」 「……いや」 はぐらかすのは簡単だけど、ここは正直な気持ちを杏子に伝えておいた方がいいかもしれない。 そうやって、思っていることをちゃんと言葉にしていけば、もう杏子を誤解させることもないはずだ。 「やっぱり、杏子の笑顔は可愛いなって思って」 「……っ!?」 僕の言葉を聞いて、杏子が面白いぐらいに赤くなる。 そのまま恥ずかしさから逃げ出しそうになって――そこで何とか踏みとどまっていた。 「……ぅぅ」 「杏子、顔赤いよ」 「っ! ……真ちゃんだって」 言われて初めて、自分の顔が熱くなっていることに気づく。……この歳になると、素直になるのも一苦労だ。 「……ぷっ」 「あははっ」 「ねぇ、真ちゃん」 「うん?」 「わたし、今、ちゃんと笑えてる?」 「うん。笑ってくれてる。僕の好きな笑顔で、笑ってる」 「……なら、よかった」 そう満面の笑みを浮かべた杏子が、やっと、僕の大好きな幼なじみに戻ってくれたような気がした。 「ふぁ~っ」 「あら、真一くん。ずいぶん眠たそうね?」 「あはは、昨日の引っ越しの手伝いで、さすがに 疲れました」 杏子と花畑でまた話してから、数日後―― 父さんと春菜さんは正式に再婚して、水島家の一家3人が僕の家に同居するようになった。 芹花に香澄さん、そして今、朝食の支度途中で通りかかった春菜さんと、杏子以外に女性が3人も増えて、家の中が一気に華やいだ。 「夏休みなんだし、そんなに眠いならもうちょっと 寝ていればよかったのに」 「あ、いえ、もう起きちゃいましたから」 いつもより早く目が覚めた僕は、キッチンで朝食の準備をしていた春菜さんと香澄さんの手伝いをしようと思ったんだけど…… その手際を見る限り、余計なお世話だったみたいだ。せいぜい配膳くらいしか、手伝えることが見当たらない。 「とりあえず、テーブルの方を準備します。 春菜さんたちの邪魔にならないように」 「もう、真一くん? いつになったらお母さんって呼んで くれるのかしら?」 「えっ、ええと……」 春菜さんがため息をつくのを見て、僕は申し訳ない気分になった。 春菜さんも香澄さんも、それに芹花も。みんな僕に家族として接してくれてるっていうのに…… 「お母さん、それって強要するようなことじゃないでしょ」 「それはそうだけど、できれば早く仲良くなりたいじゃ ない? 真一くんとも。それに……」 春菜さんは途中で言葉を切ると、出入り口の辺りに視線を送った。 「杏子ちゃんとも、ね?」 「……っ」 春菜さんに名前を呼ばれた瞬間、扉の陰に隠れていたらしい杏子が、ひょっこりと顔を出した。 「おはよう」 「……お、おはようございます」 「杏子ちゃん、おはよう。朝ご飯、もうすぐできるから」 「あの、そうじゃなくて……」 そこで杏子が、ちらっと僕の方を見た。 ……なんだろう? 「お手伝い、しなくていいのかなって」 そうか……杏子も、僕と同じことを考えていたんだな。 「いいのよ、そんなの。杏子ちゃんはこの家に暮らす先輩 として、どーんと構えていてくれれば」 そういう春菜さんの表情は明るい。 たぶん、杏子が自分から話しかけてきたのが嬉しいのだろう。 「でも……」 「う~ん、それじゃあ杏子ちゃんは真一くんと一緒に、 お料理を並べてくれる?」 「は、はいっ」 「お母さ~ん? お鍋煮たってるわよ?」 「はいはい、今行きますよ~」 春菜さんは終始笑顔のまま、香澄さんに呼ばれてキッチンの方に戻っていった。 「……あの、真ちゃん」 「うん? 何?」 「おはようっ」 満面の笑みで挨拶をしてくれる杏子の姿に、僕はまた胸がいっぱいになった。 「おはよう、杏子」 ……なんて言うか、杏子が笑顔でいてくれるだけで、ものすごく嬉しい。 当たり前のことが、当たり前にできる。それが、こんなに嬉しいことだなんて…… ――テーブルに食器を並べ終えたところで、杏子が僕の服の裾を引いた。 「うん?」 「真ちゃん、隣座っていい?」 「あ、うん……」 はにかむような笑顔を向けられて、僕は思わず俯きながら返事をしてしまった。 なんというか……今までが今までだっただけに、急にこんなに接近されると、僕の方もどうしていいのかわからなくなってしまう。 これが本来の杏子なんだけど…… 「うん。そうなんだよな」 「何か言った?」 「ううん、なんでもないよ」 「へぇ~? 見ない間にずいぶん仲良くなったのね」 「うぇっ!?」 「……っ!?」 背後から聞こえてきた声に、僕と杏子は慌ててお互いに距離を取った。 「あら~、もしかしてお邪魔だったかしら?」 「お、おはよう、芹花」 「お、おはよう……」 「おはよう、ふたりとも。杏子はともかく、真一がこんな 時間に起きてくるなんて珍しいわね」 「別にいいだろ。僕だってたまには早起きするんだから」 「ふ~ん」 そう言いながら、芹花は僕の正面の席に腰を下ろして、にやにやと、僕と杏子に交互に視線を送ってくる。 もしかして、さっきの僕と杏子のやり取りを見ていた?だとしたら、恥ずかしすぎる…… 「一応、確認するけど……いつからそこにいた?」 「いえいえ、今来たところですよ、『真ちゃん』?」 「……はひゃっ!?」 「……っ!」 暗に呼び方が変わったことを指摘されて、杏子も僕も一気に赤面した。 「し、真ちゃん……」 「う……」 杏子に呼ばれて、僕の顔もさらに熱くなる。 花畑で聞いた時には、大したことないお願いだと思っていたけれど、実際にそう呼ばれてみるとかなりこそばゆい。しかも、ほかの人の前でまでそう呼ばれるとは…… その時、ちょうど兄さんと父さんが顔を出した。 「おはよう、3人とも。 ……どうかしたのかい?」 「おはよう。いやいや、真一と杏子もずいぶん打ち解けた なって思ってねぇ」 「うう……」 「……っ」 僕と杏子はお互い何も言えずに俯く。兄さんはその様子を不思議そうに眺めていたけど―― 「まあ、仲が良いのはいいことだ」 父さんが何かを納得するように頷いて、席に着いた。 春菜さんと香澄さんもキッチンから出てきて、瞬く間に料理を並べてくれる。 「みんな揃ったわね~」 春菜さんに促されて、みんなでいただきますと挨拶して、食事を始める。文字通り、一気に大家族になった気分で不思議な感じだ。 「あ……」 醤油を使おうと思ったんだけど、手元にない。見ると醤油の瓶は、ちょっと僕からは手の届かないところにあった。 誰かに取ってもらおうかな、と考えていると…… 「はい、真ちゃん」 すぐ隣にいた杏子が、手を伸ばして醤油瓶を取ってくれた。 「あ、ありがとう」 「ううん」 醤油の入った瓶を受け取りながら、はにかむ杏子の姿に、また一瞬くらっときてしまう。 「あらあら~?」 それを見ていた芹花が、冷やかすように声をあげ、けれどそれ以上は何も言わずに、食事に戻る。 あれは絶対、あとでからかうつもりだ…… でも、それ以上に辛かったのが、芹花以外のみんなの視線だった。 呼び方や態度など、彼女の変化に気づいたみんなの視線が、ほほ笑ましそうに僕と杏子を見守っている。 うう……これはやっぱり恥ずかしすぎる…… 「ふぁう……」 杏子もそんな雰囲気に気づいたらしく、なるべく僕の方を見ないようにしている素振りがわかる。 でも、それがわかりやすすぎるのがまた可愛くて…… 「あらあらあら~?」 絶対楽しんでるな、芹花の奴……! そんなこんなで、まるで拷問みたいな朝食のひと時が終わりに近づき始めた頃―― 「ああ、そうだ」 お茶を飲んでいた父さんが、今気づいた、とでもいうように口を開いた。 「今日、私と春菜さんは出かける用事がある。 店番をお願いしたいんだが、誰か空いてるか?」 「俺は大丈夫だよ」 「すみません……私は“すずらん”の店番をしないと」 「僕は何もないよ」 「わ、わたしも……」 「わかった。なら3人に頼むとしよう」 「あたしは……あ~、お母さんがいないなら今日は お姉ちゃんを手伝おっかな?」 香澄さんの言葉に便乗するように、芹花が声をあげる。……逃げたな。 「あら、私ひとりでも意外と大丈夫よ?」 「それは困る――じゃなかった。大丈夫って自分で 言ってる人が一番心配なのっ!」 「……ぷっ」 そんなやり取りを見て、杏子が小さく笑みをこぼした。 当のふたりは、一瞬驚いたような顔を見せた後、優しい笑顔になる。 「ホント、よかったわ」 「杏子に笑ってもらえるなら、ま、いっか」 「えっ? えっ?」 「昼までには帰ってくる。頼むよ」 父さんたちは、杏子の変化に何も言わない。ただ、その声が嬉しそうに弾んでいることだけは、聞いているだけでわかった。 「…………」 「……? どうしたの、真ちゃん?」 「いや、一家団らんていいな、って思ってさ」 「うん……そうだね」 自然にほほ笑む杏子を見ながら、僕は心の中で呟いた。 こんな時間が、ずっと続きますように……と。 「それじゃあ、行ってくるよ」 「行ってくるわね」 「行ってらっしゃい」 「いってらっしゃい」 店の前で父さんたちを見送った後、杏子とふたりで店前の清掃をする。 いつもやっていることなので、大した時間はかからない。 「ねえ、真ちゃん」 「うん、何?」 杏子のその呼び方にはまだ慣れないけれど、いちいち赤面しているわけにもいかない──僕はなるべく平静を装って答えた。 「あのね、わたし、この格好のままでいいのかな?」 「え? どういうこと?」 意味がわからず、思わず聞き返してしまう。 杏子は普段着の上に、エプロンを着けたいつもの格好だ。 「別におかしくはないと思うよ?」 「あの、そうじゃなくって……」 そこまで言うと、杏子は恥ずかしそうに手をもじもじさせる。 ……ごめん、わからない。 表情を隠さなくなった分、杏子の感情は読み取り易くなったけれど、それでも女の子は僕にとってはよくわからない生き物だ。 ……宗太あたりに言ったら、ため息混じりに呆れられそうだけれど。 「その、ウェイトレスの制服、あるでしょ?」 「うん、確かあったと思うけど」 杏子の問いかけに、記憶の底を漁ってみると……確かに、男所帯で使う機会がなかったけれど、女の人用の制服はあったはず。 「それ、着なくていいのかな? って」 「え、でも……」 あれって結構目立つデザインだったと思うし、人見知り気味な杏子に無理強いするのは…… 「可愛い、やつだよね?」 「父さんがしまい込んだままで、よく覚えてないけど…… 着てみたいの?」 「…………」 僕が質問で返すと、杏子は顔を赤くして俯いてしまった。やっぱり、恥ずかしいのかな? 「真ちゃんが着て欲しいなら……着るよ?」 ええと、それって……? 「……と、とりあえず、ほら、もう開店の時間だし」 「そ、そうだね……」 僕が照れを押し殺してそう言うと、杏子は少し残念そうに俯いた。 「わたし、中のお掃除してくるねっ!」 言うが早いか、杏子は慌てた様子で店の中に入っていく。 「杏子のウェイトレス姿か……」 興味がないといえば、ウソになりそうだった。 「ふぅ、なんとか間に合いそうだ」 僕と杏子が慌てて店内を清掃し終えた時、兄さんが背後から声をかけてきた。 「杏子ちゃん、どうしたんだい?」 振り返ると、兄さんは手に持ったトレイからカウンターのガラスケースに当店自慢の自家製ケーキを並べているところだった。 「え? どうしたって何が?」 「ほら」 兄さんが顎で指す方を見ると、心ここにあらずといった様子で、窓の前にたたずむ杏子の姿がある。 「…………」 「仲良くなったと思ったのに、もうケンカしたのか?」 「違うよ」 兄さんの見当違いな心配に、僕は苦笑で返した。 「昔作ったウェイトレスの制服があったでしょ? それを杏子が着てみたいって」 「……なるほど」 兄さんは妙に納得したような表情を浮かべた。 「いいんじゃないか? 確か、クリーニングから戻って きてただろう?」 「あ~……そういえば前に、芹花が興味あるって 騒いだんだっけ」 それで父さんが気を利かせたつもりでクリーニングに出したんだけど、芹花本人がひどく恥ずかしがって、宙に浮いていたような。 「で、なんだ。お前は反対なのか?」 「いや反対ってわけじゃないんだけど……」 「出してやれよ。女の子は可愛い服を着たいもんだ」 「そういうものなのかなぁ……」 「…………」 「ましてや、好きな男の前ならな」 「に、兄さんっ!?」 「! …………?」 「はははっ」 杏子はようやく、こちらで何か話していることに気づいた様子だった。 ……そんなにぼおっとしてしまうほど、ウェイトレスの制服について考えていたのかな? 「まさか……ね」 「……?」 杏子はまだどこか、心ここにあらずといった様子だった。 とはいえ、いざ開店してお客さんが来てみると―― 「いらっしゃいませ」 杏子がほかのお客さんの対応をしながら、来客を告げる。杏子の視線がこっちの方に向くのを見て、僕は今来店したお客さんに近づいた。 「いらっしゃいませ。お客様は何名様ですか?」 ……といった感じで、杏子は手の空いていない時は視線でそれを知らせてくれる。 反対に、僕が手を離せない時に杏子の方に目をやると、代わりにお客さんの対応をしてくれたりした。 まるでベテラン店員みたいに、てきぱきと働く杏子の姿は、ぼぉっとしていた朝とはまるで別人みたいだった。 「……ぁ」 「……ええと」 でも、たまになんでもない時に視線が合うこともあって、そんな時には思わず照れてしまいながらも、視線が外せないなんてことも…… 「おはようございま~すって、何よこの空気!?」 騒々しく店のドアが開け放たれて、いつものように騒々しい声の主が入ってくる。 「騒々しいよ、芹花」 そこに、カウンターから兄さんの声がかかった。 「どうしたんだ、芹花ちゃん。“すずらん”の手伝い してるんじゃなかったのかい?」 「今はちょうど休憩中なのでして」 「ふ~ん? それじゃあ、少し休んだら花屋の方に 戻るんだ?」 「……う。いえいえ、雅人さん。今日はお客も少ないし、 お姉ちゃんに任せておけば大丈夫」 「そうか。でも香澄ちゃんの休憩時間ぐらいは、考えて あげなよ」 「は、はーい……」 恐縮した様子の芹花に、兄さんは軽く笑いかけて、それ以上追及することなく仕事に戻った。 「……さぼりんぼ」 「うっさい! で、なんなのこの空気」 「なんなのって言われても?」 僕には芹花が何を指してこの空気と言ってるのか、いまいちピンとこないんだけど。 「あんたと杏子のあまあま~な空気のことよ」 「いや、別に普通だと思うけど? 杏子も仕事に慣れてきたなって思うだけで」 「しらばっくれてもダメよ。朝からず~っと気になってた んだけど、あんたたち絶対なんかあったでしょ」 「うっ」 「……あ、その」 芹花の詰問に、思わず言葉に詰まってしまい、それを見て、芹花がそれ見ろ、という顔になった。 「なんたって、『真ちゃん』だもんねぇ?」 「あの、芹花さん。もうそのくらいで……」 「おや~? 何か申し開きでも?」 「んぐ……」 芹花にあの花畑での話をすれば、この場は収まるかもしれない。 けれど僕は――なんというか、あのことは僕と杏子だけの秘密にしておきたかった。 「あ、あの、芹花ちゃん」 そこに、僕と芹花の間に割って入るように、杏子が身を乗り出してきた。 「な、何?」 普段とは違う杏子の態度に戸惑いを隠せない様子で、芹花が声をあげる。 「真ちゃんを、いじめないで?」 「えと、別にいじめているわけじゃないんだけど……」 「でも、真ちゃん困ってるみたいだから」 「あ~、うん、ごめんね?」 杏子に詰め寄られて、芹花はいつもの勢いがウソみたいに素直に言葉を収めた。 今まで杏子は、芹花と普通に話せるようになっても、面と向かって抵抗するようなことはなかった。 杏子がそういう風に感情を表に出せるようになったことを喜べばいいのか。 それとも、杏子にそこまでさせた自分の不甲斐なさを恥じればいいのか…… 「あの、杏子? 僕はもう大丈夫だから……」 「でも……」 「あ、ほら! 新しいお客さんが! 僕はあっちの テーブルを片づけるから、対応してくれる?」 「う、うん、わかったっ」 「……はーっ」「……はーっ」 来店したお客さんの元に駆けていく杏子の背を見送って、僕と芹花は揃ってため息をついた。 「ねえ、真一。あの子、本当にどうしたの?」 「いや、僕もかなりびっくりしてる」 表情を素直に表すようになったとはいえ、人見知りなことに違いはないはずなんだけど…… 「今朝も、ウェイトレスの制服に興味があるみたいなこと 言ってたし……」 「杏子が!?」 信じられない、といった表情の芹花に、僕も同意する。 「僕が着て欲しいっていうなら、みたいなこと言ってた けど……」 杏子自身、かなり興味があるように見えた。やっぱり憧れなのかな、そういうの…… 物思いにふけっていた僕の背中を、芹化が力強く叩いてくる。 「な、なんだよっ!?」 「だったら着させればいいじゃない」 「え?」 「だぁかぁらぁっ! 興味があるんなら着てもらえばって 言ってるのよ」 「まあ、そうだけど……」 「それじゃあ、杏子に話をつけてくるわね!」 「え? ちょっと」 僕が止める間もなく、芹花は接客を終えた杏子の元に突っ込んでいった。 そのまま、驚きの表情をした杏子をがっちりと捕獲する。 「ふぇっ!?」 「さあ、杏子ちゅわ~ん、お着替えの時間ですよ~?」 「あの、芹花ちゃん? 急にどうしたの……?」 「あ~、そう露骨に警戒されるとお姉さん寂しいな~。 あのね……」 そのまま、芹花が杏子の耳元で何かをささやく……僕の位置からだと全然聞こえないけれど、聞いている内に杏子の顔が真っ赤に染まっていくのがよくわかった。 「……何を話してるんだ?」 ささやきが終わると、杏子は一度僕の方を見た後、芹花に向かって大きく頷いた。 「……わ、わたし、頑張るっ」 杏子はそのまま、何かを決意するような、けれど真っ赤な顔で店の奥へと行ってしまう。 「きょ、杏子……?」 「はい、ストップ」 追いかけようとした僕を、芹花が素早く手で制した。 「……一体、何話してたんだ?」 「大したことじゃないわよ? ちょ~っと、真一が杏子の ウェイトレス姿が見たいって言ってたって教えてあげた だけ」 「な、何を勝手に……」 「見たいでしょ?」 「ぐっ、それはまぁ……」 反論できない。確かに、杏子のウェイトレス姿に興味がないわけじゃない。 「どうせ衣装入れにあるんでしょ? すぐ戻ってくるわよ」 「それよりほら、杏子が着替えている間は真一がしっかり お店を見てないとね。お客さん、呼んでるわよ?」 「え? あ、はい! しょ、少々お待ち下さ~い!」 いきなり仕事を増やされた僕は、まんまと芹花の罠にはまっていた。 杏子が店の奥に消えてから急に忙しくなった店内を右往左往している内に、気づけば30分ほど経っていた。 「杏子、戻ってこないな……」 今はもう落ち着いたけれど、次に忙しくなった時にひとりだと少し不安だ。 「頑張ってね~♪」 「芹花も見てないで手伝ってくれよ」 「なんであたしが?」 「きっかけを作ったのは芹花だろう」 「違うわよ。あたしは迷える小鳥に道を示してあげた だけ……」 「ようするに暇なんだよね?」 そんなくだらないやり取りをしている間にも、杏子は一向に戻ってこない。 「……大丈夫かな?」 「心配なら見に……は行けないわね。 まぁ、女の子は準備に時間がかかるものなのよ」 「…………」 「……ぅぅ」 その時、僕の耳に杏子の声が聞こえた――気がした。 「……あれ?」 気になって、家の方に通じる奥のドアへと視線を向けると―― 「……し、真ちゃん?」 そこには恥ずかしそうな、同時に困ったような顔で、ウェイトレスの制服を着た杏子の姿があったが、物陰に隠れるようにして、なかなか出てこない。 「…………」 「……っっっ」 「ええと、何してるの?」 「き、着替えたはいいけどっ…… は、恥ずかしくなっちゃってっ」 僕を見上げながら、ちょっと涙目の杏子が震える声でそう言った。 「……うん、着替えてこようか?」 「え? え?」 「そんな調子じゃ、仕事にならないだろ?」 「……でも、真ちゃん見たいって」 「あー、そりゃ見たいよ。でもほら、そのために杏子に 無理をさせるのって、なんか違うなって思うし」 「……うぅ」 「はいはい、ごちそうさま」 話がまとまりかけたところで、芹花が間に割って入る。 そのまま杏子の腕を掴むと、ちょっと強引に彼女を店内へと引っ張りこんだ。 「わわっ」 「芹花!?」 「習うより慣れろっていうでしょ? だいたい仕事着なんだから、恥ずかしがる理由ないし」 芹花はまったく悪びれる様子がなく、対する杏子は最初は慌てていたけれど、諦めたように僕の目の前で立ち止まる。 その顔はやっぱり恥ずかしそうに赤く染まっていたけど、それでも視線は僕をしっかりと見つめていた。 「あの……似合ってる、かな?」 「……え、あ」 思わず言葉に詰まっていると、ため息をついた芹花が、僕の肩を軽く小突いた。 「はぁぁ……ほら、感想よ感想」 「あ、うん。似合ってるよ。すごく」 「あ……」 僕の感想を聞いて、杏子の表情がぱっと華やぐ。 先ほどの恥ずかしそうな表情とは打って変わって、嬉しそうにスカートの端を摘んだりしていた。 「でもさ、どうして突然?」 「……一度、子供の頃にこれ、見たことがあって」 「大人になったら、わたしも着てみたいなって……ずっと、 思ってたから」 「へぇー……」 知らなかった。さすが、毎日のようによく遊びに来ていただけのことはある。 「……子供の頃からの、夢だったの」 そう言うと、杏子はスカートの端を掴んでくるりと一回転してみせた。 僕はその眩しい姿に目を奪われる──眩しいって言うのは、比喩なんかじゃなくて、僕には本当にそう見えて…… それはどこか懐かしくて、けれどまったく新しい、“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”のウェイトレスの姿だった。 午後になり、炎天下の日差しを避けて店に入ってきたお客さんが、まばらになってきた頃。 「こんちは~っす」 「こんにちは、西村くん、杏子ちゃん」 最近はこの時間になると、ウチの店に決まっていつもの面子が集まってくる。 なんでも、学園がない夏休みの間はウチに集まる方が何かと便利なんだそうだけど…… 「あ~、でも、雪下さんはなんだか久しぶりな気がする」 「一応これでも女の子ですから、気持ちの整理を つけるのに、少し時間が必要だったんですよ……」 「え……?」 「なんでもありません」 「ホント、鈍感なんだから」 とにかく、こうクラスメイトが揃ってしまうと仕事にならないというか……いや、賑やかで楽しいんだけど。 「それじゃあ、ふたりとも休憩に入っていいぞ」 「え? でも……」 兄さんが、僕と杏子に向かって言ってくる。 でも、まだ父さんは帰ってこないし、頼まれた手前、兄さんひとりに店のことを任せるわけには…… 「どうせ店内にいるんだろ? 忙しくなったら声をかけるからさ」 「ありがとう」 「いいから。ほら、みんなを待たせるな」 僕はお言葉に甘えることにして、宗太たちが集まっているテーブル席に近づいていった。 「あら、その格好……」 雪下さんが、杏子の格好に気づいて声をあげる。 「あぅ。……ヘン、かな?」 「そんなことないです。とっても似合ってますよ」 「……ほんと?」 「もちろんですよ。ねえ、久我山くん?」 「ああ、めちゃくちゃ似合ってるよ。 これなら店の売り上げも倍増間違いなしだ!」 「ふぇっ!?」 「なあ、真一?」 「いや、制服ひとつでそんなに変わるものなの?」 「そりゃ、もちろん変わるさ!」 「何せ今やこの店には、香澄さんと杏子ちゃんという 二大美少女が……」 「あら、誰かひとり忘れてない?」 「いやいや、さすがに新婚ほやほやの春菜さんを、 こんな話題に出すのは不謹慎だろ?」 「……それってワザとよね? “すずらん”及び “〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”の美人看板娘となった、 このあたしをスル―したのは?」 「ぼ、暴力で人の意見が変わるとでも――」 「せ、芹花さんはとてもお美しいです……」 「始めからそう言っていれば、無駄な犠牲が出ずに済んだ のに……」 それ、加害者のセリフじゃないですよ、芹花さん。もちろんとばっちりが怖いから口には出さないけど。 「でも、私も一度そういう制服着てみたいです」 「……ほかのサイズも、あるよ?」 「いっそ、この店でバイトしてみるとか?」 「そうですね……ちょっと考えてみましょうか。 そうすれば、いつでも杏子ちゃんと会えますし」 「美百合ちゃん……」 雪下さんの名前を呼びながら、杏子がほほ笑みを浮かべた。 そんな彼女の表情にも、雪下さんは一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど、すぐにその顔をほころばせる。 「杏子ちゃん、ちょっと変わりましたね」 「そう、かな?」 「はい。とっても素敵になりました」 「そうだと、いいな」 雪下さんの言葉を噛み締めるように、杏子は胸元でぎゅっと手を握っていた。 その一方で、宗太が店内に貼られたポスターに気づく。 「あ~、夏祭りかぁ。もうそんな時期かぁ」 宗太が見つけたのは、前に香澄さんとも話した、神社で催されるお祭りのお知らせだ。ご近所様ってことで、ウチにも一枚貼っている。 「夏祭り? どこでやるんですか?」 「すぐそこの神社。結構夜店が出るのよね」 「まぁ海も近いし、余所からも人が呼びやすいからな」 「去年はどんな感じだったっけ?」 「……芹花がひと悶着起こした」 「……ああ」 言われて去年のことを思い出した僕は、宗太と一緒にげんなりとした表情になった。 「何よ」 「いやお前、ガラの悪いのにナンパされたからって、 その場で大立ち回りを始めることはなかったろうに」 「あたしが悪いの!?」 「だってひどいのよ、あいつら勝手でマナー悪くて言葉も 汚くてっ! その上、三枚目で!!」 「はいはい」 ついこの前、杏子をそんな奴らからかばったこともあったなぁと、なんとなく彼女の方へ目を向けてみると…… 「……夏祭り」 杏子は、何かを期待するようなキラキラした目で、その言葉を口にしていた。 「杏子、もしかして夏祭りに興味ある?」 「……うん」 杏子は芹花の質問に控え目に頷くと、どうしてか僕の方に視線を向けてくる。 ……何か期待されてる? 気がつくと、みんなの視線が僕に集中していた。 「ええと……」 もしかして、僕が夏祭りに行こうっていうのを待っているのだろうか? でも、いつもなら率先してそういうことを提案する芹花や宗太まで僕のことをニヤニヤと見つめているのは、一体なんなんだ……? 「み、みんなで夏祭りに行ってみる?」 「……はぁ」 「……西村くん……」 「……真一、それはない」 「あれ、なんでこんな空気になってるの!?」 みんなで夏祭りに行こうって話じゃなかったの、今? 僕が困惑している中、杏子を除く3人が一瞬視線を合わせ、まず雪下さんが口を開く。 「えーと、申し訳ありません。私、実はその日に用事が ありまして……」 「え、そうなの?」 「はい。ですから、私は行けません」 「あ~、あたし、今年はお姉ちゃんと一緒に行くから。 この夏はいろいろあったし、お姉ちゃんと話したい こととか、いろいろあるから」 「ああ、そうだね」 確かに、芹花や僕の生活は、この夏で大きく変わった。 いくら家族になったとはいえ、僕や兄さんでは踏み込めない話もあるだろうし…… 「ちなみに、俺もパスだ」 「ノリの悪い奴だなぁ」 「いや、お前にだけは言われたくないよ、ソレ。 というか、俺の時だけ対応違いすぎないか!?」 「はいはい、それでお前はなんで来れないの?」 「馬に蹴られて死ぬのはごめんだからな」 「……は?」 宗太の言葉に、僕は間の抜けた声を返してしまった。 今までの話をどう取れば、夏祭りに行くと馬に蹴られることになるんだろう。 混乱する僕に向かって、正面に座っていた芹花がにっこりと笑う……ものすごく、イジワルな感じで。 「ってことで、夏祭りにはふたりで行ってね♪」 「……え?」 「……ふぇ?」 「ええと、それって、その……」 杏子と、ふたりっきりで、夏祭り?……それって、デートじゃないか? 「いやいや、いきなりそんなこと言われても!」 「仕方ないじゃない。みんな行けないんだから」 「そうですよ、西村くん。 男の子なら、ここで甲斐性をみせないと♪」 「でもほら、そういうのって僕ひとりで決めることじゃ ないだろう? 杏子の意見も聞くべきだと……」 「杏子はどう思う? 真一とふたりっきりで夏祭り」 そこで芹花が、今まで話に入ってこなかった杏子に話を振る。 「わたしは……行きたいな。 真ちゃんは、イヤ?」 言いながら、杏子が僕を見上げてくる。それを聞いていた3人が、驚きに固まっていた。 「あらまぁ、堂々と……」 「ここまで変わるもん……?」 「恋をすると、女は変わるねぇ」 「真一。ちょっとこっち来い」 「へっ? あ、ちょっと」 僕が答えに迷っていると、横合いから宗太に捕まえられて、テーブルひとつ分離れたところまで引っ張られた。 「……お前と杏子ちゃん、何かあったのか?」 突然、そんなことを聞かれた。……いや、なにかしらしょっちゅう聞かれている気もするけど。 ちらりと元の席へ目を向けると、杏子が芹花と雪下さんに囲まれて、何やら質問されているみたいだ。 「何かって、何?」 「だから、いつの間にあんなに―― その、仲良くなったんだよ?」 「……そんなに仲良く見える?」 そりゃ、以前に比べれば、だいぶ歩み寄れた気はするけど…… 「かなり。もう何かあったとしか思えん」 「別に、ちょっとした誤解が解けたっていうか」 「誤解が解けたくらいじゃ、ああはならんだろ……」 「……まぁいい。とにかく、お前はちゃんと杏子ちゃんを 祭りに誘えよ?」 「あ、うん、わかった」 宗太は僕が頷くのを確認すると、ようやく僕を開放してくれた。 けれど杏子たちの方はまだ、話し込んでいて―― 「……いつから?」 「どういう経緯で……」 「え、ええっと、えっと……」 という言葉が耳に入ってくるけれど、ずいぶん熱が入っているようで、とても話に加われそうになかった。 「……結局、杏子たちは何を話していたんだろう?」 芹花たちの質問攻めに顔を真っ赤にして答えていた杏子の姿を思い出しながら、廊下を歩く。 結局杏子を誘えていないんだけど、今日は時間ももう遅いし、風呂に入って寝てしまおうか…… 「……あ」 「あ、真ちゃん」 杏子のことを考えている時に本人が現れるなんて……いや、一緒に暮らしてるんだから、顔を合わせるのは当たり前なんだけど。 「お風呂、今なら空いてるよ?」 「ああ、うん」 僕は思わず生返事をしながら、杏子の様子を観察する。 頬が上気していて、髪も少し濡れている。 「もしかして、風呂上がり?」 「う、うん」 僕が思わず聞いてしまうと、杏子が恥ずかしそうに頷く。 「ええと……」 そうだ、確か杏子を夏祭りに誘うんだった。……ああ、こういう時、どう切り出せば―― 「……お祭り、楽しみだね」 「え?」 杏子が、恥じらうようにそう言った。 まるで考えを先取りされたような気がして、思わず僕は驚きの目で杏子を見てしまう。 でもそういえば、杏子は一緒に夏祭りに行きたいって、もう表明してたっけ…… 「あ……ごめんね。真ちゃんにも都合があるのに……」 僕のその驚きを誤解したみたいで、杏子が申し訳なさそうに俯いてしまう。 「いや、ほかに予定なんてないよ! ただ、僕も杏子を誘おうと思っていたから驚いただけで」 「……そうなの?」 「うん。僕も、その……杏子と一緒に夏祭りに行けたら 嬉しいなって、思ってたから」 僕がそう言うと、杏子は一瞬落ち込んだのがウソみたいに、満面の笑顔を僕に見せてくれた。 「よかった。一緒にお出かけ、できるんだね」 「う、うん……」 杏子の本当に嬉しそうな笑顔を前にすると、何も言葉が出てこなくなる…… 「……なんだか、今からもうドキドキする」 「今からそんなんじゃ、祭りの日までもたないかもよ?」 やっとのことで軽口を絞り出すと、杏子は胸に手を当てて、自慢げな表情を浮かべる。 「これは嬉しいドキドキだから、大丈夫」 「そうなんだ」 「そうなんです。……えへへ」 杏子の表情は、ウチに来たばかりの頃に比べるとずいぶん明るくなったし、前向きな発言も多くなった。 最近では、このままいけば人見知りなんて直ってしまうんじゃないかと思うくらいだ。 「何着ていこっかな~?」 そんな姿がほほ笑ましくて、つい、杏子の頭に手を置いてしまった。 そしてそのまま、軽く髪を撫でていく。 「……真ちゃん?」 「あ、ごめん」 杏子の不思議そうな声に、慌てて手を離す。 ……僕は何をやってるんだ、いきなり。 「んー……」 杏子は相変わらず不思議そうな顔のまま……逃げ出すこともなく、その場にいる。 「……えっと、杏子?」 「……もういっかい、触って」 「え……」 「髪……撫でて欲しい」 不思議そうな顔……そう思っていた表情が、なんだかちょっと嬉しそうに、ほころんでいた。 「あ……うん」 言われるまま、彼女の頭に手を伸ばす。意識して行うとちょっと緊張してしまう。 「ん……っ」 ちょっとくすぐったそうに、杏子が身じろぐ。でも、嫌がっている様子はまったくなかった。 僕の手に、杏子の濡れた髪が軽くまとわりつく。 「……気持ちいい」 「え……」 「真ちゃんに撫でられてるとね、なんかほわんって、 気持ちよくなる」 「う……っ」 無防備にほほ笑む杏子を、不意に抱き締めたい衝動に駆られて―― 「ふぅ~……あら?」 「ひゃっ!?」 「!!」 撫でられるままにうっとりしていた杏子と、彼女に身体を寄せていた僕は、香澄さんがやってきたことに気づいて慌てて離れた。 「ふたりとも、こんなところでお話?」 「う、うん。僕は、お風呂へ行く途中で」 「わ、わたし、お部屋に……」 「そう。湯冷めしないようにね、杏子ちゃんだけじゃ なくて、真一くんも、顔赤いわよ?」 そう指摘されて、僕らは揃って俯いてしまった…… 数日後の夕方── 僕は神社の夏祭りに行く準備を終えて、店の前で杏子が出て来るのを待っている、んだけど…… 「……遅いな、杏子」 結局、ほかの面子は本当に用事で来れないらしくて、今日は僕と杏子のふたりっきりだ。 「ふたりっきり、かぁ」 改めてそう言葉にしてみると、なんだか緊張するな……なんだかヘンに意識するっていうか、やっぱり、これってデートになるんだろうか? 「……おまたせ」 「…………」 思わずため息がこぼれそうになったところで、杏子がやってきた。 「あ、うん。それじゃあ行こうか」 「……? どうしたの?」 ちょっとぎこちなく返事をしてしまった僕に、杏子が首を傾げる。 ……意識して、緊張してしまっていただけなんだけど。 「……あ、もしかして、わたし何かヘン?」 杏子が慌てた様子で、自分の髪や服に手をやった。 芹花が言っていたっけ、女の子の準備には時間がかかるって。 「いや、可愛いよ」 「あ……」 僕が思わず本音を口にすると、杏子は恥ずかしそうに俯いてしまった。 もじもじと指を絡める仕草がやけに可愛い。 「ええと、行こうか」 「……うん」 お互いに照れくささを隠すように、店をあとにする。 遠くからは祭囃子の音が聞こえてきて──夏祭りは、もう始まっているみたいだ。 「うわぁ……!」 いつもとは違う境内の様子に、杏子が感嘆の声をあげる。 神社へと続く道の端端には夜店の明かりが灯っていて、ソースの焦げる匂いなんかが、風に乗ってすぐ傍まで漂ってくる。 「まだ日が落ちたばかりなのに、結構人がいるね」 確か去年は店の手伝いなんかがあったから、もっと遅い時間に来たんだけど…… 「……お祭りに来るなんて、久しぶり」 「前に住んでいたところでは行かなかったの?」 「……うん」 そこで、杏子は少し暗い表情で俯いてしまった。でもすぐに、気を取り直すように笑顔になる。 「こんな人混みの中も、久しぶり」 「それじゃあ、人混みではぐれないようにしないとね」 夜店で賑わう通りは、普段では考えられない数の人でひしめいていて、ちょっと目を離すと、すぐ隣にいてもはぐれてしまいそうだ。 こういう時って、手とか繋いだ方がいいのかな?いや、でも…… 「……どうしたの、真ちゃん?」 いきなり黙り込んだ僕を、杏子が不思議そうな顔で見上げてきた。 「いや、なんでもないよっ」 僕は杏子から顔を逸らしながら、急に高鳴り始めた胸を抑える……いや、本当はずっとドキドキしていたわけで。 改めて手を繋ごうと思うと、なんだか緊張するな……ふたりでこんなところにいるだけでも、恋人同士っぽく見えたりしそうなのに。 思わず、知り合いはいないかと辺りを見回してしまう。 「真ちゃん、誰か探してるの?」 「あ、ごめん。みんなも来てるのかなって思ってさ」 「芹花ちゃんは、香澄さんと一緒に回るって言ってた」 「そ、そうだね。雪下さんは用事があるって言ってたし、 宗太は……なんだっけ?」 緊張をごまかすように、他愛ない会話に花を咲かせる。けれど、いつまでたっても手を繋ごうとは切り出せない。 「――あっ!!」 その時、杏子が歓声と共に近くの夜店に駆け寄る。 「わぁっ!」 それは、綿あめの屋台だった。 大型の機械が唸りをあげる度に、新しい綿あめの塊が次々でき上がっては袋に詰められていく。 「真ちゃん、綿あめ! 綿あめだよっ!?」 振り返って手招きをする杏子の表情は、まるで子供の頃に帰ったように、楽しそうに輝いていた。 ただ純真無垢に今を楽しもうとしている杏子の姿に、僕は手を繋ぐくらいのことでいちいち緊張している自分がバカらしくなってきた。 「それじゃ杏子、ひとつ買っていこうか?」 「うんっ!」 喜び勇んで財布を取り出そうとする杏子を手で制して、僕はすでに用意していた小銭を取りだした。 「すいません、綿あめひとつ下さい」 「え? あの、わたし、自分で払うよ?」 「いいからいいから」 「……ありがとう」 はにかみながらお礼を言う杏子の可愛さに、相変わらず僕は弱い。 赤くなった顔を見られないように背けながら、僕は杏子に綿あめを手渡した。 「はい、どうぞ」 「うん。えへへっ」 杏子は手にした綿あめをしばらく嬉しそうに眺めていた。 久しぶりのお祭りでテンションが上がっているのか、人混みの中でも杏子の表情は普段より明るい。 「あっ!」 杏子が別の夜店に目を向けて声をあげた。 店の看板に大きくタコの絵が描かれているから、たぶんタコ焼き屋だろう。 「真ちゃん、あっちにも行ってみようよ!」 言うが早いか、杏子は今にも走り出しそうな勢いでタコ焼き屋の屋台に向かおうとするので、僕はそんな杏子を、慌てて止めた。 「杏子、そんなに慌てたら本当にはぐれるよっ」 「あ、そうだね……」 僕の言葉に、杏子が少しだけ不安そうに陰るけれど、すぐに何かを思いついたようで、少し頬を赤く染めながら僕の隣まで近づいてきた。 「これなら、大丈夫」 「えっ!?」 杏子にいきなり手を掴まれて、僕は自分の胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。 「行こ、真ちゃん」 「いや、その……」 僕が切り出せなかったことを簡単にやられてしまって、思わず苦笑がこぼれてしまう。 「どうしたの?」 「ううん、なんでもない。 急がなくても、タコ焼きはなくならないから…… ゆっくり行こう」 「……うんっ!」 杏子の笑顔を見ると、次第に肩の力が抜けていく。 そして気がつけば、もう緊張なんてひとかけらも残っていなかった。 杏子に手を引かれながら、道に並ぶ屋台を見て回る。 りんご飴。射的。水風船釣り。金魚すくい。焼きそば。タコ焼き。焼き鳥。かき氷。並ぶ夜店はどれも一度は目にしたことがあるものばかりだ。 「あ、真ちゃん。焼きそばだって!」 「かき氷、何味が好き?」 「射的って、思ったより難しいんだね……」 「……杏子。もう少し落ち着いて」 杏子はそのひとつひとつに、新鮮そうな顔で驚きや感想を口にする。 そんな杏子を見ているのは、結構楽しいんだけど、これはもう、デートじゃないよなぁ……はしゃぐ子供に同伴する保護者というか、なんというか。 でも、杏子の笑ってる顔が見れればいいか。 今夜は杏子が夏祭りを楽しむためならどこまででも付き合うぞ、と僕が心に決めたその時、不意に、繋いでいた手が軽く引かれた。 「何?」 「ねえ、真ちゃん。あそこ、見ていい?」 そう言って杏子が指差したのは、たくさんの小物が並べられた露天だった。 「うん、いいよ」 「わぁ、綺麗……」 杏子は店頭に並ぶ商品を目で追いながら、感嘆の息をこぼす。 「どれか気に入ったのでもあった?」 「んっと……これ、かな」 そう言って指差したのは、おもちゃの指輪だった。 銀色の輪っかの頂点に、宝石の代わりにガラス玉が嵌め込まれている小さな指輪。 「これ?」 「……うん」 小さく頷いた杏子は、手元の財布の中を確認して――がっくりと肩を落とした。 杏子の財布の中には、100円玉が3枚に50円玉が1枚。 「……いろいろと買い過ぎちゃった」 対する指輪の値段は500円也。正直、ちょっとボッタクリ臭い。 「……ええと」 これで杏子が喜んでくれるなら安いものだし、僕が買ってもいいんだけど……おもちゃとはいえ、指輪をプレゼントしていいものか。 「うぅ~……」 杏子は、所持金が足りないとわかった後も、名残惜しそうに指輪を見つめ続けている。 「……よし」 うな垂れている杏子に、僕は少しだけためらいつつ、声をかける。 「そんなに欲しいなら、プレゼントしようか?」 「本当? あ、でも……」 「いいから。僕から杏子への、日頃の感謝のお礼ってこと で」 「お礼、なんて。いつも、わたしの方が真ちゃんに 迷惑かけっぱなしなのに……」 「そんなことないよ。杏子がいてくれて、ウチは本当に 助かってる。それに……」 「……僕からの、贈り物ってことで」 いつかもらった、花の冠。そのお礼だってしていなかった。だから―― 「贈り……物」 「あ、いや、そんな深刻に受け取らないで」 「…………」 言いながら、僕は露天の店主に500円玉を渡して、代わりに杏子が見ていたおもちゃの指輪を受け取る。 「はい、どうぞ」 「ありがとう、真ちゃん」 笑顔でそう言って、杏子は僕から受け取った指輪を指に嵌めようとするが…… 「……あれ?」 「……んん?」 けれど、指輪は小指に嵌めるには大きく、人差し指には微妙に小さくて、結局ちゃんと嵌った指は…… 「……入った」 杏子はそう言いながら、左手を僕の前に差し出す。 指輪は、その薬指にぴったりと嵌っていた。 「……っ」 一瞬、その意味に想像をめぐらして、あまりの恥ずかしさに小さく悲鳴をあげる。 杏子は、指輪の嵌った指をいろんな方向から眺めて、ちょっとはにかんでいる。 「……なんだか、婚約指輪みたいだね」 「……ぅ」 僕が口にできなかったことを、杏子はしみじみと……やっぱり嬉しそうに言葉にした。 その後も、僕を引っ張って夜店を回る杏子の薬指には、おもちゃの指輪が嵌められたままだった。家に帰るまで、ずっと。 「えへへっ」 そんな杏子の姿を見て……まあ確かに恥ずかしかったけど、指輪を買ってよかったと、心の底からそう思った。 「ねぇ、真ちゃん」 「うん?」 「また来年も、一緒に来ようね?」 「……そうだね」 また来年―― 最後にその言葉だけが、少し引っかかったけれど…… 「……うん。一緒に来よう」 「うん、約束。一緒に来る」 約束を交わして、指切りをきる。それが僕たちの偽らざる、気持ちだった。 「ねえ、これなんてどう?」 「……うん、いいかも」 「でも、こっちの方がよくないですか?」 「いやいや、それじゃあちょ~っと、押しが弱いですよ」 「……はぁ」 店の奥のテーブル席からそんな話し声が聞こえてきて、僕は今日何度目かになるため息をついた。 夏祭りの翌日――ぐっすり眠っていた僕は、店の手伝いのために叩き起されて、今まさにお客さんの注文を受けているところだった。 その一方で―― 「一体、何やってるんだろう?」 お客さんの注文を受けてカウンターに戻る際に、女の子3人が話し込んでいるテーブルに近づく。 見ると、テーブルの上にはファッション誌や髪型のサンプル写真がいくつも載せられた雑誌が、何冊か広げられている。 女の子たちは、それらを時々指差しながら、何か熱心に話し込んでいた。 ワイワイと騒がしいけれど、とても楽しそうでもあった。 「何してるの、3人とも?」 僕が声をかけると、3人が同時にびくりと肩を震わせて、次いで、芹花が苛立たしげに声をあげた。 「……真一。女の子の話を盗み聞きなんて、趣味が悪い わよ」 「いや、してないから。盗み聞きなんて」 「ど~だか」 僕の弁解に、芹花は不審そうに眉をひそめ、その向かいの席では、杏子が慌てた様子でテーブルの上の雑誌を手で隠していた。 「あわっ、わ……」 その必死なところが、なんか可愛いくて…… 「ちょっと、聞いてる!?」 「い、いや、だから聞いてないって」 「人が話してんのに、このバカは……っ」 「え? あ、いや、そっちの話は聞いてるっ! 聞いてるって!?」 「芹花、そのくらいにしておきましょうよ。 西村くんも困ってるみたいですし」 芹花が今にもその拳を僕に振り下ろそうとしたところで、雪下さんが制止の声をあげてくれた。 「……わかったわよ」 僕は雪下さんに心の中で感謝しつつ、気になることを改めて聞いてみた。 「それで、3人は何を話してたの?」 「それは、その……」 「それは、あとのお楽しみです」 「え? お楽しみって……?」 「楽しみにしててくださいねっ!」 「…………」 取りつく島もない。っていうか、あからさまに隠されてないか? 「楽しみにしててくださいねっ!!」 「……あの、わざわざ繰り返さなくても」 ちょっと話の輪に入ろうと思っただけなのに、なんだろう、この疎外感は…… 「あの……」 僕がぽつーん、と突っ立ってると、それを見かねた杏子が声をかけてくれた。 「ごめんね、真ちゃん。 でも、その、今は女の子同士のお話だから……」 やんわりと、話しかけるなと言われてしまった…… 「ああ、うん。ごめんなさい」 なんというか、切ない…… それから数日の間、3人は店の一角を陣取って『女の子の話し合い』を繰り返していた。 そして―― 「いらっしゃいま……」 来客を知らせるベルの音にドアの方を振り返ると、そこには―― ひとりの女の子が立っていた。 よく見知った女の子。いや、でも…… 「こ、こんにちは……」 「……こ、こんにちは」 思わず、同じセリフをオウム返ししてしまう。 彼女がお辞儀をすると、僕が知っているものとは違う形になった髪が、ふんわりと広がった。 「…………」 結局、挨拶を交わしただけで、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまったが、それは見覚えのある仕草、見覚えのある反応。 僕は驚きのあまり、言うべき言葉が頭の中から吹っ飛んでしまっていた。 「……ええと、杏子?」 「……うん」 そしてまた、お互いに沈黙してしまう。こういう時ってどうすればいいんだろうか…… 「似合う……かな?」 結局、僕が何か口にするよりも先に、杏子がためらいがちにそう聞いてきた。 「えと、えと……」 こ、ここはちゃんと言った方がいいよな? でも、恥ずかしいし……店内だし…… 「……っ」 僕がそんなことで悩んでいると、杏子はぎゅっと目をつぶって恥ずかしそうに俯いてしまって…… その目端に、涙が滲んでいるような……? その姿を見て、僕は覚悟を決めた。 「……に、似合ってると思うよ」 「……ほんと?」 僕の答えを聞いて、杏子の表情がぱぁっと華やいだ。 目じりにたまった涙をぬぐいながら、笑顔を浮かべる。 「……よかった」 その笑顔がとても眩しくて、僕は思わず目を細めた。 やっぱり、杏子の笑顔は……とっても可愛かった。 僕は開店前のひと時を、我が家のリビングで過ごしていた。 なんとなく点けたテレビには、本日も晴天とにこやかに告げる気象予報士の姿が映し出されている。 「……今日も暑くなるのか」 お客さんが増えそうだな~、なんて呟きながら、頭では昨日の杏子の笑顔を思い浮かべていた。 ……なんだか最近は、やたらと杏子のことばっかり考えている気がする。 「チャンネル、変えるわよ~」 と、リビングに入ってくるなり、芹花がそんなことを言いながら僕の手からテレビのリモコンを引ったくった。 「……観てたんだけど」 ウソだ。杏子のことに気を取られて、ぼんやりしていた。 「そうなの? それよりさ、ちょっとお茶淹れてきてよ」 「なんで僕が? っていうか僕の発言はスル―なの!?」 あまり横暴さに抗議の声をあげた僕に、芹花はびしりと指を突き付けてきた。 「家族サービス」 「いやいや、普通そういうのって、父親がするもんじゃ ない?」 「お父さんにそんなこと頼めるはずないでしょうが!」 「なのに僕ならいいわけ? それって差別じゃないかな」 そう言いながら、僕は芹花からリモコンを取り返そうと手を伸ばす。 「ああ言えばこう言う……」 芹花はその手をぴしゃりと叩き返しながら、まるで出来の悪い弟を見るかのようにため息をこぼした。 「お互い様だと思うけど」 リモコンを取り返せず、叩かれた手をさすりながら僕が苦し紛れにそう反論すると、今度は額にデコピンをお見舞いされた。 「ったぁ……」 「ほら、はやく行く! もう一発お見舞いしちゃうわよ?」 「それに真一、テレビなんて観てなかったでしょ?」 「なんかぼんやりしちゃってさ。何考えてたのよ。 いやらしいこと?」 「う……チャンネルを変える前にひと言くらいあっても よかったじゃないか」 「もう、そんな細かいことばっかり言ってると杏子に 嫌われちゃうわよ?」 「ぐっ……」 杏子の名前を出されて僕がつい言葉に詰まると、それを見た芹花が、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。 「あらあら~? 真ちゃんったら、顔が真っ赤よ~?」 「赤くなんかないだろ!」 思わず声を荒げてしまった僕に、芹花の笑みはますます深まり、僕はその視線に耐え切れなくて、思わず目を逸らした。 あまりの居心地に悪さに、リビングから退散しようと腰を浮かせたところに―― 「何話してるの?」 聞き慣れたその声に、僕は思わずびくりと肩を震わせてしまった。 「きょ、杏子?」 「うん……あ、何か、お話し中だった?」 杏子はそう言うと、手に持ったお盆から3人分のカップを僕らの前に並べていく。 「お茶、淹れたんだけど」 「あ、うん……」 僕は席を立つ機会を逸して、その場に腰を下ろした。 「さすが杏子。真一と違って気が利くわね~」 「悪かったね」 拗ねたようにそう言い、僕は杏子の淹れてくれたお茶をありがたく頂くことにした。 見ると芹花も、すでにカップを持ち上げている。 「あ、あの……」 そんな僕たちを交互に見ながら、まだ立っていた杏子がおずおずといった様子で声をあげた。 「どうかした?」 「うん、その……えっと」 杏子はしばらくの間、迷っていたみたいだったけれど、やがて意を決したように口を開いた。 「あの、真ちゃん、隣……座ってもいい?」 「うん、いいけど……?」 僕は頷きを返しながら、その態度に違和感を覚えた。 もう今さら芹花の前で隣に座るくらい、そんなに緊張することもないような…… 「それじゃあ」 僕の疑問に答えが出る前に、杏子が僕の隣に腰を下ろした。 ……なんというか、その、今にも肩がくっつきそうなくらいすぐ近くに。 「……っ」 その、昨日までよりさらに近い距離に、僕の心臓がバクバクと鼓動を速める。 さすがにこんな肩を寄せ合う感じは恥ずかしいというか、芹花がすぐ傍にいるわけで、からかわれでもしようものなら…… 「えへへっ」 杏子はそんな僕の心中を余所に、嬉しそうに顔をほころばせていた。 「はぁ~、お熱いことでっ」 そんな僕たちの様子を見ていた芹花が、少し投げやりな感じで言いながら腰を上げた。 「それじゃあ、お邪魔虫は退散するとしますかねぇ~」 「うぅ……」 「あぅ……」 からかう様にそう言われて、僕と杏子がほとんど同時に赤面する。 「で、でも、観たい番組があったんじゃ……」 「はぁ、まったく…… あたしもそこまで野暮じゃないっての」 僕の苦し紛れのひと言にため息混じりの言葉を返して、芹花はカップ片手にリビングを出て行ってしまった。 「…………」 「…………」 残された僕と杏子の間に、気恥ずかしい沈黙が流れる。 どうしよう。何か話した方がいいんだろうか?でも一体何を話せば…… 「ねえ、真ちゃん?」 内面に沈みかけた僕の思考を、杏子の言葉が引き戻した。 「え、何?」 「えへへ、呼んでみただけ」 杏子はそういうと、イタズラが成功した小さな子供のように、小さく舌を出して笑った。 その表情に、懐かしさが胸を突く。こうしてまた杏子が僕に笑顔を見せてくれるようになったことが、嬉しくて仕方がない。 「杏子」 「なぁに、真ちゃん?」 「えっと……」 この嬉しさをなんとか杏子に伝えたくて、でも直接言うのは恥ずかしくて、言葉に詰まる。 「……お茶、ありがと」 結局僕の口から出てきたのは、そんな言葉だけだった。 「ど、どういたしまして」 杏子は少しだけ俯いて笑みを浮かべる。 「と、ところでっ! さっき芹花ちゃんとどんなお話を してたの?」 「え? う~ん、どんなっていうか……世間話かな?」 というか、チャンネルの取り合いをしていました。 「それがどうかしたの?」 「ううん、なんでもないの。ただ……」 杏子はそこで言葉を止めると、少し切なそうな顔をした。 「芹花ちゃんと話してる時、真ちゃん楽しそうだったから ……わたしも、そんな風に話せたらなぁって」 「楽しそう? そうかなぁ……」 「わたし、お話しするのうまくないし、一緒にいても 真ちゃん、やっぱりつまらないんじゃないかなって」 そう言った杏子の表情は緊張していて、少しだけ暗い。 人見知りになってから、杏子がこんなに人と話すことは今までなかったのかもしれない。 慣れていない――端的に言えば、そういうことなのかな。 「そんなことないよ」 杏子に言い聞かせるように、そっと言葉を続ける。僕は杏子と話しているのが楽しいし、それに…… 「僕は、杏子と話せて嬉しいよ」 「うれ、しい?」 「あの日、杏子が引っ越しちゃった後、もう二度と会えな いかもって思ったんだ」 「仲直りすることもできないんじゃないかって」 「でも、こうして杏子ともう一度会えて、ちゃんと仲直り できて、僕は今とっても嬉しいんだよ」 「真ちゃん……」 そこまで口にしたところで、自分が今ものすごく恥ずかしいことを言っていることに気づいて、僕は慌てて目を背けた。 「とにかく、うん。だから、気にすることないよ」 「……ありがとう、真ちゃん」 杏子からのお礼の言葉をこそばゆく感じながら、僕は手元のカップに残ったお茶をひと息で飲み干す。 「そろそろ開店の時間だから、店に出てるね」 「うん、後片づけは任せてっ」 その言葉を受けて、僕はテレビの前から腰を上げる。 名残惜しいけれど、いつまでもこうして座っていたら、それこそ芹花に何を言われるか…… 「ああ真一、ここにいたのか」 「……ん? 杏子ちゃんも一緒だったか」 「おはよう、おじさん」 「おはよう、父さん。今、店に出るから――」 「いや、今日は手伝いはいい。 それよりもひとつ頼み事があるんだが」 「頼み事?」 一体なんだろう? 僕はリビングから出ていこうとする足を止めて、父さんに向き直る。 「ああ、ちょっと買い出しを頼みたいんだよ。今日一日 手が空いてるのは、どうもお前たちだけみたいなんだ」 「芹花は? さっきまでそこでテレビ見てたけど」 「さっき、急用があると言って出かけて行ったよ」 「……へぇ」 逃げたな、あいつ。 「わかったよ。それで、何を買って来ればいいの?」 「このメモに書いておいた。ついでに夕飯の買い物もして おいてくれると、助かるんだが……」 「……了解」 父さんに手渡されたメモを見て、思わずため息がこぼれる。正直、この量をひとりで運ぶのは、ちょっと辛いなぁ。 いっそ、宗太辺りでも呼びだして手伝わせようか……そんな考えが頭をよぎる。 「あ、あのっ」 その時、僕と父さんのやり取りを見ていた杏子が、間に入るように声をあげた。 「うん? どうかしたかい?」 「……わたしも、真ちゃんと一緒に買い出しに行く」 「大丈夫だよ。これくらいならひとりでも運べるから」 もしかして、心配されてしまったのかもしれないと、そう思った僕は、気づけば心にもない強がりを口にしていた。 なんというか、その、杏子の前でちょっと格好をつけたかったというか…… 「……ダメ?」 「いや、ほら。荷物、結構重くなるし……」 「わたし、頑張るからっ」 さすがに、杏子に荷物持ちをさせるわけには…… 「それじゃあ、こうしようか」 やる気満々の杏子と頭を抱えている僕を交互に見ていた父さんは、不意に手を叩くと、僕たちふたりにひとつの提案をした。 「このメモは杏子ちゃんに渡そう。そして、杏子ちゃんが 買い物担当で真一が荷物持ち担当だ。これなら問題ない だろう?」 「それって、結局僕ひとりで荷物を持つことになるん じゃ……」 「ひとりでも大丈夫、なんだろう?」 「……はい」 ついさっき自分で言った言葉を引き合いに出されて、僕はぐうの音も出ずにやり込められてしまったのだった。 「じゃあ、いってきます」 「いってきま~す」 父さんから受け取った軍資金を手に、杏子とふたりで外に出る。 「でもこれって……」 見ようによってはデートなんじゃないだろうか……ふたりっきりだし。 「なぁに、真ちゃん?」 「あ、いや、なんでもないよ」 「そうなの?」 杏子は僕の方を〈訝〉《いぶか》しげに見ていたけれど、すぐに気を取り直して僕の方に向き直った。 「それじゃあ、どこからいこっか?」 その様子からは、一片の緊張も見いだせない。 ただの買い出しなんだから当然なんだけど……なんだかちょっと寂しいかも。 「そうだなぁ、とりあえず駅前の方から……」 僕は頭の中でできるだけ早く帰ってこれるルートを描きながら、杏子とふたりで駅を目指して歩き始めた。 「とりあえず、これで全部かな――っと」 両手に抱えた買い物袋を持ち直しながら、僕は杏子に向かって声をかけた。 「うん、全部」 そう言いながら、杏子が手に持ったメモを僕の方に向けてくれる。 覗き込んでみると、メモに描かれた商品名のすべてに赤いペンで線が引かれている。 「あ、買った物に印つけてるんだ?」 「うん。こうしておけば、買い忘れたりしないから」 そう言いながら、杏子はポケットから取り出したペンを左右に振ってみせる。 「それじゃあ、あとは帰るだけだね」 両腕にかかる重量に辟易していた僕が、少し急かすような口調でそう言うと、杏子がこちらの顔を心配そうに覗き込んできた。 「……真ちゃん、やっぱりわたしも少し持とうか?」 「いやいや、全然大丈夫!」 杏子に心配させまいと両手の荷物を持ち上げてみせる。 その拍子に腕の筋肉が悲鳴をあげたけれど、なんとか表情には出さず笑いかける。 「でも……」 「いいから。ほら、行こう」 「……うん」 杏子は納得していない様子だったけれど、僕が歩き出すとその後ろをついて来てくれた。 「あれ、真一に杏子ちゃんじゃないか」 家路を急ぐ僕たちを呼び止める声に、思わずため息がこぼれた。 「はぁ、何か用? 宗太」 「親友に対してなんて口のきき方だ!?」 「そしておはよう、杏子ちゃん!」 「うん、おはよう」 「あ~、杏子ちゃんはちゃんと挨拶ができていいなぁ~」 「……何、親戚のおじさんみたいなこと言ってるんだ」 「んあ~? 何カリカリしてるんだ?」 「今、僕の状態を見て苛立ちの理由がわからないなら、 もう友達とは呼べない……」 杏子の手前、荷物が重くて対応が雑なんだとも言えずに、僕は少し荒んだ目で宗太を見上げた。 「それは困ったなぁ……ところで荷物、重そうだな!」 それを見た宗太が、僕と杏子の荷物の量を見たあとで、訳知り顔でうんうんと頷いてみせた。 「真ちゃん……」 宗太の重そう、という発言に反応して、杏子が手伝いたそうな、それでいて心配そうな表情で僕の手元に視線を落とす。 「……で、宗太はこんなところで何してるの?」 「いやぁ、今からお前んところに顔を出そうと思ってたん だけど――」 そこまで言ったところで、宗太はもう一度僕と杏子に視線を向けた後、楽しそうに口を開いた。 「それにしても、最近杏子ちゃんとふたりでいることが 多いよな。今日もデートか?」 「でっ……でーと!?」 宗太の口にした単語に、杏子がびくりと肩を震わせる。 「まったく、大した観察眼だよ」 「ノリが悪いぞ~? まあ、コーヒーでも飲んで待ってる から、急がずゆっくり、用事を済ませてきたまえ」 「今から帰るところだから。……ところで宗太」 「ご免被る」 「まだ何も言ってないじゃないか」 「俺の細腕じゃあ、とてもお前の期待には応えられそうも ないからな」 「……今日は僕がおごるよ」 「そういうことなら仕方がない。その手にある荷物を 貸したまえ、親友!」 宗太の変わり身の早さに苦笑しながら、右手に持った荷物を手渡すと、同時に宗太が驚きの声をあげた。 「うおっ、重……」 「それじゃあ行こうか、杏子」 「え? あ、うん……」 杏子に声をかけると、どこか上の空な返事が返ってくる。 「どうしたの? ほかに寄る所があった?」 今なら宗太もいるし、もう少し荷物が増えても大丈夫と、そう伝えたかったんだけれど、杏子はボーっと僕の顔を見上げたかと思うと、慌てた様子で俯いてしまった。 「う、ううん。大丈夫。大丈夫……」 「お~い、さっさと行こうぜ~」 いつの間にか道の先まで進んでいた宗太が、僕たちに向かって声をかけてくる。 「とりあえず、帰ろうか」 「……うん」 僕は促すように杏子の背中を軽く押してから、宗太の後を追いかけた。 だから、杏子が何かぽつりと呟いていた言葉が、よく聞き取れなかった。 「……もうちょっと、ゆっくり回ってくればよかった」 「あ~、疲れた」 「店の奥まで運んでくれると助かるんだけど」 「悪いが、店の中に入ったらもうお客さんだ」 宗太はそう言うと、手に持った荷物を僕の方に押しつけてくる。 ……まあ、ここまで運んでくれただけでも十分助かった。 「いらっしゃい、宗太くん」 「どうもっす」 挨拶を始めたふたりを尻目に、僕は杏子を促して店の奥に買い出してきた品々を持っていく。 「……あ」 その途中、店の一番奥のテーブル席を見て、杏子が小さく声をあげた。 その声につられて目を向けると、そこにはもうすっかり常連となった雪下さんと、芹花の姿があった。 「……なんで?」 「なんでとは失礼ね。あたしがお店にいちゃいけないって いうの?」 「こんにちは。お買い物ですか? お疲れ様です」 「こんにちは、美百合ちゃん」 そこに、兄さんとの会話を終えたらしい宗太が、軽く手を上げながらやってくる。 「おっ、ふたりとも来てたのか」 挨拶を交わしながら、席に座る。こうして5人で集まるのが、いつの頃からか当たり前のことになっていた。 「杏子、先に座ってて。僕は荷物を置いてくるから」 「え、でも……」 「いいから」 僕は杏子の手から荷物を受け取ると、店の奥へと持っていき、その途中でヒマそうにしていた兄さんに注文をひとつ。 「あ、兄さん。宗太にコーヒーをひとつ」 「了解、ちょっと待っててくれ」 「おごるって、コーヒー1杯かよ……」 その途中で、宗太のものすごくげんなりした声が聞こえるけれど、無視しておく。 荷物を適当なところに置いた僕は、4人の待つテーブルへと戻る。 「ふ~ん?」 と、席に着いたところで宗太がニヤニヤと笑いながら僕の方を見つめてくる。 「……なんだよ」 「いやぁ、自然に隣に座ったなぁて思ってさ」 そう言って、僕とそのすぐ隣にいる杏子を指差した。 「あ~、やっぱりそうよねぇ」 見ると、芹花も同じ種類の笑みを浮かべて、僕と杏子を眺めている。 「いいじゃないか、どこに座ったって」 ふたりの指摘にちょっと赤面しながらも、なんとか普通に応対する。 ……正直なところ、あまり意識せず、自然に杏子の隣を選んでいた。 「えへへっ」 同じように引き合いに出されたはずの杏子は、恥ずかしいというよりは、どこか嬉しそうな表情で指先をくっつけたり離したりしている。 「で、どうなの? お前らもう付き合ってるわけ?」 「えっと……」 唐突な、けれど話の流れとしては全然唐突でもないその質問に、僕は答えに詰まる。 僕と杏子は付き合ってはいない……と思う。 けれど最近の、杏子との距離の近さを思うと、もしかしたら付き合ってるのかも、と錯覚する瞬間もあるわけで…… 僕がそんな風に迷っている内に、杏子が声をあげた。 「ううん、付き合ってないよ」 「えええぇ~!?」 「本当なんですか?」 きっぱりと言い切られた言葉に、僕は思わず脱力するけど、まぁ、事実だよな…… 「だってほら、夏祭りに行く時とか、すごくいい感じ だったじゃない?」 「うん、でも……まだ、告白してないから」 「え~、そうなのぉ……?」 杏子の答えに、芹花がガックリと肩を落とす。 けれど、その言葉を聞いた僕は逆に、思わず胸の鼓動が速くなっていくのを感じた。 ……杏子、いま『まだ』って言ったよな。それってつまり…… 「もしや、とは思っていたけど、いくらなんでも奥手すぎ るだろお前ら」 「私もてっきり、おふたりはもうお付き合いしていると ばっかり……」 口々に、落胆の声がこぼれ出るけど……いいじゃないか、別に。 「おふたりとも、とってもお似合いなのに」 「……あぅ」 雪下さんにそう言われて、杏子が恥ずかしそうに頬を染める。 そんな彼女を横目で見ていた僕に、芹花が指を突き付けてきた。 「それもこれも、あんたがハッキリしないからでしょ! ここはもう男らしく、この場で告白しちゃいなさいよ」 「ちょっと待って、それはさすがに横暴じゃ……」 矛先が完全にこっちに向いて、話の展開に戸惑う僕を今にも小突かんばかりの勢いだ。 「ああもう、さっさと付き合えー!!」 芹花のそんな叫びが響いた時、店内にほかのお客さんがいないことが、せめてもの救いだった。 それから数日後の晩――店の手伝いを終えた僕は、よく冷えた麦茶の入ったグラスをテーブルの上に置きながら、深々とため息をついた。 「はぁ~、疲れた」 言いながら、ぼんやりと天井を見上げる。 最近は店の手伝いにもずいぶんと慣れてきていて、こんなに疲れることなんてなかったのに。 溜まった疲れの原因は、数日前の芹花たちの言葉だった。 「さっさと付き合え、か」 あの日以来、芹花や宗太、それに雪下さんまでが、ことあるごとにその話題を持ち出してくる。 僕と杏子のことを心配してくれているのは、嬉しいんだけど…… 「こっちにも自分のペースというか、心の準備というもの が……」 「どうしたの、真ちゃん?」 「わぁっ!?」 突然声をかけられて、思わず悲鳴をあげてしまった。 「きょ、杏子か……びっくりした」 「ご、ごめんね? 真ちゃん、なんだか悩んでるみたい だったから……」 そんな僕の様子を見て、杏子が申し訳なさそうに目を伏せるので、僕は慌てて言葉をつないだ。 「僕の方こそ、ごめん。なんだか大げさに驚いちゃって」 「何か、心配事?」 杏子が、控え目な様子で聞いてくるけど…… さすがに、キミに告白するタイミングを考えているんだ、とは言えずに、僕は思わず目を逸らした。 「た、大したことじゃないよ」 「でも……」 「それより、杏子こそどうしたの? あ、もしかして夕食の準備?」 最近では元・水島家の面々が、我が家のキッチンを占領していた。 今や料理は春菜さんたちと杏子が共同で作っていて、男である僕や兄さんは完全に門外漢だ。 とはいえ、食器を並べることぐらいは手伝えるだろうと腰を上げかけた僕を、杏子が慌てた様子で押し留める。 「ち、違うよ? ……真ちゃん、お腹空いたの?」 「実は、少し」 そう言って、僕が自分のお腹を押さえてみせると、そんな僕の様子に、杏子がクスクスと笑みをこぼした。 「春菜さん、もうすぐ“すずらん”から来るって言って たから、もう少しの辛抱だよ」 「そっか」 他愛のない会話をして、ふたりで笑い合う。 そんな日々が楽しくて嬉しくて、もういっそ、このままでもいいのかもしれない、と思ってしまう。 でも、杏子はどうなんだろう?このハッキリしない関係で、彼女は満足しているのかな? 「真ちゃん?」 「え、何?」 「……呼んだだけ」 はにかむような笑顔を向けられて、思わず頬が熱くなる。 ……思わず、今、言ってしまおうか。そんな考えが頭をよぎる。 でも、喉元まで出かかった言葉は、すぐ近くから聞こえてきた別の声にかき消された。 「真一、杏子ちゃん。ちょっといいか?」 「っと、父さん? どうしたの?」 振り向けば、何か困った様子の父さんがいた。 「喪服をどこにしまったか、知らないか」 「喪服? 確か──」 父さんが喪服を着るなんていつぶりだろう?あまりいい想い出はないので、つい声が強ばってしまう。 「あの……何か、あったんですか?」 杏子の言葉に、父さんは少し困ったように頭を掻いた。 「実は明日、親戚の法事に行かなくちゃならなくなってね」 「それじゃあ、店は?」 「臨時休業だな。雅人も連れていくから、お前たちは 休んでくれ」 「そっか……僕は行かなくていいのかな?」 「杏子ちゃんひとりに留守番させるわけには、いかない だろう? ついていてやりなさい」 父さんは僕に、いつもよりも優しい目でそう答えた。 「でも、春菜さんたちもいますし……」 「ああ、それなんだが――」 「ごめんなさいね、明日はちょっとこっちに顔を 出せないの」 まるで図ったようなタイミングで、春菜さんもリビングにやってきた。 その手には蓋をした鍋を持っているので、たぶん、自宅で作った料理を持ってきたんだろう。食欲をそそるいい香りが、すぐ近くまで漂っていた。 「どうかしたんですか?」 心配になって尋ねた僕に、春菜さんは笑顔で首を横に振った。 「ああ、ウチは法事じゃないのよ。 明日は一日“すずらん”を休みにして、向こうの家を 大掃除しちゃおうと思って」 「ああ、そういうことなら、僕たちも手伝いましょうか?」 そうすれば、杏子がひとりになることもないだろうし、隣を見ると当の杏子も、うんうんと頷いてくれている。 「ダメダメ、水島家がお世話になったお家に感謝の 気持ちを伝えるんですから、部外者は立ち入り禁止です」 春菜さんの背後から、密閉容器をいくつか手にした香澄さんも姿を見せた。その隣には、芹花もいる。 「ねえ、芹花ちゃん?」 「……あたしは、人手が多い方が楽だと思うけどー」 香澄さんの言葉に、芹花がつまらなさそうに答えた。 「……芹花ちゃんが言い出したことでしょ?」 「だからって、なんで大掃除なのよぉ」 「そういうわけだから、明日は一日『ふたりで』 お留守番をよろしくね」 「は、はぁ」 「ふたり……」 確かに結果から言えばその通りなんだけど、香澄さん、そこを強調するような言い方しなくても…… その後、僕は杏子をヘンに意識してしまって、夕食の間も寝る直前も声をかけられず…… 杏子も同じような気持ちなのか、こちらの様子をちらちら窺うばかりで、会話は交わさず…… 結局、おとなしくお互いの部屋へ戻ることになった。 ふたりきり?杏子と?僕が? 「……僕、今日眠れるんだろうか?」 そう思いながらも、僕はベッドに入って寝る努力を始めた。たぶん、無駄だと思いつつ…… 「……やっぱり眠れなかった」 案の定一睡もできなかった僕は、窓の外で小鳥がさえずる音を聞いて、ベッドから這い出した。 「とにかく、朝食の準備をしないと……」 あくびを噛み殺しながら、とりあえず洗面所に行こうとドアの前まで来ると…… 「あ、真ちゃん。もう起きてたんだ」 いきなり、杏子が僕の部屋に入ってきた。 「!?」 「お、おはよう、真ちゃん」 杏子はどこかそわそわした様子で、挨拶してきたけど、いきなり来るものだから、ビックリした。 もしかして起こしに来てくれたんだろうか?……だとしたら、ものすごく損をした気分だ。 「ええと……二度寝しよっかなぁ」 僕はそう言いながら横目で杏子の様子を窺うと、杏子は、そんな僕を見て小さく笑みを浮かべた。 「うん、それじゃあ朝ご飯はラップを掛けておくね」 「え、朝ご飯って?」 「わたしは、先にお掃除しちゃうね」 「掃除……」 「洗濯物とかあったら、あとで洗面所まで持って来て くれる?」 「ちょっと待った」 「?」 楽しそうに次々と今日の予定を口にする杏子を、僕は慌てて止めた。 「ええと、まずは朝ご飯ありがとう。着替えてから 行くから、一緒に食べよう」 「でも、もう一度寝るんじゃないの?」 「いや、よく考えたらお腹が空いてたんだ」 そんなことをしたら、せっかく杏子が作ってくれた朝ご飯が冷めてしまうじゃないか。 「あと、掃除や洗濯も無理にしなくていいよ。 父さんたちがいないのは今日だけだし」 僕がそう提案すると、杏子が深いため息をつく。 「……真ちゃん。わたし、お洗濯やお掃除って、毎日する ものだと思うの」 杏子は人差し指を立て、小さな子供に言って聞かせるようにゆっくりと言葉を並べていく。 「それに今日はいい天気で、絶好のお洗濯日和でしょ?」 「うん、まぁ……」 杏子の言葉に促されて目を向けた窓の外は、今日の暑さを想像させる雲ひとつない快晴。 「……そうだね」 「でも明日もそうとは限らないし、できる時にやって おいた方がいいと思うの」 「それじゃあ、僕も手伝うよ。洗濯」 「え、あ、うん。でも……」 ならばと手伝いを提案すると、杏子は急に歯切れが悪くなって、視線を左右にさまよわせる。 「……まずは顔を洗って、ご飯食べて?」 「だから、そのあとで」 今日が洗濯日和だって言うのはわかったけれど、だからって全部を杏子に任せるのは申し訳ない。 「ダメかな?」 「ダメじゃ、ないけど……」 僕の問いかけに、杏子は頬を赤くして俯いてしまった。 あれ、僕何かヘンなこと言ったかな? 「……下着とか、あるし」 「あ……」 今度はお互いに赤面して、俯いた。 「そ、そうだ! じゃあ僕が掃除するよ! 役割分担!」 「そ、そうだね! それじゃあ、わたしお花に水をあげて くるからっ」 慌てて飛び出して行った杏子を見送りながら、僕は自分の鼓動を落ち着けようと深呼吸をした。 ……こんな調子で、僕の心臓は今日一日持つんだろうか? ちょっとした不安を感じながら、僕は顔を洗うために、まずは洗面所へと足を向けた。 顔を洗ってリビングに入ると、テーブルの上にはすでに朝食が用意されていた。 ベーコンと目玉焼きにサラダ、焼き立てのトーストが皿の上に載せられている。 時刻はまだ7時。手の込んだものではないけれど、これを作った杏子はもっと早く起きていたわけで…… 「あ、真ちゃん。もう用意できてるよっ」 「……ありがとう、杏子」 感謝の気持ちを込めてそう言うと、杏子がどこかくすぐったそうにはにかんだ。 「……なんだか、新婚さんみたいだね」 「そう、かな」 嬉しそうな杏子の言葉に、僕は頬が熱くなるのを感じた。 「い、いただきますっ」 僕は杏子の顔を見続けるのが恥ずかしくなって、朝食を食べることに没頭する。 「……おいしい?」 「うん」 「よかった。トースト、もう1枚焼く?」 「うん」 答える言葉は少しそっけなくなってしまったけれど、杏子の作った料理はとてもおいしくて、結局僕はトーストをもう2枚おかわりしてしまった。 杏子はそんな僕の姿を、微笑ましそうに見ていた。 朝食を終えた僕と杏子は、それぞれが決めた分担の仕事に取りかかったんだけど…… 「あのさ、杏子?」 「なぁに、真ちゃん?」 「掃除は僕がやるからさ、杏子は洗濯しててよ」 杏子はなぜか、手にしたはたきで室内を綺麗にしていた。 「でもね、洗濯が終わるまでもう少し時間があるの」 杏子はリビングの時計を指差すと、あと10分と言って、またはたきを手に働き始める。 「でも、それじゃあ杏子にばっかり家事をさせることに」 「あ、真ちゃん。掃除機は後だよ」 「え? でも……」 「お掃除の時はね、高いところのほこりを落としてから 掃除機をかけた方が、手間がかからないの」 杏子はそう言うと、テレビの上や棚の上をはたきで丁寧に掃いていく。 「ええと、じゃあ僕は……」 掃除機が後となると、ほかにやることは……窓拭きとか? 僕は洗面所からバケツと雑巾を持って来て、換気のために空けておいた窓を、拭き掃除することにした。 ……………… 「終わった、はいいけど……」 掃除を終えて綺麗になったリビングを見ながら、思わずため息がこぼれる。 結局リビングの掃除は、僕が窓を拭いている内に杏子が終わらせてしまった。 「あとは廊下と階段だけか……」 さすがに住人のいない部屋に、勝手に入るわけにいかない。 だから、ほかに掃除をするところと言えば、そのくらいしか残っていなかった。 かといって、ベランダで洗濯物を干している杏子を手伝うわけにもいかないし…… 「結局、僕はほとんど何もしてないじゃないか」 なんだか、杏子にばかり働かせているみたいで、ちょっと焦ってしまう。 「……あとは、そうだ! 風呂掃除をしておこう」 善は急げと風呂場に向かうと、そこにはすでに杏子がいた。 「あれ、どうしたの? 真ちゃん」 「杏子? ベランダで洗濯物を干してたんじゃ?」 「もう終わったよ~」 そう言いながらお風呂場から出てきた杏子を見て、僕はなんとなく状況を理解した。 「あの、もしかして風呂の掃除も……?」 「うん。それがどうしたの?」 「あ、そうなんだ……」 な、なんてことだ…… ガックリと肩を落とした僕を見て、心配そうに杏子が首を傾げる。 「ど、どうしたの?」 「あ、いや、全然役に立ってないなって思って」 「そんなこと……わたし、楽しいよ?」 「でも、やっぱり杏子にばかり働かせてるみたいでさ」 「わたしは真ちゃんのために色々できるの、とっても 嬉しいんだけどな……」 「そ、そう?」 「うん……」 「真ちゃんのためなら、わたし、なんでもできちゃうん だよ」 そんなことをさらりと言ってくれる彼女が眩しすぎて、ますます自分が役立たずだと感じてしまった瞬間だった。 そんなこんなでふたりで家事を――と言っても、ほとんど杏子がやってくれたんだけど――こなしていく内に、すっかり日が沈んでしまっていた。 「あ~、そろそろ夕飯の支度しないと」 そういえば、今日は買い出しに行っていないから、ウチにあるもので何か作らないといけないのか。 何があったっけ…… 「真ちゃん、お腹空いた? それじゃあすぐに作るから、ちょっと待ってて」 「あ、待って」 「うん?」 キッチンに入っていこうとしている杏子を呼びとめる。 今日は一日杏子に頼りっぱなしで、さすがに申し訳ない。 「夕飯ぐらいは手伝うよ。大して役に立たないかも しれないけど」 杏子は僕の提案に、しばらくの間驚いたような表情をしていたけれど、すぐに嬉しそうな笑顔で頷いてくれた。 「そうだねっ。一緒にお料理しよっ!」 「それじゃあ真ちゃん、そこにあるジャガイモの皮を 剥いてくれる?」 「了解。包丁借りるよ」 ふたり並んで、手元のジャガイモの皮を剥いていく。 今日は、キッチンの奥に箱で置いてあったジャガイモの山があったので、ホワイトシチューにポテトサラダ。 「ふんふ~ん♪」 日頃春菜さんたちの料理を手伝っているだけあって、杏子の手際は文句なしに早い。 僕が1個剥き終わる間に、3つ4つと皮の剥けたジャガイモがボールへと転がり込み、同時にニンジンがまな板の上で乱切りにされていく。 僕はジャガイモを杏子に任せて、添え合わせの野菜を用意していく。 「ええと、ジャガイモの半分は電子レンジで加熱して…… 真ちゃん、ホワイトソースを出してくれる?」 「よっと、これでいい?」 杏子の指示に従って、上の棚に入っていたホワイトソースの缶を取り出す。 杏子はというと、切った野菜を鍋に入れて、計量カップで量った分の水を入れる。 「缶、開けておいて~」 「了解っとぉ……」 缶切りを取り出し、ホワイトソースの缶をひとつ、ふたつ…… 「あ、し、真ちゃんっ!?」 それまで鍋を見ていた杏子が僕の手元を見るなり、驚いた声をあげる。 「え? 何?」 「あの、今日はふたり分だから、開ける缶はひとつで よかったのに……」 「あ……」 そう言えば、今日は杏子と僕のふたりだけなんだった。 「……どうしようか?」 「…………」 ふたり並んで、思わず途方にくれてしまい、僕は自分の失敗に、思わず頭を抱えかけた。 「どうしよう、こっちの缶にはラップを掛けて……」 「ううん、任せてっ」 そんな僕の様子を見た杏子は、ガッツポーズで気合いを入れて冷蔵庫の中を再確認する。 「……大丈夫」 杏子はそう言うと、冷蔵庫の中からあさりとニンニクを取り出した。 「ちょっとメニューが変わっちゃうけど、いい?」 「いいけど、どうするの?」 「うん、ちょっと強めに味付けすれば、シチューに 紛れたりしないと思う……」 そう言いながら、杏子は乾物のところからスパゲッティを取り出して、寸胴鍋を火にかける。 「それじゃあ、真ちゃんはポテトサラダをお願いね」 「わかった」 何をするのかはわからないけれど、今は杏子を信じよう。僕はもう、失敗しないようにしないと。 今度はちゃんと杏子に指示を受けながら、僕は自分の仕事に集中した。 「よっと、これで全部かな」 キッチンから持ってきたテーブルの上に、料理の載った皿を並べていく。 結局本日のメニューは、シチューにポテトサラダ、そしてホワイトソースのスープスパゲッティだ。 「……なんだか、色彩とか単調になっちゃったね」 「いや、そんなことないと思うよ」 お互いに苦笑を交わしながら、向かい合ってテーブルに着く。 「それじゃあ、いただきますっ」 「いただきます」 最初にどれから食べようか、一瞬迷ってしまったけど…… 食欲をそそる香りも楽しみつつ、まずはスパゲティを口へと運んでいく。 「……おいしい!」 「本当?」 僕が力強く頷くと、杏子の頬が見る見る内に赤くなった。 スパゲティのほかのメニューも少しずつ食べてみる。 「うん、おいしい。よくあそこからこんな風に……」 シチューは元より、スパゲッティの方は僕の失敗が原因とは思えない出来栄えで。 「うん。なんか、いつもよりおいしく感じるぐらい。 あ、いや、いつもおいしいんだけど」 「ふふっ……」 杏子は自分が食べるよりも、僕の顔を眺めている時間の方が長そうで…… 「真ちゃんのためだけにお料理できたから、わたしも なんだか……嬉しい」 そんな恥ずかしいことを言って、僕の喉を詰まらせたのだった。 後片付けを終えて、お風呂を済ませ、僕と杏子はふたりで、リビングの端にあるソファに腰を下していた。 杏子は僕のすぐ隣に座っていて、息遣いまで聞こえてきそうな距離だ。 改めて意識するだけで、バクバクと心臓が跳ねまわる。そんな僕を見上げて、杏子が首を傾ける。 「……もう眠い?」 「ううん」 こんな状態じゃ、まったく眠れる自信がない。 そのせいかなんなのか、僕たちは何をするでもなく、ずっとふたり寄り添って過ごしていた。 「……ふふふっ」 何がおかしいのか、杏子が小さく笑いを漏らした。それは、思い出し笑いだったのかもしれない。 「……杏子、よく笑うようになったね」 「そうかな?」 杏子がそう言いながら、自分の頬をつつく。小動物のようなその仕草に、思わず僕も笑みを浮かべる。 「……たぶんね、真ちゃんと一緒にいるからだと思う」 「僕?」 「うん。真ちゃんと一緒にいると、どんなにちっちゃな ことでも、楽しいの」 「……わたし、ヘンかな?」 そう言って笑う杏子の姿が、僕の胸に突き刺さる。 「可愛いよ」 「……え?」 「全然ヘンじゃない。僕は今の、杏子の幸せそうな笑顔、 可愛いと思う」 自分で言っておきながら、顔から火が噴きそうな言葉だ。 あまりの恥ずかしさに横目で杏子の反応を窺うと、杏子の方も顔を真っ赤にしていた。 「あ、ぅ」 「……杏子?」 声をかけても、杏子からの返事はない。 ただ、杏子は何かを決意するような表情で僕の顔を見上げてくる。 「……真ちゃん」 「うん?」 「わたし、真ちゃんに伝えたいことがあるの」 「ずっと伝えたくて、伝えられなくて、でも今まで言葉に できなかったこと」 杏子の顔は耳まで真っ赤になって、けれど顔を背けることなく、まっすぐに僕の目を見つめてくる。 「わたしね、真ちゃんのことが……」 「真ちゃんのことがね、その……」 「……き……なの」 「杏子?」 「わたし、真ちゃんが好きなの……」 その言葉と共に、杏子の顔が視界いっぱいに近づいてきて―― ――僕の唇に何かが触れた。 *recollect「んんぅ……んぅ……んぅぅ……んんぅ」 「ふぁ……真、ちゃん……」 突然の告白と、キス…… そのふたつを終えた杏子の瞳は、今にも泣き出しそうなくらい、潤んでいた。 ……きっと、緊張してるんだ。当然だと思う。僕だって今にも気絶しそうなくらい、緊張している。 「杏子……」 「……あっ」 杏子の緊張を、少しでも和らげてあげたくて、それに自分の緊張を、なんとかごまかしたくて。 僕は、杏子の身体をゆっくり抱き締めた。 「んっ……」 「大丈夫? 痛くない?」 「うん……ねぇ、真ちゃん」 「何?」 「もっと……ぎゅって、して?」 「うん。いいよ」 杏子が痛がらないように、ゆっくりと、ゆっくりと、抱き締める腕に力を入れていく。 「んっ……」 「あ、ごめんっ」 少し力が強すぎたのか、杏子が僕の腕の中でもがいたので、僕は急いで、腕の力を緩める。 「ごめん、杏子」 「ううん……大丈夫、だよ」 今度は杏子の方から、僕にしがみついてきた。その杏子の腕は、小刻みに震えている。 密着した杏子の温かい身体からは、痛々しいくらい速くなった鼓動が伝わってきた。 「杏子……」 今度は、杏子が痛がらないように、もう一度杏子の身体を抱き締め、そのまま杏子の顔を見つめる。 杏子は、僕を見つめ返し、そしてゆっくりと瞼を閉じた。 そして、その誘いに応えるため、僕は目の前にある彼女の唇に……自分の唇を重ねた。 「んっ……ふぅ……んちゅっ……ちゅっ」 初めての時とは違う、少し深いキス。 唇を重ねて、探るように舌を動かすと、杏子はおずおずと自分から舌を差し出してくれる。 ひどく遠慮がちなその動きに触発されて、僕はその舌に、自分の舌を絡めた。 「んんっ! ちゅ、ちゅ、ちゅくっ、ちゅ……んんっっ」 固く閉ざされた杏子の身体が、徐々に柔らかくなっていく。 それがなんだか嬉しくて、僕は夢中で杏子とキスを繰り返す。 「ちゅっ、ちゅ、ちゅっ……んーっ、んちゅ、んんっ……」 杏子は恥じらいながらも、それに反応を返してくれる。 「ちゅぷっ、ちゅぷ……んんっ……あむ……ぷはっ……」 唇を放すと、銀色に光る唾液が、ゆっくり糸を引いた。 杏子は、まるで熱に浮かされたような表情で、うっとりとしており、その姿がまた愛しくて、僕は杏子の髪を優しく撫でていく。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 ふんわりと、甘い花の蜜ようないい香りがする。 杏子はくすぐったそうに目を細め、僕の服の裾を小さく摘む。その仕草もつくりも、彼女は何もかもが小さくて可愛いし、そして柔らかくて温かい。 「好きだよ……杏子」 僕は改めてそう口にして、杏子の瞳を覗き込んだ。 「わたしも、好き。真ちゃんのこと……好き」 恥じらいながらも杏子ははっきりとそう言ってくれる。それが嬉しくて、温かくて。 僕は杏子と、もう一度軽く唇を重ねる。そっと触れ合うように、優しく。ついばむように唇を確かめ合う。 「ちゅっ、ちゅ、ちゅぷ……ちゅる、ちゅぷ……んんんっ」 そして僕は……ゆっくりと杏子の身体に手を這わせた。 恐る恐る、大好きな彼女の身体を……彼女の胸を、寝間着の上から触ってみる。 拒絶されたらすぐに止めようと思いながら、そっと壊れ物を扱うようにその身体を確かめる。 「んん、くふっ……ちゅ、ちゅっ、んんーっ、んふぅぅ」 腰の辺りを撫でると、くすぐったそうに身をよじる。 なら……と、意を決して、僕は彼女の小さな胸のふくらみに、さりげなく手を這わせた。 「あ……あんっ、んぁ……んんっ!」 杏子がかすかに、甘い声をあげたと同時に、急にその身体が強ばる。 びっくりした僕は、慌てて手を離してしまう。 「ダメっ……!」 すると杏子は、潤んだ瞳で僕を見つめ、ぎゅっと僕の手を掴んできた。 そして、そのままそっと自分の胸にあてがう。 「やめちゃ、ダメだよ……真ちゃん」 「でも……」 「やめないで、真ちゃん。わたし……すごく嬉しい。 嬉しくて、幸せだから……」 「…………」 「大丈夫。大丈夫だよ、真ちゃん」 そう言って、杏子はほほ笑む。 その顔は本当に幸せそうで、安心した僕は、再び杏子の胸に触れた。 「あっ……んん……ふぁっ」 「大丈夫? 痛くない?」 「うん……真ちゃんの手だから、大丈夫。幸せだよ」 「ありがとう、杏子」 「ぁん……んんっ……あぁぅ……あんっ……」 僕が手を動かす度、杏子は身体をひくひくさせて、押し殺したような声をあげる。 その仕草がどうしようもなく可愛くて、いじらしくて、僕は手の力を少し強めた。 「あんっ、やっ……ふあぁっ……はうぅ……んんっ!」 杏子の反応がちょっと大きくなってきて、それが嬉しくて僕は杏子の胸を、触るだけじゃなくて、少し揉んでみる。 あまりの柔らかさについ、夢中になってしまう。 「はんっ、んやぁっ……あんっ、真ちゃん、だめ…… んんっ、んんっ……」 ダメという言葉に、僕はまた手を離しそうになった。 でも杏子は、ついさっき大丈夫だと言ってくれた。だから今度は、手を離さないまま、杏子に聞いてみる。 「ダメ……かな?」 杏子は、首をふるふると振った。 「……ごめん、真ちゃん。ダメじゃないよ……大丈夫」 「本当に……大丈夫?」 「大丈夫……大丈夫、だもんっ」 杏子の顔は、今まで見たこともないくらいに赤くて、おまけにうっすら涙目になっている。 こういう場合は、どうすればいいのだろう?杏子の言葉が裏腹であることはわかるけど、ダメと言われると正直どうしていいかわからなくなる。 すると―― 「真ちゃん……ちゅー、して?」 杏子は消え入りそうな声でそう言って、唇を小さく結び、僕の方に向けてきた。 「お願い……ちゅー、して? そしたら、ちゃんと 大丈夫になるから」 「……うん、わかった」 僕は自分の経験不足を自覚させられて、ひどく申し訳なく思いながらも、杏子にキスをする。 杏子が少しでも安心してくれるように、できるだけ優しく。 「ん……ふぅっ……ちゅっ、ちゅ……ちゅぷ、ちゅむ……」 唇と唇が触れあう濡れた音が、鼓膜を刺激し、僕は角度を変え、深さを変えて、杏子と唇を交わし合う。 「ちゅぅ、ちゅぷ、ちゅっ……んんーっ、んんっ、ちゅっ」 杏子も健気にそれに応えてくれる。 彼女をなだめるようにキスを繰り返しながら、再びその身体に触れてみる。 頬をなぞり、顎を確かめ、そしてその首筋に指を這わせていく。 「んっ……んんっ、んんーっ……はぁん…………あふっ」 杏子の身体のラインを取っていくように指を動かし、鎖骨の辺りで指をためらうと、杏子が甘いため息を吐きながら、もぞもぞと身体を動かした。 「ちゅっ、ちゅっ……ちゅっ……真ちゃん……いいよ、 触って……ちゅぷっ」 「……うん……」 一旦止めていた手をもう一度動かして、杏子の胸に触れる。 なだらかな丘を思わせるその胸は、僕の手の内で小さく震えた。 「……あっ、はぁ、はぁ……んんっ……真ちゃん……」 やっぱりとても柔らかい。 あまりの柔らかさに手が埋まってしまうのではないかとドキドキしながら、僕は軽くその胸を揉んでいく。 「ふあぁ……ぁん……あんっ、んああっ、んあっ…… ふぁう……」 杏子の声は甘さを増していき、呼吸も荒く、そして熱くなってきた。 そんな彼女の息が、手の甲にあたってくすぐったい。 「んぁぁ……ぁんっ、はぁ、はぁぁ……んんっ!! ちゅ、ちゅくっ、ちゅる、んちゅっ……」 僕の奥底に眠る衝動が、波のように押し寄せてくる。僕は杏子の唇に、強く深く自分の唇を押しつけた。 彼女はそのキスに抵抗せず、それどころか僕の頭を引き寄せて、舌を絡ませてくる。 「ちゅっ、ちゅくっ……んんっ……ちゅぱ、ちゅく…… 真ちゃん……ちゅる……好き、大好き……」 「れる……ちゅぷ、ちゅっ、ちゅぷっ……真ちゃんのこと、 ちゅっ、ちゅっっ……全部好きぃ……」 ダメだ……キスをしながらそんなことを言われたら、もう我慢できない。脳髄が沸騰でもしているみたいな気分だ。 僕は杏子と大胆にキスしながら、彼女の寝間着の裾に手をかけて……少しずつたくし上げていく。 「れるぅ、れろ……ちゅっ、ちゅぷ……んふっ…… ああっ!」 彼女の肌を、見たかった。 「……ふあっ……」 僕はキスを一旦やめて、あらわになった杏子の胸を眺めた。 形が良くて可愛い胸は、杏子の性格と同じように控えめなサイズで、その胸の頂上では、桜色の乳首がぷっくりと、形を露わにしている。 それを僕に見られた杏子は、また顔を真っ赤にした。 「し、真ちゃん……恥ずか、しい……よ……」 「そ、そんなに見ないで……」 杏子の瞳は、涙が溜まっているのか、濡れたように光っている。 僕は彼女が落ち着けるように、ゆっくりとお腹をさすり、そして、ほっぺたや首筋にキスした。 「んんっ……ふっ……あふっ……んんーっ……」 「大丈夫。大丈夫だよ、杏子」 「うん……真ちゃんの手、気持ちいい。ちゅーも……好き」 「うん。ありがとう」 杏子の身体から、力が抜けていく。 どうやら杏子は、身体を撫でてあげたり、キスしてあげたりすると、恥ずかしさが和らぐみたいだった。 そうして、目一杯杏子に優しくした僕は、肝心なことを尋ねてみる。 「杏子……今さらだけど、直接触っても、いいかな?」 「……っ」 杏子は少しの間、もぞもぞしながら困ったような顔をしていたけど、それでも結局最後には―― 「いい、よ……真ちゃんだから」 そう言ってくれた。 「うん……」 許しを得た僕はおずおずと、杏子の胸に手を伸ばしていく。 「うん……んんっ……んあっ!」 今まで意識していなかった乳首を指先で優しく撫でると、杏子は、これまでの中で一番大きく反応した。 「はぁんっ! あんっ、んあっ、んあああんっ!」 「……だ、大丈夫?」 「ごっ、ごめんなさい……急に大声出して……」 「ううん、僕こそびっくりさせてごめん。 もっと優しく触るから」 「う、うん……」 再び優しく乳房を撫でるように触っていく。 「んぅん! あぁっ……あああんっ、あんんんっ!」 「杏子は敏感なんだね」 「だっ、だって……初めて、だから………」 「よくわからないっ……ああんっ! あっ……ああっ!」 大きな声を出す杏子の口を、僕はもう一度キスで塞ぎながら、指先で転がすように乳首に触れる。 「ふむっ、ちゅうっ、ちゅぷ、ちゅるる、んっ! んっ! んんんっ!」 杏子はもう、ほとんどされるままになっていた。キスをされても、胸を直接触られても、僕を受け入れてくれる。 そして熱い吐息を漏らしながら、僕の腕の中で喘ぎ続けている。 「ちゅっ、ちゅぷっ、ちゅ、ちゅ……んんっ! んちゅっ、 んぷっ……んんっ!」 杏子にキスを続けながら、僕は夢中で愛撫を繰り返す。 彼女の乳首を引っ張るように弄ってみたり、指の腹を使って擦ってみたり。 とにかく杏子に気持ちよくなって欲しくて、僕は探るように指を動かす。 「んちゅっ、ちゅぷっ、ぷはっ、はぁん、はぁぁん!」 刺激が強すぎたのか、杏子は僕とのキスを中断して、大きな声を出した。 「はぁ……はぁ……んんっ、はぁ……真ちゃん……」 乱れきった息を少しずつ整えながら、杏子は自分の唇を、指先で軽くなぞる。 「杏子……キス、する?」 「はぁ……はぁ……うん。ちゅー、して……?」 もう何度目かわからないくらいのキスを交わして、僕たちはまた抱き締めあった。 「真ちゃん……んっ、ちゅ、ちゅ……ちゅっ……」 「んはぁ……んむっ……ちゅっ……んんんぅ……んちゅっ、 はぁ、はぁ……ちゅー……すき……んんっ……ちゅぷっ」 あまり激しくない、触れ合うような甘いキスから、深く深く、舌を絡めるようなキスまで。 それらのキスはまるで、心の内側まで温めるような幸せなキスで、僕たちはしばらくの間、そんなキスに夢中になった。 「ちゅっ……ちゅ……なんだか……夢みたい。ちゅっ」 「……夢みたいって、何が?」 「真ちゃんと、ちゅーして……ぎゅってしてもらえて、 いろんなところ、触ってもらって……ちゅっ」 杏子が、あまりにも幸せそうにそう言うから。 僕は杏子から唇を離して、彼女をまっすぐ見つめ、そして、改めて僕の想いを伝える。 「杏子……大好きだよ」 「わたしも、大好き。真ちゃんのこと、一番、好き」 杏子は幸せいっぱいに、にっこりと笑った。 その笑顔を見た僕は、杏子のことをもっと強く、もっと近くで感じたくなった。 だから―― 「僕の部屋に……行こうか?」 「……うん」 僕の言葉が、どういう意味なのか。杏子はきっと、わかっているはずだった。 それでも杏子は、幸せそうな笑顔のまま頷いてくれた。 僕はできるだけ優しく、杏子を抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこのような形だ。 杏子は少し恥ずかしそうに俯きながら、それでも僕の首に腕を回す。 「この格好も……恥ずかしいけど、嬉しい」 そのまま、僕は彼女を自分の部屋へ運んだ。 部屋に入った僕は、杏子をそっとベッドに寝かせて、明かりを点けた。 「あっ……」 「杏子?」 「ううん……なんでもない」 杏子は一瞬何かを言おうとしたようだけど、そのまま首を左右に振った。 もしかして……明かり、つけない方が良かったのかな? そう思いながらも、僕は、よりハッキリと杏子の姿を目に焼きつけたくて、そのまま彼女の傍に腰をおろした。 「杏子……寝間着、全部脱がせても……いい?」 「うん……でも、下は……」 「じゃあ、下はまだ。いい?」 「う……ん」 「真、ちゃん……」 自分からそうさせておいてなんだけど、好きな子が下着一枚だけの姿をさらけ出してくれるっていうのは、たまらなく嬉しいものなんだなと思った。 杏子はひどく恥ずかしそうに身体をもじもじさせていて、その姿を見て、僕は自分の下半身に、ますます血液が集まっていくのを感じた。 いくらなんでもがっつきすぎだ、と自分に言い聞かせ、理性を保ちながら、杏子の頬に手を這わせる。 「すごく、可愛いよ。杏子」 「う、うん、ありがとう……真ちゃん」 閉じていた足を、少しだけ開いて、杏子は恥ずかしそうにはにかむ。 こんなことをしていいのだろうかと、罪悪感を覚えてしまう眺めで……目のやり場に困った。 でも僕は覚悟を決めると、そっと杏子に覆い被さり、杏子にキスをした。 「はふっ……んんっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅぷ、 れるっ……んんっ……」 「ああっ……んんっ……ひゃあんっ、くすぐったい……」 唇や首筋、ほっぺたや胸元。杏子が喜びそうな場所に、軽く口づけていく。 「でも……真ちゃんにいっぱい、ちゅーしてもらって…… んぅんっ……あっ……はぁ、はぁっ……んちゅっ……」 そして、最後に唇へもう一度キスをして、僕は杏子の胸を再び触り始めた。 「はんっ……んん、ふぅ……あぁ……あふっ……」 リビングでした時とは違って、杏子はあまり大きな声を出さなかった。 もしかしたら、触られることに慣れてきたのかもしれない。……それなら思い切って。 「はむっ」 「あっ、ひゃんっ!」 僕は杏子の乳首にそっとキスをして、そのまま乳首を優しく吸ってみる。 「あん……はぁん、ふぁぁぁ……んんっ…………くすっ」 杏子は喘ぎ声を漏らしながら、なぜかはわからないけど、楽しそうに笑った。 「……杏子?」 「ふふっ……くすくす。真ちゃん、なんだか……赤ちゃん みたい」 「赤ちゃんって……僕、そんなに夢中だった?」 「そうじゃないけど、なんだか可愛いから……んんっ」 ……なんだか微妙な気分だけど、杏子が楽しそうなら、それでいいか。 というわけで、僕は上着を脱がして、そのまま乳首を吸ったり舐めたりした。 「あんっ、あっ、あっ……真ちゃん……あふっ、あんんっ」 「杏子、痛かったら言ってね」 「大丈夫だよ、痛くないから……あんっ、あんっっ」 「んっ、くぅんっ……ああんっ……はぁ、はぁ…… 真ちゃん、こういうの……すき?」 「えっ……まぁ、その……嫌いじゃないかも……」 「そっか……じゃあ、もっとさわって……いいよ」 「うん、ありがとう」 「あんっ……あんんっ……んんっ……そこ……あふっ」 「あっ……んくっ……真ちゃんの手が、わたしの胸に…… んんっ、ああんっ……今度は、揉んでるよぉ……」 「ああんっ……あっ……まっ、マッサージされてる みたい……んっ……気持ち、よくなってきたかも……」 僕に気を遣ってか、嫌なそぶりをみせない杏子。 そんな優しさに応えなきゃと思い、僕はさらに優しく愛撫を重ねていく。 「んんっ……ひゃっ……ああんっ……んぅん!」 「あっ……ひうっ……はぁん、あぁっ……あっ……はぁ、 はぁんっ……胸のさきが、びりびりしちゃう……」 「痛くない?」 「だい……じょうぶ……んんっ! ちょっと……びっくり、 したけど……ふわふわしてきて……んぁぁんっ……」 そうして愛撫を続ける内、夢中になってきた僕は、強めに乳首を吸ってみた。 「あっ、やん! 真ちゃん……はぁぁんっ!」 「んっ……くっ……ちゅうちゅうって……音がしてる…… あっ……ああんっ……出てるの? ミルクが?」 「出てないけど、杏子の味がするかも」 「えっ? ……あんっ……んぅんっ……あっ、はぁんん!」 杏子の反応が大きくなり、汗ばんできた胸からほんのりとボディーソープの香りが漂ってきて、僕の頭は甘い気持ちでいっぱいになった。 「んぅんっ……ああんっ……あ、ああんっ、あふっ!」 しばらく愛撫を続けて、杏子の乳首から口を放した僕は、また彼女の唇に口づける。 「あふっ、ちゅっ……ちゅっ……真ちゃん……ちゅっ、 ちゅぷ……んふっ、んちゅぅ……」 「れる、ちゅる……はふぅ……んむぅ……ちゅっ、ちゅぷ」 「……ねぇ、杏子。 そろそろ、下も脱がせて……いい?」 「えっ……」 僕の要求に、杏子は目を逸らすと、身体をモゾモゾさせた。 まだ、早かったかな……? 「…………」 黙ってしまった杏子に何と声をかけるべきか、内心焦りながら、食い入るように杏子を見つめていると…… 「真ちゃん……そんなに下着好きなの……?」 ぼそりと杏子にそう言われて、僕はハッとする。 「い、いや、そういうわけではなくっ」 意識せずに、僕はショーツばかりを見ていたみたいで、僕はあわてて、杏子の股間から目を逸らした。 「真ちゃん……?」 なんだか急に気まずくなって、僕は杏子の身体に目を向けられなくなってしまった。 すると、そんな僕に杏子は── 「……ねぇ、真ちゃん」 「な、何?」 「真ちゃんは……見たいの? わたしの……」 「あ……いや、その……見、たい、けど……んむ!?」 恥ずかしさで頭がいっぱいになった僕に、腕を伸ばして抱きついてきた杏子がキスしてきた。 「んっ……ちゅっ……ちゅっ……んっ……ふぅぅ……」 「んふっ……れるっ……ちゅぷ、ちゅる……んふぅぅ……」 触れ合うようなキスだったり、ちょっと深いキスだったり、それを何度か繰り返した後、杏子は僕の目を、至近距離でまっすぐ見つめてきた。 「……いいよ、真ちゃん。わたしを、もっと見ても……」 「……いいの?」 「うん……真ちゃんだから、いいんだよ」 杏子にそう言ってもらえて、僕はようやく視線をショーツに戻した。 可愛くて大好きな杏子の、こんな姿を見られるのは僕だけだと思うと、嬉しくて……少しだけ忘れていた興奮も、じわじわと蘇ってくる。 「あんっ! ……ひああっ!?」 僕はゆっくりと杏子の下腹部に手を伸ばし、そして杏子の股間を、ショーツ越しに撫でるように触っていく。 「あっっ、ひぁんっ! んは、ふあああっ!」 「んくっ……ああんっ……はぁ、はぁ、はうっ…… そ、そこはぁ……」 布越しにもそこが、しっとりと濡れているのがわかる。 杏子も僕と同じように興奮してくれていたことがなんだか嬉しくて、僕は夢中で手を動かし続ける。 「あんっ、んあっ、はあああん! し、真ちゃん、 わ、わた、し……また、ふわ、ふわして……んあっ!!」 「……それって、気持ちいい感じ?」 「わ、わからない、けど……んあっ、んああああっ! なんだか、もっと、して、欲しっ……ひあっ!」 「真ちゃん……真ちゃん……あんっ、んあっ、あふうっ! き、きもち……あんんっ、いいよぉ……!」 その言葉を聞いて、僕は杏子の股間を触り続ける。 中指で擦り上げるように、中心の部分を刺激していく。あまり強くすると痛そうだから、あくまでも優しく、ゆっくりと。 「んあああっっ!! あんっ、はうっ、ふあんっ!」 僕の手が動く度、杏子は喘ぎ声をあげながら、身体を淫らにくねらせる。 僕の指が触れているショーツの染みも徐々に広がってきていて、その水分はちょっと粘りけがあるように感じる。 「あっ……あぁっ……さっきから、何だか熱いのぉ…… 真ちゃんに、さわられてるところが……んんぅっ!」 「そろそろ脱がすね……これ以上、汚しちゃうと いけないし」 「……はぁ……はぁ……んんっ……いい、よ……」 杏子は胸元で腕を組みながら、こくりと頷き、少し腰を浮かせてくれる。 その姿さえも興奮出来てしまって、たまらなくなった僕はようやく……彼女のショーツに手をかけると、一気に脱がせた。 「あっ……ひゃうんっ……んっ………んんんっっ!!」 生まれたままの姿になった杏子は、瞳をぼうっとさせながら、肩で大きく息をしていた。 「はぁ……はぁ……んはっ……はぁ、はあぁ……」 彼女の肌にはうっすらと汗が浮かんでいて、ふと股間に目をやれば、そこからは透明な蜜が流れ落ちていた。 文字通りすべてをさらけ出してくれた杏子の姿が、綺麗で、愛しくて、たまらなかった。 「好きだよ、杏子」 「んむぅ……んるぅ……ちゅっ、ちゅる……ちゅぷ…… あむぅ……ちゅちゅ……」 もう何度目かは覚えていないけど、それでも僕は杏子に想いを告げ、キスをして、大好きな彼女が壊れてしまわないようにそっと抱き締める。 「真ちゃん……はぁっ……わたしも、好き……はぁ、はぁ」 たぶん、何度気持ちを伝えあっても、足りないんだと思う。 「真ちゃん……ちゅっ……ちゅぅ……好き、好きぃぃ…… ちゅっ、ちゅるる……真ちゃん、好きぃ……ちゅっ」 想いを告げても、すぐに消えてしまわないように。好きだという気持ちが、本物だと確かめ合うために。 何度も何度も、呆れるくらいに好きだと伝えあって、そしてまたなんども―― 「真ちゃん……ん、ちゅ、ちゅっ……ちゅぶっ、んむっっ」 貪るように何度も何度もキスをする。 「んはぁ……真ちゃん……好き、大好き……んっ、ちゅっ ちゅぶ、れるっ、ちゅぷ……」 「好きだよ、杏子……」 そうやってキスをしながら、杏子の息が落ち着くまで、僕たちはじっと抱き合っていた。 「んはぁ……真ちゃん……もっと、していいんだよ……?」 「うん……」 愛おしくささやく杏子の求めに応じて、僕は再び、杏子の気持ちがいい場所を探して、指を動かす。 「んぅんっ……あっ……ああんっ……あ、あああっ…… そこぉ……うぅんっ……」 濡れた股間を指でくすぐりながら、片手で細くしなやかな腰に触れ、淡い陰りを見せる下腹部をくすぐる。 「んぁんっ……ああんっ……あっ、はぁんっ! あぁ…… んくっ……濡れて……るぅ……わたし……」 「どうして……こんなに、なっちゃうんだろぅ……んぁん! あぁっ……んんっ……んぅぅっ!」 腰を抱え上げるように、丸みを帯びたお尻を撫でていく。 「あふっ……うぅ、あ……し、真、ちゃん……」 「すごく、気持ちいい……ありがとう……優しくして くれて……あふっ、はぅぅ……」 視点が定まらなくなってきて、頬をすっかり赤くさせた杏子は、僕の手の動きに細かに反応する。 小さく動かしていたもう片方の指には、すっかり杏子の蜜がまとわりついていた。 「んっ……んぅんっ……ああっ……いいよぉ……」 あとからあとから溢れてくる蜜が、僕の理性を失わせる。 「んくっ……ああんっ……あっ! あっ! あぁんっ!」 「しっ、真ちゃん、わたし、わたし、もうっ……わけ、 わかんないっ……よっ……」 恥ずかしさに震える声で、困惑しているように杏子が言う。容赦なく股間をまさぐる僕の指に、泣き出しそうな顔で哀願してくる。 「んっ、んっ! んくぅっ! んああんっ! あんっ!」 「真ちゃぁん……しんちゃぁんっ! あっ、あっ、あっ! はぁぁん!」 「だっ……だめぇ……は、恥ずかしいよぅ……くちゅ、 くちゅ……音がしてる……あああぁんっ!」 気持ちよさと、恥ずかしさのせめぎ合い……今になってああ、こういう表情を見られるのがイヤなんだなって、なんとなくわかった。 「杏子……」 「はぁ、はぁ、はぁ……んー……ふぅ……んん……?」 僕は一旦手を止めて、彼女の耳にささやく。 「明かり、消してくるよ。 それから……ね」 「……う、ん」 続きを意味する言葉に、彼女は小さく頷いて……でも決して、嫌がらなかった。 僕は自分の服を脱ぎ捨てて、ベッドに戻る。 「……うん………ちゅっ……んんっ、ちゅぅ……ちゅぷ、 はふっ、んんっ……ちゅむ……」 緊張を少しでもほぐそうと、優しくキスをしてあげる。 そして暗闇の中で、手探りで杏子の身体を抱き寄せ、膨張した僕自身をあてがうために、杏子の足をゆっくりと開いていった。 「っっ……」 杏子が息を呑む気配がする。 気が急くばかりでなかなか見つからなかったけれど、周りより明らかに熱くてぬめりを帯びた場所へ、僕は自分自身をあてがった。 「杏子……」 「真ちゃん………あっ……あああ………」 「んくっ……んぐぅっ……あぁぁぁぁぁっ……」 押し込んでみると、ぬるり、と頭が潜り込んだ。 そしてそのまま──本当に考えていたよりもすんなりと、呑み込まれるようにして、僕自身が入っていった。 「ひぐっ……んぅんっ、あああああああああっ!!」 吸い付かれるように腰を進めると、何かを押し広げ、破る感触――同時に杏子の悲鳴が、耳に飛び込んできた。 「あ、ああああっ、うっ、ああっ、やあああああ!!」 「きょ、杏子!?」 今まで聞いたこともないような悲鳴をぶつけられて、僕は杏子の中に入ったまま、動けなくなってしまった。 「あ、あうう! くああっ、あああああああ!!」 「きょ、杏子っ! しっかりして!」 必死になって声をかけても、杏子は涙を滲ませながら、苦しそうな声を出すだけだった。 「あ、ああっ……んぐっ、はあっ……い……た……」 初めての時に女の子がどんな風になるか、聞いたことは何度かあったけど、その時はただぼんやりと、痛いんだろうなぁくらいにしか、考えていなかった。 現実に僕の腕の中で、杏子はずっと苦しそうに悶えている。間違っても、気持良さそうには見えない。 「ごめん、杏子。すぐ抜くから、もう少し我慢して……」 「んあっ、ひあぁっ! だ、め……ダメだよ、真ちゃん!」 腰を引こうとした僕は、暗闇の中、必死で首を横に振る杏子を見て、また動きを止めた。 「ダメだよ、真ちゃん……絶対抜いちゃ、ダメっ……」 「でも杏子、そんなに辛そうじゃないか……」 「いた、い……けど、大丈夫……だからっ……」 「でも……!」 「お願い、真ちゃん……わたし、真ちゃんとひとつに なりたい……痛いのは、平気、だから。だから……」 「続けて……真ちゃん。お願い、だから……」 「……杏子っ……」 必死で続けてと頼む彼女が、あまりにも痛々しくて。なのに、どんなものより力強く思えて。 僕は、彼女の身体をぎゅうっと抱きしめる。 「わかったよ、杏子……絶対に、やめないから」 「うん……」 「杏子のこと、大好きだから。絶対にやめないから」 「うん……うん……」 だんだんと暗闇に目が慣れてきたおかげで、何度も頷いている杏子の顔が、ハッキリと見えた。 彼女の目尻には涙が浮かんでいて、それを見ていたら自分も泣きそうになってきたけれど、ぐっと堪えた。 「でも……少し休もう……無理は禁物だよ」 「うん……わかった」 軽く頬を撫でてやると、杏子は照れくさそうに頷く。 杏子の僕を受け入れたい気持ちと、僕が杏子を大事に思っている気持ちが繋がる。 僕は少しでも痛みを忘れさせようと、キスをする。 「んぅんっ……ちゅっ……んっ……ちゅっ……はふっ んんぅ……真ちゃん……ちゅっ、ちゅ……」 繋がった僕のモノは、萎えることなく杏子の中で締め付けられていた。 キスをする度に、その中は別の生き物みたいにうごめき、刺激し続ける感触が僕の腰まで伝わってくる。 「ちゅぷっ……真ちゃん……いいよ……そろそろ……」 「わかった」 僕は頷くと、少しずつ腰を動かしていく。 短時間で僕を受け入れる準備が整うはずもないが、杏子の呼吸は落ち着き、力が抜けてリラックスしていた。 「んっっ……あっ……ああっ……あんっ、はあん!!」 「んあっ、ふあああんっ、あああああああ!!」 杏子がまた、大きな悲鳴をあげたけど、それでも、動くのをやめたりしない。 そうするしか、彼女の想いに応えられないと思った。だから、僕は構わずに動き続ける。 「あ、あんっ……あんんっ、あああっ! ふああああっ!」 腕の中で悶えながら、杏子は髪を振り乱す。その度に、汗が珠のように飛び散っていく。 「んん、あんっ……真ちゃん……しん、ちゃん……!!」 僕を呼ぶ杏子の声が、耳に残って離れない。その声に少しでも応えたくて、僕はさらに激しく、腰を動かしていく。 「あっ、あ! 真ちゃん、好き……! 大好き……っ!!」 必死に動き続ける僕に向かって、杏子は何度も想いを告げてくれる。そんな彼女の表情は…… ――笑顔だった。 気を失いそうなくらい痛いはずなのに、本当は泣き出したいはずなのに。 逆に、それを見た僕の目から涙があふれてくる。 「あっ……真ちゃん……真ちゃん……んっ、んぅんっ! あっ、ああんっ! わたし、大丈夫だからっっ!」 それでも杏子は、笑顔だった。僕の大好きな、笑顔だった。 そして、その笑顔を見た僕は――頭の中で、何かがブツンと切れた。 「杏子!」 「んあっ!? ふああああああっ!」 もう何も考えられなくて、僕はただ腰を振り続けた。そうすることしか思い浮かばなかった。 「真ちゃん、真ちゃん……手を……手を、つな……いで」 ぼんやりした意識の中、僕は杏子の手を握り締めて指を絡め、それに答えて、杏子も指を絡めてくれる。 「ああっ、あっ……ああっ! いっぱい……いっぱい 気持ちよくなって……真ちゃんっ! あんんっ!」 「う、あ……きょう、こ……」 「わっ……わたしなら、大丈夫だからっ……んんっ! あっ……ああん! あ、あっ、あああっっ!」 「杏子っ……くぅっ……」 「真ちゃんと……繋がってる……この痛みが……教えて くれるから……んっ、んっ、あああんっ!」 杏子の言葉を聞きながら、僕は少しずつ、限界を感じ始めた。 杏子の中はずっと温かくて、締め付けが断続的に襲ってくる。 杏子の痛みと違い、快感が高まっていく自分に罪悪感を感じつつも、ここでやめるわけにもいかない。 「ごめん、杏子……僕、もう……」 「あんっ、うん……大丈夫だよ、真ちゃん……っ!」 杏子の腰を固定して、今まで以上に強く深く突き入れていく。 じゅぷじゅぷじゅぷっと、結合部がこれまで聞いたことのない卑猥な音を大きくたてる。 「ああんっ! あっ……ああっ! んくぅ……んっ、んっ! なんか来ちゃうっ……わ、わっ、わたしもぉっ!!」 「んぁんっ! あっ、あっ! あああっ! はぁ、はぁ! あくぅっ……んぅっ、……あんっ、……はぁんっ!」 愛液と汗、そして破瓜の血が混じったものが、腰を動かす度に、僕らの股を汚す。 そのぬめった液体が、さらに僕を杏子の中に何度も導く。 「……くっ……杏子っっっ!!」 「あんっ、ああん、はぁ、はぁんっ……あっ、あんっ! あはぁぁ!! しんちゃぁぁぁん!!」 僕の中が爆発する瞬間、最後の理性を限界まで働かせて、杏子の中から分身を引き抜いた。 「ひゃあっ……!」 「うう……うぅっ!!」 「んあああああっっ、ふぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」 自分が出したものが、大好きな女の子の綺麗な身体に降り注がれていく。 「ふぁぁぁっ……熱いっ……熱いよぉっ……あぁっっ!!」 腰に力を入れる度に、目の前が文字通り真っ白に染まり、気を抜くと、そのまま倒れてしまいそうな錯覚に陥る。 「んくっ……あぁっ……ああっ……ふあぁぁぁぁぁ…… はぁ……はぁ……はぁ………んんぅっ……」 杏子に見守られながら、僕は想いの塊を、すべて吐き出していく。 「ああ、ふあぁ……んぁ……真ちゃんの、たくさん……」 精液が外に押し出されていく度、ビリビリと腰がしびれて、息が詰まりそうになる。 「すごい……はぁ……真ちゃんのが……あふれてる……」 飛び散った精液を愛おしそうに撫でながら、杏子がどこかうっとりとしていた。 「ああっ……う……くあっ……」 「はぁ……はふっ……んっ、はぁ……真ちゃん、大丈夫?」 「うん、なんとか……それよりも、ごめんね杏子。 最後、すごく乱暴になっちゃって」 「はぁ、ふぅー……はぁっ、わ、わたしは、大丈夫……」 目の端に涙が浮かぶ杏子だったが、うっとりと満たされた表情で言ってくる。 「真ちゃん……わたしたち……最後までしちゃったね……」 「そうだね……でもそれは、杏子が僕を受け止めて くれたからだよ」 「……だって……真ちゃんだから……」 「えっ……」 「真ちゃんだから……わたし、どんな痛みにだって 耐えられるよ」 「杏子……」 杏子のその一言に、また満たされた気持ちで胸がいっぱいになる。 「真ちゃん、涙、出てる……ちゅっ、ちゅっ……」 いつの間にか僕の目から流れていた涙を指ですくいながら、杏子が優しく唇を重ねてくれる。 その唇を優しく吸いながら目を閉じると、心地いい疲労感が襲ってきた。 でも、その感覚を我慢して、僕はさらに杏子にキスをする。 「あん……ちゅっ……ん、ちゅっ……ちゅる、ちゅぷ……」 「真ちゃん……ちゅ、ちゅっ、ちゅむ…………ふふっ」 キスが終わると、杏子はまた笑ってくれた。その笑顔にすっかり安心して……僕はベッドに倒れ込む。 激しく快感を求めたときとは違う気持ちよさが、全身を包んでいく。 安らぎ……それは杏子が与えてくれる掛け替えのないものだった。 それからしばらく休んで、僕たちはお互いの身体を、ティッシュで綺麗にした。 その後は、裸のまま抱き合った。それだけで幸せだった。 この瞬間が――永遠に続けばいいのに。 そんなことを思いながら、僕と杏子は、ゆっくりと眠りについていった…… 「……真ちゃん」 「う……ん」 「ありがとう……」 「ん……」 少し肌寒さを感じた僕は、なんとなく目が覚めてしまった。 「ふぁーっ……もう、朝か」 軽くあくびをして横を向くと、杏子が笑顔で迎えてくれた。 「おはよう……真ちゃん」 「おはよう、杏子。いつから起きてたの?」 「真ちゃんが起きる、少し前」 「……ねぇ、真ちゃん」 「うん? どうしたの?」 「ちゅー、して」 「……うん。いいよ」 瞳を閉じた杏子の唇に、軽く口づけた。 「んんぅ……ちゅっっ」 キスがくすぐったかったのか、杏子は少しもぞもぞとした。 「ちゅっ……んん……ちゅっ……ちゅっ……んふぅ……」 しばらくキスを楽しんで、僕たちは唇を離し、そして、お互いの瞳を見つめ合う。 恥ずかしさは全然感じなかった。ただ、幸せな気分がひたすらいっぱいになるだけで。 その気持ちをもっと味わいたくて、僕は杏子を抱き寄せた。 「杏子……」 「ん、真ちゃん……」 杏子の腕が、僕の背中にまわされる。たったそれだけのことで、思わず顔がにやけてしまう。 僕が何かすれば杏子が応えてくれて、幸せな気分にしてくれる。 そんな日がこれからも続くって考えるだけで、ほかに何もいらない……そんなことまで考えてしまう。 それもこれも、杏子が僕の傍にいてくれるおかげ―― ……と、階下から物音が聞こえてきた。 「おじさんたち……帰ってきちゃった?」 「みたい、だね」 「そうだ杏子、今から父さんたちに教えてあげようか?」 「教えて、あげる?」 「うん。僕と杏子が、恋人同士になったって」 「あ……うん」 僕の提案を聞いた杏子は、いつものようにはにかみながら、頷いてくれた。 「よし、それじゃ行こうか」 「うんっ……」 僕と杏子は、ほどなく身なりを整えた後、手を繋ぎながら部屋を出た。 「お帰り、兄さん、父さん」 「ああ……ただいま」 「真一に杏子ちゃん、もう起きてたんだな」 兄さんは、僕たちの姿を見つけると、急に複雑そうな顔をした。 そのすぐ隣にいる父さんは、ただいまも言わずに、じっと黙っている。 ふたりとも、ひどく居心地が悪そうだった。 「……ふたりとも、どうかした?」 「いや……なんて言ったらいいのかな。 かなり大事な話なんだが……」 「大事な、話?」 「ああ。実はな……」 「雅人。そこから先は、私が話す」 何か言いかけた兄さんを、父さんが止めた。そして、軽く咳払いした後、僕たちふたりの方を向く。 「実はな、真一。杏子ちゃんのお母さんから、 連絡があってな」 「杏子の、お母さん?」 「そうだ。そのお母さんが……近い内に、杏子ちゃんを 引き取りに来るらしい」 「!?」 「え……?」 父さんの言葉を聞いた瞬間―― 僕の中にあった幸せな気持ちが、一気に壊れていった。 どうしようもないくらいに、跡形もなく…… 「おっす、真一! 今日も芹花ちゃんがおごられに来て あげたわよー!」 重苦しさで満たされた店の中に、芹花がいつものノリで入ってきた。 「あっ、お父さんに雅人さん! お帰りなさい! アンドおはようございます!」 「…………」 「…………」 芹花が挨拶しても、父さんと兄さんは黙ったままだった。 「あ、あれ? あの……ふたりとも、どうかしました?」 僕たちの空気がおかしいことに気づいたのか、芹花の声が少し遠慮がちになる。 「えと……あたし、何かおかしなこと言っちゃった?」 「……芹花」 「何よ……どうしたのよ、真一。あんた、死んだ 魚みたいな目になってるじゃない」 「ていうか……杏子? なんか顔が真っ青だけど、大丈夫?」 「…………」 芹花の心配そうな声にも、杏子は答えなかった。ただ、焦点の合わない目で、ぼうっとしている。 「あっ……えっと」 「みんな……本当に、どうしたの……?」 深刻そうな僕たちを前にして、芹花はどうすればいいのかわからなくなっているみたいだった。 僕だって、どうしたらいいのか、わからない。 そんな芹花に、父さんが声をかける。 「芹花ちゃん。香澄ちゃんと春菜さんを呼んできてくれ ないか?」 「話さなきゃならないことがある。杏子ちゃんに関わる ことなんだが……とても大事なことなんだ」 「わ……わかりました。すぐに呼んできます!」 何をすればいいか教えてもらった芹花は、大急ぎで店の外に飛び出した。 芹花が出ていった後も、僕たちはずっと黙っていた。 そうして誰も喋らないまま、時間が過ぎていく―― 「おじさん! ふたりを連れてきました!」 少し息を切らした芹花が、もう一度店に入ってきた。 それに続いて、春菜さんと香澄さんも店に入ってくる。 「おはようございます……」 「えっと……芹花ちゃんから、お父さんが大事な話を なさるって……」 「……みんな、とりあえずリビングに行こうか。 詳しいことは、そこで話すから」 店を閉店状態にした父さんは、もうすぐ家族になる予定の人たちを、リビングに集めた。 そして、杏子も含めて、事情の説明を始める。 「杏子ちゃんのお母さんから、連絡があった」 「家庭の事情が落ち着いたから、近い内に杏子ちゃんを 引き取りに来たいらしい」 「家庭の、事情?」 「実は……杏子ちゃんの両親は、不仲になって少し前まで 離婚調停中だった」 「特に、杏子ちゃんのお父さんは、杏子ちゃんとあまり うまくいってなくて、問題が起きていた」 「それで、離婚調停が済むまで、杏子ちゃんをウチで 預かることにしていたんだよ」 「お父さんと、うまくいってなかった?」 「ちょっとしたことですぐ、手をあげられていたらしい」 「!」 兄さんがぽつりと漏らした声に、僕だけでなく、芹花たちも息を呑んでいた。 「…………」 「雅人。その話はいい。今は関係のないことだから」 父さんはそれ以上兄さんに言わせず、説明を続ける。 「とにかく、そういう事情もあって、杏子ちゃんの お母さんは、私に杏子ちゃんを預けることにした」 「家庭の問題から一度遠ざかれば、杏子ちゃんが少しでも 安心できるだろうと、杏子ちゃんのお母さん―― 〈渚〉《なぎさ》さんは、そう判断したんだよ」 杏子が突然、家に住むことになったのには……そんな理由があったんだ。 でも、当然だよな……いきなり、しかもなんの理由もなく、男しか住んでいない家に娘を預けるなんて、普通はありえない。 「この話は……本当は杏子ちゃんと真一にだけ するつもりだった」 「けれど、芹花ちゃんや香澄ちゃんは、杏子ちゃんの 世話をよく焼いてくれていた」 「それに、もうすぐ家族にもなるはずだった。 だから話したんだ」 「そんな……」 「……渚さんが杏子ちゃんを引き取りに来るのは、 いつ頃なんですか?」 父さんの説明を、じっと黙って聞いていた香澄さんが、口を開いた。 「近い内、ということは、明日? それとも、明後日なん ですか?」 「一応、明後日の予定だよ」 「明後日……」 「ちょっと待って。それじゃあ、杏子と一緒にいられる のは……あと二日だけってこと?」 芹花の言葉を聞いた瞬間、僕は頭の中が真っ白になった。 杏子と一緒にいられる時間が……あと、たったの二日? 「杏子……」 「…………」 僕は少しでも不安を和らげたくて、隣にいる杏子の手を握ったけれど、杏子は握り返してくれない。 父さんが説明を始めてからずっと、杏子は糸の切れかけた人形のように、力なく佇んでいるだけだった。 「ずいぶん……勝手な話だよな」 そう呟く兄さんの声には、怒りが混じっていた。 「自分の都合で預けて、自分の都合で引き取る。 子供ってのは、そんな気軽に扱っていいもんなのか?」 「兄さん……」 「杏子ちゃんがこっちに来てから頑張ってたのは、俺たち 全員が知ってる。いきなり慣れない環境に放り込まれて、 右も左もわからなかっただろうに」 「それでも、最近はずいぶん明るくなって、周りにも なじんできたのに、それをこのタイミングで……」 「雅人さんの言う通り、突然過ぎるわよ、こんなの」 これ以上黙っていられない、という風に、芹花が口を開いた。 「そりゃあ、複雑な事情があるんだろうけど。でも、 せめて夏休みの間くらい……」 「お父さん、私からもお願いします」 芹花に続いて、香澄さんも父さんに訴えた。 「杏子ちゃんのお母さんとしては、すぐにでも娘を連れ 帰りたいんだと思います」 「けれど、私たちは杏子ちゃんのお友達なんです」 「お別れするなら、気持ちの整理をつける時間が 欲しいです」 「そ、そうよ! それに、美百合にもこのことを知らせて あげたいわ。美百合は特に杏子と仲が良かったんだし」 「雪下さんに教えてあげるのは、構わないよ。ただし、 杏子ちゃんがこっちに来た事情については、教えないで 欲しい」 「けれど、引き取りに来る日を延ばすことは、どうしても できない」 「どうしても、ですか?」 「申し訳ないけど……すでに決まったことなんだ」 「そんな……ねえ、真一!!」 ショックが大きすぎて、どうすればいいかわからないでいる僕の耳に、芹花の怒鳴り声が響いた。 「あんた、どうしてさっきから黙ってるの!? 好きな杏子が帰っちゃうかもしれないのにっ!」 「あ……」 「杏子のこと、一番気にしなきゃいけないのは あんたでしょ!? 何とか言いなさいよ!!」 芹花の言う通りだった。 こんな時こそ僕がしっかりしないで、どうするんだ!! 「……父さん」 「…………」 「なんとか、ならないかな?」 「無理なお願いだってことはわかってる。それでも、 どうにかして欲しいんだ」 「僕は、できれば……杏子と離れたくない。僕と杏子は 昨日の夜……」 「昨日の夜、お互いに想いを告白しあったんだ」 まさか……こんなタイミングで話すことになるとは、思わなかった。 けれど、どうしてもみんなに伝えておきたいことだった。 「真一……あんた……」 「そんなことがあったなんて……」 「……おめでとうって、言ってあげたいところだけど……」 驚く芹花と、困ったように笑う香澄さんと春菜さん。兄さんは、黙ったままだった。 「ねぇ、父さん、せめて渚さんと話し合わせてくれない かな? そうすれば、もしかしたら……」 僕の申し出に、父さんは腕を組んで、渋い顔をした。 「真一……残念だが……」 「……っ!」 父さんの返事を聞いた瞬間、ずっと立ち尽くしていた杏子が、逃げるようにリビングから出て行った。 「杏子っ!」 僕は慌てて杏子を追いかけたけど、杏子は自分の部屋に駆け込むと、勢いよくドアを閉じてしまう。 「杏子!? 杏子!」 ドアの前で何度か呼びかけても、まったく反応がない。おまけに、鍵までかけられてしまった。 「杏子……」 閉ざされたドアの前で、僕は途方にくれてしまった…… それから僕は、杏子と何とか話がしたくて、ドアの前でずっと、彼女が出てくるのを待っていた。 でも、結局ダメだった。ひと晩中待っても、杏子は出てきてくれなかった。 やがて、夜が明けて、空が明るくなってきても、僕はまだ杏子を待っていた。 「……真一」 一睡もしないで杏子を待ち続ける僕に、父さんが声をかけてきた。 「少し、時間をおいてみたらどうだ? そうすれば、 杏子ちゃんも顔を出すかもしれない」 「うん……」 「それに、寝てないんだろう? だったら休んだ方がいい」 「いや、いいよ。今は寝たくないんだ」 「……そうか……」 「今日は、家の手伝いをする。 そうすれば寝なくて済むし」 杏子が出てきた時、すぐにでも声をかけたい。そのためには、起きていなきゃダメだ。 「……あまり無理するんじゃないぞ、真一」 「わかってる」 こうして僕は、重い身体を引きずりながら、カフェの仕事を手伝った。 眠っていないせいか、なかなか仕事に集中できなくて、何度も失敗をした。そのせいで、父さんや兄さんには迷惑をかけ通しだった。 それでも、少しは気分を紛らわすことができた。もうそれだけで十分だった。 そうやって過ごしていると、いつものように雪下さんが店へやってきて、それから少し遅れて、宗太もやってくる。 僕はふたりに、閉店時間まで店にいてもらえるよう頼んだ。 杏子がいなくなってしまうことを、説明するために。 芹花が話しているかもしれなかったけれど、それでも直接、自分の口から伝えたかった。 「……ずいぶん、急なお話ですね……」 「突然というか、なんというか……どう言えば いいんだろうな」 閉店時間が過ぎ、お客さんが誰もいなくなった後、僕は雪下さんと宗太に、杏子が帰ってしまうことを告げた。 「……ごめん、ふたりとも」 最後まで説明し終わった後、僕はどうしようもなくなって、ふたりに頭を下げた。 「そんな、謝らないでください。西村くんのせい、という わけじゃないのでしょう?」 「雪下さんの言う通りだ。事情はよくわからんが、お前が 何かしたから杏子ちゃんが帰るわけじゃないんだろ?」 「……そうかも、しれない。でも、ごめん」 ふたりに謝っても、しょうがないことはわかっていた。 それでも、この状況をどうにもできない自分が許せなくて、僕は頭を下げることしかできなかった。 本当は、誰よりも杏子に謝りたかった。そして、少しでも傍にいてあげたかった…… 「……杏子ちゃん本人は、今何してるんだ?」 「……ずっと部屋にこもってる。出てきて欲しいって、 何度も頼んだんだけど」 「それじゃあ、食事とかトイレは?」 「昨日の朝から、何も……部屋の前にご飯を置いたりして るんだけど、全然減ってないし。トイレは、僕たちが 目を離した隙に行ってるのかもしれないけど」 「おいおい。それじゃあ杏子ちゃん、具合悪くなって 倒れたりしちまうんじゃないか? そうなったらマズイ だろ、さすがに」 「部屋に入れないってことは、すぐに助けることも できねぇわけだし……」 宗太の言う通りだった。 とにかく杏子には、食事だけでも摂ってもらわなきゃ…… 「……雪下さん。頼みたいことがあるんだ」 「頼みたいこと、ですか?」 「うん……杏子に出てきてくれるよう、頼んでくれない かな。杏子、雪下さんには特に懐いてたみたいだから」 「でも……西村くんだって、杏子ちゃんにお願いしたん ですよね? 出てきて欲しいって」 「それでも、ダメだったのなら……」 確かに、うまくいくとは限らなかった。 それでも、何もしないよりはマシだし、今はほかにいい方法も思いつかない。 「どうしても、お願いしたいんだ。ダメかな?」 「……わかりました。やれるだけやってみます」 「ありがとう……雪下さん。それと、宗太……」 「わかってるよ。俺もなんとかやってみる」 「……サンキュー、宗太」 「いいって。気にすんな」 こうして僕は、雪下さんと宗太を連れて、杏子の部屋の前へ向かった。 「あ、真一!」 「真一くん……」 部屋の前には、芹花と香澄さんが待機していた。 ふたりには、僕の代わりに杏子が出てくるのを、ずっと待ってもらっていた。 「杏子、出てきてくれた?」 「ううん……まだ……」 「ごめんね、真一くん。私と芹花ちゃんも、何度か 呼びかけてみたんだけど……やっぱり、ダメだったわ」 「こりゃ、相当ヤバイな……」 「…………」 もしかしたら、杏子はこのまま、明日まで出てこないかもしれない。このまま、渚さんが迎えに来るまで…… ……ダメだダメだ。悪いことばかり考えても仕方ない。とにかく、やれるだけのことをやらないと…… 「……雪下さん、お願いできるかな」 「わかりました……」 僕たちが見守る中、雪下さんは杏子の部屋のドアを、そっとノックした。 「杏子ちゃん……聞こえてますか?」 その場にいた誰もが、杏子の返事を待った。 けれど、やっぱりダメだ。何も答えてくれない…… 「ねえ、杏子ちゃん。もしよかったら、お部屋から出て きてくれませんか?」 「みんな心配していますし……それに、ご飯も少しは 食べた方が……」 雪下さんの声は、杏子に届いているはずだった。心配しているってことも、たぶん伝わってると思う。 「お願いします、杏子ちゃん……」 「なぁ、杏子ちゃん。とにかく、顔だけでも見せて くれないかな? 一瞬だけでいいからさ……頼むよ」 それでも、ドアの向こうからは、なんの反応もない。 「……もうさ。こうなったら、ドアをぶっ壊してでも中に 入っちゃった方がよくない?」 「おいおい。そりゃ完全にやりすぎ……でもないか。 このまま放っとくよりは、マシかもしれん」 「でも、ドアを壊しただけじゃ、問題は解決しないわよ」 「ひどく落ち込んでるんだとしたら、ご飯が喉を通らない かもしれないし……」 「…………」 やっぱり……ダメなのかな? 杏子は……このまま、最後まで…… みんなが帰ってしまった後も、僕は杏子を待ち続けた。 でも、やっぱりダメだった。杏子は、部屋から出てきてくれない。 「……どうしたらいいんだ……」 ……このままじゃ僕は、杏子に何もしてあげられない。 慰めてあげることも、元気づけてあげることも。手を繋ぐことも。キスすることも。頭を撫でてあげることも。 落ち込んだ杏子に、何もできないまま…… 「……真ちゃん」 「……杏子!?」 静かに扉が開いて、か細い杏子の声が耳に届いた。 「よかった。心配したよ、杏……子……」 ようやく杏子の姿を見られた僕は、言葉を失った。 僕と同じように一睡もしてないのか、杏子の目元には深いクマができている。 何も食べていないせいか、頬は少しやつれていて、瞳には生気がこもっていない。 そんな杏子は、まるで……抜け殻みたいだった。 少し前まで、杏子はずっと幸せそうだった。僕と一緒にいるだけで、笑顔を見せてくれていた。 それなのに…… 「杏子……部屋に、入っていい?」 「…………」 杏子は声を出さずに、ただ頷いただけだった。そして、部屋の中によろよろと戻って行き、僕はそのあとに続いた。 ふらふらとベッドに腰掛けた杏子の横に座る。 「大丈夫? 杏子」 「…………」 「何か、あったかいものでも食べる? 持ってこようか?」 「……ごめん、なさい……」 「え……?」 「いっぱい、心配、させて……ごめんなさい」 もしかして、僕たちがずっと部屋の前にいたことを、気にしているのかな? 「そんなこと、謝らなくていいよ。みんな、杏子のことを 心配してただけで……」 「でも……ごめん、なさい」 かすれて消えてしまいそうな声で、ぼそぼそ喋る杏子の頭を、優しく撫でてあげる。 「大丈夫だよ、杏子。大丈夫だから……」 「……真ちゃんと、お別れしても……ずっと会えないわけ じゃ、ないって……」 「一生のお別れじゃ、ないんだって……」 「……うん」 弱々しい声のまま、杏子が喋り続けるのを、僕は、黙って聞き続けた。 「電話で、お話したり……お手紙を、書いたり…… 携帯電話で、写真とか……送ったり……」 「うん……」 「夏、休み、とか……冬休み、とか……お泊まり、して。 真ちゃ……んと、いっしょ……に」 「うん……」 「芹花……ちゃんも、みゆっ、美百合ちゃんも、 香澄、さんも、みんな……みんな、いっ、しょに」 「うん……」 杏子が、顔を上げる。 彼女の瞳には……涙が浮かんでいた。 「真ちゃん、と……一緒じゃ、なくても、だいじょぶ、 だって……頑張って、ずっと、考えて……」 「でも……ダメだった、よ……」 杏子の頬を伝って、涙の粒が次々と流れていく。 「真ちゃんと、一緒に、いたいっ……一緒じゃなきゃ、 やだ……やだよぉ……」 「僕も、イヤだよ。杏子と離れるなんて、絶対にイヤだ」 「真ちゃん……真ちゃんっ!」 ぶつかるように、思い切り抱きついてきた杏子を、僕はしっかり受け止めた。 「っく、ぐすっ……やだっ、やだよ……やだよぉっ……」 「ずっと、ずっといっしょで、いっしょ……に……!」 「ごめん、杏子……ごめん、ごめんっ……!」 「だい、すき……真ちゃん、大好きっ……大好きっ!」 「僕も好きだよ、大好きだよ、杏子……」 「ふえ、うぇ……」 「うぅ……うぅ、 うぁああああああああっんんん!!!」 僕の腕の中で、杏子が大声で泣く。 「ごめ、ごめん、なさい……っ、いっぱい泣いて、ごめん なさい……っ」 「大丈夫だよ、杏子。泣いても、大丈夫だから」 「でも、真ちゃん、わたしの笑顔が、好きだって…… それなの、にっ……」 「わたし……真ちゃんのとなりで、いっぱい笑って、 あげたいのに……っ」 「なのに……ぐすっ……なのにっ……!」 きっと杏子は、ひとりで泣くのを我慢していたんだ。 僕が、杏子の笑顔が好きだって言ったから。杏子の笑顔が可愛いって言ったから。 その僕の前で、泣いたりしないように……僕の顔を見ていたら、きっと我慢できずに泣いてしまうから。 だから、少しでも泣かなくて済むように、お別れするのが悲しくないって、思い込もうとして…… 「大丈夫だよ、杏子」 彼女を抱き締める腕に、力を込める。 「泣いてもいいから。笑顔じゃなくてもいいから。 笑顔じゃなくても、杏子のこと、ちゃんと好きだから」 「真ちゃん……しんちゃん……ご、ごめんな、さい……」 杏子が謝る必要なんて、どこにもないのに。謝らなきゃいけないのは、僕の方なのに。 こんなに苦しんでいる杏子に、何もしてあげられない。 こんなに泣いている杏子を、笑顔にしてあげられない。 ただ抱き締めてあげることしかできない。ただ話を聞いてあげることしかできない。 「しん、ちゃん……ごめん、なさいっ……」 「僕の方こそ……ごめん、ごめん、杏子……」 そして、謝ることしかできない―― しばらくの間、杏子は僕の腕の中で、ただ泣き続けた。 何度も何度も謝りながら…… 声が枯れるほど泣き続けた杏子は、ベッドで眠っていた。 疲れ果てているせいか、彼女はピクリとも動かない。まるで死んでしまったみたいに、静かな寝顔だった。 せめて、楽しい夢を見て欲しいとそう思った僕は、杏子にそっと口づけた。 「んん……」 彼女の唇は、とても冷たくて、その温度が、まるで本当に死んでいる証拠みたいに思えて……僕は杏子の身体を抱き締めた。 彼女の身体は、まだ温かかった。そのことに安心して、僕はゆっくり目を閉じる。 杏子がせめて、ほんの少しでも笑顔を取り戻してくれるように、願いながら…… 僕は、泥のような眠りに落ちていった。 夜が明ければ……杏子が帰る日になっていて。 僕と杏子は、ほとんど同じ時間に目が覚めた。 そして、杏子の部屋の荷物を一緒にまとめながら、部屋の掃除をした。 もう時間がなかったから、荷物は最低限しかまとめられなかったし、掃除も適当になってしまったけど。 それでも僕たちは、一緒に作業を続けた。 何かをするなら、いつもふたり一緒に……いや、 もうすぐ、ふたり一緒じゃなくなってしまうんだ。 そのことがお互いにわかっていたから、僕たちはずっと黙ったまま、作業を続けた。 ほんの少しでも、ふたりの想い出を増やすために。 部屋の整理を終えた僕たちは、手を繋いでリビングに向かった。 「真一! 杏子!」 「ふたりとも……大丈夫なの?」 リビングには、芹花と香澄さんがいた。それに、父さんと兄さんもいる。 僕たちの顔を見たみんなは、揃って心配そうな顔をした。 それは当然のことで……僕はまだしも、杏子は本当に疲れきっていた。 少し前までの幸せな姿が、まるで全部ウソだったみたいに。 「……ごめん、父さん。荷物整理とか、掃除とか、 あんまりできなかったよ」 「……そうか」 「杏子の部屋は、あとで僕が掃除する。 まとめ切れなかった荷物は、杏子の家に送るよ」 「何か手伝うことはあるか?」 「ううん……大丈夫。杏子も、それでいいよね?」 「うん……」 僕がそう告げると、杏子は繋いでいた手に少し力を入れて、頷いてくれた。 その様子があまりにも弱々しかったせいか、みんな何も言えなくなってしまったようで、リビングが沈黙に包まれる。 ……しばらくして、兄さんがその沈黙を破った。 「杏子ちゃんのお母さんは、昼頃にこっちへ来るそうだ」 「……わかったよ、兄さん」 「真一くん。美百合ちゃんと宗太くんも、杏子ちゃんを 見送りたいって言ってるから、その時は連絡してあげま しょうね」 「わかった。ふたりには、僕から連絡するよ」 「……とりあえず、朝飯にするか? 杏子ちゃん、何も 食べてなかったんだし」 「……そうだね」 兄さんの提案に、僕は頷いた。 「杏子、大丈夫? 何か食べれそう?」 「う、ん……」 「杏子ちゃんには、おかゆを作っておいたから。それなら 食べられるかい?」 「あ……」 「ありがとう、父さん。杏子、それなら大丈夫?」 泣いている子供をあやすような声で、杏子に尋ねる。 「うん……大丈夫」 「よし。それじゃあ、みんなで食事にするか」 こうして、僕たちは家族で朝食を摂った。 父さんが作ってくれたおかゆを、杏子はとてもゆっくりと食べ進めた。 そんな杏子に、芹花や香澄さんは何度も話しかけたけど、杏子は、それにぼんやりとしか答えず、すぐに会話が途切れてしまう。 僕自身も、杏子と同じように、あんまり喋れなかった。そのせいで、せっかく杏子がいるのに、あまり楽しい食事にはならなかった。 結局杏子は、おかゆを半分しか食べることができなかったけど、それでも何か食べてくれたことに、僕は安心した。何も食べないよりは、ずっといいはずだから。 「杏子ちゃん。ちょっといいかしら?」 朝食を食べ終えた後、香澄さんと芹花が、杏子の傍にやってきた。 「これ、私と芹花ちゃんからプレゼント。 よければ、受け取ってくれる?」 「プレゼント……わたしに?」 「そう。あたしとお姉ちゃんのふたりで選んだんだ」 そう言うと、ふたりは綺麗にラッピングされた小さな箱を傍らから取り出し、それを杏子に見せる。 「これ……」 「中には、香水が入ってるの。柑橘系の香りにしてみたん だけど、きっと杏子ちゃんに合うと思うわ」 「本当は盛大に、お別れ会でも開いてあげたかったん だけどね……色々あったから」 「あ……」 杏子は、割れ物を触るような手つきで、ふたりから箱を受け取った。 「向こうでもがんばってね、杏子ちゃん」 「またいつでも遊びにおいでよ。冬休みとか、春休みとか」 「あたしたちは、いつでも大歓迎だからさ」 「ふたりとも……ありが、とう……」 香澄さんと芹花に優しい言葉をかけられて、杏子は泣き出しそうになっていた。 ……杏子がお別れしなきゃいけないのは、僕だけじゃない。香澄さんや芹花、それに雪下さんや宗太も。 この夏休みで仲良くなった人たちみんなと、杏子は離れることになるんだ。 芹花の言う通り、長い休みがあれば、何度かは遊びに来られるかもしれない。 それでも、悲しいに決まってる。簡単に割りきって、明るく振る舞うなんて、絶対にできっこない。 「……香澄さんに、芹花。いろいろ、ありがとう」 「どうしたの、真一くん。急にかしこまって」 「プレゼントを選んでくれたり、杏子を元気づけてくれ たり。それに、杏子がこっちに来てから、仲良くして くれたり」 「だから、ありがとう」 杏子と僕が仲良くなれたのは、みんながいてくれたからだ。 みんながいなかったら、僕と杏子は、顔を合わるだけで気まずい関係のままだったと思う。もしかしたら普通に会話することさえできなかったかもしれない。 そう考えると、僕はお礼を言わずにいられなかった。 「……別に、あんたにお礼を言われたいから、杏子と仲良 くしていたわけじゃないわよ」 「ていうか、友達と仲良くするのは、普通のことじゃない」 「芹花ちゃんの言う通りよ、真一くん。それに、私たち だけじゃなくて、杏子ちゃん自身も頑張ってくれたから、 みんなが仲良くなれたのよ」 「そうよね、杏子ちゃん?」 「…………」 杏子は黙って俯いた。もしかしたら、どう答えればいいのか、わからないのかもしれない。 「……ありが、とう」 それでも杏子は、ふたりの気持ちに応えるため、お礼を言った。 その想いが通じたのか、香澄さんと芹花は、ふたり揃って笑顔で頷く。 この光景が、もうすぐ消えてしまう。それが悲しくて、悔しくて、僕はため息をついた。 ……と、その時。 「あの……すみません」 いつかどこかで聞いたような声が、玄関の方から届いた。 どこか杏子と雰囲気が似ているその声の主は、たぶん…… 「父さん……」 「わかってる。父さんが出てくるから、みんなはここに いなさい」 そう言って、父さんはリビングから離れる。 渚さん──杏子のお母さんを、出迎えるために。 「……迎えに来るのは、昼過ぎだって聞いてたけどな」 兄さんの声が少し苦々しく聞こえるのは、別れの時間が早まったせいか……僕が同じように思って、そう感じているだけなのか。 しばらくして、父さんが戻ってきた。杏子の母親である――渚さんを連れて。 「みなさん、この度は杏子がお世話になりました」 僕たちの前に来るなり、渚さんは深々と頭を下げた。 「私の勝手な都合で、みなさんに迷惑をかけてしまい、 本当に……申し訳ありませんでした」 「それと……ごめんね、杏子。 お母さんとお父さんのせいで、振り回してしまって……」 「う……ん」 「杏子……本当に大丈夫? なんだかとても 具合が悪そうだけど……」 「うん……だいじょうぶ」 杏子と渚さんのやりとりを見て、僕は渚さんの姿や雰囲気が……塞ぎこんでしまった杏子と、重なって見えた。 杏子の家庭の問題は、そのまま渚さんの問題にもなる。離婚の調停をしてきたって、それだけで片付けるのは簡単だけど…… 「それじゃあ、杏子。そろそろ……帰りましょうか」 そう言って、渚さんが杏子の肩に手を置いたその瞬間、杏子は黙ったまま、身体をビクっと震わせた。 ……できれば、この時が来なければよかったけれど。 それでも、お別れの時が来てしまった。杏子とお別れすることになる、この時が。 「…………」 杏子は何も言わずに、僕の手を握り締めてきた。それに応えて、彼女の手を握り返す。 どうしようもない気持ちを、なんとか抑えるために。 「それでは、みなさん。本当に、お世話になりました」 杏子を見送るために集まった僕たちに、渚さんはまた深く頭を下げた。 見送っている僕たちの中には、雪下さんや宗太もいる。この夏休みの間、杏子と一緒に過ごした人たち。 その全員が、杏子を見送るために集まっていた。 「杏子ちゃん……向こうでも、元気でいてくださいね」 雪下さんは、杏子の手をとりながら、そっとほほ笑み、隣にいる宗太も、杏子に笑顔を見せる。 「また会える日を、楽しみにしてるよ。俺のこと忘れちゃ イヤだぜ?」 「……うん」 そうして、宗太と雪下さんが、最後のお別れを告げていき、ほかのみんなは、それをじっと見守った。 「それじゃあ、杏子……行こう」 渚さんが杏子の手を引き、彼女はそれに抵抗せず、黙ってついていく。 ――結局、幼かった頃と同じようになってしまった。 僕に精一杯笑いかけてくれていた杏子が、傷ついたままどこかへ行ってしまう。 杏子はこれから、心の底から笑えるのかな?はにかんだり、幸せそうにほほ笑んだり、できるのかな? もしかしたら、このまま塞ぎこんで、ずっと笑うことができないまま―― 「行け、真一」 「……えっ?」 「行きなさい! なんとかしなさい、とにかくっ!」 「なんとかって」 電車の出発を告げる音が、ホームに鳴り響いた。 その瞬間を見計らったかのように―― 「――おりゃっ!!」 僕の背中を、芹花が蹴り飛ばしてきた。 「う、うわあっ!」 あまりにも強く蹴られたせいで、僕はバランスを崩して転んでしまった。 周りの人たちの視線が、一斉に集まってくる。そして、杏子がこっちを振り向いて…… 彼女は、笑っていなかった。ただ泣きそうな顔で、僕の方をぼんやり見ていた。 そのことが、どうしても我慢できなくて―― 「杏子っ!」 立ち上がった僕は、杏子の手を掴んで、そのまま力任せに彼女を引っ張る。 「真ちゃん……!?」 「いけーっ、しんいちーっ!!」 芹花の怒鳴り声に押されながら、僕は杏子を連れて、逃げるように走り出した。 どこに行けばいいのか、杏子を連れ出してどうしてあげればいいのか、そんなことは全然わからなかった。 「真ちゃんっ、え……えっ?」 それでも、笑顔が消えたままの杏子を、帰らせたくない。せめて、なんとか笑顔を取り戻してあげたい。 ただそれだけを考えて、僕は杏子を引っ張りながら走り続けた。 あてもなく町をさまよった僕たちは、一度足を止めて呼吸を整えた。 「はあ……はあ……真、ちゃん……どうして?」 肩で息をしている杏子が、当然の疑問を僕にぶつけてきた。 それに答えてあげることができないまま、僕は荒い呼吸を繰り返し続ける。 「はあ、はあっ、はあっ……はあっ」 ……こんなことをした理由は、わかっていた。 笑顔を失った杏子を、放っておくことができなかった。とにかく、何かしてあげたかった。 けれど、そのために何をすればいいかは……全然わからなかった。 「あ……」 杏子の声に見上げると、空にはいつの間にか暗い雲が垂れ込めていて、ぽつぽつと雨が降り始めた。 「……行こう」 「……うん」 止めていた足を無理に動かして、またあてもなく歩き出す。 杏子はぼんやりとした表情のまま、けれど手を引く僕に歩調を合わせるようにして、ついて来てくれた。 今こうしているだけで、父さんや渚さん、そのほかにもいろんな人に迷惑をかけている、駄々をこねていることなのは自分でもわかっていた。 それでも――杏子が笑顔になれるようにしてあげたい。そのためには、一体僕はどうすればいいんだろう? 「このまま――」 「……え?」 どこか遠くに行ってしまおうか……思わずそんな考えが頭に浮かんだけれど、慌てて口をつぐむ。 「このまま雨が降ったら、花が散っちゃうかも……」 途中まで口に出した言葉をごまかそうと、そんな適当な言葉を口にする。 「……っ!」 けれど言った瞬間、握っていた手を通して杏子の身体が小さく震えたのがわかった。 「杏子?」 「…………」 ぼんやりした杏子からの返事はない。けれど、杏子は僕の今の言葉に確かに反応していた。 ……でも、何に?なんとか杏子の笑顔を取り戻そうと必死に頭の中をほじくり返す。 雨――雨には、特に想い出はないと思う。あったとしても、雨の日に一緒に店の手伝いをしたことくらいだ。 だとすれば、花?“すずらん”の花だろうか。それとも…… 「何か、ほかに……」 焦って空回りを続ける頭では、何も思いつかない。考えれば考えるほど、考えが横道に逸れていく。 今、僕はツケを、支払っているのかもしれない。子供の頃のあの日、杏子を傷つけてしまった。僕たちの関係が崩れてしまったあの日の、ツケを。 今は辛くても、杏子は家族のところに帰った方が幸せなのかもしれない――それは、本当はわかっていたこと。でも、言葉にならない感情が心を渦巻いている。 そうして進んで行った先に辿り着いたのは、杏子とよく遊んだ、あの花畑だった。 「ああ……」 降りしきる雨の中、それでも咲き誇っている花の群れに僕は思わず目がくらむ。 きっと杏子は僕の言葉で、子供の頃のことを思い出したのだろう。 横目で見た杏子の表情からは、今までのぼんやりした様子が消えていた。 あの時、僕の言葉から『花』が出てきたのは偶然ではなく、もしかしたら、何かの導きだったのかもしれない。 「……覚えてる? 真ちゃん」 「え?」 「昔、ね。ふたりでね、ここへ来た時のこと」 今までずっと上の空だった杏子が、僕の方をしっかりと見つめていた。 「それって、かくれんぼした時とか……?」 「うん……お花の冠、覚えてる?」 「ああ」 もちろん覚えてる。あの頃はいつも杏子と一緒にいて、一緒に遊んで、一緒に笑い合って…… 僕はここで、杏子に花で作った冠をもらったんだ。 そして…… 「わ、わたしだと思って……ほしいから」 「…………?」 「これ、わたしの代わりに、しんちゃんのお部屋に置いて くれれば……」 「わたしはしんちゃんとずっと一緒にいられるかな、って」 「こんなのなくてもいいじゃん」 「えっ……?」 「僕たち、ずっと一緒じゃないの?」 「ふあ……」 「ずっと、一緒でしょ?」 「……うん! うん!」 「ずっと一緒にいようね、真ちゃん」 「……覚えてるよ……今、思い出した。 あの時、約束したよね」 杏子の手を強く握り締めると、杏子も僕の手を握り返してくれた。ずっと一緒にいたいね、と誓った言葉。 その約束を、守りたい。杏子のために、そして何より自分のために。 「……杏子」 「なぁに、真ちゃん?」 僕の方に向き直った杏子のその顔は、昔を懐かしむような、少しだけ寂しそうな笑顔が浮かんでいた。 そんな杏子の笑顔が辛い。いつまでも幸せそうに笑っていて欲しい。 そのためなら、僕はなんだってできる気がした。 「家族に、なろう」 「……え?」 「僕は、杏子と一緒にいたい。同じ家で暮らして、 笑い合っていたいんだ」 「そうする為には、きっと辛いこともあると思う。 それでも……」 杏子は最初、驚いたような顔をしていたけれど、僕の言葉を聞く内に、次第にその表情が木漏れ日が差し込むように明るくなっていく。 「本当の家族になろう」 「家族に……?」 火がついたような恥ずかしさに、目を背けそうになるのを堪えながら、言葉を継げる。 「そう、家族になるんだ。 そうすればきっと、楽しいことばかりだよ」 「毎日毎日が楽しみで、想い出をたくさんつくって……」 「……うん」 「辛いことがあったとしても、ふたりなら乗り越えられる。 そうでしょ?」 「ふたりなら、乗り越えられる……」 「うん……っ!」 杏子は僕の言葉ひとつひとつに返事をしてくれた。 最初は弱い声で。けれど、だんだんと大きな声で、精一杯に。 「これから先もずっと、僕と一緒にいて欲しいんだ」 「真ちゃん……!」 「うんっ! 一緒にいよう」 「わたし、ずっとずっと真ちゃんの傍にいる!」 「だから……真ちゃんも、ずっとわたしの傍にいてくれる? ずっと、ずっと、何があってもだよ」 「もちろん。当たり前だろ」 杏子の表情がみるみる明るくなる。 雨に濡れた身体を抱き締め合っていると、お互いに溶けて一緒になれるような錯覚を覚えた。 しとしとと降り続ける雨が次第に本降りになり、想い出の花畑が水煙の向こうに霞み始めても、僕と杏子はお互いを強く、抱き締め続けた。 どれくらいの間、そうしていただろうか。 「……くしゅっ」 耳元で小さなくしゃみの音を聞いた僕は、ようやく杏子から身体を離して、彼女の顔を覗きこんだ。 「杏子?」 「だ、大丈ぶ……くしゅっ」 もう一度くしゃみをした後、杏子が小さく身を震わせる。僕を心配させまいと笑う杏子の表情は、もうすっかりいつも通りだけど……少し、顔色が悪く見える。 ……考えれば、当たり前のことだった。杏子は食事も摂らずにずっと部屋にこもっていて、体調を崩しかけていた。 こんな雨の中に長い間いたりしたら、身体を壊しても不思議じゃない。 「大丈夫じゃないだろう……ええと、この辺りで雨宿りが できるところは……」 「ひゃっ!? し、真ちゃん?」 僕は杏子を抱え上げると、すぐ近くに雨露をしのげる所がないかと視線をさまよわせる。 「ね、ねえ、恥ずかしいよ……っ」 今僕たちがいるところは一面の花畑で、雨風を防げそうなところはなかった。 「一番近くにある建物は……坂を下ったところの 神社くらいか。杏子、しばらくじっとしてて」 それくらいの距離なら、杏子を腕に抱えたままでも余裕で走れそうだ。 「で、でも、人に見られたりしたら……」 「大丈夫。この雨だし、すれ違ってもわからないよ」 杏子を安心させるように言うけど、もちろん、そんなわけがない。 でも、今は杏子の体調の方が心配だから。心なしか、抱き上げた杏子の身体は少し熱っぽい。 杏子を抱え上げたまま花畑から出て、恥ずかしさに縮こまる杏子を抱えて走りながら、僕は少しだけこれからのことを考える。 杏子と一緒にいるためにはどうすればいいのか。渚さんや父さんをどう説得すればいいのか。それから―― 「……雨、止まないね」 杏子が外を眺めながらぽつりとこぼした言葉で、僕は耳を澄ませた。 「そうだね……なんだか、さっきより雨脚が強くなってる ような」 近くの神社に駆け込んだ僕と杏子は、そのまま本殿の中にお邪魔して、雨宿りをしていた。 罰あたりな気もするけど、あのままだと杏子が風邪をひいていたかもしれないし、これくらいは大目に見て欲しい。 「……くしゅっ」 この雨の中を突っ切ってきたせいで、僕も杏子もすっかりずぶ濡れだった。 「杏子、大丈夫?」 「……うん、平気」 杏子はそう言いながらも、小刻みに震えている。このままだとふたり揃って風邪をひいてしまいそうだ。 「ちょっと遠いけど、家まで帰ろうか。 杏子は僕が背負って……」 そこまで言ったところで、杏子が僕の服の裾を小さく引く。 「…………」 「杏子?」 何か言いたげな様子の杏子は、パッと顔を伏せる。 怪訝に思っていると、杏子は再びゆっくりと顔を上げた。だけど、ひどくその顔は赤い。 そしてその瞳には、戸惑いとも恥じらいともつかない色が浮かんでいる。 「杏子……?」 再び声をかけると、ひどく震えた小さな声が返ってくる。 「……もっと、近くにいて」 「え?」 「ここ、ちょっと寒いの。 ……だから、もっと……近くにいて」 その言葉に、ドキリと心臓が大きく跳ねた。 気のせいか、僕の服の裾をつかんでいる杏子の指先に、さらに力がこもった気がする。 「でも、寒いなら早く戻った方が……」 僕は妙な気を起こさないよう、はぐらかした。杏子の瞳の中の真意を、間違って受け取ってしまいそうだったから。 でも―― 「……まだ、戻りたくない」 かすれた声で言いながら、杏子は潤んだ瞳で僕を見上げてきた。 もしかしたら、これが最後になるかもしれない。頭の中に誰ともつかない声が響き、そう告げる。 なら、もう少しだけなら……そう僕は自分に言い訳をしながら、杏子の求め通り、より近くに腰を下ろした。 「ありがとう、真ちゃん」 杏子は嬉しそうに微笑みながら、僕へと身を寄せる。 「大丈夫? あまり無理しないでね」 「平気、大丈夫」 全身ずぶ濡れなのに、それでも僕ともう少しだけ一緒にいたいと言う杏子。 そんな杏子にどう言葉をかければいいのか、僕は悩んでいた。 「……ごめん」 結局、口をついて出たのは謝罪の言葉だった。 「? どうして真ちゃんが謝るの?」 杏子が不思議そうに首を傾げる。 「だって、その……」 「子供みたいな真似をして、杏子を笑顔で送り出すことが できなくって」 そこだけは、ちゃんと謝らないといけないと思った。 杏子と一緒にいたい気持ちは本心だし、絶対に離れたくはないけれど―― 僕はこれで子供の頃を合わせて二度も、杏子のお別れの言葉にちゃんと応えることができなかったんだから。 「ふふっ」 すると杏子は、僕の言葉を聞いて小さく笑みをこぼした。 「真ちゃんが謝ることなんて何もないよ。 だってわたし、嬉しかったもん」 「一緒にいようって、言ってもらえて。 真ちゃんが昔の約束を覚えていてくれて」 杏子の言葉に、救われたような気持ちになり、僕は改めて杏子のことを愛おしく思いながら、もう少し彼女に身体を寄せた。 僕と杏子の肩と肩が、濡れた服越しに密着する。そこで僕は、杏子がまだ小さく震えていることに気づいた。 「寒い?」 「……うん」 身体を預けてくる杏子を、僕はそっと抱き寄せる。このまま力いっぱいに抱き締め続けたら、折れてしまいそうなくらいに彼女が華奢なのを、改めて感じる。 服越しに伝わってくる体温と杏子の息遣いに、僕は思わず顔を熱くして……杏子の濡れ髪の匂いに、眩暈がしてきた。 「……どう? 少しはあったかくなった?」 「うん、あったかい」 妙に杏子を意識してしまっている僕に比べて、彼女はどこか安らいだ顔で、こちらの胸に鼻を擦りつける。 「……真ちゃん、心臓バクバクってしてる」 「そ、そんなことないよ」 自覚はしていたけど、杏子に口でそう言われて僕は思いっきり動揺してしまった。 「ええと、ほら、ここまで走ってきたから」 「うん、そうだね」 なんとか言い訳しようとする僕の頭に手を伸ばし、撫で撫でと動かしながら、杏子が楽しそうに笑う。 そんな杏子の態度は嬉しいんだけど、男としてはなんとなく悔しくて、僕は杏子を慌てさせてやろうと口を開いた。 「でもさ、このままだとやっぱり風邪をひいちゃうよ。 だから、ほら――」 突然話題を変えた僕を、杏子のふたつの瞳が不思議そうに見上げてくる。 「服、濡れてるんだから、脱いだ方がいいんじゃない?」 「あ……」 杏子の目が驚きに見開かれて……その頬はさっきまでの余裕がウソのように、赤く染まっていた。 「あ、え、その、それって……?」 「う、うん。さすがに、乾かした方がいいかなって……」 自分で言っておきながら、声がうわずってしまう。 「でも、寒いし……」 「それはその、雪山の緊急避難的に裸で温め合えば……」 自分で言ってて、だんだん恥ずかしくなってきた…… 「……うぅ」 杏子はさすがに承諾しかねるのか、真っ赤な顔のまま視線をしばらく逸らしていた。 僕自身、自分ばかり杏子を意識していたのが、なんとなく悔しかったから口にしただけで。 子供じみた仕返しだったけど、ちょっとドキッとさせたかっただけで…… 「……うんっ」 「え?」 けれど、返ってきたのは予想に反した肯定の言葉だった。普通は断るに違いないと思ったのに。 杏子は恥ずかしそうに僕の胸に顔を埋めたまま、口を開く。 「でもね、真ちゃん……」 「な、何?」 「この服、濡れててちょっと脱ぎづらいの」 「あ、そうか……じゃあ、僕はほら、あっちを向いてる から」 「違うの、そうじゃなくて……」 杏子がはぁ……と吐いた息が、なんだか熱かった。 「えっと、その……だから、手伝って」 「……え?」 杏子の申し出に、僕は思わず驚き、聞き返してしまった。 彼女の顔を覗き込むと、その潤んだ瞳と目が合って、僕の心臓はまた大きく高鳴る。 「恥ずかしいから、早く……」 杏子はそう言うと、僕に自分の服の裾を握らせて、両手を僕の肩の上に乗せる。 髪の毛からぽたぽたと、雨の雫が伝い落ちてきた。 「……杏子」 名前を呼ぶと、杏子がうっすらと目を開きにこりと微笑む。そして、また目を閉じた。 *recollect何もかもがいつもの杏子じゃない気がしつつも、僕は抗いがたい引力にひかれるように、杏子のスカート部分を持ち上げていく。 白い太ももが……濡れて身体に張り付いたショーツが露わになって、僕は思わず唾を飲み込んだ。 続いて滑らかなお腹とおへそが、僕の視界に入ってくる。そのまま服を、さらに上へ…… 「……っ」 杏子が小さく息を呑み、それに気づいて僕は慌てて視線を逸らした。 「ご、ごめん……」 「だいじょうぶ」 震える声でそう言う杏子の健気さに衝動が湧き上がり視線を元に戻すと、そこでは小ぶりな胸が静かに上下に揺れていた。 僕の手は止まらない。そのまま服を頭と両腕から抜き、杏子を下着一枚だけの姿にしてしまう。 「……ぁう」 杏子が両腕で胸元を隠しながら、ほぼ露わになってしまった身体をよじらせる。 その姿がかえって色っぽくて、杏子の身体に僕の視線は釘付けになってしまっていた。 と、そんな僕に、杏子の恨めしそうな視線が注がれる。 「し、真ちゃん」 「あ、ごめん」 「そ、そうじゃなくて……」 僕が慌てて視線を逸らすと、杏子はこれ以上ないくらいに赤かった顔を、さらに真っ赤にして言う。 「真ちゃんも、そのままじゃ風邪ひいちゃうでしょ?」 その見事な反撃に、僕は思わず頭を抱えたくなった。 「そっか、そうだよね……」 女の子が脱いでいるというのに、男である僕が脱がないわけにはいかない。 僕は彼女の服が少しでも早く乾くように、広げて手すりのようになっていた場所にかけると、少し慌てながら自分の濡れた服を脱いでいった。 「ふわっ……」 「ん? どうしたの?」 「ううん……なんでも……」 そう言いながらも、チラチラと僕を盗み見る杏子。 「……僕の身体、何か変?」 「そ、そういうわけじゃなくて……その……なんか 格好いいから……ドキってしちゃったの……」 「そっ、そういわれると……な、なんていったらいいか」 身体つきのことなんて誉められることがなかったので、少々反応に困る。 そんな鍛えたりしてないし、女の子じゃないんだし誉められても……と思うが、杏子が好きなら……まんざらでもないんだろう。 僕は照れてごまかすように、杏子に近づく。 「じゃ、じゃあ……」 「……うん」 下着姿になったお互いの身体を、どちらからともなく抱き締め合う。 ほんの少しの間離れていただけなのに、お互いの身体は思いのほか冷えていて、僕と杏子は相手の体温を求めるように、さっき以上に密着する。 「……う」 密着させたはいいけれど、杏子の肌の滑らかさと柔らかさとが今度はダイレクトに伝わってきて、頬が熱くなる。 触れ合った部分が溶けてひとつになっているかのような感覚を、僕は覚えた。 おまけにその息遣いが肌に触れる度に、まるで鳥の羽でくすぐられるようなこそばゆさが、身体を駆け抜けていく。 「どうしたの、真ちゃん? 寒い?」 心配そうに僕の背中に腕をまわしている杏子の気遣いに、返す言葉が出てこなくて……それでも何とか、返事を絞り出す。 「大丈夫、寒くないよ。杏子が傍にいてくれるから」 「……えへへ」 杏子が嬉しそうに僕の胸に頬をすりよせた。 まるで子供をあやすかのようにとんとん、とんとん、と背中でリズムをとっている手の平が、とても楽しそうだ。 そんな彼女のすべてが愛おしくて、僕は杏子をもう少しだけ強く抱き寄せた。 「真ちゃん、このまま眠っちゃってもいいんだよ?」 「っ……ごめん、とても眠れそうにない」 「ん……?」 杏子に申し訳ないと思いながらも、衝動が止められなかった。 「あ……っ……んんっ……」 手の平を彼女の背中からお尻へと、ゆっくりと滑らせ、下着の上から愛撫するように、彼女の小さくて丸いお尻を撫でる。 「……ダメかな?」 思い切って聞くと、杏子はやだやだをするようにかぶりを振って、僕の胸に顔を埋めてささやいた。 「……だ、ダメじゃないけどっ、だって、ここ…… お家じゃないし……」 でも、僕は杏子をもっと強く感じていたかった。 僕たちは強い絆で結ばれていて、どんなことがあっても離れることがないんだと信じられる拠り所が欲しかった。 「杏子を、もっと感じていたいんだ」 その言葉に杏子の肩が小さく跳ね、僕の身体に廻された手に、少しだけ力がこもる。 「……うん、なら……いい、よ」 短い了解の声と共に、真っ赤に染まった杏子の顔が、僕をまっすぐに見上げてくる。 「ちゅーして、真ちゃん……」 杏子の甘えるような声に応じて、僕は目の前の唇に自分の唇を重ねる。 「んっ、ちゅ、ちゅく……んんっ……ちゅ……ちゅっ……」 緊張する杏子の身体をほぐすように、ゆっくりとその唇に舌を這わせる度に、杏子の身体が小さく揺れた。 「ちゅ……んんっ、ちゅぷっ……ちゅぶ、んちゅ……」 時には深く、時にはついばむように唇を交わす内に、杏子の身体から次第に力が抜けていく。 雨に冷えた空気が身体を冷やさないように強く抱き締めながら、僕は杏子と舌を絡ませた。 「んんぅ……ちゅく、ちゅ……れる、れろ……んんっ」 「しん……ちゃ……ん……んんぅ……ちゅぅ……ちゅるっ」 長い長いキスを終えて唇を離すと、杏子が切なそうに僕の唇を目で追う。 僕はその間に息継ぎをして、今度は軽くついばむように杏子の唇に何度もキスをした。 「ん、ちゅ……んぅんっ……ちゅっ、ちゅっ……ちゅっ」 そうしながら杏子の髪に手を入れる。 まだしっとりと湿ってはいるけど、それでも髪が指の間を通り抜けていくのが楽しくて、繰り返し髪を手ですく。 すると、ふいに杏子が聞いてきた。 「んはぁ……ねぇ、真ちゃん」 「ん、何?」 「……もしかして、髪の毛、前みたいな方がよかった?」 少し心配そうにそう聞いてくる杏子に僕はというと、杏子がそんなことを気にしているのがおかしくて、つい笑いがこぼれてしまう。 「そうだなぁ、前の髪型も可愛かったけど、今の髪型も 好きだよ、僕は」 そう告げながら、ゆっくりと杏子の首筋に顔を埋める。 もうすっかり馴染んでしまった杏子の匂いが、僕の頬を優しく撫でた。 「ん。よかった……あんっ……」 僕の答えに頬を緩めた杏子が、僕の頬に自分の頬を擦りつけてくる。甘えるように、じゃれあうように。 「ねえ、杏子……触って、いい?」 「いいよ。真ちゃんのしたいようにして」 了解を得て、杏子の胸にゆっくりと手を這わせる。 「んんっ、あふっ……ふぁっ……あんっ」 小ぶりなそれを包み込むようにして優しく揉むと、杏子が小さく吐息をこぼした。 「んんっ……ふあっ……あんっ、やんっ……んんんっ……」 反応を見ながら少しずつ力を強めて、胸を揉み続けると、その度に押し殺したような声が杏子の口からこぼれた。 「痛くない?」 「うんっ、大丈夫だからっ……んんっ、続けて……?」 甘さの混じり始めた声を受けて、僕は杏子の身体のまだ触れていない部分に手を這わせていく。 右手では胸を揉み続けながら、左手はお腹の辺りをゆっくりと撫でる。 「んっ……ひゃぅんっ……あぁんっ……あっ……」 「くすぐったかった?」 「ん……ちょっとだけ……でも、真ちゃんの手…… 温かくて、気持ちいいよ……」 「杏子の身体も……温かいよ」 首筋に顔を近づけて、うなじに顔を埋めるように唇を押し付けた。 「ひゃっ! あん、ふぁ……っ」 そして鎖骨、肩、脇へと余すことなく、杏子の身体にキスの雨を降らせていく。 「んっ……んふぅっ……ああんっ……いっ……いっぱい ちゅーされてる……身体中、真ちゃんに……んあっ……」 「んっ……ああっ……はぁんっ……そ、そんなところも? あっ……あっっ! か、感じちゃうよ、そこぉ……」 色んなところを刺激する度に違う反応をみせる杏子の姿が可愛くて、僕は夢中になって杏子の身体を唇で愛撫した。 「あっ……真、ちゃんっ、大好き、だよっ」 僕の名前を呼ぶ杏子の切なそうな声に、頭の中が蕩けそうになる。 「あ、そこは……っ、しんちゃんっ、あっ、ひゃっ!」 胸のふくらみに向けて次第に唇を下ろしていくと、杏子の声の甘さが一段と強くなった。 「ふあぁぁぁぁ……」 そして、僕は杏子の可愛い胸の頂きにある桜色の突起をそっと口に含んだ。 「ひゃぁっ、んあ……っ、んんぁっ、ああっ!」 すると杏子がひと際大きな声をあげて、僕の頭を抱え込んでくる。 それでも僕は彼女の横腹を優しくさすりながら、口に含んだ杏子の乳首をゆっくりと舌で転がしていく。 口の中の乳首はお菓子のグミのように弾力があって、気のせいか、甘いような味覚も感じられた。 「あっ、ダメっ……それ、ふぁぁっ、はぁぁっ!」 「背中がっ……ゾクゾク、しちゃうっ……そこ…… そんなに、ちゅうちゅうって……んあんっ!」 僕の舌が動く度に、杏子が身をよじり、僕を抱え込む腕の力を強くする。 僕の頭に押し付けられたその唇からは、熱い吐息が漏れていた。 「ふぁう……真ちゃん、そんなに、そこばっかり……っ」 僕が胸から唇を離すと、杏子はうるんだ瞳で少し咎めるように僕を見て、ちょっとむくれたような声をあげた。 そんな杏子の仕草が可愛くて、僕は少し強引にその唇を奪った。 「んんっ、んちゅ……はぷ、ちゅく、ちゅ……ちゅぷっ」 最初は驚いたように固まっていたけれど、杏子はすぐに僕の舌に自分の舌を絡めてきてくれた。 「れる……れりゅ……んむぅ……ちゅ、ちゅぷ……んあっ」 「んはぁっ……んっ……もっと……ちゅーしてぇ…… んんっ、ちゅっ……ちゅんっ……んちゅっ……れる……」 杏子と舌を絡めながら、僕は彼女への愛撫を続ける。 杏子の胸をゆっくりと、できるだけ優しく撫で回し、彼女の身体からもう一度緊張が抜けたところで、僕は再び杏子の乳首を指で刺激する。 「んん、ちゅっ、ちゅぷ、んひゃっ、はぁぁぁぁんっ!」 すると、刺激が強かったのか、杏子は今まで夢中だったキスを中断して、大きく声をあげた。 「はぁ……んあ……もう一度、ちゅーして……」 ひと際大きい声をあげてしまって、恥ずかしそうにキスを求めてくる杏子の髪をすく。 そしてその求めに応じて、もう一度キスをする。 「んむぅんっ……れるっ……んぷっ……あふっ…… ちゅぅっ……れるる……んんぅっ……ちゅぷ……」 そのまま、僕はもう片方の手で杏子の太ももを撫でる。 「杏子、いい?」 「……うん。いい、よ」 僕の意図を察した杏子が、少しだけ腰を持ち上げる。 僕は杏子の腰に手を回すと、雨に濡れただけじゃない湿り気を帯びたショーツを、杏子の足から抜き取った。 「あっ……んっ……っしょっ……」 一瞬、杏子の大事なところが視界をかすめたけれど、杏子が恥じらうように足を閉じてしまい、すぐにそこは隠れてしまった。 「ふわっ……え、えっと、やっぱり、恥ずかしい、な」 そう言って、杏子は真っ赤な頬を両手に隠すようにして僕を上目遣いに見上げてくる。 「……杏子、キスしよう」 僕は杏子の緊張を和らげるために――そしてそれ以上に可愛く恥じらう杏子に触れたくて、彼女の唇に自分の唇を重ねた。 「んん……ちゅ、ふぁんっ……ちゅぷ……れりゅ……」 今までよりずっと優しく、杏子がリラックスして身体から力が抜けきるまで、何度も何度も。 「ちゅっ、ちゅる、ちゅぷ……んんふ……んっ…… ちゅぷ……あふっ……ちゅっ、ちゅっ……」 杏子の幸せそうな顔がすぐ傍にある。 ただそれだけのことが、ほかのどんなことよりも嬉しくて僕はキスを続けながら、杏子をゆっくりと抱き止める。 「んあっ……し、真ちゃん、その……」 その時、杏子が少しだけ恥ずかしそうに、視線を落とした。 「あ……」 そこには、今までの杏子との行為ですっかり硬くなってしまった、自分の分身の姿があった。 「……ここ、苦しそう。真ちゃんも、気持ちよくなりたい、 よね……?」 杏子がゆっくりと、僕自身へと手を伸ばす。 「ふあっ……す、すごい……」 杏子は戸惑いながらも、どこか不思議そうな顔で僕の硬くなった形を触って確かめている。 「……きょ、杏子……んくっ……うあっ」 小さく柔らかな手でそれをなぞられて、僕はより強く快感を覚えてしまう。 「ふわあ……すっごく、熱くなってる……」 わざとではないと思うけど、その手はぎこちなく、それでも的確に僕の気持ちがいい場所に触れてきているような気がする。 「これが、わたしの中に入って……たんだよね……」 杏子は僕に触れながら確認するように、そう呟いた。 改めてそう言われると、何故か急に恥ずかしくなって、僕は慌てて顔を背ける。 「そ、そうだね」 そんなにじっと見つめられると恥ずかしいんだけど…… 「あっ、真ちゃんのここ、ぴくぴくって…… なんだか、かわいい……」 本人はわかっていないかもしれないけれど、それだけで僕はもう果ててしまいそうだった。 それをごまかすために、僕は杏子の手をそっと押し戻すと、今度は彼女の秘所に触れるべく手を伸ばした。 「んあっ……あっっ、んんっ! ……そこはっ……!」 もじもじと子猫の額みたいな膝頭を合わせながら、僕の手をやんわりと拒む杏子。 でも、僕がその間に手を入れると、杏子はゆっくりと脚を開いてくれた。 「恥ずかしい?」 「うん……でも、真ちゃん……さわりたいんでしょ?」 恥ずかしがりながらも僕に身を任せてくれる杏子に、ますます愛しさが募る。 僕は太ももを割り、もう十分に濡れて熱くなっている杏子の秘所に指を伸ばした。 「ふあぁ! んんっ……ああっ……ああんっ! んあっ!」 「あんっ……あっ……わたしの、あそこ……濡れてるの?」 ぬかるんでいるそこを軽くなぞるだけで卑猥な音が響き、その音に合わせて、杏子が切なげに身をよじらせる。 「ふあっ……ああんっ……わたしの……ぬるぬるして…… るっ……ああっ!」 「はぁ……はぁ、んんっ……あふっ……んんんぅ……」 切なげな声を上げる杏子を見ていると、ちょっとなぞっているだなのに、なんだかいけないことをしているような気分にさせられる。 あの時、こんなところに僕のモノが入って……これからまた、ここに入れようとしているんだと思うと…… 「はぁ、はぁ……はぁ……真……ちゃん」 「ん……?」 「真ちゃんの……さっきより、もっと、もっと、おっきく、 なってる……」 僕に秘所をまさぐられて、熱に浮かされたような顔をしている彼女の目が、再び僕の股間に釘付けになっていた。 「うん……あの時、杏子のここに、入ってたんだって 思ったら、こんなに……」 「も……うっ、真ちゃん、えっちだよぉ……恥ずかしい こと、言わないでよぉ……」 イヤイヤと恥ずかしそうに首を振り恥ずかしがる杏子。 「で、でも、杏子だってこんなに濡れてる……」 僕の指に愛撫されているそこは、ますます熱く濡れそぼっていて、いやらしい音を立てている。 「えっ……ぁあ、あうぅっ……そっ、それはぁ……」 かぁっという音がしそうなくらい、杏子の顔が真っ赤になる。 「もぅ……意地悪だよ………わたし、真ちゃんにいっぱい さわって貰うの……いやじゃないのに……」 「うっ……意地悪してごめん。でも、杏子が嫌がって ないってわかって嬉しいよ」 「だって……真ちゃんだから……」 「恥ずかしいけど……真ちゃんとこうやって触れ合える のって……すき……だから」 恥ずかしがりながらも、僕との行為を受け入れてくれている杏子。 ちょっと意地悪したことを後悔する。でも、杏子が僕を全面的に信頼してくれたことに胸が熱くなる。 「い、いいよ……えっちでも……真ちゃんがしたいこと、 わたしにいっぱいしても……」 「恥ずかしいことだって……がんばって出来るようになる から……」 「ありがとう、杏子……」 そんなけなげな杏子に胸を打たれ、僕はぎゅっと抱きしめる。 「あっ……また……硬いの、当たってる……」 僕のはち切れんばかりに膨張したモノが、杏子の下半身をぐいっと刺激する。 「くすっ……真ちゃんもドキドキなんだね……ここ、 こんなにしちゃって……」 「うっ……そ、そうだね……」 杏子は僕のモノに指を絡めるように撫でてくる。 優しくふれているだけなのに、それがとても気持ち良くて、その刺激に僕は思わず腰が引けた。 「あっ……もしかして、痛かった?」 「ううん……その逆」 「そう、よかった……もっとしてあげるね?」 気をよくした杏子がさらに優しく丁寧に触ってくる。 しかし、されっぱなしなのもなんだし、こっちもお返しをしてみることにした。 「んんあっ……あっ……いまは、わたしがしてるのに……」 「気持ちよくして貰ってるお礼だよ」 「あんっ……あふっ……そっ、そんな……あんんっ! 真ちゃんの、指……んぅんっ……んんっ!」 「あっ……あぁぁっ……んくっ……はぁ、はぁ…… 真ちゃん……それ……気持ち、いい……」 ぴったりと閉じた貝のような杏子のアソコをほぐすように撫で上げていく。 撫でる度に合わせ目からぬるっとした愛液がしたたり、指を濡らす。それをまたアソコへと塗るように指を動かしていく。 「んくっ……あんっ……わっ、わたしも……真ちゃんに、 あんっ……ああんっ……んくっ……ううっ……」 杏子は息をあげながら、僕のモノをまさぐる手に力を入れてきた。 今度は竿の部分を握り、上下に擦り上げてくる。 「んっ……くっ……杏子……それ、どこでおぼえたの?」 「えっ……知らないけど……こういうのが、いいの?」 杏子はにこりと笑うと、ソフトに包み込むように竿をしごき上げてくる。 「あっ……さっきより硬くなってきたかも。 真ちゃん……んんっ……こう、かな……?」 無邪気な動きだけど、やはり的確に弱いところを攻め続けられると、さすがにもうもたない。 だから、負けじと僕も杏子のアソコを刺激していく。 「ああんっ! あっ……ふぁっ……真ちゃんの、指…… 中に入って、きてるぅ……んんっ!」 「あっ……だめだよぅ……わたしばっかり、気持ちいい なんて……んっ、んぅんっ……んぁっ……!」 耳元で、可愛くてそれでいて艶っぽい声を奏でられ続け、さらに自分の股間をまさぐられ続けると、さすがにかすかな理性も吹き飛んでしまう。 ぎちぎちと、音を立てそうなぐらい硬直したモノで杏子と繋がりたい……そういう欲求が鎌首をもたげる。 「ああっ……あっ……ひぃっ……力、抜けちゃうよぅ…… んんっ……んああんっ……あんっ!」 そして、僕は杏子の耳元にささやく。 「杏子、中に……いい?」 「……はぁ……はぁ……う………うん」 僕たちはもう、お互いに限界だった。 杏子の華奢な身体をそっと抱き上げて、僕はそのまま杏子の濡れそぼった入り口に自分のものを押し当てた。 「んんっ……はぁ……あっ……あぁぁぁぁ……!!」 ゆっくりと肉をかきわけ中を進んで行く度に、杏子のため息とも吐息ともつかない声が耳に届く。 「杏子、大丈夫?」 「う、うん……んあっ、だい、じょうぶ、だよ……っ!」 僕は杏子の頭をできるだけ優しく撫でながら、奥へ奥へと進んでいく。 「し、真ちゃんが、入って……んっ、あぁぁぁっ!」 「杏子……」 「ちゅー、してっ、真ちゃんっ!」 そう言いながら顔を寄せてくる杏子に、僕は深く唇を重ねていく。 「ん……れるっ、ちゅ、んちゅ、ちゅる、んむぅ…… はふぅ、ちゅる、ちゅぷ……れりゅ、ちゅむ……」 「れりゅ……んぷ……ちゅぷぷ、ちゅるる……ちゅぷっ」 心の中が満たされるような、深くて深くて長いキス。 まるで痛み止めの薬が効いたみたいに、杏子は僕の進入を耐えきった。 「んはぁっ……はぁ、はぁ……お腹の奥まで、届いてる みたい」 「大丈夫? しばらくこのままでいようか?」 「う、ううんっ、……いい、よ……動いて……」 身体の力を抜いて微笑む杏子。 「真ちゃんを受け止めたいの……だから、ちょっとずつ 慣れていかなきゃ……」 「それに、苦しいだけじゃないの……真ちゃんがわたしを 一生懸命、気持ちよくしてくれてること、わかるから」 「わかった。でも無理はしないでね」 「うん……きて……んぁ! あぁんっ……」 杏子の了解を得て、ゆっくりと腰を使い始める。 「んはぁぁっ、あぅっ……んんっ、あんっ……あんんっ」 僕が腰を動かす度に、杏子が甘い声をあげるようになる。 そんな杏子の反応が嬉しくなって、僕は杏子の首筋や頬やおでこに自分の唇を押し付けていく。 「んっ、んんっ! あんっ……あふっ……首筋も…… 感じるよぉ……」 「真ちゃん……わ、わたし、すごくえっちになってる、 かも……んっ、んあぁんっ……!」 「じゃあ、もっといっぱいエッチにしてあげる」 「やぁんっ……んぅっ! あっ、ああっ……ああんっ! 真ちゃんの舌……くすぐったぁぃ……」 杏子が悶える度に、繋がっている部分がびくびくと痙攣し、締め付けられるモノが熱くてたまらない。 雨に濡れていた時以上に、裸でただ抱き合っていた時以上に、そのまま溶け合ってしまいそうな気すらする。 「んんっ……あんっ……あふっ……ああっ……真ちゃん、 ……真ちゃぁん……あっ、あっ、ああんっ……!」 「いいのっ……気持ちいい……んんっ……あぁっ……! すごく、いいっ……とろけるよぉ……わたしぃ………」 杏子の中に溶けてしまえるなら、それも本望だ。そんなことを思いながら、僕は夢中で杏子を貪る。 「真ちゃん、真ちゃぁん、わたしたち、今、一緒なんだ よね……ひとつに、なってるんだよねっ?」 杏子もまるで、僕を貪るように……夢中になって抱きついてくると、自ら身体を揺すっていた。 「今、すっごくね……満たされた気分、なの……こうして 奥まで繋がって……んっ……ああんっ……あんっ!」 ゆっくりと腰を引き、勢いを付けて杏子の奥へと何度も突き入れていく。その度に背を仰け反らせて歓喜に震える。 「ふぁっ……真ちゃんっ! あっ、んふっ……わたし、 ヘンだよっ、んあぁあぁっ、真ちゃん、真ちゃんっ!」 杏子が僕の頭をかき抱いて、僕が与える刺激を受け入れてくれている。 その表情に、もう痛さや辛さといったものは見えない。純粋に快感を得て、それに酔い、恍惚とした顔だった。 「杏子、好きだよ」 「うんっ、わたしもっ! 真ちゃんのことが、大好きだよっ! あんんっっ!!」 「ずっと、一緒にいようっ、どんなことがあっても、もう、 絶対に離さないから……っ」 「うんっ、いっしょ……一緒に、いて! 放さないでっ! あっ、ああっ、あんっ、あんっ、あああっ!!」 交わした言葉に、身体と心の両方が満たされていく。 「ひゃ、あぁぁっ! ふぁっ!! あっ、ああっ、んあっ……ひゃんっ!!」 「放したくない……ずっと、こうしていたいっ!」 「して、ずっとしてっ! わた、し、真ちゃんに、こうして、もらえて、嬉しい! すごく、幸せ、なのっ……あ、ああああっ!!」 ふたりで言葉を重ねながら、僕たちの交わりは激しさを増していく。 頭の片隅に沸き上がる、これが最後なのかもしれないという絶望感を無視する。 それはまるで引いては寄せる波のように、高まる感情が収まる度に、沸いてきていた。 愛し愛されているというお互いの気持ちで、弾けてしまいそうなほどに幸せなのに。 今はこの瞬間の幸福を味わいたいのに。それは僕にそうすることを許さない。 僕はそんな気持ちを追い払いたくて、行為に没頭する。杏子の艶やかに歓ぶ表情が見たくて、より一層動きを速めた。 「やあぁぁぁあぁあんっ、真ちゃん、はげ、しっ……ダメ、 ダメ、壊れ、ちゃうっ」 「杏子っ、僕も、もうっ……!!」 「わたし、もっ、もう……っ、わたしっ! あああっ!! あっ、はんっ!! あっ、ああっ!!」 いつまでもこうしていたかったけれど、僕はそろそろ我慢するのが辛くなってきている。 「わたしっ、へんになっちゃうよぅっ、もうっ、もう、 わたし……っ、何か、あ……っ、ああっ!!」 「杏子……っ」 最後の時をむかえるまで、衝動のままに僕は身体を動かし続ける。 「あぁんっ! あっ、あっあああっ! んっ、んくっ…… んっ! はぁんっ! あっ、あっ、ああああっ!!」 「もっ、もうっ……だめぇっ……あっ、だめぇっ!!」 切なそうな杏子の声に応えるように、僕は最後の力で動きを激しくする。そして、最後の瞬間に僕は杏子を力いっぱい抱き締める。 「んぐっ……もっ、もうっっ……」 「きちゃうっ……んんっ! わたしっ……きちゃうぅっ! んっ、んぐっ! んはぁぁぁぅんっ!!」 「ぐぁっ!!」 「んあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」 僕はそのまま、杏子の中にどくどくと音がしそうなほど射精していた。 「あぁんっ! あっ、あっ、ああああっっ!! んあっ! あっ……あぁぁ……あっ………はぁぁぁ……」 杏子は身体を弓なりに反らせながら、びくびくと小刻みに震えている。 「はぁ、はぁ、ああん、はぁ……あぁ……あっ…… ふあぁぁぁ……」 白い肌には、ぱあっと赤みが差し、杏子は桃色の花のようになっていた。 「あ……何、これ……あ、ああぁ……すご……いの……」 眼を細めて、静かに僕の精を受けとめている杏子は、満ち足りたような表情をしていた。 「おなかにっ……いっぱい真ちゃんのが……出てて…… あったかくて……」 「んっ……あふ……んんっ、わたしの中に染みこんでる みたい……」 半ば放心状態で、心の底から幸せそうだ。 「杏子……」 「しあわせっ……すごく………こんな時間がずっと続けば いいのに……」 「そうだね……」 息を荒く肩を揺らす僕らは、どちらともなく唇を重ねる。 「んっ……ちゅっ……んぅっ……れるぅ……ちゅぷ……」 「ちゅっ、ちゅるる……んむぅ……ちゅ、ちゅっ、 れる……れろ……真、ちゃぁん……ちゅぷ……」 「ねぇ……ぎゅってして……真ちゃんを……もっと 感じたいよ……」 僕の手で杏子をそんな表情にできたことが嬉しくて、そんな彼女の幸せを守りたくて、僕は繋がったまま、杏子の身体をぎゅっと抱き寄せた。 「ふふっ……真ちゃん……あったかい……」 「ふぁっ……真ちゃんの……またわたしのお腹の中で、 おっきくなってるよ……」 「だって……杏子の中、凄く心地よくて……」 「ふふっ……あっ、またぴくって……」 そうやって、抱き合ったまま二人で余韻に浸る。 こうやって抱き合っている間は、温もりが永遠に続くと思いながら。 雨音は、さっきまでよりずいぶんと小さくなり始めていた。この分なら、そう時間をおかずに止むだろう。 「ねぇ、真ちゃん」 僕のすぐ隣に寄り添うように座っていた杏子が、僕の方を見上げてくる。 「何、杏子?」 「一緒に、いようね」 「……うん」 身体を預けてきた杏子を抱き止めながら、僕はその髪をそっと撫でる。 さすがに、あのまま裸でいるわけにもいかなかったので、僕たちは生乾きの服をもう一度着直していたけど…… 杏子の肩は、小さく震えていた。 それは寒さのせいではなくて……杏子も不安なんだ。 これからのこと、家族のこと。色んなことを考えて、自分がどうしたいのかも考えて、それでも一緒にいたいと考えてくれているから。 「んっ……」 そんな杏子の身体を抱き締めながら、僕は自分の不安をはね除けようと、必死に頭を悩ませていた。 僕たちがもう二度と離れ離れにならないために、僕にできることは…… 「…………」 そして決意を固める。この腕の温かさを手放さないために、僕は…… 「しんちゃぁーん」 「しんちゃーん、どこー?」 「どこにいるのー……」 「もういないのー……?」 「いないんだね……?」 「ずっと、一緒だと、思ってたのに……」 「…………」 「……ばいばい、真ちゃん」 ……長い夢を見ていた気がする。 久しぶりに耳元で響く大音量を聞きながら、僕はベッドから身を起こした。 久しぶりにタイマーをセットした目覚まし時計を見ると、時間は6時半を過ぎたところ。 家の前を通る人や車の気配はほとんど無く、耳に入る音といえば、小鳥のさえずりと窓を揺らす風の音くらいだった。 僕は睡魔の誘惑を断ち切って身体を起こすと、伸びをする。 長い夏休みが昨日で終わり、今日からは新学期が始まる。だから間違っても寝坊したりしないようにと、早めに目覚まし時計をセットしてたんだけど…… 「……これなら、もう少し遅い時間でもよかったかな」 寝起きのハッキリとしない頭で、昨夜準備をしておいた学園の制服に袖を通した。 「おっはよ、真一!」 「おはよう」 リビングに下りると、そこにはもう芹花がいた。 「早いね」 「あたしを誰だと思ってるのよ。生徒会副会長の芹花様よ? 品行方正成績優秀――」 「おまけに美人の看板娘、だっけ?」 「そそ。わかってんじゃなーい」 いつも通りのやり取りに、乾いた笑みが浮かぶ。 芹花の方は僕の格好を、改めてまじまじと見ていた。 「なんかさー……真一の制服姿を見ると、ますます 夏休みが終わったんだなって気がする」 「そう?」 確かにこの40日間で着慣れなくなった制服が、休日気分だった頭の中を切り替えてくれた。 夏休みが終わり、今日から新学期が始まる。いつまでも休み気分を引きずるわけにはいかない。 いつまでも、あんな気分を引きずっているわけには…… 「……ねぇ、真一。あの、さ」 黙り込んだ僕に、芹花が声をかけてきた時―― 「お、おはよう……!」 遠慮がちに誰かがリビングに入ってくる。 振り返るとそこには…… 僕の大好きな女の子が立っていた。 「あ、杏子、おはよ!」 「ごめんね、少し寝坊しちゃった……」 「へーきへーき、真一だって、さっき起きてきたばっか なんだから」 「むしろ、ヘンに目が冴えちゃって」 「久々の学園だもんね~」 「わたしは初めてだから、楽しみ……だけど、ちょっと 緊張する」 「平気だって。僕と芹花も一緒に行くから……って、 そうだ芹花。さっき何か言いかけてなかった?」 「ああ、それがさぁ、宗太がいきなり連絡してきて、 生徒会役員は早めに集合! って言い出して」 「え、じゃあ……先に行っちゃうの?」 「ごめん! その代わり、真一を好きにしていいから!」 「こら」 「ふたりで仲良く、らぶらぶ登校してくれば いいじゃない♪」 「…………」 杏子と一緒に、学園に通う。 一度は諦めそうになったことが、こうして実現するなんて…… 「……そういうことなら、遠慮なく。ね、杏子」 「う、うん……真ちゃんがいいなら、ふたりで、一緒に」 「んがぁ~! 墓穴掘った! このバカップルが、 見せつけてくれるわね~っ!!」 「はははっ」 ――渚さんの元から杏子を連れ出した日は、こんな風に笑える時が来るなんて、思いもしなかった。 大好きな女の子と、毎朝顔を合わせておはようの挨拶をする。ただそれだけのことでも、とても嬉しくて、幸せに感じる。 こうなるまでにはもちろん、大変だったんだけど…… 僕はこの夏休みで一番長いと感じた、あの日のことを思い出す。 杏子を連れてあてもなく町を歩いた――杏子と将来を誓い合った――そして、杏子の笑顔を取り戻した、あの日のことを。 「すいませんでしたっ!」 僕が突然杏子を連れ出したことに対して頭を下げると、渚さんは困ったような顔で小さくため息をついた。 雨宿りのあとで家に帰ってきた僕と杏子は、先に風呂を戴いて濡れた服を着替え、それからカフェに集まっていたみんなの前に顔を出した。 「……それは、もういいわ。杏子も真一くんも、 風邪をひいたりしてない?」 「はい」 「……うん」 心配そうに眉をひそめる渚さんに、僕たちふたりは頷きを返す。やっぱり、かなり心配をさせてしまったみたいだ。 駅で杏子を見送りに来てくれた全員が、貸し切り状態のウチの店のそこかしこから心配そうに視線を向けてくる。 「それで……どうしてこんなことになったのか、 説明はしてもらえるのかしら?」 「はい……」 真剣な表情で居住まいを正した杏子さんの様子に、僕は緊張から唾を飲み込む。 「真ちゃん……」 見ると、杏子も僕の方を心配そうに見上げていた。 ここは、僕がしっかりしないと。 「さっきは、本当にすいませんでした。 何も話さずにいきなり杏子を連れ出したりして」 「本当にびっくりしたわ。どうしてあんなことを?」 「実は、その……僕と杏子は――」 さすがに、相手の親の前で付き合っていることを報告するのは覚悟のいる瞬間だった。 だけど、ここでしっかり言わないでどうするんだと、自分を奮い立たせる。 「僕たちは、付き合っているんです!」 僕たちふたりの関係を、思い切って口にする。 「……そうなの。それで?」 渚さんは僕の言葉を聞いた後、一度杏子の方に視線を向けてから、僕の話の先を促した。 「あの時は、ただ杏子と離れたくなくて……離れないため にはどうすればいいのか、思いつかなくて、そのまま 彼女を連れ出してしまいました」 「…………」 「でもそれじゃ、ただの時間稼ぎにしかならない。 僕たちの問題は何も解決しないって、気づいたんです」 「それで、あなたはどうすることにしたの、真一くん?」 「僕は、杏子と一緒にいたい」 「彼女は僕にとってもう、大切な家族で、本当に好きで、 その……」 一瞬恥ずかしさから言葉に詰まって、けれど、伝えるべきことをちゃんと口にする。 「僕は、杏子と結婚したいと思っています」 そのひと言で、場の雰囲気が一変したような気がした。 なんだか、みんながやっと言ったか、といった様子で、特に芹花辺りは僕に向かって親指を立てたりしている。 「……はぁ」 そんな中、渚さんだけが深刻そうなため息をついていた。 ついで、カウンターの奥で全員分のコーヒーを用意していた父さんへと視線を向ける。 「安心して任せたはずなのに……」 「いや、なんというか……申し訳ない」 渚さんは気まずそうに目を逸らした父さんの方をしばらく見つめてから、今度は僕の方へと向き直った。 「真一くん、あなたが杏子と付き合っているということは わかりました」 「ずっと一緒にいたいという気持ちも、わからなくは ありません」 「じゃあ……」 「でもね、真一くん。 それはできないわ……ごめんなさい」 「そんな……」 「……っ」 取りつく島もないそのひと言に、僕と杏子は絶句する。 そこに、すぐ隣で話を聞いていた芹花が声をあげた。 「そんな、どうしてダメなんですかっ!? 好きな人と一緒にいたいのは当然でしょう? 一体、何がダメなんですか!?」 「そういえばあなたは、杏子が連れて行かれた時に、 真一くんの背中を押した子ね?」 「だって……大切な人が遠くに行くのを指を咥えて 見ているだけなんて、悲しいじゃないですか」 「そう……悲しい、ね」 渚さんはそこで一瞬、痛みをこらえるような表情を浮かべた。 「確かにそうかもしれないわね……だけど、いきなり 結婚だなんて、すぐには認められないわ」 「好き合ってるふたりがそう決めたんですよ? それを許せないってどういうことなんですかっ!?」 「結婚っていうことは、学生結婚をするの? それとも働くの? だとしたら就職先は?」 「それは……」 「きっと、すぐに生活していけなくなるわ」 渚さんの言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さる。 「言いにくいけれど……それが現実なの」 「……くっ」 そこまで言われたところで、芹花は反撃の糸口を掴み損ねた様子で口をつぐむ。 渚さんの正面で話を聞いていた僕も、自分の考えの浅さと、彼女の実感のこもった言葉に、何も言い返すことができなかった。 先のことをしっかり考えもせずに、ただ感情だけで結論を出して……それで、望んでいた未来が訪れなかったとしたら? 「私は、あなたと杏子が付き合っていることを 責めているんじゃないの」 「……ただ、もう少し真面目に考えて欲しいのよ」 僕の選択が、杏子を不幸にしてしまうとしたら? そんなつもりはもちろんない。でも、その可能性を否定できるほど、今の僕はまだ強くなくて…… 「お互いにとって大事なことを一時の感情で決めるべき じゃないでしょう? 少なくとも、私はそう思うの」 でも、僕は…… 「……お母さん」 僕の側で、ささやくように小さな声が聞こえた。 杏子の方を見ると、彼女はとても辛そうな目で、渚さんを――自分の母親を見つめていた。 「杏子……」 彼女のそんな顔を見て、僕は自分で自分をぶん殴ってやりたくなった。 決めたばかりじゃないか、杏子の笑顔を守るって。そのためならなんでもしようって。 僕がしっかりしなくちゃって! 悲しそうに母親を見る杏子の表情に決意を新たにした僕は、再び渚さんへと向き直った。 「……確かに、渚さんの言う通りかもしれません」 「っ!」 「真一、アンタ……っ」 僕の言葉に、杏子が小さく肩を震わせ、芹花が責めるような目で僕を見る。 「でも、それでも言わせて下さい。 僕と彼女が家族になることを認めてもらえませんか?」 芹花と杏子が、目をぱちくりさせている。 一方で渚さんは僕の態度を見て、言葉を聞いて、疲れ切った表情でため息をついた。 そして、子供にモノの道理を言って聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。 「真一くん。私の話、ちゃんと聞いてくれた?」 「はい。確かに、今すぐふたりだけで生活をしていくのは 無理かもしれません」 「周りの人たちにも、きっと迷惑をかけると思います」 「それでも……これだけは、譲りたくないんです」 渚さんは、気持ちを曲げようとしない僕を前にして、不思議なものを見るような顔で首を傾げる。 「そこまでわかっていて、どうして?」 そんな彼女の様子を見て、僕は伝えないといけないと思った。 僕が杏子をこの町に引き留めようとする理由を。それはきっと子供じみたことで、渚さんにはくだらないことに聞こえるかもしれない。 けれど、僕たちにとっては何よりも大事な、想い出。 「昔、杏子がまだこの町で暮らしていた頃、僕たちは仲の 良い幼なじみで、いつも一緒に遊んでいました」 「…………」 突然の昔話に、渚さんは〈訝〉《いぶか》しげな顔をしたけれど、話の腰を折るようなことはしなかった。 僕は彼女の目を見つめながら、続きを口にする。 「でも、そんな日々がずっと続くわけがなくて、杏子の 引っ越しが急に決まって、僕はわけもわからないまま、 彼女と離れ離れになってしまいました」 別れ際に、僕が彼女に告げた言葉が脳裏をよぎる。未だに胸に刺さった小さな棘が、疼くように痛んだ。 「…………」 そんな僕の手を、杏子が静かに、そっと掴まえてくれた。それだけで、ウソみたいに心が軽くなる。 「……もう一度杏子がこの町に来た時、僕はまともに話を することができませんでした」 記憶の中とはまるで違う、人見知りな杏子の態度に戸惑った日々が、頭の中を過ぎ去っていく。 「それでも、みんなの協力もあって、少しずつ杏子と 話せるようになって……嬉しかった」 芹花や香澄さん。宗太に雪下さん。 それに、父さんが。兄さんが。色んな人が杏子と打ち解けて、彼女の居場所を形作っていった。 「杏子にも友達ができて、お店の手伝いもできるように なっていって、だんだんと表情が明るくなって」 掴んだ杏子の手の平が、少しだけ強く僕の手を握ってくる。その手を握り返しながら、言葉を続ける。 「そうして杏子が僕に笑顔を見せてくれるようになって、 僕は杏子のことが好きになって、杏子もそれに応えて くれて……」 自分の頬が赤くなっていくのを感じながら、それでも精一杯真剣に、誠実に、今の気持ちを言葉に変えていく。 「だから――」 杏子とのこの町での想い出を残らず思い浮かべて。これからもそれが続くはずだと信じて。ありったけの、万感の想いを込めて。 「守ってあげたいんです。杏子が自分の手で、力で築き あげた、この町での居場所を。 杏子が笑顔でいられる場所を……っ」 そこまで告げたところで、僕は自分が言ったことの恥ずかしさに、思わず目をつぶってしまう。 僕の言葉は届いたのか。気持ちは伝わったのか。 僕が話し終わった途端に降りた沈黙に、押し潰されそうになる。 「……真ちゃん、ありがとう」 杏子の手の温もりと小さな感謝の言葉が、そんな僕を支えてくれた。 「……はぁ」 そんな僕たちを見て、渚さんが小さくため息をこぼす。 その表情は困っているようにしか見えなくて、けれど何か言おうにも言葉が見つからない様子だった。 「まあ、なんですか……渚さん」 そんな微妙な沈黙を破って、兄さんが声をあげる。その表情はなんとなく楽しそうで、声もどこか弾んでいた。 「……何かしら?」 「さっき話題になった生活のことですけど、 きっと問題はないと思いますよ?」 「何を根拠にそう言えるのかしら?」 「だって、ウチの店を継ぐのはこいつですよ」 兄さんはそう言うと、まっすぐ僕の方を指差した。 ……って、え? 店を、継ぐ?誰が? 僕がっ!? 「ちょっと待ってよ兄さん! それって一体?」 僕が慌てて聞き返すけれど、兄さんは軽く肩をすくめるだけで、それ以上は何も言わない。 助けを求めるように父さんの方に視線を移すと、呆れたように兄さんの顔を見てはいたけれど、どこか納得した様子で頷いてみせた。 「…………」 そんな父さんを渚さんが恨めしそうに睨むけれど、父さんはやっぱり素知らぬ顔で視線を逸らした。 「でも、私は……」 「渚さん、私からもよろしいですか?」 渚さんが何かを言おうとしたところに割り込むような形で、香澄さんが手を上げて発言の可否を求める。 「杏子ちゃんのお母さんや、真一くんの意見はわかりまし たけど……彼女の意見も聞いてあげるべきでは?」 香澄さんはそう言うと、僕のすぐ隣で座っていた杏子の肩に優しく手を置いた。 「わたし?」 「そうよ、杏子ちゃん。これは杏子ちゃんにとって、 とっても大切な選択なんだから、自分の気持ちを しっかりと伝えないとね」 「わたしの、気持ち……」 杏子が促されるようにして、渚さんと目を合わせる。 「……そうね。私も、杏子の気持ちが聞きたいかな」 「わたしは……」 「わたしは、真ちゃんが大好き」 不意打ち気味の告白に、思わず頬が熱くなった。 けれど、杏子の表情はどこまでも真剣で、僕も慌てて居住まいを正す。 「もちろん、お母さんも好き」 「……ありがとう」 杏子に面と向かってそう言われて、渚さんは少しだけ目が潤んだみたいだった。 「それにね、美百合ちゃんも、芹花ちゃんも、香澄さんも、 おじさんも、雅人さんも、春菜さんも、久我山くんも、 みんな好き」 そこまで言ったところで、杏子は何かに気づいたようにはっと顔を上げると、僕に向かって小声で。 「……もちろん一番は真ちゃんだよ?」 と、付け加えてくれた。死ぬほど恥ずかしかったけど、その気持ちは素直に嬉しい。 「だからね、ホントはみんな一緒にいられたら、 一番だって思うの」 「でも、それはできないんだよね? だから……」 杏子はそこまで言うと、ひとつ大きく息を吸い込んで、今まで見た中で一番真剣なまなざしで、渚さんを見つめ返した。 「お母さん」 「……なぁに、杏子?」 「ワガママを言っても、いいですか?」 「…………いいわよ?」 「わたしを、ここにいさせて下さい」 「お母さんと同じくらい、大好きな人たちがいるこの町に」 「でも……」 渚さんは何かを言い募ろうと口を開くけれど、結局何も言葉にならずに、切なげに口をつぐむ。 「それじゃあ、こういうのはどうだろう?」 そんな渚さんに妥協を促すように、父さんが全員をゆっくりと見まわしながら声をかける。 「確かに、ふたりが結婚するのはまだ早い。 私もそう思う」 「父さん、僕は……っ!」 「聞きなさい、真一。……確かに早い、けどまぁこのまま 一緒に暮らすくらいは、いいんじゃないかな」 「おじさんっ!」 父さんの申し出に、まず杏子が歓声をあげた。みんなからも同意の声があがる。 「どうかな、渚さん」 「………………」 「……真一くん」 「は、はいっ!」 渚さんに名前を呼ばれて、僕は慌てて姿勢を正す。 「覚悟はある? 私の杏子を必ず幸せにする覚悟。 絶対この子を不幸にしないって約束できる?」 「もちろんですっ!!」 「…………」 「……しょうがないわね」 「じゃあ……?」 「杏子を――よろしくお願いします」 「……はいっ!!」 僕が全力で頷くのを見て、渚さんは小さく頷く。そして今度は、杏子の方へと向き直った。 「……お母さん」 「杏子は、本当にそれでいいの?」 渚さんの表情はやっぱり心配そうで、それと同じくらい寂しそうな、子供を見守る母親の表情だった。 「うんっ」 「……そう」 杏子が力強く頷いたのを見て、渚さんはもう一度、納得するように頷いた。 そして優しく、杏子の小さな身体を抱き締める。 「今まで苦労ばっかりさせて、ごめんね」 「そんなこと、思ってないよ。家族だもん」 「……お母さんいなくて、寂しくない?」 「寂しいけど、大丈夫だよ。今は、みんながいるから」 「……お母さんは、ちょっと寂しいかな」 「ごめんなさい……」 「いいのよ、杏子。子供はいつか親から 離れるものだもの……」 「……幸せに、なってね」 「……うん」 こうして僕と杏子は、またしばらくの間一緒に暮らせることになった。 大切な、家族として。 「……ねぇ、真ちゃん」 カフェを出て、学園へと向かう道の途中。 とっくに先に出た芹花の後を追うでもなく、ふたりでゆっくり歩いているところだった。 「うん? どうかしたの、杏子?」 「うん、あのね、ええと……」 杏子はそこまで言うと、なんだか言いにくそうに言葉を濁す。 ずいぶんと緊張している様子で、視線もあちこちをあてもなくさまよっている。 「ど、どう、かな? わたし、ヘン……じゃない?」 「え……あ、ああ」 家を出る前からずっと、やけに落ち着きがないと思ったら……ずっと気にしていたのかな? 「うん、似合ってるよ。制服」 襟や肩の辺りにまだ糊が利いていて、着慣れていない感じだけど、とても杏子に似合っていた。 「……よかった」 僕が褒めると、杏子はホッと胸を撫で下ろした。けれどすぐ、少しだけ不安そうに視線を落とす。 「わたし、大丈夫かなぁ……」 漠然とした不安が入り乱れる、ため息混じりの声。 今までとは違う環境。まったく別の人間関係。杏子にとってそれはまだ、不安を募らせるに十分なものなんだろう。 でも、僕は杏子のそんな顔を見ていたくなかったから、できるだけ明るい声をかけた。 「大丈夫だよ。学園には宗太や芹花、雪下さんだって いるし――僕も、ずっと一緒だから」 「ホントに?」 何度繰り返したかわからない励ましの言葉。 僕を見上げる杏子の目が、それでは足りないと言っている気がして、僕はさらに言葉を重ねる。 「本当だよ。ずっと一緒にいる」 「でも、クラスが違うかもしれないし……」 「休み時間ごとに会いに行くよ。お昼も一緒に食べよう。 放課後には、宗太たちと一緒に寄り道もしようよ」 「でも、美百合ちゃんたちだって、何か用事があるかも しれないよ?」 「そしたらふたりっきりでデートに行こう。 僕はそっちの方が嬉しいかな」 「制服のまま?」 「そう、制服のまま。お散歩でも、カフェでも」 「カフェじゃ、お出かけにならないよ~、くすっ」 笑顔を取り戻した杏子が、全身を投げだすようにして僕の胸に飛び込んできた。 「おっと……」 慌てて抱き止めると、杏子は安心しきった顔で僕の胸に頬を擦りつける。 「ねぇ、ぎゅってして?」 「制服、シワになっちゃうよ?」 「新品だもん。ちょっとくらいなら、大丈夫」 僕は言われるがまま、杏子の華奢な身体を抱き締める。 「……ねぇ、真ちゃん」 「ん?」 「わたし、真ちゃんと一緒に学園に通えて、本当に 嬉しいよ」 「……大げさだな」 だけど僕も、まったく同じ気持ちだった。 杏子とは、登校してすぐ事務室のところで別れた。 彼女には手続きやら、新しいクラス担任との顔合わせやらがあるらしい。 「この机に座るのも、久しぶりだなぁ」 二学期の始業式を終えて教室に戻ってきたところで、僕はなんとなく自分の机に手を置いて、教室をぐるりと見回す。 夏休み明けの教室は、まだ休み気分の抜けきらないクラスメイトたちが想い出や土産話に花を咲かせていて、記憶の中よりも騒がしい空気に包まれていた。 でもその光景は、どことなく見たことがある懐かしいもので、僕は知らず知らず安堵の息をもらした。 「みんな、あんまり変わらないな」 「そんなことはないぞ、親友」 そんな僕の安らぎを打ち壊すかのように、我らが生徒会長様が、威厳もへったくれもないだらけっぷりで、僕の目の前の席に突っ伏していた。 「朝からやけに疲れているみたいだけど、どうしたの?」 「朝から長々と演説をする羽目になって、正直もう、 精根尽き果ててるよ」 そういえば、始業式の途中に生徒会長のありがたいお言葉を拝聴したような気がする。 僕は別のことを考えていたから、何を話していたのかは知らないけど…… 「いやぁ、大変有意義な議題だったね。 特に青少年の部活動における学生生活の充実具合を 考察したレポートには目を見張るものがあったよ」 「お前、全然話聞いてなかっただろ……」 宗太は僕の適当な応対に切なげに肩をすくめた後、急ににやにやとイタズラっぽい笑みを浮かべる。 「それはそうと、今日だろ? 杏子ちゃんが転校してくるのは」 「うん」 「楽しみだよなぁ。なんて言ったって、今日からは毎日 学園でも会えるんだもんなぁ?」 「夏休み中だって、ずっと顔を合わせてたよ」 「それはそうだろうさ。 なんせ一緒に暮らしてるんだから」 僕の反応が淡白なのが気に入らないのか、宗太はため息混じりにそう言うと、机に再び突っ伏した。 「あら、久我山くんどうかしたんですか?」 そこに、雪下さんが顔を出す。 「さっきの始業式での演説が堪えたんだって」 僕がそう言うと、雪下さんは口元に手を当てて、傍目からもよくわかる形で驚いてみせた。 「まあ、生徒会の目安箱廃止に関するお話はとても 面白かったですよ?」 「ホント、話を聞かない奴らだな……」 「冗談ですよ、久我山くん」 拗ねたように机にすがりつく宗太の肩を、雪下さんがあやすようにたたく。 「それはそうと、杏子ちゃんは今日からでしたよね? 一緒に登校なさったんですか?」 「ああ、うん。ただ、色々手続きがあるらしいよ」 今日の雪下さんの声は、どこか弾むように楽しげに思える。それに答える僕の声も同じだ。 「杏子ちゃん、緊張してないでしょうか?」 「きっと、ガチガチだと思うな」 今朝の杏子の様子を思い出しながら、そう告げる。 今頃はきっと、どこかの教室に向かって担任教師の後を追っているところだろう。 「一緒のクラスになれるといいんですけど……」 そう言って首を傾げる雪下さんは、期待と不安が半々の表情をしている。 「まあ、違うクラスになったとしても、そっちに顔を出す だけの話だけどな」 「ちょっと宗太! 後片付け押しつけて先戻るな! つか 何よあの、新学期早々ふざけた演説は――」 と、我らが副会長の後ろから、担任も顔を出した。 「ほら水島、席に着け~、ホームルーム始めるぞ~」 その声に急かされて、今まで喧騒を形作っていたクラスメイトたちが、会話を止めて席に着き始める。 「よ~し、みんな席に着いたな?」 「今日はみんなに、ウチの学園に転校してきた新しい クラスメイトを紹介する~」 担任の言葉に、教室中がざわざわと騒がしくなる。 そんな生徒たちを宥めすかしながら、教師は廊下の方へと声をかけた。 「それじゃあ、入ってきて~」 「……はい」 小さな返事と共に、教室のドアが開いてひとりの女の子が教卓の横まで歩いてくる。 そこかしこから聞こえるクラスメイトたちのささやきに、女の子――杏子は俯きながら、真っ赤な顔で自己紹介を始めた。 「あ、新しく転校してきましたっ、荻原杏子ですっ。 ……ど、どうぞよろしくお願いしますっ」 思いっきり頭を下げる杏子の姿に、クラス中から好意的な反応が返ってくる。 その後、杏子は担任の指示に従って、空いてる席へと腰を下ろした。 と、そこで、偶然僕と目が合う。 「……あっ」 杏子は僕の視線に気がつくと、少し恥ずかしそうな表情で、はにかんだ。 「ひゅ~♪」 宗太に冷やかしのような口笛を吹かれるまでもなく、僕はもうすでに真っ赤になっていた。 「それじゃあ、気をつけて帰るように~」 少し長めのホームルームが終わって、担任が教室をあとにすると、芹花を始めとし、興味津々なクラスメイトがワッと杏子の周りに集まっていった。 「え、えっと……」 次々にまくし立てられる質問に、杏子は静かに答えていく。 その輪の中には芹花と雪下さんがいて、杏子とクラスメイトの仲介役を務めていた。 僕はというと、杏子のことが心配ながらも、自分の席からおどおど見守るばかりだった。 「そんなに気になるんなら、お前もあの輪の中に入って いけばいいんじゃないか?」 「それはそうなんだけど……」 でも、僕があの輪の中に入っていくのは、ちょっと違うような気がした。 杏子が頑張って自分でみんなと話をしている時に、僕が割って入ったら、せっかくの彼女の頑張りが無駄になってしまうのでは……と。 そう説明すると、『心配性だねぇ』という呆れた声が返ってきた。 「芹花や雪下さんが間に入ってる時点で、そんなのもう 関係ないと思うけどな」 「それはまあ、ふたりは友達だし」 「そういうもんかね~?」 とにかく、僕はもう少し杏子がみんなと打ち解けようと努力している姿を見守る。 「あ、そうだ杏子。今日のお昼はどうするか決まってる?」 「えっ? それは、お家に帰って……」 突然の質問にしどろもどろになりながら答える杏子に、芹花がちっちっと指を振る。 「残念ながら、今日はあたしたち以外はみんな 外出するって話なのよ」 「えっ!? そうなの?」 芹花からの情報に、僕も思わず声をあげかけてしまう。 「そーなのですよ~。ってわけで、昼食は各自の裁量に 任されるってわけなの」 「……う~っ」 杏子は困ったような表情で、芹花と僕の方をちらちらと交互に見やる。 あれはきっと、お昼を一緒に食べたいって意思表示のような気がするんだけど……今行くと、目立つよなぁ。 「なに尻込みしてるんだ、王子さま! お姫様が待ってるぞ!?」 「おい、宗太……っ」 思いの外大きな声でそんなことを言い出した宗太の口を、慌てて押さえにかかる。 けれど時すでに遅く、宗太の声は杏子の周りでたむろしていたクラスメイトたちの耳に届いてしまったみたいだ。 彼らの視線が、僕と杏子の間を行ったり来たりしている。 「おいおい、何も隠すことはないだろ!?」 そんな周囲の様子をまるっとお見通しな宗太が、わざわざ声を張り上げて、決定的なひと言を口にする。 「だって彼女は、真一の未来の嫁さんなんだ からさぁ!」 「ひゃぁっ!?」「そ、宗太っ!?」 僕と杏子が同時に悲鳴に似た声をあげる。 慌てて杏子の方を見ると、彼女は真っ赤な表情を俯かせて、恥ずかしそうに机に視線を落としていた。 「宗太っ! 一体どういうつもりで……」 「イヤだなぁ、真一クン。 僕ぁただ、事実を言っただけじゃないか」 宗太はおどけた様子でそう言うと、僕の制止をするりと抜けて、教室から飛び出して行ってしまった。 「まったく……」 僕は途端にまた賑やかになった周囲の喧騒から逃れるように、視線をさまよわせたけれど……結局杏子の方に目が行ってしまう。 杏子はしばらく赤面して固まっていたけれど、僕と目が合うと、少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑ったのだった。 「あはは……ばれちゃった、ね?」 「……びっくりしちゃった」 帰り道の途中、杏子は教室での出来事を思い出して、小さくほほ笑んだ。 あの後、大混乱となった杏子を連れ出した僕は、ふたりで連れ立って帰宅している。 「本当、災難だったよ」 クラスメイトたちがはやし立てる様子を思い出すだけで、顔が熱くなるのを感じる。 ……明日から、学園に行くのがちょっとイヤになりそうだ。 「ふふふっ」 げんなりとした僕を見て、杏子が小さく笑みを浮かべていた。 「うん? どうかした?」 「ううん、なんでもないよっ」 杏子は歩きながら、僕の方に近づいてくる。 その顔はほんのり赤く染まっていて、手が所在なさげに揺れていた。 「あっ」 「…………」 それに気づいた僕が思わず声をあげると、杏子が少し緊張した表情で俯く。 ……これって、手を繋いだ方がいいんだよな? 手持ち無沙汰そうな杏子の手の平に、ゆっくりと手を重ねると……杏子は一瞬、びくりと肩を震わせたけれど、彼女は僕の手に指を絡めてきてくれた。 「えへへ」 自分の頬が赤くなるのを自覚しながら横目で杏子の表情を窺うと、彼女は僕の方に向き直って、嬉しそうに微笑んでいた。 「杏子は、楽しそうだね」 「うん、わたし今、とっても幸せだよ」 満面の笑みを浮かべる彼女が眩しくて、つられるように僕も笑顔になってしまう。 「そっか、でも大変じゃなかった?」 「どうして?」 「だってほら、クラスのみんなに質問攻めにあってた みたいだし」 「そんなことないよ? 芹花ちゃんと美百合ちゃんが 助けてくれたし」 「あ、でも……」 杏子はそこまで言ったところで、一瞬で真っ赤になった表情を隠すように俯く。 「真ちゃんとのことを聞かれた時は、ちょっと恥ずかし かったけど」 「……そんなこと聞かれてたの?」 僕は思わず頭を抱えてしまった……まぁ、宗太があんなことを言い出した時から、そういうことを聞かれるのは覚悟してはいたけど…… 「でもね、それはちょっと嬉しかったかな」 「そうなの?」 「だってわたし、ちゃんと真ちゃんの彼女に見えてるん だって、そう思えるから」 「そんなこと、当たり前じゃないか」 言いながら、繋いだ杏子の手をぎゅっと握る。すると杏子も、僕の手を握り返してくれた。 「うん、そうだね」 「わたし……真ちゃんの、カノジョなんだよね」 「あれ?」 「あ……」 その後、学園でのことを色々話をしながら家に帰ってきた僕たちは、店のドアの前に張り出された紙を見て、ほぼ同時に声をあげた。 「何か、あったのかな?」 「さあ、わからないけど……とにかく、入ろう」 「……うん」 張り出された紙には、本日臨時休業の文字。 僕と杏子は急なことにわけもわからず、とにかく鍵を使って中へと入ることにした。 「ただいま~」 「ただいま、です」 ふたりしてドアをくぐって、帰宅を知らせる声をかける。 けれど返事が返ってくることはなくて、店内はしんと静まり返っている。 「出かけてるのかな?」 そんな話は聞いてないんだけど…… 「ただいまぁ~」 「ただいま~っ」 リビングにも一応顔を出したけれど、やっぱり家族の姿はなくて、軽く途方に暮れる。 「あっ! 真ちゃん、これ」 杏子の声に振り返ると、杏子は壁に貼られている紙を指差しているみたいだった。 「ええと、何なに?」 その紙には春菜さんの字で、父さんと一緒に外出する旨が書かれていた。 その下の方には兄さんと香澄さんの字で、それぞれ帰りが遅くなることも書かれている。 「そういえば、教室で芹花がみんなは今日外出するみたい なことを言ってたっけ」 「その芹花ちゃんも、今日は寄り道するから少し遅く なるって言ってたよ」 「ってことは……」 今日はしばらくの間、ふたりっきりってことだよな? そのことを意識した途端、なんだか緊張してきた。 「お昼、ふたりで考えないとだね。 真ちゃんは何がいい?」 杏子はそんなことを言いながらキッチンに入ると、冷蔵庫の中を確認し始めた。 杏子のその姿は実に頼もしいんだけれど……僕としては、その前にもっとふたりっきりとかその辺りのことを気にして欲しかったなぁ、なんて。 「うん? どうかしたの、真ちゃん」 「……いや、なんでもないよ。 僕に何かできることって、ある?」 「うん、それじゃあ……」 その後、ふたりで作った昼食を仲良く食べて、今はすっかり食後の時間を満喫していた。 「あ~、にしても今日は疲れたなぁ……」 「真ちゃん、お疲れ?」 「うん。久しぶりの学園だったし、それに宗太のせいで 大変だったからね」 「そうだね……」 僕の言葉に、杏子は学園での大騒ぎを思い出したのか、困ったように微笑んだ。 「っと、部屋に戻ろっかな」 一瞬、リビングでそのまま寝っ転がることも考えたけれど、それだと制服にシワがつきそうだし。 昼寝でもしてしまおうかと考えながら立ち上がる僕を見て、杏子が急に俯いて、もじもじとし始めた。 「杏子、どうかした?」 「うん、あのね……」 見ると杏子は耳まで真っ赤になっていて、それにつられて僕の鼓動も少しだけ速くなる。 「わ、わたしも真ちゃんの部屋、行っていい……?」 「えっ……それは、うん、構わないけど」 さっきまでは普通に接していた杏子のことを、急にまた意識してしまって…… バクバクと速くなる心臓の音に押されるようにして、僕は杏子を連れて自分の部屋に向かった。 「うわぁ、なんだか新鮮」 「そう?」 「うん。真ちゃんを起こしに来た時ぐらいしか、 入ったことないし」 夏休み中に何度か、寝過ごした時かな。あとは……初めて一緒に過ごした夜ぐらい、か。 またヘンに彼女を意識してしまう僕のことに気づいた様子はなく、杏子は興味深げに、僕の部屋をぐるりと見回した。 そして、僕のベッドの上に腰を下ろすと、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩く。 「真ちゃん、ほら」 「え?」 「座って座ってっ」 言われるがままにベッドの上に座ると、杏子が僕の方に身体を預けてくる。 そのまま僕の肩に頬ずりをする杏子の姿は、まるで人懐っこい犬や猫みたいだ。 「えへへっ」 制服越しに感じる杏子の体温が、僕の心に染み込んでいって、疲れを忘れさせていくみたいだ。 「……真ちゃんは、これからのこと考えてる?」 「……これからって、将来のこと?」 「うん。机の上に、経営書とか置いてあったから、 もしかしてと思って」 「あっ……」 見つかっちゃったか、と思う。 店を継ぐ前提で杏子のことを引き受けた以上、自分なりに何か勉強しなくちゃと思って買った本だった。 「まず、喫茶店のことを勉強しようと思って」 それは、杏子のお母さん――渚さんと話したあの日から、ずっと考え続けてきたことだ。 杏子と本当の家族になるために。そして杏子を幸せにして、これからも守り続けていくために必要な色々なことを。 「といっても、今までは本当にただの手伝いだったから 学ぶことが多くて、結構大変なんだけどね」 「そうなんだ……わたしに、できることってある?」 「もちろんだよ」 「例えば?」 「例えば、杏子が笑っててくれれば、頑張れたりするし」 「それだけでいいの?」 杏子の上目遣いの目が、僕の顔色を窺うように覗きこんでくる。そんな彼女に、僕は大きく頷いてみせた。 「それだけでも、すごく嬉しいよ。僕は」 「ほかには?」 「あとは、たまにでいいから、杏子のウェイトレス姿を また見たいな。一緒に散歩にも行って欲しいし、僕が 寝坊したら起こしに来てほしい」 「ふふっ、真ちゃんったら、へんなお願いばっかり」 「そんなにヘンかな?」 結構切実なお願いなんだけど…… 「ああ、それともうひとつ」 「なぁに?」 「これからも、ずっと一緒にいて欲しい、かな」 「……あ」 「ダメかな?」 「全然ダメなんかじゃないよっ!」 杏子が慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げてくる。 「ええと、その……わたしからも、よっ、よろしく お願いします……」 「うん、よろしくね」 僕も立ち上がって、深く頭を下げた。 そして頭を上げて、顔を見合わせて、二人してひとしきり笑ってから…… 「んん……ちゅっ、ちゅっ……」 口づけを交わした。 *recollect「はぁ……んんっ……ちゅっ……んはぁ……」 何度か口づけを交わし、お互いに身体をまさぐっている内に、僕が彼女を背後から抱き締めていた。 トクン、トクン……という心臓の音が聞こえる。それは自分の心臓の音なのか、それとも杏子の胸の音なのか、わからない。 何度か身体を重ねているとはいえ、こういう雰囲気にはまだ慣れない…… こんなに身体が強ばっていることを考えれば、杏子だって同じように、緊張で鼓動が速くなっているだろう。 「真ちゃん……」 杏子の口から、切なげな声が漏れる。 何よりも大切な僕の恋人は、すっぽりと腕の中に収まってしまう、華奢で小さな身体の持ち主だ。 「触るよ……」 杏子を恐がらせないように、僕はそっと彼女の胸に手を触れた。 制服越しに、柔らかな胸の感触が伝わってくる。 「あん……し……真ちゃん……そこは……」 「胸、もう感じてるみいだね」 「また、そんなえっちな言葉で、意地悪言う……」 頬を染めながら、杏子は首を傾ける。 「でも、嫌じゃないよ……」 「真ちゃんだから……いいんだよ?」 「わたしに、えっちなことしていいのは、真ちゃんだけ、 だから……」 恥ずかしがり屋なのに……消えてしまいそうに小さな声でそう言ってくれる杏子が、どうしようもなく愛おしい。 「杏子……」 壊れそうなほど細い肩を抱いて、首筋に口づける。 「んんっ……ああっ……あんっ………真ちゃん……」 きめ細かで傷ひとつない、きれいで柔らかい肌……こういうのを、絹のような肌と言うのかもしれない。 「はぅ……あん……ああぁ……んあっ……真ちゃんの、 舌が……」 「あふっ……首筋、ぞくぞく……する……よ……」 僕は唇で杏子の肌をなぞり、そのなめらかな感触を味わう。 僕の舌の動きに合わせて、ぶるぶるっと身体を震わせる杏子の肌が、徐々に赤味を増していく。 「ふぁ……あっ、くすぐったい……」 杏子の柔らかくて、ふわふわした髪が僕の頬に触れ、ほのかな香りが鼻孔をくすぐった。 僕はすんすんと鼻を鳴らして、その香りを吸い込む。 「いや、は、恥ずかしいよ……」 「外で汗、かいたし……ヘンな匂い、しない……?」 外の空気はまだ、夏の暑さで満たされている。 その、溶けてしまいそうな熱気の中を歩いて帰ってきたばかりで、シャワーも浴びていない。 だから杏子は、自分の汗が気になるんだろう。 「全然ヘンな匂いなんてしないよ。 杏子、すごくいい香りがする」 同じ人間なのに、どうしてこうも違うんだろう。 石けんの匂いや、香水の匂いなどとも違う、杏子そのものの香り…… 「はうぅ……でもやっぱり、そんなにかがないで……」 杏子は頬を染めて、俯いてしまった。 僕は杏子の首筋を唇で吸いながら、しっかりとその小柄な身体を抱き締め直す。 「ふふっ……真ちゃんに抱き締められると……すごく 温かくて……気持ちいい……」 「もっと……ぎゅっと、してほしい……」 そう控えめな声でねだってくる。僕はそれに応えるように、より強く杏子を抱き締めた。 「僕も杏子を抱き締めると、温かい気持ちになるよ」 大切な人、愛しい人と一緒にいられるということは、こんなにも温かいことなんだ…… 杏子のことを好きにならなければ、きっとこんな感情はわからなかった。 「えへへ……真ちゃんも、おんなじなんだ……」 僕の存在を確かめるように、杏子の手がそっと僕の身体に触れてくる。 「うん、おんなじだ」 好きな女の子と触れ合うこと。そのドキドキする気持ちと温かさを共有できることが、何よりも嬉しい。 「もっと、杏子に触れたい……いいかな?」 「ん……」 杏子は『はい』とも『いいえ』とも言わなかったけど、嫌がっているようには見えなかった。 だから僕はそっと制服のボタンに指を触れて、シャツをはだけさせた。 そしてその下にある下着をずらすと、白くて小振りな胸が露わになる。 そっと触れると、柔らかな弾力が手を押し返してきた。 「んん……はぁん、あん……」 両方の手で杏子の胸に触り、その双丘をゆっくり揉みしだいていく。 「はぁ、んんっ、はぁ……真ちゃんの手、おっきいね……」 「んんっ……あぁっ……あんっ……真ちゃんに、いっぱい さわられると、へん、な気分に……んんっ……」 少しずつ杏子の吐息が荒くなっていく。 同時に手から伝わってくる鼓動が、だんだん大きくなっていくのがわかる。 「……ん、恥ずかしい……わたしの胸、小さいから……」 俯いてしまう杏子を、僕は優しく抱き締める。杏子は自分に自信がなさ過ぎるんだ…… 「香澄さんみたいに……大きくないから…… 真ちゃん、うれしくないよね……」 「そんなことない。僕は杏子の全部が好きなんだ」 確かに香澄さんは魅力的な人だけど、僕にとって杏子は誰よりも可愛くて愛しい、一番の女の子。 小柄で華奢な身体も。幼くて可愛らしい笑顔も。優しくて思いやりがあるところも。 全部、全部、僕の大切な荻原杏子だ。 「だから僕は、杏子の胸が大好きなんだ」 「あぅ……」 杏子の顔が沸騰しそうに真っ赤になる。 「あ、ありがとう……」 そう言って照れたように笑う。この笑顔が僕を幸せな気分にしてくれる。 「こ、こういう時に、ありがとうって、ヘンかな……?」 「ううん、ヘンじゃない」 それは、杏子が僕を受け入れてくれている証だから。 「もっと杏子に触りたい」 杏子のすべてを、僕はもっともっと味わいたかった。 「うん、いいよ……」 「もっと、触って……わたしの胸……」 「わたしも……真ちゃんに触ってほしいから……」 杏子が僕を求めてくれること。それが嬉しい。 手の平にすっぽりと収まる小さな胸を、子供が遊ぶようにこねくりまわす。 「ああ、んんっ……あんっ……ふぅぅ……あふぅ……」 僕の手の中で、杏子の胸はぐにぐにと形を変える。 「はぁ、ふぁ、ああ……んんっっ!」 すでに硬さを増していた、小さな花のつぼみみたいな赤い先端を、指先でそっと摘む。 「んっ、ああっん! ひっ……んくっ……あぁん!」 ビクッと怯えたように杏子の身体が震えた。 「ごめん、痛かった?」 強く触れすぎてしまったかと心配になる。 けれど、杏子はふるふると首を横に振った。 「ううん……ちょっとびっくりしただけ」 「大丈夫だから…… 真ちゃんに、もっと触れて欲しい……わたしの身体……」 「じゃあ、もっと触るよ……」 両手でこねくり回すように胸の弾力を楽しみながら、小さな先端を指先で転がす。 「ふぁっ、ああ、ふぁぁっ……ああんっ……んんっ!」 始めはこわごわとしていた声にも、次第に快感の色が混じり始める。 「ふぁ、はぁ、あんっ……はぁ……はぁ、ふあぁ…… んん……真ちゃん……胸、揉むの上手……ああんっ……」 ――再会した直後は、杏子とこんなことをするなんて、想像もしなかった。 なぜなら、杏子は僕にとって、あくまでただのか弱い友達に過ぎなかった。 兄が気弱な妹を見守るような気持ちで、杏子のことを見ていただけだった。 「ああ、ふぁああ、んん……んんっ……あんっ…… 胸の先……気持ちいい……よ……ふあぁぁ……」 「はぁあ、あああ、んっ、んあぁ……背中が、なんか、 ぞくぞくって、しちゃうよぉ……んっ、んんっ!」 でも、今は違う。 ひとりの女の子として、僕は杏子という女の子を愛している。 今だって、僕の全身が彼女を欲している。杏子という存在を、何よりも大事に想う。 「はぁっ、はぁっ、んん、ふああっ……あっ……かたく なってるっ……うぅっ……」 硬くなっている胸の先端は、指先を押し返してくる。杏子の白い胸が熱で赤くなっていく。 「う、嬉しい……真ちゃんが、わたしの身体、触って くれるの……」 「真ちゃんが触ってくれるところがね……温かいの…… それだけで、心がぽかぽかしてくるみたい……」 「杏子……こっちもさわるよ……」 「ひゃっ……」 僕は杏子のスカートに触れ、それをそっとめくりあげた。 「やん……恥ずかしいよ、真ちゃん……」 誰もほかにはいない、ふたりだけの空間でも杏子は未だに、下着を見られることをひどく恥じらう。 僕はそんな杏子の太ももに手を這わせて、ショーツの中心に触れていく。 「ひぁっ、ん!? そこはっ……んんんっ!」 杏子の身体がびくりと震えた。 頬を染める杏子の首筋に、僕はもう一度キスをする。 「はぁっ、あん……んんっ……」 首筋をなぞるように唇を這わせていくと、杏子はくすぐったそうな声を漏らす。 「ふあぁ……んんっ……はふぅ……あんっ……」 そして首筋から唇を離し、僕は真剣に言う。 「杏子の全部が見たい。全部に触れてみたいんだ」 「………うん」 杏子は恥じらいながらも、こくりと頷いた。 ショーツの中心に添えた指に、ぐっと力を込める。 「んぁっ、んんっ……あっ……くぅぅっ……ああんっ!」 ……杏子のショーツはもう、しっとりと湿っていた。 「濡れてるね……」 「い……言わないでよ……あっ……ああんっ……はぁん!」 子供のようにいやいやと首を横に振る。そんな杏子の姿に、僕は少しだけイタズラ心が出てきた。 ショーツの中心を指先で押すと、くちゅりと愛液が水音を立てる。 「ふあっん! あんっ、音が、恥ずかしい……よ……」 くちゅり、くちゅり、とかき回すようにしながら、徐々にショーツの中へ指を進入させていく。 「や、やめて……汚いよぅ……」 「やめないよ……杏子の身体だから、汚くなんてない」 ショーツの下の指を動かし、女の子の入り口を指でなぞっていく。 「んぁ、はぁ、んん……! くぅぅんっ! あんんっ!」 「はぁ、はぁ……い、イジワルだよ、真ちゃん……」 でも僕は、杏子の入り口をしつこく撫で続ける。 「真ちゃんのっ……指っ……気持ちいいっ……けどぉ…… お漏らししたみたいで……恥ずかしいよぉ……」 さらに指を動かしながら、耳たぶを唇で噛む。 「ひああ、ああん……! んーっ……くぅぅっ!」 か細い快感の声が杏子の口から漏れる。頬が赤くなり、杏子の身体がぷるぷると震えていた。 二度、三度と耳たぶを噛むと、杏子は快感に耐えるように身体を強ばらせる。 「耳、や、やめ……ぞくぞくしちゃうっ……きゃうっ……」 「んん~~~!!」 杏子は顔を赤くしながら、唇を噛んで耐える。 好きな子にイジワルしたくなる子供の気持ちが、少しだけわかったような気がした。 「はぁ、ああっ、んん……はぁ、はぁ、はぁっ……」 「わ……わたし……真ちゃんに、触られてる……大事な とこ……さわられてる……」 ほかに誰も触れたことがない杏子の秘部を、僕だけが触っている。 それは誇らしげでもあり、ひどく欲望をかき立てる事実だった。 「ふあっん、ひぅっ、はぁ……ん……あっっ……んんっ!」 「こっ、腰が動いちゃうっ……ぴくん、ぴくんって…… こんなのっ、へ、変だよ……んぅんっ!」 「変じゃないよ……杏子の身体が感じてる証拠だから」 「感じてる……わたし……真ちゃんに感じさせてもらって る……?」 「うん。だから力抜いて……もっと気持ちよくするから」 「うん……お願い……ああんっ!」 割れ目からあふれる水気が多くなって、ショーツに染みが広がっていく。 それと同時にむわっと香る杏子の匂い……普段嗅ぐことがない淫靡な香りに興奮をかき立てられる。 「んぁ、はぁ……ふぁぁぁ……!!」 杏子の息が荒くなって、寄りかかるように僕に身体を預けてくる。 「ふあああっ……あ、足が……震えて…… はぁ、はぁ……んん……あん……力、抜けちゃうよ……」 杏子の身体が弱々しく震える。もう立っているのも辛いのかもしれない。 でも僕は、杏子のショーツをいじる手を止めない。 「ふぁっ、あんっ……真ちゃん……そんな……やんっ、 やぁぁんっ……あん、あんっ、んんんっっ……!」 幼いと思っていた杏子だけど、興奮した吐息を漏らすその姿の色気に、僕の心臓はドクンと脈打った。 「んあ、はぁっ、んん……真ちゃん、手つきがすごく えっち……」 「だって、杏子が可愛いから」 それに、僕が触れることで感じてくれる姿が、ものすごく嬉しかった。 「うぅ……ずるい……そんなふうに言われると…… はぁ、ん……なんにも、言えなくなっちゃう……」 照れながらそう言う杏子の姿は、本当に可愛らしくて…… 改めて、僕はこの子のことが本当に好きなんだと自覚する。 「あっ……」 艶やかな吐息の中に、羞恥の色が混じる。ちらちらとのぞき見るように、杏子は僕に視線を向けた。 「し、真ちゃん、当たってる……」 杏子の視線は、僕の下半身に向かっている。 「あ……」 硬くなって起き上がった僕のモノが、杏子の身体に触れていた。 自分の欲望そのものを見られているような気もして、正直恥ずかしいけど…… けれど杏子はどこか愛おしそうな目で、あさましく勃起した僕の下半身を見ていた。 その様子は、決して嫌がっているふうではなかった。 「真ちゃんも、興奮してるんだよね」 「うん、大好きな子に触れてるんだから……僕だって 興奮するよ」 今の僕の頬は、きっと真っ赤になっているだろう。 そんな僕を見て、杏子は優しく微笑んだ。 「真ちゃんも、わたしに触れて興奮してるんだ…… よかった……」 「わたしだけじゃなくて……真ちゃんも同じ気持ち なんだね……嬉しい」 そう言って杏子は、本当に嬉しそうに微笑む。 その笑顔を見て、さらに大量の血が僕の下半身に流れ込んだ。 「あっ……また、大きくなった……」 股間の中で、はち切れんばかりに分身が膨張する。 「ごめん、杏子……もう、我慢できないかも」 さっきから杏子を求める気持ちが強まっていて、今すぐ押し倒して、その身体を乱暴に貪りたい衝動を、僕は必死に抑えていた。 僕は杏子を守るんだから……絶対に彼女を傷つけるようなことはしない。 でも杏子は、そんな僕に優しく微笑む。 「いいよ、真ちゃんがしたいなら……して」 「わたしも……真ちゃんをもっと感じたいから……」 「杏子……」 杏子の唇に、僕の唇を重ねた。 「はぁ、ん……ちゅっ、ちゅっ……んんっ……はぷっ……」 ぴちゃぴちゃと水音を鳴らしながら、舌を絡め合い、唾液を交換し合う。 「ちゅぷ……れりゅ……ちゅっ、ちゅぷ、ちゅぷっ…… んんーっ……んむ……あむ……」 僕たちは呼吸することを忘れそうなほど、必死にお互いの唇を貪った。 僕と杏子の身体の境界が消えて、ひとつに混じり合っていくような感覚…… 「んん……れろ……んんっ……ちゅっ、ちゅる…… んんっ……んあぁ……ちゅぶ……」 どれだけキスを続けていただろう……唇を放すと、透明な糸が僕と杏子の口を繋いでいた。 「真、ちゃん……」 蕩けたような熱っぽい瞳で、僕を見つめてくる杏子…… 僕らはどちらからともなく、ベッドに倒れ込むと―― お互いを受け入れる体勢になっていた。 「うんっ……来て……」 どんなどす黒い願望も、荒々しい獣の欲望も全て受け入れてくれるような、女神のような微笑み。 その姿に、矮小な自分が許されたような錯覚に陥る。 「入れるよ……」 「う、うん……」 膨張して硬くなった男の部分を、杏子の入り口にそっとあてがった。 「当たってる……真ちゃんの……」 杏子の声には、どこか不安げな感情が混じっていた。 初めて身体を重ねた時、杏子はひどく痛がった。あれを思い出したのか……未だに慣れないのかもしれない。 「もし痛かったら、すぐに言って」 杏子はきっと僕を優先して、痛みにも耐えようとするだろう。初めて身体を重ねた時だって、そうだった。 「真ちゃん、優しい…… でも……大丈夫だから……」 「真ちゃんに……してほしいから…… 真ちゃんとひとつになるのが、嬉しいの……だから……」 そう言ってくれる健気な姿が愛おしかった。 僕は腰に力を入れて、ゆっくりと杏子の中に自分の分身を埋めていく。 「はぁっ、はぁっん、ああんんんっっっ……!」 「はぁ、あっああ、しっ、真ちゃん、が、入って…… きてる……」 杏子の中はすごくぬめぬめしていて、温かくて、それでいて柔らかい…… 杏子を傷つけないように、自分の欲望を抑えつけながら、ゆっくり挿入していく。 「はぁっ、はぁ、はぁ、ああっ……」 杏子のお尻が目の前に突き出されて、その中に自分の一部が少しずつ埋まっていく様子が、はっきりと見える。 経験の少ないピンク色のひだが、僕の身体を受け入れている。 「はぁっ、あああっ! んん……んああっっ!!」 息を荒げ、少しだけ苦痛に顔を歪める杏子。また無理して我慢してるんじゃないだろうか? 「杏子、大丈夫?」 「大丈夫……だから……中に……もっと……」 「真ちゃんを……もっと、感じたいから……」 「本当にいいの……?」 「うん。お願いだから……してほしい……」 「深いところで繋がって、真ちゃんをもっともっと 感じたいから……」 「それに……」 杏子は僕を窺うように、視線を向けてくる。 「男の人は……動いて出さないと……辛いんだよね……?」 「真ちゃんの……わたしの中で、すごく大きく なってるし……」 出さないと辛いというわけではないんだけど…… でも、ここまで言ってくれるんだったら、これ以上ためらうのは、杏子に悪い。 「わかった。だったら、動くよ」 僕は頷いて、さらに奥へと挿入していく。 杏子の中は十分に潤っているから、するりと呑み込まれていく気がした。 「はぁ、んああああぁぁぁ! んんっ、んん……っ!」 内側の肉が僕の下半身に絡みつき、大きな快感を生み出していく。 やがて…… 「はぁ、はぁ……お、奥に……っ、当たってる……!」 僕の先端が、杏子の一番奥に突き当たっていた。 「杏子、全部入ったよ……」 「はぁっ、んん……そうだね……お腹の奥に、 真ちゃんを感じるよ……」 「ふふっ、真ちゃんとわたし、また……つながってる…… 一緒、なんだね……」 本当に嬉しそうに、杏子はそう言った。 気が遠くなりそうなほどの充足感と満足感だった。 このまま気絶していいかもしれない、という思いと、もっともっと杏子を感じたいという思いが、僕の頭の中でないまぜになっている。 「……んんっ……動いて、真ちゃん……」 「大丈夫だよ、そんなに無理しなくても……こうして 杏子と繋がってるだけで、十分嬉しいから」 まだ杏子の身体は、男の進入に慣れたわけじゃない。急に動けば、また痛がるかもしれない。 けれど、杏子は首を横に振る。 「わたしが、そうしてほしいの…… 真ちゃんに、わたしで気持ちよくなってほしい……」 「そうしてくれるのが……うれしいの……」 杏子の言葉が快感に変わり、僕の頭を甘い刺激で犯していく。 ドクリと下半身に血液が流れ込み、杏子の中で自分の欲望が膨張するのがわかった。 「ふぁ……真ちゃんの、びくびくって……わたしの中で 震えてる……」 「んぁんっ……気持ちよく、なってくれてるの……?」 「うん……すごく気持ちいい……」 動かなくても、ただ中に入れているだけで果ててしまいそうなほどの快感があった。 杏子の中は、僕のモノをぬめった液体と一緒に撫で上げ、じわじわとうごめいて、絶え間なく快感を与え続けている。 「よかった……」 「もっと、もっと……気持ちよくなって…… わ、わたしは……その方が嬉しいから……」 「……どうして、そんなに……」 どうしてそんなに、一生懸命なんだろう?まだ苦しいはずなのに、恥ずかしいはずなのに…… 「あのね、真ちゃんがあの時……わたしと結婚して くれるって、言ってくれたとき……」 「わたし、すごくうれしかった……」 父さんや渚さんに、僕が杏子と付き合っていることを伝えた時か…… 確かにまだ若い僕らが結婚なんて、と思われたけれど、口から出任せで言ったわけじゃない。 あの時の言葉に、後悔も偽りもない。 「すごくうれしかったから……」 「杏子……」 杏子の素直な気持ちを、僕は今、聞くことができた。 「だからわたし、真ちゃんのこと、拒んだりしない…… 真ちゃんのこと、全部受け入れる……」 「だから、なんでもして……」 そう言ってくれるのが、嬉しかった。 「動いて……真ちゃん……いっぱい、気持ちよくなって」 「うん……」 僕は腰を引き、ゆっくりと分身を引き上げていく。 そして亀頭まで見えたところで、また杏子の中に埋めていく。 「はぁ、あ、んん……! また真ちゃんが入ってくる!」 「はぁ、あああ、あああ……!」 挿入を繰り返す度に、じゅぷじゅぷと接合部から蜜が溢れていく。 「はぁ、あああ、ふああ、ひう……」 最初に身体を重ねた時は、痛みや息苦しさばかりだったけど…… 今の杏子の声には、随分と艶が混じるようになっていた。 「はぁ……ん、んん……あっ、ああっ! ああんっ!」 杏子と交わっているということ……その事実が、心と身体を幸福で満たしてくれる。 それは性の快感よりも、大きな幸福感だった。 「真ちゃんっ……ちゅー、しよっ……」 「うん……杏子………んっ……」 「んっ……ちゅっ……んむっ……んぅんっ……ちゅっ……」 「ちゅっ、ちゅぷっ、れる……ちゅぶ、ちゅるる…… んんっ、あんんっ」 「んんっ……んあっ、……んむっ……れるっ……んあっ」 僕は軽く腰を動かしながらキスをする。 舌を絡め合いながら腰を動かすと、溶け合うような感覚に頭がぼーっとしてくる。 「んはぁっ……あっ……ああんっ……これ……気持ち、 いいね……んあっ……ちゅっ……んぅんっ!」 「ちゅー、大好き……これからも、いっぱい、いっぱい したいな……ちゅっ、ちゅっ……」 ぴちゃぴちゃと舌を絡め合い、唾液で口の周りを汚しながらも、僕らはキスを続ける。 あまりの気持ちよさに、僕はさらに腰を突き上げる。 「んんぅっ! んあっ! ああんっ! 急に、そんなっ、 あっ……ああんっ! あっ……あああっ!」 「あああっ、んんっ! 真ちゃんにいっぱい突かれてる!」 「はぁ、はぁ、真ちゃん……真ちゃーんっっ……」 うわ言のように、杏子は何度も僕の名前を呼び続ける。 「杏子の中、すごく熱い……」 「真ちゃんもっ……すっごく熱いよぉ……お腹のなかが ヤケドしちゃうぐらい、お腹が……熱いよぉ……」 何度も何度も挿入を繰り返し、杏子の身体を貪る。 「はぁ、ああっんん、んん……真ちゃんのが、 わたしのなか……入ってる……」 「ぐちゅ、ぐちゅって…… 出たり、入ったりしてる……」 出し入れを繰り返す度に、杏子の膣は僕の下半身にどんどん絡み付き、僕を求めるようにきゅうきゅうと締め付けてくる。 「はあああ、んん……! はぁ、はぁ、ふああぁん!!」 「お腹のなか……真ちゃんでいっぱいになってる……!」 杏子の中を出入りする僕のモノは、愛液でぬらぬらと光っている。 「真ちゃんのが……奥に、当たって……はぁ、はぁっ! んんっ……」 「だめ、だめぇ……あっ、ああっ、あぁん……ふぁぁん!」 そう言いながらも無意識にか、より強い快感を求めるように、杏子は自分から腰を振り始めていた。 「はあ、んん……あああ、んん、はぁ……!」 白い肌は桜色に染まり、うっすらと汗が浮かんでいる。 腰を動かしながら、僕はほっそりとした彼女の背中に触れた。 「ふぁぁぁぁ、ああああん……!!」 小さく杏子の身体が震え、膣がきゅっと締まる。 「せ、背中、急に触られると、ぞくってする……あんっ!」 甘えるような声で言う杏子の姿は、この世の生き物とは思えないほど可愛らしかった。 その姿はとても官能的で……僕の欲望をさらに加速する。 「真ちゃんもっ……んくっ、ああんっ! 気持ちいい? んんっ、ああっ! はぁんっ! はぁ、はぁっ……」 「ああ……凄いよ……杏子っ……んっ!」 もう自分でも、杏子を気遣っている余裕がなかった。 心臓はさっきから破裂しそうなほど鼓動が速まっている。僕は衝動に突き動かされるまま、腰を動かしていた。 「だめ、声、出ちゃう……! 恥ずかしい……はんっ、んんん~~!」 杏子は指を噛んで、声が出ないように耐えていた。 でも、それは杏子が感じてくれているという証だから。だから僕には、むしろ嬉しい。 「杏子、我慢しないで……声、出していいんだよ」 「んぐぅっ……れもぉっ、れもぉ……んああぅん!!」 僕はもっと杏子の声を聞きたい。 自分ひとりが気持ちよくなるよりも、杏子も同じ気持ちであって欲しい。 「だから、我慢しないで、声を出していいんだよ」 「んぐっ……あぁっ……真ちゃん……うんっ……」 こくりと頷いた杏子の返事を受けて、僕は杏子のお尻に触れながら、さらに腰を動かしていく。 「ああ、はぁ、んっ、んん……! はぁ、真ちゃんの…… 大きくて……」 「はぁ、ああああんんっ……!!」 一際大きな声が漏れた。 もし家に誰かがいれば、大変なことになっていたけど、今は誰もいないから、少しくらい大きな声を出しても全然問題ない。 「あぁ、ああああんっ、はあああっ、はぁ、真ちゃんのが、 わたしの中で……ぐちゃぐちゃに……なってく……」 「もう……ダメ……んん……!」 僕は勃起した自分の分身で、さらに激しく杏子の中を掻き回していく。 「ああ、んんっ……! あああんんっ! んん、真ちゃん、好き……大好き……!」 「僕もだ……!」 ただ肉体的な快感だけじゃない。 杏子だからこそ、大好きな人だからこそ、こうして身体を重ねているのが嬉しいんだ。 「あんっ、あああんっ、……真ちゃん、わたしのこと、 好き……?」 「好きだよ、何よりも、誰よりも……」 「はぁ、ああっん、本当に……本当に、好き?」 不安なのか、杏子は繰り返し尋ねてくる。 だったら僕は、その不安が少しでもなくなるように、何度でも何度でも繰り返す。 「ああ。大好きだ……!」 「僕は――西村真一は、荻原杏子のことが大好きだ」 「これからも、ずっと先の未来でも……永遠に、 僕は杏子のことを愛し続ける」 それは誓いだった。僕は、ずっとこの少女の傍にいると決めたんだ。 「嬉しい……はぁ、はぁっ、んあああっ……!」 僕の最愛の女の子。僕は誰よりも彼女の傍で、彼女の笑顔を守り続ける―― 「嬉しい…… 真ちゃんと、こうしていられることがすごく幸せ……」 杏子は目尻に涙を浮かべていた。 そんなにも想ってもらえるということが、僕自身も嬉しかった。 「真ちゃん……もっと、もっと、して……してっ!!」 僕はさらに腰の動きを速める。下半身に射精感が蓄積されていく。 快感で何も考えられなくなる。獣みたいに本能だけで、僕は腰を振り続ける。 「あ、うう、はぁ、あああっ、もっと、もっと、強くして いいよ……はああ、あああぁ……!」 「わたしのなかで……気持ちよくなって……!!」 分身を引き上げ、再び中に押し入れ……ピストン運動を繰り返していく。 「はぁ、あああっ、ふぁ、あああ、奥、当たってる!」 「ああんっ! あぁーっ! あっ、んくっ! ああっ!」 杏子の花弁から溢れた蜜が、太ももを伝って滴り落ちていく。 ぐちゅぐちゅと杏子の中を掻き回すと、杏子の声がさらに大きくなる。 「ヘンなの……わたし、ヘンなの……頭の中…… 白くなって……」 「もう、何も考えられなくなって……わたし……とんじゃ いそう……もう、はぁああっ、ひああうっ!」 「こわいけど……でも、きもちいいの……! はああんっ、はぁ、もっと、してほしい……っ」 それに応えるように、僕は杏子の中を、硬くなった下半身で貫き続ける。 杏子が悦んでくれているということが、僕には何よりも嬉しかった。 「頭が、ヘンになりそう…… こんな、声だして……えっちな子になっちゃう……」 「はぁ、はぁ……僕はエッチな杏子も、好きだよ……」 「はああんっ、真ちゃん、真ちゃん……真ちゃん!!」 杏子は何かを求めるように、僕の名前を呼ぶ。 僕は自分の存在がここにあることを示すように、杏子の奥まで僕の分身を埋めていく。 「はぁ、あああっ、ふああっ……ああっ、はぁっ…… んんっ……はああああっっっ!!」 赤くなった肌に汗が浮かんでいる。 ただピストン運動を繰り返すだけじゃなく、縦や横の動きも加えて、さらに激しく攻めていく。 「んぐっ……もっ、もう、もう……だめ……! あんっ、あんっ、ああああっ!!」 杏子の身体が、電気に痺れたかのように、小刻みに震えていた。 「あ、くっんっ、もう、もう、だめっ! だめだめっ!! あ、あああっん! んぁぁぁぁああ!!」 頭の中に痺れるような快感が走る…… こっちも、もう……限界だ……! 「く、で、出る……!」 「いいよ、出して……出して……真ちゃん……!! 真ちゃんの……ほしい……真ちゃん!!」 「真ちゃんの……赤ちゃん……ほしい……んあああんっ!」 その言葉が最後の引き金になった。 僕の中で理性のロープが完全に断ち切られ、欲望のままに奥の奥まで、先端を突っ込んだ。 「はあっ、あああ……! また奥に……当たって……! ふぁっ、ああっ、あんんっ!!」 「あああんっ、んあっ、あああっ、真ちゃん、真ちゃん、 しんちゃああああんんっ!!」 「う、ああ……!」 「んあっ、んああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」 ついに射精感が限界を超え、僕の先端はびくりと震えたかと思うと、一気に白い欲望の塊を吐き出した。 「ああっっ、ああああああ、あああああ……っ!」 「な、中に、熱いの、入ってくる……はぁああっ、 真ちゃんのが入ってくるよぉ……!!」 どくり、どくり、どくり……と、大量の精を杏子の中に注ぎ込んでいく。 「あぐっ……あああっ! ああーっ……あっ……あ……」 「んっ……あっ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……」 「んっ……ああっ……だっ、だめぇっ……ああぁっ!!」 杏子も絶頂を迎えて一段落したかと思ったら、急にまたその膣がきゅっと締まり、口から一際大きな声が漏れた。 その瞬間、杏子の股の間から黄金色の液体が噴き出す。 「いやぁぁ……出ちゃう……!」 杏子の股間から漏れた液体が、ベッドの上に水たまりをつくっていく…… 「み、見ないでぇ……」 杏子は恥ずかしさで頬を赤く染めていた。 「止まって、止まってぇ……」 懇願するように言っても、勢いよく溢れ出す液体は止まってくれない。 「いや、いやぁぁ……」 杏子は子供みたいに、いやいやと首を横に振る。 けれど僕は、それを汚いものだなんて思わなかった。 なぜなら、それだけ杏子が気持ちよくなってくれたということだから…… ぐったりと脱力した杏子が漏らす聖水を見ながら、僕はそう思っていた。 「はぁぁ……やあぁぁぁぁん…………」 びくんびくんと、全身を襲った快感に力を奪われ弛緩する杏子。 ちろろろっと最後の曲線が小さく収束した後も、杏子はびくびくっと身体を震わせていた。 「うっ……ううっ……ぐすっ……」 「杏子……」 「ぐすっ……真ちゃんっ……わたし……」 「気持ちよかったんだね、力が抜けるぐらい」 「……ごめんなさい……わたし……」 「ううん……可愛かったよ」 「うっ、うそ……」 「ウソじゃないよ……エッチで可愛い杏子がもっと好きに なった」 「っ……反応に困るよぅ……そんなこと言われても……」 「もっと見たいな……」 「やぁっ……やだ……」 真っ赤な顔を背ける杏子のほっぺに僕は軽くキスをした。 「もっと、杏子のことが知りたい……」 「そっ、そんなこと……」 「好きだから、杏子のこと……」 「……もう……んっ……ちゅっ……」 杏子からもキスで口をふさがれ、それ以上は言えなかった。 服を整えた僕たちは、ベッドの上を拭き取った。 誰かに見つかる前に、この布団は洗っておかないといけないな…… 杏子は布団の濡れた部分を見ながら、しょんぼりと肩を落としていた。 「ごめんなさい、真ちゃん……こんな子供みたいに お漏らしして……」 「こんな女の子、嫌いだよね……?」 怯える子供みたいに、杏子は上目遣いで見つめてくる。ただでさえ小柄な杏子が、さらに小さく見えた。 僕はそんな杏子の小さな身体を、ぎゅっと抱き締めた。 「何言ってるんだよ。 これくらいのことで、嫌いになんてなるわけないだろ?」 「杏子を嫌いになるわけがない。これからも、ずっと…… 僕は、杏子のことが好きだよ……」 それだけ時間が経っても、何があっても、この気持ちだけは絶対に変わらないという自信があった。 「真ちゃん……」 杏子も抱き締め返してくる。 「わたしも……これからもずっと、真ちゃんのことが 大好き……」 この温かさを――この大切な人を――僕はもう二度と手放したりはしない。 僕はずっと、これからも……杏子と一緒に歩んでいくんだ。 それからというもの―― 僕たちは毎日、肩を並べて学園に通い…… 放課後は散歩がてら、ふたりで町をゆっくりと歩き…… たまに家族の目を盗んで愛し合い…… 休日は、カフェの手伝いをみっちりこなすようになっていった。 「いらっしゃいませ、おふたり様ですか?」 特に杏子は率先してカフェで働くようになって、放課後も、余裕のある時には必ず店番に入る。 そのおかげで制服の着こなしだけじゃなく、身のこなしやお客さんへの応対も、今ではすっかり板についていた。 「では、確認させて頂きます。ブレンドコーヒーおひとつ と、アイスカフェラテをおひとつ。それぞれオレンジ ヨーグルトケーキとのセットでよろしいですか?」 「――はい、かしこまりました。少々お待ちください」 「オーダーお願いします、真ちゃんっ」 「はい」 僕の方も最近彼女と一緒によく店番に入るようにしているおかげで、だいぶ手際がよくなってきた……ように思う。 杏子がオーダーをとっている途中で、余裕があれば先回りして注文された品を用意し始められるぐらいには、だけど。 これが兄さんや父さんになると、もう準備が終わっていて、同時に二つ、三つの注文をこなしていたりするから、まだまだ目標地点は遠い。 「――っと、準備できたよ!」 「はいっ。 ――お客様、お待たせしました」 「ふぅ……やれやれ」 「いやいや、なんという安心感」 「キミたちいつだって、店を継げるんじゃないのかね?」 ずずーっ、とカウンター席でアイスコーヒーをストローですすっていた宗太が、なんだか恨めしそうに僕を見ている。 「まだまだだってば」 「んなこと言って。今日だってふたりだけで店を回して いるんじゃんかよ」 「まぁ、ね」 僕が店を継ぐ――兄さんがどこまで本気でそんなことを言い出したのかは、今でもよくわからない。 あれは渚さんを説得するための方便だったんじゃないかって、思う時がある。 けれど実際、兄さんは僕に店を任せて家を留守にすることが多くなっていた。父さんも、特別忙しくない日は僕らに店番を任せてくれることが多い。 父さんが後ろに控えていてくれる一方で、どうも兄さんは独り立ちする準備をしている様子だった。元々、どこかで就職するつもりだったと言って…… そんなふたりに見守られて、僕と、そして杏子は、本格的にカフェの『店員』として育ちつつあった。 「いいなー。可愛い彼女と喫茶店経営で将来も安泰。 いいなー。いいないいないいなー!!」 「そう思うならちゃんとお代払ってよ? 将来の蓄えのためにも」 「俺を芹花と一緒にするなっ!!」 「へげぎゃもっ!?」 「その言いぐさじゃまるで、あたしがいつもいつも 踏み倒しているみたいじゃないの。失礼しちゃうわね」 こちらはカフェを手伝うこともなく、相変わらず“すずらん”をさぼってはウチで涼んでいる幼なじみ改め『きょうだい』が、顔を出していた。 「い、未だに真一におごらせている奴が……何を言う、か」 一度はカウンターの下に沈んだ宗太が、這い上がりながら抗議しても、芹花は涼しい顔だ。 「杏子に許可もらった時だけだもん。ね?」 「うん。それもちゃんと、何を頼んだか控え取ってあるし」 「ウソっ!? まさかあとで、まとめて請求されるの!?」 「んーん。一応、原価率とか計算しなくちゃいけないから、 身内が頼んだ分も控えは取っているだけだよ。ドリンク ごとに、今月何杯出たかチェックするの」 「あと、帳簿の付け方も習ってるから、その一環で記録を 取っているだけ……今のところは」 「あんまり芹花ちゃんの分が多いと、おじさんに 相談しないといけないかも」 「杏子様! いいえ、今日からはお義姉様と呼ばせて頂きますわ」 「お、おねえさま!?」 いやまぁ、僕と杏子が結婚したら確かに、杏子と芹花も義理の姉妹になるわけだけど…… 「自ら妹ポジションにくだったか……卑屈だ。そんな、 日和った芹花は見たくなかったぜ。くっっ」 「芹花の場合、これまでのドリンク代全部、お小遣いの 中から払うとなると……死活問題だからねぇ」 「だからお義姉ちゃぁ~ん、少しは見逃してぇ~。 ここで飲むジュースがせめてもの癒しなの~」 「んもうっ……甘えちゃダメ」 「ええーっ」 「塵も積もれば山になるんだよ、芹花ちゃん」 「あうあう……仰る通りでございます」 「……なぁ真一。ひとつ、未来予想をしていいか?」 芹花をやり込める杏子を眺めながら、宗太がこちらへ身を乗り出して、そっと僕にささやいてくる。 「なんだか、不吉な予感がするけど、何?」 「お前、絶対杏子ちゃんの尻に敷かれる」 「…………かもね」 「あ、杏子ちゃん。今日のお夕飯なんだけど」 「仕込みは済ませておきましたっ。あとは――」 芹花をお説教していたかと思えば、今度は顔を出した香澄さんと家事の打ち合わせ。 今やすっかり、杏子は西村家になくてはならない存在だ。 「ホント、しっかり者になったよなぁ。頼もしいというか」 「うん」 本当に、僕がしっかりしないと、杏子の尻に敷かれそうだ。……それはそれで、幸せなことかもしれないけれど。 「ふぅー……真ちゃんっ」 「ん?」 と、香澄さんとの会話を終えた杏子がくるりと振り向き、こちらに近づいてきた。 「手、出して」 「んん?」 言われるままカウンター越しに片手を差し出すと、杏子はそれを両手で握ってきた。ちょうど、宗太の鼻先でだ。 「へ?」 「んひょっ? 真っ昼間から何をやってるのかね、 チミタチ!?」 「手ぇ繋いでるだけでしょうが」 そう言いながら芹花も、宗太も僕も、杏子が突然とった行動に目を丸くするばかりだ。 「ん、んー……っ」 たっぷり20秒ぐらいは握り締めてから、杏子はようやく満足した様子で僕の手を離した。 「んっ……ありがとう。元気、もらった」 「そ、そう?」 「うん。これでまた、頑張れるから」 「真ちゃんと一緒だって思うと、頑張れるから……ふふっ」 そう言って彼女は幸せそうに笑うと、また客席へと戻っていった。 「――あ、お客様。お水のお代わりはいかがですか?」 「……なぁ、真一」 「ん」 呆気にとられた――そんな様子でスツールに腰掛けていた宗太が、改めて僕を見てニヤリと笑う。 「この、幸せ者っ」 「まったくよ。ちゃんと大切にしてあげるのよ、 杏子のこと」 芹花も、苦笑に近い表情を浮かべながら、そんなことを言っていた。 「うん」 彼女はここで幸せを見つけて、ここで生きていくと決めた。一緒にいることが幸せだと言って、お互いにもう二度と離れないと誓った。 だから僕は彼女を守る。彼女の傍にいる。 そうすることで初めて、彼女は花のような笑みを浮かべてくれるから。 つぼみだった花が開くように……彼女の笑顔は、ここで花開いたんだ―― 「いらっしゃいませ! “〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”へようこそ!!」 ――そろそろ、また季節が変わる頃。 「お客様、ご注文はお決まりですか?」 杏子がお客さんの応対をしている声を聞きながら、僕は注文を受ける支度を始める。 今ではすっかり当たり前になってしまった、カフェの日常。 「ジンジャーエールと、マロンパイですね。 かしこまりました、少々お待ち下さい」 お客さんから注文を受けた杏子が、僕の方へと小走りに近づいてくる。 「真ちゃん、オーダーお願いします」 「了解。ちょっと待ってね――」 笑顔に笑顔を返し、僕は手早くグラスに飲み物を用意して、ショーケースからお菓子を取り出した。 用意されたそれを受け取った彼女は、トレイを手に危なげなくお客さんの方へと運んでいく。 「お待たせしました、ジンジャーエールとマロンパイです。 ごゆっくりお召し上がりくださいませ」 その姿には、かつての人見知りだった頃の影はもう見えない。そんな杏子の変化を嬉しく思う反面…… 「……ちょっと、寂しいかな」 ウチの看板娘としてすっかり定着した杏子は、今や誰に守られることもなく、立派に自立しているように見える。 「とはいえ、父さんたちも思い切り過ぎじゃないかなぁ」 ため息混じりに店を見回すと、思わずため息がこぼれてしまう。 今日も今日とて、従業員は僕と杏子のふたりだけ。父さんはここぞとばかりに、春菜さんに連れ回されている。 なんでも再婚するまでは、みんなに隠していたこともあって、あまりおおっぴらにデートもできなかったからだとか。 兄さんなんかは、これも店を継ぐための修行の一環だ、なんて言って、自分の就職活動に没頭…… 「絶対、いいように使われてるだけだよなぁ」 そりゃあ、いずれはこれが日常に変わるんだろうし、そのための勉強も始めてはいるけれど…… 「どうしたの、真ちゃん?」 ぼやきが聞こえたのか、カウンターの近くに来ていた杏子が心配そうに僕の顔を覗き込んできた。 「あ、いや、なんでもないよ」 ――ふと、今日もふたりで店番をするようにと言われた時の、杏子の嬉しそうな表情が脳裏をよぎった。 もちろん、僕も嬉しかった。店番がやりたかったからではなくて、杏子の笑顔が……なんだけど。 「本当に? 何かあったら相談してね? だって……」 杏子はそこまで言ったところで、一度言葉を止めた。 そして、心なしか赤くなった頬を隠すように俯きながら、そっとささやくように、再び口を開く。 「わ、わたしたち、その……っ」 「か、家族に、なるんだから……っ」 「う、うん……」 思わずふたりして赤面してしまった。なんというか、こういう恥ずかしさには、いつまで経っても慣れる気がしない。 その時、なんとも絶妙なタイミングで来客を告げるドアベルが店内に響き、いち早く気づいた杏子がドアに向き直る。 「いらっしゃいま――あっ!」 「や、杏子ちゃん。調子はどう?」 「杏子ちゃんの働いてる姿、見に来ちゃいました」 「いらっしゃいませ、ふたりとも!」 夏休み中は毎日のように訪れていたふたりも、さすがに二学期が始まってからは入り浸りというわけにもいかず、ここに顔を出したのは久しぶりだ。 もっとも、平日は毎日、学園で顔を合わせているんだけど。 「真ちゃん真ちゃん、ふたりが、ふたりがっ」 「杏子、落ち着いて」 「あ、う、うん、そうだねっ」 「なんだか、今日の杏子ちゃんはいつも以上に元気だな。 なんかいいことあった?」 「ふふふっ」 「あら、むしろお邪魔だったとかじゃあないですよね? ふたりっきりのカフェでいちゃいちゃと」 「そんなことしてないって……ちゃんとほら、お客さん、 いるでしょ」 言っている側から、ほかのお客さんが僕らを呼ぶ声が聞こえ、杏子が慌てて振り返る。 「あ、はい、少々お待ちくださいっ!」 パタパタと駆けていく杏子の後ろ姿を見送って、僕はクラスメイトたちに営業スマイルを浮かべた。 「おふたり様でよろしいですか?」 「うわっ、不気味な笑顔を見せるなよ」 「失礼だなー。たまにはちゃんとサービスしようと思った のに」 「わたしはいつものテーブル席で。久我山くんは、 カウンターでいいんですよね?」 「そしてさりげなく同席を拒否しましたね、雪下さん……」 「そんなことより、杏子ちゃんどうかしたんですか?」 宗太のことなどスルーして、雪下さんが尋ねてくる。 「私にも、彼女がなんだか上機嫌というか、舞い上がって いるように見えるんですが……」 雪下さんの視線の先には、テーブル席で注文を取っている杏子の姿があった。 いつも以上に元気で頼もしいというか、頑張っているようには思っていたけど…… 「……ああ。僕たちふたりだけで店を任されたことが、 嬉しいのかもしれない」 「ん~? そういうことは、これまでにもあったんじゃ ないか?」 「時間帯を区切っての店番とか、奥に父さんや兄さんが 控えているなら、ね」 ところが今日は、ふたりとも終日いない。朝から晩まで――開店から閉店まで、僕らふたりに任されていた。 「どうしようもなくてそうなった、というより、そろそろ 僕たちに店を任せても大丈夫だって、認められたという か……」 「おお! やったな!」 「なるほど。それで杏子ちゃん、張り切ってるんですね」 「うん」 「そりゃ、よっぽど嬉しかったんだろうなぁ」 「……うん」 感慨深げに頷く宗太に、僕も頷きを返した。 この町に戻ってきた頃、杏子はみんなと会話もうまく交わせなかった。 宗太たちにもそれがわかっているだけに、杏子を見守る視線は優しかった。 「杏子自身が頑張ったからだよね」 「……はぁ?」 「……え?」 ……素直な感想を口にしたつもりなのに、なぜかふたりが呆れたような顔で僕を見ている。 僕、間違ったこと言ってないよな……? 「……あの、西村くん? もしかして、何か勘違いして ませんか?」 「え? してないよ、そんな。 お店を任されるぐらいに、杏子が頑張ったからという話 でしょ?」 「違いますよ~……」 「これだから……まったく……」 「杏子ちゃん、これからもきっと苦労しますね……」 「ハァ……ホントにね」 呆れを通り越して疲れたような表情で否定されて、僕はきょとんと立ち尽くした。 「え、違うの?」 「あのなぁ……」 やれやれといった顔で首を振る宗太の言葉を、雪下さんが引き継いだ。 「杏子ちゃんはきっと、西村くんとふたりでお店を任され たことが嬉しかったんだと思いますよ」 「あ……ええっと……」 そうか……そういうこと……ね……杏子は僕と一緒にいられることが……何よりも幸せだったんだっけ。 「美百合ちゃんたち、まだ席に着かないの?」 「わぁっ!?」 突然割り込んできた杏子の声に、僕は思わず驚きの声をあげてしまった。 僕の声に、杏子も驚いたように目を〈瞬〉《またた》かせた。 「あ……ぇ? ええと、どうかしたの、真ちゃん?」 「あ、いや、なんでもないから。あはは……」 慌てて弁明の言葉を口にする僕を見て、杏子は不思議そうに首を傾げた。 そんな僕らのやり取りを見ていた雪下さんが、さも名案を思いついたといった風に、ぽんと手を叩いた。 「せっかくですから、本人に確かめてみましょう」 「はい?」 「杏子ちゃん、とっても楽しそうですね」 「え、そうかな? えへへ……」 「よろしければ、その理由を聞かせていただけますか?」 「え? それは、その……」 杏子はもじもじとしながらも……素直に語り始めた。 「今日ね、真ちゃんと一緒に、お店を任されたの」 「うんうん」 「そ、それがその……なんだか……」 「なんだか?」 「し……新婚さんみたいで嬉しくって」 「っ!」 恥じらいながらも、杏子はしっかりとした口調でそう告げた。 「我々の想像は、まだまだ甘かったようだ……」 「そうだね……」 呆れた様子の宗太に比べて、僕は顔から火が出る思いだった。 一緒とか、頑張るどころの話じゃない。杏子の中では僕らはとっくに『家族』で、『新婚さん』みたいなものだったんだ…… 「あ~、熱いっ! うぉ~、暑い! くっそおぉぉアツイ!!」 「ああもう、杏子ちゃん可愛いっ!!」 雪下さんが杏子をぎゅっと、抱き締める。 「ひゃっ!? あの、美百合ちゃん?」 「それに比べて男たちときたら、なんてロマンがないんで しょう」 「ふぇ? な、何がどうなってるの?」 杏子の困惑を余所に、彼女の頭を撫で回す雪下さん。これは、あれだろうか。僕へのあてつけか何かなのか? 「まったく、先が思いやられるよなぁ」 かたや宗太は、僕の方を向いてやれやれとでも言いたげにため息をついた。 「お前さ、こうなったらさっさとけじめつけるべきじゃ ねーの?」 「え? けじめって……」 「こんな関係いつまで続けるんだってば」 渚さんに言われたことを思い出す。現実は甘くない、と。 ただ好きだという気持ちだけで、後先考えずに始めた関係なんて、長続きするはずがない…… 「こんな関係だろうとなんだろうと、僕たちはずっと、 一緒にいる」 「真ちゃん……」 「もちろん、このままでいいわけないから、ちゃんと考え てるよ。まずは卒業までに、今日みたいにふたりだけで 店を支えられるようにしないとね」 「……うんっ♪」 杏子にとってはそれが望み。そして、彼女の笑顔を守るのが僕の望み。両方に一番いいことを探していく。 ところが、僕たちを見た宗太は、なぜか深々とため息をついた。 「悠長な話だなぁ」 「ええっ?」 「悪くはないさ。でもそれって、それまで杏子ちゃんを、 今みたいに口約束で待たせるってことだろ?」 「まぁ、その……それは、そうだけど……」 「あの、わたしは全然、別に……いつでも、その……」 雪下さんに抱き締められたままの状態で、杏子が顔を真っ赤にしてもじもじと、指先をくっつけたりはなしたりしている。 「そりゃ、おじさんだって『ふたりが結婚なんてまだ早い』 とは言ってたけどさぁ……もう、杏子ちゃんの気持ちが ここまで固まってるんだぜ?」 「う、うん……それはわたし、最後はお嫁さんになりたい ……けど」 「そういうことを素直に口にできる杏子ちゃんが、 うらやましいです!」 雪下さんは何やら感動して、ますます強く杏子を抱き締めているけれど……それはさておき。 「あとはさぁ、真一が誠意をみせるだけなんじゃねーの。 誠意をさぁ」 「それは、そうかもしれないけど……」 急にそんなこと言われても、何をすれば誠意になるのかと、聞きたくなってしまう。 もちろん杏子の笑顔のためなら、なんだってしてあげたいけれど…… 「何、出入り口に固まって話し込んでるの?」 入ってきた芹花が、僕たちの様子を見て不思議そうに首を傾げる。 「って、芹花、また店番サボリ?」 「失礼ね。今日、こっちはあんたたちだけなんでしょ? お姉ちゃんが差し入れついでに、様子を見てこいって」 そう言って、芹花は手にしたバスケットを見せた。香澄さん、お菓子でも作ってくれたのかな? 「で、なんの話してたのよ?」 「いや……その」 「女の子の夢、についてでしょうか」 「は? 夢って、お嫁さん?」 「おう、さすが心は乙女の芹花、よくわかってるな!」 ……ごめん。芹花が真っ先に『お嫁さん』って言うのは、ちょっと意外だと感じてしまった。 「『心は』って言い方、なんか引っかかるけど…… まぁいいわ、当然でしょ当然。ね、杏子?」 「ん、んん」 「ってまぁ、杏子はもう、真一の嫁みたいなもんじゃない。 なんか問題あるの?」 その認識が問題なくなっていることの方が、幸せなんだか変わっているんだか…… 「いやほら、それは事実婚っていうのか? 状況証拠だけでは裁判に勝てないっていうか」 「形式が伴っていない、と表現するのが適切かと思います」 「そうそう、それそれ!」 「それそれ、じゃないよ」 「なんだ、そんなことか」 「なんだとは何さ」 こっちは結構、真剣に悩まなくちゃいけないことだと感じていたのに…… 芹花は持ってきたバスケットから、お菓子――マフィンだった、を取り出して自分だけさっさとぱくついた。 「もぐっ……あ、うま。さすがお姉ちゃん」 「芹花。ずいぶん簡単に言ってますけど、何かいい アイデアでも?」 「まぐ、もぐ……そりゃ、あたしだって、乙女だもの」 乙女がカフェの入り口で、お手製のマフィンを立ったまま頬張るかなぁ? 「形式うんぬんなんて、結婚式でもやっちゃえば全部解決 でしょ?」 「結」 「婚」 「式!」 「んぐっ……そ♪」 芹花はマフィンをひとつ食べ終え、ぺろりと自分の唇を舐めてから、ウィンクしてみせた。 それから、あっという間に話が進んでいった。 実際に籍を入れるかどうかは、まだ学生だということもあって――父さんが渚さんにした約束もあって、見送りになったけれど…… 結婚式をやること自体については、父さんも兄さんも春菜さんも『まぁ、いいんじゃないか』『お互いの気持ちはハッキリしていることだし』と、すんなりOKが出た。 渚さんにも一応、父さんが連絡を入れて―― 式には出れそうにないけれど、行うこと自体には反対しない……と承諾をもらってくれた。 あとはもう、春菜さんを筆頭に、芹花、香澄さん、そして雪下さんといった女性陣が乗り気になって、会場や衣装の相談を始めてしまって…… 「はぁ……」 「大丈夫、真ちゃん?」 疲れて彼女の部屋に転がり込んだ僕を、杏子が優しく頭を撫でることで、労ってくれた。 今晩も、やれ招待客はどうするとか、引き出物がとかいう話を聞かされて、正直面食らうばかりだった。 「まさかこんなに色々と考えなくちゃいけないことが あるなんて……」 「うん……もっと、簡単だと思ってた」 杏子も若干、周りの暴走振りに戸惑っているみたいだ。 「……あのね、真ちゃん」 「うん……?」 「真ちゃんは、わたしと結婚するの、イヤ?」 「そんなわけない!」 ぐったりと、彼女のベッドに寝転んでいた僕は、慌てて身体を起こした。 「僕だって、杏子と結婚したいよ。その気持ちにウソは ない!」 「なら……いいんだけど。大変でしょ、こんなこと」 彼女の視線の先には、芹花たちに無理矢理押しつけられた式場のパンフレットや、ドレスの一覧なんかが置かれている。 「……お金もないのに、とは思うけど」 「うん。貸してくれるって、おじさんたち言ってるけど」 「できれば、甘えたくはないよね」 「うん……」 自分たちでできることから、少しずつ、一緒に……そんな想いをお互いに抱いていた。 でもいざ『結婚』という言葉が絡むと、嬉しいことにみんな、我がことのように喜んでくれて…… 「そうなんだよなぁ……家族にも関係することなんだよ なぁ」 「ん…………」 ――実際、僕にとっては。 あの、雨の日に花畑でした約束と―― 渚さんの前で放った言葉が、すべてだった。 杏子を、僕の『家族』にする。 彼女もそれを喜んで受け入れてくれて……今にして思うと、お互いにそれで満足してしまって、形式というものにこだわらなくなったのかもしれない。 「ドレスっていうか……ブーケとか、可愛いんだけどね」 「……ああ。確かに」 床に置かれたパンフレットに載せられた、華やかな衣装に目を奪われる。中にはやっぱり、杏子に似合いそうで、着せてあげたいものも多い。 けど、その下に添えられた金額に、二の足を踏んでしまう。 「……レンタル代だけでも、結構するなぁ」 「場所代もね」 ふぅ、と杏子が別のパンフレットを手に、ため息をついた。 絢爛豪華な内装の、大ホールを映した写真が……なんだか別世界のもののように見える。 「こんなところじゃなくて、いいんだけど」 「そうなの?」 「うん。なんだか余所のおウチみたいで、落ち着かない」 杏子も、お嫁さんという言葉には憧れを抱いていても、結婚式や披露宴となると、話は別みたいだった。 「わたし、これならカフェの方がいいなぁ」 「え?」 「だって、わたしと真ちゃんが子供の頃から一番一緒に いるの、ここだもん」 杏子はそう言って、ふんわりと笑った。 「ここのお店でね、家族とお友達だけで、笑って お茶できれば、それでいい気がする……」 「それじゃいつも通り……いや、待てよ」 杏子がそれを望むなら―― 彼女が笑顔になれるなら―― 「それ、みんなに提案してみよう!」 「え?」 目を丸くする杏子の肩を抱いて、叫ぶ。 「カフェを一日貸し切りにしてもらってさ、内輪だけの パーティーって形式にすればいいんじゃないかな。 気心の知れている人だけ呼んで」 「それならヘンに構える必要なんてないし。 花嫁の希望なんだから、みんなにも文句は言わせない!」 「花嫁の……希望」 「え、うん。でしょ?」 「そっか……わたし、花嫁なんだ。えへへ」 照れくさそうに笑う杏子に、今さらそこかい、とつっこもうなんて思いは浮かばず…… 「うん。花嫁と、花婿の希望です。だから絶対、これで 決める!」 「うん……よろしくお願いします、旦那さま。 ちゅっ」 僕らはお互いの気持ちを確かめ合って、口づけを交わした。 僕たちの提案は受け入れられた。 宗太が『え~、それじゃあスモーク焚けねぇじゃん』とか叫んでいたけれど、当然無視。 むしろ会場の飾りつけを買って出てくれた芹花と香澄さんなんかは、連日店の見取り図を前に顔を突き合わせて話し合っている。 雪下さんは春菜さんと協力して、杏子に着せる衣装の準備に余念がない。 それも杏子の希望で、ささやかな……本当にささやかに、ブーケだけをしつらえることになった。 僕らなりの、僕らに似合いの、結婚式。 それが、僕と杏子の出した答えだった。 そして、あるカフェの定休日―― よく晴れた、大安吉日の今日―― 「おっ待たせしましたー! この良き日にっていうか とっくに結ばれておりましたが、やっと覚悟を固めた 新郎と、可愛い新婦の入~場~ですっ!!」 「ど、どうも……」 「わーっ!! うにゅ~、杏子可愛い~!! 真一ふつー!!」 「う、うるさいっ」 馬子にも衣装――ともいかず、借り物のスーツ姿が板につかないまま、僕は杏子を伴って店に入った。 「おめでとうございます♪」 「よかったわぁ……うん、ふたりとも、よく似合ってる」 「おめでとう。まさか、先を越されるとは思わなかった」 「おめでとう」 「若い頃を思い出すわぁ……真彦さん、私たちももう一回 結婚しましょうか?」 「え」 口々にお祝いの言葉をかけてもらいながら、僕らにとってはどこよりも馴染みの空間――“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”の中へと進む。 「え~、それではぁ~、色々めんどくさいので、さっさと 誓いのキスでも見せつけちゃって欲しいところですが~」 「こら司会! 色々はしょるな!!」 「へいへーい! みなさま~、お手元にグラスはあります でしょうか? ほら新郎、さっさと乾杯の音頭をとりや がれ!」 「ったく、宗太に司会を任せたのは、間違いだったかなぁ」 僕とあいつの関係をよく知っている人たちばかりなので、そこでひとしきり軽い笑いが起こる。でもおかげで、肩の力を抜く時間がとれた。 「あ……えっと、本日はお集まり頂きまして、ありがとう ございます」 「僕、西村真一は……えっと、みなさんご存じのように、 まだ学生の身なので、これはあくまで儀式みたいなもの なんですが」 「前置き長いぞー」 「花嫁さーん、いいんですか、そんなこと言わせちゃって」 「あ、うっ」 華やかな声での混ぜっ返しに、しどろもどろになってしまう。 「真ちゃん」 と、杏子が、僕の手をとってぎゅっと握り締めてくれた。 「大丈夫……わたし、今、とっても嬉しいよ」 「……うん」 彼女の手から伝わる温もりが、その温かい声が、僕の心を落ち着かせてくれる。 「……失礼しました。僕、西村真一はここに、 荻原杏子さんを妻として迎え」 「一生大切にすることを、誓います」 「こらーっ! それこそ誓いのキスの時に言う言葉だろ!」 「あれ? そう?」 またひとしきり、みんなが笑う。 その中で杏子もまた、幸せそうに笑ってくれていた。 「ふふっ……あは、あははっ」 ――段取りや形式なんて、本当にどうでもよかった。 ただ僕は、杏子が笑っていてくれるだけで、幸せなんだと確認できれば、それで…… 「……とはいえ」 「本当にここでよかったの?」 「どうして?」 「どうして、って……」 カフェでの結婚式兼披露宴は、みんなの協力もあってうまくいった。 僕自身楽しかったし、誰よりも杏子が喜んでくれた。 ところが、宴もたけなわというところで―― 宗太たちがまた、余計なことを言い出した。すなわち、新婚旅行はどうするのか? と。 正直、考えていなかった。学園だってあるし、カフェの手伝いもある。そんな何日も休めないし、結婚式同様お金だってかけたくない。 とはいえ、そんなことも考えていなかった僕は、あまりに不甲斐ないと友人一同から非難を一斉に浴びて…… 「わたし、行きたいところがあるの。そこへ連れていって くれればいいよ」 と、杏子が申し出てくれたことで、やっと解放された。 「でもまさかこんな、近場の花畑だなんて」 いつも来ている、散歩道。 昔から何度も遊んだ、想い出の場所。 泣いたり笑ったり、ふたりで過ごしてきた遊び場…… 「記念に来るには、一番いい場所だと思うんだけど…… イヤだった?」 「そんなわけない」 杏子さえよければ、それでいい。彼女の笑顔が、僕のすべての判断基準だ。 「……とはいえさすがに、結婚式の会場から歩いて来れる 範囲で、新婚旅行まで済ませてしまうというのは、 さすがに申し訳ない気が」 「結局、指輪だって用意できなかったし」 だから結婚式で定番の、指輪の交換もやらなかった。 宗太がこだわっていた誓いの言葉と、キスだけは……結局、杏子からおねだりされる形でしたけど。 うん、恥ずかしかった。 「指輪なら、真ちゃんもうくれたから」 「え……?」 「ほら」 「って、それ――」 彼女がこっそり忍ばせていたのは、夏祭りへ一緒に行った時に買った、おもちゃの指輪だった。 それを手の平に出して愛おしそうに、転がして眺めている。 「そんなので……いいの?」 「いいの」 杏子の声には迷いもためらいもなく……ただ、喜びだけが溢れていた。 「わたしには、これがほかの物には変えようもない、 真ちゃんからもらったたったひとつの指輪なんだよ」 「あとはもう、真ちゃんさえ傍にいてくれれば…… ほかには本当に、なぁんにもいらない」 「杏子……」 「真ちゃん。これからもずっと、わたしの傍にいてね」 「うん」 「辛いことや悲しいことがあっても、わたし、笑顔で 真ちゃんのことを励ますから」 「うん。僕もそうする。 ううん、それ以前に、杏子を悲しませない」 「大好きだから。真ちゃんのことが、誰よりも何よりも、 ずっとずっと、大好きだったから」 「僕も好きだ。大好きだ」 「これからもずっと、絶対、一番好きだよ」 「僕もだよ」 風が吹いて、花を揺らす。花の香りが僕らを優しく包み込む。 それはまるで、僕らを祝福してくれているように、甘く、幸せな空気で…… 「……また会えて、よかった」 「うん」 この日、僕たちの気持ちは、揺らぎのないものとなった。 「真ちゃんの傍にいるだけで、わたしは幸せで……ずっと、 笑っていられるよ」 『時間よ止まれ』……なんていうのは無理な話で…… でも……少しくらい待ってくれてもいいはずだ、とも思う。 昨日と同じような今日。夏のまぶしい空も、店の中に満ちるコーヒーの香りも、全部昨日と同じなのに…… 「時間は待ってくれないな」 「……ん~、なんか言った?」 「いや、別に」 「あ、そう」 「…………」 僕と芹花、そして杏子は、カウンター越しに父さんと話し込んでいる、春菜さんの様子を眺めていた。 「真彦さんと私は同じ部屋として、子供たちの部屋は 足りるかしら?」 「うむ」 父さんと春菜さんは、同居の準備と称しては毎日のように話し込んでいた。 どちらかというと春菜さんが一方的に押しかけてきているだけなんだけど、父さんもどことなく、いつもより笑顔が多い気がする。 「ねぇ、芹花は、香澄と同じ部屋でもいいわよね?」 「……イヤよ、今さら」 「いいじゃない。姉妹で仲良く使えば~」 「……あのねぇ、お姉ちゃんもあたしも、もう大人の 女なの! プライバシーってもんがあるんだからね」 「ぶぅぅー。だそうです、真彦さん」 「まぁ、なんとかなるだろう」 「…………なんとかなっちゃうんだ」 今は物置になっている部屋を片付ければ、人数分の部屋は確保できる。杏子が突然同居することになった時と同じだ。 でも……芹花はそもそもまだ、親が再婚して同居するってこと自体に、あまり賛成していないみたいだからなぁ。 「急に大家族になっちゃったわねぇ」 春菜さんは指を順に折っていき、数を数え始めた。 「七人家族かぁ……賑やかでステキね」 「…………七人」 「……わたしも?」 「もちろん、杏子ちゃんも」 「ん……」 「ママって呼んでもいいのよ? なんてね」 「あ、はい……」 「杏子と姉妹か……それだけは、悪くないかもね」 僕とは嫌がっていた芹花も、相手が杏子ならいいのか。 「……よ、よろしく、芹花ちゃん」 「そうね……うん」 杏子ならいい、でも……やっぱり複雑……なのかな。 「……なに、人のことじろじろ見てんのよ」 「あ、いや……別に」 神社で、あんたにあたしの気持ちはわからない――そう告げられて以来、なんとか芹花の気持ちを理解しようと思って見ているんだけど…… その言動に注意しているだけじゃ、自分の受けた印象が本当にあっているのかどうか、なかなか自信がもてない。 「……気味悪い」 「う……」 「…………」 今だって、僕のことを怒っているのか、呆れているだけなのか、たんに不機嫌なだけなのか……わからない。 と、誰かが店に入ってきたので、僕は条件反射的に身体を動かしていた。 「いらっしゃいませ――」 「ごめんなさい、お客さんじゃなくて」 「ああ。うん」 入ってきたのは、今や文字通りの身内――香澄さんだった。彼女は珍しく慌てた様子で、春菜さんの方へ駆け寄る。 「お母さん、やっぱりこっちだった」 「あら、どうしたの?」 「店長さんにお電話です」 「もう、すぐにこっちに遊びにくるんだから」 「だってぇ、今は何かと忙しい時期でしょう?」 「そう。忙しいんだから仕事して。お父さんも、 あんまりこの人を甘やかさないでくださいね」 「あ、ああ」 さりげなく、ごく自然に、父さんのことを『お父さん』と新しい呼び方で呼んで―― 香澄さんは春菜さんの腕を掴んで、出入り口の方へと引っ張っていく。 「あぁん、香澄ちゃんの意地悪ぅ~」 「お騒がせしましたー」 そう言って店のドアに手をかけたところで、今度は芹花に顔を向けた。 「芹花ちゃん、またお母さんがさぼっていたら、 教えてちょうだい」 「ん……」 「あぁ~ん! 真彦さぁ~ん!!」 「……賑やかだな」 「……ごめんなさい」 「いや、芹花ちゃんが謝るようなことじゃないよ。 楽しいぐらいさ」 「そう……ですね」 「…………」 父さんが、たぶん春菜さんや香澄さんとのやりとりを楽しんでいるのに比べて、芹花はやっぱり今の状況が憂うつそうに見える。 父さんと春菜さんの結婚は、僕らの状況を一気に変えてしまった。それはもう、衝撃的に。 芹花は、同居することにも最後まで反対していた。 「“すずらん”に自分の部屋があるんだから、わざわざ こっちに来る必要ないじゃない」 ──そんなことを言って。 一方の香澄さんは、父さんたちを素直に祝福して、同居にも前向きだった。 芹花を気遣ってはいるみたいだけど、静観している風でもある。 「今はそっとしておくのが一番。いずれわかってくれると 思うわ」 ──そんな風にもらしていた。香澄さんの態度は、たぶん正しい。芹花だって子供じゃないんだ。 「真一」 「何?」 「……お姉ちゃんがきたからって、鼻の下のばさないで。 だらしない」 「そんなことないって」 これはあれかな、八つ当たり? いつものことと言えば、いつものことだけど……芹花はやっぱりまだまだ子供なのかな? ふとドアベルが鳴り、僕はまた反射的に…… 「いらっしゃいま――」 ……ドアの方を見て、でもすぐにお客さんじゃないとわかったので、口を閉じた。 「よう」 「あぁ」 入ってきたのは、宗太だった。 「なんだ芹花もいたのか。その割にはやけに店の中が 静かだから、気づかなかったぜ」 「…………」 「…………」 「……宗太、なんでファイティングポーズ?」 自分のことを見もしない芹花に何を感じたのか、宗太はボクサーみたいに、拳を握って前に構えていた。 「……いや、いつもなら『まるで、あたしが年中騒いでる みたいじゃない!!』ぐらいは言ってきそうだろ?」 宗太は僕の肩を抱き、芹花たちに背を向けて、ひそひそと話しかけてきた。 「んじゃなきゃ、『ほぉ~……来るなりケンカ売ってる? 売ってるわよねぇ。いいわ、かかってきなさい』って、 壮絶な殴り合いが――」 「聞こえてるわよ」 「!?」 突然声をかけてきた芹花だったけど、宗太が再びファイティングポーズで身構えても、それ以上何かしてこようとはしなかった。 「まったく……失礼しちゃう」 そう言って僕たちから視線を外し、カウンター席で頬杖をついて、何か考え込んでいる。 「ふむ……」 おもむろに宗太も、顎に手をかけて少し考え込むと―― 「注文いいか?」 と、僕に話しかけてきた。 「あ、いいよ。何にする?」 「真一を一人前。テイクアウトで」 「……は?」 「活きのいい内においしく戴きたい」 「……えぇ? 何、今、なんてっ?」 「……え? ……えぇぇ?」 「……宗太。冗談は顔だけにしてって、言っていい?」 というか、ふたりが異様に驚いているのは……なんで? 「冗談……そう……だよね。 なんだ、冗談……冗談……うん、冗談……」 若干残念そうなのは、なんで? 「……くだらないわねー」 まったくだ。 「だいたい、真一なんか持っていってどうするワケ?」 「そりゃぁ、イ・イ・こ・と・さ♪」 「いいこと!!」 「あんたたち……実はそういうアレなの?」 「そんなわけないだろ」 「ひどい! あの夜のこと、忘れたっていうの!?」 「ええー!?」 「あーはいはい、真一、早く責任とってあげなさいよー」 「そうよそうよ! 責任とってよ!」 「は・や・く、用件をいえ!」 「お、オッケーフレンド。怒るなよ。ちょっと話を……と 思ったんだが、どうせならみんなで遊びにいくか」 「遊び? どこ行くの?」 「あ、食いついた」 「いいじゃない。 ……ここで座り込んでいるのにも、飽きたのよ」 「…………」 飽きたというより……イヤになった、っていう風に聞こえるな。 「そうそう。真一じゃあるまいし、家の中にこもって いてもいいことはない!」 「そこで僕を引き合いに出さないでよ」 「外に出よう! 繰り出そう! 俺たちにはまだ、 こなしていない夏の定番イベントが山ほどあるの だから!!」 生徒総会の時の演説みたいになってきたなぁ。宗太っていつもこのノリで、みんなを煽るから。 「いいから早く本題に入りなさいよ。何をやるのよ?」 僕と同じように、宗太のノリになれている芹花が、イライラした様子で先を促す。 「ズバーリ! 肝試し!」 「きもだめし~?」「きもだめし~?」 「ちょっとちょっと、そんな急に言われてもオバケの 格好とか、用意できないってば!」 なんで迷わず脅かす方を選ぶんだろうか…… 「大丈夫だ。その辺のことはすでに考えてある」 「……ってことは何よ。あたし、脅かされる方なワケ?」 だから、なんで残念そうなんだよ…… 「ふっふっふ~ん、それは今夜のお楽しみだ」 「え、今夜やるの?」 「どうせヒマだろ?」 「……いや、うん。忙しくはないけど」 当然のように言われると、少し腹が立つ気もする。なまじ本当に暇なだけに…… 「……わたしも、いい?」 「もちろんだ! 拒む理由なんてどこにもない!」 「ん……」 楽しそうだな、杏子。 「なんか出てきたら殴っていい?」 「一応、思いやりと慈愛の精神をもって接してやってくれ」 「りょ~かぁい♪」 ……ま、いっか。みんなの気分転換になるなら。 「それじゃあ午後7時に集合な! 場所は――」 「ほらほら、早く早く~!」 「わかってるよ」 僕らは海岸へ続く道を、ぞろぞろと歩いていた。 僕らより先に、杏子と香澄さん、あと兄さんも歩いている。宗太が、手当たり次第に誘った結果だ。 僕は店の手伝いをある程度まで済ませて、あとから追いかけるつもりだったんだけど…… 「お姉ちゃんたちに負けて、悔しくないの!!」 「いや、そういう勝負でもないし」 なぜか芹花に急かされて、今に至る。 「――楽しみね」 芹花にしては言葉少なに、そんなことを呟くのが聞こえた。 「うん」 主催者の宗太は、先に海岸で待っているはずだ。 昼間誘われた時、なんだか考えがあるようなことを言っていたから……今頃、仕込みに忙しいのかもしれない。 少し先を行く香澄さんたちの方からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。 本人たちがどう思うかはともかく、杏子を挟んで香澄さんと兄さんが歩いている様は、まるで親子みたいだ。 「…………」 「…………」 「ねぇ、真一はもう、慣れた?」 「何……」 「何が? は、禁止ね。わかってるでしょ?」 芹花に横目で睨まれた。 見当はつく。今、僕たちの間で、慣れたかどうか確認しなくちゃいけないことなんて……ひとつしかない。 父さんと春菜さんの再婚そのものは……反対していいようなものじゃないと思う。ふたりには、幸せになって欲しい。 だけど、新しい家族が増えて、新しい生活が始まって、ということについては、さすがに戸惑う。ましてやそれが、お隣さんだったわけだし。 芹花の質問は、それを全部含めて、『受け入れる準備はできたか?』ということだろう。 「……そんな、すぐには無理だよ」 「ふーん」 自分から聞いてきたくせに、あんまり興味なさそうに、彼女が相槌を打ってくる。 そのまなざしは、香澄さんたちの背中に注がれていた。 「お姉ちゃんたちは、順応が早いよね」 「そうだね。特に香澄さんはすごく頑張ってると思う」 「むぅ……それじゃまるで、あたしは頑張ってないみたい に聞こえるんだけど?」 「……何か頑張ってるの?」 「……わ、悪かったわね」 あんまり素直に認めるものだから、僕は噴き出しそうになった。 ……実際に笑っていたら、たぶん拳が飛んできただろう。 「それで芹花は、慣れたの?」 「…………う、ん」 歯切れの悪い返事だった。それもそうだよな。 「……お互い頑張ろう。父さんや春菜さんのためにもさ」 正直、言葉を選んだ。選んだ言葉が正しかったという確証はまったくなかったけれど…… 「……うん。そう、なんだよね」 それなりに納得してくれたのか、芹花は自分に言い聞かせるように、呟きを繰り返す。 「うん。そうなんだよ」 夕日に照らされた芹花の顔が、少し哀しげに見えたのは、この時だった。 「でも、あたしは……お姉ちゃんみたいに頑張れないかも しれない……」 「? ……それって、どういう意味?」 「い、いいでしょ、なんだって! 女の子にはね、 色々あるの! い・ろ・い・ろ!」 「あ~、はいはい。わかったよ」 「ふんっ!」 「あんたのせい……なんだからね」 「え? 僕の……なに?」 「バーカ、聞こえないように言ったの!」 「なんだよそれ」 「おっ先ーッ!」 「ちょっと……芹花っ!」 問答無用で、芹花は走っていってしまった。 「人を急かしておいて、置いてけぼりにするなんて」 傾き始めた夕日が、急速に建物の陰に消えていっている。 肝試しが始まる頃には、もうすっかり暗くなっていそうだ。 「お集まりの皆々さま。ようこそ今宵開かれる、 恐怖の宴へ……」 集まった全員に向かって、宗太が〈恭〉《うやうや》しく一礼した。 雰囲気づくりからこだわりたいんだろうけど、揃った顔ぶれが結局いつもの面々なので、なんというか……緊張感に欠ける。 僕は、海岸に集まった面々を、改めて見回した。 「久我山くん……張り切ってるね」 「あいつだけが張り切ってるの。いつものことよ」 そんなことを言いつつ、杏子と芹花は最前列で宗太の演説を聞いていたりする。 あとは、香澄さんと兄さん、そして雪下さん。 「あ、聞きましたよ、おじさまの再婚。 おめでとうございます」 「ありがとう。今度店に来たら、直接言ってやってよ。 きっと、喜ぶだろうから」 「はい、そうします。 今日は、そのおふたりは参加されていないんですか?」 「今頃ふたりで、愛を語らってると思うよ」 「あー……なるほど、そういうことですか。 ほかに家族のいない家、なんて絶好の……ふふふっ」 「それ以上言うのは、野暮ってもんだろ? フッフッフッ……」 「えーっと、そこのヘンな含み笑いをしているふたり、 俺の話、聞いてる~?」 宗太がそう言いたくなるのももっともなぐらい、ふたりの笑みは怪しかった。何を考えているのやら…… 「いいですかー? コースはこの浜辺から森を抜けた 先にある神社までで、行きは裏道から、帰りは 表道を下ってもらう」 「それから、境内には〈霊験〉《れいげん》あらたかなお札を用意してある ので、行った証拠に持ち帰ること」 「お札? そんなの、神社なんだからそこら中にいっぱい あるんじゃないの?」 「見ればすぐわかるようにしてあるさ」 ニヤリと笑う宗太。……仕込んでたのはそれ……だけかな? 「というわけで」 宗太は細く切った紙を7本握り締め、掲げて見せた。 「クジ引きでペアを決めます。1番と2番、3番と4番、 5番と6番がそれぞれペア。7番はひとりで行ってもら いますぞよ。けーっけっけっけ!」 「なら、あたしが最初に引く!」 「んじゃ、杏子ちゃんから、どぞー」 「なんでよぉぉ」 「え……い、いいよ、芹花ちゃんからで」 「いいからいいから、レディファーストさ」 「あたしがレディじゃないとでもっ!?」 不満丸出しの芹花を無視して、宗太は半ば強引に、杏子にクジを引かせた。 「4番……です」 「OK、次は……」 「次こそあたしよね」 「雪下さん」 「おおーい!」 ……宗太の奴、芹花をからかっているのかな?殴られない内にやめてくれればいいけど。 「2番ですね」 「はいな。次は、香澄さん」 「芹花ちゃん、先に引いてもいいわよ」 「ホント? やったー!!」 「いけません、お姉さま。年功序列ですから」 「さっきと言ってることが違うじゃない!!」 「……それはそれで、複雑な気分なんだけど」 なんだかぶつぶつと『どうせ私なんて、もう若くないわよね』なんてことを呟きながら、香澄さんがそれでもクジを引く。 「3番よ」 「お、杏子ちゃんとカップル成立~。 なら決まった組から、早速出発してもらいましょう~」 「はい。杏子ちゃん、行きましょう」 「よ、よろしくお願いします……」 ふたりは手を繋いで、森の道へ歩いていった。 「それじゃ、次こそあたしよね。次こそ!」 「雅人さん、どぞー」 「なんでじゃー!」 「1番。美百合ちゃんとか」 「よかった。久我山くんと一緒だったら、どうしようかと 思っちゃった」 ……今、何気なくひどいことを言った気が。 「ええいっ、早く出発してください! ごゆっくり~」 投げやりな宗太の声に送られて、兄さんと雪下さんのペアも出発していく。 残ったのは僕と宗太、そして芹花の3人。 「そーおーたぁく~ん? これはどぉぉいう意図なの かしらぁ~?」 「ん、そうだな。もう面倒くさいから、3人でいっぺんに 引くか」 「なんなのよ、あんたー!」 「…………」 僕は別に最後でもいいけど……ここまで露骨に芹花を無視するなんて、何を企んでいるんだ、宗太? 「もう、引くよ! 引いちゃうよ!! せ~の~っ!!」 「ほいっ!」 「…………」 仕方なく、芹花と宗太に合わせて、僕もクジを引く。 「えい! 6番!」 「5番」 「俺は7番だな」 「えぇ~ッ! 真一と行くの~? やだぁ」 「…………」 そこまで言われる筋合いはない……んだけど。 ここへ来るまでの間にも、芹花と微妙な話題を話したばかりだから…… 僕も香澄さんのように、しばらくは芹花を見守っていたい気がする。そのためにはあまり、近くにいない方がいいのかな……? 「――なぁ、宗太。これ、取り替えてくれないか?」 僕は、雑にボールペンで『5』と書かれたクジを、宗太に差し出した。 「あ……」 「おいおい、そんなのダメに決まってんだろっ」 「え? でも……」 「芹花が嫌がっているからって、代わろうとするお前の 優しい気持ちは、じゅうぶ~~~んにわかる」 「……?」 そういうわけでもないんだけど……宗太は勘違いのまま、僕を説得するためか演説を始めた。 「みんな正々堂々と戦い、クジ通りにペアを組んだんだ! キミたちだけそのルールを無視するのは、卑怯じゃない か?」 「……正々堂々っていうところ、突っ込んでもいい? だいぶ作為が入っていたよね、主催者の」 「Oh! キッオクニゴッザイマッセーン!!」 ……お前はどこの国の政治家だ、と突っ込んだ方がいいのかな、これは。 「あーぁ、もういいよ」 「芹花?」 「諦めて組めばいいんでしょ。真一と」 「そうそう。最初からそうやって素直になればいいの」 「…………」 「それではおふたりさん、よい旅を」 宗太が気取って、僕たちに暗がりの道を指し示す。 「ほら、あんたも観念しなさい」 「ん……」 「ごゆっくり~」 「……あとで絶対泣かす」 「Oh! ボウリョクハンターイッ!!」 森の中はとても静かだった。 静かだから、木の葉が風に揺れる音や、自分たちの足音がハッキリと聞き取れる。 波の音も、もうここには聞こえてこない。 「ちょっと、早く来なさいよ、グズ」 「グズって……」 「グズじゃないならのろまよ。鈍足。〈愚鈍〉《ぐどん》。バーカ」 「バーカ、バーカ!」 静かな森の中に、芹花の罵声が大きくこだまする。 「はいはい……」 「……受け流してんじゃないっての」 だって、意味もなく罵られても…… もしかしたら、前を行っているはずのみんなにまで聞こえているかもしれない。 まぁ、それならそれで、どこにいるかわかって便利かもしれない。 バカと言われていい気分はしないけれど、ここはこのまま、芹花の好きにさせておこう。 「……あれ?」 「なっ、何よっ!?」 何か、背中に視線を感じたような…… 「………」 「ちょっとー、黙らないでよー!」 芹花は僕のシャツの裾を、しわになるほどぎゅっと握り締めてきた。伸びちゃうってば。 「………」 「こらーっ!! なんとか言えーっ!! なんのプレイよ、 これはっ!?」 「プレイって…… まぁいいや、行こう」 「よぉくないわよーっ!!」 耳元でわめきたてる芹花をあしらいながら、僕は来た道を振り返った。 林道は、夜の闇と木々の枝葉に埋もれてほとんど見ることができなかった。そして、静かだった。 でも闇の中とはいえ、近づくものがあれば、その足音くらいは聞こえそうだ。 けれど、今のところ、そんな音も聞こえていない。 「……たぶん気のせいだ、と思う」 「だから何がーっ!?」 「いや……だから、あの木の向こう側からさ」 説明しながら僕は、右手側数メートル先の木を指差した。 「…………」 「あの木の向こうから、誰かが――」 「やめてぇーっ!!」 「えぇ?」 ……芹花は耳をふさいで、その場にしゃがみ込んでしまった。 目も閉じて、頑として聞く気がない、という意思表示もしている。 「……聞いてきたのはそっちだろうに」 僕は、芹花の隣にしゃがんで、続きを耳打ちした。 「誰かが通ったような気がしたんだけど」 おどろおどろしい声色を使ったのは、たまには僕もサービスしたくなったから。 「あー、あー、聞きたくないっ!!」 「いや、だから気のせいだって言ったでしょ」 「当たり前でしょっ!! ホントだったら怖いじゃない」 しっかり反応してくる辺り、こっちの言うことは結局聞こえてしまっているみたいだ。 「ちゃんと耳、ふさいでるの?」 「うっさい! 本当に全部聞こえなくなっちゃったら、 その方が怖いじゃないっ!!」 ……やれやれと、思っていたら、おもむろに立ち上がって、ギクシャクせかせかと前に歩き出した。 右手と右足が、同時に前に出そうな勢いだ。 「もう、やだー! 早く早くっ、先に進むのー!」 「そんなに急ぐなって。暗くて足元見えづらいんだから」 「何よあんた、こんな所にずっといたいわけ?」 「いたくはないけど、ひとりで先に行きたいの?」 「…………」 せかせかと、芹花が傍に戻ってきた。 「な、なんだかんだ理由をつけて、ホントは真ちゃんが 怖いんじゃないの~っ。お、お手々繋いで引っ張って あげようか!?」 「…………」 ……遠回しに、怖いから手を繋げ、と言われてる? 芹花が意外と恐がりなのは昔から知っていたけれど、なんか拍車がかかっているような…… 「きゃぁっ!」 「え? 何?」 「な、ななな、なんかいたー!」 「ちょ、ちょっと……ええ?」 何が起きたのかわからないまま、今度は芹花が腕にしがみついてきた。 「茂みの向こうで! 何か! 動いたの!」 芹花はすっかり怯えて、涙目になっている。 「どこ?」 「そこ!」 彼女は震える指を、真っ暗で何も見えない森の中に向けた。 「んー……」 一応、その方向を覗き込んでみる……けど、芹花の言う『何か』は見当たらない。 「……猫か何かじゃなくて?」 「いたいた絶対何かがホントにいたーっ!!」 幽霊の、正体見たり、枯れ尾花、だったかな。この様子じゃ、そもそも本当に何かいたのかも怪しい。 「わかったから、とにかく先に進もう」 「ま、待ってよ!! こんな所に置いてかないで!!」 「…………」 僕は芹花を腕に引きずったまま、森の道を奥へ奥へと進んでいくことになった。 「ううぅぅぅ……」 やがて、森の梢が厚さを増し、足元が見えないくらいの暗闇になっていく…… 「ねぇ、ゆっくり歩いてよ」 「ん……」 とはいえ、ただでさえ芹花がぎゅっと腕を掴んでくるから、歩きづらいことこの上なくて……何か、灯りになるものを持ってくればよかった。 「ゆっくり、ゆっくりね……!」 「ああでも、ゆっくりだとまた……なんか出るかも しれないし」 「は、は、早く行こう? で、でも、あたしがついて いけるぐらいでね?」 いつもの勢いはどこに置いてきちゃったんだ? 「うぅぅぅ……」 暗さが増す毎に、芹花のしがみついてくる力が強くなってくる……どれだけ必死なのか。 「芹花」 「ひゃいっ!?」 ……名前を呼んだだけなんだけど。 「少し、力緩めて」 「……………………」 「ヤダ」 「ヤダって」 「なっ、何よ、真ちゃん怖いの?」 「…………」 どう見ても、怖がっているのは芹花なんだけど。 「ひ、ひとりで逃げようったって、そうはいかないん だからねっ」 「いや、そんなつもりじゃなくて」 「だっ、だったらいいじゃない、このままで。 こんな可愛い幼なじみが、わざわざ腕を組んであげてる んだから、い、いーじゃないっ」 「いや、まぁ……」 組むというより、しがみついて離れない、ね。 「歩きにくいだけなんだけど……」 「ちょっとくらい我慢しなさい!!」 「……はいはい」 これはもう、諦めるしかないかな。 「んもう……イジワル……」 何か呟いて、芹花がますますぎゅっと、しがみついてくる。 と―― 「……う」 歩きにくい以上の、もうひとつの問題を意識してしまう。 「怖くない怖くない、全部気のせい全部気のせい…… あれもこれもそれも全部、真一のせい真一のせい……」 おまじないのように迷惑なことを呟いている芹花の……胸が、僕の腕に強く押しつけられている。 「…………」 芹花は自分では気づいていないみたいだし、今はそれどころじゃないんだろう。 腕も、手も、指も、僕を痛いぐらい掴んで力が入っているけれど、その身体はどこも柔らかな印象で……やっぱりというべきか、そこはとても女の子らしい。 その中でも胸の感触の柔らかさは、別格。 触れあった部分が熱いのは、夏の夜の蒸し暑さのせい……だと思いたい。 昔はぺったんこだったんだけど、芹花もいつの間にか、女性らしく成長していたんだなぁ…… なんて感慨にふけっている場合じゃなかった。 密着されている内に、こう、身体の下の方が、芹花にバレたら即『変態!』と罵られそうな状態になってしまっていた…… 「うぅ……」 「何っ!? なんか出た!?」 「あ……いや、違う違う。なんでもないって」 「おっ、脅かさないでよぉ!!」 これは宗太の目論見通りなんだろうか、肝試し中のカップルが定番で交わすような会話を繰り広げながら…… 僕はやや腰が引け気味になっていて、芹花はその僕を逃がすまいとしがみついてくる。 意識し過ぎたかな…… 「えぐっ……えっ……うくぅ……」 「えぇ?」 気づけば、芹花はもう臆面もなく、泣きべそをかいている。 「バカァ……バカバカバカバカバカー! 真一のばかぁ」 「な、なんでっ」 「もっと優しくしなさいよぉ……あたしだって、 女の子なんだからぁ」 そんなに怖かったのか…… 「ごめん……怖かったよね」 「怖く……なぁい……ぐすっ……うぇ~ん……!」 そこはまだ強がるんだ…… 「じゃあ、どうすればいいのさ?」 「…………そ、」 「そ?」 「そんなの自分で考えなさいよっ! ふぇーん!!」 ……怒ったり泣いたり、忙しいな。 「あ~、もうっ、泣くなって。らしくもない」 「らしくないって何よぉ。何があたしらしいのよぉ…… ひぅっ、うっく」 「じゃあ、ほら。手繋いであげるから」 「……う……え?」 「手。さっき、怖いなら繋いであげようかって、芹花が 自分で言ったんだろ」 「手……」 そんなに意外なことだったのか、芹花がきょとんと泣き止んだ。 「…………手、か」 「そう、手。はい」 彼女の腕が緩んだので、身体を離し、改めて向き合って手を差し出す。 「ぐずっ……う、え、えっと……」 「その方が、僕も安心だしさ」 「……ん。それじゃあ……はい」 芹花は意外と素直に、僕の手を握り返してきた。 「これで怖くないでしょう?」 「……ん」 「……ち、違うぅ。怖いわけじゃない。そういうわけじゃ ないもんっ」 「はいはい」 彼女をあやしながら、歩き出す。 芹花はまだちょっと鼻をすすりあげていたけど、それも、その内聞こえなくなった。 「…………」 「…………」 無言で、ただ歩いていく。 芹花の手の平が、僕の手にぎゅっと押しつけられている。 目の前が暗闇でよく見えない代わりに、皮膚と皮膚が触れ合う感覚だけが、やけに際だって感じ取れる。 彼女の手はやっぱり柔らかくて、しっかりと握り返してくるその感触が心地よくて、そして―― 「あったかい……」 そう、ひどく安らぐ温もりを……て、えっ? 「なんだって?」 「……う……あ、暑いって言ったの。ホラ、夏だし」 「……あ」 一瞬、どう答えればいいのかわからなかった。 わからないまま、口だけを動かす。 「今夜は結構涼しくない……?」 つい、考えなしに突っ込んでしまった。だって、風も強いし。 「あんた……いちいち反論しなきゃ気が済まないわけ?」 「あ、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど」 「……バカ。なんでも謝ればいいってもんじゃないでしょ」 芹花が怒り出したら、僕が謝る。それはいつの頃からか繰り返してきた、いつものパターン。 受け流している内に、芹花の怒りは収まるし、僕も別にいちいち傷つくほどのことじゃない。 そんな、お互いにとっては『お約束』みたいなやりとりで…… 「やりにくいでしょ、もうっ。軽く流せばいいのよ、軽く 流せば! それなのにいちいち真に受けちゃってさ」 「いや、えーっと」 「こんなところで話し込んでいてもしょーがないんだから、 さっさと行きましょ、さっさと!!」 「う、うん」 脚を速める。芹花を僕が引っ張る。 「もうっ……」 不満そうな声を漏らしつつも、芹花は僕の手を離そうとしなかった。 そして僕も……彼女の手をほどく気には、なれなかった。 「……ねぇ」 「何?」 「……やっぱいいや」 「なんだよ」 「…………」 短いやり取りのあとに、長い沈黙が生まれる。 そんな繰り返しをしながら、土と草を踏みしめて歩く。 「真一さぁ」 「何?」 「……ほかの子と組んだ方が、よかった?」 「……なんで?」 いきなり何を言い出すんだろう? 「いや、あたしとじゃその……色々、面倒なんじゃない かって」 「別にそんなことは……慣れてるし」 「わ、悪かったわね! 子供の頃から、迷惑かけっぱなし で!!」 「そういうんじゃないけど……気楽だからいい、って 言ってもダメ?」 「……あたし相手だと、気楽?」 「うん」 胸を密着されたのは、ちょっとドキドキしたけど…… ふたりきりでもヘンに緊張しないで済む相手だし、泣いたり怒ったりされても、どうすればいいのかある程度わかっている相手だから、慌てないで済む。 そういう意味での、気楽さ…… 「…………それはそれで、なんか悔しいわね」 なんで悔しいの? 「お姉ちゃんとだったら、緊張したりする?」 「……はぁ?」 「どうなのよ。こんな風に――」 ぎゅっ、と手を握る力が強くなった。 「……手なんか、握っちゃったりするわけ?」 「しない……と思うけど」 「じゃあ、杏子や、美百合とは? どさくさに紛れて 抱きついちゃったり」 「しないって。そんなことしたら、まずいでしょ」 「……あたしとは、まずくないわけ?」 「それは……」 繋いだままの手が、じんわりと汗ばむ。 「……そういう意味じゃないって」 「そういうって、どういう意味」 「わかるでしょ?」 「わかんないから、聞いてるの」 「なんでそんなに絡んでくるのさ」 「それは……その……」 彼女の手が、自信なさげに緩められる。 僕はそれを、こちらからしっかりと握り直した。 「……っ」 「らしくないよ」 「…………」 「らしくない」 こんな僕も――こんな芹花も―― まるでらしくない。これまでと違う。 僕らを取り巻く環境が大きく変わってしまった、その影響なのかな、これも…… 「らしくない、か……」 芹花が呟くように言った声には、苦笑というか……自嘲?そんな響きが含まれていた。 「あたしらしさって、なんなんだろうね? ホント」 「…………」 「幼なじみとふたりっきりになっても、ほかの子と違って、 女として意識されないところ、なのかしら」 「…………」 「手を繋いでも、抱きついてもへーき、なんて」 意識なら、した。 したけど……それを口に出したら、僕たちは……どうなってしまうんだろう? これまでなら、僕が殴られて終わり、っていう気がするけど…… 「どうせ……」 「どうせ、何?」 「……んーん」 芹花は首を軽く左右に振った……ようだった。 振り向いて見た時には、ただ俯いていて、その表情も窺えなかった。 「……どうせあたしなんてって、らしくないこと考えた だけよ」 「…………」 それこそ、らしくないんじゃないか――と、喉元まで声が出かかった。 道を抜けてようやく、神社の境内に辿り着いた。 草むらからかすかに、気の早い虫の声が聞こえてくるぐらいで、敷地内はひっそりと静まりかえっていた。 「……誰もいないわね」 「うん……」 なんとなく手を繋いだまま、辺りを見渡す。先に出発した組は、もうお札を見つけて行ってしまったのかな? 「まぁ……いいか。お札ってどこかな?」 「――あれかな。賽銭箱の上」 「は? そんな所になんで……って……何あれ」 僕の見つけた物に、芹花もげんなりとした声を出した。 古びた境内には不似合いな、ポップな柄の包装紙を貼り付けた箱が、賽銭箱の上に置かれていた。 絶対宗太の仕業だ――そう顔を見合わせて、僕たちはその箱に近づき、中を覗き込んだ。 「……あいつ、アホね」 「何を今さら」 箱の中には、宗太の写真を白黒コピーしたらしい紙に、『証拠』と筆ペンで書かれた物が入っていた。 また、印刷されている宗太の顔がヘンに得意げなのが、なんとなく癇に障る。 「なーにが、〈霊験〉《れいけん》アラタカなお札よ、宗太の奴。 これ、破り捨てちゃダメなのかしら?」 「どうせやるなら、あいつの目の前でやってやった方が いいよ――ん?」 「何よ。なんかほかにある?」 「いや逆。これ、最後の一枚だ」 「? それがどうしたの?」 「だって、まだ宗太が来るはずだろ。ひとりで」 「あ……」 そう、この箱にはもう一枚、お札(?)が入っていなくちゃいけないはずだ。 それなのに、もうからっぽ。これはおかしい。 「……どういうこと?」 「宗太が僕たちを追い抜いて、先にここへ着いたから 持っていった、というならわかるんだけど」 森の中は静かだったから、人が近づいたり、追い抜いていったのなら、わかりそうな気がする。 それに僕たちは道沿いに、ここまで真っ直ぐに来た。芹花が怖がっていたのもあって、最短コースを歩いてきたはずだ。 暗い森の中を、道以外をショートカットして神社に辿り着くのも……難しい気がするけれど…… 「……ま、まさか」 気づけば、芹花の顔色が悪い。 「あたしたち以外の誰かが、ここに来て、持っていったと か……?」 「誰か、って?」 「わかんないわよっ、そんなの! こんな写真、欲しがる奴がいるとも思えないけどっ」 芹花が、無駄にいい笑顔の宗太お札(?)を手に取って、ぶんぶん振り回す。 「ほ、ほら、怪談とかでよくあるじゃない? 参加者が いつの間にか増えてたり、減ってたりするタイプのやつ」 「怖がりなくせに、なんでそういうの知ってるかなぁ」 「お姉ちゃんがその手の本とかビデオ、一緒に見ようって 誘ってくるんだもの!!」 そういえば香澄さん、前に一緒にホラー映画を観に行った時も、ひとりで楽しそうだったしなぁ。 「と、とにかくよ? そういうことでなんか、宗太が いなくなったりとか、逆にあたしたち以外誰ももう、 この世にはいないとか……」 怖がりもここに極まれりというか、よくそんな発想が出てくるなぁ。 「僕は、どっちかっていうと、陰謀説を推したいんだけど」 「陰謀説ぅ~?」 何それ? と疑わしげな目を向けてくる芹花に、最初に引いたまま持ち歩いていたクジを取り出して、見せる。 「宗太の奴がさ、クジ引きの時やけに強引だったろ?」 「あ……うん」 自分がないがしろにされたことを思い出したのか、芹花が納得と同時に……不愉快そうな表情を浮かべる。 「そういえば……うん、な~んか仕組んでる感じだった わね」 「そう。理由はよくわからないけど、あいつに何か考えが あってそうしたんなら、これも――」 僕が、宗太が用意したらしいお札(?)を指差した時―― 「キャッ!? な、何? 何なに!?」 パァンッと、乾いた音がした。それに今、空に広がったのは…… 「……花火だ」 「え……」 一発、二発と、そう遠くない場所から、ロケット花火を打ち上げている音が聞こえてくる。 「ひゃほーい!! た~まや~!!」 「宗太!?」「宗太!?」 聞こえてきた声に、僕たちは顔を見合わせて叫んだ。 花火の音が、何より宗太の声が聞こえてきた方向へと、駆ける。 芹花も、もう怖いなんて言わず、怒りの形相で暗闇へ飛び込んでいく。 「あ~い~つ~! 何考えてんのよ!!」 「ぼ、僕たちだけそっちのけで、花火を始めたってこと なのかな?」 「にしたって、そんなのやるなんて聞いてないし! そもそも宗太はちゃんと神社に行ったの!? 行ってないの!?」 芹花が持ったまま走っている宗太の写真をコピーした紙が、強く握られて、くしゃくしゃになっていく。 まるで、これから訪れるだろう、あいつの運命を暗示しているみたいに…… 「問いただして、ことと次第によっては……見てなさいよ、 宗太の奴~~~っ!!」 自分が散々怖い思いをしたせいか、芹花は本気で怒っているみたいだった…… 神社から海岸へ続く表道は、さっき通ってきた裏道よりは道幅も広く、整備も行き届いていた。 街灯は少ないけれど、月明かりだって届いているし、歩きやすさで言えば裏道よりずっとマシだ。 「ほら! 真一! 早く! 戻る!」 芹花、興奮しすぎてカタコトになってる。 僕らは駆けて駆けて駆けて―― 「はぁ、はぁ、はぁ、ぜっ……すぅぅ」 「久我山宗太ぁぁぁぁぁっ!! 出てきなさーい!!」 ゴール地点近くで、絶叫した。 「ん、呼んだ?」 「あんたって奴はぁぁぁぁぁっ!!」 あっさり現れた宗太の襟首を、芹花が締め上げる。 「一体どういうこと!? 説明しなさい!! 説明!!」 「ぐ……ぐるじぃ……」 宗太が、救いを求める目で僕の方を見てきたけど、僕も説明して欲しいひとりだったので、スルーした。 「O……Oh……ヒショノヤッタ……コトデス」 「……へぇ~。まぁだ余裕ありそうねぇ? このまま海に 沈めてあげましょうかぁ?」 「ま……待てって、不幸な……行き違いだって、きっと」 「……じゃあ、聞かせてもらおうかしら?」 芹花が力を緩めると、宗太は軽く咳払いをしてから…… 「で、なんかあったのか?」 と、すっとぼけた。 「――いっぺん死なせてあげましょうかぁ、 あんたって奴はっ!!」 「ギブッ! ギブッギブッ!! ヘルプミ~!?!?」 あー……宗太がどんどん、砂の中に埋め込まれていく。 ちょうどいい窪みがあったからって、芹花、メチャクチャするなぁ。 「ま、まぁ待て、話し合おう。冷静にな?」 「冷静も何も、あんたがっ!!」 「だから、俺が何をしたか、説明してくれって」 「え、そりゃあ……」 芹花が、改めて宗太に聞かれたことで……困った顔で、僕に顔を向ける。 って、ここでこっちに振る? 「あー……宗太さぁ」 仕方なく、砂に半ば埋められてしまった宗太の前にしゃがみ込んで話しかける。 頭の中で考えを整理して、とりあえず外堀から埋めていくことにした。 「……神社、行った?」 「行ったぞ」 「えっ!?」 僕も驚いた。そう言われてしまっては、お札(?)が一枚少なかったことに、説明がついてしまう。 「ウソっ、じゃあこれ持ってるの!?」 芹花が、ここまで来る間にすっかりくしゃくしゃになってしまった、コピー用紙の成れの果てを見せる。 ぼろぼろになった自分の写真を見て、宗太が少し切なげな顔をしたけれど……それはまぁ、自業自得じゃないかなぁ。 「……そのお札、ちゃんと持ってるけど、今はポケットの 中だ」 「……初めから持ってたんじゃないでしょうねぇ」 芹花の指摘ももっともだ。あれを用意した張本人の宗太なら、最初から一枚抜いておくこともできる。 「疑うなら、みんなに聞いてみてくれよ。何枚残っていた か、さ。向こうで花火始めているから」 少し離れた所で、花火の輝きに照らされて、楽しげに笑っている香澄さんたちの姿が見えた。 「ふふ。こうしていっぺんに火をつけて大きな火の玉に するのが、線香花火の醍醐味よね」 「ちょっと邪道だと思いますけど……」 「それならはい、分身の術~」 「あ、分かれた! 綺麗……」 「でも偏ってますよ! 大きさが偏ってます!!」 「……それはあとでいいや。 それはそれとして、花火のことも聞いてないんだけど」 「そうだったか? すまん、それは俺の伝達ミスだ」 ミス……ねぇ。 「んー……じゃあ、最大の疑問。どうやって、僕たちより 先に、あの神社へ行ったの?」 「そうよ、どうやって追い抜いたわけ? まったく気づか なかったんだけど」 僕らの問い詰める目を真っ正面から受け止めて、宗太の奴は…… 「ふっ……空を飛んだのさ」 「…………」 「…………」 「知らないのか? 生徒会長ともなれば、ちょっとぐらい 空を飛ぶのは造作もないんだぜ」 「…………」 「…………」 「……真一、行きましょうか」 「そうだね」 「えっ!? いや、ちょっと待って、掘り出してからに して!?」 「いかにも夏の想い出って感じじゃない。砂に埋まって、 ゆーっくり、眠るの」 「それは昼間、水着でやるからよいのであって!」 「じゃあね。達者で死んで」 「たーすけてー!!」 僕ら以外のみんなは、もうとっくにゴールしていたらしい。それぞれ手持ち花火に火をつけて、はしゃいでいた。 「遅いですよ、おふたりさん」 「ちょっとね……」 無駄に疲れた……そんな顔で芹花が呟く。もう、宗太のことをみんなに聞いて回る気力もない。 「ホントもう……何がしたかったのかしら、あいつ」 「さぁ……」 さっき宗太を埋めてきた方を見ると、暗がりの向こうから、もがいているらしいあいつの声が聞こえてきた。花火が終わるまでに、抜け出してこれるかな? 「? 何かあったんですか?」 「あったといえば、あったんだけど……」 「宗太に、一方的に振り回された感じ」 「はぁ……よく、わかりませんけど。 せっかくですから、これでもどうぞ」 はい、と雪下さんが何本か、まだ火を点けていない花火を差し出してくれる。 「……はぁ、そうね。気分転換、気分転換♪」 芹花は吹っ切るように言うと花火を受け取り、火を借りた。 「よーし、着火ーッ! いえぇー!」 「キャーッ! こっちに向けないでー!!」 「こら芹花ちゃん! 危ないわよ」 「はーい、おねーさま~」 「まったくもう……」 「それそれそれ~!!」 「……綺麗」 「踊れ踊れ~~~っ!!」 勢いのいい花火を持ったまま、自分が踊るようにくるくる回って……危ないというかなんというか。 「あっはははは~♪」 「ふむ、元気が出たみたいだな」 「あれ。思ったより早いね」 「生徒会長だからな。 あの程度の深さじゃ、俺を埋めたことにはならない!」 フッ、と無駄にかっこつけて言う宗太の仕草が……本当に無駄だった。 「それはそれとして、ちょっと来いよ」 「え、何?」 「そぉ~れ、ねずみ花火5連発~~~っ!!」 「芹花ちゃん、危ないからやめなさーい!!」 「どうしたのさ」 「まぁまぁ。ちょっとした内緒話だよ」 「内緒話?」 「芹花のことなんだけど」 「…………?」 今もまた、芹花は新しい花火に火を点けて、楽しげに笑っている。それはものすごいハイペースで、花火を消化しているようだった。 「はい、点火ーッ! あはははー!」 「どうも、いつもの元気さがないというか…… らしくない感じがしたからさ」 「…………」 らしくない、か……さっき、本人もしきりに口にしていたけれど…… 「気づかなかった、とは言わせないぞ。 お前も一緒になって、カフェで暗~い顔並べてたんだし」 「僕……そんな顔してた?」 「してた。店の名前に謝れ」 「…………」 “〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”その名前の意味は――「笑顔」。 「……ごめんなさい」 「ホントに謝るなよ! いやまぁ、そういうところはお前らしいけど」 「どうせ、親父さんたちの再婚話で、色々思うところが あるんだろうけどさ」 「…………」 「ならば、ここはふたりの共通の大親友であるところの 俺が、ひと肌脱がねばなるまいって、そう思ったわけよ」 「……まさかと思うけど、それで色々仕組んでたわけ?」 僕の問いかけを、宗太は否定も肯定もしなかった。ただニヤリと笑ってみせただけだった。 その直後―― 「のわっ!?」 「危なっ!?」 僕たちの足下に、ロケット花火が飛んできて突き刺さった。 「あっははははははは! のわっ、だって~!」 「おいこら、芹花の仕業か!! ロケット花火は水平に 打っちゃいけないんだぞ!!」 「事故よ、事故♪」 「はぁぁ……」 「……ま、色々楽しんでもらおうと、趣向を凝らしている わけですよ、俺は」 「そう言われても、よくわかんなかったよ、肝試しのあれ は」 「そっか? 小細工しすぎたかな」 「まぁ……芹花を元気にさせた、という意味では、うまく いったのかもしれないけど」 最終的には、宗太に怒りをぶつけて、今はああして花火を心から楽しめるぐらい浮上したわけだし。 「あんまりそこで、男同士で密談してると、また花火打ち 込むわよ~」 「密談!?」 「妖しい響きですね……」 「何も妖しくないから!」 「ったくもう……」 「ふむ。みんなが楽しんでくれるなら、俺は別に 妖しくても構わないが」 「そこまでしなくていいから」 というか…… 「なんでそこまでするのさ」 「ん?」 「芹花のこと気遣ったり、身体張り過ぎだよ」 「……俺はただ、芹花とお前に、元気でいて欲しいだけ だよ」 そう言って笑みを浮かべる。 「友達だからな」 「……ありがとう」 そうとしか言いようがないし……そこまでされることに、ほかに感謝の示しようがない。 「それ、芹花にも正直に言えばいいのに。素直に礼を言う とは思えないけど、きっと感謝するよ」 「んー……そいつはやめとくよ」 そう言って、宗太はまぶしげに、花火を楽しむ芹花たちのことを見つめた。 「俺にできるのは、ま、このぐらいまでさ」 「……そう?」 「ああ」 宗太の顔から笑みが消える。 「あとは、お前たち次第だろうし」 「ん、んん」 「これから大変だろうからさ」 「それは……まぁ。引っ越しとか、大変だろうけど」 「それだけじゃなくて、さ」 花火の音が遠く聞こえる。波の音が、寄せては引いていく。 「芹花のこと、ちゃんと見てやれよ。でないと……」 「でないと……?」 さっきから宗太は、何が言いたいんだろう。何を僕に伝えたいんだろう。 普段のおどけている顔じゃなくて、妙に真面目くさった表情を浮かべている、宗太は―― 「でないとあいつ、相当無理して……どんどん、 らしくなくなっていくんじゃないかな」 そんなことを、口にした。 「……はぁ」 また、ため息だ…… 「……はぁぁ……」 日に日に、芹花のため息の数が増えている。 ふたつの家族がひとつになって……同居を始めた日から。 「……はぁ」 あぁ……僕まで。 父さんと春菜さんが婚姻届を出して、僕らは法律上正式に家族ということになった。 そして、問題の同居生活はなし崩し的にスタートしてしまっていて。 春菜さん曰く、家族なんだから一緒に住むのは当然、ということらしい。 僕は、芹花が何か言いたげなのに気づいていたけれど、結局何もしてやれなかった。 芹花も芹花で、表情を曇らせることはあっても、それ以上は何も言わなかったし、しなかった。 芹花だってもう子供じゃないから、聞き分けようとしているのかもしれない。 でも……なのに…… 「……はぁ」 芹花のため息は、尽きない。 時間が解決してくれる。……はずだ。たぶん。おそらく。 芹花以外のみんなは予想以上にすんなりと、この生活を受け入れていた。ため息ひとつつかず、いつも通り振る舞っている。 だから少なくとも表面上、僕らの新しい家族生活はなんの問題もなく、平穏だった。 「…………ふぅぅ」 ため息の数を除いては…… 「やっぱり家族の食卓はお鍋だと思うの!」 「鍋……? 真夏に?」 春菜さんは相変わらず、父さんのところにやってきては、僕たちの前でも平気でイチャイチャしている。 「すき焼き、石狩鍋、海鮮鍋、キムチに豆乳、湯豆腐、 カレー……それからそれから~」 「今夜はどれにする、あなた?」 「夏なんだけどな」 「やぁ~だ! 汗だくだくで食べるのがおいしいの、 大丈夫!」 「大丈夫じゃないでしょう、お母さん……仕事して!」 音もなく現れた香澄さんが、父さんと春菜さんの間に割って入った。 「わっ……! びっくりしたぁ、急に出てこないでよ」 「はーい、お店に戻りますよー」 香澄さんが、春菜さんの首根っこをむんずと掴み、そしてそのまま、ずるずると引きずっていく。 「あぁ~ん、真彦さ~ん!」 この光景も、ここ数日の内に何回見たことだろう。 「お父さん、お邪魔さまでした」 「あぁ、よろしく」 ドアベルを響かせて、香澄さんと春菜さんは店を出ていった。 「春菜さんも大変だなぁ」 どちらかと言うと、大変なのは香澄さんの方だと思う…… 「…………」 「…………」 「…………」 ふたりがいなくなると、店の中はすっかり静かになってしまった。 父さんはいつもこんな感じだから、いいとしても…… 「…………」 芹花が静かにしているのが、すごく不気味だ…… 「……うーん、と」 何か話題を……と思って頭を働かせてみても、何をどう切り出していいのかさっぱりわからない。 「…………」 僕が固まっていると、やがて芹花が、ぽつりと呟いた。 「ホント変わんないわね、ウチの賑やか家族は。 ねぇ、真一?」 「え? まぁ。そうかな」 「うん、変わらないよ。変わってない、何も……」 「うん、そうだね」 ……そう答えながら僕は、本当は逆のことを考えていた。 変わったか、変わらないかで言えば……変わっている。もちろん、ほとんどはいい方向に、だ。 父さんと春菜さんの結婚は、家庭に笑顔を増やしてくれた。 僕ら家族だけでなく、杏子も表情を緩めていることが多い。 さっきも思ったけれど、やっぱり少なくとも表面上、僕らはとても順調だった。とてもとても、本当に。 「香澄さんは、仕事、楽しそうだよね」 「……そうね~。なんだか急に張り切っちゃって~。 あたしが手伝うことなくなっちゃって~。 おかげで毎日暇なの~」 「それは……手伝いなよ」 「え~、そういうのだるいし~、めんどいし~」 何その、覇気のないコギャル(死語)みたいな…… 「あーぁ、暇だなぁ~」 「だから……」 暇だと嘆く間に、家のことをすればいいのに。 「暇なら、ウチの方を手伝ってくれてもいいけど?」 両手を広げて店の中を示す。床の掃除、テーブル拭き、仕事はいくらでもある。 だけど、芹花は…… 「NO! 真一くんの貴重な活躍の場を奪うようなことは できないわ!」 そりゃ、どういう意味だ。 「大体、この芹花ちゃんがウェイトレス姿で仕事したら、 いやらしい目をしたご新規さんが常連客になっちゃう かもしれないじゃない?」 「本当にそうなるなら、営業的にはいいことだけど」 「疑わしそうな声ねぇ」 「そういえば……」 はたと、父さんが食器を拭く手を止めて、ぽつりと呟いた。 「以前話したウェイトレスの制服、先日クリーニングから 戻ってきたよ」 「いぃっ!?」 「……あ、母さんが昔、用意したっていう?」 「ああ、前に芹花ちゃんが着たがっていたから」 「着たがってはおりません! ええ、着たがってはおりま せんよぉっ!!」 全否定だなぁ。 「もしかして、恥ずかしいの?」 「似合うわけないからよっ!!」 いやそんな、自己否定されても。 「そうだ! 杏子に着せましょ! あの子ならどんな 可愛い衣装でも似合いそうだわ」 「自分が働きたくないからって、杏子に押しつけるなんて」 「そんなんじゃないわよっ!! あたしが本気を出せば……出せばぁ……」 「出せば?」 「……はぁ」 いきり立っていたはずの芹花が、またすとんと椅子に腰を下ろしてしまう。 「なんか……疲れた」 「は?」 「……はぁ」 また、ため息。それっきり、暇だともウェイトレスとも言わない。 「芹花?」 「……ん~?」 ……まるで興味なし、な感じだ。 「……どこか、具合でも悪いのかい?」 さすがに父さんも、目の前でこれだけ露骨に浮き沈みを見せられると、心配せずにはいられなかったみたいだ。 けれど、芹花の方はただ首を横に振っただけだった。 「そういうわけじゃないんですけどね……はぁ」 「また……」 また、ため息だ。 「……………………」 「……芹花」 変わったか、変わらないかで言えば、変わった…… そして、一番変わったのは、芹花だった。 急に環境が変わって戸惑っているだけなら、心配いらないんだ。 それはきっと、やっぱり、時間が解決してくれる。でも、今の芹花は……どうにも気になった。 変化は……悪い方にも起こりうるのだから…… 「……そういえばさぁ」 「ん?」 「杏子と雅人さんは? なんか、見かけないけど」 「ああ、ふたりなら――」 「杏子ちゃんは川へ洗濯に、雅人さんは山へナンパしに」 「…………」 「蹴られた!? 無言で蹴られたよ!?」 「タイミング悪いよ、宗太……」 「ウソっ!? 絶妙のタイミングを見計らって、クールな 笑いを提供しようとしたのに!?」 ……クールな笑いって、お寒いってこと? 「ギャグだとしたら1点ね。バカにしてるんなら、 もう2、3発蹴飛ばしてあげるけど、どう?」 「1点の方でお願いします……」 「やーい、やーい、1点! 1点!」 「子供か……」 「誰が子供だー!」 芹花は、今度は僕を突き飛ばして…… 「っとと……!!」 「わっ、危な――」 ふたりしてもつれ合って、転びかけていた。芹花の奴、なんかふらふらしてると思ったら―― で、僕は咄嗟に、芹花の身体を支えようと、腕を伸ばして―― 「きゃっ!!」 結局ふたりして、床に倒れ込んでいた。背中を床にしたたかに打ち付ける。 「ったぁ……」 「おいおいっ! 大丈夫か?」 「どこか打ってないかい?」 「背中……ぐらい。イタタ……」 「あ……!」 「……?」 芹花の顔が、間近にあった。 「わ」 僕は、彼女を抱き留める格好になっていた。腕の中、胸の前から、芹花が僕をまじまじと見ている。 あの、柔らかな身体が、僕の腕の中にある…… 「…………っ」 心臓が跳ねた。 全身を走る血液が、沸騰したみたいに熱くなる。 「なん……なんでもない! 何かあるっていうの? なんにもないでしょう、見ればわかるじゃない!」 鼻も触れそうな、そんな距離で、芹花と目が合っている。 彼女の息が、僕の肌をくすぐる。 「……はなしなさいよ」 「あ、ああ……ごめん」 芹花が身体を起こして、僕から離れていく。 「真一、立てるか?」 「う、うん。つつ……」 背中と……腰に少し、痛みがはしる。後頭部を打たなかったのは、不幸中の幸いかな。 「店の手伝いはいいから、奥で少し休んできなさい。 少しでも痛いところや、おかしなところがあったら、 すぐ病院へ」 「平気……だと思うけど、うん、ありがとう。その通りに させてもらうよ」 「…………」 「芹花は平気?」 「あ、うん」 「ならよかった」 「……お人好し」 「ん?」 「人の心配してないで、文句のひとつも言いなさいよ!  あたしが悪いんだからっ」 「う、うん……でも」 「……ばか」 「芹花……」 「らしいっていえばらしいけど……素直じゃないねぇ」 奥へと引っ込んでしまった芹花を、僕たちは見送るしかなかった。 「あっぢぃなぁ……どうして夏ってのは、こう暑いん だろうなぁ」 「どうしてって、夏だからでしょ」 翌日――僕は宗太と、なぜか神社の境内にいた。 宗太は手で空気を扇いで、服の中に風を送っていた。 「ここなら涼しいかと思って来てみれば、湿気でムシムシ してるし、蚊がわんさかわんさか、ぶんぶんぶんぶん 飛んでるし……」 神社の境内を見回して、宗太はぼやき続ける。 「わんさかわんさか、ぶんぶんぶんぶん!」 「こんなんなら、来るんじゃ なかったなーぁっ!」 「……僕はお前に、無理やり連れてこられたんだけど?」 「だって、暇だろ?」 「決めつけないでよ。 まぁ……暇だったけど」 「真一を一人前。テイクアウトで」 また誰かに聞かれてあらぬ誤解が生まれる前に、僕はテイクアウトされることを選んだ。 「とりあえず、昨日の今日だからな。どっか具合悪くして るんじゃないかって、心配で見に行ったんだが」 「おかげさまで、ただの打ち身だけ。特に悪いところは ないよ」 「悪いのはむしろ、日本の気象だな。 あぢぃ~……あぢぐで死ぬ~。てーか、死にたい」 「……同感」 ふたりで、夏の青空を見上げる……まるで空全体が太陽になったみたいにまぶしい。 あぁ、むやみやたらに暑い……腕の肌がチリチリと太陽の光に焼かれていて、火傷しそうだ。 髪の毛の中に指を通すと、うんざりするような熱気が溜まっているのがわかった。 こんなことなら、やっぱりお店を手伝っていた方がよかったかな? 「アイスもすぐなくなっちゃうしなぁ」 宗太は、とっくに食べ終わったというのに、まだ未練がましく持っていたアイスの棒を、口に咥えた。 「食べればなくなるのは当たり前」 「ひゃべてもひゃくひゃらないひゃいふとふぁあふぇば いいひょひひゃあ」 多分『食べてもなくならないアイスとかあればいいのになぁ』と言ってるんだと思うけど…… 「ないよ」 「で、僕をわざわざ連れ出したのは、アイスについて 語るため?」 「ん……んにゃ」 アイスの棒を口から離して、宗太は僕の目を見た。 「お前もだけど、芹花の様子も気になってさ」 「あ、ああ……」 そういえば宗太はこの前、気になることを言っていたなぁ…… 「でないとあいつ、相当無理して……どんどん、 らしくなくなっていくんじゃないかな」 「見たところ、さっきは芹花いなかったみたいだけど、 かといって店の中じゃ話しづらいこともあるだろ」 「昨日だって、なんか様子おかしかったし。お前に対する 態度とか」 「……うーん」 「おかしいっていうか、ため息が多い」 「ため息、ねぇ」 「宗太言ってたじゃない、芹花が無理するかもって。 そういうことなのかな?」 「まぁ……環境が変わったからさ。ストレスを感じない 人間なんかいないだろう。特に芹花だったら周りを気に して、無理するかなって思ったんだよ」 宗太は指先で、アイスの棒を弄んでいる。書いてある文字は――ハズレ。 「なんとかうまくやろうとして、そうだなぁ……無理に 明るく振る舞ってみせるとか」 「うーん……そういうのとは、微妙に違うかも。 昨日みたいに暴れるのはむしろ珍しくて、 ずっとため息をついてばっかり」 「そりゃまた……元気がないのはわかりやすいが、 何考えてるのかは、わかりにくそうだな」 「うん、まさにそれ」 前みたいに、ぽんぽんものを言ってくれればわかりやすい。 けれどただ頬杖をついて、ため息をつかれても……なんて声をかけていいのか、わからない。 「……あいつのことだから、何も考えてないわけじゃない だろうしなぁ」 「自分でどうしたらいいか、頭の中で考えて考えて…… その途中とか」 「そうなのかな?」 「で、その内に勝手に吹っ切って、あっさり元の芹花に 戻るかもよ。『お騒がせしましたー!』なんて言って」 「……宗太って」 「ん?」 「宗太って、芹花のことよくわかってるんだね」 「そうかぁ? 今のは全部、俺の勝手な想像だぜ?」 「でも、あってそうな気がする」 ほかのみんながあっさり乗り越えてしまった葛藤を、芹花だけはちょっと時間がかかっている…… 「それなら、時間が解決してくれるのかな?」 「だったらいいけど……」 宗太はまだアイスに未練があるのか、ハズレと書かれた棒をくるくると回している。 「せっかくの同居なんだから、お前も芹花も早く楽しめる ようになりゃいいな」 「楽しめって……まぁ、賑やかだよ」 なるべく食事はみんな揃って摂るようにしているから、男だけで食卓を囲んでいた頃に比べたら、格段に華やかになった。 父さんといちゃついている春菜さんを、香澄さんが毎日のように花屋へ連れ戻しに来るとか、再婚前には考えられなかったシチュエーションを見ることも多い。 僕がそう話すと宗太は『フッ』と鼻で笑った。 「バカだなぁ。女の子とひとつ屋根の下で暮らし始めたん だろう? 色々とトラブルが起きても『仕方ない』で 済ませられる、夢のような環境だっていうのに」 「トラブル……?」 「いいか? 親友」 「それこそ芹花なんか、女ばかりの家庭で育ったんだ。 下着姿でうろついたり、トイレの鍵を閉めなかったり、 そういうこともあるんじゃないか?」 「いや、むしろ芹花はそういうところ、ガードが堅いと 思うんだけど……」 実際、そんな場面、今のところ誰とも遭遇したことがない。 「風呂でうっかり鉢合わせとか」 「ないよ」 ……杏子とは一度、同居を始めたばかりの頃にあったけど。 「というか、結局そっち方面の話? 家族になったんだから、やましい気持ちなんて もてないって」 「お前、家族になる前から、芹花には『その気がないその 気がない』って、繰り返してきたじゃん」 「…………」 確かに…… 「逆に、無防備なあいつがひとつ屋根の下にいるんだから、 もうちょっと観察してみたら?」 「観察って」 「ため息の数を数えているよりは、よっぽど健全だろ?」 「…………」 「それにな……男子たるもの、そこに女の子がいたら 凝視するのが、正しい姿だ!」 「それはセクハラ」 「はっはっは、そこをうまくやるのが、男の甲斐性という ものだよ」 「そりゃ……宗太なら、うまくやるのかもしれないけど さぁ」 僕はあまり、自信がない。すぐ芹花を不愉快にさせてしまって、殴られそうだ。 「確かに俺がお前みたいな立場におかれたら、チャンスは 逃さないけどな。芹花と同居なんて、それだけで胸踊る シチュエーションには違いない」 「……そう?」 「ああ。寝室に忍び込むぐらいまで、男としては挑むべき だろう」 「……本気で言ってるの?」 「ん? 一般論だが」 ……どこの『一般』論だろう。 「それに……」 「ん?」 「そんなに芹花の裸とか、見たい?」 「そりゃお前、美人だったり可愛かったりする子の裸は、 誰だって見たいだろ?」 「…………」 そういうものかな…… 「芹花の場合、ちと手が早いのが、玉に〈瑕〉《きず》だが」 「宗太って……芹花のこと……」 「ん?」 「……ものすごく評価が高いよね。あーゆータイプが好み なの?」 前々から、聞いてみたかったことではある。 宗太と芹花といえば、息の合った生徒会長と副会長――もしくは、ドツキ漫才コンビ。同級生たちの評価は、そんなところだ。 普段は幼なじみの僕の方が、何かと芹花との仲を冷やかされているから目立たないけど……実はお似合いなんじゃないかって、僕自身思ったことが…… 「タイプねぇ……ま、嫌いな相手のことを、こんなに 心配したりはしないぜ」 「……それは、そうだね」 はぐらかされた――そんな印象を受けた。 まさか……ね。 その日の夜―― 風呂が空くまで、僕はリビングでテレビを観ていた。 正確には、部屋の隅に置かれたソファに座って、ぼおっとしていただけなんだけど…… 「宗太と芹花、かぁ……」 考えないではなかったけれど、かといって本気でその可能性を信じているかといえば…… 「…………」 「はぁ~、さっぱりした~! やっぱ蒸し暑い日は 水風呂よね」 「……あ、あぁ、お風呂空いた?」 深く考えるよりも早く、その当事者が姿を見せたので、僕は慌てて気持ちを切り替えた。 「まだだよ~ん。今はお姉ちゃんが入ってるから。 あんたの順番はまだまだまぁーだ先!」 「はいはい」 「お母さんたちは? もう寝室?」 「うん。兄さんも杏子も自分の部屋」 「ふーん。で、あんたは寝ないの?」 「だから風呂の順番待ちだってば」 「あ、そかそか。んで……どうでもいいんだけど、そんな 通販番組なんて観てて、おもしろいの?」 「…………」 画面ではいつの間にか、デジタルカメラの商品紹介が始まっていた。『家族の想い出をこの一台で!』なんて宣伝文句を、スーツ姿の男性が叫んでいる。 「家族の想い出、ね」 「…………」 宣伝文句を繰り返すように呟いてから、芹花は、僕の隣に腰掛けてきた。 「…………!」 芹花は僕の肩に、頭を乗せるようにして、体重を預けてきた。 まだ濡れている様子の髪から、ほんのりシャンプーの香りが漂ってくる。 どっと心臓が鼓動を速めたのが、自分でもわかった。 「……芹花、寝ないの?」 「……まだ、髪が乾いてないもの」 僕の方を見もせずに、芹花は答えた。 「それに、夏休みなんだから……少しぐらい、夜更かし したっていいでしょ」 「なら、好きな番組観ていいよ」 「んー……いいわ、このままで」 芹花の目は、じっとテレビを見つめている。 彼女が何を考えているのか、僕にはわからない。 こんな風にぴったりと寄り添われたのは、肝試しの夜ぐらいだし…… 「……んぅ」 「…………」 芹花が身体を押しつけるように、身じろぎしている。 触れる肌の柔らかさに、水風呂を浴びて冷え切った肌の冷たさに、僕は不覚にもドキドキしていた。 「……ねぇ」 「う、うん……」 「便利そうね、あれ」 「え……あ、ああ」 テレビ画面には、今度はモップが映し出されていた。 吸水性抜群とか、手間暇いらずとか、相変わらずどこまで信用していいのかわからない言葉が連呼されている。 「この家にも、一つ置いといた方がいいんじゃない?」 「ふ、普通のやつなら、あったと思うけど……」 「人が増えたんだからさ、汚れも倍増よ。まめに掃除しな きゃって、お姉ちゃんも言ってたし」 「そ、そうなんだ」 「今度、買ってきてプレゼントしてあげようか。 買い物付き合ってよ」 「それ以前に、掃除を手伝うこと、考えない……?」 「……真一にしちゃ、正論ね」 芹花が喋る度に、肩の上の頭が揺れる。それが妙にくすぐったい。 「僕にしちゃ、は余計」 「はいはい。何よ、急にしっかりしちゃって。 『きょうだい』の自覚でも出てきた?」 「ん……」 きょうだい――その単語に気を取られたところで、ちょうど芹花がこっちを向いた。 じっと、僕のことを探るように、上目遣いで見つめてくる芹花…… 「そうだよ……きょうだいなんだよね、あたしたち」 「……何を、今さら」 「前にもさ……どっちが上かでケンカしなかったっけ?」 「ケンカっていうほどのものでも…… 芹花は、自分がお姉ちゃんの方がいいんでしょ?」 「……今となっちゃ、どっちでもいいけど」 歳が同じで、誕生日もあまり離れていなくて……だからどっちでもいいといえば、実のところ僕もどっちでもいい。 僕が尻に敷かれているようにみえるから、弟みたいに思われることもあれば…… 芹花のことを軽く受け流していることもあって、妹のワガママを聞く兄みたいに思われる関係だったから―― 「ねぇ……『お兄ちゃん』って、呼んであげよっか?」 「……はぁ?」 突然、何を言い出すんだ、芹花は…… 「だって真一、あたしのことまで『お姉ちゃん』って 呼びたい?」 「香澄さんのこと? それは……昔からそんな風に思って いた人だし、実際年上なんだから」 香澄さんは僕に『お姉ちゃん』、春菜さんは『ママ』と呼ばれたがっている。 正直、どっちも気恥ずかしいんだけど…… 「だけど芹花は――」 「一回試しに呼んでみてよ、『お姉ちゃん』って」 「はぁ?」 「さん、はい♪」 「あの……芹花?」 「さん、は・いっ♪」 「……お姉、ちゃん」 呼んでしまった……脅されて…… 「んんー、いい感じ♪ なんかこう、いけないことしてるみたいな感じで、 ぞくぞくするわ~、クセになりそう」 「しないでください、お願いだから……」 呼び方ひとつで、そんな風に感じるものなのか……? 「んじゃお返しに、『お兄ちゃん』って呼んであげる」 「いいよ、そんなの」 何がどうなって『んじゃ』なんだ? 「呼ばれてみればわかるわよ、ほら耳貸して」 「耳って……わっ、芹花!?」 彼女はぐいと背筋を伸ばして、僕の耳元に唇を寄せてきて―― 「お兄ちゃん」 「……!?」 僕の耳たぶを、芹花の吐息がくすぐった…… 身体が固まって、動けない。 「あはは……♪ びくっとしてやんの~」 僕から身体を離すと、芹花はにんまりと笑ってみせた。 「嬉しい? 嬉しい? こ~んな、可愛い妹ができて」 「……まぁ、うん」 「全然嬉しそうじゃないじゃん……」 「……呆然としてるんだってば」 「イマイチ面白くない反応だなぁ。言い方が悪かったの かしら? もうちょっと研究してみるか」 「しなくていいって……」 十分、ドキドキしてるんだから…… 「はー、いいお湯だった。真一くん、お待たせ」 「あ、あぁ、香澄さん」 助かった――そんな気持ちを抱いてしまったのは、何か間違っているだろうか? 「真一くんで最後だから、早く入っちゃってね」 「うん……」 「お姉ちゃん、もしかしてお湯足したの?」 「そうそう! 芹花ちゃん、いくら暑いからって、 あれじゃ水じゃない。お姉ちゃん跳び上がっちゃった」 「いやぁ、つい」 「つい、で風邪ひかせないでちょうだい」 「ひくとしてもあたしだから、ノープロブレム!」 「大問題です。まったくもう、真一くんからも何か言って やって」 「え、えーっと……よくないぞ、芹花」 「何がよくないんですか~、お兄ちゃ~ん」 「うっ」 「あら……結局そういうことに落ち着いたの?」 香澄さんが興味津々な様子で、芹花の言葉に食いついてきたけど……これはちょっと…… 「そうなのよ。真一がどうしても『俺は、お兄ちゃんって 呼ばれたくてしょーがないんだ!』って、泣いて頼む から」 「あらあら……私のことはなかなか、『お姉ちゃん』って 呼んでくれないのに」 「あ、それも試してみた。結構いいもんね、あれ」 「ええーっ、芹花ちゃんだけずる~い」 「いや香澄さん、ずるいとかずるくないとかいう 問題じゃなくて」 「真一くん」 「は、はい」 「私のことも、『お姉ちゃん』って呼んでくれるわよね?」 「う……」 「呼んでくれるわよね?」 「う……えっと」 「頑張ってお兄ちゃん! 恥ずかしいのは一瞬だけだよ!」 「からかわないでよっ」 ……結局、ふたりは自分たちが湯冷めしそうになるまで、僕を解放してくれなかった。 「……ふう」 風呂から上がると、家中の照明が消えていた。 時計を確かめると、時刻はもう0時を過ぎていた。みんなもう眠ってしまったらしい。 僕は足音を立てないように気をつけながら、自分の部屋へ戻ることにした。 忍び足で階段を上がり、廊下は抜き足差し足で進む。これがけっこう難しい。 家族が増えてから、気を遣うようになった点かもしれない。女性の安眠を妨害するのは、気が引ける。 「……ふぁ」 リビングで、芹花と香澄さんに長時間囲まれていたりもしたせいか、ヘンな疲れがあった。 僕も早く寝よう―― 「……はぁ……んっ……ふぁ……」 「? ……なんだ?」 静か過ぎるくらいの家の中に、誰かの声が流れてくる。 押し殺したような、かすかな吐息……? 「ふくっ……んぁ……ふぁ……」 「…………?」 そのくぐもった声が聞こえてくる方を、振り返る。 「芹花の部屋……」 声は、芹花の部屋から漏れていた。 「んん……んっ、んっ、ふあっ……んぁ……ふぁ……!」 「…………」 僕は息を呑んだ。見ると、ドアがわずかに開いている。 細い細い隙間から、暗い廊下へひと筋の明かりが差している。 「はぁ……はあっ……んくっ……はぁ……ふぁ…… はぁ……あっ、あっ……んんんーっ!」 「…………」 僕は……その隙間から、部屋の中を覗き込んだ。 *recollect「はぁ……はぁ……はぁ……んんっ……」 芹花……! ……飛び込んできた光景に、僕は見入ってしまった。 思考が停止して、芹花の手が伸びた先と、そこで彼女の指がうごめく様子を、ただただ見つめることしかできなくなる。 何してるんだ……? 「はんっ……くっ……ん、ふぅ……んぁ、あっ、あっ、 んあぁっ、んん……んっ、んっ、んっ……!!」 いや、何をしているんだも何も、これ以上ないくらいハッキリしてるけど…… 「はぁ……はぁ……んんっ、ふぁっ、んっ……あぁぁ、 き、きもち、いい……はあっ……んんんっ、んんっ!」 いけない……これは見ちゃいけない。 自分の部屋に戻るべきだった。だけど脚が動かない。 「はぁ……ふぁぁ……んんんぅ……」 芹花は、寝巻きの上から指を押し当てて、無心に愛撫を繰り返していた。 時折、肩や背筋がひくひくと縮みあがるのは、快感に身体を抑えられなくなっているせいか…… 「やだ、止まんない……よ……」 いけないと思いながらも、目が離せない。 「はんっ、あっ……はぁんっ、んっ……――っ! んんっっっ!!」 芹花の指先の動きが激しくなった。 今まで見たことも、想像したこともなかった彼女の切なげな表情と声に、僕は全身の血流が速まるのを感じる。 「はぁ、はぁ、んっく……ぅ……んあぁぁぁ……ああっ!」 肝試しの時、痛いほど僕の手を握ってきた芹花の手が……今、彼女自身の意思によって、彼女自身のもっとも大切なところに押しつけられている。 「はぁ……ぁぁ……はぁ……んぁ……あぁ……んんぁ…… ……いい……んんっ……あっ……ああんっ!」 「ゆっ……指が……とまんない……ああっ……あんん!」 僕は、右手をゆっくりと握り締めた……あの夜の、芹花の手の平の感触を思い出そうとしていた。 「こっち……こっちも……んんっ、んあぁ……ふあっ、 うぅんっ……んん、んんーぅ……」 芹花の手が胸元に伸びて、丸いふくらみを服の上から押し潰すように、指に力を込めている。 細い指が胸に埋もれていく様が、とてつもなく……艶めかしい。 「ん……んっ、はっ、はぁんっ、うん、ん、んんっ!!」 「あっ……はぁんっ……ここ、硬く、なってるぅ…… んんっ! あっ……ああっ……はぁっ……あんんっ!」 呼吸を乱し、頬を上気させ、瞳を蕩けさせて昂ぶっていく芹花を、僕は凝視し続けていた。 呼吸をすることも、忘れてしまうぐらい…… 「はっ……くぅっ……んぁぁ……んっ、んんんっ!」 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……ふぁんっ! あっ……ああっ……きもちっ、いいっ……ああっん!」 芹花は胸の膨らみの頂点部分を指で摘み、くりくりと刺激を続ける。 その度に、芹花はびくんと身体を反らせて快感に身を震わせる。 「んんぅ……いいっ……いいよぉっ……ここ、凄く……」 「あっ、あぁっ! あんっ! くっ……はぁんっ! あたし……いっぱい、感じちゃって、る……ああんっ!」 芹花の手の動きと呼吸が荒くなっていき、心なしか、嬌声も大きくなっていく。 大きく開いた口元から、つうっと涎が糸を引く。 「あっ……だめぇっ……んくっ! あっ、ああっ、ああっ! くるぅっ……きちゃぅっ……あっ、あっ、あああっ!」 「いっちゃうっ……あたし……いくぅっ……んんぅっ!」 「んんっ……あっ、ああっ……ああんっ! いく! いくっ、いくっ……んあぁぁぁぁっっっっ!!!」 唐突に芹花は小さく身体を震わせ、そして── 「んぅぅっ!! んはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」 「あぁぁっ……あっ……あっ、あっ、んあああぁぁ……」 「はぁぁ……んっ……んんんーっ……はぁ……はぁ……」 芹花は、熱い息を何度も何度も、押し殺しながら吐き出していた…… 「んふーっ……んふっ……はぁぁぁっ……はぁぁぁっ」 「……はぁ……はぁ……はぁ……んんぅんっ……」 やがて彼女は全身をぐったりした様子で、布団の上に沈み込んだ。 「……っ」 芹花には悪いと思いつつも、ずっと見入ってしまった。 そんな自分に罪悪感を感じつつも、目が離せない自分が居た。 しかし、芹花は肩を大きく揺らし、布団に突っ伏したまま動こうとしない。 終わったんだ……そう思ったのも、束の間…… 「まだ……まだ足んない……ぃ」 芹花は熱い息と一緒に呟きを吐き出すと、寝間着を脱いで下着姿になった。 「っ!」 水着姿なら、子供の頃から何度も見ている。 けれどこれは……水着とはまるで違う、無防備な姿…… 「はぁ……はぁ……ん、これ……ここぉ……んん……」 身軽になった芹花の手が、再び太ももの間に滑り込む。 「ふぁ……んく……んんっ……はぁ……んはぁぁ…… んんっ……き、もちいいぃ、よぉ……」 「触って……ぇ……もっと……お願い……ん、はぁ……」 掠れたような荒い息が、まるで、僕の耳元で吹きかけられてるみたいに、鼓膜に絡みついてくる。 「んやぁ……こ、ここ、いい、よぉ……ここ、ここ……っ! きもちいいとこっ! ……んっ……んっ……もっと、 もっとぉ……!」 「……こんなの、ウソだろう?」 思わず小さく呟いていた。幸か不幸か、行為に夢中になっている芹花の耳には、届かなかったみたいだけど…… ウソもくそもない。けれどもやっぱり、信じがたい光景だった。 「はぁ……ふぁ……ぁふっ……あんん……あんっ……」 ほかの誰でもない、あの芹花が、こんなにも貪欲に性感を貪るような自慰にふけっているのが……意外過ぎて、なんだか現実感がない。 そりゃ誰だって性欲はあると理解はしているし、ほかの誰だって……そりゃ、驚きはするだろうけれど、こんな気持ちにはならなかった、はずだ。たぶん。 「も……もう少し……も……少し……ぃ」 『芹花だから』 あの……幼い頃から知っていて、元気で、強気で、暴れん坊で、しっかり者の芹花が……まさか。 そんな思いが強すぎて、僕は思考停止に陥っていた。 「あっふ……んんっ、んんっ、ん……ふぁ……んんんっ」 「だめ……こんなんじゃあ……あぁんっ、んっ、んっ!!」 芹花は下着を脱ぎ捨てて、身体に直接指を這わせた。 太ももの付け根が明らかに、汗とは違う濡れ方をしているのが見える。 液体は指に絡み付いて、こちらの脳にへばりつくような水音を立て始めた。 「はあっ、あんっ……い、いい感じ……やっと、やっとぉ! んんーっ、んふっ、んはぁっ……はぁ……はぁ……!」 こっちに向かって足を広げた芹花は、したたる愛液を自分性器に塗りたくり、割れ目の上の部分を愛撫しているのが見える。 少し強すぎるくらいの勢いで、敏感なところを刺激している芹花……その光景は、僕には刺激が強過ぎた。 「はぁっ、んんっ……! ひぅっ……あっ、んくっ、 くぅあっ、はっ、はっ、はっ……んんーっ!!」 「いいよぉっ……感じ、ちゃうよ……んんっ! あっ…… はぁ、はぁっ……んくっ……あぁぁんっ!」 まるで僕に見せているかのように、語りかけてくる芹花。 誰に向かって、そんな甘い声を出しているのか気になってしょうがない。 「これっ……気持ちいいのぉっ……いっぱい、濡れて きてるぅっ……あぁっ……んんぅ、んんんんっ!」 もう、これ以上は。 ……見ていられない。 ここが潮時だ、と思った。下手をすれば芹花に、覗いていたことがバレてしまうかもしれない。 これ以上、妙なことで気まずくなるのは避けたかった。 「……戻らなきゃ、部屋に」 僕がようやくドアから離れかけた……その時だった。 「真一……」 「――!?」 気づかれた……? ぎくりとして足を止めて、僕は息を潜めた。 「はぁ……はぁ……真……一ぃ……っ! あふっ…… んはあぁっ、んっ! んっ! んんーっ!!」 心臓が脈を速める。 バレたわけじゃないことはすぐにわかった。でも、だとすれば…… 「真一……真一……真一……しんいち……っ」 なんで…… 「はぁ、はぁ、あぁあっ、んんっ、はぁ、はぁ…… んっ、んっ、んっ、んっ、んっ――っ!!」 彼女はどうして、僕なんかの名前を呼ぶんだろう……? 「真一っ……もっと触って……あんっ、んぅぅんっ!」 自分の乳首をこねくりまわして、甘い声で僕にねだってくる芹花。 「こんどはぁ……こっちっ……ひぅんっ! ああっ…… あっ、あっ、あああっ! あんっ……」 「ここをっ……んくっ……あっ……触ってぇ……あっ…… あっ……ああんっ! ……んふふっ……いいのぉ……」 芹花が股間をまさぐる度に、くちゅくちゅとしたたる愛液が卑猥な音を立てる。 芹花はときおり腰を浮かして快感に身を震わせる。垂れた愛液がシーツにシミを作っていく。 「真一ぃ……ちゅぷっ……ちゅぷっ……ちゅっ……んぅ、 んんっ……ちゅぶ、ちゅぶ、ちゅぷっ……」 「んちゅ……ちゅぷっ……ちゅる……気持ちいい……? ちゅぷ、ちゅる、ちゅるる……ちゅぶっ」 自分の股間をまさぐった指に舌をからめて、舐め取っていく。 その言葉から察するに──僕のを口でしてくれているのだろうか? 「ちゅぷっ……えっちな味ぃ……真一の……もっと…… 感じたいよぉっ……ちゅぶ、ちゅぷ、ちゅるっ……」 「真一っ……真一ぃ……おねがい、もっとあたしにぃ!」 乳首をピンと立たせながら、腰を浮かせて悶える芹花。 股間を弄る指の動きが速くなっていく。 「あっ……あはんっ……あっ、あっああん! これいい! 凄く感じちゃうっ……あっ、あっ、あああっ!」 「真一がっ……気持ちよくしてくれてるぅっ……はぁん! あっ、あっ、ああっ……んぅぅんっ!」 ガクガクと痙攣して、頭を振る芹花。 必死に僕の名前を呼び求めてくる姿に、思わず荷担したくなる衝動に駆られる。 「真一……もう、あたし……はぅ……ん……もう、 ダメぇ……もう、もう、もう、もうっ!」 「あっ、あっ……いっちゃうっ……いっちゃうのぉっ! 一緒にっ……一緒にいってぇっっ!」 芹花の身体が……露わになった股間が、大きく脈動するように震える。 悶える芹花の足がシーツを引っ張り乱す。ガクガクと震えながら、最後の高みに登っていく。 「いくっ、真一とぉっ……一緒に……いくうっ!」 「しっ……しんいちぃっっ……んあああぁぁぁぁぁぁん!」 身体を大きく仰け反らせて、大きくビクンと跳ねる芹花。 絶頂を迎えた瞬間、股間からぷしゅっと愛液が飛び散る。 「あぁぁっ! はぁぁっ! はぁぁぁ……はぁぁぁっ……」 「んぅぅっ……はぁ、はぁ……あっ……あああああ……」 「いってるぅっ……あたし……いっちゃってるぅ…… あっ……あああっ……はぁぁぁぁっ……っっ!」 芹花の絶頂はとても激しくて、そして、とても長い間続いた。 「あ、あぁぁぁ……はぁ……あぁぁ……んん……」 「しん……いち……ぃ」 「はぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……」 だから、なんで…… 僕はずるずると、その場に座り込んでしまった。 思いの外ショックが大きくて、バレたらまずいなんて考えも、どこかに吹き飛んでしまっていた。 「まだ、もっと、真一っ、もっとぉ……ちょうだい……」 「…………」 「はぁ、はぁぁ、しん……いちぃぃ……んっ、もっと、 もっとするのぉ……んっ、んあぁっ……はぁんっ」 芹花はまた、ひとりで始めてしまっているらしい。 「も……なんで……こんなにぃ……止まんない、のぉ…… やだ、やだ、やだぁ……気持ちいいの、止まんない、 止まんないよぉ……」 ドア越しに漏れ聞こえる声は、さっきまでより、また一段と盛り上がっているみたいだった。 「真一……ん、真一ぃ、んぁっ……はぁあぁぁぁ……」 僕はもう、部屋の中を覗く気にはなれない……なのに、ここから立ち去る気力も出ない。 「真一、真一、真一、真……い……ちぃ……!」 名前を呼ばれる度に、僕は頭を抱え、耳を塞いだ。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「ぐすっ……んっ……バカ真一……」 「…………」 「……でも……あたしはもっとバカだ……」 「バカ……んぅ……ん、んんっ……は、はぁ、あああっ!」 時間がどれだけ過ぎても、芹花の喘ぎ声がやむことはなかった。 そして僕はずっとドアの前に座り込んで、芹花の声を聞き続けていた。 翌朝―― 翌朝……というか、次の日の昼というか……でもやっぱり昼までにはまだまだ時間がある、そんな時刻に僕はようやく目を覚ました。 結局朝まで眠れず、朝の早い父さんたちが起き出す頃にようやく寝入ったのだけれど、数時間で目を覚ましてしまうという、中途半端なことになってしまったのだった。 「んぅ……!!」 「はぁ……」 ベッドから起き上がって、大きく伸びをする。 少し寝ただけなのに、けっこう頭はスッキリしていた。 「……それにしても」 見た……見てしまった。寝て起きたら忘れていないかと期待していたんだけど、悲しいかな、バッチリ思い出せる。 「…………」 そして当然、思い出せば身体が反応するわけで。 「……あーぁ、くそぉ」 相手は芹花だ。 幼なじみで、友達で、家族で……姉で、妹で…… なのにどうして……いや、だからこそ、なんだろうか。 身体はいつも以上に反応して、心は、とてもじゃないけど落ち着いていられない。 「……起きよう」 仕事をしよう。父さんを手伝うんだ。 そうしていれば、少なくともその間だけは、昨日の光景を忘れていられるはずだ。 「ふぁ~あ……」 「……わっ」 リビングへ下りていくと、そこに、芹花がいた。 あくびなんかして眠そうだ。彼女も起きたばかりなんだろうか? 「あ、芹花……あの、おは……」 「……はぁ~ぁ……お?」 「おっはよー、お兄ちゃん♪ 朝っぱらから不景気な顔してんのね」 「いったい全体、どうやったらカッコいい大人の男に なるのだい、チミは……?」 「……なんだよそれ」 「シャキッとしなさいって言ってんの。 あたしの『お兄ちゃん』ならさ」 「……そんなこと」 「そんなこと言われてもな」 「…………」 あからさまに自分の口真似をされるというのは、想像以上にストレスが溜まる。 「マネすんな」 「あんたがワンパターンなのが悪い。悔しかったらなんか 別のリアクション考えてみたら?」 「……別に、悔しくない」 「まったまた~、やせ我慢しちゃって!」 「はいはい」 「本当は悔しいくせにぃ~」 うりうりと、芹花は僕のお腹に拳を押しつけてきた。 「っ!」 僕は、彼女を手を振り払った。だって彼女は夕べ……その手で…… 「……つれないなぁ~」 芹花は大袈裟に僕が払った手に、ふーふーと息を吹きかけている。 痛いの痛いのとんでいけ、のつもりなのかもしれないけれど…… 芹花はひと晩中、その唇で喘いでいたわけで。 「あ……えと、ほかのみんなは?」 余計なことを思い出さないよう、話題を変える。 「いやぁ、実はあたしも起きたばっかりでさ、今朝はまだ 誰とも顔合わせてないんだ」 「…………」 「何よその目は。あんただってこんな時間まで寝てたくせ にー」 「……そ、そうだね」 そりゃぁ、外が明るくなるまでずっと“していれば”、起きるのがこんな時間になるはずだ。 それを最後まで聞いていた、僕も僕だけど……ああもう、どうしても昨夜のアレが離れない。 それに、僕が芹花の“それ”を見てたなんて言ったら…………どうなるんだろう? 覗き魔、とか言われて怒られるかな。実際その通りだから何も言えないけど…… 「……うん? どうしたの? あたしの顔に何かついてる?」 ……まずい、思い出したらまた、生理的な反応が。 「あ、ちょっと、どこ行くのよー」 「……お店の手伝い。 寝過ぎちゃったから、急がないと」 「ならあたしも行く」 「い、いや、いいから」 どうにも裏目裏目に出てしまう。芹花のこと、とても直視できない心境だっていうのに…… 「あ……おはよう」 店に入ると、杏子がカウンターで食事をしていた。父さんと、春菜さんの姿も見える。 「おはよう。杏子も今、朝ご飯?」 「うん……」 「あ、おいしそう! おじさん、あたしにも!」 「はいはい」 「こら! おじさん、じゃなくてお父さん、でしょ」 「はいはい……ところでお母さん、またサボってるの?」 「んま、なんてこと言うのかしらこの子は。あなたたちと 違って、私は朝早くから起きてひと仕事済ませているの。 今は小休止」 「今頃起きてきてすいません……」 「夏休みだものね~、うらやましいわ~」 「うらやましいんだ……」 「うーらーやーまーしーいー!」 ……春菜さん、最近すっかりサボり癖がついているように見える。大丈夫なのかな、“すずらん”の方。 「お前も食べるか? 真一」 芹花の前に、手早く用意したモーニングセットを出しながら、父さんが僕にも尋ねてきた。 「あ、うん、ありがとう。いただきます」 「いっただっきまーす!」 「真彦さぁ~ん。私にも紅茶、お、か、わ、り♪」 「……お母さん、紅茶もいいんだけどさぁ」 「ん? なぁに」 「あれ、いいの?」 芹花が、店の外に顎をしゃくる。 何かと思って、僕もそちらを見ると…… 「がるるるる……!」 香澄さんが窓ガラスにへばりついて、怖い顔をしていた。 睨みつけている先はもちろん、春菜さんだ。 「お姉ちゃんがあんなに怒るなんて、よっぽどじゃない?」 「あらら? あ、ははは。お仕事してきま~す」 ……………… 店を出た途端、春菜さんは香澄さんに首根っこを捕まえられて、引きずられていった。 本気で怒った香澄さんなんて、珍しいものを見た…… 「……お父さん、あんなお母さんで、本当によかったの?」 「ああ」 「……本当に? 本当に本当の本当に?」 「…………」 「娘のあたしが言うのもなんですけど、お母さんのどこが 気に入ったわけ?」 「…………」 そういえば、僕も聞いたことないな、ふたりが付き合い始めたきっかけとか、理由とか。 「……そ、そういうのは、本人たちにしかわからない…… んじゃないかなぁ?」 「おっ、正論」 それ以上に、杏子がこの手の話題に、しかもすごくしっかり話して参加したのに驚いた。 「……そうだね。結局のところ、人に説明できるような ものではないのかもしれないね」 「ふーん……」 納得したような、していないような……まぁ、微妙な話題だしなぁ。 「あら?」 「よう」 「おう」 「お、揃ってるな、ちょうどいい」 「ちょうどいい?」 ……また何か、企んでるんじゃないだろうな? 「なんの用よ、朝っぱらから。あたしは今……もふっ、 忙しいんですけど」 「また半端な時間に食べてるなぁ。それ、モーニング セットだろ? 夜更かしでもしたのか?」 「…………」 「…………」 答えにくいことを聞かれたなぁ。いや、僕まで黙り込むことはないんだけど。 「い……イメージトレーニングしてたのよっ!」 「はぁ? 誰と戦うんだ?」 「よ……世の中の偏見と?」 「意味がわからん……」 「…………」 うん……余計なことは考えないようにしよう。 「まぁ、いいや。そんなことよりも諸君、提案がある」 「うん?」 宗太が改まって話を進めようとしている……この大袈裟な感じは、悪い兆候だ。 「海水浴でも行かないかね?」 「行くっ! 超行く! 海最高ーっ!」 「どっちも早っ」 宗太があっさり本題を切り出したこともなら、芹花の食いつき具合ときたら……もう。 「少しは考えてから返事しなよ」 「あたしはいつでも熟考の末よ!」 「でも、どうして急に……?」 杏子がもっともな疑問を投げかける。この場で頼りになるのは、彼女だけかもしれない。 「あぁ、知り合いにスイカをいくつかもらってさ。でも ウチじゃ全部食べきれないんで、どうせならみんなで スイカ割りがてら、泳ぎに行こうと思ったわけ」 「うん。建設的かつナイスでステキな意見ね。 スイカ最高。海最高。宗太くんも、ついでに最高~」 「俺はついでかよ~、ひどいもんだ!」 「…………」 「杏子も行くでしょ?」 「……うん!」 「よーし。それじゃ4人で、れっつらごー!」 海か……泳ぎに行くのはいつぶりだっけかなぁ。……って、おい。 「こらこら。僕には確認しないの?」 危ない、成り行きで同行してしまうところだった。今日は仕事に専念したかったのに…… 「あんた、自分の意思が尊重してもらえるとでも 思ってたの?」 「もらえないの!? もらわせてよ!!」 「えぇー、やだ」 当たり前のように、僕の基本的人権が否定された気がする…… 「せめて、話だけでも……」 「無理」 「そこをなんとか」 「却下」 「おい親友」 「宗太」 「まさか本気で、行かないとか言い出さないよな?」 宗太は……なぜかひどく哀しそうな目をしていた。 「俺はな……お前たちと食べる砂まみれのスイカは、 さぞや甘い青春の味がすると思って、それだけを 楽しみに今日まで生きてきたんだぜ……」 「暑苦しい。2点」 「あれぇ!? お前、味方じゃないの!? っていうか、お前の手助けをと思って言ったのに!」 「真一は当然来るんだもの。ヘンに熱く青春とか語られ ても、あたしが不愉快になるだけー」 「つまり、無駄な援護射撃だった、と……がくり」 宗太、まさか後ろから撃たれて、カフェの床に骨を埋めることになるとは、思わなかったんだね…… 「で、真一。まさかホントに来ないの?」 「……行こう?」 「うーん……ほら、お店の手伝いとかあるし」 芹花が海へ行くなら、僕は残る。そうすれば今日は顔を合わせないで済む。そうすれば……夕べ見たことも忘れられ……る、はずだ。 「真一」 「父さん」 ここで店主である父さんから、鶴のひと声が出れば――僕は行かなくて済むんだけど。 「店のことはいいから、行ってきなさい」 うん、そう言うと思ったよ、父さん…… 「さっすがお父さん、話わかるぅ」 「でも、父さん」 「夏休みだからな」 「…………」 それで話は終わりだ、とばかりに、父さんは自分の仕事に戻っていった。鶴のひと声が裏目に出てしまった…… 「まったく、何が不満なのよ。杏子とあたしの水着が、 もれなく見られるっていうのに」 よりにもよって、今、肌の露出が多い格好を、間近で見せられるなんて……新手の拷問でしかないんだよ。 「真一お兄ちゃんが来てくれるんならぁ、芹花ぁ、 うぅんとサービスしてあげるよぉ?」 「おおー、すっげぇ楽しみ」 「何言ってんの。宗太にサービスする理由なんて、 ないでしょ?」 「いや、誘ったのは俺なんですけどね、一応……」 「というわけで真一、来るわよね?」 「来るよな?」 「……行く、よね?」 「……はぁ」 ここまできたら、抵抗しても無駄か。 僕が考えないようにすれば、何も問題なんてないわけだし。 「……わかった。行くよ」 「よっしゃー!」 「にっひひ~。そう来なくっちゃ」 「……よかった」 「…………」 みんな嬉しそうだし、これはこれで、よかったのかもしれない。 「それでは、オーダーお願いしマース」 「オーダー?」 「真一くん一人前。テイクアウトで!」 「……またそれ?」 「またそれだ!」 青い空。白い雲。なんていうありふれた言葉を並べてても平気な顔をしていられるくらい、今日は気持ちのいい快晴だった。 「海、キタァァァー!!!」 「わぁーっ」 「行くぞ、親友! ひゃっほーい!」 「え、わわっ!!」 「ごぼっ、ごぼっ」 海水飲んだ! 「はぁ……はぁ……死ぬかと思った」 鼻の奥にツーンと、海水の刺激が残っている。それが引くまでしばらく、砂浜に四つんばいになってただただ時間が過ぎるのを待つ…… 「なっさけな~い」 「芹花、あんまり真一をいじめてやるなよ」 「……原因は、僕を無理矢理海に放り込んだ、宗太だけど ね」 「謝んなさい、生徒会長!!」 「あれ!? 俺、悪役!?」 それにしても…… ……………… 「ん、何?」 「な、なんでもないっ……」 わかっていたこととはいえ、芹花の肌を見ると……どうしても思い出してしまって、慌てて俯いてしまう。 ……下半身が静まるまで、ますます動けないし。 「ヘンなの。 ――あ、杏子ーっ! あんまり沖に出ちゃ危ないよー!」 沖に向かって泳いでいる杏子を追いかけるのか、芹花はまた海へと飛び込んでいった。 「はぁー……」 「ふーん」 「……何?」 今度は僕が、宗太にじっと見られていた。 「いや何、芹花とうまいことやってんのか、心配だったん だけど……おおむね良好という感じ?」 「…………」 おおむね良好……客観的に見ると、そうなのかな?正直、僕はそれどころじゃないんだけど…… 「よくないのか?」 「よくないって、ことは……ないかもしれない」 「ふーん。まぁ、焦らず地道にいけよ」 「……ほんと芹花もなぁ。無理しなくていいのに」 そう言って、宗太は泳いでいる芹花と杏子を、眩しそうに眺めた。 「……やっぱり、芹花が気になる?」 なんだか気になる言い方だったので、確かめる。 「いやぁ、なんだかねぇ。いつも通りを装いたいんだろう けど、どうにも俺には無理してるみたいに見えてな」 「あ、前にも言ったけど俺の勝手な想像だから、どうとも 言えないぜ? まぁ、俺にはそう思えるってだけの話」 「……そうなんだ」 「そうだ」 「…………」 やっぱり、芹花のことをよく見てるなぁ、宗太って。 「宗太って……」 「あん?」 「……いや」 『宗太って、やっぱり芹花のこと好き?』そう言いかけて、やめた。 返事を聞いてしまうのが、なんだか怖かった。 ………… なんで? なんで怖いんだろう? 昨夜の光景が脳裏をよぎる―― あの時、芹花が名前を呼んでいたのは…… ややこしい……もう考えるのをやめてしまいたい。 「ま、難しく考えたって仕方ないさ」 「お前は、芹花の水着姿に興奮してればいいんだよ」 「……なんだよ、それ」 言われなくても、こっちはかつてないくらいに意識してしまっている。やっぱり来るんじゃなかった。 「ほれほれ、よく見れ。眼福ガンプク」 「やめろよ。そ、そんないいもんじゃないだろ」 「なんと!? 本気で言ってるのか親友?」 「ならば仕方ない、俺ひとりで楽しむから、お前は寝てろ」 「うわっ?!」 不意に視界を塞がれた……! 「何すんだよー! 宗太っ!」 「何するもかにするもあるか、別に見たくないんだろう? だったら見なきゃいい」 「どういう理屈!? 放してよ!!」 「おっひょひょ~。芹花、セクスィ~」 「やめろって! そういう目で芹花を見るな!!」 「ほほう、親友、芹花はお前のモンなのか?」 「……それは、違うけど」 宗太が僕の顔から手をどけた。再び、眩しい日差しが目に飛び込んでくる。 「違うんなら、なんなんだろうな?」 「…………」 芹花は…… 幼なじみで、友達で、厄介者で。でも、ずっと一緒にやってきた…… 「家族だ」 「…………家族、ね」 「そうだよ……妹を守るのは、兄の務めってこと」 「いやいやいや、それはただのシスコン」 「ええ? そ、そうかな?」 「そうだよ」 せっかく辿り着いた答えが、まさかそんなものだったなんて……ショックだ。 「というわけで、シスコン疑惑が立ちそうなお前はここで 寝てるがいい。ワシは海であのふたりとキャッキャ ウフフしてくるぞえ!」 「あ、待て! そうはさせるか!」 「うふふふ、捕まえてごらんなさぁ~い♪」 「やめろ、気色悪い」 「……何あれ。男ふたり、波打ち際でじゃれあっちゃって」 「仲良いよね、あのふたりって」 「……え!?」 「『え!?』って……だから仲良いよね、って」 「……あいつら、そーゆー関係じゃないよね?」 「まだ、何かあったって話は聞いてないけど……」 「まだっ!? 何か!? 何かって何!?」 「え? わからないよ? なんにも……」 「こ、怖いこと言わないでよ。ホント」 「怖い……かな。ごめん」 「いーや、この場合、悪いのはあいつらよ」 「紛らわしい真似は即刻、やめさせるのが……えーっと、 世の中のためね」 「紛らわしい……のかな?」 「あはは~、うふふ~♪ いやぁぁ~ん♪」 「はぁ、はぁ……だから、もう、そういうのやめようって」 「チェストー!」 「ぎゃぁーっ!?」 「うわぁぁぁ、宗太ーっ!?」 僕とキャッキャウフフしていた宗太が、なぜか背後から芹花に、バットで一刀両断にされた。 ……あ、いや、そういう風に見えた、っていうだけなんだけど。実際に、宗太は倒されているし。 「あが、あがが……」 驚いて、砂浜に頭から突っ込んだ……が正しいのかな。 「これで……悪は去ったわね」 バットを腰に収めるマネをする芹花。 「というか、なんの真似?」 「…………」 「…………」 「…………ぶっは!」 やがて、砂に顔を埋めていた宗太が、顔を上げた。 「芹花、それはスイカ割り用にウチから持ってきたバット だぞ!」 「それが何か?」 芹花は余裕の笑みを浮かべて…… 「弘法も筆の誤り……じゃなくって、筆を選ばずってね」 「そうじゃなくて、いきなり殴りかかる奴があるか!」 「あんたたちが、男同士でいちゃこらいちゃこらしてんの が悪いんでしょ!? 全国の良い子がマネしたら、 どうすんのよ!」 「どこの良い子が俺たちを見てるんだよ!?」 「大体その言葉、そっくりそのまま芹花にもあてはまると 思う……」 「ちょっと、あたしがいつ、杏子といちゃこらしたって いうの?」 「そっちじゃなくて! バット振り回す方っ!」 「…………証拠隠滅!!」 「ああっ!?」 芹花の奴、バットをよりにもよって、海へ投げ捨てた! 「ちょっ、おまっ、 ウチのだって言ってるだろ!?」 宗太が慌ててジャバジャバと、海へ入って沈んだバットを探しに向かう。 「め、メチャクチャだ……」 「何か問題でも?」 「問題大ありだよ! 謝ってこいよ! いやその前に、探すの手伝わなくちゃ!!」 「おーい、俺のバット子やぁ~い。美人になって恩返しに 帰っておいで~」 「もしくは海の女神様ぁ、ワタシの落としたバットは一番 粗末な物でございます。どうか、金と銀のバットをくだ さーい」 「……ショックの余り、錯乱しているのかな?」 「いーじゃない、ほっとけば」 「そういうわけにはいかないだろ! とにかく、一緒に探すぞ!」 「……何、命令してるのよ!」 海に飛び込んだ僕の後ろで、そんな声が聞こえた気がした。 「さぁ、おふざけの時間はここまでだ。今からは怒涛の スイカ割りタイムが始まるぞ!」 「スイカ割り……わ~い!」 「おお~! 待ってました! いえぇー!!」 ……みんな、切り替えが早過ぎる。特に杏子は、らしくない勢いではしゃいでいる。 幸い、バットはすぐに見つかったから、よかったようなものの…… 「さーてスイカ、スイカ、スイカちゃ~ん。 じっくり肌を磨いてあげるからね~」 宗太がスイカを運び、杏子がそれについていく。どうやら人の迷惑にならない場所へ移動してやろう、という話になったらしい。 「さぁって、行こ行こ」 「まったく……芹花」 「ん? 何よ」 駆け出そうとしていた芹花を、呼び止めた。 「宗太に謝りなさい」 「なさい? 今、なさいって言った? 真一のくせになまいきな!」 「もう一度言うよ。謝ってきなさい」 「!! ……な、何よ、急に」 「急にじゃないよ、さっきも言った。殴りかかったり、 海に捨てたり、いくらなんでもやっていることが メチャクチャだよ」 「…………」 芹花は不愉快そうな顔を隠そうともせず、僕を睨んだ。 「だからって……なんで、あんたが」 「兄貴なら、妹を怒るのは普通のことだろ?」 「……あー、そうくるんだ? ふーん。 お兄ちゃんなんて呼んでやるんじゃなかった」 「ほら、行けって」 僕は少し強引な態度で、芹花の背中を押した。 ……彼女の素肌に指先が触れた時、ヘンに意識しなかったかといえば、ウソになる。 それを悟られないように、顔をわざとしかめた。 「……しょうがないなー、もう」 ぶつぶつと文句を言いながら、宗太の後を追いかけていく芹花の様子を、僕はその場に立ち尽くして眺めていた。 芹花が宗太に声をかけるけど、僕のところまでは聞こえない。言葉がやり取りされている様子が見える。 やがて芹花が、宗太に向かって深々と頭を下げるのが見えた。 宗太はスイカを抱えたまま、笑っていた。 芹花も顔を上げて、僕の方に振り返り、ふたりして何か言い合いながら、お腹を抱えて笑い出す…… 「なんだよ……もう」 これまで通りといえば、これまで通りだし、家族としての義務も果たしたはずなんだけど…… どこか、釈然としない。胸の奥に……そう、しこりのようなものがある。 「おーい! 真一、スイカ割り始めるぞー!」 「……今、行くよー」 宗太も随分あっけらかんと、さっきのことを許したみたいだし…… 「……別にいいけどさ」 楽しそうに笑い合うふたりを見ていると……やっぱり、相性がいいんだろうな、って思える。 もしふたりが、恋人にでもなったら……きっとうまくいきそうな気がする。 その時、僕は、どうするべきだろう? ――そんなの決まってる。 家族として、祝福する。それだけじゃないか。 ……それだけだってば! 「――よーし、準備完了。誰からいく?」 「はいはいはーい! あたしから!」 芹花の手にはすでに、バットが握られていた。 「だと思った……」「だと思った……」 「それじゃあ、ほい目隠し」 「はーい!」 真っ白な手拭いを手渡された芹花は、なぜかそれをじっと見つめて、動かなくなった。 「どうしたの?」 後ろから声をかけてみると、振り返った芹花は悪戯っぽく微笑んで…… 「ねぇ、お兄ちゃん、やって♪」 そう言って、手拭いを僕に差し出した。 「えー?」 「やー、っ、てーっ!」 「はぁ……わかりました」 こういう時は、抵抗しても余計に疲れるだけだ。 「何事も、諦めが肝心……」 聞こえないように小さな声で呟いてから、僕は手拭いを受け取った。 「聞こえてるわよ」 ……なら、聞こえない振りだ。 僕は手拭いで、彼女の目を覆い隠していく。 背中を向けてじっと目隠しされるのを待っている芹花に、僕はちょっと緊張してしまう。間近にうなじとか見えてしまうと…… 「? 何よ、早くして」 「う、うん」 強ばる手をもどかしく動かして、手拭いを結ぶ。その間、芹花の長い髪に指が触れることすら、意識して避けた。 「で、できたよ。ちゃんと見えなくなってる?」 「んふふー、なんかドキドキね!」 「…………」 ヘンなこと言うな。意識しちゃうじゃないか。 「はい、それじゃあそのままの状態で10回、回ってくだ さいな」 「それって、違うゲームじゃない?」 「そうか……まぁ、いいんじゃない?」 「そんなノリでいいの?」 「いいっていいって。この芹花様に不可能はなし!」 やめておいた方がいいと思うんだけど、芹花は自分からすすんで、砂浜に突き立てたバットに額をつけると、グルグル回り始めた。 「いーち、にーい、さーん」 「よーん、ごーお、ろーく」 「しーち、はーち、きゅーう」 「……じゅう」 「うわっととと!?」 10数えた途端に芹花は案の定、フラフラと千鳥足になって……僕に向かって突っ込んできた! 「う、うわー!?」 「へぷちっ!」 よけきれずに絡み合って、ふたりして派手に転んでしまう。 「あたた……」 「うおぃ、大丈夫か!?」 「芹花ちゃん!」 「……大丈夫、芹花?」 「…………だ、だめ……かも……」 芹花は僕に身体を預けたまま、起き上がろうとしない。 その柔らかさと肌の滑らかさが、否応なく僕にここしばらくの間に彼女との間に起きた出来事を思い出させる。 ……意識しないようにするには、だいぶ努力が必要だった。 「……………………」 「芹花! おいって!!」 「……なんか、様子がおかしいぞ」 宗太の緊迫した声に、僕は息が止まりそうになった。 芹花の反応がない。 「芹花ちゃん!!」 杏子が、芹花の額に手を置いた。 「……すごい熱!!」 「熱……?」 「…………はぁ……はぁ……」 「……ひょっとして芹花ちゃん、具合悪いのに無理して?」 「ええ! なんだよそれ!」 言われてみれば顔が赤いし、汗のかき方も普通じゃない。それに、ぐったりとした様子がまた不安にさせる。 「そんな、芹花……そうならそうと言えよ」 「……はぁ、は、はは」 少し喋れるようになったのか、芹花が強がる。 「……へーき……熱なんてない。大丈夫」 「ウソつけ……」 どこからどう見たって、今の芹花はもう、明らかに具合の悪い病人だった。 「大丈夫なことないだろう。芹花、無理するな」 「……へーき、だって。ちょっと目が回っただけ なんだから」 「でも、ちょっと休憩……ははは」 僕の身体に支えられていることすら、意識できていないのか……芹花は身体を動かすのも、おっくうそうだった。 「みんながスイカ割りしてる間に、復活するからさ……」 「バカ! そんなこと、できるはずないだろ」 「っ……」 少し強く言い過ぎたのか……あの芹花が、僕を怯えたような目で見上げている。 「……しん……いち」 心臓が、チクっと痛む。お願いだから、そんな目で僕を見ないでくれ。 「とりあえず、服を着て。今日はもう、家に帰ろう」 「…………」 努めて優しく言い直したつもりだけど、芹花の顔はまだ、戸惑っている様子だった。 「それが正解だな。杏子ちゃん、悪いけど」 「うん……更衣室、一緒に行く」 ふたりもすぐに賛同してくれた。これで芹花がごねだしても、多数決で僕らの勝ちだ。嫌だと言っても家につれて帰ってやる。 「立てる? 脚に力入る?」 「え、えっと……」 「無理だろう」 「うん……え?」 なぜか、芹花が言うより早く、宗太が決めつけた。 「真一」 「何?」 「ここはお前が運んでやれよ」 「……相手は女の子だよ?」 「ぁ……ぅっ」 実のところ、こんな状況だっていうのに、芹花の肌と僕の肌が触れ合い、彼女の胸が呼吸する度に上下するのを見て……理性を保つのに必死だった。 「女の子だからこそ、だろ。ここは男が頑張らないと。 更衣室の中は杏子ちゃんに任せるとしても、そこまで 歩かせるのは……この様子じゃ、酷だろ」 「そ、そんなこと……」 そう言って身じろぎ……いや、立ち上がろうとしたらしい芹花が、へなへなと崩れ落ちる。 「あ……あれれ?」 「だから、無理するなって」 邪な気持ちなんか、抱いている場合じゃない――僕は意を決して、芹花を支えた。 「肩、貸すから。頑張れる?」 「う……うん……」 心許ない返事……これがあの芹花? 「そこは真一、お姫様抱っこでいこうぜ」 「…………は?」 「お姫様抱っこ……!」 「却下。そんな恥ずかしい……」 「そっ……そうよね、はは」 とはいえ……本気で動けそうにないな。芹花は。 「はぁ……」 考えてみれば、昨日は水風呂に入った後、夜更かしして話し込んで……その上、朝まで……その、半裸になってあんなことをしていたんだから、風邪もひくか。 こうなると、なんだか自分にも責任があるような気になってしまう。 「……おんぶでもいけるかな?」 お姫様抱っこよりは恥ずかしくないかなと思って、そう提案してみたんだけど―― 「え、えーーーーっとぉ……」 なんだか……芹花の様子がヘンだ。 「せ、せっかくだから、お姫さま……」 「お――お姫様抱っこされてあげなくもないわよ? か、 勘違いしないでよね? 別にお姫様抱っこに憧れてた とか、そういうことじゃないんだから!」 「……あー、はいはい」 もう突っ込む気力もなくて、僕は芹花の背中と脚へ腕を回した。 「よっ……っと!」 僕は力をふりしぼって、芹花の身体を持ち上げた。 ぐ……予想以上に、重い……けど、それは絶対に口には出さないぞ…… 「うわっ……! わわ……! す、すっごい…… 恥ずい…………」 「僕も……」 恥ずかしいのに上乗せして、芹花の太ももや、身体をかすめる水着越しの胸の感触にもう、僕は内心、てんやわんやだったのだけど…… 「いやぁ、見せつけてくれますなぁ」 「お姫様抱っこ……いいなぁ」 「…………」 「…………」 宗太と杏子は、僕らの恥ずかしさなんかどこ吹く風、という顔をそれぞれしていた。 「じゃ、じゃあ、行くぞ?」 「は、はい。よろしくお願いします……」 僕は、芹花をお姫様抱っこしたまま、歩き出した。 こっちまで熱が出そうな……というか、もう出ているのかも……僕まで意識が朦朧としそうだ。 熱があるせいなのか、夏のせいなのか、芹花と触れ合った肌から伝わってくる体温が……すごく、熱い。 「真一……あの……」 「うん?」 「あの……その……ごめん、ね?」 「うん」 「…………」 そして、芹花は目を閉じた。 僕に運ばれるまま、満足そうに…… 「はぁ……まったく」 困った妹だ、と、僕は心の中で呟いた。 「ねぇ、ホントにいいの? 真一くん」 「大丈夫ですから、安心して行って来てください」 春菜さんは出発の直前まで、僕らを心配してくれていた。 「子供たち三人だけ置いていくみたいで、なんだか気が 引けるわ」 「お母さん。それは真一くんに失礼だわ」 「それに普通は、病気の娘をひとりにする方が、よほど 気が引けるものなんじゃないかしら?」 「それはそうだけどぉ……」 「だったら、結婚の挨拶なんて後回しにすればいいんじゃ ない? そうよ、そうしましょう!」 「だから、大丈夫ですってば」 このやり取りももう、何回目になるだろう。ちゃんと数えていたところであんまり意味はないだろうけど……話を切り上げるきっかけにはなったかもしれない。 春菜さんたちはこれから、結婚の挨拶回りに方々へ出かけるところだ。 本当は僕や芹花も同行するはずだったのだけど、見事に夏風邪をこじらせた芹花は、ベッドから起き上がることもできない状態だった。 そこで僕が―― 「僕が看病するから、父さんたちで行ってきてよ」 と、提案したのだった。 「わたしが、残るよ……?」 杏子がそう言ってくれたのだけど…… 「杏子ひとりだけに任すのは……なんていうか、悪い気が するしさ」 「そんなこと……そんなことないよ。大丈夫だよ」 「うん。でもほら、俺と芹花は、『兄妹』だから」 自分と杏子と、そして……春菜さんたちに投げかけるように、僕は『兄妹』を強調して言った。 「……そっか。そうなんだ……」 杏子は、その言葉ですぐに納得してくれた。家族は大切なもの。かけがえのないもの……そんな当たり前のことに、何度も大きく頷いて。 「よろしくな、杏子。 ふたりで、あのバカの面倒を看てやろう」 「バカなんて……言っちゃっていいの?」 杏子は普段から、僕と芹花のやりとりを見ているだけに、この場に芹花がいたらグーが飛んでくると思ったらしい。 だけど…… 「いいよ。今回はあいつが全面的に悪い」 『兄』として、そう言い切った。すると杏子は―― 「……ふふっ」 なぜか少し楽しげに、顔をほころばせたのだった。 「でも、なんだか悪いわ~」 「もう、お母さん、いいから」 また話を振り出しに戻そうとする春菜さんを、香澄さんがたしなめた。 春菜さんも、僕を信用していないわけじゃないんだ。ただ、家族はいつも一緒にいるべきだ、と、そのポリシーみたいなものを曲げたくないだけらしい。 香澄さんも本心ではまったく同意見なんだけど、長女として挨拶回りも必要なことを理解していて…… 「お父さんをずっと車で待たせちゃ悪いわ。旦那さんを 疲れさせちゃ、妻失格よ」 「あぁん、母として子供たちを心配しているのにぃ」 「私だって、姉として妹のことが心配です! けど、お母さんにとっても大事なことでしょ」 当の春菜さんは、名残惜しそうに僕の手をとって言う。 「本当にごめんね、真一くん、杏子ちゃん。芹花のこと、 お願いするわね。お土産たくさん買ってきてあげるから」 「訪問販売は敷居をまたがせちゃダメよ。勧誘の電話にも 気をつけてね。あ、それから、夜更かししないでちゃん と寝なさいね?」 「はい、わかってます」 「ほら、お母さん。早く! あぁ、もう、キリがないんだから! ホラ!!」 「あぁー、れぇー!」 ……今日も、春菜さんは香澄さんに引きずられて、出かけていった。 「ふぅ……やっと行ったか」 「春菜さん、心配そうだったね……」 「愛娘が病気で寝ているんだから、当然だけどね」 「うん……」 スイカ割りの直前に倒れてから、芹花はずっとベッドの上だった。ひと晩寝ても熱が下がらず、しかもこの暑さで、なかなか寝つくこともできないらしい。 そのくせ、すぐにフラフラと出歩いては、氷水をがぶ飲みしたり、お腹を出して扇風機に当てていたりしているんだから……風邪を悪化させたいのかと疑いたくなる。 「でも、真一くん……ホントにいいの?」 「言っただろ? ひとりで面倒看きれるほど、芹花は手の かからない良い子じゃないんだ。ふたりでようやく太刀 打ちできる、くらいに考えた方がいい」 「!」 「あ、あの、あの……そんなこと、言って大丈夫……?」 「大丈夫も何も、事実だよ」 「で、でも……」 「大体、病気なんだから静かにしてればいいのに、自分 から症状を悪化させるようなことばっかりして…… ホント、手のかかる子供みたいなヤツだよ」 「あぁ……うぅ……真一くん」 「大体、あいつは自覚が足りないんだ。 調子悪いくせに遊び回っていたり……夜更かしして……」 ああ……あいつが倒れたことでばたばたしていたから忘れていたけど、また、部屋で見たあの光景を思い出してしまう…… 「し、真一くん、そのぐらいで……」 「ん?」 「おーい」 「……え? うわっ、出た!」 振り返ればそこに、家で寝ているはずの芹花がいた。 「ふっふっふ、喉が渇いて下りてきてみれば、ずいぶん 楽しそうじゃないの、真一お兄ちゃぁん」 怒りのせいか、発熱のせいか、顔を赤くした芹花は、握った拳をわなわなと震わせていた。 まずい……! 「待って芹花、身体に障るぞ」 「身体に触るって……こ、こんな時に何考えてんのよ」 途端に飛び退いて、芹花は自分の身体を抱き締めるように身をすくめた…… 「違うってば!」 その『触る』じゃない!芹花の奴……ふらふらした頭でちゃんと聞き取りができてないな。 「芹花ちゃん、落ち着いて!」 「問答無用! 真一、そこになおれー……あ、あれへぇ?」 いつもの調子で僕に正義の鉄拳を喰らわせようとする芹花だったが、へなへなと床に膝をついてしまった。 「きゃっ! 芹花ちゃん!?」 「だから言ったのに……!」 慌てて駆け寄り、芹花を支える杏子と僕。 芹花は、実際足元がおぼつかないほど体調が悪いのに、やけに芝居がかった表情で顔をあげた。 「ぐぅぅ……このあたしが、風邪ごときにぃ……」 「風邪は万病の元。舐めるな」 この期に及んでなおふざけようとする芹花に、さすがにイラッとしてしまう。みんな、こんなに心配してるっていうのに…… 「さぁ、芹花ちゃん、お部屋に戻ろ?」 「おお~、看護師さん、看護師さん、苦しいの助けて~」 「う、うん。頑張る!」 「まったくもう……」 「はぁ……はぁ……」 なんとか自分の部屋に戻った芹花だったけど、さすがに限界だったのか……そのまま、糸が切れた人形のようにベッドへ倒れ込んだ。 「大丈夫か?」 「大丈夫……に、見えるわけ?」 「……いや」 これで、少しはおとなしくしてくれればいいけど……今度は純粋に、身体の方を心配してしまう。 「……はぁ」 「ごめんね……」 「いいよ、気にしないで」 「そう? じゃあ、気にしない……」 「…………」 憎まれ口も弱々しい。 「ねぇ? 杏子は?」 「……さっき、おかゆ作ってくるって言って出て行ったの、 覚えてない? 芹花も返事してたのに」 「……はへ?」 「キミがお腹空いたって言ったんですよ、芹花さん」 「……記憶にございません」 「重症だな……」 「うぅ……頭痛くなってきた」 「せめて目を閉じてなよ。だいぶ違うらしいから」 「そんな話、あてになるの……?」 「ヤブ医者のインチキ診療よりマシだと思って」 「あ、今の面白い。6点」 「……それはどうも」 自分で言っておいてなんだけど、別に面白がらせようと思った言葉じゃない。 芹花の判断力が、風邪のせいで落ちていることだけはわかった。 「はぁ……情けないなぁ。真一にこんな姿を晒すことに なるなんて……」 「日頃の行いが悪いからだよ」 「……あたし、そんなに悪い?」 芹花は掛け布団の中に顔を埋めるようにしながら、目だけを僕の方へ窺うように向けた。 「…………」 どう答えたものだろう、と、僕は考えを巡らせた。 体調の悪い芹花を刺激しないよう、ちょうどいい言葉を探し出す。 「そこは『あたしはいつも正しいことしかしてないわよ』 じゃないの?」 「……ん、そっか……ゲホゲホっ……そうだね」 咳き込む芹花の表情は、とても辛そうだった。 「あぁ、いいからもう寝なよ」 強制的にでも目を閉じさせてやろうと、僕は手を伸ばして芹花のまぶたの上にかざした。 「……あっ……んん……」 意外と長いまつげが、手の平をくすぐってくる。 「…………」 「……はぁ」 悩ましげな息を吐く芹花を見つめて、手の平を今度はおでこに当てる。 「……ん」 彼女の身体はとても熱くて……肌にはじっとりと汗が浮いていた。 「う……うぅ……さ、触られてたら……その、あの……ね、 寝られないでしょっ!? はなしなさいよ、手」 「あ……あぁ、そうか」 僕は慌てて、芹花のおでこから手をどけた。 「…………」 「…………」 沈黙が気まずい…… 「あの……!」「あの……!」 芹花も、沈黙に耐えかねたんだろう。ふたりの声がかち合ってしまった。 「……え?」 「な、何よ」 「いや……えーっと」 その時にはもう、僕は自分が何を言おうとしていたのかもわからなくなっていた。 もしかしたら、最初から何も思いついていなかったのかもしれない……たぶん、芹花も。 ただ、沈黙が続くのが怖くて、それをどうにかしようと口を開いただけだったんだ。 ……だからまた、沈黙が生まれてしまう。 「…………」 「…………」 お互いに、何かを探り合うような空気…… 目覚まし時計の秒針が時を刻むその音だけが、妙に大きく部屋に響いていた。 部屋のドアが静かに開いて、杏子が中に入ってきた。助かった……! その杏子は、トレイにグラタン皿を載せている。 ……グラタン皿? 「あの……おかゆ、できたよ」 どうも、あのグラタン皿の中におかゆを入れてきたらしい…… グラタン皿に、グラタンの代わりに盛り付けられたおかゆは湯気を立てて、水気の多い米の匂いを漂わせていた。 薄いおかゆの香りは、病人にはちょうどよく食欲をそそる。期待に瞳を輝かせ、芹花はベッドから身体を起こした。 「うわ~ん、杏子、ありがとう! こっちこっち、 早く早く~」 「う、うん……」 付け合せには梅干、板海苔、葱などが、別々の小さな器に盛り付けられて並んでいる。 「……へぇ、うまそう」 「上手にできたか、わからないけど……」 杏子はレンゲに乗せたおかゆを、芹花の口元に運ぶ。 「フーッ……フーッ……はい、どうぞ」 「いっただきまーす!」 大きく口を開けて、熱々のおかゆに飛びつく芹花。 「はふ、はふっ、はふい、はふい……むぐむぐ。ごくん」 「ど、どうかな?」 「ぷはぁーっ、あー! おかゆだー!!」 ……直感的なのか湾曲してるのか、よくわからない表現だ。 「おいしいのか、まずいのか、どっち?」 「……どっち?」 「ふん、どこまでも野暮ね、真ちゃんは。本当においしい 時、人は大袈裟にご託を並べないものよ」 芹花は杏子の手からさりげなくレンゲを引き抜くと、今度は自分でおかゆをかき込み始めた……熱くないのか? 「はむはむはむ……ごくん。ふはぁー、おかゆ~!」 「……おいしいなら、おいしいって言えばいいのに」 「うん、すっごくおいしいよ。ありがとう、杏子」 「よかったぁ……どういたしまして」 「芹花ちゃんも、少し元気出たみたいだし」 杏子がほっと胸を撫で下ろした。 「いや、安心するのは早いよ」 「え……? それって、どういう……こと?」 「これ、たぶんカラ元気だよ。すぐに電池切れを起こす」 「電池切れ……?」 「ちょっと真一、人を奈良漬けみたいに言わないでよ!」 「ほら、もう会話が成り立ってない」 見ると、芹花はくらくらと頭を揺らしていた。 「あぁ……!! 芹花ちゃん、横になって」 「へ? もうそんな時間……? わかった。ごめん、 お休みなさい……」 また微妙に噛みあってない会話のやりとりをして、芹花はベッドに潜り込んだ。 「はぁ……はぁ……」 「……芹花ちゃん、無理してたんだね」 「テンションを無理矢理一気に上げる能力でもあるのかな? って思う。そのくせ、反動ですぐこうなるんだから」 ここのところ、芹花の浮き沈みが激しい様子を見てきただけに、そんな感想が漏れた。 「芹花ちゃん……いい人だから。周りに合わせちゃうの かな?」 「かもね。僕の前では、相変わらずワガママ三昧だけど」 「ん……」 「ここのところ、特に振り回されることが多いけど…… これも、兄妹だから仕方ないのかな?」 「きょうだい……だから?」 「出来の悪い妹の面倒を看るのは、兄の務めだって。そう 思うようになったら……少し気が楽になった」 僕がそう言うと、杏子は不思議そうな表情を浮かべた。 「芹花ちゃんが妹なの……? 同い年なのに」 「別に、姉でもいいんだけどね。 要するに、ただの幼なじみだった時とは、意識が 変わったってこと……だと思う。僕も、芹花も……」 「変わった……そう、なんだ」 杏子はベッドに伏せっている芹花を、じっと見つめた。 「…………」 きっと杏子自身も何か、思うところがあるんだろう。 僕たちが変わったというなら、彼女にも心境の変化があったって、なんの不思議もない。 父さんたちの再婚は、思っていた以上に、僕らに影響を与えている。 「あ、おかゆ。芹花ちゃん、残しちゃってる」 グラタン皿の中には3分の1くらいおかゆが残っていた。皿を手に取った杏子が、かすかにため息をついたのが僕には聞こえていた。 「おいしくなかったのかな……」 「そんなことないよ。あんなにがっついていたし。 ……そうだ、ちょっとちょうだい」 僕は、レンゲを取って芹花の食べかけを〈掬〉《すく》い上げた。 「あ……」 「ん、おいしい」 「おいしい? ホント?」 芯の溶けきったお米の舌触りに、海苔の香り。そしてほのかな塩気と、何か香辛料の味が感じられた。それが一層、食欲を掻き立てる。 調味料が何種類か入ってるみたいだけど、それぞれがちょうどよく、それぞれの味を引き立てているのもわかる。 今度、作り方を教えてもらおう。これはおいしい。 「芹花だって、お世辞であんなこと言ったわけじゃない はずだ。保証するよ」 「……う、うん」 そもそも、これだけ体調が悪い中、一気に半分以上平らげさせたのだから、おいしくないはずがない。 なんて言っている内に、僕も、残りの3分の1をあっさりと食べ終えていた。 「うん。ごちそうさま」 「あ、ありがとう……」 「どういたしまして」 「あんたたち……楽しそうね……」 「芹花ちゃん! 起きてたの?」 「し~んちゃ~ん……! 人が苦しんでる横で、 イチャイチャイチャイチャしないでくれる~?」 「はぁ?」 「わ、わたし……そんなんじゃ……」 「うん、杏子はいい。問題なのは……悪いのは真一よ!」 「どういう理屈!?」 「この世の不幸は全部あんたが原因よ! わきまえなさいよね!」 「ひど……」 「あたしのおかゆ返せー!」 ぶんぶんと、僕に向かって握り拳をふり回す芹花……ああ、また電池切れ起こすな、これは。 「まだ食べたかったんだ?」 「はぁ……はぁ……バカ真一! バーカ、バーカ!」 まぁ、杏子のおかゆはなかなか侮れない味だったので、気持ちはわかるけど…… 「芹花ちゃん……おかゆ、また作るから」 「あぁ~ん、杏子優しい~。 真一お兄ちゃんがいじめるんだよ~、全然優しく ないのよ、コイツー!」 「よ、よしよし」 まるで母子のように抱き締めあうふたり……まんざら、絵にならなくもない。 「……杏子に風邪、うつさないようにね」 「げほげほごほっ!!」 自信がついたらしい杏子が、グラタン皿を抱えて部屋を飛び出していってから、また少し時間が経っていた。 「……あ、あれ? 杏子は……?」 「おかゆを作りに行ったよ」 「そっか……ん……? なんか、さっきも同じこと聞いたような気がする……」 「そうだね」 芹花はまだ、朦朧としているらしい。 「僕、部屋から出ていようか?」 「えっ……」 「人が傍にいたんじゃ、眠れないだろ? さっきから ずっと、起こしちゃってるみたいだし」 呼んでくれればすぐに駆けつけるから――と、僕は付け加えるつもりだったのだけれど、その前に…… 「…………」 芹花の顔色が変わったのが、わかった。 「どうしたの?」 「やだ、行かないで……いてくれた方が……いい」 「そ、そう?」 芹花はすがるように、僕へと手を伸ばしてきた。 「ねぇ、さっきみたいに……あの……あの……」 「さっき……って?」 「さっきみたいに、おでこ……に……手、当てて欲しい」 熱に浮かされて潤んだ瞳が、僕を求めてきている。 懇願するような、しおらしい仕草。 「……っ」 ……少し、胸の奥が熱くなった。 「いいよ……してあげる」 「……よかった」 僕は少し緊張しながら、芹花の額にそっと自分の手の平を押しつけた。 汗と熱と、芹花の肌の感触が、伝わってくる。 「ふぁっ……」 僕が手を触れると、芹花は熱い吐息を漏らした。 呼吸が荒くなり、熱も、汗も、さっきまでよりたくさん手に感じるようになる。 エアコンは動いているのに、部屋の中が……いや、僕自身も熱くなっている。 「芹花……暑くないか……?」 「……何が?」 「何がって……気温とか、熱とか……なんでもいいけど」 「もう、何がなんだかわかんない……暑さのせいなのか、 熱のせいなのか……でも……」 「でも……?」 「真一の手は、気持ちいいよ……」 「そう……」 芹花の手が伸びて、僕の手に触れた。そっと添えられる程度だったけれど、そこから、気弱になった芹花の心の底まで全部、伝わってくるみたいだった。 「今日は優しいね、真一……」 「僕はいつでも優しいよ。芹花は大事な妹だから」 「ウソ……杏子にも優しくしてた」 「はぁ? いつ?」 「ついさっきでしょ……自分の胸に手を当てて、よーく 思い出してみなさい」 「……なんだか、今度は芹花がお姉さんみたいだな」 「……バカ」 ようやく、芹花が心から笑った気がする。 強がりでもなく、空回りでもない、本物の笑顔。 芹花の笑顔だ…… 僕は、芹花の額から手を離して、彼女の手を握り締めた。 すると芹花はぎゅっと手を握り返してきて……僕も、同じように強く握り返した。 見上げる芹花と、僕の視線が絡み合う。 「……ねぇ、真一」 「うん?」 「あの……あのね……おねが……」 芹花が何かを言いかけた、その時―― 「あの……」 部屋のドアが開き、杏子が顔を覗かせた。 「杏子……っ!? な、何?」 なぜか必要以上にうろたえる芹花…… 僕も釣られて、ひどく緊張してしまう。 「ど、どうしたの?」 「あのね、久我山くんが――」 「よっほー! 芹花、具合はどうだい?」 「……病人の部屋で騒ぐなよ」 杏子を押しのけるようにして、宗太が部屋へ入ってきた。 「よっほー! 宗太。具合は最悪よっ♪」 「芹花も、無理して合わせるんじゃないの」 「あはは……じゃあ、わたし、お鍋そのままだから」 「うぅ……杏子さん、すまないねぇ。いつもいつも 苦労かけてぇ……」 「せ、芹花ちゃん、それは言わない約束……ですよ」 「杏子まで……」 「うぅ……」 恥ずかしげに俯くと、杏子はキッチンへ戻っていった。同居を始めた頃に比べたら、格段の進歩だよなぁ、あれ。 「思ったより元気そうじゃないか」 宗太は芹花のベッドに近づいて、彼女の顔色を見ている。 「あんまり刺激しないでくれよ……さっきから、 はしゃいでは倒れるの繰り返しなんだから」 「うう……だるいぃぃ……」 言った側から、芹花がまたフラフラと身体を揺らしている。僕は慌てて彼女の身体を支えると、ベッドに横たえた。 「はひぃ」 「……夏風邪はバカがほにゃらら」 「隠すところ間違えてるよ」 「あれ? バカはなんとかをひかない、だっけ?」 「だ、誰がバカだーっ!?」 「どうどうっ!!」 がばっと起き上がろうとする芹花を、僕はなんとか押さえつけた。 「ふにゅら~」 「宗太、もうやめてくれ」 「なんか矛盾してるよな、あのことわざ」 「お前は何しに来たんだ……」 「何って、見舞いだよ見舞い。あ、手土産はなしね。 あんまり多くを期待しないでくれたまえ」 「はぁ……なんか僕まで疲れてきた」 「俺が看病交代してやろうか? 今ならもれなく、寝ずの 看病で介抱してやるが」 「寝ずの看病とか……なんか、不純なものを感じるんだけ ど」 「そう思うなら、しっかり見張っとけよ、お兄様♪」 「そうよお兄様ぁ~……傍にいてぇ~……」 「……うん、兄として、他所の男に芹花を預けるのは、 ちょっとNG」 あくまで……兄として。 「ちぇ。まぁ本人もお兄様をご希望のようだから、 仕方ないか」 宗太がどこまで本気で言っていたのか、わからない。いつものような冗談……だよね? 「というか、あんまり長居すると、宗太にも風邪うつるか もしれないし」 「大丈夫! 俺はバカじゃないから」 どーんと胸を張った宗太の背後に、ゆらりと芹花が立ち上がる。 「ど~ういう意味かな~?」 「ぶべっ!? ぼ、暴力反対っ!」 「やっぱりあんた、あたしのことバカにしてるでしょ!!」 「誤解だよ! 俺はそんなつもりで……」 「だから病人を刺激するなってば!! 芹花もおとなしく寝る!!」 「ふにゅら~……」 「あぁぁぁ、もうっ」 床にへたり込んだ芹花を、またベッドへ戻す。宗太は……あれだけ看病看病と言っていながら、手を貸してはくれなかった。 「はへぇ……」 「――んじゃ、俺は帰るとするよ」 「あ、うん」 騒ぐだけ騒いでおいてあっさりと、宗太は帰ろうとする。……本当に、何しに来たんだろう? 「へ……宗太、もう帰るの?」 「あぁ、お大事にな」 「はい。お大事にされます……」 「何それ」 普段とちょっと違うやり取りに、首を傾げる。まぁ、芹花は熱に浮かされているだけだろうけど…… 「あぁ、それがいいよ。それがいい」 宗太は芹花の言葉に何を感じたのか、噛み締めるように繰り返していた。 「じゃな、真一」 「あ、うん」 「芹花を頼んだぜ」 玄関まで見送ろうか――そんな考えが浮かぶ暇もないほど、引き際はあっさりだった。 「…………」 「ふぅ……すぅ……ふぅ……すぅ」 ようやく静かになって、芹花が寝息をたて始めた。 ……少し息が荒いように感じるのは、やっぱり熱のせいなのかな? 「ん……んん……」 ごろんと寝返りを打った芹花の手が、ベッドから投げ出され、僕の目の前にくる。 「……寝つくのはやいなぁ」 彼女の手を、布団の中に戻してやろうと思って、軽く触れた。 ところが芹花は何を思ったのか、僕の手を手探りで探り当てて…… 「ん……真一ぃ」 ぎゅっと、握り返してきた。 「ちょ……あれ?」 「んにゃ……んん……」 僕は……動けなくなってしまった。 一見、病床の患者の手をとって励ます家族、に見えないこともないけど…… 「芹花ちゃ~ん、おかゆできた……よぉう?」 「!?」 「あ、あぁぁぁ……せ、芹花ちゃん、寝ちゃったの?」 トレイを持ったまま硬直する杏子の視線は……僕と芹花が繋いだ手に注がれている。 「あ、あぁ、この手は、その、ねじれたら大変だから 直そうと思っただけで、だから、こっちから握ったん だけど握ってるのは芹花なんだ」 やましいことは何もないのに、ヘンにしどろもどろになってしまった……! 言ってることもわけわかんないし! 「う、うん。わかった」 ……な、何がわかったんだろう? 「でも、芹花ちゃんが寝ちゃったんなら、おかゆ…… 無駄になっちゃったね」 「……いいよ。僕たちで食べれば」 「そ、そう……かな」 「僕もまだ食べたいと思ってたんだ。杏子のおかゆ」 「う、うん……ありがとう」 「ただ……片手で食べられるかな?」 「あ」 ……芹花が僕の手を離してくれたのは、それから約二時間後、寝返りを打った時のことだった。 「ふぁっ、はぁ~ぁ……」 口元を手で隠しながら、杏子が大きなあくびをした。日が沈み、窓の外には夜の帳が降りている。 芹花の様子を交代で見ながら、洗濯なんかを済ませている内に、一日が終わろうとしていた。 少し遅めの夕食を済ませた頃には、もう杏子は眠そうにしていて…… 「ふぁぁぁ~……んん……」 杏子は椅子に座ったまま、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。 「杏子、先に休んでいいよ」 「ん……でも」 「あとは僕が看ているから」 ベッドで眠り続けている芹花を、杏子は何度か気になる様子で見つめたけれど…… 「……じゃあ、ごめんなさい。何かあったら、起こして」 「うん」 「お休みなさい」 「お休み」 ここで杏子に倒れられても、病人が増えるだけ――そこまで言わずとも、悟ってくれたのかもしれない。 「さて……と」 僕は、芹花の寝顔を覗き込んだ。 「すぅ……すぅ……うぅん」 宗太が帰ってからずっと、芹花は眠り続けていた。 僕が席を外して、杏子ひとりで看ていた間も、まったく起きる気配がなかったらしい。 「んー……もう大丈夫かな?」 「ふぅー……すぅー……ふぅー……すぅー」 規則正しい、気持ちよさそうな寝息に、僕は安心した。 「…………」 「うぅぅん……いかないでぇ……」 「…………」 芹花の手が、また布団から出されて、僕の方に伸ばされてくる。 何かを……誰かを探すように、さまよう指先…… 「……ここにいるよ」 今度は自分から、芹花の手を取った。両手で握り締めて、安心させるように声をかける。 芹花も僕の手を、しっかりと握り返してきて…… 「ん……んん……はれ? 真一がいる……」 「え……あ、うん。おはよう」 ぱちくりと、芹花が目を〈瞬〉《またた》かせる。完全に起きた……のかな? 「……えっと、ひとつ、聞いていい?」 「何?」 「この手は……どういうこと?」 「あ、あっと」 僕は慌ててパッと手を離した。……けど意外なことに、芹花の方がちょっと未練でもあるみたいに、僕の手を離すのが遅れた。 「あ……」 「ごめん、なんかその……繋いで欲しがっていたから」 「あ、あっ、そう? あぁ、なら、ならいいの。 気にしないで」 「ヘンな夢でも見てたんじゃないかなぁ~、はははっ!」 「あぁっ、んーっ、よく寝たなぁ~」 「えっと……気分はどう?」 「そうねぇ……今朝よりはましって感じ? まだ身体が重く感じるけど」 「ずっと寝てたんだから、仕方ないよ。熱はまだある?」 「ん~……」 芹花は何度か、自分のおでこを自分で触ったりしていたけれど…… 「自分じゃよくわかんない。真一が手で計って~」 「……は?」 「お兄ちゃんの、手の平がいい……」 からかっているのか、まだ熱で朦朧としているのか……なんでそういうおねだりをしてくるかな。 「体温計があるでしょ」 「面倒くさい」 「…………」 うん。このものぐさな感じ。結構芹花本来の調子を取り戻しつつあるな。じゃなくて―― 「お・ね・が・い★」 ……小首を傾げてお願いされても、言葉尻に、どす黒い『★』が付いている気がして怖い。 お願いされているはずなのに、なぜか命令されているような気分になるのは、ひとえに普段の言動のせいか。 「……はぁ」 「お、そのため息は、抵抗を諦めた時のため息だね」 「その通りです」 芹花は、にんまりと満足げに微笑んでみせた。 「じゃあ、はい。お願いしまーす」 すると、芹花は僕の肩をぐっと引き寄せて、顔を近づけてきた。 「ちょ……ちょっと?」 「動かないでよ。熱が計れないでしょ?」 平然とした口調で、僕をたしなめる芹花。そうこうしている内に、芹花の額と僕の額がくっつく。 「だから……ちょっと……! え……手の平じゃなかった の!?」 「……あたし、そんなこと言った?」 息がかかる距離で、芹花がとぼけた顔をする。僕は遠慮して、声を潜めて反論した。 「い……言ったよ。おでこでとは聞いてない」 「この方が、効率いいでしょ」 その理屈もよくわからない。確かに、触れ合った額に、芹花の体温を感じるけれど…… やっぱりまだまだ熱は引いていない……どころか、逆に上がっているんじゃないだろうか? それともこれは……僕の身体が熱くなっているせい? 「……あぁ」 息が苦しい…… 「んー、これじゃよくわからないなぁ。ねぇ、真一、 そっちはどう? 熱い?」 「あ……熱いよ。まだ熱は引いてないみたい」 「んー、そっかぁ……あぁ……」 と、僕から身体を離した芹花が、ぐらりと膝を折って倒れそうになった。 「芹花……!」 「きゃっ……」 危ない! と思った時には、僕は彼女の身体を抱きかかえていた。 相変わらず柔らかくて、今は少し熱いぐらいの彼女の身体を、有無を言わさずベッドへと持ち上げる。 「……あ、ああ、ごめん……」 「だから、あんまりはしゃいじゃダメだって……治ったと 思っても、またすぐ倒れるよ」 ベッドに横たえたところで、芹花は力なく笑った。 「ごめん……ちょっと、ふらついちゃっただけ……」 「うん」 「ホントだよ? ホントに、ちょっとふらついちゃった だけなんだからね」 「そんな必死にならなくても、わかってるよ」 「ん……ごめん、ね……」 「謝らなくてもいい」 「……うん」 「やさしいなぁ、お兄ちゃんは」 「いつも優しくしているつもりだよ」 「ウソ。時々冷たいもの、真一って」 「そう……? だとしたら、ごめん」 「……ずいぶん素直に謝るじゃない」 「病人相手だからね」 「なーんだ……じゃあ、ずっとこのままの方がいいかな」 「それはそれでみんな大変だし……何より、芹花は元気に しているのが一番いいよ」 「ん……ごめんね。ありがと」 気恥ずかしいのか、芹花がはにかむ。 「……あ、ねぇ、杏子は? ……って、あたし、何回目 だろう、この質問」 「先に休んでもらったよ。眠そうにしていたから」 「あ……うぅ……ご、ごめんね、杏子」 「芹花も、寝られそう?」 ずっと寝ていて、こんな時間に起きて、しかも少し元気になっているみたいだから……芹花はまた眠ろうとしても眠れないんじゃないかって、少し心配だった。 「……眠ったら……真一もいなくなっちゃう?」 正直、そのつもりだった。 杏子を休ませた時はまだ、目の離せない状況だったけど、今はもう……平気のようだし。 それに病人とはいえ、妹とはいえ、女の子の部屋にひと晩中いるというのは……一度意識してしまうとちょっと、居づらい。 だけど…… 「……あたし、ひとりぼっち……?」 「そういう言い方、ずるいなぁ」 「ご、ごめんっ。 じゃあ、気にしないで。ひとりで寝られるから、真一も 部屋に戻っていいよ」 「…………」 「な、何よ、じっと見て」 「……傍にいるよ」 「え……」 「そんな寂しそうな顔されちゃ、出ていけない」 「んなっ…………」 芹花が真っ赤になって絶句している間に、僕はベッドの横に置いたままだった椅子に座り直す。 朝まで……は、さすがにきついけど、せめて芹花が寝つくまでは、ここにいたいと思った。 「……休みなよ。僕はここにいるから」 「…………あ、ありがとう」 俯いた芹花は、何度かためらいつつ、小さく呟いた。 「ん……」 けれど、彼女は眠るどころか……僕の方をじっと見つめて、目を閉じようとしない。 「ねぇ、手、繋いでよ」 言われるまま、僕は彼女の手をとって、握り締めた。 「真一……お風呂は?」 「入ったよ。杏子と交代で」 「ん。そう……」 「くん……くん……」 「あ……あたし、汗臭い、かな?」 「…………」 「なんで黙るの?」 「……別に」 汗臭いとは感じないけど……一日寝てたんだから、無理もないと思うし。 それに、男と女の間でするには、微妙な話題という気がした。 ……きょうだいだって、しないよ、な? 「じゃあ、汗拭いてよ」 「は、はぁ!?」 「あたし、自分でやる元気なーい」 「いや、それはわかるけど……僕が拭くの?」 「そんなに……イヤ?」 「イヤってわけじゃなくて、その……杏子に頼むのなら まだしも」 「だって、寝ちゃったんでしょ……」 「うん。だから……朝まで我慢して、というのも、 酷だよね?」 「うん……女の子に恥をかかせないでよ」 「そのセリフ、こういうところで使うもんじゃない でしょ……それに、僕が拭く方が、よっぽど恥ずかしい ような」 「……その点については、あたしがいいって言ってるんだ から、いいじゃない」 「そうだけど……」 「あ……あんまり、拭いてるところ想像しないでよっ! そう……せ、背中! 背中だけでいいんだから!!」 「あ、ああ、あ……背中、ね。うん、背中」 「……ちょっと、どこまで拭くつもりだったの?」 「…………」 言えません。 「人選、誤ったかしら……今からでも、宗太とか呼べば、 嬉々として拭いてくれそうな気がする」 「そりゃ……まぁ」 何もここで、よりにもよって、宗太の名前を出さなくてもいいのに。 「あいつのことだからさ、『ははっ、なんでもお命じくだ さい、女王様』とか言って、足まで舐めそうじゃない」 「舐められたいの?」 「んなわけあるかぁっ!!」 「…………」 「…………うぅ」 「……はぁ、わかったよ」 「え」 家族だから、大したことじゃない……そう自分に言い聞かせる。拭く時、目を閉じていればいいんだ、うん。 「ちょっと支度してくるから」 「……わ、わかった」 僕は、彼女を拭く布やお湯なんかを用意するため、立ち上がった。 部屋を出ようとした時、芹花はもぞもぞと身体を起こして、自分の寝間着に手をかけようとしていた。 「……えっと」 「う、うん……」 部屋に戻った僕の前で、芹花の背中が露わになる。 滑らかな肌に丸い肩と、腰へと伸びる身体の線が、妙に艶めかしく見える。 「っ……」 長い付き合いとはいえ、こんなことをするのは初めてだ。 ヘンに緊張するのは、きっと、あの夜の光景が結局頭から消えてくれないせいだ。 息が詰まる。心臓が止まりそうになる。 なんで僕は今、こんなことをしているんだろう? 「早くしなさいってば……! もう……!」 「そ、それじゃ……失礼して」 意を決して……僕は手にした濡れタオルを、芹花の背中に押し当てた。 「う……うんっ、ひゃ……」 「だ、大丈夫?」 「う、うん、へーき……大丈夫だから……つづき、して」 「……うん」 胸のドキドキが止まらない…… 芹花の表情が……声が……姿が……まるで何かに飲み込まれてしまったかのように、ぼんやりと溶けていく。 そのくせ僕の五感は、芹花の反応だけを的確に捉える。 「はっ……んぅん……はぁぁ……」 ダメだ……ヘンなことを考えちゃ。 芹花は妹で、病人だ。僕はその看病をしているだけ。 自分に言い聞かせて、言い聞かせて……僕は繰り返し繰り返し、芹花の背中をタオルで拭いてやる。 「んっ……くっ……ふぁっ……はぁ……んんっ!」 ……芹花の吐息が、妙に可愛らしく聞こえるのは、僕の気のせいか。 「はぁ……んんん…………あふっ……」 僕の手が止まると、芹花の声がむしろ……残念そうに響くのは、気のせい……? 「はぁ…………はぁ……ふぅ……」 「ま……まだ、やった方がいいのかな?」 「……へ?」 肩越しに振り返った芹花と目が合う。 潤んだ瞳が、じっと僕を見据えてくる。 「……もう、いや?」 「だ、だから、その……背中はもう、こんなところかなっ て」 「……あ、う、うん…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……も、もうちょっと」 「……え……」 芹花は耳まで真っ赤にして、忙しなく視線を泳がせていた。 「……あたしは…………もうちょっと、拭いて欲しい…… けど」 「それって、えっと……」 どこまで――? それを確かめない限り、僕は、彼女の身体にはもう触れられない。 これまで自覚もしなかった感情と衝動を、今僕は、必死に抑えていた。 それなのに…… 「ねぇ……真一は……どこまで、したい?」 「……は?」 芹花の言葉は、僕の予想していたものとは、正反対のもので、驚いてしまって、言葉が出てこなかった。 その沈黙をどう受け取ったか、芹花は、自分の肩を抱いて瞼を伏せた。 「あたしとは……んーん、あたしの身体なんか……もう、 見たくない?」 「何、言ってるんだよ」 そういうことじゃないだろ…… 僕たちはただ身体を拭いている、拭かれているだけで、具合が悪いから、仕方なくそうしているだけなのに…… 「相手が杏子だったら?」 言って、彼女は歯をきつく食いしばり、肩越しに僕を睨み据える…… 「美百合だったら……お姉ちゃんだったら……」 「あたし……あたしは……女らしさとか、魅力とか…… そういうの、ないもんね。だから真一だって、 つまんないよね……」 芹花が何を言っているのか、何を言おうとしているのか、考えるのが……怖い。 その先に立ち入ってはいけない。 そうしたらきっと……“今”が壊れてしまうから。 芹花が求めているものと、それを邪魔しているもの。 僕は彼女を守りたいのに、彼女は壊されたがっている。 壊れる……? 違う……そんな言葉で表されるような、破滅的な感情とはまた、違っている。 「あたしには何もないから。だから杏子みたいに、 美百合みたいに、お姉ちゃんみたいに……真一は あたしを見ないんでしょ」 「あたしなんか見ても、つまらないから」 だからさ、その言い方は…… 「ずるいよ」 「ずるいって何? ホントのことでしょ?」 「そんなことは……ない、けど」 「ほら、言いにくそうにしてる! 口からでまかせ言って慰めようとしないでよ!」 「そんなの……惨めになるだけなんだから」 ………… 「…………」 「……なんなんだよ」 「なんなのって……」 自分でもよくわからないまま、僕は、芹花を睨み返していた。 そんな僕の視線に気づいた芹花が、ハッと息を呑んで口を閉じる。 「……ごめん」 とても素直に、彼女の口から謝罪の言葉が漏れた。 けれど、そんな貴重な出来事も、僕の苛立ちを収めるには足りない…… 「なんなんだよ。勝手に怒って勝手に惨めになって……」 勝手に悲しがって…… 「しかもそれが、全部僕のせいだっていうのか?」 「そうよ……あんたのせい。全部あんたのせい!」 「言ってろよ」 「っっ」 「そうやって全部僕のせいにしてれば、とりあえずお前の 気は晴れるもんな。だったら、せいぜい、罵って、 怒鳴り散らせばいい……!」 脈略のない言葉が、口をついた。これじゃ芹花と変わらない。そう思いつつも、止まらなかった。 僕は、芹花にどうして欲しいんだろう? 僕は、芹花と、どうしたいんだろう? ――本当は、わかっているんだ。わかりきっている。 「真一……あたし……」 芹花が……あの芹花が今にも泣き出しそうに、顔をくしゃくしゃにしていた。 胸にチクリと痛みを感じた。 細い針先が血管の壁を破きながら、身体の中を泳ぎ回っているような……これはきっとたぶん、絶望的な痛みだ。 違う、違う……!少なくとも僕は……決して、芹花にこんな顔をさせたいわけじゃないんだ! 芹花には、いつだって、あんな風に…… 「……ごめん。僕も、言ってないことがある」 僕は、芹花の背中に覆いかぶさるように身体を寄せて……彼女を抱き締めた。 「し、真一っ!? あっ、ちょっと……!?」 彼女との関係は、『家族』だ。 「魅力がないって……?」 僕の腕から逃れようとする芹花を抱きすくめ、僕は彼女の耳元に、そっと言葉を投げかけた。 「そんなことないよ。決めつけるなよ」 「だって……」 「ほかの女の子となんか、比べられない。芹花は……」 「芹花は僕の……」 僕は、彼女の身体を、強く強くかき抱いた。 ――それは『家族』としての行為なのか? 自問する。けれど、答えは出ない。答えを出せないし、出すのが怖い。 だから僕は、芹花の頭に頬を押しつけた。 彼女の長く柔らかな髪の感触が、僕の頬をくすぐる。 かすかな汗の匂いと、抱き締めた肩の確かさ、肌の温もり……どれもが芹花という女の子の存在を、僕の内に刻み付ける。答えの代わりに、僕を満たしてくれる。 「じゃあ…………真一……」 言葉の代わりに身体を擦り合わせる僕に、芹花が……我慢できないように、ねだるようにささやきかけてくる。 「だったら、触って……くれる?」 芹花の唇は……震えていた。 「あんたが、今言いかけたことが本当の気持ちだって 言うんなら」 「……証明してみせてよ」 「…………」 「ね?」 「……うん」 何をどう否定しても、もう遅い。 もう、あとには退けなかった。 芹花に言われて仕方なく……?そう言い訳しても、事実は変えられない。 何より僕自身が、芹花に触れたいという欲求に……もう、抗えない。 「い、いい?」 「ど、どうぞ」 *recollect「んっ……」 さっきより丹念に……身体のラインをなぞっていく。 「はっ……ん…………」 拭くというより……撫でる。触れたい場所に、タオルを滑らせていく…… 芹花の身体は、小さくても女性らしい丸みを帯びていて、うなじや腰のくびれが魅力的だった。 「んん……や……なんか、さっきと、違う……」 いざとなると怖いのか……身体をすくませる芹花の、その脇の下から前へと、手を滑り込ませる。 「んあっ……」 「あっ……そこは……んんっ……」 僕は意を決して、ふたつのふくらみに手を伸ばした。 タオル越しでも、芹花の胸の柔らかさは、僕の手にハッキリと伝わってくる。 「……ぅっ……あっ……ああっ……」 芹花の背中がぴくんと強ばった。でも……口調はあくまで、負けん気に満ちている。 「な、何それ? そんなもの?」 「そんなもの、って」 「この程度じゃ、その……触った内に入らないというか、 偶然や事故と変わらないじゃない……」 「……事故で済まなくなって、本当にいいの?」 念のためもう一度確認すると、芹花は束の間押し黙った。 「…………」 それからゆっくりと、念を押すように告げてくる。 「……だから、証明してって……言ってるじゃない。 ここでやめられたら、あたし……本気でへこむわよ」 「……うん、わかった」 彼女の返事を待つ間、僕は無意識の内に、息を止めていた。それを吐き出して……指先に力を込める。 「んっ……! ぁ…………」 「……ぅん……っ……あぁぁっ……あっ……」 芹花の胸は、普段服越しに目にしている印象よりも、大きい感覚を受けた。 僕は、膨らみの量感を確かめるように、彼女の胸を下から持ち上げるように触れてみた。 「あっ……ふっ……く……」 ……熱い。 風邪のせいなのかもしれないけれど、柔らかさや量感以上に、肌の火照りが熱いぐらいに感じ取れる。 「ど……う、かな。どうなの?」 「頭がくらくらして、鼻血が出そう」 「何そっ……ん……れっ、ひぅっ……はぁぁ……」 だんだん、遠慮がなくなっていく。『触れる』じゃなくて、『揉む』ように、手を動かしてしまう。 「……真一のくせに……っ、はぁ……っ、ん……んんっ」 「だって……証明するんでしょ?」 彼女が魅力的であることを証明するために。彼女を安心させるために。――全部言い訳だ。 僕は僕自身の欲望に、すっかり呑み込まれていた。 「ぁん……真一の手ぇ、やらし……い」 僕はタオルでふさがれていない方の手を、直接胸に這わせた。 「ん……はぁ……あん……も、もう……ひゃん」 柔らかな肌と、肌ににじんだ汗が、手の平に吸い付いてくるみたいで……僕は、思わず唾を呑んだ。 タオル越しの感触と、直接触れたこの感覚は、まったくの別物だ。 僕は夢中になって、彼女の柔肌をこねるように、愛撫し始めた。 「こ、こんなの、思って……たのと、全然ちが……んんっ、 んーっ……んん……んんっ、あんっ……」 彼女の柔らかさの虜になった。 指がどこまでも沈みこんでいくような感覚を、思うように味わいながら、芹花の背中に身体を密着させる。 彼女の吐息も、鼓動も、すべてを感じたかった。 「はぁ、はぁ……っ、ん……真一ぃ……んっ、んっ」 「そっ……そんな……さわりかた……んぅん、ひゃう……」 いつもの芹花からは想像もできないような、甘い声に耳をくすぐられる。 胸の奥がざわざわと、熱で焼かれたように苦しくなる。でも、芹花の胸を揉む手は止まらない。 「ああんっ……真一の手っ……おっきいっ……いっぱい 揉まれてるぅっ……あっ、……ああんっ……」 「そっ……そうっ……やれば出来るじゃない……んっ! んっ……あっ……はぁ、はぁっ……」 芹花と密着していることと、お互いの体温だけで、頭がぼうっとし始めていた。 芹花の息が上がり、肌がさらに上気してピンク色に染まっていく。 「んっ……ひうっ……ああんっ……真一ぃっ……」 「ん……芹花……っ」 身を焦がす熱が血流に乗って、下半身に集まっていく。 「ちょ……っと……んあっ……も、もっと……やさ、 やさしくして……よ……んぁっ、バカ真一……んんっ!」 この声を、自分の手が出させているのかと思うと、興奮はさらに大きくなっていく。 「ひゃっん……あん……そんな、いっ……ぱい、 動かさないで……よぉ、指……ぃ……はぁぅ……っ」 芹花の可愛い声を、もっと聞きたい。その衝動に突き動かされるまま、僕は、手の平で押し潰すように芹花の胸を揉んだ。 芹花が少し苦しそうな声をあげた。けど、それを気遣う余裕は、今の僕にはもうない。 「うぅ……くぅぅ……んぅぅ……はぁぁ……」 僕の手の平に押されて、形を変える芹花の胸。 背中越しだからしっかりその光景を見ることはできないけれど、指に伝わる感触だけでも、十分興奮させられる。 「はぁ……っはぁ……っはぁ……んっ……んあっ……」 さっきから、手の平に芹花の乳首が当たっていた。 大きく膨らんで自分の存在を主張する突起を、僕は優しく指の間に挟みこんで…… 「へぅ……バ、バカ……それ、ダメだってば……んんっ!」 芹花は抗議の声をあげながらも、それ以上の抵抗をみせない。 「ダメ……よ、弱いの、それぇ…… んっ……んぅんっ……あっ……ああんっ……」 芹花が一人でしていた時と同じように、くりくりと指先で摘むように擦っていく。 「やっ……ああんっ……あんっ……そんなっ……そこ、 ばっかり……あん! ああんっ……」 息を荒げ、僕のされるがままになっている芹花……これもまた、普段ならあり得ない光景。 僕は彼女を抱きすくめて、指の間の乳首を少し意地悪く、強めにこねあげてやった。 「んあっ! ああっ! ……ふぁ、あぁぁぁ……はぁぁ」 「ひうっ……あああっ……あっ……はぁんっ!」 芹花の身体がぎゅっと縮こまって、大きく打ち震える。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……はぁぁぁ、 らめらってぇっ……あっ……ああんっ……んんっ!」 芹花は荒い息を吐き、快感で少しろれつの回らない口調で嫌がる。 息を吐くその音が、熱く、甘苦しく、僕の耳に届く…… 「ひゃぅんっ! あっ! んくぅっ……だめっ、あああっ! そんなに強くしちゃぁっ……あっ、ああああっ!」 その生々しい喘ぎ声に、僕はさらに行為をエスカレートしていく。 「はぁ、はぁっ……んくっ……あっ、ひぃっ……あたしっ、 だめぇっ……気持ちよすぎてぇっ……んんんっ!!」 「やっ、真……一の、ばか、だめぇ…………んっ! んんっ!! んぅぅんっっっ!!」 「んんぅぅぅぅっ!! はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 「あふっ……んぅぅぅっ! あぁぁぁぁぁぁっ……」 「やぁんっ……はぁ……はぁっ……いっちゃってるぅ…… あたしぃ……あぁぁぁっ……あっ……はぁ……はぁ……」 僕の腕の中で、芹花がビクビクッと、短く数回、身体を震わせた。 「胸だけでっ……はぁ、はぁっ……真一にぃ……いかされ、 ちゃったぁ……あっ……ああ……」 僕は妙な興奮に包まれた。この手で女の子をいかせてしまったことに。 この手で直に快感を与えて絶頂を迎えさせることが、こんなに嬉しいことだなんて思いもしなかった。 「はぁ……はぁっ……真一ぃ……」 うっとりと弛緩している芹花をもう一度ぎゅっと抱きしめる。 そして、彼女の息が整うのを待って、僕はようやく胸からそっと手を離した…… 「……芹花……」 「はぁ……はぁ……」 「これで、満足……した?」 「はぁ……ばか」 「バカ……バカ真一。好き勝手触ってくれちゃって……」 先ほどの痴態と打って変わって、目に涙をにじませて、芹花は僕を睨んだ。 怒りと言うよりは、戸惑いの表情だった。 「こんな……すっごく恥ずかしい思いをさせた責任を、 どう取ってくれるわけ?」 「……せっ、責任?」 「……取ってよ……責任」 上気した顔に、潤んだ瞳――これまで見せられたことのない、『女』を意識させる芹花が、そこにはいた。 まるで、一度や二度では収まらずに、何度もひとりでしていた、あの夜みたいな…… 「どう……したらいい?」 「ど……どうって……それは……その……」 意地悪をしようとしたわけじゃない。ただちょっと、恥ずかしさにもじもじしている芹花が可愛くて、彼女の言葉で、彼女の口から言って欲しいと思った。 自分でも少し、驚いている。女の子を……芹花を苛めて楽しむなんて趣味は、ないんだけど…… 「ねぇ、どうやって?」 「ば……バカ、そんなこと、女の子に言わせる気?」 顔を近づけると、芹花はひくりと肩を震わせて、ほんの少し脅えの混じったような目で僕を見てくる。 「だから真一は……いつまでたっても真一なのよ!」 「こ、こういうのは、男がリードするもんなの! そんなの当然でしょう……まったくもう」 結局、すぐにいつもの芹花にもどってしまって、僕はほんの少しだけ残念に思った。ほんの少し、だ。 安心した気分の方が、ずっと大きい。 「……いいの?」 「……聞くな、バーカ」 「わかった……もう聞かない」 芹花の身体を改めて、正面から抱きすくめる。彼女は身体を強ばらせたけど……反射的なものだったのか、すぐに力を抜いた。 芹花の心臓の鼓動が、身体の熱が、直接伝わってくる。たぶん、同じように僕の鼓動が激しくなっているのも、芹花には伝わっているんだろう。 彼女を抱く腕が震えていることを悟られるより前に、僕は、芹花をベッドへ押し倒した。 「きゃ……っ!」 芹花の肩を、ベッドに押しつける。ついた手の間に芹花の顔があって、彼女は目を丸くして僕を見つめ返していた。 「わっ……わっ……! し、真一に……押し倒されちゃった」 「……リードしろ、っていうから」 「そうね……いや、ちょっとびっくりしただけ……」 そう言うと、彼女はベッドの上から僕に向かって両手を掲げた。指先が、頬に触れる。 「じゃあ、ちゃんとリードしてよね、最後まで……」 最後まで――その言葉に、これからしようとしている行為の意味の重さを感じてしまう。 こんな……売り言葉に買い言葉で、なし崩しに……してしまって、本当にいいのか?本当の意味の『責任』を取れるのか? 「……難しいこと考えるの、よそう」 「え……」 「あんたってさぁ……わかりやすい時とわかりにくい時の 差が、激し過ぎ」 苦笑というか、安心したような笑みを、芹花は浮かべていた。 「なんて言うのかな……ちょっと前までは、普段から ぼぉっとしているっていうか、本心を人に見せないよう なところがあったのに」 「ひとつのことを考え出すと、そっちに集中しちゃうって いうか……そうなるとすごく、顔に出る」 「今だって、あたしが傷つかないで済むように…… そればっかり、考えてくれてるんでしょ?」 「…………」 本当の意味での責任――芹花を『女』として抱いてしまって、その後……どうする? お互いに、なかったことにはできない。それで毎日、顔を合わせて生きていくことができる? 「いいの。今は……何も考えないで。何も言わないで」 「芹花……」 「あんたが……こういうこと、あたしにしたくなってくれ ただけで、あたし……すごく喜んじゃってるんだから、 さ」 「だからこのまま……きて。お願い」 「…………」 どんなに『家族』なんだと自分に言い聞かせても、触れ合いたい欲望にはもう、抵抗できない…… だから彼女は僕に、身体だけを預けようとしている。 そうしなければ、お互いに大切にしているものが、壊れてしまいそうだから…… 「……そういう言い方は、ずるい」 「んっ……あっ……」 僕はそれ以上悩まない代わりに、改めて芹花を抱き締め、ささやく。 「全部、芹花の思い通りにしてあげるよ」 「……真一」 「ただし、あんまり期待しないでよ。僕だって……初めて なんだから」 「わかってる……でも、期待しちゃう」 「ハードル高いよ……」 「そりゃあ、あたしを抱くんだから、それぐらい当然…… なんてね」 目の前にある問題から目を背けて、ただ、今この時を楽しもうとしている……そんな、刹那的な言葉の投げ合い。 それでも僕は……芹花を、満たしてやりたかった。 「じゃあ、どこから始めますか、女王様」 「ふふ……最初は……キス、かな。うん」 「わかった……」 僕は、芹花と指と指とを絡ませて手を繋ぐと、顔を近づけて…… 「んん……」 軽く唇へ触れるだけの、ささやかなキスをしてみた。 「……ふふっ」 芹花から文句は出ない。次は? と、目で促してくる。 僕はもう一度、軽めの口づけを交わした。 「は……んんっ」 熱っぽい吐息が、彼女の柔らかな唇から漏れ出す。僕はその呼気ごと、彼女の口を吸い上げる。 「ちょ、きゅ、きゅうに……ん、ちゅっ、ちゅ、ふぁ……」 今度は激しく、深く深く唇を重ねる。 「んんっ……んちゅっ……んんっ……んんっ! んっ!」 ぬるりとした唾液の感触と、ただでさえ熱のある芹花の身体の中の温度を、貪るように味わった。 「んっ……んふゅ……んちゅ、んちゅちゅ……ちゅうぅ」 最初はぎこちなかった芹花も、次第に僕のキスに応えてくれるように、顔を動かす。 「ちゅっ……ぅちゅ、っんはぁ……んんぅ…… ちゅる……んんっ……ちゅ、ちゅっ……」 それがとてもとても嬉しくて、僕は息をするのも忘れて、彼女と唇を重ね続けた。 「ふちゅ……んぁっ……はぁ……はぁ……んんっ…… ね……ねぇ……手ぇ、繋いで。もっと、ぎゅって」 芹花が言い終わるのを待たずに、僕は、彼女の手を強く握りしめた。 手の平と手の平を擦り合わせるように強く。そして、指を絡め合った。 「ちゅぷ……ちゅ……んんっ……んぷっ……ちゅぷぷ……」 手と、唇と、両方で繋がっている感覚が、僕たちを満たす。指を絡め合わせるのも、唇を重ね合うのも、いつしか一方通行ではなく、お互いに繰り返していた。 「んんんっ、んちゅ……ちゅ……し、真一ぃ……ん、ちゅ、 ふぁ、んっちゅ……ちゅうぅぅぅ……ん、ん、ふはっ」 芹花からのキスは、とても情熱的なもの、だと思う。 比較する体験なんてないからわからないけど……僕にはそう思えた。 「はぁ、むっ……んっ、ちゅぅ……ちゅっっ……はぁぁ」 長い長いキスの後……芹花はようやく唇を離して、大きく息をついた。 蕩けきった瞳で僕を見つめて、うっとりと呟く。 「だ、ダメ。これダメ、クセんなっちゃうかも」 「僕も……」 また、芹花はきゅっと僕の手を握り締める。なので僕も、彼女と同じように握り返した。 「真一って……キスも、初めてだよね?」 「……うん」 今さらのことなのに、言葉にされるとドキッとする。芹花は、不安そうな表情を浮かべて…… 「あたしでよかったの? ファーストキス」 僕に、そんなことを聞いてくる。 「またそーゆー、ずるい聞き方するんだから」 「……答えになってな……はふっ、んんん!」 芹花の言葉を遮って、僕は彼女の唇をふさいだ。 「んちゅる……んん、んんぅ……んぷっ……ちゅぷっっ」 特別甘いキスをもう一度。それが僕の答えの代わりだった。 「ぷは……っ。んー……真一のくせに、強引だ」 「強引にさせたのは、芹花でしょ」 「あたしのせいに……するわけ?」 「たまにはね」 たまには、芹花にも責任というヤツを感じてもらおう。僕をこんなに……夢中にさせているんだから。 「芹花こそ、キスは……」 「はっ、初めてに決まってるでしょ!!」 僕が最後まで聞くより早く、芹花は自爆した。 「あんた以外……相手として考えたこともないわよ……」 「……だから、それはずるい言い方だってば」 「っ!! あ、えと、今のなし! 聞かなかったことに して!!」 ……そうしないと、これまで幼なじみとして付き合ってきた期間も、これから家族として過ごしていく期間も全部、意味が変わってしまいそうだ。 「……先、進めようか?」 「……うん」 話題を変えるためとはいえ、それが意味するところを悟って、芹花が顔を真っ赤にする。 僕は、内心かなり緊張しながら、芹花の胸に手を置いた。 「芹花……ドキドキしてる」 「うん。真一のも、わかるよ。すごく、ドキドキしてる」 「……もっと、触って欲しい?」 「……うん、さわって……ください……」 「んぅっ……あ、やぁ……」 僕は彼女の返事を聞くとすぐに、はだけられた胸へ、汗ばんだ肌に手の平を滑らせた。 「ひゃ……ぁぅっ、あっ……ああんっ……ねっ、ねぇ…… あたしって、さわりたくなるような身体してる?」 「ずっと触ってても飽きないよ。試そうか?」 「んんっ……やっぱり真一、なんか意地悪になってる。 ……んんっ、あんっ……」 それは自分でも感じていた。だけど、その原因は妙におとなしくて、されるがままの芹花にあると思う。 「だって、芹花が……可愛いから」 言葉にするのは恥ずかしかったけれど、僕は思ったままを口にした。 「えっ……! そ、そう? ……本気で言ってる?」 「……疑り深いというか、不安? 僕の言うこと、 信じられない?」 「だ、だって……あたし……おっぱい、ないし」 「なくは……うん。ないと思うよ」 「ああんっ、ちょっと、話してる時は手、あんんっ、 やめ……っ」 僕は、『なくはない』芹花の胸を、両手で揉み続けた。 手の平にちょうど収まるくらいの大きさが、十分に魅力的な手応えを僕に与えてくれる。 「うぅんっ……あっ、はぁっ……んあんっ……あんっ……」 さっきの続きのつもりで、少ししつこいくらいに、芹花の胸を攻め続ける。 特に乳首を突いたり、摘んだりすると…… 「あぁん、やめ……てぇ……っ……はぁっ!! んっ、んくっ、あ、ああ、あんっ……!」 芹花の顔がまた、徐々に朱に染まっていった。 「ダメ……止められない」 「バカッ……んんっ、はぁぁ……はぁぁ……っ」 芹花は僕を非難するように睨み付けたが、その瞳はもう、明らかに快感に蕩けている。 「はぁ、はぁっ……こ、こんな胸、いじめて楽しいの? お姉ちゃんみたいに、おっきくないのに……」 「いじめてなんかいないし、大きさなんて関係無いよ」 「ウソ……」 「芹花がそうしてくれって言ったから、そうしているのに」 「バッ……あたし……そんなんつもりじゃ、ないもんっ。 んぁっ!」 「もちろん、僕も……したいから、してるけど」 お互い様の僕らなのに、なんだか、本心を認めてしまうのは恥ずかしかった。今さらなんだけど、慣れないものは慣れない。 「照れながら指、ワキワキさせてるんじゃない! あん!」 汗の浮いた肌がぬめる。胸だけじゃなく、お腹も、脇も、いくら触っても飽きない…… 「ちょ……なんでそんなとこさわるのぉ……んんっ!」 「そんなとこって……こんなところでも、感じるの?」 「はぁん、ああんっ! くっ……くすぐった……い……」 腰のくびれをツーッとなぞっていくと、ぶるぶるっと芹花は震えながらも、甘い声を漏らす。 「くすぐったかった?」 「はうっ……! わ、わざわざなぞり直すなぁ、不意打ち ずるいっ!!」 ごく普通の、普段だったらじゃれ合っている時にぶつかりそうな場所でさえ、指を滑らせるだけで芹花は身体をすくませ、仰け反って反応していた。 「芹花って、感じやすい女の子なのかな?」 「何それ……んっ、んっ、バカにしてぇ……はぁぁっ! ……んぅぅ……っ!」 「バカになんてしてないよ」 「へ……へぅっ、んんッ……くっ……ああっ、またぁ……」 答えながら、芹花の身体を触りまくった。僕の愛撫に可愛い喘ぎ声を漏らしながら、芹花はそれでも、会話を続けようとする。 「あ……んた、だからでしょ……あぁん……」 「え?」 「あんたに、ひぅッ……ん……真一にぃ、さ、さわられて る、から……こんなんなってるんでしょ……っ!」 必死の訴えは……疑いようもない、彼女の本心だった。 「……芹花、かわいい」 「……ばっ、バカ……!」 明らかに、僕たちは正常ではなくなっていた。明らかに、いつもと違う、異常な状態。なのに話していることは全部本音で、本当のことだ。 一番肝心な、お互いの気持ちに関するひと言だけを、うまく避けて…… 僕らはただ、欲求に素直だった。抗うことを諦めた時、今度は次から次へと欲望が込み上げてくるのを、僕は確かに自覚していた。 そしてそれは、芹花も同じだったらしい。 「ねぇ、真一……」 「何?」 「胸とかだけ、じゃなくて……違うとこも、触って……?」 「違うところ?」 「だから、その、もっと……別のトコ」 「……芹花のエッチ」 「いやぁ……言わないでよ、そんなことーっ! 真一だからぁ……真一だから、言えるのに……もぅ……」 今夜の芹花は、羞恥心に身をよじるばかりだった。 何より、女王様のおねだりだ。さっきから彼女が、太ももをもじもじと擦り合わせているのを、僕は見て見ぬ振りをしていた。 「……それでは、触らせて頂きます」 「いちいち断り入れないでよ、恥ずかしくなるでしょ」 「じゃあ……」 「んっ……あぁぁぁっ……んくっ……あっ……」 「濡れてるね」 「いっ……言わないでよっ……あっ……んっ、んぅんん」 恐る恐る手を這わせたショーツは、じんわりと湿っていた。 それは芹花がさっきからの愛撫で感じている証拠でもあった。 「やぁん……だめ……だってばぁ……そんな……んんっ!」 自慰をしていた芹花が触っていた部分を真似るように指で撫でていくと、湿ったショーツがぺったりと肌に張り付いていき、性器の形が浮かび上がってくる。 「んんっ……ああんっ……あっ……はぁ、はぁっ…… 気持ちいい……でも……下着、汚れちゃう……」 「じゃあ……脱がすよ」 「……えっ……」 全身を愛撫している内に少しずれた下着を、半ば強引に脱がしていく。 「あ……あぁ……そんな……きゃっ……」 身体からすっかり力が抜けていた芹花は、身をよじるしか抵抗できなくて…… 「うっ……うぅっ……見、見ちゃ、だめよ……? 見たら、ぶっとばす……」 消え入りそうな声で、そう脅してくるのが精一杯だった。 僕は思わず芹花の肌の白さに魅了される。もじもじと恥ずかしがる姿も可愛く感じてしまう。 「……じゃあ、見ないけど……触るよ」 「えっ、んんあっ……! ああっ……はぁんっ!」 最初は内ももを撫で、徐々に柔らかさと熱気が絡みつく芹花の大切な部分へ、指を滑り込ませていく。 「だっ……だめぇっ……そんな、直接なんて……んあっ! ……ああんっ……はぁ……はぁっ……あんっっ!」 「力抜いて……そんなに足で挟まれたら痛い」 「でっ、でもぉっ……んぅんっ……きゃふっ……ああっ! あぁぁっ……んんんっ……んあぁんっ!」 抵抗して股を閉じてきた芹花の脚の力が緩んでいくのを見計らって、その上からゆっくりと手で撫で始める。 「あっ……あんっ!! さ、触ってる……真一が…… あたしの……触ってる!」 そこはもう太ももの付け根まで、ぐっしょりと濡れていた。 「芹花、すごい濡れて……」 「う、うん、うん、真一に触られて……キスされて……ね。 それだけで、もう、すごく……ぬ、濡れちゃって…… ああぁ、あっ、あんっ!」 僕も……自分の股間が、似たような状態になっている。彼女も同じだったと知るのは、妙に嬉しくて、幸せな気持ちが胸に溢れかえる。 「ねぇ、ぎゅーって、しながら……触って?」 「ん……」 リクエストに応えて、僕は彼女に身体を寄せた。そして、空いている方の手で、彼女の身体を抱く。 股間に忍び込ませた方の手は、いよいよ本格的に、彼女の身体を愛し始める。初めて触れるその場所の奥へと、指を沈ませ……なぶっていく。 「ひぅ……あ、ぁんっ! やばっ、これぇ…… あ、あたし……んんーっ」 本気で溶けてしまうんじゃないかと思うほど、芹花の身体は熱く、そしてやっぱり、どこもかしこも柔らかかった。 そこを濡らす愛液を指ですくい、芹花の秘裂をマッサージするようにまぶしていく。 「んんっ……あっ……すっごく濡れてるぅ……真一に 触られて……あぁんっ……あっ……んんっっ!」 芹花が、僕の腕を握る。爪が食い込むほど強く……そして加減する気遣いもできなくなるくらいに、必死に。 「指……っ、そこに指入れて……真一の、指でぇ…… んぁあっ、あっ……んっ……! ひぅっ……!」 彼女の望むまま、中へ指を進み入れた。あっさりと侵入を許し、僕を受け入れた芹花は、耐え切れずにくぐもった喘ぎ声を漏らす。 「はぁんっ……あっ……ああっ! 入ってきてるぅっ…… しん、いちの指がぁっ……はぁ……はぁぁっ!」 軽く差し入れた指を放すまいと芹花の秘裂がきゅっと力を込めてくる。 彼女を気持ちよくさせてあげたいと思っても、僕にはそんなテクニックなんてない。ただひたすらに彼女の反応を見ながら、彼女が求めるままに、僕は指を動かしていた。 「真一、真一っ……すご、い……あたし……あたしっ!」 芹花は背中を丸め、僕の腕に顔を押しつけてきた。表情は見えないけれど、相当切羽詰っているみたいだ。 「く……! ん……んぁぁ……っ! ふぁぁっ……!! いっ……ちゃうぅっ……いっちゃうのぉっ!」 芹花の肩が震え、声が声にならなくなっていく。 「んっ……んぐっ……あんっ……あっ、あっああーっ!」 しかし、僕は手を止めずに芹花を絶頂へ導いていく。 「や――んっ!! あっ!! あっ、あっ、あんっ!!」 「真一ぃっ……真一ぃぃっ! あたしっ……もぅっ!! あっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 「んんぅぅっ……んはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」 「あーーーっ……あっ……あぁぁっ……っっっっ!」 「はぁ……はぁ……はぁっ……あふっ、あぁぁぁ……」 芹花は僕にがしっと掴まり、ビクンと大きく震わせて絶頂を迎えた。 「あぁっ……真一ぃ……あたしぃ……はぁ……はぁ……」 吐息が大きく深いものに変わって、芹花は身体の力を抜いた。 彼女の身体が脱力していくのに合わせて、僕も指を抜く。 「芹花……?」 「ん……い、いっちゃった……」 かすかに微笑んで告げるその表情がたまらなくて、僕は、芹花を抱き締めながら、彼女の髪を撫でてやった。 「んふ……真一に髪撫でられるの……気持ちいい」 どうやらこれも、芹花はお気に召したらしい。 よく手入れされた芹花の長い髪は、手触り心地よく、撫でているこっちも気持ちがいい。 「なんだか……実際に触ってみると、色々勉強になるなぁ」 「お互いに、ね。あたしも……こんなの、初めて」 ――自分で触っている時とは違うのかな、と聞いてみたい衝動に一瞬駆られたけれど、さすがに今度こそ殴られそうなので、やめた。 「それで、ねぇ、真一……」 「ん?」 「その……さっきからずっと、カチカチなやつが当たって るんだけど……」 「…………」 気づかれていた。というか、気づかれて当たり前だ。 目の前で繰り広げられたことに、興奮するなと言う方が無理だ。 「ごめん……その……」 どうとも言い訳できないから、素直に謝ってみる。自分の感情がこんな形で筒抜けになっていたと思うと、恥ずかしさもひとしおだった。 「あ、あやまることじゃないでしょ……なって当然、 というか、このあたしを前にしてそうなってくれないと、 その……困る」 「……ははっ……そ、そうか……」 照れながらもきっぱり言う辺り、芹花はやっぱり芹花だった。 「…………」 そして彼女は、照れくさそうに僕を上目遣いで見て……耳元に顔を寄せてくると、ささやいた。 「……しよ」 「……うん」 誘いの言葉に、芹花の言うカチカチのアレが、また反応してしまう。 「……うん。じゃあ、おねがいします」 「こちらこそ」 妙なやり取りをしながら、僕は、痛いほど血流を集め、張り詰めた自分自身を取り出すと、芹花のアソコへあてがった。 「ふわっ……」 「ん……そ、そんな驚くなよ……」 「ああ……ごめん、そう言う意味じゃなくて……その」 「そ、そんなになってるんだって……」 「まじまじ見るなって……僕も恥ずかしいんだぞ……」 「それはお互い様でしょ」 そう軽口をたたき合いながらも、僕らは緊張していた。 お互いに初めてだから。聞きかじった知識をいざ実践に移すっていうのは怖いことだったんだ。 でも、それ以上に欲望が絡んだ期待も大きくて── 「え、えっと……こ、ここ?」 「ん。そこ……」 膨張したものを触れさせると、芹花の濡れそぼった所はぬるっとした感触がした。 準備は出来ている……芹花は僕の物を緊張した面持ちで見つめて、二人が一つになる瞬間を待ち続ける。 さっきまで自分の指が入っていた場所をめがけて、体重を乗せて……押し込める! 「ん、んあっっ……」 僕のものは熱く溶けた芹花の身体に、埋もれるように包み込まれていった。 「芹花……あぅ……」 「んくっ……ううぅぅ……っ……っっっ!!」 ゆっくりと、芹花の身体をこじ開けるように腰を入れていく。 「入ってくるよぉ……しんいちのがぁっ……くぅっ!」 ぷつっと何かが切れるような感触があり、その後はぐいっと根本まで彼女の中へと埋没していく。 「はぁ……っ! はぁ……はぁ……」 「……芹花、だ、大丈夫?」 気遣うようなことを言ったものの、僕にも余裕なんてものはない。 想像していた以上に芹花の中は温かくて、そして挿入した瞬間から柔らかく刺激され、もう蕩けそうだった。 「くっ……うぅぅっ……だ、大丈夫じゃないかも…… んんっ……くぅぅ……!」 「や、やっぱりやめようか?」 「んーん、ごめん……幸せすぎてダメになりそうって 意味……」 「…………」 涙目でけなげに微笑まれると、罪悪感を憶えてしまう。 本気で言ってくれてることはわかったけど……また無理してるんじゃないだろうか。女の子は色々大変なんだって話は……宗太がよくしていたことだけど。 「その、痛かったり、しない?」 「痛いけど……ん……半分半分、なの……」 「身体の中、熱くて……かたくて、おっきぃくて…… 気持ちいぃ……」 「それがもう半分……?」 「へへへー……それと……それとね、真一が相手だから」 芹花は幸せそうに、はにかんでみせてくれた。 痛い、ということもしっかりと話してくれた。苦痛を隠して平気なふりをされるよりずっといい。 芹花の中に出し入れされる僕のモノに、愛液とは違った物がまとわりついていた。 破瓜の血……それは少量だったが、僕が芹花の初めてを奪った証だった。 「真一は……どう、なのかな?」 「どうって……うん……芹花と一緒だよ」 「え? 痛いの?」 「へ? ……あ、はは。違うよ」 「気持ち良すぎて、ダメになっちゃうかも……ってね」 「そ……なんだ。へぇ。ふーん。い、いいんだ……」 芹花は僕の手を取り、指を絡めて握る。 正直、この手の繋ぎ方が何よりドキドキさせられる。 「あたしの中に……真一の、感じるよ……」 手の平から芹花の温もりや、指のかすかな動きや、熱……いろんなものが直に感じられる。 自分の体温も、芹花は感じ取ってくれているだろうか? 握った手を握り返された時の、なんとも言いがたい温かな気持ちを、芹花も感じているだろうか? 「芹花、動いてもいい……?」 「うん、いっぱい、して」 「わかった……痛かったら言ってね」 「それが気にならないぐらい……して……」 「うん」 芹花のお許しを得たので、僕は芹花の身体に自分の分身をゆっくりと抜き差しさせ始めた。 「んあ……んんんーっ!!」 芹花の中は、たっぷりと愛液で濡れてぬるぬるなのに、狭くて僕をぎゅっと締めつけてくる。 今まで感じたこともないほど強く立ち上がった僕の分身に、執拗なまでにまとわりつき絡みつく芹花の感触は、僕の思考を快感の一色に染め上げていった。 「し、真一ぃ……うっ、あっ、あっ」 「あっ、あ、はっ、はっ、ん、んっ、あ、あんんっ」 芹花に僕のモノを突き立てる快感……今の僕には、それしかなかった。 自分の快楽を求めて、貪り、陶酔する……芹花の身体で。 「いっ……いいよっ……凄く、優しいっ……真一って 初めてっての……ウソ、みたい……あんんっ!」 「んっ……ひぃっ……あくぅっ……んんんっ……奥まで、 当たってるぅ……んっ、んぅんっ!」 芹花は足を開き、僕を受け入れようとしてくれている。 そのおかげで、僕の腰はリズミカルに動き、より快感をむさぼれる。 「んん……し、真一ぃ……キス……ちょうだい……」 芹花も僕に快楽をねだった。 「んんっ、んふぁっ……んちゅ、ちゅぷ、れるぅ、れろっ、 ちゅぶっ、んんぅ、んちゅぅ……」 僕は芹花のお願いを聞くためではなく、自分の興奮をより強く感じるために、彼女の唇を奪う。 「んん、んんん、んぁっ、ちゅぅ……ちゅふぁ……んっ、 んちゅ、ふゅ……ぅ……んあぁっ、はっ、んちゅ」 最初に感じていた罪悪感は、いつのまにかどこかへ消えてしまっていた。 僕はキスをしながら、腰を動かすのを止めない。 「んちゅっ……んふぅっ……んーーっ! んむぅっ! ぷはぁっ……はぁ、はぁっ……これ……いい……!」 お互い息苦しい中、唇を求めるのをやめない。むしろ貧欲にむさぼり合うと言った方が正しかった。 「んちゅ……はぁ、はぁ、……キ……ス、はぁぅ…… ……ん、おいし、んちゅぅぅ……」 罪悪感どころか、芹花も僕も互いの望むようにしているだけなのだから、これは正しい行為なのだと……そう思うようになっていた。 「ちゅぷぷ……ちゅっ……ふぁぁ…… ねぇ、真一……」 芹花が僕から唇を離し、深く、心の底まで覗き込むように深く、芹花は僕の目を見つめてきた。 「あたし……ヘン、かな?」 「まだ、何か不安なの?」 「んーん、ちがくって。あたし……もう、結構、気持ち いいんだ……痛くなくなっちゃった。へへへ」 「それは……よかったんじゃない?」 「やっぱ……真一だから、かな」 ……また、くらっと来た。 「ん、んはっ……おなかのなかで、ぴくんて……した。 真一、えっちだぁ……」 「どっちが」 僕に言わせれば、芹花の方がずっとエッチだ……少なくとも、僕だけがいやらしいみたいに言われるのは納得がいかない。 僕は芹花の背中に腕を回し、彼女の身体を抱き締める。胸と胸を密着させて、首筋にキスしながら、腰を前に出して芹花の奥を突き上げる。 「ん、あはっ……そんな、いきなりっ!!」 少し乱暴なくらいに強く腰を動かして、僕は芹花の身体を貪った。 すぐに、芹花の声が変化をみせる。 「くぅぅぅっんん……真一に、ぎゅってされるの、 あたし……ダメ……耐えらんないぃっ!」 「おっ……お腹の奥にっ、んんっ! んっ! 届いて…… るよぉっ……凄く……おっきぃっのが……!!」 芹花は僕にしがみつくようにして、込み上げてくる快感に、必死に耐えているみたいだった。 「ああんっ……もっと……動いて、真一ぃっ……んっく! あっ、あっ、あああっ!!」 「いいよぉっ……ずっと感じていたいよ……ああんっ!! あっ……はぁんっ! あっ……んんっ!」 だけどそれも……僕の、無我夢中になった動きの前に、呆気なく終わる。 「あ、ダメ……真一っ……あ、あ、あたしっ……っ!! もっ……もうっ……ダメかも!!」 僕をぎゅっと抱きしめてくる手に力が入る。 芹花は涙をポロポロ流しながらも微笑み、僕と一緒に最後を迎えようと快感の波に耐える。 「ああっ……あっ! ああっ! っっ! んぐぅぅっ!」 「だめぇっ……いっちゃうっ……気持ちよすぎて…… あたし、我慢できずにいっちゃうぅっ! あああっ!!」 「ああぁっ……ああんっ……い、いく、いく、いくぅっ!」 「あっ……あはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 僕より先に芹花が耐えられずにいってしまう。 「んぐぅぅぅっ……あぁぁぁぁっ……はぁぁぁぁぁん……」 「くぅ……はぁっ……! んんんっ! あああっ!」 繋いだ手がきつく握り締められ、芹花は小さく身体を震わせた。そして、くたりと脱力して動かなくなる。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「芹花……?」 「へへへ……また、いっちゃった」 「……うん……」 恥ずかしい……なんでか、すごく照れくさかった。僕の目の前で絶頂に震える姿は凄く綺麗で、僕もつられていきそうになるほどだった。 「あっ……まだ真一がきもちよくなってない、よね」 「男の子は、その……だ、ださないと、気持ちよくないん でしょ?」 「ん……いや。うん」 「真一が気持ちよく出してくれたら、あたしも、自分に 魅力あるんだって、納得してあげるから……」 そういえば……そういう趣旨だったっけ…… ほんの少し前のやり取りなのに、僕はそれをもう忘れかけていた。 それぐらい……芹花の身体にはまっていた。 「真一がいいように、して。真一もいっちゃってよ」 「……うん」 こんなことを芹花に言われたら、僕はもう止められない。 僕は、腰を再び、一心不乱に振り始めた。 「んぅ! んっ、あっ、はっ、んんんんぅぅ……!!」 芹花の身体の奥へ入り込む度に、芹花がくぐもった声をあげる……自分のアレを包み込まれる快感と、芹花の可愛らしい声とが、僕の身体を昂ぶらせる。 「はっ、はっ、あんっ、あっ、はぁぁっ、んっ、んんっ! はひゃぅ……っ!」 「はぁんっ……あっ、あっ……あたしっ、イッたばかり なのにっ……また気持ちよくなってるっ……!!」 いつしか下腹の奥底に、ゾクゾクと込み上げ始めていた。 芹花の中に突き入れる度、その衝動はどんどんと大きくなっていく。 「真一、触っても……んっ、い……いよ、触りながら…… してぇ」 握り合っていた手を、芹花は、自分の胸元へ誘った。 優しく触れる余裕はない。そんな僕の状況も心得たものなのか、芹花はどんなに強くしても、嫌がる素振りを見せなかった。 「あっ、ああんっ……あっ……ああっ! んあっ……! おっぱい……いっぱい揉まれてるぅっ……んんっ!」 今はただ、芹花とのこの交わりが、僕のすべてだ。 全身に感じていた幸福感や、性的な快感、甘い痺れ……それらが下半身に集まってもう、爆発してしまいそうだった。 「な、名前呼んで……いっぱい……呼んで……」 「芹花……」 「芹花……芹花……!」 彼女の名前を繰り返しながら、その数と同じだけ、僕は腰を前に突き出した。 「真一……んっ……いいよ……うひゅ、う……ひゃぁっ」 彼女も感じてくれているのが、身体を通して伝わってくる。 「芹花、芹花、芹花……芹花ッ!!」 「ん、ん、んっ、んっ、あ、あはぁっ、んんん、んっ!」 「芹花、芹花……僕、もう……う……っ……くぅ!」 「はぁ……はぁ……真一ぃ……」 「ふぁっ……んんーっ! あ、あたしも……っ、あたしも またっ……真一ぃ、ひぅっ、んぐっ……!」 僕らは本当に、溶け合うように身体を交わらせていた。お互い流した汗が、肌と肌の触れ合う隙間で混ざり合う。相手の体温と自分の体温がひとつになっていく。 「二人で最後の最後まで一緒にっ……んっ、んぅんっ!!」 お互いにぎゅっと抱きしめ合い、ギリギリまで腰を打ちつけていく。 「ああんっ、あっ、あっ、ああんっ! 真一ぃっ……来て! 来てえっ! あっ、ああああっ!」 「はぁっ、はぁっ、き、きちゃう、のぉ……も、もう!! だ、だ、だめぇぇ……っ! んんんんーーーっ!!」 そして僕の絶頂は、芹花の絶頂でもあった。 「ああああっ、あはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」 彼女の背中がひきつるのを感じたのと、僕のアレから僕の欲望があふれ出したのとは、ほぼ同じタイミングだった。 「んぐっっ……っ! んんんっ!! んはぁぁぁん!」 「あはぁ……あぁぁぁっ……はぁぁぁ……!!」 僕の身体から吐き出された熱い液体は、どくどくと芹花の中へと注ぎ込まれていった。 「んんんっ、あふっ……あはぁぁ……あっ……あぁ……」 「あぁぁぁっ……出てるよぉ……中でいっぱぁい……」 「あっ……ああっ……あっ……あああ……」 それまでの経験とは比べ物にならない、狂いそうなほどの快感に、僕は全身を支配されていた。 「まだ出てるっ……凄いよ……真一ぃ……」 「あっ……あぁぁぁっ……嬉しい……こんなにいっぱい、 気持ちよくなって……」 ずっと僕の身体を抱き締めていた芹花は、身体を弛緩させてベッドに沈み込んでいく。 「はぁ……はぁ……はぁぁ…… おなか……あついぃ……」 僕はまだ、例の甘い痺れが治まらない。だからというのもおかしいけれど、芹花の身体をもう一度抱き締めた。 「真一の汗……とろとろぉ……」 「……うん」 「キスして……」 「んっ……ちゅっ……んんぅんっ……んはぁぁ……」 絶頂の余韻に包まれながらキスをすると、頭がぼうっとして、射精をしている続きみたいな物が感じられる。 「んぷっ……んっ……んぁ……ちゅぷ……ちゅっ……」 「あ……うそ。真一、の……まだ中で……かちかちぃ」 「……うん」 恥ずかしさで、顔が熱くなった……でも、否定したところで、芹花とはまだ繋がっているから、言い訳も何もできない状況だった。 「……こんな関係、人には……言えないよね」 「……うん」 ずっと避けていたことに、最後の最後になって、目を向ける。 「じゃあ、ふたりの秘密、だね」 「…………」 ふたりの秘密。ふたりだけの、秘密。 理性では抑え切れなかった、甘い誘惑。確かにこれは、秘密にするしかない。 芹花はそれを、とてもとても大事な、宝物のように口にした。 怖さと……けれど……その怖さのドキドキが、芹花と触れ合うドキドキと混ざり合って、大きく膨れ上がって…… 僕は…… 「ねぇ、真一?」 「うん?」 「まだ……する?」 そう提案してきた芹花は、なんだか僕を見透かしているようで、少し悔しい。だから僕は…… 「芹花がしたいなら」 と、少しひねくれた答えを返した。 「……バカ」 芹花が笑ったので、僕は彼女にキスをする。 「んっ……ちゅっ……んふっ……ちゅぷ……れるぅ…… キス、すきぃ……ちゅぷ……」 何か考えたわけじゃない。身体が勝手に動いていた。 そしてそのまま、僕らはふたりで朝を迎えた…… 何か考えたわけじゃない。身体が勝手に動いていた。 そしてそのまま、僕らはふたりで朝を迎えた…… 翌朝……異様に蒸し暑い気がして、僕は目を覚ました。 「んー! あー! 目覚めすっきりー!!」 「あぁ……なんかだるい……」 先に起きていたらしい芹花が、きょとんとした顔で僕の顔を覗き込む。 「真一、寝不足?」 「うん……そうかも」 誰のせい……というか、自分のせいでもある。 結局あの後、お互いに一回づつおねだりをし合って、最終的には窓の外がすっかり明るくなるまでしていたらしいのだけど…… 最後の方は、記憶がもう定かじゃない。 そのまま力尽きて寝てしまった、というのが、包み隠さない真実だった……我ながら、だらしがない。 芹花の方は、目覚めもよかったらしく、風邪もばっちり治っているみたいだった。なんだかズルイ。 「……今、何時……?」 僕は、ぼうっとする頭を必死に起こして、時計を見た。 壁時計の長い針も短い針もずいぶん上の方を差していた。しかも、右側の方を…… 「げっ! お昼過ぎてる……!」 「あっはは。寝すぎよねー」 「なんで起こしてくれないんだよ。今日、お店開ける つもりだったのに!」 父さんたちは、今日まで帰ってこない。だから店は、臨時休業にしておいてくれていい、と言われていたけど…… 僕と杏子がいれば、最低限のことはなんとか廻るだろうと思っていた。もちろん、芹花の調子次第ではあったけれど。 「何よ、あたしだって起きたのはついさっきだったの。 誰かさんのせいでね!」 「お互い様っ!」 僕は、とにかく起きることにした。まず顔を洗おう。スッキリさせないと、頭がぼーっとして敵わない。 「あ、待ちなさいよ! ちょっと!」 「……スッキリした?」 「うん、まぁ」 僕が洗面所で身支度を調えてくると、先にリビングに来ていた芹花が、一枚のメモ書きを手に取っていた。 「ところでこれ、テーブルの上にあったんだけど」 「何?」 芹花が渡してきたそれには…… 『今日はちょっと、おでかけしてきます。またおかゆ 作ったので、ふたりで食べてください――杏子』 と、書かれていた。 「お出かけって……何か聞いてる?」 「いや……」 「ふーん。どこに行ったんだろう?」 「まいったな……店番とか看病――は、もう必要なさそう だけど」 杏子にしては珍しい、無断での単独行動だった。 僕も今日の予定を相談していなかったのが悪いんだけど、なんだかやることすべて後手後手に回っている気がする。 「それよりおかゆ♪ おかゆ♪ 杏子のおかゆ~♪ へへへー」 キッチンへ向かった芹花が、例によってグラタンのお皿に盛られたおかゆを発見していた。あとはレンジで温めるだけらしい。 「あ、真一も食べる?」 「……いただきます」 お腹に何か入れないと、これ以上考えることも働くこともできそうにない。 顔を洗ったぐらいでは、まだ完全にスッキリできていなかった。 「ちょっと真一、ホントにお店開けるの?」 「まぁ……僕ひとりでも、なんとかなるかなって」 ひとりで店番するだけなら、何度か経験もある。 どっちにしても寝過ごしているから、本日の営業時間は短めだし、なんとかなるだろう……たぶん。 「父さんたちも夕方には帰ってくるはずだから、それまで 頑張ればいいだけだよ」 「でも、お父さんたちだって、挨拶回りで疲れてるんじゃ ないの?」 「それなら僕ひとりで最後まで頑張る」 「……真一」 「大丈夫だって」 芹花が、やけに不安そうな顔を僕に向けていた。夕べ、あんな背徳的なことをしていた時にだって、浮かべなかった表情で…… 「だって……あんた、顔色悪いわよ? フラフラしてるし」 「……え?」 言われるまで自覚してなかったけど……視界がさっきからぼんやりとしているのは、ひょっとして……? 「もしかして、と思うんだけど……昨日の、その、アレで ……あたしの風邪があんたにうつった?」 「…………」 足元がふわふわして、考えがまとまらない。そういうこともあるのかなぁと、ぼんやり他人事みたいに思っただけだ。 「ただいまー、おお♪ 愛しの我が子たちよ~!」 突然、店のドアが開いて、春菜さんが飛び込んできた。 「お母さん!?」 「うふふっ、心配だから早く帰ってきちゃった。 芹花、風邪はどう? 治った?」 「うん、まぁ、ボチボチ」 さすがの芹花も、驚きを隠せないでいる。僕もビックリだ……声も出せなくなりつつあるけど。 「よかった~。お母さん、ずっと心配してたんだから」 「あぁそうそう、お土産があるからみんなで食べましょう よ。フルーツゼリーと水ようかん。香澄ちゃんと選んだ の♪」 「あ、やったぁ! お腹すいてたの!」 芹花、さっき鍋に残っていたおかゆを、おかわりしていたよね……と突っ込む元気もない。 「はぁ……やっぱり我が家が一番ねぇ」 今度は香澄さんだ。両手に荷物を抱えている……そういえば、春菜さんは手ぶら…… 「ただいま」 開けっ放しになっていたドアから、今度は父さんが帰ってきて、その後ろには兄さんの姿があった。ふたりとも、なんだかすごい荷物だ。 「……? 真一、店を開けたのか?」 父さんは、僕が開店の準備をしていたことに気づいたらしい。 「あー……うん。遅くなったけど……今からでもと思って」 「いいよ。今日は休みで」 「というか、真一……大丈夫かお前。顔色悪いぞ」 さすが兄さん、よくお見通しで…… そろそろ、無視できない悪寒が、僕の全身を覆い始めていた。 「なんか、あったのか?」 「え……? いや……どうして?」 「どうしてって……いや、何もなければいいんだけど。 お前の具合がそんな、ひと晩で悪くなっているなんて」 「ね、ね~♪ ビックリですよね~♪ あ、あははぁ!」 「芹花ちゃん……は元気そうだけど。まさか真一くんに 風邪、うつしちゃったんじゃないでしょうね?」 「ぎくり」 「そ、そんなことない……よ、うん……」 「……真一、いいから奥で休め。店を開けるにせよ、 休むにせよ、病人を表に出すわけにはいかないよ」 「う……うん、ごめん」 「謝らなくていい。よく、家を守ってくれたな」 「…………」 「…………」 家を守る――そのひと言が急に、重く感じられた。 「ねー、杏子ちゃんはー?」 「あ、お出かけしてくるって。行き先はわかんないけど」 僕らはその家で……越えてはいけない一線を、越えてしまったんだ。 ヒマワリの花には香りがないって誰かが言っていたのだけれど、僕は、そうは思っていなかった。 正確には、花の香りではないのかもしれないけれど、こうしてヒマワリに囲まれていると否応なしに感じるものがある。 それはヒマワリの茎や葉の、植物らしい青臭い匂いに混じった、わずかな油の香り。 ヒマワリの種からも同じ匂いを感じるのだけれど……もしかして僕だけだろうか。 ――という話を、僕は芹花にしていたところだった。そう、ついさっきまでは…… 「んふ……んむ……んちゅ……ぁむ……んん……れるっ」 ヒマワリの香りについて、芹花からの返事はまだない。代わりに、不意打ちで唇をふさがれた。 「んっちゅ、ちゅぷ、れろれる……んちゅ、んちゅ……」 「ふぁっ……芹花……キスが、エッチ過ぎ……」 「なっ……! あ、あんたの趣味に合わせてやってるんで しょ! じゃなかったら誰がこんな……っ!」 そっちからキスしておいて、それはないよ。 「ほ、ほら――んんんっ!」 「ん……む」 言っている側からまた、唇を重ねられる。……確かに僕も、それを強く拒んではないんだけど。 「はふ……ちゅ……ふぁ……んちゅ、ちゅ、ぷちゅ…… ちゅぷ……れりゅ……はむ……ちゅ……んふぅ……」 芹花の唇は容赦なく僕に吸い付いて、否応なしに僕を昂ぶらせる。 唾液の絡みついた舌が唇を割って侵入してくる度に、僕は、その柔らかな感触に舌を絡め返した。 「はふぅ……んちゅ……はぁ、えへぇ……んちゅる、 んふぅ……ちゅぷぷ……」 唇からこぼれた唾液が、芹花の細いあごを汚し、僕はその唾液を手の平で拭う。 ぬるりとした感触が、芹花の肌と僕の手の平を滑らせた。 握った手と、触れ合った肌と。こっちは唾液じゃないけど、気の遠くなるような夏の暑さに汗をかいて、お互いにべたべたの肌をしていた。 「れる、れるる……ちゅ、ちゅぷ……ちゅ、ちゅちゅ」 それでも芹花は身体をぴったりと寄せてきて、離れようとしない。 こんなこと、しちゃいけないのに……ふたりでまた、誘惑に負けていた。 「せり……か……だいたい、こんなところで…… まずいだろ」 「んはぁ……こんなところじゃなかったら、こんなこと、 できないでしょ。それともあんた、公衆の面前でする 趣味があるわけ? 変態ね」 確かにここには、誰もいない。けれど、絶対に来ないという保証もなかった。 「せり……うむぅ……!」 また強引に唇をふさがれる。 「んふっ……ん、んむぅ、んふぅ……ふぁぁ……ちゅ、 れる……はむ、ちゅゅ……んちゅ……んっ……ちゅぴ」 誰かが通りかかるかもしれない。 ヒマワリに隠れて見えにくいとは言っても、ここはそんなに奥まった場所でもない。ちょっと近づけば、しっかり見られてしまうだろう。 「ちゅちゅっ……ぷはぁ……はぁ、はぁ……」 芹花が息継ぎのためか、唇を離した瞬間に、肩を抱いて身体を離し、また説得を試みる。 「はぁ……はぁ……だから、きょうだいでこんな」 「うるさい」 「うるさいって……芹っ……んんっ」 ……効果はなかった。 「んちゅ……んちゅる、んちゅる……ちゅるちゅるちゅぷ」 もう、気力も何もかも吸い取られてしまいそうな、激しいキスに襲われる……そう、文字通り、僕は襲われていた。 「……もう。するの? しないの?」 「…………」 あの夜以来、人目を盗んでこんなことを繰り返して…… 「……あっ、ふふん。ほら、身体は素直じゃない?」 芹花の手が僕の下半身に触れて、前の膨らみ具合から勝ち誇った笑みを浮かべる。 こんなことを繰り返していれば、お互いに……スイッチが入りやすくなる。 「……あんなキスされたら、誰だって」 「言い訳無用!」 そう言い切る芹花の目も、淫らに濡れていた。 *recollect「ちょ……芹花……」 「よっと……引っかかったらごめん」 「引っかけないでよ。デリケートなところなんだから」 芹花は明らかになれていない手つきで、僕の大きく張り詰めたアレをズボンの中から取り出した。 そしてそのそそり立ったモノを、手で握り締めてくる。 「んくっ……!」 芹花のひんやりとした手に思わずゾクッとするが、膨張した僕のモノがすごく熱を帯びていることもわかった。 続けて、竿の部分をゆっくりと擦っていく。 「ふふっ、ここって、こういう風にするものなんでしょ?」 「どこで誰から聞いてきたの、そんな知識……」 「べ、別に、なんだっていいじゃない。女の子には 色々あんのよ。秘密の情報交換がっ」 女の子の情報交換って……男からすると、すごく謎だ。 普段、エッチなことなんか興味なさそうに見えるのに、しっかりどこかで知識を得てきて、交換しているんだから。 「……まさか、香澄さんとそんな話を?」 「できるかぁっ!!」 ぎゅ。 「痛っ!!」 「あ、ああっ、ごめん! つい力が……」 「……壊れ物なので、丁寧に扱ってください」 涙目でそう頼むしかなかった。芹花は興味津々な様子で、僕のモノを握って放そうとしないから…… 「それにしても……う、うわぁ……こ、こうしてみると、 ……なんか、すごいもんがあるわね」 そもそも芹花の握り方は、なんというか、大雑把な感じがする。できればもう少しだけ、大切に扱って欲しい。 「はぁ……こんなのが、あたしの中で……あんな風に、 ねぇ……」 芹花の目がとろんと、何かを思い出しているようで、そんな表情ひとつにさえ、僕のモノはぴくんと反応してしまった。 「わっ! ぴくんってした、ぴくんって!!」 「そりゃ、するよ……」 「するんだ……へぇ……ふふふー」 つぅ……と芹花が、指先で亀頭の部分を撫でる。 「うくっ……!」 敏感な部分に触れられて、ぞくぞくと全身が震えてしまう。 こんなことしてていいんだろうか、という疑問も、気持ちよさの前に、心の中ですっかりなりを潜めてしまった。 「うわ、うわ、うわぁ……こうされると弱いんだぁ……」 間近でじろじろと観察しながら、芹花は全体の形を確かめるように、すりすりと指を擦りつけてくる。 今度はおざなりな触り方じゃなくて、丁寧に撫で回すような感じ。芹花の指の感触がまとわりつくようで、かなり気持ちがいい…… 「は……くぅ……」 「けっこうすべすべしてて、人肌って感じ……」 芹花の指の腹が、竿の下側の根元から先まで、すりすりと這い登っていく…… 「うぅ……芹花ぁ……」 「んく……」 「……やっぱり、こんなの……が、これが入ってくるって 想像すると、なんかすごい……」 「う、うん……んぁ」 「あむ……ちゅぶっ……んむっ……んぷっ……んんっ」 「えっ、あ……!」 芹花が、僕を上目遣いに見つめながら……亀頭の先端に口づけていた。 「ぷあ……ふふっ……真一、可愛い。ちゅぷっ」 「んぁ……やめ……」 僕の意志とは関係なく、身体は敏感に反応する。 芹花の舌先でなぶられて、僕はまるで、もっともっととねだるみたいに、びくびくと身体を震わせていた。 「これ以上は、まずいよ。やめよぅ……よ……」 「そ、それこそダメに決まってるでしょ。 やめないんだから……!」 「えぇ……?」 「だって……」 芹花は一瞬、視線をさまよわせた。 「えっちの時、真一ってイジワルなんだもん……その 仕返し」 「仕返しって……うぁっ」 「んっ、ちゅ……ちゅるっ……んっ……ぷふっ」 指の代わりに、舌が僕のモノを撫でる……いや、舐める。 僕の反応を見ながら、芹花はどうすればより効果的なのか、すぐに覚えていく。 「んっ……んぐ、む……れろ……結構、全部口に含むの、 大変なのね、これ」 「そ、そこまでしなくて、いいのに……」 「やーよ。何事も試してみないと、ね。 ん……んぐっ、んう……ふぅ……んむぅぅ……」 「んぷっ……ちゅっ……ちゅぷっ……ちゅぶっ…… 真一のここ……口の中で、ぴくぴくしてる……れるっ」 「んっ、ちゅぶっ……ちゅぷ、ちゅ、ちゅる……んはぁっ、 ここ、舐められながら擦られると、どうなるのかな?」 「ふぁっ……そ、それは……」 同時に手で握ってきたり、その動かし方や力の加減なんかを色々試しては、僕が漏らす声を聞いて楽しんでいる。 「んう……んむ……んん……じゅる、はぷ……んんうっ、 ちゅ、ちゅる……んんんぅ、ふぅぅ」 「芹花……!」 「ぷぁぁ……はぁ、はぁ、気持ちいい? 気持ちいい?」 「う、うん……」 「ふふっ。当然でしょうねぇ。なんたってこのあたしが してあげてるんだから」 「ふふっ、正直に言えたからご褒美……ちゅぷっ…… んぷ、ちゅるるるる……っ」 「んあっ!!」 抵抗する意志なんて、もうとっくに削ぎ落とされていた。 芹花の手に、舌に、口に、僕はただただ気持ちよくさせられて、溺れていく。 「ちゅちゅっ……んちゅっ……んぶっ、んぶっ……んはぁ」 「はぁ……はぁ……」 どんどんツボを押さえていく芹花に、僕はどんどん追い詰められていく。 「んんぅ……はむ……んんんっ、じゅるじゅるじゅる…… んぅっ、んうっ……はぁ……ふぅ……んんっ」 「はぁ……にしても、これ、やけどしそう……それに あっつぅい……こんなに熱くなるもんなの?」 「う、うん……」 「パンパンに張り詰めてる感じだし。これ、痛くない?」 「気持ち、いいです」 「ふーん」 「……でも、芹花の口の中も、相当、熱かったけど」 「んな!? ば、ばばばばば、バカッ!」 「うお……せ、芹花、指、強い……!」 「あ、ごめん」 爪を立てそうな勢いだった……怖い! 「も、もう、恥ずかしいこと言わないでよ」 「……ごめん。 でも、芹花の口、気持ちいいから……すごく」 だから、こんな行為も許してしまう。流されてしまう。 「うぅぅ……それって、誉め言葉……なんだよね?」 恥ずかしそうに顔を赤らめ、はにかむ芹花に、僕は見惚れた。 「…………」 「なんで黙るの!?」 「うん、あの……もう、余裕ない……し」 見惚れていた、と認めるのが恥ずかしくてごまかそうとしたら、余計ヘンなことを口走ってしまった。 「え? 余裕ないって、何が?」 「……それを言わせる?」 「自分だって人に散々、恥ずかしいこと言わせてる くせに……あっ」 「あ、え? あー、もしかしてぇ……」 芹花も、その意味を察したらしい。 「うん……いきそうなんですけど」 「――あっ! あ……そ、そっか。だよね。うん。いや、 そんなの知ってるし?」 「って……!? こら……照れ隠しに強く握るのは、反則だろ」 「じゃ、じゃあ……お詫びに、うんと優しく……ちゅっ」 「じゅるっ……んぷっ……はぁ、んうぅ……ちゅう……! じゅる、じゅる……んううぅ……じゅるるる……!!」 優しかったのは本当に最初だけで、さらに急激に刺激が与えられ、腰がビクンと震えて力が抜けてくる。 「じゅぶっ……ちゅぼっ……ちゅぶっ……んぢゅぅ! んはぁ……んっ……ちゅぷっ……ちゅっ……んっ!!」 芹花の頭の動きにあわせて、かく、かく、と、腰が自然に動いてしまう。 ぬめった芹花の口が立てる卑猥な音にゾクゾクして、より快感が高まっていくのがわかる。 「んぶっ……じゅぶっ、ちゅっ、ちゅっ……んんっ! ちゅっ……ちゅぅっ! んっ、んちゅちゅぅっ!!」 「芹花……あっ、イク……う、うう……!」 「んひょ!? んっ、んんぅ、んぷ、んっ、んんんん!!」 芹花が頭を揺する度に、お腹の底からふつふつと快感が湧き上がり、溜まっていく。 「んむっ、はむっ、ちゅる、ちゅるる! ぢゅるるる!!」 そして、それはもう限界だった。いつ決壊してもおかしくない……そんな状態にさせられていた。 「んぶ! んんっ! ちゅる、ぢゅる、ちゅるるるる!!」 「――っ!」 「んくぅぅっ、ぶはぁ……はぁぁぁぁぁぁぁん!」 「あぁぁっ……あっ……あふぅっ……あっ……ああぁ……」 「でっ……出てる……真一の……白いの……たくさん……」 いつもより多く。いつもより激しく。いつもより盛大に。僕は、果てた。 長い長い射精の快感に、身体が打ち震える。 「はぁぁぁ……っ」 「んっ……うわぁ……何これ、ひどっ!」 見ると迸った精液が、芹花の顔にかかってしまっていた。 降り注いだ白い粘液が、長く糸を引いて芹花の顔を垂れ落ちていく…… 「うう……ぬるぬる……ヘンな匂いする……」 「はぁ……はぁぁ……んっ、ご、ごめん」 「もぅ……いっぱいかけてくれちゃって……んちゅっ」 芹花は飛び散った精液をすくって舐める。 「……これが……真一の味かぁ……ちょっとイメージと 違うかも……ちゅぷぷ」 「どんなイメージだよ……」 「あーあっ、こんなに出しちゃって……ちゅっ…… ちゅぶっ、んんっ……ちゅっ……んんっ、はふぅ……」 「ちゅっ……ちゅっ……れろっ……んっ……れろんっ」 射精してぴくんぴくんと震える僕のモノを、芹花はまた口に咥えてぴちゃぴちゃと舐め上げる。 「綺麗に……してあげる……んちゅっ……ちゅっ…… んはぁっ……ちゅっ……ちゅるるる……」 「くっ……あぁぁ……」 精液でベトベトになった僕のモノは、まだ少し敏感で、ちょっと触られただけで声が上がる。 「ちゅぷ、ちゅる、ちゅっ、ちゅるる……んっ、はぁ……」 「むぅ……ひとりで気持ちよさそうな顔、しちゃって」 「……すいません」 「ねぇ、これでおしまいってわけじゃ、ないんでしょ?」 「はぁ……え?」 「真ちゃんのこれ、カッチカチなままだしぃ?」 絶頂したばかりの僕のアレを、芹花は少し乱暴に擦り上げた。 「っ……」 「まだ物足りないんじゃないの? 真一ぃ?」 「はぅ……いやその……ごめん、気持ちよかったんだけど」 気持ちよかったからこそ、すぐにまた同じような快感を求めてしまう。 しかも目の前に、その身体を知っている女の子が、興奮しきった顔で跪いていれば…… 「だから謝らなくていいってば。今度は……そのぉ……」 「あたしの番、なん……だからさ」 「え……いや、でも……」 「あんたまさか、人の顔をこんなにしておきながら、 自分だけ満足して帰る気じゃないわよねぇ……?」 「それは、その……」 「だったら……あの……し……して……よ……」 自分から掠れた声でおねだりをしておきながら、その内容に悶え始める。 「あぅぅ……もう、なんでこんな恥ずかしいこと言わな きゃなんないの? このぉ、バカ真一!!」 「男なら、ちゃんとリードしなさいよ! バカ! バーカ、 バーカバーカ!」 「……わかってるよ」 わかってるさ……僕たちはもう、引き返せないんだし。 「ひゃっ」 芹花の身体を後ろから抱きすくめる。 幸せな抱き心地……ではある。彼女が、僕の家族だという現実を除けば。 「ホントにもう、芹花は女王様なんだから」 「あん……っ、何よ、真一のくせに説教する気? しかも いきなり触ってるし、結局したいんでしょ。 ヘンタイ、バカ真一のどヘンタイ!」 「芹花がしたいっていうから、仕方なく。でしょ?」 「バ、バカ。あたしがいつそんなこと言ったっての? 人をそんな色情魔みたいに……って、誰が色情魔よ このバカ真一!」 「ひとりで怒って、ひとりで喚き散らさないでよ」 「大体、デリカシーってモンがなさ過ぎなのよ! 初めての時だって遠慮なく……あ、あんな……あんな 風に……すごく、いっぱいイカしてくれちゃってさ……」 「…………」 思い出したら、下半身が確かにまた、むずむずと硬くなってきた。 そして……たぶん、身体が熱くなっているのは、芹花も同じ。 だから僕は、脇の下から腕を回して、芹花の胸に触れてみた。 「あんんっ」 態度とは裏腹な、とても正直な反応が返ってくる。 「ふあっ……そんな、ずるい……もっと、こ、心構えとか、 させてよ……あんっ」 こんな時の芹花はとても可愛い。と、思う。 「…………」 「ねぇ、何か言ってよ……はぅ……はっ……はぁぁ…… 真一……真……い、ちぃ……はっ、はっ、はぁんっ」 無言のまま、両手で胸を包み込むように持ち上げた。柔らかな感触は何度肌を重ねても飽きることなく、僕を興奮させてくれる。 うなじにも、唇を押しつけた。 「あうっ……ひきょー……そういう不意打ち、却下……」 ……むせ返るようなヒマワリの香りと、芹花のかいた汗の匂いが混じって、鼻の中に流れ込んでくる。 「ちょ、バカ! 何嗅いでんの!?」 「ん、つい……」 「つい、で人の匂い嗅ぐな……! それに、さっきから 触り過ぎ……だってば」 「触り過ぎって……こういうとことか?」 「ん、あんっ!」 辺りをはばかることもなく、芹花が大きく快感の声をあげた。……僕が、彼女の乳首を強く摘んだからだ。 「だっ……だから、はんそくぅ……そこ、弱いって、 何度も言ってるじゃない」 「弱いって、気持ちいいってことだよね?」 「んあっ! あ、あ、あぁ……やだぁ……んっ!!」 こんな時、芹花に対していつもより強引な物言いをする自分が少しおかしい。今もそうだった。 僕の指先で、舌で、男性そのもので……彼女が普段決して見せない顔を見せてくれる。声を聞かせてくれる。 その『現実』の前に、僕の理性とか良識とか、そういったものがあっさりと陥落する。 「リードするのが男の役目って、芹花が言ったんだよ」 「い、言ったかも、しれないけどぉ……んっ、はぁ……」 ひとしきり胸をまさぐった後、僕は彼女のお腹や、お尻を撫で始めた。 「あっ、んくっ……くすぐった、い……」 もう風邪を引いているわけでもないのに、不自然なほど肌が熱い。 その熱がより濃くなる方へ手を滑らせていくと、芹花が身をよじった。 「やぁ……こんな所で、恥ずかしい……」 「こんな所を選んだのは、芹花でしょ」 下着を脱がせ、脚を撫でていく。外気にさらされたせいもあるのか、芹花はぶるっと大きく身体を震わせた。 「はぅ……はぁ……し、真一ぃ……」 切なげな声に急かされるように、汗よりも熱く濡れた感触の中心へと、指を這わせる。 「……っ、く……はぁ……」 僕の指が、芹花の身体に埋没していく。指先に伝わる形を、なぞるようにして擦り上げる。 「あっ、あっ、あっ! ……真一……すご……っ! すごく……いいっ!!」 芹花の肩がひくひくと震え、細く華奢な四肢から力が抜けていく。 口ではなんだかんだ言い、という事例がぴったりと当てはまるような状況。 「ここ、すごく濡れてる」 「んぁんっ……あ、汗じゃない? ……今日、結構暑いし、 んくっ……ああっ……あっ、んんっ!」 わざとらしい言い訳をしながらも、可愛い声で泣く芹花。くちゅくちゅとわざと音を立てながら、さらに可愛がっていく。 「はっ、はっ、はんっ、んっ、んはぁっ……あぁ…… あぁっ、あっ、あっ、あぁっ、あ、んくぅっ、んっ!」 いつしか芹花は、僕が支えなければ立っていられないくらい、快感の虜になっていた。 体重を預けられて、その心地良い重みを体中で感じながら、それでも僕は彼女への愛撫をやめない。 「な、なんでぇ……なんであたしの、弱いトコ……知って るの……ぉ? ん、んぁぁぁっ」 「…………」 なんでと聞かれると……思い当たる節は、ひとつ。 以前覗いてしまった芹花の自慰行為の、あの動きを、無意識に真似していたからだと思う…… とはいえ、それを芹花に言っていいものか、どうか。 「はぁ……はぁ……しかも……あたしの、一番……気持ち いい、しかたで、してるっ……真一……」 このままだともしかして、こっちから言わなくても勘づかれる? とにかく、ごまかしておこう…… 「ひゃぁぅっ」 芹花の耳たぶを唇で挟み込み、その間から舌先で触れた。 汗の味が舌の上に少し塩辛く感じられた……そして耳たぶまで柔らかい芹花の身体に、胸の奥がぞくぞくと疼いた。 「ん……耳……そんなの……どこで覚えるわけ?」 まるで母親か、姉のような口ぶりでたしなめる芹花。 別にどこで覚えたわけでもないけれど、強いて言えば、宗太とするくだらない話の中から、だ。 「……男の情報交換。詳細は秘密」 「そん、なのっ、宗太か雅人さんに決まって…… あっ、あっ、あっ!!」 宗太や兄さんの名前に、若干の罪悪感を覚えても……芹花の喘ぎ声が、すぐにそんな感情を押し流してしまう。 「んっ……くぅぅんっ……ゾクゾク、するぅ……それっ」 耳の裏からうなじへ、唇を押しつけたまま下っていく。 その間も、指の動きは緩めるどころかむしろ激しく、芹花を攻め立ててしまう。 「んっ……んうっ……んんっ、んはぁ……んくぅっ…… んんっ……んふぅっ……あっ……んああんっ!」 芹花が、自分の指を噛んで声を押し殺しても、漏れ出た声がより艶めかしく、僕の耳をくすぐる。 「真一……真一……真一……っ!」 僕の名前を連呼しながら快感を高めていく姿は、一人で自慰をしていた時と重なる。 でも今は違う、今は僕が実際に触って彼女を絶頂へ導いている。 「んあっ、ああんっ……いいよぉ……きっ、きもちっ…… いい! んぅんっ……んっんっ!!」 「も、もう少し……もう少しで、はぁ、真一……あたしぃ ……きちゃ……きちゃうよぉ……きちゃいそう、 あっ、あっ、あっ!!」 高ぶりを押さえられなくなり、芹花の身体がぶるぶると痙攣し始める。 「あくぅっ……あっ……あっ! あぁぁっ! んぐっ!! んっ……もっ……もうっ……あたしぃ……だめぇ!!」 「いっちゃぅっ……いくっ! いく、いくっ、いくっ!!」 「んあぅぅっ! ふぁあああああああああああぁぁんっ!」 「あぁーっ! あーっ……あぁぁぁ……あ、んんぅっ!!」 大きな声をあげて崩れ落ちそうになった彼女の身体を、支える。 「はぁ……はぁぁ……はぁぁぁ……はふっ……んあぁ……」 荒い息。呆然とした眼差し。半開きになった唇。 こんないやらしい表情に、自分もまた興奮させられるなんて……身体を重ね合うまで、そんな感覚気づきもしなかった。 「すご……ひ……真一ぃ……はぁっ、はぁっ、はぁぁ……」 わずかに光を取り戻した瞳が、僕を見返す。 「んくっ……いいよ……真一……」 芹花が、こくりと唾を飲み込んだのがわかった。 「……何が?」 「真一の、その、苦しそうにしてるやつ……」 後ろ手に、芹花はまた僕の股間に触れてきた。 芹花の言葉通り……いや、実際には、その言葉以上に興奮し、痛いほど張り詰めているその部分。 「これ……あたしに、挿れたいんだよね?」 「また、あたしに……あたしで……してもいいよ。 真一が、したいなら……」 彼女はまた、判断を僕に任せようとする。 だから僕はまた、芹花に意地悪をした。 「芹花がしたいならしてあげる」 「ん。バカ……そんなの……い、言わないからね」 「言ってよ……聞きたいんだから。 挿れて欲しい?」 問いかけながら、僕はまた、ぎゅっと芹花を抱き締める。 「ああん……くっ……」 肌を赤く染め、芹花は身をよじり、僕は彼女の耳元に唇を寄せて…… 「芹花、言ってくれないの?」 ささやくように、だけど、まくし立てるように聞いた。言ってくれなければ……最後の最後でまたためらってしまう、弱い自分を叱って欲しくて。 「……バカ」 「……ちょうだい……欲しい、から。 あたし、真一が欲しいの。だから……」 芹花は、自分を抱き締めている僕の腕に、自分の手を添えて、ぎゅっと握り締める。 「しよ、しよ? ねぇ……して」 こんな風にお願いされることで……僕たちは、口実を重ねていく。 「わかった……いくよ……」 これ以上じらしたら、芹花が可哀想だ。というか、僕も正直焦れていた。 「あ……んくっ……んんーーっ!!!」 自分のモノを取り出すとすぐに、背後から彼女を貫いた。何もかも煩わしくて、勢いだけで突き入れた。 それでも熱く濡れた彼女の身体は、何の抵抗もなく僕の身体を受け入れてくれる。 「はぁ……あ、はぁ……」 「ん、ちょっと……ちょっとイッちゃった」 「え?」 「え、じゃない! あんたが突然するから、ちょっと、 軽く……イッちゃったって言ったの!」 芹花は怒っていたけれど、それも半分だけらしい。あとは恥ずかしさと、少しの嬉しさと……いろんな感情がない交ぜになって、それが僕にも伝わってきた。 こんなことでも喜んでくれるから……救われる。この刹那的な行為にも、意味があるんだって思わせてくれる。 「笑うな! あんっ、あぁ、ちょ、まだ動かないでよ!」 僕は芹花の言葉を無視して、彼女の中をゆっくりと出入りし始めた。 「んっ、はぁっ……もう、真一のバカ、アホ、んああぁ!」 言葉ほど、抵抗もなく…… 「あっ、んあっ、あっ、あっ、あぁっ! んあっっ!!」 芹花は、十分に感じているみたいだった。本当に素直じゃないんだから。 ……と、そう思ったら、なんだか芹花に対する悪戯心が沸いてきた。だんだんとクセになりつつあるのかも。 「あ、あぁ……な、なんで、やめちゃうの?」 僕は挿入したまま腰の往復運動を止めて、上下左右にゆっくりゆっくり少しだけ動かして芹花をじらす。 「ワガママ。さっきは動くなって言ったよ?」 「そう、だけどぉ……」 寂しそうな声を上げた芹花を、今度は優しく抱き締める。髪を撫でて、彼女の香りを嗅いで……腰を前に突き出す。 「んぁっ!?」 芹花の身体の奥深く、ぴったりと僕のモノが埋まる。けれど、それ以上は動かない。 動かないまま、彼女の耳元へささやいた。 「芹花の中、気持ちいい」 「ばっ……バカ……!」 彼女の素直な身体の反応が、繋がり合った部分から伝わってくる。 もっともっと、素直になってもらおう。 「芹花は? 気持ちいい?」 「きっ、聞くんじゃないの、そんなことぉ……」 「僕は聞きたいよ」 「意地悪……」 「ごめん。でも、聞きたい」 また、芹花にワガママを言えている……こんな時だけ。内心、自分を笑いたかったけれど、抑え込む。 僕は、身体中に彼女の温もりを感じ取りながら、彼女の言葉を待っていた。 「……そんなの……」 「気持ちいいに、決まってんじゃない!」 ようやく聞けた。芹花の素直な言葉。 身体の奥底が熱く疼いた……彼女に包み込まれた僕の分身が、その疼きを伝えてしまっただろうか。 「あんっ……なっ……なに、いまのっ……!」 でももう、それを隠そうと思うような気持ちは、僕にはなくて…… 芹花に素直になってもらった分、僕も彼女には包み隠さずすべてを見てもらいたい、知ってもらいたいと、そう思うようになっていた。 「もっと、聞かせて」 「もっとって……どういう……うんっ、あああぁっ!」 「あんっ、あっ、だ、だから……話の途中で動くの…… んんーっ、ず、ずるい……ずるいよぉ……んんっ!」 いつもの反動……なんだろうなぁ。芹花を苛めたいと思っている自分には、驚くしかなかった。 芹花も芹花で、なぜか僕に苛められても、反撃してこないし……不思議といえば不思議なことだった。そしてお互いに、それを求め合っていることも含めて。 「あっ、あっ、ああっ……お、おなかのなか……真一で、 いっぱいになってる」 一杯にされている、という感覚は僕も同じだ。 身体を重ねる度、彼女の声に、身体に、疼きに、満たされてしまう。 「……いっぱい、熱くて……あったかくて……これ…… 幸せ……だよ、んんんんんっっ!!」 蕩けきった声に、僕の心はくすぐられる。こんな行為を『幸せ』と呼んでくれる彼女に、言えない気持ちがさらに募る。 「真一……もっと、近くに……きて! あたしの近くに……もっと!」 今度は焦らしたりせずに、僕は素直に彼女に従った。離れたりしないように、抱き締めて……突き立てる。 「あんぅぅ、あんっ! 真一……真一……ぃ!」 本当は焦らしたりする余裕がなくなっただけ、という言い方もできる。それぐらい芹花の中は熱く、ぬかるんでいた。 攻められているのは僕か、芹花か。 「す、すごい……あたしの中で……びくんびくんて動き ながら、で、出たり、入ったり……ぬるぬる、動いて あああんっっ!!」 無心に、彼女の身体を突き上げた。淫らな水音が花畑に響いている。 「んんっ、はんっ、はぁっ……き、気持ちぃ……いい、 いいよぉ……!」 下腹部の奥にじりじりと溜まっていた衝動が、もう堪えきれないほど大きくなっている。 「真一も、気持ちいいんだね。わかる、よ……あんんぅ!」 「はぁ、はぁ……んん、わかる……っ、わかっちゃう…… 真一が……真一も、もう……! んぁっ!!」 芹花も人のことを言えない……言っている場合じゃない。 飲み込んだ僕の身体をきつく締めつけてくるし、身体はさらに発熱して、触れていると火傷するんじゃないかと錯覚するほどだった。 「ふぁ……ん……も! イッちゃ……イッちゃうよ…… 真一……っ、イク、イクぅぅぅ……っ!!」 僕ももう限界だった…… 「んぁんっ……そのままっ、そのまま一緒にぃっ! 一緒にっっ……いってぇぇっ!!」 「んぁん……ああんっ! あっ、あっ、あっ、あぁっ!!」 「くっ……芹花っっ……!!」 「んっ、んぅんっ! しっ……真一ぃぃっ!」 思い切り腰を突き上げ、芹花の奥底へ自分の身体を送り込む……そして、爆ぜた。 「んぁ……っ! ん、んんーっ!」 「ああああっ!! んあああああぁぁぁぁぁぁぁん!!」 「ああっ、ああああんっ……あっ……あたしぃっ…… 真一と一緒にいってるよぉぉっ!」 「ああんっ……あーっ……あっ……あっ……はぁぁぁ…… ……んぐっ……うっ……あぁぁぁぁ……」 全身が、この行為にのみ集中している。芹花の身体を感じて震えている。 僕の精の塊は熱く迸って、芹花の中へと注ぎ込まれていった。何度も、何度も脈打って…… 「あ……あは……っ! は……っ!!」 僕のモノが精を吐き出して震える度に、芹花も身体を震わせた。 とめどない絶頂の波に飲み込まれて、再び芹花の身体が力を失って沈み込む。 「んぁぁぁ……あぁぁ……あはぁ……」 僕は精の放出が収まるまでの、気の遠くなるような一瞬を、芹花の身体を抱き締めながら味わった。 「ん……とくんとくんって……おなかの中……脈打ってる。 いっぱい……真一の……溜まってってる……」 「芹花……」 「あ、あたしも……一緒に、いっちゃった…… また……真一に、いかされちゃった……」 一瞬幸せそうな表情を浮かべた芹花だったが、急にからかうような表情で僕を見る。 「真一の、えっち……」 「それは芹花も、でしょ」 「真一の方がえっちだよ、絶対。だって、まだ満足して ないーって、あたしの中で主張し続けてるもん」 「う……」 芹花の言う通り、僕のモノは、これだけ激しく射精しておきながら、一向に萎える気配がなかった。 「まだ、する気なんだよね。だって、まだ、真一は 満足してないから……」 見つめ合って、大きく息を吸い込んだ。……呼吸を止めて、集中する。 「いいのか? 休まなくて……?」 「うんっ……う、動いて……真一ぃ……んぁっ!!」 芹花の中から抜かないまま、再び動き始める。 「はぁ……はぁ……はぁ……んっ、んっ、んっ、んぁっ、 あっ、あはぁっ……あはぁんっ!」 絶頂したばかりの僕のアレは、さっきまでとはまた異質な感覚を僕の神経に伝えてくる……それは、より直接的で、より刺激的な快感だった。 「い、いった……いったばっかりだか、ら……あぁぁ、 だめぇ、感じ……すぎる……敏感に、なってるぅっ!」 「ね? ねぇ、真一ぃ、しんいちもぉ……?」 芹花の声も、遠く聞こえた。 「興奮してる? いっぱい出して、興奮、しちゃった!?」 した。苦しいくらいに…… 「んっ、あっ……ねぇ、興奮……したの? あんっ、あんっ、あんんっ!!」 「うん」 芹花の確認に、短く答える。 した、というか、今もしているというか。言葉で表そうとしても考えはまとまらなかった。 今はただ、芹花の身体に自分の欲望をぶつけることしか頭にない。 「あっ、あんっ、あんっ、あんんんっ、んはぁ……っ!」 思考も、視界も、意識も、すべて真っ白に溶けていく。そんな快感に、僕も芹花もすっかりあてられていた。 「あっ……ひぃっ……んぐっ……あぁっ……はぁぁっ!! こんなのっ……初めてぇっ……いいよぉっ……きもち よすぎてぇっっ!!」 今さっき出したばかりだというのに、お腹の奥底にまた、にじむような快感が蓄積されていく。 「はぁ、はあっ……いっ……んんぅんっ! んっ! ああんっ……んぅんっ……あふれてるぅっ…… 真一の出したのがっ、あたしの中からぁっ……!!」 何度も何度も突き入れていく内に、芹花の中から精液と愛液が混じった物が卑猥な音を立てながら噴き出してくる。 「やぁんっ……おっ、お漏らししてるみたぁぃ……んぐっ んぅんっ……あっ……ああんっ……!」 あふれ出た淫液のおかげで、突き入れがさらにスムーズになっていく。 「くっ……んぐっ……芹花っっ……!!」 「ん、真一……いいよぉ……また、受け止めて…… あげる……っんくぅ……んうーぅ……っっっ!」 その言葉に促されて、呆気なく、僕は今日3回目の絶頂を迎える。 「うっ……あぁっ……くぅっ……」 「いってぇっ! 出してぇっ! また一緒にぃぃっ!」 「ふぁああああっ! あああぁぁぁぁぁぁんんんん!!!」 「あがっ……くっ……んぅっ……あっ……あぁぁぁぁ……」 「いってるぅっ……びゅくびゅくって、あたしの中で……」 「ふああぁ……はぁ……はぁ……」 芹花の中に自分の精液が流れ込んでいく感覚。その事実。その快感に、僕は…… 芹花が自分のものになったような錯覚を覚えた。そしてそれは、とても幸せな『錯覚』だった。 「あぁっ……熱いぃ……お、おなか……ん、なか、 いっぱいにぃ……熱いよぉ……とくとくって……」 今度こそ、これが最後だ。今日は本当にこれが限界。だから全力で、芹花に気持ちよくなってもらいたかった。 「ふあぁぁぁ……っ」 僕の想いが通じたのかどうか……芹花の満足げな吐息が聞こえてきた。 「んん、真一……きすぅ」 「キスして? キス、しよ? キス、するの……んんっ」 今度は僕の同意を待たずに……つまり、僕のせいにすることなく、芹花がキスをしてきた。 「ん……はぁ……ん、んっ、ふぁ……真……いち……」 「んちゅっ……んっ……れるんっ……ちゅぷっ、あむぅ」 熱い吐息も、甘い唾液もすべて混ぜあおうとするような、激しいキスをふたりで交わす。 あうんの呼吸でも、暗黙の了解でもない。今、この瞬間に、僕らは言葉を使わずに通じ合っていた。 「んぅぅぅ……っ!」 芹花が、思い切り“僕”を吸い上げる。 「! ………………………………ぷはぁっ」 長い長いキスのあとに、芹花は大きく息継ぎした。 「真一ぃ……」 「芹花」 彼女が目でせがむので、それに応えて抱き締めた。 「気持ちいい……あたし……幸せすぎて、溶けちゃいそう」 「芹花……それは恥ずかしい」 「あ、そうだった……?」 「…………」 恥ずかしいセリフだったけど、僕も同じ気分だった。 「……真一、ごめんね」 何に対して? と聞き帰そうとして、僕はやめた。その代わりに…… 「いいよ」 とだけ答える。 芹花の、すべてに対して『いいよ』と思う。 彼女の思うようにさせてあげたい。僕は、その横に並んで歩いていたい。 今、この瞬間だけは…… 今、この瞬間だけは…… だって、一歩ここを離れて……『みんな』のいる場所に戻ったら…… 僕たちは、仲の良い『きょうだい』に戻らなければいけないんだから。 「あ、雨……!」 「うわ、なんだよ急に」 夕立かにわか雨らしく、遠くに見える空は明るかった。 その空の明るさに反比例するように、雨の勢いは激しく、雨粒のひとつひとつが大きいみたいだ。 このままじゃすぐ、ずぶ濡れになってしまう。 「はぁ……もうちょっと、余韻に浸ってたかったのに」 ぼやいている内にも、芹花の服に雨粒がしみていった。 「芹花、早く戻ろう」 僕は彼女に手を差し出す。 「……うん」 彼女は素直に、僕の手をとった。 「ひぇー、ぐちょぐちょ……」 ふたりで店に飛び込んだ頃には、もう雨はあがってしまっていたけれど…… 「ふたりとも、傘を持っていなかったのか?」 父さんが軽く驚くほど、僕たちは見事に、ずぶ濡れになってしまっていた。 「タオル持ってきてやるから、待ってろ」 「ごめん、ありがとう」 「もぉ~……なんでこんな時に限って、家の方に誰も いないんだか」  芹花の言うように、僕たちは最初自宅の方へ廻った。 けれど珍しく誰もいないのか、鍵がかかっていて―― 「お母さんもお姉ちゃんも、今頃雨に降られていれば いいんだわ」 「ははは……」 “すずらん”は今日は休みで、ふたりは朝から買い物に出かけている。で、父さんと兄さんが店にいたわけだから、あとは…… 「杏子は?」 「出かけたよ」 出かけたって……今日も?どうりで家に誰もいなかったわけだけど…… ここのところ毎日、杏子はどこへ行ってるんだろう? 「ほい、ふたりとも」 戻ってきた兄さんが、ふたり分のバスタオルを持ってきてくれた。 礼を言って受け取り、お客さんの迷惑にならないよう隅っこで身体を拭く。芹花もだ。 ふんわりと柔らかいタオルが、冷えた身体を包み込んで、心地よく暖めてくれる。 春菜さんが使い始めた柔軟剤のおかげか、家族が増えてから西村家のバスタオルは、いつでも洗い立てみたいだった。 「ぷはぁ。あー、気持ちいい~」「ぷはぁ。あー、気持ちいい~」 「……キミたちは、柔軟剤のCMタレントか」 「あれ?」 「宗太、来てたの?」 声をかけられるまで、カウンター席でコーヒーをすすっていたお客さんが宗太だって、気づかなかった。 「せっかく遊びに来たのに、だーれもいないんだぜ? 寂しくてボク、死んじゃいそう」 「…………」 宗太は大袈裟な身振りで、自分の身体を抱き締めてみせる。もちろんそれは、冗談に決まっているけれど…… ここで宗太が寂しく待っている間に、僕たちが何をしていたかを思うと……なんだか申し訳ない気分になった。 「そ、そういえばここんとこ、美百合もここに顔を出さな いわね」 「宗太、あんたがなんかして、避けられてるんじゃない の~?」 「おいおい、なんで俺があんな『西村くん好き好き♪』 オーラを出してる彼女に、ちょっかい出すんだよ」 「聞いた話じゃ、なんか忙しいらしいぜ」 「…………」 「お前らこそ、どこでデートしてきたんだ?」 「んなっ!? んなな!! で、デートなわけないでしょっ!!」 「芹花……」 宗太は茶化す気満々にしか見えないのに、芹花がまんまと過剰反応を示していた。 「ちょっと、その……買い物に付き合ってもらっただけ なの! じゃなきゃ、誰がこんな奴と」 「…………」 あんなことをした直後に、こんな奴呼ばわりされるのは、さすがにちょっとショックだけど…… 芹花の態度は、『きょうだい』としては正しい。うん……正しい。 「そうだったのか? にしては……」 宗太の目が、いぶかしげに細められる。 「なんにも買ってないのか? 荷物ないし」 「あ、雨に降られちゃって、引き返してきたの」 「ふーん……」 「あ」 そして宗太が……苦笑を浮かべる。 「芹花、服の後ろ」 「んん?」 「ヒマワリか? 黄色いなんか付いてる」 「!?」 「…………!!」 ……どんな顔をすればいいのか、わからなかった。 「え、えっとぉ……やだなぁもう、いつの間に付いたの かしら、おほほほほほっ」 「ま、今の時期、見頃だしな、あそこ」 「そうそう! 未だに夏休みの宿題に手をつけていない お兄様が、今になってヒマワリの観察日記をつけたい なんておっしゃったものですから~」 「芹花……同じクラスの人間に、そのごまかしはさすがに 苦しいだろ」 「う……」 「別に、お前らが仲良くしてる分には、いいことじゃない か。隠す必要なんかないよ」 宗太はそう言って、笑い飛ばしてくれるけど…… 僕たちは、隠さなければいけないようなことを、そこでしてきたんだよ…… 「だーかーら、デートなんかじゃないって! 勘ぐるのやめてよね」 「昔から言ってるでしょ、真一のことなんか、なんとも 思ってないって」 「はいはい」 ……ああ。家族になる前、ただの幼なじみだった頃に繰り返されたやり取りも、今となっては―― 「――っと、やば」 「……ん?」 カウンター内で仕事に戻っていた兄さんが、舌打ちをしそうな顔をしていた。 「どうかしたの?」 「あー、いや、上白糖を切らしちまって」 「……また使い過ぎたの?」 ここのところ、父さんと兄さんは、新商品の試作をしているらしい。それでスイーツの材料が不足気味になっているんだけど…… 「買ってこようか?」 「お前……ありがたいけど、せめて着替えてからにしろよ」 「……あ」 自分が濡れ鼠のままだったのを、忘れていた。 「お、なんだ、お遣いか? だったら俺も付き合うよ」 「えー……」 親友のお約束として、一応イヤな顔をしておく。 正直、内心では今宗太と顔をつきあわせていても、罪悪感ばかり覚えそうで、できれば避けたかった。 「そんなこと言わずにさぁ、俺ともデートしてくれよぉ~」 「宗太……あんた、さっきからあたしの話聞いてないの? デートじゃないって言ってんでしょうが!!」 「せっかくの夏休みに、友達の家に遊びに来たのに、誰も いないわ、首を長くして待ってみれば、ふたりは仲良く 同伴で帰ってくるわ」 「どうしても死にたいようね、あんた……こっちは風邪が 治って以来、絶好調なのよ!」 「……って、ふぇっくしょん!!」 「あ~ほら、病み上がりなんだから、早く着替えなきゃ」 「ぐしゅ……あれから何日経ってると思ってるのよ! むしろあんたでしょうが、病み上がりは!」 「僕は芹花ほど悪化しなかったし」 芹花にうつされた風邪は、ひと晩で治した。 看病と称して付きっきりになった芹花が、隙をみてはすぐキスしてきたから、またふたりしてぶり返しそうで怖かったんだけど。 「いいからふたりとも、早く着替えておいで。できれば シャワーも浴びて。買い出しの相談は、その後だ」 「はぁ~い」 「ふむ、シャワーか……」 「何よ宗太、真一と入りたいの?」 「えー……」 「俺はそれでも構わないが、どうせなら芹花も一緒に 入ろうぜ」 「お・こ・と・わ・り・よ!! 覗いても殺す」 「べーっ!」 と、最後に舌を出して、芹花はさっさと自分だけ家の方へと引っ込んでしまった。 「お前も、相変わらず苦労しているみたいだな。 それなりに楽しそうだけど」 「…………」 悪気のない宗太のセリフに、むしろこちらが罪悪感を覚えてしまう。 正直に言って、楽しいよ、芹花とふたりで過ごすのは。 だけど同じぐらい……このままでいいのか、怖くなってもいるんだ。 「――んっしょ。はぁ」 濡れた服を脱いで念入りに全身を拭き直してから、乾いた服に着替える。それだけで、ずいぶんとさっぱりした。 シャワーは芹花が先に使っていた。覗く気もなければ、一緒に入るわけにもいかなかったし、買い出しに行くなら行くで、早い方がいいだろう。 「よし、と」 「…………」 「うわっ」 ドアのすぐ前に、シャワーを浴びていたはずの芹花が立っていた。 ……いや、浴びた後、か。髪はまだ濡れているみたいだし、服も着替えている。 それどころか、床にぽたぽたと髪の毛から滴が……急いで出てきたのかな? 「……『うわっ』って何? ずいぶんな挨拶じゃない?」 「あ、ああ。ごめん、ただビックリしただけ」 「ふーん。そっか、ビックリしただけか」 そう言ってずい……と、芹花が一歩近づいてくる。 な、なんなんだ? 「…………」 「あの、芹花さん……?」 彼女は僕をじっと見つめてから……ぽつりと、呟いた。 「……さっきは、ごめん」 「え……」 「デートじゃないとか、こんな奴ととか…… みんなの前だからって、心にもないこと言っちゃって」 「あ、ああ……」 今、廊下には……いや、この家には僕たちふたりきりだ。カフェと違って、今なら……人に聞かれたら困る話もできる。 だから彼女は、慌ててシャワーを済ませて、僕を待ち構えていたのか…… 「いいよ、気にしてない」 「あたしは気にするの」 「あんたのこと、あんな風に言わなくちゃいけないのが 辛い。あんたを傷つけたくない。でも……」 「言わなくちゃ……今のままではいられない」 「…………」 僕たちは、『きょうだい』だから。 「……芹花の態度は、間違ってないよ」 僕たちは、『きょうだい』なんだから。 「でもっ!」 「芹花がああやってくれるから、なんとかなってる。 むしろ、僕が何もしてあげられなくて……ごめん」 「いいっ、いいの! 真一は何もしなくていいっ!! ううん、十分あたしに、優しくしてくれてる!!」 「優しくなんかない。イジワルばっかりだよ」 ふたりきりの時は強気なくせに、外ではだんまり……自分が、最低な人間に思えてきた。 「それだって……あたしがそう望んでいるからで」 「だとしても、さ」 不自然な関係には、不自然な歪みが生じる……そういうことなのかな? 僕たちの関係は、『幼なじみ』にも『きょうだい』にも、『家族』にも当てはまらない、歪な関係だから…… 「……髪、早くちゃんと乾かさないと、湯冷めするよ」 「うん……」 「また、風邪ひくよ?」 「……そうしたら、看病してくれる?」 「するけど……」 看病と称して、キスや……身体の関係をもってしまった僕たちは、なんなのか。 「真一……ぃ」 潤んだ瞳が僕を見つめてくる。何かを欲するように…… 芹花が僕の袖を掴み、すがりついてくる。 「ねぇ…………」 「…………」 「あの……ね……」 「ちょっと……でいいから」 「今、ちょっとだけでいいから……」 「…………」 「芹花……」 店では父さんや兄さん、そしてたぶん宗太もまだ待っている。 春菜さんや香澄さん、杏子が、いつ帰ってくるかもわからない。 そんな場所で……家の中で…… 「キス、して」 今にも泣き出しそうなほど、涙を溜めた瞳を僕に向けながら、芹花はなんとも簡潔なおねだりをしてきた。 「そんなの……」 ダメに決まっている。 「……んっ!」 「うんっ……!?」 おねだりをした芹花の方から、有無を言わせず僕に唇を重ねてきた。 「ん……んちゅ……んん……」 払い除けることも……本当はできた。本当なら、そうするべきだったのかもしれない。 「ん、んん……ふちゅ……んんっ、ちゅっちゅっ……」 でも、僕にはできなかった。 泣き出しそうな芹花を……拒否できなかった。 「んちゅぅ……んんっ、ちゅっちゅ、ぁむ……んちゅ、 ちゅるるん……んは、んん……」 そして今は芹花にされるがまま……キスされている。 「ふぁぁ……んむぅ……んんっ」 「ん、ぁ……」 芹花の舌が、僕の唇の間に滑り込んできた。 「んろぉ……はぁむ……れる、れろ……んん、ちゅぅ」 唾液に濡れた柔らかな舌に、僕は口の中を犯される。 「はぁ……ん、ちゅる……ちゅ……ふぁ……んん……」 舌と舌……歯の一本一本まで丁寧に愛撫するような、官能的なキス。 「ふちゅ、ふちゅ……んん……ごく……ふぁぁ……」 芹花の指が僕の頭を抱き、髪をすく。何度も何度も、撫でるというよりはまさぐるように、かき混ぜられる。 「んぁ……はぁ……」 僕の手も、芹花の髪に触れようとして…… 堪えた。 これ以上は、止められなくなる。今ここで、これ以上したら……それこそ…… ただでさえ、キスだけで僕の下半身は反応してしまっていたから。 「せり……んんっ、あ……せ、芹花……っ」 僕は抱くのではなく、芹花の肩を押して……そっと引き剥がそうとした。 けれどその手に、芹花の手が重ねられる。 「……芹花?」 唇が束の間、離れた。 芹花と視線がかち合った。 そこにあったのは、これまでに見たことがないくらい寂しげで、儚げな、芹花の笑顔だった。 「あたしはこんな風にしかできないけど、さ」 芹花の手がすがるように、僕の手を包む。 「でも、真一がしたいなら……望んでくれるなら、 いつだって、どこでだって、こうするから」 「芹花、だから……それは」 「んっ……んっんんっ、んっ!」 不意打ちに、またキス……濃厚で、だけど哀しいほどに必死な、キス…… 芹花は重ねたままだった僕の手を、自分の胸元へと押しつけた。 「!」 「んんっ、ちゅっ……ちゅっ……ちゅぷぷ……」 何も言わず、それ以上動かそうともせず、彼女はただ僕の唇を貪って…… 僕は手も唇も動かすことができずに、ただ、彼女の気が済むようにと受け入れることしかできなくて…… 「ふはぁ……んんっ……んぅ……れるっ……ちゅぶっ、 んんんっ、ちゅぅ……ちゅぅ……ちゅうぅ……」 「!?」 足音が聞こえる――誰かが、階段を上がってくる音が。 「んふちゅ……んん……んはぁ……んんちゅぅ!」 「……ふぁっ、芹花、マズイよ……んんぅ!」 「んん……ちゅ……ぅぅぅ……っ!!」 足音はすぐそこまで迫ってきている。なのに芹花の唇は、僕から離れようとしない……!! 「せ……りかっ!?」 「……ふたりとも、こんな所でどうしたの?」 「い、いえ、ななん、何も?」 「このバカがあたしの頼んだ買い物忘れてたから、 文句言ってたとこ。今帰ってきたの?」 「ええ」 ぎりぎりのところで、芹花は僕を突き飛ばして……何食わぬ顔でウソをついた。 「ごめんね、真一くん。いつも芹花ちゃんが無理言って」 「う、ううん」 本当のことなんて言えない…… 「えーっ!? まるであたしが悪いみたいじゃない!」 あと少しで見られた……その動揺を隠すのにも必死で…… 「ああ、そういえば、お店で宗太くんが、首をなが~く して待っていたわよ」 「あ、はい、そうでした」 本当に忘れかけていた……あれだけ、罪悪感を感じていた相手を。 「それじゃ、僕」 「…………」 逃げるように、僕はその場を離れた。 「お姉ちゃんは、結局何買ってきたの?」 「お花用の新しいショーケースとか。カフェにも少し、 お花を置いてもらおうかと思って。あと……」 「……あ!?」 「なぁに?」 「……お夕飯の買い出し……忘れてたわ」 「何やってんのよもう……あたし行ってこようか?」 「…………」 思わず、自分の唇に手を当ててしまう。 さっきまであんなことをしておいて、今は平然と香澄さんと話せる芹花が、今の僕には少し恨めしかった。 「上白糖、割り箸、爪楊枝、キッチンペーパー、ストロー、 シンククリーナー、漂白剤、それと、ジャガイモ、人参 タマネギと、豚肉っと」 「……なんか、ず~いぶんと増えてないか?」 「お店の物とウチの物と、ごちゃごちゃなんだよね」 結局、買い出しには僕が行くことになった。それに『暇だから』という理由で、宗太がくっついてきている。 芹花もついてきたがったけれど……僕が、自分(と宗太)だけで大丈夫だと言って、強引に話をまとめた。 芹花はちょっと不満そうに、僕を睨んでいたけど…… 今は少し、距離を置いておきたかった。 「今日はカレーか?」 「香澄さん特製」 結局、香澄さんたちが忘れていた買い出しに、兄さんが使い切ってしまった上白糖なんかも加えて完成したのが、さっき読み上げていたメモだ。 きっと、僕がお遣いに行くとわかったので、みんな『ついで』を思いつくだけ書いたんだろう。 「おおっ、香澄さんの!? それはぜひ食べたいな」 「うん、おいしいよ」 「おいおい、そこはもっと大げさに自慢していいところ だろ!」 「美人のお姉様が作ってくれる、あま~いあま~いカレー なんて……ああ、聞いているだけで、涎が……じゅるる」 「カレーは甘くないでしょ。 ……それにしても、香澄さんでもいいんだ?」 「『でも』ってなんだ『でも』って。美人にときめくのは 男の義務だ」 「そう……」 芹花のことを気に懸けていたかと思えば、今度は香澄さんか……と、一瞬思っただけ。 たんにその場の流れで、話を盛り上げているだけの宗太に、僕はなんでイライラしてるんだろう……? 「それにしても、うまくやってんじゃないの」 「……何が?」 「新しい家族」 「そう見える?」 「ん? 見えちゃいけない理由でもあるのか?」 「……ないけど」 ウソだ。 芹花が、うまくいっているように見せているだけだ。 ちょっと油断して、誰かにばれたら……それで終わり。そんな危うさを必死に隠している。 「芹花も前みたいに、元気になったよな」 「んっ……」 あれは……カラ元気みたいなものだ。 みんなの前でだけ、明るく楽しい芹花ちゃんを演じているだけで…… 「お前んちの家族になる前みたいなノリで、話せるように なった」 「友達が本調子に戻るっていうのは、いいもんだねぇ。 こっちまで元気になる」 「そっか……」 「なんだ、納得いかねぇ?」 「そういうわけじゃないけど……」 芹花が元気なら、宗太も元気になれる、ってことだ。 でも僕は? 芹花が元気にしていればしているほど……今は、せつなくなる。 「ならひとつ、わかりやすい例え話をしてやろう」 「例え話?」 話している内に、駅に着いた。電車を待ちながら、続きを聞く羽目になる。 「この夏、アサガオの種を庭に植えてみたんだが」 「観察日記でもつけるの?」 「小学生の自由研究かっ。 たく、芹花とおんなじようなボケをするなぁ」 「…………」 「アサガオはさ、添え木に絡まりながら上に伸びて いくんだ」 「ところが、周りに何もなきゃ、地べたを這いつくばって 伸びていくしかないし、悪くすると、蔓を自分に絡ませ たりする」 「…………」 「俺たち人間だって同じじゃねーかなぁって、 そのアサガオを眺めながら、思ったわけだ」 「近くに、添え木みたいにしっかりしている奴がいれば、 アサガオにあたる奴だってしっかりするだろうし」 「元気で明るい奴が傍にいれば、周りの奴も元気で明るく なる――そんなもんだろ、人間なんてさ」 「……添え木のないアサガオって、どうなるの?」 「枯れる」 「枯れる?」 「枯れないとしても、添え木に支えられて育ったヤツより 大きくなれない」 「添え木ってのは、ただアサガオを支えているだけじゃ ない。高く伸びていけるように導くものでもあるんだ」 「清く正しく健やかに育つには、必要不可欠なもんかも しれないなぁ」 その理屈で言ったら……僕と芹花は、どちらが添え木で、どちらがアサガオなんだろう? それとも……ふたりして、添え木をなくしたアサガオなのかな? 「ちなみに同じ理屈で、『人』という字は、人と人が支え 合って生きている様を図案化したものだ、という話も あってだな」 「……宗太」 「あん?」 「説教がオヤジくさい」 「うっぷす。マジで? そりゃ失敬」 「でも」 「ん?」 「宗太なら、芹花の添え木になれるんじゃない?」 「…………」 今の芹花は、添え木のないアサガオみたいなものかもしれない。 僕がしっかりしていないから……ふたりして、進む方向がわからなくなっているから……だから、真っ直ぐに伸びていけなくなっている。 宗太の話を聞いていて、そう思った。 僕なんかより、宗太の方がよっぽど、芹花の傍にいるべき人間なんじゃないか――とまで考えてしまった。 「……ばぁ~か」 「?」 「俺なんかが芹花アサガオの添え木になったら、あっと いう間にへし折られてしまうよ」 「……なるほど」 不謹慎かもしれないけど、普段芹花がどう宗太に接しているかを考えたら……うまい例えだと、思わず噴き出しそうになってしまった。 「そういうことだ」 「芹花に添え木が必要だとしたら、それは……」 そう言って……宗太は僕のことを少し眺めてから、遠くへと視線を移した。 「それは…………誰なんだろうな」 「…………」 その日の夜―― 「あ……あの……真一」 風呂からあがって部屋に戻ろうとすると、芹花が待ち構えていた。 「……何?」 「ん……」 「……何か、用?」 「用って……ほどのもんじゃないんだけど……」 「……あの」 思い切り目が泳いでいる…… 何を言い出すのか、大体の見当はついていた。 「お、お、おやすみの……ね? あれよ」 「んー……」 「あー、ま、また、とぼけて、あたしに言わせる気? 真一ってやっぱり、イジワルだ……」 「…………」 宗太から聞いた話が、引っかかる。 傍にいる人間がしっかりしていないとダメなんじゃないか、一緒に流されていたら、ふたりしてダメになるんじゃないか…… そんな風に、思ってしまう。考えてしまう。周りに誰もいないのを確認してから、芹花が―― 「だーかーらー、おやすみのチュー……ね?」 そう言って、唇を突き出してくるような真似をしていたら…… 僕は、その唇に吸い寄せられる気持ちを懸命に堪えながら、わざと素っ気ない声を出す。 「却下……」 「え?」 芹花の悲しそうな顔を見るのは、やっぱり心が痛む。でも、ここは心を鬼にして、言わなくちゃいけない。 「芹花、僕たちはきょうだいなんだから……もう、 こういうことは……」 「な……そう、だけど……今さら……」 ――足音? 誰か来る? 「!?」 「あ……」 ――足音の主は、杏子だった。 彼女は僕たちを見るなり、目を丸くして驚いていた。 「ふ、ふたりとも……どうかしたの?」 「あ……いや別に。ねぇ、芹花」 「……このー、大馬鹿! 鬼畜! 甘党!」 ごまかすためにも話を振ったら、容赦のない打撃を喰らった。 「芹花さん、痛いです……」 「バーカ、バーカ。もう知らないから!」 「芹花……」 ひとしきり僕を殴り終えると、芹花は自分の部屋の方へと駆け去ってしまった。 ………… 「あ……わたし……何か、悪いことした、のかな?」 杏子はおろおろと、芹花が去った方向と、僕の顔を見比べていた。 「それは絶対にないから、安心していいよ」 悪いことをしたのは、僕だから…… 「うん……それなら、いいんだけど……」 「真一くんは……大丈夫?」 「え……?」 「芹花ちゃん、怒ってたみたいだし……」 「はは。へーきへーき。いつものことだよ」 「……いつものこと、かなぁ?」 「ん?」 「……さっきのは、ちょっと違ったように見えたから」 「…………」 僕は、杏子には何も気取られないよう、ごまかすことにした。彼女にだって、芹花とのことを知られるわけにはいかない。 「あー……そういえば最近、昼間どこへ行っているの? 行き先を誰も知らないから、みんな心配してるよ」 「うん……ちょっと」 思いの外、そっけない返事だ。それだけに気になる。 「何か、あった?」 「……う、ううん」 杏子が言い淀む。その間に、言葉を探しているみたいだった。 「……真一くん、は」 「うん?」 「真一くんも、心配してくれた?」 不安そうで、悲しそうで、すがるような目が、僕を見据えている。 僕はこの目を、よく知っている気がした。 「……そりゃぁ、まぁ」 「……そう、だよね。ううん、いいんだ……」 「杏子……?」 「お休みなさい」 話はここまでというように、杏子は自分の部屋の方へと、歩き去っていった。 「…………」 また、何かがずれ始めている気がする…… でも、一度歪んでしまったものを元に戻すには、そこからまた変化を加えなければならない。 それなら……今のこの状況は、仕方のないことなのかもしれない。 「仕方のないこと?」 いつもそれを言い訳にしている気がする。 言い訳ばかりを、ずっと……ずっと…… 翌朝―― 目が覚めた時、僕は…… 「んんっ、ちゅちゅ……ふぁん……ちゅちゅる……んあっ」 あぁ、これは夢だな……と思った。 「んふぁ……ん、ちゅっぱっ、んちゅ、ふぁ、はむ……」 夢なら……してもいいかな、と。弱い心で思った。 また言い訳を、ぼんやりとした頭で考えていた。 芹花のキスには、僕には勝てない……情けなさ過ぎる現実だけど、事実は事実だ。 「ちゅちゅっ、ちゅっちゅ……んみゅぅ……ちゅる……」 寝ぼけ眼のまま、僕は芹花の肩を抱き寄せた。 「ん、んんーーっ!」 芹花の頭を引き寄せて、唇の間に舌を伸ばす。 「ちゅぅ……れる…………んる…………っ…………っぱ!」 「…………」 「ふゅちゅ、ふぁちゅ、むちゅ、むちゅ、れろれる……」 僕らは目を見開いて見つめ合いながら、長いキスを交わし続けた。 「れろ、んる……ぢゅぱ、ちゅぱ、んんぅ、ちゅぷっ」 芹花とのキスが気持ちよくて、いつまでもこうしていたいと、また流されそうになる。 「ん……んん……んん? 芹花……?」 ようやく、完全に目が覚めた。 目の前……というか、完全に唇を合わせた状態の、芹花と目が合った。 「お、おおおお、おは……よよよう」 「何してるの!?」 「べべべ、べっつに~?」 「……はぁ」 別にって……どんなとぼけ方だよ。 まさか寝込みを襲われるなんて……しかも、寝ぼけていたとはいえ、自分からも…… 「……失礼ね。そんな、ため息つくことないじゃないのよ、 まったくもう」 自分が情けないんだ……ため息もつきたくなる。 「気に入ったんなら、毎日してあげよっか? 真一が、して欲しいんなら、だけどさ」 「…………」 それもまた、言い訳。お互いに『相手がして欲しいから』そうしてきた…… まさかこの調子で、これからも襲われるんだろうか。そうなったら、ちゃんと抵抗しなくちゃいけないけれど、さっきの自分の反応を考えると自信がなくなる。 「……何か、用があってきたの?」 「用……?」 「まさかと思うけど、その……今の、このためだけに 部屋に入ってきたわけ?」 「そりゃ……」 芹花だって、この関係が人に言えないものだってことは、わかっている。 見られたらまずいんだってことを、もっと自覚してもらえば……してもらえば、どうにかなるのかな……? 「あ、用? ある、あるある!」 いかにも、今思いついたみたいだなぁ。 「それで、なんの用?」 「今日、服買いに行くから付き合いなさいよって…… だめ……?」 「……昨日もそんなこと言って、無理矢理連れ出した よね?」 「昨日は昨日、今日は今日!」 「…………」 それでまた昨日と同じように、どこかで身体を重ねてしまったら…… ふたりして、どんどんダメになっていく。 「……そうだ。買い物なら香澄さんか杏子を誘って みたら?」 「え……」 「買い物なら女の子同士の方が気楽だろうし、自然だろ?」 自然、という言葉を付け加えることで、僕と彼女が出かけることの不自然さをそれとなく伝えた……つもり。 「お姉ちゃんは店番。 杏子は……あー、うー、えー、本人さえよければ、 別に……問題はないけど……ぉ」 あんたと一緒に出かけたかったのに――そう、恨みがましく目を向けられても、僕はそれに気づかないフリをする。 杏子に押しつけているだけのようで心苦しいけど、いつも僕が芹花の要求をそのまま呑んでいたら……いつか、決定的な破綻が訪れる気がしてならない。 それぐらい、僕たちの関係は危うい。支え合うには、もろすぎる。 「……だったらせめて」 「ん?」 「あんたも一緒に来てよ。3人なら……いいでしょ」 ……それが芹花の、妥協点らしかった。 「杏子ーっ」 彼女の部屋の扉をノックして、声をかけても、返事はなかった。 「出てこないね~、いないのかな~、じゃあしょうが ないか。しょうがないよね? よーねー?」 さっさと諦めろ、と、芹花がまくし立ててくる。 「……リビングか、店にいてくれればいいけど」 僕は、杏子の部屋のドアをじっと見つめながら、彼女の昨日の様子を思い出していた。 「今日も、お出かけかな……」 諦めきれない気分で、僕はリビングへ下りていった。後ろから芹花もついてくる。 「お。おはようさん、御両人」 「やだ、御両人なんて♪」 なんだか嬉しそうに身体をくねくねさせる芹花……冗談だとわかっていても冷や冷やするから、そういう反応はやめて欲しい。 「兄さんもやめてよ、そんなんじゃないんだから」 「はいはい。 お前たち、朝飯まだだろ? ちょっと待ってな」 「はーい!」 「ああ、自分でやるよ」 キッチンへ向かうと、朝食のトーストやサラダが、僕たちふたり分だけがもう用意されていた。正確には、残っていた、というところかな。 「みんなは?」 「もう店の方に行っているよ」 「杏子も?」 「ああ。お出かけ……いや、お散歩だったかな。出かけて くるって」 また……か。それともやっぱり、と言うべきか。 「彼女に何か用でもあったのか?」 「あ、いや。芹花が買い物に行きたいっていうから」 「真一ってば、自分が付き合わされるのがイヤだからって、 杏子を生贄に捧げようとしてたんですよ」 「生贄って……それじゃさしずめ、芹花ちゃんはどこかの 神様? 邪神?」 「え? あははっ。じゃあ、否定はしないでおきます」 「おい」 「なぁに? 信者A」 早いよ、順応するのが。 「真一、他人に押しつけないで、諦めて自分が生贄になれ よ」 「…………」 「店の方は俺と父さんで廻せるし」 「さっすが雅人お兄様。頼もしい♪」 「……はぁ」 結局、抵抗虚しく……今日も、芹花に付き合うことになってしまった…… 人が大勢行き交う場所は、五割増しで熱く感じる。 太陽の照り返しもいっそう激しく、噴き出す汗もいつもとは比べ物にならない。 と、こんな愚痴ばっかり並べ立てているのは、やっぱり、ここにいることが本意でないからだ。 「うーん、どこから見ようかなぁ?」 楽しそうな芹花がうらやましい。 「決めてこなかったの?」 「そーだよ? 決めに来たんだもん」 「あ、そ……」 「そんなこともわかんないから、真一はいつまで経っても 真一なのよ」 こんな風に行き当たりばったりだから、放っておけば閉店時間まで店内をうろうろしていそうなのが、芹花流だ。 「今日も長い?」 「長いとイヤ?」 上目遣いに、儚げに。当人の演出が加わっているとわかっていても、この瞳に僕は弱い。 「……ソンナコトナイヨ」 「うわ、カタコト!」 カタコトなのはせめてもの反抗だ。 いろんなお店のいろんな棚を、あれやこれやとつき合わされるのは、忙しい日の喫茶店を手伝うより疲れる。 昨日は雨が降り出したおかげで、早々に帰宅したけど……一緒にいる時間が長ければ長いほど、また、流されそうになる。 「よう!」 「お、おう?」 「あら、こんなトコでどうしたの? 散歩?」 「……キミたちは俺を、暇人だと思ってないかい?」 「違うの?」「違うの?」 「違うよ。これでも忙しい身なんだぜ」 「へぇ、意外~。興味ないけど~」 「ぐぬ……芹花、いつにも増してつれないね」 「忙しいって、何かあるの?」 実際、いつもウチの店に入り浸っている宗太に、忙しいなんて言われても、すぐには信じられない。 だけど、宗太はこともなげに―― 「ん。デート」 なんて答えた。 「はぁ?」 「あら~、宗太くんにもようやく春が来たのね♪ おめでとう!」 「というのはウソだ」 「今あたしが言ったお祝いの言葉、三倍返しでかつ ブランド品で返して」 「待て待て待て! 義理チョコを押しつけてくるOLか お前は」 「女の子と会うのは間違いないんだけど、ちょっと相談を もちかけられたってだけだよ。話を聞くだけ」 「相談? 誰が? どんな?」「相談? 誰が? どんな?」 「そんなの言えるかよ。って、キミらはホント、 息ぴったりだな……見せ付けやがって」 「んなっ!? 何が? どこが? 見せつけるって何を!!」 「お前たち、まさか無意識でやってるのか?」 「あ~、あ、あれよ、うん、一緒に住むようになっちゃっ てから、ヘンな影響受けてるのよきっと、うん。 何しろ――」 「きょうだいだから、か?」 「そうそうそう! それそれ! わかってるじゃない」 「…………」 なんだか、バレバレというか、苦笑されている気がしてならない。 ……それで済ませてくれる宗太が、ありがたいけど。 「んじゃ俺、その人を待たせてるから」 「あ、ああ」 宗太は話を切り上げると、雑踏の中へ走っていってしまった。 「…………はぁ」 宗太の姿が見えなくなったところで、急に芹花がしゅんとした。 「……あのさぁ、真一」 「ん?」 「あたしの反応、ヘンじゃなかった……?」 「……いつも通りだったんじゃない?」 心にもないことを、口にする。 僕たちのことを昔からくっつけたがっていた、宗太のことだ。今の状況はある意味、あいつの目論見通りといえる。 そして同時に、誰よりも芹花のことをわかっている存在だっていう気もしている。 その宗太が、芹花と僕の関係に、本当に気づいていないのか……? 「どこかでぼろ出しちゃいそうで、怖い……」 芹花が、心細げに肩を震わせる。その肩を一瞬抱いてやりたい衝動に駆られたけれど…… 「……大丈夫だよ」 ここだって、往来の片隅だ。見知らぬ人ばかりでなく、さっきみたいに偶然、知り合いと遭遇する可能性だって十分にある。 誰が見ているか、聞いているかわからないこんな場所では、僕たちは―― 「ただの仲の良い……きょうだいにしか見えないって」 「…………そう、よね」 まるでそれが不満であるかのように、芹花は呟いて…… 「……誰も見てないところでなら、いい?」 そっと、僕にだけ聞こえるように、ささやいてきた。 「…………」 これまで通り――後ろめたい関係のまま。 このままではいけないと、いくら僕が考えても…… 彼女がそう、望んでいるのか。 あった事実が消せない以上、僕たちはそうやって、生きていくしかないのかな…… 「ふんふんふ~ん♪ ふふんふんふ~ん♪ ふふんふ~ん♪」 芹花は目当てのお店に入ると、ゆっくり時間をかけて物色し始めた。 カラ元気なのか、それとも店に入ったことで多少はテンションが回復したのか…… 軽快に鼻歌なんか歌いながら、色とりどりのブラジャーを手にとって、ふんふんと眺めている。 女の子ってどうしてこう……ん、あれ? あんまり自然に連れてこられたから意識していなかったけど……ブラジャーって、え? え? 「ちょっと、ちょっと芹花……なんでここ?」 「ん? なんでって……あたしがここに来て、何か問題 ある?」 「ないけど……僕はひどく場違いな気がする」 なんだかシンプルな内装のお店なのに、並んでいるもののせいか、妙にキラキラしている。お客はほとんど女の子だし、こんな所、居づらいことこの上ない。 「へーきよぉ、デートでこういうトコに来る子だって いるし……」 「……あ」 「……デートじゃなくて」 「きょうだいでお買い物、よね。そうでした……」 「いや……」 いちいち確認しなければ、お互い忘れそうになる……っていうのは、問題だし……辛いところだよな。 「だ、大丈夫だって。可愛い~妹に頼まれて、ブラジャー 選びに付き合わされている、やっさし~いお兄ちゃん、 っていうふうにしか見られてないわよ。きっと。うん」 「その設定、書いて見せなきゃ理解してもらえないと 思うんだけど」 「あたしがあんたのこと、『お兄ちゃん♪』って連呼して ればいいんじゃない?」 「別の意味で恥ずかしいから、勘弁してください……」 「なんでお兄ちゃん? どうしてお兄ちゃん? 何が恥ずかしいのお兄ちゃん?」 「やーめーてー!」 「ふふっ♪」 ……どう思われているのかは別として、確かにヘンな目で見られている様子はなかった。店員も、ほかのお客さんも、特に僕を意識していない。 でもこれは、絶対に恋人同士だと思われてるんだろうな。 別に知り合いがいるわけじゃないし、たぶん平気だろうけど……複雑な気分だ。 「ほらほらお兄ちゃん、こんなのどーお?」 「うわ、何それ……」 「何それって……いちいちリアクションが失礼ねぇ」 「いや、でも、それは……」 ちょっとセクシーな感じのブラをひらひらと掲げて、芹花はにんまりと笑ってみせた。 これは、僕をからかっている時の笑顔だ…… 「定番じゃん、黒い下着。黒っていうのはね、女の子を 引き立てる色なのよ」 「そういうものなの……?」 思わず、その下着を着けた芹花を想像しそうになって……慌てて妄想を打ち消す。 「あ、今、あたしがこれ着けたところ、想像したでしょ? したでしょ?」 「し、してないって!」 「やだもぉ~、お兄ちゃんのえっち☆」 ひとしきり笑って、バシバシッ人のことを叩いてから―― 「あとで見せてあげるから……」 そんなことをこっそりささやいてくる。 「……こら」 冗談でも……本気ならなお、まずいことを言わないで欲しい。 「お、こっちも可愛い♪ ねぇお兄ちゃん、どっちが 芹花に似合うと思うぅ?」 「ホントやめて……」 「お兄ちゃんの好みに、合わせてあ・げ・る☆」 「もうやだ、帰りたい」 これは拷問に近い。 「だーめっ! まだまだ見たいのいっぱいあるんだから」 「おおっ!! これなんか、ほとんど履いてないのと 一緒じゃない!?」 「はぁ……」 「紐よ紐! どうよお兄ちゃん!」 「はいはい……」 ハイテンションなのか、やけっぱちなのか……芹花のノリも、だんだんよくわからなくなってきた…… 長く、長くて疲れた買い物を終え…… 僕は芹花の荷物を手に持ち、彼女と並んで家路についていた。 いつもの通りの、いつもの光景。 これだけなら、僕らはただのきょうだいに見えるのかな。 「……なんか、今日は、ごめんね」 「別にいいよ」 「……別に、か」 妙にしおらしい芹花は……宗太から聞かされたアサガオの話でいうところの、蔓が行き先を失っている状態なんだろうか? 「ねぇ……帰る前に海、見ていかない?」 海岸の方向を指差して、芹花が言った。 寄り道するのも、いつものことといえば……いつものこと。以前と変わらない……風を装う、成り行き。 「うん、そうだね」 「よかった。じゃあ、行こ」 にっこりと微笑んで、芹花は僕に手を差し出してきた。 僕は戸惑ってしまって、聞き返した。 「……そういうの、まずいんじゃないかな?」 「ここなら、人目はないでしょ?」 誰が通るかわからないのに?そう反論したかったけれど…… 「…………」 芹花の目には、すがるような色があって…… ……僕は少し考えてから、彼女の手をとった。 「……んっ♪」 嬉しそうに手を繋いで、海岸へと進み始める芹花を見て、思う。 僕のこの手は芹花にとって、添え木になっているのかな。それとも…… 海水浴客ももう、この時間になるとまばらで…… その姿すら遠くかすかに見えるような、人気のない場所を選んで、僕たちは歩いていた。 海岸についても、芹花が僕の手を離さなかったから…… 「うわー、空も、雲も、海も真っ赤」 「うん……」 夕方の海は、空も海も、無限に広がっているわけではないと教えてくれる。 太陽が水平線に沈んで、水平線は海と空をくっきりと分けている。 朱色の濃淡だけで世界が描かれているような、まるで絵画のような光景は、いつ見ても綺麗だった。 「……真一、今日は本当にごめんね」 「それ、何回目だっけ? 謝るほどのことじゃないし、 わかってるから」 僕らは、お互い遠く海を眺めながら、話を続ける。 「そうかもしれないけど、言っておきたいから……」 芹花の手が、きゅっと僕の手を握り締める。 やっぱり、ドキドキしてしまう……どうしても。 「ごめん」 「もう……いいよ」 僕は、彼女の手を振り払おうとした……けど、先に、芹花に手を離されてしまう。 「え?」 驚いて彼女を見ると―― 「ねぇ……」 あの、熱っぽい眼差しが、僕を見上げていた。 手を離したのは……離れるためじゃなく、より近づくため。あとひと息で身体が触れ合う距離まで、彼女は身体を寄せていた。 「……ダメだよ、芹花」 近づこうとする彼女を押しのける。けれど彼女は強引に、僕の身体にすがりついてきた。 「違うよ……これは、その、お詫び、だから……」 熱い吐息が、肌を掠める。 日が沈んでも、気温なんて下がらないのに……芹花の吐息は熱い。 その……してる、時みたいに。 「……はぁ」 ――まさか、ここで、お詫びと言ってするつもりなのか? それは…… 「ダ……ダメだってば」 もっと毅然と、きっぱりと断れたらどれだけいいだろう?それなのに、芹花を期待させてしまうような、上擦った声が出てしまう。 自分が情けない。情けなさ過ぎて、悔しいくらいだ。 「イヤ……なの?」 「イヤ……じゃないけど、ダメ……だろ?」 「…………」 「……帰ろう? みんな、待ってる」 家で――家族が待ってる。 僕は彼女から離れて、背を向けて歩き出した。 「……待って……待ってよ……!」 一度目は耐えられた。そのまま歩き続けることができた。 「行かないでよ……」 二度目で呆気なく、僕は足を止めてしまう。 「…………」 「ねぇ、ここなら誰もいないよ?」 僕と芹花は『きょうだい』なんだ。 「また……しても、いいよ」 僕たちは、『家族』なんだ。 「真一が望むなら、あたし……してもいいよ」 僕たちの関係は、新しい家族の関係を、壊しかねない。 「今日みたいに、朝、起こしてあげるのも。 こないだみたいに、外でだって…… あたしは、全然へーきだもん」 僕らがそれを、どんなに望んでいても…… 「僕は……」 「僕はそんなの、望んでないよ」 「……ウソ、でしょ?」 「僕たちは、家族なんだよ」 「…………っっ」 僕は目を逸らした。芹花の哀しげな顔が、正視できなかった。 でも、ここで、ケジメをつけなくちゃいけない。 「帰ろう、家に」 「…………かぞ……く」 「芹花……?」 「…………家族」 「芹花……帰ろうよ」 「…………先に帰って」 「そんなこと……」 「いいから!! 先に帰りなさいって言ってるの!!」 「…………」 「バカ……バーカ……バーカッ!」 翌朝―― 芹花は、僕の部屋には来なかった。 例え僕たちが変わっても、夏の暑さは変わらない。 アスファルトには陽炎がたっている。打ち水した暗色の染みも、見る見る内に乾いて消えていってしまった。 じりじりと太陽が照りつけて、肌がチリチリと焼かれているような感覚。 昨日と同じ。今日も同じ。きっと明日も同じだろう。 何も変わらない毎日が、ただ漫然と過ぎていく。それはもしかして退屈なことなのかもしれないけれど、できるなら、僕は、この日常を守りたい…… 今は、そう思う。 「うおっっとぉ!?」 打ち水をした先に、突然芹花が現れて、危うく水をかけてしまうところだった。 「うわ、芹花……ごめん!」 「気をつけなさいよ!!」 「あたしだったからよかったようなものの、普通の お客さんだったらまず間違いなく、頭から被って たわよ」 「うん、ごめん…… 運動神経抜群の芹花さんだからこそ、避けられた?」 「そういうこと~♪」 一見、いつも通りの会話……いや、昔と同じ会話。 だけど僕は内心、とても努力して言葉を押し出していた。もしかしたら、芹花も…… 「ま、お店の手伝いを率先してやってるのは、偉いけどさ。 褒めてあげる」 「ありがとう」 「今日はあたしも、お店の手伝いすることにしたんだ。 あ、ウチの方のね」 ウチの方、というのは“すずらん”の方、という意味か。 「あ、あぁ。いいんじゃない。久しぶり?」 「うん、まぁね。しばらくサボってたし……」 芹花はそこで初めて表情を曇らせると、僕から目を逸らした。 手伝いをサボって何をしていたかは、芹花と僕がお互いによく知っている。 思い出すとまた、お互いに触れ合いたくなる。 だから――堪える。 夕暮れの海岸で彼女の誘いを断って以来、そんな空気が僕たちの間にできあがっていた…… 「……えっと。お待たせ、芹花ちゃん」 「あ、杏子! 準備できた?」 「うん……」 「ん、準備って?」 僕が声をかけると、杏子はあからさまに視線を彷徨わせた。 「……あ、えっと……先に行ってるね、芹花ちゃん」 「あ、うん」 「……杏子?」 まるで、避けられてるみたいだ…… 芹花も首を傾げつつ、フォローのつもりか僕に説明してくれる。 「杏子もさ、ウチの手伝いしてくれることになったのよ」 「杏子が? なんで?」 「今日はなんか忙しくなるからって、お姉ちゃんが言って たし……杏子も興味ありそうだったから、ちょうど いいやと思って、頼んでみたの」 「へぇ」 行き先も言わずに毎日出かけられるよりは、よっぽど安心できる話だったけど……彼女に務まるのかな? 「あんまり、いじめちゃダメだよ」 「だーれーがー!」 「ッテ!」 容赦なく、腕を叩かれた。……あの柔らかくて、温かい手で。 「んっ……まったくもう」 芹花が拗ねた表情を浮かべているのは、反射的に僕に触れたことを後悔しているからなのか。 「あ、あんたより、杏子の方がよほど頼りになるわよ。 せいぜい、負けないように努力しなさいよ!」 彼女が自分から怯んだのも束の間。ついこの間まで『お兄ちゃん』なんて言っていた唇から、上から目線のセリフがぽんぽん飛び出してくる。 「その内あんたなんか、役立たずって追い出されちゃう わよ!!」 「はいはい」 「返事は一回!」 「はい……」 「ん、よろしい。じゃあねー」 「うん」 「…………」 芹花は、何かを振り払うような勢いで、“すずらん”の方へと走っていった。 僕はそれを、立ち尽くして見送る。 「はぁ……」 ため息がこぼれた。 嫌われても仕方ない――それぐらい、僕は一方的に彼女の誘惑を突っぱねたのに…… その意図を察してくれたのか、彼女は彼女で、また以前と同じような態度に戻ろうとしている。 それが痛々しい。見ているのが辛い。 これでよかったんだろうか? これで『めでたしめでたし』になるんだろうか? 「はぁ……」 また、ため息がこぼれた。 「……はーい?」 夕方――店の手伝いを早めにあがって、部屋で休んでいると、誰かが扉をノックした。 「……入っていい?」 「芹花……?」 一瞬、中に入れていいものか、迷う。 この部屋でもキスをした。人目を避けて抱き合ったこともある。 そんな空間に、ふたりっきりになったら、また…… 「ちょっとした、用があるだけだから。うん……」 僕が迷うことを察していたように、芹花が目的を告げる。 「夏休みの課題でさ、教えてもらいたいところがあって」 「…………」 「…………はぁ」 普段、僕より成績が優秀なことを自慢している芹花が、こんな時に…… 「開いてるよ……」 「んっ……」 「お、お邪魔します」 不思議と遠慮がちに、芹花は部屋に入ってきた。 その手には教科書やノートといった、勉強道具を確かに持っている。 「ごめん……他意はないから」 「うん……」 彼女も僕が何を心配しているのか、わかっているらしい。純粋に、勉強の相談にきただけだって言いたいみたいだ。 「こっちこそ、気を遣わせてごめん。 それで、わかんないところって?」 「う、うん! あのね――」 最初は、芹花がいくつか解けなかった問題を指し示して、僕がそれを考えて答える――といった形で進めようとしたんだけど…… 「……むぅ」 「真一もお手上げかぁ。こりゃ、ふたりして諦めた方が 懸命かしら?」 方程式のいくつかが、どうしても解けない。複雑に絡み合った式を、どうほどいたらいいのか見当もつかなかった。 「――よし! ほかの勉強に切り替えよう!」 「え? これ、いいの?」 「解けないものはしょーがないでしょ? それよりは、 ほかの課題を片付けた方が、効率的よ」 「そういうものか……?」 「だからほら、化学でしょ~、古典でしょ~、 英語に歴史に~」 「って待って待って。 ……初めっからそのつもりで、全部持ってきてたの?」 最初、手に抱えていたのとは別に、彼女が持ち込んだ大きなクリアケースには……ほかの教科書やノートが詰め込まれていた。 「へっへへ~」 いたずらっ子みたいに笑う芹花。こういうところは憎めないというか…… 「真一もどうせ、手つかずの課題とかあるんでしょ? この際だから一緒に終わらせない?」 「…………」 「……あ、も、もちろん、ほかには何もしない! 誓います!」 「……いやごめん、そのセリフまるで、男が女を騙す時の 定番に聞こえる」 「ぐがっ……」 何もしないから、と言ってホテルに連れ込むあれ。宗太が『何もしないわけがない!』と断言していた。 ちなみにその宗太自身、あのセリフは『実際に試したことはない……』そうだけど…… 「さ、さすがに、女として傷つくというか…… あたし、どういう人間だと思われているわけ……」 「いや、だからごめんって。そんな風に気を遣わせて」 「…………」 「……し、真一がそういうことしたくないなら、 仕方ない……でしょ」 「…………」 「あたしは……あんたと一緒にいられれば、それだけで いいんだからさ……」 「ん……」 『きょうだい』の一線さえ守っていれば、傍にいられる。 だから、何もしない。ただ同じ空間で、同じ時を過ごす…… それで……いいんだよな…… 部屋の中には、セミの声と、シャーペンをノートに走らせる音だけが響いていた。 「んー……」 芹花は宣言通り、黙々と夏休みの課題を進めている。 僕も遅れていた課題に取りかかった。 「…………」 「ふむ…………あ、そっか……」 宗太と三人で何度か、こんな時間をもとうと挑戦したんだけど…… その時は遊んでしまって、一向にはかどらなかった。 今日は……少なくとも芹花は、進んでいるみたいだ。 僕はといえば……ふと、芹花のことを見てしまっている瞬間がある。 「……あれ? あれあれ…………あ、こっちか」 困ったことに、正直、いくら見ていても飽きない。 もっと気まずくなるか、ヘンな気持ちを抱きそうで、だからこそ、ふたりきりになるのを避けようとしていたんだけど…… 不思議とこうしている分には、むしろ穏やかな気持ちでいられる。 僕の視線に気づきもせず、芹花は勉強に集中している。時折無意識に髪をかきあげる仕草が、女の子らしかった。 こうして見ていると、芹花の髪は長くて綺麗で……だけどこの季節は暑そうだ…… 「…………芹花って」 「んー……?」 「髪、切らないの?」 「…………」 ぴたっ、とペンが止まった。 「……あんた、勉強もしないで何考えてんの? バカなんじゃないの?」 「あ、いや……ごめんなさい」 「ったく……」 「…………」 「…………」 き、気まずい。 「…………ねぇ」 「はいっ」 「…………切った方がいい?」 「…………え」 「だから……その、短い方が好みなわけ? 真一は」 「あ、いや、そういうわけじゃなくて……」 「お姉ちゃんぐらいに切って、ウェーブとかかけたら 似合うと思う?」 「芹花が?」 想像してみる…… 「…………」 「…………」 「……そのままでいいんじゃない?」 「その間は何!?」 「や、深い意味はないよっ!」 「ただ、うまく想像できなかったというか、僕にとって 芹花といったら、今の髪型以外あまり考えられなくて」 「そ、そう…………」 ……ちょっと恥ずかしいのか、芹花は髪の毛の一房を指に絡めると、くるくる巻き始めた。 「ま、まぁ、あんたがそう言うなら、このままにしとく けどさ」 「いや、うん……でもこの季節、大変じゃない?」 「ん~……もう慣れちゃってるし」 彼女は自分の髪を手ですいて、ふわりとかき上げた。 「まぁ、シャンプーの消耗が人より早いとか、毛先揃える のだけでも大変だとか、毎朝しばるのに結構苦労してる とか、色々あるけど」 「……ごめんなさい」 「なんであんたが謝るのよ!!」 「いや、なんとなく。やっぱり大変なんだなぁって」 「まぁ、楽ではないけど、さ」 そこで芹花は少し、はにかんだ。 「あんたが褒めてくれるなら、伸ばしてきた甲斐もあった かな……ってね」 「……うん。よく似合ってると思う」 「ん……ありがと」 素直に褒めてあげることができた。素直に喜んでもらえた。 こんな会話だったら、自然にできるのに…… 「ん…………」 潤んだ瞳に見つめられると、つい、ためらいが生まれてしまう。 「……あ」 僕が顔を背けたことで、彼女も小さく声をあげて……俯いた。 しばらくの間、セミの声だけが室内に満ちる。 苦しい沈黙…… これだけ傍にいるのに、これ以上、近づいてはいけない関係…… 「……あ、ね、ねぇ」 しばらく俯いて、視線をさまよわせていた芹花がふと、何かに気づいて声をあげた。 「ん?」 「真一って、進路希望調査票はもう書いた?」 「へ……あ、進路?」 「そういえばそんなものも……あったような、 なかったような」 「あったりなかったりはしないわよ。ちゃんとあります」 「は、はは、どんなのだっけ?」 「んもー……これよこれ」 芹花はさっき教科書などを取り出したクリアケースから、白い長方形の用紙を取り出してみせた。 クラスと名前、それと希望する進路を1から3まで書く欄のある、シンプルな用紙だ。 そして、芹花のそれには……第1希望の欄に『実家の花屋』と書かれていた。 「あ……“すずらん”継ぐの?」 「あ、おっと!」 芹花は慌てて、用紙をひっくり返すと、自分の胸に抱いた。 「見~た~わ~ね、乙女の秘密を……」 「いや、そんな見せ方したら、目に入るって」 「……うん。まぁ、今さら隠すことじゃないんだけど」 そうして彼女は、一度は隠した用紙を、そっと机の上に置いた。 「お母さんやお姉ちゃんとも相談しなくちゃいけないんだ けどさ、そうできたらいいなって」 「香澄さんって、就職するんだっけ?」 「そこがね~、わかんないのよね~。 『まだ決めてないの。おほほほほ』なんて、 はぐらかしてくれちゃってさ」 香澄さんがそんな笑い方をしたところ、聞いたことがない。 「ま、どっかお嫁にいくことも考えられるしね、 あの人なら」 「まぁ……もてるしね」 美人で愛嬌もあって優しくてスタイルもよくて……昔から、いろんな男性に告白されていたはずだ。 「本人にその気がないのが、大きな問題なんだけどさ。 雅人さんにはもう、引き取ってもらえないし」 「…………」 そういえば、ふたりも『家族』で『兄妹』だ。 微妙な話題に踏み込んでしまったことに気づいたのか、芹花も慌てて話を元に戻してくる。 「あややややっ――こほんっ! それで、真一くんはどうするのかね? ご両親も 心配しているぞ?」 「いきなり担任の真似されてもなぁ……地元で進学って ことぐらいしか、考えてない」 「そっか。地元か……」 「あんまり、家に負担かけたくないしね。今となっては なおさら」 今じゃ家族も増えているから、父さんと春菜さんに相談して、慎重に決めなくちゃいけないだろう。 「まぁでもお母さんたちなら、『好きにしなさい』の ひと言で、済んじゃいそうだけどねぇ」 「そこにあんまり甘えるわけにもいかないよ」 金銭的な問題もあるだろうし、これから先どうしたいのかも絡んでくる。 これから先……僕らはどうなっていくんだろう? ずっと、こんな後ろめたい想いを抱えたまま……同じ家で暮らしていけるんだろうか? 「――どっちにしても、今度の登校日に回収するはずよ。 それまでに書いておかないとやばくない?」 「うわ、そうだったっけ? 探しておくよ」 「そーしなさい。貸しひとつね」 ふんわりと笑った芹花の顔には、将来への不安なんてあまり感じられなかった。 「ほらほら、みんな~、始まっちゃうわよ~」 「はーい」 「あれ、もうそんな時間か?」 「…………」「…………」 今夜は珍しく、みんなでテレビを観ることになった。 きっかけは些細なことで、新聞のテレビ欄を見ていた父さんが、ぽつりと映画のタイトルを口にしたからだった。 「劇場公開の時は、忙しくて見にいけなかったのよね~」 「いつ公開したやつだっけ?」 「えっと……去年の、今頃?」 「そうそう。香澄が観たがっていたのに、都合が つかなくて」 「うげっ……香澄ちゃんが観たがっていたってことは、 結構内容がハードなんじゃ?」 「どういう意味かしら~? あ、もうちょっとそっちへずれてくれない?」 「はい……」 「杏子ちゃん、そこで見えるかい?」 「はい」 西村家6人+杏子。総勢7人がリビングに揃うと、結構な大所帯になる。 食事するだけならともかく、テレビの観やすい位置をキープしようとすると……それなりに場所を譲り合うか、部屋の中で片方に寄らないといけない。 一応、テーブルから少し離れた所に、テレビを観るため用のソファもあるんだけど…… 「もう少し大きいソファに買い換えるべきかしら?」 春菜さんはテーブルに頬杖をつきながら、部屋の隅に置かれたソファを見た。 そのソファに、僕と芹花は座っていた。 父さんたちはテレビのすぐ近くに陣取って、みんなも普段食事している席から若干ずれる形で観やすい位置を確保していて…… 僕たちだけが、家族の輪から弾き出されているみたいだった。 「…………」「…………」 お互い、ほかの人に位置を譲ったりした結果とはいえ……気まずい。 と、何を思ったのか、芹花がみんなにひとつ提案した。 「……ねぇ、どうせなら暗くして観ない?」 「あらそうねぇ、その方が雰囲気でるわね」 「目、悪くなるわよ」 映画館は暗いよなぁ……と、ぼんやり考えてしまう。 それに、これから観る映画――ホラーの雰囲気には合っている気がしてしまう。 「ね、真彦さん?」 「……そうだね」 「んじゃ」 芹花はわざわざ立ち上がって、照明を自分で消すと…… 「んしょ」 「っ……」 ……さっきよりも僕の傍に、座り直した。彼女が腰を下ろした時、肩が触れ合うほどに。 「…………」 ヘンにべたべたしていたらまずいのに……何、考えているんだ? 「あ、始まった始まった」 動けない。 本当は芹花から離れた方がいい。だけど今、このタイミングで席を立つのは、不自然過ぎる…… 「うーん。この子、いい演技するわねぇ」 「元子役だっけ? デビュー作は確か……」 「『イッキに恋して』じゃなかったかしら?」 みんなの雑談に加わることもできず、身じろぎひとつできない。 幸い、誰もがテレビ画面に目を向けているから、僕たちの方を見ている人はいない。 だからこそ……意識してしまう。 「……はぁ」 隣にいる彼女の、柔らかい身体を……かすかに触れた服越しに感じる、彼女の体温を…… 「あぁ、そっちにいっちゃダメ~!」 「……う……ううう……」 「大丈夫よ杏子ちゃん。何も怖いことはないから」 「う、うん……」 画面に集中できない。 意識と視線を芹花に向けないよう、努力し続ける必要があった。 「んっ……」 「…………っ」 彼女が身じろぎするだけで、僕の身体に緊張がはしる。一瞬触れ合った腕や、肩や、腰を、太ももを、否応なく意識してしまう。 ……それだけで、下半身も熱く硬くなってしまう。 自分から拒否しておいて、まずいと繰り返し言っておいて、こんな……家族と一緒にいる空間で、僕って奴は―― 「…………んっ」 「!?」 膝の上に置いていた手に、芹花の手が触れている。 さりげなく……ただ、横に置いた手と手が触れ合っている、それだけ……それだけと、言い訳できる位置。 「…………はぁ」 一瞬、探るような目を向けられた気がする。 「…………」 でも、僕が彼女の顔を見た時には、その瞳はもう、前方のテレビに向けられていて―― 「きゃっ!」 「!」 ……主人公を追いかけてくる怨霊が、画面にアップになった瞬間だった。 後ろめたい感覚が、杏子の悲鳴を、僕たちを見てのもののように、錯覚させた。 「はぁ……」 「……意気地なし」 「……っ!」 芹花がぽつりと呟くと同時に、明らかにハッキリと、自分の意思で……僕の手に自分の手を重ねてきた。 「芹花……っ」 「…………」 小声でたしなめても、無視された。芹花は、じっと画面に見入っている……フリをして、手を強く握ってくる。 「ちょ……っと」 「…………」 握って、撫でて……慈しむように、手に指を滑らせ、絡ませようとしてくる。 その動きに、僕は……手を引っ込めることで応じた。 「…………」 「…………」 しっとりと汗ばんだ感触が、まだ僕の手に残っている。どくどくと、心臓と……下半身に、血が流れ込む。 気づかれたらどうする……みんなに。 気づかれたらどうする……僕がどうしようもなく、芹花を意識してしまっていることが、彼女自身に。 どちらも取り返しのつかないことになりそうで、逃げ出してしまいたい。 なのに―― 「……んっ」 「っっ!!」 芹花が、僕にしなだれかかってきた。肩と肩が……なんてものじゃなく、僕に寄りかかって……体重を預けてきている。 「…………っ」 「はぁ……」 自分の身体を押しつけるように、密着させてきて……薄い生地越しに、彼女の身体の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。 「……くっ」 無理にでも離れようともがくけど……すぐに芹花が、僕の耳元に一瞬だけ唇を寄せて、ささやいた。 「……動くと、気づかれるわよ」 「…………」 先手を打たれた…… それでも僕は、彼女を押しやろうと、なんとか身じろぎをして…… 「……ん、もうっ」 「……っ!?」 芹花が僕の腕に、両手でしがみついてきた。自然と、彼女の胸も僕に押しつけられてくる。 「や……めっ」 映画の内容なんてもうとっくに、頭に入ってこなくなっている。 家族の交わす雑談も、遠く別の国の言葉みたいに聞こえる。 ただ芹花の熱い身体と、鼓動と、甘い香りだけが感じられて…… 「っ!」 僕は懸命に、頭を振った。このまま、衝動に身を委ねてしまったら……前と同じだ。 ……ところが、芹花はそれ以上、何か積極的に動いてくることはなかった。 「ん……」 「……芹花?」 目は画面の方に――映画を観ているようで、それだけなら、怖くて僕の腕にしがみついた……と見えなくもない。 「寂しいんだもん……」 芹花の声が小さく、静かに……僕の耳にだけ届く。 「ひとりで、寂しくて、それに……」 「……怖いよ」 「え……あ、映画?」 画面では、序盤の盛り上がりどころなのか、主人公の女友達が、怨霊たちに追い詰められている。 家の中のどこへ逃げても、次々に怨霊が先回りしていて、抜け出せない状況みたいだ。 やがて、彼女は―― 「……が、怖い」 「ん……?」 「真一に嫌われるのが、怖い……」 「…………」 やがて、映画の中の彼女は、片想いの相手に気持ちを伝えられなかったことを悔やみつつ、あの世へと連れ去られてしまった。 そこでCMが始まり、場違いに明るい音楽が流れ始める。緊張して画面を見守っていた家族のみんなが、ほっとしたように息をつく。 「こ……怖かった……」 「あーもー、ドキドキしちゃう!」 「お楽しみはこれからだったはずよ。ふふっ」 「今の内に、ちょっとトイレ」 と、兄さんが立ち上がった。――って、振り返って、この状態を見られたらまずい!? 「――っ」 芹花がそそくさと離れて、適当な距離をとって座り直した。た、助かった…… 「はぁ~……」 「ん? なんだ真一、お前も怖かったのか?」 「あ、ああ、まぁね」 傍らを通り過ぎようとして、兄さんが僕の様子に気づいたのか、声をかけてきた。 「そうそう、聞いてくださいよ。 真一ってば横でずぅぅっとブルブル震えてたんですよ。 笑い堪えるの辛かった~」 「んな……」 「ははっ。そういうところは、見て見ぬフリをしてやって くれ」 「は~い♪」 ……また、無理してごまかして。 彼女が笑顔を家族に振りまけば振りまくほど、それが空虚で、痛々しく見えてしまって…… 僕は彼女を責める気に、なれなかった。 その後―― 「うわっ、うわっ、うわわわっ!?」 「ちょ、ちょっと、それはないでしょ――ええっ!?」 「いやぁ~、出てこないで~~~っ!!」 映画を観ながら、ちょっとわざとらしいぐらい、ほかのみんなに合わせて悲鳴をあげる芹花が―― さりげなく、暗がりの中で僕の手をしっかり握り締めてきても…… 「真一に嫌われるのが、怖い……」 それ以上、彼女は何もしてこず、僕も無理にその手を振り払うことはできなかった…… 「ふぁ……ああ」 次の日――あまりよく眠れなかったせいか、少し遅刻してカフェに入ってみると…… 「おっはよ~真一、やっと起きてきたわね♪」 「……おはよ…………」 「…………」 「…………」 「――ええっ!? 何その格好!!」 「い、いやぁ、ほら、前におじさんが言ってたじゃない。 女性用の制服があるって」 「あ、ああ……」 確か、芹花が興味のあるようなことを言って、父さんがそれなら引っ張り出すような返事をして…… 「ど、どうよ?」 「ど、どうよと言われても」 ひどく恥ずかしがって、自分は着ないと言い張っていた気がしたんだけど……どういう心境の変化だろう? 「んもうっ、こっちは恥ずかしいの我慢してるんだから、 褒めるなりけなすなりちゃっちゃっと答えなさいよ!」 「いや、けなしはしないよ……うん」 正直、可愛いと思う……けど、それを口に出すのははばかられた。 ただの幼なじみの頃だったら、ひねくれながらも褒めてあげられたかもしれない。 ただの家族でも、そうだったかもしれない。 けれど今、特別な……人には言えない秘密をもってしまって、それを我慢しようとしている状況じゃ…… 「……なんか、中途半端な感想ねぇ」 「……それより、そんな格好してるってことは、 ウチの店手伝うの?」 芹花が満足していないことはわかっていたけれど、僕は話題を逸らした。 「時間限定でね。お昼過ぎまで、お父さんと雅人さん、 用があって出かけるって」 「……って、それじゃ芹花ひとりで店番するつもりだった の!?」 「まさか。開店までに真一が起きてくればいいと思って たし、起きてこなかったら『準備中』にしとくつもり だったわよ」 「……あ、あたしが起こしに行けばよかったのか。 この格好だったら、いくらネボスケのあんたでも、 バッチリ目が覚めるでしょ?」 「……すぐに開店の支度するよ」 「こらこら、無視するな」 「何か手伝って欲しいことがあったら、言うから。 芹花はお客さんの案内とオーダー受けるのだけよろしく」 「…………はぁ~い」 余計なことは言わない、しない、意識しない。 そうしていないと、芹花とふたりっきりの空間なんて、間が持たなくなりそうだった。 聞けば杏子もまた出かけてしまったらしく、香澄さんと春菜さんは“すずらん”――と、本当にふたりきりだった。 こんな日に限って、開店しても客足が悪い。 皆無ではないにしても、たまにぽつぽつ来店して、ほとんどがテイクアウトかコーヒー一杯だけのお客さんだった。 「暇ね~」 テーブルを拭いたり、グラスを洗っておいたり、砂糖そのほかの補充なんかも一通りやり終えてしまって、僕たちは時間をもてあましていた。 こんな調子じゃ、父さんや兄さんが帰ってくるという昼過ぎまで、ずいぶん長く感じそうだった。 「……ねぇ、真一ぃ、エアコンの温度下げようよ」 「省エネ中」 「はぁ~っ、これだよ」 どんどんとテーブルの下で地団太を踏む芹花。 ……子供か。 「芹花。せめて仕事中は愛想よくしてよね」 「……はぁん? なんであんたに愛想ふりまかなきゃいけないの?」 「僕にじゃなくて、お客様に」 「どこにいるのよ、お客様~」 「はぁ……今日はいつもよりひどいなぁ」 「暑いからよ。この服だしさぁ。たまんない」 「はぁ~、暑いよ~、暑いよ~、エアコン下げたいよ~、 下げたいよ~」 「ねぇ、真一は暑くないの?」 「別に」 「ふーん」 「……はぁ~」 「暇ね~……」 「…………」 「…………」 「ねぇ、ちょっとさぁ、真一くん?」 「何?」 「あたしのこの姿を見て、何か思うところはないのですか? 男として!」 「……男として?」 「…………」 「……あるって言ったら、問題あるでしょ」 「……っ」 僕らはそれを許される関係じゃないんだから……素っ気なく、するしかない。 もう何日も何日も、繰り返し悩んで、自分たちに言い聞かせていることだ。 「あっそ! もういいよ! バーカ!!」 「……なんだよ」 「もう、知らない!」 「バカ……」 「…………」 「…………」 芹花は、そのまま黙り込んでしまった。 「……わかってるでしょ」 「わかんない……わかりたくない」 「なんで、ダメなのよ……なんで、あんたに女として見て もらっちゃいけないの?」 「あたしがいいって言ってるのに。あたしが、 そうしてって、頼んだのに」 「…………」 僕だって、芹花を一人の女として扱えたら、どれだけ楽だろうって思う。 夕べだって、今だって……時も場所も考えずに、芹花を押し倒して、欲望のままに抱いてしまえば……どれだけ気持ちいいかを、お互いに知っている。知ってしまった。 「あんただって、一度はそうしてくれたのに……」 一度といわず、二度、三度と…… 肌を重ねて、心地よさを知って、お互いに幸せを感じても…… 「……だって、きょうだいだから」 「っ…………」 その縛りがある限り、僕たちは……僕は…… 「!?」 「い、いらっしゃいませっ」 「よう♪」 「そっ、宗太……」 「……っ!!」 芹花は慌てて、奥へと引っ込んでいった。あんな格好……見られていたら…… 「ん、あれ? 今の……芹花?」 「う、うん。まぁ」 「はぁ~、また珍しい格好してなかったか? なんかのサービスか」 「む、昔ここにあった、女性用の制服だよ。試しに着てみ たらしいけど……恥ずかしかったんじゃないかな」 「ふ~ん。邪神芹花様も、可愛くなったもんだなぁ」 「……どこで聞いたの、邪神ネタ」 幸い、肝心なところは見られていなかったみたいなので、ほっとする。 それにしても、邪神って……それはこの前、兄さんが生け贄ネタで芹花を指して口にしていたことのような…… 「あとから雅人さんに聞いた。面白いんで、俺は信者Bに してもらおうかと思ってる」 「……物好きだね」 ノリがいいね、とは素直に褒めたくなかった。 「で、ご注文は?」 宗太は何事もなかったかのように、カウンター席に着くと、店内をぐるりと見回した。 「おじさんも雅人さんもいないのか。じゃあ本日は真一の テイクアウトは……」 「あいにく切らしております」 「だと思った」 芹花も引っ込んでしまって――たぶんもう、出てこない状況で、ただひとり残った店員が外へ遊びに行ってしまうわけにはいかない。 案の定、宗太は暇つぶしに僕を誘いに来たらしく、残念そうな表情を浮かべた。 「そっか、仕方ないな。にしても、なんだかずいぶん 久しぶりじゃないか?」 「何が?」 「店員として、ここで働いてるの」 「いや、別に……いつも通りだよ」 「ふむ」 我ながら空々しい言い訳に、宗太も納得していない様子で腕を組んだ。 毎日のようにここへ通ってきていれば、僕と芹花が遊び歩いていたことぐらい、筒抜けだろうし…… 「ま、なんにせよ、ご苦労なこったねぇ。この暑いのに」 宗太はカウンターに突っ伏して、思いっきりだれきった。 「あぁ、俺はな~んにもやる気しな~い~」 「……で、ご注文は?」 「アイスコーヒー。ガムシロとミルクは控えめで」 「はいはい」 僕はすぐに注文の品を用意すると、だれきっている宗太の前に置いてやった。 「ひゃっほーい! 冷たいものー♪」 ずずずーっと、宗太がストローで吸い上げるとあっという間に、グラスの中のコーヒーがかさを減らしていった。 「ずずずずー……ぷはぁ、うまひぃ~! 夏はコレだよな~!」 「……で、結局、何しに来たの?」 「なんだよぉ、喫茶店にコーヒー飲みに来るのだって、 立派な目的だろぉ」 「宗太の場合、それが口実になっているだけな気がする」 まぁ大抵は、暇なら遊びに行こうとか、僕も混ぜろとか、その程度のことなんだけど。 「下心がないと来ちゃいけないのか。テイクアウトを先に お断りしたのは、そっちだろ~」 「そうなんだけどね」 とりとめのない会話に、どこかほっとしている自分がいた。 芹花と話しているとどうしても、重く、暗くなってしまうから。 「何かしないとここにいちゃいけないのなら…… ふむ、そうだな」 僕の、こじつけに近い話題転換にも、きちんと考えてネタにしてくれる。宗太はそんな奴だった。 「人生相談でも受け付けようか? コーヒーを飲みに来た“ついで”に」 「…………」 なみなみとコーヒーが入っていたはずのグラスにはもう、コーヒー色の氷しか残っていない。 「さ、なんでも言ってみたまへ」 「うーん……」 人生相談、ねぇ。 この先どうしたらいいのか相談できるなら、そんなに楽なことはないけれど…… 「進路相談とか、恋の悩みでもいいぞ?」 「……恋?」 恋、なのかな。 なし崩し的に始まってしまった、僕と芹花の関係。 お互いの気持ちをあえて確認せず、ただ人目を避けて求め合うだけの関係。 それを……恋と言っていいのかな? 「……真ちゃんさぁ」 「あ、うん」 「いちいち考え込むぐらいなら、その考えてることを全部、 吐き出しちゃえよ」 「…………」 だから、それができれば苦労はないんだってば。 「案外楽になるかもしれないぜ。で、意外と全部うまく まとまる。悩み事なんて大抵、そんなものだよ」 「そんなもの……じゃないよ」 「ん?」 「そんなもので済むなら、こんなに――」 こんなに悩んだり、苦しんだりしない。 芹花を泣かせることだって、ない。 「……どっちにしても、さ」 唇を噛み締める僕を、宗太は静かに見守っていた。 「お前にそんだけ思ってもらえれば、あいつも幸せだろう よ」 「幸せ……?」 あいつが……あいつって、誰のことを言っている? 僕は彼女を……泣かせたばかりだよ? 「苦しんで、悩んで、大切に思う……それって、 それぐらい本気で好きってことじゃねーの?」 「!?」 好き……僕は芹花を、好き…… 「まったくもう、真っ昼間の喫茶店で修羅場なんか 展開してるから、そんな悩むんだよ」 「んっ!? …………やっぱり、見てたの?」 「まぁ、芹花が泣きそうになりながら、お前に文句を 言ってるところ辺りだけな」 「はぁ……」 とうとう、ばれた。見られてしまった。 「来たのが俺じゃなかったら、どうするつもりだったんだ よ? これ、貸しひとつだぜ」 「ありがたい、けど……」 「事情は複雑ってことだろ。詳しく聞くつもりはないし、 誰かに言う気もない」 宗太はアイスコーヒーの代金をテーブルに置いて、立ち上がった。 「宗太」 「芹花はさ、お前だけを求めているんだから――」 宗太はゆっくりと、店の出入り口へと歩いていく。 「辛いかもしれないけど、お前が受け止めてやらなくちゃ、 どうにもならんぜ」 「……でも、僕たちは」 「悪いな」 宗太はドアの前に立って、こちらに背を向けたまま言う。 「『家族』の……『家庭の問題』なら、俺に押しつける なよ。言われても困る」 「…………」 「けど、な」 そこで振り返って、あいつはニヤリと笑った。 「『親友』同士のコイバナなら、いくらでも付き合って やる。知恵も貸してやる。だからまずそこを決めてくれ」 「……あ、え」 「悩むにしたって、一番大事なのは何か、まずそこを 決めてからでなくちゃ、誰も相談にのれないさ」 「例えば俺にとっては、お前と芹花が第一なんだ。 何をおいても好きなのは、大切なのは、そのふたり」 「宗太」 「悪いけど、西村さんちの事情はその次。二番目。 つまり、最優先事項じゃない」 「…………」 「俺にとって大切なものの順番は、そういうことだ。 お前にとってはどうだ?」 「……僕は」 「ちなみに、どっちも大事なんて日和った答えは却下な」 「…………」 「ほかのものを捨てろって言ってるわけじゃない。理想論 とか、詭弁かもしれない。だけどさ――」 「お前が今、一番大切にしてやらなくちゃいけないのは、 何をおいてもまず……芹花であって欲しい」 「宗太……」 僕はそこまで、芹花のことを……好き、なのか?想ってやれているのか……? 「以上、生徒会長からのお願いでした。 ぴんぽんぱんぽ~ん」 最後は校内放送みたいに茶化して…… あいつは、この店から出て行った…… ――そして……悶々と日々を過ごしている間に、登校日がやってきた。 久々に入った教室はどこか緊張感がなくて、夏の暑さも手伝って、一瞬別の場所に思えてしまった。 クラスメイトたちはみんな、夏休みの日々を楽しんでいる様子で、どの顔も明るかった。 「はーい、ほらほら、早く進路希望調査票出して~! 出さないとあとでさらし者にするわよー!!」 教壇では、担任に頼まれた芹花が、例の用紙を回収している。 ホームルームの最後に担任が回収しようとしたら、まだ書いていない人間が大勢いたせいだ。 やっぱりみんな、将来のこととか、まだあんまり深く考えていないのかもしれない。 担任はほかに用でもあったのか、信用のおける宗太と芹花のコンビに、全員が書き上げたら回収して持ってくるよう、頼んで先に職員室へ戻った。 適当だなぁ……と思うものの、僕もその書き忘れていた組のひとりなので、文句は言えない。 「……っと」 白紙だった用紙を埋めて、教壇へと持っていく。 「…………」 「…………」 最近、家でもあまり話さなくなった彼女と、無言で視線を絡ませる。 でも、それも一瞬のことだった。 「はーい、ほかにまだ出してない人いない~? そろそろ職員室へ持ってっちゃうわよー!!」 クラスのそこかしこから、適当な返事があがる。書き終わった奴や、雑談していた奴は、それぞればらばらに帰り始めてもいた。 「お疲れ様です、西村くん」 「あ、うん。まだ残ってたんだ?」 「ええ。久しぶりに会えた人が多いですから、せっかく なので」 「そういえば僕も久しぶりな気がする…… お店、来てないよね?」 「ええ……オレンジヨーグルトケーキが恋しいです」 「はははっ」 「……ここのところ、ちょっと、忙しかったものですから」 「……そうなの?」 「ええ、まぁ……」 言葉を濁す雪下さんの向こうで、芹花と宗太が集め終えた調査票の入った箱を運んでいく。 「…………」 ……なんか、睨まれた。 「…………はぁ」 「……?」 ちょっと……気になる態度だったな。あのため息…… 「あ」 「ん? どうか、しました?」 「ああうん、こっちの話」 ――同居を始めたばかりの頃、芹花はよくため息をついていた。 僕と……関係してからは、そんな姿を見かけなくなった。 その芹花が、またため息をついている…… 「はぁ…………」 「あら、大きなため息」 「あ、ああ、ごめん」 僕までつい……ため息ってうつるものなのかな? 「ふーむ……」 と、今度は雪下さんに、まじまじと顔を覗き込まれてしまった。 「な、何?」 「ずばり! 切ない恋の悩み、とお見受けしましたけど」 「えっ……」 「そんなため息でしたよ、今の」 「……ため息に、そんな種類があるの?」 「ありますよぉ、特に乙女のため息は、千差万別です」 「僕、乙女じゃないんだけど……」 「そういう細かいところは、おいておきましょう」 よいしょっと、雪下さんが右から左へと、手で物をどかす仕草をした。 「そこは重要じゃないかなぁ」 「というか、西村くんにそんなため息をつかせるなんて、 いったいどこのどなたなんですか? ふふっ」 「いや……うん、どうかな」 「あら? 否定しないんですか?」 「えっ、あ」 「ふーん…………」 つい、芹花の顔を思い浮かべてしまって、曖昧な返事をしたら……雪下さんに拗ねられた。 「私の知らない間に、どなたとアバンチュールを経験した んですか?」 「ええっと……」 「……この際、その相手が私でなかったことについては、 とても残念ですが、ひとまずおくとして」 よいしょっと、雪下さんがまた右から左へと、手で物をどかす仕草をした。 そして……一転して、気遣わしげな視線を僕に向ける。 「私の考えがすべて合っているとしたら……逆に、 心配です」 「心配……?」 「ええ」 「……その恋、うまくいっていますか?」 「…………」 恋、なのかな? お互いにため息をついてしまう僕らは……恋をしていたのかな? どうだろう……芹花。 「真一、まだいるか!!」 「え、宗太……?」 「っ……!」 さっき教室を出て行ったはずの宗太が、血相を変えて戻ってきていた。 何事かと目を丸くする雪下さんたちクラスメイトを無視して僕に駆け寄ると、宗太は小声で、でもハッキリと口にする。 「芹花の進路希望、推薦とって県外へ進学だってさ。 家を出てひとり暮らしするって」 「……え……?」 「みんなの分を提出した時に、芹花が担任とそんな話を 始めたんだよ。で、俺だけ先に戻ってきた」 淡々と告げる宗太の話が……あまりに予想外の内容で、理解するのに少し時間がかかった。 「その顔じゃ、やっぱり初耳か」 はぁ、と宗太が頭を掻く。 芹花はあの時、実家の花屋を継ぎたいって書いていたはずだ。それが……変わった? 「……宗太、それ、第一希望の話? 第二とか三じゃなく て」 「あー……第一、だな。あの様子じゃ、間違いない」 「そんな……」 僕は思わず芹花の席を見た。 置き去りにされているあいつの鞄だけが、そこにはあった…… 「…………」 教室にはもう、僕以外誰もいない。 ただ、芹花は担任と話し込んでいるのか、まだ戻ってきていなかった。その証拠に、彼女の席には鞄がずっと残されている。 だから、僕は芹花をここで待っていた。 宗太も雪下さんも気にして、一緒に待つと言ってくれたけれど、これは僕の――僕の大切な問題だからと告げると、宗太がニヤリと笑って気を利かせてくれた。 だから、ほかには誰もいない。 「そうさ……僕の、大切なものは……」 「…………!?」 まさか僕がいるとは思わなかったのか、教室に戻ってきた芹花は、一瞬たじろいでいた。 「…………はぁ」 そして、あのため息。 「…………」 それからぐっと前を向いて、自分の席へと向かう。まるで僕なんかいないみたいに…… 「芹花」 「……っ」 彼女の席まで後少し、というところで静かに呼びかけると、芹花はぴくりと身体を震わせて、立ち止まった。 座っていた僕は立ち上がり、芹花へと近づく。 「…………」 手を伸ばせば届きそうな距離で向かい合い、口を開く。 「……進路希望、進学にしたって本当?」 「っ……宗太の奴ね、あのお喋り!」 話を聞かれてしまったことはわかっていたらしい。 「それも県外だって? どうして?」 「…………」 「答えてよ……」 「決まってるでしょう」 「…………」 「あんたから、離れるため」 「なんだよ、それ」 「なんだよそれって、何? 全部あんたが悪いんでしょう!?」 「……なんでだよ! わかんないよ、そんなの!!」 「家を継ぐんじゃなかったのかよ! “すずらん”はどうするんだよ!」 「僕と、離ればなれになるのかよ……!!」 「あんたがそれを言う!?」 ぎっ、と睨み付けられた。けれどその瞳には……涙が浮かんでいた。 「あたしとあんたの関係なんて、人に言えるようなもん じゃないって……あんただって散々認めてたじゃない!」 「新しい家族ができて、お母さんが幸せになって、みんな 楽しく暮らしてるところに、あたしたちがしたことを 打ち明けられる? どうなるかわかってるんでしょ!」 「きっと、あたしたち、家族なのに……家族じゃいられ なくなっちゃうんだよ……?」 泣き叫ぶ……まさにそんな調子の声が、ほかに誰もいない教室に響き渡った。 「だから、逃げるの? 遠いところに」 「……そうよ。それが、一番いい方法でしょ?」 芹花は俯いて、僕の目を見ずにそう言った。 「…………」 芹花の決断は、もしかしたら正しいのかもしれない。 僕と芹花は、離れていた方がいいのかもしれない。 それが、一番手っ取り早い解決方法なのかもしれない。 「芹花が出て行かなくても、僕が家を出るっていう方法も あるよ」 「なんでよ。いいよ、そんなの……」 「でも……」 「でもじゃない!」 「ウチにはお姉ちゃんもいるし、杏子にだって手伝って もらえばいい。だからウチは、“すずらん”は、 あたしがいなくても大丈夫なの」 「あたしはあの家にいなくてもいいの。いなくても大丈夫 なの……! いる意味ないの!!」 「だから、出て行くの……?」 「そうよ……」 「芹花がいなくても、困らないから……?」 「そう、よ……っ」 「僕が困る」 「……えっ?」 「芹花がいないなんて、僕が困る。耐えられない」 「何……言って……」 優先順位ってこういうことなのかな、って思う。 宗太に言われた、何が一番大切かってことを考えて、決めていれば……自ずと、答えは出てくるんだ。 「僕は芹花が好きだから。 きょうだいとか、家族とか関係なく……誰よりも、一番 好きだから……傍にいて欲しい」 「…………っ!?」 「………………う、そ」 「ウソじゃない」 僕は芹花の腕を掴んで、引き寄せた。 芹花も抵抗したけど、強引に抱き締めた。 「……ちょっ!! 真一っ!? だ、ダメだって、こんな 所で……誰かに、見られたらっ!!」 僕から逃げ出そうとする芹花の身体を、両腕でしっかりと抱き、包み込む。 「しん……いち……?」 しばらくしてようやく、芹花は抵抗しなくなった。僕が……本気だって、伝わったのかもしれない。 「……どうなってもしらないわよ」 「芹花が勝手に、ひとりでなんでもかんでも決めちゃうの がいけないんだよ」 「……何よ、それ」 ぼそぼそと、僕の腕の中に収まったまま、芹花が話す。 その柔らかい身体を、発する熱を……僕は……この上なく、愛おしく感じていた。 「僕に相談もなく、進路を変えて」 「だって……本当にあたしは、いない方がいいって思える から……」 「それを言うなら、ウチだって兄さんがいるし、 父さんだって元気だ。僕がいなくなっても困らない」 「困るわよっ!」 反射的に叫んで顔を上げた芹花が、『あっ』と気づいた表情になって……僕の胸に顔を埋める。 「あたしが……困る。あんたがいないあの家にいる 意味なんて……ない」 「そういうこと。どっちか一方だけが出て行っても、 なんの解決にもならない」 芹花が選択した方法は結局、目を逸らそうとしているだけで……実はきっと、なんの解決にもならないんだ。 「でもさ……でもね」 「このまま、あの家でずっと、真一に触れられないでいる のは……辛いよ……苦しいよ」 「…………」 「あたしの……一番好きな人が目の前にいるのに、 触れ合うことができないのって、拷問だよ……」 「…………芹花」 一番聞きたかったひと言が、今、聞けた……ようやく、気持ちが楽になる。 「ごめん……そして、ありがとう」 「……? なんで、謝るの。それに、なんで、お礼…… わけわかんないよ」 「ごめん、って言ったのは、突き放したこと。 僕だって本当はこうして……」 ぎゅ、と力いっぱい芹花を抱き締める。 「あ……」 「ずっとこうしたかったのに、ごまかして、逃げてたから」 「…………」 それまで、垂らされていた芹花の腕が…… おずおずと僕の背中に回されて、抱き返してくる。 「はぁ……真一の香り、久しぶりだぁ……」 「……なんか、匂う?」 「自分じゃ気づかない? でも、イヤな匂いじゃないんだ よ。包まれてるって……安心できる香り」 「そっか……」 僕が芹花を抱く度に感じていたのと、同じ感覚かもしれない。 「それで……お礼を言ってくれた、意味は?」 「あぁ……うん」 「芹花も僕のことを……好きだって認めてくれたから」 「えっ、あ……」 そこで初めて芹花は、自分がさっき口にした言葉の意味に、ようやく気づいた様子で…… 「……言ってなかったっけ?」 「言えなかったでしょ、お互いに」 きょうだいだから、家族だからって、その言葉だけはお互いに言うのをためらっていた。避けていた。 だから、お互いの一番大切な気持ちから、目を背けてしまっていた。 「あ……ははっ、あははは……」 僕の胸で芹花が、泣き笑いの表情を浮かべる。 「バカだあたし……そんな、大事なこと言わずに 逃げ回って……」 「それはお互い様だし」 「ん……じゃあ、もう一回言って」 「好きだよ」 「もう一回!」 「好きだ」 「んっ、んん~~~っ!!」 そして芹花は、つま先立ちになって、僕の唇に自分の唇を軽く重ねてきた。 「ちゅっ♪」 「ん……」 「あたしも、真一が好きだよ。誰よりも好き」 「好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き 好き好き好き好き好き好き……好きっ!!」 「はぁ…………」 ひとしきり叫んで満足したように、彼女はまた、僕の胸に顔を埋めてくる。 「……でも、本当にいいの?」 「……何が」 「……あたしたちが、許されない関係だっていうことに、 変わりはないよ?」 芹花の声が、少しだけ下がった。 「それは、二の次」 「え……ええっ!?」 「僕もずっと悩んでた……新しくできた家族の関係を 壊したくなかったから」 「……うん」 芹花が頷く。やっぱり、お互いにネックだったのは、そこなんだ。 「今でもそう思ってる。みんな大事だ。でも……芹花を 好きだっていう気持ちも、忘れられない」 「そして何より、芹花に幸せになってもらうことが、僕に とっては一番大切なことだから」 「……!!」 「そして、僕自身の幸せも……」 強く強く、ただひたすら抱き締める。二度と離れたくないと思えるぐらいに―― 「近くにいてよ。僕の近くに……お願いだから…… ふたり一緒にいるのが、何よりも幸せなことのはず だから」 「……真一の、ワガママ」 「うん」 「勝手なんだから」 「うん」 「そんなこと言われちゃったら、あたしまで……もっと、 どんどんワガママになっちゃうわよ?」 「いいよ、ワガママで」 「そういうわけにもいかないでしょ……」 「そういうところも全部ひっくるめて、僕は芹花のことが 好きなんだ」 「……変わってるわ、あんた」 そう言ってまた、芹花は強く抱きついてきた。 「そんな風に甘えさせてくれちゃうから、あたしは ますますワガママになるんでしょうが……」 「僕のせい……?」 「そーよ。全部あんたのせい」 そう言って顔を上げた芹花は……とても、幸せそうに見えた。 「子供の頃からずっと、あんたがなんでもはいはいって 許してくれたせい」 「つまり、あたしがこんな女になったのも、全部あんたの せいなんだから。責任とりなさいよ、責任!」 「はいはい」 *recollect僕は彼女を机の上に押し倒すようにして、唇を重ねた。 「ん……ふぅ……んん……ちゅぷ……あむ……はふぅ」 「あ、んふっ、ちゅ……んん……ちゅ、ちゅむぅ……」 「はぁ……はぁ……い、いきなり、キス……ずるい」 「リードするのは男の役目、でしょ?」 「……うん」 芹花が言ったことだ。僕は彼女の言葉を忠実に守っただけで…… もちろん、ただ純粋に、僕が芹花にキスしたかっただけっていうのも、あるんだけど。 「じゃあ、もっと……リード、して?」 芹花はそう言うと、ニッコリと微笑んだ。 「……うん」 僕は彼女の胸に手を添え、大きく揉んでみた。 「あっ……んぁ……」 うっとりとした声が聞こえる。 「真一の、手だぁ……」 「芹花の胸だ」 「ん、もうっ……言い方が単純」 「え~……」 「あたしは……はぁ、久しぶりに真一の手にこんな風に されて、んんっ……気持ちいいのに……」 「あんたの言い方ってば……気持ちが、こもってない」 「僕だって、気持ちいいんだけどなぁ」 「だって、ただ……触ってるだけじゃない」 「触っている方も、気持ちよくなるんだよ」 「そう……なの? あっ……ふぁ……」 ゆっくり、ゆっくりと、芹花の全身を撫でていく。 胸から肩、腰、お尻……太もも……柔らかい身体をくまなく、撫で回していく。 「こうしていると、芹花の全部を感じ取れるみたいで…… すごく、気持ちよくなる」 「ふ……ふーん……そう、なんだ…………んあっ」 スカート越しにお尻をなぞると、芹花の身体がふるふると震えた。 「はっ、はっ……やだぁ……」 制服とブラを一緒くたに揉んで、乳房に強い刺激を与えると、芹花は喉を仰け反らせて息を詰まらせた。 「ふあぁっ……も、あっ……んん……っ!」 「なんだかっ……触り方がやらしい……」 「うっ……仕方ないだろ……触らなきゃ出来ないし」 「そっ、そうだけど……妙にねちっこかったから……」 そう言われても、どう反応したらいいかよくわからない。 「芹花だから、触りたくてしょうがないんだよ」 内ももをくすぐるように、手の平を滑らせて…… 「あんっ! あ、あ、そこ……んっ、くすぐったい……」 仰け反る芹花の白い首筋に舌を這わせて舐めた。 「んんぁっ……もうっ、いつの間にそんな……上手に なってたのよ」 「こんなこと、芹花としかしてないよ」 「だっ……て、なんか、前と違う……」 「そうかな……?」 「んくっ……前より、すごく優しくて…………なんか、 溶けちゃいそう」 「……よかった」 そうだとしたら、気持ちの問題かもしれない。 言い訳を重ねながら、迷いながらしていた前と違って…… 今はただ、芹花のことが好きで好きでたまらない気持ちで、触っているから。 「……やだ……あたし、すごく興奮してる」 「そうなの?」 「うん……」 制服越しに胸を揉み続けながら尋ねると、芹花の荒い呼吸に合わせて、身体が大きく揺れ始める。 「は……ふぅ…………こんな所で、ね。真一にこんな風に されるなんて、さすがに、思ってもみなかったし」 「それは……僕も、かな」 家もそうだけど、ここも……普段ならずっと毎日、通っている場所だ。 宗太がいて、雪下さんがいて、ほかにもみんな見知ったクラスメイトがひしめき合う場所で…… 「あっ……くぅ……真一ぃ……あんっ、真一ぃ……」 幼なじみに、こんな格好のまま、こんな声をあげさせている。 「いつも勉強している場所で、まさか、こんな、ね」 「う、うん、はぁん……やだもう……こんなことばっかり してたら、ヘンなクセ、ついちゃうかも」 「見られて興奮するタイプ、ってやつ?」 「やだっ! こんなとこ、誰かに見られたら死んじゃう! 恥ずかしくて絶対死ぬっ!!」 僕が芹花のひとりエッチを目撃したことは、墓の中まで秘密にしておこう。 「はぁ、はぁ……もぉぉ、真一やっぱりイジワルだ」 「ごめん……でもわざとじゃないんだ」 「じゃあ……はんっ……なんで、よ。なんで、あたしを、 恥ずかしくさせるようなことばっかり、言うの?」 「それは……その」 頭が朦朧としてきている。 芹花とこんな風に抱き合って、久々に彼女の熱と香りに包まれていると、頭がくらくらしてしまう。 「……僕も、興奮しているから、かも」 「あー……そう、なんだ。ふふっ、えっちぃ」 「芹花も、でしょ」 「あっ! んくっ、そこ……だめぇ……」 芹花の弱点――乳首の辺りを集中的に、制服越しに擦ってやると、彼女はもう乳首が敏感になっていたらしくて、たまらない声をあげた。 「ふあっ! あっ、あっ、あっ……ん、もうぉ……ダメ よぉ、だめだめ……はぁん!」 芹花の甘い声に刺激されて、僕も制服のズボンが前を膨らませている。 久しぶりに聞く芹花の感じている声、その表情、手の平に伝わる身体の感触に……熱くさせられている。 「……びりっとしちゃうっ……ああん……あっ…… あぁっ……んくぅっ……」 芹花が身体をくねらせ、動かした手が……僕の股間に当たった。 「んんっ」 「あっ。ふふーん……なるほどねぇ。 どれどれ、ちょっと見せて」 「え、あっ……ちょっと」 何か楽しそうな物を見つけたという表情をした芹花は、するりと僕の手を抜けて、ズボンのファスナーをおろす。 その手際があまりにも良くて、僕はあっという間に膨張したモノを芹花にさらすことになった。 「じぃ~」 「……あ、はは」 攻守逆転、今度は僕の方がまな板の鯉状態。 僕は凄く恥ずかしさを感じていたが、僕のモノはそうじゃないみたいで、芹花の興奮した吐息をかけられてぴくんと跳ねるのだった。 「ねぇ……真一」 「ん……」 また芹花の吐息がかかって、くすぐったい。 「……なんでこう、すぐにすっっごくおっきくなるの?」 「……それは、芹花のせいじゃない?」 「あたし?」 「すごい興奮させるから」 「…………」 「芹花さん?」 「そ、そういうことなら……」 「そういうことなら?」 芹花が僕のモノを前に、ちょっと迷った表情をしながら、自分の唇を舌でちろちろと懸命に舐めだした。 「あ、あたしも、責任とらなきゃ……でしょ」 「ん……?」 「もう、さ。お互いに、相手のせいにするの、やめ」 「自分がしたいから、する。言い訳なし。おっけー?」 「お、おっけー」 確かに、これまでみたいにどこか言い訳しているままじゃ、あまりいい気分はしない。 「真一とは……その……」 僕の、丸出しになっているモノの前でもじもじしている芹花……っていうのも、考えてみればおかしな構図だ。 「本当の意味で、ちゃんと……あの、あい、あい……」 「あい……おさるさん?」 「違うっ!! 愛し合いたいの!!」 「んんんんんん~~~~~~っ!!」 耳まで真っ赤だ。 でもそうか……本来、愛し合うって意味は、そういうものなのかもしれない。 「だ、だから、その、今からするこれは、あ、あたしが したいからするのであって!」 そう言って、まるで挑みかかるみたいに、僕のモノを見据えて―― 「い、いただきます」 「お、おお……」 「で、では」 ごくりと喉をならして、芹花はゆっくりと、僕に向かって舌を伸ばした。 「あむ……ちゅぷっ……れろっ……れろん……んむぅ……」 「んぁ……うぅ」 唾液に濡れた芹花の舌先が、ちろちろと僕のモノを撫で回す。気持ちいいのと、くすぐったいのが同時に襲ってくるようだった。 「れろ、れる……れろれろ……んちゅっ……んんっ……」 「んちゅっ……ちゅぷっ……ちゅるっ……あむっ…… ちゅちゅっ……」 芹花はまるでアイスを舐めるかのように、僕のモノ全体を舐め回す。 「んんっ……ちゅ……あっ……先っぽ、濡れてきた……」 竿の裏スジをつうぅっと根本から舐め上げ、亀頭の先までちゅるんと舐め上げる。 「ちゅっ……んぁっ……ちゅぅんっ……ちゅるるっ……」 芹花は一度、深く深く息を吸い込んで、そして唇をモノに這わせたまま、僕を見上げた。 「んむぅ……うへぇ……改めてしてみると、なんか、 すごい……すごすぎぃ……」 「ど、どんなふうに?」 「真一のって……味は、おいしくない……」 「そっ、そんなこと言われても……」 「けど……舌に熱いの伝わって、ぬるぬるしてて すっごくドキドキする……」 ぬるぬるっていうのは、それだけ僕が興奮して、先走っていたか、という証なわけで…… 「でも……不思議とやじゃないかも……んっ……次から 次に出てくるね……いっちゃった訳じゃないんだよね? んちゅっ……」 「あんまりされると……いっちゃうけど……」 「ちゅちゅ……れろ……れろちゅっ、ちゅっ、ちゅ、 んんっ、んむっ!」 「ふぁ……な、なんか、さっきよりおっきくなってない?」 「む……無理からぬ話です」 芹花は呆れたような顔で、僕と僕のモノを見比べている。 「あたしが……舐めたりしてるから?」 「そ、そう……かな」 「……んふっ☆」 「そこ、嬉しそうにしない」 恥ずかしい…… 「ではではっ、ご期待に応えて、いよいよぉ~!」 芹花は大きく口を開けて、僕のモノを咥え込んだ。 「あーむっ♪」 敏感に張り詰めたモノの先が、芹花の口の中にすっかり入り込んだ。 「んん……ぢゅるる……れるぅ……んちゅ、ちゅぷぷっ」 そのまま一度根元まで、苦しそうにしながらも呑み込んで、芹花はまた、唇をモノの周囲に押しつけながら先端に戻っていった。 「んぢゅぅっ……んんぅんっ……んぷぁっ……ぢゅるるっ」 全身に、ねっとりとした感覚が走り抜ける。 「んん、ふぅ……はぁ、はぁ……んんっ……ちゅぷ……」 今度は、また深く。 「んんっ、ほーほぉ? ひほひひーへほぅ?」 「芹花……く、口に入れたまま……しゃべらない……で」 ヘンな刺激に、身体の力が抜ける…… 「ぢゅる……んふ……はふぅ……すごいよ、真一の、これ、 お口の中いっぱいにされて……すごく、ドキドキする」 「真一、あたし……がんばるから、見ててね」 瞳を見据えられながらそんなことを言われて、僕は身体がぞくぞくするのを止められなかった。 「はぁむ、んぶっ……ちゅぷ、ちゅぷ……ぢゅるっ…… んふー……んちゅ、んぶ……れろろ……ちゅるるっ!」 芹花が一生懸命に、僕を愛してくれるのが、すごく伝わってくる。 「ちゅぶっ……ちゅぶっ……んちゅっ……すずっ…… んんっ……ちゅぷんっ……んんっ! んんっ!」 緩やかに上下を繰り返す芹花の頭に、僕は手を乗せた。 芹花の艶々の髪が、僕の指に絡まる。 「んふっ……気持ちよさそうな顔してるぅ……んぢゅぅ、 んぶっ……ちゅぅっ……ちゅっ……んぷっ……」 細く長い芹花の髪の毛が、さらさらと流れて……僕は、うっとりと彼女の髪を撫でていた。 「ふぁぅ!?」 芹花も何か感じたのか、くぐもった声をあげた。 「んはっ……か、髪……気に入った……の?」 「ん……綺麗だし、撫でるの気持ちいい」 「んふ、嬉しい、かな……褒めてくれたから、サービス」 芹花はにぱっと微笑むと、大きく僕のモノをくわえ込み強くすすってきた。 「ふちゅ、むちゅる……ちゅちゅっ、ちゅ……んん……!」 「んぢゅっ……ちゅぷっ……ちゅちゅっ……ぢゅるるる!」 「ああっ……」 下腹部にじわじわ広がってくる快感に合わせて、僕も芹花の髪を撫で下ろした。 「んん……ちゅぷ……もっと……髪……あたま……んぷぅ なでなでするの、やって……ちゅぶっ、ちゅるる……」 「うん」 「ちゅぷ……ちゅぷっ……してあげてるのに……あたしも 気持ちよくなってく……ちゅぶっ」 僕が芹花の望むように髪を撫で続けると、彼女もまたそれに応えて、僕のモノを一生懸命愛してくれる。 「はぁむっ、んん、んぢゅりゅ……んちゅぅ……れろっ、 れろれろれろ……ぁむ……んじゅぅぅぅ~っ……っ!」 芹花の舌が縦横に、僕のモノに絡み付いてくる。 「んふちゅ……ちゅぶ……ちゅちゅぶっ……ちゅっば、 ちゅっぼっ……んふぅ……ずちゅるるる……!」 さっきまでより激しく、愛おしげに、芹花は、僕のモノを吸い上げようとしていた。 「んちゅっ……ちゅぼっ……ちゅぅんっ……んぅんっ、 むふぅっ……んぐっ……んむっ……んっんっんんっ!」 唇から漏れる水音に、僕は否応なしに興奮させられる。 「れろ、れぇろ、れろれろれろ……んじゅぅぅ……」 今度は亀頭を舌で撫で回されて、僕は、身体を震わせた。 「くっ……!」 「ちゅぽ、ちゅぱ……ふぅ……んん……はぁぁ……! んぢゅぅ、んぢゅ、んぢゅ……っ! ……ぷぁっ」 「芹花……芹花……!」 「ん、んんっ!?」 びくんっと身体を震わせた僕に、芹花が驚いたような声をあげる。 射精感がこみ上げてきていることが、芹花にも伝わったらしい。 「はぁ……ん、イって、いいよぉ、このまま……!」 そう言うと誘うような目を向けながら、芹花は指まで使ってさらに愛撫を加速させる。 「んちゅ……んちゅちゅっ……はむ……んちゅ……んぷぁ、 むちゅ……ぷちゅ……ん、んちゅぅぅぅ……!」 ひんやりとした指先が、舌と交互に僕のモノにまとわりつく。 「れろれろっ、れろれろ……んれろれろれろ…… んちゅぅぅ!」 「芹花……芹花ぁ……!」 「ちゅぱ……はむぅぅ……むちゅるる……んっ、んちゅ!」 快感に耐え切れず、僕は思わず芹花の頭をきつく掴んでしまった。でも、芹花は嫌がる素振りをみせない。 「んちゅぅぅぅ……ちゅ、ちゅ、ちゅば……んじゅりゅ、 ちゅるちゅる……れろ、れろん……んちゅるるるっ!」 「ぢゅぢゅっ……ぢゅちゅる……ずずっ……んちゅ、 れろれる……んっちゅ、んっちゅ――んぁ!?」 「ん、くぁっ!」 僕の腰が耐えきれずに、跳ね上がった。 「んぷぅ……っっっ!?」 芹花の口の奥、喉の手前くらいまで挿入されたモノの先から、僕の性欲が迸る!! 「あ……ぐぅぅぅ……っ!」 「ん……んんーっ!? う――っ!?」 「んぅぅぅぅぅぅっ……んっ……んぅぅぅぅぅぅ!!!」 どくどくと、熱い粘液が体内を駆け抜けていったのがわかる。 「んっ、んっんんんぶっ……ふっ……んふーっ、んっ…… んんっ……んぁっ……こく……こく……こくっ……」 放出された液体は、そのまま芹花の口の中に溜まっていく。 「ん……ん……こくん……こくん……っぷぁ……!」 僕のモノの先を咥えたまま、芹花は僕の吐き出した精液を飲み下し始める。 今さらそんなことに気づいて、僕は慌てて彼女の口からモノを抜き出した。 「んぁっ……はぁ、はぁ、はぁ……んんっ……」 芹花の唾液と、精液と、色々なもので濡れて光る自分のモノが、すごく卑猥で……その分余計に、芹花の唇もいやらしく見える。 「んぁ……ん、こく……こく……んんっ……」 芹花は手で口を押さえながら、大きく喉を鳴らして……結局、口の中のものを全部飲み込んでしまった。 「うぅぅ……おいしくない……あと、いっぱい出しすぎ」 「う……だったらそんな、無理しなくてもいいのに」 無理をしたせいで、涙ぐんでるし…… 「だ、だって……真一の、だったんだもん! 真一のだったら……おいしいのかなって」 「まったくもう……」 意地っ張りな言動の裏に見え隠れする、僕への想い。またそんな不器用な芹花の愛情を感じ、僕はたまらなくなる。 その衝動に突き動かされ、僕は彼女を抱きよせる。 芹花の顔を拭いて、改めて、彼女を強く抱き締めた。 そして……まだ全然治まらない下半身の興奮に突き動かされるように、彼女を求める。 「んあ……真一、ごーいん……んっ、きゃっ!」 制服や下着を取り去るのももどかしく……芹花の身体をまさぐる。 「どっ……どうしたの、急に……ああんっ……あっ!」 彼女の身体がびくん震えて揺れる。僕の指が触れたからだと思うと、なんだか嬉しいような、楽しいような気分になった。 「ホント……いつも思ってたけど、あたしの身体なんかを ……触って楽しい?」 「うん、けっこう……いや、かなり」 「そう……なんだ、はぅ……ああんっ……!」 芹花の胸を手の平で包み込むと、彼女は身体を縮込ませて、感じ始めていた。 「はぁ……ん……んんっ!」 乳房の先の突起を直接指で愛撫するとまた、芹花は身をよじった。 「ダメ、はぁ、ダメ……はぁ、はぁ……そこ、弱いの…… んんぅ……あんっ!」 スカートから伸びた太ももに手を這わせて、胸に触れていた手は芹花の肩や腕……首筋や耳の後ろをくすぐる。 全身を愛したい……触れる全てが愛おしい。そんな想いを芹花にぶつけていく。 「はぁー……はぁー……んぁっ、うぅ、くすぐったい…… んふぅ……んんぅ……ん……はぁ、はぁ、はぁ……んん」 ただくすぐったがっていた芹花の声に、甘い響きが混ざり始める。 その声に、あの……ぞわぞわとしたものが僕の背を伝って這い上がってくる感覚が、また呼び起こされる。 僕は優しく髪を撫でながら、また腰の辺りを大きく触れていく。 「んくっ……はぁ、はぁ、あぁんっ、うあ、んんうぅ…… やぁ……そんな触り方……だめ……んっ……感じちゃう でしょ……っ、んんーっ!」 「芹花……気持ち、いいんだ?」 「はぁ……はぁ……うんっ……はぁ……あっ、あっ、あっ、 うんんんっ……あっ、あぁっ!」 芹花の身体が一層大きく震えたのを見て、僕の下半身が早くも硬くみなぎる。 さっき出したばかりだっていうのに、僕のモノはもう…… 「あ……はぁ……し、真一ぃ……?」 呆然とした顔で僕を見上げる芹花に、ちょっとためらいながらもお願いしてみる。 「芹花」 「ん……?」 「僕、もう、いれたい……」 「っっ!」 火がついたみたいに、芹花の顔が赤くなった。 「ん……うん……」 まるで初めての時みたいに、何か特別な意味を感じて、お互いに緊張している。 だけど、もうそこには不安やためらいはなかった。 「……いいよ。真一の好きなように……して」 「うん、芹花……好きだよ」 顔を寄せて優しくささやくと、恥ずかしそうに目をそらした芹花にキスをした。 「んっ……ちゅぅっ……んんっ……んんっ……」 そしてキスをしながら、僕は芹花のショーツを脱がしていく。 「いくよ……」 「くぁ……う、んんぅぅ……ああぁぁぁ……っ」 僕は芹花の身体に、深く深く突き入れた。僕のこの気持ちと一緒に。 「んあぁ……真一の……熱くて、硬いの……いっぱい……」 芹花の中は以前と同じように……いや、それ以上に熱く濡れて、僕を柔らかく包み込んできていた。 まるでその反応こそが、僕の気持ちへの答えみたいに。 「芹花!」 僕は僕の精一杯で、彼女を抱き締める。 「うくぅ……うあ、あっ、あっ! きゅう、に…… 動かないで……よぉ……んあッ!!」 「はぁ……芹花……」 芹花の身体が跳ねる。壊れてしまうんじゃないかと思えるぐらい、激しく感じてくれている。 「ふぁっ……んぅ……うぁ、あ、うんっ……くっ…… 奥までっ……届いてるよぉ……」 可愛くて甘い声が漏れる度、芹花の肌が震えて、汗が噴き出す。 僕はその汗に、手の平で触れる。汗を拭うんじゃなくて、芹花の……すべての芹花を、この手に捕まえたかった。 「んっ、んっ、んあ……はぁ……んん……んんぅ……!」 僕の額から流れた汗が頬を伝い落ちて、芹花の肌の上に落ちた。芹花と僕の汗が混ざり合う。 「んんっ……あん、はぁん、あん、あん……あんんーっ!」 卑猥な腰の動きに、漏れ出る喘ぎ声…… 刺激されて、昂ぶりがお腹の底に集まって、僕のモノはいつも以上に強烈に、膨れ上がり張り詰めていた。 「真一ぃっ……もっと……もっと動いてっ! あっ! あっ! あああんっ!」 身体中で芹花を感じる。僕は、夢中で動かし続けていた腰に、ビリビリと早くも射精感が広がるのを感じた。 「うぁ……はぁ……」 慌てて腰の動きを止める。 「んは……は……ぁ……やぁん……止めないで……」 まだ果てたくない。芹花と、もっともっと、ひとつになっていたかった。 息をついて落ち着きを取り戻し、僕は、今度はゆっくりと、芹花の中へ自分のモノを擦りつけていく。 「はぁ……んん……な、んで……ゆ……ゆっくりなの……? んんっ……ふぁ……ぁ……」 「激しい方が……芹花は好き?」 「い、いい……の……真一が……んんっ……してくれる なら、あたしは、どんなことだって……んはぁ…… 気持ちいいからぁ……ん、んんっ……」 「芹花……」 もう、その言葉だけで僕は、果ててしまいそうだった。 「ん……んっ……んん……んーっ……んんっ……」 こみ上げる温かな感情……いや、これはもっと温度が高くて、灼熱の感情だ。 この熱が全身に拡がって、芹花にも伝わればいいと思う。 「ゆっくりもっ……いいね……ふわぁって……気持ち よさが広がっていって……あっ……ああんっ……」 ゆっくりと芹花の中を味わい続け、こそぐように自分のモノの凹凸を擦りつけると、芹花の身体が敏感に反応した。 「……っ! んっ! はぁんっ……っ……っはぁ!」 「芹花、可愛いよ……」 「んんっ……るさい……バカ……あぁんっ!」 そうして、今にも果ててしまいそうだった自分の身体が、なんとか落ち着いてくると……僕はまた、腰の動きを一気に速めた。 「あ、うぅ、んぁ……あっ、あっ、ああっ、また、また、 は……げしくっうぅぅ……んんっ!!」 さっきまでよりももっと、もっと激しく、芹花の身体を味わう。細い腰をしっかり掴まえて、叩きつけるように出し入れを繰り返す。 「はぁ、はぁ……や、やぁ……んん……これ……気持ち いい、んんーっ!!」 もっと、もっと、芹花が欲しい……自分でも、こんなに強く何かを願ったことはないんじゃないかって思うくらい、僕は今、芹花が欲しくてたまらなかった。 「はぁ、はぁ……あん……あんっ、あっ、あぁぁぁぁぁっ あんっ、んんっ、はっ……あんっ、んあぁっ、あんっ!」 「くぅんっ……あっ! ああんっ! あぁぁぁぁぁっ! ずごいっ……ひうっ……ああっ! いいっ! こっ、 このままっ! このままっっ!!」 芹花の身体を支えて突き入れやすくすると、腰が壊れるかと思えるくらい、強く押し込んでいく。 急激に快感の波が襲ってきて、そのまま流されそうになりながらも、歯を食いしばり芹花と快感を貪っていく。 「んあぁんっ! はぁんっ! あっ! あっ! んぁん! 真一ぃっ……しん、いちぃっ!!」 「あぁ、きちゃ……きちゃうよ……うぅ! あん、あんっ あっ、あたしぃ、んぁ……も、イッちゃうよぉ…… 真一ぃ!!!」 「んっ、んんっ! んあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 「んああっ! ああんっ! あぁっ……!! はぁ…… はぁ、はぁ、はぁ……」 「あっ……あぁぁ……イッちゃったぁ……あたしぃ……」 かくん、と芹花の身体から突然力が抜けた。 「あ、あたし……も、力、入んな……い……ぃ」 彼女の言葉通り、芹花の四肢はだらんとして伸びきっていた。 「ごっ……ごめんね……先にイっちゃって……」 でも僕は……そんな彼女を気遣えるだけの余裕もなく、自分のことで精一杯だった。弛緩した彼女の身体を抱いて、さらに腰を振る。 「んぅんっ……あっ……ひぃっ……そんなに動いちゃ…… まっ……またっ……あたしぃ……んああんっ!」 イったばかりで、まだ余韻が残っている芹花の快感を再び強引に呼び起こしていく。 くすぐったそうにしながらも、芹花の身体がまたぴくぴくと痙攣してきて、弱々しい手つきでぎゅっと僕の身体を掴んでくる。 「あっ……あんっ……こんなに……また、いっちゃったら 頭、変になっちゃうかもぉ……んっ、んっ、んぅんっ!」 「でっ……でもぉっ……いいのぉっ! 気持ちよくって、 何も考えられなくなっちゃうぅんっ!」 芹花の息が上がり、またもやイきそうなほど気持ちが高ぶってくる。 「か、からだ中、はぁ、はぁ……き、気持ちいいのが…… 幸せなのが、いっぱい広がって……くるぅ……っ!!」 絶頂の予兆。甘い痺れ。快感に自分の意識が飛ばされる。 このまま芹花の奥に、自分の精を注ぎ込むことしか、考えられない。 「あぁ……ん! イク、うぁぁぁ……んっ、イク……また イク……んああぁ、イッちゃう……よぉ、真一ぃぃ!!」 芹花ももう限界みたいだった。ふたり同時にいけるように……なんて気遣う余裕はなくて。 「ぼ、僕も……うっ……!!」 「きゃっ、ちょっと……うあぁ……んん……はぁ、はぁ、 ん、ん、ん! あ、あ、はぁ……んぐぅ……!」 全身の力の全部を持っていかれるような、射精感がこみ上げてくる……!! 僕は腰を突き出し、可能な限り芹花の奥深くへと、自分のモノを押し込んだ。 「……っはぁ……!!」 「あ、あ、あ、あ、はぁ、んんっ、ん、ん、ん、ん!!」 「はぁっ、んぁっ、んん……んんん……っ!! はぁ…… 真一……あ、あ、あああああああぁぁぁ……っ!!!!」 「くぅっ……!」 芹花の身体に包まれながら、思い切り精液を吐き出す。 「んあっ!! んああああああああああああぁぁぁ!!!」 「んぐっ……あぁっ……あぁああああああっっっ……!!」 「あふぅっ……あぁんっ……ああぁ、はぁ……はぁ……」 僕が射精した瞬間、芹花も絶頂に達していた。腰がぐねぐねと震えて、僕のモノを締めつけてくる。 僕は力を使い果たし倦怠感が襲ってくる中、その最後の快感を心地よく感じていた。 「はぁぁぁぁ……はぁぁぁ……ひぅ……んぅぅぅ……」 「はぁ、はぁ……」 「はぁ……はぁ……い、いっぱい……」 「あぁぁ……なんか……前より、いっぱいで…… 熱いみたい……お腹……焼けちゃう……」 「……芹花」 「ふぁ……?」 僕は精根尽き果てながら、芹花に覆い被さる。気を失いそうになりながらも、大事なことを伝えなきゃいけない。 「好きだよ、芹花。僕は芹花が……好きだ」 「真一……ん、ふゅ……んっ……ちゅぅっ……」 蕩けきった目で僕を見つめてから、芹花は首に手を回してしがみつき、唇を重ねてきた…… 後始末を終えても、僕らはまだしばらく夕陽が差し込む教室を眺めながら、抱き締めあっていた。 「これからも、一緒にいて欲しいよ」 「……う、うん」 芹花が、強く強く、僕を抱き締め返してくる。 回された手が優しく背中を撫でてきて、密着した胸が柔らかで、吐息はまだ熱かった。 「あたしも……真一が好き。誰よりも……何よりも……」 「うん……」 「えへ……えへへ……」 お互いにいっぱい汗をかいていたけど、僕も芹花も、まるで気にしていなかった。むしろこのままずっと、こうしていたい気分だった。 「……何よ、じっと見て。あたしに見惚れちゃった?」 「ん……」 「あ、それとも……まだ物足りないのかな? 真一くんってば、えっち☆」 ぴとっと、指を唇に当てる芹花。もうすっかり普通の顔なのに、さっきその口に僕のモノが飲み込まれていたのかと思うと…… 「ほら、物欲しそうな顔してる」 「べ、別に……」 「ふーん。じゃあもう、あたしの身体なんかいらないって いうのね、うぅぅ」 「それもない」 「……ふふ、ふふふっ、あははっ!」 「あーもー……好きに笑ってよ」 どのくらいそうしていたか……僕は、彼女の頬に自分の顔を寄せながら、それでもあることを提案する。 「――みんなに報告しなくちゃね、僕らのこと」 「そう……かな。やっぱり」 芹花の返事には、ためらいが混じっていた。これまでみんなの目からふたりの関係を隠していたのは、それが『罪』だと思えていたから。 でも僕の提案は……より正確に言えば、『決意』でもあった。 「隠そうとして、こじれちゃったんじゃないか」 「そう……だね」 僕らは家族であることを守ろうとしたけれど、それはもう、無理だ。 お互いに、こうして認めてしまったから。誰よりもお互いが大切だということを。 それならもう……これから先、僕らの関係をまた隠すことなんてできない。できそうにない。 「あーぁ……なんて言われるかな?」 芹花は僕の胸に顔を埋めて、そう呟いた。 「……想像もつかないなぁ」 「杏子にも報告するわよね? あの子も、家族なんだから」 「当たり前だろ」 「あと……宗太にも言わないとダメかも」 「うん。だね。世話になってるし」 あいつは、僕たちが一番大切だと言ってくれた。なら、それに応えなくちゃいけない。 「……家族や友達のままで、いられるかな?」 「信じよう」 みんな、僕たちにとって大切な人だから。困らせることになるとわかっていても、切り捨てたりしたくない人たちだから…… こんなに悩んで、苦しんで、それでもなお、自分たちの気持ちにはウソをつけないんだってことを全部……話そう。 「芹花……例えどんなことになっても」 「ん……」 「僕がキミを守るから」 「し、真一……」 「しっ、真一のくせに……何、かっこいいこと言ってるの よ!!」 「くせに、はひどいなぁ」 僕らは笑いあった。なんだか、いつもの感じで。 いつもの感じなんだけど、実際それはとても久しぶりで、そんなたわいの無いことで、とても心が満たされていった。 教室でお互いに身だしなみを整えて、学園をあとにした。 家の近くまで来たところで、僕たちはちょっとした電話をかけた。 「来てくれるってさ」 「そ……じゃあ、まずはそっちからね」 「緊張してる?」 「そりゃあ……」 当たり前でしょ、と言わんばかりの目で睨まれた。 僕は謝る代わりに、彼女の手を握る。 「ん……」 とくとくと、愛しい人の温もりが、肌に伝わってくる。 ほんの少しの不安を胸に抱えているのは、お互いもう、言わなくてもわかっている。 冷静になればなるほど、その不安が大きく、重くなっていることも……たぶん、ふたりとも同じ気持ちだった。 「伝わる……?」 「……うん」 芹花は僕の手をぎゅっと握り返してきて……それから、申し合わせたように一緒に、家の方を見た。 みんながいる、“〈CAFE SOURIRE〉《カフェ・スーリル》”―― 僕らは……帰るんだ、あの家に。 「……行きましょうか」 「……うん」 行こう……芹花と一緒に。 僕らの未来のために。 すべてを打ち明ける決意を胸に、僕らは強く手を繋ぎ直して――扉を開けた。 「ただいまっ」 「よう」 「ごめん、こんな時間にわざわざ呼び出して」 「いいっていいって」 帰宅して着替えを済ませると、ただ『大事な話がある』としか説明していないのに、宗太は待つほどのこともなく駆けつけてくれた。 「うまくやってるみたいじゃないか」 「ううっ……」 僕の部屋に芹花がいて、彼女が僕の隣に寄り添っているのを見た宗太は、静かな笑みを浮かべながらそう言った。 「まったく、急に呼び出されたと思ったら、なんだい チミたち」 「俺に見せつけたいのかい? はぁーあ、他所でやって くれよ」 肩をすくめてみせる宗太。表情や言葉とは裏腹に、嬉しそうな口調なのが救われる。 「いや、実は杏子も一緒にと思ったんだけど、なかなか 来なくて」 「あ、杏子ちゃんなら、扉の前でうろうろしてたぜ?」 宗太は、ついさっき入ってきたドアへ親指を向けた。 「…………」 「…………」 「ひゃっ」 宗太が言った通り、部屋の前を行ったり来たりしていたらしい杏子が、急にドアを開けた僕たちに驚く。 「えと……えと」 「もぉ~、さっさと入ってくればいいのに」 「でも……その」 「あ~、わかった。真一みたいなケダモノの部屋には、 入りたくないのね」 「え」 「ケダモノって……」 「うんうん、すっごくよくわかるわぁ。あたしも何度 危ない目に遭ったか」 「それは、芹花流のノロケと思っていいのか? 真一が ケダモノに変わったところを見たことがある、という 意味で」 「えっ!? あ、う……っと」 だから芹花、真に受けないで……バレバレで恥ずかしいからさ。 「あははははははっ、あーはっはっ! わかった、 み、みなまで言うな……はははっ……ひぃー!!」 「わっ――笑うなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「ん……? ん? ん???」 「し、真一、おめっ、おめでとっ……ぶっっ」 「ま、まさか本当に、そこまで進んでるとは…… ぶはっ、はははははははっ!!」 「いやえっと、ちゃんと説明するつもりで呼んだんだけど ……どうしてこうなるかな?」 「え??? ええ?? んん???」 「あ、も、もぅっ! 杏子、あたしの部屋で話すから! こっち来て」 「う、うん……」 「男は男同士、勝手にやりなさい!! もうっ!!」 「あーあ、もうっ……照れちゃってまぁ」 「おうっ……ぷぷぷっ」 「いやはや……邪神芹花様も形無しだな」 「またそのネタ……」 「いやぁ、信者Bとしては、素直に祝福してるんだぜ? 数々の困難を乗り越え、立場の違いを乗り越え、晴れて 勇者と結ばれた――ってことだろ?」 「勇者って……僕?」 「ほかに誰がいるよ?」 宗太はそう言って、僕にウィンクしてきた。 「おめでとう」 「……ありがとう」 「困難はまだこれから山積みだけど……うん、僕は、 芹花と付き合うことにした」 「そっか……芹花の願いは叶ったわけだ」 しみじみと語る宗太は、なんだか保護者みたいだったけれど…… 考えてみれば宗太もまた、長い付き合いなんだし……同じような感慨は、僕にも多少ある。 「正直に言えば、僕は、宗太と芹花が付き合えばいいって、 そう考えたこともあるよ」 「おいおい、ここでそれを言うかー。結果的にそうなら なかったんだから、俺、惨めじゃん」 「そんなことない。宗太には、敵わないと思ってる」 これは僕の……本音だった。 「宗太がいなかったら……僕たちはきっと、うまくいかな かったよ」 「……どんなに持ち上げられても、勝ち組の余裕にしか 聞こえないんだけどなぁ」 「知ってたか、俺、実はひがみっぽいんだぜ?」 苦笑を浮かべながら、宗太は僕の肩に手を置いた。 「ちゃんと芹花を支えてやれよ」 「うん」 「世界中の、すべての人間を不幸にしてもいいから、 お前らだけは幸せになれ」 「……そうはいかないよ、さすがに」 今度は僕が苦笑を浮かべる番だった。宗太や杏子、家族のみんなを、できれば不幸にしたくはない。 「そのくらいの意気込みでいろってことさ」 「……わかったよ」 「よし」 置かれていた手がポン、と僕の肩を軽く叩いて離れた。 それだけのことで、なんだかずいぶんと気が晴れた。 「それにしても、あっちの話はまだかなぁ?」 宗太はニヤニヤと、ドアの方を見て含み笑いをしている。 「あっちって……芹花たちのこと?」 「ああ」 と、ちょうどそこへ、ふたりが戻ってきた。 「さ、杏子。ガツンと言ってやんなさい」 「うぅ……」 「?」 芹花に押し出されるようにして、杏子が僕の正面に立った。 その杏子が、困ったような顔をして、僕を見上げてくる。 「どうかしたの?」 「……あ、あの……耳貸して」 「え? あ、うん」 言われるがまま、僕は腰を低くして、杏子に耳を向け…… 「痛っ……ぇ!!」 突然、平手打ち……杏子に思い切り、ビンタされた……!? 「な、なんでっ!?」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「あっはははははは!!」 「おぉ、そうきたか。こりゃぁ、いいモン見た見た♪」 何度も頭を下げて謝る杏子。大爆笑中の芹花。ひとりで何やら納得している宗太。 そして僕は、わけがわからないまま、打たれた頬をさすっていた…… きっと手の痕がくっきりついて、赤くなっているな、これは…… 「なんだよみんなして! 僕なんで叩かれたの?」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 頭を下げ続ける杏子の代わりに、芹花が……ちょっと、いや、かなり恥ずかしそうに、説明してくれる。 「いやまぁ……あたしも同罪なんだけど、さ」 「…………?」 「杏子……知ってたんだって。あたしたちのこと」 「……って、え!? まさか」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「それも最初から……あの、あたしが風邪ひいて、 あんたに看病してもらった……あの晩から」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「え……ぇ……うそ……」 「覗くつもりなんて、なかったん、だけど……」 「……うわぁぁ」 僕と芹花が、その、初めてしてしまった夜か。 見られていたのかと思うと、メチャクチャ顔が熱くなった。芹花の顔も真っ赤で……たぶん、僕も同じ様子だと思う。 「夜中に起きちゃって、芹花ちゃんの様子が気になって、 部屋まで見に行ったらその、ドアの外まで声が聞こ――」 「ストォォォォップ!! 全部説明しなくていいからっ!! お願い、やめてっ!!」 「ぶわはははははははっ!!」 「宗太……そこまで笑わなくても……」 僕も恥ずかしい。 「あー、ひっひっひ!! だって、だってさぁ……悪ぃ、 いや、実は俺、その話をさ、杏子ちゃんから相談されて、 知ってたんだ」 「ええっ!?」「ええっ!?」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「あー……こほんっ。ほら、いつだったか街で会った時、 女の子と会うって言ったろ? 相談を受けるって。 あれ、杏子ちゃんのことだったんだよ」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「え……じゃあ、宗太もその時から実は知って……」 「知ったと言っても、杏子ちゃんの話を聞いただけだし、 家の中のことだからなぁ、余計な口出しもできなくて、 役立たずだったよ」 「まさか、あの時点でお前ら本人に、『したの?』なんて 確認するわけにもいかないだろ?」 「……あたし、恥ずかし過ぎて死にたい」 芹花が床にがっくりと、手と膝をついて凹んだ。 僕もまったく同じ心境だよ…… 「うぅ……それで、ちょっと、ふたりと顔を合わせるのが、 恥ずかしくて……」 「あ、まさか、しょっちゅう出かけていたのは……」 「んっ」 こくこくこくっ、と杏子が首を縦に振る。 なるほど、思えばあの夜以来、あからさまに避けられていたような…… は、恥ずかしいっ!! 「あ……それと、今叩いたのは、芹花ちゃんにやれって 言われたからで……」 「あ、え? 芹花? なんで」 と、さっきまで恥ずかしさに悶えていたはずの芹花が、ぷいっと怒った顔でそっぽを向いた。 「さぁね。自分の胸に聞いてみなさい」 「え? え?」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「いやむしろ、あたしが杏子に謝らなくちゃいけない ところなんだけどさ……」 「ん……んーん。もう、いいの、もう……」 「女同士の話があった、ってことだろ。野暮なことをこれ 以上詮索するな」 「それはつまり、僕はおとなしく、叩かれたままに しておけ……と?」 「そういうこっと♪」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 「……あたしもついでに、一発ぐらい殴っておこうかしら。 何年もやきもきさせられたわけだし」 「それはつまり、何年も前から芹花の方は、僕を意識して くれていた、ということ?」 「……あっ」 「ぶっ! 今日の芹花は……くくっ、自爆してばっかり だな!!」 「……芹花ちゃん、可愛い♪」 「え、っと」 僕が、喜ぶべきか戸惑うべきか、態度に困っていると…… 「し――真一のバカああああっ!! なんでこんな時 ばっかり、鋭いのよぉっ!!!!」 「うげっ……」 久しぶりに、芹花の本気の蹴りをもらった気がする……というか、殴るんじゃなかったの…… 「はー……やっぱりお前らは面白いわ。最高」 「……そう思うなら、これからも仲良くしてやってよ」 痛みに顔をしかめながらだったけど……半分以上、本気でそう願っていた。 「もちろんだ!」 ニヤリ、と返してくれる宗太は、やっぱり僕たちにとっても……最高の親友だ。 「にしても、これからふたりはどうするんだ? おじさんたちにはもう、言ったのか?」 「ああ……それは、これから」 「うん……」 芹花と顔を見合わせて、頷く。 話す覚悟自体は決めていて、今晩にでも打ち明けるつもりだった。 「そっか……あくまで秘密にしておくっていうなら、協力 するつもりだったんだが」 「わ……わたしも。久我山くん以外には言ってないし、 言うつもりもない……よ?」 「ありがとう。でも、頑張ってみるよ」 「芹花も……それでいいのか?」 「うん。受け入れてもらえるかは、わかんないけどね」 「でも、秘密にしていても辛いだけだって、わかったから。 どんな結果になっても、自分に正直にいく…… そうよね、真一」 「うん」 「……そっか。頑張れよ」 「がんばって……」 「ありがと。ふたりとも、好きよ」 「かぁっ、そのセリフは、真一とくっつく前に聞きたかっ たな」 「え」 「じゃ、俺はこれ以上、ふたりのラブラブ空間を邪魔した くないんで、帰るよ」 「うん、ありがとう……」 「俺は、お前たちを冷やかしているんだ。礼なんか言うな」 「でも、ありがとう」 「……ふん」 「あでぃおす!!」 「…………」 芹花もなんとなく、わかっているみたいだけど…… 僕には最後に宗太が言っていた、僕とくっつく前に『好き』と言われたかったっていうセリフが…… あれが宗太の、本音だったんじゃないかなと思えた。 だから……ありがとう。そして、ごめん…… 杏子も含めた三人でリビングへ下りていくと、香澄さんがひとりでくつろいでいた。 「……また、ホラー映画」 「うん、よくできているのよこれ……ってあら、みんな 下りてきたのね」 「……って、真一くん、そのほっぺ、どうしたの?」 「あー……ひょっとして、手形ついてます?」 「うん、真っ赤なもみじ」 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」 あとね、見えないところに蹴りも一発、喰らっているんですよ…… 「~♪」 「……なんだか大変だったのね。宗太くんはさっき、『お 先に失礼します、あでぃおす!』なんて言って、元気に 出て行ったけど」 「あ、うん、ごめんなさい、うるさかったかな?」 「賑やかで楽しそうで、いいなぁと思ってたぐらいよ。 ふふっ」 この様子なら、僕たちが具体的になんの話をしていたかは聞こえていないかな? つい調子に乗ってというか……大暴露大会になってしまって、際どい話が次々出ていたから…… 「……それであの、ほかのみんなは?」 店はもう閉まっていて、キッチンにも誰もいない。 リビングに香澄さんひとりだけっていう光景は、近頃では結構珍しかった。 「お父さんとお母さんは、今日はもうお休みよ」 「うわ……」 これから芹花とのことを打ち明けようとした矢先に、両親がもう寝てるって……計算外だ。 あと、ならなおのこと、騒いでしまって悪かったなって思う。 「雅人くんは、色々言い訳してごまかそうとしていたけれ ど、あれはたぶん、デートね。きっと今夜は帰らないん じゃないかしら?」 「うわー……雅人さんまで。 っていうか、何その、バレバレな感じ」 「結構前から、そんな相手がいる雰囲気はあったもの。 そういうのって、意外と周りにはわかってしまうもの なのよ、ふふっ」 「…………」 「…………」 なんだか、自分たちのことを言われているようで、耳が痛い。 すると、芹花が僕の服の裾を引っ張って、ひそひそと耳打ちしてくる。 「……みんな揃ってないんじゃ、仕方ない、かな」 「そうだね……日を改めようか」 「ん……」 「何か、みんなに用事?」 「いえ、いいんです」 「……?」 香澄さんの前から逃げ出すようにして、僕たちは足早に、その場から離れた。 「ふぅー……」 胸がドキドキしている。今晩の内に言ってしまうつもりが、予定が変わってしまって、落ち着かない。 「明日は、大丈夫……だよね?」 「そう……だね」 「じゃあ今日は、明日に備えて……お休み」 「……お休み」 ……ゆっくりと部屋に入っていく芹花は、まるで緊張なんてしていないみたいだ。 僕の気が小さいのか、芹花の気が大きいのか…… 「……真一くん」 「うん?」 杏子は僕の名前を呼んでおきながら、芹花が入っていった部屋の扉を、じっと見つめていた。 「芹花ちゃん……大丈夫かな?」 「…………」 あの調子なら大丈夫……と、言える雰囲気ではなかった。 「心配?」 「……ん」 こくり、と杏子が頷く。 「……そっか。杏子がそう言うなら、ちょっと気をつけて みるよ」 宗太と杏子の意見は、素直に聞くに限る。何しろ僕たちふたりの、最大の理解者なんだから。 「……真一くんがついていれば、大丈夫そうだね」 「そ、そうかな?」 「うん」 かすかに……その時本当にかすかにだけど、杏子が微笑んでくれた気がした。 「……それじゃ、お休みなさい」 「うん……お休み」 あとは……ひとまず明日、か。 ………… 風呂に入って、部屋に戻って、電気を消して、そして僕は布団に潜り込んだ。 ドキドキしている。 緊張で気が昂ぶって、眠れそうもないのに身体は動かない。 疲れきっていた。 不安だった。 「でも……」 そこまで、絶望的な気持ちでもなかった。 応援してくれている人たちがいる。 その事実だけで、かなり励まされるものなんだ、ということを、今日僕は知った。 明日は、安心して告白できる。 ……とまではさすがに言えないけど。 でも、きっと、どんな反応をされて、どんなことを言われて、どんな結果になっても…… 後悔だけはしないで済みそうだった。 明日への決意が固まった頃、ようやく僕は、眠りにつくことができた…… …………………… ……………… 「…………」 「…………」 …………ん? 急に下半身辺りがひんやりしたような気がした。 それになんだか、身体が重いような気がする…… 「失礼ね、重くないでしょ。そんなには……」 誰かに上から乗りかかられているような…… 「誰かじゃないでしょ、誰かじゃ」 く……苦しい…… 「あらら、ごめんね。でも、やめないけど」 せっかく眠れたのに、誰かが僕の心地いい睡眠を邪魔している。 「そのまま寝ていても構わないわよ?」 僕の考えを読んで返事をするなんて、誰か読心術でも使ってるのか? わかってる。こんなことをするのは、ひとりしかいない。 *recollect「……んぁ……芹花だなぁ……ふぁ……むにゃむにゃ」 これは多分夢なんだ、やけにリアルだけど……と、思いこもうとした矢先…… 「だから、さっきからあたしだって言ってるじゃない!」 「……はっ!? 芹花!!」 「……な、何して……ええ?」 はっきり目が覚めると、僕の上に芹花がまたがっていた。 ……前にも同じようなことがあったような……? あの時は……キスだったけど。 「あっ、ちょっとぉ、そんなに急に動いたら…… んんぁ……くぁ……んふぅぅ……」 芹花は、うっとりとした表情で、僕の身体に腰を擦りつけてくる…… って、いきなり何してるの! ふわりと僕の身体の上でスカートがなびき、ちらりと覗く肌色。よくは見えなかったがもしかして……これって、芹花……履いてない? 「んん……真一……感じる? あたしの……もう、くちゅ くちゅになってるの……は、恥ずい、んだけど」 ぐりん、と芹花の熱くて柔らかくて濡れてぬるぬるの秘所が、僕の股間に押しつけられる。 というか、僕はいつの間に下を脱がされていたんだ? 「こ、これはついに夜這いされた……芹花に 犯される~ってやつ?」 「し、失礼なこと言わないでよ。確かに、そうだけど」 「大体、その格好はなぜ? 何? どうして?」 芹花が華麗に着こなしているのは、ウチの店の制服だ。 ふりふりのエプロンドレス。ウェイトレスさんの格好で、こんなこと…… 「う……うぅ、き、キライ?」 「……え? いや、キライって言うか……」 「じゃ、じゃあ、スキ? こーゆーの」 「……えーと」 「なんで顔を背けてるわけー?」 芹花が泣きそうになっているので、仕方なく、僕は彼女をまっすぐに見上げる。 そして…… 「答えなきゃ、ダメ?」 僕がそう尋ねると、芹花の身体がひくんと縮まった。 あ、赤くなってる。 「お願いします」 てっきり、『答えなさいよグズ!』くらい言われるのかと思っていたから、こう素直にお願いされると僕も弱い…… 「スキ」 答えなんて、最初から決まっていた。でも…… 「えっち」 ほらね。こう言われるのがわかってたから、言いたくなかったんだ。 「こすちゅーむぷれいが好きだなんて、真一くんは ますます変態に磨きがかかっていくわね~」 「ひどい辱めだ……」 僕は素直に答えただけなのに……というより、先にコスプレして襲いかかってきてるのは芹花の方なのに、この扱いはひどすぎる。 「で、なんでこんなことを?」 苛めて楽しむつもりなら趣味が悪い。変態は芹花ってことになるけど……そんなことはさすがに僕の口からは言えないな…… 「……ごめん、真一……」 「え?」 僕の予想に反して、芹花はしおらしく謝ってきた。こう素直になられるとまるで別の女の子みたいだけど……これも本人には言わないでおこう。 「だって、不安なの……」 芹花は、僕の両手を捕まえて、指を絡めて握り締めた。芹花が好きな、いつも僕に求めてくる、手の繋ぎ方だ。 「押し潰されそうだったの……」 芹花の声は、少しだけ震えていた。 「真一に、助けて欲しかった……の」 そう言ってぎゅっと、繋いだ手に力を込めてくる。 「不安って……みんなに、打ち明けること?」 「うん……でも、こうして真一に触れてたら、なんだか 安心しちゃった……勇気もらってるって感じ」 しみじみそう言われると、僕もなんだか、嬉しい。 「ねぇ、お願い、真一」 「うん?」 「あたしに、もっと……勇気をください……」 「どうすればいい?」 「このまま、あたしに、させて……」 「…………う、うん」 杏子が心配していたのは、こういうことなのかな。 芹花は強いように見えて、その実……不安や甘えを表に出すのが苦手なだけ。恥ずかしくて、見せたがらないだけ。 その芹花に、僕だけが頼られている…… なんだか、不思議な気がした。 だから僕は、彼女の願いに、精一杯応えたかった。 「いいよ、芹花。おいで」 「……ふふっ、真一のくせに」 言うと思った。 「それはないでしょ」 「そだね、ごめん」 「リードするのは男の役目」「リードするのは男の役目」 「あ……ふふふ」 「でも、今日はダメ。あたしにさせて、ね?」 「……うん」 もうすでに、犯されてるみたいなものだけど…… こういう風に、全部芹花に任せるのなんて、確かに初めてかも…… 悪い気は、しない。 「それじゃ……い、いただきます」 「ぷっ……何それ」 「ま、間違えた……! 違う! 違う~!」 僕の上で、芹花がバタバタと暴れだす。 「せ、芹花、やめてっっ!」 すでに先が呑み込まれているアレが、ねじれるっっっ!! 「緊張しすぎて間違えちゃったの! そんなに笑うこと ないでしょう!?」 「ぷぷっ……いや、ごめん。なんか、可愛かったから」 「……っ!! 真一のくせに! 真一のくせに!」 ポカポカ殴られたけど、今回は全然痛くない。 僕は胸の上に振ってくる彼女の手を受け止めて、両手で握り締める。 「はいはい、どうぞ、芹花さん」 「むぅ」 「そ、それじゃ……」 それじゃ、と言った後も、芹花はかなり迷っていた。焦らされるのが好き、というほど僕も慣れていないけど、今は、そんな芹花を見ているのが楽しかった。 やがて芹花は、腰をゆっくりと下ろしてくる…… さっき感じた、ぬるっとした芹花の股間が僕のモノにすりつけられる。 ゆっくりと、まるで猫の匂いつけのようにぬるぬるっと愛液が僕の股間を濡らしていく。 「変な気分かも……こうやって、芹花から奉仕される のって」 「そっ、そりゃ今のあたしウェイトレスさんだもん、 お客様の注文を聞くのがお仕事なのよ……んっ……」 まだ微妙に力ない僕の竿の上を芹花の秘裂が滑っていく。 「んふっ……今、ぴくってしたぁ……それに、だんだん 硬くなってきてる」 「んっ……ほれほれぇっ……もっと感じて、真一……」 素股の柔らかく張り付くような感触に、僕のモノが鎌首をもたげていくのがわかった。 「ふふ……立った立った……あたしのあそこに当たってる よぉ……んふっ、お客さんも好きねぇ……」 「まったく……なんてウェイトレスだ……」 「んふふっ……まだまだこれからよ……覚悟なさい」 「うっ……あっ……くっ……」 芹花はスカートの中に手を入れて、勃起してきた僕のモノを掴む。 ひんやりとした感触にビックリするが、竿の部分をゆっくりとしごき上げてくる。 「あっ……凄く熱くなってきたぁ……んっ…… 我慢しないで、素直に感じて?」 「あ……うん……」 完全に主導権は芹花にあった。でも、こんな風に一生懸命にやってくれるなら、抗う理由もない。 半立ちだった僕のモノは垂直にそそり立ち、芹花の手でさらに硬くなっていく。 「んふっ……もう、だいぶいい感じ……」 芹花は腰を引き、今度は自分のアソコを使って僕のモノの亀頭をスリスリしてくる。 「んっ……ああっ……凄くかたぁい……これだったら…… もう……いれてもいいよね?」 僕は否定するまでもなかった。 「じゃあ……いくよ……真一っ……」 「うん……」 「ふっ……うぅぅ……んっ! うぁぁぁ……」 芹花は僕のモノを自分の秘裂にあてがうと、ゆっくりと熱いぬかるみの中に、徐々に僕自身をくわえ込んでいく。 相手の女の子に導かれての挿入が初めてで、いつもとはまた違った快感に、身体が勝手に反応してしまう。 「な……あ、ちょ……! 動かない、でよぉ……」 「ごめん」 芹花は、僕のお腹の上に、ぴったりと座り込んだ。 「……んんっ、入った……入っちゃった……くぅぅ……」 「芹花のエッチ」 「ふっ……!? んん……バカ、バカぁ……」 「だって、本当のことだもん」 「むぅ……寝てても無意識に硬くさせてた人間が、それを 言う?」 「……ごめんなさい」 「ふふっ、素直でよろしい。 んっ――」 唇を尖らせて拗ねていた芹花が、今度は前かがみになって、僕に顔を寄せてきた。 「んちゅ……んむ……むんぅ……ちゅ、ちゅぷ、んぁぁ」 「……芹花ぁ……まっへ……んん」 「はぁ……はぁ……なにひょ……うるはい口は、こうして 塞いでやるんだから……ちゅぷ、れるぅ……ちゅぴっ」 芹花との、妙な……でも、やっぱり甘くて、幸せなキス。こんな彼女も結構可愛い、と僕は思う。 「ふちゅ……んちゅるるる……ちゅ、ちゅ、んちゅぅぅ」 「んふちゅ……ちゅぷ、ちゅる、ちゅちゅっ……真一……」 僕の唇を吸い上げながら、芹花はまた身体を起こした。 「……んはぁ……んふふ。中で、ひくひくってしてるけど、 真一くん、我慢できないの?」 あ……バレてた。 「それは……別に……?」 「我慢できないの?」 「……はい」 でも本当は芹花も、僕に伝わってくる感触をみるに、結構…… 「何か?」 「いえ、なんでもありません」 「よろし……いぃ……んはぁ……」 「はぁ……せ、芹花……ぁ、いき……なり」 唐突に、芹花が腰をぐねぐねと動かし始める。 「んふ……はぁ……真一……気持ちいい? んぁっ、んん、 はぁっ、はぁっ、あぅ……あ、あ、あ、あ、――っ!」 「ん、んぁ……はぅ……」 股間に感じる感触の締まりと動きに、僕も喘ぎ声が漏れてしまう。 「はっ……はっ……ふ、くぅ……あん、あん、んんっ!!」 時折下ろされるスカートが結合部を隠し、その中を見ることが出来なくなっても、下半身から伝わる感触は常に生々しい。 芹花が動いてくれている、それを僕はただ見ている。 不思議で、いやらしくて、興奮して、すごくエッチな光景だった。 「この体勢だと……ヘン……なとこ、あたるの……んあっ! くふぅっ……んぁ、んぁっ、んんっ……んっ、んっ!!」 僕のモノが上から包み込まれながらしごかれていき、亀頭の先が芹花の秘裂の中の色んな部分を引っ掻いていく。 ぬるぬるしてたり、ざらざらしてたり、時折ぎゅぎゅっと締め付けられたりもした。 「ああんっ……あっ……すごいっ……すごいっ…… こんなのっ、初めてかもぉっ……んぁんっ……」 「腰がねっ……勝手に動いちゃうのぉっ……んっんんっ! ああっ、ああんっ、はぁんっ!」 芹花も、今までで一番感じているみたいだった。 思い返せば、数を重ねる毎に芹花は、どんどんいやらしくなっているような気がする。 「あぁ……っ! 気持ちい……気持ちいいよぉ……真一、 ダメ、ダメダメダメ……あたし……これぇ……ダメに、 なっちゃいそ……ぉ……んぁっ、んんっ!!」 でも、その度に、きっと僕と芹花の間に愛のようなものが層をなして積み重なって、どんどん厚くなっていっている……ような気もする。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、んはぁ! んくっ……んん、 あ、あ、あ、あ、っうぅぅ……んんぅ……うぅ……!」 嬉しい変化。僕らは、変わることを、楽しめている。きっと…… 「ね、真一、ねえ? 気持ちいい?」 「はぁ……あ、あぁ、うん……とっても」 「興奮する? ウェイトレスさんとえっちするの、興奮する?」 鼻にかかったような声で、答えを懇願する芹花。 「っ……」 「んふふ、今のはわかっちゃった。真一は正直さんだね」 身体が、でしょ。……言い訳できないけど。 「いいこいいこ……んぁ……っっっ!?」 なんだか悔しくて、恥ずかしくて、それと、芹花を気持ちよくさせたいっていう思いもあって……僕は彼女の身体を、下から持ち上げるように腰を突き上げた。 「な……なんで、今日はあたしが……って、んんっ!?」 「ちょ、ちょちょちょ! ちょっと、真一! んはぁっ、 まって、待って待って待って! 動かないで、んあっ!」 芹花の声を聞こえていたけど、僕ももう頭に血が上ってしまっていて、身体が止まらなかった。 「あたしがするのぉ……んぁ、んん……はぁ、はぁ……! バカ、バカ真一……っ、んはぁっ……うぅぁ……」 芹花も、口では怒っているみたいだったけど、しっかり感じてくれていた。 「あんっ、あっ、あん、あぁんん……うぅ……真一、真一 好き……好き……真一……好きぃ……!!」 僕は芹花の頬に手を伸ばした。 芹花は頭を傾け、僕の手の甲に頬擦りする。 「んん……真一……ふぁ……!?」 頬に当てた指を滑らせて、彼女の唇に当てる。ぷにぷにして柔らかな唇を指先でいじると、ヘンに気持ちいい…… 「こら……あむっ。ちゅぱ……もごもご……れろぉ」 「ん……」 僕をたしなめたはずの芹花が、僕の指を口の中に入れて舌先で弄り始めた。仕返しのつもり、だろうな。 「んぷっ……ちゅぅっ……んっ、んっ……んんぅぅ……」 「ぷはぁ……ちゅくっ……真一の指もおいしい……」 実際には、仕返しになってないけど……そんなことすら、快感に変わってしまうだけだ。 「はぁ……はぁ……うぅ……んっ、真一の……これぇ、 ぐぐって、おっきくなった……」 「んんぅ……真一も、感じてる? ねぇ? 真一、 ……はぁっ、あっっ、ううんっ」 「うん、気持ちいいよ、芹花」 返事をしつつ、僕も芹花の身体を突き上げる。 「ふかぁい……んぐっ……ああんっ……この格好だとっ! お腹の奥までっ……当たるのぉ……はぁんっ!」 僕の動きに合わせて芹花も腰を振ってくる。小刻みに前後にかくかくと卑猥な腰つきで。 「どぅっ……気持ちいいっ? んんっ! ああんっ…… はぁ、はぁっ……ふふっ……言うまでもないみたいね」 「さっきから……ふぁんっ……あっ、はぁんっ…… あたしの、中で、ビクンビクンって震えてるもんね……」 芹花の言うとおり、快感に耐えている僕は言葉を発することも出来なくなっていた。 深く、激しく僕らは繋がり、心のわだかまりも晴れた今、何も我慢することが無くなったから。 「んくっ……あぁんっ……もっ、もぅっ……だめかもぉっ あっ、あっ、ああんっ! はぁ、はぁっ、ああんっ!!」 「芹花……芹花……僕、もう……んっ」 「んふっ……真一……も……もう、イッちゃう? んぁ、 んっ、んっ、はぁ……はぁ、はっ……あぁぁんんーっ!」 身体の底から激しくこみ上げてくる射精衝動を抑えもせず、僕は無心に身体を動かし続けた。 「あ、あたしも、もう……もう……くるよぉ……はぁ、 んく……もう……もう、もうもうもうもうっ!! 気持ちいいのが……いっぱい……くるぅ……んっ!!」 芹花の身体も熱く蕩けて、余裕がなさそうだ。激しく悶えて僕の上ではね回り、汗を飛び散らせる。 「か、からだ……手ぇ、ぎゅってしてぇ……真一…… 捕まえてて……ずっと……真一……真一……真一っっ!」 彼女に言われる前に僕は、芹花の手を握り締めていた。 「きてぇ……くる……うぅ……っ!!」 芹花自身も激しく腰を上下させて、どんどん昇り詰めていく。性的な、絶頂へと…… 僕も、もう我慢できない……! 「ぐっ……芹花ぁ……芹花っ……」 「いくぅっ……いっ、いいっ! あああんっ! 真一ぃ! あたしぃっ、いっちゃうぅぅんっ!!」 「ふああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ、 うあぁぁぁんんーっ……!!」 「あああんっ! んぐっ……んんっ! あっ! ああああぁぁっ!!」 「いってるぅっ……あたし……いっぱいいってるぅっ!!」 芹花は大きく仰け反り、絶頂にうちふるえて歓喜の声をあげる。 気づいた時には、どくどくと音がしそうなほど大量に、僕は射精していた。 「ふあ……あったかぁい……真一の……うくぅ……」 「ん……うぅん! くぅっ……んぁぁぁんっ……」 芹花は背中を仰け反らせ、その間も腰をくねらせて密着させてくる。 僕はさらに搾り取られるようにして、残った精液まですべて、芹花の中へ注ぎ込む。 「もっとぉっ……はぁ、はぁっ……もっといっぱいお腹に そそぎこんでぇっ……満たされるのっ……真一で……」 ビクンビクンと噴水のように精液を吐き続けた僕のモノをきゅぅぅっと芹花の中が優しく包んでいった。 「はぁぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」 満足そうな、幸せそうな、恥も外聞もない、芹花の表情。たぶん僕も、同じ顔をしているはずだ…… 「い……イッちゃった……ぁ」 「はぁ……ぅ」 余韻を味わうのもそこそこに、芹花は身体の力を失って、僕の上に倒れこんできた。 「芹花!? 大丈夫?」 「へへへ……抱きとめて、くれたんだ」 「……何言ってるんだよ」 抱きとめるも何も……身体は、その……まだ繋がったままなんだけど…… 「ねぇ、真一……キス、していい?」 「ちょ……んんむ!?」 芹花は強引に、僕の唇に吸いついてきた。 「ちゅぅ……ちゅっちゅ、ちゅぷ、れるぅ……ちゅぅ!!」 一方的で、乱暴な、僕の都合なんかお構いなしのキス。 「はぁっ……ん……」 顔を離して身体を起こした芹花を、今度は僕が、少し強めに抱き締める。 「元気、出た?」 「うん」 「真一……ありがとう。ワガママ聞いてくれて」 「どういたしまして」 それから軽く笑い合って、僕たちは抱き締め合った。 幸せな感触。 芹花の言う通り、触れ合っていると、なんでか勇気が湧いてくるみたいだった。 「今日は……もう、いいの?」 「へ?」 「もう一回って、いつもは言うから……」 「……あ、あんた……ねぇ」 呆れた顔をされてしまった…… 「今日はだーめ。おあずけ♪」 「そんな、犬じゃないんだから」 「えへへ。代わりに……ちゅっ♪」 「……ん」 「ねぇ、真一」 「うん?」 「ありがとう」 芹花は短く、でも、とても力強く、確かに、僕にそう言った。 ありがとう。 何に対して?……たぶん、全部に対して。 僕も同じ気持ちだった。 芹花、ありがとう…… 「明日は、頑張ろうね」 「うん。そうだね」 「で、もう一回……とは言わないけど、このまま、 ここで一緒に、眠ってもいい?」 「……え?」 「だめ?」 「いいけど……その格好のまんまで?」 「……じゃあ、脱ぐ」 「それは刺激的過ぎる」 「あ~、こんなことならいつかの黒い下着、買っておくん だった」 そんな、男を挑発するようなことを言いながら、実は耳まで真っ赤になっている芹花が……可愛い。 「いいよ、どんな格好でも。芹花は芹花だろ?」 「……ん」 彼女は嬉しそうに笑って、僕の腕の中にもぞもぞと潜り込んでくる。 「じゃあ、ぎゅっと抱き締めていてね、真一。 ……お休みなさい」 「お休み……芹花」 また寝過ごした…… 早くも朝は通り過ぎて、灼熱の昼下がり。 身体が熱くなって、僕は目を覚ました。 昨日抱き合ったまま眠ったはずの芹花は、いつの間にか、僕の腕の中からいなくなっていた。 この時間までふたりで寝ていたら、それこそ本当に地獄のような暑さを味わうことになったんだろうけど……それでも、芹花がいないのがちょっと寂しい。 「はぁ……あ!」 気合いを入れ直して、ベッドから立ち上がった。 今日は、家族みんな揃っているはずだ。 今日こそ打ち明けよう。 今日こそ、僕と芹花の、決断の時だ。 「おは……よう……何してんの?」 「カキ氷。真一くんも、食べる?」 「あ、うん」 「はい、先に芹花ちゃんの分、お待ち」 「やったー! ありがとうございまーす。 レモン♪ レモン♪」 「んぐ、もぐ……」 「くはー、きーんときたぁ!!」 「……で、何これ?」 意を決して来てみれば、そこではカキ氷大会が開かれていた。 カウンターの中には、手頃な大きさにカットされたキューブ状の氷が山積みにされていて…… 客席では春菜さんや香澄さんが、舌をシロップの色に染めながらかき氷の試食をしていた。 「店の新商品ってことで、どうかと思って。 『期間限定、カキ氷始めました!』ってね」 「あー、なるほど」 季節モノは確かにウケそうだ。もう夏も半ばを過ぎてはいるけど、まだまだ厳しい暑さの中で売れるかも? でも、その氷を全部食べてしまいそうな勢いの芹花は、どうしたもんだろう。 「んんんー! またきーんときたぁ!!」 「芹花ちゃん、そんなに食べるとお腹壊すわよ?」 「そうよ。朝ご飯も食べずに、そんなものばっかり」 「えぇー、これでいいよ~。あんまり食欲ないし……」 「カキ氷ばかり3杯も4杯も食べてる人間のセリフじゃ ないな」 「しかも、レモンシロップばっかり。いい加減にしなさい、 芹花ちゃん。めっ!」 「あぁん、本当に食欲ないのに~」 「芹花」 「ん? 何?」 僕は近づくと、彼女に耳打ちした。 「……ひょっとして、緊張してる?」 「……お、起き抜けで、ちょっと喉が渇いてただけよっ」 ……うん、緊張しているね、その反応は。 まぁ、おかげで僕は逆に、ちょっと肩の力が抜けたけど。 「……大丈夫、ふたりとも?」 「へ、平気よ」 「そうだね」 杏子だけは、僕らが何をしようとしているのか、知っている。 だから、僕たちを交互に眺めてから……ゆっくりと頷いた。 「頑張って」 「――よし! それじゃあ、さくっとやりましょうか!」 「……これからすぐ? 大丈夫?」 「みんな揃ってるんだから、ちょうどいいでしょ」 「あ、いや、そうだけど……」 「というわけで真一くん、お願いします!」 「ここで振るかー」 「あたりまえでしょう? 男なんだから!」 男がリードするもの。それは、普段の生活からそういうものらしい……芹花の中では。 「なぁに? 何か始まるの?」 「…………」 芹花が急に口ごもる。その手が……かすかに震えている。 やっぱり、威勢の良さは緊張の裏返し、か。 「芹花」 「……あっ」 だから僕は彼女を引き寄せて、その手を強く握った。 「夕べあげた、勇気の続き」 「…………っ!!」 「……ご、ごめん。いざとなるとやっぱ…… 足がすくんじゃって」 「いいよ」 芹花は、僕の傍にいてくれれば、それで…… 「ん~……」 挙動不審な僕たちのことを、春菜さんがじっと見ていた。 「…………」 「なんだ?」 父さんと兄さんも、様子がおかしいのに気づいたらしい。 「あの……みなさん!」 視線が集まったところで、僕が声をあげ…… 「みなさん!」 芹花が、ぎゅっと手を握り返しながら、僕の言葉に続いた。 「…………っ」 杏子が、胸の前に手を組んで、祈ってくれている。 「実は……その……」 とっくに覚悟を決めていたはずなのに、いざとなると言い淀んでしまう。 芹花の手に指を絡めて、互いに強く握り合って……彼女だけじゃなく、僕も彼女から勇気をもらう。 「…………うん」 横で頷いてくれた芹花の、その笑顔を見てようやく……僕は口を開いた。 「僕と、芹花のことなんだけど」 「…………」 「…………」 「なんだ?」 「…………?」 「僕たち……好きなんだ、お互いのことが。 きょうだいとか、家族としてじゃなく――」 「んっ……」 芹花が俯く。恥ずかしげに……そして、審判を待つように。 「……こ、恋人として、付き合いたいって思ってる」 言った…… 「はぁぁ…………」 ずっと止めていたのか、芹花が長く長く息を吐いて…… 「そういうこと。ごめんみんな、あたし、自分の気持ちに ウソ、つけないの!」 ハッキリと、そう告げた。 「真一とも散々悩んだ、一緒に苦しんだ。でも…… やっぱりみんなにもウソをつきたくなくて……」 「だから今日、この場で言わせてもらいました!」 みんなは……呆気にとられているのか、声ひとつあげない。ただじっと、それぞれ考え込んで、僕たちのことを見つめている。 「ごめん」 僕は、みんなに頭を下げた。 「……ごめんなさい」 続けて芹花が、僕と同じ角度で深々と、頭を下げる。 ………… 僕は、みんなの言葉を待っていた。 何を言われても、耐えられるだけの覚悟はしてきたつもりだけど……やっぱり、芹花と同じように足が震える。 そして……最初に口を開いたのは、春菜さんだった。 「なんで謝るの?」 「へ?」「へ?」 「別に、いいんじゃなぁい?」 「お母さん……」 「…………」 「…………」「…………」 春菜さんの言葉に、僕はぽかんとしてしまった。隣を見ると、芹花も同じ気持ちなのか、同じくぽかんとした顔をこっちへ向けていた。 「え? だって、何か問題ある?」 「ええっとね、お母さん。ふたりはほら……一応、 きょうだいっていう扱いになるわけだから」 「それなのに、お付き合いしたくなっちゃったわけで…… ただそうなると、世間的にはまずいんじゃないかって、 それで困っているのよ、ねぇ?」 最後の問いかけは、僕に向けられていた。 「はい」 香澄さんの言った通りで間違いない。僕たちはこの夏をずっと、そのことで悩み続けてきたんだけど…… 「そんなこと気にしなくていいんじゃない? ふたりは 実際に、血が繋がってないんだし」 春菜さんは本当にこともなげに、そう言い放ってくれた。 「……えぇ、何それ」 まさに、呆気にとられたという感じで、芹花が呟く。散々悩んできた僕たちの方が、バカみたいだ…… 「大体、芹花が真一くんを好きだってこと、 昔っからわかってたじゃない」 「ウッソ!?」 「みんな、知らなかったとは言わせないわよ?」 「そりゃまぁ、ねぇ」 「わかりやすかったものねぇ、芹花ちゃんの態度」 「ふむ」 「…………」 みんながみんな、あらぬ方を向いたり、頬を掻いたり…… 「えーっと……それってつまり、僕以外みんな、 そう考えていたと」 「――うっわ、超恥ずかしいっ、メッチャクチャ 恥ずかしいっ!!!」 ……芹花が、頭を抱えてしゃがみ込みたい様子なんだけど、僕の手をしっかり繋いで放そうとしないものだから、なんだか奇妙なダンスを踊る結果になっている。 「って、それ知ってて再婚なんかしないでよーっ!!」 それもそうだ。 「ごめんね、お母さんも気持ちにウソがつけなくて」 「…………」 「うっ……そう言われてしまうと、あたしにはもう、 何も言えないわ……」 ついさっき、そう啖呵を切ったばっかりだものね…… 「あー……俺個人がどう思っているかはさておいて、だ。 真一と芹花ちゃんの場合、もし結婚したくなっても」 「けっ――」 「確か、法律的にも問題はなかったはずだ。聞いた話 なんで、詳しくは調べてみた方がいいけど。 だから別に、ふたりが付き合っても……」 「は、話が飛びすぎ……」 「……だ、だけど、そっか、できるんだ、あたしたち」 ……期待に満ちた目で、見られてしまった。まぁ、僕もちょっと、嬉しいんだけど。 「……私も、頭ごなしに反対するつもりはないが、世間体 というものも一応、考えるべきだろうな」 「私たちより、むしろ、本人たちのために」 「父さん……」 「私はお前たちに、後ろめたい気持ちで生きてもらいたく はない。それだけだ」 「もしどこかの誰かが怒るなら、いいわ。私と真彦さんが 別れれば文句ないんでしょう?」 「え」 「ちょ、ちょっと、お母さん! それはダメでしょ。 せっかく再婚したのに……」 さすがに慌てて、芹花が春菜さんを止める。 けれどまた、春菜さんは軽い調子で話を続ける。 「だから、戸籍上のことよ」 「…………」 「でも……」 それでも芹花は、春菜さんたちに迷惑をかけるのが、たまらなくイヤなんだろう…… 俯いてしまった彼女に、春菜さんが歩み寄ってくる。 彼女は芹花の両肩に手を乗せると、優しく微笑んで、娘の顔を覗き込んだ。 「いい、芹花? お母さんは戸籍が大事で、真彦さんと 一緒になったんじゃないのよ?」 「……あ」 「好きだから。一緒にいたいから。幸せになりたいから。 ……だから結婚したの」 「お母さん……」 「春菜さん」 「だから、春菜って、呼び捨てにしてくださいって」 「ん……春菜」 「はい♪」 結局…… 結局、家族なんだな、僕たちは。 束縛し合う関係じゃなく、支え合う関係、という意味で。 「大丈夫! 娘が幸せになるのを邪魔する親なんていない んだから!」 「……幸せになりなさい」 許してもらえた……それどころか、祝福の言葉まで。 「真一ぃ…………」 「ふぇ~……よかったよ~…………うぇぇぇぇんんん!!」 芹花は僕に抱きついて、みんなの目も気にせずに、わんわん泣き始めた。 「うん……」 僕も、胸がいっぱいだった。 「本当にいいの? お母さん」 「あら? 香澄は反対なの?」 「私は最初から、芹花ちゃんの応援をするつもりだった けど」 「じゃあ、問題ないじゃない?」 「大体、いとこ同士だって結婚できるのに、血も繋がって いない男女が結婚できないっていうのが、あり得ないの よ」 「あ、あの、別にまだ結婚するというわけじゃあ……」 「なんですって!? じゃあ、ウチの娘とは遊びのつもりなの、真一くん!」 「それはもちろん、本気です! 本気で愛してます!」 「…………バカ」 思わず口から本音が飛び出していた。 「真一、男は責任をとらなくちゃいけないんだぞ」 「うん、そうね。責任を取らないと」 「……うぅ」 「…………真一?」 「わかりました、僕がちゃんと社会人になったら、 責任とって結婚します!」 「きゃーっ!」 「あらぁ」 「すごい、真一くん……!」 「えっ、何、今の……プロポーズってことで……いいの?」 「…………え?」 あぁ!? そういうことになるのか? なんか、みんなに追い詰められて言っちゃったけど……これって大変なことなんじゃあ…… 「どうしましょう、真彦さん。ここは『お前なんかに、 ウチの娘はやらん!』って返しときます?」 「……まぁ、その話はおいおい」 「きゃー! 楽しみ!!」 「あの、春菜さん? さっきの法律の話、俺も人から 聞いただけなんで、確証はありませんよ?」 「あなたはそれより、自分の相手を早く紹介してよ!」 「あ、いや……俺は……ごにょごにょ」 「真一」 「ん、うん?」 「……ふっ、ふつつか者ですが、よろしくね!」 「そのセリフはまだ早いっ!」 結局…… 僕たちは家族からも祝福を受けて、新しい関係を築いていくことになり…… 本当に、こんな幸せでいいんだろうか?と、かえって不安を覚えてしまうほど、温かく受け入れてもらえた…… 「――真一」 「…………」 「真一ってばぁ」 「…………」 「たぁっくもう、寝ぼすけしんちゃん、朝ですよ~」 「…………」 「もうっ。起きないと……」 「…………」 「起きないと、キスするわよ☆」 「!?」 「何よぅ、一発で目を覚ましちゃって。 あたしにキスされるの、そんなにイヤなわけ?」 「あ……いやごめん、僕、寝てた?」 ちょっと横になって休憩っていうつもりが…… 「ええ、それはもうぐーすかと。 愛しい恋人をほったらかしにして」 「あ……よ、よかった」 「何が?」 きょとんとしている芹花を、不意に、強く抱き締める。 「あ、ちょっ!? 真一? いきなり何を――」 「芹花が恋人で、よかった……夢じゃなくて、よかった」 「……ん、何よ。怖い夢でもみたの?」 僕の恋人が、優しく頭を撫でてきてくれる。 「全部……夢なんじゃないかって、不安になった」 「宗太や杏子が認めてくれたことも、家族みんなが 祝福してくれたことも……」 「夢じゃないわよ……大丈夫」 「全部、現実にあったこと……」 芹花の手が、優しく僕の髪を撫でる。彼女の温もりが、僕の心を落ち着かせる。 「まったくもう、情けないんだから」 「ご、ごめん……」 落ち着いて、身体を離すと……芹花が優しく微笑んでくれた。 「夢、っていうなら……あたしこそ、これは夢なんじゃ ないかって、心配になるのよ」 「え、どうして……?」 「……こ、子供の頃の夢が、真一のお嫁さんになること だったから」 「…………」 「さ、さすがにね? 幼稚な夢だなぁ~って気づいて、 何度か諦めたのよ。うん」 「でもここ数年、またほら、あんたのこと色々気に なっちゃって……」 「子供の頃は漠然とした『お嫁さん』だったけど、今度は 年相応の『恋人』になりたいって、真剣に考えた」 「それが叶うなんて、思わなかったっていうか……夢で 終わると思ってたんだけどねぇ」 「…………」 「ちょ、ちょっと、なんとか言いなさいよ! あたし ばっかりこんなぺらぺらと、恥ずかしいこと喋って、 損じゃない!」 「ごめん。感激してた」 「こ――こんなことですんなっ!!」 「感激なら……あたしの方が、いっぱいさせてもらってる んだからさ」 「ん……」 手を添えて、指を絡める。 芹花の好きな……僕も好きな、手の繋ぎ方。 海岸線を散歩していた僕たちは、その行為を再開する。 海―― いつ来ても同じ姿で迎えてくれて、そのくせ、波はひとつだって同じ形をしていない。 絶えず、変化し続けている。 同じように見えても、時間は無情に過ぎていって……すべてのものに、変化を与えるけれど…… 「はぁ……そういえば、もうすぐ夏休みも終わっちゃうね」 「そうだね」 重要なのはそこだ。 夏休みが終わるってことは、夏も終わってしまうということだから。 「寂しい?」 芹花が、僕の顔を覗き込んで問いかけてくる。 「全然」 僕は、素直にそう答えた。 「うん。あたしも、ぜーんぜん!」 たぶん、そうだろうなぁと思ってた。 夏はまたくる。 来年の夏はきっと今年と同じ姿をしていて、それでも少し、違っているんだろう。 僕らは……僕はこの夏、それに気づいた。 その小さな変化、何が変わって、何が変わらないのか。それをこの目に映すのが、今から楽しみだ。 「芹花」 「うん?」 「きっとこれからも、お互いワガママを言うと思うんだけ ど……」 「な、何よ、それ……どういう意味?」 「だから、それでも、これから……」 「よろしくお願いします」 「……あ」 「こ、こちらこそ。よろしくおねがいします」 僕たちは、深く深くお辞儀をし合う。 しばらくして顔を上げて、目が合って、微笑みあう。 まったく同じタイミングに、噴き出した。 「あはははっ、ははっ」「あはははっ、ははっ」 手を繋いで、肩を寄せ合って…… 何を喋っていても飽きなくて、幸せで…… この先、仮に僕の世界のすべてが変わってしまうようなことがあっても…… ただひとつ…… 芹花が好きだっていうこの気持ちだけは―― そのままなんじゃないかと思えた。 「真一!」 「うん?」 「ちゃんとリードしてよね、一生ずっと!!」 「ん……」 「しーっ」 カチッ、と誰かが目覚まし時計を止めた。 「んん……」 寝ぼけ眼で見上げると…… 「まだ起きちゃダメよー……」 ……制服姿の女の子が、馬乗りになっていた。 「……朝から何やってんの、芹花」 「んひょうっ!?」 「お、おはよう、真一クン!」 「……おはよう」 ……唇が触れる寸前にあった顔が、大慌てで遠のいていく。 「また……朝から襲ってこないでよ」 「ちっ、違う違う、これは違うんだって!」 「夕べだって、あんなに何回も……」 「ばっ!? 何口走ってんのよ、あんたはーっ!!」 「うごっ!?」 新学期初日の朝――お隣の幼なじみ改め僕のカノジョは、相も変わらずワガママだった。 「口は災いの元だって、学習してくれたかしら?」 「……はい」 「おはようふたりとも、支度は済んだの?」 「問題なしっ! ってあれ? お母さんは?」 朝食の支度をしてくれているのは、香澄さんだった。 「……開店準備もそっちのけで、カフェでお父さんと お話し中」 「それってつまり、例によって例のごとく……サボリ?」 「朝ご飯済んだら、“すずらん”へ連れていくわ。 みんなも早く食べてね」 「……いつもお疲れ様です」 最近すっかり、西村家の『主婦』になりつつある香澄さんには、貫禄すら感じられる。 また、引きずられていくのか、春菜さん…… 「まったくもう、人騒がせなんだから、お母さんは」 「……確かに、おかげで色々あったけどね」 「そうね……お母さんたちの再婚話から始まって、今年の 夏は、特に短く感じたわ」 夏になる前は、こんな風に朝、家で芹花と一緒に朝食を食べることになるなんて、思いもしなかった。 それが今は―― 「あ、真一」 「うん?」 「ほっぺにバターついてる」 「え、どこ?」 「ちゅっ」 ………… 「……いきなり、ほっぺにちゅーでとらないでください」 「なによぉ、嬉しくないの?」 「嬉しいけどね」 「もう、あっちもこっちもイチャイチャして! 時間大丈夫なの?」 「おおっとそうだった、急がなきゃ急がなきゃ!!」 「まだ間に合うでしょ、十分」 「……あんたさぁ、忘れてない?」 「何を?」 「あの、久我山宗太生徒会長が、あたしたちの関係を 知っているという事実を!」 「……それはまぁ、骨を折ってくれたし」 この夏、大変世話になった人物のひとりだ。下手をするとこの先ずっと、頭が上がらなくなるかもしれない。 「そうじゃなくて! あいつがクラスや生徒会の面々に 言いふらさないと思う!?」 「ん~……」 家族にも秘密にするなら協力する、とは言ってくれていたような…… でも、その家族にはもう、オープンにしてしまったわけだから…… 「…………あいつ、口は堅いと信じたいけど……ダメ?」 「信じられないわよっ!! 絶対、冷やかしてくるに 違いないんだから!!」 「みんなに言わないとしてもよ? あたしがボロを出す ように、何かしらからかってくるに違いないわ!!」 芹花……宗太には散々自爆させられたから、すっかり被害妄想が植えつけられているなぁ。 「だから、やられる前に、やる」 「こらこら」 「夏休み中は逃げ回られたけど、今から学園で待ち伏せ しておけば……ふっふっふ」 「おいおい」 目が本気だし。 「っていうか、あんただって他人事じゃないんだし! 何そんな、余裕かましてるのよ」 「僕は恋人も、親友も、両方信じてるの」 「それに、ばれたらばれたで、正々堂々としてればいいよ」 「……んもうっ、頼り甲斐があるんだか、ないんだか」 「あたしは、心配で心配でたまらないわ……」 「恥ずかしいだけでしょ。僕も一緒に行くからさ」 「ん……」 落ち着きをなくしている芹花と手早く朝食を済ませて、ふたりして香澄さんに行ってきますと告げる。 そして玄関に向かい―― 「ねぇ、真一」 「ん?」 「……また、勇気をもらっていい?」 「んっ――」 「……ううぅ!?」 「………ん」 「ふぁっ」 「…………はぁ」 「ご、ごちそうさまでした」 「……また、朝からもう」 「こ、これで、学園で何かあっても乗り切れそう。うん!」 この先何かある度に、この強気なくせに弱気な女の子を、こうやって支えていくことになるんだろうなぁ。 それはそれで、幸せだから、いいけど。 「それならそれで、素直に言ってくれればいいのに」 「つ、ついでよついで! ほら、ネクタイ曲がってる」 「誰が曲げたのさ!」 「んも~……察しなさいよね! この、新学期を迎えるに あたっての、あたしの不安!」 「わかってるよ」 「わかるわけなーい!!」 「わかってます」 「じゃあ……あたしが今、何考えてるかもわかるわけ?」 「えーっと……」 「…………」 「…………『もう一回』?」 「…………正解」 「ちゅ…… ホント、だから大好き!!」 ――浅い眠りの中で、僕を呼ぶ声がした。 どこかで聞いたことのある、懐かしく、優しい声。 「真一くん、そろそろ目を覚まして……」 温かく包むようなその声が、僕に目覚めを呼びかける。 「う……ん……」 その声に応えなきゃいけない……そんな焦りを覚えつつも、僕はこの心地よいまどろみを振り払えなかった。 今目覚めたら、すべてが消えてしまいそうな気がする。 この声を、この温もりを、ずっと感じていたい。 だから……まだ…… 「まだ……このままで……」 「そういうわけにもいかないのよ……」 「ん……なん、で……?」 「そんな子供みたいなこと言わないで。 わかってるでしょう?」 「僕は……もう……子供じゃ、ない……よ」 優しく語りかけてくれるその声に答えながら、僕はゆっくりと瞼を開ける。 「…………母さん?」 見慣れた僕の部屋に……母さんの姿はなかった。 「ふぁぁぁぁ~~~……」 カーテンの隙間から、ひと筋の光が室内に伸びてきているだけだ。 母さんのことを夢で見るなんて何年振りだろう?僕はどうしてあんな夢を…… 「……クシュッ!」 寒気に身体がぶるると震える。耳を澄ますと、窓の外では室外機が唸り声をあげていた。 「……うぅ、エアコンつけっぱなしで寝ちゃったのか?」 「それに、そんな格好で寝てるからよ」 「へ……?」 「ふふ、おっきなあくびだったわね」 「…………」 「夏休みだからって夜更かししすぎると、身体に 良くないわよ?」 「…………」 「…………」 「…………」 「……ん? どうかしたの?」 「――って、なんで香澄さんがここにいるの……?」 「お母さんがみんなに話があるから、真一くんも起こして きてって」 「いや、そういう問題じゃなくて……」 「一応、部屋に入る前にノックしたら返事があったん だけど……」 どうやら僕は、無意識の内に返事をしていたらしい。 「……ごめんなさい、いけなかったかしら?」 「いけないっていうか……」 僕だって年頃の男なんだから、それなりに色々と事情があるわけで…… 「あっ……」 香澄さんが何かに気づいて、小さく悲鳴のような声をあげかけて…… 「……あら」 声を潜めた。 その視線の先を追うと……僕の下半身がやけにスースーしていた理由もわかった。 「あ、えっと……」 タオルケットがめくれて、トランクス一枚だった下半身が丸見えになっている。 それだけならまだしも……その、男にとってはお約束の、朝の生理現象というやつのせいで…… 「だーっ!!」 恥ずかしい部分がぽろんと、トランクスの隙間から顔を覗かせていた。 「みみみ、見ないで! 見ないでよ、香澄さん!!」 タオルケットを慌てて被り直し、身体を隠す。 ううっ、これじゃなんだか裸を見られた女の子みたいだ。おまけになんだろうこの罪悪感……お嫁にいけなくなった気がする。 「ふーん……」 「やっぱり真一くんも、男の子なのねぇ……」 「そんな、噛みしめるように言わないでよ……」 「でも、男の子はそれが普通なんでしょ? 大丈夫よ、 私、そんなに気にしてないから」 「いや、こっちが気にするんだってばっ!!」 ……というか、恥ずかしくて死にたい。 って、なんで僕ばっかりこんなに恥ずかしがっているんだ?香澄さんだって、もう少し動揺してもいいじゃないか。ナマで見たんだから…… ところが香澄さんは一瞬驚いたくらいで、すぐいつもの可愛くて柔和な笑顔に戻ってしまった。 「ふふふっ、真ちゃんったら、顔まっ赤……」 「しょ、しょうがないじゃないか……」 ……やっぱり、昔からずっと弟みたいな『真ちゃん』扱いなんだな、僕は。 「でも、よかった……安心したわ」 「え……?」 『安心した』なんて、なんの冗談かと思ったけど、香澄さんの声音は、さっきまでのおどけた感じとは違って…… 「ちょっと心配していたのよ……やっぱりその、お母さん たちのことで」 「香澄さん……」 「……やっぱり、イヤ? 私たちと家族になるのは」 その言葉に、一瞬にして現実に引き戻される。 僕たちはこんな風に、呑気に朝の風景を楽しんでいられるような状況じゃなかったんだ。 僕たちはこれから、『家族』になろうとしている。血のつながりはない、けれど他人のままではいられない、『家族』という強制的なつながりをもつ。 「私、お母さんたちのことが嬉しくって、つい…… もっと、あなたの気持ちを考えるべきだったわ」 「…………」 僕は、まだ現実を受け入れることができていない。 頭ではわかっているけれど、身体が納得していない。そんな感じがずっと続いている。 不確定な未来と、確かな現実に追い詰められて……思わずその反発を、昨日香澄さんにぶつけてしまった。 「僕の方こそ、あんな言い方をしてしまって……」 「いいのよ、そういう時だってあるんじゃないかしら」 こんな風に気を遣ってもらわなければ、今日はもっと顔を合わせ辛くなっていたと思う。 子供の頃からもう何度目だろう……また、香澄さんに気を遣わせてしまった。 「ごめんね、香澄さん…… ありがとう、起こしにきてくれて」 「ううん。私が、真一くんの顔を見たかっただけだから」 「……え?」 香澄さんは笑顔を湛えたまま、ゆっくりとかぶりを振った。そして立ち上がる。 「それに、姉弟ってそういうものでしょう?」 「……そうなのかな?」 やっぱり、『きょうだい』として、なんだ。どうしてもそこが、心の奥で引っかかる。 「ふふっ、これから毎日起こしにこようかしら」 「あ、いや……いくらお姉ちゃんになるからって、 そこまでしなくても。毎日ウチに来るのだって、 面倒でしょ?」 「そんなことないわ。だって、明日から一緒に住むんです もの♪」 「いくら一緒に住むからって――」 ん? ちょっと待って……今なんて言った? 明日から、一緒に住む――??? 「――は?」 「はぁ!? 明日引っ越し!?」 リビングに集められた僕たち――特に芹花は、春菜さんから事情を聞いて、〈素〉《す》っ〈頓狂〉《とんきょう》な声をあげていた。 「そう、早い方がいいと思って」 「荷物の整理しなくちゃね」 「そういう問題じゃないでしょ!? いや、それも 問題なんだけどぉ!!」 「真一くんもお手伝いしてくれるわよね?」 「そりゃいいですけど…… また、急な話ですね……」 「そうねぇ……でも、早く家族としての環境をつくり たいって、真彦さんが言ってくれたの。だからね」 「はぁ……」 父さん、相変わらず唐突だなぁ……今は店に出ているから直接文句を言うわけにもいかないし。 でも、ついこの前再婚話を聞かされたと思ったら、明日にはもう引っ越しだなんて、何から何までサプライズ過ぎるよ。 「そんなわけだから杏子ちゃんも、これからよろしくね」 「は、はい……」 「ちょちょちょちょっと待ってよ! 急に引っ越すなんて 言われても、無理だって言ってるでしょぉ!」 「大丈夫じゃないかしら? 家族みんなでやればきっと なんとかなるわ」 「だーかーらー、そういう問題じゃなくて!」 家族みんな……か。 この間まで一番親しい他人だった彼女たちが、急に家族になる―― それは何も変わらないようでいて、何かが決定的に違う。 より近くなったはずなのに、永遠に届かなくなった――そんな気がしてしょうがない。 「……大丈夫?」 「え?」 「なんだか……具合、悪そう……」 「そう?」 体調が悪いわけじゃないから……考えていることが、顔に出ていたのかな。 父さんや春菜さんの前で……幸せそうなみんなの前で、暗い顔をしているわけには、いかないよな。 「……大丈夫だよ」 「でも……」 「杏子が心配することじゃないよ」 「…………」 無理に笑ってみせても、まだ杏子は納得していない様子だった。 「お前がそんな、不景気な面してるから、杏子ちゃん だって心配なんだよ」 ……作り笑いがばれていたのは、杏子だけじゃないみたいだ。 「それとも、まだふて腐れてるのか?」 「別に、ふて腐れてなんか……」 兄さんは、僕が香澄さんに不満をもらしたその場にいた。だから僕が、今度の再婚に複雑な気持ちを抱いていることを……知っている。 「気持ちはわからないじゃないが」 「そんなんじゃないってば……」 「真一くん、本当に大丈夫……?」 「……大丈夫。本当に、なんでもないから」 「……女三人、突然押しかけてきちゃうから、色々迷惑を かけてしまうと思うけど」 「いえ、すいません。そういうことじゃないんです」 「…………」 結局、春菜さんにも気を遣わせてしまったし、香澄さんも、こっちを心配そうに見ている。 「歓迎しますよ、春菜さん。 こちらこそ〈不肖〉《ふしょう》の息子ですが、よろしくお願いします、 母さん」 「まあ、雅人くんったら……ありがとうね」 「…………」 兄さんが、場の空気を変えるように、ちょっとおどけたことを言って…… 『母さん』と呼ばれた春菜さんは、嬉しそうに笑っている…… これが、家族? 僕は兄さんと同じように、春菜さんを『母さん』と呼べるのかな? そして……香澄さんを『姉さん』と呼ぶことが、できるのかな? 父さんは店を開けた後、春菜さんと出かけていった。引っ越しの手続きなんかがまだあるらしい。 カフェは僕たちに任されることになって、昼のピークも過ぎた頃……僕たちはなんとなく集まって、みんなで食事をとっていた。 「それにしてもあのふたり、式はどうするのかしらね?」 「色々出費もかさむだろうからなぁ……もう少し落ち 着いてからじゃないかな? 明日引っ越すなら、 尚更、ね」 ひとりカウンターに残って、ほかのお客さんにいつでも応対できるようにしていた兄さんが答えた。 「準備も大変だものね」 香澄さんは手にしていたコーヒーカップを置いてポツリと呟く。 「私たちもドレスを用意しなきゃいけないし……」 「あ……俺、リクルートスーツしか持ってないや。 学生はいいよなぁ、制服で済んで」 「でも、杏子ちゃんも芹花ちゃんもドレス着たいでしょ?」 「ドレス……!」 杏子はコクコクと頷いて、珍しく強い意志表示をみせている。こういうところはやっぱり女の子なんだな。 でも…… 「あ、あたしは……どっちでもいいよ」 芹花はずっと、不満げな顔のままだった。 「あら、私は芹花ちゃんに似合うドレス、選びたいな」 「あたし、ドレスなんて興味ない! それに、今はそんな こと考えられないよ!」 あくまでも明るく振る舞う香澄さんに対して、芹花の語気は荒い。 要するに……芹花は僕と同じ気持ち、ってことかな…… そう思いつつも、自分自身への反省も込めて、つい口を出してしまう。 「……そんな言い方、するもんじゃないよ」 「悪かったわね!! 何よ、真一はこのままずるずる話が 進んでいいわけ?」 「だって、おめでたい話なんだから、さ……」 自分自身、納得できていないんだから、満足に説得なんかできるわけがない。案の定、芹花からはヒステリックな反応が返ってきた。 「何さ、真一はそうやってすぐお姉ちゃんの肩もって!」 「香澄さんのことじゃなくて、今はドレスの話だろう」 「それこそあんたには関係ないでしょ。あたしは、 ドレスなんて着たくないって言ってるだけよ!」 「ふたりとも落ち着いて? ふたりがケンカするようなことじゃないわ」 「そうそう。元はといえばお姉ちゃんがドレスの話なんて するからいけないのよ」 「どうせあたしがドレス着たって、似合わないんだし、 お姉ちゃんと見比べられるのもまっぴら。だったら、 最初から着ない方がマシよ」 「そんなこと…… 私はただ、お母さんの晴れ舞台になるんだから、 いい想い出にしてあげたいなって思っただけで」 「そもそも、なんでお姉ちゃんは、そんな前向きで いられるの?」 「それは……だって、嬉しいからよ。 芹花ちゃんは嬉しくないの?」 「そりゃ……」 「お母さん、苦労してたんだから、娘の私たちが素直に 祝福しないでどうするの?」 「…………」 「戸惑う気持ちは……わかるわ」 「でも、雅人くんみたいにしっかりしたお兄さんや、 真一くんみたいな素敵な弟ができるのは、幸せな ことだと思わない?」 「雅人さんはいいけど…… 真一みたいな弟なんて……いらない」 「なんだよ、それ。 どうして芹花にまで弟扱いされなくちゃいけないんだ」 香澄さんならともかく……いや、仕方ないにしても。 もう『弟』と誰かに呼ばれることすら、うんざりしてきていた。 「はぁ!? この期に及んでそんなこと気にするわけ!? あんた、本当にバッカじゃないの!?」 「悪いかよ? 芹花の方こそ子供みたいに駄々をこねて、 香澄さんを困らせて、それこそ妹だからって甘えてるん じゃないか?」 「――っ、言ったわね!」 言ったよ。とても僕が言ってはいけないようなことを。自分自身が弟として、ワガママを言ったばかりなのに。 「真一のバカッ! 死ね死ね、 死んじゃえっ!!」 「芹花ちゃん……!」 「…………」 ……言われて当然、かな。僕だって、今度の再婚話に納得していないのは、芹花から見てもバレバレだろうし。 かとって僕は、芹花みたいに不満を抱き続けることも、香澄さんみたいに素直に祝福する気にも……どちらにもまだなれない。 中途半端な自分自身に……イライラする。芹花も、そしてたぶん…… 「…………」 香澄さんも、きっと僕に呆れている。 「おいおい、穏やかじゃないな…… ふたりして、なんだってあんなとげとげしいんだ?」 「…………」 「……まあ、ふたりともたぶん、自分たちの感情を 持て余しているだけなんだろうけどさ」 と、兄さんはさも当然のように、扉の向こうを顎で指した。 「とりあえず、早く追いかけろ」 「え、僕が?」 「この際だからな、お互いに愚痴をいっぱいこぼし合って、 スッキリしてこいよ」 「…………」 思わず、香澄さんの方を見てしまう。それが助けを求めるように思われてもよかった。 だけど…… 「……ごめんね真一くん、私からもお願いできるかしら」 「……どうして?」 「芹花ちゃんのためにも……真一くんに行ってもらうのが、 一番いいと思うの」 芹花のためなら、香澄さんの方がいい。僕にはそう思えたけれど…… 「お願い。真一くんじゃないと、だめなの」 ……彼女にそう言われてしまったら、何も言えないじゃないか。 「……そんなところだけ頼りにされても」 「え……?」 「行ってきます」 「真一くん?」 「芹花の奴……」 八つ当たりしたい気分で、道の左右を見渡す。 「どうせ……」 「……やっぱり」 芹花はウチからさほど離れていなかった。自分の家――“すずらん”の店内で、落ち着きなくうろうろしている。 「……芹花」 「真一……!? な、何よ!」 「何って……」 僕だって、来たくて来たわけじゃない。そんな憎まれ口が出かかって……喉の奥へと呑み込んだ。 「……さっきは悪かったよ」 「……何それ。そんなんで、本気で謝ってるつもり?」 「やめてよね、『とりあえず謝っておこう』ぐらいにしか 考えてないくせに」 「どうせ、雅人さんやお姉ちゃんに言われたから、きたん でしょ?」 「…………」 図星なだけに、そこは何も言い返せない。 「……僕だって今度の件、納得してるわけじゃないんだ」 「…………」 「正直言って、いきなり芹花たちと家族だなんて、 実感わかないし」 「再婚自体に反対するつもりはないけど、それでこっちの 付き合い方まで変えられちゃうのは、なんか納得でき ないよ」 父さんたちがやっていることは、急ぎ過ぎな気がする。 これまで僕たちが築き上げてきた関係を全部ないがしろにして、親の都合だけで『家族』にしようとしているような…… 僕らは僕らなりに『友達』とか『幼なじみ』としてやってきた。それを全部なかったことにされているみたいな気がしているのかもしれない。 そんな気分を、芹花に伝えたかった。 「ふーん……」 芹花は僕のことを値踏みするように見つめてから―― 「真一にしちゃ、珍しく自己主張してるじゃない」 くすり、と笑った。 「珍しくって言うな」 「ごめんごめん。 確かにね、あたしも、おんなじ気持ちなのかもしれない」 そう、すまなさそうに言った芹花の顔は、いつもと同じ幼なじみの表情だった。 「幼なじみとして仲良くするのと、家族として仲良くする のは、全然違うわよね?」 「うん……そうだね」 「そうよねぇ! よかったぁ……あんただけは、あたしの味方で」 「味方?」 「何よ、違うの?」 「まぁ、状況を認めづらいって意味じゃ、一緒かな」 改めて聞かれると、まだ気持ちがもやもやとしていて、芹花ほどきっぱりとは言えない気がするけど。引っかかるところがまた別にあるというか…… 「なら、一緒よ。いいじゃない、それで」 「いいのかな……?」 「いーのよ。もう、本っっっ当に真一ってば、意志が 弱いんだから……!」 「悪かったね、こんなんで……」 でも、以前なら再婚話だって、父さんたちが言うままに受け入れていたと思う。 どうして自分が、こんなにも素直に頷けないでいるのか、もう少し考えたい――そういうことなんだと思う。 「ま、いいわ。それが真一だものね」 「決めつけないでよ……」 昔から変わらない態度、変わらない言い合い。この空気が、一番心地いいはずなのに…… それも今は、居心地が悪い。 「えへへ……☆」 芹花が僕の顔をじっと、覗き込んでくる。 「ふふふ、ね、真ちゃん♪」 「なんだよ……気持ち悪い呼び方しないでよ」 「気持ち悪いとは何よ。親愛の情じゃない、親愛のじょー」 「親愛、ねぇ」 さっきまでとは打って変わって、上機嫌になった様子の芹花に戸惑う。 追いかけてきたことで、何かヘンに好意的に解釈されたのかな……? まぁ、機嫌が直ったことはいいんだけど。 「ねえ、真一」 「何?」 「昔みたいに、手、繋ごう?」 「は? いきなりなんで、そんな恥ずかしいことを!?」 「恥ずかしいとは何よ、恥ずかしいって。 昔はよくしたじゃない」 「あれは、子供だったからだろう。それに、 香澄さんも一緒につないでたことがほとんどだったし」 「む……」 香澄さんの左右に、僕と芹花が並んでつないだ覚えはある。香澄さんがいない時ぐらいは、僕と芹花が直接つないでいたかもしれないけど…… 「ったくもう! 何かと言えばお姉ちゃんお姉ちゃんなん だから!」 「え、ええ?」 「子供じゃないなら子供じゃないなりに、仲直りの 仕方ってものがあるじゃない! 例えば――」 そう言うなり芹花が、僕の腕に自分の腕を絡ませてきた。 少し汗ばんだ彼女の肌が僕の肌に一瞬触れて、しっとりして冷たく、柔らかい感触を残す。 「こういうの……とか」 「って、いきなりなんで、こんなっ」 「何よ、不満? 可愛い可愛い可愛い可愛い芹花ちゃんが、 こ~んなに密着してやってるのにぃ」 芹花が身体ごと僕に寄せて詰め寄ってくる。彼女が話すイントネーションに合わせて、谷間に挟まれた腕に揺れる胸の感触が伝わってくる。 「ちょ、芹花、そんなにひっつくと……」 「ひっつくと……何?」 「だから、当たって……!」 「何が当たるの?」 「何って……!?」 さらにすがりつくように身体を寄せてきた芹花は、上目遣いで僕を見ると、小さくこぼした。 「お姉ちゃんよりちっちゃいんだけど…… それでも、意識してくれるわけだ?」 「何がだよ。わかってやってるだろ」 「減るもんじゃないから、サービスよサービス。 だって――」 「きっかけはどうであれ、あたしと同じ考えで、あたしの ことを追いかけてきてくれたんだから、ね。そのお礼」 「お礼って……普通、こんなことしないだろ」 「普通? 普通って、どの普通?」 「幼なじみの普通? 年頃の男女の普通? それとも、家族としての普通……?」 「それは……」 また答えにくいことを…… 「答えなさいよ。あたしたちにとっての普通って……何?」 考えても、そんなにうまいことをすぐに答えられるわけもない。僕はとっさに思いついた言葉を口にすることにした。 「それは……その、せ、芹花としての普通、かな?」 「はぁ……?」 「……それって、あたしは普通なら、こんな可愛げのある ことしないっていう意味?」 「そう……じゃないかもしれないけど」 「……ふん。悪かったわね」 普段なら、とっくに『冗談よ』と言ったり『バカ!』って怒って離れそうなものなのに……芹花はまだ、僕の腕にぎゅっとしがみついていた。 「……真一の腕、冷たくて気持ちいいー」 「汗かいてるからだよ……というか、いい加減に放して」 「ふふっ、こんなとこ、例えば宗太に見られたら誤解され ちゃうね?」 「そんな縁起でもないこと、楽しそうに言わないでよ」 「……縁起でもないの?」 「香澄さんに見られるよりはマシかもしれないけど…… いや、そうでもないか?」 「…………」 「別にいいよ。見られたって、いいじゃない」 「何言ってんだよ、こんな、恥ずかしいし」 「だから、なんで恥ずかしいのよ!?」 「なんでって……また質問攻めなの……?」 「だって、聞かなきゃわからないもの!」 「幼なじみっていったって、こんな風にわからないこと だらけなのよ? それがいきなり家族だなんて、 やっぱりうまくいくとは思えない!」 芹花は、決して機嫌がよくなったわけじゃない――ようやくそれがわかった。 はしゃいでみせたり、急に怒り出したり……ひょっとしたら、何かにしがみつきたくなるほど、落ち着かないだけ? 「……芹花、放して」 「やだ」 「芹花」 「やだやだやだっ!!」 ぶんぶんと、髪が激しく揺れるほど、芹花は頭を振った。 「僕だって、このまま家族になるのは、なんだか納得が いかないけど……」 「だからって、ここで駄々をこねても仕方ないって、 芹花だってわかってるだろ?」 「またそんないい子ぶって……真一は、あたしの味方じゃ なかったの?」 「味方にはなりたいけど……」 僕はカフェの方へ目をやった。 あそこには親の再婚を素直に喜んでいる、香澄さんや兄さんがいる。それを思うと…… 「……いい子過ぎるのよ、あんたは」 「え――」 次の瞬間、芹花の拳が僕の鳩尾をえぐった。 「ぐ、グー……かよ……っっっ!」 鋭い衝撃と痛みに、一瞬で息が詰まる。前のめりに腹を押さえて、跪いてしまう。 僕から離れた芹花は、怒りも露わに……と思いきや。 「……ばか」 どこか悲しげに、そう呟いた。 「……ぐっ、げほ。いきなり、何……」 「真一の鈍感」 「だから、なんで……」 「目の前で悩んでいる女の子がいるのに、ほかの女に 目移りなんかしてるからよっ!!」 「え……?」 「ばかぁぁぁっ!!!!」 「いてて……」 ほかの女って……僕はただ、カフェを見ただけで…… 「あ……」 香澄さんのことを気にしたのを……見抜かれた? 「お帰り、って芹花ちゃんは?」 「……ごめん、逃げられた」 「はぁ、何やってんだ!?」 そう言われても……ああなった芹花が僕の手に負えるとは思えない。 「やっぱり、私が行った方がよかったのかしら?」 「いや、僕のせいだから。……たぶん」 香澄さんに、頼りない奴と思われたかもしれない。それが辛い。 それよりはいっそ、僕が芹花を怒らせてしまったからだと、そう思われた方がマシだ。 ……実際、そうみたいだし。 「ごめんね……真一くん。気を遣わせてしまって」 「気なんか遣ってないよ」 強がってみせても、それすら見透かされているのかな。香澄さんは、僕に同情しているような目を向けてきている。 「僕のせい、だからさ。香澄さんは気にしないで」 「ううん。悪いのは……」 香澄さんはそこで、口ごもった。 悪いのは誰?そんなこと、誰にも答えられない。 父さんでも、春菜さんでも、ましてや香澄さんでも、芹花でもない。 たぶん、きっと…… 「ちは~」 こんな重苦しい空気の中、場違いに呑気な声で入ってきたのは宗太だった。 ……さっき、近くまで来ていたってことなのかな?すぐそこで芹花と一緒にいたところを、見られなくてよかった。 「って、なんだか暗くない?」 「…………」 「…………」 「まぁ、色々とね。青春の苦悩ってやつかな」 「青春に苦悩? そいつは俺の得意分野ですね」 「また、適当なことを……」 「だって俺たち、まさに青春真っ盛りなんだぜ? 現役なんだぜ? リアルタイムだぜ? 得意で当然じゃないか」 「ふむ、一理あるか」 「あるかな?」 「俺を信じろ! なんでも相談にのるぜ!!」 事情を知らずに元気だなぁ……と思いつつも、その底抜けな明るさが、ちょっとだけうらやましかった。 「け、結婚!?」 店の中である以上、プライベートな話をするのも気が引けたので、僕は宗太を自分の部屋に連れてきた。 香澄さんは“すずらん”に戻って、カフェは兄さんがひとりで回している。 で、なんでも相談にのると豪語していた宗太も、父さんたちが再婚する件について話すと、さすがに驚いたらしくて…… 「……それって一応、おめでとう、ってことでいいんだよ な?」 「そのはずだけど……なんで?」 「いやお前、あんまり嬉しそうじゃないしな」 「……まだ、実感ないからね」 ここのところずっと、誰かとこんな話ばかりしている気がする。仕方ないことだけど……これが原因で、芹花とも気まずくなったばかりだし。 「芹花や香澄さんと家族になるなんて、ピンとこなくて」 「よく見知った相手だろ? かえって実感わかないもの なのか?」 「うん……戸惑っている、ってところ。 芹花もその点はおんなじみたいで、ずっと機嫌が悪い」 かと思えば、急に腕を組んできたり、怒り出したり……ああいうのを、情緒不安定って言うのかもしれない。 「そりゃお前、いきなり親同士が結婚するなんて聞かされ たら、不機嫌にもなるだろ。芹花の場合は特に」 やけにあっさりと、宗太はそう決めつけた。 「なんで? 芹花の場合はって?」 「そりゃお前……」 今度は少しだけ言い淀んでから、宗太は座り直して僕を正面から見た。 「真一パパと芹花ママが結婚しちゃったら、お前と芹花は 結婚できなくなっちまうじゃん」 「……そういう冗談は勘弁して」 「冗談じゃねえって。たぶん、芹花にとっては」 「まさか」 「俺はいつお前らがくっつくのかと、ずっと見守ってきた んだぜ?」 「当人たちにその気がないのは、宗太が一番知ってるはず じゃないの」 「そうは言ってもなぁ……期待してしまうのが、友情でも あり、クラスメイトとしても正直な気持ちだったんだが」 幼なじみ、お隣さん、同い年……みんなが好き放題に言いたくなる符号が揃っていることは、こっちだってよくわかっている。昔から。 けど、あえて言わせてもらえば、仲が良ければそれでいいってもんじゃないし。 「芹花とは……そういうんじゃないよ」 それに、宗太に言われて気づいたことがある。 僕が結婚できなくなるのは、何も芹花だけじゃなくて―― 「…………」 「……何?」 「今お前、ほかの女のこと、考えてただろ?」 「……芹花みたいなこと言うね」 「うへ、あいつにも言わせたのかよ、こんなセリフ」 あちゃ~っという顔をして、宗太が大袈裟に自分の額に手を当てた。 「そりゃ芹花も、ダブルショックだな」 「っていうか、どうしてみんな、そんなことわかるのさ?」 「お前わかりやすいんだもん、顔に出て」 「だからって、別に誰かのことってわけじゃ――」 「香澄さん」 「え……?」 ドキリ、とした。 誰のことってわけじゃない――そうごまかしかけたところに、香澄さんの名前を出されて…… 「……香澄さんは、どんな様子なんだ?」 「どんなって……あの人は、すごく喜んでるよ。 僕らと違って、何も抵抗がないみたい」 「ふーん」 「大人なんだなって、思った。それに比べたら、僕や芹花 なんて子供じみた駄々をこねているだけで……」 「大人と子供、ねぇ。いいんじゃね? 俺たちはどう 背伸びしたところで、まだまだ子供なんだし」 「無理したって、今すぐ大人になれるわけでもないだろう」 「そうかもしれないけどさ」 「それに大人って、本音と建前を使い分けなくちゃいけ ないから、それはそれで大変だろうさ」 「え……」 香澄さんは、心から春菜さんの再婚を祝福しているように見えたけど…… 「まさか……香澄さん、建前なんて使ってるようには みえないけど」 「ああ、俺の勝手な想像だからな」 「…………」 「ただ、お前や芹花とおんなじように、『私も戸惑って ます』なんて態度に出せる立場じゃないだろ。 香澄さんって」 「うん……」 もし、香澄さんまで芹花と同じ気持ちで、再婚に反対してしまったら―― 間違いなく、春菜さんは悲しむよな…… 「あ~、そう深刻に考え込むなよ?」 「俺は今、お前から聞いた情報だけで、芹花や香澄さんの 心情を想像しただけなんだから」 「俺なんかよりむしろ、お前に対してはふたりとも、 本音を言ってるんじゃないか?」 「……どうだろう?」 香澄さんには、いつだって弟扱いされていて……とても本音なんかもらしてくれそうにない。 芹花に至っては本音というか、八つ当たりされているだけみたいだし。 「何がウソか、誠か。どっちにしても、お前がまず しっかりしなきゃ、ふたりだって困るだろうさ」 「…………」 簡単に言ってくれるなぁ……と思うけど。逃げ腰になるわけにもいかなそうな意見だった。 外に出ると、いつの間にか空が紅く染まっていた。結構長く話し込んでいたことに、その時ようやく気づいた。 「ま、なるようになるもんさ。きっと」 「うん……」 「…………まずはほら、楽しくやっていくことを 考えようぜ。俺もお前も芹花も香澄さんも、さ」 「うん……」 「じゃあな」 宗太は軽く僕の肩を叩くと、帰っていった。 「…………」 ……考えたこともなかったけど、香澄さんは、本当に心から喜んでいるのかな? 僕は、彼女が再婚に前向きだから、それを見習わなくちゃいけないとすら思っていた。 だけど僕や芹花と同じように、香澄さんも悩んだり戸惑ったりしていたら…… 「……いたら、どうする?」 どうしてもそれが気になって、僕は思わず“すずらん”に足を向けていた。 「あら、珍しい。いらっしゃい」 店の前に立つと、奥に座っていた香澄さんが気づいて、声をかけてきてくれた。 花の世話をしていたのか、手にじょうろを持っている。 「……どうかしたの?」 「ああ、うん……ちょっと」 まさかいきなり、『香澄さん、本音を聞かせてよ』とも言えなくて……僕は口ごもってしまった。 宗太も言っていたように、これは勝手な想像かもしれないんだし…… 「あ……芹花ちゃんなら、さっき帰ってきたわよ」 「……あ、ああ。そうなんだ」 香澄さんに言われるまで、芹花のことに思い至らなかった自分に気づく。こういう無神経なところが、彼女を怒らせるのかもしれない…… 「今はお部屋にいるけど……呼ぶ?」 「……ううん。また、ケンカになるかもしれないし」 「もう大丈夫……とは言えないわね。ごめんなさい、 あの子のワガママにいつも付き合ってくれて」 「そんなこと……」 香澄さんが謝ることじゃないのに……むしろ芹花がワガママに見えるのは、あいつが本音を隠さないからで…… 「――香澄さんは」 「ん?」 「香澄さんは、ワガママ言わないの……?」 「私が……ワガママを?」 きょとんと目を丸くした香澄さんに、僕は……口を開いた。 「いつも芹花や、僕のことばかり心配してくれて…… 香澄さんが自分自身のことを考えるときは、 あるのかな、って」 「…………」 「香澄さんのことだから、春菜さんの再婚を本当に 喜んでるんだと思う。思いたい、けど」 「僕らみたいに戸惑うことはないの? 困ったりしないの?」 「ん……」 香澄さんはそこで初めて、目を逸らして…… 「……どうしたの、急に?」 少し、困ったような顔をした。ただそれだけだった。 「僕も、自分がなんでこんな落ち着かない気分なのか、 まだうまく説明できないんだけど」 「逆に香澄さん、落ち着き過ぎだよ? まだ芹花みたいに、笑ったり怒ったり、混乱している 様子をみせてくれた方が、わかりやすい」 そうだよ、この人は……この人は、大人過ぎて…… それがかえって、ウソに見える。 「そう……言われても、ねぇ」 「いきなり家族だよ? 一緒に家に住むんだよ? どうしてそんなに、冷静でいられるの?」 「僕が弟なんかになっていいの? 受け入れられるの?」 「ん……」 何もかもこんなに急に変わって、本当に落ち着いていられるものだとしたら…… 「僕は、香澄さんにとってお隣さんでも弟でも、 どっちでもいい存在なんじゃないかって、逆に心配だよ」 「そんなこと……!」 口に出してみて初めて、ようやく自分の中にあった不安に辿り着いた気がした。 僕が芹花を家族とも……宗太が言うような関係にも思えないように。 香澄さんになんとも思われていないから、だからどちらでもいいのかなって……不安だったんだ。 「私は……真ちゃんのお姉さんになれるのが、嬉しいわよ」 足下に並べられた花を見ながら、香澄さんはそう呟いたけれど…… 彼女は僕のことを見ていなかった。 普段使う『真一くん』ではなく、幼い頃の呼び方を意識的にか、無意識かわからないけど使って。 「それ、本音……?」 「本音も何も……」 「家族になるから仕方ないって、そう思ってるみたいに 聞こえる」 「そんなことないわよ。どうして…… 信じてくれないの?」 「信じたくないから……かも」 「どういう意味?」 「…………」 香澄さんも僕と同じように、戸惑っていると思いたいから? 香澄さんだって、不安だったり、怖いはずだって、思い込みたいから? それとも……僕は…… 「何かが変わりそうで……怖いからかもしれない」 「真ちゃん……」 「香澄さんだけが平然としていて、僕たちは置いていかれ たような気持ちで……情けないことを言っているとは 思うけど」 「僕は、香澄さんには同じ気持ちでいてほしい」 「…………」 本当にそれだけなのか?こんなこと言ってしまっていいのか? 確かなのは、再婚話が出てから急に、香澄さんが『他人』のように思えているってことだ。 「……私は、いつだってみんなに幸せでいてほしい。 それだけなんだけど、な」 「それは……わかるけど」 「真一くんのことを弟として可愛がってあげられる。 芹花ちゃんのこともこれまでと変わらず、妹として 思っていられる。それが素敵なことに感じて……」 「……僕はもう子供じゃないよ」 どこまでいっても弟扱い、子供扱い。僕が聞きたいのは、そんなセリフじゃなかった。 「ごめんなさい、バカにしているわけじゃないのよ」 「単に私が、そういうことを好きなだけ…… 真一くんに何かしてあげられるのが、嬉しいのよ」 「……芹花ちゃんは私よりもっと、真一くんのこと想って いるからこそ、悩んでしまっているんでしょうけれど」 「芹花は関係ないでしょ」 「関係ないなんて言わないで。あの子だって悩んで 苦しんで――」 「僕は、香澄さんがどう思っているのかを 知りたいんだ!」 「……っっ」 思わず大きくなった僕の声に、香澄さんがびくっと身体を震わせた。何かに、怯えたみたいに…… 手にしていたじょうろが落ちて、彼女の足下で跳ねる。 「……あっ、ああ、ごめん」 「ううん……謝るのは私だわ」 落としたじょうろを拾いながら、香澄さんが口を開く。 「……私はね、本当に何も考えていないの。 ただ、お母さんがよかったって、それで嬉しくて…… はしゃいでいただけなのよ」 「そんな……」 じょうろを拾い上げた香澄さんは、すまなそうな顔をしていた。 「私の方こそ、真一くんや芹花ちゃんを見習わなくちゃ いけないのかしらね? 何も考えないようにしている だけじゃ……ダメなのかしら?」 「香澄さん……」 「受け入れてばかりじゃ、いけないのかしら……ね。 そうするのが好きなんだけど」 香澄さんは独り言のようにそう呟いて…… 「真一くん」 「うん?」 「お願いがあるの」 「う、うん」 「昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでみて?」 「えっ!?」 思いもかけない言葉だった。この上さらに、弟扱い……? 「……そんな、イヤそうな顔しないで」 「イヤ、ってわけじゃないけど……」 本当はイヤだ。なんでこの人はこんな時に、そんなことを…… 「きっと私は、真一くんが思うほど、大人じゃないのよ」 「ただ子供みたいに、家族が増えることを喜んでいる。 それがきっと、私の本音」 自分自身の気持ちを確かめるように、香澄さんは胸に手を置きながら喋っていて…… 「真一くんにまた『お姉ちゃん』って言ってもらい たがっている自分がいるの。それは確か」 「そんな……」 「だからそんな、怖い顔しないで……」 香澄さんが背伸びして、すっと僕の頭に手を伸ばしてくる。 身体を固くしていると、彼女は僕の頭を……優しく撫でた。 「か、香澄さん……」 「ふふっ、真ちゃんの困った顔、可愛い……」 「やめてよ、恥ずかしいから……」 けれど香澄さんはやめてくれない。僕の頭を優しく、そっとくすぐるように撫で続ける。 「『お姉ちゃん』って呼んでくれたら、やめてあげる」 「どうしてそんな……父さんたちが籍を入れたら、 イヤでもそう呼ぶことになるのに」 「今、言って欲しいの……」 「だから、どうして……」 「甘えて欲しいから。甘えられてるって、実感できるから」 「え……?」 「私は、真一くんや芹花ちゃんに、甘えられたいの。 それが幸せだから……」 「お母さんの再婚は、そのためにもちょうどよかったの かもしれないわね」 「そんな……」 「不思議そうな顔しないで。今、真一くんに質問され 続けて、一生懸命考えてみた結果なんだから」 「私は……ずっと、あなたたちのお姉ちゃんでいたいの」 そんなのって……ないよ。 「真一くんたちが戸惑う気持ちもわかる。だから……」 「ちょっと残念だけど、今そう呼んでくれるだけでいい。 それで気が済むから……」 「あとはまた、自然にそう呼んでくれるようになるまで ……待ってるから」 すがるような目でそう言われて…… この人は本当に、僕のことを家族としてしか見てないように感じてしまって…… 「……お、おねえ……ちゃん……」 そう、呼ばされていた。 「ふふふっ、ありがとう。私、真一くんのことが大好きよ」 「えっ!?」 「今の私があるのは、真一くんのおかげだから」 そう言って、彼女はようやく僕の頭から手を離してくれた。 「真一くんが昔、私のことを『お姉ちゃん』として慕って くれなかったら……私、芹花ちゃんにとっても、ちゃん としたお姉ちゃんになれなかったかもしれない……」 「…………」 僕が香澄さんを、『お姉ちゃん』にした……? 「あなたたちが教えてくれた幸せなのよ、これは。 ふふっ」 「あなたたちが甘えてくれたから、私はしっかりできた」 「ああ、困ったとか、大変だったって言ってるわけじゃ ないのよ?」 「今だって、もっと甘えて欲しいぐらい。 それが私の喜びで、私にそれを教えてくれたのは、 真一くんたちなの」 「なんだよ……それ」 「私はそれでいいのよ。そうしたいの」 「でも、真一くんがそれじゃダメって言うなら……」 そこで彼女は僕に向かって、悲しげな目を向けた。 「真一くんにはもう、私が必要ないのかもしれないわね」 「そ、そんなことない……!」 香澄さんのことが必要だから、一緒にいたいから、でも家族になるのは何か違うから――それでこんなに悩んでいるのに……! 「私は、いつまでだって、甘えられたいわ。 私にワガママな気持ちがあるとすれば、たぶんそれだけ」 「これ以上、甘えられないよ。もうそんな歳じゃないし、 香澄さんに迷惑かけられない」 「私がいいって言ってるんだから、いいじゃない?」 「…………」 「新しい家族って……そうね、自覚するのは難しいかも しれないけど、ゆっくりと時間をかけて理解していく ことが大切なんだと思うわ」 「こんな風に話すもの大切……すぐには納得できなくても、 ね」 結局、香澄さんにとって僕は、いつまでも子供のまま……出会った頃の『真ちゃん』でしかないのか…… 僕は今まで香澄さんに甘えすぎたんだ。そのしっぺ返しが今、きた。 「一緒に考えましょ? 芹花ちゃんだって、わかって くれると思うし」 「…………」 わかるわけがない。少なくとも僕は納得できない。 けど……流されてしまうしかないのか? 「大丈夫。 時間が解決してくれることって、意外と多いのよ?」 「ありのままに過ごしていれば、変わるべきところと、 変わらないところがちゃんとわかる」 それは、僕が望む変化なの? 香澄さん。 「落ち着いてゆっくり考えればいいのよ」 「……っと、そうだ。ひとつ、おまじないしてあげる」 「おまじない?」 「そこに座って、目を閉じてみて」 香澄さんは、手近に置かれていた作業用の椅子を指差した。わけのわからないまま、言われるまま、そこに腰かける。 「じゃあ、次は目を閉じて?」 何が始まるのか……不安に駆られながら、僕は黙って目を閉じた。 射しこむ西日に瞼の裏を紅く焼かれる。 さらには気のせいか、風の音までが聞こえてくる。その風に乗って…… 「あれ……?」 「お花の香りがする?」 「う、うん……」 「普段意識しなくても、目を閉じているとよく香るでしょ。 いい香りだし」 「うん……」 「私はよくね、誰もいない時に……ひとりここに座って、 目を閉じて思い出すの。懐かしい光景を……」 懐かしい光景……花の香りに包まれながらそう言われて、思い当たる場所といえば…… 子供の頃よく、香澄さんと遊んだ花畑。 芹花と一緒に、香澄さんをふたりして追いかけていた、あの場所…… 「私たちはあの頃からずっと、何も変わらない。 それはこれからも、同じよ……」 「!?」 目を開くと、香澄さんはいつもと変わらない笑みを浮かべていた。 「何も変わらない。この気持ちも、この関係も」 「…………」 彼女はきっと、僕を安心させたかったんだと思う。 けれどその答えは、ひどく残酷なものに聞こえた…… 「え、一緒に?」 “すずらん”からいたたまれない気分で戻り、ぼんやりとカフェの手伝いをこなしていると、父さんが戻ってきた。 その父さんが―― 「今日は春菜さんがウチで料理をつくってくれる。 だから早めに店じまいをして、香澄ちゃんや 芹花ちゃんと一緒に、みんなで食べよう」 そう聞かされた…… 「いいねぇ。春菜さんの手料理なんて、子供の頃以来だ」 「…………」 「真一? どうかしたのか?」 「あ、うん。なんでもない」 よりにもよって、香澄さんや芹花相手に気まずいままの日に、かぁ…… その後、お客さんの様子を見ながら閉店準備を進めて……先に僕が自宅の方へ戻ったところで―― 「あ」 「あ……」 香澄さんと芹花に出くわしてしまった。カフェには顔を出さずに、先に自宅の方へあがっていたんだな。 「――ふんっ!」 芹花は僕を一瞥しただけで、さっさとリビングへ行ってしまった。 あいつ、まだ拗ねているのかな。 「こんばんは、真一くん……ごめんね、芹花ちゃんが」 「……ううん、いつものことだし、気にしてないから。 それより、いらっしゃい」 それより気になるのは……さっき目の前にいるこの人を『お姉ちゃん』と呼んでしまったこと、そしてこれから呼んでいかなければいけないことで…… 「ありがとう……でもなんだか、お客さんみたいね」 「? どういうこと?」 「『いらっしゃい』って。確かにその通りなんだけど…… 私の方が今日からは、『ただいま』って言うべき なのかしら?」 「……一緒に住むなら、そうなるのかな」 そして僕は香澄さんのことを、『おかえり』って迎えることになる。 ――ただいま。――おかえり。 些細なことだけど、挨拶が変化するのは、何かの象徴みたいに思える。 「練習していい?」 「え……」 「『ただいま』」 「…………」 「…………」 「……『おかえり』」 「うん、ただいま」 「…………」 これが……家族になるってことなのかな。 「今日はまた、豪勢だね……」 食卓には、色とりどりの料理が並べられていた。まさに和洋折衷、なんでもありの状態だ。 「ちょっと作りすぎちゃったかしら? 量の加減がまだ わからなくって」 普段は春菜さん、香澄さん、芹花の3人分だろうからなぁ。今日は、杏子も入れて7人分…… 「まあ、雅人も真一も食べざかりだから問題ないさ」 「ああ、さっきから腹が鳴ってしょうがないよ。父さんや 真一の料理にはもう、飽き飽きしていたところだし」 「ふふっ、おかわりもあるから遠慮しないでいっぱい 食べてね。真一くんも」 「うん……」 「それじゃ、遠慮なくいただくとしますか」 「いただきまーす!」 「ふふふ、やっぱり男の子がいる食卓って違うわね」 「そう?」 「勢いとかメリハリがあっていいわ」 「女だけでずっと暮らしていると、どうしてもだらしなく なってしまうのよねぇ……」 「だらしないって、もうお母さんってば」 「だらしないのは男所帯も一緒ですよ。杏子ちゃんが来て くれたおかげで、やっと規律が生まれた気がします」 「あら、じゃあ私も杏子ちゃんに色々教わろうかしら?」 「わ、わたし……?」 父さんに炒め物を取り分けた小皿を渡していた杏子が、きょとんと目を丸くした。 「…………この炒め物、いけるね」 「へぇ。杏子ちゃん、俺にもそれ、とってくれるかな?」 「あ、うん……」 離れたところにある料理を甲斐甲斐しく取ってくれるのはいいけど、杏子も少しは食べた方が…… 「杏子ちゃん、私がやってあげるから、好きな物食べて」 「え、でも……」 「これからは、私たちも一緒なんだから。ね?」 香澄さんが見かねたのか、杏子に取り分けた料理を差し出していた。 「あ……ありがとう……」 「そんな遠慮しないでいいのよ。女同士、助け合っていき ましょう?」 「う、うん……」 「真一くんは? 何か欲しい物ある」 「え? あ、いや……大丈夫」 「そう……?」 僕が断ると、香澄さんは少し残念そうな顔をした。彼女もさっきまでの杏子と同じく、あまり自分の食事に手をつけていない。 僕のことなんていいから、自分が食事してくれていいのに……本当に、人に甘えられるのが好きなのかな?世話好きってやつなのかな? 香澄さんは『姉』で『年上』。僕も芹花も杏子も、彼女からは『弟』『妹』『年下』組に分類されているんだろうな…… 「……こうして、みんなで食事をするのっていいわね。 本当に家族が増えたんだって、実感できるもの」 「本当にそうね……」 「…………」 「芹花ちゃんは、何か食べたい物ない?」 「……あたしはいい。ごちそうさま」 「あらもう? それじゃあ、お茶淹れようかしら」 「いいよ、あたしやる」 立ち上がった芹花は、キッチンの方で急須に何度もお湯を継ぎながら、お茶を淹れていた。 なにせ、7人分だものな…… 「……って、あれ?」 彼女が持って戻ってきたお盆の上には、6つしか湯飲みが載っていなかった。 「芹花、数が……」 「あたし、観たいテレビがあるの。だから先に戻るわ」 「戻る、って」 “すずらん”へ戻る。 これまでなら当たり前のことなんだけど、さっき香澄さんが『ただいま』と挨拶したがった様子に比べると、それは…… 「テレビなら、ここで観ていけばいい」 「……そんなの、悪いですよ。遠慮しときます」 それはひどく、他人行儀な態度だった。 父さんが、春菜さんの方を見る。すると春菜さんは、すまなそうに頷いた。 「……そうか、じゃあ仕方ないね」 「……ごめんなさい」 「荷物の整理、しておいてね」 「……わかってるわよ」 「…………」 「その、ごめんなさい、真彦さん……」 「いや……そういうこともあるでしょう」 嫌な空気が流れた。芹花は、ほとんど食事に手をつけずに帰っていった。 香澄さんや杏子みたいに、ほかの人の世話をしていたわけじゃない。ただ、この場にいたくなかったんだろう。 だから適当な言い訳をつくって…… 「……真一、お前、何か知っているか?」 「……なんで僕に聞くのさ」 「お前が一番仲が良い、と思っただけなんだが」 「……芹花は芹花で、好きにやってるだけだよ。 僕がどうこうできることじゃない」 「…………」 僕だって、こんな席にいたくない。香澄さんと“すずらん”で話した時と同じで、いたたまれない。いづらい。 「そういわずに……同い年なんだし、気遣ってやってくれ ないか? せっかく家族になるんだし」 ――っ!! 「何言ってんだよ……父さん、何もわかってないよ!!」 「なんでそんな無責任なこと言えるのさ!? こうなってるのは自分たちのせいだって、少しは考えて よ!!」 「真一……」 「こっちはそっちの事情に振り回されて、突然家族に ならなくちゃいけないんだよ!? 全部、そっちの都合じゃないか!!」 「昨日までは他人、明日からは家族、そんな線引きに付き 合わされる子供の気持ち、考えたことあるのかよっ!」 「真一っ」 兄さんがたしなめるように、短く僕の名前を呼んだ。 「…………」 香澄さんだけじゃない。春菜さんも父さんも、杏子も呆然と僕を見ている。 「真一……お前も芹花ちゃんも、反対なのか?」 「ごめん……そういうわけじゃないんだ。 ただ……」 「ただみんな、驚いているだけなのよ。話が急すぎて、 まだ……ね?」 香澄さんがフォローのつもりか、僕の言葉を引き取ってくれた。 「ごめんね、真一くん。私たち――」 「どうして、香澄さんが謝るのさ……」 「それは……あの」 「こんな時にまで『お姉さん』しようと しないでよ!」 「っっ!」 立ち上がって、香澄さんに背を向けて、リビングを出て行く。 「真一くんっ!」 「真一!!」 いたたまれないのも当然だった。 僕と芹花は、この『家族』の食卓から逃げ出したくて仕方なかったんだから。 夕食の席から、しばらく時間が経った。 後悔は先にはできない。そんな当たり前の言葉通り、今頃になって罪の意識が僕をさいなむ。 「なんであんなこと言ってしまったんだろう……」 僕はベッドの上でごろごろと丸まっていた。 ここからでは下の様子はわからない。香澄さんたちも、みんな帰ったのかな…… 「ちょっといいか?」 「兄さん……」 「入るぞ?」 「うん……」 断っても、入ってくる気がした。 「兄貴として、少し話しておいた方がいいと思ってな」 僕がさっきとった態度を思えば、当然だ。相手が父さんではなく、兄さんだったのは意外だけど。 「……悪かったと思ってるよ」 「なぁに、叱りにきたわけじゃないさ」 兄さんは、机に備え付けられた椅子を引き出すと、背もたれを抱く格好で前後逆に腰かけた。 「香澄ちゃん……だいぶ気にしてたぜ」 「…………」 主に彼女に当たり散らしてしまったようなものだ。 あの、笑顔の似合う人が悲しげな表情をしているだろうことを想像するだけで、胸の奥が痛む。 「お前の顔を見たいって言ってたけど、とりあえず今日の ところは帰ってもらった」 「……そう」 「……だけど、彼女と春菜さんにだけでも、謝った方が よかったか?」 「そうした方がいいとは思うけど……なんで?」 「お前が今、香澄ちゃんに会いたそうな顔をしたから」 「……合わせる顔がないよ」 どうしてこうみんな、僕が考えていることをあっさり見抜くかな? そんなに僕ってわかりやすい? 「香澄ちゃんは、偉いよな。俺はまだあそこまで、うまく 『兄貴』をできてない」 「……なら僕は、出来の悪い弟のままだね」 家族、家族、家族……誰もがその前提でモノを考えている。 「あんな風に家族のこと考えてくれる人、なかなか いないぞ」 「わかってるよ……だから甘えちゃいけないんじゃないか」 「逆だろ?」 「逆?」 「わかってるなら、甘えさせてあげなきゃいけないんじゃ ないのか?」 「甘え…………させる?」 一瞬、聞き間違えたのかと思った。 香澄さん本人だって、『甘えて欲しい』と言っていて、自分が『甘えたい』とはひと言も…… 「香澄ちゃんを見てるとさ、自分が頑張らないといけない って、ヘンに責任感じちゃってるように思えるんだよ」 「芹花ちゃんや……そうだな、お前と話している時ぐらい じゃないか、気を抜いているのは」 「…………」 僕は何も言えなかった。 どうして兄さんには、香澄さんがそんな風に見えるんだろう? 「ほら、俺ってこういうの、二度目だろ?」 「兄さん……」 二度目―― 一度目は、僕の父さんと、兄さんの母さんが結婚した時のこと……か。 兄さんにとって父さんは、継父にあたる。そのせいもあってか一時期ふたりの折り合いが悪くて、兄さんが家を出ていたこともあった。 今は落ち着いたのか、ふたりともそんな素振りもみせないけれど…… 「俺が母さんの再婚を経験した時は、まだ小さかったから な……今みたいに父さんと付き合えるようになるまで、 結構時間がかかっちまった」 「でもまぁ、それは再婚する側が向き合うべき責任みたい なもんだからな。子供の側が、父さんと春菜さんに少し ぐらい迷惑かけていいと思う」 「そういう意味じゃ、さっきのお前のセリフは、当然って いえば当然さ」 「兄さん……」 「けどな、香澄ちゃんは違う。子供って言っていい立場 でもなければ、父さんたちみたいに責任を負う立場でも ない」 「…………」 「言いたかったのはそれだけさ…… 柄じゃないな、こういうの。はははっ」 最後に苦笑して、兄さんは立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとする。 「――兄さん」 「なんだ?」 「どうして兄さんはそこまで、香澄さんを気にかけるの?」 「……俺ができなかったことを、きちんとやろうとして いるから、かな」 「…………」 ……兄さんの言いたいことはよくわかる。 芹花だけでなく僕まで拗ねてみせても、何の解決にもならない。香澄さんを困らせるだけだ。 でもまさか、香澄さんを甘えさせてやれなんて……そんなことが、僕にできると思っているのかな、兄さんは。 すべてを受け入れて、割り切ればいい? それは単純なことのように思えて、とても難しい。できればとっくに、僕も芹花もやっている。 でも……それをしなければ、僕は本当に、ダメな『弟』のままだ。 ……また、よく眠れないまま、朝を迎えた。 僕は結局、香澄さんにどういう態度をとればいい?そんなことをずっと考えていた。 「……とにかくまずは謝らなくちゃ、だよな」 香澄さんに、春菜さんに、父さんに…… 「あ……真一……」 「芹花……こんな朝からどうしたの?」 部屋を出たところで、ばったり芹花に出くわした。まるで昨日の、食事の前と同じように。 「新しい部屋の片付けとか、引っ越し準備とか、まぁ……」 歯切れの悪い言葉の羅列から、僕たちの気持ちを置き去りにして、着々と『家族』の準備が進んでいることを伝えてきた。 「そっか……お疲れ様。 僕もとうとう、芹花の弟、か……」 「え……何よ、イヤだったんじゃないの?」 驚きというか……僕の言葉が意外すぎたのか、芹花の目が点になっている。 「イヤ……だって言い張ったところで、春菜さんたちを 困らせるだけだから」 「またそれ? そんなんで……納得できるわけ!? あんたそれでいいの!?」 「香澄さんや兄さんも頑張ってくれてるの、わかったから」 「…………」 僕と兄さんが話したように、芹花も香澄さんと話せたんだろうか? それとも、まだ納得できる話ができていないのか…… 「あたしは……そんな簡単に、割り切れない」 芹花はまだ、気持ちの整理がついていないみたいだった。 「芹花も、兄さんや香澄さんと話してみるといいよ」 「…………」 「おはよう、真一くん」 「あ……香澄さんも、来てたんだ」 「うん」 「……結局、お姉ちゃんしか見てないのね」 「え……」 「なんでもないわよっ!!」 「芹花……」 背中を向けて立ち去る芹花を、香澄さんも僕と一緒になって見送ってしまう。 「真一くん、ごめんね。芹花ちゃん、まだ……」 「いつかわかってくれると思うよ」 「そう……?」 「香澄さんが頑張っているんだから、僕たちも……って 考えないといけないし」 「私はそんな、別に」 「昨日は、ごめんなさい。香澄さんの気持ちも考えずに」 香澄さんが何か言うよりも先に、僕は頭を下げた。 再婚うんぬんは別としても、香澄さんを困らせたくない気持ちだけは、本物だと思えたから。 「そんな、私に謝ることじゃないわ」 「僕のけじめとして受け取ってよ」 「けじめ……?」 「うん、けじめ……」 「これからもよろしくお願いします……お姉ちゃん」 「……真ちゃん」 香澄さんの口からまたこぼれた、懐かしい呼び方。 「……それで、いいのね? 本当に」 「うん……」 呼ぶだけなら…… まだ、どうしていいかわからないけど……僕にできることなんて、これぐらいしかないから。 「ありがとう……嬉しい♪」 そう言ってくれた香澄さんの顔は、嬉しそうな笑みを〈湛〉《たた》えていた。 僕はこの香澄さんの笑顔を守りたい……もう、彼女を困らせるようなことはしたくない。 香澄さんが笑っていてくれれば、それでいいんだ。 彼女の笑顔がずっと続いてくれること――それが僕の、唯一の救いなんだから…… ――今、西村家は引っ越しの最中にある。 僕は、自分の身長ほどもある棚を、兄さんとふたりで運んでいた。 「父さん、ちょっとそこどいて」 「ん? ああ、すまない」 廊下で父さんとぶつかりそうになりながら、奥へと棚を運ぶ。 リビングに入ると、カニ歩きで位置を変える。棚の向こう側から兄さんの声が聞こえた。 「よし、下ろすぞ、指挟むなよ」 「う、うん……」 呆れるほどの重さに、僕は返事するのが精一杯だ。 「せーのっ」 「ふーっ……あと、大物って何があるんだ?」 「洗濯機と冷蔵庫……」 「……今あるのを使えば、って言いたいところだけど、 人数が人数だもんな……」 「そうなんだよね……」 お店のものも洗うので、我が家の洗濯機は常にフル稼働状態だ。 そこでどうせなら水島家のものを引っ張り込んで、この際二台体制で洗濯物をやっつける、そんな話になった。 「ま、ここでぶーぶー言っても始まらないさ、 ちゃっちゃとやってしまおう」 「うん、そうだね」 「真一、そっちの角、もう少し押してくれよ」 「んっ、よいしょ……!」 洗濯機に次いで、やっとの思いで冷蔵庫もキッチンに押し込む。 「ふー……これでなんとか、デカブツは片付いたな」 立ち上がった兄さんは、背筋を伸ばしながら腰の辺りをトントンと叩いている。僕も無意識に、同じ動作をしていた。 「あとは、細々したものだけか?」 「ふふっ、ふたりともご苦労さま。少し休んで」 やって来た香澄さんは、手にお盆を携えていた。 その上に載せられた冷えた麦茶と優しい笑顔で、僕たちの労をねぎらってくれる。 「ありがとう、助かる」 「ホント、もう喉がカラカラだよ」 僕も兄さんも、むさぼるように麦茶に飛びつくと、一気に半分ほど飲み干した。 「ぷはぁ……生き返る」 「まったくだ。このタイミングでこの気遣いとは、さすが 香澄ちゃんだよ。将来、絶対いい嫁さんになるよ」 「…………」 「じゃあ、ふたりは将来、いい引っ越し屋さんになれるん じゃないかしら?」 「それは今日だけで勘弁して欲しい……と、ごちそうさん」 そう言いながら、兄さんは残っていた麦茶を飲みほして、空になったコップを香澄さんに返した。 「あとパソコンが一式があるんだけど…… もう引っ越し屋さんは店じまいなのかしら?」 「うっ、あのデスクトップか。また厄介なのが」 「ごめんなさい。お母さんが、ノートは使いづらいって 言うから」 「いいさ、これも親孝行だと思えば」 「…………」 「真一、そっちは俺がやるから、お前はその間にほかを 手伝ってあげてくれ」 「……ん、わかった」 「じゃ、頼むな」 それだけ言い残して、兄さんはリビングをあとにした。 「昔からだけど、雅人くんって、しっかりしてるわよね」 「そう……だね」 頼りになって、なんでもできて、人の気持ちがよくわかる……僕なんかよりよっぽど、香澄さんを甘えさせてあげられそうな、男。 空になったグラスを持て余したまま、僕は香澄さんに尋ねる。 「それで、僕は何を運べばいいかな?」 「そうね……お店のレジの横に、すぐ使いそうな物を まとめておいたの。まずはそれから運んでもらえる かしら?」 「レジの横ね、わかった」 「私も一緒に行くけど――あ、グラスちょうだい。 片付けておくわ」 「……うん」 持ったままだったグラスを、香澄さんに渡した時……少しだけ、指が触れ合った。 頼りになる『お姉ちゃん』の指に―― 香澄さんの言っていた荷物は、すぐに見つかった。箱の中に生活雑貨が詰め込まれている。 香澄さんは、ほかに何かないか、念のため家の奥を見に行った。 「さて、と」 「あ、真一くん、ちょっと待って!」 僕が荷物を抱えてあげたところで、香澄さんが奥から色とりどりの毛糸の玉を抱えて戻ってきた。 「これ、上に乗るかしら?」 「毛糸?」 「ええ。ずいぶん前に面白いチェック模様を思いついた から、セーターでも編んでみようと思ったんだけど……」 「忙しくなっちゃって、途中で投げ出してしまったのよね ……でもいい機会だから、また始めようかなって」 「でも今、夏だよ? それなのにセーター?」 「私、手が遅いから……」 なんでもそつなくこなせそうな香澄さんが、珍しく恥ずかしそうに俯いた。 「それにね、思った通りのチェックを編むのって、 案外難しいものなのよ?」 「そうなんだ?」 それにしても…… そのセーターは、誰のために編むのだろう?誰がそのセーターを着るのだろう? 「……いいよ、載せて」 気になることはいくつもあるけれど、今は荷物運びに専念する。それが、僕にできることだ。 「じゃあ、よろしくね」 満面の笑みでそう言った香澄さんが箱の上に絶妙なバランスの毛糸の山を作っていく…… 不安定で、いつ転がりだしてもおかしくない、山を。 「あ、っと」 香澄さんが築いたアンバランスな毛糸の山に四苦八苦しながら、慎重に玄関を上がろうとしたけれど、案の定、途中で山が崩れた。 こぼれ落ちた毛糸の玉が、糸を引きながらコロコロと廊下を転がっていく。 やがてその玉は、誰かの足にぶつかって、止まった。 見上げると、そこには春菜さんがいた。その隣には父さんもいる。 「あの……真一くん」 「…………」 昨日の一件を、僕はまだ春菜さんに謝っていない。朝からバタバタしていて……なんていうのは、言い訳に過ぎないけれど。 父さんは、ギクシャクとした空気の流れる僕たちを、ただ見守るように眺めていた。 「…………」 「…………」 僕が何も言えないでいると、春菜さんの方から先に口を開く。 「わ、私、早く真一くんのお母さんになれるよう、 頑張るから!」 「え……」 「だから、至らないところがあったら、なんでも遠慮なく 言ってちょうだい。ね?」 「あ、いや……その……昨日はごめんなさい」 先に春菜さんの方から一生懸命に譲歩されてしまって、大変申し訳ない気分になっていた。 「僕も、なんとかしなきゃいけないと思って、焦ってて」 「……でももう、大丈夫だから」 ――春菜さんが悪いわけじゃないから、気にしないで。――僕も、春菜さんと父さんを祝福したいんだよ。 そう伝えればいいのに、思うように言葉にできない。出てくるのは自分のことばかりで…… 兄さんや香澄さんなら、こんな時にはきっと……そう―― 「そ、そうだ! これからは『お母さん』って、呼んでもいいかな?」 「えっ!!」 「香澄さんも、『お姉ちゃん』って呼ばれたがっていた から」 「もちろんよ! もちろん構わないわ! むしろ『ママ』って呼んで欲しいぐらいですもの!!」 「そ、そう…… いや、まぁ……今は『お母さん』で……」 『お母さん』にしても『ママ』にしても、単純に気恥ずかしいっていうのはあるけど、香澄さんの時とはまた違う、違和感を覚える。 「真一」 「え、あ、うん」 「あ、あの、真彦さん、あまり真一くんを責めないで あげて? こうして、彼もね」 「いや、そういうわけじゃないんだ。 真一」 「な、何?」 「ありがとう……」 「え……」 それだけ言うと、父さんは僕たちをおいて、店の方へ姿を消してしまった。 「もう……親子揃って、照れ屋さんなのね。 まぁそこがいいんだけど」 「…………」 「ああ、真一くん。はいこれ」 足下に落ちていた毛糸の玉を拾って、丁寧に巻き直すと、春菜さんはそっと、僕が持ったままだった荷物の上に置いてくれた。 パズルのピースがはまるように、残っていた毛糸の山にその玉が収まる。 「ありがとう」 「お礼を言うのはこちらの方よ、色々とね。 その荷物だって、香澄のでしょ?」 「うん……」 コロコロ、コロコロと、放っておけばどこまでも転がっていきそうな毛糸の玉。 落ちたら拾えばいい。積み直せばいい。そう、この時は思えたけれど…… 落ちてしまった毛糸の玉は、ひとつじゃなかったんだ…… 香澄さんから頼まれた荷物をひとまず片付けて、また“すずらん”の方へ様子を見に行こうとしたら―― 「あれ?」 父さんがひとりで、開店作業を始めていた。 今日はお隣からの引っ越しがあるし、いつもの開店時間はとっくに過ぎていたから……てっきり今日はもう、休みかと思っていたのに。 「店、開けるの?」 「引っ越しの方は、私がいなくても大丈夫そうだからね。 あとはお前たちに任せるよ」 「それはいいけど……だったら今日ぐらい、ゆっくり すれば?」 「オンシーズンさ、そうも言っていられないよ」 「……そう。 じゃあ、忙しくなったら、声かけてね」 「ああ」 でもたぶん、父さんは僕たちに声をかけてこない。淡々と、いつも通りに、ひとりで店を回してしまう。そんな気がした。 父さんも春菜さんも、昨日のことは水に流してくれた。 兄さんや香澄さんとは、その前に少しだけど話し合っていたし…… あと、問題は―― 「じゃあ何? あたしがいけないっていうのっ!?」 「……芹花?」 その声は、リビングの方から聞こえた。 もう一度、耳を澄ます。 「――お母さん勝手過ぎるよ! なんでこうなっちゃった のよっ!」 やっぱり芹花の声で、しかもかなり白熱している。相手は春菜さんか? 気になって、僕はドアの陰からそっと、リビングの様子を窺った。 「これからみんなでもっと幸せに暮らしていける、 そう思って私も真彦さんも、一緒になろうって 決めたのよ……だから、そんな顔しないで」 「だって……真一と家族だなんて!」 「今までだって家族みたいにやってきたじゃない」 「そうだけど……! でもそれとこれとは話が違うわよ!」 「芹花……」 「芹花ちゃん、お母さんは、好きな人ができたんだよ?」 「その人に受け入れてもらったんだから、祝福して あげたいじゃない……女の子だったら、わかるでしょ?」 「好きな人と一緒に暮らすのって、とっても幸せで、 同時に大切なことだと思わない?」 香澄さんは、芹花をあくまでやんわりと諭そうとしている。 けれど、芹花は頭に血が上っているみたいで、香澄さんに対しても噛みつくような勢いで叫ぶ。 「お姉ちゃんはいいわけ? 真一とひとつ屋根の下なんて!」 「別に真一くんだからって、困るようなことはない でしょう?」 「あるよ、ありまくりよ! 真一とは同い年だし、学校も一緒だし!」 「そりゃあ幼なじみで仲が良かったかもしれないけど、 明日から家族ですって言われて、ハイそうですか、 なんて納得できるわけないじゃない!」 「そんなことないわよ……これは私たちにとっても、 いいことなんだし……」 「なんで……? どうしてそんな風に言えるの……?」 「だって……私は、真一くんが弟で嬉しいから」 「……っ」 また、それか…… 「見ず知らずの誰かじゃなくて、ずっと知っている 真一くんや雅人くんが家族になってくれるんだもの。 こんな幸運はないわよ」 「ヘンよ……ヘン。そんな考え方、おかしいわよ!」 「知り合いだから家族になっていいの? 知り合いじゃなかったら、家族になりたくないの?」 「そういう意味じゃ……」 「あたし……お姉ちゃんがわかんない。 真一も、何考えてるのか、わかんない」 「ふたりとも、なんでそんな急に変われるわけ!?」 「…………」 芹花は、僕だ。状況の変化についていけないままの、僕だ。割り切ろうとしなければ、僕もあいつと同じなんだ。 「……私は、変わったつもり、ないんだけどな」 そう言い続ける香澄さんに、反発したくなってしまう……芹花の気持ちの方が、僕にはわかりやすい。 だけど、それは―― 「芹花……」 春菜さんや香澄さんを困らせるだけなんだよ、芹花…… 「もういい、お姉ちゃんたちに付き合ってらんない」 「どこ行くの?」 一方的に話を切った芹花が、踵を返してこちらに向かってやってくる。 「喉渇いたから、真一にジュースおごらせる」 「――!」 まるでここに僕がいるからのように、芹花はそう口にした。僕は慌てて扉から離れると、自分の部屋へと避難した。 「…………」 結局、僕は芹花がイライラをぶつけるのに、最適の相手なんだろうな。 このまま芹花のイライラが続くようなら、もう一度、ちゃんと話しておいた方がいいかもしれない。 香澄さんだって、いつまでも芹花があんな態度をとっていたら、気が休まらないだろう。 香澄さんにとって、家族って本当に大切なものなんだろう。だから芹花のことも、春菜さんのことも、大切にしたいって思っている。 もちろん僕のことも……弟として、だけど。 そんな風に彼女が家族を思いやっている気持ちを、芹花もわかってくれるといいんだけど…… 「家族を思う気持ち……か」 父さんたちの再婚が決まってすぐは、僕もそんな風には考えられなかった。 「あんな風に家族のこと考えてくれる人、なかなか いないぞ」 兄さんの言う通りだ。 香澄さんは僕たちの誰よりも早く、家族みんなに気を遣っていた。ひょっとしたら、父さんや春菜さんよりも早く。 「ほら、俺ってこういうの、二度目だろ?」 二度目の再婚を経験する兄さんの気持ちだって、僕はまるで思い至らなかった。知っていたはずなのに…… 「私は、いつまでだって、甘えられたいわ。 私にワガママな気持ちがあるとすれば、たぶんそれだけ」 香澄さんらしいといえば、そうなんだけど……ほかの人のためにそこまで思えるなんて、なかなかできることじゃないんだよな。 「香澄さん……」 あなたは本当に、僕なんかじゃとても及びもつかない、お姉さんなんだね…… 「くよくよしてても仕方がない……ん?」 まだ引っ越しが全部終わったわけじゃない。気を取り直して、何か手伝おうかと思って廊下に出てみると―― 「ん……ん……ぁ……」 微かに、女性の声が聞こえた気がした。 杏子も含めれば、今この家には四人の女性がいる。 その内の誰かの声がどこで聞こえても、おかしくはないわけだけど…… 「うぅん……んっ……!!」 また芹花がどこかで怒鳴り散らしているのかと、一瞬身構えてしまったけれど……そうでもなさそうだ。 むしろどこか、悩ましげな感じの…… 「あぁ……あと、ちょっとで……」 「え……あ、香澄さん?」 こちらに背を向けて、香澄さんがよろよろと歩いている。その彼女に、つい声をかけてしまったら―― 「う……ん? あっ」 段ボール箱の底が抜けて、中に入っていた本が一斉に、床に散らばった。 「あ、ああっ……!? や、やだ、どうしよう……」 香澄さんはペタンと床に座り込んで、途方に暮れた声を出している。 「ご、ごめん!」 「う、ううん、真一くんのせいじゃないわよ」 「たまたま今のタイミングで箱が壊れただけで、途中から 結構危なかったから」 そう言って香澄さんは『はぁ~っ』と深いため息をついた。 「呼んでくれれば、代わりに運んだのに」 「だって全部、私の私物だから……申し訳なくて」 「そんな遠慮しなくていいのに」 家族になるんだし――そんな風に言葉を続けそうになった自分に、驚いた。そういうセリフは、兄さんの方がよく似合うはずだ。 僕も……たった数日で、状況に流されているのかな? 「それにしても、いっぱいあるね」 香澄さんが抱えていた段ボール箱は、それなりに大きいサイズで…… その中にみっちり詰め込まれていたらしい、大小様々な本がたっぷりと、今は床にぶちまけられている。 「本は小分けにしないとダメだよ。こんな量、持ち上げる のだって大変だったでしょ?」 「わかってるんだけど、つい、ね。まとめて運んでしまい たかったから……」 「とりあえず、香澄さんの部屋に持っていけばいいの?」 「あ、うん。でもいいわよ。私ひとりで片付けられるから」 「いいって」 遠慮しがちな香澄さんに構わず、手伝おうと腰をかがめて、手近な本から手に取っていく。 その中には雑誌の類も多かった。薄手の大判で、綺麗な女性のアップが表紙の…… 「これ、ずいぶん前のファッション誌だね」 月刊誌らしく表紙に○月号と書かれているのだけれど、その横に添えられた年数が今年だけでなく、数年前のものもあった。 「流行ってループするから、昔のものも何かの参考に なるかと思って……」 「へぇ……」 香澄さんは美人だとよく言われているけれど、そんな風にお洒落に気を遣っていたなら、当然だという気がした。 にしても、あれも、これも、それも、どれもみんな、大判のものはファッション雑誌だ。 「もしかして香澄さん、雑誌捨てられない人?」 「そ、そういうわけじゃないのよ? ……ほ、ほら、今の ものはすぐ手に入るけど、昔のものって探すの大変じゃ ない?」 「そうかもしれないけど……あれ? これは……」 雑誌の合間に埋もれかけていた、ハードカバーの本を見つけた。 表紙には『立体裁縫の仕組み』と書かれている。 何のことかよくわからなかったので、ついパラパラとめくらせてもらうと『片抜き』や『縫合』『のりしろ』『折り返し』などという単語が目についた。 要するに、洋服ができるまでの手順を説明したものらしい。 「香澄さん、これってセーターを編む時に使う本?」 「うん。それだけじゃないけど」 「ほかにも何か、作ってるの?」 「そういうわけでもないんだけどね……」 急になんだか、香澄さんがごまかし始めたような? 彼女の態度がちょっと気になりつつも、僕はそのハードカバーや雑誌の束を整理して、また別の本へと手を伸ばした。 「し、真一くん、もういいわよ」 「この状況、そうも言ってられないでしょ」 「…………」 と、いくつかの雑誌をまとめて取り上げた時、その隙間から一冊のクリアファイルがこぼれ落ちた。 「あっ」 「え、ああっ!!」 咄嗟に手で受け止めたせいで、中の書類に書かれた文字を正面から見てしまった。 「新卒募集……要綱……?」 書類の端には、僕でも知ってるデザイナーズブランドの名が記されている。 必要事項と書かれた欄には、香澄さんのプロフィールが書かれていた。 「これって……」 「そ、それは……だから……その……」 香澄さんは視線を泳がせながら、顔を赤くしている。勝手に見てしまったこともあり、なんだか気まずい。 けど……好奇心からつい、聞いてしまう。 「もしかしてアパレル関係の仕事、目指してるとか?」 「う、うん……みんなには、内緒ね」 「え、なんで?」 「なんか、恥ずかしいじゃない。私がお洋服を作りたい、 なんて……」 「恥ずかしいことかな?」 僕としては、とても似合うと思ってしまった。 セーターを作ったり、ファッション雑誌を見たりしていたのも、そういうことなんだって納得できてしまう。 「でも、意外かも」 「やっぱり……」 僕の言葉を聞いて、香澄さんが肩を落とす。 「あ、いやごめん、似合わないって意味じゃなくて」 「……じゃあ、何?」 「香澄さんは、“すずらん”を継ぐものだとばかり」 「…………これ以上、お母さんに迷惑をかけたくないもの」 「え? だからお店を手伝ってたんじゃないの?」 今度こそ、意外な答えだった。 春菜さんを手伝うために、香澄さんはいつもお店に立っていた。 それは春菜さんの負担を減らすことにこそなれ、迷惑になっていたとは思えない。むしろ、香澄さんがお店を継げば、春菜さんは大助かりのはずだ。 少なくとも、僕にはそう思えたのだけど…… 「就職もしないで、家に厄介になり続けるわけには いかないわ」 「それに、ここまで育ててもらっておいてこれ以上、 経済的な負担はかけられないでしょ? 私の下には 芹花ちゃんだっているんだし」 「いや……それはちょっと、考え過ぎなんじゃ?」 親孝行、なんて兄さんが冗談交じりに言っていたこともあるけれど、香澄さんの今の考えは少し神経質にも思えた。 家族のことを思いやっているというのとも、少し違う。度が過ぎるほどの……遠慮? 「私としては、今の学校だって贅沢なのよ。進学よりも 就職したかったぐらい」 「それはだって、春菜さんの親心ってやつだったんじゃ ないの? 学校ぐらい出ておきなさい、っていう」 「それは……その通りだったんだけど」 香澄さんが俯く。まるで、後悔しているかのように。 僕たちが数年後に向き合うことになる進学か、就職かの選択を、香澄さんは春菜さんと話し合って決めたとばかり思っていたんだけど…… 「あの時は、お母さんに泣かれちゃったのよね」 「春菜さんが、泣いた……?」 「ええ…… 『私は、あなたを実の娘だと思って育ててきた。だから 遠慮なんてしなくていいのに、どうして』って」 「えっ……」 「え? ええっ!?」 『実の娘だと思って』……? それってつまり、香澄さんは春菜さんの実の娘じゃない、っていうことで……? 「……ひょっとして真一くん、知らなかった?」 驚きの余り声が出ず、コクコクと何度も頷いてしまった。すると今度は、香澄さんが目を丸くする番だった。 「あ……え~っと……そっか。ごめんなさい、私、 つい勘違いして」 「勘……違い?」 「お母さんが、再婚するんだから、西村さんちにも きちんと話しておく、って話していたから」 「私てっきり、真一くんにも伝わっているのかと思って」 「それって……父さんたちには話した、ってことかなぁ」 だけど父さんは……まぁ、ああいう人だから、僕にはわざわざ説明しようとしないだろうし。 ひょっとしたら兄さんはその場にいて、春菜さんから直接話を聞いているのかもしれないけど……それでも、わざわざ言いふらしたりはしないよなぁ? 「……考えてみたら、芹花ちゃんにも話していないことを、 真一くんにだけ教えるのも、ヘンな話よね」 「えぇっ!?」 さすがに大声を出してしまう。芹花は……あの、とても手のかかる妹は、お姉さんのことを知らないのか。 「しっ! それこそ、誰かに聞かれちゃうでしょ」 「ご、ごめん……」 唇に指をあてて僕を叱る香澄さんに、場にそぐわない可愛らしさを感じてしまった。 「でもその……疑うわけじゃないんだけど、一体どういう ことなの?」 春菜さんと香澄さんは、僕らから見ているとまるで姉妹みたいに仲が良い。それが、実は血がつながっていないなんて言われても、俄には信じがたい。 ましてや芹花も知らないなんて……水島さん一家をよく知っているだけに、そんな秘密を抱えていたなんて、とても信じられない。 「簡単に言うと……私にとって、お母さんは〈継母〉《ままはは》なの。 実のお父さんの再婚相手が、今のお母さん」 「私を産んでくれたお母さんは、その時にはもう 亡くなっていたの。だから別に、大きな問題は なかったんだけど……」 「は、はぁ……」 どこかで聞いたような話だと思う。香澄さんは立場的に、兄さんと似ているんだな。 ちなみにウチの、兄さんが僕や父さんと血のつながりがないという話は、少なくとも香澄さんたちは承知している。 兄さんが荒れていた時に、ことある毎にぶちまけていたから…… 「芹花ちゃんとは、お父さんが一緒だから、半分血が つながっている感じね。でもお母さんとは……」 「全然、そんな風には見えなかったよ……」 まったくの本心から出た言葉だった。 長い付き合いなのに、お隣の親子関係にまるで気づかなかった。気づかされなかった。 「お母さんが私のことを、実の娘だと思ってくれている ように……私も、お母さんのこと、大好きだもの。 ふふっ」 ふふっ、と笑う香澄さんは、まるで屈託がなかった。 「だからこそ私も、お母さんのために、できるだけの ことをしてあげたいの」 「そう……だったんだ」 僕には頷くことしかできない。 香澄さんが、なんであんなに再婚話に前向きだったのか、家族というものに気を遣うのか、その理由がようやくわかった。 「新しい家族が増えるなら……おじさまがお母さんの傍ら にいてくれて、雅人くんや真一くんもいてくれるなら」 自分の名前を呼ばれて、不意を衝かれた気分になる。 「私ひとりいなくなっても、大丈夫でしょう?」 「いなく……なる?」 「お母さんの手をもう煩わせたくないの。 だから今度こそ卒業したら、すぐに自立したくて、 こんな勉強をしているの」 香澄さんが、集められた本の一冊を手に取る。 さっきまで床に落ちていたハードカバー本の表紙を、彼女の白くて細い指がなぞる。 「自立って……家を出て行くってこと?」 「もしかしたら、将来的には……ね。 でもまずは経済的に独立したいと思ってるの」 「それが、春菜さんのため?」 「新しい家族、みんなのためでもあるわよ。 やっぱり経済的な負担って、大きいもの」 「…………」 香澄さんがさも当然のように口にするそれが、僕にはわからない。 家計のことなんて知らない。就職のことなんて、まだ考えてもいない。 あまりにも大きい、僕と香澄さんの『差』。 それは『距離』と言い換えてもいいし、『高さ』かもしれない。 とにかく僕は……香澄さんに、置いていかれている。何歩も先を行かれてしまっている。そんな気がした…… 「――このことは、みんなにはまだ内緒にしておいてね」 「私がそんな風に考えていると知ったら、お母さん、 きっとまた泣いて反対するわ。」 「う、うん…… だけど、いずれはわかっちゃうことなんじゃ……?」 就職活動をやっていれば、ばれないはずがない。そう思える。 香澄さんもそれはわかっているのか、少し困ったような表情を浮かべる。 「そうかもしれない……けど、今は、おめでたい話が進ん でいるところだもの。家族としての幸せな時間を、 大切にしたいわ」 「…………」 「だからお母さんにも、芹花ちゃんにも内緒。 これは、ふたりだけの秘密、だからね?」 「……うん」 「ありがとう、真ちゃん……」 また、弾みで飛び出す懐かしい呼び方。僕がまだまだ子供だから、かえって話しやすかったんだろうか…… 「お礼なんて……言わないでよ。 むしろ、僕なんかに話してくれて、ありがとう」 「こんなこと話せるの、私には真ちゃんだけだもの」 香澄さんが、頬を赤く染めながら恥ずかしそうに微笑む。 そう言ってもらえるのは、とても嬉しいけれど…… 「真ちゃんがいてくれて、よかった」 ああ、僕はやっぱり、『真ちゃん』なんだな…… 「……よっと。これでいい?」 香澄さんが使うことになった部屋に手分けして、さっき散らばってしまった本を運び込んだ。 ふたりがかりでも結構な分量で……改めて、香澄さんは勉強家なんだなって、そんな風に感じた。 「うん、ありがとう。助かっちゃった。 部屋の片付けまで手伝わせちゃって、ごめんね」 「いいよ。今日はそのためにいるんだし」 「ふーん……なら、あたしの部屋も片付けてもらおう かしら?」 「……芹花?」 「ま、絶対部屋の中になんか入れないけどねっ!!」 いつの間にかやってきた芹花が、強い口調で言いながら、部屋の中へと入ってくる。 埃が飛ぶからってドアを開けっ放しにしていたから、通りかかれば、僕らがここにいるのは当然気づく、か。 「まったく……女の子の部屋にヘラヘラ入ってるんじゃ ないわよ、このスケベ」 「そんな気持ちじゃないよ……」 「じゃあ、お姉ちゃんの部屋で何してたわけ? ふたりっきりで」 ふたりっきり、というところをやけに強調して絡んでくる芹花に、正直辟易してしまう。 「荷物が重そうだったから手伝ってたんだよ。香澄さんに だけ重い荷物、持たせるわけにいかないだろ?」 「何よ、それ。 あたしには持たせていいって言ってるみたいに 聞こえるんだけど」 「なんでそうなるんだよ。言ってくれれば手伝うよ」 「そう……あたしは、自分から言わなくちゃ、ダメなんだ」 「は?」 「自分から言わないと、あたしには優しくしてくれない わけ?」 「…………」 「何言ってんだよ? 優しくして欲しいの?」 「だ、バッ!?」 『誰がよバカ』を略して言いそびれたな、芹花。 「ね、ねぇ真一くん? 私の方はもういいから、 芹花ちゃんを手伝ってあげて、ね?」 「それはいいけど」 「結構よっ!! っていうか、なんかその態度がイヤっ!」 「イヤって……いつも通りのつもりなのに」 「いつも通りなのが、余計に腹立つ!!」 「そんな……」 「芹花ちゃん、真一くんは何も悪気なんかないわよ? ね?」 「う、うん……」 香澄さんが、いきなり僕の味方をしてくれたので、ちょっと戸惑ってしまう。 その微妙な空気が芹花にも伝わったらしくて…… 「何よ……ヘンにふたりしてベタベタしちゃってさ。 なんかあったの?」 「…………」 「…………」 僕と香澄さんは互いに顔を見合わせた。そして―― 「何も」「何も」 と、ふたりして頭を振った。 「ホントぉ~?」 「……うん」 芹花は念を入れるように、香澄さんをなおも追求した。……どうしても何かあって欲しいのか? 「とにかく、こんなところで油売ってないで、 早く全部片付けようよ」 「そ、そうね。ええ」 「……なーんか、怪しい…………」 と、言われても…… 「ん」 香澄さんにこっそり目配せなんかされたら、口をつぐむしかないじゃないか。 結局、僕が芹花の部屋を片付けることは断固として拒否されてしまったので、僕と香澄さんはキッチンやリビングの整理を始めた。 家族が急に倍に増えるとなると、食器を用意するだけでも大変だ。 「お茶碗とかって、この棚でいいのかしら?」 「うん、全部そこにまとめておいて」 「お箸は……」 「あ、その手元にある引き出し」 「ああ、ありがとう」 「どういたしまして」 「…………」 自分の部屋は自分で片付ける、と言って僕たちを近寄らせなかった芹花が、いつの間にかリビングに姿を見せている。 で、僕らのことをじぃーっと見ているものだから、なんというか……正直やりづらい。 「――ねえ、真一」 「なっ、何!?」 突然声をかけられてビクッと背筋を伸ばすと、芹花は手に持った何かを僕にグイッと押しつけてきた。 「これ、持ってて」 「げっ、重――って」 「ゴルフクラブ……!?」 「お父さんの形見。どこかに飾っておけない?」 おじさんのコレクションじゃ……それは、ないがしろにできないけど……なんだってこんな、いきなり? 「じゃ、じゃあ……テレビの横……?」 「ねぇ、真一くん、スプーンとかはここ?」 「えっと、そっちはお客さん用のやつがしまってあるから、 家族のやつはこっちに――」 「真一、これ持って」 「うぉっ!?」 今度はいきなり、何かを投げつけられた。反射的に受け取ったものの、これもひどく……重い!! 「に、日本刀!? どこにあったのこんな物!?」 「お父さんが、いつか真一を斬ってすてなさいって」 「縁起でもない!」 「お父さんって、そんなこと言う人じゃなかったと 思うけど……」 「……冗談よ」 ……にしても、わけわかんないよ芹花。 「で……あの、これどうするの?」 「あたしの部屋に飾る」 「……じゃあ、あとで運んでおくよ」 「今はやってくれないわけ?」 「だって芹花――」 自分で、部屋には近づくなって言っておいて、今度は持ってこいとか。しかも今は、香澄さんとこの辺りを片付けている最中で…… 「……とりあえず、テーブルクロスを片付けておくわね」 「あ、片方持つよ」 「あ、っと、ねぇ真一、これ!!」 「こ、今度は何?」 香澄さんの方へ行こうとしていた僕の襟首を片手で掴み、もう一方の手で芹花が突き出してきたのは…… 小さくて、古びた花瓶だった。 「……重くないよね、それ?」 「……重くはないわね」 「じゃあ、なんで僕に渡そうとしているの?」 「それは……その……」 「あら、その花瓶、押し入れの奥にあったやつね」 ……ほかの物も、押し入れの奥から引っ張り出してきたのかな。 「いい機会だから、その花瓶、玄関に置いてみたら どうかしら?」 「ああ……いいね。 ウチはずっと男所帯だったから、そういうのなかったし」 「あとでお店から、適当なお花を持ってくるわ」 「僕も一緒に行くよ」 「あ、じゃあ……ついでに買い物にも行きたいんだけど、 付きあってもらっていいかしら?」 「何を買うの?」 「そうね……さしあたって生活に必要になりそうな、 細々とした物ばかりだけど……」 「わかった。かさばるだろうから、僕が荷物を持つよ」 「ごめんね、ありがとう」 「…………」 「やっぱり、なんか怪しい……」 僕は香澄さんと、買い物に出かけた。 芹花が追いかけてくるかとも思ったけど、タイミング良く(悪く?)あいつは春菜さんに頼まれ事をされてしまい…… 「……考えてみたら、ふたりだけでお出かけするのなんて、 ずいぶん久しぶりね」 「そう……かもね」 芹花に引っ張り回されている時とは違う『年上のお姉さん』と並んで歩く感覚に……僕は、あまり慣れていなかった。 「で、えっと、どんな物を買うんだっけ?」 「具体的には、壁掛けフックとか、ハンガーとか、 突っ張り棒とかかしら?」 「かしら……って」 「新生活、ってなんだか物入りな感じがするじゃない?」 「そりゃあ……わからなくもないけど……」 どれも『あれば便利』というレベルで、慌てて買う必要があるとは思えない物ばかりだ。 「……もしかして香澄さん、何を買うか決めないで 出てきたの?」 「まぁ、そういうのもたまにはいいじゃない。 ちょっとした息抜きよ。ねっ?」 香澄さんは茶目っ気たっぷりに、舌を出した。真面目な感じの香澄さんが……珍しい。 「ほら、家の中、埃っぽかったし」 「あ~……うん、まぁね」 「さぼるつもりだってないのよ。 すぐに買って、すぐに戻りましょう?」 「……うん」 ――ふたりで秘密を共有したせいかもしれないけれど。 どことなく今の香澄さんは、芹花から逃げ出しただけのようにも、思えてしまった。 買い物は……そのための言い訳、みたいな。 雑貨屋さんをいくつかはしごして、帰る頃には日が暮れ始めていた。 そして気がつくと、僕の両手は荷物で一杯になっていた。 ……確か、必要な物だけを買って、すぐ戻るって言っていたような気がしたけど。 「すっかり遅くなっちゃったわね」 「だいぶお金も使ったような……」 「だって、可愛いのがたくさんあるんですもの! ついつい、あれもこれもってなっちゃうのよ」 香澄さんは反省を口にしながらも、顔は満足そうに笑っている。 その顔を見れば誰だって許してしまうだろう……そんな笑顔で。 「ところで、真ちゃん」 「ん……何?」 だいぶご機嫌なのか、僕のことをまた『真ちゃん』と呼んだ。ここまでくると、たぶん無意識なんだろうと思う。 「もうひとつ寄っていきたい所があるんだけど…… いいかしら?」 「え……? う、うん」 「本当? ありがとう!」 一瞬、まだどこか廻るのか……と思ったけれど、彼女がしたいと言い出したことを、否定する気にはなれない。 今だって嬉しそうに、満面の笑みで僕の手を引いて歩き出して……って! 「か、香澄さん?」 不意に握られた手に、彼女の温もりを感じてしまう。 柔らかくて温かい手に、鼓動が高まる。 「日が暮れる前に、早く行きましょう? ね?」 予想しなかった展開に、荷物を持った僕の脚がもつれる。けれど香澄さんはお構いなしに、どんどん先へ進んでいく。 「ちょ、待って、香澄さん!」 「ほらほら。早くしないと、置いていっちゃうわよ!」 「! くっそ――」 そんな風に言われたら、僕も必死になるしかない。 重い荷物を必死に掴みながら、香澄さんとつないだ手も放さないように―― 手を引かれているのではなく、手を繋いでるように周りに見せたくて…… 隣に並んで歩けるよう、脚を速めていた。 「……あれ?」 辿り着いたのは、近所の神社だった。 てっきり買い物を続けるのだとばかり思っていた僕は、思わずぽかんと口を開けてしまう。 「寄っていきたい場所って……ここだったの?」 「そうよ。 何か新しいことを始める前に、必ず来るようにしてるの」 「へぇ……」 香澄さんがそんなことをしているなんて、知らなかった。 「これまではどんな時に来てたの?」 「進級とか、進学とか、色々な節目の時はもちろんだけど、 それだけじゃなくて……そうね、セーターを編み始める 前にも来たわよ」 「へぇ……」 「本当にささいなことでも足を運んでいるから、 もうちょっとした趣味かもしれないわね」 「お参りが?」 「願掛け……の方が近いかしら、ふふっ」 鳥居をくぐると、木々の間から洩れる夕日に照らされた石畳が、キラキラと輝いていた。 境内には、僕たちのほかに人はおらず、閑散としている。 「静かね……」 「うん……」 「ここって、こんなにきれいな所だったかしら?」 「よく来てたんじゃないの?」 「そうだけど……」 不思議そうな香澄さんの様子に、僕も改めて辺りを見回す。 香澄さんほどではないはずだけど、僕も年に1~2回は訪れている。 だけど確かに今日は、いつもと違っているように見えた。 いつもと違う……いつもと…… 「あっ」 「何か、気がついた?」 「これ」 僕は、自分の手を少し上げてみせた。つられて香澄さんの手も上がる。 「あ……ごめんなさい、私ったら、つい」 僕たちはずっと、手を繋いだままだった。そうしていたことすら忘れてしまうほどずっと、自然に繋いだままで…… 「……これだけのことで、違う気持ちになるものなの かしら?」 「どう……なんだろうね。僕もよくわからない」 わからないからと、手に力を込めた。香澄さんも少しだけためらってから……手を繋ぎ直してくる。 引っ張って歩くようにではなくて、手の平をきちんと重ね合わせて指を絡めて…… 「…………」 「んっ……」 「手を繋ぐって、不思議ね」 「え……?」 「自分と他人の境界線がここにあること、わかる?」 固く結んだ手を持ち上げて、香澄さんは言った。 「境界線、か。 確かに、この手から先は香澄さんだって……どうしても 意識しちゃうよ」 意識すればするほど、鼓動が高まって……溢れそうになる気持ちで、胸の奥が洪水になりそうで…… 「そう、私たちは違う人間。 でも、こうして手を握り合うということは、互いに同じ 気持ちということでしょ?」 同じ気持ち…… 「それってすごいことだと思わない?」 「すごい……かもね」 香澄さんの気持ちは、どこまで僕と同じなんだろう? 僕のことを『弟』のようなものだって言っていた彼女が、どうして急にこんなことを言い出したんだろう? ひょっとして……この、手を繋ぐということすら、彼女にとっては『家族ですること』……? 「――香澄さん!」 「なに?」 「……いや……ごめん、なんでもない」 衝動に駆られても、結局今の僕には何も言えない。聞くことができない。 「ん……」 ただぎゅっと、香澄さんが握り返してくれる手を、放さないようにするのが精一杯で―― 「遠慮なんてしないで」 「え……」 「なんでも言って。なんでも話して。なんでも聞いて」 「真一くんは、私の……ううん」 言葉を紡ぐよりも先に、香澄さんが僕の存在を確かめるように、手を握り直す。 「真一くんと私は、秘密を知っている仲、でしょ?」 「……うん」 「じゃあ話して。真一くんも、隠し事はなしよ」 「そう……言われてもなぁ……」 正直、僕自身まだよくわかっていない。 急に家族になると言われて、弟扱いされたくなくて、甘えたり甘えられたりなんて考えている真っ最中の、この人のことを僕は―― 「ごまかさないで」 「ごまかしてなんかないって」 「ウソ。お姉ちゃんには、お見通しです」 「……ううん。やっぱり、わかってないよ」 「えっ?」 「ここで『お姉ちゃん』なんて言い出すのは、ずるいよ」 「ずるい、って?」 「僕にとって香澄さんは、家族とかそれ以上に、 大切に思える人なんだから」 「え――」 「あ――」 見開かれた香澄さんの瞳と、僕の瞳が真っ正面から見つめ合ってしまって……早鐘のように心臓が脈打つ。 「いや、だから、その……」 「…………」 「…………」 「…………」 「……こ、子供の頃から、実の家族以上に、お姉ちゃんと して……って意味で、さ」 身を切るような気持ちで、吐き出すようにそういった。 「そ、そんなことより、早くお参りしない? 遅くなったら、みんなに悪いよ」 「もう……真ちゃんったら、またごまかして……」 香澄さんはその表情に不満を残すものの、それ以上の追及はしないでくれた。 ただ、僕のことを『真ちゃん』と呼んだことと…… 繋いだままだった手の平に、じんわりと汗をかいていたことだけが、彼女の心が揺れた証拠だった。 お賽銭を投げ込んで、手を叩いて、合わせる。 ……………… ………ま、こんなもんかな。 お参りにも正しいやり方があるらしいけど、いつも僕はその程度で済ませてしまう。 僕とは対照的に隣の香澄さんは、なんだかそれっぽく深々と頭を下げていて、手を合わせている時間も、長かったような気がする。 やがて、神様への挨拶が済むと、彼女は前を向いたまま、僕へ礼を言ってきた。 「ありがとう……その、付き合ってくれて」 「ううん、とんでもない」 僕の目を見ずに口にした『ありがとう』は、少しだけいつもと違う感じがして…… 「ねぇ、真一くんは、何をお願いしたの?」 「え゛……そ、それを聞くの?」 「ダメ……? もしかして、聞いちゃいけないような ことを、神様にお願いしたの?」 「ま、まさか! そんなことないってば!」 「じゃあ、どんなお願いしたのか、聞かせて欲しいな」 「……大したことじゃないよ」 普段から香澄さんの様な信心深さも、持ち合わせない僕には、特に願掛けするようなこともない。 ……あったとしても、それは神様にお願いするようなことじゃないだろうし。 単純に……僕の問題だから。 だから…… 「僕は、香澄さんの願掛けがうまくいきますようにって、 そうお願いしたんだ」 「それは……」 「それはあまりよくないわ」 「え……?」 「真一くんは、真一くん自身の願い事をしなくちゃ ダメよ……」 「そんな……僕は……」 香澄さんが喜んでくれると思って、そうした。なのに…… 「私のことなんか、いいのに……」 「よくないよ。例えば……そう、少なくとも僕より確かな 目的があるんだから、それが叶うようにって」 香澄さんの目的――就職。服作り。 ふたりだけの秘密に抵触するような言葉を吐いた僕を、彼女は少しだけ咎めるように見つめた。 「目的なんて……真一くんにだって、そのうちできるわ」 「そんな……僕にはそういうの、思いつかないよ」 「だからって、私が特別ということでもないでしょ? 重要なのは、真一くん自身が後悔しないこと」 「僕が……後悔?」 「そうよ。あの時、別のお願い事をしておくんだったって、 後悔しないように」 「僕が、後悔するとしたら」 「ん?」 「……それはもっと、前のことだよ」 自制心という急ブレーキがタイヤの跡を残す様に、僕は掠れた声で、呻くように、そう答えた。 香澄さんはわからないのか、それとも……わからないようにしているのか、首を傾げている。 家族になることに対する葛藤や…… 手を繋いだ時に感じた想い…… 口から溢れ出そうになった感情を…… 僕はどうしてもっと、早く自覚できなかったんだろうっていう、後悔なら……もう、あるんだ。 「春菜さん、おかわりお願いしてもいいですか?」 「マ・マ・よ、雅人くん」 「ママ、おかわりお願いします!」 「はい、どれくらいにする?」 「とりあえず、普通にもう一杯」 「じゃ、山盛りね」 「いや、あの、はる……は……ママさん?」 「うふふ、たくさん食べてくれて、ママ嬉しいわー♪」 「はは、は……」 朝から引っ越しの手伝いやら何やら力仕事をこなしていた兄さんが、ひどくお腹を空かしていたのは確かだ。 に、しても……おかずもたっぷりだし、このペースで食べさせられ続けたら、太るんじゃないかな。 食べられれば、だけど。 「…………」 心身共に疲れているはずなのに、食欲がわかない。おいしい春菜さんの料理が、喉を通らない。 「ん……」 ちらりと香澄さんを見ると、あまり普段と変わらない様子で食事をしていて…… 結局、自分ひとりで悩んだり苦しんでいるような気分に陥る。 「むー……」 ……ああ、もうひとりだけいた。面白くなさそうな顔をしているのが。 「それにしても、ずいぶん色々と運び込みましたね」 「女が暮らすには、あれくらい必要なのよ。 雅人くんもその内わかるわ」 「ははは、そう願いたいもんです」 「ふたりとも、本当にご苦労だったね。ありがとう」 「父さんこそ、ひとりで店、廻してくれたんだろう?」 「杏子ちゃんが手伝ってくれたよ」 「へえ?」 姿が見えないと思ったら、そうだったのか。 「杏子ちゃんもありがとう、助かったよ」 「ん……」 杏子は恥ずかしそうに頷いて、俯いてしまう。……接客、ちゃんとできたのかな? 「今日ぐらい休めばよかったのに……とも言えないか」 「ああ。こうして家族も増えたことだし、しっかり 働かないとな」 「そうだよな……休んでばっかじゃ、売り上げに響くもん なぁ」 「売り上げ……」 家の収入のこと、父さんも兄さんも、やっぱりちゃんと気にしているんだな。 香澄さんの話を聞いていなかったら、これまでのように聞き流していた会話かもしれない。 父さんたちには見えていて、自分には見えていなかったことが悔しい。 というか、経済的な問題に頭が回らなかったなんて、男としてかなりダメなんじゃ…… 「ま、辛気くさい話は、食事しながらするもんじゃないね。 やめやめ」 「ああ。あくまで気持ちとしてだしな、みんなが心配する ようなことじゃない」 「…………」 「そうよ。子供の内からそんなことを気にしていたら、 まっすぐ育たないわ」 「…………」 子供だから、気にしなくていい。それは裏を返せば、一人前として認められていないということで…… 「――僕もなるべく、店を手伝うようにするよ」 「本当に、気にしなくていいんだぞ?」 「今までもやっていたことに、改めて気合いを入れるだけ だよ」 せめてこれぐらいのことは、言っておきたかった。 香澄さんがどんな気持ちで春菜さんを手伝っていたのか知った今、例え子供扱いされていようとも、そのまま甘えていたくはない。 「…………」 「真一くん、優しいのね」 「そんなんじゃないです」 「――そうね。真一がそんな、気が回るわけないもの」 「……どうしてさ?」 急に割り込んできた芹花の口調には、トゲがあった。 相変わらずご機嫌は斜めに下り坂のようで、僕に冷めた視線を投げつけてくる。 「心配するなって言ってるんだから、あたしたち子ども組 は子供らしく、青春を謳歌してればいいのよ。パンが なければコメを食うようなものだわ」 「その表現は、微妙に遠い気が……」 「真一は細かいこと気にし過ぎ!」 「大体、本気で家計を助けたいなら、〈他所〉《よそ》で バイトした方が直接収入につながるじゃない」 「そりゃそうだけど、外でバイトなんて」 「やったことないからできないって? 甘いよね」 芹花は口は悪いけど、僕のことを見下したりするような子じゃなかった。 それが今は、僕をまるで負け犬みたいに見ているように思える。 「……店の手伝いと、芹花の相手でこれまで忙しかったん じゃないか」 「そんなの言い訳にしか聞こえなーい」 「なっ……!」 「ちょっと芹花ちゃん、どうしてそんなに真一くんを 悪く言うの?」 横で不安そうにしていた香澄さんが、僕を庇う。 けれどこの場合、それは火に油を注ぐようなものだ。 「お姉ちゃんこそ何よ、真一を甘やかし過ぎだって、 気づいてないの?」 「いつも真一くん真一くんって、ベタベタしちゃって…… そんなんだから、あたしには……」 「それは……私が悪いんであって、真一くんが悪いわけ じゃないでしょう?」 「たった今さっき、真一も共犯になりました!」 「何それ?」 「どうせ真一は……お姉ちゃんにいいとこ見せたいだけ なんでしょ?」 「な、なに言って……」 「…………」 そんなつもり……ないわけでもなかった。図星を衝かれたって、こういうことなんだろうな。 「ホント……わかりやすいのよ、あんたは!」 芹花は、僕たちが呆気にとられる勢いで立ち上がり、嵐のようにリビングから出て行った。 「なんだよ、芹花の奴……」 「真一くん、ごめんなさい……」 「いや、香澄さんが謝ることじゃないし」 食事を終えて……僕たちはまっすぐ部屋に戻る気にもなれず、廊下で立ち話をしていた。 「芹花ちゃんを説得できないでいるのは、私もお母さんも 気にしていて……」 まだ再婚を、僕たちと家族になることを納得できないでいる――要するにそういうことなんだろう。 だけど…… 「それにしても、あいつ、ちょっとイライラし過ぎだよ」 芹花はただ周囲に当たり散らしている、そんな印象がある。そして、昔から文句の言いやすかった僕は、格好のターゲットというわけだ。 「それは……私のせい、なのかもしれないわ」 「そんなことないよ、香澄さんは芹花のこと、ちゃんと 考えてあげてるじゃないか」 だから、香澄さんが責任を感じる必要なんてない。 そういう意味では、芹花のイライラを引き受ける相手は、やっぱり僕でいいんじゃないかと思えた。 何より僕は、芹花の知らない事実を知ってしまった。おかげで少しだけ、香澄さんたちの家族関係を、違った視点で見られるようになった。 もしかしたら、香澄さんと同じ視点で……だったら、香澄さんの手を煩わせる必要もない、僕が芹花の鬱憤を引き受けてもいい……そんな風にさえ思えた。 これで少しは、香澄さんのことを甘えさせてあげられる、楽をさせてあげられる……助けてあげられるなら。 「ちょっと、芹花の部屋に行ってくるよ」 「え……? それなら私が」 不安そうな顔で香澄さんが聞き返してくる。 「ううん、僕だけでいいよ」 「う、うん……」 香澄さんが僕を心配してくれるのは、嬉しい。けれどそれに、甘えていたくないんだ。 「あの……真一くん」 「何?」 「私は……何があっても、あなたの味方だから……ね。 それだけは忘れないで」 「……ありがとう、すごく嬉しい」 例え弟としてであっても……こんな言葉が聞けるなら、今の状況も悪くない。 そして……そんな言葉にふさわしい人間にならないと、な。 「芹花、いる?」 僕がドアをノックしてしばらくして…… 「……何しに来たのよ」 不機嫌そうな声を出した芹花だったけど、案外あっさりと、部屋に招き入れてくれた。 「まだ、片付け終わってないんだけどー」 「……手伝おうか?」 「結構です。で、何しに来たの……ってまぁ、わかっては いるけどさ。まだ何か文句があるの?」 「僕がわざわざ、そんなことすると思う?」 「思わない。昔っからいっつもそう。ケンカしても何して も、結局あんたは自分から引いちゃって……張り合いが ないったらありゃしない」 「そうなんだけど……ね」 その辺りは、お互い様だと思う。 芹花も普段ならあまり怒りをあとに引かない。今みたいに不機嫌そうではあっても、結構落ち着いている。 ただ今回は、お互いに置かれた状況が状況だから、すぐ怒ったり落ち着いたりと、手に負えないテンポなだけで。 「できれば一度とことん、話し合った方がいい気がする。 悩み事があるなら聞くし」 「何それ? お姉ちゃんに何吹き込まれてきたのよ?」 「吹き込まれてなんかいないよ」 「どうだか」 芹花は僕を相手にする気にもなれないのか、まるで僕がこの場にいないように、部屋の片付けを再開した。 「香澄さんは面倒見がいいから、僕のことを庇ってくれる けど……それは関係ない」 「…………」 「僕だって、いつまでも『お姉ちゃん』に甘えていたく ないんだよ」 「……それで?」 芹花はこちらを向こうともせず、手も休めない。話の続きを促してくるってことは、耳だけは傾けてくれているようだけど…… 「僕が悪いなら謝るからさ……」 「――っ!」 その言葉に何か引っかかったのか、芹花は面倒そうに顔を上げて、やっと僕に向き直ってくれた。 ……と、その手も同時にすっと上がっていた。 「真一に謝られたいわけじゃないわよ!!」 ――殴られる!? ところが、身構えた僕はそのまま、芹花にドアへと押し付けられていた。 「ねえ、よく考えてみてよ? あたし、真一に怒ってるわけじゃないよ?」 「それなのになんで真一が謝るの? そんなの意味不明よ、 謝られたりしたら、八つ当たりしてるあたしが惨めじゃ ない!!」 「八つ当たりって……じゃあ、何に怒ってるんだよ?」 「怒るっていうか……怒るっていうか、ね」 僕のシャツを握り締める芹花の拳に、力が入る。 「あんたが……お姉ちゃんのことしか見てないのが、 悔しいのよ!!」 「な――」 「何……言ってるんだよ。芹花に、そんなこと関係な――」 「――っ!」 芹花は容赦なく、僕のシャツを掴んだまま、何度も何度も胸に拳を打ち付けてきた。 なのにちっとも……痛くない。力が入っていない。 「芹花……?」 「もういいっ! 出てけ、ばかっ!!!」 叫んだ芹花がようやく僕の身体を解放して―― 僕を廊下へと押し出した。 「芹花っ!」 何もろくに話せていないのに、この様じゃ…… 「香澄さんに笑われる……」 本当に笑ったりはしないだろうけど、がっかりはされるだろうな。やっぱり、頼りない……って。 「あ……」 また、香澄さんのことばかり考えていた。芹花にあんなことを言われるわけだ。 「あんたが……お姉ちゃんのことしか見てないのが、 悔しいのよ!!」 「でも……悔しいって、そんなこと」 ――僕は、香澄さんに弟としてしかみられないことが、悔しい。 ――相手に認めてもらえない自分が、悔しい。 ――じゃあ、芹花が認めて欲しい相手……は…… 「あ……」 「あんたが……お姉ちゃんのことしか見てないのが、 悔しいのよ!!」 頭に浮かんだ考えを、認めたくない。 認めたらそれこそ、家族にはなれない。なってはいけない…… こんなのは妄想だし、だって誰がそんな、自分が誰かに想われているなんて、自惚れられる……? 「俺はいつお前らがくっつくのかと、ずっと見守ってきた んだぜ?」 「だから……そんなこと、ないから」 あるわけないさ……そんなこと…… もしそうだとしても……どうにもならないじゃないか。 「さて、今日も一日お疲れさんでした」 「お疲れ」 「お疲れ様」 「お疲れ様です……」 杏子も手伝ってくれての、本日の営業は終了。 ……正確に言うと、僕がうまく立ち回れていなかったのを見かねて、杏子が助っ人に出てきてくれたんだけど。 「大丈夫……?」 「うん。もう平気。ごめん」 「んーん」 杏子はなんでもないような顔で、家の方へと戻っていった。 「……はぁ」 昨日、芹花に言われた言葉が、ずっと引っかかっている。 そのせい……にしてはいけないんだけど、杏子にまで心配されてしまうほど、今日の僕は役立たずだった。 「早く休めよ」 「うん……」 「青春の苦悩は、寝て食って遊んで、ぱぁっと発散する のが一番だぞ!」 「……兄さん、なんだか宗太みたいなこと言ってるよ」 「げっ……あいつと同レベルなのか、俺?」 ややショックを受けている様子の兄さんはさておき、父さんが店に置いてあるカレンダーを気にしていた。 「明日は……」 「あぁ、定休日だね」 「そうなんだが……開けようかと思っている」 「シーズンだから?」 「ああ」 この前も少し話に出たけど、今は観光客もそれなりにやって来る時期だし、売り上げを少しでも多くしておきたい状況にもなった。だから―― 「それなら、手伝うよ」 「だな」 兄さんも僕も、自然とそんな言葉を口にしていた。けれど父さんは、ゆっくりと首を左右に振った。 「私ひとりでいい、お前たちは休め」 「いやいや、そういうわけにもいかないだろ。 真一はともかく」 「いやだって、僕も」 「心の迷いが晴れたら、な」 「…………」 「そうそう。さっきも言ったように、みんなでぱぁっと 遊んで、なんだか知らないが溜め込んでるもの発散して こい」 「みんなで……かぁ」 その内のひとり……ふたり、かな。とても顔を合わせづらいから、できれば今日みたいに一日店番をしていたかったんだけど。 それも、オーダーの間違いやグラスを落としたりなんていう、初歩的なミスを繰り返していたら、足手まといだからと追い出されるよな…… 「はぁ……」 「ま、明日になったら何か変わっているかもしれないしな。 状況次第ってことでいいんじゃないか?」 「……そうだね」 兄さんの言葉にこの時、根拠なんてまったくなかっただろうけど…… 「明日になったら……何か変わるのかな?」 もしくは……明日と言わず、今日にでも、何か変えたい気分だった。 家の方へ戻ると、ちょうど香澄さんが帰って来たところに出くわした。 ……うん『帰って来た』なんだよな。 香澄さんたちは昼間はこれまで通り“すずらん”を営業して、夜になるとウチで過ごしている。 「……お帰り」 「ただいま。お店の方はもういいの?」 「うん。香澄さんの方は?」 「こっちも片付けてきたところよ。ひとりだったから、 少し時間かかっちゃって」 「あれ、春菜さんや……その、芹花は?」 芹花の名前を出す時に、少し身構えてしまったのを香澄さんに悟られなかったかな? 昨日何を話してどうなったか、結局伝えていないし…… 「お母さんにはしばらく、主婦業というか……新妻ね。 それに専念してもらおうと思って、今日はこっちで キッチンを使いやすいように整理していたはずよ」 「そう、なんだ」 微笑む香澄さんを見ていると、どうも僕と芹花のことを今ここで追求するつもりはないらしい。 それは……信頼されているからなのか、それとも…… 「芹花ちゃんは……そういえば、おかしいわね」 急にその表情が、心配そうに曇る。 「学校に用事があるからって、出かけていったきりよ。 まだ戻ってない?」 「僕は……会ってない。部屋にいるかも」 「そう……だといいけど」 そう言いつつ、香澄さんは廊下を歩いて下へ――リビングの方へと向かった。 「お母さん、芹花ちゃんは?」 「生徒会の子たちと一緒にご飯を食べるから、 夕飯いらないって、さっき携帯にメールがあったわよ」 「え、メール?」 「ええ。そっちには、いってない?」 「うん……」 香澄さんが自分の携帯を取り出し、確認していた。 けれど望む結果は得られなかったらしくて、ため息をついている。 「いつもなら、私にも一緒に連絡してくれるのに……」 昨日の影響かな……と思うのは、思い上がりだろうか? 僕たちが遅めの夕食を終えても、芹花は帰ってこなかった。 「…………」 香澄さんが、いかにも心配そうにちらちら時計を気にしているのを見ていると、やっぱり自分のせいなんじゃないかと責任を感じてしまう。 父さんたちは思い思いにくつろいでいる。人数が増えた、一家団欒の光景……その中に、芹花だけがいない。 画面には、色とりどりの魚たちが泳ぎまわる、美しい青い海が映し出されている。 「綺麗な海ね……これ、どこ?」 「……セントビンセントおよびグレナディーン諸島」 食い入るようにテレビを観ていた杏子が、顔を向けずに答えた。 セントビン……長い名前だな……本当に地名なんだろうか? 「どこにある島の名前なんだい?」 「カリブ海……」 「まぁ、カリブ海なんて素敵ねぇ。憧れるわ~!」 「杏子ちゃんは、海が好きなのかい?」 「……きれいなお魚がたくさんいるから」 こくり、と頷いて、杏子は好きだという意思を示した。 「できればこんなところへ、みんなで旅行したいわね」 「うん……まとめて休みが取れる時期ならね」 「そんなこと言っていると、機会を逃すわよ。家族が 揃って旅行できるのなんて、きっと今の内だけなんだし」 「どういう意味だい?」 「香澄も雅人くんも、すぐに結婚して家庭をもつかもしれ ないじゃない」 「いや……は、春菜さん?」 「そうしたらふたりとも真面目だから、きっと自分の 家族にサービスするのに一生懸命になっちゃって、 実家になんか戻ってきてくれないわよ」 「ちょ、ちょっとお母さん……」 会話に参加していなかった香澄さんだけど、さすがに居心地悪そうに、春菜さんを止めようとした。 でも、飛躍する春菜さんの想像は止められない。 「まだ早いなんて思ってるかもしれないけど、ふたりとも そろそろ真面目に考えなければいけない歳よ?」 「は、はは……」 「私はまだ、結婚なんて……」 そうか…… 僕たちはまだこれから、受験だ就職だってそんな選択をやっとするところなのに…… 香澄さんはそのさらに先の選択が、もう提示されているんだな…… 「月日なんてあっという間に経ってしまうわ」 「『今』の想い出は『今』の内に残しておかなきゃいけ ないの」 旅行の話に戻った……にしては、春菜さんの言葉には少し重みがあった。 それは……ついこの間までは、『今』こうして家族になっているとは思ってもいなかった、僕たちだからこそ感じる何かだったのかもしれない。 「ふむ……」 しばらく考え込んでいた父さんが、おもむろに口を開いた。 「明日……海に行こうか。みんなで」 「真彦さん……」 父さんは春菜さんの呼びかけに、顔を向けただけで…… それで十分なのか、春菜さんは嬉しそうに頷いた。 「なら、店番は引き受けた」 「いや、みんなで行こう。聞いただろう? 『今』しか つくれない想い出というのは、あるものだ」 「あ、まぁ……そうだな」 「元々定休日なんだ。みんなで羽を伸ばそう」 「そうと決まれば、腕によりをかけてお弁当用意しなくっ ちゃね」 「カリブ海でないのが、申し訳ないが……」 「いいのよ、そんなの」 春菜さんはご機嫌で、さっき夕食の後片付けを終えたばかりだというのに、再びキッチンへと向かっていった。 ほかには、杏子が嬉しそうに顔をほころばせている。 「よかったね杏子ちゃん、海に行けるって」 「うん……!」 「まぁ、そこの海には熱帯魚いないけど……」 「みんなで遊べるから、そこの海も好き」 杏子にとっても、熱帯魚よりも『みんなで』ということの方が、重要みたいだ。 「さて、今から支度するとなると、結構やれることが 限られるなぁ……」 「そうだ、真一」 「何?」 「何か、みんなで遊べるようなアイデアなり、道具は ないか?」 「うーん……そういうのは、宗太の得意分野だからね。 相談してみた方が早いかも――」 「ただいま」 「芹花ちゃんっ」 ようやく帰ってきた妹に、香澄さんがほっと息をつく。 けれども…… 「…………」 芹花は香澄さんとも、そして僕とも、目を合わせようとしない。 「遅かったんだね。生徒会、大変なのかい?」 「まぁ、ね。 今日はずっと、打ち合わせと称してのカラオケと、 ファミレス居座りコースだったけど」 「…………」 父さんには、明るく受け答えする芹花。 だけどなんだか、無理をして家にいないようにしたんじゃないか……僕にはどうしてもそう思えてしまう。 「…………」 と、気づけば芹花がこっちを見ていて…… 「……!」 慌てて視線を逸らした。……なんなんだよ、もう。 ヘンに意識しているような……やっぱり、そういうことなのか……? ――いや、芹花に限ってそれはない。 ……はず、なんだけど。 「…………」 「ところで芹花ちゃん」 「………あ、はいっ?」 「明日、みんなで海に行こうと思うんだが」 「みんなで……ですか?」 「できれば、家族みんなで行きたいんだ」 チラッ――一瞬だけ、芹花が僕と……そして香澄さんを見た。 「?」 「はぁ……」 そして、諦めたようなため息。 「……わかりました。『みんなで』ですもんね」 「ああ、ありがとう」 父さんは、ようやく芹花が馴染んできてくれたとでも思っているのかもしれないけど…… 「…………」 僕は、気が気じゃないよ…… 「で、愛と遊技の伝道師である、この俺に相談してきたと」 「微妙に悪いことをしている人のように聞こえるのは、 気のせい?」 「失敬な! お前は気の迷いが多すぎるから、そんな風に 聞こえるんだ!」 「…………」 気になることが多いのはまったくその通りなので、言葉が出ない。 とはいえ、宗太に電話したのは、兄さんに相談された遊びに関してだけだ。 芹花のことは……言っても、冷やかされるだけだろうし。 「さて本題に戻ろうか。今からじゃあ確かに、道具を 新たに調達する時間も、何か仕込む時間もないからな」 「宗太……明日、海岸に来て穴を掘ったりしないでよ」 「なぜばれたっ!?」 仕込むとか言うから…… 「ま、そんな冗談はさておき、単純にスイカ割りとかで いいんじゃないか?」 「スイカ割りか……」 「店の方で常備してるんだろ、この時期」 「確かにね」 この時期限定メニューとして、スイカのシャーベットにもなるし、常連さんの中には、そのまま切って出してくれという人もいる。 最近話題によくのぼる売り上げのことを考えれば、あまり店の商品に手をつけたくはないけれど…… 海へ行くことを決めた父さんの様子からすると、家族サービスってことであっさりOKしそうだな。 「……わかった、考えてみる。ありがとう宗太」 「いやいや、そ~いう話ならいつでも受け付けるのが、 生徒会長の久我山さんだからな。任せとけって」 「でも、この次は俺や雪下さんも誘ってくれよ。 ……あと、芹花によろしくな」 「あー……芹花と今日、会った?」 「会った」 「いつも通り、とは言えなかったな。 カラ元気157%っていうところか」 「……カラ元気なのに、100%超えなんだ」 「要するに、無理して明るく振る舞っているように、 俺には見えたってことさ」 「何があったか知らないけどさ。明日一緒に海へ行くん なら、ちょっと元気づけてやれよ」 「……僕にそれができるならね」 今の状況だと、僕が何か話しかけても、逆効果な気が…… 「……結構、深刻な状況なのか?」 「それすらもわからない……というか、まぁ、どう受け 止めていいのかわからない……っていう感じかな」 「香澄さんに相談は?」 「まだ、だけど……そこで香澄さんに頼るのは、ちょっと」 余計な心配させたくない、という気がする。 「芹花のことを相談しない方が、よっぽど香澄さんには 悪い気がするけどなぁ」 「…………」 「……ま、健闘を祈る。いざとなれば、お前の代わりに 芹花にどつかれる役は、引き受けてやるよ」 「……期待してるよ、じゃあね」 「おう、お休み」 「……ふぅ」 携帯を切って、ベッドの上に放り出す。 「芹花が……まさか、ね」 「あんたが……お姉ちゃんのことしか見てないのが、 悔しいのよ!!」 突然あんなこと言われても…… 「僕にどうしろっていうんだ……」 香澄さんに対するこの気持ちと…… 芹花に対する気持ちは…… 「同じじゃ……ないんだから、さ」 「……はい?」 こんな時間に……誰だろう。 「私だけど……少しお話ししてもいい?」 「香澄さん!?」 僕は少し驚きながらも、すぐにドアを開けた。 「ど、どうぞ」 「こんな遅くに、ごめんね」 「ううん、構わないけど、どうしたの?」 「真一くんに話すのが、一番いいと思って……」 「話? なんの?」 「芹花ちゃんのことなんだけど」 「あ、ああ、うん」 「どうかしたの?」 「いや、僕もちょうど考えていたところだったから……」 「そう……」 「やっぱり昨日の夜、何かあった?」 「あ……うん」 それはやっぱり、そう思うよな。ここまで聞かないでいてくれたのは、香澄さんなりの気遣いというか……いつもの優しさだろう。 「今日、遅かったことはともかく……やっぱりどこか、 態度がおかしかったから」 「うん……」 「本当は、真一くんか芹花ちゃんが、自分から言い出して くれるまで待つべきだったんだけど……気になって しまって」 「いや……うん、そうだと思う」 「だから……教えて。芹花ちゃん、何かひどいことを 真一くんに言ったの?」 「う、ううん、そういうわけじゃ……」 「なら私のこと、何か怒ってた? だったら遠慮しないで、 正直に教えて」 「いや、そういうわけでもなくて……」 「隠さなくていいし、気を遣わなくてもいい。 私、真一くんと芹花ちゃんのためなら……」 どうしよう……? 香澄さんは純粋に、僕と芹花のことを心配してくれている。それは、今にも泣き出しそうな彼女の顔を見れば、わかる。 だけど……芹花の言葉をそのまま伝えて、いいものか…… 「私は……芹花ちゃんと、家族でいたいの。本物の家族の ままで」 「香澄さん」 「例え将来的に家を離れることになっても、お母さんや 芹花ちゃんとのつながりが切れるわけじゃない」 「虫のいい考え方かもしれないけど、離れてもずっと つながっていたい。そう思っていた」 「だから……今みたいに、近くにいるのに遠くにいる みたいな……芹花ちゃんの気持ちがわからない 状況が……イヤなの」 「…………」 「お願い、真一くん……」 すぅっと……香澄さんが、僕の胸に頭を預けてきた。自然な動作で倒れ込んできた彼女を、反射的に受け止める。 「…………」 「…………」 髪から、うなじから、甘い香りが漂ってくる。 昔──あの時のようにもたれかかってきてくれた香澄さんに、僕は……ウソをつきたくなかった。 「……芹花は、こう言ってた。僕が、香澄さんのことしか 見てないのが、悔しいって」 「え――」 「確かに、そうかもしれない。僕は今も、芹花の心配より、 香澄さんのことを心配してる」 「真一……くん」 彼女の二の腕を支えている僕の手に、温もりと……香澄さんの発する鼓動が伝わってくるような気がする。 もちろん錯覚なんだろうけれど……彼女の甘い香りと、その熱に、我を忘れそうになってしまう。 「芹花ちゃんが……そんな風に思っていたのなら」 「私……こんな風にこっそり、真一くんと会うべきじゃ ないのかしら」 「え……あ」 すっ――と、香澄さんの熱が遠ざかる。 彼女が、僕から一歩離れていた。僕が支えていた手から、逃れるように。 「真一くんも、芹花ちゃんも、私は大事だから……」 「…………」 「そんな答えは、ずるいのかしらね……」 「……香澄、さん?」 「……やっぱり、芹花ちゃんに怒られるべきは、私だわ」 「香澄さん、何を言って──」 「私は……悪いお姉ちゃんだっていうことよ」 「香澄さん……」 部屋に微かに残された彼女の香りが……急速に消えていった。 ――翌日。 僕らはみんなで、海にやってきた。 恨めしくなるほどの青空に、悔しいぐらい心地よい風。残念ながら絶好の行楽日和だった。 「シートはこの辺でいいかな」 「ああ――真一!」 「ん……」 「パラソルを立ててくれ……って、昨日より元気ないな? 大丈夫か?」 「たぶん……」 芹花だけでなく、香澄さんともなんだか気まずい…… 言葉と裏腹に、こんな状態じゃあ、今日という日を楽しめる自信がまったくない。 「みんな~、飲み物買ってきたわよぉ!」 「…………」 ここへ来るまでの道でもそうだったけど、香澄さんはいつもと変わらない様子で…… 「杏子ちゃんは、オレンジジュースでよかった?」 「うん……ありがとう」 夕べ彼女を一瞬でも抱いて支えたのは、夢だったんじゃないかって思える。 「真彦さん、ビール買って来ちゃった♪」 「お、いいね」 親ふたりは、敷いたばかりのシートの上に陣取って、さっそく乾杯している。……着替えてもいない。 「ふぅ…… さて、私たちがここで荷物番をしているから、みんなは 着替えておいで」 「あら、いいの?」 「私たちはここでゆっくりしているわ」 「……ありゃあ『邪魔するな、ふたりっきりにしろ』って ことだな」 「……それなら、任せようか」 元より邪魔するつもりもない僕たちは、各々水着やタオルを持って、海の家の更衣室へと向かうことにした。 「ホント、仲良いわね。ちょっと妬けちゃうかも」 「うん……」 「結局、あのふたりが新婚旅行に来たかっただけなんじゃ ないの?」 「う、うん……」 「……別に、あんたに答えて欲しいなんて、言ってない」 うぅ……気まずい。 「まぁいいじゃないか、今日ぐらいは。あの気持ちだけは 若いおふたりに、付き合ってあげようじゃないか」 「まぁ、ひどい」 「…………ふん」 芹花はひとりでさっさと、更衣室へ向かった。 「…………」 香澄さんが努めて普段通りにしているだけに、なんだか余計に……辛いな。 「まだまだ気晴らしは始まったばかりさ。終わる頃には、 芹花ちゃんの機嫌も直ってるんじゃないか? 何しろ こういう遊びは大好きな子だし」 「まぁ、ね」 そのためにわざわざ、宗太に相談して父さんに頭を下げて、店にあったスイカを持ち出しても来たんだし。 「ところで真一、スイカは? 持ってくるって言っていた 割には、見かけなかったが」 「え? クーラーボックスの中だけど」 「クーラーボックス? ……って、まさか、玄関に置いてあったやつか?」 「そうだけど……?」 「っちゃ……まいったな」 「どうかしたの?」 「すまん……忘れた」 「え!?」 「ホントすまん……うっかりしてたよ。 ちょっと戻って、取ってくるわ」 「今から?」 「大した距離でもないからさ。 先に着替えて遊んでてくれ!」 ……行っちゃった。 「そんなに責任感じなくても、いいと思うんだけど…… スイカがないならないで、何か別の遊び方を考えれば いいんだし」 「うん」 「でも、兄さんは止めても聞くような人じゃないし……」 それよりも。 「まぁいいじゃない、スイカは雅人くんにお願いして、 私たちも着替えましょう?」 「……そうだね」 おかげで少しだけ香澄さんと普通に話せたことの方が、我ながら現金だと思ったけど、嬉しかった。 着替えた僕たちは、兄さんが戻ってくるまでの間、一緒に時間を潰すことにした。 杏子は何が面白いのか、波打ち際にひとりでポツンと立っている。 「……何してるの?」 「足の裏、ぞくぞくする……」 どうやら、引き波に足の裏の砂がさらわれてゆく感覚を、楽しんでいたらしい。 「この海、ほとんど変わってないね……」 「あー……うん。そうだね」 子供の頃にもこうして、ふたりでぼーっと海に向かって立っていた記憶がある。 「……ぞくぞくする」 杏子は、あの頃から変わらない。 「海、か……」 見慣れた景色、嗅ぎ慣れた匂い。この海から吹きつける潮の香りは、この町の香りそのものだ。 その中で、思い思いに遊んでいる人たちがいる。浜辺には家族連れが多くて、沖の方では打ち寄せる波の間にボードを抱えた人たちの姿が見える。 「……どうかしたの?」 「たくさん人がいるなぁと思って」 あの人たちひとりひとりにとって、今日はいい想い出になるのかな? 僕らにとっても、いい想い出にできるのかな……? どこかまだ、ギクシャクしている僕たちだけど、いつか、思い返して笑い合えるような日に…… 「真一くん、空気入れってどこにあるか知ってる?」 と、香澄さんがしおれたビーチボールを持ってやってきた。 「空気入れ……?」 出かける前、荷物を手分けして運ぼうという話になった時に、確か―― 「そうだ、確か芹花が持って……」 ……って、あれ? 「芹花……どこ行ったんだろう?」 「え……?」 気づけば、あいつの姿だけが見当たらない。 父さんと春菜さんは、相変わらずシートの上でイチャイチャしていて、兄さんは忘れ物を取りに帰った。 杏子と香澄さんと、僕はここにいるけれど…… 「おーい、芹花ー!」 声を張り上げてみる……けど。 ……何人か、何事かとこっちを向いた人たち相手に、恥ずかしい思いをしただけだった。 「あいつ……」 せっかくみんなで来たのに、いきなりの単独行動。……先が思いやられる。 「どこへ行っちゃったのかしら?」 あいつと顔を合わせるのは気まずいけれど、香澄さんに今みたいな、不安そうな顔をさせてしまうのは、もっとイヤだ。 「僕……芹花を探してくるよ」 「じゃあ私も」 「いや、香澄さんはここにいて」 「でも……」 「大丈夫だよ。きっとその辺で、焼きそばでも食べてる だけだろうから」 「真一くん……」 「心配しないで、待ってて」 「……うん」 今度こそ、香澄さんのためにも……芹花とうまくやらなくちゃ。 真一くんは、芹花ちゃんを探しに行ってしまった。 昨夜、彼に聞かされた話が、気になって仕方ない。 「悔しい、なんて……そんな風に思わないで」 芹花ちゃんが真一くんに甘えたがってるのは、わかる。あの子はずっと、昔からそう。 そして、私も―― 「――さん?」 「……香澄さん?」 「え……あ、ごめんなさい。呼んだ?」 「……何か、考え事?」 「え、ええ、ちょっと……」 「真一くんの、こと?」 「…………」 「やっぱり……そうなんだ?」 「やっぱり……って?」 「香澄さんは……真一くんのこと、好き?」 「え……っと」 杏子ちゃんは、冗談を言うような子じゃない。今もまっすぐな瞳を、私に向けてくる。 「……好き、よ。 子供の頃からずっと、弟みたいに思ってるもの」 慎重に言葉を選んで、答えた。これは、ウソじゃない。 「…………」 だけど今の回答に、彼女は納得してない様子だった。少し、申し訳ない気持ちになってしまう。 「……杏子ちゃんも、子供の頃から真一くんを、 知っているのよね」 「……うん」 「私たちが引っ越してくるより前の、本当に幼かった頃の 真一くんと、お友達だったのよね?」 「うん……」 「その頃の真一くんって、どんな感じの子だったの?」 「んー……」 それは杏子ちゃんと知り合ってから、いつか聞いてみようと思っていたことだった。 私が知る前の真一くんを知っている彼女のことが、少しだけうらやましい。芹花ちゃん流に言えば……悔しい、のかもしれない。 「やさしくて、ちょっと、いぢわる」 「あら……そうだったの?」 言葉は少ないながらも、杏子ちゃんの表現は、とてもよく真一くんを表している気がした。 それだけに……ちょっと意外な感じもする。 「違う……?」 「私の知っている真一くんは……もうちょっと、 おとなしいかしら」 「今、みたいな感じ?」 「そうね。あまり変わらない……ずっと変わっていない。 そう、思っていたんだけど」 最近の真一くんには、ちょっとドキリとさせられることが多い。 私の言うことに反論したり、芹花ちゃんを怒らせてしまったり……まるで、杏子ちゃんが口にしたような、優しくて意地悪な――男の子。 「香澄さんは真一くんのこと……ずっと見てきたんだ?」 「ずっとなんて……これまでは、一緒にいられない時間の 方が多かったわ」 彼と一緒にいたのは、いつも芹花ちゃん―― 「……香澄さんと真一くんは、いつも一緒だよ」 「そんなことないわよ」 「ううん、いつも、一緒……」 「そう……?」 「うん……香澄さんが、真一くんのこと、放さない」 「放さないって……や、やだ。そんな風に見えるの?」 「違うの……?」 「…………」 私は……ただ、彼のためにと思って、傍にいたけれど…… 「だから真一くん、困ってるんだと思った……」 「え、困る?」 「うん……だって真一くん、香澄さんのことが 好きだもん……」 「え――」 「好きなのに、弟だから……弟なのに、好きだから」 「だって、そんな……私はただの、隣にいるお姉さんで」 「年だって上だし、それに――」 杏子ちゃんや芹花ちゃんみたいに、彼のことを私よりずっと見てきた子たちがいる。 そう言いたかった私のことを、杏子ちゃんは察しているかのようにゆっくりと、首を横に振って否定した。 「……わたしは、傍にいられなかったから」 「杏子ちゃん……」 「……香澄さんは、真一くんのこと、もっと好きになって あげて……」 「わたし、再会できただけで十分だから……」 杏子ちゃんは悲しげな声で、困ったように笑ってみせる。 「だけど、私は……お姉ちゃんで」 「真一くんが見てるのは、『お姉ちゃん』じゃなくて、 『香澄さん』……だよ?」 「……っっ」 「このまま、どっかに流されないかな……」 現在、水島芹花は漂流中だ。身も、心も、人生も…… こうして波に揺られるまま浮いていると、自分の居場所が一体どこなのか、わからなくなる。 時折かもめが横切る空だけが、バカみたいに高かった。 「あたし、何やってるんだろ……」 このところ、みんなを困らせてばっかり。 真一とも、ずっとケンカばっかりしてて。お姉ちゃんにも当たって。 子供みたいにへそを曲げて、気にして欲しいみたいな態度を取って…… 「自分が情けないよー!」 「芹花ー!」 「……し、真一?」 浜辺から結構離れていたつもりなのに……なんでこいつは、あたしのことを見つけてしまうんだろう。 見つけて、くれちゃうんだろう…… 「はぁ……こんなところにいたのか」 「なんで……こんなとこまで、泳いでくるのよ」 「みんな心配してるからさ」 「みんなって……お姉ちゃん?」 どうして、こんな言い方しかできないんだろう?本当に自分がイヤになる。 「香澄さんも、だけど。僕も心配した」 「ふたりとも……あたしのことはほっといてくれれば いいのに」 「だけど……」 「あたしがいたってどうせ、みんなが気まずくなるだけ じゃない!」 「だけど、今みたいに逃げてたら、ずっと気まずいまま じゃないか」 「でもどうしようもないの! しょーがないじゃない!」 また、真一とケンカになってしまう。あたしは真一を怒りたいわけじゃないのに。 怒られたくないのに。嫌われたくないのに。 そんなのは絶対イヤだから、あたしは真一の前から――また、逃げ出した。 「ちょ、待ってよ! 芹花!」 「追いかけてこないでよ!」 「せっかくみんなで来たんだから、一緒にいよう!」 「うるさい! こっちくんな!」 「待ってってば!」 泳いでも、泳いでも、あいつは追いかけてくる。 「ついて来んなっつってんでしょ!」 どうしてあいつは―― その気もないくせに、あたしのことを追いかけてくるのよ!今日に限って!! 「――っ!」 や……だ……脚が〈痙〉《つ》って……!! 咄嗟に何かを掴もうとしたけれど、手は水を切るばかり。 当たり前か……あたしに掴めるものなんて、もう何も―― 「芹花っ!!」 !? 声が聞こえた――水の中で、そんなはずないのに。 だけど、ぐいって腕を掴まれて、引っ張られて…… 「ぷはっ! はぁ、はぁ、はぁ……」 気づけば、真一に抱きかかえられて、あたしは海面に顔を出していた。 呼吸を整え、咳き込みながら横を見ると、濡れた髪のあいつが、心配そうにあたしのことを見つめていた。 「だ、大丈夫……?」 「だ……大丈夫に、決まってんでしょ! なんで、あんた なんかに助けられなきゃ……いけないのよ……」 「なんでって……今、溺れかけて……」 「わかってるわよ! いい加減放してよ、スケベッ!」 「うわッ! ちょっ……そんなに暴れらたら…… うわっぷ!!」 素直に礼も言えない……可愛げのない……好きでもない女のことなんて、放っておけばよかったのよ。お節介…… 真一くんたちが、戻ってこない。 雅人くんも戻ってきたのに、真一くんと芹花ちゃんだけが、いない。 「そっとしておいた方がいいのかね」 それはつまり、ふたりに任せておくということ。ふたりに決めさせるということ。これからのことを…… 「香澄さん……」 それでいいの? と、杏子ちゃんが目で訴えかけてくる。ふたりだけに決めさせていいのかと……私はその場にいなくて、本当にいいのかと…… 「……向き合わなくちゃ、ダメよね」 「ん……」 真一くんが私のことをどう想ってくれているのか……私が彼のことを、どう想っているのか……芹花ちゃんが私たちのことを、どう考えているのか。 それは全部、勝手に想像しているだけで……どれも本人の口からハッキリ、聞いたわけでも……告げたわけでもないから。 「……私、探してくるわ」 「うん……」 「ちょっと、芹花、落ちついて……!」 溺れかけた芹花を引き上げて、手近な場所まで泳ぎ着いたのはいいけれど…… 「イヤよ、放してって言ってるでしょ!?」 「いたっ! いたた……!」 ばたつく芹花の肘や踵が、彼女を抱える僕に容赦なくヒットする。 「芹花、落ち着いて!」 「落ち着いてなんかいられないわよっ! なんでみんな、落ち着いて、納得して、笑っていられる のよ!!」 「そうしたいからに決まってるだろ! 芹花とも一緒に、笑っていたいからだってば!!」 「そんなこと……そんなこと、ひどいよ! 拷問だよ!」 「芹花っ!!」 「みんなお互いの気持ちがわかってるくせに、ごまかし あってるのなんか、もう見たくない!!」 「……芹花ちゃん」 「お、お姉ちゃん……」 「…………」 芹花を抱きかかえて岸に辿り着いたところで……そこには、香澄さんがいた。 今、芹花が叫んだ言葉が聞こえたのか、香澄さんは少し表情を硬くしている。 「……と、とにかくふたりとも、あがって。 何があったの?」 「うん……芹花がその、溺れかけて」 「溺れるって……芹花ちゃん!?」 「だから、大丈夫だってば……」 「もう平気……」 「それなら、いいんだけど……」 「やめてよ、心配するのは」 「心配するわよ。家族だもの」 「またそれ……」 「え……」 「あたしはいいわよ。お姉ちゃんとはどうやったって、 ずっと、一生、家族なんだから」 「だけど真一は違うでしょ? お母さんとおじさんが 結婚したからって、あたしたちにとっては――」 「私たちにとっては、真一くんも家族でしょ……」 「そうやってごまかして、ずるして、もうイヤなの そんなのっ!!」 「芹花……」 「このバカが、お姉ちゃんのことばっか見てるの、わかる でしょ!? 意識しまくりじゃない、女として!!」 「…………」 「……それは……でも、だって」 芹花に言われるのはしゃくだけど……確かに、その通りかもしれない。そう考えれば、認めてしまえば……全部、説明がつくから。 家族になってしまうことに、抵抗を覚えたのも…… 香澄さんの役に立ちたいとか、支えられるようになりたいとか考えたのも…… 全部、彼女が好きだから。女として、意識しているから。 そう、認めてしまえば胸のつかえが取れた。 「わかってるくせにごまかしてるから、タチ悪いのよ!」 「私はそんな風には、思ってなくて……」 「思ってないってどういう意味? わからなかったって こと? それとも、真一に興味なんかないってこと?」 「そうじゃなくて……私は……」 「芹花、もういいから」 「よくないでしょ! あんたのことなのよ!!」 「僕のことだから、僕が言わなくちゃダメだろ……?」 「…………」 「言って、どうなるものでもない……そう思ってたけどね。 芹花みたいに、口にしなくちゃわかんないし……何も 進まないよね。きっと」 「真一……」 「真一くん……」 気まずくても、ケンカしても……ごまかしているよりは、ずっとまし。 芹花がずっとイライラしていたのは、そういうことなんだと思う。 僕が香澄さんへの気持ちをハッキリさせることを、ずるずると引き延ばしていたから、余計に…… 「僕は……香澄さんのことが……好きだよ」 「……!!」 「……それは、だって……家族だし」 「違う。幼なじみや家族としてじゃなくて……」 「真ちゃん!」 それ以上言わないで――そんな叫びを無視して、僕はもう一度ハッキリと伝えた。 「僕はひとりの女性として、香澄さんが好きなんだ」 「真……ちゃん……」 「香澄さんが大好きだ。 誰よりも香澄さんが大切なんだ……」 「……っっ」 香澄さんは声を震わせて呻いた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんできている。 「……困らせちゃって、ごめん」 「…………っ」 「……まったく、何泣いてるのよお姉ちゃん。 よかったじゃない」 「せ、芹花ちゃん……よくは、ないでしょ……?」 「あたしがいいって言ってんだから、いいの。 そりゃあ、世間的にはまずいんだろうけどさ」 「あたしは……お姉ちゃんにも気持ちをごまかして欲しく ない。そりゃ、本当に真一のことなんて、男として見れ ないっていうんなら、仕方ないけど」 「…………」 「……そうでもないんでしょ?」 「私の気持ちより、芹花ちゃんの――」 「あたし? あたしがどうかした? あたしは関係ない でしょ?」 「芹花……」 「あたしはただ、真一とお姉ちゃんがふたりして見て見ぬ 振りを繰り返しているみたいで、それにイラッとした だけ。そういうこと」 まるで、自分に言い聞かせるように芹花は告げて……脚を引きずるようにしながら、この場から離れようとした。 「ま、あとはうまくやんなさいよ」 「芹花!」 「あんたが今、呼ばなきゃいけないのは、お姉ちゃんの 名前でしょ? ここで間違えないでよ、バカ」 「せり――」 「もう追いかけてこなくていいから! ……もう、勝手にいなくなったり、駄々こねたりなんて、 しないわよ」 「…………」 「芹花ちゃん……」 「…………あーあ」 本当にあたしってば、どうしてこうなんだろう。かわいげがないというか……素直じゃないというか…… 「……ま、結果がどうなるにせよ、あたしだって失恋した ようなものなんだから、これぐらい……許してよね」 あたしの大好きなお姉ちゃんと、バカな幼なじみの顔を思い浮かべながら……そんな風にそっと、呟いた。 「あ……芹花ちゃん……!」 「杏子? どうしたの」 「探しに来たの……香澄さんも、そうしていたけど」 「あ、ああ。お姉ちゃんね。お姉ちゃんなら……」 「お姉ちゃんなら、真一と一緒だから。たぶん、心配する ことないわ」 「……そう」 杏子は、納得したように頷いて……それから、あたしのことをじっと見つめてきた。 「な、何?」 「わたしは……香澄さんも、芹花ちゃんも、大事」 「あー……ありがと」 救われた気分になる。 あたしもお姉ちゃんも真一も、『家族』だなんて言葉でごまかさずに、こんな風に素直な気持ちをもっと早く、簡単に伝えていればよかったんだ。 「戻ろ? 向こうで雅人さんが、スイカ割りの用意してる」 「お、いいわね~。 あたしがスイカ割りの達人だって知っての挑戦?」 「達人だったの……?」 「そりゃあいつも、宗太や真一相手に練習してるからね。 それに今なら、なんでも真っ二つにできる気分よ」 「ん……」 そう……あたしが真一に抱いていた気持ちも、さっさと割り切ってしまった方がいいに決まってるわ。 僕と香澄さんは、文字通り芹花に置き去りにされた心境で、ただ黙ってじっと、立ち尽くしていた。 緩やかな波が岩場に当たって何度も弾け、まるで秒針のように時を刻む。 「…………えっと」 やがて耐えきれなくなったのか、香澄さんが口を開こうとした。 「香澄さん、その……」 僕は、先に何か言われるのが怖くて── 「ごめん、好きなっちゃって」 僕は謝った。 「…………」 でも彼女は、思い詰めた表情のまま、俯いて黙ったままだ。 香澄さんが黙り込んでしまったことで、僕は逆に急き立てられるような気持ちになってしまい、間を埋めるように口を動かしていた。 「は、初めて意識したのは……たぶん、おじさんが 亡くなった時だったと思う」 「え……あ」 何か思い当ったのか、香澄さんが反応する。 「……私が、真ちゃんに泣きついた時、ね」 「う、うん……」 葬儀の最中、香澄さんはひとり気丈に振る舞っていた。 芹花はまだ状況を飲み込めていなかったのか呆然としていたし、春菜さんはただひたすら悲しみに暮れていた。 だけど……あとで…… 「たまたま、僕とふたりきりになった時に……」 彼女は、僕にもたれかかってきて、泣いた。 だけどその頃の僕はまだ幼くて、どうしていいかわからなくて…… 彼女を抱き締めて支えてあげることなんて、できなかった。慰めの言葉ひとつ、満足に言えなかった。 彼女が泣き止むまでただただ、胸を貸していただけで…… 「たまたま、じゃないわ……」 「え……」 「あの夜、あそこにいれば、真ちゃんとふたりきりに なれるって……わかっていたから」 あの夜――大人たちは僕の家のリビングで、しんみりとお酒を酌み交わしていて…… 芹花は客間で眠ってしまって、でも僕は寝付けなくて…… ほかに誰もいないカフェの店内で、涙を堪えている香澄さんを見つけたんだ…… 今、ここにも誰もいない。僕たちはふたりきりだ。 海岸線の中でも穴場なのか、観光客も近寄ってこない…… 波の音だけが聞こえるこの場所に、世界でたったふたりきりになってしまったような空間…… 「……あなたにしか、泣き顔を見せられなかったの」 「どうして……」 「……家族のため、だった。 ずっとそう思い込んできた」 家族――香澄さんがずっと守ってきたもの。何よりも大切にしてきたもの。 「お母さんの前で泣いて、余計に辛い思いをさせるわけ にはいかなかった。芹花ちゃんの前では、しっかり しなくちゃいけないって思ってた」 「だから……泣けなかった。あなたの前でしか」 香澄さんが、僕を見つめる。今もまた、涙で濡れている瞳で…… 「でも……きっと、逆だったの」 「逆……?」 「あなたの前だからこそ、泣きたかった。 私が本当に気を許せるのは……真ちゃんしかいないん だって、わかってたのよ」 香澄さんの頬が、うっすらと赤く染まっていく。 「私が甘えられるのは、真ちゃんだけだから」 「……え?」 意外だった。僕なんかじゃ支えられない、甘えさせてあげられない、そう何度も悔しい思いをしてきたのに── 「でもだって、今もまた『真ちゃん』って……ずっと 子供扱いされているのかと思って」 「え……あ、やだ、ごめんなさい」 照れていた香澄さんの顔が、今度は恥ずかしげに赤くなる。 「私、意識していないとつい、昔の呼び方をしてしまって ……これ、あなたに甘えちゃってる呼び方だって思った から」 「あ……あー、そうだったの……?」 そうとは気づかなかった…… 「ごめんなさい……」 「いやうん、そういうことなら『真ちゃん』でいい」 「…………そう?」 「うん。ずっと真ちゃんでいい」 「……ありがとう」 そう言って彼女は…… 僕の胸元に身体を預けてきた。 「香澄……さん」 「ん……」 昔、僕の胸で泣いた時のように……僕の部屋で、泣きそうになった時のように…… 「……真ちゃん」 彼女は僕の胸の中にいた。 半ば震える手を伸ばし、彼女を抱き寄せる。 「あ……」 年上だけど、華奢で、小柄で、温かい彼女の身体を……一瞬を惜しむかのように、大切に抱き締めた。 「ねぇ、真ちゃん……」 香澄さんが、胸元でささやく。 「……もっと、ぎゅっとしても、いいよ?」 「う、うん……」 遠慮がちに彼女の二の腕に添えていた手を、背中へと廻して、さらに強く抱き寄せる。 「んっ……」 「だ、大丈夫……?」 「え、ええ……大丈夫……」 しっとりと汗ばんだ密着感が、心地いい。 「すごい……真ちゃんの匂いが、いっぱいする」 「え……く、臭くない?」 「そんなことない……むしろ……」 「え……何……?」 香澄さんは首を振った。彼女の髪から、身体から、甘い香りが立ち上ってきてくらくらする。 「ううん、なんでもない……もっと、ちょうだい」 「え……あ……!」 今度は香澄さんが、僕の背中に腕を廻してきて、しがみつくようにして、僕の胸に顔を埋める。 お互いに強く抱き締め合うことで、肌の温もりも、身体の柔らかさも、お互いを男女だって意識させる匂いも……全部が五感を満たしていく。 「あ……んっ……!」 呻くような彼女の吐息が、僕の首筋にかかる。 それだけで全身に鳥肌が立ち、追われるように僕の思考も狭まってゆく。 香澄さんが、今、僕の腕の中にいる。白く滑らかで柔らかいその身体がここにある。 僕は香澄さんの髪を掻き分けて、その首筋に顔を埋めた。もっともっと、彼女を感じたくて…… 「んん……っ」 口をつぐんで声をかみ殺す。そんな香澄さんがとても愛おしくて…… 「香澄さん、大好きだよ」 「んっ……あぁっ……し、真ちゃん……わ、私…… こんなにされたら……」 彼女が身じろぎをする度に、また、甘い香りが立ちのぼる。 嫌がって、逃げようとしているわけじゃない。お互いを求めるように、身体を押しつけ合ってしまう感じ…… 太陽に照らされる肌の色……鼻孔に広がる甘い香り……柔らかさと弾力をあわせを持つ肌の感触…… 目で、鼻で、肌で、感じる香澄さんが、僕の胸の中に熱いたぎりを生む。 逸る気持ちに押し出されるように……下半身が充血する。 「あ……真ちゃん……」 密着していて、香澄さんが気付かないはずはなく、押しつけられていた彼女の腰が、ぴたりと止まる。 「ご、ごめん……こんな時に……」 「はぁ……」 でも、香澄さんの吐息が……熱い。 「こんな時、だから……でしょう?」 「え、あ……ん――!?」 身をよじった彼女の小さい唇が大きく開いて、僕の半端に開いた口を閉じるように覆う。 「ん……んん、んぅ……んふぅ……」 ――しどろもどろになりながら、言い訳を探していた僕の唇を、香澄さんの唇が塞いでいた。 「ん……んん……んむぅ……あむぅ……」 「んん……」 香澄さん、何を――と問いかけたいのに、言葉が出せない。 なのに彼女は、背中から僕の首へと手を回し、身体をよりいっそう密着させてくる。 「んんぅ……んちゅ……んん……ちゅむ……」 彼女の胸が僕の胸に押しつけられ、僕のモノが彼女のお腹に擦りつけられる。 硬さや大きさを計るみたいに、ゆっくりと押しつけられてめり込んでいく。 彼女の豊かな胸が僕と彼女の間で潰れて、唇も柔らかくて、溺れてしまうような、気がしてしまう。 「はぁ……」 「か、香澄さん……キス……」 唇が離れて、我に返った僕は思わず確認していた。 「言い訳なんてしなくていいの……男の子なんだから」 そう言って香澄さんは、僕の張りつめたモノへと手を下ろし、水着越しに触れてきた。 「うあっ……」 それだけでゾクリと、背筋に快感がはしる。 「あ……ごめんなさい。痛かったかしら?」 「そんなことない……ただちょっと、驚いただけで」 「そう……」 香澄さんはもう一度、先ほどよりも優しくゆっくりと、輪郭をなぞるように撫でてくる。 繊細な手つきで、僕自身がそこに在ることを確かめるように…… 「か、かたい……」 こんな風にされるとは思っていなかったから、僕は棒立ちのまま、されるがままで…… 香澄さんは、今にもはち切れそうなその硬さを確かめるように、先の方をやんわりと握ってきた。 「……っ!!」 それだけのことで身体が震える。 「やだ、動いた……!」 「ご、ごめん……その……」 それだけで、射精してしまいそうで、恥ずかしくて、つい謝っていた。 「気持ちよかったのかしら……?」 「……う、うん」 頷きながら、感じてはならないことで感じてしまった……と、罪悪感に〈苛〉《さいな》まされる。 「そうなんだ……よかった」 でもぼくの思いとは裏腹に、再び水着の上から撫でる香澄さんの指使いは、なんだか愛おしそうで…… そのギャップにモノはますますいきりたってしまう。 「すごいのね……本当にこんなに大きくなって、 硬くなるものなのね……」 「こんなの……本当に〈挿入〉《はい》るのかしら……?」 「え……挿入る、って……?」 おおかた予想出来てしまうことなのに、やはり聞かずにはいられなくて。 「だって、このままにしておくわけには、いかないので しょう……?」 「そ、それは……でも……」 香澄さんは大真面目みたいだ。にしても、えっと、どこから突っ込んだらいいものか…… 「あの……香澄さん、ひょっとして」 「う……うん……触ったのも初めて。 入れたことだって……ないわ」 「そ、そうだったんだ……」 積極的に触ってきたのは、慣れているからじゃなくて、未知への好奇心ゆえ……? でも、ということは、これは……今している行為は…… 「だからね、あの……」 「う、うん……」 「私、男の子に触られたことも、なくて……」 「か、香澄さん……」 喉がからからになっている僕の手を、彼女は自分からその豊満な胸へと導いてくれる。 「真ちゃんだったら私……触られてもいいの」 *recollect「んんっ……」 香澄さんの手に誘われるまま、僕の手はワンピースを脱がして、彼女の胸に触れていた。 「や、柔らかい……」 「あ、ふ……っ」 胸に押しつけられた時の感覚とも、また違う。手の平の中でただひたすらに、香澄さんの豊かな乳房が、柔らかくふわふわと形を変えている。 「んん、ぁんぅ……真ちゃん……真ちゃん……」 ふわりと指が埋もれるかと思えば、弾むように押し返され、まるで頼りないのにしっかりしていて。 「あ……ん、ふぅ……んぁ……あ、ん……」 こんな柔らかさのどこに、乳房の形を保つ素があるんだろう? なんて。 こんなに、気持ちのいいものの、どこに…… ふわりとしていて、かつ弾力のある独特の柔らかさに、僕はいつしか夢中になって揉み続けていた。 「やんっ……!」 夢中になって揉んでいた僕の意識を、香澄さんの喘ぎが引き戻す。 「ご、ごめん……こういう触り方、いけないのかな……?」 「う、ううん。 ……真ちゃんも、こういうの、初めて……?」 「も、もちろん……!」 言ってから、がっついていたように見えたかと顔が火照る。 「そ、そう……」 呆れられたかな? と心配になったけど、香澄さんは意外そうな顔をしていた。 「真ちゃん、もてるから……同級生の女の子と、もう こういうことしているのかなって思ってた」 「そ、そんなことしてないって! だからその、加減とかよくわからなくて……」 「ん……じゃあ、ね。できればもっと優しく、包むように してくれたら……嬉しいかな」 「こ、こう……?」 「あっ、はぁん!」 僕は手の平全体で香澄さんの胸を包み、ゆっくりと円を描くように動かす。 綺麗な形を崩さないように、撫でるように。 「はあっ……ん……あんっ……んぁん……ああっ……」 その大きな動きに、香澄さんの口から熱い吐息が漏れた。 「だ、だいじょうぶ……?」 「うん……平気よ。だから続けて、ね?」 円の動きを繰り返しながら、ゆっくりな動きはそのまま、少しずつ力がこもる。 意識してじゃなくて、自然と香澄さんの感触を求めるように。 「ん……そ、そんなに大きく揺らしたら……んんっ……!」 香澄さんが身をくねらせた拍子に、手の平の中心に硬いしこりが触れる。 「これって……?」 「それ……は……ひゃう、あんっ!」 それまではなかった尖りが、水着の頂点に生まれていた。香澄さんも気付いて、頬を染める。 「香澄さんの……乳首……」 「…………」 恥ずかしげに頷く香澄さんの尖端を触っていいのか、どうか……迷ったものの、指の腹でそっと摘んだ。 「んんっ……んんんっ!」 少しだけ揉み潰すように、力を入れる。 「あっ、はぁっ……ああんっ!」 香澄さんの身体に鳥肌が立ち、小さく震えている…… 「き、気持ちいい……?」 「ん……優しいのに……つよ……い……んあぁ……」 恥ずかしげなその言葉を、僕は肯定と受け止めた。 「じゃあ、こうして――」 「え……ああんっ!」 水着のブラを脱がせて、大きな胸を露出してしまう。 「は、恥ずかしいよ……」 「綺麗なのに……」 「だって……」 そんな会話を交わしながら、また彼女の胸に手を這わせて…… 「あ、んぁぁ……んあ……ああん、んああっ!」 さっきよりも布一枚少なくなり、直接感じ取れるようになった尖端を、両方の手の平で左右同時にこねていく。 「真ちゃん、ちょ、ちょっと待って……んんあああっ!」 跳ねるように背筋をビクンと伸ばし、香澄さんは、乳首をこねる僕の手をギュッと掴む。 「はぁ……はぁ……真ちゃん、キス……キスしたい……」 「う、うん……」 荒い息づかいでせがんできた香澄さんと顔を寄せ合い、唇を近づける。 「はむ……んんっ……ちゅ……ん……んんっ……ちゅる」 合わせた唇を――誰に教わったわけでもないのに――自然と開いて、香澄さんの舌を受け入れていた。 僕の口の中に侵入した香澄さんの舌が、挨拶のように唇の裏側をそろりと一周する。 「れるぅ、れろ……あむ、ちゅ、ちゅぷ、ちゅる、んんぅ」 恐る恐る自分の舌で香澄さんのそれを突くと、彼女も答えるように僕の舌を突いてきた。 ふたつの舌が不器用に絡まる。 「ん、ちゅっ……ふぁ……ん、ちゅぅ……んんぅ…… ちゅ、ちゅ、あ……ぅんん」 はみ出そうが、唾液が溢れようが、お構いなしに一心に求め続けた。 「ちゅむ、ちゅっ、ちゅぶ……んあん……んむ、ちゅぷっ」 その間も僕は、彼女の胸をまさぐる手を休めずにいて…… 「んちゅぅ……ん、んんぅ、ん……んぱ……ちゅぷ、 はぁ……はぁ……はぁ……」 唇を放した香澄さんは、息も絶え絶えといった状態になっていた。 「こんなにされたら……私の方が我慢できないよ……」 「か、香澄さん……」 「ん……真ちゃん……ちゅ……ちゅぷっ、ちゅちゅっ……」 唇をまた重ねながら、僕は香澄さんの身体のラインをなぞりつつ……その手を下半身へと向けた。 「んんんっ……!」 水着の中へと手を滑り込ませても、胸と一緒で、加減がわからない。 ビデオや本なんかで得た知識では、具体的にどう触れば女の子が怖がらないのかなんて、わかるはずもない。 「ああ……ひゃう、あんんっ!」 とにかく慎重に……ある意味では丁重に、僕は香澄さんの股間に指を伸ばした。 「あ、ああぁ……ふあぁぁ……」 香澄さんの身体が震えている。 快感じゃなくて、緊張から来る震え…… 「香澄さん……」 「へ、平気……いいよ……遠慮しないで」 バカみたいに名前を呼ぶことしかできない僕に、むしろ彼女の方が気を遣ってくれる。 甘えたり、甘えられたり……この関係は、そうそう変わらないのかもしれない…… 「あん……ん……んんぅ……く、くすぐったい……」 艶やかな声を聞きながら指先を進めると、その先に……濡れそぼった香澄さんの── 「んんっ……あああっ……!!」 ……香澄さんの秘所があった。そこはとてつもない熱を帯びていて…… 「すごい……本当に濡れてる」 「真ちゃん……はっ、恥ずかしいからぁ……」 そのぬめりは、今まで知ることのなかったもので…… 「こんなにぬるぬるしているのに、サラサラだ……」 「い、いわないで……」 このぬめりの感じだと、もっとベタベタしていてよさそうなのに……本当に不思議な感触だった。 香澄さんの股間から一度手を引いて、改めて目の前で濡れた指先を見つめる。 「あん……し、真ちゃぁん……そんな、見ないで!!」 これが……愛液。香澄さんの……エッチな……汁。 「も、もうやだぁ……」 「ご、ごめん! もう、やめておこうか?」 「そういう意味じゃなくてぇ……もう」 イヤイヤと、恥ずかしげに首を振った香澄さんが、恨めしそうな目を僕に向ける。 「それに真ちゃん、ここまできて……やめられる?」 「…………」 股間のモノは、香澄さんに触れられた時以上に硬く、ビクビクと脈打っている。 期待と興奮に膨らみきって、今にも破裂しそうに。 「……ぬ、濡れてる方が、あまり痛くないのでしょ?」 「え、あ……そんな風に聞くけど……」 「それじゃ……その……もっと、触って?」 「……うん」 お互いにもう、止められない。やめられるはずがない。 水着をずらした時に現われた、白い胸……その先端にある桜のつぼみの様な乳首に、軽く手の平を滑らせる。 「あっ……はぁ……真ちゃんの手、すごく熱い……」 太陽に照らされて輝きを放つ汗の粒が一筋、彼女の胸の谷間を伝った。 ピンと立っていた乳首に刺激を与えてから、再び下半身へと、お腹や腰をなぞりながら手を這わせて…… 「ん……んぅん……んんぅ……んあっ、ああっ……」 さっきよりも熱くなっているんじゃないか、と思わせる肌に指先を忍び込ませて…… 「はぁ……ああぁぁぁ……」 ぴちゃぴちゃと水音すら聞こえそうな、濡れたヒダの間に指先をもぐらせる。 「いやぁん……くぅん……はぁ、はぁ……あああぁ……っ」 指先を、ぬるぬるとした愛液の間に漬けるようにして進めていくと、少し硬い突起のようなものが感じ取れた。 「ひゃっ……!! そ、こ、そこは……!」 香澄さんの身体が跳ね、大きな胸がぶるんと揺れた。 僕はもう一度、確かめるように中指で恐る恐る……慎重にその突起を刺激する。 「ひゃあっ……!? あっ、あっ、あっ、あっ…… だ、だめ……あぁっ!」 揺らす度、擦る度に、彼女の頭が左右に揺れる。堪えきれずにいやらしい悲鳴が、彼女の口から飛び出す。 「うぅん……んっ、んっ……んぁっ! ああっ、あっ…… あそこ、びりびり……して……んんっ!」 「ひゃっ……あ……あんっ……そこ……んっ、んん…… そんなに……んんっ……しないで……」 「はっ……やっ……ああっ、あっ……ん、んっ、んんっ! っんっ……だ……め……ダメダメ、んんっっ!!」 「ひぁっ、あっ、あっ、あっ……や、やだ……こんなの! あっ、ああああっ!」 「んあああああっ!! はぁああああんんん!!!」 「あ……あああっ……あっ……あふっ……」 香澄さんの身体からカクン、と力が抜ける。僕に体重を預けて、ヒクヒクと痙攣している。 「あんっ……ん……んんっ……んんぅ……」 「か、香澄さん……?」 「はあっ……はあっ…………あ……あぁ……」 香澄さんは呆然とした様子で、息を切らせている。 それでいて、肌と肌が軽く触れ合うだけで、まるで快感を覚えたように身をよじらせる。 「ん……な、なんか……すごい……敏感になってる……」 「も、もしかして香澄さん……イッちゃったの……?」 いつの間にか、僕も息があがっていた。 「うん……こ、今度は、真ちゃんが……気持ちよく…… なって」 香澄さんはとろんとした瞳で、張り詰めた僕のソレに優しく手をかけた。 「う、うん……」 でも、それってつまり…… 「し、真ちゃんのためなら……私……大丈夫だから……」 「……僕が初めてで、本当にいいの?」 香澄さんの処女を奪う……そんな資格が、僕にあるのだろうか? 「うん……」 香澄さんは黙って、コクリと頷いた。 「真ちゃんだから、いいの…… 言ったでしょ。あなただけが私にとって、特別なんだっ て」 「香澄さん……」 「私、上手にしてあげられないかもしれないけど……」 「そんな! それは……えっと、僕の方こそだよ」 初めての挿入を迎える女の子の恐怖心がどれほどのものか、男の僕には絶対わからない。 でも、その支えになってあげられるのは、唯一初めての男しかいないのだと思う。 それは、香澄さんの人生にとって、永遠に変わらないこと。だから、それを認めてもらった僕は── 「約束するよ……絶対に優しくするって、約束する」 資格とかそんなんじゃなくて、とにかく……精一杯、彼女に優しくしようと誓った。 「真ちゃん、ありがとう……」 「真ちゃんのことだから、そう言ってくれると思って たけど……実際に言われると、すごく安心できるわ」 「だって、僕は香澄さんが大好きなんだ。 怖い思いなんてさせたくない」 「真ちゃん……」 そして僕らは、また唇を重ね合い、抱き締め合って…… 「これなら、いいかしら……? きっと大丈夫……だと、 思う……けど……」 それから香澄さんは岩に手をついて、恥ずかしそうにこちらへお尻を向けてくれた。 「あ、あまり見ないでね……」 「その……むしろ背中しか見えないけど…… ちゃんとできるかな……?」 「入るとこなんて……ひとつしかないじゃない…… 大丈夫よ」 「わ、わかった」 香澄さんのあそこに僕の自分自身をあてがう。愛液が割れ目に沿って滴り、絡みつく。 「あぁぁ……んぅぅ……」 ドキッとするほど、甘やかな声が香澄さんの口から漏れる。 その声だけでも、ビクンと反応してしまって……さらにこれから挿入るんだ……と思うと、声も、添えた手も震えてしまう。 「香澄さん、い、くよ……」 「焦らなくても平気だから……」 僕の緊張を感じ取った香澄さんは、僕の張りつめたモノへ手を伸ばして、優しく撫で上げる。 そして、指を添えるように自らの入り口へ導く。 「たぶん私は……んっ……ここ……だから」 よりいっそう熱い部分に、亀頭の先が触れる。 「ここ、なんだね……いくよ」 「ええ……きて……!」 「はぁぅっ……うっ……んん……っ!!」 ゆっくりと腰を押し込むと、香澄さんの入り口が、にわかに広がったのを感じた。 「あ……はぁ! うぅんっ! あぁぁっっ!!」 指で触っても、実際に目にしてみても、小さなくぼみとしか思えなかったそこが…… 僕の、とても入りきらないと思った太さのモノを、愛液で濡らしながら呑み込んでいく。 「香澄……さん、大丈夫……?」 「ん、んんっ……は、あっ……大丈夫、よ。 真ちゃんが、はい……って……きてるの……わかる」 「うん、すごい……中が熱くて……動いてる……」 「やあぁ……やぁぁん……」 まだ先端しか入っていないのに、熱湯に突っ込んだかのように熱い。 だけどお湯とは違って、ねっとりと包まれて……溶けて、一体となってしまいそう。 「か、香澄さん、すごい……これ、すごいよ……」 「ん……そ、う……なんだ……」 「で、でも……香澄さんは、平気……?」 「う、うん……へい、き……はぁぁ……あああっ!」 僕には飲み込まれるように感じられても、香澄さんは無理矢理押し込まれてるわけで…… 彼女の額に浮かぶ大粒の汗が、僕と感じているものとの違いを物語ってる気がする。 「んぁっ! はぁっ、はぁっ……あっ……くっ……んっ! んんんっ!」 「はっ、あっ……あああっ……あぁっ…… はぁ……はぁ……ぜ、全部……はいっ……た……?」 「も、もうちょっと……」 もう半分以上入っている。けれど、キシキシと押し潰されるような圧迫感の中に、これ以上は入れられる気がしない。 「そう……お、奥まで……入れたい、よね……?」 「そ、そりゃ……うん……だけど」 だんだん狭くきつくなっていく内側の感触が、最後のひと押しをためらわせる。 もしも、一気に根元まで押し込んだなら……どれほどの快感を得られるんだろうとも思うけど…… 「い、いいよ……真ちゃん。 奥まで……射し込ん、で……!」 「で、でも」 「このままの方が……辛い、でしょ?」 うっすらと涙を浮かべながら、彼女はそれでも健気に微笑んで…… 「ごめんね……優しくするって、言ったばかりなのに」 「ううん……真ちゃんは、十分優しいよ……」 「うん……ありがとう。香澄さん、一気にいくよ……」 「うん……」 一旦腰を引いて、先端だけ残して抜き取ってから。 「ひゃぁ……あっ」 弾みをつけて、一息で、僕のすべてを香澄さんの膣内に打ち込んだ。 「ひあっ! ああああっ! ……ああっ――!!」 ピッっと何かが弾けるような、一瞬の閃光にも似たものが僕の中を駆け巡る。 「あ……はぁ……っ」 「んあっ……ふぁっ……ああっ……はぁ……」 いつの間にか詰めていた息を、僕はゆっくりと吐き出した。 解放感にも似た気持ちが、香澄さんの熱さと共に僕の中に広がっていく。 「あぁ……届いてる……んっ……真ちゃんが、奥まで……」 「うん……入ったよ……香澄さんの奥まで……」 僕は、香澄さんの処女を……誰も知らない部分を……奪ったんだ。 「や、やだっ……真ちゃん、私の中で、動いてる……」 驚きと羞恥が混ざった声をあげる香澄さん。その声に、僕も耳まで真っ赤になる。 僕が動かしているんじゃなくて、モノが勝手に、堪えきれずに、香澄さんの中で震えているんだから。 「だ、だって、香澄さんの中、とろけそうで……」 「そ、それって……気持ち、いいの……?」 「す、すごく、ね……正直、もう出ちゃいそう……」 「う、嬉しい……真ちゃん……いっぱい…… いっぱい、私で気持ちよく……なってね……」 「もう……じゅうぶん気持ちいいよ……」 こみ上げてくる一体感で胸がいっぱいなのに、香澄さんの柔肉がさするようにモノを刺激して、心も身体も満たされる…… 「じゃあっ……あぁっ……も、もっと…… もっと気持ちよくっ、なって……んんっ!!」 なのに、これ以上の気持ちよさが、あるのか? 怖いような、楽しみなような……ドキドキする。どうすればそうなるのかも、知らないわけじゃない。 「できれば香澄さんも……でも、無理はしないで」 「うん……あっ……はぁぁっ……あぁっっ……」 彼女の腰に置いた手を支えに、本格的にピストン運動を開始する。 「あっ……ひぁっ……あんっ……あんっ……んんっ……!」 動き出すと、入っていたそこが、熱くて狭いだけじゃないことに気付いた。 ぬるぬるしていて、絡みついてきて、柔らかいのにとても複雑で。四方八方から僕に快感を与えてくる。 「はぁっ……あっ……あんっ……んんんっ……んあっ!!」 香澄さんの柔らかい臀部に接触するたびに、みずみずしい胸が大きく揺れる。 「はっ……あっ……しん、ちゃん……が、私の……中で、 んんっ、あぁっ……うごいてっ……!!」 「香澄さんの、あそこもっ……うごいてるっ……」 誰かに教えられたわけでもないのに、そうすることが気持ちいいとあらかじめ知っていたかのように、一定のリズムで腰が動く。 波のように押し寄せる快楽が僕を翻弄して、香澄さんへの気遣いまで押し流そうとする。 僕はただ一心不乱に、香澄さんめがけて腰を振った。 「ひぁ……んんっ……はぁっ……はあんっ……!!」 「し……しん……ちゃん、いっ……ぱい……きて、る……」 僕はそれしかできなくなってしまったのではないか――そんな考えがこみ上げてくるほどに、ただ何度も何度も腰を往復させる。 「あっ、あっ、あんん……んんっ……んっ……んぁっ!! んっ、んん、んっっ、んんん!」 「し、しん、ちゃんっ……あっ、あっ……だんだんっ、 速くなってる……!」 「ご、ごめん……! 香澄さんの中……気持ちよくて……とまらなくてっ」 「や、やだっ……すご、い……なかで、こすれてっ……」 「あぁんっ……熱いっ……んっ……あっ、あっ、あっ…… し、しん……ちゃっ……あああっ!!!」 香澄さんの声が高まるにつれ、彼女の秘所もまた熱を帯び、ぬめりを増す。 「ふひゃぁっ……あっ、あっ、ああんっ! やっ、やっ、うんっ……ん、ん、んっ……んんっ!!」 「か、香澄さん! 香澄さん……!!」 「んっ、んんっ、んっ! ひゃっ!? あっ、あっ、 あっ……あ、はっ……ああっ、あっ、あっ!!」 香澄さんのいやらしい悲鳴が、僕をさらに加速させる。 もっと、もっと、もっと──香澄さんの奥に、香澄さんの芯に辿り着きたい! 「はっ、はっ、ひぃっ! ……あっ、んっ、はげっ、しっ……ん、ん、ん!」 「やっ……だめっ、私っ、あんっ、おくっ、んっんっ…… いやぁっ、んうっ、んんんっ!!」 「香澄さんっ、僕っ……もうっ!」 「んんんっ!! あぁんんっ!! 私、もっ……! ああぁっ!! はぁんっ!! んんんっ!!」 「ひあんっ!? んっんっんんんっ!! んんっ、 んんんんんんっっっっ!!!」 「うっ……くぅっ……でるっ! 香澄さんっ!!」 「あああっ、ふぁぁぁああああああぁっっっっ!!」 外に出すことなんて思いつきもせず、むしろ最後のひと突きを、香澄さんの最奥まで突き入れて、僕は果てた。 「あっ、あっ、あっ……ああぁ……で、でてる……!!」 僕が熱いかたまりを何度も放っている間、香澄さんも腰を自ら押し付けるようにして、僕のすべてをじっと受け止めてくれていた。 「あっ……ふあっ……あっ……中に、いっぱい……」 僕が腰に力を入れて放出する度に、香澄さんの背中もびくんびくんと震えるのが、また艶めかしくて…… 「はぁ……ふぅ……あつい……熱い真ちゃんが…… 一番奥に、流れ込んできてる……」 「か、香澄さん……」 「真ちゃん……ん――」 繋がったまま、香澄さんを後ろから抱え起こし、唇を重ねる。 「んん……ちゅ……んぅんっ……はぁ……はぁ……」 ……キスをするには不自由な体勢なのに、お互いにもっともっとと、舌を求め合ってしまう。 「ちゅぶ、ちゅ、ちゅる……んるぅ……ちゅぷ、ちゅぶ」 「はぁん、しんちゃん……んちゅ、ちゅ、ちゅっちゅる」 「ちゅぶ、ちゅぷっ、んるる……んぅぅ、んぢゅぷ……」 「ん……香澄さん、大丈夫、だった……?」 「うん……最後の方は、私も、すごく気持ちよく なっちゃって……こんなことって、あるのね」 彼女はうっとりと、初めての後とは思えないほど、興奮しきった表情を浮かべている。 初めて見る、彼女の『女』の顔だった。 「真ちゃん、いっぱい動いて大変だったでしょう?」 「そんなことないけど……つい夢中になって、中で……」 「うん……まだ真ちゃんがいるの、ヘンな感じ……」 「へ、ヘンな感じ……なんだ……?」 「全部溶けちゃって、なんでも許せてしまえそうな、 そんな不思議な感覚ね……ふふっ、ずっとこうして いたい……」 「こういう気持ちが『女』ってものなのかしら……?」 「僕には……よくわからないけど、香澄さんも 気持ち良かったなら、よかったよ」 冷めやらぬ余韻に浸りながら、潮の香りを乗せた風を胸一杯に吸い込む── その風にのって、人の声が微かに聞こえてきた。……その瞬間、ここが海水浴場に近いことを思い出す。 「あ……みんなが待ってるかも」 「そ……そうね……」 一気に我に返った。正直まだ、後ろ髪を引かれる思いはあるけれど…… 「ぬ、抜くよ……?」 「う、ん……んぁ……ふぁぁ……」 香澄さんの中から僕を引きぬくと、どろりとあふれ出た白い液体に、ピンク色が滲んでいた。 その固まりが、香澄さんの太股の内側を伝っていく…… 「私……」 「うん?」 「真ちゃんに『女』にされちゃったんだね……ふふっ」 どこか満足そうに、彼女はそう呟いた。 「遅くなってごめんなさい」 「ホントにおそーい! もうスイカ割っちゃったわよ」 砂浜に敷かれたシートの上には、バットで滅多打ちにされたらしいスイカの残骸が散らばっている。 「というか、やり過ぎじゃない、これ?」 「……誰のせいだと思ってるのよ」 「ご、ごめん!」 ぼそりと、僕にだけ聞こえるように耳元にささやいてきた芹花に、本気で謝ってしまう。 香澄さんとその、告白どころかシテしまった後ろめたさもあって…… 「……くす、冗談よ。 ま、いいストレス発散にはなったけどね~♪」 「そ、そう……」 芹花は本気で吹っ切れたように、う~ん! とその場で背伸びをしてみせた。それはついさっき溺れかけたとも思えない、元気っぷりで…… ……これが、昨日宗太の言っていた、カラ元気でなければいいんだけど。 「で、ずいぶん遅かったけど、なにしてたのよ?」 「確かにあたし、うまくやんなさいよとは言ったけど、 いったいどこまでやっちゃったの?」 「!? ち、違う、えと」 最後までしちゃいました、なんて言えるか! 「……怪しい」 「怪しくない」 「そ? じゃあ、お姉ちゃんに聞いてみよーう!」 「ま、待てっ!」 「真一くん、スイカ」 「あ、おぉっ? あ、ありがとう」 わざわざとっておいてくれたのか、比較的原形を留めていて、食べられそうな固まりを、杏子が差し出してくれた。 「香澄さんにも、あげたから」 「そうなんだ」 言われて見てみると、香澄さんはスイカを手にして、父さんや春菜さんと談笑している。 あの状況なら芹花も、そうそうやばいことは聞けないだろうけど…… 香澄さんの笑顔からは、さっきまであんなことをしていたなんて、まったく想像できない。 女の人って……なんというか、精神的にタフなんだな…… 「……おめでとう」 「えっ……?」 「……んーん」 そう、杏子は曖昧に笑った……ように見えた。 存分に遊び尽くした後、僕たちは心地よい疲労感に包まれながら、家路についた。 「楽しかったわね~! いっぱい写真も撮ったし、いい想い出になったわ」 「ああ」 「真彦さん、今日は連れてきてくれて、ありがとう」 「感謝なんていいよ」 「ふふふっ♪」 春菜さんは相当満足したらしく、父さんの隣に並ぶと、まるで僕らに見せびらかす様に腕を組んだ。 暮れなずむ路地に、ふたり重なった影が伸びる―― 「……なんかいいよな、ああいうの」 前を行くふたりを眺めながら、兄さんが言った。 「夫婦ってさ、ずっと一緒って感じがして」 「うん……」 父さんたちを気遣うように少し距離を置いて、僕たち子供組は、その後をぞろぞろと追うように歩いている。 「よかったわ。あんな楽しそうにしてるお母さんの顔 見たの、久しぶりよ」 「父さんも、ちょっとわかりづらいけど、あれで結構 楽しんでたんじゃないかな?」 「ホントバカップルね~、我が親ながら恥ずかしいわ」 「でも……ちょっと、いいね」 「まぁ……ね」 勝手なことを言いつつも、みんな笑顔だった。 芹花もようやく、再婚を認める気になったのかもしれない。そうなって欲しいと、心から願った。 「と――」 「あ……」 手を動かした拍子に、近くを歩いていた香澄さんの手と触れ合った。 「……ん」 「香澄さん……?」 すると香澄さんは、一番後ろを歩いている――みんなから見えない位置なのをいいことに、そっと僕の手を握ってくれた。 「こういうの、ダメかしら?」 「いや、僕はむしろ嬉しいけど……」 「けど、何……?」 「僕で、よかったのかな……?」 「どうして、そんなこと言うの?」 「だって僕たち……」 ――家族、なのに…… 「そうね……だけど」 「ん……」 「私は、真ちゃんの気持ちが嬉しかったし、真ちゃんを ちゃんと受け止められて、とっても満足してるわ」 「……そもそもイヤだったら、あんなことさせるわけない じゃない」 香澄さんの顔が、夕日よりも赤く染まる。 「香澄さん……」 僕は感謝の気持ちを、言葉よりも握っていた手により強く力を込めることで、彼女に伝えた。 「ふふ……ありがとう。 ねえ?」 「ん?」 これまでよりももっと傍に――彼女は僕に顔を寄せて、そっと耳打ちしてきた。 「真ちゃん……大好きよ」 仰向けに手を振り上げ、ガツンと目覚まし時計を止める。 いつもと何も変わらない、朝の光景。 でも、少しだけ違う朝…… 「香澄さんと、しちゃったんだよな……僕」 昨日から、頭の中はそればっかり。 唇や指先に残る感覚にどうしようもないほど興奮し、寝る前には自分を慰めるほど僕はもがいていた。 だけどひと晩経つと、そういういやらしい興奮はなくなって、代わりに妙な達成感が心に広がっていた。 それは清々しくも新しい日々の訪れを、僕に予感させた。 「おはよう、杏子」 「……お、おはよう」 急に声をかけられてびっくりしたのか、杏子は一歩引いてから、いつものように控え目にあいさつを口にした。 声を出す瞬間、短くそろえられた前髪がハラリと揺れる。 「あれ? 杏子、髪型変えた?」 「ううん……変えてない、けど……」 あっさりと否定されてしまったけど、ウチに来たころに比べて、彼女の髪も少し伸びてきたんじゃないかな? いつもだったら見逃すような、そんな些細な変化さえも見つけられる心眼を、僕は手に入れたような気がする。 「そっか……でも、なんかいつもと違って見えるかも」 「…………」 「……真一くん、幸せそう」 「え!? そ、そんなこともないけど……はははっ」 「……でも……」 「さ、さて、今日も一日頑張ろうか!」 「…………んー」 「あら……おはよう、真ちゃん」 リビングに入ると、ひと晩中求めていた、最も愛しいその声が、僕の名前を呼んでくれた。 「お……おはよう」 朝食を乗せた皿を配る香澄さんが眩しく見えて、思わず緊張してしまう。 「ちょっと待っててね。もうすぐ朝ご飯できるから」 「う、うん……春菜さんは?」 「まだ寝てるみたい。昨日はしゃぎすぎて疲れちゃった のかしら?」 「確かに……本当に、楽しそうにしてたもんね」 「ちょっとした家族旅行みたいなものだったしね」 「か……香澄さんは、楽しかった?」 「ええ、もちろんよ」 「そ、そう……よかった」 思ったより、うまく会話が続かない。 今日顔を合わせたらどんな話をしよう……と、ベッドの上で散々考えていたのに、いざ顔を合わせると何を話せばいいのか、全くわからなくなる。 僕はなんでこんな、簡単な話しかできないんだ……もっと、何か…… 「あ、あのさ……」 「何かしら?」 「その……体調の方は、大丈夫?」 「え……? え、ええ……」 もっとほかに言うことはないのか?……自分自身にそう突っ込みたくなる。 「し……真ちゃんこそ、その……疲れてない?」 「僕は……だ、大丈夫だよ」 「うん……なら、安心ね」 それきり会話が止まってしまう。いつ誰が来るかわからない場所で、探るような会話じゃあ、無理もない。 もっと香澄さんと一杯話したいのに、もっと一杯触れ合いたいのに、その気持ちをうまく言葉にすることができない。 「僕……頑張るから……」 どうしようもなく焦って、心の奥底にある劣等感のようなものを、僕は吐き出していた。 「え……?」 「香澄さんのもっと近くにいられるように、 頑張るから……!」 「…………」 香澄さんが僕を見つめる。 その眼差しはこれまでのものより深く、そして愛に満ちているように感じられた。 「ありがとう……でも、大丈夫よ。私の方が、真ちゃんの 傍から離れないから」 「香澄さん……」 私の方が、離れない――香澄さんの言葉が染み渡る。 僕の焦りを見越してかけてくれた言葉だとしても、その気持ちがたまらなく嬉しい。 「あ、そうだ……何か手伝うことある?」 「そうね……お茶、淹れてくれるかしら?」 「わかった」 少しでも彼女の役に立てるなら、やっぱりそれ以上の喜びはない。 棚の上から茶筒を取り出しながら、なんとなく香澄さんの後ろ姿を目で追っていた。 「…………」 彼女もふと立ち止まって、僕に向って微笑んでくれる。 香澄さんが何気なく僕を見て微笑む――それはいつもと同じ光景なのかもしれない。 でも、そこに込められたメッセージはこれまでのものとは明らかに違う。 香澄さんはいつも僕を見ていてくれる…… そんな実感が、こんな小さな、ほんの些細なやり取りに込められている気がして、僕に幸せを感じさせてくれる。 いつもと少しだけ違う朝……これが、新たに始まった、僕と香澄さんだけの意味なんだ…… さすがに夏休みだけあって、特に今日は午前中から、カフェはそれなりの賑わいを見せていた。僕も手伝いにかり出されている。 連日のうだるような暑さに、アイスティーの作り置きが足りなくなりそうで、父さんが慌てて淹れたての紅茶を氷で冷やしている。 その表情は、忙しいながらも嬉しそうだ。公私ともに充実しているっていうような…… 「いらっしゃいませ」 「おいーす」 「こんにちは~」 「あ、雪下さん、いらっしゃい」 「おいおい、俺はスルーかよ」 「けっこう混んでますね……お邪魔だったかしら?」 「そんなことないよ。常連さんにはいつも感謝してるし」 「あら……私、常連扱いなんですか?」 「そりゃ……もうこの店じゃ顔パスだよ」 「そうでしたか。ふふっ、なんだか恥ずかしいけど、 嬉しいです」 「で……俺はなんでスルーなの……?」 「雪下さん、今日は何にする?」 「じゃあ……いつものオレンジヨーグルトケーキと……」 「アイスロイヤルミルクティー?」 「あら、正解です。よくわかりましたね」 「常連さんだからね」 「私の好みと気分と、飲み物のローテーションは お見通しですか……」 「むぅ、これは何か、対策を練らないといけませんね」 「だから、俺は……」 「宗太はアイスコーヒー?」 「……はい」 手早くグラスに氷を放り込むと、濃いめに抽出したアールグレイティーと、ミルクを用意する。 ケーキの方は、僕がドリンクを用意している間に父さんが保冷用のディスプレイから出しておいてくれた。 「はい、おまたせ。 ケーキとロイヤルミルクティー」 「ありがとうございます♪」 「んで、俺のアイスコーヒーは?」 「あ……ごめん、リアルに忘れてた」 「って、おい!」 「なぁ、頼むからスルーしないでくれよー。 お前にスルーされたらこれから先、どうやって 宗太くんをやっていきゃいいんだ?」 「頼れる生徒会長の久我山さんなんだから、需要は どこにでもあるんじゃないの?」 「それはそれ、これはこれ。生徒会長の久我山さんは 宗太くんでもあり、宗太くんは久我山さんなんだよ」 ……ってしがみつかれても、意味がわからないけど。 「――あ、そうだ。久我山さんで思い出したけど、スイカ 割りの件、助かったよ。おかげでみんな楽しめた」 「おー、そいつはよかった! 芹花も機嫌直してくれたか?」 「あ……うん、たぶんね」 「そうか……」 「でも、少なくともストレス発散にはなったみたい。 スイカ粉々だったし」 「……それは惨劇の現場だな、おい」 「みなさんでスイカ割りしたんですか?」 「うん、宗太からアイデアだけもらって」 「そう。俺は利用され、捨てられただけの男」 「いいですねぇ。次はぜひ、私も誘ってください」 「スルーしないでぇぇぇ!!」 「今回は家族旅行みたいな感じだったから、二人を 誘えなかったんだ。次はみんなでやろう」 「家族旅行……ですか?」 雪下さんが、怪訝な顔で聞き直してくる。そうか……彼女にはまだ話してなかったんだっけ。 「えっと、実はウチの父さんと芹花のお母さんが、 再婚したんだ」 「ええっ!? そうなんですか…… あっ、おめでとうございます」 「ありがとう……と、僕が言うことでも無いんだけど」 「でも、それでちょっと納得できました」 「何が?」 「西村くん、なんかいつもより明るい感じがするから、 何かいいことがあったのかな? って」 「そ、そう……?」 だとしたらそれは、香澄さんとのことで…… 態度に出てしまっているのかな?人前で浮かれていたら、ヘンに詮索されるかも…… 「ところで、その芹花たちは?」 「ん? 香澄さんと“すずらん”にいると思うけど」 「杏子ちゃんは?」 「編入試験の勉強だって」 僕は店の奥を指差した。家の方の自室にいる、という意味だ。 「あら……そういえば、私の時も一応ありましたね」 「なんだ、そのまま即編入ってわけじゃないのか」 「学力を計るための資料みたいなものですから、大抵は 儀礼的な感じがしますね。珍しいものではありませんよ」 「さすが、転校のプロってやつ?」 「……不本意な言われようですねぇ。 でも、そういう意味では杏子ちゃんの力になれるかも」 「何か、みんなに用事でもあった?」 「いや、用事というか、この後ヒマだったら、みんなで 出かけないかと思ったんだが」 「とりあえず誘ってみれば? 手が空いてたら行くんじゃ ないかな?」 「お前は?」 「いや……僕は……」 客席がほぼ埋まっている店内を、見渡してしまう。今日は忙しそうだから、手伝っていた方がいい気がしている。 「遠慮しないで行っておいで」 「でも……」 「ガムシロップと砂糖の買い置きが少なくなってるから、 ついでに買ってきて欲しい」 「あ……うん。砂糖はいつものグラニュー糖だよね?」 「うん」 父さん、この忙しいのに買い出しなんて…… わざわざ口実をつくって、僕が抜けやすいようにしてくれたのかな。だとしたら申し訳ない。 「よし、決まりだな」 「ん~……」 僕がなおも迷っていると、奥から芹花が顔を覗かせた。 「あ、真一、ちょっと」 「ん?」 「おーっす!」 「こんにちは」 「あはは……ふたりとも、いらっしゃい」 宗太と雪下さんに声をかけられ、芹花は困ったように笑いながらふたりに手を振るが、こちらに近づいてこようとはしない。 「どうかした?」 「いや……その……ちょっと来て、真一」 「…………?」 彼女は遠慮がちに手招きして、僕を呼ぶ。 「僕じゃなきゃダメなの?」 「そうよ、だから呼びに来たんでしょ」 「って言われても……」 振り返って父さんを見ると、黙って頷いてくれた。……行って来いってことだ。 「……じゃあ、ちょっと行ってくるよ」 「おう、まぁこっちは気にするな、ヒマ人はヒマ人らしく、 適当に時間潰してるから」 「うん」 「……ひょっとして、その時間潰しに私も付き合わされる のでしょうか?」 「雪下さんさえよければ、ぜひに!」 「夏休みの課題が溜まっていますので、それを一緒に 片付けましょうか?」 「それはいやん♪」 課題……か。そういえば、手をつけないとな。 ふたりの声を背中で聞きながら、僕は芹花の方へと近づいていった。 「それで、どうしたの?」 「いや実は、さ……お姉ちゃんが倒れちゃったのよ」 「……えぇ!?」 倒れたって……今朝だって、明るく朝食を用意していたのに? 「あ、そんなに深刻な事態じゃないわよ? ちょっと 立ちくらみがした、っていう程度らしいんだけど」 「一緒に店番してたら、急に花を落としちゃってさ」 「そ、それで、香澄さんは?」 「今は部屋で横になってる」 「部屋……? ウチの方の?」 「そ。ここの」 芹花が天井を指差す。荷物を運び込んだばかりの、こっちの部屋にいるっていう意味か。 「そのまま、“すずらん”の方で休めばよかったのに」 「あたしもそう思ったんだけど、確かに荷物はほとんど こっちに移しちゃってるし、本人が『大丈夫』の一点 張りで」 「それにまぁ、とりあえず様子をみようってお母さんと 話して。だからバタバタ騒ぐより、こっそり伝えて おこうと思って」 「そっか……わざわざありがとう、芹花」 「別に……あんたのためじゃないけどさ。お姉ちゃんが 家にいること、誰かに伝えておかなきゃいけないでしょ」 「そっか……」 素直じゃないかもしれないけど、芹花の気遣いが嬉しかった。 「あーはい、ほらほら、わかったらさっさとお姉ちゃんの 部屋に見舞いに行く!」 「うん、ありがとう」 「……あ、はい」 「香澄さん、真一だけど、入っていい?」 「……え!? 真ちゃん? ど、どうぞっ」 部屋に入ると、寝間着姿の香澄さんがベッドから起き上がろうとしていた。 「あ、起きなくてもいいよ」 「ん……ごめんなさい」 僕が手で制すると、それでも香澄さんは横になるのではなく、ベッドの端にちょこんと腰掛けた。 「具合、大丈夫……?」 「見ての通り、意外と平気なのよ?」 「でも、お母さんと芹花ちゃんに、寝てろってしつこく 言われちゃって……」 「僕としても、寝ててもらった方が安心するよ」 「もう、真ちゃんまでそんなこと言うの?」 「だって、急に倒れちゃったんでしょう?」 「それは、そうなんだけど……」 なんだか病人を責めてるみたいで、申し訳ない。 「座っても、いいかな?」 「あ……どうぞ」 香澄さんが自分の隣を示してくれたので、僕はベッドに座ることにした。 「それで、どんな感じ? 貧血?」 「熱中症かも……」 「あぁ、この時期多いもんね。でも怖いな」 「気をつけてはいるんだけどね。油断大敵かしら?」 「あと、疲れが溜まってたのかもね。ここのところほら、 バタバタしていたし」 「それはみんな一緒でしょう? 私だけってわけじゃ……」 「普段から、香澄さんは働き過ぎなんだから、 今日ぐらいゆっくり休んでよ」 「ん……」 そんな取りとめのない会話を交わしながら、僕たちはどちらからともなく、ベッドについた手をいつしか重ね合っていた。 指先が触れ合ったのをきっかけに、互いを探り、指を絡めて、手を繋いで…… 「そんなのダメよ……私だけ、こんな」 「それこそダメだよ……」 示し合わせたわけでもないのに、お互い顔が近づいていく。彼女の目は、熱でもあるのか潤んでいた。 「真、ちゃん……」 そのまま僕たちは、唇を重ねていた。 「ん……んん……んぅぅ……はぁ……」 「香澄さん……」 「……ごめんね、心配かけちゃって」 「ううん、僕の方こそ、香澄さんの具合に気づいて あげられなくて……」 「そんなことない……私のことで真ちゃんが落ち込むこと なんて、ないわ」 「でも……」 「真ちゃんの、その気持ちだけでとっても嬉しいわ」 「真ちゃん……抱き締めて、くれる?」 香澄さんが身体を寄せてくる。 「うん……」 僕は言われたままに、香澄さんを強く抱き締めた。 ……放したくない、そんな想いを込めて。 「真ちゃん……力、強い……」 「でも、緩めたくないんだ」 肩に寄せられた香澄さんの頬に、顔に、キスをして…… 「わかってる……んっ――」 その唇を奪う。今度は強引に―― 「ちゅ……くちゅ……んんっ……ちゅぷ……んあぅ……」 舌を絡めさせ、唾液が溢れるほどの、濃密なキスを繰り返す。 「んちゅ……んぢゅっ、ちゅる……ちゅ、ちゅっぷ……」 「れる、れろ……んんう、ちゅぷ……ちゅっ、はぁ……」 たっぷり数分は唇を重ねたあとで、やっと顔を離した。 「ありがとう、真ちゃん。元気を分けてくれて」 僕としてはもう少しこうしていたかったけど……倒れた香澄さんに、これ以上続きをねだるわけにもいかない。 「僕のキスでよければ、いくらでもするよ」 「ふふふっ……じゃあ、またお願いするわ」 「ホントに? って、なんだか、僕の方が期待してるみたいだ……」 「それはお互いに……よ、きっと」 「うん……」 抱き締める力を緩めた後も、僕たちは肩を寄せ合い、それからしばらく、ただただ無言で過ごした。 昼下がり……蝉の声……壁一枚隔てた向こうは、まるで別世界のよう。 そんなもの関係ないとばかりに、ただここにある甘い時間と空間を堪能する。 時間を無駄に消費しているような気にもなってくるけど、それにこそ意味があると思いたい。 自分に無理矢理言い聞かせるように考えながら、僕たちは、ただお互いの手の平だけを繋ぎ合わせていた。 「……そろそろ戻らなきゃ」 「うん……」 「そうだ、ちょっと買い物に出るかもしれないんだけど、 何か必要なものある? 一緒に買ってくるよ」 「ん~、特にはないけど…… ああでも、何か飲み物があると嬉しいかしら?」 「だったら、飲みやすいスポーツドリンクでも買って こようか?」 「そうね……でもなんだか私、本当に、真ちゃんに甘えて ばっかりね」 「いいんだよ、こんな時だし。僕も香澄さんの役に 立ちたいんだ」 名残惜しい気持ちを堪えて、重い腰を上げる。 「本当は……出かけたくなんかないけどね。ずっとここに いたい」 「ん……そう言ってくれるのは、嬉しい」 「だけど、用事があるんでしょ? 私の方は大丈夫だから」 無理に残ると言っても、喜ばないだろう。この人は、そういう人だ。 「行ってらっしゃい」 「……うん、行ってきます」 夏の繁華街は、喧噪に満ちていて、僕らもその中に混じり込んでいた。 メインストリートを並んで歩くのは、杏子と僕、宗太と雪下さんの4人。 杏子はちょうど勉強に行き詰まっていたらしく、意外にいいノリのふたつ返事でついてきた。芹花は、返事を渋った挙句、結局来なかった。 彼女の名誉のためにひと言加えれば、香澄さんの抜けた穴を埋めるつもりだったんだと思う。 『あんた、お姉ちゃんを置いていく気?』って、すごく恨みがましい目で見送られたけど…… 「暑い……」 「確かにな。最初に買い物したのは失敗だったかな? こう暑いと、砂糖が溶けるんじゃないか?」 「その辺りは、考えられて梱包されていると思いたい けど……」 僕は、ぶら下げていたビニール袋を持ち上げた。 中身は父さんに頼まれたガムシロップとグラニュー糖、そして香澄さんのスポーツドリンクが入っている。 目的もなく街をぶらつくより、先に用事を済ませようという話になったんだけど…… けれど、買い物後もやっぱりあてもなくぶらぶらしてしまっているわけで…… むしろ香澄さんに、このドリンクが温くなる前に届けてしまいたいと思い始めた。 「なぁ、普通の砂糖とグラニュー糖って何が違うんだ?」 「グラニュー糖の方が飲み物に溶けやすいから、喫茶店の シュガーポットには大抵グラニュー糖が入っているん ですよね」 「うん。そうだよ」 あと、粒がサラサラしているのでテーブルがベトつかないという理由で、重宝されている側面もあると思う。 実際に毎日触っていると、そういう部分にも気づけるようになる。 「ふーん……」 そんな会話を交わしながら歩いていると、やがて、大きなドラッグストアの看板が僕の目に留まった。 「あ……そうだ。ちょっとあそこに寄ってもいいかな?」 「ああ、いいですよ。私も見たいものがありますし」 「わたしも……」 「あら、杏子ちゃんは何を探すんですか?」 「化粧水……今使ってるの、あまり合わないから」 「それなら私と一緒です。まぁ、ドラッグストアに 行くなら、定番ですね」 「うん」 「へぇ、ふたりとも化粧水とか使ってるの?」 宗太の問いかけに、ふたりは顔を見合わせてから、不思議そうに頷いた。 「……そんなに意外ですか?」 「意外……?」 「あ、いや、なんか、大人だなぁって」 「女の子はお洒落に目覚めた時から、みな大人ですから♪」 「わたしも大人……?」 「立派なレディですよ」 「男性にはわからないかもしれませんが、女性は何もして いないように見えて、実は常に努力しているんです」 「その努力がドラッグストア、ねぇ」 「女の子にとってのスキンケアは、ご飯を食べたり お風呂に入ったりするのとおんなじ、生活の基本 なんです」 「それにこの時期は紫外線が強いから、なおのこと気を 遣わないと。ね、杏子ちゃん」 「うん……うん……」 雪下さんの力説に、杏子がしみじみと頷く。 「わたし、香澄さんと同じのが欲しくて」 「あ……その気持ちわかります!」 「わ、わかるの?」 「それはもう、あのナチュラルさは見習いたくて」 「杏子ちゃん、何処の使ってるか、知ってるんですか?」 「なんとなく……見ればわかると思う」 「やった! これで香澄さんの秘密に一歩近づけますね」 そんな感じでガールズトークが始まり、取り残された僕と宗太はポカンとしていた。 「うらやましくて仕方ないんですよね、あの、香澄さんの 美しさは」 「内面からにじみ出る綺麗さ、といいますか……是非、 秘訣が知りたいです」 「コツは、よく寝ること、って言ってたけど……」 その綺麗な香澄さんを、僕は独占してしまったってことなんだよな…… 「……ふぅ」 僕は用を済ませて店の外に出て、ようやく緊張を解いた。 杏子と雪下さんは、まだ店内を物色しているようだ。 「……見つからないように買うの、大変だったなぁ」 デリケートな商品だからか、店員も外から中身が見えない紙袋に入れてくれた。 「なぁに買ったんだぁ?」 「あっ!? えと、なんだろう……化粧品?」 「化粧品? なんだよ、それ?」 「ええっと、整髪料とかデオドラントとか……あと 眉毛用のカミソリとかそういうの」 「ほっほうぉ~~、眉毛のお手入れときた。真ちゃんも 大人になったねぇ~~」 「お前が真ちゃん言うな」 「にしても、買い込んだなぁ?」 「う、うん……」 あと、わざわざ紙袋に入っている理由は……中に、コンドームが含まれているからだ。 香澄さんとああいう関係になってしまったわけだし……いつまたああいうことをするとも限らないわけだし。 彼女に迷惑をかけないためにも、さりげなくコンドームを取り出すのが男の身だしなみだって、どこかで聞いた気がする。 昨日はつい、勢いで中で……だったし。 「真一も色気づいたものだなぁ。実はほかにも、 なんかヤバイものを買い込んだんじゃないかぁ?」 「いや、そんなことは」 「だったら見せてみろよ」 「いや、見ない方がいいと思う」 「どうして?」 「そ、それは……」 「会計を済ませて出てきたところから、怪しいとは思って いたんだ。ヘンに周りを気にしてさ……お前はエロ本を 買った直後の俺か! と言いたくなるような」 「買ってるんだ?」 「ふっ、トップシークレットだがな」 「だ~か~ら~! お前も何買ったのか教えろって!」 「い、いや……これは……その……い、育毛剤……」 「は?」 「父さんの……父さんに頼まれた、育毛剤なんだよ……」 ごめん、父さん……ウソをついて。 「そ、そうか……そりゃ言いづらいわな、はははっ。 ……すまん」 「う、うん……いや、いいんだ。 内緒にしてくれれば……」 かくして、西村真彦の設定に、秘密の薄毛が加わった。 ホントにごめん、父さん…… 僕たちは、夕食前になんとか帰り着いた。 「ただいまー」 「お帰りなさい、ふたりとも」 「香澄さん、大丈夫なの……?」 リビングで、食事の支度を手伝っていたらしい香澄さんが微笑む。だいぶ顔色はよくなっているけど…… 「もう平気よ。芹花ちゃんにも迷惑かけちゃったしね」 「たまにはいいんじゃないのー。 あたしは、もう少し休んでろって言ったんだけどー」 芹花が投げやり気味に言った。まぁ、言うことを聞く人じゃないよな、香澄さんって。 「で?」 「で、って?」 「あたしへのお土産は?」 「……え? 何か、頼まれていたっけ?」 「それぐらい、気を利かせて買ってきなさいよ! んじゃなきゃせめて、お姉ちゃんに見舞いの一つでも!」 「あ、ああ、それならドリンク買ってきたけど」 「やすっ!」 「私がお願いしたのよ、それがいいって。 ありがとうね、真一くん」 「い、いえ」 みんなの前だからか、香澄さんは僕を『真一くん』と呼んだ。 昨日今日と『真ちゃん』と呼ばれる時間が多かったせいか、ちょっとした違和感を覚えてしまう。 「…………ったく」 「せ、芹花ちゃん」 「ん? 何?」 「こ、これ、一緒に使おう?」 と、杏子が差し出したのは、雪下さんと一緒に買ってきた化粧水だった。 「え? ああ、お姉ちゃんが使ってるやつじゃない」 「あらホント! よくわかったわね?」 「美百合ちゃんも、使うって言ってた」 「むぅ……となれば、あたしも使わざるを得ないか」 「どうしてそうなるのよ」 「……みんな、お姉ちゃんに憧れているからに、 決まってるでしょ」 「そんなこと……」 「杏子! ありがたく使わせてもらうわ! 一緒に美人になって、いい男捕まえようね!」 「う、うん」 「…………」 なんだかなぁ……と思いつつ席に着くと、隣に兄さんの姿がない。というか、そこだけ食事の用意がされていない。 「あれ、兄さんは?」 「今日はお出かけですって。戻るのは遅くなりそう だからって」 「じゃあ、また朝帰りかな。明日の開店準備は僕がするよ」 「あっ、“すずらん”の準備はあたしがするからね! お姉ちゃんは絶対安静!」 「はいはい、わかりました」 「……ホント、頼りになる子たち」 「…………」 本当に、この先もずっと、こんな風に支え合っていけたら、いいな。 「それはそれとして……」 ついに買ってしまった…… 「まさか……僕がこんな物を買うことになるなんて」 夕食後、買ってきたコンドームをなんとなく眺めていると、箱の脇に日付が印刷されていることに気づく。 「品質保持期限……」 これって、劣化する物だったんだな。つまり、開けたら使わなきゃいけないってことか。 ということは、実際に使う時まで開けられないということだけど…… 「…………」 開けるなと言われると、余計開けたくなるのが生徒会長だって、以前宗太が言っていた。 僕は生徒会長じゃないけど……でもやっぱり好奇心には勝てず、思い切って封を切って―― ――!!!! 慌てて箱を取り落としそうになりながらも、僕は素早く枕の下にコンドームを隠した。 「どどど、どど、どちら様で?」 「わたし……」 「杏子……?」 「どうしたの?」 「春菜さんが、お風呂入ってって……」 「杏子はもう入った?」 杏子はううん、と首を振る。 「わたし、もう少し勉強したいから……」 「先にいいの?」 「いいよ」 「わ、わかった。じゃあ、先に入るね」 僕がそう答えると杏子は満足したのか、小さく頷いて出て行った。 ……はぁ……ビックリした。 「とりあえず、お風呂か」 待てよ…… 「お風呂か……」 ……そうだ、お風呂場でコンドームをつける練習をしよう。 いざつける時になってうまくできなかったら、格好悪いもんな。 僕は隠しておいたコンドームの箱から、袋をひとつ取り出すと、風呂場へと向かった。 「あ……」 「あら、これからお風呂?」 「う、うん……」 僕は手にしていたコンドームを咄嗟に握り締め、後ろ手に隠した。 ……ちょっと、焦る。 「今日はありがとうね。真ちゃんに元気を分けてもらった から、すっかり回復したわ」 周りに人がいないことを確認してから、そんなことを言ってくれる。 「そんな、僕は何もしてないよ」 「そんなことないわ。 疲れたでしょ? お風呂入ってゆっくり休んでね」 「うん……」 「お休みなさい……」 「――ちゅっ」 香澄さんは僕の耳元で小さくささやくと、僕の頬に軽くキスをしてくれて、そのまま部屋に戻ろうとした。 「あ、あのさ……」 「なに?」 思わず彼女を呼び止めていた。手の中にあるコンドームを、強く意識してしまう。 「僕にも……元気を分けてよ……」 「え……? で、でも……」 「ダメ、かな……?」 「…………」 彼女は少し困ったように考えてから、僕の手を引いて、脱衣所のドアに手をかけた。 「じゃあここで、ちょっとだけ……ね?」 「うん……」 「…………」 「…………」 「どうしよう……か?」 「キス……したい」 僕がそう言うと、香澄さんは頬を赤らめながらも、おずおずと唇を差し出してくれる。 「うん……ちゅっ」 小さく、ついばむようなキス。 「香澄さん……好きだ」 「うん……嬉しい……」 もう一度唇が触れ合い、そして―― 「ん……んん……ちゅる……ちゅむ、ちゅぷっ……んんっ」 舌を絡める。 「ん……んんぁ……ん……んん……んるぅ……んあんっ!」 「……もうっ、真ちゃん、急に激しくなるんだから」 「ご、ごめん……」 「でも……気持ちが伝わってくるから、本当に嬉しいよ」 僕だってもっと、かっこよくキスをしてあげたい。 しかし、慣れなくて焦っているのか、それとも握り締めたコンドームがそうさせるのか、とにかく僕は妙にドキドキしていた。 「ふふふ……」 「どうしたの?」 「改めて向き合うと、恥ずかしいわね」 そんな風に言う香澄さんが、なんだか妙に可愛らしい。 そして同時に……色っぽく見えてしまう。 「香澄さん……」 僕は、彼女の身体を抱き寄せようとして―― ――握り締めていたコンドームを、うっかり床に落としてしまった。 「……あら? これ」 「あ……いや、それは……」 僕が気づくよりも早く、香澄さんが袋を拾いあげていた。 「ずいぶん可愛い袋ね。入浴剤?」 「う、ううん……入浴剤じゃなくて……」 「じゃなくて?」 「……コンドーム」 「ふぇっ!!」 袋を手にしたまま、妙な声を出して香澄さんが固まった。 「か、香澄さん?」 「あ……ご、ごめんなさい。初めて見たから…… こんな風になってる物なのね……」 「僕も、初めて買ったからよくわからないけど、どうやら そういう物らしい……よ」 お互いに、なんだかドキドキしている。いっそ、怒られた方が気楽なんだけど…… 「……真ちゃん、もしかして、これ、使う気だったの?」 「あ、いや、使うというか……練習を」 「練習……?」 「そ、その……お風呂場で……着ける練習をしておこうか なって……」 ほかに言い訳のしようもなく、ありのままを口にする。 ……すごく恥ずかしくて、ここで死んでしまいたい。香澄さんも、呆れ返っている。 「は、はぁ……」 「だって、初めて使う時、うまく着けられなかったら、 格好悪いと思って……」 「……そんなこと、気にする必要ないのに」 どうしてここにコンドームがあるのか、ようやく理解してくれたらしく、香澄さんが肩の力を抜いた。 「ごめんね、そんなこと言わせちゃって」 「いや……」 「……ねぇ、真ちゃん」 「な、何?」 「私が、着けてあげる……」 「え……?」 「私が着けてあげれば……真ちゃんが恥ずかしい思い、 しなくて済むでしょ?」 「そ、そんなことしなくていいよ」 驚くような申し出だった。 一度関係を結んだとは言っても、彼女に僕のモノを見られることだってまだ恥ずかしいのに……その上―― 「遠慮なんて、いらないのよ?」 「いや、遠慮っていうか……だって、恥ずかしくて」 「私がやらせて欲しいの……お願い……」 香澄さんが、上目遣いでおねだりしてくる。 股間では、キスだけで興奮したモノがもう、ぎちぎちに硬くなっている。 ……断ることなど、できなかった。 「……お、お願いします」 「でも、着けるだけよ?」 「うん、練習だからね」 元々そのつもりだったし……香澄さんは、体調を崩したばっかりなんだ。これ以上、無理をさせられない。 「じゃあ……その、脱いでくれるかしら?」 「あ……うん」 ぎこちなくベルトを外し、ジーンズを脱ぐ。焦らないようにするのが大変だった。 覚悟を決めて下着をおろすと、現われ出たモノに香澄さんが目を見張る。 「す、すごい……もう、こんなに……」 「そんな、まじまじと見ないでよ」 「そ、そうね。じゃあ、いくわね」 香澄さんが袋をちぎると、中からピンクのゴムが出てきた。 「先っぽの方を、丸めるのよね?」 「それ、そのままでいいって、説明書には書いてあったよ」 「へぇ……ん、なんだかぬるぬるしてるわ」 「潤滑剤らしいよ。舐めても平気な成分だとかなんとか」 「そ、そうなの……? でも、口には含みたくないわね……」 「そ、そんなことさせるつもりないから――うっ!」 言っている側から香澄さんは、僕のモノに指を添えて、おもむろにコンドームを被せ始めた。 ひんやりとした感覚が、ちょっと気持ちいいような悪いような。 「だ、大丈夫?」 「う、うん……平気」 そのままゆっくりと、香澄さんは親指と人差し指で僕のモノに添って、ゴムを少しずつ延ばしてゆく。 「…………」 「……ゴクッ」 下半身に伝わる感触と、香澄さんの真剣な眼差しが、なんだか倒錯的で……思わず生唾を飲み込んでいた。 「……ん、と。これでできたのかしら? 根元まで、 被せてみたんだけど」 「あ、うん……たぶん、これで完成」 「意外と簡単なのね……友達がみんな、抵抗なく使って いた理由がわかる気がする」 「え……?」 「な、なんでもない……! よ、よかったわ、ちゃんと着けられて」 「そ、そうだね、ありがとう」 ――と、扉の外を誰かが歩いていく気配がした。 「っ!」 思わず息を潜めてしまう。 「……行った?」 「うん……みたい」 ただ前を通っただけなのか。誰かはわからないけど、心臓に悪い。 「じゃ、じゃあ、私そろそろ……」 「あ、うん」 本音を言えば、このまま続きを……って考えが頭をよぎってしまったけど。 香澄さんの体調や、今みたいに誰に見つかるかわからないこの状況では、到底無理だ。 「…………えっと」 「?」 出て行くとばかり思っていた香澄さんが、ドアの前でためらっている。 「どうかした?」 「そういうわけじゃないんだけど…… 今度は、その……」 チラリ、と香澄さんが僕の股間に目を向ける。 「それ着けて……してくれる、ってことなのよ、ね?」 「……う、うん」 言葉の意味するところを理解して、カァッと顔が熱くなる。 「そっ、そんなことする相手、香澄さんだけだから」 「ん……ごめんね、また今度ってことで」 「う、うん。お休み」 「お休みなさい……」 去り際に優しい笑顔を残して、香澄さんは脱衣所を出て行った。 ……はぁ。 ………… 「……ところでこれ、外すには引っ張ればいいのかな?」 今日もカフェはそれなりに混雑していたけれど、昼のピークを過ぎると、少しずつ客足も落ち着いてきた。 「ふぁ……ご苦労さん。悪かったな、代わるよ」 「あ、うん」 予想通り朝帰りだった兄さんには、午前中寝てもらった。 本人はそのまま朝から働くつもりだったらしいけど、帰宅した兄さんを捕まえて、僕からそう持ちかけた。 その代わり、今日の午後は僕も時間をもらう。そういう約束だ。 「それじゃちょっと僕、出かけてくる」 「おう、あとは任せとけ」 エプロンを外した僕は、すぐに“すずらん”へ足を向けた。 僕は時間をやりくりして、少しでも香澄さんの傍にいたくなっていた。 香澄さんに時間があるなら、どこか食事へ誘おうと思う。忙しそうだったら、“すずらん”の仕事を手伝ってもいい。 とにかく、一緒にいる時間を増やしたかった。 「真一」 「あ……」 「お姉ちゃんなら、奥にいるよ」 「う、うん」 「……じゃあね」 「お母さーん、あたしお昼食べてくるねー!」 “すずらん”の奥から芹花の叫び声が聞こえる。 と、次に出てきた時には、芹花は僕をスルーして、ウチの店へと駆けこんでいった。 「……お昼って、ウチ?」 だったら、『ちょうどよかった、今からそっち行こうって思ってたのよね。おごりなさいよ!』ぐらい、言いそうなものなのに…… 「なんだかなぁ」 釈然としない気分で店の奥を覗き込むと、芹花が言ったように、香澄さんが座っていた。 「…………」 どうも、ノートを広げて勉強に集中している様子だった。 「……えっと、お疲れ様」 「――!? あ……やだ、真ちゃん、来てたの?」 「勉強中?」 「レポートよ。お店番さぼりながら、ちょっとずつ」 「邪魔だったかな?」 「そんなことないわ」 香澄さんはノートを閉じて、柔らかい笑みを浮かべてくれた。僕が来たことを歓迎するように。 「さっきまで、芹花ちゃんもいたんだけど……」 「うん。目の前を駆け抜けていったよ」 「あら、そう? 気づかなかった……何か言ってた?」 「お昼食べに行くって。どこで食べるのかと思ったら、 ウチの店だったけど」 「そう……真ちゃん、一緒に行かなかったの?」 「誘われなかった」 「そう……」 香澄さんは黙って俯いてしまった。 「何かあったの?」 「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」 「やっぱり芹花ちゃん、少し変わったのかしら? 無理してなければいいんだけど」 「そんなこと……」 ない――と言い切るには、例えば僕と香澄さんの関係ひとつとっても、変わってしまっている。 具体的なことは話していないにしても、たぶん今、家族の中でただひとり、僕たちの気持ちに気づいている芹花に、なんの影響もないわけが…… 「考えても仕方のないことだけど、ね……」 「…………」 「――香澄さん、お昼食べた?」 「え、ううん、まだよ。 そろそろお母さんに相談しようと思ってたんだけど」 話を切り替えたくて、さっき考えていたことを口にしてみる。 「それだったら、よかったらどこかへ食べに行かない?」 「え……? でも……お母さんが……」 「あら、いいじゃない。昨日はお出かけし損ねちゃったん でしょう?」 「だからって、お母さんひとりにしてしまうのも……」 「いいわよ、娘がレポートの片手間にお店番できる店なん だから、私だってお昼ぐらい食べられるわ」 「もう……お店番の片手間にレポート、よ。逆だわ」 「どっちでも同じでしょ。さ、ゆっくりしてらっしゃい」 「えっと、本当にいいんですか?」 自分で誘っておいてなんだけど、春菜さんには申し訳ない気分になる。 「真一くんなら安心だもの。昨日のこともあるから、 本当は店番だって休ませたかったぐらいなのに」 「お母さん……」 「いやでも、それじゃあ」 「遠出しなければ大丈夫でしょ。それに、いざとなったら、 真一くんが助けてくれるわよね?」 「は、はい」 「もう……」 自分から言い出したはずのことなのに、結果的に春菜さんに背を押される形で、出かけることになってしまった。 なんだか……全部見透かされているみたいだ。 「――それで、どこか行ってみたいお店とかある?」 「う~ん……そう言われても」 とりあえず出てきてはみたものの、僕も、香澄さんも、これといってあてがあるわけじゃなかった。 「だったら、何か食べたいものとか……?」 「んー……そういうことなら、たまごサンドかしら?」 「たまごサンド?」 「ええ。私、真ちゃんの作ったたまごサンドが食べたい。 子供の頃、よく作ってくれたでしょう?」 「え……ぼ、僕の作った……」 確かに昔、作ったことはある。けれどそれって、つまり―― 店に入ると、杏子と芹花がカウンター席に並んで座っていた。杏子も一緒にお昼ご飯らしい。 「……んひゃ?」 「……お帰り」 「た、ただいま」 なぜかふたりに、信じられないものを見る目つきをされてしまった。 「せっかく気を利かせたのに、なんでここに来るのよ~、 あのバカッ……!」 「杏子ちゃんも今、お昼?」 「ん……」 杏子は、エビフライを口に咥えたまま、こっくりと頷いた。 せめて、ああいうランチを香澄さんと食べるつもりだったんだけど…… 香澄さんの食べたい物が、僕が手作りした物なんだから仕方がない。香澄さんが喜んでくれることが、何より優先だし。 「なんだ、出かけたんじゃなかったのか?」 「香澄さんのリクエストで、たまごサンドを作ることに なって」 「……!! たまごサンド……」 「杏子、好きだったよね」 こくこくと頷く杏子。そう……もともとたまごサンドは、杏子の好物だ。 子供の頃、彼女を喜ばせようと思って、父さんと一緒に作ってあげたことがある。 以来、僕は時折たまごサンドを作るようになって、今ではこの喫茶店の裏メニューのような扱いをされている。 あくまで身近な人たちの間で、だから、知っているのは今、目の前にいる面子ぐらいだけど。 「そういえば、最近お目にかかってないな」 「最近、僕が料理することなんて、滅多にないしね。 それに昔は、たまごサンドぐらいしか作れなかったし」 基本的に調理は、父さん任せ。父さんがいなくても、今は兄さんが家に戻っていることもあって、僕が調理まで手伝うことはあまりない。 「楽しみ……」 「じゃあ、多目に作るよ」 杏子がまた、コクコクと頷く。彼女も喜んでくれるなら、作り甲斐もある。 何より、香澄さんのために…… 「…………」 と思ったら、香澄さんが表情を硬くして、黙り込んでしまっていた。 「香澄さん?」 「……ごめんなさい」 「え、何が?」 「杏子ちゃんの、想い出の料理だなんて知らなくて、 なのに私ったら、浮かれて……」 「あ、いや、そんな」 大袈裟な――そう続けてしまいそうになって、芹花から鋭い視線を向けられていることに気づく。 「…………」 「え……っと」 「ごめんなさい、やっぱり……いいわ」 「……?」 無邪気に、たまごサンドを食べられると喜んでいた杏子よりも、なぜか香澄さんが遠慮してしまうなんて…… 「香澄さん……?」 「ちょっと……具合もよくないし、向こうに戻って、 お母さんと何か食べるわ」 「え、あ――」 「ごめんなさい……」 ……どういうこと?体調のことを言われたら、それは信じるしかないけど…… 「……ばか真一」 「お姉ちゃんの性格考えなさいよ……」 芹花はぽつりとそんなことを言ったけれど、それ以上、何も教えてはくれなかった。 「はぁ……どうしちゃったんだろう、香澄さん」 店から出たゴミを片付けながら、僕は深いため息をついた。 昼ご飯は諦めたものの、もう一度“すずらん”へ行って、何か手伝おうかと申し出たりしてみたものの…… 香澄さんに、丁重に断られてしまった。 結局、せっかく空けた午後の時間を浪費して、僕は店の手伝いに戻った。 「……はぁ」 「あ……」 「あれ……?」 てっきり“すずらん”にいるとばかり思っていた香澄さんが、家の方から出てきた。 「戻ってたんだ?」 「……レポートに使う資料を探していたの。 だけど、今持っている物では足りなさそうで」 「そう、なの?」 「……だからこれから、買いに行こうかな、って」 「今から?」 もう日が暮れている。どこへ探しに行くのかにもよるけど、大型書店や図書館なら、それなりに遠い。 そして、この辺りで遠出をするなら、一本電車を逃したら、次の電車まで一時間は待つ覚悟が必要だ。 「晩ご飯までに戻ってこれるかわからないから、私を待た なくていいって、みんなに伝えておいて?」 「う、うん……でも、今日必要な物なの?」 「気になると、どうしてもすぐ欲しくなっちゃって」 「だからって、何も今から探しに行かなくても…… 誰かに借りるとか、教えてもらうとかできないの? 電話でも、メールでも」 「…………」 いいアイデアだと思ったんだけど、僕の言葉に香澄さんの顔から表情が消えた。 「香澄さん?」 「……これ以上、誰かに迷惑をかけたくないの」 「えっ」 「ごめんなさい、ありがとう。心配してくれて」 そう顔を上げて言う香澄さんは、いつもの笑顔……に見えた。 「行ってくるわね」 「あ……うん」 香澄さんの姿が闇に消えるまで見送って、ふと気づき、後悔した。 どうして僕はついて行かなかったんだろう…… 夕食を終えて部屋に戻ってからも、僕の後悔は続いていた。 「今日の香澄さんは、ヘンだ……」 急に元気がなくなって……体調のせいなのかな。 「に、しても……」 杏子の想い出料理だとわかった途端、遠慮したり…… 半ば意地になって、自分ひとりで資料を探そうとしてみたり…… 「……僕には、甘えられるんじゃなかったっけ?」 また、わからなくなってしまった。 「……香澄さん、もう帰ってきているかな?」 時計を見ると、まもなく日付が変わろうという時間帯だった。電車もそんなに遅くまでないから、もう帰ってきている……と、思いたい。 「会いたいよ……香澄さん……」 呟くことで余計にその気持ちが膨らんでしまって――僕はすがるような思いで、香澄さん部屋へと向かった。 顔を見て、声を聞いて、キスをして……その優しさに包まれて、この漠然とした不安を拭い去って欲しい。 「…………」 香澄さんの部屋のドアをノックする。 ……返事がない。 「香澄さん……?」 まさか、まだ帰ってきていないのか……? 「……あ」 ドアの隙間から、中の明かりが漏れている。 なのに、人が出てくる様子がない。息を潜めて無視している……なんてことも、考えたくはないけれど。 「どうしたんだろう?」 つい、ドアノブに手をかけていた。……鍵はかかっていない。 「入るよ……?」 僕はひと言告げて、恐る恐る扉を開けた。 「あ……」 香澄さんは、机の上に突っ伏して寝ていた。 机の上には、走り書きされたレポート用紙や就職情報誌、それに服飾デザインの教本などが、開かれたまま散乱している。 疲れて……眠っちゃったのか。 「ん? あ……」 就職情報誌の誌面にあるいくつかの欄が、赤ペンの丸で囲まれている。 その中には、以前書類を見た企業の名前も入っていた。 「いっぱい受けるんだなぁ……」 「う……ん……」 おっと、静かにしなきゃ。 ……香澄さん、本当に大変なんだな。 就職活動をしながら、レポートを書いて、お店の手伝いをして…… なんというか、人としてのレベルの差を見せつけられた気がした。 対して、自分はどうだろう?また、ただ甘えたくて、ここに来たんじゃないか? 「同じことの繰り返しじゃないか……」 むしろ、前より振り回しているかもしれない。昨日今日だけでも、彼女に何をした? 何をしてもらった? 「……んん」 「……そんな恰好じゃ、風邪引いちゃうよ。 香澄さ……お姉ちゃん」 ベッドの上に置かれていたタオルケットを、借りることにする。 「ちゃんと、ベッドで寝て欲しいけど……」 今、彼女に触れたら、抑えきれなくなる。 気持ちが、衝動が、情けなさが、劣等感が――彼女を思いきり抱いて、声をあげさせたい衝動と…… そんなことしかできない自分が、本当にダメな男に思える悔しさが……渦を巻く。 「ごめん……ごめんね……」 「ん……?」 一瞬、目を覚ましたのかな? と驚いたけれど…… 「ごめんね……芹花ちゃん……杏子、ちゃん……」 「芹花に、杏子……?」 どうも、寝言を言っているようだった。彼女の唇が、悲しそうに震えて…… 「大切なものを……私……」 言葉と一緒に、目尻から溢れ出した涙が、つぅ……と頬を伝って流れ落ちた。 「香澄……さん」 「香澄ちゃん、大変そうだな……」 「!?」 「しーっ、香澄ちゃん、起きちゃうだろ?」 「な、何してんだよ、兄さん!?」 「それは俺のセリフだ。ほら、こっち来いって」 「まったく……レディの部屋に入り込んでんじゃないよ、 お前は」 ………… まさか、今まで全部見られていたとか……? 「ご、ごめん、つい……」 「ま、起こさなかったのは正解だな。 何かかけてあったけど、あれはお前が?」 「うん……」 最初から見られていたわけじゃなさそうだってわかって、ほっとしてしまう。情けない…… 「……香澄ちゃん、最近、根を詰めていたみたいだからな。 やっぱり、疲れが溜まってるんだろう」 「だよ……ね」 「ああ。だからちょっと、気を遣ってやってくれ」 「うん……あれ?」 その時、兄さんが手に持っている雑誌に、見覚えがあることに気づいた。 「兄さん、その本……」 「ん、ああ。就職情報誌だよ」 中をぱらぱらとめくって見せられて、確信する。香澄さんの部屋にあったものと同じやつだ…… 「なんで……兄さんがそんな本、持ってるの?」 「んー、そろそろちゃんと就職しようかと思って」 「……兄さん、仕事に就くつもりなの?」 てっきり、ウチで店を継ぐなり、働き続けるものかと思っていた。 「長男がいつまでも家の手伝いじゃな……家族も増えたし」 「それって……お金の話?」 「それもある。自立しなくちゃ、っていう気持ちもある」 「自立……」 香澄さんからも聞いた覚えのある、言葉…… 「前に飛び出した時は、バイトなんかで食いつないだけど ……あれも結局、帰ってこれるこの場所があったから、 無責任に無茶できたっていうだけだ」 兄さんの顔には、苦笑じみたものが浮かんでいた。 「それにあれだ。ひょっとしたら将来、弟か妹が増えるか もしれないだろ? 稼いで家に金入れとかなきゃ、心配 なんだよ、あの道楽親父は」 「あ……え、そうか。父さんと春菜さんの間に」 僕らの下が生まれる――あり得ない話じゃない。 「まぁ、父さんはその辺りのことも覚悟した上で、 春菜さんとの結婚を決めた……と思いたいけどな」 「うん……」 「その辺りの覚悟を、俺も見習おうかと思ってさ」 「覚悟……」 「……俺も男として、そろそろしっかりやりたいんだよ」 「兄さん……」 どこか遠くを見つめている兄さんの目には、何が映っているんだろう? そして、香澄さんもこんな覚悟をもって、就職活動を頑張っているんだろうか? 「……なぁ。お前はひょっとして、香澄ちゃんがなんで あんなに頑張っているのか、知ってるのか?」 「え……」 「学校の勉強と家の手伝い、ってだけじゃないだろ。 あれは」 「…………」 香澄さんの夢は、僕たちふたりだけの秘密。それすら話してしまったら、僕は、本当に香澄さんの傍にいられなくなる…… 「……その顔は知ってる、ってことなんだろうけど」 「…………」 「いいさ、無理に話さなくても。お前が愚痴聞き役に なってるんなら、それでいい」 ……なれているのかな。せめて、それぐらいはと思いたいけれど…… 結局は、キスをして、エッチして、コンドームまで買って、浮かれているだけで…… そんな自分に、ますます嫌気がさす。 「どうした、別にお前が深刻になることじゃないだろう?」 「ううん。僕も……真剣に考えなきゃって、思って」 「そりゃ、真剣に考えるのはいいことだけどな。 学生の内に、もう少し、いろんなもん見てからでも いいと思うぜ」 「ま、俺は色々見過ぎて、ずいぶん遠回りしちまったけど」 「今のお前には、今しか出来ないことをやって欲しい」 「…………」 「……ま、いいや。俺はそろそろ寝るよ、お休み」 「う、うん……お休み」 「……お休み、か」 振り返れば、香澄さんの部屋のドアがある。 その向こうで眠っている香澄さんに、お休みの挨拶すら……僕は今日、言えていない。 抱き締めて、キスをして、関係を結んだ―― ……だから、それが何になるというんだ?それらはただの行為でしかない。 ただの行為で許されることではないと、思いたいけれど。時には香澄さんの方から、大胆なことをしてくれる場合もあったけれど。 それは、僕のおねだりに応えてくれているに過ぎないのかもしれない。 忙しい最中に、無理に時間と気力と体力を使って……僕はそれにただ、甘えていただけ。 お互いに甘えられる関係なら、まだよかった。でもそれは、一時の方便でしかなかったみたいで…… 胸を張って、香澄さんに甘えてもらえるような男に……僕はなりたい。ならなければ、いけない。 でなければ僕はもう、彼女の傍にはいられないから。 リビングではすでに朝食の準備が整っており、ちょうどみんなが席に着こうとしているところだった。 「おはよう、遅くなってごめん」 「おはよう……真ちゃん」 眠そうに眼を擦りながら、香澄さんが言った。 ……夕べは机に突っ伏したまま寝ていたから、あまり疲れがとれていないのかもしれない。 「あら、入れ違いね」 「え……? 入れ違い?」 言葉の意味が飲み込めず、食卓を見回すと、兄さんの姿がないことに気づいた。 「兄さん、いないの?」 「雅人くんなら、スーツを着て出かけたわ」 「スーツ……?」 「そーなのよ、せっかく作った朝ご飯も食べないで」 「まぁ、たまにはいいじゃないか。あいつのあんな格好、 法事の時以来だから、ずいぶん久しぶりに見たよ」 確かに、兄さんがスーツなんて、珍しいもんな。 「やっぱ雅人さんは、スーツとか似合うわよね」 「うん、様になってた」 「なんだか抜け目ない感じが素敵だったわ」 「抜け目ない感じ……」 「それ、褒め言葉になってないわよ?」 抜け目ないというのは、ずるがしこいとかそういう意味だったように思う。 「そんなことないわ。よく駅前でケータイとか売ってそう じゃない? ああいうタイプ」 「そ、そう……?」 「いるじゃない。うまく言いくるめて、結局最新機種を 買わせちゃうような人」 「やっぱりそれ、褒めているようには聞こえないん だけど……」 「本人は喜んでくれたわよ?」 言ったんだ、本人に……苦笑いで受け流している兄さんの顔が浮んだ。 「それにしても、なんでまた急にスーツなんて」 「企業の合同説明会に参加するんですって」 「合同説明会……って何?」 「いろんな企業が、自分たちはどんな会社なのかって ことを、仕事を探している人たちに説明する催しよ」 「そういうところに出かけて、会社選びの参考にするの」 「へぇ……」 兄さん、本気で仕事を探しているんだな…… 「真一~そんなの常識よ? すぐ他人事じゃなくなるん だから、知っときなさいよね」 「う、うん」 「もうちょっと、世の中に関心を向けなさいよ。 ね、お姉ちゃん?」 「あ……うん、そうね」 パンにバターを塗っていた香澄さんが、どこか上の空といった感じで答える。 「芹花ちゃんがそういうの知っていれば、真一くんも 困らないんじゃないかしら?」 「……何、言ってるのよ」 芹花の眉が、不快そうに寄せられる。 「こういうのは、むしろお姉ちゃんの方が詳しいんじゃ ないの? すぐ目の前でしょ」 「うん……だけどほら、芹花ちゃんの方が、真一くんと 同世代なんだから、同じ立場で話せるじゃない?」 「同じ立場、って」 なんだろうこの、居心地の悪さは。 「……昔から、真一の教育係は、お姉ちゃんでしょ? あたしは引きずり回して張り倒していただけなんだし」 「そんな乱暴なこと、してないじゃない。昔から 芹花ちゃんは、真一くんに優しくて――」 「どこをどう見ていたら、そういう結論になるのよ!!」 「ちょ、ちょっと! ふたりとも、なんで僕のことで ケンカになってるの!」 「ケンカじゃないわよ」「ケンカじゃないわよ!!」 ……姉妹だけに、口調こそずいぶん違うけれど、息の合った声で否定されてしまった。 「……もういいわ。ごちそうさま」 芹花は話を切り上げるようにそう宣言すると、食べ終えた食器をまとめて、キッチンへ向かった。 父さんと春菜さんは困惑気味だ。杏子も、不安げに香澄さんと芹花を見ている。 なん……なんだろう、この違和感は。 食事を終えた後、香澄さんも芹花も、父さんたちも、それぞれ自分の部屋や店の手伝いに戻ってしまい…… 僕はリビングで改めて、杏子と合同説明会のことを話していた。 「杏子は、そういうのがあるって知ってた?」 「行ったことないけど、なんとなく」 まいったな……どうやら杏子も、合同説明会とかそういうものがあることは知っているみたいだ。 「常識……なのかぁ」 「真一くん、新聞とか読まないの?」 「う、うーん……読むかと言われると、あまりきちんとは」 「新聞の記事でも、テレビのニュースでも、 たまに載ってるから」 「そ、そうなんだ」 「なんだか大変みたい……思うように人が集まらなかっ たり、何社も説明を聞いても全然決まらない人がいたり」 「…………」 ……まさか杏子に、こういう話題を教わる日がくるとは思わなかったという驚きもあるけど。 そういう大変なところへ、兄さんや香澄さんはもう……飛び込んでいるんだ。 兄さんは歩み出した。僕は何もしていなかった。 香澄さんも自分の道を歩んでいる。僕には、それがない。 「長男がいつまでも家の手伝いじゃな……家族も増えたし」 そう聞いた時、兄さんは責任を感じているのかとも思ったけど、それだけじゃないのかもしれない。 「……俺も男として、そろそろしっかりやりたいんだよ」 それは兄さんのプライドなのかもしれない。 父さんや、香澄さんに負けられないという、思い―― 青く高く広がる空に、薄い雲が漂っている。 夏の暑さはじりじりと続き、今という一瞬を永遠のように長く感じさせる。 それでも実際には、時は残酷に進んでいて、ふと気がつくと、さっきまで頭上を漂っていた雲は、彼方の山の稜線に吸い込まれようとしていた。 ただ時間だけが過ぎていく…… ……僕を置いて。 「まぁた……そんな顔して」 「えっ?」 「ほっんと、景気悪い顔してるわねー」 「芹花……」 「こんな所で昼間っから、なぁにを黄昏れてるのよ」 芹花は僕の隣に来て、ベランダの柵に身体を預けた。 「どうしちゃったのよ、ボーっとしちゃって。 また、いつもの病気?」 「病人扱いしないでよ。僕は元々こういう人間なんだって ば……」 「それが危なっかしいから、こうして声かけて あげてるんじゃない」 「…………」 「ありがとうぐらい言ったらどう? 相変わらず 気の利かない、朴念仁なんだから」 「…………」 先に言われてしまったら、それも言えないじゃないか…… 「はぁ……あんたってホント変わらないのね」 「……違う」 「変わりたいんだよ……」 それは彼女にとって予想外の答えだったのか、芹花は少し驚いて、僕の顔を見つめた。 「あんた……本当に大丈夫?」 「失礼な……これでも本気で悩んでるんだよ」 「例えば?」 「……僕に、みんなのために何かできることって あるのかなって……」 「別に、あんたが今さらいいとこ見せようとしたって、 そんなの――」 「そんなんじゃない……」 芹花の言葉を遮るように、僕は言った。 「……そんなんじゃないんだ」 このままじゃ、いけない。 父さんたちの再婚を通じて、そう思う何かが、香澄さんにも、兄さんにもあったんだろう。 そんなふたりの出した答えは、『自立』…… 同じ家族でありながら、守られる側から、守る側へ変わろうとしている。 一方で、僕は? 香澄さんが変わろうとしているなら、僕も変わらなければいけないと思う。変わりたい。 香澄さんの変化に喰らいついていかなければ、僕は置き去りにされてしまうだろう。 「何かしないと怖いんだ。何かしないと……」 「…………」 「それって、お姉ちゃんのため……?」 「…………」 芹花の口から香澄さんの名前が出てきたので、僕は思わず言い淀んだ。 そういえば芹花が、僕に無理矢理告白させたんだよな……今さら、否定しても仕方ないか。 「それもあるけど……結局は、自分のためだよ」 「そう……じゃあ、あたしには何も言えないわ」 こんなこと、芹花に話している時点で、彼女に対しても甘えているようなものだ。 どうせなら、いつものようにバカにしてくれればいいのに。 「そんなとこまであたしは面倒見れないよ……あたしは お姉ちゃんじゃないんだし」 「そりゃ、そうだよね……」 「真一くーん!」 「……っ」 「香澄さん……?」 廊下の奥から、香澄さんの声が聞こえる。僕を探しているのか? 「あたし、もう行くね?」 「うん……」 まるで香澄さんに見られるのが嫌だとばかりに、芹花はこの場を去ろうとする。 だけど、香澄さんがベランダにやって来る方が、一歩早かった。 「真一くん、ここに――」 「――!?」 「…………」 「…………」 「……お姉ちゃん、気にし過ぎよ」 「芹花ちゃん……」 「いらない気遣い、しないで」 「…………」 「香澄さん、大丈夫?」 「……あ、ああ。うん」 芹花が立ち去り際にかけた言葉がそんなに意外だったのか、香澄さんの顔から驚きが抜けていない。 「そ……そう、お店の方で真一くんを呼んでるわよ」 「あ……うん、わかった。すぐ行くよ」 そう答えながらも、香澄さんの様子が気になって、立ち去りがたい。 「…………あ、そうだ」 香澄さんが僕の顔を、不思議そうに見つめた。 「夕べ、タオルケットを掛けてくれたのって、もしかして ……真一くん?」 「う、うん」 「そう……恥ずかしいところを見せちゃったわね」 「そんなことないよ」 「そうだけど……ごめんなさいね。ありがとう」 僕が勝手に部屋に入ったことを咎めるよりも早く、自分が謝って礼を言う。 この人は……本当に、なんでこんな優しいんだろう。 「真一くんでよかったわ。面接の書類とか広げたままだっ たから……」 「兄さんが後から顔を出したけど、たぶん、見られては いないと思うよ」 「雅人くんが? そう……」 香澄さんは、ほっと胸を撫で下ろした。 「そういえば、就職のことはまだ内緒にしておくの?」 「え、ええ…… みんなに言うのは、結果が出てからでもいいかと思って」 「……結論を、先延ばしにしているだけかもしれないけど」 「…………」 「でも、雅人くんも、就職活動始めたなんて、 ちょっと驚きね」 「うん……兄さんも、自立するためって言ってたよ」 「そう……なんだ」 「香澄さんの方はうまくいってるの?」 「どうかしら……うまくいったらいいんだけど」 「何か、僕に手伝えることはある? 資料探しとか」 「大丈夫よ、これは私のことなんだから、自分自身で やらなきゃいけないことなのよ」 「そうかもしれないけど……」 「私のことより、真一くんは真一くんで、自分のことを 頑張って」 もう何度、こんなやり取りをしたんだろう。 この見えない壁をぶち破って、何か僕にできることってないのかな? ……それとも、結局今のままでは、僕は役立たずということなのか。 「真一くんもいつか、スーツを着て就職活動をするの かしらね」 「どうだろう……あまり想像できない」 「雅人くんみたいに、何か売りつける人……みたいには ならないわね」 「きっと誠実な人に見えるわよ、ふふっ」 「だと、いいね……」 「今はなくても、いつか着る日が来るわ。その時は私にも、 ひと目でいいから見せてね」 まるでその時、自分はここにいないような言い方をするのが、ちょっと悲しかった。どこか他人事のように言わないで欲しかった。 彼女は、この家を出て行くことを、決めている。 彼女がこの家を去った後、僕と香澄さんが今の関係のままでいられるとは限らない。 「イヤだ……」 「えっ?」 「いつかじゃなく、今じゃなきゃダメなんだ。必要なら 今すぐ、スーツの似合う大人になりたい」 「真一くん、そんな……無理に背伸びする必要なんて ないんだから」 僕が感情的になって口走ったことにも、きちんと理解を示して答えてくれる彼女に……ふさわしい男になりたい。 「無理するなって言ってくれるのは嬉しいけど……」 これが香澄さんの優しさだってことはわかってる。 わかっているけれど…… 「なんでそんな言い方ばっかりするのさ……たまには、 僕のことを認めてよ!」 「真ちゃん……」 「……私は、あなたのこと認めて、頼っているのよ」 「それならどうして……ひとりで出て行って、 いつか別れるみたいな言い方をするのさ!」 「あ……」 自分がさっき口にしたことが、どういう意味なのか……気づいたらしい彼女が、目を〈瞬〉《またた》かせた。 「ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ……」 「じゃあ、どういうつもりだったの?」 「……ごめんなさい」 香澄さんに謝って欲しくて、責めているわけじゃないのに。 目的をもって、自立しようとしている香澄さんの方が、立派なのに。 「私が……全部、悪いのよね」 「違う!」 彼女を、落ち込ませてしまうだけの自分が、申し訳なかった。 「……ヘンなこと言って、ごめん」 「う、ううん。私の方こそ……」 香澄さんの表情が沈む。 どうしてこう、こんな空回りばかりしてしまうんだ。僕はただ、香澄さんの傍にいたいだけなのに…… 「香澄さん!」 「な、何……?」 僕が香澄さんの肩に手を廻すと、彼女は緊張した声を出した。 「キス……してもいい?」 「!」 少しでも身体を触れ合わせれば、もっと心を開いてくれるんじゃないだろうか。そんな短絡的な考えに、僕はすがった。 いつかの時のように、手を繋ぐ度、口づけを交わす度、彼女との距離が近くなるように感じていたから…… 「わ、私もしたいけど……その、まだ明るいから」 「え……」 彼女が自分の手を使って、僕の身体を押しのける。 「ご、ごめんね、またあとで……ね?」 「…………」 そそくさと、その場から姿を消した香澄さんに…… 僕はもう、振られたんじゃないかと思った。 「お客さんだよ」 「…………」 ひどく落ち込んだ気分で下りていくと、カフェには宗太と雪下さんが来ていた。同じテーブル席に杏子と芹花の姿もある。 「おっす!」 「なんだ……僕を呼んだのって、宗太たちだったの?」 「なんだとはご挨拶だな。まぁ、いつものことだけど」 「そうかな?」 「そうだよ」 いつものこと……か。なんだかそのやり取りだけで、残念な気持ちになる。 観光客がまとめて海へ押し寄せてくる、夏だけ賑わう、田舎町の小さな喫茶店。 同じような毎日を繰り返していた僕らは、この夏、大きな変化を迎えた。 けれどそれは、平凡だった日常を壊し、好きな人を苦しめるだけの結果になりつつあって…… 「なんだよ、そんな思い詰めたような顔して」 「何か、あったんですか?」 「いや……そういうわけじゃないんだ」 「……真ちゃんは、青春真っ只中でございますからねぇ」 「くっ……」 芹花の冷やかしというか、嫌味? 何も反論できない。 さっき、本人の前で本音を漏らしてしまったし…… 「ほほう。青春、青春ねぇぇ~!!」 そして、話をスルーしてくれない、食いつきのよい男がひとり。 「先日も、買い物途中で色気づいていたしな。 いよいよ真一も、何かに目覚め始めたか?」 「目覚めた、ってわけじゃないけど……」 何かを始めなくちゃって、足掻こうとして……その矢先に見事空回りして転倒した。 「合同説明会にでも、行くの?」 「いや、そんないきなり」 まさかここで杏子に、今朝の話題を蒸し返されるとは思わなかった。 「説明会って……ひょっとして、就職なんかの?」 「ん」 「何ぃっ!? 真一まさか、もう就職を考えているのか!!」 「そういうわけでも、ないんだけど……」 我ながら煮え切らない態度だと思う。芹花の視線が痛い。 「……ヘタレ」 「ううぅ……」 「就職、というのは確かにひとつの選択ですしね。私たち 女性にとっては、特に」 「ほう? その心は?」 「永久就職」 「お嫁さんっ!」 「へぇ、真一あんたぁ、嫁にいくのぉ?」 「なんで僕が嫁にいく側なの」 「だからって、嫁をもらう甲斐性もないくせにー」 「ううぅ……」 芹花の言葉がグサグサ刺さる……いつも以上に容赦がないな。 「で、実際のところ、何悩んでるんだよ? この最強メンバーに相談してみろ?」 「え……わたしも、メンバー?」 「みたいですね。いつの間にやら」 「だってよ、まず学園史上最強の生徒会長たる俺がいる だろ? あと美人小悪魔転入生に、小動物系幼なじみ」 「小悪魔です☆」 「小動物って……オオミユビトビネズミみたいな感じ?」 杏子……夕べテレビに映っていたあの跳ねる生き物、気に入ってたの? 「あと、えーっと……暴力的な毒舌娘?」 「はひゃべぐっ!?」 「今日はものすご~く面倒な気分だから、一発で済ませて あげるわ……」 「は、破壊力は、通常の五割増しだった、ぞ……」 「ぷっ……」 これもいつも通りのやりとりといえば、その通りなんだけど…… 無駄な明るさに、ちょっと気分が晴れる。つくづく自分が単純な人間だって思う。 「それでいいのよ」 「?」 「眉間にシワを寄せて、ひとりでうじうじ悩んでいたって、 何もいいことなんかないんだから」 あんたも、お姉ちゃんも――そう、芹花は声に出さず、口の動きだけで呟いた。 「笑ってなさい。その方が、まだ気楽に物事を考えられる わ」 「……そうだね」 ふっと、肩の力が抜けた。香澄さんのために何ができるのか、もう一度考え直すにはいい機会かもしれない。 「……とにかく一歩、前に進みたい」 そんな言葉が、ぽろりともれた。 「一歩前に、ねぇ。それは前向きでいい考え方だと思う けど、具体的には?」 「うーん……とりあえず、立派な男になりたい……かな」 「またずいぶんとアバウトな目標だなぁ……」 自分でもそう思う。だから色々と悩んでいるわけで…… 「アバウトならアバウトでもいいんじゃないですか? 漠然とした悩みを抱えている時に本を読んだりすると、 意外なところでヒントを得ることもありますし」 「最近は、自己啓発本などもありますからね。いろんな 可能性を模索するためのきっかけは、そこら中にある、 と考えていいと思います」 「あの手の本は読んだことないけど、役に立つのかな?」 「本人次第ですけどね。自分に必要な情報、有利な情報を 取捨選択するのが、賢いやり方だと思います」 賢いやり方か……雪下さんみたいな才女が言うと、説得力あるなぁ…… 「でも、急にどうされたんですか? 志を立てなければいけない理由でも、できました?」 「ああ、確かに気になる。どうしちゃったんだよ、急に?」 「そ……それは……」 「あれか、いわゆる自分探しってやつか?」 「いや……そうじゃなくて」 「まさか……誰か女性のためですかっ!」 「あ、いや、えっと」 香澄さんのため…… 自分のためでもあるけど……結局はそこに尽きる。 彼女に避けられ、呆れられていようとも、僕はもう……そうするしかないんだ。 「……怪しい」 「怪しくなんかないよっ」 「どこの女ですかっ!?」 「いやいや、待ってって……」 「バッカねぇみんな、こんな平凡を絵に描いたような 真一に、彼女なんてできるわけないじゃない」 「そうかぁ?」 「一緒に暮らしてるあたしが言うんだから、間違いないわ。 彼女なんてできたらソッコーわかっちゃうわよ。 ね、杏子?」 「う、うん……そう、かな……」 「そうよ。万が一彼女なんてできたら、こいつすぐ調子に のるに決まってるんだから」 「…………」 まさに芹花の言う通り、今までの僕は調子にのっていた気がする。 自分にそれだけの資格があるかどうか考えず、勝手に香澄さんの男になったつもりでいた。 それにしても芹花は、どうしてわざわざ助け船なんて出してくれたんだろう…… 「つまらん! 愛した女のためになら死ねる! ぐらい言って欲しかった」 「……その覚悟は欲しいな」 「死んだらなんにもなりませんよ。 生きて覚悟を決める方法を模索してください」 「ごもっとも……せっかく夏休みなんだから、 残った時間で何かやりたいかな」 「単純に自信をつけたいなら、身体を鍛えてみるのは どうだ?」 「いや、もっと実感が湧いてくるようなものがいいな」 「まだ学生の身分で贅沢だな、おい……」 「そうかもしれないけど……」 香澄さんが頼れるような男になるには、まずは香澄さんを越えなければならない。 身体を鍛えたところで、香澄さんに追いつけるとは思えなかった。 「だったら勉強しろ、べんきょー」 「すごく当然の答えだね、それ」 「そりゃそうだろ。よく考えてみろよ? 俺らにゃ就職戦線に辿り着く前に、受験戦争という 食うか食われるかの戦いが待ってるんだ」 「そっちに備えておいて、よりいい進学を目指すというの だって、立派なことだと思うけどなぁ」 「わかってるよ。でもそれだけじゃなくて、もっと何か 具体的に自分の先に繋がること……勉強でもアルバイト でもいいんだけどさ」 「ただの勉強がイヤなら、資格のための勉強でも いいんじゃないの?」 「資格……?」 芹花の言葉が、少し新鮮に響いて聞こえた。 「資格をもってれば、少しは箔がつくんじゃないの? どうせ、履歴書にも書くことないんでしょ?」 「ごもっとも……」 「そうですね、私もいくつかもっていますけど、最近は 取得しやすいものがありますから」 「ああ、英検とか漢検とかは年に何回も試験やってるから、 取りやすいよな」 「そうなんだ……」 資格……か。 資格を取るというのは、目に見える形でわかりやすい。 漠然と努力をするよりも、何か目標があった方がいいと思うし、資格をとった僕は資格を持ってない僕よりも、明らかに前進していると言える。 「考えてみるか……」 「で、僕にとれる資格って、どんなものがあるんだろう?」 とりあえず、パソコンで調べてみることにした。 いくつか思いついた単語を入力して、検索をかける。 数秒と待たずして、結果が表示された。 「こ、こんなにあるのか……」 一日で調べつくせないほどの情報が、そこに提示されていた。 ひとくちに資格と言っても、国家資格から民間が主催する資格まで、ざっと数えても2~300はありそうだ。 その中から、僕にできることを探すのか……それだけで時間がかかりそうだ。 「……調理師免許とか、どうかな?」 店の手伝いとかしてるし、これなら比較的とりやすい気がするけど…… 「へぇ……調理師って、専門学校で試験免除なのか。 で、僕の場合は……」 なになに……『中学校卒業以上で、2年以上の実務経験』。 「店の手伝いって、実務経験に含まれるのかな?」 「あ、はい。どうぞ~」 僕はパソコンの画面に目を向けたまま、適当に答えた。 「お、お邪魔します……」 どこか遠慮がちな声が聞こえたけれど、僕はまだ、モニターに映し出された情報を追いかけるのに夢中だった。 「調べること、多いなぁ……」 「……どうしたの? 難しい顔しちゃって」 「あ、いや、調べ物をね……って!!」 昼間、気まずい別れ方をした人が、僕の横からモニターを覗き込むようにしていた。 「……調理師免許?」 「ど、どうしたの、急に?」 「あ、ごめんなさい、勝手に見ちゃって。 これを届けにきただけなんだけど……」 遠慮がちに香澄さんが差し出したのは、綺麗に畳まれた洗濯物だった。 「あ……わざわざありがとう」 「う、うん」 香澄さんも、昼間のことが気まずいのか、どこか居心地悪そうだ。 それでも……すぐに立ち去ろうとしないところが、まだ希望をもたせてくれるようで……嬉しいけれど、苦しい。 「真ちゃん……お料理に興味あるの?」 「あ、ああいや、そういうわけじゃなくて。 僕にも、とれる資格なのかなって」 「資格……?」 「うん。この『実務経験2年以上』って、ウチのお店の 手伝いも含まれるのかな?」 「……たぶん、アルバイトでも大丈夫だと思うけど。 ちょっと、貸して?」 香澄さんは身を乗り出して、キーボードをタイプする。 腕が触れ合って、一瞬胸が高鳴ったけれど……今はそういう場合じゃないと、心を引き締める。 「やっぱり……」 「何?」 「受験資格の実務経験って、一日6時間以上で週4日の 勤務なんですって」 「証明書にサインさえもらえれば、どうにかなりそう だけど……おじさま、サインしてくれるかしら?」 「う~ん……」 微妙かなぁ。結構アバウトな時間帯や日程で入っているから。芹花や宗太の誘いで抜けてしまう場合も多いし。 その一点だけ考えてみても、僕はずいぶん甘やかされた環境で働いていたんだなと、思い知らされる。 「それと、お母さんに相談するのもいいかもしれないわ」 「春菜さんに?」 「お母さん、ああ見えていろんな資格もってるのよ。 少しは参考になる話が聞けると思う」 「へぇ……悪いけど、なんか意外だ」 「そうね、普段はそういうところ、あまり見せないから」 資格をいっぱいもっている人といえば、例えば雪下さんなんかはそれ『らしい』。 どちらかといえばおっとりしている感じの、香澄さんや春菜さんが、実はいくつも資格をもっているというのは、なかなかイメージできない。 「それにしても、どうして急に資格なんて? 私、てっきり……」 「?」 香澄さんが、少しもじもじと、頬を赤くした。 「……昼間のことで怒らせてしまっていて、無視されて いるのかと思ったわ」 「いや、それは……」 「今ならキス……できるけど」 「え、あ……」 あの時、キスを迫ったのは僕だ。 拒絶したのは香澄さんで…… 今は人目もないからいいと、そういうこと……? 「……ん、ごめん」 「え……!?」 「気持ちは、すごく嬉しい。香澄さんが僕のこと、 まだ見捨てずにいてくれたみたいで」 赤くなっていた香澄さんが、みるみる顔を強ばらせる。 「見捨てるなんてそんな、私……!」 「うん。だから……これは、堂々と僕がキスするために、 始めたいんだ」 モニタに映し出されている、色々な資格…… それを得たところで、何も始まらないかもしれないけれど…… 「真ちゃん……まだそんな、気にしているの? 私はそんなこと、気にしていないのに」 「僕自身の、その……香澄さんに対する想いのけじめ、 みたいなものだから」 「…………」 「香澄さんに負けないぐらい、今度こそ、本当に 頑張りたいから……見てて」 「……うん」 香澄さんはそうして……少し唇を噛んで、寂しげに笑った。 春菜さんがたくさん資格を持っているなら、何かいいアドバイスがもらえるかもしれない。 ひとりでパソコンと睨めっこしているよりも、経験者の話を聞いた方がいい気がして、僕は“すずらん”に足を向けた。 「あの……」 「あら、真一くん?」 「ちょっとご相談が……」 「何かしら? 真一くんに頼られるなんてママ嬉しいわ! なんでも言って!」 「資格の話を聞きたいんです」 「資格ぅ?」 「春――お、お母さんはたくさん資格を持ってるって、 香澄さんに聞いたんだけど」 「そうねぇ……細かいのを入れれば、20種類ぐらい もってるけど」 「そんなに!?」 「この店がうまくいかなかった時のことが、怖くってね。 娘がふたりもいるでしょ? あの子たちのためにも、 いつでもどこかで働けるようにって」 「はぁ……すごいなぁ。どんな資格をもってるんです?」 「んー、花屋に関係ないものだと……ソムリエ検定とか、 セクハラ相談員とかかしら?」 セクハラ相談員……そんな資格もあるんだ。 「簿記検定なんかは学生の頃にとったわよ。 香澄も、2級までとったんじゃないかしら?」 「香澄さんも?」 「この間まで、この店の帳簿は香澄がつけてくれていた のよ。このところ忙しそうだから、今は私が自分で こっそりやっているけど」 「こっそり、なんですか?」 「ええ。そうしないと、『私の仕事を取らないで!』って、 香澄が怒るんですもの。こんなのは、ヒマな人間が つければいいのにねぇ」 ……やっぱり、香澄さんは頑張りすぎだな。 そして僕は、そんな彼女に追いつけるのかな? 「……何か、僕に向いていそうな資格とか、ありますか?」 「ん~、何かやりたいお仕事があるなら、まずはそれに 近い資格をとるのが一番だと思うけど」 「そこまでまだ、決めかねていて」 「だったら、刑務官なんかどう?」 「け、刑務官!?」 「刑務所の看守さんとかのお仕事に就くための資格ね」 「国家資格の中でもとりやすいって話を聞いたことが あって、私も挑戦しようと思ったんだけど、 年齢制限があってダメだったのよ」 「いやいや、僕が刑務官って……」 「真一くん真面目だから、向いてると思ったんだけど?」 向いてるとか向いてないとか、それ以前の話だと思うんですが…… 春菜さんにいくつかアドバイスを聞いてから喫茶店へ戻り、お客さんの少ない時間を狙って父さんに相談を持ちかけた。 「この実務経験の証明書って、僕は対象になるのかな?」 「……残念だけど、ダメだよ。ほかの人はちゃんと 頑張ってやってるんだから」 「だよねぇ……」 父さんは基本的に身内に甘いと思うけど、ここで僕にあっさり証明を出したら、それは不正に近い。さすがにそれは、僕も父さんも望んでいない。 「調理師免許がとりたいなら、学校を卒業してから 専門学校に行けばいいじゃないか」 「それじゃ遅すぎるよ。僕は今、何かできることを 見つけたいんだ」 「…………」 「……どうして、そんなに焦っているんだい?」 「焦ってるというか……」 確かに、香澄さんと肩を並べたい焦りはあるけど、それだけではなくて…… 「せっかく父さんたちが、僕に自由に時間を使わせてくれ ているのに、最近なんだかそれが、もったいないことを している気がして……」 「ふむ……」 「その時間を使って、僕にも何かできないかと思うんだ」 香澄さんも、兄さんも、そうしている。だから僕もふたりを見習いたい。 「その時間をどう使うかは、真一の自由なんだよ。 自分のやりたいことを見つけるためにただ悩んだりして いても、それはそれで有意義な使い方なんだが」 「だけど……もったいないよ。結論も出せないんじゃ」 「そんなことはないさ。悩むことだって、立派な努力じゃ ないか」 「そうかもしれないけど……」 もどかしい。 香澄さんに追いつくためには、今さら自分探しだなんて、そんなこと言っている余裕はない。 「僕は……すぐに、何かになりたいんだ」 「……その何かを見つけるために、今の時間を使うわけに はいかないのかい?」 「…………」 その余裕は、ない。僕の中に…… 「……父さんは学生の頃、こんな風には思わなかった?」 「私かい? そうだな……」 父さんが、ティーカップを拭く手を止めた。 「私は……そうだね。やっぱり目的もなく、とりあえず 学校の勉強をしてたよ。少しでもいい会社に入るために、 みんながそうしていた時代だったからね」 「それで……?」 「まぁ、それなりの会社には入れた。そして今度は、 会社のみんながそうしていたから、同じようにただ がむしゃらに働いた」 「うん……そうだな。私が、なりたい自分という奴を 見いだして、時間をどう使えばそれになれるのかと 考え出したのは……」 「…………」 「お前の母さんと出会ってからだよ」 「…………」 親子、なんだなぁ…… 父さんと、あんなに話し込んだのは、初めての気がする。 結局、答えらしきものは見つからなかったけど…… 「よう真一。頑張ってるんだってな」 部屋の前まで来たところで、兄さんに声をかけられた。 「あれ、兄さん、帰ってたの?」 「今さっきな。んで、ちょうど着替えてきたところだ」 シャワーも浴びた直後なのか、髪も少し濡れている。 「それより聞いたぞ、お前。資格とるのに、みんなに相談 して回ってるんだってな?」 「だ、誰に聞いたの!?」 「父さん。帰って来た途端にその話されたよ。 なんだか、すごく嬉しそうだったぜ」 「嬉しい……?」 「息子の成長でも感じ取ったんだろうさ」 「全然成長なんかできてないよ……」 まだ何も見つかっていない。香澄さんや兄さんと同じ土俵に立つことすらできていない。 「その第一歩ってとこかもな。兄貴としても嬉しいぞ」 なんだよ……兄さんまで妙にテンションが高いじゃないか。 「で、みんなに聞いて回って、いい答えは見つかったか?」 「残念ながら……やる気はあるんだけど、僕自身が何をし たいのかハッキリしないんだ……」 「ま、そう簡単に見つかるもんじゃないだろう」 兄さんはニヤニヤしている。 僕がこうなるのはお見通し、ってことなんだろう。 「……僕は兄さんほど優秀じゃないから、すぐには わからないんだよ」 「おいおい、俺だってつい最近なんだぜ。どうしたい かって決めたのは。すぐわかる奴なんて、そうそう いないって」 「僕はでも、その早々になりたいんだ」 「って、焦ってるだけじゃ、なんにもならないだろう?」 「そうだな、ひとまず英検とか漢字検定とか、受験に 使えるものからとってみたらどうなんだ?」 「それ、宗太たちも言われたよ……でもさ、そんな誰でも いつでもとれる資格をやっているヒマなんてないよ」 「……お前、言い訳ばっかりだな」 「そうじゃなくて、僕は今自分にしかできないことを、 すぐに見つけたいんだ!」 「……お前さ、誰にでもできる努力をバカにしてないか?」 「ば、バカに……!? そんなつもりないよ!」 「何かしたい何かやりたいって、そういうやる気をもつの はすごくいいことだと思う。けどな……」 「誰にでもできる努力、誰もがやっている努力をしないで、 自分にしかできないことをやろうなんて、虫がよすぎる と思わないのか?」 「…………」 「そんなに『特別な自分』になりたいのなら、まず 誰にでも普通にできることをやりつくせよ」 「もしかしたらその途中で、お前のやりたいことが見つか るかもしれないだろ? 問題は、それをどこまで続けら れるかじゃないのか?」 「それが努力ってもんだと俺は思う。 その努力が、お前自身の血となり肉となるはずさ」 「…………」 「……なんて、俺も散々あがいた結果、言えることなんだ けどな」 「要は、なんのためにっていう、目的さえ見失わなければ いいのさ」 「…………その、目的が」 「ん?」 「その目的が……目標が、待っていてくれなかったら どうするのさ」 「…………」 「地道な努力も必要なのはわかるよ。わかるけど、 その間に……!」 僕はきっと、どんどん置いていかれてしまう。 「そんなの簡単さ」 「?」 「地道な努力を、二倍の早さでこなせばいいだけだろう」 「…………」 「お前の目標がどんなに高いところにあるか知らないけど、 そこへ至るのに飛行機を探すよりまず、がしがし自分の 脚で登っていけばいいだけじゃないのか?」 「…………」 ……結局は、僕の考えが甘いってことなんだろうな。 「それに……」 「お前のその『目標』って奴は、先に進みながらも、 お前が追いついてくるのを待っていてはくれないのか?」 ひと晩経って、僕の中で何かが吹っ切れた。 朝食を食べるとすぐに家を出て、参考書を買いに行った。 とにかく手当たり次第にやるしかない。兄さんと話した結論は、そういうものだった。 兄さんが言った通り、僕は言い訳をつくってうじうじして……そんな考え込んでいる時間こそが無駄なんだ。 真夏の空は今日も晴れ渡り、澄みきっている。何かを始めるには、いい日だと思った。 僕は駅のベンチに座り、遠くに見える陽炎に包まれた街の方を眺めた。 朽ちた枕木の上をなぞる赤茶けたレールがどこまでも伸び、ところどころに生えた夏草が風に揺らされ、なびいている。 古ぼけた駅舎と、喫煙所から漂い出る煙草の香りが、なぜだかひどく懐かしく感じられる。 この先に、違う景色が見えそうな気がしていた…… 本屋を訪ねると、参考書はすぐに見つかった。 値段が高かったことに少し驚いたけど、ここで惜しんでいたら話にならないと、欲しいと思ったものすべてを購入した。 買った本をしまい込んだリュックを背負う。 「お、重い……」 手提げでは心配だったので、リュックを用意したのは正解だった。 「こんにちは、西村くん」 「あ、雪下さん」 「お買い物ですか?」 「参考書を買ったんだ」 「資格の?」 「そう」 「ふふっ、頑張っているんですね」 「どうせだからと思って、欲しいと思ったもの全部買って みた」 背中のリュックを見せてポンと叩くと、雪下さんは驚いて目を見開いた。 「その中、全部……?」 「これくらいは必要かと思って」 「で、全部に挑戦……とか?」 「買ったからにはね」 「……はぁぁ」 滅多なことでは動揺しない雪下さんを驚かせるというのは、なかなか新鮮で心地良い。 「ホントに、本気だったんですね……」 「あはは……思いつきで言ってると思った?」 「そんなことはないですけど、ここまで本気だとは思って いなかったので……ごめんなさい」 「いや、むしろ笑ってくれいいよ。確かに、相談した時は まだ思いつきレベルだったし、端から見れば めちゃくちゃやってると思う」 「でもとにかく今は、できることはなんでもやろうって」 「……そういう風に思えるのは、素晴らしいことだと 思います。いい顔してますよ、西村くん」 「そう……かな? ま、結果が出てからが勝負だし」 「慎重で結構なことです。ふふっ」 そこでふと、雪下さんは何かを思い出した表情になった。 「そういえば……資格とはちょっと違いますけど、今度の 学力テストは受けられるんですか?」 「学力テスト? そんなのあるんだ?」 「やっぱり……昨日の様子ではご存じないのかなと 思いましたけれど」 「休み中は、店の手伝い中心の生活だからね。 これまでほかのことに興味をもたなかったし……」 我ながら、惰性で生きてきた感じがするなぁ…… 「まだ、申し込みが間に合うはずですから、よかったら ご一緒に受けてみませんか? 私と久我山くんは 受ける予定なんです」 「自分を磨くために資格へ挑戦するのもいいと思うんです けど、今の自分の力量を知ることも大切じゃないかと。 今後の指針にもなりますし」 「今の自分の実力か……確かに知りたいかも」 課題さえこなしておけば……というレベルだものな、勉強に対する普段の僕のスタンスって。 元々できることは何でもやるつもりだったんだ。ここでひとつふたつそれが増えても、方向性は変わらない。 「そうだね。受けてみるよ、そのテスト」 「はい、お互い頑張りましょう」 「うん!」 テストの受け付けは、宗太に聞いたらあっさりと『今からだったら、教師に電話一本でオッケー!』と言われ、その通りにした。 雪下さんは、夏休み前に告知された段階で、申し込みを済ませていたらしい。 僕はその告知に、やっぱり気づいていなかった。どうせいつものように、お店の手伝いがあるからと、スルーしていたに違いない。 今年もいつもと変わらない、何も変化のない夏が過ぎていくとばかり考えていたから…… けれど、今年はもう―― 「さて、やりますか……!」 机の上にノートや教科書を広げ、学力テストの勉強を始めた。出題範囲は教科書全般ということなので、復習がメインだ。 予備校などにも通っていない僕には、まだ習っていないことはどうしようもない。 そういう意味では本当に、今の自分の身の程を知るいい機会になりそうだ…… 「と、いけないいけない。集中しないと……」 ……………………………… ……………… ………… ………… 「真ちゃん?」 ………… 「真ちゃん? 香澄だけど……入ってもいい?」 ……ん?誰か、呼んだ……? 「真ちゃん? 勝手に入っちゃうわよー」 「っ! 香澄さん……!?」 「ご、ごめん! 気づかなかった!!」 「ああ、よかった。もう寝てるのかと思ったわ」 「いや、集中してて、本当に気づかなかったんだ」 僕がそう説明すると、教科書やノートが散らばった机の上を見て、香澄さんは微笑んでくれた。 「そっか……頑張っているのね。作ってきた甲斐があった わ」 「ん?」 「これ」 と、香澄さんが、手にしてたお盆にかけられていた布を外す。 そこには、おにぎりふたつとお新香、それにお茶とお味噌汁といった、オーソドックスながら食欲をそそる品揃えが載せられていた。 「お夜食なんだけど、食べられるかしら?」 「え……? 夜食?」 どちらかといえば、その言葉に驚いて慌てて時計を見た。 「あれ……もう11時!?」 「お夕飯に呼んでも下りてこなかったから、雅人くんが 様子を見に来たはずなんだけど」 「兄さん? いや、気づかなかった」 「うん。雅人くん、ひとりで戻ってきて、『あいつは今、 自分の人生と戦っているから、気が済むまでそっとして おいてやろう』なんて言って」 「……また、宗太みたいな言い方するなぁ」 「ふふっ、でも感心してたわよ。 『あいつ、本気なんだな』って」 「う、うん……まぁ……」 時間を忘れて勉強するなんて、初めてのことかもしれない。しかしそれを、家族団らんの席でネタにされていたと思うと……恥ずかしい。 「せっかく集中していたのに、邪魔しちゃってごめんね」 「そ、そんなことないよ!」 香澄さんの気遣いと、何より……顔が見られたのが、やっぱり嬉しい。 香澄さんは持ってきたお盆を、僕の机の上に置いた。 僕は椅子に腰かけると、さっそくおにぎりをひとつ摘んでかぶりついた。 ……中身は好物のおかかだった。しかも、手作りの。 「香澄さん……わざわざありがとう」 「真ちゃんが喜んでくれると思って」 おにぎりを頬張る僕を満足そうに眺めながら、香澄さんは僕の前に跪いた。 「どうしたの……?」 「ううん、気にしないで……真ちゃんは、おにぎり 食べてていいから」 そう言って、さも当然のように僕の股間のファスナーを下ろす。 「…………って、ええっ!?」 続いて中から僕のモノを取り出すと、彼女はおもむろにそれを口に含んだ。 「ちょっ!? か、香澄さん……!!」 *recollect「ん……あむ……ちゅる……ちゅぶ……まだちっちゃいね」 「そういうことじゃなくって、何を……」 さっきまで勉強に集中しすぎていて、お腹が空いていたことにも気づかなかったぐらいだ。 「ちゅ、ちゅぷ……ちゅぽ……ちゅぽっ……んぅ、ちゅぷ」 当然、エッチなことなんて考えてもいなかった。 なのに、香澄さんの温かい口の中で舌になぶられ、裏筋を擦られて、図らずも反応してしまった。 「はむぅ……んちゅ……ちょっと、おっきくなってきた」 「だ、だってそんなことされたら……」 「ん……ちゅる……れる……んふぅ……ね、気持ちいい?」 上目遣いで尋ねてくる香澄さんに僕は抵抗できず、答えるのが精一杯だった。 「気持ちいいけど……でも、……っ」 「ん、んむぅ……時間……ちゅるっ……とらせない、から ……んんっ……ちゅぷ、ちゅるぅ……」 「んっ……あむ……んちゅ、んはぁ……時間もったいない から……んむぅ、ぢゅる……」 「おにぎり食べてるあいだに……はぁ……気持ちよくして あげる……はぷぅ、ちゅむ、ちゅる……」 香澄さんは僕のモノから一度口を離すと、荒い息でそう言った。 「食べながらって……ちょっ――」 「ちゅるるる……んむ、んりゅ……れるぅ……ちゅぶっ」 再び顔を落とした香澄さんは、問答無用とばかりに僕のモノを舌でなぶり、咥えては吸って、一心不乱に刺激してくる。 「んちゅ……れる……ちゅじゅる……ん、おっきく…… なった」 「だ、だって、そんなにされたら、自然にそう…… なるよ」 口から溢れるほどになった竿の部分を、香澄さんは親指と人差し指で輪をつくり、擦り上げてきた。 大きく腫れ上がった亀頭は、優しく唇で包み込み、舌先で丹念にねぶる。 「んぅんっ……んぅん……あぁぁ……はぁ……んっ…… んはぁぁ……ちゅる……ちゅ……れるぅれるぅ……」 必死ともいえる様子で、香澄さんは手を上下させ、舌を動かす。 そのことしか頭にないかのように、行為に没頭する香澄さんを見せつけられるだけで、僕は昂ぶる劣情を押さえられず…… 「んふっ……はっ、あ……んっ、んちゅるっ……ちゅ…… んんっ……あ……む……んっ、ぐっ……ちゅる……」 狂おしいほどにそそり立ったモノを……香澄さんは苦しくないのかと心配になるくらい顎を開き、唇をすぼめ、飲み込む。 初めての行為のはずなのに……たどたどしい動きで懸命に、咥え込んだまま頭を上下に振る。 「はむぅ、んちゅく……ちゅむぅ……真ちゃむぅ……」 「ふむぅ……はぁむ……はぁ、んぁむ……真ちゃうん……」 「あむぅ……んふっ……ん、んむぅ、んるぅ、んぁぁっ!」 何度も僕の名前を呼びながら、香澄さんが喉を鳴らす。 その度に香澄さんの動きは大きく、大胆になって、口の奥へ奥へと僕の先端が呑み込まれていった。 「んっ……んぐぅ! んぅぅん!!」 「んあ……あぁ……香澄、さんっ……!」 正直、おにぎりを食べるどころじゃない。下半身全体にじわじわと広がってくる快感に、腰が抜けたようになってしまっている。 「ん……んむ……んぅ……ちゅ……ちゅるぢゅるぢゅる!」 たまらなくなって彼女を見ると、目が合ってしまった。 僕が洩らした喘ぎ声に気をよくしたのか、彼女は目だけで微笑むと、さらに深く、それこそ根元まで僕のモノを咥え込んだ。 「んっ……ぶぅっ……んぐぐぅ、んんっ……!!」 「うっ、あぁ……か、香澄さん……」 奥の少し硬いところがモノの先に当たって、また声が漏れる。 「ふっ、んぐぅ……ぢゅ、んっ、んんぅぅ……!」 だらしなくて、恥ずかしいとしか思えない僕の声を、だけど香澄さんは嬉しそうに、吸い込んでいく。 「ちゅう……んん! ……はぁ……んばぁ、んぐっ!!」 少しむせて、目尻に涙を浮かべる彼女。 それでも、香澄さんは行為を止めない。僕のモノを愛おしそうになぶり、しゃぶり続ける。 「んちゅっんっ! んぐぅんっ! けほっ、けほっ…… ちゅぷぅ……んぶぢゅるぅぅ……んぐっんっっ!!」 「ちょ、ちょっと待って……! こ、これ以上は……!」 香澄さんの口を無理矢理犯しているかのような背徳的な姿に、ともすれば押し流されるようになる。 でも、苦しむ彼女を見ていられなくて、僕は思わず香澄さんを股間から引き剥がした。 「んんぅっ!? んちゅぅ……ふはぁ……!!」 ドバッと音がつきそうな勢いで、香澄さんの口から粘ついた唾液が溢れ出る。 それらは長い糸を引きながら彼女の胸元を伝い、さらにこぼれ落ちて床を汚した。 「はぁ……はぁ……はぁ……し、真ちゃん……?」 香澄さんは、なぜ僕が急に彼女を引きはがしたのか、わからない様子で……よだれを垂らしたまま、不思議そうに僕を見上げていた。 「なんで……なんで、いきなりこんな……」 「なんで……って」 「……私には、こんなことしかできないから」 ドキリ、とした。それは僕が、彼女に対していつも抱いている気持ちだ。 「真ちゃんのこと、応援したいけど、どうしたらいいか わからなくて」 「でも、気持ちよくしてあげることなら、私にもできる かなって……」 「そんな……」 「真ちゃんさえよければ……もっと、させて」 香澄さんはすがるような眼で僕を見る。 「ダメかしら……?」 「ダメ……じゃない、けど……」 「まだ足りないなら、もっと頑張るから……」 「いや、そんなことないよ……十分気持ちいいんだ」 「でも、さっきみたいなのはちょっと……見ててこっちが 辛くなるから……」 「そ、そう? ごめんなさい……加減がわからなくて」 「……初めて、だよね?」 尋ねるとコクンと、素直に頷いた。 「経験豊富な友達がいるから、彼女たちに普段、どんな ことをカレにしているのか、聞いてみたの」 「あー……うん」 「コンドームの付け方なんかもね、コツがあるんだって」 香澄さん……研究熱心過ぎるよ。 女性同士って、そんな話を平気でしているものなのかな? 「そうだ……こういうのも、習ったんだけど」 「え、何?」 「私にはちょうどいいやり方だって、友達が言っていてね」 「?」 「ん……しょ」 「うわっ……」 彼女は上着を脱いでブラを外すと、僕の股の間に身体ごと割り込んできた。 「ん……と、こう、かしら……?」 そして、その見事な乳房を両手で掴んで、僕のモノを谷間に挟み込む。 初めて身体を重ねた時、無我夢中で揉みしだいたあの柔らかいおっぱいが…… 「すごい……熱いのが伝わってくるよ、真ちゃん」 「う、うん……僕も、わかるよ……香澄さんに抱き締めら れてるみたいだ」 完全にいきり立ったモノが……覆い尽くさんばかりに包まれている…… 「これで、えっと……胸や身体を揺らして、擦るのよね」 「そうなの……って、うわっ!」 香澄さんは、僕のモノに身体を押しつけるようにして、擦り始めた。 「こ……こんな、感じ……かな? んぅ……んぅぅ……」 さっきのフェラチオでベットリと塗りつけられた香澄さんのよだれが、潤滑剤になって卑猥な音を立てる。 「う……ぁ……」 粘っこく絡みつくような音は、僕たちがどれだけいやらしい行為をしているかを突きつけるよう…… 「し、真ちゃん……? 気持ちいいの……?」 「うん……」 肉体的な快感以上に、心が感じてしまう。 「ん……んっ……な、なんか、私も、ヘンな感じ……」 もしかしたら、香澄さんも同じなのかな…… 「ど、どんな風に?」 「熱い肉の棒に……身体を擦りつけてるみたいで……」 「真ちゃんの、どんどん硬くなってきてるから…… ……わ、私もなんだか……さっきよりもっと、えっちな 気分に……なって、きちゃう」 「はぁ……はぁぁ……んんっ、んんっ……はぁ、はぁ……」 香澄さんは目をとろんとさせて、下半身をもどかしげに揺らしている。 息も荒くなっていて、それが亀頭の先にもろに吹きかけられると、むず痒い快感が爪先まで駆け抜ける。 「う、あ……香澄さん……!」 「あ……真ちゃん、なんか先から……お〈汁〉《つゆ》出てきたよ」 「あ……え……?」 「真ちゃん、これ……舐めていい? 友達はみんな、そうしてあげているんだって」 「い……いい、けど」 「ちゅっ」 「……んあっ!」 舌を伸ばし、僕の亀頭の先からこぼれ始めた汁を、香澄さんがすくい上げる。 「あむぅ……れろれろ……ちゅるる……ちゅる、ちゅぶっ」 「……はぅぅ……!!」 「ん……ちゅく……れる……ん、ん……しょっぱい……」 「ちゅる、ぢゅる……れる、ちゅぷ、ちゅぢゅぷっ…… でも、悪くない、味……ちゅちゅっ……」 先走り汁がよだれと混ざりあって、香澄さんの口元に糸を引く。 どうしてそこまでできるのかというほど、いやらしい絵面だ…… 「あ、あまり、無理しないで……」 「んちゅ、ぢゅぷ……んあっ、無理なんてしてない…… 真ちゃんは気持ちよくなってる? ……ちゅる……」 「んあ……う、うん……」 「じゃあ、もっとしてあげる……れるぅ……ぢゅぷ……」 「はぁ、ちゅ……れろ……れろ……ちゅる……んんぅ、 れろ……ちゅっ……ちゅぶぷ……」 亀頭を舌でチロチロ舐めながら時折顔をグッと寄せてちゅうちゅうと吸いつく。 官能を引きずり出されるような、その感覚がたまらない。 「はぅぅ……う……あっ!」 「ちゅぶ、ちゅる、ちゅぶっ……んりゅ、りゅむ……! はぷっ、んあっ、ちゅる、ちゅぶ……!」 たまらず洩らした声がまた彼女に火をつけたのか、その動きがエスカレートしていく。 竿を胸で擦り上げられるのと同時に、亀頭が舌と唇についばまれる。 「はぁぁぁ……むぅ……んっ! むはぁぁ……ちゅうぅぅ ……ちゅばぁっ」 粘着質な潤滑音と、ディープキスの音が響き合い、淫らなこだまで部屋を満たす。 「うぅんっ……ちゅ、あぁぁ……はぁ……んっ……! ちゅぅぅぅ……ちゅる……ちゅうぅぅっ!」 押しつけられた乳房と、同じように柔らかな唇が、竿と、裏筋と、亀頭とをいっぺんに攻め立てる。 今にも登り詰めさせられそうになる。 「ううぅ、か、香澄さんっ!」 「んん……真ちゃんの……ちゅぅぅ、ちゅぱっ! 気持ち いい顔……はぁむ……にゅぅ……んっ、見れるの、 嬉しい……ちゅうぅぅ……ぢゅばっ! んはぁ……」 「そ、そんなにしたら……!」 亀頭の先端を強く吸われ、舌先でくすぐられる。とろけるような痺れが全身を襲う。 「ちゅる、ちゅ、れろ……いいよっ、ぢゅる……ちゅっ、 んぁ……だしちゃっても、はむぅ……むぁ……いいよ!」 「はむぁ……むちゅぅぅ……ぢゅびっ! ちゅぅぅぅ…… ちゅる……はぁ、ぢゅぷぷぷ、にゅぅっぷぁ! ああぁ ……はぁ、ちゅぅ、ちゅぅ、ちゅぅぷ」 香澄さんが、モノを咥えたまま激しく頭を揺すった途端、 「ああぅ! だ、だめだ……香澄さん、も、もう……!」 「ちゅぶ、ちゅる、いっひゃう? でひゃう? ちゅぶ、 んるぅ、ちゅぷぷぷ……」 「はぁふ……あぷっ、出して……いいよっ……ぷちゅぅぅ んぱぁっ……ちゅれろ、ちゅ、ちゅむぅぅぅ……!!」 「んぢゅっ、んんぅっ! んんっ! んっ! んぅぅ! んぢゅぅ! ぢゅぽっ! んんんんんーーーーっっ!!」 「うぅっ! くっ……はぁぁっ!!」 一瞬頭が真っ白になり、僕の中に溜め込まれていた白い熱が、香澄さんを目がけて一気に放出された。 「んむうぅ!? ぢゅぷぅう……んっ……ああっ……!!」 「あふっ……んああっ……た、たくさん、出てる……」 「んんうぅんっ……あぁぁ、あ、あつい……んあぁぁ……」 「ちょっ……ま……だ……」 「んぶぅっ!? んんっ、あぁっ……はぁぁ……」 二度、三度と繰り返し脈打って、僕は香澄さんの顔を精液で汚していく。 香澄さんはそれをじっと、受け止めていた…… 「はぁ……はぁ……真ちゃん、大丈夫……?」 「はぁ……う、うん……香澄さんこそ、ごめん……顔に かけちゃった……」 「うん……真ちゃんの、いっぱい……」 顔中精液にまみれた香澄さんは、幸せそうに笑った。 「真ちゃんの……かけてもらえて……私、嬉しい……」 「まだ、真ちゃんの匂いがするわ……」 「…………」 精液を拭きとったティッシュをゴミ箱に捨てながら、香澄さんは言った。 「真ちゃん……満足してくれた?」 「…………」 彼女の笑顔が痛い。 「…………」 「真ちゃん?」 僕は何も答えることができなかった。 一時の昂ぶりに身を任せて、彼女を汚してしまった……そんな罪悪感が、僕の胸を締め付ける。 香澄さんが甘えさせてくれるから、僕はそれに甘えて……僕たちはいつまでこんな、一方的な関係なんだろう。 これまでもそうだったように、元々香澄さんは僕に対してだけ……その、なんというか……『言いなり』になってくれる。 僕が甘えたい時に甘えたい意思表示をするから、彼女はそれを受け入れてくれていたんだ。 その“させっぱなし”の関係が、今は辛かった。 「真ちゃん……」 「あの……あのね、私は、ちっともイヤだなんて思って ないから……イヤイヤやっているわけじゃないのよ?」 彼女の口から出てくる言葉は『嫌ではない』『嬉しい』といった、受け身の言葉ばかりだ。 こんな一方的な関係で、彼女が喜んでくれているとしたら、それはたぶん、世話好きの彼女が僕を放っておけないだけだ。 それで本当に……いいのか? 「やっぱり、迷惑だった……?」 彼女の存在が迷惑だなんてことはない。逆に、彼女にとって僕の存在が迷惑なんだ。 僕のために使わせてしまった時間は、彼女にとってほかのことに使える時間でもあるんだから…… 「私がしたことが余計なお節介だったのなら、ちゃんと 言って……」 「……お節介だなんてこと、ない」 「でも、辛そうな顔をしているわ……」 「…………」 「余計なことして、ごめんね……」 ――っ! 「なんで……! どうして、そんな言い方しかできないの さ!?」 「えっ!? ご、ごめんなさい……」 「謝らなくていいよ……謝らないでよ……」 今だって僕が悪いことぐらい、わかってるんだ。 「で、でも……」 「僕は謝って欲しいわけじゃないんだ! そんなんじゃなくて、僕は……」 そこで僕は、ハッと気づき……口を閉じた。 「…………」 「どうしたの……? なんでも言ってくれていいのよ?」 そうじゃないんだ、香澄さん……僕は『して欲しい』んじゃなくて、『してあげたい』んだよ。 「……しばらく、こういうのやめよう」 「え……?」 「香澄さんに優しくされると、また僕は甘えちゃうから」 「…………」 「……そ、そうよね……私ったら、ダメね。 せっかく頑張ってる真ちゃんの、邪魔ばかりしちゃって」 「邪魔だなんて思ってない……思いたくないから、 しばらく待っていて欲しいんだ」 「待つ……?」 「僕はまだ、何もしていない。何もできていない」 「香澄さんに甘えて、受け入れてもらって、今の状況を 生み出してしまって……そのまま、ずるずると」 「私は……それでいいのに。真ちゃんは傍にいてくれる だけで、いいのに」 「僕はよくないよ」 「…………」 「香澄さんはそれでよくても、僕はそれじゃイヤなんだ よ……」 「真ちゃん……」 「だから、待ってて……お願いだから」 「……うん。もう、余計なことしないようにする」 情けない…… 香澄さん相手にそんなことを言わなくちゃいけない自分も、香澄さんにそんなことを言わせてしまう自分も……どちらも、情けない。 「……せめて、食事だけはきちんと摂って。 身体壊しちゃったら、いけないから……」 「うん、ありがとう……」 「お夜食……また持ってくるわね」 「…………」 「……………………」 「――ああぁぁぁぁっ!!」 何度も何度も何度もすれ違いを繰り返す自分たちに、怒りがわいた。 おにぎりと一緒に持ってきてもらった味噌汁は、もうすっかり冷め切っていた。 「――ああぁぁぁぁっ!!」 「真ちゃん……」 ドア越しに聞こえる彼の叫びに、私は、泣き出しそうになった。 私が、真ちゃんを追い詰めている。焦らせている。 私が真ちゃんを縛り付けている…… ただ傍にいて欲しいだけ……なんて、身勝手なことを言って、余計に彼を苦しませた。 「私なんて、真ちゃんの『最初の女』でいいのに……」 まだまだこれからたくさんの出会いが、彼にはきっと待っている。 だからいずれ……離れる日がくる。私が家を出るのは、そのきっかけになるはずだった。 私が……芹花ちゃんから、彼を奪ってしまったように。私もいつか、しっぺ返しを受けて当然…… ならせめて、彼の記憶に残るようにと、精一杯尽くしたかった。 でも今は……それだけの女で終わりたくないと思い始めている。そんな自分が、怖い。 それに私たちの関係は、世間的に認められるものではない。 こんなことを続けていても、真ちゃんを苦しめるだけだって、わかっているのに…… 「私は……なんてひどい女なのかしら……」 「……お姉ちゃん?」 「せ、芹花ちゃん」 同じ家で暮らしているんだから、どこで会っても不思議じゃない――けれど、よりにもよって、彼の部屋の前で芹花ちゃんに見つかるなんて。 「……真一に会ってたの?」 「……ええ」 「…………」 無言の眼差しが……私のことを責めている気がした。 芹花ちゃんの前ではなるべく、彼と一緒にいないようにしよう、ヘンに親密なところを見せないでいよう……ずっとそう思っていた。なのに―― 「真一、まだなんかやってんの?」 「……あ、ええ、頑張っていたわよ。 ……私が、邪魔しちゃったんだけど」 「……そ」 「今の真ちゃんは、私が傍にいると、迷惑みたいね……」 「…………」 こんな話を、この子にするべきじゃない。なのに、もう頼れる人はこの子しかいない。 つくづく私は……業の深い女なのかもしれない。 「あのさ、お姉ちゃん。 あいつが……あいつが誰のために頑張ってるか、 お姉ちゃん、ちゃんとわかってる?」 「それは……」 「受け入れたんじゃなかったの? だったら何がなんでも 離さないでよ。でないと……」 「……でないと、あたしの立つ瀬がないじゃない」 「芹花ちゃん……」 「あ、ちなみに返品は受け付けません。 あいつはもう、お姉ちゃんのものです」 「でも……っ!」 「あいつは……ちょっと悩んでいたみたいだけど、 それでも、決めたんでしょ。だから頑張ろうとしてるん じゃないの?」 「お姉ちゃんと生きていきたい、離れたくないって想いが、 今のあいつを動かしているように……あたしには、 見えるんだけど」 「……っっ!!」 「……ごめん、余計なお世話だったかも。忘れて」 「……う、ううん」 「……お休み」 芹花ちゃんも、私たちのことを想ってくれている。心配してくれている。 そのあの子に、私はまだ……隠し事すらしていて…… 「あの、芹花ちゃん!」 「……何?」 呼び止めた私を、怪訝そうに見る彼女に……私は、ひとつの覚悟を決めて告げた。 「改めて、ゆっくり話したいことがあるの。時間とれる?」 ――それからの数日は、あっという間だった。 僕は毎日部屋にこもって、勉強をしていた。香澄さんは毎晩、夜食を持ってきてくれた。 でも、それ以上のことはしなかった。 宗太たちの誘いもすべて断った。というか、むしろお前も勉強しろって追い返した。 そして―― そしていよいよ、今日は学力テストの日だ。 テスト自体は目標じゃない。通過点に過ぎない。 だけど雪下さんが言っていたように、自分を知る上での契機となるかもしれない。だから僕は、真剣な面持ちで席に着いた。 「あれ……? お前、西村真一だよな?」 「何言ってんだよ、僕が西村真一じゃなくて、 誰が西村真一なんだよ」 前日まで遊びの誘いに来ていた悪友が、とぼけた調子で話しかけてきた。 「いやぁ、まさか本当に来るとは思ってなくて。 これまでまったく興味なかったろ、この手のやつ」 「これまでは……ね」 「何でもやるって決めたんだから、こういうテストだって 疎かにしてられないよ」 「ほぉ、そこまで本気だったとは……あの真ちゃんが ねぇ~……」 「今まで僕のこと、なんだと思ってたんだよ」 「意気地なし。自分の意見が持てない流され野郎」 「……否定はしない」 「だけど……アクセルを踏みこんだ時の力はすごい奴」 「……まだ踏み込んだばかりで、全然進んでないけどね」 「おはようございます」 「おはよう雪下さん。っていうか見てくれよ、 『あの』真一がテスト受けにきてるんだぜ?」 「おはよう、雪下さん」 「おはよう、西村くん」 「いやいやいや、そこ、ナチュラルに挨拶しすぎだから」 「私が彼をテストに誘ったんですから、当然です」 「にしたって、実際会場に来てみなきゃわかんないだろう」 「西村くんは、私が見込んだ男性ですもの。来ないわけが ありません」 「……愛されてるのね、真ちゃん♪」 「……雪下さんはどこまで本気なのか、未だにわからない よ」 「ふふふっ」 そんな話をしていると、教師がテスト用紙を抱えて教室にやってきた。 騒然としていた教室が、一斉に静まり返る。 「マークシートを先に配りますので、みなさん席に着いて ください」 「じゃ、またあとでな」 「頑張りましょうね」 「うん、またあとで」 受験者全員が席に着き、前の方から流れ作業でマークシートが廻されてくる。 みんなが筆記用具を用意し、続いて配られる問題用紙と、試験開始のチャイムを待ち受ける準備を整えていた――その時。 「ちょちょちょ、ちょっと待ったぁーー!!」 乱暴に扉を開く音に、教室内にいた全員が振り返る。 「すみません、遅れちゃって!! まだセーフですよね?」 「芹花!?」 「ギリギリですよ。早く席に着いて」 「はいっ!!」 元気よく返事をして、芹花は……よりにもよって、たまたま空いていた僕の隣の席に着いた。 宗太と雪下さんも、こちらを見てポカンとしている。あのふたりと同じく、僕も芹花に尋ねたい。 「な、なんでここに?」 試験前の私語を咎めるように、芹花は一瞬だけ僕に鋭い目つきを向けてから―― 「……別にいいでしょ、あたしの勝手よ」 そのつっけんどんな返事を合図にしたように、問題用紙が配られ始めた。 「な、なんでここに?」 「……別にいいでしょ、あたしの勝手よ」 あたしがそっけなく答えたのと、問題用紙が配られ始めたのは、ほぼ同時だった。 さすがに真一も、これ以上私語はやばいと悟ったのか、顔を前に向け直している。 余計な説明をしなくて済んで、少し安心する。このためにわざわざ、遅刻寸前を狙って滑り込んだんだから…… ――数日前、お姉ちゃんはあたしを散歩に誘ってきた。 ゆっくり話したいから、時間が欲しい――そう言われただけで、行き先も告げられないままの散歩…… 不安がないわけじゃなかったけど、とにかくあたしは、ひたすらお姉ちゃんの後をついて行くことにした。 「みんなで海に来た時のお母さんの喜んだ顔、覚えてる?」 「うん……」 「芹花ちゃんも来てくれて、ありがとう」 「…………」 「あの日……ってさ」 真一がお姉ちゃんに、告白したあの日―― 「真一に助けられなかったら、あたし、溺れて死んでたの かな?」 「そんな不吉なこと、言わないでよ……」 「……ごめん」 でもねお姉ちゃん、あたしはつい考えてしまうんだよ。 もし、あたしがそんなことになって、この世からいなくなっていても…… お姉ちゃんと真一は、どこかで惹かれ合って、付き合うことになったのかな……って。 そうしたら……今みたいに、ギクシャクしなかったのかもって。 「そういえば引っ越しの日、真ちゃんとお参りして――」 「――ふ~ん……そういうの、真一らしいね」 他愛もない話を繰り返しながら、あたしたちは歩き続けた。 思い返してみれば、道すがら話題にのぼったのは、全部真一のことだった。 咲き誇る一面のヒマワリ――そこは子供の頃、3人でよく遊んだ、想い出の場所。 「ここって、本当に変わらないわね……」 太陽の照り返しで、目の前が淡い〈黄金色〉《こがねいろ》に包まれる感じは、あの頃と少しも変わっていない。 「……変わらないからこそ、貴重なんでしょうね」 「変えたくないものは、変わらないように大事にして おかなくちゃいけないんですもの……」 変わらないものなんてない、とでも言いたげに、お姉ちゃんは眩しそうに目を細めていた。 「ごめんなさい、こんな所にまで……」 「別にいいけど……」 「人が少ないところ、ほかに思いつかなくて」 久しぶりにお姉ちゃんとふたりで歩いた。こんなにたくさん話したのも、久しぶりだ。 そして何より、急に謝られたのが、なんか嫌な感じだった。 「……どうしたの、急に?」 「その……話しておきたいことがあって……」 「いつかは話さなければいけないと思ってたんだけど……」 「まず、私と真ちゃんのことなんだけど……」 「…………」 「その……私たち、そういう関係になってしまって……」 それは、わかっていたことだけれど…… 改めてハッキリ言われると、やっぱり心に突き刺さるものがあった。 「……それで?」 「ん……」 「まず、ってことは……ほかにも何か、あるんでしょ?」 「…………」 自分から切り出しておいて、お姉ちゃんは風に髪を揺らされるまま、しばらく考え込んでいた。 まだ、迷ってる? この期に及んで、あたしに話すのをためらうなんて、どういうこと? 「はぁ…………」 お姉ちゃんの吐息が……重い。 「…………」 「……私、ね」 ようやく開いた口も、声も……重い。 「卒業したら、家を出ようと思ってるの」 「……は?」 「お母さんに、これまで私に使ってくれたお金、 返したいと思って……」 「――はぁ!?」 お姉ちゃんが家を出る……それ自体はなんか、わかる気がした。 だけど、その理由が、あたしには納得できなかった。 「何、言ってるのよ? あたしだってそりゃ、お母さんに 恩返しのひとつやふたつやみっつぐらい、するのは やぶさかじゃないけど」 「お金を返すなんて、そんな……」 ひどく他人行儀な言い回しが、引っかかった。 「……私たち、子供の頃からずっと一緒だったわよね?」 「う……うん」 お母さんの話の途中で、今度は……あたし? 「芹花ちゃんにとって……私って、ちゃんとお姉ちゃん できてた?」 「……そりゃ、お姉ちゃんはお姉ちゃんじゃない」 答えになっているのかいないのか、自分で言っておいて、あたしには判断がつかない。 だってお姉ちゃんの質問自体が、意味不明なんだもの。 けれど、疑問はすぐに氷解した。お姉ちゃんが哀しげに伝え始めた、次の話で…… 「……もし、私たちが、姉妹じゃなかったら、芹花ちゃん、 私のことをどう思うかなって」 「は? 何?」 「赤の他人でも、私のこと、真ちゃんと同じように、 お姉ちゃん、って呼んでくれたのかなって……」 躊躇いがちにお姉ちゃんは言う…… けれどそれは曖昧な内容過ぎて、まだこの時『事実』を知らなかったあたしには、理解不能だった。 「意味がよくわかんないんだけど……」 「……そうよね」 そしてお姉ちゃんは、すぅ……と深呼吸をして―― 「私は、亡くなったお父さんの連れ子で、お母さんの子 ではないの」 一気に言ってのけた。 「だから、芹花ちゃんとは半分しか血が繋がってないし、 お母さんとは、義理の関係でしかないのよ」 「え――」 「つまり、お母さんにとって、私は赤の他人なの」 「そんな……」 お母さんが、お母さんじゃない――あたしとは、血の繋がりが半分――? これまでの家族関係を、お姉ちゃんは全否定してみせた。 証拠? あたしの『お姉ちゃん』が、こんなウソ、つくもんですか! それぐらい無条件に信じていた『彼女』からの告白は……頭の中を一瞬で真っ白にする、爆弾だった。 「お父さんが亡くなって、私という荷物だけが残ったのに ……お母さんは、あなたと私を分け隔てなく、ここまで 育ててくれたのよ」 「そんな話、あたし知らない……聞いてない!!」 「お母さんが、話さないようにしてくれていたから…… どこまでも優しい人なのよ、あの人は」 「そんな……やめてよ! お母さんを他人みたいに呼ぶの、やめて!!」 「……あなたも、優しいわよね」 風がヒマワリの花を揺らす。ざわざわと葉擦れの音が心をかき乱す。 「あなたがいてくれたから、私も生きていられた」 「だから芹花ちゃんには、本当に感謝してるし、 あなただけには、やましい気持ちで接したくないの」 「私には、血の繋がりのある人なんて、この世にはもう、 あなたしかいないんですもの」 「…………!?」 お姉ちゃんと血を分けた人は、もうこの世にあたししかいない…… その言葉は、重かった。 そういえば、お父さんの親戚とかって、聞いたことがない。 「それなのに私は、あなたを傷つけてしまった……」 「真ちゃんのことで……私、本当に辛かった……」 「それは……!」 それは、許すとか許さないとかじゃない…… それは、あたし自身が、ヤキモチを妬いて拗ねているあたしを、認めたくなかったから…… あたしはお姉ちゃんから逃げてばっかりで、顔を合わせても文句ばっか言って…… そんな子供みたいなあたしの態度が、真一とお姉ちゃんを、そしてみんなを困らせていた。 だからお姉ちゃんは、あたしにまで余計な気を遣うようになって…… 真一ともギクシャクして。 「今まで黙っていて、ごめんなさい……でも、 家を出る前に、全部話しておきたかったの……」 「…………」 なんて言っていいのか、わからない。 信じて、受け入れて、涙すればいい? 怒って、泣いて、当たり散らして、どうして内緒にしていたのよって、お姉ちゃんたちを責めればいい? 混乱したままのあたしに、お姉ちゃんはさらに話しかけてくる。 「ねえ……芹花ちゃん。お母さんたち、 なんで再婚したのか、わかる?」 「それは……好きだったからでしょ?」 「それは当然だけど、理由としては半分……」 「もう半分は、私たちのためよ」 「あたしたちのため? なんでよ……」 「芹花ちゃんにはまだ、実感がないかもしれないけれど、 将来的に誰が親の面倒をみるのかって、考えなければ いけないことがあるの」 「親の面倒……?」 「特にウチは女ふたりだから、お母さんとしては、 将来的に重荷になりたくないって、そういう考えも あったんじゃないかしら?」 「…………」 「お母さんは西村さんの家に入りました。 だから娘たちは安心して、自分の幸せを探してください ……そんな考えなのよ、あの人は」 そんな風に思われているなんて、想像もしなかった。 やりたいことのために就職する。やりたいことのためにお金を稼ぐ。 あたしの中では大人になるなんて、その程度の認識。 だけど……お姉ちゃんの歳で、お姉ちゃんが見てる現実は、全然違う…… もし仮に、あたしもお姉ちゃんもお母さんの再婚より先に結婚して、家を出ていたら……お母さんはひとりぼっち。 ちょっと考えれば、当然のようにわかる話なのに…… 「だからせめて、お母さんの新しい生活の重荷に、私は なりたくない」 「そして、お母さんと芹花ちゃんのふたりに、少しずつ でも恩返しがしたいの……」 「……そこに、真一は入ってる?」 「え……」 「お姉ちゃんが大切に考えてくれている人の中に、 あいつは……真一は入ってるの?」 「……うん」 はにかんで、でもしっかりと、お姉ちゃんは頷いた。 「ずっと迷っていたけれど……もう、決めたわ。 私は……彼が好き」 ごめんなさい――そう呟きかけて、お姉ちゃんはすまなそうな笑みを浮かべた。 だから、この期に及んで、あたしへの気遣いなんて不要だってば!! 「もう……敵うわけないじゃない」 「芹花ちゃん……」 ほんと……小さい頃から、お姉ちゃんには敵わない。 あたしはこの人みたいに、真一や家族のことを、心底大切に思えるのかな? 向き合うことができるのかな? お姉ちゃんは、真一のことも、あたしのことも、お母さんのことまで、ちゃんと考えていたのに…… あたしは、あたしのことしか、見えてなかった…… 「………………」 「お似合いだよ、真一と……『お姉ちゃん』は!」 「……芹花、ちゃん……」 こんなお姉ちゃんだからこそ、真一はお姉ちゃんのことが好きになったんだ…… 血が繋がっていようがいまいが、昔からこんなに素敵な、あたしの『お姉ちゃん』なんだから! 「っていうか、それ以外絶っっっ対、認めない! 真一が お姉ちゃん泣かせたら、あたしがあいつをぶん殴って やるんだから!」 「芹花……ちゃん……」 「――みんな、幸せになーれ!!」 あたしだって、負けてられないんだから……っ!! 最初のテストを終えた休み時間、解答を集めた先生が教室を出て行くと、僕たちはすぐさま芹花の机に集まっていた。 「……なんで、芹花がいるの?」 「またその話?」 芹花がうざったそうに眉を吊り上げる。 「あたしがテスト受けに来たのが、そんなにヘン?」 「ヘン」 「あんたには聞いてない……」 「ふは、はっ、はは……たった二文字の発言で殴られた のは、きっとこれが初めてだ……ぜ」 「あのねぇ、こう見えてもあたしは、品行方正で有名な 副会長の芹花ちゃんなのよ? 学力テストぐらい受けて 当然でしょ!」 「だって、ねぇ?」 「ああ。真のテスト常連たる俺から言わせれば、お前ら ふたり揃って、今まで見たことのない顔ぶれだ」 「だよね、やっぱり……」 「ったく、あっさり復活して余計な情報を……」 「どういう風の吹き回し、という表現が、ぴったり合い ますから、気になるのは当然です」 「まぁ……ちょっとした、運試しのつもりなんだけど、さ」 「ああ、なるほど。大体の問題は五択だから、全部カンで 答えれば運試しにもなるか」 「ここで運を使ったら、もったいないですよ」 「というか、まじめにやってる人に失礼」 「これまで受けたこともない、あんたが言うな!!」 ……結局、芹花はその理由を語ろうとはしなかった。 だけどなんというか……屈託のない芹花を久々に見られた気がして、それがちょっと嬉しかった。 帰り道、僕らはテストのどの問題が難しかったとか、そんな話をしながら家路についていた。 「さて、じゃあ俺はこの辺で」 「あれ? 真一ん家……じゃなくて、ウチに来ないの?」 ウチ、か。芹花がそんな言い方をしてくれるようになるなんて、感慨深いかも。 「いや……実は今、俺は猛烈に……眠くてだな。 お家に帰っての爆睡を所望する……」 「久我山くん、もしかして一夜漬けだったんですか?」 「へへへ……実はね」 「真一には悪いんだけど、俺もさ、本気でテスト受けてる わけじゃないんだよ……」 「『も』で一緒にくくったのは誰?」 「自分だと気づいてる誰かさん」 「そ、じゃあ、あたしじゃないわね」 そんないつものやり取りが、微笑ましい。 「ところで、本気じゃないって……どういうこと?」 「まぁ、なんというか、ポーズ?」 「はぁ」 「生徒会長で運動もできて、学業も怠らない! って、なんかカッコいいじゃん?」 「つまり、平たく言うとモテたい、と……」 「悪意をもって解釈すれば、そういう言い方もできるかも しれない」 「何が『しれない』よ、そのまんまじゃない」 「ついでに勉強してますよ~って、親にも言い訳に なるだろ?」 チッチッチと、立てた人差し指を振りながら、宗太は得意げに言った。 「これぞ一石二鳥というやつだ。恐れ入ったか副会長」 「っていうか、下心の塊ね……あんた」 「うん、悪意をもって解釈すればね」 「寝言は聞き飽きたから、早く帰って爆睡でもなんでも ご自由にどうぞ、会長」 「ううぅ、夏なのにいつになく冷たい風が吹いているよう な……」 「風邪をひかないよう、気をつけてくださいね?」 「ぐはぁっ! 雪下さんに追い打ちをかけられた……」 「あ、いえ……寝冷えとかしないように、心配していると いう意味ですよ……」 「はぁ~、唯一の善意の解釈を自ら歪めるなんて、末期ね、 末期」 「なんてこった……テスト勉強は俺を、優しさのわからぬ 血の通わない身体に変えてしまった!」 「俺は、ゼンマイ仕掛けの身体に変えられちまったんだ!」 「宗太……夕べ、本当に勉強してたんだよね? 何かSF小説を読んでいたわけじゃないよね?」 「まあ、なんだ、大体わかっただろ? ってなわけで、俺、 生身の身体を取り戻してくるよ」 「はいはい、行ってらっしゃい……」 「あでぃおす!」 冷たい風というより生暖かい視線を背中に受けて、宗太は帰っていく。 そんな宗太の後ろ姿を見ながら、雪下さんは上品に笑った。 「ふふっ。面白いですよね、久我山くんって」 「はぁ? アレのどこが?」 「本当にポーズでテストを受けているなら、一夜漬けする 必要だってないじゃないですか。あえて茶化しているん でしょ、彼は」 「まぁ……そうやって、見透かされてしまう程度の、 ポーズだけどね」 「しかも本当に、一夜漬けしてたんならね……」 絶対、小休止と言って、起きていた時間の半分は、ゲームやったりマンガや小説を読んでいたと思う。 とはいえ、おどけて見せてはいても、やることはやっていたんだろう。 ああ見えて、意外と真面目な奴だから…… 「――あ、それで雪下さんはウチ、寄ってく? ドリンクぐらいならサービスするよ」 「あたしの時と対応違くない?」 「芹花におごっても、もう、出るところも入るところも、 結局一緒じゃないか」 「……はっ!? それもそうか!」 思わぬところに二家族統合の余波があることに気づいたのは、ついさっきのことなんだけど。 「う~ん、せっかくのお誘いなんですけど、私もそろそろ このへんで……」 「えー、美百合も帰っちゃうの?」 「一緒に行きたいんですけど、今日はこれから父と 出かけなければならないんです……」 「それじゃあ、しょうがないね」 「また今度、お邪魔させてもらいますから」 「うん、じゃあね」 「はいっ」 雪下さんが角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、僕たちは歩きだした。 「あ~あ、つまんないの」 「家の都合じゃ、しょうがないよ」 「家の都合ねぇ……」 何かの含みをもたせるように、芹花が呟いた。そして―― 「あの、さ……」 「何?」 「聞いたよ、お姉ちゃんから……」 「え……」 「お姉ちゃん、家を出るんでしょ?」 「……そっか。香澄さん、その話、したんだ」 「うん……」 「でも、すぐってわけじゃないはずだけど」 「卒業まであと半年ぐらいよ? それにあのお姉ちゃんが、 就職活動をしくじると思う?」 「卒論共々、完璧にこなしてみせそうだね……」 というより、あれだけ頑張っているんだ……結果が出ないはずがない! と信じたかった。 それにしても、半年か……半年経ったら、僕らはどうなっているんだろう? 「で、あんたはどうするのよ?」 「どうするって……?」 「しっかりしなさいよ、あんたが頑張んなかったら、誰が お姉ちゃんを幸せにすんのよ」 「あ、いや、うん」 「お姉ちゃん、あたしやお母さんのことまで相変わらず 気にして、頑張ってて……そんなお姉ちゃんのことを 支えてあげられるのは、あんたしかいないんだからね」 「ん……」 僕がひと回り大きな男にならなきゃいけないのは、わかっているんだ。 そのための努力は始めたし、続けるつもりだけど、すぐに結果が出るわけじゃない。 「半年……かぁ」 その間に、香澄さんは家を出て、社会に出る。 必要なのは、半年後に努力している僕じゃない……結果を出した僕なんだ。 のんびりと自分を鍛えている時間なんて、やっぱりないよな…… 「……いっそ、学校を辞めて、働こうかな」 「は、はぁ?」 「だから、働くのに専念。香澄さんより先に就職」 「な……なんでそう、あんたはできもしないことをしよう とするわけ?」 「やってみなくちゃ、わからないだろ」 「あーはいはい、さようでございますねー。 ……ホントに大丈夫なのかしら、こんな行き当たり ばったりなバカ男に、お姉ちゃんを任せて」 というか、やるしかないんだ。 芹花にはバカにされてしまったけれど、それが一番、僕の欲しい答えに近い気がした。 「ひと月に30日ぐらい働かないと、生活費もやばいのか ……問題は、それだけ働かせてくれる場所があるか、 だよなぁ」 家に帰ってアルバイトの募集広告を眺めながら、僕はひとり立ちするための計画をノートに書き出してみた。 働いて食べるだけなら、すぐにでもどうにかなりそうだけど、同時に資格の勉強も続けるとなると、やっぱり厳しそうだ。 専門学校に通えるほどの金額だって稼げない。となると、資格については今後独学でやるしかなさそうだ。 「やっぱりバイトは掛け持ちかな……」 「入ってもいいかしら?」 「あ、うん。どうぞ」 「テストお疲れ様、真ちゃん」 「あれ、その格好……」 「今日、会社の面接だったのよ」 「え……今日だったの!?」 「ええ」 「だったら、言ってくれればいいのに…… 夜食の支度なんてする時間、もったいなかったでしょ」 それなのに僕は、昨日まで彼女に毎日夜食を作らせてしまっていた。 「だって、真ちゃん頑張っていたから……」 「だからそういう、自己犠牲的な気の使い方はもうしない でって……あぁ、もういいや」 そろそろこの、香澄さんの性格は諦めた方がいい気がしてきた……要は僕が、香澄さんよりしっかりすればいいだけの話なんだ。 「……それで、面接はうまくいったの?」 「うん……面接自体は普通に終わったんだけど……」 「けど……?」 「……面接が終わった後、会社の裏庭に綺麗な花壇が あったから、つい眺めてしまっていたのよ。そしたら そこに、煙草を捨てたおじさんがいてね」 「うわ……それはダメだね」 「うん。私、許せなくて、思わず注意しちゃったのよ、 花が根腐りするから、煙草を捨てないでって…… そしたら、その人……」 「まさか……会社の偉い人だった、とか?」 「間違い……ではないわね。イギリスにある親会社の、 有名なデザイナーさんだったの」 「へ……ひょっとして、外国人?」 「You can say that again.」 うーわー。しかも香澄さんにまで、英語で返された。 「連絡の行き違いで誤解されて、子会社の人から不審者 扱いされたらしくて。それで、タバコを投げ捨てたく なるような気分になっていたそうなのね」 「もちろん、そのことについてはすぐ謝ってくれたわ。 ところがその後……」 「英語で会話できたものだから、そのデザイナーさんが 私を連れて子会社の中に戻ってね。代わりに私が事情を 説明して、受付で誤解を解いて……」 「社長室にまで通されて、そのまま通訳代わりに 使われて……」 「いろいろ御馳走してもらった上に、 そのデザイナーさんの口利きで内定まで戴いちゃって」 「内定? うわ、おめでとう!」 「いいのかしら、こんなので?」 そりゃ、社員でもない人間がトラブルを全部処理してしまったんだから、僕が社長だったら内定どころかすぐ採用してしまいそうだ…… 「なんというか……あるんだね、そういう話。 ちょうど今日帰り道で芹花と、香澄さんだったらきっと そつなく決めちゃうだろうって言ってたんだけど」 「あ、芹花ちゃんと……話したの?」 「うん……家を出ること、あいつに言ったんだね」 「うん……あと、お母さんと血が繋がっていないこととか、 真ちゃんとお付き合いしてることまで、全部……」 「そ、そう……なんだ」 僕が香澄さんと、胸を張って付き合えているかは……ともかく、香澄さんの就職が決まった。 芹花にも秘密を話して、たぶん……和解した。だからこそあいつは今日、以前の調子を取り戻していたんだと思う。 だけど、これで、彼女が家を離れることも決定的になってしまったわけで…… いよいよ、香澄さんとの距離が開いてしまった。 「よし……やっぱり決めた」 「何を?」 「僕、学校を辞めて働くよ」 「……ええ!?」 「早く社会に出て、いろんな経験を積んだ方がいいと思う んだ。僕に不足しているものを、補うためにも」 「え、えっと、ちょっと待って? 冷静に、話し合い ましょう? 結論を急ぎ過ぎよ?」 香澄さんがなんだか、あたふたしている。さすがに驚かせてしまったかな? 「でももう、決めたんだ」 「それはあの……私のせい? 私のため? 私が、いつまでも真ちゃんを子供扱いしてるって、そう 思ってのこと?」 「それがないとは言わないけど、最終的には僕自身のため だよ。堂々と、香澄さんを好きだって言って、 香澄さんに惚れ直してもらうための、自信をつけたい」 「そんな……そんなのずるいわよ……」 「ずるい? どこが?」 「真ちゃんが決めたことに、私が反対できるわけ……ない」 「…………」 「そんなに急いで、大人にならないで…… 私の方が置いていかれそうで……怖いの」 「そんなわけない――」 「あるわよ……」 香澄さんが僕に……すがりつくように、抱きついてくる。 「あなたは、何かある度に、男らしく、大人びていって しまう……変わっているのよ。変わっていないように、 自分では思っているかもしれないけど」 「だって実際に、僕はまだ……」 「私がそうさせていないだけ、認めていないだけ」 「……あなたに捨てられるのが怖くて、あなたの お姉ちゃんであり続けようとした、私が」 「え……え?」 「甘えられる場所があれば……離れないでいてくれる かな、って。そんな、ずるい女なのよ、私は……」 「香澄さん……」 自己犠牲もここに極まれり。彼女はそこまでして、僕の気持ちを引き留めようと……愛してくれていた、ってことなのか…… 「私……真ちゃんがいないと、もう生きていけない……」 「香澄さん!」 ……すがりつく彼女を強く抱き締めて、ハッキリ答える。 「……大丈夫だよ。僕が、香澄さんを捨てるわけない」 「ホントに……本当にそう、言い切れる……?」 「言い切るよ、何度でも」 香澄さんが安心できるまで……僕がその約束を守り続けるために…… 「僕も……香澄さんがいないと生きていけないんだ……」 「……真ちゃん」 「僕はもう、香澄さんを離したくない。 だから、ずっと傍にいて欲しい!」 「真ちゃん…………っ!!」 目を合わせると、香澄さんは顔を寄せてきた。 何かの力に引かれる様に、僕たちの唇が重なり合う。 「……ん、ふ……ぅん、ちゅむ……」 「ふぁ……」 何のためらいもなく、香澄さんの舌が僕の中に入り込んでくる。 「ん……ん、ちゅ……ふぁむぅ……ん、んん、ちゅぷっ」 すべてを求めるように、僕らは互いの舌を絡め合う。 「れろ……あむ……ちゅ、れろっ……ちゅぴ、んぅ……」 唇を吸い、擦り合わせる行為を繰り返す。 「んちゅぶっ……んっんんぅ……んはっ……ちゅる……」 何度も舌を差し入れて、香澄さんの口の中を丹念にねぶる。 「あふ……んん、れりゅっ……んんぁん……んちゅ…… んんっ、ちゅぶる……」 彼女の甘い声が漏れるたび、僕たちが同じものを求め合っているって実感が込み上げて、さらに激しく舌を動かしだす。 「はむぅ……ちゅ、みゅぅ……んん、む……ちゅぅぅ……」 「ん、はむぅ……んんっ……ん……ぷぁっ……はぁ……」 息をするのを忘れるほど求めるけれど、いつまでも続けられない。 でも、唇は離れてしまっても、僕たちはおでこは合わせたまま、吐息がかかる距離で見つめ合う。 「真ちゃん……」 「なに?」 「愛してる」 「……うん」 「誰よりも好きよ……世界で一番、あなたが好きです」 「ありがとう、香澄さん」 そして僕たちは、改めて互いを強く、抱き締め合った。 「……ベッド、行こう?」 「うん……」 *recollect香澄さんはベッドに僕を寝かすと、その上に覆い被さってきた。 「こ……この体勢でするの?」 「疲れてるでしょ? そのまま横になってて」 「だ、だけど……」 「いいから、私に任せて……」 起きあがろうとする僕の唇に、香澄さんは人差し指を当ててきた。それだけで不思議と動けなくなる。 「重くない……?」 「平気だよ……むしろ、香澄さんの温もりが心地いい くらい……」 「ふふふっ、嬉しい……」 「でも、こっちは、苦しそう……」 さっきのキスですっかり隆起したズボンの上から、香澄さんが僕のモノを手でなぞる。 初めて身体を重ねたときのような、輪郭をたどるその手つきに、ぞくぞくする感覚が全身を駆け抜けた。 「ぴくんって、今、震えたね」 「うっ……」 「こういうの、だめ?」 「いや、いいんだけど……好きだよね、香澄さん。 こういう風に触るの」 「だって……こうしてると真ちゃん、 可愛いんだもの……ちゅっ」 香澄さんは悪戯っぽく笑いながら、股間への愛撫を再開すると同時に、僕の首筋に舌を這わせた。 「うぁ……」 「……ん、ちゅ、好き……ちゅむ……大好き……れろん」 ペロペロチロチロと、その舌と唇で僕の身体を撫でまわす香澄さん。 首から鎖骨へ、唇に吸われたところが熱を帯び、僕を火照らせる。 「……香澄さんの唇……熱いよ……」 その熱はやがて全身に広がり、下半身をさらに熱くする。 「すごい……どんどんおっきくなって……たくましく……」 香澄さんも、興奮しているのか……その吐息が熱い。モノをさする手が激しい。 「は……あ……か、香澄さん、キスしたい」 「う、ん……」 荒い手つきに今にも達してしまいそうで、僕は香澄さんの気を逸らさせようと、彼女を抱き寄せてその唇を吸った。 「ん、はむ……ぅ、ん……ちゅ……んんっ、ちゅぶる……」 唇を重ねたまま、彼女の背中に手を伸ばす。 ブラウス越しにブラのホックに手をかけて外すと、重力にまかせて香澄さんの大きなおっぱいがたぷんと、僕の胸に落ちてきた。 「ふ……ちゅ……んんっ!?」 ずれたブラごと香澄さんの胸を揉みしだく。 「……ん……香澄さんのおっぱい、やわらかい……」 「や……急にそんなとこ……んんんっ!」 ブラからはみ出した乳首はすでに硬く勃っていて、僕はその気持ちのいい感触を確認したあとに、摘み、ひねる。 「んんんあっ!!」 挟んで、こよりを作るみたいに揉む。 「はんっ、ああっ、あああっっ!!」 その度に香澄さんは、身体を小刻みに揺らして、息を弾ませる。 「ふぅ……ふぁ……ちゅぅ……あんっ、んあっ……ああっ! む、胸の先から、しびれるみたい、で……」 「もっと、いじってもいい?」 「全部、真ちゃんの、好きにしていいよ……ちゅっ」 僕の顔を覗き込むようにそう言うと、恥ずかしいのをごまかしたいのか、彼女はキスを再開した。 舌を舌で受け止めながら、僕は彼女の腰に手を伸ばし、スカートをまくり上げる。 「ちゅぶる……んるぅ……ちゅぷ、にちゅ……んぷるぅ」 一瞬だけ、香澄さんは気にしたようにそちらへ視線を向ける。 「……こっちは、ダメ?」 「……ちゅ、んんぅ、ちゅぱ、ちゅるぅん、ちゅ、ちゅっ」 答えの代わりにたくさんのキス。 それを了解の意と受け取って、僕は手を、そのまま股間へと…… 「んんんっ……やぁ」 ショーツをずらして手を忍び込ませると、いきなり指に愛液が絡みつくほど……香澄さんは濡れていた。 「ひゃぁふっ……! ああっ! ……んあ……ちゅぶ…… んむぅ、ふぁぁぁ……」 瞬間彼女は身をよじって、でもそれだけで、僕とのキスに没頭する。僕に、何も言わせまいとするかのように。 「んちゅ……れろ……ちゅく、ちゅっ、ちゅ……はむ…… れろ、れろん……」 入れられた舌で口内をかき回すキスに、脳内まで揺さぶられそうになる。すごく気持ちいい。 でも僕は、フラフラになりながらも、指先を彼女のアソコに差し入れた。 「んぷぁっ! し、しんちゃん……!」 「すごい……指だけでも、溢れてくるのがわかる……」 そっと割れ目を開き、ヒダ状の媚肉をこねくるように揉むと、熱い蜜があとからあとから漏れ出してくる。 「んんっ! ひゃぁぁっ! あっ、うんぅぅ……ん!」 「ふぅっ……んん、あぁっ! あひゃっ、んんっ…… ちゅ、んん……む、ちゅぁ、んちゅ、んちゅぅぅ!!」 「香澄さん、濡れ方……すごい」 「……ひゃ、ひゃって真ちゃんが……ん、ちゅちゅぅ…… んちゅっ、んっ、んんんっ、はちゅぷっ……ぷぁっ、 そんなにするから……」 「んちゅ、だ、だから……ちゅむ、ちゅぷ……は、 恥ずかしいけど……ちゅぷ、ちゅぶるるる……」 「……もう、真ちゃんの、入れて欲しい…… 入れちゃいたい」 「うん……僕も、香澄さんの中に入りたい」 口と唇以外にろくに愛撫もしていないのに、僕たちの身体は二人とも、完全にできあがっていた。 「じゃあ、脱がすね……」 香澄さんは僕にのしかかったまま、嬉々として僕の服を脱がす。 自分で脱ぐから、とさえ言わせてくれず、剥き出しになった僕を、香澄さんはさっとひと撫でして呟いた。 「ん……もう、我慢できない……」 次いで香澄さんは、ショーツを煩わしそうに脱ぐと、僕の上にまたがって…… 「んっ……ふ……んぅん……!!」 躊躇いなく腰を下ろしてくる。香澄さんの大事なところに、僕のモノがずぶずぶと呑み込まれる。 「や、やだっ……これ、いっきに……んぁ……奥まで…… は、挿入っちゃう……!!」 半分まで入ったところで、彼女は一度、切なそうに息を吐いた。 「だって、香澄さんのここが、そんなに濡れてるから……」 「だ、だってぇ……もう、堪えきれなくて…… は、はぁ……んんんっ!!」 じゅぶりと、彼女がわずかに動いただけで、僕のモノがさらに挿入されていく音が聞こえた。 「わ、私……ヘンになっちゃうかも……」 「いいよ……むしろヘンになっちゃうところを、 僕にだけ見せてよ」 「香澄さんが僕を受け入れてくれるように、僕も 香澄さんのすべてを受け入れたいから……」 「あん……真ちゃ、ん……んあああああんんっ!!」 決心したのか、彼女はゆっくりと腰を落としていく。僕のモノが、根本まで呑み込まれていく…… 「はぁぁ、ぁん! ふ……ふか、い……んっ!」 そして……亀頭の尖端が、香澄さんの一番深いところにあるこりこりに当たる。 「あ、あぁ……んっ!! 奥まで……届いて……る!!」 そこにグッと押しつけられた途端、香澄さんはピクピクと悶えるように硬直して…… 「香澄さん……?」 「だ……だい、じょうぶ……よ……ちょっと、気持ち よす……ぎな、だけ」 香澄さんが息を吸い、気を落ち着かせようとする度に、さらけだされた胸がその仕草に合わせて、大きく揺れる。 「はぁ……ん、真ちゃんも……私で……気持ちよく…… なって、ね……?」 「う、ん……」 そのおっぱいに魅入ってしまって、生返事。 香澄さんはそのことを知ってか知らずか、満足そうな……いやらしい笑みを浮かべて、腰を動かし始めた。 「あっ……はっ、ん、んんんっ! ふぁっ、あああっ!!」 上下ではない、前後の動きだった。 「う……ぁっ!」 ピストンによる出し入れとは違う、揉みくちゃにされる感じ。 香澄さんのアソコがきゅっと締まり、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てて、僕のモノをしごきあげる。 「はぁん、うあっ、んんっ! あっ、あっ、ああぁ!! こすれて、びりびりって……んあああっ!!」 「んぁっ……す、すごい……」 次第に要領を得てきたのか、香澄さんの動きが徐々に激しくなるにつれ、思わず声が漏れてしまう。 「あぁん……しんちゃん、声……はんっ……かわいい…… えっちな、顔も……かわいい……あんっっ」 僕の胸に手をついて腰をうねらせ、くねらせ、僕のモノで自分の中をかき混ぜるように……激しく。 その動きは僕が今まで見た、どんな香澄さんよりも艶やかで、そして激しくいやらしかった。 「んんんっ、んんんっ! あっ、ひゃ……しんちゃっ…… んぁっ、あっ、あんっ!」 「し、真ちゃん、気持ちいい!? あっ、あんっ、気持ち いいっ!?」 「は、はぁ……う、うん……気持ちいい……けど……」 「あっ……はぁん! け、けど……どうなの?」 確かに気持ちいい。香澄さんの中に入っている僕のものがいっぺんに擦られて、目眩がしそう。 でも、もどかしい。側にいるのに、肌を合わせているのに、届かない感じがする。 「ぼ、僕も動きたい……動いてもいい?」 「んっ……いいよ……うんぅっ、動いてもいいよっ!」 「私も……う、動いて、ほしいっっ! 動いてっっ!!」 了承を得た僕は、香澄さんの腰を少し持ち上げると、打ちつけるように突き上げた。 「ひゃぁぁあっ! あっ、あっ、これっ! あああっ!! これ、すごいっ……!」 跳ねるような腰遣いに、僕の上で香澄さんが身体を、豊かな乳房を弾ませる。 モノを包み込んでいる肉襞が悦びに打ち震えるように、キュッキュとすぼまって甘くとろけるような快感を生む。 「奥までっ、突かれてるっ! ゴツゴツって、当たって、 えぐられちゃうっ! んはあっんっ!」 「僕もっ……香澄さんを、いっぱい感じるっ……!」 全身で、全霊で、香澄さんを愛してるって、感じる。 「ま、また、硬くなって……ああっ、ん……やだっ…… すごい、刺さってる……!」 「あっ……あっ、んっ……! どうしよう、どうしよう、 真ちゃんっ!?」 「な、何が……?」 「ひゃぁ……! す、すごいの……すごい、んんっ! か、 感じちゃうの……!」 どこまでも僕のすべてを受け入れ、包み込んでくれるような、この感覚……そしてそれを突き破ってしまいたくなるほどの破壊的な衝動―― 相反するふたつの感情を同時にぶつけあい、そしてひとつに溶ける……人間って、本当によくできてると思う。 「いやっ! あっ! ダメっ! あ、あ、あ、んんっ!!」 「あんっ、あぁんっ……だめっ! とまって! んぁっ、 んぁっ! ああんっ!!」 「そんなの……無理……!」 「だって、このままじゃっ……あぁん! あぁん! あぁん!」 「もう……イクッ! イクイクッ! イッちゃうぅぅ!!」 「んふぅっ! んくうぅぅぅ……ああああああっ!!」 「く……あ、はぁ……」 ガクッと身体を預けてきた香澄さんの膣が、脈を打つように何度も何度も、痙攣している。 その締めつけに耐えながら、震える彼女の身体を抱き締める。 「あぁっ……ん、んっ……し、真ちゃぁん……」 やがて痙攣は治まり、絶頂の余韻にひたる香澄さんが、呆けたように僕を見る。 「か……香澄さん、大丈夫……?」 「はぁ……はぁ…………すごい、もう……真っ白……」 「じゃあ、もっと真っ白になって?」 「え……ひぃっ!!」 香澄さんの尻を掴むと、僕は再び腰を振った。……僕はまだ、イッてなかったから。 ラストスパートをかけて、香澄さんの中を激しく往復し、自分を追い込んでいく。 「ひぃ……! やっ……あぁん! だめっ! ダメダメ ダメっ! あっ、あああああっ、だめだってばっ!」 その困ったような顔が可愛らしくて、もっと彼女を困らせてやりたいと、僕の悪戯心がくすぐられる。 「んんっ! んぁ! い、今……ああっ、敏感っ! なのにっ! また、また、きちゃう、きちゃうぅぅ!!」 入れたら最後、出すまでは止まらない男の本能に従って、僕は香澄さんの腰を何度も何度も打ちつけるように突き上げる。 その行為が加速すれば加速するほど、彼女はおもしろいように反応した。 「ひぁっ、あっ、あっ、あっ、やっ!! あっ、はっ、 はげし……いっ! んぁっ!!」 腕を伸ばして僕の頭を抱え、香澄さんは僕にしがみつく。 香澄さんの匂いを一杯に吸い込みながら、僕は最後の力を振り絞って、彼女の一番奥を打ち続けた。 「あぁぁっ! んぁはっ! あっ、あっ、あっ! し、真ちゃっ! 真ちゃんっ!」 「いやぁ! だめっ! またきちゃうっ! きちゃうの! ああっ! はぁあっ! んんっ! んんっ! んんっ!」 「はぁ、ぼ、僕も……!!」 「んんっ! ああっ! うんっ、きてっ! 真ちゃんっ! 真ちゃんっ! ああぁっ! ああぁっ!」 「んんんっ! んんっ! んん!!!」 「あ、あっあ、あぁぁぁっ!! あああああああっっ!!」 彼女は絶頂を迎えると、その瞬間、僕の胸に爪を立てた。 それが引き金となったかのように、僕も彼女の中に熱い精を放出する。 「くっ……はぁっ!!」 「んああああああんっっ、あああああああっっっっ!!」 どくどくと彼女の中で、僕のモノが脈打つ。 「あんっっ、ああああっ……ああっ、中に、なかにぃ……」 そのすべてを搾り取るかのごとく、香澄さんの膣もまた、脈動していた。 「真ちゃんの、たくさん……感じる……あふぅ……」 「私……しあわせ……んんぅ……真ちゃん、 だいすきぃ……んんっ……」 「香澄さん……」 「真ちゃん……真ちゃん……」 今はたくさんの言葉なんかいらなかった。 今はただ、ふたりの身体を感じていられれば、それでいい。 「真ちゃん……ちゅ、ちゅる……れろれる……んんぅぅ」 「ちゅる、ちゅぶる、んるるぅぅ……ぷちゅ、ちゅるる、 んぢゅる……」 行為の終わりを締めくくるように、僕らは目を閉じて、長い長い口づけを交わした…… 「そういえば……コンドーム使うの、忘れてたわね」 「あ、ははは……」 行為を終えて、乱れた服を整えつつ……僕たちは、これからのことを話していた。 「みんなにも、僕たちのこと、ちゃんと話した方が いいのかもしれないね」 「ええ……そうよね」 「そんなに、暗い顔しないでよ」 「うん……でも……私たちの関係って、世間体として、 よくないでしょ……?」 「それでみんなに迷惑がかかるのは、怖いわ……」 そればかりは、どうしようもない障害だった。いくら僕たちが愛し合っているとしても、あくまで姉弟だ。 僕たちの関係を知った人は、色眼鏡をかけて僕たち家族を見るかもしれない。 僕たちは、それも半ば承知でやっているからいい。 だけど、家族のみんなまでは、巻き込むわけにはいかない。 「香澄さん……家を出るなら、僕も連れて行ってよ」 「え……?」 「最初はお荷物かもしれないけど……僕、頑張るからさ」 それも踏まえての、学校を辞めて働く宣言だった。 「でも、それじゃあ本当に……」 「どうせ、この家も学園も……居づらくなるだろうからさ。 だったら、みんなにも迷惑をかけない形にしたい」 「私は……真ちゃんと一緒なら、むしろ嬉しいけど」 「僕もだよ」 「真ちゃん……」 香澄さんは、そっと僕に抱きついてきた。今の気持ちを、少しでも紛らわせるように…… 「わかったわ……家族のみんなにも、聞いてみましょう? きっと……悪いようにはならないはず」 「うん……」 父さんや春菜さんのことを信じていながらも、どんな反応が返ってくるかわからない。 香澄さんも僕も、少しだけ、不安に震えていた。 沈みゆく夕日の中で、僕たちは互いを抱き締めあう。 一度知ってしまったこの温もりを、二度と離したくない。だからこそ…… 「香澄さん……泣いてるの?」 「ごめんなさい、ちょっとだけ……真ちゃんが、私のこと、 こんなに……ううん……ごめんさい」 「…………」 僕は彼女を泣かせてしまった。それはうれし涙なのか。それとも、この先の未来を思っての、悲しい涙なのか。 だけど……香澄さんが僕の胸で涙を流した。 彼女が僕のシャツに残した涙は、僕にとってこの夏最大の勲章かもしれない。 「ねぇ、香澄さん……」 「どうしたの?」 「その……真ちゃんってやつ、そろそろ止めない?」 「えぇ……? でも私にとって、真ちゃんは昔から 真ちゃんだから……」 「それはわかるんだけど……そうだなぁ、せめてエッチの 時ぐらいは『真一』って呼んでよ」 「そ、その方が難しいわよ……あの時はその……夢中で、 考える余裕なんて、ないんだから」 「はははっ」 「でも……そうね、なるべく普段からそう呼べるように、 努力するわ」 「うん……愛してる、香澄さん」 「私もよ……し、真一……」 「なんか、違和感丸出しだね……」 「うふふ、ホントね……」 それでも……いつか。 いつかきっと…… この呼び方が自然になる日を、迎えたかった…… 「みんなに、話があるんだ……」 食事の後、香澄さんがお茶を淹れてくれたので、誰かが席を立つ前に、僕はそう切り出した。 僕の緊張が伝わってしまったのか、僕に注目したみんなは、なんとなく、深く座り直した感じさえある。 ……芹花だけは、ただそのまま、香澄さんの淹れたお茶を啜っていた。わかってますよ、と言わんばかりに。 「話って、なんだい?」 父さんがみんなの顔を一瞥して、代表するように話を促してきた。 「…………」 香澄さんが僕を心配そうに見つめている。 僕はただ黙って、香澄さんに頷き返す。 「実は――」 「……冗談で言っているとは思えないけど、それは 本当なんだね?」 「はい……私たちは、その……」 「いや、言いにくいことはいいよ。元々ふたりはお隣さん 同士なんだし、別に悪いことをしているわけじゃない」 「しかし――」 「いや……無理に引き裂くつもりはないんだが……」 「本当は、いけないことなのかもしれないけど……それは 私たちもわかってるんです」 「でも僕たち、真剣なんだよ、父さん……!」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 父さんが困った顔で、春菜さんを見た。 ところがその春菜さんときたら、まるでことの重要さをわかっていないような様子で、香澄さんにニッコリと笑いかけた。 「いけないも何も、あなたたち結婚できるわよ?」 「へ……?」 「それって……どういう……?」 「ん~……なんて説明したらいいのかしら、法律って 説明が難しいのよね……」 「ちょ、ちょっと待って……まじで?」 「私も初耳なんだが……」 芹花が相変わらずお茶をすすっている横で、春菜さんがのんびりと話を続ける。 「そうねぇ……簡単に言うと、連れ子どうしの婚姻は認め られている……というか、禁じられていない、って 言えばいいのかしら?」 「そ、そうなの?」 「そうみたいねぇ」 「法律って、書き方が難しくて理解しづらいのよ。どうせ なら試しに婚姻届出してみれば? きっと受理されると 思うけど」 「試しに出すものじゃないでしょ……」 「ま、まぁ何はともあれ……」 「問題はナッシング、よ? みんな納得できたかしら?」 「でもほら、世間体もあるし……」 一番喜んでいいはずの僕らが、一番困惑している。それでも春菜さんは、いたって涼しい顔をしていた。 「あら、他所様の目なんか関係ないでしょ? だから 素直に話してくれたんでしょ?」 「そう、だけど……」 「でもさぁ、なんでお母さんがそんなこと知ってるの?」 とうとうお茶を飲み終えてしまったのか、芹花が空になった湯飲みを手でもてあそびながら、尋ねる。 「真彦さんとの婚姻届を出すときにね、ちょっと 気になって調べてみたの」 「もしウチの娘たちが、雅人くんや真一くんのことを 好きだったら、どうしよう……って」 「…………」 「…………」 “ウチの娘たち”が揃って、複雑な表情を浮かべていた。 「でも、本当にこうなるとは思わなかったけど。 母の勘も捨てたものじゃないわね~」 そう言って、屈託なく笑う春菜さんに…… 「…………はぁ」 芹花が諦めたようなため息をついた。 「ま、そういうことならよかったんじゃない? お幸せに、おふたりさん♪」 「あ、ありがとう……」 あまりにあっけなく、いくつかのハードルを跳び越えてしまえたので、僕も香澄さんもやや呆然としていた。 「で、新居はどこにするの?」 「新居……」 ぽつりと杏子が呟いた言葉をきっかけに、我に返る。 「あ、いや、新居っていうか」 「早く言っちゃいなさいよ。結婚はともかく、初めから そのつもりだったんでしょ?」 「うん……」 「まだ、何かあるのかい?」 父さんが、さすがにちょっと疲れた様子で聞いてきた。 「うん。これは、僕のわがままなんだけど……」 そこで一度香澄さんを見て…… 「うん……」 彼女も同じ決意なのを、改めてその表情から確認する。 「――僕は香澄さんと一緒に、この家を出ようと思う」 「……あら」 「どういうことだ?」 「私、就職が決まったんです……それで、ひとり暮らしを しようと思っていて……」 「僕も、香澄さんについていきたいんだ」 そう告げると、僕らと芹花以外のみんなが、さすがに困惑した表情を向け合った。 「ん~、ここから通えないの?」 「ちょっと職場が遠いわ。それに、いくら世間体を 気にしない、とは言っても」 「そこまで覚悟を決めてるんだったら、遠慮することない だろうに」 「そうなんだけど、できればみんなには、これ以上迷惑を かけたくないんだ」 「迷惑などとは思わないがね……」 「ちょっと、寂しいわね……」 「でもまぁ、それが香澄が幸せになる道だっていうんなら、 私としては、受け入れるしかないんだけど」 「……真一、学校はどうするんだい?」 「学校は……辞めようと思う。勝手にそんなこと決めて、 悪いとは思うけど」 「…………」 「僕も仕事を見つけて、働く。ふたりで生活するなら、 それが当然だと思う」 「真一……編入しろ」 「え……」 「今の学校に居づらくなるのはわかるが、だったら〈他所〉《よそ》に 編入しろ。辞めるぐらいなら、卒業までは我慢して、 せめて学歴は残しておけ」 「でも、そんな学費は……」 「人生の先輩のこういう話は、素直に受け入れておけ」 「学費は、俺と父さんで〈賄〉《まかな》ってやるよ。俺ももうすぐ、 就職先が決まりそうだからな」 「に、兄さん……!」 「ただし、向こうでの生活費は、お前と香澄ちゃんで どうにかしろよ?」 「雅人……しかし、それではお前の負担が」 「いいさ。真一にはいずれ、出世払いで返してもらう」 「いやでも……」 「あ~~~~~~~~~もうっ!!!!」 しびれを切らしたように、芹花が立ち上がった。 「細かいことはあとでもいいでしょ、あとでも!」 「みんなめでたく送り出すつもりになってるんだから、 真一はお姉ちゃんに着せるウェディングドレスでも 考えなさい!!」 「ウェ!?」 「ウェディング……」 ぽっ、と香澄さんが頬を赤くした。 「お嫁さん……!」 杏子も、うらやましそうに……そして幸せそうに、香澄さんを見ている。 「んで、ふたりともさっさと出てっちゃいなさいよ! 花屋もカフェも、あとはあたしがぜ~~~んぶ 引き継いでやるから! 心配ご無用!!」 「ほぉ、頼もしいな」 「あらまぁ……」 父さんと春菜さんは、芹花の意外な宣言に……ちょっと、嬉しそうだ。 「そんで真一なんかよりもずーっと、ずーっと素敵な 旦那みつけて、絶対、絶対、ぜぇぇぇぇったい 幸せになってやるんだから! 見てなさいよ!!」 「芹花……」 ありがとう……僕がそう言うより早く―― 「芹花ちゃん……ありがとう」 香澄さんが涙ぐみながら、そう呟いていた。 「やっぱりあなたは……私の、自慢の、妹よ……」 「……お互い様だってば」 香澄さんに寄り添われて、照れくさそうに呟き返した芹花のひと言が、胸に染みた。 波乱の家族会議から、しばらくして…… 夏休みも残り少なくなったある日、香澄さんと話していると、彼女が海を見たいと言い出した。 さすがにそろそろ観光客の数も減り始める時期で、浜辺には僕らのような地元の住人が散策している姿の方が目立っている。 寄せては返す波の音に耳を澄ませながら、僕たちはゆっくりと砂浜を歩く。 「僕たち、恋人に見えるかな?」 「どうかしら……案外親子に見えたりして?」 「……僕、そんなに子供っぽい?」 「私の方が老けてるってことよ」 「いや、それはないから」 「だといいけど。ふふふっ」 他愛もない話を繰り広げながら、砂を踏みしめて歩く。こんな時間も、ひょっとしたら春以降、過ごせなくなるかもしれないから。 「――夫婦に見られたいわね、できれば」 「見られたいね。実際、そうなりたいし」 「あら? それはどさくさ紛れのプロポーズ?」 「指輪もドレスも、まだ用意できないけどね……」 まだまだ、まだまだだ。 色々あって、これから先のことは決められたけど……やっと、香澄さんと同じ場所に立てたというぐらいのもの。 これからもっと、頑張らないと…… 「……どこまで本気で言っているの?」 「私、期待しちゃうから……冗談なら今の内にやめてよ?」 「気持ちはいつだって本気だよ。それに……」 「それに……?」 「離したくない、傍にいて欲しいって、前に言ったの、 忘れた?」 「…………」 「忘れるわけないわ……忘れられるわけ、ない」 彼女が指を絡めてくる。触れ合った手と手を繋ぎ合わせて、お互いの存在を確認し合う。 「あなたなしでは生きられない……私もそう、 自分の気持ちをハッキリ認めた日のことだもの」 「うん……」 どこまでも広がっているような青い空に蒼い海。 観光に訪れた人は、決まって綺麗だというこの光景。 かつては色褪せ、くすんで見えたこの景色は、今の僕には鮮やかに色づいて見えていた…… 「私のこと……絶対に離さないでね。 ――真一」 若葉を揺らす風が、春の終わりを告げてしばらく経った頃家を出た僕たちは、彼女の職場の近くに部屋を借りて、新しい生活を始めていた。 付近の平均より少しだけ家賃が安い1DK。それが僕たちの新居だ。 もちろん家賃は、ふたりで払っている……というのは詭弁で、ふたりの財布をひとつにしたからそう言えるだけ。 僕がバイトで入れられる金額はお小遣い程度で、それは贅沢費に使うことにしている。 結局、生活費とその他諸々の支払いは、ほとんど彼女の収入で賄っているのが現状だ。 いつかはこの現状をひっくり返す……けれど、前みたいに焦ってそうするのではなく、きちんと足元を固めていこうと、ふたりで考えている。 笑えるのは、携帯電話の支払いに家族割引が使えたことだ。 僕らを心配する春菜さんとの長電話や短いやり取り、だらだら続く乱発メール(定時報告)などがあるために、そのサービスにはだいぶ助けられている。 「みんな、元気かしら?」 僕の生活のパートナーである彼女――香澄は、ベランダの外を見ながら呟いた。 それは遠くの家族を思い出しての言葉ではなく、近くに住む新しい家族のことを指していた。 「今日も元気に、餌をねだっているみたいだよ」 新しい家族とは、入居早々に起きた珍事のひとつで、ベランダの軒下にできた燕の巣のことだった。 下見に来た時は影も形もなかったのに、僕らが越して来た日には、あろうことかすでに三羽の雛が餌を求めて鳴いていた。 「杏子ちゃん、ちゃんと食べてるかしら……?」 その三羽の雛に僕たちは、杏子、芹花、雅人とそれぞれ名付けた。 断っておきたいのは、ネーミングについて他意はないということ。ほかにちょうどいい三人組の名前が思いつかなかっただけなんだ。 約一名、なぜ僕の名前をつけてくれないんだと抗議してきた、某学園の自称・史上最高の生徒会長もいたけれど。 「芹花ちゃんは相変わらず元気そうね……雅人くんも マイペースで鳴いてるわ」 彼女は目を閉じて、ぴーぴーとさえずる雛の鳴き声に耳を傾けている。 正直に言うと、僕にはその三羽の違いがわからない。見分けるどころか鳴き声を聞き分けなければいけないのだけれど、どうやら彼女にはそれができるらしい。 「あら……何かしら?」 郵便受けに、手紙が投函されていた。 「国際郵便……お父さんとお母さんからだわ!」 「国際郵便……なんで?」 「この前メールで、新婚旅行がどうのって、言っていた けれど……」 春菜さんからのメールには、旅行するとは書かれていても、いつとかどことか、そういう情報が書かれていないので、あまりまともに読んでいなかった。 「で、どこから来たの、その郵便?」 「えぇっと……キングスタウン……セイント…… セントビンセント?」 「セントビンセント……!? それって、例のカリブ海の 島だよ、みんなでテレビで観てたやつ!!」 「お母さん、結局お父さんを連れて行っちゃったのね。 それとも、おねだりしたのかしら……」 「あら、写真も」 「どれ……へぇ」 「まぁ……」 そこには、蒼く澄んだ海でスキューバダイビングを楽しむ、ふたりの姿が写っていた。 共にダイバースーツを着込んで、顔にはシュノーケルをつけており、どちらがどっちなのか、父さんと春菜さんなのかさえわからない。 けれど―― 「この写真、お母さんが選んだんだわ、きっと」 子供たちに自慢したくて、ウキウキしながらこの写真を封入した春菜さんの姿は、僕にもすぐに想像できた。 「いい夫婦だね」 「いい夫婦よね」 そして、私たちも――そう言いたげに、香澄が僕にキスをねだってくる。 「ん――ちゅっ」 「ん……」 「……ふふっ」 とりあえず満足したのか、香澄が嬉しそうにキッチンへと向かう。 「さてと、じゃあそろそろお昼の支度しようかしら」 「まだ早くない?」 「今日はせっかくお休みが一緒だから、ちょっと 手の込んだものを作ろうかと思って」 「ああ、それで昨日、荷物多かったんだ」 「うふ、奮発しちゃった♪」 香澄は冷蔵庫に掛かっていたエプロンを着けて、宣言通り食事の支度を始めた。 しばらくすると、トントンと小気味よいリズムで包丁を使う音が聞こえてくる。 ……なんというか、平和だなぁ。 最近すれ違いが多くて、昼間から彼女の顔を見るのも、ふたり揃っての休日も久しぶりだった。 なのでつい、彼女の姿を目で追ってしまう。 台所に立つ彼女の後姿……冷蔵庫とシンクの間を、ステップを刻むように往復している。 その後ろ姿が…… その忙しなく動く、ふりふりと動くお尻が……僕を誘惑していた。 「そういえば、あっちもご無沙汰だよな……」 ふたりでゆっくりできる時間といえば寝る前ばかりで、ついつい翌日のことを気にして、無理ができない。 去年の夏に買ったコンドームも、ほとんど減っていない。 だから…… *recollect「あんっ……どうしたの、急に――」 鍋をコンロの火に掛けるタイミングを見て、僕は彼女を後ろから抱き締めた。 振り向いた瞬間、彼女の唇を奪う。 「ん……ひゃふ……ぅん……ちゅ……ちゅ……んぁんっ」 「……したくなっちゃった」 「……ダメよ。今、火を使ってるんだから」 「じゃあ、香澄はそのまま料理続けてていいよ」 「え……」 後ろから抱き締めたまま、彼女の胸をまさぐる。 「ん、んっ……んんぅぅ!」 今日は休日だから油断していたのか、彼女はノーブラだった。 胸の輪郭をなぞるように優しく愛撫すると、すぐに彼女の乳首がどこにあるのかわかってしまう。 「はぁっ……! あぁっ、ダメよ……」 「頑張って、香澄」 「何を、頑張るのよぉ……あぁんっ!」 彼女のおっぱいを右手で握り締め、左手で触れるか触れないかの距離で、エプロン越しに乳首の辺りを撫でまわす。 「んっ、はぁ……あんっ! ん、んんんっ! ちょっ…… あ……危ないって……ば……」 「いつかのお返し。香澄は僕におにぎり食べさせながら エッチしようとしたでしょ?」 「あれは……あ、あぁっ……時間がなかったから……」 「今日だって限られた時間しかないよ。だから、 昼ご飯作りながらエッチしよ?」 片手を、お尻の割れ目に沿って這わせる。 「んっ! あっ……そ、そんなこと……」 スカートの中に潜り込ませた手で、香澄の大事なところをショーツごとなぞる。 「はぁっ……ん、んんっ」 しばらくそうしていると、カサカサという衣擦れの音に混じって、くちゅくちゅといやらしい音が聞こえてきた。 「あぁん、し、真一ぃ……ダメよ……これ以上されたら、 ホントに……あっ! ……ほ、欲しく、なっちゃう」 「わ、私だって、久しぶりで……その……ぁああんっ!」 胸をまさぐる手に彼女の手が添えられ、ぎゅっと握り締められた。 そして、何かを求めるように、濡れた瞳で僕を見つめる。 「お鍋、かき回さないと焦げちゃうよ……それとも、火、 消してもいい?」 「え……えと……じゃあ、火、消すわね……」 言うなり、彼女はコンロをひねって火を消した。 それは同時に僕らの間で、違う火が灯ったことを意味する。 「下、脱がすよ……?」 「うん……」 彼女の白くて、魅力的な曲線を描く下半身が露わになる。 「はぁ……」 そして僕がいじりやすいようにと、少しお尻を突き出した。 僕はそれを鷲掴みにすると、まるで胸を揉むように、香澄のお尻を揉んだ。 「ん……そこ、そんな風にするところじゃないわ」 「いいんだ、僕は香澄の全部が好きなんだから……」 「そんなこと言って……私をその気にさせちゃうんだから、 いつも……ずる、い」 揉みしだきながら、その白くふっくらとしたお尻にキスの雨を降らせる。 「ああっ……! そんなの……や、やぁ…… 恥ずかしい……」 先ほどから少し濡れていたせいもあり、寄せる動きに呼応して、割れ目の間がにちゃにちゃと音を立てていた。 「なんか、いやらしいね……」 「そんなこと……言わないで……」 「ごめん……でも、喜んでるんだよ。香澄が僕で こんな風になってくれるのが、すごく嬉しいんだ」 と、もう一度キスをする。ついでにディープキスをするように舌先を這わせた。 「ひゃぁぁっ! ……だって、あなたになら、何を されたって、こんな風になっちゃうわよ……」 「こんなのでも?」 「んんんんっ!」 歯を立てて少し強めにお尻の肉を噛む。少し歯形が残ってしまった。 それでも彼女はお尻を動かさずに、甘んじてその痛みを受けていた。 「真一が喜んでくれるなら、私、何されたっていいわ…… だから、もっと、もっとしていいから……」 その従順な態度に、愛しさがこみ上げる。 むしゃぶりつくように彼女に口付けした。 「あうぅ……うむ……ちゅ、ちゅぅ……んちゅぁ……」 姉という立場の裏側にあったもの――僕にだけ見せる従順と依存。それが、僕の香澄だった。 「んっ……ちゅぁ、んむぅ……はぁ、んんっ……ふぁふっ、 んちゅぅ……にゅちゅぅ……む……」 以前は、僕が一方的に卑屈になっていたけど、家を出た頃から、僕たちの力関係は変わっていた。 「むちゅぅ……ぷ、はぁ……んんっ……る……はぁぶ…… ちゅ、みゅぅ……ん、む……ちゅぅぅ……」 普段は分け合うように対等に、ベッドの上では主に僕が主導権を握っている。 「ぷぁはぁっ……!」 目を合わせたまま、なんの前触れもなくいきなり彼女の中に指を突っ込む。 「ああっ……! しん……いち……」 やすやすと指が奥まで入るほど、彼女のソコは濡れそぼり、とろけていた。 「んんっ! あ、はぁぁっ……!」 突っ込んだ中指で、彼女の中をかき回す。適度な温かさと、ぬるぬるした感触が気持ちいい。 「やっ、あぁっ、だめ……! そんなにしたらぁ……っ!」 どうなってしまうのか。 それが見たくて、僕は手を休めることなく、少し乱暴にかき回し続けた。 「あぁぁっ! ん、はぁっ……んんっ! ああっ!」 すぐに面白いほど蜜があふれ、汗をかいたようにたらたらと、太股を伝って床に落ちていく。 「すごい……もっと指の数ふやしたらどうなるんだろう?」 「えぇ……? ちょ、ちょっと待って!」 「二本はもう経験済みだから、とりあえず三本から……」 「ダメよそんなの……あ、ああぁぁぁっ!!!」 うろたえる彼女の言葉を無視して、人差し指、中指、薬指の三本を同時に挿入する。 「はぁっ……んっ!! ああ、ああぁぁ……!!」 手の角度を変えながらではあったけれど、意外と問題なく、三本の指が彼女の中に収まった。 「は、はいってる……真一の指が、三本、入ってるわ……」 「どんな感じ……?」 「わ、わからない……ちょっと、きつくて……ヘンな感じ」 言っている側から、復元力が働くかのように入り口がすぼめられ、僕の指が締めつけられていく。 「じゃあ、もう一本、いくよ……?」 「う、うん……」 小指までをすぼめて、彼女の入り口を分け入るように挿入する。 「うぅぅ……あぁぁぁっ!? あはぁっ、あああっ!!」 さすがにきついのか、小指の第一関節ほどまで入れると、それ以上は進まなくなった。 「すこし、広げてみてもいい……?」 「はぁ……はぁ……んっ、うん……はぁ……はぁ……」 彼女は開いた口で荒く呼吸をしながら、頷いてくれた。 そのあられもない姿に、僕は興奮している。自分の心が妖しい深みに取り込まれていくのがわかった。 ぐりぐりと手をひねりながら、僕は少しずつ少しずつ、彼女の中に指先を押し込んでいく。 「ああぁぁっ! んんんっ……っあああああんっ!!」 小指の第二関節までなんとか到達させたけれど、今度は彼女のアソコが指を咥え込むようにぎゅっと収縮し、逆に僕の指の方が痛くなってきてしまった。 さすがにこれ以上は無理かと、彼女が咥えこんだ指を引き抜く。だがそれすらも、彼女には快感になってしまったらしくて…… 「はぁぁぁぁっ! あああっ……はぁ……はぁ……」 「ごめん、ちょっとやりすぎちゃったかも……」 「だ、大丈夫……真一の指……気持ちよかった……から」 「無理にそんなこと言わなくても……」 「ううん、ウソじゃないの……あなたの指が私の中に 入ってるって思うと……その、余計濡れてきちゃっ て……」 「…………」 「ど、どうしたの……?」 「いや、恥ずかしかったっていうか……クラっときた」 僕にはもったいない女性――そんな思いが、一瞬脳裏に浮かぶ。 けれどそれは違う。これが僕のカノジョの香澄なんだ。 「だったらもう少し、指でしてあげるね」 「え……う、うん……ああっ!?」 再び指を挿入し、内壁をなぞるように彼女の膣をかき回す。 「やぁっ……ゆ、ゆびっ、が……あっ、あっ!」 中で指をうごめかしながら、右へ左へ、上へ下へと腕を動かす。 「んぁっ、ん……あぁ、あああっ! はぁ、んんっ! んんっ! んんんっ! だ、だめ、これっ……!」 「はぁ……ダメなら、止めようか?」 「んぁん! ああっ、い、いじわるしないで……んんっ! はぁ、はぁんっ! んんっ! で、でも……! もっと、 ゆっくりぃぃっ……! あああっ!!」 「じゃあ、ダメじゃないんでしょう?」 ペースダウンを請う彼女の言葉を無視して、身体全体を使って腕が攣りそうなほど、かき混ぜた。穿った。 「い、いいけどっ! ん、んんっ、はげしっ、すぎてっ! んぁんっ、〈膣内〉《なか》が……ああんっ、刺激されすぎて……! あっ、あっ、あっ、はぁぁぁっ!」 「んああああっ、イク、イッちゃう、イッちゃうぅぅ!!」 「うぅっ! んああああああああっっっ――あぁぁっ!!」 「ひぃ……うぅっ……あ、あぁん……」 絶頂に達した彼女はガクガクと膝を震わせながら、流し台にへばりついて身体を支えた。 「はぁ……はぁ……真一、きて…………きて、くれる?」 「うん……今、いくよ……」 彼女を攻めてばかりいたはずなのに…… 僕のモノはもう、彼女にたっぷり愛撫を受けた後のように、ギチギチに硬くいきり立っていた。 流し台の高さがちょうどよかったから、まな板をどかしてそこに香澄を乗せる。 狭いとこに『くの字』に押し込められた彼女は、先ほどと同じように僕が動きやすいよう、脚を開いて、腰をお尻の半分ほど突き出してくれた。 そんな彼女の配慮に愛しさがこみ上げる。 不慣れだった僕が、今ではこんなことができるのも、彼女の配慮があってこそだから…… 「入れるよ……」 「ええ……」 開かれた香澄の芯に、僕のモノをあてがう。 「んんっ……」 そして、ゆっくりその中に―― 「あ……はぁんっ」 「う……きつい」 さっき、指で刺激しすぎた余韻なのか……今日の香澄のそこは、ひどく狭くてきついものになっていた。 「ちょっと……力抜いて」 「や、やってるけど……無理……あああぁん!」 先端部分だけでも相当な刺激なのか、香澄の息が弾む。 ……無理矢理ねじ込むしかないかな。 「ひぅっ!」 香澄が短く悲鳴をあげた。 「い、痛い?」 「違うの……! ぞくぞくするのっ……!」 「わ、私、このまま入れたら、大変なことになっちゃい そう……!」 「……でも、気持ちいいなら、いくよっ」 「ま、待って――」 僕のモノが、まさに分け入るように、彼女の中へめり込んでいく…… 「ひゃぁぁっ! ああああっ……! つぁっ、あああっ!」 「くっ……すごい……締まって……!」 まるで僕を拒んでいたような香澄の中は、ある程度まで進むと、逆に吸い込むかのように脈動を開始した。 さっきの指の時と同じ……!? 「ひぃっ! き、きてっ、真一ぃぃ……!」 脈動の流れに乗るように、僕は一気に香澄の芯を目指し、グッと腰を押しやった。 「ああっ!? あ、んんあああああああぁぁぁっ!!!」 「え……これだけ、で?」 「はぁ……はぁ……はぁ……こ、これだけって、 そんな……あ、はっ、んんん─────っ!!」 今までにないほどの絶頂を迎えた彼女は、身体全体をのけぞらせて、何度も何度も流し台の上で跳ねた。 「ひぃぃっ! はぁっ! ああっ、ああんっ!!」 彼女の身体が跳ねる度に膣内が収縮して、一番奥のしこりがグイグイと亀頭の先を刺激する。 「うっ……くぅ……!!」 こっちも、もう込み上げてくる射精感に、歯を食いしばって対抗する。 「くっ……か、香澄……! もっと、もっと、いくよっ!」 「んっ、うん、きて、きてきて、あ、くっうぅぅー!!」 動かなければ負ける、そんな気がして僕は痙攣の収まらない彼女に向かって腰を振り始めた。 「きゃぁぁっ! ちょっ! はぁぁっ! ひぃっ!!」 「んあああっ! んんっ、んぁっ、そこ、そんなにっ、 ひっ、ひぁああああ!!!」 再び絶頂を迎え、無意識に閉じようとする脚を強引にねじふせ、ひたすらに彼女の奥を求め続ける。 「んんんっ! はぁぁっ! ああっ、あっ、んんっ!! もう、いっぱいで、ああぁっ! 真一っ! 真一っ!」 もうほかに何もいらない。香澄の中だけを目指し、渾身の力を込めて僕は腰を振る。 「やぁっ! だめっ! 熱いっ! あついっ! んんっ んあんっ! かはぁっ! ああっ! やっ! やっ!」 焼けるほどに熱いのは、果たして僕のモノか彼女のアソコなのか。どちらにしても、僕らはすでにひとつの何かだ。 「あっ、ああああっ! あっあっ! 真一、とけるっ! あ、あ、あ、あ、真一ぃぃっ!!」 何度も何度も突き上げ、擦りつけ、互いに高みに昇っていく…… 「うぁぁ、い、いくよッ!!」 「うんっ! ああっ! あぁっ!!」 「はぁぁっ! あっ、あああああああぁぁっっっ!!!!」 目の前が、真っ白になった―― 僕のすべてかと思えるほど大量の精が、怒涛のごとく放出された。 「あああああぁっ!! あああっ! んあぁぁぁっっ!!」 それは香澄さんの中を十二分に満たし、収まりきれなかった分は勢いよく外に溢れだした。 「ああぁっ……あっ! まだ、出て……あああっ……」 それでもなお続く僕の脈動…… その度に香澄さんは身体を震わせ、とっくに溢れているにも関わらず、少しでもこぼすまいとぎゅうぎゅう締め付けてくる。 「うっ、うんぅ……んあ……はぁ……はぁ……」 「はぁ……はぁ……」 「はぁっ……はぁ……はぁ……しん、いち……!」 僕が最後の脈動を終えると、香澄は弛緩した身体を無理やり起こして僕にしがみついた。 「香澄っ……」 僕は彼女の身体をしっかり抱え、ぎゅっと強く、抱き締めた。 「ふあ……あぁ……ぁあぁぁっ……」 「…………」 長い抱擁と沈黙…… それは再び身体を分かつまでの、ひとつに溶け合った時間―― どれだけ長くそうしていたのか、あるいはほんとに短い時間だったのか、僕にはわからない。 やがて顔を上げた彼女は、息を荒げながらも開口一番に、こう言った。 「はぁ……はぁ……また、ゴム使うの忘れちゃったわね」 ……こんな調子だと、もしかして来年の今頃には、家族がひとり増えていたりして…… ともあれ、僕らの生活はまだ始まったばかりだ。 今日の次、明日の先、例え何があろうとも、僕は彼女と離れない。彼女は僕と離れない。 あの夏の約束を胸に、僕たちはこれからも共に歩んでいくんだ。 ――ずっと傍にいる。 彼女の笑顔がそこにあり続ける限り…… 「あのっ、隣の者ですけどっ……! もうちょい静かに してくださいよっ……!! 刺激的すぎるからっ」 「ご、ごめんなさい……」「す、すいません……」 僕らは同時に謝って、互いに顔を見合わせた。 「……ぷっ」 「あ、ははは」 「は、恥ずかしい……けど、ふふっ、ふふふっ…… あははっ」 無邪気な笑顔が、そこにはあった。 「じゃあ、店番頼むぞ」 「うん。父さんも気をつけて行ってきて」 店を出て行く父さんの後ろ姿を僕は見送っていた。 春菜さんとの結婚が迫るにつれて、その準備で父さんは店を空けることが多くなってきた。 最近、兄さんも何か忙しいようで、店に出てこないことが増えてきている気がする。 「別に……ひとりでも十分だからいいんだけど」 忙しい時間は、父さんが必ず店にいてくれる。 アイドルタイムは、お客さんもまったりと過ごしたい人が多いから、注文を急かされることもない。 のんびりとした空間で、夏休みのひと時が過ぎていく感覚は悪くはなかった。 「豆や茶葉のストックは大丈夫……」 コーヒーや紅茶の淹れ方は、父さんから一通り教わっている。 父さん独特のこだわりがあるらしくて、お客さんに初めて出させてもらうまではかなりの時間がかかった。 それでも、最近ではこうして僕に店を任せて家を出て行くことが増えた辺りは、免許皆伝と言ったところなんだろう。 「ケーキのストックもよしっと。 閉店まではどうにかなるかな」 僕はケーキやスイーツを作るのが、なぜか苦手だった。 その分、父さんが十分な量を用意してから、店を空けるようにしてくれているので、安心してお客さんを迎え入れることができる。 「そろそろ、かな」 最近昼下がりは、こうしてひとりで店番をすることがほとんどだ。 自分がこの場にいることも違和感がなくなり、カフェの中では変わらない日常が平凡に繰り返されていく。 ひとりでの店番が増えた頃から…… 僕は、そのカフェでの日常の一幕のある瞬間を、心待ちにするようになっていた。 「いらっしゃいませ」 ドアを開けて店内に現れたのは…… 「こんにちは。今日も店番ですか?」 最近ではこのカフェの常連として、すっかりと馴染んでしまった雪下さんだった。 「うん。そんなところ」 「そっか……」 「……じゃあ、『いつもの』をお願いできますか?」 「わかった。『いつもの』席に運んでいくね?」 「ふふっ。お願いします」 笑顔を残して、雪下さんは店の奥の窓際の席へと向かっていく。 その足取りには少しの迷いもなかった。 「ケーキセット、ケーキセット、と……」 彼女がお気に入りの席で、お気に入りのケーキを食べる。 それも……最近できあがった、このカフェの『いつも』。 雪下さんにとっての、カフェでの『いつも』は日を追うごとに増えていった。 「今日は、紅茶でいい? ダージリンとか」 「おまかせします」 雪下さんは、飲み物に対するこだわりは特にないようだけど…… コーヒーも紅茶も、基本的にストレート。甘いものより、渋みや苦み・コクや深みのある飲み物が好みらしい。 そしていつの間にか、僕がその日のお勧めとして、彼女の口に合いそうなものを選ぶようになっていた。 「お待たせしました」 注文を待つ間に、特に何かをするでもない。 窓の外をずーっと眺めて物思いにふける。 それが、雪下さんのカフェでの過ごし方のひとつだった。 でも、今日はいつもと少し様子が違う。 オーダーを持って近づいていくと嬉しそうに、窓から僕の方を向いてくれるのに…… 傍らに立った俺に気がつきもせずに、物憂げな表情で窓の外を眺めたままだった。 「雪下……さん?」 「あ、ごめんなさい」 ようやく僕に気がついた雪下さんが、窓の外から店内に視線を戻す。 特に慌てた様子もなく、自然に微笑を向けてくれるのは雪下さんらしいと思う。 「何か珍しいものでも通った?」 「ううん。普通に、子供がお父さんと遊んでるだけでした」 「ホントだ。なんだか夏休みらしくて微笑ましいね」 「そうですね、うん。夏休み、ですもんね」 夏休みでなければ、雪下さんもこの時間には来られないし、僕も店番をしていない。 カフェでのこの時間のこの光景も、夏休みだけの特別なものだった。 「注文、置いていいかな?」 「もちろんですよ!」 待ちわびた…… そんな言葉がぴったりな笑みを浮かべた雪下さんのテーブルに、ケーキセットを置く。 「わぁ……」 さっきまでのどこか物憂げな表情はどこへやら。 目を輝かせて大好物のオレンジヨーグルトケーキにフォークを入れる姿は、外で遊んでいる子供よりも無邪気なものへと変わっていく。 「おいしい……あぁ……今日も至福の時が……」 「本当においしそうに食べるなぁ」 頬張る度に蕩けそうな表情を浮かべる雪下さんを、ほかのお客さんがいないのをいいことに、僕はずっと見守っていた。 「ふにゅー……うふふ」 まさに至福のひと時といった様子で、ケーキだけをゆっくりと堪能していく雪下さん。 ……いつしか、ほとんど口をつけられていなかったカップの紅茶から、湯気が完全に消えていた。 「紅茶、淹れ直そうか?」 「あ、いいの。少し冷ました方が飲みやすいから……」 カップを下げようとした僕の手を、雪下さんが掴む。 力はそれ程ではなかったけれど、そのタイミングがまずかった。 「うわ!」 「え?」 持ち上げた勢いそのままに、カップは僕の手から離れると、宙を舞う。 放物線を描き、雪下さんに向かっていくカップがまるでスローモーションのように見えた。 「きゃっ!?」 カップが雪下さんの胸の辺りにぶつかり、小さく跳ねる。その勢いで、服に中身がかかった。 その膨らみがクッションになったのか、勢いを失ったカップが地面に落ちる前に、雪下さんがキャッチしていた。 「よ、よかったぁ。高級そうなカップだったから……」 自分の身に起こったことを忘れたかのように、雪下さんはカップの無事に安堵のため息を漏らしている。 「そ、そんなことより雪下さん! ごめん!」 「え? あ、いえ。今のは私も悪かったですから」 「冷めててよかったですね。淹れたてだったらさすがに 火傷したかもしれませんから」 被害に遭った本人とは思えないほど、彼女の態度は穏やかだった。 「でも、服が……」 「あ、そうですね。それはちょっとだけ、困りました」 困ったという割には、深刻さをまるで感じさせない口調だった。 だけど、紅茶が服を濡らしている範囲は胸元からスカートまでと案外広い。 「とにかくクリーニングに!」 「大丈夫です。落ち着いてください」 慌てる僕を、雪下さんの方が制してくれる。 これではどちらが被害者なんだかわからない。 「でも、濡れたままなのはまずいよ」 「そうですね。外だったらすぐに乾くんですけど……」 冷房が程よく効いている上、直射日光を遮る造りのカフェでは、着たままで乾くとはとても思えない。 「ひとまず、着替えを……」 「あの……ありがたいんですけど……西村くんのご家族の 服だと、少し大きいんじゃないでしょうか?」 「う……」 そこは男所帯の悲しさだった。 芹花や香澄さんの引っ越しの準備も進んでいて、運び込まれた荷物の中には着替えられるものもあるかもしれない。 だけど、それを勝手にするほど僕は命知らずではないつもりだ。 かといって、店員は今、ここに僕ひとり。今日は杏子も芹花も香澄さんも、春菜さんまで、用事があって出かけている…… 「でも、そのままじゃ……」 「ねえ、西村くん。ここは女の人のアルバイトは雇って ないんですか?」 「え?」 深刻な事態なのに、雪下さんは目を輝かせて僕を見ている。 まさか……とは思うけど…… 「カフェの制服……女性用があるのなら、貸して欲しいん ですけど」 「あ、あるけど、それはさすがに……」 父さんが、芹花との話でその存在を思い出した後、クリーニングに出していた。 そして先日それが戻ってきているのを、僕は知っている。 「そんなに、私のウェイトレス姿は見たくないですか?」 「いや! そんなことは絶対にないって!」 同級生の間で美人と評判の彼女だ、似合うことは明らかなだけに、つい本音が出てしまう。 「だったら問題ありませんね。大丈夫です。 見苦しかったら店の隅っこでじっとしてますから」 「だ、だけど……」 「ウェイトレスって、女の子の憧れなんですよ?」 戸惑う僕の様子を見逃さずに、雪下さんは間髪入れずに攻撃を仕掛けてくる。 「それに、このまま濡れた服で過ごすなんて、 ひどい話ですよねぇ……」 「う……」 「はぁ……このまま外に出て乾かしてこようかなぁ。 もちろん、出会った人にはみんな理由を説明しますよ?」 そんなことをする娘でないことは、今までの付き合いでよくわかっている。 だからといって、雪下さんに責められ続けることに耐えられる男はほとんどいないだろう。 「あー、もうわかったよ」 結局、僕は負けた。 こんなに着たがっているのなら、着せてあげたいと思ってしまうのも仕方ない……よな。 それに僕にもほんの少し、雪下さんのウェイトレス姿を見てみたい……そんな気持ちがあることは否定できなかった。 「はぁ……いいのかなぁ……」 僕は何度目になるかわからないため息をつきながら、床にモップをかけていた。 「父さんや兄さんが帰ってきたら何を言われるか……」 せめてお客さんが来てくれれば気が紛れるのに。 こういう日に限って、雪下さんを最後に客足はぱたりと止まってしまう。 「まだかな?」 天井が映るほどに磨いた床から、視線を奥に移す。 着替え終わった雪下さんが姿を現すなら、そこからのはずだった。 「ふふふっ、お待たせしました」 「あ……」 ほんの少しだけ照れくさそうに頬を染めながら…… でもそれ以上に嬉しそうな、誰もが虜になるような笑みを浮かべながら…… 着替えた雪下さんが、姿を現した。 「ごめんなさい。鏡でおかしくないか何度も確認してたら 遅くなっちゃいました」 「着こなし……間違ってませんよね?」 雪下さんは全身を僕に見せるために、その場でゆっくりと一回転してみせる。 ふわりと制服のスカートが翻り、白い脚が覗くのが気恥ずかしくて、僕は思わず目を逸らしてしまう。 「大丈夫なんじゃないかな?」 「ちゃんと見てくださいよ。せっかく着られたんだから、 ばっちり決めたいんです」 目を逸らしたことはしっかりとばれていた。 頬を膨らませながら、雪下さんは胸を反らしてウェイトレス姿を誇示してくる。 「それはばっちり」 「本当ですか? 信じちゃいますよ?」 何しろ、ほかの人が着たのを見たことない。ウソは言っていない。 仮に何人見ていたとしても、きっと同じ答えに辿り着く。 「じゃあ、悪いんだけど服が乾くまでそれで――」 奥にいて欲しい。そう言おうとした。 なぜならいくらアイドルタイムとはいえ、お客さんがやってくる可能性は当然あるから…… 「あ……」 最大の懸念事項がいきなり訪れてしまった。 「いらっしゃいませ~。 おふたり様でよろしいでしょうか?」 慌てる僕を余所に、雪下さんは笑みを浮かべてお客さんの方に近づいていく。 「え、ちょっと」 「あ、まだこの後友達が来るんですけど、大丈夫ですか?」 「ちょっと人数多いんですけど」 「大丈夫ですよ。まとめて座れるように席をご用意いたし ますね」 ……そのあまりに完璧なウェイトレス姿は、お客さんを納得させるのには十分過ぎた。 ごく当たり前のように、彼女はお客さんをテーブル席に案内していく。 「ゆ、雪下さん!」 「西村くん、そこのケーキセットの片付けお願いします」 「私は、お客様のご案内がありますので」 さも当然のように僕に告げる雪下さん。 食べかけだと思っていた雪下さんのケーキは、いつの間にか綺麗に平らげられていた。 「いいから、奥に入って! あとは何とかするから……」 「いいんですか? 西村くんだけでこの人数…… 応対できるんですか?」 「え……」 ドア越しにも聞こえる、大人数の話し声。 ドアを開けた瞬間に、そのすべてがカフェへとなだれ込んできた。 ぱっと数えられるだけでも、1人、2人……5人。 「ふいー、涼し~い! 生き返る!」 「あ! あのウェイトレスさんの制服可愛い~」 …………さらに以下続々と、あっという間に店内の座席すべてが埋まるほどのお客さんがご来店。 これは……父さんがいたとしても捌けるか微妙な数だった。 「ね? 任せてください。せっかくですからウェイトレス も体験してみたいですし」 「……ごめんね。バイト代は父さんに払ってもらうように 言うから」 「あははは、そこはあまり気にしないでください」 この状況で雪下さんが引っ込んだりしたら、お客さんは不審に思うだろう。 なぜウェイトレスの制服を着ているのか……そんな説明に時間を費やすことがとんでもなく無駄に思えた。 「……じゃあせめて、よければオレンジヨーグルトケーキ をもう一個、あとでおごるから」 「承りました。ふふっ」 そして彼女は迷いもなく、カウンターに置かれていた注文票を手に取った。 さすが常連さん。店内の様子は隅から隅まで把握済みだ。それにしても、まさかこんなことになるなんて…… 「では、ご注文をお伺いしてよろしいでしょうか?」 楽しそうに、お客さんと話す雪下さんは驚くほど自然にカフェに溶け込んでいた。 お客さんにしてみれば、可愛いウェイトレスさんが出てきて大喜びのはずだ。 僕は、場合によっては、店の入り口に『準備中』の札を出すことも考えた。 だけど、結局それはやめた。 ウェイトレス姿よりも、生き生きと働く雪下さんをまだ見ていたかった。 「雪下さん、2番さんのコーヒーお待たせ」 「はーい♪」 予想以上の来店者数。 そして……予想以上どころかこの夏一番の売り上げ。 それが急造ウェイトレスである雪下さんが、このカフェにもたらしたものだった。 「ここまでとは思わなかったなぁ……」 普段のしっかりとした立ち居振る舞いから、ある程度の期待感はあった。 可愛らしさ、接客に大切な人当たりのよさ。そして、頭のよさ。 理想のウェイトレスとなれる下地は、十分すぎるほどに揃っていた。 「ありがとう。本当に助かるよ」 「いえいえ、私がやりたくてやってるんですから」 それは言われるまでもなく伝わってくる。 お客さんにもそれが伝わるから、誰もが幸せそうな顔をしていた。 「西村くん、追加注文いただきました。オレンジ ヨーグルトケーキとブレンドコーヒー、セットです」 「わかった。待ってて」 気軽に返事をして、深刻な問題に直面する。 「まずい……」 「どうかしました?」 「オレンジヨーグルトケーキ、もうなくなる」 雪下さんが自分の好みを勧めてまわっているのか、オレンジヨーグルトケーキのはけが普段より早い。 父さんが余裕をもって作っていってくれたはずの在庫も、底を尽きかけている。 「あら、西村くんはケーキ作れないんですか?」 「ごめん。完全に父さん任せ」 こんなことになるのなら、もう少し真剣にケーキを作る練習をしておくべきだったかもしれない。 「残念。お仕事が終わった後の楽しみ、なくなっちゃい そうですね」 僕がさっきお礼代わりに出した条件を、彼女もしっかり覚えていた。残念そうに宙を仰ぐ。 「……取り置きしておこうか?」 「そんな特別扱いしないでください。 ……それよりも」 「いつか、西村くんお手製のオレンジヨーグルトケーキを、 食べさせてもらえませんか?」 「僕の……?」 僕の手作り、か…… 「うんまぁ、努力はしてみるよ。でも、もうしばらく お待ちください」 「約束ですよ? では――」 雪下さんは心底嬉しそうに笑って、接客に戻っていった。 「――はい。オレンジジュースとシフォンケーキですね! 少々お待ちください」 「マスター、オレンジジュースとシフォンケーキのセット、 お願いします!」 ……いつの間にか、マスターにされていた。 その後も彼女はひどく上機嫌で、楽しそうに接客をこなしていたのだった。 「ありがとうございました~。またのお越しをお待ちして いまーす」 日も完全に傾く頃…… 元気な雪下さんの声を背に受けて、途絶えることのなかったお客さんの最後が、ようやく店を後にしていった。 そして僕は一度は思い止まった『準備中』の札を、入り口に下げた。 ケーキは全滅。ほかの食材も心許ない。 となれば、閉店以外の選択肢はあり得なかった。 「いや、本当に助かったよ。僕ひとりじゃどうしようも なかった」 「あのままだったらもっと早く、店を閉めるしかなかった」 「この服を着ていなかったら手伝えませんからね。怪我の 功名というやつです。ふふっ」 最初に僕に服を見せたときと同じように、雪下さんはその場でくるりと回ってみせる。 働きづめだった疲れなど微塵も感じさせず、その動きは軽やかで羽が舞うようだった。 「服……もう、さすがに乾いてると思うんだ」 「そうですね。名残惜しいですけど……」 自分のウェイトレス姿を確認するように…… 雪下さんは自分の姿を首を様々な角度に捻りながら、目に焼き付けていた。 「閉店しちゃったら制服の理由がなくなりますからね。 今日はここまでです」 「あははは、なんだかシンデレラみたいだね」 「……そうですね。魔法はもうすぐ解けてしまいます」 夕日に照らされながら、雪下さんはうつむく。 その表情が、ケーキを待っていた時にみせた物憂げなものと同じものに見えたのは……きっと間違いじゃない。 「ガラスの靴……残していったら、探しに来てまた ウェイトレスさんさせてもらえますか?」 「靴どころか、ドレスがそのまま残ってるからね。大変な 時には、また助けてくれると嬉しいかも」 そんな権限が僕にあるはずもない。 だけど……そう言わずにはいられなかった。 「本当ですか? 嬉しいです。いつでも声をかけて くださいね」 「うん」 たぶん、もうそんな時はやってこない。 だけど、今は雪下さんが明るい笑顔を取り戻してくれただけで十分だった。 「……ホント、西村くんって優しいですよね」 「そうかな?」 ふたりきりの店内で、立ったまま見つめ合う。 ――状況を意識したら、不意に胸が高鳴った。 「…………」 雪下さんも少し、頬が赤い。 一緒に慌ただしい時間を乗り切ったせいか、身体は疲れているのに、頭の中だけはやけに高揚した気分で…… 「……西村くん」 彼女が、形のいい唇を開く。 「あの……あのね。実は――」 「あ、すみません。本日は閉店で……」 「……あっ」 あまりマナーの悪いお客さんがいないのが、このカフェの特徴だと思う。 準備中の札を無視して入ってくるのは、芹花か宗太か……そうでなければ僕の家族だけだった。 「お帰り、父さん」 「ただいま。 ほう。またずいぶんと可愛いウェイトレスさんだね」 大きな買い物袋をカウンターに置くと、父さんは雪下さんを見て笑う。 「ご、ごめんなさい。その……お店が忙しそうだったので 勝手に、その……」 「いいよ。どうやら……本当に忙しかったみたいだね」 オーナーたる父さんには、店の状況を見ればひと目でわかるだろう。 各テーブルのナプキンやシュガーポットの置かれている位置がばらばらだったり、まだ片付けの終わっていない食器もある。 つい先ほどまで大勢のお客さんがいたせいで、店内を流れる空気にもどこか、騒然としたものが残っている。 「ありがとう。真一が迷惑をかけたね」 父さんは、咎めるような色は一切含まない、優しい眼差しを雪下さんに向けた。 「い、いえ。私こそ西村くんに迷惑をかけてばかりで」 「謙遜しないで。今日のMVPは絶対に雪下さんだよ」 「あ、あまりからかわないでくださいよ……」 頼もしいウェイトレス振りから一転、普段だってあまり見せない照れ方をしている。 「アルバイト代を考えないとな」 「奮発してあげて。ここ一番の売り上げだったよ」 「なら、雪下さんの言い値で払わないとな」 「ふふっ、それはそれで困ってしまいます……」 チラリと、彼女は僕の目を見た。 「私へのご褒美は、別に用意してもらえることになって いますから」 『お手製のオレンジヨーグルトケーキ、本当に楽しみにしていますよ』 ――そう、念を押された気がした。 これは本腰を入れて、ケーキ作りの練習をしないと…… 「ふむ……」 父さんは納得したような、していないような……曖昧な表情で、僕と彼女を眺めている。 「……そうですね。もしほかにちょっと、ワガママを 言っていいのであれば」 「時々こうやってお手伝いさせてくれませんか? もちろん今日と同じく、お金はいりません」 雪下さんの真剣な横顔に、僕はハッとした。 さっき、たぶんもう二度とないと思ったばかりのこと――ガラスの靴もドレスも、その約束なら果たせる! 「僕からもお願いするよ。本当に優秀だから」 「……まぁ、ふたりがそういうなら、考えておこう」 ……決して否定的ではないけれど、父さんは実際に雪下さんが働いているところを見ていないからなぁ。保留されてしまうのは、残念だけど…… それでも、雪下さんは嬉しそうだった。 「はい! よろしくお願いします!」 「お? 何事?」 今度は家の方から、兄さんが姿を見せた。 「兄さん、帰ってたの?」 「ついさっき。で、手伝おうかと思って、様子を見に 来たんだが」 兄さんは店内の様子と、僕たちの様子を見て、ニカッと笑った。 「カノジョに手伝わせるとは、やるなぁお前も」 「カノジョ、って」 いきなりそんな言い方をされて、カッと顔が火照る。けれど雪下さんときたら、いつもの調子で―― 「やっと公認してもらえましたか。毎日のように、ここへ 通った甲斐がありました……ずいぶんと時間がかかって しまいましたけど」 「おめでとう」 「や、待ってって。おめでとうじゃなくて」 「なんだ。そういうことなら」 父さんはまったくいつも通りの口調で――つまり、僕たちをからかうつもりなどまったくなく、素で、こう言った。 「雪下さんの都合のいい日に、真一も休みを取るといい」 「……はい?」 「雪下さんへのお礼と、真一への今日一日頑張ったご褒美 だよ。ふたりで出かけてきなさい」 「いいんですかっ!!」 ……誰よりも早く、そして誰も真似しようがなく喜んだのは、雪下さんだった。 「なら明日! 明日はどうでしょう!」 「ちょちょちょちょっと、雪下さん!?」 「いいんじゃないか?」 「ああ、いいよ」 「ちょっとふたりとも!?」 本人の意思を無視して、どんどん話が進んでいく。 「ありがとうございます! では明日一日、西村くんを お借りしますね♪」 「そんな……そんなのでいいの?」 「何か問題でも?」 ……さらりと聞き返されてしまった。 「本人が一番欲しいものを提示してもらったんですから、 断る理由なんてありません。ふふふっ」 「…………」 雪下さんのあの、例によってどこまで本気かわからない側面だった…… そして、次の日―― 照りつける真夏の日差しが、絶好の行楽日和を象徴していた。 「それは、人が多いに決まってるよね」 海岸まで続く道を歩きながら、僕はため息をつく。 遠くに見える海まで続く車の列。 海水浴の道具を担いで歩く親子連れ。 遠くも近くも……すべてが目指している場所は同じだった。 「海岸で待ち合わせって……さすがに無謀じゃないか?」 雪下さんが昨日カフェを手伝ってくれたお礼に、今日一日僕が彼女に付き合う。 それ自体は光栄なことだし、構わないのだけれど…… 人混みでごった返す海岸で、お互いの姿を見つけることはさすがに難しいと思えた。 「まぁ、考えてても仕方ないか」 僕は抱えた荷物をしっかりと持ち直す。 先に行って場所取りを任せられた以上、まずはしっかりとこの激戦区を勝ち抜かなければいけなかった。 「よし。どうにか場所は確保っと」 日除けのパラソルをしっかりと固定した僕は、レジャーシートの上に足を崩して座った。 歩くのも難しいほどの混雑具合ではあったけれど、幸い僕が確保すればいいのはふたり分のスペースだけだったことが功を奏した。 「……こういう手間を考えると、少人数って楽なんだな」 前に海へ来た時は、友達一同で結構な人数だった。それと比べたら自由度が高い。 僕の着替えはとっくに終了しているし、あとは雪下さんと合流するだけだ。 「ただ問題は……どうやって彼女を探すかだよね」 これまで、何度か携帯電話を鳴らしてみたのだけれど、連絡はつかなかった。 着替え中だったり……携帯は海の家のロッカーに預けてあるのかもしれなかい。 「この前と同じ場所で、とは言われたけれど」 完全に同じとはいかなかったけれど、それ程離れた場所でもない。 彼女がその辺りを歩いていれば、すぐに見つかりそうなものだけど…… 「あ……」 辺りを見回してみた僕は、呆気なく、その対象を見つけることができた。 「待ち合わせの必要……確かにないかも」 よく見れば、近くにいる男性の視線が、同じ方を向いている。 ほかにもふたり、3人、4人……同じように波打ち際に視線を向けている中に、若い女性も見かけたところで、僕は数えるのをやめた。 そんな視線の中心、雪下さんはいた。 「ちょっと早く来すぎたかしら……?」 雪下さんは海を背にして、砂浜を眺め回している。 足に水がかかる度に、ほんの少しだけ顔が強ばる辺り、まだカナヅチは克服できていないのかもしれない。 「携帯、置いてくるんじゃなかったかな。西村くんなら、 絶対に見つけられる自信、あったのに」 彼女が視線を向けている砂浜――こちら側は、まさに芋洗い状態だ。人・人・人といった光景の中に、僕も埋もれてしまっているのかもしれない。 ところが雪下さんの周りだけは、奇妙に空いている。 視線は集まっているのだけど、声をかけようとまでする猛者がいない。 相手が美人過ぎて尻込みする、ってこういうことなんだろうか? 毎日のように学園やカフェで彼女と顔を合わせている自分は、ずいぶんな贅沢に慣れてしまっていたのかもしれない。 「……行くか」 平々凡々な自分としては、こちらから目立たないと気づいてもらえないだろう……僕は立ち上がって、彼女の方に進んでいった。 「あ……!」 「あれ、気がついた?」 数歩も行かない内に、彼女がぱぁっと表情を輝かせた。軽やかな足取りで、こちらへ向け駆けてくる。 「西村くん! やっと見つけました!」 彼女が駆けてくるのに合わせて、人混みが割れた。他人の肩越し、背中越しに見えていた雪下さんの姿が、あっという間に全身拝めるようになる。 「ごめんなさい、待った?」 「あ、いや。今、来たところ……」 ……反射的に、定番の受け答えをしてしまった。周囲から注目を浴びている気がする…… 「ふふっ、いかにもデートって感じの会話ですね」 「確かに。なんだかすごくベタだね」 ベタすぎて、言った自分がびっくりしてしまった。 「待っている間中、ひとりで心細くて……会えないかと 思っちゃうぐらいでしたから、こうして合流できて、 よかったです」 「うん、よかった」 よくない……さっきまで雪下さんに向けられていた視線が、僕へも容赦なく突き刺さってきている。 嫉妬、羨望、疑問、興味本位……想像はつくし、気持ちもわかるんだけど…… 「昔の人は偉大ですね。携帯電話もなかった頃は、きっと こうして大体の場所と時間だけで待ち合わせていたん ですから」 「そう、だね」 雪下さんは周囲の反応などまるで気にならないのか、けろっとした顔をしているけれど、僕はひどく落ち着かない。 「あー、場所、向こうに取ってあるんだけど」 とにかくこの場を逃れたいという、僕の願いを込めた提案は…… 「落ち着くのはあとにして、まずは疲れるまで思いっきり 遊びましょう!」 と、無邪気に僕の手をとった彼女によって、却下された。 彼女の手の感触を確かめるより早く、周囲から向けられる視線が八割がた、敵視するものに変わった気がした! 「え、えーっとじゃあ、泳ぐの?」 「……それはなしの方向で」 咄嗟に尋ね返した僕に、雪下さんの声のトーンが下がる。 「練習するという選択は、今日ないんだね……」 「はい!」 今度は、とびっきりの笑顔で言われてしまった。 これだけ周囲の注目を集める中で、泳ぎの練習に付き合わされるのも……想像すると、ひどく居心地の悪さを覚えるけれど。 あ……泳げない当人の恥ずかしさも、想像以上だろうな。いっそきっぱり泳がない、という選択は正解かも。 こうなったら、周囲が気にならないくらい楽しんでしまった方が、いいのかもしれない。 「ん……」 さっきまではただ掴んできていただけの手が、さりげなく、繋ぎ直されていた。 まるで恋人同士が繋ぐような、手の平の触れ合い…… 「考えてみれば、ふたりでちゃんと待ち合わせて 遊ぶのって、初めてですよね?」 「あ、うん。そうか」 買い物途中で会ったとか、みんなで出かけたことはあるけれど…… 「では、初デートということで」 「…………」 「初デート、ということで」 二度繰り返された。認めろ、ってことか…… 「……うん、まぁ……僕でよければ」 「こんな待ち合わせ、西村くんとしかしませんし、 そもそも男性とふたりっきりで出かけるの、西村くんが 初めてですから」 「……え」 「さ、まずは、あっちの露店でも冷やかしに行きましょう」 ……今、さりげなく、意外なことを聞いた気がする。 雪下さん、もてそうなのに……転校を繰り返しているせい、か? 「あ、いけない。 お財布……ロッカーに入れてきちゃいました」 ぴたり、と彼女の脚が止まる。 「……大丈夫、任せて」 「任せて、って」 「今日は僕が全部おごるから」 「そ、それは申し訳ないような……」 「デート、なんでしょ。 だったら、男におごらせてよ」 胸の内で父さんに感謝しておく。雪下さんは素直にバイト代を受け取らない様子だからと、その分のお金を僕が預かってきていた。 彼女のために、好きに使っていいと言われていたけれど、こんな風に役立つとは思わなかった。 「…………」 雪下さんはまだ少し、迷っていた様子だけど…… 「――わかりました、デートですものね。そういうこと なら、遠慮なく甘えさせて頂きます」 そう、嬉しそうに笑った。 「覚悟しておいてくださいね。私……本気を出しますから」 「いいよ。デートなんだから、本気で甘えてくれて」 僕自身、『デート』というシチュエーションが、なんだか楽しく思え始めていた。 「おじさ~ん。そこのたこ焼きと焼きそばと…… 焼きもろこしをください」 「へぇ、一気にいったね」 海の家と並んでいくつもある、露店のひとつに着くと、いきなり雪下さんのエンジンが全開だった。 「あ、全部6つずつでお願いしますね」 ……聞き間違いを疑うような言葉だった。 「ん? 友達の分もかい? 持ちきれねぇだろうから、 友達も呼んできた方がいいよ?」 「大丈夫ですよ。ここですぐに食べちゃいますから♪」 さらに耳を疑うような返事だった。 「今日はデートだからふたりだけです。ね、西村くん? 私たちだけで食べるんですよ?」 「……〈本気〉《マジ》?」 思わず、屋台のおじさんと顔を見合わせてしまった。 「私と同じ分は、しっかり食べてくださいね?」 「あはははははは! カレシも大変だね。将来は食費を しっかりと稼がねぇと!」 「だ、そうです。頑張ってくださいね」 「雪下さん……」 僕が情けない顔をしている間に、屋台のおじさんは楽しくなってきたのか、次から次へと料理を手際よく用意している。 で、出されたそれを雪下さんが、片っ端から―― 「もぐもぐ。うん、おいしいです! やっぱり海辺で 食べる焼きそばのおいしさは解析不能です!」 最初の皿をもう空にする勢いで、挑みかかっていた。 「ど、どこに入ってるの?」 改めて見るまでもなく、雪下さんは均整のとれたスタイルをしている。 失礼かもしれないけれど、水着越しに見るお腹には、とても次から次へと料理が呑み込まれるようなスペースがあるとは、思えなくて…… 「西村くん、私のことより、箸が進んでませんよ? この後は向こうで、カキ氷も3つずついきますからね?」 「……え、えーい! こうなればやけだ! とことんつきあうよ!」 「はい! あ、そこのイカ焼きもください」 「フランクフルトもお願いします!」 僕まで調子にのって、次々と増えていく皿…… すべてを食べ終わる頃には、最初とは違う意味で、僕達は注目を集めてしまっていた。 「さぁ! いよいよカキ氷ですよ!」 「す、少し休ませて……」 お腹が膨れて動けなくなったのは、僕だけだった。 次の獲物を物色する雪下さんの抜群のプロポーションは、少しも損なわれていなかった。 「……何を見てるんですか?」 「あ、いや」 僕の視線に気づいた彼女が、自分の身体を見下ろす。 「……そりゃあ香澄さんみたいに、立派じゃありません けど」 なぜか違うところを気にされた。 「いや、十分綺麗だから」 「……ホントに?」 「ホント。雪下さん、スタイルいいなぁって思って見てた。 ごめん」 「謝らなくていいです。それよりも問題なのは、 西村くんの好みかどうかです」 ずい、とこちらに身を乗り出してくる彼女の、胸の谷間が見える。 「あ、うん、好みです……」 「よかったぁ~。再会したのはいいけれど、西村くん 好みの女として育っていなかったら、どうしようかって 少し心配だったんですよねぇ」 うんうん、と何かひとりで満足そうな雪下さん。 「取り返しがつかないところでしたから、西村くん的に オッケーな身体になっていたなら、肌を磨いてきた 甲斐があるというものです」 「…………」 なんか、くらくらするようなことを言われている気がする…… 「で、西村くん」 「はい?」 「お腹は落ち着きましたか? カキ氷、そろそろ いきますよ」 「…………」 彼女は最強だ――そんな言葉が頭に浮かんだ。 夏の長い昼間も、いつかは終わりが訪れる。 太陽が水平線にかかる頃には、パラソルやシートがまばらになり、露店も次から次へと店仕舞いの支度を始めている。 「人が減って、歩きやすくなったね」 「はい。いつもこうなら、なんだかふたりで貸し切りして いるみたいで、嬉しいんですけど」 「そういう機会もあるよ、またきっと」 「……だと、いいですね」 今日は特別混んでいたけれど、普段はそんな驚くほど観光客が集まるわけじゃない。あくまで、それなりに、だ。 今日だって、親子連れはそろそろいなくなって、まばらに残っているのは友達同士のグループか、カップルばかり。 特に、夕焼けという絶好のシチュエーションのせいか、騒ぎ立てるよりもむしろ、寄り添っている静かなカップルばかりで…… 「ふふっ。なんだかみんな、幸せそう」 「そうだね。どうも場違いな気がして……」 周囲のカップルと違って、いくら初デートなどと言ってみても、僕らは『友達』。 周りで互いに密着している『恋人』たちに比べると、肩を並べて手を繋ぐのがせいぜいの僕たちの間には、わずかとはいえ、まだまだ距離が開いている気がした。 ……『まだまだ』? いつか僕たちも、その……恋人になる? 「うーん、私としては十分に溶け込んでいるつもり なんですけど」 雪下さんは、繋いでいた手をじっと見つめた。これじゃ足りないのかしら、と不思議そうな顔で。 「……西村くんが十分でないと感じるのなら、もっと 溶け込む努力をしましょうか」 「え」 「えい!」 「うわ!? ゆ、雪下さん!?」 わずかな距離は突然ゼロになる。 雪下さんが、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、腕と腕を絡ませてきていた。 冗談なのか本気なのか…… 日頃から判断がつきにくい雪下さんの行動の中でも、僕を悩ませる飛びっきりのものだった。 「でーと、なんですから。場違いなんかじゃありませんよ」 「そ……そういう問題かな……?」 あまりこういうのに慣れていない僕は、戸惑う。 でも……慣れていないのは、雪下さんも同じかもしれない。 「ととっ」 前にも何度かやられたけれど……今日はとびきりぎゅっとしがみついているせいなのか、砂浜だからか、足下がおぼつかなくなっている。 寄り添っている、というより、意地になって離そうとしないというような…… それがかえって、腕に当たる胸の感触を、強く意識させてきて困る。 「……やっぱり、まだ色々と足りないのでしょうか? 今日でだいぶ埋めたつもりだったんですけどね」 「何を?」 「ふたりだけの想い出、でしょうか。やっぱり積み重ねた ものが周りの人に比べると、圧倒的に不足している気が します」 「想い出っていうなら、今日だけでだいぶ近づいたんじゃ ないかな。一日一緒に、全力で遊んだよね」 「確かに。こんなにはしゃいだのは、久しぶりです。 ちょっと疲れちゃいました」 わざとらしくよろめきながら、彼女がさらに密着してくる。 水着の薄い生地から伝わってくる温かさと柔らかさに、くらくらしそうだった。 「……疲れているなら、そろそろ帰ろうか。日が沈むと、 さすがに冷えるだろうし」 「イヤです。まだ帰っちゃダメ。西村くんの一日は今日、 私のものの約束です」 ぎゅっと、抱き寄せてくる腕に力がこもる。 彼女の吐息が腕にかかると、身体だけでなく僕の心までくすぐられる気がした。 「でも、風邪ひくよ。せめて着替えて……」 周囲の恋人たちはほとんどが帰り支度を済ませてから、今日の余韻を楽しんでいる。 水着姿の僕たちは、そういう意味でも浮いた存在になりつつあった。 「西村くんは……帰りたいんですか?」 「いや、そういうわけじゃないよ」 こうして雪下さんといられるのは気恥ずかしくても、それ以上に嬉しい。 だけど…… 「だったらひとまず場所を変えよう。晩御飯くらいご馳走 するよ」 とにかく、この状況を変えたかった。 このまま周囲に溶け込んでいくのが嬉しくもあり、少しだけ怖かった。 雪下さんの言う通り、僕らがこの中にいるには足りないものが多すぎる。 幸せそうに歩く恋人たち――彼らは、言葉もなく見つめ合うだけで通じる……そんな雰囲気を醸し出しているように感じる。 けれど僕たちは、まだ…… いくら言葉を重ねても、その気持ちを読み取れないところがある。 「ん…………」 彼女が何を考え、何を望み……何を悩んでいるのか、僕には『まだ』わからない。 だから――今の僕らにふさわしい場所は……ここではない気がした。 「――ふぅ、仕方ありませんね。わかりました。 でも、ここより素敵な場所じゃないとイヤですよ?」 しがみついたままで、僕を見上げる雪下さんの瞳に夕日の光が揺らめく。 どうして……こんなに不安げで寂しそうにしているのだろう? 「わかった。考えておくから」 「考えないでいいですよ。西村くんはこの町、長いんです から」 すっと……雪下さんが僕から離れていく。 更衣室に向かうためだけなのに、消えた温もりはひどく寂しい。 離れたくないのは、いつの間にか僕も同じになっていた。 「西村くんのとっておきの場所に連れて行ってください。 西村くんの想い出を私に分けてくれれば……それだけで 十分です」 「え?」 微笑を残して更衣室へと消えていく雪下さんを、引き止める暇はなかった。 「とっておきの場所、か……」 転入してきて間もない雪下さん相手なら、案内する場所はいくらでもあると思っていた。 だけど、その場所は大きく限定されることになった。 「僕の……想い出……」 遠く遠く、記憶を辿っていく。 日常をただ退屈に送っていただけの町だけれど、愛着のある場所は多くある。 「あ……」 遡った想い出で、たったひとつ…… 僕の心の奥底を捉えて離さない風景があった。 「……行ってみようか」 今の僕らにふさわしい場所なのか、わからないけれど…… 引き寄せられる想いには、きっと理由があるはずだった。 「わぁ、本当に……一面のヒマワリですね」 雪下さんの第一声はそれだった。 本当にそれ以外の感想を抱く人はいない。そして、それがすべての場所がここだった。 「うん。僕もたまにしか来ないんだけどね」 「え~~? それじゃあ、とっておきというのとは 違いませんか?」 ほんの少し唇を尖らせて、雪下さんは僕を困らせようとするような口調になる。 それさえも、彼女のペースであることに、僕は慣れつつあった。 「ここに、雪下さんと来てみたかった、じゃダメかな?」 「あれ? なんだかさらっと恥ずかしいことを言って ませんか?」 「不思議と恥ずかしくないんだよね、これが」 散々振り回された相手だから、遠慮がなくなっただけなのかもしれないけれど。 僕は意外なほど簡単に、思っていることを口にすることができた。 「しかも、こんな遅い時間に来るのは完全に初めてなんだ」 「そうなんですか?」 「うん。ヒマワリって言うくらいだからね。夜になる 時間にわざわざ見に来ることってないんじゃないかな?」 「言われてみればそうですね。日に向かう花と書いて ヒマワリとは、よく言ったものです」 すっと、雪下さんはヒマワリ畑に足を踏み入れていく。 自分の背丈ほどもあるヒマワリのひとつに手を触れ、空と交互に見比べる。 「これだけのヒマワリが同じ方向を向いているってのは、 壮観だよね」 実際には南東の方向を向いているだけで、太陽を追いかけているわけではない。 だけど、今はそんな〈薀蓄〉《うんちく》を語る必要もなかった。 「日が沈んだらどうなるかって、やっぱり気になります よね?」 「うん。ヒマワリ自体はここじゃなくても、どこでも 何度も見てるはずなんだけど……不思議と印象が ないんだよね」 日の光の下では、あれだけの存在感をもったヒマワリなのに…… 夜のヒマワリを、すぐに思い描ける人はいったいどれほどいるんだろう? 「ずっと興味はあったんだ」 「ふふふっ。じゃあ、それを確かめるとっておきの瞬間に、 私を連れてきてくれたってことですね?」 「そうなるかな?」 「素敵ですよ、うん。本当に……素敵です」 雪下さんの言葉が、このヒマワリ畑に向けられたものなのか、僕に向けられたものなのか…… その答えは謎のままになりそうだった。 「あ……日が沈みますよ」 「うん……」 昼の名残をいつまでも残すような夏の残光も、ついにその輝きを地平線に消していく。 「うわぁ……」 「すごいね……」 茜色が漆黒に染まる、夜と昼とが入れ替わる瞬間を……意識して見たのは久しぶりだった。 星が瞬き始めるにつれて、深まっていく夜を僕らは追いかけていく。 「ヒマワリ……どこか変わりましたか?」 「そのままだね」 「残念。お日様を追いかけて、一斉に頭を垂れたりしたら 面白かったのに」 言葉とは裏腹に、少しも残念そうな顔をしていない。 「ずっとお日様を追いかける立場だったからね。朝まで 咲いて、今度はお日様を出迎えたいんじゃないかな?」 「あ……」 何気なく口にした言葉に、雪下さんは驚いたように僕を見つめていた。 「何か変なこと言ったかな?」 「ううん。むしろ逆ですよ」 雪下さんは何かに納得したかのように、何度も頷いていた。 「私はてっきり、夜の間はお星様に浮気してるんだと 思ってました」 「うわ、ひどい」 「あははは。だから、待ってるって発想がすごく新鮮で、 感心しちゃいました」 雪下さんはヒマワリを、愛しそうに撫でていく。 隣で一緒に背より高いヒマワリを見上げてみると、夜空とのコントラストで意外に映える。 今なら、ヒマワリが夜に咲く花だと言われても、納得してしまうかもしれない。 「離れてしまっても、また出会いを信じて待つことが できる……」 「実はヒマワリって、すごく強いのかもしれませんね」 「そうだね」 ヒマワリ畑の奥へと、雪下さんは小走りに駆けていく。 狭い花と花の間をすり抜けていく雪下さんを、僕はゆっくりと追いかける。 「でも、これだけ綺麗な夜空の誘惑に負けないなんて ……本当にお日様が好きなんですね」 「うん……」 「いいなぁ。私もそこまで想われてみたいかな……」 感心したように、雪下さんはヒマワリに語りかけている。 まるで本当に、会話が成立しているかのような錯覚に囚われそうになる。 「綺麗、だよね」 夜空の星をバックに咲くヒマワリを愛でる雪下さんの姿は、絵画を切り取ったかのようだった。 いつしか僕は、ヒマワリではなく雪下さんだけを目で追うようになっていた。 だから、夜空に起こった変化に気がつけなかった。 「あ……っ!」 「どうしたの?」 「ヒマワリだけじゃなくて、空も見てあげてください! 流れ星が……」 雪下さんが指差した先に、またひとつ流れ星が生まれて消えていく。 「しまったなぁ。願い事、間に合わなかった」 照れ隠しもあって、僕は頭をかきながら夜空を見上げる。 「また流れますよ。だって、星が今にもこぼれそうじゃ ないですか」 「雪下さんは……何かお願いしたの?」 「ううん……」 寂しげに微笑んで、雪下さんは首を横に振る。 「一番の願い事は……叶わないことがわかってるから」 「願ってみなければわからないよ、そんなの」 願いを叶えるのは自分自身だ。 それを叶えようとする誓いのようなもの。僕は願いをそういうものだと思っている。 「叶わない願いを願うことほど辛いことはないから。 それなら願わないことにしてるの」 「雪下さん……」 黒目がちな瞳に、夜空が映りこみ揺れる。 どこまでも綺麗で、切なくなるような光景だった。 雪下さんでさえも叶えられない願い……それは、星に願うには大きすぎるものなのかもしれない。 「でも、せっかくだから叶う願いをしようよ。僕にできる ことなら協力するしさ」 沈みかけた空気を戻そうと、僕は明るく提案する。 雪下さんだけでは叶えられない分は、僕が補えばいいだけの話だ。 「それもやめておきます。だって……」 改めて空を見上げた雪下さんは、ため息をついていた。 それは沈んだものではなく、感嘆の念を含んだものだった。 「二番目、三番目の願いをするのは、失礼です、 この星空に」 「あぁ……それはそうかもね……」 中途半端な願いをかけるには、あまりに綺麗すぎた。 「……もう少しだけ、時間大丈夫ですか?」 「あ、うん。大丈夫だよ」 僕は時計さえも確認しないで答えていた。 一日の終わりを、時計なんかに決められるのは悔しすぎる。 「ありがとう。じゃあ、こっちに来て下さい……ちょっと 夜風が寒いから……」 「うん」 今日一日の中で一番自然に……僕は雪下さんに寄り添えたと思う。 「…………」 僕らは言葉もなく、そのまま夜空をただ見上げ続けていた。 やがて来る今日の終わりが、少しでも遅くなりますように。 ――僕のそんな願いを、星がほんの少しだけ、叶えてくれた。 「ふぁ……」 結局昨日は、日付が変わってから帰宅した上、見事に寝坊した。 その罰、というわけでもないだろうけど、開店から父さんに店番を任されてしまっていた。 様子を見ると称して仕事の邪魔ばかりする芹花が、呆れた声をあげる。 「またあくび? いったい何回目よ?」 「ごめん。なんかすごく眠くてさ」 お昼のピークをどうにか乗り切って気が抜けたのか、さっきからあくびが止まらない。 芹花の存在はハッキリ言って邪魔ではあったけれど、おかげで立ったまま眠るという醜態だけは、さらさずに済んでいた。 ……デートのことを思い出すと、目が冴えてまともに眠れなかったせいだ。 「夕べがお楽しみでしたからね」 唇を尖らせ、じとっとした目で、芹花が僕を見ている。 「ど、どうしてそれを?」 「……伝わらない方がおかしいでしょ?」 迂闊だった。当然考えて然るべき可能性だった。 「父さんか、兄さんか……」 面白がって、僕と雪下さんの件を話している様子が目に浮かぶ。 「香澄さんや春菜さんにも広まっているんだろうね…… まいったな」 「それだけじゃ済んでないよ?」 「はい?」 頭を掻く僕に、さらなる追い討ちをかけるような芹花の言葉が続く。 「宗太が昨日ここに、クラスの男子を何人か連れてきてた のよ。そいつらにも全部伝わってるわよ」 「げ……」 よりによって、何というタイミングで…… 自分の留守にそれだけの人が訪れた不幸は、笑い事では済まない方向に進んでいたみたいだ。 「真一はともかく、『雪下さん』は彗星のように現れた 学園のアイドルだからね。 もう、学園中に広まってるんじゃないの~?」 「へ、平気だよ。今は夏休みだから」 宗太はともかく、ほかの人には会うことも、からかわれることもないだろう。 それは僕にとって唯一と言っていい、救いの要素だった。 「人の噂も75日って言うからね。学園が始まる頃には みんな忘れてるさ」 「夏休みは75日より早く終わるけどね」 「う……」 いつになく芹花のツッコミが厳しい気がする。 やましいことはないけれど、芹花が優位な状況での言い争いは、明らかに分が悪い。 「何が望みかな?」 「そうね。まずはコーヒーでもご馳走してもらおうかしら」 「はいはい」 最初からそれが目的だったか、と僕はため息混じりにカウンターの奥へと向かう。 「それと、あたしとも……」 さらなる要求を突きつけようとした芹花の声を遮るように、来客を告げるベルが鳴る。 「あ……」 「い、いらっしゃい」 開いたドアから現れたのは、雪下さんだった。 たった半日前に会っていたというのに、それがずいぶんと昔のように感じてしまう。 「こんにちは。あ、芹花もいたんですね」 「う、うん。でも今から帰るとこ!」 「え? 今コーヒー淹れてる――」 「美百合に飲ませてあげて。いや~、ちょうどよかった」 「え? いえ、何?」 「いいからいいから! ごゆっくり! あたし、大事な 用を思い出したから!」 妙にテンションの高い芹花の声に、雪下さんが戸惑ってしまっている。 「おい! 芹花!」 「行ってしまいましたね……」 ドアは乱暴に閉められ、カフェには僕と雪下さんだけが残されていた。 「……とりあえず、コーヒーいただけますか? あと」 「『いつもの』了解。ごめんね」 「いえ……それにしても、どうしたんでしょう? ひょっとして……大切なお話の最中でしたか?」 「そんなことあるような、ないような……」 「……?」 小首を傾げる雪下さん。疑問符が顔に浮かんでいるのがハッキリとわかる。 「でも、ちょっとだけタイミングが悪かったかも」 「あら? ひょっとして、本当にお邪魔でしたか?」 「いや、そうじゃなくてね……」 このまま妙な空気を引きずるのもイヤだったので、僕はさっき芹花に聞いたばかりの話を、雪下さんに告げた。 「まあ。そんな……別に気にしなくていいのに」 事情を聞いた雪下さんは、こともなさげに言い切った。 「う~ん……でも、やっぱり当事者が現れれば、 驚くでしょ?」 「当事者の西村くんはとっくに目の前です」 「そうじゃなくってね。僕と雪下さんでは、芹花の気持ち も違うというか……」 「冗談です、わかってますよ。確かに間が悪かったですね」 本当に気にしていないといった様子の雪下さんは、涼しい顔のままだった。 それはそれでどこか寂しい気がするけど…… 「西村くん? 私と遊びに行ったことがみんなにばれるの ……そんなにイヤですか?」 「い、いや! そんなことはないよ!」 遊びに行った、というだけなら何の問題もない。 問題になるのは、男女がふたりで遊びに行くということが当事者以外にはどう捉えられるかであって…… 「僕より雪下さんの方がまずいんじゃないかな? だって……」 「西村くんが気にならないなら、どこにも問題は ありません」 「それに新学期なんて……」 「雪下さん……?」 俯いて呟いた言葉は寂しげで。 昨日から笑顔を絶やさなかった雪下さんだっただけに、僕の胸に強く印象が残った。 「――でも大丈夫ですよ。夏休みは長いですから。ほら、 人の噂も75日っていうじゃないですか」 次に顔を上げた時には、彼女はいつもの笑顔だった。 「……夏休みは75日より短いよ?」 気がつけば、さっきまで芹花としていたやり取りが繰り返される。 「それは困りましたね。じゃあ、西村くんの力で夏休みを もう一ヶ月ほど延長してください」 「あはははは、善処するよ」 「約束ですよ?」 僕をからかうような口調と共に、雪下さんは笑いながらテーブル席へ向かっていく。 当たり前のように……このままいつもの時間が流れていく合図だった。 昨日の今日だから、会うのが少し照れくさかったはずなのに…… 自然に雪下さんを迎え入れられたことを考えれば、多少のやっかみを受けることくらいは些細なことに思えた。 ただ、彼女の顔が一瞬曇ったことを除けば…… 「あれ……しまったなぁ」 ともかく注文を――そう思ってケーキのストックを見たところで、大変なことに気がついた。 「オレンジヨーグルトケーキ……もうなくなってる」 「あら……そうなんですか?」 「ごめん。僕も気がつかなくて……」 ついこの間も切らしたばかりなのに……大失敗だ。 「いえ、仕方がないですよ。今日は諦めます」 僕がケーキを作れないことを、雪下さんはこの間の手伝いで知っている。 「大丈夫ですよ。来る前にご飯を食べてきたので、あまり お腹空いてないですから」 「そう、ならいいんだけど……」 海辺での食欲を見る限りでは、それは理由にならない。 何より、大好きな、想い出のケーキを食べられないことに、明らかな落胆の色がみえる。 気を遣われてしまったことが、情けなかった。 「……この前、来るお客さん来るお客さんにうっかり 勧めてしまったのは、失敗だったんでしょうか?」 「え?」 「きっと、オレンジヨーグルトケーキを気に入ってくれた 人が、増えているんですよ。だからなくなった、とか」 「そう、なのかな」 「できれば……できることなら……」 「独り占めしてしまった方が、いいのかしら……?」 結局、彼女は紅茶だけを注文した。 せめておいしいお茶を淹れて、気持ちを和らげたい……そんなつもりで、丁寧に用意した。 「そうだ。ほかのものでよければ、お茶請けに何か サービスするけど」 カウンターからそう、声をかけた―― けれど彼女はまた、窓の外を物憂げに見つめていた。 いつも明るい、人懐っこい雪下さん。 それだけに、時折見せる寂しげな表情が、かえって痛々しい。 僕らと話す時の笑顔と、今の物憂げな顔。 どちらが、本当の雪下さんの表情なんだろう? どちらが見たい顔なのかは、決まっている。 声をかければそれだけで、人当たりのいい彼女は、笑顔を見せてくれるだろう。 でも、それが心からの笑顔なのかは、わからない。 本当の笑顔を引き出すために、僕にできることはないのか? ――この前、ここで彼女としたやり取りを思い出す。 あの時、雪下さんが僕に望んだのは…… 「……ちょっと頑張ってみるか」 幸い、ほかのお客さんが来る気配もないし、雪下さんも窓の外を眺めて物憂げな表情を浮かべたまま。 僕は彼女に紅茶だけを急いで出すと、そっと、カウンターで違う準備を始めた。 悪戦苦闘すること二時間弱。 途中でお客さんがひとりも来なかったのは、お店的には不幸でも、僕にとっては幸いだった。 「にしてもこれは……出していい代物なんだろうか?」 二時間かけた成果を片手に、僕は首を傾げていた。 「味は……そこそこいけてると思うけど」 トレーに乗せられた小皿には、切り分けたケーキの一片。 残念ながら、お世辞には見栄えがいいものとは言えない。 「いつか、西村くんお手製のオレンジヨーグルトケーキを、 食べさせてもらえませんか?」 ただその場のノリで言っただけの言葉かもしれない。 だけど、あの時カフェを手伝ってくれた雪下さんの笑顔は本物だったと思う。 その笑顔で告げられた願いなら、それが叶えば同じ表情を浮かべてくれるのかな……そんな淡い期待を胸に、僕はケーキ作りに挑戦したのだった。 「サービスで出すなら、大丈夫だよね」 元よりお金を取るつもりはない。ひと口でもいいから食べてもらえれば、それが最大の代金だと思う。 僕は覚悟を決めると、まずはカウンターを出て、雪下さんの席へ向かった。 「雪下さん。ちょっといいかな?」 彼女は僕がケーキ作りを始めた時と、まるで変わらぬ姿勢だった。 どこか物憂げな表情も、そのまま。 「え? あ、ごめんなさい。ぼーっとしてました」 「……紅茶のおかわり、淹れようか?」 「……わ! 冷めちゃってる」 テーブルの上の紅茶の様子に、雪下さんが驚きの声をあげる。 その紅茶がなければ、時間が経過していないと錯覚するかもしれなかった。 「ごめんね。僕も気がつくの遅れて」 とりあえず、本来の目的は後回しにして、新しく紅茶を淹れ直した。 それと手に彼女の席へ戻る時、例の物を一緒にトレイに載せた。 「ありがとうごさいます……」 「……あっ」 「本日のサービスです」 我ながらおこがましいセリフを吐いて、慌てて作ったオレンジヨーグルトケーキっぽい物を差し出す。 「ひょっとして……西村くんが?」 「う、うん。父さんの見様見真似だけど……」 父さんが作った物とは、見栄えがあまりに違い過ぎる。誰が作った物かなんて、すぐに見抜かれてしまった。 雪下さんの顔が、みるみる驚きの表情へ変わっていく。 「嬉しいです! 私が食べたいって言ったの、覚えていて くれたんですね?」 「まあね。よかった。その場のノリで言っただけだったら どうしようって思ってた」 「そんなことありません。私の言葉はいつだって本気です よ?」 それは、冗談めかした言葉が多いだけに、信じ難いけれど…… 浮かべた笑顔と、輝かせた瞳が、喜びがウソでないことを伝えてくれた。 「口に合わなかったらごめんね」 「ふふっ。私、ケーキにはうるさいですよ?」 「よーく、知ってる」 緊張しながら、雪下さんがケーキにフォークを入れる姿を見守る。 ほとんど毎日繰り返して見ている光景なのに、出す物が違うだけで、僕の心臓は早鐘を打っていた。 「では、いただきます」 固唾を呑んで僕が見守る中…… 雪下さんは、優雅な仕草でフォークでケーキを切り分けると、ためらうことなく口に運ぶ。 「…………」 「ど、どう?」 笑顔でもなく、しかめっ面でもなく……かといって、無表情というわけでもない。 いったいどんな感情を宿しているのか、表情からはまるで読めなかった。 だけど、その表情が辿り着いた先は、まったく予想していなかったものだった。 「おいしい……」 「え……?」 その言葉はいい。だけど―― 雪下さんの瞳から大粒の涙が溢れ、頬を伝っていく。 「ご、ごめん! そこまでまずかった?」 味見はしたとはいえ、ケーキにうるさい雪下さんを満足させるには遠く及ばず…… あまつさえ涙まで流させてしまうなんて、完全に失敗だった。 「う、ううん! 違う! 本当においしいんです」 「無理しないでいいよ。もっとちゃんと練習してから出す べきだったね」 僕の差し出したハンカチで涙を拭う雪下さんの前から、ケーキの皿をさげようとする。 なのに、その皿を抱え込むようにして、雪下さんはケーキを次から次へと口に放り込み続ける。 「ちふぁうんでふ。ほんふぉうにおいふぃいんでふ」 「雪下さん?」 「みふぁふぇふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぇふぉ」 「い、いいから! 喋るか食べるかどっちかにして」 「…………」 僕が皿を取り戻すのを諦めると、雪下さんは小さく頷く。 涙をそっと拭うと、再びケーキを口に運ぶ。 「…………」 流し込んだと思われたくないのか、彼女は紅茶を口にすることなく、目の前のケーキをすべて平らげてしまった。 「ごちそうさま。おいしかったですよ」 「そ、そう。それはよかった」 口の周りを拭き、手を合わせた雪下さんは、満面の笑みを浮かべている。 さっきまで泣いたり、すごい勢いでケーキをかきこんでいた人と同一人物だとは、とても思えない。 「雪下さん、目の周りも少し拭いた方がいいよ」 「あ……」 涙の跡が残る目元と、まだ赤い目だけが、さっきの雪下さんの姿が幻でないことを告げていた。 「ごめんなさい。びっくりしましたよね?」 理由を聞こうにも聞けない僕に、雪下さんは自分から語り始めた。 「気持ちが嬉しかったから。ちゃんと覚えていてくれた ことが……」 「ちょっと落ち込んでたから、優しくされると脆いんです、 私」 雪下さんはてへっと、照れ笑いを浮かべる。 「それだけ……じゃないよね?」 それがウソではないこともわかったけれど……涙の理由としては、不足している気がする。 「あははは。お見通しですか」 「すごいですね。ウソを見抜くのは簡単だけど、隠した 気持ちって中々見抜けないものなのに」 「雪下さんだからだよ。ずっと見てたから、色々とわかる ようになった」 「……『ずっと見ていた』なんて、それは愛の告白ですか? だったら、もう少しムードのある方が好みですよ?」 「そ、そうじゃなくって!」 照れた僕を相手にこのまま、雪下さんはいつものように、自分のペースに持っていくことができたはずだ。 でも、今日は……店内を見回しながら、真面目な調子で言葉を続ける。 「前に……お話ししましたよね、子供の頃、 ここへ来た時のこと」 「あ、うん」 僕がオレンジヨーグルトケーキを勧めたという、初めてのお客さん…… 「あ……れ?」 「どうかしました?」 「うん、ちょっと……」 前に話を聞いた時は、あまりよく思い出せなかった。 でも今……何か、既視感のようなものが…… 「……先ほどのケーキ、本当においしかったです。 あの時の味そのまま、とはいきませんでしたけど」 「ん……それは、当時も父さんが作っていたはずだからね」 僕のはまだ、辛うじて食べられるといった程度だろう。 見た目も、中身も、まだまだだ…… 「でも、子供の頃みたいに、西村くんがケーキを持って きてくれた」 「それが重要で……それが、私にとっては嬉しくて……」 雪下さんが微笑む。その表情に、また既視感を覚える。 「普段の注文とはまた違って、私のために、私だけの ために、私のことを思いやって……」 「その気持ちが嬉しくて……なんだか、泣けちゃいました。 ふふっ」 「女泣かせですよね、西村くんって」 「そんなこと……」 冗談めかして言う彼女の顔が、記憶の隅に引っかかる。 ――覚えているのは、泣き顔じゃない。 ケーキを食べて……満面の笑みを浮かべている女の子。 そして、今の雪下さんの笑顔は……ぶれることなく、あの女の子と重なっていく。 「……うん、確かに、あの時の女の子だ」 「西村くん……?」 「思い出した……やっと、思い出せたよ」 「……え」 「お帰り……思い出すのが遅くなって、ごめん」 「!?」 「今さらだけど……うん、ハッキリ思い出した」 子供の頃、父さんの作るケーキが大好きだった。 だから雪下さんが来て、父さんが彼女にサービスで持って行けと言われた時に…… 「キミがあのケーキを食べて浮かべた笑顔を、 とても可愛く思ったんだ……」 「わっ! うわっ!? えっ、ええっ!!」 僕の、突然の想い出話に、雪下さんがひどくうろたえていた。 父さんの作るケーキは自慢の一品で。それを食べて喜んでくれた子がいるのが誇らしくて。 「うんそうだ。それ以来、友達や同世代のお客さんが来る 度に、おんなじケーキを勧めたんだ。雪下さんが ウェイトレスをやってくれた時と同じように」 彼女みたいな笑顔を浮かべてもらいたくて。みんなに、誰にでも…… そしてまた……彼女に会いたくて―― 「うわぁ……」 見れば雪下さんは頭を抱えて、またぽろぽろと涙をこぼし始めていた。 「え? え? なんで、どうして!?」 「ぐす……だから、もろいって言ったじゃない…… ですかぁ……」 「……不意打ち、卑怯……やっぱり西村くん、 女泣かせです……」 「いやむしろ、今さら思い出してごめんというか」 「思い出してくれただけでも、 嬉しいですよぉっ!!」 そう言って彼女は立ち上がると…… 僕の胸に飛び込んできて、ずっと……泣いていた。 「……すみません、長々とお邪魔してしまった上に、 取り乱してしまって」 「い、いや」 結局、雪下さんは結構な時間泣き止まず…… あとから来たお客さんの相手を僕がしている間も、テーブル席でずっとぐずぐず嗚咽を漏らしていたから、何事かと目を向けるお客さんも多かった。 今は、やっと落ち着いた彼女が帰るというので、ちょうど戻ってきた父さんに店番をお願いして、店先まで見送りに出たところだ。 「……さっきのケーキ、いつかまた、食べてみたいです」 僕が着けたままのエプロンの端をちょこんと摘んで、雪下さんがそんなことを言ってくれた。 「嬉しいけど、うまくできるか自信ないなぁ」 「それでも……西村くんに作って欲しいです」 雪下さんは期待に満ちた目で僕を見ている。 泣きはらした真っ赤な目で……だけど、あの子供の頃と変わらぬ、可愛い笑顔で。 「――わかった。ちょっと真剣に、父さんに教わるよ」 「ありがとうございます! 本当に楽しみです!」 大喜びして、僕の手を握り締めてくる雪下さん。 これは是が非でも、期待に応えてあげなければいけない。 「気長に待っててよ。腕もまだまだ追いつかないだろうし」 「ダメです。この夏の間に期待してますよ?」 「そ、それはハードル高すぎるよ!」 「頑張ってくださいね。私、あまり気が長くないんです」 冗談なのか本気なのか…… 「ふふっ、ふふふっ」 気まぐれな雪下さんのために、僕にはいきなり夏休みの宿題が増やされてしまった。 「大丈夫。私も手伝いますから」 「主に味見係として、でしょ?」 「あ、ばれました?」 舌を出しておどけてみせる雪下さんは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。 振り回されてばかりの僕だったけれど、それが心地よくなっているのも不思議だった。 「よし、決めました」 「え? 何を?」 「内緒です。近い内に、きっとわかります」 ほらまた、今度は何かを企んでいるような笑み…… ころころ変わる表情は本当に僕を飽きさせない。 そんな多くの表情の中でも、やっぱり僕が一番見たいのは……心からの笑顔だった。 おいしいケーキを作りあげてこそ、彼女の最高の笑顔が見られるはずだ。 「頑張ってみるよ」 「はい!」 僕の……この夏最大の目標が決まった。 「カップよし……ソーサーよし…… あと、砂糖の補充と……」 今日も父さんは朝早くから家を出ていた。兄さんも姿がみえないので、当然のように僕がひとりで開店準備を進めていた。 「……店にいる方が落ち着くなぁ」 父さんたちが再婚するという話を聞かされて以来、僕も含めてみんな浮き足立っている。 カフェの仕事に追われていると、それを忘れられるせいか…… 「ここにいる方が、落ち着く」 ほかにはまだ、誰もいない店内を見渡す。 ……ふと、窓際のテーブルに目が留まった。そして、そこによく座っている、髪の長い女の子を思い浮かべる。 「……雪下さんさえいれば」 って、何を言ってるんだ僕は? 思わず出た独り言に、自分で驚いてしまう。 と、出入り口の扉が開く音が聞こえて、反射的に振り向く。 「あ、すいません、まだ準備中で――って」 「おはようございます」 「雪下さん……っ」 軽い足取りで店内に入ってきたのは、雪下さんだった。 それだけならここ最近、よくある光景。だけど今日は、いつもと明らかに違う点があった。 「なるほどねえ~、なかなかいい雰囲気のカフェだなぁ」 「おっと、そういえばここにはずっと昔に……来たことが あったかな?」 違和感の主――雪下さんと一緒に店へ入ってきた男性が、店内を見回して快活に笑った。 「えっと……」 どう対応していいのか、頭がうまく回らなかった。 雪下さんが男性を連れて来た――まったく想像もしていなかった状況に、意識がついていかない。 「……あ、今日はお客さんとして来たわけじゃないんです よ」 僕の困惑を見て取ったのか、雪下さんが手を軽く振る。 「あ、うん。じゃあ……手伝いに来てくれた、とか」 さっきまでつい、彼女がここにいればいいなと思っていた。 お客としてでなくても、この前みたいにウェイトレスとして手伝ってくれるのでもありがたい。 ふたりで店を回せたら、それはそれで楽しいだろうし、実際にこの前は楽しかったから…… 「う~ん、惜しい」 「? 惜しい?」 「当たらずといえども遠からず――私がここでお手伝いを するための……まぁ、ご挨拶といったところでしょうか」 「……?」 「美百合。はぐらかすような言い方をするもんじゃないよ。 簡潔・明瞭に用件を伝えるのが、ビジネスの鉄則だ」 「それに、そろそろ彼を紹介してくれてもいいんじゃない か? 彼もボクのことを知りたいだろうし」 「ごめんなさい。西村くんを驚かせたくて、もったい ぶってしまいました」 「驚かせる……?」 雪下さんにはいつも、驚かされてばかりだ。今度は何を…… 「えっと、こちらが私のクラスメイトの、西村真一くん」 彼女はまず、僕をその男性に紹介して―― 「西村くん、こちらが私の父です」 「!?」 お、お父さん……!? 「〈雪下和美〉《ゆきしたかずみ》だ。キミのことは娘から色々と聞いているよ。 いいお友達になってくれたようで、嬉しい」 「よ、よろしくお願いします……」 屈託なく、雪下さんのお父さんが握手を求めてくる。 ちょっと痛いくらい力強く手を握られてるのは、友好の証だと、そう信じたかった。 「え~っと、それで雪下さんは、どうしてお父さんと?」 「ふふ、それはもうちょっとお持ち下さい。 でも驚くこと間違いなしですよ」 「そんなこと保証されても……」 なんなんだろう、この状況は…… 「美百合、いつまで彼に隠しておくつもりだい? ボクとしては真一くんにも、きちんと挨拶しなければ いけないんだが」 挨拶??? 「……うーん。おじさまが来てから、と思ったんですけど」 「父さん? 父さんなら出かけて――」 「ああ、もういらしていたんですか」 「あれ?」 父さんが、戻ってきた。 「お迎えに行こうと思ったんですが、入れ違いになって しまったようで」 「おっと、それは失礼を。 早く着いてしまったものですから、つい」 ??? 僕を置き去りにして、話が進んでいく…… 「初めまして、雪下和美です」 「西村真彦です」 雪下さん――和美さんの方だ、は、父さんに名刺を差し出していた。 父さんは名刺を持っていないし、僕だってそんなもの交換する機会も必要もない。 だからか、ああ和美さんは社会人なんだなと、ヘンな納得をしてしまった。 「……それにしても、これはいったい」 「ふふっ、だから言ったじゃないですか、ご挨拶だって」 さりげなく、和美さんの隣から僕の隣へと立つ位置を変えて、雪下さんが微笑んでいる。 「この度はご迷惑をおかけすることになって、申し訳ない。 娘のこと、よろしくお願い致します」 「こちらこそ。娘さんを大切にお預かり致します」 「……え?」 何、このやり取り? 「そういうことなので、西村くん」 「……はい?」 「ふつつか者ですが、よろしくお願い致します」 雪下さんがぺこりと、僕に向かってお辞儀をしていた。ひどく礼儀正しく、改まって…… 「え? ええっ?」 「おいおい美百合、嫁にでもいくようなセリフはまだ早い だろう。父親をドキリとさせるような真似はやめてくれ」 ハッハッハと、和美さんは愉快そうに笑っているけど……事情がまったくみえない僕は、混乱するばかりだ。 父さんがようやく、僕の方を向いて要約してくれる。 「真一、実は雪下さん――美百合ちゃんを、しばらく ウチで預かることになった」 「……はい?」 ふたを開けてみれば、どこかで聞いたような話だった。 「……あ」 ちょうどその時、奥から杏子が顔を出した。見知らぬ人も含め、意外な顔触れが揃っているように見えたのか、ちょっと驚いている。 「あ、杏子ちゃん!」 雪下さんは杏子を見るや否や、今度は彼女に駆け寄っていき―― 「今日から私、この家でお世話になるんです。よろしく!」 「……え? え?」 杏子に抱きついて、彼女もまた僕のように混乱させていた。 「ちょうどいい、杏子ちゃんもこっちへ。座って話そう」 「いやぁ、可愛らしいお嬢さんもいらっしゃるんですなぁ。 美百合もこれなら安心だ」 「…………」 本当に、何がどうなっているのやら。 みんながテーブル席に着く一方、僕は人数分のコーヒーを用意していた。 父さんに言われたこともあったけれど、僕自身状況に振り回されて、ちょっと喉の渇きを覚えていた。 「実は明日から数日間、ボクが出張で家を空けることに なったんだ。それで、最初は美百合も連れて行くつもり だったんだが……」 「私が行きたくないって、反対したんです」 「…………」 「…………」 父さんは事情をすべて知っているらしく、何も言わない。 雪下さん親子が、目の前に座る杏子と、まだコーヒーを支度中の僕に向けて、説明してくれている。 「せっかくの夏休みなんだから、娘と水入らずの旅行を 楽しみたかったんだけどねぇ」 「お仕事でしょ。公私混同しないでください」 「はははっ。 ご覧の通り、しっかりした娘だから、ひとりで残して いくことも考えたんだけど」 「それよりは、知り合いのお宅にお預けした方が、ボクも 安心できるということでね」 ……そういえば、雪下さんの家は離婚されているんだっけ。お父さん、いい人そうなのにな。 それはそれとして、話がようやくみえてきた。要はお父さんが出張で家を空けている間、ウチで雪下さんを預かるってことなのか。 「いつもならひとりで留守番してもいいんですけど、 ほら、夏は何かと物騒じゃないですか」 ようやく注ぎ終わった人数分のコーヒーを、トレイに載せて運んでいく。 その間も、雪下さんの説明は続いていた。 「その点、西村さんのお宅は、人数も多くて安心ですし」 「そりゃ、まぁ」 テーブルにコーヒーを置きながら、こちらを見た雪下さんに答える。 現在でも、僕たち西村家親子プラス杏子。春菜さんとの再婚話が進めば、香澄さんや芹花といったお隣の一家も同居することになりそうだ。 「やぁ、これはいい香りだ。こちらのオリジナルブレンド ですか?」 「ええ」 父さんたちは涼しい顔で、目の前に立ち上る湯気と芳醇な香りについて語り合っている。 ……つまり、親同士の話し合いは、とっくについている様子。 僕が反対したところで、どうにかなる雰囲気でもなく…… 「……雪下さんがいいなら、まぁ」 そもそも、反対するような話でもなかった。 「はい! お世話になる間は、お店の手伝いでもなんでも、 遠慮なく言ってくださいね」 「う、うん。でもお客さんなんだから、そんな」 「この前約束したじゃないですか、時々お手伝いさせて くださいって。その時々が、まとめて数日あるだけです」 「う、うん」 彼女の完璧なウェイトレス振りと、一緒に働く楽しさを知ってしまっている僕としては、確かに強く反対できない。 「……美百合ちゃん、働くの?」 むしろ杏子が、気にする素振りをみせた。 「ええ。あ、杏子ちゃんにも似合いそうですね、 ウェイトレスの制服」 「え……制服、あるの?」 杏子が僕に目を向ける。なんだか、話題がずれた気がした。 「あるよ、昔のだけど。 雪下さんの服を濡らしてしまった時、一度貸したんだ」 「…………」 「いやその節は、娘がお世話になったそうで」 「い、いえっ、僕の方こそ失礼な真似を」 突然こちらの話題に参加してきたお父さんに対して、服を濡らした犯人としては、とても申し訳ない気分になる。 「……お預かりする娘さんを働かせるのは、本意では ありませんが、ご本人の希望でもありますし」 父さんがゆっくりと、改まった口調で話し始めた。 「息子からも、大変心強い働きぶりだと聞いています。 ここは、頼りにさせてもらいます」 「いやいや、お気遣いなく。本人のワガママですから、 むしろこき使ってやってください」 「よろしくお願いします」 深々と頭を下げる雪下さんを、僕は止めようがなかったし、むしろ…… 彼女がウチに来てくれることが、ちょっと嬉しかった。 こうして雪下さんとの同居(?)は、コーヒー1杯が冷める間もなく、あっさりと決まって始まった。 早くも猛暑を予感させる光が射し込む店内を、ウェイトレス姿の雪下さんが、キビキビと動き回る。 「西村くん、準備はこれで終わりですか?」 「あとは冷蔵庫の整理と、ちょっとした仕込みかな」 「仕込みってお料理のですか?」 「うん。といっても野菜とか果物をカットするとか、 そのぐらいだけど」 「それでしたら、今日は仕込みをやめておきませんか?」 「え? でも、それじゃ忙しくなった時に大変だよ?」 話がまとまった後、和美さんは忙しいのか、さっさと仕事に戻ってしまい―― 父さんも杏子も引っ込んだ店内では、早速着替えた雪下さんが働き始めていた。 空き部屋に持ち込んだ服などの荷物を放り込んだだけで、その整理は後回し。 お世話になると決めた以上、すぐにでも働き始めます――と、本人が譲らなかった。 「包丁の扱いなら私も慣れてますから、お手伝いして早く 片付くと思います」 「今から仕込んでおくと鮮度が落ちてしまいますから、 なるべく後――お客さんにお出しする前がいいと 思います」 「う~ん……それはそうか」 雪下さんの提案自体は、もっともに聞こえた。 これまでは父さんひとりや兄さん、僕だけで廻すことが多かったから、忙しくなると手が回らない、なら暇な内にまとめて片付けておこう――という段取りだったから。 それが、雪下さんもいるのであれば、その分余裕をもってできるはずだった。 「……それじゃあ忙しくなったら、仕込みもしていくって ことで」 「ありがとうございます、マスター♪」 「ただの店員だよ、僕は」 「でも、私にとってこの場では、西村くんが唯一無二の ご主人様ですし」 「ご……いや、それはそれで、また違う気が……」 父さんも兄さんもいない以上、確かに僕がマスター代理なんだろうけど……うーん。 「ふふっ、それじゃあ頑張りましょうね、ご主人様」 「だからぁ」 「おっは……よう?」 「おはようございます。 じゃなくて、いらっしゃいませ」 「な、ななな、なんでぇ?」 「カウンターでよろしいですか?」 「え、うん……じゃなくて! どうして! 美百合が ここにいるのよ!? しかもそんな格好で!!」 芹花が驚くのも無理はない、か。 逆に、この状況にあまり違和感を覚えなくなっている僕は、早くも雪下さんに慣らされているのかもしれない。 「なんでって言われても、従業員だから」 「従業員って……ここでバイトでも始めたの?」 「似たようなものです。ところで、ご注文は?」 「メ、メロンソーダ……」 「かしこまりました、少々お待ち下さい」 会話の間に、狐に摘まれたような顔をしている芹花を席に着かせ、お冷やとおしぼりを出し、オーダーまで済ませた。その一連の流れは、熟練店員顔負けだ。 「マスター、メロンソーダお願いします」 「……はい」 僕はオーダー通り、メロンソーダの用意を始めた。 目の前に芹花もいる状況で『ご主人様』とからかわれるぐらいなら、まだ『マスター』と呼ばれる方がマシだ。 「まぁすたぁ~?」 それでも芹花にとっては、眉をつり上げるに十分なやり取りだったらしく…… 「しぃ~んちゃぁ~ん、いったいどういうことなのか、 説明してくれるかしらぁ~?」 「うん、説明するから、すました顔で拳をボキボキ 鳴らすのやめて」 「父が出張で家を空けるので、その間、こちらで 住み込みの従業員としてお世話になるんです」 「住み込み!?」 「ウチで預かるってだけだよ」 「一宿一飯の恩は返さないといけませんから♪」 「な、なんでそんな話が成立するのよ……普通あり得ない でしょ、男子の家に女子が世話になるとか」 「ここには杏子ちゃんがいるじゃないですか」 「真一のバカだっているでしょ!!」 バカは余計…… 「ボディーガード役、ということで♪」 「ひとりが心配ならウチに来なさいよ、ウチに! お客さんひとりぐらい、なんとでもなるわよ!」 「芹花の家は今、こちらへ同居するのにあたって、 引っ越し準備が大変なんじゃないですか?」 「う……ま、まぁ、お母さんやお姉ちゃんはその気みたい ねぇ」 花屋の営業を続けながら、こっちへ持ち込む荷物や、逆に処分するものを選ばなくちゃいけないから、家の中が散らかってひどい有様だ――と、香澄さんが言っていた。 「もちろん芹花は私にとって、今の学園で数少ない友達の ひとりですから、お世話になることも考えたんですけれ ど……」 「そんな状況では、かえってご迷惑かなって♪」 「そ、そんなこと……なくはなくもないけど」 「父さんが例によって、知らない間に決めてたんだ。 本人もここで働きたいって言ってたし」 「……そんなの、ず、ずるい」 「ずるい?」 「あたしも住み込みで働く!!」 「はぁ?」 用意したメロンソーダを出そうとして、思わず手が止まった。 すかさず芹花がカウンター越しに手を伸ばして、僕の手からグラスを奪う。 「んぐっ! ごくっ……ごく、んっ……ぷはっ!」 「……げふっ」 「芹花、はしたない」 「うるさーい!! もう、みんなしてあれもこれも勝手に決め過ぎ!!」 ダンッ! と空になったグラスをカウンターに置いて、芹花が叫ぶ。 「ウ、ウェイトレスだって、人手が足りないならあたしが やるって、前々から言ってたじゃない!!」 「……あー、でも、実際にあの制服を着るのは、 恥ずかしいって」 「言ってない!!」 ……そうだったかな? 「人手は多いに越したことないでしょ!? とにかくあたしも手伝うから! どこよ制服!!」 「あぁ、それなら私がお借りする部屋にもう一着」 「もう部屋まで確保済みなの!? う、うぅ」 なんでそんな、敗北感に打ちのめされたような顔を…… 「どうぞ、部屋はこちらです」 「案内されなくても、真一の家はあたしの方が 詳しいのーっ!!」 「……やれやれ」 芹花は子供みたいに騒ぎながら、雪下さんと一緒に、奥へと向かった。 「本気で着替えるつもりかなぁ……」 …………………… ……………… ………… 「西村くん」 「あ、お帰り……?」 戻ってきたのは、雪下さんひとりだった。芹花の姿は見当たらない。 「芹花、制服を前にして考え込んでしまって」 「まだしばらく悩んでいそうだったから、先に戻って きました」 「ああ……」 いざ実際に着るとなると、やっぱり恥ずかしくなったんだな…… 「いらっしゃいませ」 「……やっぱり、対応早いなぁ」 お客さんが入ってきてすぐ、雪下さんはお客さんを出迎え、席の希望を聞きだして案内をする。おしぼりとお冷の用意は、お客さんを待たせることなく済ませる。 「やっぱり雪下さんって、接客業に向いてるのかなぁ…… ねぇ、芹花」 「そ、そうね……なかなかやるじゃない」 芹花はといえば、たっぷり40分はかけて制服を着て、出てきたのはいいけれど…… 恥ずかしいのかカウンターのこちら側、中に座り込んで隠れてしまい、お客さんの前に姿を見せようとしない。 「恥ずかしいなら、着替えなければよかったのに……」 「慣れないだけよっ」 どっちにしても、接客する気ないんだね…… 「マスター、モーニングセットひとつお願いします」 「了解」 注文を伝え、メニューの準備ができるのを待つ間も、彼女はテキパキと動いている。 ほかのお客さんにお冷やのお代わりが必要か伺ったり、時には僕の支度を手伝ってくれたり…… 「こっちはできたよ」 「こちらもできました。タイミングぴったりでしたね」 「だね。じゃあ持っていって」 「かしこまりました」 「むう……なんかすごく息が合ってる……」 「そうかな?」 前に手伝ってもらったこともあってか、僕と雪下さんはお互いのペースがわかっている気がした。 それは確かに、心地よい感覚だった。 「よ、よしっ! 今度はあたしが行く!」 「あ、芹花っ」 雪下さんはちょうど、ほかのお客さんの注文を運んでいる途中だ。だから『いらっしゃいませ~』とお迎えの声をあげる対応しかできなかった。 だから、来店客を告げるベルの音に芹花がすかさず飛び出して、お客さんをお迎えしようとしてくれたのはありがたかったんだけど…… 「い、いらっしゃいませ~♪」 「……芹花ぁぁ? 何やって――」 「お前かぁぁぁぁーっ!!」 「ぎゃうんっ!?」 「見るなぁぁぁ~~~っ!!」 ……運悪く、来店したのは宗太だった。 今は相手が奴と知った芹花のコンボを受けて、安らかに眠っている。 はぁ……今、店内にいるお客さんが、このふたりのやり取りを見慣れている常連さんばかりでよかった。 初めてのお客さんがいたら、ウェイトレスが客を殴り倒す店として、悪い評判が流れかねないところだった。 「はぁ、はぁ……うぇ~ん、宗太に見られたぁっ!!」 そう叫んでまた、カウンターの中に避難してくるし……まったくもう。 「大丈夫ですか、久我山くん」 「……………………」 「大変。反応がないってことは、頭でも打ったのかしら?」 「マスター、久我山くんの気付けになるようなもの、何か あります? 青唐辛子とかハバネロとか」 「待て待て待てっ、何を食わす気だキミもっ!!」 あ、起きた。 「っていうか、雪下さんまで何、その格好!? いらっしゃいませって? ここはむしろお帰りなさい ませとか、ご主人様とかじゃなくて!?」 「落ち着けって」 「落ち着けるかっ! お前何やってんの、職権濫用だろ!?」 「僕?」 「そうだよっ、幼なじみとカノジョにウェイトレスの格好 させて真っ昼間からなんのプレイ――」 「あうぅんっ!?」 「何か、聞き捨てならないことを言われかけた気が したんだけど……」 「聞き流していいと思うよ……」 「ふふっ、カノジョって私のことですよね? 私ですよね? 認定されちゃいました、ふふふっ」 楽しそうだなぁ、雪下さんだけは…… 「宗太、この状況に混乱するのもわかるけど、 カノジョっていきなり何?」 「てて……だってさ、この前デートしたんだろ? チミたち」 「…………」 「ふふふっ」 「雪下さんが真一にやたらとアタックしているのは知って たけど、いやまさか本気だったとは」 「あら、私はいつでも、何事にも本気ですよ?」 「…………」 「デートっていうか、一緒に遊びに行っただけで……」 「それだけで十分、聞いた瞬間に芹花が暴れる理由には なる――」 「おふんっ!?」 「余計なことは言わなくていいからっ」 ……僕たちがデートしているって話が芹花の耳に入った時、宗太もその場にいたんだっけ? 何かあったのかな? 「っていうか、なんで雪下さんがそんな格好で働いてるん だよ?」 「まさか本当に『僕たち結婚してこの店を継ぎました~』 とかじゃないだろうな?」 「ああ! それでもいいですよ♪」 「美百合!? 自分を安売りし過ぎ!!」 ……うんまぁ、僕と雪下さんなんて、釣り合わないとは思うけどね。 結局、芹花にしたのと同じような説明を、宗太にもする羽目になった。 宗太はカウンター席に着いてアイスコーヒーをストローでずるずる音を立てて飲みながら、僕たちの話を聞いていた。 「ずー……ずるー……なんでお前ばっかり」 「なんでって言われても」 「杏子ちゃんだけじゃなくて、雪下さんもひとつ屋根の 下とか……あり得ん」 「でしょ! そう思うでしょ!」 「芹花だってこの後、ひとつ屋根の下じゃないですか」 「あたしは……ほら、家族になるんだし、ね。 ……しょーがないじゃない」 「私だって、ほんの何日か……父が戻ってくるまでの 間なんですから」 「……真一」 「え、何?」 「全部お前が悪い」 「え?」 急にしんみりしてしまった女の子ふたりを前にして、宗太に半眼で睨まれてしまった。 「……ふわ」 そこへ、家の方へ引っ込んだはずの杏子が、また顔を出した。 雪下さんと芹花のウェイトレス姿が珍しいのか、近くまで来て興味深そうに見ている。 「…………うわー」 「……ふあ」 「きょ、杏子っ、恥ずかしいからそんなに見ないで」 「杏子ちゃんも着てみます?」 「ん、んーん……」 「あ、いらっしゃいませ――と、香澄さん?」 「んげっ!?」 「あら、みんなお揃いなのね」 今度は香澄さんがニッコリ微笑んで、僕らの方へ近づいてきた。 「芹花ちゃん」 「や~め~て~! 見ないでっ!!」 香澄さんはニコニコと、芹花に話しかけてきた。 「可愛い格好じゃない。よく似合ってるわ」 「恥ずかしいから、やめてよぉ」 「どうせならその格好で、ウチの店でも働いてみない?」 「!? 無理、絶対無理!!」 ……カフェの中だけでもこんなに恥ずかしがっているのに、“すずらん”の店先にこの格好で立たされたら―― 「何が始まったんだと思われるわな……」 「僕もそう思う……」 「罰ゲームにしかならないわよっ!!」 「そうね。じゃあ、行きましょうか?」 「……え」 芹花の腕を香澄さんががしっ、と掴んだ。 「今朝、お店を手伝ってくれる約束したわよね?」 「……そ、そーだったかしらぁ」 「メロンソーダ一杯飲んだら戻ってくるって、言ってた わよね?」 「そ……そぉ~だっけ?」 「あ……さっき一気呑みしたヤツ」 「西村くん、さすがにそれを言うのは可哀相……」 「……ごめん、芹花……」 思わず口にしてしまった内容に、芹花が恨めしそうな顔をこちらに向けた。 「うぅ……真一の裏切り者ぉぉぉぉぉ」 「本当にごめん!」 「そう。もう飲み終わっていたなら、戻りましょうか」 「ばか真一ぃぃっ!! 大っ嫌い!!」 「ご、ごめんってばっ! 香澄さん、あの――」 「いいのよ、真一くんは何も悪くないんだから。 これ以上芹花ちゃんがいても、お邪魔でしょ」 「せめて……着替えさせてーっ!!」 香澄さんは容赦なく、芹花を引きずっていってしまった。 「……真一。口は災いの元ってことわざ、知ってるか?」 「うん……芹花に悪いことした……」 「あと、こういうことがあると、俺のところにも恨み言が くるんだよ」 「今晩辺り、電話でひと晩中愚痴られそうだな……」 「そ、そうなの?」 「そ。いなくなったから改めて言うが、お前と雪下さんが デートしたって聞いた日、ずっと荒れてたんだぞ。 なだめるのに苦労した~……」 「……ごめん」 僕にはちょっと絡んできた程度で済ませたのは、宗太がもう愚痴を聞いてくれたからだったのかな。 「…………」 「やたらと謝るなよ、ただの愚痴なんだし」 「大体お前、なんで芹花が荒れたり、雪下さんと 張り合ってあんな格好したか、わかってないだろ」 「…………」 わかっていない、というよりも……考えないようにしている。 あまり、自惚れた考えは、もちたくなかった。 「……はぁ。今の内に、帰って寝溜めしておくか」 まだお昼前だというのに、宗太は諦めた様子でそんなことを口にする。 「ごめん」 「だから、謝るなって。芹花だって、別に本気で 雪下さんとケンカしたいわけじゃないだろうからさ」 「だから、雪下さんもあんまり気にしないこと」 「……ごめんなさい」 本当に申し訳なさそうに、彼女はうな垂れた。 「ああもうっ、キミたちは本当にお似合いだな! そっくりだよ、さっさとくっついちまえ!!」 「いや、えっと」 「…………」 「…………」 「雪下さんは、真一にじゃれついてる時が、一番可愛いよ」 宗太はそう言って、席を立った。 「んじゃな。ごちそうさま」 「……私、調子にのり過ぎたのかな」 「雪下さん」 芹花も宗太も出て行った店内で、雪下さんがぽつりと呟いていた。 「西村くん……」 「うん」 「やっぱり、迷惑でした? 私が押しかけてきたこと」 すまなそうにそう告げる、彼女の顔が…… 「なんだか、私の方が邪魔者なんじゃないか、って」 ひどく、寂しそうに見えた。 「……そんなことない」 「え」 「僕は……雪下さんが来てくれて、ウチを頼ってきて くれて、嬉しかったよ」 それは正直な気持ちで……ウソでもなんでもなく、素直に思ったことだった。 「うん……」 少しだけ唇を嬉しそうに緩めた彼女。 そのスカートの裾を、杏子がちょんちょんと、遠慮がちに指先で引っ張っていた。 「杏子ちゃん……何?」 「あの……ね」 ためらいためらい、杏子はゆっくりと言葉を吐き出す。 「……遠慮、しない方がいいと思う。そういうの……絶対、 後悔するから」 「杏子ちゃん……」 「遠慮しちゃ……ダメ」 「……ありがとう。杏子ちゃんがそう言ってくれるなら、 百人力です」 「ん……」 ――そんなやり取りがあった後、雪下さんはいつもの調子に戻って…… いや、いつもより必死な様子で、懸命に働いてくれた。 戻ってきた父さんが夕方から店番を代わってくれたので、僕と雪下さんは早めに家の方へ戻った。 僕はともかく、雪下さんはこれから数日を過ごすことになる部屋で、荷物の整理などをしなければいけないはずだから、という気遣いもあったんだけど…… そろそろ夕食の準備を――そう思って下りてきたリビングには、すでになんだかいい香りが流れてきていた。 「あれ? 今日の食事当番って、僕だったような……」 食欲をそそる……味噌汁の香り。それがキッチンの方から流れてきている。 兄さんか、杏子がやってくれたのかな? そう考えながらキッチンを覗くと―― 「あ、お台所お借りしてます」 「え? あれ?」 キッチンでは雪下さんが、味噌汁の鍋をかき回していた。その横には杏子もいて、彼女を手伝っている様子。 「何かしていないと落ち着かなかったものですから、少し お手伝いをと思って」 「そんなことまでしなくてもいいのに」 「わたしも……そう言ったんだけど」 「いや、どっちにしろ僕の当番だから、杏子もそんな」 ふたりとも、手を休める様子がない。話しながらもせっせと働いている。 「杏子ちゃん、キャベツの千切りと、さっきの温野菜を お皿に盛ってください」 「うん」 「こっちは……うん、いい感じかしら。 西村くん、お味噌汁は薄味でもみなさん大丈夫ですか?」 「あ、うん。平気……だけど」 そんな会話を交わしたすぐあと、雪下さんは熱しておいたフライパンへ向かい、しょうが焼きらしい肉を広げていく。 「……いいのかなぁ。お客さんにこんなことまで させちゃって」 かといって、カフェの手伝い同様、雪下さんの手際が良すぎて、手を出すのも気がひける。 「へぇ……こりゃまた、華やかな光景だな」 「兄さん」 「父さんから話には聞いていたけど、本当に来たんだな」 いつの間に帰ってきたのか……というより、どこへ行っていたのか。兄さんが僕の後ろから姿を見せた。 「あ、雅人さん──お兄さん、お世話になります」 フライパン片手に振り返った雪下さんに、兄さんも軽く手を挙げて応える。 「なぁに、自分の家だと思って好きにしていいよ。 こっちとしても、女の子の手料理をご馳走になるのは ありがたいし」 「ふふっ、腕によりをかけていますから、もうちょっと 待っててくださいねー」 流れてくる香ばしい匂いに、刺激されたお腹が鳴りそうになった。 それに、まるで姉妹みたいに仲良く料理を作る、雪下さんと杏子の姿を見ていると…… 「……やっぱ、いいもんだな。こういうのって」 「うん」 兄さんの言葉に、素直に同意できた。 「さ、あとはお皿に盛りつけて」 「うん」 ――この後、雪下さんと、そして営業を終えてカフェから戻った父さんを交えて囲んだ食卓は…… なんだか、『家族の食卓』という表現を思い起こさせる、温かで幸せなものだった。 「今日はまたなんというか……」 「……暇ですね」 昨日は結構忙しかったのに比べ、今日はお昼になっても客足が伸びなかった。 「まぁ、こんな日もあるよ」 父さんはいつものように、悠然と構えているけれど…… 手持ち無沙汰な僕と雪下さんは、正直少し落ち着かなかった。 「ふたりとも、店は私に任せて、遊びにでも行ってくれば いい」 「そういうわけにもいかないよ。ねぇ?」 「ええ。ここで働く前提で、お世話になっているんですし」 雪下さんが僕の言葉に促され、頷く。 彼女がそう言うのはわかっていたし、なら僕ひとりフラフラ遊びに行くわけにもいかないし……行きたくもなかった。 せっかく雪下さんがここにいるのに、この場所を離れることなんて、考えられなかった。 「……ふたりとも、もう少し楽にしていればいいのに」 「ん?」 「いや……それならそうだな、普段あまりできないような ことをしておくか」 「ああ。そうだね、普段できない場所の掃除でもする?」 飲食店だから毎日気を遣っているつもりだけど、換気扇など、大掃除の時にしっかり時間を取ってかからないといけない箇所も多い。 でも父さんはゆっくりと、首を左右に振った。 「お前、この間言っていただろう。ケーキ作りを改めて 教えてくれって」 「あ、うん」 「っ!」 雪下さんに約束したんだ。この夏の間に、彼女の好きなオレンジヨーグルトケーキ作りをうまくなる、って…… 「ありがたいけど、今、いいの?」 「今日は暇だからね。 美百合ちゃんもせっかくだから、作り方を見ておくかい」 「はいっ。できれば一緒に教えて頂けますか?」 「え、雪下さんも作るの?」 「ええ、作ってみたいです」 「あ、でも、あくまで参考までにですよ? 私が 食べたいのは、西村くんのお手製だけですから」 「うわっ!」 「ほう。そういう理由だったのかい」 父さんが小さく、楽しげに笑った。そこは伏せて頼み込んでいたのになぁ…… 「ふふっ、よろしくお願いします」 ひと口にオレンジヨーグルトケーキといっても、実は色々種類や作り方があるそうで―― パンケーキみたいに生地の中へ直接ヨーグルトやオレンジを練り込むものもあれば、オレンジタルトのような円形のクッキーみたいに仕上げるものもある……らしい。 ウチの場合は、土台となるスポンジケーキの上に、ヨーグルトムースやオレンジゼリーの層が載っている。 僕はそれしか知らずに育ってきたけれど、雪下さんは余所のお店で同じ品を頼んでみたことが、何度もあるらしい。 「その度に、ここのお店とは別物で……味も記憶とは違い ましたからね。がっかりしてばかりでした」 ふたりして並んでメレンゲを作りながら、そんな会話を交わす。ボウルに入れた卵を泡立てる作業だ。 で、雪下さんの手際はやっぱりいい。慣れている感じがする。 「雪下さんは家でケーキとかも作ったりするの?」 料理の腕は夕べみせてもらった。少なくとも和食は作れて、なおかつおいしい。 「たまに、ですけどね。 ケーキは手間がかかってしまいますから、そう頻繁には 作ってないです」 「そうなんだ」 「というか、自分でも何度かこのお店の味を再現できない かって、記憶を頼りに挑戦してみたことがあるだけで」 「へぇ? どうだった」 雪下さんは苦笑を浮かべた。 「無理でした。どこが、というわけではないんですけれど、 何か物足りなさがつきまとうんですよね」 「記憶が美化されて、自分の中で味が変わっているのかも しれないと考えていましたけど、ここへ来ておじさまの ケーキを食べたら、記憶通りでしたし」 「そんなに覚えてもらっていたとは、光栄だね」 まったくだ。そして、雪下さんの記憶力もすごい。 「自分でもびっくりですよ。子供の頃に一度味わっただけ のはずなのに、こんなにこだわるなんて」 肩を並べて、想い出のケーキ――その土台になるはずの食材を、丁寧にかき混ぜていく。 傍らで見守っている父さんが、微笑んでいた。 自分たちの店で出しているケーキに、ここまで思い入れをもってくれていたお客さんが、これまでいたかな…… 「…………」 「……ん? 何?」 雪下さんが、僕の手元――ボウルの中身を見ている。中には、メレンゲ……になるはずの、白く泡だった液状の食材。 「西村くん、ハンドミキサーを使った方がいいかもしれま せん」 「え、あ。これじゃダメかな?」 「ええ。もっときめ細かくないと……」 言われて気づいた。雪下さんのボウルと、自分のボウルを見比べてみると、僕の方はどうにも雑な感じがする。 一方、雪下さんのかき混ぜたメレンゲは、表面も均一で綺麗な感じだ。 雪下さんと同じ材料、同じ機材を使っているのに、この差は……カフェの息子として、恥ずかしい。 「私がいつも手作業なのでね。その泡立て器しかないんだ」 つまり、父さんのようには使いこなせていない自分に、がっかりする。この前はよく、ある程度形になったものだ。 「代わりましょうか?」 「いや、さすがにできるようにならないと……僕が自分で やらないと、意味がないし」 「ん……」 ため息をひとつついてから、作業を再開する。と、今度は力みすぎて、泡立て器がボウルの中で滑った。 「ん――と、あっ!?」 力み過ぎてボウルからメレンゲが飛び出し、僕の頬に命中する。 「はぁ……この感触からすると、確かに泡立ちが足りない かもしれないね」 頬を拭うよりもまず、情けない気持ちで肩が落ちる。 「あらら」 すると雪下さんは、僕の頬についたメレンゲを指で拭い取り、それを躊躇なく口に入れた。 「あ……」 「力じゃなくて、スピードが重要なんですよ」 「ゆ、雪下さん……」 「はい?」 照れくさくて何か言おうとしたけれど、雪下さんの表情があまりに普段通りで、言葉を飲み込んでしまう。 「――コツがあるんです」 「え」 雪下さんが自分のボウルと泡立て器を置き、僕に寄り添ってきた。 「まずは、これまで通りのやり方で、ちょっとやってみて もらえますか?」 「あ……うん」 言われるまま、自分のボウルをかき混ぜ始める。彼女の髪からケーキよりも甘い香りが、漂ってくる。 「手首のスナップでかき回すといいんですよ」 「こんな感じ、かな?」 雪下さんの説明を聞きながら、泡立て器を動かす。でも、うまくいっていないようで、彼女も首を傾げる。 「口で説明するのって、結構難しいですね…… よし、こうしましょう♪」 「へ? ――あ、ちょっと!?」 雪下さんは僕から泡立て器とボウルを奪うと、くるりと背を向けた。 「え?」 「んっしょっと」 そのまま、僕の前に割り込んでくると、こちらの胸に背中を預けてくる……! 「ちょ、ちょっと!?」 「はい、これで私の手に自分の手を重ねて」 「え、ええっ!?」 「はやく」 父さんがこちらを見て、呆気にとられている気配を感じる。 僕は半ばパニックになっていたせいもあって、言われるまま、彼女の手に自分の手を重ねて―― 「この状態でやってみて下さい」 そう言って雪下さんは、泡立て器を軽く動かす。重ね合わせた手が、一緒に動く感覚だ。 「こ、これで?」 「これなら手の動きもわかりますから。ね?」 「わ、わかった……」 思ったよりずっと小さい印象の、雪下さんの手……身体。まるで、後ろから彼女を抱き締めているような感覚。 真昼の店内で、父さんもすぐ傍にいるから、なんとか気を引き締めていられるけれど…… 「うん、その調子……あ、もっとゆっくり。優しく」 「え、えっと……こう、かな」 「そうそう! いい感じです、うん!」 そう言われて見ても僕には、泡立て器を動かす手つきが、いつもより少しぎこちなく感じられた…… 「できましたね」 「うん……」 ふたりしてとりあえず作りあげてみたケーキは、父さんが横でアドバイスしてくれたこともあって、少なくとも見た目はそれなりのものが完成していた。 「ただ、問題は味だよね」 「……はい」 ふたりしてフォークを持ち、練習作を切り分ける。 「では、いただきます……」 「うん……」 恐る恐る、ケーキの一部を口に運ぶ。 「ん……」 「う~ん……」 ケーキを口に入れた雪下さんの表情が、見る見る内に失望のそれへと変わってしまう。 僕も舌で味を確認しながら……何か、物足りなさを感じていた。 「ダメ……かな」 「いえ、その……おいしいとは思います」 言葉を選びながらも、雪下さんは正直な感想を口にしてくれた。 「ただ、いつもおじさまが作られているケーキとは、 やっぱり……」 「だよね。教わったレシピ通りに作ったんだけどなぁ。 やっぱり、まだまだ手際が悪いから、その影響かな」 「それなら練習さえ繰り返して慣れていけば、きっと うまくなりますよ!」 「……そう、だね」 それだけの問題なら、いいのだけれど…… 「どれ」 ひょい、と横合いから伸びてきた父さんの手が、ケーキの一部を口に運ぶ。 「……ふむ、よくできてるじゃないか」 「ええ?」 納得できていない僕たちの気分を、あっさりひっくり返すようなことを言ってくれる。 「もちろん、このままではダメだよ」 「あ、ああ」 「だけど、もうちょっと腕を磨いたら、お店で出しても 問題ないレベルだ」 「……ホントに?」 「ああ、美百合ちゃんの指導がよかったんじゃないか?」 「そんなっ、私は別に……」 父さんが珍しく、冷やかしのような言葉を口にする。文字通り、手取り足取り教わってしまったからなぁ…… カフェの店員としては、素人の雪下さんに教わるのは情けない限りだけど、その甲斐があったのは素直に嬉しい。 「これくらいできるなら、一日ふたりにお店を任せても、 問題なさそうだ」 「また出かける用事でもあるの?」 「春菜さんとのことでね、まぁ……色々と、な」 ふたりとも再婚だし、親戚周りへの挨拶だけでも結構大変だ――というような話を、店に来た春菜さんがこぼしていた気がする。 「接客を美百合ちゃん、調理を真一が担当すれば、問題は ないだろう。ふたりが休憩したい時には、『準備中』に しておいて構わないし」 「アバウトだなぁ」 僕たちがその気になれば、休憩取り放題ということになってしまう。もちろん、そんなことをするつもりはないけれど。 「ま、その辺りの判断は任せるよ。 雅人もどうも忙しいようで、ふたりに負担をかけて しまって申し訳ないが」 「父さんも、兄さんがどこへ行っているのか、聞いて ないの?」 「ああ」 ……ウチの家族は秘密主義なのかな?父さんはいつものことだけど、兄さんまでそれを真似されると、正直困るかも。 杏子の件といい、雪下さんの件といい、父さんの再婚話といい、周りがどれだけ驚いたか知っているはずなのに。 「お任せください、私がきっちり、真一くんをフォロー しますから!」 ……なんか、初めて名前で呼ばれた気がする。もちろん、父さん相手だからだろうけれど。 「本当に頼もしいね。夏休みが終わっても、アルバイトを 続けて欲しいぐらいだ」 「あ……」「……そう、ですね。そうできたら楽しいですね。ふふっ」 「……?」 ほんの一瞬だけ、彼女がためらったように見えた。 冷静になってみればかなり強引に、ウチの店で働きたいと押しかけてきたように見える彼女が…… この先の話にだけは、ためらいをみせたような気が…… 「ふう……結局、今日は売り上げが伸びなかったなぁ」 日が暮れ、お客さんもいないので、僕は父さんと相談の上で、閉店の準備を始めていた。 雪下さんには先にあがってもらって、今はレジの集計が終わったところ。 「ケーキ作りの練習ができるのは、ありがたいけれど……」 結局、夕方にももう一回、雪下さんと肩を並べてケーキを作って…… それは楽しいのだけれど、店としてはどうなんだろう?と、若干不安に思ってしまった。 「……まぁ、今日だけのことなら、いいんだけどね」 リビングでは、杏子がひとりでテレビを観ていた。 「雪下さんは?」 「……お風呂」 「そ、そう」 ……思わず、雪下さんがお風呂に入ってる姿を想像しそうになった。 「…………」 「な、何?」 「……顔が赤い」 「え゛?」 「……真一くんの、えっち」 「ち、違うから!!」 「……って言うように、美百合ちゃんに言われてた」 「ええっ!?」 「たぶん、お風呂って言えばそういう反応をするだろう から、次にこう言ってみてくださいねって」 「…………」 雪下さん……杏子まで使って僕をからかわないでよ。 「……美百合ちゃん、面白いね」 「……そうだね」 「ずっとここにいてくれたらいいのに」 「…………」 気づけば僕は杏子の言葉に、ゆっくりと頷いていた。 家の中が、彼女中心に回り始めている気がする。 お店のこと、杏子とのこの他愛もない会話のこと…… たった二日なのに、父さんも兄さんも杏子も、彼女がこれからもずっといてくれたらいいのにといったようなことを口にしている。 それぞれ、思うところは違うだろうし、それが実現されるかどうかとなると、また別問題だけど…… 「…………僕は、雪下さんのことを」 彼女のことを、どう考えているんだろう―― 「あ、ここにいたんですね、西村くん」 「!?」 いきなりリビングに入ってきた雪下さんは……なんともまぁ、無防備な格好をしていた。 文字通り、シャツ一枚……ほかには何も着けていないようにも見えてしまう。 「ふぁ……」 杏子も驚いて、声が出ないみたいだ。 「お風呂、先にいただきました……どうかしましたか?」 「い、いや……」 さっきまで考えていた当の本人に、突然声をかけられて驚いたのと…… 彼女の風呂上がりの姿を見てしまったせいで、ヘンに動揺していた。 白い太ももをヘンに艶めかしく感じてしまって、目のやり場に困ってしまう。 「……ふふっ」 こっちの邪な気持ちを見透かしたように、彼女が微笑む。 「西村くん、もしかしてちょっと困ってますか?」 大いにね。 「パジャマ、部屋に置いてきてしまったものですから、 ついその場にあったシャツを。 暑いし、ちょうどよかったんですけど……」 楽しそうにその場でくるりと回ってみせる彼女。すると裾が、翻りそうになって…… 「わわっ!?」 僕は慌てて目を逸らした。 「ふふっ」 気づけば雪下さんは、しっかりと裾を押さえていて…… 「…………」 ほっとするべきか、残念がるべきか。どう反応していいのか困る挑発をしないで欲しい…… 「見苦しいものをお見せしていたら、ごめんなさい」 「そ、そんなことはないよっ」 ……結局、つい正直に反応してしまって、声が裏返る。 「ふふっ、ならよかったです」 なんだか僕まで、風呂上がりみたいに顔が火照ってしまう。 このまま一緒にいたら、身がもたないんじゃ…… 「そうそう、あとでちょっとお時間戴けますか?」 「……え」 「ご相談したいことがあるんです。 すぐに着替えますから、少ししたら私がお借りしている 部屋に来てください」 「…………」 なんだか杏子が、興味津々な視線を僕たちに向けている気がした。 「はーい、どうぞー」 「お、お邪魔します」 「遠慮なくどうぞ。 って、もともと西村くんのおうちじゃないですか」 「そう、だね」 そう言われても、自分の家ではない気がしてしまう。 まず、彼女の格好。 夕べは彼女がお風呂に入っている間に、僕が自分の部屋に戻ってしまったので、翌朝まで顔を合わせなかった。 だから、彼女の寝間着姿を見るのはこれが初めてで…… 学園で顔を合わせていた制服姿とも違う。カフェで働くウェイトレス姿とも、一緒に遊んだ水着姿とも、さっきの刺激的な姿とも違う。 無防備で、肩の力を抜いて……油断というかくつろいでいる感じが新鮮だった。 そして部屋の中には、質素なトランクと、休むのに困らないだけの寝具一式が置かれているだけ。 女の子らしい小物があるわけじゃない。なのになんだろう……わずか二日で、彼女の『部屋』になっている気がした。 部屋の中いっぱいに、彼女の『空気』が流れているというか…… それは、風呂上がりの彼女の髪から香る、シャンプーのせいかもしれないけれど…… 体臭とも違う、彼女がここで『暮らしている』証のようなものが、感じられて仕方なかった。 「すみません、何もおかまいできなくて……あ、お茶飲み ます? 飲みかけで申し訳ないんですけど」 自分用に買っておいたのか、小振りのペットボトルを一本、僕の方に差し出してきた。 「い、いいよ。雪下さんのでしょ?」 「ええまぁ……でも構いませんよ?」 「…………」 それを僕が口にしたら、間接なんとかになることが、わかって……いるんだろうな。彼女のことだから。 「ふふっ」 「え……えっと、それで話って?」 「……もう、真面目なんですから。でも、西村くんらしい」 「…………」 「どうぞ、座ってください」 「…………」 腰を落ち着けるのを遠慮して、どうしたものかとためらっている内に、彼女が先に座ってしまう。 となると、僕だけ立って彼女を見下ろしているのが失礼に思えて、仕方なく座る羽目になった。 「…………」 「それで、お話というのはですね……」 「う、うん」 彼女が身を乗り出してくると、胸元が見えそうになってしまい、慌てて僕は視線を外した。 顔と同じく、彼女の白い肌はまだ湯上がりの火照りが残っているようで、赤く…… 「ほかでもない、お店のことなんです」 「……あ、えっと、何?」 「お店、接客に関してです」 「あ、ああ、うん」 懸命に意識を彼女の胸から逸らしているせいで、生返事になっているにも関わらず、彼女は気にした素振りも見せずに話を続けた。 「実際に自分で働いてみて思ったんですけど、今後の ことを考えると、何かマニュアルを用意しておいた方が いいんじゃないでしょうか?」 「……え、マニュアル? 接客用のってこと?」 「はい」 彼女はそこで一度、部屋の片隅にきちんと畳まれて置かれている、ウェイトレスの制服に目をやった。 「今後、例えば杏子ちゃんや、芹花がお店をお手伝いする こともあるでしょう?」 「あー……そうかもね」 杏子は自分でもそんなことを言っていたし、芹花は……まぁ、あの格好は恥ずかしいにしても、今後一緒に住むことになったら自然に、お互いの家を手伝う気がする。 「その時、何をどうすればいいのか、指針だけでも あった方がいいと思うんです。料理のレシピと一緒で」 「……確かに、接客に関してそういうものはウチ、 用意してないからね」 僕は父さんや兄さんの見様見真似だ。言われてみれば雪下さんのように、何も教わらず完璧にこなせる人の方が珍しい。 何しろレシピ通りにオレンジヨーグルトケーキを作ってみても、父さんと同じ味にはならなかったんだから…… 「杏子ちゃんも、芹花も、マニュアルのようなものが あれば、安心して働けるのかなって」 「確かにね。父さんに言って、今度作ってみようかな」 「できればそのお手伝いを、私にもやらせて くれませんか?」 「え……でも、お客さんにそこまで」 「もうお客じゃありません。従業員のつもりですよ、私は」 「それとも……そう思っているのは私だけで、西村くんは まだ、認めてくれませんか?」 「そんなことないって。こんな、頼りになる店員いないよ」 「ふふっ、安心しました」 あー……またのせられた気がする。 「けど、本当にそこまでしてもらうのは、悪い気がする。 認める認めないうんぬんじゃなくて」 「いいんですよ。私がやりたいだけなんですから、むしろ お節介だと突っぱねられるレベルのご提案ですよ、 これは」 僕はそんな風に感じなかったけれど、雪下さんは何か自覚があるのか、ふと視線を逸らした。 「……これは私のワガママ。その延長線上のことです」 「……雪下さん?」 「――ほら、短期とはいえ、経験を積ませて頂くわけです から、気づいたことをメモとしてまとめておきたい。 そのぐらいの気持ちなんです」 「あ、ああ」 ほんの一瞬、寂しそうな表情をみせたかと思うと、今度はいつも通りニコニコと…… 女の子というのは、みんなこうなのかな?それとも…… 「さ、それで具体的な中身についてなんですけど」 それとも、彼女だけが特別に見えている?それも、僕にとって…… 「最初は、お冷ややおしぼりを出すタイミングですかね」 「席へご案内する時、一緒にお出しした方が、時間を 効率的に使えると私は思っているんですけど」 「…………うん」 その夜、僕は自分が風呂に入ることも忘れて…… 彼女の語る接客の方法を、深夜までずっと聞いていた…… 「いらっしゃいませ、おひとり様ですか?」 「あ、はい、アイスコーヒーをおひとつですね。 かしこまりました」 今日も例によって父さんたちが留守がちで……それでいて、お客さんの入りはそこそこいい。 だから僕と雪下さんは、朝からフル回転だった。 「雪下さん、4番様、エスプレッソできたよ」 「はーい、お持ちします」 ウチの仕事に慣れてきた雪下さんは、これまで以上にテキパキと店内を動き回っている。 一方で、ケーキ作りに参加したり、接客に関するアイデアをノートにまとめたり…… 「オレンジとヨーグルトの比率を変えたら、味も変わるの かしら? でも、おじさまのレシピ通りなら、これで いいはずだし……」 「あ、そうだ。メモとか制服のここに挟んでおけば、 なくさないで済むし、ちょっと可愛らしいかしら? ふふふっ」 「……雪下さん、ちょっとは休んでね」 ひとりで先に入ってもらった休憩も、早々に切り上げて戻ってきた彼女を、つい心配してしまう。 けれど返ってきた答えは、とてもはつらつとしたものだった。 「大丈夫です! 私、今とっても充実してるんですよ」 ……確かに、ありきたりな表現かもしれないけれど、今の雪下さんはとても生き生きして、輝いてるように見える。 そんな彼女の頑張りもあって、店内が落ち着いた頃…… 「さてと、そろそろできあがっているかしら?」 「ん? あ、さっき作ったケーキ?」 忙しい最中でも、隙を見てせっせと、オレンジヨーグルトケーキの練習は続けていた。 ……それだけ難航している、とも言うんだけど。 「ええ。そろそろ冷えている頃かなって」 ウチでのオレンジヨーグルトケーキ作りは、最後に表面のオレンジゼリーを冷やして固める形で終わる。 だから完成品は『焼き立て』ではなく『冷やし立て』とでもいうものになる。 「よいしょっ、と」 接客の合間をぬって、彼女が冷蔵庫から練習作のケーキを取り出す。 僕が、彼女に手伝ってもらいながら作ったのは、もうこれで何個目だろう……? 「……見た目は、父さんのにだいぶ近づいたかな」 「西村くんの手際も、だいぶよかったですもの。 あとは──」 「味だね」 「はい……」 雪下さんは緊張した面持ちで、できたばかりのケーキを切り分け、口に運ぶ。 「はむ……」 「ど、どう?」 「…………」 しばらく考え込んだ後、彼女は……とても残念そうに、首を横に振った。 「おいしくできていると思いますけれど…… やっぱり、想い出の味とはちょっと違うような」 「そっか……」 そううまくいくわけがない――それはわかっていても、やっぱりガクリと肩を落としてしまう。 「これじゃ、夏休み中にできるかどうか……」 「…………」 「……いや、ここで弱気になっていちゃダメだよね」 「えっ?」 約束したんだ。彼女のために。 「雪下さんに笑って食べてもらえるようなケーキ、 絶対作れるようにならないと」 「んっ……」 「……その気持ちだけでも、十分嬉しいですよ」 「あ……うん」 雪下さんが、頬を赤く染めていた。 いつもの、どこか僕をからかって楽しんでいる顔じゃなくて、少し照れたようにはにかんでいて…… その表情が、ひどく嬉しかった。 「…………」 これ以上彼女と顔をつき合わせているのが照れくさくなってしまって、僕はカウンターから出入り口の方へと、顔を背けてしまった。 と―― 「ん?」 「……ん、どうかしました?」 「いや、店の外に……ほら、あれ」 路上で小学生くらいの女の子が……泣いているように見えた。 「様子がおかしいですね。 私、ちょっと見てきます」 「あ、うん」 雪下さんが外へ駆け出し、その女の子に声をかける。 その子は最初ちょっと驚いた様子だったけど、相手が女性――ウェイトレス姿の雪下さんだからか、すぐに安心した様子で…… 泣きながらも、二言三言会話を交わすと、雪下さんがその子の背を押すようにして、店の方へと連れてきた。 「やっぱり迷子みたいです。お母さんとはぐれてしまった ようで」 「ぐす……う、ママ……ぁ」 「観光に来た家族連れ……かな?」 浜辺の方ではよくある話だけど、この辺りでっていうのは珍しい。ひょっとしたら、はぐれた場所からひとりで歩いてきてしまったのかな? 「い、いないの……ママぁ」 「えっと、お名前は?」 「ママぁぁぁぁぁぁ!!」 「あ~……」 僕がうかつに話しかけたせいで、女の子がまた泣き出してしまった。雪下さんが慌ててなだめてくれる。 「大丈夫よ、大丈夫。 ――そうだ、お姉ちゃんと一緒に、ケーキ食べようか?」 「ヒック……ヒッ……ク……けぇ……き?」 「うん。甘くておいしい、お姉ちゃんも大好きなケーキが あるの」 「……まさか。あ、いや」 一瞬、僕たちが作った練習作のことかと思ったけれど、お客さん用にちゃんと父さんの作り置きがあることに気づいた。 こちらを見た雪下さんに向けて頷くと、僕は商品をどれかサービスしようと、ショーケースを覗き込んだ。 「さ、こちらへどうぞ~」 「うん……」 僕がケーキを選んでいる間に、雪下さんが女の子をカウンター席に案内する。 ちょっと高いスツールに、雪下さんが女の子を抱え上げて座らせるところは、なんだかお母さんという感じがして微笑ましかった。 「……やっぱり、小さい子ならイチゴ系かなぁ?」 雪下さんのお気に入りといえばもちろん、オレンジヨーグルトケーキだけど、小さな女の子には赤いイチゴの方が喜ばれる気がした。 ……そういう意味では雪下さんに昔、オレンジヨーグルトケーキを勧めた父さんや僕は、ちょっと迂闊だったのかも。 「ちょっと待っててね。お兄ちゃんが今、おいしい おいしいケーキを持ってきてくれるから。きっと あなたも気に入ると思うわよ」 「うん……」 ……ま、本人が気に入ってくれたから、いいけどね。 僕はショーケースから、イチゴ系ではなく、オレンジヨーグルトケーキをひとつ取り出した。 女の子がこれを食べて、雪下さんと同じように笑顔を浮かべてくれることを信じて。 それで、落ち着いたら名前を聞き出して、一度警察か浜辺の迷子センターに電話をかけて、迷子のことを伝えて―― 「ねぇ、お姉ちゃん……」 「なぁに?」 「これは食べちゃダメなの?」 「え……あ、ああ」 「とぉ」 女の子が〈目敏〉《めざと》く見つけて指差したのは、僕と雪下さんがさっきまで試食していた、練習作のケーキだった。 正確にはもう、その断片。量は残っているけれど、僕と彼女がひと口ずつ摘んだりしたせいで、見栄えもよくない。 「うーん、これは、ねぇ……」 雪下さんもどうしたものかと、言葉を探している様子だった。 「えっと、こっちに綺麗なのがあるよ」 僕が、父さんの作った方のオレンジヨーグルトケーキを差し出しても…… 「んー……でも、こっちがいい」 女の子はふたつを見比べて、僕たちの練習作を指差した。 「でも、これはお姉ちゃんたちがさっき、少しつまみ食い しちゃったものなのよ。それでもいいの?」 「うん。だってママも、食べ物は残しちゃダメって、 言ってたし」 「あ、ははは……」 正論だ。ぐうの音も出ない。 「それに、とってもおいしそう」 「え……っと、そうかな?」 「うん。おいしそう」 すっかり泣き止んでいる女の子が、目をきらきらさせながら、不出来なケーキを見つめている。 「…………」 「…………」 僕と雪下さんは、見つめ合って、やがて頷き合って…… 「……それじゃあ、どうぞ」 「わーい♪」 女の子の前に、そのケーキを置いた。 女の子はためらうことなく、一緒に渡されたフォークを手にして、ケーキに突き刺し…… ちょっと危なっかしい手つきでケーキを切り分けると、自分の口へと運んだ。 「もぐっ……んん、ん~!」 「おいしい!!」 「っ!」 「あ……!」 女の子が浮かべた心底おいしそうな笑顔に、胸を打たれた。 おいしい――そう言ってもらえて、嬉しかったこともある。けれど、それ以上に…… 「……昔の、私みたい」 「うん……」 ぱくぱくと本当においしそうに、女の子はケーキを食べ続けている。 出来が悪いのに、まったくそんなことは気にした様子もなく…… 「えへへー。おいしいね、これ。なんていうケーキ?」 そんな風に無邪気に微笑んで、まるであの日の僕らみたいに話しかけてきて…… 「それはね……オレンジヨーグルトケーキ。 お姉ちゃんの、想い出のケーキなの」 そんな風に話して聞かせる彼女も、そして僕も、口元に笑みが浮かんでいた。 「それじゃね、ばいばーい♪」 「うん、ばいばい」 「ふぅー……」 「ふふっ、お疲れ様でした、マスター」 「雪下さんもね……いてくれてありがとう、ひとりじゃ 迷子の世話なんかできなかったよ」 幸い、女の子は迷子カードと呼ばれるものを持っていた。子供の名前や両親の名前、連絡先が書いてあるカードだ。 僕らが作った不出来なケーキを全部ぺろりと平らげると、そのカードを何事もなかったかのように出して…… 呆気にとられつつも、そこに書かれた連絡先へ電話したところ、すぐにお母さんが飛んできて―― 今はそのお母さんが、女の子と手をしっかりと繋ぎつつ、店の外でまだ何度もしきりに頭を下げている。 「……よかったですね、彼女。お母さんがすぐ迎えに来て くれて」 「うん。一時はどうなることかと思ったけどね」 「本当に……それに、よかった」 「ん?」 彼女はそっと、女の子が綺麗に食べていったケーキ、それが載っていた皿を手に取った。 「オレンジヨーグルトケーキを、おいしいと言って もらえて」 「ははっ、練習作であんなに喜んでもらえたんなら、 父さんの本物を食べたら、どんな風に思ったかな?」 「……彼女にとってはこれが、本物ですよ」 「え……?」 「これが本物の……想い出になるんです」 彼女は何に思い至ったのか……遠くを見るようなまなざしを宙に向けていた。 「……どういうこと?」 「私……考え違いをしていたのかもしれない、 そう思ったんです」 そう言って、彼女は自分がお客として来た時の指定席――窓際の、テーブル席へと近づいた。 ほかにお客さんの姿は、もうない。店内は、僕らふたりだけの空間だった。 「味も大切なんですけれど、そこにある物質としての ケーキだけが、それを構成しているわけじゃないの かな、って」 「ケーキはあくまで、想い出を蘇らせる存在として 大事で……そのためには喫茶店という舞台も必要で」 「舞台」 「それは場所、時間、人、そして……心境」 雪下さんが、テーブル席の表面を撫でる。 「私はオレンジヨーグルトケーキが大好きです。 けれどそれは、このカフェで食べるからこそ意味がある」 「家や、ほかのお店じゃない。このお店で、この席で 食べるからこそ、余計においしく感じられたんじゃ ないかって。そして――」 彼女の目が、僕を見る。 僕と彼女が初めて会った、その場所から―― 「あなたがいて……私の、寂しい気持ちを埋めてくれた から。だからあの味は、想い出として残っている……」 「……想い出も一緒に味わってるわけだ」 「ふふっ、そうかも。うまいこと言いますね」 僕はいつしか、彼女の傍らに歩み寄っていた。 彼女がケーキの皿をテーブルに置き、僕を見つめる。 「……今の私、泣きそうな顔、していませんか?」 それはあの迷子みたいに……?それとも、昔、この席に座っていた時の彼女のように? 「……どうだろう。そうは見えないけれど」 でも、自分からそう言い出すってことは、何かあるのかもしれない。 急に押しかけてきて、時折寂しげな表情を浮かべて、それでもなお明るく振る舞っている彼女には…… 「私ね、本当のことを言うと……」 「うん……」 「ここへは、想い出づくりにきたんです」 「想い出」 それは彼女がこだわっているもので…… こだわるからこそ、すぐに離れてしまう土地では、つくるのが怖くなっている――そんなことを以前、話していたもの。 「だって辛いじゃないですか。大好きだったものと、 場所と、人と、離れ離れになるのは」 「このケーキの想い出……もっと、私にくれませんか?」 「雪下さん――」 「んっ……!」 「!!」 最初は軽く、ついばむようなキスだった。 「ぁむ……んんっ……ちゅ……ちゅむ……んん……」 「…………っ」 それが情熱的に、押しつけてくるようなキスになって…… 「あふ……んふ……んむぅ……ちゅぷ……ふぁ……」 「…………はぁ」 ひとしきり僕の唇を奪ってから、彼女は始めた時と同じく、唐突に身体を離した。 「……こんな風に、想い出を強引に奪い取っちゃう 女の子は、お嫌いですか?」 「……いや。そんなこと、ない」 これまで散々、好意をもっているような素振りを見せられた。言葉でも態度でも、繰り返し…… その度に彼女がどこまで本気なのかわからなくて、からかわれているのかもしれないって、戸惑っていたけれど…… これは何よりも雄弁な……『行為』だった。 「――お部屋に行ってもいいですか?」 「…………うん」 それが何を意味するのかも……今なら、わかる気がした。 「ど、どうも、です……」 「うん……いらっしゃい」 ドアの所まで僕は立ち上がって、彼女を迎え入れた。 父さんたちがまだ帰ってこないのをいいことに、店の方は早々に閉めて、ふたりで家へ戻った。 まさかこんな形で、父さんに判断を委ねられた『準備中』の札を使うことになるとは、思わなかった。 そして雪下さんは……一度着替えてから、ここへ来た。先にシャワーを浴びさせてください、というのがその理由だった。 ……緊張しつつも、なんだか定番のやり取りすぎて、少し笑えてしまう。 それでも、言い知れない気恥ずかしさがある分、今の僕たちはひどくぎこちなかった。 「そこにかけて」 部屋に雪下さんを通して、指差したのは僕のベッド。 友達が来る時にはそこにかけてもらうので、無意識の指示だった。 「え?」 「あ……」 雪下さんの眉がかすかにひそめられるのを見て、僕は自分の間抜けさに気がつく。 これからすることを思えば……あまりに無思慮な言葉だった。 「わかりました」 「え?」 今度は僕が雪下さんの行動に驚く番だった。 さっきまでもじもじとしていたはずなのに、急に軽やかな身のこなしで部屋の奥まで進んでいくと…… 「えい!」 身を躍らせて、僕のベッドに飛び込んでいった。 「わ~い、ふかふかです♪」 人が落ちたとは思えないほど、静かなスプリング音…… かすかに身体を跳ねさせて、雪下さんはベッドに仰向けに寝転び身を沈める。 「あの……雪下さん?」 「はい?」 きっと怪訝な顔をしている僕を、もっと怪訝な顔で雪下さんが見上げる。 「……何かおかしいでしょうか? ごく普通にベッドを 使ったつもりでいるんですけど?」 ベッドはあくまで横になるものだから、雪下さんの言うことは少しも間違っていない。 「……ははっ、そうだね。確かにそうだ」 部屋に入ってきた時の緊張した面持ちではなく、いつもの少しお茶目な雪下さんが戻ってきた。 それが感じられただけで、僕も自然に笑みがこぼれる。 「やっと笑ってくれましたね」 むくりと起き上がった彼女は、それでもベッドから離れようとはしなかった。 「うん、ありがとう」 緊張した面持ちは僕も同じだったはずだ。 それをほぐすために、雪下さんがわざとこんなことをしてくれたのが伝わってきて、素直に嬉しかった。 「そういえば……雪下さんは僕の部屋に入るのは、初めて だよね?」 ごく自然に……吸い寄せられるように、ベッドの空いたスペースに僕は腰掛ける。 ふたり分の重さにベッドが軋む音がするが、今はそれも気にならない。 「そうですね。というか、パパ以外の男の人の部屋に 入るのが、たぶん初めてです」 「そ、そう」 つまり僕の部屋が、初めての男性の部屋ということで…… 誇らしく思うと共に、また少し責任を感じて緊張してしまう。 「で……えっと、どう? 感想は」 「長く暮らしていたんでしょうね。部屋からすごく 西村くんを感じることができます」 「あー……それは、僕が雪下さんの部屋に行った時も 思った」 「私の……? でもあそこは」 「雪下さんの部屋だ、って感じた」 僕は繰り返すように、感じたままを告げた。 「この部屋がキミの空間なんだって、理屈じゃなくて…… その、なんとなくなんだけど」 「……ふふっ、それならちょっと、嬉しいかな」 「それとも……『ここにいたい!』っていう私の気持ちが、 強く染みついちゃったのかも?」 「ん?」 「私、転校が多いじゃないですか」 少しだけ寂しげに、彼女は天井を仰いだ。 「そういう、人の『らしさ』が染み付く前に、住む場所を 変えちゃうことがほとんどなんです」 「あぁ……そういうことか」 生まれてからほとんどの時間をこの家で過ごしてきた僕には、想像することしかできないけれど…… いろんな場所を渡り歩いてきた彼女には、どの家も『仮の住まい』に感じられたのかもしれない。 「真新しくリフォームされた家も、いいものだとは思うん ですけど」 「ここは……西村くんの匂いがして、安心できます」 彼女は僕が普段使っているシーツを抱き寄せると、すんすんと鼻を動かした。 「……一応、洗い立てなんだけど」 「そういう意味じゃないですよ」 くすくすと笑いながら、雪下さんはなおもシーツを抱き締めて、放さない。 「包まれてるみたいで、気が楽になるってことです。 ここで暮らしている西村くんの想いや、想い出を、 感じ取れる気がします」 微笑む雪下さんからは、緊張の色は感じられない。 僕の匂いが、雪下さんを安心させられるというのであれば…… より、それを与えてあげることが、彼女を喜ばせるはずだ。 「この部屋の想い出に……私を加えてくれますか?」 「……うん。むしろ、加わって欲しい」 別々の部屋で眠る時も…… いずれ、アルバイトを終えて家に帰ってしまっても…… いつでも、雪下さんを傍に感じられるように。 「はい……」 彼女がシーツから手を離し、僕の横に座り直す。 僕はその細い肩を抱いて、顔を近づけようとする。 「ん……」 「雪下さ……」 目を閉じた相手の名前を呼ぼうとして── 「名前……」 「え……あ、ああ」 「名前で、呼んでもらってもいいですか……?」 「……そうだね。名字なんてなんだか、余所余所しい」 これから距離を詰め、想い出を共有しようとするんだ。些細なことかもしれないけれど、それを確認する儀式が欲しかった。 「ええ、私も……真一くんって、呼びますから」 「んっ……」 一度、父さんの前で呼ばれたことはあったけれど……胸の奥をくすぐられるような、ヘンな気恥ずかしさと嬉しさがこみあげてきた。 「だから、真一くんも……その、合わせてください」 「うん」 当然の要求だった。だから僕はごく普通に── 「美百合さん。 ……あ、あれ?」 「な、なんでしょう。すごく違和感があります」 「うん……」 名前にさん付けは、やっぱり目上の相手に使うのがふさわしそうだ。 同級生の……それも『恋人』に使うにはふさわしくない。 「じゃあ、美百合……ちゃん?」 「ぷっ……」 「わ、笑わないでよ」 言いながら、実は僕も噴き出しそうだった。 カフェに常連で通ってくれていた頃になら、きっと違和感なく呼べたと思う。 だけど……今は無理だ。 クラスメイトの、ほかの男も呼ぶような呼び方では、僕が満足できない。 「えっと――『美百合』」 「はい。それが一番ですよ」 驚くほどすんなりと、僕は彼女を呼び捨てにすることができた。 些細な一歩だけど、距離は確実に縮まったと思う。 「できれば、敬語もやめて欲しいかも……」 「ああ、ごめんなさい。ついクセで…… でも……うん、努力します」 「楽しみにしてるよ」 いつか、タメ口で話をできるようになる時…… 僕らの距離はもっと近くなる。そんな日が待ち遠しかった。 だから…… 「美百合……」 「はい……」 目を閉じた美百合に、僕はそっと口づける。 カフェでは、した……というよりされただけだったから。僕からするのはこれが初めてのキスだったけれど…… 名前を呼んだ時と同じように、意外と落ち着いているのが、自分でも不思議だった。 「ん……んんぅ……」 ふたりで目を閉じて、唇を重ね合わせるだけ。 「んふぅ……んんぅ……あむ……んぅぅ……はぁふ……」 それだけでも満たされていく感覚に、僕は浸っていた。 「――ん!!」 でも、美百合の予想外の行動に、僕は思わず目を見開いてしまう。 「ん……んちゅ、ちゅっ、んぅ……ちゅぷ、ちゅっ……」 突然、美百合の舌が僕の唇を割って入ってきていた。 あまりのことに驚いている間も、美百合の舌は僕の舌を探して動き続ける。 「はふ……んんっ、あむ……ちゅる、れるぅ……んんぅ」 もどかしかったのかもしれない。 幸せを感じたのなら、その先を求めるのは当たり前のことなわけで…… 「ちゅ、ちゅちゅ、れろ……んぅ、ちゅっ、んるぅ…… んるぅ、ちゅる、ちゅぷっ……」 僕は、再び目を閉じると、慣れない様子で動き続ける美百合の舌に、自分の舌を絡めていく。 「んんっ……!! んぅ……んちゅ……ん……っ、はむぅ……ちゅちゅっ」 美百合も自分から仕掛けておいて、僕が応えたことに驚いた様子だった。 一瞬動きが止まって……でもその後は、安心したのか夢中になって吸い付いてくる。 「んふぅ……んんっ、んちゅっ、ちゅる……ちゅぷぷ……」 あとは、流れに身を任せるだけだった。 ひたすらに相手の舌を追いかけ……時に追いかけられ、互いの口中を思う存分味わっていく。 「ん……ちゅっ……んあ、ちゅぷ、ちゅるっ、んんぅ…… んちゅちゅ、ちゅるっ、れる、ちゅぶ……」 息苦しさの限界まで、僕らはキスを続けた。 「んぷっ――んはぁっ、はぁ、はぁ……」 ようやく唇を放しても…… 「はぁ、はぁ、真一……くん……」 「はぁ、はぁ……うん」 ほぼ同時に開かれた目が、重なり合う。 同時に、荒い息のまま、美百合が小さく頷いた。 もっと幸せになりたい。もっと相手を感じたい。 瞳だけで互いに語ると、僕はその先を求めていく。 僕は美百合の肩に手をかけ、そっと彼女を押し倒し……美百合の服を押し開き、はだけていく。 *recollect「大丈夫、安心して。ね?」 「はい。お願いします……」 身体に触れると、美百合も小さく震えているのがよくわかる。 少しでも安心させるように、僕は精一杯に優しい笑顔を浮かべてみせる。 倒錯的な光景なのに……欲望よりも美百合を安心させてあげたい気持ちが勝っていた。そんなに自分に少しだけ、ほっとする。 「じっとしてて」 「あぁ……」 美百合の頬が、夕焼けではごまかしきれないほどに赤く染まるのがわかった。 目を逸らさずに……僕の指の動きを見逃すまいとするように追いかけていく。 「ん……あ、あれ」 美百合の身体が露わになっていくに従って、なぜか僕の手つきがおぼつかなくなっていく。 おかしなことに……僕の方が震えていた。 「真一くん?」 異変に気づいた美百合が声をかけてくる。 「ご、ごめん……」 心底自分が格好悪いと思った。 きっと初めての美百合に……余計な不安を与えてしまったと思うと、顔から火が出そうだった。 「ううん。嬉しいよ」 美百合が僕の頬に、手を伸ばして触れる。いつかそうしたように、僕の頬を撫でる。 「真一くんも緊張してるんだね……私と一緒なんだよね?」 頬から下りた手がすっと、止まったままの僕の手に添えられる。 同じように震えているのがよくわかるその手を、僕はそっと握り返した。 互いの震えが、同時に止まる。 「あ、あれ?」 「ふふっ。こんなところまで一緒だね」 手を通して伝わる温もりが……不安をすべて消していくみたいだった。 向けられている想いを信じることができれば……もう、何も怖いものはない。 「ありがとう。もう大丈夫」 「うん、私も。ありがとう」 彼女が半裸になっている状態で、互いにお礼を言い合う光景は、ほかの人が見たら滑稽かもしれない。 だけど……きっと、僕らには何よりもふさわしいと思った。 心が重なれば……何でも乗り越えられる。それを信じることができたのだから。 「お願い。優しくしてね?」 「うん。約束する」 「んあ……あ……っ」 美百合の細くて真っ白な足。 脚の白さとはまた違う刺激――ショーツが鮮やかに目に飛び込んでくる。 「やっぱり……恥ずかしいですね」 美百合ははにかんだように笑みを浮かべているけれど、さすがに僕の目をまともには見られないでいた。 「なんで? 本当に綺麗だよ?」 「ありがとう。嬉しい……」 上半身に目を向けると、これも真っ白な素肌が、イヤでも目に飛び込んでくる。 本来なら大切な膨らみを守るべきブラも、美百合の協力でもうとっくに本来の役目を果たしていない。 ほとんど産まれたままの姿でベッドに横たわる美百合を、窓から差し込む夕日が照らしていた。 「あ、あの……このままですと、かえって恥ずかしいし、 その……せつない、です」 「あ、ああ。ごめんね」 美百合の声に、ようやく我に返る。 このままずっと見ていたいと思わせるほど、綺麗な裸だったけれど……僕らは、その先を求めているんだ。 「じゃあ、改めて……触っていい?」 「は、はい。その……むしろ、今までどうして……」 服を脱がしている間、僕は美百合の肌に極力触れないようにしていた。 何度かそのことに不思議そうな顔をしている美百合が、印象的だった。 「不安にさせた?」 「はい、実はちょっとだけ……」 美百合の瞳が、不安げに揺れる。 「やっぱり私……真一くんにとって、あまり魅力が ないとか?」 「そんなわけないよ。僕だってすごく触れたかったさ」 思わず力説してしまった……そういえば海へふたりで遊びに行った時も、彼女はスタイルのことを気にしていたっけ。 少しずつ晒されていく滑らかな肌。まろびでて、初めて目にした美百合の乳房。 スカートから伸びたすらりとした脚……そのどれもがあまりに綺麗で魅力的でくらくらするほどで、本当は衝動を抑えるのが大変だった。 「でも、勝手に触ったらダメな気がしてさ」 「別に、そんなことは……拒んだりなんかしません」 「わかってる。でも、触れる度に聞いていたら大変だから」 僕は美百合の肌が見える度に触れたくなる。 その都度、聞き直してしまったと思う。 「ぷっ……それは、確かに大変ですね」 不安げだった美百合の顔に、ほんの少しの呆れるような色が浮かんだ後、笑みが戻った。 「うん。でも……これなら、もう聞かないでいいよね?」 美百合のほとんどすべてが、境目なく僕の目の前にある。 あとは思う存分に、美百合のすべてを感じるだけだった。 「はい、私の全部に……触れてください」 「いくよ……」 「…………」 美百合が無言で小さく頷きながら、目を閉じる。 気恥ずかしさがわずかに減った僕は、手をまず胸の膨らみへと伸ばした。 「んんっ……はぁ、ん……あんっ……」 僕の手は美百合の胸へと沈み込む……勝手にそうイメージしていた。 だけど、思ったよりも弾力に溢れている乳房は、僕の手をすぐに押し返してくる。 「んあんっ、んぁ……んんっ……んんっ……んあっ……」 手の平で包み込もうともしたけれど、ほんの少しだけ僕の手に余る大きさだった。 できるだけ均等に触れようと、何度も何度も触る場所を変えていく。 「んっ、ぁ……あっ……あんっ……あっ……あふっ」 繰り返していくと、美百合の唇から吐息に混ざって、かすかに声が漏れ出してくる。 かすかに、だけど確かに訪れていく美百合の変化から、僕は目が離せなかった。 「どう……?」 「ド、ドキドキしてます。わかりますよね?」 「うん……確かに」 乳房に触れる度に、速くなっていく美百合の鼓動を、僕は手のすべてで感じていた。 それでも……美百合自身の言葉で告げられると、より嬉しさがこみ上げてくる。 「不思議です。鼓動が強く速くなっていく度に、どんどん ふわってしていくんです」 「イヤ?」 短い僕の問いかけに、美百合はゆっくりと大きく首を振った。 「イヤじゃないです。なんだろう……雲に乗ってる みたいで……嬉しくて、幸せで……」 「そっか……」 なら、と僕は美百合の乳房をすくうようにして、手を動かし出す。 もっとハッキリと美百合の鼓動を感じたくって、僕は持ち上げた乳房の下を触ろうとする。 「え……! あ……ぅ、はぅ……ひゃぅ、あんんっ!」 突然美百合の身体が跳ね上がり、驚いた声をあげる。 「……はぁ、っく、あっ……くぅ……はぁぁぁんっ!!」 続いて漏れ出した声は……僕が今まで聞いたことのないような音色だった。 「ど、どうしたの?」 「はぁ……はぁ……はぁ……」 驚いたのは僕も同じで、思わず手を止めて、美百合に問いかけてしまっていた。 「わ、わからないです。でも……急にくすぐったさが 弾けて……」 「身体中に電気が走ったみたいで……声が……」 美百合にとっても未知の感覚が訪れたようだった。 「胸の下の方……感じたのかな?」 「そ、そうなのかもしれません。その……ごめんなさい。 こういうの、よくわからなくて」 恥ずかしがる、というよりは戸惑った表情を浮かべている。 それこそが美百合の無垢さの証明のようで、僕は嬉しくなる。 「美百合も知らなかった美百合を知ることができるなんて、 こんなに嬉しいことはないよ」 「で、でも……恥ずかしいですよ、やっぱり……こんな、 私……知らないから……」 美百合にはすべてにおいて『完璧』という言葉が当てはまると思っていた。 今、その言葉が作っていた固いイメージが、崩れつつある。 「だったら、もっと教えてあげる」 「はぅ……だ、ダメ……あぁ、っく、ふぅ……そん、な ……に、はぅ……」 乳房の下の方をくすぐりながら、そのまま乳房の裏側に指を這わせる。 僕に持ち上げられたままの乳房を震わせながら、美百合は吐息を荒げていく。 「んあっ……あぁっ……自分でも、聞いた、ことのない、 声……出ちゃう……んあっ……はぅっ……」 美百合自身の目にも触れないような箇所が、気持ちいい場所。 そこを僕が発見したことが誇らしかった。 「んぅ……はぁ……しん、いちくん……ああっ、はぁ……」 身体をくねらせる度に、形の良い乳房が揺れる。 薄いピンク色のその先端も一緒に動いて、僕の目の前に可愛らしく一枚の絵画を描いているようだった。 「ああっ、んっ……はぁっ……あっ、あっ……はっ、 あん、ふぅ……」 吐息だけではなく、明らかに色を含んだ美百合の声が僕の耳を打ち、それをあげさせているのは紛れもなく、僕自身だった。 嬉しい反面……美百合に聞くこともできないこの先を思い、戸惑いを覚えているのも確かだった。 「んんぅ……あんっ……あっ、あふっ……ふぁぁっ……」 そんな僕の戸惑いを見透かしたかのように……美百合が、その身体で答えを出してくれた。 すくい上げた胸の先端が、頭をもたげながら丸く形を作っていく。 美百合自身が示してくれた次の目標に、吸い込まれるように、僕は指を伸ばしていく。 「はうぅううう!!」 本当に指先が先端に触れただけだというのに、美百合が大きな声と共に身体を跳ね上げる。 「や、だ、ダメぇ! そんなとこ、いきなり……っ!」 目を閉じていた美百合にとっては、完全に不意打ちだったみたいだ。 「あんっ、ひゃうっ……んあっ……んっ……あああっ!!」 目を見開き、自分の乳首を僕の指が刺激しているのを確認すると、今までよりずっと顔を朱に染める。 開かれた目の端には涙が浮かび……潤む瞳は熱を帯びていた。 「こっちも触っていくからね」 「ま、待って! お願い、まだ、そんな……ひゃん!」 美百合の抗議の声が完成する前に、僕は乳首に触れていた指を円を描くようにじっくりと動かしてしまう。 「あうっ! んっ、っふ、ふぁ、ふぁあっぁ……ああっ!」 抗議は中断され、代わりに美百合の口からは誰の耳にも明らかな喘ぎ声が漏れ出していく。 合わせるように、美百合の乳首は僕の指の先で硬さを増していく。 「し、しらない……こ、こんなの、知らないよ、ぉ…… んあんっっ!」 美百合の反応が嬉しくて……僕は、舌と唇をもう片方の乳房の先端へと近づけていく。 「あう……っ! あ、あっ、くっ、んっ、あぁあっ!!」 白と桜色のちょうど境目に舌が触れると、美百合の身体がビクビクと震える。 麓を何度も何度も回りながら舌先でなぞると、白い頂の上に今度は桜色の頂が新たにそびえ立っていく。 「や、やぁ……へん……あ、あぅ……くぅ、なに…… あああ!」 美百合の本当の頂を目指して、僕の舌が進んでいく。 美百合は身体を震わせ、直後にはその勢いのままに跳ね上がろうとするけれど、その動きは覆い被さった僕に封じられている。 「あ……っ! んあ、あっ、んっ、んっ、あぁあっ!」 僕の舌が美百合の乳首をすべて覆い、刺激の逃し場所を失った美百合は、僕を抱き締め返してくる。 息苦しさを感じるほどの強さで抱き締められ、胸を強く押し付けられるけど、僕は美百合を攻めるのをやめない。 「真一くん……ああっ、ふぁ、ふあぁ、ああっ、あんっ!」 息苦しさの限界まで、僕は美百合の乳首に吸い付き続ける。 硬くなった乳首の感触は、今まで口にしたことの無いみずみずしい弾力と……気のせいか、甘い味も感じられた。 「はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……真一くぅん……」 ようやく僕の顔が胸から離れる頃には、美百合は脱力したようにベッドに深く身を沈めてしまう。 荒い吐息と上気した頬。弛緩した身体は手足を動かすことさえも難しそうだった。 「あぁ……んあぁ……」 僕の手は、ゆっくりと美百合の胸をくだり、なだらかなお腹を滑っていく。 向かう先は明らかなのに、美百合はボーっとしたまま僕の指の向かう先をただ見ているだけだった。 「あぁ……あぁぁ……」 僕の指は滑らかな肌から、布地へと変わる箇所までたどり着く。 「あ……」 「ごめんなさい……そこも……さっきから、ずっと 熱くって……」 潤んだ目で美百合が告げた異変は、その箇所に一番現れていた。 下着のクロッチ部分が……かすかに湿り、色を変えつつある。 「感じてくれたんだよね。ありがとう」 「お、お礼を言われるなんて思ってもみなかったですよ」 素直な気持ちを伝えたのに、美百合は恥ずかしさと驚きの混ざった声をあげる。 「だったら、私もありがとう、です」 「気持ちよくしてくれて。幸せな気持ちにしてくれて、 ありがとう」 恥ずかしさを越えて、僕をまっすぐに見て、美百合は僕にしっかりと告げてくれた。 「うん。もっと……気持ちよくなって欲しいな」 「はい、私も……もっと気持ちよくして欲しいです」 もう一度微笑むと、美百合はそっと目を閉じるが、合わせて口も結ばれてしまうあたり、緊張は明らかだった。 それでも……僕に身を預けるのを決めた身体には、一切の力は込められていなかった。 「んんっ……ああっっ……!」 ついに僕は、美百合のショーツの中に手を差し入れた。 かすかに湿った飾り毛は淡く、僕の手が進むのを遮るには頼りなさ過ぎた。 「あっ……んんっ、んんっ……さわ、られてる……んっ!」 驚くほどあっさりと、肌の滑らかさとは明らかに感触の違う場所へとたどり着いてしまう。 「ここが……」 指先に伝わってきた感触は、スリットという言葉で表現されることが納得できる部分だった。 「んくっ……ふぁ……あんんっ……あんぅ……んんっ」 僕がそこを指でそっとなぞっていくと、湧き出していた愛液が水音を立てる。 「ん……ぅっ、ふぅ……っ、んん……はぁ……な、なんか、 いやらしい、音、出てる……んんーっ、あんっ」 愛液は僕の指の滑りを助け、固い僕の指から美百合を守る。 何度も往復しているだけで、美百合の吐息が熱を含んでいくのがわかる。 「ふああっっ!!」 その瞬間は突然だった。 濡れて、かすかに開きつつあった美百合のそこに、僕の指が沈んでしまう。 「ご、ごめん!」 「い、いえ! ちょっと驚いただけ!」 慌ててショーツから引き抜こうとした僕の手を、美百合が掴んで止める。 「つ、続けてください……その……大丈夫です…… イヤじゃないし、苦しくもなかったから……」 「う、うん」 知らず知らずの間に、美百合の準備は整いつつあるようだった。 間もなくその瞬間が来ることを思い、はやる心を抑えながら、僕は沈んだ指をゆっくりと動かしていく。 「うわ……すごい……」 「んあっ……んんっ……ぁっ、ああっ……」 すんなりと入ったというのに、僕の指は強烈に締め付けられる。 「ふぁ……ぁっ、あっ、んっ、ああ……な、中に…… 真一くんの、指、感じます……」 なのに、動きを阻害するものではなくって…… 四方から締め付けながら、奥へと僕の指を導いてくれるようにさえ思えた。 「ああっ……んっ、んんっ……んんっ……んうっ!」 指なのに、すごく気持ちいい……これが僕のモノだったらいったいどれだけ気持ちいいんだろう? 「ふ、不思議です……んんっ……私の中に、真一くんの 指が、入ってる、なんて……んんっ!」 「痛くはないんだよね?」 指をゆっくりと出し入れしながらの再度の確認に、美百合は深く頷いてくれる。 「んんぁぁ……それどころか、真一くんの指から…… 温かさと……んあっ、気持ちよさが、広がって、 いくん……です……ひぅんっ!」 「だから、遠慮しないで……もっと、もっと……私に 真一くんを……感じ、させてください……ぁぁん!」 「わかった。僕も精一杯、美百合を感じるよ」 もちろん、もっとお互いを感じる行為は、この先にある。だからこそ、今の内にしっかりとその準備を整えなければいけない。 通り道を広げたくて、僕は指を中で回転させてみると、その動き以上に大きく、美百合は身悶えた。 「えっっ!? あ、やんっ! な、なに……っ、あんっ、 はぅ、ああっっ!! っくぅ……っ!!」 収まった指を回転させてやるだけで、美百合は大きく身悶える。 「や! 感じ、すぎ……だよぉ、ゆるして、お願い! あ、はぅ、ひゃぅ、はぁああああんんん!!」 身体をくねらせながらの否定の言葉とは裏腹に、美百合の腰が自分から動き出している。 それが美百合の感じるペースだと思うから、リズムを合わせて指を動かしていく。 「あっ、あっ……んぁあああっ……んぁぁ、んんっっっ!」 表情を伺いながら、苦しくないのを確認しながら、僕は美百合の中で指を動かす。 少しずつ少しずつ……狭すぎた美百合の膣内が広がっていくのを、指先に集中させた神経が伝えてくれる。 「あ、あぁ、はっ、あっ、くぁああっ……! ゆびが、指が、私の中で……んあああっ!!」 挿入の予行演習のように、大胆に指を抜き差ししてみるが、美百合に苦痛の気配はない。 「ふぁああ! っく、っはぁ……あん、あ、あ、はぅ…… ああああ! 私の身体……ヘンだよぉおお!」 美百合の喘ぎ声が激しいものへと変わるのにつれて、僕の手は美百合の愛液で濡れそぼっていく。 指が動く度に卑猥な水音が響き、同時に手では吸収できない蜜が、ショーツを濡らす。 「ぬるぬるが、たくさん……出てる……ぁぁ、恥ずかしい、 んあんっっ!!」 僕はもっともっと美百合の声が聞きたくなって……片方の指で、ぱんぱんに膨れあがっている乳首を押しつぶすように刺激してやる。 「ひゃうん! んあっっ!! 今、そこは駄目っ!! あああっ!!」 本当に僕を押し返しそうなぐらい、身体が跳ね上がるのを見て、今度は乳首を指で優しくこりこりと刺激してあげる。 「んあっ、ああっ、ああんっ!」 不思議な弾力の乳首はいつまで触っても飽きないし、中に入れている指も出し入れしているだけで温かくて、気持ちがいい。 「ふあ、ふぁぁんっ……あふ、あんぅぅんっ…… 真一くん……き、きもちいいですぅ……!」 その言葉でますます頭の中が熱くなってきて……二箇所を攻めながら、喘ぎ声をあげている可愛い口元に、自分の唇を寄せていく。 「ちゅぶ、れる……んる、れるぅ……ちゅぷ、ちゅちゅっ」 「んぁぁ……き、キスも、きもち、いいですぅ……ちゅる、 ちゅぶ……んんぅぅ……れるろぉ……」 「んぷっ、ちゅぶ……んるぅ……ちゅぷぷ、ちゅるる…… し、んいちくん……ちゅ、ちゅっ、ちゅぷ……」 長いキスを終えて手の位置をずらすと……ショーツで見えないはずの美百合の大切な場所の形が、浮き上がるほどに湿り透けていた。 「んぁ……はぁ……し、真一くん……?」 指を抜き取り、入り口をなぞる僕に、美百合が目を開けて問いかけてきた。 僕の手のある位置を確認し……同時に自分の様子を完全に把握したようだった。 「あっ……」 ショーツから抜き取った僕の指は、粘り気を持った美百合の愛液に光っていた。 栓を失った入り口からは……溢れ出したものが、ショーツどころかシーツにまで染み込んでいくほどだった。 「もう……大丈夫かな?」 美百合から溢れたもので光る僕の指を、美百合は横目で確認している。 「は、はい……」 自分の状態をしっかりと認識した美百合は……覚悟を固めるように深く頷く。 「あぁぁ……」 「し、真一くんぅ……」 恥ずかしながらも、美百合は僕の次の行動を待つ。 名前を呼び、僕を招き入れる覚悟を再度確認するかのようだった。 「美百合……」 応えるように名前を呼ぶと、僕は美百合の脚の間に身体を入れ、限界まで硬くなっていた僕の先端を取り出すと、美百合の入り口に触れさせる。 「う……」 そこに神経が集中しているせいか、先が触れただけで僕の方が、呻き声を漏らしてしまう。 ここで、こんなに気持ちいいなんて……挿れたら……どうなるんだろう? 「真一くん……大丈夫だから……来て……」 この先は、まるで想像のつかない世界……ほんの少しの不安と、大きな期待と共に、僕は腰を進めていく。 「ん……あぁ、はぁ……ああっ!!」 指で何度も場所を確かめ、ほぐした甲斐があって、僕のモノは正確に、美百合の中心を捉えていた。 先端が入った段階で、美百合が眉根を寄せて苦しそうな声を漏らす。 「んあっ!?」 「だ、大丈夫?」 「う、うん、平気だよ……一度……入ってるんだから」 「……そうだね」 さすがに指とは比べ物にならない太さのモノが、これから入っていく。 僕は彼女を安心させるように、笑みを返して、腰を進めていく。 「ん……はぁ……んぅ……くぅ……ぅぅぅ……」 吸い込まれるような感覚と、未知を阻む圧迫感…… それが同時に僕のモノを襲う。相反する感覚が同時に与えられる、不思議な瞬間だった。 「んぁ……くぅ……あ……あああっっ!!」 美百合は眉根を寄せたままだけれど、思ったより苦痛の色はないみたいだ。 亀頭が美百合の膣内に姿を消し、やがて竿の部分も美百合の膣内へと少しずつ飲み込まれていく。 「ふぁ……あぁぁ……」 締め付けこそ強烈だったけれど、その締め付けさえも僕が奥に進むのをアシストしてくれているように思えた。 「んんぅぅ……くぁ……っっっ……!!」 だけど、ついにその動きが物理的な抵抗に突き当たってしまう。 進むべき道が……閉ざされているのを、僕は敏感に感じていた。 「はぁ……はぁ……はぁ……あぁ……」 それは、美百合の初めての証。 ここを越えるには……僕だけではなく、美百合の想いも必要だった。 「美百合……」 「真一くん……」 美百合は潤んだ目で僕を見つめて、コクリと頷く。 この先を望んでいるのは僕だけじゃない。その想いに背中を押されて、僕は一気に腰を進める。 「うぁ……はぁ……あぁ……んんっ、あっ…… 真一、くん……っっ!」 僕の背中に回された彼女の手に、大きな力が込められ、爪が背中に刺さる。 でも、それさえも美百合の痛みの一部を共有しているように思えて、何の問題にもならなかった。 「んあっ、あああああああっ!! い、いたっ…… あっ、あぁぁ……」 美百合の初めての証を突き破った勢いのままに、その最奥まで僕の先端がたどり着く。 まるでゴールテープを切ったような感覚だった。 「美百合……全部、入ったよ」 もちろん、それは同時にふたりのスタートラインでもあるけれど……今、僕達は確実にひとつの大きな障害を越えた。 僕は、身体中で美百合の温かさに包まれていた。 「あ、あぁ、はぁ、ぅあ……あぁ……真一、くん」 酸素を求めるような荒い呼吸の中で、美百合はどうにか僕の名前を呼ぶ。 「大丈夫?」 僕は美百合を優しく抱き寄せる。 反対に美百合は、安心したのか僕を抱き締める力を抜いて、身を委ねてくれた。 「平気……んん……はぁ……真一くん……私の中に 真一くんがいるんだね……」 「熱いよ……抱き締めてくれる身体も……中にいる 真一くんも……本当に熱い」 「僕も感じる。美百合の中……熱い」 「あははは……じゃあ、仕方ないね……ふたり分の熱さ、 だもん」 「うん。火傷しないように注意しないとね」 冗談を交える余裕は出てきたのか、美百合は笑みをつくって僕に応えてくれる。 「でも、手遅れかもしれませんよ? ……もう大火傷、 しちゃいましたから、私は……」 少し、くだけかけていた口調が、敬語に戻る。そんな余裕をみせながらも、額にはこれまで見たこともないほどの量で、汗の珠が光っていた。 「これから、思い出す度に焦がれて……火傷が疼くと 思います……」 「それは僕も同じだよ」 恋焦がれて……身体を焼く。 恋は燃える炎のようなものだということを、生まれて初めて身をもって知った。 「んぁ……はぁ……」 強く抱き締めた僕に、美百合が身をよじる。 「あ、ごめん」 密着状態から離れて初めて……繋がった場所が見えた。 深く突き刺さった場所から、溢れる蜜に混ざって……ひと筋の赤い線が太ももを伝って、シーツへと染み込んでいた。 「ふふっ……」 だけど、美百合は僕に笑顔を向け続けてくれているから、僕から彼女に痛みを尋ねることは、したくなかった。 苦痛より幸せが勝っているのなら、それはそれで構わない。 もしも、無理をしているのなら……僕が本当に苦痛を取り除いてあげたかった。 「私なら……大丈夫、ですから……」 「美百合」 身体中で、美百合の想いを受け止めて、身体中で、美百合に想いを伝えたかった。 離れた美百合の身体をもう一度、強く抱き締める。 「あぁ……真一くん……優しい……です……」 「ん……あむ……ん……ちゅ……ちゅぷ……んるる……」 どちらからともなく唇を重ねる。 「ん……んぅ……ん、ん、……んぅぅ……んぷ、ちゅぷ」 キスのために閉じられた美百合の瞳からは、溜まっていた涙が溢れ出す。 様々な想いがこもっているだろうその涙を受け止めたくて……僕は、美百合の目元をそっと拭う。 「んぁ……ふぅっ、ん……ちゅっ、んっ、んん……ちゅぴ」 唇で、身体で……そして、心で。僕たちは今、すべての部分で繋がっていた。 触れ合う箇所から、体温が混ざり合い、互いを焦がしていく。 「んれる、れる、れろ……れちゅ……しんいち、くん……」 やがてその熱は、互いの繋がった場所へと集中していき、あとは……想いをぶつけ合うだけでよかった。 「っあ!! ……ふぁあああ……あああっ!!」 腰を動かすと唇が離れ、美百合の口から大きな声が漏れる。 苦痛の色は……薄らいでいるように思えた。 「真一くん……しんいち、くんぅ……んんっ、んっ!」 もう一度美百合を抱き締めて、そっと髪を撫でる。 くすぐったそうに目を細める美百合を見ながら、腰を引いていく。 「ふぁああ……あぁ、ああっっ……! んあっ!!」 僕が去るのを拒むように、美百合の膣内が締め付けてくる。 僕も繋がりを残しておきたくて、完全には引き抜かないで、腰をもう一度奥まで進ませていく。 「あんっ! っく……ふぁ……あん、あんっ、あぁっっ!」 知らぬ間に膣内に溢れている愛液を掻きだすようにして、往復を繰り返す。 「もう、痛くない?」 「……うん……今は、もう……平気、だと……思う……」 『今は』 辛そうな素振りを隠していた美百合だったけど、ふとした瞬間に漏れた本音。辛い瞬間を僕のために耐えてくれたことを、何よりも嬉しく思った。 だけど、心の中で謝るだけで口にはしない。気持ちを伝えることがすべて正しいとは限らない。 「あああんっ! あ……ふぅ……はぁああ、んあんっっ!」 少し速めた腰の動きにも、美百合は甘い声で応えてくれた。 苦痛がないのなら……それを取り返すように、少しでも気持ちよくしてあげたかった。 「あんっ、ひゃんっっ、んっ、んんっ、あんんっ! 真一、くんのが、中をいったり、きたり……ああっ!」 痛さだけが残る想い出で終わらせることは、僕だってしたくない。 「ああっ、あんっ、あんっ、んんっっ……あああああぁ! 真一、くん、もっと動いて、大丈夫、だからっっ!!」 「美百合……ありがとう」 ただ素直に、一番の想いだけを美百合の耳元でささやく。 「ん……あっ、あっ……うん……はぁああ!! やぁぁ……な、なんか、あそこが、きゅんって!!」 僕の言葉に、美百合の奥からより愛液が溢れるのを感じる。 それは、この先どうして欲しいかの美百合の答えだと僕には思えて、徐々に腰の動きを大胆なものへと変えていく。 「あっ、ん……ぁっ、はぁ、あっ、ん、あっ、あ……んっ ……っああああ!!」 「美百合の中、すごくきつい……」 「あっ、はぁ……わかります、んっ、なか、真一くんで、 いっぱい、で……あ、ああああ!」 「私の、中、ああん! んっ! んんっ! 真一くんの かたちに、ひろげ、られてっっ!!」 言葉通り、僕のモノの形に合わせて、美百合の膣内も形を変えていく。 これ以上ないほど『ひとつになる』ことの意味を僕も……きっと美百合も感じていた。 「あ、あっ、あっ、くぁっ、あっ、あん、真一、くん!! んぁあああっ!! あん、あんっ、あんっ!!」 美百合の口から漏れ続ける甘い声に、僕の意識が溶けていく。 もっとその声を聴きたくて、夢中で美百合を貫き続ける。 「あ、あっ、あ、熱い……あぁ、あっ、んっく……ふぁ、 んぅうう! だ、だめぇ、す、すごいぃ……っっ!!」 力を込めて抱けば抱くほどに、膣内で美百合が僕を激しく締め上げる。 抱いているはずなのに……僕の方が美百合に抱かれているような感覚に時々陥ってしまう。 「あっ、あぁ……! し、真一くんも……気持ち、 いいですか? あんんっ!!」 「うん……すごく、気持ちいい。溶けちゃいそうだよ」 「なにも、かも、初めての感覚、だけど……真一くんが、 傍に、いてくれるから……んあっ、あんんっ!!」 今度は意識して、美百合は遠回しに自分の状態を伝えてくれた。 美百合も気持ちいい……その言葉に、僕は最後の遠慮を忘れることができた。 勢いのままに手加減なしで美百合の最奥を突く。 「あ、はぁああああああ!!!」 激しい腰の動きに合わせて、美百合の身体が上下に揺れる。 「あ、あ、ああっ、っあああんっ! あぁ……あっ、あっ、 ああっ!」 先端がすっかりと勃って、肌と同じ桜色に染まる乳房も大きく揺れ続けて僕を誘っているみたいだった。 僕は、その誘っているように見える乳首を咥える。 「ふぁぁぁぁぁ、そこ、いやぁぁぁ!! ああっ、やぁ、 やぁっ、真一、くんっ、ああ、それ、それ…… すご……くて、あああ!」 「んく、美百合……!!」 身体が揺れる度に焦点が合わなくなっていきそうな瞳を、懸命に僕に合わせようと、まっすぐに美百合は僕を見続ける。 おかげで、蕩けていく美百合の表情のすべてが、僕に刻み付けられていく。 「あ……あっ、あぁ、あぁ! あああっ!! 真一くん、 真一くんぅぅ!!」 結合部から溢れる蜜はその量を増やしていく一方だった。 「美百合……美百合……本当に、可愛い……」 耳元でささやくと、彼女の身体がビクビクと震える。吐息がかかるだけでも感じているみたいだった。 「好きだよ。美百合。大好きだ」 「ふあぁあ! わ、わたしも……好き、好き、大好き…… はぁ、んぁあああ!!」 ささやかれる僕の想いが、彼女の枷をひとつ外したようで…… 声とのトーンが一際あがり、僕の動きに合わせて美百合の方も自ら腰を動かすようになっていた。 「あっ、はあっ、あぁ、あああああああんっ!! き、気持ちいい、あんっ、あんんっ!!」 どんな腰の動きにも、美百合はしっかりとついてくる。 何も言わなくてもいい。どうして欲しいのか、どう動けばいいのかは触れ合う箇所のすべてが僕たちに教えてくれているみたいだった。 「真一くん、真一くん……キ、キス、してくださぁい!」 「んちゅ、ぢゅるる……れるっ……れろっ……ああんっ! ちゅぷっ、ちゅるる……んはぁっっ!!」 「ちゅぷぷ、ぢゅるる……んはっ……あふっ……んああ! しん、いち、くんん!!」 「や、やぁ、やぁ……っ、な、なに……奥から……身体の 奥から、来る……っ」 「ぼ、僕もだよ……」 互いの限界が近づいている。 「やああ、ダメぇ……これ、……っ、へん、だよ、や、 全部……わからなくなるのぉお!」 だけど……僕と違って、美百合はその感覚を知らないみたいだった。 徐々に身体を支配していく、未知の感覚に……美百合の目に怯えの色が浮かぶ。 「やだっ、やだっ……ふわふわがいっぱいで…… 飛んでっちゃう……んあんっっ!!」 「やぁ……真一くんと、離れるのはいやぁあああ! あんっ、ああああっっっ!!」 「美百合」 その感覚の正体を正しく伝えるには、僕はあまりに未熟だから、言葉の代わりに美百合を強く抱き締める。 「大丈夫。離さないから。僕は……美百合の傍にずっと いるよ!」 密着した僕の胸板が、美百合の膨らみと、その先端を押し潰す。 触れ合う箇所から伝えられる温もりが、少しでも多いことを僕は願った。 彼女が不安を告げる声をさらにあげる前に、僕は美百合の唇を再びふさぐ。 「ん……! ふぁ、んっ、んっ、ちゅ……んっ、ちゅっ、 んちゅ……っ、ちゅるる……」 繋がる箇所が増えるごとに……美百合の身体から力が抜けていく。 「ふ、はっ……しん、いちくん……ありがとう。 んあっ……もう、へい……き……んぁ、はぁ、っく、 はぁああ!」 離れた唇から漏れた美百合の声に、怯えの震えはなかった。残っているのは歓喜の色、快感の響きだけ。 まっすぐに僕を見つめる瞳に、僕の中の何かが激しく昂ぶり、美百合の膣内で膨れ上がる。 「あ、ふぁああ! もっと……大きく!? あ、は、っく、 ふぅ……あぁあああ!」 それに呼応して美百合の腰がうごめき出し、膣内も今まで感じたことのないざわめきを感じさせる。 「あっ、あっあっ、あぁ、はぅ、や、くぅ、あっ、あ、 やあああああっっ!」 動くことを促すような感覚に逆らわずに、僕は最後の力を振り絞って美百合を貫く。 「はぁっ、あっ、んっ、んっ、ああああああっ、だめ…… っ! きちゃう、きちゃう、きちゃうよぉ……!!」 互いがぶつかり合う音のテンポが早くなるにつれて……僕たちの限界は近づいていた。 「だめぇ……もう、たえられ……ない……っ!」 膣内がより締まり、僕の怒張を包み込む。 これから訪れる瞬間を、そのすべてで感じようとするような動きに、僕は応える。 「く……っ!!」 「ひやぅ……っ!!」 美百合の最奥を勢いよく突くと、その身体が大きく反り返る。 「ぁあああああああああああああああああんんっっ!!!」 「美百合……っ!」 引き抜くとかそんなことは、頭にまるで浮かばなかった。 「ふぁあぁぁ、ああぁぁぁ……んあぁぁあぁ……!! んあああっっっ!!」 固く抱き締めあい、身体中を溶け合わせながら、僕らはその時を迎えていた。 僕が腰を入れて美百合の奥深くに射精する度に、美百合の身体がびくんびくんと跳ね上がり…… 「んあ、んあぁぁぁ、んんっ! ああっ、あぁっ……」 幾度も腰を振り、美百合の隙間という隙間を埋め尽くすように射精を繰り返した。 「あ……はぁっ、はぁっ、はぁ……〈膣内〉《なか》が……熱い、 熱いよぉ……」 吐き出すものがいつまでも終わらず、美百合の膣内からこぼれ落ちていく。 美百合のすべてを満たしてもなお、足りない……そんな僕の想いの象徴のように思えた。 「ま、まだ出てる……嬉しい……真一くんが…… いっぱい……」 うわごとのように呟き、力なくベッドに身体を沈み込ませていきながら…… それでも僕に向けてくれた美百合の笑顔を、僕は一生忘れないと思った。 今日も外は真夏日で、そのせいかどうかこの時間、お客が店に来る気配がまったくなかった。 ご飯時になればまだ忙しいけれど、こう暑いとみんな、涼みに来るとか以前に家から出る気もなくなるらしい。 だから、今日は店にいる父さんが僕らに暇を出した。文字通り『奥で涼んでいていいから』と。 そうもいかないよなぁと思いつつ、美百合が『以前から考えていた接客マニュアルをまとめたい』と言うので、それを手伝うつもりで彼女の部屋を訪れた。 訪れた……のは、いいんだけど。 なんだか今日は僕までまったりした気分になってしまって、あんまりやる気が出ない。 理由は、暑さのほかにも明らかで…… 「ふふふー♪」 人目がないのをいいことに、彼女が僕にぴったりと寄り添い、微笑んでいるからだ。 身体が触れ合っていると、昨日のことを思い出してしまい、まだ気恥ずかしいのに…… 「真一くぅん……」 「ん?」 「ちゅっ♪」 「…………」 「えへへ、えへへへへー……」 油断すれば唇を奪われ、子供みたいに甘えた声と微笑みを向けられる。 マニュアル作りも、ケーキの練習もそこそこに、今日の僕らはずっとこんな感じだった。 ……まさかと思うけど、父さんも僕らの様子がおかしいのに気づいて、奥へ引っ込めたんじゃないだろうか? ……できれば、暑さのせいだと思ってくれていますように。 「どうしたんですかぁ、真一くん」 「あ……ううん。なんでもない」 ……彼女とふたりきりの、この静かな時間を、もっともっと味わっていたいのも正直な気持ちだけど。 「なんでもないんですかぁ?」 「ご、ごめん」 「いいです、いいです。えへへー」 「…………」 朝からこんなやりとりを何度も繰り返した。 僕だけじゃなく美百合も、どこか恥ずかしがっているように見える。 それでも、まっすぐに僕を見つめ返す彼女の微笑みは、その度に胸が苦しくなるくらいに、愛おしく思えた。 「あ……えっと、それでですね。店内の配置についてなん ですけど」 「あ、ああ。うん」 「テーブルや観葉植物の配置を少し変えるだけで、通路が 広くなると思います。お客さんが窮屈に感じることも ないでしょうし、掃除もやりやすくなるかなって」 「へぇ、そういうもの?」 「はい。父の仕事の関係で、内装などに少し興味があって 調べたことが……」 「ふーん」 「父が……」 「お父さんが?」 「…………」 「な、何」 「んんっ、ちゅ♪」 「わっ」 「えへへー」 「もう……」 こんな調子で、何かしようとしても進まない。 けれど……美百合とふたりきり、このまったりとした空気にまだまだ浸っていたい。まだまだ、いくらでも。 「真一くん……」 「みゆ……」 美百合が僕に何度も頬ずりしてくる。 ふっくらした唇の間からは、彼女の熱い吐息が漏れ……散々キスを交わして快楽を味わった、舌も見える。 僕が中途半端に挙げた手を、美百合の手が掴み取る。 きゅっと握り締めてくる手が熱くて、柔らかくて、昨日のことがまた頭に浮かんでくる。 僕は胸の奥底に甘い衝動を覚える。息が詰まった。 「ね、しようか?」 最後を疑問系にしたのは……僕に委ねたのは、彼女の中にまだ理性が残っているから、だろうか? 僕は視線を逸らした。店には父さん、家の中には杏子がいる。僕にもまだ、少しだけ理性が残っていた。 「まずいよ……こんな時間から……」 「誰も来ませんよ?」 「そ、だけど……でも……」 「大丈夫」 美百合の言葉に、僕は背中がぞくりとするのを感じた。怖いと思ったわけじゃない……もっと、別の…… 「もしかして、最初から……?」 最初からそのつもりで、彼女の部屋に誘われた? 「そうだったら、どうしましょう?」 「どう……って」 僕の答えなんて待たずに、美百合は目を閉じて、唇を近づけてくる。 「んー……」 手を繋ぎ直して、指を絡めて、身体を寄せて…… 息がかかる。彼女の唇から、直接僕の唇へ。 「美百合~、真一~、いる~?」 ――芹花!? 「あっ! ど、どうぞ」 ドアが開ききる前に、美百合は僕から離れて、素早く髪型や服の乱れを整えた。 「カフェに顔出したらこっちだって聞いて――」 入ってきた芹花の足が止まり、目が疑わしげに細められる。 「……何? あたし、なんかお邪魔だった?」 「なっ、何言ってるんですか! ねぇ?」 「そうだよっ。いきなり何言ってるんだ」 「んんん~…………」 声が裏返りそうになったけど、なんとか抑えた……つもり。 まだ、何もしていない。 ……キスはしたけど。 「ふーん」 「あーあ、ま、こんだけアツけりゃ、部屋にこもりたく なるわよね~」 「そ、そうだろ。はははっ」 「……んじゃ帰るわ」 「え? もう?」 「なんだよ、何しに来たのさ?」 「いや、特に用事があったわけじゃないのよ。 家の……そう、手伝いしなきゃいけなかったの、急に 思い出したから」 「お姉ちゃんに連れ戻される前に、さっさと帰らなきゃ~」 「…………」 「芹花」 「んじゃっ!」 「なんだったんだ、あいつは……」 「はぁ……申し訳ないなぁ、なんだか」 あとに残ったのは、美百合のため息がひとつ。 「気を遣ってくれたんですよ、きっと。 なんとなく、雰囲気を察して」 「…………」 「なので、せっかくですから」 美百合は一度立ち上がると、ドアの所に行って―― 鍵をかけた。 「あ……」 「ふふっ」 振り向いた彼女は、照れくさそうに笑ってから、僕の傍らへと戻ってくる。 「美百合って、大胆だよね」 「……そうするようにって、決めたの」 「決めた……?」 「遠慮してる余裕は、ないから」 「……?」 一瞬感じた違和感、疑問…… それが、彼女が身体を寄せてくるだけで……押しつけられる身体の柔らかさや熱、甘い香りに吹き飛ばされてしまう。 「さっきの続き、しようか?」 「え」 「しないの?」 美百合との距離はまたゼロに……ゼロ以下になる。 「…………」 「ん?」 小首を傾げる美百合の瞳は、僕がNOとは言わないだろうとたかをくくっているように見えた。 実際のところ、それが正解。 「……します」 「えへへー」 夜――あれから、その……ひと汗かいてから、シャワーを浴びて(美百合は一緒に浴びたがったけれども、それもばれたら恥ずかしいので断った)店に戻った。 自分たちだけ……その……遊んでいるみたいで申し訳なかったので、父さんと店番を代わって……すると父さんは杏子と、夕飯の買い出しに出かけていった。 なので…… 「ありがとうございましたー。またお越しくださーい」 店内にいた最後のお客さんが出て行くのを、美百合がまたウェイトレス姿で見送っている。 残ったのは、僕と彼女だけ。 僕が店番をすると言ったら、自分も働くと一緒についてきたのだった。 「お疲れ様。そろそろ閉店の支度、始めちゃおうか」 「そうですね。もうそんな時間……」 時計を確認し、美百合がどこか名残惜しげに呟く。 「今日ももう終わり、かぁ」 「……そういえば、あと何日ぐらいかかるの?」 「はい?」 「ほら、お父さんの出張」 「あ……あ~……」 数日間――そう聞かされていたけれど、具体的にいつまでとは……知らない。我ながらうっかりだった。 美百合と……その、たぶん、恋人と言っていい関係になったのに、そのままというのはよくない。 いつまでここでこうして、一緒に楽しく過ごせるのか……その残り時間を惜しむ気持ちなら、僕にもあった。 「……ちょっと、難航しているみたいですね。向こうでの 滞在期日が、延びているようで」 「向こうって、そんな遠くなの?」 「……遠く、ですね。とても遠く」 「あ」 「ただいま」 「ただいま」 ドアベルが鳴ったので、お客さんかと思ったら――入ってきたのは、父さんと杏子だった。手には買い物袋。 「お帰り。荷物運ぼうか?」 「んーん。平気」 杏子がえっちらおっちらと、食材のたっぷり詰まった袋を抱えて奥へと向かい、美百合がそのあとについていく。 「ああ、私が手伝います。 このまま夕食の支度に入っちゃっても……?」 振り向き様そう聞かれたので、頷き返す。 「お願い。閉店の準備は僕がやっておくから」 「はい、お願いします! 杏子ちゃん、今夜は何にしましょうか?」 美百合と杏子は晩御飯の相談をしながら、奥へと引っ込んでいく。 「ハンバーグの材料、買ってきた。挽肉に、タマネギ」 「じゃあ、そこにもうひと味加えましょう。隠し味を」 「隠し味……?」 「愛情です」 「愛っ!?」 「……なんか、恥ずかしい話をしていたような」 それはそれとして、今日も美百合の料理が食べられるのかと思うと嬉しい。 「真一、私がいない間は、どんな感じだった?」 短く聞かれたのは、今日の客足のことだった。 「夕方からはいつも通りだったよ。気温が全然下がらない から、冷たいものしか出なかったかな」 たった今外から戻ってきたばかりの父さんも、ハンカチで汗を拭っている。よくわかるとばかりに、軽く頷いていた。 それから父さんは、店の中を簡単にチェックしていく。 テーブルの上、カウンターの下、ショーケース内や食器棚の陳列…… 嫁の掃除をチェックする小姑みたいではあるけれど、客商売である以上、どこも手を抜いてはいけないところだ。 でも美百合のツボを心得たダスター捌きもあって、その辺りはここ数日、抜かりがない。 「ありがたい限りだな」 父さんもそれをわかっているようで、お客さんがそれなりに出入りしたあとでも綺麗に整えられている店内に、満足そうな表情を浮かべた。 「みゆ――雪下さんのこと? 頑張ってくれてるからね」 「ああ。家事までこなしてくれて、申し訳ないぐらいだ」 彼女が進んで料理や掃除までこなしてくれるので、すっかり甘えてしまっている。美百合は何事もそつなくこなしてしまうので、止める理由がなかった。 まぁ、夕べから今日にかけては、ちょっとサボリ気味だったけど…… それを、夕方以降の短時間店に出て片付けることなんかで取り戻してしまったんだから、やっぱり大したものだと思う。 「ケーキの方は?」 「あ……っと、今日はちょっと、お休みしたんだ」 「? そうか」 単純に、練習する時間がなかったということもある。 ただ、昨日、迷子の女の子に食べてもらって、そのことで美百合がある程度答えを見出してしまったから…… ケーキの味そのものを追求するのは、もうあまり意味がないのかもしれない。 「明日は頑張れよ」 「……うん」 その時間があれば――と、心の中に浮かんだ言葉は、なんだか言い訳じみている気がした。 夏の朝は早い。朝日は暴力的にまぶしくて、すぐに昼の日差しに変わる。 こんな日は涼しいところで、冷たい飲み物に限る。 それなのに…… カフェは、開店時間を過ぎても、準備中の札を下げたままだった。 鍵も閉めたまま……僕たちはふたりきり。 「んっ……おっきい……」 「はぁ……み、美百合……っ」 「はーい? どうかしましたかぁ?」 「ダメだって、こんな」 「何がですか……んんっ、あ……すごい。 ぴくぴくしてるし、ぬるぬるもいっぱい……」 「んぁっ」 「あまり、大きな声を出したらダメですよ。 それとも……そんなに、気持ちいいですか?」 「っ……」 ぞくぞくと、身体が震える。 彼女の指が下半身を這い回る度に、力が抜けそうになる。 「んっ、ふ……ちゅっ♪」 彼女は僕に身体を密着させ、耳元にささやきかけ、舌で耳たぶを舐める。 その間も、彼女の指は止まらない。 「はぁ……美百合……こんなの、やばいって」 今日も父さんは店を空けていたし、兄さんもいない。ただ今日は、杏子がまだ家にいる。 自分の部屋にこもっている杏子に、店の様子がわかるはずないとは思うけど、気にはなる。 「ふふ……声を堪えている真一くん……んん……ふふっ ……はぁっ……ステキですよ……」 「からかわないでよ……んっ!」 酔ったような声でささやかれ、さらにぎゅっ、と露出させられたモノを掴まれて、壁にもたれかかってしまう。 「真一くん……可愛い」 「はぁ……はぁ……美百合……こ、こんなこと……んっ」 言葉途中で彼女に抱き締められ、僕は口をふさがれた。柔らかな胸に顔を押しつけられて、息が詰まるような思いをする。 「大丈夫。ちゃんと鍵もかかっていますし」 「でも……」 「いや……?」 「え?」 美百合の声が耳元から滑り込んでくる。 「私とこういうことするのは、嫌ですか?」 「そんなことない!」 思ったことを、そのまま口にする。今はただ正直であることが彼女に示すことができる唯一の誠意のように思えた。 「じゃあ、嬉しい?」 「うん。もちろん」 僕は彼女を抱き締め返した。腕の中の温かくて華奢で柔らかな身体を、強く強く抱き締める。 「私も、嬉しいです」 お互いに髪を撫で、頬を擦り寄せ合う。 鼻を押し付けると、痺れるような甘い香りで胸がいっぱいになった。 僕は彼女を、ただ、強く、抱き締める。彼女もまた、ただ、強く、抱き締めてくる。 「……ごめんなさい。いけないってわかってはいるんです。 でも……」 「でも今は……今だけは、こうさせてください」 「美百合……?」 「今だけ……今だけで……かまわないですから」 彼女はそれ以上、何も言わず…… 僕はただ、彼女の気が済むまで、美百合を抱き締めていた。 遅れていた開店準備を手早く済ませ、準備中の札を外して鍵を開けると、今日は昼から客足が伸びた。 ケーキ作りもしたかったけれど、接客に追われて時間がとれない。 「今日は、お店が終わってからやるしかないかな」 「……え?」 忙しい合間にほんの少しだけ、会話を交わす。 「ケーキの練習」 「……あ、ああ。そっちですか」 「そっちって、どっち?」 なんだか美百合が急に顔を赤くして、僕の耳に顔を寄せる。 「いえその…… ふたりきりになったら、ね? また……」 「…………」 どっちかと思ったら、エッチなことか…… 「ふふっ、それとも早々にまた、『準備中』にしちゃい ましょうか?」 「あ……う、っと……」 「鍵はかけますか? かけませんか?」 「…………」 「どっちがいいです?」 「だ……だめだめ。ちゃんと仕事も練習もしなくちゃ」 「えー」 遊んでばかりでもいられない。今だってお客さんがいるんだから、気を抜かないようにしなくちゃ。 気を抜いたら大変なことにな―― 「なんだなんだこの店はぁ、この猛暑だってのに暖房つけ てんのかぁ!? 暑苦しくて仕方ねーなぁ!!」 案の定、誰か絡んできた……と思ったら、コーヒーを飲みにきたはずの宗太だった。 自分の席から離れて、僕たちの間に割り込んでくる。 「あーあーあー、ここが一番熱いですなー。なぁ親友?」 「ガラ悪っ!」 「しかも親父くさい」 「うわっ、ひどい言われよう。なんだよふたりして~! 俺をかまえよ~、せっかく遊びに来てるんだからさぁ~」 「今、かまってるじゃないか」 「それまでふたりだけの世界つくってたじゃねーか!」 「そ、そんなんじゃ……」 「う、うんうん」 「ほう、すっとぼける気か? こちとら証拠があがってる んだぜ、親友」 「証拠?」 「な、なんだよ」 まさか……ふたりきりの時のこと、見られたり、聞かれたりした!? 宗太は不敵な笑みを浮かべると、ビッと僕の鼻先に人差し指をつきつける。 「わからなければ、教えてやろう! 30分前の俺のオーダーがまだきていない!」 「……は?」 「オンリーウォーターで客をもてなすのかこの店はっ!」 「あぁ、あぁ、そっか」 ちょっとほっとした。いや、オーダーを届けていなかったことは、それはそれで大問題なんだけれど。 「はい美百合、これお願いします」 「あ、はーい」 「?」 「お待たせして申し訳ありません。 アイスコーヒーと、特大チーズドッグです」 「できてるんじゃないかー!」 「ごめん」 忘れていたわけじゃない。ほかのオーダーに追われて、できあがったものを持っていくのが遅れただけ。美百合との雑談がつい、長引いてしまったし…… と言っても言い訳にしかならないので、素直に謝る。宗太相手だからまだよかった。ほかのお客さんじゃ洒落にならない。 「はぁぁ……なげかわしい!」 宗太は大げさな芝居を打つように、頭を振った。 「カノジョができたら男は変わるもんなんだなぁ。真一、 前はこんな、客をないがしろにするようなヤツじゃ なかったのに……」 「えっ、カノジョって私? 私? きゃっ♪」 「……なんか、前より嬉しそうにしてない?」 「そんなことないですって、ば!」「おうつッ!?」 嬉しそうに宗太を叩く美百合……宗太は結構、本気で痛がっている…… 「きゃ~、どうしましょう、真一くん! カ・ノ・ジョ♪ ですって~」 「う、うん」 「やっぱりそう見えてしまうものなんですね~、えへへー」 「いつつつつ……はぁ……」 「もう、これだよ、これ! この雰囲気で30分待たされたこっちの身にも なりなさいよ!」 「こんな雰囲気だった?」 「こんな雰囲気でした!」 「きゃっ♪」 仕事に支障が出ないように出ないようにと、気をつけているつもりだったんだけど、まずいなぁ、これは…… 「だいだいよぉ、『美百合』『真一くん』なんつって、 親しげに呼び合っちゃってさ」 「そっちの方がよっぽど親密になった証拠をさらしてるっ て、わかってるのかねこのバカップルは」 「えぇっとお客様ぁ、申し訳ありません。まだ何か?」 「なんでもありましぇんっ!! バグッ」 宗太はそのままその場で、特大のチーズドックにかぶりついていた。 「もぐもぐもぐ……くそ、うまいな。もぐもぐ」 「ずずずー……アイスコーヒーも最高だな~」 「ずずずー……ぷはっ! ごちそうさま。帰る」 宗太は一気に注文したものを胃袋に収めると、さっさと出入り口の方へ向かってしまう。 「ええ? なんだよ、もっとゆっくりしていけば?」 「キミらの幸せオーラを浴びながらくつろげというのか?」 「え……いや、だから……」 そんなつもりは全然ないんだけどな、こっちには。 「この鬼! 悪魔! 幸せモノ!」 「お客様、お会計700円になります」 先回りしていた美百合が、にこやかに笑みを浮かべていた。 「……鬼だ」 宗太は肩を落としながら、財布の中身を確認し始めた。その親友が、小銭を探しながら話しかけてくる。 「あー……そうだ、真一」 「ん、何?」 「午前中、遊びに来たら『準備中』だったけど、 忙しいのか?」 「うえ? あーっと……」 それこそまさか、見られた!? と、また焦ってしまう。 「っと、千円札しかないや。お釣りもらえる?」 「そこは、釣りなんかいらねぇぜ! とかっこつけて 欲しいところですねぇ」 「やっぱり鬼か、キミは」 美百合は平然と、宗太の会計を済ませていた。 「はい、300円のお返しです。 ――準備中になっていたのは、真一くんがケーキ修行に 集中していたからなんです」 お釣りを渡しながら、そんなウソまでついてみせる。 「最近、腕をあげるために習作をいくつか焼いていて。 今日も開店前に少しだけ練習するつもりが、つい時間を 忘れて――ね、真一くん?」 「あえ? う、うん。そうそう。つい熱中しちゃって」 「ふーん……」 納得してくれたのか、どうか……ただそれ以上、宗太は深く追求してこなかった。 美百合が冷静なこともあって、余計後ろめたい気持ちにならないでもない。 「……んじゃま、真一先生のすぺしゃ~るなケーキを、 楽しみにしておきますかね。俺にも食わせろよ?」 「あ……うん」 「――あんまり夢中になるなよ? んじゃな!」 「ありがとうございましたー」 「……夢中になるなよ、か」 「……真一くん?」 僕は美百合に夢中になりすぎている。 美百合が望むから……いや、僕自身そうしたくて、時と場所を考えずに、彼女を受け入れてしまう。 たぶん、このままじゃいけないんだろう、な。 自重……するべきだよな。どうしたって。 …………でも、決心はつかない。 もちろん、すべてを手放すわけじゃない。なのに美百合を突き放すみたいで、なかなか決心できない。 「美百合……」 「――真一くん。 私とパパって、似ていると思いますか?」 「え……あ、どうだろう?」 唐突に……まるで僕が口にしようとしたことを遮るように、彼女は父親の話題を持ち出した。 「実はあまり似ていないんですよ。 私、むしろママにそっくりで」 「あ、ああ。そうなんだ?」 ママ――離婚したと聞いていた、奥さん。 どういう人だったんだろう、という単純な興味ならある。 けれど今はそれよりも…… 「私とパパの共通点と言ったら、ほくろの位置ぐらいで」 「ほくろ?」 「ええ。子供の頃、一緒にお風呂に入っていて気づいたん ですけどね。ほら、ここに――」 「って、わっ!」 「見えます? 太ももの付け根に、小さなほくろ」 「うぁ……あ……」 彼女が目の前で、スカートをたくし上げ、微笑んでいた。 「どう、でしょう……?」 「…………」 僕の反応を面白がっているのか、美百合は小悪魔的な微笑を浮かべて、こちらを見つめてくる。 「…………っ」 目が離せない。 店内に残っているお客さんに背を向けて、美百合が気づかれないようにしているのはわかる。 でも、こんな明るい場所で……外からだって、窓越しにいつ見られるかわからない所で…… 「はぁ……」 太ももどころか下着まで、人に見せるようなものではないのに、こっそりと僕にだけ晒している。 「大丈夫ですよ。見ていいのは、真一くんだけですから」 「真一くんだけの、私なんですから」 「美百合……」 「ほくろ……わからないようでしたら、またあとで じっくりと……探してみてください」 「あ……」 「はぁい、コーヒーのおかわりはいかがですかぁ?」 気の遠くなるような時間は、実際には一瞬だったのか―― 美百合は唐突にスカートを元に戻すと、お客さんに向けたサービスに戻った。 「はぁ……」 危うい状況が通り過ぎて、僕はようやく安堵のため息をつく。 自重する決心なんかの問題はあまりのショックでどこかへ吹っ飛んでしまったけど、ひとつ、この環境について確かなことがわかった。 「すっごく、心臓に悪い……」 さすがに今のは、ドキドキするの意味が違っている。 もちろん、美百合のスカートの中は目に焼きついて消えていないのだけど……同時に冷や汗もかいていた。 「やっぱり自重かな……」 情けないのは、ここまでされてなお、その決心をつけられる自信が全然ないということだ。 「ふぅ……」 どっと疲れを覚えて、リビングのソファに座り込む。 閉店までずっと、隙あらば美百合は僕にキスをねだったり、挑発してきたりと…… 「自重するどころじゃない……」 情けないことに、身体は昂ぶっている。 人に見られるのを気にしなければ、すぐにでも美百合を抱き締めてしまいたかった。 「……はぁぁぁ」 「……アイス、食べる?」 「え、あ」 杏子が僕に、ソーダ味の棒アイスを差し出していた。自分用なのか、もう一本同じ物を手にしている。 「あ、ああ……ありがとう」 「ん」 僕がアイスを受け取ると杏子が横に座り、自分のアイスを開けて舐め始める。 「ん……ちゅぷっ……ちゅぷ、れろ……」 「…………」 杏子の小さな舌が、アイスを夢中になって舐めている。 僕は……自分のアイスを開けるのも忘れて、杏子の仕草に美百合の舌や唇を思い出していた。 「……あ~~~っ!!」 「!?」 突然声をあげ頭を抱えた僕に、何事かと杏子が身をすくめていた。 「あ……ご、ごめん、なんでもないよ。なんでも」 欲求不満なのかな……僕は。自重しよう自重しようと思っていたのに、これはまずい。 そう思い、さっさと自分の部屋にこもってしまおうかと、腰を浮かしかけたところ―― 「あー、アイス、いいなぁ」 また、すごい格好の美百合が僕の前に立っていた。 「あれれ? 赤くなってますよ、真一くん」 「……うん」 間抜けな返事。でも僕は、ほかに何も言えなくなってしまっていた。 「火照った身体には、アイスが一番ですよね~。 まだ残っていたら戴けないですか?」 「あ……ごめんなさい。もう、これだけ」 美百合の格好にぽかんとしていた杏子が、ふと我に返ったように言った。 「そうですか。じゃあ――」 「真一くん、私にも分けてください」 「あ……う……」 彼女はまったく普段通りに、僕へと近づき……アイスを持ったまま硬直していた手を掴んだ。 そのまま、ゆっくりと袋を開き、中のアイスを露出させる。 「ん……おいしそう。ちゅるる……ちゅぷ……ちゅる……」 「!!」「!!」 アイスを僕の手に握らせたまま、彼女はその氷部分に吸い付く。 「んんっ……ちゅ……ちゅぷ……ちゅぷっ……んるる……」 「み、美百合……」 「……ふぁぅ……」 それはまるで性行為のようで…… 杏子が真っ赤になって、居づらそうにしていた。 美百合は気にした素振りもなく、ひとしきりアイスを舐めて…… 「ちゅぷ、ちゅぷ……れるぅ……ふぅ……おいしい」 うっとりと、そんな言葉を吐いて、身体を離した。 「ありがとうございます。あとは真一くん」 「う、うん?」 「最後まで食べてくださいね♪」 「…………」 そう言い残して彼女が立ち去った後…… リビングには呆然としている僕と杏子、そして…… 彼女が舐め、しゃぶり、すっかり表面の溶けかけているアイスが残された…… 「はぁ……」 ………… ……………… ……………………疲れているはず、なのに。 …………………………眠れない。 結局アイスの残りは自分で食べたけれど……杏子の前では恥ずかしくて、部屋でこっそり片付けた。 身体の熱は下がるどころか、むしろ余計に熱くなっていて、目を閉じて眠ろうとしても、脳が全然休もうとしない。 思い浮かぶのはもちろん、美百合のこと。というか、美百合の身体…… ………… ……………… …………………… 無理だ!あんなの見せられて、あんなことされて、ぐっすり眠れる方がどうかしてる。 胸が、息ができないくらい苦しかった。美百合の部屋へ行きたい、その衝動を、必死に押し殺す。 僕たちはまたきっと、夢中になってお互いを求めてしまう。ふたりで、あられもない声をあげてしまう。 父さんや杏子がそれに気づいて、起きてくるかもしれない。 「……それは恥ずかしい」 お互いに合意で、気持ちが通じ合っていて、何も問題はない――はずだけど。 だから今、この衝動を抑えなければいけないと、そう思う。大切に思っているからこそ、自重が必要だ。 ほかをないがしろにして、そんな行為にばかり夢中になっていたら…… 「僕たちは、どうなってしまうんだろう……」 「ふぅ……む……ちゅ……んん……んちゅぅ……っ」 「ちょ……美百合……んんっ!?」 いきなり抱きすくめられたかと思ったら、唇をふさがれてしまった。彼女の、柔らかくて、熱い唇に。 「ちゅっ、っちゅ……っ! ん……んぅ……れろちゅ…… ふぁ……ん……んん、ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅっ」 「美百合……ぅむっ」 「静かにしてください。 はむっ、ちゅ……んん……んちゅ、ちゅぷ、れるる……」 ………… 黙れと言われたので、というわけでは、正確にはない。けれど僕は黙って、彼女の唇を受け入れていた。 「はぁ……はぁ……ふぅん……んちゅ……ん、 ちゅっ、ちゅっ、ちゅぅぅ……」 ぐっと唇を突き出して、美百合は、僕の唇を小鳥のようについばむ。 唇が開く度に、漏れ出した吐息が頬にかかった。 「んふぁ……んん、んふぅ……んちゅ、ちゅぅぅ……んあ、 んちゅる、んちゅる……っ」 「!」 不意に、美百合の舌が、僕の唇の間に滑り込んできた。 「んちゅ……んちゅ、っちゅ……ちゅはぁ……んんっ、 んぷ……れるっ、ちゅぶ、れろん……んんっ」 舌はどんどん深く深く進んでくる。ぬらりと唾液に濡れた舌先が、僕の舌に絡み付いてくる。 「れはぁ……れろる、れろ、れろ……んちゅぅぅ……」 「はぁ……はぁ…………」 「み、美百合……」 息苦しくなったのか、彼女が一度唇を放したので、その隙に問いかける。 「いきなり、どうしたの?」 「もう、我慢できない」 「えっ?」 「夕べ、部屋に来てくれるかなって、ちょっと期待してた のに……」 「それとも、私から行くべきでしたか? 夜中ずっと、身体が熱くて、あなたのことだけを考えて しまっていたんですよ?」 「…………」 同じ、だった。 彼女も、同じ気持ちで……だから── もう……堪えることなんてできなかった。 「んあむっ!?」 美百合の身体を抱き締め、強く唇を重ねる。 彼女の身体の細さと、確かさと、熱いくらいの体温が、抱き締めた腕や密着した胸から伝わってくる。 「んふ……ふぅ……んちゅぅ……れろ……ちゅぷるっ! んん!? んっ、んぷっ、んん~!!」 「はぁ……んはぁ……」 「ぷはぁ……はぁ……はぁ……」 頬を朱に染めて、美百合は僕を見つめる。荒い息を整えてそして彼女は、たおやかに微笑んでみせた。 「ふぅ……」 ため息をひとつ。 そして…… 「もうっ……いきなりなんだから。 でも……嬉しい」 耳をくすぐるような、甘い声。 そんな声を聞かされたら、もっと続きを、もっと激しくと……さらに衝動に押し流されてしまいそうになる。 「……今は、ほら、これでお預けにしよう」 「……え~」 「それより、その、まだお店が……さ」 カフェは普通に営業中だ。 開店準備の時には、父さんがいた。開店と同時に、父さんは後を僕らに任せて出かけていった。 そしていきなり、美百合に抱きつかれた。 だから準備中の札もかけていないし、出入り口の鍵も開いている。 このままじゃ…… 「――え?」 「ふふふ♪」 「あ」 僕は釘付けになった。 美百合のスカートの下。 いつもは隠れて見えなくて、たぶん僕だけが知っていて、見たことがあって、触れたことのある……秘密の場所。 「は……っ……」 息が詰まる。 「まだお店が……なんでしたっけ?」 「う」 「う?」 美百合が首を傾げて僕を見つめる。僕の反応を面白がっているんだ。 僕は、彼女から視線を逸らした。首が勝手に美百合の方へ向こうとするのを、なんとか自制心を働かせて堪える。 「だ、誰か来たらどうするの!」 と、たしなめてみても…… 「さぁ、どうしましょうか?」 彼女は静かに、でも断固として聞き返してくる。 瞳が僕を射すくめる。 「…………」 僕は視線をさまよわせた。 美百合のスカートの中と、美百合の瞳と。美百合の唇と、美百合の太ももと…… 「どう、しましょうか?」 薄く濡れた瞳に、口の端をわずかにあげるだけの笑み。まるで……いや、まるでというか、あからさまに、僕は彼女に誘われている。 「は……ぅ……」 僕は、自分の胸を掴んで喘いだ。 全身の血が沸騰して、その熱に、僕の思考は溶けていく。 魅惑的、という言葉が、こんなに似合う人もいない。 「さぁ――」 どうしましょうか? ……答えはきっと、ずっと前から決まっていた。 僕ははやる気持ちを抑えようと、唾を飲み込んだ。 「……鍵……かけてくる」 「はい、ストーップ!」 「てっ」 ドアへ向かおうとした僕を、美百合が両手で突き飛ばしてきた。 「え、なんで? み、美百合……?」 カウンターに身体を押し付けられて、身動きがとれない。 そして美百合が、ぐっと身体を近づけて来た。僕の周りは、甘だるいような香りでいっぱいになった。 「ふふふ……」 美百合は僕の両手を捕まえて、僕の自由を奪った。 「っ……何を」 そうしておいてから、耳元にささやきかけてくる。 「鍵は開けたまま……その方が、ほら、ドキドキするで しょう?」 そう言われてつい、彼女の胸元を凝視してしまう。 ウェイトレス衣装の上からでも、胸のふくらみが大きく上下しているのがわかった。 彼女の息が……荒い。そして熱い。 ドキドキぞくぞくして、美百合の身体から目が離せない。 「今日は、私の好きにさせてもらいます」 「美百合……?」 「どんなに時間が経っても忘れられないような想い出を、 ……くださいね」 「え……?」 僕が言葉の意味を理解するよりも先に、美百合の手が動いた。 「っっう」 美百合の指は僕のズボンの上に添えられて、無遠慮に股間を撫でつけてくる。 「はぁ……この感触……すごい……」 「あ……くっ……み……ゆり……」 その手を振り払うこともできず、されるがまま、僕は彼女の指先の刺激を受け止める。 「ふふふっ……かわいい……ちゅっ」 微笑と一緒に熱い息を僕の耳に何度も吹きかけながら、頬や唇にキスをしてくる。 「ちゅっ……ちゅっ……ちゅっ、ちゅっ……ちゅっ……」 指は僕のやや硬くなったモノに沿って何度も何度も、緩やかな力でなぞり、それだけでもう果てたい気分になる。 「ふふっ……ちゅっ、ちゅっ……あむっ……んふふっ……」 「み、美百合……あっ」 美百合の柔らかい身体がまた押しつけられる。 細くて白い指が僕を何度もなぞり、さすって、たまらない気持ちにさせる。 「あ……くっ……ちょっと……」 「うわずった声……すごくセクシーですよ」 耳をくすぐるようにささやきかけられると、背中にぞくぞくと震えがくる。 「も、ものすごく恥ずかしいんだけど……」 「真一くんだって、私にいっぱい、恥ずかしいことをした じゃないですか」 「そうだけど……」 「だから、今日は本格的に……お返しです」 ……ちょっとだけ、いやな予感。 「えいっ」 「わっ」 *recollect美百合は僕の前に屈み込み、素早くズボンの前を開いた。彼女の、白くて小さな手の中に、大きくなりかけた僕のアレが放り出される。 「お、おお~……!」 感慨深そうな声があがった。 「は、恥ずかしいから、見ないで」 「何を今さら言っているんですか。さんざん……私の ことをこれであんなに……その……ごにょごにょ」 今度は美百合が顔を真っ赤にして視線を逸らす番だった。 やっぱりお互いにまだ、恥ずかしい気持ちは残っている。それなのに……行為が止まらない。 「とにかく! 私には、真一くんのこれをこうする権利が あると思うのですけど?」 「だからって、そんなまじまじ見られると……」 「恥ずかしい?」 「……そりゃ、まぁ」 「ふふっ……その割には、ここ、どんどん元気になって いくようですけど?」 小悪魔の微笑だ。 「そうですかぁ、恥ずかしいんですかぁ? それでは、こうすると、どうなっちゃいますか?」 楽しそうにそう言って、美百合は僕の股間にあてがった手を動かし始めた。 すりすりと指が僕のモノを上下に撫で回して、ちょっと冷たい感触が気持ちいい…… 「っ……」 「あ、黙った」 それは僕の精一杯の抵抗だったけれど、美百合にはなんの効果もなかった。 「いいですよー、そのまま黙ってても~……」 「……うっ」 「女の子だって、やる時はやるんですからね」 美百合は強く、優しく、僕のモノに絡めた指をゆっくりと上下に動かし始める。 「う……う、うっ……」 「くすくす……」 僕の身体は否応なしに反応してしまって、もちろんそれを美百合に隠すことなんてできなかった。 「んぅっ……改めて見ると……なんだかすべすべで…… 結構、触り心地はいいんですね」 しげしげと観察されたあげくに、ぺたぺたと感触を確かめられる…… 「先の方は、ぷにぷにしてて……このくびれとか、 とってもえっち……はぁ……」 「やめてって」 「あ、わわっ、え? すごくおっきくなってきた!」 ………… 「熱、かたっ……やわい? やわかた?」 僕のモノが反応する度に歓声をあげる美百合。その度に僕は、顔から火が出そうになる。 「もう、堪忍して」 「あら? それは、もっともっとっていう意味ですか?」 今日の美百合はホントに楽しそうだ。しかも指の動きはずっと止めずに、刺激を与え続けてくる。 そして、すっかり勃起した僕をモノを手の平で撫で付けながら、美百合は唇も触れそうな距離に顔を近づけてくる。 「さて、それじゃ、どうしましょうか?」 「へ?」 見つめれば瞳に映った自分が見える、そんな距離。 「だから……どう、しま、しょう、か?」 湿り気を帯びた息を吐きつけるようにしながら、美百合は、そう繰り返した。 「ふふふっ」 小さな舌がその唇から、艶めかしく這い出てきている。その光景に、僕のアレが反応してしまった。 「美百合……」 「今は何も考えなくていいから……ただ、私のしたいよう にさせてください」 「んっ――!!」 「はぁ……れろ……れろ……かたぁい……れろんっ♪」 彼女は上目遣いにこちらを見上げながら、その小さな舌を僕の先端に押しつけた。 「……っ」 くすぐったいような、気持ちいいような感触に、背中が震える。 僕が身体をよじろうとすると、美百合がたしなめる。 「ちゅっ……ちゅる……動くと、危ないですよ?」 「何……する気?」 「慣れてないから、噛んじゃうかもしれません」 「それは困る……うっ」 「んちゅちゅっ……れろっ、れろっ、はぷぅ……ちゅぷっ」 慣れていないなんて言いながら、美百合はまるで猫か犬のように、僕を舌で丁寧に舐めあげてくる。 「う……あっ」 「れぇろぉ~……んちゅ……はぁ……れろ、ぺろん」 「う、くっ、うぅっ……」 「ふぅーっ」 「あ……つめた……っ?」 美百合は唇をすぼめて、唾液に濡れた僕のモノに冷たい息を吹きかけた。 「冷たかったですか? じゃぁ、はぁ~っ、はぁ~っ」 「うぁ……っ、くぅ……」 生暖かい息が、僕の下半身を包み込む。 「あむぅ……ちゅぷ、ちゅぷ、ちゅぷ、ちゅるる…… ぷあ……ど、どうでしょう?」 僕に舌先を押し付けたまま、美百合が上目遣いに、少し不安そうに、聞いてくる。 こういう時にだけ、彼女は自分が不慣れな様子を正直に見せるから……ずるい。 「う……うん……つ、続き、お願いします」 「は~い♪」 最初はくすぐったくて身悶えしていたのが、だんだん気持ちよくなってきた。 「ふぁ……改めてさわると熱い……それにおっきくて、 すごい……ちゅっ、ちゅぷっ、れろぉ……」 控えめだった舌の動きも、次第に激しさを増していく。 「はむぅ、れろれろ……ちゅぴぺろ……んん……はぁ、 舌が、やけど、しちゃいそう……ぺろ、れろ……」 うっとりと目を細めて、美百合は僕自身に何度も舌を這わせていく。 「んちゅ……ちゅっちゅっ……んぁ……あぁ…… すごい……んんんぅ、んんぅ……ちゅるんっ」 モノの先から根元まで、根元から先端まで、丁寧に舐めつくされる感触に、僕は心底興奮し始めていた。 「真一くん……気持ちいいですか?」 「うぇ? ……あぅ」 あんまり気持ちよくて、僕は彼女の言葉を聞き逃していた。 何も答えない僕に、美百合はすぐに表情を曇らせた。 「気持ちよくないですか?」 「き、気持ちいいです」 「んふふっ、よかったです」 そんな簡単な言葉でしか返せない僕。そんな簡単な言葉で、安堵の表情をみせる美百合。 でもそれで……それだけで僕らはたぶん、たまらなく幸せになれるんだと思う。 「……あ、先からぬるぬるが……ふふっ、本当に気持ち いいんですね……ちゅるるる……」 「ん、んあっ!」 「さらに、んはぁ……あーむぅ」 「うぁ……あぁ……っ」 美百合の唇が大きく開かれて、その中に、僕の下半身の先端が飲み込まれていった。 やわらかな唇にくびれまで包み込まれた。彼女の口の中はとても温かで、唾液がぬめっていて、舌の感触が、ひどくいやらしい。 「ふふっ……はぷっ……んぶぅ、んんちゅ、れろん、 んぅ~……ちゅぶ、ちゅぶぶ……んはぁ……」 ねっとりとした舌での愛撫が繰り広げられる。 たっぷりと唾液の乗った美百合の舌が、僕のくびれにそって滑る。 「んっ……あん……んんぅ……もう、いろいろすごくて、 大変です……これ……っ」 「はぁ……ぅぅ……み、美百合……っ」 時折唇を放し、僕を見つめては、満足げに笑みをこぼす彼女がいる。 「あはっ。すっかり気持ちよさそうな顔になってますね、 真一くん」 「はむちゅ!」 「う……んんっ」 「んふふ、おふひのなはへ、ろんろん、おっひふ…… んんぅ、ちゅぶぶ、ちゅる、んぢゅ、ちゅぶっ……」 「ぬるぬるも、わるふない、あひですぅ……ちゅぷ、 ちゅぷ、ちゅぷぷっ……んふふっ」 美百合の愛撫はとても積極的で、僕は一方的に感じさせられてしまう。 ふと冷静になれば……店のドアが気になる。今にも誰か入ってくるかもしれない。それは見ず知らずのお客さんか、宗太か、芹花か…… けれどそんな緊張感も、美百合の舌が動く度に、どこかへ消し飛んでしまう。 「んん~~♪ ……んぷっ……んんぅ、んっ……んんっ」 深く深く、それでいて楽しそうに美百合は僕のモノを飲み込んでいく。 唇を締めつけ、息を吸い込むようにして、ついには根元まで完全に彼女に包み込まれてしまった。 「んぷっ……んるぅ……ふもひふぃ~いれふふぁ?」 「はえ? あぁ……うぅっ……美百合……き、気持ちいい よ……あぅっ」 「んふぅ……ん~んぅ……んぷぁ」 今度は根元からゆっくりと引き上げて、美百合は僕のモノを吐き出した。 「んんっ……はぁ……はぁ……」 一方的に奉仕してもらっているだけのはずなのに……美百合の表情にはまるで、僕が彼女を愛撫している時のような、性的な興奮が浮かんでいた。 彼女みたいな美人がこんな顔をするなんて、しかもそれが僕のためだなんて思ってしまうと、ぞくぞくと妙な気分が込み上げてくる…… 「これ……クセになりそうです……ちゅぷ、ちゅる……」 「んはぁ……んちゅる……ちゅぽ……んん……」 何処か上の空で蕩けたような表情のまま、彼女はまたゆっくりと頭を前後させて、口の中への出し入れを繰り返し始める。 「れろぉ……んちゅ、ちゅぽ……んっ、んぷぁっ、んちゅ、 ちゅるる……ちゅく、んちゅ、んちゅ、んんっ」 「あむ……れろん……ん……んぱっ……はぷ……んじゅる、 んはっ、ん、んんっ……はぁ……ちゅぱ、ちゅぷ」 ぬめった舌の感触に襲われ、唇と唾液の摩擦に包み込まれ、僕のモノは普段以上に大きく膨張していく。 「んふふっ……じゅぶ、ちゅぶっ……んんん、じゅぶっ、 ぴくぴく、してる……ちゅ、ちゅく、じゅぷぷっ」 胸の奥がじんじんとうずいて、美百合の表情から目が離せない僕は……もっと、この快感を味わいたいと思い始めていた。 「ぷぁ……真一くんは……」 「ふぇ……?」 「こういう風にした方が、お好きですか?」 突然、美百合は強く強く、僕のモノを吸い上げ始めた。 「んぢゅぢゅる……んん……れろん、ぢゅぅぅぅ……!! んん……ふぁ……んっ、んれろ、んちゅ……ちゅくぷ!」 「あ……くはぁっ!」 「んんん~~……っ!! ぷぁっ……んれろぉ……んちゅ! くぷぁ、んっ、ん、ふちゅる、んちゅ……ちゅばっ!!」 「それともぉ、こういう風?」 今度は舌を旺盛に動かして、激しく僕を攻め立てる。 「ちゅるる、んちゅ、れろ……んふちゅ、ちゅぽ、ぱぁっ ……んちゅ、んんっ、ぷぁ、んちゅ、んんっ」 「んふゅちゅ……ん、れろれろ……んちゅ、ん……んああ んん~……ちゅるる……ん……んん……ん、ふぁぁぁ」 「くはぁ、はぁ……はぁ……っ」 僕は、早くも追い詰められていた。 「ぷちゅ、ちゅぅ……んれぇ……んっ……ちゅぅ、ちゅぱ ……れろん、んぷっ……んちゅぶ、んぷっ……んるる」 美百合は、僕の弱点を探しだそうと、躍起になっているらしい。 でも僕は、弱点が判明する前にもう、じわじわと込み上げる射精の欲求を感じ始めていた。 「あん……」 僕の身体がびくりと震えて、美百合が声をあげる。 「は……はぅぅ……」 その声の振動すら、僕には気持ちがよくて仕方ない。 「あはっ。すっかり、たくましくなって……すごひ…… です……んん……んちゅ……んんちゅ、んはぁ…… んちゅる、ちゅるるる……」 「はぁ……はぁ……あぁっ!」 全身から汗が噴き出して、快感に染め上げられた意識が、朦朧とし始める。 「ん……? んふふぅ……も、でりゅのれすふぁ?」 僕の“前兆”は、つぶさに伝わってしまっていたらしい。美百合は僕の限界をしっかり感じ取っていた。 「わかいまひた……んちゅる……わたひが……はむぅ…… 真一……くんを、イカせちゃいませぅ……はぷっ」 「あ、あ、あ……っ」 彼女の愛撫がさらに激しさを増す。 「ちゅる……ちゅぷぅ……んちゅる……んふぁ…… ちゅぶ、ちゅるる、ちゅぶる!!」 ねっとりと深く、舌と唇と口の中全体で僕のモノをこそぐように、美百合は何度も何度も、愛撫を重ねる。 「はむちゅ……ぢゅちゅ……れろん……んはぁ、んんっ! んちゅんちゅ……ぢゅちゅ、ちゅっ……んちゅちゅ!!」 「あっ……あっ、あっ……み、美百合……!」 彼女の頭を抱きかかえて、僕は身悶えた。柔らかな手触りの長い髪が、僕の指に絡みつく。 「んぽ……んぶ……んちゅ、ちゅぱちゅっ、ちゅぱちゅ!」 僕の手が触れても、美百合は頭を前後に動かすのをやめることはなかった。 「んっ……ふっ……だ、ひてぇ……んんっ、いっぱい、 だひ、てぇっ、んぢゅぅ、んぅ、んちゅっぢゅくっ!」 張り詰めたモノの表面をたっぷりと撫でられる。執拗な愛撫に、僕は喘ぎ声を抑えきれない。 「あ……あ……あぁぅ、美百合……僕、もうっ」 下腹部に溜まっていたわだかまりが、限界を超えた。 「あ、は……あっ……らひてぇ、らひてくだはい……!! 真一くん……っ!」 「ちゅぷ、ちゅる、んんっ、んあっ、んむっ、んんっ! ぢゅぷっぢゅるっ、ぢゅぷぷ、ぢゅるるるるるる!!」 「んんっ、んんん──────っ!」 「う、ぐぅっ……!!」 僕の情けないうめき声を合図に、僕の欲望は爆ぜる。 「ひゃっ!!」 限界まで膨れ上がっていたと思っていた僕のモノは、さらに大きく脈打って、灼熱の欲望を駆け上がらせて── 僕は慌てて、美百合の唇から自分の身体を引き抜いていた。 「んあああああああぁぁぁ!! ……ああああっ!!!」 長く、激しい射精の感覚に、身体が痺れる。 「あぁっ……うぅっ……うく……」 「んうぅぅ……ぁふ……んんう……あ、熱いよぉぉぉ、 真一くぅん……」 ほとばしった粘液は、美百合の顔の上に落ちて、太く糸を引いて垂れ始めていた。 「はぁっ……あん……い、いっぱい、あ、あびちゃい ました……」 美百合の綺麗な顔を汚してしまった。 でも、そんなことがどうでもよくなるくらいの快感に、僕は酔いしれていた。 「はぁ……はぁ……ふ、ふふふっ、いっぱい出ましたね」 「とくんとくんって震えて、可愛いですよ、真一くん……」 「お……お恥ずかしい」 彼女は、顔にかけられたことについて、何も言わない。拭こうともせず、慌てず、嫌がっている様子もない…… こんなにエッチな美百合が、僕にはとてもとても愛おしい。 「これ、って……ごっくんした方が、いいんでしょうか?」 「え……あ、いや……そこまでは、無理にとは」 「あ。ということは、ちょっとして欲しいんですね?」 「……え、えっと」 正直、そんな気持ちがないといえばウソになる。でも、無理強いする気は全然なかった。 「ふふふっ、いいんですよ。次は、頑張ってみますね」 「……次」 「はい♪」 また、同じことをしてくれる機会があるのか。そう思うと情けなくも胸の鼓動が一層激しくなった。 息が整ったところで、手近にあったペーパータオルで、彼女の顔を綺麗に拭いてあげる。自分の後始末なのだから、僕がするのは当然だ。 「ひゃん……ふふ、なんだか子供みたい」 「え?」 一通り拭き取り終わると、彼女がくすりと笑った。 「ほら、子供の頃って食事の時、口の周りをすぐ汚すから、 親に拭いてもらうじゃないですか」 「ああ……」 それに比べたら……ひどく淫らな感じのする行為だけどね。 「んぁ……」 彼女も興奮したままなのか、吐息がヘンに色っぽい。 「どうしよう……私」 もじもじと、下半身を揺らしている。改めて何かに気づいたように、太ももを擦り合わせて…… 「真一くんのを……その、舐めたりしていたら、その間 ずっと……溢れてきてて」 「……あ、えっと……下?」 「うん……」 こくん、と彼女は頷いた。濡らしている……ってことか。 ――と。 「! いらっしゃいませ」 「い、いらっしゃいませ」 あまり見たことのない顔のお客さんが、店に入ってきた。すかさず美百合が普段通りに応対するけれど…… 見慣れている僕からすると、少しだけ、動きがぎこちない。腰が引けているような感じだ…… 「――マスター、アイスカフェラテをひとつ」 「あ、はい」 「それと――」 お客さんを席にお通しして、オーダーをとるところまで済ませてから、彼女はこっそり僕に耳打ちしてきた。 「……ごめんなさい、下着だけ替えてきてもいいですか?」 「…………はい」 やっぱりこれは、際どい行為だ……そう思わざるを得なかった。 「どっかーん! こんちわーっす!」 「どっかーん! よう、来たぞ親友」 「いらっしゃいませ、芹花」 「いらっしゃい」 「……ど」 「?」 「ど……どっかーん!」 「…………」 「……ぷっ」 「あははは!」 「うぅぅ……」 何が起こったのかと思った。 いつも通り店番を続けていたら、やってきた芹花と宗太に合わせて、杏子まで…… 「……杏子、芹花に頼まれたの?」 「ふぇっ?」 「今の『どっかーん』ってやつ」 「う……うん」 「うわ、なんでばれたの?」 「芹花以外の誰が、こんなことをするのさ」 「宗太」 「宗太の頼みで、杏子が動くとは思えない」 「おおっと、そいつは否定できねぇなぁ!」 「いや、否定しなさいよ」 「ふふっ、ふふふふふっ、あはは……いいですね、 どっかーん!」 「美百合まで……」 ほかにお客さんがいない時でよかった、と思う。 ……あと、僕らが際どい行為をしている最中でなくて、とも。 午後になってずっと、客足が途切れなかったこともあって、僕たちは普通に働いていた。 途中何度か、ひと息つけるタイミングはあったんだけど、僕がケーキ作りの練習を始めたりして、美百合の誘惑をなんとかかわしていた。 「…………」 今もなんだか、美百合から熱っぽい視線を送られている気がするけれど…… ……し、仕事が終わってから、なら、いいかなと思う。 「――あ、そうだ。ご注文は?」 「グレープフルーツジュース」 「俺はウーロン茶。いや疲れたねしかし」 「何かしてたの?」 カウンターに突っ伏すように座った宗太に尋ねると、恨めしそうな目を向けられてしまった。 「芹花たちの引っ越し準備の手伝い。お前が雪下さんと カフェでキャッキャウフフして出てこないからって、 俺が借り出されてたの」 「えっ、あ、なんだ。言ってくれれば」 「あたしそんな、野暮じゃないの」 芹花がそっぽを向きながら、ぐいっとお冷やをあおっている。 「おじさんと杏子も手伝ってくれたから、あとは問題ない し。あんたらにカフェを任せておいた方が安心だから なんて、おじさんも言ってたわよ」 「…………」 「…………」 みんなが暑い中、水島家の引っ越し――ウチとの同居準備をしていたっていうのに、僕らは…… 「……あ、えっと。それじゃあ、もうすぐ同居するん ですか? 芹花たちと、西村さんち」 「そうね。まったくもって不本意ながら」 「……お母さんが幸せそうだから、ま、しょうがない かなって」 「そうですか……」 「明日にでも荷物の移動、始められるんじゃないかしら。 雅人さんがいないとイマイチ不安なんだけど」 「ああ、そういえば今日も見てないね」 数日顔を合わせていないのは、気のせいかなぁ。 「……昔から思ってたんだけど、あんたんちって、結構 放任主義じゃない?」 「かなぁ?」 「だって、この分じゃたぶん、あんたが数日留守に したって、おじさん何も言わないんじゃない?」 「さすがにそれは……兄さんだから大丈夫だろう、って いうのがあるだけだよ」 一時期自分から家を出て、ひとり暮らしをしていた兄さんだから、今も数日家を空けたり、朝帰りをしたところで、あまり心配はない。 兄さんは、自分で責任をもって行動できる、大人だから。 それに比べたら、僕は…… 「あー、それより腹減ったぁ、なんかないかー?」 「ご注文ですか?」 「いや、当方金欠につき、できればおごりかツケで」 「……なんてこと仰っているお客様がいらっしゃるんです けど、どうしましょうかマスター」 「……味の保証ができないケーキなら、出してもいいけど」 「なんじゃそりゃ」 「あー、前に少し話したかな。練習作のケーキ」 美百合が宗太に説明した時には、ただの口実だったけれど……今日は本当に、僕が練習で作ったオレンジヨーグルトケーキがある。 「それでよければ、今日も作ったから。 美百合も休憩にしてさ、みんなで食べてみて」 「いいんですか?」 「ほかにお客さんもいないしね。 さっきも言ったように、味の保証はできないけど、 この面子なら遠慮なく感想言ってくれるでしょ?」 「任せろ! まずい時はハッキリ『ゲロマズッ!! なんじゃこりゃぁ!!』と叫んでやるよ」 「あ、はは」 僕自身、まだ試食もしていない。作り方自体はだいぶ慣れてきたから、そんなにひどいものになっているとは思えない……いや思いたくない。 「……『マスター』、『美百合』、だって」 「お、妬くな妬くな。俺の言った通りだったろ?」 「妬いてないわよっ。妬いたって……今さら、しょーが ないじゃない」 「はいはい」 頼まれた飲み物を用意してから、できあがっていたまま置いていたケーキを、人数分に切り分け、それぞれ皿に移して出していく。 美百合も手伝ってくれたので、時間をかけるほどもなく、全員の前にケーキが行き渡った。 「あ、オレンジヨーグルトケーキ」 「見てわかってもらえるレベルにはなってるかな?」 「わかるも何も、おじさんが作ってるのとそっくりじゃ ない。いつの間に……」 「いや、まだまだだよ」 そう言って、美百合に目を向けると―― 「……見た目だけなら、85点というところじゃないです か?」 そう、くすりと笑われた。 「サボっていた割には、なんとかってところかなぁ」 「ん~、どこがダメなのよ、美百合~?」 しげしげと、芹花が上下左右、いろんな角度からケーキを見ている。杏子も同じように、興味深げにケーキを眺めていた。 「色と艶は申し分ないですよ。形が多少崩れているところ を……まぁ、ご愛敬とするかどうかですね。あとは――」 「……食べる側の、心意気」 「……美百合?」 前に彼女は言っていた。 「あなたがいて……私の、寂しい気持ちを埋めてくれた から。だからあの味は、想い出として残っている……」 心意気って、そういう意味のこと? 「とりあえず、俺の心は今、腹ペコな気分で満たされて いる。どんなにまずかろうが、食えればそれでいい!」 「まずかったら文句つけるんじゃなかったの……」 「おいしそう……だと思うけど」 「じゃあ、戴きましょうか」 「はーい」 みんな口々に言うと、次々にケーキを口の中へ放り込んでいく。 「……どうかな?」 固唾を呑んで見守る。 「うまいよ、うん」 「おいしいよー」 「くぬっ、素直に褒めたくなかったのに、悔しいなぁ」 おおむね……好評? 一番肝心の美百合は―― 「……あれ、美百合ちゃん……?」 「……ん、うん……」 美百合は……ケーキに手をつけることなく、静かに涙を流していた。 「美百合?」 「ちょ、ちょっとちょっと、どうしちゃったのよ!」 杏子と、芹花が慌てて傍に寄りそう。でも美百合は、静かに首を横に振るばかりで…… 「う……ん。ごめ……ごめんなさい、私……」 「おいしいよ。このケーキ、すごくおいしいよ?」 杏子が、どうなだめていいのかわからない様子で、ただひたすらに僕のケーキを勧めていた。 「違……違うの、おいしいのは……きっと、わかってる」 「私にはただ……これを食べる資格も……」 「これが最後になるかもしれないって、思っ……て」 「美百合……いったい、何を」 彼女が泣きながら、意味不明な……少なくとも、僕らにはわからないことを呟いていると―― 「父さん……それに」 「っ!」 美百合の、お父さん……どうしてふたりとも、急に? 「……さっき、和美さんから急に連絡をもらってね。 驚いた」 「え?」 「美百合ちゃん……わかっているね?」 「…………」 「お迎えだよ」 「…………っ」 美百合は俯いたまま、動こうとしない。流れていた涙を拭おうともしない。 「……どういう、こと?」 僕が父さんと、そして和美さんに目を向けると…… 和美さんが困ったように、頭を掻いた。 「いや、ね……ボクはもう、何日か前に戻ってきていたん だよ。出張が滞りなく終わって」 「…………!」 美百合は言っていた――お父さんの滞在期間が、延びているって。 あれは……ウソ? 「で、美百合に連絡を入れたら、あと二日、もう一日だけ ……と、こちらでお世話になる期間を延ばして、戻って こなくてねぇ」 「こちらでの生活がよほど楽しいんだろうっていうことと、 まぁ可愛い娘の頼みだからね。半ば黙認していたんだが」 いやぁ困った困った、と、和美さんはどこか呑気な様子も端々にみせていたけれど……次のひと言は、決定的だった。 「別れを惜しむ気持ちはわかるけれど、明日にはもう 旅立たないといけない。引っ越しの準備を大慌てで しなくちゃいけないよ」 「……っっ」 「引っ……越し?」 その言葉の意味が……すぐには呑み込めなかった。 「あの……すみません、俺は美百合さんのクラスメイトで、 久我山といいます」 何も言わない――何も言えない僕たちを見かねたのか、宗太が話に割り込む。 「おおっ? そうだったのかい、いやこれは。 娘がお世話になっています」 「いえ……それであの、引っ越しって……」 「ん? ああ、申し訳ないが、美百合は転校することに なるね」 そんな説明は、いらない。 聞きたくなかった。理解したくなかった。 「え……何それ、ウソでしょ?」 芹花が呆然とした様子で、和美さんから美百合へと視線を向ける。 「…………」 彼女は何も言わず、俯いて……唇を噛み締めていた。 「……なんだ、まだみんなに話していなかったのかい?」 弱ったなぁ、と言わんばかりに、また頭を掻く和美さん。 「……和美さん、ふたりで少し、外で話しませんか?」 父さんが場を取り持つつもりか、和美さんを誘う。 「あ、はぁ……」 和美さんは、一度美百合を見て……彼女が自分の方を見ようともしないことに対してか、深くため息をついた。 「はぁ……そうですね。その方がよさそうだ」 「では」 「普段は言うことを素直に聞く、手のかからない子なんで すがねぇ……」 父親たちが出て行く時、そんな呟きがかすかに聞こえた。 「ちょっと美百合! どういうこと!?」 「おぉぉおぉ落ち着け芹花! お前が暴れてどうする!?」 「悔しいのよっ!!」 止めようとした宗太を振り払い、芹花が美百合に詰め寄る。 「あたしたち友達じゃないの!? なのに何よ、転校って!! 聞いてないわよ!!」 「……ごめん」 ぽつり、と美百合がこぼす。 「ごめん……ごめんなさい。言えなかった。言いたく なかった。私だって……私、ここにずっといたい。 引っ越しなんてしたくない!」 一度こぼれた言葉が……次々と溢れ出した。 「お父さんが出張も兼ねて、引っ越し先の下見に行くって いうから……私、なんとかここに残りたくて、少しでも ……一緒にいたくて!」 彼女が顔を上げる。 その瞳が、僕を捉えて……放さない。 「美百合……」 「このお店で……想い出をできるだけ、つくりたくて。 結局、そんなことしかできなくて……」 「美百合ちゃん……」 杏子がぎゅっと、美百合を抱き締めた。 今にして思えば―― 美百合が積極的だったのも…… 時間を惜しむように、僕と触れ合いたがっていたのも…… 全部――僕と美百合の生活が、最初から期間限定だとわかっていたからなのか。 それも、ただ家に帰るだけじゃない。遠く……離ればなれになってしまうのを知っていて…… 「それで、引っ越し先ってどこ?」 「……フランス」 「えっ……」 「フランスっ!?」 宗太も、芹花も、杏子も……そして僕も、想定外の場所に目を丸くしていた。目眩すら感じる。 「そりゃ……遠いわ」 芹花の、唖然とした声が、僕の気分を代弁してくれていた。 「少なくとも数年は、そちらに滞在することになっていて ……場合によってはそのまま、海外の支社を回ることに なるかもって」 「……エリート社員の出世コースって、そういうもの らしいな。にしても」 旅行にだって行ったことがない、海の彼方の……遠い国。 ショックが大き過ぎて、僕はまた何も考えられなくなってしまった。 「……そういうことなら、美百合が言い出しにくかった 気持ちも、わからなくはないけど」 「ごめん……」 「あたしはいいわよ。宗太もほっといていい」 「そんな扱いイヤン」 「と、混ぜっ返すところじゃなかったな。 ああ、俺たちよりもむしろ――」 宗太も、芹花も、そして杏子も……僕に目を向けた。 「美百合には先に、謝らなきゃいけない相手がいるんじゃ ない?」 「…………うん」 彼女の瞳がまた僕を見て、今度はすがるような色を〈湛〉《たた》える。 「ごめんなさい、真一くん……ちゃんと、話せなくて」 「…………」 そんな彼女の言葉が、僕には半分も聞こえていなかった。 僕は何も言えず、何もできなかった。 身体が動かない。 頭が考えることを拒否している。 「許して……もらえないと思うけど」 「私は……あなたのことが本当に好きで、そして……」 「この数日、一緒に過ごせたことが、何より幸せでした」 「…………」 何か答えたい。何か答えなくちゃいけない。 それなのに……全身が麻痺したように、動かない。 「真一……おい、大丈夫か?」 声をかけられても、ぎこちなく俯くことしかできない。美百合の顔を……まともに見られない。 「…………」 「私、着替えてきます。荷物をまとめて……パパと、 行きます」 「美百合っ!」 「美百合ちゃんっ」 「ちょっと、真一! いいの、このままで!?」 いいわけがない。いいわけがないんだけど…… 「…………ごめんなさい」 悲しげに告げて、奥へと去っていく彼女を引き留めることが……僕にはできなかった。 引き留めてどうなる?追いかけてどうする? きっと、どうにもならない…… 美百合はこれまでもずっと、こんなことを繰り返してきたんだ。 だから想い出を作らないようにしていた。別れが……こんなにも辛くなるから。 なのに……なんで、ここで、僕とだけは、想い出を―― 「――バカァッ!!」 「――っ!?」 ……叩かれ、た? 芹花に? 頬を? 「うっわ。本気でいったなぁ……」 頬がジンジンと熱を帯びて……熱い。 目が覚めるように、頭の中がハッキリしていく。 「あんた何黙って行かせてるのよ! 男でしょ! 美百合のこと好きなんでしょ!!」 「だったらうじうじ考えるな!! 悩むな!! 今すぐ 行動しろ!! あんたの悪いクセなんだから、 それっ!!」 「今、最優先しなきゃいけないのは、あんたと美百合の 気持ちでしょうがっ!!!!」 「……うん」 気持ち……そうだ、気持ち。 僕はまだ、肝心なことを彼女に伝えていない。そして……彼女と離ればなれになんか、なりたくない。 いつも肝心なところで動けない僕……駄目だ、こんなんじゃ。 「芹花、ありがとう、目が覚めた」 「お……おうっ、わかればいいのよ。わかれば」 僕があまりに明るく、ハッキリと答えたものだから、芹花の方が面食らっている。 「ごめん、ちょっと行ってくる」 「……謝るな、ばーか」 そんな声を背中に受けながら、僕は美百合がいるはずの部屋へと、向かった。 「美百合?」 ……中から、返事は返ってこない。 ただ、身じろぎするような気配だけが、伝わってきた。 「…………」 試しにドアノブを握ってみると……すんなりと回る。鍵はかかっていない。 「……入るよ」 「…………」 彼女は、そこにいた。 「美百合……」 「どうして……私は、もう」 「好きだ」 「……っっ!」 「ごめん、まだ言ってなかったよね」 好意を寄せられて、身体を重ねて、行為を繰り返して……流されるままで、僕は自分の気持ちをハッキリ彼女に伝えていなかった。 それは……心のどこかで、こんな日が来るのを恐れていたからなのかもしれない。 限られた時間の中で、お互い求め合って…… 傷つかないように、別れる。 そんな器用な真似……僕たちにできるわけ、ない。 「好きなんだ。ずっと傍にいたい。いて欲しい」 「そんなこと……言われても……」 泣きべそをかきながら、でも彼女は嬉しそうに笑って…… 「今になって、そんなこと言われちゃったら…… 離れられなくなるじゃないですか……」 「美百合!」 強く強く、彼女の身体を抱き締める。 柔らかで温かくて、いい匂いがする美百合の身体が、今、僕の腕の中にあった。 「んっ……!」 美百合も僕を力いっぱい抱き締めてくる。少し苦しいけど彼女の想いが伝わってきて心地いい。 「真一……くんっ、んんっ――」 彼女は僕の唇に自分の唇を激しく重ね……僕もまた、それに応える。 「んぅ……ん、んぁ……ん、ちゅっ、んあ、んんんっ……」 「ちゅっ……しんいち、くんぅ……ちゅ、んんぅ…… んるぅ……ちゅぷっ……」 たっぷりと口づけを交わしてから、彼女は僕の胸に顔を埋めた。 「……ありがとう。そして、ごめんなさい」 「本当は全部、正直に話さなくちゃいけなかったのに…… 怖くて何も言えなかった。何もできなかった」 「でも、もう、言える……離れたくない……」 「私……真一くんと離れたくない……よ」 嬉しさと逃れられない現実の悲しさと……色々な気持ちが混ざり合っているのか、美百合は目からまた涙がこぼれている。 それを指ですくい……僕は、ひとつの決心を固めつつあった。 この腕の中の温もりを失ってしまうのは……僕だって、イヤだから。 「真一くん……お願い」 美百合が顔を上げる。涙に濡れたまなざしで、僕にすがりついてくる。 「私を助けて……」 「また私を……助けて……あの時みたいに」 「助けて……真一くん……」 「ぐすっ……真一くん……」 泣きじゃくる彼女を、僕はさらに強く抱き締める。 ――そうだ、助けなきゃ。ほかの誰かじゃなく、僕が。 僕自身が彼女を助けてあげなくちゃいけない。 あの時――子供の頃は、泣いている彼女にケーキを届けることしかできなかった。 でも、今なら……少なくとも、あの頃よりは大人になった僕たちなら…… 何かできることがあるはずだ。 悲しいことをただ受け入れるだけなんて、悔しいじゃないか。 僕の願いはただひとつだけ、美百合と一緒にいたいだけ。 それ以上を望もうとは思わない。だから…… 「美百合、支度して」 「……え」 一瞬、彼女の顔が強ばる。家に帰る『支度』だと思ったのかもしれない。 けれどそれは誤解だ。僕は、彼女を一瞬でも不安にさせたことを謝るように、頬を寄せ、耳元にささやいた。 「ふたりで、ここを出よう」 「真一くん……!!」 彼女は服を着替え、持ち込んでいた荷物をまとめ―― 僕は部屋へ戻り、急いで服や現金などの荷物をまとめ―― みんながいるカフェの方ではなく、家の出入り口……それも勝手口からひっそりと、抜け出した。 そして―― 「真一くん……手を、握って」 「うん、絶対に放さない」 「……うん」 電車が近づいていることを告げるアナウンスが、流れている。 夏にしては冷たく、肌を刺すような風がホームを吹き抜けた。 僕は美百合の手を、きっと彼女が痛いと思うくらい、強く強く握り締めた。 彼女がそうしてくるのと同じように、強く強く…… 「それじゃ、行こうか?」 「うん……」 行き先は決めていない。ただ、ここではないどこかへ。 離ればなれになりたくない一心で、現実から逃れるために……僕たちは、旅立つ。 「真一くん……ありがとう」 今日何度となく聞かされた『ありがとう』が、ホームに滑り込む電車の音に消されることなく、僕の耳にしっかりと届いた。 空が徐々に、朝焼けの紫色に染まり始める頃―― 僕たちは北へ向かう電車に揺られていた。 早朝の電車、その静かな車内には、レールの継ぎ目をまたぐ車輪の音だけが規則正しく響いている。 少し疲れていたせいもあって、僕たちはただ静かに、その音に耳を澄ませていた。 まばらにいるほかの乗客も、みんな黙って目を閉じているか、じっと窓の外を眺めたり、時折退屈そうに欠伸をしているだけだ。 ――ガタン、ゴトン その音がひとつ鳴る度、僕たちはあの町から遠ざかっている――そんなことを、ぼんやりと考えていた。 お互いに、家族の目を避け、逃れるようにひっそりと…… 僕がずっと暮らした家。そして彼女とほんの数日、一緒に暮らした家――その家から離れていった。 駅に着いて上りと下り、どちらの電車に乗るかを決める時も、大した話はしなかった。 ただ『北へ向かう』という話をした時、『逃避行の行き先としてはベタなのかな?』なんて、ふたりで笑いあったことは覚えている。 プレハブのような駅舎に、むき出しのコンクリートを固めただけのように見えるホーム。 それが旅立ちの場所としてふさわしいかどうかは、わからなかったけれど…… ホームにある吹きさらしの長椅子に腰を下ろすと、美百合が携帯型の音楽プレイヤーを取り出した。 イヤホンを片方ずつ耳につけて、電車が来るまでの間、ふたりで同じ音楽を聞いて過ごした。 誰かが追いかけてこないか―― この先どこへ行くのか―― そんな、漠然とした不安を紛らわせるために、手を繋いで、ただ静かに音楽に耳を傾けた。 そして―― ――やってきた電車に、僕たちははしゃぐように飛び乗った。 夏の夜は短く、空が赤らんできている。 家にいるみんなはもうとっくに、僕たちがいなくなったことに気づいているだろう。 「……不安?」 僕の肩に頭を乗せた彼女が言う。 「……少しだけね」 一応、書き置きだけは残してきた。 ほとぼりが冷めた頃に一度連絡するという旨を書いておいたので、多少の時間稼ぎになればいい。 みんなを驚かせ、困らせるだろうけれど……不安にさせることだけはしたくなかった。 ……いや、どうしても不安にはさせてしまっているのだけど…… 「むしろ、僕自身が少ししか不安に思っていないことに、 驚いてるんだ……もっと、怖いことだと思っていたから」 「怖いこと……ですか?」 「怖いというか、なんだろうね……大それたこと?」 あの町で暮らすのが当たり前だと思っていた。そこから踏み出すことに、いつしか臆病になっていたんじゃないかと思う。 本当はこんなに簡単なことだったのに―― 「僕は……流され過ぎていたのかな?」 退屈な田舎町に嫌気を感じながらも、宗太がいて、芹花がいて、杏子がやってきて……なんだかんだで楽しく過ごせていれば、それも悪くないと思っていた。 「……もし、真一くんがこれまであの町にいたことを、 ただの時間の空費だと思っているのなら、こういう 解釈はどうでしょう?」 「……どんな解釈?」 「真一くんは、私を待っていてくれたんですよ。 幼い頃出会ってからずっと、あのカフェで」 あのカフェでずっと……彼女が来るのを待っていた。そして彼女もまた、巡り巡って戻ってきた。 「そういう、乙女な解釈ってダメですか……?」 「いいんじゃないかな。だったら、あの町を飛び出す なんて決心ができた理由もわかる」 「どんな……理由ですか?」 「キミが来てくれたから」 なんとしてでも手にしておきたい何かに気づいた時――日常は呆気なく、放り出せるものだと感じた。 僕にとって手にしておきたいもの、それが美百合だった。 だから僕は今、ワガママを貫き通している。 彼女を傍においておきたいという、その一点を…… 「おかしいよね。絶対怒られたり、呆れられることをして いるはずなのに」 「僕が今不安を感じていないのは、やっぱり美百合と一緒 だからだと思う」 「ふふふっ、言ってくれますね」 美百合は赤くなって少し肩をすくめた。自分もクサイこと言っている気がして、恥ずかしくなってくる。 「でも……同じ気持ちです。私もあなたがいるから…… 怖くない」 彼女がより一層、僕に身体を擦りつけてくる。 「それに……実は私は、期待でドキドキしちゃっているん ですよ。これからずっと一緒だなんて信じられなくて、 まるで夢みたい」 「まだ、昨日寝た時の夢の続きなんじゃないかって、 そんな風に感じているぐらいですから」 「これが事実だし、現実だよ」 「これが事実で……現実」 僕の身体が確かに傍らにあることを確認するように、美百合が二度、三度と自分の身体を揺する。 「はぁ……」 ただ傍にいれば、それだけで…… その実感に、僕はこの上ない喜びを感じていた。 「……真一くんは、これからどこか行きたいところ、 ありますか?」 「そうだなぁ……特にないけど……」 「じゃあ、ここなんかどうでしょう?」 美百合が鞄の中から手帳を取り出し、そこに挟まれていた一枚の切り抜きを広げた。 「雑誌の記事なんですけど、咄嗟に思いついて持ってきま した」 「温泉……?」 それは、山に囲まれた小さな温泉郷の記事だった。 「はい。しばらくゆっくりできるところがいいと思って。 ここなら、今向かっている方向と同じですし」 「そうか……泊まるところもたくさんありそうだし、 いいかもね」 見知らぬ土地で、ふたりだけで過ごす―― 淡い期待と少しの不安を乗せて、僕たちの列車は進んでいった。 長い時間をかけて、僕たちは複数の路線が乗り入れる、ある大きな駅に辿り着いた。 そこで別のローカル線に乗り換えて…… 再び市街地から田園風景へと抜け、やがて山間へと進んだ。 いくつものトンネルをくぐり、いくつもの鉄橋を渡り、その終点まで乗りつけたところに、目的にしていた小さな街があった。 「ふう……ひとまず、到着ですね」 「ずっと座ってただけなのに、結構疲れたね」 前の日の夜に元いた町を出たというのに……ここへ着く頃には、すでに日が傾きかけていた。 四方を山に囲まれた、渓谷沿いの小さな温泉郷。 街の中心に川が流れており、その川に沿っていくつもの温泉宿が軒を連ねている。 雑誌だけでじゃなく、テレビでもたびたび取り上げられる観光地だけど、僕たちが実際に訪れたのは初めてだ。 「古い建物が多いなぁ……」 観光案内によれば、この街は温泉街として古くから湯治場として親しまれており、教科書に出てくる有名な戦国武将などもこの地を訪れていたらしい。 そんな歴史を感じさせる街並みもひとつのウリなのか、少し歩くだけで木造の商店や蔵などが目につく。 「川の流れの音も、趣があっていいですね」 「うん。遠くまで来たって感じがするよ」 僕は遠くに見える山を眺めながら、おもいっきり息を吸った。 違う街の空気を全身にいきわたらせる。 「やっぱり、匂いも全然違うや」 「そうですね、潮の香りも素敵ですけど、山の香りも心が 落ち着きます」 「観光地だからもっと人が多いかと思ってたけど、意外と 静かだしね。ここなら、ゆっくり過ごせそうだ」 観光地として有名な割には、大規模にリゾート化しているわけでもなく、人の手が入っていない自然が多く残されていることは、僕には好意的に思えた。 「ふふっ、思いつきだったんですけど、真一くんが気に 入ってくれてよかった」 「観光は明日にして、今日はもう遅いから宿を探そうか」 「そうですね……」 行こうか、と目で合図するとそうするのが当然のごとく、僕らは自然に腕を組んだ。 趣のある古い建物を一つ一つ眺めながら、そして見慣れぬ景色を堪能しながら、肩を並べて歩いて行く。 と、彼女は不意に立ち止まった。 「あの、真一くん……」 「どうしたの?」 「もし、もしですよ……? 宿の人に私たちの関係を 聞かれたらどうしましょう?」 「え……? それは……」 「恋人……じゃいけないのかな?」 「恋人でもいいんですけど、私たちみたいな世代の カップルって、こういうところにデートで来るの かなって……」 「夏休みだし、大丈夫だと思いたいけれど……そうか。 若過ぎると素性を疑われたり、余計な詮索をされる のかな?」 「ええ。なので……」 「兄妹ってことにしませんか? ふふっ」 「兄妹? 僕たちが?」 ……何か深刻な話になるのかと思いきや、美百合は明らかに楽しんでいる。 その証拠に、僕だけに見せるイタズラっ子のような表情になっている。 「……ち、ちなみにそれって、どっちが年上になるの?」 「もちろん、真一くんに決まってるじゃないですか」 「やっぱり……でも、僕より美百合の方がしっかりして いるように見えると思うんだけど」 「う~ん、そうかもしれませんね……」 そこはあっさり認めるんだ…… 「でもきっと、兄がだらしないからしっかりした子に 育ったんですよ」 「何、それ……」 「ふふふ♪ お・に・い・ちゃん♪」 「…………」 ずるい。女の子はずるい。 こんな風に楽しそうにされたら、許さなきゃいけないような気になってしまう。 「……はぁ、わかった。じゃあ、僕がお兄さんってことで」 「ふふふっ、可愛い妹を守ってくださいね、お兄ちゃん♪」 ずるい。美百合はずるい。 僕が彼女を守らないはず、ないじゃないか…… 宿が連なる通りを歩きながら、なんとなく雰囲気のいい旅館を見つけたので、僕たちは早速足を踏み入れた。 空き部屋を確認してもらうと、ちょうどキャンセルが出たとかで、都合よく部屋も見つかった。 「こちらがお部屋になります」 結構由緒ある旅館だったらしく、部屋までは女将さん自ら案内してくれた。 確かに、学生が気軽に利用していいものじゃなかったかなと、ちょっとだけ後悔もした。 敷居の高さを感じるし、余計なことを聞かれないか、つい緊張してしまう。 「ごめんなさいね、お部屋、ふたつご用意できれば よかったんだけど」 「いえ、僕としては安上がりで助かります」 「ふふっ、いい眺めじゃないですか!」 ところが美百合ときたら、部屋に入るなりはしゃいで、早速窓から顔を突き出して外を眺めている。 「お兄ちゃん、見て! 川が見えますよ」 「あ、ああ……そ、そうだね」 彼女が『お兄ちゃん』と言う度にボロが出てしまわないか、妙な緊張がはしる。心臓に悪いよ、これ。 「お母さんたちも、こっちに来ればよかったのに……」 お母さんとか……どこまで設定を広げるつもりなんだろう? 「お兄ちゃん、上着脱いで? 掛けてあげる」 「え……い、いいよ、自分で脱げるから」 「もう遠慮しなくていいから。早く脱いで?」 「あ……ありがと……」 僕の不安を余所に、美百合はすっかり『妹役』を楽しんでいるみたいだ。 慣れない兄さん役に僕は戸惑ってばかり……男兄弟じゃ、絶対こんなことしないし。 「妹さん、本当にお兄さんに甘えたいんですねぇ」 「え!? そ、そんなことは……」 女将さんに指摘され、顔を赤らめる美百合。 「……それはなんとなくわかります」 世話焼きの妹を演じているつもりだろうけれど、必要以上にコミュニケーションをとりたがる辺り……本物の『妹』とは、どこか違うように見える。 「お兄さん、わかっているなら妹さんを大切にしてあげて くださいね」 「……はい」 見抜かれているのかもしれない。女将さんはわざと、僕たちの『兄妹』設定に合わせて話してくれている気がした。 お茶を用意してくれながら、その女将さんが微笑む。 「私にも、ひとつ年上の兄がいるんですけどね、たまに しか顔を見せてくれないんですよ」 「また、その兄が困った人で、突然帰って来たかと 思ったら、いつも違う女の人を連れてきて……」 「ああ。そういう時、妹としてはどんな顔すればいいのか、 わからないですよね!」 「ホントよねぇ? まったく、どうしたものかしら」 「まったくどうしたものでしょう?」 「いや……僕の顔見ないでよ」 「ふふふふ……」 「おほほほ……」 ふたりして、僕をからかっている雰囲気が満々なんですけど? 「では、お夕食の準備ができたらご案内させて頂きます から、それまではごゆっくりおくつろぎください」 女将さんがようやく部屋から出て行ってくれた。 「…………ふぅー」 どっと疲れを感じた僕は、荷物を降ろすと畳の上に倒れ込んだ。 「お兄ちゃん、大丈夫?」 「美百合……それ、いつまで続くの?」 「てへっ☆」 「……ははっ」 こんな状況でも遊び心を失わない彼女に、少し救われた気がした。 夕食は食堂……というか宴会場で済ませ、部屋へ戻ってみると、すでに布団の用意がされていた。 「……えーっと」 ぴたりとくっつけて敷かれているふた組の布団を前にして、僕は目眩を覚えた。 「気が利いてますねぇ」 美百合は相変わらず楽しそうで、今も平然と布団の上に座って、その柔らかさを楽しんでいる。 「絶対ばれてる、というか怪しまれていると思うんだけど、 大丈夫なのかなぁ?」 「どっちでもいいじゃありませんか。ワケありの客なんて、 この手の職業の方なら見慣れているでしょうし」 「うーん……」 「詮索してこないんですから、大丈夫ですよ。ほらほら、 私をここまで連れてきてくれた、あの頼もしい お兄ちゃんは、どこへ行っちゃったんですか?」 「またそれ……」 「ふふふっ。さ、まだ寝るにも早いですし、テレビでも 観ませんか? この辺りはまた、違う番組が映るかも」 「あ、ああ。そうだね」 「えいっ」 美百合はテレビを点けると、適当にチャンネルを変えていった。 映し出されるチャンネルが違うだけで、やっている内容は僕らの町とほぼ同じだった。 「ふーむ、残念。意外と一緒ですねぇ」 ひと通り流し観てから、彼女は見覚えのあるクイズ番組でチャンネルを止めた。 「結構離れたつもりだったんだけどな、今はどこも 似たような番組が観られるのかな?」 「うん……」 修学旅行の時なんかに地方へ行くと、いわゆるローカル局の番組をみんなで冷やかしながら観たものだけど…… 画面の中では司会者のボケに合わせて、お笑い芸人たちが一斉に転んだりしている。 いつもの、よく見かける光景…… 「……お茶でも淹れようかな」 「あ……私がやりましょうか……?」 「いいよ」 返事を待たず、備え付けの急須にポットからお湯を注ぐ。 美百合は、自分の出番はないと悟ったのか、布団にうつぶせになって両手で頬杖をつき、脚をぷらぷらさせながらテレビに目を向けていた。 なんというか……緊張の欠片もない。 湯飲みにお茶を注ぎ、差し出した時もすっかりくつろいでいる様子だった。 「はい、お茶」 「ありがとう……」 それからしばらく、僕たちは特に会話もなく、ぼーっとテレビを観ていた。 ひとりで観ていたらそれなりに笑ったかもしれないけど、ふたりで観ていると味気なく感じてしまうのが、少し不思議だった。 ――ふたり、なんだよな。 すぐ横で、美百合が寝転んでいる。手を伸ばせば触れられる距離に、美百合の身体がある。 ……肌を重ねたといっても、考えてみたら一緒の部屋で眠ったことはない。 家にいた間は、別々の部屋で寝泊まりしていた。 僕の部屋で初めて結ばれた日も、見つかると恥ずかしいからと、こっそり抜け出して自分の部屋へ彼女は戻っていった。 だから、さぁこれから寝るぞ、というタイミングで美百合が傍にいるというのは、なんだか妙な感じがする。そわそわして、落ち着かないというか…… 一緒にいるって、こういうことなんだなと思う。 寝顔を晒してもいいと思っているから、同じ部屋にいるわけで……お互いに全部見せてもいいという、信頼の表れなんだと思う。 全部……そう全部。 僕の腕の中で乱れていた、彼女の艶めかしい肉体と、その存在感が思い起こされる…… ここなら人目を気にする必要も、時間に急かされることもない。好きな時に好きなだけ、行為に溺れられる。 そんな蜜の味が胸の中にこみあげてきて……迷う。 本当にこのまま、欲望に任せて彼女を抱いていいのか?それじゃまるでここまで、エッチをするためだけに来たみたいじゃないか。 そうじゃなくて……そうではないはずなのに…… 「……美百合」 自分の揺れる心を決めかねて、彼女に声をかける。 「…………」 返事が、ない。 「美百合」 「…………」 ひょっとして……待ってる?でも―― 「……ん」 「あ……」 「すー……すー……」 「…………あ、あれ?」 彼女はいつの間にか、静かな寝息を立てていた。 さっきまでテレビを眺めていたはずの顔が、かっくんと下に向いている。 「ん……んん……」 「……そりゃ、疲れただろうしね」 家を出てからずっと移動して、慣れない場所ではしゃいで、その実ずっと緊張や不安を抱いていたはずで…… それが、柔らかな布団に寝そべっていれば、眠くなるのも当たり前だ。 「僕はバカだな、ホント……」 ふたりきりってことを意識した途端に、余計なことばかり考えて…… もっと、考えなくちゃいけないことがあるはずだ。これからのこと、ふたりのこと…… 「……はぁ」 僕は美百合をきちんと布団に寝かせ直して、テレビを消し、明かりを消した。 「お休み」 「ん……ぅん」 横に敷かれていたもうひと組の布団に潜り込んで、考え込む。明日から、どうするべきなのかを…… 「…………あ」 気づけば、朝日が部屋に射し込んでいた。 考え込んでいる内に、眠り込んでしまったらしい。軽く頭を振って、身体を起こす。 「……風呂にでも入ってこようかな」 頭と気持ちをスッキリさせたかった。 持ち出した現金で何泊できるかとか、どうやったら生活費を稼げるかとか考え…… 当座の生活をしのぐ方法ばかりでなく、最終的にどうするのか、決めなくてはいけないとも感じていた。 何しろ僕らはまだ学生だ。辞めて働くにしても、どこかに落ち着いて仕事を見つけなければいけない。 そんなことをぐるぐる考えている内に、寝落ちていたみたいだ。 結局、結論は出ていない。でも絶対、戻ることだけはしたくなかった。 戻れば、彼女と離ればなれになってしまう。考え続けた結果、そんな恐怖だけが心に残っている。 「……これじゃ、彼女みたいに笑えない」 「……すぅ」 傍らで彼女は、幸せそうにまだ眠っていた。その寝顔を守らなくちゃいけないと思った。 「――よし、さっぱりしてこよう」 ここの宿には確か、露天風呂があったはずだ。時計を見るとまだ早朝という時間帯で、今やっているかどうかは、わからないけれど…… 風呂がやっていなかったら、少し辺りを散歩して、頭を冷やしてもいい。 そう考えて、僕は彼女を起こさないよう、静かに部屋を抜け出した。 「……ふぅー」 岩風呂の淵に背を預けて、僕は思いっきり伸びをした。 「やっぱり、外で入るお風呂って気持ちいいなぁ」 露天風呂には、たまらない解放感がある。 幸い風呂は開けられていたけれど、ほかのお客さんの姿はなかった。 朝風呂を浴びる人はもうみんな済ませてチェックアウトの準備や朝食にかかっているのかもしれない。おかげで貸し切り状態。 「このまま全部、うまくいくなんて思っていないけど……」 こうしてくつろげる時間がとれるのは、単純に嬉しかった。心身がリフレッシュされる気がする。 「美百合にも、あとで入るように勧めようかな」 そんなことを考えていると…… え――? 「あっ、真一くん発見!」 「み、美百合!?」 「よいしょっと」 「よいしょって……わわっ!!」 美百合はためらうことなく、お湯の中に入ってきて、僕と肩を並べるように座った。 「ちょっと、美百合、まずいって」 「何がですか?」 「だってここ――」 「混浴ですよ。何か問題でも?」 「え……あ、そうなの?」 「気づいてなかったんですか?」 「……更衣室は男女別だよね?」 「当たり前です。でも、湯船は共通ですよ」 「う、うーん……」 それならそれで……とは納得できたけど、にしても…… 「僕がここにいるって、よくわかったね?」 「……宿の人に聞いて回りましたから」 「え」 美百合の目が……僕のことを責めるような、それでいてどこか……泣き出しそうな色をしていた。 「起きたらあなたがいなくて、慌てて部屋を飛び出して、 宿の従業員さんやほかのお客さんに、あなたを見かけ なかったか聞いて回って」 「ここへ入っていくのを見かけた、っていう仲居さんが いたから……」 「…………」 ひょっとして僕は、彼女にひどく寂しい思いをさせてしまったんだろうか? 逃避行の末に、一緒にいたはずの男の姿が不意に消えていたら…… 「……ごめん。せめて、書き置きぐらい置いておけば よかった」 「まったくです。それにこんないいお風呂、ひとりで 楽しんじゃうなんて、ずるいです」 僕に責任を感じさせないようにしてか、彼女は笑って言ったけれど…… 目尻をそっと指で拭っていたのを、僕は見逃さなかった。 「ごめん……」 「んっ……」 お湯の中で、彼女を抱き締めた。もう二度と寂しい思いをさせたくない……その一心で。 服を脱いで抱き合うのとはまた違う、お湯の中で肌が触れ合う不思議な感覚に包まれる。 「こんなに……好きになるとは思いませんでした」 彼女は僕に身を委ねている。安心しきったように、ほっと息をついて力を抜いていた。 「自分でもバカだなって思うくらい、あなたのことを 好きになってしまいました」 「……どうしましょう?」 湯の中で身体と身体が擦れる。 焼けるように熱い身体とその柔らかさと……心細げな言葉。その全部を、抱き締める。 「あなたの姿が見えなかった時、本当に私、取り乱して しまって……」 「でも、この温かさに触れていられれば、全然寂しくない」 「美百合……」 「ずっと、こうしていて……」 彼女を温めてあげられるのは、僕しかいないんだ。 「そうだね……こうしていれば、あったかい」 そして、僕もまた…… 「美百合だけは、手放さない。絶対に……」 彼女を手放したら、僕は終わりだ。この世で僕たちはふたりきり――そんな想いに捕らわれていた。 「真……いち、くん」 すがるように呟いて、振り向いた彼女の唇が……僕のそれと重なる。 「んっ……ちゅ……ちゅっ……」 「んんっ……ん、ふぁ……んっ……ちゅ、ちゅっ……」 このままふたり一緒に溶けてしまいたい……そんな想いだけがあった。 *recollect湯船から上がり、抱き合って、見つめ合う。 「はぁ……」 僕にまたがった美百合の入り口が、僕のモノにぴたりと寄り添う。まるで、そうあるべきとでも言うように。 「あんっ……」 僕の先端がそこに触れて、彼女が小さく声をあげる。 熱い、出来たてのゼリーみたいな感触がモノを伝い、落ちてくる。 「傍にいるだけなのに、触れ合ってるだけなのに、 どんどん溢れてくるんです」 少し鼻にかかった声で言う彼女の顔は、お湯に温められた以上に赤く火照っていた。 「……私って結構単純な女みたいですね、知ってました?」 「なんとなく、ね。普段はうまく隠してるみたいだけど」 「それは周りがそうさせているだけ……」 「これが本当の雪下美百合です。どうか捕まえてください」 「うん」 美百合が顔を寄せてくる。 近づくのを待ちながら、最後の瞬間だけ僕の方から口づける。 「んんぅ……ちゅむ……」 触れ合わせ、押しつけ、名残惜しむようにそっと離す。 そしてほんのわずか、見つめ合い、再び唇を合わせる。 「ん……ちゅ……んんっ……ふぅ……ちゅぅん……」 今度は互いの唇を吸い合って、お互いを求めるように。 「んぅ、ちゅっ……あなたになら、何をされてもいい…… あなたの好きにしてください……」 身も心も裸になった僕たちは、どこまでも素直で、遠慮をする理由はどこにもなかった。 満足そうに微笑む彼女に微笑みで答え、僕は彼女の身体を引き寄せた。 「はぁあ……くっ……んんっ……」 亀頭の尖端が美百合の中へと沈んでいくと同時に、狂おしいほどの熱量が僕を襲う。 「くぁ……あ、ぁぁぁ……んうぅんっ!!」 火傷するんじゃないかと思うほどの熱さ。なのに美百合はゆっくりと、でも自分から腰を落としてくる。 「ああっ、硬いのが、入って……くる……真一くんが…… ん、はぁっ!」 温泉なんかよりずっと熱い、まるで溶けたチョコレートのような、ドロドロした秘部に僕のモノが呑み込まれる。 「ふうぅぅぅん……はぁぁぁぁぁぁ……!!」 大きく息を吐き身体を震わせて、僕にしがみつく美百合。 「はぁ、はぁ、はぁ……あぁ、あぁぁぁ……はぁ」 今まで僕が彼女を支え、抱き締めていたつもりだけど…… 僕のモノは、ひくひくとうごめく美百合の秘所にすっかり咥え込まれていて。 「そっか……私が、あなたを捕まえてるんですよね……」 「ははっ……どちらかっていうと、そんな感じだね」 彼女がぎゅっと締め付けてくるのを感じて、ちょっと苦笑した。 「もう離しませんよ? 何があっても。 それでもいいんですか?」 「そんなの、家を出た時から答えは決まってるよ」 悩んでも、悔やんでも、心細く思っていても、何も始まらない。 僕たちはもう、一歩を踏み出してしまった。だから── 「絶対に、僕はキミの傍から離れない」 「真一くん……んんっ、はぁぁぁ……」 強く抱き締めて耳元でささやくと、彼女はふるふると震える。 「美百合って、耳弱い?」 「え……耳、ですか? どうでしょう……自分ではよくわ からないですけど、その……あぁんっ!」 恥ずかしそうに俯く彼女の耳に、言葉半ばでふっと息を吹きかけてみた。 美百合は小さく悲鳴をあげて、快感に打ち震えているように見える。 「やっ、みみぃ……こんな時に、そんな風にしちゃ、ダメ です……」 上半身だけじゃない。繋がったままの下半身も、ぴくんぴくんとうごめいていた。 腰を動かさなくても、波打つその感触だけで、じわじわと快感がせり上がってくる。 「もっと美百合の気持ちいい声、聞きたい」 「えっ? あ……んうぅぅんっ!?」 僕は少し意地悪な気持ちになって、彼女の耳に舌を這わせ、舐めまわした。 「はぁぅぅっ……だ、だめ……ダメダメ、こんなのダメ です、だめ、ダメダメダメぇっ!」 首を背けて逃れようとする彼女の耳を追いかけ、その輪郭に沿ってねぶり…… 「ああっ、あ……ああんっ! やっ、こんな、の」 耳全体を口に含むようにむしゃぶりつくと、穴の中に舌をねじ込んだ。 「あ、あ、あ、そ、そんなとこ……まで!? んんっ、 はぁっ! あっ、あああっ!」 舌を這わす度に喘ぐ美百合の姿が嬉しくて、ついついしつこく攻めてしまう。 「ふぇ、ふぁぁぁっ! ああっ、ああんっ! んっ、 やあああぁぁぁっ!!!」 びくびくと美百合の身体が跳ねる。その度に僕のモノと彼女の内側が擦れ合う。 「はぁぁぁ……はぁぁぁ、こ、こんなの、やぁぁ……この ままなんて、せつないのぉ」 「ホント、可愛い……」 「んぅぁぁ!? あぁっ、あぁぁぁっ……!!」 美百合の耳たぶを軽く、噛む。すると、彼女の身体が大きく一度ビクンと跳ねた。 「ふぅぅ……はぁぁっ、はぁぁっ…… あ、あぁぁ……ああ…………ん」 ほかの人には絶対に見せないだろう、蕩けきったような表情で、うつろに僕を見つめてきた。 「やだ……私、いまぁ……かるく、いっちゃった……気が、 しますぅ」 耳だけでこんなに感じてくれるなんて…… そして、彼女をこんな風にしてしまっているのは、ほかでもない僕だということに……言い知れない感動がこみ上げてくる。 僕だけに見せてくれる表情、僕だけにさせてくれる行為。これが、僕と美百合だけの世界。 「ずっと、こうしていたい……」 「うん……僕も……」 見つめ合いながら、再び唇を重ねる。 「んぁ……ん、ちゅぅ……はむ、あ、んん……んちゅっ」 何度こうしても、飽きることはない。 「はむぅ……あむ……ちゅ……れるぅ……れるっ……」 自然とふたりの舌が絡み合い、吸い合い、ついばみあう。 「う……ん……」 「んちゅ……あっ、はぁ……んちゅ……んんっ、んるぅ」 漏れる吐息さえも心を昂ぶらせる音に聞こえる中、僕らは何度もキスを繰り返す。 舌を擦り合わせる度、口の中をねぶられる度に、ひとつひとつ理性のたがが外れていく。 「はぷっ……キス、すきぃ……ちゅっ、ぢゅぷ……」 ここが露天風呂だとか、誰か来るかもしれないとか、もうほかのことはすべてどうでもよかった。 目の前にある美百合が、僕のすべて。 「んはぁ……あ、あなたが……あなたが、私のすべてです」 「美百合……大好きだよ」 月並みな言葉だと思いつつ、そう口にするしかない。 「私もです…… 真一くんを、もっといっぱい感じてもいいですか……?」 「うん……」 「じゃあ……んんっ!」 恐る恐るゆっくりと、彼女は僕の背中に廻した手を支えにして、腰を揺すり始める。 まるで僕の様子を見守るように、そして彼女自身の具合を確かめるように、目を見開いて。 「んっ、はぁっ、あ……ああっ、か、硬いっ……!」 「んっ、んんっ、はぁっ、ああっ! お、奥まで、 と、届いてるっっっ!」 この体勢だと、僕のモノが美百合のアソコに出し入れされる様がよく見える。 引き出される度にめくれ上がる彼女のアソコは、痛々しくも見えるけど、それこそが快楽を満たす甘い痛みなんだろうか? 「あ、あ、やっ、やだ……これ、丸見え、ですっ…… す、すごくいやらしい……ひゃぅっっ!!」 「……うん、興奮する」 「わ、私も……! やっ、はっ、あぁんっ! き、気持ち いい……これ、気持ちいいです!」 美百合はあられもない声を上げ、僕に腰を押し付ける度にアソコはきゅうきゅうと脈動して、僕のモノに吸い付いてきた。 「……くっ」 思わず声を漏らすと、美百合が照れくさそうに微笑む。 「あっ、んはっ、真一くんも、気持ちいい、ですか……?」 「き、気持ちいいよ……」 「わ、私もです……いつもより、吸い付くみたいで…… あああっ!! あんっ! あんあんっ、あああぁっ!!」 微笑んでいたはずの美百合が、泣き出しそうな表情に変わっていく。 「や、これ、恥ずかしい、声、抑えられない……あぁっ!! 恥ずかしい、恥ずかしいです……っ!!」 顔を真っ赤にして、切なげに訴えかけてくる美百合。 けれど言葉とは裏腹に、彼女の動きは次第に大きくなっていく。 乱れる――美少女然とした普段の彼女からは想像もつかないけれど、今の美百合にはそんな言葉がよく似合う。 「はぁぁっ、やぁ、くっ、あぁんっ!」 「はぁ、はぁ……美百合、んくっ」 「あっ、あっ、んんっ……真一くんが、刺さってます…… 刺さってるのぉ、ああぅっ!!」 「んんっ、くぅっ! わ、私に……奥まで、ああんっ!! 深く刺さってるんです……!!」 まるで、何かのスイッチが入ったみたいに……いや、壊れたように美百合が激しく腰を打ちつけてくる。 「はぁ、はぁ、んんっ! ああっ、はぁっ、やあっ! 感じるっ! 真一くんを、感じるのぉ……!!」 何度目かのグラインドを一際大きく、深く感じた時――それは突然やってきた。 「ああぁっ、ああぁっ、んんっ、つぅっ! あああっ…… あああああっ!!!!」 彼女が背筋を仰け反らせ、大きく、ぶるぶるっと身体を震わせていた。 「んぁっ! くぅっ! あぁっ、はぁぁぁっ……!!」 「あ、あぁぁぁ……はぁ、んぅんっ、はぁ、はぁ…… はぁ…………はぁ…………」 それは一度では収まらず、彼女は壊れた人形のように僕の前で跳ねていた。 「っ……はぁ……はぁ……やだ、わ、私、また、先に、 ひとりでイっちゃった……」 「そんなこと、気にしなくていいよ」 できるなら何度でも、僕の腕の中でイって欲しいくらいだ。 「はぁ、はぁ……だって、真一くんが……まだぁ……」 「いいって。僕ばっかり気持ちよくなっても、それは 不公平な気がするし」 「で、でも……どうせならその、一緒に……」 「うん。だけど、美百合が気持ちよくなってるところを 見るのが、すごく嬉しいんだ」 「え、ううぅ……見られる方は恥ずかしいんですよっ。 そんなこと言う真一くん、なんだか意地悪です」 「それだけ、僕と美百合の距離が縮まったってことだよ」 「うぅ、そんな言い方も、ずるい……」 「……さっき言ってくれたろ、どうしてこんなに好きなの かって。僕もそう」 「自分でもこんなに人を好きになれるんだって、不思議な くらい、今、美百合のことが好きで……だから本当に 嬉しいんだ」 「ああっ……ううっ……もう!」 まだ繋がったままだというのに、美百合はギュッと僕にしがみついて、肩に顔を埋める。 美百合が何か動作する度に、僕のモノはぎゅぎゅっと刺激されるのだけど、それがまた気持ちいい。 「恥ずかしいことばっかり言う真一くんは、嫌いです。 イジワルなのもイヤ。だって……」 「だって?」 「……それでも、好きだから」 きゅっ、と下半身が締め付けられる。 「はぁ……はぁ……ふぅ、ああぁぁ……しん、いち…… くん……」 長い髪を揺らしながら、彼女の腰がゆっくりとまた、動き始める。 「美百合……?」 「大好きなあなただから……真一くんだけだから…… どうか、私で、気持ちよくなってください……」 「はぁ……はぁ……ふぅ……ふぁっ! はぁ……!」 絶頂の余韻がまだ残っているだろう身体で、僕を気持ちよくさせようと健気に動く彼女が……たまらなく愛おしい。 だから僕は、一緒になって、彼女を突き上げるように動き始める。 「ひゃうっ――!」 僕の仕掛けた不意打ちに、甘さの混じった悲鳴が漏れる。 「だっ、ダメっ! そんな急にっ――んぁあっ!」 太ももごと抱え上げ、さらに深く挿入する。 「ひぁっ、あっあっあっ、やっ、あっ、だめっ、んぁっ、 ああぁっ!!」 彼女の一番深いところの壁を、僕のモノがグイグイと押し上げる。 「んっ、んっ、や、あっ、すごい……真一くんのが、私の なかを、えぐってる……!!」 腰を押しつける度、身体を仰け反らせて美百合が喘ぐ。 「あっ、あっ、やんっ、あぁっ! お、奥まで、擦れてっ ……! あ、あ、あ、あぁんっ! ひぅっ!」 そんな彼女の反応が、僕の興奮をより加速させていく。 「ああぁっ! やぁっ! す、すごい、ですっ! あっ あっあっあっ! これ、すごい、すごいの、ああっ!!」 まるで内側で溶け合い、一緒になっていくような感覚に、夢中になって彼女を攻め続けた。 身体の内側から、じわじわと快楽が駆け上がってくる。もう限界も、近い。 「み、美百合っ! 僕、もう……!」 「うん、ああっ……いいよ、きて、きてっ……しん、いち くんっ! きてっ! すきっ、すきぃっ、大好きぃ!」 「あんっ、あんっ、うあぁ……! ふぇっ、はぁぁっ!! ああうっ! あうぅっ! あっ、あああああっ……!!」 「うっ、くっ……ああっ!!」 「――っ!?」 「んあっ!! あああああぁぁぁぁんんっっーーー!!!」 膨れ上がった僕の情熱が放出される。同時に彼女の膣内が、ぎゅうっとすぼまった。 「ふあっ……ああっ……ああっ……あぁぁ…………っっ!」 その脈動に合わせて、射精を続ける僕のモノが奥へ奥へと吸い込まれていく。 彼女の一番深いところに直接浴びせかけている感覚…… 「ふぁっ、ふぁぁぁっ……し、真一くんのが……!!」 ビクッビクッと小刻みに僕のモノが震え、その度に彼女の身体も反応する。 「んんっ……ああっ、あぁぁっ……はぁ……はぁ……」 「はぁ……はぁ、美百合……」 「はぁ……うん、あぁぁ……溢れてる、真一くんのが……」 「…………嬉しい……」 目を閉じて、幸せそうに呟く美百合。 そんな彼女に、僕は自然と顔を寄せて、キスをせがんでいた。 「美百合……ん……」 「あむぅ……ちゅ……ん、ちゅぅ……んむぅ……」 「真一くん、もっとぉ……ちゅ、ちゅる……んるぅ……」 「んんぅ……もっと、もっとぉ……あむ、ちゅぶっ……」 美百合が僕の頭を抱え込み、下半身同様すべて溶け合っていくような感覚に浸りながら、舌と舌をからめ合う。 互いを確かめるような長いキスをしたあと、解放と脱力の入り混じるまどろみに包まれて、僕らはしばらくの間、そのまま繋がり合っていた。 「はぁ……一緒に来てくれて、ありがとう」 「んっ……あ、もうっ…… それは……私の方が言うべきことですよ……」 「私はもう、あなたが傍にいないことなんて、考えられ ないんですから……」 「美百合……」 「う……うーん……」 「もしもし……あ、はい、すみません……」 「あ、わかりました。今伺いますので……はい、 ありがとうございます」 「……美百合?」 「あ……おはようございます」 隣で寝ていたはずの美百合が、髪や浴衣を整えながら、挨拶を返してきた。 「ん……」 「……うん」 頬を赤らめながら顔を寄せてきた美百合に、挨拶代わりの軽いキスをする。 「ふぁ……ふふっ」 彼女がどうしたいのか、どうして欲しいのか、なんとなくわかるようになってきた。一緒にいる時間が増えたせいかな…… 「以心伝心、ですね……んん」 言いながら美百合は、再び目を閉じてキスをせがんでくる。 「んっ」 「ちゅっ……ふふふっ」 その楽しげな笑顔は、夕べ僕の下で乱れていた彼女とは、まるで別人みたいだった。 ――エッチだけしに来たはずじゃないのに……気づけば、露天風呂で堰を切ったようにお互いを求め合ってから、昨日一日肌を重ねてばかりいた。 ここへ来た初めての夜のように、別々の布団を使うこともない。 同じ布団に入って延々と……キスを交わし、互いの身体をまさぐり、ひとつになった。 「ん……」 よくない、よな。そう感じつつ、拒むことも考えられない。 僕たちはもう、離ればなれにはなれないんだから…… 「朝食、9時半までなんですって。さっきの電話、 フロントからでした」 「え……あ、あぁ、そうなんだ。今、何時?」 「9時をちょっと過ぎたところです」 「そっか。起きなきゃね……」 「ふふふ……まだ、眠そうですね」 「まぁ、ね」 美百合とずっとイチャイチャしていただけなんだけど……いやだからこそ体力を消耗している? とにかく朝食と聞かされて、腹も鳴った。 「あんなに気持ちよさそうに寝ていたのに、 まだ寝足りないんですか?」 「……先に起きていたのなら、起こしてよ」 「だって、寝顔が可愛くって。つい見惚れていたんです もの、ふふっ」 「そ……そう?」 「ええ。あと寝言で何度も『兄さんっ! 兄さぁぁんっ!』 と」 「それはウソだ」 「あらつまらない。もうちょっと引っかかってくれても いいじゃないですか」 「引っかかりません」 「ぶー。つまんないです」 頬を膨らませているけれど……そのほっぺにまたキスをしてあげると、途端に美百合の表情が笑み崩れた。 「ん……今ので許してあげます」 「はい」 本当に……ずっとこんなことばかり繰り返していられたら、どれだけ幸せだろう…… 午後、美百合と連れだって、温泉街を歩いてみることにした。 僕の住んでいた町とは暑さの質が違うのか……日差しは照りつけているのに、カラッとして過ごしやすい気がする。 あと、やっぱりこういう場所は冬、寒い時期に賑わうのか……夏休み中だというのに、観光客の姿はあまり見られなかった。 それでも、寂れているというところまではいかない。静かに、落ち着いた土地……そんなところだった。 「まるで、大人の隠れ家って感じですね」 四方を囲む山々がすべての喧騒を飲みこんでしまう。セミの声すら、どこか遠くに感じられる。 まるで、世間から忘れ去られたかのような場所。 この街にいる間は、時間が止まると言われても、信じてしまいそうだ。それだけ安らげる。 「ただ、見て回れるような場所は、あまりないね」 駅前に設置されていた、古ぼけた周辺案内の看板を見上げながら、僕は呟いた。 美百合の持っていた切り抜きにも『小さな温泉郷』と謳われていただけに、観光名所といえる場所は数えるほどしかないみたいだ。 「山と森、渓谷……これだけでもある意味すごいですよ。 人工物がひとつもないんですから」 「たしかに……今の日本じゃ、こういうところを探す方が 難しいかもね」 それに、海ばかり見てきた僕としては、これだけ視界を緑に囲まれている場所に来たのは、初めての経験だ。 「美百合は、こういう場所に住んだことはないの?」 「さすがにちょっと……パパの仕事とは、縁遠い場所です からね」 「……そういえば、お父さん、何やってる人?」 僕が興味本位で尋ねると、美百合は少し言いにくそうに口を開いた。 「……全国規模で展開しているコーヒーショップの、 企画部部長」 「あー、へぇー……」 ……って、まさかウチの店のライバルだったとは!! 「春、駅前に一軒できたお店、知りませんか? それの 立ち上げにパパが関わっていて……」 「いつも全国で新しいショップや支店ができる度に、 そこに助っ人へ行っているような人で……」 「社内での評価がそれなりに高いこともあって、あちこち から呼ばれたり、自分でも足を運んでいて……」 「それで出張やら、転勤やら、なんだ」 「はい。それで今度は海外進出のプロジェクトを任された とかで、フランスへ行くことになって、張り切って…… いたんですけれど、ね」 「…………」 そんな親を放り出して、僕たちはここへ来ている……向こうを心配にさせている罪悪感が、彼女の顔を曇らせる。 だから僕は……あえて明るく、彼女に尋ねた。繋いだ手をきゅっと、少しだけ強く握り締めて。 「さ、それはそれとして、どこへ行く?」 「んっ……そうですねぇ」 彼女にもその気持ちが伝わったのか、何かを振り払うように顔を上げた。 その気になれば今日一日で踏破できそうな案内地図を見て、美百合は考え込み…… 「あの渓谷に行ってみませんか?」 「そうだね、涼しそうでいいね」 場所はどこでもよかった。 それよりも、こうしてふたりで歩いているという事実の方が、今の僕たちには大切だ。 より強く、僕たちは繋がっていると確認できるから…… 渓谷へと続く林道、そのきつい勾配の坂を下っていくと、途中に川辺を見渡せる場所があった。 川辺には思ったよりもたくさんの人が集まっている。渓谷まで行かなくても、そこで十分景色を堪能できるってことなのかな……? 「釣り、ですかね? 親子連れかご夫婦、カップルばかり に見えますけれど」 「ああ、なるほどね」 よく見れば近くに建っている小屋に、『釣り竿貸します』なんて看板も出ているし……渓流釣りでもできるのかな。 家族サービスとか、カップルでちょっと楽しむにはいいのかもしれない。 「ああいうのが楽しめるようになるには、もう少し 私たちは落ち着かないとダメですね」 「ん? そういうもの?」 「ええ。寄り添っているのが当たり前、ぐらいになった 熟練カップルにのみ許される遊びですよ。ああいうのは」 「はぁー……」 「ん? 何か?」 「いや、なんかこだわりがあるんだなって」 「……こだわりというか、トラウマ?」 「んん?」 さっきまで熱く語っていた美百合が、少しほろ苦い笑みを浮かべていた。 「家族で釣り堀へ行った時、ケンカしてくれたんです よねぇ、ウチの両親は……」 「あ、ああ……それは」 「まぁ、今さらなんですけど。パパはともかく、ママは 性格的に、ああいった遊びは合わないらしくて」 彼女は川辺で楽しんでいる人たちを、うらやましそうに見つめた。 「パパにしてみれば、忙しい仕事の合間をぬって連れて きたのに、なんで楽しめないんだと」 「それでケンカ、か」 「はい。ですから……」 「僕たちもいつか、あそこに加われるようなカップルに なりたいね」 「……先取りして言わないでください」 「同じ気持ちだったってことだよ」 美百合の両親を引き合いに出すのは悪いけれど……そんな風にならないためにも、僕たちはもう少し、時間が必要だと思えた。 なぜなら僕たちはまだ、歩き始めたばかりで―― いつ転んでしまうかわからない不安を、まだ払拭できていないから。 「…………」 だから僕たちは、今はただ強く手を握り合って、釣りを楽しむ人たちを見ていることしかできなかった。 さらに奥へと切り立った山と山の間に進んでいくと―― 「綺麗……」 「うん……すごいね」 目的地の渓谷があった。 目の前にそびえ立つ山は、もはや壁のようにしか見えない。 小さな水の流れが、これほどのものになるまで、どれぐらいの時間がかかるのだろうか。 「――え?」 「冷たくて気持ちいい……♪」 見れば美百合が、浅瀬で舞っていた。 パシャパシャと水を弾きながら、スカートの端を摘んで水辺を跳ねまわっている。 「美百合……転ばないように、気をつけてよ」 「へーきですよぉ……えいっ!」 細く伸びたしなやかな脚で、彼女は水を器用に蹴りあげる。 「わぷっ……!」 「真一くんも入りませんか~、すっごく気持ちいいです よ~!!」 「い、いやぁ、僕は……」 ほかの観光客が、くすくす笑いながら美百合を見ている。幸い、白い目ってわけじゃないけど……注目を集めていることには変わりなくて、恥ずかしい。 「うわっ!」 「ふふっ、情けないですねぇ。男の子なのに」 「うっく」 「ふふ、ふふふっ」 「…………」 気分転換になっている、のかな?美百合は本当に楽しそうに、水辺を跳ねていて…… キラキラ光る水滴が、彼女をより引き立てているように見えた。 僕は無意識に、自分の携帯を探していた。 いつもならポケットに放り込んでいるそれで、写真を撮りたくなったんだ。 「――あ」 携帯の代わりに僕のポケットから出てきたのは、一枚の紙。 「…………」 携帯は、家に置いてきた。 駆け落ち、逃避行、家出――呼ばれ方はなんでもいいけれど、家から逃げだしたはずの人間が携帯を持ち歩いているなんて、『見つけてくれ』と言っているようなものだ。 その代わり……こちらから一方的に、無事を知らせるだけのために、僕はいくつかの電話番号を控えてきていた。 「なんです、それ?」 「あ……」 傍に寄ってきた美百合が、僕の手からその紙をひょいと抜き取って見た。 「芹花と香澄さんに、久我山くん。ふーん……」 「ごめん、あまりみんなを心配させるわけにもいかない だろうから、たまには連絡を入れた方がいいだろうと 思って。公衆電話とかから、ね」 「…………」 美百合は、あまり面白くなさそうな顔をしている。 当たり前と言えば当たり前だ。彼女も携帯は置いてきたのに、僕だけこんなメモを取っていたんだから。 「……怒っているわけじゃありません」 それでも彼女は、メモを少し強く握り潰した。 「むしろ、あの状況でよくそこまで考えられたなって、 ちょっと尊敬します」 「…………」 そう褒められても、唇を尖らせている美百合は、怒っているようにしか見えない。 「でも、女の子の名前が多いのが、気になります」 「……は?」 美百合は一転――例によってイタズラっぽい笑みを浮かべると、指先でそのメモをふたつに折った。 「真一くんには、私というものがあるんですから、 もうこんなの必要ないですよね? 捨てちゃいましょう」 「ちょっ、それはまずいって……!」 「私を捕まえたら、返して差し上げますよっ♪」 そう言って彼女はぴょんと、川の中から表面を覗かせていた大きめの石へと、跳びのった。 「ととと」 「……ひょっとして、川の中まで追いかけてこいと?」 「その通り♪」 彼女は笑って、次々に川の中ほどへと、石伝いに跳んでいく。 「よっ、ほっ――は」 「ああ、もうっ!」 こうなったらと、僕も恥と外聞を捨てて、靴と靴下もいっぺんに脱いで、浅瀬へ突入する。 「うふふ~、私を捕まえてごらんなさ~い♪」 「ちょ、待ってって、美百合!」 「はーい、鬼さんこちらっ、手の鳴るほ~うへ! っと」 美百合を追って僕がジャンプすると、美百合はまたひとつ向こうの石へと跳ぶ。 「――わたたたっ! 待ってよ、美百合!」 いくつか飛んだところで、僕はバランスを崩し、危うく落ちそうになった。 ただでさえ石の表面が濡れていて、よく滑る。それに悲しいかな、バランス感覚では彼女に勝てそうにない。 「もう降参ですか?」 美百合は追いつけない僕を置いて、次々と器用に飛んでいく。 「あ……危ないってば!」 「だいじょーぶっ!! 泳げなくても運動神経は――ひゃっ!?」 「美百合……!!」 「だ、大丈夫?」 慌てて川の浅いところを歩いて近づくと、美百合は茶目っ気に満ちた表情を浮かべていた。 「ええ……なんとか……お尻打っちゃいましたけど」 「だから危ないって言ったのに……」 「……失敗しちゃいました」 と、尻もちをついたまま恥ずかしそうに笑う。 「はぁ、ったくもう……って」 びっしょりと濡れた服が彼女の身体に張り付いて、そのラインを浮き彫りにしていた。 美百合のふっくらとしたバストと、締まったウエストが、紛れもなく『女』を想像させる。 「…………?」 「……け、怪我はない?」 「ん~……特にないですね。打ち身だけ」 「じゃあ、早くあがろう」 僕が手を差し伸べると、彼女はそれに掴まって素直に立ち上がった。ただ、僕の顔を見て小首を傾げる。 「……顔、赤いですよ。私の格好を見て、ときめいちゃい ました?」 自分の状態がわかっているのか、美百合が例によって『ふふっ』と笑う。 「わかっているなら、隠しなよ……」 薄いヴェール越しに透けて見える下着は、一糸まとわぬ姿とはまた違う魅力を持っていて、なんだかちょっと、いやらしい感じがした。 世の中の『秘め事』が蜜の味であるように、隠された部分に対する想像を加速させる。 「濡れちゃったんだから、しょうがないですよ」 「いや、そうじゃなくて……」 ただでさえ目を引いていたところにこれじゃ、注目をさらに集めるのも無理はない。 さりげなく、視線を逸らしてくれる男性観光客ばかりなのが、ありがたいけれど…… 「見られたくないんだよ……その……美百合の肌とか、 下着とか……ほかの男に」 「あらあら……ふふっ」 ぴとっと、彼女が濡れた服のまま、僕の背中に寄り添う。 「じゃあ、隠してください。私のこと……ずっと」 「それは……もちろん」 僕を濡らさないようにという配慮からか、くっついてくるわけじゃない。それでも、ほかの人の視線から隠れる真似を、彼女はしてくれた。 「私は……あなただけのものですものね」 「…………」 「あ……」 「ん?」 美百合が、何かに気づいた声をあげていた。 「さっきのメモが……」 「え……あ」 美百合の視線を追うと、彼女の手に握られていたはずの紙切れが、ゆらゆらと水面に浮いていた。 最初はまだ、手を伸ばせば届きそうな場所に浮かんでいたけれど……すぐにそれは流れに沿って、離れていく。 「どうしよう、もうあんなとこまで……」 飛び込んででも取りに行きたいけど、泳げない……そんな美百合の焦りが、伝わってきた。 一方の僕は、無理に飛び込んで取りにいくようなことはせず、だた黙ってその行方を眺めていた。 それはしばらく流れにそって浮いていたものの、やがて流れが変わる部分にできた小さな渦に飲みこまれて、音もなく沈んでいった。 「…………」 「…………」 これで、みんなに連絡をとる手段は絶たれた。 ……けれど不思議なことに、悔いはなかった。むしろ、さっぱりしたような気分さえあった。 「ごめんなさい……」 僕の気持ちとは裏腹に、美百合はすっかり沈み込んでいる。さっきまであんなにはしゃいでいたのが、ウソのように。 「しょうがない。きっとそういうものだったんだよ」 「だけど……」 「元々、必要なかったんだ。僕らのこれからにとっては」 「真一くん……」 すべてを捨ててでも、美百合さえいればそれでいい――その覚悟で出てきたはずだ。 あんなメモ、大事に持っていたことの方がおかしい。 「行こうか」 「え……」 「宿に戻ろうよ。そのままじゃ風邪ひいちゃうよ」 「でも……」 なおもメモが流れていった先を気にする彼女の肩に手を置いて、こちらへ身体ごと強引に振り向かせる。 「なんだかさっぱりしたんだ。これで余計なこと考えなく てよくなったし」 「そうだと……しても」 「あなたに全部、捨てさせるなんてこと――」 「いいんだ」 ほかの観光客に見られていることを承知で、濡れることも構わずに、彼女を抱き締める。 彼女を安心させるつもりだった。僕自身が気にしていないのだから。 だけど、それでも……彼女の表情が晴れることはなかった。 「……ごめんなさい」 「せっかくのお出かけ日和だったのに……」 備え付けの浴衣に着替えた美百合は、濡れた服をハンガーに掛けながら、窓の外を見て、残念そうに言った。 「仕方ないよ。もう今日は、ここでゆっくりしよう」 「そうですね……ここでこうしているのが、一番かもしれ ないですね」 と、座椅子に腰掛けた僕の膝の上に、彼女が乗ってくる。 「どうしたの?」 「甘えたい気分なんです……」 言いながら、ギュッと僕に抱きつく。 「あ……真一くん、汗、結構かきました?」 「そりゃ、美百合が急に川に落ちるし……冷や汗かいたよ」 「ふふ……近くに来ると真一くんの匂い、すごくしますね」 「……お風呂入ってくる」 「その前に、もう少しこのままで……」 美百合は首筋に顔を寄せ、僕の匂いを嗅いでいた。 すぅっと、深い呼吸に合わせて、彼女の身体が大きく上下する。 「……はぁ……いい匂い……」 「臭くないの?」 「私は大好きですよ……んっ」 と、首筋に唇を這わせながら、僕の上着のボタンを外して胸をはだけると、そこに顔を寄せて再び匂いを嗅ぐ。 「美百合……」 「真一くんの匂い、大好き……ちゅ、ちゅ、ちゅ……」 少し息を荒げながら、彼女は僕の身体にキスを繰り返した。 「ちょっ、そんなこと……うっ――」 「ちゅ、ちゅ、ちゅ……ちゅる、ちゅる……ふあっ……」 僕の乳首に舌を這わせ、舐めまわしたり吸い上げたり…… 胸の辺りから全身にぞくぞくした快感が広がり、思わず声を漏らしていた。 「こういうの、嫌いですか?」 「う、ううん」 「キスもしたいんですけど、いいですか?」 「うん……いいよ」 答えた瞬間、美百合の唇が僕のそれを覆う。 「う……ん、むぁ……ちゅ……ふぁ……んむ……んふぅ」 「ん……ふ、むぅ……」 「ん、あむ……ちゅぅ、ちゅあ……はぁ……ん、んんっ」 いつの間にか硬くなっていた僕の股間を、彼女の右手がさすっている。 「ねえ……真一くん、このまま、ここで……」 「――っ!?」 「!?」 「失礼してよろしいでしょうか?」 美百合が慌てて跳び退る。 「あ、はいっ」 「ど、どうぞっ!」 乱れた服を慌てて直しながら、僕はふすまの向こう、部屋のドアの鍵を開けに行った。 「失礼します」 「あら……」 部屋まで入ってきた女将さんは、ハンガーに吊るされた服を不思議そうに見た。 「川で転んでしまって……あはははは」 「それは、災難でしたのね。 お兄さんはご一緒でしたの?」 「は、はい……おかげで助かりました」 「そうでしたか。お風邪など召しませんようにね」 女将さんはそう気遣ってくれてから、僕の方を申し訳なさそうに見た。 「ところで、先ほどお電話でお伺いした件なんですが……」 「えっ」 「留守電の方はご確認くださいましたか?」 「留守電!? ……す、すいません。まだ聞いてないです」 「左様でございますか……」 まさか電話されるとは思わなかったので、僕は一瞬焦った。携帯は……自宅だ。 住所は適当に書いておいたけど、電話は通じないと怪しまれるかと思って、自分の携帯番号を書いておいた。……みんなに気づかれなければいいけれど。 「あの、どういったご用件だったんですか?」 「いえ、大したことではないんですよ。お夕食のお時間 なのですが、本日はどうなさいましょうって」 「あ、ああ。それなら昨日と同じでいいです」 「6時頃でよろしいですか? 今夜は近くの神社で 夏祭りがありますから、そのあとでも大丈夫ですけれど」 「え? お祭りがあるんですか!?」 祭りと聞いて、美百合が反応した。結構興味津々な様子…… 女将さんも彼女の反応に微笑んでいて、『ほらね』と僕に目を向けてくる。 ま、これは誘えということだよね。 「行ってみようか?」 「うん! じゃあ着替え――」 替えの服が入ったトランクへと手を伸ばす美百合に、女将さんが声をかける。 「それでしたら、お出かけ用の浴衣もお貸し出しできます けれど、一度ご覧になります?」 「えっ、いいんですか?」 「ええ。柄も色々あるので、お好きなのを選んでお使いに なって」 「ありがとうございます!」 夏祭り、か。 今度こそ、気分転換になるといいけれど…… 浴衣を貸してもらった僕たちは、早速夏祭りの行われている神社へと向かった。 会場の神社は旅館からさほど離れておらず、ものの数分も歩くと見えてきた。 会場が近づくにつれて聞こえてくるお囃子の音色や人々の賑わいに、美百合のテンションも徐々に上がっていく。 「あはっ、屋台がいっぱい♪」 立ち並ぶ屋台の列をみて、美百合は目を輝かせる。 「焼き鳥、たこ焼き、焼きそば、焼きトウモロコシ、 そしてお好み焼きにホルモン焼き……うふふ♪ なんだかゾクゾクしますね」 その目の輝きは獲物を狙う猛きん類のそれだ。しかもへヴィな焼きものばかり目に入るらしい。 ……初めてデートらしいデートをした、海岸での悪夢が蘇る。 「まさかそれ、全部回るの?」 「愚問です」 違う意味でゾクゾクする。この辺り、なんとも動物的と言うか…… 「なんですか、その目は…… 私のこと、食いしんぼうさんだとか思ってます?」 「え? 違うの?」 「失礼な! ハッカパイプやりんご飴だってちゃんと チェックしてますよ」 「食べ物ばかりじゃないか……ほかにヨーヨーとか 金魚すくいとか射的もあるよ?」 「ありますね」 「……そっち方面には興味なし?」 「う~ん、時間が……私のスキルは早食いではないので、 食べているだけで手一杯な気が……」 ……スキル?なんだか、次元の違いすら感じてきた。 「でも、そうですね。この際せっかくですから、 片っ端から制覇しちゃいましょう♪」 「……そうだね」 実際のところ、廻れるのはその半分ぐらいだと思うけれど……美百合の気が済むまで、付き合おうと思った。 「パパー! ヨーヨー取れたよ!」 「おっと……」 人の流れに逆らうように走ってきた小さな女の子が、僕たちを掠め、駆け抜けていった。 美百合が振り返って、その子の姿を目で追っている。 その子を抱き上げる父親らしき人物が、そこには待っていた。 「お、可愛いヨーヨーだなぁ。よかったね」 「うん!」 親子連れの姿を、美百合が懐かしむように眺めている。 「ママはどうした?」 「いっしょにとったの。あっち」 水風船のヨーヨーを自慢げに見せていた女の子が、走ってきた方向を指差す。 すると、女の子を追うようにして、浴衣姿の女性が近づき…… 「もうこの子ったら、ママを置いてどこへ行っちゃうの」 「ごめんなさい……」 「ははっ、元気でいいじゃないか」 「……いいですね、ああいうの」 そんな言葉を口にしながら……気づけば、美百合の表情が曇っていた。 「……美百合も昔は、あんな感じだったの?」 「私は両親とお祭りに来ても、あんな風には 楽しめなかったなぁ……」 「どうして……?」 「ふたりの前では、ちゃんとした娘をやってあげなくちゃ いけないから。黙ってついてくるような手のかからない、 聞き分けのいい子を」 娘をやってあげなくちゃいけない、か。美百合らしい表現だと思った。 「家族に気を遣い過ぎなんじゃない?」 「パパはあれで、親としてのプライドを持って娘の父親を やっている人なので、私はそのプライドを傷つけたく なかったんですよ」 「ママは……どうでしょうね。今となってはよくわかりま せんけれど、離婚した後仕事に復帰したところをみると、 フラストレーションを抱えていたようですし」 と、過去を振り返る美百合の口調は、まるで他人の話を淡々と分析しているようで…… ――これ以上、見ているのも聞いているのも、辛かった。 「――まず、お参りに行こうか」 「え……?」 少し白々しい気もしたけど、あえて僕はそう提案した。 「これからのこと、神様にお願いしに行こうよ」 家族連れなんてどこにでもいる。見て見ぬフリなんてできないけれど…… その度に過去を振り返って、気落ちしていても始まらない。 僕たちはここへ……未来を求めてきたはずなんだから。 「……そうですね、行きましょう」 「僕、約束するよ」 「約束……?」 「美百合を絶対に悲しませない。絶対に寂しい思いなんて させないから」 「真一くん……」 「神社の神様にも、そうお願いしようと思うんだ」 ロウソクに火が灯るように、美百合は少しだけ笑った。 「神前式……ですね」 境内の奥にある社を眺めながら、そう呟く。 「しんぜんしき……?」 「私たちの結婚式は、神前式で決まりです」 「け、結婚式!?」 突然結婚なんていうから、正直、僕は戸惑った。 でも、今の状態がこのまま続くってことはいずれ……そういうことになるんだろう。 今は漠然とした願望かもしれないけど、その目標は否定しちゃいけない気がした。 「私、昼間の一件で、真一くんとなら一生一緒に いられるって確信したんです」 「私の事情で、こんなところにまで来てしまって……」 「友達や家族とのつながりを失って……」 昼間――みんなの携帯番号を書いたメモを、川に流してしまったことか…… 「それなのに真一くんは、私を許してくれたんです。 もしかしたらもう二度と、連絡なんてとれないかも しれないのに」 「……あれは、許すとか許さないとかじゃないよ」 「連絡なんて、とろうと思えばいくらでもとれる。 それよりも美百合を大切にしてやれって、そんな風に 神様に言われたような気がしたんだ」 「だから……そう言ってくれる真一くんの前では、私は 私らしくいられるんです。自分が自分でいられる 場所……それが真一くんなんです」 「そんな人、あなた以外にいません……」 とん、と彼女が肩を寄せ、僕に寄りかかる。 「その真一くんが私を許してくれたから、一生一緒に いられるって、確信できたんです」 「じゃあ……誓うよ」 「ん……」 彼女の手をそっと握り、その細い指に自分の指を滑らせる。 今は、結婚式も指輪も、何もないけれど…… 「ふたりで生きられるだけ生きて、生きて、生きて、 生きて……そしてお婆さんとおじいさんになったら、 一緒に死のう」 「それまでずっと……放さない」 「……っ、はいっ!」 「美百合が、世界で自分が一番幸せだって思えるなら、 僕はなんでもするから……」 「だから、ずっと一緒にいてね」 「頼まれなくっても、そのつもりですよ」 祭り囃子が遠く聞こえる。 お祭りは、これからが本番のようだった…… ――お祭りの夜から、数日。 めぼしいスポットを回りきってしまった僕たちは、することもなく、街をぶらついていた。 そして、たまたま見つけた不動産屋の前に立ち止まっていた。 「……この街で、部屋借りようか?」 いつまでも宿屋暮らしというわけにもいかない……軒先に張り出された空き部屋の間取りを見ながら、僕はなんとなく呟いていた。 「ふふっ、それもいいですね……」 美百合の答えもどこか、夢を見ているような口ぶりだった。 「私、結構この街気に入ってますよ。自然も多いですし」 「……子供を育てるなら、こういう環境がいいなって 思ってましたから」 「はは……じゃ、仕事も見つけないとね」 「でも、無理に焦らなくてもいいんですよ。いつか ちゃんと形になれば、それでいいんですから」 「……うん。もちろんそのつもり。約束したじゃないか」 「うふふ。重荷にならない程度に、期待してますね」 「信用ないなぁ……」 「そんなこと、ないですよ……」 甘い空気が僕らを包む。 たぶん、夏の暑い日でも恋人同士が身を寄せ合うのは、お互いの温もりが何より心地いいから――そんな気にさせてくれる。 だから、夢を語らいながら、身を寄せ合う。例えその姿が、端から見たら心細げな風に映っても…… 「……ん?」 ふと、視線を感じた。 振り向くと、通りの反対側から、ひと組のカップルが僕らを見つめている。 そしてその男性の方と、ぴたりと目が合ってしまう。 「――真一……?」 「に、兄さん……」 「まさか、同じ場所へ旅行に来てるなんてな」 「僕だって、こんな所で兄さんに会うとは、 思ってなかったよ……」 「にしても、あの美百合ちゃんとか。お前もやるよな」 「それってどういう意味?」 「いやぁ……まあ、こっちの話」 「兄さんだって、カノジョ連れてるじゃないか」 温泉街で出くわした時、兄さんの隣には寄り添うように並んで立つ女性がいた。長身で細身の、とても綺麗な人だった。 彼女は『せっかくだから、女だけで買い物がしたい』と、今は美百合を連れて買い物に出ている。 僕と兄さんがゆっくり話せるよう、気を回してくれたのかもしれない。 兄さんがよく家を空けていたのも、彼女と会っていたからだとわかった。 「それにしても、最近全然顔を見なかったのは、ずいぶん 前から旅行してたから?」 僕がそう尋ねると兄さんは、珍しく恥ずかしそうにニヤニヤと、やけに緩い笑顔を浮かべた。 「あ……いやぁ……なんか、ずるずるとな……」 「ずるずる?」 「なかなか、ハッキリ言うのが難しくてさ」 「何を?」 「その……プロポーズってやつを……」 「プロポーズ!?」 「おっ、おい! あんまり大きな声出すなよ。恥ずかしい じゃないか!!」 「いやそれならそれで、ちゃんと紹介してよ!」 まさかこんな所で会うなんて――という驚きの方が強くて、満足に挨拶もできなかった。 あの人が『姉さん』になるなら、それはそれで気を遣わないといけない気が…… 「あ~、ヘンに気を遣わなくていいぞ。そういうのは あまり気にしない子だから」 「いや、だとしても、さ」 「ちゃんと紹介しなかった俺が悪い。うん。 ……なんか、恥ずかしくてさ」 「いや……う、うん……」 それを言ったら、僕も美百合のことをちゃんと言えないでいる。兄さんはまだ、僕と彼女がただ、旅行に来ただけだと思っている。 それにしても…… 「兄さんがプロポーズ……」 「俺もそろそろ、ちゃんとしないといけないかと思ってな」 「それなりに付き合いも長いから、向こうのご両親にも 期待されちまってるし」 「そ、そうなんだ」 向こうの御両親にも―― ……美百合と、そして僕の親のことを考えると、少し胸が痛んだ。 「ま、父さんたちが再婚することもあるし、ちょうどいい 機会かと思ってさ。俺も結婚して家を出れば、父さん たちの負担も減るだろうし」 「え? あ、生活費……とか?」 「考えてみろよ、春菜さん・香澄ちゃん・芹花ちゃんの 一気に3人家族が増えるんだぜ? お前や杏子ちゃん だっているし、俺ひとり分ぐらいは楽させてやらなきゃ」 「一応、結婚資金や当面の生活費は貯めてあるし、仕事も 見つかったからさ。まぁ、自分ともうひとりぐらいは なんとかなるだろうって」 「いつの間に……」 いつの間にここまで考えて、準備していたんだろう? ――それに比べて、僕は? まだなんの準備もできていない。先のことも決めていない。 そもそも僕たちは、親に背いて逃げ出してきたようなもので…… 「ところで、お前たちはいつ帰るんだ?」 「え……あ、いや……」 「ん? ひょっとして未定か? 俺じゃあるまいし…… 大胆になったもんだなぁ」 兄さんにちゃんと理由を話すべきなのかどうか、迷う。 「に、兄さんたちは、いつ帰るの?」 「そろそろ帰るつもりで土産物を探してたんだ。 彼女たちが戻ってきたら、最後に一緒に飯でも食べるか」 「……今日帰るの?」 「ああ、ようやく昨日プロポーズできて、まぁ、 受け入れてもらえたからな」 おめでとう、それじゃ気をつけて帰ってね――と、このままやり過ごすこともできる。 まだ兄さんに僕たちのことについて、連絡が入っていないなら……帰宅した兄さんの口からみんなに、僕たちがここにいたという事実が伝わる前に…… また電車に乗って、遠くへ行けばいい。 ――けれど、僕はそうしたくない。 わかってもらえるとは思えないけど、自分より二歩も三歩も先に進んでいる兄さんには……相談しておきたかった。 「あ、あのさ……ここで僕たちに会ったこと、 父さんたちには内緒にしてほしいんだけど……」 「はぁ? どういうことだよ」 「それは……」 僕は兄さんに、僕と美百合がここに来るまでの経緯を、かいつまんで話した。 ……ただ、話しておきたかっただけなのかもしれない。 僕も美百合も後悔はしていないけれど、勝手に出てきてしまったことに負い目は感じている。 それを吐き出してしまいたかった…… 「……なるほどな」 僕が話し終えると、特に驚いた様子も見せずに、兄さんは言った。 「そういうの、駆け落ちって言わないか?」 「まぁ、そういうことに……なるのかな」 「いや、そういうことだろうが」 「僕としては、とにかく美百合と離れたくない一心で というか、彼女の望みを叶えてあげたくてというか……」 「勢いだけで飛び出したのには、変わりないだろうが。 若い頃の俺か、お前は。やっぱ兄弟なんだな、俺たちは」 「お前ひとりなら好きにすればいいと思うけど、なぁ。 美百合ちゃんのことを考えると、しっかりしないと まずいだろ」 兄さんは今でも十分若い……と言いたいところだけど、僕ぐらいの歳で父さんに反発して家を出て、生計を立てていた人の言うことには、重みがある。 「……わかってるよ。一生逃げ回るつもりもない、けれど」 「ふーん……」 だんだん言い訳がましくなってきた僕の態度に、兄さんは少し、呆れたのかもしれない。 「ひとつ聞かせてくれ」 「俺が帰れと言ったら、お前はどうするつもりだ?」 「っ……」 ……これまでなら素直に、自分たちの行動が浅はかだと認めて、『うんわかった』と帰っていたと思う。 だけど…… 「今は、意地でも帰らない……もっと遠くに行くよ」 「俺を倒してでも?」 「……た、倒してでも」 兄さんが僕を見据える。 その間が、永遠のように感じられた。 「そうか」 「それだけの決心があるんならいい。父さんたちには 黙っててやるから、やれるだけやってみろ」 「あ、ありがとう……」 やけにすんなりと認められたことに、僕の中では……安心よりも、かえって不安が首をもたげていた。 「お前たちがそう決めたんなら、俺がどうこう言うこと じゃないさ」 「ま、頑張れよ」 と、兄さんは僕の肩を軽く叩いた。 ひどく、軽く…… 「……じゃあ、また」 「ああ……身体には気をつけろよ」 美百合たちと合流して、兄さんにお昼をご馳走になった僕たちは、そのまま帰るという兄さんたちふたりを駅まで見送りに来ていた。 「雅人さんたちもお気をつけて」 「ありがとう。こっちこそ、真一のこと、よろしく頼む」 「あ……はい」 駅のホームへ向かう兄さんに従って、カノジョさんも、最後に小さく手を振って去っていく。 「……行っちゃいましたね」 「うん……」 「もしかして真一くん、雅人さんに私たちのこと話し ました?」 「あ、うん。一応」 「やっぱり。真一くんのことをよろしくって、そういう 意味だったんですね。よろしくしてもらっているのは、 むしろ私の方なのに……ふふっ」 「…………」 「……何か、言われたんですか? 早く戻れ、とか」 「いや、とりあえず頑張れって……」 「それって、私たちのことを許してくれる、ってことです か?」 「ここにいることを、父さんたちには内緒にして くれるって言ってたけど……」 「けど……?」 「……たぶん兄さんには、限界が見えているんだと思う」 「……限界って、私たちの……ですか?」 「やれるだけやってみろ、とも言われたからね」 兄さんは一度家を出て、戻ってきた。 それは決して挫折したからとかではなく、自分なりに納得して、気持ちの整理がついたからなんじゃないかな。 父さんに反発して、わけもなく怒って、飛び出して…… そして戻ってきて、父さんとわかり合って、今はまったく違う理由でもう一度家を出ようとしている。 そんな兄さんからしたら、僕はまだ、じたばた足掻いているだけに見えるんじゃないかな。 これから先、もっと大変なんだぞ――あの目は、そう言っていたように思える。 子供のような、わがままとも言える感情──衝動でここまで来てしまった僕たちの行く末なんて、わかりきっていると── 「だったら、やれるだけやってみましょうよ」 「美百合……」 彼女がそっと寄り添ってくる。私も一緒だと、そう告げるように。 「真一くんは、ひとりじゃないんです。私もいるんです から、ふたりならなんとでもなりますよ」 「うん……」 けれど、兄さんはそのことにも触れていた。僕ひとりなら好きにすればいいけれど、美百合のことを考えたら―― 「……無理、しないでくださいね」 美百合の手が、僕の手を掴む。すがるように。 「私は本当に、あなたさえ傍にいてくれれば、それで十分 なんですから……」 「うん……」 繰り返し聞いた言葉、聞かされた言葉…… その言葉に……すがりたい自分がいる。 これから結婚して、新しい家庭を築こうとしている兄さんたちに比べて、あまりにも惨めな……自分に気づいてしまったから。 兄さんたちのように、明るく、祝福されるような未来が、僕たちには……まだない。 今のまま僕たちが結婚して、子供ができて、家庭を築いたとしても……それは僕らだけが満足する世界で、ほかは誰も喜んでくれない。 それは本当に……正しい道なのか? 部屋に戻って着替えるなり、僕は美百合を押し倒して、唇を奪った。 「んふっ、は……!? うむぅ……んっ……真一……くんっ んんっ!!」 一瞬だけ驚いた素振りをみせたけれど、彼女は逆らうことなく、僕の首に腕を回し、キスを返してくる。 「んっ……真……んぁ……ん、ちゅ……ぷぁ……っ」 たっぷりと……何も考えられなくなるぐらい、唇を重ね合う。 「はぁ……はぁ……真一……くん、きて……もっと、 たくさん、しよう?」 もう、何度目のキスだろう…… 「んんっ……ぢゅる……んぷっ……ちゅぶ……れろっ……」 あと何度……こうしてキスを交わせるんだろう? 「真一……愛してる……んはぁ……ん……あふっ…… あ……あなたは……」 「あなたは私を愛してくれる……?」 もう何も考えたくない……今は、何も…… 「あぁんっ、んぁっ、あんっ、あっ、あっ、あ……っ!!」 未来が暗く見通せない……それどころか、そこにはただ虚無が広がっている感覚。 何もない未来。それは、僕らに恐怖しか与えない。 「はぁっ……はぁっ、はぁっ、はぁ……んああっ!」 その恐怖を忘れるために……いや。 それすらもう、僕らの意識の外だ。 僕は美百合が欲しい。美百合も僕を求めている。 だから、僕らは身体を重ねるんだ。 「んちゅぅ……んちゅ……ちゅぱ……んんっ……ちゅ……」 「んぁっ……んっ、ふぅ……んふふ……真一の口って 柔らかくて……おいしい……ぢゅる、ちゅぷっ……」 「えぇ?」 「もっと欲しくなっちゃうってコト」 「美百合……ん、美百合……っ」 貪るように彼女へ唇を押しつける。僕を求める彼女の想いが、激しいキスと一緒に返ってきた。 「んちゅ……ちゅば……んふぅっ、んんっ……んっちゅむ ……れるぅ……んっ……んれろ……れろ、ちゅ……」 「んふっ、んんっ、んちゅ……れろ、れろん、ちゅぱ、 んっちゅむぅ……んれぇ……んんっ」 「んっ……ふぅ」 「……真一ぃ……」 「ん?」 「もっと舌で……れろれろってして? 舌を吸って? その方が気持ちいいからぁ……」 「わかった――」 「んっ……ふぁっ……もごっ……んふぅ、れろ……んっ、 あぁっ、んんんっ……ふぅふぅ……れろん……」 「はぁ……気持ちイイ……キス、大好き……」 「僕も、気持ちいいよ、とっても」 「あんっ……あはっ、だからって、そんなとこ、 さわっちゃ……っ……うぅんっ、あっ♪」 「美百合」 心地いい感触を共有する、求め合い、高め合う。それは、何より僕らを幸せにする行為だった。 「真一……ま、待って……」 「……え?」 突然、美百合が僕の口を押さえて、身体を引き離した。 彼女は部屋の入り口を凝視している。僕も、彼女の視線を追った。 「しーっ……部屋の前を、人が通ってる」 「…………」 確かにその時、入り口の方からかすかな足音と、人の話し声が聞こえてきた。 注意していなければ聞き取れないほど、かすかな物音だ。 僕らは重なり合って横になったまま、外が静まり返るのをじっと待った。 部屋には鍵がかかっているし、そうそう中の音が聞こえるとも思えないけれど……緊張感はあった。 「あん……ちょっと……真一、く……真一……っ! 静かにって言っているの、にぃ……っ」 「え?」 「っ……あぁ……おっぱいさわっちゃ、めー、ですよ」 「あ……」 「ふふふっ」 「ごめん」 僕は無意識に、手の中に収めた美百合の胸を揉みしだいていた…… だからといって、今さらやめるつもりもなかった。 「あっ……ふぅ……ふふふっ、んっ……んはぁ……」 浴衣の中の美百合の肌はしっとりとしていて、手に吸い付いてくる。柔らかな感触に、指が埋もれていく。 美しい胸の頂には、すっかり硬くなっている乳首が手のひらをころころと刺激してくる。 「あっ……乳首……感じ、ちゃう……んんっっ」 幸せな感触だった。ずっとずっと、ただこれを味わっていたいと、心の底から思う。 「いいんです……さわられるの、好きだからいいの…… もっと、もっと、して」 「あ、でも。今は静かに、声、出させないでね?」 「っ……ふ……ん……っ……ぁっ……ひぅ……っ」 「ねぇ……真一? 私のおっぱいきもちいい?」 「柔らかくて……あったかくて、すべすべで……最高」 「うん……よろしい。もっと、いいよ……?」 「…………」 僕は息を殺して、続きをした。 時計が時を刻む音と、遠ざかっていく足音、そして、声を押し殺して喘ぐ美百合の吐息が、静かに響き合う。 やがて外が静かになって、僕らは安堵のため息をつく。 「……ねぇ、真一……」 「うん」 「……お願い……はぁ……して? もう、私、 はぁ……はぁ……我慢できないよ……ぉ」 「すぐに入れちゃっても大丈夫だから……もっともっと、 まだまだたくさん、真一が欲しいよ」 「うん」 僕は彼女が欲しかった。彼女が僕を欲しがるのと、同じように……ただひたすらに。 *recollect「きて……真一……っ、きて……きてきて……っ」 触れ慣れた感触に、僕はするりと侵入していく。 張り詰めた僕のモノが、美百合の身体を奥深くまで押し広げていく。 「う……ん……っ、ん!?」 背筋の震えるような快感が、僕を襲った。 「んっ……ふぁぁ……っ! あっ! んぁぁぁっ!!」 「え……美百合?」 僕のモノが一番奥へ到達したとたんに、美百合が身体を震わせ、身悶える。 「か……は……あぁぁぁぁぁぁ……っ! ……っ!!」 「はぁぁぁぁぁ……はぁぁぁぁ……」 「もしかして……いっちゃった?」 「……う、うん」 「入れただけで?」 「えへへー……」 美百合は恥ずかしそうに、小さく頷いてみせた。 「はぁ……ねえ、真一……あたま撫でるの、やって」 「あ、うん……」 ちょっと美百合の頭が遠かったけれど、いっぱいに腕を伸ばして、汗に湿った髪を撫で付ける。 ……身体は繋がったまま。 「はぁ……はぁ……んんっ……んふーっ♪」 美百合は満足そうに、幸せそうに、顔を蕩けさせている。 「はぁ……も、もう……動いて、いい……ですよ」 「うん」 僕は美百合の背中に指を滑らせながら、身体を起こした。 腰を揺するようにして、美百合の中へモノを出し入れする。 「うぁっ……んっ、んっ、んっ……あ、は……んんっ」 くぐもった美百合の喘ぎ声が、僕の耳をそわそわとくすぐる。息が詰まるような性の衝動に、僕は昂ぶっていた。 「んあんっ……おくに、コツコツって……んっ、あんっ」 美百合の中が柔らかくて、温かくて、優しくて、いやらしくて…… 僕は夢中になる。 「んぁっ、んっ、んんっ、んっ……んんーぅっ、はぁん」 貪るように美百合を求めて、僕は彼女のきつくて柔らかなすぼまりに、さらにさらにと自分の身体を突き入れる。 「あ、あんっあんっ……んっ、はぁ、あぅっ、はぁ……! んんっ、あっ、あっ、あっ、あっ!!」 僕の身体の動きに合わせて、美百合の身体が小刻みに揺れる。 胸が揺れて形が変わるその様を、僕は目に焼きつけ、美百合の感じ入った表情に、胸を躍らせていた。 「あぁ……んぅ……はぁ……はぁ……真一……指、 こっちに、ちょうだい」 美百合は口をあけて、舌を長く伸ばした。唾液に濡れて光る舌が唇を舐める。 「あんっ、あふっ……しゃぶりたい……口でも、あなたを 感じ、たい……んあっ、んぅぅ……」 僕はまた手を伸ばして、美百合の唇に指で触れた。 途端に、美百合は僕の指に吸い付いてくる。 「あむ……ちゅばちゅぱ……んちゅる、ちゅるる……」 唇と舌で挟み込むように……いつかウチの店で僕のモノをそうしたように、美百合は僕の指を愛撫する。 「んはぁ……んちゅ、ちゅばちゅぱ……ぺろ、ちゅっ、 ちゅぱ……れろん、ちゅっちゅ」 「んちゅ、ちゅぅぅ……んっ、んっ、んふぅ……っぁむ、 んれろ……んん……ぺろれろ……んちゅるぅっ」 「ちゅぱっ……ちゅる……んちゅ……んれ……れるん…… んっちゅ……ちゅちゅちゅ……んふぅぅ……ぷあっ」 「んぱぁ……あ、あとで……真一の硬いのも、 おしゃぶり……させて、ください……んあああっ!」 美百合は僕の指を口から出すと、頬に僕の手の平を押し付ける。彼女の身体はどこだって柔らかくて、温かい。 「んあ、はぁ……ねぇ……ねぇ? 気持ちいい?」 すがるように、美百合は僕を見つめる。 僕は彼女の期待している通りに応えた。 「うん」 「わ、私……いやらしい……?」 「うん、とっても」 「はぁ……んあ……はぁっ……ど、ドキドキする?」 「うん、ドキドキしてるよ」 「ふふふっ」 美百合は満足げに微笑む。何度目かの微笑み。この微笑みが見たくて、僕は…… 「うぁっ……んんっ! あは、真一……っ、 あああっ、いい!!」 美百合の身体が揺れる。僕が身体を動かす度に。 僕は気持ちよくて、美百合は気持ちよさそうな顔になって、もっと気持ちよくなるために重なり、うごめき合う。 「はぁっ……こ、これぇ……うぁ……うぅ……す、すごい んんっ、んんっ、あっ、んんーぅ……っ!!」 「い、今までと……全然……っあ……感じが違うの……ん んっはぁ……んっ、んっ、んっ、あっ、あっ、あんっ」 「僕も……僕もこの格好、すごく気持ちいいんだ…… 美百合、美百合、美百合……っ!」 美百合の中に入った時から、これまでとは感触が違うことは感じていた。 けれど美百合は僕よりも、より直接的に、鮮烈に、その違いを感じ取っているらしい。 「はぁ……はぁ……んっんっんっあはっ……あっ……んん あっあっあっあっあぁ……っあ!」 新鮮な反応が嬉しい。僕は美百合の反応を追って、いろいろな角度から彼女を攻め立てる。 「かたい……おおきい……あっ……んん……んあっ…… わけ、わからない……あはぁ、んっんっんんんーっ!!」 「あっ……あっ……あっ……あっ!! んんっ……あぁぁぁんっ!!」 「気持ちイイの? 美百合?」 不安だったわけじゃない。けど、改めて聞きたかった。 「き、気持ちいい……気持ちいいよぉ……もっと…… もっと……いっぱい……ちょうだい……真一っ!」 わかりやすい反応。身体も、表情も、美百合はいつもより感じてくれているように思える。 僕は、僕と美百合が同じ快感を味わっていることを実感しながら、もっともっとと、彼女の弱点をさぐった。 「ううあっ! はっ……んんっ、んあっ!!」 反応が変わる。ちょっとくぐもった声。 「んっ、んっ、んっ……」 彼女の身体をしっかりと捕まえて、僕は僕の全部でもって、美百合の身体を愛した。 「あんっ、あんっ、あぁんっ……んっ、はぁ……あぅぅっ! はぁ、はぁ……んんっ、あっ、あっ、あっ、あはぁ!!」 「美百合、美百合……っ……」 柔らかく、熱くぬめって、きつく締め付けてくる美百合の身体に、僕は気を失いそうなほどの心地よさを感じる。 「もっと……もっと、もっともっともっともっとぉ!」 「もっと……!」 美百合と同じ気持ちでいることが嬉しい。 「あっ、あんっ、あぁっ、あんっあんっあんっ……うぅっ うっ……うっ、うっ、うっ……んぁっ、あんっ、んっ」 幸せで、気持ちよくて、嬉しいのに…… まだ……足りない。 「真一……真一ぃ……はぁ……ん……にゅ……ぅ」 美百合の身体が縮こまる。絶頂する時の美百合の反応。僕はそれがそうだと、もうわかっていた。 美百合のことで知らないことなんてない。 「あっ……くっ……んっ、んっ、はっ、はっ……あぅんっ ん……にゅっ……うぅっ……あっ、あっ、あっ、あっ!」 どうすれば美百合が気持ちよくなってくれるのか、僕は僕の知っている通りに彼女を犯す。 「ほら、イって、大丈夫だよ。美百合、たくさんたくさん、 僕で気持ちよくなって……僕が気持ちよくしてあげる!」 「んっ……あっ……あっ……あはぁぁぁ……んんーっ!!」 「はっ……くぅ……んっ……あっ、あっ、あっ、あっ!! はげし……んっ……真一……んぁぁっ……んんーっ」 美百合の肌に触れた。 汗のにじんだ、熱すぎるくらいに熱を持った身体。 「はぅっ……あ……なか……はあ……はげし……ぃ…… うっ……あっ……あっ……んくくっ……んっはぁああ!」 手の平から感じるのは、性的な快感に追い詰められていく緊迫感だった。 何度も繰り返したあの感覚が、もう一度やってくる。 僕も…… 「うにゅぅ……し、真一の……うは……んっ……真一のが 私のなか、でぇ……あぁ、熱く……脈打ってる……の」 「はっ、はっ、はっ……! はぁぁ……っ、い、いくんで しょ? 真一、ねぇ? ふふふ、あぁん……んんっ」 僕に突かれながら、美百合は僕を追い詰めていく。言葉でも性的に昂ぶらせる。 ふたりとも、お互いを追い詰め合う。 「いいよ、いいよ、真一、いっぱい……いっぱい気持ち よくなって、いっぱい……いっぱい……いっぱい、 私の奥深くに出して!!」 そうして欲しいって、お互いにわかっているから。わかっている通りに、僕らはする。 繰り返し繰り返し。何度でも。いつまでも。ずっとこうしていたい。 「はぁっ……んっ……気持ちイイ……んんっ……これ、 好きぃ……んぁっ……んっ」 「あぁぁっ……好き、好き好き好き好き好きーぃっ!」 「僕も、好き……んっ……だよ……美百合……!!」 「あっ……あんっ……お、おくぅ……あぅっ……んぁっ、 い……一番……あっ、だ、だめぇ……んっんっんっ!」 「いちば……んっ……ダメ……ダメな、トコ……ぉ…… ぐりぐりされちゃ……んんっ!?」 「そこって、ココ? 美百合……っ!」 「あ、あ、そ、そう……っです! あぁぁんっ!!」 「はぁ、はぁ……どんどん……んんっ……きてりゅ…… あたま……真っ白にぅ……あんっ、あんっ、あはぁっ」 「はぁんっ、い、イッちゃう……わ……たしっ、あぁんっ あぁぁ……い、イク……イクイクイク……っ」 自分でもわかった。僕のモノは、かつてないくらいに大きく、硬く、膨れ上がっている。 「はぁっ……はぁ……い……いっちゃあ……うくんっ!? うぁっ……んんっ……んっ、あっ、はっ、くっ、うぅ」 頭がぼうっとしてきた。意識がとける。美百合の意識と僕の意識が、きっと、ひとつになっていく。 ――そうすれば、すべてを忘れていられるから。 「んぁぁっ、んっ、き、きちゃう……のぉ……美百合もぉ 真一、の……に、いっぱいにされてぇ……んぁあっ!」 美百合の手が何度か空を掴んで、最後に僕の手を握った。強く強く、手を握られる。 「きて……真一ぃ……っ……そのまま……んんっ…… いっぱい、いっぱい……!!」 触れ合う身体から、美百合のすべてが伝わってきた。 肌の下に流れる血も、その血を送り出す心臓の鼓動も。身体を支える骨の硬さと、関節の軋む音も。 すべてが生々しいほどに、僕に伝わってくる。美百合のすべてが。 「私に、あなたの全部をちょうだいっ!!」 僕はとっくに限界だった。 いつでもあげられる。僕の全部。美百合に捧げる。 「んっ……ふっ……ふぁぁぁ……んあぁっ!」 意識が白く溶ける。僕は僕のモノの中心を、熱い精液が駆け上っていくのをつぶさに感じ取りながら、果てた。 「――っ!!!」 「――っ!!!」 「あぁ……っんんあああああぁぁぁぁんっーーーーー んっ!!!!」 美百合の中に、僕は熱いものをどんどん注ぎ込んだ。 「あはぁぁぁ……はぁぁぁ……ふぁぁ……ああああっ!!」 ぎゅっと彼女の身体を抱き締めながら、射精が収まるまでの長い長い時間を耐える。 「中に、なかに……す、すごい……おなか、はいり きらない……んあっ、んふあああっ!!」 心地いいのに。快感なのに。その全部が今は強すぎて息苦しい。 本当にこのまま息が詰まって、心臓が止まるんじゃないかっていうくらいの、激しい絶頂だった。 「はぁぁぁ……はぁ……んんっ……真一……ぃ……」 美百合が僕の名前を呼ぶ。 「はぁ……はぁ……ふふっ、ふふふっ」 「あ……っはぁぁ……っ」 ようやく僕も、息をついた。長い間息をしていなかったみたいに、息が切れる。 徐々に、ゆっくりと、自分の感覚が戻ってきた。 「はぁ、はぁ……おなか……んん……の、なか…… あついの……あったかぁい……」 幸せそうな美百合の呟きに、不覚にも僕の身体はまた反応した…… 「あぁ……お腹のなか……でぇ……ま、まだ……ひくひく してるよぉ……んぁっ」 気がつけば、僕は美百合の中に思い切り射精していた。直接触れ合う生々しい感触に酔い、溺れて、僕らはそれを繰り返している。 ただ快感だけがあって、僕らはそれに逆らえない。逆らえないから、繰り返す。 ……たぶん、そういうことだと思う。じゃなきゃ…… 「はぁ……はぁ……はぁぁぁ……っ」 「んっ……なんだか……力……入んない……」 美百合はぐったりと布団の上に沈みこんだ。 僕は彼女の身体から離れて、ぼうっと、横たわる彼女を見つめていた。 疲れていたし、まだ息も整っていなくて、何もできなかったという方が正しいけど…… 絶頂する度に、身体が空っぽになっていくのを感じる。 それはもしかして、心も、かもしれなかった。 「ふぅ……はぁ……幸せ……私……幸せだよ…… ホントだよ……」 僕も幸せだ。それは絶対にウソじゃない。 僕は美百合の隣に身体を横たえて、彼女を背中から抱きすくめた。 「ん……ふぅ……あぁ……」 美百合は、背中越しに言った。 「最後に、キスして……お願い……キス……」 「最後……って?」 「…………!」 大慌てで、美百合は僕に身体を向ける。 密着していて、吐息も胸も当たる。僕の下半身が性懲りもなく反応したのも、きっと美百合に伝わっている。 「違う……違うよ……そういう意味じゃないの」 最後。じゃぁ? どういう意味だったんだろう。 「ただ、ちょっと、疲れてしまったから…… 今日は、もうお休みしてもいい、でしょ?」 そういうことか。 僕もそうだ。とても疲れた。当然と言えば当然だけど……本当に、疲れた。 「うん。わかったよ。お休み、美百合」 「目が覚めたらまた、私を愛してくれる?」 「もちろん」 「ホント……?」 「本当」 約束の証、とばかりに、僕は彼女にキスをする。 「ん……っ」 「……ありがとう。大好きだよ……真一」 「愛してる」 「お休み、美百合」 「お休みなさい、真一」 夜中に目を覚ますと、美百合は再び僕を求めた。 僕も美百合を欲していた。だから、何度も抱き合った。 ただそれだけがするべきことのように、飽きることなく何度も、何度も…… 僕らは互いにすがるように、ただ身体のぬくもりだけを求めあった…… 繰り返し、繰り返し。ずっと、ずっと…… 「あの、失礼なんですけれど、水島様というお名前に 心当たりはございますでしょうか?」 「えっ!?」 部屋を訪ねてきた女将さんは、丁寧に、だけど少し困った様子でそう切り出してきた。 僕と美百合がこの宿を訪れてから、かれこれ十日が過ぎようとしている。 「そう名乗られた若い女性の方から、こちらに『西村真一』 様と、『雪下美百合』様がいらっしゃるのではないか、 と、ご連絡がありまして……」 兄さんが喋ったのか?いや、にしても水島ってことは……連絡してきたのは、香澄さんか、芹花? ひょっとしたら……女将さんがかけたという僕の携帯電話への着信を見たのかもしれない。 芹花なら僕の部屋なんて、入り慣れているし……なんにせよ向こうでは騒ぎになっているだろうから、誰かが僕の携帯を見つけて、調べてもおかしくない。 「一応、お客様ご本人様に確認の上、ご家族以外にはそう いった情報はお教えしないようにしているものですから、 一旦丁重にお断りさせて頂いたんですけれども……」 女将さんの目が、僕たちを窺う……いや、探るように問いかけてくる。 宿帳では、僕たちは兄妹になっている。美百合の名字も『雪下』ではなく『西村』だ。 偽名を使うことも考えたけれど……かえってボロが出そうだったし、何より美百合が『夫婦みたい』とこっそり喜んでいたので、そうした。 それを言ったら、水島家の姉妹たちも今頃、父さんたちの再婚で『西村』姓になっていてもいいはずだけど…… ……僕たちのせいで、話が止まっているのかな。 「……いらぬお節介とは存じますが、水島様にだけでも、 お客様の方からご連絡差し上げて戴けませんか」 それはたぶん、女将さんが僕らにできる、精一杯の気遣いだったんだろう。 何か事情があってずっとここに逃げ込んでいる若いふたりと、それを捜している誰か、その両方に対する…… 「……ありがとうございます、考えておきます」 「……お手数おかけします。おくつろぎのところお邪魔 して申し訳ありません。では、ごゆっくりお過ごし ください」 「…………」 女将さんが出て行ったのを確認してから、美百合が心配そうに話しかけてくる。 「……芹花、でしょうか?」 「たぶんね。香澄さんかもしれないけど」 「…………」 「……まぁ、向こうにしてみれば当然だよね」 「私たちを心配して、捜してる……それとも、怒っている のかしら」 「どう思われても、仕方ないよ」 これから先、何度もこんな思いをすることになるのかもしれない。 だけどこれが、僕と美百合が選んだ道…… 「前向きに考えよう」 「真一くん……」 「女将さんは、少なくとも気を遣ってくれた。 今の内にこの宿を出て、別の場所へ移るチャンスを もらったと思おう」 「……確かに、それは前向きですね」 美百合は苦笑混じりだったけれど、かすかに微笑んでくれた。 状況なんて気分次第だ。そこに笑顔があるだけで全然違う。 「問題は、これからどうするかってことだよ」 「はい……このまま宿をハシゴしても、同じことの 繰り返しでしょうし……」 「そうだよなぁ……」 むしろ十日も、よくここに潜んでいられたと思う。……その間結果的に何もせず、ただ美百合の身体に溺れてしまった自分を、激しく悔やみはするけれど。 「いっそのこと、お部屋を探した方がいいかもしれません ね」 「部屋……か」 不動産屋の前で話したことを思い出す。 「部屋を探してみてダメだったら、また違う街にでも 行けばいいんです」 美百合は静かに、外の景色へ目を向けた。 「無理に焦らなくても、私たちには時間なんて、 いくらでもあるんですから……」 宿を出た僕たちは、不動産屋の前に来ていた。 「えーっと……ここは、ちょっとちがうんですよねぇ」 美百合は窓一面の張りだされた間取り図を、鼻先が触れそうな距離でじーっと眺め、慎重にチェックしている。 「あ……これ、これなんかどうです?」 お眼鏡に適うものがあったらしい。呼ばれた僕もその張り紙に顔を近づける。 「2DKで家賃4万円ですって。よくないですか?」 「築25年って、ちょっと古いけど……あ、だから安いの かな」 「この家賃なら、ふたりでバイトしながらでも 払えるんじゃないですか?」 「ここは観光地ですから、お土産屋さんのお仕事とか、 旅館のお仕事なんかあると思いますけど」 「うまく空きがあるかな?」 すっかりここで生計を立てていく気になっている美百合に、話を合わせる。 引き払ったとはいっても、僕らが泊まっていた宿まで突き止めた水島家の誰かが、この土地へ捜しにくるかもしれない――その可能性を無視して。 「観光産業のサービスって、結構キツイらしいですから、 人の出入りも多いんですって」 「その点、真一くんにはカフェの経験があるだけに、 即戦力間違いなしです」 「……経験を活かせるなら、それもいいか。 ただ、美百合まで働かせるのは、ちょっと」 「あなただけに、負担はかけさせません」 「その気持ちは嬉しいし、美百合がとても頼りになるって ことは、一緒にカフェを廻して知っているけど……」 「男としては、好きな相手を養ってあげられないという のは、ちょっと情けない気が」 「あら。私、三食昼寝付きの専業主婦でいいんですか?」 「僕は、できればそうしてあげたい、かな……」 「魅力的なプロポーズですけど、私、何かしていないと 落ち着かないタイプですからねぇ。どうしても動けない 事情がなければ、とても家でおとなしくは……」 「事情……?」 病気や、ケガのことかな? 「例えば、その……あ、赤ちゃんとか……」 「……っ」 思わず息を飲んでしまった。 家庭を築くという可能性の中では考えていたけれど、こう現実問題として聞かされると、その可能性と責任が改めて重くのしかかってくる。 「あ、そんな深刻に考えないでくださいよ。そうなったら なったで、ちゃんと産み育てる覚悟は、もうできている んですから」 「いや、洒落にならないでしょ……」 「洒落のつもりもないですよ。私を家に入れるなら、 それぐらい本気で考えてもらわないと困ります」 「……それは失礼しました」 だからなおさら、慎重になってしまう。兄さんの言葉が何度も頭の中をよぎっていく。 「お前ひとりなら好きにすればいいと思うけど、なぁ。 美百合ちゃんのことを考えると、しっかりしないと まずいだろ」 「だったらまず、私を囲う鳥カゴを用意して下さい」 「カゴ?」 「逃げられなくしてくれた方が、むしろ私も安心です」 そう言って彼女は、さっき見つけた物件の張り紙を指差した。 「……逃げちゃうの?」 「幸せの青い鳥は気ままですから」 「……冗談でも逃がさないから」 「ぜひそうしてください、ふふっ」 「だけど……外で話してるだけじゃ始まりませんよ―― えいっ」 「わっ」 彼女に身体を軽く押されて、僕がよろける。それに反応して、不動産屋の自動ドアが静かに開いた。 「…………」 鳥カゴは、手に入れることができなかった。 お金はまだしも、現住所や携帯の番号すら、正直に書き込むことのできない僕ら。 用意すべき書類、印鑑、保証人…… どれひとつとしてすぐには解決できず、またそのすべてをウソで塗り固めることもできない。 そんな人間に部屋を貸してくれるほど、現実は甘くなかった。 「……書類や印鑑はまだしも、保証人なんてどうすれば いいんだろう?」 「……雅人さんに保証人になってもらうわけには、 いかないでしょうか?」 「兄さんに……?」 「お前たちがそう決めたんなら、俺がどうこう言うこと じゃないさ」 「ま、頑張れよ」 ……今にして思えば、あれは『勝手にしろ』『自分の力だけで頑張ってみろ』という意味だったのかもしれない。 「兄さんは頼れないよ……それはできない」 僕はすでに、兄さんに突き放されている……その兄さんに泣きつくのは、ためらわれた。 「そう……ですか……」 多くを説明しなくても、美百合は何かを察してくれたのか、それ以上兄さんの名前を出そうとはしなかった。 「やっぱり、どこか違う街に行こうか」 どこか……といっても、どこまでいけるかは正直心許ない。宿代だけでも、結構な額をすでに使ってしまっている。 「さすがに、飛行機に乗って北海道や海外まで、とは いかないけどさ」 「……お金なら、まだカードがありますから、どうにか なるかと」 「カード?」 「パパの名義なんですけどね、私用にと持たされていたん です。ほら、パパが出張中に私ひとりで留守番すること も多かったですし」 「この前、試しにここのコンビニで確認してみたら、まだ 使えそうでした」 「うーん……」 カードの名義が美百合のお父さんのものなら、それは今の僕たちがアテにしていいものじゃない気がする。 まぁ、それを言ったら僕も人のこと言えないけど。 僕が持っているお金は、半分がカフェを手伝ったお金で、半分は小遣いなどを貯金したものだ。いずれにせよ、父さんが稼いだお金から出ている。 お金の出所なんて気にしだしたら、きりがないのかもしれないけれど…… 「……そのカードは最後の手段だよ。いざという時まで 使わない方がいい」 「そうでしょうけど……」 美百合のお父さんだって、彼女がカードを持っているって気づいているはずだ。そうしたら…… 「……あれ、なんで、カードを止めていないんだろう?」 「え?」 「美百合のお父さん、どうしてカードを止めたりしないん だろうなって」 「それは……私としては、『まだ使ってもいい』という、 親心なんだと期待したいところですけれど」 「飛び出してきたんだから、言われてみれば止められても 不思議はないですね……なら、どうして――あ」 彼女の顔に、苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。 「……使ったら、その利用履歴から、居場所がわかる」 「それもあるかもしれない……」 結局僕たちは、どこへ行っても親から逃れられないのか? 兄さんと同じように、みんな、僕たちの限界がわかっているのか。 大人たちは、僕らが根を上げるのを待っているんだ。 「くそっ……!」 悔しさがこみ上げてくる。どうして僕は、こんなに無力なんだ…… これじゃ美百合を幸せにするどころか、彼女のために何ができるのかさえ、わからなくなりそうだ。 そして何より、腹いせに悔しがることしかできないのが、ひどく惨めだった…… 「こんなんじゃダメだ」 何をしても、どう足掻いても、何もできない?こんなにも早く、僕らはもう諦めないといけないのか? 「真一くん」 「…………」 「真一くんっ!」 美百合が強引に、僕の腕に自分の腕を絡ませる。 「美百合……」 「んっ――」 「!?」 僕の顔を覗き込んできた彼女は、唐突に唇を重ねてきた。 「む……ぅ……んん……」 「う……む……」 「……はぁ。どうです……元気、出ました?」 「ちょ、ちょっと……こんなところで……」 「足りないなら、もっとしましょう……?」 絡めた腕に胸を押し付けるように、身体を寄せて耳元で呟いてくる。 「私、あなたのためなら、なんでもできるから……」 「真一くんがしたいなら、今、ここでしてもいい」 「な、何言って……!」 「一度忘れて、もう一回考え直しましょう? ね? 何かいい方法が見つかるかもしれない」 そのために――身体を重ねる? それは夢から覚めた後、もう一度夢に戻ろうと布団に潜り込むような真似じゃないか…… つまりはただの―― 〈悪足掻〉《わるあが》き。 それが見苦しくて―― 「やめてよ……」 「何を、やめるんです……」 「だから、もうやめてよ!」 僕の耳に唇を寄せていた美百合を、思わず突き放す。 「きゃっ」 「それじゃただの繰り返しだよ……何も前に進まないよ」 「……何も、進まない?」 「僕たちは、確かにここへ逃げてきた。 そう、逃げてきたんだ」 どんなに言葉を飾ってみても……彼女のためだとごまかしてみても…… 「そういうの、駆け落ちって言わないか?」 そう、駆け落ち……逃避行に変わりはない。 「……それの何がいけないんですか? あなたは私を救っ てくれたんです」 「あなたと一緒にいたい、離れ離れになりたくない! その願いを叶えるために、私を連れ出してくれた。 一緒に来てくれた」 「それが『逃げ』だというなら、『逃げ』で いいじゃありませんか!!」 「……逃げるばかりだから、もう行き詰まったんだ」 「――っ!?」 「もうやめよう、こんなこと……」 「え……?」 「もっと大人にならなきゃいけないんだ……」 「何、言ってるんですか……?」 「目を逸らしたって、逃げたって、何も変わらないんだか ら……」 「なら、もう一度忘れさせてくれればいいじゃないですか」 だから身体を重ねる? それはただの堂々巡り。 彼女にだってわかっているんだろう。わかっていないはずがないんだ。 ふたり一緒ならば無敵でいられる……そんな魔法は、もうとっくに切れていることに。 「それで美百合が笑えなくなるんだったら、僕はそんな ことしたくない」 「なんで、私が笑えなくなるんですか? 私は、あなたといるだけで嬉しいんだって、何度も――」 「一緒にいても、嫌なことから目を背けて、何も解決せず に忘れて……その繰り返しじゃ、心が疲れるだけだよ」 無理をして疲れ果てた笑顔なんて、そんなものは見たくない。 僕は美百合が好きだから……好きだからこそ、ごまかしじゃない、本物の笑顔でいてほしい。 「一緒にいるだけじゃ、何も解決しない。それなら……」 「……それなら、なんですか」 血の気が引いたように……美百合の顔が、白い。 「まさか……離れ離れでも僕たちは恋人だ、愛している、 だから……おとなしく帰ろうとでも言うつもりですか?」 「……それが、ひとつの選択なら」 現実問題として、僕らはきっと……このままじゃ、ダメになってしまうだけだ。 なら早く、次の選択をした方がいい。 「……イヤよ」 「美百合?」 「絶対にイヤ! そんな詭弁、聞きたくない!!」 美百合の顔に今度は赤味が……怒りがにじみ出ていた。 「あなたもパパやママと同じなの!? 私の気持ちなんか おかまいなしに別れた、あのふたりと!!」 「美百合!」 「一緒にいてくれるって……それだけで、それだけでいい のに……」 「――!!」 なんで今、あの時の彼女を思い出す……!? あの時、彼女の両親はなんの話をしていた……? 僕は、彼女の笑顔ばかり追いかけていて……何を見逃している? 「……それとも、私って」 ゆっくりと顔を上げた彼女は……泣き笑いの表情を浮かべていた。 「好きな人ほど一緒にはいられない、そんな星の下に 生まれついているんでしょうか……」 「美百合」 「……今ここに、あなたが作ってくれた オレンジヨーグルトケーキがあれば」 「きっと、笑顔になれるんですけど、ね」 「……ひょっとして昔、初めて会った時」 自分の声が震えるのがわかった。 「キミはひどく哀しい気分で、あのケーキを食べて いたの……?」 考えてみれば当たり前だ。美百合は……笑顔を浮かべていた彼女は、その直前―― 「……両親の、別れ話を聞いていましたからね。 まるで今の私たちみたいに、ケンカしているところを」 「……っ!」 唇を噛み締める。 あの笑顔は、ひどく苦しく、哀しいことがあったからこそのものだったんだ。 そして僕は今、彼女の両親と同じように、美百合を哀しませている…… 「あの日のパパとママ、すごく怖かったんです……」 「でも、それより怖かったのは、だんだん終わりが 近づいているんだって、わかっちゃったこと……」 「大好きなふたりと離れ離れになる時が近づいている…… 子供心にそう悟って、私はずっと泣いていたんです」 「泣いていた……?」 僕が思い出した彼女は……笑っていたはずだ。だけど…… 「……両親の前では、泣かないように堪えていました けどね。私、いい子ですから」 親に面倒をかけないように、子供の頃からそんな気を遣って…… 「強いな……あの頃から、美百合はしっかり者だったん だね」 「諦めていただけです。もう、泣いてみせても意味が ないって、わかっていたんだと思います」 「…………」 それは無力感?絶望? 孤独? なんにしても、子供が抱えていい感情じゃない…… 「だけど、ウチの両親はずるいんです……!」 「ずるい……?」 「あのふたり、離婚してからの方が、仲が良いんですよ」 「美百合は、それがイヤなの?」 「イヤ……? イヤなんてもんじゃないですよ、私には意味がわかり ません!!」 「仲が良いのになんで……? どうして別れる必要があるんです?」 「互いにやりたいことがあって、それが譲れない…… だから離婚という方法を選んだ。 両親はそう言いますけど……」 「私には理解することなんてできませんよ……!!」 「しょうがないとか事情があったとか……それを認める のが大人だって言うなら、私は、そんな大人になんて なりたくありません……」 「私は、そんな考え理解なんてできない、したくない! なのに……!」 「あの人たちは家族だって言うんです! 別れても、私がいるから、私のことが大好きだから、 三人は家族だって!!」 「美百合……」 「くぅっ……うぅぅっ……! うぅ……!」 近づいた僕に、彼女はぶつかるような勢いで、すがりついてきた。 「家族なら……別れても家族だって言うなら、どうして そのままじゃいけなかったんですか!?」 「家も生活も全部バラバラなのに、バラバラでも 家族だって言うんですよ!?」 「そんな言い訳してまで家族でいたいなんて……! だったらなんで家族って言葉があるのか、もっと考えて 欲しかったのに……!」 家族の形を守れなかった人が、家族を語るのはずるい…… 美百合からすれば、それは言い逃れにも聞こえたのかもしれない。 「どうして……どうしてそんな言葉を使いながら、一緒に いられなかったの……」 好きな人と一緒にいたい―― 美百合がそこにこだわり続けるわけが、ようやくわかった気がした…… 同時に、その矛盾も―― 「好きなら一緒にいて、当たり前じゃないんですか!?」 「でも今……僕たちはキミのお父さんを、ひとりにして しまっている」 「……それはっ!」 お説教くさくならないように、ただ感じたままを伝えようと……僕は彼女の髪を優しく撫でながら、慎重に言葉を続けた。 「ひょっとしたら、お母さんも……」 「……心配、はしてくれているでしょうね。 ふたりとも、ヘンなところで良き親であろうとします から」 美百合の口振りから、両親に対する不審は消えていない。それでも彼女は…… 「美百合はそれでも、ご両親のことが好きなんだよね」 「…………」 「好きだからこそ、一緒にいたかったってことだよね」 「……そんなの……当たり前じゃないですか」 「なら僕は、キミとご両親を引き離すことなんて、 これ以上できない」 「そんな言い方……ずるぃ……」 これまで何度も身体を重ねたはずなのに、今僕の腕の中にいる美百合は……別人のようにか細く弱々しい、知らない女の子だった。 けれど、やっと本当の美百合に触れることができた気がする。 「私は、両親と一緒にいるよりも……あなたと一緒に いたいって思ったのに」 「……うん」 「真一くんが私のすべてだって、思っていたのに……」 「……うん」 「おじいさんとおばあさんになるまで一緒だって……」 「……その約束は、守るよ」 「約束なんてしなくていいから、今すぐまた私をさらって 逃げてよ!!」 その言葉で、彼女も悟っていることがわかった。どっちにしてももう、ここにはいられないことを…… 「……逃げる場所なんて、始めからどこにもなかったんだ」 「っっ!」 「だって僕たちには、家族が待っているんだから」 「ぅっ……く、うぅぅっ……うぅぅっ……!!」 「……だから、帰ろう、家に」 みんなが一緒にいられる方法を、みんなで見つけるために…… 「……コーヒー飲む?」 「…………」 とりあえず美百合は泣き止んでくれたものの……まだ、気持ちの整理がついていない様子だった。 僕が買ってきた缶コーヒーにも、なんの反応も示さない。 「……とりあえず、電車代だけでも今の内に確保しておく か」 今晩の内に家へ戻るにしても、もう一泊するにしても、財布の中身が心許ない。 コンビニ内に設置されているATMからでも、お金を下ろせばいいんだけれど…… ここのコンビニは24時間営業ではなかった。確かもうすぐ閉店時間だし、もちろん銀行のATMはとっくに閉まっている。 「お金、下ろしてくるから、ちょっと待ってて」 「…………」 かすかに頷いた彼女が少し心配だったものの……僕は急いでコンビニへと向かった。 駆け込んだコンビニで、目当てのATMを見つけると、すぐにキャッシュカードを入れてパネルを操作した。 「残高は、まだあったはず……」 急いでいたので残高を確認もせず、必要な額を指定して引き出そうとする。 「……ふぅ」 問題なく、何枚かのお札が出てきた。それを財布にしまい、念のため残高を確認しようと、出てきた明細書に目を通して…… 「え――?」 明細には、想像をはるかに超える預金残高が明記されていた。 いや……そもそもこんなお金、僕は知らない。だって、家を出た時よりも増えているのだから。 「こんなのおかしい……あ、えっ!?」 僕の口座番号を知っているのは、身近な人だけだから、もしかして…… 「父さん……?」 どういうこと…… 公衆電話を見つけると、ありったけの小銭を入れて、こればかりは暗記していた自宅の番号をプッシュした。 しばらく呼び出し音が続き…… 「もしもし、西村ですが」 繋がった瞬間、ブザー音とコインの落ちる音……そして懐かしい声が聞こえる。 「……父さん」 「ん、もしかして、真一か?」 「うん……僕だよ」 「おお、久しぶりだな。元気か?」 「……まぁ、なんとか。父さんは?」 たった十日ほどのはずなのに……お互いに、久しぶり、懐かしいと感じてしまう。 毎日顔を合わせていた家族でさえ、これだ。美百合のご両親はどう思っているか…… 「元気だよ、こっちはみんな元気だ」 「そう……店の方は大丈夫?」 残高のことを尋ねるつもりが、つい肝心の話題を避けてしまう。 「香澄ちゃんや芹花ちゃん、杏子ちゃんも手伝ってくれる ようになったから、お客さんも増えてるよ」 「へぇ」 「ああ。――美百合ちゃんの、おかげだ」 「えっ……」 「彼女が接客マニュアルをまとめて、置いていってくれた のを、杏子ちゃんが見つけてな。ずいぶん熱心に読んで、 勉強している」 作りたい、とは言っていたけれど……美百合、それをちゃんと完成させていたのか…… 「芹花ちゃんや香澄ちゃんにとっても、参考になっている らしい。私も勉強になった……礼を、言っておいてくれ」 「……うん」 ああ……父さんはちゃんと、僕が彼女と一緒だって、わかっているんだな。 わかった上で…… 「そっちはうまくやってるんだな?」 「う、うん……」 「そうか、ならいいんだ」 わかった上で、全部認めてくれている。兄さんたちのように、僕たちの限界がみえているはずなのに……見守ろうとしてくれている。 「お金、ありがとう……」 「あれか……半分は雅人からのカンパだ」 「え――」 兄さんが……? 「ああ、数日前に帰ってきてな、黙って金を渡された」 「……それ以外は、何も?」 「ああ、何も言わなかった。 あえて知らせていなかったんだが、お前たちの事情を 全部、知っている様子だったな」 「…………」 「ほかに何か、困ったことがあったら連絡してきなさい。 悪いようにはしない」 「父さん……」 父さんも兄さんも、甘いよ……僕らを結局、甘やかし過ぎだよ…… そして僕は……まだそれに甘えている子供だった。 「お金は、全部返すよ…… 今晩……遅くとも明日には、帰るから」 「……もう、いいのか?」 「うん……いいんだ。 いや、戻らなくちゃいけないんだ」 僕らを見守ってくれる人たちをほったらかしにして、これ以上……ワガママを突き通せない。 「みんなと相談して決めたいんだ。 ……美百合のことも」 「……わかった。待っている」 「うん……」 「いいか、信じなさい。物事はきっとうまく――」「あ……」 小銭を使い果たしていた。カードも持ち合わせていない。 それでも、肝心なことは話せた。確認できた。 帰ろう。帰って…… 何が一番美百合のためになるのか、相談しよう…… 電話ボックスを出ると、いつの間にか雨が降り始めていた。 「っと、美百合!」 彼女は傘も持っていないはずだ。どこかで雨をしのいでくれていればいいけれど。 「はぁ……はぁ……なんだ、あれ……?」 美百合を待たせていた場所へ、急いで駆け戻ると…… そこには救急車が停まり、人だかりができていた。 「……ま、さか」 血の気が引いた。 「――通して! 通してください!」 人垣を割って入る。 まさかそんなことがあるはずない――そう考えているのに、嫌な予感がふくれあがる。 「通して!」 私服、浴衣、宿の従業員……そういった人たちを掻き分けて、騒ぎの中心に辿り着いた僕は―― 「あ……ああ……っ!!」 ストレッチャーに乗せられた人物が、今にも救急車に運び込まれようとしているところに出くわした。 気味の悪い赤色灯の光が、繰り返し彼女の横顔を照らす。長い髪を泥で汚し、生気のない白い顔をした……よく見知っている顔を。 何度も……何度も……何度も…… 思わず歩み寄ろうとした僕を、救急隊の人が手で制した。 「キミ、近寄らないで!」 「ウソだ……」 「何してる、早く出せ!」 「……なんで、美百合が……運ばれていくんだよ」 路上には、見覚えのあるトランクだけが、横倒しになって残されていた…… ……………… ………………くっ! 「どうしてこんなっ!!」 空調の音がどこか遠く、低く、その部屋に響いていた。 カーテンまで白い、真っ白な部屋に朝日が差し込む。 新たな朝。その感動は……薄い。 今僕にあったのは、なんの工夫もない言葉で言えば、『絶望』というもの。ただそれだけ。 後悔の念なんてこみ上げてこない。まだそこまで考えが及ばない。 あるのはただ、目の前で眠っている美百合に、早く目を覚まして欲しいという、その願いだけ。 ――事実はこうだ。 美百合が事故に遭った原因は、車道に飛び出した子供を助けようとしたから。 女の子は助かったけど、代わりに美百合がこうなった。 包帯を巻かれた姿が痛々しい。僕は歯を噛み締める。 身体が痛い……美百合の痛みがそのまま、僕の痛みになったみたいに。 胸をかきむしりたくなるのに、手も腕も動かない。 僕はただ彼女の手を握って、祈ることしかできなかった。 時計の針の進む音がやけに遅く聞こえる。 部屋のドアの外には誰かの足音。それは近づいては遠ざかっていく。時折せわしなく小走りで、心をかき乱される。 僕は、美百合の手をさする。確かに生きていることを確かめるために。 この手を離したらその瞬間に、彼女がいなくなってしまう気がした。 「帰ってきて。戻ってきて……美百合……!」 ――僕は、おかしくなっている。 だから彼女の手を強く強く握り締めて、彼女の指が、いつものように僕を柔らかく握り返してくるのを期待する。 「ねぇ、何を泣いているの?」 美百合の言葉で、僕は自分が泣いているということに初めて気がついた。 頬をぬぐった手が、涙に濡れている。 「ねぇ、何を悲しんでいるの?」 再び、とても不思議そうに尋ねられて……僕は答えた。 「キミが、死んでしまうから」 声が掠れた。 「どうして?」 「どうしてって……」 ――僕は、おかしくなっている。 事故からひと晩。僕は病院に運び込まれてから、ずっと彼女の傍にいた。指先ひとつ動かさない美百合を見つめて。 このまま二度と動かないんじゃないかと思うと、その度に身体が震えた。 どうしようもない嘔吐感に喘ぎ、苦しんでは、美百合の手が温かいことを確かめて胸を撫で下ろす。 だから僕は、美百合に問い返されたことがとてもじゃないけど信じられなかった。 「……幻聴まで聞こえ出したかな」 ――僕は、おかしくなっている。 「幻聴……って、こらっ。 顔をあげてこっちを見て」 「…………?」 僕が握っていた美百合の手が、いつのまにかそこからなくなっていた。 そして気づいた時には、美百合の手は僕の頬にそっと触れていた。 その手はいつものように温かくてやわらかくて、僕はまた涙をこぼす。 「ほら、こっちですよ」 うながされて、僕は顔をあげる。 ベッドの上で目を開けて、こちらを見つめている彼女と目が合った。 ぴくりともしなかった彼女に見慣れた表情が宿り、その顔は朝日にすかされて、淡く輝いているように見えた。 「きれい……だ」 「何言ってるの」 彼女はにっこりと微笑む。いつものように。それはきっと、世界を一瞬で幸せにする微笑みだった。 「もう、おはようの時間かしら……おはよう、真一くん」 「……み……」 美百合、と彼女の名を呼ぼうとして、言葉に詰まる。 こみ上げてきた涙を飲み込んで、僕は彼女に抱きついた。 「美百合……っ!」 抱き締める。もっともっと、強く――! 「いた……っ、いたいよ、真一くん……っ」 腕の中の美百合が身悶えする。 「あ、ごめん、大……丈夫?」 傷が痛むのかと、慌てて身体を放す。 美百合は少し困ったような顔をして、僕を見返した。 「うん。へーき…… ごめんなさい……心配、かけちゃった……」 「いいよ、いい……僕は……」 こうして戻ってきてくれただけで嬉しい。 今度は優しく、僕は彼女を抱き締める。 それで確かめられる。彼女が生きていることを。 彼女が、ここにいることを。 「ナースさん、可愛い人だったね」 「?」 「目移りしてた」 「そんなことないよ」 「当然です。ホントに目移りしてたら怒りますよ」 「…………」 「ふふふっ……ウソです。そのくらいじゃ怒りませんよ」 「それに、大丈夫。ちゃんと私を見ててくれてるって、 わかってますから」 「当然です」 先生たちは、目を覚ました美百合に問診して、傷をもう一度確かめると『もう大丈夫』とだけ言って病室を出て行った。 医療的なことなんてわからない僕だけど、医者のひと言でこうも救われることがあるとは思わなかった。 「……ふぅ」 それでも、痛々しい姿はそのままだった。ともすれば不安に押し潰されそうになる心を奮い立たせて、僕は彼女に笑いかける。 「よかったね、大したケガじゃなくって」 「うん……」 「はぁ……」 また、ため息。確かさっきもため息をついていた。 「どうしたの?」 気になって、僕は尋ねる。もしかしてどこか痛むのか…… それとも、落ち着いたところで思い出してしまったのだろうか? 僕たちが……僕が、家に帰ろうとしていたことを。 「……あの」 「うん……?」 「私が助けようとした女の子は……どうなったの?」 「あ、ああ。元気だよ」 「本当?」 「うん。一応ってことで、美百合と一緒にここに運ばれた んだけど、ケガひとつなかったって」 「お父さんとお母さんが、美百合がまだ眠っている時に 来て、何度もお礼を言ってた」 「そう、ですか」 「また来るって、言ってた。女の子も連れて」 「うん……」 僕は、あの家族の顔を思い出す。娘の無事を、涙を流して喜んでいたのに、三人並んだ姿はどこかぎこちなかった。 特に女の子はずっと仏頂面だった。事故に遭いそうになったショックからかと思ったけど…… お父さんの方から事情を聞いて、ようやくその理由がわかった。 「……女の子のご両親は、別れるつもりだったんだって」 「え……!?」 もしかしたらこの話は、彼女を傷つけてしまうのかもしれないけど……話しておきたかった。 「ふたりでそのことで喧嘩してたら、いつの間にか 娘さんはいなくなっていて……」 「事故に遭いそうになったところを、私が助けた……?」 「そういうこと」 「……ふふっ」 気の抜けたような美百合の笑いに、僕も苦笑いで返す。 「……ふふ……そう、そっか……ふふっ、あはは」 「美百合?」 「私、あの子の気持ちがわかります」 「え?」 「私も……同じだから」 「あ、うん……」 あの日、あの時、店の片隅に座っていた美百合と、昨日の仏頂面の女の子の顔がだぶった。 両手に父親と母親の手を握りながら、女の子は確かにあんな顔をしていた。 それと今、目の前の美百合も、やっぱり同じ顔をしてる。 「昔のことだけじゃない……本当は今も、同じ気持ち だから」 「美百合……」 「……あなたと、離れ離れになるんじゃないかって」 「…………」 「あの夜、どうして私が、あの子を助けられたと 思います……?」 「それは私自身が絶望して、ふらふらと路上にさまよい 出ていたから……」 「雨の中、ひとりぼっちで取り残されて…… それが永遠に続くんじゃないかって、怖くなったから」 「だから、私はひとりで――」 「ごめん……本当にごめん!!」 土下座したい気持ちだった。 僕が家に帰ろうなんて言って、あの場所にひとりぼっちで置き去りにして…… そのせいで、彼女は―― 「真一……く……ん……」 彼女は、ゆっくりと手を伸ばして…… うな垂れる僕の頭を撫でた。 「違う……違うの……」 美百合はゆっくりと、首を左右に振った。 「私はね……あなたが今、傍にいてくれて、よかったって ……心の底から思ってる」 「目が覚めて、あなたがそこにいて……あなたと 再会できたことを、すごく喜んでる」 「美百合……」 「あなたにまた会えて……よかった」 「ずっと一緒にいるって、本当はこういうことなのかな?」 「寂しい時、悲しい時、一緒に笑いたい時……いて欲しい 時に傍にいてくれることが、本当の意味で一緒に いるってことなのかな……?」 「……そう、なるのかな。僕は、そうなれているのかな」 ただ肌を重ねて、時間を無駄に潰しているだけじゃなくて…… お互いに支えて欲しい時、必ず傍にいること…… それが、本当の意味で一緒にいるということ……? 「そういう意味では、あなたと、私のパパとママは…… 合格点かな」 「え……?」 「後ろ……」 ベッドに横たわったまま、目で促す彼女に従って振り向くと―― 「あ……」 和美さんと、見知らぬ女性が病室へ入ってきていた。 「あ……あぁ……っと」 「あなたが、西村真一くん?」 「あ、はい」 「私が〈雪下小百合〉《ゆきしたさゆり》、その子の母です」 「はっ、初めまして!」 慌てて立ち上がって、頭を下げた。予想通りではあったけれど……美百合のご両親が駆けつけてきたわけだ。 「ママ……まだ『雪下』の姓を名乗ってるの? 頑固なんだから……」 「あら、いきなりご挨拶ね。別れたといっても、 この名前は気に入っているんだもの。いいじゃない」 久しぶりに会うはずの、それもケガ人の娘と母親の会話にしては……いきなり際どい話題だなぁと思った。 それとも、これが美百合と小百合さんのスタンスなんだろうか? と、美百合の手がそっと、僕の背中に触れた。 そのまま、僕の腕をなぞるようにして進み……手を握ってくる。 「…………」 頼られている……そんな風に感じた。同時に僕も……彼女が手を繋いでいてくれるなら、このまま立っていられる気がする。 美百合が、僕の手をぎゅっと握り締めてきた。そして…… 「…………心配かけて、ごめんなさい」 そう、ささやくように言った。 それに対して、和美さんは途方に暮れたような表情を浮かべて…… 「……みゆ……り……」 ようやく、娘の名前だけを告げた。そして深くため息。 「オホン」 と、小百合さんが咳払いした途端に、和美さんが背筋を伸ばす。 「言うべきことがあるでしょう、『お父さん』」 「……すまん」 「えっと、だな……美百合」 「はい……」 「…………げ、元気だったか?」 「はぁ……」 「ふふ……はい、元気でした」 「あなたって人は、本当にもう……」 ……笑ってはいけないんだろうけど、想像していた展開とはずいぶん違う。 「すまん、どんな顔をしていいのかわからなくて……」 困った様子で頭を掻く和美さんに、美百合の方が話しかける。 「ごめんなさい。勝手に逃げ出して……」 「…………」 「ごめんなさい」 大人たちのため息が聞こえた。 和美さんは僕らのほかには誰もいない病室を見回して、それから小百合さん・美百合、そして最後に僕の顔をマジマジと見つめる。 そしてまた、ため息。 「……美百合。話をしよう。ボクは、キミの話を聞いて いなかった。いやつまり、本音をっていう意味だ」 頼りなさげに話し始めた和美さんは、なんというか、気を遣っているみたいだった。たぶん、美百合に対して。 「キミが家を飛び出したのは、ボクのせいだと思っている。 ボクがちゃんと、キミの本音に耳を傾けていなかった からだ……違うかい?」 「……ごめんなさい……悪いのは私なの……」 「……うん、でも」 「聞いて……悪いのは私なの」 「あ……うん」 「悪いのは私……戦おうともしないで、逃げたから」 「戦い?」 「私は……私のして欲しいことを、何も言葉にしてこな かった」 「言えばよかったのに。言えばそれで済んだのに。 それを……求められていたのに」 美百合は俯き、そして、顔を上げた。両親を見つめる……駆けつけてくれた両親を。 「本当は、本当は……家族みんな、一緒にいたかったのに ……そこから、私は逃げた」 「話をすることから……逃げた」 「全部諦めて……逃げた……」 美百合が僕の手を強く握り締める。もう逃げたくない――そんな声が聞こえた気がした。 だから、一緒にいて、と。 考えるまでもなく、僕は彼女の手を強く握り返した。 「…………」 小百合さんは僕たちの様子に気づいたようだったけれど、和美さんは目をしばたたかせて、美百合の話に一生懸命耳を傾けるばかりだった。 「私は逃げてはいけなかったのに、逃げた……家族から」 「いつも家族が揃っている……そんな普通の幸せが 欲しいと望みながら、何もしようとしなかった」 「きっと……たぶん、向こうから来てくれるのを待って いただけだったんです」 「でも、声にしなければ気づいてもらえない。手を伸ばさ なければ、自分のものになんてならない。そういうこと なんだって、ようやくわかった」 「いっぱい、回り道したけど、わかったんだよ…… 真一くんが、そう、教えてくれたから……」 「美百合……」 「彼を巻き込んだのは私なの。私が悪いの」 「そして真一くん、ごめんなさい。 でも……でも、すごく……すごく感謝しています」 「ありがとう……」 僕は肩越しに、ただ黙って頷き返した。言葉にしない分、繋いだ手に力を込めた。 「私は、家族みんなで一緒に暮らしたい。転校もしたく ない。真一くんとも一緒にいたい」 美百合は弱々しくも、僕の手を握った自分の手を、両親たちに掲げてみせた。 「……それだけです」 「…………」 美百合の顔は、戦う決意をした人のそれになっていた。 僕ひとりでどうこうなんて、きっともうできやしない。けれど…… 美百合となら、ふたりで一緒に戦うのも悪くない。 「……そうか」 「和くん、それだけ?」 「まぁ、話はわかったし」 「本当かしら?」 夫婦……というより、まるで若い恋人同士みたいな会話を終えると、和美さんは一歩、僕らの方へと足を踏み出した。 視線の先にいるのは、僕……と思いきや、不意に和美さんは目をそらして、ベッドに寝ている美百合を見た。 「美百合」 「はい」 「真一くんのおかげで……その、色々がわかったって いうのは本当かい?」 「そうです」 「そうかい。はぁ……」 そしてまた、僕へ目を向け直して…… 「真一くん」 「…………はい」 「……はぁ。どうしたもんかね」 「…………」 僕に聞かれても、なぁ。 「あなた、『ぶん殴ってやる』んじゃなかったの?」 「そんなことも言ったかな。はははっ」 「…………」 僕は、もうとっくに殴られていても、文句を言える立場じゃない。 いや、むしろ……殴ってもらわないと示しがつかない。 「まったく、甘いんだから」 「そんなこと言ったって、美百合の話を聞いた あとじゃなぁ……」 「あ、あの!」 「殴ってください、僕のこと!」 「えぇ?」 「あら」 「真一くん……」 「僕は本当は、美百合……さんを、止めるべきだったん です。それができなくても、せめて守らなくちゃいけ なかった。なのに……こんなことになってしまって……」 しどろもどろになりながら、僕は“お父さん”に向かって言った。 怖くてたまらないけど、ここで逃げたら僕はまたいつか、美百合を不幸にしてしまう……と、思う。だから―― 「すべての責任は僕がとります」 「それが甘ったれだって言うの!!」 「!」 目を丸くしているだけの和美さんではなく……小百合さんが、鋭く僕に言い放った。 「責任をとる? じゃぁ、何をどうしてくれるの? あなたが殴られることで、何かが解決するというの?」 「それは……」 小百合さんの声には、怒りと苛立ちが込められていた。 「何も……解決なんてしません……すいません」 「やめて」 「私は謝罪の言葉も、あなたの言う責任とやらも いらないわ」 「必要なのは大事な娘の、無事な姿だけ。それ以外は 何も必要ないの。それが親よ。それを……何?」 「あなたがどんなことをしてくれても、娘の傷は消えない でしょう? 責任をとるって言うのは、この傷を 消すってことよ! 違う!?」 「……すいません」 「ママ、それはあんまりなんじゃ……」 「あなたは黙って」 「はい、すみません」 場が、凍りついた。 僕は、自分の言葉を反省する。小百合さんの言う通りだ。 しかも、ご両親にとって僕は、娘を連れ回し、あまつさえ事故に遭わせた張本人。それでしかない。 それを僕は…… ……………… ………………………… 痛々しい沈黙はしばらく続いた。僕にとっては永遠とも思えるような、長い長い時間だった。 「……いいわ。それならこうしましょう」 ずっと僕を睨みつけたまま、そして先ほどと同じ口調で、小百合さんが口を開いた。 「私は美百合を、和美くんが真一くんを、けじめのために 殴ります」 「え……」 「ええー」 ……僕は、美百合が殴られることに対して驚いたのだけど、なんで和美さんの方が嫌そうな声をあげているんだろう。 「責任なんていらないけど、けじめくらいは受け取って あげないと、ね。若いふたりも立つ瀬がないでしょ」 あ、ありがたい……と思っていいんだろうか?急にサバサバした様子で、小百合さんは話をまとめ始めてしまった。 「ほら早くして、あなた」 「お、う、うん」 複雑。 でも、複雑にしてしまったのは僕、か。 「……まったくもう」 和美さんも、釈然としていないような顔をしている。 「真一くん、そういうことになってしまった」 「いえ、本当にすいませんでした」 「ふう……それじゃ、失礼して」 「……ッ」 僕は覚悟を決めて、目を閉じ、すぐにくるはずの衝撃に備える。 ………… …………………… ……けれど、待っても待っても、何も起きない。 「……?」 僕は恐る恐る目を開けた。 「……ふっ」 苦笑い。 そして和美さんは、握った拳を僕のつむじにぐりぐりと押し付けてきた。これはこれでかなり痛い、けど…… 「はぁ。しまらないなぁ、やっぱりこういうのは苦手だ」 和美さんは恥ずかしげに笑った。 僕に対する怒りは、本当にもうどこかへいってしまったのか…… 「和美さん……」 「小百合さんと娘には弱くてね、ボクは」 もしかしたら今、僕以上に混乱して、戸惑って、苦しんでいるのかもしれない人が……笑っていた。 「両方の気持ちを考えると、これが精一杯……かな」 僕は、これで許されたなんてとても思えなかったけど…… 何か言わなきゃいけない気がして、思いついた言葉をそのまま口に出した。たぶん、正解ではない言葉を。 「ありがとうございま――」 「このバカ娘!!」 小百合さんの怒号と、鋭い音に驚いて振り返る。 「いっ……ったぁーーーーーーい!」 「み、美百合っ!?」 と、平手を振り抜いた小百合さんと、思い切り叩かれて頭を揺らしている美百合がいた。 今まさにの、決定的瞬間というやつだった。 「ちょっ……ちょっと小百合さん!? 美百合はケガしてるんだぞ!?」 「あはっ。ちょーっと、やりすぎちゃった?」 「い、痛いよ~」 すごい…… 美百合は打たれた頬をさすっていた。しっかり赤くなっている。 音も派手だったけど、ホントに手加減なしでやったんだな……恐るべし。 「自業自得ですよ。これに懲りたら、もう周りを 心配させるような真似はしないように。よろしい?」 「……ごめんなさい」 「そちらは?」 「すいませんでした」 「ごめんなさい」 なぜか、僕だけじゃなく和美さんまで頭を下げている。 「……まぁ、いいわ。まだまだお説教したりないところ だけど、お医者様と今後の相談もしなくちゃいけないし、 今日のところはこのくらいで」 「美百合の面倒は、真ちゃんに任せていいかしら?」 「あ……はい」 もう真ちゃん呼ばわりだった。 「和美くんも、あとで改めてしっかり娘たちを叱ってくれ ないと、困りますよ?」 「はーい」 「それに美百合のお願いも、しっかり聞いてあげなくちゃ ならないし」 「ママ……え? それって」 「でしょ、あなた?」 本当にしょうがない人たちなんだから――そんなことを呟きながらも、小百合さんは和美さんに寄り添った。 「……まぁ、ボクは小百合さんさえよければ、それで」 「あくまで、美百合のためです」 「…………」 「それじゃ、また様子を見に来ますからね、美百合」 「……うん。待ってる」 ――それは、家族の会話だった。 「……あの子も今頃、ご両親とうまくやっていると いいなぁ」 「……うん」 雪下家のご両親が仲良く病室をあとにしてから、しばらく経って…… 美百合がふと、呟いた。 「私が助けたあの子は……きっと、昨日までの私と一緒」 「家族がイヤで、逃げ出したくて、でも本当は大好きで、 一緒にいたくて……」 「もし、そんな気持ちのまま、あの子が事故に遭っていた ら……」 「それは……あまり想像したくないことだね」 「……うん」 美百合は、あの子の気持ちがわかりすぎて……わかりすぎるから……だから、こんなこと言うのかな? 「でもね。私があなたと出会って、カフェでケーキを 食べて、今こうして傍にいてもらって……」 ケガで動けない美百合の手は、ずっと僕の手を掴んで放さない。 今はそれしかお互いの温もりを感じ取れないから、と言うけれど…… これだけで十分、幸せだった。 「両親ともようやく向き合えた……全部、あなたのおかげ」 「あの子にもいつか、そんな素敵な出会いがあると いいなぁって思うの」 「出会いなら、もうしているよ」 「え?」 擦り傷を負っている美百合の指先や、手の甲を、その包帯やガーゼ越しに優しく撫でる。 「美百合とあの子が出会って、助けた。 これが素敵なことじゃなくて、なんなのさ」 「……そっか」 「私にとってのあなたと、あのケーキに、私自身がなって あげればいいんですね」 「そういうこと」 「ふふっ、ではマスター?」 「……え」 ちょっと懐かしい気分になった。 それは彼女が僕の家で働いていた頃の、冗談めかした呼び方。 「あの子のためにも、オレンジヨーグルトケーキを 用意して頂けませんか?」 「え……あ、ここで?」 「そりゃあ、いつあの子が来てくれるか、 わかりませんから」 「カフェ……“CAFE SOURIRE”は、 宅配や出張サービスは行っておりませんが?」 「そんなの認めませーん。場合によっては、すぐ連絡して 持ってきてもらってください」 「えと、それは商品を……?」 「いいえ。調理道具一式と、材料一式」 「ここで作るの!?」 「はい♪ だって、私も一緒に食べたいですし」 まだ痛々しい格好なのに、そう告げる彼女は、すっかり以前の小悪魔みたいな口調で…… 「私はもう、あなたの作ったケーキ以外、口に入れたく ありませんもの」 僕に一生分のおねだりをしてきたのだった…… 「こぉの、 大バカーーーーーーーーーーーーっ!!」 「げふぃっ」 「うわぁ、グーだ、グー」 「あわわ……」 「この、この、この、 バカ真一っっっ!!!」 家に帰り着くなり、芹花の洗礼を受けた。 僕は打たれた頬をさすりながら、さらにまくし立てる芹花の暴言を、黙って受け入れていた。 「バカ、馬鹿、ばか、ばかばかばかばかばかばか!!!」 「はい、すいません」 素直に謝るしかない……というよりも、今僕は心から謝りたい気持ちでいっぱいだった。 美百合のおねだり……ばかりが理由ではないけれど、ひとまず彼女の様子が落ち着いたところで、僕は一旦帰宅することになった。 父さんたちに状況を説明し、和美さんたちとも相談して決めた上でのことだった。 美百合も、間を置かずに退院できるということだったけれど……できれば一度は、オレンジヨーグルトケーキを持って見舞いに戻りたいと考えている。 ――と、何の抵抗もない僕の反応に肩透かしを食らった気分なのか、それともただ呆れただけなのか……芹花がようやく罵るのをやめた。 「ふんっ!」 「本当ならもっとひどい〈罵詈雑言〉《ばりぞうごん》を浴びせかけてやる ところだけどね、美百合に免じてバカだけで勘弁して やるわ、このバカ!!」 「はい、ありがとうございます」 「……くぅ。なんかムカつく」 芹花は色々納得がいっていないみたいだけど、そんな反応も含めて僕は、黙って受け入れる。 和美さんたちには許してもらえたものの、心配をかけたのは芹花たちも同じだ。 「大変だな、お前も」 「まぁ、ね……っていたの?」 「よう、親友」 「おう、親友」 「失礼だなあ、ずっといただろ?」 「ごめん」 反射的に謝る。それが、宗太の目にどう映ったのか…… 「……へぇ」 「何か?」 「いや、安心しただけだよ。んじゃな」 「え?」 「……?」 ずいぶんあっさりと去っていた親友を、僕は首を傾げながら見送った。 「……久我山くん、真一くんが帰ってくるまで、 毎日ここに来てたんだよ」 「……いつもみたいに、遊びに来ていたわけじゃなくて?」 「うん。連絡ないか、っていつも聞いてた」 「……そっか」 当分、謝り続ける必要がありそうだなぁ…… 「おい、バカ。まだ話は終わってませんけど?」 「とうとう僕の呼び方、バカで定着……?」 「うるさいバカ。あんたねー、家族に心配かけた上に、 〈他人様〉《ひとさま》の娘さんにケガさせるなんて、バカならではの ことしすぎなのよ、このバカ! バーカバーカ!!」 「それは本当に申し訳ない……」 「……無事だったんだから、いいじゃない。どうせ、 美百合もそう言ってるんでしょ」 ようやくバカのひと言が消えた。 「そういうわけにはいかないよ。僕は一生、 責任を感じ続けなくちゃいけないと思う」 ただ、卑屈にはならないように……美百合のためにできることを、とにかくやるだけだ。 「……一生、美百合のために、か」 「――そうだ、ひとつ気になっていたんだけど」 「ん~、何よ」 「宿に電話をくれた『水島』って、誰?」 「私です」 「えっ!?」 若い女性って聞いていたから、てっきり芹花か香澄さんかと…… 「……あー! 『西村』って名乗ればよかったわ。 ついうっかり、クセで」 「…………」 ちなみに僕たちが不在の間に、父さんたちの再婚手続きと水島家の引っ越しは、滞りなく終わっていた。 「それはそれとして、まだまだお説教の順番待ちがあるん ですからね~。芹花、そろそろ代わって」 「順番待ち……?」 「当然です。みんな心配していたんですからね」 「人がせっかく気を利かせてやったのに、あっさり帰って きたことについて、説明してもらおうか」 勢ぞろいした家族全員からのお説教…… 長い一日になりそうだ。 ――そうして何度か、カフェと美百合が入院している病院を往復し…… ――経過の良好な美百合にオレンジヨーグルトケーキを差し入れ…… ――あの街で助けた女の子にも再会して、オレンジヨーグルトケーキを『おいしい』と言ってもらえたりしている内に…… 僕たちの夏休みは、終わりを迎えようとしていた。 「真一、すまないが買い出しを頼む」 「あ、うん」 「領収書もらうの忘れんな」 「わかってる。いってきます」 「……は、あ~ぁ」 大きく伸びをして、胸いっぱいに息を吸い込む。 夏の日差しにかすかな風。海と空の青。僕は、この日常へ戻ってきた。 こうしていると、美百合と過ごしたあの時間が、幻のように思えてくる。 けれどどの景色も、あの時間を過ごすよりも前とは、どこか違って見えて―― 「あら、お出かけですか?」 「美百合!?」 「やっと包帯が全部取れたので、これからカフェに 行こうかと思っていたんですけど」 「あ~、そういうことなら」 「戻るのはなし」 「え?」 買い出しは後回しにして、彼女を店に案内しようとした僕を、美百合は止める。 「どうせなら、ふたりだけでお話ししたいことがあります から」 そう告げる彼女は、まったく以前と変わらないように見えて…… 「せっかくなので、デートしませんか?」 この日常の風景同様、少しだけ違って見えた。 「……やっぱり、この町は潮の香りなんですよね」 懐かしむように口にした彼女は、海風に髪をなびかせるままにしている。 まるで、この一瞬すらも楽しんでいるように…… 「なんだか、帰ってきたって感じがします」 「……退院、思ったより早くできてよかったね」 「ええ、その節はお世話になりました」 ぺこり、と頭を下げる彼女。 経過が良好とかで、彼女は早々に自宅に戻ることができた。 ただそうなると……距離的には近くても、親御さんの手前、そう頻繁に見舞いに行くわけにもいかず…… 彼女も自宅から簡単には出られない状態だったので、実のところ、顔を合わせるのは久しぶりだった。 電話やメールは、それなりに交わしていたんだけど…… 「そうそう、またあの子から手紙が届いたんですよ」 「……あ、助けた子?」 「はい♪ パパとママ大好きって、クレヨンで描いた絵を 送ってくれたんです」 「へぇー」 病室で一緒にオレンジヨーグルトケーキを食べた仲、ということで、あの事故以来仲良くしているらしい。 「ご両親も離婚は考え直しているみたいで……」 「あ、そうそう。オレンジヨーグルトケーキをまた 食べたいって、手紙の最後に書いてありました」 「ははは……僕の練習作でよければ、また贈っておくよ」 ケーキ作りの練習は、一進一退。なかなか父さんのように完璧にはいかないけれど…… 「私にも、贈ってください」 「……え?」 「できたものから全部……フランスまで」 「……お父さんに、ついていくことにしたの?」 「……あなたとこうして会えなくなるのは、辛いですけど」 「和美さんたちと、話したんだ?」 「うん。でもそのほとんどは、ずーっとお小言。 特にママが」 「はははっ」 小百合さんの、厳しいけれどさっぱりとした口調が思い出された。 「それと、これからのことをずっと、話してました」 「これから……か」 美百合は僕から視線を外す。 「……パパは、ああいう人ですから、放っておけないです し」 「ママが、仕方ないわねぇなんて言いながら、向こうに 仕事の拠点を移してまで、一緒にいようとしてくれて いるんです」 「そうなんだ……」 「ママは、それなりに名の通ったファッションデザイナー ですからね。その気になれば世界中どこでも仕事なんて できるのよって、自慢されちゃいました。ふふっ」 外した視線を僕に戻して、美百合は笑った。 「だから私も……私の欲しいものに、一緒にいたい 人たちに、手を伸ばしてみることにしたんです」 「…………」 それはたぶん、僕と出会う前の美百合にはできなかったことで…… 僕はその成長を、喜ばなくちゃいけないんだろう。 でも……僕は、僕の身体は、その事実に涙を流す。 「真一くん……」 心は泣いていない。身体が勝手に反応していた。 手が震えてる…… 「安心して」 美百合が僕の手を取って、自分の手を重ねる。震えが収まる。 涙も……止まった。 「私は真一くんのことも、手放してしまうつもりは ありませんから」 「…………」 「必ず戻ってきます。だから、その時には……」 その時には……その先は、言葉にしなくてもわかった。 僕らはこれでおしまいじゃない。 これでお別れじゃない。これは、喪失じゃない。 僕は何も失ってなんかなかった。 「――待っててくれますか?」 「わかった」 「信じて待ってる。それに、会いに行くよ」 「……私も」 僕は美百合を抱き締めたくなった。 すると美百合は僕の腰に腕を回して、身体を寄せる。 「んっ……」 考えていることは同じ。 僕は彼女を抱き締める。 強く、強く強く。美百合も僕を、強く抱く。 「あの、ね。どうしようか?」 美百合は僕の顔を見上げて、問いかけてきた。 「また会う日まで、キスはおあずけにしておきます?」 ホント、考えていることは一緒で…… だから僕は、自分の衝動に正直に従う。 「私としては……っんん……」 「っ……」 彼女に最後まで言わせず……唇を重ねた。 「んんぅ……はぁっ……」 美百合の唇が、キスを返してくる。 「んんん……んぅ……んん……ふぁっ」 ほんの少し情熱的なキスの後、僕らは唇を離した。 「……もう。人のセリフは最後まで聞いてください。 せっかく気の利いたことを言って、私からおねだり しようと思ったのに」 「あ、ごめ……」 さすがにそこまでは……と、謝ろうとした。 その言葉を、美百合が僕の唇に人差し指を当てて止める。 「謝ったらダメです。雰囲気ぶちこわしですよ」 「あ、ごめん」 「ほら、また!」 「……あー」 「ふふっ、ふふふふっ」 抱き締め合ったまま、僕たちはおでこを合わせて、楽しげに笑い合った。 「それにほら……わかるでしょ?」 「ん……」 「私たち……キスだけで終われるわけ、ないんですから♪」 そして彼女は…… 百合のように甘い残り香で、僕を満たして…… ――旅立っていった。 「行っちゃったねぇ」 「うん」 「真一くん、大丈夫……?」 「うん」 「『うん』だけ? もっと気の利いたこと言いなさいよ。 せっかく心配してくれてるのにさ」 「そうだね……でもさ」 「何よ」 「これでお別れなんかじゃないから」 「……そっか」 「……そうだね」 「うん」 そう……僕たちはこれで、手を離したりはしないんだ―― そしてまた、夏がやってくる―― 「あぁ……だるいぃ……夏バテだ。完全に夏バテだ」 カウンターに突っ伏して、芹花が呻いている。 「芹花ちゃん、夏休みに入ってからずーっとその調子じゃ ない? 大丈夫なの?」 「た~ぶ~ん~……」 「はぁ……真一くん、なんとか言ってやって」 「自業自得になるだけだよ」 「なんだとぉ!? 真一のくせに生意気ーっ!!」 「はぁ……」 夏休みの課題やら、休み明けの試験やら、進学やら……僕らの問題は山積みだ。 芹花は普段から勉強もそこそこやっているはずなんだけど、この夏の暑さには少々げんなりしているみたいだ。 「……大丈夫?」 「ダメ。もうダメ。溶ける」 「少しは真一くんを見習って欲しいものね」 「真一を? あたしが!? ダメダメ。あ~んな毎日毎日 根詰めてやってたら、もたないって」 ……まぁ、人には人のやり方がある。僕のやり方が芹花に合うとは思わない。 僕には僕で、毎日根を詰めてやらなくちゃいけない理由があった。 「大体、立場が違うっていうの。留学を狙うなんて、無理 無茶無謀もいいとこ!」 「そうかしら? 元々真一くんって、成績悪くなかったし。 美百合ちゃんのためなんでしょ? それなら頑張れる はずよ~」 「あ~もうっ、ちょっと真一っ!! あんた仕事中くらい参考書開くのやめなさいよ! こんな風に比較されて、あたしが迷惑すんの!!」 「あ、ごめん」 店内には身内だけで、ほかにお客さんもいなかったので、つい夢中になってしまっていた。 「んん? あんたそれ……なんの教科やってんの?」 「え? あぁ」 参考書の表紙に書かれているのが英語ではないことに、芹花も気がついたみたいだ。 「フランス語」 「ふ、フランス語ぉ!?」 「そう。発音が難しくて」 「はぁ~……これだから留学狙いはぁ」 「だって、必要なものだし」 「あー、はいはいお熱いことでございますね~。 あんたなんかさっさとフランスでもどこでも行って、 美百合と現地語でイチャイチャすればいいのよ!」 芹花はずぞぞーっと、アイスティを空にしたグラスの中で氷が溶けて溜まった水をすすりあげた。 「卒業したらね。もっとも美百合となら、日本語で十分 だけど」 「う~わ、照れもしない。こいつ、リアクションまで 余裕たっぷりね。ちぇ」 「そういえば、最近真一くんは急に大人びた印象が あるわね。そのせいかしら?」 「何がぁ?」 「最近、女の子のお客様が増えてる理由」 「そうなの!?」 「そうよね、杏子ちゃん?」 「うん……よく聞かれる。今日はあの人いないんですか、 とか」 「…………はあぁぁぁ、信じられない。雅人さんなら ともかく」 「雅人くんはもう、ほかの女の子の旦那様じゃない。結婚 引退したようなものでしょ」 「いやそんな、アイドルみたいに言わなくても」 兄さんが結婚して家を出て行って以来、確かに僕が店番する時間も増えたけれど…… 女性客が増えている実感もないし、事実だとしてもちょっと……困ってしまう。 「……んんー、わからないわ。世の中って」 「そりゃ、何が起こるかわからないのが、世の中だからね」 「あ、いらっしゃいませ~」 「おぉぉぉお~、お客様かぁ~~~」 「芹花ちゃん、せめてシャンとしなさい」 「…………」 入ってきたのは、大きな帽子を目深に被り、髪の長い女性だった。 彼女は、大きなトランクを引きずりながら、窓際のテーブル席に近づいていく。 「あら、噂をすれば早速かしら?」 「ええ~? 真一目当てのお客? ないないっ」 かしましい姉妹の会話を背中に受けつつ、僕は注文をとりに向かう。 あの、美百合がよく座っていた、窓際のテーブル席へ。 「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか?」 「ええ、ケーキセットを。 ドリンクはお任せで、ケーキは……」 「あなたお手製の、オレンジヨーグルトケーキを」 「……お帰り、美百合」 「たっだいま~!!」 「わわっ」 「え?」 「あん?」 「!!」 「気づいてくれてたんだ、真一!!」 帽子が落ちて、その下から顔を出したのは、やっぱり美百合だった。 「え? え? 美百合!?」 「あらあら」 「驚かそうと思って、わざわざ変装までしたのに!」 「変装って、帽子だけじゃない。 それに今日来るって聞いてたし――」 「聞いてない! あたし聞いてないわよっ!!」 「へ? ちゃんとしましたよ、連絡」 「うっそぉ~!!」 「あ、みんなには僕が言わなかっただけ」 「ちょっ!! あんた、何それ」 「驚かそうと思って」 「あ~~~なんなのよ、あんたたちバカップルは!!」 「美百合ちゃん、いつ戻ってきたの?」 「今! まっすぐここへ来ちゃった」 今度は杏子に抱きつきながら、美百合が元気よく答える。 「一時帰国なのかしら?」 「一時といえば一時ですねぇ。ただ、卒業まではこっちに いるつもりですけど」 「え、それって……ああっ!」 ぽん、と香澄さんが手を打った。 「お父さんが言っていた、新しく雇うアルバイトって」 「はーい、私です! よろしくお願いします!」 「聞いてない!! あたし聞いてないよっ!?」 「父さんのだんまりも、相変わらずだなぁ」 「あんたもでしょっ!! 最近似てきたんじゃないの、おじさんと!!」 「じゃあ、美百合ちゃん……ここに住むの?」 「はい♪ ちゃんと両家の親公認で、正式にお世話に なります!」 「聞いてない!! あたし全っ然聞いてないよっ!?」 「ちょっと香澄、芹花、ウチの手伝いを……って、あら?」 「お久しぶりです、おばさま」 「あらあら、まぁまぁ。美百合ちゃん? いやん、 すっかり大人の女性ね。帰って来たの?」 「はい、たった今」 「ああ、部屋の用意はできているから、ささっ中へ」 「お母さんまで知ってたの!?」 「……言わなかったかしら?」 「言われておりませんっ!!」 「あの、お構いなく。勝手知ったるなんとやら、ですし」 「そうは言ってもねぇ。歓迎会だってしたいし」 「あはは、そこまでして頂かなくても……」 「ダメ」 「えっ?」 「美百合ちゃん……せっかく帰ってきたんだから、今日は お祝いしたい」 「ええっ? そんな、杏子ちゃんまで」 「そうね。お料理たくさん作らなくちゃ♪」 「あぁ……あの、ホントお気遣いなく」 「あ~もうっ!! 気遣わないわけないでしょ!! 真一、今日はもう店じまいよ!」 「ええっ!?」 「親友で……大事な家族のカノジョが帰って来たっていう のに、騒がずにいられますか!」 「芹花……」 「……さぁーって! 俄然やる気が出てきたぞ~!!」 「お、おー」 「はぁ……」 最初のサプライズも完全に吹き飛ばされて……気づけばみんな張り切って、キッチンへと姿を消してしまった。 「ふふっ、ふふふっ」 「美百合?」 「……楽しい。帰ってきてよかった」 「……うん」 手を差し出す。以前よくそうしていたように、握り合う。 「……ただいま」 「お帰り」 そしてどちらからともなく、唇を近づけ…… 「美百合ー、あんた何食べたい~?」 「!?」 「ひゃっ」 パッと、僕たちは手を離した。当然、顔も離れている。 「…………」 「え、えーっと、美百合。実は僕、最近フランス語を勉強 していて」 「あ、あら、そうなんですか? だったら本場で通じるかどうか、確かめてあげましょう。 何か言ってみてください」 「う……それはプレッシャーだ」 「ふふっ」 「……何やってんのよ、あんたたち」 さっきまで見ていた参考書をネタに、ちょっとごまかすつもりが……ヤブヘビというやつかな? これは。 「さぁさぁ、真一の決め台詞、聞かせてください♪」 「はぁ……」 でも、これはいい機会かもしれない。 そう思い直した僕は、僕なりに精一杯のフランス語で、彼女にこの言葉を贈った。 「Je t'aime、miyuri」 「……っ! そうきましたか、なら――」 「shin-ichi、Je t'aimerai toute me vie」 「よかった……そう言ってもらえて」 「通じました? ふふっ」 「うん、しっかりと」 「え? え? なんて言ったの? 意味は? え?」 「なんてって……そりゃぁ、もちろん」 「秘密です♪」 「えーっ!!」 「ふふっ……」「あはははっ!」 「おーしえなさいよーっ!!」 ……僕たちはきっとこれから、ずっと、一緒でいられる。手を繋いでいられる。 お互いを好きだと思う気持ちさえあれば、永遠に…… 「shin-ichi、Je t'aimerai toute me vie」 「――真一。永遠の愛を……あなたに」