むかしむかし、ある所に。 白雪姫(ビアンカネージュ)と言う名前の、 それはそれは美しいお姫様がおりました。 黒檀のように黒い髪、雪のように白い肌、 そして唇は血のように紅く。 その美貌は、 目にした誰もがため息をつかずにはいられないほどでした。 母親を病気で亡くしてしまった白雪姫には、継母がおりました。 継母である女王様はとても美しい女の人でしたが、 その正体は恐ろしい魔女でした。 自分を国一番の美女と信じて疑わない女王様は、 毎日魔法の鏡に向かって尋ねます。 「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰?」 すると、鏡はいつでもこう答えるのでした。 「それは女王様、あなたでございます」 けれどある日、鏡は女王に向かってこう言いました。 「それは白雪姫でございます」 嫉妬に狂った女王様は、猟師を呼んで命じました。  「あのいまいましい娘を殺しておしまい。そしてその心臓と肝を、持って帰ってくるのです!」  「……はあ、そうですか」  折角この私が心を込めて直々に朗読してやったって言うのに、気の利かない私の従者はさも面倒くさそうな顔をして、そんな言葉を返しただけだった。  昔っからの付き合いだから、この淡白な性格は承知しているけれど、流石にこれは腹が立つ。  私は膝の上に乗せていた絵本を少し乱暴に閉じると、脇に立って私の朗読を聞いていた彼を上目でじろりと睨んだ。  「それだけ?」  「お茶が冷めますよ」  「そうじゃないわよ! ばかねっ!!」  「そうですか。とにかくベッドから降りて、椅子に座って下さいネージュ様。  そこでお茶は飲めませんよ」  罵られても眉ひとつ動かさない、この可愛げゼロの無表情男はエステリオ。私の幼馴染で、従者として身の回りの世話を担当している、大概失礼な男だ。  私は少し自分の立場を思い出させてやろうと、腕を組んで、なるべく不機嫌そうに見えるようにきゅっと眉を寄せ、エステリオを睨み上げた。  「エステリオ、私の名前は?」  「は? 頭でも打ちましたか」  「違うわよ! 良いから答えるのっ」  「ビアンカネージュ様です」  「それで、私はどう言う地位の人間?」  「我が国の第一王女です」  「それじゃあエステリオ、この世で一番美しいのは誰かしら?」  「世界は広いですから俺には解りませんが、この国で一番美しいのは姫、貴女様でございます」  「そうよっ、解ってるじゃない――何よその、やれやれって感じの顔!」  「やれやれと思っているんですよ。全く毎日毎日良く飽きませんね、ネージュ様は」  「何の話よ」  「一番美しいのは~ってやつです。今朝も聞いたでしょう」  「むぅ……」  このアホ従者。私に仕えることが出来るのがどんなに幸運かって言うのが、わかっていないのかしら。  国一番の美貌に、従者の不躾な態度も寛容に許す懐の広さ。  私みたいに素敵なお姫様なんて正直他には居ないと思う。それなのに、こいつはどうしてこうも生意気なのかしら。  「とにかくよ! あんた、失礼だわ。  主人が本を読んでやってんのよ、それなりの感想を言うのが礼儀ってもんじゃないの!」  「はあ」  「はあ、じゃないわよ。言いなさいよ感想」  「年頃の女性、それも一国の姫ともあろう方が、ティータイム直前に心臓だの肝だの言うのはどうかと思いました」  「だからっ、そこじゃないわよ! あんた本当にやなやつね!!」  「そう言われましても。それは我が国で一番有名なおとぎ話でしょう、そう簡単に斬新な感想は思いつきませんよ」  「一体どうなさったんですか、突然絵本なんか朗読し出して」  「だから、何度も言ってるでしょう。継母よ継母!  今までずっとその話をしていたんじゃない!」  「そうでしたか?」  「聞いてなかったのね」  「ネージュ様が散らかした部屋の片付けに、つい熱中してしまいまして。  それにしても今日は一段と不機嫌で――」  「ああ、アメリア様が城にいらっしゃるからですか」  エステリオがさらりと口にしたその名前に、私は思わず眉をしかめる。  アメリアですって? なんて品の無い名前なのかしら。  「やめてよ。その名前、聞くだけで背筋がぞわっとするわ」  「アメリア様ですか」  「だから、やめてったら」  「アメリア様」  「怒るわよ!!」  思わずベッドから立ち上がると、エステリオはまあまあ、なんて言いながらさり気無く私の肩を押して、ベランダに通じる大きな窓の前に置かれた椅子に座るように促してくる。  椅子とセットになっているテーブルの上には、先程エステリオが用意したティーセット。  なによ、さっさと飲めって言いたいの?  仕方が無いので座ってあげると、エステリオは生意気にも主人に向かって堂々とため息をついた。  「名前くらい良いじゃあありませんか。そんなにつんけんしていると、疲れてしまいますよ」  「嫌なものは嫌なの!」  「ほら、お茶でも飲んで。落ち着いてください」  「あんたさっきからそればっかり! 何か変なものでも入ってるんじゃないでしょうね」  「俺が何か入れてどうするんですか、ただ冷めてしまうのが勿体無いと思っているだけですよ」  「ネージュ様、冷めたの飲まないじゃないですか。また毒見のやりなおしは面倒ですからね」  「…………」  こいつと会話していると、自分がお姫様だってことを忘れそうになる。  どこのお姫様もこんな失礼な従者が付いているものなのかしら?  憤まんやるかたない気持ちで、カップをそっと持ち上げ口に付ける。腹は立つけれど、こいつの淹れる紅茶はおいしい。  少し冷めているのは……まあ、許してあげるわ。  そんな事を考えている私の横で、エステリオはかちゃかちゃと小さな音を立てながら、お菓子の乗ったお皿を銀のワゴンからテーブルの上に移動させた。  「確か、ご到着は夜でしたね。夕食が終わったら大急ぎでお出迎えの準備をしませんと」  「嫌よ! 出迎えろって言われたけれど、絶対に行ってなんかやらないわ。  庶民出のみすぼらしい女が家族になるだなんて、まっぴらだもの!」  「大体お父様もお父様よ。今更再婚だなんて……頭おかしくなっちゃったとしか思えないわ!」  「……まさかとは思いますがネージュ様。それ、陛下に直接言ったりしてませんよね?」  「言ったに決まってるじゃない! そしたらあのばかオヤジ――」  「ま、庶民も貴族も愛があればどうだっていーじゃないかネージュ!」  「何言ってるのよお父様! 良いわけ無いでしょう、大体庶民出の女なんて――」  「ああ、この城の生活に慣れることが出来るか案じているのかな姫!  お前は全く、優しい娘だなあ!  ほらおいでネージュ! 可愛い娘にパパが高い高いしてやろう!!」  「いっ、ちょっと! そんな事ではぐらかされないわよ!!  私は心配してるんじゃなくって、そもそも反対しているのよ! 大体、天国のお母様にどう言い訳するつもりなの!!」  「ううん、だけどなぁネージュ。いつまでも父娘ふたりきりと言うのも寂しいだろう。  あちらにはお前よりいくつか年上の娘も居てなぁ。良い子だぞぉ」  「お前、お姉ちゃん欲しいって昔言ってたじゃないか!! お姉ちゃんが出来たらネージュは何がしたいって言ってたっけなあ?  一緒にご本を読んで、お洋服を選んで、外に出掛けて……? なんだったかな」  「だから! いらないって言ってるのよ!!」  「ああそうだ、一緒にいたずらするんだって言っていたんだったな! ネージュは昔からおてんばさんだったものなあ」  「人の話を聞けって言うのよ!!」  その後もずっと文句を言い続けたけれど、お父様は聞く耳を持って下さらなかった。  こんな事、今までに一度だって無かったわ。今まで私の言う事なら、お父様はどんな事でも聞いて下さっていたのに。  しかもあの女と娘の話をする時のお父様の顔ったら!  あんなだらしない顔、お母様が見たらきっとお怒りになるに違いないわ。  ああお母様、どうして死んでしまったのかしら。  少し気分が沈む。そんな私に少しは同情してくれたって良さそうなものなのに、目の前の従者はちょっと首をすくめただけだった。  「はあ、まあ、賑やかになるのが嬉しいんでしょう」  「賑やか? 鬱陶しいだけじゃない!  それに私、お姉ちゃんは欲しかったけど、庶民出の姉が欲しいなんて言った事ないわ!!」  「陛下はネージュ様が寂しい思いをしていらっしゃると思ったんでしょう」  「どうしてそうなるのよ」  「だってネージュ様、友達一人も居ないじゃないですか」  「なっ、い……るわよ、友達くらい!」  「え、いらっしゃるんですか?」  「…………」  「……?」  「…………」  気付きなさいよ、鈍いわねこのバカ。  心の中で罵っていると、エステリオはやたらと長い沈黙の後、ああ、と言って、自分を指差した。  「ひょっとして、俺の事言ってます?」  「そっ、それ以外に誰が居るって言うのよ!」  「…………」 お姫様に友達だと認めて貰えるんだから、素直に感謝してくれれば良い所を、エステリオは眉をひそめて奇妙なものでも見るような目つきで首を傾げた。  「ネージュ様、俺は貴女の使用人なんですが」  「そりゃあ、肩書きはそうでしょうよ」  「あの、普通ですね。友達に身の回りの世話をさせたりはしないものですよ」  「そっ、そりゃあ、そうだけどぉ……」  「と言う訳で、晴れて友達ゼロなネージュ様。  陛下はそんな貴女が寂しい思いをしていらっしゃると思っ」  「それは聞いたわよ!  とにかく、余計な気遣いだって言ってるのよ。別に、友達なんか居なくたって私寂しくないし……」  「そうですか? 同年代の女性の方とお喋りするのは楽しいと思いますよ」  「そんなことないっ! それに、友達くらい自分で選ぶわよ!!」  「大体ね、継母や義理の姉なんて言うのは、さっき私があんたに読んであげたのと同じように、大体意地悪なものなんだからね。  あんた、私がいじめられたらどうすんのよ」  「さあ、どうしましょうね」  「…………」  「すみません、俺の想像の限界を越えてしまったものですから。  それにネージュ様、そう言う偏見はいけないと思いますよ」  「随分と貧弱な想像力ね。それに偏見なんかじゃないわ、セオリーよ。  絶対に継母は意地が悪くて狡猾な最低女だわ」  「お父様は騙されてるの。  私もきっといじめられちゃうんだわ……ああっご飯に毒を盛られたりしたらどうしましょう!」  「でもそうしたら、素敵な王子様がキスで目覚めさせてくれるのかしら。  そうだったらそう悪く無いわよね。ね、エステリオ!」  「ふっ……そうですね」  「ちょっと。あんた今、笑った?」  「そんな事よりネージュ様、御髪が乱れていらっしゃいますよ。  今直して差し上げましょう」  「誤魔化してるんじゃないわよ」  「いけませんよ。これから貴女の新しい母君様に姉君様がいらっしゃるんですからね」  「だから、出迎えなんか行かないったら!!」  思いっきり睨みつけてやろうと思ったのだけれど、エステリオは既に私の後ろに回ってどこからか出して来たらしい櫛で私の髪を梳かし始めていたので、出来なかった。  全く失礼しちゃうんだから。こんな奴、幼馴染でなければとうの昔にクビにしてやってるわ。  むかむかと腹を立てながら、紅茶を飲み干す。  空になったティーカップに気付いたエステリオが、少し手を止めて紅茶をまた入れてくれたけれど、いつもみたいにお礼は言ってやらなかった。  けれどもそんな苛立ちは、用意されたクッキーの最後のひとかけを飲み込む頃にはすっかり消えてしまっていた。  甘いお菓子と、大きな窓のお陰でぽかぽかと気持ちの良い陽気のせいかしら、なんて考えながら、私はリボンを結び直してくれているエステリオにもう一度声をかけた。  「ねぇ、エステリオ」  「はい」  窓越しに見る太陽は、まだ今は高い所にあるけれど。あれが沈んで、夜になったら。  そうしたら、何か悪いものが私の日常を変えてしまう。そんな気がした。  夜が来るのを嫌だと思うなんて、何年ぶりかしら。まるで子供みたい。  「お母様は、どうして死んでしまったのかしらね……」  「……王妃様は、美しい方でしたからね」  この国で一番美しいのはだれ?  そう聞くと、決まってエステリオは少し面倒くさそうな顔をするけれど。  だけどこれだけは、何度聞いても優しい声で同じ言葉を返してくれる。  「きっと神様が、恋をしてしまったんですよ」  それから、私が何か言葉を返すより先に、エステリオは終わりましたよ、と言ってそっと私から離れて行った。  「…………」  「……ネージュ様」  「…………」  「ネージュ様」  細く開いた隙間から室内を覗き見ていた私は、エステリオがあまりにしつこく名前を呼ぶので、振り返って薄暗がりの中ぼんやりと見えるエステリオの顔辺りを適当に睨みつけた。  今は夜。夕食が済んで、数時間くらいが経過したところ――つまり、そろそろあのいやらしい女達がこの城にのこのこやって来る頃合。  「うるさいわね、何よ!」  「何よもなにも……。  どうしてクロゼットの中なんかに隠れてるんですか、俺達は」  「この部屋に、それ以外に隠れられそうな場所が無かったからよ。  使ってなくて丁度良かったわね」  「いえ、そう言う意味ではなくて。  ネージュ様、一体何をするつもりでこんな所に?」  「……この部屋に通すって言ってたのを聞いたのよ」  「もしかして、アメリア様達ですか?  気になるなら普通にお出迎えしたら良いのでは……」  「嫌よ! 歓迎してると思われるじゃない!!」  「それにしたって、俺まで連れてくる事は無いでしょうに……出て良いですか」  「何言ってるの、駄目に決まってるでしょ!」  「第一わざわざこんな時間に、こんな場所でひっそりと少人数で出迎えだって言うのに……これ、俺見つかったらまずいと思うんですけど」  「大丈夫よ、見つからなければ良いんだし……それに、悪い事してる訳じゃないもの。  このビアンカネージュ様の姉や母になるって言う、図々しい庶民女達の顔を見ておきたいってだけよ」  そう答えると、私の返事の何が気に入らなかったのか頭上から深いため息が降ってきた。  「意地を張ってばかりいると損ですよ。みんな貴女の事を想っているのですからね」  「バカ言わないで。誰が私の事考えてるって言うのよ、お父様なんてここ数十日ずーっとそわそわにやにやしっぱなしだし、あんたはあんたでアメリア様アメリア様って」  「私は新しい家族なんかいらないって言ってるのに。  お父様は私とお母様が世界で一番好きだって言っていたくせに……」  「…………」  エステリオは何も言わなかったけれど、どうせまたあの、やれやれって言う表情でこっそりため息をついているんだろうと簡単に予想はついた。  いつだって人を子ども扱いするんだから。  「ねぇエステリオ、もう一度聞くけど――」  「貴女様です」  「まだ何も言ってないわ」  「おや、いつものあれじゃないんですか? この国で一番美しいのは~とか言う」  「ちょっとした確認よ。  だってあんた、すっごく失礼だけど、嘘はつかないものね」  「まあ、そうですけど」  素っ気無い返事に、私は少し安心する。  エステリオは絶対に嘘をつかない。  ずっとずっと昔に私と交わした幼い約束を、エステリオは馬鹿みたいに守り続けているから。  だから傍から見ればバカバカしい問答でも、エステリオがそうだと言うなら真実だって信じられる。  「この国で一番美しいのは、私よね?」  「俺はそう思いますよ」  「そうよね、そうよ……思い知ったら良いんだわ。  この国で一番美しくて、一番愛されてるのは私なんだから」  「お父様だって……ふんっだ、どうやって取り入ったのか知らないけど、ぜぇーったい追い出してやるんだから……!!」  「…………」  「……では、俺はもう出て良いですね?」  「良くないったら! こんな暗い所に一人で居ろって言うの!?」  クロゼットのドアを開けようと伸びてきた腕を、私は慌てて掴む。  まったくもう、聞き分けの無い従者なんだから。駄目だって言っているのがわからないのかしら。  「どんな理由があろうとですね。ネージュ様と二人っきりでこんな場所に隠れていた事がばれたら、下手すると俺の立場が危ないんですよ。  出させて頂きます」  「だっ、駄目よっ――」  もう一刻も早く外に出たいらしいエステリオと、なんとかして引き止めたい私の攻防戦が始まりそうになった刹那、私たちは同時にぴたりと動きを止めた。  そして薄い暗闇の中で顔を見合わせる。  やっぱり、聞き間違いじゃないみたいね。  クロゼットの中に居てもかすかに聞こえた、人の話し声。  お互いに固まったままで耳を澄ましていると、やがてがちゃりと音がして、足音とより鮮明な話し声が部屋の中になだれ込んで来た。  わざわざ確認しなくても、エステリオが苦い顔をして居ることがちゃんと解って、思わず口の端が上がる。  私の勝ちね、エステリオ。  だけどそんな優越感も、そう長くは続かなかった。  「ですけど、まだ信じられませんわ。  あまりに世界が違いすぎて……今日からこんな素敵な場所に住む事が出来るなんて」  聞こえてきた耳慣れない声に、私は慌ててクロゼットの扉に顔を近づける。  僅かな隙間から見えたのは、お父様の後姿と、誰かのドレスの裾みたいなものだけだった。  「いやいや、住み慣れた土地を離れてこの様な所まで、良く来てくれた! 姫も私も心から歓迎するよ」  「そう言えば、姫様のお姿が見えませんけれど……」  馬鹿みたいに喜んでいるお父様の声に続いて、今度はまた違う女の声。  さっきのより若い感じの声って事は、これが『姉』なのかしら?  「いや、あの子はまだ子供だからね。大方もう眠たいんだろう」  「あら」  「なっ――」  くすくす、と言う耳障りな笑い声に思わず抗議の声を漏らしかけた私の口を、エステリオがぱっと塞いだ。  何すんのよ、従者のくせに!  憮然として見上げると、エステリオは人差し指を唇に当てて、静かに、と声には出さずに私をたしなめ、それからそっと手を離す。  そうこうしている間にも、扉の向こうで会話は続いていた。  お父様が『姉』とやらに、私が姉が出来て喜んで居るだとか、仲良くしてくれだとか大嘘をついて、『姉』はわざとらしく嬉しそうに、もちろんですわなんて答えている。  本当に頭に来るったらない。  お父様の優しい声も、いやらしく媚びる『姉』と『母』の声も、なにもかもに腹が立った。  随分と狡猾にお父様を騙したみたいですけれど、一体どんな貧相な方々なのかしら?  何が何でも見てやる、と私はエステリオの静止は聞かず、クロゼットの扉をもう少しだけ開いた。  どうせお父様も、側近の兵達も、こんな部屋の隅なんか見ていやしないわよ。  見えそうで見えない。目を細めたり、身体の向きを調整したり、辛抱強く待っていると不意にお父様が横に移動して、影になって丁度こちらからは見えなかった人物の姿がはっきりと目に入った。  私は、  「…………」  がたっ、と言う何かが外れるみたいな音がして、私はようやく我に返った。  それまで私とエステリオを隠してくれていたクロゼットの扉が、勢い良く開く。  「え?」  突然大きく開けた視界で、それまで見ていた人物がこちらを振り返るのが見えて――しまった、力加減をつい忘れて、思いっきり寄りかかっちゃったんだわ。  なんて、どこか暢気に自分の状況を理解して、すぐに。  「げっ、わ、あ、きゃああぁっ」  「あああ……」  私はどさりと絨毯の上に落っこちてしまった。背後から、呆れたようなエステリオの声。  一瞬部屋に緊張が走るけれど、すぐに消える。そして訪れた微妙な沈黙を破ったのは、やっぱりお父様だった。  「おお、何かと思えば我が愛しの姫じゃないか! そんなところで何をやっているんだい?  やあ、エステリオ。君も居たのか」  「ああ、陛下……申し訳ございません」  「構わないさ、またネージュに付き合ってくれていたんだろう。  それで、今日はどうしたんだい、隠れんぼかな?」  見つかるかもとは思っていたけれど、まさかこんなに恥ずかしいだなんて。  顔を上げられずに俯いていた私の視界の端に、見慣れた黒い靴が映りこんだ。  エステリオもクロゼットから出てきたらしい。  「いえ、その――ネージュ様がどうしても新しく家族になられる方々を見てみたい、が、恥ずかしいからとおっしゃったもので……」  「なっ、だ、誰がそんな」  「まあっ!」  よくまあそんな口からでまかせを。  私以外には嘘が上手いんだから、とエステリオの言葉を否定する前に、さっきの女がさっと駆け寄ってきて、私の前で膝を付いた。  一体何事なの、と戸惑う私の両手をこの失礼な女は事もあろうにぎゅっと握って、キラキラと青い瞳を嬉しそうにきらめかせた。  「やっぱり! 遠目で見るより何倍もお美しいのね!!」  「はじめまして、わたくしノクシアと言います。ビアンカネージュ様にはずっと憧れていたんです、そんな方が妹だなんて、夢みたいだわ!」  「な、なっ……」  子供みたいにキラキラ輝く青い瞳と、一気にまくし立てられたおべんちゃらに私が返す言葉を見つけられずに居ると、お父様が嬉しそうに笑い声を上げた。  「はっはっ、良かったなぁネージュ! お姉ちゃんが出来たなぁ!!」  「……っ」  「?」  その言葉に私ははっとして、ノクシアとか言う女の手を振り払った。  何よ、不思議そうな顔しちゃって。私、あんたになんか絶対負けないわ!  「もう寝ます! 行くわよエステリオっ」  そう言い放つと、お父様が止めるのも無視して私は部屋から飛び出した。  少し遅れて部屋から出てきたエステリオは、少し早足で私に並んで皮肉たっぷりに残念でしたね、と呟いた。  ただでさえ今は物凄く機嫌が悪いって言うのに、そんな主人に向かって皮肉だなんて。  本当に無神経な奴だ。  「何がよ」  「当てが外れてしまったんでしょう」  何を言いたいのかがはっきり解って、私は思わず立ち止まってエステリオを思いっきり睨みつけてやる。けれど、こいつは少しもひるまない。  それどころか少し笑ったようにさえ見えた。  「エステリオ、あんた――」  「はい、何でしょう」  いつも通りの返しに、言おうとしていた文句をなんとなく飲み込んでしまった。  それと同時にさっき見たあの女の顔がふっと頭をよぎる。  陶器の様にすべらかな白い肌、長いまつげにキラキラ輝く青の瞳。  アップにした優しい色の金髪に、青い薔薇の髪飾りが良く似合っていた。  「……なんでもない。さっさと行くわよ、今日はもう寝る!!」  「そうですか」  それから自分の部屋に帰るまでの間、私はずっと考えたくも無いのにあの女の事を考えていた。  ネージュ様、と私を呼んだ綺麗な声が耳から離れない。  何よ、あんな女。私の方が綺麗だし、可愛いし、それにそれに――  思いつく限りの言葉で自分の優位を確かめながら、私は昼間感じた漠然とした恐怖みたいなものが、より鮮明になって行くのを確かに感じていた。  やな感じ、やな感じ。あの女、早くこの城から追い出さないと――  「あら、そんな事までやって下さらなくて大丈夫よ、申し訳ないわ」  「い、いえそんな、これが私たちの仕事ですから……」  「そうですよ! ノクシア様はもう姫なのですから、洗濯物なんて私たちにどーんと任せちゃってっ」  「そう……? でも良いのかしら、私なんかが……。  なんだか分不相応な気がしてしまうわ」  「大丈夫大丈夫、ノクシア様はとってもお綺麗ですし、すっごくお優しくて……。  文句言う人なんて誰も居ませんよ」  「本当? ありがとう、お世辞でもうれしいわ」  「…………」  嫌な場面に遭遇してしまったわ。  侍女二人と嬉しそうに喋るノクシアの声に、私は思わず顔をしかめる。  日中からこんな廊下のど真ん中で立ち話だなんて、はしたないったらないわ。  それに何よ、あの侍女二人……私と話してる時と違って、やたら嬉しそうじゃない。  なんだか気分が悪くなったので、私はさっと身を翻して別の道を探す。  ノクシアと、その母親アメリアとか言う二人の馬鹿女が城に来てから三日が経った。  数えてみればたったの三日、だけど私の気分を今までに無い位悪くするには十分すぎる時間だった。  城も城下も新しく来た姫と王妃の噂話で持ちきりだし、何より気に入らないのがそのどれもが二人を褒め称えるような内容だって事。  特にノクシアの方は、若いせいか話題にされる事が多い。  見目だけでなく心まで美しいだとか、貴族でないのに気品に溢れているだとか、姫になっても謙虚だとか――正直うんざり。  噂って言ったらもっと何かあるでしょうに、実は物凄い尻軽女だとか、変な癖があるとか、実は私を毒殺しようとしてるんだとか!  なにが美しいよ。何が気品よ。何が謙虚よ!  人の父親を横取りする人間に、そんなものが備わっているはずないじゃない。  「素敵ねえ……! あんなお美しい方、この国にいらっしゃったのね」  「その上ネージュ様と違ってあの優しい笑顔! ああ、私もノクシア様に微笑まれたい!」  「私も! ねぇ、私国で一番美しいのはネージュ様だと思ってたけど、最近――」  「……ちょっと、あんたたち」  折角避けて通ったって言うのに、私の部屋のすぐ前で、侍女二人が楽しそうにノクシアの事を話していた。  声を掛けると、二人はビクッと大げさに体を硬直させて、それからすぐに気まずそうな笑顔を作った。  「あ、あ、ネージュ様。どっ、どうかなさいました?」  「どうかも何も、そこは私の部屋でしょう。  下世話な噂話なら他でやって頂戴、不愉快だわ!」  「す、すみませんでした……!」  「しっ、失礼しますっ!!」  ぎろりと睨みつけてやると、二人は慌ててぱたぱたと逃げていってしまった。  ふん、まだまだ甘いわね。エステリオならこんなの涼しい顔で流すわよ。  「や、やっぱりネージュ様こわーい……」  「ネージュ様も、ノクシア様と同じくらい優しければ……」  遠ざかって行く足音と共に、そんな言葉が交わされているのが耳に届いた。  追いかけていって何か文句のひとつでも言ってやろうかとも思ったけれど、なんだかその気力が湧いてこなかった。  ここずっと城の中はこんな調子で、どこへ行ったってノクシアやアメリアの噂話を耳にせずには居られない状態だったから。  お父様はずっとアメリアの傍に居るし、使用人達は口を開けばノクシアの話ばかりする。  その上今日は、いつもなら愚痴を散々聞かせてやっているエステリオも、朝から忙しいとかなんだとか言って中々相手をしてくれない。  結局自分の部屋に居るのが一番良いんだわ。どうせ皆、珍しがっているだけだもの。  そのうちすぐに気付くんだから、私の方がずーっと綺麗だし、ずーっと可愛い性格してるって。 『国で一番美しいのはネージュ様だと思ってたけど、最近――』  「ばっかじゃないの……」  「ネージュ様、扉が壊れます」  「!!」  腹立ち紛れに乱暴に扉を閉めると、聞きなれた声が私を咎めた。  驚いて顔を上げると、思った通りエステリオがクッションを片手にこちらを見ていた。  「やっと戻って来たのね?」  「ええまあ。それよりネージュ様、良いですか。  朝寝坊をしない、好き嫌いはしない、モノは投げない、何でもかんでもやりっぱなしにしない」  「ここ数年俺が言い続けてる事ですよ、少しは改善してください」  目の前にお昼に読んでそのまま出しっぱなしにしていた本を突きつけられて、私は少し口を尖らせる。  「何よう、戻ってきていきなりお小言だなんて」  「きちんとしまっておいて下されば、俺だって笑顔でおかえりなさいませ位言いました。ほら」  「しまえって言うの?」  「ええ。ネージュ様がお一人で何も出来ないお姫様になってしまわれては、困りますからね」  渋々それを受け取って本棚に戻す。  従者の癖に生意気よ、とは思ったけれど、ここで言い返したら口論になって、すぐに言いくるめられるのは解っていたし、それになにより今はあのむかつく女の話を聞いてもらいたかった。  「今日はなんだか素直ですね」  「うるさいわね。あんたこそ、今日はいやに忙しくしてるじゃない。いつもは暇そうにしてるくせに……」  「お陰で私、今日はすっごく不機嫌なんだからね!」  「暇って……。  よしてください、俺はネージュ様の従者ったって、まだこんな年なんですからね」  「やる事は沢山あるんですよ。それに、代わりの者をちゃんと置いていったでしょう」  「あんなおばあちゃんじゃ代わりにならないわよ。  紅茶はまずいし、話をしたってつまらないし、ノクシアのことばーっか話すし!!」  「はあ、そうですか。  あの方は一応、俺に礼儀作法を一通り叩き込んで下さった、いわば俺の先生に当たる方なんですが――」  「ネージュ様はつまり、誰にも俺の代わりは出来ないと」  「そっ……! そうじゃないわよ馬鹿っ、おおお思い上がるのも大概にしなさいよ!!  あ、あんたの代わりなんてね、いくらだって居るんだからっ!!」  「おや、それは良かった」  「はあ?」  「実はですね、俺――」  丁度その時、話を遮るようなタイミングでノックの音が割り込んだ。  失礼致します、と落ち着いた女性の声がして、こちらが返事をする前に扉が静かに開いた。  「一体なあに? まだ入って良いなんて言っていないわよ」  「申し訳ございませんネージュ様。すぐに失礼しますので……」  話の腰を折っておきながら、若い侍女は大して悪びれた風も無く、ちょいちょいとエステリオに向かって手招きをする。  「どうかしました?」  「やっぱりここだったのね。リオ君、ノクシア様が探していらっしゃったわよ」  「ああ、すみません。今すぐ参りますからお部屋でお待ち下さい、とお伝えして頂けますか」  「はいはい、わかりました。それじゃあ早めにね――ネージュ様、それでは失礼致しました」  私にさっと形ばかりのお辞儀をすると、侍女はそそくさと部屋から出て行ってしまった。  「……ノクシア?」  彼らの会話の中に出てきた名前に、私は思わず首を傾げる。  ノクシアが探してるですって? こいつを? 何のためによ。  今一番聞きたくない名前だって言うのに、と眉をひそめる私に、エステリオは大げさにため息をついた。  「ええ。この城で、ノクシア様と一番年が近いのは俺ですからね。  陛下より、ノクシア様が城に慣れるまでお相手を仰せつかっております」  「なっ……!? なによそれっ、どう言うこ」  「姫ええぇぇええぇ!!!」  どう言うことよ、と問い詰めるより先に、今度は物凄い勢いで扉が開かれ分厚い眼鏡をかけた老人が姿を現した。  一見ただのヒゲの長いおじいさんだけれど、この人物はこの国でも指折りの学者兼毒性学における私の教師。  ま、まずいわ、怒ってる。この間の授業、そう言えばすっぽかしたんだった。  「ああ、おじい様」  「おお、お前も居たのかリオ。姫様をお借りするぞ」  「さあ姫! 今日と言う今日は覚えて頂きますぞ!  神経毒三種名称と概要! 毒性生物一覧表クモからフグまで! 基礎解毒剤精製法その十六!」  意味の解らない言葉を列挙しながら、先生はとても80過ぎの老人とは思えない強い力で私の腕を掴み、ぐいぐいと外に引っ張って行こうとする。  「いやっ、ま、待ちなさいよ! 今大事な話を」  「自然毒と食中毒! その対処法!!  この国において毒性学以上に大切なものなど、そうありませんぞ!!」  「えっ、エステリオぉ」  思わずついさっきまでの感情を忘れて名前を呼ぶと、エステリオは意外そうに緑の瞳を瞬かせて、それからにっこり笑うとひらひらと手を振った。  「帰ったらネージュ様のお好きな紅茶でも淹れて差し上げましょうね」  「ちょ、ちょっとおおおぉぉ」  何とか逃れようと暴れたけれど、教育熱心な学者様の力には叶わずに、そのまま私はずるずると先生の研究室まで引きずられて行ってしまったのだった。  (さて……)  「あ、あのっ、エステリオさん」  「ノクシア様!」  「ごめんなさい、つい来ちゃいました」  「謝るのは俺の方です、お待たせしてしまって……。  それでは、行きましょうか」  「ええ」  「それでは、今日はここまでに。姫、お疲れ様でございました」  「毒性学なんてなくなっちゃえば良いんだわ……」  呟く声が、薄暗い室内に響く。最近は『お勉強』って言うともっぱらこの老先生とじめっとした地下書庫で向き合うことを意味している。  ごくごく限られた人間しか立ち入る事の出来ない地下の書庫にはいつも通り人気と言うものが全くなく、ひっそりと静まり返っているけれど、  所狭しと並べられた本棚にぎっしり詰められている本達は奇妙な存在感を持ってそこに存在している。  少し不気味で、だけどどこか落ち着くような、地下の書庫はそんな不思議な場所だ。  決して嫌いな場所ではないけれど――でも、毎日通いつめたくなる様な素敵な場所でもないことは確か。  教材として使っている本や図鑑が国の機密文書に値するものだから仕方がない、と言えばそうなのだけれど、流石に気が滅入るわ。  私はぐったりとして分厚い図鑑の上に顔を伏せた。  「なんと! 毒性学と言う学問は、この国にとっても貴女様にとっても大変重要な意味を持つものなのですぞ!」  「その昔この国では、毒を用いた暗殺が――」  「毒殺なんて流行ったの、もう大昔の事じゃないの!」  ため息をつきながら、苦労して分厚すぎる図鑑を閉じる。同時にぶわっと埃が舞って、思わず咳き込んだ。  こんな縦が横なんだか横が縦なんだか解らない位の分厚さのものがあと何冊もあって、しかもそれに載っている毒についての知識を全部習得しなくちゃならないだなんて……。  本当に信じられないし信じたくない。  けれどまあ、この小さな国にはそれ位の取り得しかないし、やらなくちゃいけないのはわかっているんだけどね……。  「左様でございます」  「ですが、その折に国が得た他に類を見ない程に深い毒性学の知識は、絶えさせてはならないものなのでございます」  「毒見奴隷や毒見役、果ては実験台として犠牲になった、多くの命のためにも!」  「ちなみにですが姫。その時代を節目として国内の勢力図はがらりと様変わり致しましたが、覚えて頂けておりますかな?」  「主に大きな変化があったのは、そうですな。我がアンブローズ家、ノーステリア家、ルブランシュ家、それから――」  「お、覚えてる、覚えてるったら!」  「力が強くなったり逆に没落したり、特別な役職に就いたり権利を剥奪されたり、軍事に口出しするようになったり専門分野を外交に鞍替えしたり……と、とにかく色々なんでしょ!」  「ええ、ちなみに私の一族はネージュ様が今肘をついていらっしゃるその本の管理も行っております」  「どうか丁重に扱ってくだされ、もうそろそろ新しく写本を作成せねばならぬ頃なのですからな」  「げっ」  私は思わず本の上から腕を退ける。  この憎たらしい図鑑は、これでも一応特別な許可を与えられている者にしか閲覧を許されない類の貴重なものだ。  昔々の血生臭い歴史がもたらした毒性学の知識には、他のどんな大国でさえ敬意を払う。  だからこそ、この知識は門外不出にしておかなければならない大切なもの。  万が一外に漏れ出しでもしたら、この国はどうなってしまうか解らない。  そんな大事な知識が詰まっているこの本は、それ故に印刷でなく全て手書きで書かれている。  そして一定の期間毎に新しく発見された毒や解毒法等、情報の改訂も兼ねて新しい写本が作られ、古い方は燃やされる。  そう言う風にしてこの国は守られているのだ、けれど。  「その作業、私絶対やらないわよ」  いくら重要なものだからって、こんな分厚い本を写していたら一生なんかあっという間に終わっちゃうわ。  けれど先生は意味ありげな視線で私をじいっと見つめて、わざとらしく体をゆすって笑い声を上げた。  「この私めも若い頃より写本作成を任せられて来ましたが、もう年が年ですからな。  近いうちに後継者が見つかれば良いのですが……」  「他にも学者はいっぱい居るじゃない。手がおかしくなる前に早く任せちゃいなさいよ」  「いえいえ、この大役を引き受けた者は、この城から一生出る事が叶わなくなりますからな」  「まあ悪習として撤廃されつつあるしきたりではありますが、相応の覚悟のある者を選ばねばならないのですよ、そう簡単には行きますまい」  「先日孫にはすげなく断られてしまいましたしな」  「エステリオ? あいつ駄目よ、字が汚いもの。  写本なんかやらせたら、貴重な知識があいつの代で途絶えるわよ」  「おや、そうなのですか。それはそれは……ところで姫、そう言えば姫は中々に達筆でいらっしゃったのではありませんでしたかな――」  「わ、私!? やらないわよ、絶対嫌!!  も、もう授業は終わりなのよね、私用事があるから失礼させて頂きます!」  「おや、そう急がずとも。ゆっくりお話を――」  「さささよならっ!!」  先生の生家であるアンブローズ家は、ノーステリア、ルブランシュと並ぶ三大貴族のうちの主に『知識』の面を担っている家系で、代々一族の中で才能のある子供を選んで写本作成のために英才教育を施すのが慣習だ。  けれど先生の後継者に当たる次の代の子は運の悪い事に病弱で、流行り病にかかって死んでしまったのだと聞いた。  冗談だって勿論解ってはいたけれど、歴史上これまで例が無いわけじゃない。  『一生城から出られなくなる』と言うのは少し大げさな言い方で、実際には監視の者を同行させることを条件に外出は許されている。  それでも、生きているうちの時間の殆どを毒の本に費やす事になる、と言うその根本や、自由が大幅に制限される事実は変わらない。  そんなのは絶対に嫌。死んだってごめんだわ!  こんな仕事こそノクシアにやらせれば良いんだわ、なんて思いながら、私は書庫を後にした。  「あのう、それ、絶対にやらないといけないのかしら……」  「ああ、毒見ですか?」  「ええ。だってわたくし、本当の王族ではないのだし……」  「どうかお気になさらず。これは……そうですね、ずっと昔にこの国で毒による暗殺が流行した頃の名残の様なものですから」  「それに一応この国には毒性学に通じている者も多いですから、念のためと言ったところでしょうか。だけど本当に、形式的なものなので」  「だけど、なんだか申し訳なくって……」  「心配して下さらなくても大丈夫ですよ。  毒見役を仰せつかると言う事は大変に名誉な事ですし、それに毒見で死んだ者など俺は聞いたことがありません、今のこの国は平和ですからね」  「第一本当に危険なら、俺の給料はもっと高いはずです」  「まあ」  「あ、もしかしてこのおとぎ話はその時代の事が題材なのかしら?  実話が元になっているって聞いたことがあるけれど……」  「白雪姫ですか。そうですね、確かそれも――」  「…………」  酷く不快な場面に遭遇してしまった。  窓ひとつ無い埃っぽい書庫からようやく出れたんだから、日の当たる所を歩きたいなんて思って庭に来たのがいけなかったみたい。  見ていて苛々するくらい楽しそうに笑うノクシアと、そんなノクシアに同じく笑顔で応えるエステリオ。  「なによ、あいつ……」  なにが「まあ」よ! ばっかじゃないの。エステリオもエステリオよ!  私の前ではそんな顔滅多にしないくせに、にこにこしちゃって気持ち悪いったら。  大体、あんたは私の従者なのよ。あの女の相手をするなんて私は許してないわよ。  「なによ、なによ……」  何がそんなに楽しいのよ。あんな女より、絶対私の方が……。  「…………」  大量の知識を頭に叩き込んだ後だったせいか、なんとなくわざわざ邪魔に入る気も起きなくて、私は二人から逃げる様に背を向けた。  案の定誰も居ない部屋に、ぱたんと扉の音が妙に大きく響いた。  いつもなら、勉強に疲れて帰って来た私を必ずエステリオが適当な労いの言葉と共に迎え入れてくれたのに。  えらいですねーとか、よしよしとか、適当すぎて気に障る事もあったけれど――  (でも、誰も居ないよりはずっとましだったのね……)  そんな気付きたくも無い事に気付いてしまったのに嫌気が差して、深くため息をついて勢い良くベッドに倒れこむ。  エステリオが居れば、お姫様がそんなことするもんじゃないって言われるところだけれど、今の私にとってはどうでも良い事だった。  ベッドの上でごろりと転がると、世界が回転するのと同時に視界の端で何かがきらりと光った。  「……?」  なんだろう。サイドテーブルの上に何かあるみたい。  起き上がって見てみると、ペーパーウエイトとして使っている丸いたまご型の透明な石が置いてあった。  ずっと前に、城下の露天で買った安物だ。これが陽の光に反射したらしい。  石の下には、小さな紙に独特の筆跡で、短い文が書いてあった。  「なになに……」  『お疲れ様でした。俺はノクシア様のお相手で忙しいので、申し訳ありませんが紅茶が飲みたければ侍女を呼んで下さい』  『また、ノクシア様がネージュ様も是非とおっしゃって下さっているので、庭に来て下さっても構いません。 エステリオ』  「…………」  私は無言でメモをくしゃりと握りつぶす。  こんなに腹が立ったのは、もしかすると生まれて初めてかもしれなかった。  「ネージュ様、今日はどうなさいますか?」  「どうって、何の話?」  朝食に向かう直前、エステリオにそんな事を尋ねられて首を傾げると、エステリオはやや呆れた顔で軽くため息をついた。  「もう忘れたんですか? ノクシア様のことですよ、言ってくだされば予定をお伝えしますよと申し上げたじゃありませんか」  「わ、忘れたわけがないじゃない、ちょっと頭から抜けてただけよ!」  「で、どうなさるんですか?」  「そうね――」  「ネージュ様、今日はどうなさいますか?」  「そうね――」  「エステリオ、エステリオ……!!」  泣きながら必死で俺を呼ぶ彼女の声が、段々とおぼろげになって行く。  そんなに泣かなくっても、大丈夫ですよネージュ様。  だって約束したじゃないですか。あの日、同じように泣いていた貴女と。  あの日。  俺がそう言ったのは、貴女が泣くのを見たくなかったからなのに。  あの日から、俺はずっとその約束を守り続けているのに。  それでも貴女は疑っている。いつか俺が貴女の傍を離れる日が来るかもしれないと。  気付いて下さい。その不安を、現実にするのは貴女以外には在り得ないこと。  もし信じてくれたなら、俺はずっと貴女の傍に居れるのに。  誰より貴女に忠実な、貴女だけの従者として。  眼を覚ますと、すぐ傍に誰かの気配を感じた。  やたらに重い頭を押さえながら体を起こす。  「……生きてるよな」  ひとりでそう呟いてから、傍らで椅子に座ったまま、上半身だけこちらのベッドの上に預けて安らかな寝息を立てている少女に目を向けた。  部屋の中には彼女以外の人影は無い。  「アンブローズ、の家名は凄いな……」  一国の姫ともあろう人を、従者とは言え一応は男である自分と二人きりにしておくと言うのは普通、中々無い事ではないだろうか。  そんな事を考えてひとり苦笑する。  無防備に眠っている彼女の目元は赤くなっていて、頬にうっすらと涙の跡が見て取れた。  「……ネージュ様」  あまり俺を、特別扱いしないで下さい。  俺は貴女の従者です。例え他の全てが敵に回ろうとも、例え貴女が道を踏み外そうとも、それでも貴女の味方で居ます。  けれど、たったそれだけのこと。  どうしたって、それ以外は望めないのです。  「ノクシア様も、城の皆も、陛下も……貴女が大好きなんですよ。  置いて行ったりしませんから。意地を張って、怖がらなくても良いんです」  そう。だから、もっと外の世界に眼を向けて。  沢山の人と出会って、関係を築いて、信頼出来る友人や、俺より大切な人を見つけて。  そして少しずつ、俺から離れて行ってくれ。  「ネージュ様……」  愛しなさい。それは、死んだ母の代わりに俺を姫の従者として育てた祖母が、まず俺に命じたことだった。  『アンブローズの家の者として、王族に仕える覚悟があるのなら、主となるお前の姫を親より妻より愛しなさい』  この生き方を決めた時からずっと、この命令には従い続けているけれど、  『けれど決して、決して恋をしてはいけませんよ』  この生き方を決めるより前からずっと、この命令には背き続けている。  ネージュ様、貴女が好きです。  ずっとずっと、貴女の一番近くで、貴女だけを見て、貴女だけのことを想って、俺はずっとそうやって、貴女のためだけに生きて来た。  だから、頼むからもう、俺ばかりを見ないで欲しいのです。  貴女が俺をあまりに大切にしてくれるから、依存してくれるから、それがとても幸せで、とても辛い。  今よりもっと想いを募らせるのが恐ろしいんです。今だってこれ以上無いくらいに貴女を想ってしまっているのに。  「……起きて下さい、ネージュ様」  少し躊躇ってからそっと肩に手を置く。彼女が眼を覚ます気配は無い。  姫の目を覚ますのは王子の口付けだと決まっている、なんて以前彼女が言っていた言葉をふと思い出すが、俺は決して王子にはなれないだろう。  やや強めに肩を揺すると、彼女は嫌そうに眉を寄せてからようやく眼を開いた。  「……リオ?」  「他の何かに見えますか?」  「リオ、リオっ! 良かった、目が覚めたのね!!」  みるみるうちに彼女の大きな瞳が潤んで、折角乾いた頬をまた涙が伝う。ああ勿体無い、などと悠長に考えているうちに、体を起こした彼女にぎゅう、としがみつく様に抱きしめられた。  「……死にはしないと言ったでしょう」  「うん、うん解ってた。あんたが嘘吐くわけ無いもの……」  「ええ、約束しましたからね」  そう返しながら、彼女の細い体に腕を回した。これで最後だからと自分に言い訳をして。  ほんの少し身じろぎをしただけで、何も言わず尋ねても来ない彼女は、もしかしたら何かに気付いているのだろうか。  「……ノクシアのことであんたに色々酷い事言ってごめんなさい」  「お父様やあんたが認めたんだもの、嫌な奴じゃないって本当は解ってたわ。これからは、仲良くするようにもう少し頑張ってみる」  「……それは良い心がけですね」  「……ねぇエステリオ」  「はい」  「ずっと私の従者で居てくれる?」  「……ええ」  今よりもっと貴女が遠い人になっても、許される限りは傍に居たい。  この胸の痛みにも、いずれ慣れる時が来るでしょう。  「俺はずっと、ネージュ様の従者です。だから……」  俺の姫。いつか貴女が俺を必要としなくなるその日まで、  「……傍に居させて下さい」  「そりゃあ、ノクシア様でしょう?」  信じられない答えを、返してきた。  「は……?」  「周知の事実だと思ってましたが。客観的に見て、ノクシア様はネージュ様より恐らくお美しいかと思いますよ」  「…………」  「まあ、ネージュ様もかなりお綺麗だと俺は思いますが、人柄がより美しさを引き立てるとでも言いますか」  「ノクシア様はネージュ様と違って淑やかでお優しいですし。それに年齢的なこともあるでしょうね」  「…………」  饒舌にノクシアの美しさについて語るエステリオに、眩暈がするようだった。  ノクシア様でしょう、と言う声を聞いてから、脳の働きが妙に鈍い。その後エステリオが何を言っているのか聞いていたのに、咄嗟に理解することが出来なかった。  ノクシア様?  私は、いつもみたいに『一番美しいのは誰?』って聞いた。  その答えがノクシア様、ってことは、つまり……。  理解した、その瞬間。  何よりも先にまず溢れてきたのは涙だった。  「う……」  「それだけですか? それじゃあ、俺はノクシア様との約束がありますので、失礼させていた」  「う、っぅえっ、う、り、リオのっ」  「……え? ネージュ様、ちょっ」  「リオのっ、ば、っばかああぁぁあっ!!!!」  叫びながらエステリオを横に押しのけ、彼が今まさに出て行こうとしていた扉を力任せに開く。  「ネージュ様!?」  「うそつき!!」  後ろから聞こえた珍しく焦った様なエステリオの声にそう怒鳴り返すと、私はわき目も振らずに廊下に駆け出した。  お姫様がばたばた廊下を走るだなんてみっともない、なんてその時は思いもせずに、ただ走った。  自分がどこへ向かっているのかも、驚いた様にこちらを見る使用人達もなにもかも、その時の私にとってはどうでも良い事だった。  リオの馬鹿、リオの馬鹿!!  一番綺麗なのは私だっていつも言ってたくせに、今更変えるなんて!! あんまりよ、嘘つかないって言ったくせに。今度一週間くらい下痢で苦しむような毒を飲ませてやるんだから!!!  頭の中はそんな感情で一杯で。  だから、今自分がどこに泣きに行こうとしているのか、誰にすがろうとしているのかなんて、そんなこと、  「えっ! ね、ネージュ様!?  だっだめですだめですっ、ここはノクシア様のおへ」  「うるさい! どいて!!」  そんなこと、本当に全然、これっぽっちも、  「ね、ネージュ様!?」  考えていなかったのよ。  「う、うう……っ」  普通に考えれば今一番顔を見たくないはずの相手が目の前に居た。  驚いた表情すら美人で、悔しくって哀しくって、じわじわとまた涙が新しく込み上げてきた。  どうしてこんな所に来たのかなんてわからない。  でも、だってしょうがないじゃない。  お父様はいつもお忙しいし、リオに慰めてもらうことなんて出来ないし、他に誰も思いつかなかったのよ。だけど誰かに慰めてもらいたかったのよ。  「うあぁぁあん……!!!」  みっともなく泣き声を上げて、私はノクシアにぎゅうっとしがみついて、ドレスに顔を押し付けた。  子供みたいって解ってる。でも今までこんな事って無かったのよ、リオが私以外の人を一番だって言うなんて。  「ど、どうなさったんですか……?」  躊躇いがちにノクシアの細い腕が背中に回されて、慰めるみたいに背中をよしよしと撫でられる。  普段の私なら憤慨していた所なのに、どうしてかその時は嫌だとは思わなかった。  「り、リオが……リオが、わ、わたし」  しゃくり上げながらもそこまで言った所で、ちょっとどいて下さい、と聞きなれた声が背後からして、侍女達の控えめな驚きの声、それからたたらを踏む様な不自然な足音がそれに続いた。  「うわっ、あー……」  「え、エステリオさん。あの、これは……」  背中を撫でる手はそのままに、ノクシアが顔を上げてエステリオの方を向いたのが気配でわかった。  「……ええと、申し訳ありません。こうなるとは俺も予想外で……。  ネージュ様、ここに居るのもご迷惑ですし、お部屋に――」  激しく首を振ると、エステリオが困ったようにため息をついた。  「一体、何があったんですかネージュ様。エステリオさんとケンカでもなさいました?」  「ち、ちがうわよっ、り、リオが、リオがぁ……!」  述語の抜けた言葉を何度も繰り返してから、私はようやくこれではいけないと思い至って少し落ち着こうと大きく息を吐き出した。  「リオがっ、い、一番はもう私じゃないんだって……い、いつも、今まではっ、わ、私だって、言っ……」  言ってたのに、と繋げたはずの声は妙に高くかすれてしまって、言い直す前にまた涙が込み上げてくるのを感じた。  「ネージュ様、それは何か意味が……」  「まあ……エステリオさんたら、また心にも無いことおっしゃったのね?」  「……え?」  不意にノクシアの声が非難の色を帯びる。  驚いて、泣きながらも少し顔を上げると、彼女は眉をきゅっと寄せてエステリオのことを睨んでいた。  「エステリオさんの気持ちも解らなくはありません。身分がこんなに違うんですもの。本心を隠す為に時には方便も必要とは思います」  「ノクシア様、俺は決してその様な」  「ですがそれでネージュ様をこんなに泣かせてしまっては意味が無いじゃありませんか!」  「その事については、後できちんとあやま」  「良いですか! 何事にも程度と言うものがあるんですっ、エステリオさんはネージュ様に意地悪を言いすぎです!!」  「ですから俺は」  「ネージュ様っ」  エステリオが再び何か言いかけるのを遮って、ノクシアは私の肩に手を置いて、そっと私の身体を離すと労わる様に優しく髪を撫でた。  「こんなに泣いて、お可哀想に……。意地悪なエステリオさんの言う事なんて気にしたらいけませんよ、あんなの全部照れ隠しなんですから」  「の、ノクシア様、何を」  「そ、そんなことあるわけ無いわっ……あ、あいつ、だって絶対っ」  「いいえっ、そうなんです!」  きゅっ、と私の肩を掴んでいる細い指に力がこもる。  「今までずっと黙っていましたけれど、あの人自分から口を開く時は大体ネージュ様の話しかしないんですよ。別の話をしていてもいつだってネージュ様の事に内容が逸れていくし……」  「俺はネージュ様の従者ですから、それは仕方のない事ではないで」  「その上私がネージュ様の話題を振った時なんていつも無表情なくせにちょっと嬉しそうな顔するんですよ」  「普段の寡黙さが嘘みたいに饒舌になりますし」  「それはノクシア様が聞きたいと」  「この間のお話私まだ覚えてます! 昔市場でネージュ様に贈り物を買った時に」  「……! の、ノクシア様」  「すごくすごーく悩んだとかっ、何を買っただとかっ」  「ノクシア様!」  「ネージュ様は覚えていないだろうけど自分の気持ちはあの」  「っ、あああああー!!!!」  突然耳を塞がれる。その上エステリオが今までに聞いたことも無い様な大声で叫んだので、ノクシアの言葉は最後まで聞き取れなかった。  「本当に、もう、結構ですから……」  耳を塞いでいた手が離れる。妙にくたびれた声音でエステリオが呟いて、私の腕を掴んだ。  「ネージュ様、お部屋に戻りましょう」  「や、やだ……」  「あのですね……」  はあーっ、と大きく息を吐く音。  おそるおそる顔を上げると、エステリオが今までに見たことの無いような、本気で困っている顔をしてこちらを見下ろしていた。  「頼むから、お願いですから俺と一旦部屋に戻って下さい。ここでは……」  そう言って、エステリオがちらりと目線を向けた扉の影に、興味津々と言った感じの活き活きとした使用人達の顔が覗いている事に今更気が付く。  それと同時にサーッと一気に血の気が引いた。  ようやく、自分の今まで取っていた行動がどれほど目立つものであったかに思い至ることが出来たのだ。  「……、っ」  思わず赤面した私の腕をエステリオが急かすように強く引く。  何も言われなくったってその意図は理解出来たし、ノクシアも(相変わらず憮然としてはいたけれど)何も言っては来なかったので、私はようやくノクシアから離れ、俯いたままで彼の手に従ったのだった。  部屋の前に鈴なりになっていた使用人達をかき分けて廊下を足早に進めば、ややもせず人目は絶えた。  恐らくノクシアが使用人達を留めておいてくれているのだろう。  どうしてかまだ止まらない涙を掴まれていない方の手で拭いながら、私はぼんやりとそんな事を考える。  「……まさか」  それまで二人分の足音以外は殆ど何の音も無かった廊下に、エステリオの声がやたらはっきりと響いた。  「ノクシア様の所に行かれるとは……思いもしませんでしたよ」  ため息混じりの、エステリオにしては弱々しい声。  それまで殆ど小走りだった歩みが段々と緩くなって、やがて止まった。  肩を落として再び深いため息をついたエステリオの背中に、私はだって、と小さな声で呟いた。  「だって、それ以外に思いつかなかったのよ。い、いつもはあんたがぁ……っ」  またじわりと滲んだ視界に慌てて言葉を切る。  するとエステリオはようやくこちらを振り向いて、すっと膝を折ると私の顔を見上げた。  「まあ、これもネージュ様がノクシア様を受け入れた証拠と思えば、理想と言えますが……」  そう言って、ぐいぐいと少し雑に私の涙を拭くと、またため息をついた。  「言っておきますけど、ネージュ様が悪いんですよ。俺は正直者なのに、ちっともまともな質問をして下さらない」  「な、なによぉ、いっつも私のことばかにしてっ……」  「良いから、俺の言う事を繰り返して下さいませんか」  「なにが――」  「『ずっと私の従者で居たい?』」  「な、何言って……」  「繰り返して下さい」  呆れた表情をしながらも強くそう求められて、私は渋々彼の言葉を繰り返した。  「ず、ずっと私の従者で居たい?」  「ええ。俺は貴女が望む限りはずっと、貴女にお仕えしたいと思っています」  「……ほ、ほんとに」  「俺に嘘を付くなと約束させたのは誰です」  「…………」  口をつぐむと、エステリオはやれやれとばかりに首を振った。  「ネージュ様、俺は貴女の従者です。貴女にこれまでお仕えして来た理由は多々ありますが、何より大きいのは俺自身の意志ですよ」  「そりゃあノクシア様はお美しくて、ネージュ様のように手も掛からないお世話のしやすい方ですが、それでも俺は貴女の従者なんです」  「……、なんだか馬鹿にされている気がするのは気のせい?」  「事実を述べたまでです。ネージュ様は随分俺に対して不信感をお持ちのようですが……もう言いませんから、よく聞いていて下さいね」  それまでこちらを見つめていた緑の瞳がそっと閉じられる。  「俺が唯一、絶対の忠誠を誓うのは、ビアンカネージュ様ただ一人。  例え貴女がどんな逆境に立たされようと、貴女のせいで国が滅びようと、俺は貴女の従者で居ます」  「…………」  まるで暗記していた詩を朗読するみたいに、すらすらとそこまで言い終わると、エステリオは眼を開いてどこか寂しそうな表情で笑ってみせた。  「ずっと、貴女の従者なんです。俺は」  その笑顔が、懐かしい記憶を呼び起こした。  今よりずっと幼かったはずの彼は、今と同じような顔をして、同じ台詞を言ったのだ。  市場で買ったのだと言う、薄紫の花が描かれた安っぽいブローチを私の手に落として。  俺はずっと貴女の従者なんです、と。  「……バルーンフラワー」  「…………」  「だった、わよね。確か」  「覚えてらしたんですか」  「思い出したの」  言いながら目元を拭う。涙は、いつの間にか止まっていた。  エステリオは少し視線を逸らして短くため息をつくと、立ち上がって膝を二、三度払い、私を見下ろした。  「では、もう忘れないようにして下さい」  「……でも、さっきの言葉に訂正は無いのね」  「さっき?」  「一番美しいのは……」  そう言っても、不思議ともう哀しくは無かった。どうしてだろう、あんなにこだわっていた事なのに。  まあ、ちょっと悔しいけどね。  「まだ言いますか」  眉を寄せて露骨に嫌そうな顔をしたエステリオに、私もちょっと膨れてみせる。  「だって」  「あれは限りなく客観的に見ての話です。  外見にこだわり過ぎるのはいけません。見目より心と言うでしょう」  「そりゃあ、よく言われてるけど……」  そんなどうでも良い様な話をしながら、私は先程エステリオが言った言葉を心の中で呟いていた。  折角正直者なのに、ちっともまともな質問をして下さらない。  そうだ、エステリオは嘘をつかないんだった。私、それにずっと頼ってきたはずなのに、ずっとその事を忘れていたみたい。  横を歩くエステリオの顔をちらりと見上げる。  「……どうかしました?」  「別に。もっとまともな質問ってやつを考えてたのよ」  「は?」  「なんでもないわ」  ちょっと笑ってみせてから、エステリオを追い越してすぐ前に迫っていた自室の扉に手をかける。  一番美しいのは誰、なんてどうでも良い問答だったって今なら解るわ。  聞いてみたい質問は、多分ひとつだけ、ずっと昔から心の中にある。  「……、ねえエステリオ」  「はい、なんでしょう」  「…………」  「……?」  「……、えっと。あんたさっき相当慌ててたみたいだけど、ノクシアに一体何話したのよ?」  「…………」  「ふふん、その顔相当恥ずかしいこと言ったのね?  後で聞きに行っちゃおうかしらー」  「……仲が宜しいことで」  「……そうね、ちょっとは認めてあげても良いかも。あんたの顔色あそこまで変えさせたのってノクシアが初めてじゃない?  少し私も見習おうかしら」  「…………」  苦々しい表情で視線を逸らしたエステリオの表情に、私は満足して微笑んだ。  うん、そうね。今は聞かないことにする。  一番大事な『質問』は、いつかの時まで取っておくことにしましょう。  いつか、どうしようもなくその答えが知りたくなる、そんな時がやって来るまでは。  思えばあれから、ラスの所にはあまり行っていない。  特にラスが気に入らないとか、そう言う訳ではなかった。正直なところ、理由はよくわからないのだ。  ……そうね。優しくしてくれる先生や城のみんなを騙す罪悪感に、気が引けたから、と言うのが一番適当かしら。  だけど今日は、彼の所に向かおうと思う。  お父様から言われてしまったのだ。『ノクシアともっと仲良くしてあげなさい』って。  嫌で嫌で仕方がないけれど、あんなに困った顔をされてしまったら、わかりましたって言うしかないじゃない。  だから今まで以上にラスに会いに行く機会は減るだろう。  それをきちんと彼に伝えに行こうと思う。だって、私お姫様だもの。お姫様が家に来るって相当なことだわ。  だから、いつ来るか、は明言できなくても、どれくらいの頻度で来るか、くらいは言っておいた方が良いと思うのよ。  「へぇ、ノクシア姫と?」  あまり来れなくなるかも、と紅茶を入れるラスの後姿に向かって告げると、少し笑いを含んだ声が返ってきた。  「じゃ、あんたらもついにちゃんとした姉妹になるってわけだ」  「別に、姉妹になんてなりたくないわよ。お父様に言われなければ、誰があんな女と……」  「ふうん……」  「何笑ってるのよ」  「いやいや、別に?」  ことん、と目の前に置かれたティーカップから湯気がのぼる。ほんの少し口をつけてから、私はなんとはなしに部屋の様子をうかがった。  相変わらず片付いていない部屋だ。この間来た時から、それだけは変わっていない。  だけど、ものの配置や作業用の机の上だとかは大分変わっているみたい。まあ、当たり前ね。薬の調合をしているって言ってたもの。  「それにしても、酷いよなぁ」  とんとん、と陶器のカップを無意識になのか人差し指で軽く弾きながら、ラスがそう口を開いた。  「何よ?」  「久しぶりに来てくれたと思えばさ。なんだ、そんなこと言いに来たのか」  あくまでも声の調子は軽い。彼は自分の指先をじっと見つめている。  そう言えば、今日は薬の精製作業をしないのかしら。  「なによ、寂しかったの?」  「寂しかったよ?」  ……、相変わらず、素直なんだかふざけているんだか、良く解らない。多分、こんな風に返されると私が困るってこと知ってるんだわ。  本当に、外面はそっくりのくせして中身は全然違うのね。  「でも、しょうがないな。姫様は忙しいんだろうから」  「あら、わかってるんじゃない」  「そうかな。なあ、俺とリオって似てる?」  「また突然聞くわね……」  「良いじゃん、知りたいんだ。なぁ、どこが似てる?」  「そうね、外見はそっくりよ。目以外は。声も同じだわ」  「へぇー。じゃあ、違う所は?」  どうしてこんなことが聞きたいのだろう。しかも、折角答えたって言うのになんだか私の返答にラスはそこまで興味を示していないように見える。  疑問に思いはしたけれど、とりあえず考える。双子の兄弟なのだから、似ている所は勿論沢山あるけれど、違う所だってたくさんあるのだ。  「……雰囲気、かしらね」  「雰囲気?」  「他にも色々あるけど、一番違う所はそこだと思うわ」  「曖昧だなぁ」  それは私もそう思うけれど、他に言いようがなかったんだもの。  ラスと居るとき、エステリオと居るときでは、何と言うか、感じる気持ちに僅かだけれど確実な違いがある。  どちらが良いとか悪いとかではなくて、ただ違うって感じるの。  まあそんなのは、同一人物でない限りは当たり前のことなんだろうけれど。  「そう、雰囲気ね。……やっぱり、俺とリオでは違うんだ」  そう言って、カップを口元に運ぶ。つられるようにして、私もさっきよりは丁度良い温度になった紅茶をこくりと飲み込んだ。  「……リオは、やっぱり俺よりまともなのかな」  「エステリオなんか、あんたとは違う意味でまともじゃないわよ」  「はは、そうなの?  でも、姫様やじいちゃんが選ぶのはリオなんだよな」  なんでかな、と呟きながら、ラスはまた私から目をそらした。  「でも、俺だとしても選ぶのはリオだな……何が悪いんだろ」  「あんた、何ひとりでブツブツ言ってるの?」  暗いわよ、と言いながら、空になったティーカップをテーブルに戻す。  ラスは相変わらずこちらを見ずに、どこか遠くを見るようなぼんやりとした目をして自分の手元を見つめている。  「……ごめんな、姫様」  「なに?」  「俺が、リオじゃなくってさ」  何言ってるのよ、と眉をひそめると、ラスは明るく笑った。ただ、相変わらずこちらを見ようとしない。  「あんた、本当は俺に会うの嫌なんだろ。あんたが本当に会いたいのは、俺じゃなくてリオだから」  「俺と居ると思うよな。こうして普通にしてるのが、目の前に居るのが、俺じゃなくてリオなら良かったのにって」  「それで、リオの代わりにしてる俺と、リオと、両方に罪悪感湧いちゃうんだ。  あんたってなんだかんだで優しい良い子だから……違う?」  「ち、っがうわよ、なんでそんなこと……」  否定しはしたけれど、心はざわざわと騒いでいた。  自分でも気付かなかったことを言い当てられたような気がして、なんだか強く言い返せなかった。  「そう。まあ、どっちでも良いんだけどさ、今更」  「なによ、どう言う……」  不意に体に感じた違和感に、言いかけた言葉が止まる。  「……っ?」  指先に力が入らない、と感じた途端、奇妙な痺れのようなものが指先から腕に、足に、広がった。  痛みは無い。ただ座っていることすら出来なくなって、硬いソファの上でずるりと体が傾いた。  ラスがようやくこちらを見て、嬉しそうに笑う。  「あ、効いた? 良かった、意識はあるな。  人に盛るのって久々だったから、量がどうだったか少し気になってたんだ」  「でも流石、これしか取り得がないだけあるよな。調合自体は簡単だけど、分量調整すんの難しい薬なんだぜ、これ」  言いながら席を立つと、私の前に置かれていたカップを取り上げ、作業机の上に何気なく置かれていたガラス瓶の蓋を開けると、紅茶の代わりにその中身をカップの中に注ぎ込んだ。  なにしてるの、どう言うことなの、と尋ねたかったのに、声が上手く出せない。立ち上がりたいのに、ソファから落ちないようにしているだけでもう精一杯だ。  「……不思議そうな顔してるな。これが何か知りたい? ……それとももっと別のことかな――おっと」  何かが入ったカップをテーブルに置いたラスが、ずるずるとソファから滑り落ちそうになっていた私の体を支え、座り直させる。  「ごめんな、姫様」  そしてもう一度、笑顔で私に謝った。  男のくせに細い指が、優しい動作で私の顔にかかった髪を除け、そのまま頬を撫でた。  「可哀想に。俺のとこなんて、来たくないと思ったならもう来るべきじゃなかったんだ。  そうすれば、俺だって欲張ったりしなかった」  「リオと顔が同じだからって俺のこと信じて、中途半端なことするから」  金色の瞳が、じっと覗き込むように私を見つめている。  「なんでリオだったんだろ。俺だって、あんたのこと好きになったのにな……」  「……俺が、こんななのは、あんたが」  私の目の前で、彼の笑顔が痛々しく歪んだ。この人がどうしてこんな顔をするのか、わからない。私たちはついこの間出会ったばかりのはずなのに。  エステリオが、彼の双子の兄弟が、私の従者だから? それとも、  「あんたが俺に、気付いてくれなかったからだ……!」  冷たい雫が頬を流れた。泣いているのは私じゃない。まるで子供みたいに、私を責めながら泣いているのは彼の方だった。相変わらずこちらを見つめ続ける綺麗な黄金色が、涙で揺れていた。  「あんたがっ、もっと、もっと早く、俺のこと見てくれてたら、そうしたら」  ぼろぼろと零れてくる涙をこらえるように、ぐっと口元を結んで、それから私の肩にそっと額を乗せた。  「そうしたらこんな……」  そのまま背を震わせて泣いている彼が、私はなんだかとても可哀想になってしまった。  この人は、これまでこんな風に泣いても、誰にも優しくしてもらえなかったんじゃないかって、そんな気がした。  出来るなら慰めてあげたい。私が小さい頃エステリオがよくしてくれたみたいに、優しく抱きしめて、泣き止むまで傍に居てあげたい。  ……けれど私の体は、その彼自身のせいでぴくりとも動いてはくれなかった。  やがて小さくため息が聞こえて、ラスの体が離れていく。彼はもう泣いてはいなかった。  「寂しいんだ、姫様。多分俺、そう言うことなんだと思う」  そう言って、後ろのテーブルに置いていたカップを取ると、ラスはまた笑った。  「怖い? 苦しんだりしないから、平気だよ。それとも死にたくない? なら俺と一緒だな」  唇に押し当てられた陶器の冷たさから、逃げるようにして眼を瞑る。  「なぁ、リオがこのこと知ったら、どんな顔するだろう」  「おとぎ話とは違ってさ、王子様のキスなんかで目が覚めたりはしないから」  最後に聞いた彼の声は、なんだかとても無感情で、乾いているようだった。  「……ああ、それと俺は今日一日城を留守にしますので」  いつも通り聞いてもいないのにノクシアの予定を私に伝えると、エステリオは私の予定を聞く代わりにそんなことを言ってきた。  「留守に、って……つまり出かけるの?」  「ええ、これからすぐに。明日には帰りますが」  「ふうん……」  珍しい。エステリオが丸一日も城を留守にするだなんて、小さい頃ならともかく、城に住み込みで働くようになってからは滅多に無かったことだ。  「どこへ行くの?」  「家に帰ります」  「なによ、それならそんなに離れてないじゃないの」  「ええまぁ、そうですが……」  妙に言葉尻を濁して、エステリオは私から一瞬目を逸らす。  けれどそれを不思議に思う間も与えずに、彼はふっと口元を綻ばせた。  「ひょっとして、俺が居ないと寂しいんですか?  大丈夫ですよ。心配して下さらなくても、ちゃんと帰って来ますから」  「は、はあ!? 何勝手に自惚れてんのよっ、た、ただ珍しいなって思っただけよ!」  「そうですか」  「そうよ! ……ちょっと、その顔やめなさいよ!!」  「…………」  思わず叫ぶと、エステリオは何故だか急に神妙な顔をして黙り込んでしまった。  な、何? 私、何もおかしなこと言ってないわよね。  不思議がっていると、エステリオは短くため息をついてから、なんでもありません、と呟いた。  「とにかく、そう言うことですから」  「……何か悪いことでもあったの?」  そう尋ねた言葉にエステリオが少し表情を曇らせたような気がして、私は眉を寄せた。  基本的に解りにくい奴だけれど、これだけ長く一緒に居れば勘だって多少は働くようになる。  「……そうですね」  「……そう」  それ以上の詮索を拒むようなエステリオの返答に、私は少し躊躇ってから彼の手をそっと掴んだ。  本当は昔みたいに頭でも撫でてやれればちょっとは格好がついたのかもしれないけれど、こうも身長差が開いてしまってはそれも出来ない。  「何だか知らないけど、元気出しなさいよ」  「……ありがとうございます」  「ふん……」  素直な感謝の言葉がちょっと気恥ずかしくて、なんだかまともな返事を返すことが出来なかった。  とんとん、と今や見慣れた家の扉をノックする。  エステリオの居ない中ノクシアと二人になるのは嫌だったし、先生の所へ行って勉強をする気分でもなかったので、今日はラスの所へ行く事に決めたのだ。  「……ラス、ラスー?」  呼びかけながら、やや強めに扉を叩く。  それから少し無言で待ってみるけれど、扉が開く気配どころか、中で人が動く気配すらない。  いつもならこの辺りで扉が開くか、そうでなくても二階から降りてくる足音なんかが聞こえて来るのに。  「出かけてるのかしら」  事前に訪問を伝えるすべが無いので、そうだとしても不思議ではない。けれど今までラスを訪ねていった中で一度だって彼が不在だったことは無かったのに。  「……双子ってこんな所も似るものなのかしら」  ちょっと笑って、試しに扉を押してみる。確か外出時でも鍵はかけないと言っていたはずだから、中で待たせてもらおう。  けれど扉はがたん、と揺れただけで動かなかった。どうやら鍵がかかっているようだ。  「何よ、適当な事言うんだから。しょうがないわね、もう……」  外で待っているなんてしたくはなかったので、もう帰ろうと背を向けた私の耳に、かすかな足音が届く。  「あら……?」  ラスが二階から降りてくる時の音だわ。もう一度扉に向き直ると、扉の向こう側からガチャリと鍵を外す音が聞こえてきた。  それからややもせずにノブが動いて、ぎっ、と軽く軋む音を立てながら扉が内側に開く。  「なによ、家の中に居たのね。どうして鍵なんて――」  続きの言葉が喉の奥で凍りつく。そこに居たのは、ラスではなかった。  ここには居るはずの無い人が、戸口に立って無表情に私を見つめていた。  「……来るかもしれない、とは思っていました」  「な、エステリオ……?」  出会った時にはラスをエステリオかと一瞬疑ったくらい、二人は瓜二つだったはずなのに、今この瞬間だけは何故だか二人の相違点が際立って目に付いた。  ここは城ではなくラスの家の前なのに、こちらを見つめているのがあの人懐こそうな金の瞳ではなく、どこか冷たく澄んだ緑の瞳であることに、強烈な違和感を覚える。  「ど、どうして……あんた、ここで何してるのよ、家に帰るんじゃ」  「……弟は、もうこの家には戻りませんよ」  「ええ? 何言ってるの、エステリオ」  「居なくなったんです。だから俺はここに、必要なものを取りに来ました。薬品や材料の類と、毒性学関係の本をいくつか……」  「最終的には全て撤去しますが、とりあえずは主の消えた家に置いておくのに適さないものだけをと」  「ちょ、ちょっと待って!」  すらすらとまるで用意していたみたいに喋るエステリオに、慌てて制止をかける。  「ら、ラスは居なくなっちゃったの?」  「ええ」  「じゃあ、あんたが今朝言ってた『悪いこと』って、このこと?」  「そうなりますね」  「私が来るの、知ってたの?」  「はい」  「…………」  私に何の追及をする事も無く、短い返答ばかりを繰り返すエステリオは、どうやら今朝と同じようにこれ以上の会話を望んでいない様だった。  思わず言葉に詰まる私に、エステリオは先程の続きとばかりに言葉を繋げる。  「ネージュ様が弟と会っていることは、大分最初のうちから気付いていました。俺以外に貴女がここで『誰と』会っていたかを知っている人は今の所居ませんし、他言する気もありません」  「ですが本来、弟は貴女と会う事を禁じられているはずです。ですからネージュ様」  いつもの様に抑揚の無い淡々とした声。けれどそれでも、何も感じていないはずは無い。  「弟の事は忘れて下さい」  事務的な言葉が妙に哀しい。なんだかたまらなくなって、私はそっと尋ねた。  「ねぇ、大丈夫?」  「……ええ、別に哀しくはありませんし」  「本当?」  「はい、ご心配には及びませんよ。ただ少し……」  一旦言葉を止めて、ちらりと部屋の中に目をやると、エステリオはふっと口元を緩ませる。  「落胆は、したかもしれませんね。この程度かと」  「あ……」  その哀しげな笑顔に、私はなんだか何も言えなくなってしまう。  ただ、彼等はやはり双子なのだ。そんな事を、今までで一番強く感じていた。  「わ、わかんない……私、私名前は教えてもらわなかったの。つ、作る所は見てたけど――」  「それでしたら、材料や精製法の一部だけでも構いません。俺かネージュ様、どちらかの知っているものであれば、或いは……」  「う、うん……」  頷いて、私は大きく息を吐く。  落ち着かなきゃ。落ち着いて、ちゃんと思い出すの。大丈夫、だって沢山一緒に居たじゃない――  「た、確か精製法は普通の薬とあまり変わらなくて、抽出と蒸留の繰り返しで、それで――」  それで、なんだっけ? 材料は? ラスは何を使ってた? 何を、どんな風に……。  辛うじて思い出せた材料を二つほど言うことが出来たけれど、そこから先は続けられなかった。  「だ、だめ……」  殆ど泣き出しそうになりながら、私は首を振った。  「リオ、どうしよう。私思い出せない、これだけじゃ解らないわ……」  「……わかりました」  エステリオは驚くほど冷静な声でそう答えて、さっと立ち上がる。  「それではまず、一般的な毒全般に対して効き目のある薬を作りましょう。  解毒は恐らく不可能ですが、少しは症状が和らぐかもしれません」  「その間に俺はおじい様の所へ行って、これが何の毒なのか聞いて解毒薬を取ってきます。  城やうちの屋敷には今でも様々な薬が揃っていますから」  「だ、だけどそれじゃあ……」  こんなに酷い状態では、例えこれから作るその薬が効いたとしても、解毒剤が届くまでの間体力が持つとはあまり思えなかった。  「それは、……」  中途半端に言葉を切ったエステリオは、ふいと視線を倒れたままのラスにやって、それから私に気遣うような微笑みを向けた。  「ネージュ様、酷い顔色ですよ」  「だ、って……!」  「駄目ですね。やっぱり、ネージュ様をおひとりでここに残しては行けません。  俺が弟を看ますから、ネージュ様は城へ戻って、祖父に事情を話して下さいますか」  「あ、あんたが……?」  「ええ。弟やネージュ様ほどではありませんが、毒性学に関して多少の心得はあります。  ですからここは俺に任せて、ネージュ様は城に」  「でも!!」  私だってラスをこんな状態で置いていきたくない。言い募ろうとした私を、落ち着いた、柔らかい声が制した。  「ネージュ様、ご心配には及びませんよ。俺は貴女よりずっと誰かの世話をすることに関しては慣れてますからね」  「それに祖父へもネージュ様から事情を説明して頂いた方が良いように思います。あの人は頑固ですが、ネージュ様に弱いですから」  「…………」  諭すような口調で言われて、私は少し落ち着きを取り戻した。  確かにエステリオはアンブローズ家の人間で、その上仮にも姫付きの従者。こんな事態には、私よりずっと正しく対処出来るはずだ。  「ネージュ様をおひとりで城に戻らせるのは気が引けますが……」  「わ、わかった……」  となれば迷っている場合ではない。事態は一刻を争うのだから。  「わかったわ、私、一度城に戻って、先生を呼んでくる」  袖で涙を拭って、私は頷いた。  それで良いと言わんばかりに表情を緩めたエステリオの落ち着いた様子に、私は少し安堵する。  「お願いします」  「ええ。ら、ラスのこと頼んだわよ……」  エステリオにそう応えてから、私はそっとラスの傍に膝をついて、そっと彼の頬に触れた。  一瞬、ひんやりと冷たいあの温度が指先に蘇ってぞっとするけれど、人肌の暖かさがそこにはあった。  大丈夫、まだ生きてるわ。お母様の時のようには、きっとならないわ。  「あとで……あとで沢山、文句言ってやるんだから……」  だから死んだりしたら許さない。  その言葉は、喉の奥につっかえて出て来てくれなかった。  また泣いてしまいそうになったので、慌てて立ち上がる。もう行こう、早くしなくちゃならないんだから。  「お気をつけて」  ラスの隣に先程の私と同じように膝を付きながら、エステリオがこちらは見ずに呟く。  引き開けた扉は、なんだかいつもより余計に重いような気がした。  ……いつから俺は、こんな風になってしまったのだろう。  ようやくここまで運んできた彼の体をベッドに横たえながら、考えていた。  いつからこんな風になってしまったのだろう。  後悔も未練も哀しみも愛情も、全てこの諦観の向こう側だ。  何も感じない訳じゃない――いや、本当はそう思っているだけで何も感じてなどいないのかもしれない。  こんな風に、己の行動が結果的に引き起こした悲劇を目の当たりにしながら、それでも俺は、どうして俺はこんなに落ち着いていられるのか。  何故だろう。兄の存在は、俺にとっての数少ない希望で、あんなにずっと執着していたのに。  兄は――俺の唯一無二の兄弟は、きっと助からない。  ネージュ様が戻る頃には――  「……それは無い、か」  事情を聞いた祖父が、彼女がここに戻る事を許すとは思えない。  意志の強い彼女のことだから、確証を持って、無い、と言い切る事は出来ないが。  「ラス」  殆ど独り言のつもりで呟いた名前だったのに、それに応えるようにして呻き声が彼の口から漏れる。  薄く開かれた瞳は、俺の脳裏に焼き付いているあの色よりも少し虚ろな金色をしていた。  「……ぁ、リオ……?」  「…………」  ああ多分、これが最後の会話になるのだろう。  冷静にそう判断する俺の前で、金の瞳が逃げるように閉じられる。  「リオ、ごめん、俺……ずっと」  「…………」  「……許して、くんなくて良い、よ」  「ああ……だと、思ったよ」  言葉を交わした途端、ふっと一瞬込み上げてきた感情があった。  怒りのような、哀しみのような、形容し難いその波が引いた一瞬の後に、残ったものは冷たい手触りの絶望と、それから奇妙な安堵だ。  きっと、曖昧な希望などは無い方が良いのだ。  「お前と、いつか普通の兄と弟のようになれればと、ずっと思っていたんだ」  「……でも、」  多少の驚きを含んで再び彼がゆっくりと眼を開いた。双子として生まれついたのに、いつもお互いをどちらからともなく避けていた俺達は、視線を合わせて話したことすら数えるほどしか無い。  「結局、お前も居なくなるんだな……」  感情が剥離していく。  目の前の事実をそのまま飲み込んで、自分の置かれた状況を把握して、戸惑いの色を隠さずこちらを見つめる視線から逃れるように、今度は俺が眼を閉じた。  リオ、とそれでも掠れた声で彼が俺を呼ぶから、もうこの部屋を出る事にした。  聞きたくない。どんな言葉をかけられたって、俺にはもう意味が無いのだから。  俺達はよく似ている。いつだって、独りよがりで自分勝手だ。つまり彼は俺の許しなど必要としていないし、俺も結局のところ、彼自身を必要としていた訳ではなかったのだろう。  それでもいつか、と浅はかにも期待していた自分が、愚かだっただけの話だ。  「さよなら」  俺たちの間で唯一意味を成す言葉は、多分もうそれだけだった。  扉が静かに閉まる音に目を開く。  苦労しながら身体を起こして、飛び込んできたオレンジの光に思わず目をすがめると、すみません、と静かな声がして蝋燭の炎が消された。  「起こすつもりは無かったのですが」  「別に良いわ、眠っていた訳じゃないし。大体、昼中寝てたようなもんなんだから、そう簡単には眠れないわよ」  「お加減はいかがですか」  「悪いわ、毎日すごく暇」  「それだけですか」  「ええ」  短く言って、私は身体を後ろに倒す。  横になりながら体の向きを変えると、窓越しに月が見えた。猫の爪のような細い月が夜空に頼りなく浮かんでいる。明日は恐らく新月だ。  ラスと別れた丁度あの日から今まで、私は体調を崩して寝込んでしまっていた。  ノクシアに風邪をうつされでもしたのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。  熱が出たり、気分が悪くなったりする訳ではないからだ。  ただ、体が思う様に動かせない。歩いたり走ったり、今までは無意識に出来ていた事を、私の体は頻繁に忘れてしまうようになった。  別に、全く動けないと言う訳ではない。  ただ、何の前触れもなく突発的にそれが起こるだけで、原因がわかるまでは安静にしていろと言われてしまったからそうしているだけ。  なんとかしてエステリオと仲直りしなきゃと折角思っていたのに、なんて酷いタイミングだろう。  「…………」  エステリオの手がそっと布団をかけ直してくれる。いつも通りの落ち着いた表情。  その態度はあまりに普段と変わりがなくて、あの日の事がまるで無かった事の様にさえ思われる。  もう気にしていないのかしら……。  聞いてみたかったけれど、なんとなく勇気が出なかった。弱気になってしまうのは、この訳の解らない病気のせいもあるかもしれない。  言おう、言おうと思っていた謝罪の言葉も、これのせいで延び延びになってしまっている。  体調が元に戻って落ち着いてからと思ったのだけれど、どうせすぐに治ると思っていたのが間違いだった様で。  お陰で見事にタイミングを逃してしまって、ますます言い出し辛い現状だ。  枕の下に手を入れて、そこに隠していたあのブローチをぎゅっと握る。  ラスが居なくなってしまうまでは、こうして傍に置いておきたかった。  大丈夫だよ、と言ってくれた声と優しげな笑顔を少しだけ思い出して、勇気を出そうとする。  チャンスはこれきり。今言えなかったら、ラスに嘘をついてしまうことになる。  「……ね、ねぇエステリオ」  「はい」  「その……この間のこと、なんだけど」  「いつのことですか?」  「よ、四日前よ。ほら、えっと――あんたが怒った時のことよ」  「ああ、それですか」  その瞬間、明らかに場の空気が変わったことに私は気が付いた。  いつも通りの口調で、いつも通りの声音だけれど、いつもとは全然違うエステリオ。  ――怖い。どうしてそんなに怒ってるの? 私のこと、もう嫌いになったの?  思わず泣いてしまいそうになるのをぐっと堪える。謝らなくちゃ。  「あ、あのね……その、あの時酷い事言ってごめんなさい。私――私、本気で言ったんじゃないのよ。あんな……」  上手く言葉が出ない。またこの間みたいな冷たい目をしてこちらを見ているような気がして、顔が上げられなかった。けれど、  「……わかってますよ」  けれど、降って来た声は意外にも優しくて。思わず顔を上げると、エステリオはほんの少しだけ微笑んで私を見下ろしていた。  その表情が一瞬ラスのそれと重なって、私は些細な違和感を覚える。  ……エステリオって、こんな風に――こんな、寂しそうに笑う奴だったかしら。  「…………」  「他に何もない様でしたら、俺はこれで失礼します。もう遅いですから、早くお休みになって下さいね」  それでは、と浅く一礼して、エステリオは入ってきた時に消した蝋燭に火をつけると、燭台を片手に部屋を出て行ってしまう。  引きとめようかと思ったけれど、理由が思いつかなかった。  明日になったら、もう一度ちゃんと話してみようかしら。  言いたいことの半分も言えた気がしない。これで仲直りと言ったら少しおかしい気はするけれど――でも、ラスなら許してくれるような気がした。  私はそろそろと起き上がって、ベッドから降りる。ラスと別れてから四日。明日で彼は居なくなってしまう。  こんな風に体調を崩したりしなければ、いつも通りの言い訳で抜けて来られたはずだけれど、もうそういう訳には行かなくなってしまった。  朝も昼もエステリオや他の侍女、お医者様等私の周りには必ず誰かが居て、それこそひとりで部屋を出る事すらままならない様な状態だ。  ラスに会うために城を抜け出すだなんて、到底無理に決まっている。だからもう、城を抜けるなら夜しかない。  昼間ずっと眠っていたお陰で目は冴えているし、ここ連日夜中に上手く眠れないでいたお陰で、夜はエステリオが私の様子を見に来るのを最後に朝までもう誰もこの部屋にやって来ないことも知っている。  「へんなの……」  外出用の服に着替えながら、ひとり小さく呟いてみる。考えてみれば、本当におかしな話だ。  ただ、最後に少しだけ会って、さよならを言いたい。それだけ。  それだけのために、私はどうしてこんなに一生懸命になっているんだろう?  「だけど、私が言い出したんだものね……」  ちゃんとお別れを言いたいと言ったのは私の方だ。そしてラスは迷惑がるのでなく嬉しそうに笑ってくれた。  約束なんてしなくても、本当は理由ならきっとそれで十分なのだろう。そんな気がする。  おかしな病気だけれど、幸い気分が悪い訳じゃ無い。動くのがいつもより少しだけ億劫になるだけ――  そう自分に言い聞かせた途端、視界ががくんと揺れた。その場に膝をついて、私は胸を押さえてため息をつく。  驚いた。座り込むつもりなんて無かったのに、勝手に座っちゃうんだもの。もう、本当に面倒ね。  「大きな音は立てないようにしないと……」  呟いて、そっと部屋の扉を押し開け外の様子を窺う。  勿論城内には警備の兵が定期的な見回りをしているけれど、ここから城の外に通じる小さな抜け穴がある庭園に出るまでだったら、見つからずに行くのはそう難しくは無いはずだ。  当たり前のことだけど、いつもはそんな抜け穴なんて通っていない。城門から堂々と出て、警備が厳しくならないうちに堂々と帰って来るのが常だ。  大きな馬車なんかと一緒に抜けてしまえば、王女がまさか侍女のひとりも連れずに出歩く事はあるまいと言う先入観も手伝ってか、滅多にばれる事は無い。  けれど流石に夜ともなるとそんな手は通用するはずも無く、幼い頃にふざけて作った小さな抜け穴に頼るしか方法は無さそうだ。  ――本当は、服が汚れるからあそこを通るのは嫌なんだけれど。  深呼吸をひとつして、とりあえずは体が思う通り動くのを確認すると、私は部屋を抜け出した。  今しがた抜けてきた渡り廊下を背に、私は庭園の茂みの後ろに座り込んで大きく息を吐き、空を見上げた。曇っているのか星はあまり見えない。  月の光は相変わらず心もとなくて、けれどこっそりと城を抜けるには好都合でもあった。  「ああ、もう……」  ここまで来るのは、突然動かなくなってしまう体のせいで思った以上に大変だった。今こうして休んでいるのも、あの奇妙な発作のせいだ。  それが起こると、体の一部がまるでどこかとても遠くに行ってしまった様に感じられて、無理矢理に動かそうとすると体力と神経をかなり使ってしまう。  例えるなら、まるでとても長い棒を使って遠くにあるものを取ろうとしている時みたいな感じ、とでも言えば良いだろうか。  脳が出した命令が、上手く体に伝わってくれない様でもどかしい。  少し休んでいればそれは治まるのだけれど、城の敷地内から出るまではそうそうのんびりもしていられない。  「本当、どうしてこんな大変な思いしなきゃならないのよっ……」  息を整えながら、そう一人ごちると私はちらりと後ろの様子を窺って、それから庭園の奥へと駆け出した。  そもそも庭のこんな奥まで見回りの兵が来るとは思えなかったのだけれど、その上背の高い木々の後ろに入ってしまえば、もう本当に見つかる心配はしなくて良さそうだった。  ようやく少し安心出来る。ここから先は、もう少し休んでから行こう。夜はまだまだ長いのだから。  そう決めて、私はその場にぺたんと座り込んだ。  木々の枝を潜ってあと少しこの奥に進んで行けば、昔エステリオと作った(と言うか、私が作るのをエステリオが渋々黙認していた)抜け道まで辿り着く。  利用するのは久々――と言うより、この場所へ来ること自体、最近は少なくなっていた。  小さい頃はエステリオを連れて、この庭園を隅々まで探検したものだったのだけれど。  少し冷たい風が、ざわざわと木々を揺らしながら通り過ぎる。それが収まるのを待って、私は服に付いた葉を払いながら立ち上がった。  それから一歩踏み出そうとした刹那に、片足が意図に反して全く動かない事に気付く。  あ、と思った時にはもう遅く、私はバランスを崩して前につんのめる。――また転んじゃう!  経験上身構えた私は、けれどいつもの様に地面に激突する事はなくて。代わりに、誰かの腕がぐっと私を抱きとめた。  「……こんな所で、一体何をしていらっしゃるんです?」  「っ!!」  聞きなれた声に、私は慌てて後ろを振り向こうとするけれど、上手く体が動かない。  本当は見なくたって解っていたけれど、それでも私は首だけ巡らせて私を助けたその人を見上げた。  「エステリオ……」  夜の闇にも色を失わない緑の瞳が、冷ややかに私を見下ろしていた。  「お部屋にいらっしゃらないので驚きました。もしやと思ったのですが、一番に此処へ来てみて良かった。動けますか?」  私は黙って頷く。いつの間にか、足はきちんと動くようになっていた。  エステリオはそっと腕を解いて私を解放する。  「さあ、お部屋に戻ってください。騒ぎにならないうちに、早く」  何を言われるか解らなくて恐ろしかったけれど、その言葉に私はかぶりを振った。  見つかってしまった。けれど、戻る訳には行かない。ラスに会いに行かなくちゃならないんだもの。  するとエステリオは少しの間無言で私を見つめて、それから不意に腕を伸ばして私の手首を掴むと乱暴に引っ張った。  「戻りますよ」  「いっ、ちょっと、な、何するのよっ……!」  その無遠慮な力に私は慌てて抵抗しようとするけれど、ぐいっと一際強く手を引かれ私は思わずよろめいて、立ち止まっていたエステリオの胸にぶつかる。  見上げれば、私の手首をぎりぎりと締めつけている力はそのままに、こちらを鋭く睨んでいる彼と目が合った。  「な、なに……? エステリオ、怒って――いっ、痛い、痛いわ。離して!」  「ええ、怒ってますよ」  手の力は少しも緩めず、思わず逃げ出したくなるような鋭い眼差しも変わらず、エステリオが呟く。  「どうしてこんな無茶苦茶な事を? いくらこの国が平和とは言え、夜ともなれば街をお一人で出歩くのは危険です」  「しかもそんな体で……それ位は貴女だって解っているでしょう」  「だって、だってこうでもしなきゃ会えないんだもの、会わなきゃならない人が居るのよ! 離してエステリオ、さよならって言いたいだけよ。お願い」  「……随分と、ご執心ですね」  ふ、と彼の口元が笑みの形に歪んだ。  「あいつのどこをそんなに気に入られたんですか、ネージュ様」  咄嗟に、返す言葉が出なかった。驚いてエステリオを見つめると、彼は少し目元を和らげて、  「ああ、気付いてましたよ。おじい様がすぐに俺には知らせてくださいましたから。俺は貴女の従者ですからね、把握しておいた方が良いと判断されたんでしょう」  「もっとも、おじいさまは貴女がどこへ行っているかまではご存知じゃありませんでしたけど」  「そ、それじゃ……先生も、あんたも、ラスのこと知って……」  「一応、誰にも言っていません。城に居ては気疲れする事も多いのだろうと思いましたから――でも、もうあの男にはお会いになられませんよう」  「ど、っどうしてよ! 最後なのよ、私会いに行くって言ったのよ!」  「ネージュ様にここまでして頂く様な価値のある男ではありません」  「そんなこと……!」  「あいつがああ言う生活をしているのは、然るべき理由があっての事ですよ。ネージュ様はそれをご存知でないから」  「そんな、どんな理由だってどうでも良いわ! ラスは悪い奴じゃないって解るもの。お願いよ、私にとっても初めて出来た友達みたいなものなの」  「……どうでも良い、ですか」  独り言のように呟くと、エステリオはぱっとこちらに背を向け、私の手を掴んだまま城の方へと無理矢理引っ張って行く。  「戻りますよ」  「や、やだって言っ――」  その腕を振り払おうとした途端、見計らったかのようにかくんと足が萎えて、私は思わず尻餅をついた。  「ああ、丁度良いですね」  エステリオはそんなとんでもない事を言うと、屈みこんで膝裏に腕を回し、私を抱き上げる。  そしてそれからは私が何を言っても何も答えてはくれず、私は呆気なく自室へと連れ戻されてしまったのだった。  ベッドの上で服を着替えながら、私はどうしたら良いのか解らない焦燥感でいっぱいだった。  エステリオは今は部屋に居ない。すぐに戻りますからそれまでに着替えてしまって下さい、とだけ言い残して、出て行ってしまった。  もう一度この隙に逃げてみようかとも思ったけれど、あんなに苦労してやっとあそこまで行けたのだ。  絶対にまた捕まってしまう上に、今度こそはエステリオも内密にしておいてはくれないだろう。  そう考えると、言われた通り動くしかなくて――だけどやっぱり、ラスにはどうしても会わなければならないと思った。  どうしても、わかってはもらえないかしら……。  エステリオが味方についてくれたら、こんなに頼もしい事は無いと思う。  確かに私は今まともに動けないし、夜の街だって勿論危ない。エステリオがもし一緒に来てくれたら――けれどそれは、多分あり得ないことだ。  ラスの名前を出した瞬間、唯でさえ冷たかった彼の眼が、更に感情を失った。明らかにエステリオはラスの事を快く思っていない……ううん、そんな生易しいものじゃないわ。  どうしてかはわからないけれど、殆ど憎んでると言って良いかもしれない。それ位にエステリオの反応は顕著なものだった。  着替え終わった服をたたんでいると、こんこんと軽くノックの音がして、入りますよ、との言葉の後にエステリオが小振りのマグカップを片手に部屋に入ってくる。  「飲んで落ち着いたら、もう眠ってください」  差し出された湯気の立つマグを渋々受け取る。指先に暖かさがじんわり伝わって、ふわりと甘い香りが広がった。ホットミルクだ。  それに少し口を付けてから、私は思い切って口を開いた。  「……ラスとは、色んなこと話したのよ」  「先生のこと、本のこと、城でのことや、それに……あんたのことも」  エステリオは何も言わない。ただじっと私の話に耳を傾けている様だった。  私は続ける。  「私のために、色んなこと言ってくれたの。励ましたり、諭してきたり、時々調子に乗るけど……でも、私には悪い人には見えなかったのよ」  もうこのまま会えないのかしら。今までのこと、最後に一言くらいお礼を言ってあげたかった。  そんな事を考えていると、自然と目の前が霞んできた。瞬きをするとぽろぽろと涙が落ちて、止められなくなってしまう。  手袋をはめたままの指が伸びてきてその涙を拭ってみせるから、思わず顔を上げると、エステリオはさっきと同じ、まるで氷のように冷たい眼をしてこちらをじっと見ていた。  「な、なによぉ……どうしてそんな顔するの、なんで怒ってるの、なんで何も言ってくれないのよ。この間からっ……」  おかしいわ、と続けようとした途端、不意にぐにゃりと世界が歪んだ。  瞬きをしてもそれは変わらず、驚いて取り落としそうになったマグカップをエステリオがそれより先に私の手から奪う。  ことん、とそれをサイドテーブルに置いたらしい音が小さく聞こえたけれど、なんだかもう、何も解らなかった。  全てのものの境界線がぐにゃぐにゃと不規則に歪んでいく。  「ネージュ様は嘘つきですね」  この場には不似合いな程に落ち着き払った声が頭上から聞こえた。  「あの日から、俺は貴女に嘘なんて一度も言った事は無かったのに」  非難の色を含んだその言葉を最後に、私の意識は闇の中へと落ちて行った。  あれ以来、私は自由に城から出る事が出来なくなってしまった。  監視が厳しくなったとか、そんな理由ではなくて。ただ、前よりも格段に体が動かなくなってしまったから。  「どうぞ」  差し出されたマグカップをあの日と同じように受け取って、けれど口は付けずに指先を暖めるだけに留める。  今はこうしてちゃんと動けるけれど、日中はとても自力で歩けたものではない。  苦しくはないけれど、まるで手足がそっくり消えてしまったような感覚は気持ちの良いものでは決して無い。  医者は原因不明だとか、心の問題かもしれないだとか色々言っていたけれど、でも多分、それは間違っていると思う。  「明日もノクシア様がいらっしゃるそうですよ」  「そう……」  カップの中で揺れるホットミルクを眺めながら、私はぼんやり返事をした。  こんな風になって以来、ノクシアは献身的に私の部屋に通って来てくれている。  最初こそ私も嫌がってはいたけれど、逃げる事も出来ず仕方なしに話していると、案外そこまで嫌な奴ではない事がわかった。  結局、エステリオが何度もそう言っていたように、最初からちゃんと彼女と向き合って居れば良かったのかもしれない。  ラスともそもそも出会う事がなければ、あんな風に中途半端な別れをすることもなかった。それに、多分――  「冷めますよ」  その声に私は彼の方を見つめる。  脱走を図ったあの日からずっと、眠る前にエステリオが持ってくるようになったこのホットミルク。朝から夕方にかけて悪化して、夜になると快方に向かう体調。  原因なんて本当はとうに予想がついていた。ただ、認めることが出来なかっただけで。  「……ねえエステリオ、私今日はこれいらないわ。あんたにあげる」  「何を言ってらっしゃるんですか。俺なんかが王族と同じ食器を使うだなんて、出来ませんよ」  「そう……」  私は呟くと、少し体を起こしてマグカップをサイドテーブルに置き、エステリオを見上げた。  「ねえエステリオ、こっち来て」  「……? 何か御用ですか、ネージュ様」  「良いから」  そうしてエステリオがすぐ目の前までやって来ると、手を引っ張って屈むように頼んだ。  訝しがりながらも言われた通りに少し屈み込んだエステリオに私は思い切り手を伸ばして、その首に腕を回すとぐっと引き寄せた。  「っ、と……」  私にしがみつかれて思わずバランスを崩したらしいエステリオが、ベッドの縁に慌てて膝をついた。  「……ネージュ様?」  「ねえエステリオ、あんた嘘はつかないのよね」  「…………」  「そうよね、約束したわね」  「……ええ、勿論です」  静かにそう答えたエステリオに、私は彼に抱きついた格好のままで続ける。  「……じゃあ答えて。あんた、私のことどう思ってる?」  「…………」  「ねえ、答えてよ。嫌い? それとも好き?  それだけで良いの、それだけ教えてくれればもう良いわ。ちゃんと飲んで、すぐに寝るから」  「…………」  「私は……言った事、あまりないけど。でもあんたのことが好きよ。大好き」  「お父様も好き。先生も、ノクシアだってそれなりに好きよ」  「……でもエステリオ、あんたの事はきっと特別だわ」  「…………」  「大好きよ、エステリオ。嘘じゃないわ」  ねえ教えてよ、ともう一度せがむ。エステリオは少しの間やっぱり何も言わなかったけれど、少ししてからその腕が背中に回されるのが解った。  ぎゅうっと抱きしめられて、なんだか酷く哀しくなる。  「――――」  やがて殆ど聞き逃してしまいそうな位に小さな声で囁かれたその答えに、私はそっと眼を閉じる。  それが彼の答えなら、別にこのまま一生ろくに動けなくたって構わないと思った。  エステリオさえ、変わらず私の傍に居てくれるなら。  ぐん、と意識が何かに無理矢理引っ張られる不快感。頭が割れる様に痛んだ。――痛い?  まだそんな感覚あるのか俺。しぶといなぁ、なんて思いながら、もういちど眼を開ける。  「……え」  かすれた、変な声が出た。眼をぱちぱちと瞬かせる。なんだこれ、俺の家の天井?  二階で倒れた覚えなんてないし、何よりちゃんと致死量飲んだはずだろ、どう言う――  「……?」  そこで俺はようやく右手が妙に重いことに気付く。ぎゅ、と力を込められて、誰かが手を握っているんだと気が付いた。  (まさか、嘘だろ……)  でもそれ以外に考えられない。誰かが俺を助けたとしたら、その誰かの心当たりなんてひとりしか居ないんだから。  少し迷いはしたが、今すぐ死に直す訳にもいかない。どうしようもなくてその誰かが居る方向に苦労して体を向けた俺は、  「ひっ!?」  予想の斜め上を行く展開に、思わず引きつった悲鳴を上げた。『誰か』は心底嫌そうな顔でため息をついて、それから俺の右手を痛い位に握り締める。  「ああ、やっと起きたな」  もう二度と見る事は無いと思っていたあの緑の瞳が、俺をじっと睨みつけながら笑っていた。  全くもって意味が解らなかった。一体、何をどうしたらこう言う状況が生まれるんだよ?  驚いて反射的に体を起こそうとしたが、上手く力が入らなくて肘をついてしまった。  とにかく掴まれている手をなんとかしようとするが、どんなに振り払おうとしてもその動きに合わせてリオの手も一緒に動くばかりで一向に離れてくれない。  「な、なにお前……え、エステリオ……だよ、な」  まさか別人かと本気で疑って尋ねると、リオは僅かに表情を変える。こちらを馬鹿にした薄笑いに、こいつこんな奴だったっけかと思わず考えた。  「ネージュ様でなくて残念だったな。生憎あの方は、一晩中お前の手を握ってられる程ヒマじゃないんだ」  「いや、そうじゃなく……てさ。な、なにしてん、の?」  「お前の看病に決まってる、見て解らないのか? 案外馬鹿だな」  「ばっ……」  さらりと吐かれた毒舌に、思わず顔がひきつった。あまりに俺の想像していた性格と違う――と思いかけて気付く。  そうだ、こいつは俺の事を憎んでいるんだった。殺されかけたんだから……態度が辛辣になったっておかしくない。  「…………」  「そんな事より、気分は?」  「気分……?」  「痛いとか気持ち悪いとか」  体調のことを聞かれているのだと気付くのに何故か妙に時間がかかった。戸惑いながらも一応頷くだけ頷いておく。  ずっと倒れていたお陰でかまだ体はだるいけれど、完全に毒は抜けつつあった。  俺の答え方が気に入らなかったのか、エステリオが僅かに顔をしかめたことに気付いて慌てて付け足す。  「えーと、そうだな。毒から来てる症状はもう大分収まって来てる。明日には全部元に戻ってるよ」  「ふうん、そうか。なら良かった」  「…………」  駄目だ。本当にこいつが何を考えてるのかが全く解らない。  未だに握られたままの右手にちらりと目をやって、それから恐る恐る切り出してみる。  「……あ、あのさぁ。この手? そろそろ……離してくれると。つかなんで握ってんの……?」  「お前、もう少し体起こせないのか?」  無視か、そうか。  苛立たしげに眉を寄せた弟に催促された通り、今まで殆ど横になっていた体をゆっくり起こす。さっきはどうやらいきなり動こうとしたのがいけなかった様だ。  「そう、それでもう少し体をこっちに向ける」  「は? な、なに……」  とりあえず言われた通りにした俺の前で、リオは無表情にじっと俺を見て、もう少し前、と呟いた。  「……?」  「ああ、そうだな。これ位が丁度良いか」  そして少し笑いを含んだ声でそう言うと、俺の手を掴んでいない方の手をぐっと握り込み、大きく後ろに振りかぶっ――え、おいちょっと待 「……ッ!!?」  突然頬を力の限り殴られた衝撃で再びベッドに逆戻りしかけた俺の襟首を、リオの手が掴みあげた。  強制的に眼を合わせられて、あれ程避けていた冷たい緑の瞳にじっと見つめられる。  リオの視線から怒りは感じ取れなかった。それは突然人の顔面をぶん殴った奴のものとは思えないほど静かに落ち着いていて、だけどどこか冷たい光を宿して俺を映している。  俺はと言うと、すっかり状況に頭がついて行けなくなってしまって、何か言うことも眼を逸らすことも出来ず、ただただ瞠目してリオを見返すしか出来ないでいた。  「謝れ」  「は……」  この場合、普通に考えるとそれは俺の台詞な訳だが、生憎俺には突然殴られても文句が言えないだけの心当たりがある。  ……んだが、正直こうも唐突に、しかもかなりストレートに謝罪を要求されると少し返しに困るな。  「早く」  「あ、ごめ……」  「…………」  「えっと……前に、お前に毒飲ませたりとか、して……悪かった」  口に出しながら、おいおいそりゃ無いだろと内心頭を抱えていた。なんだそれ、なに軽く謝ってるんだ、俺は馬鹿か?  いきなり殴られたからって、いつまでも放心している訳には行かない。謝るにしてもなんにしても、もっとちゃんと落ち着いた方が良い。  そうは思うものの、こんな間近で見つめ合ったままじゃ落ち着いて話すのは多分無理だ。俺はそろそろと視線を横に逃がして、ようやくもう一度口を開くことが出来た。  「……お前のこと、殺したい程憎んでたって訳じゃないんだ。  ただ、その……ちょっとした偶然と、お前が城に上がる日が重なったせいって言うか……ああクソッ」  これじゃただの言い訳じゃないか。伝えたい事の半分も伝わっていない気がして、思わず悪態をつく。  多分、育ちからして俺は人と話すのにきっと向いていないんだ。  「……悪い、俺がお前に毒盛ったのは変わんねーもんな。  許して欲しいとは言わない、し、お前に何されても仕方ないって思ってる。……でも、ごめん」  緊張して顔が見れないのは、許してなんかもらえないだろうと思っていながらどこかしらで期待しているからだ。  もしかすると、謝罪を受け入れてくれるかもしれないなんて。  そんな甘い考えが、自分の中に少しでも存在している事が許せない。それと同時に後悔の念も増した。  あの時あんな馬鹿なことをしなければ良かったんだ。  それまでずっと我慢出来ていたのに、どうしてよりによってあの時たがが外れて、あんな行動起こしたんだろう。  そんな勇気があるなら、いっそリオが姫様と居る所に俺も混ざりに行けば良かったのに。  リオは俺の言葉を聞いて、しばらく何も言わなかったし何もしなかった。  許すとも許さないとも言わなければ、俺の襟首を掴みあげている手も、ついでに右手を握っている方もそのままで。  もう少し何か言った方が良かっただろうかと俺が迷い始めた頃、ようやくリオはぽつりと呟いた。  「もっと早くに、こうしてれば良かった」  「……?」  「…………」  俺の襟首を掴んでいた手からゆっくり力が抜けて、リオが少し体を引く。表情は全く変わらない。姫様から日頃聞かされていた通り、無愛想な奴だ。  もっとも、俺に愛想良くする理由なんて無いだろうけど。  「あの後すぐに、お前はここに隔離されて、もう兄弟とは思うなと言われて――けどそんなの無理な話だ。  俺とお前は、誰が否定しようと兄弟である事に変わりは無いんだから」  「……そうだろ、ラスファード」  「…………」  「そうだろ」  「……、ああ」  「誰が止めようが、兄弟喧嘩くらいさっさとやっとけば良かったんだ。こうして顔を見て話さなきゃ、絶対に解らない事だってあるんだ」  「わからないこと……?」  「お前はもっと、俺を憎んでるのかと思ってた」  「ちがっ……そうじゃない、違うんだ。俺はお前のことっ、今も昔も、そう言う風には思ってない……」  慌てて否定すると、リオはほんの少しだけ口元を緩めた。  「……昔から、お前のことはずっと気になってた。話したことのない双子の兄弟。  いつも書庫にこもって勉強ばかりしているお前を見て、正直自分がああならなくて良かったと思ってたよ」  「……俺は、俺も、姫様と会うまでは、お前みたいに礼儀作法の勉強なんざ御免だと思ってたよ」  「ネージュ様に?  ……ああ、そう言う訳か。お前が俺を殺そうとしたのは」  「…………」  否定も肯定も出来ずに俯く。なんと伝えれば良いものか少し迷って、結局それについては何も言わないことにした。  あの時のあの感覚は、話したところで多分俺以外には理解してもらえないだろう。  「……お前のこと、上手く兄弟だって思えなかったんだ」  「そうか。まあ、当たり前だな。俺もそうだった」  「……ごめん」  もう一度謝ると、リオは小さく息を吐いてやれやれとばかりに首を横に振った。  「お前、なんで毒なんか飲んだ?」  突然核心を付くような質問をされて俺が一瞬言葉に詰まると、リオは更に言葉を続ける。  「死ぬほど嫌だったのか、城に来るのが」  「そう言う……ことじゃない、かな。多分」  数ヶ月前に、ジジイから仰々しい封筒に入った長ったらしい手紙で通達が来た。城に上がって、自分の後を継ぐ様にと。  その知らせを見た時、ああやっぱりなとそう思った。  俺の代わりになる様な奴はそうそう見つからないと解っていたし、いつかこんな日が来るだろうとは大体予想がついていた。  写本製作の担当者は代々一人。行動が大きく制限されるのと引き換えに、城の中においてある種特別な地位を得る。本来は王でさえも敬意を払うような存在だ。  けれど俺には信用と言うものが全く無い。  何せ弟を殺そうとした人間だ、そんな不逞の輩を城内に入れるには、相応の制約を設けなければならない。  ジジイの手紙には、城に上がり正式に後継者として写本の担当者になったとしても、俺にその役割に付随している筈の特権が与えられる事は無いと言うこと。  城内での行動にもある程度の制限を設けること。  そして許可が下りない限りは城内の人間との干渉を禁止すること……などなど頭の痛くなる様な制約の数々が並べられていて。  最後に、こんな俺でも城で国のために働ける事を光栄に思え、と言う旨の文が書き添えられて終わっていた。  予想はしてたし覚悟もしてた。仕方がないって。権利を、捨てたのは俺なんだ。  でも――  「……俺はもう、おかしく、なりたくなかったんだ」  「……?」  「姫様に会うまで、俺が考えてたこと教えてやろっか。  ただ死ぬだけじゃつまんねーから、最後にもう一回、お前の時と同じ様な騒ぎのひとつふたつ、起こしてやろうと思ってたんだよ」  「恨んでたんだ、お前達のこと。きっかけは、そうだな……ジジイからの手紙だな」  「あれがあんまりにも硬くてきつい文面で、必要な事以外何も書かれてなくってさ、ただの罪人に対しての令状みたいに冷たくて。なのに俺の知ってる綺麗な文字で」  「ああ、責任転嫁がしたくて言ってるんじゃないぜ、ジジイは何も間違っちゃいない。  そもそも最初に俺は、もうお前を孫とは思わないって言われてるんだ」  「ただ……ジジイは俺にとって、父さんより父親に近かった人だからさ。  お前を殺しかけて以来、ジジイは俺を見ようともしなくなったけど――どっかで勝手に期待してたんだよな、まだあの頃みたいな繋がりが残ってるはずだって」  「だから、久々にもらった言葉がただの命令だったってだけで、お前たちのこと逆恨みしたんだよ」  「たった一度の間違いで俺の価値はもうゼロで、必要なのは結局、知識だけか……って」  そこで少し顔を上げて、リオの表情を窺う。こんな独りよがりな話を、文句ひとつ言わずによく聞いていられるものだ、と思って。  一瞬目が合うけれどリオは何も言わない。眉ひとつ動かさずにじっと押し黙って俺の話に耳を傾けている。  何を考えているのか、双子のはずなのに推察することすら出来ない。仕方がなくて俺はもう一度シーツの上に視線を落とした。  「姫様と出会ったのは偶然だったけど、最初は利用してやろうと思ってた」  「何だか城に居辛いみたいなこと言うし、お前と似てるお陰で俺のこと全然警戒しねーんだもん。こいつを上手く利用すれば、城で騒ぎのひとつふたつ起こしてやれる……もしかしたら」  「もしかしたら、国が傾く程のでかいことだって、出来るかもしれない。俺の、俺ひとりのワガママで」  「…………」  「……怒んないの、お前」  「どうして怒らなきゃならない」  「い、いやだって……俺、結構本気で色々考えてたぞ?  どこかに閉じ込めてやろうとか、ヤバい薬飲ませてやろうとか、それこそ毒殺してやろうかなあとか……本当、隙だらけだったし」  「けど、結局何もしなかっただろう」  「まあ……結果的には、そうだけど」  「しようと思えば出来たのに、お前は何もしなかったんだ。俺達を恨んでた、なんて言ってるくせに」  「それは……姫様の警戒心がすっげー薄かったからだよ。何かするのなんていつでも出来るんじゃねーのって位に。  だからちょっとくらいは、無害なお前の兄弟装って接してみるのも楽しいかもなーって……そんな風に、思っただけだ」  「……だけど、不思議だよな。  俺がお前達のこと恨んでたってのは本当なんだぜ、ずっと負ってたはずのお前への罪悪感さえ忘れてたんだ」  「でも、姫様と会って、少し話したってだけで、気が付いたらそう言うの全部なくなってたんだ」  あの子が俺の名前を呼んでくれて、他でもない俺を見てくれてるって、それだけで。  出会った翌日、約束通りの場所で俺を待ってる彼女の姿を見つけた瞬間は、殆ど眼を疑ったくらいだ。  信じられなくて、でも嬉しかった。  本当はずっと、俺は俺として彼女の前に立ってみたいと望んでいたから。  もしかすると、出会った瞬間からもう、打算的な計画なんて殆ど頭の隅に追いやっていたのかもしれない。  「あの気持ちは一体なんだったんだ、誰のものだったんだろうってくらいにさ……元の俺に戻ってた。  昔のことへの後悔と、それでも俺を見捨てず居てくれる家への恩義、それに俺自身への嫌悪感とか。全部ちゃんと戻って来たんだよ」  「姫様と話してると、なんて言うのかな。綺麗な……ってか、まともな感情が湧いて来るんだ」  「お前の話を聞いたら、純粋に元気で居るなら良いなと思ったし、似てるって言われて初めて嬉しいと思えた。  あんまりお前のことばっかり話すから、ちょっと妬けたけど……でも姫様から聞くジジイの話だとかも、なんだか懐かしくてさ」  「ああ俺って、そう言うの全部捨てたんだなって……情けなくもなったりとか。  段々、城に来いってあの命令も、姫様のために働くんなら悪く無いかもしれない、なんて風にも思える様になってった」  「でも……」  そんな風に思うたび、そんな浮かれた思考をどこか冷静に否定する自分が居た。  毒薬の精製なんて止めてしまおうかと何度も思って、何度もその考えを打ち消した。  無理なんだよ、って。  降って湧いた希望にまた安易に縋れば、きっと同じ結果が待っているんだから。  「まともな自分に戻ってくのを実感すればするほど、城には行けないって、行っちゃ駄目だって解った」  「……、どうして」  「どうして? だって、城に行けばひとりっきりだろ。  俺は城のどこかに幽閉されて、与えられた仕事に従事することになる」  「不満は無いさ。客観的に見れば当たり前だと思うし、こんな俺でも国の……姫様の、ために、生きられるんならそれも良いと思う。  でも、でもさ……」  声が潰れそうになる。まるで罪の告白でもしてるみたいだ。実際、それに近いものがあるけれど。  無意識にきつくシーツを握り締めながら、なんとか続けた。  「駄目なんだ、ひとりじゃ……甘えた事言ってるのは解ってるよ。  でも、ひとりじゃきっと駄目なんだ、俺。ひとりきりになって、強がってみせる相手も居なくなったら、どこまでも自分に甘くなる」  「そうしたらきっとまたおかしくなる。お前を……殺そうとした時みたいに」  「自分のしたいことが何だったかも解らなくなって、お前やじーちゃんや、もしかしたら姫様も、色んな奴をきっと憎んで妬んで、本当はそんな風に思っていないのに」  「解るんだ。前の時だって、本当はお前と普通の兄弟みたいに仲良くして、みたいって。ずっと……思ってたはずだったんだから」  「…………」  「弟を、殺しかけてるんだ。  何がきっかけになって、今度はまたどんな事を仕出かすか解んないだろ。そんなの嫌だ、自分を保ってられなくなって、周りを巻き込んで、また死ぬほど後悔して……そんなのはさ」  「……だから、死のうとした?」  「そうだよ、それしか無かった。  逃げるったってあてもなければ目的だってない。もう無理だって思った」  「もう、どっち行ったって俺はひとりで、おかしくなるしかないなら」  死にたかった訳じゃ無い、他には何も思いつかなかっただけだ。  反応を見るのが恐ろしくて俯いたままで居ると、リオは呆れた様子で小さく息を吐いた。  いい加減こいつもうんざりしたかな、なんて口元を歪めていると――  突然、俺の頭に、ゴツン、と容赦の無い鉄拳が降って来た。  「いっ!?」  「いい加減顔を上げろ、この腑抜け」  「お前、また殴っ……」  「勝手に決めるな」  「な、なにを……」  「俺のこと、おじい様のこと、ネージュ様のことも。  勝手に最悪の想定をして、勝手に絶望するな。勝手にビビッて、期待する事を勝手に止めるな」  「少し頭が良いからって、思い上がるなよ。  簡単に推し量れるほど、人間は単純な生き物じゃない。お前の思った通りに全てが動いてると思うな」  「お前は勝手だ。もっと――もっとちゃんと、俺達のことを考えてみろ」  「俺はお前じゃない。俺のことはお前になんかわからない。俺は、」  未だ半強制的に繋がれたままの左手が重い。そのせいか、リオの厳しい非難の口調に、だけどそれだけじゃない何かを感じた。  続きを躊躇って口を閉じたリオの表情が、少しだけ歪んだ。それまでずっとこちらを見据えていた緑の瞳がどこか頼りなく逸らされて、一瞬妙な既視感を感じた。  「……俺は」  俺は、何かを言うべきだろうか。ごめんと謝った所で、その言葉は俺のためにしかならない気がして、何も言うことが出来ない。  やがてゆっくりと口を開いたのは、結局リオの方だった。ふっとこちらを向いて、少しも顔色を変えずに、  「俺、は……怒った方が良いのか?」  そんなことを、尋ねて来た。  「……は?」  思わず首をひねる。リオには俺の返事を待つ気は無いらしく、そのままの表情ですっと目線だけを滑らせた。  「俺は、別に……お前を憎いとは思わない」  「……好きだとも、思わない」  一言一言、確かめるように。  リオはこちらを見ずに呟き続ける。  「兄弟だとも……思っていない、し」  「…………」  「……多分、何とも思ってない」  「お前のことは何も知らない。あかの他人だ」  「でも、お前が居なくなったら……」  「…………」  「……?」  何が言いたいのか、よくわからない。  と言うかリオ自身、自分が何を言いたいんだか解っていないのかもしれない。ただの勘だけど、なんだかそんな感じがする。  しばらく考え込む様にして押し黙っていたリオは、何と返すべきか、そもそも口を開くべきなのかすら判断がつかずにそわそわしていた俺にようやく視線を戻して、ふっとため息をついた。  「お前、まだ死にたい?」  「…………」  答えないでいると、リオは少し身を屈めて椅子のすぐ傍の床に置いてあった紙袋を片手で探ると、小さなガラス瓶を取り出した。  見覚えがある。確か、アンブローズの屋敷で、完成した薬の保管とは別に携帯用として使われているものだ。  それを少し見つめてから、リオは俺の手をずっと掴んでいた手をようやく離して、代わりにその瓶を握らせた。  それまでそこにあった温度が、すっと離れて行く。  「死にたきゃ死ねば良い。勝手にしろ、俺はもう止めない」  「これ……」  「解毒薬を屋敷に取りに行った時、ついでに貰って来た。  お前が作ったものとは違う、即効性のある劇薬だよ」  「そんなの良くくすねて来れたな、お前……」  「お前と違って俺には信用がある。  飲むならさっさとしてくれ。姫様には、手は尽くしたが駄目でしたと言ってやる」  「…………」  平然とそんな事を言う弟の顔と、自分の手の中にあるガラス瓶とを交互に見つめる。  青みがかった瓶の中では、あの日のように無害な顔をした透明な液体が揺れていた。  こちらをじっと見つめているリオの視線を感じながら、俺はひとりでほんの少しだけ笑って、手の中のそれをリオにそっと手渡した。  「……今は、いいよ」  「…………」  「城へ行く。お前や、姫様がそう望んでくれるなら」  不安が消えた訳じゃ無い。俺はまた、おかしくなるかもしれないけど。  だけど、多分、未来のことはわからない、んだ。  真っ暗で何も無いかもしれない。けど、明るくて何か大事なものがそこにあるかもしれない。  あるかもしれないんだ。  俺の答えに、リオは少しだけ表情を和らげた様に見えた。  そうか、と小さい声で呟いて、それから――俺が返した瓶の栓を抜くと、何故か俺の目の前に突き出して来た。  「え、な、なに?」  「飲め」  「はっ!?」  やっぱり死ねってことなのか、と青ざめかける俺に、リオはにやっと口の端を吊り上げる。  「嘘だよ」  「な、何がだよ」  「劇薬なんかじゃない、ただの薬だ。  お前、相当体力消耗してるだろ。体調はさっさと戻してもらわないと困るからな」  「……マジ? 飲んでも死なない?」  「死んだとしても、俺に殺されるならお前にとって問題は無いんだろ。  さっさと飲め」  「そりゃそうだけど……」  ぼやきながらガラス瓶を受け取って、少し迷いつつも一気に飲み干す。  「にが……」  「良薬だからな。毒は大抵甘い」  そんな冗談なんだか良く解らない事を言いながら、リオは空になった瓶を俺の手から取り上げると、栓をして紙袋の中に戻した。  「お前、俺があの時普通に飲んでたらどうするつもりだったんだよ……」  思わず尋ねると、リオは別に、と短い返事を返しながら同じ袋の中から今度は紅いリンゴを取り出して、俺の膝の上にごろごろ転がした。  「でも、もしお前があれを飲んでたら……そうしたら、お前を憎む事にしようと思った。  ずっと……そうだな、多分一生許さないつもりだった」  「え……?」  「でも……」  ふっとリオの表情が柔らかくなった。  独り言でも言う様な調子で、ぽつりと続きが呟かれる。  「やっと、お前を許せるよ」  驚くほど穏やかな声に俺は一瞬ぽかんとして、それからやっと、気が付いた。  「……、っ」  わかった。やっと、わかった気がするよ。  お前、ずっと待ってたんだ。俺がこうしてお前に許しを請う日を。  俺を許す、その時を。  あの時からずっと――  「……ごめん、な」  わかってたはずなのに。聞こえてたはずなのに。  あの時、お前が言った言葉。望んだこと。たった一言だったけど、でも俺にはそれで十分だった。  「俺……」  ぐっと喉の奥が熱くなって、ただそれを堪えるのに必死になる。  言いたいことがあるのに、言葉にすることが出来なかった。ガキの頃からなんの進歩もしちゃいない自分が情けない。  「……お前は、おかしくなんかならないよ」  何も言えない俺の背中を、リオはまるで兄が弟に元気付けるみたいに少し優しく叩いた。  駄目だな、本当。これじゃどっちが兄貴だかわからない。  「ネージュ様のことだ、どうせお前を放ってなんかおかない。  それでも、もしお前がおかしくなったら――」  「その時は、俺が殺してやるさ」  さらりとそんな事を言ってのける弟に、俺は少し驚いて、それから思わず笑ってしまった。  はは、と少し声を上げて笑うと、なんだかそれまで張り詰めていた糸がふっと緩んだ気がして、ようやく声が出せるようになる。  「お前、本当に姫様が大事なんだな」  「……何笑ってるんだ。お前、覚悟しておいた方が良いぞ。  そのうちネージュ様がいらっしゃる。そうしたらどうなるか……大体の予想はつくだろ」  「そうだなぁ、困ったな……」  あまりに容易くその様子が想像出来るようで思わず苦笑いをする。  姫様には何と言おう。こんな情けない話は、出来ればしたくないけど……。  膝の上に転がされたリンゴをそっと両手で包む。同じ色の眼をしたあの子の顔が否応無しに思い出されて、俺は思わず微笑んだ。  「……でも、やっぱり早く会いたいな」  ぽつりと呟いた俺の言葉にリオがあからさまに眉を寄せるのが、なんだか可笑しくて――  だけどなぜだか、妙に幸福な気分になった。 END1 俺の姫END4 この程度 END2 私の従者END5 諦めたのは END3 一緒に来てEND6 「大好き」 END7 兄と弟  「ああ、ようこそいらっしゃいましたネージュ様。  こんな所にいらっしゃるとは……なにやらお困りの様ですね」  「私はしがない占い師。もしよろしければ、お力添えをいたしましょうか?」  「そうでございますか。ではまたいずれお会いいたしましょう、王女様」  「ん、もう戻るの? じゃあまた、困ったらいつでも来なよ」  「おっ、姫様。どうしたんだよ、そんな怖い顔して。  俺に出来る事ならなんでもするけど?」  「本当に占いなんて出来るの?」  「ええ、勿論でございます。貴女様の幸せを願って、私からささやかな助言をさしあげましょう」  「……なんだか信用ならないわ」  「まあまあ、そう言わずに。ものは試しと思って聞いて行ってはいかがですか?」  「ふん。じゃあ聞くだけ聞いてあげる」  「それでは……」  「……出ました。そうですね、時には意地を通してみるのも良いでしょう」  「意地?」  「ええ。ご自分の意志を曲げずに、一貫した行動をお取り下さいませ」  「ノクシアに会いたくなかったら、ずっと会ってやらなくても良いってこと?」  「勿論。ネージュ様の思う通りにすればよろしいのですよ」  「嘘吐くなよ。俺と会っといて何言ってんだ」  「あら、なんだ。あのうさんくさい口上がまた聞けるかと思ったのに」  「姫様はああいうのが良いのか?」  「ううん。本性を知ってからあれを聞くとなんだか面白くて。ねえ、フードはいいから今やってみせてよ」  「やだ。あれ疲れんだよ」  「ええ、何ようケチね。『麗しの王女様~』とか言ってたくせに」  「記憶に無いなぁ、そんなルート通ってねーもん」  「むぅ……」  「……『お美しいネージュ様、私はずっと~』」  「おい」  「『貴女様のことを敬愛しておりましたか」 「あああもうやめろやめろっ!!」  「人が死んだり殺されたり、怖い事になるのは正直ごめんだわ」  「なるほどなるほど、ネージュ様は賢明でいらっしゃる」  「……ばかにしているの?」  「いいえ、とんでもありません。  そうですね、厄介ごとを回避したいとおっしゃるのでしたら、新しい冒険に出るのはお止しになると良いでしょう」  「新しい冒険……?」  「物語を思い返していれば、一度目では気付かなかった道に気付くこともあるでしょう。  しかしそちらには進まれませんよう」  「そうすれば、何も起こらないのね」  「ええ。ですが危険の先にこそ、本当の幸せと言うものはあるものなのかもしれませんが……」  「何よそれ、どう言う意味?」  「貴女に出来る選択は、『怖いこと』を起こすか起こさないか、ではないと言うことです。  それに関与するか否か……それだけなのでございます」  「そう言うわけなんだけど」  「……、正直俺と会ってる時点で手遅れなんだけど」  「ええ、もう駄目なの!?」  「て言うか、もう怖い目に遭ってたりすんじゃねーの?  まあ、俺と出会わないようにすれば基本的に怖いことは起こらないよ」  「ふうん……」  「『会いに行かない』じゃなくて、『出会わない』な。つまり、俺の名前を知った時点でアウトってこと」  「厄介ね。ちなみに会いに行かないとどうなるの?」  「…………」  「どうして目を逸らすのよ」  「ま、まあそこは……。いやっ、べ、別に怖い終わり方するかもしんないなーなんて思ってないぜ……」  「? なによ、はっきりしないわねぇ。まあ、とにかくあんたと知り合わなきゃ良いのね」  「……そうきっぱり言われるとなんか傷つくな。  なに、まさか俺と知り合わないつもりなの?」  「私と知り合いたいの?」  「……うん」  「ふふん、しょうがないわねぇ。じゃあ気が向いたら行ってあげるわ」  「…………」  「どうして何も言わずに突然居なくなっちゃうのよ!」  「ご、ごめん」  「もう良いから、どうすれば良いのかさっさと教えなさいよ」  「え、えっと。途中からノクシア姫に会いに行けるようになってるのは気付いてる?」  「ノクシアに? ああ、私があんたに『これから行けなくなるかも』って言ってからの話ね」  「そうそう。ノクシア姫に会った後俺の所に来てくれれば、ちょっとリオの話をするからさ。  その話を聞いてからもう一度城を選べば、リオから俺の話を少し聞けるはずだから」  「それだけで良いの?」  「ん。あ、それとあんましノクシア姫に会いに行っちゃうと駄目だな。基本的に、俺に会いに来て」  「なによ、ワガママね……」  「ごめんごめん。ほら俺、寂しがりだから?」  「何よそれ……」  「…………」  「…………」  「…………」  「……えっと、なんて言うか、ごめん」  「……早く」  「え?」  「早くどうしたら良いか教えなさい!!」  「わ、わかった……けど、俺のこと本当に助けてくれるの?」  「なにそれ、どう言う意味?」  「んー、なんて言うかすごく面倒だと思うんだよな」  「……良いから早く教えなさいったら」  「わかったよ」  「ええと、まずは俺の所に通いつめてもらう必要があるかな。  あ、でもあんまり来すぎると逆に怖いことになるかもしんないから気をつけてな」  「怖いこと……?」  「まあ、気になるならずっと俺の所に来てくれても良いんだけど……。  でもそれだと、『俺を助ける』って言うことにはならないかなぁ」  「ふうん、よくわからないけどなんだか面倒ね」  「だから言ったじゃん……。  無駄な行動はせずに、せっせと俺の所に通ってもらわないと駄目なんだ」  「やたら偉そうね」  「話せっつったのは姫さんだろ。  で、だ。簡潔に言うと、城を選ぶのは二回だけな。その二回のうちに、ノクシア姫に会って、それからリオと兄弟についての話をする必要がある」  「それ以外はずっと俺のとこに来てくれれば良いから」  「それで終わり?」  「いや、実はまだあるんだけど……なあ、まだ俺のこと助けてくれる気ある?」  「くどいわよ。さっさと最後まで言いなさい」  「はいはい……。あともうひとつの条件は、会話中の受け答えな。  正しく、って言うと変だけど……。上手に俺やリオの気持ちを弄んでくれればオッケー」  「何それ……」  「だって、機嫌取るだけじゃ駄目だし」  「もーっ、どうすればいいのよ!!」  「わ、わかった。じゃあ今度までに調べとくからさ、今回はとりあえずそれで……」  「仕方がないわね、もう……」  「大体あんた、今度までに調べとくとか言って!!」  「え、えっと。あ、そうだ!」  「なによ」  「ほら、こんな時こそ占いだろ? 副業だけど俺のって結構当たるんだぜ」  「えーっとなになに……?」  「……下下、上、上上上上」  「……はぁ? 何それ、何の暗号よ?」  「いやぁ、俺にも何がなんだかよく……。  でも多分これが役に立つはずなんだけど」  「仕方がないわね、他に大した手がかりもないし……とりあえず、覚えておくわ」  白くて大きな紙の上に、自由に筆を走らせる。  外に出られない雨の日は、よくそうして二人で遊んでいた。  好き放題に沢山の色を使って、あっと言う間に大量の絵を描き散らかしていた私とは正反対に、彼が作るのはいつでも大量の紙くずの山。  何かこだわりでもあるのか、何度も何度も修正を繰り返しては結局紙をだめにしてしまう彼は、よく困ったように笑っていた。  私たちが絵を描いて遊ばなくなったのは、思えばいつからだっただろう。  「だからね、なんだかおかしいのよ。この間だって大して忙しい風でもなかったし、それに行ってみたらノクシアの所でもないんだもの――ちょっと、聞いてる?」  そう咎めると、今までそわそわと落ち着き無く視線を彷徨わせていた目の前の人物は、ぎくりとしてどこか曖昧な笑みを浮かべた。  「ん、ああ勿論……えーと、リオが姫さんに構ってくんなくて寂しいって話だよな?」  「寂しいなんて言ってない! おかしいって言ったの、ちゃんと聞いてなかったわね!!」  「あっ、ああぁわかっ、わかったから落ち着いてくれ頼むよっ……お、俺やばいんだって本当。あ、あんたと二人で居るとこなんか見つかったらさあ」  「なによ、おどおどしちゃって。相変わらず情けない男ね」  「だってさ、この間なんか図鑑の角で殴られたんだぞ、力いっぱい。ジジイだからって甘く見てると、そのうち本当に殺されるかも」  あれ機密図書のはずなのにさ、なんて言いながらこわごわと側頭部に手をやるラスに、私は軽くため息をついた。  晴れて城仕えになって、外面はそこそこそれらしくなっても、やっぱり人間中身はそう簡単に変わらないものね。  「ボード先生もお気の毒だわ」  「お気の毒なのは俺」  「19にもなっておじい様の手を煩わせている方が悪いのよ」  「あんたが主に原因なんだけどなー……」  「あら、何よ。つまり私が会いに来るのは迷惑だって言いたいの?」  「いや、そう言うわけじゃ……嬉しいけど、もう少し目立たないようにって言うか――」  ラスの声を遮る様にして、本棚の前に積んであった本が不意にばさばさと雪崩れを起こす。  その瞬間椅子から転げ落ちる様な勢いで素早くその方向に体を向けたラスに、私は少し呆れて首を傾げた。  「あんた、本当に情けないわよ」  「いつジジイが来るか気が気じゃないんだよ、俺は……」  書庫内に誰も居ないことを確認してから、ラスはなんだか疲れた表情でこちらに向き直った。  「で、なんだっけ? リオがえーっと、忙しいんだっけか?」  「だからね、私のこと避けてるような気がするのよ」  「気のせい」  「そうじゃないわ。だって今までは城内に居るのに捕まえられない、なんてこと滅多に無かったのよ」  「単純に忙しくなったんだと思うけどなぁ、俺は。ほら、俺のこととかもあるし……」  「……、そうかもしれないけど」  「なんだよ、姫さんは何をそんなに気にしてるんだ?」  訝しげにそう尋ねてくるラスに、私は少し返答に困って口を閉じた。  何を、と言えるほど具体的なものは何もないのだ。言うなれば、ただの勘のようなものなのだから。  向かい側に座っているラスの顔から、テーブルの上に広げられた沢山の紙に目を落とす。  確か彼の現在の身分は『学者見習い』で、今度作る予定の学術書で一部の草稿を任されたのだと、この間聞いた気がする。  恐らく、それの更に下書きか何かだろう。少しエステリオに似た、だけど大分綺麗な文字が書き散らかされている。  いずれはこの文字を正式な学術書の中で見ることになるのだろうか。  「上手く言えないんだけど、なんだかあいつが遠くに行っちゃう気がするのよ」  「遠く?」  繰り返された言葉に頷きながら、先程から羽ペンをくるくるともてあそんでいる彼の指先を眺める。  「今まで通りで居られなくなる気がするの」  「そりゃあ、まあ姫さんの周り、最近で色々変わったじゃん。義理の家族が増えたり、俺が城に来たりさ」  「少しは関係にも変化が出ておかしくないんじゃねーの」  「そうね……」  「……そんなに寂しいの?」  ぴたり、と羽ペンの動きが止まる。私は少し視線を上げて、こちらを見つめる黄金色の瞳を見つめ返した。  「寂しいけど……それほどじゃないわ」  強がりではなかった。多分、だからこそ私は焦っているのだ。  「昔は……小さいころはね、もっともっと傍に居たの」  「晴れの日は外で鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、そんなことして遊んで、雨の日は一緒に絵を描いたり、本を読んだり」  「従者、ではなくて友達だったの。多分、エステリオもそんな風に思ってくれてたと思うわ」  「認めるのはちょっと悔しいけど、今でも私はあいつのこと友達みたいに思ってる。でも、あいつの中で私はもう仕えるべき姫、になってしまったのよね」  エステリオが変わったのは、城に上がって来てからだったように思う。  きっと、ほんの些細な変化だったのだろう。彼も無意識だったのかもしれないし、私だってここがこう変わった、なんて明確に言うことは出来ない。  ただ、私たちが友達で居た頃にはあった、彼から私への甘えのようなものが、その頃からきっぱりと無くなってしまったことだけは確かだ。  何が彼を変えたのかは解らないし、何にせよ結果的には適切な変化だったと思う。懐かしくはあるけれど、戻りたいと思うほど強烈な寂しさは無いし、当時の私も少しの違和感を感じていた程度だった。  「……なんて言うか、同じ感じがするの」  「なにが?」  「私たちが友達同士でなくなっていってた時と」  「その時は気付かなかったけど……今はなんとなく」  少し躊躇ってから、そんな予感がするの、と言葉を終えると、ラスは茶化すように笑ってぐっとこちらに身を乗り出して来た。  「ちなみに俺には? なんか変わりそうだなーって予感は無いわけ」  押されるようにして一瞬身を引きかけたけれど、なんだかそれは悔しかったので私もテーブルに肘をついて、少し体を前に倒す。  「なんかって何よ」  「関係の変化的なさ」  「例えばどんな風に?」  「前みたいに頻繁に会えなくて寂しいとか、毒性学と私どっちが大事なのーみたいな?」  「……ふふっ」  思わず笑うと、ラスが拗ねたような顔をするから余計におかしくなってしまった。  「なんだよー、リオの時はそうだったじゃん」  「エステリオとあんたは違うわ」  「どこらへんが」  「あんたは私のじゃないもの」  「リオはつまり、姫さんの従者、ってこと?」  「そうよ」  「じゃ俺は」  「ともだち」  そう言うと、ラスは少し意外そうな顔をして、それから申し訳無さそうに笑うとすっと身を引いた。  「そう言えば、前あんたにそう言われた時、俺は遠慮しちゃったんだっけね」  言われてようやく私も気付く。そう言えば、そうだった。嬉しそうな顔をして、だけど彼は私を『友人』とは認めなかったのだ。  きっと、このあと別れを告げる予定の世界に、未練を残すことを恐れたのだろう。  「……じゃあ今は?」  少し考えてから結局それだけを尋ねると、ラスはちょっと照れながらも笑顔を見せた。  「ともだち?」  「失礼な奴ね、語尾を上げる必要は無いでしょ」  「だって、なんかさ」  軽い調子で続く会話。これで良い。『あんなこともあった』と、思い出話のひとつにしてしまって良いのだ。  彼は今、アンブローズの者として、そしてエステリオの兄弟として、役を得て私の目の前に居るのだから。  「あー、でもお友達かぁ。やっぱリオが羨ましいかもなー」  「なによ、最初会った時私なんてタイプじゃないだとか言ってたくせに」  「あれはさ……なんて言うか、まあ、姫さんはちょっと年下すぎるかなと正直思っ――うわ!」  「相変わらず口が減らないわね」  「あんたも足が出るの早いよな。椅子蹴るって、つま先痛くなんねーの?」  倒しかけたインク壷に慌てた様子で手を添えながら文句を言ってくるラスに、私は黙って笑ってみせた。  「ていうか、そう言う、その姫さんがどうこうじゃなくってさ。俺も誰かのものになってみたいなーって、そう言う話」  「私じゃなくって?」  「いや、姫さんはほら、リオに殺されるのヤだし……」  本気なのか冗談なのか、そんな物騒な事を言ってこわごわと肩をすくめてみせるラスに、エステリオとの仲はそこそこ修復出来たのかしら、とふと考えた。  「まあ、あんたにその気があるなら、高望みさえしなければそれは簡単なんじゃないの?」  「え、そうなの。ちょっと待って、念のため聞くけどそれ相手ジジイとかじゃないよな?」  「どうしてそうなるのよ」  「いや、俺が関われるのってジジイか姫さんかリオくらいなんだもん……あとは時々親父」  「バカね……侍女の子達に決まってるでしょ。時々は世話してもらうんじゃないの? 城に住み込んでるんだから」  「あんま話したこと無いし……大体リオがセットで居るし……」  「情けないわね」  まあ、その情けない所が逆に好意的に見られているようだけど、とはあえて言わない事にした。  ノクシアが城に来た時の国をあげての大騒ぎとは勿論比べ物にならないけれど、最近城内の使用人達の間ではラスが話題に上がる事が非常に多い。  エステリオそっくりの容姿に、彼とはどこか正反対にすら見える頼りない性格、であるのにもかかわらず優秀な学者であると言う意外性。  今回の騒ぎは外側から落ち着いて見ていられるからよく解る。貴族の家系であることも手伝ってか、城勤めの女の子達がラスに寄せる関心はかなり大きい様だ。  ……まあ、本人は無自覚みたいだけどね。  「ていうか、女の子見てると思わずお世辞言いそうになるからちょっとな……」  「は? 何言ってるの、あんた」  「いや、職業病みたいなもんで。占い師やってた時、客寄せに随分口上の練習したんだよ」  「だから女の人見かけると、どんな風に褒めたら良い感じに乗せられるかなーって一瞬考えちゃってさ」  「……普通に話したら良いじゃない」  「俺人見知りだし」  なんだか前にも聞いたことがある様な台詞を言って、ラスはため息をついて――それから何故か、さっと青くなって硬直した。  「え? な――」  なに? と言うより早く、こつ、と聞きなれた足音が背後から近付いて、私も思わず固まった。足音は私のすぐ横まで来て止まる。  「で? お前は姫様相手に人見知りを直す練習中、と? 随分贅沢だな、ラスファード」  「え、エステリオ……」  見上げると案の定、人を小ばかにしたあの薄ら笑いを浮かべたエステリオが私の脇に立っていた。  ガタガタと慌しい音を立てて、椅子をひっくり返しかけながらラスが立ち上がる。  「いやっ、あ、あーそう言うわけじゃなくってさあ、その」  「おじい様が呼んでらしたが、お前任された仕事は終わったのか?」  「そっ、それは勿論……ちょ、ちょっと姫さんの相談に乗ってて。あ、お前が最近素っ気無くて寂しいらしい」  「ちょっと!」  「終わったならさっさとおじい様に届けに行け。弟の不始末を俺のせいにされたんじゃ困る」  「え、弟? 俺が兄貴だろ」  「弟だろ」  「いや兄……う。そ、それよりジジイに届けなきゃだよなこれ! すぐえーと、今すぐ!」  おろおろと机の上に散乱していた紙を集めてぎこちなく笑うと、ラスはそのまますすす、とさりげなく逃げるように出口の方に移動して――足元に落っこちていた図鑑につまづいて大きくつんのめった。  「大事な本を床に置くな」  「そ、それ置いたの俺じゃ――あ、いや、戻ってきたらしまいま、す」  「…………」  この兄弟は相変わらずね、と呆れて眼を細めた私にラスは少し恨みがましい視線を向けて、すぐそれを取り繕うようににっこりと愛想よく笑った――うん、多分本人はそのつもりだったんだと思うわ。  「じゃ、い、今すぐ行って来ますんで……じゃっ!」  言い捨てて逃げる様に去って行ったラスをエステリオはしばらく目で追って、それから咎めるような眼をして私を見下ろした。  腹が立つ、よりも『いつも通り』になんだか安心してしまって、私は自分で少しぎょっとしてしまう。  「姫様、あまりあいつと関わりすぎてはいけませんよ」  「良いじゃない、友達だもの」  「いけません。特に今は、城に上がったばかりで色々と周囲の目も厳しいのですから」  「不便ね、相談のひとつも気楽に出来ないなんて」  「相談?」  小さく首を傾げてから、エステリオがにやりと意地悪く笑ったので、次に言われることが容易に想像出来た。  「ああ、俺が素っ気無くて寂しい、って相談ですか」  「そうよ?」  「…………」  「…………」  「…………」  「……、ちょ、ちょっと。なんか言いなさいよ」  想像出来たから、わざと素直に返してやったのだけれど、あんまりにもエステリオが反応を返さないので思わずうろたえてしまった。  するとエステリオはなんだか複雑な表情でふうっと長く息を吐いて、眉を寄せた。  「弟に何か吹き込まれましたね」  「そう言えば、さっきも言ってたみたいだけどあんたたちって結局どっちが兄で弟なのよ?」  「姫様、話を……」  「あら、なんだかいい気味ね。いつもあんた私の話そらしてたもの」  「…………」  いいから答えなさいよ、と迫ると、エステリオは観念した様子で、弟ですよ、と呟いた。  「少なくとも、俺の中では」  「あんたの中では?」  「双子なんですよ、どっちが上か下かなんて大した問題じゃないでしょう……」  それからエステリオは話を切り替えるように、姫様、と私を呼んだ。  「もう出ましょう。この部屋に用が無いのでしたら、開けておくべきではありません」  「それもそうね。沢山喋ってなんだか喉が渇いちゃった。出たら紅茶でも淹れてもらおうかしら」  「わかりました。では手配して――」  「あんたがやるの」  椅子を立って睨み上げ、ですが、と言い募ろうとしたエステリオを遮る。  「私があんたが良いって言うんだからあんたがやるのよ! それとも私のお願いが聞けないのかしら? あんたの主は誰よ、エステリオ」  「……姫様です」  「姫は二人居るわよ」  「……わかりましたよ。ネージュ様です」  言いながら深くため息をついて、エステリオはこちらに背を向ける。  「姫様は時々横暴です」  「何言ってんの。あんたなんか、従者のくせに常に生意気じゃない」  私も文句を言いながらエステリオの背を追って書庫を後にする。  私たちが雨の日に絵を描いて遊ばなくなったのは、遊びつかれても並んで眠ってしまうことがなくなったのは、気軽に触れ合うことがなくなったのは、私が彼を『リオ』と呼ばなくなったのは、そして、  彼が私を『姫様』と呼ぶようになったのは、いつからだっただろうと考えながら。  突然制御が効かなくなった体が椅子から滑り落ちる。  床に叩きつけられた痛みや、毒が回って朦朧として行く意識の感覚、命を削られていく恐怖感は、年を重ねるごとに徐々に忘れて行った。  けれどあの時俺を見下ろしていた黄金色の瞳と、何度も名前を呼んだあの声だけは、今も忘れる事が出来ずにいる。  初めて兄が俺の名を呼んだ瞬間、今まで兄は一度だって俺を見たことなんか無かったのだと気が付いた。  そして多分、それは俺も同じことで。俺たちはやっぱり双子なんだってそんな事を思ったら、無性に寂しくなって。  そんな風に呼んだのは、後にも先にもこれきりだ。  自分でも聞こえないような小さい声だったから、多分届きやしなかっただろう。  けれどその時からずっと、いつか彼と普通の兄弟になりたいと望んでいた気がする。  「……おじい様、いらっしゃいますか」  「ああ、リオか」  昼間であっても夜と変わらず薄暗い書庫の中、蝋燭の灯りを頼りに探し物をしていたらしい祖父が、こちらに燭台を向けて微笑んだ。  「一瞬ラスの方かと思ったが、お前たちは本当に似ているようで似ていないな」  ……そうだろうか。  浮かんだ反論の言葉はそのままにして、持っていた書類の束を差し出した。  「手続きは全て完了致しましたので、そのご報告に上がりました。  父にはもう同じものを渡してあります」  「おお、ご苦労な事だ。……しかしリオ」  受け取った分厚い書類をぱらぱらとめくりながら、祖父は訝しがる様な目線をこちらに向けた。  「そろそろ教えてはくれないか、お前がここまでラスにこだわる理由を」  「理由、ですか……」  「兄弟とは言え、お前は一度ラスに殺されかけた。そもそもお前たちの間に『兄弟』としての絆は存在し得ない。他人同然――そうではないのか?」  「……ええ。ラスファードを兄と思ったことは、一度もありません」  「だと言うのに、お前はこの三年間ずっとラスを許すようにとわしに、そしてお前の父に嘆願し続けた」  「ええ、その通りです」  「陛下への報告から部屋の手配まで、わしらはお前に何の手助けもしなかったが……お前は全てをたった一人でこなしてしまった。並大抵の事では無かったはずだな」  「ええまあ、大分苦労はしました」  「……リオ、お前は何を考えている?」  かつ、かつ、とゆっくりとした足音が近付いて、すぐ目の前で止まる。  昔は見上げるばかりだった祖父を見下ろすのはなんとなく気が引けて、蝋燭の炎に眼を落とした。  「何を……おばあ様にも、父にも尋ねられましたが……」  「それでも兄弟だから、では理由にはなりませんか」  そう答えると、祖父は黄金色の瞳を寂しそうに細め、そうか、と呟いた。  「お前が何を考えているのか……今ではもうすっかり解らなくなってしまったな」  「…………」  「しかし姫の従者としては、必要な素質なのだろう。  ……これは、確かに受け取った。後できちんと目を通そう」  「はい、よろしくお願いします」  一礼して地下を後にする。これで必要な人への報告は全て済んだ。面倒な手続きも殆ど残っていない――そう思うと気分も軽くなりそうなものだったが、どうしてか喜ぶ気持ちになれなかった。  何を考えているのか、と一様に問われたその言葉が妙に重く、耳の奥に残っている気がする。  最も近い身内だったはずの彼等の目に、俺は一体どう映っているのだろうか。  心を閉じろと教えられた。  姫の最も近くで仕える者を、信頼を得ている者を利用するべく近付いてくる輩は少なくないから、と。  未熟な子供のうちは特に、彼等の手口は巧妙でえげつなく、厳格だった祖母の躾より更に厳しく俺を鍛えてくれたように思う。  決して心を許さないこと。必要なのはそれだけだった。  そうしていれば裏切られる事もない。傷つく事も、臆する事も何も無い。  心を許した相手でなくとも、穏やかに談笑する事は出来る。神妙な面持ちで優しい同情の言葉を捧げる事だって出来る。  それは決して心を偽ることと同義ではないから。同僚達は信用出来る仲間で、父やおじい様、おばあ様は大切な家族だ。  けれど何にも変え難い、どうしても諦められない何かなどは、俺の中には多分無い。  そう、何もかも。過去も絆も己も命も、彼女以外なら何もかもきっと容易に捨てられる。  秤にかける余裕などはいつの間にかなくしてしまった。  それが少し、寂しい。  「あ、うわっ、わ!」  ばさばさばさ、と何かが雪崩れる様な音と情けない悲鳴に思考を中断される。  大方の予想をつけて悲鳴の主に眼を向けると、彼はばつの悪そうな笑顔を浮かべた。  「……何してるんだ」  「い、いやぁ。ちょっと本を借りようと思って。あ、勿論手続きは済ませたさ。  ただちょっと量が多すぎたみたいだな……」  屈み込んで本を拾い集めるラスに、ため息を吐きながらも手を貸した。  やたらに分厚い本が六冊に大きな図鑑が一冊。一体、これをどうやってここまで運んで来たのだろう。  「お前、これが貴重な本だって解ってるのか」  「わ、解ってるさそりゃ……。俺だって、別にわざと落とした訳じゃ……あ、何? 持ってくれんの?」  「古くなってるんだ。お前に破壊されたら困るんだよ、俺の責任になる」  「お前の責任? なんで?」  「それは――」  それが、ラスを城に入れる条件のひとつだったからだ。  一切の面倒を俺が見ること、何か起きた時の責任は全て俺が取ること。  だけど、今のこいつにそんな事を言う意味は無い。  「お前が弟だからだよ」  「……だから、弟じゃねーってこないだも」  「良いから早く歩け」  「……お前、力あるのな」  拾い上げた本と図鑑を手にさっさと歩き出すと、ラスは不満そうに呟いてから、俺が残した本二冊を持ち上げ少し遅れて俺の後に付いて来た。  「いやあ、悪いな。また手伝ってもらっちゃってさー……」  何かを取り繕うようなぎこちなさを含んだ声で、ラスは笑った。  道中侍女達に仲が良いわねなんてぞっとするような事を言われながらも部屋まで本を運んで、今はその帰りだ。だと言うのに俺たちの両手には来た時よりも沢山の本が抱えられている。  「お前、部屋を図書室にでも改造するつもりだったのか?」  「わ、悪かったよ。返すのを忘れてたんだ。すぐ傍にあるのって便利だしさ、そう言うのに慣れてたから俺、えっと……」  そこまで言うと、ラスは気まずそうにふいと視線を逸らして、ごめんなー、と気軽な風を装って呟いた。  「何が」  「いやぁ、なんつか。お前には色々迷惑かけっぱなしで、さ……いや、姫さんにもだけど」  「……、別に」  どうでもいい、と口にしかけてやめた。  迷惑、そうその通りだ。幼い頃から今に至るまでずっとずっと、彼女以外に俺を強く縛るものはお前だけだったよ、ラスファード。  あんな事が無かったら、俺はもっと自由に彼女を想えたはずなんだ。  俺にお前の殺意がわからなかったように、きっとお前にもわからないんだろう。俺が感じた恐怖も憎悪も、あの強烈な罪悪感も。  知ってたよ。お前が不幸な子供なら、俺は幸せな方に選ばれたんだって、物心ついた時からそんなことは解っていた。  だからあの毒はきっと、見ないふりをしていた俺への罰だったんだ。  贖わなければならない。  せめて与えられた義務は、完璧に、裏切らないように、兄が出来なかった分、俺が、俺は、俺自身としてでなく、姫のたったひとりの従者として、死ぬまでずっと、ずっと――  だって、俺は不幸な兄を見捨てた幸せな弟なんだから。  そうして生きてきて、今の俺がここに居る。  今にして思えばバカバカしい強迫観念に憑かれていたものだ。多分幸も不幸も関係なくて、俺たちはケンカの仕方を知らなかっただけなのに。  なあ、あんなのは子供同士の些細なケンカだったんだよ。だからごめんは一度で良いんだ。  あんな事はもうどうでもいいんだよ。本当に、どうでもいい。  そんな風に思ってはいけないのだろうか。  「迷惑、と思うなら……そうだな、机で眠る癖をとりあえずやめろ」  「はっ!?」  「あれをされると色々と面倒で、迷惑だ。ひとつひとつ改善していくのが良いんじゃないのか?」  「ま、まあ正論だけど……」  「それで、机で眠る癖は」  「や、やめます」  「守れよ」  素っ気無く返すと、ラスは手に持った本を抱えなおしながら少し腑に落ちないと言った顔で俺を見つめた。  「こうだから俺、お前に弟とか言われてる?」  「そうかもな」  「兄らしくない、って事だよな、つまり」  「少なくともお前を兄と慕う気は今の所起きない」  「……じゃあ俺、ひょっとして弟なのか?」  「さあ?」  「俺としては、なんとなくだけど俺が兄貴って気がしてたんだけど……お前もそう?」  自分のが上だと思ってた? と重ねて尋ねられて、俺は少し返答に迷う。どうだろうな、と結局曖昧な返事を返したが、ラスは然程気にした様子もなく、そうかぁ、とやたら神妙な顔で頷いて見せた。  「じゃあやっぱり俺が上、の方が良いな……」  「なら努力してみると良い」  「うーん。でも、お前すっごいしっかりしてるんだもんなぁ。皆に信頼されてるしさ、ちょっと生真面目すぎな感じあるけど……。  お前の方が上、のがしっくり来る、かなぁ」  「…………」  「どうかしたか?」  「別に。お前がそう思うなら、そうなんじゃないのか」  「……やっぱり? 兄さんとか呼んだ方が良い?」  「好きにすれば良いだろ」  ああそうか、お前の目にも俺は優秀な姫の従者に見えてるのか。  どうして誰も気付かないのだろう。俺は優秀なんかじゃない、真面目でもない、そのふりが上手いだけなのに。  俺はお前と同じだよ。甘ったれで臆病で、嘘つきで――きっとお前なんかよりずっとどうしようもない俺を、だからこそ隠すのが上手いんだ。  彼女だけを想って、彼女だけに心を砕いて、彼女だけのためにこれまでずっと生きて来た。  隣に居続ける事。それだけ叶えば良いはずだったのに、それだけじゃ足りなかったから『兄』であるお前を呼んだんだ。  誠実なふりをして生涯嘘を吐き続ける俺を、彼女以外誰も愛せず、誰にも愛されず死んで行くのだろう俺を、哀れんで欲しいだとか、手を差し伸べて欲しいだとか、そんなことは望んでいない。  ただそんな不毛な生き方しか出来ない俺を、理解出来る人間がもし居るとしたら、それは兄以外には有り得ない気がしたから。  お前を呼んだ理由はそれだけ。  今までのまま、ひとり孤独に耐えて生きることもきっと出来ただろうけれど、なんだかそれは哀しいような気がして。  まあ、『お兄ちゃん』が欲しくてお前をここに呼んだんだ、なんて言えたとしたって多分信じてはもらえないだろうと簡単に予想はつくんだが。  「……リオ、ひょっとしてなんだけど怒ってんの?」  「は?」  顔を覗きこまれている事に気付いて反射的に睨みつけると、ラスは萎縮したようにぎくりと一瞬体を強張らせた。  「い、いやー俺の勘違い、か、な。ご、ごめんごめん……」  「お前はすぐに謝るな。何をそんなにビクついてるんだ、鬱陶しい」  「うっと……いや、別に怖い訳じゃなくってさ。なんての、これ以上嫌われたくないなぁー……っていうか」  「女々しい」  「わ、るかったな……っ」  「……やっぱり、お前が弟だよ」  本の山を片手で抱えなおして、足を速める。人が多くなって来た。すれ違う使用人達からの好奇の視線を感じながら、俺はまた思ってもいない事を口にする。  寂しいのは嫌だ。なんて、そんな子供っぽい本音を、これまでの自分が決して許さない。  だからお前が気付かない限り、俺はこれからもずっと幸せな子供のままだろう。  ああ、きっと大丈夫だ。例えラスが俺を兄と呼んでも、彼女が誰かを愛しても、やっぱり俺が執着出来るのは姫の従者である事だけなのだから。  「お兄ちゃん、兄さん、兄貴……ど、どれがいい?」  「どれでも」  「……興味無さそうだなぁ、お前」  「お前、弟が良いの?」  「え? いや、兄が良い」  「そうか」  「な、なんだよ……。わかった、この話は保留な。そうだ、姫さんとかにも聞いてみよーぜ」  「聞くならお前が聞けよ」  ええ、と嫌そうに細められた瞳は、脳裏に焼きついているあの黄金色のまま変わらない。  身勝手なんて重々承知だが、それでも出来たら気付いて欲しい。  幼い頃に幸せと名付けた何かにずっと囚われている、欠点だらけでどうしようもないこの俺に。  気付いて、許して欲しいんだよ。  音にはせずに呟いた呼びかけは、当然ながらラスの耳には届かず、俺の心にも違和感を残しただけだった。 【ネージュ】【エステリオ】【ラス】【ノクシア】【王様】【???】【侍女】【侍女2】【学者先生】【店の主人】 「じゃあ、お昼の後にでも会いに行くことにする」  「わかりました。では午後の予定をお伝えしておきます」  何時から何時まではこれこれのお勉強で、この時間帯は空いていて……なんて言うノクシアの予定をエステリオから聞きだしながら、ふと疑問が生じる。  こいつ、どうしてこんなにノクシアの予定に詳しいのよ。あいつの従者でもないくせに……。  「ですから、お会いになりたいのでしたら……?  ネージュ様、何を考えていらっしゃるんですか?」  「え? べ、別に、なんにも無いわよ?」  思わず顔が怖くなっていた事を自覚して、私は慌ててにっこりと笑ってみせる。  エステリオはほんの少し胡散臭そうな表情をしたけれど、それ以上特に追及はして来なかった。  いけないいけない、エステリオにだって悟られないようにしなくっちゃ。どっちかと言うと、(悔しいけど)あいつはノクシア側の人間なのだし。  それと今日は、この間みたいな情けないことにならないようにしなくちゃね。  今日は午後まで時間もたっぷりあることだし、退屈な歴史の授業中にでもしっかり計画を練ることにしましょう。  「…………」  私は少し考えてから、すっと顔を上げた。  「じゃあ、今日はノクシアに会いに行ってあげてもいいわ」  「わかりました。では午後の予定をお伝えしておきます」  すらすらとノクシアの予定をそらで読み上げてみせるエステリオの声を聞き流しながら、私は先日のラスとの会話を思い返していた。  仲良くしろ、なんてラスは言ったけど、そんな気持ちは毛頭無い。  それより寧ろ、どうにかして追い出してやらなくちゃと言う気持ちのほうが強まった様な気さえする。  ……同じ顔した二人に、同じ事諭されたからかしら。  ともかく、ノクシアは早い所追い出さなければならないのだ。そのためには避けているだけじゃだめ。エステリオは頼りにならなそうだし、私がなんとかしなくっちゃ。  幸いこの間のお茶の時間を一緒に過ごした時に、あの女の趣向やなんかもわかった事だしね。  「ですから、お会いになりたいのでしたら午後……?  ネージュ様、何を考えていらっしゃるんですか?」  「え? べ、別になんにも無いわよ?」  エステリオはこう言うことに限っては妙に鋭い。悟られぬようにと慌てて繕った私の笑顔に、エステリオはほんの少し胡散臭そうな表情をしたけれど、それ以上特に追求はして来なかった。  よかった、とりあえずはバレていないみたい。  確か会いたいなら午後に、とかさっき言ったわよね? それなら今日は午後まで時間もたっぷりあることだし、退屈な歴史の授業中にでもしっかり計画を練ることにしましょう。  さあどうやって料理してやろうかしら!  「ふふ、うふふ……」  「…………」  そしてその日の夕方。私は沢山の切花を抱えた侍女ひとりを連れ、ノクシアの部屋の扉をノックした。  「失礼させて頂くわ!」  言いながら、ずばーんと扉を開け放つ。  室内にエステリオの姿を認めて、私は心の中で舌打ちをする。  やっぱり。どこにも居ないと思ったらここに居たのね、まったく。  後ろに控えた侍女が腕に抱えている花を見て、ノクシアはまあ、と声を上げ、エステリオは訝しげに眉を少し上げた。  「そこのテーブル少しお借りしても良いかしら?」  「はい、勿論……どうなさったんですか、ネージュ様。そんなに沢山のお花……」  ノクシアの言葉とエステリオの何か言いたげな視線を適当に流しつつ、私は侍女に命じて花をテーブルの上に置かせ、下がらせる。  「エステリオ、あんたも下がって良いわよ」  「はい? いえ、俺は……」  「下がりなさいって言ってるの! なによ、女同士の会話もさせてくれないの?  相変わらず無粋な男ね、たまには二人きりにしてちょうだい!」  「二人きり……? ネージュ様、何を企んで――」  「人聞きの悪いこと言うのはよしなさいよ。  もう姉妹なのよ? 全然おかしいことじゃないわ。ね、そうよね」  エステリオの反応は大体予想通りだ。密かに練習して来た通りの台詞を暗唱して、私は内心ドキドキしながらノクシアに笑顔を向ける。  すると思った通り、ノクシアは人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。  「ええ、勿論。ネージュ様が宜しいのでしたら……」  「ほら見なさい!」  計画通りね!  勝ち誇ってエステリオに向き直り、扉を指差す。  「……わかりました」  渋い顔をしながらも、エステリオはそう言って私たちに背を向ける。  私だけでなくノクシアにまで言われてしまっては、反論しようにも出来ないのだろう。  あら、何かしら……なんだか凄く久しぶりに、エステリオに勝った気がするわ。  「では、何かありましたらすぐに呼んで下さいね」  思わず頬を緩ませる私――の背後のノクシアにそう言い残して、エステリオは扉の向こうに姿を消した。  「なによ、失礼な奴ね。まるで私が何かしに来たみたいじゃない」  「エステリオさんはきっとネージュ様を心配していらっしゃるんですわ」  「そうかしら」  ちょっと肩をすくめて、それから私は頭の中でここに来るまでに組み上げた計画を再確認しつつノクシアを見上げる。  大丈夫、上手くやれるはずだわ。エステリオも居ないし――まあ、別に何がなんでもエステリオを追い出さなきゃならなかった訳じゃないけどね。  ただあいつの性格を考えると、居ない方が私の計画通りに事が進むだろうと思ったから追い出しただけの話だ。  「それでネージュ様、このお花は一体……?」  「ああっ、そうよ、そうなの。ノクシア、私あなたに手伝ってもらえないかと思って」  言いながら、私はテーブルの上に置かれた色とりどりの切花や葉にちらりと視線をやる。  「私、とある人に贈り物をしようと思うのよ。  あ、贈り物なんて普段は人に任せちゃうんだけれどね、とても大切な人だから私が自分で作ったものをあげたくって」  「それでね、花束なんか良いかしらって思って揃えさせたんだけど……。  でもいざ作ろうと思うと、どんなものにしたら良いか決めかねちゃって」  ここで上目遣いよ!  ちょっと眉を寄せて、困った様な表情を作ってみせる。  「だからちょっと相談に乗って貰えないかしら。  ふふふ、あんたが来てくれて嬉しいわ。これまで私、こんなこと気軽に相談出来るお友達って居なかったもの」  そしてにこりと純粋に嬉しがっている様に見える表情をしてみせる。  これが今回の計画だ。用意するのに時間がかかったお陰で、ちょっと遅い時間になっちゃったけどね。  「花束……」  ぽつりと呟きながら、ノクシアはテーブルの上の花々に向き直った。  勿論、私はノクシアの助けなんか借りなくたって自分で花束を作るくらい簡単に出来る。  花の知識だってちゃんと持っているし、幼い頃からこう言う類のことはよくよく教え込まれているからセンスにだって自信がある。  もう14年もお姫様やってるんだから、こんな事は自力で出来て当たり前。それに、誰かに花を贈る予定だって無い。  わざわざそんな事を言ったのは――ううん、それだけじゃない。花を揃えたのも、エステリオを追い出したのもこのため……ノクシアに花束を作らせるためだ。  花束、と言うのは言葉から連想するものよりもずっと難しいもので、センスと技量を要求される非常に厄介な代物なのだ。  勿論花をただ束ねただけじゃお話にならない。  それだけで人を惹き付ける魅力があるようなものでなければ。  その上見栄えだけでなく、花が持つひとつひとつの意味にも気をつけなければならないから、素人がただ見てくれだけ整えたって『おや、ただ花を束ねただけですか』なんて鼻で笑われるだけ。  そう、花束の製作なんて本来は職人のやる仕事。だけどお姫様にとってはたしなみとして出来て当たり前のこと。  「ああそうだわ、折角こんなに花があるんですもの。あなたもひとつ作ったらどうかしら?  うん、それが良いわ。きっと素敵なものが出来るはずだし、そうしたらどこかに飾ってもらいましょう」  これこそが私の『計画』。そう、上手く自尊心をくすぐって誘導して、ノクシアに花束を作らせるのだ。  見てくれは勿論花の選び方だってめちゃめちゃのぐちゃぐちゃなのを作らせて、応接間だとか沢山の人の目に付く所に飾ってやるのよ!  そうして恥をかくが良いわ。上流貴族ってやつは嫌味も上流なんですからね、城に来て姫になったからには一度味わっておかないと損ってものよ。  それで劣等感に苛まれれば良いんだわ……そう、あの時。お父さまがまだいたいけな子供だった私が作った稚拙な花束を、よりにもよって王座の横に飾ったあの時、私が感じたみたいにね……!!  まっったく、思い出すだけでイライラしちゃう!  思わず歯軋りしそうになった私は、ふとそこでノクシアが妙に静かな事に気付く。  やだ、まさか私の意図に勘付いた、なんて……そんな訳ないわよね?  「の、ノクシア?」  「ネージュ様、私……私っ――」  おそるおそる声をかけた私に、ノクシアは――  「私っ、すごくすごく嬉しいです!!!」  「えっ」  溢れんばかりの笑顔を見せた。  後ろ暗い所があるだけに、私は少したじたじとしてしまう。一体何をそんなに喜んでるのかしら。  訝しがる私の前で、ノクシアはそっと、慈しむようなやさしい手つきで花に触れる。  「ああ、お城に来たらもうこんなことは出来なくなってしまうのだとばかり……その上こんなに沢山……」  「……ノクシア?」  ひとりうっとりと呟くノクシアに、もう一度声をかける。  すると嬉しそうな表情はそのままに、ノクシアは私の手をぱっと握った。  「ありがとうございますネージュ様、フルーリアの娘として、微力ながらお力添えさせて頂きますわ!」  「ふ、ふるーりあ?」  「うちの店の名前です。もう閉めてしまいましたけれど、花屋をやっていて……あらネージュ様、もしかしてご存知……」  「し、知ってたわよそれくらい! あ、ああ当たり前じゃない。だから相談しに来たんだからっ!!  じゃ、じゃあ良かったわね花が沢山あって。あんたが作る分にも足りるでしょ?」  「まあ、本当によろしいんですか!?」  慌ててそう言ってしまったけれど、実はすっかり忘れていた事実だった。  そう、そう言えばこいつ、花屋の娘だったわね……!!  って言うことは、そこそこ花の知識もある、ってことなのかしら?  ……ううん、寧ろきっとその方が好都合よ。生半可な知識がある方が批評のし甲斐があるってものだわ!  「最後の花束を作り上げてからそれほど空いていないはずなのに、随分と懐かしい気持ちです」  「このままいきなりネージュ様の方に取り掛かるのも不安がありますので、まず試しにひとつ作ってみても良いでしょうか?」  「良いわよ、べつに。見ててあげるわ」  「まあ、ありがとうございます!」  さあやってみなさいよ!  めらめらと闘志に燃える私がじっと見つめる中、ノクシアは意気揚々と花に手を伸ばすのだった。  「うう……」  花束を片手に、とぼとぼと廊下を歩く。   ノクシアの部屋へ行ったその帰り道。私の気分は沈んでいた。  先日、恥をかかせてやろうと計画した花束作戦が、見事に失敗に終わったのだ。  まあ、途中から大体の予想くらいはついていたけどね……。  あの後、劣等感に苛まれるどころか、ノクシアはそれはそれは素晴らしい花束を作り上げ、エステリオに言われてなのか様子を見に来た使用人一同を驚嘆させた。  今はその見事な花束は城の応接間に飾られているらしい。私は見に行っていないけど。  おそらくこれで、ノクシアの評価は益々高まったことだろう――ああっもうなんてことなの! 売名行為に手を貸しちゃうなんて!!  怒りのあまり手を握り締めそうになって、慌てて力を抜く。  私の右手には、先程ご丁寧にもノクシアが協力してくれて(まあ私が頼んだんだけど)作り上げた花束があった。  この間は、まずノクシアが『試しに』とまず作り上げた花束があまりに好評だったお陰で、私の方まで作る時間が取れなかった。   そのまま忘れてくれれば良かったものを、あの女は執念深く覚えていて、私を呼びつけもう一度私のために花束を作る手伝いをしてくれたのだ。本当に本当に余計なお世話。  「本当にもう。予想外もいい所だわ……」  華やかなそれに一瞬見とれかけて、慌てて目を逸らす。  悔しいけれど流石に本職と言ったところだろうか、私ひとりで作る時よりもなんだか少し、少しだけ……大人っぽくて、素敵なものが出来た様な気が、する。  あとで侍女のひとりから聞いた所によると、フルーリアとは城下でも有名な花屋で、ノクシアはそこで愛想を振りまくただの看板娘としてでなく、ひとりの職人として花束製作の依頼を受けていたらしい。  道理で、わざと混ぜておいた嫌な意味のある花に全然引っかからないと思ったわ。  「それにしたって、これどうしようかしら……」  いくらなんでもこんな綺麗なものを捨てる訳にもいかないし。  「ネージュ様?」  「わっ、え、エステリオ……何よ、びっくりしたわね。いきなり声かけないでよ」  「それは申し訳ありませんでした。  それにしてもようやくお帰りですか。随分とノクシア様と仲良く……ん、なんですかそれ?」  片手で抱えていた花束を指され、私は思わずさっとそれを後ろに隠す。  なんと説明したら良いものか解らなかったからだけれど、その行動はエステリオに余計不信感を持たせただけだったらしい。  「どうして隠すんです」  「べ、別に……」  「どなたかから頂いたんですか?  でしたら、渡してくださればお部屋に活けておきますけど」  「い、いいわよそんなことしなくって!」  自室になんて飾られてしまったら、嘘をついたのがばれてしまう。  慌てて止めると、エステリオはなんとなく不機嫌そうにすっと眼を細めた。  「……どうなさったんですか?」  「こ、これは……その……」  焦る私の脳内に、ぱっと突然ひとつの考えが閃いた。  私は顔を上げ、それまで隠していた花束をエステリオの胸に突きつける。  「あ、あんたにあげようと思ったのよ。はい!!」  「は? 俺にですか?」  「う、うう嬉しいでしょ、ほら早く受け取りなさいよ!!」  「はあ……でもこれ、あの、薔薇の花束ですよね……」  「そうよ、悪い!?」  「いえ、意味解ってやってます?」  眉をひそめながらもエステリオは花束を受け取って、その紅い花弁をちょいちょいと指先で弄る。  彼の言葉の意味を遅れて理解した私は、思わず顔を赤らめた。  「そっ、そそそんな訳ないでしょ馬鹿ね、自惚れないでよエステリオの馬鹿!!  ちょ、ちょっと薔薇が余ってたのよ、だから練習もかねて……こ、こんなの人にはあげられないし!」  「それに私の部屋に飾るにはなんとなく雰囲気に合わない気がするしっ、だ、だからあんたにあげるのよ!」  「はあ、そうですか……。俺の部屋にはもっと合わないと思いますが……」  「文句あるの!? つべこべ言わずにありがとうって言ってもらえば良いじゃない、それともいらないの!?」  なら返しなさい、と返してもらってもどうする事もできないけれど勢いのままそう言うと、エステリオはふっと意地悪く笑った。  「いえ、まあ、謹んで受け取らせて頂きますけど。  でもネージュ様、花を人に贈る時は気をつけた方が良いですよ。特にこんなものは俺でなければ誤解されるでしょうから」  「わ、解ってるわよ。だからあんたに渡したんじゃない」  「それなら結構ですが」  「何よ偉そうに……あんただって私に花を受け取らせたことあるんだからね」  「花? 何の事です、記憶にありませんけど」  「あ、あったでしょうが! 花、ほらあの藍色の……あれ?  ああそっか、あれは花じゃなくてブローチだったわね……」  「……?」  「……ああ、あれですか」  「あんた、ちょっと本気で忘れてたわね……」  「思い出すのに時間がかかっただけです」  しれっと言ってのけるエステリオを睨みつつ、私は彼が昔プレゼントしてくれたものについて思い出そうとする。  確かかなり小さい頃だった。  城下の市で売っている安物のブローチだったけれど、当時市に憧れていた私はそれを貰って大喜びで宝石箱の中にしまいこんだのだ。  「確かあれにも花がついてたじゃない。  どうせ大して考えずに買ったんでしょうけど。何の花だったかしら、確かえーと、星みたいな形の……」  「……まだ持っていらっしゃるんですか?」  「あるはずよ、しまってある宝石箱は部屋にあるもの」  「…………」  そう答えると、エステリオは少しの間薔薇の花をじっと見つめて黙り込んで、それから何故だかため息をついた。  「俺はとりあえず一旦部屋に戻ります。これを持ったまま仕事は出来ませんからね」  言うなりこちらに背を向け、歩き去って行こうとするエステリオを、突然の話の切り替え方に不信感を覚えながらも私は慌てて追いかける。  「ちょっと、それ人に見せびらかしたりしないでよ?」  「する訳無いでしょう……。寧ろ、しばらくは人を部屋に入れられそうにありませんよ」  「どう言う意味よ」  「そのままの意味ですよ」  そしてそのままだらだらと話が続き、結局私はエステリオの部屋まで一緒について行ってしまった。  「ねぇノクシア、あんた好きな人とかは居ないの?」  「好きな人、ですか?」  口元まで上げていたティーカップを置いて、ノクシアが首を傾げる。  急にそんな事を聞いたのは、どうにか弱みを握ってこの目障りな女を城から追い出してやろうと言う思いからだった。  恋人のひとりでも居たのなら、そいつを上手く使うことが出来るかもしれないし。  けれど期待に反してノクシアは少し恥ずかしそうな顔をして首を振った。  「憧れてはいたんですが、恋愛をしている暇はなくって……店のほうで手一杯だったんです」  「そう……残念ね」  本当に残念。お美しいノクシア様に、片手で数えきれないような恋愛遍歴でもあれば私が上手に噂を流してさしあげたのに。  ため息をついた私に向かって、ノクシアはちょこっと可愛らしく小首を傾げてみせる。  「ネージュ様にはいらっしゃるんですか?」  「私? そうね、私は……」  「まだいらっしゃらないんですよね」  「そうだけど……何よ、突然入って来ないでよね」  「それは失礼いたしました」  傍らに控えてる、ってだけでもノクシアから色々と聞き出すのには邪魔なのに、口まで挟んで来ないでほしいものだわ。  ノクシアと二人きりでも私の計画通りに行かないのに、エステリオが入ってくるともっと思わぬ方向に行ってしまうから困るのよ。  「言い寄ってくる奴だったらたっくさん居るわよ。でも、どれもこれもぱっとしないのばかりなの」  「ネージュ様はお美しいですものね」  嫌味かしら、と眉を寄せた私に、ノクシアは不思議そうな顔をして、それからエステリオを見上げた。  「だけど、いつかはネージュ様もご結婚なさるんですよね」  「ええ、おそらくは。ただネージュ様の理想は高すぎますからね、見合った殿方が見つかるかどうか、俺は不安ですが」  「何よ、私は王女なのよ? 結婚するなら相応の相手を選ばなきゃ。  幸い、この平和な国なら政略結婚なんかに巻き込まれる事もなさそうだしね」  「相応の相手、と言いますと……」  「美しさ、器量、性格、それから身分ね」  「身分……」  ぽつりとノクシアが呟く。  ふふん、気付いたかしら。私、今ちょっとした嫌味を言ったのよ。あんたじゃお父様にふさわしくないって。  けれどどうしてノクシアはエステリオを見上げているのだろう。  まさかこの女、エステリオに気があるんじゃないでしょうね。ダメよ、そいつは私の従者なんだから。  「エステリオさんには、好きな方はいらっしゃるんですか?」  「そうですね――」  「居ないわよ! そうでしょエステリオ」  思わず慌てて答えると、エステリオはこちらにやや非難がましい目を向けてきた。  「それは質問ですか?」  「確認よ」  「でしたら、残念ですがはずれですね」  エステリオの返事に、ノクシアはまあ、と妙に嬉しそうに微笑み、私は驚きのあまり顔色を失った。  「な、あ、あんた……好きな人が居るの……?」  日がな一日城でてきぱきと手際よく業務をこなしているエステリオには、そんな暇は無いと思っていたのに。  「ネージュ様、随分驚いた顔をなさいますね。  俺は別に、誰にも好意を抱けない様な寂しい人間ではないのですが」  「だ、誰よっ」  「誰? ええと、それなりに多いですかね。まず親族全般のことは好きですし、同僚についても――」  「…………」  なによ、そう言う意味の『好き』だったのね。驚いて損しちゃった。  ため息をついて肩を落とした私に、エステリオがにやりと嫌な笑い方をした。  「安心なさいましたか」  「なっ、なんで安心なんか……」  私の言葉に、くすくすと可憐な笑い声が被さった。見ればノクシアが口元に手を当てて笑っている。  なんて失礼な奴なのかしら! 思わず眉を吊り上げると、慌てた様子も無くノクシアは微笑んだ。  「エステリオさんはネージュ様に対して嘘はつかないと聞きましたけど……」  「なんだか、ネージュ様の方が正直者のようですね」  「…………」  ……今私は馬鹿にされたのかしら? それともエステリオが馬鹿にされたのかしら。  なんとはなしにエステリオを見上げると、私の視線に気付いたエステリオもこちらを向いて、それから何故かついと視線を横に逃がしたのだった。  雲ひとつない青空。頭上に輝く太陽はいつも通り優しくて、時折吹き抜ける風が木々をさらさらと揺らし、庭の中央に設置されている噴水からは涼しげな水音。  城の中庭は、とても居心地の良い素敵な場所のうちのひとつ――だったはずなのに。  「ネージュ様、何をそんなに怒っていらっしゃるんですか」  二人分の食器やお菓子が乗せられた白のガーデンテーブルをじっと睨んでいると、頭上から相変わらず感情の読めないエステリオの声が降って来た。  顔を上げると、静かにこちらを見つめる緑の瞳と目が合う。  「不機嫌にもなるわ。折角来てやったって言うのに、まだいないじゃないのよ」  正面の誰も座っていない白い椅子を指して文句を言う。そう、今日はこれからノクシアとここでお茶の時間を過ごす予定なのだ。  気が進まないなんてもんじゃないけれど、お父様の言いつけには従った方が良いと思うし、それに――  昨日のラスとのやり取りを思い出してため息をつく。  「そりゃあ、まだ予定の時間より前ですから」  「はあ!? なによそれ、じゃあもっとゆっくり出来たんじゃない!  どうしてあんなに急がせたりしたのよ、これじゃあまるで私が楽しみにしていたみたいだわ」  「こう言う時は、時間には少し余裕を持って準備をするのが礼儀と言うものですよ」  「それじゃ、ノクシアは礼儀がなっていないのね」  「ノクシア様は、まだ城での生活に不慣れでいらっしゃいますからね」  「……ふうん、そお。あんたって本当ノクシアの事好きよね」  「ノクシア様は誰にでも好かれるお人柄ですよ」  「…………」  否定しなさいよ、このバカ。  私の表情がおそらく更に険しくなったところで、ぱたぱたと慌しい足音が向こうの方から聞こえて来て、やがて息を切らしたノクシアが姿を現した。  お姫様がばたばた走り回るだなんて言語道断のはずなんだけれど、エステリオが何も言わないのは矢張り『ノクシア様はまだ城の生活に不慣れでいらっしゃる』からなのか、それとも違う理由からなのか。  まあ、そんな事はどうだって良いわ。いずれにせよ、これから人生で最低の時間が始まるって事に変わりは無いんだから。  ああ本当、この義理の姉とやらが母と共に私の世界からぱっと消えてくれるなら、どんな事だってするのに。  なんてそんなことを思いながら、私はそれでも彼女に挨拶をすべく席を立つ。  「ネージュ様……! もういらしてたんですね。申し訳ありません、お誘いしておいて私の方が遅いだなんて……」  「いいえ、別に良いわよ。どうせまだここでの暮らしに慣れていないんでしょ」  さっきの言葉をわざとらしく反芻してみせると、横に立つエステリオがじろりとこちらを軽く睨んで来た。  「何よエステリオ」  「いいえ? ただ、ネージュ様はもう少し素直になった方が可愛げがあって良いなと思っていただけですけど」  「可愛げですって!? あんたにだけはそんな事言われたくないわよ、可愛げのかの字も無いくせに!!」  「だったらあんただってもう少し私の事を尊敬すべき――」  思わずいつもの調子で争い始めそうになった所で、くすくすと押し殺した様な小さな笑い声に気付いて口を止める。  相変わらずお綺麗な声ですこと! 本当むかつくったらないわ。  「……なによ」  「あっ、ごめんなさい……。お二人って本当に仲が良いんだなって思って、つい……」  「……今のやり取りのどこを聞いてそう思ったのよ」  「あら、喧嘩するほど仲が良いって言いません? それにエステリオさんってネージュ様のことお話する時は、とっても楽しそうなんですもの」  『エステリオさん』ですって、と本当はそこに反応したかったのだけれど、後に続いた言葉にそちらの方が気になって思わずエステリオを見上げる。  エステリオは無礼にも私の視線を無視して、ノクシアに向かって少し首を傾げた。  「そうでしたか?」  「やだ、無自覚だったんですか? ネージュ様のお話して下さる時、貴方少しだけ顔つきが優しくなるの」  しかも何よその親しげな口調、と本当はそこに反応したかったのだけれど、後に続いた言葉にそちらの方が気になって私はエステリオの腕を引っ張った。  エステリオは特に動揺した様子も無く、自然な動作で私の手から逃れるとようやくこちらを向いた。  「どうかなさいましたか」  「そうなの?」  「そう、とは?」  「だから! あんた、私のこと話す時楽しそうだったり顔つきが優しくなったりするの?」  「さあ。と言うかその前に、俺は普段そんなに楽しくなさそうで硬い表情をしているんでしょうか」  「してるわよ」  「それだけじゃないですよ。いつもは寡黙なくせに、ネージュ様のお話になると途端に饒舌になるんです」  「そうなの!?」  「どうなんでしょうか」  「まあ、照れちゃって」  「照れてるの!?」  「いえ、特には」  そう言ってからエステリオは少し私から眼をそらして、長い沈黙の後に小さな声で、多分、と付け加えた。  その顔は少し不機嫌そうで若干気にかかったけれど、もしかしてこれがこいつの照れている時の顔なのかもしれない。そう思うと、自然と口元が緩んでくる。  「なによエステリオ、あんたって私のこと結構好きだったの?」  「いつ嫌いだと言いました? そんな事より、そろそろお二人ともお座りになって下さい」  「またそうやって話を逸らして……」  眉を寄せながらも言葉に従うと、すぐ前に同じように座ったノクシアがお上品に口元を押さえて笑っていた。  「良かった、やっぱりネージュ様は思っていた通りの素敵な方でした」  「はあ? 何の話してるのよ」  「城に上がる前から憧れていたのですけれど、エステリオさんとお話させてもらうようになってからは一層気になっていたんです」  「だってエステリオさんがネージュ様のこととても大切に想っているのが解るんですもの。  どんなに素敵な方かしらって、私こうしてお会い出来るのを心待ちにしていたんです」  「そ、そう……。それはどうも……」  当初の予定では、この庶民女の欠点を探し出して思わず城から自発的に出て行きたくなるような意地悪をしてやるはずだったんだけれど、一応。  だけどこんなに褒められると、なんだかやりにくいわね……。  上手く返せなくて助け舟が欲しかった訳じゃないけれど、思わずエステリオに視線をやると、彼はちょっと肩をすくめてみせただけだった。  本当に私のことを傍目から見ても解る位に大切に想ってなんか居るんだろうか、ノクシアの勘違いである可能性の方が高い様な気がしてきた……。  どっちなのかしら、と考えかけてはっとする。駄目だわ、完全にノクシアのペースに乗せられてるじゃない。  しっかりしないと。今日は言わば敵情視察。色々と聞き出して、今後の戦略の糧にするんだから!  そう自分に言い聞かせながら、私はノクシアとの話に興じているふりを続けるのだった。  「なあ、あんたってあのジジイに勉強教わってるんだよな」  何かを探している様子で分厚い本を捲りながら、唐突にラスがそんな話をし始めた。机の上に広げられている本の文字は相当に細かくて、専門的な用語がびっしりと並んでいる。  話しながらそれに目を通すだなんて、器用なことをするものだと少し感心しながら、そうだけど、と私は応える。  「ジジイなんて言わないでよ、ボード先生でしょう」  「俺にとってはジジイだね。あのクソジジイ、俺がミスる度に分厚い図鑑で殴って来やがって。  流石にあんたにはしないだろうけど……」  「そりゃあ私は王女様だもの、あんたとは違うわよ」  「にしたって厳しすぎるんだよ、あのじい様は。お陰様で鍛えられたけどな」  「そうねぇ、あんた毒性学については本当に博識よね。そこは感謝すべきだわ」  「俺自身の努力のたまもの、ってとこが大きいと思うけどな……。俺ってかなりの努力家だったし」  「うそよ、とてもそうは見えないわ」  「うそじゃねーよ、しっつれいな奴だな。これでも根はかなり真面目なんだ、ジジイ達の期待にはちゃんと応えようとしてたし」  「それはもう健気にお勉強してたんだぜ、朝から晩までずーっと。まあ、好きだったってのもあるけど」  「ふうーん? まあ、あんたの半端じゃない知識量からしても、うそって訳じゃないみたいね」  「まあな。俺は勉学、リオは礼儀作法、って感じで叩き込まれたから」  「だからあんたは礼儀作法を知らない訳ね」  「別に知らなくねーよ」  「あ、じゃあエステリオは逆に毒性学の方はあまり詳しくないのね」  「いや、それはどうかな。リオは姫付きの従者だし……アンブローズの人間だったら、大抵毒性学については並以上の知識を持ってるのが普通だと思うぜ」  「ふうん、あまり良く知らないのね」  「まあな。それぞれ乳母も違ったと思うし。将来的に全く別々の道に分かれるって解ってたからな」  「部屋も遠くて、あいつと顔合わせんのはせいぜい食事の時くらいだったな――それも、リオが城に行くようになってからは大分減ったけど」  「話したり、遊んだりはしなかったのね」  「俺はしたくて、ちょくちょく抜け出して様子見に行ったりしてたんだけどな。  なんとなく声はかけられなかった。人見知りだからさ」  「双子の弟を人見知りって、あんたねぇ……」  「だってあいつ真剣な顔して頭に本乗っけて歩く練習とかしてんだぜ!?」  そう言ってラスはそれまで見ていた本を閉じると、こんなんだよ、とそれを自分の頭の上に乗せてみせ――手を離した瞬間落っことす。  「うわっ、と……」  「何してるのよ」  「だからさ、頑張ってるの邪魔出来ねーじゃん。それに、リオは俺に興味ないみたいだったしな」  「あら、そうかしら。案外エステリオもあんたみたいに人見知りしてたんじゃないの?」  「ええ、それはねーだろ。絶対あいつ、俺なんか眼中に無かったね」  「だってあんた達双子でしょう。あんたが気になってたってことは、エステリオだって気にしてたっておかしくないわ」  「エステリオは凄く顔に出にくいから、よく解らないかもしれないけど」  「ふうーん。そーかねぇ……?」  「きっとそうよ。あんた達って、似てるか正反対か、本当にどっちかだけど」  「本当? あんたから見てもちゃんと似てるとこある?」  「あるわ、色んなところに。例えば口癖とか……」  「ふうん、そう?」  「ほらそれ。エステリオも良く言うわ、『ふうん』って」  「へぇ、そうなんだ。でもあんたも良く言うよ、それ」  「え?」  「リオのがうつった? ずっと一緒だとそう言うこともあるんだな」  先程落とした本を脇に寄せ、また新しいものを手に取りながら、ラスは何故か嬉しそうに笑った。  「この間の話、覚えてる?」  突然ラスがそう切り出して来て、私は膝の上に広げていた絵本から眼を上げ、首を傾げた。  ラスの所に来てみたのは良いものの、彼は分厚い図鑑と睨みあったり、何かの根っこを念入りに水の中で擦ったりしていて忙しそうだったので、退屈を紛らわすために読書をしていたのだ。  勿論絵本が読みたかった訳じゃ無い。この家にある学術書以外の本がこれ以外に見当たらなかっただけで。  「この間?」  「ほら、あの葉っぱの話だよ」  「あぁ、双子の姉妹のお話ね。覚えてるけど、それが?」  「あの話の結末。通説では姉を自殺に追い込んだ罪悪感から、妹も自ら死を選んだってなってるけどさ。俺は違う気がするんだよな」  やっと口を開いたと思えば随分と物騒な話ね。  少し首をすくめてから、私は膝の上の絵本をぱたんと閉じた。  「だけど、それ以外じゃ説明がつかないじゃない」  「そうかな。あの話した時さ、あんた聞いたよな。俺がもし妹の立場だったらどうするって」  「そうね。あんたは同じ事をするんでしょ?」  「うん、多分。それで、きっと同じように死ぬんだ」  「……どうして?」  「うーん。て言うか、死ぬしかないと思うな」  「アリアナは、多分だけど、自分の未来に希望が持てないでいたんだよ」  「醜い顔のせいで、姉以外誰からも愛されない。いつか幸せになれるだなんて、そんな都合の良い話信じられる訳が無い――いくら姉がそう言ったとしても」  「…………」  「本当は、美しい姉をただ自分と同じように醜くしてやりたかったって訳じゃない。  醜くなってもなお、美しく優しかった姉のままで居てみせて欲しかったんだ」  「そうして、辛い今を生きて行く希望を見出したかった」  「けれど姉は醜くなった自分の未来に絶望し、命を絶った。これで生きていられると思うか? 自分の未来は、姉に死を選ばせるようなものなんだって解ったんだ」  「希望なんてなかったのさ、最初から。生きる価値の無い人生しか、結局自分には無かったんだ」  可哀想にね、とラスはぽつんと呟いて、笑った。  「俺ならきっと、生きていられない」  「……だけど、どうして姉を選ぶの? 一番愛してくれたひとなのに」  「だからこそさ。最も近いところにいる、最も美しい人」  「醜い自分をたったひとり疎まず愛してくれる、ただひとりの大切な姉。自分には無いものを全て与えられている、妬ましい存在。そして、病に冒されなかったもう一人の自分」  独り言のようにそう言って、こちらを見つめた彼の視線が、何故だか一瞬羨望の色を帯びているような気がして、私は眼を瞬かせた。  「未来を託すなら、姉以外にはきっと考えられない」  「…………」  「私にはわからないわ」  「だろうな」  「自分の今が辛いなら、尚更大切な人を巻き込むべきではないわ。それに、未来のことなんて誰にもわからないでしょ。 人生の価値なんて、生き終わってからでないと解らないものよ」  「……ああ」  勿論その通りだ、とやたらのんびりとラスは頷いてみせる。  「まあ、私は醜くないから……こんな風に言うのは間違っているのかもしれないけど」  「はは、言うね。でもきっと、間違ってなんかない。あんたが正しいんだと思うよ」  「持たざる者はそれだけで特別視される。可哀想な子だからってな」  「だけど、間違っている事をした時、可哀想だからと許すのはそれこそいけないことだ」  「可哀想な子だって、責められるべき時はきちんと責められるべきなんだから。あんたは正しいよ」  「……でもやっぱりさ、正しいことが何かなんて、解っていたってどうしようもない時だってあるよな」  「人はそんなに強く出来ていないから」  そう呟いてから、ラスは変な話して悪かったな、といつもの様に明るい笑顔を見せた。  「もうここには来ないって言ったらどうする?」  その日、いつものように小汚い客用ソファに座って開口一番そう言ってみた。  すると、それまで木製の鉢で何かをすり潰す作業(アリアナの葉の選別は、もう大分前に終わっていた)に没頭していたかに見えたラスは、ぴたりと手を止め、なんとも言えない表情をしてこちらを向いた。  「……なんだ、いきなり」  「私がもうここには来ないって言ったらどうするって言ったのよ。聞いてなかったの?」  「いや、聞こえてはいたけど……。なんだよ、脅かすのやめろよな、来るだろ」  「だからぁ、もしもよ。もしも! どうする?」  「そりゃあ寂しいさ」  「ほんとうに?」  「嘘言ってどーすんだよ」  言いながら、ラスはまた視線を落としてすり棒でごりごりと鉢の中のものを潰す作業に戻ってしまう。  「あんた何してるの?」  「潰してる」  「それは見れば解るわよ。そうじゃなくて!」  「あ、悪い後ろのテーブルに置いてある本取ってくれるか」  「…………」  お姫様をあごで使うだなんて本当に良い度胸してるわ。  私は言われた通りにすぐ後ろのテーブルから分厚い本を取り上げ、相変わらず下を向いているラスの頭の上に半ば落とす様にして乗っけてやる。  ばさっ、と少し重い音がして、下向きだったラスの頭が更に傾いた。  「……あんたって結構お姫様らしくないよな」  「誰かさんがちゃんとした扱いしないからでしょ」  「なーんだよー……ああ、ヤキモチ? ちゃんとあんたの方向いてなきゃ嫌?」  「なんでそんな嬉しそうなのよ。気持ち悪いわね、違うわよ」  「なんだ、つまんねー」  頭をさすりながらぺらぺらと細い指がページを乱暴にめくって行く。こちらを向いていないのを良い事に、私は半ば睨むようにしてラスを観察する。  エステリオとラスは、全然似てないくせに時々すごく似ていることがある。  少し捻くれている所、不機嫌になると必ず私から目を逸らす所、呆れると眉間にしわが寄る所や、私をからかうのが好きな所、あといくつかの単語の発音の仕方とか。  不意に感じる既視感は、私をよく戸惑わせる。エステリオとの関係があまり上手く行っていない今だからこそかもしれないけれど。  少し前までは類似点を見出す度に口に出してラスにそれを伝えていたけれど、その度に彼の纏う雰囲気がふっと冷たくなるのに気付いてからは、頭の中だけに留めるようになった。  ラスはどうやら、エステリオと似ていると言われることがあまり好きではないらしい。  かと言って弟の事が嫌いかと言えばそうでもないみたいで、私がエステリオの愚痴を言う度に苦笑いをして、仲良くしろよ、と必ず言って来る。  「……。俺は今、この間選別したアリアナの葉から毒素を抽出するための第一段階の作業中なんだけど、あんたは何してるんだ?」  「え? 何って、なによ」  金色の眼がちらりとこちらを向いて、また下を向く。  「いや、さっきからずっと俺の事見てるじゃん。恋?」  「あんたって馬鹿よね」  「冷てーな。なんかあった?」  「どうして?」  「いきなり変なこと言うし、俺の事やたら見てるし、いつもより無口だから?」  「そうかしら」  「そうですよ」  ほら、例えば今よ。ラスと話しているはずなのに、ふっと目の前に居るのがエステリオのような気がしてしまう瞬間。  「…………」  でも、やっぱり双子って区別をして欲しいものよね。  そんな事を考えて思わず黙る私の前で、ラスはすり棒を鉢の縁にがん、がん、と軽く二回打ちつけて、少し休憩、とばかりに棒から手を離すと、長く息を吐いてソファに背を預けた。  「そんなに似てた?」  「え?」  突然言われて一瞬何の事か解らなかった私に、ラスはだらしなくソファに寄りかかったままで少し笑う。  「あんたってたまにそう言う顔するよな。俺とリオってそんなに似てる?」  「…………」  「……似てるわ」  少し迷ってから正直にそう言うと、何故だかラスは嬉しそうな顔をした。  「マジ? あいつあんななの、いつも。  凄いな、双子って。全然会わなくても似るんだ――仲が良い悪いとかそんなんじゃなくって、もっと深いとこで繋がっちゃってんだな、きっと」  「元は一人の人間だったって説もあながち間違ってないのかも」  「なに? それ」  「んー、なんだったかな。元々一人の人間として生まれてくる予定だったはずが、何かの間違いで二人になっちまったのが双子の兄弟だー、とかそう言う話があるんだ」  「どこで聞いたか忘れたけど。  だから、双子は二人で一人なんだと」  「ふうん……あんたもそう思うの?」  肯定したと言うのにいつも通りのラスに、なんだか拍子抜けしたような気分になる。  あんた、似てるって言われるの嫌なんじゃなかったの? まあ、本人がそう言った訳じゃないけれど……。  折角気を遣っていたって言うのに。やっぱり、こいつの事はよく解らない。  「いや……どうだろ、正直良く解んないな」  「私もだわ……」  「は?」  「なんでもないわよっ、もう……」  「そう?」  それなら良いけどさ、と再びすり棒に手を伸ばしたラスに、私はふうっ、とため息をついた。  「似てない……わ」  咄嗟に嘘をつくと、何故だかラスは少し残念そうな顔をした。  「そっか」  そしてそれ以上の会話は続かず、ラスは再びすり棒に手を伸ばす。  再びごっ、ごっ、と室内に響きだした音を聞きながら、私は内心首を傾げていた。  私が彼をエステリオと重ねて見ていることに感付いたのだと思ったのに……どうしてそんな顔するのかしら。  鉢の中に視線を落としたままの彼をじっと観察してみても、結局答えは出せなかった。  思えば、私はなんだかんだでラスの元へと足しげく通っている気がする。怪しまれない程度にだけれど、本当にかなりの頻度だ。  別に、特別ラスに会いたい訳じゃない。ただ興味があるだけ、相変わらずノクシア様ノクシア様とうるさい城内よりも、はるかに居心地が良いと言うだけだ。  それに、何よりラス自身が私の来訪を望んでいる素振りを見せるから。  だからそれに便乗するようにして、私は度々勉強にかこつけて城を抜け出していた。  そもそも今までも私は比較的自由に行動していたし、幸いにもこれまでずうっとボード先生の所で勉強していたお陰で、何か聞かれても先生の所や書庫に行っていると言えば誰も疑わなかった。  先生にも、適当な事を言っていざと言う時は上手く誤魔化してもらう約束を取り付けた。  弱っているフリをすれば一発だなんて、本当に大人ってちょろいわよね。ただその代わりに週一のペースで試験を課されたけれど、ラスのお陰でそれも乗り切ることが出来た。  この国が平和でよかった、と心から思う。でなきゃこんな風に城を抜け出したり出来なかったもの。  ごんごん、とすり棒が鉢の底に当たる音が、さっきから部屋の中には響いていた。テーブルの上に置かれた瓶の蓋をラスは器用に片手で開けて、中身をさらさらと鉢の中に入れて行く。  その手際の良さに感心しながら、私はテーブルに並んだ瓶のひとつを取り上げて、ラベルを睨んだ。  「あ、おいそれ、気をつけた方が良いぜ。うっかり中身吸い込んだりすると、気分悪くなるかも」  「やだ、そんなもの適当に置いたりしないでよ」  「はは。な、そこの取ってくんない。その、右から二つ目の」  それそれ、と指差された瓶を向こう側に押しやりながら軽くため息をつくと、ラスはちらりと私の方に一瞬眼を向けた。  「今日の姫様はため息が多いな」  「あら、そう?」  「そうだよ。なんか気に入らない事でもあった? 城でさ」  軽い調子で尋ねられて、思わずちょっと口をつぐんだ。こうして言ってもらえるのは都合が良いのだけれど、なんだかこいつに見透かされるのって悔しい。  「……本当あんたってこういうことよく気付くわよね」  「気付くっつーか、あんたが解りやすいんだよ」  「そんな事ないわよ、エステリオは鈍いわ」  「そう? 俺がわかるって事は、リオもわかってると思うけど……。で?」  相変わらず私の身に降りかかる不幸話を聞くのが好きらしく、にやにや笑っているラスを少し睨んで、それから私は短くため息をついた。  色々と文句はあるけれど、結局私だってこの男に聞いてもらいたいんだから。態度はどうであれ、何かあったのかと聞いてもらえるのは実はまんざらでもないのだ。  「ノクシアのこと構ってやらなきゃならないかもしれないの」  「ノクシア姫と? あんた避けてたじゃん」  「そう、だからお父様に言われたのよ。勉強ばっかりしてないで、たまには姉妹で仲良くやりなさいってね」  「余計なお世話よ全く……そう言う訳だから、今までみたいに頻繁にここへは来れない……かも、しれないわ」  「そりゃあ残念だな。姉妹で仲良くやれよ」  「だからっ、姉妹じゃないし仲良くしたくないのよ! やっぱり何がなんでも逃げてやろうかしら」  「俺としてはそれでも嬉しいけど、まあ仲良くしろよ。した方がきっと楽しいぞ」  「そうは思えないわ」  むっとして言い返すと、ラスはそうかなあ、と言ってなんだかひどく優しい目をした。  「聞いた所じゃあんたはまだノクシア姫とまともに話した事すらないって言うじゃん」  「勿体無いよ、本当に嫌な奴かは話してみないと解らないだろ」  「好きになんかなれっこないわ。義理の姉、って時点でもうダメなのよ」  「気持ちはわからないでもないさ。そりゃああんたにしてみりゃ面白くないだろうよ、父親も幼馴染も取られちゃったんだもんな」  「取られてなんかないわよっ」  「まあまあ。でも、家族として認められれば母親に対しての気に入らない気持ちもそれなりに納まるだろうし」  「ノクシア姫については、多分むしろ仲良くなった方が自主的にリオから遠ざかってくれると思うぞ」  「なによそれ。全然意味が解らないわ」  「ノクシアって姫様がよっぽど性悪か、リオに恋しちゃってるか、鈍いかしなければだけど。  だって俺から見たって解るもん、あんたがすっごいリオの事好きだって」  「はっ……はあ!?」  「だからさ、仲良くなってそこんとこ察してもらった方が、身を引いて貰えると思うけどな」  「ちっ、がうわよ! そこじゃない!!  あんた何馬鹿なこと言ってるのよ、私別にエステリオの事なんてなんとも思ってないわ!!」  思わず身を乗り出して否定する私に、ラスも同じくぐっとこちらに体を傾けて応じる。  「嘘つくな」  「嘘じゃないわよ!!」  「じゃあどうしてそんなに、話してもいない奴の事嫌ったり出来るんだよ?」  「そんなの、庶民出の下品な女が姉になるだなんて許せないからよ。決まってるでしょ!」  「嘘だ。あんたはそう言う所で人を差別視する様な奴じゃないね。もしそうだったら俺ともこうして会ったりなんかしないだろ?」  「認めろよ、あんたはノクシア姫にリオを取られるのが嫌なんだ。大事な幼馴染をな」  「違っ、そ、それはっ……それは、エステリオが私の従者だからよ! 取られるのが嫌って言うのは認めるわ。だけどそれは、エステリオが私の従者だから!」  「好きだとか大事だとか、そう言うんじゃないわ。あいつはただの従者で、それ以上の感情なんてないの」  「ただ、私のものであることに変わりは無いからあの女に取られるのが気に食わないだけ。それだけよ!」  「何、つまりあんたにとってリオはただの従者?」  「そうよ! あいつにとっての私がただの主人でしかないのと同じだわ」  「…………」  私がそう言い切ると、ラスは明らかに気分を害したと言った様子で黙りこみ、ただじっとこちらを睨んで来た。  今までエステリオ関係の話題で、ふっと素っ気無くなる事は何度かあったけれど、こんなにあからさまなのは初めてだ。  その視線に少し気おされて、けれどラスが怒っているとしても、原因が全く思い当たらなかったから思い切って睨み返す。  「なによ、言いたいことがあるんなら言いなさいよ」  「…………」  「…………」  「…………」  「…………」  「……あんたって、」  あまりに続く沈黙に流石に不安になって来たところで、ようやくラスが口を開いた。かと思えば言葉は途中で止まり、続きの代わりにふうっ、と大きなため息がひとつ。  ついさっきまではまるで責めるような視線を私に向けていた金の瞳からは、今はどこか諦めめいたものが窺えた。  ラスはそのまま体を引いて、すり棒を手に取ると中断していた作業を再開する。ごっ、ごっ、と地味な音が部屋に再び響き始める。  「なっ、なんなのよ!」  「あんたって変わってない」  「何がよ!」  「覚えてないだろうけど、俺達って実は一度会ってるんだ。あんた、その時のまんまだ。なんにも変わってない」  「は……?」  何を言っているのだろう、一度でも会ったなら『兄弟が居る』事実に気付かないはずがないのに。  唖然とする私に、ラスはこちらは見ずに口元だけで笑う。  「あんたはずーっと、俺を『リオ』って呼んでたけどな」  「な、なによそれ、いつ!?」  「教えない。一緒に遊んだ時間がそこまで長くなかったのもあるだろうけど、あんたは最後まで俺には気付かなかったな」  「……本当?」  「本当。俺の初恋の相手ってあんただし」  「はっ!? う、嘘」  「うん、まあそれは嘘なんだけど」  「…………」  「はは、怒るなよ。折角の美しいお顔が台無しだ」  「あんた、嫌いよ……」  「俺も嫌い」  「えっ……」  「って言うのも嘘。本当だったら良かったかもな、でも俺はあんたの事結構――何その顔」  「なによ、嘘ばっかりついて! エステリオは嘘なんて言わないわよ!!」  からかわれた事に気付いた私は、むっとしてわざとエステリオの名前を挙げた。けれどラスはそれを特に気にする様子も無く、逆に興味深げに首を傾げる。  「へえ? そう言えばあんた、前にもそんな事言ってたな。リオは嘘つかないって……そんなに信頼してんの?」  「違うわ、約束したのよ。絶対に嘘つかないって」  「約束? 口約束?」  「そうよ」  「それ、あんた本気で信じてんの」  「信じてるわ。だって、エステリオったらその日から本当に私に対して嘘つかなくなったもの、物凄く極端に正直者になっちゃったのよ」  「お世辞も嘘のひとつと思ってるみたいで、とっても失礼だし」  「……あぁ、なるほどな」  そう言うとラスは手を止め、ふっと視線を逸らして微笑んだ。  「なあ、やっぱりあんたとリオって特別なんだよ」  「どう言うこと?」  「あんたはリオを特別大事に思ってるし、リオもそうだって事」  「またその話? だから違うって――」  「違くなんかない、そうなんだよ。否定するなよ。哀しくなるだろ」  言葉の真意が解らずに、私はなんと返したものかと迷う。穏やかな、けれどきっぱりとした声の調子に、なんだか軽々しく違うと言うことが出来なくなってしまった。  「……、どうして言い切れるのよ。私やエステリオの気持ちなんて、あんたには解らないでしょ?」  「わかるよ。あんたは見てれば嫌でも解るし、リオは、そうだな。双子だからかな」  「適当な事言って……」  「適当なんかじゃない。あんた達が羨ましいんだ、俺は」  「何かが少し違えば、そこに居たのは俺だったかもしれないのに」  「…………」  『そこに居たのは俺だったかもしれないのに』  その一言にぎくりとさせられる。私は今まで、ラスの事を生真面目なエステリオとは正反対で、掴み所の無い適当な奴だとばかり思っていた。  双子の兄弟と言う事実も、驚きこそすれ他に深くは考える事なんてしなかった。だけど、私――  彼が私に与えた情報や、時折感じた不自然な変化について、もう少しきちんと考えてみるべきだったのではないかしら。  気付くべきだった事を見逃している、そんな気がした。不安そうな顔でもしていたのか、ラスは私の方を見て少し慌てた様子でぱたぱたと手を振った。  「――ああ悪い、違うんだ。別にもう、リオと代わりたいとかも思わないし、責めたい訳でもないんだ」  「俺は俺の人生に納得してる。毒性学は嫌いじゃないし、勘当されたっつっても自業自得だし、ここの暮らしはそう悪いもんじゃない」  「ただちょっと、あんた達みたいなのも良いなぁーって思うだけ。俺には無いものだから。  そう言うのってない? ほんとちょっとした憧れだよ」  「さ……」  「さ?」  「……、さ、寂しいなら、その……友達になってあげたって良いのよ」  言ってしまってから恥ずかしくなって、なんだかまともに顔が見れなかった。  本当はもっと気の利いた言葉を考え付いたら良かったのだけれど、よく考えると私だってエステリオ曰く『友達ゼロ』なのだ。  「…………」  「……?」  折角恥を偲んで私から言ってあげたって言うのに、ラスは何故か何も言わない。  我慢できなくなってちらりと彼を盗み見ると、ラスは初めて私を見つけた時と同じ、本気で驚いた時の顔をして固まっていた。  「……ちょっと、何そのバカみたいな顔。なんとか言いなさいよ」  「えっ? あ、はあ、うん。ええと、だってさ……いや、予想外もいいとこ……って言うか」  「何よそれ。光栄でしょ?」  「あ、そりゃあ勿論……だけど……」  「でも?」  「やめといた方が良い……と思う、なぁ」  「……まさか断る気?」  「いやぁ……」  そう少し言葉を濁して、ラスは嬉しそうな、でもそれでいて少し困っている様ななんとも言えない顔をした。  「断る、っつーか……ほら、俺ずっとここに居る訳じゃ無いだろ。この薬、作り終わったらあんたとはサヨナラな訳だし……」  「あ、それにほら。俺なんかがお姫様の友達だなんて、分不相応も甚だしいさ」  「なによお、結局断るんじゃないっ! 折角人が気を――」  「ち、違う違う、嬉しいんだって、本当! 嘘じゃねーよ!?」  「本当……ちょっと困るくらい、今のは嬉しかったよ……」  「……?」  ラスは『嬉しい』と言っておきながら、全然嬉しそうな顔をしていなかった。どうしてそんな顔をするのか私には全く見当もつかなかった。  わからないのは、私が姫で、普通とは違う暮らしをしているからなのかしら。それとも、ラスが特別なのかしら。  出会った日、彼は聞きたいことは聞けば良いと言っていた。けれど知り合ってから今日まで短いながらも同じ空間で過ごした時間は決して軽いものではなく、それでも矢張り絆と呼べるようなものを作り上げるには足りず。  他人同士でなくなってしまった彼に、軽々しく無遠慮な質問をすることははばかられて、でも気になって。  宙ぶらりんの気持ちで私は口をつぐんだ。  「もうすぐ、俺はこの場所から居なくなるんだ」  沈黙をどう取ったのか、ラスは穏やかな声で繰り返した。  「居なくなるんだ。もう戻れなくなる場所に、今更友達なんて作ったって寂しいだけだろ」  「国を出るの? 戻れないだなんて、まるで追放でもされるみたいな言い方するのね」  「そんな感じが近いかなぁ、俺ってかなりろくでもない奴だから」  「……絶対もう戻ってこないの?」  「んー……」  わざとらしく唸ってから、にやりと意地悪く笑ってラスはようやくまっすぐ私を見た。  「寂しい?」  「別に寂しくなんかないわ」  反射的に答えると、そう言うと思った、なんて言ってラスは明るく笑うのだった。  「……寂しいわよ」  「……ほんと?」  「し、知ってる人がひとり居なくなっちゃうのよ。多少寂しく思うのは当たり前だわ」  「じゃ行かないで欲しい? 俺に」  何かを期待しているみたいな問いかけに、私はちょっと顔をしかめてみせる。  「何よ、私に何言わせたいの?」  「いやぁ、そうだな。俺、姫様に「行かないで」って泣いて引き止められたら、行くのやめちゃうかもなって」  「そんなこと思ってないくせに。バカな事言うんじゃないわよ」  「あ、わかる? そうだよな、ほんとにそんな事ある訳ないよな」  そう言って、ごめんごめん、と謝ったラスの口調は、なんだか妙に穏やかだった。  「ねえ、あんたがリオと入れ替わって私と会ったってこの間言ったわよね」  そう切り出すと、ラスはいつものように楽しげに笑って頷いた。ぐらぐら煮える鍋の前に二人で立って、中身が丁度良い具合になるのを待っているけれど、別に料理をしている訳じゃない。  「ああ。気付かれないもんだなって思ったよ、双子っつったって、リオの特徴なんて俺は殆ど何も知らないのにな」  「それっていつの話?」  「あー、そうだなあ。確か、あんたがアングラードの屋敷に来た時だよ」  「リオが風邪引いて寝込んだ時だな。後から聞いたけど、あんたが我が侭言ってお見舞いに来たんだろ?」  「俺はまだ正式に紹介されてなくって、行儀も良いとは言えなかったからな。  部屋に居ろって言われてたんだけど、気になって抜け出したんだ」  「…………」  「覚えてない? 俺は結構覚えてるよ。屋敷内探検したり、花冠作らされたり。俺は作れなかったけど、あんたは結構上手だった」  「……なんとなく、思い出してきたかも。そうだわ、昔そんなことがあったわね……。お見舞いに来たのに、エステリオが元気にしてるから不思議だったのよ」  「でも元気ならそれで良いかって思って遊んでいたら、エステリオが居なくなっちゃって……。  探しているうちに、侍女に捕まって本物のエステリオの居る部屋に案内されたわ」  「さっきまで元気にしてたはずなのに寝込んでいるからおかしいなって、そう言えば思ったんだった……」  「そうそう。途中で俺ジジイに見つかって、連れ戻されたんだよね」  「あらそうだったの。突然居なくなっちゃったから、私結構探してたのよ」  「うん、知ってる」  「なにが?」  「俺の部屋の窓から丁度庭が見えるからさ、見てたんだ、俺。あんたが探してる姿」  「悪趣味ね……」  「いや可愛かったなー、あれは。どこ行ったの、どこ行ったのって涙目で探し回ってんだもん」  そんな事を言いながらにやにや笑うラスに心底腹が立った。私はあの時、本気で不安だった(気がする)っていうのに。  「人の不幸な姿を観察してたなんて、最低よ」  「ま、あんたが呼んでたのは俺の名前じゃなかったけどね。  その時思ったよ、リオと姫様は、相当仲良いんだなってさ」  「――今も、リオが居なくなったら泣いて探すの?」  「そんな訳無いでしょ!」  思わず睨むと、ラスはごめんごめんと反省の色なんて全く見えない笑顔で私に謝る。  「すぐ怒るんだなぁ、あの時も俺が花冠作れないからってあんた拗ねたんだよ。作ってくれるって約束したのに! って」  「失礼ね、そんなことで拗ねたりなんかしないわ」  「……そっか、覚えてないか」  へらでゆっくりと鍋の中身をかき混ぜながら、少し残念そうな顔をするラスに、私はほんの少しの罪悪感を感じた。  「……悪かったわね、記憶力が良くなくって」  「いやあ、普通だろ。あの時名乗らなかったのは俺だし、それに、今あんたはこうして俺の所に来てくれてるし。  俺としては、それで十分だ」  そう言って彼は笑うと、へらから手を離して布の分厚い手袋をはめ、吊り下げていた鍋を鎖から外した。  近頃は、初めのうちによく向かい合って話をしたあのソファでなく、その奥にあるキッチンや、調合のための器具がごちゃごちゃと置いてある大きな机の前に椅子を置いて話すことが多くなった。  今も、私たちはキッチンに並んで立っている。  手伝ってもらう事は特に無いとのことだったので、なんだかどこかで見覚えのあるものの根っこを包丁で細かく刻んでいるラスのすぐ横に並んで、私は彼の手元を眺めている。  包丁さばきは中々軽やかで、まるで料理でもしているみたいだと思った。  「あんたって、料理上手そうね」  「ええ、そう見える? 嬉しいけどハズレだな。毒と薬なら作れるけど、食い物は作れないんだ、俺」  「そうなの? 意外だわ、ちゃんと作ろうとしてみたの?」  「してみたさ! でもこれが、全く美味いもんが出来ねーんだよな。見た目は普通なんだけど、味がなんとも言えなくってさぁ」  「そのうち材料がもったいなくなってきて、作らなくなった」  「じゃ、全部出来合いのもの買ってるの?」  「そう。いや、まあ本当簡単な料理なら出来るんだけどさ、パンにバター塗るとかその程度なら……」  「それは料理とは言わないわ」  「だろ? まあ、大体夜は外だな。朝昼は自分でなんとかするとしても」  「そこはエステリオと正反対なのねぇ」  「そうなの? あいつ、料理上手い?」  「上手よ、多分。あんまり食べたことないけど」  「あ、そっか。姫様だもんな、食事は食事でまた担当が違うのか」  「そう言うこと。でも、頼めば作ってくれないこともないから。  小さい頃はあまり上手じゃなかったけど、最近は普通に食べれるもの作るようになったわよ」  「そりゃ良かった。まあ、仕方が無いな、俺に生活力があんま無いのはじい様のせいだ。育て方が悪いんだよ、勉強以外なんもさせねーんだもん」  「ねえ、あんたって何のために育てられてたのよ?」  思い切って尋ねてみる。今まで聞けないでいたけれど、実はずっと気になっていたことだ。  するとラスはそれまで会話しながらもせっせと動かしていた手を止めて、私の方を向くといたずらっぽく微笑んだ。  「気になる?」  「気になるわ。本当はあんたも城に来るはずだったんでしょう、エステリオがそうなんだから」  「まあ、そうだなあ。俺はね、じい様の後継者として育てられてたんだよ」  「ボード先生の後継者?」  「正確には、写本製作の担当者。あんたの家庭教師したりする方を引き継ぐのは、違う奴だから」  「写本の……? 私、その担当の子は流行り病で死んだって聞いてた」  「っは、なにそれ。俺死んでたの? 流行り病か。へえ、それは初耳だ」  包丁を持ったままけらけら笑うラスに、まるで自分が笑われているみたいな気分になって少し口を尖らせながら私は続ける。  「じゃあ、勘当なんてされなければ私たち、普通に会っていたのね」  「まあ、そうなるよ。でもじい様の次の代から写本担当と王族への家庭教師担当が分かれる事に決まってたから」  「写本の作業が予定より大分遅れてるらしくてな。一方に専念した方が、作業もはかどるからってことらしい」  「そう言う訳だから、城に上がる事が決定したら紹介位はされたと思うけど……きっとこんな風に話すことは無かったんじゃないかな」  「あらどうして? あの書庫から出たらいけない訳じゃないんでしょう、会おうと思えばいつだって会えるはずだわ」  「思えばね。でも、あんたにはリオが居るから」  「……それだけ?」  「それだけ。理由なんてそれで十分なんだよ。俺は卑怯で臆病だから、仕方が無い」  「やめなさいよ、自分の事卑下するのは。冗談でも良くないことだわ」  「冗談なんかじゃない、まして卑屈になってる訳でもない。客観的に見てそうなんだ、困った事にな」  「あんたがそうやって否定してくれるのは、俺のやった事を知らないからだよ」  「やったことって、勘当された原因?」  「そう。知ったらきっと、あんただって思うよ。俺は本当にどうしようもない奴だって」  「なにしたのよ?」  「…………」  一瞬答えようとする素振りを見せて、けれどラスはどこか哀しそうな笑顔で、秘密、と呟いた。  「今はまだ言わない。あんたにそうやって、『そんなことない』って思ってて欲しいから」  「…………」  「これが完成したら言うよ、あんたと会う最後の日にね。大丈夫、そう待たせやしないから」  それだけ言うと、中断していた作業を再開させる。  まるで私が早く別れたいと思っているみたいな言い方をするから、そんな事はないと訂正しようと思ったのだけれど、再び鳴り出した規則正しい包丁の音に、なんとなくタイミングを奪われてしまった。  やがてラスが違う話をし始めて、結局そのあとも訂正の機会は巡っては来なかった。  「自分が死ぬ時のことって、考えた事ある?」  真っ黒に煤けた銅製の皿を、これまた小汚い灰色の布でせっせと磨きながら、不意にラスがそんな事を言い出した。  「あんたって結構、話に脈絡無いわよね。今って、あんたの作ってる薬が一体何なのかについて話してたんじゃなかったかしら」  「そう? 俺の頭ん中では全部繋がってんだけどなー。それで、どうなんだよ」  「死ぬ時のこと?」  「そう。どうやって死にたいとか」  話を逸らしたかったにしたってあんまりだわ、と思ったけれど、一応真面目に答えてあげることにする。  ラスが聞きたい事にきちんと答えてあげれば、彼も私の質問にちゃんと答えてくれるかもしれないと思ったからだ。  「そうね……特に無いわ。大体、そんなこと考えたって一体なんになるのよ、人って死ぬ時は死ぬものよ」  「いくら理想の死に方考えた所で、叶うかどうかなんて解らないじゃない」  「まあ、そうだけどさ。でも俺は結構ガキの頃からそう言うこと考えてたよ」  「案外根暗なのね」  「いや、否定はしねーけど……。せめて暇だったって言えよな」  非難の色を含んだ彼の声に、私はただふざけて笑ってみせる。  「健康に天寿を全う出来たら言うことは無いんじゃない? 病気とか暗殺とかはあんまり嬉しくないわ」  「ああ、あんた姫様だもんな。そう言う物騒な可能性も無い訳じゃないのか」  「殆ど無いに近いけどね。平和な国だもの」  「そうか。ま、今となっちゃそうだよなぁ。  暗殺が流行ったのは大昔の話で、俺達の持つ薬や毒の知識も、今や活躍の舞台は主に外交の場だもんな」  「良い時代じゃない。自由に行動出来て嬉しいわ、どうせだからこのまま毒とは知識以外で関わりたく無い」  「んー。それじゃまずいな、俺とは関わらない方が良かったかもね」  「えぇ? なによそれ。どう言う……」  はたと気付いて言葉が止まる。私の反応に気付いていないはず無いのに、ラスはそ知らぬ顔をしてさっきと全く同じ動作で指先を動かし続けている。  思わず、言葉が出てこなくなった。  別にショックだったとかではなくて――そもそも薬か毒かの質問に彼が『秘密』と答えた時点で怪しいとは思っていたし――ただ、いきなり話が戻って来たから少し驚いたってだけ。  「俺さぁ、死ぬ時は誰かに悲しんでもらいたいなーって思ってたんだ。大分昔から、ずーっと」  私が悠長に驚いている間に、ラスがまるで何かを告白するみたいな口調で語りだしたお陰で、確認するチャンスを逃す。  本当に話が突然飛ぶんだから、と思いかけて、先程の彼の言葉が何故かふと思い出された。頭の中では全部繋がっているんだけど、と。  「病気になってもなんでも良いから、誰かに悲しんでもらいたいんだ」  「そんなの。あんたにだって、死んだら悲しんでくれる人くらい居るでしょう」  「死んだらね。でも多分、死ぬその時はきっと、俺ひとりだろうから」  「あら、寂しいの?」  「寂しいよ」  からかうつもりで言ったのが、素直に返されてしまって反応に困る。  まるで出会ったばかりの頃のようだと思った。こんな風に戸惑うことなんて、最近はしばらく無かったのに。  「誰でも良いから、最期の時は傍に居て、手を握ってて欲しい。出来れば泣いてくれると嬉しいかな。  嘘でも別に構わないんだ。ひとりじゃない、あなたが死ぬのは哀しいって伝えて欲しい」  「……でも、それって多分すごく難しい事だよな。俺はどーせ結婚なんか出来ないだろうし」  「まだ全然若いくせして、何でそんな物凄い将来のことに対して悲観的になってるのよ。馬鹿ねぇ」  妙に寂しそうな顔なんかするから、思わず励まそうとして失敗する。そんな事ないわ、大丈夫よって本当は言ってあげたかったのに。  するとラスは何故か意地の悪い笑顔を私に向けた。  「あんたってこう言うの本当ヘタクソだなぁ。もっと上手に慰めてくれよ」  「なっ、なによ。図々しいわね……」  「だって、今までずっとひとりぼっちで毒性学がオトモダチだったかわいそーうな青年が、明らかに同情誘う様なお話してんだぜ。そこは上手く乗って欲しいとこだよな」  さも楽しげにそんな事を言い出すものだから、まさかさっきのは全て冗談だったのかとさえ一瞬思いかけた。  流石にそれは無いだろうけれど、折角私なりに心配してやったのにと口を尖らせる。ラスは相変わらずにやにや笑いをやめようとしない。  「もう、私にしてほしい事があるならはっきり言いなさいよね」  「だから、さっきから言ってるだろ。上手く同情してみせてくれよって」  「同情されたいわけ?」  「うん。可哀想な奴だなーってさ、思ってもらえたら光栄」  「変なの……」  思わず呟くと、ふふんとラスは何故か偉そうに笑ってみせて。それから不意に声のトーンを落とした。  「毒だよ」  「え、なあに?」  「俺がずーっと作ってたもの。分量によっては人も殺せる――俺が一番最初に習った、暗殺用の代表的な毒薬。  ……後悔した?」  これまた突然のカミングアウトに驚く私に、ラスは一瞬窺う様な視線を向けた。私は少し考えてから、そうね、と呟く。  「後悔、って言うか……。毒じゃなければ良いなとは確かに思ってたわ。  だけど、それがあんたの仕事なんでしょう?」  「そうだけど、このせいで誰かが死ぬかもしれないんだぜ」  「確かにそうだけど……でも、それを知っても私、あんたにその仕事をやめろとは言えないし、何が悪いとも言えないわ」  「正義感が足りないのかしら……。もしあんたの作ったその毒が、私の大事な人たちに使われたりしたらきっと後悔するでしょうけど」  「だけど、あんたは私と出会っても出会わなくても、その毒を完成させてたでしょう」  「ああ、まあね」  「……ねぇ。もし、それを依頼主に渡さなかったらどうなるの?」  「渡さなかったら? ……そうだな、多分俺に不幸な事が起こるかな」  「じゃあ、仕方がないじゃない」  「そう思う? なら、後悔してない?」  「あんたと出会ったこと自体は何も後悔なんてしてないわ。楽しかったもの」  「ほんと? 楽しかった?」  「ええ」  まるで別れ際の会話みたいだと思いながら頷く。ラスは満足げにそうかぁ、と呟いて、にこにこ笑った。私より年上のくせに、まるで子供みたいだ。  「実を言うと、俺は少し後悔してるんだ」  嬉しそうな笑顔のままで、ラスはそんな事を言ってそれまで手に持っていた布と皿を机の上にことんと置いた。  「後悔って、毒を作ったこと?」  「あんたと出会ったこと、手伝ってくれないかって持ちかけたことも」  「なんでよ」  「楽しかったから」  不躾な言葉に顔をしかめていた私は、その言葉で今度は別の意味で眉を寄せた。  「あんたと居るの楽しかった。きっとお別れが辛くなる」  だから少しだけ後悔してるんだ、と彼にしてはぎこちない笑顔をみせるものだから、私はなんだか恥ずかしくなって慌てて目を逸らす。  私は――  すぐにはっとして、私も、とたどたどしく付け加えた。  ラスの素直な言葉は心にまっすぐ届くから。良い所はちゃんと見習わないと、とそう思って。  「わ、私だって、さよならするのは寂しいわよ……」  「そっか。ありがと、嬉しいよ」  優しい声音が一瞬エステリオのものと重なった。  やっぱり似てる。あいつは全然素直なんかじゃないけど、だけど優しい所はそっくりよ。  ――急に、胸が締め付けられるような寂しさに襲われる。  まだラスは目の前に居る。でも、もうすぐ居なくなってしまうんだって、私はようやく理解したのだ。  ラスはあと少しで居なくなってしまう。自分の片割れである弟との決定的な溝を埋めることも、私を『友達』として認めることもなく。  「寂しいわ……」  呟いた声にラスは何も答えなかったけれど、きっと顔を上げたらあの優しい金色の瞳がこちらをじっと見ているだろうと言うことだけは、なんとなくわかった。  「別に、寂しくなんてないけど……」  「そっか」  自分に言い聞かせるみたいにして呟いた私に、ラスはにこりと微笑んだ。急に、罪悪感めいた気持ちが湧き上がって来て私は視線を落とした。  まだラスは目の前に居る。でも、もうすぐ居なくなってしまうんだって、私はようやく理解したのだ。  ラスはあと少しで居なくなってしまう。自分の片割れである弟との決定的な溝を埋めることも、私を『友達』として認めることもなく。  「…………」  なんとなく、それはとても寂しい事のような気がしたのに、私は結局何も言うことが出来なかった。  透明な細長いフラスコから、これまた透明な液体が静かにガラスの小さな瓶に注がれて行く。量はそれほどなくて、瓶の半分より少し上程度まででフラスコの中身が無くなってしまった。  「これだけ?」  「ああ、これだけ。一度に少ししか作れないんだよ、濃度を上げる為に何度も時間を置いて蒸発させてただろ、あれで量はどんどん減ってくんだ」  「その代わりに、毒性はどんどん増して行くんだけど」  「ふうん……」  薄桃色の可愛らしい小瓶に入れられた毒薬を、私は少し複雑な気分で眺める。  どう言う薬なのかは少し前にもう教えてもらっていたから今更驚いたりはしないけれど、やっぱり毒でなくて薬だったら良かったのにと今でも思わずには居られない。  それに、この薬の完成はラスとの別れも意味していたから。  思い返せば随分と長い間一緒に居たような気がする。  毒薬の精製は、手伝ったと言えるほど手を貸してはいない。だからなのか、殆どずっと傍に居たはずなのに作り方はあまり覚えていない。  いつかボード先生に同じ毒を習った時、同じものだと気付くことが出来るだろうか。  思い返せば随分と長い間一緒に居たような気がする。  毒薬の精製も、手伝ったと言えるほど手を貸してはいないけれど、殆どずっと傍で見ていたから作り方は大体頭に入っている。いつかボード先生に習う日が来るまで、覚えていられるだろうか。  「……よし」  きゅっ、と小瓶の蓋をする音。作業台の上に静かに瓶が置かれて、ラスがちらりと窓の外に眼をやる。いつもよりもう少し赤い空。普段ならもうとっくに城に戻っているはずの時間だ。  過ぎているのは解っていたけれど、私もラスも、今までそれについては何も言わなかった。  目が合うとラスはいつも通りの人懐こい笑顔を浮かべるから、私はこのまま彼が私たちの間にあった元々の前提を、上手い事忘れてはくれないだろうかとつい願ってしまう。  素直で、寂しがりで、エステリオに比べるとどこか少し頼りないラス。すまなそうに笑いながら前言を撤回したいと言ってくれる姿をほんの少し期待した。  「これで完成だよ、姫様」  だけど、その声で全部わかってしまう。別れを告げる直前のぎこちなさが、そこには確かにあったから。  「おしまい?」  「おしまい」  全部、と言ってラスは少しだけ眼を閉じた。  「あ、惚れ薬」  「は?」  「ほら、最初そう言う約束だったじゃん。手伝ってくれたら惚れ薬やるってさぁ、いるだろ?」  「い、いらないわよ! 最初にそう言ったじゃない、何よいまさらそんな話蒸し返してっ……」  「はは……」  しんみりしかけた所でそんな話をされて、思わずいつもの調子で返してしまった私に、ラスはひとしきり笑ったあとで、そうだよなぁと呟く。  「あんたに惚れ薬はいらないよな」  「ちょっと、どう言う意味?」  「だってもう相思相愛だし――痛っ、蹴るなよ!」  「別にそう言うのじゃないって言ってるじゃない! あ、あんな奴ね……」  「はいはい、解ったよ、わかった! 頼むからこの傍で暴れないでくれよ、落っこちでもしたら最悪だ」  「…………」  そう言ってラスが庇うように手を添えた小瓶を睨んで、私はもう一度だけ尋ねる。  「おしまいなの?」  「そうだよ、さっき言ったろ――あんたとも、今日でいよいよさよならだな。寂しいよ」  「……出て行くの?」  「ああ、行くよ」  「…………」  少しの迷いも無い口ぶりに、私は俯いてつま先をじっと見つめる。言いたい事が沢山あるはずなのに、何も出てこない。  「……なぁ、引き止めてくれる?」  「え?」  思わず顔を上げると、ラスはじっと小瓶を見つめていた。そしてもう一度、同じ意味の言葉を繰り返す。  「行かないでって言ってくれる?」  そして私の方を見て、ふっと笑ってみせた。  私は――  「い、行かないで、欲しい……わ」  どもりながらも正直にそう答えた。ラスは何も言わない。  「だって、せ、せっかく仲良くなれたんだもの……その、私もっとあんたと話したりしたいし――それに、エステリオのことだってあるわ」  「理由は上手く言えないけど、でも……私は、あんたたち兄弟はきっと他人同士なんかじゃないって思うから」  「……そう」  「そうかぁ……」  息を吐き出すみたいに呟いて、ラスはこちらは見ずに伏し目がちのまま、それでも少し嬉しそうな顔をした。  「うん、そうだなぁ。俺にはそれで十分過ぎるくらいだ、きっと」  「…………」  「…………」  「…………」  「言わないわよ」  「なんだ、冷たいなぁ」  残念そうな笑顔に罪悪感を感じる。私はほんの少し俯いて、床の模様を睨んだ。  「だけどもし、行かないでって言ったら行かないでくれるなら……言ってあげても良いわ」  今度はラスが黙る番だった。  答えは知ってる。だから、言ってやらなかったのだもの。  やがて、ラスはため息をつくみたいにしてふっと笑って、黄金色の瞳を細めた。  「ありがとう」  「こんな得体の知れない奴の所に来てくれてさ。本当、嬉しかったよ」  そっと肩に手が添えられて、軽く押される。素直に動く気になれない私にラスは優しく笑って、自分から玄関扉の方へと向かって行った。  「あんたって勝手よ……」  その背中に向かって呟くみたいに文句を言うと、悪い悪い、とあまりに軽い謝罪の言葉が返ってきて、なんだか鼻の奥がつんとした。  悔しくなって口をつぐんで、彼の後に続く。  ラスが開けてくれた扉の向こうから流れてきた空気は、いつものものより少し冷たかった。城に帰ったら怒られるだろうか。  「じゃ、元気でな」  「あ、あんたこそ……」  「…………」  不意にラスは哀しそうな目をして一瞬私から眼を逸らすような素振りを見せ――ぱっと、嘘みたいに明るく笑った。  「そんな顔してくれなくって良い。俺は、別れを惜しまれる様な良い奴じゃないよ」  「私にとっては良い奴だったわ。あんたの……あんたの所に行くの、私好きだったもの」  「俺なんか本当は根暗だしさ、男の癖に嫉妬深いし、色んなことから逃げてばっかの情けない奴さ。あんただって解るだろ」  「どうしてそんなこと言うのよ!」  私は嘘なんてついていないのに、素直に思った通り言っているのに、最後なのに――  なのにそんな、たとえ謙遜でも私の気持ちを否定するような言葉を言って欲しくなくて、思わず声を荒げる。  「そんなことないって何度も言ってるじゃない、折角ひとが素直に言ってあげてるのよ、そんな風に――」  「弟を殺そうとしたんだ」  「え……?」  とても静かな声でラスは私の言葉を遮った。それはしっかり私の耳に届いたけれど、だけどよく意味が解らなかった。  「毒を飲ませて、リオを殺そうとした。俺はそれでアンブローズの家を勘当されたんだ。俺は、だから……」  それまでずっと笑顔でいた彼の表情が、そこで崩れた。  口をぎゅっと結んで、哀しそうな、それでいてどこか怒っているみたいな表情をして俯いて、けれどすぐに顔を上げ、私を見つめて微笑んだ。 「さよなら、お姫様」  一瞬だけ、黄金色の瞳が涙に揺れた気がして私はどきりとさせられる。  待って、と言い終わるより先に、扉は完全に閉められる。向こう側で重たい音がして、それが鍵を下ろす音だと気付いた私は、なんだかひどく哀しくなった。  『俺のことは忘れると良いよ』  最後に聞いた震えた声と、不恰好に歪んだ笑顔。  知らされた事実に、怒りたいのか、慰めたいのか、軽蔑したいのか、自分でも全く見当がつかない。  どうして自分が泣いているのかさえ解らないままで、私はしばらくその場に立ちつくしていた。  口をぎゅっと結んで、哀しそうな、それでいてどこか怒っているみたいな表情をして俯いて、けれどすぐに顔を上げ、私を一瞬見つめてから体を屈めて―― そっと、ただ触れるだけのキスを頬に落とした。  「さよなら、お姫様」  呆然としているうちにラスはさっと私から離れて行って、家の内側に体を引いた。はっと気付いた時にはもう遅くて、軋む音を立てながら扉が閉まって行く直前だった。  待って、と言い終わるより先に、扉は完全に閉められる。向こう側で重たい音がして、それが鍵を下ろす音だと気付いた私はそこで初めて涙を流した。  『俺のことは忘れると良いよ』  最後に聞いた震えた声と、不恰好に歪んだ笑顔。  知らされた事実に、怒りたいのか、慰めたいのか、軽蔑したいのか、自分でも全く見当がつかない。  どうして自分が泣いているのかさえ解らないままで、私はしばらくその場に立ちつくしていた。  「…………」  閉めた扉に背を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。  後悔ならしきれない位にしている。あの日、同じ毒をリオに飲ませたあの時からずっと。  「……悪い事したな」  なんてさ。そんな事を考えるのは本当にばかげていると思うけど。  出会いは本当に偶然のものだったし、誘いをかけたのは、好奇心からのはずだった。どうせ最後なんだから、どうなったって構わないさと思って、なんとなく。それだけの理由だと思ってたんだ、その時は。  だけど違った。違うに決まってた。  「情けねーなぁ、俺……」  しっかりしろよ、もう本当に最後だろ。選んだのは自分だろ。  言い聞かせて、俯いていた顔を上げる。以前よりは多少片付けられた室内。低くなった目線に、作業台の上にぽつんと置かれたガラスの小瓶がギリギリ入った。  あれを依頼主に渡して、それで俺の仕事は本当におしまいだ。そうしたらこの国からはもう出て行くんだ――確かそんな風にあの子には話した気がする。  「はっ……、何言ってんだか」  リオは自分に対してだけは絶対に嘘をつかない正直者なのだと、あの子は言っていた。それならやっぱり俺とリオは全くの正反対だ。  彼女は俺を素直だと言ったけれど、肝心な事は何ひとつだって言っていない。言えやしない。  俺は嘘つきだ、忘れて欲しいなんて少しも思っていないくせに。  嘘をついたのは自分のためだ。君を想ってのことじゃない、昔からずっとそうさ。  本当のことは怖くて言えないんだ。たとえそれが君を傷つけたりしなくても。  小瓶から逃げるように、眼を閉じる。そうして視界を閉ざしてしまうと、なんだかまだ彼女がここに居るような、そんなおかしな気持ちになった。 ……別にさ、もう誰も恨んじゃいないんだ。 リオのことも、ジジイのことも。 今更誰のせいって責める気なんか無いんだ、俺は。 寧ろ申し訳ないと思ってる。 ごめん、迷惑だよなぁ、こう言うの。色んな予定が狂っちゃうもんな、俺が死んだらさ。 ごめん。本当、悪いと思ってるよ。 でもさぁ……。 もうなんか、駄目なんだよなぁ。俺……。  毒のせいで意識が朦朧とする。苦しい、のは当たり前だ。そう言う毒なんだから。  アリアナの葉から作る、無色透明、無臭の毒。無味ではないみたいだったな、飲んだ感じちょっと甘かったから。  俺が初めて習った、人を殺す目的で作り出された薬。  苦しんで苦しんで死んで行く、恨みのある相手に盛るには丁度良い劇薬だ。  多分、こんな薬で自殺する物好きなんてきっと俺くらいのもんだろう。  ……別に、変な趣味がある訳じゃないさ。  俺はただ、あいつの気持ちを少しでも知りたかったんだ。  (ヤバ、苦し……まだ俺ちゃんと息、出来てんの……?)  体はもう動かせる様な状態じゃなかった。頭がガンガン痛むし、どんなに必死で息をしても息苦しい。  ついでに油でも一気に飲んだみたいに気分が悪くて、吐き気が胸の辺りにずっと留まっている。  (……ごめん、リオ。ごめん。  お前こんなに、大変だったんだな。こんなことされたら、そりゃあ、怒るよな)  視界が正常に保てなくなる。瞬きさえも段々億劫になって来た。  (許せない、よなぁ……)  目尻からぽろっと零れ落ちた涙は、生理的なものなのかそれとも違うのか。まぁ、どっちだって良いけど。  それにしたって惨めな最期だ。本当、笑っちゃう位俺にピッタリだね。  朝日が穏やかに差し込む静かな部屋で、誰に惜しまれる事も無く独り惨めに泣きながら死んでく、なんてさ。  ……でもこうしていると、色んなことを思い出す。まぁ、それ以外にする事と言えば精々哀れっぽく呻く位のことだし。  走馬灯? あぁ、それも良いんじゃない。これから死ぬっぽくってさ。  本当は考え事なんてしてる余裕無いんだけど、これが最後ってことなら少しは頑張る気にもなるってもんだ。  眼を閉じて、真っ暗闇の中じっと毒の与える苦痛に耐えていると、ふと懐かしい空気を感じた。  まだアンブローズの屋敷に居た頃、一日の大半を過ごした書庫の空気だ。  思い出すのなんていつ以来だろうか。そう言えばあのお姫様も、この家に初めて来た時にジジイの居る書庫と同じ匂いがするとか言ってたっけ。  懐かしい……そうだな、懐かしいな。  風が木々を撫でる音が窓越しに僅かに聞こえて来る。  静かな部屋の中、紙をめくる音がいつもやたらに響くんだ。  ドアの外を通る足音はひとりひとり微妙に違っていて、いくつかの音なら聞き分ける事が出来た。  特にジジイの足音は特徴があるからすぐに解る。何かに急き立てられてるみたいな、怒っているみたいな音。  その時、聞こえるはずのないあの足音が聞こえた気がして、俺は思わず眼を開いた。  すると驚いたことに、そこは俺の部屋ではなくなっていた。所狭しと並べられた本棚に、溢れんばかりの本が詰め込まれている。  見間違えようがない、アンブローズの屋敷の書庫だ。  ……勘弁してくれよ。幻覚作用があるなんて、聞いてないぞ。  けれど俺の思考なんてお構い無しに、体は勝手に動いて――そう、動いて。  それまで読んでいた童話を本の山に隠し、毒性学の基礎知識が網羅されている学術書を机に広げた。  低い視界に、丸っこくって小さな手。ああそうか、ガキの頃か。  理解すると同時に、立て付けの悪い扉をガタガタ言わせながらジジイが部屋に入ってきた。  しかめ面で俺の手元を覗き込む。  「ちゃんと勉強していたんだろうな、ん?」  「見れば解るだろ、バカジジイ。さっさと確認テストだかなんだかやって、とっとと出てけ」  「その口の利き方は何だ! この馬鹿孫めが、少しはリオを見習え!」  「リオなんて奴知らないもんねー」  昔はよくわざと憎まれ口を叩いてジジイを怒らせていたものだったが、別に嫌いだった訳じゃない。ただ、読んでいた本の続きがさっさと読みたかっただけだ。  ついでに言っとくと、勉強をサボってた訳でもなかった。  やるべき事はちゃんとやり終えてる。その上で、余り時間を趣味の読書に当てていたんだから真面目なもんだ。  コソコソしていたのは、ジジイに知られれば追加で課題を出されるのが目に見えていたから。  いくら有能だからって、子供から無闇に遊びの時間を奪うもんじゃない。  本を読むのは好きだった。  その当時――まあ今もだけど――俺は酷く限られた世界で生きていて、口を利くのはジジイと使用人の一部、それと忙しいお陰で滅多に会う事の無い父親程度。  カビ臭い書庫にこもって、先人たちの遺した知識と言う知識を吸収する事にのみ専念する日々。  不幸だったとは思わない。姫様にも何度か言ったが、俺は勉強が嫌いじゃなかった。  ……たださ、ちょっとの不安もあった。俺は恐らく、普通の奴が知り得ない事を沢山知っていたけど、普通の奴が当然知っている事を沢山知らなかった。  その自覚があったからこそ、足りないものをまた紙の上に求めて、様々な物語や哲学書なんかを読み漁っていたんだろうと思う。  我ながら暗い奴だと思う。けど確かに本は色々な事を俺に教えてくれたし、その頃はあの狭い書庫の中に、世界の全てが詰まっているとかなり本気で信じていた。  ――答えのない問題なんてない。  そんな風に、きっと考えていたんだろうな。  俺は優秀な生徒で、難問にぶち当たっても必ず自力で解決する事が出来たし、それを誇りにも思っていたから。  リオとは、会う事を禁止されていた訳ではなかった。  ただ、仲良くするようにときっかけを作ってもらえる事もなかったから、顔を合わせる度に感じるのは奇妙な違和感のみだった。  あいつと必ず会うのは朝と夜、二度の食事時だけ。  あとは屋敷内の移動中、本当に偶然出会ってしまう程度。リオを見る度、俺は俺と同じ姿をしたそいつが、俺とは違う意志を持って勝手に動き回る事を疑問に感じていた。  鏡に映したみたいにそっくりな俺達。  普段は回避する事が出来ても、強制的に顔を合わせなければならない食事時なんかは、もう本当に悲惨だった。  水を飲もうとコップに手を伸ばす。なんとなく向かい側に座ったリオをちらっと窺うと、あちらも全く同じポーズで俺を見つめている。  慌ててコップから手を離すと、同じタイミングでリオも手を離す。  とにかく違う事を、と手に取ったフォークを焦るあまり取り落とせば、ほぼ同時にあちら側からもカシャン、と小さな音が聞こえて来る。  そして流れるえもいわれぬ空気。  同じ事をしてしまう度、訳もなく感じる羞恥心で死にたくなった。  その頃のリオは、俺にとってまだ兄弟なんかでなく、殆どもう一人の自分に近いものがあったと思う。  向かい合わせに座っていると、よく大きな鏡の前に居るような気持ちになって。  だから、唯一の違いであるリオの緑の瞳が不気味に見えて仕方がなかった。  父もそんな俺達を多少もてあまし気味ではあった様だ。 仲を取り持つべきか迷っていた様子は窺えたのだが、結局兄弟らしくなるのは然るべき知識を得た後で良いと判断したらしい。  母は、物心ついた時にはもう居なかった。俺達兄弟を産んだ直後に死んだとかで――多分、それも大きかったのだろう。  寂しい、とはあまり思ったことがなかった。  『兄弟』と言うのがどんなものなのか、本の中の知識から一応は知っていたし、気にかけあったり憎みあったり、どんな形であれそこに存在する何らかの絆に憧れめいた感情を抱いていたことも事実だけれど。  だけどそれらの本の中に出てくる兄弟たちと、自分たちとは違うのだと当たり前の様に思っていたから。  それでも、仲の良い双子の兄弟や姉妹の物語を読んだりすると、少しはリオに対して兄弟としての興味が湧く事もあった。  もしも、物語の中の彼等みたいに、もしもなれたら。どんなに楽しいだろうって。  話せば意外と良い奴かもしれないじゃん、なんて自分に言い聞かせ、こっそりリオの様子を覗きに行った事だって何度もある。  ……結局、一度もまともに話せたことなんてなかったけど。  ――どすん。  腰の辺りに重い衝撃が来て、視界が揺れる。思わず前につんのめったけれど慌てて耐えて、振り向くとそこには――  「もうっ、なにしてるのよこんな所で! わたしとっても心配したのよ!」  ああ、うんそうそう。こんな風にして、俺と姫様は初めて出会ったんだっけ。  屋敷の庭には色んな種類の薬草や毒草が、普通の花々と混じってそ知らぬ顔で生えている。  その中から次の授業で必要なものを集めるように言い渡されて、珍しくも俺が日光の下せっせと肉体労働をしていた時だ。  突然誰かに後ろを取られて、突進(抱きついたつもりだったんだろうけど、あれは痛かった)されて、腰に腕を回されて、ぎゅっと抱きしめられて。  どれだけ俺が驚いたと思う?  親父は直接的な愛情表現はかなり苦手な人間だったし、ジジイは間違ったって俺の事を抱きしめたりなんかしない。言うまでもなくリオもそうだ。  その上同年代の女の子にまともに話しかけられるのは初めてと来たもんだ。  だから多分、かなり可哀想な事になってたはずだ。しばらくはまともに口だって聞けなかった。  けれど思考フリーズ中の俺には構わず、女の子はどんどん会話を進めて行ってしまう。  「あんまり長い間こっちに来ないんだもの、次にいっしょに遊ぶときは、お花の冠の作ってくれるっていってたくせに。  あんたがぜんぜん来なくなっちゃったから、わたし、しかたなくって自分で作り方覚えちゃったのよ、もう! ほら、なんか言いなさいよ!!」  「えっ? ……う、うん」  「あいかわらずぱっとしない返事ねぇ。それで、風邪はどうしたのよ?」  「か、かぜ……? お、おれ、風邪……ひいてない……」  本当、思い出しただけで情けなくって涙が出るね。  ジジイの出すどんな嫌らしい難問にも怖気づいたことの無かった天才少年が、知らない、ちょっと可愛い女の子に話しかけられたってだけでこうだもんな。  実際女の子は少し眉を寄せて口を尖らせた。俺のたどたどしい返答が気に入らなかったのだろう。  「ひいてない、じゃあ治ったってことなの? でも、ねぇリオ、あんたなんか目の色がおかしいわよ?」  その言葉と共に小さな可愛い腕が伸びてきて、顔の両側をぐっと挟まれ下に引っ張られる。  強制的に至近距離で見詰め合う事になるが、かなり体勢に無理があったので、残念ながらロマンチックな気分に浸っている場合ではなかった。  が、そこは流石の天才少年。頭の回転はそれなりに早い――勿論、状況把握能力だってちっこい割には中々長けてた訳で。  腰がおかしくなる前にと女の子の両手から逃れた時にはもう、俺は大体の状況を把握していた。  まずひとつ。この子は誰だか解らないけれど、俺をリオだと勘違いしてる。  ふたつ。リオはどうやら風邪を引いていて、この子はそのお見舞いに来たらしい。  ……そう言えば、今日は朝の食事の席でも見かけなかった。  ここで俺が取るべき行動は、女の子の誤解を解いて、速やかにこの場を離れること――だった、と今では思う。  だけど俺はそうしなかった。初めて出会ったこの女の子に、ちょっとした興味が湧いたのさ。  仕方が無いだろ、本来なら外で遊びまわってるような年代なんだから。  とにかく、この子ともう少し一緒に居たいと思った。話したり、遊んだりしてみたい。  ……今まで憧れでしかなかったものが、不意に手の届く所までやって来た、そんな気がしたんだ。  だから俺は嘘をつくことにした。  「その、この目は……えっと、薬。薬のせいで……そのうち元にもどるから」  「そうなの? なら良いけど……。  あっ、リオ! もう元気になったなら、お花の冠作りなさいよ! 作ってくれるって言ったわよね?」  「えっ? えぁ、は、花? どの花?」  「なにいってるのよ。あれよ、あの白いお花!」  そう言って彼女が指差したのは、足元に広がるシロツメ草の群れだった。毒にも薬にもならない、普通の植物だ。白くて丸い花が風にゆらゆら首を揺らしている。  まずい、花冠の作り方なんて習った事無いぞ。確か前読んだ本に『花を編んで冠を作る』っていう描写が出てきたから、一応存在自体は知ってるけど。  でもそもそも編み物なんてしたことないし……なんて考えながら、俺がおろおろと小さな白い花を見つめていると、女の子は腰に手を当てて大げさにため息をついてみせた。  「もしかして、わかんないの? こんなことも出来ないなんて、しかたのない召使いねぇ!  しょうがないから、わたしが教えてあげるわ!」  文句を言いながらもどこか誇らしげに胸を張って、女の子はシロツメ草の群れの中にすとんと腰を下ろした。俺も慌てて膝を折る。  「つぎはちゃんと、ひとりで作れるようにするのよ!」  「う、うん」  そこらじゅうに咲いている花の中でも茎の長いものを選び取って、女の子は苦労しながらもせっせと花を編んで行く。  覚えたばかりなのか、大分たどたどしい手つきで、編み方もかなりヘタクソだったけど。  だけど、すごく楽しそうな顔をしていた。  それから、彼女が花を輪に出来るくらいの長さに編めるまでの間、俺は彼女から様々な話を聞いた。  城のこと、両親のこと、毎日の礼儀作法や毒性学などの勉強への愚痴、この屋敷についての彼女の感想、などなど。  女の子の身分については勿論話の途中で気が付いたけれど、そこまであからさまに驚いたり態度を変えたりはしなかった。  そもそも彼女の事を俺は『おひめさまみたいに可愛い女の子』だと思っていたから、気付いた時は単純に、『おひめさまって言うのはやっぱりキレイなもんなんだ』程度の感想しか持たなかったんだ。  要するに、良くも悪くもガキだったって事だろうな。  彼女の話は尽きることがなく、始めのうちこそどう話せば良いのやら戸惑っていた俺も、段々喋る事に慣れてきて。  ……楽しかった。本を開いて、その中の知識を自分のものにして行く瞬間や、組み上げられたストーリーにどっぷり浸かる時とは違う、全然違う種類の幸福感。  女の子が俺をリオと呼ぶ度にはっとさせられたけれど、呼び名が違うことなんて些細なことだった。  俺自身のことを話す時には少し気を付ければ良いってだけなんだから。  十分な長さまで編んだそれを、くるりと輪にして茎できつく縛る。  中々力の入れ具合が難しかったのか、女の子が何本も失敗して茎を切ってしまったり逆に緩くて解けてしまっているのを見かねた俺も少し手伝った。  手先は結構器用な方だったので、程なくして綺麗な――とは言えないか。  長く手で持ってたお陰で花の大半はくたくたになってたし、編み方がちぐはぐでかなりばらつきがあったから。  でも子供が作ったにしてはそこそこの出来映えの花冠が出来上がった。  女の子はその花冠を満足気に眺めると、俺の頭にそっと乗っけて微笑んだ。  「あげるわ! 次はちゃんとつくれるわね?」  「あ、えっと、ありがと……。うん、見てたからへいき、次はおれがつくるよ」  頷いて、頭からずり落ちそうになる花冠を慌てて直して俺も笑った。  笑いながら、次は俺がこの子に綺麗な花冠を作ってやろうって本気でそう思ってた。  その日はそれから、かくれんぼに遊びが移行した所で俺がジジイに見つかって、さよならも言えないまま彼女と別れるはめになってしまったのだが、どうせ近いうちにまた会えるだろうと楽観的に考えていた。  何も言わずに居なくなったことについては、その時にまた謝れば良い、って具合に。  初めて出来た友達に、思い返すと恥ずかしいくらい俺は舞い上がってて、遊び呆けて材料集めをすっかり忘れていた事をジジイにいくら叱られたって全然構いやしなかった。  次はいつ会えるだろう、その時は何を話そうってあの子のことばかり考えて、夜、いつもならとっくに眠っている時間になってもまだごろごろと寝返りばかり打っていた記憶がある。  そして、結局俺の予感は的中する。三日と経たずにあの子と会う機会が再び巡ってきたのだ。  その日は朝食を済ませたほぼ直後からジジイに恐ろしい量の課題を出されて、終わるまで出てくるなと書庫に閉じ込められていた。  先日言い渡された材料調達をサボって以来、いくら叱っても上の空で全く堪えない俺に、ジジイが終にぶち切れたのだ。  全く大人気ないにも程がある、あの時出された課題の量を、俺は今でも忘れられない。  今になって思えば、俺が勉学に対して不真面目になったのはあれが初めてのことだったから、ジジイも戸惑っていたのだろう。  殊勝に反省の態度を示せばきっと許してもらえたに違いない。  ただ、当時の俺にそんな大人の心の機微なんぞが解る訳もなく。感じるのはただただ不満ばかりだった。  これまでだったら、もしかするとそんな仕打ちすらもゲーム感覚で楽しめていたのかもしれなかったが、丁度俺はその時勉強以外の楽しみを見出しかけていた頃だった。  まだ知らない世界への興味や期待。俺は多分、そう言う類の好奇心が人より大分強い子供だったんだろう。  今までは勉強以外に向く事のなかったその気持ちが、あの女の子と出会って以来、彼女に対してばかり向いていた。  早く会いたい。そして沢山お喋りしたり、遊んだりしたい。もっとあの子のことを知りたい。  初めて感じた、強い強い飢餓感。  知識だったらどんなに貪欲に吸収したってなくなることも、それを誰かに責められることも止められることもなかったのに、彼女についてはそれが当てはまらなかった。  結果俺はそれを持て余し、好きだったはずの勉強でさえも億劫になっていたのだ。  一日が酷く長くて退屈でたまらなかったし、あの子に会えなかったってだけで訳もなく損をした様な気持ちになった。  何をしたって気分が紛れる事はなくて、自分でも少し不思議なくらいイライラしていた。  「…………」  苦労しつつ窓を大きく開けて、ため息をついた。こんな狭苦しい所に何時間も閉じ込められていたら、きっと息が詰まって死んでしまうと思って。  考えてみればおかしなことだ。これまで毎日毎日、そう言う生活をしていて、しかも何の不満だってなかったくせにな。  外からの風に当たりながら、しばらくぼんやりしていたけれど、ふと下が少し騒がしいような気がして視線を落とす。  「……っ!!」  思わず身を乗り出しすぎて、俺は窓から落っこちそうになる。屋敷の前にはジジイと父さん、叔父に叔母にその子供達、そして何人かの使用人に囲まれてあの子の姿があったのだ。  慌てて体を室内に引き戻しながら、あの子が父さんたちと共に屋敷内に入って行くのを信じられない気持ちで見つめていた。  ふらふらと窓枠から離れて、ぶつかった本棚にそのまま背中を預ける。  あり得ない位に心臓が大きく脈打っていた。胸をそっと押さえて、ひとりでにまにま笑った。  「っへへ……!」  あの子にまた会える、そう思うと嬉しくて楽しくて、幸せで。ジジイに出された課題のことなんてすっかり頭から抜けてしまっていた。  俺は書庫の入り口の扉に駆け寄る。幸い鍵をかけられた訳じゃなかったし、書庫があるのは普段から人気の少ない屋敷の端の端だった。つまり行こうと思えばいつでもここから出て行く事が出来るのだ。  そっと扉を引き開けて、一応左右を確認してから俺は迷う事無くそこを抜け出した。  「あれ……」  けれどいくら探しても探しても、彼女の姿を見つける事は出来なかった。  見つかるわけには行かないので、そこまでおおっぴらに行動出来た訳ではなかったが、広いとは言え自分の家だ。  人ひとり探すくらいどうってことない、と考えていたのに――なんて、そこまで考えてふっと俺は思いつく。そう、勘の鋭い、賢い子供だったからな、俺は。  この間、あの子がここにそもそも何をしに来ていたのか思い出したって訳さ。  答えは勿論、『リオのお見舞い』だ。どうやら風邪が長引いているらしく、リオは今朝の食卓にも姿を見せなかった。多分それでまたやって来たのだろう、だとしたら。  「…………」  普段はあまり近付かない、屋敷の東の方。リオの部屋はそこにある(ちなみに、言うまでも無いだろうが俺の部屋や書庫があったのは屋敷の西端だ)。  俺はそこで少し迷った。彼女がもしリオと会っているとすれば、前の時の様にのんきに遊ぶ事なんて出来はしないだろうと、そう思って。  ……そこまで。そう、そこまでは、ガキにしちゃ上出来な思考だったんだ。その後『会えるだけでもいい』なんて安直に思ってリオの部屋に向かったりしなければ。  でも仕方が無かったんだ、きっとな。  何より室内に閉じ込められて本ばかり読んでいた俺には、リオと姫様が会ってるんなら、行かない方が自分のためだって判断できるだけの経験なんてあるはずが無かったんだから。  途中何度も見つかりそうになりながらも、俺はなんとか誰にも見つからずにそこに辿り着く事が出来た。お姫様が来たせいなのか、使用人達がばたばたと忙しくしていたお陰も多分あるのだろう。  屋敷の二階、東の端の部屋。そこがリオの部屋だった。物陰から閉まったままの扉をそっと窺う。  「…………」  ここに来た事が無い訳では勿論ない。リオの様子を見に何度か足を運んだ事はあった。けれど、あの扉の中……リオの部屋に入った事は一度もなかった。  行くなら早く行けよ、と心の中で自分を叱咤する。  いつまでもインテリアの影にしゃがんで隠れては居られないのだ。見つからない保障はどこにもないのだし。  人が来る気配が無いのを確かめてから、意を決して物陰からこそこそ這い出て、そのまま扉の前まで走る。  そこでノックでもするのが普通だったんだろうが、俺の勇気は残念ながらそこまでで一旦尽きてしまった。  おろおろとドアノブと廊下の左右に視線を彷徨わせながら、どうしようどうしようとかなり今更の逡巡をする。  ――と、そこで扉の内側から小さく話し声が聞こえて来ることに気付いて、そうだこの扉を開ける前に、と俺は聞き耳を立てた。  だって折角勇気を出してこの中に入ったって、あの子が居なければ意味が無いのだから。  けれどべったり扉に張り付いてみても、何を話しているのか、誰が話しているのかの判別はつかなかった。  当たり前だ、そう易々と音が漏れる様では扉の意味が無い。  「う……よし」  仕方がないので少しだけ扉を開けることにした。そうっとそうっと手を動かして、ほんの少しの隙間を作る。  そこから覗いた室内は、俺の部屋と全く同じ装飾、家具の配置で一瞬自分の部屋に戻って来たのかと錯覚しかけたほどだった。  けれど、よく見れば細部が所々違っていた。  俺の部屋には本がかなり乱雑に散らばっているがこの部屋は何も床に落ちていない、俺の部屋の花瓶は筆記用具立てと化しているがこの部屋の花瓶にはちゃんと花が活けてあるってそんな具合に。  「……!」  ほんの少し視線を彷徨わせだだけで、目当ての人物はすぐに見つける事が出来た。  あの子だ。ベッドの上に寝そべって、心配そうな顔をしながらそこに横たわっている奴の手をぎゅっと握っている。  そいつが誰か、なんて考えなくたって解ることだったけれど、こちらを向いていないせいであの緑の瞳が見えなかったので、なんだかそこに居るのは自分であるかの様なおかしな感覚に陥った。  自分の行動を第三者の視点からただ眺めている、そんな夢を見ているような気分だった。  「リオ」  けれど彼女がそれを否定する。可愛らしい声で呼ばれた名前は、そこに居るのが俺ではないことを何より如実に語っていた。  「リオ、大丈夫? たいへん?」  「大丈夫、です。たぶん、そろそろ治りますから……」  「ほんと? でもいちどは治ったのに、また風邪になっちゃうなんてたいへんね」  「治った……?」  「治ったってゆってたじゃない。いっしょにお庭で遊んだでしょ」  「庭で……」  熱でもあるのか掠れた声でぼんやりとリオが呟いているのが聞こえた。覚えが無くて当たり前だ、それは俺だったんだから。  あの子は思い出せない(というか知らない)様子のリオを怒るでもなく、優しくよしよしとばかりに頭を撫でた。  「はやく治して遊ぼうね、リオ」  「はい、あのネージュさま。おれもう大丈夫ですから、その」  「なあに? あ、言っとくけど出ていくのはいやよ、せっかく来たんだから」  「でも、おれ風邪うつしちゃう……」  「いいわよべつに、その時はリオがおかえしに看病してくれれば」  「で、でも……」  盗み聞けたのはそこまでだった。不意に大きな手に口を塞がれて、体が浮き上がる。驚いて見れば、鬼の様な形相のジジイが俺の体を持ち上げていた。  そう、見つかってしまったのだ。あれだけ扉の前でのんびりしていれば当然のことだ、おそらく使用人の誰かが俺の姿を見つけて、迷った末にジジイに知らせたのだろう。  逃げ出す事は勿論叶わず、俺はそのままあの書庫に強制送還されることになったのだった。  「ぶはっ、な、何すんだよクソジジイ!」  口を塞いでいた手が離れて開口一番そう叫ぶと、ジジイは殆ど俺を床に投げ捨てるようにして、思わず耳を塞ぎたくなる様な大声で怒鳴った。  「それはこちらの台詞じゃわい! ラス、お前あんな所で何をしておった、大人しく勉強しておれと言ったはずであろう!!」  「う、うるさいな。弟が風邪引いてんのを心配するのがそんなにおかしいことかよ」  「心配だと! 嘘をつくにしてももっと言いようがあるだろうに、この馬鹿者めが。  お前のことだ、大方姫様に会いに行ったのではないのか、どうなんだ!」  「…………」  言い当てられて思わず口をつぐむと、ジジイは矢張りそうか、と言って大げさに肩を落としてみせた。  「だって! なんでそんなに怒るんだよ、良いじゃん別に。おれだってあの子に――」  「やかましいわ! 良いかラス、この際だから言っておくが、お前はまだあの方に会ってはならん。絶対にだ!」  「はあっ!? なんでだよクソジジイ!!」  「おじいさまと呼べと言っておるだろう!」  「お前は礼儀がなっていない、そんな乱暴な口の利き方しか出来ない者を、姫様に会わせる事など出来るものか!!」  「クソジジイはクソジジイだろ! ちゃんとした口調で喋れってだけなら別におれにだって出来る、だいたいいつもだってあばれたりなんかしてねーじゃん。お姫様の前でもちゃんと大人しく出来るよ!」  俺なりに誠意をこめた説得のつもりだったのだが、ジジイは考える様子も無くすぐに首を横に振った。  「なんでだよ! リオは会ってるじゃんか!!」  「お前にはまだ姫様にお会いする資格が無い」  「ある!!」  「ないと言っているのが解らんか!」  「じゃあリオには資格があって、おれには無いって言うのかよ。おれたちにそんなすっごい違いなんかあるのかよ!!」  「ラス! 落ち着けラス、良いか。お前とリオでは負っている役目が違うのだ」  そう言って、ジジイはぐっと身を屈めると、言い聞かせるような口調でゆっくりと話し出した。  「リオの将来はネージュ様に直接仕える侍従頭だ、幼いうちから主と信頼関係を築くも大切な役目のひとつ。しかし、お前の将来は何だ、ラス?」  「……、ジジイみてーな学者だろ。それで、城の本が腐って読めなくなる前に、新しいのに取り替える作業をするんだ」  「……その認識について色々と言いたい事はあるが、まあ良いだろう。  とにかく、今のお前にとって必要なのは十分な知識を得る事。姫様にお会いするのはその後じゃ」  「やだ!」  「ラス!!」  怒鳴られて若干涙目になりながら、俺は勇敢にもジジイを睨みあげた。  「じゃあリオがあの子と遊んでるのに、おれはここで、こんなとこで閉じこもって勉強だけしてろって言うのか!? そんなのいやだ、あいつばっかりずるい!!」  「何も一生会うなと言っておる訳ではない、お前が一人前の学者としてその将来を約束されるまでになったら――」  「別におれは本の書き写し作業する資格なんてほしくない!」  「滅多な事を言うでない! どれだけ名誉な事だと思っとる、この罰当たりめ!!」  「うるさいなっ!!」  怒りだか悔しさだか哀しさだか解らなかったが、そこで確か俺は、終にぼろぼろと泣き出してしまったのだ。止めようにも止まらない、涙が次から次から溢れ出して来る。  「お、おれはべつにっ、名誉なんてい、いらないよっ! おれ、おれはっ」  泣きじゃくりながら、俺は先程見た二人の姿を、彼女の優しい声を思い出していた。  ずるいじゃないか。リオは俺がこんなに欲しがっても届かないものを、当たり前みたいな顔をして持ってるんだ。それがどれだけ貴重なものかも知らないで。  「お、れだって……っ」  あーあー可哀想に。  俺はそもそも本気で叱られたことが少なかったから、滅多に泣く事の無い子供だった――つまり、泣き方が下手クソだった。  一度泣き出すと簡単には止まらなくなってしまうし、思考がそこで完全に働くのをやめてしまうから言いたいことの半分も言えなくなってしまう。  ジジイはそんな俺にやれやれと首を振った。  「だからお前を姫様と会わせたくなかったのだ……」  そして膝を折って俺と目線を合わせると、ぽんと頭に手を置いた。  「良いかラス。お前は生まれながらの天才じゃ。未知のことへの好奇心が旺盛で、洞察力も鋭く、物覚えも良い。頭の回転も恐ろしく速い。  だがその頭脳を持ってしても、お前が得なければならない知識の量はあまりにも膨大なのだ」  「……ずるい、そんなの。おればっか……」  「お前は特別なんじゃよ、ラス。お前の代わりは誰にも務められん。我が孫よ、わしはお前の様な優秀な子供がこの家に生まれた事を誇りに思っておる。  いつかお前はわしなどは到底及ばない様な立派な学者として、この国の将来を担う重要な人物になるだろうと信じておるのだ」  「だからこそ、ラス。今は姫のことは忘れ、自分のするべき事に集中しなさい」  「……がんばったら、姫様に会ってもいい?」  ジジイは少し困った様な顔をして、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そうだな、と返ってきた小さな声。  その言葉が俺の期待通りの意味を孕んではいないと見抜けないほど、鈍くも楽観的でもなかったけれど。これ以上は何を言っても無駄なのだとも解っていたから何も言い返さなかった。  ただ胸のうちで密かに決意していた。もし次あの子がこの屋敷に来たら、その時こそはちゃんと会って、話をして、名前を――リオでなく、ちゃんと俺の名前を、呼んでもらうのだと。  次の日から、リオは食卓に姿を見せるようになった。どうやら体調も大分回復したらしい。  しばらくは空席だった向かいに弟の姿を久々に認めて、俺は不謹慎にもがっかりしてしまった。  リオが治った、と言う事は、あの子がこの屋敷に来る理由もなくなったと言うことだからだ。  おそらく、また何か無い限りあの子に会える機会は巡って来ないだろう。少なくとも、俺には。  「つまんねーの……」  呟いて、組んだ腕の上にだらしなく頭を乗せながら、開きっぱなしの窓の外へと視線を投げる。そのまましばらくぼんやりと景色を眺めていた俺は、ふとあることに思い至って体を起こした。  窓から身を乗り出して、下の庭を見下ろす。あの子と初めて会った場所だ。  相変わらず、シロツメ草の群れが地面を埋めているのがここからでも解って、俺は思わず笑顔になる。  そう、あの子とした約束を思い出したんだ。次は俺があの子に花輪を作ってやる番だったって。  その勢いのまま部屋を飛び出して行きそうになったが、上手いこと働いた理性が俺の足を止めた。  このまま庭に走って行ったって、あんな目につくところに居たらすぐに部屋に連れ戻されるのは目に見えてる。いや、それだけなら良いが、もしここに本当に閉じ込められでもしたら最悪だ。  俺は少し肩を落として、でもすぐにテーブルの上に積まれた書物たちをきっと睨んだ。  それなら、文句を言われない様にすれば良い。言い渡された分全部を終わらせてしまえば、見つかって叱られたって胸を張って言い返せる。  「……よしっ!」  久々に勉強への意欲が戻ってくるのを感じて、俺はいそいそと椅子に座った。  そうと決まればさっさと終わらせて、庭に行こう。あの子が教えてくれた編み方を忘れないうちに、沢山練習するんだ。  ……思えば俺って健気だったよな、ホント。  それから、俺の休憩時間は読書ではなく花輪作りにあてられることが多くなった。  進行度合いを報告する様になったお陰でジジイに追加課題を出される事も増えたが、仕方が無いと割り切って諦めた。  早いとこ俺に十分な知識をつけて、安心したいんだろうって言う気持ちは解っていたし、それがあのジジイなりの孫への愛情なのだとも一応理解していたから、花輪作りを禁止でもされない限り文句は言わないつもりでいた。  ジジイもその事を察してか、それについて言及することはあれど、やめるようにと強制する事はしなかった。  「ラス、こんな所で――」  「あっ、じーちゃん! 見ろよこれ!!」  「お前はまた……」  「そーだよ文句あんの? 今日の分はきちんと終わらせてあるんだぜ! それよりさぁ、これこれ!」  大分綺麗に作れるようになった花輪を、自慢げにジジイにつきつける。するとジジイはあからさまに呆れた様子で頭に手を当ててやれやれと呟いた。  「どお、きれいだろ!」  「ラスよ、お前は庭のクローバーをひとつ残らずむしってしまうつもりか?」  「まだまだ沢山あるからへーきへーき!」  「どうしてこんなことに熱中し出したのかのぉ……」  「ほーらぁ、そんなことより見ろってぇ!」  上手に出来ていると言ってもらいたくて、ぐいぐいと服を引っ張る。ジジイはかなり適当に頷いて、俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。  「ああ、ああ上達しているとも。お前は手先が器用だな、実験の時に役に立つだろう」  「やったね! あ、それやるよ」  「これをか……いや、有難く貰っておくとするかの……。ああそうだラス、それとお前、体調はどうだ?」  「は? 元気だけど、何?」  「そうか、それなら構わん。いや、リオが体調を崩すと決まってお前も同じ風邪を引くからな」  「ふーん……」  またリオか、と若干うんざりしながら俺はジジイの言葉を適当に流した。  実は少し前から喉が痛かったのだが、そう深刻なものでもないし、何よりそれならば室内で大人しくしていろと庭に出るのを禁止されるのが嫌だったのだ。  「っくしゅ! ……くそぉ、リオの奴」  くしゃみと同時に取り落とした編みかけの花を拾いながら、ひとり恨み言を呟いた。  当たり前だが、俺は風邪を引くのが凄く嫌いだった。とにかく、いつもなら普通に出来ていることが出来なくなるってのが気に食わない。  リオが回復してからもうすぐ一週間。昨日まではそこまででもなかった体調が、その日は急に悪化した。  今まで自分でも知らぬふりをし続けていたが、あいつから風邪を貰ってしまったことはもう明らかだった。  「うう……」  今朝方から妙な寒気がするし、これはそろそろジジイの目を誤魔化すのも限界だろう。  そう覚悟して、俺はため息をつきながら机にぐったりと顔を伏せた。それなら勉強だって頑張る必要はない。無理をしたってどうせ頭になんか入らないのだから。  そのままぼんやりとまどろんでいた俺の耳に、聞きなれた足音が届く。はっとして顔を上げると、思った通り乱暴に扉が開いてジジイが顔を覗かせた。両手に大量の本を抱えている。  ずかずかと部屋に入ってきて、俺のすぐ脇にどさどさと手に持っていた本を積み上げた。  「じーちゃん、おれ……」  「ラス! 悪いが今日の授業は無しじゃ、これを――終わらせておくようにな!」  「おい、ジジイっ……」  言うが早いが俺の話など聞こうとせずにジジイはばたばたと来た時と同じ慌しさで部屋を出て行った。ったく、孫の不調にも気付かないとはとんだじい様だ。  かと言って追いかける気にもなれない俺は、そのまま深くため息をついて椅子にもたれ、置いていかれた本の山を見上げる。  「なんだこれ……」  いつもより格段に量が多い。一瞬嫌がらせか何かかと疑いかけたが、ふと気が付いた。  近頃の俺は花輪作りに精を出しているとは言え、言い渡された課題を終えるまでは今まで通りの真面目な生徒で居ることにしている。勿論、ジジイもそれは承知だろう。  と言う事は、だ。この簡単には終わらない様な量の課題の山が意味するところはひとつ――今日は俺をここから出したくないのだ。  そこまで考えた所で、動悸が早くなって行くのが自分でも解った。  そうだ、ジジイは俺を今日外に出したくないんだ。でも直接俺にそうは言わなかった。  どうしてか――簡単だ、その理由を聞けば俺がじっとしていないって解ったからだ。  ってことは、考えられる理由はひとつだけじゃないか。  「あの子が来るんだ……!」  そう考えれば、ジジイのあの慌てっぷりにも合点が行く。俺はそれまでの倦怠感なんかすぐに忘れて、窓に飛びついた。  外はまだ静かで掃除をしている使用人達の姿しか見られなかったが、そのうちそこにあの子の姿が現れるに違いないと俺は殆ど確信していた。  一旦テーブルまで戻り、窓の下まで椅子を引きずってくる。……だってずっと待っていたんだ、あと少しだけ待てば良いだけなんだ。  そう思うと、何も手につきそうになかった。外の空気は少し冷えていたけれど、俺は何時間でもあの子が来るのをそこで待つつもりだった。  到着を今か今かと待っているうち、静かだった玄関先にもやがて少しずつ人の出入りが増してくる。それでもあの子は中々やって来ない。  そのうち待ちつかれて椅子に座ったまま半ば眠りかけていた俺だったが、それでも馬車の音を耳ざとく拾ってぱちりと眼を開けた。  窓の外に身を乗り出すと、この間と同じ出迎えの光景が眼下に広がっている。――あの子だ!  そう判断するなり俺はぱっとそこから離れて、ろくに確認もせずに書庫の扉を元気良く開け放って外に飛び出て行った。  会ってどうしたいだとか、そう言うことは全く考えていなかった。  ただもう一度会いたい、それだけだった。  書庫を飛び出してから、俺はこの間と同じく屋敷内を使用人達の眼を逃れながら散々探し回ることになる。部屋から部屋へ、廊下から廊下へ。  そうして、やっぱり今日もこの前の時の様にあの子は東のリオの部屋の方に居るのだろうと見当を付けた。  もしまたリオの部屋に二人で居たとしても今度こそはちゃんと入っていこうと意を決して、屋敷の東へ続く庭に面した渡り廊下を走って通り抜けようとしていた時だ。  「……!」  庭に広がる緑の中に、ひらひらとした綺麗な赤を見つけた。足が自然と止まる。  捜し求めていた姿が突然、予期せぬ所で見つかって、思わずどうして良いやら解らなくなって俺はただその姿を見つめた。  特に目ぼしい花のひとつもない、ぱっとしない庭の真ん中に、あの子が座っている。周りにはシロツメ草の花。  何もかもがあの日の通り――  そう、彼女の横に座っている誰かの存在さえも、あの日の通りで。  (おれ……?)  ああ馬鹿だな。違うよ、違うに決まってんだろ。  目は良いはずだろ、ちゃんと見ろよ、解るだろ? お前じゃないよ。見えないのか、あいつの  (みどり、の目……)  錯覚は、一瞬で消える。そこに、彼女の隣に居たのはリオだった。  あの子の隣に座って、嬉しそうに、楽しそうにお喋りをしながら、小さな手でせっせと白い花を集めて編んでいる。  それだけ。  「…………」  それだけ、だったんだ。少し考えれば解る、当たり前の光景。だってあの時の俺は『リオ』だったんだから。  でも、それで俺には十分だった。  ぐらぐらと急に足元が不安定になる。泣くことも忘れて、俺はすぐ傍にあった柱に手をついた。  そんな言葉を、確かに聞いた。  柱の影で青ざめている俺には気付かずに、あの子とリオは楽しげに笑っている。何を話しているのかは解らなかったけれど、でも。  楽しそうなあの子の表情が。  それに応えるようにして笑うリオの笑顔が。  そしてこの間盗み見た二人が、ぎゅっと握り締められていたリオの手、いたわる言葉、大丈夫と尋ねる優しい優しい声、全てがぐるぐると頭の中で回っていた。  結局、俺の欲しがっていたものは、最初から手の届かない場所にあったんだ。  たとえ今後俺が正式な形で彼女に紹介されることがあったとしても、俺がリオでない限り、俺がリオになれない限り、それはすぐ近くにあるようでも、絶対に俺のものになる事なんてない。  その時、そう解っちゃったんだよ。だってさ、  茶色の髪が揺れる。立ち上がって、完成した花冠をあの子の頭にそっと乗せる。あの子はそれで、嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうに笑ってみせる。  ……あれは俺だ。  ほんのすこし、運命が違っていて。ジジイが後継者に俺を選ばなかった場合の、俺の姿。  だからいらないんだ、ふたりもいらない。  どうしてあの時、二人が一緒に居るのを見たあの時に、諦める事が出来なかったんだろう。頭の隅では解っていたはずだった。  ジジイは俺を特別だと言った。代わりのきかない、特別な存在なのだと。  リオもきっとあの子にとってそうなのだ。  代わりのきかない、唯一無二の特別な存在。  「ずるいよ……っ」  口に出して、はじめて涙が零れた。嗚咽を漏らす事も無く、俺はただ静かに涙を零した。  慰めてくれる人なんてどこにもいない。もし俺がリオだったら、泣きたい時はあの子が優しく慰めてくれるんだろうにと思うと余計に惨めな気持ちになった。  なんで違うんだ? なにが違うんだ?  こんなに似ているのに、嫌になるほどそっくりなのに、どうして俺達は違う、別個の存在なんだろう? どうして違う役目を与えられたんだろう?  学ぶ事は好きだった。決められた将来にも不満は無いはずだった。  だけど毎日、何か足りないものがある気がして、正体の解らない不安を漠然と抱えていて、答えを紙の上に求めて古今東西様々な物語を、人の描いた世界を覗いて回った。  だけど、さみしい、なんてさ。  そんな気持ちはただの言葉としてだけ知っていればよかったんだよ。  涙は止まらないまま、それでも俺はその場を離れようと足を動かした。  なんだか急に熱が上がってきたようで上手く歩けなかったけれど、あの二人に見つかることだけは避けたくて書庫を目指して歩き続けた。  辿り着いた記憶は無いから、多分途中で見つかるか倒れるかしたんだろう。  どこか、途中で諦めて眼を閉じて。ひどく眠くて、全て忘れたくて、何も考えたくなくて、そのまま引きずり込まれるようにして意識を失って――  そして、次に眼を開けた時には俺は自分の部屋のベッドの中に居た。部屋の中に居た使用人が俺が眼を覚ましたことに気付いてばたばたと出て行って、ジジイを連れて戻ってくる。  流石に心配そうな顔をしているジジイに少し驚いたけれど、ああでも多分、リオの時もこうだったんだろうなと思うとまた泣けて来てしまった。  「ど、どうしたラス。どこか悪い所でもあるのか」  悪いのはぜんぶだよ、馬鹿だなぁじい様。そう思いながら、俺は止まらない涙はそのままに、ぎゅっと布団を握った。  「じーちゃん、おれ、本読みたい……」  「は? 何を言っとる、そんな状態で何をやっても――」  「読みたいんだ、持ってきてよ。お願い、勉強したいんだ。  おれ……一生懸命やる、から」  「……どうかしたのか、ラス? お前何かあったのか?」  「別に、ただおれにとって一番大事なことがそれだってわかっただけ……。  ねぇじーちゃん、頼むよ、できなくってもしようとしてたいんだ、今はっ」  でないと寂しくて。  さみしくてさみしくて、多分このまま死んでしまう。  だって俺には手を握っていてくれるあの子は居ないのだから。  切羽詰った俺の様子を訝しがりながらも、ジジイは頷いて学術書を一冊持ってきてくれた。  物語の本でなかったことはかえって有難くて、俺は何度も何度もそれを読んでは眠るを繰り返した。  どんな時でも、知識は変わらず俺の傍に居てくれた唯一のものだ。それと向き合う時だけは、何もかも忘れてそのことだけ考えていられる。  それがその時の俺にとって、何よりも大切なことだった。  食事の時も、とても起き上がれる状態じゃない時も、持ってきてもらった本を片時も離さずそばに置いていた。  眠るときも、すがるようにそれを抱きしめて眠った。  そうまでしても、閉じた瞼の裏に、勉強の合間ふと顔を上げて見た窓の外に、何気ない会話のところどころに。  あの子とリオの存在を感じずには居られないのがひどく苦しかった。  何日かが経って、やっと熱が引いて、そして久々の食事の席でリオの姿を見つけた時。  その時ようやく、ああ人って寂しくても死なないんだって気が付いた。  それから俺は、流石に本を抱きしめて眠るような事はなくなったけれど、異常なほどに勉学に没頭するようになって行った。  当時は気付かなかったけれど、使用人の間では『高熱に頭がやられた』とか言う噂が流れていたらしい。まったくもって失礼なことだ。  俺はただ、忘れようと思っただけだ。忘れよう、忘れなくちゃ、思い出さないようにしなきゃって、必死になってた。  誰も悪くないと理解出来るだけの頭があったから、誰かを憎むことすら上手くできなかったし、こんな情けない泣き言を聞いてくれる人なんて自分には居ないことも知っていたから。  だから、自分で自分のことを慰めてた。  大丈夫、大丈夫、って。  リオの顔見るたびに哀しくなったって、泣きそうになったって、誰も気付いちゃくれないんだぞって。  哀しむだけ損なんだから、早く忘れてしまおう、大丈夫だよ、もっと他にも楽しい事なんて沢山あるよ、ってさ。  可哀想になぁ、俺。  大丈夫、哀しいの、元気出して、よしよし、ってさ。  優しく慰めて欲しかったんだろ、本当は。  可哀想、可哀想。  きっと他には誰もそんな風に思ってくれないだろうからさ、やっぱり俺は、俺だけは俺の味方で居てやりたいんだ。  あの毒を飲んだのだって、完全に自分勝手な理由からだ。何の言い訳もしようとは思わない。  思わないさ、本当だ。俺は逃げたんだ、卑怯で身勝手な臆病者の最低野郎だよ、わかってる。  わかってて、何もしない俺は本当に最悪だ。  だけど結局のところ、眼を背けるその道を選んだ最低な俺に、それでも頑張ったよなって言ってやりたいんだよ。  それを恨んだりはしないけどさ。  あの子やリオには、きっと解らないんだろうな。こう言うの。  俺が人殺しのための毒薬の精製法を習ったのは、それから随分後のことだった。  それまでに季節は一回転したけれど、俺の勉強への熱が冷める事は無かった。  毎回の食事時ももう辛くはなかった。あの子のことを思い出しても胸が痛まなくなった。そんな頃のことだ。  自分でも驚くほどに進みの速かった俺に、ジジイが初めて『毒薬』の作り方を教えてくれた。  アリアナの葉から作る、人を苦しませて殺す毒。同時に解毒薬の方も教えてもらった。  決して興味本位の精製はするなときつく言い含められたけれど、俺はフラスコの中に揺れる水と大して変わらない液体に人の命を奪う力があるだなんて、その時はまだ少し信じられない気持ちだった。  目の前で揺れる透明な液体。あんなどこにでも生えていそうな葉っぱから、人殺しの薬が作れるとはどうにも思えなかった。  そうジジイに伝えると、それなら使ってみれば良いと簡単に言って、今朝屋敷の庭で捕まえられた大きなネズミの入った籠を机の上に乱暴に置くと、手を突っ込んでネズミの首元を上手く掴んで宙にぶら下げた。  「良く見ておくのだぞ」  ジジイはそれだけ言うと、俺が何を言う間も無くその透明な液体を苦しそうに開いたネズミの口に流し込んだ。  そしてぱっと手を離す。効果はすぐに表れた。机の上に落とされたネズミが、引きつる様な音を立てて鳴き始める。  驚いて思わず仰け反った俺の目の前で、ネズミはやがてびくびくと痙攣しながら息絶えた。  「……死んだの?」  「ああ、怖いか?」  正直に首を縦に振る。ネズミとは言え、立派な命だ。それをものの数分足らずで奪ってしまった。先程自分が調合した、あの水みたいに無害そうな液体が。  そんな俺に満足した様子でジジイは頷いた。  「それで正しい。ラス、これはとても恐ろしいものなのだ。お前はそれを忘れてはいかんのじゃよ」  「…………」  命の重みをきちんと知ること、それは毒性学の道を進む者にとって何より大切なものだとじい様は言って、フラスコの中に余っていた薬を小さな瓶に注ぎ入れる。  毒薬が瓶を満たして行くのを眺めながら、俺は前に読んだ双子の話を思い出していた。  醜い妹をそれでも愛した姉と、そんな姉を憎んだ妹。  どろどろとした愛憎劇とは無関係の顔で、妹の名を冠した植物から作られた毒薬は静かにガラス瓶に注がれて行く。  「これ、飲んだら死ぬ?」  「試すのはあまり得策とは言えんな」  そう言って、ジジイは俺に薬の入った瓶を押し付けた。  戸惑いながらも受け取ると、今日一日は持っていなさいと言いつけられて面食らう。  こんな恐ろしいものを持っているなんて嫌だったが、返そうとした小瓶を、ジジイは受け取ろうとはしなかった。  「持っていなさい。さすればお前にもその恐ろしさが身に染みて解るじゃろうよ」  もうわかってる、と言う言葉は受け付けられなくて、仕方がなく俺は上着のポケットにそれを仕舞い込んでおくしかなかった。  それからその日は一日中、その奇妙な存在感に悩まされ続けた。  忘れようとしてもそこにある、殺人用の薬。  これひとつで、簡単に命を奪ってしまえる。そんなものが、自分のすぐ傍にある。  それだけでもう、色んなことが手につかなかった。いつも通りに勉強をしようとしても、物語を読もうとしても、いまいち落ち着かなくて身が入らない。  何も出来ないまま夕飯の時間が近付いて、書庫でひとり悶々としている事にも飽きた俺は気まぐれを起こし、いつもより大分早い時間に食堂へと足を向けた。  テーブルの上には既に食器が並べられて、飲み物やパンが用意されていたけれど、席についている者は流石にまだひとりも居らず、使用人達が忙しそうに行き交っていた。  いつもならかなり遅れてやって来るはずの俺が、誰より早くやって来たことに気付いた女給があら、と声を上げた。  「まぁ珍しいこと、リオ坊ちゃまかと思いましたよ。どうしたんですか、こんな早くにいらっしゃるなんて」  「え、えっと……なんとなく」  ポケットに毒薬があるから落ち着かなくて、なんて答えるのは躊躇われてそう言葉を濁すと、女給はまあまあ、と何故か訳知り顔でにっこり微笑んだ。  「照れていらっしゃるんですか? わかりますよ、リオ坊ちゃまが居なくなってしまわれるから、流石のラス坊ちゃまもお寂しいのでしょう」  「……へ?」  意味が解らなくて聞き返した俺に、女給は益々笑顔になる。  「まぁとぼけちゃって。明日からリオ坊ちゃまは城に上がられるのでしょう、お夕飯をご一緒出来るのも今日でしばらくはありませんものね」  「城に……? ま、待って、どう言うこと? リオ、この家出てくの!?」  「あら……? 嫌だ、そんな。まさか知らないなんて言いませんよね、ラス坊ちゃま……」  不思議がりながらも女給は俺に教えてくれた。リオは、明日からこの家を出て、城で暮らす事になるらしい。  姫様の従者として、そこで様々な事を覚えていくのだそうだ。  「へえ、そう……なんだ」  どうかなさったんですか、と心配そうに尋ねてくる女給に適当な返事をして、俺は自分の席に座った。  自分の目の前に用意された食器や水の注がれたグラスを何とはなしに眺めて、それから向かい側に視線をやる。  当たり前だが、そこにはまだ誰も居なかった。  これから来るはずのリオの姿が、上手く思い出せない。何故か自分の姿が浮かんできてしまうのだ。  「城に……」  城に行く。あの子の、もっと傍に行くんだ。  久しぶりに脳裏をあの二人の姿が掠めていった。楽しそうな、幸せそうな、あの、空気――  「…………」  不意に、どこからかどろどろとした感情が湧き上がって来た。そんなのずるい、と久しぶりにその声を聞く。  リオが、リオだけが、なんでも持ってるなんて。あんな風に幸せだなんて。  自分が急に不幸に思えて、俺は向かい側の空席をじっと睨んだ。浮かぶのは矢張り、自分の姿だ。  もうひとりの俺。何も差なんて無いはずなのに、どうしてあっちばかりが持ってるんだ?  自分の分の幸せを、『もうひとり』に取られているような気がした。俺から散々奪っておいて、逃げるなんて許せないと、そっちがその気なら俺だって、と。  そう、思って。  食堂の扉が開く音に、びくっと体を強張らせる。叔父たちと共に入ってきた父が俺の姿を見つけて、驚いた様子で声をかけてきた。  何を喋ったかは覚えていない。  ただ、からっぽになった小瓶をきつく握り締めながら、心臓の鼓動が他の誰かに聞こえないようにと、そればかりを祈っていた。  やがて向かい側の椅子が引かれて、誰かがそこに座った気配がすると、俺はもう顔を上げることすら出来なくなった。  俯いたまま全員が揃うのを待って、視線を下に落としたままで父のリオへの静かな激励を聞いた。  食事が始まって、何か食べなければと伸ばした手がグラスを掴んではっとする。  思わず視線を上げると、そこに座っているのは俺でなくリオだった。  いつもは不気味に感じていたはずのその姿に奇妙な違和感を覚えて、すぐに気が付いた。  記憶の中にあるリオの姿と、そこに座っている同い年の少年の姿がズレている。  そうだ、俺はあの日から、リオのことを見ないようにして過ごしていたんだ。  姿を見ると哀しくなるから、比べた自分が惨めになるから。  だからずっとずっと眼を逸らして、こんなに長い間。  記憶の中の姿より少し幼さの抜けた顔立ち。背も少し伸びている。  恐らくそれは自分も同じで、よくよく考えてみればその姿はいつも鏡で見る自分と同じものだったが、その時の俺の目には一瞬でもリオが全く違う誰かのように見えたのだ。  唯一変わらない緑の瞳が俺を不思議そうに見つめて、空になったグラスをとん、と静かにテーブルの上に置いた、その音で。            世界が凍りついたような気がした。  俺の世界に音が戻るより先に、リオがぐっと小さな声を上げる。苦しそうに表情が歪んだ。  弾かれるようにして席を立った俺の目の前で、その体はずるりと滑って崩れ落ちた。  「リオっ!!」  思えばこの時、初めて弟の名前を呼んだ気がする。  テーブルを回り込むなんてまどろっこしい事をしている余裕なんてなくて、俺はそのままテーブルの上を横断して倒れた弟のすぐ傍に飛び降りた。  苦しそうに呻く体を揺すって、必死で名前を呼ぶ。急にぐったりとして力を失ったリオに、それでもなお呼びかけるとやがてうっすらとあの緑の瞳が開いて俺を見た。  よろよろとのびて来た手が、丁度触れた俺の服をぎゅっと掴んで、あいつは苦しそうに口を開いて、  「……っ」  ……え?  あれ、なんだっけ。あの時リオは俺に、何て言ったんだったろうか。  ……思い、出せない。  不意に全ての音が消えてしまった。視界から色まで消えて行く。  ……あ、そうか。これでおしまいか。  そう気付いて、誰にとも無しにひとり笑った。  本当に、ろくでもない記憶ばっかりだ。可哀想な俺。だけど、いくら可哀想だからってこんな事して許されて良い訳がない。  ちゃんと目を上げて、リオのことを見れば良かったんだ。勇気を出して、二人の所に行けば良かった。  言葉で言うだけなら、こんなに簡単そうなことなのに――  その日、ラスはなんだか妙に機嫌が悪かった。  機嫌が悪いと言うより、反応が薄いと言うか、いつもよりどこか冷めていると言うか。  そこまであからさまでないから指摘はなんとなく出来なかったけれど。  「ふうん。じゃあ、ノクシア様と和解出来たんだ?」  「別に、そもそも喧嘩なんかしてないわ。それに認めたつもりも無いわよ」  「でも、今までよりは仲良くすんだろ?」  「まあ、誘われたら行ってやらない事もないわ」  いつも通りの時間帯。作業台を片付けるラスを気持ち程度に手伝いながら、先日ノクシアの誘いに初めて乗った日のことを話題にしていた。  出会った日からラスは結構な頻度で私とノクシアの仲を気にしていたし、あんまりうるさく言われるのも気に障るからと思って報告してあげたのだ。  「良かったじゃん。楽しかったんだろ?」  「別に楽しくなんかないわよ。まあでも、そうね……ノクシアと居るとエステリオの意地悪が減るから、そこだけは良いかもね」  「素直じゃねーの」  「なによ、馬鹿にしてる?」  「してないしてない。いやもう、あんたとノクシア様がそこそこ打ち解けたのは素晴らしい事さ。  義理でも兄弟なら、仲が良いに越したこたねーからな」  「それにしてはさっきから適当な返事ばっかりするわね」  「あー……」  そうかな、なんて生返事を返しつつ、ラスは湿らせた布でごしごしと一心に机にこびりついている汚れを落とそうと奮闘している。  仕事で使うものの手入れなんだから仕方が無い、と思いつつも私はひっそりため息をついて、肩をすくめた。  「今更落ちないわよ、そもそももう出て行くんでしょ? なんでそんな熱心に掃除してるのよ」  「いや、出てくからこそ? 思いつくことは大体全部やり切っていきたいなーとさ……クソッ、落ちない。  もっと掃除する習慣つけときゃ良かった」  「蹴ったって汚れるだけよ」  「解ってるよ」  腹立たしげに作業台を蹴りつけて、雑巾をすぐ足元に置いていた錆びたバケツに突っ込んで、ラスは大げさにため息をついた。  日頃から片付いていない部屋や、所々に厚く積もった埃。彼は明らかに掃除が下手な部類の人間だ。  細かい所ばかり気にするせいで、結局全体的な掃除がはかどっていない現状を見ていても解る。  「掃除するの下手くそね」  「ここの掃除はあんまりしないんだよ、寝たりするとこはそもそもあんま散らかさない様にしてるし」  「少しは弟を見習いなさい」  「何年も会ってねーのにどうやって見習うんだ」  そう拗ねた口調で言い返すと、ぐぐっと伸びをして肩をぐるぐる回す。目をぱちぱちと気だるげに瞬かせて、もう一度長く息を吐いた。  「駄目だ。もー、ちょい休憩な」  「ちょっと、もう? 昨日と殆ど変わってないわよ」  「うるせーなぁ、俺はリオと違って掃除が苦手なんだよ」  「見てれば解るわ。エステリオなら一日あればこの部屋くらい綺麗に出来るわよ」  「ふん、あいつだって万能じゃないさ」  どさりとソファに体を沈めるラスを、背もたれに腕を乗せて後ろから覗き込む。  「ねぇ、仲直りしないの」  「なんだよ、突然だな」  「だって。私から見るとあんた達って多分、結構理想的な兄弟なのよ」  「お互いに無いものをお互いが持ってるような気がするもの、それなのにこんな他人同士のふりしているなんて勿体無いわ」  「勿体無い、ね。俺だって思うよ、仲直りだってしたいさ。だけど無理なんだ、前にも言っただろ?」  「どうして?」  「どうして? そうだなぁ……」  以前はうまい事はぐらかしたその質問に、ラスはぼんやりとした眠たそうな目をして答えを言うか言うまいか考えるような素振りを見せた。  「……俺が悪かったんだよ」  「何かしたの?」  「うん、した」  「なにを?」  「教えらんない……か、な。今は」  いつか教えても良いけど、と力なく続いた言葉に、私は内心首を傾げた。  いつかっていつ、と尋ねると、ラスは口元だけで笑って私を見上げる。  「別に今教えたっていーよ。あんたが、もう俺んとこに来ないつもりなら」  「え? もう完成なの、あんたが作ってるの」  「いや、まだだけど。ただ、姫様が俺のとこに来てくれてたのって、ノクシア様やリオとの不仲が理由だったろ」  「でもそれ一応なくなった訳じゃん。だからさ、もう来ないかもしれないなー……って言うか、普通そうだろ? だか――いてっ」  「何勝手に人の行動決めてくれてるのよ」  ラスの頭を小突いた拳を解く前に、私はわざと睨むような厳しい目をして彼をまっすぐ見つめた。  「まさかとは思うけど、それで今日ずーっと機嫌悪かったんじゃないでしょうね」  「え、俺機嫌悪かった? それは掃除のせいだと思うけど……」  「べ、別にどっちだって良いけど……でも、とにかくもう来ないなんて誰も言ってないでしょ!」  「じゃあ来てくれんの」  「来るわよ」  「…………」  即答すると、ラスは少し間を置いてから不意に体を起こし、ソファに膝を付いて私をまじまじと見つめてきた。  「な、なによっ」  「んー……」  思わず少し身を引いた私を、ラスは相変わらず変な顔でじっと観察するように見つめている。  眉間にぐっとしわが寄っているから、まるで睨まれているみたいだ――なんて思っていたら、ふと眉尻が落ちて、一転しょんぼりとした表情に変わる。  「……俺さ、情けないね」  「それこそ今更だわ。ついでに言うけど、今の自分の顔鏡で見てみなさい、捨てられた犬みたいよ」  「そこまで? あー、やだやだ。慣れない掃除なんてするもんじゃない……リオが普通に俺の弟だったらなぁ」  「普通に弟でしょう、そっくりな顔して」  「兄弟だけど他人だからさ。普通の兄弟みたいにさぁ、迷惑かけてかけられて、持ちつ持たれつっての、そう言う感じだったら良かったなぁ」  「それだったらこの家だってもう少し片付いてたかもしんないし……。俺だってもう少ししっかりしたかも……」  「だから仲直りしなさいって言ってるのに……きっと許してくれるわ」  「今更、なんだよなぁ。多分、俺の世界は凄く狭いけどあいつは違うだろうからさ」  「許す許さないって言うか、俺のことなんてもう、どうでも良いんじゃねーかな……あいつの中では、双子の兄貴なんて存在ごと抹消されてるかも」  「なに言ってるのよ。そんな訳ないでしょ?」  「いや、俺だったら多分そうすると思うからさ。あーあ、なんであんな事したんだろ……でも、」  今は教える気がないくせに、ラスはそんな独り言めいた言葉を呟いてソファにごろりとだらしなく体を横たえた。  「なー姫様、俺そのことについてはすっごい後悔してるんだけどさ。でも、何度やり直したってきっと同じ事すると思うんだよなー……」  俺って情けないね、と仰向けのままでまた言って、ラスは子供っぽい笑顔を見せた。  あの後、結局私は頭の中を整理する事すら出来ずに、そのままふらふらと城に帰って来てしまった。  いつもより随分遅くなってしまっていたから、きっと何か言われるだろうと思ったのに、驚いた事にエステリオは特に何を言う訳でもなくいつも通りだった。  けれどそれについて疑問を感じる余裕も無かった私は、文句を言われず済むのなら有り難いとエステリオが元々寡黙なのを良い事に考え事に没頭して――  言われるまま、体だけはいつも通りのスケジュールに則って動いていたけれど、頭の中では言い表し様のない不安みたいなものがずっと渦巻いていて、そればかりに気持ちが行ってしまっていた。  だけど沢山の事を考えたはずなのに、どんな考えも浮かんで来ない。  私は何をそんなに気に病んでいるのかしら。ラスとはもう会えない――そうだ、もう会えないんだった。  だからいくら考えたって仕方が無い、それなのに……。  扉の向こうから聞こえてきたあの重たい鍵の音が、何故か耳について離れてくれない。  彼はもうこの国には居ないだろうか。それとも、まだ今ならあの家に居るのだろうか。  きっとそうだわ、だって旅支度をしている様子もなかったし、あの後すぐに家を出た可能性は低い。  だけどそんな事を考えて、私、一体どうするつもりなのかしら。私――  「ネージュ様」  「!!」  不意に肩に手を置かれて息を呑んだ。顔を上げると、エステリオが少し不思議そうな顔をしてこちらをじっと見つめていた。  ……その顔が、声が、ラスと重なる。そっくりな顔、そっくりな声、だけど確かに違う、彼の兄弟。  「な、なによ……びっくりしたわね……」  「何度も声を掛けたのですが」  「えっ。う、うそ。聞こえなかったわ」  「俺が嘘をつく訳が無いでしょう」  ため息混じりにそう言って、エステリオは少し眉を寄せる。  「どうかなさったんですか、ネージュ様。今日はずっと何か考え込んでいらっしゃる様ですが」  「…………」  緑の瞳を見上げて、彼に頼れたならどんなにか気が楽だろうと少しだけ考えた。だけど、ラスのことを思うと――ラスのことを、思う、と?  ふっと心の中で疑念が首をもたげる。彼のことを思うなら、私はエステリオに告げるべきではないのかしら?  あんなに寂しそうな顔をして、もし普通の兄弟だったならと一度ならず口にして。  ラスは『後悔している』と言っていた。だけど許される筈がないってそう決めているみたいだった。  確かに、彼の言葉が事実なら、到底許されるような行為ではないと、傍目から見ればそう映る。  なのにこんなに気持ちが落ち着かないのは、ラスがこのまま居なくなってしまうことが、何か取り返しの付かないことみたいに感じるのは――  そこまで考えて、私はようやく、ひとつの答えのようなものに行き当たった。  そうだ、エステリオだ。以前兄弟について聞いた時の、態度と言葉。言おうと思っていることがある、とエステリオは言った。  好きか嫌いかについてはよく解らないと言っていたけれど、仮にも自分を殺そうとした相手のことだと言うのに、その時のエステリオからは特別なものは何も感じ取れなかった。  ……そう、至って普通、だったのだ。  「ね、ねえエステリオ。ちょっと変な事聞くけど……その、あ、あんまり気にしないで答えて欲しいの」  「構いませんよ。今更、多少のおかしな質問では驚きません」  「な、何よ。私そんなに変な質問した覚え無いわよ――まあ良いわ、とにかく。  その、えっとね……前に、兄弟について質問したことあったでしょう」  「ええ、ありましたね」  「好きか嫌いかって、聞いたわよね」  「ええ」  「あんたあの時、解らないって答えたけど……それは、その、好きでもないけど、嫌いでもないってこと?」  「……いえ、違います。好き嫌い以前の問題なんですよ、まだ出会ってもいない人間を、好いたり嫌ったりは出来ないでしょう」  「勿論出会っていない訳ではありませんけど……まあ、似たようなものです」  「じゃ、なんとも思ってないの?」  「ええ、思いようがないので」  「憎んだり、恨んだりしてはいないのね?」  「……ネージュ様」  そこでエステリオは何故か呆れた表情で少し肩をすくめて、ちらりと扉の方に目線を一瞬やると、はあっと大げさに息を吐いた。  「もしかして隠すつもりが無いのですか?」  「知らぬふりを通すのも、正直ここまであからさまだと疲れるんですが」  「え?」  「俺の弟に会ったんでしょう、今まで黙っていましたが、面倒なのでもう――  なんですか、ばれていないとまさか本気で思っていらっしゃったんじゃないでしょうね」  「え、ええっ!? な、何言ってるのあんた……ええ!?  し、知って、えっ、だ、だってあんたノクシアの相手……」  「だからってネージュ様を日中ずっと放っておくなんてこと、あるはずが無いでしょう」  「俺は貴女の従者ですよ、大体おじいさまの所へ毎回昼食の差し入れに行っていたのは俺なんですからね」  「でも、でも先生は……」  「繰り返しになりますが、俺は貴女の従者ですから」  「おじいさまは俺の口が堅いのも知っていらっしゃいますし、知らせておいた方が良いと判断して頂けたんでしょうね」  「な、ならどうして……」  「環境も変わって、城では気詰まりになることもあるのだろうと思いまして」  「弟のことは良く知らないので危険かとも思いましたが、ネージュ様が信頼なさっている様子でしたので、一応黙認しました」  「勘当されたとは言え、兄弟である事に変わりはありませんし、何か危険なものと繋がっていると言う話も聞かされていませんでしたから」  「そ、それって……」  「……まだ聞きたいですか?」  「俺は貴女がここ最近よく城を抜け出して、弟に会いに行っていたことを知っていて黙認していた」  「今はそれだけで良いでしょう、ネージュ様。俺に質問したい事と言うのは、もっと違う事なのではないのですか?」  確かにそうだ。まだ聞きたいことは沢山あったけれど、ひとまず後に回す事にする。今一番聞かなきゃならないのは、私でなくてラスのことだもの。  驚いたけれど、エステリオが自分から話してくれたお陰で随分質問がし易くなったし――まさかそれを見越してなんてことは、ない、だろうけど――私はもう一度、さっきの質問をし直すことにする。  「それじゃあ、もうストレートに聞いちゃうけど……。あんた、えっと、昔ラスに……」  「ああ、それですか。ネージュ様が知っているって事は、弟が自分から話したんですね。意外です」  「ほんとうなの? その、毒……」  「本当ですよ。お陰様で、生死の境を彷徨いました」  「ず、随分軽く言うのね……。恨んだり憎んだり、してないの?」  「はあ、まあ……それについては、特別そう言うことは。俺はこうして生きている訳ですから――もしもあの時死んでいたら、多分呪い殺す位はしたでしょうけど」  「…………」  「ですから、死んでませんからね。別に……何も感じない訳ではありませんが、憎いとかそう言う感情ではありません」  「そう……」  エステリオの答えに、少しおかしい位に安心した私が居た。  どうして、なんて考えるまでもない。私がラスを好きで、エステリオも好きだからだ。  憎んでいない、と言うその一言に、なんだかラスへの好意を許されたような気持ちになったのだ。  「ねえ、じゃあラスのこと……エステリオ、あんたは私に何か聞きたいことは無いの?」  「聞きたいことですか?」  「そうよ。あるの、ないの?」  重ねて尋ねると、エステリオは少し躊躇いながらも浅く頷いた。  「あります、が」  「どんなこと?」  「……弟は、俺について何か言ってましたか?」  「…………」  「……言ってたわ。普通の兄弟として育ちたかったって、本当は仲良く出来たら良いけどきっと無理だって」  「あんたと似てるって言ったら喜んでた。離れてても双子なんだって……毒を……」  ラスの話をすればするほど、エステリオの眼が優しくなって行く気がして、思わず涙が滲んだ。  どうしてどうして、ラスはエステリオと話そうとしなかったのだろう?  やっぱり他人同士なんかじゃなかったじゃない、エステリオはちゃんとあんたに興味があるし、憎んでだっていないんじゃない。  勘当された彼の立場上も、その理由からも、弟とコンタクトを取る事は容易ではなかったのかもしれない。でも、それでも諦めるべきではなかったのだ。  「毒を飲ませたこと、後悔してるって……やだ、やだもう、どうしようエステリオ。大変だわ……」  「どうかなさいました……ネージュ様? 泣い――」  「私はいいの、ラスよ! あんたの弟、もうすぐこの国から居なくなっちゃうのよ。もう戻ってこないつもりなの!」  「あんたと仲違いしたまま……きっと恨まれてるって思ってるのよ。殺しかけたんだもの、そう思うのは当然だけど……」  「でも、でもこんなの駄目よ、一言も話さないまま行っちゃうなんて!」  明るくて、エステリオと違って良く笑うラス。そんな彼が最後に私に罪の告白をした時に見せた、苦しそうな表情。  誤解をしたまま一生背負って行くだなんて、ラスにとっても、多分エステリオにとっても不幸にしかならないのに。  確かにこの二人の間には、容易には埋まらない溝がある。だけど二人が望んでいる限り、可能性が潰える事は決してないはずなのだ。  余計なお世話かもしれない。だけど知ってしまった以上、そして私がこの兄弟に多少なりとも好意を持っている以上、  あんな辛そうな顔をして、何も知ろうとせずにここから去ってしまおうとするラスを、とても放ってはおけないと思った。  「い、今すぐラスのところに行くわよエステリオ、今ならまだ間に合うわ、きっと……」  「ネージュ様。ネージュ様、落ち着いてください」  「落ち着いてなんか居られないわよ! で、出て……居なくなっちゃうのよ、もう二度と会えなくなっちゃうかもしれないのよ!」  「大丈夫です、解りましたから。ネージュ様、声を落として」  言われて初めて、思わずいつもみたいに声を上げてしまっていた事に気付く。慌てて口をつぐんだ私に、エステリオは彼にしては珍しく少し困惑している様な表情をした。  「ネージュ様、確認ですが……弟は貴女に何と言ったんですか? 国から居なくなる、とは……」  「さ、最後の仕事なんだって……それが終わったら、この国から居なくなるってそう言われたわ」  「……それはおかしいんです、ネージュ様。便宜上は勘当とされていますが、実際の所弟はアンブローズの屋敷から隔離されて、軟禁されている様な生活です」  「今ではもう監視もありませんし、状況報告の義務が課されている程度の筈なので限りなく自由に近いとは思いますが、この国を出るなんて事は出来る筈がありません」  「あいつは既にこの国特有の毒性学の知識を多く得ている、重要人物です」  「正式な許可を得ない限り国外へ行く事は不可能ですし、今の弟に許可が下りる事はまずあり得ません」  「それに弟は、もうすぐアンブローズの家に戻される予定で……」  「え……? じゃあ、それは……どう言うこと?  それが『居なくなる』ってことなの?」  「それは……恐らく違うかと。  とにかく、細かい事は俺にも解りません。ネージュ様に嘘をついていたのか、何らかの方法を見つけたのか……」  嘘、と聞いてはっとする。そうだ、ラスはエステリオと違って、絶対に嘘をつかない、と言う約束なんてしていないのだった。  つい信用していたけれど、私が気付かなかっただけで、もしかしたら彼の言葉には他にもいくつかの嘘が混ざっていたのかもしれない。  だけど……。  確かにラスは嘘をついていたかもしれない。でもきっと、自分を偽って私に接していた訳では無いと、私はそう信じずには居られなかった。  だってあの言葉が、表情が、嘘だったなんて思えないもの。  そっと左の頬に手で触れる。そうよね、ラス。でなきゃ、さよならのキスなんてするはずないわ。  「でも、でも早く会いに行った方が良いと思うの。会いに行かなきゃいけないと思うのよ」  「だって全部が嘘だったとは思えないもの……なんだか嫌な感じがするのよ。  さよならの――その日が来るの寂しいって言っていたの、それは本当の気がして……」  「何か、私には言わなかった理由がきっとあるんだわ。だから……」  「ええ、解りました。解りましたから」  「とにかく今日はもうこんな時間です。仮に何らかの行動を起こすとしても、今日中にあの家から出て行く可能性は低いかと」  「俺が……俺が明日、弟の家まで様子を見に行きます、場合によってはおじいさまにも知らせて……」  「私も行く!」  エステリオがラスの所へ行く間、城でじっとしているだなんて出来る訳がなかった。大体突然二人きりで会わせるのだって不安だったし、それに何よりラスの事が気がかりでもあったから。  私が叫ぶと、エステリオはやれやれと首を振って、偉そうにため息をついた。  「止めても聞いては下さらないんでしょうからね。  ただ、勝手な行動は謹んで頂きますよ」  「何よ、いつもは私だけで行ってたんだからね……」  憎まれ口を叩きながらも、私は不安を消せずにいた。本当はまだ、今すぐ城を出てラスの所に向かいたいと思っている。  彼は『出て行く』予定の日を明確に私に告げた訳ではない。それに、薬だって今日完成したばかり。  今夜中に焦って行動すれば、きっとこれまで私がついていた嘘が露呈して、何も無かった場合はただラスの立場を危うくしてしまうだけだろう。  だから、エステリオの判断は賢明だ――それは、ちゃんと解っているんだけど。  「…………」  どうにも、今夜は長い夜になりそうだった。  これまでは一人こそこそ通っていた道を、エステリオと並んで辿るのはなんだか少し不思議な気分だった。  私の気分とは裏腹に、穏やかで優しい陽の光の差し込む静かな小路。どこまでもいつもと変わらないそこを、私たちは足早に通り過ぎて行く。  会話は今更無いに等しかった。  朝からずっと早く早くと私はエステリオをせかしていたのだけれど、やっと城から出れる時が来たら、普段と変わらない様に見える彼の横顔から、少しの緊張が感じ取れるようになって。  それに気付いてからは、文句も何も、簡単に口には出来なかった。私は黙って、心の準備をさせてあげた方がきっと良い。  だからこそ道案内も進んで引き受けたし、不安でも何も言わずに先を急いだ。  そうして、私たちはようやくラスの家まで辿り着いたのだった。  「……こんな所に居たんですね」  家を少し遠目に眺めて、エステリオがぽつりと呟いた。  「来たこと一度もなかったの?」  「ええ、初めてです。……行きましょう」  そう言って歩き出したエステリオを先にして、石段を登る。扉の前でエステリオは一瞬いつもの癖でかノックをするか迷う様に右手を上げかけて、すぐに取っ手を握った。  ガタ、と硬い音がして、扉は開かない。  やっぱり、昨日のまま鍵がかかっているのだろう。それか、ラスが鍵をかけて外出しているかだ。  前に居るエステリオを押しのけて、私は拳で扉を叩いた。  「ラス、ラス! 居るの、返事しなさい!」  扉に耳を当ててみても、しんと静まり返っているばかりで何の音もしない。居留守なのか、本当に居ないのか……。  ふと思いついて扉から離れ、壁に沿って窓のあるところまで走る。確かこの家の窓にはカーテンなんて無かったはずだ、少なくとも一階には。  背伸びをして覗き込むと、案の定家の中がほんの少しだけ見えた。  背丈のお陰で、見える範囲が限られて――と思ったら、すぐ後ろにエステリオが立って、同じ様に窓を覗いていた。  「何か見える?」  「いえ、特に……っ!?」  不意にエステリオの表情が険しくなる。まるで通り抜けようとするみたいにガラス窓に乱暴に手をついて、けれどすぐに驚いて彼を見上げる私に気付くとその表情に少し冷静さが戻った。  窓に手を置いたまま何かを確認すると、エステリオはやけに真剣な眼をして私を見た。  「な、なに……? 何かあったの、エステリオ」  「ネージュ様。良いですか、よく聞いて下さい。この窓には鍵がかかっていません。  大きさからして俺は無理でしょうが、ネージュ様ならここから中に入れるはずです」  「わ、わかった。入れば良いの?」  「ええ。俺が持ち上げますから、中に入れたらすぐに鍵を開けて下さい」  私が素直に頷くと、エステリオは何故だか渋い顔をして念を押すように繰り返した。  「良いですか、何をするより先に、まず鍵を開けて下さいね。  約束して下さい、ネージュ様」  「わ、解ったったら。何なの、何が――きゃっ」  言葉の途中で抱き上げられて、思わずしがみつく。なんだかエステリオの様子がおかしい、何をそんなに焦っているのだろう。  疑問に思いながらもとにかく今は従った方が良いと判断して、私は大人しく抱えられたまま手を窓枠に伸ばした。  窓の下には本が沢山積まれていたお陰で、着地する場所に少し迷った私は心の中で謝りながらそっと足で山を崩して場所を作った。  こんな風におてんばな事をするのは――というか、それをエステリオが許すのは、子供の頃以来だ。ぶら下がる様にして窓枠から手を離し、無事に床に降りる。  自分が通ってきた窓を見ると、もう既にそこにエステリオは居なかった。そうだ、早く鍵を開けなくちゃ。鍵のかかったままの玄関扉はすぐ脇だ。  本の山を乗り越えながら、部屋の中を見回す。室内は昨日よりもう少し綺麗に片付いていた。細かい所にこだわるなと言う私のアドバイスを聞き入れたのだろうか?  部屋の端に寄せられた本も、綺麗な山になっている。二階に上がるための階段にももう書物が散乱して居る事はないし、それに――  「……?」  ふと違和感を感じて思わず足を止める。その正体は、綺麗に片付けられた作業台だった。  つい昨日まではごちゃごちゃとそれこそ沢山の器具が置いてあったのに、何一つとして――  いや、ひとつだけ何か置いてあるのが見える。本だ。本が一冊だけぽつんと置かれている。  机の周りには妙な角度に傾いた椅子がひとつだけ、そしてその椅子のすぐ脇には、見慣れた姿がうつ伏せになって倒れていた。  「っ!!」  驚いたあまり足元の本にけつまづいて、派手に転んでしまう。けれどそのお陰で大切な事を忘れずに済んだ。  慌てて起き上がった私は、玄関扉につけられている鍵に飛びついて、震える手でその単純な仕掛けを解いた。  私が扉を開けるとすぐにエステリオが中に入ってきて、これまで私だって見た事もないような表情をして足早にラスの元に向かうと、椅子をどかし、その体のすぐ脇に膝をついた。  同じように私も二人の元に駆け寄る。エステリオが肩を抱いてその体を反転させると、軽い呻き声が聞こえた。  まさか死んでいるのではと先ほどは一瞬思わされただけに少し安心しかけたけれど、真っ青になって苦しそうに喘いでいる彼の状態に、その安心もどこかへ行ってしまった。  「な、ど、どうし……一体なに……?」  訳が解らなくて一瞬ふらりとよろめいた足が、こつんと何かに当たる。思わず見ると、それは薄桃色をした小さなガラスの小瓶だった。  慌てて膝を付いて拾い上げる。栓は開いていて、中身は空になっている。  「こ、これ、これ……っ」  「……毒、ですね」  眉をひそめて、エステリオが静かに呟いた。  「何らかの毒による、中毒症状を起こしています。このままでは――」  「ま、待ってよ。どう言うこと!? な、何があったのよ。ねぇラスっ!」  呼びかけてもラスはぐったりと横たわっているだけで、何も答えてくれなかった。エステリオがそっと私の腕を掴む。  「リオ、リオっ、どうしよう! こ、これ、ラスが頼まれて作ってた薬だわ。ど、どうしてこんな所にっ、な、なにも……何も入ってないしっ」  「ネージュ様。落ち着いて、教えてください。一体弟は何を作っていたんですか? もしそれが原因だとするなら、まだ対処のしようがあります」  「わ、わかんない……私、私名前は教えてもらわなかったの。つ、作る所は見てたけど――」  「それでしたら、材料や精製法の一部だけでも構いません。俺かネージュ様、どちらかの知っているものであれば、或いは……」  「う、うん……」  頷いて、私は大きく息を吐く。  落ち着かなきゃ。落ち着いて、ちゃんと思い出すの。大丈夫、だって沢山一緒に居たじゃない――  「た、確か精製法は普通の薬とあまり変わらなくて、抽出と蒸留の繰り返し――でも、その時間がすごく長かったわ」  「きっと毒の成分が出にくい材料ばかりだったせいね、ええと。私が覚えてる限りで材料は、セイドウランの花、ヤエギの根、アリアナの葉、それから――」  知っていること全て、思い出せたこと全てを告げると、エステリオは一瞬なんとも言えない表情を見せて、それなら、と呟いて突然ラスの体を持ち上げた。  「その毒なら、恐らく俺の知っているものです。解毒法もまだ忘れていません」  「じゃ、じゃあ大丈夫なの?」  「それは解りません。ただ、これは飲んですぐに命を落とす様な即効性のある毒ではありません」  「正式な解毒薬は城か屋敷に戻らなければ手に入りませんから、ひとまず効果を和らげるものを作ります。それで解毒薬が効くまでの間、体力が持てば……」  「とにかく時間がありません。ネージュ様、今からこいつを落ち着いて寝かせられる所まで連れて行きます。ベッドや何かがあるのは二階で良いんですよね」  「え、ええ。そうだと思う……」  「解りました。でしたらネージュ様はその間に、今から言う材料をこの家の中から探しておいて下さい」  「それ程珍しいものでもありませんし、薬の精製を生業にしていたのですから恐らくどこかにあるでしょう。  材料は――」  ずらずらと羅列された材料名を必死で頭に叩き込んでから、ラスを抱えてこちらに背を向けたエステリオに私は思わず一言尋ねずにはいられなかった。  「ねえ、ねえエステリオ、どうしてあんたはそんなに詳しいの?  あんたが習ってるのは基礎的な分野だけでしょう。この毒は、多分私だってまだ習ってない……」  「…………」  「……一度、飲んだ事がありますからね」  予想しなかった返答に驚く私をエステリオは肩越しにちらりと振り返って、私を安心させるようにほんの少しの笑顔を見せた。  「きっと大丈夫ですよ。俺は死ななかった、だからこいつだって死なないはずです」  その言葉に私はもう口を閉じて、一度だけ頷くとすぐに作業台の奥にあるキッチンへと向かった。  エステリオが大丈夫と言ったのだから、大丈夫なのだと自分に言い聞かせて。泣くのは彼が助かってからで良いと、乱暴に目元を拭った。  「なああんた、結構な頻度で俺んとこ来てくれるけど、やっぱり恋?」  「バカじゃないの。そんな事言うならもう来ないわよ」  「嘘だよ、嘘!」  あんたって本当すぐ怒る、と大げさにため息をついてみせるラスに、私はちょっと笑っていつも通り不味い紅茶を口に運んだ。  いつもなら何がしかの精製作業をしているラスは、今日は散乱した書物の片付けをしている。  『今は寝かせてる最中』だとか言って、薬(だか毒)の精製作業を一時中断していたラスに、私がそれならばと散らかり放題の室内の掃除を要求したからだ。  なんだかんだで殆ど毎日の様にここに通って来ていたし、居心地が良いのに越した事はない。ちなみに、私だって気が向いた時には少し位手伝うことだってある。  「にしたってさ、良いの?」  殆ど無理矢理押し込まれていた本を本棚から引っ張り出しながら、ラスが尋ねてくる。  言葉足らずな彼に、何がよ、と聞き返せば、彼は引っ張り出した本を片手にこちらを向いて、  「だから、俺のとこにこんなに来てくれちゃって。平気なの? ってこと」  「平気って、どういう意味?」  「ちゃんと構ってる? リオとかさあ」  「殆ど話もしてないわ」  「げぇ、マジで。早く仲直りしようぜ」  「別に喧嘩してる訳じゃないもの」  わざと素っ気無く言うと、ラスは何故か本当に心配そうな顔をした。  「でも話さないんだろ? あんたら、あんなに仲良かったのに……」  「なによ、しつこいわね。別に良いって言ってるじゃない。私がそう言う話されるの嫌いだって、わかってるでしょ?」  「……あ、ごめんなさい。それともこんなに頻繁じゃ悪かったかしら……」  確かにかなりの頻度で彼の元を訪れていると言う自覚は自分でもあったので、慌てて付け足すと、ラスは意外そうな顔をして首を振った。  「いや、それは無い。でも……こう、毎日来てくれるのは本当俺としては大歓迎で、これからもお願いしますって位なんだけど」  「ただそのせいで、あんたの生活とかがぎくしゃくすんのは嫌だなー、とか思ってるだけだよ。  俺はもうすぐ居なくなる人間だからさ、こうなるべくキレイに? 居なくなりたいし」  「……もうすぐなの?」  「ああ、うんもうすぐ完成。寂しいな」  「…………」  「なーんだよ、なんか言えよな」  「まあそんな訳だからさ、あんたとリオの仲が良好の方が、俺としても気分良くさようならが出来るんだよ。そろそろ許してやれよ、リオきっと寂しがってんぞ」  「寂しがってなんかいないわよ、あいつ私の事なんてなんとも……」  「そんな事無いと思うけどなぁ、俺は」  「どうしてそんなこと言えるのよ、ずっと会っていないくせに」  そう拗ねてみせると、思いがけずラスは照れ笑いの様な表情をして、そうだなぁ、なんて言いながらそれまで手に持っていた本を床に置いて私を見る。  「俺があんたの事を好きになったからかな」  「は!?」  「あ、違う違う、変な意味じゃねーよ。  普通に、好き。あんたの事良い奴だと思うし、一緒に居て楽しいし、これからも出来たらちょくちょくこうやって話したいし、って感じで……」  「でもあんたとリオの関係は俺なんかよりずっと昔からだろ、きっとリオは俺なんかよりずっとあんたのこと好きだと思う」  「…………」  本当に、私ってラスのこう言う素直な所に弱いと思う。ストレートにそう言われてしまうと、なんだか調子が狂ってしまう。  こんな奴の言うことを鵜呑みにするなんて馬鹿げてるって思うのに。  「だからさ、構ってやってくれよ。あんたらの仲が上手く行ってないって聞くと、俺も変な期待しちゃうから」  「な、なによそれ」  「ま、そんなこたどーでも良いんだよ。とにかくさ、あんま蔑ろにしない方が良いと思うぜ。あとあと怖いかもしんないよ、なんて」  「……あ。でもどうしても無理ってんなら、俺と駆け落ちでもする? それも楽しそうだけど」  「あんた、言ってることが矛盾してるわ。私とエステリオをどうしたいのよ」  私の指摘にラスは明るい笑い声を上げた。  「冗談に決まってんだろ。せいぜい仲良くしてやってくれよな」  「そうよ、エステリオなんかもう知らない! あんな奴っ、もうどうだって良いわよ!!」  誰も居ない部屋に私の声が響く。  そんなにあの女の相手が好きなら、私の従者なんてやめてあの女の従者になっちゃえば良いのよ!  いつまでも私があんたの事ばっかりに構ってると思ったら大間違いなんだから。  どうなったって知ったこっちゃないわ。だって私には、あんな奴なんかよりもっと大切なものがあるもの。  「ええと、そうね……」  大切なもの……大切なものが、ううん。  すぐには思いつかなくて、少し考える。意味も無く唸っているうちに、不意にぱっと思いついた。  「そう! そうよ、勉強よ!!  私はこの国の姫だもの、私にとって一番大切なものは毒性学だわ!!」  実際声に出して言ってみると、即席で考えた割にはそれはかなり良い考えのように思えた。  ノクシアは正式な王族ではないから、どんな汚い手を使ったって、あの女は私がいつも当たり前の様に使うあの分厚い本に触る事も出来ない。  そうよ、私とあの女は違うのよ!  あいつと違って、私は王族。  いずれこの国の未来を背負って立たなければならない、大きな責任があるの。  だからエステリオなんかどうだって良い。ただの従者風情に、今まで入れ込み過ぎたんだわ。  学問に没頭して、あいつの相手をしないようになれば、きっとあの鈍いエステリオだって気付くに決まってるわ。  今までネージュ様は俺の事をとても大事にしてくれてたんだ、って。やっぱりノクシア様よりネージュ様の方が良い、って。  絶対絶対、そうに決まってる!  「よしっ、そうと決まったら行動だわ……」  握り締めていた紙切れをぽいっと部屋の中に投げ捨てて、私は無人の部屋を後にした。  もちろん、行き先は忌々しい二人が居る庭なんかじゃなく、さっきまで居た書庫だ。  夕飯までずっと先生に延長授業をしてもらうか、そうでなくっても自習をするのよ。で、それを毎日続けてやるの。  頭は良くなるし、エステリオを反省させられるし、一石二鳥ね!  自分のアイディアに微笑みながら、私はいつになく軽やかな気持ちで地下の書庫へと向かうのだった。  それからと言うもの、私は自分への宣言通り、毒性学の勉強に没頭した。  それこそ朝から夜まで、ずっとずっとずうーっと。  書庫は暗くてかび臭くって、最初はくじけそうにもなったけれど、だけど良い事もあった。  エステリオとノクシアが楽しげに話している姿も、ノクシアやアメリアの噂も、それらと比べるような私の噂も、なにもかも。  ここにこもって居れば何も見ないで、何も聞かないで居る事が出来る。  勉強って良い。知識はただそこに在るだけで、喋ったり動いたり自己主張をしないもの。  良くも悪くも静かな気持ちで居られる。  ただ座って、代々受け継がれている毒の知識を頭に入れていく。  それ以外は何も考えなくて良いし、そうする事は正しい事だから誰にも責められない。  ご飯だって、時間が勿体無いからとごねたらお昼は書庫で取っても構わないと言う事にしてもらえた。  毎回食事の度にアメリアやノクシアの姿を見るのが苦痛だった私にとっては、たった一回でもそれはとても素敵な事だった。  自分でも極端だなとは思うわよ。でも、そうなったのはエステリオが悪いんだから。  ネージュ様が構ってくれなくて寂しい、だとかちょっとでも言ってくれれば良いものなのに、いつも通りの無表情でいつも通りの素っ気無い言葉しか言わないんだもの。  その上口を開けばノクシア様ノクシア様。  今日は何した、明日は何するって、いちいち言ってくれなくって良いわよ!!  エステリオがそんな話ばかりするものだから、次第に私はあいつに会うのが嫌になって、ますます勉強に夢中になって、段々とそれの面白さなんかにも気付いていったりして。  そんな風に過ごしていたら、気付いた時にはエステリオと会話をする機会は、朝と、夜寝る前の数分程度しか無くなってしまっていた。  会話の内容だって決まってる。  明日はノクシア様とこれこれこう言う予定があるんですけど、ネージュ様もたまにはいらっしゃいませんかって言うのが夜。  それを断った私に、本当に来ませんかって確認するのが朝。  何が悲しくてあんな女とあんたの所で貴重な時間を潰さなきゃいけないのって言うと、そうですかとだけ返してきて、それでおしまい。  ネージュ様に来て欲しい、位言えないのかしら? 本当に気の利かない男ね。  もう泣いて謝るまで許してあげないわ!  そんな風に心の中で悪態を吐きながら、私は今日も先生の待つ書庫へと向かった――はずだった。  「日差しがまぶしいわ……」  「ネージュ様、年頃の女性がそんなこと言ってはいけませんわよ」  「そうですとも! ネージュ様ったらここずっと地下にこもっていらしたでしょう。  お若いのですから、もっと外にお出になりませんと!」  「地下だなんて、折角お美しいのにカビが生えちゃいます!」  「うるさいわ。放って置いてよ、もう」  今日も書庫にこもって勉強――のはずだったのに、先生が書庫に鍵をかけちゃうんだもの。  しかも、今日一日は外に出て気分転換して来いだって。  そうするまで書庫は開けないなんて言うものだから、仕方なくこうして久々に城下に侍女二人を連れて出てきたのだ。  だけどまあ、あの先生にそこまでされるなんて、私も中々勤勉が過ぎたかしらね。  「それにしても、ネージュ様とお出かけ出来る日が来るなんて、思いませんでしたわ」  「私も私も! ネージュ様ってば、いつもリオ君と行っちゃうんですもの。  たまには私たちにも構ってくださいね」  「…………」  「あら? どうかなさいました、ネージュ様。私何か失礼を……?」  「いいえ、なんでもないわ。ただ、あいつがあんた位素直だったらね……」  ふう、とため息をつく私に、若い侍女は不思議そうな顔をした。  本当はエステリオを誘ってやっても良いかなと思っていたんだけど、今日もあいつはノクシア様とご予定があるらしいから、声をかけてやらなかったのだ。  「駄目よリーデ、今ネージュ様の前でリオ君の話なんかしたら……」  「えっ、そうなんですか?」  暢気な二人の話し声が後ろから聞こえて来る。  やっぱり外に出てくると色んな話が入ってくるのね。  少しうんざりしたけれど、この程度で怒る気にもなれなくって、私はがやがやと人で賑わっている露店が並んだ通りに目を向ける。  長い通りの両側にずらりと露店が並んでいる様子は、なんだか少し圧巻だ。  どれだけの種類の品物が今日は売り買いされて行くのかしらね、なんて思いながら通りを眺めていた私の目にふと留まったのは、瓶詰めにした薬品や薬草等、何かの材料らしきものを店頭に並べている少し怪しげな店だった。  物珍しげに立ち止まる人も多いみたいだけれど、買い物をして行く人は殆ど居ない。  もしかして、薬の材料でも売っているのかしら?  毒性学から離れるためにここに来たはずだったのだけれど、自分の得た知識がどこまで通用するのかを確認する意味でも、その露店は私の興味を引いた。  基礎的な毒薬や、その解毒剤の精製方法は勿論、最近の猛勉強のお陰で知識にはもっと幅が出た。  それなら私、あそこに並んでいるものが何で、どんな薬の精製に使えるかなんかも解るのかしら?  ちらりと侍女達を振り返ると、二人はまだ話し込んでいる様だった。リオ君、ネージュ様、ノクシア様、と言う三つの名前が会話の端々から聞こえて来て、私はちょっと顔をしかめた。  まあ良いわ、すぐそこだもの。ちょっと行ってすぐに帰って来れば、気付かれないわよね。  そっと足音を立てないように走って、店の前で屈みこむ。  思った通り、そこは薬の材料になる様な薬草や生き物の類を扱っている店だった。  見たことのあるもの、見たことのないもの、名前しか思い出せないもの。  瓶の中に適当に詰め込まれている材料たちをじっくり眺める。  小さな店にしては、中々色々なものが揃ってるみたいね。ここにあるものを使ってどんな薬が作れるかしら。  そんな風に材料を組み合わせていくのがすっかり楽しくなってしまった。  店の主人が何も言わないのを良い事に、私はゲームでもしているみたいな気分で頭の中でひとつ、ふたつと薬を作り上げて行く作業に熱中して行った。  「おい、ちょっとどいてくれるか」  頭の中で精製した薬が六つを越えた頃。そろそろ限界かしらと思い始めていた私に、不意に後ろから声がかけられる。  「あ、ごめんなさい」  冷やかしの客しか来ないのを良い事に、それまで真ん中に陣取って品物を思う存分眺めていた私は、慌てて脇に寄る。  そんな私にどうも、と短くお礼を言ったその人物の顔を見上げた瞬間、私は思わずその場に凍りついた。  「おーい、おっさん。この間頼んだの、今日こそ持って来てんだろうなー」  「あ? ああお前か、約束通り仕入れて来てやったよ。ほれ、これだろう」  「それそれ、早くちょーだい」  「おっと。まあ待て、こいつの仕入れにゃ流石の俺でもかなり骨が折れたんだ。  そう簡単にほいほい売れるもんじゃねぇよ」  「ちぇっ。いくら欲しいんだよ、このデブジジイ。 あんま遠まわしな事言ってると、もう育毛剤作ってやんねーぞ」  「いつ俺がお前にそんなもん頼んだってんだよ。まずその口の利き方を直すんだな。  お前、ご婦人達相手の時と俺とで態度変えすぎだろ」  「えー。なに、あんたも『素敵な紳士』とか言ってもらいたい訳? 俺に?  うわっ信じらんね、気持ち悪ぅ……」  「まあ、どうしてもそう言うの言われたいんなら、俺が店やってる時に来れば?」  「そうは言ってないだろ、あのお前は正直気色が悪い。俺は歯の浮く台詞を言えっつってんじゃねぇよ、ただ年長者に対する態度ってもんがあるだろうが」  店主が持っている、何が入っているんだか良く解らない麻袋のようなものを睨んで悪態を吐く男の横顔を、私は信じられないような気持ちでじっと見つめて、それから大分迷って男の服をそっと掴んだ。  「あ、あの……」  「ん、なに誰?」  店主とやりあっていた時の勢いのままの不機嫌そうな声にも、こちらを睨むその顔にも、私は酷く見覚えがあった。  ううん、見覚えがあるなんてものじゃない。私の良く知る人、そのものだった。  ただ私の知っているその人は、こんな風に荒々しい物言いはしないし、こんな表情で私の事なんか絶対に見ない筈なんだけれど。  人違い、に決まってる。だけどあまりにその人そのものだから――私は躊躇いがちにその名前を呼んだ。  「え……エステリオ……?」  「は……?」  その、エステリオらしき人物は、私の呼びかけに一瞬意味がわからないと言った顔をして、それからすぐにさっと顔色を変え、私の手を慌てた様子で振り払った。  「あ、ちょ、ちょっと! 待ちなさいよっ!!」  「あっ! おいお前、良いのかこれ!!」  身を翻して逃げて行くその後姿が人ごみに紛れて消えてしまう前に、私も慌てて駆け出した。  良く知った色の茶色の髪、見慣れない黒のフードを着て、全然知らない人みたいな口調で話すエステリオの背中を必死で追いかける。  人通りの多い通りを抜けて、何度も何度も路地を曲がったその先で、私はようやく彼の腕を捕まえた。  また振り払われるかと思ったけれど、案外エステリオは大人しくその場に立ち止まり、膝に手を付いて肩で息をしている。  良かった、丁度私の体力も限界に来ていた所だったから。  ……でも、エステリオってこんなちょっと走っただけで息が切れちゃうような軟弱男だったかしら?  「ほ、ほらっ、もう、どうして逃げるのよっ……」  「あ……あんたっ、しつこい……っ」  「な、しつこい、ですって……あんたちょっと、失礼すぎるんじゃ、ないのっ」  息が上がっているせいで、上手く喋れない。  ひとまず落ち着こうと、私は彼の腕を捕まえたまましばらく何も言わずに呼吸を整える。  ……うん、もう普通に喋れそうね。  「それで、一体どうしたって言うのよ。ノクシアの相手なんじゃなかったの?」  「……は、あ、ああ? 何言っ……俺は、」  「何よあんた、まだちゃんと喋れないの?  だらしないわねぇ、あの女の相手ばっかりしてるからそうなるのよ」  「っから、違……」  「しかも何なの、その口の利き方!  城ではあんた、猫被ってた訳?」  「……っ」  「何とか言いなさいよ、エステ――いたたたっ、いっ」  それまで膝に手をついて荒い呼吸を繰り返していたエステリオが、突然顔を上げてぎろりと私を睨んだかと思うと、さっと腕を伸ばして何をするかと思いきや、私の髪をぐいっと上に引っ張り上げた。  「何すんのよ、離しなさ、痛い痛いったら!!」  「ったく、人の話を聞かねー姫様だな」  「何がよ! ちょっとあんた、従者のくせにこんなことして良いと思ってんの!?」  「だから、違うって。良く見ろ、俺はリオじゃない」  「はあ!?」  髪を掴んでいる腕と格闘しながら、思えば初めて私はまじまじとその人物の顔を見た。  正確には、こちらを心底嫌そうに見つめる彼の金の瞳を。  「……あれ?」  思わず首を傾げると同時に、ようやく髪を引っ張っていた手が離れていった。  「解った?」  「……目の色、変えたの?」  「…………」  髪を整えながら一応尋ねてみると、盛大な舌打ちと共に再び手が私の頭の方に伸びてきたので、慌てて身を引く。  「わ、解ったわよ! でも、それならあんたは誰!?」  私の問いに、エステリオそっくりの男は少し困ったような顔をして、んー、なんて言いながら斜め上に視線を泳がせた。  「初対面の人間に名前を聞かれて名乗る義理は無いし、例えば俺があんたの知ってる誰かに似てたとして、それは他人の空似――」  「って、言いたいとこだけど……。  なあ、あんたひとり?」  「何よ、訳解んないこと言ってないで、さっさと答えなさいよ」  「あんたが答えてくれないと、俺は何も言えない。一人か? リオは?」  「……一人、だけど」  少し迷ってから、正直に答えた。  さっき私を姫様なんて呼んだから、こいつは私がどんな人間かって言うのを把握して喋ってる。  だから護衛もつけずにこんな所までひとりでこいつを追ってきた、なんて言うのは危険かなとも思ったのだけれど。  「そ。そりゃ良かった」  そう言って少し安心したような顔をする目の前の知らない男は、あまりにもエステリオそっくりで。  なんだか警戒心を抱く事が出来ないのは、多分そのせいね。  「じゃあ、もうひとつ。あんた、誰にも言わないって約束出来る?」  「はあ?」  「俺と会った事、これから俺が言う事。つまり俺に関する事全部、人に言わないって約束出来る?」  「なんでそんなこと約束しなきゃならないのよ?」  「言うと思った、あんたって本当強気なお姫様だよな」  「でも、約束出来ないって言うんなら、俺の事は忘れてくださいってことになるけど」  「なによそれ、意味わかんないわ」  「だろうな、でもそうしなきゃ俺もやばいから。悪いねー。  で、どーすんの?」  「…………」  また少し迷って、それから結局約束するわと呟いた。  だってこんなにも似ているんだもの、常識的に考えてこの人はエステリオの双子の兄弟だわ。  だけど私はエステリオに兄弟が居るだなんて今まで知らされて居なかった。  エステリオはあれでも私の従者なのだから、兄弟が居るなら絶対に私の耳にも入るはずだし、絶対に城で何らかの役割を負っているはずだ。  アンブローズはそう言う家系なんだから。  それなのに、私はこの人を知らない。見た事すらないわ。どう言うことなの?  好奇心に負けた私に、エステリオそっくりの男はにやりと笑った。  別人だなんてまだ信じられない位似ているけれど、でもエステリオは絶対にこんな風には笑わない。  「オッケー、じゃあんたがさっき聞いた事に答えてやるよ」  「まず俺の名前はラス。リオの双子の兄貴だ。初めましてお姫様」  「双子の兄……。でも、エステリオに兄弟が居るなんて、今まで聞いたこと無かったわ」  「あぁ、あんたには秘密にされてたんだよ。俺はアンブローズの恥らしいから」  「恥?」  「そ。勘当されてんの、もう俺は親族じゃないんだってさ。  あんたにも関わるなってきつく言われてる。だからさっきは逃げたんだ」  「今は逃げないのね?」  「だって、あんた一人なんだろ? さっきはリオも一緒に居ると思ったんだよ。  あんたの従者やってるんだろ、一緒じゃないのか?」  「……一緒じゃないわよ、悪い?」  エステリオと同じ顔でそんな事を聞かれると、なんだか必要以上に腹が立つ気がするのはどうしてかしら。  思わず刺々しい口調で答えると、ラスは一瞬不思議そうな顔をして、それからにやにやと楽しそうな笑顔を浮かべた。  「へえ、何? なんかあったの、あんたら」  「別に! あんたに関係ないでしょ」  「はあーん、その態度から推察するに、大方リオと喧嘩でもしたんだろう」  「……別に!」  「おっ、なんだ正解? あんたたち喧嘩してんの、へえぇあんなに仲良かったのに」  「だから違うったら! 大体あんなにって、あんた私たちの仲なんか知らないでしょう」  「はは、まあそこは勘。でも当たってるだろ?  一体どうしたんだよ、あいつなんかしたのか?」  「どうしてあんたに話さなきゃならないのよ」  「いーだろ、ケチだな。俺はあんたが知りたそうだったから、言うなっつわれてた事を色々教えてやったんだぜ」  「今度はそっちの番って事でさ」  「…………」  確かに私だけ何も教えてあげないのは不公平かしら、なんて思ってから、寧ろ誰かに聞いてもらいたい気分だった自分に気が付いた。  そうね、折角だもの、聞いてもらおうかしら。  丁度良くエステリオと同じ顔してる訳だし、不満でもぶちまければ少しは気分が良くなるかもしれないわ。  「わかった、教えてあげるわ。あいつはね、今臨時でノクシアの従者やってるのよ」  そんな風に思っていたのだけれど、そこまで言葉にしたところで哀しくもないのに何故だか視界がぶわっとぼやけた。  それがあんまりにも突然で、しかも泣くつもりなんて全然無かったから、自分でも驚いてしまう。  慌てて誤魔化そうと、何気ない風を装ってこっそり涙を拭う。  「お父様に言われたからなんて言ってたけど、随分と仲も良いみたいよ」  「逆に私とは別に話さなくったって平気みたいだし……ぱっとしない男だもの、同じ様な女がお似合いなのね、きっと」  まずい、まずいわ。声まで震えてきた。  どうしてかしら、おかしいわ。私、最近エステリオとなんか全然話していないし、あんな奴のことなんかどうだって良いと思ってるはずなのに。  ぐっと胸がつまって、声が出し辛い。  あれ、あれ、と思っているうちに、勝手にぽろりと涙が零れてしまったので、私は慌てて下を向いた。  「……? おい、あんた」  「あの調子じゃきっとそのうち正式に、あの女の従者になりたいって、言い出すかも……」  「ま、待て待て、待てよ。まさか泣いてんの?」  躊躇いがちに伸びてきた指が頬に触れた瞬間、私の中で何かがぷつりと音を立てて切れてしまった。  勢い良く顔を上げて、明らかにうろたえているラスを思い切り睨みつける。  「げっやば。マジかよおい、勘弁……」  「なによ! 泣いてなんかいないわよっ、別にあんな奴どうだって良いもの!!  私よりあの女に仕えたいならそう言えば良いじゃない!」  「無理して私の従者で居てくれなくったって別にっ……あ、あんな無愛想で気が利かない馬鹿、こっちから願い下げなのよ!!」  「うあ、悪かった、俺が悪かったよ。  お姫様がそんな風に泣くもんじゃねーって、ほらとりあえず落ち着け、な?」  「え、エステリオなんかっ、だ、だ、だいっ嫌いだわ!!」  「わっ、解ったからって……ああクソッ、めんどくせーな……」  「つかもっと目立たねーとこで泣いてくんないかねぇ。  こんなとこあんたの従者かなんかに見られたら、俺マジで殺されるんですけど……」  「ううぅぅうぅ……!!!」  泣き続ける私に、ラスは大げさにため息をついて顔をしかめた。  うるさいわね、バカ。別に泣きたくて泣いている訳じゃないわよ!  あんたこそ何よ、目の前で国一番の美少女が泣いてんのよ。  優しい言葉のひとつやふたつかけられないの、兄弟そろって気が利かないわね!!  そうなじってやりたかったのだけれど、涙が邪魔して言葉には出来なかった。  だけど悔しかったから適当に腕を振り上げてラスの胸辺りを殴ってやったら、うっ、とエステリオそっくりの声が情けなく呻いて、なんだか少し気分が晴れた気がした。  「八つ当たりとか……信じらんね、あんたマジで姫なのかよ……」  「うるさい、あんたなんか嫌いよ!」  「うお、なんだよ俺何もしてないじゃん!  だーもー、リオの奴、とんだとばっちり……あ!」  何か思いついた様子で、ラスは不意に言葉を切った。沈黙と、それから妙な視線を感じて、私はそっと顔を上げる。  案の定こちらを見ていた彼と目が合った。  何に驚いているのか知らないけれど、さっきまで面倒そうに細められていた金色の瞳が、今は大きく開いている。  金色――そうね、そうだわ。こいつはエステリオじゃないんだった。  「なによ……」  「いやぁ、俺良い事思いついたわ」  沢山泣いて、少しは涙も収まってきたような気がする。  指で目元をそっと拭いながら首を傾げると、ラスはにやあ、となんだか少し邪悪に笑った。  「なあ、あんた俺んち来る気ない?」  「……、はあ?」  「お、つっても別に変な意味じゃねーから安心しなよ。あんたって俺のタイプじゃないし」  「はあ!? ちょっとあんたそれどう言う意味よ!」  「いってぇ!! っあんたな……その靴で! 人を! 蹴るな!!」  「情けないわね、エステリオだったら避けてたとこよ」  「あいつと俺を一緒にするのはよしてくれよ。似てんのは外面だけだ」  「そんな事ないわ、失礼なとこもすっごく似てる。兄弟揃って私を怒らせるのが得意みたいだし」  「そりゃ単にあんたが短気なだけ……ああなんでもない、なんでもねーよ!!  ったく、話が逸れた。俺はただ、あんたにちょっと頼みごとしたいと思っただけだってのに……」  「頼みごと? それがあんたの家に行く事とどう関係するのよ」  「そう、だからそれ。あんたに、俺の仕事をちょっと手伝って貰いたいんだ」  いまいち話が見えてこない。言いたいことがあるなら、遠まわしになんかせずにもっとはっきり言えば良いのに。  「手伝いって何よ。どうしてあんたなんか手伝わなきゃならないの?」  「まあ聞けって。 俺はこれでも薬屋でな、風邪薬から一撃必殺の毒薬まで、依頼を受ければなんでも作る。そーやって金稼いでんだ」  「でもついこの間入った依頼が割ときつくてさ?  いや、絶対無理作れないーって訳じゃないんだけどさ、これがまた面倒で」  「材料調達がまず難しいだろ、それから精製過程もかなり複雑だし」  「って事で、あんたに手伝ってもらえないかなーと思った。  家に来てくれってのはそう言う事だよ、薬の精製は俺の家でやる必要があるからな」  「あんたこの国の姫なんだったら、毒の知識はフツーにあるんだろ?  あ、勿論タダでとは言わないさ、もし手伝ってくれんなら良いもんやるよ」  「ふうん、良いものって?」  アンブローズはこの国で最も勢力の強い貴族のうちのひとつ、とは言ってもこいつはその後ろ盾をなくしている。  それに、まああったとしたって私の気を惹けるような素敵なものなんか用意出来る筈が無い。  手伝う気なんかさらさら無かったけれど、一体どんな素敵なものを用意しているのか聞くだけ聞いて笑ってやろうと尋ねた私に、ラスはにこりとうさんくさい笑顔を向けて、  「惚れ薬」  と、そうきっぱり一言。  その一言に、私は一瞬凍りついて――それからすぐに腕を伸ばし、ラスの耳を掴むとそのまま下に思い切り引っ張ってやった。  「いっだだだだだやめ、痛っ、やめっやめろやめろってば!!」  「何よ惚れ薬って! あんた私のこと馬鹿にしてんの!!」  あんまり無様に喚くものだから手を離してやったら、ラスは引っ張られていた片耳を押さえて私から少し距離を取り、恨みがましい目でこちらを睨んだ。  「なんだよ! だってあんたリオの事好きなんだろ、良いじゃん惚れ薬!!」  「なっ、ち、ちがっ……違うわよそんな訳無いでしょ!!」  「あ? そーなの?」  「そうよ!! 大体っ、惚れ薬なんて使うのは卑怯だと思うしそれにっ、あ、あああんたの作る薬なんか信用できないわよ!!」  「……ふーん」  半ば叫ぶ様にして私が言うと、ラスはにやにやと面白がるような笑みを浮かべて、先程彼の方から取った距離をまた縮めて来た。  「まあリオに関してはどっちでも良いけど、俺の腕を信用してもらえないのは心外だなぁ」  「これでも名の知られた薬屋なんだぜ?  惚れ薬なんて色んな奥様方の為に何度も作ってるし、リピーターだってかなり多いんだ」  「だとしてもっ、私はそんなのいらないわよ!」  「そう? 人の心を動かす薬って、色んなことに使えるんだぜ。  貰っといて損はしないと思うけどなぁ?」  「い、いらないわよ」  「ふうーん、そんな事言って。  あんた素っ気無いフリしてるけどさぁ、実は俺に結構興味あるんじゃねーの?」  「手伝いに来てくれたら色んな事話してやっても良いんだけどなぁ」  「それに、言ってなかったけど俺はこの仕事を最後にここから居なくなる。  今ここでこのままサヨナラしたら、俺は多分もう二度とあんたの前に姿を現す事は無い」  「良いのか? リオやジジイはあんたに何も言わないだろうなあ、いくらあんたが俺を見たって言ったって、適当にはぐらかされるに決まってるぞ」  言い当てられて、私は思わずぐっと言葉を詰まらせる。  ラスと名乗ったこのエステリオそっくりの人間に対して、とてもとても興味が湧いているのは事実だったから。  「それに俺、アンブローズの家に居た時は天才として将来有望視されてたんだぜ。  俺と居れば毒性学の勉強にもきっとなるし、じめっとした部屋でジジイと居るより絶対マシだと思うぞ」  「ま、うちには城にあるよーなすげぇ本は無いけど、薬が出来るまでの短期間だけと思えば十分だろ」  どうよ、とわざとらしく首を傾げてみせるラスから、私は慌てて視線を逸らした。  すぐ横の壁のひび割れを意味も無く見つめながら、自分の心が大きく揺れている事に気付く。  どうしよう、さっきまでは絶対に断るって気で居たのに。  だけど例えばこいつの提案を呑んだとして、私にとってまずいことってあるかしら。  ラスがアンブローズの家の者である事は、何よりその容姿が証明している。  家を追い出されたとは言え、城下に暮らしている位なんだから、彼が何をしたにせよ重罪人の大悪党って事は無さそうだ。  第一私が存在を知らない時点で、ラスは城に上がる前に何かをやらかして離縁されたと考えて正しいはず。  エステリオが城に上がってきたのは七つの時だから、まあ与えられる職によって多少は個人差があるだろうけれど――  でも、そんな年の子供がすることなんて、せいぜいたかが知れてるわ。  ラス自身が何かをしたのではなくて、もしかすると何かの思惑が働いての事なのかもしれない。  そこまで考えてみたは良いけれど、結局答えなんて出るはずも無かった。  当たり前だわ、私はこいつについて何も知らないんだから。  でもこいつはその答えを知っているし、教えてくれる気もあるみたい。  揺れている私に気付いてか、ラスがまた口を開く。  「取って食おうって訳じゃ無い、ただ手伝ってくれれば良いだけさ。  俺だってあんたに興味があるし、あんたに話したいこと、あんたから聞きたいこと、沢山ある」  「本音言うと、こっちのが目的っても良いかもしれない位だよ」  挑発的だった先程までとは違う、なんだか少し穏やかな口調。  「……あんたも私に興味がある訳ね?」  「あぁ、そりゃなあ。だってあんた、ずっと『会うな』って言われてた相手だぜ」  「……でも、あんたってなんか信用出来ないのよね」  「ひっでーな。まあでも、俺が色んな奴から信用されてねーのは確かだな。  家から放り出した癖してアンブローズの奴ら、俺の居場所はきちんと把握してるし」  「まあでも、だからこそあんたが居なくなったりしたら俺はまず疑われて、徹底的に調べられる」  「……そうだ、昔あんたちょくちょく城抜け出して、夜遅くまで帰らない事あっただろ」  「俺その度に大変だったんだからな。  物騒な奴らに脅されるわ、家中引っ掻き回されて片付ける気が失せるわで」  「それは……まあ、本当なら悪かったけど」  「嘘じゃねーよ。……ま、責めたい訳じゃ無いさ、そんな感じの保険もありますよって話なだけ。  証拠見せろって言われたら困るけど。つまり結局は、あんた次第だ」  「俺をちょっと信用してみるか、それともヤバイ奴認定するか」  さあどうする、と問われるけれど、今この場ですぐに答えを出してしまうのはあまりに軽率すぎる気がして、私は何も答えられない。  するとラスはふうっ、と軽く息を吐いて、わかったよ、と面倒くさそうに呟いた。  「俺とあんたはさっき会ったばっかだもんな、いくら身近な奴の兄弟だからって、ハイ信用しますーって訳にゃいかないだろうさ」  「俺も今すぐ答えを出せとは言わない、一晩待つよ。  明日、あんたが俺の事見つけたあの店で待ってるからさ、その気になったら来てくれ」  「ああただし、ひとりでな。俺は城の人間にあんたと居るの見つかると色々面倒だし、もしあんたが誰か連れて来たりするなら逃げさせてもらうぜ」  「抜け出して来いって言うのね?」  「ちょっと前まではしょっちゅうやってた事だろ?  あんたが俺んちに泊まりたいとか言い出さなきゃ、平気なんじゃねーの」  「そこら辺の判断はあんたに任すよ……まあ、今は早いとこ戻った方が良いと思うけどな。  付いてきてくれてた奴らの事、市の辺りに置いて来ちゃったんだろ?」  そう言われてようやく私は二人の侍女の事を思い出す。  お姫様が突然居なくなってしまったのだから、二人とも多分必死になって私のこと探しているに違いない。  彼女たちの心境を思うと、なんだか少し可哀想になって来た。  「そうだわ、私戻らなくちゃ」  「あぁ、今日はそうしときなよ。で、城に帰って、ちゃんと考えてくれよな」  「もう一度言うけど、俺はあんたに前々から興味があった」  「それにさ、俺達がこうして出会ったこと自体が奇跡に近いってのに、それが俺にとって最後の仕事に取り掛かる直前ってのもなんか運命的じゃん、なあ?」  にやにや笑うラスに向かって、そうね、なんて同意の言葉を返すのはなんだか悔しかったから、私は何も言わなかった。  けれどラスはそれを気にした風もなく、相変わらず楽しそうににやにや笑いながら、それじゃ、と短く言ってぱっと私に背を向ける。  「また会おーぜ、お姫様ー」  ひらひらとこちらに手を振って、遠ざかって行く後姿を見つめながら考える。  私、もしかしてすごくいけない事をしているんじゃないかしら?  アンブローズの人……例えばエステリオがこのことを知ったら、どう思うのかしら?  けれどそんな風に胸が痛んだのは一瞬で、私はたった今ごくごく自然に出てきた名前に顔をしかめた。  何がエステリオよ、あんな奴に気を遣うことなんて無いんだったわ。あいつは、私のことなんてぜーんぜん興味ないんだもの。  だったら私だって、エステリオがどう思うかなんて考えてやる必要無いじゃない!  そう、大事なのは私がどう思うかってことだけ。それだけよ。  エステリオの事なんて考えたら駄目なんだから。  「…………」  ふう、と息を吐く。あんまり考え込んじゃ駄目だわ、とにかく今は帰りましょう。  帰って、あの二人を安心させてあげて、それから沢山考えたら良いわ。  どうせエステリオはあの女の所に居て、私の邪魔なんてしないだろうし。  そう自分に言い聞かせて、私はようやく元来た道を辿り始める。  ラスが去って行った方向に背を向けた途端に、なんだかそれまでの事がまるで白昼夢みたいに感じられて訳も無く不安になったけれど、振り返りはしなかった。  翌日、時刻は丁度朝と昼の真ん中あたり。  昼前にも関わらず目抜き通りは昨日と同じ賑わいで、人々は忙しなく行き交い、行商人達は声を張り上げている。  そんな往来を眺めながら、私は昨日ラスと約束した店の前にひとりぽつんと佇んでいた。  「…………」  そう、結局私はラスの誘いに乗ることに決めたのだ。  ふう、と息を吐いて、視線を上に向ける。待ち人が中々来ないせいでひどく退屈だった。  昨日のように頭の中で材料を掛け合わせて遊ぼうにも、ここの店はまだ時間では無いのか今日は休みなのか、誰も居ないし何も無い。  ……夢だったのかしら。  なーんて、そんな訳無いとは思うのだけれど。  でも昨日と変わらず道の両脇に所狭しと並ぶ露店の中、ここだけぽっかりと無人の空間が広がっているんだもの。  まるで最初から何も無かったみたいに、綺麗に片付けられちゃって。  もしかするともうこの店の人は、露店に店を出していられる期間が過ぎてしまったか何かして、もう戻ってこないのかもしれない。  「きゃあっ、見て見てっ! かわいーい!!」  不意にすぐ隣の店から上がったわざとらしい黄色い歓声に、少し驚いてそちらに目を向ける。  そこにはどうやら恋人同士らしい男女が居て、お互い腕を絡ませながら並べられた商品を眺めていた。  隣はアクセサリーの類を売っているらしい。  早速、お目が高いですねぇ、だなんて常套句から続けて、商品について適当な説明をし出す商人と、それをやたら真剣そうな顔をして聞いている二人。  「うちで扱ってる品にはですね、お客さん。どれも特別な石が使われているんですよ。  ひとつひとつがちゃあんと意味を持ってる、昔っからお守りとしても重宝されて来たもんでね。それを加工してブローチや指輪にしてるんですよ」  「へえぇ、これ全部そうなの?」  「そりゃあもう、勿論で! 例えば緑のコレは幸運を呼び込む、紫のこっちは悪いもんから守ってくれる、他にも色々と……おっ、このペアリングなんか――」  安っぽいアクセサリーに、胡散臭い口上。  こんなのに騙される人間が居るだなんて信じられない、と半ば軽蔑すると同時に、そう言えばエステリオも市場からバカバカしいいわく付きのブローチを買ってきた事があった事を思い出す。  それはもうずっと昔の事で、まだあいつにも可愛げってものがあった頃の話だけれど。  あれはどこへやってしまったんだったかしら。  私はただでさえ曖昧な幼い頃の記憶を辿ろうとしてみる。  捨ててはいないはずだから、どこかにしまっておいてあげていると思うのだけれど――  「!!」  突然背中を小突かれて、それまで追憶に耽っていた私は思わずびくっと体を震わせる。  「よお、お姫様。来たんだな」  「なっ、なな……」  突然の登場に不意をつかれて思いきり動揺してしまった私に、ラスは少し不思議そうな顔をして、それからすぐににやっ、と口の端を上げた。  「なーんだよ、そんなに俺に会えて嬉しい?」  「そんな訳無いでしょバカ!! あんたがいきなりどつくから、びっくりしたんじゃない! そっ、それに服も違うしっ、違う人かと思ったのよバカ!!」  「うわ、叫ぶな叫ぶな。こないだのあれは仕事用のだよ。  あんな暑苦しいもんしょっちゅうなんか着てらんないだろ」  「仕事用? あんたって薬屋なんじゃなかったの?」  「兼、占い師なんだよね。それに色々とやばい薬売ってたりもするからあんまし顔見られたく無いんだよなー。城内に顔そっくりな奴も居るしさ」  「それに、ああ言う服装してると適度にうさんくさくて良いだろ。いかにも不思議な薬売ってそうでさ……あ、俺結構それっぽい喋り方とか上手いぞ」  「そう言うものなのかしら……っじゃなくて。大体ね、いきなり背中をどつくなんて――」  「何言ってんだ。俺、ちゃんと声掛けたぜ?  なのにあんた、ずーっとそっちの店ばっか見てんだもん。なんか欲しいもんでもあったのか?」  「そうじゃないわよ!!」  「欲しいなら買ってやろうか」  「べっ、別にそんなの――」  いらないわよ、と言いかけてやめる。別に欲しいものなんてないけれど、買ってくれるって言うんなら、どうせだから一番高いものでもねだって困らせてやろうかしら。  なんて、そんなことを思いついて。  私は、さっき不意をつかれた悔しさと待たされた腹立たしさも手伝って、私はラスを少し困らせてやる事にした。  待たされていた間、暇を持て余して色々なものをぼんやりと眺めていた。  もちろんそこの店に置いてある品物も。  値段だって一通りわかってる、大体が相応の値を付けられていたけれど、確かいくつか可笑しいくらいに高価なものがあったはずだ。  「じゃあ、買ってもらおうじゃない」  言いながら、先程からずっと黄色い声ではしゃいでいる男女の隣に並んで、そうねぇ、なんて商品を物色するふりをする。  本当は最初から決まっていた。  濁った緑色をしたやたらと大きなガラス玉のようなものに、無理矢理穴を開けて紐を通したみたいな、飾りにもならなさそうなペンダントらしきもの。  良く見るとガラス玉の中には何かどろりとした液体が入っていて、表面にはびっしりと変な文字が刻まれている。  呪物かなにかかしら、とにかく気味が悪い上に無駄に高価だ。  この前会った時、ラスは薬を売って生計を立てていると言った、つまりアンブローズからの金銭的な援助は受けていないと思って間違いないだろう。  こんないかにも価値が無さそうで、しかも高価なものなんて買えるはずが無い。  私は心の中でにやりとほくそ笑んで、けれど表面上はにっこり笑ってラスを振り向き、例のガラス玉を指差した。  「あれが欲しいわ」  さあ困るが良いわ! との私の思惑通り、ラスはガラス玉を見た瞬間あからさまに嫌そうな顔をした。  「……それ、本気で言ってんの?」  「本気よ! すごく素敵だわ」  「誰か呪うの?」  「違うわよ、アクセサリーとして素敵ねって言ってるの」  「ええー……。あんた、お姫様のくせして趣味悪ぅ……」  「うるさいわ、買ってくれるんでしょう? 文句言ってないでさっさとしなさいよ」  「なあ、本当に欲しいのか、あれ?」  「欲しいわよ、とっても大事にするわ」  「…………」  渋い顔をするラスに、私は優越感に浸りながらわざとらしくふう、とため息をついた。  「高くて買えないなら、買えないって言ったら良いのよ。  全く、格好つけてこの私にプレゼントなんかしようとするからこう言う事に――」  「おい、じーさん。この店って今日はいつまでやってんの?」 【商人】 「夜まで開けとくつもりだよ」  「あっそ、そりゃ良かった。じゃあその悪趣味な首飾り――」  「ちょちょちょっ、待ちなさいよ!!」  私を無視して商人と話し出したラスの腕を慌てて引くと、彼は短くなに、とだけ返す。  「なにじゃないわよ、あんたこそ何してんの?」  「何って、欲しいんだろあの変なの。  今の手持ちじゃ無理だから、キープしといてもらおうと思って――まあどうせ売れやしねーだろうけど」  「帰りにもう一度ここ通るだろ、送ってくついでに買ってやるよ」  「なっ、た、高いんじゃないの!?」  「高いに決まってんだろ、あれ俺が一月に稼ぐ分と同じ位すんだぞ。まあでも別に、買えない訳じゃないし」  「し、しししかもあんな気色悪いのよ!?」  「俺もそう思うけど、あんたが欲しいって言ったんじゃん。大事にしてくれるんだろ?」  「なっ……」  まさか本気で買おうとするとは思わなかった私は、ぐっと言葉に詰まってしまう。それを見てラスは人の悪い笑みを浮かべた。  「まさかいらないなんて言わないよなー、欲しいんだもんなー?」  「遠慮すんなよ、まあ言ったからには後生大事にしてもらうけど。  おいじーさん! その首飾り、後で俺が――」  「やっ、ややややめなさいよいらないわよそんなの!! ほらこれっ、こっち!!」  あんな気味の悪いもの、城に持って帰るだなんて絶対に嫌だ。私は慌てて目についた紅いブローチを掴んでラスに押し付ける。  「こ、こっちにして! やっぱりこっちが良い!!」  「あ、そう? ふーん、なんだこっちは普通だな」  そう言ってにやっと笑うラスから、私はつんと顔を背ける。  やられた、私の負けだ。まさか本気で買おうとするなんて思わなかった、折角困らせてやろうと思ったのに!  ほら、と買ったばかりのブローチを渡してくる笑顔が心底楽しそうで癇に障る。  「にしても、さすがと言うかなんと言うか、あんたにピッタリだな」  「何が?」  「それ。真っ赤な毒リンゴ」  「…………」  言われて見ると、渡されたそれは紅いリンゴの艶々としたブローチだった。  適当に掴んで渡してしまったものにしては、まあ悪くない。  使う気には全然なれないけれど、どこかにしまって置いてたまに出して眺める分には丁度良いかもね。  「毒入りとは書いてないわよ」  皮肉めいた言い回しに眉をひそめつつそう返すと、何がおかしいのかラスはやたらと明るく笑った。  「あら、昨日と同じなのね」  目抜き通りを抜けてから辿る道が、昨日私がラスを追いかけて通ったものと全く同じである事にふと気付いてそう尋ねると、ああー、とラスはなんだか間の抜けた声を出した。  「逃げるついでに帰ろうと思ったんだよ、あんたがあそこに居て、しかも俺を見つけちまった以上はそうした方が良いと思って。  まさか追って来るとは思わなかったけどな」  「買いたいものがあったんじゃなかったの? あのお店、今日は閉まっていたみたいだけど……」  「うーん、まあな。ちょっと仕事用に材料をと思ったんだけど……ああ、あんたが気にする事ない。  あそこの店主は気分で店を開けたり閉めたりしやがるから」  「別に気にしてなんかないけど」  「そう? それより、あんたの方こそ良く決断したもんだよな。  俺、絶対来ないと思ってたもん。それが俺より先に来てんだから」  「…………」  「……なに、なんかあった? また弟が粗相でもしたかな」  相変わらず人の不幸を楽しんでいるかのような軽い口調に、思わず眉が寄る。  そのまま睨んでやっても良かったのだけれど、どうせこいつは大して気にしないだろうと簡単に予想がついて、代わりに思わずため息が出た。  「なんだよ?」  「なんでもないわ、エステリオは関係無いわよ。  ただ、昨日から城内は凄く騒がしいの、あんたの所に行った方がまだマシだと思ったのよ」  「騒がしいって、なんだよ引越しでもすんの」  「あんた、わかってて言ってるでしょう。違うわ、ノクシアが風邪引いて倒れたのよ」  「ああ、あの新しい綺麗な人か。リオが今世話についてるって言う」  「お見舞いに行け行けってうるさいの」  「行けば? 風邪薬作ってやろうか」  「いらないわよ、行かないし。それに私が薬なんか持ってったって……」  「持ってったって?」  「…………」  ごく自然な調子で聞き返して来るラスをちらりと見上げて、その瞳の色になんとなく複雑な気持ちになりながらまた目線を道の先に戻した。  流石双子なだけあって、口調は全く違っていてもラスの声はエステリオそっくりだ。  ともすれば、あいつに話を聞いてもらっているみたいな錯覚さえ起こしそうになる。  「持ってったって、どうせ毒か何かと勘違いして飲みやしないわよ」  少しの間を置いて、エステリオそっくりの声がふうん、と呟く。  「それ、誰かに言われた?」  「……!」  言い当てられて、純粋に驚いた。勘が鋭い所も似てるのね。  ただ面と向かって言われた訳じゃない。  見舞いに行け行けとしつこい侍女頭から逃げている途中、偶然城仕えの者達の雑談を聞いてしまっただけだ。  内容は本当に他愛の無い雑談。  ノクシアが倒れた理由と、私が最近毒性学の勉強に精を出していた理由を繋げて、ゴシップめいた推測を種に彼女たちは会話に花を咲かせていた。  彼女達に悪気は全くなくて、ただ噂好きなだけだと言うのは解ったから、その時はただ見つからないよう静かに自室に帰った。  私は姫だもの、小さなことにいちいち目くじら立てている様じゃいけないんだわ。  あれ位、笑って聞き流せるようにならないと。  そんな風に自分に言い聞かせながら、だけどエステリオが帰ってきたら愚痴を聞かせてやって、久しぶりに話して。  それで、ラスの事も決めようってそんな風に思っていた。  でも結局、エステリオは朝になっても帰って来なかった。  理由はとても単純で、ノクシアの世話を他の数人の侍女達と共に任されていたから。  昨日あったのはそれだけ。それだけだけれど、なんだかもう悔しいよりも虚しくなって来てしまった。  私、自惚れていたのかしら。  そうよね、小さい頃からずっと一緒には居たけれど、それは何より命令だったからだもの。  私は姫、あいつは従者。それだけなんだわ、きっと。  「……あんたは気付くのね」  金色の瞳を見上げながら言うと、ラスは一瞬不思議そうに眉を寄せて、それからすぐにふっと笑った。  「なんだ、やっぱリオ関係あるんじゃん。だと思ったー」  「な、なによいきなり。関係ないって言ってるじゃない」  「無理しなくたって良いんだぜー。  なんならまた泣いてくれたって別に良いし……ただもうすぐ俺んちだから、それまでには泣き止んでくれねーと困るけど」  「泣かないわよ!」  「そ?」  なら良いけどさ、とどこか素っ気無く呟いたラスに続いて、それまでずっと歩いてきた広い道から狭い路地に入る。  昨日ラスを捕まえた場所はついさっき通り過ぎた所だから、そこから先は私の全く知らない道だった。  あれから横に並んで歩けないような狭い路地ばかりを抜けて、ようやく視界が開いた所でラスがこちらを振り向いて楽しそうに笑った。  「ここが俺んち。ようこそ、姫様」  「ふうーん、意外とちゃんとした所なのね」  勘当されたなんて言うから、もっと小さな所かと思えば。  そこそこ広さのありそうな、普通の家だ。  日当たりだけは少し悪いみたいだけれど、人通りの多い通りから外れた所にあるだけあって静かだし、一人暮らしにしては十分過ぎる位の大きさだ。  「まぁ、勘当とは言っても正式なもんじゃないからな、一応。それに、俺にも一応利用価値はあるらしいから」  「どう言う意味?」  「つまり、見知らぬ土地で野垂れ死んでもらっちゃ困るってことだ――今はまだ、な。  そんな事より早く入ろーぜ。時間が無い訳じゃないが、ある訳でもないだろ」  言いながら、ラスは家の戸口まで続いている石段を登り始める。  私もその後を追うと、玄関扉に手をかけた格好でラスがこちらを首だけ回して振り返った。  「なあ、あんた本当に来るんだよな?」  「何よ、今更ね」  「いや、一応……。引き返すんならまあ、今って感じじゃん」  「ここまで来ておいて、それはないわよ。良いからさっさと開けなさい」  思わずエステリオにするみたいに命令してしまったけれど、ラスは大して気分を害したと言った様子もなく、少し肩をすくめただけだった。  「はーいはい、じゃ仰せのままに」  扉から家の中に入って、一瞬先生の部屋に来た様な錯覚を起こした。  私がここずっと通いつめて、生活の殆どを過ごしていた場所。  確かにあそこと同じで壁は殆ど本棚で埋められているし、部屋のそこかしこにどさどさと乱雑に古書やら大きい図鑑やらが積まれている所は似ている。  だけど落ち着いてみれば、あの部屋よりもここは随分と広いし、勿論インテリアの配置なんかも全然違う別物だ。  でも何かしら、この既視感……。  「あっ!」  「うわ」  突然大きな声を出したせいか、机の上にこれでもかと積まれていた本の山を慎重に動かしていたラスの手元が狂ったらしい。  どさどさどさ、と本の山が雪崩を起こし、ラスが恨めしそうな顔で私を振り向いた。  「なんだよ、虫でも居た?」  「違うわ。ここ、先生の部屋と同じ匂いがするのね」  「はぁ? なんだそりゃ」  訳が解らない、と言った様子でラスはため息をついて、雪崩れた本をひとまず向こうに押しやる。  「だからね、同じ場所に居るみたいな気分よ。まるで授業を受けに来たみたい、なんだか落ち着くわ」  「そりゃ良かった。つか同じ匂いってなんだ、古い紙と毒草の匂いとか?  それで落ち着くって、わっかんねぇー……」  「そう? ほら、教会と同じよ、あの独特の空気。どこの教会に行っても大体同じで、あそこは神聖な場所って感じがするじゃない」  「それと同じで、ここも知ってる場所みたいな気分になるのよ」  「ふーん、でもジジイの部屋と同じって言われてもな。俺あんま嬉しくないんだけど」  「何言ってるの、この家の方が散らかってるわよ。  全くもう、お姫様が来るって言うのに、酷い有様だわ……」  そう文句を言うと、ラスは悪かったな、と言いながら椅子の上にあった本を部屋の隅に移動させる。  綺麗な積み方じゃないから、あれじゃあ本が傷んでしまいそうだ。  にしてもこの部屋の本の氾濫っぷりは本当に酷い。  床や机の上くらいならまだしも、二階へと続いているらしい階段、椅子、果ては客用ソファにまで本が無節操に放り投げられている。  「あんたって、どこで生活してるわけ?」  「うるさいな、主に二階だよ。薬品の調合はここだけど。  俺だってあんたが来るって知ってたらそりゃ片付けたさ……」  ぶつぶつ言いながら、ラスはようやく片付け終えた客用ソファを指差した。  「ほら、片付けたから」  「……汚い。片付けたって言わないわ」  「うるせ。今日一日掃除に使えっての?  今紅茶でも淹れて――ああ、駄目か」  「なにが?」  「なにが、ってあんたな……。  普通駄目なんじゃないの、そんな大して親交もない奴の出すもの食ったり飲んだりって。毒殺されるかもしんねーじゃん」  「あら、何言ってるのよ。  あんたの誘いを受けた時点で大して変わらないわ。それに、あんたが私を毒殺するとは思えないもの」  「……ふうん、そう? それって俺がリオの兄貴だから?」  単純に不思議そうにそう問いかけてきたラスに、私は――  「まあ、そうかって聞かれれば多分そうだと思うわ」  「ふうん……」  「なによ」  妙に冷めた視線を感じて思わず反射的に睨み返すと、ラスは少し肩を竦めて、それからすぐに私に背を向けてしまった。  「別に。でも、顔が似てるからって安心しない方が良いと思うけどね、俺は」  「そ、それだけじゃないわよ。他にも色々な情報を検討した結果なんだから」  「はいはい……」  「何よその適当な返事――あら、どこ行くの?」  「二階。ここじゃ薬の調合しか出来ないんだよ、薬品量ったりする用具で紅茶飲みたいってんなら別だけどな。  持って来るから、大人しくしててくれ」  振り返りもせずそれだけ言い捨て、ラスは階段を上がって行った。ぎいぎいと階段の板が軋む音が遠ざかる。  「…………」  まだ出会ってからそんなに経っていないけれど、ラスは時折妙に素っ気無い態度を取る事がある、ような気がする。  何か悪い事でもしたかしら、私。  少し躊躇ってから先程勧められた小汚いソファに腰を下ろして考えてみるけれど、特に何も思い当たらない。  まあ、知り合って間もないのだから行動の真意なんて測れなくたって何も不思議な事は無い。  なんとなくため息をひとつ、それからすぐ横の床に落ちていた本をそっと拾って埃を払い、ページを開いた。 =========== 「違うわよ。まあそれも無くはないけど、双子の片方が私の従者だからって、もう一方も信用出来るって訳じゃ無いわ」  「ただ、私を今ここであえて毒殺するメリットが無いでしょってことよ」  「死刑にされても良いって言うんなら話は別だけど、そもそもあんたと私が出会ったのだって偶然だし、なによりそんな恨みを買うような事をした覚えはないもの」  「ふうん……」  「なによ」  妙に冷めた視線を感じて思わず反射的に睨み返すと、ラスはふっと一瞬口元を緩めて、それからすぐに私に背を向けてしまった。  「良いけどさ、まあ気をつけた方が良いと思うぜ。  世の中には色んな奴が居るんだし」  「なによそれ――あら、どこ行くの?」  「二階。ここじゃ薬の調合しか出来ないんだよ、薬品量ったりする用具で紅茶飲みたいってんなら別だけどな。  持って来るから、大人しくしててくれ」  振り返りもせずそれだけ言い捨て、ラスは階段を上がって行った。ぎいぎいと階段の板が軋む音が遠ざかる。  「…………」  まだ出会ってからそんなに経っていないけれど、ラスは時折妙に素っ気無い態度を取る事がある、ような気がする。  何か悪い事でもしたかしら、私。  少し躊躇ってから先程勧められた小汚いソファに腰を下ろして考えてみるけれど、特に何も思い当たらない。  まあ、知り合って間もないのだから行動の真意なんて測れなくたって何も不思議な事は無い。  なんとなくため息をひとつ、それからすぐ横の床に落ちていた本をそっと拾って埃を払い、ページを開いた。  ほどなくして二階から降りてきたラスは、ティーセットやお菓子らしきものを乗せた木製のお盆を片手に、そしてもう一方の手にはなんだか良く解らない植物の蔓を持っていた。  意味が解らなくて言葉を失っている私の事は全く気にした様子もなく、ラスはお盆を目の前の背の低いテーブルに、蔓をそのすぐ脇に置いて、私の手から読みかけの本をさっと取り上げると向かいのソファに腰を下ろした。  「へえっ、なんだよ面白いもん読んでんじゃん。  ビアンカネージュ様が『スノーホワイト』ね」  「良いじゃない別に、装丁が見たことないものだったんだもの。それに、すぐそこに落ちてたから」  「内容なんて子供向けの童話と大して変わんねーよ」  「悪い魔女の王妃様にいじめられて、結局毒リンゴ食わされて死んで、でも王子のキスで生き返ってめでたしめでたし――ちなみにそこにあんのは、俺が昨日読んでたからな」  「なにそれ、あんたでも童話なんか読むの?」  「『ビアンカネージュ』様と会ったからだよ。そう言えば、あんたの今の状況ってこの童話と割と似てんだっけなと思ってさ」  「まああんたの場合、幸いなことに継母は悪い魔女って訳じゃ無さそうだけど」  「……いっそ悪い魔女だったら良かったのよ」  眉をひそめて、ラスが持ってきたティーカップに手を伸ばす。  そしてそれに口を付けた瞬間、自分の顔がますます険しくなったのが自分でも解った。  「なに? 俺なんも入れてないはずなんだけど」  「違う、この紅茶まずいわ」  「失礼な奴……。仕方ねーだろ、城で使ってるのとはまずモノが違うんだから」  「そう言う問題じゃないわ、そもそもあんたの入れ方が下手くそなのよ。ぬるいし、味も香りも薄い」  「いちいち細かいな。色と香りがそこそこあって、飲んであったまれればそれでいーじゃん」  「そう言うものじゃないわよ、紅茶って」  「リオは俺よか上手い? やっぱ」  「当たり前でしょ。エステリオどころか、城のどの使用人だってこんなまずい紅茶出さないわ。  城仕えバカにしてんじゃないわよ」  そうはねつけると、ラスは明るく笑って自分もカップに手を伸ばした。  「ま、仕方ないな。リオと俺じゃあ学んできたもんが違いすぎる、俺は美味い紅茶の入れ方なんて知らないし」  「じゃああんた、いつもこんなぬるい色水飲んでるの?」  「すげぇ言い方するのな……。良いんだよ、違う事に頭使ったってだけなんだから」  「違う事って」  「勿論、お勉強に決まってんじゃん。毒性学の知識はこの国では最も価値のあるもんだろ、他の何よりもさ」  言いながら、ラスはテーブルの上のティーカップ二つを脇によせ、代わりに先程足元に置いたあの妙な蔦をテーブルの中央に移動させる。  「あんたに今日手伝ってもらいたいのはこれ」  「……なによこれ」  「あれ、わかんない? あんた一体何勉強してたんだよ」  そう言われるとなんだか悔しくなって来る。  むっとして蔓を一本掴んで引き寄せると、ふとそれに付いている小さな葉の形に見覚えがあることに気が付いた。  「……アリアナの葉?」  「なんだ、知ってんじゃん。あー良かった」  確かにアリアナの葉は毒性学においてかなり有名な材料だ。  非常に毒性の強いこの葉は主に、暗殺用の劇薬、若しくは強力な解毒剤の精製過程でその名が上げられる。  どちらにしろとても効能の高い薬が作れるのだけれど、とても稀少な材料で、かなりの高値が付けられている。  その理由は選別の難しさだ。  アリアナの葉、とは言っても『アリアナ』と言う名前の植物から生えた葉を差している訳では無く、元々はシフレアと言う有毒でもなんでもないただの植物の一部だ。  勿論その葉には元来毒素は含まれないのだけれど、どう言う訳かある一定の確率でシフレアの葉は変異を起こし、強い毒性を持ち――そして変異を起こした葉の事を、通常のものと区別して『アリアナの葉』と呼んでいる。  シフレアの葉が変異を起こすことはそう珍しい事でもない。  ただ、元が同じものなだけあって、変異を起こした葉とそうでない葉の識別はそう容易いものではないのだ。  「蔓ごとなんて、見るのすっごく久々だわ」  「選別やったことある? 俺は昔ジジイにやらされた、って事はあんたもじゃないかなって思ったんだけど」  「まあ、確かにやったけど……」  勿論城には選別済みの材料がきちんと備えられていたけれど、勉学の一環としてアリアナの葉の選別をやらされた事はある。 ただ、その時は一枚探し出すのに丸三日かかった苦い思い出があるのだけれど。  「絶対終わらないわ、こんなの。どうしてちゃんとしたのを買わなかったのよ」  「だから、普通売ってないんだよ。選別済みのアリアナの葉はあんたが思ってる以上に貴重なもんなの」  「一般人にとって手が出ないものってのはな、特別な場所でしか売られてねーんだよ。  で、そう言う場所に行くチャンスはそうそうあるもんじゃない」  「これしか揃えられなかったのね」  「そう言うことだ。あんた、選別どれくらいかかった?」  「三日よ」  「ふうん。ま、優秀なんじゃない。  課題用に短く切られたのと違って、こっちは長い上に何本目で見つけられるかわかんねーけど」  「…………」  「嫌な顔すんなよ、別に喋りながらなんとなくやってくれれば良い」  「これ一人でやんのって死ぬほどつまんねーから、正直あんたが喋っててくれるってだけで俺は助かるんだ」  別に期待はしていないと言った様子が気に食わなくて、なら見つけてやろうじゃないと持ち前の負けん気に火がつきかけて――在りし日の選別授業の時の記憶が蘇って来てすぐに消えた。  「……わかったわ、適当に手伝う。にしてもあんた、これ絶対に必要なの?」  「悪いね。まあ、必要だから」  「毒? それとも解毒?」  実は気になっていた事をさりげない風を装って尋ねると、それまで手元に引き寄せた蔓に目線を落していたラスが、ちらりと一瞬だけこちらに目を向けて、おかしそうに笑った。  「……秘密。依頼内容を他人に漏らす訳にはいかないんでね」  「そんな事より、もっと楽しい話してやるよ。知ってる? この葉っぱの名前、昔実在した奴から取って来てんだってさ」  なんだか上手くはぐらかされてしまった気がする。正直、人殺しに加担するようなことはしたくないのだけれど。  だけどなんとなくそれ以上の追及は躊躇われて、私は代わりに選別作業がし易いようにと蔓を適当な長さのところでぶちん、と少し乱暴にちぎった。  「そんな話、聞いたことないけど……」  「うん、だろうな。俺もジジイから聞いた話じゃねーし。  昔さ、この国には双子の姉妹が居たんだと。姉のシフレア、妹のアリアナ」  勝手に話し出したラスを止める理由も特に無くて、私は大人しくそれに耳を傾ける。  「でも二人は全く似てなんかいなかった。  寧ろ全くの正反対で、姉のシフレアは美しく、誰にでも優しい健気な娘」  「一方妹のアリアナは驚くほど醜い娘で、いつもフードを目深に被って顔を隠していたくらいだとか。  性格も傲慢で、気に入らない事があるとすぐに癇癪を起こす」  「両親さえもアリアナのあらゆる意味での醜さに、もう彼女を愛する事を諦めたそうだ。  だけど姉のシフレアだけは、妹のことをいつも気にかけて、心から愛していたらしい」  そこまで言って、ラスは手元に引き寄せていた蔓を別のものと取り替えた。  もう一本分の選別を終えたらしい。凄い手際の良さ――とは言っても、『アリアナの葉』は一枚も見つからなかったみたいだけれど。  「でもアリアナは自分と違って美しい姉を憎んでた。妬みだね、女の嫉妬心は怖いって言うじゃん」  「それで、毎日毎日神様に願ってた。『姉さんが私と同じように醜い姿になりますように。姉さんが私と同じように醜い姿になりますように』って、毎日、毎日」  「だけど願いは叶わなかった。だからアリアナは薬を作ったんだ、飲めば二目と見られぬ醜い姿に変わってしまう毒薬を」  「…………」  「一年以上かけて作り上げた毒薬を、アリアナは食事に混ぜてシフレアに飲ませた。  そして翌日、姉の顔は妹と同じくらいに醜くなった。誰もが思わず目を背けるくらいに醜くね」  「――それで、どうなったと思う」  「わからないわよ、知らないもの」  話しながらも恐らく正確に、かつ素早く葉の一枚一枚を検分してゆく彼の慣れた手つきに少し感心しながら答えると、ラスは不満そうにこちらを見上げた。  「推測するんだよ、こう言うのはさ。まあ結末を手っ取り早く教えると、結局二人は死んだんだけどさ。シフレアもアリアナも」  「それはなぜ?」  「シフレアは自殺。一月ほど親や婚約者が方々の医者に診せたが、治療法は見つからなかった。  それで耐えらんなくなって死んじゃったのさ」  「んで、アリアナも自殺。  唯一の味方だった姉が居なくなってからその大切さにようやく気付き、姉を不幸の死へと追いやった自らの罪深さを思い知ってとかなんとか」  「ふうん、なんだか胡散臭い話ね。それって本当? 大体人を醜くする薬なんて作れるの?」  「まあ顔に腫れ物を作ったりする程度のものならいくらだって作れるけど……でもシフレアが醜くなった理由は薬じゃないぜ」  「今話したのは脚色されたお話だよ。実際、二人の姉妹が醜くなった原因は、当時の医学では治療不能だった病のせいらしい」  「そして、その後発見された病気の特効薬に使われたのが『アリアナの葉』と今は呼ばれてる変異した葉なんだとさ」  「病に振り回されて死んだ二人の哀れな姉妹の名を取ったそうだ」  「へえ、実在はしたのね」  「らしいよ。だけどさ、姫様。最初は妹だけが罹っていたはずの病が、どうして姉にまで感染したんだろうな」  「それは、一番近くに居たからでしょう?」  「でもその病気、空気感染なんてしないんだ。  気を付けていれば絶対うつることなんてない、だからこそ姉は妹の傍に居てやれたんだから」  「何が言いたいのよ」  「だから、結局さっき俺が話したお話と、事実は大して変わりが無いんじゃないかってことだよ。  妹が意図的に姉をハメたのさ、自分と同じ姿になるように」  「ほんとう?」  「あくまで推測だけど、そう考えるのが一番自然だ」  「もちろん、姉が極度の阿呆でついうっかり妹の食べかけを食ったとか、可能性としては無くもないけど」  彼の話に、私は素直に聞き入っていた。  今まで何のこだわりも無くただ識別のためだけに覚えていた名の由来を聞くのは興味深かったし、お話自体も破綻しておらずにそこそこドラマチックで。  美しい姉と醜い妹、正反対の双子の姉妹。そう言えば、私の目の前に居るこの男も双子の片割れなのだった。  「あんただったら、やっぱりそうした?」  「それ俺が妹の立場だったらって事か? 俺は男なんだけどな……」  「そんなの解ってるわよ、ただあんただって双子じゃない」  「確かにそうだけど……なんだってそんな事聞くんだよ」  「それは――」  「アリアナって子の気持ちが、なんとなくだけど……解るような気がするからかしらね」  「だって、やっぱり悔しくて惨めじゃない。自分を愛してくれる唯一の人が、幸運だった自分の姿をしているなんて」  「だけど実際双子の人の意見なら違うのかしらと思ったのよ」  「双子ねぇ。俺とリオを普通の双子と思うのは間違ってると思うけどな」  「あら、どうして?」  尋ねると、ラスはだってさ、と笑って肩をすくめた。  「俺達は殆ど別々に育てられたに近いんだ。  だから仲が良いも悪いも無いし、多分普通の兄弟とも双子とも違う、もっとおかしな関係なんだよ」  「すんごく似てる、赤の他人って感じだな。昔は正直気味が悪かった。  まるで自分がもう一人居て、それが知らないとこで勝手に動いてるみたいでさ」  「見かける度にぎょっとしたな、多分それはリオもだろうけど」  「ふうん、そう言うものなの?」  「ああ、まあ。でも俺達は兄弟で、双子だってことに結局変わりはないんだけど。  で、あんたの質問だけど――俺の意見は、大方の所あんたと同じ……かな」  「大方の所?」  「うん。まあ、俺だったらきっと同じ事をするってこと。わかる、とかわからない、じゃなくて……実際、そうするだろうなって思う」  「そう……やっぱり、妬ましいわよね」  「んー、それもあるけど……でもさ、それより寂しいかなって」  「寂しい?」  「うん、自分だけ怪物的な醜さだなんて、寂しいじゃん。俺だったら一緒に不幸を分かち合える仲間が欲しい」  「あんたって、結構自分勝手な人なのね」  「なんだよ、あんたこそ解るような気がする、なんて言ったくせに。  まあでもやっぱ、思うよなぁ。いくら愛して貰ったって……って」  「思っちゃうよな……」  呟く様に言って、ラスは私をじっと見つめて少し投げやりに口元を緩ませた。  それから選別を終えた(またしてもはずれだったらしい)二本目の蔓をテーブルに戻して立ち上がり、ぐぐっと伸びをするとすっかり冷めてしまった紅茶の乗ったお盆を取り上げる。  「邪魔だし、片付けてくる。どうせお姫様は冷めたのなんか飲まないんだろ」  「な、何よ嫌味?」  妙に意味深な呟きから一転してからかう様な口調に思わず口を尖らせると、ラスは違う違うと笑いながら私の横をするりと抜けて、お盆を片手に階段を上がって行ってしまった。  「何よ、もう……」  不思議な奴。何を考えているのか、解りやすそうなのに全然掴めない。  出会って間もないせい、もあるとは思うけれど……。  ふう、と息を吐いてソファに背を預ける。考えるのはやめましょう、あいつに謎が多いのは当たり前よ、第一私はそれを知るためにここに来るって決めたんだから。  「アリアナって子の気持ちが理解出来ないからよ。私だったらきっとそんな事はしないわ」  「だって、自分を愛してくれる唯一の人でしょう。だけど実際双子の人の意見なら違うのかしらと思って」  「双子ねぇ。俺とリオを普通の双子と思うのは間違ってると思うけどな」  「あら、どうして?」  尋ねると、ラスはだってさ、と笑って肩をすくめた。  「俺達は殆ど別々に育てられたに近いんだ。  だから仲が良いも悪いも無いし、多分普通の兄弟とも双子とも違う、もっとおかしな関係なんだよ」  「すんごく似てる、赤の他人って感じだな。昔は正直気味が悪かった。  まるで自分がもう一人居て、それが知らないとこで勝手に動いてるみたいでさ」  「見かける度にぎょっとしたな、多分それはリオもだろうけど」  「ふうん、そう言うものなの?」  「ああ、まあ。でも俺達は兄弟で、双子だってことに結局変わりはないんだけど。  あんたの質問――確かに、俺の意見は違うし」  「違う?」  「そう、俺だったらきっと同じ事をしたかなってことだよ」  「ええ、良く出来るわねそんな酷いこと!」  「なんだよ、聞いたのはそっちだろ。  だって寂しいじゃん、自分だけ怪物的な醜さだなんて。俺だったら一緒に不幸を分かち合える仲間が欲しい」  「あんたって、結構自分勝手な人なのね」  「そう? そうかな、あんたの考えは所詮キレイ事だと思うけどな、俺は。  まあ俺、そう言うこと素で言っちゃう奴って中々嫌いじゃないけどね」  なんだか暗に世間知らずと言われたような気がして、私は少し口を尖らせる。  「なによそれ、バカにしてる?」  すると、ラスは声を上げて笑って、違う違うと首を振った。  「わかんないかな。あんたみたいな人、結構好きだって言ったんだよ」  そしてラスは選別を終えた(またしてもはずれだったらしい)二本目の蔓をテーブルに戻して立ち上がり、ぐぐっと伸びをしてからすっかり冷めてしまった紅茶の乗ったお盆を取り上げた。  「邪魔だし、片付けてくる。どうせお姫様は冷めたのなんか飲まないんだろ」  からかう様な口調に、気付きながらも何も反応出来なかった。  だってあんなにエステリオそっくりの顔で、声で、あんなにも素直に好意を伝えて来るんだもの。  思えば私、あいつに好きだって言われた事なんて、数えるほどしかない気がするわ。それもずっとずっと小さい頃よ。  でもこう言うのが普通なのかしら、エステリオはやっぱりひねくれすぎなのね。そうよ、絶対にそうだわ。  なんだか必要以上にどぎまぎしてしまって内心慌てる私の横をするりと抜けて、ラスはお盆を片手に階段を上がって行ってしまう。  足音が戻ってくるまでに落ち着かなくちゃ、と息を吐いた私の視界の端で、積まれていた蔓のうち一本が何かを主張するみたいにころりと静かに転がった。  それからずっと、西日が窓から差し込むまで。  私たちは美しかった双子の姉の名を与えられた植物を間に挟んで、色々な話をした。  好きなもの、嫌いなもの、ボード先生の若い頃の話、調合表のわかりやすい覚え方。  色んな事を話したけれど、ずっと聞きたいと思っていたことは何故だか切り出しにくくて、そうこうしているうちに時間は思ったよりずっと早く進んで行ってしまった。  「そろそろ帰らなきゃならないわね」  三時を告げる教会の鐘の音が遠くの空から聞こえて、私はソファから立ち上がった。  「ああ、そっか城門の警備も夕方になると厳しくなるもんな」  「ええ、それにここは城から少し距離があるもの。  悪かったわね、あんまり手伝えなくって」  「いや、今日で終わるとは俺も思ってなかったし。それにあんたと話すのって楽しいから」  「…………」  「ん、なに。なんか俺変なこと言ったか」  「……あんたって、そう言うこと簡単に言うわよね。誰にでもそうなの?」  「そう言う事って?」  「好きだとか楽しいだとか! 随分慣れてるみたいだけど」  なんとなく恥ずかしくなって、つい責めるような口調になってしまう。  するとラスは少し考え込むような素振りを見せてから、  「いや誰にでもって言うか、そもそも俺こういう風に話するのって、あんたが初めてだし」  「初めて? なによあんた、友達居ないの?」  「居ねーよ、そんなん作ってる暇も、知り合う機会も無かったし……」  「でもこうして話すのって結構楽しいもんだな、ジジイが相手じゃやっぱ駄目だわ。リオともまともに話したことなんて殆どねーし」  「……エステリオのこと、嫌いなの?」  その名前を出すのを、私は少しだけ躊躇った。  理由はよく解らないけれど、なんとなくラスはエステリオの名前をあまり聞きたくないんじゃないかって、そんな気がしたから。  けれど予想に反して、ラスはちょっと困ったみたいに笑っただけだった。  「じゃあ、あんたはどう? リオのこと好き?」  「私は――」  「嫌いよ、あんな奴!」  素っ気無くそう返すと、ラスは笑った。  「うそつき」  「な、何よ! 嘘なんかついてないわよっ、本当にあんな奴もう嫌いなんだから!!」  思わず声を荒げると、ラスははいはい、とエステリオみたいな口調で言って首をすくめた。  「俺はリオのこと、別に嫌いじゃないけどなぁ。まあリオの方は……多分、俺が嫌いだと思うけどさ」  「え?」  「……最近嫌いだけど――でも、本当に嫌いって訳じゃないわ」  「そうか、俺もそうだ。嫌いじゃない、でもリオはどうかな。あいつは多分、俺が嫌いだと思う」  「え?」  「リオとは、普通の兄弟として育つことが出来てたら良かったんだけど――勿体無いよな、折角双子なのに」  「嫌いって、エステリオがそう言ったの?」  「いや、そう言うわけじゃない。そもそも俺、ここ数年あいつに会ってねーし。  でももうあいつと普通の兄弟するのはきっと無理だな」  「そんなの。本人に聞いてみないと解らないじゃない」  「聞けねーもん」  「聞いてあげるわよ。あいつ私には絶対に嘘つかないし、本当の事が解るわよ」  そう提案すると、ラスははあっ、と大きくため息をついて私を軽く睨んだ。  「鈍いな、知りたくないって言ってるんだよ。  第一俺の事なんかどうやって聞くつもりなんだ? 下手に切り出して、こうして会ってることがバレたりなんかしてみろ、大変なのは俺なんだぞ」  「でも、気にならないの?」  「ならない。だから、絶対にリオに俺の事は言うな、絶対だ」  「……わかったわよ」  興味なんてない、とそれはあまりにもきっぱりとした返事だったので、私は渋々頷いた。  するとラスは少し安心したような顔をして、よし、と呟くと私の横を抜け、まっすぐ玄関扉へと向かう。  「じゃ、早いとこ行こうぜ。市までなら送るから――ああそうだ。  あんたさ、悪いんだけど次からは直接俺の家まで来て貰っても良いかな」  「あんただって毎日抜け出して来るって訳には行かないだろうし、時間だって日によって変わるだろ?」  「確かにそうね、あんたも一応暇じゃないものね。解ったわ、じゃあ道を覚えながら帰ることにする」  「悪いね、お姫様にご足労願っちゃって。  その代わりって言うのもなんだけど、うちにはいつでも来てくれて構わないから」  「俺は大体家に居るし、もし居なくても鍵は開けとくから、勝手に入ってくれて構わない。ただ、調合中の薬には触るなよ」  「無用心ね」  「良いんだよ別に。盗られて困るものなんてうちには無いし、こんな場所まで盗み働きに来る物好きもそうそう居ねーし」  「だから、本当いつでも来て良いから。夜でも朝でも、別に毎日来てくれても俺は構わない」  「そんなに私に来て欲しい?」  「ああ、勿論」  いつでも来て良いと強調する彼を少しからかってやろうと意地悪く尋ねれば、あまりにも素直な答えが返ってきて思わず面食らう。  そんな私の反応に、ラスは少し困ったような顔をした。  「もっと違うこと言った方が良かったか?」  「べっ、別にそう言う訳じゃないわよ」  ラスの言動にいちいち違和感を感じて戸惑ってしまう私に気付かれたくなくて、慌てて彼の言葉を否定する。するとラスはにこりと、どこか偽物めいた笑顔をこちらに向けた。  「そう、なら良いけど」  そして同時に玄関扉を引き開けた。空気が動いて、少しだけ冷たい風がそっと髪を揺らす。  扉を押さえたまま、どうぞ、とばかりにちょっと首を傾げてこちらにわざとらしい紳士的な笑顔を向けるラスに、私はふう、と思わずため息をついた。  その日の夜更け。夕食も終えて、あとは眠るだけと言った時間。  何かとうるさい侍女頭を追い払って誰も居ない部屋の中、ラスにもらったリンゴのブローチを何とはなしに眺めていると、不意にノックの音が遠慮がちに部屋に響いた。  「ネージュ様、もうお休みになられましたか?」  続いて、やっぱり抑え目の声。エステリオだ、とすぐに認識すると同時に、奇妙な安堵感を覚えた。  やっぱりまだこの声には、この落ち着いた口調が私の中では合っているのかもしれない。  そう認めるのはなんだか少し悔しかった。  「起きてるわよ、入りたいなら入れば」  「それでは、失礼します」  静かに扉が開いて、エステリオが入ってくる。しゃんと伸ばした背筋に、ラスよりも短くきちんと切りそろえられた同じ色の髪、それからいつでも冷静さを湛えたエメラルドグリーンの瞳。  ああ、エステリオだ。  たった一日離れていただけだと言うのに、なんだか随分久しぶりに彼の姿を見るような気がした。  「何の用? ノクシアのお見舞いなら行かないからね」  先手を打ってやろうとそう言うと、エステリオは軽くため息をついた。  「違います。ノクシア様の体調も随分と回復されたので、俺もいつも通りのスケジュールに戻りますと報告に来ただけです」  「一日だけとは言え、お側を離れて申し訳ありませんでした」  「そう、残念だったわね。私と違って随分と気立ての良いノクシア様のお世話は楽しかったでしょうに」  「…………」  言葉に含んだ明らかな棘に流石のエステリオも気付いたのか、その場に気まずい沈黙が降りて私は思わず泣きそうになる。  どうしてそこで黙るのよ、何か言ってみなさいよ。  「あんた、思い上がり過ぎなのよ。謝る必要なんか無いわ、だって全然気になんかしていないもの」  弁解でも何でも良いから何か言って欲しくて、私は喋り続ける。  でもエステリオの顔を見る勇気は出なくて、ただ先ほど手の中に隠したあのブローチをぎゅっと握り締めていた。  「そうしたいと思うなら、いくらだってあの女のお側に居てあげて構わないのよ、エステリオ」  「…………」  口をついて出てくる言葉は、本当は言いたくないことばかり。  私っていつもこうだわ、本当は違う話がしたいのよ。  今日聞いたあの双子のおはなしのことや、アンブローズの家のこと、もちろんそれだけじゃなくって、ここずっと意地を張って話していなかった色んなこと。  エステリオと普通の兄弟をするのはもう無理だ、と笑ったラスの言葉を思い出す。あの時は否定したけれど、やっぱり関係なんて簡単に切れてしまうものなのかもしれない。  そんな事を考えながらぐっと涙をこらえていると、エステリオがぽそっと呟いた。  「ネージュ様は、最近お勉強ばかりですね」  「それが何よ」  誰のせいだと思ってるのよ。  「いえ……」  奇妙な沈黙の後に、エステリオがそっとため息をついたのが気配で解った。  「もうお休みになりますか?」  「…………」  黙って頷く。エステリオが室内の灯りをひとつひとつ消して行く間、私は彼が何を言いかけてやめたのかと、ぼんやり考えていた。  やがて部屋の灯りは全て消え、エステリオが持ってきた燭台からの小さな灯りだけが私を後ろから頼りなく照らす。  その光もゆらりと動いて、エステリオが今にも部屋から出て行こうとしているのが解った。  握り締めていた手の力を緩めて、あのブローチにそっと視線を落とす。  もし聞けるのなら、彼ならどうするか聞いてみたかった。私は――  「…………」  何か言いたかったのは確かのはずなのに、いざ何かの言葉を口にしようとすると、何も出てきてくれなかった。  だって、なんて言ったら良いのよ。相談なんて出来るはずがないじゃない。  こんな、ろくに普段の会話も出来ないような状態で。  私は思わず俯いて、エステリオの持つ燭台からの光が視界の端を滑って扉へと向かうのを視界の隅に捕らえながらも黙って見送るしかなかった。  「……おやすみなさい、ネージュ様」  不意にかけられた声は、いつもより少し投げやりで、なんだか怒っているようにも聞こえた気がした。  「あ、え、エステリオっ……」  「はい?」  出て行こうとする光を追って扉の方へ向き直ったは良いものの、驚いた様子で振り返ったエステリオと意図せず目が合ってしまって、思わず言葉が出なくなった。  「えっと……その」  「なんでしょう」  「…………」  「……?」  「な、なんでもない。おやすみ……」  「…………」  会話を諦めて目を逸らしてしまったから、エステリオがどんな顔をしているのかは解らなかったけれど。  「おやすみなさい、ネージュ様」  返ってきた声の調子はさっきより少し優しいような気がした。  思わず顔を上げた私の目の前で扉が静かに閉まる。青白い月明かりだけが差し込む暗い部屋。  ほんとうはごめんねって言おうとしたのよ。  ごめんなさい、言いすぎたわって。本当はそんな事思っていないって。  ため息をついてベッドからそっと降り、少し考えてからチェストの下から二番目の引き出しをそっと引いて、昔お父様から貰った宝石箱を取り出した。  ラスから貰ったブローチを入れておくつもりで蓋を開くと、そこには既に様々なものが入れられていた。  初めて行った市で自分で買った妙な形の石、お父様がくれた他国からのお土産、その他にも小さな頃に宝物だったものたちが沢山。  この蓋を開くのは、そう言えば久々だわ。もう一回り大きくて豪奢なものを貰ってそちらを使うようになったから。  そっと中身を寄せてスペースを作る。大分一杯になってしまっているけれど、この小さなブローチくらいは入るはずだ。  「……あら?」  ふと懐かしいものが下に埋まっているのを見つけて、そっと指でつまんで取り出す。  それは今私がまさにしまおうとしていたものと同じく安物のブローチで、星型に五枚の花弁を付けた可愛らしい花が模られている。  月明かりの下だからか、褪せてしまっているからか、色は良く解らない。  薄汚れて光沢を失ったそれを掌に乗せて、私は少し微笑んだ。  「やっぱり、こんな所にあったのね」  それはずっと昔にエステリオから貰ったものだった。  あいつがまだ全然分別をわきまえていなくて、けれど凄く優しくて、今よりずっと表情豊かだった頃の話だけれど。  にしたって兄弟揃ってプレゼントするものの種類が同じだなんて、なんだか面白いわね。  でも、どうしてこんなものくれたんだっけ……私が市に自由に行けるエステリオを羨ましがったからだったかしら?  考えながら、空いたスペースにラスから貰った方と一緒にブローチを入れて、蓋を閉める。  そして今度はチェストの上から三番目に入れなおした――と同時に、欠伸をひとつ。  ああ、もう寝なくちゃ。明日はどうしようかしら。  そうね、とっても来て欲しそうだったし、またラスの所に行ってやっても良いかもしれないわ。まだまだ聞きたいことも沢山あるし――  考えながら、ベッドに入る。瞼を閉じれば睡魔はすぐにやって来て、私はすぐに意識を手放した。  「ネージュ様、よろしいのですか? ノクシア様の所に……」  「先生までそう言うことばっかり言うのよしてよね。私は真面目にお勉強がしたいのよ、ノクシアともエステリオとも離れてね。それだけ!」  本棚からやっとの思いで引き出した重たい本を抱えながら、振り返ると先生は少し困った様な顔をしながらも穏やかに笑っていた。  ここはじめじめと陰気な地下書庫。代々引き継がれている、限られた人間以外は触れることすら許されないような本や図鑑が、壁を埋め尽くしている本棚に所狭しと並べられている。  ノクシアと会うのがどうしても嫌だった私は、先生の所で学問に没頭することに決めたのだ。  ここは国の重要な機密を保管する場所。使用人達だって、殆どがその所在を知らされていない。  つまり、ここなら耳障りな噂話や気遣いを、ほぼ完全に閉め出す事ができるのだ。  「ネージュ様、またこのような所に……」  「もう、うるさいわねぇ。私は真面目にお勉強がしたいの、それだけ! もう十分気分転換もしたし、この間みたいにまたしめだすのはやめてよね」  本棚からやっとの思いで引き出した重たい本を抱えながら、振り返ると先生は少し困った様な顔をしながらも穏やかに笑っていた。  もうすっかりお馴染みになってしまった陰気な地下書庫。やっぱり城の書庫は違うわね、ラスの家にあった様なものとは質が違う。  ノクシアと会うのは勿論嫌だったし、かと言ってラスの所へ行く気分でも無かった私は、今日も今日とて先生の所で真面目に学問に従事する事に決めたのだ。  「きゃっ!!」  どさり、と手元から滑り落ちた本が重たい音を立てて、床に積もった埃を舞い上げる。  思わず腕を振って埃から逃れようとする私を見て、先生はおかしそうに笑った。  「いやいやネージュ様、お転婆もこの場所では控えるようにお願いしたいですな」  「う、うるさいわね、解ってるわよ。貴重な本だって言うんでしょう? 別に、好きで落としたんじゃないわ」  大切にしなきゃならないことくらいは解っている。これはこの王家に代々伝わるものなのだし。  落っことしてしまった拍子に、ぱっかりと真ん中のあたりで開いてしまったその本を見下ろして、肩をすくめる。  「まったく、今度写本を作り直す時は、もう少し小分けにしてほしいものだわ……あら?」  文句を言いながらも拾おうと伸ばした手が、思わず止まる。  偶然開いたそのページには、強力な毒薬の精製法が載っていた。  私はこの国の姫として、エンゲルランドの国学とも言える毒性学を必死で学んでいるし、ある程度の毒薬だったら自分で材料を揃えて精製することだって出来る。  それはこの国の姫としては当たり前。  ……だけど、人をほんの数滴で殺せてしまうような強力な薬の作り方はまだ知らない。もう知識なら十分つけているはずなのに、先生が許してくれないから。  「おや、興味がおありですかな?」  「そりゃあそうよ、お父様は私くらいの年には、もっとえげつない薬も教わったって言ってたわよ」  「きっとあのエステリオだって、劇薬のひとつふたつくらいは知ってるはずだわ。アンブローズの家の者だものね」  「……なのに私は解毒薬と栄養剤の精製法にばっかり詳しくなっちゃって」  「時代の変化ですよネージュ様。それにネージュ様は姫であらせられますからの、平和で良いではありませんか」  「女だろうがなんだろうが関係ないわ。平和なのは良いけど、牙を抜かれている様で、なんだか時々情けなくなるのよ」  そう言いながら、拾い上げた本のページはそのままにして机の上まで持って行く。  材料の項目に、城にも普通に咲いている花の名前を見つけて私は少し微笑んだ。  「ふうん、あんなに綺麗な花が材料になるのね」  ぺらぺらと適当にめくって行く。薬の精製は料理をするのとかなり似ている。だから精製法の本を読むことは、料理好きの私にとっては中々に楽しいことだ。  勿論出来上がるのは毒薬なのだろうけれど、実際誰かに使う目的なんてないから、たとえどんなに強力な、えげつない毒だとしても、作り方に興味を持つこと、精製をすること自体に後ろめたさは感じない。  「ね、どうして教えてくれないのよ? まだ勉強不足だから、なんて言わないわよね」  「そうは言いませんがネージュ様、その様な薬は実に簡単に命を溶かしてしまうのですぞ」  「返り血を浴びることも、憎悪の眼差しを受けることも無い。毒とは時に非常に魅力的な凶器となり得るのです」  「なによ、私が気に入らない相手に片っ端から毒を盛るとでも疑っているの?」  確かにノクシアには、二、三度お腹を下す薬を盛ってやろうかと思ったことがあるけれど、仮にも女の身にそれはあまりに可哀想だと思うから、実行に移したことはないのよ。  そう言って膨れると、先生は少し複雑そうな表情を見せた。  「姫はこの国唯一無二の宝でございますから。爺はついつい、慎重になってしまうのですよ」  「慎重ってどう言う意味よ。遠ざけられてれば、知りたいと思うのは当然のことよ?」  「勿論、姫を信じておらぬ訳ではありませぬよ。私めが信じられぬのは、何より己自身なのです」  「……?」  どう言う意味だかはさっぱり解らなかったけれど、これ以上の追求を避ける様な曖昧な言い回しに、私は肩をすくめて分厚い本をばたんと閉じる。  納得した訳では全く無かったけれど、先生のことを困らせるのは本意じゃないわ。ここにまで居辛くなるのは私だって嫌だし。  それに、「唯一無二の宝」なんて言われたら、悪い気はしないものね。  「わかったわよ。それじゃ、今日はどんな健康的な薬について教えてくれるのかしら?」  大人しい生徒に戻った私に、先生は満足そうに微笑むと、先程の本をさりげなく私から遠ざけるのだった。  「薬って言うのも、色々と面倒よね。沢山あればあるだけ良い、って訳にもいかないし」  またしても先生の所へと逃げ込んでいた私は、久々にここの掃除をするのだと言う先生を手伝って、本棚から本を抜き取りながら呟いた。  掃除なんて使用人達に任せてしまうのが常だけれど、この書庫の場合はそうも行かない。  重要な場所すぎて、知っている者が少ないからだ。  だから、掃除はあまり頻繁に行われないし、綺麗にしたければこうやって自分たちで少しずつやっていくしかない。  聞いた話じゃ、お父様もよくここの掃除は手伝わされていたらしい。  ここは王族が唯一庶民的な仕事をするって意味でも、貴重な場所なのかもしれないわね。  「もっと便利になれば良いのに。効果や副作用や飲み合わせだとかがいちいち面倒なのよね、万能薬ってないのかしら……やだ、この本埃で表紙が真っ白じゃない」  そう愚痴りながら、濡れた雑巾でそっと表紙を拭いていく。庶民はきっと、姫がこんなことしてるだなんて考え付かないだろう。  「万能薬でございますか。それは流石に難しいでしょうなぁ」  そう言ってこちらを向いた先生の頭に随分と埃が落ちていたけれど、どうせ続けたらまた汚れるだろうと判断して私はあえて指摘をしないことにした。  「難しいのはわかるわよ。ちょっとでも学べば、それくらい不可能なのは解るわ」  人の作れる薬には、様々な効能がある。だけど限界だって勿論存在してる。  薬に出来るのは、人の体が毒や病気や、そう言うものに抗うために元々持っている力を手助けすることだけ。  なんでも治せる魔法の万能薬なんて、無から有を生み出すのと同じ事で、不可能なのだ。  「……解ってるけど、お母様のご病気を治す薬くらいはあっても良かったのにって思うのよ。  そうしたら、新しい家族なんていらなかったし、あいつらだって城には来なかったわ」  そうよ、お母様さえ生きていてくださったら。  お母様は素敵な方だった。優しくて、美しくて、品があって、病気で体の具合が悪い時だって、いつもしゃんとしていて強い人だった。  「姫……」  過ぎたことを悔やんでも、何も起こらないのは知っている。  今更泣くだなんて、お母様に怒られてしまいそうだからしないけれど、だけど最近はこうして『もしも』を考える事が多くなった気がする。  「全部あいつらのせいね……」  お母様の話だって、気を遣わせるのが嫌だからエステリオ以外には滅多にしないのに。  本当、調子が狂って嫌になっちゃう。  「ねぇ、エステリオのお母様も、確かもう居ないわよね?」  「そうですな、確かあれを生んだ年に。出来た嫁であっただけに、残念でなりませぬ」  「そうよね、エステリオもなのよね」  「何か気になる事がおありですかな?」  綺麗になった本を机の上に置いて、雑巾をバケツの縁にかけると私は軽く椅子を引いてそれに腰掛けた。少し休憩だ。  「気になるって言うか、あいつって自分のことあんまり話さないのよね」  秘密主義、と言う訳ではないだろう。エステリオはただ寡黙なだけだ。  何かの機会があったり、私が尋ねたりすればきっと普通に教えてくれるだろうとは思う。  「確か、エステリオに色々と仕込んだのはあの侍女頭だったわね」  「ええ、私の連れ合いですな。息子は家令の仕事で忙しくしておりましたから」  そう言えば、ここの侍女頭はこの先生の奥さんだったわね。滅多な事を言わないように気をつけておかなくちゃ。  思えばあのおばあさんには、何度フォークとナイフの使い方がなっていないだとか、言葉遣いが美しくないだとかで頭をはたかれた事やら。  エステリオが注意されている姿も昔は何度も見かけたものだったのだけれど、つまらないことに最近は滅多に見なくなっている。  『エステリオ、背筋をちゃんと伸ばしなさい!』って言うあれ、まだ真似出来るかしら。今度久々にからかってやりたい。  「じゃ、小さい頃から英才教育だったって訳ね……」  「あれは容赦と言うものを知らないですから」  「何言ってるのよ、厳しいって言うなら似た者夫婦じゃないの」  つい先日、サボっていた私を物凄い勢いでこの地下倉庫まで引っ張って行って、お説教とテストと、それからまた長々としたお説教、なんて言う地獄を見せてくれたことを私は忘れていない。  ついでに、その時出された恐ろしい量の課題のことも忘れないわ。  今は私がこうして進んでここに来る様になったから、機嫌も良くて穏やかなご老人、って感じだけれど、先生は学問に関して言うと本当に厳しい人なのだ。  「おや、私はこれでも以前より寛容になったつもりなのですがな」  「以前って、今より厳しかった時があるの?」  「ええまあ、生徒が生徒と言いますか、姫様よりはるかに生意気な輩を教えていたことがありまして」  「ふうん……」  エステリオのことだろうか。確かにあいつは生意気そうだし、それにあまり似ていないけど先生の孫だものね。  小さい頃は先生に勉強を見てもらって、メイド頭のあのおばあさんに礼儀作法を叩き込まれて、そうやって生活していたのだろうか。  エステリオが初めて私に会いに来た時、確かあいつは七つか八つくらいの年だったはずだ。  それから一年位して、お母様が亡くなってすぐにあいつが城に来てからはずっと一緒に居たけれど、それまでのエステリオの生活を私は知らない。  従者として扱いはしているけれど、あれでも実は貴族の家の長男だ。家には恐らく、使用人の何人かくらいは居るだろう。  と言う事は、エステリオが使用人を使うってことも、あるのよね勿論……。  ……想像すると、普段が普段だけになんだか少し面白い気がするわね。  「? どうかなさいましたかネージュ様、私の顔に何かおかしなところでも?」  「あ。ううん、なんでもないのよ」  そう言って、私は休まず作業を続けるご老体の先生をいたわるべく、そっと椅子から下りたのだった。  ふぁ、と大きく欠伸をした途端、先生がこちらに厳しい目線を向けてきた。  慌てて頬杖をついていた姿勢を正し、一生懸命勉学に励んでいるふりをするけれど、耐え切れずにふたつめの欠伸が出てきてしまった。  「姫……」  「だ、だって。歴史の方はあまり好きじゃないのよ、実際に調合したりだとか、そう言う目的がないから退屈で……」  毒に関するこの国の歴史を学ぶ事も、姫としては大切な事だってわかるけど。  だけど、誰がどこで何の毒で毒殺されました、なんて表を頭に入れるのって凄くつまらない作業なのよ。  同じ家の、名前も似たような人達が一度に何人も違う毒で殺されたりしているから、覚え辛いし……。  「大体、こんなこと覚えて何の役に立つの……」  「せめて家名だけでも覚えて頂かないと困りますな。どの様に役立つかは、姫様がご成長なされた折に実感出来るでしょう」  「だって、興味が湧かないんだもの……。あ、だけどアンブローズの家のことはちゃんと一度で覚えたのよ」  「おお、それは光栄なことです」  「そりゃあ、これだけ周りにアンブローズが居ればね……」  エステリオの生家でもあるアンブローズ家は、王族付きの従者や城内の使用人達を取りまとめる家令、写本の作成を担う学者など、優秀な人材を多く輩出している。  恐らく最も王家に親密で、国内では三指に入る程名の知れた貴族の家だ。  けれど昔はずっとずっと下級の、貴族とは名ばかりのみすぼらしい家で、資財も何もあったものではなく、一般市民と変わらない生活をしていたらしい。  このアンブローズ家が今の地位を得るに至ったきっかけとして、少々ドラマチックな逸話があるのだけれど、それを語る前に、まず当時――ざっと百年くらい前のこの国の状況を理解しておかなければならない。  当時、この国は今よりも力が強くて好戦的で、飢えた獣みたいに領土を欲しがって戦争ばかり繰り返しては成長していた。  エンゲルランド、天使の国、なんて名前とは裏腹に、まるで鬼か悪魔みたいに残虐な恐ろしい国として、大陸に名を馳せていたそうだ。  結局、この国の拡大を恐れた他の国々による連合軍にエンゲルランドはボロ負けして、折角広げた領土をほとんど全て失うのだけれど、これはアンブローズの家のこととはあまり関係がないので、割愛することにする。  外から見れば強国であったエンゲルランドだけれど、内側はかなりガタガタだった。  独裁的な王によって施行されたおかしな法律に振り回され、国民は疲弊しきっていたし、継承権の奪い合いで城内はほとんど毎日死者が出る有様。  今の平和なこの国からは少し想像しづらいけれど、名残はそこここに残っている。  この城内にだって、今では硬く錠を降ろされている扉の向こうには、昔に使われていた拷問部屋や秘密の抜け道があったりするし、夜の見回りを担当したメイド達の間には、見回り中に亡霊を見たと言い張る者も多い。  そしてその頃には、ある特別な役職が存在した。時代を象徴すると言っても過言ではないその役職とは、『毒見役』。  毒見奴隷とも呼ばれたけれど、それはただ毒見をする人間の立場によって呼び名が変わるだけで、実際に何をするかはその役名が示す通り。  毒による暗殺が、親族間、もしくは他国からのスパイだとかによって横行していた時代だったから、その役目の者が居なければ、ろくに食事だって出来なかったのだそうだ。  毒見の役は、捕虜にさせることもあったけれど、基本的には志願制。  与えられるのは、命と引き換えるには全く足りない、それでも困窮している市民達にとっては十分に魅力的な程度の報酬と、やっつけ仕事で立てられた石碑に名を刻むことを許される程度の名誉。  一家心中よりはと毒見役に名乗りを上げた者は、二度と城から戻る事はなかったと言われている。  そして、連合軍の結成により戦況が悪化しつつあり、また国内の継承権争いも激化の一途を辿りつつあった頃。  忌むべきその役職に自ら進んで志願し、国の第二王子の毒見役として採用されたのが、当時アンブローズ家の一人娘であった少女だった。  没落しつつあったとは言え、貴族の家の娘。毒見役と言うのは、家族もろとも死ぬか、自分を犠牲に家族を生かすか、そんな選択を迫られている様な者が就く役職。  彼女は勿論、そんな所からは程遠い所に居たはずだった。  どうしてそんな彼女が毒見の役に志願したのかについては諸説あり、どれも真偽のほどは明確でない。  私が一番好きなのは、その少女が王子様に恋していたから、って言うのだけれど、もしかすると何かの陰謀だったのかもしれない。  けれどアンブローズが今の地位を獲得しているのは、彼女が自らを王家に捧げたと言うそれだけの理由では勿論無い。  彼女はとても特別な少女だったのだ。  若くして毒性学に精通しており、その上信じがたい事に、あらゆる毒に対する強い耐性を持っていた。  その特異な体質と天才的な頭脳をもって、彼女はそれまで解明されていなかった様々な毒の解毒剤を次々に精製して行った。  当時は解毒よりもより有用性の高い毒の開発にばかり尽力されていたから、彼女はただの厄介者として扱われ、その功績を正当に評価される事無く短い生涯を終えた。  アンブローズ家をここまで王族に近しい存在にしたのは、彼女が実に一年近くに渡って毒殺の危機から遠ざけ続け、ついには守りきったあの第二王子だ。  彼女の死は、戦争の終結とほぼ同時期だったと言う。  王の強制的な退位、第一王子の暗殺、被支配国になったことによる結果的な国内情勢の安定で、彼は王として即位した後、天寿を全うするまで王座に在り続けることが出来たそうだ。  その彼が、彼女の死後すぐにその弟を自分の侍従として迎えたこと、それから彼女の功績に公的な評価を与えたことが、今のアンブローズ家の在り方に繋がっている。  それ以来、アンブローズと言う家は王家にとって、絶対的な『味方』のような存在なのだ。  『如何なる時代が来たとしても、あの家の者だけは信頼を寄せるに値する』  そんな王子の言葉に応えるように、これまでアンブローズ家も王家に対して絶対の忠誠を誓って来た。  勿論元から上流貴族としての地位を確立していた者達からの反発や疑念は大きかったけれど、支えることのみに徹し、あらゆる意味での『権力』と言うものに全くと言って良いほど頓着しないアンブローズ家の者達の態度に、彼らも渋々今の状態を容認している。  今でも風当たりは強いと聞くし、エステリオに対して酷い嫌味を言ってくる貴族に何度もお目にかかったことがあるけれど、余程のことが無い限りは、両家の親密な関係は今後も続くのだろう。  「……なんて言うか、こう言う単純作業させられていると、随分この人達の命が軽く感じられちゃうわ」  「またその様な……」  毒殺で死んだ貴族のうち、家名が同じ者の人数を数えながら呟く。  だってアンブローズ家のこの歴史なんて、本で一度読んだだけで殆ど覚えちゃったのよ。  やっぱり興味が湧くかどうかって凄く大切なことだと思うわ。  ……まあ、興味深いなんて言ったら不謹慎かもしれないけれど、それだけ今のこの国が安定していて平和だと言うことなのだから。  「ねえ先生、先生が子供だった頃には、あの王様まだ生きていたの? 見たことはあった?」  「滅相も無い。姫は私を幾つだとお思いですか。姫が言う『王』は、私の生まれる十年以上前にお亡くなりですぞ」  「そう、なーんだ……」  実際に見たことのある人の話を聞いてみたいと思ったのに。  二人の姿は肖像画等で残っているけれど、どれもこれも違う人が描かれているように見えていまいち信憑性に欠けるのだ。  ……ああでも、どの絵の王子も丁度私みたいに黒い髪で、どの絵の少女もエステリオみたいに綺麗なエメラルド色の目をしてたわね。  そんな事を思い出しつつ死人の数を数えながら、もう一度あの逸話、そしてそれに関するいくつかの説についてもう一度考えてみる。  少女が何を思って王子の下へ向かったかは解らないけれど、彼らの間には特別な絆があったのだと私は信じている。  あの生き残った王子は、生涯妻を持つことがなかったそうだ。  くしゅん、とくしゃみの音が書庫の中で少し響いた。  この書庫は地下にあって、窓もないから声が反響して若干大きく聞こえるのだ。  「おやネージュ様、風邪ですかな?」  「違うわ、ここがほこりっぽいせいよ……」  この間軽く掃除をしたばかりだって言うのに、一体何なのかしら。  「私、風邪なんて滅多に引かないんだから」  「姫は昔から丈夫でいらっしゃいましたからなぁ。しかし、こうも毎日こんな場所に閉じこもっていては、いくら姫と言えど……」  「そんなこと言って、ノクシアのところに行かせようったって無駄よ。  大体それなら先生だってそうじゃない。少しは日に当たった方が良いわよ」  とは言ったものの、このご老人が寝込んでいるところなんて実際見たことがない。  こんなじめっとした場所に四六時中居るくせに、良く大きな病気にもかからず健康に長生きしているものだ。  ……まあ、私の知らないところでちゃんと十分な休息を取っているんだろうけど。  「いやいや私など。まだ孫の方が病弱な程です」  「あぁ、エステリオね。確かにあいつは病弱よね……、先生よりよっぽど健康的な生活してるくせに」  ふっと口元がほころぶ。意外なことに、エステリオは風邪を引きやすい。  城や城下で風邪が流行れば必ずと言って良いほど真っ先に体調を崩す。  今ではすぐに治してしまうのだけれど、小さい頃はそれが大分長引いて苦労していたようだ。  「まだ城にあいつが居なかった頃は、何度もお見舞いに行かされたわね」  「えぇ、ネージュ様は本当に良く孫を気遣ってくださいましたな」  「そうよね、本当に私ってば優しかったわ。たかが従者風情が体調崩したくらいで、毎回毎回顔見に行ってあげてたんだから!」  別に心配だった訳じゃないわ、いつも見る顔が無いとなんだか物足りなかったってだけよ。  それにしても本当に健気に通ってあげたものだと思う。風邪のせいで約束をすっぽかされたりした時だって、私怒ったりなんかしなかったし……。  「あ、そう言えば。一度不思議な事があったのよね」  「不思議な事、と言いますと?」  「エステリオが風邪だって聞いて、私いつもみたいにお見舞いに行ったんだけど……そうしたらあいつ、風邪のくせに元気に庭で遊んでるのよ」  「なんだ治ったのかって思ってその日はそのまま一緒に遊んだんだけど……」  「でも、次の日またエステリオったら風邪だなんて言って城に来なかったのよ」  「またかと思ってもう一度お見舞いに行ってあげたら、あいつ、昨日は私と会ってないなんて言い出したのよね」  「思えばあの時一緒に遊んだエステリオ、どっか変だった気がするのよね。  花冠の作り方教えてくれるって約束したくせに、全然作れなかったりとか……」  「花冠……?」  「ええ、一体なんだったのかしら……」  そう呟くと、先生は何か考え込むような表情で少し黙り込むと、不意に穏やかな笑顔になった。  「姫様は何とお考えでいらっしゃいますか?」  「……お化けだったのかなって。ほら、小さい子ってそう言うのが見えちゃうって言うじゃない……それにあの屋敷って随分昔からあるでしょう、そう言うことが起こっても不思議じゃなさそう」  「なるほどなるほど……」  「なによぉ、バカにしてるの? 私は幽霊って居ると思うわよ、この城内でも色んな人が見てるしね」  「いえいえ、滅相も無い。学者の身でこの様なことを言うのもなんですが、私も幽霊は信じておりますよ」  「姫様が出会ったと言うその少年は、恐らく姫様と遊びたかっただけなのでしょうな」  「そうね、怖い事は起こらなかったし。寂しかっただけなのかも」  そう考えると、幽霊と遊ぶなんて滅多に無い経験が出来たのかもね、なんて私が笑うと、先生も黄金色の瞳を細めて、応えるように優しく微笑むのだった。  「ネージュ様、勉強熱心なのは大変よろしいことですが……」  「いや!」  「ですが、いつまでもこのままと言うのも……」  「いーやっ! 絶対いやっ!! もう。ちゃんと勉強しているんだから、お説教はやめてちょうだい!」  最近段々頻度が増してきた、『いつまでもここに居ないでノクシア様と仲良くなりなさい』と言う趣旨の先生の言葉に、私はかたくなに首を横に振り続けた。  「しかしですな姫、姫は最近昼食までここで取っておいでではありませんか。  一国の姫ともあろう方が、こんな場所で昼夜こんな老いぼれと……」  「私が選んでやってることよ。良いじゃない別に、お勉強だってお姫様には大切なことでしょう?  それに、ここに居ればノクシアやエステリオの顔だって見なくて済むし……」  「孫が何か失礼を?」  「あいつはしょっちゅう失礼だわ。  それに今はノクシアノクシアうるさいし……ずーっとノクシアの傍に居るみたいだし……」  とんとん、と人差し指で机を叩きながらぶつぶつと愚痴っていると、なんだか段々腹が立ってきた。  一体何なのかしらあの態度。自分が誰の従者か忘れた訳じゃ無いでしょうね、あいつ。  なんなのよもう、ずっと私の従者で居るって昔約束したような気がするんだけど、そんなのもう時効ってわけ!?  「……、このままノクシアの従者になっちゃうのかしら」  それは何気ない言葉だったのだけれど、声に出してからずっと自分が不安だったことに気が付いた。  ノクシアは綺麗だと思う。それに、皆がそう言うってことは人柄もきっと良いんだわ、少なくとも、私がそれを認めなくても、エステリオはそう思っている、と思う。  別に、私がノクシアより劣っていると思うわけじゃないけれど……。  「そのような事にはなりませんよ」  柔らかい声にはっとして顔を上げると、先生がこちらに穏やかな笑みを向けていた。何故か少し嬉しそうに見えるのは気のせいかしら。  「どうしてそんなことが解るの?」  「以前から言われているのですよ、自分は家督を継ぐ気は無い、ずっとネージュ様の従者で居るからと」  「家督を継がない? 何よそれ、私が結婚したり、あいつが……」  何故か一瞬その先を言うのが躊躇われて、私は少し言葉を切った。  そうだ。私もエステリオも、今は家族みたいに近くにいるけど、いつかあいつはあいつで、私は私で別々の相手と……。  「あいつに、好きな人が出来て結婚して、とかなったらどうするのよ……」  なんだか、その未来のことはあまり考えたくないと思った。今当たり前に傍に居る人と、ずっとは一緒には居られないのだと思うと胸が苦しくなる。  ふとお母様のことを思い出した。小さかった私は、お母様ともずっと一緒に居られると信じていたのだ。  「孫は、妻を娶る気は無いと言っておりましたがな」  「は、はあ?」  「娶る気はない、と言うか出来ない、と言っておりましたな」  「出来ない?」  「まあ、どの様な意味の言葉かは私には解りかねますが……。  しかしあれも頑固ですからなぁ。一度言ったことは中々曲げないでしょう」  「そ、そうかしら……」  生涯独身で居るつもりだなんて、いつそんな話していたのかしら。  確かにあいつに奥さんが出来るだなんてちょっと考え辛かったけれど、でも家督を継がないだなんて。普通はどんな堅物でも結婚くらいはするものなのに。  ……だけど、ちょっと安心した様な気持ちになったのはどうしてかしら。  「本当にそんなこと言ったの? 嘘ついてないわよね」  「まさか。嘘とお思いなら、直接孫に尋ねてみてはいかがですかな。確かあれは、姫に嘘をつかないのでしょう」  「そ、それはそうだけど……」  だけど、『ずっと私の傍に居てくれるの』なんて恥ずかしくて聞けたものじゃない。  どうしよう、と悩む私を見つめる先生の目が、やたら楽しそうにキラキラ輝いている気がして、私はちょっと口を尖らせた。  白く色の抜けた髪に、年を刻んだ肌に、老いてなお輝きを失わない金の瞳に。  似てる所なんて外見的には殆ど見当たらないくせに、こうやって人をおちょくるのが好きなところはなんだか孫と共通している気がする。  「……そう言えば、あいつって珍しい色の目してるわよね」  「リオのことですか?」  「そう、綺麗なエメラルドグリーン。先生は――確か、エステリオのお父様も金色よね。  お母様がその色だったの? この国では中々見かけない色だけど」  「いえ、あれの母は青い眼をしておりましたな。  アンブローズの家には時折緑の眼の子供が生まれるのですよ、あの方がそうであった様に」  あの方、とは恐らく、歴史上でも非常に有名なあの少女のことだろう。  適当な相槌を返しながら、私はあの色を思い返す。  「やっぱり珍しいものなのね、ちょっと羨ましいわ」  「ええ、あのような色の目を持つ子供は中々……あれにとっては幸運な事だったでしょうな」  「あら、そうなの?」  何か緑の眼をしていると、良い事があるのかしら?  首を傾げた私に、先生はにこやかに頷いた。  「そのお陰で、こうしてネージュ様のお傍に居られるのですからな」  「……まずいわ」  「そうですか、では下げますね」  「ちっ、がうわよバカ!!」  ひょい、と紅茶のカップを素早く私の手から奪い去ったエステリオの腕を掴む。  久々に私の従者らしくお茶の用意をしたと思えば、全っ然反省してないんだから!  「まずいとおっしゃったでしょう」  「味じゃないわよ! あの女がこの城に馴染み始めてるのがまずいって言ったの、もう!!」  奪い返したカップをソーサーに置いて、私はイライラと息を吐き出した。  あの女が城に来て、早数週間。もうそろそろ月も替わってしまう頃合だ。  正直、庶民の女なんて城に上がって来たところで、貴族や親族達にいたぶられて、国民からの反感もついでに買って、どこかへ追い払われてしまうに違いないって思っていた。  それなのに、現実ではノクシア達は城に受け入れられつつある。  一般庶民から素敵なお姫様になったドラマチックな境遇が受けたのか国民からの人気は高く、最初こそ嫌味ばかり言っていた貴族たちは、段々と大人しくなってきてしまった。  それどころか私に相手にされないからってノクシアに媚を売る奴まで居るのだから、もう腹が立つったらない。貴族ってこうだから嫌いよ!  それに、人を使うことに慣れていないお陰で使用人達からの人気だって凄い。  お姫様なのに優しい、ですって? 自覚が無いの間違いでしょう!  気に入らないわ。少し我慢していれば、どこかへ行ってくれると思っていたのに。計算違いも良い所。  このお城に姫は私ひとりで十分なのに。  ……まあ、普通の人よりは多少短所より長所の方が多いかもって言うのは、認めてあげても良いけど……。  でも、やっぱり気に入らない。このお城に姫は私ひとりで良いんだから。  「このまま、ノクシアが本当に二人目のお姫様になって、アメリアが継母になっちゃったらどうしようかしら……」  「たら、ではなく既にそうなっているじゃありませんか」  「…………」  「俺を睨んだって何も変わりませんよ」  まるで子供に言うみたいな偉そうな口ぶりでそう言うと、エステリオはわざとらしくため息をついた。  「もう観念して、意地を張るのをよしたらいかがですか。ノクシア様は優しい方です、ネージュ様もきっとすぐに――」  「優しいですって!?」  「……少なくとも、俺はそう思いますよ。  さて、俺はそろそろ時間なので失礼させて頂きます」  「なによ、またノクシア? あんたここの所ずーっとあの女にひっついてるわね」  「ネージュ様もご一緒にいかがですか」  「ぜぇったい、嫌よ!」  きっぱりと言い放つ。だってちょっとあいつの名前が耳を掠めるだけで、すごく気分が悪くなるのよ。  それくらい嫌なんだってこと、エステリオも少しは解ってくれれば良いのに。  私なんかよりよっぽど嫌味が上手なんだから、こいつが味方だったなら今頃はもうノクシアなんてこの城から出て行っていたはずだ。  「それは残念です」  けれどやっぱり、エステリオは飽くまでもノクシアの味方らしい。  私の表情がより険しくなったことに気付いたのか、エステリオはちょっと肩をすくめて言い訳めいたことを言い始める。  「仕方がないでしょう、ノクシア様はまだ城の生活に不慣れでいらっしゃるのですから」  「ふん、いつまで不慣れでいらっしゃるのかしら。本当は他に理由でもあるんじゃないの」  「……何ですか」  「…………」  ……何よ、そんな嫌そうな顔しなくたって良いじゃない。私の思ってることくらい、いつだってお見通しのくせに。これくらいで不機嫌になるなんてずるいわ。  普段よりどこか冷たい気がする目線から逃げるように、私はカップの模様をじっと見つめた。  確かに私は素直じゃない。本当に言いたいことの代わりにいじわるや強がりを言ってしまうことが、すごく多いわ。  それくらい自覚してる。エステリオが、私に多分もう少し素直になって欲しいと思ってることも、なんとなく解ってる。  「……ねぇ」  だったら、エステリオを見習って少しだけ正直に、聞きたいこと聞いてみようかしら。  そうしたらあいつも、少しは優しくなってくれる気がする。  「使用人のあんたとしては、私とノクシア、どっちが仕えていて楽?」  簡単な質問だったけれど、実はこれでも私なりに勇気を出して素直に尋ねたことなのだ。  だと言うのにエステリオは、あの人を小ばかにした笑いを口元に浮かべて一言。  「仕えていて楽なのは、ノクシア様ですかね」  「ちょ、ちょっとお! そこは嘘でも私って言うところでしょう!?」  「俺は正直が売りらしいですから」  「ほんっとにあんたって可愛くない……」  「俺が可愛かったら不気味でしょう」  イラつく笑いを浮かべているエステリオを睨みつける。  そうだわ、こいつはこう言う奴だったわ。こっちが期待した答えを返して来ることなんて、殆ど無い様な根性のひねくれた奴なのよ!  「じゃ、じゃあっ、この国で――」  それは私がエステリオから期待通りの答えを得られる、数少ない言葉のはずだった。  ノクシアが来るまでは決まり文句みたいに殆ど毎日言わせてた言葉。『貴女様です』の返答に、私の優位を確かめられる気がしてた。  だけどノクシアが来てからは、思えば一度もこの問答をしていなかった。そのことに不意に気付いてしまって、一瞬口が止まった。  「この国で、一番美しいのは誰っ!?」  躊躇ったことに妙な敗北感を覚えて、語気を強める。エステリオの顔からあの嫌らしい笑みが消えて、彼は何か不思議がるように少し眉を寄せた。そして、  「そりゃあ、ノクシア様でしょう?」  信じられない答えを、返してきた。  「は……?」  「周知の事実だと思ってましたが。客観的に見て、ノクシア様はネージュ様より恐らくお美しいかと思いますよ」  「…………」  「まあ、ネージュ様もかなりお綺麗だと俺は思いますが、人柄がより美しさを引き立てるとでも言いますか」  「ノクシア様はネージュ様と違って淑やかでお優しいですし。それに年齢的なこともあるでしょうね」  「…………」  饒舌にノクシアの美しさについて語るエステリオに、眩暈がするようだった。  ノクシア様でしょう、と言う声を聞いてから、脳の働きが妙に鈍い。その後エステリオが何を言っているのか聞いていたのに、咄嗟に理解することが出来なかった。  「それだけですか? それじゃあ、俺はノクシア様との約束がありますので、失礼させて頂きますね」  「…………」  ぱたん、と静かに扉が閉まる音。それから足音が遠ざかって行く。  「…………」  「…………」  それを聞きながら、私はさっきのエステリオの言葉を必死で理解しようとしていた。何故か『ノクシア様』と言う単語ばかりに気持ちが行ってしまって、他のことを考えられない。  ノクシア様。  ノクシア様はネージュ様より恐らくお美しいかと思いますよ。  ノクシア様はネージュ様と違って淑やかでお優しいですし。  ノクシア様との約束がありますので……。  「なによ……」  なんでよ。私が一番だったはずじゃない。  お城では、みんな私を見れば綺麗だって、こんなに美しいお姫様見たことないって、言ってくれた。  いつ見てもお美しいわね、ってうっとり話す使用人達の声を聞いたことだってある。  城下では、式典の時に私を見たんだって皆に吹聴して回る人さえ居た。  それにお父様だって、お前は父さんの自慢の娘だよって、私が一番大切だって言ってくれてた。  ……私が、一番だったはずなのよ。  「……リオ」  そうよ、あいつだって。  そう、私が一番だって言ってた。  そう言ったくせに。  「うそつき……っ!」  罵った声はかすれていて、ちっとも迫力なんてなくって、きっともうノクシアと一緒に居るんだろうエステリオには、絶対に届かない声だった。  「ええ、私たちではもう手がつけられなくて――」  「もーお部屋のものぽんぽん投げられちゃって。悲惨ですよ、お部屋の中」  「そう言う訳なの。お願いね、リオ君」  ……扉の向こうから、こそこそと誰かの話し声が聞こえる。  何も頭の中に入れたくなくて、私はぎゅっと眼を瞑るとくるまっていた布団を頭の上まで引き上げた。  コンコン、とノックの音。入りますよ、の声に、私は布団をぎゅっと握り締める。  「……うわ」  遠慮なく驚きの声を上げながら、エステリオが扉を閉めた。どんな顔をしているかなんて見なくても解る。  散乱しているクッションや本に怖気づく事もなく足音が近付いてきて、すぐ近くで止まる。  布団を被っているのに、なんだかこちらを見下ろす視線を感じる気がした。  「ネージュ様」  諭すような穏やかな声。こう言う声を出されるのは嫌い、だって子供扱いされているのがわかるから。  不意にベッドがぎい、と音を立てて沈んだ。従者のくせに主人のベッドに腰掛けるなんて言語道断だ、と思いはしたけれど、文句を言う気にもなれない。  エステリオはと言うと、私が何も言わないのを良い事に、ため息なんてついている。  「ネージュ様、聞いていらっしゃるんでしょう」  「…………」  「物に当たったらいけませんよ」  「…………」  返事を待っているらしい沈黙に、私は気付きながらも何も答えなかった。  散々暴れたり泣いたりしてみたら、なんだか気力がごっそり無くなってしまったのだ。  しばらくそのままで居ると、エステリオが諦めてまた口を開いた。  「……ネージュ様、俺はね。貴女が国で一番美しかったから、お仕えしている訳ではありませんよ」  「ノクシア様は、本当に良い方なんですよ。貴女と仲良くなりたいと、そればかりお話になる」  「少し、こちらに出てきて下さいませんか、ネージュ様。  貴女にはこれまで、友達らしい友達も居なかったじゃあないですか」  その言葉に、布団の中でふるふると首を振った。伝わったかはわからないけれど、布団越しに優しく肩を叩かれて、鼻の奥がつんとした。  違う、あんたはわかってないわ。  居なかった、じゃない。いらなかったのよ。  あんたが居たから、一番だって言ってくれてたから、私も一番、信頼してたから。  だから、それで私は十分だったのよ。  「……きっと楽しいですから」  楽しくなんてないわ、私は幸せだったのよ。  お母様が亡くなっても、多忙なお父様に中々構ってもらえなくても、それでもあんたがずっと一緒に居てくれたから、寂しくなかったのよ。それで良かったの。それが良かったの。  じわ、と浮かんだ涙が、顔に押し付けていた布団に次々吸い込まれて行った。  ぎしりとまたベッドが軋んで、エステリオの気配が離れていく。  「……それじゃあ、おやすみなさいネージュ様。  この部屋の片付けは、明日やっておきます」  ため息混じりにそう言って、来た時と同じようにゆっくりと足音が遠ざかる。  扉が閉まる静かな音が耳に届くと同時に、失望感が心にじわじわと広がっていった。  もし尋ねたら、催促したら、まだ言ってもらえたのかしら。  『貴女とずっと一緒に居ます』って……。  ラスと出会ってから、気付けば私は殆ど毎日のように彼の元へと通っていた。  だって最初思っていたよりもずっと、ラスと過ごす時間は私にとって心地良いものだったから。  ノクシアのことも、エステリオのことも、なにもかも。彼と居る時は全て忘れて笑っていられる。  「……今日もお勉強ですか?」  いつも通りに『ノクシアの所へは行かない、お昼は先生の所で食べる』と告げると、いつもは大人しくそうですかとしか言わないエステリオが、珍しく違う事を言った。  「そうよ、その方があんただって助かるでしょ?」  「何の話ですか」  「私が居ない方が、落ち着いてノクシアの世話を焼けるでしょうってことよ」  意地を張ってしばらくまともな会話すらしていなかったから、こんなやりとりも久しぶりだ。  久しぶり――だって言うのに、相変わらずこんな話しか出来ないのね。  少し哀しくなる。私の中でのエステリオへの感情は、ノクシアが来る前となにも変わらない。けれど、エステリオはどうだろう。  もしも私よりもノクシアの存在の方が彼にとって大きくなっているのなら、それは私にとってとても許せないことだった。  彼の心が読めない以上、不安は消えない。だから私はこうして強がってみせるしかないのだ。  そんな事は無い、貴女が一番ですと一言言ってくれればそれで良いのにとエステリオを恨みながら、素直に尋ねられない自分の臆病さにもいい加減嫌気が差していた。  「……俺は、ネージュ様の従者ですよ」  「だからなに? あんたが私の従者だから、私はあんたの所に居るべきだって言いたいの?  いい加減にしてよね。ノクシアが好きなのは良いけど、私まで巻き込まないで」  「俺は別に、そんなつもりでは」  「じゃあ何よ」  「……貴女が心配なんです」  「心配? ふざけないで、あんたに心配されるようなことなんて何も無いわよ」  「来ては頂けませんか、一度でも。  陛下が俺にノクシア様の相手役を命じたのは、きっとそうすれば貴女とも自然と距離が縮まるだろうと思ってのことです」  「悪い方ではありませんし、それに――」  「もうっ、これだからあんたと話すのは嫌なのよ! 口を開けばノクシアノクシアって、そんなに好きならノクシアの従者にでもなれば良いじゃない!!」  「っだから!!」  突然室内に響いた大声に心臓が跳ねる。  驚いてエステリオを見ると、一瞬はっとした様な表情をした後に、すぐ苦い顔で視線を逸らされた。  「……だから俺は、貴女の従者ですと申し上げているじゃありませんか。  ネージュ様以外の方に仕える気はありません、俺の主は貴女以外にあり得ない」  努めて落ち着こうとしている様な声音。それでも、エステリオの言葉に嘘がないことだけははっきりと信じられた。  それまでどこか悔しそうに歪んでいた緑の瞳が、今度はこちらを真っ直ぐ見据える。  「俺がノクシア様とネージュ様の仲を取り持とうとするのは、何よりネージュ様を思ってのことです。  信じて下さい、俺に嘘を付くなと命じたのは貴女じゃありませんか」  しっかりと目を見てそんな事を言われて、私は思わずおろおろと視線を逸らしてしまった。  つい酷い事を言ってしまったと言う自覚はある。それに今の言葉も正直嬉しかった。  だけど……だけど、何かおかしい様な気がしてならない。  今はいつも通りだけれど、さっき声を荒げたエステリオは、今までに私が一度も見たことの無いような怖い顔をしていた。  ……どうして?  怒られたことに疑問がある訳じゃ無い。『エステリオが』怒ったことがおかしいのだ。  今までにも、私がエステリオと衝突した事は何度もあったし、彼に対して酷い事を言ってしまうことだってしょっちゅうだ。  それでもエステリオは私が何を言っても、何をしてもいつでも憎たらしいくらいに平然としていて、感情的になったことなんて一度も無くて。  泣いたり怒ったり、それはいつでも私の方だった。  私がついきつい事を言ってしまうのはいつものことだし、エステリオは私以上に私の性格を把握している。  端的に言えば、つまり――あの程度で彼が私に向かって本気で怒鳴るだなんて、あり得ないはずなのだ。  「わ、私……」  謝らなきゃ。いずれにしたって怒らせてしまったことに変わりは無いのだから。  そう思うのに、解っているのに、気が動転してしまって上手く言葉が出てこない。  「私、い、行かない……」  気が付いた時にはそう言ってしまった後だった。何故だか怖くてエステリオの顔が見れない。  そうですか、と返ってきた冷たい声だけを耳が拾う。その余所余所しい声色は、私に一瞬彼の片割れを思い出させた。  いつも調子の良い彼が、ふとした瞬間、私には解らない理由でふっと機嫌を損ねてしまうその時の声と同じ温度。  普段ならそんな事は上手に隠して、私に悟らせたりしないのに――  彼の様子を窺おうとそっと視線を上げれば、エステリオもまだ私をじっと見つめたままで、慌てて視線を元に戻す。  何よこれ、どう言うこと?  どうしてこんなに彼の事を怖がっているのか、自分でも訳がわからなかった。こんなことは初めてだ。  今までにエステリオに泣かされたことなんてそれこそ数え切れないくらいあったけれど、怖いと思ったことなんて一度も無かったのに。  「……ネージュ様。もし俺が……もし、ノクシア様に仕えたいと言ったらどうしますか」  静かな、さっきと同じ冷たい声。怖いはずがない、エステリオは私の従者なんだから。  そう自分に言い聞かせて、けれど彼の目を見る勇気は出ずに、私は下を向いたまま、  「か、勝手にしたら……っ」  そう言ってしまってすぐに後悔する。  そうですか、と同じ調子で返ってきたエステリオの声に、何か取り返しの付かないことをしてしまったような気がして慌てて顔を上げた。  「わかりました」  けれどエステリオは冷めた目をしてそう言うと、くるりとこちらに背を向けてしまう。  部屋を出て行く背中を思わず引きとめようとしたけれど、何と言ったら良いのか解らないでいるうちに扉は静かに閉じてしまった。  「……まずくないか? それ」  城を抜け出す直前のエステリオとのやり取りをラスに話すと、彼は作業の手を止め難しい顔をした。  「なんでだか解らないけど、怒らせちゃったみたい……。あんな風に怒鳴られたのなんて、初めてだわ」  「そんなに怒らない奴なの?」  「怒らないわけじゃないわ、本気で怒るってことが無かっただけよ。  私がいくら怒ったって落ち着いているから、余計に腹が立つのよ、いつもはね」  「ふーん。本気で、ねぇ」  「…………」  ラスは少し考え込むような素振りを見せ、それから何故かまだ明るい窓の外にちらりと視線を送ると、何だか悔しそうな顔をしてため息をついた。  「なあ、お姫様。予定より少し早いけどさ――」  そこまで言って、その、と一瞬言いよどんでから、ラスはいつもと同じくにこりと笑ってみせて、  「もう俺んとこには来てくれなくて良いよ、今日でお別れって事にしようぜ」  「え、えっ?」  突然の事に戸惑う私に、ラスは少し困った様子で眉を寄せる。  「だって、俺はあんたの生活を壊すのは気が引けるからさ。普段怒らない奴が怒るって、それ相当だろ?」  「早くリオと仲直りして、元の関係に戻って。で、ノクシア様ともそれなりに仲良くやる――それが多分、あんたにとってベストだよ。だから……」  「だっ、だからってあんたとわざわざ会わなくなる必要ないじゃない!」  まるで引き止めるみたいでみっともないとは思ったけれど、思わずそう反論していた。  私は何をそんなに驚いて、焦っているんだろう?  わからないけれど、こんな唐突過ぎる別れは嫌だと思った。そんな私に、ラスは少し嬉しそうな顔をして、尋ねる。  「……なあ、俺と居るのってどうだった、姫様。少しでも楽しかった?」  「い、嫌だったらこんなに来たりしないわ」  「それは嬉しいな――でも、だったら尚更会わない方が良いね」  「俺は喧嘩なんてジジイに突っかかってった位しかねーから良く解んないけどさ。喧嘩した時って、仲直りするにはある程度相手の近くに居る事が大事だと思うんだよ」  「居心地が悪ければ悪いほど、早く元に戻りたいと思うから。そんなもんだろ?  だからリオと仲直り出来るまで、あんたはここに来るべきじゃない。楽な所に逃げたら駄目だ」  「でもっ、あんたこの国からもうすぐ居なくなっちゃうんでしょう?」  「そうだよ。俺は最近あんたと出会ったばかりで、そしてもうすぐあんたの前から居なくなる人間だ。  だけどリオは、これまでも、これからもずっとあんたの傍に居るんだから」  「そ、そうだけど……」  「それにさ。時間が解決するとかって言葉もあるけど、これ以上リオの事ほっとくのはまずいって気がするんだよな。  双子の勘っての? 良くわかんねーけど」  「早く言った方が良い。色々酷いこと言ったけど本気じゃなかったって、あと、どうしてそんなこと言ったのかも、あんたの気持ち全部素直にさ」  「そしたらきっと何もかも上手く行くって、保証するよ」  「でも、でもエステリオはそんなの全部解ってると思うわ……」  「ばっかだな、リオは超能力者じゃないんだ。いくら付き合いが長くたって、あんたに『違う』って言ってもらえなきゃそんなのただの推測だろ」  「今のあんたと同じくらい、きっとリオだって不安だよ」  「あんた初めて怒鳴られたって言ってただろ。あいつだって初めて怒鳴ったって事なんだし。やっちまったなーって思ってるんじゃない?」  「……だ、だってわからないのよ。どうしてあんなに怒っていたのか。私、エステリオのことは他の人よりずっと解ってると思っていたのに」  「それも聞いてみたら良いだろ。どんなに頑張ったって他人の心は覗けないんだ。そして同じように、あんたの心だって誰にも覗けない」  「だからきっと、不安になったり意地を張ったりすれ違ったり、するんだろうな」  「…………」  「そんな暗い顔すんなって、大丈夫だよ。リオはあんたが好きだし、あんたもリオが好きだ。  素直に何もかも言って、駄目になるはずが無い」  「他人の心はわからないって言ったくせに……」  矛盾してるわ、と負け惜しみを言うと、ラスはにやっと笑って私の手を取った。  「ま、とにかくそう言う訳で少し早いがさよならだ。次に来たってもう入れてやんねーから」  「な、なによそれっ」  「ああ、解ってる解ってる。こんな偉そうな事言って、また来て貰えると思う程俺も思い上がっちゃ居ない。だから――」  そのまま玄関扉へと導こうとする彼の手を、私は慌てて両手でぎゅっと握り締めた。  「違うわ、そうじゃないの。エステリオと――エステリオとちゃんと仲直りしたら、また来ても良いでしょ? ねえ、こんな風に突然なのは嫌よ」  「…………」  思い切って素直に言うと、ラスはやっぱり驚いて――それから、嬉しそうな、でも少し恥ずかしそうな表情をして笑う。  「それ本気? なんだよ、あんたらしく無いこと言うんだな」  「素直になれって言ったのはあんたじゃない。わ、私……私だって、これで、これで最後になっちゃうくらいなら、少しは素直にもなるわよ……」  「……そう」  そう言って、しがみつく様にしていた私の手から、ラスはするりと抜けると玄関扉を静かに開いた。  外の景色はまだまだ明るくて、いつもだったら殆どこれから話し始めるような時間帯。  「五日後だから」  優しく背中を押されて、私は仕方なく足を進める。肩越しに振り返ると、ラスは私を安心させるように微笑んだ。  「薬が完成する日。それで、俺がここから居なくなる日。  その日だけ来てくれれば、もう十分だから」  躊躇いながらも頷いた私に、ラスはひらひらと手を振った。  「ありがと。じゃあな」  短い別れの言葉。扉が少し軋んで閉まる音。  約束はしたけれど、もしかするともう会えないんじゃないかとなんだか不安になって、私は少しの間閉じた扉をじっと見つめていた。  「ねえ、あんたに兄弟って居るの?」  「はい?」  朝食を終えて部屋に戻って、私の今日の予定をノクシアに伝えに行こうとするエステリオに、そんな風に切り出してみた。  この間ラスとした会話が心のどこかに引っかかっていて、どうしてもエステリオに聞いてみたかったのだ。  案の定エステリオは意味が解らないと言った様子で首を傾げる。  「随分突然ですね、今までそんな事を気にしたことなんて無かったのに――」  「こっ、この間偶然ノクシアと会った時に少しそう言う話をしたのよ! お互い兄弟って言っても良く解らないわねみたいな……だ、だから、そう言えばあんたはどうなのかなって……」  「俺ですか?」  「そ、そう。妹とか――弟とか、その、そう言うの居なかったの?」  訝しがるような視線に、慌てて誤魔化そうと考えていた言い訳を並べて、けれどきちんと質問はする。  どうせ居ないわよね、だとか曖昧な事を言うと、多分エステリオのことだから上手く逃げてしまうと思って。  「……居ますよ」  「えっ?」  「だから、居ますと。双子の弟が」  澄ました顔であっさりとそう認めたエステリオを、私は少し信じられないような気持ちで見つめる。  へ、変ね。もう少し聞き出すのに苦労するかと思ったんだけど……。  「って、弟?」  確かラスは兄では――と思い切り疑問を口にしてしまってはっとする。  慌ててエステリオの顔色を窺うけれど、いつも通りこちらを小ばかにした表情で私を見下ろしている。  「俺は弟と思っていますよ。双子ですので、どちらが兄で弟なのかについて正確な情報がある訳ではありませんが」  「へ、へえ……あ、び、びっくりした。あんたに双子のあ――弟が居たなんて、初めて聞いたわ。城には来てないのね?」  「ええ。来ていたらネージュ様が知らないはずがありません」  「ど、どうして?」  「それは言えませんけど。本当なら弟が居る事自体、誰にも言うなと言われているんです。  なのでネージュ様、よそでぽろっともらしたりしないで下さいね」  ラスの話ではかなり重要な秘密のようだったのに、まるで普通の内緒話みたいな軽さでそんな事を言って、エステリオは手際よくベッドに新しいシーツをかけて行く。  なんか変な感じがするけど――でも、エステリオだったら怪しいと思ったらすぐに突っ込んで聞いてくるものね。  そうは思うものの多少は感じざるを得ない不安にそわそわしながら、私は一番聞いてみたかったことをそれと無い風を装って尋ねてみることにする。  「ね、ねえじゃあ、その弟とは仲は良いの?」  「……、そうですね。世間一般からすれば、あまり仲の良い兄弟とは言えないでしょうね。  何せ別々に育ったので、俺と弟とは殆ど喋った事が無いんですよ」  「そ、そうなの。じゃああんまり仲は良くないのね……」  「ええまあ」  「喧嘩したの?」  「いいえ。殆ど接点なんてありませんから、喧嘩らしい喧嘩はしてません」  「じゃあその……ええと、その弟のこと、どう思ってる? きらい?」  思い切って聞くと、そこでぴたりとエステリオの手が止まって、緑の目がこちらを静かにじっと見つめる。  「……さあ、どうですかね。正直よく解らないですが――」  妙に意味深な視線の理由を私が思いつくより先に、エステリオが自分の仕事を再開してしまう。  怪しまれたのか大丈夫だったのか、どちらなんだろうと内心冷や冷やしている私に、エステリオはいつもと変わらない表情で、口調で、最後に一言だけ付け加えた。  「でも、いつか会ったら言おうと思っていることはありますよ」  「うわあ、色々ありますねネージュ様!」  「…………」  「え、えーと……あっ! あっちに東の方から来た商人が店出してますよ! ほ、ほらほらすごく面白そうです!!」  「…………」  「…………」  「…………」  「ちょっと! ネージュ様ものっすごいつまんなそうじゃない! どうすんのよ!?」  「どうすんのって連れ出したのあんたじゃないの! 市でご機嫌直しちゃえ作戦とか言ってー!!」  「だ、だってリオ君ったらまたノクシア様と――」  「しっ、馬鹿! 聞こえてたらどーすんのよ!」  「ね、ネージュ様っ、あっちの方行きませんか! この間私、そっちの方で面白い――ってあれ」  「あれ? ネージュ様?」  「……ネージュ様?」  「ね、ネージュ様、が……いな、い……?」  「…………」  「…………」  「いっ、いやあああネージュ様が誘拐されむぐっ」  「大きな声出すなっ、逃げられたのよ馬鹿ね!!  は、早く探すわよ、姫様がお一人で城に戻られたりなんてしたら、私たちリオ君にどんな顔されるか……!!」  こつこつ、と石畳を歩く私の足音が路地に響く。賑々しい雑踏が生む雑音は、少し裏の通りに入っただけなのに何かを隔てるように遠い。  「ふんだ、全く。おしゃべりなんだから」  あの二人には、つい先日エステリオのせいで冷たく当たってしまった。  それなのにこうして気遣ってくれることはとても嬉しいのだけれど、内緒話の声が大きすぎる。  今はノクシアの名前どころか、エステリオの名前だって聞きたくない気分なのに。  「思い出しただけで腹が立つわ……」  あんなケンカをした後だって言うのに、あの二人に誘われた時、私は寛大にもエステリオのことを誘ってやったのだ。  それなのに……。  「なにが『ノクシア様をご案内する予定なので』よ! あの馬鹿!!」  がつん、と転がっていたレンガの欠片を蹴っ飛ばす。近くで日向ぼっこをしていた野良猫が、音に驚いて逃げて行った。  猫に対して少し罪悪感を感じながら、私はもう一度小さい欠片をつま先で小突く。  「良いわよもう、ひとりで回ってやるんだからっ……」  すぐに表通りに戻ったら侍女達とはちあわせしてしまうだろうから、と考えて、もう少し裏通りを歩いてから市場に戻ることに決める。  ここら辺はあまり来ない場所だから、まあ大して見るものも無いけれど、ちょっとした散歩気分で行きましょう。  「きゃ!」  「お、っと」  そう決めて足を動かした途端、不意に角から出てきた背の高い男とぶつかってしまった。  黒いフードを目深に被った、見るからに怪しい男だ。そちらからぶつかって来たくせに、謝りもしない。  思わず睨み上げると、怪しげな男は少し驚いた様子でこちらをじっと見下ろして、指先で顔にかかっているフードをぐいっと引っ張った。お陰でただでさえ読み取り辛かった彼の表情が、更にわからなくなる。  「誰かと思えば……麗しの王女様ではありませんか。こんな所で一体何を?」  笑いを含んだ猫撫で声。王女様、の呼び名に私は思わず身構える。  こいつ、どうして私がわかったのかしら? 勿論変装なんてしている訳じゃないから、私を見たことがある人なら私の外見が『王女』と似ていることは解るかもしれない。  けれど普通の人は、『王女』がこんな所に居るはず無い、良く似た人だと思うもの。  怪しいと思ったって、こんな風になんの確認も無く『王女様』と呼んで来るのはおかしい。  「…………」  道の前後に人の姿が無いことを確認して、私は内心焦っていた。  どうしよう、こいつ一体何者なのかしら。ひとりでこんな所に来たのは、もしかしたら間違いだったかもしれないわね。  「そんなに警戒なさらず。私は貴女様の味方でございますよ」  「味方……?」  王女なんかじゃない、としらばっくれようかとも思ったけれど、相手はもう私を『王女』と決めてかかっている様だったから、仕方が無く返事を返した。  逃げ出す隙を窺いながらも、怯えた顔なんて間違ってもしないように気をつける。私はこの国の姫なのだから、どんな時だって毅然としているべきだ。  「ええ、勿論ですとも。お美しいネージュ様、私はずっと――そうですね、貴女をずっと、敬愛しておりましたから」  そんな安易な褒め言葉で気を良くするほど馬鹿ではない。そのつもりだけれど、何故かその男の声に、私は一瞬だけ奇妙な安心感を覚えた。  どうしてかしら、美しいと言われることなんて慣れているはずなのに。  「私を? どうして」  「理由など必要ないでしょう、貴女様は誰からも賞賛されて然るべきお方なのですから。  いつも傍らに居るあの忌々しい男はどうなさったのですか?」  「……エステリオのこと? まるで私のことずっと見てたような口ぶりね」  「市で何度か貴女をお見かけした事があるのです、時折私はあの場所で店を開いておりますから。  貴女は私などには目もくれませんでしたが、私は貴女を見ていましたよ」  「店……?」  「ええ、占い師です。職業柄こんな格好はしていますが、大それた事など何も考えていませんので、どうかそう睨まないで下さいな」  「占い……」  ふうん、なるほどね。  私はほんの少しだけ警戒を緩める。見たことの無い奴だけど、占いの店には確かに入ったことがない。   私はあまり占いって言うものを信じてないから。  だけど確かに目の前の男のうさんくさい格好や喋り方はそれらしいと思ったし、あの市にも確か占いの店は出ていた気がする。  勿論だからって何を考えているのか解らないのには変わりが無いし、男の言い分を完全に信じたわけではなかったけれど。  「エステリオなら、ノクシアにべったりよ。ここへは違う使用人達と来たの――すぐそこではぐれたばかりだから、きっとすぐ私を見つけると思うけど」  ついぽろっと本当のことを言ってしまってから慌てて言葉を足したけれど、逆効果だったかもしれない。  今が完全に無防備な状態であることをあまり悟られたくなかったんだけれど。  「ノクシア……ああ、あの下賎な女の事ですね」  けれど男が興味を示したのはそちらの方だった。こんな時だって言うのに、誰かの口から珍しくノクシアに対する辛辣な言葉を聞いて、私は少し胸のすくような思いがした。  「なるほどなるほど、その女に貴女の侍従はたぶらかされている、と言う訳ですね」  「おやどうしたのですか、そんな怖い顔をして。使用人なぞ、庶民女にはお似合いではありませんか」  「それともネージュ様は、あの男に何か特別な思い入れでも――」  「エステリオは私の従者よ、いわば私の所有物なの。どんなガラクタだって、他の奴に無断で取っていかれるのは腹が立つでしょう、それと同じよ」  「ええ勿論、そうでしょうとも。王女様が使用人など気にかけるはずもありません――しかしお可哀想なネージュ様」  「高貴な貴女様にとっては、そんな泥棒女、同じ場所に居ると言うだけでもさぞ屈辱的でございましょう」  「…………」  先程まではいい気味だと思ったノクシアへの悪口でさえ、そのやたらにへりくだった口調と芝居がかった声の所為でかなんだかこちらを馬鹿にしている様に思えて来る。  こうして話しかけて来ておいて、何の得にもならないような話ばかりするのも妙に薄気味が悪い。  なんだか嫌悪感が湧いてきて、私は男から視線を外した。  「用が無いなら私、失礼させてもらうわ」  「おや、もう行ってしまわれるのですか?」  「ええ。生憎私、あんたみたいな顔も見せない無礼者とお喋りしているほど暇じゃないのよ」  言ってしまってから、自分の口にした言葉が単なる嫌味だけではなかった事に気付く。  私はこの男の正体が気になっているのだ。フードの下の、その素顔が。  なんだかどこかで――市などではなくて、もっと違う場所で――この男に会ったことがあるような、そんな気がして。  男の口元が笑いの形に釣りあがる。けれど男に素顔を見せる気は無い様だった。  「これはとんだ失礼を。ですがお許し下さい、私のこの醜い顔は、お美しい王女様にお見せ出来るようなものではございませんので」  「ふん、結局見せたくないだけじゃないの。それじゃあ私――」  「どうかお待ちを、王女様」  背を向けようとした途端に腕を掴まれて、体が一瞬強張った。  私がその手を振り払うより早く、男は私の手に何かを握らせた。  「失礼のお詫びに、これをどうぞ」  それは中々可愛らしい形をした携帯用の薬瓶だった。水晶のようにキラキラと光を反射する容器の中で、何かの液体が揺れている。  「……なによこれ」  眉をひそめた私に、男が忍び笑いを漏らす。その声にどこか聞き覚えがあるような気がして、私は思わず首を傾げた。  「魔法の薬、でございますよ」  「魔法……?」  「ええ、飲んだ者の姿を二目と見られぬ程醜いものへと変化させてしまう、それは不思議な薬でございます」   「それをあの女の飲み物にでも混ぜて、飲ませておしまいなさい。貴女にならば出来るでしょう」  「それは私の店でもお得意様にしかお出ししない秘薬中の秘薬なのですが、他ならぬ王女様の為とあらば、出し惜しみなぞしますまい」  「私からのささやかなプレゼントですよ」  「いらないわよ、こんな物……」  「おや、そうですか? それでは貴女様はあの女がもてはやされるのを黙って見ているおつもりで?」  「愚昧な民衆共が物珍しさに湧いているに過ぎない事など私も承知の上、この国で一番美しいのは無論ネージュ様に決まっております」  「しかし皆の者の目を覚まさせるのは、早ければ早い程良いのではありませんか。このままではあの女に居場所を与えてしまうのですよ」  「そうなればあの女は、後々まで貴女様を苦しめる事になるでしょう。その前に」  男は早口でそこまで言うと、ふっと笑って私の腕から手を離した。  「思い知らせてやれば良いではありませんか、上手く王族の仲間入りをしたなどと思い上がっている忌々しい女達に。あんな奴らは早々に追い出してしまえば良いのです」  「…………」  「使うかどうかは貴女の自由――いずれにせよ、私は貴女の幸せを願っておりますよ。ネージュ様」  「あっ、居たっ! ね、ネージュ様!!」  突然背後から知った声が私の名前を大声で呼んだ。  男はちらりと私の後ろを見るような動作をしてからほんの少し腰を折って気持ち程度のお辞儀をすると、それでは、と呟いて逃げる様にして唐突に身を翻す。  「ネージュ様っ、ね、ネージュ様無事ですかっ!?」  路地を曲がって遠ざかって行く男の姿を目で追ってから、汗だくで息を切らしている侍女に向き直る。  「よ、良かったぁ。さっきの変な人に何かされませんでした?」  「ううん、大丈夫」  そう答えてから、良かった良かったと繰り返す侍女の姿に流石に申し訳なくなって、小さな声で悪かったわね、と呟いた。  「もうっ、姫様ったら! いくらこの国が平和だからって、おひとりで市を回るのは危ないですよ!」  「そうです! 私たち、姫様に何かあったらと思ってすーっごく心配したんですから!!」  部屋に帰ってもまだ続くお小言に、だから悪かったってば、と私は口を尖らせた。  「ちょっと気分転換がしたかったのよ」  「もー、姫様ったら……あら? 姫様、お買い物したんですか?」  「可愛い瓶ですね。香料ですか?」  途中捨てるわけにも行かなくて、何気なく持ってきてしまってサイドテーブルの上に置いていたあの薬瓶を見つけられてしまった様だ。  物珍しげに瓶を手に取って眺めている侍女から慌ててそれを奪い返す。  「こ、これはっ……そうよ、ええと、瓶が可愛かったから……」  「あれ、でも姫様こう言うのお嫌いじゃありませんでした? 市なんかで売ってる香料なんて、とか――」  「おっ、お土産なのよ! ほ、ほらノクシアに――あ、あいつならそう言う安っぽいのでも、よろこ」 「ええっ! きっ、聞いた!? 姫様がノクシア様にお土産ですって」  「あら大変、明日きっと何かとんでもないものが降って来るわね……」  「聞こえてるわよ!! もう! 良いから早く出て行きなさいよっ、用は済んだでしょ、今日はありがとう!!」  早く渡しましょうよ、だとかネージュ様ようやく、だとかうるさい侍女二人を扉の外に追い出して、私は大きく息を吐き出した。  明るいのは良いけど、お喋りが過ぎるのよ。全くもう。  扉の向こうの二人の声が小さくなって行くのを聞きながら、私は扉に背を預けて先程侍女から取り返したあの薬瓶をそっと光にかざし見た。  「二目と見られぬ醜い姿に……」  売り物用の洒落た瓶の中に揺れる液面を眺めつつ、男が言った言葉を思い出して顔をしかめた。  どうしてさっき、あんな風に焦ったりごまかしたりしたのかしら。おかしな男から渡されたって言って、捨ててもらえば良かったわ。  ため息をついて扉から離れ、サイドテーブルに瓶を置くと窓の外から聞こえて来る馬車の音に気が付いた。  窓の傍に手をついて下を見下ろすと、丁度止まった馬車から降りてきたのは私の良く知っている人だった。  「エステリオ……」  続いて、エステリオが差し出した手につかまってノクシアが。  一気に気持ちが沈みこむ。そうね、そう言えば今日は出かけるって言ってたっけ。どこへ行ってたのかしら。  不思議といつものように腹立たしい気持ちにはならなかった。二人の姿を避けるようにして逸らした視界の中で、サイドテーブルの上の瓶がきらめいた。  「……馬鹿みたい」  この気持ちはきっと、敗北感ね。  私、ノクシアに負けちゃったんだわ。さっきあの二人に嘘を吐いた――ううん、あの男からこんな薬を貰った時点で。  さっきこの薬を侍女から取り返したのは、勿体無かったからよ。本当は使いたかったから。  ノクシアが醜くなってしまえば、きっと前みたいな生活が戻ってくるって思ったのよ。  「こんなもの貰ってきて……私、白雪姫だなんて」  この国で一番美しいのは――  窓から離れて、ベッドに倒れこむ。悔しいよりも哀しかった。  類稀なる美貌に、それに劣らず美しい心。国中の人から愛された、物語の中の優しいお姫様――  エステリオの言う通りだった。この国で一番美しいのは私なんかじゃない。  自分のことばかり考えてしまう醜い私では、白雪姫になんてなれないわ。  「私から美しさを取ったら……こんなに、何にも残らないのね……」  涙の浮かんだ目を枕に押し付ける。泣き止んだら、エステリオに会いに行こう。  それで全部正直に話そう。この薬が何で、私が何を考えてこれを受け取ったのかも。  それからノクシアにも謝って――そうして全部ちゃんと諦めなくちゃ。  だって私はビアンカネージュだもの。おとぎ話のお姫様のようになれなくたって、近付く努力くらいはしなくっちゃいけないわ。  そう決心すると、私はうっすらと目を開く。すると滲みっぱなしの視界にあの瓶が映り込んで、思わずそっと目を逸らしてしまった。  「姫様、姫様ったら駄目ですよ。お着替えもせずに眠っちゃ」  「んん……」  「そうですよー、折角のドレスがしわしわになっちゃいます」  「ん……?」  ぱちり、と目を開く。体を起こすと、ベッドの脇に今日一緒に市へ行ったあの二人が控えていてこちらを見下ろしていた。  どうやらあのまま眠り込んでしまった様だ。そんなに長く眠っていたつもりはないけれど、きっとエステリオとノクシアはもうとっくに落ち着いて居るだろう。  エステリオのことだから、いつも私にするみたいに、お疲れ様でした、なんて言いながらお茶でも出しているかもしれない。  今ノクシアの部屋に行けば、多分二人と会う事が出来るだろう。  ……行かなきゃ、早い方が良いわ。  起きぬけの頭でそう考えて、私は少しため息をつくとそっと視線をサイドテーブルに向けた。  「え、っ……!」  その途端、ぞくりと背筋が粟立った。あるべきものが無い。なくなっている。  「ちょ、ちょっと! あそこに置いてあった瓶は!?」  慌てて立ち上がり、手前に居た侍女の腕を掴んで半ば叫ぶ様にして問うと、彼女はきょとんとして首を傾げた。  「え? ああ、ノクシア様へのお土産、って言っていたやつですか?」  「ついさっきリオ君が持ってっちゃいましたよ? 姫様に任せていると、そのままいつまでも持っているだろうからって……姫様? どうかしたんですか?」  「……っ!!」  返事も返さずに私は部屋を飛び出した。姫様、と驚いた声が私を呼ぶのが聞こえたけれどそのまま走る。  脳裏をあの男の不気味な猫撫で声が過ぎる。追い出してしまえば良い、と提案されたそれは私にとって本当に魅力的だった。  だってノクシアが邪魔だったのよ、突然出て来て、私は何もしていないのに私の日常を突然壊して、それまで私のものだった色々なものを取られてしまったんだもの。  だけど、だけどあんな薬使ったって――  「姫様ぁ、姫様ったら、待って下さいよお!!」 【侍女3】  「え? あっ、姫様!? いけませんよ、ここはノクシア様の――きゃ!」  「いいからどきなさい!」  追ってくる二人の声を無視して、驚いて静止をかけてくるノクシアの侍女を突き飛ばして扉に手をかける。押し開ける直前、向こうからガシャン、と何かが壊れる様な音がした。  「ノクシ――っ!?」  思わず息を詰まらせる。慌てて中に入った私の目の前に、倒れていたのはノクシアではなかった。  「エステリオ……!? な、どうして――」  床に落ちて割れているティーポットや転がっているカップ、それから青い顔でそれまで座っていたらしい椅子から立ち上がって、突然のことに凍り付いているノクシアを見比べて、ひとつの結論に至る。  「毒見……」  慌ててエステリオに駆け寄ろうとしたけれど、足がすくんで私はまるで転ぶ様にして彼の傍らに膝を付いた。  「っ、エステリオ、し、しっかりしなさいっ、ねえ……!」  指先が震える。軽く肩を揺すると、彼の口から小さく呻き声が漏れた。  「姫様! どうなさったんですか今の――って、り、リオ君っ!?」  「あ、わ、私っ、こ、紅茶を――いつものように、エステリオさんが毒見と言って、そ、それで突然っ」  「わ、私お医者様を呼んできます! 貴女はボード先生を探して来て!!」  「で、でもリオ君――」  「馬鹿ねっ、毒のことなら私達なんかより姫様の方がよっぽど詳しいでしょ! 早く行くわよっ!!」  「は、はいっ!」  「わ、私もお手伝いします!!」  騒がしい会話を残して、人の気配が消えていった。部屋の中に恐ろしい静けさが満たして行くのが怖くて、私はエステリオの手をぎゅっと握り締めた。  ぼろぼろと涙が零れる。どうしよう、どうしよう、泣いている場合じゃないのに。リオを助けなきゃいけないのに。  「う、うっ……リオ、リオぉ、目ぇ開けなさいよぉっ……」  これが毒なら、解毒しなきゃ。早く――でも私、こんな薬のことなんて何も知らない。  どうしよう、どうしたら良いの。沢山勉強していたはずなのに、何の役にも立てないなんて、そんな――  飲んだ者の姿を二目と見られぬ醜いものへ変えるのだと言った、あの男の言葉を思い出す。これが、もし本当にそう言う薬なら……。  「リオ……!」  倒れたままの彼の肩に縋りつく。どんなに謝ったって、例え許してもらえたって、取り返しのつかないことをしてしまった。私の、くだらない嫉妬心のせいで。  顔を上げるとあの小瓶が、割れたポットの破片の間に転がっているのを見つけた。  手を伸ばしてそれを掴むと、まだ半分以上残っている薬が瓶の中で波を立てた。  ぎゅっと唇を噛んで、苦しそうな彼の顔を見下ろす。頬に落ちた私の涙をそっと拭って囁いた。  「ごめんなさい、ごめんねリオ。私……私、本当に……っ」  こんなことしたって意味が無いのは解ってるわ。だけど、  「わ、私も飲むわ。私も飲むから。だって、だって貴方だけなんて、ふ、不公平、だものっ……」  怖くはなかった。それよりも、このまま何もしないで居る事のほうが寧ろ怖かった。  きっちり閉めてあった栓を抜いて、口をつけようとした、その瞬間。  「っ!!」  強く腕を掴みあげられて、瓶を危うく手から落としそうになる。  はっ、と短く漏れた苦しそうな呼気に目を見開くと、これまでに見たことの無いような激しい感情を宿したエメラルド色の瞳が、私を鋭く見つめていた。  それから、  こんな表情知らない。  咄嗟に感じたのはそれで、あとはもう、何も考える余裕なんてなかった。  「……馬鹿ですね」  そう言ったエステリオは、もう私の良く知る彼に戻っていた。  「……?」  「これを……何と言われて手に入れたのかは、知りませんが。危険なこと位は解るでしょうに……。  これは致死性の毒です、ネージュ様が飲んだら多分、死にます……よ」  「ど、毒って、あ、あんたじゃあ」  「名前……」  「え、え……?」  「俺の、名前を……」  「え、エステリオ……」  「最後まで」  「エステリオ・アンブローズ……?」  その名を口にした瞬間、あの歴史のことを思い出した。  アンブローズ家の全てを変えた、緑の眼をした少女のことを。  彼の言わんとすることを察した私に、エステリオはほんの少し優しい表情をした。  「そう……俺がこっちに選ばれたのは、そう言う理由、なんです。  俺は、毒じゃ簡単には死にませんよ」  「でもっ、ほ、本当に……」  「嘘は吐きません、貴女との約束ですから……。  だから、後追いも必要ありません。……俺が無事なのに、死なれたら困ります」  そう言って、エステリオはさっきから馬鹿みたいにぼろぼろと零れ続けている私の涙をそっと拭った。  「ネージュ様……前にも言いましたけど、俺は貴女が国一番の美女だったから、お仕えしていた訳じゃあ、ないんです、よ……」  私の腕を掴んでいた手に、不意にぐっと力がこもる。頬を撫でていた指が強張って、エステリオが一瞬苦しそうに顔を歪めた。  「あ、え、エステリオっ」  「俺、は……」  傾いだ体を抱き止める。最後呟く様にそう言うと、エステリオはそれきり何も言わなくなってしまった。  「あの女……絶対絶対、追い出してやるんだから……っ!!」  そうよ、思い知らせてやる。この城に来たことどころか、生まれてきたことさえ後悔させてやるわ!!  それにはまず、どうしたら良いかしら……。  考えながら、うろうろと部屋の中をひとり歩き回る。こんな風に策略を巡らすのは本当はあまり得意じゃないのだけれど……。  「そうね、まずは敵を知らなきゃならないかしら……」  これまではノクシアのことをずっと避けていたけれど、そうよね。接触しなきゃ弱みだって握れないわ。  ぐしゃぐしゃに握りつぶしたメモを、もう一度開く。  「…………」  そしてもう一度ぐしゃりと改めて握りつぶした。  何よ、何が『庭に来て下さっても構いません』よ! 来て下さいでしょうが、どうしてそんなに上から目線なのよエステリオの馬鹿!!  「でも……」  そうね、これはチャンスかもしれない。  こんな失礼な招待にもにこやかに応じてあげて、警戒心を抱かせないようにするのよ。  私の行動に不信感を抱かれないように安心させておいて、裏でクモの糸のように策略を巡らせここぞと言う所で突き落とすんだわ。  うん、うん、それが良い。手懐けたと思った相手に裏切られるのが一番堪えるはずだもの!  「待ってなさい……」  私はひとり笑みを零した。あの女の無様な泣き顔が目に浮かぶ様だ。  そうと決まったら善は急げだ。私は早速、可愛らしく無害な義理の妹を演じるべく庭へと向かうのだった。  「そう言えば、エステリオさんはいつからこのお城に?」  「俺ですか? 俺は、そうですね。本格的に住み込みで働くようになったのは、確か12歳の時からですね」  「まあ、そんなに小さい頃から! 12歳だなんて遊びたい盛りの年頃じゃないですか、お辛くなかったんですか?」  「いえ……まあ、少しもと言えば嘘になりますね。俺に礼法の一切を叩き込んだ祖母はとても厳しい人でしたから。  それでも今となっては思い出です、祖母には感謝していますし、俺はこの仕事が好きですから――」  「…………」  さて。  意気込んで庭までやって来たまでは良かったけれど、ここからどうやって出て行こうかしら。  柱の影に身を隠して、二人の様子を窺いながら私は考えていた。  さっきから会話の切れ目を狙って出て行こうとしているんだけれど、なかなか上手いことタイミングが掴めないで居る。  と言うか第一、なんて声をかけたら良いのかしら?  来てやったわよ、感謝しなさい……とか?  ううん、なんだか違うわ。私が目指すのは純粋に健気に新しい家族を慕う妹なんですもの。  もっとしおらしく、謙虚に――あんな女に謙虚に接するなんて屈辱だけれど、とにかくそんな風に装わなきゃ。  「ネージュ様」  でも本当になんて言ったら……目下の者を慕ったことなんて無いからさっぱりわからないわ。  身分をわきまえて姫らしく高貴に振舞いすぎるのも考え物ね。  「ネージュ様」  そうだわ、まず呼び方から変えてみるってどうかしら。  今までは何て呼んでいたっけ……ああそう、ノクシアって呼び捨てだったわね。  確かにこれじゃ姉妹っぽくないもの。でもいくらなんでもエステリオみたいにノクシア様だなんて呼びたくないし……じゃあノクシアお姉さま? お、お姉さま……??  「…………」  そ、それも何だか変よね。やっぱり今まで通りノクシアで良いわ、義理なんですもの、少しくらいぎこちなくたっておかしくなんてないわよ。  とにかくそんな事より、今はさっさとこの柱の後ろから離れる事を考えなくちゃ。大体何を躊躇っているのよ、第一声なんてきっと何だって大丈夫だわ。  私が来たってだけで凄いことだし、それだけで喜ばすには十分  「わっっ!!」  「きゃーっ!!!」  突然耳元で大きな声を出されて、私は飛び上がって柱にしがみついた。  ドキドキと音を立てる心臓の鼓動もそのままに、私は無礼な従者を睨み上げる。  「なっ、なっ、なにすんのよ!!」  「何度かお呼びしたのですが、ネージュ様が夢中になってその……柱、を抱きしめていらっしゃるので」  「だからって主人の耳元で叫ぶなんて論外だわ!!」  「そんな事よりネージュ様、一体何をしてらっしゃるんですか? ここの柱がそんなに気に入りました?」  「そんな訳ないでしょ! わ、私は……」  「私は?」  「…………」  どうしようかしら。ノクシアを陥れるために来た、とも、お茶をしに来た、とも言い辛いわ。  そわそわしながら言葉を選んでいると、エステリオがもしかして、と呟いた。  「あのメモを見ていらしたんですか?」  「ち、ちがっ」  「違うんですか」  「う。ち、ちがくない、わよ。来てやったのよ、わざわざ!」  「それはそれは……」  「何よ!」  「意外です。まさかいらっしゃるとは思ってませんでした」  「あら、なによその言い方。来ない方が良かったって言うの?」  「滅相もありません。ですが――」  エステリオは途中で言葉を止めて、ちらりとノクシアの方に目をやった。私もつられて彼女の方を向く。  突然の私の登場に、どうしたものか迷っているのだろう、そわそわしながらこちらを窺っているノクシアとふと目が合った。  「!!」  慌てた様子で椅子をガタガタ言わせながら、ノクシアは私に座ったままながらも頭を下げた。  ふん、まあただの妹だとは流石に思っていない様ね。だけどそこは席を立つ所だわ、失礼しちゃう。  なんて内心密かに文句を言っていた私の目に、彼女の後ろの方からこちらに向かってくる人影が映る。  すぐ隣のエステリオもそれに気付いて、その人に向かってすっと頭を下げた。  あれは――  「げっ……」  解った瞬間、思わずそんな声が漏れた。あれはこの城の侍女頭で、ここ最近私の世話をエステリオに代わって努めていた人物だ。エステリオの祖母でもある。  嫌いじゃないんだけど、細かい事にいちいち目くじらを立てるから苦手なのよね。一緒に居ると息が詰まるって言うのかしら。ほんの少しでも姫らしくない振る舞いをするとすぐに怒るんだから。  心当たりは無いけれど、私に何か用かしら。  思わずエステリオを盾にしてその後ろにそろそろと隠れたけれど、彼女はこちらに軽く一礼しただけでノクシアの前で足を止めた。  「何かしら……?」  侍女頭はノクシアに何か一言二言告げて、それを聞いたノクシアは私の方と侍女頭の顔を交互に見やっておろおろと慌て始める。  やがて意を決した様子で立ち上がると、ぱたぱたと小走りでこちらにやって来る。  盾にしたままのエステリオの腕を両手でぐっと掴むと、エステリオは何か言いたそうな顔でちらりとこちらを見下ろした。  「す、すみませんネージュ様っ、折角来ていただいたのに私、もう礼法のお勉強をしなければならない時間みたいで……」  「ふ、ふうん、そう」  素っ気無い返事を返しかけてはっとする。  駄目よ私、可愛く、可愛く!  「ざ、残念だわ……」  「ああ、ネージュ様とお話し出来る折角の機会なのに……本当に申し訳ありません……!」  「い、いいわよ別に。お茶くらいいつだって出来るもの……」  エステリオの影に隠れるようにしてやっとそれだけ言うと、ノクシアの表情がぱっと輝いた。  「また会いに来てくださるんですか!?  そんな、私……嬉しい、すっごく嬉しいです!」  「べ、別にっ……普通よこれくらい、特別なことじゃないわっ」  なんだか嬉しそうなその顔をまともに見ていられなくて、私はやや視線を逸らしながらぎゅっとエステリオの腕にしがみついている手に力を込めた。  侍女頭が痺れを切らした様子でノクシアの名前を呼ぶ。  「あ、わ、私もう行かなくちゃ――ごめんなさいエステリオさん、お片付け……」  「お気になさらず。これが俺の仕事ですから」  「あ、ありがとうございます! あの、それと姫様、是非、よろしかったら是非また……お話して頂けると、私とっても嬉しいです」  「次こそはきちんとお迎えしますから、きっときっといらして下さいね……!」  そう言い残し、名残惜しそうに何度もこちらを振り向きながらノクシアは侍女頭に連れられ城の中へと消えて行ってしまった。  はー、と長く息を吐き出す。なんだか無駄に緊張しちゃったわ、自分を偽るって大変ね……。  「少し遅かったですね」  「ええ、まあそうみたいね……」  「……ネージュ様、どうかなさいましたか?」  「どうかって、どうもしないけど何?」  「いえ、これまでノクシア様と話すどころか視線すら合わせようとしなかったじゃありませんか。  一体どんな心境の変化かと思いまして……」  「べ、別に特別な理由なんて無いわよ」  落ち着いた緑の瞳にじっと見つめられて、私はそわそわと視線を泳がせる。  エステリオって昔っから妙に鋭い所があるのよね。本当はノクシアを陥れようとしていること、悟られないと良いけど……。  居心地の悪い間を開けて、エステリオがふう、と短くため息をついた。  「ま、良いですけどね。どんな理由であれ、ノクシア様とお話する気を起こして頂けたのなら」  「何よ、その言い方……」  「今後ノクシア様にお会いになりたい場合は、俺に言って下されば予定をお伝えしますので」  「…………」  まるで私が会いたいと思っているみたいに言われて、少し眉を寄せる。するとエステリオはわざとらしく首を傾げた。  「おや、どうかなさいました? お会いになりたいんでしょう」  「う、うるさいわね。別にどうもしないわよ!」  「そうですか」  「何よその顔!」  「そうだネージュ様、そろそろ離れて頂いても宜しいですか?  こう引っ付いて居られると、片付けも出来ませんし」  「あんたって都合が悪くなるとすぐ話を逸らすんだから!!」  そう文句を言いながらも腕を離してやると、エステリオはこちらを向いて、珍しい事にほんの少しだけだけれど優しそうな笑顔を見せた。  「ノクシア様の所には、ちゃんと俺も居ますから。安心していらして下さいね」  「ふん、まあそうね」  別にあんたが居るからって安心なんて出来ないけど――といつもだったら付け加えてやる憎まれ口は、なんだか喉の奥に引っ込んでしまった様で出てこなかった。