あの時した約束は、一体どんな物だったのだろう。 幼い頃に友達と交わした、幾つもの「約束」。 それら一つ一つを覚えている事は無いけれど、それでも今でも心に刻まれている物がある。 『いつか、思い出して』 その言葉だけが、今も胸の奥に残っている。 普段は思い出す事もない、薄れかけた遠い記憶。 俺こと《うづき》卯月《せいいち》誠一が交わした、大切な契約の言葉。 誰としたのか、そして中身も分からない《もの》約束を、この街に思いを馳せる度に考える……。 森に入ると、車内から見える景色は緑一色で覆われた。 聞こえるのはエンジンの音と、アスファルトを走るタイヤの音。 車の中はラジオも掛かっておらず、とても静かだ。運転席に座る人物との会話もなかった。 窓から外をぼんやり眺めながら、車から感じる振動に身を任せている。 ともすれば息がつまりそうな空間になってもおかしくないが、俺はあまり気にならなかった。 「……久しぶりだな」 車から見えるこの風景が、子供の頃の俺は大好きだった。 避暑地として混雑する夏休みの伊沢駅から、車で走る事20分。 子供の頃には変わり映えのない風景に飽き始める頃に、森のトンネルへと突入する。 一変する景色はまるで違う世界に迷い込んだようで、子供心にわくわくした。 歓声も上げただろう。 そして、あの時も彼女は何も喋らなかった。 ただ今のように、バックミラー越しにちらりと後部座席の俺を見ただけだった。 「おサエさんもそう思いませんか?」 返事が返ってくるまでには、少しだけ時間があった。 「……そうですわね」 堅い、人を寄せ付けない声色だ。 でもそれも当時からある物で、また一つ懐かしさを増した。 別に俺が拒否されている訳じゃない。 ただ初老の域にさしかかった家政婦さんは、昔から感情を出すのが苦手な人だった。 懐かしいと感じる物は、もう一つあった。 視線を手元に落す。 握ったままの手紙には時候の挨拶に続き、父の誕生会を祝うための招待の文面。 それから、懐かしい従妹の名前があった。 《きさらぎ》兼定《れい》零。 堅い筆記のそれも俺が良く知る頃と変わっていない。 家の事情もあり、俺がこの街を出てから、数年。 最後に会った時からも同じだけの時間が流れている。 子供の頃は大人しいながらも好奇心旺盛な女の子で、俺と一緒に森の中を遊び回っては、おサエさんに一緒に大目玉を食らっていた子だったけれど……。 今はどんな風になっているんだろう? この森は車なら僅か五分ほどで抜ける。 前方に森の出口が近づいてくる。 「お嬢様だけではなく、《かずは》一葉も誠一さんが来られるのを楽しみにしておりましたよ」 「一葉ちゃん……大きくなったでしょうね」 「ええ。それはもう」 おサエさんの言葉に懐かしさと嬉しさがこみあげてくる。 まぶしさに目を細めて、道の先を見ていた。 如月家の屋敷につくと、玄関の前に降ろしてくれた。 エアコンのきいた車内から外に出ると、夏の熱気が俺の体を包み込む。 むわっとした暑い空気は、体に纏ったエアコンの冷気を押し流していく。 ここは森に囲まれている。 周囲から響く蝉の大合唱に、思わず圧倒されかけた。 「わたくしは車を車庫に入れてきます」 「あ、はい。ありがとうございました」 おサエさんは軽く微笑んで返す。 荷物をトランクから取り出すと、おサエさんは車を裏手の車庫へ走らせていった。 「お久しぶり」 不意に背後から声がかけられた。 「振り返った先には、黒髪の美少女がいた……とでも言っておく所なんだろうな」 「文学にでも目覚めたの?」 「今の学園だと文系クラスなんだよ。久しぶりだな。何年だっけ?」 「さあ……3年かそこらかしら。前に会った時は、お互いまだ子供だったものね」 「確かに」 彼女の背もずいぶん伸びた。 俺とは誕生日が少し遅い程度で年も同じだから、後何年か経てば成人だ。 大人からすればまだ子供だろうけど、お互いの間では子供とは言いづらくなってしまった。 「久しぶり。《れい》零。あんまり変わってなくて安心した」 「私は逆に誠一が変わってない事に不安を覚えたわ。あなた早熟だったから背も早く伸びたけれど……あれからはあまり伸びてなさそうね」 「……くそ、言ってくれるなよ」 従妹の《きさらぎ》兼定《れい》零の言葉に、思わず頭をかく。 「そういうお前こそ……」 「胸デカくなったな」 「ええ。さすがに以前よりも体型は変わったわね」 両手で自分の胸を包むように持ち上げる。 「言うまでも無い事だけれど、適正体重は維持しているわよ」 「……だろうな」 下手なからかいをしかけても、一切通じない所まで変わっていなかった。 「お前も全然変わってないな」 「ふふ」 少しだけ表情がほころぶ。 それで少しだけあった硬い感じが無くなった。 昔一緒に遊んだ、無邪気な少女の雰囲気が色濃く残っていた。 やっぱり変わってない姿を見つけて、安心する。 「ともあれ、遠路はるばる大変だったわね。中の案内は……」 「前と変わってないんだろ? じゃあ大丈夫だ」 「そう? ま、それでも久しぶりに来たのだから、夕食までゆっくりしていなさい」 そう言って俺が降ろしたバッグに手を掛ける。 「………………」 持ち上げようとして、手に力を篭めている。 「ん、んんん~~……」 バッグが僅かに浮き、零の細い腕がぷるぷると震えている。 「………………ふぅ」 手を離すと、ポケットからハンカチを出して優雅に額の汗を拭いた。 「いくらお客だとはいえ、誠一は特別扱いはしないわ。私は手伝わないから自分の荷物は自分で持ってちょうだい」 「そうさせてもらうよ」 重い荷物が詰まった鞄を肩にかける。 軽々と持ち上げる姿を見てか、零は少しだけ頬を膨らませ――。 「あいてっ」 こつんと、つま先で俺の足を蹴った。 如月家の屋敷に入ると、ひんやりとした空気に包まれた。 重い扉が閉まり、外界の熱と遮断される。 空調が利いているのだろうけれど、どこに設置されているのかまったく分からなかった。 屋敷の中で最初に目についたのはホールに飾られている、大きなからくり人形だった。 その奥のガラスの中にも、多種多様なからくり仕掛けが置かれて、歯車が規則正しく回っている。 ゼンマイ仕掛けの古い時計だが、前に見た時と全く同じだ。今でも変わらず動いているようだった。 「……ほんと変わってないな」 「そもそも、どう変わるというのよ」 「まあな」 ここ如月家は古くから続く、からくり職人の一族だ。 大昔の発明家が、当時最先端の技術だったからくり仕掛けの物を導入し、職人の一族として発展してきた。 その本家が如月家で、俺の《うづき》卯月家は分家にあたる。 今では精密機械やIT産業では名前を見るくらいに大きく成長し、街中を歩けば子会社や関連会社ばかりだ。 そんな所のお嬢様が、隣にいる彼女な訳だけど……。 「なに?」 「いや、何でも」 はっきり言えとばかりに見つめ返してくる姿は、とても大企業の『お嬢様』なんて雰囲気じゃない。 ある意味似合ってるのかもしれないけど、昔から零とはこんな感じだったから、久しぶりでも気づまりしないのが確かめられて、ほっとしていた。 「あっ! ああ~~っ。ああああ~~~っっ!!」 唐突に女の子の声がした。 「ごめんなさいっ! お客様をお待たせしてしまって!」 続いて、ドタドタとせわしない足音が響いてくる。 姿を見せたのは動きやすい恰好の小柄な女の子だった。 「大変お待たせいたしましたっ!」 「あ……あれ?」 荷物を持ってきている俺と隣に立つ零を見て、女の子が首を傾げている。 「……《かずは》一葉。姿が見えないと思ったら、やっぱり寝ていたわね」 「そ、そんな事は……はっ!?」 口元を指で素早く拭う。 「そんな事はありませんっ」 後ろ手に隠すと、にっこりとほほ笑んだ。 「……いいけれど。どうせ客といっても誠一だし」 「まあ、そういう事だ。久しぶり、一葉ちゃん」 「ど、どうも……ご無沙汰しています……」 恐縮しながら目の前の女の子……《みなづき》水無月《かずは》一葉ちゃんがおじぎをする。 先ほどここまで運転してくれた、おサエさんの孫にあたる子だ。 「ちょうどいいわ。誠一を部屋まで案内してあげて」 「はいっ。かしこまりました! お嬢様っ」 「……無理にそういう事を言わなくて良いと言ってるのだけれど」 「いいえっ。そうはいきません!お手伝いできるように、動きやすい恰好で待っていました!荷物持ちでも何でもお任せくださいっ!」 元気よくハキハキと答えている。 反対に零はどこか諦め気味だ。 「夕食になったら呼びに行かせるわ。それまで自由にしていていいから」 「わかった。……それじゃよろしく」 「はいっ! それではこちらです」 一葉ちゃんの後をついて、屋敷の中を歩いていく。 「…………」 ホールでも思ったが、屋敷の中も記憶の頃と同じだった。 至る所にからくり仕掛けが置かれ、どこか秘密基地めいた雰囲気が漂っている。 「どうかしたんですか?」 「ん? ああ、昔と変わってないなって」 「わたし、これでも背が伸びたんですよ?」 みると一葉ちゃんが不満げな視線を向けている。 「そういう事じゃなくて、懐かしいなと思って」 「ついこの前じゃないですか」 「そうなんだけど……住んでた家って訳じゃないからなのかな」 苦笑してしまう。 きっと俺だけの感覚だろう。 ずっとここにいた彼女と、しばらく離れていた俺では如月の屋敷に対する印象も大きく違うはずだ。 「変わったといえば、一葉ちゃんも変わったよな」 「気づいてくれましたか? 背以外ではどこが変わったです?」 「えっと……」 その言葉に一瞬詰まる。当時の彼女を思い出して、何て言っていいのか迷った。 「前は屋敷の手伝いなんてして無かったのに」 「そうですけど……」 どこか困ったような笑顔を浮かべている。 俺や零より年下の彼女は、おサエさんの孫ではあるのだけど少し環境が特殊だ。 いわゆる養子で、血の繋がりはない。 俺がこっちに住んでた頃は、その事を誰も……一葉ちゃん本人も気にしていなかったけれど、何か心境の変化があったのかもしれない。 「……されたくない……から」 「……え?」 「お世話になっていますから。大きくなったんだから恩返ししないと。追いだされたくないですからね!」 「普段はメイドさんの恰好をしているんですよ。もうプロのお仕事も出来ますよ!」 「誰も追い出したりしないと思うけど……それでそこまで働くあたり、一葉ちゃんは律儀だな」 「えへへー、知らなかったんですか?」 「今度からは覚えておくよ」 「こちらがお部屋になります。客室を用意させて頂きましたがよろしいでしょうか?」 「ああ、もちろん。昔泊まりに来た時にも使ってた部屋だから馴染みもあるし大丈夫」 「そうですか。良かったです」 「それでは失礼します。お夕飯の時刻になったら呼びにきますので、それまでは自由にお過ごし下さい」 「ありがとう」 「あ、そうだ。如月のおじさんは?挨拶出来るようなら、今のうちにしてこようと思うけれど」 「それは……」 一葉ちゃんが表情を曇らせる。 「……そんなに良くないのか」 「わたしには何も……ただ夜には来られるそうです」 「そっか。分かった」 「では失礼いたします」 折り目正しく頭を下げて、一葉ちゃんが部屋を出る。 自分の服の裾を摘まんでいるのは、メイド服だとスカートでやるのだろうか。 本人が自信満々に言っていただけあって、想像してみると似合ってそうだった。 小さな音を立てて扉が閉まると、部屋の中にいるのは俺だけになった。 「……ふぅ」 荷物を降ろしてベッドに腰掛けた。 長旅というほど長かった訳じゃないが、電車を乗りついでそれから車でやってきた。 その間はずっと座りっぱなしで腰も痛い。 疲れたと言えば、疲れているのかもしれない。 零もそれを見越して、夜まで一人にしてくれたのだろう。 「自由に過ごして良いと言ってたけれど……」 ベッドの上に体を投げ出す。 ずっと座っていたためか、背筋が伸びるのが心地よかった。 一葉ちゃんが整えてくれたのか、シーツはしわもなくピンと伸びており、まるでホテルの一室のようだ。 「…………」 ポケットから折り畳まれた手紙を取り出す。 中の手紙には、零の筆記で彼女の父である如月《かねさだ》兼定の誕生会への出席を求める文面。 それと……。 一緒に入っていた、もう一通の方を取り出した。 そこに記されていた内容。 こちらも、ある意味『誕生会』と呼べるのかもしれない。 「生き人形の旦那役……ねぇ」 如月家に古くから伝わる儀式への、参加要請だった。 ――如月の生き人形。 それは、古くからこの地方に伝わっている伝承の一節だ。 如月家はからくり仕掛けで大成した一族だ。 しかし、どのような一族にも歴史はあり、物事には始まりが存在している。 分家の俺は聞きかじった内容でしか知らないが、如月家の初代という人物は、ずいぶん卓越した人形師だったらしい。 当時のここは、山奥のド田舎だったはずだ。 そこに彼はやってきたのだ。 ……一体の人形を連れて。 その人形は、生きていたと伝えられている。 彼の身の周りの世話をし、人と話し、笑い……そして時には涙をも流したという。 『如月の生き人形』 そういう噂が流れ始めるのに時間はかからず、また主や村人に対し、親身になって面倒をみる人形の少女を人々が受け入れるのも当然ともいえるものだったらしい。 やがて彼の元には、大勢の人が押し寄せた。 最初は村人。そして物見遊山な見物客。 そして次に、権力者が。 最後にやってきたのは、からくり職人であり人形師でもある彼の技を学ぼうとやってきた技術者達だった。 これが如月一族の始まり。 人形は彼の病床にまでつき従い、やがて事切れると同時に動くのを止めたと言われている。 ……以来、如月家には一つの命題が生まれた。 如月の生き人形に、この手で命を吹き込む。 ……そんな夢物語のようなお題目だ。 人と共に生き、そして主の死と共に活動を止めた一体の人形。彼女をめぐり現在まで残っている如月の儀式がある。 つまりもう一通の手紙とは、体の悪い零の親父さんに変わり、俺にそれをやって欲しいという内容だった。 「……ま、考えても仕方ないか」 ベッドから体を起こす。 もう帰ってきてしまってるんだから、どんなもんか分からなくてもやるだけだ。 せっかくなので一回りでもしてみよう。 そして見られるのなら、例の『生き人形』も見てみたい。 子供の頃から屋敷には来ているが、見た事は一度もない。 正しくはある事はあるのだが、薄暗い上に遠くてよく見えなかったから、ちゃんと見たうちには入らない。 「どこかへ行くの?」 廊下で零とばったり合った。 「暇だから散歩でもしようと思って。そっちは?」 「あなたが暇してるんじゃないかと思ったの」 「なんだ読まれてるな」 「……何もない部屋の中にいたら、退屈するのは当然でしょ」 零の言葉に、まったくだと頷く。 ……なんだか視線に呆れが混じっているような気がする。 「屋敷の中でも見て回るか、見られたら例の生き人形でも見てこようと思ったんだけど……」 「ああ、なるほどね。でも今はダメよ」 「どうしてだ?」 「相手の男は見ないようになっているの。……儀式の名前見れば明らかでしょ?」 「名前……」 ポケットから手紙を取り出す。 儀式について書かれた方を広げると、零が一箇所を指先で示した。 そこにはこうあった。 『如月家に伝わる『《こんせい》婚生の儀』に参加を……』 「……こんせいのぎ……でいいのか?これってもしかして、字の通り……」 「……まあ、そうね。結婚式よ」 「薄々そうなんじゃないかと思っていたが……」 頭に手を当てると、零が小さくため息をついた。 「……誠一らしいけれど。あなたよく知りもしない物を承諾したわね」 「ガキの頃に見た事はあったからな……。遠くで様子は見えなかったけど、ただ座ってるだけっぽい感じだったし……」 昔みた、おぼろげな光景を思い出す。 如月家の儀式に、分家の子供が参加する事は滅多にない。 騒いでも困るだろうし、そもそも生き人形自体が如月の家宝だ。万が一壊されでもしたら堪らない。 でもその時は、零が参加していたのが切っ掛けで、俺も入れて貰える事になった。 舞台のようにあつらえられた場所は、まるでお雛様を飾る場所のように見えた。 その中に、零がいた。 もちろん主役ではない。 着飾って、主役の二人に仕える巫女の役割をしていた。 あの時、男の所には如月のおじさんが座っていた。 女の人の所にいたのが……如月の生き人形なのだろう。 紅い着物を纏って、顔を俯かせていた。 どれだけ見ていてもぴくりとも動いていなかったから、やっぱり人形だったのだろう。 でも、その姿があまりにも人間らしくて、驚いた記憶が今でも残っている。 今回は俺が近くに座る訳だ。 そうなったら、当時は見られなかった如月の人形の姿を間近で見る事が出来る。 承諾した裏には、その好奇心が無かったとは言えない。 それに……。 子供心の記憶ではあるが、悪い雰囲気の儀式じゃなかった。 ただ厳かで、どこか圧倒されるものがあった。 幽玄な空気にそう感じただけなのか、単に昔の記憶が美化されているのか分からない。 「実際そのようだけれどね。お雛様みたく、身支度をして座って、進行役がお酌をしておしまい。座っているだけだから誰にでも出来る」 「ただ、親族の男性という条件がついてて、若い男があなたしかいないってだけの話だから」 「若いって前はおじさんがやっていただろ」 「仕方なくよ。他の親族にやらせたら、付けあがると思ったんでしょう。だから今回誠一が断ったら、やらないつもりだったらしいわ」 「だろ? なら里帰りにちょうどいいなと思ったんだよ」 「別にそんな事が無くても、帰ってくればいいのに」 「距離があったから、なかなか難しくてなぁ……」 「……いいけれど」 全然良くなさそうな感じで、零は少しむくれてため息をついた。 「ともあれ読んで字の通りだから、行われる前には花嫁を覗きに行かない物なのよ」 「そっか……じゃあ、どうするかな」 「…………」 零は俺の返事をじっと待っている。 退屈しのぎに付き合ってくれるというのは本当らしい。 「暑いけど外にでも行くか。屋敷の中は見たけど、《そっち》家の周りはまだだった」 「ええ、わかったわ」 玄関から外に出る。 おサエさんが運転する車から降りた所だ。 「おサエさんは? 屋敷に入ってから一度も会ってないけど」 「一葉と一緒に晩ご飯の支度をしているわ」 「なるほど、夜が楽しみだ」 屋敷の裏に回ると、ガレージがある。 中には来る時に乗ってきた車があった。 「昔はこの中に、勝手に基地作ったりしてたよな」 「こんな埃っぽい所に、何時間も篭っていたわよね……」 零は呆れ気味だ。俺としても苦笑するしかない。 「あの頃はおじさん達にもバレてないと思ってたけど、本当は子供のやる事として見守られてたんだろうな」 「でしょうね」 子供の頃、俺たちはどこまでも自由なつもりだった。 でも大人からすると、それは文字通り子供の遊びで……ずっと見守られていたのだろう。 如月家から数分歩くと、森にぶつかる。 ここまで来ると蝉の声がうるさいほどだ。 夏場の太陽はじりじりと肌を焼いていく。そのため、森が作る木陰がとてもありがたい。 子供の頃にも、この木陰で遊んでいた。木の幹についた傷も、昔と変わらず残っている。 それでも森の奥までは入った事がなかった。 来た時のように車道を車で走れば直ぐに抜けてしまう森でも街側じゃない方は徒歩で出るには難しい深さになっている。 「外は暑いわね……涼みにいきましょう」 零が森の中に向かって歩いていく。 奥には入らないが、近くに遊び場はあった。 それが、この沢だ。 流れる水は透き通っていて綺麗だ。覗きこむと、魚が泳いでいるのが見える。 ここの沢は細いけど、森を通っているうちに徐々に森に蓄えられた水が集まり、街に入る頃にはいっぱしの小川になる。 沢の横には木組みの井戸のような物が置かれ、その上部からは水が飲めるように濾過された水が流れていた。 流れ落ちる水は溢れて沢にこぼれおちるようになっており、せせらぎに更に音を与えている。 これも昔の如月家の人が作ったからくり仕掛けの一つだ。 生活に密接にかかわる物は、大部分が見慣れた機械製品に変わってしまったようだが、今もこうして残っている物はある。 むしろ、これがあるからこそ単なる森の中の沢じゃなくて俺たちの遊び場になってたと言ってもいい。 「ふぅ……冷たい」 両手を揃えて流れる水をすくい、喉をうるおしている。 口元からこぼれおちた水滴が、薄手のワンピースの胸元にぽたりと落ちた。 「……そうだな」 思わず凝視してしまった……。 泳げるほど深くはないが、夏場に涼をもたらすには十分な水量だ。 子供の頃はよくここで遊んでいた。 それは夏場だけじゃない、季節に応じて様々な姿を見せるのが好きだった。 「家の周りなんて本当に何もないわね。他の場所に行くにしても……さすがに街まで行く時間は無さそうね」 「久々に昔の知り合いにも会ってみたいけど、仕方ないか」 「歩きでいったら帰ってくるのが夜になってしまうもの。後日サエに車を出させるわ」 「じゃあ明日か、例の儀式の後だな。それも終わったら……居る間はのんびりするか」 昔の友達を思い描く。 今では大きくなっているだろうけれど、頭に浮かぶのは当時別れたままの幼さを残した姿だ。 クラスメート達。よく遊んだ悪友たち。零も含めて、男女問わずいつも一緒だった。 引っ越した後は電話やメールで連絡を取っていたけれど、気がついたらそれも遠のいてしまっていた。 そのせいもあってか、突然の帰郷にも連絡出来ていない。 帰る前に一度くらいは会いたいものだ。 「誠一はいつまでうちにいるつもり?」 「そうだな……」 こういう率直な聞き方は、ともすれば『早く帰れ』と言ってるようにも聞こえてしまう。 が、零にそのつもりがないのは、これまでの付き合いから分かっている。 用件があれば単刀直入に聞くという不器用っぷりは、今でも健在らしい。 「おじさんたちの迷惑にならないくらいで考えてるよ。問題ないならお盆過ぎくらいまではいると思う」 「夏休みが終わるまで居ればいいのに」 「……宿題持ってきてないんだよ。そこまで滞在してたら、俺がヤバい」 「途中で取りに行くか、おばさまに送って貰えばいいのでは?」 「……いや、さすがにそこまでするのも……」 「…………」 零は何か言いたげな眼差しを、俺に向けている。 「…………分かったよ。おじさんに聞いて、それまで居ても良いって言って貰えたらな」 「断る訳がないでしょう? それじゃあこれで決まりね。忘れないうちに連絡しておくのよ」 「……ったく」 妙なおかしさがこみあげて、苦笑してしまう。 「そこまで歓迎してくれると嬉しいけどな」 「滅多に顔を見せない薄情者がいるからでしょう。長く引き止めておかないと、次はいつやってくるやらだわ」 「まあ、そうなんだけどな……」 少し困って、頭をかいた。 「そもそも、おじさまのお仕事の関係とはいえ、誠一はこっちに残ればよかったのよ。うちに居候したとしても、誰も何も言わなかったもの」 親父の仕事といっても大企業である如月家とは実は関係がない。 厳密にいうと全く関係が無いわけじゃないだろう。なにせ俺の卯月家は零の如月家の分家だ。 ただ、分家といっても昔分かれた血筋が繋がっているだけで関連企業に勤めていたりはしてなかったようだ。 その辺りの理由は良く分からない。 他にもいくつか分家があるけど、そういう家々は如月家のおこぼれを貰うかのように、事業を手掛けたり子会社を経営したりしている。 そういう繋がりも無いのだから、もう関わりのない家として離れてしまえば良いのだろうけれど……。 (今は名前だけであっても、如月家の本家と親しい分家が変な仕事に就く訳にもいかないだろうしな……) 関係が無い訳じゃないが、関わりはあるというのは、つまりはそういう事だ。 如月家に近い立場にいる分家筋なら、変な仕事をする訳にもいかず、近すぎても今度は財産狙いだの取り入ろうとしてるかのように見られてしまう。 付かず離れず……爺ちゃんが生きてた頃はそんな関係だった。 爺ちゃんはこの街で時計をはじめとした修理屋を開いていて当時は俺たちもそこに住んでいた。 如月家は今も昔も変わらずこの森の奥の屋敷。 《うち》卯月家も血は繋がってるだけのご近所さんという立場のまま、長い事この伊沢街に居を構えていた。 だから、離れた土地に引っ越してしまって、ある意味解放感のような物はあった。 如月の分家というだけで、別に大金持ちでもないし、財閥の子息という訳でもないのに、そういう風に見られていたから。 如月に縁のない土地に行ってからは、周りの人が一切それに触れないのが不思議で、それでいて気楽な新鮮さがあったのも事実だ。 ただ、置いて出ていったきりというのは、薄情だったかもしれない。 「ほんともう少し連絡取るべきだったよな……悪かったよ」 「……別に謝れとは言ってないわよ」 少しだけむくれている。 彼女の事を気にしてなかった訳じゃないが、新しい生活で慣れるのに大変だったのは事実だ。 でも、一度離れてしまうと心理的な壁が出来あがっていた。 何と言うか、外から如月家の大きさを改めて知るにつれて、気軽に連絡をする事に抵抗を感じるようになっていた。 さすがにそんな事は零には言えないから、こうして謝るしかない。 「でも、本当に変わってなくて安心したんだ」 流れる小沢の水面を見ながら、今日何度もいった言葉を言う。 夏の青々とした葉が一枚、流れていくのを見送った。 せせらぎの音が、瞬間その場を支配する。 そよぐ風の音に合わせて、零もぽつりと続けた。 「…………私も」 「私も、誠一が変わってないのを見て安心した。街の他の子達のように、如月の人間だからと距離を置かれたらと思ったら、怖かった」 「……そっか」 もしかしたら、それで俺が来るのを待ちかまえていたのかもしれない。 暑い最中に何をやってるんだと思ったが、零もそうしてないと不安だったのだろう。 「何やってんだろうな、俺たち」 「あなたは大いに反省するといいわ」 「へいへい」 零の言い回しに苦笑する。今度は先ほどのよりも、お互い気楽な笑いだった。 「そろそろ帰りましょうか。お父様も待っているわ」 「おじさんか……元気だといいんだけれど」 「元気にしているわ。今は、まだね」 「……そっか」 沢を後にして、如月の家に向かう。 微かな水の音は、森の中に入るとすぐに聞こえなくなった。 森を出て空を見上げると、東側の空から夕焼けに染まっていくところだった。 山に近いここは夏でも夕暮れに入るのが早く感じられた。 夏の空気が僅かに和らいだ気がした。 部屋に戻ってシャツを着替え、夕食の時間を待ってホールに下りた。 ホールには一葉ちゃんがいて俺を見つけると小走りにやってきた。 「どうぞ、こちらです。もう皆さん来られていますよ」 「ありがとう」 一葉ちゃんがホールの奥の扉を示す。 昔のままなら、この先にあるのは屋敷の食堂だ。それは今も変わっていないらしい。 広い食堂に入ると、零と視線があった。 隣の空いている席を示す。 ……どうやらここに座れという事か。 「席順は決まってないのか?」 「そんなものある訳ないでしょう。席が埋まる事も滅多にないもの」 「そういうものか」 「そもそも、三人しか住んでいない家で席順も何もないわ」 なるほどと思い席につく。 食堂の広さは椅子とテーブルを片づければ、ちょっとした運動が出来そうな程だ。 そんな所に三人……と考えて、人数に首を捻る。 お母さんは既に亡くなっているから、零と親父さんで二人。 おサエさんが住み込みで働いてるから三人。 ……一葉ちゃんはどうなんだろう? 俺の疑問が伝わったのか、零が補足を入れる。 「一葉は今もここの裏手にある離れに住んでいるわ。こちらに離れから通っているのよ」 「そうだったのか」 「私やお父様は住んでも構わないと思っているのだけれど……遠慮しているのかしらね」 「この家だと遠慮する気持ちは分かる」 「……どういう意味かしら?」 「いやだって……」 食堂を見渡す。 如月の屋敷だけあってか、ここにも年代物のからくり仕掛けが飾られている。 もう動いていない骨董品だけど、見るからに貴重な年代物だ。もしもうっかり壊したらと思うと、気が気じゃない。 俺の視線に気づいたのか、零は気まずげに横を向いた。 「……壊した所で気にしないわよ。今ではただの骨董品でしかないのだから」 そうは言うが、無造作に置かれている物のどれもが高級品に見えてしまう。 まさしく住む人間の感性という奴だろう。 「旦那様が参られました」 おサエさんの声がかかる。 扉が開き、車椅子を押しながら食堂に入ってきた。 「――――」 その姿を見て、一瞬息を呑んだ。 話には聞いていたが、記憶にある姿との違いに驚いた。 「やあ、誠一君。久しぶりだね」 「ご無沙汰しています、如月のおじさん」 椅子から立ち上がり、車椅子に座った男性……零の親父さんに頭を下げる。 「そんなかしこまらなくて構わないよ」 朗らかな声は、昔遊んで貰った記憶にある通り。 けれど、その姿は俺が覚えている物と一致しなかった。 「……そういえば、この姿を見るのは初めてだったか。驚かせてしまったようだね」 顔の半分を覆う包帯に手を当てる。 「いえ、そんな事は……」 体を悪くしたため、代役を頼むというのが今回の話だった。 同時になるほどと思った。 日常生活にも車椅子が必要なら、いくら座っているだけとはいえ、何らかの儀式に出るのは大変だ。 「俺こそご無沙汰してしまって」 「それでも、こうして顔を見せてくれただけで嬉しいよ。ご両親は元気かな」 「ええ、新しい仕事で苦労してるみたいですが、今の所元気にやってるみたいです」 「それはよかった」 それを聞いて、あれ? と思う。 うちの親父も、本家筋である如月のおじさんと連絡とっていなかったのだろうか? 元々疎遠というなら分かるけれど、それなりに親しくしていたと思ったのだが……。 「今度電話でもいれさせますよ」 「いや、それには及ばない。『便りが無いのが良い便り』とも言うからね」 「お料理をお持ちしました!」 元気のいい声と共に一葉ちゃんが入ってくる。 ホテルで見るような配膳用ワゴンを押している。 そしてその姿は、先ほど本人も言っていた通りのメイド服になっていた。 「おお~~……」 確かに良く似合っている。そして可愛い。 おサエさんと分担しつつ、慣れた手つきで配膳を済ませると一礼して側に控える。 その姿も確かにプロのメイドさんだ。 「それではいただこうか」 「ええ」 二人が――おじさんはどこかぎこちなく――手を合わせる。 俺もそれにならうと、頂きますと口にした。 最初はぎこちなかった会話も、食事が進むと昔の空気を取り戻しつつあった。 零の親父さんは気さくな人で、大企業のトップだというのに現場にもよく足を運んでいたらしい。 その話は俺の親父からも聞いた事がある。 久々にあった俺にも昔と分け隔てなく接してくれて――むしろ今回の件を引きうけた事を何度もお礼を言ってくれるのがくすぐったさを覚える。 「誠一、夏休みいっぱいは泊めたいのだけれど、構わないでしょう?」 「もちろん構わないが、誠一君の予定次第じゃないか?」 「俺は別に……ご迷惑でなければ、久しぶりに来たのでお世話になろうと思っています」 「零が無理を言ったりはしてないかな?」 「失礼ね。言う訳ないじゃない」 「そんな事は」 苦笑しながら答える。 強引な誘いではあったけれど、無理な事じゃないし、何よりも再会を喜んでくれたのは嬉しかった。 「でしょう」 澄ましながら――でも得意げに頷いてる。 そんな娘の姿を見ながら、おじさんも苦笑していた。 「はは。無愛想な娘でも、誠一君の前だと子供の頃と変わらな……いつつ、笑うと引き攣るな」 「大丈夫ですか……?」 「ん? ああ、もう慣れてるからね」 包帯の上から手を当てる。 触れた事で痛むのではないかと思ったが、大丈夫なようだ。 「ともあれ、私たちは大歓迎だ。いつまでも居てくれて構わないよ」 おじさんの言葉に零も頷く。 おサエさんと一葉ちゃんも微笑んでいた。 「ありがとうございます」 みんなに向かって、頭を下げた。 食事も終わり、外に出る。 「では明後日はよろしく頼むよ」 一葉ちゃんの押す車椅子の上で、おじさんが頭を下げる。 「あ……はい。正直何をすればいいのか良く分かってないので迷惑を掛けるかも知れませんが……」 「はは、君は何もする必要はないよ。そうだなぁ……雛人形みたいなものだね」 「雛人形ですか? あの3月の?」 「そうそう。家の者が飾り付けをするけれど、飾られている雛人形が自分で何か仕事をする訳じゃないだろう?強いて言うならば、観られる事が仕事な訳で」 「なるほど……。だからと言って、出さなくても同じかというとそうでもなくそこに居る事が重要な訳ですか」 「そうだね」 昔に見た通り、本当に座っているだけで良さそうだ。 「そういう事なら安心しました」 明らかに安心した俺の様子を見てか、おじさんも笑った。 部屋に戻るおじさんを見送り、家に電話を掛けた。 机の上に置きっぱなしにしていた、夏休みの宿題一式をそのままこっちに送って貰う事を親に伝える。 「…………」 そんなやり取りをしている俺を、零がじっと見ていた。 「明後日には届くだろうってさ」 「そう。良かったわ」 「後、オカンが零によろしくだって」 「……そう。私もご挨拶すればよかったわね」 「なんだ、それなら言ってくれれば電話を代わったのに……。なんならもう一回掛けるか?」 少し考えて、首を横に振った。 「また掛けた時で構わないわ。挨拶自体は誠一が来る前にしているから」 「そうなのか?」 「ええ。午前中に、今家を出たから着いたらよろしくと電話があったのよ」 「なるほど」 それなら挨拶だけの連絡をいれるのも変か。 「そうそう。お風呂の支度は出来ているわ。お客さんなんだから、先に入って構わないわよ」 「せっかくだし、そうさせて貰おうかな」 「ええ。ロビーか自室にいるから、出たら呼んでちょうだい」 「わかった」 頷くと着替えを取りに部屋に戻った。 「…………ふぅ」 火照った体を冷ましながら、だらしなくベッドの上に横になった。 長距離の移動に炎天下の中の散歩。 それから久々にあった人達……思ってた以上に体力も神経も使っていたらしく、横になると体を包む疲労を感じた。 「……おじさん、思ったより元気そうだったな……」 本当に、良かった。 零のお父さんの怪我……あの包帯は、俺の一家が引っ越す理由にも関わっている。 この建物をはじめ、如月家が所有する家屋にはからくり仕掛けが多く置かれている。 年代物の骨董品などと言うけれど、どれも貴重で――そしてどれも木材で出来ている。 何年か前の儀式の後に、不審火が出た。 そこで零の親父さんは火にまかれて、他にも親族の何人かも亡くなった。 現場になった分家の家は全焼。炎は延焼し、当時その近くにあった俺んちも3割くらい巻き込んだ。 結局は修繕して住み続ける事にはなったのだが、切っ掛けの一つだったのかも知れないと、今では思う。 やがて爺ちゃんが亡くなり工房を閉めると、親父は勤め先で今まで断っていた転勤の話を受けて、この土地から出ていく事にした。 尤も土地に根付いていた爺ちゃんが亡くなった後の生活を考えると、親父にとっては外に居場所を求める方が楽だったのかもしれない。 俺が転勤の話を聞いたのは、葬儀も終わり、しばらくして落ち着いた頃だ。 母親も一緒に聞いていたが何も言わなかった。多分、二人で何度も話し合ってから俺に告げたのだろう。 当時、俺は義務教育も終わる頃で独り立ちも出来ず、転勤先に用意された進学先に行き……そして今現在まで戻ってくる事はなかった。 出る前の、最後に見たおじさんの姿。 その時はまだ入院しており、挨拶にいった病院のベッドの上で今のように包帯をまいていた。 ――いつでも遊びにきてくれて構わない。 その言葉に、俺は頷いた。 あの時言われた言葉が、今でも胸の奥に残っている。 昔かわした、些細な約束だ。 だからかもしれない。今回、あっさりと帰郷を決めたのは……。 (一つ、約束を果たせてよかった) 大昔にここで、覚えのない誰かと約束をした。 零の親父さんと交わした《それ》約束がそうだったのかも知れないし、違うかもしれない。 でも、果たせた事は嬉しく思った。 「…………はぁ……」 緊張がほぐれたからだろうか。瞼が重くなってくる。 「電気……消さないと……」 蛍光灯の光がまぶしく感じて、目を閉じる。 覚えているのはそこまで。気がつけば、泥に包まれるような眠りの中に落ちていった。 ………………。 …………ベッドの感触がとても懐かしかった。 昔、何度も泊まりに来ていた部屋だ。数年経っても、体がその感覚を覚えている。 そして――。 ――銀の糸の、夢を見た。 暗闇の中、天から俺の元へと垂れ下がっている。 沢山の罪を犯した盗賊は、気紛れに蜘蛛を助けた事で地獄で救いの糸を垂らされた。 なら――今俺がいる所もそうなのだろうか。 糸を掴む。 手繰り寄せる。 手繰るたびに、糸は伸びて俺の腕の中におさまっていく。 伸びる糸を引く――糸が収まる。 糸を引く。 引いて、引き寄せて、そしていつしか腕ががんじがらめになっている。 ……あれ……? と思った。 腕を拘束されては、もう糸を引く事は出来ない。 だというのに、糸は伸びて俺の体を包みこんでいる。 ……ああ、そういう事だったのか。 暗闇に見えたそこは、一匹の巨大な蜘蛛の下。糸を吐き、獲物である俺を絡め取っている。 真っ赤な瞳が、俺を見据えている。 ならばそれは晩餐に供された獲物を視る眼差しだ。 俺の命は後わずかで、身動きも取れずに生きたまま喰われて行くのだろう。 本来ならばおびえて、泣き叫んでいる状況だ。 しかし、蜘蛛を見つめ返しながらも俺は、不思議と恐怖は感じなかった……。 ……寝苦しさに、目を覚ました。 「…………」 誰かが消してくれたのだろうか。点けっ放しだった部屋の電気が消えている。 「……ふぅ」 眠気が残る気だるい体を持ちあげて、ベッドの上に手をついた。 「…………!?」 手が、何かに触れた。 いや、何かが手の上を這いまわった。 「なんだ……?」 ネズミでも出たんだろうか。 そう思いながら――そして内心少しビビりながら、部屋の明かりをつける。 「うわ」 そこには、手の平サイズの大きな蜘蛛がいた。 こんなのが部屋に出たから、あんな夢を見たんだろうか。 鞄を振り上げて、投げの姿勢に入る。それで潰して外に捨てれば……。 「…………あ」 そこで思いとどまった。 「…………ふぅぅ……」 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。 窓を開けて、蜘蛛がいるベッドシーツごと引っぺがす。 そのまま外に出して――。 二度三度と振って、蜘蛛を外に逃がした。 「夜に蜘蛛を殺してはいけない……なんて話もあったっけな」 夜蜘蛛は殺せという俗信があるが、蜘蛛は夜に活動するからその間に家の害虫を食ってくれているらしい。 でも、逃がしたのはそれが理由じゃない。 ただ何もしてない蜘蛛を殺すのが可哀想に思えたのと、この家にある、家訓のような物を思い出したからだった。 ――蜘蛛は如月の守り神である。 どこまで本当かは如月家の人間ではない俺には分からないし、零やおじさんがどこまで信じているのかも知らない。 しかし、如月家は蜘蛛を神聖視していたのは事実だ。 からくり人形は、糸を巡らし、様々な仕掛けを組み合わせて部品の集合体であるからくりに命を吹き込む。 その様を自ら糸をあつらえる蜘蛛の構造と習性になぞらえたとしても、あり得る話だと思う。 実際、如月のマークは蜘蛛の形を取ってデフォルメをした物だったはずだし……。 「やっぱり」 この部屋にもからくり人形が置かれている。 慎重に手にとってひっくり返すと、裏にはやはり蜘蛛の形をしたマークが入っていた。 「……これのせいかな。変な夢みたの……」 シャツも汗で濡れていて、喉も渇いている。 室内には空調が入ってるのか、外の蒸し暑さとも無縁だったけれど、窓を開けた事で夜でも生温かい空気が夏の暑さを実感させた。 着替えて、廊下に出た。 建物全体に空調が効いているのか、ひんやりとしている。 既に館の住人は寝静まってるようで、物音はしなかった。 「きゃ……っ」 「うおっ!?」 食堂に入ると一葉ちゃんがいた。 お互い居るとは思ってもいなかったので、驚きに固まってしまう。 しばらく見つめ合い、たっぷりと時間が過ぎてから同時に安堵の息を漏らした。 「…………はぁぁ……驚きました……」 「俺も……」 「ふふ、誰か来るなんて思ってもいなかったから、完全に不意打ちでしたよ」 「俺も誰かいるなんて思ってもなかったから同じく……」 そこまで言って、誰も居ないと思っていた理由に、思い至った。 「というか居たなら電気つければ良かったんじゃ?俺が点けるまで、食堂の電気消えてた訳だし」 「あ……確かにそうですね。失礼しました」 一葉ちゃんは折り目正しく頭を下げる。 「いや、責めてるんじゃなくて……こんな時間にどうしたの?おじさんの看護で遅くなった?」 「看護……いえ、違いますが……あ。そうですね、お世話です」 「……?」 変な言い回しに思わず首を傾げる。 一葉ちゃんはそれを気にした様子もなく続けた。 「旦那様のような偉い立場の雇い主が、私のような女の子にお手伝いして貰わなくては日常生活も困難って、よく考えるとドキドキしますよね……」 なんか悪い笑顔浮かべてるーーーーー!!!!???? 「冗談ですよ。冗談」 「なんだ冗談か……」 「という名の真実」 「どっちなんだよっ!」 「お仕事にやりがいを見出しているのは本当です」 ……どんな意味でのやりがいなんだ……。 というか、こんな性格の子だったっけ。さっきまでのは零が一緒に居たから猫被ってたのか……? 内心で頭を抱えていると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。 「ふふ、それでこんな時間にどうされたんですか?」 「……目が覚めちゃってな。喉乾いたから水貰おうと思ったんだ」 「少々お待ち下さい」 食堂の奥に行き、すぐに戻ってくる。手にはコップとピッチャーを持っていた。 俺の前に置いて注いでくれた。 「お待たせいたしました」 「ありがとう」 一息に飲み干すと、自分が思っていた以上に渇いていたのか体の奥にしみこんでいくようだった。 二杯目を飲み干して、ようやく渇きがなくなった。 「そんなに喉が渇いていたんですか?」 「……そうみたいだ。寝てる間に汗もかいたしな」 「洗濯物がありましたら預かりますよ」 「こんな時間だし、そこまでして貰うのも悪いよ」 俺の言葉に一葉ちゃんが首を傾げる。 「あれ? 洗濯物の事は聞いていませんか?」 「いや聞いてないけれど……」 「じゃあ零様は説明を忘れていたんですね。こちらに来て下さい」 廊下の先には洗面所がある。そこには色違いの洗濯カゴが置かれていた。 「青い色の物にいれておいてください。まとめ洗い出来る物は一緒に洗っておきます」 「なるほど……じゃあ持ってくるからお願いしようかな」 「はい」 部屋にシャツを取りに戻る。 そこで目が覚めた時の事を思い出した。 「そういえば電気つけっ放しで寝てたんだけど、起きてたら消えてたんだ。もしかして消してくれた?」 「いえ……私ではないです」 「そっか。目が覚めたらデカい蜘蛛もいたりで、この屋敷にはよく出るのかな」 「蜘蛛ですか? どんな物でした?」 「結構大きかったよ。手の平サイズくらい。あんまり太くはなかったな。細く大きくって感じ。色も地味だったかなぁ」 「では女郎蜘蛛などではなく、アシダカグモかもしれないですね」 「それだけで種類分かるんだ……蜘蛛に詳しいの?」 やや引いた顔で否定する。 「いえ。そういう訳では。ですが周りが森なので虫や蜘蛛なんかは沢山見ますから自然に覚えてしまいました」 「アシダカグモは家の中の虫を食べてくれるそうですよ。これまでも何回か見た事があります」 「……やっぱ家の中にもよく出るんだ……」 嫌そうな声がおかしかったのか、くすくすと笑う。 「ここの決まりで殺したりはしていないですが、大きな蜘蛛はちょっと気持ち悪いですよね」 「まあなぁ」 「それでは洗濯物をお預かりしますね。ごゆっくりお休み下さい」 「ああ、ありがとう。一葉ちゃんも夜遅いのに引きとめてごめん」 「いえ、それでは」 ぺこりと頭を下げると、部屋を出ていった。 扉が完全に閉まるのを見て、ベッドの上に体を投げ出す。 「……ふぅ……あ、しまったな……」 シーツも汗で濡れている。これの替えがある場所も教えて貰えばよかった……。 「はい?」 「すみません。汗をかかれたとの事でしたので、よろしければシーツもお取り替えしようと思いまして」 俺の思考を呼んだようなタイミングに、思わず目を丸くする。 「……ありがとう。お願いしていいかな」 「はい。お任せください」 その後は夢を見る事もなく、新品のシーツで朝まで熟睡が出来ていた。 翌朝、朝食の席には俺と零、それから給仕してくれるおサエさんと一葉ちゃんの姿があった。 今朝はおじさんの姿は無い。 零に聞いてみた所、普段は自室で食べていて昨夜のように食堂に姿を見せるのは最近では珍しいらしい。 (俺に気を使ってくれてたのかな……) そうでなかったとしても、車椅子での移動は大変そうだ。 「そうそう、いいかしら」 零が給仕をするおサエさんの方を向いて言った。 「後で街の方に行くわ。車を出して貰える?」 「かしこまりました」 「買い物でもあるのか?」 「……あなたねぇ」 どこか呆れ声だ。 「長期滞在になったんだから、何かと物入りでしょ。シャツや下着も無くなってから焦っても遅いのよ。まさか私のを着る訳にもいかないでしょう?」 「あ、そうか……俺、三日分しか着替え持ってきてないしな。でもこれだけあれば洗濯すれば――」 「シャツはまだしも下着は大きさが合わないですしね」 「サイズが合えば着るだろ? みたいな事を言われても」 「ですがいざとなったら」 「絶対に着ないぞ!」 「そんな決心で愛する人を守れると言うのですか?」 「意味わからねぇし! ともかく、買いに行ってくるから着る機会も穿く機会もないぞ」 「服以外にも、他にも欲しい物もあるでしょう。何か入り用なら言ってちょうだい」 「『欲しいのは零だよ』と誠一さんはお嬢様を見つめて言いました」 「言ってねぇよ!」 「まだ日も高いですしね」 「……あなた達、昨日よりずいぶん仲良くなってるわね」 零は訝しげだ。と言うか、その前の会話は完全にスルーされている。 いちいちツッコミ貰う方が気まずいので、大いに助かる。 ……単に一葉ちゃんに慣れてるだけかもしれないが。 「夜に寝室で色々とありまして……」 「何もないだろ! シーツ替えて貰っただけだろ!頬を染めるな! もじもじするなっ!」 「まあ、何でもいいけれど」 良いのか!? 本当に良いのか!? 「ともかく、何が入り用になるか分からないもの。今のうちに一通り揃えておきましょう」 「それに誠一も昨日、街の方を見てくるって言ってたじゃない」 「ああ……あの時は自転車でも借りて行ってこようと思ってたから。車を出して貰うのも気が引けるしな」 「気にしないでいいわよ。……ねぇ?」 「はい」 おサエさんも当然のように頷く。 どちらにしろいずれ必要になるものだ。今のうちに準備しておくのは理にかなってる。 「それじゃ……」 零とおサエさん、それから一葉ちゃんを見て頭を下げる。 「よろしくお願いします」 車に乗って、森のトンネルを通過する。 来た時とは違うのは、隣に零が座っている事だ。 おじさんを一人にする訳にはいかないため、一葉ちゃんは屋敷に残っている。 「それじゃ行ってくる。何か買ってくる物はある?」 「何でもよろしいのですか?」 「常識的な範囲でなら」 ……非常識的な事も頼まれたりするのか? 「それでは趣味ごとで申し訳ないのですが、駅前の商店街のカードショップに立ちよる事があった際に、もしも黒い蓮のカードが売っていたら買ってきて頂きたいのですが……」 「黒いハス……って花の蓮?」 「はい。英語表記です」 「ふーん……それでカードって、カードゲーム?良く分からないんだけど、そんなのあるんだ。というか、素人が見て分かる物なのか?」 「売られてる場合は、ガラスケースに入っているので分かると思われます」 「なるほど、わかった。行けたら見てくるよ」 「よろしくお願いします」 一葉ちゃんは深々と頭を下げていた。 (カードゲームが趣味だったのか……なんか意外だな) 俺も子供の頃に、モンスターを召喚して戦うカードゲームで遊んでいた。 そのせいか、男の子の趣味って印象がある。 いやでも、女の子がやってても不思議じゃないかもしれない。俺たちの頃にも、男子に交じって遊んでる子は居たしな。 というか、俺は一葉ちゃんの事を何も知らないんだと、改めて思った。 零の屋敷に住んでて……俺とは昔にあったきりだ。当時は本当に無口な子だった。 それこそ喋り方を忘れてしまったかのように……。 「まずは駅前かしらね。私達を降ろした後は帰って構わないわ。いつになるか分からないから、帰る時に呼ぶかタクシーを使うから」 物思いにふける俺の横で、零がおサエさんに指示を出している。 「かしこまりました」 「……なんか色々と悪いな」 「謝る事ではないわ。交通の便が悪いのがいけないのだから」 「そうは言っても、零がバスや電車を使ってるイメージが湧かないんだよなぁ。自家用車の送迎が似合いすぎてて」 「…………」 なんだかどこか不満げに見つめられている……。 「もしかして私が切符の買い方も知らないと思ってない?」 「さすがに券売機くらいは使えるだろうけど、路線図見るのは慣れが必要だぞ」 「それくらい何とでもなるわ」 自信満々に答える姿に苦笑する。 「それなら、お前が俺のうちに遊びに来る場合は電車に決定だな」 「え――」 零が固まる。 「なんだよ。やっぱり自信が無いんだ」 「違う。そうじゃないけれど……」 「私、あなたの家に行ってもいいの?」 「え? いや、別に構わないだろ、そんなの。なんか不味い事でもあんのか?」 「……いえ……そう、ね。確かに無い……わね。思ってなかった事だから、驚いてしまって」 「そりゃ如月の本家のお嬢様だしな。誰かの家に行くよりは、会いに来るって感じだしな」 「……そういうのではなくて」 「あ、悪い。嫌味を言ったつもりはなかったんだ」 子供の頃の印象だが、零はいつも誰かに囲まれていた。 今でこそ人が少ないが、屋敷には大勢の人が来ていた。分家の人間からおじさんの会社の人まで。 零に会いに来た……というのは少し違うかもしれない。というか如月本家の人間に会いに人が訪れていた。 しかし逆に、零自身が誰かに積極的に会いに行った記憶はない。 如月の本家のお嬢様が特定の家に出入りしているというのは印象が良くなかったのかもしれないし、あるいは彼女の性格があまり人付き合いに向いてなかったからかもしれない。 ともあれ零自身の驚きは、そんな所に端を発しているのは間違いないだろう。 「別に謝る事ではないわ」 気にしてない風にさらりといって、前を向く。 車のフロントウィンドウの向こうに森の出口が見えていた。 駅前についた。車を降りると、おサエさんが窓を開けて顔を覗かせる。 「それではお気をつけて。零様をよろしくお願いいたします」 「はい。ありがとうございました」 おサエさんは俺たちに向けて頭を下げると、車を走らせる。 車が走って行く方向は屋敷とは違った所だった。 「買い物よ」 俺の視線に気づいたのか零が言う。 「あんな屋敷の立地では毎日買い物に来る事も出来ないし効率も悪いでしょう? 何日分かまとめ買いするのよ」 「言われてみるとって感じだな。車がある時しか出来ないし」 「あれ……でもそれって、屋敷の人の分だけの食糧や雑貨を何日分も買い込むって事だろう? それじゃ向こうを手伝った方が良かったんじゃ……」 脳裏におサエさんが両手に大量の荷物を抱えたまま、立ち往生する光景が浮かぶ。 「食べ物といってもスーパーやコンビニで買う訳じゃないのよ。届けて貰えるから問題ないわ」 「そういうものなのか……」 「最近は電話やインターネットでの注文も出来るのだけれど、どうしても『自分の目で見た物を』といって譲らないのよ」 「真面目な人だもんな。おサエさん」 「それより私達も行きましょう。誠一の荷物はスーパーやコンビニで買う事になるわね」 「……よかった。正装じゃないと入れないような店に連れていかれるんじゃないかと、ドキドキした」 「正装じゃないと入れない、日用品を扱うお店って、一体どんな所なのよ」 呆れた口調に、まったくだと笑った。 駅前からしばらくはお店が立ち並ぶ大通りになっている。 店の間の道に入ると、小さなお店が並ぶ商店街がある。こちらは駅近くだけあって観光客向けの物が多い。 更にその先のここまで来ると、観光客向けの店は姿を消し地元の人向けの大型スーパーや個人商店が並ぶ。 僅か数年ではそこまで変化がないのか、ぱっと見た感じでは昔来た時と変わっていない。 「ああ……ここの駄菓子屋なくなっちゃったんだ」 それでも時代の変化はあるようで、子供の頃に行きつけだった店も幾つか変わってしまっていた。 「懐かしいわね。よく遊んだわね」 「今にして思うと、お嬢様を駄菓子屋にひっぱりまわして良かったのかって感じもするけど」 昨日のおじさんの気さくな様子を思いだすと、当時の事も好意的にとらえていてくれてるのだろう。 「……本気でそんな事を思っているの?」 「まさか」 「でしょうね。本気で言っていたら蹴っていたわよ」 本人が嫌がっている訳でもないのに、思い出に水を差す趣味はない。 「早く済ませてしまいましょう」 「服に下着は一週間分もあればひとまずは良いとして……」 俺に必要な物を指折り数えていく。 「歯ブラシなどは持ってきているわよね」 「ああ、電車乗る時にコンビニで買った」 「そう……それじゃ……」 零の後に付いて大通りを歩いていく。 「せっかく街まで来たんだから、忍や美優なんかにも会いたかったけど、また今度にするか」 零の足が止まる。 「連絡は取っているの?」 「さっぱりだよ。昔はそれなりにやり取りしてたんだけど時間と共にだんだんとな……」 「……そう」 今あげた二人の名前は、地元に居た頃から良く一緒に遊んでいた連中の名前だ。 《いちじょうしのぶ》一条忍という男子と《のがみ》野上《みゆ》美優という女子。 二人とは小学校から中学の頃に知り合い、俺が転校するまで一緒だった。 幼馴染というには短い付き合いかもしれないが、それでもウマがあったのか、放課後は殆ど毎日一緒だった。 「あいつらも変わってない?」 「……分からない。私もしばらく会っていないから」 「そうなのか」 なんだか意外だ。 離れてしまった俺はともかく、零はずっとここにいるのに。 「会いたい?」 「そりゃもちろん」 「そう」 零は方向を変えると、スタスタと歩きだす。 「美優はここで働いているから、今の時間ならいるはず」 それだけ言うと、商店街へと続く道に入っていった。 野上美優とは中学から俺が引っ越すまでの仲だった。 これに小学生の頃からの友人である、一条忍をくわえた四人でよく遊んでいた。 ……今では懐かしい想い出だ。 「ほら、いたわよ」 零の見る先に、彼女は居た。 商店街にある酒屋の前で、空になった酒瓶をプラスチックのケースに入れて積み上げている。 飾り気のない私服の上から小さいロゴが入ったエプロンをつけている。 その恰好は昔からの彼女のイメージそのままで、妙に似合っていた。 零が無造作に近づいていく。それで彼女は気づいたようだった。 「いらっしゃいま……あれ?」 「もしかして、如月……零ちゃん?」 「ええ。お久しぶり」 「うわーっ、本当に久しぶり! 同じ街に住んでるのに全然会わないからなぁ。今日はどうしたの? お買いもの?」 「ええ。とはいえ私のではないけれど……」 零が振り返り、後ろ――つまりは俺に視線を向ける。 つられるように俺を見る美優と、目があった。 「……もしかして、セイ君? こっちに帰ってきたの?」 「久しぶり。里帰りみたいなものかな」 「そっかぁ……じゃあ夏休み終わったら帰っちゃうんだ」 「普通はそう思うわよね」 零が頷いている。 それ見た事かと言わんばかりだ。 「という事は、違うの?」 「この薄情者は用事が済んだらすぐ帰るつもりだったのよ」 「ええっ!? 本当に!?」 「人聞きの悪い事を言うなっ。一応、皆には会っていくつもりだったんだぞ!」 「一度会えばそれで用は済んだと言わんばかりの態度が、薄情だと言うのよ」 「本当だよ。まったく……お盆しか休みが取れない社会人じゃないんだから」 「……お前たちが、そんなに俺の事を気に掛けてくれてたとは」 思わぬ事にショックを受ける。 それほどの衝撃だった。 「え……何? いきなりどうしたの?」 「そんなに愛されていたとは気付かなかった……。それならもっと早く言ってくれれば!俺は彼女のいない生活を送らないで済んだのに!」 「ちょ、ちょっと何言い出してんのよ!」 「……はぁ」 「否定する気持ちも分かる。照れ隠しだな。じゃなかったら、ここまで薄情と言われる理由も無いからな」 納得がいったと腕組みをして頷く。 「本当に悪かった。こんなにモテるなんて、知らなかったんだ。これが俺の罪か……」 「きもっ! なにそれ! きもっ!」 「今からでも遅くはないな! さあ! この腕に飛びこんでおいで!!」 天使たちを抱きしめようと両の腕を広げる。 零は顔に掛かった髪を払うと、いつもの声で言った。 「……飛びこんでいいの?」 「…………すみません」 分が悪いようなので、素直に謝っておく事にした。 決してキーホルダーを握りこんだ、零のこぶしが怖かったからではない。 ……真面目な話、確かに薄情だったかもしれない。 生まれた時からずっと住んでいた所に久々に帰るのに、用だけ済ませてすぐに帰る……では、そう取られても仕方ない。 (…………あれ?) そういや、そもそも何でこんな短いスケジュールにしたんだ? 何か理由があったような気がしたんだけど……。 (ああ、そうか。あくまでおじさんの手伝いだったからか) 例の儀式のお手伝いという印象が先に立って、自分自身の帰郷という認識が無かった。 ……と思う。 今にして思うと、そこまで急いで帰る理由も無いのだが何故かスケジュール決めた時はそれが正しいと思いこんでた。 「それで? 今日はこの後は時間ある?あたし、6時で仕事上がりだから、それからなら空いてるけど」 「6時か……その時間だと……」 「少々厳しいわね。誠一には明日の準備があるから」 「何かあるの?」 「何かも何も、零の家……如月家での手伝いにきたんだよ。明日がその日だから、今日は準備だ」 「そっかぁ。残念」 「やっぱりお前、俺の事……」 「それはもういいからっ!!」 こほんと咳払いをして続ける。 「セイ君が居なくなってから、みんな色々と噂してたのよ。零ちゃんの前で言っちゃっていいのか分からないけど……」 「構わないわよ。私も知ってる話だし、馬鹿馬鹿しい事だと思っているから」 「……?」 単に親の仕事の都合で引っ越しただけのはずだ。 その事情は転校する前にも皆に話してある。噂されるような事なんて何も無かったはずだけど……。 零が澄まし顔で語ってる所を見ると、ある程度メジャーな話のようだ。 許可が出ているにも関わらず、美優はもう一度零を伺う。 零はもう一度頷いて、それで美優は口を開いた。 「……如月家と何かあったんじゃないかって噂があったのよ」 「ここらは如月家と繋がりある所が多いでしょう?それでいられなくなったんじゃないかって……」 「な……そんな事……」 「馬鹿馬鹿しい話ね」 絶句して途切れた俺の言葉を引き継ぐように、零が言う。 「卯月のおじ様には、おじ様の考えがあるだけよ。むしろ、新しい土地に行ける身軽さを、うちの父も羨んでるくらいなのに」 「そうなのか……?」 「……本人も表だって言えない内緒の話ではあるけどね。後は街の人にも。理由は……」 「いや、そこまでは聞かなくても大丈夫だ」 ここは大企業である如月の本家のお膝元だ。 関連企業が街のあちこちにあり、そこで生活の糧を得てる人が沢山いる。 そんな時に『如月の当主が他の所に行きたがってる』なんて冗談にしてもタチが悪い話になってしまう。 「それもそうね」 零もそう思ったのか、あっさりと話を打ち切る。 「それでは私たちはそろそろ行きましょう。あまりお店の前に長居するものじゃないわ」 「そうだな」 確かに仕事中の美優を捕まえていつまでも立ち話している訳にもいかない。 「美優ちゃん」 「あっ! ごめんなさい。すぐ仕事に戻ります!」 奥からこの酒屋の店長らしきおじさんが出てくる。 美優と同じエプロンをつけているが、年季が入っている。 俺たちもこれ以上邪魔しては悪い。早々に立ち去ろうと、お詫びの意味も込めて頭を下げる。 「ああ、いいんだ。せっかくお嬢さんが寄ってくれたんだから今日はこのまま上がって貰っても大丈夫だよ」 「え……と」 一瞬、言われた意味が分からずに零の方を見る。 「…………」 俺の前では滅多に見せない、表情の見えない顔をしている。 「でもまだお仕事が……」 「大丈夫だよ。お給料はちゃんと出すから。ほら、あまり待たせたら失礼だから、急いだ急いだ」 おじさんは気のいい笑みを浮かべたまま、美優に急ぐようにジェスチャーを送る。 「じゃ、じゃあ……」 申し訳なさそうに、美優が店の奥へと入っていく。 それを止めたら今よりもさらに気まずい事になりそうで、俺も零も止める事は出来なかった。 仕事が上がった美優と共に、三人で喫茶店にやってきた。 伊沢駅周辺は観光地でもあるため、大手チェーン店の喫茶店も多く存在しているが、ここは昔からある地元のお店だ。 地元にいた頃にも何度か来た事がある。 今居る三人に加え、忍を入れた四人で。 学校の放課後や週末、夏休みといった大型連休……。 その時も今のように、夏場の熱気から逃げるように店内に入ったのを覚えている。 服の下を流れる汗がシャツに張り付いて、エアコンで冷やされるのを感じる。 時間が流れても、今も昔も同じような事を繰り返してる。 それだけ思い出がこの街には残っていると、店を見渡しながら改めて思った。 「ごめんなさい」 カウンターで注文をしてそれぞれの飲み物を手に席に着く。 腰かけると同時に零は美優に向けて頭を下げた。 「いいって! そんな! というか謝られても困るし。むしろ今日はいわゆる有給休暇ってやつ? あはは……」 謝られた側の美優が困惑している。零に向けてパタパタと手を振った。 「美優のバイト先の人、零の知り合いなのか?」 零は首を振って否定した。 「私と直接的にという訳ではないでしょうね。ただ、うちのどこかとは関係があって、それで私の事を知っていたのでしょう」 「そっか」 零はいつものように澄ましながらも、どこか苦々しい表情をしている。 この話題を続けた所で、零には嫌な話だろう。 「そういえ――」 「……少し、失礼するわ」 飲み物に手を付ける前に、零は立ち上がると店の奥へと歩いて行った。 一瞬帰るのかと思ってしまったが『お手洗い』のプレートを見て、納得した。 「なんだか悪い事しちゃったなぁ」 「そう謝ってたのは零の方だろ」 「そうなんだけど……う~~ん」 まあ、互いに気まずい気持ちがあるのだろう。 「あ、今何か言いかけてたけど、どうしたの?」 「とりあえず話変えようとしただけで、別に話題があった訳じゃないんだ。というか、何言おうとしたか忘れた」 「あはは、あー、そうだよねー、あるあるー」 「って、あたしとしてはそんな事よりも、気まぐれであっても帰ってきてくれてよかったねって話をしたいのよ!」 「さっきも聞いたよ……本当にここが嫌になって出て行ったという訳じゃないんだ」 「知ってるわよ。家の都合でしょ? お仕事の」 「ああ……」 「で、今回は如月さんちのお仕事を手伝いに帰ってきたと」 「……そうなるのかな?俺は座ってるだけでいいっぽいけどな」 伝統的な儀式であっても、一族の長の務めというからには仕事に分類されるのだろう。 「え、そうなの?」 「少なくともそう聞かされてる。零の親父さんが体を悪くして、車椅子なしだと移動も大変でそれでとりあえずの代役に俺に来て欲しいって」 「そうなんだぁ……」 ため息のように言いながら、浮かせかけた腰を深く下した。 「セイ君がそのお手伝いっていうからには、なんか特別な事でもやるんじゃないかと思ってた」 「やらないやらない。大体特別な事って――」 「今でもできるんでしょ?」 きょとんと――それこそ、あっけにとられながらも、当然の世間話でもするかのように言った。 「……まあ。うん」 そして頷く。 俺の方は、少し複雑な気持ちで。 「ねぇ、これちょっとみてくれない?」 軽い調子で言いながら、手首に巻かれた腕時計を外して置いた。 「最近、時間を合わせてもすぐにずれちゃって。時計屋さんに持っていけばいいんだろうけど、ついつい忘れちゃってそのままにしちゃうのよ」 「……まあ、見るくらいなら構わないけど……」 そう言いながら、美優の腕時計に手を伸ばした。 「どう?」 瞬間、頭の中に腕時計の構造が設計図のように浮かび上がる。 「中のムーブメントのネジがすり減ってるな。そのせいで正しい周期で回らなくなってるんだ。部品交換で直ると思う」 「そっかぁ。やっぱり時計屋さんいかないとダメなんだ」 「……前にも言っただろ」 軽くため息をつきながらコーヒーを飲む。 ……別に透視した訳じゃない。というか、そんな超能力は無い。 ただ、何というか……物の構造が分かる。 それがどんな仕組みで動いているのか。どのように出来上がっているのか。 そして、壊れている部分があったら、それはどこなのか。 まるで頭の中で触れた物体を透視して、設計図を広げているように把握できる。 「本当にこんなの役に立たないって」 そう――役に立たない。 そもそも、このように詳細に分かるのは、俺自身が構造を知っている物だけなのだ。 つまりは自分の手で解体し、仕組みを学び、パーツに触れてきちんと正しく理解できた物だけを把握することが出来る。 如月の一族はからくり職人の一族だった。 その血が受け継がれたのだろうと、幼い頃に俺の爺ちゃんは言っていた。 ただ、それを踏まえてもなお、俺だけの特別な力とは言えないシロモノだった。 爺ちゃんも職人として、如月の本家と共にからくり仕掛けの研究をしていたらしい。 そして長年の経験を経て、俺と同じ事が出来るようになってたと言っていた。 『勘がいい』と言われた事がある。 物体を組み合わせた構造を見抜く。多分、手に伝わる振動や聞き取れるかどうかの、かすかな音。 そういう漠然とした情報を手掛かりにして、脳の中で再構成しているのだろうと言っていた。 当時はよくわからなかったが、今では分かる。 これを活かすとなると、爺ちゃんのようにからくり職人になるか、修理屋にでもなるしかない。 だが、そのためには俺自身が勉強して物の構造を正しく理解する必要がある。 それなら――最初から専門家の所に持ち込んだ方が早い。 「そんな事ないと思うけどなぁ。屋敷にある謎のからくり人形の構造を、セイ君の力で見抜いて欲しい! なんて思ってるのかも」 「……俺自身が知らない物は分からないからな。如月には確かに色々とあるだろうけど……」 例の生き人形とか。 しかし、これまで何百年も掛けて研究してきても分からない物が、俺なんかが分かると思えない。 第一、門外不出なんだから触らせて貰えないだろう。 「修理屋さんになったら儲かりそうだけどね」 「結局勉強しなくちゃいけないんだから、今現在プロの人に頼んだ方が早いだろ」 「そういう物なのかなぁ。う~~ん」 「いったい何の話?」 「あ、セイ君の将来について」 「就職の希望でもあるの?」 「美優が修理屋になれって言ってるんだ。俺自身は特になりたいものは、まだないんだけど……」 「……ああ、なるほど」 これだけの付き合いの長さだ。 当然ながら零も、そしておじさんも俺の『機械の構造に対する勘の良さ』は知っている。 知っていて、屋敷にやってきてからその話は出なかった。 なら、美優の言う事とは違い、重要視はされてないのだろう。 「焦らずに探せばいいと思うわ。地元に就職するなら、紹介くらいはできると思うわよ」 「地元ってここだよな……」 「当然でしょ?」 「うわっ、いいなぁ。最強のコネだよ」 「……ならお前も頼み込んどけ」 「ええっとぉ……」 おずおずと零の方をうかがう。 やがて、がっくりと肩を落とした。 「……やめておきます……。なんかそれやったら、友達だって胸張れなくなっちゃう……」 「だろ?」 「……気にする必要はないと思うのだけれど。そういう物なのかもしれないわね」 小さくため息をついて、少し冷めたカフェオレに口をつける。 「ここに来たのも久しぶりだけれど、味は変わらないわね」 しみじみと言う仕草が少しおかしくて、美優と二人で笑った。 それから三人で昼食を食べて美優にも買い物にも付き合って貰い、ここに住んでた頃のように遊んだ。 やがて日も傾き始めた頃に大通りまで戻ってきた。 「今日はこれから予定あるんだよね」 「ええ、久しぶりに会えたのにごめんなさい」 「ううん。楽しかったよ。それじゃまたね」 「ああ、またな」 ぶんぶんと大きく手を振って、美優が帰っていく。 ちなみに一葉ちゃんからの頼まれ物も見てきたのだが、正直よく分からなかったので買っていない。 こちらは帰った後で謝るとしよう。 「それではサエを呼ぶわ」 「ああ。頼む」 零が携帯を使い、おサエさんに連絡をする。 待っている間は特に話題もなく、二人でぼうっと伊沢駅から続く通りを眺めていた。 「美優と何か話をしていたの?」 「ん? ……ああ、お前がトイレ行っていた時か」 「…………」 ――こつん。 「あいてっ」 二の腕を軽くたたかれた……。 「話したといっても、大した事じゃないけどな。時計の調子が悪いから見てくれって言われた」 「……そう。それで」 「それで修理だのなんだのの話になったってわけ。進路にするかどうかは……まだ先の話だけどな」 「誠一自身がやりがいを感じないのなら、無理に選ぶ事は無いと思うわ。私は合っているとは思うけれど」 「零も美優と同じことを言うんだな」 「せっかくの天からの授かり物ですもの。活かすに越したことはないと思うわ」 「……どうかな」 手を太陽にかざしてみる。 「そういうのとは何か違う感じがするんだよな」 そう――俺に出来るのは、自分が知っている物の構造が感覚的に分かるだけ。 それに壊れた部分があったとして、実際に直すための技術はまた別の話だし、自分の頭の中に出たモノを図面にする事も出来ない。 だから、そういう手先を使う仕事をするなら、そういう方面の才能がある人の方が向いてるんじゃないかと思う。 俺は……多分普通だろう。 良くもないし、悪くもない。 だから向いてない訳でもないんだろうけれど、それを早々に選ぶほど向いている訳でもない。 「勘がいいって爺ちゃんは言ってたけど、やっぱりそれは昔ならではだと思う。今では機械で中を覗く事も出来る訳だしな」 「……そう」 「案外、色々と探している間に、爺ちゃんみたいな事がやりたい! って思うようになるかもしれないしな」 「そうね」 零が微かに笑う。 まだ俺たちが子供だった頃、ここにあった卯月家の家には爺ちゃんが小さな工房を開いていた。 如月の分家が立ち並ぶ一角で、家の隣には一葉ちゃんの生家でもある別のお屋敷が建っていた。 学校帰りに零もよく遊びに来ては、爺ちゃんが行うおもちゃの修理を眺めていた。 からくり人形だらけの屋敷に住んでる零だ。機械は何よりも身近に感じていたのかもしれない。 「来たわね」 俺たちの前におサエさんの運転する車が停まる。 荷物があるのを見てか、おサエさんが降りてくるが、俺と零の二人で荷物を持ち上げ手早くトランクの中に運び入れた。 「まぁ……」 お嬢様と屋敷の客に仕事をさせてしまったと思ったのか、目を丸くして何か言いたげだ。 それは大げさだと、零と顔を見合わせてくすりと笑った。 それから屋敷に戻って、少し早い夕食をとった。 「では失礼いたします」 「それじゃ、また明日」 夕食の後には風呂に入り、そして早い時間に部屋に戻された。 『禊をし、翌朝の儀式の時間まで誰とも会わない事』 ……と、これが今俺がやるべき事らしい。 伝統ある行事のようだし、準備があると聞いていたのもあってちょっとした意気込みみたいな物があったのだが……。 「なんだか拍子抜けだな……」 ベッドの上に身を投げ出す。 今のうちの家とは違い、柔らかなクッションと頑丈な建物の作りは、俺の体重を受け止めた所で大きな音にもならない。 下の階に響くようなことにもなっていないだろう。 部屋から出ずに、自室で待機か。 トイレくらいは許されるだろうけど、わざわざ禁止されてるのを破るつもりもない。 (そういや結婚式……って言ってたな) 相手が人形だから、もちろんフリだけど。 ただ、大昔の結婚式では花嫁を覗きにいかない物だったらしい。 どこで聞いたかは覚えてないけど、そういうしきたりがあって如月家では今も忠実に守ってるという事なのだろう。 「……まあ、いいか」 特に約束を破るつもりもないなら、起きてても無駄なだけだ。 さっさと寝てしまうに限るだろう……。 目を閉じる。 普段寝るよりも何時間も早いため、眠気なんて全然来ない。 ……いや、そうでもないか。 夏場に外に出ていて、盛大に汗を流した。 久々にあちこち出歩いて、昔と今の変化を実感して、買い物もしてきた。 改めてこの街の暑さを感じた。 着ていたシャツも汗で濡れていて、着替えをたくさん用意しろと言った、零の言葉は正しかったと痛感したくらいだ。 「……疲れたな……」 自分が考える以上に疲れていたのだろう。 徐々に眠気がやってくるのを感じていた。 「……ん……」 目を開けると、すっかり明るくなっていた。 普段より早い時間にベッドに入ったのが、熟睡してしまっていた。 「ん~~~~~」 目覚めの気分は爽快で、体も軽かった。 夜中に何か物音を聞いた気もしたのだが、気のせいだったか目覚めるほどの音でもなかったのだろう。 「誠一、もう起きているかしら。準備をしたいのだけれど」 「ああ、起きてるぞ。こっちはよくわからないから、そっちの指示に従うよ」 「わかったわ」 返事と共に、零が入ってくる。 手には黒い着物を持っていた。 「これに着替えてちょうだい」 「分かった」 「終わったら外に一葉がいるから呼んで。着付けは後でするから適当で大丈夫」 頷くと零は着物を置いて部屋を出ていった。 たたまれた着物を手に取って広げてみる。 適当で大丈夫とは言うが……。 手にした着物は素人目にも質がよさそうな物だ。値段を聞いたとしたら、きっとものすごく高いに違いない。 少しだけ、自分の腰が引けてるのを実感した。 着替えて外に出ると一葉ちゃんが待っていた。 俺の恰好を見て、帯や服を直していく。 「こちらに」 満足する恰好になったのか、一葉ちゃんが一礼して先導する。 彼女の後についていく。 玄関前のホールに下り、屋敷の更に奥へ……。 そこは薄暗い部屋だった。 そして、薄暗い室内に紛れるように闇と紅の着物を着たモノが座っていた。 先導する一葉ちゃんの指示に従って歩き、緋色を纏った女の姿をしたモノの隣に座らされた。 ゆるゆるとした和楽器の音。朗々と鳴り響く祝詞。 ――その儀式は厳粛な雰囲気で行われていた。 明かりは俺たちを照らす蝋燭だけ。 俺の隣には着物を着た人形が座っている。 俺から見える範囲に人の姿は殆ど無かった。けれど、この広間には大勢の人がいるであろう気配がある。 息遣いを感じる。きっと、今日のために大勢の如月の親族が詰めている。 祝詞のような言葉が紡ぎあげられる。 それを聞きながらも、俺はどこか他人事のように、今行われている儀式を見守っていた。 (これが……人形なんだよな……?) 隣にいる『彼女』はピクリとも動かない。 説明の通りなら、そこに居るのは如月家の生き人形のはずだ。 そう聞いていたし、俺自身もそうと知っている。 だというのに……。 (……本当に人形なのか……?) なんというか、人形らしい無機物感が感じられない。 見慣れぬ着物を身に纏い、うつむいている姿からは表情を伺う事が出来ない。 幼い頃に、この儀式を見たことがある。 遠くから、まるで覗き見るように。 その時に感じた不可思議な空気が、今回は分かるのではないかという期待もあった。 ……いや、むしろその為に。 今まで満たされなかった好奇心を満たすために、帰ってきたと言ってもいいくらいだ。 でも……。 「……なぁ」 言葉に、出ていた。 音になるかどうかのボリュームだ。 蝋燭の明かりは乏しく、屋敷の離れと思しき大きな広間には誰がいるのかも分からない。 かろうじて最前列に居る、零の親父さんの包帯姿がかすかな明かりに照らされている。 その隣には……多分、介添えのおサエさんだろう。 後ろの人――多分如月家の親族たちの顔は、俺には見えない。 そんな閉鎖空間にも似た状況で感じた心細さが、俺に隣の女に声を掛ける切っ掛けになったのかもしれない。 俺が声を掛けてもそいつは何も喋らない。 人形であるなら当然の事だ。 でも――かすかに身じろぎした気がした。 「――!!」 驚いて、隣を見る。 向き直るほど大きな動きはできないから、横目でちらりと。でも、はっきりと意識を持って確認した。 (動いてない……? いや、そうだよな。人形なんだから当然だよな……) それでも気配のような物を感じる。 もちろん、俺は漫画に出てくる達人みたく他人の気配が分かるなんて特技はない。 でも駅のベンチに座っていて隣に誰かがやってきた時のようなかすかな『人が近くにいる空気』みたいなモノがある。 (って、そりゃこんだけ人に似てるなら当然か……) 子供の頃に誰かに――この如月家の人か、あるいは爺ちゃんだったか……もう忘れてしまったが、教えてもらった事がある。 からくり人形は人に似せて作る。 そして人は、人の似姿を見ると『人』として認識してしまう。 壁に出来たシミが偶然に人の顔に似ていたら、そこに人格まで見出して幽霊にしてしまうように、人に似ているという事は、それだけ特別な事なんだ……と。 この屋敷にはあちこちに人形が置かれている。 如月の人たちは昔から、《ヒト》人《ガタ》形と一緒にすごしてきている。 では如月の一族は常に人の気配に囲まれて暮らしてるのか? ――そうはならない。 人は自分が生きている環境に慣れる生き物だ。 不慣れな人間が、ただの人の似姿に『人らしさ』を見いだしたとしても、如月の者は人と人形の区別をつける。 人の形をしながらも人ではない。そんな微妙な差異に、幼い頃から慣れている如月の人間は人と人形の気配を分ける。 ……これも爺ちゃんに聞いたんだっけ? いや、爺ちゃんは機械に通じた技術者ではあったが、如月の人間ではない。 零かおじさんか……多分その辺りだ。 (人形に慣れた如月の人間。それであっても、ともすれば人と間違う存在……それが……) 隣をちらりと伺う。 『彼女』は今も俯いている。 動く訳ないのだから、同じ姿勢のままなのは当然なのだが作り物とは思えない存在感に、どうしても人間っぽさを見いだしてしまう。 (いかんいかん……) 儀式の手順もよくわからないお飾りとはいえ、一応はおじさんの代理でここに座っているんだ。 少しは真面目にしているとしよう……。 儀式が進んでいく。 一葉ちゃんはこの儀式では介添えの役割をしているらしく、先導役も含めて、ちょくちょく俺たちの世話を焼いてくれる。 朱色の盃と酒……多分水で薄めた日本酒を渡されて、口元に運ぶ。 盃は隣に運ばれ、当然ながら人形は飲めないので前に置く。 神主の恰好をした男性が出てきて、祝詞を唱える。 結婚式を模していると聞いていたが、想像以上にそのままだ。 ただしかし、何というか……長い。 実際は二時間も経ってないだろうけど、薄暗い中で意味がよく分からない言葉を聞いて、更には蝋燭の明かりも揺れている。 それがなんだか不思議な催眠効果でもあるのか、妙に眠気を誘ってくる。 子供の頃に遠くから垣間見た時は、幽玄の中で行われる不思議な儀式だと思っていた。 でも実際に参加すると、なんというか……辛い。主に足が。 同時に俺が呼ばれた理由も強く分かった。 これは普段から車椅子の零のおじさんでは絶対に無理だ。 「……ずっと座ってるだけって大変だな」 ……自分でも何を言ってるんだろうと思う。 厳粛な雰囲気の中、蝋燭の明かりだけの空間で。 隣に聞こえる程度の音量で、たわいもない愚痴めいた言葉を発している。 それは自分から見ても滑稽な姿だ。 厳粛な雰囲気にそぐわないと強く思う。 隣にいる『彼女』である人形に自我があったとして、俺の滑稽ぶりに呆れられるに違いない。 そのはずなのに……。 ――くす。 どこからか、笑い声が聞こえた。 それはとても小さくて、聞き逃しそうなほどの音。 「…………?」 隣の『彼女』を見る。 小さく――間近で見ても見逃してしまいそうな程に小さく、彼女は肩を震わせている。 「…………え?」 驚いた。 生き人形というのは比喩ではなく、本当に生きているのか。 そんな感慨と、ある種の納得が心に浮かぶ。 彼女は――緋色の着物の生き人形は、隣にいる俺にしか分からない程度に、かすかに身じろぎをした。 「――――」 驚きに声を出さないように、全力でこらえた。 ちらりと見えた、その――笑いをこらえた『人形』の横顔は、零の顔をしていた。 「……お前かよ……」 思いっきり脱力する。 道理で人に似た感じがする訳だよ。だって中身が人間なんだから。 ……根本的な勘違いをしていた。 生き人形の儀式というのは、如月家の人形を使って結婚ごっこをするのではなく、生きた人間を人形となぞらえて行う物か。 そう考えても、色々と納得できる物がある。 (からくり人形に生涯を費やせって意味だったりして……) いわゆる『仕事と結婚した人』みたいな。 (……あれ? じゃあそうなると俺って……) 零は俺が機械に対して発揮する勘の良さを、如月家の仕事にも向いていると言っていた。 強く押しはしなかったが、好意的にとらえているようだ。 その勘の良さは如月のおじさんも知っている。 更には夏休みの滞在延長を二人が好意的な理由……そして今、ここで行われてる結婚式めいた儀式……。 「…………」 背中をダラダラと汗が流れていく。 隣に座る生き人形が――零が、再び身じろぎしてこちらを伺った……気がした。 でも、今の俺はそれに応えるだけの余裕を持ってはいなかった。 滞りなく儀式は終わる。 零は――如月の生き人形は、座っている所が畳にも似た台座だったためか、座ったまま手伝いらしき男たちの手で部屋の外へと出されていった。 俺は来た時のように一葉ちゃんに案内されて、元の部屋へと戻るのだった……。 「それでは今日一日は部屋に居て頂く決まりですので。ご飯はこちらにお持ちします」 「あ、ああ……わかった……」 「それでは失礼します。ごゆっくりおくつろぎ下さい」 一葉ちゃんが丁寧に頭を下げて部屋を出る。 扉が閉まると同時に、脱力してベッドの上に体を投げ出した。 「なんだったんだ……あれ……」 俺の知らない所で、まさか本当に零との結婚式が行われてしまったんだろうか……。 「さすがにない……よな……?」 考えても分からない。 俺も零も結婚出来るだけの年齢に達している。 嫌な相手か……といったら、そういう事もない。 零は美人だし、性格もいい。子供の頃から一緒だったから気も合うし、家柄も十分。 結婚する相手としてはこれ以上ないくらいだろう。 だから不満はないのだが……お互い相手をよく知ってるだけにそういう関係になるのだとしたら、自分でちゃんとしたかったという気持ちがある。 かといって、じゃあ今すぐ求婚しに行って押し倒して……と言うぐらい情熱的に好きか? と聞かれると、これまた違う感じもしてくるのだ。 一緒に末永く暮らす相手として考えると違和感がない程にしっくりくるが、女として見ると、そこまでの欲望をすぐに持つことが出来ない。 多分、意識した事が無かったというのが正しいのだろう。 ……不意打ちだ。 それが俺が今持てる、率直な感想だった。 正直、今すぐに部屋を出て零と話がしたかった。 どういう気持ちで臨んだのか、あるいは、零はすべて承知で俺を選んだのか。 「……ああ、くそ。そういう事か……」 今日一日部屋から出るなという理由が分かった。 このまま部屋の中で考え続けろという意味なのだろう。 これがなかなかに効果的だ。 娯楽もないこの部屋の中では、ひたすら考え続ける事しか出来ない。 「……いやいや……」 自分の思考に突っ込みを入れる。 零については関係が無い。 だってこの儀式の後は誰にも会えず一人で過ごすというなら人形役が誰であってもいい話だ。 零も俺と同じように、儀式を間近で見てみたかったんだろうか。 それとも他に理由があったんだろうか……? 「……如月の生き人形……か」 生きている人形。 人間に近しい、存在。 ……もしかしたら、という思いが湧き上がってくる。 「そんなもの、最初から無かったのか……?」 あくまでからくり師一族の理想としての生き人形。 人形……人ならざる人の形をしたモノの行きつく所は、やはり人間と同一の存在なのだろう。 人にそれを演じさせる事で、からくり師としての到達地点を確認する。 あるいは、目的を忘れないようにする。 更にはオカルト的な意味で、人とからくり人形を同一視する。 ……そんな由来があったのかもしれない。 「……零と話したいな……」 さっきとは違う理由で、会話がしたいと思った。 あの不可思議な結婚式にも似た儀式に、どういう気持ちで臨んでいたのか。 あるいは、零は人形を通じて何かを感じ取ったのか。 初めての事ばかりで翻弄されるだけの俺と違い、きっと何か違う回答を持っているだろうから……。 昼飯はおサエさんが持って来てくれたので、それを食べた。 既に着物は脱いでラフな私服に着替えている。 外に出られないし、この部屋には漫画もゲームも無いから暇を持て余すと思ったのだが、やることが無い上に早朝からの儀式で疲れていたのか、食事の後は眠ってしまっていた。 寝ているだけでも腹は減るらしく、夕飯も同じように済ませてそして――夜。 「……自分がダメ人間になったような気分だ……」 食っては寝て、そして無為に一日が過ぎようとしている。 大体、部屋から出ちゃダメなのっていつまでなんだろう? 感覚的には明日の朝までだろうけど……。 「……う……」 やばい。そろそろ俺の方も限界だ。 さっきからトイレに行きたくて仕方がない。 だがこの広い室内にも専用のトイレなんてものは無い。 夏場とはいえ風呂は一日我慢出来てもトイレの我慢は無理だ。というか、季節がいつだって無理だ。 「出来そうな所といったら……」 窓……はさすがにアレだな。 今日の『儀式』のために客も来ていたはずだ。見られたら俺だけじゃなく、如月家の恥だ。 「……こんな事なら聞いておけばよかった」 飯は運び込んでもらえるんだから、その時にでも確認すればよかった。 やる事が無いから寝て過ごそうなんて考えたのが間違いだった。 「いやでも、待てよ」 この儀式は過去に何度も行われている。 なら、同様の問題にぶち当たった人は大勢いるはずで、それについても過去に答えがあるはずだ。 色々と注意は受けたけど、特にトイレに関する話はなかった。 という事は、すぐに戻れば問題ないか……。 「でも……」 確認せずに行動をするというのも気が引ける。 そこで妥協点として、残り30分。日付が変わるまでは部屋で我慢し続ける事にした。 ……人間、目標を定めると結構何とかなるもので、部屋で漏らすという失態は避ける事が出来た。 「……ふぅ」 さすがに深夜時間だけあってか、屋敷に人の姿は無かった。 我慢に我慢を重ねた末の排出とは、なんと気持ちがいいのだろうか……。 普段よりも何倍もの解放感だ。これがきっかけに妙な性癖に目覚めたらどうしてくれよう。 ……まあ、目覚めないが。我慢を重ねてる間の焦燥感の方が心臓に悪い。 「……ん?」 一応日付変更を待ったとはいえ、許可も取らずに外に出てしまった後ろめたさを誤魔化すために、あれこれと余計な事を考えてると、何かが見えた気がした。 「誰か、いるのか……? 零? 一葉ちゃん……?」 呼びかけてみるが、返事は無い。 辺りは静まり返っている。声が聞こえなかったという事もないだろう。 「ちょっと……」 呼びかけようとした言葉が尻すぼみになって消える。 外に出ても良かったのかどうか、改めて聞きたかった。――が、ここで呼び止めても結局は変わらない。 ならさっさと戻った方がいいんだろうか……? でも、今ちらりと見えた色――緋色の服も気になる。 アレは儀式で零が着ていた物だったような……。 ――如月の生き人形。そんな言葉を思い出した。 (どうする……?) 俺は――。 ……追ってみよう。 零なら儀式の時の話もしたかったからちょうど良い。 違う人ならそれはそれで、部屋の外に出てしまった事の確認も出来る。 ただ、今見た色。あの色を好んで着る人物は屋敷にはいない。 もしも部外者を見かけたのだとしたら……。 様々な可能性が脳裏をよぎる。自然と、気が逸るのを抑えられなかった。 曲がった廊下の先に、緋色の影は既に無かった。 追いかけるとしたら遅すぎた。見かけた瞬間に走ってもギリギリくらいだっただろうか。 でも――。 「……あれ?」 不意に何か音がしたような気がして、振り返る。 ロビーの方に下りてく角に、先ほど見たのと同じ色が見えた。 ただでさえ夜の洋館は不気味な空気を伴っている。 更に無音ともなると、入り口の人形が纏う雰囲気も濃密な物へとなっている。 (案外、狛犬みたいな物だったりしてな……) 神社の狛犬は不浄が境内に立ち入らないように守護していると聞いたことがある。 それと同じく、からくり仕掛けの人形が、この館に入り込む者を選別しているのかもしれない。 「……あっちか」 今更こんな事を考えてしまう辺り、俺も夜の空気に呑まれかけているのかもしれない。 先ほどの影が消えた方に、向かう事にした。 ……そうして辿り着いた先には、大きな扉があった。 「ここか……?」 昔、この先には何もない完全な行き止まりだと聞いた。 だから、俺の錯覚でもないなら、先ほどの人物はこの中に入ったことになる。 鍵穴があって、明らかに立ち入りを禁止してそうな所だ。 一度だけ触って諦めるつもりだったが……。 「……開いてる……」 扉はあっけなく開いた。まるで、俺を中へと招き寄せるようだった。 そこは奇妙な部屋だった。 広くもない部屋の中に注連縄が置かれている。その中は空っぽで、何もない。 「もしかしてここが、生き人形が置かれてる所か……」 「その通り」 「――――!!!」 不意に聞こえた声に、死ぬほどビビった。 ぎこちなく後ろを振り向くと、そこにはくすくすと笑う少女がいた。 「零……だよな?」 儀式の時に見た紅い着物の零だ。 俺の狼狽する様子がおかしかったのか、今もまだ笑っている。 「その前に閉めておくわ。見つかってしまったら怒られるから」 扉が閉ざされる。 一瞬、鍵を掛けられたらどうしようなんて思ったが、零はそこまでするつもりはないようだった。 「あのさ、零。俺は――」 「しっ」 俺の口元に、ほっそりとした指をあてる。 その体温の低さに一瞬驚いた。 「今日は儀式の日。ここではその名前は使わないで欲しい」 「あ……ああ。そっか。そうだったんだ。そういうルールなのか……」 夜が明けるまではやっぱり今も続いているらしい。 「じゃあなんて呼べばいい?」 「そこに」 彼女が指した所に、一つの文字が彫られている。 『紅』と。 「……くれない?」 「それが私の名前。私を現す言葉。魂。あなたが呼ぶそれが、私の名でいいのね?」 「……いや意味わからんし。お前がそう呼べって言ったんだろ。零……じゃなかった。紅」 「くすくす、そうね。ありがとう。では私は今から――」 そこで普段とは違う笑みを浮かべる。 「《くれない》紅だわ」 夏の夜、空調の効いた屋敷の中は適温に保たれている。 だというのに、背筋の寒さを覚えていた。 「実は昼の儀式にはあなたに告げられていない事がいくつかあったのよ」 零……じゃない。紅は足を投げ出すようにして畳に座る。 投げ出された足は白く、艶めかしい。 ……実の所、今の一瞬でもしかしたら人形らしく関節部分が見えるんじゃないかと思ってしまった。 もちろんそんな事はない。目の前にいるのは人間の少女だ。 ……ただ、儀式の日という特別な夜のせいか、普段とは纏う空気も言動も違っているが、やはり零だ。 「俺が知らされてない事?」 「というか、お前本当に零でいいんだよな?今は単なるなりきりであって、別人なんて事はないよな?」 「別人よ。今の私は紅。あなたがそう名付けてくれたじゃないの」 再びくすくすと笑う。心底楽しんでいるようだ。 「……実は双子の妹がいて、その子が紅って名前……」 「そういう事が無いのは、あなたが良く知ってるわよね」 「……だよな」 昔から……それこそ、生まれた頃から何度も出入りしてる所だ。 そして、だからこそ分かる事がある。目の前の零――いや、彼女はこの家の事を良く知っている。 慣れてる俺でさえロビーの人形の前でしばし佇んでしまったように、どのような人間であれ初めて訪れた者にとってはこの屋敷の持つ空気は異質だ。 その中で今のような態度は出来ない。 よほど剛毅な人間であれば出来るかもしれないが……。 それなら、俺と年の変わらない女の子がたまたま零に似てて更には大人をもしのぐ豪胆さを兼ね備えてる事になる。 ここまで持ち合わせてる人間と、たまたま今夜遭遇したのならアレコレ考えるより、正直諦めた方が早いだろう。 「……で? 俺が知らない事っていうのは?」 「儀式には続きがある。ただ、そこを貴方に伝えられてない」 「続き? ……でももう終わっちまった。日付も変わったし。儀式の手伝いに来たんだけど、失敗したって事なのかな」 「さあ? ある意味成功とも呼べるし、失敗ともいえる。それらは知識のある人間からすると、どちらも同じ。ただ見方が違うだけ」 「俺に伝えないのが、誰かの得になってるって事か?一体何なんだよ、それ」 「ひとつは私に名を与える事」 「名前を――。あっ」 ここに入った時に、彼女は俺に名前を呼ばせようとしてた。それは手順に則った『儀式の続き』って訳か。 「名というのは人間が考えている以上に大事な物よ。そしてこれは、人しか持ちえない物でもある」 「……そうなのか? カラスとか犬とか猫も、似た外見でも個体識別してるって話だけど」 「それは名前ではなく、匂いや色、姿形で見ているだけよ。無臭になったらそれまで親しんでいた同族にも警戒する話は昔からあるわよね」 「ああ」 洗った直後の猫が自分の匂いを取り戻そうと、乾いた後も必死に舐めている姿は飼ってた頃に見た事がある。 「人は名を持ち、個を得る。暗がりの中や、匂いすら消える煙の中であっても、名を呼ぶ事で個としてお互いを認識する。名付けるというのは人が持つ力なのよ」 「ほかに知的生命体が居ないってだけかもしれないけど……。まあ、居たとしても名前呼ぶとは限らないか」 そもそも声が出ない可能性もある訳だし。 「よくわからんけど、なんとなくわかったよ。名前を付ける。それで?」 「ふふ」 ……意味深な笑みで返されてしまった。 「まだ分からない? 人形として列席した存在は、何も入っていない空の存在なの。そこに魂を降ろし名を与えて固定する。これが如月の儀式」 「……魂っていうのは、つまり?」 「人形が人である事。こうして動いている事。――私の人格と置き換えてもいいのかしら」 「零にそれを降ろしたという事は、今は二重人格だったり?」 「さあ? それはあなたが決める事よ」 「……さっきも言ってた、互いの認識ってやつか……。分かったよ」 「理解したの?」 「まともに答えて《・》く《・》れ《・》な《・》いって事だけは、これ以上ない程に。……紅だけに」 「――――――」 先ほどからすまし顔と、淫靡と呼んでもいい笑みを浮かべていた少女の、あっけにとられた顔。 それが見られただけでも、今晩は収穫があったと思おう。 「あははっ。なにそれくだらなぁい!私にそんなことを言ってくるのは、あなたが初めてよ。まったく面白くないのに、本当に面白いわ」 今度は表情が一転。 一体何がそんなにおかしかったのか、腹を抱えてケラケラと笑っている。 「ああ……くそっ。言うんじゃなかったっ」 頭をガシガシとかく。その仕草もツボにハマったようで、彼女は更に笑い転げている。 「ったく……」 思えば零のここまでの笑い顔なんて見たことがなかった。 表情はそれなりに動くのだが、澄ました顔が殆どで表情が読みづらい。 けれど、今の彼女は紅と名乗っている。 なら……零では見られない顔が見られたとしても、不思議じゃないのか……。 「あんなのでそこまで笑われると、逆にこっちが居た堪れないから、そろそろ止めてくれよ……」 「ふふ、そうね。そうするわ」 笑いすぎたせいか目じりに涙まで浮かべている。 「さて――話の続きをしましょう。貴方は私に名を与えた。では次にすることは?」 「次って言われてもな……」 そもそもの儀式が、よく意味が分かっていないのだ。 「結婚式みたいな儀式だって事くらいしか知らないからな」 「ふふ。分かっているじゃない」 紅は立ち上がると、俺に一歩距離を詰める。 「婚儀を行い、人と人形が《つがい》番となる。その儀式を終えた晩が今――ならば、することは?」 「え……」 赤い舌でちろりと口元を舐める。 妖艶な仕草は誘っているようにも見え――。 (いや……違う……!) 明確に誘っているのだ。 この儀式が結婚式だというなら、今は初夜の時間だ。 夫婦となって契り、結ばれる。それをしろと目の前の女は言っている。 「分かった? それが如月の儀式。魂を繋ぐ契約の儀」 不意に、零が俺にもっと滞在するようにと強く要求してきたのを思い出した。 アレはこの意味もこめていたんだろうか。 儀式に参加し、契り、そして時間を共にする。そこに込められた意図は明らかだ。 「――――」 零らしくないと思った。 俺の知っている彼女なら、そんな回りくどい事はしない。そもそも、こんな話を口に出したりしないだろう。 でもそれは、最後に知っている幼い少女だった頃の彼女だ。 別れてからお互いに何年も過ぎている。おじさんも、事故で身体が不自由になってしまった。 先の事を早く考えてもおかしくは――。 「ま、まて……待ってくれ……」 紅を押しのけようと、肩に手を置いた。 そこからは柔らかい人の感触が伝わってくる。 最後まで可能性を願っていた、生きた人形の戯言という事実が粉砕される。 目の前にいるのは、零とよく似た生きた存在なのだというのが痛いほどに実感する。 「どうして? 女は嫌い?」 「そんな訳あるかっ。そうじゃない……そうじゃないんだが」 今のこの状況は絶対におかしい。それだけは確信を持って言える。 「では、私の事が嫌いなのかしら」 「……零の事は嫌い……じゃない。でもお前は……よく知らない」 今の自分は紅だと言っていた。だから零の芝居だとしても、そう返すしかない。 ただ、この状況は本当におかしいのだ。 上手くは言えないが、何か取り返しのつかない事になってしまっているような……。 「く……っ」 唇を近づけてくる紅から離れようと、顔を背ける。 そのついでに、部屋の中を見渡してみる。 畳敷きの狭い部屋だ。生き人形が置かれていた所というのは間違いないだろう。 如月家に何度も訪れてる俺でも、この部屋には入った事はない。 それどころか、これまでこんな部屋があるのも知らなかった。屋敷の中は子供の頃から遊び場にしていたというのに。 そして部屋の隅から隅まで見て、ある事に気づいた。 (監視カメラも無い……?) ここには如月家で最も重要な物が置かれているはずだ。なら泥棒除けにその程度の備えくらいはあるだろうに……。 「……ちょっと」 顎を掴まれて、正面を向かされる。 見た目からは想像できない程の、ものすごい握力だった。 「……本当に、零じゃ……」 ここに来た当初、あいつは俺のバッグを持ち上げる事も出来なかった。 昔から筋力が弱く運動神経は普通なものの、力が必要な競技は軒並み弱かった。 その頃から演技をしていたのでなければ、今のような力を持っているはずがない。 目の前の見慣れた顔の存在が、急激に未知の物に変化していく。 混乱と恐怖に奥歯が鳴る――それを無理やり噛み殺した。 「……あら?」 そんな俺を見て、紅は小首をかしげる。 「どうして、そんな事をするの?叫んでも、泣き喚いても――それが普通の人間なのでしょう?」 「そ、そう、かもしれないけど……俺は、そんなの嫌だ」 「弱みを見せるのが?」 「……違う」 「自分がみっともないから?」 「それも、違う」 「ではなに?」 静かな声で問われる。 そう――問うているのだ。 目の前の女は。紅は正直不気味だ。 それが零の二重人格であっても、まったくの別人だとしてもこの屋敷に突如として現れた異分子のように感じる。 けれど……なぜだろう。先ほどから、俺と『対話』をしているのだ。 それが逆に怖くもある。なぜそんな事をするのか意味が全く分からない。 でもだからこそ、さっきの俺の――零の芝居だと思ってたから言えたつまらない冗談をおかしそうに笑っていた姿が、瞼に焼き付いて離れない。 「……俺が知りたいと言って、答えてくれてる。ここで悲鳴を上げたら、それが終わってしまう」 「へぇ」 口角が上がる。 つりあがると言ってもいい程の変化。なまじ整った容姿だからこそ、不気味で、恐ろしく――美しい。 「あなたは、面白い」 そうして紅は形のいい口を開け。 「ぐ――っ!!」 俺の首筋へと口づけた。 「……なら、今日はこれで終わりにしましょう。互いの体液を混ぜあい、女が胎に飲み干す。これも一つの契りと言えるでしょう」 そうして俺の血で濡れた口元で笑い、舌で舐めとった。 唾液と混ざり合い、その名の通りの口紅となって、彼女の口元を怪しく飾る。 「もう帰りなさいな。そして、ここには近づかないように」 「あ、ああ……」 ずきずきと痛む首筋を押さえて、扉に手を掛ける。 鍵はやっぱりかかっていなかった。簡単に開いて、薄暗い廊下へとつながる。 不気味に感じていたそこが、今では安住の地のようにも思えた。 「知りたがりのあなたに、もう一つ教えてあげる」 紅の言葉に肩越しに振り返る。 「蜘蛛の巣というのは、どのような場所に仕掛けるか分かる?」 「…………は?」 さっぱり意味が分からない。困惑する俺の顔がおかしかったのか、紅は声を立てて笑った。 「食うだけの蜘蛛ならありえない事も、魂を持つがゆえにこうして起こる。巣にかかった獲物を見逃す事もある」 「私はまたあなたと会いたい。けれど、あなたは会わない方がいいでしょう」 「選ぶのは、あなた。さあ、どうするか決まったら教えてちょうだい」 「…………」 返す言葉は何もない。そもそも、いきなり言われた所で、俺には何の回答も無い。 明日にはいつもの零に戻っていてほしい。零でないのなら、紅にはもう関わらない方がいい。 ……ただ、それだけしか今は思えない。 だから、無言で外に出た。 背後で扉が閉まる。 重い音を立てて、次にガチャリと自動で鍵が掛かったのが分かった。 「――――え」 オートロック? それとも中から紅が閉めた? なら、さっき開いていたのはどうしてだ?俺が来たのに合わせて中から開けた? いや――そもそも、中にカメラも無く、分厚い扉からは外の様子をうかがう事も出来ない。 それなら、何故……。 「いてて……」 噛まれた所がずきずきと痛む。 ……正直、どうだっていい事だ。だって俺はもう、紅には会わないのだから。 ぬるりとした感触のある首筋を押さえながら、無人のロビーを抜けて部屋に戻る。 疲労のためか体が重い。 蜘蛛の巣……か。 背後からの視線を感じる。振り返った先にも、大型のからくり人形しかいない。 自分の手足に糸が巻き付いたかのような、重さだ。 糸で動くからくり人形……。 自分自身が、そうなってしまったかのような錯覚を覚えていた。 「…………」 翌朝目が覚めて真っ先にしたのは、部屋の鏡で自分の首筋を見る事だった。 「……傷は……あるよな」 浅かったためか、もう血は止まっている。そもそも、大きな傷ではなかった。 ただ刺し傷のような物が首についていて、妙に目立つ。 蚊に刺されてかきむしった事にでもしておいて、後で一葉ちゃんから絆創膏を貰うとしよう。 「零はもう起きてるよな……」 昨夜の事があったせいで、顔を合わせづらい。 向こうから何か言ってくるだろうか。 それならそれでいい。疑問も解決する。 でも何も言ってこなかった場合は? 「……はぁ」 どう切り出すべきか考えて、憂鬱になるのだった。 今朝は静かな朝食だった。 零は普段と変わらず、おじさんもおサエさんの介添えの元に出席している。 一葉ちゃんも俺たちの後ろに控えている。 ここまで会話がない理由……それはひとえに俺のせいだった。 「昨日はありがとう。疲れただろうね」 「いえ……そんな事は……。座っていただけでしたし」 「そうか。それでも助かったよ。今日はゆっくり休んで欲しい。零も、誠一君をあまり困らすんじゃないぞ」 「失礼ね。そんな事はしていないわよ」 澄ました顔でそっけなく答えている。 昨夜の事は知らないフリをしているか、あるいは本当に知らないのか……。 「……何? 誠一までその顔は」 「いや……なんでも……」 そういって食事に戻る。 今日は和食で統一されている。 温かいご飯に味噌汁に内陸の山の幸が豊富な伊沢の山菜がふんだんに使われた料理だ。 体の悪いおじさんのメニューにはついてないが、俺と零にはローストビーフも添えられている。 新鮮な玉ねぎを巻いて食べるのがとにかく美味しくて、普段の朝食だったらお代わりしてただろう。 「……ふぅ」 美味しいから箸は進む。食欲が無いなんて事はない。 それでも、どうしても集中しきれずに手が止まるのはどうしようもなかった。 朝食が終わり、一葉ちゃんとおサエさんは片づけに入っている。 如月のおじさんは俺の体調を心配してくれて、ゆっくり休むようにと何度も気遣ってくれていた。 「本当に体調悪かったら言うのよ。夏バテで済めばいいけれど風邪の可能性もあるのだから」 「そういうんじゃない。体は大丈夫……多分」 昨日、紅に血を吸われた所が痛痒い。体で悪い所があるとしたら、ここくらいだ。 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「いいけれど、何?」 「お前さ、よく似た姉か妹なんていないよな?」 「いないけれど……そんなの誠一も良く知ってるでしょ」 「……だよな。分かってるんだけど」 「はっきりしないわね。ちょっとこっちに来なさい」 食堂から連れ出されてしまった。あそこでは一葉ちゃんやおサエさんの目があるからだろう。 「いったいどうしたの? 何かあった?」 「……あったと言えばあったし、無かったと言えば……」 目の前の零を改めて見る。こいつは信用出来るだろうか? 昨夜の出来事の前までなら、即答出来てただろう。信用出来る……と。 でも今は? ……それでも変わらない。零は信用できる。 ただ、根底となっている部分。 つまり俺と零が過去に積み上げた時間が、俺が思ってたよりも盤石で揺るぎない物ではないのかもしれない。 それは人と人が生きていく限りにおいて、当然の事だ。大体俺が引っ越して何年も経ったのだからなおさらだ。 「いや……悪い」 「本当になんなのよ」 零は呆れから困惑を通り越し、そろそろ機嫌が悪くなってきている。 「真面目な話をする。零も真面目に答えてくれ」 「お前、《くれない》紅っていう名前の女の子に心当たり無いか?」 それまでの考えを捨てて、率直に尋ねた。 零は信用出来る――俺が信じたいと思っている。 なら信頼できない部分は? と改めて考えると明白だった。この如月家だ。 「…………」 零は考え込んでいる。 その沈黙が、心当たりが無いのか、それとも俺にまずい事を聞かれたからなのか、それは分からない。 「昔のクラスメートも思い出してみたけれど、分からない。それは地元の人?」 「ああ。お前によく似ている。ついでに言うと、会ったのが昨夜で場所はここだ」 「……ああ」 そこまで言うと、何かを納得したように頷いた。 「くれないさんでは無いけれど、心当たりはあるわ。ただし、人ではないけれど」 「それってつまり」 心臓が痛いほどに鳴る。 人ではない、心当たりのある少女。零が言うそれは――。 「直接見せた方が早いわね。ついて来て」 廊下の奥へと俺を誘うのだった。 ロビーから奥に入った一階の廊下は、昨夜訪れた時と全く同じだ。それでいて雰囲気は異なっている。 太陽の明るさと、そのありがたさを実感する。 「今更見せるといっても、誠一は間近で見ている訳だけれど」 そんな事を言いながら辿り着いた一番奥の部屋。 間違いなく、俺が迷い込んだ生き人形の間だ。 「ちょっと待ってて」 ポケットから鍵を取り出して開ける。 「この中よ」 「…………」 渇いて張り付いたようになっている喉に、唾を飲み込む。 促されるまま、中に入った。 そこには一体の人形があった。 「これは……」 注連縄に囲まれた狭い空間。その中に鎮座しているのは昨日見た着物だ。 「彼女の号は『《こう》紅』」 「くれない、ではなく?」 「ええ。これはあくまで物だもの。読み方が違うわ。人として名付けるのなら、そうだったのかもしれないけれど」 「つまり……物としての名前しかない?」 「だってそうでしょう?」 何を当たり前の事をとばかりに言ってくるが、昨夜の様子を思い出すと正直釈然としない。 彼女は俺のつまらない冗談に笑い、妖艶に笑い、そして怖さを伴っていた。 よく動く表情は決して人形なんかではなく、人間そのもののようで……。 (……って、人形が動いてたって前提になってるな。さすがにそんな事はない……よな?) 思わず首筋に手を当てる。 昨日の事がこいつの仕業なら、口元には俺の血がついてたりするのかもしれない。 ……顔を覗き込んでみたが、もちろんそんな物はついてない。 紅は俺の血も綺麗に舐めとっていた。その時点でついてなかった物が、今残ってる訳もない。 「顔が気になる?」 「あ、ああ……まぁ」 零が人形の肩に手を掛けて、ゆっくりと後ろに倒す。 顔があらわになり、着物の襟元からは彼女の首筋が見える。 ……そこにあったのは艶めかしいまでの白。人間離れした血の通っていない白さと、関節の接合部だった。 「なんかこいつ、お前に似てるよな」 「ええ。モデルは昔の如月家の親族だったのでしょうね。当時は人と区別するためか、あるいは展示のために大柄に作ったようだけれど、今では人の背の方が追いついたわね」 零の身長は160cmを超えている。昨日見た紅の身長も大体同じくらいだった。 「…………」 どうしても比較してしまうな。 零のコスプレなら当人だから当然だし、そうでなくても同じ親族なんだから……。 「さっきからどうしたの? いきなり考え込んだり、急に人形が見たいなんて言い出したり」 「……人形の所に連れてきたのはお前だぞ」 「そうだったわね。でもうちでこの名前の心当たりなんて、コレしかないもの」 「そっか……」 「出ようか。ちょっと話したい事がある。ここだとなんだしな」 「わかったわ」 零は疑問を差し挟むでもなく頷いてくれる。 扉を閉める。零は来た時と同じように、鍵穴に鍵を差し込んでいた。 「……あれ? オートロックじゃないんだ」 「あのねぇ」 俺の疑問に対するのは呆れた口ぶりだ。 「うちが築何年だと思っているの? そんな設備無いわよ」 「そりゃそうだよな……うん……」 じゃあ昨日のアレは? 中から鍵を閉めた……? それに思い至り、今しがた見た人形の姿に背筋が冷たくなるのだった。 それから外に出て、屋敷近くの森の中に入った。 部屋に行こうと言われたのだが、俺が外での話を望んだ。 屋敷の中では昨日の事が引っかかりすぎて、本音で言えない気がしていたから。 それからもう一つ理由があった。 沢のせせらぎが耳に優しく響く。 夏の朝の涼しいながらも強めの日差しが、頭上の森で緩和されて、水場で冷やされて天然のクーラーのようになっている。 くみ上げた水を飲み干すと、先ほどまでよりも落ち着いた気分になっていた。 「話というのは?」 「……ああ……正直、何を信じていいのか、何を疑えばいいか分からないんだけれど……」 先を促す零に、昨日の出来事を語った。 紅と言う少女の事。彼女の語った内容。首筋の怪我の理由。 零に騙されてるという可能性も引っかかっていたので、彼女の表情も見ていたのだが、こっちは目立った変化もなかった。 「……そう」 たった一晩、それも一時間もしない間の短い話だ。 思い悩んでた時間の何分の一程度の短さで、語り終えていた。 「悩んでいる所申し訳ないけれど、それは夢だと思うわ」 「そんな訳ないだろっ。じゃあこの傷はなんなんだよ」 「寝ている間に引っかいたのでしょう。自分でもそう言って一葉に絆創膏を貰ったって言っていたじゃないの」 「それはそうだけど、単に方便で……」 「待って、悪かったわ。順序立てて話をするわね。私が夢だというのにも、根拠があるのよ」 「……例えば?」 「昨日、儀式に参加していたわね。しかも長時間」 「ああ……そのために来た訳だし。それが?」 「理由はそれよ。あなたの見た夢と、現実と混ざり合う程のリアルさのわけ」 「悪いがさっぱり分からない。もっと分かりやすく言ってくれ」 「……如月家の人間である私が言えた話ではないけれど、誠一は儀式に参加して、不思議に思わなかった?」 「不思議っていえば何から何まで不思議だった。そもそも、当事者の俺が座ってるだけで何もやることがないからなぁ。お飾りの雛人形だと思って納得してたけど」 「ええ。まずそれね。儀式とは何かしらの仕来りに則って行われる物よね。手順があってルールがある」 「でも俺はそんな事は知らずに……」 「いいえ、誠一もそれに則って儀式に参加している。貴方が行う事は、あの場に居続ける事。ただそれだけなの」 「……それがどう説明になるんだ?」 はぐらかされてるようで、自分の声にも不機嫌さが表れているのが分かる。 「誤魔化している訳じゃないのよ。ただ、説明に困る内容であるのは事実だから」 一度言葉を切る。そして言いづらそうに、続けた。 「催眠術は聞いた事があるわよね」 「は? そりゃあるけど……」 テレビのバラエティや漫画などのフィクションを問わずどこにでも溢れている。 でも、あんな風に他人を思い通りにするのは、文字通りのフィクションな訳で……。 「自分の家に伝わってる物を大っぴらに否定するのもどうかと思うけれど、うちのもそれなのよ」 「フィクションの催眠術じゃなく、現実の催眠術の話をすると人の意識というものは、意識の壁が薄くなった時に外からの情報が刷り込まれやすくなる」 「この時に人は自らが意図していない言葉を紡ぎ、体が本能のまま動いたりもする」 「神様を降ろすための儀式として、昔は行われていたという訳ね。無意識にでた言葉は神託。体の動きは舞として」 「俺は別にそんな事にはなってないけど」 「ええ。あまりにも前時代的だし、時代錯誤。今のご時世に大っぴらにやる所は無いし、信じて行ってる人はもちろんいるだろうけれど、秘匿されてるのが当然だわ」 如月の儀式も表には出ていない物だ。 そもそも、大企業の本家である如月家の内部の風習なんて誰も知らないだろう。 「人が催眠状態になりやすい環境は、いくつかある。一つは思考を単調な一定のパターンにする事。同じ風景の部屋に閉じ込めていたり、同じリズムを聞かせる。五感を奪う等」 「目の前でコインを揺らすのがテレビの催眠術の定番だったな」 「それも、リズムに集中させるという所から来ているのでしょうね。そしてもう一つ分かりやすい物があるわ」 「それは暗がりの中で、かすかな明かりを見続けさせる事」 「…………」 儀式の時はそういう環境だった。 俺自身と隣に座った人形しか見えないくらいの暗闇。目の前に立てられた蝋燭がほのかに照らしている。 その奥には儀式を見ているのであろう人々の気配――物音や衣擦れ、ささやきあう声。 暗闇の中から響いて来るかすかな音が混じり合った気配は濃密な闇となって圧迫感があった。 目の前にある蝋燭の明かりが、闇とこちらを遮断しているように感じられて、頼もしく思えた。 「精神的に落ち着けない空間で、目の前の明かりに集中させる。長時間行う事でその人間の精神は疲労し、隙が生まれる。内なる声にも過剰に反応し、幻覚を見たりする」 「それが如月家で行われている儀式の内容」 「…………」 「納得しきれてないって顔をしているわね」 「そりゃそうだろ。いきなり言われても……どうしろって言うんだ」 「大体、その儀式にはどんな意味があるんだ?今のままだと、俺に催眠術を掛けました。何もせずに部屋に戻して一晩おきましたってだけだぞ」 「その通り。今現在では形骸化してしまっているのよ。ただ昔は意味があったの」 「儀式に参加する人間は基本的に如月の当主、今はともかく昔は最も優れた人形師が就く役割だったわ」 「催眠状態というのは、外から刺激を受けるだけではないわ。自らのうちに問う物でもある。修行における瞑想も一種の催眠状態と言えば理解しやすいかしら」 「如月家のもともとの目的は『生き人形』を再びこの世に送り出す事だった」 「傍らに生き人形と呼ばれていた物を置き、自らの精神を希薄にする事で、到達するための手を探る。それが如月家の儀式の本質」 「……じゃあ俺が参加したのは?」 例の物の構造を見る勘の良さで把握しろとでも言いたかったのだろうか。 そう思ったのだが、零は頭を振って否定する。 「言ったでしょう。昔はそう考えていて、今は形骸化しているって」 「誠一に来て貰った理由は、本当に人が居なかっただけなの。終わった後にすごく疲れてたでしょう? お父様にはその体力は無いし、下手に親族に依頼すると面倒な事になる」 「面倒? あ。当主がやる仕事だからか」 古い慣習を知っている人なら、次期当主に任命されたと勘違いしてしまう訳か。 「ええ。如月家に関わった仕事をしている人間に頼んでそう取られたら色々と大変だわ。見えない所では派閥もある。その力関係までも左右してしまう」 「……そういう打算で考えた訳じゃないけれど、誠一の立場は本当に最適だったの。もちろん、それだけじゃない。帰って来て欲しかったのも本当で、私達はこっちの理由の方が大きい」 「………………」 それを聞きながら、他にも理由があるんだろうと思った。 如月のおじさんはあの状態だ。後継者は誰もが気になっている。 そんな時に如月の根幹に関わるような儀式に主役として抜擢をされる……勘違いしたとしても不思議ではない。 更にそいつが若い男なら、零の婚約者にまで祭り上げられてしまうかもしれない。 零にもおじさんにもその気が無かったとしても、そういう空気は出来てしまうだろう。 「……だからってそんな儀式になぁ」 「そのせいで現実と混乱をするほどの事になったのなら、本当にごめんなさい」 きっちりとした姿勢で頭を下げてくる。 「でも……話したら来てくれないと思ったの。裏に政治絡みの事もあって、催眠術じみた田舎の儀式なんてどう考えても……アレでしょうし……」 「…………まぁな」 ともあれ、零に謝罪させるために外に連れ出したのではない。 「とにかく頭上げてくれ。別に謝って欲しい訳じゃない。俺が欲しいのは説明だけで……正直な所、全然納得は出来てないんだけど、色々と理解は出来た」 終わった後にすぐに部屋に戻されて、誰とも会わないようにさせていた事とか。 催眠状態になって他人の言葉に強く反応してしまうなら、余計な刺激は無いに越した事はないだろう。 儀式の最中、人形が動いてるかのように感じた。 それも、蝋燭の揺らめきの影やらなにやらを、必要以上に強く意識して自分が見たいように受け取ってしまった……と。 ……頭では分かるのだが、それでも納得しきれない。 それだけ昨日話した紅との会話がリアルだった。 「でもその理屈で行くと、零の婚約者が俺だと勘違いする奴も出てくるんじゃないのか?」 「そうかもしれないわね。でもそれで何か不都合はある?」 「……俺に既に彼女とかいたらどうすんだよ。面倒なトラブルは御免だぞ」 「別にそうなってる訳でもないし……勘違いしてる奴は放置でいいでしょう」 「そうじゃなくてだな」 頭はいいだろうに、どこかずれてるのもいつもの通りだ。 「俺が婚約者だと思われて、お前自身はいいのかって話だ」 「あら」 驚きに目を見開く。 「呆れた。誠一にその積もりがあったの?」 「そうじゃねぇっての! 俺自身は……別にどうでもいいよ。というか、いきなり言われても困るってだけだし」 「私もどうでもいい話よ。ただ、誠一が引き受けてくれないと困る話で、誠一はここに来てくれた。それだけがすべてだわ」 それを聞いて、ふと思った。 俺が引き受けてくれないと困る……つまりは、儀式を先延ばしに出来ず、行うしかなかったという訳だ。 「もし俺が来なかったら、どうしてたんだ?」 「さあ……その時は別の代理を探したかもしれないわね。ただ、こまごました注意や連絡、調整も含めて必要だったから今回のようにのんびりしては居られなかったでしょうけど」 「そんな違いしかないのか」 「大きい事よ。うちに泊める訳にもいかないから、ホテルの手配も必要だし……この時期の伊沢で飛び込みでの予約は難しいわ」 通達してあっても自宅にまで泊めたら確定事項のように扱われてしまう。そのためには必要な事という訳か。 「じゃあ逆に聞きたいけど、俺が本気になってたらどうしてたんだ?」 「本気? 何に?」 「……いやだから、お前に……」 「…………」 そこまでいってやっと分かったのか、零の頬に赤みが差す。 結婚式めいた儀式に参加するのは如月の当主。自宅に滞在。昔からの付き合い。色々と条件はあてはまってる。 「そんなの知らないわよ。本気になったらまた言いに来なさい。お父様は……案外それが狙いだったのかもしれないけれど」 「……マジか。おじさんにそこまで買われる理由なんて、思いつかないんだけど」 「あるでしょう。人格面は昔から知ってるから置いといても如月家の人間として買われる理由も」 とんとんと俺の胸をつつく。 「……あ」 触れた物の構造が分かる、俺の勘の良さ。 これは遺伝によって伝わる物なら、俺のは過去に先祖が持っていたものだ。 そして俺の卯月家は如月の分家。なら元々あったのは、如月本家の人形師からだ。 「…………」 「あれこれ考えないでいいと思うわ。ただ、誠一が見たという夢の話はこれで大丈夫よね」 「あ、ああ……一応理解は出来た。ありがとう」 「お礼を言われる事じゃないわ。人によって催眠状態で起こる出来事は様々だから、不便な思いはさせてしまったでしょうし」 「……トイレ行っていいのか事前に聞いておかなかったのは致命的だったな。我慢の限界を迎える所だった」 苦笑しながら言うと、零は呆れた顔をする。 「そこまで律儀に約束を守ろうとしてたの?」 「……本当にな」 昼過ぎになって街に出る事にした。 自転車を借りて一人で森のトンネルを走っている。 子供の頃には何度か通ったことがあったが、帰ってきてからは初めてだ。 零は屋敷に残っている。 というよりも、本来はあまり外をうろつける立場にいない。 昨日の儀式で親族をはじめとして財閥の人間も来ている。おじさんの体を考えると、零が対応しなくてはならない。 むしろ朝食とその後にも付き合ってくれたのは、単に零の付き合いの良さだろう。 「それにしても……なぁ」 自分が催眠状態だったなんて言われても腑に落ちない。 が、説明を聞くとそうなのかもしれないとは思えてしまう。 これは昨夜の紅自身が、リアリティを持ちながらも非現実感を伴っていたからだ。 それもあって、どちらが真実なのか分からない。 (さすがに人形本人だったなんて事は無いだろうけど……) いや、断定は禁物だ。 人形そのものでなくても、人形とされていた誰かだった可能性もある。 例えば零本人も知らない双子の妹がいて、その子が昨夜のような事をしていたり……。 (確か忌み子とかいうんだっけ) 漫画やミステリでも定番のトリックだ。 双子を忌避する風習がある所で、片方を生まれてすぐに隠してしまう。 その子は大きくなってから、外の世界に出るようになる。 あるいは生き人形の伝説そのものが、忌み子を誤魔化すために役割を与えられた子供の事だったり……。 「……考えすぎだな……あほらし……」 空想、可能性で言うならどこまでも広げられる。 結局答えは出ないのだと、ため息をつくのだった。 自転車で駅前に来ると、目的の人物はもう来ていた。 時間は待ち合わせの15分前。自転車で誤差が出るからたまたま早くついてしまった俺と違い、律儀な奴だ。 長身の男が、俺を見て合図をする。 《いちじょう》一条《しのぶ》忍。俺や零、美優とも仲のいい元同級生だ。 「早かったな」 「たまたまだ。それよりも久しぶりだ」 「そうだなぁ……お前も全然変わってなくて安心した」 「お前もな」 あまり表情を動かさないが、口元を緩めたのが分かる。 「これ土産。帰ったら食ってくれ」 「悪いな」 手にした袋を渡すと、そんなの良いのにと言いたげだった。 「ネタばらしをすると、実はお土産買ってくるなんて気の利いた事できなくて、家から届いた荷物に入ってたんだ」 「あんたの事だから途中何も買わなかったんだろうって」 「だと思った。おばさん相変わらずしっかりしてるな」 「……まぁな」 俺にとっては単なる帰郷でも、親にとっては子供がお世話になっている場所だ。 そういう気づかい出来るのが大人なのかもしれない。 「しかし、この前こっちきたばかりなんだろ?それなのに荷物が届くって、忘れ物でもしたのか?」 「いや……実は滞在が延びるから、それで色々と。宿題やら着替えやら……その中にお友達にって入ってた」 「元々は何日で帰るつもりだったんだ?」 「長くても一週間くらいだな。あまり長居も迷惑かと思ったんだけど」 「……普通の所ならそうだな」 言外に普通じゃないと言うのは止めて欲しい。 「それで今は?」 「夏休みいっぱいだな。さすがに新学期の準備があるから、29かそこらには帰るつもりでいる」 「今度は打って変わって長期滞在だな」 「全然顔を見せないんだから、それくらい居ないのは薄情だと言われると、どうにもな……」 「そうかもしれないな」 更には今日の零を見て思った。 今は親族の人も来ている。如月家としての仕事がある。その上、おじさんの看病とやる事が多い。 こっちは一葉ちゃんやおサエさんがやってるんだろうけど零もノータッチという訳にはいかないだろう。 夏の間というのは随分な時間延長に思えたが、それくらい滞在していないと、ゆっくり時間も合わせられないのかもしれない。 「まあ、そんな訳だから暫くはここらで遊んでるよ。ああ、後で美優にもコレ持って行ってやらないと」 「野上にはもう会ったか?」 「ああ。こっち来てすぐに。バイトしてた所にばったりと」 「その時にも聞いたけど、お前ら全然連絡とってないんだな」 「ああ……やっぱり何となくな」 「そっかぁ。そうかもしれないな……今はあの頃のたまり場も無くなっちまった訳だし」 この街にあった爺ちゃんの工房は、俺たちがよく集まる場所でもあった。 仕事の邪魔をする訳にもいかないから、工房の奥にある部屋を使わせて貰っていた。 そこで一緒に宿題やったり、ゲームで遊んだり……たまには仕事を見させて貰ったり。 散らかしては怒られて、掃除することになって、それから皆で自主的に綺麗にして……居心地のいい所だった。 でも爺ちゃんが亡くなり、工房は閉めた。 親父は工房を継がずに別の所で働いていたし、卯月の家も過去に火災の被害を受けて少し焼けて傷んでいた。 そこから俺の引っ越しまでは、そう遠くはなかった。 「それもある。他にも理由はあるが……」 「理由?」 「ああ。その前に聞きたいが、ここどうした?」 自分の首筋を指先で叩く。俺の首筋には大きな絆創膏が張られている。 当然、夏場のシャツの襟元からは見えてしまっている。 「あー……寝てる間に引っかいたみたいで、結構血が出てた。それでこうなってる」 「……そっか。吸血鬼にやられた訳じゃないんだな」 どこかホっとするように、そして自嘲するような口ぶりだった。 「吸血……鬼……?」 紅に首筋に口づけられた時の感触が脳裏をよぎる。 ――いや、でもあれは夢で、現実でこうなったのを脳が処理してあんな光景になっただけで……。 しかし、人の首筋にかみついて血を飲み干す姿は、まさしくそれそのもので……。 「どうした?」 「いや……いきなり言われたから、びっくりした。最近流行ってるのか?」 「……そっか。知らないのか」 どこか納得したように言って、携帯を取り出した。 「少し待ってろ」 スマホに何かの検索ワードを打ち込んでいる。しばらくして出てきた画面を、俺に向けた。 「……吸血鬼事件? 被害者は3人。いずれも大量に血を抜かれての失血死……場所は伊沢の住宅地や森の中と場所も被害者の年齢性別もバラバラ……」 「お前が居なくなってしばらくした頃、こんな事件もあった。それで放課後に遊ぶという事も制限されて、完全に集まる事も無くなった」 「……そう……なのか」 それもショックだったが、もう一つあった。 忍が見せたのは、昔のネット記事のページだ。そこには被害者の名前も載っていた。 「そこにあった、一条さんっていうのは」 「……俺の母親だ」 「…………悪い」 「いや、いい。何年も経ってるし、お前に謝って貰っても」 「でも悪い……これ、犯人は?」 忍が無言で首を振る。まだ捕まっていない、未解決事件という事か。 「当時は色々と噂されてたな。他所から来た奴。地元の人間の犯行……山から出てきた新種の動物……ありきたりから無茶な物まで何でもあった」 「その中に、如月家の仕業っていうのもあった。俺たちは気にしてなかったが、如月は気にしてた風だったな」 「……如月家の?」 心臓が痛いほどに早くなる。 「如月家には色々と不気味な人形が置かれている。その中には、大昔に作られた人の血液で動く物もあって、動力源を求めている……なんてオカルトだ」 「…………」 ……どうしても、昨日の事を思い出さずにはいられない。 紅の吐息、首筋に感じた熱。痛み。それから――。 俺の血を飲み干した時の微笑。 全てが夢とは思えない現実感を伴っている。 「……顔色が悪いが、大丈夫か?」 「本当にすまない。でも俺の知る限りそんな人形はあそこには……」 「当たり前だろう。大体、人の血で動くってどうやって動く?昔の人形なら木造だろうし、無理がありすぎる」 「そ、そうだよな……」 「大体これは、噂の出どころも分かっている。昔、写生の授業で屋敷を使わせてもらった事があっただろ」 「あ、ああ。大分前だから何年前かってのは出てこないけど。如月のおじさんが許可してくれて、クラスごとお世話になった」 その時に子供の好奇心で屋敷の中に入り込み――出迎えたからくり人形に驚き、泣き叫ぶ子も出て、大騒動になった。 あれから零は、家が幽霊屋敷だとか言われてからかわれていた。 「あの時に囃し立ててた連中が、また言ってただけだった。何の根拠もない話だ」 「……もしかして、忍はその噂の出どころを?」 「ああ。調べた」 くしゃりと、手にしたストローを握りつぶす。 静かな調子ではあるが、そこには力が篭っている。 「……何とかしたかったんだ。少しでもヒントになる物がないかと思って、探し回った。結局は何も分からなかったが」 友人の落ち着いた調子に、俺は勘違いをしていた。 吹っ切れはしなくても、過去の出来事になっている……と。 でも違った。忍にとっては今現在も続いている事だ。 「…………」 友人の持つやり場のない怒気を前に、何も言う事が出来ない。 もしかしたら――俺はその犯人を知ってるかもしれないのだ。 だがアレは同時に俺の見た夢で……零の言う説明は、筋は通っていておかしい部分は無かった。 けれど、今になっても『もしも』という気持ちが拭えない。 (おじさんはどう考えているんだろう) 零が話した内容は、あくまで零の解釈に基づいてる。 その中には彼女が知らない如月家の事もあるはずだ。 聞いたからと言って、俺にすんなり答えてくれるとは限らない。けれど、帰ったら時間を作ってもらおう。 そう思っていた。 喫茶店を出た後は、帰る前に美優のバイト先に寄った。 「あれー? セイ君に忍君じゃない。二人でどうしたの?零ちゃんは今日はお休み?」 「零は家の事があって、残ってる。今日は忍に土産物を渡しに来た。で、こっちが美優の分」 「わたしに? いいの?」 「ああ。この前はいきなりだったから準備も無かったしな」 「殊勝な事を言ってるが、用意そのものが無かったと先ほど言っていたな」 「うっせー、そういうのバラさなくていいんだよっ」 「あはは、なんだろう。帰ったら開けてみるね。ちょっとロッカーに入れてくるから待ってて」 「ああ、仕事中だしあまり邪魔する気はないよ。この前はサボらせちまったし。それじゃまたな」 「うんー! わざわざありがとうー!」 大きく手を振る美優に挨拶を返して、駅前に向かうのだった。 忍と別れ、如月家の森を抜ける頃には太陽も傾きつつあった。 伊沢の駅前までは近くて遠い。徒歩でも行けなくはないが、車が通れない道でショートカットしても何時間もかかる。 それが往復してもこの時間で済んでいるから、自転車の恩恵を改めて感じる。 昔、零が俺と毎日遊べていたのも、通う学園がこちらにありおじさんやおサエさん、運転手の人が送迎をしてくれていたからだ。 「……吸血鬼事件……か」 この街で起きた未解決事件。犯人は今も捕まっていない。 そんな血生臭い出来事があったとは思えない程、街は今日も穏やかだった。 「お帰りなさい」 屋敷までたどり着くと、屋敷前にいたおサエさんが俺に挨拶をしてくれた。 ここに来る途中に高そうな車と何台かすれ違い、そして中に乗っている何人かに見覚えがあった。 昨日儀式にも来ていた、如月の親族だろう。 「ただいまです。自転車は裏でいいんですよね」 「戻しておきますので、ここで構いませんよ」 「いえ、俺が借りた物ですから」 「すみません、実は聞きたい事……というかお願いしたい事があるんですが、いいでしょうか」 「なんでもとは答えられませんが、何でしょう」 「こっちに来てから、まだおじさんときちんと話をしていないので、時間をとって貰えたらと思いまして。都合のいい時で大丈夫です」 「なるほど……では、お尋ねして参ります。今日も来客があったので、体調が優れないようでしたら、私の方で御止めしますが、よろしいですね」 「もちろんです」 では、と一礼しておサエさんが中に入る。 俺も自転車を戻しに、裏手に回った。 すぐに聞きに行ってくれたらしく、おサエさんから聞いた返事は、夕食後に少しで良ければとの事だった。 それから夕食の終わりを待って、おじさんの部屋に向かった。 (しかし、緊張するな) おじさんと二人きりで話したのは、ずいぶん昔だ。 それも他愛のない話で、特に内容がある物ではなかった。 (まずは儀式について聞かせて貰おう。俺は当事者だし、大丈夫だろう) (それ以外だと……紅について聞けたらいいんだけど。そのまま聞いても知らないって言われそうだよな。なんか糸口があったらでいいか……) 考えなしに玉砕して、うかつに話題に出せなくなるよりは次のチャンスを待った方がいい。 「どうぞ」 「失礼します」 許可をもらって中に入る。 そこは応接室のような作りの広い部屋だった。 「うわ……」 家具や調度品は俺が使わせて貰ってる部屋と似通っている。 それでいて、すべての物が一段階上に整えられている雰囲気があった。 「よく来たね。あまりくつろげないかもしれないが、座ってくれ」 俺に背もたれがついてる方のソファを勧めてくれる。 「いや、そっちはおじさんの方が」 「気にしなくていいよ。どうせこれだ」 言いながら自分が腰かけている車いすをポンポンと叩いた。 なるほど、ソファがアンバランスなのはこのためか。 「じゃあ失礼して」 どこまでも沈み込みそうな柔らかなソファだ。 このままベッドにして眠っても、自宅のベッドよりも寝心地が良さそうだ。 「あの……寝てなくて大丈夫なんですか?」 「さすがにそれで出迎えるのもね」 包帯の下から苦笑が伝わってくる。 「生まれた頃から知っているせいか、君の事は息子のようにも思っているんだ。それであまり情けない姿は見せたくない」 「今更かと思うかもしれないが、見栄のような物だよ」 「そうですか……分かりました。でも体調悪かったらすぐに言って下さい」 「ああ。遠慮なくそうさせてもらうよ。それで話がしたいという事だったが……」 「はい。先日の儀式について教えて貰おうと思いまして」 「ふむ……誠一君は主役だったのだから、その質問も当然だと思うが、以前に話した以上の事は分からないよ」 「前に言ってましたよね。雛祭りの人形みたいと」 来たばかりの時にそんな話をした。確かに座っているだけの雛人形の気分だった。 「そうとしか説明が出来ないからね。何時間も同じ所に座り続けているのは、この体では少々厳しい」 「実は同じことを零にも聞きまして、催眠術についての話を伺いました」 「……ふむ」 「発端はその日の夜の……夢見が悪かったのが理由ですが気になったので……」 「夢?」 一瞬、素直に全部話してしまおうかと考えて――やめる。 まずは儀式についてだ。 「この屋敷の夢です。あまりにも現実感があったので今でも夢だったのか現実だったのか分からないです」 「それを零に話したら、儀式には催眠状態になるように仕掛けがあって、それが理由だろうと言われました」 「なるほど。それで詳しく知りたいと……」 「教えて貰えないでしょうか」 「もちろん構わないよ。……その前に謝罪をしておこう。怖がらせてしまうんじゃないかと思って、伝えてなかったのは私の落ち度だ。本当にすまない」 車いすの手すりを掴むと、深々と頭を下げる。 体を引き寄せるように、腕がこわばっている。体を大きく動かすのも大変なはずだ。これには俺も驚いた。 「い、いえ! そこまでしなくても。俺はただ知りたいだけで、気にしてませんから」 「そうか……本当にすまない事をした。零は他には何か言っていたかな?」 「後は特には。政治的判断もあるので、俺が妥当だったとかそれくらいですね」 「……自分の娘ながら捻くれてると思うんだが、君もそうは思わないかな?」 「え? そうですか? あいつ結構分かりやすいと思いますけど……」 「君がそれでいいなら、私としては構わないが……」 ……いやいや、一体何の話なんだ。 「それはあくまで本筋から離れた脱線だよ。でも、そうだね。無関係ではない」 「催眠状態というのは間違っていない。人間の視覚情報を制限して、小さな明かりなどを見つめさせる。人の判断力を曖昧にする。そこに刷り込みが入れば催眠になる」 「しかし、催眠術というのは何も万能じゃない。本人の意図しない事は出来ないし、させられない。フィクションでやるような事はなおさらだ」 「それは零も言ってました。どちらかというと瞑想に近い状態にするのが目的だと」 「近くに生き人形を。『如月紅』を置いて、今に再現する真理に近づくための物だと」 「現在までに伝わっているのは、その解釈であっているよ。……しかし、参ったな。そこまで知っているのであれば私からは何も言えなくなってしまう」 「そうなんですか……?」 「本当にそれ以上の理由はないんだ。ただ本来は、君のような人形師としてのセンスを持っている者が、この役割を担っていたと聞いている」 「俺は、別に」 「分かっている。別に君に後を継いで貰いたい訳じゃない。そもそも、今はそんな時代でもないし、血筋で人や組織が動く訳じゃない」 「正直な話、君が零と結婚するなら二人は自由にしてくれて構わないと思っている。如月を継ぐも良いし、卯月の家に入るのも良いだろう」 「でも、それは……」 如月家に他に子供はなく、零はその唯一の子供だ。 もしも如月家を捨てたら自動的に本家が潰れてしまう。 「それでいい。いや、その方がいいのかもしれない」 「何か、そこまで思う理由があるんですか?俺が零と結婚するとかそういうのではなく、というかそんな事実は今はありませんが、それにしても」 「理由……か……気が早すぎると思うかな」 「はい。俺はそう思います」 「私は逆だ。遅すぎたくらいだと思っている。こんな体になってしまった時に、すぐに考えるべきだった」 「…………」 「さて、他にも聞きたい事はあるかな?」 「他は……あ」 「何かな?」 「……いえ、今日の昼、友人と会って吸血鬼事件なんて物が起きていたのを聞きました」 「今も犯人が捕まっていないようだね」 「そう、みたいですね。被害者の中には友人の母親もいたみたいです」 「それは……かわいそうに」 「……はい。俺が居ない間に、こんな事件が起きてたというのが驚きで」 ……こんな話をしてどうなるっていうんだ。 やっぱり紅の事を直接尋ねた方がいいんだろうか。 「実はその事件があった時に、零に一度聞いた事がある。落ち着くまでここを離れて、誠一君の所に行かないかと」 「そうなんですか?」 「娘が巻き込まれたらと考えたら、居ても立ってもいられなくてね。ついそんな提案をした」 「事件はやがて落ち着き、この話もうやむやになってしまったがね」 「その時に零はなんて?」 「私を残してはいけないそうだ」 ため息と共に先を続ける。 「自分がどれだけ無力になっていたのか、実感したよ。その時からかもしれない。娘の事を考えるのが遅すぎたと思うようになったのは」 それから、話し疲れたとおじさんは言い、また日を改める事にした。 結局、紅の話は出来なかったが……俺が知らない如月家の事はいくつか聞けたと思う。 (俺を呼んだのも、零の今後を考えての事なのかな……) 自分と零がどうなるか分からない。そもそも、どうにかなりたいと思っている訳でもない。 それでも、人と人の繋がりは選択肢の一つになる。 俺にとって如月家というのは、いつでもここにあって当然の盤石の存在だった。 歳月を重ねた歴史。いつでも出迎えてくれるおじさんや、おサエさん。 幼い頃からの腐れ縁のような零。今では一葉ちゃんも、ここを語る上で無くてはならない人だ。 故郷を離れても、ここに帰ってくれば出迎えてくれる。そんな無条件の安心感のような物が自分にはあったんじゃないだろうか? (知ってるようで知らなかったな……) 紅の事だけじゃない。この家の事も何にも知らないのだとここ数日で改めて思っていた。 雨が降っている。 夕方から降り出した雨が、屋根や窓を叩き、室内に音を響かせている。 山に近いここでは、夏の天気は変わりやすい。 窓の外を見ようとしても、激しく打ち付ける水滴で何も見えはしなかった。 そんな中、雨に交じって何かが聞こえた。 さらにもう一度。それでようやく、誰かがやってきたのだと理解した。 「どうぞ」 雨のせいで俺の声も聞こえないだろう。 扉を開けて招き入れる。やってきたのは零だった。 「遅くに悪いわね」 「それは構わないけど」 風呂に入った後だったのだろう。髪の毛が僅かに湿っている。 乾かすのもそこそこにやってきた感じだ。 「とりあえず入れよ」 廊下だと雨音で話もしづらい。 「ええ」 扉を閉めると、少しだけ音が遠のいた。 「で、どうしたんだ? まさかこんな時間に遊びに来た訳でもないだろ」 「もちろんそうじゃなくて……手伝って欲しい事があるのよ」 「手伝う? こんな時間に?」 「こんな時間だからよ」 「普段はお父様の介助は、サエも含めて何人かの人にやって貰っているけれど、この雨で来られないそうなのよ」 「お父様は寝たきりという訳でもないし、日常の事は出来るけれど、それでも体力的に厳しい部分があるの」 「なるほど。手伝えばいいんだな」 「ええ。遅くに悪いけれど、お願い出来る?」 「構わないよ。おじさんには俺もお世話になってるし。で、何すればいい?」 「入浴はヘルパーの方がいる時にお願いしているから、着替えを手伝ってあげて。洗濯物などは私の方で出しておくわ」 「わかった」 人がいない今日は入浴は諦めて、体を拭くだけにするらしい。それなら俺でも問題なく手伝えそうだ。 「サエと一葉もいるから、そんなに大変では無いと思う」 「おサエさんはここにも部屋があるみたいだけど、基本的に住んでるのは、離れの屋敷だよな。どれだけ近いといっても、この雨だと来るのも大変だな」 「車を使えばそこは大丈夫じゃないかしら」 「なるほど、それもそうだ」 「……あれ? でもそれだとヘルパーさんの方も同じでは?」 「ええ、そうなのだけど……」 おじさんの所に向かいながら話を聞く。 「森で倒木があったらしく、車では通れないみたいなのよ。雨が落ち着いたら撤去をする事になっているわ」 「森の……ああ。あのトンネルか」 木で出来たトンネルは、風景としてはいいけれどこういう問題も出てくるんだな。 「入ります」 零がノックし、扉を開ける。 先ほど会った時と同じように、車椅子のままのおじさんが俺たちを出迎えてくれた。 「すまない。迷惑をかけるね」 「俺の方こそお世話になってますから」 「寝室はそっちよ。私はシーツを替えてくるから、お願いね」 「わかった」 続いてノックがして、おサエさんが入る。 「こちら、体をお拭きするためのタオルでございます」 「ありがとうございます」 「いえ、ではお手伝い願います」 おサエさんは零に新しいシーツを渡し、俺とともにおじさんの上着を脱がす。 「…………」 服の下から出てきた肌に、一瞬手の動きが止まってしまった。 「驚いただろう。こんなものを見せてしまってすまない」 「いえ……」 体の下は皮膚がひきつったようになっている。重度の火傷の後遺症だ。 このせいで体が上手く動かなくなって、車椅子生活を余儀なくされているとも。 同時に一葉ちゃんがここに居ない理由も分かった。おじさんもお手伝いの若い女の子に見せたくないのだろう。 「体が冷えてしまいますので、手早く参りましょう」 「わかりました」 お湯で絞ったタオルで体を拭いて、続いて乾いたタオルで水分をふき取っていく。 タオルの上からでも熱で固まった皮膚がごつごつとしている。 子供の頃には、そこらの俳優よりもカッコいいと思っていたおじさんが、今は服の下がこうなっているというのは、結構な驚きでもあった。 同時に、先ほどの『今後の話』を改めて意識してしまう。 「ありがとう。今はこれで構わないよ」 「わかりました」 ガウンを着せて車椅子からベッドに移るための介助をする。 僅かな手助けしかしてなかったはずなのに、ベッドに移し終えた時には、軽く息が切れていた。 「人の体というのは、なかなか重いものだろうね」 「運動はしてるつもりだったんですが、ちょっと油断してました……」 「コツがあるのですよ。それを掴むうちは、どうしても不必要な力を掛けてしまうのです」 毛布を整えながら、おサエさんが言う。 さすがに慣れた発言だ。 「それではおやすみなさいませ」 「ああ。二人ともありがとう。誠一君、助かったよ」 「いえ、これくらいならいつでも言って下さい。それではおやすみなさい」 「ありがとうございました」 「いえ……」 折り目正しく頭を下げ、使ったタオルなどが乗ったワゴンを押して、おサエさんは洗濯場へと向かう。 それを見送って、部屋に戻る事にした。 部屋に戻っても、なかなか寝付けなかった。 話には聞いていても、大きな火傷の痕を見るのはこれが初めてで、少なからず衝撃があった。 (先の事を考える……か。娘の……零の事を……) その意味が今になって分かった気がした。 寝付けない果てに浅い眠りを繰り返し、気が付いたら時刻は深夜を大きく回っていた。 この時間ならもうみんな寝静まっているか、おサエさん達も離れに戻っているだろう。 「喉渇いたな……」 「って、風呂も入ってないや……」 後から入ろうとしてすっかり忘れていた。どうせ眠れないのだから、風呂入ってさっぱりしてくれば良かった。 ついでにトイレを済ませて、廊下に戻る。 カーペットが敷かれた床からは殆ど足音が立たないが、室内用のスリッパが素足に接して、ひたひたと音を立てる。 そんな微かな音でも人の気配が消えた屋敷に響き、奥へと誘われてるような感じがしてくる。 (……前にもこんな事があったな) 夢か現か分からない、狭間の記憶だ。 紅と言う零に似た少女が作り出している、奇妙で、怖くそれでいて引き付けられる。 果たして現実だったのか、それとも夢だったのか今でも分からない。 (……確かめてみるか) 人形の間は零が鍵を掛けていた。 誰もいなくてそのままなら、今も同じように鍵が掛かっているだろう。 下に下りる。そこで、先ほどは無かった妙な匂いがした。 「…………なんだ?」 何か、鼻につく匂いが漂っている。 ――ピチャ。 「うわわっ」 足元が湿った物を踏みつけて、とっさに離した。 「……濡れてる?」 よく見ると床に敷かれた絨毯がその部分だけ濡れている。 「…………」 色が変わっている所を見ていくと、入り口に繋がっていた。 「誰か濡れたまま入ってきたのか……?」 こんな時間に一体誰が? そして、濡れた絨毯の続いてる先は、屋敷の奥。人形の間ではなく、数時間前に訪れていた部屋の方向だ。 「……まさか」 嫌な感じだ。 自然と早足になり、小走りになる。 駆け抜けるように廊下を走る。 あちこちに置かれたからくり仕掛けとそれを置くための台。そこに、光を返すモノがあった。 「なんだこれ」 手を伸ばしかけて、止めた。 (包丁……それに……) 全体的に赤黒い物がついている。何があるか分からない。迂闊に触らない方がいい。 それよりも今は……! 「おじさんっ!」 ノックも忘れて中に飛び込む。 こっちは何もない。さっきと変化はない。 ただ一つあるとしたら、濡れたような黒い跡が部屋の奥へと続いている。 「く……!」 寝室に続く扉を開ける。 途端に、かすかに漂っていた匂いが、濃密に溢れてきた。 「うぐっ」 思わず口を押えて後ずさる。 空調の効いた室内は適温に冷やされている。循環する風が生臭い鉄のような――血の匂いを吐き出している。 「そんな……なんで……」 遠目にも分かる。白いシーツが赤黒く染まり、毛布は濡れそぼっている。 それが何によるものかなんて、近寄らなくても分かる。 医療の知識なんてものがなくても、これだけ出血していたら助からないと分かる。それほどの血だった。 ――ぴちゃ。 「う……っ」 溢れだす血が絨毯の上を伝わり、俺の足元まで来ていた。 足を上げると、スリッパの裏に真っ赤な物がついている。 そこから逃げるように、二歩三歩と後ずさり――濡れた絨毯に足を滑らせて尻もちをついた。 「はっ……はぁっ。はぁ……っ」 息が上がっている。眩暈がする。 視界が明滅して、気分が悪くなってきた。 「うぐ……っ」 唐突に訪れた吐き気にえずいた。 中の物なんか全然出てこない。それでも吐き出すことで気分が楽になるような気がした。 「……誠一さん……」 「か、一葉ちゃん!?」 弱々しく呼ぶ声に振り向く。 そこには、どす黒く濡れた包丁を手にした、一葉ちゃんの姿があった。 「よ、よかった……わ、わたし怖くて……それで……!」 手に包丁を持ったまま、こっちに向けて走ってくる。 「ま、待て! 待ったっ! それ、手のそれ!!」 支離滅裂になりながらも指さすと、やっと気づいたみたいで小さな悲鳴をあげて放り出した。 「こ、これ、これ! 廊下に落ちてて!! それでわたし、拾ってから沢山の血が付いてて、それで!」 「わ、わかってる。大丈夫だから。それより一葉ちゃんだけ?零やおサエさんは?」 「分かりません……全然、わたし今こっちに来て。旦那様、このくらいの時間にお水欲しがることが多くて……」 「そうか……」 慌てて言葉も乱れてる一葉ちゃんに、動転していた俺の気も少しだけ収まってくる。 って、今はそんな話をしてる場合じゃない。やる事が沢山ある。 「それより警察! それと救急車もっ。あ……そっちは俺が連絡するから、零とおサエさんが寝てたら起こしてきてくれ!」 「は、はは、はいっ。わかりましたっ」 ぎこちなく走り出そうとした一葉ちゃんが、止まる。 その後に続こうとしていた俺は、ぶつからないように止まるのが精いっぱいだった。 「どうした?」 「あ、あの、零様はお屋敷で、お婆様は離れです。わたしどっちにいったら……」 離れは当然、屋敷の外だ。この豪雨の中をほぼ視界も無いまま、歩いていかなくてはならない。 「えっと……」 普段と逆に一葉ちゃんがこちらに泊まり、おサエさんが離れに戻ったという事なのか。 となると……どうする? 濡れた跡は玄関に続いている。あるいは入ってきてるのかも知れないが、犯人は外に居るかもしれない。 窓から外の闇を見ると、そんな事を考えてしまう。 「分かった。じゃあ俺が零を起こしてくる。その間に離れまで電話してくれ。直通電話くらいはあるよな」 「は、はいっ」 その後は必要になったら彼女を離れまで送って行こう。 ただ、こんな時に一人になるよりは、こっちに居たがるかもしれない。 ……むしろ、状況を考えると俺たちみんなで移動した方が良いのかもしれない。 警察はその後だ。 「……行こう」 音を立てないように、静かに扉を閉める。 一葉ちゃんが放り出した包丁が、絨毯の上で電灯の光を反射しているのが目に焼き付いていた。 一葉ちゃんを連れてロビーを抜ける。まずは零の部屋までいかないと……。 あれから一時間くらいが過ぎた。 そして今は、零の部屋に集まっている。 「……疑う訳じゃないけれど」 寝ている所を叩き起こされた零は、今もまだ訝しげだ。 離れにも無事に連絡が通じ、雨の中おサエさんは来てくれた。 おサエさんは来るなり如月のおじさんの部屋に向かった。零に部屋から出ないようにきつく言って。 「…………」 一葉ちゃんが首を振る。 「……そう」 「警察と病院にはまだ連絡してない。見つけてすぐにしようと思ったんだけど……」 「わっ、わたしのせいです! わたしが怖がったから、それで」 「……大丈夫。怒ってないわ。私も混乱している……正直訳が分からないもの」 「でも、そうね。しない訳にはいかない。ただ、今は車でここに来られないから、少し時間がかかるわ。だから直ぐに連絡したとしても間に合わなかった」 「あ……」 森のトンネルで倒木があったと言っていた。 「サエが戻ってくるまで待ちましょう。警察に連絡するにしても、一番スムーズに話が行く所に連絡をしないといけないでしょうし」 「スムーズに?」 110番に掛ければいいんじゃないだろうか? そう思ったが、零は頭を振った。 「うちの事を分からない人たちに一から如月家の場所を教えて、倒木で塞がれている事も伝えて、その撤去もお願いしてとなると時間がかかりすぎるわ」 「言えば来てくれるって訳でもないのか」 「まずは本当に急ぎの撤去が必要になるのか視察が入るわね。それから……事件が起きてるならと、徒歩で人員がこちらにきて、現場検証して事情聴取となると……」 手間がかかりすぎて考えたくないようだ。 それなら最初から如月家に関係のある人に連絡をつけて、そちらで整えてから来て貰った方がずっと早く進むらしい。 「後は会社の顧問弁護士さん。役員の人と……」 話ながらも腕組みした指が、白く、きつく握りしめられていく。 「……いつか居なくなるのは分かっていた。怪我の後遺症もあって、体力も年々衰えて……でも、それが今こんな事になるなんて……」 「……零」 「本当に、そうなの? 本当にお父様だったの?違ったりしてなかった……?」 零の肩を抱いて、抱き寄せる。俺に顔をうずめて、嗚咽が漏れる。 涙で胸元が濡れる。それはとても熱く、俺の胸を締め付けるようだった。 それから少しして、おサエさんが入ってきた。 「どうだった?」 「……旦那様です」 「…………そう……」 力を失いかけた体を支えるようにして、椅子に座らせた。 「警察とかに連絡をしないと」 「わたくしの方でいたします。お嬢様はお休みになってください」 「……いえ、ダメよ。お父様である事をきちんと見ないと」 「いやでも、それこそ後でいいだろ。今は無理しなくても」 「今でなくては、見逃してしまう物もあるかもしれない」 「……そうかもしれないけど」 「誠一にも付き合って欲しい。一人だと怖いから。一葉はさえと居て。決して一人にならないように」 「それなら朝を待ってからの方が」 「……いえ、それもダメ。纏まって隠れていたら、証拠が消されてしまうかもしれない」 「確かにそうかもしれないけど」 「どのみち、如月家に恨みのある者がやったのなら、私も時間の問題よ。なら、今のうちに出来る事をやった方がいい」 「……恨みを買うような覚えでもあるのか?」 「知らないわよ、そんなの。犯人に聞くしかないわ。でもそのためにも、出来る事はしないと……」 「…………わかった」 「あ、あの!」 「一葉はここにいて。サエは思いつく限りの所に連絡。事件を知る人が増えれば、それだけ相手もやりづらくなるはず」 「は、はいっ」 「かしこまりました」 「……いくわよ」 俺の手を強く握る。薄暗い廊下へと足を踏み出した。 廊下に出ると、零はしがみつくように俺の腕を抱きかかえた。 「……歩きづらくて悪いわね」 「おぶって行ってやろうか」 「それだと逃げられないからダメ」 「……あまり変わらないかも」 突っ込み返しつつ、前に歩いていく。 零の足も気力ほどにはついてこないみたいで、まるで引っ張るような重さだが、それでも前に進んでいる。 「……はぁ……はぁ」 緊張で階段を下りてくるだけで精一杯だ。 先ほどあったように、濡れた跡が残っている。 改めてやって来て気づいた。 濡れた跡は真っ直ぐ当主の部屋に続いている訳じゃない。 ルートから外れて、廊下の奥へも続いている。 (この奥には人形の間か……) 完全に失念していた。生き人形は如月家の家宝だ。それが狙いという事はないのだろうか? 「……なあ、犯人の狙いってなんなんだろうな」 「…………さあ。分からないわ。でも、気になるなら見てくるくらいの時間はあるわよ」 俺が見ている物が分かったのか、意外にも同意してくれた。 ……いや、意外でも何でも無いのかもしれない。 この先に行けば、待っているのは自分の父親の死んだ姿だ。 如月の一人娘で、立場のある人間として育てらえた零はそこから逃げる事を良しとしていない。 でも普通の女の子の零は逃げたがっている。先送りにしたがっている。 それが出ているのが、今なのかもしれない。 分かりづらい内心の気持ちが、分かるくらいに零の事を理解している。その事に自分自身が驚いた。 ちょっとの間離れてはいたが、それくらいの年月を過ごしているんだと、改めて思った。 「……行こう」 おじさんの部屋ではなく、奥の人形の間の方へと足を向けた。 突き当りへはあっさりと辿り着いた。 人形の間の扉に手を掛けると、鍵の手ごたえと音に阻まれる。 「……鍵は掛かったままみたいだ。普段は鍵は?」 「私の部屋よ」 「おじさんの所じゃないんだ。意外な所だ」 「屋敷の一番奥で大事にしている物の扉を、主の部屋に置くのはとても分かりやすいじゃない」 「納得」 「……冗談よ。実際は返し忘れていただけ」 「ああ……」 となるとこの前の時か。零は鍵を借りていた事になる。 濡れた跡はここで止まっている。その人物も、鍵がなくて戻ったのだろう。 (となると、ここの鍵を狙いに当主の部屋に押し入って零が持っていたのを知らずに殺して奪おうとした?) ……こんな事を零には言えない。 「……もう大丈夫。少しだけ落ち着けたわ。行きましょう」 それからの零は、少し震えている以外は普段と同じに見えた。 その部屋に入った時も気丈なままに見えた。 「……お父様」 ただ、ベッドの上のそれを見るまでは。 「…………」 無言で俺の手を強く握る。 流れている所は首元からだった。 鋭利な刃物で切り裂かれている。迸る血がベッドを汚してたっぷりと布地に吸い込まれている。 それでも溢れた物が床に落ちて、絨毯に広がっていた。 「…………」 曲りなりに見る事が出来ているのは、顔を覆った包帯のおかげかもしれない。 傷を隠すための物が表情が見えない事で、目の前にある死に一枚のベールを掛けている。 それは薄い物ではあったが、衝撃を和らげるのには必要だった。 「……お父様ね」 「……ああ」 けれど、この人が零の親父さんであることは疑いようもなかった。 首筋から見える火傷の痕。それからほつれた包帯から除く痕。 おじさんにしかない痕跡が、本人だと訴えている。 仮に同じような火災に遭った人間だとしても、傷跡の形は千差万別の物になるだろう。 だからこそ、目の前の死を慣れ親しんだ人の死だと強く実感が出来ていた。 「……行きましょう」 寝室を出る。 そして部屋に戻り、濃密な血の匂いの中で止めていた呼吸と吐き気を誤魔化すように、大きく息をついて――。 「…………あれ」 一葉ちゃんが放り出した包丁が、消えている事に気が付いた。 「どうかしたの?」 「あ、いや、この辺りに包丁が落ちてるはずなんだ」 「血がついてて最初は廊下に落ちてた……それを一葉ちゃんが拾って、この辺りに放り出して……」 「それはいつ?」 「俺が最初に見た時。一葉ちゃんを連れて零を起こしに行く前は確かにあった」 「ではサエが退けたのか、あるいは犯人かしらね」 「他に気づいた事は?」 零はそう言いながらも、棚や机の辺りをいじっている。 「後は……無いな。足跡が絨毯についてないって事くらいか」 「ついてるじゃないの」 「それは俺と零のだ。部屋の中まで入ったから、血を踏んでそれが跡になってる」 「……なるほど」 零も自分の室内履きのスリッパの裏を見ている。 「見た感じ増えてないから、寝室までは行ってないんだろう」 「最初から凶器の回収が目的だったと」 「さあな。おサエさんの話を聞いてみないと分からない」 「あなた探偵みたいね」 「……絶対に御免だ。零の方がそれっぽい」 「私だってお断りよ。第二の被害者候補だわ」 冗談めかして言った後に、大きくため息をついた。 「……父親が殺されたばかりだというのに、あまり面白くもない話だったわね……」 「……だな。悪い」 「いいわよ。辛気臭い顔をしているよりは、絶対にマシだもの」 青い顔をして、体が震えながらも、そこまで言える零は本当に強いと思う。 「そろそろ出よう。やっぱりお前休んだ方がいい」 「そうね……そうするわ……」 差し出した手を縋りつくように握りしめてくる。 俺にも彼女の震えが伝わってくるのだった。 「あ! お、お帰りなさい……」 ノックして部屋の中に入ると、ベッドにいた一葉ちゃんが弾かれるように起き上がった。 「構わないわ。そのまま寝てていいわよ」 「はい……」 それでも寝なおす気にはなれなかったようで、ソファへと移動していた。 「お嬢様……旦那様は」 「……ええ。お父様だった。ところでサエが行った時に、何か気づかなかった?」 「いえ、わたくしは何も」 「そう」 零は包丁の事も、足跡の事も追及しなかった。 なら考えがあるのだろう。ここは黙って従う事にする。 (俺と零の足跡しかないなら、おサエさんは寝室の奥までは入ってないんだよな……で、包丁も知らないか、知ってても大したことじゃないと思っているか) (さすがに血の付いた包丁が部屋の中に落ちてるのを、大した事じゃないと判断する訳がないから、そうなると……) 隠しているか、それとも知らないか。 後者なら、おサエさんが行くまでに証拠隠滅されている訳だ。 「警察などは?」 「……この雨では倒木の撤去が終わるまでは、やはり無理なようです。車で手前まで行き、何人かを徒歩で向かわせると言われておりました」 「そう……なら後一時間もしないわね」 ならそれまで待機だ。 そう思って、扉を背に床に座り込む。 いきなり乱入してくる者が居ないように、少しでも重石だ。 零もそれが分かっているのか、あるいは掴んだままの手を離したくなかったのか、俺の隣に座った。 静かになると雨音がより強く聞こえてくる。 一葉ちゃんはソファで寝て、おサエさんは窓から外を見ている。 零は俺の肩にもたれ掛かるようにして眠っていた。 「……おとう……さま……」 そんな小さな寝言だけが、聞こえてきていた。 うとうととしていた所に、ノックの音で起こされた。 背後の扉から伝わる振動と音。それらが俺の意識を覚醒に向かわせる。 「あれ……客……?」 でもここは屋敷の中の零の部屋だ。室内にはみんな居て、外から来る人なんて……! 寝ぼけた頭が瞬時に覚める。 「お二人とも、起きて下さいませ。どうやら来られたようです」 おサエさんの言葉に意識が完全に覚醒する。 扉の前を退くと、入れ違いにおサエさんが出て行った。そして、廊下から漏れ聞こえる話し声。 「……まずは説明をしないといけないわね。悪いけれど、もう少し手伝って貰える?」 「ああ。もちろんだ」 簡単に身だしなみを整えて、俺たちも廊下へ出た。 そこには雨に濡れた髪から水滴をおとす、体格のいい壮年の男性がいた。 警察手帳を見せられながら名乗られた肩書は警部だった。 それから事情聴取の後、警察の応援の到着を待って俺たちは邪魔をしないように離れに移動した。 もしかしたら、犯人の可能性がある俺たちを外して警察側で心置きなく調べたかったのかもしれない。 落ちてた包丁とそれが無くなっていた事は言っておいたが、果たして見つけられたのだろうか……。 「…………」 零はずっと心ここに在らずといった様子だ。 ……無理もない。目の前に見える自分の屋敷で、父親が亡くなったんだから。 特におじさんと零の仲は昔から良かった。零のお母さんが死んでからは、ますます良くなったようにも見えた。 とはいえ俺が知るのは昔の二人だ。 長い時間で関係も変わっていたかもしれないが……少なくとも俺がこっちに来てからは、昔のままに見えた。 「さっきうちに電話したよ。おじさんの事を伝えた」 「……そう……お二人はなんて?」 「親父は仕事でいなかった。母さんはお悔やみを直接伝えたいけれど、今すぐ言うのもどうかと迷っていたな」 電話の事を思い出しながら言うと、零が苦笑した。 「それを先に私に言ってしまっては、おばさまの心遣いが無駄になってしまうのではないかしら」 「あー……そうだよな。悪い」 「別にいいわ。他には?」 「葬儀には行くって。それから……俺にはその時に合流して帰ってこいって」 「……当然の話ね」 はぁ、とため息をつく。 今すぐ帰って来いと言われないだけ良いのだろうか。 ただ、まだ犯人も分かってない現状、俺も容疑者の一人だろう。警察が帰してくれるのかどうかも分からない。 とはいえあちこちに警官が立ってはいるが、俺たちを監視している雰囲気ではなかった。 こんな所で立ち話をしていても、特に目を向けてきたり会話に注意を払ってる感じじゃない。 ……おサエさんが言っていた『きちんと話を通しておく』という事の成果なのだろうか。 なんというか、権力という物の力を目の当たりにした感じだ。 「……それから、もしもこっちに居るのが辛かったなら、うちで零を迎えてもいいって」 「…………そう」 頷いた後に、ちらりと俺を見る。 「それは誠一の嫁に来いって話なのかしら」 「……そういう話じゃないだろ……」 「今の流れからすると、それ以外に取れないけれど」 「ただ……そうね。そちらはすぐには返事は出来ないわ。まだやる事が多すぎるもの」 「……だよな」 これで如月家は零一人になってしまった。 本家の年頃の娘という事もあり、零の結婚相手が如月家とその一族のトップであると目される訳だ。 俺たち卯月の家系はこの伊沢の土地を捨てた分家だ。そんな所に零が来るという事に、良い顔をする人間は少ないだろう。 「どこか気分転換にでも行かないか?」 「もちろん構わないわよ。……と言っても、すぐに戻って来られる場所じゃないとダメだと思うけれど」 「なら、あそこだな」 それから警部さんに少し気分転換に出てくる事を告げると、若い警官を一人、護衛につけてくれた。 やっぱり監視か? とも思ったけど、そういう感じでもないようだった。 (警察は俺たちを疑ってないのかな……?) もしかしたら、俺たちの知らない所で外部の人間が犯人である証拠が出てきたのかもしれない。 「ところで犯人ってわかったんですか?」 俺たちの後ろを歩く警官にダメ元で聞いてみる。 「……悪いけれど、捜査状況は関係者であっても教えられないんだ」 「……そうですよね……やっぱり」 がっくりと肩を落とす。 「犯人はまだ分かってないわよ」 断言する零に、俺も警官も目を向ける。 「どうしてそう言い切れるのかな?」 少しだけ声が尖っている。 零が犯人に関する手掛かりを持っている……そう判断したのかもしれない。 「……犯人が分かっていたら、今頃全力で確保に向かってるでしょう。こうしてあちこちに人がいたりしないわ」 軽くため息をつきながら言うと、俺たちからも力が抜ける。 ……そりゃそうだ。 外部から人間が入ったとして、一番先に考えられる逃亡先はこの森だ。 深い所に行かないからと言う事で許されたけど、日が昇ってからの山の中は、捜索の手が回っている。 少し離れた所からも、がさごそと繁みをかき分ける音が聞こえてくるくらいだ。 ……というか、辺り一面に警官がいるから、俺たちもここに来るのを許された……という方が正しいのかもしれない。 森の中を流れる沢に辿り着いた。 この前来た時と変わらず、静かなせせらぎの音が俺たちを出迎えてくれる。 「いい所だね」 「昔からの遊び場なんですよ。近いし気持ちいいしで、気分を変えるのにちょうどいい場所なんです」 「へぇ」 物珍しそうに見て回る警官とは対照的に、俺たちは慣れたもので小沢の淵にビニールシートを広げて座る。 昨日降った雨のせいでズボンのすねの辺りまでぐっしょりと濡れてしまっていた。 「連れてきておいてなんだけど、零がここに居ても大丈夫……なんだよな?」 「本当にいまさらね」 ……笑われてしまった。 「連絡や対応はサエに任せてあるわ。……多分、私がいない方がやりやすいのよ」 「そうなのか?」 「ええ。お父様が亡くなった以上、どうしたって私を見る目は変わるもの。お悔やみの挨拶はついでとばかりに、こちらの今後を伺うような話ばかり聞かされても気が滅入るだけだわ」 「誠一の先ほどの話は別よ? おばさまは私を気遣ってくれているのが分かるもの」 「そう言って貰えると助かる。……あ、いや。この状況でお前に気を遣われるのもなんだけど」 「いいわよ。私も普段通りの方が精神的にも助かるもの」 「……そっか」 それからしばらくは、小沢のせせらぎの音を聞きながらのんびりと過ごしていた。 一緒に来た若い警官も緊張しながら周囲に目を配っていたが、やがて肩の力も抜けてきたようだった。 「…………少し休んでていいかしら」 「何かあったら起こしてやるから、ゆっくり寝てろよ」 「そうさせて貰うわ」 零の体から力が抜ける。 俺にもたれかかるのを受け止めて、体が落ちないように手を回して支えた。 暫くすると、寝息が聞こえてきた。 「君は如月のお嬢さんの恋人なのかい?」 零を気遣ってか小声だ。 「そういう訳じゃないんですが……昔は兄妹のように育った時もあったので……おじさんも良くしてくれてました……」 「そうなのか……わかった。連絡が来たら教えるからしばらくゆっくりしてるといいよ」 「ありがとうございます」 微笑んで軽く頷くと、警官は少し離れた所に行った。 「…………ふぅ」 周囲から知らない人の気配がなくなり、聞こえるのは木々のざわめきと小沢のせせらぎ。 それから傍らにいる零の寝息だけだ。 体を枕代わりにしてるから、体温が直に伝わってきて少しだけ意識してしまうけど。 ……というか髪の毛からいい匂いと、少しだけ汗の匂いもして妙に生々しさを感じてしまうのだけど! 「…………こんな時に何を考えてるやら」 人間なんだから体臭があるのは当然だ。しかも昨夜は風呂に入る余裕も無かった。 ……そうしてふと思った。 紅にも驚くほど近くまで来られたけど、こうした匂いを感じた事がなかったな……。 それから俺も少しウトウトとしていた。 昨日はほぼ徹夜の上に神経をすり減らすような夜で、しかも事情聴取で朝までろくに寝られなかった。 そんな眠気を不快に切り裂くように電子音が鳴り響く。 「……んん……」 「携帯鳴ってる。零のだな」 「……そうね……」 いまだ眠気が覚めてない声で受け答えをしている。 短いやり取りで通話は切れたようだ。 「これから屋敷に戻るわ。鍵が掛かってて入れない部屋がいくつかあるから、見てみたいらしいわ」 「分かった」 「それで……鍵を持ってる私が行けばいいだけだから、誠一は別の所に行ってて構わないわよ」 「別の所って……この状況でか?」 「この状況だからよ」 どこか憔悴した感じで言う。 寝起きだからという訳でもないだろう。実際、昨夜から休む暇も無かった。 「誠一は客で来てるだけだし、事情聴取も終わってるでしょ。でも私やサエは今はなかなか動けないわ」 「……だろうな」 「如月家の事件なら、そのうち街中にも広まるわ。美優達に心配かけないように連絡しておきたいけれど、これもなかなかね……」 「電話かメール送るとか」 「……この要件をそれで済ませていいと思う?説明に余計手間がとられそうだわ」 「……確かに」 メール送った途端に、詳しく教えて! とか、力になりたい!と熱い返事がきそうだ。 心意気は嬉しくても今の零には負担だろう。 「そこで誠一が行って、ついでに買い物の手伝いでもしてきて欲しいのよ。一通り区切りがつくまで、こっちも持久戦だから」 「……なるほど」 それなら確かに俺が適任だろう。 でも食料やらもしばらくは出前でもいい感じもする。美優達への連絡は……心配かけたくない気持ちは分かるが、終わってから話すのでも良いかもしれない。 ただ、なんというか、今の頼みには零の気遣いがあった。 俺を『単に巻き込まれただけの客』として扱ってる感じだ。 とはいえ実際ここから動けなくて困るのも事実だろう。どうするかな……。 「いや、ここに残るよ。今の零は顔色も悪いから心配だし食べ物は出前でも取ろう。おサエさんもそっちの方が準備の手間も無くて楽だろうから」 「……そうね。分かったわ。そうしましょう」 零と共に屋敷の方に戻る。 付き添ってくれた警官に声を掛けると、屋敷までついて来てくれた。 屋敷に戻ると、おサエさんの他に今朝方、話をした警部が居た。 手間をかけて申し訳ないと恐縮する警部に、零は頷いて返す。 さっきの若い警官の方が、まだ零に気軽に接していた。 (改めて見ると驚くな……) 年かさの警部の方が、より如月家に馴染みがあるという事なのだろう。 「今現在、屋敷で封鎖している所は二ヵ所あります。……ひとつは元から閉じられたままの場所のため、本来ならば開ける必要は無いと思われますが……」 そこで一度言葉を切る。 警部に説明するためだろう。元から所作が上品な零だが、言葉遣いが普段よりも丁寧だ。 「先日行われた儀式のために開けられていますし、昨夜の事件の後にも、無事を確かめるために私自身が中に入っています」 「今回は中に異常がない事を他の方にも見て貰い、ご確認頂きたいと思います」 紅のいた人形の間の事だろうか。 俺が入り込んでしまった時は鍵は開いていた。 その後は閉められていたから、鍵を持ってる零が閉じた事になるが……。 ……やはり夢だったんだろう。 まあ、いい。行くというなら行けばはっきりするだろう。 「先に工房に向かいましょう。無くなったという刃物を探しているのですよね」 零の確認に、警部が頷く。 血の付いた包丁があったと警察に告げたのは俺だ。 やはり屋敷に戻ってきて良かった。俺自身が確認した方がいいだろう。 「ではこちらへ」 零の先導に従い、俺、おサエさん、それから警部がついてくる。 残りの警官は、他の者が入り込んでないか手分けして屋敷を見張っているようだった。 零の進むまま付いてゆき、階段を下りた先には鍵のかかった扉があった。 電気が点いた光景を見て――思わず一歩退いてしまう。 「これは……すごいな……」 「お父様の体が良かった頃に閉められて、そのままなのよ。放置されている人形もあるけれど、途中だったから動かすのも迷ってしまって」 「その頃に閉められたって割には綺麗だな」 「掃除はしているわ。道具は手入れをしないと錆びてしまうでしょう」 「なるほど」 警部さんが見て回る許可を取っている。 ひとまず邪魔しないように俺たちは入り口に下がった。 「見終わるまで待っていましょう。……何か聞きたい事がある顔をしているわね」 「いや……生き人形の事を思い出してた。アレもここで作られたものなのか?」 部屋のあちこちにある人形のパーツなどは、どう見ても『紅』の姉妹品を作ろうとしたようにしか見えない。 彼女もここでこうして生み出されたのだろうか……。 (……って、なんかおかしいな。俺) 紅が人形ならモノのはずだ。 夢か現実か分からなくても、会話した記憶があるだけにどうしても物だと考えにくくなっている。 「違うわ」 「……違う?」 「《きさらぎ》兼定《こう》紅は初代が作ったものよ。その当時、まだこの屋敷は無いもの。だから作られた工房はここじゃないわ」 「あ……なるほど」 「そもそも初代がどうやってあの人形を作ったのか、それが分かっていない。如月家の歴史は、いかにして『生き人形』へ至るかの試行錯誤の歴史と言っても過言ではないわね」 「でも長い歴史の中には壊れたりもしてるんだろ? 部品が弱ったりとか……それを直してるなら、作り方も分かるんじゃないのか?」 「……生き人形というのは外側の事だけではないのよ」 その話は知っている。 初代が連れていた生き人形は、人のように動き感情も露わにしたらしい。 ただ、今も再現出来ていないのだから、果てしなく長い苦難の道のりだ。 しかし大昔に今のロボット技術でも出来ないような事など……。 「…………」 「どうかした?」 「……いや……人形ってなんか不思議だなと思って」 紅の事を思い出しながら、そう誤魔化した。 アレは夢か、もしくは目の前にいる零が人形の着物を着た姿のはずだ。 そうでなければ、あんなに生き生きと。まるで人間そのもののような仕草は……。 「……そうね。人の形をした物なのに、ここにある物も含めて単なる道具とは思えない何かに思えてくるわね……」 そう呟く零の目は、ここに有る物ではない何かを見ているかのようだった。 室内を調べ終わったらしい警部さんが戻ってくる。やはり凶器はここには無かったようだ。 この先にあるのは以前にも行った『人形の間』だ。 先ほどの工房と同じく、零の先導で部屋の鍵が開けられる。 中には注連縄があり、その中央に紅が安置されている。 「希少な人形ですので、手を触れないようにお願いします。衣装の中などを確認する場合は私が触れて、お見せ致します」 「俺は部屋の中でも見てるよ。……まあ、狭い所だから特に何が見つかるとも思えないけど」 「わかったわ」 零が警部と話をしながら、注連縄の中に入り紅に触れている。 それを横目で見ながら、俺も狭い室内を改めて調べる事にした。 ……元より分かっていた事ではあったけれど、こんな狭い所に特に新発見なんてあるはずも無かった。 あ……でも畳はさすがに汚れがついてたりしているな。 窓もなくて日に当たらないためか、茶色く焼けたりはしていないけれど、それでも何かをふき取ったような微かな汚れはついている。 ……が、逆に言うとコレくらいだ。 「なんか見つかったか?」 「さっぱりね。そちらはどうかしら」 「閉め切られてるせいか、掃除の手が行き届いてない部分があるって事くらいかな」 「血の汚れなんて事はないわよね」 「……さすがにそれは無いんじゃないか? 赤い色でもなく時間が経って黒く固まったって感じでもないし」 「そう」 それに、鍵のかかった室内だ。血の汚れだとしたら、血のついた何かも一緒にあるはずだ。 紅の衣装や体は今二人で調べてたんだから、室内のどこにもない事になる。 それに……。 零をちらりと見る。 ここの鍵は零が今開けた。つまり、零しか入れないという事だ。 もしもここに何かあったのなら、それは零本人か、もしくは零から鍵を取って隠せた人物だけだ。 ……昨日の状況だと、それは限りなく難しい。 結局、俺と一葉ちゃんが見た血のついた包丁は見つからず、犯人が外に持ち去ったのだろうという事になった。 「……疲れた一日だったわね」 「零は特にだろ。……おじさんが亡くなったばかりなのにこんな慌ただしくて、ゆっくりする時間も無いなんてな」 「……そうね」 「でも一人で屋敷にいたら気が滅入るだけだもの。忙しいくらいでちょうどいいのかも知れない」 「お父様の事は全てが終わって、落ち着いたら考えるわ。今は……悲しんでる時間もないもの」 「…………そっか」 零が屋敷を見上げている。 それに倣うように、俺も如月家の屋敷を見た。 長い歳月を経たこの土地の名家だ。一族はこの屋敷が出来るよりも前からここに居て、生き人形を作り上げたらしい。 その当時の事は想像するしかないけれど、なんというか……今よりも自由に感じられた。 如月家の蜘蛛のシンボルと、その象徴のような屋敷が、伊沢の土地に張られた蜘蛛の巣であるかのように感じてしまった。 それは、この建物の中で幼い頃からお世話になった零の父親が亡くなり、今も犯人が見つかっていない事に由来してるのかもしれない。 ……つまり、俺が抱いてる拒否感の表れだろう。 「蜘蛛の巣というのは」 唐突に零が言い出した。 「ああ……誠一が何か言いたげな目で屋敷を見ていたから」 「……鋭すぎだろ」 「私はただの雑談と思ったのだけれど、蜘蛛についてでも考えていたの?」 単にタイミングが良かっただけらしい。 というか、目の前に蜘蛛を一族のシンボルにした屋敷があるのだから、俺も零も当然の思考の帰結かもしれないが。 「蜘蛛の巣というのは?」 話を先へと促す。 「捕らわれた物が逃げ出すには、自力で食い破るか誰かに助けて貰うかの二つしかないのよね」 「……そうだろうな」 そもそも簡単に逃げられるような物だったなら、今頃世界中の蜘蛛は餓死しているだろう。 「中にはかかりが弱くて、獲物が何もしなくても外れてしまう場合もあるらしいわ」 「そうなのか……なんか意外だ」 「それを聞いた時に、私も不思議に思ったのよ。人間は今の現状を変えるには、自分でもがいて努力をするしかないと思っていたから」 「何もしない事が最善手なんて、それまで考えた事もなかった」 「……なんとも零らしい話だな」 「でも、もがけばもがくほど蜘蛛の糸は絡まっていく。蜘蛛にしてみたら、獲物にはもがいて貰った方が良いという事なのよね……」 「今の話を聞く分には、そうなんだろうな。暴れればその分だけ体力を使うだろうし」 なんの気もなく返した俺の言葉に、零は少しだけ黙り込んだ。 「……今がそうなのかもしれないわ」 「今?」 「ええ。いきなりの事で私たちの身動きも取れなくなっている。犯人の意図は分からない。怨恨かもしれないし如月家に対する嫌がらせかもしれない」 「その中でも私達は明日の事を考えなくてはならない……。でもそれが決して正しいのか誰にも分からない」 無い無い尽くしの自縄自縛に近いのが今だ。 「もがけばもがくほど糸は絡まっていく。なら、抜け出せる機会が得られるまでじっとしているのも手なのかもしれないわね」 「……なんだかやるせないな」 俺たちは間違いなく当事者なのに、後は警察に任せてじっと待っているだけなんて心が焦る。 「屋敷に戻りましょう」 暗くなってきた空を見ながら言う。屋敷に戻る零の後に続いた。 「ちなみに、蜘蛛の巣からじっと待って抜けられる可能性って、どれくらいの確率になるんだ?」 「もがいて火事場の馬鹿力で巣を破った方が、勝率は圧倒的に高いらしいわよ」 「……ダメじゃん!!」 俺のぼやきに、零も苦笑していた。 「……疲れた……」 部屋に戻ると、そのままベッドに倒れこんだ。 正直な所、今すぐにでも眠りたいくらいだ。 昨日はろくに眠れずにあんな事になって、零の部屋で床の上に座って夜を過ごしていた。 眠った時間は電車の中でのうたた寝に等しいレベルで、その後は事情聴取やら零に付いていたり、屋敷のあちこちを見てたりと、ろくに休めてない。 その疲労が今ここに来て一気に出てきている感じだ。 「……寝ちまおう」 目を閉じる。 体は疲れている。心もくたくただ。 こうして目を閉じるだけで、体を包む倦怠感が睡魔を……。 「――――!!」 「うぐ……、げほっ、げほっ!」 鼻孔の奥によみがえる血の匂い。 それから子供の頃から親交のあった人物の変わり果てた姿に喉の奥からこみ上げる物がある。 「……はぁぁぁ……」 ベッドの傍らに置いてあった水差しから一口飲んで、喉の奥へ再び流し込む。 喉の渇きに起きなくてもいいようにと寝る前に準備した物だが寝る前に使ってしまった。 ……まだ量はあるから、朝まではこのままでいい。 今は何よりも、起き上がるのが辛い。 もう一度ベッドの上に身を横たえる。天井を見つめていたが、一度去った眠気は戻ってこない。 それでいて体を包む疲労や倦怠感は増しているのだから始末が悪い。 (……本当にどこの誰があんな事を……) 俺が起きておじさんを見つけるまでの事を思い出してみる。 ……が、どうにも細部があやふやになってしまって、いまいち時系列が正確に認識出来ない。 少し考えて分かった。時計なんて見る余裕が全く無かった。 だから俺が起きて、一葉ちゃんに会って、それからおじさんを発見して……と分かる事だけ思い出していく。 (……あれ? なんか違うな……) そう。そもそもおかしいと思った事があった。 (そうだ。外から誰かが入ってきていた。濡れた跡があった) 紅の部屋に行こうとした時に、濡れた跡を見つけた。 それからおじさんの部屋に行って、一葉ちゃんに会った。 「………………」 そこで一度思考を区切る。 あの濡れた跡を屋敷の人間が偽装する事は可能だろうか? (……出来なくはなさそうだけど、難しいよな……) あの時におじさんの部屋に居た一葉ちゃんには無理だ。 動機もなさそうだし……いや、それは今は関係ない。 俺の知る事の出来ない他人の内面じゃなくて、目の前にある現実だけを見て考える事にする。 まず俺が遭遇した順番……濡れた跡についてだ。 入り口からおじさんの部屋。それから人形の間に続いていた。 普通に考えれば、外から入ってきた誰かがおじさんの所に行って殺害。それから生き人形を持ち出そうとしたけれど鍵が掛かっていて断念……こうなるだろう。 実際警察も、このように考えてる気がする。 第一発見者である俺たちへの追及も弱かったし、俺たちへの態度も被害者に向けた物だった。 じゃあ誰が? (……儀式に来てた親族の誰か……とか?) 如月家の儀式は本来は当主がやるものだ。実際、前回はおじさんがやっていた。 更にその前の儀式も、おじさんか先代の当主がやっていたはずだ。 今回俺が呼ばれたのは、都合のいい年頃の男が居なかったからと言っていたけれど、俺である必要が無いのは、壮年だったおじさんが儀式をやってた事からも明らかだ。 なら……如月の儀式のためにわざわざ呼ばれた俺は、他の親族からすると、次代の跡継ぎと思われないだろうか? 「…………ううん……」 思わず唸ってしまう。 本当にそれが原因で自分が選ばれないと思い、自暴自棄になった人間が居たのだとしたら、動機の一端は俺のせいだ。 もちろん、俺が悪いとは思わない。こんな犯行をする人間が一番悪いに決まってる。 けれど、俺は全くの考えなしだった。 今回の事も旅費を持ってくれて久々に帰郷して、夏休みを過ごせるとしか思ってなかった。 少しは自分の立場について、考えても良かったのに……。 そうすれば状況が改善したなんて、偉そうな事を言うつもりも思うつもりもない。 でも、少し考えれば分かるはずの事を、全く考えもしなかったというのがどうにもたまらない。 (おじさんや零には分かってたんだよな……?) 確か、そんな話をした記憶がある。 そう……おじさんに儀式のついて尋ねた時も、先の事について考えるという話をしていた。 (先の事か) あの時には漠然と何かを考えていた。 夏休みを過ごして、途絶えていた零や忍、美優との親交も再開して、交流を深めようと。 具体的な事は分からなくても、漠然と『こうありたい自分』とでもいうようなビジョンが浮かんでいた。 でも……今はそれが白紙になっている。 零は今後どうするんだろうか。 おじさんを亡くしたばかりで、将来の事なんて決められるはずもない。 如月家が持っていた仕事も、今すぐ零が引き継げる訳もなく、どこかの分家か従業員が請け負う事になるだろう。 俺は……どうしたいのだろう? 眠れない夜を過ごしながら、自らに問いかける。 ……答えはすぐには出てきそうになかった。 ――ドンドンドンドンッッ!! 「……ん……」 耳をつんざく騒音が響いている。 ドアを叩く音――そう頭は理解しているのに、体が上手く動いてくれない。 「あの! すみませんっ!! いらっしゃいませんか!?一葉です! あのっ!!」 「……一葉……ちゃん……?」 酷く慌てている……何かあったんだろうか。 体の疲労が抜けきってない。全く力が入らないが、その間にもドアを叩く音は響いている。 昨日の今日でこれなら何かしらの緊急事態だろう。何とか力を入れてベッドから下りると、鍵を開けた。 「あの! お休みの所ごめんなさい……」 「一体何が……?」 「お婆様が居なくて! その……こちらに来られてないかと思いまして……!!」 「……ごめん。俺には分からない。おサエさんが居ないって、どういうことなんだ」 「あ……」 今の今まで眠っていた人間が分かる訳がない。 でも一葉ちゃんはそんな事にも気づかなかったみたいで、俺に聞き返されて改めて顔色を悪くしている。 「大丈夫。話はちゃんと聞くから落ち着いて……おサエさんに何かあった?」 「何かがあったのかどうかは、わからないです。わたし、なかなか寝付けなくて、それで喉が渇いて……」 「起きたらいなくなってたんです。お布団はそのままで、どこに行ったのか分からなくて……」 それで探し回っても見つからず、ここに来たという訳か。 「探したのは一葉ちゃん達が住んでる離れと、この屋敷?」 「えっと、離れは探しました。お屋敷は……一人だと怖くてそれでこちらに……」 「……なるほど」 まあ、怖いよな。昨日あんな事があったばかりだし。 それにおサエさんは昨夜はずっと俺たちに付いていた。同じような事があったと考えても不思議じゃない。 「分かった。屋敷は俺が見てくるよ。一葉ちゃんは……そうだな……」 「…………」 緊張にこわばった顔をしている。 ついて来るのが怖いのか、それとも一人残される不安か。 でも答えは決まってる。俺一人の方がいい。 「ここで待っててくれ。疲れてたらこの部屋のベッドで寝てて構わないから」 「あ、あの。でもそれは」 「いいから。ベッドを整えてくれてるのは一葉ちゃんだろ?そこで寝るなら自分の部屋みたいなもんだろうから、気にしなくていいって」 「ですが、その……ありがとうございます……」 俯く頭にポンと手を置いて、外に出られるように着替えをする事にした。 廊下に立たせておく訳にもいかないので、部屋に入れて手早く着替えた。 男の着替えなんてあっさりしたものだから、後ろを向いてて貰えばその間に出来る……と思ったのだが……。 何やら責任を感じてしまってるのか、手伝いの申し出を断る方が大変だ。 それでも、そんなやり取りが出来た事で、俺自身の緊張も解けているのは事実だった。 「……おサエさん、こんな時間にどこに行ったんだろう」 廊下を歩いているとどうしても昨夜のことを思い出してしまう。 あれからまだたったの一日だ。 それでいて、ものすごく長い一日だ。 まだ犯人は捕まっていない。凶器も見つかっていないから手掛かりすらないのが現状だ。 「……おサエさん、何か見つけたのかな……」 「…………まさかな……」 警察も一日中捜して何も見つけてないはずだ。 明日……いや、もう今日か。日が昇ったら山の中にも入ると聞いている。 そんな状態なのに、おサエさんが居なくなる……何の意味があるんだろう。 「誠一も気づいているのではないの?」 「零!? ……じゃない、紅か」 振り向いた先には深紅の着物をまとった少女が居た。 この恰好をしている時は紅。そういう約束だった。 「くすくすくす。私をそう呼んでくれるのね」 嬉しそうに――そして艶めかしく笑う。 「……お前、本当に零じゃないのか?」 「違うわ。私は紅。あなたがそう名付けたの。だから、あなたがここに居る間は私は『紅』だわ」 「……意味が分からん」 まあ、正直どっちでもいい。今は他にやる事がある。 「じゃあ零でも紅でもどっちでもいいから、とりあえず紅って呼ぶよ。それでいいだろ?」 「いいも悪いも、そういう物だから当然ね」 「おサエさんが居なくなったって一葉ちゃんが言ってたんだ。居場所を知らないか?」 「おさえ……知らないわね。そもそも、どういう人物なの?」 「…………」 全く動揺も考え込みもせずに首を傾げている。本当に零じゃないのか? ……いや、それはどうでもいい事だ。確かめたいなら零の部屋にでも行けばいい。 「この屋敷に長く働いている人だよ。俺たちが子供だった頃は教育係みたいなこともしてた。今は……亡くなったけど、如月のおじさんのお世話が主な仕事だったはずだ」 「その人物が居なくなったと……そうね。屋敷の中にはいないわね」 「わかるのか?」 「ここは私の《す》棲み《か》処よ。自分のねぐらにいる者は把握できるわ」 「じゃあどこに……」 「あちらではないかしら」 そういいながら、窓の外を示す。 「森……?」 昼間も零と話をした、小沢のある方向だ。 「信じるかどうかはあなたに――」 「分かった、ありがとう」 「…………拍子抜けするわ」 呆れた口調の紅に、改めて礼を言う。 「私が騙しているとは思わないのかしら」 「ああ、それならそれでいいんだ」 「どういう事かしら。そのような思考を持つ人間は初めてだわ。騙され、翻弄されると怒りを露わにするのが人ではないの?」 「騙す問題にもよるな……騙して財産奪われたりしたら怒るだろうし許せないと思うけど、今はそうじゃないからな」 何の手掛かりも無くて、どこに行けばいいかすら分からない。 ダメだったらまた違う所に行くだけだ。 「それじゃ外行ってくるけど……あ、そうだ」 「何かしら」 「この前会った時に、俺が会いに来るかどうかを選べみたいな事を言ってたけど、お前から会いに来たんだな」 設定はいいのかよと、言外に告げる。 それが分かったようで紅は呆れた顔になった。 ……零では、見たことがない表情だった。 「あなたが会いに来たでしょう? 私の部屋に。忘れたとは言わせないわ」 「…………なるほど」 確かにアレから人形の間を訪れている。 紅の中ではアレも会いに行ったという事になるらしい。……まあ、自室を訪ねたという意味ならそうなるのか……。 でも零に連れられて行ったのがカウントされているなら、それはそれで騙されている気分にもなる。 特に害がある訳じゃないから、別段構わないが。 「今しがた言った、俺が気づいてると言うのは?」 「ふふ、それをわざわざ聞くの? 自分で分かるでしょう」 「……分からないから聞いてるんだけどな」 俺が気づいてる……何に?今の状況のおかしさにか? それはとっくに分かってる。 あるいは、おサエさんが見つけた物……? 頭を振って考えを振り払う。今は紅と話し込んでる場合じゃない。 「それじゃ行ってくる」 「そう? 無駄足にならないといいわね」 紅は音もなく、廊下の先へと姿を消した。 「…………その前に」 「夜中に悪い。零、いるか? おサエさん来てないよな?」 ……返事は無い。寝てるかもしれない。 と思ったが、鍵は開いているみたいだった。 「…………なんだ」 部屋の中には誰もいない。 まあ、やっぱり紅が零なのだとしたら、今会ったばかりだ。あんな着物を着てたなら、戻しに行くにも時間がかかる。 でも……。 「……嫌な感じがするな」 零に紅の事を話した時、一貫して俺の夢だと言っていた。 如月の儀式は初代が作った『生き人形』に再び到達するための物と。 その為のインスピレーションを得るための催眠にも似た儀式で翌日の零は、俺にはっきり夢だと言っていた。 さっきの紅の発言からすると、俺が再び訪れた事で今のように外に出られるようになったと言う。 なら、零にとって俺を案内する理由なんてない。 あるいは……。 零と紅が完全に別で、紅の存在を知らないならば話は違う。 零にとって儀式はただのインスピレーションを得るためだけのモノに過ぎなくても、紅にとっては自らを起こすための物だ。 この理解と解釈の違いで生まれた齟齬なら、一応理屈は通る。 でも……。 着物越しであっても、触れた紅の体は人形の物ではなかった。 ならば、生身の人間が屋敷の住人である零に知られずに住み着いていた事になる。 警察の念入りな捜査が行われた直後で、それは無理がある。 紅に出会ったのはどちらも夜だ。 彼女は本当に人形であり、この時間限定でうろついてるという事だとしたら……。 「…………それこそまさかだ」 外に行ったと言う紅。今ここにいない零。 屋敷の外に向かう足は、自然と早くなっていた。 飛び出すように外に出た。 警官が見張りか、あるいは警護についてるかと思ったけどその様子も無い。 (……本当にいない……よな?) 外部からの殺人犯だった事も考えているはずだし、その線で捜査を進めていたはずだ。 なのに誰も残っていないなんてあるんだろうか? 「…………急ごう」 一葉ちゃんを安心させるためじゃなく、俺自身が安心するために、夜の森に向けて走り出した。 「はぁ……はぁ……っ」 夜の森は走り抜けるには明かりが乏しすぎる。 それでも来られたのは、こっちに戻ってきてから何度も歩いた道のりと、子供の頃から変わらない場所だからだ。 そんな慣れた道のはずなのに、辺りの闇が迫ってくるようで精神的に落ち着かない。 まだどこにいるか分からない犯人が、今にも飛び出してきそうで、動かしている足を止めたくなる。 でも、きっと止まってしまったら、もう動けない。 屋敷を出るまでは急いでいたのに、今は走っているのか歩いているのか分からないくらいになっている。 ……いや、夜の森だという事を考えれば、それでもまだ十分動いている方だ。 転ばず安全に行ければそれでいい。 ……でもそれが、本当に正しい事なのか自信がない。 自分から出てきたくせに、戻りたい気持ちに言い訳をつけてるんじゃないかと気が気ではない。 更に最悪なのが。 それらの思考全てが、この先にある『何か』を見たくない気持ちの表れなのかもしれないという事だった……。 静かな水の音が聞こえる。 小さな沢は時間を変えても、優しいせせらぎの音を響かせている。 「…………零?」 その中に佇む、一人の少女がいた。 「お前……何やって……」 部屋に居なかった零。こっちに行けと告げた紅。 頭の中でぐるぐると思考がめぐる。昨日見た零の姿が、ここで話していた会話が、光景が。 紅の見せた皮肉気な笑みが、楽しそうな笑顔が、俺を値踏みするかのような鋭い視線が。 頭の中にちらついて離れない。上手く言葉を出せない。 ……一歩近づいて、その足元に誰かが倒れている事に気づいた。 暗がりの中、月明かりに照らされた零はとても目立つ。 足元に倒れ伏す人物は半分以上が水に浸かっているようで、暗めの服装もあわさって分からなかった。 でも近づくたびに、その人物が着ている服が分かってくる。 「……誠一」 足音で気づいたのだろう。 振り向いた零の顔色は、月明かりでも色を失っているように見えた。 「……零……おサエさんは……」 着ている所を、何度も見た事がある。 子供の頃から慣れ親しんだ人物の姿を忘れるわけがない。 でも、どうしてそんな人が倒れていて、近くに零がいるのに何もしていないのかが分からない。 「びょ、病院に……」 「……誠一。落ち着いて」 「落ち着いて、いられるか……!」 「それでもお願い。手を貸して」 「手を貸す……?」 今この状況で何を? 手当? いや、それなら零が何もしてない訳がない。救急車を呼ばないと……いやでも、こんな所にどうやって? それとも――。 不意に更に嫌な事が頭をよぎる。それを、振って否定した。 「サエをこのままにしてはおけないわ」 「……わかった」 零に向けて一歩踏み出す。 途端に体から力が抜けるのを感じた。 「……誠一?」 「いや、何でもない……」 足が小刻みに震えている。 如月のおじさんの時はまだしっかりと歩けていたのに、今は全然いう事を聞いてくれなくなっている。 「ちょ、ちょっとだけ待ってくれ」 知らずに止まっていた呼吸を再開する。 息を吸おうとしても、上手くいかない。 「……大丈夫?」 零が近づいて来て、俺の背中に手を当てる。 何度もさすってくれると、少しずつ呼吸の仕方を思い出してきた。 「おサエさんは……」 その手に後押しされるように、水際に倒れ伏すおサエさんを覗き込む。 「………………っ」 唇を噛んで、震えを押し殺す。 おサエさんの目は倒れ伏して水に浸かっていてもなお、見開いたままだった。 その瞳は何も映していない。 月明かりしか光源が無いのが理由だけではない――生気を失った顔が物語っている。 「せめて水から出してあげましょう」 「……ああ」 おサエさんの体は濡れていて、とても硬い。 それが目の前の現実を改めて理解させるようで、胸の奥が苦しくなる。 小さくて軽い体のはずなのに、引っ張り上げるだけでも全身が汗だくになるほど苦労した。 「…………これ……!」 そうして起こした時に、手に固く何かを握りしめているのに気づいた。 おじさんの現場で一葉ちゃんが持っていた包丁に似ている。というか、同じ物なんじゃないだろうか。 水の中に落ちていたためか、それとも暗いためか、あの時に見た血の汚れは落ちているようにも見える。 おサエさんは首の所がぱっくりと切れている。 水に浸かっていたためか、今はもう血が止まっている。 傍目には包丁を使った自殺にも見える死に方だ。 「なんで、こんな……」 「分からないわ。でも、後は警察に任せましょう」 ハンカチを取り出しておサエさんの顔に被せた。 顔が見えなくなっただけでも、少しだけほっとした気分になったのを自覚した。 見開いた目、閉ざされないまぶた。固くこわばった口元と首の傷。 良く知る顔だっただけに、見た事もない表情を浮かべているのが、ものすごい恐怖となって襲い来る。 おじさんは顔が包帯で隠れていた。 それがどれだけあの時の怖さを軽減していたのか、今になって心の底から理解していた。 「…………はぁ……っ」 こらえきれないように吐息をついて、零が崩れ落ちた。 「零……?」 肩に手を乗せると、零の震えが伝わってくる。 「だい、じょうぶ……大丈夫、だから……。はやく、戻りましょう。警察呼んでサエを連れて帰らないと」 「…………ああ」 肩を貸すようにして立つのを手伝う。 間近に触れ合った零の体はとても細く、そして今にも壊れそうな程の震えが伝わってくる。 携帯は……取り出して止めた。 目の前であった事を話すだけなのに、何て話していいのか分からなかった。 戻るまでに話す内容を考えておかなければならない。 俯いたまま屋敷に向かって歩く零の足取りは酷く頼りない。 触れ合った所から、零の体温が伝わってくる。 それからボディソープとリンスの匂いに交じって、汗と血と脂の匂い。 それが誰の物か思い至って、胸の奥が痛くなる。 (おサエさん……) 厳しい人だったが本当に良くしてくれた。 あんな死に方をしていい人じゃなかった。 そしてそれは、零の親父さんもだ。 如月家の人には沢山の恩がある。そんな人たちが、なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。 「零……俺……」 「……誠一は、もう伊沢から帰った方がいいわ」 俺の言葉をさえぎって、零が言う。 「こんな事になってしまってごめんなさい。謝っても謝り切れないわ」 「お前が謝る事じゃ……」 「……でも、それしか私には出来ないから……」 俺に体を支えられながら、零が再び頭を下げる。 頬をかすめる髪の感触がくすぐったくも、零と俺との隔たりに感じた。 髪から漂うのは先と変わらない女の子の匂い。良い物を使っているであろうシャンプーとリンス。 それから……。 どこかで嗅いだ事のある、少し古い物の匂いがした。 日が昇った後は、警察の取り調べから始まった。 「では見つけた時の状況をもう一度教えて」 「一葉ちゃんからおサエさんが居ないと言われて……」 既に何度目かの話をする。 同じことを話させて発言に間違いが無いか、作り話ではないかどうか確認しているのだろう。 「見つけた時の状況は?」 「同じようにおサエさんを探していた零が先に来ていて、それから二人で戻って屋敷にいた警察に話をしました」 「なんでこうなったか、心当たりはある?」 「……全くないです」 「本当に? ここのご主人の事件についても心当たりはない?」 「おじさんは……如月家という大きな家の当主でしたから、様々な事情もあったんだと思います。でもおサエさんはただの家政婦ですから」 「ここの娘さんが、自分を差し置いて采配を振るっている使用人を邪魔に思っていたりすることは?」 ……握りしめた手に力を入れる。 挑発して怒らせようとしてるのか? 隠し事があったら、それでうっかり漏らすとでも思ってるのだろうか。 ……って、思いっきり乗せられて熱くなってるな。 「ありえません。零が本当にそう思ってたなら、おサエさんを解雇すればよかっただけですから」 「でも彼女も分家の人間でしょ? そう簡単に出来るの?」 「俺も分家の人間ですが、如月と関係のない土地に住んでます。それでいて、屋敷に遊びに来て儀式の手伝いなんてしてます」 「財閥だなんていってもしょせんその程度だと思います。家同士の繋がりより、個人の意思の方が問題だと思います」 「意思……じゃあ、誰かに恨みを買っていたりは?」 「……わかりません。でも俺からすると、おサエさんが人に恨みを買うような人物だとは思えませんでした」 「ふぅむ……」 メモを取っていた手を止めて、頭をがりがりとかいている。 ……如月のおじさんの時の事情聴取は、まだ俺たちが被害者の親族として穏便に扱っていたのだというのが良く分かった。 警察を呼んだおサエさんが亡くなった今、完全に俺も被疑者の一人として扱われている。 「家同士の繋がりはそこまでは無い……と」 「無い訳じゃないと思いますが、うちみたいな所もあるってだけの話です」 「そっかそっか。じゃあ君個人に聞きたいんだけれど、いいかな」 「……どうぞ?」 つまり如月家と関係なく俺自身の判断で答えろって事か。 「……この家の人、何か隠してるようなそぶりは無かった?」 「………………は?」 「質問が曖昧すぎたか」 ぎこちなく笑って、改めて言う。 「自分は前にもこの屋敷に来た事があってね。もしかしたら君ともそこで会ってたかもしれないんだ」 手元のメモを捲って、何かを探している。 「ああ……これだこれ。今から7年か8年くらい前か。その時にも如月家では儀式が行われていて、その数日後に火災が起きているよね」 「え、ええ……」 まだ子供だった頃、初めて儀式を見た時だ。 今回のように遠方にいる親族もこの土地に集まってきていて儀式の終了と共にそれぞれの家に戻っていく。そんな最中の出来事だった。 儀式の場所となった、分家の屋敷から火が出た。 夜中に出た火は気づかれるのが遅れて燃え広がった。派手に炎上したが、敷地が広かったため周辺の被害は少なかった。 まあ少なかったといっても、貰い火で自宅が焦げた所からすると、たまったものではなかったが。 というか、それがうちであり、引越しの遠因になっている。 取り壊して建て直すか、修理だけして騙し騙し使うか……。爺ちゃんの工房があったため、うちは後者を選んだ。 しかし現場になった所は、その程度では済まなかった。 儀式と移動の疲れからか、家人が逃げ出してくる事もなく焼け跡となった屋敷からは一家の死体と、今よりとても幼い一葉ちゃんが発見された。 状況から外に逃げられなくなったと判断した分家の主人が一葉ちゃんを地下室に逃がして、自分は他の家族を探しに戻って帰らぬ人となったと言われている。 そして帰る家を失った彼女を、ご主人も既に亡くし子供も独立しているおサエさんが、養子として引き取った。 零の親父さんもこの時に巻き込まれて、あの怪我を負ったはずだ。 (そうか……あれからもうそんなに経つのか) 当時、この屋敷や病院でも、警察の人を何度も見かけた。 ……今の話し振りからすると目の前にいるこの人も、その中に居たのだろう。 軽傷だった一葉ちゃんはともかく、重体だったおじさんはそれから長い間入院をしていた。 数度行った面会では殆ど会話は出来なかった。 俺が引っ越すまでついに起き上がって会う事もなく、遠方に行った後に退院したと手紙が届いていた。 「儀式の数日後に起きた事件という事で、関連性も改めて調べているんだけれど、何か気づいた事はないかな」 「……すみません。俺には全然。あの頃はまだ子供だったから、細かい事は覚えてないですし」 そう答えると、表情は隠そうとしているようだったが、明らかに落胆した様子を見せていた。 「そっか。まあ無理もないか」 「色々とありがとう。また話を聞かせて貰う事があったら、協力をお願いするかもしれないけれど」 「……はい。わかりました。俺で分かる事でしたら、何でも話します」 ……とは言うものの……。 紅の事については、何も話せていないのだった。 刑事が出ていってからも精神的に疲れを感じて、今も部屋の中に留まっていた。 零は帰れと言ったけれど、正直な所、警察がすんなり帰してくれそうにないかもしれない。 それどころか、ここから逃げるようにうちに戻ったら、容疑を深めてしまって面倒な事になるかも……。 「……今はそれどころじゃないけど」 問題は零と一葉ちゃんだ。 一度に親父さんとおサエさんを亡くし、これからどうするんだろう? 如月家が所有する企業の指揮は、零一人にいきなり押し付けるのは重すぎる。 けれど、おじさんが体を怪我してから随分と経っている。 その間、会社の経営をしてくれてる人がいたんだろうからもしかしたら、そこまで責任は無いのかもしれない。 (零も一緒に来ればいいのに……となると、一葉ちゃんもか) うちでいきなり二人養うなんて事は出来ないが、大財閥の如月家のお嬢様だ。そっちは自分でなんとか出来るだろう。 でも、こんな所に独りぼっちで置いていく訳にもいかない。 そもそも、この屋敷はあまりにも広すぎる上に不気味だ。 特に……。 「紅……か」 言葉に出して呟いてみる。 あの存在は本格的に謎だ。今の所、俺しか会っていない。 ……そう、俺だけが会っている。 もう零の変装でも勘違いでも何でもなく、実在のモノとして考えている。 昨日の事を改めて思い出してみる。 一葉ちゃんが俺の部屋にやってきたのは、日付が変わる頃だ。あの時におサエさんが居ないと聞いて、それから探しに出た。 屋敷の中で紅に会ったのも同時刻。外を歩ける恰好に着替えていたといっても、大して時間も掛かっていないのだから、これは気にしなくてもいい。 そこで、森の中に入ったと教えられた。 紅の事を零の変装だと思っていた俺は、念のため零の部屋にも寄っている。 零の部屋は二階の奥にあるから、紅と出会った所から移動して留守を確認して、屋敷を出るまで5分かそこらのロスだ。 そして森の中で、零と倒れ伏すおサエさんを見つけた。 紅が零だったとして、この間に俺より先に行く事は出来るだろうか? (……無理だよな……) 服を着替える時間を考えると、どうしても無理が生じる。 でもそうなると、この屋敷には前々から零によく似た零ではない紅という少女が棲みついている事になる。 (一体どこに……?) 先日警察を案内しながら、屋敷の中は隅々まで回っている。 入り口は警官が固めていたし、外も巡回をしていたはずだ。 屋敷の人間……例えばおサエさんが匿っていたなら、隠し通す事も出来たかもしれない。 その場合は仮に紅が犯人だったとして、おサエさんを殺す理由が……。 (…………本当に殺されたのかな?) というより自殺する理由が思いつかない。 そして俺個人の感情としては、殺人であって欲しいと思っている。 ……なんとも矛盾した感情だけれど、身近な人が死んだ怒りや悲しみといったものが胸の中にごちゃごちゃと渦巻いていて、何かをするにも気分を持て余してしまっている。 如月のおじさんや、おサエさんのような善良な人を殺す非道な犯人を想像して、それを捕まえる……あるいは復讐する事に意識を持っていって、何とか抑えてるような感じだ。 その対象として正体が分からない相手が犯人であって欲しいという、勝手な願望が混じってる事は否定出来ない。 ただ……。 正体が分からないから可能性にあげてるだけで、紅自身が俺に何か害をした事はない。 首元を噛まれはしたが、ただそれだけ。 虫に刺された程度のもので、今はもう傷も塞がっていて風呂で洗った時にうっかり強く擦って痛みを思い出す程度だ。 そもそも、昨日会った紅は、おサエさんの事も知らないようだった。 ……だがそれ自体はとぼければ済む事で……。 (……分かんねぇ。全然) あの儀式が何だったのか。如月家の悲願……生き人形とは何なのか。 どう見てもただの人形である如月紅が、どうして今も特別な物として伝わっているのか。 おじさんやおサエさんの死。それに伴う影響。今後の事。今現在の事。 零の事、一葉ちゃんの事。俺自身の事。 そして。 俺自身がどうしたいのか。 あらゆる出来事が胸の中を渦巻いていて、こうして身を横たえていても、疲れだけが体全身を支配していて、眠気すらやってこない。 「…………はぁ」 体を起こす。 こうして考えているだけじゃダメだ。 結局の所、おじさんやおサエさんが殺された理由も、零がどうしてあそこに居たのかも、紅とは何なのかも、俺は何一つ分かっていないのだから。 外からは太陽の日差しが入り込んでいる。 あれから屋敷に戻り、警察に連絡をした。 分かる範囲で事情を話した後は、俺と零はそれぞれの部屋に戻らされた。 警護の名目で部屋の前に人がついていたけれど、多分二人で打ち合わせをされたり、逃げたりしないように別々にされたのではないかと思う。 まあ本当に護衛が理由かもしれないし、それ自体は昨日警察を呼んだ時に、おサエさんが頼んでいた事だから、どっちが正解か分からない。 両方かなとも思うが、真意は不明だ。 ある程度協力的に情報を教えてくれた時と違い、何一つ教えてくれなくなっている。 この辺りも俺たちの扱いが変わったと感じる理由だ。 そして現場確認が終わり、とても長い事情聴取が終わり、こうして部屋の外に出る事が出来た訳だ。 「まずは……零だな」 今ごろどうしているだろう。 一人で残して置くのも不安だし、一葉ちゃんに会いにいっても何と声を掛ければいいのか、分からなかった。 部屋に行くと零の方も終わっていたらしく、部屋の中に招き入れてくれた。 「……おはよう。酷い顔をしているわよ」 「お前もな。寝不足の顔をしている」 「少しは眠れたのだけれど……どうしても思い出してしまって」 「そっか。……話をしにきたんだけど、大丈夫か?」 「ええ。構わないわ。私も誠一には聞きたい事があったから」 「わかった」 勧められるまま腰を下ろして、零に問いかける。 「昨夜、どうしてあそこにいたんだ?」 「サエに連絡がつかなかったから、探していたのよ」 「……俺と同じか」 「同じ? 誠一もサエに用があったの?」 「俺の用というより、一葉ちゃんに起こされた。おサエさんの行方が分からなくなったから、知らないかって」 「ああ……なるほど」 「多分それ、私のせいよ。お父様の事があって、サエが屋敷に詰める必要がなくなったから、その相談をするはずだったの」 「でも時間を過ぎても来ないから、離れに連絡をしたのよ。サエが居ないかと……それで連絡つかなくて居ないようだし、しばらく待っても来ないから、探しに出たのだけれど……」 「……一葉ちゃんの方もそれで心当たり探して、俺の方に来たって事なのか」 と、それで思い出した。 「一葉ちゃんにも連絡つかなかったのか? 確か起きたらおサエさんの姿が無かったような事を言ってたけど」 「一葉自身とは話していないわね。離れを呼び出す内線があるから、それを使ったのだけれど……もしかしたら、それで一葉が寝ていた所を起こしてしまったのかもしれないわ」 「そういう事か……で、何で森に?」 「屋敷にも居ない、離れにも居ないでは、他に心当たりが思いつかなかったのよ」 「最初は車を出しているのかと思って見にいったのだけれど、そちらはそのままあったから」 「……危ないとか犯人がいるとか、そういう事は考えなかったのかよ……」 「……全く思わなかった訳じゃないけれど」 「なんで俺や警察を呼ばないんだよ」 「……誠一は考えたけど、警察は考え付かなかったわね」 「なんで?」 「あなたの方も態度の変化を感じたんじゃないの?どうせ日が昇れば顔を合わせる人たちなのに、こちらを信用してないのが明白だわ。わざわざ呼び出したくない」 「気持ちは分かるけど……」 でも結果的にそれでおサエさんを見つけた訳か。 「今度はこちらから聞かせて貰うわ。誠一はどうしてあそこに?」 「おサエさんを探してる時に、あっちに行ったって教えてくれた人がいるんだ」 「…………えと、ちょっと待って。さっき一葉に夜中に起こされたと言ってたわよね」 「その誠一にサエの居場所を教えた? という事はこの屋敷に誰か人が来ていたの?」 零はきょとんとして、目を瞬いている。 「それこそおかしいじゃない! どう考えても、それが犯人に決まってるわ! じゃなかったら、知るはずがないもの。なんでそんな事を黙ってるのよ!」 「それは……」 零だと思ったから、紅の事を話しても否定されたから。 そういう事情はあるが、零にそのまま言っても納得して貰えるかどうか、分からない。 「……そいつの事を知りたいと思ってるんだ。で、零にも付き合って欲しい。具体的には鍵を借りたいから移動しながらでもいいか?」 「…………」 訝し気に見据える目を、真っ直ぐ見返す。 ややあって、ため息をついた。 「……分かったわ。そんなに遠い所ではないのでしょうね」 「『人形の間』だよ。最初にそこで出会ったんだ」 零に鍵を開けて貰い、中に入る。 目の前に置かれた人形は相変わらず雰囲気が零に似ていて、昨夜も見た着物を身に纏っている。 人形が鎮座する姿は屋敷の中を警察を案内していた時と同じだ。 (同じ?) 自分の思考に違和感を覚える。 元の色が赤だから、色が混じっていて気づかなかった。顔を近づけてみると、その違いは明らかだ。 「これは……」 同じに見えた人形は、昨日見た時から様変わりしていた。 「……ありえない。なんだこれ……」 「誠一が会ったというのは、コレなの?」 「あ、ああ……昨夜もこの着物を着ていた」 高い着物だろうに、血で汚れて染まってしまっている。 それでもどこか調和のとれた印象すらあるのは、元々この人形が生きてないモノだからだろう。 むしろ、生々しい汚れが入った事で、ただの無機物の印象から生物らしい存在感を得ているように感じられる。 (そんな馬鹿な……) 人形の頬に触れてみる。 ……硬く、冷たい。木の質感だ。 「……人形だ……」 「当たり前じゃない」 「でも、昨夜は! いや、その前もこれは」 「それを見たのも誠一だけなのでしょう?」 「……そうだけど……でも」 そしてふと気づいた。というより、ずっと考えていた事を、改めて思い出した。 紅を名乗れる人物が俺の目の前にいる。 零自身がこの着物を着て、俺の前に現れたら……明るい昼はともかく、夜間だったら気づくことが出来るだろうか? そして――。 目の前にいる零は、本当に常に零で在り続けたのだろうか、と。 「……普通に考えれば、この人形の着物に血を掛ける事で捜査のかく乱を狙った……とかだよな」 「ここに入る方法は? 鍵は私の部屋にあったのよ」 「零が居ない時間を見計らって」 「……では、誠一が会ったという、この着物を着た人物は?」 「それは……」 紅に会ったのは零が部屋を空けている間だ。 あの時はこんな汚れは無かった……はずだ。 零が着ていたのなら、着物を脱いで俺より先に回っているのは時間的に無理がありすぎる。 零じゃないのなら、一体誰が着ていたのかという根本的な話になる。 (でも紅が居るなら、そもそもそんな話は必要ない訳で……) ではその紅はどこに? ……彼女からやってきた時以外、俺は姿を見た事はない。 いや、違う。 一度だけ俺から会いに来たことがあった。 この部屋に、儀式の時に。 あの時に紅も会いに来てくれたと言っていた。 紅をまた見つけ出す? でもどうやって? 俺が紅と話していた時、おサエさんはもう亡くなっていたはずだ。 なら紅の着物には血がついてないとおかしい。 血をつけるだけなら後からでも出来る。 ここに自由に入れる鍵を持っているのは零だ。 けれど、彼女がそんなことをする理由が全くないという一点で大きく矛盾してしまう。 そもそも、一番疑われる第一発見者なんだ。 それならば、妙な事態を引き起こすよりは、堂々として捜査に協力した方が疑われずに済むだろう。 こんなことをするメリットは零には無い。 無いのだが……。 仮に。 そう、仮にの話だ。 紅という人格が零にあったとして、その人格が零を陥れようとしているとしたら、零なら自由に入れるこの部屋の物を持ち出し細工をするのは、かなり簡単になるんじゃないだろうか。 「誠一?」 「あ……なんでもない……」 気が付けば、零をじっと見てしまっていた。 「どうかしたの?」 「いや……やっぱり人形がよく似ていると思って。俺が見た紅も、本当にそっくりだった」 「違う所は? 本当に私だった?」 「……お前だったとは言ってない。零がやるには無理がありすぎるから」 「……今の誠一の目は、そうは言ってなかったわ。何か気づいた事はないの?」 「お、おい……」 詰め寄られる零の勢いに押されて、一歩――人形の方へ下がる。 と、どこかで嗅いだ事のある匂いが鼻をついた。 「あれ? これ……」 注連縄ギリギリの所まで来てしまっている。元から手を伸ばせば触れられる位置だ。顔を近づけてみる。 「どうかしたの?」 「この匂い……着物って特別な匂いがしたりするのか?」 「そうね。防虫剤もあるし、元々布は匂いが移りやすい素材だから。誠一も街で食事してカレーの匂いが移ったり、近くでタバコ吸ってる人がいたら服に匂いが付く事はあるでしょ」 「……それが他人の体に移る事は?」 「同じ布素材や、髪なんかには移りやすいわね」 髪……そう。髪だ。 あの時の零からはこの着物と同じ匂いがした。 という事は零はこの着物か、あるいは同じような物を身に付けていたという事になる……? 「どうしたの?」 零が問いかけ、手を伸ばしてくる。 俺は思わず――。 ……思わず、身を離してしまった。 「……誠一?」 「あ……っ。わ、悪い。ちょっと考え事してて」 「……気づいた事と言えば、この人形の着物と同じような匂いが、昨夜の零からもしていた。それで思わず……悪い」 「そう……構わないわ。それなら驚くでしょうし」 「怒らないのか? 今すごく失礼な事をしたと思うんだけど」 「……別に怒らないわよ。誠一が変な顔をしている理由が分かって安心した所」 「古い着物なら似たような匂いはするわ。昨日は夕方から正装をして親族と話し合いをしていたから、そこで匂いが移ったのでしょうね」 「正装?」 そう聞くとドレスなんかを想像するけれど。今の口ぶりだと着物なのか。 「如月家らしい服装よ。そこの人形が着ているのと似たような古い着物。……ただし色は黒だけれど」 「それはまた随分…………気合い入った服装だな」 「極道の女とか言いたそうな顔をしていたわ」 くすりと笑う。 零れ落ちた笑顔につられるように、俺も肩の力が抜けた。 「せっかく、思っても言わなかったのに」 「考えてる事くらい分かるわ」 そこで表情を引き締める。 「この事も警察に話しておきましょう。誠一がもう少しここに居る事になってしまうのは、申し訳ないと思うけれどね」 生き人形の件も話して、俺たちは外に出てきた。 屋敷の中を歩いていた人物が居るという事で、その痕跡を調べるらしい。 「……さすがに如月の生き人形まで証拠品として押収される訳にはいかないわね」 疲れたようにため息をついている。 「その様子だと持っていかれずに済んだんだ」 「着物に血痕が付いていたというだけだもの。着物の血だけサンプルを取っていって貰えば済む話だわ」 何でもないように言っているけれど、それだってかなり難航したんじゃないだろうか。 立て続けに事件が起きた事で俺たちの扱いは悪くなってるけどそれでも事件に直接関係ない部分で、如月家に無理を言える程ではないらしい。 もっとも、人形の体の一部が凶器に使われていたり、そういう場合は違うのだろうけれど。 「一葉ちゃんは?」 「寝ている……はず。昨日もろくに眠れなかったようだし、サエの事を教えた時にショックを受けていたから」 「……そっか」 「それにしても暑いわね。屋敷を調べるといっても、何も外に出さなくてもいいでしょうに」 「……だな」 軽く相槌を打ったが、あるいは家人が誰も居ない状態で調べたかったのかもしれない。 警察の言い分としては、不審者が屋敷に入り込んでいるなら隠れ潜んでる犯人に襲われるかもしれないから……と言っていたが、それなら一室を用意すればいいだけの話だ。 昨日屋敷を案内した時も、俺たちが付いていた。 ……別に見張っていた訳じゃないけれど、警察からはそう解釈されても仕方ないと思う。 「終わったのかしらね。呼んでいるわ」 見ると、昨日その屋敷を案内した警部が片手を上げていた。 「俺も行こうか?」 「じゃあ離れで一葉の様子を見てきてちょうだい。……きっと良くない話でしょうから、まずは私が聞いて来るわ」 「……わかった」 おサエさんと一葉ちゃんが住んでいる離れも屋敷の裏手の方にある。 車を留めるガレージがあって、そこから少し歩くと離れだ。 玄関で靴を脱ぐと、屋敷の離れである平屋の日本家屋に入った。 こちらもしっかりした造りの家で、古ぼけてはいるが住むには十分だ。 電気の点いていない薄暗い家屋を歩いていく。 襖の隣、木の柱に一葉ちゃんの部屋らしいプレートが下げられていた。 軽く柱を叩いてノックの代わりにする。 襖は破いてしまうのが、少し怖かった。 ……返事は無い。 「入るよ」 小声で言って、中を覗いてみる。 「……すぅ……すぅ」 布団が敷かれていて、一葉ちゃんが寝ていた。 「…………」 どこかホっとした気持ちがあった。 一つはよく眠れているという事。 二つ目が、見つけた時におサエさんのような事になっていないという安心。 (……何考えてんだか。俺は) ともあれ、どこに犯人が居るか分からない現状、一人にしておくのも不安がある。 ただ、屋敷の方にもこの離れの周りにも、大勢の警官がいる状態では、外から人が来ることはないだろうけれど。 (……戻るか) 起こさないように気を付けながら、一葉ちゃんの部屋を出る事にした。 戻ってくると、零はそこで俺を待っていた。 「よく寝てたよ。少し安心した……零?」 表情が見るからにこわばっている。 「……警察は一度撤収するみたい。中で話をしましょう」 「あ、ああ」 きっと良くない事を聞かされるのだろう。 そんな確信めいた予感があった。 「……結論から言うわ」 疲れたように音を立てて座り込む。 普段の零にしては珍しい仕草に、嫌な予感だけが膨れ上がっていく。 「サエ、自殺だそうよ」 「……………………え?」 頭が、回らない。 何を言われたのか、上手く理解できない。 「ちょ、ちょっと待ってくれ! なんで……おサエさんが、え……っと、どうして……」 「知らないわよっ。分かっていたら私が知りたいくらいだわ」 「……あ、ああ……だよな……でも、本当にどうして……」 零が苛立たしげに髪の毛をかきあげる。 「懐に遺書があったそうよ。サエの字なのは間違いないようね」 「…………それにはなんて?」 「……お父様を殺した罪に耐えられなくて、自ら命を絶ったそうよ」 「……うそ……だろ……」 「…………私もそう言いたいわよ」 両手で顔を覆い、俯く。 「…………おサエさんが……」 「コピーを貰っているわ。後は誠一が読んで」 「あ、ああ」 手を伸ばし、受け取った紙に視線を落す。 「出来れば自室でお願い」 「……だな。分かった」 立ち上がり、背を向ける。 「……ぅ……っ」 扉を閉める前、押し殺したような泣き声が聞こえてきた。 ……俺はそれを努めて聞かないようにした。 『この手紙をお嬢様と誠一様に御見せ下さいますよう、お願い申し上げます』 おサエさんの遺書は、そんな一文から始まっていた。 その中には、長年に渡る本家へ仕える事と、自らの体力の衰えを実感した事。その状態で主人の介護をはじめとする、昼夜を問わない業務に心身が疲れ果てた事などが書かれている。 今回、儀式を行うにあたり、主人が出来ない分の親族への対応や、客人の世話も回ってきて人員の補充を訴えた事、それに対し、無下に断られた事に疲れを覚えた事が綴られている。 同時に分家筋である使用人の自分が、本家の命令に逆らえず我慢するだけの日々であったことも添えられていた。 『私がお仕え出来なくなった後、一葉の将来も同じことになるのを恐れ、大きな過ちに手を染めてしまいました』 『浅慮を行った事、今では後悔しかありません。その為、わが身を持って旦那様、お嬢様にお詫び申し上げます』 『成長なされた誠一様にお会いできた事も喜びです。お嬢様、誠一様。一葉の事をどうぞよろしくお願い致します』 ……ここで遺書は終わっている。 「…………嘘だろ……」 知らず、読みながら腰を浮かしかけていた。 椅子に座ろうとしたが、膝の力が抜けてどさりと音を立ててクッションが大きく跳ねる。 さっきの零も同じような事をやっていたなと、頭の片隅でぼんやり思った。 「…………嘘だろ」 同じ言葉しか出てこない。 「………………おサエさん」 そんなに絶望を覚えるほど大変だったのだろうか。 もしかしたら、俺に手伝って欲しいと言うのは、心の底から救助を求める悲痛な訴えだったのだろうか。 おじさんは紳士然とした口調の裏で、側についてくれている人の事も考えない人だったんだろうか。 …………分からない。 俺がこれまで抱いていたイメージと違いすぎている。 でも、これが理由で事件が起きたという報道も、テレビやネットで見かけた事がある。 だから、判断が付かない。 それでも現実が理解できなくて、ただ半ば思考停止したまま何度も遺書を読み返してしまっている。 「………………」 呆然と、何度も、何度も。 頭から終わりまで、繰り返し。 おサエさんは笑わない人だった。 子供の頃から厳格な雰囲気を持っていて、昔の俺はそれがとても苦手だった。 でもある時、零と共に外で遊んで――何の気なしに、迎えに来たおサエさんに捕まえたカブトムシを自慢した事があった。 見せた後に、後悔した。 そんな物を屋敷に持ち込んで――そう言われると思ったから。 でも厳格に引き締められていた顔を緩めて、こういった。 『それはようございました』 無邪気に遊ぶ子供たちを眺める温かい眼差しだった。 それが忘れられなくて、俺はおサエさんの事が怖くなくなった。 色々と話をするようになった。 彼女は生まれも育ちも伊沢が地元で、虫取りのスポットも俺よりも良く知っていた。 『旦那様や、卯月家の方も子供の頃は同じような目をしていらっしゃいましたよ』 おじさんや親父の昔も聞かせて貰った。 そんな事を繰り返し、お互いに気軽に話が出来るようになってすっかりおサエさんに懐いていた。 尤も、普段はいつもの厳めしい表情だったから、気軽な雑談という訳でもなかったが……。 でもそれが、怒っているのではなく、神経を集中しているのが子供心に良く分かっていた。 子供は目を離すと何をするか分からない。勝手に危険な事をしたり、好奇心で蛇に手を出すかもしれない。 そんな状態に遭わないように、遭わせないように、しっかりと厳しく見守っているのだと、理解が出来ていた。 (……そうだ。見守ってくれていたんだ) 如月家に関係なく俺も含めて、厳しくも優しく見守ってくれていた。 そんなおサエさんが、果たして遺書に残すほど心を病む程の事態になるだろうか……? (…………分からない……でも、それだけじゃない気もする) 人は時間と共に変わっていく。 俺だってあの頃のままの俺じゃないし、おじさんやおサエさんもそうだろう。 でも、その変化には元になる下地があるはずだ。 自分が疲れたのですべてを投げ打ってしまうという、今の遺書はその下地の部分が抜け落ちている気がする。 「……じゃあ……どういう事なんだ」 そうして一番はじめに脳裏をよぎったのが、おサエさんは誰かを庇っているという物だった。 「じゃあ、誰を……?」 ……一人の少女の姿が頭をよぎったが、努めてその事は考えないようにしていた。 少なくとも、おサエさんの遺書に感じた事は、あくまで俺の想像にしか過ぎない。 でも、その違和感を解消しないと俺自身が納得できなかった。 昼間よりも警察の姿は減っている。 その中に見知った顔を見つけて、声を掛けてみた。 「どうも」 「ん? ああ、君か……何かあったのかな」 「特にそういう訳ではないのですが……あ、いえ、遺書の事は聞きました」 「……ああ、うん……こちらも見たよ。指紋なんかを取って調べるために、本物の方は警察で預かっている」 「帰り支度しているように見えるのは、そのせいですか」 「そうだね。これが本物なら事件はそこで終わりになるし、様子見をしつつ撤収になるだろう」 そこで言いづらそうに言葉を切った。 「……君達にとっては一番辛い話だろうけれど」 「…………いえ……」 外部から営利目的の犯人がやってくるより、信頼していた人の方があまりにも辛い。 憎むべき相手もおらず、手を汚すに至る悩みも相談して貰えなかった。 既に終わってしまった事なのだから、このまま現実を飲み込んで生きていくしかなくなってしまう。 「携帯の番号を渡すから、何かあったら連絡をして欲しい」 「……分かりました」 メモを受け取る。090から始まる番号が書かれている。 「それから、人形が着ている血の付いた着物なんですが、あれどうなったんですか?」 俺が尋ねると刑事は目に見えて苦い顔をした。 「ああ……アレか……。本当は預からせて貰えると良かったんだけれど、ここの娘さんに強く反対されてね……何でも数千万円もするんだって?」 「え……そんなにするんですか……?いや、如月家の家宝が着てる物だから、それくらいするのかもしれませんけれど」 「そんな高い物に傷をつけたりしたら、いくら警察とはいえさすがに賠償も簡単じゃない。お嬢さんの言う通り、血液のサンプルだけ取らせて貰ったよ」 「そうですか……」 感心して返すと、刑事も苦笑する。 「自分からすると、正直この屋敷は怖いね。どこに転がっている物が高級品なのかさっぱり分からない」 「迂闊に触って弁償を求められたら、給料何年飛ぶか想像できないよ」 「……そうですね」 このロビーにあるからくり人形にしてもそうだ。 夜中に見ると侵入者を威圧するだけの物だが、昔からあるだけに、価値も高そうだ。 「おっと、ではこれで失礼させてもらうよ」 「あ! すみません、もう一つだけ」 「なんだい?」 「屋敷の中も全部調べたんですよね。誰か人が居たり……その外から入り込んだり、中に隠れ潜めるような場所があったりはしなかったですか?」 「……そう考えたくなるのも分かるけれど」 どこか痛ましそうな目でこっちを見る。 「からくり人形の屋敷だけあって、抜け道みたいなのはあった」 「抜け道……!?」 「いや、期待を裏切ってしまうけれど地下の工房に上の廊下から入れるとか、蜘蛛の巣が張っていて通った痕跡がないとかその程度の物だったよ」 「そうなんですか……」 「仮に入り込んだ人間が居たとしても、あそこに隠れるのは難しいだろうね。何より蜘蛛の巣を壊さず移動できるとは到底思えない」 「分かりました……ありがとうございました」 ポンと俺の肩を叩いて、刑事は同僚らしい人の所に歩いていった。 警察が撤収を終えた屋敷の中、さっき話をしていたロビーまで出向いてきた。 (そうだよな……外部の人間だったら不気味でおかしな物でも内部の人間からすると価値が高いんだよな……) 屋敷のあちこちに置かれた人形を見ていく。 (警察が遺書をすんなり信じたのは、内部犯の可能性を元から疑っていたのかな……?) 外部の人間なら、価値を知らないなら屋敷のあちこちにあるからくり人形を壊したり、粗雑に扱ったりするだろう。 如月家に犯行に侵入するほど下調べをしているなら、その価値も分かっているだろうし。 (内部犯に見せかけるために、手を付けなかった可能性は?) (…………ありそうだ) でも想像だけじゃどうしようもない。 どちらもあり得る物として、調べていくとしよう。 あの日訪れた時以来の、おじさんの部屋に向かっている。 あの時、外は大雨だった。廊下に濡れた足跡があって、それがここまで繋がっていた。 「……あ、しまった」 警察なら足跡の大きさも測っているに違いない。 大人か子供か、どんな靴を履いていたのか、それが分かるだけでも、かなり違うはずだ。 この辺りはすぐに気づいても良かった。 こんな調査に全く慣れてないから、思いもつかなかった。 ……まあ、今出来ない事はいい。 改めてあの時から思い出していくとしよう。 あの日見たのと同じ、おじさんの部屋だ。 今は遺体も外に出されている。 警察の方で司法解剖が行われているはずだ。 血に汚れたシーツなんかも証拠品として持っていかれている。 見た目だけは元通りにされているのが、主のいなくなった部屋の寂しさをより強く実感させていた。 「……包丁を持った一葉ちゃんが居て……」 投げ出された包丁が絨毯に落ちた。 指紋をつけないように、そのまま残しておいたのだけれど今にして思うなら適当な布で包んで、証拠品として確保するのが正解だった。 冷静なようでいて、考えが全く回っていなかった。 ……こんな事に場慣れもしたくないけれど。 それから零の部屋で、一夜を明かした。 その前に、おサエさんが様子を見に行って……包丁を確保したのはその時か。 「…………あれ? どうしてそんな事をしたんだ」 おサエさんが犯人なら、そもそも凶器を持ち去ればよかったはずだ。 現場に残した挙句、後から回収する必要なんてない。 それともとっさの犯行だっただけに、気が回らなかったんだろうか。 ……それもありえなくはない。 俺も今になってみれば適切な行動が思い浮かぶのに、あの時はいっぱいいっぱいになっていて、思いもしなかった。 より重たい状況に置かれたおサエさんでは、より判断が難しいだろう。 「となると……」 人形の間も見に行こう。 あの着物に血を付けた犯人が居るはずだ。 ひとまず紅と人形の関係は考えない。 両方ともモノとして考えて、それで状況だけで判断をする。 (まず、あの時に見た紅と人形が着ていた着物は同じか?) ……難しい事だけれど、同じじゃないかと思う。 いくら如月家とはいえ、何千万もするような着物を何着も持っているとは思えない。 何千万もするからくり人形が何体もある……というのだとすんなり納得できるけれど。 では同じとして、紅……か零か、あるいは別の屋敷に隠れ潜む人間かはひとまず置いておく。 新しく知ることが出来た情報……この屋敷の中にある隠し通路は使う事が出来るだろうか? 「警察もすべてを把握している訳じゃないはずだよな。……でも、俺もそんなの知らなかったな」 子供の頃から遊び場にしていた。この屋敷で行ってない所は殆ど無かった。 それこそ、地下の工房と人形の間くらいだ。 零もそんな話を出した事がない。 尤も、蜘蛛の巣が張られていて誰も通った事がないのなら知らないのも当然かもしれない。 足を踏み入れた事がない訳だから。 (でも、警察が見つけていない通路があって、そこを使ったとしたら……) 紅として俺の前に出てきて、即座に着物を脱ぐ。 俺が零の部屋を訪れている間に、秘密の通路で外に出ておサエさんの所に行っている。 ……そんな曲芸じみた事は可能だろうか? 「…………」 無理だ、と頭の冷静な部分が判断を下す。 通常の服の上に着物を纏えばいいから、脱ぐだけなら早着替えは出来るだろう。 ただ、前提になってる部分がものすごく都合のいい要求が必要になっている。 廊下の突き当り、人形の間は今も閉ざされていた。 やはりここに入るには、鍵が必要なようだ。 となると……必然的に血の細工が出来たのは、零しかいない。 (でもそれだとおかしいんだよな) 零がそこまでして捜査をかく乱したいなら、犯人か少なくとも共犯者が零になる。 でも、おサエさんの犯行と自殺でひとまず決着を終えてるのに改めて火種を入れる必要はあるんだろうか? そして何より、そこまでするだろうか? 「…………零」 あの時、ここで零を真っ直ぐ見る事が出来なかった。 まさかという思いに縛られてしまって、距離を置いてしまった。 零は気にしていない風だったけれど、俺自身の心には今も棘が刺さっている。 「くすくす。あら、会いに来てくれたの?」 「――――」 不意に、耳元から艶めかしい声が飛び込んできた。 肩には女の手が乗せられている――が、体温を全く感じない。 「――紅……っ!」 一瞬の硬直の後、慌てて振り返る。 その時には紅は距離を取っていた。 いつもの紅の着物だ。 そこに血の跡は……分からない。遠くからだと見えない。 でもついていないようにも見えた。 「お前! なんで……!」 「誠一が会いに来てくれたのでしょう?」 くすくすと、可笑しく笑う。その声は艶めかしく――でも俺には、どこか不快に響いていた。 「お前本当になんなんだよ!」 「あら、一体どうしたのかしら。何をそんなに苛立っているのかしら」 俺の反応が新鮮なのか、楽しそうに笑い続けている。 「……色々あったんだぞ。お前は何を知ってる?お前も、この事件に関わってるのか?」 「そうねぇ」 指先を口元に付けて、にこりと笑う。 無邪気な――それでいて毒を感じさせる笑顔だ。 「私は関わっていないわ」 「…………」 信用出来ない、と言おうとした。 ……が、口に出すのは堪える。 自分から聞いておいて、望んだ答えではないからといって拒否するのはあまりにも身勝手だ。 それに、少なくとも紅は嘘を言った事が無かった。 おサエさんの場所も教えてくれた通り合っていた。 ただ、その結末がとても酷く――どこまで紅が関わっているか判断が出来ない。 「お前は、零じゃないのか?」 「私は紅。あなたがそう名付けてくれたのでしょう?」 「……読み上げただけだ。名付けた訳じゃない」 「どちらでも同じ事よ。だって私は」 不意に紅との距離が縮まる。 まるで目の前に瞬間移動してきたかのように、動作を感じさせない動きだった。 あの時のように首元を噛むかのように、口を開ける。 でも囁かれたのは別の言葉だった。 「あなたの伴侶なのだから」 ちろりと、舌で舐め上げられた。 「――っ」 背筋に悪寒が走り、思わず距離を取る。 突き飛ばすより先に、紅は元の位置に戻っていた。 まるで獲物が味見をするような、巣に掛かった餌を吟味するような、そんな動作だった。 「……お前が本当に零じゃないというなら、零に会わせる。ついて来て欲しい」 「へぇ? そうねぇ。どうしようかしら」 「伴侶だとか言うなら、少なくとも敵じゃないんだろ?なら言う事を聞いてくれてもいいはずだ」 「その場合は私が一方的に聞くだけなのは、対等の関係とは言えないわよね」 「……何が望みだ」 「そうねぇ……ではこうしようかしら。私にあなたの種を貰うわ」 「…………は?」 「何度も同じことを言わせないでちょうだい。伴侶という事を持ち出したのはそちらもでしょう?ならば、これは自然な事だわ」 「……なんでそんな条件を」 「さあ、どうするの? この約束を交わすならば、言う事を聞いてもいいわよ」 紅は返事を迫ってくる。 「く……わ、わかった」 「ふふ、楽しみ。約束よ?」 そうして背後に向けて、駆け出した。 「お――おいっ!!」 「捕まえてみなさい。手加減はしてあげるから。こういう振る舞いもするものなのでしょう?」 「くっそ……ほんとにお前は何なんだよっ!」 翻弄されているのを自覚しながら、その背を追って駆け出した。 「ふふふ、あははははっ!」 紅は哄笑を上げながら、体重を感じさせない走りで屋敷を駆け抜けていく。 「くっそ……待て、お前……っ!!」 全力で走り、距離が近づく。 そこで更に足に力を込めて、後一歩を縮め手を伸ばす。 ――が、袖を捕まえられる寸前になると、紅はまた軽やかな足取りでひらりと交わし、距離を開ける。 追いつき、捕まえられそうになると、また急に方向を変えて俺から逃げていく。 最初から捕まる気なんてないのに、わざと近づけて弄んでいる。 追いかけながらも、痛感する。元から遊ぶ気だったのだと。 「待てっ! 紅……!!」 廊下は一本道だ。 紅はひらりひらりと舞う様に跳ねながら、時おり、俺の進みを確かめるように振り返っている。 その瞳には楽しげな笑いが浮かんでいる。 とても無邪気に――弄んでいる。 そこに感じるのは子供じみた残酷さだ。 情緒面をどこかに置き去りにしたように、超然的な高みから見下ろしているような――強者の悦びがある。 実際、そうなのかもしれない。 (あれが人に出来る動きなのか……?) 始まって数分にして、既に息も絶え絶えになってしまっている。 俺にあわせて、追いつきそうになるくらい速度を落として、後一歩のスリルを楽しんでいる。 「楽しいわねぇ、誠一」 「どこ、が……だよっ。げほっ、げほっ……!」 苦しい時に無理やり言葉に出したせいで、息が詰まる。 「大丈夫? お水持って来てあげましょうか」 そして紅も足を止めて、俺の顔を覗き込んでいる。 「この――っ!!」 「ふふ、怖い怖い」 伸ばした手は、後数ミリという所でかわされた。 ひるがえる袖が指先に触れて、それだけが紅に届いた感触だった。 鬼ごっこなら今のでもいいかもしれないが、捕まえるには到底いたらない。 「さあ、こっちに来て誠一。私を捕まえて!私だけを見て欲しいわっ!」 「お前は……なんなんだよ。何がしたいんだ!」 「それを決めるのもあなたよ。だって、伴侶なのでしょう?」 くすくすと笑いながら、闇の中を駆けていく。 (答える気なんて無いって事か……!) 再び無理やりにでも肺に酸素を送り込み、紅を追った。 気が付けば、俺の部屋の方までやってきていた。 「……どこだ?」 この先は行き止まりだ。俺の部屋がある。 その中に逃げ込んだのだとしたら、勝機はある。 「……居ない……か」 さすがに自分から袋のネズミになりには来なかったか。 散々走り回らされた疲労を覚えながら、窓を見る。 零が屋敷の前に立っている。 「……零? いや、本当に零か?」 あるいは紅が彼女に擬態しているのだろうか。 それとも、零と紅が逆か――分からない。 本人に会って確かめるしかないだろう。 「……来たのね、誠一」 「来たって……何が。まさか待っていた訳じゃないよな」 「待っていたのよ。あなたが来るのを」 「なら呼び出せば……あ」 ……いや、もしかしたら今行われていた出来事も把握してるのならば、俺の部屋から見える位置に居たのも……。 「今回は誠一には本当に申し訳ない事をしたと思っている」 「……別にそうは……」 「嘘ね。さすがに分かるわよ」 「…………」 確かにそう言いきれない。 親しかった人の酷い死に様なんて見たくも無かったし、そこに自分が立ち会う事になるなんて想像すらしてなかった。 「でも必要な事だったんだろう?」 「……そうね。必要な事ではあるわ。如月家の因縁を断ち切るのには」 「…………零?」 その言葉は、まるで彼女が……。 「だからさようならと言わせてちょうだい」 「おい、待――」 ドンッと、振動を感じた。 ――同時に視界に深紅が飛び込んでくる。 「屋敷が……」 屋敷が炎に包まれている。 今火をつけたにしては、あまりにも回りが早い。 前もって準備をしていたとしか思えないが、今の今まで屋敷の中に居た俺にも気づかせなかった。 どういう方法で行われたのかもわからなかった。 「最後に一つだけ。一葉をお願いしてもいいかしら」 「ちょっと待てよ! 説明しろ! なんでいきなりこうなっているんだよ!」 「それは……出来ないわね。あなたをこれ以上巻き込めない」 「これ以上、何に巻き込むっていうんだ!!」 親しかった人の死体まで見せられて、訳の分からない存在に翻弄されて、警察にまで容疑者扱いされていた。 これ以上、秘密なんていらないし、そんな物があるとも思えない。 「さようなら。来てくれて……嬉しかった」 「待て!! 一つだけ聞かせろ!」 「……何を?」 「お前は……零と紅、どっちなんだ?」 その言葉に、零は止まる。しばし考え込むようにして――。 「……ふふ、どっちだと思う?」 そんな問いかけを残し、炎の中に消えていった。 「零っっ!!」 伸ばした手は――届かなかった。 屋敷の扉が閉められる。 炎が渦巻きながら、火の手が広がっていく。 「あ、ああ……っ」 知らず、涙がぼろぼろと零れ落ちてきた。 失敗した。 これは俺のミスだ。致命的な間違いを犯していた……っ!! 何を、かは分からない。どうすれば正解だったのかもわからない。 ただ俺は何も掴み取る事が出来ないまま――全てを失った。 それだけが、痛いほどに分かっていた。 ……でも、もし。 もしも、同じ事を繰り返せるのだとしたら。 あの時――人形の間で、零の手を取ってやればよかった。 零を信じきれず、紅を疑い切る事すら出来なかった。 どっちも中途半端に終わった結果が今の目の前の炎だという実感があった。 「……ぐ……ううう……っ」 炎の熱が伝わってくる。顔が、腕が、炙られるような錯覚があった。 俺は炎に踏み出す事が出来ず――。 そこで燃えゆく様をみている事しか出来なかった……。 ……それから先の事は自分ではよく覚えてなかった。 火の手が回る前に、一葉ちゃんを離れに迎えに行った事。 身支度を済ませて鞄一つで外に連れ出した事。 それから、炎が回らないような所にまで避難した事。 ……といっても、辺り一面が森の中だ。 どこまで行くのが正解なのか考えて、結局、最も一葉ちゃんを連れて行きたくない、森の沢になってしまった。 そうして、そこには鞄が一つ置かれていた。 「…………なんだ、これ」 男性物だ。多分、おじさんの。 中を開けるとまずあったのが俺の着替えだった。 急いで詰め込んだのか、乱暴に押し込まれている。 「…………」 それを見ても何の驚きも湧いてこなかった。 「……これ……」 それを引っ張り出すと、奥にはぎっしりと札束が詰まっていた。 「……手紙?」 そこには乱雑な走り書きで、一文が書かれている。 『今回のお詫びと一葉の学費などに充てて下さい。                     如月零』 「う……ぐ……っ」 再び、涙が零れ落ちる。 「うう……ああぁぁっ!!」 見ると一葉ちゃんも両手で顔を覆って、ぼろぼろと涙をこぼしていた。 結局の所――俺たちは零の気持ちを何も知る事が出来なかった。 この手紙は、それを痛いほどに教えていた。 水場に避難する前に呼んだ警察と消防により、朝には屋敷は鎮火されていた。 俺と一葉ちゃんは寄り添うように――呆然と、その前に座りこんで、様変わりした屋敷を見続けていた。 「……うち……無くなっちゃいました」 「……ああ」 現場では今もいろんな人が、忙しそうにしている。 警察は俺たちを保護してくれようとしていたのだが、それを固辞して、現場に居させて貰っていた。 俺たちは着の身着のままで、持ち出せた僅かな荷物と零から託された鞄を抱えるように――その光景を見ていた。 ……その様子を、一体どれだけの間眺めていただろうか。 『いたぞっ!』 ……そんな声が聞こえたのは、日も暮れかかった夕方の事。 同じように虚ろな目で見ていた一葉ちゃんが、ぴくりと反応をする。 俺も――そっちの方に視線を向けた。 消防の隊員とそれから救急車で来た人員が集まっていく。 何かが担架に乗せられて、救急車の中へと運び込まれていく。 それは。 ……まるで人形のように固く小さくなった、真っ黒いヒトガタの姿だった。 「う……うぐっ」 口元を押さえて、一葉ちゃんがえずく。 俺もその小さな姿を抱きしめる事しか出来ず――。 ただ零れ落ちていく涙と声をかみ殺すことしか出来なかった。 ……どれだけ時間が過ぎたのだろう。 警察に保護されたまま、俺の両親がやってくるまでの日々を過ごしていた。 話を聞きつけたらしい美優と忍も会いに来てくれた――ような気がする。 けれど、激変した日々はとても曖昧で、毎日がふわふわと浮いているような奇妙な感覚になっていた。 両親がやってきて、俺たちは警察の保護から保護者預かりになった。 一葉ちゃんも零の頼み通りひとまずはうちに来る事になっている。 彼女は身寄りがない。 如月の分家とはいえ元の家も既に無く、引き取ったおサエさんもあんな事になっている。 ……世間では如月家の事件はおサエさんの犯行という事になっている。 養子とはいえその家の子だった一葉ちゃんに対する視線は厳しく、引き取りを申し出る家も無かったのが理由だ。 これから帰るにしては時間も中途半端だ。 電車を乗り継いでいくには夜になってしまう。そのため、伊沢で一泊していくようだった。 一葉ちゃんと荷物を任せて、俺は一人で街を見て回る事にした。 ここに来た時は零も一緒だった。 バイト中の美優に会って、久しぶりのお茶をして……なんだか遠い昔のように感じている。 街ではおサエさんが様々な物を買い込んでいた。 通販でも使えばいいのにというと、自分の目で見なくては食材を選ぶことも出来ないという物だった。 ……そんなおサエさんが、家事や介護の疲労であんな事件を起こすだろうか? ……無いと思いたいが、既に本人はいなくなっている。世間はその方向で決着をつけるようだった。 平和でのどかな観光地のはずだった。 俺にとっては慣れ親しんだ故郷で、懐かしい人たちが待っていた。 今ではどこも地元の名家の起こした事件で持ち切りだ。 俺の事を知る人間は居ないだろうけれど、そこの一人娘だった零は地元では有名なのだろう。 街中での噂話にも、零の名前が挙がっているのが聞こえていた。 ……そうして、タクシーを頼んで如月家の屋敷まで乗せてきて貰った。 屋敷だけが綺麗に燃え落ちている。 警察で保護されていた頃、計画的に燃やしたとか、元から準備された痕跡があったとか、発火装置が仕掛けられていたとかそんな事を耳にした記憶がある。 ……それが本当なら、きちんと計算して屋敷だけを燃やしたという事だ。 ……何のために? 零は如月家の因縁を断ち切ると言っていた。 「因縁……って何なんだよ……」 俺には伺い知れない何かがあって、零はそれに直面していた。 ……そんな事を意識させられるのだった。 待たせているタクシーからクラクションが鳴る。 ここに居ても寝泊りする事も出来ず、帰るのが困難になるだけだ。 伊沢の駅前に戻ろうと――崩れ落ちた屋敷に背を向けた。 これが俺の体験した長くて短い。 そして永遠に忘れられない、夏休みの出来事だった。 「いってきまーす」 一葉ちゃんの出かける声が聞こえる。 そして両親が彼女を送り出している。 その平和なやり取りを聞きながら、俺は部屋の窓から制服姿の一葉ちゃんが出かける様子を見ていた。 あれからしばらく時間が過ぎた。 こっちに来た時には塞ぎ込んでいた一葉ちゃんも、今ではああして元気に振る舞えるようになっている。 …………そう。振る舞っているだけだ。 時おり、夜中に泣いている声を聞く事がある。 それについて、俺も両親も何も言わない――言えなかった。 慰めようとすると空元気を出してしまう子だし、心の傷の深さも、良く分かっている。 暫くは一人にしてあげるしかないだろう。 ……そして同時に、俺にも当てはまる物だった。 「俺も行くか……」 通学中に周囲から明るい声が聞こえてくる。 こっちでの友達、先輩、先生。 そんな人たちと何気ないやり取りを交わしながら、ありきたりの日常を過ごしていく。 (……なんか、物足りない……) 今まではこれが当たり前だった。 でも夏に戻ってきてからずっと、そんな気持ちを抱えている。 零とはずっと離れていた。伊沢に戻ればいつでも会えた。 何年も離れていて身近にいないのが当たり前――だというのに居ないのが当然の場所に戻ってきても、つい姿を探してしまう。 似た背恰好の人を見ると、思わず確かめたくなってしまう。 ……そんな事、ある訳がないのに。 そうして、今もバスから降り立った人を見てしまう。 が――。 「…………え?」 その姿を見た時に、背筋に氷柱を差し込まれたように震えが来た。 そこに居るのは一人の女性だった。 顔は――見えない。 長袖の服を身に纏い、顔を隠すかのようにつば広の帽子を被っている。 でも僅かに覗く肌には、包帯のような白い生地が見えていた。 ……それはまるで、重度の火傷の痕を隠すような……。 「そんな、まさか……」 彼女の変わり果てた姿を俺は見ている。 でも『どっちが』というのは確かめなかった。 遺体も損傷が激しすぎて――炎に焼かれすぎて、判断も出来なかったらしい。 バスから降りた女性が近づいて来る。 「…………ぐっ」 近づいて来て、話しかけられたら? ――その想像が、とてつもない緊張と恐怖になって、思わず目を瞑ってしまった。 が――女性は俺の横を通り過ぎていく。 「はぁっ、はぁ……っ。はぁ……っ!」 心臓がドクドクと痛いほどに鼓動を繰り返している。 振り返っても、女性は俺には目もくれずに歩いていく。 他人の空似……か? 「……なんだ。俺、ビビりすぎだろ……」 嬉しいのか恐ろしいのか、会いたいのか、会いたくないか。 自分でもまったく分からない感情の渦が、胸の中を支配する。 あの夏から、たまにこうなる。似た背丈の女性を見ると、体が固まってしまう。 ひとまず忘れようと頭を振って――俺は通学の道を歩き出した。 「……ふふ」 誠一の気配が離れたのを確認し――女は振り返った。 帽子を脱いで、髪を風になびかせる。 ひきつるような火傷の痛み、肌の感覚。それらは全てが自らがここに生きている事を教えてくれる。 ここ――そう。伊沢の地ではなく、ここに自分は今、存在している。 全ての因縁から解き放たれた、新しい土地。 太陽も、大地も、風も、すべてが自らを祝福しているかのように思えていた。 あるいは、あの忌まわしい炎すらも。 「ねぇ、誠一。今度はどんな遊びをしましょう。楽しみだわ。楽しくて楽しくて仕方がない」 「でも……そのためには準備が必要だわ。糸を紡ぎ、ゆっくりと少しずつ……ふふ。あなたは今度こそ私を選んでくれるのかしら。私を。この私を」 微笑んで、女は自らの下腹部を撫でる。 にたりと笑みの形に開いた口元からは、赤い舌が覗いている。 ――カチリ、カチリ。 歯車は回る。 今も、そしてこの先も……。 ……部屋に戻ろう。 そもそも、許可も取らずに外に出てきてしまっている。 その上、零が着物を着たまま今に至るという事は、まだ儀式が続いてる可能性だってある。 男側の俺が知らないだけで、人形役の方にはまだやらなくてはいけない事があるかもしれない。 そうだとしたら、不用意に声を掛けてぶち壊すのは嫌だ。何のためにやってきたのか分からなくなる。 「……明日……といっても、もう今日か。起きたら聞いてみよう」 散々寝たせいで眠気は殆ど無かったが、ベッドの上でゴロゴロしてれば、やがて睡魔はやってくるだろう。 そう考えて、部屋に戻る事にした。 部屋に戻って、ベッドに倒れこむ。 しばらく眠れないかと思っていたが、すっきりしたせいか睡魔は思ったよりも早く訪れた。 朝になり、着替えて玄関ホールに下りると零がいた。 どうやら俺が来るのを待っていたらしい。 「よう。なんか久々な感じがする」 「そうね……」 どことなく疲れた顔をしているのは気のせいだろうか。 やる事もなくなってぐっすり寝ていた俺と違い、零の方は忙しかったのかもしれない。 「昨日の儀式どうだった?」 「どうと言われても……見てるだけだったから。誠一こそじっとしていて大変だったでしょう」 「それを言うなら、お前こそじっとしてただろ。大変なのは同じだ」 それを言うと零は少し驚いた顔をする。 「あなた、私の事が見えてたの?」 「そりゃ見えるだろ。同じ所に居たんだから」 「そうじゃなくて、あんな薄暗くて顔も分からないでしょうに」 「ああ……」 言われてなるほどと納得した。 確かに蝋燭の明かりで照らされた舞台は薄暗く、自分の周りもおぼつかなくなる程だ。 でもそれは光源が遠い場所の話。俺たちのすぐ近くにあったんだから、人の顔を見るには十分な明かりだった。 「あれくらい明るけりゃ何とかなるよ。お前こそ足痺れてたんじゃないか?」 「そんな訳ないでしょう」 「そっか。――あ、そういや俺、トイレ行くのに夜中に部屋から外に出たけど、大丈夫だよな?」 「それくらいなら全然。気を使われて部屋で漏らされていたらその方が困るもの」 「そりゃそうだよな。良かったぁ」 大げさに安堵すると零はくすりと笑った。 「そんなに気にしていたの?」 「そりゃな。このためにわざわざ来たんだから、下手な事して台無しになったーなんて言われたら大変だ」 「そこまで気にしてくれなくても……でも、そうね。ごめんなさい。そこまでちゃんと言っておくべきだったわ」 「いいっていいって。気にしてないから。……いや? 気にしてたから、今わざわざ確認したのか?」 「どっちなのよ、もう」 零は呆れている。完全にいつもの空気だった。 「そういや人形の部屋って今はもう入れるのか?まだダメだったりとか」 「……いえ、構わないわよ。ご飯の前に見ていく?」 「じゃあ、見てこようかな。なんつーか、アレだ。鶴の恩返しみたく『部屋を覗いてはいけない』みたいな雰囲気が強かったから」 「いわゆる『見るなの禁止』という奴ね」 その言い回しに少し引っかかる。 「見るのを禁止じゃなく、見るなを禁止するのか?」 「ええ。行きながら話しましょうか。少しだけ関わりがある事だから」 「この手の話は世界中にあるのよ。誠一の言った鶴の恩返しもそう。他には黄泉平坂のイザナギとイザナミのエピソードやパンドラの箱……」 「それを『覗いてはいけない』『振り返ってはいけない』もしくは『開けてはいけない』という話ね」 「それだったら、やっぱり『見るの禁止』になるんじゃないのか?」 「違うわ。それぞれの人物は事前に見る事を禁止されていた。だからこそ、見てしまったという話なの」 「ああ……」 鶴の恩返しやイザナギとイザナミの話なら俺も知っている。 恩返しに来た鶴は若者に、決して覗かないでくれと告げた。 若者はだからこそ、女が室内で何をしているのか気になった。 あるいは何も言わなかったら、わざわざ覗きに行こうとは考えなかったかもしれない。 イザナギも同じだ。 見るなと言われた妻の姿を、待ち切れずに覗いてしまった。 覗くなと言われていたからこそ、途中までは見なかった。 ……その可能性も十分にある。 しかし、あらかじめ禁止されていた事で、どこか意識の片隅に残ってしまった。 禁止されたからこそ、好奇心を刺激された。 仮に禁止されていなかったら。ただ待っていろと言われてたなら、妻の願いを聞き入れて、出てくるまで待ち続けていたかもしれない。 ――かもしれない。 これがついて来てしまって、答えのないエピソードだ。 だが確実なのは『見るな』と言われた事で、言われた側は好奇心を刺激される。 見るなと言われたのだから、見た後の取り返しが付かない方が気になってしまう。 「だから『見るなの禁止』か……。見る事ではなく『見るな』と言われた事が、引き金になってしまう訳だから」 「ええ。その通り。相手に覗いて欲しくない場合は、事前に通告しておかないとミスが出るかもしれない」 「でも、通告した結果、好奇心を刺激されて見てしまうかもしれない。両者は等しく存在していて、答えが出ないわ」 「なるほど、納得したよ。それで、その禁止が如月家にも関わりがあるっていうのは?」 「うちにも同じようなのがあるのよ。この如月の生き人形。見てはいけないと言われてるの」 廊下の先に、その部屋はあった。 零は鍵を開けると手をかけ、扉を開ける。 「これが如月家の生き人形。号を『《こう》紅』と言うわ」 「これが……」 部屋の中央には結界のように張られたしめ縄がある。 その中には、一人の少女が。 いや、それによく似たモノが鎮座していた。 「号というのは、名前じゃなく?」 「ええ。今では人物に付いた号はペンネーム。屋号はお店のブランドとして残ってるわね。それ個人を表すのではなく、存在を意味する仮名の事よ」 「それが、ここでは人形に……?」 という事は本名は別にあるというのだろうか。 「その通りよ。誰が付けたのか分からないけれど、如月ではずっと号でこの人形は呼ばれている」 「だからこの人形の呼び名は《きさらぎ》兼定《こう》紅。名として呼ぶなら《くれない》紅になるのかしら」 「如月紅……くれない……」 口に出して言ってみる。 ――どくん、と心臓が一つ大きな鼓動をあげた。 言葉には魔力があると聞いたことがある。 目の前のモノの名を知り、口に出した事で、よくできているが無機質のはずの人形が、どこか温度を感じさせた。 「誠一」 「あ――」 零に呼ばれて、頭を振る。 「いやー、昨日のって結婚式風だっただろ?だから人形と結婚する儀式なんてしたら、嫁さんってことになるのかなーなんて思ったらつい」 見入っていた事をとっさに誤魔化す。 昨日は零が入れ替わってたのだろうから、本人に言うのも気が引けるしで、人形をダシに使う事にした。 「……しっかりしなさい。人形に取り込まれかけてるわよ」 「やめてくれ。ここでその冗談言われると、なんか本当の事みたいだ」 「ふふ、そうね。ただあながち冗談でもないのよ。人形、人の形をした物には魂が宿ると言われてるわ。ぬいぐるみだってそう。集めずにはいられない趣味の人もいる」 「女の子のフィギュアやプラモでも?」 少し茶化して言ってみるが、零は真面目に頷いた。 「ええ、そうよ。人の形をしているかどうかはともかく、人工物で出来た造形というのは、それそのものが一つの完結した世界になっている」 「そこに魂が宿ると考えて、昔の人たちは人形のみならず建物や船にまで魂の存在を見いだしたわ」 「完成された世界は内にも外にも閉じた世界になる。それを嫌って、製作段階であえて破損させる職人もいたくらい」 壊れている事でそれは完成しながらも未完成となる。まだまだ発展途上の存在であり、閉じていない。 では目の前にある人形は? 見ての通りだ。人工物でありながら人の温度を感じると錯覚するほどの如月の生き人形。 完成されつくしている。 「それがここまでリアルで歴史のある人形なら、本当に魂が宿ってもおかしくはない……なるほどな」 目の前に現物があって聞くと、説得力がある。 「だから『見るなの禁止』になるの。如月の生き人形に魂を見いだし、奪おうとする者も過去にはいたと聞いているわ」 「そういう事にならないために、門外不出で外には出さない。でも、それが一層の尾ひれとなって広がっていく……か」 「今では存在自体が知る人ぞ知るになっているけれどね。私はそれでいいと思うわ」 「……なるほど」 言いながら、人形に手を伸ばす。 ――が、しめ縄の所で止めた。 この先は結界の中だ。たとえ物理的な物ではなくても、不用意に触れるのは気が咎める。 「これ触ったらまずいタイプの物だよな?」 「さあ? 指紋くらいはつくでしょうけど、メンテナンスで沢山触られてるから、今更でしょう」 「そっか……まあ、それでもいいや。なんか生々しくて悪い事してる気分になる」 寝てる女の子を勝手にべたべた触るかのような……。 そういうシチュエーションのエロスは嫌いではないが、それはあくまでフィクションに限る。 現実だと目覚めた後が恐ろしい。 「そうね、それでいいと思うわ。この人形に関わるとろくな事が起きないとも言われているから」 言いながら、もう部屋を出ようと俺を促す。 くつろげる雰囲気の部屋ではないので、それに従うのに抵抗はなかった。 「だから、誠一も滞在中はここにはあまり来ない方がいいわ」 扉を閉める一瞬。零が紅を見る目に、何か奇妙な色が浮かんでいるかのようだった。 「もう! どこにいってたんですか!朝ごはんの準備、とっくに出来てますよ!」 ロビーに戻ると、一葉ちゃんが頬を膨らませながら俺たちを待っていた。 「ごめんなさいね。すぐに行くわ」 「申し訳ない」 「急いでくださいね。冷めてしまいますから」 一葉ちゃんに急かされるように食堂に向かいながら、ふと零に昨日も思ったことを聞いてみる事にした。 「そういやさ。零とあの人形ってよく似てるよな。すり替わっても分からないくらいじゃないか?」 「座ってる分にはそうかもしれないわね。でも別にそれはおかしい事じゃないわ」 「そうなのか? なんでだ?」 「だってあの人形、如月家の先祖が作った物なのよ。モデルがうちの血族の人間なら、時代が経って似てる人間が出てもおかしくないじゃない」 「…………」 「どこの誰が作った物なのか、すっかり忘れていたでしょう」 「さ、さーて。今日のご飯は何かなー」 「まったくもう」 後ろから呆れたようなため息が聞こえてくるのだった。 それからは特にやることもなく、当初の予定通り夏休みの間は伊沢に滞在して過ごす事になった。 帰ってきた当初は変化も多くて珍しかったが、元々が生まれ育った街だ。あっという間に馴染んでしまった。 屋敷に居るばかりじゃなく、昔なじみと遊びにも来ている。 「それじゃ夏休みの宿題も全部終わらせてるのか」 苦笑しながら、昔なじみの《いちじょう》一条《しのぶ》忍がコーヒーに口をつける。 砂糖は入れずにミルクだけ入れてる飲み方も昔のままだ。 「やることが無くてなぁ……おかげでのんびりした日々をすごしてるよ」 長身で寡黙な、ガキの頃からの友人だ。 俺と零、美優とも仲がよく、昔一緒に遊んでたメンバーの一人。 爺ちゃんの工房があった頃には、よく訪れていて可愛がられていた。 「ゲームも何もなさそうだな」 「あることはあるんだけど、熱中して遊ぶまではいかなくて」 「そうなのか?」 「一葉ちゃんの物だから長く部屋に居座る訳にも……。それに他人のセーブデータだから好き勝手も出来ない」 「そうなると屋敷で過ごすか、零に付き合って宿題でもやるしかない。……ここ数年どころか、実家があった頃と比べても一番健康的な夏休みを過ごしてるよ」 「納得」 昔から零と一緒ではあったが、住んでる所は違っていた。 ほぼ毎日会っていたとしても家に帰ればそれぞれ違った生活が待っていた。 でも屋敷に居る今は同じ生活だ。 如月家は肩書と門構えの割には緩い生活を送っているが、それでも、怠惰と呼ぶのが相応しい普段の小市民生活とは比較できない。 「如月家の屋敷は昔行った事があったな。人形ばかりで不気味だった」 「ああ……まぁな。アレは慣れてないと確かに」 入ってすぐに出迎えてくるのがアレだ。はじめて見た人にはホラー以外の何物でもない。 「そんな所に一日中こもっていて、大丈夫なのか?」 「大丈夫って……何が?」 「……いや」 忍は言葉を濁す。余計なことを言ったと言わんばかりだ。 「幽霊とかその手のモノとか?」 「別に俺は信じてる訳じゃない」 「分かってるよ。ただそういう雰囲気はあるな。夜中に起きて部屋の外に出た時なんかは特に――」 ふと、この前の儀式の夜に見た、赤い姿を思い出した。 あれから大分経ったが、同じような物を見たことはない。 となるとつまり、アレは人形の服を着た零で、その着物も人形に……紅に返してしまったから、見る機会も無くなった。 もしくは薄暗い明かりの中で見た錯覚……。 どちらだとしても、如月家の中で俺が見たそれっぽいモノはあの一件だけだ。 「セイ?」 「いや――この夏休みの事を思い返してたけど、何も無かったなと思っただけ。昔は如月の屋敷は色々と言われてたよな」 「えっと……なんだっけ。確か子供の頃に絵を描く授業で、如月のおじさんが自分の家の敷地を提供するとかで……」 学校の写生で如月家の敷地を開放した。 この辺りは自然が多いが、かといって右も左も分からない山の中に子供たちを連れていく訳にもいかない。 そこで如月家の敷地を使っていいと、おじさんが許可を出した。 零の家は駅前から少し離れた所にある。それでいて、森の先に大きな屋敷があると噂にはなっていた。 子供の足では遠すぎて行く事も出来ず、お金持ちの零の家がどんな所か何かと話題になっていたから、みんな興味津々だ。 そんな時に渡りに船の話で、当然子供たち――当時のクラスメートは大喜びだ。 そして好奇心旺盛な子供たちが、屋敷の外だけで満足が出来るはずもなく、人の好いおじさんが自宅の方まできた子供たちと保護者を外で放置しておくはずもなかった。 「はっきり思い出した。アレは酷かったな」 「……ああ」 そして屋敷で出迎えたのがアレだ。 子供の身長を超える大型の日本人形から始まり、屋敷のあちこちにある雰囲気の感じるからくり人形の数々。 忍者屋敷なんていう楽しい物じゃない。不意打ちでお化け屋敷の中に放り込まれたようなものだ。 その結果、あの手の物が苦手な子供は大号泣。付き添いでいった保護者もつられてパニックを引き起こす始末。 気にしない子供たちも多かったが、好奇心から屋敷を走り回っては、より『不気味なモノ』を探し回る始末。 結局、零はお化け屋敷に住んでると噂されるようになり、本人の我関せずの気質もあって、多くの子と疎遠になってしまった。 「お前が居ない間にも吸血鬼事件なんてものがあってな……」 忍が昔を思い出すように、ぽつりと言う。 「吸血鬼事件? 初耳だけど、そんなの起きてたのか」 「ああ、今も未解決になっている。身近な人でも……被害が出たな」 「そうなのか……?」 「当時はそこまで大きく取り上げられなかった。新聞には載ったが、ほかの所で大きな事件も起きてたしな」 「扱いが小さい理由として犯人が捕まらなかったのも大きい」 「……未解決事件か。吸血鬼って事は、被害者ってやっぱり?」 「ああ、血が抜かれていた。実際には大量出血が死因で、被害者の所に血痕が無かった事でそう言われているだけだが……」 ええと……大量に血が流れてるはずなのに、被害者が実際いた所には血が無い。 あるはずの物が無いという事は……。 「殺害現場と被害者が見つかった場所が違う?」 「そう言われてる。そして犯人は見つかっていない」 「……さっきの話の続きからすると、それについても如月家が何か言われてたりするのか」 「人間の生き血を動力にするからくり人形の仕業というのが一番多かったな。さすがに無理がある話だから、警察は相手にしてなかったが」 「そりゃそうだ」 血液は人間を動かす動力源のようなものだ。 だが、それを吸って人形が動くとはどういう原理なのか……。考えなくても、ありえない話だと分かる。 でもホラーとしては面白い。 ……そう。面白いのだ。 ここには如月家という一族が居て、屋敷の中には多種多様なからくり人形が置かれている。 『如月の生き人形』が一番有名だが、中には同じくらい古い物もあるだろう。 その中には一体くらい、生き人形と同じくらい曰く付きの物が眠っているかもしれない……。 如月の家が身近な人間としては馬鹿馬鹿しい話だ。 けれど風聞しか知らずに、歴史があって家には怪しげな人形が山ほどあるという部分だけ見れば、絶好のネタだ。 「まあ、屋敷でも、さすがにそういうのは会わなかったな」 「だろうな」 ただ……先ほどの忍の口ぶりからすると、もしかしたら本当に身近な人間がその事件に遭遇したんだろうか……? ただの知り合いという関係ではなく、それ以上の……。 気にはなったが、結局聞く事は出来なかった。 夕日が見えてきた頃に、家路に就くことにした。 「おかえりなさい」 自転車でも少しかかる道のりを帰ると、零は用事があったのか屋敷の前にいた。 ずいぶんとタイミングがいい。 俺を待っててくれたんだろうかと一瞬思ったが、さすがに夏場でこの時間外に居続けるのは厳しい物がある。 「ただいま」 「どうしたの? おかしな顔をして」 「いや……ただいまっていうのも、なんか慣れたと思って」 先日来たばかりの時は『お世話になります』だった。 あれから少ししか経ってないのに、帰る場所になっている。 この夏の間は、それが続くのだろう。俺も零も自然と受け止めている。 「……昔起きた吸血鬼事件か……」 屋敷を見上げてみる。 雰囲気の漂う所だが、そういう血生臭い出来事とは無縁の所だ。 この夏、そういう出来事に遭遇する事は無いのだろう。 もしもあるとしたら――。 (そう……あの時……) 儀式の時に屋敷で見た影。後から零に聞いてみたが、自分では無いと言っていた。 それが本当か、単なる誤魔化しなのかは分からない。時間も経っているし、改めて聞いても答えは出ないだろう。 けれど、もしも本当に何かがあって、それに触れる機会があったのだとしたら……。 儀式の夜のあの一瞬こそが、俺が遭遇する唯一の可能性だったかもしれない。 「どうしたの?」 意識を戻す。少しぼうっとしていたようだ。 「なんでもない。外にいたから暑さにやられたかな」 「中に入りましょう。体調が悪かったらすぐに言うのよ」 「ああ。ありがとう」 「どういたしまして」 零がほほ笑んで俺を促す。 屋敷の扉が閉まる。 それは大きく、重々しい音を立てていた。 「…………ん……」 何か、物音がして目が覚めた。 「なん、だ……?」 窓から外を見ると、風が吹いてガタガタと窓枠が音を立てている。 「……これか……」 まったく人騒がせにも程がある。 ベッドから下りて窓に近づき、一度開ける。 外の風が顔を打ち――湿った空気が頬を撫でる。 雨でも降りそうだ。 今日は儀式の日だ。 そのせいで神経が高ぶってるのかもしれない。 「…………儀式か」 何をするのか今になってもよく分かってない。 おじさんや零が言う通り、座っているだけでいいのだろう。 「…………完全に目が覚めちまった」 中途半端によく眠れたおかげで、完全に眠気が飛んでしまった。 「明日は自由がないんだよな……」 となると、今この時間が明日までの最後の自由時間か。 そう考えると、寝てしまうのも勿体無く感じてくる。 外に出ると、館の中は静まり返っている。 ただでさえ静かな空間が、更に重苦しい空気で満ちているかのようだ。 「儀式か……気軽に引き受けたけど、直前になって気が重くなってきたな……」 まあ、本当に今更の話だ。 座ってればいいんだから、それで何とか乗り切るようにしよう。 「きゃっ!!」 「うおっ!?」 ロビーに下りると、唐突に悲鳴が聞こえた。 ――って、前にもこんな事があったような気がする。 「お、驚きました……誠一さんでしたか」 「俺も驚いた……一葉ちゃんはここで何を?」 「わたしは旦那様のお世話と、明日の準備の確認です。誠一さんが着られるお召し物もご用意してますよ」 「という事は着物か」 「はい。着付けなどは大丈夫ですか?」 「ああ。習ってるから一応出来るよ。確認して貰う事にはなると思うけど」 「なるほど、かしこまりました」 「でもこんな遅くまで大変だな」 「それがお仕事ですから。……普段は忙しくない分、今は頑張らないといけませんね」 「そうなんだ? あまり仕事ないの?」 「はい。旦那様のお世話と日々の家事が主なお仕事ですがそちらはヘルパーさんが来たり、清掃業者を入れたり等の外部の方が入る場合が多いです」 「ただ、お食事に関してはお婆様が全て責任を持って行っているため、このような機会でもない時は、外の方の手が入る事はないですが」 「という事は、明日の食事って別の人が作るんだ」 「分家の方が沢山来られますから……。それぞれの家からも、料理される方が派遣されてきます」 「……なるほど。金持ちってやる事がすごいな」 「――――――」 率直な感想を言ったら、一葉ちゃんが目を丸くしている。 「……そんな変な事を言った?」 「い、いえ。誠一さんもその如月家の分家の方ですから」 「それ言ったら一葉ちゃんもだろ。ご近所さんだった頃なんて、そっちの方がうちよりずっと如月の分家らしかったぞ」 「そ、それはわたしがまだ物心ついてなくて、覚えていない頃ですから……!」 赤くなって慌てている。 表情豊かな一葉ちゃんだけど、こういう外見らしい照れ具合を見たのは初めてだから、なんか新鮮だ。 「でも今回の儀式は初めてなので、わたしも緊張します」 「そっか……分家の参加者って殆どいないもんな」 「今回もお子さんはご参加できないようです」 「……だろうな。俺も昔一度行った事あったけど、その時は零が舞台に上がってたから、ついでの感じだったし」 俺達の他に子供はいなかった。 そして巫女服っぽいのを着てた零は似合ってたが、それ以外は退屈極まりない物だった。 「では、お互い初めてですね」 「……だな。明日はよろしく」 手を出すと一葉ちゃんが握り返してくる。 ほっそりとしていて柔らかく、そして少し体温の低い手だった。 「でもそうなると、ますます失敗できませんね……」 「プレッシャーになるような事を……」 「…………あ! いいことを考え付きました」 「…………こういう場合に出てくる良い事って、絶対に碌でもない内容な気がするけど。一応どうぞ」 「噂の生き人形さんを見に行きませんか?」 「………………」 全く思いもない事を言われてしまった。 ……機会があったら見てみたいなーとは思ったけど、まさかこんな風に誘われるとは思ってなかった。 「…………」 「あっ、えっと、やっぱり……ダメ、ですよね?一度見ておいたら、準備もしやすくなるのかなと思いまして」 「……一応、結婚式の形にしてるから、覗きに行くなって釘を刺されてるんだよな……」 「あう……そうですよね……」 「…………うむむ」 でも、見てみたいと思ってたのは事実だ。 しかも釘を刺されてしまった事で、更に気になっている。 「それに鍵が掛かってそうだし、無理じゃないか?」 「あ、大丈夫です。お預かりしています」 メイド服のポケットから鍵を見せてくる。 「……なんで一葉ちゃんが」 「明日の仕度を私が行いますから。朝はとても慌ただしくなると思われるので、それでお預かりしています」 「なるほど」 ……となると、見てみたいというのも職務的な意味も強いのかもしれない。 俺のように好奇心100%とは違うだろうし……。 「じゃあ、ちょっとだけ見てみるか」 「えっ!? よろしいのですか?」 「いいか悪いかで言ったら、多分ダメなんだろうけど……」 「でも結婚式を模しているという事は、花嫁側は特に失敗が出来ない儀式って事だろ?」 「そうですね……生き人形は主役ですから」 「そういう意味だと俺の場所って正直誰でもいいんだよな。前はおじさんがやってた訳で、結婚式といっても生き人形と結婚した訳でもない」 「そうですね。未婚の親族の男性がお役目を振られる事が多いとは伺っていますが、それ以外の方が受け持つ場合もあるようです」 「……生き人形の様子か……確かに気になるけど……」 「…………」 一葉ちゃんは俺の返事をじっと待っている。 「ま、いっか。ちょっと覗いて来るだけでいいんだよな」 軽く返事をすると、表情が明るくなる。 「はいっ! 元から着ている衣装をそのまま使うとのお話でしたが、傷んでいるかもしれません」 「その場合は新たにご用意しなくてはならないので、その確認だけでも出来るなら、助かります!」 「分かった。そういう事なら見てこよう」 「はいっ」 そして一葉ちゃんと人形の間に向かう事になった。 一階のロビーから、廊下の突き当りにその部屋はあった。 「では……開けます」 鍵を差し込んで、捻る。 カチリという音と共に扉の鍵が開いたのが分かる。 「…………」 少し緊張しながらドアノブに手をかけ――。 中に入って、電気をつけた。 そこには一体の人形が置かれていた。 「――――――」 その容姿は零に驚くほどよく似ている。 「…………」 生き人形とはよく言ったものだ。 俺だけではなく、一葉ちゃんまで目の前にいるヒトガタに目を奪われている。 これは……確かに人だ。 人は、人の形をした物があったら、それを『人間の姿』として認識してしまう。 そんな話をどこかで見た事がある。 確かシミュラクラ現象だったか。 点を二つ等間隔に横に書く。 その下、中間地点に更にもう一つ。 この三点で作られた記号を見た時に、脳は両目と口……つまり人の顔のモデルであると錯覚を起こす。 これがシミュラクラ現象だ。 古来より伝わる人形の顔にも、この錯覚の方法が使われている。 例えばコケシの顔などは、人間の顔をデフォルメした物だ。それだけでは、本物の人間とは似ても似つかない。 ……が、きちんと人のパーツを象る記号を配置する事で人間の脳は『より強く人に似ている』と錯覚を起こす。 これを教わったのは何時だったか……。 (確か、じいちゃんからだ。あの時は時計の修理の仕方を習っていて、歯車が人の顔に見えるなんて事を言って……) じいちゃんが工房を開く前の事は知らない。 ただ、優れた技術者であったという事は知っている。 そして如月家の分家筋の人間だ。 人形についても造詣が深かったのだろう。 無機物であるはずの人形の顔が人間に見えるという錯覚。 ――そう、全ては錯覚だ。 だが、目の前にいるコレは、そんなものを超越している。 表情に乏しく、血の気が通っていない。瞳には何も映しておらず、焦点もあっていない。 顔を一目見るだけでも、零ではない事なんてよく分かる。 だが――それだけ。 儀式が結婚式だとして、西洋風にヴェールで顔を隠したとしたら、そこに佇むだけの人形を、果たして人形だと認識が出来るんだろうか……。 「誠一さん?」 「あ――――」 声をかけられて、我に返った。 ……何を考えてるんだ、俺は。 例えそうだったとしても認識出来るに決まっている。 人は何も顔だけで情報を見ている訳じゃない。 その姿、全身の動き、鼓動、呼吸……そういうありとあらゆる情報で人とそうでないかを分けている。 例えば、ぴたりと静止するパントマイムだ。 アレは人ならば誰でもやってしまうはずの、無意識の運動まで制御をして動きを止める事で、芸として成立している。 無機物の人形と人間が並んでいたとして、それが分からない筈がない。 「…………でもこれ、すごいな」 「はい。驚きました……」 だが、目の前の生き人形はそうした人間としての存在感まで伴っているかのようだ。 そんな錯覚を起こしてしまい、そして今にも動き出しそうな雰囲気が漂っている。 ……先ほどの例えで言うなら、今止まっているのが彼女の芸で動き出す瞬間を待ち望んでいる……とか。 「……ん? なんか書いてあるな」 注連縄が巻かれたそれぞれの柱がある。そのうちの一本に、刻み込むように文字が彫られていた。 『紅』と。 「……紅……くれない、か。この子の名前かな」 「くれないさんですか。なんだかぴったりなお名前ですね」 「着物も赤いもんな」 「お名前と衣装、どちらが先につけられたのでしょうね」 「あー……なるほど。赤い服着せたから紅になったって可能性もあるのか」 「すごく高そうです。お手入れもきちんとされておりますしこちらの衣装が家宝と言われても驚きません」 「……そんなにすごいの?」 「多分……わたしが今欲しいと思っているカードが、20枚は買えるのではないかと……」 「そこまでは高くないんだ」 「ええっ!?」 ……めちゃくちゃ驚かれた。 「というか、その驚きようからすると、カード一枚が一体幾らなんだ?」 「え、ええと、それは……その」 「更に言うとこの前、俺達に頼んだのがそれじゃないのか?」 「そ、そそそ、そのような事は滅相もなく!」 見るからにうろたえている。 ――クスッ。 「ほ、ほら! こんな所でそんなお話してるから笑われてしまいましたよ!!」 「あ、ああ…………って、誰に?」 「あ、あれ?」 慌てて周囲を見渡す――が、そこには当然、零に似た人形……紅の姿しかない。 「あれ? あれ、あれ……?」 「う、うう~~。怖くなってきてしまいました……。今、どなたが笑ったのでしょうか」 「ま、まて落ち着け! きっと空耳だ!それに違いない!」 「ですが誠一さんにも聞こえてましたよね!今、絶対そういう反応されてました!!」 「う……ま、まあ。夜中にこんな所にいたら変な音だって聞こえてしまうかもしれない……」 「用事が終わったなら、出ようか」 「はい……そうですね……」 人形の間から外に出て、扉を閉める。 ……完全に締め切る間際、人形が俺の方を見た……気がした。 「……驚きました」 ここまで戻って来てやっと落ち着いたのか、胸を撫で下ろしている。 「……本当に」 「やっぱり聞こえてたんじゃないですかっ」 「しーっ! おじさん達が起きちまう」 「あ……」 慌てて口元を抑える。 ……その仕草がなんとも可愛らしい。 「とにかく、俺達も寝ようか……」 「はい……そうですね」 「じゃあ、お休み。明日は頑張ってね」 「はい。誠一さんも。おやすみなさいませ」 「……で、何で部屋までついて来るの?」 「さ、さっきの事があってから怖くて……こちらで休んでも構わないでしょうか……!」 「送ってくから部屋に帰りなさい……。一葉ちゃんみたいな女の子が泊まって、間違いがあったら大変だろ……」 「えっと」 困惑したように顔を曇らせる。 「間違いってなんですか? 部屋を間違える事でしょうか」 「う……っ」 しまった。 こんな純真な子に変な事を言って深く突っ込まれても、後々俺が困ってしまう。 「ちなみに好きなカードの絵柄を描いてる方がアダルトゲーム出身の絵師さんで、その方のゲームは全てプレイ用と保存用で別に持っています!」 「…………はい?」 「間違い……しちゃいます?」 「…………」 そこで分かった。 完全にからかわれてる。 見た目に騙されているだけだった。 「…………」 「えっ!? あ、あの! 襟首掴まないで、息がつま――ぐえ」 「じゃあ、お休み」 廊下に捨てて、部屋に戻って来た。 『く、暗いです~。離れまで行けません~。ごめんなさい、もうしませんから~~』 窓から空を見上げる。 遠くには月明かりに照らされた深い森が広がり、空には星と月が輝いている。 避暑地である伊沢の、更に住宅地から離れたここの夜景は、ちょっとしたものだと思う。 『お願いします~~っ! 一人じゃ帰れません~~っ。助けて下さい~~っ!!』 外からは涼風が吹いている。 夏の蒸し暑さを感じさせない。気持ちの良い夜だ。 「明日はいい日になるといいな」 明日はこの屋敷に来た儀式の日だ。 きちんと取り組まねばならないと、先ほど見た『《くれない》紅』の事を考えながら、思った。 「……ん……」 携帯でセットしたアラームが鳴り響いている。 それを止めようと、寝返りを打った。 ……むにゅ。 「……うにゅ……」 「…………」 なんだか柔らかい物がベッドの中にいて、更には変な声まで出したような……。 ……ふにふに。 腕の中にいる物を触ると、ふにふにとして柔らかい。 「……にゅ~~……」 ……また変な鳴き声がする。 「………………うぉぉおおぉぉいっっ!!」 「きゃぁっ!?」 慌ててベッドから飛び降りる。 ぽてんと、一葉ちゃんが転がり落ちてきた。 「何やってんだ!」 「あ、おはようございます。本日は頑張ってください」 「もう騙されねぇからな」 頬を摘まんで引っ張る。 柔らかくぷにぷにとしていて良く伸びる。 「う。うう~~。だって、昨夜怖かったら泊まっていっても良いよって言って下さったから……」 「言ってないよな?」 「……部屋の中が静かになったので入り込んだら、既に寝ていらしたので……」 「……それで勝手に潜り込んで寝ていた、と」 「くっついていれば暖かく眠れるかなと気を利かせました」 「8月にやる事じゃ――って、部屋の中が妙に寒いな」 「はいっ! エアコンの温度を下げておきました。気が利くメイドと評判です」 「…………」 設定温度を見ると22度になっている。 毛布を被っても寒すぎず、暑すぎもしない微妙なラインだ。 「だから、そういう事をするのは無防備すぎるから止めなさいって」 「大丈夫ですよ。誠一さんですから」 それは、どういう意味での大丈夫なんだか。 「あなた達……今日がどういう日か分かっているわよね?」 唐突に聞こえてきた声に、二人して慌てて振り向く。 部屋の中――扉の前に零が立っていた。 「あ――あ、いや、これは、その――」 「わ、わたしは部屋に帰ろうと思ったのですが、誠一さんが泊まっていけと……」 「おいコラそこのメイド!」 「だから、遊んでいる時間なんて無いのよ」 零は気にした様子もなくやってくると、俺に箱を手渡した。 「これに着替えてちょうだい。ちょうどいいから一葉は着付けを手伝いなさい」 「はい、かしこまりました」 「それから鍵。あなたが持っているのでしょう?」 「あ! そうです! 失礼いたしました」 「……これを失くしていたら大変だったわよ」 安堵ともつかないため息と共に、鍵をポケットに収める。 「あー……その、一葉ちゃんが俺の部屋で寝てたり、そういうのはお咎め無し……?」 零の隣で一葉ちゃんが『バラすのですか!?』と言いたげな驚愕の表情になっているが、もちろん見なかったことにする。 「誠一も大変ね」 お咎め所か、こっちに対して同情をされてしまった。 「一葉は誠一に甘えているのよ」 「なんといっても、昔はご近所に住んでいたお兄さんだったものね。大変だと思うけれど、構ってあげてちょうだい」 「ち、違いますっ! わたしは――」 「……面と向かって言われると、これはこれで恥ずかしいな」 「わたしの方が何倍も恥ずかしいですっ!」 「いいから、私の言った事が聞こえてないの?時間がないの。早く仕度しなさい」 「はいっ!」 一葉ちゃんがテキパキと仕事に戻る。 その様子を見て、零が苦笑するように軽く肩を竦めていた。 厳かな曲が流れている。 朗々と唱えられる祝詞の声は、俺の知らない親族の人だろう。 俺達を照らす蝋燭のほのかな光。 壇上の上には着せ替えられた俺と――。 ――紅の姿があるだけだ。 「…………」 紅の方を盗み見る。 昨日すでに見ているだけあってか『彼女』と対面しても驚きは無かった。 やっぱり零に似ているなと思ったぐらいだ。 部屋にいる大勢の人間の息遣い。 俺と紅は壇上の上でじっとして、身動き一つせずにその終わりを待っている。 ……まあ、紅は人形だから、動くはずはないのだが。 ただ、昨日聞いた含み笑いのような、声――あるいはそれが彼女の言葉だったのかもしれない。 (そんな事ないだろうけど) あの時は、シミュラクラ現象について考えていた。 人と認識してしまう。記号を擬人化してしまう脳の勘違い。 一方でシミュラクルという言葉がある。 蝋燭の炎を見つめていると、遠い昔に失われたと思った記憶がすんなりと出てくる。 アレは……いつだったか。そう、まだ子供の頃だ。 シミュラクル。 鏡像……模造品……。 外側だけがあって、魂の無い存在。 人形を作る者は、まずこれを目指すのだとじいちゃんは言っていた。 『魂を入れるんじゃないの?』 そう聞いたことがある。 テレビのCMで『人形は魂が宿る』なんてやっていたしホラー番組でも『魂が入って髪が伸びる人形』なんて物が流れていた。 だから、じいちゃんの言う、魂ではなく外側を作るという言葉には子供心に驚いた。 『魂を入れるのは、人間じゃないんだよ』 そうじいちゃんは言っていた。 では誰が入れるのか? という問いには『神様』と言う。 神様……これも定義があいまいな存在だ。 人知を超えた神秘。人間以上の力を持つ何か。 あるいは――人をも作り出した、万能の存在。 なるほど、そういう存在ならば人形に魂を込める事もできるだろう。 (じいちゃんは人形師だったのかな……?) うちにあった工房は随分立派な物だった。 あれだけの工房を持っていても、時計屋さんでは無かった。 機械の修理は何でもやっていたし、外から色々な物を持ち込まれる事もあった。 でも、じいちゃんの修理屋は『工房』と呼ばれていた。 業務は修理屋その物だったし、その事にこれまで疑問を持ってはいなかったが……。 (なんで違うんだろう?) 今になって、初めて不思議に思っていた。 「…………ぁ」 気が付けばすっかり思考を別の方向に飛ばしていた。 ただのお飾りの雛人形であっても、あまり呆けているのも問題だろう。 俺自身はともかく、俺を選んだおじさんがあれこれと言われてしまう。 「集中集中……」 聞こえないように小声で言って、自分に気合いを入れなおす。 何時間も座っているのは正直疲れる。 隣の『紅さん』にしても大変だろう。 ――くすっ。 「…………ん?」 昨夜聞いた笑い声がした気がした。 紅の方を見ても、もちろん微動だにしておらず――。 「………………ま、いっか」 幻聴だと判断して、気にしない事にした。 一葉ちゃんも仕度以外に仕事があるような事を言ってたけど、一体どこにいるんだろう……。 と、思ってたが、儀式も後半っぽくなって、一葉ちゃんがちょこちょこと壇上に上がる機会が増えてきた。 朱色の盃と中に注がれた透明な液体。多分水で薄めた日本酒を渡されて、口元に運ぶ。 盃は隣に運ばれても紅が飲める訳ないので前に置く。 神主の恰好をした男性が出てきて、祝詞を唱えている。声からして、冒頭の祝詞を唱えていた人と同一人物。 結婚式を模しているという言葉の通り、だんだんとその様相が強くなってきた。 まあ……紅の事は昨夜見てしまった訳だけど、実際の所はやっぱり知っておいて良かったと思う。 多分、壇上でいきなり見たら零にそっくり過ぎて驚いただろうし、妙に感情移入もしてただろう。 ついでに言うなら、こうして座ってるのも足が痛い。 厳かな儀式で、とても雰囲気がある。 それでも俺は足の痛みを抱えながら、早く終わって欲しいと終了まで思い続けるのだった。 ようやく、長かった儀式が終わる。 黒子の恰好をした人たちが紅を片づけ、俺も舞台の袖の方へ案内される。 「おつかれさまでした」 「……足が痛い……これはおじさんがやるのは無理だな」 「ふふ、わたしもそう思いました。誠一さん、大変そうだなと」 「やっぱそうだよな。紅は全然平気だろうけど」 「お人形さんですしね」 ずっと黙っていた反動か、部屋に戻るのも忘れて一葉ちゃんと話し込んでしまう。 車椅子の音と共に、おじさんとそれを押すおサエさんがやって来た。 「誠一君、ごくろうさま」 「あ……すみません、こんな所で話し込んでしまって。本当はすぐに部屋に戻るんでしたよね?」 「確かにそうだが、少しくらいは構わないよ。後は今日一日部屋の外に出ないというので終わりになる」 「……そういえば聞いてなかったんですが、ご飯は?」 「後で部屋にお運びしますよ」 「そりゃ助かる。あー、でも儀式の間は黙って座ってるしかなかったから、終わっても一人というのはちょっと寂しいけど」 「はは。以前私もそう思ったよ」 「初めてお勤めをされた後の旦那様は、いかに足が痛いかという事を延々言われ続けておりましたね」 「そういう事を誠一君に言わなくていいんだ」 「事実でございますので」 「みんな同じ苦労するんですね……」 「あの、お婆様。もし御許可を頂ければ、誠一さんがお夕飯を食べている間、わたしがお付きをしてもよろしいでしょうか」 「どういう事です?」 「あ、えっと、今はお届けして、後から食器だけを下げに行く形ですが、お付きならば食べ終わりを待っているという事で、おひとりにはならずに済むかなと思いまして……」 「差し出がましい事ではあるのですが、誠一さんが儀式でも部屋でも一人というのを嫌がられているようでしたので」 「そうですか……旦那様」 「ああ。構わないと思うよ。そもそも、本当の意味で一人にさせるのであれば、食事を届けるというのも出来ないはずだからね」 「ありがとうございます」 「えっと……いいの? 一葉ちゃん」 「はいっ。もちろんです」 「そっか……じゃあ、よろしくお願いします」 皆に頭を下げる。そこで、この場に居ないもう一人について聞いてみた。 「そういえば、零は?」 「人形を戻しにいっている。人の手を借りるとはいえ、やはり常に如月の者の目がなくてはならないからね」 「なるほど……家宝ですしね。確かに」 「では、長く引き止めても私達が儀式の進行を妨げる事になってしまうね……それではまた。今日は本当に感謝しているよ」 「いえ、俺も滅多に無い体験が出来ました」 そこで儀式の緊張ですっかり忘れていた事を思い出した。 「あ、すみません。もう一ついいですか?」 「なにかな?」 「トイレ行きたいんですが、いいですか?」 「もちろん構わないよ。気にせず行ってくるといい」 そういうおじさんの声色は、笑いをかみ殺しているようだった。 『お夕飯をお持ちしました』 扉の外から一葉ちゃんの声がかかる。 入り口を開けると、配膳用のワゴンを押して中に入ってきた。 「ありがとう。すっかり腹減ってたから助かる」 「いえいえ。これもお仕事ですから」 テーブルの上にテキパキと配膳をしてくれる。 「今日も美味そうだなぁ」 「お婆様が腕によりをかけて作られました!とっても美味しいですよ。……多分」 「おサエさんには頭が上がらな……どうしたの? じっと見て」 「えっ!? あ、い、いえ。何でもありません」 「そう?」 エビとチキンのドリアをスプーンですくい、頬張る。 準備やマナーが必要なディナーではなく、こうして大皿で簡単に食べられて、かつ彩り豊かなメニューというのがおサエさんの気遣いを感じる。 「腹減ってたからか、いつもより美味いな」 そしてもう一口。エビが乗ってる部分をすくい、一気にかきこむ。 「ああっっ!!」 「…………ん?」 「…………何でもありません」 目線をそらしてっぽを向く。 「……あー、エビ美味しいなー」 「――――っ!」 目線が合う。 ……そしてそらされた。 「ご飯食べてないの?」 「わ、わたしは給仕ですから」 「というか、一葉ちゃんの分もここに持って来て食べれば良かったんじゃ?」 「――――!!」 今更、その手があったかみたいな顔をされても。 「……少し食べる」 スプーンですくって、彼女の方に差し出す。 「そのようなはしたない真似は出来ません」 「それもそっか。じゃあご飯食べられるように手早く片づける事にするよ」 「う――くっ」 「…………やっぱり食べる?」 「い、いりません」 「……早くご飯済ませないとなー。手伝ってくれる人がいると嬉しいなー」 「そこまで頼まれては仕方ないです……」 ……何がそこまでなのかは一切分からないが、目の前でリアクションされるよりはマシになったようだ。 「結構頑固な所あるんだ」 「うう~~」 結局一葉ちゃんは、俺の皿の三分の一という『お手伝い』をした。 夜になり、後は部屋から出ずに朝を迎えれば俺の役割も終わりになる。 半ば意気込んで参加した『儀式』だが、思ったよりもすんなり終わってくれてほっとした。 それから後の事を考えると、一葉ちゃんのイメージが少し……というか大分変わった感じもする。 明るくて元気な子だとは思っていたが、方向性が……。 そして、それから……。 (紅……か) あの部屋で、一葉ちゃんも笑い声を聞いている。 そして俺は儀式の時にも……。 しかし、明確に笑っていると断定するには根拠が薄いくらい微かな音だった。 生き人形が笑い声をあげる……それは怪談のネタにしかならない話だ。 (一体どういう事なんだろう) 一人で一度だけ聞いたなら、空耳として済ませられる。 特に儀式の最中ならなおさらだ。 あんな暗がりの中にずっといて、おかしな物事を見聞きしても精神の変調なんて片づけられそうだ。 何より、蝋燭の炎を見続けなくてはいけないというのが、雰囲気的に怪しい。 実際に何かのたくらみがあるという事ではなく、そんな事が儀式の中に含まれているのが、変な感じがする。 (あの儀式も生き人形に関係ある事なんだよな……?何と言っても如月家の事だし……) 元々生き人形と共に発展してきた家だ。 その生き人形を。家宝をお披露目してまでやる事なんだから絶対に無関係ではない。 それなのに、参加者に詳しい事を教えない……もしくは知らないといった雰囲気だ。 ……まあ、終わってしまったのだから、正直な所、もうどうでもいい話ではある。 が、それだけで全部終わったと考えてはいない。 なんというか……気になるのだ。 (だって、結婚式とか言ってたしな……) 嫁さんの姿を女の子と覗き見するような新郎だけど。 ……いや、実際に結婚したなんて言われるとめちゃくちゃ困ってしまうけど。 それでも参加した以上は気になってしまう。 気になってると言えば、一葉ちゃんの事もだ。 ここにやって来た当初よりも、素の表情を見せてくれている。 その事がとても嬉しく思うし、また昔から知っているだけだった女の子の違った一面が分かったようで、新鮮に思えていた。 「…………寝るか」 儀式は終わった。 紅も部屋に戻されただろうし、一葉ちゃんも今日は部屋に侵入してくる事もないだろう。 後は寝てしまえば、それでいい。 目を瞑る。 寝る直前に夢に見たのは、今日あった儀式の事でもなく慣れ親しんでいる零の事でもなく。 更には一葉ちゃんの事でもなかった。 一匹の巨大な蜘蛛が、光る眼で俺を見つめていた。 「おはようございます」 「ああ、おはよう。よく眠れたかな」 翌朝食堂に行くと、おじさんが既に来ていた。 他にも零も席についていて、一葉ちゃんとおサエさんの姿はない。 多分、厨房の方にいるのだろう。 「あれ……朝食の席に来られるのは珍しいですね」 「そうだね。でも今日は特別だよ」 「特別?」 「昨日、他の親族も来ていたでしょう」 零がおじさんの後を引きついで続ける。 「彼らはまだしばらくはこの街にいるわ。もちろん、ここ在住の者も多いけれど」 「朝からそんな対応に追われているのよ。……まあ、当主のお仕事という訳ね。仕方ないわ」 「なるほど……そうだったんですか」 「誠一君はゆっくりするといい。街の方に遊びに行くなら車を出すように伝えておこう」 「どうしようかな……」 そこまでして貰わなくても、自転車を借りれば簡単に行けそうだ。 ……ただ、やっと一仕事終えた感じが強くて、そこまで能動的に動く気にもなれなかった。 「じゃあその時はお願いします。今日は家でゆっくりしていようと思います」 「そうした方がいいだろうね……儀式の後だし」 「確かに長時間座っていて疲れましたが、それだけですよ?」 「少し違うのよ。催眠術のような役割も持っているの」 「……催眠術?」 こんな朝食の席で聞くとは思えない単語に、首を傾げる。 その後の説明によると、暗闇で蝋燭を見つめさせるような事で、催眠状態に陥りやすくなると言う。 傍らにある生き人形に思いを強くし、人形師として生き人形の在り方を探っていくような……そんな事も儀式に含まれてるんだと零は言っていた。 「でも、この儀式が出来たのって……ええと……」 「今から約四百年は前だと言われているね」 「となると関ヶ原の辺りですか」 「良く知ってるね。……さすがに有名な年代だからかな」 「そうですね。授業でも習いました」 「如月家はその頃が発祥の一族と言われている。戦火によって住む場所を変え、そして争いを避けてこんな森の中を切り開いてきた訳だ」 「昔、聞いた事あります。その中で一族の当主が生き人形を連れていたと」 「そうだね。如月家の中でも一般的にはそう言われている」 「一般的に?」 「といっても、別に隠し事や秘密がある訳ではないよ。もっと簡単な話……つまり、本家の人間すら、今となっても作り方すら分からない人形を、どうやって作ったのか」 「また、その製法の一切を秘匿した理由は何か、とね」 「こちらを紐解いて考えると、やはりおかしい点は多く出てくる」 「おかしい点ですか?」 そもそもがおかしすぎて、どこに突っ込んでいいのか全く分からない状態だが……。 「――あ。もしかして生き人形を連れていた、という部分ですか?」 「正解だよ」 おじさんは感心したとばかりにうなづく。 ……が、それだと色々とまずくないだろうか。 「なんかそれ、前提部分が崩れてしまうような」 「その通りだよ。だからこそ大っぴらに言う訳にもいかなくてね」 「……なるほど」 そして同時に理解できた。 「儀式がその頃に生まれていて、その方法が催眠術に通じる手段を使うなら、いわゆる逆行催眠を掛けて、記憶の中から引っ張りだすとか、そういう手段だったのかもですね」 「その当時に逆行催眠なんて方法があるのかどうかは謎だけれどね」 「昔からの伝統って、何か裏がある……なんてのがバラエティの定番だけど、そういうのを考えるのって面白いな」 「…………」 「…………」 思わず感心しての一言だったけど、零もおじさんも反応は良くなかった。 「……あのね。それをリアルでやってるうちは、何なのって話になっちゃうじゃないの」 「……そりゃそうだ」 朝食後、腹ごなしに外を歩いていると、零がやってきた。 「今日はどこかに行くの?」 「やっぱり家でのんびりしてるよ。零は予定あるのか?」 「色々と面倒な事がね……」 どこか疲れた顔で言う。 「そんなに?」 「ええ……儀式で親族を呼んだきり、そのままという訳にもいかないわよね。昨日はそのまま帰したけれど、今日は午後から客が来る事になっているのよ」 「分家の人達か……」 「そうね。他にも人形研究家の人などいろいろ」 「研究家?」 「如月の生き人形を研究したいみたい。昨日の儀式には参加してないんだけれど……」 面倒だとばかりに疲れた息を吐く。 「分家の一つに取り入ったみたいで、そこからの後押しが強いのよ。自分たちが来る時に連れてくるような事を言っていて、断り切れないの」 「……なるほど」 「そういう訳だから人が多く来る事になるけど、気にしないでちょうだい」 「そういう事情なら、俺は居ない方が良さそうだな……」 「そうでもないけれど」 「でも本家と仕事の関わりが無いくせに、儀式に出される分家の若い男って、あまりいい顔されないんじゃないか?」 「…………それは」 やっぱりそうだよな。 本来なら当主の仕事な訳だし……特にそれをやるのが、零と仲の良かった同じ年の男なんて、気になる所も多いだろう。 「やっぱり昼飯食ったら外に行ってくる。そっちの方が零やおじさんも気が楽だろ」 「わかったわ。……気を遣わせてしまって悪いわね」 「気にすんなって。俺がそうしようと思ったんだから」 「でも、目的も無く外に行っても時間を持て余してしまうわよね」 「そりゃまぁそうだけど。適当にうろついてみるよ」 また美優や忍に連絡を取ってみるのもいいかもしれない。 バイトがあったら諦めるしかないが。 「一葉に休みを出しておくわ。連れていってちょうだい」 「一葉ちゃんに?」 「昨日も休みなく働いて貰ってるもの。それに最近、誠一と仲が良いように見えるわ」 「仲が良いって、……いや、悪くはないけど、改めて言われると」 「違うの?」 「……否定も肯定もしづらい」 「まあ、いいわ。一葉に聞いておくわね」 「あ、ああ。分かった」 零が屋敷に戻っていく。 客が増えるそうなので、俺も部屋に戻った。 顔を合わせないようにすると、このまま部屋に閉じこもっているか、外に出てしまった方がいい事になる。 一か所にじっとしてるのは昨日散々味わったから、やっぱり外に出る選択にして良かったと思う。 『一葉です。失礼します』 「一葉ちゃん? どうぞ」 「今日はよろしくお願いしますっ」 一葉ちゃんの恰好はメイド服から、ここにやって来た時に見た私服になっていた。 「こっちこそよろしく。どこか行きたい所ある?俺は時間つぶしみたいなものだから、一葉ちゃんに合わせるけど」 「はいっ! 何でもよろしいのですか!?」 「……行く所は何でもいいけど、何でも買ってあげたりはしないからな」 「大丈夫ですっ! お任せ下さい!そこを何とかするのが女の子の仕事ですっ」 「……今、笑顔ですげぇ事言わなかったか?」 「気のせいですっ」 ……まあ、いいか。 「それじゃ行くか。一人だったら自転車でも借りようと思ったけど……どうする?」 「あ、わたしも自転車ありますよ。だから大丈夫です」 「わかった」 風を切って走りながら、森の出口を目指す。 俺はガレージにあったママチャリを借りてきたが、一葉ちゃんは自前のロードサイクルに乗っている。 すごい高そうで、値段を聞いてもやっぱり高かった。 「いつも走ってるの?」 走りながら声をかける。 「いつもではないですが、自然がいっぱいですから!道の下調べもばっちりです!」 「へー。この辺り走るのは気分良さそうだしな」 「はいっ! あ! こっち行くと穴場の駐輪場がありますよ」 笑顔の一葉ちゃんに先導されて、二人で街を目指した。 「さあっ! どちらに参りましょう」 「来る前にも言ったように、一葉ちゃんの行きたい所でいいよ」 「はいっ! ではこちらですっ!」 ……どこでもいいとは、確かに言った。 一葉ちゃんに合わせるとも。 だからどこに行っても驚かないつもりだったし、こっちにきてからお世話になってる一葉ちゃんに合わせるつもりだ。 ……でも、これは予想外だった。 「わぁぁ…………っ!!」 目を輝かせながらガラスケースを覗き込んでいる。 「…………」 「ふ、ふぉぉぉおおぉぉぉっっ!!」 「こ、これは『時間歩き』のカード!こんなレアが入荷しているなんて……!!」 「『蓮』! 『蓮』はどこ!? どこにあるのですか!?」 ……輝かせるなんてもんじゃない。 テンションマックスであちこち探し回っている。 というか何を言ってるのかさっぱり分からない。 「く……15万円……」 そして値段もびっくりするほど高額だ。 ……さすがにこんなのは買えない。だから一葉ちゃんも眺めているだけで、こんなに盛り上がっているのだろう。 いや、まてよ? 15万? 確か儀式の前に一葉ちゃんが言ってたよな。 「紅の着物って、これ20枚分なの?」 「ふえっ!? どうしてですか?」 「え? いや、だって儀式の前に紅の着物を見て、『欲しいカード20枚分』って言ってたから」 「ああっ! それは違いますよ」 「違う? というと……?」 このカードの事じゃなかったんだろうか。首を傾げていると一葉ちゃんが続ける。 「本当に欲しいカードは別にあるんです。そちらはここには置いてなかったので、次に欲しい物を見ていました」 「とすると、その本当に欲しいカードの20枚分が着物の値段か」 15万掛ける20で300万。それ以上の値段って一体いくらになるんだろう。 「……ちなみに、それは一体いくらに?」 「ええと、前にオークションで見た時は180万円でした。もっとばらける時もありますが、大体100万円以上です」 「はぁっ!?」 思わず変な声が出た。 ということは……ええと……3600万か!! 『大体100万以上』を元にしても確実に数千万するのか!! うわ!! たっけぇ!いや、着物の値段からすると、そういう額もあるだろうけど。 でもたけぇ!! 「それに比べると、こちらは迷いますよね」 「そ、そうだよな。なんといっても15万だし」 「……どうしましょう。お買い得だし買ってしまいましょうか。いや、でも……その分を別の物にする手も……」 「そっち!?」 値段なんか眼中じゃなかった。今すぐ買うかどうかを迷っていた。 「か、一葉ちゃんってそんなにお金あるの?」 「――え? あ、はい。お給料は頂いていますから」 「…………なるほど」 そりゃ如月本家付きのメイドさんだもんな。 冷静に考えたら当然かもしれないけど、いやでも……。 「一葉ちゃんの好きなカードゲームって、こっちだったんだ」 思わず心のつぶやきが漏れる。 その間にも、わ~、とか、へぇ~、とか言いながらケースを覗き込んでいる。 あまりにも屈託のない様子に、店主らしいおじさんもニコニコとして見守っている。 「あ……ごめんなさい、何か言われました?」 「……何でもない。好きなだけ堪能するといいよ」 「ありがとうございます! えへへ、ここに居てあれこれと頭の中で組んでるだけで、何時間でも経っちゃいますね!」 「…………」 それにはとても同意できなかったが、好きな所と言ったのは俺だったので、何も言わずに見守る事にした。 店の外に出て、青空を見上げる。 先日買い物を頼まれた時に、零が一葉ちゃんにどこか冷たくあしらってる風だった理由が、良く理解できていた。 「楽しかったですね!」 店を出て喫茶店に入ってからも、一葉ちゃんは上機嫌だ。 何を買ったのかは教えて貰ってないが、結局『高い買い物』をしたらしい。 ……あの値段に動じてなかった一葉ちゃんの言う高い金額が一体いくらなのか。 恐ろしくてとても聞けていない。 「また来たいです」 頬を染めてうっとりとしながらしゃべる姿は、外見以上にとても色っぽくて、可愛らしい。 ……が、それを見てちょっと疑問が沸いた。 「一葉ちゃんはここに住んでるんだから、すぐ来られるじゃないか」 「あ……」 顔色が曇る。 「わたしはお屋敷に勤めていますし、旦那様もお体が悪いですから、あまりお休みを貰えなくて」 「おじさんや零なら、よほどの事以外は今日みたいに休日をくれそうだけど」 「そうかもしれませんが、やる事が多いのでなかなか」 どうもそこには触れたくないらしい。 何か事情があるんだろうか。ともあれ、今は話を変える方がいいだろう。 「ところで一葉ちゃんは――」 「ああっ!!」 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには美優がいて俺達を驚愕で見ていた。 「セイ君が零ちゃん以外の女の子……それもこんな美少女とデートしているなんて!」 「…………よう」 「こんにちは。誠一さんのお友達ですか?」 「え、あ、はい……中学の頃の友人で、野上美優です。あの……そちらは?」 「妻です」 「……え?」 「いつも夫がお世話になっています」 「えっ? ええっっ!!!??」 「声でけぇよっ。静かにしろっ。一葉ちゃんも変な事を言わないのっ」 「くすくす、ごめんなさいです」 「あ……えっと、うるさくしてごめんなさいでした……」 「……冗談っていう事でいいの?」 俺達のテーブルの空いてる席に座り、こちらに詰め寄ってくる。 「誠一さんには零様がいらっしゃいますから」 「零……さま?」 「水無月一葉です。如月零様の元で、メイドをしています。どうぞよろしくお願いします」 「これは、ご丁寧にどうも……メイドさん?」 「はい」 ……まあ、見えないよな。 今の彼女は動きやすさ重視にした……そしてちょっと無防備な恰好の、活発な女の子だ。 「如月家のお屋敷には何度か行った事あるけど、こんな可愛いメイドさんがいるなんて知らなかったよ」 「わたしが働きだしたのは、ここ数年ですので……」 「そっかぁ。わたしも遊びに行ってたのは昔だったから、それで会えなかったんだね」 「あ、そうだ。わたしだけじゃなくて忍君も来てるよ」 そして思い出したように入り口に振り返り、手を振る。 どこか憮然とした顔で、忍がやってきた。 「野上ははしゃぎすぎだ。店内の視線が痛かったぞ」 「うう……反省してます」 「初めまして。水無月一葉です」 「一条忍だ。よろしく」 「……しかし、初めて……ではないよな。君は如月家の離れに住んでいる子だろう?」 「あれ? 知ってたのか?」 「前に行った時に見た事がある。こっちを窺っていて、すぐに離れの方に行ってしまったからな」 「家政婦さんに聞いたら、離れに住んでいる子供がいると教えて貰った」 「えっと……はい。その通りです……」 「改めてよろしく頼む」 「はいっ、こちらこそよろしくお願いします」 一葉ちゃんが離れにやって来た経緯などは、とても説明がしづらいものだ。 それ以上忍は追及する事なく、また聞かれなかった事で一葉ちゃんもどこかほっとした様子だった。 夕方になり、俺達は帰る事にした。 「セイ」 そこを忍に呼び止められる。 「……あの子、大丈夫か?」 「一葉ちゃんか? なんでだ?」 「いや、勘違いならいいんだが……あの子は、元々ああいう子なのか?」 「まあ、テンション高い子ではあるな。帰って来た時は猫かぶってたのか、今よりもちょっと大人しく感じたけど……ノリのいい所はあった」 「そういう意味だと、地が出てきたのかもしれない」 「……そうか」 「何か気になる事でも?」 「いや、俺より良く知ってるセイの方でおかしな所がないならそれでいいんだ」 「ただ、明るく振る舞ってる姿が無理してるようにも見えてな。少し昔を思い出した」 「……昔?」 「前にここで事件が起きた事があって、その時をな。何かしらある子供は、不自然に明るく振る舞ったりもするからそれを思い出した」 「……変な事を言ったな。多分勘違いだ」 「俺もそうだとは思うけど……ひとまず話は覚えておくよ。まだ断言できる程知ってる訳でもないから」 「そうか。もし協力できることがあったら言ってくれ」 「ああ。そん時はよろしくな」 来た時と同じように、一葉ちゃんと並んで自転車を走らせながら屋敷に戻る。 太陽の日差しが傾き、森のトンネルの中は少し暗く感じる程になっている。 「先ほどは何のお話をされていたのですか?」 「一葉ちゃんがかわいい子だったから、その話だよ」 「……嘘を言わないでください」 「半分は嘘じゃないんだけど……初対面の人間の前で、明るく振る舞っていたのが、無理させたんじゃないかと心配してた」 「そんな事は」 「心配性なだけだから気にしないでくれ。初対面の一葉ちゃんが気を遣ってくれてたんじゃないかっていうだけだろうし」 「……ありがとうございますと、お伝えしておいてください。わたしは、大丈夫ですから」 「うん」 「お帰りなさい。早かったわね」 帰ると屋敷の前に零がいた。 一瞬俺達を待ってたのかと思ったが、そうではないらしい。 帰る途中に高級車とすれ違ったから、多分その関係だろう。 直前まで分家の人たちがいたらしいと考えると、本当に入れ違いになってたようだ。 「夕方でも早いって、どれくらいを想定してたんだ?」 「夕食すぎくらいかしら。その時間なら、ほぼ確実に帰らせることができるもの」 「……なるほど。覚えておくよ」 「誠一さん、今日はとても楽しかったです。本当にありがとうございました」 「ああ、また遊びに行こうな」 「ダメですよ。零様を誘ってあげてください」 「零とも遊びに行くけど……」 「それでは失礼致します」 明るく屈託なく笑って、離れに自分の自転車を戻しにいく。 その姿は先ほどまでと違って、少しだけ壁があるように感じていた。 ……夜になった。 帰って来てからの一葉ちゃんは通常の業務に戻り、顔を合わせる事は出来ていない。 話をしにいこうにも忙しそうにしていて、タイミングが見つからなかった。 「先ほどから何をしているの?」 「一葉ちゃんと話がしたいんだけど……」 「……あの子、気に入ったの?」 「い、いきなり何を言い出すんだ!」 「どうして慌てるのよ。気に入らない人間と話をするなんて思わないから、そう聞いたのに」 「聞き方が思わせぶりすぎるんだよ。まったく……」 「零こそ今は何をしてるんだ?」 「面倒事が終わったから、ようやく何をしようかと思って考えている所」 「人づきあいが一番面倒ね……なまじ、立場も関係もある相手だから、無碍にも出来ずに困っているわ」 「如月本家が一番偉いと思ってたけど、そうでもないんだな」 「ええ。人と人との付き合いがあれば、それに伴う関係は幾らでもあるわ。必然的なのもあれば偶然なのも」 「この場合は必然の事柄が多いけれどね。お父様が体を悪くしてから、分家の親族には頼りきりの事も多いから」 「……そっか」 「それに元はといえば――」 何かを言いかけて、零が言葉を区切る。 「あ、お話の邪魔をしてしまったでしょうか」 「いえ、大丈夫よ。単なる雑談をしていただけだから」 「はい。――あ、零様。お風呂がそろそろ沸きます。お入りになられてはどうでしょうか」 「そうするわ。一葉はどうする?」 「ええと……そうですね」 と、何故かこちらをちらりと見る。 「ではご一緒させて頂きます。お背中を流しますね」 「お願いね。……誠一、言いたい事があるならはっきり言いなさい」 「……お前、一葉ちゃんとお風呂に入ってるのか」 「別に毎回ではないわよ。同じ屋敷に住んでるような関係で、しかも歳が近いのだから当然でしょう」 「……と、という事は、つまり俺とも――」 「入るの? 私は構わないけれど、それ相応の心積もりは誠一側に必要になるわよ?」 「……すみません。何でもないです」 「そこで引くくらいなら、最初から言わないの。それでは、また後でね」 「ああ。じゃあな」 ……いったいどんなつもりだったのか。 あるいは、零風のやり方で俺をやり込めただけだったのか……。 それも怖くて、聞く事は出来なかった。 「………………」 一葉ちゃんはそんな俺達の様子をじっと見ている。 「本当に零様には弱いのですね」 「はうわっ!」 ぽつりとつぶやかれた一言が、致命的な一撃となって胸の中に食い込んできた。 風呂からあがって部屋に戻り、ベッドの上に身を投げ出す。 「あ~~。やっと気が抜けたぁ……」 緊張していた儀式も終わり、そしてこれからは夏休みを過ごすだけになっている。 零の方も親族ともめる事も無く――あったかもしれないが少なくとも表に出す程の物ではなく終わったみたいで、風呂上がりの姿は昨日までより気を抜いてる感じだった。 「これからは本格的に夏休みだよな……何やるかなぁ……」 せっかく伊沢に帰って来たんだから、やりたい事はもちろんある。 ともかく、明日の事は明日考えればいい。 時間もあるんだから、のんびりするのもいいだろう。 「……はい?」 なんかこの所連続だな。 そんな事を思いながら扉を開けると、やはりというか一葉ちゃんの姿があった。 「どうしたの?」 「夜分にすみません……今よろしいでしょうか」 「あ、ああ。いいけど」 一葉ちゃんはさっき零と一緒に風呂に入って来たんだよな。 通り過ぎる時にリンスの匂いがして、少しドキドキしてしまう。 俺の横を通り過ぎると――ベッドの上に腰かける。 「そんな所居ないで、こっち来ればいいのに」 椅子を引いて示しても、首を振った。 「いえ、今日はお願いがあってきました」 「……改めて言われると身構えちまうな」 昼間のカードショップで値段を見ているだけに。 多分、自分で使えるお金は俺よりも、自分で働いている一葉ちゃんの方が圧倒的に多いだろう。 「い、いえ。そういう事ではなく……力を貸して欲しいのです」 「力を? まあ、別にいいけど、内容によるかな」 「何も悪い事を考えている訳ではありません。ただ、絶対に秘密にして欲しいです。零様にも内緒です」 「……零にも内緒か」 如月家に所属しているはずの一葉ちゃんから、そんな事を言われると、少し身構えてしまう。 零にも内緒という事は、零に……ひいては如月家にも話せない何かに巻き込もうと考えている訳だ。 「…………」 すぐには返事が出せない。 「事情が分からない。少し考えさせて貰ってもいいか?」 「……いえ。今お答えを貰えたらと思います」 一葉ちゃんがベッドから下りる。 何をするのだろうと思っていると、部屋の電気を消した。 明かりが、窓から入る月明かりだけになる。 そして、その中でもはっきりと見える動き。一葉ちゃんがメイド服に手を掛けた。 「…………え?」 「ちょっと、恥ずかしい……ですね。やっぱり」 「な、なにをして――」 曝け出された小ぶりの胸と、そして大きく開いた足の先から見える下着が暗がりの中にも浮かび上がっているようだ。 「ただでとは言いません。誠一さんのお人柄からしてわたしが出せるお金を受け取って貰えるとも思えません」 「ですから、わたしは、わたし自身を差し出してお願いをします」 「わ、わかった。そんな事をしなくても手伝うから」 「ダメですよ、それでは」 「どうして?」 「今している事も含めて、絶対に知られたくないんです」 「わたしごとお話を受けて貰うか、全部忘れて聞かなかった事にするのか、選んで下さい」 「………………」 これは……悩ましい選択だ。 一葉ちゃんの身体が……という訳ではない。 もちろん、興味がないかと言ったら嘘になる。 女の子としても可愛いと思う。だが、それは今後を左右する後戻りできない選択だ。 滞在中も世話をしてくれたし、明るい所も好意を持っている。 好きかどうかと言われたら、間違いなく好きだ。けれどそれは、まだ女性として好きの段階じゃない。 ……でも彼女はそれを飛び越えて要求している。 話を受けて抱かないという事は封じられた。 誤魔化そうとしても……多分許さないだろう。 それだけの覚悟を感じる。 そして『頼み事』をするために、ここまでした一葉ちゃんが一番後戻りできない事を知っている。 どちらを選んでも、直前まで俺が望んでいた平穏な夏休みから程遠い物になりそうな予感が、ひしひしとしている。 なら、俺は……。 「……わかった。提案を受ける」 そういうと一葉ちゃんはうっすらと笑みを浮かべた。 幼く見える容姿なのに、どこか妖艶に見える。 「よかったです……ありがとうございます」 「提案は受けるから、まずは話を先に聞かせてくれないか?」 「ダメです。それでは後からやっぱり無しと言われるかもしれません」 そうして自分で下着の上に、指を這わせる。 「……ん、ん……ぁ……ん……」 「少々……ん、お待ち、下さい……ぁ……今、準備をしますから……」 「…………っ」 それが無理をしていると感じるほど痛々しく見えて、でも必死に自らの快感を高めようとしているのが淫靡で。 彼女の行動から目が離せなくなる。 「ぁ……ん、んん……っ。ぁ……んっ」 必死に自慰行為をしながら快楽を高めようとしているが、どこか上手くいっていないようだ。 ……当然だろう。 少し冷静になってみれば、表情は火照っているものの羞恥と緊張の方が強く、自分の股間をこする指先も緊張のあまりぶるぶると震えている。 肉体に刺激を与えたとしても、それがどこまで快感になるだろう? 正直な所、彼女の意気込みとは裏腹に難しいんじゃないだろうか。 しかし、だからと言って止めようと言っても止めてくれるような子じゃない。 一度決断を下した事は、曲げない。それが一葉ちゃんである事を、今はよく分かっている。 そして、俺は選んでしまった。 なら今の俺に出来る事は……。 「一葉ちゃん」 「は……はい。申し訳ありません、もう少々お待ちください。あ、ですが入れるだけなら多分今のままでも――」 そういって下着をずらしてあそこを開く。 開いた指先も力みすぎていて真っ白になっていて、そしてがくがくと震えている。 開かれた秘所も、湿っているように見えるけど、……多分今のまま入れたら、ものすごく痛いんじゃないだろうか。 「俺がしてもいい?」 「え? そ、それは……はい。もちろんです」 こういう事に詳しくはないけど、一人だけで何かをする物じゃ無いはずだ。 選んでしまったのなら、後戻りはしない。 「あ――」 一葉ちゃんの肩に手をかけ、口づけた。 「あ、んん、ちゅ――ん、あ……」 唇を合わせて、舌で舐める。 固く閉ざされた口元が徐々に開いていき、俺の舌と交わっていく。 両手で胸をもみしだき、小ぶりの胸を愛撫した。 「あ、ああっ。ん……」 そしてズボンを降ろし、ペニスを外気に晒した。 彼女の痴態に既に反応しきっている。 固く怒張して、いきり立ったものが自己主張をしている。 「一葉ちゃんの中に入れる」 「もちろん、出す所も俺の好きに決めるし、俺が望んだらいつでも抱く」 「初めてで痛がっても遠慮なんかしない。最後まできっちりする」 「俺は――」 「大丈夫です」 一葉ちゃんに遮られる。 「そう言って、わたしが怖がってやめるようにと思ったのですか? もうここまで来たら、わたしだって後には引けないです」 「……見えますか? ここ、沢山濡れてます。ほら、くちゅくちゅって音がします」 「もう、決めたんです。誠一さんに入って来て欲しいって思ってます」 俺を挑発するその声も、指先も震えを隠せていない。 彼女にとっても未知の経験で、怖いはずだ。 それでも、俺が作った逃げ道に乗ったりしない。 「誠一さんの……お好きに使って、いい所……なんです」 「……わかった」 もうこれ以上は、一葉ちゃんに無理をさせるだけだ。 「じゃあ、初めてを貰うよ」 「わたしも貰いますから、おあいこです」 震える声でそれだけ言えるのは、本当に大したものだ。 でも急に一葉ちゃんは目を泳がせた。 「……あ、あの。貰えるのですよね?」 「ぷ――っ」 「わっ、笑わないでください!」 「ごめんごめん」 こんな時にする話ではないだろう。でも、笑った事でお互いの緊張が少しほぐれていた。 「そうだよ」 あそこにペニスをあてがう。 二度三度と動かすと、濡れた秘所がくちゅりと音を立てる。 「…………」 その光景をかたずをのんで見守っている。 苦痛を長引かせないように――。 「あああっっ!」 抱き寄せるように、奥へと突き入れた。 「んっ! んん……ん~~~っ」 繋がりあった所から血が流れている。 「やっぱり……」 止めた方がという言葉は、彼女の強い視線に遮られた。 「ふ、ふふ、ん……気持ち、いい、ですよ」 血を流しながらも艶やかに笑う。 無理をしているのが見え見えだが、だからこそ止められない。 「……わかった」 もう彼女の処女を奪ってしまっている。 なら――きちんと最後までするだけだ。 「んんっ」 ゆっくりとペニスを引き抜いた。 半分ほど抜いたそれには、血が付いて赤く染まっている。 奥にいれると苦痛に呻いている。 ゆっくりと、あまり痛くないように。 「はぁ、はぁ……ん、んん……あ……はぁ」 それでも少しずつ余裕が出てきたのか、それとも酸素を求めてか、繰り返し呼吸をしている。 そのたびに音が喘ぎ声になって溢れてきている。 ――ちゅく、くちゅ。ずちゅ。 「あ、ああ……ああぁっっ」 室内に水音と嬌声が響く。 徐々に奥から溢れてくる愛液が、ペニスを突き入れる度にくちゅくちゅと音を立てる。 一葉ちゃんのあそこは既に熱く濡れそぼっており、本人の苦痛とは関係なく、俺を受け入れる準備が整ってきていた。 「あ、ああ……んっ、ああ……っ!」 きゅうきゅうと締めつけてきて、離さない。 二度三度と入れていく事で、動きも徐々に滑らかになってきた。 「すこし、大きく動かすよ」 「は――い……」 そして、奥へと貫いた。 「あっ!! ああっっ!!!」 「く……すご……っ」 彼女の膣内が異物を押し出すように、きつく締まる。 あるいはそれは、ペニスを迎え入れた結果だったのかもしれない。 精液を搾り取るように蠢いているようにも感じる。 一葉ちゃんの喘ぎ声と共に収縮し、絡みついてくる。 入れた衝撃で軽く達してしまったのか、あるいは挿入の苦痛か体を震わせながら、息も絶え絶えになっている。 「一葉ちゃん……大丈夫?」 「わた、し……こんな、ことに……」 「だい、じょうぶ……です。わたし、とっても気持ちいい」 「無理はしないでいいから」 「あ――」 キスをすると、それを求めてか口を開く。 くちゅくちゅと舌を絡め合い、積極的に吸ってくる。 挿入するよりもキスの方が気持ちよさそうだ。 腰を浮かせるように持ち上げると、再び刺し貫いた。 ――ずちゅっ、ちゅく、くちゅ。ずずっ。じゅぷっ。 「ああっっ!! んっ、あっ! ああっ!!」 「はげし……んっ! く、あ、……あぁ……っ!」 突き上げるたびに体がはねて、小柄な体がびくびくと震えている。 軽い体を抱きかかえるように、一番奥を目指して狭い中を動かし続けた。 「――ひゃぅっ!」 背筋をのけぞらせ、反応が変わった。 「ここ、気持ちいい?」 「わ、わかりません、なんだか、ぞくっとして……」 「……ええと……」 その部分に押し付け、突き上げ、ノックを繰り返していく。 「あっ! ああんっっ!!! んっ、あ、くぅっ!!だ、ダメ、ですっ。誠一さん、こんな。だめ、そこ……!!」 「ああっ!! あんっ、んんっ……わた、し、ダメ、んんっ。こんなの、変なのに、わたし、んんっっ!!」 「痛い、のに、頭の中がぼうっとしてしまって、何もわからなく……!!」 体を激しく震わせる。 きつく締めあげてくる快感に、俺のもそろそろ限界が近い。 「一葉ちゃん……! 俺も、もう……っ!」 「は――い。大丈夫、です。いつでも、平気です。誠一さんのモノですから……! ああっっ!!」 「一葉ちゃん……!! く……んんっっ!!」 キスをして胸を揉みしだく。 膣の奥から血と愛液が溢れだして、結合部からぽたぽたとこぼれおちていく。 何度も何度も奥を叩き、さらなる快感へ導いていく。 「ダメ! わたし、もう……だめっ。んんっっ!ああ……っ!! あああ……っ!!」 「俺も、我慢が、もう……っ」 「あ、ああっ。……わた、し……っ。誠一さんのが、わたしの中で、こんな! ああっ! ああぁっっ!!」 「あぁぁ、んああぁっっっ!!!!」 一際大きく背をそらすと、小さな体が痙攣する。 「く――――っ」 同時に、俺も我慢の限界を迎えた。 ――どくっ! どくっ、びゅくっ。 「あ、ああ……。ぁ……!」 膣の一番奥を目指して、精液が放たれた。 何度も何度も、体の奥を目指して打ち付ける。 ペニスが震えるたびに、自分でも驚くほどの射精がその狭い膣内を満たしていく。 「あ、ああ……はぁ……はぁ……」 彼女の中にたっぷりと放出し、ペニスを引き抜いた。 白濁した液体は、愛液を混ざりあい結合部まで逆流し溢れてきた。 ……行為が終わった。 一葉ちゃんの中にたっぷりと射精し……そして今更ながらに生でしていた事を思い出した。 「出来ていてもなくても、責任は取るから」 そういうと、困ったように微笑む。 「その必要はありません。わたしは他に差し出せる物のない誠一さんへの代価として、抱く事も含めてお願いをしました」 「これはわたしが出せる代価で、更には口封じの脅迫です。決して、体を使って誠一さんの恋人にして欲しかった訳じゃないんです」 「そうだとしても、俺の気が収まらない。それに、それじゃ一葉ちゃんは約束を破る事になる」 「そうなのですか?」 「俺が放り出せない人間だと知ってるから、こんな交渉をしてきたんだろう?」 「…………」 答えない……が、その沈黙が何より雄弁に物語っている。 「一葉ちゃんの全部を引き受けるつもりだ。もちろん俺に出来る事なんて何もないし、お金もない。多分、一葉ちゃんの方が何倍も稼いでるだろうし」 「財布と思って下さっても構わないですよ」 「……誠一さんのキャラクターではないですけれど」 「だろう?」 「本当に……誠一さんは……」 一葉ちゃんは深々とため息をついて。改めて、こちらに向けて頭を下げた。 「わたしのお願いを聞いてくださって、ありがとうございます。その……ちょっと痛かったですが……気持ちも良かったです」 「…………その感想は照れるから止めて欲しい」 「遠慮はしないで平気ですので、毎晩でもお世話しますからっ」 「嬉しいけど、そういう意気込みもいらない」 「……それはそれとして、幼い頃に少し覚えているご近所のお兄さんが、今も変わらない優しい人だったというのは、何だか嬉しいです」 「…………」 いやだから、そういう事も言われると、更に困る。 「……ところで、そろそろ事情を聞かせて欲しいんだけど。どうして俺にこんな事を?」 「……はい。全てをお話します」 一葉ちゃんは神妙な顔で、そう言って――。 「す、すみません。中からなんか垂れてきて……!一度お手洗いにいってもいいでしょうか……!」 ……一瞬でシリアスな空気をぶち壊してくれた。 「……わたしの家は、誠一さんと同じく如月家の分家でした」 そして戻って来た一葉ちゃんは、今しがたの事なんて何も無かったように、話を続けた。 「…………」 ツッコミしたい気持ちを抑えて、話を聞く。 本人は真面目に話してくれている。聞きたいと願った俺が水を差す訳にもいかない。 「わたしは幼かったので、当時の事はよく覚えていません。……ですが、屋敷に来られる分家の方などからお話を伺い、ある程度の事は把握しています」 「如月家に良く尽くし、そして両親と旦那様の仲も良好で良い関係を気づいていたと伺っています。複数の方に伺って確認しているので、確かだと思います」 「……そうだな」 伊沢に住んでいた頃は、俺も分家として本家の集まりに顔を出す事があった。 ……もちろん、主役というか呼ばれているのは親父とかで俺は零を含めた他の子供たちと一緒に『大人の話』の邪魔にならないように遊んでるだけだったが。 子供を連れてこない家。年齢が近い子供を近づけたいがために、連れてくる家。 それぞれの分家によって、子供の扱いも様々だ。 うちは……適当だった。零と仲が良いから連れてきたのであって、そうじゃなかったら連れてこなかっただろう。 如月本家の政治から離れた家なんて、そんなもんだ。 そして、その中に小さな女の子がいた。 まだ本当に子供の、可愛い少女。一葉ちゃんだ。 「ですが、その後どうなったかは誠一さんも知っての通りです」 「……ああ」 当時の儀式は、この如月家の本家ではなく、一葉ちゃんの実家。……長月の家で行われた。 儀式は無事に終わったらしい。 おじさん達はそのまま長月の家に泊まっていった。 ……そうして、火が出た。 炎は屋敷を燃やし、死傷者と重傷者を出し――そして近隣の家にも飛び火した。 ……まあ、うちの事なのだが。 隣近所と言っても、あの辺りは如月家の分家の屋敷ばかりの場所だ。 うちも当時はそこそこデカい家と、そこに作られた工房があった。 庭では遊べるくらい広かった。 だから、あまり隣という感じはなくて、そのおかげで延焼は防がれた訳だが……長月の家はそういう訳には行かなかった。 ……ここまでが、俺の知っている当時の話。 「あれは不幸な事故だったと、ずっと聞かされてました。わたしもそう思ってました」 「……それが違うと?」 「はい」 小さく――しかり、はっきりと断言する。 「如月家の儀式には、何かが付いて回るそうなんです」 「何かというのは?」 「……そこまではわかりません。でも、儀式の後には決まって何かが起きているようなんです」 「…………ふむ」 今の一葉ちゃんの言う事だ。嘘ではないのだろう。ただ、あまりにも漠然としすぎている。 ……いや、逆か。 漠然とした物しかないからこそ、あんな事をしてでも確実な味方を増やしておきたかったんだ。 (もしも、ああいう事が無くて今の話だけ聞かされたら……) ……考えるまでもない。零やおじさんに確認を取りにいっている。 それが手っ取り早いし、知識的にも正確だ。 だが、今はその方法は使えない。 一葉ちゃんとの約束をしていて――もちろん裏切る気はないが彼女は万が一を恐れているように見える。 ……つまり、如月家が黒で、自分の家を生贄として使ったというものだ。 可能性としては……分からない。ゼロとは言わないが、低いだろう。 ただ、ゼロではない。 万が一悪い意味での当たりを掴んでしまったら、調べる所の話ではなくなる。 自縄自縛だ。 何が正しいのか分からない――判断できるほどの材料もない。 だからこそ、絶対的な味方を増やしていきたい。 ……ものすごく驚かされた提案だったが、こうして改めて整理してみると、そこにはきちんと筋が通っている。 冷静に考えて考えて、考え抜いて――そして、最後は勢いと感情もエネルギーにして、一葉ちゃんは来ている。 「あ、あの」 「俺達は儀式についてどころか、如月家についても何も知らない」 「え? あ、はい。そうです」 「まずはそこから調べていく、という事でいいのかな」 「……はい」 「分かった。それで行こう」 「俺は誰にも言わない。ただ、俺と一葉ちゃんがセットで行動していたら、零は間違いなく何かしていると気づく」 「その場合の言い訳などは考えてる?」 「……今はまだ……」 「まずはそこだな……どうしようか」 「一緒に行動する理由があればいいのですよね。建前であっても……」 「そうだな。屋敷の仕事の手伝いとでも言っておくか?残りの夏休みは暇って話もしてたわけだし」 「お客様に仕事をさせる零様ではありませんよ。それに、きっと零様も一緒にお手伝いされます」 「やっぱり零の事、よく分かってて信頼してるんだな」 「それは……はい。そうです」 「あ、思いつきました。二人だけで行動する理由」 「本当に? どんな?」 一葉ちゃんが立ちあがる。俺に近づいて来る。 そして――。 「ん、ちゅ……くちゅ……」 キスをして、舌を絡めてきた。 「恋人になった……あるいは、これからなるので、二人だけでいたい。誠一さんはそのためにもわたしの仕事を知りたい」 「というのでどうでしょうか」 照れが混じった赤い顔で、微笑む。 その表情がとても色っぽくて――不意にどくりと、胸の奥が跳ねた。 「わかった。それでいこう。……そのためにも、恋人の練習しないか?」 「練習ですか? ――きゃっ」 一葉ちゃんを抱きしめる。引き寄せて、口づけをした。 「もう一度したい。一葉ちゃんの心まで抱きしめるつもりで何度でも」 「……はい。お好きなだけ、なさってください……」 顔をあげて、目を閉じる。 再び口づけを交わし――彼女をベッドに押し倒した。 「…………それは、出来ない」 振り絞るように、言葉を出した。 一葉ちゃんの動きが止まる。 そして――。 「……かしこまりました」 うなだれて、はだけたメイド服を整えた。 「それでは失礼致します。……どうぞ、良くない夢を見たと思って下さい」 同時に他言無用であり、言ったら承知しないというニュアンスが入っている。 それが分からないほど鈍くはない。 「わかっている。……お休み、一葉ちゃん」 「はい。おやすみなさいませ」 深々と頭を下げて、彼女は出て行った。 「…………はぁぁぁ……」 肺の底の底までの空気を吐き出して、ベッドに倒れこむ。 違った疲れが全身を支配していた。 「うう~~~……」 頭を抱えて、ごろごろとベッドの上を転がる。 あんな美少女が……。 こんな機会、人生に置いて二度とないかもしれないのに……。 もったいないという気持が無いかと言ったら、嘘になる。 多分どっちを選んでも、得た物と後悔はあって、そして俺はこちらを選んでしまった。 一葉ちゃんがあそこまでするくらい、思いつめていた。 ここで踏み込まなかった以上、俺には一葉ちゃんと今以上に親しくなる可能性は失われたという事になる。 「うぐぐ……」 可愛いと思ってた女の子とのフラグが永遠に失われたショックは、いかんともしがたい。 ……が、だとしても手を出す事は出来なかった。 「…………はぁぁ……」 零にこのことを相談……は出来ないよな。 多分、零をはじめとした如月家の人たちは俺の話も聞いた上で一葉ちゃんの事も無碍にせずに真摯に取り組んでくれる。 だがそれは一葉ちゃんも理解しているはずだ。 その上で、こんな手段に出ている。 「………………」 寝よう……と思ったが、先ほどの光景がちらついて、頭から離れない。 後悔はしていないが、もしも違う方を選んだらという可能性が頭の中をぐるぐると回っている。 「…………はぁ……」 ベッドから体を起こす。 もう一度一葉ちゃんと話をしてみよう。 元々人が少ない屋敷というのもあり、夜中は人の気配が更に薄くなっている。 おじさんは部屋にいるだろうし、零も寝ているのだろう。 誰もいない廊下を抜けて、ロビーに下りた。 「一葉ちゃんは……いないか。離れかな」 さすがに夜に行くのは躊躇われるけど……この時間の方が話がしやすい。 屋敷の裏手に回る。 出来るだけ物音を立てないように気を付けていくと――。 「では、誠一の協力は得られなかったのね」 「……はい」 (……ん?) 聞き覚えのある声が一つ。それからもう一つは一葉ちゃんだ。 (これ……零か?) 印象がちょっと違うような感じが……。 だけど、よくよく注意すると聞きなれた零の声だ。でもそれにしては、一葉ちゃんの態度が零に対する物じゃないような……。 「残念ね。諦めた方がいいんじゃないかしら」 「そんな訳にはいきません。あなたの……言う事が本当なら、わたしの両親を殺したのは如月家の人です」 「………………」 驚きが出ないように、声を押し殺す。 びっくりした……だが、同時に腑に落ちる。 さっきの一葉ちゃんには、強い覚悟を感じた。 我が身を投げ出してでも助けを求める……文字通り藁に縋る程のものだ。 ともかく、事情が全然分からない。もう少し聞いてみる事にしよう。 「そうね……儀式の場所を選ぶ権利は如月家の方にある。あなたの家を選んだのは如月家。そしてそこで火災が起きた」 「なんで如月家は、火災の後はそれまでの持ち回りをやめて自分の屋敷だけで儀式を行っているのかしら」 「一族の家宝を独占? 分家の主だった人間を自分の所に集めて権威を主張?」 「……わたしにはわかりません」 「でも、私が話している事は、あなたが考えている事でもあるのよ? 分かるでしょう? 心当たりもあるでしょう?」 「…………」 一葉ちゃんは無言だ。 それが何より雄弁な答えになっている。 (あの火災か……) 一葉ちゃんの家が焼けて、おじさんが大けがを負った。 奥さん……零のお母さんも亡くし、一葉ちゃんは両親を失い。ついでに俺の家まで焼けた。 ……ついでで済ますには被害が大きいが、人的被害は出てないのが救いだ。 「誠一は同じ火災の被害にあった者よ。あなたが頼る相手として間違っていない。……だってお隣のお兄ちゃんだものね」 「そこまでは思っていません。……ずっと離れていましたしわたしは物心つく前でした」 「くすくす。そう? まあ、いいわ。後は自分でなんとかするしかないわね。頑張って頂戴」 「あなたは何なんですか? どうしてわたしにこんな事を」 「さあ? 調べている間に、それも分かるかもしれないわ。私が名乗るのは、私に名付けた者に名を呼ばれてからだから」 「……意味が分かりません」 「ふふ、そうね」 …………。 それきり、女の声が聞こえなくなる。 やがて足元の草を踏みしめる音がして、一葉ちゃんが立ち去ったのが分かった。 「………………」 何も分からない事だらけだ。 けれど……今は出ていくべきでも、話しかけるべきタイミングでもないのが分かっている。 諦めて、部屋に戻る事にした。 「……驚いたわ」 翌朝、食堂で昨夜の打ち合わせの内容を報告した時の、零の第一声がそれだった。 「わ、わたしも……です。で、ですが、今はその、幸せ……です」 「…………」 ひいぃぃっっ!!おサエさんが厳しい視線でこっちを見ている!! 全てを見透かされそうで、とても怖い! 「誠一さんは本気で一葉の事を想われているのですか?」 「はい」 その問いに真っ直ぐ答える。 一切の逡巡なんて無い。 昨日の時点ではあったのかもしれない。 最初に抱いた後も――あっただろう。 けれどその後に一葉ちゃんと改めて話をして、二度目を自分の意志で抱き、今では即答で返せている。 「そう……ですか……」 「一葉の事は本人から伺っていると思いますが……」 おサエさんは俺と一葉ちゃんを見て、深々と頭を下げる。 「水無月の家の子として、この屋敷に勤める者として恥ずかしくないように育ててきたつもりです。どうぞ、よろしくお願いします」 「……お婆様……」 「一葉は本当の意味で水無月の子として迎える事が出来ませんでした。それが私の心の残りでしたが、誠一さんにならお任せ出来ます」 「…………はい」 経緯を思うと、胸の奥が苦しくなる。 「ありがとうございます」 笑っている一葉ちゃんも、どこか表情がぎこちなかった。 「……それで一葉が普段どんな仕事をしているか知るために、今日は手伝いがしたい……と。なるほど」 「ダメか?」 「構わないわ。私もまだやる事があるから、一葉が相手をしてくれるなら助かるもの」 「……ところで、いつから一葉を意識するようになったの?この前二人で出かけてから?」 「そうだな……その頃からだ」 「ずいぶん手が早いわね。誠一ってそうだったかしら」 「わ、わたしがその、強引に」 「そちらの方が納得できるわね。……まあ、それ自体はどうでもいい事だわ。男女の事は私にはよく分からないし」 「悪いな……色々と」 「別に悪い事ではないわ。サエも言っていたけれど、一葉の境遇を考えると、幸せになるのは祝福すべき事よ。それが昔から知っている誠一ならなおさらだわ」 「……おめでとう。と、言っておくわ。良かったわね、一葉」 「ありがとう、ございます。零様」 「……緊張……しました」 「……俺もだ」 お互いにどこか疲労を抱えながら、顔をみあわせる。 「それで、どこから行く? もう目星はつけてるんだろう?」 「はい。お婆様からこちらを借りてきました」 「この鍵束は?」 「お屋敷のスペアキーです。普段は離れの方にあるのですが今日は誠一さんに改めて屋敷を案内すると言って特別に借りてきました」 「これから行く所はロビーの奥にあります。それから、動きやすい恰好になってきます」 それから一葉ちゃんは廊下の奥――人形の間やおじさんの部屋とは違う方に案内しながら、説明を続ける。 「誠一さんがおっしゃるように、このお屋敷の中で私が調べる事の出来る場所は、一通り見ています」 「だろうな……それでどうにもなくなって、俺を頼ってきた訳だろうし」 「……はい」 「調べられなかった場所はこれまで四つあります。一つが人形の間。こちらは先日行く事が出来ました」 ……あの時か。そんな目的もあったから、行きたいと主張してたんだな。 「次が零様と旦那様の部屋。こちらは入る事は出来ますがやはり調べるとなると難しいです」 「後の一つは?」 「工房です」 「……工房?」 「はい。地下室が人形の工房になっているのです。旦那様が怪我をされる前は、よく使われていたそうなのですがそれ以後はたまにお婆様が清掃する以外は閉め切られていて」 「どこもわたしだけでは調べられない場所です。そして、資料がある可能性が高いのも、こちらです」 「他の所は? この屋敷に書庫は無いんだっけ?」 「ありますが、そちらはお手上げです」 「というと?」 「昔の言葉で書かれた物ばかりですので、わたしが見ても分からないものばかりです」 「ああ……時代考えるとそうだよな」 数百年前に出来た儀式の本があったとして、古語で書かれてるのは間違いない。 となると、探すのは近代の研究者による現代語訳。それから儀式そのものについて記された物だ。 「工房、旦那様の部屋、人形の間、零様の部屋の順番に可能性が高いと思っています」 「……なるほど」 でも、腑に落ちない部分がある。 「どうかされましたか?」 「いや、それだけで俺を頼るのが納得いかなくて。他にも理由あるんじゃないかと思った」 「そう……ですね……。続きは着いてからにしましょうか」 「わかった」 鍵を開けて中に入ると、そこは不気味な雰囲気の場所だった。 あちこちに人形が置かれていて、道具も放り出されている。 何かの作業の途中だったようにしか見えないが、そこに工房の主はいない。 長年使っていないと言うわりに、どの道具も整備されているのも、また不気味だった。 扉を閉めると、ますます密閉されたように感じてしまう。 「思っていた以上に綺麗ですね」 「そうだな……普段閉めててもちゃんと掃除してるんだな」 「地下で締め切りって、酸素も怖くなるけど大丈夫そうか」 空調が利いてる訳じゃなさそうだけど、今の所息苦しさは感じない。 ただ、閉塞感は付いて回っていて、あまり一人で居たい場所ではない。 「お話の続きになりますが。もし仮に如月の方が何かを仕組まれたのだとしたら、わたしはどうなるでしょう」 「……どうする気もなかったら……そのまま?」 「はい。その場合はわたしの両親が死ぬ原因になった方々の所で一生を過ごす事になります」 「…………」 「わたしは、ただ調べるだけではダメなんです。その後の事も考えておかないと……」 「……そうか……」 「ですが、わたしは独り立ちは出来ません。お金は貯めていますが、それくらい。使い方も良く知らないと思います」 「…………」 なるほど、納得だ。 今聞いた状況だと、一葉ちゃんが独り立ちするとしたらまず貯蓄は大きな武器になる。 一人暮らしして、働く所を探して……しかし、もしもここを出る事になったら、その場合は如月家は敵だ。 系列企業に入る事も出来ず、別の所で働くというのなら如月家の分家筋で本家のメイドをしていた経歴は何の役にも立たないだろう。 ……が、彼女は外界から隔離されて生きているようなものだ。 幼い頃に両親を亡くし、今は森の奥の館の中でメイドをしている。 給料はいいかもしれないが、経済観念が発達してると思えない。 ……というか、本来ならお金を貯めなくてはならないはずで趣味に使う余裕があるとは思えない。 でも違う。元から貰える額が大きいのか、本人は気づかずに高額の買い物もしている。 それは明確な世間とのズレだ。 その辺りのズレを本人も無意識に自覚しているのか、自分を導いてくれる、信頼できる存在を求めている……かもしれない。 そういう意味だと、俺はうってつけなのだろう。 「……なるほど、分かった。一葉ちゃんが本当に欲しがっていたのは、居場所なのか」 「居場所……はい、そうですね。そうかもしれません」 もしも、仮にこの森の中で、如月家とそこにいる人間が失われるような事があったら、一葉ちゃんは行き先も無くしてしまう。 でも今は俺がいる。例えそうなったとしても、うちに来るかどうかの打診くらいは出来るだろう。 そうなった場合でも、彼女は新しい場所を得られる。 もちろん想像に過ぎないが、今の不安定な状況を考えると新しい場所を求めるのは、不思議ではないと思う。 「じゃあ、如月家が何も問題無かった場合はどうする?」 「――――え?」 思ってもみなかったという顔だ。 「やった事として証拠を探す訳だけど、同時にやってない可能性も十分にある。……でもこっちは証明するのが難しい」 「でもその場合でも、真実はあらかじめあって、俺達はそれを探すだけだ。こちらであっても、一葉ちゃんは真実を受け入れなくちゃいけない」 「それは……」 「……はい。その通りです」 「それが分かってるならいい。早く始めてしまおう」 「はい」 まずは工房の中をざっと見て回る。 ここで人形を作っていたのなら、人形に関する資料は同じ所にあるはずだ。 そして、その人形を扱うための儀式に関する記述があってもおかしくはない。 「そもそも、なんでこんな風に人形を作ろうと思ったんでしょうね」 「如月家の目的だからじゃないか? ほら、初代が連れていた生き人形に到達するとかいう」 「それは知っていますが……なんで新しく作ろうと思ったのでしょう?」 「…………え」 「だって、生き人形自体はもうあるじゃないですか」 「……そう言われると。壊れた時の予備?」 「それなら、人形を作った時の当時の技術で出来るんじゃないでしょうか」 「言われてみると……おかしいな、何か色々と」 「昔の優れた技術を発展して、新しい物を作りたいというなら分かるのですが、過去の再現というのが引っかかってしまって」 一葉ちゃんはこれまでも独自に如月家とその生き人形について調べてきている。 今しがた考えただけの俺よりも、より深い所まで分かってる。 「そのまま素直に受け取ると、昔の初代だけが優れていて後の人間には再現できなかった……というのは?」 「可能性として高いです……調べていく程、そうとしか思えない事もあったりします」 「例えば?」 「生き人形は、初代の頃には笑って時には涙を流したとあります」 「ああ」 「ですが、今の人形を見てもそういう機能はないようなんです」 「…………同じ生き人形だよな?」 「はい。そう言われています」 涙を流すというなら、その為の機能……涙腺やなにやらが必要になってくる。 単に木彫りで化粧されただけの顔が泣く訳がない。 「だからこそ『生き人形』とまで言われてるんだろうけど」 「どこかに違いがあるはずなんです。でも、わたしは人形そのものには興味はありませんから」 「自分の家の真相を知る方が大事だしな……それもそうだ」 「ただの無機物である人形に、魂を込める儀式と言われています。その魂というのが何なのか……それが分かれば、真相に近づけそうなんですが」 暗い顔で言う一葉ちゃんに……俺は嫌な想像を消せなかった。 下から見える範囲は一通り調べてみたが、どこにも文献のようなものはなかった。 「ん~~。ありませんねぇ」 「こういうのって、当主が管理してるのかもな。おじさんの書斎を探した方がいいのかな」 「ですけれど、人形に纏わる物ならここも最後まで調べてみた方がいいですよ。使う所に置いてあるのも自然です」 「確かに」 「ですです。マニュアルが別売りになったプラモは不良品です」 「…………」 歴史あるからくり人形をプラモ扱い……まあ、大本をたどると案外そんなモノかもしれないけど。 「あ! 棚の上はまだ見てなかったです。古い物ならあんな所に置かれて放置されてるのかも……」 「人形のパーツばかりが納められてるけど、奥が見えないな」 「影になっていて、よく見えませんね」 角度的にも、目の前の物が壁になっている事も、探すには下からでは無理だ。 「そこに台がある。結構高いから俺が取るよ」 「わたしがいきますよ。台を支えていてもらわないとですし大きさからいって、わたしでは支えられません」 「確かに」 俺が一葉ちゃんを持ち上げるのは簡単だけど、逆は難しい。 どっちが上になるのが相応しいかといったら彼女だ。 「では行きますね。よろしくお願いします」 「ああ、分かった」 「うふふん。いつものスカートでなくて残念でしたね」 「……そこまでは思っていない」 動きやすいという理由で私服になっているのは、こういう事も考えていたのだろうか。 布地の多いメイド服だと、人形のパーツに引っかけて壊しそうだし。 二人で台を棚の前に移動すると、一葉ちゃんがその上に乗る。 ずれないように台を押して壁に密着させると、安定感が増した。 大きさにも余裕を持って作られているので、小柄な彼女でも楽々作業が出来そうだ。 これで少しくらいの動きなら、びくともしないはずだ。 「ありがとうございます」 俺の少し上から、声がかかる。 「どういたしまし――」 「――てっ!?」 「……? 何かありました?」 「い――いや、そっちはどう!?」 「こちらは……うう~~ん、ここは無いですね。少し隣に動かして貰ってもいいですか」 「こ、このまま?」 「はい。下りたら手間になっちゃいますし。あ、重かったらおりますけど」 「だ、大丈夫。一葉ちゃんはとっても軽い。よく分かってる」 「……もう。そういうことを言っちゃダメです」 言いながら、両手で棚を掴む。その隙に、足元の台を横に動かした。 「ありがとうございます」 目の前で小柄なお尻がプリプリと揺れている……。 動きやすさ最優先のホットパンツの隙間からは、飾り気のない白い下着が見えている。 更に目を凝らすと、その奥にある肉まで見えてしまいそうで。 ……しかもそれは、昨日たっぷり見た上に、その中には大量の精液を放った部位でもあり……。 「…………ごくり」 い、いかん。鎮まれ! 彼女が俺に身を預けたのも、全ては協力のためだ。 それ以外の感情もあったのかもしれないけど、そちらはあくまで建前という事になっている! ここで協力せずに欲望を優先させるようなら、いつかは約束を反故にして去ってしまうかもしれない……。 「あ、あった?」 「見つからないです……。棚は沢山ありますので、順番に見ていきましょう」 「あ、ああ」 「何か、先ほどから慌ててます? やっぱりおりましょうか」 「そのままでいい! 平気だから!」 「そう……ですか? わかりました」 その後も、吐息が掛かりそうな程の距離で揺れるお尻をみながら、作業は続いてた。 「ありませんでしたね……」 「そうだな……後はおじさんの部屋か。見せて貰えるように交渉するか――」 「――――」 真剣な目でこちらを見ている。 それが選べるのなら、最初からそうしている。 「……夜に忍び込むかだな」 「…………はい」 真っ直ぐ見て頷く。 ……何をするかは、決まっていた。 ……夜になった。 一葉ちゃんと工房を探したけど何も見つからず、次の可能性の場所として、おじさんの部屋……当主の間を調べる事に。 その打ち合わせも兼ねて、彼女がやってくる事になっている。 「失礼します……」 一葉ちゃんが入ってくる。 「……なんだか、緊張しますね」 昨日の事を思い出しているのか、微笑みながらもどこか緊張が見えている。 「あ……うん。本当に……」 俺までギクシャクしてしまう。 「ええと、どう……します? お風呂は入ってきました」 「えっ!? い、いや、まずは話をしようか」 「あ――そ、そうですよね。わたしったら……」 一葉ちゃんも緊張しているんだろうか。 「……こほん。では失礼します」 ソファの方に腰を下ろした。 「実際の所、見つけて調べてみないと分からないからピンポイントで探していくしかないと思う」 「はい。わたしもそう思います」 「今日はダメでも明日。明日はダメでも明後日という風にしよう」 「だから少しずつ焦らないように……それでいい?」 「もちろんです」 でも夏休みの終わりと共に俺は帰ってしまう。 だからあまり長引かせる事は出来ない。 「…………ふふ」 見ると一葉ちゃんがにこにこと笑っている。 「……どうしたの?」 「やっぱり誠一さんにお願いして良かったです」 「お願いというか……身を挺した脅迫というか」 「結果良ければすべてよしですっ」 「一葉ちゃんにとってはそうだろうけれど……」 「じゃあ、えっと……その、今日も代価を支払います」 「あ、いや。そういう意味で言ったんじゃないんだ」 思わず昼に見た彼女の尻を思い出してしまった。 ……すごい色気だった。 美少女なのは今でも分かるが、将来は更に恐ろしい。 「……こほん」 「先日も言ったけどさ、恋人になろうよ。体を代価にするとか、そういうのじゃなくて……」 「はい……それが誠一さんの望みなのですから」 「そうじゃなくて、……難しいな」 「一葉ちゃん。改めて聞きたい事がある」 「は、はい。なんでしょう?」 「俺の事、好き?」 「ふぇっ!? あ、その、ええと……好き……です」 「どんな所が?」 「む、昔から変わらない所……です。誠一さんは、わたしにとって、幸せだった時代の象徴……のように、思っていて……」 俺に嘘はつかないという約束のためか、しどろもどろでもハッキリと答えている。 「その誠一さんと一緒にいると、安らいだ気持ちになって甘えられて……」 「だから、わたしの人生を託せるのは、誠一さんだけだと思いました」 「…………」 ……なかなか照れくさい。 自分で言えと言っておいてなんだけど。 「あ、あの?」 「あ――悪い。その、気持ちがとても嬉しかった」 「きょ、恐縮です」 「俺からだけど、俺は一葉ちゃんとは昔の付き合いはあまり無くて、如月家に来てからの付き合いの方が長い」 「はい」 「だから俺からすると、一葉ちゃんも如月家の一員のように感じられていて、それでこの前言われた時に困惑もあった」 「……そうだろうと思います。それも考えてましたから」 だからこその取り引きだ。 実際にあれをやったら、一葉ちゃんもここに居場所を失う。 如月家の一員ではないと身をもって証明する意味も兼ねている。 「だから……俺にとっての一葉ちゃんは、明るくてかわいくて気立てが良いメイドさんで、そういう印象しかなくて」 「あ、あの、すごく褒めて下さっているのですが」 「……褒めてるんだよ。だから俺も好意を持っている。でも、それは一葉ちゃんとは違う理由なんだ」 「そう、ですよね。当然です」 「だから本当の意味での望み通りにはならないかもだけど」 言葉を探しながら、勇気を振り絞る。彼女はもう我が身を差し出して勇気を示した。 後は俺だけだ。 「一緒に生きていく覚悟はもうしている。だから、対等に支え合う関係になりたいと、思っている」 「そ、それは、その結婚……とかですか?」 「えっと……」 一足飛びにそこまで行くとは思ってなかった。 「あ! ち、違います、よね。わたし、両親の事を思い出すとあんな感じになりたいなって思ってて、相手を考えると……」 「あ、ああ! いや、そうじゃなくて」 というか、なんか俺、上手くコントロールされてないだろうか。 気のせいかな?いや、別にどっちでもいいか。 美少女の手の平の上で転がされるなら本望だろう。 「……それでいいよ。そうなろう。将来的にはだけど」 「……はいっ!!」 「あ、もう一つ言っておくけれど」 「はい、なんでしょう?」 「一葉ちゃんに言わされたんじゃなくて、自分で言った事だから、安心してくれ」 「あ……う……」 目を丸くする。あれだけ大胆な事を出来る彼女が、ここにきて一番照れていた。 「誠一さんはそのままでいてください」 一葉ちゃんの声に従い、ベッドに腰を下ろす。 「わ」 つたない手つきでペニスを取り出すと、目の前に出たそれに驚きをあげている。 「これがわたしを虐めた、怒りん棒さんですね」 えいえいと指でつついて来る。 「今日はわたしが仕返ししちゃいます」 「ん、ちゅ……くちゅ、ちゅぱ。ぴちゃ……」 「ん……」 そうしてペニスに口づけると、舌を出してぺろぺろと舐め始めた。 「ん、ちゅ……くちゅ、ぴちゃ……ちゅぱ。ちゅ」 「どう……ん、ちゅ……ですか? 誠一、さん」 「あ、ああ。気持ちいい……」 「次は、こうですよ」 その胸の谷間で、一生懸命に俺の物を挟み込む。 それでも包み込むというようなことは叶わない。小ぶりの胸で愛撫しているという方が近いだろう。 柔らかく、すべすべの肌に触れるだけでとても気持ちよかった。 「ん、んしょっと、ちょっとマニアックな見た目ですね」 パイズリというよりは、押し当てられている感覚に近い。 「どうですか? 本来は大きい方がされる行為ですが、わたしだけの独自性を目指してみました」 包み込まれるような、気持ちよさがあるわけではない。 けれど、一生懸命に俺のことを想って、俺を気持ちよくしようと動いてくれている。 その事実が、何よりも興奮を掻き立てた。 「一葉ちゃんはサービス精神旺盛だな」 「うふふん、敏腕メイドですから当然です」 「……メイドの仕事だっけ」 「ご奉仕する精神が大切なのですよ」 「……そうかも」 俺のメイドだと言われてる気がして、なんだか自由にしていいような感覚に陥る。 つい手を伸ばして、一葉ちゃんの両の胸を指先でなぞった。 「あ! だ、ダメですよ。メイドさんにおいたしたら」 「つい……」 一葉ちゃんが必死に愛撫する中で、胸の感触を楽しんでいく。 「……ん、もう。仕方のないご主人様です」 そしてさり気にご主人様プレイに切り替えてくる。 足りない部分は体全体で補うとでも言うように、一生懸命体を上下に揺らし俺の物を刺激する。 それがまた愛らしい。 「でも、その、パイズリなんてどうして知ってるの?」 単純なエッチな知識は年相応にあるんだろう。 でも、これはかなりフェチな部類だ。 しかも彼女の言動からして、ナイズリと分けて認識している事も明らかだ。 「今は、んしょ、情報は色々な所から……得られるのですよ」 「……そうなのか」 「えっちな漫画雑誌も定期購読しています」 「定期購読!?」 驚きの事実だった。 「インターネットがあればこんな森の中でもなんとか……」 「如月家の人間が買ったって一発でばれるじゃないか!」 「他の荷物や本と一緒に届くので平気です」 「――――なんとも」 分かっていた事だが……たくましい。 「でも実際に試すのは初めてなのです。やはりこれはわたしのサイズでは厳しいかもしれません……」 「そんな事は無いと思う」 「そうでしょうか?」 「一葉ちゃんが一生懸命やってくれてる姿がよく見える。とてもかわいくて得した気分だ」 何より、その表情にも行為にも興奮している。 愛撫されているモノが固く起立して、奉仕を受ける度にぎこちない快感が伝わってくる。 「も、もう……」 「そんな事を言う人は、こうです。――あむ」 胸で愛撫しながら先端を咥えこむ。 急な刺激に、少し身構えてしまった。 「……ちゅ……ぴちゃ、くちゅ……」 「……ん……ちょっと、変な味……。さきっぽから、苦い味が……ちゅ、ぴちゃ……」 「ん、ちゅ、くちゅ……ご主人様、どう、ですか……?」 「あ、ああ。すごい気持ちいい……」 「……ふふ、よかったです……ご奉仕のし甲斐があります」 咥えられている感覚はもちろん、彼女の言いまわし。そして、一生懸命の愛撫に、上目づかいに微笑み。 その妖艶な色気に胸がどくりと高鳴る。 「――――く――」 正直押し倒したくて仕方がない。 昼間見た時も、彼女の小ぶりなお尻を掴んでみたい衝動があった。 でも今はそれよりはるかに強い。中に挿入して――精液を吐き出したい。 それくらいの欲求がある。 「…………一葉ちゃん……」 愛撫をする一葉ちゃんの頭を撫でる。 「どう、ん、ちゅ……しました? ちゅぱ。ぴちゃ……」 ペニスの先端を改めて咥える。亀頭に舌を這わせ、先端から溢れる液体を掬い取る。 唾液と絡まり、膣内とは違う快感をもたらした。 「もう少しで出そうだ……」 「……ん……はい、ん、ちゅ、くゆ……ちゅぱ。りょうかい、でふ……ぴちゃ、くちゅ」 動きを速めてくる。射精へと導くように。 「ちゅ、くちゅ……ず、ずず、ちゅ、じゅぷ、……ちゅ」 唾液が溢れ、増してくる水音がとても淫靡だ。それを聞いて、また一歩限界へと向かう。 「ちゅぷ、ちゅぷ! ちゅく、んん。あ……ん、く……!」 口の中が一杯になったのか、溜まった唾液をごくりと飲んだ。 一度離した口が、また先端を咥える。 「……ん、ぴちゃ、くちゅ。ちゅぷ。んん、ちゅく……」 「ずちゅ、じゅぷ……んん、ください……ごしゅじんさまのを、かずはに……!」 少しずつ絶頂へ向けて激しさを増していく。 まるで、俺がどう感じているかを把握していると言わんばかりに。 「く……で、出る……っ」 「ん、んんっ、ちゅぱ、ぴちゃ!ずず……ちゅく……ちゅぷっ」 一葉ちゃんが最後まで導いてくれる。 その瞬間――。 「くぅ……っ!!」 口の中に精液を迸っていた。 「――んぐっ、んんっ! んんっっ」 ――どくっ! どくっ! どくっ。 ――びゅくっ、びゅ……っ。 精液が迸る。 それは真っ直ぐ一葉ちゃんに向かい、小さな口の中をいっぱいに満たす程に流れ込み、精液が溢れ出ていく。 「……んん、ん……」 急な迸りを受け止めきれずに、口元から溢れている。 「ん、んん……ごく……っ」 「けほ……けほっ」 嚥下して、それからしばらくせき込んでいた。 「量すごかったです」 「じゃあ、次は俺が――」 「いいえ、今日はわたしがたっぷりご奉仕しちゃいます。だから誠一さん……」 ふふと一葉ちゃんは妖艶に微笑んだ。 「お嫁さんにして貰うつもりで愛して貰いますので、覚悟してくださいね」 服を脱いで、一葉ちゃんが俺の上にまたがっている。 彼女の小さなあそこに怒張したペニスが当てられている。 「どう、ですか?」 そして俺の上――ベッドの上でつま先立ちになって、腰を深く落としす。 ペニスからもたらされる快楽を感じていた。 「ああ。気持ちいいよ」 「ん、んん、よかった……です」 足を開いてまたがった姿勢が、とてつもなくエロい。 一葉ちゃんはそのままスクワットのようにして、俺のペニスを中に加えこんで動かしている。 「……うあ……」 太ももに力が入るたびにぎゅうぎゅうと締め付けられる。 「あ、――んんっ。あ……っ」 「こ、これ……すごく、はずかしいですね……」 「…………だろうね」 見ている俺でさえ、ものすごいアングルになっている。 本人はもっと恥ずかしそうだ。 「それに腰に力入れようとすると、誠一さんのがごんごんって中に当たって……そのたびん、力抜けちゃいそうになって」 「ああ、んんっ。あ……んっ! はぁ……はぁ……」 「すごいです、形、よくわかります。私の中にぴんって、一本の芯があって、それがお腹の奥にこつんこつんって」 「実況はいいからっ!」 リアルに想像を掻き立てられて、射精してしまいそうだ。 ただでさえぎゅうぎゅうと締め付けられてやばいのに。 「じゃ、じゃあ。動きます」 一葉ちゃんが腰を下ろす。 ぺちんぺちんとお尻の肉が俺の足に当たる。 性器同士のこすりあいというより、腰と腰をぶつけているかのようだ。 「あ、ああ……んっ。あ……っ!」 ――ちゅく、ぐちゅ、ぷちゅ。ずちゅ。 「あぁっ!! ンッ! あ、ああんっ!! んっ!!」 「ん、ふぅ……あっ! あああっ!! く……んんっ」 「んんっ! ふぅ……ンッ! あっ!」 リズミカルな振動と共に肉と肉をぶつけ合う音。それから水音が響き渡る。 一葉ちゃんが跳ねる度に髪の毛がゆれ、汗が飛んで、こぶりな胸が可愛く震える。 その淫靡に奉仕する姿がとても愛おしい。 「ああ……気持ちいい……」 「じゃあ、もっと……」 動きが激しさを増す。 先ほど出しておいて本当に良かった。 あまりの締め付けの強さに、普通だったらすぐに射精してしまっていただろう。 何度も何度も跳ねて、そのたびに膣内が締まる。 呼吸の度に締め付けが変わり、そして肉が打ち付け合う。 一葉ちゃんの声が、音が、ぶつかり合う響きが、全てが愛おしくてたまらない。 性行為の快楽と同時に、目の前で小柄な少女が一心不乱に腰を振って奉仕しているというのが、快感を掻き立ててくる。 「ああっ!! んっ! んん~~っっ!!」 彼女自身が与えられる感覚を悦んでいるようにも見えた。 それがますます嬉しくて――たまらない。 最初の時の一葉ちゃんはやはり辛さを押し殺していたのが今になってよく分かる。 「く! ああっ! んっ。ああ……っ!!」 知らずに、俺の口からも声が漏れている。 「あはっ、誠一さんの声、可愛いです。わたしも、嬉しくなっちゃいます」 「もっと、気持ちよくなってください……。こういうのは、どうでしょうか」 そして上下の動きをやめる。 腰を深く落としたまま、ぐりぐると円を描くように動いた。 「うあ――すご」 「ん、んんっ。これ、わたしも、気持ちよすぎて……」 そしてくたりと力を抜くと、俺の上で動きを止めた。 「はぁっ、はぁ……っ。はぁ……っ」 「ちょっと、休憩……ひゃっ!?」 その隙を逃さず、両手で腰を掴んだ。 「ま、まって! ダメ、今は休憩だから……んんっっ!!」 腰を突き動かして、そして軽い体を揺さぶる。 与えられた分の快楽はかえそうと、腰を動かし続ける。 「あっ! んんっっ! あっ! きゃ――っ!! んんっ!」 「んんっ! ま、まって、んんっ! あっ! くぅ……!」 「も、もう……! ダメ、です。今日は、わたしが――」 そして再び一葉ちゃんが動き出す。 「んんっ。あっ! く……この……」 「きゃ、ああんっ。んっ、……あっ!!」 そうしている間に、お互い主導権を奪い合うだけだった動きが徐々にシンクロしてくる。 「あ、ああ! ああんっ! んっ」 「く、もう、そろそろ、いきそう……だ」 「わたしも、です。んんっ。あ……っ!!」 互いの腰を打ち付けながら、あるいは前後左右に動かしながら快感を高め合っていく。 「く……」 射精感がこみ上げてくる。 一葉ちゃんはそれをリズミカルに動きながら、導いている。 「あっ! ああっ! ん、んんっ、あ……!!」 「わ、わたし、も……んっ! ああっ、ああっっ!!」 「ああ、ああんっ! あ、くぅぅ……っ!!」 そしてピンと、背筋を張った。太ももに強く力が入る。 ペニスを締めあげて、絶頂に達した。 「ああああぁぁ~~~っっ!!!」 「くぅぅっっ!!!!」 ――どくっ! どくっっ!! どくっ!! 大量の精液が迸る。 それは一葉ちゃんの一番深い所に注がれていく。 「は、はぁ……、はぁ……」 俺の胸の上に手をついて、はぁはぁと息を切らせている。 俺も、全身を放出してしまったみたいで、しばらくそのまま動く事が出来なくなっていた……。 風呂に入り、お互いに身綺麗にして部屋に戻ってきた。 「シーツ、取り替えておきました」 「……本当に働き者だな」 「ふふ、ありがとうございます」 「少し休んでようか」 「そうですね……」 新しいシーツの上で横になると、先ほどの疲労が押し寄せてくる。 「眠っちゃダメですよ」 「少しは寝た方がいいよ。一葉ちゃんも」 「……仕方ないですね」 そうして身を寄せてくる。 彼女のぬくもりを感じながら――これからの事を考えていた。 携帯のアラームが鳴るまで、俺達は少しの休息を味わっていた。 深夜になったのを確認し、部屋を出た。 この時間はもうみんな寝静まっている。 屋敷に住む人たちの生活サイクルも、一葉ちゃんは既に承知だ。 「旦那様は夜中に目を覚まされる事が多いですが、時間は決まっており、その前後で起きられる事はまずありません」 「……なるほど」 「その時間にはわたしがお水を持っていく事が多いです。お婆様は夜中は寝ている事が多いので」 「今回もそうすればいい訳だな。事前に少し早めに部屋にいって、水を持っていく体で部屋に入る」 「起きてしまった場合はそれを渡して誤魔化す……と」 「そこまで慣れてるという事は、それ以前には書斎の中は調べなかったの?」 「……見ましたが、わたしでは分からない物も多かったです。それに鍵が掛かった机は開けられなくて……」 「なるほど」 「誠一さんにも手伝って貰って、今回はそこを調べられたら良いと思っています」 「わかった」 やる事は決まった。 ……とても気が引ける事ではあるけど、一葉ちゃんに付き合うと決めた時から、覚悟は出来ている。 物音を立てないように、室内に入り込む。 「こちらです」 言い訳が出来る体で、持ってきた水差しを机の上に置いた。 そして鍵のかかった引き出しのある、重厚な机の前に立つ。 「鍵は……」 ……鍵。書斎の鍵……か。 そして机をみながら、ふと思った。 (このタイプの鍵、知っているぞ) じいちゃんの工房に持ち込まれる物には、様々な物があった。 その中には鍵の付いた小箱もあり、紛失してしまった鍵の開け方も分かっている。 そしてその中には、からくり職人である如月家の人間が作った鍵も存在している。 世間で売られてるような金庫や車の鍵、家の鍵……。そういう物の構造は分からない。 けれどじいちゃんが開けられるような、如月家に繋がる人間が作った錠なら、何とかなるかも。 「誠一さん?」 鍵を探そうと促してくる一葉ちゃんを制して、机の前で手を当てて神経を集中する。 ――――キン。 ……やっぱりだ。この鍵の構造は知っている。俺なら開けられるタイプの物だ。 「鍵、要らないかもしれない」 「そうなのですか?」 「ヘアピン2本あったらいける。持ってる?」 「あ――はい。こちらに」 一葉ちゃんから受け取り、伸ばして、鍵穴に差し込む。 構造は把握できている。ロックの位置までばっちりだ。 片方を伸ばしてロックの位置にある錠を押し込み、残りのピンでひっかけて、回転させた。 ――カチ。 鍵が外れる。 「す、すごいです」 目を丸くしている。もしかしたら、思わぬ儲けモノとでも思ってるのかもしれない。 まあ、それならそれでいい。 人生まで差し出して捕まえた協力者なんだ。ただの保険以上に思って貰えるなら、それに越したことはない。 「……開けるよ」 引き出しを開ける。 その中には古ぼけたノートと――1通の手紙が入っていた。 手紙に書かれた宛先は――。『誠一君へ』と記されていた。 「…………え?」 「…………本当に来るとは思っていなかったよ」 そうして、硬い声色が、俺と一葉ちゃんを出迎えた。 「おじさん……」 「…………」 車椅子を押しながら、部屋の奥からから如月の当主が出てくる。 「……全部、分かっていたんですか。今日来る事も、何もかも」 「さすがにそういう訳ではないよ。ただ、教えてくれた人がいてね」 そして一葉ちゃんに目線を向ける。 「どうして、このような事を?」 「わ、わたしは――知りたかったんです!儀式の後には不幸が起きるって言われてるのを知りました。だとしたら、その不幸のせいで、うちは……」 「……私が我が身ともども、長月の家を焼いた……という訳かな?」 「そ、そこまでは言いませんっ。おかしいというのは分かってます! でも納得できないんです」 「……そうか」 「本当の所を、教えてあげてくれませんか。本当に儀式にはそういう不幸が付いて回って……それなら、俺を呼んでやらせたのも、生贄の役割だったんでしょうか」 「そう……だな。なんと答えた物か……」 「如月家の儀式について、そのような噂があったのは否定はしない」 「…………」 「やっぱり……!」 悲鳴のような一葉ちゃんの言葉に被せるように、おじさんは続ける。 「だがそれは、場所だけではない、参加者すべてにも起こりえる事だ」 「…………え」 「君はなぜ、儀式に子供が参加してはいけないのか。分家の中でも、限られた人間しか見る事を許されないのか。民間の研究者を入れないのか、考えてみた事はあるかな?」 「……ありません。そういう物だとしか」 「だろうね……だから、それについて否定されたとしたら私は何も言う事は出来ない」 「事情を話さずに参加して貰ったのは事実だからね」 「…………」 「じゃあ……じゃあ、結局同じじゃないですか!」 「人を不幸にする儀式なんてものがあって、それをやったからお父さんもお母さんも死んじゃって、やった本人まで車椅子で生活するような体になっちゃって……」 「誰も得しない、やるだけ無駄じゃないですかっ!」 「…………」 それは、一葉ちゃんの本音であり――心の叫びだ。 仮に――そう。仮にの話だ。これをやる事で誰かが救われている、その人を助けるためにリスクの多い何かをする。 そういう話だったら、助かった誰かを恨み、憎んだとしてもまだ納得が出来る。 そういうモノなんだと頭の中で理解が出来る。 でも今は違う。 まさしくやるだけ無駄な物……本当にその通りだ。 やる事で誰かが不幸になり、居合わせた人間にもデメリットがある。 そんなものをわざわざ開いて、大勢の人間が好き好んで参加をする……本当に何の意味があるのか分からない。 「……本当だね。私も、そう思う」 くつくつと包帯の下で、自嘲気味に笑う。 「なんでこんなものを続けているのか。続けることに何の意味があるのか。止めてしまってもいいのではないか……」 「如月家の当主は、常にそんな事を考え続けていた。親の姿を見ては馬鹿らしいと思い、私の代になったら止めようと、常に思い続けて――そして今も続いている」 「…………意味が分からない」 「そうだね。それが真理だと思う」 「さて、一葉君。君は幼い頃からここで暮らしている人間だ」 「…………はい。そうです。沢山の恩を受けて生きていけています」 「……違うよ。そのように恩着せがましいことを言いたいのではない」 「君の事は昔から、それこそ生まれた頃から知っている。だから、君が触れる書物、情報等もある程度の把握も出来る」 「…………何がいいたいのでしょうか」 「先の疑問、君は誰から教わった?」 「――――」 「何年も前からではないはずだ」 「いや、儀式について疑問に思う事があり、それを調べるというのは理解が出来る。そのための下準備も出来るだろう」 「だが本当にそのために準備をしているなら、今回誠一君が来る前に儀式を止めていたはずだ」 あるいは俺の来訪を、か。 どちらも出来なかった時点で、一葉ちゃんが完全には掴めてなかったことが伺える。 「それ、は……」 「君は自分の家については調べていた。だが、それと儀式の事を関連づけたのは、つい最近なのではないかな?」 「………………」 一葉ちゃんの顔色がどんどん悪くなっていく。 「……いったい、何を知っているというのですか?」 「詳しい事は君に宛てた手紙に書いている」 「…………」 引き出しの中から1通の手紙を取り出す。 読むのは……後だな。多分そのために、わざわざこうして手紙の形にしている。 「では、何故私がこうも一葉君の事を知っているか、そちらも答え合わせと行こうか」 そうしておじさんは、今度こそ自嘲するように笑った。 「私にも教えてくれた人物がいるんだ。この家の事を嗅ぎまわっている人がいる。どう対処するのか見せて貰う……とね」 ちらりと、寝室の方を振り返る。 「…………零?」 そこに居たのは零だった。 「零が、そんな」 「彼女は零ではないよ。良く似ているがね」 「…………はい」 一葉ちゃんも沈痛な顔で頷く。 そこに驚いた様子はない。 という事はつまり、一葉ちゃんにあれこれと教えていた人物と彼女は同じという事か……。 「そう、だったんですか。紅さん」 「紅……?」 それは、あの生き人形の名前のはずだ。 「紅、そうか……くれない、か」 その名を聞いて、どこかうなだれるように言葉を反芻する。 「……せっかくどうなるか楽しみにしていたのに、何とも面白くない所で終わってしまったわね」 対する紅は、零によく似た顔で、零ではありえない笑いを浮かべていた。 「……お前が一葉ちゃんにあれこれと吹き込んでいたのか?」 「人聞きが悪い事を言わないでちょうだい」 「その子の中には、常に疑心が吹き荒れているわ」 「自分は何時か殺されるのではないか。この屋敷の中にいてはいけないのではないか。しかし外の世界は怖い……という、疑念で満ち溢れている」 「だから、それを解きほぐすための手伝いをしてあげただけ。感謝されても、怒られる理由にはならないでしょ」 「……よく言えたもんだな」 その結果、一葉ちゃんは我が身を差し出してでも、助けとなる人物を求める所まで追い詰められていた。 疑念を持っていたとしても、それは長い時間の中で解消出来て行ける物のはずだ。 焚きつけたのは、何の解決にもなっていない。 「泥棒が入り込む事も知って、親切心から部屋の主に教えてあげたのよ。……ほら、良い事ばかりしているわ」 「最後までそうであるのなら、言う事はないのだけれどね」 「誠一君……この伊沢には、大昔から化け物が巣食っている」 「……化け物……?」 「人が人としての暮らしを得ている現代には、不要な存在だ。だが、それは大昔からここに根を張り、居続けている」 「それは……そいつの事……ですか?」 「化け物とは失礼ね」 「昔は知らないが、今の時代ではね。お前たちのような存在をそう呼ぶだよ」 「人は化け物への対抗手段も考えて生きてきた。だが、それはまだ見つけられていない」 「その化け物の力が無くては生きてこられなかった者のくせに。一体何を言い出すの?」 「生きてこられなかった……?」 それは重症を負っても、化け物のおかげで助かったという事なんだろうか。 それともまた別の意味が――。 「せ、誠一さん……」 一葉ちゃんに服の裾を引かれる。 そうだ、こうしている場合じゃない。 「零が準備をしている。君たちは早く逃げなさい」 「俺は――」 「それから一葉君。黙っていて疑念を抱かせた事、心から済まないと思っている」 「君の両親にも後で詫びるとしよう。だから、それで許して欲しい」 「――誠一」 「…………なんだ」 「あなたと一葉には二つの道を選ばせてあげる」 「二つ?」 「反意を示した以上、如月家の先は決まってしまった。でもあなた達は既に一族から外れている身。そして私の伴侶となっている」 「…………」 「如月を見捨てて、この街を出るか。あるいは見捨てないで、命運を共にするか――どうする?」 「そんな事は――」 「聞く必要はない」 おじさんが前に出て、紅に向き直る。 「誠一君達は逃げなさい。早く――っ」 言葉と共に、紅に対し――拳銃を向けて撃っていた。 「――――!!」 「急ぎなさい!」 続けて二発銃声が鳴り響く。 「……そう、これが如月家の答えという訳ね。よく理解したわ」 「誠一、あなたの事も追いかけてあげる。……こちらの遊びが終わったらね」 「せ、誠一さん……っ」 「行こう!」 一葉ちゃんの手を引き、走り出した。 「はぁ……はぁっ!!」 一葉ちゃんの手を取り、森の中を駆けていく。 屋敷に残された交通手段は、全て使えなくなっていた。 車はパンクしており、フロントガラスがズタズタに切り裂かれている。 自転車も同じで、タイヤはスポークごと切断されて、白い糸のようなものでびっしりと覆われている。 屋敷から逃げ出したくても、逃げる事も出来ない。 そんな状況で零は――。 「誠一と一葉は二人で先に行きなさい」 「零はどうするんだ?」 さっきの女――紅と零は、やはり驚くほどよく似ている。 それでも絶対的に違うと思うのが、この目だ。 紅の瞳は俺を見ても何も映していなかった。 しかし零は、そこに今でも信頼を感じる。 「…………」 一葉ちゃんが無言で寄り添ってくる。 これから二人で森の中を突っ切る事を考えると、当然の反応だ。 特にあんなのを見た後では、怖くて仕方ないだろう。 「少しだけ時間を下さい。準備してきます」 「ええ。お願いね」 「何か手伝える事は?」 「屋敷の中に戻す訳にも行かないわね……。適当なシーツやタオルを持っていきなさい。もしも森で過ごす事になったらあるのとないのでは大違いのはずよ」 「わかった」 「……じゃあね。誠一。一葉をよろしく」 「零! お前も――」 俺の言葉に、零は無言で首を振った。 「私の足では、文字通り足手まといになるわ」 「――っ」 その言葉に、詰まる。 零はあまり体力が無い。子供の頃からそれは変わらない。 ここにやって来た時に俺のバッグを持ち上げる事が出来ないくらいだ。 森の中を踏破していくのは難しいだろう。 「……それに、私はこの土地で朽ちていく。その覚悟はもう出来ているわ」 「……零……」 「さようなら。帰って来てくれて嬉しかった。また会えたら、再会を喜びましょう」 「……ああ」 零が屋敷へと戻っていく。 それを見送り――離れに飛び込んだ。 「誠一さん!?」 「準備手伝う。野宿に使えそうなものを適当に詰めてく。一葉ちゃんは貴重品とか――後は手放せない物を」 「はいっ」 腰の所に小さなポーチをつけている。 そこに財布や通帳の他に、先日買っていた高額のカードまで詰められているのが、ちらりと見えた。 「……もしかして、いざとなったら身一つで逃げる事も考えて、現金をカードに替えてた?」 「そ、そそ、そんな事は!」 ……無かったとも言えないという事か。 「わたしはこのような状況ですから、自分の腕で持てない物は買わないようにしてきました。ですから、そういう気持ちが無かったと言えばウソになります」 「でも、たとえ一人でも、自分であれこれと考えて遊んでいる時は、とても楽しいんです。そちらの気持ちの方が大きいです」 「……そっか」 なら無粋な事を言ってしまった。 「行こう」 ……そうして、ここに至る。 車や自転車だと簡単に抜けられた道が、徒歩では遠くて仕方がない。 「はぁ……はぁ……っ」 メイド服が汗を吸って、一葉ちゃんの身体にまとわりついている。 荷物は俺が全て持っている。 軽い物だけを詰め込んで入れてきたリュックは、大した重さではないが、走るたびに重心が安定せずに、体に負担をかける。 「きゃっっ!!」 小さな悲鳴と共に、足が止まる。 「なんだ、これ……」 脱げかけた靴の裏には、白い糸のようなものがついていた。 「これ、自転車に絡みついていた……」 棒を拾って、糸に絡めて引っ張る。 ……ずいぶん固い。引っ張って、巻き付け、ねじって……ようやく糸が切れた。 「ご、ごめんなさい」 「謝る事じゃない。それより――」 道の先を見る。 そこには、白い壁のようなものが出来ていた。 「こっちだ」 手を取り、森の中へと入っていった。 「……はぁ、はぁ……っ」 おじさんの部屋を訪れたのが、深夜2時くらいだった。 そこからなんだかんだとあって、4時くらいになっているはず。 時刻を考えれば、もう少しで夜明けになる。 今はまだ足元がおぼつかないが、それくらいになれば、森の中でも、大分楽になるはずだ。 「……はぁ、はぁ……」 一葉ちゃんの息も上がっている。 メイド服もあちこちに引っかけて、裾の辺りがほつれている。 俺も似たような物だろう。 ――ぐい。 言ってる側から、シャツが何かに引っかかった。 「ち」 ……糸だ。 木々に張り巡らされた糸が一本、俺のシャツに伸びている。 それを布ごと引きちぎる。 ……後戻りは出来ない。 自分たちが徐々に追い込まれているという恐怖が実感と共にあったとしても、屋敷に戻るのは良い選択ではない。 「……誠一さん……」 「大丈夫だよ。喋ると体力使うから」 「いえ、違うんです……。こんな時なので、言っておこうと思いまして……」 「言っておく?」 「多分……あんな事があったので、勘違いされていると思うのですが」 「わたしの初恋は、実は誠一さんでした」 「…………え?」 「子供の頃から、両親は如月家の本家の方の所に出入りして何か難しい話ばかりしていました」 「わたしは一人ぼっちで、まだ幼くて、家からも出られない生活だったんです」 「そうだったな……でもあの頃って、大抵の家はそうだったよな」 「……ええ。違う所といったら、誠一さんのおうちぐらいでしょうか」 「うちは分家とは名ばかりだったからなぁ」 「だから何度も遊びに来てくれて、おうちで出来るゲームも教えてくれて……覚えていますか? カードゲームが好きになったのも、子供の頃に貰ったからなんですよ」 「……覚えてる……けど、まさかそれが理由だとは」 しかもあの時って、ダブったカード等を適当に渡してただけだったはずだ。 お隣の小さな女の子が興味を持つと思わず、当時流行だったから集めて、渡して――本当にそれだけだった。 成長と共に俺達も大きくなり、行動範囲も変わっていった。 零が街の学校に通うようになり、いつも一緒にいるようになった。 ……同年代で遊ぶようになったら、必然的にお隣の小さな女の子との接点も無くなり……今に至る。 「……なんだか、色々と謝りたくなってきた」 「どうしてですか? 全部楽しい思い出ですよ」 思えば、ここに帰って来た時に、おサエさんが言っていたのだ。 『一葉も楽しみにしていましたよ』と。 その言葉は社交辞令として受けとっていたが、もっと真摯に向き合うべきだった。 一葉ちゃんとこんな形ではなく、一人の女の子として大事にして、想いを深めて――結ばれるべきだった。 ――糸が、絡む。 そのたびに引きちぎり、何とか前に進んでいく。 「……巻き込んでしまって、ごめんなさい。でも、言えてちょっと嬉しいです」 「ちなみに、その頃からずっと?」 「どうでしょう……自分でも分からないです。ただ、同年代の男の子って苦手で、乱暴で……そんな時に誠一さんは優しいのにって比べてたりしてました」 「だから、その時は意識してなかったのに、後から勝手に理想の王子様にしちゃってたのかもしれないですね」 「……そっか。付き合いが深かったら幻滅されてただろうからそこは喜ぶべきか、悲しむべきか分からないな……」 「どう、でしょう。今こんな事になっちゃいましたが、やっぱり誠一さんは王子様……」 糸が、絡みついていく。 引きちぎるための体力も、徐々に失われていく。 一本だった糸が、進むたびに二本に。 そして三本、四本となり――。 「いつ――っ!?」 柔軟で強靭だけど、まだ柔らかいと言えた糸の中に、針金のような硬いモノが混じり始める。 それが手を、足を薄く裂いて、更に体力を奪っていく。 「くそ……っ」 シーツを取り出して、破く。 先端に木の枝をひっかけて森の奥に放り――引っかかった糸を無力化して、強引に道を作った。 ――くすくす。 ……闇夜に、女の笑い声が混じっていく。 それはあの時、人形の間で聞いた声だ。 「紅いぃぃっっ!!!」 女に向けて、吼える。 それが、ますます笑い声を増やしていく。 「くそ……っ」 完全に地の不利を悟っていた。 怪物だと零の親父さんは言っていた。 そう――怪物。こいつは蜘蛛だ。 蜘蛛だからこそ、罠をはって待ち受ける。 蜘蛛だからこそ、一見して回りくどくても、罠に誘導するための仕掛けをしておく。 蜘蛛だからこそ――糸が張れる所では、絶対的に強い。 「……そうか!」 荷物の中を漁る。 さっき、万が一のために放り込んだ物が入っているはずだ。 「あった!」 ライターが入っていた。 これでシーツに火をつければ――。 「あら、危ない。怖い物を持っているのね」 いつの間にかそこにいた紅が、俺の手からライターを奪う。 「く――」 罠に掛かった後にもがいても、意味はない。 仮に――そう、仮にだ。 こいつと戦う場所があるなら。 人の身でも戦えるなら――。 ……人間が作り出した場所。そして糸が張れないくらいに燃えているなら、さらにいい。 人知を超えた動きをされたとしても、取り囲む炎が追い詰め封じ込めてくれる。 あるいは水辺。流れていく水に糸は張れない。 どちらも人間にとって優しい場所ではない。 けれど、人を超えた化け物に万が一の勝機があるとしたら、こちらも相手の予測を超える事をするしかない。 今は――どちらも無い。 なまじ気づいてしまっただけに、より大きい絶望がのしかかってくる。 「……一葉ちゃん。ごめん」 「どうして、謝るんですか……?」 「もっとデートしたり、そういう普通の恋人らしい事がしてあげられなかった」 「遊園地や海、プールにも連れ出して、俺の彼女はこんなに可愛いんだぞって世界中の人に自慢してあげられなかった」 「それが本当に心残りなんだ。……だから、ごめん」 「あ、謝る所は、そこなんですね」 「知らなかったか? 前向きなのが俺の良い所なんだぞ」 「……知ってます。そんなの、ずっと前から」 そうしている間にも、糸は体中に巻き付いていく。 寄り添うように、しがみつく一葉ちゃんにも。 二人の身体を包んでいく。繭のように。一対の翅をもつ蝶のさなぎのように。 「――誠一、先ほどの話を覚えている?」 紅が、問いかけてくる。 「もう一度だけ、選ばせてあげる」 笑いと共に、問いかけてくる。 「俺……は……」 俺が選んだ先は……。 唯一動く目線で、空を見上げた。 空の先が霞み始めている。月影が、白に覆われようとしていた。 翌日にも一葉ちゃんと話す機会を窺っていたが、その機会が掴めなかった。 「あ……一葉ちゃん。ちょっといい?」 「はい。なんでしょうか?」 「昨日出した洗濯物なんだけど」 「あ、それでしたらあちらにご用意してあります。後で部屋へお届けしますね」 「あ、ああ。ありがとう」 それなら部屋で待っていれば話が出来るか。 「それでは失礼致します」 ……と聞いていて部屋で待っていたのだが……。 「お洗濯物があがりましたので、お届けに参りました」 「ありがとうございます……あの、一葉ちゃんは?」 「別の仕事に回っております。何か御用が?」 「……いえ、いいです」 「では失礼致します」 軽く頭を下げて、おサエさんが出ていく。 「……ふぅ」 と、こんな感じに一葉ちゃんから避けられている。 この選択をしたのは俺自身だ。だから諦めるしかないのかもしれないが……。 あの夜の会話を聞いてしまうと、放っておく事は出来ないと思った。 「…………!」 唐突にノックの音が響く。 『誠一! いる? 誠一!!』 「零!?」 予想外の来訪に、慌てて鍵を開けて中に招き入れる。 「どうした?」 「一葉を見なかった? ここには来て……いないわね」 「一葉ちゃんが何かあったのか?」 「それが……姿が見えないとサエに言われて……」 「後、お父様も返事がないのよ。鍵もかかっているし、寝ているだけならいいと思うのだけど」 「……マジかよ」 「探すのを手伝って貰えないかしら」 「もちろんだ。ちなみに、まだ探してない所は?」 「屋敷のあちこちよ。森の方に行っていたとしたら、この時間じゃ見つけられないから、まずは家の中から探すわ」 「わかった。俺はまずどうしたらいい?」 「お父様の所に行って貰える? 叩き起こして構わないわ。まずは現状を知らせておかないといけないもの」 「サエが離れにスペアキーを取りに行っているから、合流して話をしてきてちょうだい。私は屋敷の中を順番に見ていくわ」 「わかった――」 ……と、ふとそこでなぜか人形の間の事が脳裏をよぎった。 「生き人形の所も見に行くんだよな?」 「そう……ね。行くつもりはなかったけれど、全てを見るというなら行かない理由もないわ」 「わかった。じゃあおじさんの所に行ってくる」 「ええ。お願いね」 「誠一さん」 ロビーに下りると、扉が閉まる音がした。 外から誰か来たようだと思い見ると、おサエさんがいる。 うっすらと額に汗をかいているのは、離れから急いでこちらに戻って来たからなのかもしれない。 「おじさんは部屋ですよね? 行きましょう!」 「お待ち下さい。こちらを」 手に持った鍵を俺に差し出してくる。 「私は誠一さんのように走れません。先に向かって下さい」 「わかりました」 急ぎ、部屋に向かう。 叩き起こしてでも事情を話すのだから、うるさくても調度良いくらいだ。 足元の柔らかい絨毯に足を取られそうになりながらも、全力で走り抜けて、扉をたたくようにノックした。 「おじさん! 起きてますか!?俺です、誠一です!!」 ――ダメだ、全然返事がない。 それに足の悪いおじさんが車椅子でここまでくるなら、時間も結構かかってしまうだろう。 そう判断すると、借りた鍵で扉を開けて中に入った。 「おじさん!! 誠一です!一葉ちゃんが――」 中に入り、叫ぶ。 そして息を吸って――その臭いにむせかけた。 何か、変な臭いがしている。 重苦しい鉄のような。そしてどこか生臭いような。 どこかで嗅いだ事はあるが、すぐには思い出せない。 なんというか、鼻の奥がツンとする匂いだ。 唐突に小学校の時の鉄棒を思い出した。 落ちて、鼻をぶつけてだらだらと血が流れてきた時の――。 「おじさん!」 それに気づいた時には奥の扉の中に駆け込んでいた。 「う――――」 そこには変わり果てた姿があった。 寝ている状態のまま、毛布はずり落ちている。夏場の薄手の毛布は半分がずり落ちて、上半身はむき出しだ。 そして胸元には包丁が付きたてられている。 臭いの元はここだった。 そして、見るからに致命傷になっている。 「……そんな……」 唐突に脳裏をよぎる。 ここに居ない一葉ちゃん。 屋敷の裏で話していた正体の分からない女。 何かを唆すかのような内容。 ……そして、体を張った彼女の頼み。 「く――」 部屋に戻る。 「な、なにごとです?」 おサエさんにぶつかりそうになり、目を白黒させている。 「奥で、おじさんが――零に知らせてきます!」 「え、ええ」 おサエさんを残し、ロビーに走った。 「お父様は?」 ロビーには零が戻っていた。開口一番で聞かれるが、とっさに言葉が出てこない。 「……落ち着いて聞いてくれ」 「……? 何があったの?」 「おじさんが、刺されていた。胸を……多分包丁っぽい。一葉ちゃんはいなかった」 「………………」 「冗談ではなさそうね。詳しく……いえ、いいわ。自分で見た方が早そうだもの」 「待った。一葉ちゃんがどこにもいなかったのか?まだ探していない所は?」 「……人形の間もみてきたわよ。誰もいなかった。後は……そうね。地下の工房くらいかしら」 「工房?」 「そちらは鍵がないと入れないのよ。ちょうど、誠一が手にしているそれね」 「ああ……」 スペアキーと言っても、いくつかの鍵がぶら下がっている。そのうちの一つが工房の鍵なのだろう。 「鍵を持っているのはお父様だけだわ。後は離れの金庫の中。だから開けられなかったのよ」 「人形の間は家宝なのに開けられるんだな。前も一葉ちゃんが持っていたし」 「ええ。私が儀式のために管理していたから……。どうして一葉に持たせた事を知っているの?」 「あ――」 そういえば内緒の話だった。 でも、今さら黙っている事は出来ない。 「儀式の前の夜に、こっそり一葉ちゃんと見に行ったんだ。人形に着せる着物に不備があったら問題で、時間もないからと言っていた」 「……そう……」 額に手を当ててため息をつく。 「そんなに、まずかったか?」 「分からないわ。なんとも言えない」 「他には? 隠してる事はない?例えば一葉を探そうとしてるという事は、一葉が犯人だと思っているのよね」 「……そこまでは考えてないけど、可能性としては」 「この前、屋敷の裏で一葉ちゃんが誰かと話しているのを聞いたんだ。その時は声が似てたからお前だと思った」 「私ではないわね」 「やっぱりか」 「私だと思ったのに、違うと確信をしていたの?」 「一葉ちゃんの態度が零に対する物と違っていた。でもそうなると、この屋敷か入り込める所にもう一人誰かがいる事になるけど……」 「…………人形」 「って生き人形か?」 「ええ、……といっても逸話に過ぎないけれど」 「まあ、いいや。今は工房に向かおう。歩きながら教えてくれ」 「わかったわ」 でもやはり気になるのか、おじさんの部屋の方を一瞥して――零は俺を先導するように工房の方へと足を向けた。 「生き人形と呼ばれるだけの逸話は残っているの」 「人と話した……というものも沢山ある。それらは単なる迷信や箔付けと言われているけれど、中には無視できない事も沢山ある」 「例えば?」 「人の心を読むというものよ」 「心を……読む?」 「具体的には分からないわ。ただ、その人形と話すと自分の考えを読み取られているように思うそうなの」 「そうして、人形に取り込まれる」 「…………」 なんだか嫌な話だ。 「そうならない方法は?」 「人形には対になる存在が必要なのよ。そのまま放っておいては、人形はあらゆる者の心を映して害を成してしまう」 「でもそのための対象を決める事で、人形はその者だけを写すようになる」 「…………ちょっと待て」 「何かしら」 「あの儀式は『結婚式』だと言ってたよな」 「……ええ」 「という事は、もしかして」 「そうよ、元々はその迷信の理由もあると言われているわ」 「……勘弁してくれ」 「私に言われても困るわ。それに、儀式に由来する説は何通りもあるのよ」 「他には?」 「自己催眠をすることにより、生き人形に至るための道を見いだす……こちらは誠一にも話したわよね」 「……ああ」 「その自己を投影し、見つめる事を心を映すと表現している説もあるわ」 「なるほど」 「とにかくそろそろ工房よ」 「わかった」 話は後だ。まずは一葉ちゃんの行く先を探さないと……。 屋敷に居なかったら、外の捜索の手配も必要になる。 ……おじさんの件と共に警察に頼まなくてはならない。 それを考えると、心が重苦しかった。 階段を下りた先の地下に、その工房はあった。 「先に行く」 「ええ、お願いね」 鍵を開ける。扉に手を掛けて、少しだけ開いた。 「一葉ちゃん?」 声が奥に響いていく。 ……居なさそうだな。中からは人間が居るような物音はしない。 だが代わりのように――。 ――ギィ、ギィ。 電気の点いていない真っ暗な部屋からは、軋んだ音がしていた。 「……一葉……ちゃん? そこにいるのか……?」 この屋敷のあちこちを探した。 離れはおサエさんが見ている。人形の間も零が見ている以上、屋敷では後はここだけ。 扉を更に開こうと手をかけて――止まる。 こんな所に居るはずがない。返事も無かった。 だからきっと、この館から逃げ出して街にでも行ってるんだ。 ……そんな思考が首をもたげてくる。 「…………」 力を込めて、扉を開ける。階段の明かりが明かりの無い工房に漏れる。 ――ギィ。ギィ。 軋んだ音がより大きくなる。 暗がりの向こうに――何か影があった。 「………………」 知らずに、指先が震える。 工房に立ち込める埃と、木と、油の匂いの他に――何かが混じっている。 「一葉……ちゃん……」 その物体に声をかける。 漏れた明かりに照らされているのが、見覚えのある靴と服の裾だという事実と―― その位置があり得ない程の高さになっている現実に目を背けながら。 「一葉……?」 零の声。 同時に、パチンと音がして電気が点った。 「か、一葉……? い、いや。やめて、一葉……そんな……!」 「あ、あ……あああぁぁぁああああぁぁっっ!!!」 声にならない悲鳴が、次から次へと溢れてきて止まらない。 脳裏に、あの時の一葉ちゃんの姿がよぎる。 何としてでも協力してあげればよかった。 そうすれば、彼女の悩みを聞いてあげる事くらいできたのに。 「く……うう、ううう……っっ!!」 その体は、いつまでも揺れている。 俺達が奏でる嗚咽と慟哭に交じり、梁を揺らして軋む音が響いていた……。 「…………」 自らを追い求め、そして孤独に立ち回った少女は自らの孤独に負けて、その生を終わらせた。 女は、空を見上げた。 女は、何も感じてはいない。 女は、自らをただの鏡だと認識している。 ……そうだというのに。 「……悲しみが、溢れている」 慟哭が木霊する。人には聞こえない叫びも、彼女の耳には届いている。 後悔と哀哭と、そしてやり場のない怒りで満ちている。 それが人間だと言うのなら、どれだけの悲しみを背負っているというのだろうか。 「ん……」 ずきりと胸の奥が痛んだ。 自分の役割を果たしているだけ。 自分はそのために生み出された存在。 自分は――如月家に据え置かれた鏡。 それが分かっているというのに。 「く、ううう……」 胸の奥が痛んでいたんで――仕方なかった。 「……あっちぃ……」 行楽シーズンが終わりに差し掛かっても、熱気が世界を支配している。 周囲の賑やかな声も、流れていくBGMも、どこか他人事のように聞こえてしまうのは、この世界が賑やかすぎるからだろう。 「誠一さーん、お待たせしましたー!」 「お――」 手洗いに行った一葉ちゃんが帰ってくる。 ……その両手には、ジュースやホットドッグといった食べ物まで乗っている。 「言えば俺が買ってきたのに」 「いいんですよ。ついでです。ついで」 「職業病か? もう――――あれ?」 「どうかしたんですか?」 「一葉ちゃんって、学生だったよな」 「そうですよ? 誠一さんより年下ですが、夏休みが明けたら転校してお世話になります」 「いきなりどうしたんです?」 「……だよな。なんか一瞬変な勘違いしちまって」 「変な誠一さん」 くすくすと笑いながら、妙に慣れた手つきで俺の前にジュースやら食べ物やらを並べていく。 ウェイトレスに才能という物があるなら、きっと一葉ちゃんはそれに恵まれているのだろう。 「新しい所でやっていく事に不安はない?」 「全くないですよ? だって誠一さんと一緒に住むんですから」 「改めて言われると照れるな……」 「卒業したら結婚する約束も、ちゃんと覚えてますよ」 「だからそれ、子供の頃の話だろ」 「ずっと仲の良かったお兄ちゃんに、あんな事やこんな事もされちゃったなんて、天国のお父さんやお母さんには報告は出来ませんね」 「……聞かれたら殺されそうだ。長月のおじさん達には本当にお世話になってたから」 「ふふ。みんなよろこんでくれますよ」 「……そうだといいな」 「さて――そろそろまた遊びに行きましょうか。今日は一日中、倒れるまで遊ぶんです!」 「一葉ちゃんが積極的なのは珍しいな。ゲームやってる時以外だと、久々だ」 「そうですか? でも、今日はすっごく来たい気分だったんですよ。だからかも知れません」 「そんなの楽しみにしててくれたなんて……。ああ、もう抱きしめて叫びたいくらいだ」 「や、やめてください……恥ずかしいですから……」 「はは。冗談冗談。行こうか」 「はいっ」 「そういえば、明日は紅さんが遊びに来るそうですよ」 「ああ……レイか。あいつとも久々だな」 森の奥に住んでいる、如月本家の一人娘。あまり付き合いはないが、向こうはこっちを気に入っている。 「くれないさん、だから略してレイさんなんですよね。どうしてそう呼ぶんですか?」 「それも、分からないな……まあ、気が付いたらそうなっていた」 「もう……」 「なんだ、嫉妬? 大丈夫だって、俺は一葉ちゃん一筋だから」 アイツには単に、いつからか一葉ちゃんが持っていたおじさんからの手紙について聞こうと思っていただけだ。 そこには如月家の過去について書かれていた。 とても荒唐無稽で信じられない――怪物の話。 過去の伝統なのかもしれないが、俺達には関係ない事だ。 事実、一葉ちゃんの両親は手紙にあったような事件ではなく病気で亡くなっている。 「……じゃあ、態度で見せて下さい」 「もちろん」 差し出された手を握る。 そのぬくもりは暖かく――そして、穏やかな日々の中でも決して離れない大切な物に感じていた……。 「……約束、守れたな」 「約束ですか? しましたっけ」 「したんだよ。……多分。俺も覚えてないけど」 遊びに行くという約束を、いつか、どこかで。 何を捨てたとしても、この手を離さない。そう決めた時に――きっと。 ……女の体を、腕の中に抱いた。 「ふ、ふふ。ふふふふ。ふふふふふふっ!」 零が笑う。 捕食者の笑みを浮かべて、俺を見下ろしながら。 夢にしては現実感がある。夢にしては感触が生々しく伝わってくるのに。 ――現実にしては、どこかおかしかった。 「……零……?」 腕をほどかれる。着物を羽織っただけの零に押し倒される。 「さあ、抱きしめて? 誠一の腕で、自分の意思で」 普段と雰囲気が違う。艶っぽい笑みを浮かべたまま、誘われるまま体を抱く。 だが――。 (あれ……?) 直前まで感じていた柔らかな肢体は、いつしか硬く俺の皮膚に食い込むまでになっている。 (いや、これ、ちょっとまて……!!) 少女の体を抱きしめていたはずが、いつしか変質している。 腕の中の彼女が得体のしれないモノへと変わっている。 「……ふふ」 零だったはずの存在が、知らない誰かに変わっている。 あるいは――元からそうだったのに、俺がようやく気付いたと 言うべきなのだろう。 しゅるりと布のずれる音がする。 暗がりの中で、女が衣服をはだけさせている。 服の隙間から見える体は硬く、人の肉ではありえない。 だというのに滑らかな肌を触るとまるで指先に吸い付くようで僅かな明かりを照り返す様は、人の身以上の艶めかしさを持っている。 冷や水を浴びせられたように、急速に意識が覚醒に向かう。 目の前の存在は零ではありえない。 それどころか、人ですらなかった。 『生き人形』。 それが生を得た――文字通りの生きた人形として、俺の上に圧し掛かっている。 「俺……を、どう、する……つもり、なんだ」 女が――紅が嗤う。 それは、どこか捕食者めいた笑みだった。 「あなたを、頂くわ。私の胎に、あなたの精を。……ふふ、誠一。今のあなたは――」 「私の、餌よ」 ――くちゅ。 ズボンを降ろされる。 外気に晒されたペニスに、熱く――そして人の感触ではありえない硬さを持ったモノが押し付けられる。 「な、何を――」 その問いに答える間もなく。 「ああ――――っっ!!!」 歓喜の声と共に、紅の秘所に入れられていた。 「う――がっ!!」 ペニスに激痛が走る。 硬く、ゴリゴリとした秘所は人の物では絶対にない硬さと人以上の熱を持っている。 木で出来た隙間に無理やり突っ込まれたようなものだ。 「ん、ん……あっ! ああ……誠一のが奥まで入ってくるわ。私の中を感じてちょうだい、ん、ああっ。んんっ」 「ぐっ!! がぁっ!! ああっっ!!!」 俺の苦痛には解さず、紅は俺の上で蠢いている。 「ま、まて! やめろ、ぐうぅぅぅっっ!!」 「いいのよ、誠一。もっと感じてちょうだい。ふ、ふふ。もっと。もっとよ。いい声で鳴いて欲しいわ!」 「いっ! ぐっ。ああっっ!! ぐぅ……っ!!」 紅が腰を打ち付けるたびに、ぐちゅぐちゅと水音が響く。 そして俺のペニスが削り取られるかのように、熱を伴った痛みと明滅しそうな程の刺激が脳髄を走る。 こんな苦痛でしかない性行為がまともであるはずがない。 それなのに収まる事なく怒張したまま、紅の体内に入り込んでしまっている。 そしてそれが、更にキツイ入り口で肉を削ぎ落とされるような新たな責め苦へとなっていた。 「ああっ! んっ、んんっ! く、ああっ!!」 俺の上で紅が歓喜に打ち震える。 腰を打ち付ける度に、ギシギシと体の各所がきしみ、傷つき痛みを上げる。 「んっ。ああっ! ふ、く……っ!!」 「んんっ!! く――ああっ!! んっ!!」 「そう、よ。いいわっ。もっと、もっとちょうだい!!私の中で果てて……!! 誠一! きて!!」 「う――ぐっ!!」 硬い指先で肌を抉られる。 「ん、ふっ。んんっ! あ……ああんっ!!」 紅は俺に乗っているだけだ。 しかし、彼女の人形の体が重なる部分に傷をつけていく。 果たして人形で出来た秘所は性器と呼べるのか……。 紅が打ち付ける度に俺自身が削ぎ落とされて、傷をつけられていくようだ。 そんな最中なのに、歓喜の笑みを浮かべて一心に俺を貪っている。 ――食われている。 餌というのが比喩でも何でもなく、本当の事なのだと思い知った。 「く――」 逃げなくてはと思うのに、体が動かない。 萎えてもおかしくないはずのペニスは硬直し、今も紅の膣内に収まっている。 人間は生死の境になると、子孫を残そうとするという。 しかしその対象が人形では、何の意味もない。 まさしく――餌だ。 「ふ、ふふ。おかしい? 自らが衰えないのが」 「……え……」 俺の焦りを感じ取ったように紅がほほ笑む。 「私が満たされると同時に私の体液で誠一を満たしている。人の体が、人でない物に過剰に反応している」 「さあ、出してしまいなさい! そうすれば、誠一は今の苦痛から解放されるわ!」 「私に、私の中を満たして! さあ、さあ――!!」 その声と共にますます動きが激しさを増してくる。 「う、ぐぐぐっっ」 こみ上げてくる射精感を唇を噛んで我慢する。 ……が、動きは激しさを増していく。 人形の硬さとは裏腹に、ぬちゃぬちゃと粘液を混ぜ合わせる音が響き渡る。 「誠一……誠一ぃ……っ!!」 紅の爪が俺を強くつかむ。 「ああ……っ」 「んあぁっっ!」 「あああぁぁっっっ!!!!」 強く、押さえつけられた。絶対に引き抜かさないとばかりの拘束に、俺の体が震える。 「あぁあぁぁぁぁぁつっっっ!!!」 歓喜ではなく――苦痛の声と共に、我慢の限界が訪れた。 ――どくっ!! どくっ!! どくっっ!!! 迸る精液が紅の中を満たしていく。 「あ、ああ……ああ……っ」 歓喜に艶やかに笑う紅は、獲物を食らい飢えを満たした顔。 俺のペニスが二度三度とはね上げて、彼女の中に注ぎ込む。 「……あ……ああ……」 「はぁ……はぁ……っ」 「はぁぁぁ……」 自らの安堵の声に、自分がまだ生きている事を知った。 それくらいの苦痛と快楽の中、脳みそが焼き切れてしまったように感じていた。 「ふ、ふふ。ふふふ」 「う――」 ぐちゅ……と肉が潰れたかのような音を立てて、彼女からペニスが引き抜かれる。 溢れだす精液がぼたぼたと垂れ落ち――紅はそれを指で掬い取って、舐めとった。 「ああ……勿体無い……。沢山の精が私の胎を満たしている」 「美味しいわ。本当に。飢えが満たされる……どれだけ感謝してもしたりない」 やっと……終わった……。 体はもうぼろぼろだけれど、それでも解放されたんだ。 「……はぁ……はぁ……」 もう何も言う事が出来ない。ただ荒い呼吸を繰り返して紅が立ち去るのを待っている。 そこに、追い打ちが掛かる。 「お代わりを、頂きましょうか」 その言葉は絶望となって降り注いできた。 「お……終わった……」 苦痛の中で搾り取るだけの行為がやっと終わった。 精根尽き果てて畳の上に寝たまま身動きが取れなくなっている。 まだ紅の部屋にいるが、何かをするほどの体力は残っていない。 「頑張ったわね。偉いわ」 「ひぅ――っ!?」 射精したばかりで、しかも無理やり突っ込む形になって痛みが走るペニスが撫で上げられる。 痛みと快感の残滓でごちゃごちゃになっていて、それがまとめて刺激として脳髄に走った。 「な、なに、を――」 あそこが柔らかい物で触られている。 先ほどの痛みとは正反対の、優しく愛撫されて、そして労わるような手つきで触られている。 「う――くっ。んっ!!」 体が跳ねる。与えられる刺激についていけていない。 「ふふ、では――」 くちゅ。 先端が柔らかい物に触れた。 ぬるぬるしていて、それでいてとても温かい。 ペニスの先端を包み込むように、優しく触れている。 ――ずちゅっ。 「んんっっ」 そして今度は――きゅうきゅうと締まる肉の壁に包まれた。 「うぐ――っ!?」 傷ついたままのペニスが納められたのは柔らかい秘所。 多分人の物と同じ構造になっている。 「ぐ、んんっ! ああっ!」 「あ……あ、いいわ。誠一。こっちの方がずっといい。あなたのおかげで得た体で、お返しをしてあげる」 「すごく固い。とても興奮してくれるのね。気持ちいい?喜んで欲しいの――ねぇ。誠一。私の中で――」 紅の体から木造りの硬さが消えていく。 一人の人間としての肉の柔らかさになっていく。 だというのに、圧し掛かられた体を跳ね除ける事が出来ない。 力は圧倒的に人間を上回り――それが目の前の人物が先ほどの人形と同じであるという確信になっていた。 ――ずちゅっ、ちゅく。ぷちゅっ。ずちゅっ! 紅が肉をうちづけるたびに、パンパンとぶつかり合う音が響き渡る。 そして先ほど注ぎ込んだ精液と愛液が入り混じり、注入によってこね回されて、白い粘液となって二人の結合部に糸を引いていく。 痛みと快楽が入り混じっていた先ほどとは違う。柔らかな肉壁に包まれ、襞が俺自身をこすり上げる。 潤滑油となった粘液が肉棒に絡みついて、ペニスを一心にこすり上げていく。 互いの体を重ね合わせる、人としての性行為。 だが、心が乖離したまま――それでもお互いの肉が貪りあっている。 「んっ、んんっ! あっ! ああ……はぁ、はぁ。ふ、ふふ……こういうのは、どう?」 紅が腰を浮かせる。 ずちゅっ!! 浮かした腰を、一気に下まで叩きつける。 「――うっ!!」 我慢していた所に不意打ちがされる。 「ま、まて。お前……このぉ――」 もう一度浮かそうとする腰を掴んで引き寄せた。 一方的に嬲られているだけだ。こっちのペースで動いた方がマシだ。 「……あは……あははっ! そうよ、誠一。求めてちょうだい!」 俺が自ら動いた事が嬉しいのか、笑顔を浮かべる。だがそれは、先ほどと変わらない上位者の笑みだ。 (なんでこんな事になってるんだ……) ふと思った。 恋人もいなかった。こういう行為は――きっと、何かの付き合いの果てに心と共に結ばれる物だと思っていた。 だが現実は違う。 得体の知れない化け物の少女と、互いの主導権を奪い合うための儀式になっている。 「……くそ……っ」 視界が歪む。 一瞬まぶたの裏に零の顔が浮かんだが――果たしてそれが零だったのか、抱いている紅だったのか、分からなくなってしまった。 そして、おかしいと言うなら、俺もおかしくなっている。 ずちゅっ、くちゅ。ぶちゅっ!ぬちゃ、……ぐちゅっ!!  腰を引き寄せて中に突き入れる。がくがくと紅の体を揺らし、引き寄せて、跳ね上げる。 ずん、ずず、ずちゅっ、ぱん、ぱんっ!! こうして腰をぶつけあい、女の体を感じている。 体内に精を吐き出そうと挿入を繰り返している最中なのに頭だけが切り離されてしまったような錯覚がある。 「誠一は、気持ちよくないのかしら?」 不意に、紅がそんな事を言い出した。 「気持ち、よくない……訳じゃ、ない」 「そう。よかったわ。なら――」 「だけどこれは違う」 紅と主導権を奪い合いだけの性行為。 肉体をぶつけて快楽を貪っている。痛んだペニスを叩きつけて女の膣の奥を抉っている。 ……しかし、そこに心が満たされる事がない。 ぬちゅ、くちゅっ。ぷちゅっ。ずちゅっ! 水音が響き渡る。 「あ――ん、あ、あは――っ。はぁ……はぁ……んんっ!」 女がそれに応じて体を震わせる。 確かに重ね遭っているのに――何かが違う。 それを埋められないまま、一心に腰を叩きつけていた。 そして――。 「くぅ――!!」 ――どくっ! どくっ!! どくっ!! 再び、紅の体内に射精する。 ――びゅっ、びゅくっ。 何度も跳ね上げるままに任せて、射精をする。 「そう……そうなのね。それが誠一なのね」 精液の余韻を味うように身を震わせたまま、紅が言う。 その言葉から笑いが消えていた。 「人としての想い。相手を、自分を気遣う事。想う事……これが人であり、あなたなのね」 ――ぬちゅ。 言いながら腰を浮かせる。 ペニスが浮いて半分ほど引き抜かれた。 それに伴い中から再び混ざり合った液体が溢れてくる。 「なら……こうかしら」 紅の手がペニスに添えられる。 ぐちゅぐちゅと音を立てながら、先端を埋没したまま腰を動かし始めた。 「う――っ!! ま、まて、ちが……っ!!」 今までとは違う快楽が襲い掛かってくる。 一方的に貪るのではなく、俺を見て紅は快楽の与え方を学んでいる。 亀頭を埋めたまま、前後に動かす。 かと思うと奥まで突き入れる。 自分の気持ちいい所に当てて、そして引き抜いては休ませる。 その間に添えた手を上下に動かして、リズミカルに愛撫を続ける。 「お互いを思う事、知る事。――人はとても素晴らしいわ」 「そういう、意味じゃ――」 ――くちゅ、ぐちゅ。ずちゅっ。くちゅっ。 先ほどとは違った音が響き渡る。 叩き付ける挿入ではなく、お互いの性器を使ってお互いを愛撫しているかのようだ。 くちゅくちゅとこね回されて、糸が引かれている。 敏感な所を丹念に愛撫されて――射精感がこみ上げてくる。 「や、やめ――」 「いいわ、いつでも、誠一の好きな所に――」 「く、うう……っっ!!」 紅に抗うように――何とか体を引き抜いた。 ――どくっ! どくっ! どくっ!! 何度目かの射精なのに、勢いよく迸る。 紅の体に降り注ぐと、黒い髪を白く染め上げていく。 その体には先ほどまであった人形としての継ぎ目が消えている。 ……本当の人間の体のように。 いや、シミ一つない人ではありえない美しさの肌へと変化していた。 「…………はぁ……はぁ……」 魂まで搾り取られるような性行為だった。 「ふ、ふふ。少し疲れたわね」 自分の体に降り注いだ精液を指で掬い取り――舐める。 紅も倒れ伏して、その重みを受けて床がぎしりと軋んだ。 ……長い情交が終わる。 紅に蹂躙され、精気を奪われ、一時は覚悟しながらも最後には彼女に向けて精を放っていた。 情欲に動かされていたのは否定できない。 しかし、貪るように放出を求めた後の紅は、確かに人との交わりをしていた。 捕食にも似た行為から、人と愛し合うための行為へ。 その変遷の理由も分からず――そうして今に至っている。 「……すぅ……すぅ」 その元凶である紅は、散々交わった後に一人でこうして眠りについている。 「……なんなんだ、こいつは……」 しかし……それにしても、自分の目で見た事なのに今でも信じられない。 確かに木で出来た人形だったはずだ。 ずっしりと重く、硬い。 人の形はしていたが、ただそれだけ。 ……紅の頬にかかった髪を払いのける。 人の柔らかさと温度を持っている。 冷たい木の人形ではなく、確かな感触と温度を持った存在として、ここに居る。 「…………本当に、なんなんだ……」 「いてて……」 散々精液を搾り取られ、知らないうちに体のあちこちにも擦り傷が出来ていた。 まあ、木と抱き合ってたのに等しいのだから当然だ。 「はぁ……」 俺も体力の限界だ。 隣に寝ているのが何なのか分からないが、正直な所動く体力も残ってない。 それでもこんな所に居る訳にはいかない。 「う……」 紅の体もドロドロになっている。 そして脱ぎ散らかした俺の服も、行為の余波を受けて酷い事になっていた。 「…………」 仕方ない。これを使うか。 ハンカチがあったので、それで紅の体を拭った。 その間にも規則正しい少女の寝息が聞こえてくる。 「部屋に……戻らないと……」 こんな所で眠る訳にはいかない。 裸でうろつく所を見られる訳にもいかないので、汚れた服でも我慢して身に着けた。 ふらつく足を必死に動かして、部屋まで戻り……。 汚れた服を脱ぎ捨てると、崩れ落ちるようにベッドに倒れこんでいた。 ……その人に出会ったのは、まだ子供の頃だった。 隣の屋敷で火事があり、火の粉が飛んできて危ないと一家総出で避難をした。 場所は自宅から少し離れた所。 森が近く、木々で覆われたトンネルがとてもカッコよくて、子供の頃からよく遊び場にしていた。 夕暮れ時、ただ待っているだけなのにも飽きてきた。 火事も収まっており、大人たちは自分の家がどうなっているか。近隣はどうなっているかと、難しい顔をして連絡を取っていた。 俺はやる事が何もなくなくて暇を持て余し――。 ――そして大人たちも、後始末で忙しくて子供の事なんて気に掛ける暇は無くなっていた。 『遊びに行ってくる』 そう言い残して、大人たちから離れていった。 大人たちも、子供に火災現場の話を聞かせたくなかったのか二つ返事で送り出した。 ……慣れた遊び場。子供たちが作った――そして、大人も承知している秘密基地。 ……そこに、彼女が倒れていた。 「誰? 何をしているの?」 着物を着た女の人は、あちこちが焼け焦げている。 倒れたままピクリとも動かない姿は、まるで死人のように思えた。 「だ、誰か――」 「へい……き……」 声が、する。 ギギギと軋んだ音を立てて、ギクシャクと壊れたロボットの動きで、彼女は起き上がろうとしている。 足元の草に滑り、ガシャリと音をたてて崩れ落ちた。 「……ひっ」 昨夜見たSF映画の壊れかけたロボットのようだった。 ギクシャクと壊れかけた動きで、こちらににじりよってくる。 壊れかけた動きが恐怖と――そしてどこか可哀想に見えた。 「け、怪我、してる?」 だからだろうか。本来なら怖がるはずなのに、その壊れかけの人形に対してそんな事を言ってしまったのは。 「……ええ……」 ソレは、俺から離れようとしていた。 出口となるべき場所が俺の近くだったために、こっちにこようとしているように見えた、だけだった。 ……それに気づいたら……怖さが薄れてきた。 今も怖いのは変わらない。 でも、何もしない相手を怖がっても意味がないって映画の中で主人公は言われていた。 相手が何をするのか、きちんと見極めろと、主人公の尊敬するお爺さんに叱られていた。 ……うちのじいちゃんも似たような事を言ってくる。 その言葉が、頭に残っていた。 「待ってて」 声をかけて、立ち上がる。 人形は、人の言葉が分かるみたいだ。さっきから人間の言葉を話している。 大人しくなって、その場に座り込んでいた。 ハンカチやガムテープなどを持って、戻ってきた。 「壊れているのどこ?」 「……足が」 赤い着物をまくった先には、足首から先が無くなっていた。 これでは立ち上がる事は出来ないだろう。 「…………えっと」 手にしたガムテープと壊れた足を見比べる。 ……これじゃダメかもしれない。 「ありがとう」 でも人形は……女の人は柔らかく笑った。 「う――うん」 とても年上で、大人っぽい姿をしている。 それが気恥ずかしくて、ドキドキした。 「俺、卯月誠一。お姉さんは?」 人形でも年上なんだから、お姉さんであっているだろう。 「私は……名前は無いの」 「そうなの? じゃあ俺が付けてあげる!」 「ふふ、嬉しいわ。……でも、今はダメよ」 「どうして?」 「名前を付けるのには、きちんとした時が必要なの」 「……そうなんだ。人間も赤ちゃんが生まれたら、名前つけて役所に出すって言ってたもんな」 「よく知っているのね」 「何年か前、隣の家に女の子が生まれたんだ。その子の名前をどうするって話してるのを聞いた」 「そう。よく覚えているのね」 「えへへ。すごいだろ」 「ええ、すごいわ」 人形とは思えない穏やかさで、そして物腰が柔らかかった。 俺が褒めて欲しいと思う所を褒めてくれる。それでいて、大人のように馬鹿にしない。 彼女は見るからに人ではなかったけど、一時間もしないうちに俺はすっかり大好きになっていた。 「あ……ごめん、すっかり忘れてた。足どうしよう」 思い出して言うと、彼女の表情が変わる。 それまでの子供の言葉を何でも聞いてくれていたお姉さんから本来の人形に戻ったかのように。 「治す方法はあるわ」 「どうするの? 部品ある? とってこようか」 「あなたの体液を貰えないかしら」 「体液……?」 「何でもいいのよ。血、唾液、……それから精液。遺伝子が分かる物なら何でも」 「せ、せい……?」 エッチな本で見ただけの単語だ。 女の人の口から出る事に、ドギマギしてしまう。 「ふふ」 ……笑われてしまった。 でも、なんだろう。 それまでも沢山笑っていたはずなのに、今のうっかり漏らした笑いの方が、なんだか本当に笑ったという感じがしていた。 「手を出して」 「う、うん」 「精液が一番いいのだけれど」 「む、無理! 無理無理!!」 「……そのようね」 「その手の上に、唾を出して貰えるかしら」 「わ、わかった。……ぺっ、ぺっ」 怪我をしたら唾をつけるというのは、よくある。 それと似たような事だろうか。 ……でも彼女は俺の手を掴むと――。 「ぴちゃ……ちゅ、ちゅぱ……」 「うわっ、うわわっ」 手の平を舐め始めた。 丹念に全て掬い取るように、赤い舌先でちろちろと舐める。 手の平のみならず指の間から、手の甲まで。そこにはさっき慌ててる時に木の枝で引っかいた傷があって赤い舌先で、傷口をぴちゃぴちゃと舐め上げている。 「う、うわ――」 ぞくりと背筋に妙な感覚が走る。 下半身が痛いほどに固くなっていて、立っていられない。 「ふふ。美味しいわ」 「で、でも、こんな事で怪我が治るなんて――」 「本当よ。ありがとう。助かったわ」 先ほどの壊れかけたロボットの動きとは違い、スムーズに立ち上がる。 「関節が引っかかっていて動けなくなっていたのよ。これでもう平気だわ」 「そう、なんだ」 よく分からないけど、もう平気なら大丈夫なんだろう。 「ねえ、誠一。お礼がしたいわ。どうしたらいい?」 「い、いらないよ」 真っ直ぐ見つめてくる視線が妙に熱く感じて、目をそらしてしまっている。 「そう?」 「じゃあ、ここ、俺の基地なんだ。一緒に遊ぼうよ」 「きち? あなたの?」 「大人もみんな知ってるから、秘密基地じゃないんだけど、遊びに来る時はいつもここなんだ」 「では私はあなたの場所に居座ってしまっていたのね」 「別にいいよ。困っていたみたいだし」 「……そう……では、遊びましょうか」 「うんっ。何する?」 でも女の人は、俺の口元を指で抑えた。 「今ではないわ。私はこんな体だもの。それに、そろそろ動けなくなってしまう」 「そう……なんだ……」 「だから、約束」 「私をいつか迎えに来て。その時に名を呼んで頂戴。そうしたら――一緒に遊びましょう」 「わかった!」 「ふ、ふふ。軽々しく約束をするものではないわ。もしかしたら……高くつくかもしれないわよ」 「なんで? また会って一緒に遊ぶだけだろ?」 「そう、なのだけれどね。……わかったわ、誠一がその時になっても今と変わっていなかったら、私はあなたの事は――」 「俺の事は?」 「――――――――」 音に出さず、口の中だけで言う。何か物騒な事を言われた気がして、首を傾げる。 何と言ったのか、気になって仕方がない。 「いつか、思い出して」 女の人の手が、俺の頭を撫でる。 「……あ……れ」 急速に、頭の中がぼんやりとしてくる。 眠りに落ちる寸前のように。 頭の中に蜘蛛の巣が張られたように、何か自分の中の一部分が捉えられ、絡めとられて繭に変わっていく感覚がある。 「蜘蛛の感覚を持っているあなたなら、いつか思い出せるかも知れない。でも、私は覚えている」 「さようなら、優しい子。久しぶりに会えた、悪意を持たない得難い人間」 「また会えたその時に……。一緒に遊びましょう」 体が崩れ落ちる。 抱き留められて、柔らかい物の上に頭が置かれた。 優しく撫でる手で、それが膝枕だと分かった時には……。 俺の意識は、消えかかっていた。 ……それからいつまでも帰ってこない子供を探しに、親たちが探しにきた。 何に使うのか分からないガムテープやらハンカチ、木の枝やらに囲まれて眠りこける子供は、親からたっぷり叱られたという。 ひと時の幻のような、泡沫の夢。目が覚めた後も、その出来事を思い出す事はなかった。 ……今、この時までは。 ……目覚めは、あまり良くない気分だった。 とにかく体の奥が重くて仕方ない。 全身の血液を抜いて、鉛に入れ替えてしまったような錯覚すらある。 血の巡りが悪い。貧血を起こしてるのは明らかで、その原因を考えると更に頭が痛くなる。 「……く……」 何とか体を起こす。 服は着ていなくてパンツだけだ。脱ぎ散らかした服は、そのまま床の上に落ちていた。 「…………」 夢……いや、自分の記憶か。 完全に忘れていた――忘れさせられていた。 「……はぁぁ。まったく……」 体力が無くなっているだけじゃない。気持ちも重くなっていた。 服は自分で洗面所で洗ってから洗濯に出したが、汚れが落ちたとも思えない。 諦めて出してきたが、おサエさんか一葉ちゃんには変に思われる事だろう。 「……顔色が悪いわね」 「あ、ああ。昨夜……ちょっとな」 「生き人形、誠一が部屋に戻したの?」 「あ――夜中に、なんか薄気味悪くて!」 「適当に放り込んだだけだったけど! うん、そんな感じ!」 「……そう」 めちゃくちゃ怪訝な目で見られている。 「私、昼から出かけてくるけれど、誠一は留守番をお願い」 「どこかいくのか? 俺も――」 「分家の連中が変に動く前に、釘を刺してくるわ。一緒に来る? 卯月の人間だろうと関係なく、今は誠一を受け入れてくれると思うわよ」 「……昨日の文句を俺に言うためにだろ? 行かないよ……」 「それが正解だわ」 「という事は、外出理由は俺の尻拭いじゃないのか?」 零は答えない。――が、一瞬言葉に詰まったのが分かった。 「……本当に悪い」 「別にいいわ。正直、ぶち壊してやりたいと思った事も一度や二度ではないもの。すっきりした部分もあるの」 「……いいのか? 如月家の跡取りがそんな事を言って」 「ええ。この場の席でなら、それくらい言っても問題はないでしょう」 そう言いながら零は、ちらりとおサエさんや一葉ちゃんを見る。 二人とも特に同意も否定もしなかった。 「では行ってくるわ」 準備を終えた零の前で、おサエさんの運転する車が停まる。 運転席から下りて、零の荷物を取ると後部座席に運び込んだ。 心付けという物らしい。 一応持っていく事に意味があるそうだ。 「なんで制服? 正装の意味か」 「ええ。着物も考えたのだけれど……儀式で生き人形が着ている物とデザインが同じなのよね」 「昨日の事から、ますますへそを曲げそうだわ」 「手遅れだと思われます」 「そうね。むしろ怒っている所を利用しましょう」 「それがよろしいと思われます」 形式上は謝りに行くはずなのに、殴り合うつもりにしか見えない。 「その……悪い。本当に」 「だから謝らなくていいのよ。そもそも、如月家の問題だから」 「ここまで拗れる前に、分家とも関係改善出来なかったのが一番の問題なの。儀式の真意を知っている家も、今ではもうほぼ残っていないわ」 「真意?」 「ほらね、卯月家も伝わっていないでしょう」 「……私も分からないです」 「あまり広める事でもないから……如月とごく一部の所だけが知ってればいい話だわ」 「いやそれ、矛盾してるだろ」 広めたいのか隠したいのかどっちなんだ。 「ともかく、行ってくるわ。誠一はしばらく街に行かないで、屋敷で大人しくしていてちょうだい」 「鉢合わせしても気まずいだけだしな……心得たよ」 「それから、生き人形にも近づかない事。アレはあまり良くない物だから」 「……わかった。まあ、鍵もないし入ろうとも思わない」 「ええ、それでいいわ」 「ではお嬢様。参ります。一葉、後は頼みましたよ」 「はいっ! お婆様!」 元気よく返事をする一葉ちゃんに微笑むと、おサエさんは運転席に乗り込んだ。 「いってらっしゃいませ!」 一葉ちゃんに見送られて、車が敷地を出ていく。 俺達は屋敷の中へと戻った。 「誠一さん、お顔の色が悪いですよ。今日は休まれていた方がよいのではないでしょうか」 「……やっぱりそう見える?」 「私だけではなく、お嬢様もお婆様も気づいていましたよ。それくらい酷くなっています」 「そっか……じゃあ、悪いけれど寝てるよ」 「あのっ」 「ん?」 「昨夜、何かありましたか?その……お洗濯に出ていたお洋服が……」 「……あ」 あんな汚れまくったら、やっぱりおかしいよな。 「所々に血が付いていて……それに……」 そういやあの後、着て部屋に戻っていた。 血が付いてたのは気づいてたけど、別の汚れの方を落したくて全然意識してなかった。 「わ、悪い。寝ている間に……ちょっと。体調悪くなって、おかしくなってたんだと思う……!」 「儀式を途中で止めた事と関係があるのでしょうか。やはりお嬢様に相談された方がよいと思います」 もしかすると、俺が自分で言いだすだろうと思って何も言わずに見守っててくれたんだろうか。 それなら、ずいぶんと気を遣わせてしまった。 「……ありがとう。でも俺は大丈夫だから。寝てればよくなるよ」 「そう……ですか? 分かりました。お昼になりましたら声を掛けますので、それまでごゆっくりお休みください」 「ありがとう」 一葉ちゃんに礼を言って、部屋に戻る。 ……部屋に戻って扉を閉めると、膝から力が抜けた。 人前だと気を張っていたのが、抜け落ちたみたいだ。 (あいつ、裸のまま放り出してたけど怪しまれなかったのかな) 昨日の事が嘘ではなかったのは、今も体全身を包む倦怠感や擦り傷などの痕が証明している。 やりたい放題にやられたって感じで、正直な所、初体験の気持ちよさとかドキドキとか、そういう物が一切なかった。 しかし……不思議だ。 生き人形というのが眉唾の存在じゃなく、本物だった。 ……ここまではいい。いやまぁ、良くないのだが、今さらの話でもある。 人形から自由となったように思うのだけど、彼女は自分から囚われの檻である元の部屋に戻って行ったという。 ……理由があるんだろうか? まあ、あったとしても人間には理解できない理由なんだろうけれど。 ……それにしても、起きて飯食って戻ってくるだけなのにすごく疲れた。 ベッドの上に倒れこむ。 洗いたてのシーツの匂いがするそこは、昨日の《ほしょく》性行為など忘れさせてくれる、太陽の匂いがしていた。 疲労のまま、眠りにつく。 一葉ちゃんに呼ばれるまで、意識が戻る事はなかった。 「もう! ちゃんとしてください!」 「悪い……まだどうにも眠くて……」 「仕方ありませんね。お昼食べたら、もう少し休まれてはどうですか?」 「そうするかな……」 色々と気になる事はあった。 零がどうしているかとか、昨日の人形……紅は本当に戻っているのだろうか。 果ては美優や忍の事まで頭にちらついた。 集中力が無くなってるのかもしれない。思考が散漫になっている。 「お疲れの様子でしたので、お昼は消化に良い物にしました」 「……あ、そっか。今日は一葉ちゃんが作ってるんだ」 「はい。ここだとお食事はわたしかお婆様の担当です。お掃除は業者の方に頼むこともありますけど」 「家事万能で可愛くて如月家に雇われている定職持ちか。一葉ちゃん、実はすごいスペックだな」 「うふふん。しかもピチピチですからね。誠一さんもお嫁さんになって欲しいですか?」 「いやぁ……ヒモになってしまいそうでまずいなぁ。もっと自分を磨かないと」 「ふふ、頑張ってくださいね」 そんな軽口を叩きながら、昼食を取り――再び部屋に戻った。 寝て起きてを繰り返しながら、気が付けば夜になっていた。 ……晩飯も食わずに眠り続けてしまった。 昼食に起きた時にも体調悪そうにしていたからだろうか。 一葉ちゃんの気遣いなんだろうけど、屋敷の人数の少なさを実感した今となっては、申し訳なさが先に来る。 (腹は……減ってないな……) テーブルの上の水差しから水分を補給する。 これは寝る前には無かったものだ。 一葉ちゃんが気を利かせて置いといてくれたんだろう。 「……自分がダメ人間になったかのようだ」 体調不良の原因がアレでは……。 「……誠一」 「――――!!」 完全に不意をつかれた。 何時からそこにいたのか分からない。 着物ではなく、まるで普通の女の子のような私服を着て紅は部屋の中に立っていた。 「一体どこから……」 「……そこ」 窓を見る。 という事は外から中に入り込んできたのか。 「鍵は?」 「これで」 軽く手を振る。 テーブルの上にあった水差しが宙を飛び、紅の手に収まった。 「な――。ちょ、超能力?」 「いや、違うか……今一瞬何か光って……」 そこまで言って、不意に脳裏にひらめく物があった。 「糸?」 「ええ。隙間に糸を入れて開けたわ。私に開けられない物や通れない場所はない」 「へぇぇ……便利なもんだな」 「……本当に誠一は怖がらないのね」 「馬鹿言うなよ。怖い物くらい沢山ある。でも、紅の事は今更だろ」 「そこが、誠一らしいと思うのよ」 紅が微笑み――その表情が訝し気になる。 「誠一、体が悪いのかしら」 「あ、ああ。まあ……ちょっとな」 「それはいけないわね。みせてちょうだい」 誰のせいだよと思いながらも、拒否しようと迫る紅を押しとどめる。 ――が、それより早く、力強くベッドの上に押し倒された。 昨日の事で分かっていたが、見た目以上に力がある。 こういう所も零と正反対だ。 上着を脱がされ、今も体に残っている傷跡に目を止める。 「そう……私がつけてしまったのね」 「……なんか、昨日とはずいぶん違うな」 まるで餌を貪るかのように、俺の事などお構いなしだったのに。 「私にとって、食事のようなものだから。とても飢えていたわ。……自分ではそうだと知らなかったけど満たされた今なら分かる」 「じゃあ、食事をとれなかったからああなってたと?一体いつから食ってなかったんだよ」 「…………」 紅が考え込む。暫くて頭を振った。 「分からないわね。人形に体液を与えてくれるような人間はこれまでいなかったし、約束するような物好きもいなかった」 「そういう意味でも、誠一は特別ね」 「……子供の頃の話だろ、それ」 「思い出したの?」 「……お前とその……した後にな。まさか約束の相手が紅だとは思わなかったけど」 「ふ、ふふ。あはは! そうなの? 本当なのね!やっぱり誠一はすごいわ。あはははっ!!」 上機嫌にけらけらと笑っている。 とても楽しそうで――それでいてどこか清々しさのある笑いだった。 「やっぱりあなたは特別よ。……体、見せてちょうだい」 「お――おい!」 紅に服を脱がされていく。 「今日は待て――んっ!?」 そして唇を重ね合わされた。 「ん、んんっ!? げほっ、げほっ!」 舌を貪り、体液をすすられる――そう思ったのだが、逆に紅の方から唾液を流し込まれる。 「一体、何を――」 紅は答えず、俺の服を、ズボンを下着ごと脱がした。 「私が全部してあげる」 ちろりと舌で唇を舐める。 ――前言撤回。やはり捕食者の笑みにしか見えなかった。 紅が俺のペニスを前にして、しげしげと見つめている。 「……痛そう」 「誰のせいだ!」 紅の木で出来た硬い膣内に無理やり挿入させられて、擦り上げられたペニスはヤスリでも掛けられたかのようだ。 今も赤黒く鬱血していて、見た目も非常によろしくない。 正直病院に行った方がいいんじゃないかと思う程だが、理由が理由だけに行きづらいのと、今日は体力がなさ過ぎて寝ているだけになってしまった。 「可哀想な誠一。私が治してあげるわ」 だから誰のせいだと――。 言おうとした思考を遮るように、ぴちゃりと紅が舌を這わせる。 「ん……ぴちゃ……。ちゅ。ちゅぱ……」 「……うっ」 先端が温かい物に包まれる。 舌と息遣いが股間のすぐ近くに感じる。 股間に顔を埋めるようにして、紅の顔が上下に動く。そのたびに長い髪が揺れている。 「ちゅぷっ、んっ、ぴちゃ。ぺろぺろ……ちゅ、くちゅ……ちゅ」 「ちゅぅ、ちゅっ。……んん。……ぴちゃ、ちゅ……」 「うあ……っ!」 痛さと痒さの交じった怪我の上から、優しく丹念に舐め上げられている。 それが奇妙な快感となって、ペニスを刺激していく。 「ふふ、楽しそうな……ちゅ、声をあげてくれる、のね。ちゅぱ……ん、ちゅく。私も楽しくなってくるわ」 「……く、この……!」 フェラを止めさせようと頭を掴むが――びくともしない。 それどころか、俺の手を自分の支える一助にして、動きがより大きく、大胆になっていく。 「……ん、ふふ、……ぁ、ちゅく。ん! ちゅぱ、ちゅぅっ。ずず、ちゅく……ぴちゃ」 ぴちゃぴちゃとたっぷりの唾液で音を立てながら、股間を愛撫していく。 裏筋の辺りを下で転がすようにして、唾液で汚れた亀頭をちゅうちゅうと吸い上げる。 それから肉棒の方を指先でこすり上げ――まるで傷口に自らの唾液を擦り付けるように、何度も丹念に愛撫を重ねていく。 「……ちゅ、ぴちゃ、ずずぅぅ……ちゅく、ちゅぱ。ぴちゃ……ちゅぅぅっ」 紅の愛撫が激しさを増していく。 たっぷりの唾液をペニスに垂らし、もうシーツまで濡れてしまっている。 (なんだ……?) 紅による奉仕を受けながら、一つの疑問がわき上がっていた。 これまでのはまともとは言い難いが、気持ちよさはあった。今も性行為が嫌という訳ではない。 もちろん気持ちよくないなんて事は断じてない。 ……だというのに、どうにも違和感が拭えない。 紅は一度口を離すと、ペニスの先端から根元まで握り、上下にしごく。 それは自らの体液をこすりつけているかのようだった。 「どう? まだ痛むかしら」 「痛いかどうかなんて言われても、そりゃ当然――」 ……痛く、ない。気持ちいいだけだ。 「……え? あ、ちょ、まてっ」 紅の手が、口が動きを増す。 今度は唾液をこすりつけるのではなく、俺から搾り取ろうとするかのようだった。 「く――うぐっ!!!」 「どう? 気持ち良くて声も出ない?」 「あ、ああ……すごくいい、けど――でも、なんで」 「大人しく私に身を委ねなさい。その分だけお返しはしてあげるわ」 上目づかいに俺をみて――くすりと笑う。 ……ああ、そうか。 今になってようやく分かった。 捕食ではない――与えようとしている。 何をどうしてそのような事をしているのか分からない。 だが、昨日の紅は飢えに任せたまま、搾り取るだけ。捕食するだけだった。 でも今日は違う。快楽にしろ何にしろ、彼女が人に与えようとしている。 「……ん」 ペニスをほおばったまま、こくりと首を傾げる。 俺が頭を撫でたせいだ。 「……気持ちいいよ。もっと続けてくれ」 そう言いながら再び頭を撫でると、嬉しそうに目を細めた。 (……そっか……そういう事だったんだ) 紅に対しては心に壁を作っても意味がない。 文字通り、人形なのだと今になって理解した。 でも人形にだって……多分心はある。独自に考えている事は出来る。 操り人形の糸に逆らえないだけで、その範囲でなら自分だけの行動が出来る。 それが幼い頃に出会った頃であり、今こうして俺に何かを与えようとしている行為であり――。 「…………」 頭を撫でるたびに、嬉しそうに微笑む。 ……この、笑顔だ。 「……ん、ふぅ……」 気が付けばペニスにあった痛みも消えていた。 後は紅が与え続ける快感だけがある。 「ん、ちゅ……くちゅ、ぴちゃ。ずず……ちゅぱ」 くちゅくちゅと音を立てながら、フェラの勢いを強くする。 そろそろラストスパートだと言わんばかりのリズミカルな動きに、俺の腰も快感を求めて喉の奥に突き入れる。 それを紅は全て受け入れて、フェラを続けていた。 それまでのゆっくりした動きではなく、根元を強く握り、そして素早く絞り上げる。 「ちゅぱ、ふふ、どう……? 出して、いいわ。ん、……ちゅぱ。くちゅ、ずず……ぴちゃ」 「ふふ、出して誠一。私に飲ませて。あなたのを沢山!いいわよ、出して……!」 「ちゅく、ずず……ずちゅ、ぴちゃ、ずず……!」 紅は止めとばかりに、俺のペニスを吸い上げる。 手で根元をしごいて、残る手で玉を転がすようにしつつ顔を上下に動かしていた。 「ずず、ちゅく、ちゅぱ、ぴちゃ……」 「……く……っ!」 「う、うう……っ」 紅がフェラをしながら、亀頭を甘噛みする。 それが止めになった。 「うあぁぁ――――っ」 ――どくっ! どくっ! どくっ!! 「ん、ちゅ……ずずぅぅ……っ。ごくん。ちゅ……ぴちゃ……ぺろぺろ……ずず」 ――びゅくっ、びゅ……っ。びゅびゅっ。 勢いが止まらない。紅の口の中に何度も何度も、びくびくと跳ねながら放出する。 それをこぼすまいと、紅は何度も口を動かしては飲み下す。 やがて放出が止まる。 紅は満足したとばかりに――。 「ちゅうぅぅぅっ。ちゅぱ……」 最後に残っているものも吸い上げて、ごくりと嚥下した。 「……美味しかったわぁ……ありがとう、誠一」 そして口の中に指を一本突っ込んだ。 くちゅくちゅと口の中で何かをかき混ぜる。 引き出された指には、紅の唾液と俺の精液が混ざり合った白く糸を引く液体がついていた。 「ふふ」 どうするのかと見ていくと、――それを俺の体になすりつけはじめる。 「いい――っ!?」 自分の精液を自分の体に塗られる事に、思わず腰が引ける。 「あら、ダメよ? 大人しくしていて」 そもまま紅の指先が体に残っている傷口に触り――。 「……え、あれ……?」 痛みが消えていく。 元々が木の人形である紅との性行為で出来たものだ。 傷の程度は大したものではないが、それにしても……。 「貰った物を少しだけ返すわ。私の体液も誠一の中に入れてある。後はそれに働き掛けるようにすれば、人の体なんてこの通り」 「そ、そうなのか……すごいんだな」 精液をこすりつけるという見た目が、精神的に非常によろしくないが。 「これで体の方は問題ないわよね?さあ、次は私にちょうだい」 「今日はもう無理だから!!」 そう叫ぶと、紅はきょとんとして俺と――そして今も裸で外に放り出されたままのペニスを見る。 「……そうなの?寂しいわね……こんなに可愛くなってしまっているし……」 「よしよし。また今度遊びましょうね」 ……そして萎れた亀頭を、いい子いい子と撫でるのだった。 ……そうして、紅との奇妙な生活が始まった。 昼は如月家の中で普通に過ごす。 零やおじさん、一葉ちゃん。おサエさんと交流を持つ。 零は先日分家の家に出向いてから、今も忙しそうにしている。おサエさんを連れて外に行き、そして夜まで戻ってこない。 俺がしでかした事が原因なら、それについて何も言えない。 ただ申し訳なく思うだけだ。 「誠一君、最近は暇ではないかな」 「零が居ないので遊んだりも出来ないですしね……。でも、暇って程でもないので大丈夫です」 こちらに届いた宿題をやったりとか、やる事は色々とある。 一葉ちゃん一人なのでその手伝いなどもしている。 「そうか。……ところで、最近何か変わった事はあるかな?」 「いえ、特にありませんが……どうしてですか?」 「いや、何もないならいいんだ。こんな屋敷にこもっていると、変化が乏しくなるからね。何か楽しみでも見つけられたらと思ったんだ」 「そうですね……でも大丈夫です。零が暇になったら、遊びにでもいってきます」 「……そうだね。そうするといい」 そして夜になると――この時間が少しずつ待ち遠しくなっている自分に気づく。 「こんばんは。誠一」 窓から紅が入ってくるのも、いつも通りだ。 「よう」 彼女は落ち着いたのか、昨日のように求めてくることもなく、話をするに留まっている。 それだけで、今の俺には十分で……同時に、少しだけ紅の事を知る事も出来ていた。 「如月の生き人形なんてオカルトの領域だけど、こうしてると普通の女の子っぽいんだな」 「あなたがそう望んでくれているからではないの?私は、私のまま変わらないわ」 「そうなのか」 「元がただの人形だけにね。見る人間によって違った表情を見せるだけなのよ」 無機物は不変……そう口にする紅だけど、それだけではないような所を見せている。 「……抱かないの?」 「俺は別に……」 そういうと、どこかむくれた顔になる。 「今の口ぶりからすると、俺が性欲を発散させたいって思った時しか、紅はしたいと思わないんじゃないのか?」 「……私にとっては、食事も同然だもの。そこは関係がない話だわ」 それはつまり、紅独自の意識でしたがっているという事ではないのだろうか。 「じゃあ……唾液くらいなら」 「その気にさせたら良いという訳ね?」 「そういう話じゃな――むぐっ」 唇を重ねられる。 丹念に舌で俺の舌を転がされるようにして、唾液をすする。 「ふぅ……ごちそうさま。……少しだけ元気になったかしら」 ズボンの上からペニスを探る。でも無理に脱がせようとはせずに、ソファに座る俺の膝の上に座ると、身を摺り寄せてきた。 「……重いぞ」 「それくらい我慢しなさい。男の子でしょう?」 まるで等身大の猫のような読めなさだ。 紅は俺にしがみついて、頬をすり合わせている。すべすべとした肌と伝わってくる体温に気恥ずかしくなる。 木壇のような森の香りなのは、元が元だけにご愛敬だろう。 俺自身はそろそろ下りて欲しいのだが、紅は離れない。 ……こんな所も、彼女独自の意識のように感じる。 「…………よしよし」 頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じていた。 ……そんな日が、続くと思っていた。 だが、続かないなんて最初から分かっていた。 ……分かっていたはずだった。 思えば紅に圧し掛かられた時に、彼女を拒絶してたら……。今とはまた違った結果になっていたのだろう。 だが、人に飢えていた紅にとって、誰も受け入れてくれない状況というのは、水を求めて彷徨うような物なのだろうと今では思う。 俺は紅を突き放せず、彼女も俺に甘えていた。 ……その感情を何というのか、俺には分からない。 だが、人形は見る物によって違う表情を見せる。 ……紅自身が言った事だ。 それは、俺以外の人にも当て嵌まっていた。 9日の朝、食堂に行くと全員が揃っていた。 家を空けがちにしていた零も、朝夕のどちらかしか食堂に出てこないおじさんも、両方とも席に着いていた。 ――俺を待っていた。 「では、頂きましょう」 「あ、ああ」 今日は出かけないのか? とか、皆揃っての食事なんて久々だとか、そういう話題も出せない。 空気が張りつめているようで、言葉を出すのが難しかった。 味のよく分からない食事を終え――食器が全て下げられる。 それと共に、おサエさんと一葉ちゃんが二人とも退室する。 「……話がある。内容は分かっているかもしれないけれど」 「私が言おう」 「いいえ、お父様。私の責任だわ。だから私が言う」 「誠一、あなたは人形に取り憑かれている」 「――――」 零から切り出された言葉に、俺は何も言う事が出来ない。 「私があんな指示を出さなければ……本当にごめんなさい」 「別にお前が謝るようなことじゃ!それに、俺は紅に憑かれてなんていない!!」 「……自分では分からない物なのよ」 「人形に対しては、無理に何かをしようとすると手痛い目に遭う事は承知している」 「そのため、今すぐ力でどうこうしようと言うつもりはない」 「そう……ですか」 安堵が漏れる。 そうだ……ここにいるのは如月家の人達だ。昔からお世話になっていて、お互いよく知っている。 穏やかに話し合う事を教えてくれた人達だ。 「明日、また聞こう」 ――その言葉で、俺の抱いていた『このままでもなんとかなるんじゃないか?』という希望が、とても薄っぺらい物だった事を教えられた。 ……本当は今にも壊したくて仕方ない。それをあえて押しとどめている――表に出さないようにしている。 そんな事が分かってしまう。 「今日はどうするか考えなさい。……あの人形と逢うのなら、話し合ってもいいだろう。それくらいの猶予はある」 「だが決められないというなら、後はこちらで決める。元は如月の物だ。嫌とは言わせない」 「…………はい」 「では戻るといい。申し訳ないが……今日一日は外出禁止にさせて貰う」 「……わかりました」 「誠一、あなたがいるべき場所はこちら側よ。決して人形なんかじゃないわ」 「…………ああ」 力なく頷く。 それしか出来なかった。 ……何も出来ないまま、夜になった。 そしていつものように紅がやってくる。 「今日は機嫌がよくないみたいね」 「……別に怒ってる訳じゃない」 「そうね。困惑、迷い、怒り、悲しみ……人の感情は複雑だわ」 「何でも見透かしたような事を言うんだな」 「それが私だもの。人の世界に身を置き、人を観察して知る。人は私を見る度にそれぞれ違った思いを抱くわ」 「同時に私も、人に見られるたびに違った人間の内面を知る」 「……尤も、目覚めさせた人間の想いを一番強く受け取ってしまうけれど」 「目覚めさせた人間?」 「私に名を付け、人としての情報を与え、生を共にする者。昔は如月の当主が担っていた役割だけれど、今では曖昧になってしまっているわね」 「生を共に……」 「その人物の生き方を見定めて、私を人の世界に与えた神に告げるのが役割。果たして人がこの土地で生きるのに相応しいのかどうか」 「お前がその判断を?」 「私はそんな事はしないわ。ただ見るだけ。目に過ぎないのよ。そして目は自分の意思で何かを見たりはしない」 脳という大本があって、そちらに映像を送るだけ。目が勝手に自分の意思で見たい物を選んだりはしない。 ……そういう事らしい。 「でも紅は今、生きてここに居る」 「そうね……そうかもしれない」 「でもそれは全て誠一が与えた物だわ。私じゃない」 「……よく言うよ」 あんな強引に迫ってきたくせに。 というか半ば紅に襲われたようなものだ。 子供の頃に交わした約束がその結果だとしても、そんな事をいつまでも覚え続けていて、実力行使をしたのは紅だ。 「お前は、俺の事をどう思ってるんだ?」 「あなたはどうなのかしら。私は人形――今は、あなたの心を映す鏡」 「誠一は、どう思っている?」 紅はそれでいて――どこか縋るような眼で俺を見ている。 そこに心なんて物が無いというのなら、俺はこの先何を見て何を信じればいいのだろう。 紅は確かに人間ではないのかもしれない。 だとしても、今ここに俺の目の前にいる紅は、排除すべき存在には見えなかった 「俺は……」 「お前に居なくなって欲しくない」 「……そう……」 紅は目を閉じる。 そして少しして、開けた。 そこにはもう、いつも通りの彼女しかいなかった。 「ねえ、誠一。抱いて欲しいわ」 「私を人として扱って。あなたの想いを与えて頂戴」 「私には何も返せるものはないけれど、それでも今は誠一が欲しい」 「これは、あなたの気持ちの結果なのかしら。それとも――」 「紅、そういう時は一言だけでいいんだ」 「そうなの? なんと言えばいいのかしら」 「あれだけ人間に詳しいお前なら、分かってるだろ」 「……そう、こういう時に使う言葉だったのね」 そして紅はあでやかに微笑んだ。 「あなたが好きよ。私を誠一だけの《モノ》人形にしてくれる?」 服を脱がせて、紅をベッドに横たわらせる。 「あら、全部してくれるの?」 「そういうものだからな」 「ふふ、……嬉しい」 「ん、ちゅ……ぴちゃ。ちゅぱ……」 キスをして互いの口腔を吸いあう。 「……ちゅ、ん……ん……んんっ」 口づけて、伸ばした手で胸を触る。 慎ましやかな紅の胸だが、こうして触ってみると女の子らしい柔らかさがある。 「ん……」 手の平で転がすように、愛撫をする。 柔らかい胸の中にころころとした感触があり、乳首が立っているのだというのが分かった。 「ふふ、随分と優しい触り方なのね……誠一の心が感じられるわ……。でも、もう少し強くしても平気……」 「強い方が好きなのか?」 「どう、かしら……少なくとも、今は物足りなさを感じるわ」 「わかった」 先ほどより少し強く力を込める。 それでも、柔らかく弾力のある肌は、俺の愛撫に負けずに押し返してくる。 「……ん、……んん」 紅の表情が緩む。 赤い舌が覗いているのが、どこか艶めかしい。 「気持ちいいのか?」 「ええ……愛されるというのは、いいものね。心が繋がっている……似たような行為だったとしても、感じ方が全く違うわ」 「……前みたいなのは、愛し合ってるとは言わないからな」 「そう? 強く求める愛の方がこの世界では自然だわ」 「でもそれだけだったら、人の愛し方じゃない。いろんな形があるんだ」 あれはどちらかと言うと搾取。あるいは捕食というのに近い。 世の中の生き物の中には――交尾の最中にメスがオスを食ってしまうものもある。 前のはどちらかと言うとそれだ。 「そうなのね……じゃあ、誠一が教えてくれるこの快楽が人の愛し方という訳なのね」 激しさのない愛撫だが、紅は気持ちいいと思っているようだ。 「今くらいの力が丁度いいってことなのかな」 「そう、ね。でも好きにして、いいわ。私はあなたの物なのだから」 「わかった。好きにさせて貰う」 好きに――優しく、愛撫させて貰う。 舌を重ね合わせる。胸から腹、そしてあそこへと手を伸ばしながら。 「……好きにさせて貰う、だなんて言って、優しいままなのね……んん……」 そう言って、少し嬉しそうにする。 「好きにやってるさ。紅が気持ちいのが、俺の望むところなだけだ」 「……ちゅ、くちゅ。ちゅ……ん。くちゅ。はぁ、はぁ……んん」 舌が触れ合うと、紅の方から絡めてくる。 前とは違うその優しさに、繋がっているのだと感じる。心が――想いが。 「んっ……んん」 秘所に触れると、しっとりと湿っているのがわかる。 熱を帯びて、どこか物欲しそうにしているのだと、そんな感じがした。 「はぁ……はぁ……ん。ん……はぁ……せいいち……」 人形のように白い頬が朱に染まる。 前は俺の上で貪るように動いていた紅が、今は性器をいじられながら、紅が俺の下で喘いでいた。 「……ん、はぁ……あぁ……。触れられているだけなのに、とても気持ちいい」 「これが人の愛し方なのね」 「いや……どうだろう。違うと思う」 話ながらも、体は止めない。紅の秘所に指を這わせる。 「……そう、なの?」 「人にも沢山あるからな。多分それぞれ違うと思う。……俺が紅にしてやりたいって思ってる事なんだろう」 「ではこれは、誠一の私の愛し方なのね」 「……はっきり言われると照れくさいけど」 でもそうなのだろう。紅とは不本意な結ばれ方をした。 でもその後で、少しだけ見方が変わった。 今の彼女と深く結ばれているかというと――状況に流された部分も多々あると思う。 でも、深く結ばれたいと思っている。 だからこれは、コミュニケーションの形だ。お互いを知るための手段だ。 「誠一が誠一の愛し方をしてくれるのなら、私も私の愛し方で誠一を愛したいと思う」 「……嬉しいような恥ずかしいような」 「いいのよ、それが素直な気持ちなのだから」 今までは受け身だった紅の方からキスを求めてくる。それが紅の愛し方なのだと受け入れ、続きをする。 体を離し、紅の開いた秘所を指で広げた。 「……はぁ、はぁ……ん。ん……ぁ……」 なかは既に濡れそぼっていて、奥から愛液が溢れてきている。 先日はこの中に俺の精液を放ったのか……。 そう思うだけで痛い程に硬直してくる。 最初は苦痛しかなかったのに、今ではその中に入れたいと思っているのだから、現金なものだ。 「……んんっ」 秘所の上の方、突起の部分を触る。 「あっ、んんっ、く……ぅぅ」 刺激が強かったのか、今までとは少し違う反応をする。体を震わせて、何かを耐えている様だ。 「ん……あぁっ……んんっ」 秘所から零れ落ちる愛液は、彼女の汗と混ざっている様で、指でかき混ぜると更に女の匂いが強くなる。 ――ちゅぷ。 中に指を突き入れた。 「あっんん……そこっ……ん……っ」 余程刺激的なのか、紅は快楽から逃げるように身を捩る。 深く入れると、押し出されるように愛液があふれ出てくる。 割れ目に沿って垂れていく愛液は、シーツに染みとなっていた。 「はぁっ、はぁっ……ん、あぁ……はぁ」 その様子が余りにも妖艶で、股間が反応してしまう。 ズボンによって押し留められ、痛いくらいだ。 紅の反応を見ながら、指先を更に奥へと滑らせる。 ちゅく、くちゅ。ちゅぷ……ちゅくくちゅっ。 壁面をこすり、奥に入れて上下に動かす。愛液を絡めてくちゅくちゅと指先でポイントを探していく。 「あっ……んっ!! ふ、んんっ! ああっ。んっ!んん……くぅ……んんぅ……誠一っっ!!」 「や――だ、ダメ。んっ、んんっ!!」 秘所から蜜があふれてくる。余程気持ちがいいのか、声色も随分変化していた。 それならばと、紅の更に奥深くへ指を進める。 「あぁっ! んんっ……あ、はぁ……ん、んん……」 傷が付かないよう気をつけながら、側面を押し、中でかき混ぜる。 そのたびに紅は、体を震わせて声を漏らした。 「わ、たし、指で……あっんっ!はぁ、ぁぁっ……いって、しまうっ、んんっ!」 「やっ、あぁっ……んんっ! あっ、ああんっっ!!」 ――ちゅく。ぷちゅ、くちゅ。 「ふぁぁっ。あ……ああっ、ん……っ!だ、だめよ。私が愛してあげるって――!!」 「今は俺の番だから、そのまま力を抜いて」 「ああっっ!! ……誠一、……ほしい、の……。あなたを、ちょうだい……っ。誠一!!」 目を潤ませながら、紅が訴えてくる。 こんな目で誘われて、我慢できる男なんているのだろうか。 「はぁ……はぁ……ん、んん……。力、入らない……」 人を超えた力を出せる紅が、今はベッドの上で悶えている。それがどこか征服感となって、感情を高ぶらせる。 このまま挿入する事も出来るが……。 「そうだ。体を起こしてくれ」 「こ、こう……?」 その体を後ろから抱きかかえる。 ――ちゅく。 紅の秘所に押し当てる。 「ふぅ……ふぅ……あ、ああ……っ」 期待と興奮に紅の目が怪しく光る。 ――ずちゅっ! 一気に奥まで突き入れた。 「ああーーっっっ!!」 絶頂に、紅の背が跳ねる。 「うあ――」 俺もぎゅうぎゅうに締め付けられるあそこに、射精を堪える。 気持ちよすぎて、終わらせたくない。 だから、今ここで出すのはもったいない。 彼女の奥がきつくなって、ペニスを握りこんでいるかのようだ。 子宮の入り口にコツコツと当たっている。 その周りの肉が絡みついて、愛液がペニスを伝ってくる。 紅の体重が俺に掛かっている。人一人を抱えたままでは、激しい動きが出来ない。 紅が小柄で軽々と持ち上げられるなら違うのだろうけど。 人形の体を持った紅は、人の身となっても重量があった。 けれど、それは不快な重さではない。抱きしめると柔らかく、スリムでありながら、俺を支える安心感がある。 中にじっくりと挿入したまま、全部をくまなく包まれているようなもどかしさがあった。 「……ん……ふぅ……んんっ」 挿入した時の余韻に身を震わせている。 「……これ、いいな。いつまでもこのままで居たい気持になってくる」 抱きしめた先からきゅうきゅうと締めつけてきて、快感が伝わってくる。 挿入しているのに、焦らされ続けているかのようだ。 繋がったまま腰を前後に動かした。 「あ――くっ」 抜いて突くのではなく、繋がったまま前後に揺さぶる。 ぐにぐにと独立した生き物のように動いて、俺のモノに絡みついて来る。 愛液が混ぜ合わされ、ぐちゃぐちゃと音を立てた。 「……気持ちいいわ。奥がこすられている……。誠一の形がはっきりとわかる。私の中に納まっている……」 「こうか?」 そのままペニスで奥をこするように動かした。 「そう、ね。そんな感じ……ん、んっ」 最も深い所にくっつけたまま、前後に揺さぶる。 「んん……あ、だ、だめ。奥……そこ……」 「んっ! んあっっ! ああ……誠一、誠一ぃ……っ!」 紅自身も脱力したまま、徐々に息が荒くなっていく。 「ああっ! んっ! ああっ!!ああ……ふぅ……んんっ!!」 「いい……きもち、いい……あんっ!! んっ!そのまま……もっと。んっ!」 「俺もだ。気持ちいい……っ! 紅のが俺のを締めてくる!もう少し激しくするぞ」 「え、ええ。いいわ、好きなように……、あぁっ!!んっ、んんっ!! あっ! んんっ!!! ああ」 紅の体ごと揺さぶるように、奥を擦り合わせる。 俺の先端部分も、ちょうど一番奥に収まっている。収縮するたびに襞に包み込まれるようだ。 「く――」 徐々に絶頂感が訪れる。 紅の方も快感の波に襲われ、そろそろ限界のようだった。 「もう少し、……いきそうだ!く……ああっ!!」 「……ん……いい、わ。いつでも……。誠一の好きな、時に……!!」 「ああっ!! んっ、んんっ! あ……っ!! くぅ……」 「……んっ、あんっ!! ああっっ!!!」 体が硬直する。 ぞわりと背筋を駆け抜ける快感があった。そして膣壁が大きく締めつけられる。 「あぁぁぁぁっっっっ!!!!」 「くぅぅ――――っっ!!」 ――どく! どくっ! どくっ!! ――びゅくっ! びゅくっ!! きつく抱きしめたまま、奥の奥へと精を放つ。 「はぁ……はぁ……っ」 「……はぁ、はぁ……んん……」 射精後もびくびくと、紅の中を貪っている。 それが収まるまで、抱きしめ続けていた。 絶頂感と、血が上ってのぼせた感覚がある。頭がくらくらする。 激しく息をする体を抱きしめながら、射精の残滓に身を震わせていた。 ……行為が終わった。 たっぷりと紅の中に吐き出し――それを彼女は満足そうに受け止めている。 下腹部を撫でる仕草はどこか愛おしそうで、愛情に満ちた顔からは、ただの人形だとはやはり思えなかった。 「子が出来ないのが悲しいわね」 「その体になってる時って、体内も人間と同じじゃないのか?」 「作り直しているだけよ。似た器官はあっても、結局は元の人形だもの。人と人形――いえ、蜘蛛では子が出来ないわ」 「蜘蛛……」 「元々この森にいたのは蜘蛛神。それが人間に土地を分けて人が連れていた人形に己の魂の一部を分け与えた」 「人形は、人形師の娘を模した物。でも娘を思って作られた人形の中には、娘の魂も入っていた」 「私はそれと混ざり合い、一つとなって――そして今ここにいる」 「……そっか」 「なぁに? 安堵しているようだけれど?」 「いや、人形って男女の差はあっても実際に性別はないだろ。だからもしも……って思ってた所もあったんだけど、安心した」 「――――ぷっ」 「あはははははっっ。今この期に及んで、安心するのはそこなの? そんな得体の知れないものの中に、たっぷりと精を出したばかりじゃないのっ」 紅は心底楽しいとケラケラ笑っている。 「やはり誠一は楽しいわね。あなたと遊ぶのはきっと楽しい――ずっとそう思っていたのよ」 ひとしきり笑った後に、表情を改める。 でも、まだどこか楽しみを残した顔だった。 「誠一の気持ちは固まった? どうするか教えてちょうだい」 「……如月家と向き合おう」 「いいのね?」 「逃げるだけじゃ、何も変わらないと思う。紅の事を理解して貰わないといけない」 「少し考えていたんだけれど、多分、紅と……いや、神と人の関係はどこかで歪んでしまっているんだと思う」 「人の想いを映し出す。それは種族の違う神にとっては人間を知る最も簡単な方法だったのかもしれない。でも、人間は一面だけの存在でもない」 「……そうね」 「でも今は俺がいる。橋渡しになれるかもしれない」 「それが薄い望みだったとしても?」 「その時はその時だ。逃げてしまえばいい」 「わかったわ。それが誠一の望みなら、私は従う」 「……ああ。頼む」 「では、今日はずっとここに居るわ。だから、もう一回抱きしめて。私を……私だけを」 「…………ああ。紅」 口づけを交わす。 ベッドの中に倒れこみ――その体を包み込んだ。 ……朝になった。 紅は既に起きていて、着物を纏っている。 「行きましょう」 ロビーに降りると、そこには零達が既に待っていた。 「今更挨拶は……要らないわよね」 「…………ああ」 「――――」 たった一言。 紅の言葉に頷いただけの声。 ――だがそこから感じる憎しみは強く、そして敵意も露わに睨んでいる。 (俺は、見誤っていたのかもしれない) 俺を助けるためとか、そういうのは表面上の事で、如月家は自分たちをここに縛り付ける忌々しい人形を破壊する機会を今か今かと待ち望んでいたのかもしれない。 「ちょ、ちょっと待って下さい!」 「……誠一」 零がゆっくりと首を振る。 「誠一はここにその人形を連れてきた。これが答えで、そしてすでに選んでしまっている。……分かるでしょう?」 「で、でも――」 「人形の方は既に理解しているようだがね」 「…………ふふ」 紅は何も答えず、笑みを口元に浮かべている。 「私は構わないわ」 「紅!!」 「誠一、落ち着いて」 「落ち着いていられるかっ!」 「それでも落ち着きなさい」 目で紅の方を指示される。 紅を見ると、彼女は何かに耐えているように、目を閉じて苦悶の表情を浮かべている。 「……気を静めなさい。今はあなたに最も反応している」 「……く……っ」 俺の不満や怒りを受け取って、紅が暴れるかもしれない。それを零は懸念しており……それをやったら、この場がめちゃくちゃになる事も分かっている。 何より紅自身がそうならないように、自分自身を抑えている。 ……何が心なんてない人形だ。 自分で自分の衝動を抑える事。それこそが心じゃないのか? なら、こいつは間違いなく人の心を持っている。 「誠一君、昨日君の考えは聞かないと言ったね。私達は時間を与えた。その意味も考えて欲しいと思っている」 「…………はい」 「ではどうする? 答えを教えて欲しい」 「俺は――」 「……如月家には従えません」 「誠一……!!」 俺の言葉を聞くと、おじさんは――当主である如月兼定はゆっくりと息を吐いた。 「そうか。それが君の答えか」 「……あなたは、馬鹿よ。愚かだわ」 「それでもいい」 「こういう手は取りたくなかったのだが……」 合図をする。零が頷いて――そして扉を開けた。 「な――」 そこには男たちの姿があった。 年齢もまちまちで、全員がスーツに身を包んでいる。 鋭い目をしていて俺を――紅を睨んでいる。 「……あ」 その中にいる女性に見覚えがあった。 確か分家の……。 「…………」 零が沈痛な顔で自らの腕を抱いた。 「……そっか。零が最近分家に行ってたのは」 「……ええ」 「その人形が居なくなれば、如月家という存在そのものが必要が無くなるからね」 「誠一君。これが最後だ。その人形に別れを告げなさい。それで君はこちらに戻ってこられる」 「い――いやだ!」 「誠一っ!」 「だって――こいつとは分かり合えるんです!俺は紅の事を知って、紅は今も俺を案じてくれている!排除する必要なんかないんですよ!」 「…………では何かね」 そこに強い怒りが篭る。 「一葉君の長月の家も、私の妻も、死んでも仕方ないだけの必要があったというのかね」 「――そ、それは」 「――――」 「……あれは、あの場に居た物の悪意、敵意を私が写し取ってしまった。責任が無いとは言わないわ」 「ならば、その責は果たす事だ」 「だけど――!」 「くどい」 合図をする。 男たちが俺達に――銃を向ける。 テレビで観た事のある拳銃だけではなく、殺傷力の高そうな猟銃も交じっている。 「怪物を打ち滅ぼすには力不足かもしれないが、人形相手なら問題ないだろう」 「やめろ……」 「撃ちなさい」 「やめろおぉぉぉっっっ!!!!」 紅を庇い――一歩前に踏み出す。踏み出そうとした。 その瞬間――。 激しい音と共に、横に吹き飛ばされた。 「――――!!??」 視界の先で、紅が踊っている。 俺を突き飛ばした姿勢のまま、銃弾を浴びてくるくると、まるで独楽のように。 非現実的な美しさのある舞が恐ろしく。 そして二度と後戻り出来ないと――頭の片隅で理解していた。 「あ、ああ……」 「ああああぁぁぁっっっ!!! 「うあああああぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!!」 咆哮――同時に、心の中で何かが外れた。 今まで自分でも知らないまま押さえつけていた、何か。 とても大事な物だったはずの――あるいは人としてのモラルや良識、そういう言葉だったのかもしれない。 心の中が、黒くなる。憎しみが湧いてくる。 紅は敏感にそれを感じ取り――。 「……くす」 俺に向けて、仕方ないとばかりに笑った。 「…………え?」 紅が跳躍する。俺に向けて、人知を超えた速度で。 「な、なんだ」 「きゃ――」 突風が巻き起こり、ロビーの中に散乱した破片をまき散らす。 紅は俺を抱えたまま、人垣を飛び越えて、森の中へと真っ直ぐ駆け込んでいった。 森の中に入ると、紅は力尽きたように、崩れ落ちた。 「大丈夫か……!?」 「え、ええ。大丈夫……でも、ここにはいられない。もっと奥まで行かなくては」 「あ、ああ」 背後から人の声がする。追われている――そして。 「ぐ――っ!」 紅の体が跳ねる。 新たに撃ち込まれた銃弾が、彼女に傷を作っていく。 「行こう!」 片足が折れている紅に肩を貸す。 森の奥を、目指した。 それから逃げに逃げて――。 森の奥へと辿り着いた頃には、日も暮れるほどになっていた。 彼女は、動かなくなっていた。 ……う、ぐす……。 泣き声が、する。 どこの誰だろう。 ……真っ暗な世界に、かすかに明かりが点った。 俺だ。 子供の頃の俺が泣いている。 「……じいちゃん……」 じいちゃんが死んだ日の事だ。 もう俺はある程度大きくなっていて、人前で涙を見せる事に恥ずかしさを覚えていた。 それでも泣き止むことは出来なくて、人の目を避けて子供の頃に作った森の基地へとやって来ていた。 「……泣いているの?」 後ろから、声が掛けられた。 「ずいぶんと大きな声だったわ。起こされてしまうくらい」 「ぐす」 知らない女の人にからかわれているようで、とても恥ずかしい。 「……悲しい事があったのね。良いわ、泣いていいんだよ」 「私が、それまで側に居てあげるわ」 「例え人形であっても、人は何かを亡くした後には縋って泣く物が必要なのでしょう……?」 「……あなた達の先祖も、そうだったわ」 「う、うああ、あああああっっ」 その誰とも知らない人に縋りついて、泣いた。 「今日は特別。だから少しだけね。でも……その涙、私が貰ってあげましょう」 そうして閉じたまぶたに口づけた。 とても柔らかく、温かく。 ……やさしさに溢れていた。 「う……ぐすっ。あ、ああ……っ」 絶望が言葉となって溢れていく。 森の中では体を支えるようにして、紅が座り込んでいる。 その手足の先は人の形を失っていて――人形として砕かれ破片が散らばっていた。 「ごめん、ごめんよ……俺のせいで!! お前が、こんな!」 「……誠一は……本当に、泣き虫ね……」 紅の残った手が俺の頬を撫でる。 そこに涙が溢れてたまっていく。 「ほら、涙を拭いてあげる……わ。こぼしちゃったら、勿体無い……もの……」 「俺が! 俺がもっときちんと考えていれば!お前に無理なんかさせなければ……」 「……違うわ。そうではないの」 「ねえ、誠一。分かっている……? 私、今すごく嬉しいの」 そういう紅の顔は満ち足りていて、透明な笑顔を浮かべている。 それがますます悲しくて、せつなくて、涙が止まらない。 「私、誰も殺さなかったわ。我慢が出来た。殺したら誠一が悲しむと思った。そう思う事が出来たの」 「……私は、ただの人形だわ。人形はそれを見た人間が自らの心を映すもの」 「でもね、私は自分で思えたの。それって……きっと、人間って事よね」 「ああ、ああ……!! そうだよ!お前はもう人間だよ!」 「……嬉しい……。やっと私、誠一と同じに……」 紅の体から力が抜ける。 「でも……悔しい。やっと誠一を理解できたのに、私はもう居なくなる。その事がどうしようもなく――」 「切ない、寂しい……」 感情を持たないはずの人形が、泣く。 例えそのための器官を持っていなくても、ここにあるのは確かに慟哭だった。 「紅……うう……っ」 その手を握りしめてやる事しか出来ない。 生きろと心から願っても、紅にそれが伝わっても――。 願いがあるからこそ、お互いの断絶が強くなっていく。 「誠一は……生き……て」 手を握り返す。それも弱くなっている。 既に柔らかさは失われ、人形の固さになっている。 「あなたに、私の残った、最後の……蜘蛛の力を……。これを使って、人の世界に……」 そうして――口づけと共に、何かが流れ込んできた。 紅の最後の残滓――命の欠片。 あるいはこの土地にいるという神から与えられた、魂の一部だったのかもしれない。 「………………」 紅は、何も言わない。 何も、見ない。 動かない。 ……ただの、人形になってしまった。 「は、はは……はははっ」 話し合えば分かる? 俺は何を勘違いしていたんだろう。 あの時に逃げてしまえばよかった。 それだけで助かったのに。 紅はもう、人を殺すなんてことはしなくなったはずだ。 不幸を振りまく連鎖は終わった。 数々の積みあがった物があって、その結末がこれだ。 人には様々な思いがある。その中には綺麗な物もあれば汚い物もある。 汚い、ドロドロとした思いまで汲み取ってしまった人形は人の世界に害を成す。 ……それは分かっている。 だが、俺の心が納得がいかない。 「……ゆっくり、休んでくれ」 森の中には大勢人間が入り込んでいる。 彼らに紅の死を伝えれば、まだ――。 「ぐ――あ、あああっっ!!!」 胸の奥に火箸を突っ込まれたような熱が走った。 最初は撃たれたのかと思った。 それくらいの熱、衝動――そして衝撃。 だが違った。 「こ、これは……」 欲望が渦巻いている。 今回の事が終われば、如月家の実験を握るという薄汚い野望。 零の肢体を舐めるように見渡して、あの女も手に入れて名実共に権力を掌握しようという気持ち。 今までメンツを潰されてきた如月家の当主を見返せるという薄っぺらい自尊心。 そんな物が束になって――刃となって、俺の心の中へと入り込んでくる。 「や、やめろ……! やめろっっ!!」 胸を押さえて、のたうちまわった。 大木に立てかけたままの紅に突っ込み、ガシャリと音を立てて崩れ落ちる。 最後に紅が分け与えたそれが、今俺の中で不協和音となって渦巻いている。 「は、はは……」 紅は何でこんなものを俺に分け与えたんだろう。 ――人の世界に。 そう言っていた。 人の世界に架け橋を作って欲しい? ……絶対にお断りだ。こんな薄汚い心しか持ってない連中なんて要らない。 この原因になった連中を取り除いて欲しい? だが紅はそんな連中をも殺さなかった。 彼女が最後に持った、人としての心が。優しさが、紅を殺した。 「……何が始まりかっていうならさ……」 紅は人の心を映す鏡だ。 なら、元々汚い欲望を持っていたのはどっちの側だ……? ギチギチと、腕の肉が変質していく。 体に送り込まれた蜘蛛の魂を――俺は自然と受け入れていた。 (ああ……そうか、そういう事だったんだ) 俺が持っていたのは、物体の構造が分かるなんて物ではなかった。 紅は昔俺に言っていた。それは『蜘蛛の感覚』だと。 今ならその意味が分かる。 こうして――手に取るように把握できる。 きちんと把握すれば物体の構造が分かる、というのは自分自身にも当てはまっている。 自分が持っているモノが一体何なんなのか。この鋭い『勘』というのは何だったのか。それが最後のピースだ カチリと頭の中で切り替わった感覚があった。 そしてこれを扱うに足るだけの力。紅より与えられた蜘蛛の魂。 どれだけ複雑な巣を作っても絶対に自分が引っかからないように。 巣に掛かった獲物をわずかな振動だけで捕縛出来るように。 人形に魂の一部を与えると同時に、人形側の事も理解できるよう、人に与えられた――蜘蛛の持つ感覚の一部。 なるほど、道理で自分になじまない訳だ。 道理で、それを鍛えて伸ばそうと思わない訳だ。 人の中にある異物――人ではない感覚器官を使って、初めて理解できるそれ。 今の俺には、驚くほどすんなり馴染んでいた。 「…………ああ、すっきりした」 なら、やるべきことは決まっている。 優しい彼女が出来なかった事を。俺が引き継いでやる。 そうすれば――もっとすっきりするだろうから。 ――不意に、脳裏に閃く案があった。 これが上手くいけば――多分、全ては解決する。 そんな案があって、でも実現する可能性は限りなく低い。 でも試す価値はあり、今しか出来ない。そんな、案が。 「提案があります」 「……む」 「俺と紅で、神を説得してきます」 「誠一!? 何を言っているの!」 「……その様子からすると、誠一君の案のようだが」 「如月家を取り巻く事情も、この街の成り立ちも、分かっています」 「なら、その大元になっている蜘蛛神にもう一度交渉してここを譲ってもらう」 「気に食わなかったら人を殺すというのではなく、お互いに住む領域を定める。如月家はその守りとしてここに住む」 「そうすれば、何もかも解決するはずです!」 「……言うのと出来るの間では、天と地の開きがあるのよ」 「そうかもしれない。でもやらずに黙っている訳にいかない」 そして何もしなかった場合、失われるのは紅。……あるいは俺だ。 「蜘蛛神がどこにいるのか、今となっては誰も知る者はいない」 「探します」 「時間をそんなに与える事は出来ない」 「……どうしてですか?」 「外にいる連中ね」 「外?」 「外に大勢の人間が集まっている。……如月の関係者ね」 「その通りだ。今この時が、如月家の呪縛を解く最良のタイミングなのでね」 「それを少し待ってくださいと言ってるんです!」 「いつまでかね?」 「それは――」 「何年、何十年と探し続けてきた。それでも見つからない物を、誠一君はいつまで待てば良いと言うつもりなのかな」 「く……」 人の力だけでは出来なかったかもしれない。 でも今は紅がこっちにいるというのに。 「…………今日一日待ちましょう」 「零?」 「その後は、全員に追う指示を出す」 「今の誠一には道案内がいる。それが正しく働くのであればきっと問題なくいけるはず」 「…………」 もう少し……と言いたかった。 でも零が自分の父親を説得するために、ギリギリで出した妥協案なのだろう。 「…………受けましょう」 紅が俺の袖を引く。 「分かった。それで頼む」 「……そう」 零はどこかほっとしたようだった。 「そういう事よ、お父様。物騒な人間を下がらせて頂戴」 「……ふむ」 「到底納得できる事ではないのだが……」 「先に期限を持ち出したのはこちらだ。私も異存はないよ」 「ただし、誠一君にはこれを持っていて貰う」 零に何かを渡し、こちらに持ってくる。 二つあって俺と紅の両方にだ。 紅に渡す時には零は緊張していたようだったが、何も言う事なく渡していた。 「GPS内蔵の発信機だ。君の位置情報を教えてくれる」 「これが市外に出た時。それから一定時間以上動かなかった時は、君たちの元に向かうようにする」 「これくらいはいいだろう?」 「分かりました」 ポケットの中に入れておく。 紅も着物の袖の中へと落した。 「では吉報を待っているよ」 「……ええ」 「誠一」 「心配するな。すぐに戻る。戻れなかった時は、迎えに来てくれ」 「わかったわ」 それから二人の視線を感じながら――屋敷を出た。 屋敷の前には大勢の人が居た。 猟銃などを手にしている者も多数おり――持っていない人もきっと何かしらの武器を有しているのだろう。 「…………」 通り過ぎる間にも、粘ついた視線が体について離れない。 そしてここまできて、やっと視線から解放された。 「…………ふぅ」 紅が自分の体を抱いていた腕を離す。 「すごい欲望と憎悪を感じたわ。遅れたらまずい事になるわよ?」 「でも紅なら場所分かってるんだろ?」 それなら今日一日あればたどり着けるだろう。 正直な所、あまり心配はしていない。 「知らないわ」 「――――え」 「私は人の想いを映す人形よ? もしも蜘蛛神を滅ぼせという強い願いを抱いた人間が出たらどうするの?」 「あ」 「神にとってはそれも退屈しのぎの一興なのかもしれない。でも、私は知らないわ」 「じゃあ、紅はどうやって蜘蛛神に情報を送ってるんだ?」 「私は何もしていない。ただ魂を通じて夢に見ているという事は分かっている」 「私が人としての身を持っていると言う事は、まどろみの中よ。向こうから来て貰う訳にも行かないわね」 「……マジか」 「というか誠一。あなたそんなあやふやな事なのに大見得をきっていたの?」 「い、いやぁ。てっきり」 「呆れた……と言いたい所だけれど、それが逆に良かったのかもしれないわね……」 「というと?」 「あの場の人間は、そこまで言うならやってみせようと、気持ちが傾いていたのよ」 「誠一がそうじゃなかったら、絶対に無理だったわね」 「そ、そっか……」 でも……どうしよう? 言い出した時は、その辺りも何とかなるという漠然とした感覚があった。 しかし、今は失われてしまっている。 違う道を選んでいたら、その辺りも分かっていたんだろうか。 まあ、過ぎた事は仕方がない。 「ひとまず街にいってこよう。資料でも何でも探す。諦める訳にはいかない」 「そうね」 そんな話をしている時に、俺達の前に車が停まった。 運転しているのはおサエさんだ。 「お嬢様から、お二人の足になれとご命令です」 「零が?」 紅と顔を見合わせる。 「……願ったりじゃない。お礼を言うわ」 おサエさんの運転で、まずは大通りを抜けて貰う事にした。 「そっちに確か図書館があったはずです」 「確かにございましたが……」 「如月の森に関する資料は、全て如月家にて保管されております」 「……え」 「確かです。誤って迷い込む者が出ないように、このような位置に館を作っておりますので」 「じゃ、じゃあ如月家に――」 「落ち着きなさい。その如月でも見つけられていないのだから本当に手掛かりはないのでしょう」 「そ、そっか。じゃあ……えっと」 「…………」 どうするつもりだ? と、バックミラー越しに問いかけてくる。 無言の圧力がとにかく怖い。 「古地図は? 如月家の屋敷って今の場所にあった訳じゃないんだよな」 「それなら神と出会って切り開いた最初の開拓地があったと思うんだけど」 「そちらも既に調査はしているはずですが……」 「そうですわね。神は人に対し、自らが持つ水源を一つ分け与えたと言われております」 「そうか、水がなくちゃ生きていけないもんな」 「それがどこなのか分かれば、良いのではないでしょうか」 「よかった! 大きな手掛かりだな!」 「……喜んでいる所悪いのだけれど」 紅が再びため息をつく。 「如月家に長く務めた使用人が分かる事が、本家の人間に分からない訳がないでしょう」 「……さようでございます」 「う――」 手詰まりになってしまった。 ……というか、だからこそさっきああ言ったのだ。 何年も待てない、と。 如月家で年単位で探しているのだから、見つかる訳がない。そんな気持ちが篭っていた。 「でもそれだとおかしいはずなんだよ」 「それじゃ、人も蜘蛛も行き来が出来ないはずだ。でも実際はここに紅がいて、人はこの土地で生きている」 「何か手がかりが……」 「……蜘蛛は森の中で迷う事はないわ。そしてどれだけ複雑に入り組んだ巣の中でも、自らが掛かる事はない」 「蜘蛛の感覚ならば、自らの巣を見つけるのは出来るのではないかしら」 「そんなもの、一体誰が――」 「忘れてしまったの?」 紅が真っ直ぐ俺を見る。 「誠一が持っているのは、過去に神が如月の人間に与えた物。違う種族である蜘蛛と人を理解するための、蜘蛛の感覚」 「なら誠一が自分で見つけるしかないのよ」 紅に真っ直ぐ視線を向けられる。 それを受け止めて――頷いた。 「…………わかった」 「山に入る準備をします。おサエさん、それらを買うための店に行きたいのですが」 「では駅前の方へ向かいます」 「お願いします」 この伊沢は避暑地だ。如月の森の奥には入れないが、山登りする人も多い。 登山グッズや装備を揃える事は出来るだろう。 「お金はどうするの?」 「……貯金を出すくらいの覚悟はある」 「ふふ、頼もしいわね」 「誠一様」 「は――はい?」 「私には詳しい事は分かりません」 「しかし、そちらのお嬢様とよく似た方が……良くないモノである事は分かります」 「…………それは」 「ですが、誠一様にとてもよく懐き、慕っているのも承知しております」 「ふふ、そうね」 「……どうか後悔のなきよう」 「はい」 駅前で降ろして貰う。 「付近で待っております。帰りの足も必要になるでしょう」 「助かります」 「では」 車が走っていく。ここには止められないから駐車場を探して来るのだろう。 車を見送っていると、こっちをじっと眺めている男がいた。 ……見覚えがある。 というか、子供の頃からよく見ていた顔だ。数年のブランクくらいなら、全く問題にしない。 幼馴染の一条忍だ。 「セイと如月……じゃないな。誰だ?」 「忍!? マジかよ。久しぶりだな」 「ああ……で、そちらは?」 「くすくす。一目で分かるなんてすごいわね」 「雰囲気が違いすぎる。……それよりお前ら目立ってるぞ」 「紅のこの服じゃなぁ」 「着替えれば良いのでしょう?」 「せめて人目の付かない所でな!」 「……仕方がないわね」 近くのデパートでトイレを借りた。 着物姿で中に入った紅は、出てきた時には制服になっていた。 「なんで制服?」 「街中で年若い人間はこういう恰好をするのでしょう?」 「更に如月と見分けがつかなくなって、より紛らわしくなった……」 忍が頭を押さえている。 「そ、そういや忍はどうしてここに?」 「実はきな臭い話を聞いてな……」 「セイが戻ってくるという話は聞いていた。今は如月家に滞在しているんだろう?」 「ああ」 でも聞いていたって誰からだろう。零だろうか。 「ならちょうどいい。如月家の話が聞きたいんだが、構わないか」 時間はまだある。 買い物に行く前に話を聞いても、遅くはないだろう。 「わかった。いこう」 喫茶店の中に入ると、紅は物珍し気に見渡してる。 俺にとっても久しぶりに来る場所だが、紅にとっては産まれて初めての事なのかもしれない。 「こういう所に入るのは初めてだわ」 「人間観察が仕事なのに、そういう所が中途半端だよな」 「そうね……ただ、元は街中にも出る事は出来たのよ。それが出来なくなっていっただけ」 「そうなのか」 「………………」 忍は胡散臭げに紅を見ている。 「で、そちらは? 随分と世間から離れた人のようだな」 「こちら――」 「私は紅。如月の生き人形と言えば通じるかしら」 「……ほう」 「…………ま、いいか。本題に入るとしよう」 「い、いいのか。それで」 俺の言葉に忍は構わないと首を振った。 「元より答える気がないのなら、同じことだ。本当だと言われても、証明にも時間がかかるだろうしな」 「それに、セイから話を聞きたかっただけだ。そちらの『人形さん』は本題じゃない」 「くすくす。そういう割り切り方は好きよ。分かりやすいもの」 「……まあ。助かるけど」 「それで話というのは?」 「単刀直入に言う」 「如月家の分家に招集命令が出されているらしい」 「如月の親父さんが亡くなったか何かして、権力争いか相続争いでも起きてるのではないかと言われている」 「…………あれか」 集まっていたのは分家の人間か。 それが一気に本家に来たのなら、話題にもなるだろう。 「忍はそれをどこから?」 「…………」 それを聞くと、じろりと紅を見てから言った。 「吸血鬼事件の話は知っているか?」 「吸血鬼事件……?」 いや、俺の知らない話だ。 そういうと忍は事件の事を話してくれた。 数年前にも起きた事。 それから、何人か被害者が出ている事。 調べている結果、過去から何度も起きている事……等。 「……体液が……それで吸血鬼事件か」 「…………」 「こちらは本題ではなく前振りだったんだが……」 「何か知っているらしいな」 「……そうね。その犯人を知っている」 「本当か?」 「ええ。怪物よ」 「……おい」 「…………馬鹿にしているのか?」 「していないわ。抜かれていたのは体液ではないでしょう。体の中も無くなっていたはず。そうとは言えないから、体液だけとしていたはずだわ」 「……お前……」 「体の中?」 「蜘蛛は捕食した生き物を食べる時に、そのようにするという話は聞いたことがない?」 「私が人形に戻っている間、魂は蜘蛛神に戻る。彼にとってここは餌場に過ぎない。人が現身である人形をそのままにするという事は、蜘蛛神は自由に動く」 「……人の中に犠牲者が出ても不思議ではないわね」 「…………だからか」 その犠牲者が出たから、如月家は儀式の重要性を再認識して俺に話を持ってきた。 巻き込む事になるのも覚悟の上で。 ……という事はつまり、如月家は本気だという事だ。 向こうにとっては既に俺を巻き込んでまで、事態を何とかしようと思っている。 そこで、解決のための障害に俺自身が立った所で、問題にはしないだろう。 「…………本気で言ってるのか?」 「本気よ」 「馬鹿馬鹿しい」 「馬鹿馬鹿しいが……その通りだ。警察も何もかもが、人間に出来る事じゃないと言っている」 「今、その蜘蛛神の所に行こうと思っている」 犠牲者が街中の方に出ている。 ……それはつまり、蜘蛛神が直接こっちに出てきていると言う事だ。 「何か情報があるなら教えて欲しい」 「……わかった」 たっぷり悩んでから、忍は頷いた。 「交換条件だ。俺も連れて行ってほしい」 忍はスマホを出すと、データを表示した。 それは伊沢の地図で所々に印がついている。 「事件が起きた場所だ」 「……全部森側になっているんだな」 「ああ。だから警察は犯人が森の中に逃げ込んだと考えているようだった」 その犯人が森に棲む怪物なら、この場所も当然か……。 「その化け物……」 忍は一度区切る。 まだ本当にそんなものがいるのか、考え込んでいるようだ。 「その化け物は人を食うのか?」 「人に限らないわ。餌があれば何でも食べる。古く生きていて、違う法則であったとしても、ただの生き物なのよ」 「……神様と呼ばれていたとしてもか」 「単に法則が違うだけだわ。人も神も怪物も……人形すら、それに縛られている」 「ただの餌……か。ふ、ふふ」 「俺の親も犠牲者になっている。それも特別な何かがあったのではなく、たまたま目についただけの餌だったとなは」 「忍……」 「……すまん」 「いや……」 忍の方がショックだろう。 俺の方が何か言えた話ではない。 「この辺りが最も森に近いわね」 「ああ」 「じゃあこの辺りに?」 「目が覚めて、最も近い獲物を捕食しているはずよ。だから可能性は最も高いわね」 「……わかった」 「どうする?」 「これから行く」 「さっきもそんな事を言っていたな……本気か?」 「ああ。……それに忍には悪いけれど、俺は化け物退治をする気はないんだ」 「…………仇がいても、見逃せということか」 「そうじゃない。……いや、忍にはそういう事になるのか。でも、蜘蛛神は理解していないんだ」 「何を?」 「人が生きている事。ただ数が多いだけの獣ではなく、きちんと意志を持っている事」 「怒りも悲しみも持っていて、それはきっと種族が違っても変わらない事」 「……ふむ」 「俺達はそれを教えに行く。人と神の住む領域をもう一度定めて貰って、お互いに干渉しないように呼びかける」 「俺にとっては不本意な結末だ」 「…………済まない」 「だが、殺す手段を考えるなら、お前たちが失敗した後でも遅くはないだろう……ついていく事に変わりはない」 「いいのか?」 「だが失敗したら、今回得た情報を元に俺は何としても殺してやる」 「その事も肝に銘じておいてくれ」 「……わかった」 準備のために忍が一時帰宅する。 それを見送って、紅は大きく息を吐いた。 「すごい殺意だったわ」 「悪い……辛かったか?」 やっぱり人が多い場所は大変なのだろう。 「平気よ。誠一が近くに居れば私は私を見失わない」 「……そっか」 繋いでくる手を握り返し――俺達も準備に向かった。 「……いくか」 「ああ」 「そうね」 森の入り口で頷き合う。 蜘蛛の神を探すため、奥を目指した。 森の中に入りしばらくした所で、忍に聞いてみる事にした。 「そういや随分と如月家について詳しかったけど、誰から聞いたんだ?」 「ん? ああ……そうだな」 「分家に弥生家というのがあるだろう」 「ああ、あの気の強い美人のお姉さん……」 「ん? 俺達より一つ上だぞ」 「え――」 ハタチくらいに見えたとは言わないでおこう。 「今の学園の委員会で知り合ってな。それからちょくちょく情報を貰っている」 「先日は如月家にも出向いて、お前とも会ったらしいな」 「ああ。押しの強い人だった」 「本人にそれは聞かれない方がいいぞ」 「俺はもう会う機会はないよ」 これが上手くいかなかったら……死んでるかもしれない。 上手くいったら……やはりここに戻ってくる事はないだろう。 「…………」 紅は俺達の会話に参加するでもなく、真っ直ぐ歩いている。 その姿は着物に戻っている。 紅にとっては正装である着物の方が落ち着くのだろうか。 「しかしその服、どこに隠し持っていたんだ?」 「糸で作ったのよ」 「……糸?」 「私は蜘蛛の現身だもの。造作もないわ」 紅が腕を振るう。 木々の間に銀色の糸が張られていた。 「……あんたも蜘蛛なのか」 「厳密には違うわね。元はただの人形。しかしそこに、人と蜘蛛の魂が少しずつ混ざっている」 「人であり人形であり蜘蛛でもある。それが私」 「……まったく訳が分からない話だな」 「そこは同意する」 ……着物の方が落ち着くかどうかではない。 糸で作られた着物を身に纏ってるという事は、彼女の着物がそのまま武器であり防具という事だ。 つまり、彼女の戦闘服だ。着替えてくるのも納得だ。 「誠一、どう?」 「いや……よく分からないな」 近づけば何とかなるかと思っていたのだが。 そう簡単には行かないという訳か。 森に入った時は昼下がりだったのに、今では太陽が傾いてきている。 「……まずいな」 タイムリミットまであまり時間がない。 「……誠一。来ているわ」 「きてる?」 「後をつけてくる人間達がいる」 「それって……」 「如月も分からない蜘蛛神を見つけたいと思うならば、見つけられそうな犬を放つという訳ね」 「…………」 それは理に適っている。 だが、どうする? 「……仕方ない。俺が行こう」 「お前が行ってどうするんだよ。何か出来るのか?」 「何も出来ないが、足止めくらいにはなるだろう。その間に、なんとかして離れろ」 「さっきのを見る限り、それくらいは出来るだろう?」 「ええ」 「……わかった」 「じゃあ、いってくる」 「……セイ」 「ん?」 「戻ってこい。どんな結果になったとしても、だ。話を聞かないと、俺は自分の未来も決められない」 「……分かった」 完全に日が落ちた。 紅が俺を抱きかかえたまま、糸を張る。 そして――。 「ぐ――」 荷物のように抱きかかえられたまま、木の幹を蹴っては次のポイントに糸を張って移動する紅に、運ばれている。 「次は?」 「あっちだ」 そして、近づけば近づくほど、感覚が強くなってきていた。 ――この先に居るという絶対的な信頼感。 元の巣に戻るようにというのは、あながち間違いでも無かったのかも知れない。 こんな森の中なのに、まるで――そう。構造を把握してる物体を見ているように、頭の中にイメージが浮かぶ。 (いや、知ってるのか) これが蜘蛛の感覚ならば、自分の縄張りの中は把握しているはずだ。 間違いなく近づいているという確信が持てる。 「止まってくれ」 「ええ」 紅に止まって貰う。 そして正面から向き直り――聞いた。 「紅自身は、どう思ってる?」 「私が決められる事なんて何もないわ」 紅はそう断言する。 「私はただの目なのよ。誠一はその目にも心をくれた。けれど、ただの部品の言葉は届かない」 「けれど、誠一が説得するというなら、私はそれを手伝うわ。部品の意地を見せてあげる」 「そっか……」 「誠一の方はどう?」 「……やっぱりさっき話した通りだな。人間と神の境界を定め直して貰う。そして人間の事を分かって貰う」 「わかった。……行きましょう」 この先に間違いなく蜘蛛神がいる。 確信があった……。 ……誠一たちは無事に行けただろうか。 一条忍は森の奥を見ながら、そう考えていた。 「まさかあなたまでやってくるとはね」 「……如月が自分自身でやってくるとはな」 「お父様は車椅子だもの。見届ける人間が必要だわ」 忍は両腕を男たちに拘束されている。 零は視線を飛ばして、彼を解放させた。 「……すまんな」 「いいわ。私も誠一の言う通り終わるなら、それでいいと思っている」 「……でも、大勢の人間が人生を歪められた。あなたも、お父様も」 「ああ」 「人形が向き合った者の心を映すというのなら、その本体にも人々の恨みは届いてるはずよ」 「……獣は敵意を向けない相手でも、餌と見れば捕食する。けれど、敵意を向けたからこそ向かってくる場合もある」 「誠一……」 「…………」 自分で選んだ道とはいえ、厳しい事になるだろう。 二人は友人の無事を祈っていた。 「…………そこだ」 真っ暗な森の中で、ひときわ暗い場所があった。 月明かりすら届いていない、暗闇の空間。 森の中にあってそのまま見落としてしまいそうな所だ。 でも、今の――俺の中にある感覚に従うなら、ただの森ではなく、明らかに違う何かがある。 「……行きましょう」 紅の手を取る。 その中に入り――。 中には、巣穴に入り込んだ事に怒りを露わにする一匹の巨大な蜘蛛がいた。 「うおおぉぉぉっっ!!!???」 悲鳴が漏れる。 振り下ろされた巨大な爪を、なんとか身をよじって交わした。 「誠一!?」 「だ、大丈夫だ!!」 目の前の蜘蛛を見据える。 蜘蛛の複眼が俺の視線よりも少し上の位置にある。 そこから爪を振り上げられたら、身長の倍くらいの位置から落される。 まさしく処刑の断頭台のようだった。 「ま、待ってくれ!! 俺はそんなつもりはない!」 「――くっ」 それでも振り下ろされる死神の鎌を、ギリギリで紅が飛びついて回避できた。 「こ、こんなのとどうやって話し合ったんだよ。ご先祖様は……!」 蜘蛛のはしゅるしゅると音を立てて威嚇している。 ……とても知能を持った生命体だと思えない。 目の前の紅に、魂の一部を分け与えた存在には見えなかった。 「止めて話を聞いてくれ!!」 再び、振り下ろされる爪に声がかき消される。 紅が腕を強く引く――俺の体に巻き付いていた糸が引かれて彼女の腕の中に納まった。 「すまん、助かった」 「お礼はいいわ。それよりも」 紅は周囲の木々を駆け巡るようにして、蜘蛛から距離を取る。 「どうするの?」 「どうするって言われても――」 今のあいつには、言葉が通じない。意思疎通が出来ていない。 (意思疎通……?) そうだ――目の前の存在の大きさに圧倒されて、忘れていた。 目の前の蜘蛛は神と呼ばれる存在だとしても、意思疎通が出来ないんだ。 出来ないからこそ、蜘蛛は人の持つ人形に魂の一部を分けた。 人に自らの感覚を授けた。 それはなぜか? 意思疎通が出来ないからだ。 種族が違いすぎて、お互いの言語では語り合えない。 種族が違いすぎて、お互いの生活習慣が理解できない。 種族が違いすぎて、たやすく生命の奪い合いになってしまうからこそ――。 紅が生まれ、俺達がこうしてここに来ている。 「紅!」 「何かしら」 紅は俺を抱きかかえながら、蜘蛛神の隙を狙っている。 「お前が呼びかけるんだ」 「…………え」 「あいつは俺の言葉は通じない。通じるとしても、まずは落ち着かせないといけない」 全く通じなかったら、そもそも初代が交渉は出来なかった。 そのきっかけまで俺達は行けていない。 「でもあいつの魂の一部が入ってる紅なら。紅の言葉なら、伝わるかもしれない」 言語やそういう物を超越して、同じ魂として。 「だから紅。頼む」 「で、でも私は、ただの目で。部品に過ぎなくて」 「部品が望みを持って何が悪いっ!!!」 紅に向けて、怒鳴った。 ――その一族には名前が無かった。 人形を繰る者として、神事に従事して年に数度、神様を奉る儀式を行っていた。 神の魂を人形に降ろし、舞い、人々と一時を共有し。 そして空へと返す。 長らく神事を続けていた一族は、ある時戦火によって故郷を失った。 人のために神と語らい、神と人を繋いでいた一族は、守るべき人のために故郷を失くした。 放浪し、流れて、この土地に辿り着いて――。 そして――如月家の祖となった。 人を導いて、住む所を得た――その結果、この地に縛り付けられてしまった。 人々のために多大な犠牲を払い、人の思惑にも、神の与えた人形にも振り回されて――生きてきた。 全てを投げ捨てて逃げ出す事も出来ただろう。 だがそれをしなかった。 この地に住む人々の命を背負いながら、守り続けてきた。 「人形が望み持っちゃダメか? 他人の心を垣間見ながら自分の心を保ち続けるのは、それ自体が望みじゃないのか?」 「でも、でも私は――」 「頼む……! お前しかいないんだ。お前だけが、頼りなんだ!!」 神の魂を持った生き人形ではなく。 一人の紅という個人として。 誰かの心を映す鏡ではなく。 その中にあってもなお、自分の心を保ち続けた少女として。 「お前が必要なんだ!! 紅……!!」 「く――」 爪が振り下ろされる。 紅は飛び上がって、それを避けた。 「でも、隙がない。こうも動かれたら……」 「……大丈夫だ」 紅に優しく微笑む。 「役割交代だ。俺が、動きを止める」 初代はこの土地に根を下ろし、如月家の祖となった。 彼にとって必要なのは、この土地の神に許しを貰う事だった。 その方法は、果たして何か? それは俺の中に想像として存在している。 こいつは縄張りに入り込んだ獲物を捕らえ、捕食する獣だ。 だが同時に、神として奉らて力を揮えるほどの存在だ。 巨大な力を持つ獣と神の違いが明白にある。 人は両者を恐れるが、神は恐れながらも敬い、奉る。 ――如月家の大元は神を奉る一族。 神を奉り、敬い、人の形に降ろして――対話をする。 「誠一……!!」 爪の下に、身を投げ出す。 神に声を届かせようとする、人々が行う切なる慟哭――。 それは、祈りと呼ばれていた。 ――そこには、一柱の蜘蛛が棲んでいた。 見渡す限り広大な森林。 棲みついた多くの生物は蜘蛛の餌であり、そして彼女は絶対の統治者だった。 蜘蛛は自由で、何物にも縛られない強靭な力を持っていて。 ……そして、孤独だった。 だからだろうか。 ある時迷い込んできた、みすぼらしい二本足の猿の言葉に耳を傾けてしまったのは……。 『森の一部に住まわせて欲しい』 その猿は――人は、蜘蛛にそう頼んでいた。 彼らは何時しかそこに住んでいた。 蜘蛛は神ではあったが、異種族である人間と呼ばれるモノの事を、神は理解が出来ない。 しかし、自らの目を使わずとも把握できる超感覚を持って新しい森の住人になろうとしているソレを観る事は出来ていた。 それは、木々を棲み処とはしなかった。 それは、生きるのに水を求めていた。 それは、森を切り開こうとしていた。 ……森に棲む蜘蛛とは違う、あまりにも異質な生き方で理解が出来ない。 それでも、分かる事がある。 彼らは神が持つモノを、必要以上には取ろうとしていない。 領域を定めて、そこから奥へは入らない。入ろうとしたモノを諫めているのが伝わってきた。 年に数度、神に対して供物を送る事もしてきた。 人間の食事はどうとっていいのか分からない。しかし、獣を添えられるのは獲る手間が省けるのが楽だった。 獣に手を付けて、食べ方のよく分からない物は残した。その結果、供物は獣だけになり、蜘蛛は食事が楽になった。 こうして一歩ずつ、双方の接点が出来上がってきた。 『人の里を作る許可が欲しい』 ある時、人はそう言った。 神である蜘蛛には言葉ならずとも意思疎通は出来たが、それは必要以上の事柄を蜘蛛に教えてくれた。 人が暮らしていくには、今の場所では狭すぎる事。森の一部を切り開く許可が欲しいと。 それは明確に彼の持つ領土を分け与える事を意味していた。 人を見分ける事は出来ない。だがしかし、蜘蛛の巣に踏み込む事は、彼らが止めるだろう。 入り込む者が居たのなら、それは『彼ら』ではないという事だ。 ――ならば、構わない。 蜘蛛にとってそれは文字通りの気まぐれに過ぎなかった。 人間は『からくり師』と呼ばれる人間で、そして腕には息絶えた娘の『亡骸』のようなモノを抱えていた。 中に魂の残滓がありながら動かないヒトガタをそう呼ぶ事は、蜘蛛はそれまで観た知識で知っていた。 蜘蛛は孤独で、そして人間は大勢の仲間に囲まれていた。 ……一つの、思い付きがあった。 「私は、もう何もしたくない!!」 ――振り上げられた、蜘蛛の爪が止まる。 それは人形としての紅ではなく『紅』という一人の個があげた産声だ。 彼女が寂し気に震えている。その手を握る事で、俺にも伝わってくる。 それは一人の震えを二人で分担するという事だ。 一人では無理でも二人で支える。分かち合う。少しでも彼女を勇気づける事になればいい。 「私には自分が無かった。ただ周りの人間を観察する目でしかなかった!」 「人に悪意を向けられれば悪意を返し、人間の姿を見るだけの人形だった!」 握った紅の指先に、力が篭る。 それは木で作られた固い人形の物だったが、何よりも温かい血の通ったものだ。 「もうそんなのは嫌だ! 私は、もう何もしたくない!!」 声に嗚咽が混じる。 血の通わない人形の紅が涙を流している。 「頼む。あなたが人に自らの領域を与えたから、この街の人は俺達の先祖が生きてこられたのも分かっている」 「だからどうかお願いだ。紅の事を解放して欲しい。でもタダでとは言わない」 紅と手をつないだまま、一歩前に出る。 「俺の全てをやる」 「俺が持つ力は元々はあなたに与えられた物だ。存在の違う人の世界を理解し、自らの認識を広げるためのもの。なら、人間そのものを手に入れたって同じはずだ!」 「誠一! 何を――」 紅の手を引いて、言葉を遮る。 「人を理解したいと言うなら、人の生き方を教えてやる。生き足掻くだけじゃない。これもまた、人の生き方なんだ」 目の前で止まった蜘蛛の爪先に手を伸ばす。 引き寄せるように額をつけ――これまで得ていた物を、大きな存在に還した。 ……泣き声が、聞こえる。 酷く悲痛で、世界を呪うような悲しく切ない慟哭。 (……でも、大丈夫だよな?) この世界はそれだけではない事を、彼女はもう知っている。 どれだけの理不尽があろうとも、どんなに悲しい事があっても重なり続ける悲劇の連鎖があったとしても――その中には、絶対に捨てることの出来ない幸せの欠片が眠っている。 それを知っている限り、全てに絶望してしまう事はない。 どれほど理不尽な暗闇の中だろうとも、自らを信じて次の一歩を踏み出していける。 ……だから、大丈夫。 人としての一歩を踏み出して、歩いていける。 その隣に自分が居られないのが残念だけれど。 これまでの時間の中で、一生分に等しいほどの想いを重ねてきている。 「誠一……! 誠一っ!!」 「…………あ……れ……?」 体に力が入る。 決定的な何かが抜け落ちてしまった感覚が確かにあったのに、それでもまだ、自分の体が動いてくれる。 ――ぽたり、ぽたりと、顔中に温かい物が降りしきる。 「……雨……?」 それはとても温かく、ぬくもりにあふれていた。 「……紅……?」 子供のように泣きじゃくりながら、俺を覗き込んでいる。 森を埋め尽くすほどの巨体はもう見えない。 押しつぶされそうな気配も消えている。この場を立ち去ったのが俺にも分かった。 「なんで、泣いてるんだよ」 手を伸ばして、目元を拭う。 「……馬鹿!!」 そして泣き笑いの顔で言った。 「知らなかったの? 人はね、生まれ落ちたら泣くのよ」 新しい一歩を踏み出していく。 紅の涙にぬれた瞳は、強く語っていた……。 「……逃げよう」 「本気でいっているの?」 「ああ。本気だ。今のままだと、紅がどうなるか想像できる。そして、その後のここも……」 紅は人間に分け与えられた土地の監視役だ。 なら、それを排除する事は出来ない。 ……でも、今の如月家の人達はそうするだろう。他ならない俺のために。 俺が皆を家族だと思っているように、皆も俺の事をそう思ってくれている。 それが今のネックになっている。 「紅は人と離れては不味い。人間の側も紅を破壊するのは不味い事になる」 「でも、その人間の中に紅と一緒に居たいと考える物好きがいて、その人間の事を紅は大事に思っている」 「……そう、ね。人形の気持ちなんてものが、本当なのかは分からないけれど」 「そこは黙って頷いておくもんだ」 「わかったわ。……あなたについていく」 「じゃあ、善は急げだな。……書き置きくらいはしておくか」 「ねえ、誠一。その先はどうするつもり?」 「そうだな……」 窓から外を見る。そこには黒々とした森が広がっている。 紅の言う事が正しいのなら……この森には、今も神様とやらが棲みついているのだろう。 「あまり人と関わるのが良くないというなら、俺達も森に入ってしまうか。神が本当にいる森だっていうなら、人間も入ってこないだろう」 「……そうね」 ノートを破り、書き上げた手紙を机の上に置いた。 皆にそれぞれ宛てて、感謝と別れを記す。 同時に、紅の事は任せて欲しいとも書いた。 俺が引き受ける――だから、如月家の皆は自由になって欲しい。 そう願いを込めて。 紅が空けた窓から、身を乗り出す。 「糸を使うわ。誠一は――私の体液を与えているから、人間よりも少し頑丈になっているかもしれない」 「人間よりもって、それって蜘蛛になるのか?それとも人形に?」 「……どちらかと言えば蜘蛛かしら。元々蜘蛛の感覚を持っている誠一には、馴染み深いのではないかしら」 「なるほど」 「では、いくわ」 紅に支えられながら、窓枠を蹴る。 ――離れていく屋敷に心の中で別れを告げた。 それから幾年も月日は流れ――。 「祭りが始まっているわね」 「ああ」 眼下に見下ろす先、伊沢の街では毎年恒例となった夏祭りが開かれている。 大通りに沿って屋台が並び、その間を大きな神輿が通り過ぎていく。 山車は蜘蛛を模した物があり、その中には寄り添うようにたたずむ一対の男女の物があった。 「あれ、俺か」 「本物の方が私は好きよ」 風に吹かれながらも小動もせず、紅は俺に身を預けてくる。 「お前もな」 その髪を撫でながら、祭りの方へ眼を戻した。 ……俺達が居なくなってしばらくして、伊沢の街では夏祭りが行われるようになった。 蜘蛛神に見初められた、一組の男女の話。 種族の垣根を超えた悲恋の話。 ……そんな話が、風に乗って伝わってくる。 如月家は長い因習から解き放たれ――今の屋敷の所には誰が住んでいるのか分からない。 零は東京の大学に進学したらしい。 一葉ちゃんとおサエさんも、そちらに引っ越したそうだ。 ……これらの事は全て、病床のおじさんから教えて貰った。 アレから、ずいぶん時間が経った。 俺達は森に生き、そしてそこで暮らしている。 人としての暮らしを捨てても、結構何とかなるものだと分かっている。 「森の中に誰か入り込んできたな」 「また酔っぱらった人かしら。お祭りで羽目を外したのね」 森の木の本数すら知り尽くした今、この眼下に広がる光景の全ての構造を把握できるようになっている。 自らが張り巡らせた糸から情報を読み取る蜘蛛の感覚。年月をかけて、それは俺の一部になっていた。 互いに領域を分けて――そして寄り添いながら暮らしていく。 俺達が去った後、病気で倒れたおじさんの病室に、こっそりと訊ねた事がある。 そこで誓い合ったいくつかの事。 これらを守り、人と獣との領域を分けて共に生きていく事。 その先に……もしかしたら、また二つの道が交わる事があるかもしれない。 それを、俺達は信じている……。 森の中を駆ける。 枝から枝に飛び移り、糸を使って足場を確保していく。 洋画で見た蜘蛛の能力を持ったヒーローを思い出した。 必要なのは肉体の頑強さよりも、自らの体を、飛ぶための勢いを支えられるだけの強靭な糸だ。 あの使い方は参考にさせて貰おう。 強靭な糸を飛ばし、高い枝に引っかける。 反動で勢いをつけて、自ら糸を引く事で次なる跳躍への力に変える。 巣を作るための糸は二つ。 強靭な切れにくい芯となる糸と、ねばりつく獲物を逃がさない粘着力を持った物だ。 それらを組み合わせ、森の中に巣を張り巡らせる。 応用として、立体的な移動にも使える。 小さな蜘蛛の知能と器官では、ここまで大胆な動きは思いつかない。 巨大な蜘蛛神では、出来なくはないがやる意味がない。 人間だから出来る動きと発想。 でも、自分自身の事だから分かる――もっと違う事が今の俺には出来るだろう。 闇の中に銀色の線が走った。 「え……がぁぁぁぁぁあぁつっ!!!!」 切断された腕を信じられないと見下ろしている。 蜘蛛の糸の中には粘着性を伴った物と、芯となる硬い糸がある。 硬い糸を細く、鋭くより合わせて目標にたたきつける。 そこに摩擦による圧力を加えてやれば――。 「――ひ」 一閃と共に大きな物体がはじけ飛んだ。 血管を潰さずに切断された頭部が、噴き出す血によって高く跳ね上がる。 首が落ちた後に残った体は、ひゅうゅうと音を立てるだけのポンプになり下がっていた。 「……お前の血は汚そうだな」 こんなので森を汚す訳にもいかない。 塊のままの粘糸を出して傷口を塞ぐ。 それでもびくびくと痙攣する体から血が噴き出し、糸の繊維の隙間から零れ落ちていく。 白い塊が朱色に染まる様が見苦しく、吐き気を覚える。 本当に、汚らしい。 自分でやった事ではあるが、紅から貰った白い糸を薄汚れた血で汚されたような不快感だ。 なら次は、もっと上手くやらなくてはならない。 糸を張りながら森の中を移動する。 その途中で、獲物を見つけては狩って回った。 どいつもこいつも、ケダモノ以下の欲望しか持っていなかった。 如月家が何を守っているか知らず、追い落として権力を握ろうと考えている豚。 零を政治の道具としてしか見ておらず、強引に手に掛けてでも、婚約者の立場に座ろうとしている蟷螂。 一葉ちゃんの身寄りが無くなった時に、自分の妾として引き取ろうと企んでいた猿。 そんな連中がひしめき合って、この森の中に入り込んでいる。 ――まとめて、狩り落す。 こんな連中は生かして置いても無駄だ。 紅にこんな悪意を向けていたのかという怒りと共に、紅はこの衝動をも耐えきったのかという、尊敬の念が湧いて来る。 なら――これは弔いだ。 彼女を幸せに見送るために必要な儀式だ。 「ああ……なるほど」 こうすればいいのか。 「は、はははっ!!」 両手両足を切り刻まれて、くるくると回りながら崩れ落ちる。 まるでコマだ。 噴き出す血が勢いとなって、回転し――そしてばたりと倒れる。 鋭利な糸は血管を潰さずに切断できる。 でもそれだけだと、力任せに断ち切っているだけだ。 そうじゃない。人間の体も幾万、幾億の細胞で出来ている。 それぞれ硬さの違うパーツが組み合わさって出来上がっている。 「あーーっはっはははっっ!!!」 楽しい――とても楽しくて仕方がない。 この連中が抱く欲望がどす黒ければ黒いほど、叩き潰した時の快感が大きく膨れ上がる。 厄介な害虫ほど、処分した時にはすっきりするもんだ。 ……なるほどと、納得が出来ていた。 何人も何人も何人も処分して、よく分かるようになってきた。 人の構造が手に取るように分かる。 どこに糸を通せば効率的に寸断出来るのか、筋肉の付き方や骨格による違い。筋を切り離す時の力加減。 それらが伸ばした糸の先から伝わってくる。 刃となる糸を男の体に通した。 糸を通じて、人体の構造が――正しく理解できる。 皮膚を切り裂き、その下の筋組織を選り分けていく。 細胞同士の結合を解き、血で滑らないように粘糸で塞ぐ。 筋肉の強張りを避けて、骨に到達。骨を断つには無駄な力が掛かってしまう。だから骨と骨の継ぎ目に糸を通していく。 これらを糸を揮いながら一息に行う。 断ち切るのではない。肉を丁寧の選り分けて、解体する。 その結果、腕が、綺麗に外れた。 「あはははっっ!!」 人を人であったモノに解体するたびに、精度が上がっていく。 物体の構造を把握する力とは、こういう事だったのだと強く理解できていた。 「ああ……分かる」 糸を出し、木々の間に張り巡らせる。重ねて、束ねて――網とする。 一瞬遅れて訪れる、衝撃。 銃弾が幾重にも重なった糸の網に捕らわれて、シュルシュルと回転し続けている。 森の中の事が手に取るように分かる。 糸は自らの感覚の先にある物だ。 それを張り巡らせ、木々を飛び回り、立体的に森の構造を掴んでいる。 そして、ここは子供の頃から過ごした庭のような場所だ。 森と、入り込んだ人間の構造を正しく理解出来た俺に、蜘蛛の感覚が全てを詳細に教えてくれる。 ――10、15、20。 だんだん数えるのも面倒になってきた。 森の中は悲鳴で満ちて、聞こえてくる不愉快な声も殆ど無くなっている。 これだけ潰せば後々は楽になるだろう。 面倒な連中もまとめて叩き潰し。そして――。 「…………」 ……そして、その後はどうするんだろう? 森にある全てを正しく理解出来てしまったが故の疑問。 その答えを出してくれる存在は、もうこの世にはいなかった。 沢に、降り立つ。 水のせせらぎが月光を反射して、キラキラと光っていた。 心の中には虚無感しかない。 先ほどまであった血の衝動も、怒りも、悲しみも、全てが消え失せて――身を焦がす程の喪失感しか残ってなかった。 「……あ」 その中を探ると、喪失感のはるか先に紅を失った悲しみも自分自身の怒りも、血の欲求もある。 「じゃあ、これは……」 人の気配に顔を上げる。 そこには悲しみを湛えた零が立っていた。 手には猟銃を構えている。俺に銃口を向けている。 「…………そっか」 零の悲しみだったんだ。 俺を失い、こんな事になり、二度と戻らない日々を思い出して悲しんでいた。 「……よう」 「待たせてしまったかしら」 「いや、結構早かった。……悪いな」 無言で首を振る。 零は頷くと――引き金を引いた。 空が……見えている。 沢にほど近い大岩の所に腰かけて、血が流れ落ちるに任せていた。 「……これで、良かったんだと思う」 「…………どこがよ」 傍らにいる零は仏頂面で、涙をこらえているようだった。 「俺は、多分後戻りできなくなっていた」 大勢の人を手にかけた。他人の感情に乗って――それを自らの衝動として殺戮していた。 紅は耐えたのに、耐える事が出来て自分の心を見失わなかったのに。 俺にはそれが出来なかった。 「……紅は、すごかったよ。俺には我慢する事が出来なかった」 「…………」 「でも……多分これで、如月家は自由になる」 「どうしてそう思うの?」 「……蜘蛛神から与えられた物は、二つあったんだ。今それが一つになって、返っていく……」 人を理解するための人形、その中に込められた魂。そして人が蜘蛛を理解するための、蜘蛛の感覚。 どちらも揃っていて、初めてお互いを理解できる。 異物を異物としてではなく、寄り添っていく事が出来る。 「だから、もう大丈夫だ」 俺は俺の中の感覚に強く刻み付ける。 人がもつ弱さを。人が知る事の出来る愛を。 それが――物言わぬ人形の魂を動かした事を。 殺意に走っていた愚かな人間を止める力があった事を。 全てを刻み付けて、忘れない。 俺が死に蜘蛛神へと返れば。この気持ちが伝われば、きっと人間に手出しはしない。 「……零は……自由に……」 「誠一が居ない世界なんて……!」 「俺も、そう思った……紅が居ない世界なんて……」 ……でも違った。止めてくれる人がいた。 「だから、零も大丈夫、みんないるから」 おじさんも、一葉ちゃんもおサエさんも。街にいけば忍や美優だっている。 「一人じゃ、ないから」 「…………誠一は……」 「俺も、ここにいる」 蜘蛛神の中へと戻って。 先にいっている、紅と一緒に。 俺達が生きたこの場所を見守っている。 「……ああ……」 月が綺麗だった。 こんな空を見上げているのに――隣には彼女がいない。 その事が、たまらなく寂しかった。 「……誠一?」 「…………」 もう、声も出せない。 俺がやるべき事は、もう出来ただろうか。 なら後は……。 ……紅……。 彼女の元で休もうと思う。 「――――!」 零が何かを叫んでいる。 もう俺の耳に届く事はないけれど。 もう如月家を縛る蜘蛛の糸はない。 ならば、後は羽を広げて――。 その先の未来を掴んでほしいと、願っていた。 ――空が白み始めてきた。 蜘蛛神の居た場所で夜を明かし、紅と二人で森の中を彷徨うように歩きとおした。 蜘蛛の感覚を返した俺に道は分からず、紅に頼り切りで森を抜けるのは大変だったが、それでも何とか外に出る目途が付いた。 「森を抜けるぞ」 「……ええ。でも誠一。本当に帰って大丈夫かしら」 「……その時は、その時だな」 果たして、俺達の言葉を信じてくれるだろうか。 目的は果たしたとして、銃口が出迎えた場合の事も考えておかないといけないだろう。 そうして、二人で支えながら森を抜ける。 そこには――。 「お帰りなさい」 「おかえりなさいませっ!」 零と一葉ちゃんが俺達を出迎えてくれた。 「……二人とも……」 思わず紅と顔を見合わせる。 「詳しい話はこちらで。……あなたも」 「どうぞ、こちらですっ」 促されるまま、歩き出した。 「わぁ――綺麗ですね」 一葉ちゃんの声に振り返った。 ――朝日が、昇る。 この世界を白く染め上げ、そして強く照らしている。 太陽の光の下、俺達は生きていける。 「泣いているの?」 「――――え」 気が付けば、両目から涙が溢れて止まらなかった。 流れ落ちる涙が頬を伝い、シャツを濡らしていく。 「は、はは。変だな。なんだかすげー嬉しいや……」 何故だろう。今日と言う日を迎えられたことが、こんなにも嬉しい。 みんな揃って笑っている事が、とても嬉しい。 「あなた達には感謝している」 零が静かに言葉を紡いだ。 「如月家が抱えていた因縁は取り払われた」 「今日ここからは、新しい歴史が始まる」 「それは、古い因習と神との契約にがんじがらめになっていた蜘蛛の糸を、解き放ってくれたあなた達のおかげ」 「ありがとう」 「どれだけ言葉を重ねても足りない。それだけの覚悟を持って、応えてくれたあなた達に祝福を」 「……零」 「わ、わたしもです!」 「誠一さんが無事で嬉しいです!」 「こうして元気でいてくれて、本当にありがとうございます!」 「……終わったんだよな……」 二人に元気づけられるように俺も笑う。 紅も微笑んでくれた。 「違うわ。誠一」 「あなたが終わらせたのよ」 風が吹いていく。 どこまでも、高く――遠くへ。 それを全身に浴びながら思う。 蜘蛛の巣から解き放たれた蝶は、羽を広げて空に舞う。 その先には再び困難があるだろう。 でも――それでも両の羽で飛んでいける。 俺達がここに居るように……。 「戻ったな」 「忍! よかった、無事だったか」 「……ああ」 「それで……蜘蛛神の方は……」 「いやいい、分かってる」 「え……?」 「なんだ知らないのか」 忍が笑う。どこか清々しさのある笑みだった。 「明け方ごろにですね。こーーーんなおっきい蜘蛛がですね!」 一葉ちゃんが興奮して喋っている。 「それを見た分家の皆さんはもう大慌てで」 「蜘蛛さんは何もしなかったんですが、びっくりして飛び出してきたわたしたちと、旦那様を見て……」 「……頭を下げたように、見えたよ。いや、勘違いなのだろうけれどね」 「でも、伝承の存在が本当に要るというのは……知ってはいたけれど、見るのは初めてだった。正直、存在に圧倒された」 「……今でも、完全に考えは変わっていないよ。人の住む土地になったとしても、またどこかでお互いの領域が重なる時がきっとくる」 「如月家の役割を強くして、ここを守って行かねばと思ったね」 「大変お疲れのようですから、消化が良く滋養に良い物をと」 「……私、物は食べられないのだけれど」 「左様ですか」 「試してみたら? 今ならもしかしたらって事もあるかも知れないし」 泣かない人形が涙を流せたように。 その身が仮初ではなく、本物になれたように。 「そう……ね」 「あ、美味しい……美味しく食べられるわ」 「それはようございました。お嬢様」 「私は……」 「お嬢様ですよ。代々の使用人も、如月家の家宝である貴女様にもお仕えしてきたのです」 「……そう。ありがとう」 「聞いたよー。大変だったんだって!?」 「ああ……本当に。久しぶりなのにこんな話になっちまって済まない」 「ううん、そんなことないよ!それで、こちらが」 「ああ。紅だ。仲良くしてやってくれ」 「……よ、よろしく……」 「まあ、親父も母親も一度帰ってこいって煩いからさ。またすぐ戻ってくるから」 「ええ。待っているわ」 「……誠一」 「あなたは親を見送る子供みたいになってるわね。いい加減離れなさい」 「でも……」 「そうしていると、零はすっかり双子のお姉さんだな」 「何百歳も年上の妹なんて御免だわ」 「私の方が年上よ……」 「それなら年上に相応しい態度で接しなさい。人形ではなくなった途端に幼児退行なんて笑えないわ」 そうして――電車に乗り込んだ。 この街に帰って来て様々な事があり、こうして再び電車に乗って街を離れる。 用事を済ませて、また戻ってくる。 だが、今はしばしの別れだ。 見送る二人の少女に手を振り――。 「あれ?」 零の姿しかない。 そして腕にがっしりとしがみつかれていた。 「本当にしょうがないな」 「そう思ってくれているの?」 「そうだよ。……一緒に行こう。親にも紹介する」 「楽しみにしているわ。……誠一」 「好きよ。愛している」 紅が目を瞑る。 ひと気のない車両の中とはいえ、大変に恥ずかしい。 でも……まあ、いいか。 素早く唇を重ね合わせる。 彼女は目を開けて、柔らかに微笑んでいた。 「……あっちぃ」 一週間ぶりに戻ってきた伊沢の街は、とても暑く感じた。 「誠一は軟弱よね」 「……お前にそういう事を言われたくない」 紅と比べたら大体の人間が軟弱になってしまうだろう。 一週間を自宅の方で過ごし、改めて伊沢に戻ってきた。 いきなり女の子を連れ帰って……しかもそれが、如月家のお嬢さんに酷似しているという事で、親は当然驚いていた。 でも、紅が名前を名乗ると親は納得した様子だった。 ……多分だけど、親……特に親父は如月家と一族が抱える問題についてある程度知っていたのだろうと思う。 母親の方が如月家本家と繋がりは深いが、本家とは距離を置いているのは昔から知っていた。 母親は、いきなりやって来た零に酷似した紅の事も、喜んで受け入れていた。 でも親父は、少し苦い笑みを浮かべているのが、俺には印象的だった。 その程度の推測でしかないが、ある程度、事情を知っていてもおかしくはない。 ただ、如月家に伝わる伝承のどこまでが真実だったのかそこまでは分かっていないはずだ。 親父の代には、もう如月家の系列に勤める者もなく、名ばかりの分家になっていた。 (じいちゃんは知っていたのかな……?) 親父にじいちゃんは昔、如月家で人形師をしていたと教えて貰った。 辞めて工房を開くようになった理由は分からないが、如月家の真実を知ったからなのかもしれない。 そんなこんなで、自宅の滞在は妙に慌ただしかった。 娘が欲しかったと喜ぶ母親と、若い嫁だとそわそわし続ける親父の二人が、紅に構って構って構いまくっていた。 というか、死ぬような思いをして帰ってきた息子は完全に放置されていた。 (ま、いいんだけど……) 紅については話している。 信じてくれたかは分からないが、俺達が再びここを訪れるまで二人の態度が変わらない事実が嬉しかった。 「ふふ」 「なんだよ」 「お父様とお母様、喜んでいたわね」 「…………」 すっかりこの呼び方が定着している。両親も喜びまくって、訂正する機会も完全に失われた。 あるいは本当に紅の『お父様』と『お母さま』になってしまうかもしれない。 「……それはもういいから、中に入るぞ」 「ええ」 俺達を降ろした後、おサエさんは裏のガレージに車を止めにいっている。 二人だけで先に中に入る事にした。 「お帰りなさい。誠一。……それから、紅」 「ああ、ただいま。と言うのも変な気がするな」 「別に構わないでしょ。それくらい」 「くすくす。私にとっては里帰りだものね」 「…………はぁ」 零はがっくりと肩を落とす。 「身構えていた私が馬鹿みたいだわ」 「ふふ、気を遣わせてしまったかしら」 「……それより部屋を用意してあるから、案内するわ」 「ああ。悪いな」 「こっちよ」 「自宅に帰ってきたなら自室でいいわよね。誠一も置いておくから退屈はしないと思うわ」 「あら。粋な計らいというやつね」 「まてまてまてまて!! おかしいだろ!」 「……? トイレには近いわよ?」 「お風呂にも近いわ」 「そういう問題じゃねぇ!!」 「……冗談よ。冗談」 「そうだったの!?」 ……そこで驚くなよ。頼むから。 「変ね……あなたなら、この手の冗談に引っかかる事はないのでは?」 「そうでも、ないわ」 紅はどこか薄い笑みを浮かべる。 「誠一の持っていた蜘蛛の感覚も、私に与えられていた鏡の役割も、全てを返してしまった」 「蜘蛛神が直接現れたと言っていたわよね。アレは文字通り、この世界を『観に』来ていたのよ」 「……? 今までもあなたが長く眠りについていた時には起きだして餌となる相手を探していたはずだったけれど」 「巣に掛かった獲物を捕食するだけなのと、共存する相手として見定めるのは違うわ」 「私はただの目である事を止めた。目を失ったから、直接見に来た。……そういう事よ」 「なるほど。だから今は人の感情も想いも分からないと」 「自分で想像し、考えるしかないわね」 「……まあ、良かったんじゃないか? 他人の感情に左右されるなんて、大変な事の方が大きかっただろうし」 「ふふ、そうね」 「……では、しばらくはどのような冗談にも乗ってしまうという訳ね」 「何かよからぬ事を考えていないか?」 「私じゃないわ。それを知られたら、絶対に面白がる人間が屋敷に一人いると思っただけよ」 「……あ」 一葉ちゃんならやりかねない……。 「私が相手でも物怖じせずに言ってくるというのならぜひとも仲良くしたいわ」 紅は楽しそうに笑っていた。 改めて俺の部屋に荷物を置き――ちなみに紅は、まだ監督が必要という事で零の部屋になっている。 改めておじさんに挨拶に来た。 「……やあ、いらっしゃい」 「またお世話になります」 先日の件は立場的にも如月家の歴史的にも仕方ないと思って納得しているが、どうにも緊張してしまう。 「零はお帰りなさいだったのに、こちらではいらっしゃいと言うのね」 「って、お前!」 いきなり地雷を踏み抜く奴がいるか! 「私、何かおかしなことを言ったかしら?」 「わざとだろ、絶対わざとだろ!」 「くすくす。さぁ?」 「……ふ」 おじさんが口元を緩ませる。 「確かにそうだね。お帰り。誠一君。それから……紅」 「あら、私にも言ってくれるの?」 「現在がどうあれ、《きさらぎこう》如月紅は如月家の所有物だ。家宝としても広く名が知られている」 「しかし、本当に生きた人間になるなど、誰も想像もしないし出来ないだろう。今後の事を考える必要がある」 「つまり、失われた事に理由を付ける必要がある。その協力はして貰うつもりだ」 「ありのままを話せばいいと思うのだけれど」 「それでは納得する者はいないだろう」 「いなくても構わないのではなくて?」 「……どういうことかな?」 「神を信じる者が殆ど居ないこの地において、生き人形というのも心から信じている者も少ない」 「私達が屋敷を出た日、あの場に居たのは如月の分家の人間よね。彼らの殆どは生き人形など信じていなかった」 「そのような人間に改めて信じさせる必要などないわ」 「……ふむ」 「ふふ、それに」 紅は一度笑い、言葉を続ける。 「あの人達も蜘蛛神の姿は見たのでしょう?ならば、それで押し通せばいいわ」 「……なるほど」 「そういえば、あの人達はどうなったんですか?」 俺が訊ねると苦笑してみせた。 「様々だよ。これまで本家を馬鹿にしていて本家の責務を譲れと言っていた者が、あからさまに避けるようになったり」 「逆に半信半疑だったものが、詳しく教えろと迫って来たり」 「中には世間に公表すべきだと言ってきた者もいたな。自衛隊を呼べと叫んでいた」 「うわぁ……」 「少しとはいえ、ここを離れていたのは正解だったね。君たちの姿は見られているから、残っていたら面倒な事になっていただろう」 「……な、なるほど」 「来月にまた親族会議が開かれる。これまでは、如月家の持つ領分をいかに奪い取ろうかという内容で進行していたが……」 「今回は変わるだろうね」 「そうでしょうね」 「あの……俺、政治とかそういうの全く分からないですし何も出来るとも思えないですけど」 「見た事を話すくらいなら出来ますから、必要があったら呼んでください」 「……くく、誠一君は本当に変わらないな」 ……笑われてしまった。 「そのような事を軽々しくいう物ではないよ。特に私は、自らの復讐のために君の事を一度は切り捨てた。恩も義理も感じる必要はない」 「むしろ、怒りをぶつけられる覚悟で今日は会っている」 「怒るつもりなんて……俺は別に。あの時なら仕方なかったでしょうし……」 「だがそれは、結果的に無事だったから言える事だ」 「……そうかもしれません」 「正直な所、まだ恨みは持っている」 「…………」 「だが、誠一君はこれまでの如月家の人間がやりたくても出来なかったことをやってくれた」 「それは紅が居たから……俺一人だったら、さくっと殺されて終わってました」 「ああ。だから、私も知らなくてはならない。紅という少女がどういう人物なのか。そしてこれからの事も」 「……そうですね」 それで話は終わる。 俺と紅はおじさんの部屋を辞して、外に出た。 「長い話は疲れるわね」 ロビーに戻ると、盛大に伸びをする。 紅はマイペースで、何とも緊張感がない。 「これからの事か……」 「誠一まで難しい顔をして、どうしたの?」 「いや、考えなくちゃいけないなって思って」 「別にいいじゃないの。そういうことは考えたい者に任せておいて構わないのよ」 「誠一は私に新しい世界を見せてくれているわ。今はその方が大切だと思うの」 「……そっか。そうかもな」 「ええ、そうよ」 紅が笑顔を浮かべる。それを守っていきたいと思った……。 「……なにやら二人の世界に入り込んでおられますが」 「うお――!」 一葉ちゃんがどんよりした顔で、割って入ってくる。 「目の前でいちゃつかれると、精神的に厳しいのでおやめくださると幸いです……」 「そ、そんなつもりは」 「どんなつもり?」 「そういう所です……」 はぁ、とため息をついて一葉ちゃんが続ける。 「紅……お嬢様はお茶の好みはありますか?」 「特に気にしたことがないので分からないわ。そもそも、何かを飲み食いするような生活は送ってなかったから」 「そうでしたね。では日替わりで出しますので、お好みの物がありましたら教えて下さいませ」 「わかったわ」 では――と頭を下げて、一葉ちゃんが食堂の方へ行く。 ……そして紅はその後をついていく。 「ってお前も行くのかよ!」 「人の作る食べ物は興味深いのよ。見るくらいいいでしょう?」 「ふふ。ではお嬢様こちらへどうぞ」 「ほらね。では行ってくるわ」 ……何とも楽しそうだ。 紅は何にでも興味を示して、実行している。 そうして『自分自身』を探している。 他者から与えられる物ではなく、自分で見つけられる物を。 彼女にとっての、人それぞれ違う何かが見つかればいいと願わずにはいられなかった。 「それで紅ちゃん、お料理にハマっちゃったの?」 「前におサエさんに食べさせて貰ったのが衝撃的で、うちに滞在していても毎日違うメニューが出て、更には一葉ちゃんまでお菓子作ったりしてるから、自分も……と」 ちらりと紅の方を見る。 酒屋の中を興味津々に覗き込んでいる。 「それであんな具合だ」 「あはは、そうなんだ」 「でもお酒はさすがにダメだよねぇ」 「年齢だけ考えるなら問題ないだろうけど、見た目的に良くないよな」 紅の外見は零そっくりだ。こんな店頭で酒飲み始めるのは、非常によろしい絵ではない。 「試しに飲んでみたいのだけれど、そういう事は出来る?」 「ほらやっぱり!」 「だ、ダメだよ。お酒は外で飲んじゃダメー」 「そうなの? では……ああ、そこの人」 「おや、これは如月のお嬢さん。今日はどういったご用件ですかな?」 店長さんは紅に話しかけられてニコニコ顔だ。 ……零と間違えてるっぽいけど、まあ、別にいいか。今やどっちも『如月のお嬢さん』なのは事実だし。 「こちらにあるものを一本ずつちょうだい。如月の屋敷に送って貰っていいかしら」 「はいっ。まいど!」 「って、おい!!」 「何かしら」 「勝手に注文してるんじゃねぇよ! 酒だぞ、酒!」 「それが何か問題ある?」 「大ありだろっ。せめて屋敷の方に連絡とってからにしろ!後、お金はどうするんだ?」 「それならあるわよ」 「……へ?」 いつの間に紅が金を……。 「何かに使うようにと貰っているのよ。だから気にしなくていいわ」 「……気にするだろ」 「ええと……それでお会計はいかがされます?」 「はい、これ。ええと『いっかつ』で」 カードを渡している。 とりあえず何もかもこれで済ませるつもりらしい。 「セ、セイ君。いいの?」 「良いも悪いも……」 自分の金があって自分が欲しい物を買うなら、いいのだろうか。社会見学の範疇に入る……のかも? 正直、俺も毒されてきている気がしないでもないが、今さらかもしれない。 「毎度ありがとうございます! 今後もごひいきに!」 「ありがとう。あなたの事は覚えておくわ」 紅の言葉に店長さんはとびきりの営業スマイルを浮かべて発送の手配を始める。 酒が余らない事だけを祈ろう。いざとなったら、おサエさんや一葉ちゃんが料理に使ってくれるだろうし。 「……なんか緊張しちゃったよ」 「……俺も」 「二人はこれからどこか行く途中?」 「ああ、街を見てみたいって言ってたから、今はその案内。図書館にも寄って行こうと思ってる」 「そうなんだ。あ、図書館ならそこにちょうどいい人が」 「ちょうどいい人?」 振り返ると通りの向こうを忍が歩いていた。 大きく手を振ると、こっちに気づいたみたいだった。 車が途切れるタイミングで、道を渡ってやってくる。 「よう。散歩か?」 「そんな所。紅の街の観光も兼ねてな……」 「お久しぶり。先日はお世話になったわね」 「……別に礼を言われる事じゃない」 「そんな事ない。心強かった。ありがとう」 「……そうか?」 「これからどこか行くのか?」 「街を見て回った後に、図書館に行くんだって。忍君詳しいでしょ? 案内してあげなよ」 「詳しいという程ではないが……最近行ってるのは確かだ」 「なんか調べてるのか?」 「別にその話をするのは構わないが……」 言いながらちらりと美優を見る。 「バイト中に邪魔するのも良くないだろう」 「わっ、待って待って! あともう少しで終わるから!」 「じゃあ、それまで時間潰してくるか……」 「いいわね。私ゲームセンターという所にいってみたいわ」 「……じゃあ、決まりだな」 紅の正体を知る忍はどこか複雑そうに言った。 バイトを終えた美優と合流して、喫茶店に場所を移した。 「図書館通いは最近の事だから、そこまで詳しい訳じゃない」 「でもあの美人さんと一緒に行ってるの前に見たよ?」 「……美人?」 聞き逃せない単語だ。 「…………」 ぎりぎりぎりぎり。 「いてぇよ! なんでつねるんだよ!」 「別に何でもないわ」 「まあまあ」 「……お前も知ってるだろう。前に話した人だ」 「ああ……弥生家の人だっけ」 「そうだ」 「どういう事?」 美優にこの前に忍から聞いた事を教える。 分家の一つの令嬢と、如月家に関する事で仲良くなったらしいという事。 今回もそれに関係してるっぽい事……等。 「じゃあ如月家絡みなのか?」 「そういう訳でもない。俺がやりたいからやってるだけだ」 そこで一度紅を見た。 「先日の一件で、この土地には実際にああいう怪物が居るのは分かった。吸血鬼事件もそれが理由というのも、理解した」 「だが、やはり納得は出来ない。家族がいなくなって、それが超常的な存在の仕業だからといっても、飲み込む事は出来ない」 「……だろうな」 「気が楽にはなった。それまではあやふやすぎて、犯人の目途すらついてなかったからな」 「だが、やはりそれとこれとは別だ。そこでこの街の民間伝承などを調べている」 「……蜘蛛神を殺すために?」 「………………それも考えている」 忍はたっぷりと考えて、言った。 「だがまずは知らないといけない。過去にどんな土地で、どうやって生きてきたのか。アレはどんな影響があったのか」 「実行するかどうかはそれからだな……。だが犯人が何かを分かった今は、動かずにはいられないんだ」 「……そう」 「もしかしたら、あんたにもいずれ話を聞きに行くかもしれないが」 「今じゃなくていいの?」 紅の言葉にゆっくりと首を振る。 「今は何を聞けばいいのかも分からない」 「そうね……私はただの目でしかなかった。知る事は多くはないから聞かれても答えられなかったでしょう」 「……そうか」 「ね、ねぇ。なんだかとっても真面目なお話?」 「まぁな。ひとまず黙っていよう」 「もう終わりだから別にいいぞ」 「あはは、ごめんね、気を遣わせちゃったみたいで」 「それにしても、零ちゃんじゃなくて紅ちゃんなのに、なんかいつものメンバーって感じあるよね」 「……そうか? 顔が似ているからだろう」 「ルックスは大事だよ。見慣れた顔って安心するもん」 「零が聞いたら泣くぞ、それ」 「――くしゅんっ」 「大丈夫ですか? エアコンの温度下げすぎたでしょうか」 「いえ、大丈夫。それより早くこれを終わらせましょう」 「分家の方々からのお手紙ですか……。誠一さん達と遊びに行けなくて残念でしたね」 「それはいいのよ。まったく」 「さて、そろそろ行くか」 「そうね」 話も一段落して、外に出る事にした。 喫茶店から出て駅前に行く。 美優はこのまま自宅に、忍はこれから行く所があるらしい。 「それじゃ二人ともまた」 「ああ。いる間に連絡をくれ」 「みんな、またねー」 二人と別れる。 その時、激しく鳴らされるブレーキの音があった。 事故かと思い、駅前のターミナルの方を振り返る。 「え――」 そこには男たちに体を拘束される、紅の姿があった。 「紅……!!」 二人掛かりで車の中に引きずり込むと、激しい音を立てて走り去っていく。 「えっ!? えっ? な、なに? 紅ちゃんは?」 「――――! セイ! 如月に連絡!!」 「今掛けてる!!」 零に繋がると同時に、叩き付けるように叫んだ。 「紅が誘拐された!」 零に報告すると、すぐに車を回してくれた。 紅を連れ去った車は既に見えなくなっている。追跡は今からでは難しく、その手段も無い。 おサエさんの運転する車に乗り、如月家に集まる。 忍と美優も一緒だ。 零は俺達の話を聞きながら、考えを纏めているようだった。 「心当たりが多すぎるわ」 「犯人についてだよな、それ」 「外見が私に似ているから、如月家の娘を狙った可能性。次が若い娘だから。更には誰でも良かったからと想像だけなら幾らでも出てきてしまうわね」 「如月がその中で一番高いと思う可能性は?」 「当然、どこかの分家の仕業ね」 「と、当然なんだ。それ」 「タイミング的に考えてもね……」 ため息と共に頭を押さえる。 「今の紅は、多くの要素を持っているわ。如月の家宝だから、彼女を所有する事に意味があると考える所もあるでしょうし」 「蜘蛛神に通じる者と考えてもおかしくないし、出自からして人体構造を知りたいと考える者も……」 「そこまでするのか?」 「……するわよ。だってあの外見で何百年もいるのよ。若さの秘訣を探るなんて、ありきたりの話じゃない」 「……なるほど」 「お嬢様」 「どうだった?」 「はい。警察の方への連絡は終わりました。目撃情報なども集めているようです」 「分かったわ。そのうち車種の特定なども出来るでしょうけど相手がそれまで待ってくれるかしらね……」 「時間かけると証拠が出てきてしまうから、その前に何かを言ってくると言う事か」 「ええ。十分ありそうでしょう」 「でもね、私はそこまで待つつもりはないわ。だって相手の良いようにさせられるなんて、納得がいかない」 「……そうだな」 「だから逆に利用させて貰いましょう」 「利用?」 「今は分家の連中も態度を決めかねている。蜘蛛神という未知の存在を知って、暴走しかかっている」 「今回もそんなうちの一つなのでしょう。だから、他の連中に決めさせてやるのよ」 「私達に付くか、それとも違う道を選ぶのか」 そう言って零はにやりと笑った。 ……連れてこられた部屋は、真っ暗で光の入らない場所だった。 「大したおもてなしね」 紅はその中でもつまらなそうな態度を崩さず、悠然と構えている。 「手荒い招待になってしまい、申し訳ない」 「あなた……見た事あるわ。如月に連なる人物ね」 「その通り。自己紹介の必要がないのはありがたい」 「私にどういう用事? やる事があるから早く帰りたいのだけれど」 「我々は如月家に虐げられてきた。頭を押さえつけられていた。そろそろ、立場を変えても良いとは思わないかね」 「……立場を?」 「古臭い儀式などを行い、それにより神事を取り仕切った私をないがしろにし、自らだけでこのような宝を独占し続ける。これは許しがたい事だとは思わないかね」 「…………そう。そういう事」 「今日の所は挨拶だけだ。だが……時間と共に考えが変わる事になると思う」 「若い娘には辛い事になる……早めに協力的になる事をお勧めしておくよ」 「ふ、ふふ。あはは。あっはっはは!!」 「な――何がおかしい!」 「いえ、とっても楽しませてくれてるわ。本当に面白い。世の中には楽しい事ばかりで、何が起こるか分からないのね」 「でもそれはダメよ。私をただの女として扱うのは誠一だけ。他の者に同じように言われても、あまり嬉しくないと分かったのは、自分でも知らない収穫だったわ」 「意味の分からない事を――」 「良い事を教えてあげるわ。如月家と言うのは、ずっと昔から私という化け物を抱え込んだまま、対策を立てて足掻いて、それでも絶望を抱えながら過ごしてきた一族」 「そんな状態で今は商売の手も広げているのよね」 「だからなんだというのだ」 「分家の人間は今回人手が足りなくて呼ばれるまで、私の事も何も知らなかったのでしょう?」 「過去にも、真実を知る事に耐えられない人間が出たのよ。如月家の中にもそういう人物がいて、そして如月の枠組みをはずれて外に出て行った」 「そのような負け犬の話はどうでもいい。分家衆の筆頭であるこの私が――」 「……その負け犬の集まりをね。如月では『分家』と呼んで真実を教えずに放逐しているのよ」 「な――」 「尤も、分家の産まれだろうとも考えを変える人はいる。そういう人達とは連絡を取り合っていたり協力を頼んでいたようだけれど……」 「ずっと知らされなかったあなたは、一体どっちなのかしらね」 「こ、この……侮辱するのか!!」 「侮辱? 事実でしょ?そして……」 入り口のドアが開く。 荒々しく入り込んでくる人間達がいる。 紅はそちらに向けて、とびきりの笑顔を向けた。 「遅いわよ。誠一」 神無月家の屋敷の周りを警官が固めている。 如月家の令嬢を誘拐したとして、逮捕されるだろう。現行犯だから、言い訳も出来ない。 「もう……すぐに迎えに来てくれないと困るじゃないの。今日は買い物はもう出来ないわね」 「悪かったって」 「誠一を責めても仕方ないでしょう。あなた自身の迂闊さを反省しなさい」 「……そうね」 「今は糸も出せなくなっているのよね。自分自身についても改めて知る必要があると実感したわ」 「……そうだな」 「紅ちゃん! 無事でよかったよ~~」 「ちょ、ちょっと」 美優が涙目で抱きついている。 紅はどうしていいのか分からずに、狼狽えながら見渡し――。 「……驚かせてしまったわね」 頭を撫でていた。 「大事にならなくてよかったな」 「……大事にはなってる気もするけど、それ以上にならなくて本当に良かった」 「……後は任せて帰りましょうか。サエ、行きましょう」 「かしこまりました。お嬢様。では失礼いたします」 「ええ。また後日お話を伺いますが、今日はこの辺りで」 「それにしても……」 「新しい如月のお嬢さんでしたか? 遠方から引き取られて養子になったという話でしたが……本当に双子にしか見えませんね」 「そうですわね。……ですが、違う所も多いのですよ」 「まあ、そりゃ違う人間ですからね。当然だ」 「ふふ、そうですわね」 「何かを真似る模造品ではなく、うちに魂の入った一人の人間ですもの。当然の事です」 「なんだか嬉しそうですな?」 「働き甲斐のあるお仕事ですので」 「そりゃ、私もあやかりたいものです」 その夜――紅の無事と、それから大量に注文しやがった酒の消費も兼ねて、親睦会が行われていた。 勧められるまま俺も飲み、一葉ちゃんやおサエさんが料理を振る舞ってくれている。 忍も美優も、心配させたからという事で招待されている。 おじさんも体に障らない範囲で、楽しんでいるようだった。 「誠一も飲んでるの?」 「零か……少しだけ。紅は?」 「初めてのお酒を飲んで目を回しているわ」 「そりゃ静かな訳だ」 「恋人にそんな事を言っていいの? 後で怒られるわよ」 「零が黙っててくれれば大丈夫だろう」 「そうかもしれないわね」 零はグラスを置いて、俺の隣に座る。 皆は思い思いに楽しんでいる。 その中には今回協力して貰った分家の人達もいて……そして派手な美人の令嬢が、忍に絡んでいる。 「……なかなか面白い事になってるな」 「そうね、一体何がどう変わっていくのか分からないわ」 「それは俺についても?」 「あなたが一番大きいと思うわよ」 これまでの事を思い出す。 ……たったひと夏の出来事。この数週間の間にあった目まぐるしい変化と、そして今……。 それは俺が感じている以上の長さで、今胸の奥に実感として積み重なっている。 ようやくここまで来られた。来ることが出来た。 そんな思いが溢れてくる。 「……そうだな。本当に良かった」 皆が笑っている。こうして理解しあえている。 ……中にはそうではない事もあるけれど、きっとそれも乗り越えていける。 「だから、ありがとう。誠一が来てくれてよかった」 「俺もだ。呼んでくれてよかった」 カチンとグラスを鳴らす。 「起こしてくるわ。後はあなたが面倒を見てちょうだい」 「酔い覚ましに外でもいってくるよ」 「ふふ。また誘拐されないようにね」 「……うう……目が回るわぁ……」 「初めてなのに、あんなに飲むからだろ……」 「だって、美味しいと思ったのよ。それが、後になって」 そういや理科の実験でやった蜘蛛の生態を調べるっていうのもアルコールで酔わせて動き止めてたっけ。 ふとそんな事を思い出し、笑いがこみ上げてくる。 「何を笑っているのよぉ」 「痛い痛いっ。つねるな!」 「さっき、何の話をしていたの?」 「……聞いていたのか」 「見えていたの。寝てはいなかったから」 「お前の事を話してた」 「私?」 「酒飲んで潰れてるって」 「……む」 「それから、ありがとうだってさ。俺が来てくれたから今こうしていられるって……照れるな」 紅にも笑って欲しかった。そんな事はないと。 でも、彼女も俺をゆっくりと見て――そして言った。 「私も同じことを言うわ。……ありがとう、誠一」 「俺の方こそ――」 「今だけは言わせてほしい。本当にありがとう。こうしていられるのも、あなたのおかげよ」 「私は『私』になった時に、何の未来も持っていなかった。ただ、あなたが無事だった事に安堵をして、自分自身の先を考えた事はなかった」 「……元はただの人形であり目でしかなかったもの。当然といえば当然だけれど……」 「……じゃあ、今は?」 「私、沢山やりたい事が出来た。料理も覚えたいと思ったしお酒も今度は負けない。そして人の生活、習慣、知らない沢山をもっと知っていきたい」 「それが私のやりたい事。したい事。願う事。全部誠一が与えてくれた」 「……いや……」 それは紅自身が見つけた事だ。俺だけじゃない。出来た事と言えば、ただの手助けだ。 ……でもそれでいいのだろうと思う。 人はそれ以上の事は出来ない。 お互いに支え合いながら、それぞれが見つけた道を歩いていく。 本当に、それだけで――。 ――その時、ビュゥと風が吹いた。 それは強く――そして瞬間的に、月をも覆い隠す程の激しい一陣の風。 「……あ」 「…………え?」 見ると、そこに一柱の蜘蛛がいた。 「ええ……と……」 蜘蛛は何をするでもなく、俺達を見ている。 こんな所にまで出てきて、目だったりしないのだろうか? そう思って辺りを見渡すと、皆は屋敷の中で宴会の最中だ。人の気配は全くない。 あるいは、それを狙って出てきたのかもしれない。 言葉の通じない相手に、どうすればいいのだろう? そう一瞬考えて――。 「ちょ、ちょっと待っててくれ!」 慌ててロビーに駆け込んだ。 「どうしたの?」 「これ、貰ってっていいか!」 空いてない瓶を見つけ、そう訊ねる。 「紅が買った物でしょう? 本人に聞けばいいんじゃない?」 「そうだったな……じゃっ」 「ちょっと、誠一」 戻ると、蜘蛛神は今もそこにいた。 紅と何かを話し込んでいるようにも、紅が一方的に喋っているだけにも見える。 「これ――」 そうして、彼か彼女か分からないが――酒瓶を差し出した。 「昔から神様にお供えするのは日本酒って決まってるから。口に合うか分からないけど、飲み物で……」 「それでは分からないのではなくて?」 「あ」 紅が俺から瓶を取る。蓋を開けると、口をつけてラッパ飲みした。 「う――ぷは、き、きくわね、これ」 「アル中になるぞ、お前」 「でも、相手にとって未知の物を渡すのなら、まずは自分が試さないとでしょう?」 「そっか……」 紅は蓋をしめて、蜘蛛神に渡す。 「糸を使えば問題なく開けられるわ。少し飲んで試すといいんじゃないかしら」 分かっているのか分かっていないのか――。 押しつけらえるように酒瓶を抱えさせられた蜘蛛神は、現れた時と同じように、風に乗って姿を消した。 後には、巨体を支えていた爪の所だけが、かすかにへこんでいるだけだった。 「……いっちまったな」 「どうかしら。今もこの森の中にいるわ。多分ずっと、この先も」 「……ああ」 そうして――月を見上げる。 俺と如月家に纏わる、蜘蛛神を巡る奇妙な話は、ここで幕を下ろす。 後に残るのは、また違う新しい物語。 俺と紅が、そしてみんなが歩んでいく、未来に続く物語。 不安はあるけれど――でも、きっと歩んで行けるだろう。 「なぁに?」 「これからもよろしくな」 「……ふふ、ええ、任せて。誠一」 手を握り、繋いで――頭を肩に寄せてくる。 そのぬくもりを感じながら、神が住まう森を二人でずっと眺めていた……。 「わかった。ついでに色々と買い物してくるよ」 俺がそう言うと、零は明らかにほっとした様子で肩の力を抜いた。 「助かるわ。足りない物も多くなっているでしょうから一度戻ってサエとも相談しましょう」 「もちろん構わないけど……この前もおサエさんが買い物をしてただろ? そんなすぐ無くなるものなのか?」 「アレは儀式の前でしょう? 誠一はずっと舞台と自室にいたから知らないと思うけれど、あの日だけでも20人以上は人が来ていたのよ」 「……結構人が居るなと思ってたけど、そんなに来てたのか」 「あら、見る機会あったの? 部屋から見えたのかしら」 「そうじゃなくて……ほら、舞台から見えただろ?蝋燭の明かりでぼんやりとしてたけど、人が沢山いるのはうっすらと分かったから」 「だろ、なんて言われても私には分からないわよ」 「何言ってんだ。あの時――」 あの時に壇上には俺と生き人形だけがいた。 確かに動いていたし、零がコスプレしてたと思ったけど、今は警官もいるから大っぴらに言えないのかもしれない。 そもそも儀式をすり替わって行うのもバレたら色々とあるだろうし。 …………けれど、もしも、本当に俺がそう思っていたのが零ではなく……。 「誠一?」 「……何でもない。とりあえず街だな。すぐに行ってくる」 「ええ。お願いね」 街まで行く足としてタクシーを呼んでくれた。 おサエさんは屋敷から動けない。警察が送ってくれると言ってくれたのだが、パトカーに乗るのも抵抗がある。 その為の心遣いとして呼んでくれたタクシーに遠慮する事はもちろん無かった。 昨日訪れた分家の人は20人くらい。更にそれぞれが使用人などを連れてきていたため、屋敷の中に一時的50人からの人間が来ていたらしい。 今の如月の屋敷に常駐している人手は、おサエさんと一葉ちゃんだけだ。 二人で何十人からの人をもてなすなんて大変だと漠然と思っていたが、どうも向こうから連れてくるから問題無かったというのが本当の所らしい。 しかし……そういう事が分かってくると『外から入り込んだ』という言葉の意味が変わってくる。 儀式の日に屋敷を訪れた人間が、事件を起こした可能性はどうなのだろう? 今にして思うと、おサエさんは多分これを考えていた。 警察にあらかじめ話を通す……話が通じる人に直接連絡を取る事にして、迅速に屋敷に人を集めている。 正直何するにしてもくっついて来て面倒だと思っていたが、身内の犯行……つまり分家の人間をもシャットアウトする意味があったと考えると有効だ。 如月のおじさんが死ねば、すべての権利は若い一人娘にいく。 そこから今よりも多くの物を得るのは可能だろう。 その中に、如月家が守ってきた儀式も含まれるのだろうか? (……入ってなさそうな気がする) 生き人形の伝説はロマンがある。 しかし、現代の機械工学からするとロボット開発の研究をしてパソコンで人工知能のプログラミングをした方が現実的だ。 糸とゼンマイが入った、木造の人形が『生きている』と言われても、眉唾に感じる人は多いだろう。 これが重要文化財や国宝だったりして、所持しているだけでも価値が出てくる……というなら話は別だ。 でも、如月家は生き人形をしまい込んだまま、そういう登録もしていないようだし……。 「……あ」 気が付けば駅が見えてきていた。 タクシーを停めて貰い、預かってる金から料金を支払う。 領収書だけ貰って、車を降りた。 あんな事件があったにも関わらず、駅前はいつも通りだった。 「あ、そうだ……」 コンビニに入って新聞を手に取る。 ……載ってないな。 まだ報道されてないのかもしれない。 この辺り、おサエさんの最初の対処が功を奏したのだろう。 如月家の当主が殺されたなんて、トップ記事になってもおかしくない。 そもそも、マスコミが駆けつけてこない時点で情報規制されている事に気づくべきだった。 (……なるほど、だから直接か) それなら……美優と話をするにしても、人目は考えた方が良いかもしれない。 (………………どうするかな……) 結局迷ったが、普段通りに接する事にした。 今更こそこそしても、そのせいで怪しく見えるかもしれない。 どちらにしろ会って話すのだから、正面切っていくのが一番だ。 (いた……) 再会した時のように、美優は今日もバイトに勤しんでいるようだった。 明るい笑顔ではきはきと接客している。 酒屋は店の性質上、大きく賑わう所ではないが、やってきた客一人一人に対して明るく対応している。 「いや~~。美優ちゃんが居てくれると大助かりだよ。お酒飲めるようになるのが楽しみだね」 「いやですよ。店長。私はお酒は飲まないって決めてるんです」 「はっはっは。それはいい心構えだね。売る方が酒に呑まれたら大変だ」 「さすがにその頃には大学行ってるから、バイトも続けられないと思いますし……」 「そっか……それは残念だね」 「大丈夫ですってっ! きっと他にもバイト見つかりますよ!」 「そうだね。ただ、うちも長い事やってるけど、美優ちゃんくらい明るく元気に働いてくれる子はなかなかいなくてね……」 「はは。愚痴っぽくなってしまったね。それじゃ話に付き合わせた分だけ、少し休憩してきていいよ」 「え、いいんですか?」 「ああ、構わないとも。それに美優ちゃんにお客さんのようだ」 ――不意に、酒屋さんの視線がこちらに向く。 「ども……」 会釈して返すと、美優は俺には気づいてなかったようで驚いた顔になっていた。 「それじゃ15分くらい休憩してきていいよ」 「ありがとうございます。じゃあ少しだけ……」 店長さんに頭を下げると、美優がこちらにやってきた。 「びっくりしたよー。来るなら来るって教えてくれれば良かったのに」 「……悪い。近くまで来たからつい」 「それで? 今日はどうしたの?」 答える前に美優の顔に疑問が浮かぶ。 「あれ? 零ちゃんは一緒じゃないの?」 「……実はその事で話があるんだけど、さすがに休憩時間にする内容でもないからな……バイト終わったら時間とって欲しい」 「…………うん。わかったよ」 「6時くらいにあがるから、どこかで時間潰してて。終わったら連絡するから」 「頼む」 美優に与えられた休憩時間には程遠いけど、それでひとまずは別れる事にした。 それから忍に連絡を取って、駅近くの広場にやってきた。 観光客向けのホテルや大型のショッピングモール等の、高い建物が立ち並んでいる。 「…………」 忍が来るまでこうして待っている訳だが……。 「…………落ち着かない……」 如月家の方はどうなっているだろう。 警官が俺の所にやってこないという事は、事件現場である如月家から逃げ出したという風には思われてないのだろう。 (零やおサエさんが、そこをちゃんと説明してくれたって事なんだろうけど……) その分、二人に負担が掛かってないだろうか。 そして一葉ちゃんは事件が起きたばかりの屋敷にいて、心細くはないだろうか。 話題に出なかったからとはいえ、俺が気を回しても良かったと今更ながらに思う。 ただ同時に、零もおサエさんも、一葉ちゃんもずっとこの土地に居た人達だ。 俺なんかよりもよほど今の如月家を理解している。 ……この街が出身とはいえ、帰ってきたばかりで如月家の政治とは縁遠い家の生まれの俺は、あの屋敷の中で部外者の立場でもあった。 警察を呼ぶにしても、あらかじめ根回しをする。 屋敷の中で明らかに殺人事件が起きてるのに、報道が今もされていない。 ……この街には如月家の影響にある人間が多すぎる。 今回の件は、今はここでは俺だけが知ってる爆弾だ。 情報の扱いには気を付けたいと思う零の考えは、至極もっともであり、慎重にならざるをえない状況だ。 でも……。 少し寂しい。 提案を受けたのは自分だけど、あの場に居ない方が良いと判断されたのではないかと思ってしまう。 屋敷に滞在する唯一の男だったのに、頼りにならないのかと思うと、情けなくもあり腹立たしくもある。 「セイ」 「……忍……」 その姿を見た時に、どこかほっとした物があった。 思考の深みにはまっていた。 自縄自縛で良くない事を考えて身動きできなくなってしまうなんて、良くない。 ……良くないと分かっている。 でも、おじさんの死が今も現実感がない。 あれだけ血の匂いがあって、変わり果てた姿も見たのに現場から離れてしまった事で悪い夢だったかのようにも思えてしまう。 「どうした? いきなり話があるなんて」 「ああ……実は……ちょっとな」 「……ふむ。話しづらい内容か。なら場所を変えるか」 「頼む。でも周りに人が居ない方がいいな。そんな所あるか?」 「……ずいぶん慎重だな」 「それくらいの話なんだ。後で美優とも合流して話をするからその時にも使える場所の方がいい」 「合流する時間は?」 「夕方の6時にバイト上がりだって言ってた」 「後2時間ちょいくらいか……なら、少し遊ぶか」 「でもそんな状況じゃ――」 焦りを浮かべる俺に向けて、忍は手を伸ばす。 視界が遮られて、思わず身をのけぞった。 「見るからに焦ってる。よほど重要な話なんだろう。でも、だからこそ気分転換でもして少しは落ち着けた方がいいと俺は思う」 「………………だな。悪かった」 「いや、俺はどんな内容か知らないからな。知ってたらお前と同じようになるかもしれない」 そうかな? いや、どうだろう。 同じ状況にはならないだろうから、答えなんて出ない。 でも幼馴染のおかげで、少しは考えをまとめる事が出来そうだった。 それから忍と久々にこの街で遊んだ。 昔通ったゲーセンに、路地裏の奥にある駄菓子屋。 釣り道具を買った店はコンビニになっていたり、僅か数年でも変化が沢山あった。 「あ~~、なんかひっさびさに遊んだ気分だ」 「気分転換にはなったようだな」 「そうだな……本当に悪いな。気を遣ってくれたんだろ?」 「別にそういうことじゃない。時間を潰したかっただけだ」 「それでもな」 「…………」 忍は何かを考えるようにしながら、俺を見ている。 「……お前が後で話すというから、それを待つつもりではいるんだが……」 「如月がここに居ないのも、それに関係してる事か?」 「…………ああ」 零は自宅から動けない。 如月の次期当主としての仕事があるだろうし、そうでなかったとしても、彼女の責任感が許さないだろう。 「関係はある。……実の所、こうやって時間を貰えて助かってると思っているくらいだ」 「……正直な所、俺は」 「誠一」 忍が静かな声で俺を止める。 「如月に関する事なら、場所を変えてからでいい」 「……そう、だな。悪い」 「いや」 「ただ、本当に良くない話のようだな。正直聞くのが怖くなってきた」 その通りだと思う。 美優と合流するまで、何も言えなかった。 「お待たせ~……って、なんか変な雰囲気ね。ケンカでもしたの?」 「いや、そうじゃない。……お前もこれから聞けば分かる」 そう言って、髪の毛をかきあげる。 「これから、大変な事になりそうだな」 「……だな」 一人、良く分かってない美優が首を傾げていた。 結局いつもの喫茶店に落ち着いた。 人の目を避けるためといって、森まで入ってくのも変すぎるし駅前の辺りだと誰に聞かれるかもわからない。 店内はBGMが掛かっていて、人もそこそこいる。 何に盛り上がってるのか、ここまで笑い声が聞こえてくる私服の同年代っぽい子達もいた。 俺らが騒がなければ誰も気にしないだろう。 「で、何があった?」 「その前に念を押しておくけど、騒ぐのは禁止な。驚くのも出来れば控えて欲しい。……でいいか?」 「わかったけど……零ちゃんが居ないのも、それが理由?」 「……二人して同じことを言うんだな。まあ、これまでを考えると当然か」 俺達が地元にいた頃、いつも四人で何かをしていた。 その時々の都合で人が減ったりすることもあったし、クラスの別の友達がきて大人数で遊ぶこともあった。 けれど、いつものと呼べる人間は零も含めた四人だった。 「如月の……零の親父さんが亡くなった。多分、殺された」 「――――――え」 「…………」 あんぐりと口を開ける美優と裏腹に、忍は難しい顔をしている。 予想していたと言わんばかりで、事実、可能性を考えていたうちに入っていたのだろう。 「…………零ちゃんは?」 美優は驚きながらも、それを発する事無く続けてきた。 その事に少し頼もしさを覚える。 「屋敷に残ってる。俺は……二人に教えて欲しいと頼まれて。後は買い物も……ってすっかり忘れてたな」 迎えに来て貰った時に買っていく事にしよう。 「本当にそれだけか?」 「というと?」 「いや……だって、俺達にわざわざ教える理由はないだろ」 「でも零ちゃんのお父さんの事なら知っておきたいって気持ちはあるよね……電話じゃダメだったの?」 「……正直な所、分からない」 電話も盗聴を疑ってるのだろうか。 正直、如月家を取り巻く今の状況は何もかもが不明瞭で零は全てに対して警戒していたようにも思えてくる。 「…………お前は? 如月の屋敷に泊まってたんだよな。犯人として疑われていないのか?」 「俺は基本的には誰かと一緒に行動してた。警察を呼ぶのもおサエさんに任せて、話の通る人に連絡をしてくれたらしいし」 「そうか」 「セイ君が疑われてなくてよかったよ」 「……そう単純な話でもなさそうだけどな」 「どういう事?」 「……今日一日ずっと考えていたんだけど、やっぱり俺がここに来る理由って無いんだよな」 零はああ言っていたし、買い物が必要だったのも事実だろう。 ただ、それでもどちらも緊急な物ではない。買い物は俺のついでに済ませてあるはずだし、如月家の事を友人であっても無関係の二人に話しておく優先度は低いはずだ。 「……セイを遠ざけたかったんじゃないかと、俺も思った」 「だろ?」 「だが、如月がそんな事をするか? と考えると、やはり意味がないようにも思う」 「やっぱり意味がない事を頼んで俺を遠ざけて――」 「いや……何と言ったらいいんだろうな。遠ざけてるとは思うんだが、俺とセイでは意味が違ってる気がする」 「どういう事だ」 忍の言ってる事が分からなくて聞き返す。 「意味がない事を頼んで遠ざけたというのは、セイの主観だな。如月が言った言葉じゃない」 「ああ」 「如月がそんな事をすると思えないんだよな」 「う~~ん、分かるかも」 「…………?」 俺にはさっぱりだ。二人があっさり分かっている事が、俺には全く理解できない。 「この頼みには意味があると……」 そっち方面から改めて考えてみる。 遠ざける……というと事件から、如月家からだ。 犯人がどこかに居るかもしれない現状で、俺達は山の中だ。 警察が来ているとはいえ、情報を持った人間が山の中にいる。そこを一網打尽にされたら、捜査も進まなくなる。 可能性としては皆無じゃない。 そのため、あらかじめ屋敷にいる外部の人間を外に出して話をすんなり信じてくれそうな第三者に事情を話す事で、現在の状況を知る人間が増える……となる。 「状況的にありそうな気もするけど、零がそう思ったならハッキリと言うと思うんだよな」 「いや、そうじゃなくてだな」 「もっと単純に……セイに危険が無いように遠ざけたってのは考えられないか?」 「…………は?」 思わず間の抜けた声を出してしまった。 その可能性は……無いとは言い切れない。 でも警官で守られた如月家より、身一つで街中に来る方が安全なのかどうかわからない。 「……多分だけれど」 とても、言い辛そうに口を開く。 上目遣いにちらちらと俺を伺っている。本当に言っていいかどうかを迷っているようにも見える。 「まだ終わって無くて、セイ君を離したかったから……」 「それこそまさかだろ」 それだと、おじさんが亡くなったばかりの零が、俺も含めて全てを庇うつもりで『頼み』をしてきた事になる。 今はあの屋敷には男手なんて俺しかいないのに。自分はお父さんを亡くしたばかりなのに。 そうしたら、あの屋敷ではおサエさんと一葉ちゃんの負担が更に大変な事に……。 (……あ……) 気づいた。 気づいてしまった。 零もおじさんも、おサエさんも一葉ちゃんも俺が帰って来て嬉しいと言っていた。 帰ってきたばかりの俺はそれを社交辞令と受け取っていたが、俺が思ってる以上に、強く想ってくれていたのなら……。 唯一の男手だからといって俺に頼らず、遠ざけようとするのもあり得るかもしれない。 「…………」 「セイ君……」 「これから屋敷に帰る」 椅子から立ち上がる。同時に手首を掴まれた。 「まて、セイ」 忍に止められる。 それを振り払おうと思ったが、強い眼差しで俺を見据えている。 「何を考えたのか、まずは話せ。行動はそれからでも遅くはない」 「…………」 忍と視線が合う。その瞳を見据えても、全く視線を外そうとしない。 「ちょ、ちょっと。二人とも」 美優が間に入ろうとしてオロオロしているのが視界の隅に映っているが、それでも忍から視線を外さなかった。 「ひとまず座れ。注目の的になってる。人に聞かれたくないから、こんな所にいるんだろ」 「…………ああ……」 ため息と共に力を抜いた。椅子に座り直す。……それを確認して、忍の手が離れた。 「だ、ダメだよっ! 二人でわたしを取り合うなんて!!」 「…………は?」 いきなり何言ってんだ!? 「………………」 見れば、忍も渋面になってこめかみを親指でぐりぐりと押している。 周囲を伺うと、興味津々といった様子の人たちが少し。 後は面倒な事に巻き込まれたくないとばかりに、嫌な顔をしてこちらを見ないようにしてる人たちが何人か。 「よかったぁ……誤魔化せたみたいだよ」 「……多分、逆効果だと思うぞ」 「俺もそう思う」 ただ、おかげで焦る気持ちは少しは落ち着いたのだった。 「話を整理しよう」 先ほどより少し声のトーンを落として、忍が続ける。 美優のせいで痴話ゲンカに思われたっぽいが、少し時間も経ち俺達に対する注目も収まってきている。 俺もすぐさま席を立つほどの焦りは消えたが……だが、時間と共に胸の奥に沸き立つような焦燥感は増している。 「……ああ」 それでも、今何が出来るか、何をしなくてはいけないかを考えられる程度には頭は冷えていた。 「まず如月の……」 辺りを見渡して、俺達の話を聞いてそうな人がいないかどうか確かめている。 見た感じ大丈夫そうだ。 店内を流れるBGMに紛れる程度の音量だし、先ほどの騒ぎも収まってる。 「向こうでおじさんが亡くなって、色々と混乱している。ここまでは実際に起こった確定事項なんだな」 「ああ、零が対処している。俺も事情は聴かれた」 それでも単語は濁す。改めての話だったが、こうして話をする事で少しずつ頭の中も整理されていくような気がしてくる。 「零ちゃんと……後は家の人が二人?」 「後は警察の人が結構いたな。家の周りを固めて入り口にも立って見張りをしていた」 「となると安全そうではあるな」 「……ああ」 それが俺を安心させようとした言葉なのか、それとも忍の本心なのか分からない。 が、客観的に見ると安全そうだ。……ここでこうして、ふらふらと街中を歩いてる俺よりは。 ……いや、俺は如月家の人間じゃない。狙われる理由はない。 「それからセイが、こちらに来るように頼まれた……と。こっちは事が起きてから翌日、つまり今日の話だな?」 「そうだ」 「そうか……」 「今日だからって、そこに何かあるの?」 「いや、まだ何も分からない。というより、現地にいたセイでもあやふやなのに、聞いてるだけの俺が分かる事なんて少ない」 「けれど……そうだな、なんというか急すぎる印象がある」 「急?」 「俺から言い出しておいてなんだが、説明しづらいな……」 「ちょっとぉ。それじゃわたしも全然分からないよ」 「そうだよな……」 そこで忍は、軽く息を吸った。そしてゆっくりと吐く。 呼吸を整えてから一息に言った。 「俺は昔、母親を事件で亡くしている」 「忍……それは」 「いや、今はそれ自体の話をしたいんじゃない」 「…………」 今は、忍の話に耳を傾ける。 忍とは幼馴染だ。分家である零よりは付き合いは遅いが、それでも小学校の頃から知っている間柄だ。 もちろん、互いの家には何度も遊びにいっているし、忍のお母さんにも何度もお世話になっている。 お互いの親の手料理の味まで知っている。 先日は、深く聞く事は出来なかった。だから言いたい事は色々とあるのだが……。 「…………続けていいか?」 今は忍の言葉を聞く方が先だった。 「ああ、続けてくれ」 「親を亡くした時に俺が思ったのは『現実感がない』というものだった」 「これまで居た人間が居なくなる。その事に違和感しかない。上手く実感が出来ないんだ」 「如月と全く同じとは言えないだろうけど、それでも急に人が居なくなるという部分では同じと言ってもいいだろう」 「……つまり?」 「最初に言ったが、はっきりとした事が言える訳じゃない。ただ、それにしては何というか……」 「次を見据えている感じがする」 「……それは良くない事なの?」 「そういう訳じゃない。良い悪いで言ったら良い方だろう。後に引きずり続けても、自分も周囲も辛いだけだ」 なら、忍は『自分も周囲も辛い』状況に陥ったのだろう。 そして、そんな時にも俺に連絡をする事は無かった。 気遣いを感じると同時に、寂しくも思う。 「……電話してくれても良かったのに」 話を聞いても何も出来ないだろう。けれど、昔からお世話になったおばさんが。 「……かもな。でも俺はセイには知らせたくない気持ちもあったんだ」 「というと?」 どうしてだろう? 昔からお世話になった人が亡くなったなら、知らせるのが当然だとも思うのだが……。 「セイにとってここは離れてしまった故郷だろ?思い返す時には幼い頃から知り合った人間の顔が浮かぶはずだ」 「それは……まぁ」 「その中には俺とその家族の姿もあるだろう。そして、思い出の中では元気にやってるはずだ」 「……後ろ向きすぎるというのは分かっているんだ。だが、それを改めて自分の手で壊すのかと思ってしまうとどうしてもな……」 「忍君……」 美優もなんとも言い難い表情を浮かべている。きっと初めて聞く話だったのだろう。 そして多分、忍はこんな事を話すつもりは無かったはずだ。 ただ、例に出すには最適すぎて――そして今は時間もなく一つの決断がどう転ぶか分からない。 だからこそ話したのだという事が俺にも分かった。 「……後ろ向きな気持ち……か。けれど、想像は出来る」 「ああ、そしてこれがさっき言った事に繋がる」 「零ちゃんが前を向いているという話だよね」 「如月は頭も良かったし、責任感もあった。だから、何か非常事態があった時に、すぐさま適切な行動がとれてもおかしくないかもしれない」 「けれど同時に、セイとどれだけ仲が良かったかも知ってる。あいつがいざという時に最も頼る人間って、セイだと思っていたんだけどな」 「それは……うん、……そう、だね……」 同意する美優の表情も、複雑そうだ。 零の今の境遇を考えれば考えるほど、複雑な気持ちしか湧いてこない。 「結局の所、如月の気持ちが分かるのは本人だけだ。俺達が知らない事情も、きっとあるんだろうな」 「……そう……かもしれないな」 結局の所、俺は頼まれてやってきただけで生き人形の儀式も何もわかっていないのだ。 「ひとまず、二人に事情を伝えるという頼みは果たした。後は帰ってから零と相談してみる」 「ああ、それがいい」 不意に着信が鳴る。俺の携帯だ。 取り出して見てみると、そこには零の名前があった。 「…………もしもし?」 言いようのない不安を感じながら電話に出てみる。 『誠一? まだ街の方にいる?』 「ああ。忍や美優と一緒にいる。そろそろ帰ろうと思ってた」 『そう……良かったわ』 「何かあったのか?」 『直接何かあったという訳じゃないのだけど、夜になって部外者を入れないために、警察の方で人の出入りを禁止する事になったのよ』 「そっか。それじゃすぐ帰らないと」 『いえ、もう時間も遅いからホテルを手配したわ。暫くそっちに泊まってちょうだい』 「しばらくって……この時期はホテルは取れないんじゃ?」 『如月家の系列なら何とかなるわ。フロントで名前を言えば通るようになっているから』 『メモの用意はいい?』 「ちょ、ちょっと待ってくれ」 慌てて辺りを見渡す。 忍が察したのか紙ナプキンを。美優がペンを差し出してきた。 「いいぞ」 『駅前にある伊沢グランドホテルよ。そこで卯月誠一の名前でとってあるわ。分かった?』 「あ、ああ……」 『それじゃ切るわね。着替えもそちらに送るから』 「待て――」 零からの通話が切れる。 掛け直したが、既に別の所に掛けているのか通話中になって繋がらなかった。 「……なんだってんだ」 「どうしたの?」 「如月はなんて言ってた?」 「今日は帰ってくるなだって。駅前のホテルを取ったから、今日はそちらに泊まれと……」 「駅前?」 「あの一番デカい所か。良く部屋が空いてたな」 「うわっ、あそこ!?すごいね。さっすが如月家……」 「…………」 切ったばかりの携帯を見る。 零があんな連絡をしてくるなんて、如月家の方で何かがあったんじゃないだろうか。 しかし、だとしてもここで俺が帰っても何も出来ない可能性の方が高い。 が、同時に今の俺は如月家と関係ない『屋敷から離れた人間』として扱われているはずだ。 もしも外部の人間が何か企んでいたとして、外にいる俺が秘密裏に戻るのは、まさしく裏をかく事にならないだろうか。 「…………」 どちらかが正解。あるいはどちらも間違いなのかもしれない。 「……セイ、あまり思いつめるなよ」 忍の声が耳に痛かった。 「ひとまずは内緒の話だな。それからまた明日会って話をしよう」 「うん……そうだね。わたしも明日はアルバイト無いから大丈夫だよ」 「……ああ」 手を振って、二人が帰っていく。 ホテルの入り口を見ながら考える。 (チェックインだけでもしておこう) 「すみません」 ホテルのフロントの女性に話しかける。 高級ホテルだけあってか、身なりのしっかりした人ばかりだ。私服の若造がこんな所にいるのは場違い感が漂っている。 フロントの人は気にした様子もなく対応してくれたが……。 「卯月誠一といいます。如月零の名前で予約が入っていると思うんですが……」 さすがに如月家の名前は効果があったようで、急いで部屋に通してくれた。 (ここからどうするか……) 落ち着かない部屋で窓から外を見ながら考える。俺が取る道は――。 如月家に戻る ここに留まる (……焦りは禁物だ) 零がわざわざ連絡してくるくらいだ。向こうで何か動きがあって、俺が居たら邪魔になるのかもしれない。 じっと待っているのは気も焦るけど、ここは下手に動くより続報を待つのが得策だろう。 (でも荷物も送るって言ってたよな……) それはつまり……如月家に戻らず、このまま帰れという事なのだろうか。 「……あの、すみません」 部屋にある内線を使ってフロントに連絡をしてみる。 「こちらの部屋ですが、チェックアウトは何時まで……え?8月いっぱい?」 という事は俺がここに残る前提でとった宿か。 「ありがとうございました。……え、飲み物?」 そして切ろうとした所で、ルームサービスはいかがかと勧められてしまった。 部屋の中には冷蔵庫もある。昔旅行で止まったホテルでは、その中に用意された物を飲んで、会計時に清算だったが、ここでは違うらしい。 「ええと、部屋にあるメニュー?」 内線の近くに確かにメニューがある。 「…………」 そして値段を見て絶句してしまった。一番安い飲み物でも900円からって、いったいどんなブルジョワが泊まる所なんだ。 「……じゃあ、コーラを……」 そしてその中でも出来るだけ安いのを頼んで、電話を切った。 (……あまり使わないようにしよう) 俺みたいな庶民が使っていい物じゃない。 零の家という意味での如月には愛着も親しみもあるが、世間一般で言う所の『如月家』との隔絶を、強く実感してしまう日だった。 豪華なホテルの寝心地はとても良かったが、熟睡できたとは到底言えなかった。 次の日、8月8日。お盆まで一週間に迫った伊沢の街はにぎわっていて、とてもあんな大事件が起きた街だとは思えない。 ……でも、それも今も間だけだ。 如月家の当主の死は街に激震をもたらし、大ニュースになる。 それが分かってるからこそ、すぐには発表していないのかも知れない。 どちらにしろ今の俺には如月家の内情は分からない。 言われた通りにホテルで過ごすしかなく。また、如月家に戻る訳にもいかないため、必然的に暇を持て余してしまうのだった。 (かといって、避暑地でのんびりって気分にもならないしな) そんな訳で、完全に何も予定が無くなってしまっている。 そして、ここで俺が取れる選択肢はそう多くはないのだった。 「おまたせー。もう来てたんだ。早いね」 夏の暑さを感じさせない笑顔で美優がやってきた。 手を振りながら小走りに来る姿は、元気で溢れている。 「悪いな、こんな朝から」 「いいよいいよ。わたしも今日は暇してたし! それに、こんな時に一人でいたら、気が滅入っちゃうよ」 「……だな」 零やみんなが心配なのは同じだ。美優も一人では心細かったのかもしれない。 「忍君は?」 「今日は用事あるような事を言ってたな」 「え、じゃあわたしとセイ君の二人だけなの?」 「そうだけど……まずかったか?」 「う――ううん! そんな事ないよ。全然ない!ただ二人って久しぶりだなって思って!」 「……そうだっけ?」 「そうだよ……もう全然覚えてないんだから……」 「あー。悪い」 「いいよ。怒ってる訳じゃないから……。それで、どこにいこうか?」 「そうだな……」 どこに行こうと考えて、実は行きたい所がない事に思い至った。 正確には、帰って来てから如月家に掛かりきりで、それ以外の事が出来なかった。 本来は今もそんな状況ではないと思うのだが……。 もう警察にも連絡済み。零の方でも動いている。 そして犯人は見つからない。 ……こうなると、俺はただの現場近くにいただけの部外者でしかない。 「実はこっち帰って来てから、零と一度買い物で回っただけでゆっくり見て回った訳じゃないんだ」 「そうなの? 忍君とは?」 「昨日はずっとゲーセンにいた。おかげであれこれ考えなくて助かりはしたけど」 「ふむふむ。でもそれだけじゃ、帰ってきたって感じにはならないよね……」 「よしわかった! 今日は久々の伊沢観光といこうか」 「悪いな」 「ちっちっちっ」 俺の言葉に、指を一本立てて顔の前で振る。 「違うでしょ? そういう時は……」 「……だな。ありがとう」 「えへへ。どういたしまして!」 「じゃーん! 高原のバニラソフト~!」 買ってきたソフトクリームを差し出してくる。 「ここに来たなら一度は食べないとね」 「……昔はよく食ったなぁ」 受け取って舐めると昔と同じように、濃い味のソフトクリームが暑さを忘れさせてくれる。 口元から喉の奥に広がっていく甘さと冷たさは懐かしいと同時に新鮮に感じた。 「あれ? 味変わったか?」 「うんっ。何年か前にリニューアルしたって看板出てたよ」 「へー……。全然知らなかったな」 「ふふ。もっともっと変わった所が沢山あるんだよ。だから今日はそういう所を見て回って、今のここにも愛着を持って欲しいな」 「愛着は持ってるぞ。でも……うん、もっと好きになりそうだ」 俺がそういうと、美優は相好を崩して笑った。 「ならよかった」 「でもそれなら、今度はもっとこまめに帰って来てね」 「そうだな……そうしてみるよ」 と言いながらも、自宅からここまでの交通費を計算してみる。 ……週に何度かバイトして貯めれば何とかなるか。決して安くはないが、無理出来ない程ではない……。 しかし俺の焦りなどお見通しとばかりに、美優が続ける。 「なんてね。交通費も大変だろうから無理にとは言わないよ。……それでも連絡も何もないと、忘れられたみたいで寂しくなっちゃうから」 「……美優」 「あ、あはは、わたし何いってるんだろ。さーて、それじゃ次! 次にいこっ!」 美優が小走りに次に向かう。俺もその後を追った。 それから美優と共にこの街を歩き回った。 昔住んでた家の方にも行き、今ではじいちゃんの工房も何もかもが無くなっていて、駐車場になっていた。 ……まあ、近隣は如月家の分家の屋敷ばかりだから、この辺りに手ごろな駐車場があると便利だったのだろう。 そう言って納得すると、困った顔で美優は笑っていた。 「……足がいてぇ……」 「あはは、ちょっと歩きすぎちゃったね」 昼になり二人でラーメン屋の暖簾をくぐった後に、いつもの喫茶店へとやってきた。 「でも、ありがとうな。おかげでだいぶ気分転換になった」 「い、いいよ。お礼なんて。わたしも楽しかったし!」 ブンブンと手を振っている。 そんな慌てた仕草も美優っぽくて、思わずなごんでしまう。 「でもよかった。昨日よりも顔色良くなってるよ」 「そんな酷い顔してた?」 「うん、結構ね。わたしの所に来た時からすごかった。この世の終わりって感じ」 「……う」 「話を聞いて、そうなるのも仕方ないなって思った。零ちゃんとすごく仲良かったし」 「それに零ちゃんのお父さんにも、昔からお世話になっていた訳だしね……」 「ああ」 美優との付き合いは中学からだが、俺達の事は良く知っている。もちろん、如月家の事もだ。 「本当になんでこんな事になったんだと思うよ」 「……そうだよね」 「考える事が多すぎて頭が整理しきれてない。そもそもなんでこんな事に……」 「……セイ君……」 「悪い。美優だってこんな事を言われても困るよな」 「ううん。わたしは話を聞く事しか出来ないから」 「……何かおかしな事があったり、そういうのは無かった?」 「おかしいと言えばおかしい事だらけだ。儀式から始まって、あの夜の侵入者の事も……」 「侵入者?」 「ああ。玄関からおじさんの部屋まで濡れた足跡があった。誰の物かは分からない。真っ直ぐ部屋を目指してた」 「そ、それすごい証拠なんじゃないの!?」 立ち上がろうとする美優を押しとどめる。 「これは零も警察も知っている。それで部外者の犯行の可能性が出てきてる」 「……俺がこっちに戻ってこられてるのも、そのせいなんだろうな」 「どういうこと?」 「部外者犯人説が有力なら、狙いは如月家の人だ。俺が向こうに残ってたら護衛対象が増えるだけで、警察にとっても手間なんだろうと思う」 「あ、そっか」 「でも零ちゃんがこっちに来るんじゃダメだったのかな?警察に居た方が安心じゃない?」 「零の身を守るだけなら、そうなのかもしれないな……」 でもそれは、おじさんがこれまで守ってきた如月家も何もかも全てを捨て去ってしまうという事だ。 俺は分家で親しいとはいえ『如月家』を中核とした政治に深くかかわっている訳じゃない。 しかし、それでも間近で見てきている。 だから外側の人間よりは、一族という物を良く知っている。 今回、如月家で起きた事件というのは、単なる殺人事件じゃない。 殺人事件自体が特殊ではあるが、如月家の当主を狙ったという事は、その一族にまとめてケンカを売ったという事でもある。 もちろん、ヤクザやマフィアじゃないんだから、一族が報復に行くなんて話じゃない。 でも、一族としての矜持は間違いなく持っている。 例え零本人が重要視していなくても、今の如月家の当主のポジション欲しさの分家に、介入される隙を作る訳にはいかない。 例えば零が逃げ出したら『後継ぎとしてふさわしくないから零を本家から外す』なんて動きが起きるかもしれない。 もしかしたら、それを狙って誰かがおじさんを殺したのかもしれない。 『かもしれない』というのは魔法の言葉だ。 けれど、その起きるかもしれない可能性を想定して、確かめていかなくては、零の寄る辺がなくなってしまう。 「零にとって、それは全部投げ出す選択になっちまう。ギリギリまで選べないだろうな」 特に今は。 如月家の生き人形のお披露目と、それに伴う分家の招集があった。 このタイミングで起きた事件は本家も分家もピリピリしているだろう。 そういう意味でも、分家の俺を渦中の如月家に置いておけないのかもしれない。 そんな事を美優に話す。 あっけにとられた顔をしている。 「なんだかすごい世界だね……」 「……俺もそう思う」 その世界の一員であったとは今でも思っていないが、片足くらいは突っ込んでいた。 「俺じゃなくても零には何か考えはあるんだろうし、今は連絡待ちだな」 「……セイ君からは電話しないの?」 「俺から?」 それは考えてなかった。 零の指示でホテル暮らしになったんだから、事件が終われば向こうから連絡があると思ってた。 ……様子伺いくらいはしても構わないか。 「……そうだよな。向こうで進展があったかもしれないしかけてみるか」 「うん。零ちゃんだってセイ君の声聞きたいと思うよ」 どう答えても照れくさくなるので、返事はせずに零に電話をかける。 何度かコールした後に、零が出た。 『どうしたの? 何かトラブルでも起きたかしら』 「いや、こっちは問題ない。ホテルにも無事に泊まれた……高級すぎて居心地悪いけど」 『悪いわね。他の所が空いてなかったのよ』 「それも泊まってみると納得だった」 あの待遇の部屋なら、一泊いくらするか見当もつかない。 いくら夏休みでにぎわってるとはいえ、殆どが観光客だ。あそこに泊まって避暑をするような富豪は、滅多にいないだろう。 むしろ遠方からやってくる金持ち……如月家の分家が利用する所なのかもしれない。 それだと儀式も終わって、今の時期に空いてるというのが納得もいく。 『それで、どうかしたの?』 「そっちの様子を聞いておこうと思っただけ。俺は何時までこっちにいればいい?」 『そうね……』 しばし無言になる。 電話口の先から吐息は聞こえてくるから、携帯を耳に当てたままで考え込んでるのだろうと推測できた。 『もう少し掛かりそうだわ。誠一には悪い事をしたわね』 「いや、謝らなくてもいい。そういう事なら、久々に遊んで回る事にするよ」 『ええ。そうしてちょうだい。……ところで今、美優は一緒にいるの?』 「ん? ああ。一緒にいるけど……どうかしたか?」 『……いえ、ならいいわ。美優が付いていてくれるなら私も安心だもの』 「なんだよ、俺一人だと不安だってのか」 『その通りよ。思い立ったからと言って、いきなり徒歩で帰ってくるくらいはやりかねないわ』 「さ、さすがにそこまでは……」 やろうかどうしようか迷ったけど。 『美優に代わって貰える?』 「わかった」 美優に携帯を差し出す。 「え? わたし?」 「代わって貰えるかって言ってるけど」 「うん、それじゃ……」 俺から携帯を受け取り、零と話す。 その様子をジュースを飲みながら眺めていた。 「もしもし、零ちゃん?」 「あ、うん。こっちは大丈夫。まだ全然……騒ぎにもなっていないし。でも……えっと、大丈夫?」 「……そう……うん。よかったって言ったら変だけど、零ちゃんが元気そうで少しほっとした」 「セイ君? うん、ご飯は食べてるみたい。昨日は元気がなかったけど、今は少し良くなってるかな」 「…………」 ……目の前で自分の事を話されると、何とも居心地が悪い。 「わかった。うん、それじゃまたね」 それで電話を切って、携帯をテーブルに置いた。 「零の奴なんだって?」 「セイ君の事を心配してたよ。それから、心配かけてしまってごめんなさいって」 「……零が謝る事じゃないんだけどな」 「わたしもそう思ったんだけど……」 同時に二人でため息をつく。 零は『如月家が』という意味でいったんだろう。 そう……零はいつも自分の家の事を気にしている。 気にしてないのは、俺や忍と一緒に遊んでいた時と……。 「……ん? どうかした?」 中学に入って美優と友達になってからだ。 それまで零には女子の友達がいなかった。 子供は強く異物を排除する存在だ。 例え学校で仲良くしていても、親が気にしてしまう。 この街に住んでる人間で、如月家と無関係に生きてる人は殆どいないだろう。 何かしらの関わりはあって、その中には『自分の親が如月家の系列に勤めている』という物が大多数だ。 そんな状態で、一人娘の怒りを買ったら……? と考えるのはリアルな恐怖なのだろうと思う。 とはいえ、そんなのは親の事情だ。子供には関係なく、また『お化け屋敷』という噂のたった如月家の娘を馬鹿にする命知らずが居なかった訳でもない。 ただ、零は実家に一切関係なく、泣き寝入りとは無縁の性格をしていた。 体力、腕力は今も昔も一切ないが、気の強さと頭の良さ、それから行動力は当時から持ち合わせていた。 そんな零が行う『仕返し』により、手を出そうとする命知らずもいなくなり……それは中学に入っても同じはずだった。 『新しく友達が出来た』と、工房で待ち合わせてた俺達の所に一人の女の子を連れてくるまでは。 「どうしたの? なんか遠い目をしちゃってるよ?」 「美優と知り合った頃を思い出してた」 「え? わ、わたし?」 「零から友達が出来たって事は聞いたんだけど、どういう風に知り合ったのか知らなかったなと思って」 「あれ? そうだっけ?でも全然大したことないからなぁ。それで気にしなかったのかもしれないね」 「……そうだな」 美優からすると大したこと無くても、あの当時の零にとっては大きな出来事だったはずだ。 「ちなみに教えて貰ってもいいか?」 「え、構わないよ?本当に大したことじゃないんだけど……」 「それでもいいから」 「……改めて言うと恥ずかしいんだけど」 「……恥ずかしがるような出来事だったのか?」 零と美優の間でそんなイベントがあったなんて、全く想像が出来ない。 水泳の授業で下着でも無くしたとかだろうか。それなら男には話しづらいだろうけど。 「実は同じクラスになった時に『きさらぎ』って読めなかったの」 「………………はい?」 それはあまりにも予想外の言葉だった。 「だ、だって! 特殊な読み方だし、子供の頃なんてそんなの教わる前だし!」 「それで同じクラスになって名前見ても、何て読むんだろーってずっと思ってて、出席で先生が名前読み上げてやっとそう読むんだーって知って……」 「……お昼休みの時に零ちゃんに言ったの。『名前きさらぎって読むんだねー。初めて知ったよ』って」 「零、何か言ってたか?」 「すごいびっくりしてたよ」 「……だろうな」 まさしく、如月家とかそういうの一切関係なく話しかけてきた相手だった訳だ。 「それからクラスの子にあれこれ言われて……零ちゃんには近づかない方がいいとか、如月家の事とか聞いて……」 「そんな事言ったらダメでしょ! って話してたら、またまた驚かれちゃって……」 ……さらには如月家の事を知っても態度を変えない相手か。 まさしく得難い友人だったのだと零こそ驚いただろう。 「それからお話しするようになって……あ、セイ君の事とかはその頃にはもう知ってたよ」 「そうなのか」 「だってお昼も零ちゃんと一緒に食べてたでしょ。付き合ってるの? って聞いたこともあるんだよ」 「……改めてそれを聞かれるっていう事自体に驚いてる」 「え~~っ!? なんでなんで?だって中学生の頃の男女でしょ? みんなそういうのに興味深々だったりしないの?」 「……ほとんどが地元からそのままだからな。それに名前で如月家とその分家って分かるから、触らぬ神に祟りなしって所なんだろう」 「ああ~~!! 今になってやっと分かった……」 「ちなみにその時、零は何て言ってた?」 「そういうのとは違うって言ってたかな。セイ君は今のままがいいとかなんとか……」 「……なるほど」 俺まで一緒に避けられる事もあった。それを零は嫌がっていたから、色々と納得だ。 「美優と知り合えたのは、零にとって本当に良かった事なんだろうな」 「ええっ!? い、いきなりどうしたの?」 「あいつ、そういう事を絶対に言わないだろうけど、間違いないだろうなと思った」 「……それなら、セイ君も言っちゃったらダメじゃない」 「でも、心ではそう思ってても言葉にしないと伝わらない事もあるからな……最近それを痛いほど思い知ってる」 俺がここから居なくなって、徐々に連絡も減っていく中で零や忍、美優達がどう思っていたのか。 帰ってきた時におじさんやおサエさん、一葉ちゃんがかけてくれた言葉。 それらを改めて思うと、言葉には出しておいた方が良い物は確実に存在していると思う。 「……うん……そうだね」 美優も同じことを思ったのかもしれない。 苦笑するように、ぎこちなく笑った。 それからは午前中よりも肩の力を抜く事が出来た。 美優と二人きりという状況にもすっかり慣れて、気づいたら夕方になっていた。 「それじゃそろそろ帰るね」 「ああ」 ホテルの前に戻って来て、今日は終わり。 また明日の約束をして軽く手を振る。 「それにしても、すごいホテルだよね……一度でいいから中に入ってみたいって思ってたんだけど、今はセイ君がここで寝泊りしてるんだよね」 「それなら部屋に来るか? 客を入れちゃダメとも言われていないから、入れるだろうし」 「ええっ!? い、いやっ! それはダメだよ。ホテルの部屋なんて……」 「そういう意味じゃねぇよ!」 「わっ。わかってるけど! でも、もう……ああ~~~。わたし何言ってるんだろ~~……」 両手で顔を抑えてうずくまってしまう。 恥ずかしがりたいのはこっちだ! 「じゃあ、これ以上おかしなことになる前に帰るよ……。うう……忘れてね……?」 「……忘れるも何も、そういうの気にせず単に遊びに来ると思えばそれでいいだけだろ。うちには何度も来てたんだし」 「うん……でも今日は止めておくよ」 「……わかった」 あんな反応された後だと、俺も完全に意識しないなんて出来る訳もない。 部屋を見せる程度の事でしかないが、後日でいいだろう。 「あ、もうこんな時間。それじゃまたね」 手首に付けた腕時計を見て、小走りに帰っていく。 予定より時間をオーバーしてしまったようで、慌てているようだった。 懐かしい話をしたからだろうか。ホテルの部屋から空を見上げながら、久々に美優と俺が初めて出会った時の事を思い出していた。 俺と美優が初めて会ったのは、零がじいちゃんの工房に美優を連れてきた時だ。 その時の美優は如月家やその分家に用がある訳でもなく、零の友達としてでもなく、工房のお客さんとして来ていた。 『この時計、直せないかな』 そうして見せてきたのが、今も美優が腕に巻いている時計だ。 元々は美優のお母さんのお母さん……おばあさんの物で、それが母親に受け継がれ、入学のタイミングでプレゼントに貰ったらしい。 そして同時にそれは、彼女のお爺さんの形見でもある。 祖父が妻に贈った時計が娘に引き継がれ、やがて孫へと伝わる。 そこには一体どれだけの思い出が詰まっているのだろう。 だが時代を経た腕時計は調子も悪くなっていて、それを零に話した所、じいちゃんの工房に連れてきた。 でもその時はじいちゃんはあいにく留守にしていて……。 (懐かしいな……) あの頃はじいちゃんの工房に入り浸っていたけど、それで何かをしようとは思っていなかった。 でも、あの時に美優がやって来てから少し変わった。 ホテルで夕食を食べてから、外に出た。 豪華な部屋は一人でいても何もすることが無くて息が詰まる。 ……如月家にやって来た時も、そんな事を思ったっけ。 あの時は零が気を遣ってくれて、俺を外に連れ出してくれた。 森を見て回り、昔からの遊び場だった小沢にいって……。 高々数日の事なのに、妙に懐かしく感じてしまう。 そして、歩きながら美優のバイト先の方にやって来てしまった。 この先には如月家がある。 今はまだ誰が潜んでるかも分からない森に踏み込むつもりは無いし、零と話も出来た事で昨日よりも落ち着いている。 暫く事態を見守る事にしよう。 サイレンを響かせながら消防車が目の前を走り抜けていく。 「火事か……?」 道の先に走り抜けて行って見えなくなり、やがて音も聞こえなくなった。 「…………」 この先にあるのは如月家の屋敷だ。 でもその途中にも、分岐する道は沢山ある。森の方が赤くなっていないから、山火事という訳でもないのだろうけど……。 「………………」 知らずに掴んだ腕に力が篭る。 ここに居ても俺にはどうしようもない。あまり外をうろつく前に、ホテルに戻る事にした。 「……零!?」 今の人影は……。 「いや、紅か……? どっちだ?」 似た人影なんていくらでもある。 それに零にしろ紅にしろ、こんな所に居る訳がない。 「…………気にしすぎかな」 ……今日はもう帰る事にしよう。 気分転換どころか、外に居ても落ち着かないだけだ。 ……伊沢の街は生まれ育った所で、長く住んでいた。 だからここのあちこちも知っていて、慣れ親しんだ場所だった。 それなのに、まるで初めてやってくる他所の場所にきたようで妙に落ち着かない。 (……ああ、そっか) 俺にとってこの伊沢の街の思い出は、家族と共に過ごした自分の家や、じいちゃんの工房や、如月家の人との思い出のある、あの屋敷。 それから美優や忍といった、昔からの友人の記憶とセットになっている。 俺一人だけここに居ても、帰って来た気分にならないのは当然かもしれない。 俺自身が『故郷』に対して思ってる物と、齟齬がありすぎる。 むしろ、街自体は知っているからこそ、こうして喪失感のようなものがあふれてきてしまう。 ホテルに戻って、そこから街を見下ろしてみる。 15階の高さにあるホテルの部屋は、街を一望できる場所になっていた。 (……明日も零に電話してみるか) この部屋だと如月家の方角は見えない。 それが少しだけ心残りだった。 「…………ん……」 あれから眠れなくて、やっと睡魔が訪れたのは明け方に近くなってからだった。 そんなタイミングだったので、昼まで寝てようと思っていたのだが……枕元で鳴らされる煩い音にたたき起こされる。 「…………んんん……」 携帯が鳴っているのは分かっているのに、頭がはっきりと動いてくれない。 「……く……」 何とか手を伸ばし、携帯を取る。 『た、大変だよ! セイ君!! テレビ!! テレビ見て!』 「………………はい?」 聞こえてきたのは、そんな美優の慌てた声だった。 「……セイ、来たか」 何とか着替えて喫茶店に顔を出すと、そこには忍がいた。 「美優は?」 「すぐ来ると思う」 「……そっか」 椅子に腰かけて、深々とため息をつく。 「……本当なのか、これ」 「ここまで大々的になっていて嘘もないだろう」 「……だよな……」 他の客からもざわめきが聞こえる。 「ニュースにもなっているな」 忍がスマホの画面をこちらに向ける。 そこには『深夜の不審火。放火の疑い』という見出しがあり見慣れた伊沢の駅前の写真がある。 その更に下には、如月家を取り巻く森があった。 「…………」 「如月には?」 「電話は掛けたけど通じない。電源を切っているのかもしくは……」 火災に巻き込まれて壊れたのか。 でもそうなると、零自身は? ……リアルな想像をするのも恐ろしくなる。 「もう少しすれば、もっと詳しいニュースも出るだろう」 「……ああ」 俺も忍も話す言葉を思いつかず、無言になってしまう。 美優が来るまで、そのまま焦る気持ちを抱えたまま、過ぎていく時間を見つめ続けるのだった。 「はぁ、はぁ……っ。お、おまたせ……」 暫くして、美優が駆け込んできた。 店内に入ると早足で俺達の席までやってくる。 座った後も息は切らせたままで、何度も水をお代わりしてやっと落ち着かせていた。 「大丈夫か?」 「わ、わたしの、ことよりも! 零ちゃんと、セイ君の方が」 「……悪かった。しばらく休んでていいから」 表面上は落ち着いたように見えても、息は全く整ってはいないようだった。 「ほら」 忍が水のお代わりを注いで、おしぼりを渡す。 「ありがとう~~……」 それを額にあてて、しばらく冷やしていた。 「それでセイ君。これからどうするの?」 「…………零の携帯どころか、屋敷に連絡しても繋がらない。直接行ってみるしかないと思ってる」 「警察や救急に連絡して聞いてみるのは?」 「もうやったけど、教えて貰えなかった」 「そうか……だろうな」 「だろうなって、そんなの酷いよ。なんで! どうして?」 「落ち着け。如月はその名前自体がとても有名だろう。電話だけじゃセイと如月の関係も証明できない」 「そうなのかもしれないけど」 「加えて、如月の安否を知りたい奴は多いはずだ。親族だけじゃなく、会社の人間からゴシップ記事を書く記者まで様々に」 「そんな所にセイが連絡しても、話をしてくれなくて当然だ」 「でも……零ちゃんに連絡もつかないなんて……」 「…………」 昨夜、ふと見かけた零のような人物を思い出していた。 俺に用事があったならホテルに来るはずだ。 だがそうではなく、お忍びでこっちに来るような用事があったのかもしれない。 それはもしかしたら、今回の火災に関係しているのだろうか。 「……少しだけ待ってみよう。それで連絡が付かなかったら、直接行ってみる」 「行くなら今すぐの方が!」 「いや、セイの言う通りの方がいい」 「なんで?」 「……もしかしたら、病院から連絡あるかもしれないしな」 その場合、搬送される病院は市内だ。多分、昔如月のおじさんが入院してたのと同じ所。 屋敷の方に行ったら、もし連絡あったとしても帰ってくるまで時間がかかってしまう。 そんな行き違いだけは避けたかった。 「…………」 ……目を瞑る。 そして屋敷の方に行くという事は、病院から連絡がないのを確信してから行くという事だ。 その時には零は行方不明か、あるいは……。 おサエさん、一葉ちゃん……。 残ってる屋敷の人たちもどうなっただろう。二人からの連絡もない。 俺の番号は知っているはずだ。実際、屋敷に来た当初におサエさんに迎えに来て貰った時は携帯でやり取りしてたのだから。 ……その二人からの連絡も無かったら……。 先の事を考えるのが、今はとても怖かった。 連絡があるかもしれないと思い、三人でホテルの俺の部屋に場所を移して、時間を潰す。 一度入ってみたいと言っていた美優だったが、大きな部屋を見ても、今は特に何の感想も沸かないようだった。 ……そして、それは同時に処刑執行の宣告を待つかのような時間だった。 俺がここに居る事は如月家の人なら知っている。 ホテルのフロントで改めて確認したが、月末まで滞在する金は予め支払われている。 その支払いは如月家の本家……つまり、如月家の関係者がここにいる何よりの証のようなものだ。 直接警察に行くよりも、ここで待っていた方が向こうから連絡が来る可能性が高い事に、ようやく思い至った。 それが俺達がここに居る理由で、来ない連絡を待ちわびる焦燥の原因だった。 「…………行ってみよう」 しかし、日は傾き続けている。 俺の言葉に、忍も美優も頷くのだった。 駅前でタクシーを捕まえて、如月家の屋敷までお願いした。 身分証を見せて分家の人間であることを教えると、一応承諾してくれたのは、それだけ如月とそれに連なる分家の名前が有名だったことの証だろう。 「すみません、この先は……君は」 森のトンネルの所で警察が検問をしていた。 助手席にいる俺を見て驚きを上げるのは、先日の若い警官だった。 「ホテルに部屋をとってたんですが、今回の事を聞きまして。屋敷までいっていいですか?」 「……そうだな。君なら身元も証明されているし、何よりも関係者を入れない訳にはいかないから……」 「行っていいよ。……でも、気を強く持つように」 「…………はい」 その言葉に、忍も美優も身を竦める。 嫌な予感が車内を支配していた。 ……太陽が山の向こうに落ちた後でも、如月家の変貌は一目瞭然だった。 「…………そんな」 「これは……」 「ひどい」 三者三様に言葉もなく立ち尽くしている。 見慣れた屋敷の姿はなく、焼け落ちた残骸だけがそこにあった。 「君達は?」 立ち尽くす俺達の前に、年かさの警察の人がやってきた。 「……卯月誠一といいます。この前まで屋敷に滞在してました」 「この前まで?」 「おじさんが亡くなった日までです。その後は市内のホテルに……」 「ああ……話は聞いている。それに、そうか君だったか」 「俺の事を知ってるんですか?」 意外そうに言うと、警察の人は苦笑した。 「君こそ覚えてないかな? 事情聴取をしたのは私なんだが」 「あ、あれ? そうでしたっけ。あの時はショックですっかり抜け落ちてて……」 「それにお嬢さん……零さんからも、君の事は聞いている。ホテルに部屋を移しているという事。如月家から離れてる家の人間だから、出来れば護衛もつけられないかという事」 「護衛……?」 「ああ。だが警察はそういうボディガードは出来ない。事件の渦中にあるような人間ならまだしも、民間人の護衛はまた別の話になってしまうから。そう言って断ったよ」 「……そうだったんですか」 零はあれこれと俺の事を考えてくれていた。 それはよく分かっているつもりだったが、改めて彼女に感謝するしかない。 「そういえば零はどうなったんですか?その事も含めて話をしないと」 「…………」 そして、言葉を切る。 どこか気の毒そうな目で、俺と――後ろの忍と美優を見ている。 「後ろの二人は友人かい?」 「え? ええ。そうです。二人とも俺と零の昔からの友達です」 「……そう……か」 「如月零と屋敷に居た使用人。水無月さえ、水無月一葉の三名の死亡が確認されている」 「死因は焼死と思われる。既に遺体は搬送されて司法解剖に回されているが……」 「………………え」 「葬儀に関しても追って連絡があると思う。そちらは、親族内で話し合って貰う事になると思うが……」 「は――犯人は!? 犯人はどうなったんですか!!??」 「そ、そうですよ!! こんな事をした犯人は!?」 「…………出火箇所は屋敷の中からだ。放火の可能性も無い訳じゃないが、今の所は、屋敷の中での火の不始末が原因だったとみられている」 「こちらも今後の調査次第になるだろう」 「…………そんな……」 足元が、揺らいだ気がした。 「っと、大丈夫か? 捕まって」 刑事さんの逞しい腕に支えられる。 後ろから忍が駆け寄って、俺の肩に手を添えた。 「そ、そん、な。零……ちゃん……」 「あ、うああ……あ……」 「……ひぐ……ぐす。う、ううぅぅぅ……っ!!」 「うぁぁぁぁ……ぁぁあああぁんんっっ!!!」 嗚咽が、号泣へ変わる。 その声を止める事は誰も出来ず……。 俺も忍も、涙を流す事しか出来なかった。 ……あれから、どうやってここまで戻ってきたのか分からなかった。 如月家の屋敷が焼失したと聞いても、現場を見てきても、零がとってくれた駅前のホテルの部屋は、抑えてくれた時のまま使う事が出来る。 もう零もおサエさんも居ないのに……。 既にお金は支払われているのだから、当然なのかもしれないが。 それがおかしくて、悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。 待ち合わせの約束をした時間に、美優はもう来ていた。 「……セイ君……」 「…………よう。もう大丈夫か?」 「うん」 昨日、泣き崩れた美優を見かねて、警察が送ってくれていた。 先に帰った事もあるが、彼女は放心しすぎていて、その後の話は聞いていない。 それもあって、話がしたいと今朝連絡があった。 ……きっと一人でいるのが耐えられなかったのだろう。それは俺も同じで、だからこそ渡りに船でもあった。 美優が気づかわしげに俺を伺う。 ……今は自分がどんな顔をしているのか、全く分からない。 それこそ情けない顔をしているのだろうとしか、想像つかない。 「……昨日は大変だったな」 「う、ううん。そんな事は……でも……本当に零ちゃんは……」 「…………ああ。改めて話を聞いてきたよ。もうあそこに行っても……何もない……」 出火の原因を調べると言っていた。 鎮火した後も消防の人たちが忙しそうにしていて、警察のパトカーが沢山来ていた。 分家で見た事ある人達が何人も来ていて、一様に暗い顔をしていた。 そして漏れ聞こえる、零達の様子……。 俺達が聞いた内容以上に、酷い事になっているようだった。 「……う……っ」 こみ上げてくるものを、堪える。 実際に何かがせりあがってきた訳じゃない。ただ、自分の記憶が受け入れがたくて、胃が疼いた。 「そんな……」 ぽたりと、涙がこぼれる。 見る間にそれは大きくなって、美優の両の瞳から溢れてくる。 「…………場所を変えよう。落ち着くまで一緒にいるから」 「……うん……」 差し出した手にしがみつくようにして、顔を埋める。 暫く嗚咽は止まなかった。 どこかで立ち止まっていると、嫌な事を思い出しそうだった。 どこかで話し込んでいると、昔の事に囚われそうだった。 ……しかし、足を動かして向かう先は、いつもの如月家に向かう道だった。 「…………」 「引き返すか」 「……うん……あ、やっぱり。行ってもいいかな。昨日は泣いちゃうだけだったから、自分の目で見ないと」 「別にいいけど、歩くとなると時間掛かるぞ」 「いいよ。時間は沢山あるし少しくらいなら歩く。多分それくらいしないと、今日は眠れないから」 「……わかった」 徒歩だと長く感じる道のりを歩いて、森のトンネルへやってきた。 昨日ここを通った時は、日が落ちてからだった。トンネルの中を風が通り抜けて、夏とは思えない涼しさだったのをよく覚えている。 今日はそれに比べると随分暑い。こうして同じ所を歩いていると、その温度差がよく分かる。 それでも直前まで歩いていた何も遮る所のない通りと比べると、夏の熱気も遮ってくれてまだ涼しく感じる。 「はぁ……はぁ……」 美優は肩で息をしている。明らかに体力を失っているのが分かる。 「少し休むか」 「う、ううん。もう少しだし歩く。そしたら休もう」 「……ああ」 だが休むと言っても、もう屋敷は……。 ……いや、あそこがあるか。 「うわぁ。久しぶりにきた!」 せせらぎの中にいると、温度が一気に下がったように感じられる。 涼しさに熱気を忘れてしまう。 疲労も抜けていくようで、美優の表情からも元気が戻った。 「そこの水、飲めるぞ」 「ほんと?」 「こく、こく……ぷはーー。おいしいー!」 「……夏場は本当にいいよな、ここ」 「そうだよね。キャンプも出来そう」 「実は昔やろうとしたことがあったんだよ。零と二人で」 「そうなの? どうだった?」 「テント張ってキャンプしたけど、零は地面が固くて眠れないようだったし、俺は虫刺されが酷くてつらかった」 「あはは。なんだか色っぽくない話」 「……本当にな」 お互いまだ子供で、男女の事とか意識すらしなかった。 今でもあの頃、零が好きだったのか分からない。 本人が居なくなってもなお、分からない。 「これ、直してくれた時の事、覚えてる?」 手首にはめた腕時計をこちらに向ける。 「よく覚えてるよ。苦労したっけ」 美優が初めてやって来た時、時計を直して欲しいと言ってきた。 その時はじいちゃんが不在で、それでも諦めきれない美優は俺に代わりに見て欲しいと言っていた。 その当時、俺は時計については詳しくなかった。 今でこそ触れるだけで構造を把握できるほどに慣れたが、その当時はさっぱりだった。 ……なんで引き受けたのか、今でも分からない。 ただ、ものすごく大切にしていて、直るかもしれないという希望が先延ばしになってしまった事で、必死に頼み込む美優が可哀想に感じたのかもしれない。 でもじいちゃんから遊び半分で習っていたとはいえ、それは俺の手に負える物では無かった。 「結局時計預かって、直し方を一から教わったんだよな……」 「いやー……あの時はご迷惑をおかけしました」 なかなか難易度の高い仕事だった。 そして同時に、専門の職人とは本当に大変なんだと俺の中に刻み込まれた。 進路について話す時に、俺が自分の持つ『勘』についても一歩引いて見てしまうのは、多分この時の経験が元になってる。 専門の人はそれを習熟するために沢山の苦労をする必要がありそれは俺自身も変わらない。 まず、構造を把握するために自分自身が構造を深く知らなくてはならなくなる。 時計はじいちゃんに教わりながら直し、そして修理費も『孫への教材』という形で取らなかった事に、美優は深く感謝しているようだった。 それから何度も工房に足を運び……。 やがて、美優もそこにいるのが当たり前になった。 「零ちゃんのおかげでみんなと知り合えたから、あの頃からずっと感謝しているんだ」 「……そうだな」 俺も零には感謝している。 もちろん、おじさんにもおサエさんにも一葉ちゃんにも。 でも、俺の中で如月家といったら、やっぱり零の印象が強い。 幼い頃から一緒にすごしていた半身のような女の子だった。何をするにも一緒で、一時期離れてしまってはいたが、それでも気心が知れた間柄だった。 如月家という枠組みを超えて接してくれていた。 (多分、零にとっても俺は接しやすい相手だったんだろうな) 如月家のお嬢様という肩書はどこにいっても付いて回る。それを意識しなくて済む存在は、零にとって貴重だったのだろう。 「そういや、如月家の事を知らなかったんだっけ」 「わたし? うん……そうだよ。後から知ってびっくりしちゃったくらい」 「ってあれ? 話した事なかったっけ。わたし、中学からこっちに引っ越してきたの」 「前は東京に住んでたんだ」 「……それは聞いた覚えがあるな。そうか、だから如月家の事も知らなかったのか」 この街に住んでいたら誰しも耳にするし、避けては通れない一族であっても、都会に居たらその限りではない。 当然の事ではあるし、俺自身が今は別の所に住んでいて実感してる事ではあるが、改めて聞くと不思議な感じだ。 「零ちゃんは知っていたし、あの頃は零ちゃんの繋がりでお邪魔してた感じだったからね。なかなか言い出せなくて」 「美優と二人で話したのも、今回があったからだったしな」 「うん……」 美優はどこか複雑な顔で微笑んだ。 「前にもセイ君とは二人で話してた時があったんだよ。覚えてない?」 「…………いつだっけ? 記憶にないな」 「そっかぁ……そうだよね」 「喫茶店に二人で行った事はなかったけど、時計の修理は二人でやってたよな。もしかしてそれの事か?」 そういうと美優の表情がぱっと明るくなる。 「そう!! それそれ! よかったぁ。覚えててくれたんだ」 「当たり前だろ……当時すごく苦労したからなぁ」 「……それだけ?」 「充実もしてたよ。直った時は本当に嬉しかった」 「えへへ、わたしも」 微笑んで――そして悲し気に俯いた。 「全部、零ちゃんのおかげだよ。それなのに……」 顔を伏せる。嗚咽が漏れ始める。 少し迷ってから美優の肩に手を乗せ……。 「う、うう……」 泣き止むまで、背中を撫で続けた。 帰りは手を繋いで……というより、美優の手を引いて歩いていた。 感情が昂っているせいか、ふとした時に泣きだす。 それは本人にも上手く制御出来ていないようで、堪えきれずに俺が手を引いて代わりに歩く。 ……泣ける時に泣いておいたほうが良いと思う。 そうしないと、タイミングを失ってしまう。 ……おじさんの時がそれだった。 あの時は事件が起きたという緊張と焦燥で、きちんと故人に向き合う事が出来なかった。 そして、そのまま屋敷を離れて、今のようになっている。 ……零とも対面出来ていない。 むしろ、会わない方が良いんじゃないかとも思っている。 でもそういう訳にはいかないだろう。やがて来るその時のために、心構えだけはしておきたい。 「うちの両親も、こっちに来るって言ってた。ホテルは数人泊まれる部屋を取ってるから、そのまま泊まってもいいみたいだ」 その部屋しか空いてなかったんだろうけど、なんというか準備が良く感じてしまう。 如月家が自分の系列のホテルで部屋をとって、そこに泊まるのも如月の分家だから、ホテル側としては当然の対応なのかもしれないけど。 「……うう、ぐす……じゃあ、その後はセイ君は……?」 「……向こうに帰る事になるだろうな。ホテルは夏休み一杯抑えてるらしいけど、ずっと居続ける訳にもいかないし」 「ううう~~。そんなの嫌だよぉ……っ」 ……また泣き出してしまった。 さっきから美優は自分でも感情の制御が出来てないみたいで一度泣き出してしまった後は、ずっとこうだ。 でも、彼女自身もそれは承知で、冷静な部分と感情的な部分が同時に残っている。 「そんなに泣いてると、帰る頃にはへとへとになってそうだな」 「……うう~~」 手を強く握られた。 酒屋でバイトしてて重い瓶も持ったりしてるせいか、握力が強い。 零が運動からきしだったせいかどうか知らないが、美優はそれなりに動ける方だ。 ……そういう部分でも気が合ったのかもしれない。 「……でも、こうなってしまうと、あの時に見たのはやっぱり見間違いだったんだろうな」 「見まち、がい……? ぐす……」 「ああ。零によく似た人影を見たんだ。時間的にも本人じゃないだろうけど、よく似てると思って気になってた」 「……わたしもみた……」 「そうなのか?」 「うん……昨日、喫茶店行く途中で。あっと思ったけど、すぐに居なくなってて……だから勘違いだと思ったんだけど、気になって……」 「周りを見ても居ないから急いだんだけど、そのせいで遅れちゃった」 「……そうだったのか」 「虫の知らせってやつだったのかもしれないね……」 「……そうなのかもな」 ただ、同時にもう一つの可能性を考えている。 警察は零と一葉ちゃん、おサエさんの事については口にした。 けれど、あそこにはもう一人残っている。 ――紅。 彼女がどこで何をしているのか分からない。 更に、屋敷の中から出火したという可能性……。 火をつけた人間が居るという事なんだろうか。 ならそれは、紅という事に……? 「セイ君?」 「……何でもない。帰ろう。それより、そろそろ手を離すか? あんまり繋がれていても嫌だろ」 「……ううん。このままでいい」 「このままがいい。わたし、セイ君の手好きだから」 「って、あはは! 何言ってるんだろうね。わたし。うわ、うわわ。恥ずかしいなぁ……」 ぼろぼろと涙をこぼしながら、泣き笑いの顔で否定する。 まだまだ感情の昂りは収まりそうにないらしい。 「……じゃあ、このまま帰ろう。ゆっくりでいいから、少しずつ落ち着いていけばいい」 「……うん……ありがとう……」 両手で俺の手にしがみつく。 夏の暑さは続いていて、そこにしがみつくと汗で濡れてしまっていたが、美優は気にした様子もなく、俺もやがてその体温に慣れてしまっていた。 ……駅前に戻って来て、美優は俺の手を離した。 「はぁぁ~~~。ほんとうに今日は良く歩いたね……。ぐっすり眠れそうだよ……」 「……俺もだ」 「じゃあ、おやすみなさい」 おずおずと手を伸ばしてきて、ちょんと指先で触れる。 「……ほら」 その手を握り返して、握手をした。 「ありがとう」 「どういたしまして」 「あの……あの、ね? わたし、この手が好き。腕時計を一生懸命直してくれたのも、今日支えてくれたのも、全部セイ君の手だった」 「わたしはセイ君に沢山支えて貰ってるんだよ。だから、本当にありがとう」 「…………うん」 零の側にいて、支えることが出来なかった。 そこに美優の言葉がすとんと収まるのを感じる。 気遣いがとても嬉しかった。 「だから……また、ね。ばいばい」 「いつでも電話しろよ。……俺も一人より心強いから」 「……怖い夢見た、なんていって電話するかもしれないよ」 「それでもいいよ。……俺も見るかもしれないしな」 「うん……そう、だね。分かった。じゃあね」 繋いだ手が離れる。 手を小さく振ると、雑踏の中へと帰って行った。 「…………」 俺も帰るか。 そして振り返った先に――。 「…………え」 零の姿があった。 「ちょ――待て……!」 雑踏の中に消えて行こうとする姿を追って、声を張り上げる。 俺の声に驚いた通行人が、何人も振り返る。 けれど、零――あるいは紅らしき彼女は、振り返る事なく歩いていき、やがて見えなくなっていた。 「………………どういうことなんだ」 何か思惑があるのか、それともどちらなのか。 俺には正直な所判断が付かない。 けれど……。 「…………くそ」 まだ何かありそうな予感に、夏の暑さとも歩き疲れた疲労とも関係のない悪寒が、背筋を走るのを感じていた。 ……その夜、美優からすぐに会えないかという連絡があった。 夜中にホテル前での待ち合わせを受けて、美優を待つ。 「セイ君……」 青白い顔をした美優がそこにいた。 「……大丈夫か?」 思わず出た言葉がそれだった。感情が昂っていた先ほどとは、違った意味で不安定に見える。 「零ちゃんが……零ちゃんが……」 「零がどうした?」 「怖い夢見て起きちゃって……窓から外を見たら、そこに零ちゃんがいて……」 「…………」 さっき俺が見たのと同じ人物だろうか。 とすると、それは零ではなく紅の方か。 でも美優はさっきから感情的にも不安定になっている。一度詳しく話を聞いた方が良さそうだ。 「わたし、セイ君にあんな事言っちゃって、零ちゃん怒ってるんじゃないかな……! わたし、こんなつもりじゃ!」 「わたし、わたし、これからどうしたら……!」 「大丈夫だ。落ち着け」 「でも、でもっ!」 「本当に……大丈夫だから。ほら」 「あ――」 取り乱す美優を抱きしめて、背中を優しく撫でる。 ……ひどい震えが伝わってくる。 きっとここに来るまでも怖くて仕方なかったのだろう。 美優が好きという俺の手で、落ち着くまで優しく撫でる。 「……ごめん……ごめんね。こんな、怖くて……」 「零によく似た人影だけど、俺も見た」 「え……っ!?」 「でも別人みたいだった。呼んでも振り返りもしなかったし本当にそこに居たのかどうか……」 「でも、でも確かに」 「大丈夫だ。嘘だなんて思ってない。少なくとも美優が一人で背負わなくてもいい」 「う……うん」 「落ち着くまで、俺が側にいるから」 「……ありがとう」 美優の手が俺の背中に回される。 そこでやっと、こわばっていた体から力が抜けた。 美優は今も怖がっている。 なら――。 「……いや、さすがにこんな時間には帰せない」 「え? あ、あの。それって……」 「ホテルの部屋、泊まって行った方がいい。帰して何かあったら大変だから」 「それは、その……ええと……」 美優は迷っている。 確かに言葉だけをとったら、ものすごくアレな事になっている。 けれど、何が起きてるか分からない状況で、彼女を帰すのもとても怖い。 せめて日が昇ってからの方がいい。 ……とはいえ、下心が全くないといったらウソにもなる。 俺自身が美優に側に居て欲しがっている。 「俺も、美優に側に居て欲しい」 「それって……その……」 「もちろん美優が嫌がるのに何かするつもりはない。こんな時に帰す方が怖いしな」 それに一人だとまた悪い夢を見て飛び起きるだけだ。美優が零の幻影に悩んだように、俺も悪夢に魘されていた。 今はお互いに側に居て欲しかった。 「…………うん……」 俺の背に手を回したまま、美優が頷く。 「零ちゃんがいたから、ずっと言わなかった……。わたし、セイ君が好きだった」 「……え」 「だから、受け止めてくれるなら……」 「……わかった」 「あ……」 唇を重ね合わせる。 ぎこちない初めての口づけは、夏の熱気と微かに汗の匂いがした。 「……ちゅ、ん。ああ……ん。ちゅぱ……」 部屋に入ると同時に、どちらからともなく口づける。 これは愛情だけではなく、お互いが持つ消失感や心の傷をなめ合っている行為なのかもしれない。 口づけを交わしながら、胸をもみしだく。 一度お互いを求めあったら、止まらない。今は全てを忘れるように、互いの熱だけを感じていた。 愛撫をしながら、ベッドの上に横たえた。 服は脱いでおり今は痛いほどにそそり立ったペニスが彼女の下半身の辺りで自己主張をしている。 「はぁ……はぁ……セイ君……わたし、初めて、だから……」 「ああ……うん、俺もだ」 「そう、なの? なんだか慣れてるって思ったけど」 「全然だよ。今も心臓がバクバクしてる」 「ふふ、わたしと同じだ」 「……じゃあ、触るぞ」 「……うん……」 不安を与えないように、優しく胸を、下半身を触っていく。 ……いや、緊張してるのは俺も同じだ。 だから恐る恐る、そして不快感を与えないように少しずつ美優の体を愛撫していく。 それがぎこちない動きとなって、彼女に伝わっていく。 「……ん……ふぅ……ぁ……」 「もっと、強くしても……大丈夫そう……ん……」 とぎれとぎれに訴えてくる。 ペニスを下着の上からこすりつける。 「ぁ……そこ、ん……」 黒い布に包まれた柔らかい丘の中に、ひときわ固い突起があった。 美優は口元を噛んで、表情を押し殺している。 それが少しだけ物足りなくて、口づけた。 「……あ、ん。くちゅ、ぴちゃ……ん、ちゅ……んん」 「脱がしてもいい?」 「……う……ん。やさしく、してね……」 「ああ」 紐を引っ張り、下着を解く。 透明な糸を引くそれを抜き取った。 ――くちゅ。 粘液の糸が下着とこすれて、湿った音を立てる。 「……綺麗だ」 ネットの画像や雑誌で見たくらいで、同年代の女の子のあそこを見るのは初めてだ。 ひくひくと動いていて、美優の息遣いや呼吸にあわせている。 とても淫靡な光景で、そして今からこの中に挿入するのだと思うと、股間がより硬さを増してくる。 「ん……ふぅ……」 美優の表情からはまだ硬さが抜けていない。 緊張にガチガチになっている。 (確か、いきなり入れると痛いんだったよな……) 乏しい知識を総動員しながら、美優の体に少しずつ触れていく。 胸を両手で優しく触り、それから露出している肌の部分に手をはわせていく。 弾力を持って押し返してくるのは、運動でも鍛えられているハリのある肌だ。 豊満な胸をもみしだくほどに、柔らかく形を変えていく。 押し付けている下半身同士がお互いが動くたびにこすれ合い、そのたびに湿った水音を立ててきた。 「ん……はぁ、んん、ぁ……」 「……あ、んん。おっぱい、ばっかり触ってる……」 「すごく柔らかくて気持ちいい……これすごいな。何時間でも飽きないかも」 「やだ、やめてよ……もう……」 美優のあそこは濡れそぼって、ペニスでこすると透明な愛液がからみついてくる。 この中に挿入したい……。 そろそろいいんじゃないだろうか。 こするだけで暴発しそうな程、硬くなっている。 「入れてもいいか?」 「う――うん。ゆっくりね? お願いね」 「あ、ああ……」 美優の体から少し離れて、ペニスの先端をあそこにあてがう。 ――ちゅく。 少し体を沈めると、愛液が溢れて湿った音を立てる。 「うわ、うわわ、入ってくる……なんか、広げられてる」 「痛いか?」 「う、ううん。今はまだ全然平気。……だけど、なんか、変な感じはしてる……」 「……そっか」 女の子の体の事はよく分からない。 けれど、先端を入れるだけでも、暖かくて、柔らかい肉に包まれて、気持ちよさがある。 自分で処理して手で握るのとは全然違う。 強い快感ではないが、全部を包み込む暖かさがある。 これを奥まで入れたらどうなるんだろう。 そして、どうなってしまうんだろう。 そんな期待と緊張と――快楽に対する欲望があった。 ――つぷ。 少しずつ体重をかけて奥に沈めていく。 「ん、んん……ぁ、ああ……ん」 ペニスが埋没していくにつれて、美優から声が漏れていく。 「入れるぞ」 「ん、うん……」 僅かな引っ掛かりを感じた所で、美優に言う。 その体に体重をかけるように――。 「あっ、あああぁぁっっ!!」 彼女の初めてを、奪った。 奥へと突き入れる。美優の表情は苦痛に歪み、涙が浮いている。 「は、入った……」 膣内がきゅうきゅうと締め付けてくる。 それは痛みによって異物を排除しようとしているからかもしれない。 「まだ痛いだろうから、しばらくこうしていよう」 「……ん……ありがと……」 繋がったまま、お互いに呼吸を整える。 動かさなくても挿入した膣内は気持ちがいい。 痛みを逃がそうと、何度も繰り返し呼吸をしている。それと共にお腹が上下して、締まったりを繰り返している。 そのたびに、俺の物にも快感を伝えてくる。 ……なんだか申し訳ないと思う。 目の前の美優は痛がってるのに、俺だけ気持ちよさを覚えている。 「す、少し、慣れてきた……かも」 「……分かった、じゃあ少しずつな」 「……ん。あ、ぴちゃ……ちゅ」 安心させるようにキスをした。 力が抜けると少しずつ、膣内動きに変化を感じる。 きゅうきゅうと収縮を繰り返す。それがペニスに快感を与えていく。 ――くちゅ。 中にいれたペニスを引き出す。血と粘液が混じって、淫猥な水音が立った。 「……わ……」 自らの股間から響いた音に、美優が頬を染めた。 ――ちゅく、ずちゅ、ちゅぷ。 時間をかけて、ゆっくりと注入を始めた。 「あ、ああ……ん、セイ君のが、出たり入ったり……。変な感じが、わたしの、中……んんっ」 それはやせ我慢かもしれない。 挿入すると共に、腰が引けてしまうのは今も痛みがあるからだろう。 両手で腰を掴んで、少しずつ出し入れしていく。 速度を抑えて、ゆっくりと……でも確実に。 俺自身が慣れてないから、ぎこちない動きだ。 それでも痛みが少ないように、ゆっくりと彼女を壊さないように、気持ちいい場所を探るように、繰り返した。 「ああ……っ。ん……あ……なんか、変……になってきた。ごりごりって、出たり入ったり……して、ああんっっ!」 ビクンと体が跳ねる。 声に甘い物が混じりはじめる。 「ん、んん……っ。セイ君の! わたしの中、ではっきりわかって……あ! ああ!! んっ、あ……っ!」 「美優……俺、……俺も、気持ちいい……!」 ――ちゅ、ずちゅ。ちゅく。ぷちゅっ。 「あっ、ああっ! んっ、んん……セイ、君……セイ君!わた、し……んんっ!!」 膣内を何度も挿入し、快楽をぶつけていく。 腰と腰がぶつかりあって、ホテルの部屋に淫靡な音が響いていく。 それが更に、お互いの快感を高めていく。 抜き差しを繰り返すたびに膣壁がからみついて、射精を促してくる。 「あぁあっ!! んーっ。おく、に! ずん、って入るたびにわたしの奥に、あたって……ああっ!」 「あぁぁっっ! ああぁ……んんっ!!」 「くぅ……っ!!」 そろそろ、まずい……っ。 もういつ爆発してもおかしくない。 「そろそろ、俺……っ」 射精が近い事を訴える。 「う、ん――いい、よ。いつでも……わたし、大丈夫だから!」 「沢山……もっと感じさせて……あっ! んんっ!セイ君の、証をわたしに……ちょうだい……!」 「美優……ん、ああ……美優……!!」 その声を聞きながら、美優の中にたたきつけていく。 快感がこみ上げてくる。この中に出したいと、脳髄が射精を促してくる。 美優が俺にしがみつく。体全部を預けるようにして、全てで受け止めるように。 「美優、うっ! ……く、ぅぅっっ!」 「セイ君……わたし、もう……! あ、ああ……っ!! んんっ、ああっ!!」 「ああぁぁぁっっっ!!!!」 ――どくっ! どくっ! どくんっ!! 繋がったまま子宮めがけて、精液がほとばしる。 締めつけられた膣内が白濁した液体を奥へ奥へと運んでいく。 収縮するひだがペニスに絡みつくようだ。 ――びゅ、びゅく……びゅく……。 ペニスの奥から、残りの精液が迸る。 「あ……ああ……っ」 きゅうきゅうと締め付ける膣が、硬さを失いつつあるペニスにからみついて、残りの精液を搾り取っていく。 「……く……っ」 「……はぁ、はぁ……っ」 気が付けば息を止めていた。 繋がった所から伝わる熱が、脳髄を焼くかのようだった。 「あ……んん……はぁ……はぁ……」 美優もそれは同じだったようだ。 息も絶え絶えになって、俺を見上げている。 「……あ、あはは……なんだか、照れる……ね」 「……だな」 「あ、ん……ちゅ、くちゅ……」 二人で繋がったままキスを交わしていく。 硬さを失ったペニスを、膣内から引き抜いた。 ――ちゅぷ。 「……うわ」 ペニスに引っ張られるように、血と愛液と入り混じった大量の精液がこぼれ落ちてくる。 美優の綺麗なあそこが、ひくひくと動いている。 「……あ……ぁぁ……」 こわばっていた緊張がほどけたのか、美優が力を抜いた。 二人の体液の交じったモノが、こぽりと奥から溢れていた。 翌日――ホテルを出た俺達は、駅前でデートをする事にした。 「……な、なんだか、恥ずかしい……ね」 「そう……だな。うん……」 昨日あんな事をしてしまったのに、改めて太陽の下で向き合うと、照れくさくって仕方がない。 「それじゃ……今日はよろしくお願いします」 「こちらこそ」 差し出された手を繋ぐ。美優は嬉しそうに笑っていた。 恋人になってからの初めてのデートだ。 出来ればエスコートしてあげたい……なんて思っていたが……。 「ほらほら、あのゲームしよ」 ゲーセンでも何でも、お互いに趣味もよく分かっている。 率先して俺の手を引く美優のアグレッシブさは、なんとも美優らしくて、気負っていたのが馬鹿みたいだ。 「いいぞ、負けたら罰ゲームな」 「え、ええ~~。そんなぁ。……ちなみに何をさせるつもりなの?」 「じゃあ……キスするなんてのは?」 「……えっち」 「そういう美優はどうなんだよ」 「わたしなら……ずっと手を繋いでるというのは?」 「ずっと?」 「うん。今日はずっと。ご飯食べる時も……どう?」 「……それお前にとっても罰ゲームになってないか?」 「いいじゃない。そうしてくれるとホッとするもん」 「まあ、いいけど」 昨日の一件でかなり落ち着いたように見える美優だけど、今もまだ心細いのかもしれない。 それくらいの望みなら、叶えてあげたいと思う。 「じゃあ、これ!」 美優が選んだのは昔、ここに居た頃にも散々やりこんだレースゲーだった。 「まだこれあったんだなぁ」 「あれからもずっと特訓してたんだよ」 ……美優がやりこんでるから、固定客が居ると思われて入れ替えされなかったのかもしれない。 「前は負けてたけど、今度は勝つからね!」 「おう!」 結局やりこんだ美優には勝てず、泣きの一回で格ゲーで再戦。 それで勝ちは拾ったが、今度は同点になってしまったので最後に別のレースゲームで対戦した。 「えへへ~~」 そして満面の笑顔を浮かべている。 その手はしっかりと、俺の右手に繋がれていた。 「……動きづらかったりしないか?」 「全然そんな事ないよ。大丈夫」 右手と右手で繋いでるため、お互いの左手しか使えない。 さすがに買い物の時は手を離してたが、それ以外の時はずっとこうだ。 「右手と左手なら分かるんだけど」 「利き手で感じるのが大事なんだよ」 分からないかなぁと首を傾げている。 ……さっぱり分からない。 「でもまぁ、悪くはないな」 女の子のぬくもりを感じて、不便に思う事もあるけどこうしてお互いに何かをしながら、こなしていく。 ……この夏休みに出来た心の傷はとても大きくて。 そしてそれは、この先ずっと残り続ける物だろうけれど。 同じ傷を持つ美優と共に癒しながら生きていくのであればこの胸の奥底に空いた喪失感にも耐えられる。 そう思えている。 散々遊び回って、日が暮れる頃に美優のバイト先に立ち寄る事にした。 「ごめんね。シフトについても相談しておかないとだから」 「ああ……いつまでも遊んでる訳にもいかないしな」 「そういうこと」 「ああ、美優ちゃん」 そしてお店に行こうとした所で、中から店長さんが出てくる。 「おや、そちらの彼は……先日お嬢さんと一緒に来られていた」 「どうも。卯月誠一と言います。今は美優とお付き合いをしています」 「そうだったのかい。お嬢さんと居たからてっきり……。それはそうと、卯月というのは……なるほど」 店長さんは一人納得したように頷いている。 ……名前だけの分家だから、とても居心地が悪い。 「そ、それはそうと!! 来週のシフトで相談があるんですが」 「ああ、聞いてるよ。ちょうどいい所に来たと思ってね。暫く忙しくなるんだろう?」 「………………え?」 お盆前後でぎっしりと入っているバイトのシフトを減らして、その間は本来のお盆らしく、零との思い出の場所を回ったり供養をしたり墓参りをする。 それが俺と美優が決めたお盆の過ごし方だ。 でもそれは、つい先ほど喫茶店で話し合って決めた事だ。 「先ほど如月のお嬢さんが来られてね……。火災の事は聞いてたけど、無事だったようで良かったよ」 「え……え? ちょ、ちょっと待って下さい……。本当に零ちゃんが……?」 「ああ。前にも来られたから顔は知ってるよ。そう名乗ってたし、本人だったね」 「そ、そんな……嘘です。ありえません。警察の人も零ちゃんは死んだって……」 「ああ、そういう風になっちゃってて大変なのと、屋敷も焼けちゃったから、しばらく美優ちゃんの所にお世話になるような事言ってたけれど、違うのかい?」 「……違います……だって本当に零ちゃんなら、行く所も沢山あって、セイ君が今借りてるホテルだって――」 「いや、あそこは……」 例え部屋があったとしても、零だけを泊める事は出来ない。 もう少ししたら俺の両親も来るだろうし、今は美優がいる。 いくら零であっても、女の子を一人泊めるような真似は出来ない。 ……それに、本当に零なのか怪しすぎる。 (……紅……) やっぱり生きていたのか。 そして、何かをしようとしている。 もしかしたら、如月家の屋敷に火をつけたのも……。 「と、とにかく違いますから!」 「あ――美優ちゃん!」 走り出す美優に引っ張られるように、その場を立ち去った。 「はぁ……はぁっ。はぁ……っ!」 駅前まで一息に走って来て、ようやく立ち止まった。 俺も美優も息が切れていて、上手く動くことが出来ない。 「セイ君、今すぐ帰って!!」 「――美優!?」 「分からない……怖い。絶対何かおかしい、変だよ!ここにいちゃいけない。そんな予感がするの」 「……ああ。だろうな」 多分――紅だ。 それが零のフリをして、何かをしようとしている。 俺も知らない所で全てが終わっていたと思っていた。何もかも失って、その先には何もないのだと。 でも違った。まだ終わっていない。 紅は更に何かをしようとしている。その目的が俺である可能性は……。 ……ありえるかもしれない。 「……分かった。でもそれなら美優も一緒だ。あいつはバイト先まで来ている。一人残して置く事なんて出来ない」 「う……うん。でも」 「着の身着のままでも、何とかなる。とりあえずここを離れて俺のうちに行こう。そこまで行けばきっと……」 「――ひっ!」 「……え」 何かを見て怯える。 その方に視線を向けると――。 夏場に着るには長い袖の女がいた。 「……やっと会えたわね。誠一」 「…………」 どっちだ、とも紅、とも言えない。 うっかり口に出した後で、真実を知った者は殺すなんて言い出されても困る。 少なくとも、美優をどこかに置いて俺一人で――。 「零……ちゃん? 零ちゃんなの?無事だったの? それならどうして――」 「あはっ。あははははっ」 哄笑が響く。 周囲の人間がぎょっとして、笑い尽くす彼女を見ている。 「少し見ない間に、私から誠一を奪ったの?どうしてそういう事をするの……出来てしまうの?おかしいと思わない?」 「う、奪うって、そんなつもりは」 「じゃあどんなつもり?あなたから誠一の匂いがするわ。もしかしたら、体の中にはまだ残っているのかしら?」 「――――っ」 衆目を浴びた上でこんな事を言われて、美優の顔が羞恥に赤く染まる。 「……ま、それもどうでもいい事だわ」 零――紅が一歩前に出る。 「さあ、帰りましょう? 誠一。私達の棲み処に」 その声を聞き届ける事なく、背を向けて走り出した。 (……如月家に戻ろう) 正解かどうかは分からない。が、事情くらいは掴めるはずだ。 それに倒木があった森のトンネル前までいければ、屋敷までの森は俺と零にとって庭のようなものだ。 フロントに下りて、受付でタクシーを呼んでもらう。 さすが高級ホテルだけあってか、待つこともなく車の手配をしてくれた。 タクシーの車内で通り過ぎる景色を見ていると、如月家が近づいてきたことが良く分かる。 帰ってきた当初は変わってしまった風景に困惑したり、珍しさもあったが、元々が慣れ親しんでいた所だ。 今の風景で頭の中に刻み付けている。 「あ、ここでいいです」 森に入る手前で止めて貰う。 「この先で倒木があったらしく、車は入れないかもしれないので、後は歩いていきます」 訝しむ運転手に重ねて説明をして、料金を払い車を降りた。 森のトンネルの方は、零の話の通り警官が詰めていた。 捕まっても面倒そうだから、このまま森を迂回して屋敷まで行く事にする。 (……しかしこれじゃ、森に潜む不審者って俺になるんじゃ) 早まったかな……。 屋敷の様子を窺えたらそれだけでいいか。 軽率な事をしているという自覚はある。 それでも、ここまで来てしまった。屋敷の様子を伺えれば、夏だし一晩くらいは何とかなるだろう。 (そういや、この森でキャンプをしたこともあったっけ) 良く晴れた夜に沢の辺りにテントを張って、一夜を明かした。 虫の声が大きく、明け方に響く蝉の声に起こされた。 あの時は零も一緒だった。 地面が固くて眠れないという零と、手を繋いで寝てたっけ。 (そういや蚊もいたっけな) 今晩ここで過ごすとなると、悩まされそうだ。 「……お」 足元に生えてる雑草を摘まんで引き抜く。 ツンと鼻の奥に抜ける清涼感のある匂いだ。 ハーブは森の中の至る所に生えていて、駆除が大変だと昔おサエさんから聞いたことがある。 そして同時に、この匂いが虫よけになるとも教わっていた。 2本、3本と引きちぎって、手首の辺りに擦り付ける。 残った葉は持っていく事にする。これで少しはマシになるだろう。 森に入ってから数十分が経った。 迷ったらすぐに出ようと思っていたのだが、案外迷わずに進めている。 (この辺りは樹の生え方も分かってるからかな……) 構造を理解する……とまでは行かないかもしれないが、何となく頭の中で地図を組み立てられている。 大規模な伐採や植林でもしない限り、数年程度なら森に生えている樹の位置も大きさも大して変わらない。 その為、昔の記憶が今も残っているのだろうと結論づけた。 (さてと……) そろそろ屋敷に近づいて来る頃だ。 一度沢まで抜けて、それから屋敷に向かった方が良いだろう。 (様子を見て、それで問題無ければそれでいい……よな?) 零の電話を受けて、居てもたってもいられなくなってしまった。それがここに来た理由だけど、俺が屋敷に行く事で零の予定を狂わせるのも本意じゃない。 ……まあ、それなら大人しくホテルで寝てればよかったとも言えるけど。 ただ……上手く言葉に出せない。 けれど、何かおかしいという違和感がある。 俺も忍も美優も、零の事は良く知っている。 忍や美優から見た零についての印象を先ほど話していた。それで忍が違和感を抱いたように、俺自身の中にある零の像と今現在の状況に、言葉に出来ない差異を感じている。 どこがどうと指摘できる程の物じゃない。 昔からの付き合いがあって、それで自分の中に刻まれている『零ならこうするはず』という印象に合致しない。 だから、何かしらの事情はあるのだろう。 なら、その疑問を飲み込んで、零の言葉に従うか。自分自身で確かめるか……。 (結局、俺は後者を選んだ訳だけど……) 森の終わりが見える。知らず、息を飲む。 ここから先は慎重にならないといけない。 「誠一」 「――――え?」 森を抜けた先に、零がいた。 制服を着こんで森の中にいるためか、黒いアームカバーをつけている。 「れ……零? なんでこんな所に」 「来るだろうと思っていたのよ。そしたら本当にやってきたわね」 「マジか……」 俺が零の行動をおかしいと思ったように、彼女からも俺の事が読まれていたのだろう。 「それで何かあったのか?」 「どうしてそう思うの?」 「だってあんな電話して来たら、そりゃ不思議に思うだろ」 「……電話?」 零は首を傾げている。 完全に知らないと言わんばかりの態度だ。 「いや、だって。電話したよな?」 「それは本当に私だったのかしら」 「え……」 「だってそうでしょう? 誠一は街に行った。そして今帰ってきた。何もおかしな所はないわ」 「それは……そうだけど」 零は何もおかしい事は言っていない。 だが、辻褄は合っていない。 「じゃああの電話は何だったんだ」 「それが本当に私だったという確信はあるの?」 「電話が零だった確信……あ! あるぞ」 「へぇ? それはどういうもの?」 「如月系列のホテルを抑えたと言っていた。その通り、ホテルの予約が入ってた。なりすましじゃこれは難しいはずだ」 「そう……だから信じてしまったのね」 「……なに?」 目の前の零はとても不穏な事を言う。 「まあ、いいわ。屋敷に帰りましょう。そうすれば分かるでしょう?」 「ああ……」 零は振り返ると、森へと歩き出す。 「……零?」 「なぁに?」 「いや……」 一瞬聞こうと思ったのだ。お前、本当に零だよな……と。 だが、彼女が零でなかったとしたら、一体何だと言うのか……。 (……あれ……?) 森を歩いて、体力も限界だ。疲れが出たのだろうか。 頭の奥に霞が掛かったような感じがして、思考が上手く纏まらなかった。 「お帰りなさいませ! 誠一さん!」 「お帰りなさいませ」 屋敷に辿り着くと、一葉ちゃんとおサエさんが出迎えてくれた。 ……ああ、よかった。やっぱり帰ってくるのが正解だったんだ。 招き入れられて、中に入る。 ――バタンと、重い音を立てて扉が閉ざされた。 ……………………。 ………………。 …………。 「…………そう、分かったわ。何度もありがとう」 ため息を共に、零は受話器を置いた。 僅かな荷物を置いたままホテルから姿を消した誠一は、今日になっても戻ってきていないらしい。 自分の目で確かめにも行ったし、残された物も回収してきた。 警察に捜索願いを出し……そして最後に残された足取りのタクシーの運転手によると、森の中へと入って行ったらしい。 そこまで足取りは掴めているのに、何度山狩りをしても痕跡すら見つける事が出来ない。 「お嬢様。少しお休みになられた方が……。委員会も休まれてはいかがでしょうか」 「……ええ。ありがとう。でも平気よ。何かしている方が気が紛れるわ」 もう夏も終わりが近づいている。 あの日、この屋敷で事件が起きて、そして誠一を遠ざけようと街に行って貰うように頼んだ。 その選択が誤りだったんだろうかと幾度も自問し、そして眠れない夜を何日も過ごしている。 「……誠一」 扉を開けて外を見た。 夏も終わりに差し掛かろうとしているのに、蝉の声がうるさく響いている。 如月家の屋敷の前には森が広がっている。 誠一はこの森の中で姿を消した。 全てを捜索したはずなのに、今も見つかっていない。 だとしたら……。 森を見る度に零の頭によぎる、かすかな希望。 ……今もこの中で生きているのかもしれない。 彼がやがて帰ってくる。来てくれるに、違いない。 そんな希望を胸に抱きながら、零は森から視線を外した。 「送っていくよ」 「うん……そう、だね。ありがとう」 「というか、こんな時間じゃ来るのも怖かっただろ」 「そうなんだけど、結構大丈夫かな。夜にコンビニ行く事もあるし、この辺り明るいから」 「そうなのか」 「でも、前は人通り少なかったんだ。一年かそれくらい前には、もう人通りも戻って来ていたけど……」 「前? 何かあったのか?」 出来るだけ人通りの多い所を通ろうと思い、駅前を経由して美優と歩く。 その間も美優と手は繋いだままで、端からみたら、夜にデートしているカップルに見えるかもしれない。 「……前にも事件があったんだ」 「…………事件?」 一瞬、焼けた如月の家と血に染まったおじさんの姿が脳裏をよぎる。 でも、美優が話しているのはそれより前の話だ。 これにも聞き覚えがある。 確か……。 「吸血鬼事件?」 「う――うん。そうだよ。知ってたんだ」 「この前、忍から聞いた。……そうか、そんなのがあったら夜中出歩く人なんていなくなるよな」 しみじみ言うと、美優は困った顔になる。 「う~~ん。そうでもなかったんだ。そもそも信じてない人も多かったし……吸血鬼を写真に撮るなんて人も来てたくらいだったから」 「…………マジか」 「うん。確かに行動力はすごいと思うし、間違ってるとは思うんだけど、そのおかげで人通りは多かったから、わたしは安心できた部分もあったんだよね」 「……色々とすごい話だな」 観光地で人の流入が多く、そして夜間でも明るく整備されてるこの土地ならではかもしれない。 東京の方も深夜でも明るいと聞いてる。あっちも似たような物なのだろうか。 俺が今住んでる辺りじゃ、人通りなんて無くなりそうだ。 「だから来るのは前よりは怖くなかった。……少しだけ期待した所もあったから」 「期待?」 「本当に零ちゃんで、人に話しづらい状況になっていてわたしに会いに来たのかなって」 「……そっか」 「家の事とか色々とあるでしょう?だから、もしも人に話せないような事になっていて、相談に来たのかな……なんて」 「……そんな訳ないのにね。どうしても考えちゃうんだ」 現実逃避なのかもしれない。 そうだったとしても、美優を馬鹿にする事なんて出来ない。 現実感がないのは俺も同じだ。 零の……死体をこの目で見た訳じゃない。 面と向かって別れを済ませていないから、他人から聞かされただけでは、心の奥底で『もしも』を考えてしまう。 「ここまででいいよ。後はもう平気だから」 「分かった」 「それじゃね。セイ君。……その、実はさっき言いかけた事もあったんだけど、また今度にする」 「ん? まあ、夜中に長話する事でもないしな。それじゃな」 「う、うん。ムードが大事だしね」 「……ムード? って、それって」 「わっ! わわっ! なし、やっぱ今のなし!!それじゃね! ばいばい!」 「あ、ああ……」 慌てた美優が、手を大きく振り小走りでかけていく。 「お、驚いた……」 知らずに、心臓がドキドキと動悸が激しくなっている。 それを何とか押しとどめて――。 「………………え」 振り返った先に、零が立っていた。 「迎えに来たわ。待たせてしまって悪かったわね」 「お――お前! 零か!? それとも紅……?」 「何言ってるのよ。くれ、ない? 意味が分からないわ。さあ、帰りましょう」 「帰るって、どこに……」 「どこだっていいわ。帰る所は一つだけじゃないもの。そうでしょう?」 「あ、ああ。まあそうかもしれないが……」 零……いや、紅か?どちらか分からない少女が手を差し出してくる。 まだ、距離が遠い。街灯からも外れていて、長い髪の女という所しか分からない。 でも、屋敷で見た時の紅はいつも着物だった。 となると、こっちにいるのは零か? 「さあ、どうしたの? この手を取って。帰りましょう? 誠一」 「あ、ああ……」 ……どちらでもいい事だ。 両方とも失われたと思っていた。 それが、零でも紅でも生きていたのだから、今はそれを喜ぶべきだ。 差し出された手を取る。 あの時あった事を聞かなくてはならないと、思った。 「ふ、ふふ。では帰りましょうか」 「待ってくれ。まずはホテルの部屋に戻ろう。夜中にうろつく訳にもいかない」 「ええ、そうね。そうしましょう」 彼女を連れて、夜の伊沢の街をホテルまで戻る。 日が昇ったら美優や忍にも連絡をして……警察は事情を知っているんだろうか? そちらにも確認して……。 「どうしたの?」 「今後の事を考えていた」 「それは大切な事ね」 「ああ」 「では――行きましょう。私達の家に」 零と共に帰路につく。 夏の夜は蒸し暑く――けれど、どこかひんやりとした空気を纏っていた。 『次のニュースをお伝えします』 『伊沢市で起きた如月家の火災事故の翌日、男性が一人行方不明になっているとの発表がありました』 『男性の名は卯月誠一さん。警察では重要参考人として行方を追うと同時に――』 『伊沢市では以前にも全身の血を抜かれて殺害されるという事件が……』 『火災事故が起きた如月家との関係も……』 ――かつ、かつ、かつ。 駅から大通りを走り抜ける。 後ろからは一定の距離で固い足音がついて来ている。 「ど、どうするの!? この先は――」 「く――」 この先は如月の森だ。途中で住宅街に逃げ込む事も考えたが、そこだと入り組んでて真っ直ぐ走れない。 速度が落ちると、追いつかれそうで怖い。 「こっちだ!」 横道に飛び込む。 大きく迂回するルートを選んだ。 「はぁ……はぁ……っ!」 息が荒い。呼吸が上手く出来ない。 どれだけ走ったのだろう。 アレに遭遇してから、まだ僅かしか経ってないはずなのにずいぶん逃げ回っているような気がしてくる。 一秒一秒が妙に長い。走っている足が止まってしまいそうだ。 そしてそれは、美優も同じだろう。 繋がれた手に力が篭る。足がもつれそうになる所を、引っ張って支える。 「あ――ご、ごめ……」 「だい、じょうぶだ! 謝らなくて、いいから!」 後ろを見ずに叫ぶ。 きゅっと力が篭った指先を握り返して、くじけそうになる足に力を籠める。 しかし――。 (どこにいけばいい!?) ぐるぐると走り回って、結局街中に戻ってきてしまった。 今にも後ろからあの固い足音が聞こえてきそうだ。 そしていつしか人影が無くなっている。 その事も現実感を失わせていて、恐怖に上乗せされてくる。 走り回って、あちこち動いて、耳に入るのは自分の心臓の音と荒い息遣いしかないというのに。 (いや、違う……!) 背後の美優を振り返る。必死な顔で、苦しいだろうにそれを表に出さないようにして俺の後をついて来てくれている。 この繋がれた手から感じるぬくもり。それから美優の息遣い、鼓動までハッキリと伝わってくる。 「美優!」 「え、あ――な、なにっ!?」 「離さないからな!」 走りながらでは気の利いたことも言えない。だからそれだけを一息に言い切った。 「う――うんっ!!」 美優が笑顔になる。 それがとても印象的だった。 今日はずっと離さない。そんなただの口約束であっても今は心の支えにする。 刹那――。 「そう――ならそうしてあげるわ」 銀閃が走った。 「…………え」 何か、恐ろしく冷たい物が俺の体の中を通り抜けていった。 そして――。 美優の姿が、赤く染まる。 「……そん、な……」 体のバランスがおかしい。自分の体なのに上手く動いてくれない。 美優とつないだままのはずなのに、倒れ伏す体の何の支えにもなってくれない。 地面を濡らす血しぶきの中に倒れて――そこで俺の意識は闇に落ちた。 「あ、ああ……あああっっ!!」 失われていく体温を抱きとめるように、美優はその腕を抱きしめた。 「セイ君……セイ君!!」 倒れていた体は、今はもう無くなっている。 その体の重さを知っている。大人の男になりつつある肉体のたくましさを知っている。 それにもかかわらず、まるで荷物でも扱うかのように抱えてしまった。 「……驚いた」 固い足音を立てて、目の前に零が舞い降りた。 ……本当に零なのかどうか、美優には分からない。 けれど、零の外見と同じ声と同じ容姿を持つ存在を、他にどう表現していいのか分からなかった。 「零……ちゃん、がやったの? なんで、こんな。こと。酷い事を……」 「……本当に驚いた。あなた、ここまでしても、怒りや憎しみを持たないのね」 「なん、で? なんでそんな事を言うの?意味が分からないよ……」 「……悲しみ、喪失、困惑……受け入れて納得できず、でも誠一の事を考えているのね」 「だ、だって当然だよ! すごい怪我してる!腕もここにこうして……心配だよ! 零ちゃんはどうして心配しないの? なんで!!」 「……なるほど、それがあなたの本質。貴女という人間を形作る中身なのね」 「意味が分からないよっ!!」 「意味なんてないわ。しょせん、全ては模造品なのだから」 「……気が変わったわ。それは貴女にあげる。誠一には……ふふ、私が用意してあげましょう」 「え……セイ君……無事なの? 大丈夫なの!?」 「そこまで教えてあげるほど、優しくはないわね。残念な事ではあるのだけれど」 ……何故だろうと、美優は思う。 自分で残酷な事をして、そして自分の意志で事を成しているはずの少女が口にした言葉には、強い実感が篭っているように聞こえた。 「さようなら、もう会う事もないでしょう」 「ま――待って!」 言葉は届かず、零の姿が消える。 放心して熱の失われた腕を抱きかかえながら、美優はその場から動けなくなる。 ……やがて、人の気配が戻ってくる。 大勢の悲鳴と、驚愕と、それからけたたましく響くサイレンの音。 それらに包まれながら――美優は最後に見た零の姿を心の奥底に焼き付けていた。 ――零の手を取った。 「……誠一?」 「実の所、俺には何が起きてるのか分からない。でも、お前の事は信じているから」 「……誠一……どうしたの? いきなり」 「俺にも分からない。でも言っておかないといけないと思った」 「…………そう……ところで、いつまで手を握ってるの?」 「嫌か?」 「別に嫌ではないけれど……あなた、忘れたの?儀式が結婚式だとしたら、この人形と結婚したのよ?お嫁さんの前で浮気したら、嫉妬されるわ」 「……別にそこまで考えての物じゃなかったしな。ただ、離したら零が居なくなってしまう予感がして……」 「……大丈夫よ。動きづらいから、離して」 言いながらも零から振りほどいたりはしない。 そこに無言の信頼を感じながら、手を離す。 「状況を整理しましょう。この着物に血が付いている。……お父様を至近距離から刺したのなら、返り血が付いていても不思議ではない」 「しかし、ここまで着物を取りにきて、お父様を刺し再び着物を戻しておく……そんな芸当が出来る人間はいないわ」 「私の他にはね」 「零なら鍵を持っていて、着付けも出来て、場所も全て把握しているから実行可能という訳か」 「ええ、その通り」 自分自身を犯人に挙げたとしても、零は平然としている。 ……多分、先ほど見せた俺の行動で、零は信用を深めてくれたのではないかと、ふと思った。 俺が零に対して疑念を抱いていた場合は到底話せない。 こんな事を話したらより一層の疑念になって、腹を割った話が出来なくなる。 「誠一は、今後はどうなると思う?」 「零が今考えたような事を、警察が思うかどうかだな……」 「……改めて考えていくと、そう判断される可能性はかなり高い気がしてきた」 「私もそう思うわ。多分……明日にでも拘留されるのではないかしら」 「…………如月家のお嬢様でもダメか」 「お父様もサエも居ない今では、私に対する後ろ盾がないのよ」 「そして、警察に対する影響力を持っている家は他にもある」 「私が捕まって……例え証拠不十分で釈放だったとしても、その傷を元に実権を奪おうとするでしょうね」 「……零は、それが嫌なんだよな?」 「勘違いしないで欲しいのだけれど、如月家が持つ財力やこの地域での権力には興味がないの。ただ、その大本を知らない連中に渡すのも嫌というだけ」 「なるほど」 他人に渡ったら何に使われるか分からない拳銃が、自分の手元にあったとして、自分で使わないからといって、みすみすくれてやる手もない。 となると、かなり時間がない。今日中にある程度の道筋は立てておかないと……。 「時間との勝負になるけれど、多分間に合わないわね。そうなるように、罠が張られている」 「……罠……という事は、やっぱりこれは別の第三者が仕掛けたと思ってるんだな」 「ええ」 それはつまり、犯人の目星がついているという事だ。 「……それは……誰なんだ?」 「…………」 零は答えない。ちらりと人形に目線を移し――。 「場所を変えましょう。この着物の事も、警察に話しておく必要があるものね」 「ここに来るまでで、いくつか思った事があるんだけど聞いてもいいか?」 「ええ、どうぞ?」 「まず人形の着物について、警察に教える必要はあるのか?」 「あの着物に血が付いてる事で、零が疑われる。その結果、後ろ盾も居なくなってて捕まる……となると、教えない方が時間稼ぎ出来るのでは?」 「なんとも悩ましい話ね」 そう前置きして、続ける。 「出しても出さなくてもメリットとデメリットがあるのよ。まず、出さないメリットが誠一が言った物ね」 「次にデメリットの方だけど……」 「今は時間が味方をしてくれるわ」 「時間?」 「思い出してみて。お父様の事件の後にも、警察は人形の間を調べているのよ」 「あ――」 「その時は衣装に血がついていなかった。そして今は付いている……となると、アレはサエの物と考えるのが普通よね」 「そうだな……確かに」 「でもサエは私が見つけた時には、既に倒れていた……。誠一と共にサエを水から引き揚げたわよね」 「……となると、着物を着た零を犯人にするには、その前の状態で着物を着て殺して、人形の間に戻して改めて私服でおサエさんの所に……」 「……違うでしょ。着物を持って行って隠しておくだけでいいのよ」 「あ、そっか」 着物を着た状態でおサエさんを殺し、脱ぐ。下は私服だから血は付いていない。 着物は森の中に隠しておく。 やがて頃合いを見計らって回収……。 「……ん? なんかおかしいな」 「ええ。これにも致命的な欠点がある。屋敷から外れた森の中に呼び出したのに、わざわざ目立つ着物を持っていくのも不自然よね」 「返り血を防ぐ目的としては?」 「雨合羽かゴミ袋でも破ってかぶってればいいじゃない。どちらも燃やすなりしてしまえば、証拠も消えるもの」 「……着物にあえてつけたかった?」 「血液を小瓶にでも入れておいて、振りかければ済むわ」 「じゃあ……いたずら?」 破れかぶれで言うと、零は我が意を得たりと頷く。 「私もそれが一番可能性が高いと思っているわ」 「正確には愉快犯としてのいたずらではなく、人の反応を見る為の揺さぶりと言えばいいのかしら」 「そんな事を……誰が……」 そう言いかけて、脳裏に一人の人物がよぎる。 「……紅」 「…………」 だが、零はこれまで一貫して、そんな人間は居ないという態度を崩していなかった。 「……これからとてもおかしくて、信憑性の無い事を話す。でも、誠一なら信じてくれると思っている」 「ただし、それは決して良い方向には行かない。誠一を更に苦しめる結末になるかもしれない。それだけは覚えておいて欲しい」 「……分かった」 改めて聞く気があるかどうかを訊ねたりしない。 その事に無言の信頼を感じながら、神妙に頷く。 「如月の生き人形には、表に出ていない話があるの」 「……表に出てない? という事は、当主しか知らない内容とか、そういう感じの?」 「ええ。その通りよ」 「生き人形……如月紅という物には名ではなく、号しかないという話は以前にしたわね」 「ああ」 「ではどうして名をつけないのか。儀式とは何か。その話になるのだけれど」 それでふと閃いた事がある。正確には紅に聞いた事があってこそだが。 「もしかして、名前は儀式に参加した人間が付けるから?」 「……知っていたの?」 「紅に聞いた。それっぽい事を言っていた」 「……そう」 「誠一は、アレをどう思っている?」 「アレって紅だよな。正体が分からないから、怪しい奴だと思っているけど……」 「けど?」 「俺の事をからかってくるような事を言っても、それ以上は何もしないんだよ」 「だから正直な所、どこまで本当の事を言っているのか、そしてこの屋敷の立ち位置が全然分からない」 軽く息をついて、言葉を区切る。紅について語る時にまず最初に出てくる言葉は『困惑』だ。 「……普通に考えたら、存在自体がおかしい。どこにいるのか分からないし、食事をとってる様子もない」 「あいつは一体なんなんだ?」 「私は彼女に会った事はないから、確実な事は言えない。だから、如月の知識での回答になるわ」 「ああ」 「誠一も思っているでしょうけど、彼女こそが如月の生き人形その正体よ」 「…………アレが人形だっていうのか?」 「困惑するのは分かるわ。私だってそうだもの」 「如月の伝承にある生き人形というのは、器の事なの。魂を込める器だけがあって、そこに魂を降ろす」 「魂を持ったヒトガタは、人としての行動を始める。体に魂が馴染む程、その姿を保っていられる」 「……なんだよ、それ」 「そう思うわよね……私も聞いた時に、何故そんな事をしているのか分からなかった」 「……そもそも、何でそんな儀式を?やらなければいいだけじゃないのか?」 「私もそう思っていたわ」 という事は、今はやらなくてはならないと思っているのか。 「人形を作り、人形師はその中に魂を込める。これが人形の作り方だけれど、本当の意味でその中に魂がこもっている訳じゃない」 「けれど……その中に魂を籠める方法があるとしたら?それはまさしく、生きているという事にならないかしら」 「……魂を籠める? 一体どうやって?」 「人間が行うのではないわ……そんな事、人には出来ないもの」 「昔……この伊沢の地は、広大な森が広がっていて、誰も足を踏み入れた事のない場所だったそうよ」 「でもある時、そこに人形師の一族が現れた。故郷を失い、放浪の果てに人の居ない土地を求めてきた」 「そこまでは聞いた事がある。それが如月家の祖先なんだろ?」 「ええ。でもここから先は少し違う。その土地には、先に住んでいるモノがいたのよ」 「……先に住んでる……モノ? 人じゃなくて?」 「人ではないわ。神と呼ばれている何か。あるいは単なる化け物かもしれない」 「…………」 「信じられないという顔をしているわね」 「……いきなり聞かされればな」 「そう思うだろうと予想してたから、こんな時でもなければ言い出さなかったわ」 「すごく納得した。……続きは?」 「その神は、生き物を捕食し、広大な縄張りに住む獣のような存在だった」 「そこに現れた人間達……正直、新しい餌が舞い込んできたとしか思わなかったでしょうね」 「まあ、だろうな」 「でも人間達は、その怪物を相手に交渉を始めた。ここに住まわせて欲しいと」 「力でも叶わず、餌になるくらいならと破れかぶれだったのかもしれないわね。詳しい事は分からないけれど」 「……今如月家があるという事は、その交渉が通じた?」 「ええ。何故交渉に応じたのか、それは今でも分からない。増やして牧場のようにするつもりだったのかもしれないわね」 「でも、人と化け物ではあまりにも生命として違いすぎて、お互いを理解出来なかった」 「しかしそれでは、交渉は成り立たない。そこで、怪物が提案してきたのが、一族の長である当主が持っていた人形」 「亡くなった娘を模して造られたそのヒトガタに、魂の一部を分け与えて、人の世界を近い立場から観察するという事」 「…………」 「でも外見だけを得たとしても、結局、怪物の魂の一部は人間にはなり得ない。そこで人形が取った方法が――模倣」 「人を模して造られた人形が、人を真似る?」 なんだかジョークじみてきた。それもとびきりブラックな物だ。 「真似るのは行動ではなく、相手の魂――想いや感情よ。結局、怪物には人の心は分からない。だから目の前にある人間の心を真似て、それを模倣する」 「人形は同時に監視の目でもある。定期的に人形と怪物を繋げる儀式を行う事で、その繋がりを保っている訳なのだけれど……」 逆に言えば、やらなければそれが途切れるという事だ。 「……人形に魂を降ろしている間は、どういう訳か怪物の方は動けないらしいのよ」 「自分の魂を分け与えてると言ってたしな……。理屈は不明でも、イメージは出来る」 幽体離脱して体から抜けてるような映像が頭に浮かぶ。そういうオカルト的な解釈しか出来ないが、今はこれで理解するしかない。 「逆に言えば、繋がりが断たれたら怪物が目を覚ます。目が覚めたら一体どうなるか、分からない」 「……そうなったことがあるのか?」 「分からないわ。でも、そうなりかけた事はあるみたい」 「目が覚めた怪物は餌を求めて行動する。今、伊沢で最も多い生き物は……人間達」 不意に、吸血鬼事件という単語が脳裏をよぎった。 血を吸い尽くされているという奇妙な事件。犯人は捕まっていない。 長い間儀式が行われていないと、怪物は目を覚ます。 今回行われるまで、大分時間が空いていたはずだ。 「…………」 「……誠一には悪い事をしていると思っている」 「…………それは今言っても仕方ない。それに色々と納得した」 「でもどうしてだ? 早く教えてくれれば、あんなに悩まずに済んだのに……」 「……理由が、あるのよ」 「それは?」 「人形は自らに向けられた感情を、想いを模倣する。誠一は私から話を聞くまで、紅に対して怒りも憎しみも抱いていなかったはずよ」 「それは……まぁ」 「だけど、今はどう? 元凶かもしれないと言われて、これまでのように見られる?」 「……それは……」 実の所、紅のせいでこうなったという気持ちがある。 あいつさえ居なかったら、何も起きなかったんじゃないかと。 でも……そうか。 零の言う事が正しいのだとしたら『あいつさえ居なかったら』という気持ちを紅にぶつけると、向こうはそれを模倣して、俺達を排除に掛かるかもしれないという訳だ。 あいつは俺とは明確に敵対したことがなかった。 からかう……試すような言動は多々あったが、それだけだ。 でもそれも、俺自身が紅を信じられずに、真意を試したいと思っていた行動の裏返しだという事になる。 「…………」 色々な意味で、ショックだった。 紅自身の行動も、何もかもがそこに『紅自身』がいない事に。 更には、話を聞いてもなお、俺自身がどうすればいいのか答えが見えない事に。 「……誠一に話して、それで強い怒りを向けた場合、誠一が排除されることになるかもしれない」 「そう考えると、何も言えなかったのよ」 「……事情は理解した。……本当にできたかどうかは怪しいけど」 「それで、どうする? 時間はもうあまりないんだろ?」 「ええ。私がこの屋敷から居なくなれば、その間にも何も知らない分家の連中が乗り込んでくるでしょう」 「その時、そこにいるのは紅だわ。彼女は館に新しく来た人間の、欲望や妬みといった感情を知り、模倣し――それからどうなるか想像がつかない」 「解決策は?」 そう訊ねると、零は笑った。どこか自嘲が混じっているが――何かから解放されるような清々しさも交じった笑みだった。 「紅ごと燃やしてしまうわ。如月家の財産がまるごと灰の中に消えれば、金と権力にしか興味ない連中の目も覚めるでしょう」 「……屋敷ごと燃やすってマジかよ」 「それが一番手っ取り早いもの。それに、準備はしてある」 「準備って、燃やす準備かよ……一体いつのまに」 「前々から仕掛けてあったのよ」 「…………もしかして、前に儀式の後に火災が起きたのも?」 「さすがにアレは違うわ。でも、それが一つの原因であるのは間違いない」 零の部屋に入る。部屋の中には木箱が積まれている。 そこの蓋を開けて、俺に見えるように中を示す。 ……用途の分からない機械が詰まっている。 「発火装置よ」 「ちょっと待て!!」 零の部屋に用意してあるという事は、予め準備していたという事だ。 この部屋には警察を入れた事もあったはずだ。あまりにも堂々としていて、絶句してしまう。 「いやいや、おかしいだろ!」 「…………?」 「不思議そうにすんな! 俺が悪いみたいじゃないか!」 ……いや、俺が悪いのか。 納得できないけど。 零は……というか如月家は色々と準備していて、俺が零に理解を示したから、その一端を明らかにしてくれただけだ。 「……とりあえず続けてくれ」 零は頷くと説明を続ける。 「怪物とは蜘蛛神だと言われているわ」 「誠一も聞いた事がある? 伊沢の土地に残る蜘蛛神の伝説」 「聞いたことがあるような無いような……。かなりマイナーな昔話だよな」 「蜘蛛は糸を張り、巣を作る。そうして自らの領域を広げて餌を捕食していく」 「炎はそれを焼き払える。蜘蛛の巣ごと浄化できるわ」 「……でも、仮にそうなったとして、体を焼いても大丈夫なのか?」 魂を入れている間は、本体の怪物は動けないと言っていた。 なら、焼き払った事で怪物が目覚めたりしないだろうか。 「……そればかりは試してみないと分からないわ」 零も懸念はあるようだ。苦々しく言う。 「過去にも同じことを試そうとした人間はいるのよ」 「……マジか」 「ええ。人形の身体に魂を移して、その間は本体の活動は出来なくなる。……なら、人形に魂がある間に殺してしまえば化け物から解き放たれるのではないか? と」 「結果は失敗だったみたい。紅は人に向けられた殺意や悪意を受け取って返す。殺意を持って紅に向かえば、その前に自分がやられるだけだもの」 「…………なるほど」 「だから、知らないという態度を崩す訳にはいかなかった。誠一に教える事も出来ない。ただ、準備を進めるだけ」 「でも今やらなくても、結果は同じになる。もう躊躇っている時間も無いわね……」 零の部屋から持ち出した仕掛けを、屋敷のあちこちに仕掛けていく。 とはいえ今もまだ警官が大勢いる所だ。あまり大っぴらに出来ない。 場所を確認しながら、言われるままワイヤーを廊下に伸ばしていく程度だ。 「一葉ちゃんは?」 「これまでは誠一に連れ出して貰うつもりだったから。街に避難して貰うしかないわね」 「そうそう。これを誠一に渡しておくわ」 「これは?」 零から渡されたのは大きなバッグだ。受け取るとずっしりと重い。 「私の使える範囲で引き出したお金などを入れてある。一葉の事をお願いするための支度」 「……一葉ちゃんの事って……」 「ちょっと待て。お前の分はどうすんだ?それに話を聞いてると、俺にも避難しろと言っているみたいに聞こえるけど」 「みたい、ではなくそう言ってるのよ。私に付き合う理由なんて無いわ」 「あるだろ、ここに」 「……本当に無いのよ。誠一には悪い事をしたと思っている。何事もなく夏休みを過ごして、そして帰って貰うのが一番だと分かっていたのに……」 「今更ダメだ。一葉ちゃんは送っておく。親父たちを呼んで、それまでは忍や美優に預かって貰えば何とかなるはずだ」 「だから、お前は俺が戻るまで無理はしないでくれ。約束だからな」 「…………分かったわ」 「ちなみに聞くけど、こうして屋敷の中で話してる間に紅が出てきてばったり……なんて事は無いよな?」 「無いと思うわ。まだ活動時間が短いはずだから」 「……伸ばす方法もあるようだけれど。誠一ならそこまではしていないでしょうし」 「その方法は?」 「魂を与えるためには、人間そのものがきっかけとなるのよ。その人間の体液を与えていると、より人に近づくそうなのだけど……」 「…………」 思わず首元に手を当てる。 「悪い。血を吸われた事がある」 「何CCくらい?」 「分からない。ちょっと噛みつかれてそれで終わりだったから」 「……そう。なら平気かしら。性行為はしていないわよね」 「はぁ!? する訳ないだろっ。というか、した奴がこれまでにいるのか?」 「当主が管理する物だし、曰くも分かっているから記録には残っていないわね」 「ただ、そのような誘いをかけてくるとあって、それが彼女には、一番のエネルギーになるようだけれど……」 「……人の遺伝子や、あるいは肉体を作る行為というのが人の身を持つ事に関係してるのかしら」 零は素直に首を捻っているが、俺は心臓の動悸が酷い。 紅に妖艶な色気を感じた事が何度かあった。 ……危なかった……。 でも素性を知っていたら、そういう風に思っただろうか? ……気持ち悪さや不気味さが先に来ていたような気がする。 となると、紅の好意的な反応は俺が無知である事にも由来していた訳だ。 「一葉を連れて、送って行ってちょうだい。ここから先は、誠一が居ない方がやりやすいわ」 「繋がりが深い誠一を通して、仕掛けを知られてしまうかもしれないから」 「……わかった」 危険を賭して失敗しても意味がない。一葉ちゃんは屋敷の中に居なかったから、多分離れの方だ。 玄関で靴を脱ぐと、平屋の日本家屋に入った。 しっかりした造りの家で、年季を感じられる。 電気の点いていない薄暗い家屋を歩いていく。 襖の隣、木の柱に一葉ちゃんの部屋らしいプレートが下げられている。 軽く柱を叩いてノックの代わりにする。 「入るよ」 小声で言って、中を覗いてみる。 「一葉ちゃん、いる?」 部屋の中には布団が敷かれていて、一葉ちゃんが寝ている。 「……一葉ちゃん……」 疲れ切っているのだろう。よく眠っているが、表情から憔悴の後が見える。 「一葉ちゃん」 その体を軽く揺さぶって、声を掛ける。 「一葉ちゃん……起きてくれないか」 「……ん……んん……」 形のいい眉をしかめて、表情が曇る。 そのまま数度揺らすとうっすらと目を開けた。 「あ……れ、誠一……さん?」 「悪いんだけど、起きて貰えるかな。着替え必要だったらしばらく外に出ているから」 「あ、大丈夫……です」 私服のまま寝ていたようだ。布団を退けるとそのまま立ち上がる。 「ん、んん~~……少し、寝すぎちゃったみたいです。ごめんなさい、お客様に起こしに来て貰ってしまって」 「いや、もっと寝かせていたかったのに……。俺の方こそごめん」 「何かあったのですか?」 「零が言ってたんだけど、これから一葉ちゃんには街の方に避難して貰う事になったんだ」 「そう……なんですか」 「服はそのままでいいから、貴重品や着替えなんかを準備して外に来てくれる? タクシー呼んでおく」 「わ、わかりました」 慌ただしく仕度を始める一葉ちゃんをそのままに、外に出た。 「……誠一」 屋敷に戻ると零が暗い顔で待っていた。 辺りで警官が慌ただしく動いている。 「……なんかあったのか?」 「サエを調べた所、遺書が見つかったそうよ。……自殺らしいわ」 「まさか」 「……ええ。私も違うと思っている。ただ、サエが今回の事に強い疑念を抱いていて、それを増長させるような何かの存在が居たとしたら……」 零が俯く。その言葉には強い力が篭っている。 「……私はそいつを絶対に許せないわ」 呼んで貰ったタクシーに乗り、街を目指す。向こうには美優と忍に来て貰うように連絡してある。 ホテルは零が押さえたと言っていた。 二人に一葉ちゃんを託し、足りない物などを揃えて貰う。俺はその間に、また如月家に戻ってくる。 「…………」 一葉ちゃんは沈痛な面持ちで目線を落している。 その手の中には、おサエさんの遺書の写しがあった。 「…………」 無言で手を伸ばし、頭を撫でる。 されるがままにしていた一葉ちゃんだが、俺の服の裾を掴むとぽろぽろと涙をこぼしていく。 「……う……うう。……お婆様……」 静かに、声を押し殺して泣く声が狭い車内に響く。 ……如月家に来た時に、ここをおサエさんの運転する車で通って来た。 零と街に出た時にも、おサエさんに送って貰ったっけ。 あの時はこんな事になるなんて思ってもみなかった。 一葉ちゃんが強く手を握ってくる。それを握り返し……窓の外をただじっと見ていた。 「……セイ」 「セイ君!」 来てくれるように頼んだ二人は、既に駅前についていた。 「一葉ちゃんを頼む」 「分かったよ。まずはどうすればいい? どこに行こう?」 「零がホテルを取っていると言っていた。ひとまず一葉ちゃんにはそこに滞在して貰って、後の事は任せる」 「セイはどうするつもりだ?」 「俺は如月家に戻る。零が残ってるから放っておけない」 「零ちゃん……今はお屋敷にお手伝いさんと一緒に?」 「――っ」 一葉ちゃんが息を飲む。 そして、それを漏らさないように、唇をかみしめている。 傍らの美優に縋りつくようにして、服を握っている。手が白くなっているのが、声には漏らさなかった彼女の心の叫びのように見えた。 「……え……」 美優が弾かれたように俺を見る。 無言で首を横に振った。 「……そう、なんだ」 「だから、頼む。ついてやっててくれ」 「わかった。零ちゃんの事もよろしくね」 「ああ」 「俺も行こう」 忍が前に出る。 後ろの美優と一葉ちゃんをちらりと見て言った。 「荷物、あんまり持ってこられなかったんだろ?男手は多い方が良いはずだ」 「…………わかった。頼む」 押し問答をしている時間も勿体無いし、後は仕掛けが終わったら街に戻ってくるだけだ。 忍の厚意に甘える事にした。 「タクシーにはまた屋敷に引き返すように頼んである。すぐに乗ってくれ」 そして――。 如月家の森が近づき、後は森のトンネルを抜けるだけの距離まで来た時だった。 「……なんだ、あれ……」 森の先、空が赤くなっている。 「火事……なのか? 山火事か?」 「…………あいつ、まさか」 その言葉に、嫌な予感が脳裏をよぎった。 ……屋敷を歩いてみよう。 ここに着いたばかりだし、移動は電車と車だったから、腰は痛いけど体力は余っている。 むしろ、少しくらいうろつき回っていた方が、腰や背中の疲れもとれそうだ。 「……相変わらず広い所だな」 分家の屋敷は多々あれども、如月家の広さは群を抜いている。 この本館の他におサエさん達が住んでいる離れがあって、別棟も存在している。 今はおじさんが体を悪くしていて、更にここで働いている人が少ない……。 というか、おサエさんと一葉ちゃんしかいないため、使っているのは本館だけっぽいけれど。 零も部屋に戻っているのだろうか。 下まで下りてきたが、誰もいなかった。 「こっちは……おじさんの部屋だったよな。体悪いって言ってたし……」 寝ていたら申し訳ない事になる。 この暑さで外に出ていく気にもなれないから、反対方向にいってみよう。 「……お前が、何を……とも」 「……?」 廊下の先から声が聞こえる。 先を見てみると、車椅子が見えた。 (車椅子……包帯? もしかして) 「あ、あの。すみません!」 車椅子に座った男性が、俺の方を向く。 車椅子を回し、キィと金属が擦れる音が響いた。 柔らかそうな絨毯でも車輪の回りは滑らかで、それ以外はとても静かで……車椅子の動作でありながら洗練されているように感じた。 包帯を巻く前の五体満足の頃の所作は紳士と呼ぶに相応しい物だったのだろうと思う。 彼の、その当時の姿が自然と脳裏をよぎった。 「おや……? もう来ていたのか。出迎えもせずに済まなかったね」 「いえ、俺の方こそ挨拶が遅れて……お久しぶりです」 如月兼定、零の父親だ。 「久しぶり。こんな所でどうしたのかな」 「屋敷についたばかりなので、あちこち見て回ってました。なんだか懐かしくて……」 「なるほど。そうだったのか」 「おじさんはどうしてここに?」 一瞬、昔の呼び方をしてしまってマズったかと思ったが、彼は気にせず扉を振り返る。 「……なに。ここに儀式で使う人形があってね。何となく足を運んでしまった」 そういうと苦笑して、自分が座っている車椅子を軽く叩く。 「車輪を向けてしまったという方が正しいかな?」 「笑えませんって、それ」 「はは、それもそうだね。いやはや、すまない」 朗らかな姿も、昔のままだ。 「誠一。居ないと思ったら、こんな所に」 「勝手に抜け出して悪いな。軽く見て回ってたんだ」 「そう。……お父様と話をしていたの?」 「誠一君とばったり会ってね。つい懐かしくて話が弾んでしまった」 「来たばかりなのに、付き合わせて悪かったわね。お父様、人に飢えてるから話が長いのよ」 「おいおい、父親に向かってそれは酷いな」 「そんな事を言って。今日は夕食の席で誠一と話をするからそれまでは休んで体力を取っておくと言っていたでしょう?それが、どうしてこんな所にいて、立ち話しているのよ」 「そう……だったんですか?」 「あ、うん。まあ……そうだね。この体になってからというもの、どうしても体力の衰えは隠せなくて……」 「だが零、一つだけ訂正をしておく。私はこうして座っているんだ。立ち話じゃない」 「屁理屈を言わないの。誠一は立たせたままだわ」 「……それは……そうだったね。いやはや、すまない」 「まったくもう」 「……相変わらず二人とも仲いいんですね」 「ほら、呆れられてるじゃない」 「いやいや、これは褒められているのだよ」 「そうですね……うん、多分」 そう言いながらも変わって無くて安心した。 こっちに来るのはわずか数年ぶりとはいえ、駅前にあった店も無くなっていた。 変わらないで欲しいと思っていた物が、そのまま残っているのは、とても嬉しく思う。 「それじゃ戻りますか。こんな所に居ても――」 「誠一君、生き人形を見ていくかね」 「ちょっと」 「……彼は当事者だ。見ておく権利はある」 「まあ、儀式の時にいきなり見せられるよりは、心構えも出来ますから、俺としては願ったりですけど」 「そうか……では、零」 「…………仕方ないわね」 ため息と共に零が鍵を取り出す。 「零が鍵を持ってるのか?」 「私がこうだからね」 「……あ」 なるほど、確かに車椅子のままで何かを管理するのは非常に不便そうだ。 零なら肌身離さず持っていたとしても、大して負担にはならない。 零が鍵を開けて、俺達に場所を譲る。 「お父様はこういう空気の悪い所に、あまり長居するのは良くないわ」 「分かっているよ。誠一君に見せたらすぐに部屋に戻ろう」 「……分かってればいいのよ。さ、誠一、どうぞ」 零に促されて、その部屋に入った。 「……これが……」 そこには一体の人形が座っていた。 人形の顔には当然ながら生気はなく、本当にただの人形なのだと理解できる。 「リアリティあってよくできてますけど……。生きてるんですか? これ」 「……生きてはいないね。人形だよ。やはり。ただ、生きていたという伝承がある」 「あ……そうですよね。変な事を聞きました」 「人形は中身のない空っぽの物よ。そこに何がある訳でもないし、ましてや人のような感情もない」 「でもそこに魂を降ろして、人として扱うのが儀式の内容。……とはいえ、別に怪しい事をする訳ではないけれどね」 「そうなのか」 「ずっと座っているだけの退屈な物だよ。私がこうじゃなかったら、誠一君にお願いしなくても済んだのだけれど……」 「……無理を言わないでちょうだい。誠一なら足がしびれたで済む話でも、今のお父様がやったら命にかかわるわ」 「そうなんですか?」 「大げさだとは言うのだけれどね。どうも体を壊してからは血栓ができやすくなっているらしい」 「ケッセン……?」 「血が血管の中で固まって、その塊がふさいでしまうんだ。どうという事のない場所なら問題がないけれど、重要器官に繋がってる場所が塞がれたら、命にかかわる」 「だから、車椅子の移動もあまりして欲しくないのよね」 「寝ていても同じだから、そこは仕方ないよ。少しでも体を動かす必要がある」 「……なるほど」 そういう事情もあったのか。色々と納得だ。 「ともかく、人形を見られたのは良かったと思います。ありがとうございました」 「いや……礼には及ばないよ」 「……ところで誠一君」 「はい?」 「この人形、どう思うかな?」 「こいつですか?そうですね……」 「零に似てますよね。如月家の先祖がモチーフなんでしたっけ」 「そうみたいね。私達の先祖の容姿が元になってるらしいわ」 「後は……」 「着物でよく分からないけど、胸ないですよね。やっぱ人形だからでしょうか」 「…………」 「…………」 一瞬、空気が止まる。 「く、くく。ふふ、あははは」 そしておじさんが笑い始めた。 「これを前にして、そんな事を言うのか! あはは。やっぱり誠一君だなぁっ。あははは!」 「ちょ、ちょっと笑いすぎでしょ! 体に障るわ」 そんな事を言ってる零も、仕方ないという苦笑を浮かべている。 「そ、それは俺じゃなくてお前が――」 ……帰ってきて零を見た時に、思わず『胸でかくなったなぁ』なんて思ってしまったせいだ。 つい今しがたの事だったから、とっさに出てしまった。 「ふ、ふふふ。いや、楽しかったよ」 「そうだね、じゃあ仮に零が人形のフリをしていた時は、立派な物がついているかどうかを、見れば分かるという事だね」 「えーっと……そうですね。はい。確かに立派ですし」 「二人とも、それはセクハラというのよ。特にお父様。娘の胸をそういう風に言うのはやめて」 「いやすまないね。予想以上に楽しかったのでつい。あまり言うと洗濯物を一緒にするなと言われそうなので、この辺りで止めておこう」 「まったく……」 「二人とももういいでしょう。出ましょう」 「ああ、そうだな。家宝の前でアホな話をするもんでもないし」 「……それは、どうかしらね」 ぽつりと零が言う。 「こんな所から動けないこいつにとって、くだらない笑い話は案外楽しいのかもしれないわ」 零はおじさんを部屋へと送って行った。 何というか、色々と珍しい物を見せて貰った気がする。 生き人形もそうだし、おじさんの姿もそうだ。零が人形に向ける視線や言葉は、どこか複雑そうで、彼女が如月家に抱いている想いも、垣間見えた気がする。 この突然の頼みも含めて、どうなるか分からなかったが……。 あまり気負わずに出来そうな気がしてきていた。 翌朝、朝食の席にはおじさんの姿もあった。 「おはようございます。体大丈夫ですか?」 「そこまで心配して貰う程のものではないよ。昨日は夕食にも出られなかったからね。少しでも誠一君と会っておきたかったんだ」 「……あんな所ではしゃいだりするからでしょう。自業自得よ」 深々とため息をついている。 「サエ、後で街の方に行こうと思うの。車を出して貰える?」 「かしこまりました」 「ちょっと待ちなさい。何をしに行くんだ?」 「誠一が三日分しか着替えを持って来てないと言うのよ。買いに行かないと困るでしょう」 「洗濯をすれば済むのではないかな」 「夏休み一杯滞在させようと思うの。悪いかしら」 「それは……悪くはないが。誠一君はどうなんだい?」 「俺としては別に。迷惑にならないんだったら、お世話になろうと思ってます」 「そうか……わかった。私は構わない。でも零が行くのは止めなさい」 「どうして?」 「今日は確か登校日だったはずだ。誠一君と一緒にいるためにサボるつもりかな」 「……別に登校日なんていかなくても構わない話でしょう。どちらが優先度高いかなんて一目瞭然だわ」 「なら誠一君に決めて貰おう」 「え、俺ですか?」 話を振られてしまった……。 「えっと……まあ、長くいる事になった訳だし、登校日なら行ってきた方がいいんじゃないか?」 「ほらみろ」 「……むぅ」 零が顔を赤くしてこっちを睨む。 今更そんな可愛い顔をされても困る。 「わかったわよ。サエ、車は出して貰うわ。買い物は一葉に頼んでも構わないかしら」 「はい。かしこまりました!」 「お、俺は?」 自分の買い物のはずなのに、ハブられてしまった。 「屋敷に残ってお留守番。お父様のお世話でもしていてちょうだい」 「では行ってくるわ」 欠片も行きたくなさそうな顔をしている。 「では留守をよろしくお願いします!」 「あの……ほんとごめん。俺の買い物なのに一葉ちゃんに頼む事になるなんて……」 「大丈夫です! 大船に乗った気持ちでお任せください!何と言っても敏腕メイドですから!」 「そうか……配膳やシーツの取り換えもすごい手際だったし任せても大丈夫そうだな……」 「はいっ。下着などもきちんとお嬢様と共用できるようにして無駄がないように努めます!」 「ちょっと待て」 「えっと、わたしと共用できるようにした方がいいですか?ですがそれはさすがに……ちょっと……」 「そういう話じゃないだろっ」 「放っておいていいわよ。一葉は誠一に甘えているだけだから」 「なっ、なな、何を言われるのですかっ!」 「時間が無いわ。そろそろ行きましょう」 「はい。お嬢様」 「一葉も行きますよ。戻られてから、誠一さんとゆっくり遊ぶのがよろしいでしょう」 「お婆様まで! そういうんじゃないんですからっ!」 「……あ、うん……それじゃ、行ってらっしゃい……」 何を言っても気まずくなりそうで、黙って送り出すだけにした。 屋敷の中は静寂に包まれていた。 ……当然か。 元々人間がいないこの屋敷の中で、今は部屋から出られないおじさんと、俺しかいない。 そして、久々に帰ってきたばかりで、しかも屋敷の業務にも明るくない俺が出来る事なんて、何もない。 (零なりの気遣いなのか?) 昨日こっちに来たばかりの俺に、休めと言ってるのだろう。 「…………どうしよう」 屋敷に掛かってきたという事は、如月家の住人宛てだ。 おじさんは部屋に戻っているから、取り次ぐためにもとりあえず出なくてはいけないだろう。 「…………よし」 待っていたら切れてしまうかもしれない。 意を決して、受話器に手を伸ばした。 ………………………………。 ……………………。 …………その結果……。 (……どうしてこうなった……) 俺は屋敷に唯一残ってる人間として、おじさんと共に来客を迎える事になっていた。 目の前にはでっぷりと太ったおっさんがいる。 外があまりにも暑かったのか、ハンカチで何度も顔を拭っている。 気持ちは分かるが、あまりにも汗をかきすぎたせいなのかそのハンカチは既にびしょびしょになっている。 神無月家の当主だ。 ちなみに事前に聞いた話によると、彼は肝心の儀式そのものには出ないらしい。 「だから言っているであろう? このような前時代的な儀式など今すぐ中止すべきだと」 「……その話は以前にも伺っているが?」 「分かっていないようだから、言いに来たのだ。しかも……このような若造を呼び出すとは」 「誠一君に何か問題でも? 彼は私が頼んで来て貰った。ならば文句があるならこちらに言いなさい」 「問題だと? 無い訳がないだろう。如月本家で行われる物に、今や何ら関係のない卯月の人間を出す事に、何も問題ない訳がなかろうが」 「そちらは儀式など行うべきではないと言っていたのでは?」 「無論、それは変わっておらん。が、行うなら行うで話は別だ。分家筆頭として言わねばならん」 「止めろと言いつつ、行う場合は噛ませろという訳か。話にならないな」 「…………」 「なんだ、その生意気な目は。言いたい事があるならハッキリ言ってはどうなんだ?」 「では一つだけ」 いいですか? とおじさんに許可を求める。軽く頷いて、俺を促す。 「すごく暑そうですが、シャワーでも浴びていきますか?……あまり気は乗らないですけど、一人じゃ洗えないなら背中流してもいいですけど」 「……くっ」 笑いを漏らし、そして手で口元を抑えている。 「き、き、き、貴様ぁ……っ!」 激高して、立ち上がる。 その拍子に汗で濡れそぼったハンカチが落ちて、テーブルの上にびしゃりと音を立てた。 (…………うわ……) 夏場なんだから汗くらいはかくだろうけど……なんというか。 横に居た神無月家の執事が激高する主を押しとどめる。 やがて何とかなだめると、主人を追い出すように、一礼して退出していった。 ……もちろん、ハンカチは執事さんが回収してテーブルの拭き掃除もしていってくれている。 「…………はぁ……」 「ふふ、一言で黙らせるとは見事だったね」 「いや、その……見たままを言っただけだったんですが……」 「あそこで、それを言えるのが見事なんだよ。さて……次は誰かな」 「……いやもう、本当にごめんなさい」 俺が電話を取り次いでしまったばっかりに……。 おサエさんや零が、体調不良で全部断っていたらしい面会が俺が繋いでしまったせいで、自分も自分もと来たらしい。 本来ならこの辺りは全部放置で『会いたかったら儀式の場に直接来い』と言って誤魔化してたそうなのだが。 「次は……ええと、弥生家の御令嬢だそうですね。あれ? 当主じゃないんだ」 「あそこは娘が今は舵取りをしているんだ。実質、当主が来るようなものだよ」 「美人だけれど気が強いと評判でね。君も気を付けるといい」 「……マジですか……」 何とも気が重くなるのだった。 その後も――。 『儀式を広く開放して、無形文化財として――』 「お引き取り下さい」 『卯月家の人間を出すくらいなら、うちの息子を――』 「そういう関係を求めないから俺が呼ばれたんです」 『あぁら? あなた。ちょっといい子じゃなぁい?今晩空いてる?』 「……すみません。なんのために来られたんでしょうか」 ……その後は徹底的に無視したおかげで、昼を過ぎた頃には落ち着いたものの、すっかり疲れ果ててしまった。 「……いやはや、まいったね」 「もう……本当に……」 「さて、そろそろサエ達も帰ってくる頃だ。誠一君、食事が出来たら呼びに行かせるから、ゆっくりと休んでほしい」 「おじさんこそ……あ、ベッドまでお手伝いしますよ」 「そうかい? 助かるよ」 車椅子を押して隣の部屋に向かう。 その時に、不意におじさんが言った。 「疲れたけどね、少し楽しかった」 「そう……ですか? そんな気を遣ってくれなくても……」 「いや、本心だよ。うちには娘しかいないからね。息子という存在には憧れを持っていた」 「アレも……零の母親もあの時に亡くしてしまったからね。私もこんな体では、もう子供も望めない」 「だからという訳ではないが、諦めていた所があってね。後は零が誰か見つけてくれればと思っていたが……」 「……ふふ、まあ、ああいう子だからね。私もあまり期待はしていなかった」 「あいつ、見た目も性格もいいから、相手なら見つかると思いますけど」 「君がそうなってくれればいいと、今日はハッキリと思ったよ」 「う――お、俺ですか? 嫌な訳じゃないですけど……」 「今のままの関係の方が気楽かな?」 「それは……ありますが、具体的に考えた事がなかったというのが正しいです」 「では、良かったらでいいのだけれど、考えておいてはくれないかな」 「……考えるだけでいいのでしたら」 「今は、それで構わないよ」 「……と、話し込んでいたら私も疲れを思い出してしまったな。すまない、やはり夕飯まで休んでいる」 「分かりました。おサエさん達が戻ったら、そう伝えておきます」 「頼むよ」 それから着替えを手伝い、ベッドに入る介添えをして部屋を出た。 「はぁぁ……つっかれたぁ……」 それにしても、本当に色々な人がきた。 アレが全部如月の分家で、つまりは俺とも血がつながってるという事実に、改めて打ちのめされた。 なんというか……うん。親父正解。 如月家と縁を切って、快適な暮らしを送るという方がうちの性に合っている。 「でもなぁ……」 ……息子みたいだと言われた時は、嬉しかった。 昔からお世話になっていたから、当時は第二の父親のように感じていたのも確かだ。 それに零の事も、もちろん嫌いじゃない。 男女として意識するか? と言われると、それはまた別問題だけど……。 「…………」 まあ、本人が居ない所でこんな事を考えても仕方がない。 「……まあ、いいか。今は……」 おじさんが休んでる以上、俺が部屋に戻るとこの屋敷からは誰も居なくなってしまう。 ソファーを借りて、少しだけ休んでるとしよう……。 「あ……れ……?」 廊下を歩いている。 ロビーで寝ていたはずなのに……どうしてだろう……。 廊下の奥へと向かって、重い体を引きずっている。 体が言う事を聞かない。奥へ奥へと誘われている。 カチリと部屋の鍵が開いた。 扉が開いて、俺を招き入れている。 そこは人形の置かれた所。 如月の生き人形が、生気のない目で俺を見ている。 (零……) その容姿はあまりにも似すぎている。 先ほどの言葉が、俺の頭の中をよぎる。 俺が……零と……。 目の前の女から目が離せない。 その女の容姿は零に酷似していて、そして俺の事を真っ直ぐ見据えている。 彼女を取り巻く結界の柱に、名が記されている。 「…………」 手で顔に触れる。固い木の感触。 顔を近づける。吐息が触れる程の距離。 唇が触れ合う程に、近く。 その女の名は――。 「…………紅……」 「――――!!」 弾かれたように、飛び起きた。 夢の中であった事なのか、それともリアルな現実なのか分からない。 思わず口元に手を当ててしまう。何かしらの感触が残っているような気がする。 「…………なんだったんだ……」 「おはよう。よく眠れたかしら」 「あれ……零?」 制服を着たままの零がいる。いつの間にか帰って来ていたようだ。 「そんな所で寝ているなんてどうしたの?」 「ちょっとだけ休んでるはずが、すっかり熟睡してたのか……」 俺が寝ていたソファーの下には、タオルケットが落ちている。 ……わざわざかけてくれたのか。 「おサエさんや一葉ちゃんは?」 「とっくに戻ってきているわよ。一葉は誠一の買い物を部屋に置いて来ていたから、起きたなら見てくれば?」 「そう……だな……そうする」 「所で変な事を聞くけど……あの人形のいる部屋って、中から鍵を開けられたりするのか?」 「……本当に変な事を聞くわね」 「中に人形しかないんだから、開けられる訳ないじゃない」 「そう……だよな。うん、やっぱり夢だ。悪いな、変な夢見ちまって現実感なかったんだ」 「変な所で寝ているからよ。部屋に戻って寝なおしてきたら?」 「そうするかな。精神的に疲れたから夢見が悪かったのかも知れないし。……あ」 「なに。今度はどうしたの?」 「おじさんから伝言。夕食まで休んでるって」 「分かったわ」 部屋に戻る。テーブルの上に袋に入って、俺の着替えやら何やらが置かれている。 「……まったく」 中を見て苦笑する。 事前に言っていたような冗談の物は入っていなくて、似合いそうなのを選んでくれたらしい、様々な衣服が入っていた。 『誠一、起きてる?』 「ああ」 今日は儀式の日だ。昨日は早めに休ませて貰ったおかげか、零に起こされるよりも先に目が覚めていた。 「おはよう。元気そうね」 「おかげさまで。体調もばっちりだ」 「そう……よかったわ。これが今日の衣装。着付けは平気よね?」 「た、多分」 「入る前に改めて確認するから大丈夫よ」 「それじゃ準備が出来たら廊下に出て来てちょうだい」 「零も何か仕度あるのか?」 「私は入り口の方で客を誘導しているわ。サエだけじゃ任せられない相手もいるから」 「……なるほど」 昨日来た分家の人たちを思い出す。アクの強い人だった。 あの人達を止めるとしたら、おサエさんでも難しいだろう。如月家の人間という肩書は必要だ。 「頑張ってくれ……本当に」 実感が篭っていたのだろう。零は笑いながら言った。 「ええ。あなたもね」 ……祝詞が室内に流れている。 男性の声で朗々と唱えられる祝詞が、厳かな雰囲気に拍車をかけている。 「…………」 でも、なんだか聞き覚えがあるような……。 室内に流れる荘厳な響きも、この重苦しい雰囲気を強めている。 傍らにあるのは紅。あの時見たままの姿でたたずんでいる。 (……紅?) 自分の思考に違和感を抱いた。 名前は聞いていなかったはずだ。紅というのはどこから出てきた物だっただろう。 (ああ、そうか、あの夢の中で……) 無意識に見ていた光景なんだろうか。 ……いやでもそうすると、零に似ている人形に口づけをする夢なんて、欲求不満だと言われても仕方がない。 (……まあ、いい) ともかく儀式に出ている間は、少しでも集中する。 舞台となっている別棟の広間は、蝋燭の灯りだけで照らされ奥にいる人たちの顔は分からない。 でも長い時間ここに居れば目も慣れてくるもので……。 (あそこにいるの、昨日の女の人だ……) (あれ、弥生家のお姉さんか。妙に凄みのある人だったな) (で、一番反対していた神無月家の人が進行役に収まってるという訳か……) ……なんだこれ。 如月本家の大事な儀式だからと思って来てみれば、あちこちで政治闘争が行われているだけじゃないか。 同時に、自分に頼んできた真意が分かってしまった。 卯月家は一族内政治から外れた家だ。 違う土地に住んでるし、親父も系列企業にいないから、一族に睨まれたとしても全く怖くもなんともない。 そして、本家の儀式をやるという事は、それだけ本家に近いと思われる。 今は隣に座っているのが人形だが、本来は隣に零を置いて本当の結婚式にでもなっていたのかもしれない。 ……くだらない政治のために。 「――――」 そう思った時に、思わず立ち上がってしまっていた。 音が、止まる。 儀式に注目していた人。儀式なんてそっちのけで小声で話していた人。 全ての目が、俺に集まる。 「あ――」 勢いでやってしまった……。 最前列にいるおじさんも、俺の行動に驚いているに違いない。 ……目が合った。 仕方ないねとばかりに苦笑し――頷く。 「…………」 好きにやっていいって事なんだろうか。 でも後々の事を考えると……。 (いや、いいか。全く関わりのない卯月家の人間だからこそ言える事もあるだろうし……) 「……真面目に参加されてる方は、あまりいないようですね」 言ってやった……言ってしまった。 奥の方が騒めき、さざ波のような音が広がってくる。 「今のこの場は、自分と――」 隣の生き人形を示す。 「彼女のための場であるはずです」 ええっと……それから……。 ちらりとおじさんの方を見る、車椅子に置かれた指を動かし俺と人形、それから舞台袖を示した。 (なるほど) 「――そういう訳ですので、自分たちは下がらせて頂きます。後は政治に興味ある方で進められますようにお願いします」 それだけ言い切って、生き人形に手を掛けた。 (おもっ!) 木で出来ているだけあってか、ずっしりと食い込んで重い。 乱雑に扱う訳にもいかず、なんとかお姫様だっこの形に整え舞台の袖を目指す。 (…………あれ?) その重さが、少しだけ楽になった。何時そうしたのか分からないが、人形の腕が俺に添えられていて、上手くバランスを取ってくれている。 「……ありがとな」 まあ、物言わぬ人形に言っても仕方ないのだけど。 そんな事を呟いていた。 「誠一! 何やっているのよ」 「……よう。つい……うっかり」 「うっかりじゃないでしょう! 本当にもう……」 「ま、まあ、やっちまった事だし。それにあいつら、如月の儀式なんてなんとも思ってないくせに、調子いい事ばかり言ってたからなぁ……」 「……まったく、これから誠一が面倒な事になるのよ。分かってる?」 「わ、分かってる……多分。それよりコレ、どうしたらいい? 部屋に戻しておくか?」 「そうね……」 零はどこか、睨み付けるように自分に酷似した顔の人形を見た。 「ここからなら、誠一の部屋に持って行ってちょうだい」 「今、人形の間に分家の連中が押し寄せてるわ。家宝を卯月家の人間に触らせるとは何事だと、それならうちが管理すると頭に血が上ってるもの」 「……どさくさに紛れて、とんでもない事を言い出していないか?」 「それが本音なんでしょう」 「それより早く。サエが抑えてるけど、こっちにも来るわ」 「わ、わかった」 「そして誠一。分かっていると思うけれど、その人形に対して絶対に変な事をしてはダメよ」 「しねぇよ!」 反射的に言い返したが――。 夢の中での事を思い出して、内心の動揺は抑えられないのだった。 「お、重い……」 部屋に帰ってくる頃には、両腕に力が入らなくなっていた。 「はぁ……はぁ……」 人形をソファの上に下ろし、落ちないように慎重に重心を整える。 人形の間では普通に座らせていたようだったが、この部屋でそれをやると床の上に置いておくしかない。 ……何となくそれが嫌で、座らせる形になっている。 「……つっかれたぁ……」 見た目以上の重さは、目の前のコレが人形だと実感する。 「そういや、今日はもうここから出るなと言ってたよな……」 俺を人前に出す訳にも行かないし、儀式がそういう流れになっているようだった。 「……ふぅ……」 着替えて休んでるとしよう。 もう儀式は自分がぶっ潰したようなものだから、音を立てないようにトイレも済ませ、空腹は我慢する事で今日一日はここにひきこもるつもりになっていた。 「紅は、明日部屋に帰してやるからな」 ベッドの上に身を投げ出す。 ゲームも何もないのでは、携帯でネットを見ているか寝てしまうしかない。 ……目を閉じる。 そうすると、儀式の疲れもあってかすんなり眠気が……。 ………………。 …………。 ……来ない……。 ……まだ日も高いもんな。当たり前か。 「…………あれ?」 紅の首、こっち向いてたっけ? 横に向けると固定出来ないから、違う方向を向いてたような。 向きを直して、ベッドに戻る。 ……暇つぶしにネットでもしていよう。 「…………?」 ふと視線を感じて振り返ると、紅がやっぱりこっちを見ている。 「…………」 先ほどと違って、その体が俺のいる方に身を乗り出すようになっている。 「……おかしいな」 ソファとベッドでは距離がある。寝転がってるうちにぶつかって体勢がずれてしまったなんてことがある訳ないし……。 「……まあ、いいか」 紅の身体を元のように戻す。 ……何となく気になるから、バスタオルを上からかけておいた。 ――ガシャン。 「うお――!!」 突然の物音にベッドから飛び起きる。 ネット見ながらウトウトしてたのに、目が覚めてしまった。 床の上に紅が倒れ伏している。 「しまったぁ……安定性悪かったかな」 頭の上のバスタオルを取り払い、顔や体を確かめてみる。 ……うん。よし。傷はついてないな綺麗なままだ。 しかし、こうなるとソファはまずい。となると……。 「……寝かせておくか」 そうすれば、視線が気になる事も床に落ちる事もないだろう。 着物は、変な事をするなと釘を刺されてるので、そのままだ。 ベッドの半分を明け渡し、隣に寝転がる。 「…………」 落ち着かない。 俺がソファに移るとしよう。 「……これでよし……と」 紆余曲折あったが、やっと落ち着いた。 後は、ひと眠りしていよう……。 「う……ぐ……」 寝苦しさに、目が覚める。 体が拘束されていて、身動きが取れない。 寝返りすら打てないのは異常で、自分がどんな姿勢になっているのか分からなかった。 「…………?」 隣を見る、そこには女の顔があった。 「――――――!!」 悲鳴を噛み殺し――そして思い出す。隣に置いておいた人形の事を。 「…………ったく……」 自分の体の上にかぶさっている人形をどかした。 ベッドの上に丁寧において、一息つく。 「……こりゃダメだ」 この人形を部屋に置いといたら、とてもじゃないけど安眠する事は出来ない。 「さすがにもう大丈夫だよな……」 時刻は深夜を大きく回っている。そろそろ分家の連中も帰った頃だろう。 人形を抱えて、廊下に出る。 人形の間が開いていたらそこに、開いてなかったら申し訳ないけど、零の所に置かせて貰おう。 人形の間の鍵は開いていて、すんなりと開けられた。 「……よかった」 紅を一度廊下におろす。倒れないように壁にもたれ掛るようにして、扉を目いっぱい開いた。 「さて、後は――」 「ありがとう、誠一。ここまで連れてきてくれて」 「――――ぐっ!?」 不意に、背後から抱きしめられる。 頭が混乱して上手く働かない。首に回された手で――息が、詰まる。 「あ、ぐっ!」 ギリギリと締まる腕から逃れようと。そして酸素を求めて、大きく口を開く。 (人形の、腕……?) 自分を締め上げる腕は固く、頑丈に出来ていた。 人間の物ではありえない腕力に加えて、木で出来た腕ががっちりと食い込んで離れない。 「お前、は……」 目の前が暗くなる。 倒れ伏す直前――。 女の笑みが、強く印象に残っていた。 「ふふ、くすくす――」 何か、耳に甘い吐息が聞こえる。 「……ん……んん……」 現実味がない……。 確か直前まで、俺は……。 (確か、部屋で、寝ていて……) 今はどこだろう。ベッドはこんなに硬かっただろうか。 うっすらと開けた先には……。 「…………」 女の上半身があった。 白く、艶めかしい素肌。 柔らかくしなやかな肉体。 そんなものが俺の身体の上に圧し掛かっている。 服ははだけて、月明かりに白い肌が浮かんでいる。 (……夢……か?) 人形と一緒の部屋で寝てしまっていたからだろうか。 零に酷似した少女の身体が、俺の首筋に口づけている。 俺の服も脱がされていて、お互いの素肌が絡み合う。 ペニスが痛いほどに勃起している。いつからこうした緩やかな責め苦を受けていたのだろう。 女は手を出さず、俺が起きるのを待っている。 ……夢なのだとしたら、とても都合がいいのも納得だ。 肝心かなめの部分は俺にやらせてくれるというのだから……。 その顔は零だ。 零が俺に圧し掛かっている。 昨日、あんな事を言われたからだろうか。零を女として意識してしまってるのかもしれない。 俺は、目の前にいる女を――。 ――――どん!! 気が付けば、女を突き放していた。 急速に意識が覚醒する。ここは人形の間だ。俺の部屋じゃない! 「ふふ、情をかわそうとした女に酷い事をするのね」 「お前――は――」 「ええ、そうよ。私は」 「紅……か」 俺が先に名を告げると、紅はにんまりと笑みを浮かべる。 その表情は零ではありえないものだ。 妖艶で――どこか酷薄な、笑み。 「よく分かったわね。少し驚いたわ」 そしてちろりと自分の唇を舐め上げる。 「精を貰えなかったのは残念だけれど、その口づけだけで今は我慢しておいてあげる」 「ふふ、でも……どう? 誠一も今は我慢しているのでしょう。ここであなたを受け入れてあげてもいいのよ」 「……止めてくれ。零と同じ顔でそんな事を言うのは」 「同じではないわ。ただ似ているだけ。違う部分もある」 「もしかしてそれなのかしら。あなたが私を拒否し、違うと気づいた理由は」 「……見分け方は聞いていたからな」 「へぇ?」 紅のその部分を指差してやる。そして一息にいった。 「胸が無い方がお前だ」 「………………」 紅は呆気に捕らわれた表情をして、自らの身体を見下ろす。 「……ええと……本気で言っているの?」 「もちろんだ。あいつは胸もデカい。服の上からでも分かる。そんな平たい体をしていない」 「もっとこう……恐れたとか、言動が違うのが根拠だったりそういう部分ではないのね……」 「そういう考え方も、あるかもしれないな!」 「……ふ、ふふ。あははっ。面白いわね。誠一は恐怖、違和感、困惑を押し殺しながらもそこまで言うのだわ」 「からかわれている私が怒り狂い、殺してしまうかもしれないその可能性を感じながらも、あえて言ってのけている」 「やっぱりあなた好きよ。気に入ったわ。ねぇ、今からでもどうかしら? 私に精を貰えない?」 「……悪いけど、さすがに出来ない」 あのまま流されていたら……どうだっただろう?分からない。 でも、さすがに今となっては無理だ。 「ふふ、残念。でも予想通り。やっぱりあなたは面白いわね」 「…………?」 その口ぶりは、まるで俺を前から知っているかのようだ。 ……いや、知ってるのか。如月家の生き人形がこいつなら、俺は子供の頃から出入りしている訳だし。 「でも……そうね。誠一に免じて、望みはかなえてあげようかしら」 「望み? 俺に望みなんて無いぞ」 「……ふふ。そう? あの場に来ていた人間達――邪魔に思っているのよね?」 「――――」 瞬間的に、背筋に氷柱を突っ込まれたかのように、全身の体温が下がった――気がした。 悪寒が走る。冷汗が流れてきて止まらない。 それは、事実だったからだ。 おじさんに息子みたいだと言って貰えて、嬉しかった。 でも零の境遇が気になった。 彼女は今のままではここから離れられない。支える事を考えたとしても、足を引っ張る親族が山ほどいる。 ――こいつらさえ居なければ。 そんな風にも思ってしまっている。 ……その反発心が、儀式の席で出席者のメンツを潰すなんて行動にも出てしまっている。 紅はあの場にも同席している。 こいつが人形を超えた知性を持っていて、更には人間の感情も理解していると言うなら、分かっているのだろう。 「……そんな事は、望んでない」 「嘘よ」 「絶対にダメだ。止めてくれ」 「それも嘘。心のどこかで、そうなった方が手っ取り早いと思っている」 「だとしてもダメだ!」 「ダメと言い続けていれば、責任は全て私だものね。誠一はそれで正しいのよ」 「そんな話はしていないっ!!」 「ふふ、あはは。どうしたの誠一。先ほどと違って余裕がなくなってしまったわ」 「もっと楽しませて? 私が予想しない事をしてちょうだい。余裕を失くして激高するなんて、誠一らしくないわ」 「……なら、俺からお前にも聞いてやる」 「ふふ、なぁに?」 「お前は一体何がしたいんだ?」 「私? 今話したでしょう?誠一が憎いと思った連中を――」 「それは俺が考えてしまった事だろう。お前じゃない」 「――――」 紅から表情が消える。 「俺を言い訳に使うな……!お前と話す事は何もない」 「……そう」 紅の全身に糸が巻き付いていく。 糸が伸び、床に落ちた緋色の着物を取り込んでいく。 一瞬の後には、人形だった頃と変わらない着物姿の紅になっていた。 「理解して貰えなかったのは残念だわ」 そうしてするりと人形の間を出ていく。 「お、おい――!」 紅をここに閉じ込めないと! 焦る俺を尻目に、紅が廊下の窓を開ける。そこから身を乗り出し――。 「待て! どこに――」 言い終わる前に、夜の闇に飛び出していた。 身を乗り出し、姿を探す。 だが、紅の姿は夜の闇に紛れて、どこにも見つけられなかった……。 ……それからすぐに零を起こしにいき、今見た事などを話した。 「…………そう」 たっぷりと時間をかけて、ため息と共に吐き出す。 この場に居るのは零だけだ。体の悪いおじさんを叩き起こすのも迷い、まずは零だけに話をしていた。 「誠一のせいではないわ。アレはそういうモノなのよ」 「そういうモノ?」 「……ええ」 そして零は話し始めた。 如月家の由来。神との契約の話。 人間を観察する人形の事……。 どれもこれも荒唐無稽のはずなのに、頭の中に妙にすんなりと入り込んでくる。 紅と直に話して、感じ取っていたからだろうか。 彼女は俺が得た望みをかなえようとしている。 それが正しいか、間違っているか。その後にどうなるかは一切考慮していない。 ただ、目の前にいるモノの心を映しだす鏡のようだ。 「シミュラクル」 「鏡像……模造品ともいわれる中身のない外側だけの存在。アレがそうよ。人を理解できない怪物が用意した、人の真似をするだけの木偶人形」 「人の想いを受け取って、返す事しか出来ない存在。本来なら大勢の人の前に出すなんてまっぴらごめんだわ」 「……どうして、儀式なんて行うんだ?壊せないにしても、閉じ込めておけばいいと思うんだけど」 「魂を人形に移してる間は、怪物は動かないと言われている。これは今言ったわよね」 「ああ」 「では魂を移す場合は、どうかしら?」 「相手は中身を持たない人形に過ぎない。怪物の一部を分け与えた所で、それでは怪物の魂の一部を持った人形にしかならないわ」 「……怪物の目的は、自らの土地に足を踏み入れた人間を知る事……か。自分自身が分身となって人の世界で暴れても目的は果たせない……」 「その場合、出来るだけ大勢の人間の元で降ろした方がいいとされている。一人だけと深く接するのは良くないから、誠一が誘いを断ったのは正解ね」 「それも何か理由が?」 「中身がないと言ったでしょう。一人だけの影響を強く受けると、その人間の内面を写して暴走すると言われてるのよ」 「……なるほど」 多分、先ほどはそれに近い状態だったんじゃないかと思う。 考えれば考える程、危なかった訳だ。 「本当にごめんなさい」 零が頭を下げる。 「なんで謝るんだよ。それは紅の……あいつのせいだろ」 「誠一の部屋に連れていくように言ったのは私だわ。儀式も中途半端。名も体液も与えていない。そんな状態で動きだすなんて思わなかった」 「見込みが甘すぎたわ……本当に謝る事しか出来ないわ」 「いや、それは……」 俺はあいつが紅だと知っていた。 どこで知った? ……ロビーで寝ていた時の夢の中でだ。 アレは本当に夢だったのか?今になってそんな事を思い始めている。 「とにかく零が謝る事じゃない。あいつの対処を考えないと」 「でも……」 「デモも何もない。何かするにしても……あいつが動くまで何も出来ないのか……」 「目が覚めたばかりの紅は、動けるようになるまで時間がかかると言われているわ」 「森の中に逃げたのなら、朝になる頃には人形に戻っているかもしれない」 「そこを叩ければチャンスはあると……」 「あくまで可能性だけれど、勝算が無い訳ではないわね」 「……でも、さっきの話からすると、紅を破壊した場合……」 「…………そうね」 「ただの人形になっているなら、回収してまた部屋に閉じ込めておけばいいんじゃないか? 代々そうして来てるんだろ?」 「その通りよ。降ろされた魂も消耗し、取り込んだ体液も薄れて消えていく。人形に戻るまで閉じ込めてしまえば、また数年の猶予が出来る」 「…………そうするしかないか」 だが……あくまで猶予だ。 解決ではない。 数年後の猶予が生まれ、そして零はその猶予の間に次の対策を考えていく。 この家を、別の誰かに渡さない事。 協力者を増やす事。 あるいは……相手が知らなかったとしても、巻き込む事。 そして、猶予を与えられて乗り切ったとしても、その先に待っているのは、次の猶予期間だけだ。 「……気にしないで誠一。お父様もそうだった。一葉の実家……長月の人達はそんなお父様に協力をしていたそうよ」 「そうなのか……?」 「ええ、けれど、その結果があの火災になってしまった。紅を滅ぼそうという意識が、我が身を焼いた。でもそれもあって、少しずつ分かってきている」 「……何が?」 「対処法が」 零が強く断言する。 「人の心を映すという事は、人間の力で制御が出来る可能性も示している。そして人形を通じて人を知ろうとしているならそちらに教えてやればいい」 「人は神なんて必要としていない。住処を分けて貰った事に感謝はあれども、一方的な支配は望んでいない」 「人の世界には関わらないで居て欲しい、と」 「……気の長い話になりそうだ」 「それは仕方ないわ」 零は苦笑する。 「だって、それだけの年月を人はここで過ごしているのだから」 翌日、昼を前に森に来ていた。 「人海戦術が出来ればいいんだけど……」 「その場合はお題目をどうするかよね」 「外部から人が入って盗まれた形にして、警察に頼むというのは?」 「大事になるのに目を瞑れば、良い手だとは思うわ」 「ただし、紅は自分を追う人間が多ければ多いほど、選択肢が増えていく。そこをどうするかね」 「……そうか……」 紅は自分を人の心……魂を写す鏡だという。 つまり、彼女の心は全て接触した人間が決めている事になる。 例えば殺意で凝り固まった人間だけを紅に接触させた場合、その想いを汲み取り、人を殺す怪物が出来上がる。 疑心暗鬼に捕らわれた人間なら、相手に疑念を振りまく存在になってしまう。 大勢の警察が『油断の出来ない犯罪者』として追い回したなら一体どうなってしまうのか……。 あまり良い事にはならないだろう。 だが当然紅にも知能がある。 自分でそれを仕掛けて、自らの選択肢を増やすなんて事も平然とやってのけるだろう。 「……ところで、一つ確認しておきたいんだけど」 「何かしら」 「俺の滞在を伸ばして欲しいって言ってたよな。で、儀式は俺が出る事になっている」 「紅は俺の影響を強く受ける事が分かっていた訳だ。その状態で俺に長く居て欲しいという事は……」 「……そう、ね。誠一の立場からだと納得できないわよね」 「別にそういう訳じゃない。ただ、気になった……いや、想像は出来てるんだ。零の口からはっきりと教えて貰いたい」 俺の滞在延長を言い出した時、おじさんも二つ返事で頷いていた。 という事は向こうも知っていたか、事情を把握した上で俺が居た方がいいと判断したことになる。 どう考えてその提案をしたのか……。 零自身に語って欲しかった。 「昨日、対処法があると言っていたわよね」 「ああ。紅の行動を限定して、紅を通して見ているのなら向こうに人がどういう存在か教えてやれって話だろ?」 「向こうは覗き見ている。ならその対象が、平和的でユーモアを忘れずに、明るく前向き。それでいて他人に憎しみを持つ事がない人物だとしたら、どうかしら」 「なんだその聖人君子? そんな奴がいる訳が――」 ……いや、実際にどうかは知らないが、零の言うポジションに当て嵌まってる人物はいる。 「……俺?」 「ええ。そうよ」 「マジかよ……」 思わず深々とため息がこぼれた。 「買いかぶりすぎだ」 「だけれど、私もお父様もそうは思わなかった。如月家の誰がやるよりも、適任だと思ったのよ」 「だとしてもなぁ」 「実際昨夜の話を聞くと、誠一は紅と面と向かいながらも向こうに翻弄され続ける事なく、飲み込まれる事なく、そして誘惑にも負ける事がなかった」 「それはすごい事なのよ」 「やっぱり買いかぶりすぎだ」 「そうかしらね。でも……うちでは出来ない。分家の人間も……欲望に塗れていて、すぐには候補者が見つからない」 「誠一に頼んだのは、昔の思い出に縋るような気持ちだったのも否定はしない。怒られても仕方ないし、そのために何を要求されても拒否は出来ないわ」 「……な、何を要求……」 「ええ、何もかもよ」 「…………」 思わず、零の身体に目がいってしまう。 いや別に体をよこせなんて鬼畜な事を言うつもりはない。 でも、昨夜、紅にあんな事を言ってしまっただけに、ついつい意識が向かってしまう。 「…………そんなに良い物なのかしら。これ」 零は自分の胸を両手で持ち上げて見せる。 「い、いや――そこまでは」 「別に構わないわよ」 「ほらな。お前だってそういう――」 「そういうことを言うんじゃない!」 「……言ってる事が正反対だわ」 呆れられても困る。いきなり爆弾発言を聞かされたこっちの身にもなって欲しい。 「誠一に真面目に考えて貰いたいのだけれど、いい?」 「あ、ああ」 「私の将来はどうなると思う?」 「お前の未来……如月家のお嬢様で家柄は問題ないし、美人で性格も良いし、家事……が出来るかどうかは知らないけど、別に覚えなくていい環境だし、明るい未来が待ってる」 「……と、思ってた。これまでは」 「ずいぶん褒めてくれるのね」 「見たまま分かる事で嘘ついても仕方ないだろ」 そして、今さら照れたり困惑したり、強がったりするような仲ではない。 大財閥の如月家という看板は、それだけ重い。 例え子供じみた照れ隠しであったとしても、零に対して直接的な言葉にするという事は、それなりの重みを伴い両家も巻き込んだ事態になってしまう。 それが分かっているからか、零に対しての照れは持たなくなっている。 「でも今は違っている。如月家がどれだけ金持ちに見えても全く羨ましいと思わない」 「零は一生をかけて、得体の知れない化け物を抑え続けるだけの、重しのような役割が待ってると知ったからな……」 「……そうね」 「零は自分の役目を終わらせることが出来ないと思ってる。違うか?」 「その通りだわ……次代に引き継がなくてはならない。でもその場合、相手になるのは、そんな人生であっても今よりマシと考えるような者……」 「あるいは、それでも立場が欲しいと思う者。……さらには相手にも内緒にし続けるしかない……その辺りで考えておくしかないわね」 気が滅入る事だとため息を吐く。 「だから俺が欲しいと言ったら、それでも良いっていうのか?」 「相手が誠一なら、こちらに文句なんて言えないもの。少なくとも、人並みの青春は過ごしたと胸を張れるわ」 「……そんな事をしたら、俺がお前を見捨てられなくなると分かっていても?」 「そうは思わない。ただ誠一の性格なら、そうだろうとは思っている。だから、一生を共にしてくれるのが誠一なら私は構わないとしか言えないのよ」 「……お前の言葉はほんと分かりづらい」 「知らなかったの? この手の面倒な肩書の付いた家って迂闊に言質を取られてはいけないのよ」 「相手に問いかけ、更に返って来た言葉の確認。最後にまた返答を貰って、その上で自分の意思を汲んでくれたという形にしないと揚げ足を取られてしまうわ」 「……俺と話してる時くらい、やめてくれ」 「……それは嫌よ」 「どうして?」 「……恥ずかしいでしょ。馬鹿」 赤くなって、口元をとがらせている。 ……ああ、もう、やっぱり反則だと思う。 幼い頃からの付き合いだけに、こういう本心が見える仕草をされると、俺はこいつに勝てないんだと思い知らされる。 「……わかった。じゃあハッキリと言う」 一つ前置きをして言った。 「俺と結婚してくれ。俺の物になって欲しい。代わりに、死ぬまで零に寄り添い続ける」 「…………本気?」 「ああ」 「昨日の今日だもの。少し考えた方が良いと思うわ。今はそう言えても、いずれ後悔する時が――んんっ!?」 言葉で言っても分からない口を、自分の口でふさいだ。 「ちょ、ちょ、……ん、ぴちゃ……ちゅ。んんっ。まって……。誠一……ちゅ」 「待たない。口で言っても分からない奴には、どれだけ本気か教えないと」 「わ、わかった。分かったから――ん、んんっ」 零が言葉を聞かなかったように、俺も零の言葉なんて聞かずに唇を重ね続ける。 やがて抵抗する力が抜け、零の手がしがみついてくる。 「……ん、ちゅ、ぴちゃ……ん、くちゅ……」 「……ぷはぁ……っ! はぁ、はぁ……はぁ……」 お互いも息も絶え絶えになるまで重ね合わせ――やっと体を離す。 それでも互いに支え合ったまま、ぬくもりは感じ取れる距離のままだった。 「……こんなに強引だったなんて、知らなかったわ」 「お前にだけは言われたくない。人生掛かってる時に強情になりやがって」 「自分や他人の人生を賭けてるのよ?そこで強情を張らずにいつ張るのよ」 「俺の前では張らなくてもいいんだ!」 「――――」 「……お前の前にいるのは、如月家の事しか知らないような他の誰かじゃないだろ。そんな事も忘れちまっていいんだ」 「誠一って……本当に……」 「いい男だろ?」 「……物好きのアホだわ」 零は深々とため息をつくが――頬が赤くなっているのは誤魔化せていなかった。 「……まあ、議論している時間が惜しいから百歩譲って誠一の案に乗ってあげる事にしたわ」 「……そーすか」 不承不承といった感じだが、零にとってもそれが一番良いのは分かっているはずだ。 だが、俺を巻き込む事に自分自身が納得出来ていない。 それを愛情と呼ぶのなら、確かにそうなのだろうと思う。 でも、完全に『身内』とは思っていない愛情だ。 自らの背中を預け、共に歩む者としては考えてない。 ……まあ、それは別にいい。いきなり意識が変わる訳もないし、零にとって俺は自分が呼んだために巻き込まれた人間なのだろうから。 「でも……なんか俺達って色っぽい関係にならないよな」 「……何。今ここでしたいの?」 「そういう事じゃなくて!」 「冗談よ」 「全然わらえねぇから。それ……」 「……冗談って難しいわね」 零の場合はもっと根本的な部分でズレがある気がする。 「そうじゃなくて、こんな状況だとデートも出来ないだろ。それが勿体無いと思ってな……」 「そうね……誠一にやっと彼女が出来た記念日なのにね」 「零にやっと彼氏が出来た記念日なのにな」 「…………」 お互い無言でにらみ合う。 「……じゃあ、する? デート」 「今からか? どこで」 「今、ここでよ」 ばしゃばしゃと水音がする。 足元を流れる清流とせせらぎ。その中に交じって、水を蹴る音が響いてる。 「ふふ、ここの水はいつになっても冷たいわね」 止める間もなく、素足になった零が小沢に足を浸している。 普段は隠されているスカートから見える白い足が、なんとも艶めかしい……。 珍しく……といっても帰ってきてからの数日と、数年前の彼女しか知らないが、童心に帰っている姿が珍しく思える。 「ここの水って夏場でも冷たいよな。綺麗だし」 「水源に近いのよ。地中から湧き出したまま冷やされている」 言いながらも、水の中でぱしゃぱしゃと足で蹴っている。 今一瞬、下着が見えたような……。 「どうかしたの?」 「見てたら俺も入りたくなってきた」 「気持ちいいわよ?」 ズボンを脱ぐ訳にはいかないから、靴と靴下を脱いで足先だけ中に入れる。 「……本当だ」 「誠一もこっちまで入ってくればいいのに」 「下だけ脱いだ姿でか? ……さすがにやめてくれ」 「ふふ、それもそうね」 はしゃいでいるのか、妙に機嫌が良かった。 「ふふ、あはは。誠一、ほらほら魚いたわよ」 「あ~~、水が気持ちいいな」 森の中を歩いていたためか、足の裏に感じる石の感触が気持ちいい。 「昔もこうして遊んでいたわよね」 「あの頃は毎日来てたもんな」 「……山が近くでも海にも殆ど行った事なかったのよね」 「あの頃は如月家に家族旅行が無い理由が分からなかった。……今は想像できるけど」 「ええ……でも今はそんな話は無しにしましょう。せっかくだし楽しみましょう」 「ああ。だな」 暫く零と時間を取り戻すように、遊んでいた。 昔懐かしい、遠い過去と今を繋ぐように――。 でも、これから先の未来を考える事は……まだ出来なかった。 濡れた足を乾かし、靴を履く。 「さて、紅の行き先だよな……森の中を見て回るか?」 「……そうね……一通り回ってから屋敷に戻れば、ちょうど夕暮れ頃になるわ。それ以後は無理をしないようにしましょう」 「わかった」 日の暮れた森は人間の時間ではない。 出来るだけ人の時間のうちに、行動をしないといけないだろう。 「……居ないな」 「ええ」 窓から飛び降りて、あっという間に見えなくなる程の運動能力だ。 徒歩で行ける距離には居ないのかもしれない。 ただ、俺達もそう簡単に見つかるとは思っていない。 まずは居る所と居ない所を分けられるように、自分たちの活動範囲を広げていく。 紅が何を狙っているのか分からないが……。 会えた時にどうするかも、同時に考えておかなくてはいけなかった。 屋敷に戻る頃には、零の言う通り太陽が傾き始めていた。 帰ってきて、シャツを着替える。 部屋の中に紅が待ち構えているのも想像したが、その様子はなかった。 (俺の部屋に帰ってくる事も考えておかないといけないのか) あいつは如月の分家を狙うような事を言っていた。 止めさせるように説得はしたが……聞いてくれたかどうかは本人しか分からないだろう。 「ここと……屋敷にも気を配って……。それから紅が消えた森の中」 ホームという意味なら、長年居たはずの人形の間もそうだ。 そんな可能性だけならいくらでもあると言うのに、捜索に人を使う事が出来ない。 それ以上に、下手に連絡すら出来ないというのが終わっている。 (分家にも知らせられないのか……?) 仮に分家の人の手も借りたらどうだろう? いくつかの所とは協力出来そうに思える。 神無月家の当主は権力欲が強そうだった。紅に会わせたらいけないタイプだ。 でも他の家は、それぞれ独自のルールを持ってそうだった。 如月について何かしら知ってそうな事をほのめかす所もあったし、可能性はゼロではない。 ……が、そうやって人を招き入れた事で何が起きるのかが全く分からない。 「…………ふぅ」 零があれだけ強情になってる理由が、よく分かる気がする。 誰に相談すれば事態が好転するのか全く見えてこなかった。 夕食の席になり、まず、零が話を切り出した。 「……お父様は?」 「体調を崩されていますので、お部屋で食事をとられるとの事でした」 「そう。分かったわ。では二人に先に伝えておくわ」 「はい」 「なんでしょう?」 「誠一と婚約したから」 「…………おめでとうございます」 「――――ひぅっ!?」 淡々と祝いを述べるおサエさんと違い、口元に手をあてて驚く一葉ちゃん。 「一葉には申し訳ない事をしたと思うけれど」 「な! なな、なんの事でございましょう!大変おめでたいと思いますっ!!」 「誠一を貸して欲しかったらいつでも貸すから」 「物じゃねぇよ!」 「誠一さんは物ではありませんっ!」 「あ……」 「……こんな閉鎖空間に近い所で少人数なんだから、不満があってはいけないのよ。別にすぐという訳ではないのだからお互いに話し合う事にしましょう」 「別にわたしは……でも、はい……分かりました」 「…………」 いきなり色々と立場が無い話をされている。 ……まあ、先が見えてしまっている零からすると、自由な可能性という物は残しておきたいのだろう。 そして――。 一葉ちゃんをちらりと見た。 彼女が俺に好意を抱いているかどうかは、今のやり取りからすると、あるのかもしれない。 でもそれ以上に、年若い女の子がこんな所にこもって仕事をしていて、零に対して嫉妬心を持つ可能性も十分にある。 そこを紅に付け込まれたら……。 (……なるほど、可能性……ね) 人を守るために何でもするというのは、こういう事でもあると思った。 他人から恨まれる、常識外と言われる。妬みを買う……。そうだとしても、可能性は常に残しておく。 ……俺の可能性とは何だろう? 紅に殺されなかった事?それとも、少しであっても対話が出来た事? 正直な所、分からなかった。 夕食が終わると同時に、二人でおじさんの所に出向いて報告をする。 「…………いいのかい?」 「零は渋ったんですが、俺が押し切りました」 「ふふ、そうか。……わかった。なら私からは何も言う事はないよ」 「誠一ったらものすごく強引なのよ」 「強情な娘を押し切るくらいだから、そうなのだろうね」 「あまりの強引さに、すぐにでも子供が生まれそうだわ」 「私がこのような体だから、それは大歓迎だね」 「……むぅ」 父親を使って俺をからかうか、押し切られてしまった事への憂さ晴らしをしようとしたらしいが、父親の方が一枚上手のようだった。 風呂も入り、室内に戻ってくる。 零も自分の部屋にいるはずだ。 (どうする……?) 夜は紅の活動の時間だ。 俺の所に来るかもしれないし、零の所に行くかもしれない。 あるいは分家の人や、当主であるおじさんの所に……。 または、近くに人間が居なかったら何も行動を起こさないかも。 ……そう考えると、選択肢が多すぎて迷ってしまう。 「……くそ……ならもっとシンプルにだ」 俺の所に来るのに賭けるか、零の所に行くかだ。 後者は……まあ、婚約者の所に行くという名目でいいだろう。今は実際そうなんだし。 前者は……。 もしやって来た時にどうするか、考えておかなくてはならない。 不意な着信音に思わずびくりと身をすくませる。 番号を見ると零からだった。 「……なんだよ。驚かすなよ」 ビビったのを誤魔化すようにぼやいて、電話に出た。 『誠一、まだ起きてる?』 「起きてるけど、どうした?」 『誠一は明らかにあの人形に狙われているわ。だから、夜間は絶対に外に出ないで、部屋に居てちょうだい』 「…………」 『誠一?』 「……わかった。部屋にいるようにする」 『……よかった。そして何かあったと思ったらすぐに逃げて。お願いね』 「ああ」 『では頼んだわよ』 返事をする暇もなく念押しして、電話が切れた。 狙われてるのは俺か……。これは外に行く所の話じゃないな。 でもその一方で、零の読みが外れたら? とも思ってしまう。 俺は――。 ……零の部屋に行こう。 どこにやってくるか分からないからこそ、二人で居た方がいい。 紅が狙うとしたら、紅と接触した事のある人物のはずだ。 すなわち、俺、零、おじさんの三人。 固まってるのが良いのかも知れないが、一網打尽にされる可能性もある。 ……そこの相談もしないといけないだろう。 零に向けて、今から行くとメールを送る。 ……やや時間がかかって、少し慌てた文面で分かったと返事があった。 「零? 入るぞ」 そして二度ノックをして中に入る。 「悪いな。こんな時間に」 「い、いえ……構わないけれど。こちらにどうぞ」 零に進められるまま、隣に腰かけた。 「それで、どうしたの?」 「……実の所、何をやっていても気が気ではなくて。自分の見えない所で零が酷い事になったらと思うと……」 「……そんな事を心配してたの?」 「そんな事じゃないだろ。大事な話だ」 「ふふ、そうね。ごめんなさい。驚いたけど、でも嬉しいわ」 零も体の力を抜く。 「……私も怖いから誠一の気持ちがよく分かる。怖くて怖くて、どうしようもないくらい」 「やっぱりそうなんだな……慣れてるように見えても、怖いもんは怖いよな」 「そうね……でも、それだけじゃないのよ。怖さにはいくつか種類があって、今はまた別の方」 「別?」 「誠一はこの世界で一番怖い物って何だと思う?」 「死ぬこととか」 「……そうね。それは本当に怖いわ。人間の命なんて一つしかないもの。大事にしないとすぐに失われて無くなってしまう」 「零にとっては?」 「今は、誠一が死ぬ事の方が自分が死ぬよりも怖いわね」 「……そういう言い方だったら、俺もさっきの変える」 「別に対抗しないでいいのよ。それ自体についてどうこうと言う訳ではないのだから」 「人は命がある。命があって生きているから、人と人が出会って繋がりが生まれる」 「……でも人形はそれを持たない。命が無くて、魂もない。相対した相手の感情に全てを委ねているのが、哀れな生き人形」 「それがどういう気持ちなのだろうと、私はずっと考えていたわ」 「……零……」 「……そうか、俺みたいに最近知った人間と違って、零にとっては何年も前からの事だから……」 「だからとても哀れだと思う。でも同時に許せないとも思う」 「お父様は……少し違うみたい。憎むべき敵であって、私達をこの地に縛り付けている忌々しい鎖だと考えているわ」 「鎖を引きちぎるためには、例え強引な手段であっても使うのをためらわない。そんな激しさを今も抱えている」 「……そう、なのか?」 車椅子に乗ったまま、体は衰えてしまっている。 穏やかで温厚で……そんな風には見えない。 「そうなのよ。そして、そうだからこそ、人の感情というのは果てが無い」 「紅はそれを読み取り、我が物としてしまう。封じるためには敵意を持たない方が良いのに、人間はそこから切り離す事が出来ない」 「…………だな」 「けれどもね、それを上手くやっていた時代があったらしいわ」 「……嘘だろ?」 今の如月家――あいつに翻弄されたこの状況。 それから、権力争いに終始する分家の人たちを思い浮かべると到底無理そうだと思ってしまう。 「如月家の開祖の時代の事は聞いた事があるでしょう?」 「ああ……そういえば」 今の紅に纏わる話と違いすぎて、違和感の方が先にくるけど。 「先祖に付き従いって、人と共に働いたり笑ったりして先に亡くなった時には涙まで流したという話だけど」 「ええ。その通り」 「……無理だろ」 「今はそうかもしれないわ」 今はというと、昔は、あるいは未来ならという意味がある。 零は信じているのだろうか?自分の未来が閉ざされている、今現在にしてもなお。 「人の気持ち、感情を受け取る。オウム返しや鏡のような存在。という事は、周りの人の気持ちが殆ど同じだったのなら、紅もそうなるのではないかしら」 「……それは……」 無いとは言い切れない。 思いつかなかった訳でもない。 しかし、現実的じゃない。 「誠一が何を言いたいか分かっているつもり。私も出来ると思っている訳じゃないしね」 「でも……そうね。そういう時代があったんだと思う事で少しだけ自分自身に救いが持てる」 「……そんな悲しい事を言うなよ」 「悲しくはないわ。……残念だとは思うけれど」 「でも誠一が一緒に歩んでくれると言ってくれた。それが私の救いになっているのよ」 「……そうか」 零の手に、自分の手を重ねる。 「思えば手をつないだのも久しぶりよね」 「子供の頃はよく繋いでたっけな」 「そうね……懐かしい。森でキャンプをした時の事は覚えている?」 「ああ。沢でテント張ってキャンプしたら、零が体が痛いって俺の方に転がり込んできて……」 「そのまま誠一にくっついて、ベッド代わりにしてたわよね」 「……夏場で暑くて大変だったんだぞ」 まあ、柔らかくていい匂いもしてたけど。 「ふふ。くっついていたのはあれが最後かしら」 「……体が痛いなんて言ってたけど、寂しそうにも見えた。あの時にはそんな事はいえなかったけど」 「そうね……言われても自分でも認めなかったでしょうね」 「今はこうして、手を繋げているわ。私、さっき言っていた事は本当よ」 「あ、ああ」 「……てっきりこの積もりで来たと思ったのだけど」 「そこまでハッキリと思ってた訳じゃない」 「じゃあ……止めておく?」 こちらに顔を向けて、小さく傾げる。 それがキスするにはちょうどいい距離で――。 俺の胸の奥を、熱く掻き立てるのだった。 「いや……する」 「……そう……ん、ちゅ……」 唇を重ね合わせていた。 ちゅ、ちゅと小鳥の囀りのような音が響く。 「ん、ちゅ……」 「少し、口開けて」 「……ん……」 俺に従い、口を開けてくれる。 その中に舌を差し込むと、零もおずおずと絡めてきた。 「……ちゅ、くちゅ。ぴちゃ……ん、ちゅ……ちゅぱ」 唾液が混じり合う音が響く。 一度キスを重ねていくごとに、愛しさがあふれだす。 自分の中の想いをキスを通じて触れ合い、そして向こうから倍加された思いが返ってくる。 (これが人とつながりあう事なんだ……) そこに密かな感動を覚えていた。 「ちゅ、ん。ちゅぱ。くちゅ……ぴちゃ……ん、ちゅぷ」 舌を絡め、唾液をすすり、お互いの唇を吸いあう。 ただそれだけの事が、こうして互いの気持ちを理解するための橋渡しになっている。 好きだという思いを零に抱いていた事はない。 ……そんな、先ほどまで感じていた事が、ただのお為ごかしに過ぎない事が良く分かった。 零の事を好意的に見ていた。彼女のスタイルの良さ、美しさ、全てを独占したいという気持ちが、自分の胸の奥の底の底に折り重なっていた。 それは醜い獣欲だ。 (ああ、そうか……) そして、唐突に理解する。 紅は――如月の生き人形は、こうした心の奥底の獣じみた想いまで鏡として映してしまうのなら。 それを写された人々は、認められずに殺意を抱くだろう。 そうして、負の連鎖が始まる。 後には憎しみしか残らず、人は自らの殺意で持って破滅への道を歩んでいく。 「……ちょっと」 零が口を離す。 「キスをしながら考え事をされると、私だって傷つくわよ」 「……悪い。そういう訳じゃないだ」 「どういう訳――あっ!」 零の唇を吸いながら、胸に手を伸ばした。 「…………ん……も、もう」 ぴくりと震える。 「うわ、柔らかい……」 ボリュームたっぷりの胸に触ると、ずっしりと手に平の上に重しとなって伝わってくる。 「ん……あ、んん……」 声を押し殺して、されるがままにしている。 柔らかない胸を転がすように、左右に。それから潰すようにそして痛くないように、指先で服の上から触っていく。 「零に対して、多分ずっとこうしたいって思ってた」 「そ、そう……なの?」 「多分、だけど。……俺も男だから、綺麗な女の子が近くにいたら、どうしても考えてしまってた」 「それは……恥ずかしい。んんっ」 「でもそれは誰にだってある気持ちで、でも人によっては絶対に見られたくないもので……」 「そういうモノまで露わにしてしまう存在は、大勢の人からも憎まれてるよな……と」 「……そう、ね。も、もう……揉むか話すかどっちかにしてちょうだい」 「……だな」 零のスカートに手を伸ばし、まくり上げた。 「きゃ――」 手を伸ばす。太ももから、股間に。 下着の横から差し込むと、そこはもう濡れて愛液が溢れていた。 「ちょ、ちょっと! そこは、だめ……んんっ、あ!ま、まって! んんっ!!」 くちゅくちゅと愛液が立てる音が、室内に響く。 「んんっ! あ、ああっ! んっ、ああっ。せ、せいいち! ダメ、だめだってば! 服、汚れるからっ」 「…………ごくり」 身を震わせ、太ももに力を入れて悶える零の痴態に、俺のペニスも硬く怒張してしまっている。 「じゃあ、脱がすよ」 「……ん……そうしてちょうだい……」 零の身体にゆっくり体重をかけるように――ベッドの上に押し倒した。 「はぁ……はぁ……」 服を脱がすと、零は全身で息をついた。 流れ出る汗が体をつたい、あそこは愛液でぬめっている。 「ふふ、誠一……変な顔」 「いやだって、あまりにもすごい光景で……」 「そう、かしら。こうしているのも恥ずかしいけれど……」 「……すごく綺麗で……エロい。やっぱり胸デカいんだなって思うし……」 そして今からこの中に自分のモノが入るのだ。 それを考えるだけでも、我慢が出来なくなってくる。 「……お父様が、子供が欲しいと言っていたわよね」 「こんな時にからかうの止めてくれ……」 本気で止まらなくなりそうだから。 今すぐにでも中に入れて射精したいのに、初めてだから痛くしないようにしたいのに。 「……多分、大丈夫だと思うから」 「……こんな恰好している方が、恥ずかしいわ」 「あ、ああ」 零の言う通りかもしれない。 ごくりと、唾を飲み込む。 ――くちゅ。 俺の先走りの液体と、零のあそこの粘液がこすれ合う。 「うわ……」 思っていた以上に柔らかい。 零の恥丘の肉を押し広げるように、体重をかけていく。 「ん……まだ、大丈夫……」 ペニスの頭が埋まる。まだ平気そうだ。 「じゃあ、入れるよ」 「……ええ」 零に一言告げて――。 奥まで挿入した。 「んん~~~っっ!!」 押し殺した悲鳴が溢れてくる。 「うわ――」 突き刺したペニスを上下左右から柔らかな襞が包み込む。 じんわりとした熱は、彼女の血だろうか。 あるいは愛液だろうか。 ぐにぐにと動いて――それが苦痛によるうめきだったとしても俺のペニスを掴んで離さない。 ――くちゅ。 上下に動かすと、粘液に擦れて思った以上に動く。 だから拘束されているのはただの錯覚なのだが――。 「――く」 ――ちゅく、くちゅ、ずちゅ。ぷちゅ。 出し入れをしていくたびに、襞は肉棒へと絡みついてそしてきゅうきゅうと中の物を吸い上げようとしていく。 「あ……んんっ! あ……あんっ。い、いた……痛いっ」 「あ……わ、悪い」 「……だい、じょうぶ……だけど、ゆっくりお願い……」 「わかった」 調子に乗って動かしていた腰を押しとどめる。 体重をかけて零の一番奥に入れて、そこで動きを止めた。 「ふぅ、ふぅ……はぁ。ああ……んっ」 「……動かなければ、平気……後は少しずつ……ゆっくりね」 「わかった」 あまり痛みを与えては可哀想だ。 零の表情を見ながら、少しずつ動かすことにした。 「ふぅ……ふぅ……んん。あ……はぁ」 快楽の自己主張をしないまま、ペニスの律動にあわせて零の胸が上下にはねている。 ぐにぐにと形を変える柔らかな乳房を手に掴むと、俺の指先に合わせて動いている。 「はぁ……あぁんっ。あ……んん」 「さ、さっきよりは……楽になってきたわ……んんっ」 「奥……突かれるとちょっと痛い、けど、触るくらいなら気持ちいい、かも……」 「わかった……こんな感じか?」 出し入れしてペニスをぶつけるような動きから、零の腰に密着させたまま、擦るようにしてみる。 「そ、そう。んんっ!! ああっ!」 「うお――」 零の膣内がきゅぅっと締まる。 それが俺のペニスを包み込んで、とても気持ちいい。 こうする方が、気持ちいいみたいだ。 胸に手を置いたまま、腰と腰をこすり合わせる。 クリトリスを指先で触り、胸をもみながら、彼女の中を感じる事に神経を費やしていく。 「あ――ッ、ああんっ! んっ、あ……ああんっ」 声を漏らさないように抑えようとしてるが、キスをするたびに漏れ聞こえる音声が、粘液の混ざりあう音とあわさって淫靡な響きになっていく。 「く……俺も、そろそろ――」 ――ちゅく。ずちゅっ。くちゅっ! ぷちゅっ!! ペニスをこすり合わせ、愛液を混ぜ合わせる度にねちゃねちゃと音が立つ。 引いて、中に入れる。溢れる愛液がまた新しい水音となり、肉と肉がぶつかっていく。 下腹部の奥の方から、マグマのような熱がこみ上げてくる。 それはペニスの奥へとたまり、今すぐにでも迸るための熱へと変わっていく。 「んっ、ああっ! あっ、んんっ!!」 零の方も打ち付けられるたびに、全身を震わせて嬌声を上げ続けている。 「そ、そろそろ……出る……っ」 「い、いいわ。いつでも、誠一の好きな、所に……っ!」 「あ、ああっっ!! あっ。んんっ!! あ――んんっ!!」 「く……うぅ、んんっ。んんっ!! あっ!」 こすり合わせる動きから、奥にたたきつける射精する動きへと変化していく。 零の声に若干の苦痛と――そしてそれを上回る快楽が響いていく。 「いく……いくぞ。零――」 「んんっ!! あっ! あん、んんっ!! ああっっ」 ――ずちゅっ! ずずっ。くちゅ。ぶちゅっ! ずちゅっ かき回す音が響き合い、そして一体となって高見へと登っていく。 「く、うう……」 「で、でる……っ!!!」 「ああっ。あああっっ!!!!」 零の身体に力が入るのと同時に、俺のペニスが締め上げられる。 その瞬間――。 「くぅぅぅぅっっ!!!」 零の中に大量の精液を放っていた。 「あ、あぁぁぁぁーーーっっ!!!」 ――どくっ。どくっ! どくっ!! ――びゅ……びゅくっ 二度、三度と迸る精液が、子宮めがけて叩き付けられる。 零の一番深い所に突き刺したまま、何度も何度も……。 「……はぁ……はぁ……っ」 「あ、……ああ……っ」 お互いに、動けなくなっていた。 今もびくびくと震え続けるペニスを、零のあそこが締めて離さない。 呼吸にあわせてぐにぐにと動く膣内が、肉棒の中から精液の残りを吸い上げている。 「は……はぁぁ……」 大きく息をついて――やっと体を離した。 ――ぬちゅ……。 「……はぁ……はぁ……」 中から引き出されるように、大量の精液と赤い血の筋が溢れてくる。 そして更に奥からは、二つのモノが入り混じったピンク色の愛液が……。 「……い、いたた……これは、慣れるまで大変そうね……」 「……悪い」 零のあそこから、お尻の方へと零れ落ちる精液を指ですくった。 指先から股間まで一本の糸となって伸びていく。 ねばねばした濃い精液だ。 こんなものを体の中に出したのか……。 「……ちょっと……遊ばないでちょうだい」 「見た目もすごい事になってるな」 「……ほんとうにね……まったく」 そして零は疲労や快楽の残滓を共に全て吐き出すように。 ひときわ大きく息をつくのだった。 ……情事が終わり、お互い別々にシャワーを浴びて再び零の部屋に戻った。 シーツは零が自分で交換したそうだが……明日は洗濯物を見て、何があったか悟られてしまうだろう。 「………………」 それにしても……想像以上にエロかった。 「……また変な目で見ているわね」 体をかき抱いて、俺の視線から体を隠す。 「だって仕方ないだろ! その……」 「……さすがに連続では体が持たないし、今はそういう場合ではないから、またの機会にしてちょうだい」 「もちろん分かってる」 「しかし、紅も来ないわね。下の階に降りても変化もなかったわよね」 「ああ……そうだったな」 「実の所、今晩にでも襲撃してくるんじゃないかと思っていたのよ」 「……マジかよ。根拠は?」 「今の彼女にとって、もっとも影響を受ける相手は誠一よね」 「……だろうな」 「そして、その誠一が内心で持つ不満により、分家……しかも如月を最も嫌う神無月家に赴いたと仮定する」 「紅は神無月の当主を殺すでしょう。でもそうなると、そこで如月への憎しみも覚えて帰ってくる」 「…………そうなると如月家の人間が狙われると」 「少なくとも私とお父様は対象にされるでしょうね」 「そうなったら、後は誠一を館から逃がすか、館から離れた所で上手く罠に仕掛けられればと思っていたのだけれど……」 「……来ないわね」 「読みが外れた線は?」 「無いわ」 即答で断言してくる。 「……神無月の当主が殺されたそうよ。今朝の時点で、すぐに連絡を入れて、警戒するように呼びかけていたのだけれど……」 「……マジかよ……」 「あなたのせいじゃないわ」 「……そうかもしれないけど」 だとしても気分は重くなる。 俺が嫌に思って――そうしたら紅が殺しにいった。 憎しみとも呼べないはずの物であっても、人の心の中にある暗い欲望まで素直に鏡に映されたら、人はまともに暮らしては行けなくなる。 「……案外、屋敷まで帰って来ていたのかもしれないわね」 「ちょっと待て。すぐのタイミングでだろ?となると、まさか……」 「私と誠一の情交を覗き見たか、感じ取ったかで……」 「うう……」 頭を抱えるしかない。 「変な話ではあるけれど、行為の最中は私も誠一も、お互いを傷つける気持ちなんて持っていないわよね」 「……そりゃそうだろ」 「紅が人と情交を交わしたという記録はないけれど、求めたと言う話は残っていて、もしかしたら……」 「……?」 「いえ、何でもないわね。まさかの話だもの」 「そうか? それよりこれからどうする?」 「……一応、屋敷の見回りをしてみましょう。もちろん、二人で」 「わかった」 零と共に、人の気配がなくなった屋敷の中を見て回る。 「誠一にも教えておくけれど、この屋敷にはあちこちに仕掛けがあるのよ」 「からくり屋敷だもんな。昔聞いた事があるよ」 「ええ。でもそれ以外の――例えば、ワイヤーを繋いで発火装置に繋げば、屋敷を丸ごと炎上させられるようにもなっているわ」 「…………は?」 「いわゆる自爆装置ね」 「……それも全部、紅のために?」 「もちろんよ。いくら大昔からの風習とはいえ、何の準備もしないままではいられないわ」 「…………大昔の風習に対抗するために使うのが、科学技術なのか」 「どうして? うちに限って言えば間違ってないわよ」 「からくり仕掛けというのは、科学の分野だわ。木製とはいえ自分の手でゼンマイを作り、回転数を制御してそして力の伝達を考える」 「全てが一つになった科学技術なのよ。ただ時代が追いついてないだけ」 「今は時代が追いついた科学がある。使ってこそのからくり師の一族だわ」 「…………なんだか話を聞いているだけで、なんでも納得させられそうになってくる」 「そこまで屁理屈を言っているつもりはないのだけれどね」 ロビーに降りてきた。 「神無月の当主、首が無くなっていたそうよ」 「…………」 「それを持って殴りこんでくる所まで想像していたのだけど」 「……来なかった……と」 そんな事にならなくて本当に良かったと言うしかない。 しかし、零は今日来なくても明日。明日来なくても明後日と考えている。 それは間違いない。 「一葉ちゃんとおサエさんはどうするつもりなんだ?」 「彼女たちに対して害意を持つ者は居ない。つまり、紅が狙う相手にはならないでしょうね」 「ただ人を殺すのは害意だけではないから、そこは注意ね」 「例えば?」 「罪悪感……虚無感、絶望感。命を絶つほどの何かを抱いた場合、人は行動に移すのよ。そして、その手伝いという形で害を成す場合もある」 「……そこまで考えなくちゃいけないんだな」 「人の心を映す魔性への対策は、必然的に人の心を探る事でもあるのよね」 鍵を使って、中に忍び込んだ。 特に異変はないようで、ほっと胸を撫で下ろす。 「……ここで、会ったんだよな。神無月の当主と」 「…………」 嫌な親父だと思った。権力欲が強い人物だとも聞いた。 目の前から居なくなれ、この穏やかな如月家から立ち去れとも思っていた。 ……だが、本当に死んで良いとまでは思わなかった。 「……出ましょう」 零に促されて、外に出た。 「後は……」 零が視線を向けた先にあるのは、人形の間だ。 「見ていくか?」 「そうね。意表をついて、本人が戻ってきているなんて事になっていたとしても、私は驚かないわ」 主の居ない人形の間はもぬけの空になっている。 ……ここに安置されていた人形が、今は動き回って人を殺しているなんて、悪い夢のようだ。 「…………」 「……出ましょうか」 「一通り回った形だよな。となるとやっぱり今日は異変は何もなしか」 「そうね……あ、まだ一か所あったわ」 再び当主の間に行き、戻ってきた。 零の手には、鍵が握られている。 「工房があるのよ」 階段を下りて、その先にある扉の鍵を開ける。 電気をつけて中に入った。 そこには――。 「……きたのね」 「紅……だよな。その平べったい胸は。うん」 「また胸で判断してるの? 誠一は本当におかしいわね」 頭がおかしいと言われた気もするが、気にしないようにしよう。 「その制服は?」 「服は血で汚れたので着替えたわ。ふふ、別にそのままでもいいのだけれどね。あれ以上汚さないように配慮をしてあげたのよ? 感謝して欲しいわね」 「……そう。で、ここで何を?」 「さあ、人形を見ていただけかしら」 「確かに……人形だらけだな」 紅の事はどうしても警戒してしまう。 だけど、あまりにも自然に話しかけてくるせいか、こちらも態度を決めかねてしまっている。 零は普通にしている。 ……相手は、俺達の内面を写す鏡……。そう意識するが、より一層困惑してしまう。 「誠一は可愛いわね」 「あら、結構たくましいのよ」 「…………」 俺の内面の困惑を揶揄する紅に、零が畳みかける。 対する紅は怒りを浮かべている。 「……ともかく、いきなり襲い掛かってこなくて助かった。そのつもりはないんだな?」 「あったらここでこんな事はしていないわ」 「……でしょうね」 それなら、まずは一安心という事にして話を進めさせて貰おう。 「……紅もここで作られたのか?」 「違うわ。最初の私が出来た時の事は覚えていない。いえ……知らないのよ。人形師はここに辿り着いた時点で既に人形を持っていたから」 「そうなのか」 「死んだ娘を模していると言われている。如月の女に似た容姿なのは、そのせいでしょうね」 「別に似たくて似た訳ではないのだけれどね」 零はため息をつき、そして紅に向き直る。 「どこから入ったの?」 「この私が入れない場所はないもの」 指を扉に向ける。 音を立てて締まり――カチリと鍵が掛かる。 「……超能力?」 「いえ、違うわね。何かを飛ばした?」 テーブルの上の工具を取り、紅と扉の中間地点に動かす。 何かに引っかかった所で、工具を覗き見ている。 「……糸。なるほど。怪物は蜘蛛神と言われているわ……その現身も蜘蛛と」 「そういう事」 紅が指を引く。 糸が外されたのだろう。鍵が開き、閉まっていた扉が開いた。 「……紅は、別の生き方は選べないのか?」 「ふ、ふふ。どうやって? こうあるべきと定められた私が一体何が出来るというの?」 「それとも誠一が私に違う在り方をくれるのかしら。私を拒絶し、別の女を選んだあなたが」 「…………確かにそうだな。悪い。考えなしだった」 「こうも素直に謝られると、調子が狂うのよね」 「だから、今こんな話が出来ているのだわ。誠一が居なかったら……」 「ふふ、そうね」 「俺は別にそんな大層な事は……」 「何のしがらみを持たないというのは、時には大きな力になるのよ」 紅が身を翻す。 「明日、また来るわ。あなた達はどうするか、考えておくといいわ」 「猶予をくれるの? 随分と優しいじゃない」 「……私にそのような感情があると思っているの?」 その答えを聞く前に――紅は姿を消していた。 「……正直、驚いた」 「誠一に会いに来たのかしらね」 「そうだとしても、俺は零を選んでるから」 「……そうね」 改めて工房の中を見る。 あちこちに人形が置かれている。 作りかけらしき人形まで多種多様だ。 「紅が作られた訳でもなく、紅の事を考えると、人形として再現というのも建前にすぎないんだよな」 「ええ」 けれどこの工房の中を見れば分かる。 何代も何代も、大勢の人間がここで人形の研究をしていた。 「表向きの理由は、紅……生き人形の再現。失われた技術を取り戻す事」 「こちらは前時代的なお題目だわ。実際、分家の中には古臭いとして拒絶する者も後を絶たない」 「……だろうな」 今や機械工業によるハードウェア。パソコンによるソフトウェアが発展している。 木を削って人形を作り、糸で動かす時代ではなくなっている。 「裏の目的が、紅の研究。理由は……言うまでもないわね」 「……ああ」 正体不明の怪物を滅ぼすために。 その素体となっている物を研究し、蜘蛛神の力を調べ上げそして対抗策を練っていく。 攻防が地下に隠されるように置かれているのも、それが理由なのかもしれない。 人目に付かない場所に心を隠し、刃を研ぎ澄ませていく。 やがて滅ぼし、怪物から人の世界を得るために。 「……でもね、そんな事は本当はもうどうでもよくなっているのかもしれないわ」 それは……如月家と紅、どちらの話なのだろうか。 (どっちも……なのかな) 先ほどの紅の姿を思い出す。 ……どこか、寂しそうに見えたのは気のせいじゃなかったのかもしれない。 深夜を大きく回る時間になって、この日の探索は終わりになった。 睡魔に誘われるまま、自室に戻ってベッドで休む。 ……とても皮肉な事ではあるのだが。 紅自身が出てきてくれたおかげで、夢を見ない程熟睡する事が出来ていた。 翌朝――零と共に、当主の間を訪れる。 俺達から話を聞いた後に、包帯の下の顔を歪めていた。 「あの化け物がそんな事を言ったのか」 「……ええ。どうするか決めろと言ってるようにも思いました」 「……お父様はどうするつもり?」 「私は残るよ。元よりそのつもりだ。一葉君とサエには、これまでの給料にボーナスを渡して暇を出す事にしよう」 「わかったわ」 「零、お前はどうする?」 「…………どうしようかしらね。少し考えてみようと思う」 「そうか、好きにしなさい。ただし、誠一君と決めるように」 「ええ。分かっているわ。お父様」 それから朝食の席で、零は二人に告げた。 「サエ、一葉。今日は二人に話があるわ」 「はいっ! お洗濯物のシーツの事ですか?」 「なんでございしょうか。お嬢様」 どこかワクワク顔の一葉ちゃんは無視して、零は二人に告げる。 「二人には暇を出します。宿泊できるホテルを手配しますので今日中にそちらに場所を移してください」 少し硬い、意図した事務的な声だった。 「えええええっっっっ!!!!???」 「………………かしこまりました」 「ちょ、ちょっとちょっと!! お婆様っ!?いいんですか? かしこまっちゃうんですか!?」 「お給料は今月分に加え、年内までの分とボーナスも加算して今日中に支払います。引っ越し、次の住居を探すのに充てて下さい」 「連絡は以上よ。質問は受け付けられないわ。屋敷の業務は今日はもう終わりでいいから、後は二人の為に使ってちょうだい」 「そんなっ!!」 「……一葉、行きますよ」 「納得できませんっ! お嬢様言ったばっかりじゃないですか。このお屋敷でずっと暮らすんだからって。不満を抱えていたらいけないって!」 「それってみんなで一緒にいようってお話でしたよね。何でいきなりこうなっちゃうんですか!」 「一葉っ!」 「お婆様は悔しくないんですか! 事情があるのなんて誰だってわかりますよ。でもそれを教えてもくれないなんて悲しくならないんですかっ!!」 「悲しくなどなりません。お嬢様が決定されたという事はそういう事なのです」 「さあ、支度をしますよ。時間がありませんからね」 「ううう~~……っ」 引きずられるように、一葉ちゃんが食堂を出ていく。 振り返って零を見る目には、強い怒りが篭っていた。 「……私達は、食事を続けましょうか。サエが作ってくれる、最後のご飯になるかもしれないから」 「……ああ」 促されるまま、食事の続きをする。 出来るだけ味わうように。味を感じないなんてもったいない事は出来ない。 それでも、俺も零も食事が進まなかった。 食事を終え、片づけをしてロビーに戻る。 私服の一葉ちゃんが怒りに燃える目で立っていた。 「これで失礼させていただきます。でも、お婆様が納得しても、私は絶対に許しませんから!」 「……そうね。一葉はそれで構わないわ」 「こ、この……っ!」 一瞬零に向けて詰め寄りかけた一葉ちゃんだが、自分の体を抑えるように自制すると、深々と頭を下げた。 「さようなら」 そして、うつむいたまま外に出ていく。 ……その背に掛けられる言葉は、何も無かった。 大きく叩きつけられる音と共に、扉が閉まる。 数秒、身動きが取れなくなる。 やがて耳鳴りのような響きも無くなって――やっと息を吐くことが出来た。 「一葉には悪い事をしたと思っている」 「…………ああ」 事情は話せない。 残って被害に遭う方が問題だし、紅の事を考えると知らない方が良いのは間違いない。 「……でも、寂しいわね」 零の手を握る。震える体を、抱きしめていた。 それから、おサエさんと一葉ちゃんが屋敷を出ていくのを二人で見送った。 「長らくお世話になりました」 「…………」 まるで何かを察したように、静かな目で深々と頭を下げるおサエさんと、怒りに燃える目をしている一葉ちゃん。 二人が対照的で、いつまでも脳裏に焼き付いていた。 「サエと一葉は屋敷を出ていったわ。後は私達とお父様だけ」 「そうか……では二人も行きなさい」 「……本気で言っているの?」 「本気だよ。こんな事で嘘を言っても仕方がない。それに、放っておいても屋敷に人は増えるからね」 どこか自嘲を浮かべながら言う。 「何故? そうならないためにサエや一葉を追い出したのではないの?」 「神無月の当主が死んだ事で、その立場で揉めている。葬儀についても色々と悲鳴がこちらに入っているよ」 「……そして、ここに押しかけてくると?」 「そうなるだろうね」 「……本気?」 「今更事情を話す訳にも行かないだろう」 「あの……ちょっと考えたんですが、もぬけの空にしてしまうのはどうなんですか?」 思い付きを提案してみる。 紅は人の感情、想いを写す鏡だといった。 鏡は目の前に何も置かれてなかったら、鏡のままだ。 何も好き好んで鉢合わせする必要もない。 「別の場所……どこかの会議室なりを借りて、親族にはそっちに集まって貰って、おじさんもそこに出向いて屋敷の中は空っぽにする……とか」 「紅は誰とも会わせなければ、読み取る物がなくなって忘れられて、そのうち人形に戻るんじゃないかと……」 「たまーに、怪物の魂を出してやらないと被害が大きくなると言うなら、その時だけちょっと儀式か何かをやって、後はどこかに閉じ込めておけば……」 ……そして言いながら思う。 如月家はずっと紅をそうして来たんだろうと。 まるで閉じ込められているような、人形の間。家宝と言うわりに大事にされているとは言い難い。 普段なら、どこに行ったか分からない紅を追うのは大変だ。 けれど今回は、本人がここに戻ってくると言っている。出来ない手段ではないはずだ。 「……実はそれも考えた」 「…………」 零が怒りを湛えた表情で、自らの腕を強くつかむ。 何かを堪えているようにも見える。 「……無理よ。お父様はそれを選ばない」 「どうして!」 「零の言う通りだよ。それは私の選択にはない」 「どこかのお人よしのおかげで、わざわざ人形が来る場所を予告してくれている。そのおかげで人もいない」 「でも、自分から出向くと宣言している愚か者達が大勢いる。違う所を教えても無理よ。彼らは言う事を聞かない」 「どうしてだ?」 「如月の本館こそが権威の象徴だからよ。何故ここが、分家の屋敷が集まっている伊沢の街中ではなく一つだけ離れた森の奥にあると思う?」 「それは……紅がいるからだろ?」 「そう。でも彼らはその事を知らない。彼らにとって、ここは玉座なの」 「……王様の座る? じゃあ他の屋敷が集まってる所は臣下の席とでも?」 「正解よ。だから、玉座に座りたがる。家宝の生き人形自体に価値を見いだしてる者はいなくても、それをトロフィーとして権威の象徴と見ている」 「だから、誠一の言う提案を呑む者はいない。表立っては受けたとしても、絶対に裏をかこうとする者は出る」 「……そんな」 「そうなったら、欲深い連中と紅が鉢合わせして終わりだわ。一番面倒なパターンになるだけね」 「…………マジかよ」 「それに……」 言いながら自分の父親を見遣る。 「誠一君。気持ちは嬉しいが、私は引く気はないよ」 「これはね、やっと訪れたチャンスなんだ」 「チャンス……ですか? この状況が?」 「そうだよ。何年も待ち望んだ、得難い瞬間なんだ」 「あいつを、あの人形を私が滅ぼす事が出来る。誰にも譲る気はない。好きなようにさせて貰う」 淡々と語る言葉に――だからこそ、強い意志とその裏側の狂気を感じる。 零は……もちろん知っていたのだろう。自分の父親が、本当は何を望んでいるのか。 「で、でも、先日聞いた話からすると、紅を倒したらその後は……」 「それが何だというんだい?」 「…………え」 「伊沢に移り住んだ人間の番人として如月家は長い間役目を果たしてきた。だが、もういいじゃないか」 「既に如月家の一族の方が、ここでは少数になっている。未来永劫、こんな所に閉じこもり、自らの心に怯え、人形に恐怖しながら生きていくのか?」 「そんなのはもうまっぴらごめんだ」 「怪物が出るというなら、出てくればいい。それが伊沢の自然のままの在り方だというなら、間違っていたのはこれまでの方だ」 「……誠一」 それでも言いつのろうとする俺を、零が止める。 「……人の心は、止めようと思っても止まらないわ。理性では感情を抑圧する事は出来ても、それ以上は無理なのよ」 「受け入れて、納得して、変革する……でも受け入れられない事もあるわ」 「そうかも、知れないけど」 「……私達は、私達の事を考えましょう」 「………………わかった」 「それでいい。願わくは、二人が幸せになる事を祈っている」 屋敷の中にはいたくなかった。 誰も居ない閉ざされた屋敷の空気が澱んでいるように思えて、そして、それが半ば正しいのだろうと実感出来て。 息苦しさから逃げるように、外に出た。 「……どうすればいいんだ」 考えれば考える程、今の状況は詰んでいる。 動機が復讐というなら……止められないだろう。 その結果、自分や如月家のみならず、この土地を滅ぼす事になったとしても、後悔があるようには思えない。 そうなった後は……俺はどうする? 「……屋敷には仕掛けがある。お父様は自らも焼くつもりだわ」 「…………」 焼け野原になった所で、俺に何が出来る? ……何を……しなくちゃならない? 「……でもそうした所で、今度は分家の連中が押し寄せてくるんだろ?」 「……そうね。如月本家の出火なんて、大勢の人がやってくる」 「まさしく最後の手段。でもそうと分かっていても使うはず。それが唯一の機会だから」 「紅の方にもそれは分かってるんじゃないのか?」 「……恐らくは。だから自分自身で足止めをするんじゃないかしら」 「足止め?」 「お父様は破滅へと向かっている。自ら諸共の破滅を願えば、それで死に向かわせる事も出来はず」 「……私も、それは考えていたから」 「そんな事って……」 「誠一はどうする?」 「俺は……」 足元が崩れていくかのようだ。 上手く立っていられずに、大木に背をつけると、ずるずると地面に座り込む。 「……誠一」 零が俺の頭を抱きしめる。 「お前と一緒に、ここに骨を埋める覚悟はしてたんだ。今後ずっと如月家から出られなくても、それで構わなかった」 「でも……」 命を賭けてこの場に残るか、全てを捨てて逃げ出すか。 そんな決断を迫られる事になるなんて思わなかった。 「……誠一」 「お前は、どうするんだ? どうしたい?」 「私は……誠一の決断に従おうと思っているわ」 「あなたは私の支えになってくれようとした。助けてくれようとした。そして、心を救ってくれた」 「だから、何を選んだとしても後悔なんかしない」 「……そう……か」 「でも、一つだけ我儘を言っていいのなら、私は誠一には生きていて欲しい」 「一緒に生きてくれると言ったのが、とても嬉しかった。私はその言葉に希望が持てた。誠一が生きているなら、それだけでいいの」 「……お願い。誠一」 俺を抱く手に、力を込める。 零のぬくもり。震える手の振動。全てが伝わってくる。 ……でも零の頼みは、自分の父親も一族も全てを見捨てる事に他ならない。 選ばねばならないと分かっているのに、決断する事が怖い。 自分だけではなく、自分以外の誰かの運命を決めるのが。 零が俺を強くかき抱いた。 「……零……っ!!」 彼女に縋るように、抱き返す。 服を通じて零の心臓の音が伝わってくる。 それはとても早く打ち鳴らされていて、零自身の怯えや緊張が伝わってくる。 「私も、こんなに震えてる……。怖くて怖くて仕方ないの。諦めたつもりだったのに……」 「……零」 「私は、一人じゃないわよね。誠一が居てくれるわよね。それを信じているのに、震えが止まってくれないの」 「……零……っ!」 零の体を強く抱き返す。 そして、どちらともなく視線を合わせると――。 「今だけ、忘れさせて」 唇を重ね合わせていた。 零の腰を抱いて、その体を受け止めた。 服の上からでも分かる柔らかな肢体。先日、体を重ねた時の事を思い出してしまう。 「ん、あ……んっ。んん……っ」 抱きしめて、服の上から愛撫を重ねていく。 キスをして胸を揉み――その顔は羞恥に染まっていた。 「誠一……ん、ちゅ。くちゅ……ちゅぱ」 「……誠一が触る手……やさしい……」 「お前の体、触ってて飽きないな。いつまでも……ずっと、こうしていたいくらいだ」 「それはいや」 「でも、今は触る」 再び、胸に手を這わせる。ブラの感触を通し、柔らかな弾力を感じられる。 直接俺の手を押し返す物ではないけれど、零の大きな胸の感触と重みが伝わってくる。 「……ん、ん……あ、……はぁ……ん」 零の体の胸、それから服の上から背中、尻と上から下まで順番に撫でていく。 少しずつほぐすように。昨日のようにいきなりはせずに零を感じていく。 「そんなに、胸が好きなの……?」 「当たり前だろ。触ってて飽きないし見てても飽きない。いつまでもこうしていたい」 「……変態みたいなことを言わないでちょうだい」 軽くため息をついて続けた。 「でも……仕方ないわね。じゃあ、もっと触っていいわ」 「そうする」 再び、手を伸ばす。 「……ん、んん、……ふぅ、はぁ、はぁ……ん」 胸全体を感じるように。それから指先で先端の部分を押し込むようにして位置を探る。 「あ……ん、先っぽ……ダメ。そこはおもちゃじゃ、ない……から」 「具体的に言って貰わないと」 「ん、んんっ。……つまんじゃダメ……でしょ」 「…………」 「な、なによ」 「零にそういうことを言われると、ちょっと興奮する」 「や、やめなさいっ、この変態っ」 「ますます興奮する」 「完全に変態じゃないの……んんっ」 「……んっ、ああっ。……はぁ、はぁ……」 零の体へ愛撫を重ねていく。胸から腹、それから太ももにまで。 徐々に吐息に甘い色が混じっていく。 「……はぁ、ぁ……ぁ、ん」 「もっと、別の所も……。胸ばかりだと……」 「触ってるけど」 「頻度が違うでしょっ」 「…………」 ――むぎゅ。 「んんっっ!!」 胸を握られて、零が震える。 もしかして胸が感じやすいのだろうか。 小さい方が感度がいいなんて話も聞くけど、人それぞれなんだな。 「んん、あ……ふぅ……。はぁ……ん、ああ……」 「んっ!! あああっっ!」 大きな胸を持ち上げるように強くなでる。 不意打ちだったのか、体が大きく跳ねた。 「ん、んんんっ」 「あ……はぁ、はぁ……」 「も、もう……遊ばないでよ……」 「悪い」 息も絶え絶えになっている零の股間に手を伸ばした。 「……ぁ……っっ!!」 体がのけぞる。 こちらは完全に不意打ちだったようだ。 指先に粘液がついている。それが糸を引いて、地面に落ちた。 「……ふっ。ああっ。んんっ!」 「だめ、触られると、感じて……っ。足に力、入らない……」 ――ちゅく。 くちゅ、ちゅぷ……くちゅ。 下着をこすり上げる度に、溢れる愛液の量が増える。 淫靡な音が森に響いていく。 「はっ。んんっっ!!」 「んぁぁっっ!! あっ!」 「ああっ!! んっ、んっ!! あっ!! ああっっ!!」 「中に入れるぞ」 指を膣内に入れる。愛液ですんなりと滑って、中に埋まる。 引き抜くたびにじゅぷじゅぷと音を立てていた。 これだけ濡れてるならもういいだろう。 俺も零の中に入れたくてたまらない。 「そろそろ、……いいか?」 「……う、ん……いい、わ。いつでも……」 「じゃあ――」 零と場所を入れ替える。 女の子を草の上に寝かせるのは可哀想だ。 俺が草の上に座って、そしてペニスを曝け出した。 「えっと……」 困惑している。 「この上に座ってくれ」 「……はぁっ!?」 ……驚かれてしまった。メジャーな体位だと思ったんだけど……。 「ほら、汚れないし! ベッドみたいに寝ると大変な事になるから」 「そ、そうだけど……」 「わかったわ……」 零が俺の前に立つ。 スカートをまくり上げて、下着をずらす。 「うおお……」 顔の高さ的にものすごい光景になっている。 「誠一……後で酷いわよ」 「い、今のは不可抗力だ!」 「……いいけど……」 体を落す。そこに調整するようにして、ペニスをあてがう。 「ん……」 僅かに体重をかけてくる。秘所の肉をかきわけるように奥へと貫いた。 「んんぁ、あぁ……っ!」 快感に打ち震える。 あそこがキュッと締まり、ペニスが膣壁に強く握られた。 この姿勢のせいか、結合部に体重が掛かっている。 零は俺に体を預けるようにして、喘いでいた。 あそこの締め付けがきつい。 「く……、零、すごく、いい……気持ちいい!」 包み込むように握られているかのようだった。 零の体を揺さぶるようにして、奥へと注入を繰り返す。 ぐちゅぐちゅと結合部が音を立てる。そのたびに零の呼吸が乱れていく。 膣内が収縮して、俺のを締めあげる。 「んっ! ああっ、んんっ、あ……はぁっ。あっ!く……んんっ!」 「んっ……。ぁ……んんっ!!」 目の前で零が快感に打ち震えている。 目を閉じて、上気した頬には髪の毛が張り付いていた。 ずっと子供の頃から一緒にいた零が……。 今はこうして俺にまたがって痴態を演じている。 その事が強い快感になって押し寄せてくる。 「ぁ、んんっ……あぁぁ」 「零……気持ちいい。お前と一緒になれてよかった」 「ん……私も。嬉しい……」 突き入れるたびに荒い吐息が零れ落ちる。 かすれるように、俺の耳元で囁いた。 「……愛してる。誠一とこうなれて、よかった」 言葉が脳髄に響く。愛おしさが胸の奥から溢れ、こみ上げる。 繋がった部分に感じる熱は、これまでにないほどだ。 零の中に射精したいという欲求が強くこみ上げてくる。 自然と腰の動きが速くなる。 「ぁ、ん……んっ! ああっ!!!」 奥まで突くと、ビクンと跳ねる。 その体を抱きしめるようにして、二度三度と突き動かす 「あぁぁん、んんっ! んっ! 誠一……!! 奥、私の。一番奥に……あたって……!!」 「ああっ!! あっ! んっ、ああんっっ!!」 「んんっ! あぁぁ! ああっっ!!」 抽挿する速度を上げる。 そのたびにぐちゃぐちゃと接合部の音から淫猥な響きが鳴り、肉を打ち付ける音が響き渡る。 「あぁぁ、んんっ、あぁ……っ!」 「あ――ああ……んんっっ!!!」 軽く達してしまったのか、零の背にぴんと力が入った。 ギュッと締め付けられ、ペニスから快感が伝わってくる。 「く……きつ。締め付け、すごい……っ」 「……ば、ばか……っ。んんっ、そんな、こと、言わなくて、いいの……っ!」 もっと声を聞きたくなって、何度も奥を突き動かしていく。 「んんぁっ……あぁぁ! ん、はぁ」 「誠一のが、奥まで当たって、あぁぁ!」 「あぁぁぁっ!! んっ……ぁぁっ」 普段の冷静さをかなぐりすてて、今は一人の女として喘いでいる。 それがとても愛おしくてたまらない。 お互いの動きが徐々にあっていく。 抽挿に合わせて零が腰を捻る。 それが互いの快楽を高めていく。 俺自身も油断するとすぐにも射精してしまいそうだ。 「そろそろ、出そうで、やばい……」 「ん、わ、わたし、も……そろそろ」 「いいわ、いつでも……んんっ!! あ、ああっ!! んっ」 「……んっ、ぁぁっ! ふっ、んんっ!」 徐々に響く声が高い音域へと変化する。 互いを求めあい、繋がりあいながらお互いの物を求めあって繋がりを深めていく。 「あぁぁ、んんっ、あぁ……っ!」 「あっ! ああっっ!! んっ。ふっ、あぁぁっ!!」 零の限界も近い。 俺自身もとっくに超えていて、いつ射精してもおかしくない。 「く……そろそろ、やば……っ!」 「ん、んっっ! あっ、ああっ!!」 「く……っ。出るっ!!」 「んん~~~っっ!!」 零が俺にしがみついて、身を震わせる。 膣内が射精を促すようにからみつき、それが最後の止めになった。 ――どく、どくっ、どくっ! 絞り取られるように、精液がほとばしった。 「あぁぁぁぁぁ……っっ!」 ――びゅく……びゅく……っ。 何度も何度も締めあげ、膣壁がうねり、俺の物を締めあげる。その間にも零はしがみついたまま、快楽を堪えて目を強く閉じていた。 「……く……っ」 射精が止まらない。二度三度とペニスが跳ねて精液を体内にぶちまけていく。 ――どく、どくっ、びゅくっ! 「はぁ……はぁ……っ」 頭の奥がしびれて、体が動かない。 その中でも膣内が放たれたペニスを受け止めようと、強く締め付けてきていた。 「……はぁ……ぁぁ……」 「……零……」 「……ん……」 零は意識を飛ばしてしまったようで、俺にもたれかかっている。 繋がったまま……俺もそのまま力を抜いた。 零を膝の上に乗せたまま、頭を撫で続けている。 零は意識は戻っているだろうけれど、されるがままだ。 二人で繋がったままだけれど、まだしばらく動く気にはならなかった。 「二人で……生きて行かないか」 「…………そう決めたのね」 「改めて思ったんだ。一番大事な物は今腕の中にある」 「零は俺が両手で抱きしめて、やっと支えられる。他の物を掴もうと、片手を離したら……多分、零も失ってしまうんじゃないかと……思う……」 「……それ、性行為をしながら思いついたの?」 「それだけって訳でもないけど……」 「でも何かあった時に抱えていけるとしたら、零だけだ。二人以上は……無理だ」 「……そうね。そして私の腕じゃ誠一は運べないわ」 「ああ」 だから、大事な物だけを見据えて、失くさないようにして。 ……両の腕で抱いたまま、離さない。 それは今の俺にとっては腕の中の彼女だ。 守るモノはもう決まっている。なら、後はそれだけを守り続けようと、心に決めていた。 ……屋敷は、炎に包まれていた。 屋敷そのものを灰燼に帰すように配置された仕掛けにより、炎は効率よく屋敷を包み込み――逃げ場を奪っていく。 ロビーにはまだ火の手は回っていない。しかし、そこに到達するのもすぐだろう。 「呆れた。まさかここまでするなんて思わなかった」 「…………」 零は答えない。 挑発する女の姿をしたモノに視線を合わせる事なく、その場にたたずんでいる。 「いつまでそうしているの? このままではあなたも死んでしまうのよ?」 「……そう思うならば、逃げればいいわ。逃げられるものならね」 「…………」 「あなたはそれが出来ない。結局の所、人の姿をしているだけの模造品。人の想いや感情をそのまま返す事は出来たとしても、自分の意志では決められない」 「哀れだわ。人形らしく何もしないまま動かずにいれば良かったのに」 「……くす」 紅は笑う。 人が人であるための矜持。それを由来にした誇り。 だがそれらが自ら死地へと向かわせている。その事がおかしくてたまらない。 「だからこそ私には分かる。あなたは怖がっている。震えている。迫りくる炎の熱と、徐々に伸びてくる死への恐怖に打ち震えている」 「恐怖など覚えず、私をただの人形と言うのならば、黙ってその時を迎えればいいのではなくて?」 「だが言葉に出し、私に話しかけている――あなたの言葉で言う所の、ただの人形に。錯乱して人形に話しかける狂人。それが今のあなたよ」 「…………そうね。そうかもしれない」 「認めるの? 意外だわ」 「だって怖くて仕方ないもの。覚悟をしたなんて言っても、この世界に生まれてまだ大して経ってもない。人生を飽きるほど過ごしたなんて事も全くない」 「それなのに、こんな所で一人で終わってしまう……恐怖を覚えない訳がないわ」 「なら――」 「でも、逃げない」 紅を見据えて言う。 笑みが、収まる。鋭い視線を向けながら、人形はどこか狼狽したようにも見えた。 「何度でも言うわ。あなたは本当に哀れよ。誠一と過ごしていた時はどうだった? 自分を恐れず、殺意を持たず、話を真摯に聞いてくれたのでしょう?」 「あら、見ていたの? 私を監視する事が、こちらとも繋がる事になるなんて、数代前は言っていたのに……。今はなんて悪趣味な事を」 「……だから、哀れなのよ」 「覗かなくても分かる。誠一ならきっとそうするだろうと信頼している。離れていても人の本質は変わらない」 「人にはね、外側だけではなく中身があるの。その人を支える真っ直ぐな柱。人形であるあなたには絶対に無い物が」 「…………」 「羨ましいのでしょう? 人が、自分を同じ人だと接してくれる時間は楽しかったでしょう?」 「……けれど、それを壊したのは人間の側だわ」 「父は、最後まであなたを許せなかったのでしょうね。自らを焼かれ、妻を焼かれ、友人を焼かれ――そしてその思いだけを胸に生きてきたから」 「殺意を抑えられなかった。化け物が同じ屋根の下で蠢いて居る事に心が耐えられなかった」 そして、大きなため息をついた。 「……あなたはそこで立ち止まるべきだったのよ。人形である事を止めるとしたら、ただその時しかなかった。でも選ばなかった……選ぶことすら、出来なかった」 「だからここで私と死んでいきなさい。ただの人形として、薪材となって燃え尽きなさい。それだけが、今の望みだわ」 「…………」 紅は動かない。表情の無い顔で、零を見据えている。 外に通じる扉の前には、零が陣取っている。 ただの無力な人間――本来ならば、倒す事はたやすい。 (糸が……動かない……) 屋敷に張り巡らされた糸は、その大部分が炎により燃え尽きてしまっている。 ここで新たに糸を紡ぎ、吐き出してその命を絶つ――。 ……が、出来ない。 如月零の感情は、自らを伴う死とこの場を動かない事だけに向かっている。 畏れ、怒り、悲しみ――もちろん、それらも存在している。が、しかし、全てを凌駕する程ではなかった。 「ここで死ぬという事は、あなたも誠一に会えなくなるという事よね。一葉を預けたのは、自らの代わりの女という事なのかしら」 「……そういう意図はないわ。ただあの子も多くの物に翻弄されているのだから、幸せになって欲しいだけ」 「あなた自身の幸せを捨ててでも?」 「……人の言葉を上手く真似ても、所詮はやはり人形なのね」 「…………?」 紅に向けて、顔を上げる。 「これが、私の幸せだわ」 その表情が読めず――疑念が浮かぶ。 相手の心が分かっているのに、理解が出来ない。幸せだという気持ちが分かっているのに、それを受け入れる事が出来ない――納得が出来ない。 人形であるはずの紅には、ありえない齟齬が生じている。 「意味が、分からない」 「……驚いた」 絞りだす言葉を、嘲笑するのならば分かる。 だが返ってきたのは心の底からの驚きで――ますます紅に困惑を生じさせる。 「あなたも、人間らしいことを言うのね」 「……人間……? これが? こんな理解できないものが?」 「そうよ。分からないでしょう。人の気持ちが伝わっても、理解できないわよね。到底、同じ気持ちになんかなれないと思うでしょう?」 「意味が分からない。どうしてこんな気持ちになれる?」 「私は大勢の人間を見てきた。その中には、私と共に死を選ぼうとした者も大勢いた。けれど、その中の誰もが、生きたいと願っていた」 「……そう……その結果、あなたは生きたのね」 強い生命の渇望があれば、目の前の人形は死よりも生を選ぶ。その為に、あらゆる手段を使って脱してしまうだろう。 仮に――。 零は思う。誠一とも別れ、お互いに理解を得られないまま、このようになっていたら……。 果たして、自分も生きたいと願わなかっただろうか、と。 ……考えるまでもない。気丈に無理をしても、最後の最後に願ってしまうはずだ。 生きたい。誠一と共に過ごしたい、と。 ……その結果は考えるまでも無い。 炎が、回る。ロビーの中にまで煙が満ちていく。 火の手が姿を現していく。 数分も持たない。それでこの舞台の幕が下りる。 「……そういう事……」 「結局、生きるのも死ぬのも誠一がいてのものなのね。だからそれまでの事で、考えが変わってしまう」 「……人形である私に言えた話ではないわ。人こそが、自分や他人の感情に左右されるだけの、不出来な存在ではないの」 「……そうかも、しれないわね」 でも、今はそれでいいと思う。 それだからこそ、こうして生きてこられた。大勢では無かったけど、色々な人と出会えて仲良くなれた。 最後にもう一度――。 ……そこまで考えて、頭を振る。ただの未練だ。そして、未練を残したら目の前の相手に汲み取られてしまう。 ――全てが無駄になる。 「…………ふふ」 だが、それはとっくに伝わっているのだろう。 何とかして、また足止めをしなくてはならない。 (誠一……) 心を奮い立たせるために、名を呼ぶ。だがそれは、生きてまた会いたいという思考とも重なる。 逃げ道を封じるために、自らの心を殺さなくてはならないのに。 自らを奮起させる想いこそが、相手に逃げ道を与えてしまう。 ジレンマが消えない。どうしても、上手く乱れた気持ちをまとめられない。 じりじりと焼けていく肌が。炎が侵食する屋敷が。立ち込めつつある煙が。 思考を焦りへと掻き立てていく。 その時――。 「零ぃぃぃぃいいぃぃっっ!!!!」 勢いよく扉が開き――中に転げるようにして、一人の男が飛び込んできた。 「零……っ! ――げほっ、げほっ!」 炎の中に勢いよく飛び込んだ先は、煙が立ち込めるロビーだった。 零――そして紅の姿がそこにはある。 「よかった、間に合った……」 「な、なにしに来たのよ!」 「……連れ戻しに来た……と言いたい所だけど」 「よう、久しぶり」 「……こんな形では会いたくなかったわ」 「俺もだ。実の所、紅がどんな人間か考えるのが結構楽しいと思ってたから」 「誠一で呆れるのは……本心からそう思っている所ね……」 やれやれとため息をつく。 「……何をしに来たのかしら。正直、場違いだわ」 「そうでもないと思っている」 傍らにいる零の手を取った。 「…………落ち着いたか?」 「……少しは、ね」 「だと思った。お前って一人でしっかりしてるようでもどこか怖がりだったりするからな……」 幼い頃、二人で沢でキャンプをしたことがあった。 遊び慣れていて、家からも近くて、そして水のせせらぎが気持ちよさそうな所だったから。 テレビで観る自然の番組のキャンプは楽しそうで、僅かでも体験したいと思っていた。 ……結果は散々だった。 予防がずさんだったから虫には食われ、零は地面が痛いといって、俺のテントに潜り込んできた。 ……でも、本当は違うのが分かっていた。 一人で頼りない所で寝るのが寂しくて、それでくっついていたいのに、素直に言えなかった。 そんな思いを言い出せず――無理をしようとしていた。 「………………」 「あ、……そういや、想いとか伝わるんだっけ」 「意味が分からないわ。どうしてそんな事を考えていられるの」 「……さあ、な。でも……」 本当にどうしてこうも落ち着いてられるのか分からない。 「今が、待ち望んだ機会だと思った。いつか分からないけど、いつかどこかでそう思って……。巡り巡って、また機会が回ってきた……気がする」 「ただの、思い付きなんだ。勘違いかもしれない。でもそう思ってしまったら……怖くなくなった」 「死んでしまうというのに?」 「……ああ、うん。そこは……そうだな」 「でも、あんな形とはいえ一応結婚した訳だろ」 「…………お見合い程度かしら。扱いとしては」 「ああ、そっか。それなら、まあ」 「……誠一って本当に……」 「まあ、そんな事もあって、零も……紅も、残しておく訳にはいかないと思った」 傍らの零を、強く抱きしめる。 「誠一……?」 「一人には、しないから。だから――」 「…………」 ロビーに火の手が回る。 ぱちぱちと音を立てて、屋敷の煙が充満していく。 どこかで何かが崩れる音がした。きっと、ここもすぐだろう。 煙に目を開けていられなくなった。 零のぬくもりを胸に抱いたまま――。 強い衝撃と崩落の音と共に、俺の意識は消えて行った。 「セイ……セイ!!」 何度も呼ぶ声に目を開ける。 空……空が見える。夜空だ。 「――――!」 そして、屋敷の中ではない事を知って飛び起きた。 「……無事だったか。ひやひやしたぞ。救急車も来ている。そのまま寝て待っていろ」 「ちょ、ちょっと待った! 俺はどうして――」 「おい、無理に動くな。今は――」 「……そん、な……」 屋敷は崩れ落ちている。 俺は離れた所に寝かされていて、現場では消防の人が慌ただしく動いているのが見えた。 「俺は、どうして……なんで……」 その事に答えてくれる者は、誰もいなかった。 ――あれから、しばらく時間が過ぎた。 俺は病院に運び込まれ、そして少し入院した後に、伊沢まできた親父と母親に引き取られて退院した。 そして、自宅の方へ戻ってきている。 「…………はぁ……」 一葉ちゃんは今は一緒に暮らしている。 新しい娘が出来たと、親も大喜びだ。 「……零……紅……」 屋敷の跡地からは、一人の人間の遺体が見つかったらしい。 その人間は、何故か大きな木片のような物を、抱く形で死んでいたそうだ。 ……何があったのか、俺には分からない。 でもあの瞬間――もしかしたら、二人が俺を死なせたくないと思って、それで逃がしたのだろうか。 忍も、俺が屋敷から弾かれるように勢いよく放り出されてきたと言っていた。 零の腕力じゃ無理だ。そんな事が出来そうなのは……あの場には一人しかいない。 そして、それが出来るなら、自分も逃げる事が出来たはずだ。 「…………はぁ……」 目の前にバスが止まる。中から、髪の長い女の子が下りてきた。 「零――」 思わず呼び止めて――固まった。 女性は訝し気に俺を振り返ると、小首を傾げて会釈する。 「あ……すみません。人違いで……」 そういうと、彼女も理解したと頷き返して、立ち去っていった。 (零……紅……) ひと夏に起きた、奇妙な出会いと別れ。ただそう言ってしまうだけにしては、密度の濃い時間だった。 蝉の鳴き声も徐々に減ってきている。 夏が、終わる。 来年の夏……いや、年が明ける前には、二人に会いに行こうと心に誓った。 森の中、沢の所にひっそりと立てた、木片だけが納められている墓に。 ――誠一は、生きて欲しい。 あの瞬間、意識を失う前に誰かに言われた気がした。 零だったと思うし、紅だったようにも思う。それくらい二人の声は似ていて、判断が付かない。 けれど、俺が助けられたという事実だけは、変わらないだろう。 なら、その約束を胸に抱いてこれからも生きていく。 しばらく、似た姿を目に止めてしまう癖は、なくなりそうになかった……。 ……自分の部屋にいよう。 零の言う通りだ。また戻ってくる可能性は十分ある。 狙われているのが俺だとしたら、あまりうろつくべきじゃない。 一応、零にメールは入れておくか……。 返事がくる。 『そうして頂戴。それではお休みなさい』 何とも零らしい内容だ。 「…………」 部屋に一人きりだが、限界まで眠るつもりはなかった。 そもそも、昨日は寝ている間に手を出されていた訳で……。 (どうして俺にあれ以上しなかったんだろう……) 俺自身に自殺願望や殺戮願望が無いからだろうか。 嫌な奴だなと思っても、人を殺したいと願う程の憎しみは持っていない。 それとも、人形の体と化け物の魂を持つ紅にとって人の情報を得るのが大切だったからだろうか。 ……どちらにしろ、考えても答えは出ない。 緊張感の前に、心が焦れていくのを感じていた。 「…………すぅ……ん、……んん……」 「ん、んん……あれ……寝てたのか……」 一瞬眠っていたの自覚して目を覚ます。 時計を見ると、最後に見た時から15分程が過ぎていた。 「…………」 今の所、変化は無し……と。 目が覚めていくのを自覚する。うたた寝は出来ても、しっかり眠るほどの睡魔はやってこない。 ……緊張でそうなってるだけかもしれないけど。 それなら、起きてる方がまだ気が楽か……。 しかし、部屋の中は本当に何もない。喉も渇いているし、外に出たい気持ちが湧いて来る。 どうする? 零は出ていくなと言った。狙われているのが俺だからとも。 それなら一晩くらい我慢するか。 (……? そういや屋敷、ずいぶん静かだな……?) 俺が狙われてるから部屋に居て欲しいという事は、仮にそうなったとしても、部屋に来る前に迎え撃つ準備があるという事じゃないだろうか。 それなら、屋敷の中で何かしら人の気配があってもいい。 (そうでもないのか……?) 俺が部屋に居る前提で出来る何か。 ……俺の所に来る前に、別の場所におびき出してしまうとか。 「………………」 嫌な予感が膨れ上がる。 ベッドに戻り、携帯を取る。零にメールを送る。 …………返事はない。 電話を掛ける。寝てる所を起こして、と怒られる方が遥かにいい。 そうあって欲しいと心の底から強く願う。 …………くそ。何度目かの留守番のメッセージに、諦めて携帯を切った。 屋敷の中を見てくる事にしよう。 夜の屋敷の静寂は変わらない。いつもと同じ重厚な空気のままで、進むのに一歩躊躇ってしまう。 子供の頃はこの独特の重さが耐えきれなくて、夜中のトイレに行くのにも一苦労だった。 ロビーに下りる。 ……ここにも誰も居ない。零の姿も、誰も。 時間的に当然だが、それにしても静かすぎる。 ――ぴちゃ。 「…………」 足元が何かを踏んだ。 真っ直ぐ下がって、床を見てみる。 「…………」 そこの辺りだけどす黒くなっている。 (……なっ!? これ、血か?) 外からだろうか。紅は俺の方に来ないだけで、屋敷には戻って来ている。 ……あまり当たって欲しくなかったけど、予想通りでもある。 「――――紅……っ!!」 声を響かせて――叫ぶ。 「どこだ! 紅……!!」 廊下を走る。 きっと、どこかに来ている――。 血の跡を辿りながら走り、そして当主の間の前へとやって来た。 「紅……っ!!」 扉を蹴り開ける勢いで、中に入る。 「――――うっ」 暗がりの中に何かが落ちている。 丸い……大きなボールのような。 でもその表面には何か別の物がついていて、でこぼこのようにもなっている。 (人の……頭……?) 確かめなくてはならないと思うのに、足がすくんでしまって確認が出来ない。 「――――――」 それでも意を決して、転がる頭に近寄った。 「……う……」 見た事のある人物。神無月家の当主の顔だ。 「………………」 これは、紅がやったのだろう。なら、俺が殺したようなものだ。 あいつはそうすると言って、外に出て行こうとした。 …………くそ! 奥に続く扉が開いている。 「…………」 唾を飲み込んで、そちらに向かうと……。 ……ベッドの上が赤く染まっているのが見えた。 「…………く」 濃密な血の匂いが溢れてくる。 「零は……」 屋敷で無事な人は誰か居ないのだろうか。 それを探す事にした。 零の部屋はもぬけの空になっている。 (……よかった) 良いといっていいか微妙だが、さっきの衝撃に比べれば全然いい。 部屋に飛び込んだら、零が物言わぬ姿になっていたなんて考えたくもない。 (零はここにはいない……じゃあ、どこに?) 外に向けて、走りだした。 「はぁ……はぁ……っ」 離れか? それとも……。 いや、向こうには一葉ちゃんがいる。 零の性格からして、巻き込むような事はしないんじゃないだろうか。 となると――。 「零……!! 紅……っ!!」 二人の名を呼びながら、夜の森を走る。 足元がおぼつかない。 真っ暗な森の中は、人の目では見渡せない。 それでも奥にいるという実感があった。 「……く……」 葉っぱに、木の幹に、赤黒い物が付いている。 それが森の奥へと続いている。 俺達が昼間通った道だ。 あの時、こちらに紅はいなかった。 ……では誰が通ったのか。一人しか思い浮かばなかった。 ……そうして、せせらぎの流れる小沢に辿り着いた。 「……零……」 「……なぁ、零……」 手を取る。それで零がうっすらと目を開けた。 「……ひどい……顔……」 「……どっちがだよ」 「ごめん、なさい……結局、私……一人で……」 「いいよ、何も言わなくていい!今、救急車呼ぶから。だから、どうか――」 「……うう、ん。……痛い、くる、しい……。ごめんね、無理……かも……」 「そんな事……言うなよ……っ!」 涙が、溢れた。 自分の意思では止められない。意志に反してぼろぼろと、零れ落ちていく。 それが、仰向けに倒れる彼女の上に、ぽたりぽたりと降り注いでいく。 「……ふ、ふふ、せいいち……泣いてる……んだ。泣き虫……でも、そ、それ、もわた、し……」 「だからいいって! しゃべるなよ。もう、喋らないでくれよぉ……っ」 零の手をきつく握りしめる。 その手が弱々しく握り返してくる。 僅かに残った生命の残滓が、自分はまだここに居ると主張しているようで、どうにかしてつなぎ留めたくなってくる。 けれど――。 「ひぐっ。うう……っ」 零の胴体には大きな穴が開いていて、そこから彼女を構成する多くの物がこぼれ落ちて広がっている。 よほど無理をして、ここまで来たのだろう。 今こうして生きていられるだけでも、奇跡にしか思えなかった。 「……せい、いち……」 「なんだ? どうしたんだ?」 「……わたし、も……好き。ずっと、大好き……。子供のころから……一緒にいて」 「ありがとう……ねぇ……」 「……ぐ……う。うう……っ」 「やっと……い、い、え……え……」 「……けふっ」 軽い音と共に、ごぽりと口から血が溢れてくる。 握った手から零の力が抜けていく。 「ま、まってくれ! 行かないでくれ……っ!俺を一人にしないでくれ!!」 「……はぁ……はぁ……」 止まりそうな呼吸。それでも目に意志を籠めて――零は俺を見ていた。 その綺麗な目からぼろぼろと涙をこぼし。 呼吸と共に血を吐き出しながらも、零は、真っ直ぐ――俺を。 「……零……」 「…………ん、……、……」 最後に……聞こえない声で何かを言って……。 零は永遠に、動きを止めた。 「………………く……」 開いたままの目を、閉じさせる。 まだ温もりが残っていて。触れた血が暖かくて。 ……それがどうにも、やるせなかった。 「零……零……っ!」 あの時……! あの時に零は分かってたんだ!!紅は俺に執着している。それを止めるためには先に出会って何とかするしかないと。 零の言葉なんて聞くんじゃなかった。 俺を気遣ってるのなんて明らかで、零は俺を呼んだ事にずっと罪悪感を持っていた。 ――そんなの関係ないのに! 「うぁぁぁぁ……っっ。ああぁっっ!!!!」 地面を叩く。自らの手に返ってくる痛みが、むしろ心地よく感じている。 一生分の涙が果てても、それでいいと思った。 もうこの先、二度と零と話す事は出来ない。 笑わない、怒らない。 なら――俺も涙なんて流さないでいい。 ……でも、どうか。今だけは。 今の瞬間だけは――誰にも邪魔しないで欲しいと、 強く、強く願っていた。 ――ガタン、ガタン――。 電車の振動が座席から伝わってくる。 繋がれた温もり。そして椅子の温度。夏場でクーラーの効いた車内にあって、寒暖の差が激しい場所になっている。 「…………」 零は何も喋らずに、前を見ている。 「…………」 少し体を預けるようにすると、零も身を寄せてくる。 俺達は――俺達以外の存在を失った。 翌日のニュースには、如月家で起きた火災事故が記載されていた。 そこには如月家当主と、分家筋の人間の死体が見つかったと書かれていた。 俺の実家に向かうという事になっている。 忍や美優には、そう伝えていた。そして同時に、二人にも伊沢から離れるように、と。 美優は訝し気にしていたが、信じてくれたようだ。家族に話してみると言っていた。 忍は――美優より先に信じてくれたものの、逆に残るつもりになっているようだった。 口では離れると言っていたが、俺には分かる。それだけの付き合いはしてきている。 俺は零を守りたいと思い、結果逃げる事を選んだ。 忍は忍のやりたいことがあって、それでも伊沢に残ったのだろう。 ……胸が、苦しくなる。 どこまでが自分のせいなのか分からない。全ての責任があるような気がしてくるし、仕方なかったのだと思ってしまう気持ちもある。 「……サエと一葉、新居を見つけたそうよ」 「そうなんだ……よかった」 「卯月の家に相談して探して貰ったらしいわ」 「……じゃあ近所だな」 「ええ、そうね」 このまま俺達がそこに帰ればの話だが。 屋敷の中からは、人形が見つかったという話は出なかった。 木造の人形だ。燃え尽きたのかもしれない。 でも……紅がそう簡単に死ぬだろうか。 死ななかったとしても、その後はどうなるだろうか。 蜘蛛神の元に戻る? あの場に居た人たちの想いを受け取り、別の何かをする? あるいは――俺達を追ってくる? ……分からない。 全部がありそうで、全部がなさそうにも思えてくる。 そして、だからこそ俺達はこうしている。 ――逃避行。 その言葉が頭をよぎる。 幸い資金はある。どこまで行くにしても、伊沢から離れれば紅が追ってきたとしても、その間は故郷は無事かもしれない。 不確定要素ばかりの、先行きの見えない道の旅路だ。 でも――そんな状態にもかかわらず、零は憑き物がおちたかのように、外を眺めていた。 「……私にとって、人生とはすでに決まった物だった」 「知ったのは子供の頃。あの屋敷で大けがを負ったお父様は先が長くない事を覚悟していた」 「私はそれを知り――選択を迫られた」 「全てを捨てて忘れてしまうか、如月家の跡継ぎとして生きていくのか」 「……あの時は捨てる事を選べなかった。後継ぎとして残ってしまった」 「結局は現状維持を選んだだけ。辛い決断とは思わなかったけれど、未来に希望は持てなくなってしまった」 「…………だろうな」 「知ってる? 卯月のおじさまに引っ越しを勧めたのは私なのよ」 「そう、だったのか」 「……まあ、まさか誠一が全然帰ってこなくなるとまでは思っていなかったけれど……」 「それは……悪い」 「いいわ。怒ってる訳じゃないの」 「……結局また巻き込んでしまったのはこちらだもの」 「……どうかな」 俺の前には数々の未来があった。それはこっちに来ても変わらなかったはずだ。 その中から今を選んだのは――きっと自分だ。 偶然何かがどこかでずれたら、結末は変わっていたと思う。 でも今、隣に零が居る事も無かっただろう。 なら、これでいいんだ。 これでいいと、思う事にした。 「どこに行こうかしらね」 「夏だし、南の方かな」 「海に行った事も殆どないのよね」 「……そっか。屋敷から出られなかったから」 「だから……これは私が手に入れた、先の見えない未来だわ。奈落の底に落ちていくレールだけが敷かれた人生じゃない。どうなるか分からない、本当の未来」 「……一緒に居てくれれば、私は後悔せずに歩いて行ける」 「……だな」 手を取りあって生きていく。 二人で、先を目指して。 いつか辿り着く、その時まで――。 「月影のシミュラクル。100%達成おめでとう」 「これで全部のシナリオを完了されましたね!あんな事やこんな事もありましたが、最後までプレイして下さって、本当にありがとうございました!」 「セイ君がそれだけ色々な可能性を見てきたって事だよね」 「例え辛い事があったとしても、真っ直ぐ進んでくれたからこそ、今があるのだわ」 「だから、ありがとう。何度でもこの言葉を贈りたい」 「これでお別れになるけれど、良かったらまた遊んで私達に会いに来て頂戴」 「で、ですが、辛いお話が多いのでもう来ないって方も大勢いるかもしれません……」 「そ、そうだよね。今回はちょっと……」 「逆にそれが良かったという人もいるのでは?」 「ふふ、あなたはどちらかしらね?私達はいつでも待っているわ」 「それでは、また。あなたが来てくれてよかった……ありがとう」