『だから』  『だから、約束よ』  『わたしと、あなたの、約束』  『……もしも』  『もしも世界が、終わってしまって』  『ふたりだけになっても……』 ──暗い。 ──ここはなんと暗いのだ。 石畳の路地を歩く革靴の乾いた音が響く。それ以外に何の音もない。 いや。いいや、違う。聞こえてくるのは私の靴音だけではない。焦りを込めて早足に歩くこの音だけでは。 息づかい。ひゅうひゅうと苦しげな私の息がある。 歴史上最高の繁栄を謳歌する大英帝国、首都ロンドンの暗がりを歩く男の息だ。私の息だ。 ここには誰もいない。ここには誰もいないのか。 私の靴音と息づかいのふたつだけが響く静寂の世界の中にあって、私は、そう、知っていた。 誰もいないのだ。ここには、私しか、いない。 夜闇を絶え間なく照らす機関外灯はある。2ブロック先の機関工場の駆動音もある。 けれど、ここには、私だけ。ここは大都会であるはずの都市ロンドン、ウェストミンスターエリア。それなのに。 私しかいない。生きる者も、動く者も私だけ。 そんなはずはない。そんなはずはない。 私は歩いている。息をひそめようとしながらも荒い息で、靴音を鳴らさずにと考えつつも早足に。 私は歩いている。私は、迫り来るものを感じているから。 ──逃げろ。 逃げろ。         逃げろ。                 逃げろ。 背後のもの。それはあり得るはずのない無限の暗がり。 この暗がりに追いつかれたら殺される。待ち構えた“あいつ”の牙で殺される。 暗がりから追いかけながらも、同時に待ち構えている“あいつ”に、誰も、逆らうことなどできはしない。 生け贄となった少女の悲鳴が続く限り、“あいつ”は何者をも殺すことができる。 私や少女が恐れるものさながらの力で。殺すことができるのだ。 生きとし生けるあらゆるものを、殺すのだ── けれど。 けれど、 もしも、この身が闇ならば── 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 彼は決して自らの名を口にすることがない。見たままを口にせよと戯けて言う。容姿の通りに、奇妙な男であった。 亜細亜の小さな島国に伝わる神なる獣、それがこの男の今の名だ。 すなわち、男の名は《バロン》。バロン・ミュンヒハウゼンと人は呼ぶ。 ──もっとも。──彼を呼ぶ者など多くはあるまい。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 不用意にその名を呼んではいけない。命が惜しければ。 彼の仮面の奥を想像してはいけない。命が惜しければ。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の開始と。──深遠なる認識の開始を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「至高なりしはこの世にただひとつ。 我ら《結社》が総帥たるヘルメース師」 「すなわち。 アルトタス=トート=ヘルメース」 「しかし、かの師の威光をも凌ぐものが」 「女王のあり得ざる在位によって守られた 王都へと降り立つのでございましょうや」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「かのハイ・エージェント・Mが 既に監視を開始いたしましてございます」 「いずれ、タタールの門は開きましょう」 「ただひとつの懸念を申し上げるならば ヴァイスハウプト師の求めし方程式の 在処が未だに不明ということですが──」 「あれは我らが求むるものではないと 閣下は仰るに違いありませんね?」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さあ」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「──すべては、ここから始まるのです」 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──バロンの名を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“繋がる”のだ。 『……第1次抑制機関を排除』 『機能制限の解除を確認。 これより、命令系統の再入力を行います』 ──ひとつひとつ。 ──ゆっくりと。 知らぬ者が見れば人間に見えるだろう。最新鋭の機関で形作られた自身の体を、女は── ──女のかたちをした人形は、己を見る。──自身の機体を。 ひとつひとつ。ゆっくりと、外し、装着し、接続して。 己の機能を取り戻していく。己の一部を失いながら。 女は、自らを回廊の新式回路に繋げていく。ひとつ、ひとつ。確かめるように。 『……我があるじ』 女の声が震える。言葉は、己を見つめる男へのもの。 黒の男は無言で背後にいた。女が自己を調整するさまを見つめながら。 幾つかのケーブルを手繰り寄せ、女の背中へと、ゆっくりと取り付けて。 『我があるじ。未だ兵装は不十分です。 目標の完全排除を行うことはできません』 「構うな」 黒の男は静かに告げる。女の頬に、冷ややかな手を添えて。 「十分だ」 「お前とクルーシュチャ方程式が在る限り、 既に──」 「我が身は、既に」 男は言葉を続けなかった。そのまま、回廊には静寂が充ちていく。 ややあって、女は言った。囁くように。呟くように。 『……はい。我があるじ』 ──最初は、囁き声だった。 耳元で囁く誰かの声。あたしの知っているひとの声じゃない。 何を言っているのかわからなくて。あたしは振り返ろうとしたけれど。 だめ。いけない。 振り返ったらいけないとあたしは思って。だから、少し急ぎ足で。 しばらくしてから気付いた。そこはあたしの知るロンドンではなくて、もっと、ずっと暗い、明かりの薄い場所。 ようやく見慣れたはずの街並みはいびつなものへと歪んでしまって。 ひどく歪んで、ひどく暗くて。 立派な舗装道路だったはずの街路はぐにゃりと曲がって── あたしは誰かに、助けを、求めようとして。あたしはすぐに、誰もいないことに気付く。 そんなはずない。そんなはずは、ないのに。 歪んでしまった暗がりのロンドンに、あたしひとり。 ──囁き声が変化する。 ──叫び声に。 あたしは走る。叫び声をあげる誰かが迫ってくるから。 叫び声。叫び声。 ひとつの声であるはずなのに幾つも響く。 恐ろしいほどのそれは、頭蓋を揺らし、あたしの思考を麻痺させる。自然と、涙が、溢れていた。 あたしは何かにつまずいて転んでしまう。だめ。だめ。走らなきゃ! 逃げて。 逃げて、逃げて、逃げて! 足が言うことを聞いてくれない。身動きができない。 指先一本さえ、意思を振り絞ってなんとか微かに動くくらい。 ──叫び声が聞こえる。──あたしの、頭の、すぐ後ろで。 ──すぐ近くにいる。──誰。 「あなた……」 近付く誰かへと、あたしは── ──ふわり、と。 ──柔らかな感触で目が覚めた。 目元にそっと触れる合成絹。こぼれた涙を拭いてくれたのだとわかる。 今月に入って何度目だろう。1度目、いいえ、これで2度目だと思う。 眠ってしまった訳じゃない。でも、確かに今日も夢を見ていたのだ。 白昼夢。 この1年というもの、週に1度は必ず。 機関製のレース模様が編み込まれた合成絹布の柔らかなハンカチーフが、そっとメアリの目元に触れる。 ──シャーリィのハンカチーフ。──真っ白な。 いつもシャーリィはそうしてくれる。綺麗なハンカチーフで。そっと、拭ってくれる。 また泣いてる。メアリ、泣き虫の仔猫ちゃん。 ……ごめん。 ううん、謝らないで。ほら。まだ、動いちゃ駄目。 ……うん。 言いたいことは幾つもあるけれど、言い訳をさせて欲しいと思っても、いつもこうして黙ってしまう。 碩学院史学部の才媛だ碩学の卵だと言われていても、これが実態。メアリは、シャーリィにはかなわない。 ──柔らかな笑顔を浮かべて。──シャーリィは、あたしの頬に触れる。 もう大丈夫。心配いらないわ、と。 言葉はなくても表情でそう言ってくれる。心配で涙を流す訳でも、悲しい訳でもないのに。 ──シャーリィ。──シャーロット・ブロンテ。 ──あたしの、大切な親友。 碩学院に通う女の子の誰よりも綺麗で、誰よりも頭が良くて。誰よりも分別がある、と言う人もいる。 分別については少し首を傾げるけれど、綺麗で頭が良いところはメアリも賛成。文句なし。 姉のようでいて、時には妹みたいに幼い表情をも見せてくれるひと。 ──それが、シャーリィ。 ──あたしの、ずっと昔からの友達。 大丈夫? ううん、平気。何でもないわ。あ。でも、仔猫ってのはやめて頂戴ね。 はい、はい。 ハンカチが要らなくなったら、そうするわ。可愛い可愛い仔猫ちゃん。 ……もう。 溜息ひとつ。シャーリィだから気にはならないけど、仔猫と呼ばれるのは少し、抵抗がある。 でも、これもいつものこと。このお茶の時間と同じ。この他愛のない時間と。 金曜の午前中、講義までのぽっかりと空いた時間。 金曜の午前はいつも、ふたりで行きつけのカフェへと赴いて、イレブンシスと洒落込むのだ。 香り高い紅茶に焼きたてのスコーンを添え、他愛もないお喋りに興じて。 スコーンにはクリームをたっぷりつけて、お喋りに時間をたっぷり費やして。 今日も、午後の講義まで時間はまだある。だからメアリは気を取り直して、笑顔を浮かべてお喋りに興じる。 アーシェにはすまないと思うものの、学部が違うからこればかりは仕方ない。 他の日にはアーシェも加えて3人で。でも、金曜だけはふたりだけ。 ──あたしたちは、いつも。──とりとめのない会話をする。 ──アーシェがいたら話せないような。──教育に良くないことも、少し。 ──たとえば。──ビアズリーの新作について。 ──たとえば。──男子生徒の女性関係について。 ──たとえば。──碩学院の“教授”について。 ──それに、そう。──アーシェの彼氏についても、少し。 メアリは聞いたかしら。アーシェの彼氏さんったら、とうとう、大学の特待生待遇になったんですって。 オックスフォードの? そう。事業も上場が決まるんですって。となると、ようやく合格かしら。 シャーリィは、そうね。まだアーシェと彼の付き合いに反対なのね。 そんなことないわ。手を繋ぐくらいなら、2秒程度なら許してあげても良くってよ? ……やっぱり、まだ反対なんだと思う。 そんなことないわよ? ──アーシェ。可愛い子、アーシェリカ。──あたしたちの妹みたいな子。 ──アーシェのこととなると。──シャーリィはまるで厳しいママのよう。 あなたは、まだそういうお話はないの?待っているのだけど。 男性? ええ。 ……冗談。あたしは当分そういう予定はありません。それを言うならシャーリィだって、ねー。 あら。あら?わたしがいつまでもひとりだと思って? え。 冗談。殿方のみなさんより、あなたやアーシェとお茶するほうがまだまだ楽しいのだもの。 ……もぅ。驚かさないで。 驚いてしまった。シャーリィはたまに笑顔のままでけろりと冗談を言ってのけるから、油断はできない。 柔らかな微笑を見つめて、うん、本当に冗談なのねとメアリは思う。 何かの冗談を言っていても、瞳を見つめるとシャーリィは観念するから。 だから大丈夫。今の話はやっぱり冗談であるらしい。 でも、ミスター・ヘーガーのことは?彼、あなたに興味がおありのよう。 ハインツ先輩? ええ。あの“ゲルマンの貴公子”さまね。第1教授ともご懇意のようだし。 そう、ね。顔立ちもよいものね。でも、ううん、無理無理。 ……うん。あたしも同じ考えかな。 同じ? シャーリィと同じにね。まだ、殿方とお付き合いする気には。 あら、勿体ない……。 自分を棚にあげないの。シャーリィのお世話焼きさんめ。 それはきっと仕方ないわ。だってわたし、メアリとアーシェのことをお母さま方から一任されているのだし。 ……彼氏のことも? うーん? もう。 肩を竦める。アーシェを含めた3人の中でシャーリィが一番、話を途中で誤魔化すのが上手いのだ。 それには運もあるはず。たとえば、今も、こうしている最中に── 聞こえたわよ。なあに、あのドイツの留学生のお話? いいわよねー。彼。まるで薔薇の花みたいで。 ……おばさままで、もう。 機会を微妙にずらした援護というか。このカフェの女主人であるクローディアは、シャーリィと同じ方向でメアリを困らせる。 ロンドンを発つ前の母がメアリのことを頼むと告げた相手は4人。そのひとりがシャーリィで── ──もうひとりがこのひと。女主人。──クローディアさん。 くすんだ色の髪も物憂げな瞳もいいわぁ。もしかして、メアリ、彼から求愛された? ……いいえ。なんにもありませんったら。ふたりして酷いんだから。 喜ぼうと思ったのに。ねぇ? レディ・クローディアの仰る通り。ねえ、メアリ? ……もう。 溜息ひとつ。肩を竦めつつ、ティーカップを唇へ。 母と親しい女性は、年齢に関係なく、メアリを困らせるのが得意ときている。伯父以外は皆そうだ。 あなたたちの年齢ぐらいの頃は、そうね、お母さまも随分モテたのよ。アタシほどじゃないけどね? あ。そのお話、聞かせていただけます?後学のためにぜひ。 ち、ちょっと、シャーリィ。 あのね── レディ・クローディア〜!ダージリンの缶が空っぽなんですぅ!た、助けてくださいまし! ……この話は、また今度ね。夜の怪物の話も新しいのを仕入れたから。 ええ、また。楽しみにしています、レディ。 (ほっ) 残念だわ。凄いお話が聞けると思ったのに。でも、今度はアーシェも交えて聞きましょ? ね? ……拒否権は? ん。 ……昔のお母さまはきっと大人しくて清楚なひとだったと信じるわ。 お話といえば、メアリ。ね。あれから、どのあたりまで書いたの? え。え、え、ええと……。 ──また、あたしは困ってしまう。──急に話を振るんだもの。 どこまでシャーリィに読んで貰ったのか、本当は、はっきり覚えているのだけれど。少し誤魔化す。 未だに恥ずかしさが抜けてくれない。自然と、少し俯いてしまう。 ──そう。──あたしの書いている“お話”。 あなたの書く物語、好きよ。メアリ。とてもロマンチックだもの。 え、えと……。 世界で最初の“読者”兼“ファン”としては続きが気になって仕方がないの。 う、うん……。 次は、いつ読ませてくれるのかしら。最後の幕まであと少しよね。 ……あの、も、もう少ししたら渡すわ。ごめんなさい、待たせて。 とっても楽しみ。主人公たちにはうまくいって欲しいけど、まだまだ道は険しいのだし、気になるわ。 ええ、そ、そうね。 顔から火が出そう。やや俯き気味に、何度も頷く。 まさか“お話”のことまで言うなんて。不意打ちもいいところ。 感想を面と向かって言われてしまうとこうして硬直してしまうのはシャーリィだって知っているはずなのに。 なぜ、わざわざ今── 『夜の』 『夜の怪物の話も新しいのを仕入れたから』 ──ああ。──うん、きっと、そうね。 思い至ると、少し落ち着いた。話を、逸らしてくれたのかも知れない。 夜の怪物。逃げ惑う犠牲者を追いつめるもの。 そんなものは存在しない。そんなものは噂話にすぎないのだから。 この数ヶ月というもの、ロンドン市民は半ば疑いつつも半ば信じ、夜闇をさ迷う“怪物”の噂話を口にする。 そして、それは── ──そう、あたしは、なんだか苦手。──そういう類の話は。 根拠のない話だというのは知っている。ヤードは公式にその存在を否定したし、TIMESでも否定的な記事が載った。 それでも。なぜか皆が口にする。 恐ろしい話なのに。誰かが襲われてしまう、暗い夜の噂話。まるであのジャックを彷彿とさせる話。 いつしか誰かが言った。怪物の名は《怪異》というのだと。 機関による繁栄の時代で最後に現れた、人を襲うおとぎ話の怪物。牙と爪で悲鳴をもたらす。 ──その話を聞くたびに。──あたしは、なぜか、夢を、見る。 メアリ。 うん。 さっき、泣いていたのはまた── また、白昼夢を見ていたんでしょう。恐い夢。 ……うん。そう。 ──よく覚えていないけど。──何か、恐い夢。 目は、平気? ……うん。大丈夫。 よかった。 いつもそうするように。シャーリィは、柔らかな笑顔を浮かべて。 きっとすぐによくなるわ。だから、あまり落ち込まないでね。 ……うん。 ……大丈夫。本当に。いつも心配かけて、ごめんね。 ──あたしは、そっと右の瞼を押さえる。──隠すみたいに。 去年の冬、突然、この右目はこうなった。透き通った瞳は黄金色のものへ変わった。 黄金の瞳。お医者さまは何の疾患も見当たらないと言うけれど、現に、こうして悪夢を見る。 起きているのに、眠ってなどいないのに。ふと白昼夢を見てしまう。 右目がこの色になってしまってからだ。先刻のように、昼の日中から。自然と、意識が飛んでしまう。 ──気付かないうちに。──涙を、ひと筋だけこぼしながら。 その度に、シャーリィが涙を拭ってくれる。心配しないで、と表情で言いながら。 あ。そうだ。 ──気分を変えるつもりで。──あたしは、声の調子を少し変える。 ミューディーズ、行かない?ビアズリー挿絵のオスカー・ワイルド、そろそろ返却ぶんがあるかも。 サロメ? そ……。そんなに、はっきり言わないで……。 ヨカナーン。 や、やめ……。 ヨカナーン? ……。 ──し、しまった。──誤魔化すつもりだったのに。 ──なんだか、逆に。──す、すごく恥ずかしいことに…。 ──1905年。──輝ける栄光の20世紀と人は言う。 でも、あまりそういう実感はない。偉大なヴィクトリア女王陛下の主催による20世紀祝賀パレードの記憶はおぼろ気で。 大英帝国の首都であるこのロンドンも、昔に比べて蒸気機関工場群が激増して排煙がひどくなったと言うけれど。 幼い頃の記憶は遙か遠く、排煙の量についてもあまり覚えがない。 母のカダスへの転勤と、メアリ自身の碩学院への入学のためにふたたび住まうこととなった、この都。 霧と蒸気の都ロンドン。カダス地方との進歩的交流によって機関革命が行われた欧州最大の都市。 ヴィクトリア女王陛下の治世は永遠だと殆どのロンドン市民が思っているし、メアリもまた同じように感じている。 繁栄が約束された都。欧州で、地球で、最も機関化された都市。 カダス地方との交易を行うための飛行船がイーストサイドの空を飛び交い、昼も、夜も、決して途絶えることがない。 ──空。──うん、空は昔よりも少し変わった。 ──見えなかったものが。──今は、ほんの少しだけ見えるから。 ──シャーリィの好きな“あれ”。 ──それは、あたしも好きなもの。 クイーンズヴィクトリア・ストリート。賑やかで華やかな大通り。 シティエリアと言えば、大概のひとはこの大通りやセントポール聖堂を連想する。もしくは、3号橋まで造られたロンドン橋。 メアリ自身も院に入学した頃はそうだった。子供の頃は、地名なんて覚えていなくて。 由来なども殆ど覚えていない。ロンドン橋とタワーブリッジの区別さえ怪しくて、知ったのは最近になってから。 カダスからの碩学たちが機関機械としてロンドン橋を改装したとか、タワーブリッジが4号橋まで造られたとか。 このストリートからなら、ロンドン2号橋ならば見えるかも知れない。それに、高い場所ならビッグベンも、多分。 この景色を眺めるのにも、ようやく馴染んできたとメアリは思う。胸を張って「あたしの街」と言えそう。 借りている下宿からは、この近辺まで、有料ガーニーか地下鉄を使って15分ほど。 下宿のあるホーボーンとは趣がまるで違う。人混みもそうだし、機関式自動車と馬車が行き交う様子もそう。 けれど、空は同じ。だからメアリは「あたしの街」と言える。 ──あたしは、傘を少しあげて。──空を見る。 舞い散る排煙の滓の量はいつも通りでも、きょうの“陽射し”はまばら。昔は、そんなものはなかったのに。 空の“あれ”は── 空の“隙間”は──見えるはずがないか。ここでは少し遠すぎるのだし。 コベントガーデン? そう。ホーボーンにあるのよ。安くて質のいい掘り出し物たまにあるの。 そうね。うん。あまり、お嬢さまのあなたが行くようなところじゃないけれど……。 そう?お嬢さまならシャーリィのほうが。 わたしはただの市民だもの。 アーシェが聞いたらきっと怒るわ。シャーリィったら。 嘘は言ってません。わたし、嘘ついたことないでしょう。 ……うーん。 確かに、シャーリィは嘘をつかないけど。何か釈然としない。首を傾げてしまう。 冗談は嘘には入らないのかしら。そんなことを考えながら。 ふと── ──誰かの姿が見えた。──赤い色。それに、黒い色も。 軍服姿の長身が視界に入った、と、思う。すらりとした誰か。 男性にしては細身の、けれど背の高いひと。綺麗なひと、と反射的に頭の片隅で思った。 何気なく視線を向けると、目が合った。 ──ん。──こっちを……見てる……? 最初は気のせいかと思った。でも、歩くメアリからその視線は外れない。 彫像のように佇んだまま、そのひとはじっと見つめていた。メアリを。 ──なぜ? 自然と息を呑む。じっと見つめるそのひとの視線は、強くて。ふと違和感を感じて、メアリは立ち止まる。 見られている?何を? 自分は軍人の目を引くような人間だろうか。そう思いかけて──気付く。 ──あのひと。──あたしの、右目を、見てるの? そう思った刹那。その軍人らしきひとは人通りの中に消えた。 目で背中を追おうとしたけれど、不思議なことに、すぐ、見えなくなった。少し背伸びをしても、どこにも見えない。 ──あのひとが見ていたのは。──本当に、あたし? ……ううん、まさかね。軍人さんなんて、縁がないもの。 小さくひとりごとを呟いたつもりだった。でも、すぐ隣にシャーリィはいて。 背の高い女性だったわね。それに、とっても、綺麗な顔立ち。 え。女性?じゃあ、いまのひと、女軍人さん? わからなかった? ええ……。エイダ主義って、やっぱり凄いわ。女性も近衛の兵隊の軍服を着られるのね。 近衛ではなくて、陸軍服ね。それでも凄いけれど。 陸軍?でもほら、バッキンガムの── 近衛と陸軍さんの服ってよく似ているの。ちょっと見ると同じみたいに。 ふうん……。 でも、ここで見られるなんて不思議。この辺りに兵隊さんの施設、あったかしら。 ……どうかしら。 バッキンガムの宮殿以外で兵隊を見るのは、パレードの類を除けばあまりないと思う。 陸軍と言われてもぴんと来ない。あまり、現実感が湧いて来ない。 インドでの戦争が終わってから、この都市にも元軍人が増えたと聞くけれど。 ──でも。──その時は、不思議ね、と思うだけで。 ──ミューディーズに着く頃には。 ──すっかり頭の中からは消えていた。──不思議な兵隊さんのこと。 ミューディーズ。初めて来た時にはセント・パンクラスだと思っていた。通称、大英博物館というあれ。 今日のようにシャーリィが案内してくれた。あの時は、アーシェも一緒で。 私営であることにも驚いたし、超大型の貸本店だということにも驚いた。思わず、声を上げてしまいそうになった。 超大型貸本店ミューディーズ。紳士淑女、いわゆる中流階級以上の人々がここにはいつも集っていて、それに静かで。 静かなところは図書館に似ている。好きな本を探すところも。 違うのは、少しお金がかかること。それでも自分で買うよりは随分と安いのだ。 王立碩学院の学生と言っても、貴族の子女でもない自分にとって、本を大量に買い揃えるというのは至難の業だ。 だから、ここは重宝する。静かで上品な雰囲気も、とても心地よい。 件のコベント・ガーデンとは、ここやハロッズは対照的だとシャーリィは言うけれど、やはり、あまりぴんと来ない。 メアリはここが本当に好きね。そんなに目を輝かせて。 そ、そうかしら。そんなことないけど……。 フランケンシュタインの初版を見つけた時なんて、大変だったわね? うぅ……。 ビブリオマニアという訳ではないけれど、稀書にはどうしても心躍る。つい、声が出てしまうことも、たまに。 でも、たまに、だ。いつも騒いでしまう訳じゃないのに。メアリは内心で少しだけ呟いてみる。 ……。 (あ……これ……) ふと顔を上げると、鉄でできた怪物が淑女を襲おうとしていた。 機関式印刷機で刷り上げられたポスターだ。 怪奇画の描かれたポスターを最近よく見る。例の噂に影響されているのだろう。 趣味が悪い、と思う。でも、ぞっとして、目を背けたくても── 自然と視線が吸い寄せられてしまう。恐い絵は、苦手なのに。 ──あたしは右目の瞼を押さえる。──白昼夢を見ませんように、と祈って。 ポスターに記された印字を見る。最新の怪奇小説『鉄枷ジャックの恐怖』を絵にしたもの、という説明書きがしてある。 知っている。その本。 好奇心から、1ヶ月前にその小説を読んだ。死刑囚の怨念が妖精となって人を襲うとか、そういった類のものだ。 ──大嫌い。──恐いのは、やっぱり、だめ。 怪奇小説と分類されている中でメアリが読めるのはひとつだけ。メアリ・シェリーだけ。 同じメアリの名をした女流小説家の本だけ。多くの人はあれを怪奇小説だと言うけれど、そうは思わない。 彼女の書く本は、どうしても、愛の物語に思えてならない。 メアリ? ……あ。ううん、なんでもない。 慌てて視線を逸らす。でも、多分、ばれてしまったと思う。 苦手なものをどうして見ちゃうのかしら。恐いのがいいの?苦手なもの、好き? 違うの。そういう訳じゃ、なくって。 視線を逸らしながら、逃げるようにして、ビアズリーのコーナーへ。 覗き込んで……。少し、ほっとする。 今日はあまり紳士の姿がない。ほとんどが、自分と同年代の女の子ばかり。 あまり親には知られたくない子が多いはず。ビアズリーの絵は魅力的だけれどとてもとても、その、官能的なのだ。 女の子たちの間から新作の棚を覗く。今月の新刊の棚にはなかったから、ここにあるのかも。 どう? 新作、ある? ……ううん、と。 人と人の隙間から、一通りを見て回る。期待はあまりしないように。 ぐるりとコーナーを一回りしてから、小さく肩を竦める。 ……ないわ。貸し出し中みたい。 じゃあ、取り寄せてあげましょうか。小さな本屋さんにね、知り合いがいるの。 わたしの機関カードなら多分、問屋さんにも接続できるから。 ……。 少し考えて。ううん、とぶんぶん首を振る。 い、いいわ。ええ。問屋さんの機関書庫に履歴残せない。 そう? そうなの。いいこと、シャーリィ?もう、お嬢さまって自覚をしなさい。 貴族でないとは言っても良家のお嬢さまであるシャーリィの購入履歴に、ビアズリーの新作は流石に残せない。 スキャンダルとは言わないまでも、ブロンテ家に知られてしまったら大事だ。 はーい。ごめんなさいね、気が付かないお姉さんで。 半年だけだけどね。 くすくす。そうね、半年だけね。 と── 時を告げる鐘の音が響く。第2セントポール大聖堂の鐘が鳴っている。 午後2時を告げる鐘の音。ミューディーズに入って1時間が過ぎた。 つまり── まあ。もうこんな時間? いっけない。午後の講義、始まっちゃう! クィーンズストリートからほんの少し先、植樹された木々の中に碩学院はある。 例えば、時刻を知らせる鐘が鳴り始めた時、ミューディーズの出入口付近にいたとして。若い足で懸命に走れば── 20分程度の遅れで到着できる。それぐらいの距離だ。 ──王立碩学院。──ここが、あたしたちの通う学舎。 講義棟と研究棟から成る、碩学の養成施設。大学と少し違うのは学費の類が要らなくて、王室の管理下にあるということ。 国家と王室の発展に貢献する碩学を、優秀で若い頭脳を保護し育てることで── ともかく。お題目はそれなりにあるけれど、多くの学生にとっての認識はひとつ。 神の祝福にも似た幸運によって、学び続けることを許された子女たちの園。女子学生が多いことも、大学と異なる点。 とはいえ、それでも、最先端の学問とされる数学を得意とする男子学生の数が圧倒的に多いのだけれど。 こうして、講義に遅れまいと急ぎ足で講義棟への広場を通り抜ける最中にも、行き交う学生は男子ばかりで── ……おっそーい! あ! あら……。 もう、もう、どこ行ってたのさ!海外文学の講義もう始まっちゃうよー! 電信通信にも出てくれないしー。 あっ。またふたりで遊んでたんでしょ!? ごめんなさい、アーシェ!遅くなって……。 ぶぅ。アーシェも史学科にすればよかったなぁ。 ごめんなさいね。でも、転科はだめよ。あなたには数学の才能があるのだから。 数学は嫌いじゃないけどー……。教授も同級生も男子ばっかりだしー……。 我が侭言わないの。埋め合わせはちゃんとするから。ね? ぶぅ。 ──小さく頬を膨らませる、お嬢さま。──可愛い可愛いアーシェリカ。 ──アーシェリカ・ダレス。──あたしの生涯における2人目の親友。 イングランド系貴族ダレス家の一員であるアーシェを知らない学院生はいない。 ダレス家が没落したとは言っても、それも、貴族隆盛の最盛期に比べればの話。今も文句のつけられない名家には違いない。 アーシェ自身の気質のせいか、貴族のお嬢さまという事実を意識する教授や学院生はあまり多くないけれど。 快活で。陽気な気質は、誰からも好かれて。 勿論、メアリもそう。シャーリィにとっても同じく。 ね、アーシェ。 ぶぅ? もし、週末の予定が空いてるなら皆でハロッズへ買い物に行かない? ……3人で? そう。3人で。ミスタ・ハワードがいても良くってよ? ううん、3人で!ハワードとはいつでも会えるもんね! ……可哀想なミスタ・ハワード……。 うん? ううん、なんでもないわ。じゃあ約束ね。3人でハロッズ。 はーいっ☆ ころころと表情が変わるアーシェである。メアリはそんな彼女のことが大好きだし、シャーリィも、やはり、言うまでもなく。 この瞬間も、シャーリィはふたりの笑顔を見つめて。 柔らかく微笑んでいた。母のように、姉のように。 ──だから。──あたしは気付かない。 ──今日に起きる何もかもが。──いつも同じだと、思っていたから。 ──いつもの金曜と。──同じだと、思っていたから。 メアリは気付かない。シャーリィの表情が強張った瞬間に。 それは、ある男性の声がもたらしていた。背後から呼びかける壮年の男性の。 理性的な声だった。穏やかで、深い知性を思わせる声。 言葉に多少の訛りがあるのは、彼が異国の出身の碩学であるからだろう。碩学院には、欧州の各地から碩学が集う。 おや、おや。 始業ベルは鳴り終えてしまったはずだが、この時間の講義を取ってはいないのかな? ──シャーロット・ブロンテ君? 東欧訛りの言葉で話す男。彼の名は、ヨゼフ・チャペックという。 ロンドン王立碩学院に招かれた客員教授は数多いが、彼もまたそのひとり。社会学と機関学を修めた碩学だ。 変わり者の教員は碩学院に数多いけれど、特に彼は変わっている。 いつも後生大事に同じ鞄を抱えて歩くのだ。鞄の先生さん、と女子学生は呼ぶ。 ……博士。 ごきげんよう。チャペック博士。所用で、ふたりを待たせてしまったんです。 (え) さらりと庇われてしまった。こういう時は一蓮托生がルールなのに。 メアリは口を挟もうとしたけれど、アーシェも同じように何かを言おうとしているのを見て、少し考える。 貸しを作ってしまうけれど。シャーリィの邪魔はしないほうが……。 (アーシェ。しー) (むぐぐ。ぇー、なんでー) 珍しいこともある。きみが、講義を欠席するとはね。 よくできた才女にはほど遠いですから、そういうことも多々あるんです。 きみの冗談を聞くのも珍しい。さて、まあ、他の教員の講義などを私はあまり、気にするものではないのだがね? 声をかけたのは、咎めるためではないよ。先週提出されたレポートについてね。 ……調査不足は自覚しています。お目汚しを失礼しました。 次は、もっと、文献を取り寄せて……。 いや。いや。 口調に嫌味がある訳ではないけれど、博士の声には何か含みがある。 メアリは、なぜか、そう感じた。言いたいことを我慢しているような? 機関機械と労働の社会的意義について、きみほど冷静な視点で評価できる学生などそうはあるまい。 きみには期待している。やはり、きみという存在は“優秀”だ。 期待しているよ。きみには。 ……ありがとうございます。 (……あれ?) ──気付いた。今。──シャーリィの表情が翳るところ。 ──こんな顔をするだなんて。──あたしは驚いて、硬直しかけてしまう。 いつも優しくて、穏やかで。それがシャーリィの表情の常であるのに。 二度目のそれをメアリは見逃さなかった。博士が“優秀”という言葉を強調して言った直後の、沈んだ顔。声。 ──なぜ? 胸がざわつく。シャーリィのこんな顔を見るのは── 今度は、そこの友人たちも連れて僕の研究室に来るといい。お茶菓子が余っていてね、困っているんだ。 ケーキ? ハロッズの? こ、こら、アーシェ、だめよそんな……。すみません、博士。 研究室はきみが思うよりも気楽な場所だ。構わんよ、いつでも来なさい。 そう言った博士の表情と声は、朗らかで。 両手で鞄を抱えてさえいなければ、優しい紳士のおじさまにしか見えない。 だから、メアリは、内心でほっとして。胸のざわつきも幾らか消えて── ……ありがとうございます。 ──でも。──シャーリィの表情は翳ったままで。 ──あたしは、気になってしまう。 ──こんな顔をしたシャーリィを見るのは。──随分、久しぶりだと思って。 「……きみがこの部屋へ来るのは」 「随分と久方ぶりな気がするね。 その後変わりないかい、聡明なクラリス」 はい。教授。 ……あれ? あたし、先週もお邪魔しました。そんなに久しぶりじゃないと思います。 首を傾げたメアリの言葉に、彼は、“教授”は僅かに微笑んだようだった。 最新型の機関製パイプから紫煙が漂う。部屋はやや白くなるけれど、メアリはあまり煙草の煙は嫌いではない。 薄く煙る碩学院第11研究室。週に何度か、ここで特別補講を受ける。 別段、成績に問題がある訳ではない。単位もしっかり取れている。 去年、まだ1年生だった頃、この老人から直々に誘いを受けたのだ。 彼は史学ではなくて、数学と天体を専門としているのだけれど、話が合ってしまって、補講は続いている。 「機関革命の恩恵を受けた我が英国は、 未だ、大いなる発展と繁栄の途上にある」 「1週間と言えども多大な時間だよ、 メアリ・クラリッサ・クリスティ君」 多大だなんて。大袈裟なんですね、いつもの通り。 「私は老いさらばえた身だがね。 きみたち若者には、やはり多大な時間だ」 「少し見ないだけで、 きみたちは着実に大人になってしまう」 でも、いつまでも子供でいたら、困ってしまいます。 「そうかな」 “教授”は、また微笑んで。静かに言葉を紡ぐ。 「このロンドン及び英国の発展は速い。 第4タワーブリッジも建造を終え、 政府は機関塔の建設計画まで立ち上げた」 「第2ビッグベンとでも名付けるのかな」 また、大機関を作るのですか?イーストサイドを機関工場群で埋めてから、排煙の量は増加し続けているのに……。 「人は発展から逃れられない。 明日へと続く道を外れるのが恐いのだ」 ……でも。蒸気病の患者も増えてしまいます。 「然り」 「カダス地方の交流と、 技術的および文化的影響は計り知れない」 「カダスの重大な社会的問題である 蒸気病のロンドン発症例が発見されて尚、 政府は、方針の変換を打ち出せずにいる」 「何故だかわかるかい、クラリッサ」 カダス的発展の利点を考えると、手放すには惜しい……。 「然り」 「だが、既に我らが大英帝国は 欧州と世界の覇者となるまでに至った」 「機関革命による機関兵器群は軍事力を、 都市型大機関と機関工場は産業の力を」 「しかし。 海と川は廃液によって澱みと化して、 空は、永久の灰色に埋め尽くされた」 「機関煙害は留まることがない。 機関による発展が続く限り、永遠に」 「空は、美しい色を見せない」 ──そう。年老いた人たちは言う。──空のこと。 ──かつて、空は排煙の灰色ではなくて。──美しい色をしていたのですって。 ──あたしたちはそれを知らない。 ──空の色が、濃くなったのはわかる。──あと“隙間”のことも。 ──この1年で見えるようになった現象。──空の“隙間”と僅かな“陽射し”。 ──でも、それ以外のこととなると。──わからない。 「クラリッサ。きみは」 「美しい空を目にしたいと 思ったことは、あるだろうか」 あたしは……。 ……思います。だって、クリスタルパレスの“隙間”があんなに美しいのだから。 本当の空はどれほどなんだろう、って、シャーリィも言っていました。 ──翳った横顔を、あたしは思い出す。──シャーリィ。 「おや、クラリッサ」 「表情が優れないようだね。 何か、心配ごとでもあるのだろうか」 ……少し、友達のことで。 ──そして。──講義を三つ終えた後。夕刻。 ……そうだ、ふたりとも。 今晩は時間あるかしら。実はね、鴨の良いのが手に入れられたってドナから珍しく電信通信の連絡があったの。 良かったら晩餐を一緒にいかが? 行く行く!シャーリィのお家ひさしぶりー!! アーシェはあまり来ていないものね。じゃあ、精一杯おもてなしさせて頂くわ。 わーい☆ (あれ?) 内心で首を傾げる。シャーリィの表情が元に戻っている? いつものように3人で中庭に待ち合わせ、途中まで一緒に帰ろうとした矢先のこと。 シャーリィからまさかの提案。メアリは驚いてしまう。 明るく。柔らかく。先刻の、チャペック博士との会話の際には見えていた翳りがまるで嘘だったかのよう。 それに、晩餐に招待してくれるだなんて、ここ数ヶ月はぱったりなくて。 ──何か、いいことでもあったのかしら。──そうなの? 明日は土曜だからお酒もどうぞ。クラレットなら、メアリもいけるわね? え、ええ。強いワインでなければ大丈夫……。 わーい、アーシェはとってもお酒が好きよ。クラレットワインも大好き。 う〜ん、残念。あなたはすぐ酔い潰れちゃうからダメ。 えええええぇぇぇぇ。 ぶぅ。 酔いつぶれるところを人に見せてはね。アーシェは特製のパンチで我慢なさいな。 ぶぅー。 ……。 ──本当に。──まるで、先刻は夢だったみたいで。 碩学院から徒歩で2、30分ほど。有料ガーニーを使えばほんの5分程度。 院から数ブロック離れた場所、同じシティエリアにそのお屋敷はある。 ブロンテ家のお屋敷。 本邸はロンドンではなくガトウィックに大きなものがあるから、こちらのは別邸。 幼い頃、メアリがウェールズに越す前はよくこのお屋敷に遊びに来ていた。ふたりでよく庭を駆け回っていた。 だから、見るたびに懐かしさを感じる。あの頃と変わらないお屋敷。 買い取ったものではなくて、ブロンテ家の先代が一から作らせたもの。ヴィクトリア中期時代の趣が、特徴的な。 変わらない。門扉も、外から見えるお庭の景色も。 ──でも、随分と雰囲気は変わったかな。 ──ご家族は本邸にいらっしゃるから。──ここには、今、シャーリィとドナだけ。 おじゃましまーす。 ようこそおいで下さいました。メアリさま、アーシェリカさま。 ただいま、ドナ。急なお願いでごめんなさいね。 お帰りなさいませ、シャーロットお嬢さま。晩餐の準備は整っております。 ご機嫌よう、ドナ。今晩はお邪魔しますね。 はい、メアリさま。 一礼するドナ。その姿を、ようやく見慣れてきたと思う。 ブロンテ家が本邸に移った後も、シャーリィは院のあるロンドンへ残った。ドナは、そんな彼女の世話係をしている。 昔のブロンテ家にドナはいなかった。いたのは、その母だ。 綺麗な女性をメアリは覚えている。子守役の優しいメイドだった。 似た顔のメイドだけれど別人だというので幼い頃の記憶とごっちゃになってしまって、当初、よく人間違えをした。 ──でも、ようやく慣れた。──メイドのドナ。お屋敷の専門家。 中流階級で言うなら雑役メイド。お屋敷の掃除からベッドメイキングから、食事の用意から繕いものまで全てこなす。 家事のプロだ。だから、彼女を尊敬してやまない。 エイダ主義の隆盛のために女性の労働の場が秒刻みで増えていく中で、特に厳しいと言われる雑役を1人でこなす。 それは、並大抵のことではないと思うのだ。だから彼女を尊敬する。 少なくとも── 気が向いて、料理を作るだけで半日を費やしてしまう自分にとって。 下宿部屋の掃除をするだけで、半日を費やしてしまう自分にとって。 自分にできないことをできる誰かには、素直に感嘆する。羨ましくも思う。 わ。メイドさんだ…。メアリ、ここ、メイドさんがいるよ…! 前に会ったでしょう?迎えに来た時、玄関先で一度。ほら。 そだっけ? それにあなた、アーシェ。別段メイドが珍しいこともないわよね? もーウチ出て1年は過ぎてるもの。1年も経てば、見慣れないものなのだわ。 そういうもの? そーいうもの。 立ち話をお続けになるのかしら?さ、中へどうぞ。ダイニングへ行っていいかしら、ドナ? はい。お嬢さま。 シャーリィと同じ、というのは少し違うが、物腰柔らかなドナに案内されて。 ダイニングへと入る。ここでの晩餐は、いつぶりだろう── 鴨、おいしーい☆(もくもく) そう? 美味しい?良かった、喜んでくれて。 ドナの料理はプディングもお勧めなの。たくさん召し上がってね。 はーい☆(もくもく) お茶はよく楽しむけれど。3人揃って食事をするのは久しぶり。 メアリがシャーリィと再会したのが2年前。それから、アーシェと出会ったのが1年前。 2人の頃はよく一緒に食事をした。3人になってからも、頻繁に。 この数ヶ月だろうか、シャーリィは夜を一緒に過ごさなくなった。予定が入るようになってしまった、とかで。 詳しくは聞いていない。必要なら、シャーリィは言ってくれる。 ドナ、ドナ。鴨のローストもプディングもおいしいよ☆ ですって、ドナ。良かったわね。 ありがとうございます。 生ガキも、アーシェ好きなんだ〜。ワインなくても全然おいしい。(もくもく) アーシェはたくさん食べてくれるから、大好きよ。遠慮してはだめよ? はーい☆(もくもく) ドナに人見知りした風だったアーシェも、食事が始まるとすぐにけろりとして── 貴族の晩餐で育ったようには見えない、いつもの明るい様子に戻った。料理への素直な感想も隠そうとはしない。 出会った当初は、口数の多くない表情の険しい子だったけど、今ではもうこうして打ち解けて、よく喋る。 おいし☆(もくもく) メアリは、もう、お腹いっぱい?相変わらず食は細いまま? ちゃんといただきました、たくさんね。アーシェが食べざかりすぎるの。 あら。ケーキはもっと沢山いけるのに? そ、そんなことは……。 そう? ん。アーシェはケーキも好きよ。でも、鴨も好きー☆(もくもく) アーシェがうちの子なら良かったのに。たくさん食べて貰えると、ドナも喜ぶの。わたしも嬉しいし。 んー?(もくもく) ……貴族のご令嬢というより、イーストエンドのやんちゃな男の子ね。アーシェったら、くいしんぼ。 ん?(もくもく) ふふ。そうね。でも、こんなに可愛い男の子はいないわ。 ──そう言って、シャーリィは微笑む。──いつもみたいに。 そう。何も変わらない。穏やかで優しい、いつも通りのシャーリィ。 だから、メアリは忘れかけてしまった。昼間に感じた懸念。シャーリィの翳り。 慣れないクラレットワインを飲んだせいで少し酔ってしまったせいかも知れない。 クラレットの流行は、19世紀末に幾らか衰退していたというけれど。近頃は女性の間で復活の兆しを見せている。 ──クラレット。──透明な色をしたワイン。 ──ワインは少し苦手。──美味しいけれど、酔ってしまうから。 メアリ、クラレットが進んでるわね。気に入って? ええ、うん……。飲み口がよくて、つい……。 かの名探偵が好んでいらっしゃるのと同じ銘柄が手に入ったの。それで、感想を聞きたくて。 美味しいわ。でも、やっぱり、少し、酔っちゃう。 いいのよ。良かったら、泊まっていっても── 急に、悪いわ。課題もあるから今日は帰ります。 ……ひっく。 あらあら。本当に、メアリはワインに弱いのね。 もぅ、言ったじゃない……。 ん?(もくもく) ──晩餐を終えて、暫くお喋りをして。──夜も更けて。 送っていくわ。馬車を出すから、少し待って? 大丈夫、心配しないで。表通りで馬車かガーニーを拾うから。 そう……? あれ。歩かないんだ、メアリ? ん? ううん。前なら遅くても歩いてたよね。テムズまで1時間もかかるのに。 酔い覚ましに丁度いい、って言ってさ。だから── もしかして信じてるのかなって。あの噂。恐いやつ。 ──あの噂。──はっきりとは言わないけど、それは。 まさか。ただの噂でしょう? だよね。 ほらほら、ふたりとも。夜道が危ないことは変わりないでしょう。馬車を呼ぶから、少し待っていて。 ドナ。お願いね。 はい、お嬢さま。馬車組合には電信を入れてあります。 わお。用意がいいのね、ドナ。すっごい。 ──わお、だなんて。──新大陸風の言い回しは彼氏の影響? なに、ふたりとも。びっくりした顔して、どうしたの? ううん、安心しただけ。あとちょっぴりの嫉妬心かしら。ね? あ、あたしに振らないで。そうね、安心と……ちょっと羨望? なにが?え、なにが? ふふ。 ──そう言って笑うさまは、やっぱり。 ──いつもの通りのシャーリィだった。──だから。 ──だから。 ──ホーボーンを抜けて。──テムズ沿岸の住宅地帯へ着く頃には。 ──揺れる馬車に撹拌される自分と。──アルコールの回りに振り回されて。 ──胸の奥の小さな疑問を。──あたしは、忘れてしまっていた。 御者に心配されながら馬車を降りて、ふらふらしながらもなんとか歩いて。下宿の玄関先へ。 呼び鈴を鳴らす。軽やかな音でさえ少し頭に響いてしまう。 あら、まあ。可愛い小鳥さんがたたらなんて踏んで。 近頃はあまりこういうこともなかったのに、またワインを頂いてしまったのかしら? ええと、はい……。ごめんなさい、ミセス・ハドスン。 ──ミセス・ハドスン。──あたしが借りている下宿の大家さん。 ──母さまの旧いお友だち。──クローディアさんとも仲がよくて。 ──とっても優しい人だけど。──こんな日、こんな夜は少し厳しい。 シャーリィの家にいたんです。つい、ワインを……。 ワインは駄目って言ったでしょう?あなた、醸造酒にはてんで弱いのだし。 はい……。 気をつけてね、メアリ。あまり顔に出ない性質だから良いけれど。 ? 若い女性が酔ったまま歩くだなんてみっとも良いものじゃないのだからね? は、はい……。すみません、ミセス・ハドスン……。 反省なさいね。反省した? うん、ならよろしい。 おやすみなさい、メアリ・クリスティ。良い夜をね。 それと、これ。電報ね。 ありがとうございます。おやすみなさい、ミセス・ハドスン。 ──ワインを飲むと、いつも、そうだわ。──ミセス・ハドスンに怒られて。 恥ずかしさで小さくなりつつ、俯きそうになるのをなんとか我慢して。 電報の封筒を幾つか受け取ると、屋内の暖かさを感じながら階段を上り── テムズに面した、2階の下宿部屋。自分の部屋の扉を開ける。 ……はふ。 ──少し疲れた息をひとつ。──溜息ほど重くなく、呼吸ほど軽くなく。 無人のままで夜を迎えていた部屋はひんやりと冷えていて、息は白いかたちとなる。 ただいま。うん、おかえり。 言いながら、ベッドに封筒の束を放り、壁に備え付けの温熱機関の起動キーを回す。 ごうんごうん、と小さな低い音が響く。部屋に割り当てられた小型機関の音に、酔った頭が少し揺れた。 こめかみを軽く叩いて、温熱機関からの温風に手を翳す。暖かい。 ひとりになると、ひとりでこの部屋に帰ると感じる。 ──この都市は寒い。──ひとりきりでいると、特に、そう。 ストーブや暖炉のほうが暖まれるけれど、手入れが大変なせいで、温熱機関ばかり。少し情けない。 勉強と趣味の物書き以外にも、もっと時間が割けると良いのにと思う。 例えば、そう。帰るといつも部屋の散らかりが気になる。 一応。一応は片付けを心がけているのだ。 いるのだけれど、完璧とは言い難い。炊事もハウスキーピングも完璧にこなすドナの仕事ぶりを見た帰りだと特に思う。 ふと、最新型の全自動女中機のことを思う。あれは家事全般をひとり(一基?)でやってくれるという機械であるらしい。 勿論、高価。メイドを雇う以上のお金がかかる。 それに、違うのだ。欲しいとは思うけれど。違う。 本当は、自分のことは自分でやりたい。誰かの力を借りることは極力避けたい。 興味あることの何もかもを、やるべきことの何もかもを、やってしまいたい。 でも。 ──でも。 ──あたしは知ってる。──自分ひとりでは何もできないことを。 ひとりじゃパンも焼けやしない。ううん、焼けても、焼けるだけなのだ。 1日すべて使ってパンを焼いておしまい。他のことは何もできない。掃除もそう、料理もそう。 もっとたくさんのことを同時にやりたい。ミセス・ハドスンの手を煩わせることも、時間の有限さを感じることもなく。 ──やりたいことは、たくさんある。 ──でも。 ……でも。欲張っても、ね。 ──欲張っても仕方がないから。──だから、とりあえず今夜は、ね。 課題、かな。 着替えようかどうか少し迷ったものの、外出着のままで机に着く。 革鞄から取り出したノートを広げる。寝間着になるのはお風呂の後にして、今はこれをやってしまおう。 月曜提出の課題。できれば、寝る前に済ませておきたい。 ──必修の、カダス地方古語の翻訳。──これがなかなか。 碩学院は特殊高等教育の場だ。だから、課題も難しい。 ……口語文、じゃ、ないか。石碑文かしら。 カダス語は極東のとある小国の言葉によく似ている、と思う。主語の後に目的語が来るのだ。 難度の高い言語だと言われているけれど、慣れてしまえば問題はない。口語会話の課程なら1ヶ月で修了した。 ただ、カダス古語の解読は酷く複雑で、半年が過ぎてもまだ習得にはほど遠い。 メアリにとっては、初めてだ。言語の習得にこれほど時間をかけるのは。 カダス地方でも古語はあまり使われず、先史文明の文献読解程度にしか使われてはいないというけれど。 そんな、使用頻度も低い難解な言語が、何故だか碩学院の必修なのだ。 ここは……。セレネル? セレナリア? セレナリア、かしら。うん。そうね。 カダス古語は、基本的には表記式。尚かつ、名詞と、動詞や形容詞の区別がつきづらい。 辞典も大したものはない。参考に渡されたのはアジア象形文字辞典とエジプト文明神聖文字の小辞典と来ている。 冗談を言っているのかと思うけれど、どうやらそうでもないらしく。 世界、かな。これは。 困った時は文脈から無理矢理読み取る。これが意外に正答率が高いのだ。 もっとも。酔っている時もそうかは不明。 んー……。 ふと、アーシェの話を思い出す。カダス古語の石碑解読の成績が良すぎると、あちらの特殊機関に強制徴用される、とか。 そんな噂があるらしいけれど、眉唾ものだ。新大陸のダイムノベルじゃあるまいし。 ただ、カダス北央帝国の先史文明調査隊は、考古学も網羅する総合史学科学生としては大いに興味がある。 あれに参加できるなら、古語の勉強も大いにやる気が── ──でも。──そうなったら、皆とは離ればなれ。 ──でも。──母さんとは暮らせるかもしれない。 ──でも。 と── 温熱機関のベル・タイマーが小さく鳴った。深夜設定なので控えめに。 正確には、温熱機関の起動に連動させた湯沸し装置のベル・タイマー。遠慮なく熱いお湯を出すあれ。 沸いちゃった。 ……お風呂、入ろ。 もういい加減アルコールも抜けたはず。お湯に浸かっても、いい頃。 考え事は体を洗ってからにしよう。浴槽で、ゆっくり……。 ……ふぅ。 ──溜息。今度は大きな溜息。 ──体中から疲れやあれやこれやが抜ける。──すっごく、気持ちいい。 入浴はとても大切。ロンドンの大気は酷く澱んでいるから。 排出され続ける機関排煙は空を埋め、テムズを濁らせ、鳥を減らす。立ちこめる霧の中にまで煤が混ざり込む。 傘を差していても、髪や服に細かな煤が付着してしまう。 だから、こうして、熱いお湯で煤を綺麗に洗い流して── バスタブいっぱいに溜めたお湯に浸かる。温度調節が効かないから、いつもいつも、熱いお湯。 ──肩まで浸かりたいわ。──そのほうが、気持ちいいと思うのに。 ──どうして、こう。──バスタブの底は浅いのかしら。 深く浸かろうとすると体が横になってしまって、すぐに眠くなる。 ハインツ氏の友人だという極東の留学生の話によれば、彼の故郷では深いバスタブを使うらしいけれど── ……ふう……。 また、溜息を吐く。お湯の中でぐるりと体を回しつつ。 ──そろそろ。──アルコールが抜けた、かしら。 思考の回転が正常に戻っていく感覚。途端に、幾つかのことを思い出す。 今日の出来事の幾つか。頭の片隅にこびりついた記憶の群れ。 シャーリィの表情。普段は見ない、どこか暗いあの横顔。 ──何か心配事?──次に会う時は理由を訊かないと。 心配ごとの幾つか。そう、記憶はいつの間にか心配に変わって。その時は聞き流していたものまで、同じく。 例えば、ほら。馬車に乗る直前のアーシェの言葉。  「あの噂」  「恐いやつ」 ──言葉を思い出すのと、同時に。──あたしは。 ──自然と。──右の瞼を押さえていた。 お風呂上がりの涼しい空気。ほんの刹那だけの、心地よい一時。 このまま裸でいれば気持ちがいい、けど。すぐに風邪を引いてしまうから。 温風混じりの冷気を裸の肌で味わいつつ、外出着を自動洗濯機関の中へと放り込み、寝間着へと着替えて。 ……よっし。 課題、終わらせよっと。 髪を乾かすのもほどほどに、母さまやシャーリィに怒られるかしらと思いつつも、木製机に着いて課題の続き。 と、思ったものの。 ほんの2時間ほどで課題の頁数が終わった。何とも呆気なく。 課題、小冊子1冊分。朝までかかると覚悟していたのに。 今回の石碑文のパターンは、以前の課題で見たものとよく似ていたから。多分、そうねと自分で頷いて。 この1年というもの、ずっとこんな感じで古語や欧州遺跡の解析がすぐ終わる。 成績もぐんと伸びた。そう、この右目が黄金色になって以来。 史学科を選んだのは、選択できる講義の種類が増えて古の物語に触れやすいから。特に古代史に興味がある訳じゃない。 その気持ちは今でも変わらない。なのに、妙に、調子がいい。 まさか目の色が変わっただけで頭脳の作りが変わるとも思えないのだけど。 シャーリィは「成長よね?」と言っている。アーシェは「いいなあ」とだけ。自分としては、ただ、不思議な感覚で。 ……終わっちゃった。 あれ、もう?もう終わり、で、いいの……? 2時間と少しで。小冊子1冊ぶん。少し、肩透かしをくらった気分。 ……ごろり。 椅子からごろりと落ちるようにして、メアリはベッドへ転がる。 先ほどベッドの上に放った封筒を手に取る。国内電報がひとつと、国際電報がひとつか。 国内電報は、伯父さんから。ジョージ伯父さんからのメッセージだった。 ──また、伯父さんったら。──電信通信機を使えばいいのに。 電信通信機。それは、遠距離との対話を可能とする機械。 メアリの電信通信機はお洒落な懐中時計型。シャーリィがくれたもの。なんと自作の機械らしい。 公社登録が済んでいないとかで、当時、電信法違反で逮捕されかけてしまったっけ。 今では笑い話。でも当時、半年前は、それはもう大騒ぎで。伯父さんの顔は、真っ青になってしまって。 あれのせいもあるのだろうけれど、元来古風な伯父はこうして電報をよく寄越してくれる。 ──少し、嬉しい。──あたしのことを思ってくれる伯父さん。 あと、忙しいだろうに顔も出してくれる。電報と違って、ごくごくたまに。 きっと心配なんだろう。ロンドンの親戚は伯父以外にはいないから。 電報内容は、やっぱり、心配が凝固したかのような言葉の羅列。 『夜道に気をつけろ。 男性に気をつけろ。 戸締まりも当然の如く気をつけろ』 『それと、夜のシティエリアを出歩くな。 絶対に出歩くんじゃない』 ──夜のシティエリアを出歩くな。 ──人のいない暗がりには《怪異》が出る。──無辜な娘を襲って殺す。 それは、首都ロンドンを騒がす巷の噂。都市に蔓延る恐い話。 ……噂。また、あの噂。 ──ほんの一瞬。──あたしは、どきりとした、けど。 もう。何よ、これ。伯父さんが噂を信じちゃったら本末転倒。 なんとか。ぎりぎり、大丈夫。 妙な白昼夢に落ちたりしない。泣いたりもしない。 小さく笑う余裕まであった。伯父さんの陽気な顔を思い出したお陰? 現実主義者だと彼はよく言ってる癖に、姪を心配する時は普段の主張は関係なくなってしまうのだろうか。 伯父の厳つい顔を思い出して、もう一度メアリはくすりと微笑む。 ──あれで、可愛いとこあるんだから。 そう言ったらひどく怒るだろうから、内心で言うに留める。 えっと、あとは……。 国際電報は誰からのものか、差出人の欄を見なくてもすぐにわかる。 ──ああ。母さま、だ。 ──母さまからの電報。──いつものように、1ページだけ。 碩学院への入学が決まるのと同時に、母は異国へと渡った。カダス地方最大の北央帝国へ赴いたのだ。 機関工学の碩学として働く母は、栄えあるエイダ機関研究所の一員となった。 海の彼方へ行ってしまった。だから、メアリは、こうして下宿している。 最初は寂しかった。でも。 ──もう、慣れた。──そう、シャーリィもアーシェもいる。 ──皆が良くしてくれる。──だから、あたしはひとりでも平気。 ──平気よ、母さま。──だから何も心配することなんてない。 電報にはいつもと同じことが書いてある。伯父とは違って、母の日常の数々。 機関研究所の細かな様子などは、スパイ疑惑になりかねないと思うほど。 しばらく元気な母の様子が綴られて、締めくくりは、いつも、同じ。 『いつも健やかでいてね。 わたしの愛しいメアリ・クラリッサ』 ──母さま。──大丈夫よ、あたしは元気だもの。 ベッドの上から手を伸ばして、電報を机の上に置いて。 右目を閉じて。瞼にそっと触れる。 母からの電報を読んだ後は、いつもそう。自然とこうしてしまう。 右目のことをいつ伝えるべきだろうかと考えながら、ベッドに横たわって。 心配はかけさせたくない。海の向こうへ羽ばたいていった母さまを、ほんの僅かでも心配させるようなことは。 だから。いつも、このまま、眠りに落ちる。 ……あ……。 そうだ……。 ……続き、書かないと……。 まだ書き途中の“お話”がある。続きを早くとシャーリィがせがむ、あれ。 ──シャーリィ。 ──思い出す。──彼女の横顔、どこか暗いあの翳り。 いつもと同じような夜だけれど、いつもと違った横顔が、胸をざわつかせる。 ざわつき。胸の奥から湧き上がるもの。言いようのない感覚。あまり馴染みのない。 ほんの一瞬、意識が醒めそうになる。でも、それも長くは続かなかった。 眠気は意識を覆ってしまう。どうにも、もう、耐えられそうにない。 ──あたしは、ゆっくりと。──眠りの中へ。 ──今度は、白昼夢ではなくて。──正真正銘の夢。 ──囁き声がする。 耳元で囁く誰かの声。あたしの知っているひとの声じゃない。 何を言っているのかわからなくて。あたしは振り返ろうとして。でも、できなくて。 あたしはそう、走っている。走っているんだ。 これは続き。きっと、あの白昼夢の続き。 今度はすぐに気付いた。そこはあたしの知るロンドンではなくて、もっと、ずっと暗い、明かりの薄い場所。 友達と歩き慣れたはずの街並みはいびつなものへと歪んでしまって。 ひどく歪んで、ひどく暗くて。 綺麗に敷き詰められたはずの石畳もぐにゃりと曲がって── あたしは誰かに、助けを、求めようとして。ああ、そうだ、誰もいないのだと思う。 そんなはずない。そんなはずは、ないのに。 歪んでしまった暗がりのロンドンに、あたしひとり。 ──囁き声? いいえ、違うわ。 ──これは叫び声。 あたしは走る。叫び声をあげる誰かが迫ってくるから。 叫び声!叫び声! ひとつの声であるはずなのに幾つも響く。 恐ろしいほどのそれは、頭蓋を揺らし、あたしの理性をばらばらにする。自然と、声が出た。震える声が。 あたしの足は何かに掴まれてしまう。だめ。だめ。走らなきゃ! 逃げて。 逃げて、逃げて、逃げて! あたしの足は掴まれているから、身動きができない。 ──叫び声が聞こえる。──あたしの、背中の、すぐ近くで。 ──あなたは。──誰。 「メアリ……」 そして、あたしは── メアリ! おっはよう! ……ぇ……。 ──大きな声。──弾むように明るくて。 空の“陽射し”が窓越しに差し込んで、幾らか暖められたカーテンの気配がある。 朝の気配。朝の空気。めっきり数の減った小鳥たちの声がする。 否応なしに眠りの中から引きずり出されて、眠い目を擦りながら瞼を開けると── おっはよう☆もう午前10時ですよー。寝過ぎだよ? ……もうちょっと……。……寝かせて……。 だーめっ☆ にこにこと笑顔を浮かべた、ベッドの端に膝をついたアーシェの姿。 アーシェはこちらを覗き込んで、いてもたってもいられないという風で。 数学の課題が昨日で終わったの!だから、今日はみんなで遊びに行こ☆ ハイドパークのパレス跡公園はどう?今日はきっと“隙間”も見えると思うの。 ……もーちょっとぉー……。 今朝ね、起きて思いついて電信通信したらシャーリィがいいわねって言ってくれたの。だから、ね? 電信で起こしてくれればいいのにぃ……。むぅ……。 ほら早く早く!起きて起きてー! 下でシャーリィも待ってるんだよ。ガーニーも待機中! え。 ──ガーニーが待機中? ──え。え? 寝ぼけ眼をこすりこすり、身を乗り出して窓のカーテンを退けてみる。 いた。建物のすぐ脇。 建物とテムズ河の間の道にガーニーが1台。その隣に、ゴールデンブロンドの髪。 ──シャーリィ。──こちらを見上げて、手を振って。 ……わかった。わかりました。アーシェの行動力はロンドン一だわ。 えへ。そかな? すぐに着替えるから。少し待っていてね、すぐに……。 本当は。この土日には予定があった。続きを書こうと思っていたのだけど── そう、続き。書いている“お話”の続き。 ──でも。 まあ、いいかな、と思う。別段何かに急いでいる訳ではないし。 課題が済んだぶん、時間はあるのだ。そもそも締め切りなどがある訳でもなし。 さ。急いで急いで。 ……はーい。 ──慣れない速度。 ──景色が次々に後ろへと流れてゆく。 ──蒸気自動車に揺られて。──あたしたちは、大通りを西へと抜ける。 ガーニーに乗る度に思う。この都市が変化しているということ。 馬車以上の速度で走るこの鋼鉄の乗り物は、外の景色を、絵画のようにしてしまうから。 だから思う。こんなにも都市を灰色の煙で埋め尽くして、漂う霧にさえ機関排煙の色を染みこませて。 こんなにも変わってしまった。幼い頃と比べてさえ、それがわかる。 美しく輝く僅かな“陽射し”が生まれ、空には“隙間”が覗いても。 ──都市は澱んでいる。──そして、それは、続いていくの。 年老いた彼が言う通り、排煙公害の報告は日に日に増えている。 ロンドン港は遠からず使用不能となり、カダスの帝国のように飛行船と飛空挺が輸送の要となる日も、きっと、遠くない。 第4号橋まで建造されたタワーブリッジの跳ね橋が排煙の煤で作動しなくなる日さえ、いつか来るかも知れない。 ──それでも。 ──それでも、あたしはロンドンが好き。 ──幼い頃を過ごしたこの都市が好き。──ふたりの親友が暮らすここが好き。 ──ハイドパークの空が好き。──美しく輝く、ほんの僅かなものが好き。 ガーニーの運転手は言う。今日は随分と霧と雲の具合が良いから、ハイドパークの見物には最適だよ、と。 霧と雲の具合。メアリには、まだまだ見分けられない。 子供の頃には少しはわかったけれど、今では見分けがつかなくなってしまった。 と── ウエストエンドに差し掛かった当たりで、アーシェが袖を引っ張った。シャーリィとメアリに抱きつくようにして、 あ。ライシーアム劇場! 来週はみんなであそこ行こ?ヘンリー・アーヴィングさまを見よう! あたし、シェイクスピア俳優の中でアーヴィングさまが一番好き……。 あら、そうなの?メアリはもっと背の高い人が好みだと思っていたのだけど。 な、なんでそうなるの? ふふ。なんとなく。 あ、あたしは別に、背の高さとか気にすることはなくて、それ以前に……。 そうだよね、うんうん。メアリは初恋がまだだもんね? ……そ、それは、その……。秘密……。 ともかく、みんなで劇場ね!チケットはアーシェが用意するから! そうね、ええ。みんなで観に行きましょうね。 みんなで── (あれ……?) ──シャーリィ? ──また、あなた、今。表情が。──いつもと違う。 いつものシャーリィとはまるで違う。言い淀み、表情を沈ませて。 ──昨日の時と同じ。なぜ? 緑の木々と広い芝。週末には紳士や淑女の姿が多く見られる。 過去にヘンリー8世が狩場としたここを、現在では、ハイドパークと人は呼ぶ。 ロンドンで穏やかな散策を行うのなら、ここかリージェントパークのどちらか。機関化した都市の数少ない緑の園だ。 区画としてのハイドパークは富裕区で、英国社交の中心であるとか新時代の貴族区であると呼ばれることも。 もっとも、貴族ならぬ若い娘たちには、気分の良い緑に充ちた公園で。更に言うなら、都市の宝物を見る場所か。 そう。宝物。英国ではここにしかないという。 およそ1年前から空に出現した“奇跡”。ローマと法王猊下のお認めになった本物の。 その日のことはメアリも覚えている。灰色の空が割けた日のこと。 ロンドン上空のあちこちには“陽射し”が、ハイドパークには空の“隙間”が生まれて、都市は大騒ぎになった。 ──はっきりと覚えてる。──あたしも、皆と同じに空を見上げて。 ──その瞬間。──何故だか、右目から、涙が溢れて。 気付けば、右瞳は黄金色に染まっていた。世界の空の異変に比べれば、ほんの、ささやかな出来事。 そう。世界の空。このロンドンだけではない。 ふたつの奇跡は、世界のあちこちで生まれているのだという。世界の大都市の幾つかに、同じ現象がある。 機関革命に由来する都市の機関化、それに伴う排煙の増量が空を埋め、世界は、太陽なるものを失ったはずなのに。 永遠の灰色の空。太陽は、見えることがなかったはず。 メアリもシャーリィもアーシェも、若い人間は誰も、以前の空の姿を知らない。 ましてや、太陽など。大昔の篆刻写真の白黒でしか知らない。 それでも、1年前に奇跡は起きた。灰色の雲は消えることは少しもないけれど、隠れた本当の色を見せることもないけれど。 厚い排煙の灰色雲の中から“陽射し”は僅かにこぼれ落ちて── ──そして、僅かな場所には“隙間”が。──陽光溢れる空の隙間。 メアリは覚えている。あの頃の、シャーリィのはしゃぎよう。 世界中に現れた奇跡という名の怪現象にシャーリィは目を輝かせて、あらゆる新聞を取り寄せて。 科学機関誌の発表と張り合うように、資料や記事とにらめっこして。あんなに熱中したシャーリィを見たのは── メアリ? ──ん? ぼうっとしていたけど、大丈夫?また── う、ううん。違うの。大丈夫。ちょっと考えてただけ。 そう?なら、良かったわ。ひと安心。 右手にハンカチーフを持ったシャーリィ。心配そうにこちらを覗き込んで。 一瞬、何なのかと思いかけて、すぐに気付いた。そして赤面する。 (そ、そか、白昼夢かと思われたのね。 ぼうっとしてたから……) (……逆に心配されちゃうだなんて) どしたのふたりとも。ゆっくりしてると置いてっちゃうよー! はいはい。待って下さいな、お転婆なお姫さま。ほら、仔猫ちゃんも遅れないで頂戴ね。 ……仔猫って……。 言わないでと続けようとして、失敗。シャーリィはメアリの手を取って、先で両手を振っているアーシェの元へと。 たたらを踏みそうになって、歩き出す。子供みたいに手を引かれて。 うぅ……。 ほら、ほら。置いてかれちゃうわ。急がないと。 ──笑顔のシャーリィ。──母さまよりも母のようなあなた。 ──いつもと同じ。同じ? (でも。さっきは……。 昨日みたいな、顔をして……) 頭と胸の両方の片隅が疼く。気懸かりから心配へと変わった疑問だ。 時折見せるあの表情は、一体、何。何があって、そんな── ──と。 わお。きれーい!! はしゃぎすぎて転ばないのよ、アーシェ。芝は転びやすいですからね。 しませんよーだ!わぁ……やっぱり綺麗、ほら、メアリ! 空を仰いでくるりと一回転。メアリの内心の不安を掻き消すような、笑顔に歓声を添えて、アーシェが回る。 緊張しかけた心が安らぐのは、アーシェの様子だけではなくて。 空から降り注ぐ幾つもの“陽射し”のせい。雲と雲の大きな“隙間”も見えている。 ロンドンの奇跡。世界に出現した怪現象地帯のひとつ。 ここ、ハイドパークの水晶宮跡でのみ、このふたつの奇跡の恩恵に預かれるのだ。 ──あたしは空を見上げる。──ロンドンで唯一の、空の“隙間”を。 老人たちの言うものは見えない。ただ、雲と雲の切れ間である“隙間”には、普通の何倍もの“陽射し”が溢れるだけで。 美しい空、が何を指すかは知っている。大英博物館の絵画でかつて見た。 ──老人たちが言うもの。──子供たちがおとぎ話として語るもの。 ──青色の空。──それは、美しく、青く澄み渡った空。 ──この“隙間”からは見えないけれど。──でも、あたしは“隙間”が好き。 そこから溢れる陽光は暖かくて、ロンドンの空気の冷たさを忘れさせる。 周囲には、ハイドパークエリアに相応しい中流階級以上の紳士淑女だけでなく、家族連れの下流の人々の姿さえある。 この輝きの下には、さまざまな人が集う。外国人も多い。 誰もが感嘆するか、口数少なくなる。空を見上げて時間を過ごす。 奇跡。誰もがそれを実感する。 水晶宮跡から一歩でも外に出ようものなら、大空の“隙間”は目にすることができない。それも、奇跡の実感を強める。 外から同じ空を見上げても、幾つかの“陽射し”の名残りがわかるだけ。 見えるのはここだけなのだ。かつて、美しい水晶宮が建っていた場所。 光学的な理由に依るものだ、とパリ大学の碩学による論説がTIMESや科学系機関誌に掲載されたのを覚えている。 (でも……) でも、とメアリは思う。 もっと、別の。もっと、神秘的な理由はないだろうか。 奇跡の一言以外に、何か。 たとえば── そう、おとぎ話のような。 あの“隙間”に“青空”が見えるという、幼い子供たちの噂を裏付けるような── ……噂……。 ──思いかけて、頭を振る。──ううん。おとぎ話なんて、ないわ。 機関科学に満ち溢れた現代文明に、おとぎ話や噂の入り込む余地は少しもない。 大気は妖精の吐息ではなく、化学結合物で。大地は大亀の背中ではなく、惑星の一部で。 もしも、おとぎ話や噂が生きるとすれば。それは、きっと、紙の上でだけ。 真っ白な紙の上でインクが踊ることでのみ、夢見る物語は現実のものとなる。それは、メアリの一種の抵抗だ。 科学を肯定していても、夢見ることは否定したくないから。 ね。ね、メアリ、シャーリィ。もう少ししたらハワードも来れるって! ……一緒しても、いい? 綺麗な小型の電信通信機を片手に、遠慮がちに、アーシェ。 メアリは肩を竦めて頷いて、シャーリィは驚いた顔をして── まあ、アーシェ!その電信通信機はもしかして、パリの……。 え? え? な、なに、まずかったかな……。 ティファニーね。ティファニー。ミスター・ハワードからの贈り物かしら? え、うん!そだよ。ハワードがくれたの。 ティファニー? パリの宝飾ブランドなの。電信通信の外装も最近は手がけ始めたって、聞いてはいたけれど、そう、贈り物に……。 パ、パリって、パリ?そ、それってすごいのじゃないかしら。 パリといえば華美の代名詞!そこの宝飾ブランドならきっと高級品だ。 空に向いていた意識がふっと地上に戻る。アーシェがそれを贈られたということは、つまり……。 わ、本当、宝石が散りばめてある。凄い……。 え、これガラスじゃないの?ガラスだよー。 ううん、ダイヤね。ダイヤモンドですこれは。 ほんとー? 地質学の講義でサンプルを見たもの。ええ、ええ。ダイヤね。 えー。本当かなぁ、ダイヤかなぁ。 凄いわ、ミスター・ハワード……。流石ね……。恋って、凄い……。 こ、これは、あ、あれね。 驚きと興奮で言葉が詰まってしまう。こほん、と咳払いをひとつ。 ……また、ふたりの熱さにあてられちゃうことになりそうね? 気を取り直して、幾らかすましてシャーリィにそう告げる。 ……いない。 あれ? 隣にいたはずのシャーリィの姿がない。不思議に思って周囲を見ると、 (あ、いた……) メアリとアーシェから少し離れた木陰の下で何かを話しているのが見えた。 誰と話しているのだろう。よく見れば、木陰にはシャーリィひとり。電信通信機を片手に、何かを話している。 普及型よりも性能の良い、回線記憶数が多めの社交型電信通信機。携帯用にしては、少しだけ大きめの型。 ……シャーリィ。 ──誰と、何を話してるの。 昂揚しかけた気持ちがすっと沈んでいく。シャーリィの表情は、また。 昨日と同じ。先ほどの一瞬と同じ。翳って、どこか暗い表情。 心配だよね。 アーシェがそっと囁く。少し、メアリは思わず驚いてしまった。 ──アーシェ。ああ、アーシェリカ!──勘の良い、頭の良い子。 ──いつも、子供扱いしてしまうけれど。──アーシェはいつだって鋭くて。 メアリは噂、聞いた? 噂って……。 ううん、違うの。そっちじゃなくてね。チャペック先生の噂。 知らない……。先生の、どんな噂? 先生、シャーリィに求愛してるんだって。シャーリィはそんな気ないのに、1日置きに花を贈ってくるとか。 ──シャーリィのお屋敷の、玄関先。──幾つもの花瓶を思い出す。 もう何ヶ月かになるんだって。でもシャーリィ、全然そんな素振りなくて。 だから、ただの噂かなって、思ってたんだけど……。 きのうの様子見てたら……。やっぱり、本当なのかなぁ、って……。 声が沈んでいく。アーシェの表情も、翳ってしまう。 空から降り注ぐ“陽射し”のような声が、ここにいるのに萎れている。 ……アーシェ。 胸がぎゅっと潰されるような感覚。ひとりで考えているうちに、アーシェのことに気付かないでいたなんて。 気付いていた。気付いていたんだ。アーシェも、自分と同じように。 メアリは、シャーリィから何か聞いた?先生に困ってるとか……。 ……ううん、何も。 うん。アーシェもだよ。だからね、噂は、噂なままなんだけど。 噂。恋の噂。あのハインツ・ヘーガー氏ならともかくも、チャペック博士ではあまりに不釣り合いだ。 親子ほどとは言わないまでも、年齢だってひどく離れてる。 それに、何より、噂が本当なら、シャーリィが黙っているとは思えない。 ──だって。──あたしたちに、秘密なんて。 ──秘密なんて、何も。  『あたしたちの、あいだには、ね』  『あたしたちのあいだにひみつはないの』  『たとえば、こわいこわい影の大男が、 空を覆ったって』  『あたしたちはずっといっしょ』  『あたしたちはなかよしのままよ』  『うん、うん』  『あたしたち……』  『もしも、世界が……』 ──そう。 ──ずっと以前のこと。──あたしは、確かに、覚えてる。 右目に違和感を覚えてしまう。今のは、いつもの白昼夢とは違うのに。 いつもとは違って、見たものをはっきりと覚えているのに、それでも、右目から涙が溢れてしまう。 大丈夫、とアーシェが手に触れてくれる。暖かな手。シャーリィと同じ。 と── ごめんなさい、ふたりとも。ちょっと……。 その……急な用事ができてしまって……。埋め合わせは、するから……。 ミスター・ハワードによろしくね。それじゃあ……。 ──シャーリィ。──表情の翳りを、俯きがちに隠して。 確かな違和感があった。シャーリィは、今までに、一度だって、右目の涙に気付かなかったことはない。 けれど今は。俯いて、視線をこちらに向けずに。 気付いていない。視線は足下へ向いてしまっているから。 シャーリィ?あのね、メアリが、また……。 碩学院に……行かないと、いけないの。お手伝いしないといけないことが、あって。 だから……。ごめんね、ふたりとも……。 え、えと、用事なら、アーシェも手伝う。メアリも一緒に、みんなでやろ! ううん、わたしだけでいいの。ふたりは週末をちゃんと楽しんでいてね。 そう言って── ──あなたは笑顔を浮かべる。──いつもと変わらない、明るい笑顔。 ──でもね、シャーリィ。 ──駄目よ。放ってなんておけない。 いつもは安心させてくれる笑顔が、今は、今だけは拒絶するかのように思えて。 ひとりにしてね、と。ごめんなさいね、と。 いつもと同じ表情なのに、いつもと違う。気圧されてしまいそう。 アーシェは「どうしよう」と小さく囁いて、メアリの服の裾を引いて、泣きそうな顔で見上げてくる── 任せて。 ──小さく、あたしはアーシェに告げて。 待って、シャーリィ。 あたしも行っていいかしら。碩学院なら、あたしも用があるから。 ──勿論、そんなのは嘘。 ──でも、あなたに、嘘をついてでも。──放ってなんておかない。 シャーリィは、何も、言わなかった。 ガーニーの中でも。碩学院に着いても。 メアリは、何も、尋ねられなかった。ガーニーの中でも。碩学院に着いても。 あれからすぐにハイドパークを出た。アーシェをミスター・ハワードに預けて、ふたりで、有料の2級ガーニーを拾って。 ふたりで、というのは語弊がある。正しくは、無理にメアリが乗り込んだ。 シャーリィはまた一瞬、翳った表情、もしくは悲しい顔をして。 「メアリ。 お願いだから」 そう言って。でも、メアリは強引にガーニーに乗った。 母からの月々の仕送りには限りがある。安い地下鉄を使わずに、ガーニーばかりには乗っていられない。 それでも、そんなことは構わない。財布が空になってもいい。 アーシェにはっきりと言った。任せて、と。 そう、後は任せて。だからここはひとりで大丈夫。 ──でも、でも。 ──どうしたの。──何が、あったの。 その一言が言えない。 なぜ? 碩学院前に到着してガーニーを降りても、シャーリィの背中へ、声をかけられない。 手を伸ばそうとしても止まってしまう。唇が開かない。 ──なぜ。あたし、どうして。 時間はあったはずなのに。シャーリィが先へ歩いていくのを追って、幾らでも一言をかける機会はあったのに。 碩学院の、中庭で待っていたと思しき男性。 彼の姿を目にしても、メアリの唇は呪いにかけられたように動かすことができず、声も、出なくて。 おお。おお、これは……。 有り難う。来てくれると信じていたよ、シャーロット君。 革の鞄を大事そうに抱えた男。それは、やはり、チャペック博士だった。 彼が上機嫌であるように見えるのは、アーシェから噂を聞いたせいだろうか。妙に、昂揚しているように感じ取れる。 ──駄目。──駄目、シャーリィ。 ──誰のことを好きでもいいの。でも。──でもね。 ──あなたにそんな顔をさせる人なんて。──駄目。シャーリィ。 言葉が、出てくれない。喉と舌と唇がどうしてか動かない。 メアリなどまるで見えていないかのように、博士は何事かを語りながら、シャーリィに近付いていく。 駄目、と叫ぶ。叫んでいるつもりなのに。 実際には、何フィートも離れた後ろで、立ち竦んでいるだけで。 ──ひどい焦燥をあたしは感じていて。──なのに、声は。 ──声は出ない。──その時、声も、手も、何も。 さあ。補講を始めよう。研究会をようやく再開できるというもの。 マリアベルもきっと喜ぶだろう。きみのお陰で、研究は大いに発展する。 ……はい、博士。 さあ。こちらだ。案内しよう。 博士は、シャーリィの手を取る。それを見て── メアリは激昂した。手を差し出されてもいないのに、こんな、紳士ならざる行いが許されるはずがない。 ──唇よ、動いて。──あたしの声、どうして、出ないの! メアリ。じゃあ、行ってくるから。 ……また、月曜にね。 力なく首を振って。シャーリィは、博士と共に研究棟へと── (シャーリィ……) (……どうして……) 翳りある表情のままで、理由を告げることもなく行ってしまった。 人のいない中庭に、メアリはひとり佇む。なぜ何もできなかったのかと自問しても理由は出てこない。 気圧された?無言のシャーリィの圧力に? そんなはずない。友達に、何か、嫌なことがあるのかと尋ねるだけのことができない、なんて。 ──そんなこと、ある訳ない。──なのに。 ただ、呆然と中庭の端に立ち竦んで。メアリは西の空を見上げた。 何も見えない。ここからでは。見えるのは、巨大な、灰色の塊だけ。 ……シャーリィ。 ……どうして、そんな顔、してるの。 何か……。嫌なことでも、あるの……? ……シャーリィ……。 ようやく出るようになった掠れ声で、何度もメアリは呟いた。 何度も。何度も。 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。新たな献体が使用されたようです。 言語迷彩を使用した痕跡があります。検体化は、ほぼ確実かと。 「始まったか」 はい。 「ひとりめは保たなかったようだが──」 「ふたりめをどう使う、東欧の碩学」 「暗闇の中で見つけたそれが、 果たして、貴様の福音となるかどうか」 ──ずっと、シャーリィを待った。 夕刻という時間を人が失って久しい。灰色の空には、昼か夜しかない。 灰色か黒色か。空に訪れるのはそのふたつだけ。 差し込む“陽射し”が弱まるのを指して夕刻という言葉が便宜上使われるだけで。赤い空を人々は失った。 メアリもそう聞いて育った。だから── ──夜の訪れに気が付いたのは。──強まる寒さのせい。 冷え込みを感じた刹那の後、すぐに、空は夜の黒色に覆われていた。 週末の碩学院は人の出入りが殆どなく、碩学たちは研究室に籠もってしまう。だから、メアリはひとり。 中庭に佇んだまま、時折、ベンチに腰掛けて。 研究棟の出入口を見つめ続けた。そこに、シャーリィの姿を見つけようと。 暗がりの中に歩く人影をじっと見つめる。ひとりめの影は“教授”だった。 口数少なく挨拶をかわした後、ふたりめの影を待つ。 かなりの時間が過ぎた感覚がある。時計を、見なかったせいかもしれない。 ふたりめの影が見える前に、朝になってしまうのではないかとも頭の片隅でちらりと、思ったけれど。 ふたりめの人影が見える。近付いて── ……待っててくれたの。メアリ?こんなに、寒いのに。 勿論。友達だもの。 うん……。ありがとう、メアリ。 夜も遅いし、送っていくわ。あなたのお家までね。 あら。お姉さん気取り? ──わざと気取って、年上ぶって。──穏やかで柔らかな声。 ──いつもの、シャーリィの声。──いつものあなたの顔。 ママ・シャーリィほどじゃなくってよ。さ、帰りましょ。 昨日と同じ。今日と同じ。別れ際のことが、まるで夢や幻のよう。 いつもの通りに戻ったかのよう。 でも── ──いつもと、少し違う景色に見えた。 ──真夜中のシティエリア。──ふたりで、表通りを歩いているのに。 人通りがやけに少ない。クラブやパブから帰る男性たちの姿も、逞しく駆け回る浮浪児の子たちの姿も。 数分に一度、遠目に人影を見る程度。こんなことは珍しいと思う。 まるで、内心の不安と共に、景色まで変わってしまったかのよう。 ……人、少ないね。 シャーリィが頷くのがわかる。言葉はなかった。 ふたり並んで静かに表通りを歩いていく。馬車やガーニーは拾わない。シャーリィが「歩きたいの」と言ったから。 拾おうにも、交通量もひどく少なくて。これでは捕まえようがないけれど。 午後11時ぐらいだと感じていたものの、大分、時間が進んでいるのかも知れない。午前を回っている? 待っている間、時計を確認しなかった。だからメアリには、時刻がわからない。 こうして、静かに歩いている最中には、どうにも取り出しにくい。 シャーリィから貰った電信通信機。懐中時計型で、勿論、時計用の機能がある。 他にも、気圧計か何かと思しい、動かない計器が4つついている特製品。 シャーリィのお手製の、世界にひとつしかない電信通信機だ。 (時計……見る、ふりをして) (そこから話すのは、どうかしら。 自然に……) 意を決して── メアリ、どうかした? う、うん。あのね。シャーリィ──  ───────────────────。 ──また。また、どうして。──声が。 ──声が、出てくれない。──言葉が紡げない。 チャペック博士がいたあの時と同じく、唇が、舌が、喉が。動かない。 話そうとしているのに。訊こうとしているのに。何がどうしたのか、何があったのか……。 研究棟で何をしていたのか。いや、違う。違う。そんなことじゃない。 ──なぜ。──なぜ、あんな顔をしていたの。 ──なぜ、何も話してくれないの。──どうして。 言葉を迷ってなどいないはずなのに。また、声が出てくれない。 体は動いているのに。シャーリィの隣を歩いているのに。 今度は声だけが出ない。体は動く。ただ、声を出すための箇所が動かない。 なぜ……? ……メアリ。 不思議に、思ってるでしょうね。わたしのこと。 なんで、あなたたちを放って、チャペック先生と……って。 そう言って。シャーリィは、微かに笑う。 それは、いつもの優しい顔ではなくて。自嘲するような、後悔するような。 ひどく残酷なものに見えた。誰にでもない、自分自身へ向けた残酷さ。 ──やめて。──やめて、そんな顔をしないで。 ──シャーリィ。──大好きな、ママ・シャーロット。 馬鹿なことをしているって、思う。でもね……。 そうするしかないの、わたしは。だって、そうでしょう。 メアリは、きっと嫌がるだろうけど……。あの噂、知ってるでしょう。 うわさ……。 ──声が、出た。──相づちなんかじゃ意味がないのに。 わたしと博士の噂じゃ、なくてね。……恐ろしい《怪異》の噂。 ……え……。 ──え? ……シャーリィ……? おとぎ話の存在のはずなのに、街に現れて人を襲う怪物。黒の化け物。 狙われたら最後、誰も、どんな貴族でも助かることはない。 赤い瞳を輝かせて、黒い体を滴らせて、それはロンドンの暗がりに。 そんなの……ただの、噂……。 そうね。ただの噂。 噂。TIMES等には到底載らないような、ペーパーバックの表紙を飾り続ける程度の他愛もない噂話。 誰もがそう言う。そんなものいるはずがないと。 でも、誰もが口にしてしまう。信じていないはずなのに。 メアリは、普段、考えないようにしている。思い浮かべないように。 曰く、身元不明の死体が増加した。 曰く、それはテムズ河から引き上げられる。 曰く、切り裂きジャックの如く無惨な死体。 水死体のなれの果てに過ぎないのか、本当のジャックに襲われてしまった遺体か。それは、誰にもわからない。犯人以外には。 そう、わからないのだ──不明部分に噂がつけ込んだ、ただそれだけ。 ──やめて。やめて。──そんなことはどうでもいいの。 ──シャーリィ。──あたしは、今、あなたのこと。 あの噂はね。 ──あの噂が、何なの。 本当は……。 ──本当は、何。 ……ううん、嘘。何でもない。 え。 ふふ。引っかかった?ごめんなさい、恐いの、苦手なのにね。 少しあなたに悪戯したくなったの。だって、ずっと緊張した顔してるのだもの。 え……………………。 ごめんなさい、からかって。 ……恐かった? ………………………。 ……もう!シャーリィ。恐がらせないで、よ! 子供っぽいからと自制しているのに、つい頬が膨らんでしまう。 意味なく恐かったのは確かだけれど。白昼夢のことがあるのに何を言うの──とも、思ったけれど。 それよりも。シャーリィが話しかけてくれて嬉しい。 お陰で緊張が、そう、解れたと思う。今なら話ができそう! ……い、いいわ。許してあげる。今のことはいいから。 あのね、シャーリィ。 ──声が出なかったのは緊張のせい。──あたしは、そう判断して。 ──なら、普通に話そう。──そこから自然とシャーリィに尋ねるの。 昨日の晩餐、お招きありがとう。とっても楽しかったし、美味しかった。 どういたしまして。ドナにも、伝えておくわ。 毎週……は無理でも、毎月やるのはどう?来月はまずあたしの部屋で。 まあ、素敵なアイデア。アーシェの喜ぶ顔が浮かんできそう。 メアリのお部屋なら、そうね、皆で一緒にお料理してみましょうか。 時間をたっぷりかけて、下拵えから。レシピはドナから貰いましょ。 うん。賛成。ドナのレシピなら間違いないわ。 で、その次はアーシェの……部屋……。それは色々難しいかもだから、暫くは、あたしたちの家で交代制ね。 そうね。暫くは……。 きっと10年くらい、かしら。流石にそれくらいすれば、結婚済みよね? 新婚アーシェの新居を楽しみにしながら、まず、10年間はあたしたちで。 それで、どう? ……10年後……? 俯いて── ……10年後、には……。 立ち止まって── ……もう……何も……。 突然だった。シャーリィが立ち止まり、俯いて。 シャーリィ? 声をかけて顔を覗き込む。その、刹那── ──瞬間、呼吸が止まった。 ──苦しさを感じる暇は、なかった。 ──胸の奥から湧き上がる何か。──熱く、ざわついて、呼吸を止める。 ──何。これは、何。 息ができない。 我知らず喘ぐ。 続けざまに強烈な目眩がメアリを襲った。 呼吸困難。目眩。思考しようとする意思さえ奪う。 ──苦しい。何。これ、は。──何なの。 ──シャーリィ。ねえ、これ、は、何── ……あたしたち、みんな……。 ……誰にも、止められない、なら……。 ……ええ……それでも、いい……。……いいのよ……。 目眩で揺れる視界の中で、俯くシャーリィが手を差し伸べる。 喘ぐメアリへと。助けを求める誰かにそうするように。 けれど、ほんの一秒もしないうちに、シャーリィは頭を振って── 次の瞬間。悲鳴。暗がりの夜空を切り裂くような。 「──────────────────」 ──悲鳴。 ──それは、シャーリィの悲鳴だった。 ……あ、なた、を……。 ……たく、ない、から……。 ……だから……。 ──暗がりから、何かが、見える。──あれは何。 力なく項垂れるシャーリィの背後から、暗闇から浮かび上がるものがある。 数え切れないほどの黒い首を振り上げ、数え切れないほどの紅い瞳を瞬かせて。黒い、怪物。 夜の暗がりが、シャーリィの背後の闇がかたちを得る。 黒い体。紅い瞳。それは、ロンドン中の恐怖の噂。 誰かが《怪異》と呼んだもの、この世ならざる歪んだもの、おとぎ話にしか存在しないはずのもの。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 ──あたしは、ようやく、それを知った。──呼吸困難と目眩の正体。 ──恐怖。 涙が自然と溢れ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、ひきつった声が出るだけ。 誰か。誰か。誰か。助けて。 ──助けて、誰か。 ──あたしの──友達を── 駄目。だめ、だめ、だめ!思考がまとまらない。何。これは、何。シャーリィの背後から湧き上がる黒色。 何。何。何なの。わからない。なぜ。なぜ、あなたの背後の暗がりからこれは出てきたの。 ──あなたは何を言っているの。──聞こえない。 ──言って、ちゃんと、あたしに言って。──聞こえないよ。 混乱する思考の濁流で意思だけが迸る。メアリは、涙を溢しながら、喘ぐ喉を、振り絞りながら。 恐怖の大渦に呑み込まれながら、懸命に── ──ただ、ひとつのことを思う。──ただ、ひとつのことを願う。 ──この黒い怪物を。 ──今すぐに、シャーリィから離して! シャーリィ……! 弾けるように声が出た。息が、喉を通る。詰まった空気が通り抜けて、酸素が脳へと回ってくれる。 目眩で揺らぐ視界がすっと晴れる。それは、ほんの一瞬だけの平衡状態だった。 メアリは、その一瞬で周囲を見る。周囲。誰もいない。延々と広がる暗がりと、ほのかな機関灯の明かりだけ。誰もいない。 助けてくれるひとは。誰も。誰か。誰か! ──いいえ、ううん、いない。いないの。──誰も。ここにはいない。 ──ここは、どこなの。──シティエリア? こんなに暗い? シャー……リィ……! 掠れる。自然と、声が。一瞬の平衡を失って視界が再び揺れるけど、幸運なことに、呼吸は止まっていなかった。 息ができる──手足は、震えて、でも、辛うじて動く。 シャーリィの手を引いて逃げよう。そうする他はない。他に、メアリは何ひとつ思いつかない。 この目で見えているものが信じられない。黒い怪物。こんなもの、いる訳がない。でも、でも。 でも。もしもこれが本当なら!シャーリィが危ない。あれは、怪物は、シャーリィのすぐ後ろに。 ──こんなもの信じない。怪物なんて!──でも。でも。 ──でも、シャーリィを、──あなたを傷つけるかも知れないものを。 ──無視できない。そんなの無理。──じゃあ、どうするの。──どうするのよ、メアリ! 恐がってうずくまる? 震えて目を見開くの? それとも、助けてとあの赤い瞳に叫ぶ? ──駄目。どれも、駄目!──シャーリィを助けられやしない! メアリは、冷静にはほど遠い思考で、それでも揺らぐ視界で、怪物を見る。幾つもの赤い瞳。 そのどれもが── え……? 怪物はシャーリィを見ていなかった。見ているのは── あたし……を……みて……る……?み、てる……の……? 見ている。こちらを。怪物の無数の瞳はすべて、こちらを。 ──殺される。──あの尖った黒色に貫かれて、きっと。 恐怖が全身に浸透するのと、同時に。メアリは思考していた。 今、自分に何ができるか。シャーリィを助けるための手段がないか。 ──シャーリィ。シャーロッテ。──悲しい顔をした、大切な、あなた。──こんなお別れは嫌、こんなのない。 こんな見たこともない怪物のせいでお別れだなんて、嫌、嫌。絶対に嫌。冗談にもならない──  『黄金……瞳……ダ……』  『ソイツヲ……ヨコセ……』 喋った……? 喋った。そう、確かに言葉を発音した。恐怖に麻痺したメアリの神経が硬直することはなかったけれど、確かに。 黄金瞳、と言った。黄金の瞳。黄金の。それは── ……あたしの目が、欲しいの。  『ヨコセ……』 ……そう。  『ヨコセ……』 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──そう。そうなの。 いやよ。  『ヨコセェェェ……!』  『黄金瞳ォォォ…ッ!!』 ──襲い掛かってくる!──そう、シャーリィには一切構わずに! やった、と心の中で叫ぶ。今のこの状況はなにひとつ理解できないし、怖さで今にも失神しそう、でも、それでも。 手足の感覚がないほど恐怖は全身に充ちて、歯の根が合わないくらい震えているけれど、でも、それでも。 走ることならできる。いいえ、違う。 ──走らなくてはいけない。──できる。ううん、そうするのよ。 ヴィドック卿の発展理論を思い出しながら、正しく走ることだけに集中して。 恐怖を引き剥がせなくても、足だけは。走ることだけは── 走って、走って、怪物をひきつけて、シャーリィから少しでもこいつを。離す。 ──できる、メアリ? ──できるわ。だって、約束したもの。──今だって、覚えてる。 見てなさい! 化け物! 前へと走り出す。大小6つに分裂した怪物が、猛烈な勢いで襲い掛かってくる気配を背中に感じながら。 ──全力で、あたしは、前へと。 ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──かたちを感じるほどのそれ。 計器と声の関係の予想は当たっていた。でも、理由はわからない。なぜ、この声があるのかさえ。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 なぜ、この右瞳を欲しがるのか。何ひとつわからない。 ──これ以上は、何をすればいいの。──シャーリィはどこ。 この街にはいないのなら、それでいい。ここはロンドンじゃない。 シャーリィが、シティにまだいるなら。それでいい。 ──どうするの。メアリ。──走り続けて、声を集めて。 ──これから後は。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。この街を出ないと怪物たちに──  『目ヲ……ヨコセエ……!』 ひときわ巨大な叫び声!怪物。大小6つに分かれたものの中でも最も恐ろしい声を上げるものが、目前に。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。メアリを引き裂こうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。まともに、その姿を見てしまった。 ──恐怖がまた呼吸を止めようとする。──駄目。駄目! その巨大なものは、初めに見たものとはかたちが違う。鋼鉄でできた、人間の型。人間に、似ている。 鋼でできた、まるで、巨人のよう。人間にはありえない歪んだ頭部が蠢いて、瞳から赤色を流しながら、悲鳴を続けて。 その、肋骨のような鋼の檻にも似た胴には、何かがある。何。これは。人間……それとも、人形?  『オ前ノォォ……』  『目ヲォォ……!』 いやよ……! メアリは意思を振り絞る。叫ぶ。怪物の悲鳴に負けないくらい、大きく。               『鉄枷ジャック』 ──何。今の。 ──声。誰の。 鉄枷ジャック。そう囁く声が聞こえた。思い出すのは、ミューディーズで見た怪奇画のポスター。あれが? 鉄枷……ジャック……。                『ここへ来い』 ──声。あなた、誰。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他には“鉄枷ジャック”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 そこに── 行けばいいの──? ……ッ!! 自然と、再び走っていた。恐怖の波が膝をおかしくさせるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる理由はない。 ──でも、あたしは。──まだ諦めるつもりはなかったから。  『目ヲォォ……!』 しつこい! ──まだ。走れる。──諦めるなんてこと、絶対に、嫌。 ──走って、走って、走って。 ──脚が痛い。──足の裏とくるぶしと膝と腿が痛む。 限界という言葉が頭に浮かぶ。これ以上は、もう、走れそうにない。 体が軋む。脚の筋肉の1本1本が痙攣しているかのよう。痛い。 あの声の主の言った場所は、ここ?方向は間違っていないと思う。 でも、周囲には誰の姿もない。胸の片隅に、考えないようにしていた疑念が湧き上がる。 ──幻聴?──でも、確かに、聞こえた── ……………。 怪物の気配がする。あの大きな人型が、石畳らしき黒い床をずんずんと鳴らす足音。 まだ僅かに距離がある。メアリは、姿を隠そうとするけれど── 路地が見当たらない。大きな直線の1本道で、物陰が、ない。 建物の中へ入れないことがわかっていても、ドアノブらしき黒い塊を掴んでしまう。開かないどころか、回りさえしない。 そう。この黒い街では、建物のドアはどれも開かない。 不可解なことに、ドアの形をしていても、それはそう見えるだけ。そんな形に見えるだけ。 ──まるで、砂で作ったお城みたい。──中には何もない。 もしも建物に見えてもまるで違う。そういう形の石。 だからドアは開かない。似た形をしてるだけで、逃げられない。 ……はし、れ……ない……か……。 ──脚はもう動かないのに。──大きくなっていく。怪物の重い足音。 ……もう……。 ──胸が。 だめ、かな……。 ──恐怖に、耐えきれない。 ……シャーリィ。アーシェ。 ──張り裂けてしまう。 ……ママ……。  『見ィツケタ……!』 ──だめ。──これ以上は、もう、何も。 ──そう。これ以上、だめなの。──あなたは諦めるの? ──もう、終わりで、いいの。──あなたはいいの? ──メアリ?  『黄金瞳……ヨコセェ……!』 ……いや、よ……。 冗談、言わない、で……! ──諦めない! 諦めない。嫌、嫌。まだ何もしていない。まだ、やりたいことの何もできていない。こんなところで! ──死んで、たまるもんですか! 足下を探る。何か。何かがあるはず。何度も躓きそうになった蔦のようなもの。 あった。硬くて長い機関導力管に似たもの。地面からそれを拾い上げて、あたしは、両手で、構える。 黒い何か。剣と呼ぶにはあまりに頼りない。それでも、何もないよりは。 ──構える。──聖ジョージのように。 ……神さま。来週から、日曜は教会に通います。 約束したんです。アーシェとシャーリィと、一緒に。 ……皆で劇場へ行くの。だから。 ──怪物が、あたしに近付いてくる。──鋭い大爪をかざして。 酷い湿気と悪臭が怪物の実在を告げる。ぬるりと滴る体液は、地面に落ちると黒い石畳を穿った。 怪物が巨大な手のひらを広げてみせる。鉄の擦れる嫌な音がした。 長い長い鉤爪。人間なんて一振りで両断しそうな、爪。 力を貸して! 神さま! 『無駄だ』 『ささやかな祈りなど、 奴の居所までは到底届くまい』 ──声! 誰。背後から声。だから姿は見えない。でも、男の声だとわかる。 ──それは、あたしをここへと導いた声。──耳でないところへ届く声と、同じ。 ──あたしは、振り返ろうとして── ──視界に、黒色が充ちる。 首筋あたりに重い衝撃を感じながら、意識が、揺らいで……。 暗がりへ……。 『素人にしてはいい胆力だ。仔猫』 な……に……? 仔猫って……言わない、で……。  『メアリ』  『かわいい仔猫ちゃん』  『あなたのことだけは』  『もしも世界が、終わってしまって』  『ふたりだけになっても……』 ──音がする。 ──ううん、これは、声? 瞼を閉じたままでも、朝の気配がゆるやかに伝わってくる。 テムズ河の澱んだ流れから生まれる音。住宅街の共同用機関の起動する低い音。僅かな小鳥たちの、囀り。 いつもの、朝。この2年間と何ひとつ変わらない。 ん……。 ゆっくり瞼を開くと、少し、眩しかった。部屋の機関灯が点いている? テムズ。住宅街。小鳥の声。機関灯。薄い違和感が視界を揺らす。 あれ……。 ……ここ、は……下宿……? おはよう、メアリ。気が付いた?気分はどうかしら。 ……え……?ミセス・ハドスン……? 大家さん──ミセス・ハドスンが枕元にいた。何度瞬きしても姿は消えない。夢や幻では、ないのだろうか。 思い出そうとするとこめかみが痛んだ。思わず、小さく声が出てしまう。 まだ起きなくていいのよ。あなた、酷い熱だったのだから。 あ、あの……。ここは……怪物、は……? 恐い夢でも見た?そうね、随分とうなされていたし。 まだしばらくは養生なさい。食事のことは心配しなくて良いから。 ……夢……。 ──夢、と言われてはっとした。──あの黒い街のこと。 ──夢。あれは夢だったの?──黒い街も、怪物も、男の声も。 ──シャーリィの悲鳴も。 ミセス・ハドスン……。シャーリィは……どこ……? ……。 ミセス・ハドスン……? メアリちゃん。その、言いにくいのだけれど── ミセス・ハドスンから告げられたことは、客観的な事実だった。 シティエリアの裏路地で、折り重なるようにして倒れたふたりが警官に発見されたのが、2日前の朝方。 原因不明の高熱を発して意識を失っていたメアリが目覚めたのが、2日後である、今日の朝。つまり、現在。 ずっと眠り続けていたのだという。掛かり付け医師の診断は“高熱”とだけ。 走り続けた脚の筋肉の断裂も、痛めたはずの関節も、目覚めた時には何も残っていなかった。 一方、シャーリィは── ……意識不明の、まま? ──あたしは、こうして目覚めたのに。──シャーリィは。 シャーリィは未だに意識不明で。目を覚ましていない、と。 高熱を始めとする症状などは一切なく、ただただ、昏睡し続けている、と。 ──目を覚ますかはわからない、と。 ──ミセス・ハドスンは短く言った。 嘘。 嘘……です、よね?ドナが……伝えたんですか……? そんな嘘、どう、して……? 信じられない。自分が今こうして聞いていることさえ、ミセス・ハドスンの暖かな手の感触でさえ。 両手を握られて、お見舞いに行ってあげなさい、と静かに、優しく、告げられてさえ。 ──信じられない。 ──あたしは、何で。あたしだけ。──シャーリィが、どうして。 あの黒い街が悪夢だったのなら、黒い怪物も夢、鉄の怪物も夢。 もしも、夢を見せる何かがいるなら、どうしてこんな。 ──どうして。──悪夢を、あたしに見せ続けるの。 ……そして。 それからすぐに、あたしは、ハドスン夫人の言葉が事実だと知った。 本当に。シャーリィは目を覚まさなかった。 ブロンテの本家に依頼されたお医者さまが、何人やって来ても、ただ、首を捻るだけで。 意識不明。昏睡状態。植物状態。 聞く度にシャーリィの症状は酷くなった。奇跡を信じる他はない、というお医者さまの言葉をあたしは聞いた。 原因がわからないことには手の施しようがないとお医者さまは言った。 1日目。 眠ったままのシャーリィに付き添った。 2日目。 名医と呼ばれる高名なお医者さま方が次々に、シャーリィの屋敷に集まった。 3日目。 高名なお医者さまは、誰も彼もが、同じことしか言ってくれなかった。 4日目。 あたしは部屋から出ずにずっと考えた。 今も噂される《怪異》と、あたしたちが倒れた、あの晩について。 黒い街。怪物たち。4つの叫び声と、あたしを導いた誰かの声。夢かも知れない、あの晩の出来事のすべて。 5日目。 あたしは決めた。 まずは、碩学院の“教授”に頭を下げて、彼への紹介状を書いて貰った。 ──彼。そう、彼。──ロンドン最大の頭脳を持つという彼。 欧州全土の事件を解き明かすという、彼。ディテクティブの王だと自ら称する、彼。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、彼。 北央帝国から《知り得るもの》の大称号を賜った唯一の彼。 ──シャーロック・ホームズ。 悪夢の晩から7日目。意を決して、メアリは下宿を後にした。 目指す場所はひとつ。テムズ沿いの住宅地帯からはほど近い、ソーホーエリアの122Bの集合住宅。 ソーホー122B。それが、昨夜“教授”から届いた電報にごく短く記されていた彼の住み処だった。 新聞や、伝記まがいの小説には、べーカー街と書いてあったのに。 疑う心も幾らかあった。それでも、試してみる他はない。 そもそもからして、博打のような行動なのだから── ──何の変哲もないコンドミニアム。──中流層の家には見えない。 名だたる人物だというから、貴族的な雰囲気を予想していたけれど。 玄関のドアだって薄くて、ノックをしただけでひどく軋んで。 ドアを開けずに「入れ」と告げる声は、通りの外にまで聞こえてきそうなほど。玄関先でも大きく聞こえた。 遠慮がちにドアを開けて、中へと入る。 お邪魔しますと挨拶を言っても、何も、返答らしきものはない。 ──最初、無人かと思った。──そこには誰の気配もなかったから。 ──でも。 ……客か。 部屋の奥にはひとりの男性が立っていた。屋内なのに黒色のコートを羽織っている、変わったひと。 ──よく見れば、コートだけではなくて。──全身すべてが黒。 ──黒い髪。──黒い服。 ──黒い眼帯は、贋物ではなく本物? 薄い色の左瞳。なぜか、悪夢の晩を連想しそうになる。 事実か夢かもわからないあの晩のことを、メアリは考えまいと決めていた。考えても、何もわからないから。 だから、男の目を見た時。メアリは連想するのを自分で止めた。 故に── 男の瞳の奥に── あの恐ろしく無機質で暖かみのない黒い街の気配が漂っていたとしても、気付かなかった。 あなたがミスター・ホームズ?あたしは……。 額はワトスン氏の著作と違う。かぎ鼻と呼ぶのも相応しくない、と思う。 住所のこともそうだったし、伝記ではわざと違えているのかな、とメアリは、内心で、首を傾げてしまう。 地下鉄を使わなかったらしいな。テムズから徒歩、か。 え……。 どこから来たか知っているんですか?ミスター・ホームズ……。 名前もな。故に、自己紹介を遮った。 え、え。 お前は── 名は、メアリ。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 ──当たっている。なぜ? 王立碩学院に入学を許されて、今年で2年目。 ──これも。当たっている。 テムズ第7沿岸の下宿暮らし。大家はハドスン。 ──これも当たり。どうして? 疑問に思うという顔だな。メアリ・クラリッサ。 はい……。あの、なぜ、でしょうか……? 初歩的な推理。……と、言うやつだ。 その服の裾についた機関排煙の煤は、北央帝国製の新式機関のものだ。 ロンドンでは使用されている箇所は2つ。テムズ第7沿岸南の紡績機関工場か、イーストサイド第1総合工業地帯か。 各地の所要時間と飛散する煤の量から、前者であると判断した。 さらに、その風貌から、碩学院の女学生であるのは一目瞭然だ。只の中流の娘はひとり歩きなどしない。 テムズ第7沿岸北で碩学院の女が部屋を借りるのならば、女性大家の下宿を除いて他にはない。 第7沿岸北にある下宿の殆どは、とある商会の経営だ。個人経営の女性大家はハドスンひとり。 そして、お前の名だが── それなりに有名だ。昏睡状態の続くブロンテ家令嬢の傍らで、医師に食ってかかった女学生がいたとな。 メアリ・クラリッサ・クリスティ。お前の名は、医師の間では既に有名だ。 ──すごい、と思う。──すべての推測が当たっている。 ──でも。 ……でも。あたしの顔までは、お医者さまは。 その右眼。目立つ風貌であると自覚がないのか? まあいい。では、本題に入る。 お前の目的は、ブロンテ家令嬢であるシャーロットの回復。そうだな。 ……はい。 ──まるで紳士には見えない。──傲慢な物言いに、失礼な態度。 英国の紳士らしからぬ振る舞いの数々。言葉遣いもひどく乱暴で。 けれど、本当に、すべて言い当てられた。だからメアリは頷いて、彼の言葉の続きを待つ。 では、話はひとつだ。 これは、お前の知らない社会の話だ。これは、組織に触れる話だ。 人間にとっては甚だしく危険な、とある碩学組織の話だ。 碩学の、組織……? ──そこから先の話は。──あまりに突飛で、馬鹿馬鹿しくて。 ──あたしは、混乱してしまう。──この眼帯のひとは何を言ってるの? ──信じられない。──そんな、ダイムノベルみたいな。 ──でも、今の、このあたしは。 ──聞くしかなかった。──どんなに、突拍子がなくても。 ──縋るために、ここに来たのだから。 彼の語った内容は、英国に潜伏するという組織について。 正しく形容すれば、碩学たちの集う秘密組織について。 呼び名はさまざまだが実態はひとつ。欧州を暗躍するその組織は、英国では、ただ《結社》とだけ呼ばれる。 その活動は、純然たる合法科学実験から重大な犯罪行為まで、多岐に及ぶという。 彼らの研究のひとつこそ。人に幻覚を見せ、害するというもの。 あの悪夢の晩を説明できる内容だった。でも、都合が良すぎるとも、思わざるを得ない。 幻覚は、痛みを与えるものだろうか。あれほどの現実感を伴って。 ──あたしは疑ってしまう。──でも。 ──疑念は、口にしなかった。──続く話に、気を取られて。 組織の幻覚研究に関わるひとりの男が、王立碩学院で客員教授の役職に就いた。それが、1年前のこと。 男の名は、ヨゼフ・チャペックという。東欧の碩学位を得た秀才。 ──ヨゼフ・チャペック博士。 ──その名を、あたしは知っていたから。 後は、お前の自由だ。俺は多忙のため調査活動は行わない。 だが、お前には目がある。依頼料にと用意した金もあるだろう。 その目、右目の黄金瞳。飾りではあるまい。 ……黄金瞳……? ──妙な、違和感があった。なぜだろう。──どこかで聞いたような言葉。 カダスに於いては、現在の真実を見抜き、過去の古きものを見通すと言われている。希有な“しるし”だ。 それが、黄金瞳。欧州に於ける妖精眼とは別物だ。 真実と過去……?秘密の、碩学の組織……。 ……それに、ヨゼフ・チャペック博士。 あなたの言葉を、信じて良いのですか。あたしには、とても。 言っただろう。後は、お前の自由だ。 言葉を信じるのも、お前の自由。そうしないのも同じく。 自ら焦る必要はない。同じく、早々と諦める必要もない。 『待て。しかして希望せよ』だ。 ………。 ──聞き覚えのある言葉。──確か、モンテ・クリスト伯の一節。 ──あたしの好きな言葉。──作品自体は、残酷すぎるけれど。 突然、突拍子もない話を延々とされて、胸の内から湧き上がっていた警戒心が僅かに、綻ぶ。 全身に張りつめていた緊張の糸が、幾らか、解けて。 ……大デュマ、ですね。 わかるか。 本は好きなんです。あなたも、お読みになるんですね。 ……ん。 質問に対する返答は、機嫌の善し悪しさえ不明な相槌だけ。 一秒が過ぎ、 二秒が過ぎ、 メアリが戸惑い始めてからようやく── 男は溜息混じりに呟いた。表情を、ぴくりとも変えることなく。 愛読書だ。唯一の。  ───────────────────。 「モラン」 男が、声を掛けると。部屋の中央部分から人影が姿を見せた。 文字通り、音もなく。初めからそこに立っていたかの如く。 背の高い人物だった──恐らく、声を掛けた男よりも。 一見すれば近衛の兵と見紛うだろう。けれどもそれは、陸軍服だ。 尤も、着用者がそう意識する限り、その姿は誰も見ることができまいが。 《結社》製の暗示迷彩式陸軍服は、影に溶けて視界から消える。 目標Aが接触してくること。予測済みでいましたか、あるじ。 「薄々はな。 しかし、奴の真似は随分と疲れるものだ」 男は薄く笑っていた。そこに、感情の色は一切見えない。 男に仕える軍服の人物──モランでさえ、正確に把握できたかは疑わしい。 「モラン。 メアリ・クラリッサの監視を続行しろ」 はい。 「あの娘、お前を“見た”そうだな」 はい。 「暗示迷彩を纏ったお前を」 はい。 「──興味深い」 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の開始と。──深遠なる認識の開始を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「文明だけでなく、 人間の精神もまた変容を免れぬのだと」 「すなわち。 誰も彼もが明日には狂っているのです」 「しかし、仮定としまして」 「絶望と名付けられた甘美を受け入れず、 藻掻く者がひとりでも残っていたなら」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「かのハイ・エージェント・Mは 苦悶の末に憤死することでしょうな」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「1人目は失敗いたしましたが、 2人目がおります」 「これなるは新たなる献体。 これなるは新たなる霊媒なるひとり」 「で、あるが故に」 「すべては」 「──すべては、ここから始まるのです」  『わたしが』  『わたしが、あなたを守るから』  『こわいことのぜんぶから、わたしが』  『じゃあ』  『メアリがあなたを守ってあげる』  『王子さまがきてくれるまで、ね?』 ──暗い。 ──ここはなんと暗いのだ。 石畳の路地を歩く革靴の乾いた音が響く。それ以外に何の音もない。 いや。いいや、違う。耳を澄まさずとも聞こえてくるはずだ。あとふたつ。あとふたつの音が、ある。 聞こえてくるのは私の靴音だけではない。焦りを込めて早足に歩くこの音の他にもあと、ふたつ。 ひとつは息づかい。ひゅうひゅうと苦しげな私の息がある。 歴史上最高の繁栄を謳歌する大英帝国、首都ロンドンの暗がりを歩く男の息だ。私の息だ。 もうひとつの音は、ああ、私はそれを形容することができない。闇から迫るその音を、私は決して認めない。 ここには誰もいない。ここには誰もいないのだ。 私の靴音と息づかいともうひとつ以外には何もない静寂の世界の中にあって、私は、そう、信じていた。 誰もいないのだ。ここには、私しか、いないのだと。 夜闇を絶え間なく照らす機関街灯はある。2ブロック先の機関工場の駆動音もある。 けれど、ここには、私だけ。ここは大都会であるはずの都市ロンドン、ウェストミンスターエリア。それなのに。 私しかいない。生きる者も、動く者も私だけ。 そんなはずはない。そんなはずはない。 私は歩いている。息をひそめようとしながらも荒い息で、靴音を鳴らさずにと考えつつも早足に。 私の歩みは速くなる。私は、迫り来るものを感じているから。 ──逃げろ。 逃げろ。         逃げろ。                 逃げろ! 背後のもの。それはあり得るはずのない無限の暗がり。 この暗がりに追いつかれたら殺される。待ち構えた“あいつ”の牙で殺される。 暗がりから追いかけながらも、同時に待ち構えている“あいつ”に、誰も、逆らうことなどできはしない。 生け贄となった少女の悲鳴が続く限り、“あいつ”は何者をも殺すことができる。 私や少女が恐れるものさながらの力で。殺すことができるのだ。 生きとし生けるあらゆるものを、殺すのだ── けれど。 けれど、 もしも、この身が闇であって── 恐怖そのものであったならば── 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──我があるじ“M”を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 古ゲルマンの復活を夢見る騎士であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の重鎮であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 ──黒色の男と。──鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“繋がる”のだ。 『……情報蓄積機関と第2次接続』 『フラグメント監視網の強化を確認。 これより、市内全域の再設定を行います』 ──ひとつひとつ。 ──ゆっくりと。 知らぬ者が見れば人間に見えるだろう。最新鋭の機関で形作られた自身の体を、女は── ──女のかたちをした人形は、己を見る。──自身の機体を。 ひとつひとつ。ゆっくりと、外し、装着し、接続して。 己の機能を次々に付け加えていく。己の一部を失いながら。 女は、自らを回廊の新式回路に繋げていく。ひとつ、ひとつ。確かめるように。 『……我があるじ』 女の声が震える。言葉は、己を見つめる男へのもの。 黒の男は無言で背後にいた。女が自己を調整するさまを見つめながら。 幾つかのケーブルを手繰り寄せ、女の背中へと、ゆっくりと取り付けて。 「報告は」 『……はい。 目標Aの監視状況について報告します』 『メアリ・クラリッサ・クリスティは 事前予測と同一の行動を取っています』 『危険な状況です』 『自動化された《結社》保安部門は、 8時間以内に彼女を排除するでしょう』 「予測通りだ」 黒の男は静かに告げる。女の頬に、冷ややかな手を添えて。 「第32情報経路を封鎖しろ」 「目標Aは貴重だ。 決して《結社》の基幹部には見せるな」 『はい。しかし』 「構わん」 男は言葉を続けなかった。そのまま、回廊には静寂が充ちていく。 ややあって、女は言った。囁くように。呟くように。 『……はい。了解しました』 ──そして、私は、命令を実行する。──情報の海の中で。 機関都市ロンドンの地下に張り巡らされた導力管の中を駆けめぐるのは、蒸気機関の生み出すエネルギーだけではない。 効率的伝達のために数式化された情報が上位導力管の奔流には充ちている。それは、いわばロンドンの頭脳だ。 流れてゆく情報は幅広く、際限がない。そのひとつひとつを女は視る。 貿易会社が海外と取り交わす商取引情報、暗号化された銀行や証券会社の資産情報、国民番号による行動管理情報も── この深く広大な《機関回廊》と繋がって、己の機関脳を起動する限り。女の目はロンドンのすべてを視る。 ──暗号化された《結社》情報でさえ。──私にとっては、たやすいこと。 ──ひとりの無力な少女を取り巻く影たち。──彼らへの指令情報を書き換える。 巨大な違法組織であるところの《結社》は頭脳集団であると謳っているが、実のところは暴力を振るうやくざ者だ。 銃弾とナイフ、毒薬。ごく効率的に使用されるこれらの暴力は組織の円滑的な運用に非常に役立つのだ。 女自身も、その暴力のひとつであって、組織を織りなす部品のひとつであるから。何をすればいいか、わかる。 目標Aの自動的殺害を回避させるために、どの情報を阻害し、どの情報を改竄すべきか。 頭脳回路の片隅の、もしくは胸の奥に生まれた“違和感”をはっきりと感じながら、第32の経路を。 ──第32情報経路の封鎖に、成功。──命令の完遂を確認。 『命令を完遂しました。 あるじ』 「よくやった」 『……はい』 ひとつの違和感。ひとつの疑念。 これは、初めての出来事だったのだ。女が違和感を抱いたことも。男が“人間”を“助けろ”と言ったことも。 男がただの“人間”に興味を抱いたことも。初めてのことだった。 ──私は、咄嗟に、感情回路を閉鎖する。──そのつもりだった。 ──けれど。──私は感情回路を閉鎖せずに。ただ。 ──私の背中に触れる、あなたの指を。──あなたの指を感じ取る。 ……あるじ。 回廊との意識接続を司るケーブルが外れ、女の喉から声が滑り出る。都市戦闘用機関人形“モラン”の声。 機関機械を介さない、女の体からの声。囁く声が男に届く。 男は返答しなかった。無言で女の背中に触れ、ケーブルに触れる。 ──あるじ。──あなたは、私に興味を抱かない。 ──あらゆるすべてに興味を抱かない。──その、あなたが。 ──なぜ、彼女を見るのですか。──あるじ。我が、あるじ。 感情回路のどこかが焼き切れる感覚。本当は、どこも壊れてなどいないのに。いつも、そうだ。 男からのあらゆる命令を完遂するために埋め込まれた幾つもの回路の中で、唯一、設計意図の不明な回路。感情回路。 それは、時折、こうして不具合を起こす。不可解な思考をもたらす。不可解な行動をもたらす。 ──モラン。耐えなさい。──感情回路は破損などしていない。 女は、もたらされた思考に耐える。けれど、行動の欲求には逆らえなかった。 もしも《結社》の誰かのプログラムなら、それを組み込んだ人間を呪おう。近づくほどに、彼は離れていくのだから。 ……あるじ。我が、あるじ。 返答はない。返答はない。ただ、無言の沈黙が回廊を充たすのみ。 ──私はそれを、許可であると受け取った。──だから。 ──背後のあるじへと、振り返る。──背中と繋がる接続盤を移動させながら。 ──あるじの唇へ口づける。──確かに人間のかたちをした、そこへ。 男は拒絶しなかった。一瞬、気怠げな視線を向けただけで。 男の唇に女の唇が触れる。疑念の何もかもを問いかける、代わりに。 男が乗り気でないことはわかる。口づけだけでなく、何もかもに対してだ。 彼はあらゆる事象にこだわることがない。そのはずだった。少なくとも、女が知る限りは。 女が、女のかたちをした作りものに入り、男の配下となった時からずっと。彼は一切に興味を抱かず、動じることなく。 ……ん……。 ──私の唇が、あるじの体温を感知する。──私とは違う唇。──血の通った暖かな唇。 ──けれど、あるじ。──あなたの唇は、誰よりも、冷たい。 男の目は女を見てはいない。暗がりから、やや露わになった女の体を、一流の造体技師の手による高価な機体を。 機能性と同時に美観を求める《結社》の狂った幹部によって設計された、女の“からだ”を、男は見ようとしない。 彼は、何を見ている?回廊の奥の闇を見ているのか、それとも女の背後に繋がったケーブルの束を、か。 拒絶されていないことだけが唯一の救いと、女は、一心に男の唇を貪る。唇を重ね、舌で触れて、体温を奪う。 生体部品で形作られた数少ない器官、女の唇と舌で、何度も、問いかけても。 男の反応はない。無言で、動くことなく座っているだけ。 唯一開いた左の瞼を閉じることもない。閉ざされた右の瞳を感じることもない。女の、モランの動作を“拒絶しない”だけ。 ──あなたは何も問わない。──私の、命令のないこの行動にさえ。 ──興味を、抱くことはない。──なのに。なぜ。 ──なぜ? 規格外の感情回路の独走を自覚してなお、女は自分を止めることがなかった。男の唇を割り開いて、舌の熱を感じても。 拒絶されない。ただ、それだけを拠り所にして── 人形にあり得べかざる欲求に動かされて、彼の“生きている熱”を求める。求められなくても、拒絶されないから。 ──あるじの視線の意味を恐れて。──私は、瞼を閉ざす。 ──作り物の唇で、あなたに触れる。──あなたがたとえ何も感じていなくても。 肩に這わせた手に力を入れる。回廊全体に充満する僅かな重低音の中で、女の体の“駆動音”は、かすかに、響く。 そして女は自覚する。今や作り物である自分がこうすることの滑稽さと、愚かさと、無意味さのすべて。 躊躇いが、唇を離す。女は僅かに1インチほど男から離れて── ……我が、あるじ。M。……あなたが……。 ……あなたが、ここへ留まる限り。私はお供いたします。 どうか、お答えください。彼女は、あなたにとって必要ですか。 絞り出した声に、反応はあるのか。無言の返答を女は覚悟する。 けれど。けれど。男は、それまで動くことのなかった唇を。 「必要だ」 ……はい。 ……了解……しました……。 ──私は、ふたたびあなたに口づける。──少しだけ強引に。 自動的に、男の返答の理由を回答しようと稼働する各種回路を半ば無視して。女は、男の舌に、己の舌で触れた。 ややあって── 動作することのなかった男が、動いた。質問に対する返答だけでなく、動いた。それは、本来あり得ないはずのことだった。 拒絶の動作。金属椅子の傍らに落ちた女の服を拾い上げ、無言のままで、女の肩にそれを被せたのだ。 無言。けれど、確かな拒絶。 女の肩に、暗示迷彩の陸軍服が掛けられる。びくりと女の体が震えた。 ──あるじ。──ああ。我が、黒のあるじ。M。 ──私の、命令にない行動を咎めて下さい。──私の、回路動作の異常を咎めて下さい。──咎めて、下さい。 けれど男は何も言わなかった。服を着ろ、と、女へ動作で示すだけで。 陸軍服を掛ける男の右手を、女は握った。人間の肌の感触がわかる。 「何だ」 問いかけ。言葉。返答するすべを女は持たなかった。 ……申し訳、ありません。 さらなる拒絶を女は期待した。けれど、男はそれ以上何も言わなかった。 だから。女は男の手を握りしめたままで、感情回路の更なる軋みを放置した。自身の機体が行う違反行動を、見逃した。 感情回路と制御系に熱が溜まる。それは明らかに異状ではあったが、しかし、女にとってはどうでも良いことでもあった。 ──拒絶して下さい。──あるじ。私にも、あなたの── ……申し訳、ありません。 人間の重量を遙かに超過した女の機体が、男の姿勢を変える。拒絶はない。男はただ、されるがまま。 手を添えれば男は応える。女の“ありはしないはず”の欲求にさえも。 人造皮膚の感触に何も感じなくても、生体部分の感触に何も感じなくても。男は、女の行動を何も拒絶することがない。 だから、女は男に触れる。だから、女は男の体へと覆い被さって。 ──繋がることも、できる。──こうして。それに意味がないとしても。 ──あるじは私に与えない。──ただ、拒絶しない。ただ、それだけ。 ──それでいい。──私は、これ以上を求めないから。 感情回路と共に戯れに設計された部分が、言いようのない感触と共に、男と繋がる。男は声ひとつ漏らさない。 ただ、昂ぶるのは女ひとり。生体の感触で何かを得る訳ではないけれど。 感情回路が軋む。自分の異状がわかる。女は、制御神経系と各回路の熱を、感じて。 ──私は、声を漏らす。──健常な人間の男女がそうするように。 お許し、下さいますか……。あるじ……。 返答はない。返答はない。ただ、視線が、僅かに女の瞳を捉えるのみ。 ──あなたは拒絶しない。──あなたは許可しない。──ああ、そうか。そうですね。あるじ。 ──あなたが変わった訳ではない。──何かに、興味を抱いたからといって。 ……ある、じ……。お許し、下さい……私は……。 ……壊れています。……けれど、あなたの、目的を……。 ……阻害することは、ありません。機能は、ひとつも、損なうことなく……。任務を果たします……。 返答はない。返答はない。代わりに、男の手がゆっくりと伸びる。 男の指が、手のひらが女の頬へ触れる。びくりと女の体が跳ねる。 ……あ……。 何よりも。何よりも。体で繋がることなど比べものにならない。男の手。男が、自ら、触れてくれること。 それが何よりも回路を軋ませる。神経系を流れる電流が逆送してしまう感覚。 四肢がこわばる。熱暴走を引き起こしかけ、昂ぶりが回路と体を熱くする。体表の冷却水が、汗のようにこぼれ落ちる。 ──あなたが見ている。──わたしの、光学機械でできた瞳を。 ──あなたが触れる。──わたしの、作りものの顔に、頬に。 女の疑念が氷塊していく。狂いかけた回路の幾つかが修正されていく。彼の姿、彼の本質、何もかもを、無視して。 これでいいのだと、女は思う。人間を真似て繋がることに意味がなくても、例え、この男が何も感じていなくとも── ──そう。──良いのです、あなたは。 ──あなたは何もかもを感じることがない。──何もかも。ロンドンも。人も。 ──その、あなたの肉体がどうなろうとも。──あなたは構うことはない。──あなたは、そういうひと。 ──だから私は、狂ったままでいられる。──すべての回路が壊れても。 女が目的を果たすための存在である限り。男は、拒絶しない。男は、自分が側にいることを否定しない。 たとえそれが男の存在の何もかもを失い、女の機体と回路のすべてを燃やし尽くす結果になろうとも。女は、構わない。 それでもいいと、感情回路が軋む。そうあるためにこの機体を得たのだから。 「モラン」 男の唇が動く。昂ぶりなど一切見せることのない静かさで。 ……はい。あるじ。 「お前、女の機体は何度目だ」 ……二度目、です。一度目は《機械卿》閣下に、破壊……。 「似合っている。 そのままでいろ、お前は」 ……はい。了解しました、あるじ。 「──そういえば」 「お前の、元の体は女だったか」 覚えて……いません……。記憶回路に、情報は、ありません……。 ──覚えている。忘れはしない。──どんなに記憶回路を積み替えても。 ──どんなに記憶回路を書き換えられても。──それだけは、忘れられない。 ……覚えて、いません。 「そうか」 男の言葉が途切れる。決して、何かを思った訳ではないだろう。思い出したことを、口にしたに過ぎない。 それでも。それでも、女は感じ入る。昂ぶるのだ。 男の脳に自分の何かが記憶されている、もしくは、男が自分のことについて話す、ただそれだけのことで。 男の意識が自分へと向けられたと思う、ただそれだけで── ……ん……。ある、じ……我が、あるじ……。 ……わ、たし、は……。 ──覚えています。我が、あるじ。──まだ、あの日のことを。 覚えていなくてもいい。忘れていても、それでも、構いはしない。自分ひとりがこうして覚えていればいい。 女は瞼を閉ざして、ひとり、言葉にせずに想う。 ──忘れはしない。──どんなに、機体を乗り換えても。 ──忘れはしない。──女だ。今も、私は。 駆動音が街に響く── 舗装道路を走る、鋼鉄の“車”がひとつ。馬車と似たかたちだが馬車ではない。 蒸気機関式ガーニー。新大陸では“自動車”と呼ばれている。 市民の足と表現するには語弊があるだろう。異境であるカダス地方で生まれたガーニーの個人所有車輌は、未だ珍しい。 世界有数の機関都市ロンドンとはいえ、速度があまり上がらない初期型ガーニーは地下鉄や馬車の補助であるのが現状である。 広大で未開地の多い新大陸では日々、輸送機械群の発達が行われているというが、この“車”はその恩恵を大いに受けている。 フォード社製のオースティン1904型。新大陸の富裕層に所有者の多い、高速移動用変速機つきのガーニーだ。 ロンドンでこれを個人所有している者はそう多くはない。若い所有者であるなら、特に。 このガーニーの乗員はふたり。運転する青年がひとりと、助手席の少女。 所有者であるのは青年のほうだ。名は、ハワード。ハワード・フィリップス。 慣れた手つきでハンドルを握りつつ、時折、助手席に座る愛しい少女の姿を見る。 (やはり、今日も……) (随分と、浮かない顔をしているね。 僕の愛しいひと) 原因を尋ねるべきかと少し迷ったものの、ハワードは口にはしなかった。 少女は──アーシェリカは強い女性だから、無闇と声をかけるべきではない。ハワードはいつも、そう心がけている。 そういえば、聞いたかい。英国でも道路法の再整備が計画されていて、うまくすれば排気量規制が始まるそうだよ。 うん……。 とはいえ、議員たちの多くは機関推進派だ。規制が女王陛下のご意向とはいえ、ね。 ……うん……。 貴族院の権勢は未だ健在だ。下院も、身を削ってまで、テムズ浄化の市民運動に迎合するかどうか。 ラツダイトや……いや、まさか、革命とは言わないまでも、市民には動きが必要だよ。自由と権利は隣国だけのお題目じゃない。 ……うん。 (重症のようだね) ハワードは内心で肩を竦める。新大陸国家からの留学生である彼にとって、英国は他国だが、まるきりの異境でもない。 何より、愛しい婚約者のいる国だ。第2の故郷とする覚悟は半年前に済ませた。 だから、普段はこうして他人事のように国政を語ることはない。本来は自分を含めた一問題として語る。 わざと、アーシェが反応しそうな言葉を選んだつもりだったのだが── (もう10日になる。 そろそろ、僕にも心配させて欲しいな) アーシェリカは強い女性だ。小さく細い体に大きな勇気を秘めていて、どんな難題にも決して揺らぐことがない。 耐え難い情熱に突き動かされ、ハワードが婚約を申し込んだのもそのためだ。彼女の快活さと強さと賢さに、惹かれた。 しかし── (流石に、放ってはおけないな) 何か心配事があるみたいだね、ハニー。碩学院の友達のことかい。 ……うん。うん。 そうなんだ……。ちょっとね、ううん、すごくね。心配。 シャーロット・ブロンテ嬢? シャーロット嬢の昏睡の話は聞いている。原因の掴めない意識不明の状態、未だ目覚めることのない眠り姫。 ひどく落ち込んだ様子で、10日前にぽつぽつとアーシェが語っていた。 うん、シャーリィのこともそう……。それでね、それで……。 ……メアリのことも、なんだ。すごく心配。 元気がないのかい。無理もない── ううん。あのね、メアリ……。様子が変なの。おかしいと、思う。 おかしい? ああいう風に、眠っちゃう前の日ね。シャーリィの様子が少しおかしかったの。それと、すごく、よく似てる……。 ……なるほど。 心配の内容はつまり、メアリ嬢もまた、シャーロット嬢と同じく意識不明に陥ってしまうのではないか、と。 意識不明の原因はわかっていない故に、アーシェの不安はただの“不安”だ。明確な理由はないのだろう。 けれど、それが故に心配をする。まさかまた、と── シャーリィがああなってから、1週間かな。メアリってば、チャペック先生のところへ通うようになったの。 一昨日も。昨日も、連続で。大丈夫かな……。 チャペック教授の話も既に聞いている。シャーロット嬢の様子が変わったのは、かの教授との噂が聞こえてから、なのだと。 因果関係はわからない。ヤードが動いているという話も聞かない。 けれど、その不安はわかる。かたちのない噂と連動した友人の変調と、原因不明の昏睡状態。自然と、結びつく。 いや、結びつけてしまう、が正しいか。理屈ではないのだろう。 これも、院の噂なんだけど……。チャペック先生、怪しい実験とか薬品とか儀式とかに手を出してるんじゃないかって。 黒魔術か。オカルトはブームではあるけど、しかし、碩学院の教授が関与するとは思い難いよ。 欧州では密かに神秘主義が流行している。特に中流層で人気が高く、夜な夜な、降霊会が開かれているという。 しかしあくまでお遊びの範疇のはずだ。現在は既に20世紀、最先端の機関科学の時代なのだから。 ……笑っちゃうよね。でも、もしかしたら、って、思っちゃう。 魔術や錬金術なんて信じないよ、でもね、でも、ちょっとだけ……。 ……ほら。あの噂。 アーシェの言葉が“何”を指しているのか、ハワードにはすぐに理解できた。 噂。それはロンドンの闇についての噂。暗がりで人々を襲う、異形の── ロンドンの夜の《怪異》だね。わかるよ。でもあれは魔術の類ではなくて、怪物が人を襲うって話だよ。ハニー。 ──それに、紛うことなき都市伝説だ。 うん……。そうだよ、ね……ただの、うん。 線の細い、ひとりの男が── 男が、古書店の暗がりの中に立っている。男は、縦横に本が詰め込まれた本棚から一冊の本を抜き出す。 男の名はアーサーという。しかし、彼は最早、己の名を覚えていない。 彼の世界は本の中にのみあった。故に、あらゆる幻想が彼には世界であり、故に、あらゆる現実は彼には意味がない。 手に取った本を開く。黒い装丁の、辞典の如き厚い本だった。 それは忘れられた魔術書であり、過去に忘れられた国の記録でもあった。 その本には名前がない。いや、正確な名前を彼は知らないのだ。 去りしはずの国から、ひとつめのものが来たるとき。 王は、決して、それを許すことはない。残酷に。無慈悲に。断罪する。 彼は本を読み上げる。暗がりの、何もない空間に向かって。 そう、恐ろしいことだね。彼は狭量というわけではないけれど。 だが、彼は王だからね。誰も彼もが去った国であったとしても。 見えない何かへと彼は囁く。彼にだけ見える、羽持つ妖精に向かって。 彼は決して人間を認識しない。彼の目は、空想と幻想だけを視るから。 このロンドンで未だ燻り続ける《怪異》。1匹目は、まだ── 言葉の途中、古書店の軒先を、新大陸製のガーニーが機関音を立てながら通り過ぎていく時も。 彼はガーニーを見ることなく── ただ、かたちのない妖精を見つめ続ける。 もしも、奇妙を感じた時。もしも、不可解な謎が我が身を襲った時── ごく一部の人間だけがその恩恵に預かれる。それは、機関科学の時代に相応しい恩恵で、知性と理性によって行われる。 それは、ひとりの男によってもたらされる。パイプを片手にした男だ。知識の深淵ですべてを見通すという男だ。 英国はおろか西欧諸国全土、果ては異境カダスの北央帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。 欧州全土の事件を解き明かすという、彼。ディテクティブの王だと自ら称する、彼。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、彼。 北央帝国から《知り得るもの》の大称号を賜った唯一の彼。 ──シャーロック・ホームズ。──ベーカー街221Bの諮問探偵。 ……しかし、話に聞く通り。随分とまた紳士らしからぬ部屋のようだ。 きたないねー。 端的に言えば、確かにそうだ。汚い。きみは物事を正確に表現するね、ハニー。 だって、すごく汚いよ。男のひとの部屋ってみんなこうなの? 僕の部屋はもう少し整頓されているよ。だ、大丈夫。これほどじゃない。 ……本当‐? 本当だとも。 しかし案内されたは良いが、留守かな。 下宿の大家だという壮年の男性は、無言でふたりをこの部屋へと招き入れた。通りを見下ろす窓のついた2階の部屋だ。 男性はそのまま立ち去ってしまって、ふたりは部屋に取り残された。部屋のあるじがいるものと思ったが── 待てども誰の声もなく気配もしない。どうやら、留守であるらしい。なんとも、不用心であるものだ。 と── あー、いたいた。ほんとにいた。あんたがミスター・フィリップス? ミスター・フィリップス? 扉からひょっこり顔を出したのは、幼い男女。まだ子供だ。格好から鑑みて街路の浮浪少年少女だろう。 ハワードは身構えなかった。子供らからは強盗特有の殺気立った気配も、言葉に含まれる威嚇の雰囲気も、感じない。 それに、ハワードも新大陸の男性だ。護身用のコルト社製拳銃は常に上着の下に携えている。 いかにも僕はハワード・フィリップスだ。きみたち、ここの縁の子かい? あ。きみたち、ケインズとアンリ?なんできみたちがいるの? へ? あれ、アーシェ姉ちゃん?なんであんたがいるの? いるの? おや、おや。きみたちは顔見知りかい。驚いたな。こんな奇遇もあるか。 えっとね。メアリの友達っていうか……友達? うん。友達だぜー。今日はメアリは一緒じゃないんだ? だぜー。 ? えっと、たまに追いかけっこ? みたいな?遊んでるの見たことあるから。 ……メアリ嬢が? 少し想像してみるが、首を傾げてしまう。ハワードの知るメアリは大人しく、静かな印象だ。浮浪児と遊ぶとは。 流石に想像がつかず、ううん、と我知らず唸ってしまう。 ま、メアリはガキだからなー。アーシェ姉やシャーリィ姉と違ってさー。 違ってさー。 …………。 ともかく、顔見知りなのはわかったよ。それで、きみたちの用件は何かな?この部屋のあるじとは知り合いかい? ああ、うん。それそれ。あんた、ハワード・フィリップスだろ? 少年曰く── 部屋のあるじである名探偵は貴族のエルギン卿から電報の速達を受け、ハワードの来訪を事前に知った、ものの。 既に遠方へ出向く依頼を受けていたため、この部屋を離れるほかなかったという。 でさ。いっつも通り、旦那は俺とアンリに伝言を頼んだってわけ。 なるほど。では、彼は暫く留守なんだね。 そゆこと。たぶん1ヶ月は戻れないんだってさ。 そゆこと。 そっか……。 アーシェの溜息が、ハワードの胸を刺す。エルギン卿という数少ない貴族のコネを使い潰したことよりも、遙かに。 愛しい彼女の悲しそうな声は、つらい。故に、かの名探偵殿に相談を頼むべくコネを使い潰してここまで訪れたのだが── 名探偵は、名探偵であるがゆえに多忙か。さて、どうするかな。 ううん。もう、いいよ、ハワード。無理させてごめんね……。 無理でも何でもないさ、ハニー。きみのためなら、僕は何も惜しくないよ。 ……ごめんね。 そっと右手の指先を掴むアーシェの手を、大きな左手で覆う。大丈夫だよ、と言葉にせず。 さて。いきなりの奥の手が使えないなら、いつもの手を使うとしようか。 いつもの? その手の噂や醜聞にひどく強い悪友がね、ひとり、いるんだ。 ──シティエリア。──ロンドンにおける商業金融の中心地区。 高層建築ビルディングが建ち並ぶ摩天楼は、まさに蒸気機関文明の象徴だ。第1ロンドン塔を中心とした、都市区。 昨年に移転したTIMES本社もここに。世界各地、カダス地方にまで支社を持つ巨大新聞社である。 表通りにぽつりぽつりと立ち並ぶ紳士向けパブのひとつ。そこからは、本社の偉容がよく見える。 ベーカー街での出来事から数時間後。ハワードの待ち人は、ようやくそこに姿を見せた。 何かと思えば、お前さんか。呼出機の使用は控えてくれると嬉しいね。 これはこれは我が悪友、ザック殿。忙しいところ悪いね。 忙しいとわかってるなら呼ぶなって。あんたと違って忙しいんだ。 ああ、これはなんとも嘆かわしい。先日の何だったか……。そう、クラブ会費立て替えの件は……。 わかったわかった。悪かった、俺の負けだよ。 大柄な男だった。ハワードとは対照的にすこぶる体格が良い。 学生時代は花形のフットボール選手で、病院送りにした対戦相手なら数知れず。今でも、喧嘩早い記者として鳴らしている。 そう。記者。彼は、天下のTIMES本社の記者なのだ。風貌からすればタブロイドの記者崩れだが。 ──ザック・マーレイ。──留学中のハワードの悪友のひとり。 それで? 無遠慮に、量産の紙巻き煙草に火を点ける。ロンドン市民に煙中毒者は珍しくないが、彼はその中でも特別だ。幾らでも、吸う。 新大陸人のハワードよりも、彼のほうがよほど新大陸人らしく見える。喧嘩、煙草、酒。銃も揃えば西部の男だ。 (これで生粋のロンドンっ子だというから、 不思議なものだ……) 大体の見当は付くがな。お前がわざわざ顔を出すってことは、な。 彼女は来たかい。 来たぜ。メアリだろ。幽霊みたいな顔してさ。 ああ。彼女だ。アーシェがひどく心配していてね。 ザックとメアリ嬢が古い知己だという話は、アーシェから聞いた訳ではない。以前、ザックが話してくれたのだ。 碩学院に通う娘と婚約したという話をして、俺の知り合いにもそういや院生がいた、とメアリ嬢についての話を聞いた。 その時は、ただ、偶然に驚いただけで、多くを聞くことはなかったが── そういや、メアリの奴はお前の彼女の友達だったんだっけかな。どうだ、その後、その娘とは順調か? きみの想像にお任せする他ないな。それで、彼女は何と? 昨日と、一昨日にも来たぜ。わざわざ本社の編集部まで白い顔出して、チャペックの素性を教えろの一点張りだ。 ヨゼフ・チャペック博士?社会機関学の? ……ああ、そうだ。 一瞬の間をハワードは聞き逃さなかった。2年の付き合いの賜物だ。或いは、人間観察術を学び続けたお陰か。 ザックは何かを言い淀んだ。何かを付け加えようとした。と言うことは、自分の言葉は足りないのだ。 で、まあ、俺は知らんと追い返した。それだけだぜ。他は何もない。 他に何があるって? あー……。 もう一度訊こうか? アメリカ人ってのは、全員、お前みたいに底意地の悪い喋り方をするのか?前々から、気になってたんだが。 良い酒も悪い酒も酌み交わした友人の、たっての頼みを無視する相手には、ね。きみはどうだい。 お前のためだ。あいつの話を聞いたって得はない。 それは僕が判断しよう。頼むよ、ザック。 確かに、意地が悪い言葉だと自分でも思う。ザックは情に厚く信頼できる好漢で、無闇と、話をはぐらかす男ではない。 彼が言わないということは、確かに、ハワード自身に都合の悪い話なのだろう。 (これは、そこまでの話なのか?) (アーシェの不安を払拭できるならと、 そう思っていたけれど──) まさかとは思う。まさか、黒魔術だの何だのという噂話が真実で、少女たちを魔術師が襲うなどと。 あり得るはずがない。王立組織である碩学院に招かれた碩学が、生徒を害することなど、あるはずがない。 ……組織絡みなんだよ。チャペックって奴はヤバイんだ。 ラツダイト、それとも革命派?新大陸のギャングかい? 秘密結社だ。宮殿の貴族連中の冗談半分の奴じゃない。正真正銘の《結社》絡みだよ。 《西インド会社》か……。 それならば合点がいく。同時に、ハワードの内心を悪寒が渦巻く。 表情が、自然と歪む。嫌な寒気が背筋を少しだけ揺らす。 個人企業とはいえカダス貿易に携わる身で、その名を知らない者はいない。流通と貿易の暗部を牛耳る犯罪組織、だ。 噂によればカダス北央帝国と内通し、違法機関機械や薬物の闇取引を一手に行う恐るべき組織、欧州暗部の実質的な支配者。 複数の犯罪組織が統合されたものとも、元は碩学の集まりであったともさまざまな噂は絶えず、実態は未だ不明。 一般市民には未だ浸透していないが、いずれかの名探偵との激突は必至であると、組織の活動を知る一部の人々は考えている。 ハワードもまた、そう考えるひとりだ。職業柄、ザックもそうだろう。 碩学院の客員教授が、かい。 あくまで噂だ。奴が《結社》と繋がりがあるってな。 組織は碩学の多くを所属させ、何かを研究しているという噂は確かにある。しかし王立の碩学院の人間を誘うなど── あり得る話ではない。ない、が、真実味をやや帯びるのは確かだ。 ……それで、メアリ嬢には何と? 何も言わない、つもりだったんだがな。俺もうっかりしてた。 言ったのか!? まさか。お綺麗な女学生さまにやくざの汚い話なんざしてやってもどうなるよ。ただ、まあ、その── 気まずそうに煙を吐き出し、苛々しげに煙草を鉄製灰皿に押しつけるとザックは「失敗した」と、小さく、呟いた。 視線は、鋭くハワードを睨んで。悔しげに。 ……あいつ、もう知っていやがった。教授と《結社》が繋がってるって噂をな。俺に訊いてきたのは“それが真実か”さ。 なるほど。 メアリ嬢は、ハワードよりもザックとの付き合いが遙かに古いのだと聞いている。であれば、恐らく。 ザックの表情は恐らく、読まれたのだろう。鉄面皮に見える彼の表情を読み取ることは、ハワードにも困難だというのに。 ……で、だ。 流石に気になったんで俺も調べた。ヨゼフ・チャペックの経歴だが、奇妙だ。 普通、優秀な碩学ってのは国の宝だ。滅多なことで追放なんざされないもんだが、奴の場合はそうじゃなかった。 国外追放、か。 そうだ。国家勲章を2度も受けた碩学が、突然の国外追放に処されたのが1年前。で、我が英国に招聘されたのが1年前。 ……珍しい、な。新聞沙汰になってもいい話だ。 奴の国外追放ってのは機密中の機密でね。まっとうな公文書には記録がない。支社の連中に確認させたから間違いない。 で、ここからは噂だ。なんでも奴と《結社》との関係が露呈して、お国の政府は奴を切るしかなかった、とさ。 本当なら、嫌な話だな。危険な話だ。 ハワードの母国にもギャングと呼ばれる犯罪組織は数多く存在する。件の《結社》は、それらの集合体だ。 欧州全土の犯罪組織が結合したものともまことしやかに囁かれている。殺人を含めたあらゆる犯罪の巣窟だ、と。 ──ひとつ言えるのは。──関わってはいけない、ということだ。 ガセかも知れないが、貴族筋と縁のある空軍だかの士官さまが嗅ぎ回ってるって話も聞こえてきやがる。 いいか、奴には関わるな。つついて何が出てくるかわかりゃしない。 命が惜しければ関わるな。 お前の婚約者、一足飛びに未亡人になるぜ。 ……いいな。忠告したぞ。 碩学院の午後10時── 殆どの学院生たちが下校した後のこと。各教授の独自研究会に属する者たちが研究棟教授室で勉学を続ける、夜の時間。 研究会への所属とは、すなわち、事実上の碩学としての教授認可に等しい。 研究の協力者として相応であると認められた頭脳と能力を備える若者だけが、各碩学教授の主催する研究会の一員となる。 その人数は、決して、多くはない。学院生総数の一割にも満たないだろう。 本来、学問を志す者が“碩学”と認められ、権力の庇護を受けるには長い時間が掛かり、幾つもの成果が求められる。 真に一流であれば成果を先に出すだろう。けれど、力ある老碩学から認められれば、やはりそれは“碩学”なのだ。 故に、研究会への所属とは、多くの学院生にとって喜ぶべきことだ。 そう、多くの学院生にとっては。 けれど。 けれど。 ──けれど。──けれど。あたしは、そうじゃない。 あ、ああ、ようこそ、メアリ・クラリッサ。チャペック研究会へようこそ。 かつては、私を含め、院の内外から7名が在籍していたこともあったのだが。今はもう集まりも悪くなってしまってね。 きみのお陰で、これで、5名となった。嬉しいことだ。ありがとう。 ……チャペック教授。あたしは、研究会には所属していません。 あ、ああ、そうか、そうだったか。まだか。ああ、うん。ありがとう。 では4名か。4名、4名、いや……。もしかすると、3名、か……。 ──せわしなく動くチャペック教授の眼球。──それは、あたしを見ていない。 彼の様子は明らかに変わってしまっていた。変わらないのは大事そうに抱えた鞄だけで、青白い顔は、憔悴して見える。 シャーリィが倒れる前とは、様子が、違う。視線はうわつき、言葉には吃音が混ざる。 時折、完全にメアリから視線を外し、何かを呟くこともある。 彼は、今や変わってしまった。どこか気取っていた言葉遣いも既にない。 この4日間、毎日、メアリはこの教授の元を訪れていた。そして、同じ話を何度も聞いていた。 質問するために来ているはずだ、本当は。けれど、何を話せばいいのだろう。この数日、いつもそのことを考えている。 (あなたが犯人ですね、なんて……) そもそも、ホームズ氏から聞いた言葉は、あまりに現実離れし過ぎているのだから。そのまま口にして良いものか。 でも、もしも、あの話が現実であるのなら、この男性は関与しているのだ。 シャーリィのことに。彼女が、今も目覚めない原因について。 (……何を、言えばいいの。 あたし、何をしにここに来てるの) 自問しても答えはない。いつも「どうしよう」と問いかけていたシャーリィは、目覚めていないのだから。 この4日というもの、毎晩、メアリは教授の他には誰もいないこの研究室で彼の話を聞いている。 勝手に自説に関わる話を始める教授が、いつかシャーリィのことを話し出すかも知れない── 消極的に、そう思いながら。何も言い出せない自分の臆病を恨みながら。 ──様子の変わってしまった教授の声を。──言葉を、聞いているだけ。 わ、私には、弟がいてね。戯曲や小説など下らないものを書き散らし、学問の何たるかも理解しない、愚かな弟だ。 しかし神は弟に天与の才を与えた。ロボットという言葉を、知っているかい。 いいえ、寡聞にして……。 ──この話も、もう、4度目だから。──何を話すかは知っている。 ──以前に読んだことがある。──カレル・チャペックの戯曲の言葉。 姓が同じだとは思っていたけれど、まさか、兄弟であるとは知る由もなかった。 ロボット。Robot。人間の代わりを成す、人造のもの。 ロボット。そ、そう、美しい響きだろう。 弟の作品に登場する単語だが、そもそも、その名を作ったのがこの私だ。人間機械論を下敷きにしたロボット理論だ。 フランスのドクター・メトリーが発表した人間機械論は知っているね。1748年だ。あれこそがすべての始まりなのだ。 神は天におわす。しかし、ここにはいない。故に、徹底した唯物論が必要なのだ。精神も肉体も地上に於いては機械に過ぎん。 人間機械論こそ私の学問の源。神に代わり、私はそれを信奉しているのだ。 ロボット。人間のかわりに労働を行うもの。きみは奴隷制度を思うかも知れないが── 教授の言葉は続く。メアリは、俯いて、今度こそと考える。 今度こそ。今夜こそ。シャーリィについて何かを訊こう。 昨日のザックの表情を今も覚えている。あれは、驚いた時の顔だった。鉄面皮を気取っていたってすぐにわかる。 幼い頃の記憶とそっくり同じで、ザックのポーカーフェイスはすぐにわかる。 だから── ──だから。──ホームズ氏は間違っていない、と思う。 ──この教授は、何かの関わりがある。──シャーリィの昏睡と。 まだ教授は何かを話し続けているけれど、メアリはそれを聞き流し、呼吸のために言葉が途切れるのを待った。 数秒、内心でかぞえて。教授が言葉を切った時を見計らう── ……シャーリィは。 シャーロット・ブロンテは、先生の研究会に参加していると聞きました。 あ、ああ。確かに参加しているよ。彼女こそが現在4名の研究会会員のひとり。マリアベルに次ぐ優秀さを持つ娘だ。 実に4日目にして初めての、別の言葉。メアリは内心で「やった」と呟く。 シャーリィが今も昏睡状態にあるのは、研究会と関わりがあるのですか。 あ── あ、ああ、そうか。きみには見えないのだったか。私は、いかんな。勘違いしていたようだ。 無理もない。無理もない。きみの目は、僕とは違う。マリアベルとも、シャーロット君とも、違うものを見ている。 同じものを、見ようとしない。きみにはわかるまい。 あたしの……目……。 ──わからない。目。あたしの目?──シャーリィと、教授と。 ──マリアベルって、誰のことなの。──このひとは何を言ってるの。 メアリは気付く。今、この瞬間だけは、チャペック教授の瞳はこちらを向いていた。 少なくとも彼女には同じものが見えた。私の研究を真に理解できたのは、そう、シャーロット君だけかも知れない。 故に、シャーロット君は我らの同志なのだ。今の我が会は彼女なしには存在し得ない。 同……志……? シャーリィと、あなたが……。ですか……? そ、それよりも人間機械論の話をしよう。そもそもデカルトの動物機械論から始まるこれは、壮大にして偉大な学説の歴史だ── また、ここ数日と同じ話に戻ってしまう。教授の眼球は再びあちこちへ動き始めて、メアリを見ない。 メアリは、もう、言葉を続けられなかった。金槌で殴られたような衝撃で。 ──同志。仲間。──この教授と、シャーリィが? ──嘘。嘘、うそよ、だって。そんなの。──あたし、何も知らない。 メトリーの人間機械論も、ロボット理論も、シャーリィの口から聞いたことはない。それなのに。それなのに。 シャーリィは、ここの研究会にいたのだ。メアリの知らない何かのために。 ──嘘よ。──信じない。そんなこと、絶対に。 同じ言葉を繰り返す教授を残して── 研究棟から出た頃には11時を過ぎていた。こんなに遅くまで碩学院に残っていたのは、あの時以来。 シャーリィを待っていたあの晩、以来。ぼんやりと思い出しながら、メアリは噴水前へと差し掛かる。 気付かなかった。誰かがそこに佇んでいたこと。 やや俯いて歩いていたから、初めは、靴しか視界に入っていなかった。 丁寧に磨かれた男物の革靴。きっと、ヨークシャーの高級な天然革。工場製量販品ではなく職人製の高級品。 誰だろう、とも思わずに顔を上げる。男性の知り合いは多くない── メアリ・クラリッサ・クリスティ?これはまた、珍しい時間に珍しい顔だ。 きみもとうとう研究会入りとはね。おめでとう、メアリ嬢。 え、と……。 (誰だっけ。ううん、知ってる。 このひと、確か、そう……男子の……) 2年目の学院生で研究会入りできたのは、院が始まってまだ、3、4名も── もしもし?メアリ嬢、僕の声は聞こえているかな? あ、え……あっ……ご、ごめんなさい。あたしは別に、研究会じゃありません。ええと── ──名前がすぐに出てきてくれない。──ドイツからの留学生。──シャーリィが何かを言っていたひと。 ──ハインツ。ハインツ・ヘーガー。──あたしよりも1年上の先輩。 オックスフォードに学籍を残したままで王立碩学院で幾つもの研究会を掛け持つ、秀才中の秀才。もしくは、天才だ。 科は既に関係のない身分だけれど、一応の分類は史学科の院生、つまりは先輩。 数回、メアリは挨拶を交わしたことがある。それだけだ。親しいことはない。 女子の学院生の中でも夢見がちな子たちは彼を指して“貴公子”と呼ぶというけれど、メアリが意識したことはなかった。 科の先輩。ただ、それだけ。他には、何も。 ごめんなさい、ハインツさん。少し、今、考え事をしていたんです。 おや……。 随分と、珍しいね。普段はあまり男子学生と話すこともない、そのつもりもない素振りの、メアリ嬢が。 わざわざ、立ち止まってくれるだなんて。僕の声がとうとうきみに届いたのかな。それとも、気まぐれかな? ……ご挨拶いただいたこと、そんなに、多くなかったと思います。 これは手厳しい。では、以後はなるべく声をかけよう。また、こうして話してくれると嬉しい。 はい。また。 ……随分と、浮かない顔だね? そう、でしょうか。 ミス・シャーロットのことは聞いたよ。きみの暗い表情は、そのせいかな。 ………。 そうです、と答えるのに躊躇いがあった。先刻の教授の言葉を思い出して、メアリは内心で首を振っていた。 今、自分は暗い表情をしているのだろうか。あの日のシャーリィのように── ……ハインツ、さん。 何かな。 チャペック先生の噂、ご存じですか。彼の研究会のこと……。 いいや、何も。研究会も、メンバーは非公開だというし。 他には、そうだな。ああ、あまり女子の人気がないことくらいかな。 ……そう、ですか。 それより、ミス・メアリ・クラリッサ。もう遅い。途中まで送って行こう。 ありがとうございます。でも、大丈夫です。地下鉄で……。 いけないな。それなら大通りまで出る必要があるし、ロンドンの夜道は、安全とは言い難い。 鉄枷ジャックの逸話もある。四つ角にはかの妖精が人を襲う、とね。 (え……) ──鉄枷ジャック。──その言葉、聞き覚えが、どこかで。 パラケルススの四大に当てはめれば、火の妖物だ。怒りは炎に例えられるだろう? 偉大なりしパラケルスス、ホーエンハイム!錬金術の成功者のひとりにして、今もなお伝説の数々を残せし彼の分類さ。 ……え、と……。スイス医学の、パラケルスス……? おや、オカルトにはご興味がないかな?大概の女子は好きなものだとばかり。 ヘルメス神の逸話とエメラルド板の話は?ロマン寄りの話がお好みかな。 ごめんなさい。あまり、詳しくないんです。 いや、いいんだ。賢明なことだよ。錬金術も魔術も結局のところ、ぺてんさ。 そこに僕らの学ぶべきことなど何もない。せいぜいが、お喋りのための種のひとつさ。きみには── 彼が言葉に間を置いた理由を、メアリが不思議に思うことはなかった。 鉄枷ジャックという名をどこで聞いたか、そのことだけを考えていたから。彼の言葉は、あまり、聞いていなかった。 だから気付かない。その時、その瞬間── きみにとっては、それが正しいかはわからないけれど。 ──彼の瞳が、暗く、淀んだことにも。──あたしは気付かない。 結局のところ── ハインツの申し出を断り切れないままに、メアリは、彼の呼び出した馬車に揺られ、帰路についてしまった。 下宿の玄関前まで送ろうという彼の言葉をなんとか断って、徒歩で数分もかからない距離のテムズ沿道で馬車を降りる。 社交界の淑女なら送って貰うのだろうけど。ミセス・ハドスンの目に触れて、母にまで連絡が行くのだけは避けたかった。 心配を掛けたくない。シャーリィの件も、まだ伝えていないのに。 「夜は危ないよ。 それに、淑女をお送りするのは務めだ」 紳士を気取った言葉をさらりと述べる彼へ、何と言って断ったのか覚えていない。 ともかくメアリは馬車を降りた。下宿がすぐに見える距離だ、心配はない。 機関街灯の明かりがほのかに照らす、濁ったテムズの水面を、見つめながら歩く。 ほんの少しの距離。ほんの少しの徒歩。地下鉄を使う時にはいつも歩いている道だ。 人のいないテムズ沿道を、ひとり、メアリは歩いていく。 ほら。もう、すぐそこに見えている。下宿の玄関先が遠目に。 と── 電信通信機のベルが夜の空気を震わせる。通話スイッチを押すのがいつもより遅かったのは、ぼうっとしていたせい。 音もなく揺れる水面の暗さを瞳に映して、また、シャーリィのことを考えていたから。 危なげな手つきで電信通信機を取り出して、ようやく、通話スイッチを押し込む。 ……はい、もしもし。 『メアリ? ああ、よかった、メアリ!』 電信通信越し特有のノイズがかった声。名前を告げられなくてもわかる。 声はアーシェのものだった。よかった、と小さく二度囁くのが聞こえる。 アーシェ、どうしたの。こんなに夜遅くまで起きていて、だめよ。明日、ちゃんと起きられなくなる……。 『うぐ……。や、やめてよぅ。 シャーリィみたいなこと言わないでっ』 『それより、ね、メアリ。 さっき、ハワードから話を聞いたの』 ……ん、うん。そう?ミスター・ハワードは、お元気? ──駄目、駄目。どうしたの、メアリ。──きちんと言葉が聞き取れない。──きちんと受け答えができない。 ──ハインツさんと話した時も、ずっと。──しっかりして。あたし。 自覚がある。思考がまとまってくれない。曖昧なチャペック教授の言葉が、脳裏から離れずに残ったままで。 言葉を聞いた時に受けた衝撃が、まだある。アーシェにはせめて、きちんとした受け答えをしようと思っているのに。 言葉がうまく紡げない。思考が回らない。 『聞いてってば! メアリ、もうあの先生に会ったら駄目!』 (え……?) どきりとした。見透かされた、と思った。自然と立ち止まってしまう。 上の空で話していたことがばれてしまった。アーシェに。なぜ。どうして? まさにヨゼフ・チャペック教授の言葉でこんなにも打ちのめされて、いつもは話すことさえない男子に送られて。 電信に出ても、ちゃんと話せずに。何もうまくいかず、何もできずにいる。 ──シャーリィの真似事ひとつできずに。──アーシェにまで、心配をかけて。 え、と……。何の話、してるのかしら。アーシェ。 『だめよ、しらばっくれても。 アーシェだって、知ってるんだからね』 『昨日も一昨日も、メアリってば、 帰ったフリしてあの先生のとこ行ってた』 ……あのね、アーシェ、あたしは。 『聞いてってばっ。 あのね、メアリが怪しむの、わかるよ。 アーシェだって怪しいって思ってるよ』 『でもね、ハワードが言ったの。 あの先生は、すごく、その、危ないって』 『悪い、犯罪の……シンジケート……? そういうのと、繋がってるかも、って、 ハワードはそう言うの』 『ハワードはね、真剣な顔だった。 嘘はついてないと思う。だから、ね』 ──アーシェ。可愛いアーシェリカ。──あなたの真剣な声がわかる。 ──誰よりも深く心配してくれている声。──ありがとう。ごめんね。 ──どうして。どうして。──なぜか、声は、あたしの胸の奥を刺す。 この10日間、意識的に、アーシェとは一定の距離を置いてきた。 理由はある。あるのだ。あの、悪夢とも現実ともつかない10日前、あの、恐ろしい黒い街と怪物たちとのこと。 もしも、あれが夢でないのなら、アーシェを巻き込むことなんてできない。 あれが現実であるという理由は何もない。あんなに走った記憶があるのに、靴裏が擦り切れてもいなかった。でも。 でも。万にひとつでも── ──ごめんなさい。ごめんね。──あたしたち、友達、なのにね。でも。 だめよ、アーシェ。先生のことをそんな風に悪く言っては。 それに、怪しんでなんていないわ。あたしがチャペック先生とお話したのは社会機関学についてのことだけ。 『え、え……そう……なの?』 『メアリ、嘘ついてない?』 ──アーシェ。アーシェリカ。可愛い子。──あなたの勘はいつも正しいの。 別に、シャーリィのことは関係ないの。ううん、嘘ね。きっかけだったのは確か。 シャーリィはね、先生のところの研究会に仮所属していたんですって。 『え』 『え、2年生で研究会入り?』 うん。そう。 『そ……そ、それってすごいよね!?』 そう。すごいでしょう。あたしも、驚いちゃって、本当に── ──嘘。あたしはまた嘘をつく。──研究会のことを聞いたのは10日前。 ──あの晩のすぐ前のこと。──どうでもいいと、聞き流していたけど。 『シャーリィすごーい……。 目を覚ましたらお祝いしなきゃだよ!』 そうね。うん。ご馳走のお返しに、ふたりで何か作ろう? そう言って、懸命に、作り笑いをする。誰もここにはいないのに。 でも、そうしなければ涙が溢れてしまう。あの黒い街で感じた足の痛みより、今の、この胸のほうがずっと痛い。 胸の痛みが── 自然と、メアリの視線をそっと逸らせる。夜のテムズの黒い河へと── ──そして。──あたしは“それ”を視界に捉えた。 ──胸の痛みをアーシェに隠したまま。──視線がぴたりと“それ”へ向けられる。 (……え……?) テムズ河へと向けられた視線が、捉える。無音で湧き上がる霧と、淀んだ排煙の向こう側。 それは── ──それは、夜闇に佇む小さな人影だった。──きっと子供。 こんな夜遅くに、幼子が、たったひとりで。佇んでいるのか歩いているのかわからない。少し、遠い。 朧気な印象があった。立ちこめる霧と排煙の混合物に紛れて。 それは幻のようでもあったけれど、電信通信越しに聞こえるアーシェの声は、今が現実であることを強かに告げている。 でも。でも、あり得ない。遠目に見てもあの子は浮浪児ではない。 風のままたなびく髪と服装がそう告げる。中流階級か、それ以上の家の子。 誰ひとりの供もつけずに、この時間、テムズの橋をひとりきりで歩く訳がない。 ──何かが、聞こえた気がした。──うっすらと。 ──そして、あたしは知る。──あの子が小さく囁いていることに。 「……鋼は、するどく、とがって……」 「……だれかの、血を、ながして……」 「……ひどく、おこって……」 「……炎を……」 囁く声は、よく、聞こえない。わかるのは電信越しのアーシェの声だけ。 メアリは我が目を疑いながら耳を澄ませ、今も続く幼子の声に耳を傾けようとする。駄目。駄目。聞こえない。 ──小さな子はあたしのほうを見ていた。──そうして、何かを囁いて。 ──表情は見えない。遠すぎて。──でも、なぜか。 何故だろう。メアリにはささやかな確信があった。 霧と排煙に紛れて幼子の姿がかき消える、その瞬間まで、メアリはずっと感じていた。 あの子は── ──あの子は。──なぜか、泣いているような気がした。 ──胸の奥の痛みを。──あの子も、きっと、感じていると。 暗い部屋だった。冷ややかに沈む空気が実に似つかわしい。 機関灯で天井へと伸び上がる人影はふたつ。すらりとした女のものがひとつ、やけに長身の男のものがひとつ。 人間のかたちをしたものは、あとひとつ。無機質な台に横たわるものがある。 それは女のかたちをしていた。まだ年若く麗しい娘だ。白い肌と、他の何もかもを暗がりに晒して。 冷たい台に横たわる、美しい顔をした娘。顔立ちはどこかシャーリィに似ていたが、決定的な相違点がある。 この娘は既に息絶えている。それが、相違点。 娘は死体だった。最早、閉ざされた瞼が開くことはない。 横たえた娘の死体の胸に突き立てた刃を、女は無造作に、けれど優美に抜き取って── 死体は語る。このフレーズ、流行すると思うのだけどね。 語るのは死体だけではありませんとも。ええ、確かに、死は多くを語るものですが。 肯定するか否定するか、はっきりしてよ。あんたはいっつもそればかり。 人間とはそういうものであると聞きます。自己矛盾こそが、人たる証。そうでありましょう、ドクター・ファネル? いい加減にして頂戴。せっかく最悪の死体があるっていうのに、これじゃ興ざめ。ホルマリン飲ますわよ。 これは、これは、失礼しました。それで──結果は? 吐き気がしそうよ。死体は臭くて嫌い。地上のあらゆるものの中で最も不要なもの、神のただひとつの失敗、悪魔の最高の仕事。 ああ……いえ、いえ。吾輩が尋ねているのはですね……。 検屍報告ね。わかっているわよ。 死体用の台と同じく無機質な机に腰掛け、女は書類の束を手に取る。 影と見紛う女だ。喪服にも似た黒い装束を身につけ、今や、暗がりの満ちる部屋と同化しかけている。 女は書類の幾つかを興味なさげに眺め、無造作に投げ捨てた。目当てのもの以外は塵屑と言わんばかりに。 よろしいのですか?その書類は、ヤードへの検屍報告書では? ヤード──スコットランド・ヤードの名を継いだ、ロンドン警視庁の一般的な略称である。 いいの、どうせ兼業検屍医よ。金払いは《結社》のほうが良いんだもの。 ははあ、そういうものですかな。なるほど実に興味深い。 で。この女の子の死体だけどね。まあ、大概は、あんたたちの予想の通り。 死後4ヶ月を過ぎても組織崩壊の形跡なし。検屍でつけた傷以外は、ま、綺麗なものよ。驚かせてくれるわ。 驚く様子を微塵たりとも見せることなく、女は肩を竦めてみせる。 で、死体が朽ちない原因は不明。なんだかいう“門”の影響は検出できず。 ここの顕微鏡で視られない程度の変化が起きてる可能性はあるけど、パリ大学のラジオ女並の設備が必要ね。 で、後は──最悪に糞ったれな甘ったるさのこの腐臭。 おや、おや。そうですか。これは貴女の香水であるのかとばかり。 腐乱の兆候もないのに、匂いがある。原因はこれもまた不明。 ひとつ言えるのは、確かに生き物の腐乱する匂いだってこと。 試薬に“反応しない”のだけれどね。あんたたちの分野かしら。どれだけ解剖しても発生源は見つからない。 なるほど……。 甘い香りのする少女の死体ですか。なるほど、なるほど、そしてこの美貌。嗚呼── なんと背徳的で美しい奇跡でしょう。これこそ、まさに── 殺すわよ。 はははははははは。はははは。 これは失礼いたしました。では、報告書は吾輩が受け取りましょう。報酬は、以前と同じ口座に振り込みます。 そう言うと、男は、女へと恭しく一礼した。横たわる娘の死体を間に挟んで。 ……最悪。 冗談が最悪なところは、彼と同じね。ほら吹き男。 お褒めに預かり光栄の至極。では、再びお目にかかるまで、暫し── それは── ──それは、夜闇に佇む小さな人影だった。──きっと子供。 こんな夜遅くに、子供が、たったひとりで。佇んでいるのか歩いているのかわからない。姿は、朧で。 そう、朧気な印象があった。立ちこめる霧と排煙の混合物に紛れて。 それは幻のようでもあったけれど、機関街灯からの明かりは幼子の影を作り、今が現実であることを強かに告げている。 しかし、あり得ない。遠目に見てもあの子は浮浪児ではないのだ。 風のままたなびく髪と服装がそう告げる。中流階級か、それ以上の家の子だろう。 誰ひとりの供もつけずに、この時間、テムズの橋をひとりきりで歩く訳がない。 ──けれど、幼子は確かにそこにいた。──霧と排煙の中で。 ──幼子の、口元が動く。──小さく、何かの言葉を囁いているのだ。 ──幼子の、瞳が揺れる。──都市を見つめる双眸から滴が落ちる。 溢れ落ちた涙はかたちとなる。囁き声と共に。 幼子の影が── かたちとなる── 歪み、ねじれて、軋む音を立てて。数え切れないほどの黒い首を振り上げ、数え切れないほどの紅い瞳を瞬かせて。 影は、黒い怪物となる。幼子の足下の影から、次々と、次々と。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 メアリが悪夢と呼んだあの晩に湧いた、黒い怪物が、幾つも、幾つも。 「……鋼は、するどく、とがって……」 「……だれかの、血を、ながして……」 「……ひどく、おこって……」 「……炎を……」 「……まとって……」 「……去りしはずの、国、から……」 「……ひとつめの、ものが……。 ……ここへ、来る……」 「……なにも、かもを……」 「……焼き尽くす、ため、だけに……」 ──幼子は、都市のさまを見つめている。──そうして、何かを囁いて。 ──岸からは遠すぎて、表情は見えない。──けれど。 けれど。その表情とその涙を、ただひとりの人影だけが見つめていた。 蠢く黒色の怪物に怯むこともなく、その群れを率いて囁く幼子にも怯えずに。ただ、沿道から橋の上をじっと見つめて。 さて。さて。 きみの焦がれる想いとやらは、果たしてどの程度のものを生み出すのかな。 実に興味深い実験だ。願わくば。 ……きみに、甘く芳しい死の香りを。 ──囁く声が今も聞こえている。 ──また、あたしは夢を見る。──暗い、明かりの薄いどこかの夢を。 あたしの知るロンドンとは違うロンドン。歪んだ街路、歪んだ街並み。 どこかでこれと似たものを見た気がする。いつだったか、どこだったか。 あたしは思い出せないまま、走っている。囁く声に追い立てられるように。 ──囁き声、ううん、違う。──これは、誰かの叫び声だって知ってる。 あたしは走る。叫び声をあげる誰かから逃げるために。 叫び声。叫び声。 ひとつの声であるはずなのに幾つも響く。 ──そして、あたしは誰かの手を握る。──差し伸べられた誰かの手。 それは、白くて綺麗な女性の手だった。それは、冷たくて、熱を奪う、氷の手。暗がりからすらりと伸びて。 あたしの頬に触れる。ひどく、冷たくて、あたしは怯えてしまう。 助けるために伸ばされた手かも知れない。でも。でも。 ──あたしはその手を握ることができない。──瞳を、見てしまったから。 暗がりの奥底から輝くひとつだけの瞳が、あたしを、見つめていたから。 だから、あたしは。怖くなって、その手からも逃げようと── ──がしゃり、と。 ──物堅い衝突音で目が覚めた。 飛び跳ねた水滴が頬に触れる。合金製のコップが洗面台の中に落ちていた。 (え……と……) 何を、していたんだっけ。たっぷり水を溜めた洗面台をメアリは見る。 数秒が過ぎてからようやく気付く。顔を、洗おうとしていたのだ。 結局、昨夜はろくに眠ることができずに、気付けば窓の外のロンドンは朝になって。メアリは、溜息を吐いて。 洗面台に水を溜めて、顔を洗おうとした。そこまでは何とか思い出す。 (それから……) そこからの記憶がない。うがい用の合金コップが水へ落ちるまで。 ややあってから、思い至る。昨夜の続き。嫌悪感をぎりぎり堪えながら教授の言葉を反芻して、考え事をしていた。 そして、思い出してしまった。明確に。黒い街。 (そうだ、それで……意識、飛んで……) (白昼夢を……。 見てたの、かな……) そっと右の目元を拭うと──ほんの僅かに、涙の雫が指の腹に乗った。 泣いていた。前触れなく。それは、白昼夢を見ていたことの証だ。 ……苦手、もうひとつできちゃった。噂だけでも大変なのに。 ね。シャーリィ。また、あなたに心配されちゃうわ。 洗面台の鏡の向こう側の自分に、小さく呟く。 返答はない。当然だ。ここには自分ひとり。何かを言ってくれる誰かはいないし、声を聞きたい相手はまだ眠っている。 ──不意に、あたしは、目元を押さえる。──洗いざらしのタオルで。 ──情けなくて涙が出そうだった。──あたし、何してるの。 夜中じゅう繰り返した自問が湧き上がる。一体、何をしてるの。この4日間、ずっと。 原因不明の昏睡とあのチャペック教授を結びつける証拠なんて何も見つからない。探偵の、真似事なんて── 自分は何もできていない。犯人探しの真似事に、毎日同じ話を聞いて。 と── 呼び鈴が鳴った。小さく、転がるような可愛らしい音色の鈴。 必要ないですとメアリが言うのを遮って、自立には必要だからとミセス・ハドスンが取り付け工事をしてしまった、古い呼び鈴。 慌てて、メアリはタオルで目元を拭う。大丈夫。泣いてなんかいない。 鏡で見て確認する。大丈夫。目が赤くなってもいない。 ──はい。おはようございます。 声色も大丈夫。表情を作って、メアリは扉を開ける。 おはよう、メアリ。良い朝ね。まさかお寝坊なんてことは、ないわね? おはようございます、ミセス・ハドスン。ええ、きちんと起きてます。 はい。よろしい。朝食ができますから、そろそろ降りてね。 はい。 それで、ええと、そう。あなた宛の速達電報ね、今さっき届いたの。朝食でばたばたする前に渡しておくわね。 ありがとうございます。いつも、すみません。 いいえ、いいのよ。郵便屋さんとは言え若い男性ですからね、可愛いメアリの部屋には近寄らせません。 ……はい……。 冗談ではなくて、本気で言っているのだ。ミセス・ハドスンはいつもそう。どんな時でも、概ね本気なのだ。 紡がれる言葉には嘘がない。だからこそ怖い時も、多々、あるけれど。 それと……。 メアリ、顔色が良くないわ。具合が悪いようならお医者さまを呼ぶ? いえ。何でもないんです。実は、課題で、夜更かししてしまって。 ──嘘を。また、あたしは言ってしまう。──作り笑顔まで浮かべて。 夜更かしにしては目に隈がないけど、と首を傾げるミセス・ハドスンをなんとか誤魔化して、扉を閉める。 部屋に残ったのは、嘘つきメアリと速達扱いの電報ふたつ。 ──ひとつは、伯父さんからの電報。──いつものようにあたしを心配する言葉。 ……ごめんなさい、伯父さん。 電報の最後には、いつもと同じ一言。何か問題があればすぐに連絡を寄越せ、と。 連絡したい。今すぐ助けてと縋り付きたい。でも、それだけはできない。伯父に迷惑はかけられない。 極力、伯父には頼らないようにしてきた。この2年間というものずっと。 昔、父がアフリカで行方不明になった時、コネクションを駆使して調査隊の派遣をジョージ伯父が押し通し── 結果として、調査隊は二次被害を被った。そして、隊を率いる立場にあった伯父は大きな怪我を負った。 だから、これ以上の迷惑はかけられない。既に十二分な恩を貰ったのだから。 ──母さまの口癖だった。──兄さんには、もう、頼れない、って。 ……うん。わかってます、母さま。 いつもの引き出しに伯父の電報をしまう。もうひとつの電報を、手に取る。 差出人の欄には何も書かれていなかった。薄い茶色をした封筒は、無地のまま。 差出人、不明……? 誰だろうか。もしかして、とメアリは思う。今まで一度だって心細さを意識したことはないけれど、今は、違う。 慰めの言葉が欲しかった。母からの。 自分の弱さと未熟さを思い知る。がんばれと言って欲しい想いが、どうしようもなくこの胸を苛んでしまう。 ──いつもなら、こんな風に思わないわ。──今まで一度だってなかった。 ──シャーリィがこうなる前には。──たったの一度だって。 まさか、ね。 多忙な母が頻繁に電報を送るはずがない。これはきっと、違う人から。 それでも期待してしまう自分がわかる。書いてある文面は、いつだって、同じ、母自身のことなのに。 ペーパーナイフを持つ手はなぜか震えた。少し汚い切り口を作りながらも開封して、文面を読み上げる。  『本日午後11時』  『シティエリア・クィーンズストリート』  『384番地前にて待つ』  『──122Bの男より』 差出人は不明なまま。122Bの男、とだけ最後に記されていた。 メアリは落胆しそうになる内心を振り払う。この簡素で飾り気のない言葉選びは、そう。 ──彼だ。 ミスター・ホームズ……。 彼のいた住所と同じ、122B。確信する。名探偵であるかのホームズ氏に違いない。 多忙のため手助けは無理だと言ったけれど、呼び出されたということは、何か── ──何かを、彼は、得たのかもしれない。──手がかりであるとか。証拠とか。 世界中で最も聡明な頭脳を持つという彼が動いてくれたのなら、シャーリィの昏睡もどうにかなるかも知れない。 降ってわいた幸運と、希望。メアリは胸躍る気持ちを感じかける。 けれど。 けれど。電報の内容を読み返して、ぴたりと止まる。 え……。 ……え……?シティエリア……384番地……。 ……嘘……。 嘘……でしょ……。そんな、こと……嘘よ……。 シティエリア384番地。足が震えた。我知らず、ぐらりと体が傾いていた。 ──ぐるぐると視界が回るような感覚。──気持ち悪い。 そう、間違いない。300台の番地だった。あの時に街路表記を見た訳ではないけれど、地図をメアリは覚えているから。 384番地が何を意味しているのか、口にしたくもない。口にしては、駄目。 体が更にぐらりと傾く。耐えきれずに、ベッドの上へ腰を落とした。スプリングが軽く軋んだ音を立てて、弾む。 ──右目を、押さえていた。──涙が。 ──涙がこぼれてしまいそうだと、感じて。──あたしは震えた。声が、掠れる。 ……嘘、うそ……。こんな、偶然……ある訳ない……。 ……偶然、なの……? ぞくりと背筋を駆け上がる悪寒に震える。誰かに縋って得ようとしたはずの希望が、湧き上がる“それ”に飲み込まれる。 ──神さま。神さま、お願い。──あたしはあそこへもう行きたくない。 ──あれは夢だったの、それとも本当なの。──わからない。──わからない。 この10日間、考えないようにしてきた。あの晩の多くのことを。 でも、それは違う。嘘だ。あれは現実でないという前提でいたのだ。あの時の恐怖を、信じたくなかったから。 嫌よ、嘘……。 ……嘘ね、嘘、もう、あんなの、嫌。二度と嫌。嫌……。 どうして、384番地なの……? ──ミスター・ホームズからの電報。──そこにあった番地は。 ──あの日。 ──あの晩。 ──あの時に。 ──シャーリィが、悲鳴を上げたあの場所。──そして。 ──暗がりと、霧と、排煙の中から。──怪物が姿を見せた場所。 あの日から── あの日から数えて11日目の朝。あの日から数えて11回目の待ちぼうけ。 シャーリィはずっと来ていない。メアリは、昨日と一昨日とその前は来た。 今朝は、来ないのかな。どうなんだろう。 でも、待つって決めた。金曜以外はこうして待つって決めたから。 メアリが来るのを中庭でこうして待って、もしも来てくれたら──いつもみたいに呼びかけるの。 ──シャーリィが眠ってしまったままで。──メアリが暗い顔してるなら。 ──もうアーシェしかいないもんね。──だからね、ここで待つの。 鐘が鳴るよりも5分くらい前── もう朝の鐘は鳴っちゃったから、はじめの講義の鐘の、5分くらい前。 ──見つけた!──今朝は、ちゃんと来た! 遠くからでも傘がわかる。3人の中で一番黒い色が似合う、メアリの、いつも羨ましいって思う、綺麗な煤よけ傘。 メアリ! 遅いー! もう待ってられない。歩いてくるメアリのほうへ駈け寄って、 あのあと連絡取れなくなっちゃうんだもの、もー、心配したんだから! うん、ごめんね。課題が、たくさん残ってたから……。 ううん、いいよ。いいの。ちゃんと今日は来てくれたもんね。 おはよう、メアリ。 おはよう。アーシェリカ。 んーっ。おはよう! 言いながら、メアリの胸に飛びついて。ぎゅっと、わざと強く抱きしめる。 メアリの匂い。メアリがここにいるってわかる、証拠。良かった。これ、夢じゃないんだよね。 メアリは抱き返してくれた。いつもは、子供みたいって怒るのに。 ……メアリ、本物だよね。 残念だけど、本物だと思う。誰かの変装のほうが良かったかしら? うーん……。 一晩中心配させる悪い子だけど、やっぱりメアリのほうがアーシェは好き。 ……ごめんね。次は、ちゃんと、電信取るから。 約束? ええ。約束。 メアリはそう言って、笑って見せてくれる。いつもならそれでもうおしまい。少しくらい。喧嘩していたって。 でも、今朝は、まだ、気分が晴れない。おしまいにしたいけど、言うことは言わなきゃ。 ハワードがね、色々、調べてくれてるの。だからメアリ。お願い。 黙って、危ないことなんかしないでね。研究会に興味あるのはいいけど、やっぱり、怪しいのは怪しいんだから。 ……うん。ええ、わかった。 自制してください。アーシェ、心配で眠れなくなっちゃう。 ……はい。 ──大丈夫かな。これでもまだ、不安。──もやもやが消えない。 メアリは、すぐ走って行っちゃうんだから。去年、テムズ河で溺れかけた猫を見かけて、みんなが悲鳴をあげてた時のこと。 アーシェもシャーリィも、慌てるだけで、猫が、溺れて死んじゃうって思うだけで。何もできなかったのに。 メアリは、ひとりだけ、迷いもしないで、河へ飛び込んだんだよね。 昨日のことみたいに覚えてる。絶対、忘れない。 汚れたテムズの水なんか飲んじゃったら、どんな怖い病気に罹るかわからないのに、メアリは、迷わなかった。 ──すごいと思う。──でもね、同じくらい、心配だよ。 今日は一緒に帰ろうね。駄目だからね、研究会なんか行ったら。 うん……。 どこかでご飯食べよ?ハワードがね、奢ってくれるんだって。 ……今夜は、ごめん。無理。約束があるから。 え。 ごめんね。アーシェ。 ──ご、ごめんねって、何。え!?──言ってるそばから、もう! どこで、誰と!駄目だからねチャペック先生はだめ! ち、違うの。違うわ。待ち合わせ、シティエリアの……。 もっと具体的に! ……シティエリアの……。……クィーンズストリートの……。 メアリ! ──言いたくないみたい。──メアリが、視線を逸らす時はそう。 でも、駄目。駄目だからね。言いたくなくたってちゃあんと聞くからね!メアリは押しに弱いって知ってるんだから。 ……さ、300番地の、あたり。 誰と会うの!チャペック先生じゃないよね! ……ミスター・ホームズと……。……23時の待ち合わせ、なの……。 え。 ──え? ミスター・ホームズ?──それって、あれ? え。あれ。あれ?メアリは、ホームズさんに会えたの? え……ええ、何日か、前に……。ソーホーの……。 もしもし、仲の良い麗しきお嬢さん方。お話中のところ申し訳ないが── もう講義の始まる時間だよ。お喋りを続ける時間はないと思うけどね? え。あ。あっ、ほ、ほんとっ。メアリ、夜は電信をオンにしといてね! ──大変。たいへん!──もう鐘が鳴るまで何秒もない! これ以上遅刻したらメアリもアーシェも単位が危ない! シャーリィに怒られる! メアリに「研究会は駄目!」と念を押して、親切な男子にお礼を言って、講義棟へと急ぐ。急ぐ。急ぐ。 ──あの男子、誰だろう。──見たことある。綺麗な顔の男のひと。 ──ぜんぜん好みじゃないし。──ハワードのほうが百倍も格好いいけど。 ──なんでかな。──微笑みが、妙に、胸に引っかかる。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の開始と。──深遠なる認識の開始を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「親愛、友情、それはとても尊いものだと」 「すなわち。 人間にとって必要不可欠な要素のひとつ」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「しかし、恐怖とは」 「尊いもののすべてを吸い尽くしても、尚、 無限にたゆたうほどに余りあるものです」 「恐怖が、歪み、うねり、 常に、這い寄ることを、 少なくともかの碩学は知っていたのです」 「それが故に、 万魔の筺を手にするに至ったのですから」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「──愛しくも哀れなる、かの者の最期を」 この鞄だけは── この鞄だけは、手放す訳にはいかないのだ。何があろうとも。死が訪れようと。 マリアベルがこの世に在ったことを示す、最後の痕跡がこの鞄なのだ。ハロッズであなたに似合うわと微笑んだ彼女の、証だ。 片時も、男は鞄を離そうとしない。眠る時の心配はない。 男は、もう眠らない。ぎらつく双眸は眠りの闇をとうに拒絶した。 ……マリアベル。我が愛。 お前を忘れた日はない。かつて、狂気に落ちかけた私を支えたお前。 もうすぐだ。最早、私たちを止めることはできない。 ヨゼフ・チャペック博士。或いは教授。無機質な部屋の隅に隠れるように身を置き、鞄を抱えたまま、何事かを呟き続けている。 彼は鞄を離さない。いつ如何なる時も彼は鞄と共にある。 呟きは止まることがない。誰もいない部屋で、彼は、もう4ヶ月も、こうして、ひとりで呟き続けているのだ。 それは狂気の発露であり、今や彼の目前にはひとりとして存在しない研究会に属する者へのメッセージでもある。 シャーロット・ブロンテ、我が同志。最後にして最高の逸材。 きみだけが、私の最後の望みだ。きみだけが、タタールの門をくぐり抜けた。 故に……。 ごくり、と喉を鳴らす。それはこれから訪れる惨事への予感か。 我が発展的降霊会は、きみが此方に在る限り存続を許されるのだ。 故に……。故に、私は、未来を否定する。 あらゆる未来は、私たちにとって……。 ──私たちにとって。──それは、忌むべき破壊の炎でしかない。 男はそう呟いて──暗がりの中で怯えるように鞄を抱えた。  『わたしは怖いの』  『炎が怖い。だって、あついもの』  『すべてを燃やしてしまう、 おおきな火とかげのもたらす炎が怖い』  『でも』  『消防士さんが、なんとかしてくれるわ』  『そうね』  『でも、もしも……』  『もしも、誰も助けてくれなかったら……』 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。ふたたび献体が使用されたようです。 「死んだか」 いいえ、生きています。パターンBの思考ノイズを確認しました。 「男か」 はい。 「面白い。足掻き、むせび泣き、 己の内より、炎を生み出してみせるか」 「零時時点の成長率は」 臨界です。 「予測通りだ」 「では、収穫を始めよう。 第1に雄々しく叫ぶもの、汝の最期だ」 ──断末魔が、か細く続く。 あり得るはずのない永遠の痛みと苦しみに、もがき、苦しみ、足掻き、むせび泣くもの。 それは、都市の闇に潜む。それは、砕かれた鋼の内から生まれ落ちた。 それは、さまようもの。熱く願い、こころと体を焦がすもの。 それは苦しんでいた。喘いでいた。淀む大気はそれが存在することを許さない。濁った霧はそれが思考することを許さない。 あまねくすべてがそれを許さない。許してくれない。そのことは、既に定められた摂理だった。 しかし、それは生まれ落ちてしまったのだ。在るべきはずでないロンドンの闇に。暗がりの中で、断末魔の叫びと共に。 ──時を経ずに、それは発火していた。──叫び声を上げ続けながら。 恐るべき炎熱が体を包むけれど、しかし、決してそれは燃え尽きることなく。 それは喘ぐ。熱い、熱い、熱い、苦しい。全身にまとわりつく炎が呼吸を阻害する。息が、できない。 故に、それは苦しみ続けるしかない。目も見えず耳も聞こえず喋ることもできず、苦しむしかなかった。僅かな例外を除いて。 たとえば── ──どこかで叫ぶ、生け贄の誰かの声。──悲鳴。 悲鳴。自分と同じ断末魔。それを聞くことでのみ、苦しみは癒える。ここに在らざるべきそれは、充たされる。 だから。悲鳴を辿ることしか、それにはできない。  ──もしくは──  ──黄金色に輝く──  ──たったひとつの── ──夜も更けてしまって。 もう、中庭を通る学院生もほとんどいない。講義棟からも研究棟からも、院を出るなら、ここを通らなきゃいけない。 ここを通らなければ帰れない。うん。そのはず。 ……う〜ん……。 メアリ、遅いよぅ……。 人混みの中からメアリを見つけるのは、そんなに難しいことじゃない。 黄金色のきれいな瞳はすぐにわかるの。ちょっとくらい遠くても、すぐに。 でも。でも。いない、いない。来ない、来ない。 ……ぶぅ。 もう夜中なのに……。合同講義も個人講義も終わってるのにぃ。 自分で、約束があるって言ってたのに何してるんだろ。メアリってば……。 噴水脇の時計を見たら、あれ、もう、すごい時間だ……。23時になる……。 ぜんぜんメアリは講義棟から出て来ない。専攻、史学科にすれば良かった。そうしたらずっと張り付いていられるのに。 メアリ、まだかな。まだ何かしてるのかな。ずっと中庭で待ち構えてるのに出てこない。もしかして……。 こっそり、研究棟に行っちゃってるの?でもそんなことないよね。約束したもの。 それに、チャペック先生はもういないし。さっき、きょろきょろしながら鞄持って学院から出て行ったもの。 うーん、うーん……。まさか……。 さっき……御不浄へ行った時に……。すれ違っちゃった……かな……。 ──う。すごく、充分、あり得るかも。──どうしよう。油断した。 と── お尻のところのポシェットがぶるぶる。揺れてる。あ、電信通信機! ハワードから貰ったこれ、揺れるんだよね。コールのたびにベルを鳴らさずに済むから、講義中でもオフにしなくていいの。 きらきらでお気に入りの電信通信機を取る。ダイヤだわなんてふたりは言っていたけど、まさか、ね。 ともかく、ともかく。メアリからの連絡かもしれない! はい、もしもし。メアリ? 『今どこにいる!? ぼ、僕だ。ハワードだ、アーシェリカ!』 わっ。 通話口から耳に飛び込むのはハワードの声。いつもは落ち着いた静かな声なのに。 まるで、叫ぶみたいな声。こんな風に慌てるなんて、らしくない── ふぇ。碩学院だけど……。 『良かった。ああ、良かった。 そこの守衛は確か武装をしていたよね。 いいかい、絶対に外に出ては駄目だよ』 『すぐに迎えに行くから、アーシェ。 敷地の外には出ないで』 ──ひどく慌ててるみたい。──ハワードがこんなに取り乱してる。 ──今まで初めてのことだと、思う。──だから、ちょっと怖い。 なに? 何かあったの?ハワード、声、ちょっとこわいよ…。 『あ、ああ。すまない、ごめんよ。 順序立てて言えれば良かったんだが』 『ラジオで聞いたんだ』 何を? 『通り魔が出たんだ。第1級緊急速報だ。 最悪なことに犯人はまだ捕まっていない』 『もっとも、あの“ジャック”かどうかは わからないみたいだけど……』 通り魔……?ジャックって、あの、ジャック……? イーストエンドの切り裂きジャックなんて、もうずっと前、何十年も前の話なのに、大人たちは何かあるとすぐに口にする。 何度も何度も。だから、名前を聞くと、反射的に── ──ぞっとする。怖くなる。 ──そういえば、あの噂だってそうだよ。 ロンドンの《怪異》の話。都市伝説。逃げ延びたジャックが変わり果てて、この都市へ戻ってきたんだ、なんて話も。 ガイ・フォークスだとか言う人もいる。怖い話。嫌な話。メアリの前ではしちゃいけない話。 ば、場所、どこなの……。ほんとのほんとに、イーストエンド……。 『落ち着いて聞いて。 事件は、クィーンズストリートで起きた。 すぐに行くから、建物の中に入っていて』 『犠牲者は今のところ3名が確認されてる。 確か、300番地のあたりで──』 300番地……。 ──待って。待って、そんなのない。──今、なんて言ったの。 ──覚えてる。300番地、って。 『……さ、300番地の、あたり』 『……ミスター・ホームズと……。 ……23時の待ち合わせ、なの……』 ……メアリ!! ──ふと。誰かに、呼ばれた気がした。 ──真夜中のシティエリア。──ひとりで、霧の多い表通りを歩く。 人通りがやけに少ない。クラブやパブから帰る男性たちの姿も、逞しく駆け回る浮浪児の子たちの姿も。 商社や金融会社の社員の姿なども既にない。この英国を官僚以上に動かしているという、ロンドン心臓部のエリートたち。 誰もいない。あの日、あの晩、あの時と同じ。 数分に一度、遠目に人影を見る程度。本当は珍しいことのはずなのに。 …………。 怖い。怖い。怖い。すぐに、足が竦んで立ち止まりそうになる。 ──でも。この数日。──あたしは、何ひとつ成せなかった。 ──だから、縋るしかない。──断れはしない。あそこへ行くしかない。 ただ、ミスター・ホームズを信じるだけだ。そこへ赴くことでシャーリィが救われると、信じることしか。 やや急ぎ足で約束の384番地へと向かう。舗装された歩道を歩いて、あの日、あの晩、シャーリィと歩いた道をなぞって。 あの場所。シャーリィの喉から突然の悲鳴が響いて、恐ろしい“怪物”がその姿を見せた場所。 あの夜の出来事が一体“何”であったのか、メアリは考えずにいた。 ──考えないようにしたの。──考えても、わからないから。なのに。 なのに……。ミスター・ホームズ……。 彼からの電報は確かにあの場所を指定した。偶然──そんなはずはない。300番地は目立つ場所ではない。 何より、この時間ではもう殆ど人はいない。深夜営業する店舗もない。会って何かを話すならどこか入るぐらい、するはずだ。 無人の商業区で立ち話なんて考えられない。なら。なら、何だというのか。 ──あの夜のことを、知っているの。──あれが何であったのか。 幻覚……。彼、そう、言っていた……。 ……本当に、そうなの……? メアリは汗ばむ自分を感じていた。暑い。何だろう。ロンドンはいつだって寒いのに、走ってもいないのに、肌からは、汗が滲む。 電信通信機のコールに気付いたのは、その少し後だった。 懐中時計型のあれに触れかけた刹那、逡巡があった。あの晩、この4つの計器は動いていた、と、思う。夢ではないのなら。 夢であって欲しいと思う。意図的にその考えを受け入れていたのだ。でも、それは今や、儚い願望に思えて── 『メアリ!』 あ、ああ。アーシェ……?どうしたの、こんな、遅くに。 ──コールの相手はアーシェ。──ふっと、張りつめていた気が緩む。 でも、何か、違和感があった。電信越しに明るく弾むはずの声は、なぜか、奇妙にさえ感じるくらい焦燥に充ちていて。 自然と首を傾げる。相手に見えないことはわかっていても。 ……アーシェ? 『今、どこにいるの! クィーンズストリートじゃないよね!?』 ええ、そう。朝に、話したわよね。クィーンズ……。 『やっぱり!』 『すぐ近くにお巡りさんがいるはずだから、 家か学院まで送ってもらって! いい、絶対そうして、メアリ!』 警官なんて、いない……けど……。アーシェ、何なの……? 『えと、ね、シティに通り魔が出たって、 ハワードが──』 電信越しだから、なのだろうか。アーシェの語る言葉はどこか遠くの出来事、新聞や本の中にある空想のように聞こえる。 通り魔。この大通り付近で被害者3名。出動した100名以上ものヤード警官隊がエリア全域で警戒体制を敷いているらしい。 冗談には聞こえない。アーシェの声は、いつになく切羽詰まって。 でも。でも。100名を超える警官隊?そんなものは見えない。人影らしきものはない。 霧と排煙が充ちるシティエリアの表通り、クィーンズトリートには、警官はおろか、誰ひとりいない。 広い舗装路を歩いているのは自分ひとり。他に、誰の姿もない。 同じ。何もかもが同じなのだ。あの晩と── 『聞こえてる、メアリ? 早くそこ離れて、危ないんだから!』 『お巡り……が見つ……な……た……、 ガー……拾っ……学、院、ま……来……』  ──電信に── 『わか……メ……リ……』  ──ノイズが混ざる── アーシェ? 何、聞こえない……。 電信用の無線通信網が混線したのだろうか。都市型電信の断線率は、ごくごく低い故に、こういう事態は多くない。 通信機の真横のジョグダイアルへ視線を移す。回線がずれたのかも知れない。 ──視線を手元へ移す。──刹那。ふっと背後から明かりが差した。 ──街灯。ううん違う。これは懐中機関灯?──なら、アーシェの言った警官隊の? 振り返らないままでメアリは思う。通り魔という“現実”に発生した問題が、あの日の晩の“悪夢”を幾らか和らげる。 仕方がない。仕方がないと、思おう。警官に見つかればすぐに保護されてしまう。今夜はホームズ氏の約束は守れそうにない。 ほんの少しだけ。安堵する。 これ以上──あの時と同じものを同じ場所で見たくない。無人の街。それだけで、もう、限界だから。 だから──  『……ア……』  『……ア、ァ……』  『……ア……ツ……イ……』 ──声。アーシェのものではない声だった。──それは、通信機越しに。 ──そう。ううん。いいえ、違う。──それだけじゃない。同時に、背後に。 声は通信機から、同時に、背後から響く。警官。違う。人間の声には聞こえなかった。 ……何……? 背後からの明かりの主へと振り返る。その、刹那── ──瞬間、呼吸が止まった。 ──苦しさを感じる暇は、なかった。 ──胸の奥から湧き上がる何か。──熱く、ざわついて、呼吸を止める。 ──何。これは、何。 息ができない。 我知らず喘ぐ。 続けざまに強烈な目眩が視界を歪ませる。 呼吸困難。目眩。思考が途切れて意識がぼやけてしまう。 ──苦しい。何。これ、は。──何なの。ううん、違う、覚えてる。 ──あの時と同じ。目眩と、ひどい苦しさ。──シャーリィが叫んだ時と同じ。 ──あの醜い怪物たちが感じさせるもの。──心と、体を、苛むもの。 ──あたしが。──あの時から、ずっと感じていたもの。 振り返ったメアリの視界に見えているもの。それは奇妙な輝きであって、昏く輝く炎の煌めきだった。 燻り続ける燃え滓のような灰色が、視界に入る── 嘘……。 シャーリィ……シャーロッテ……。あの時……あたし、たち……。 ……黒い街で……。 ……夢……じゃ……なかった……。……こんな……。 ……こんなの、嘘よ……!そうでしょ、ねえ、シャーリィ!!  『……ア、ツ、イ……』  『……カ、ラ、ダ……』  『……モ、エ、ル……』 ──暗がりから、何かが、見える。──あれは何。 問いかけても答える者はない。いつも助けてくれた友人はここにはいない。 あの時は、シャーリィの背後から出てきた、暗闇から浮かびあがるもの。ここには、それしかいない。 耐え難いほどの悪臭と硫黄臭を漂わせて、耐え難いほどの高熱と揺らぎを身に纏う、炎の、怪物。 夜の暗がりに、それの生み出した奇妙な明かりが浮かぶ。体表を覆う無数の紅い瞳がぐるりと蠢く。 それは炎を全身から噴き出しながら、燃え尽きた灰によく似た色を湛えて、体表をひび割れさせて。 あの夜の怪物とはまったく違う姿。けれど、何かが明らかに酷似していた。 黒い体。紅い瞳。それは、ロンドン中の恐怖の噂。 誰かが《怪異》と呼んだもの、この世ならざる歪んだもの、おとぎ話にしか存在しないはずのもの。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 ──あたしは、ようやく、それを思い出す。──呼吸困難と目眩の正体。 ──恐怖。 涙が自然と溢れ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、ひきつった声が出るだけ。 ──誰か。誰か。誰か。──助けて。 ──助けて、誰か。ここから。 駄目。だめ、だめ、だめ。思考がまとまらない。あの時と同じ混乱。舗装街路を灼くほどの、高熱の黒い怪物。 何、何。これは。わからない。電信でアーシェと話して、通り魔が、出たから、警官を、探すの。 自分が何を考えようとしているのかもわからない。ただ、恐怖が体に充ちる。苦しい。熱い。 混乱する思考の濁流で意思だけが迸る。メアリは、涙を溢しながら、喘ぐ喉を、振り絞りながら。 ただ、ひとつのことを思う。ただ、ひとつのことを願う。 それは、直感であったのかも知れない。または、恐怖で麻痺した脳の生む狂気か。 ──教えて。誰か。 ──もしも、こいつが、この炎の怪物が。 ──もしも、こいつが。──シャーリィの昏睡と関係しているなら。 ──教えて。どうすればいいのかを。──何をすればいいの。 ……シャーリィ……。 ささやかだけど声が出た。息が、喉を通る。詰まった空気が通り抜けて、酸素が脳へと回ってくれる。 ぐらついた視界が僅かに定まる。それは、ほんの一瞬だけの平衡状態だった。 その一瞬で周囲を見る。暗い。誰もいない。果てなく続く暗がりは、すべてが黒色に染まったのだと告げている。 ──助けてくれるひとは。誰も。──誰も。いない。 何もかもが同じ。あの時と。 何なの……これ、なに……。 掠れる。自然と、声が。一瞬の平衡を失って視界が再び揺らいでも、あの時と同じに、呼吸は、止まっていない。 止まってはいない。呼吸は続いている手足は、震えて、でも、辛うじて動く。 ──どうするの。──どうするの、メアリ。 恐がってうずくまる? 震えて目を見開くの? それとも、助けてとあの赤い瞳に叫ぶ? ──駄目。どれも、駄目。──そんなことをしても何にもならない。 思考がどろりと恐怖と怪物の熱で溶けて、何をすべきか、何をするのか定まらない。身動きができない。 メアリは、冷静にはほど遠い思考で、それでも、揺らぐ視界で怪物を見る。炎の中の無数の瞳。 そのどれもが── ……あ……。 同じだ。あの時と、これも、同じ。怪物はメアリを見ていた。 ──炎の怪物の無数の瞳が見ているのは。──あたしの、右目。  『……カガヤク、黄金瞳……』  『……ソレガ……ホシイ……』 喋った── 喋った。そう、確かに言葉を発音した。恐怖に麻痺したメアリの神経が驚き硬直することはなかったけど、確かに。 黄金瞳、とこの怪物も同じことを言った。黄金の瞳。黄金の。それは── ……あなたも……そう……。 ……この目が、欲しいと言うのね。  『……ホ、シ、イ……』 ……そう。  『……ホ、シ、イ……』 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──そう。お前たちは。 ──同じなんだ。あの晩の怪物たちと。──この目が欲しいの。 いやよ。  『……ヨ、コ、セ……!』  『……黄、金、瞳……!』 ──襲い掛かってくる!──這いずる四肢で石畳を焼き焦がして! 内心の言葉に、頷く。今のこの状況はなにひとつ理解できないし、怖さで今にも失神しそう、でも、それでも。 指先の感覚がないほど恐怖は全身に充ちて、両膝がおかしいくらいに震えているけれど、でも、それでも。 走ることならできる。ううん、違う。 ──走らなくてはいけない。──できる。ううん、そうするのよ。 ──やることは、あの時と、同じはず。──それなら。 ヴィドック卿の発展理論を思い出しながら、正しく走ることだけに集中して。 恐怖を引き剥がせなくても、足だけは。前へ進むことだけは── 走って、走って、怪物から離れて、それから、それから先は、覚えていない。でも、何かがあったのは辛うじてわかる。 ──できる、メアリ? ──できるわ。だって、こんなところで。──死んだりしない。絶対。 ──まだシャーリィは眠ったままなのに。──まだアーシェの結婚式を見ていない。──だから。 あなたには、何も、あげない!何も……! メアリは走り出す。怪物が大小6つに分裂して、猛烈な勢いで襲い掛かってくる気配を背中に感じながら。 ──全力で、あたしは、前へと。 ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──炎を恐れた誰かのそれ。 計器と声はやはり関係していた。理由はわからない。声が、何を意味しているのかもそう。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 ──なぜシャーリィはああなったのかも。──同じ。何もわからない。 これから何をすべきなのかも。考えないようにしてきたここでの出来事、それを、今は、思い出そうと焦っている。 何かがあったはず。どこかへ目指して走っていた記憶。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。前にもこうして隠れながら──  『……ソ、ノ、目……!』 肌を震わせる叫び声!怪物。大小6つに分かれているはずなのに、何ひとつ姿を変えていないあれが、目前に。 ひたりひたりと黒い街路を灼いて、異臭を撒き散らしつつメアリを追いつめる。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。黄金瞳を呑み込もうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。また、その燻る姿を見てしまった。 ──恐怖が呼吸を止めて視界を歪ませる。──駄目。駄目!  『……オ、前、ノ……』  『……右、目、ヲ……』 いやよ……! メアリは意思を振り絞る。叫ぶ。怪物の悲鳴に負けないくらい、大きく。               『サラマンドラ』 ──何。今の。 ──声。誰の。 サラマンドラ。そう囁く声が聞こえた。思い出すのは、幼い頃に絵本で読んだ火の蜥蜴。 ……サラマンドラ……。                『ここへ来い』 ──声。あなた、誰。──あなたは、前にもあたしを呼んだ。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。──聞き覚えのある。                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他にはこの“サラマンドラ”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 ──そこに。 ──行けばいいの? ……ッ!! メアリは再び走っていた。あの時と同じようにして。恐怖の波が膝をおかしくさせるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる。前もそうした。 ──あなたを信じる。──あたしは、ここで終わりたくないから。  『……黄、金、瞳……!』 うるさい! ──まだ。走れる。──炎になんて絶対に灼かれたりしない。 ──走って、走って、走って。 ──何度か転んだのかも知れない。──体のあちこちが痛む。 この場所のはずだと内心で繰り返す。これもまた直感的に、あの晩と同じように。 ここまで走って辿り着けばいい。そう信じて、願いながら走った。だから、体に残った力のすべてを費やした。 脚だけではなくて、全身が軋む。限界が近いのだとわかる。 もう股関節の感覚すらわからない。脱臼していると聞いても、多分、驚かない。 体が軋む。脚の骨の隙間のすべて、軋む音を立ててばらばらになりそうなほど。 あの声の主が言った場所は、ここ。方向は間違っていない。なぜか、確信があった。 それなのに── 周囲には誰の姿も見えなかった。無意識に人影を探す。歪んだかたちをしていない、誰かの、姿を。 ──いない?──でも、でも確かに声が聞こえた。 ──愚かなあたしを嘲笑うように。──大きくなっていく。怪物の重い足音。 ……………。 ……どこに、いるの……。もう、これ、以上……走れ、ない……。 怪物の気配がする。あの、歪んだ人型が仰向けに這うような姿の怪物の音が。 じゅうじゅうと石畳を灼き、溶かして、あたしの右目を欲して黒い街を進むあの音。 まだ僅かに距離がある。そう思う、けれど、それは願望でしかない。 周囲を見回す。あの夜と同じ、異形の黒色、建物のかたちをしているだけの嘘の石細工。街でも、建物でもない。 ここが“果て”だ。これ以上先に行くのなら、乗り越えないと。こんなにも高く聳える、黒い塀。終点の壁。 ……やだ……。 ──あたしは、ひとつだけ気付く。 ……まだ……。 ──この黒い街と、ロンドンの共通点。 ……こんなところ、で……。 ──霧。排煙の混ざる、病んだ匂い。 ……嫌、よ……。  『……見ツ、ケ、タ……!』  『……オ、マ、エ……!』 ──その時、あたしは迷った。──避けられない死と共に在るそれを見て。 ──目を閉じればいいの。──それとも、蠢くあの瞳の群れを見るの。  『……ヒ、メ、イ……』  『……ド、コ、ダ……?』  『……目ダケデハ、タラヌ……』 それが接近するほどに汗が流れ落ちていく。怪物の炎が、熱い。熱い。熱い。 服を着ているはずなのに、まるで、火の塊を纏っているような錯覚があった。熱い、熱い、叫んで、喚いてしまいたい。 メアリは目を閉じなかった。だから、それを、まともに間近で目にした。 昏い炎に晒され続けたそれの“貌”を。白色の硬質なものに覆われた、仮面のような“貌”のかたち。 それが、ひび割れて── 音を立てて石畳に落ちる── ……ひッ……! 目を閉ざすべきだったのだろうか。メアリは、1フィートの距離でそれを見た。 仮面の下にあった本当の“貌”を。紅い瞳。けれど、蠢く無数の瞳とは異なる、人間のものにひどく酷似した血色の双眸を。 ──よく、似ていた。 ──見開かれたチャペック教授の瞳と。 瞳は教授と同じようにぐるぐると動いて、何かを探す、ああ、そうか、探している。黄金色の。 右目を。探しているのだ。 『……願イハ、果タサレル……。    ……コレデ、闇ハ、閉ザサレル……』 『……我ガ、顕現ヲ、以テ……。    ……恐怖ハ、永遠ニ眠リノ中ヘ……』  『……消エサル、ダロウ……』 ──怪物は悲鳴を止めて囁く。──どこか、優しげな響きさえ込めて。 ──駄目。──違う、騙されない、そんなの嘘。 駄目。これ以上、あの赤色を見ては駄目。心のどこかで自分自身が叫ぶ。けれど、メアリは視線を離さなかった。 意を決して、覚悟を決めたからではない。死の瞬間を受け入れるため、ではなくて、ただ、瞼を閉じられなかった。 双眸を認識した瞬間──恐怖が、とめどなく次から次へと溢れて、震える顎が歯をがちがちと鳴らしていた。 動けない。違う。あの時とは比べものにならない。 仮面で覆い隠されていた双眸、これは、立ち向かおうという意思も意地も砕く。 空間が、前後の感覚が揺らぐ、上下左右も。立っているのかどうか、もう、わからなかった。 尻餅をついていたのかも知れない。壁に背を寄せていたかも知れない。ただ、もう、逃げることはできなかった。 僅か1フィートの距離から、熱気を伴った火の吐息が視界を埋めていく。 メアリの肌に触れるか触れないかの際で、何度も、火の吐息は吐き出される。  『……怖ガッテモ、イイ……』  『……ソレガ、オ前タチナノダカラ……』 ……シャーリィ……。 ──諦める他に、何が、できるの。 ……ごめん、なさい……。 ──謝る以外に、何が、できるの。 ……アーシェ……。 ──何もできないまま、暗がりの果てで。 ……神さま……。 ──あたしは、諦めるの? ……いや……。 ……いやよ、嫌……。……諦めない、諦めない、諦めない……。 ──約束したよね。──あたしは、あたしだけは、諦めない。 ……諦めない……! ──怪物の吐息が、あたしの肌を。──食い破る。 ──その、ほんの少しの刹那。  「そこまでだ」 ……生意気にも。言語を解すか。 炎と共に言語すら操ってみせる。なるほど、確かに火蜥蜴によく似ている。 黒い影。暗がりに溶け込む誰か。見覚えがある── 昏い炎に晒されて意識を灼かれかけたメアリは、何ひとつ思い出せなかった。恐怖に食い荒らされて、意識が、霞んで。 誰。このひとは、誰。不可解と、奇妙と、混乱だけがあった。 ──誰。あなた。 ──駄目。それに近づいたら、あなたも。  『……オ前、誰ダ……』  『……ココニハ、誰モ、入レナイ……。  ……我ガ選ンダ生贄ノ他ハ、誰モ……』  『……シャルノス、ハ、神聖の場……。  ……禁ヲ犯ス、傲慢デ矮小ナ人間……』  『……オ前ハ、誰ダ……』  『……ダ、レ、ダ……!』 ──また、怪物が悲鳴を上げる。──あたしを放って、その人影へ向いて。 はは。 人影が漏らしたのは、嘲笑、なのだろうか。暗がりの中で肩を竦めたのがわかった。 信じられなかった。この恐ろしい怪物を前にして、笑うなんて、気が違っているのでなければ、幻聴だろう。 けれど。人影は確かに笑っていた。 ほんの僅かな間だけ。蔑む青い瞳を、メアリは目にした。 お前こそ誰だ。 四大のひとつ、サラマンドラ。確か、そう騙っていたはずだったな。 「荒れ狂うもの、熱く滾り焦がれるもの。 鋭き鋼より生まれ出でて、 我が身を燃やし尽かすもの」 「炎熱の恐怖」 ──声。この声だ。 ──あたしをここへと呼び寄せた、あの声。──諦めていないならと言った。 声が誰かを思い出す。ようやく、意識が、声を記憶と結びつける。 わかりやすい“かたち”だな。だが、故に、原始の力に充ちている。 ……モラン! はい。我があるじ。 その声は何かを呼び寄せる。そう感じた。人影のいる暗がりから、もうひとつの長身の影が姿を見せて──  ───────────────────!  『アアアアアアアアアッ!?』 ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。──それは、怪物の額を穿つ。 ──誰。誰。銃を携えた、背の高い女性。──この人を、あたしは知っている。 怪物の悲鳴が撒き散らされる。メアリが意識を繋ぎ止めて考えようとする、その最中にも、銃撃は次々に行われていた。 ひとつ、ふたつ、みっつ。怪物の焦げた体に大きな穴が穿たれていく。 けれど、それだけだ。悲鳴を幾つも生むだけで、通じはしない。倒れてくれない。弾丸は怪物を貫くだけ。 体躯に空いた孔から炎が吹き出して、それは、黒い街の建造物の幾つかを融かす。 ……状態確認。パターンCノイズが検出されています。 これ以上の銃撃は拡大変容を招きます。あるじ、ご指示を。 妖精もどきとは違う、か。四大もどきは随分と頑丈なようだ。 方程式を使う。モラン、連中の“目”を潰せ。 必要なし。目標周囲に展開する空間はあらゆる結社員の“目”を阻害します。 ここに在るのは──これと、あなたと、彼女と、私のみです。 未熟な連中だ。 だが、ここは重畳であるとしよう。愚かさは人間の美徳だ。 ──そう言う人影、黒い男の声は。──やはり、笑っているように聞こえて。 ──あたしは、感じていた。──この黒い街で平然と会話するふたりに。 ──恐怖を。──嫌悪を。──怪物たちに感じていたものより、強く。 提案しよう! サラマンドラ! 食事の時間だ!  『ガァアアアアアアアッ!!』  「──城よりこぼれたかけらのひとつ」  「クルーシュチャの名を以て」  「方程式は導き出す」  「我が姿と我が権能、失われたもの」  「喰らう牙」  「足掻くすべてを一とするもの」  ──黒い男の周囲が──  ──ざわつき、沸き立って、うねる── 見えているものは幻か、それとも、夢か。黒い男を取り巻き蠢くものが見えている、それは、何かを思わせる。 シャーリィが悲鳴を上げたあの瞬間。影から沸き上がったもの。 ひどく似ていた。違うのは、黒い粘液に似た不定形の群れが、男の周囲に浮かんで“かたち”となること。  ──黒い文字──  ──カダスの碑文を思わせる── ぐるりと取り巻く文字のような黒い群れは、男の影から吐き出され、周囲で蠢き回転し、不規則な幾何学模様を描き出す。 もしも、本当にカダス碑文なのだとしたら、それは言葉ではない。近いものは、恐らく、数式。複雑な。 関数──違う、何かの方程式だ。長く複雑すぎて、メアリには読めなかった。式が、そもそも何を意味しているのかさえ。 黒い群れを男は呑み込んでいく。口で、足下の影で、黒色のコートの影で。 ──人間のかたちをしたものが。──怪物のなり損ないを、食べて、いる。 ──吐き気がした。何をしてるの。何。──やめて。やめて。やめて。 文字の羅列を男は次々と呑み込んでいく。女が銃撃で怪物の動きを止めている間に、ごくり、ごくり、と。 未だ多くの黒い群れを残したままで、男は、静かに言った。  「喰らうぞ」  ──そして──  ──男の姿が変わる──  ──右目を覆うものが──  ──紅く紅く、輝いて── ──闇が充ちた夜のように、影のように。──彼の姿が変わる。 右目を隠した眼帯から浮き上がる紅い光は奇妙な紋様を描き出して、揺れる、揺れる、揺れる。  ──そして──  ──次に、右の腕が歪む──  ──服を、肉を食い破り── 肩口を突き破るのも黒い刃。半身を蝕むのと同じく硬度のあるそれらは、互いに擦り合わさって、軋む、軋む、軋む。 右腕の末端にまで同じ変化が起こっていた。服を破り、肉と骨を砕いて、幾つもの刃が震える、震える、震える。  ──そして──  ──最後に──  ──体に、赤色の亀裂が走る──  ──胴を、斜めに引き裂いて── 男の右半身が歪んでいた。鋭い肋骨にも乱杭歯にも見える黒色の刃が幾つも宙に突き出され、歪む、歪む、歪む。 眼帯に浮かぶものと同じ赤色をした亀裂は、男の胴を引き裂きながらもその体を砕かず、人型を保って蠢く、蠢く、蠢く。 脈動しているのだ。まるで、巨大な生き物の血管の如く── ──人間が。歪んでいく。壊れていく。──あたしは叫んだ。 ──怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。──理由は幾らでも。不可解。奇妙。異形。──理解できない。怪物。人の、かたちを。 ──怖い。──あれは、何を、しているの。  「サラマンドラを騙る哀れな者よ」  「お前の声は届かない」  「残 念 だ っ た な!」 ──彼の声が。 ──あらゆる闇を引き裂いて、砕く。  ───────────────────!  『ギィァアアアアア……ッ!』 昏い炎を上げながら荒れ狂うあの怪物が。瞬時に、砕かれる。 砕いたのは、奇妙な、黒い腕だった。男の胴体部の亀裂からずるりと伸ばされて、巻き付くように怪物を取り込み、押し潰す。 砕く── 砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。元の形が何であったのかさえ認識できない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。 ──正視、できなかった。──あたしは瞼を強く閉じて耳を手で覆う。 ──わからない。わからない。わからない。──怪物のはずなのに。──あれは、あたしを襲った怪物なのに。 ──どうして。なぜ。──こんなに、痛いよ。胸。奥が、痛い。  『……ギィ、オ、オ、ァアア……』  『……タ……ス……ケ……テ……』  『……ヤ、メ、テ……!』 懇願。悲鳴。絶叫。断末魔──怪物が、破壊される。 怪物の声はかき消される。男の黒い巨腕は、異様なまでに巨大な“口”を、押し開いて、痙攣する怪物を。  ──呑み込む──  ──喰らい尽くす──  「は は は」 ──耳を塞いでいても聞こえてくる。──男の。笑い声。  「はは、ははは!」  「サラマンドラを、謳うのならば」  「この程度で死ぬな。燃え盛れ」  「あらゆる物質を己の元素へと換えろ」  「パラケルススを嘲笑ってみせるがいい」  「は、は、は、はッ!」 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ──哄笑があたしの頭蓋の中を揺らす。──呼吸ができない。──平衡感覚が、ぐにゃりと、歪んでいく。 ──恐怖が、押し寄せる。──怪物を目にした時よりもずっと激しく。 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ……も、う……。……や、め、て……お願い……。 声を絞り出す。言葉になったか、どうか。震える舌、震える喉、震える体のすべて、男の哄笑に怯えて。動かない。 意識が混濁する。何が起きたのかを理解できない思考のせい、それとも、まともに呼吸できない喉のせい。 男の笑う声だけが聞こえる。自分の声も、息も、何も聞こえてこない。 ──そして。 ──あたしは、闇へと、落ちる。 ──黒に塗り潰される。──恐怖に押し潰されるまま、視界を失う。 ──ひどく恐ろしい闇色の奥底へと。──あたしは、落ちていく。 ──すべてが夢であってと。──誰かに、何かに、祈り続けながら。 ──暗い。 ──ここはなんと暗いのだ。 石畳の路地を歩く革靴の乾いた音はない。既に、ここにはひとつの音しか。 私の靴音もない。私の息づかいの音もない。 歴史上最高の繁栄を謳歌する大英帝国、首都ロンドンの暗がりを歩く私の息も、靴音もないのだ。 ここには誰もいない。ここには誰もいないのだ。 そして、私は今は何の音を出すこともない。誰もいないここで、音はたったひとつ。 闇から迫り来る恐ろしい“あいつ”の音だ。聞こえてくるのはその音ひとつ。私の背後にあったその音ひとつ。 音の正体は、私には、言うことができない。ただ、無限の暗がりであるとしか。 私は逃げることができなかった。私は追いつかれてしまったのだ。背後から迫られ、巨なる顎に呑み込まれて。 私は殺されて消失するのだ。ただ死ぬのではない。 未来へ、私は、進むことができなかった。過去を、顕現させることもできず。 私や少女が恐れるものさながらの力で、私は最早、呑み込まれ、砕かれてしまった。 もう遅い。もう遅い。私が、闇ならぬ身であったが故に── 闇を私は克服することができなかった。かの闇は、方程式によって私の命を砕いた。 「シャーロット……せめて……」 「せめて……聡明にして…… 寛大なる、きみ、だけは……どうか……」 「この果てなき苦しみから……」 「逃れて……くれると……。 そう、信じて……いる、よ……」 やがて。 やがて、 ひとりの男が、此方から消えた── ──瞼を、開ける。 ──酷く眩しいと感じる。──こんなに、夜のロンドンは暗いのに。 霧と排煙の中でほのかに輝く機関街灯は、黒い街よりも、遙かに明るいと思わせる。 目覚めた場所はロンドンだった。僅かに、あの黒い街の気配が残っている。 人の姿がないから。車の姿がないから。ぼんやりとそう考えながら、起きあがる。 ……ん……ぅ……。頭、痛い……。 ここ……。クィーンズストリート……? ──頭の奥底が妙に痛んで、記憶が、霞む。──はっきりと思い出せない。 ──黒い街。怪物。そして、ふたりの人影。──切れ切れの篆刻写真のような記憶。 細かな出来事までは記憶に残っていない。それでも、震えがまだ残っている。 漠然とした恐怖の記憶が、怪物たちと黒い男の声が、微かな震えとなって体に染みついていた。 恐怖。黒い街と怪物がもたらしたもの。 恐怖。隻眼の黒い男がもたらしたもの。 目覚めたか。 ──声。あの男の、声だった。──あたしは、背筋を震わせて硬直する。 視線を巡らせる。背後に、黒色に身を包む男の姿があった。 そこには男だけ。霧と排煙の中には彼だけが佇んでいて、陸軍風の軍装をした女の姿はなかった。 ご苦労だったな。仔猫。お前のお陰で逃がさずに済んだ。 姿が、顔が見えた。街灯に照らされて。見覚えがある。 ──丈の長い黒のコートだけではなくて。──全身すべてが黒。 ──黒い髪。──黒い服。 ──黒い眼帯は、贋物ではなく本物? 左瞳は透き通る青。なぜか、メアリは黒い街を連想していた。 男の瞳の奥に──あの恐ろしく無機質で暖かみのない黒い街の気配が漂っている、ような。 ……ミスター・ホームズ……? そう名乗った覚えはない。 俺はシャーロック・ホームズではない。俺をあれと一緒にするな。 ……あなた、誰、なの……。何を……。 ──言葉が、出てこない。──尋ねるべきことがあまりに多すぎて。 ──ホームズ。怪物。黒い街。女性。──シャーリィのことも。──怪物を殺したことも。 何もかもがわからない。何もかもを尋ねたいけれど、唇が動かない。この男が、何をしようとしているのか、と。 彼がその気になれば、自分などほんの一瞬で命を奪われる。 怪物。あの怪物ですら、殺してみせた。人間など容易いものだろう。 ──怖い。彼の視線に晒されるのが。──なのに。 ──あたしは、逃げようとは思わなかった。──怪物よりも怖いとさえ感じるのに。 ……誰、なの。あなた。 『M』だ。 ……M……。 イニシャル。何かの暗号。それとも、本当にそれが彼の名のだろうか。 それすらわからない。何ひとつ。呆然と、メアリは立ち竦んだ。 男が靴音を立ててこちらへ近付くのを、黙って、見ていた。 消え去った炎の怪物が接近したのと同じ、1フィートの距離。それすら通り越して、男が近付いてくる。 青い瞳がメアリを見つめていた。右手が、伸ばされる。 ──彼の右手が。──無遠慮に、あたしの顎に触れる。 ──すべてが不可解で、理不尽で、奇妙で。──今も、怖くて、震えが止まらないのに。 ──あたしは動けなかった。 お前は、事実だけを見ていればいい。それだけでいい。 好きなだけ怯えろ。震えろ。だが、お前は選択する必要がある。 男の── Mの手はひどく冷たかった。体温はある。けれど、氷を、思わせる。 体の震えがひどくなる。怯えているのだ、彼の言う通りに。 ……選ぶの、何を。 俺の言葉に従うか否か。お前には、選択の自由が残されている。 言葉に、従う……? 餌になれ。 お前は生き餌だ。俺が《怪異》どもを狩るための。 ──言葉の意味はわかった。──怪物たちはあたしの右目を狙うから。 ──初めて。ひとつだけわかった。──彼が、Mが、あたしを助けた理由。 餌。生き餌。怪物たちを殺すための。そうする理由はわからない。ただ、彼にとっての価値だけは理解した。 体の震えは止まらない。けれど、奇妙に落ち着いていくのを感じる。 あなたの、言葉に、従えば……。あたしはどうなるの。 死ぬだろう。お前が諦めた時に、すべてが終わる。 だが、もしもお前が諦めなければ。お前の願いは果たされる。 シャーリィを……。あなたは、目覚めさせてくれる? ──ぞくり、とした。──ひどい寒気が肩を大きく震わせる。 ──怪物よりも恐ろしく思えた男に。──あたしは。取引しようと、してる。 そうだ。お前の願いは果たされる。 タタールの門が消え去る時、シャーロット・ブロンテは目覚める。 あなた、が……。 いいえ、あたしにはわからない。あなたの言葉の意味。 あの怪物たちは、何。あなたは誰。 他にも尋ねたいことは幾つもあった。けれど、声にできたのはふたつ。 なぜ、それを口にしたかはわからない。ただ、何かを聞くべきだと思ったから。この男と取引するのなら。 この男と契約するのなら、頷くだけでは、足りないと感じたから。 あれは《怪異》だ。世界で唯一生き残ったおとぎ話だ。否定されるべき超常の現象どもだ。 ──そして、俺は、俺だ。 俺はこの案件に興味を持った。お前の右目と、目覚めた《怪異》に。 ただそれだけだ。多くを知りたいと望むなら、望め。 お前が、俺に誓うのであれば。お前は、多くを知ることになるだろう。 そして、お前は友を取り戻す。俺に誓うのであれば。 顎に掛けられた手が僅かに動く。視線が、メアリの右瞳を見つめていた。 気のせい、だろうか── 彼の目は、なぜか、眩しいものを見るように歪んで── 或いは、すべてを忘れ、ベッドの上で目覚めることもできる。 選ぶがいい。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 ……あたしは……。 ──答えは決まっている。──迷うことなんか、あるはずがない。 ──そうよね。シャーリィ。 ……あたしは、あなた、に……。 ──あたしは、瞼を閉じる。──彼の目を見て答えたくはなかった。 誓うわ。あなたに誓う。だからお願い、シャーリィを助けて。 願いは果たされる。お前が、決して、諦めない限り。 ──待て。しかして希望せよ。 夜が明ける──僅かな眠りに就いていた都市が目覚める。 都市を稼働させる機関の駆動音が、人々の活動と共にあちこちに充ちていく。 夜の暗がりは消えてゆき、機関街灯も己の役目を終えて明かりを失う。僅かな数の小鳥たちが、朝の訪れを告げる。 機関都市ロンドン。世界有数の大都市にして英国の中枢。 恐るべき怪物が跋扈したことを知る者は、殆どいないだろう。かの《結社》に連なる者か── 或いは、この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者以外には。 べーカー街221B。整頓とは程遠い状態の部屋に、男がいた。 彼の名を知る者は多い。殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 他にも、そう、多くの市民たちもそうだ。彼の武勇伝は新聞や伝記的小説によって幅広く伝えられている。 それは、パイプを片手にした男だ。知識の深淵ですべてを見通すという男だ。 英国はおろか西欧諸国全土、果ては異境カダスの北央帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。 欧州全土の事件を解き明かすという、男。ディテクティブの王だと自ら称する、男。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、男。 北央帝国から《知り得るもの》の大称号を賜った唯一の男。 容貌は伝記的小説の書く通り。高い鼻も、また然り── 男の名は、シャーロック・ホームズという。多忙極まる諮問探偵であった。 ……なるほど。 きみの言わんとするところは理解したよ。また、随分と難題を持ち込んだものだね。マイクロフトは何をしていた? いいや、それは問うまい。彼が《機関回廊》の使用を許可したのなら、そこには国家的理由が存在しているはずだ。 しかし……。ワトスン不在中にS級事案の発生か。 今回の事件は、まあ、本にはできまいが、彼がもしもこれを知れば悲しむだろうね。僕も心苦しいよ。 彼は誰かと対話していた。それは、部屋の奥で静かに佇む何者か。 我が兄も人使いが荒い。きみからも忠告しておいてくれたまえ。 TIMESの夕刊にはまだ間に合うな。通り魔は逮捕ということで宜しいのかな? ……ふむ。警官隊による射殺か。 面白みに欠ける演出だとは思うがね、それが依頼であるというなら仕方がない。しかしね。 すべてを見抜くと評された眼光が、窓越しに見える複合超高層高架を捉える。 排煙を噴き上げて空を充たすそれらを、彼は、忌々しげに睨み── またもや私の仕事を増やしてくれた男には、いずれ礼をせねばなるまいよ。 ──M。あの、奇矯な道化者め。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の開始と。──深遠なる認識の開始を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「至高なりしはこの世にただひとつ。 我ら《結社》が総帥たるヘルメース師」 「すなわち。 アルトタス=トート=ヘルメース」 「しかし、かの師の威光をも凌ぐものが」 「女王のあり得ざる在位によって守られた 王都へと降り立つのでございましょうや」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「しかし、吾輩は望むでしょう」 「飽和した文明の終焉と、 虚構と現実とが行き違う回転悲劇を」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「2人目の調子はすこぶる良い模様です。 ご案じめされることはありません」 「いずれ、タタールの門は開きましょう。 悲鳴は取り揃えております。 まだまだ《怪異》のストックは豊富です」 「で、あるが故に」 「儚くも美しい彼女らには、 吾輩の愛と、最大限の敬意を払いまして」 「──尊い犠牲になって頂くとしましょう」 ──ドアの鍵を開ける。 ──足下がおぼつかない。倒れそう。──体中に痺れが残ってるみたいに感じる。 あの晩の時と同じで、黒い街で全身を苛んだ軋みと痛みもない。断裂しているとさえ思った脚の腱もない。 なのに、疲労感だけが体にある。クィーンズトリートからここまで歩いて帰ったせいだけではないとメアリは思う。 頭と胸の奥底に、巨大な恐怖の残滓が漂っている。 緊張と戦慄を今もうっすらと感じている。彼の、Mの手の冷たさも。 朝の冷え込みが気にならないくらいに、あの冷たさが、体を、冷やす。 ……ただい、ま……。 声が少し掠れていた。気のせいか、まだ呼吸に違和感がある。 下でミセス・ハドスンから受け取った電報を握りしめたまま、メアリはベッドに倒れ込む。 着替える気力も残っていない。疲労からくる眠気に、耐えられそうにない。 朝帰りを咎めるミセス・ハドスンの小言も、何を言われたのかもう覚えていない。顔色について、何か、言われたような。 起きたら謝りに行こう。きっと、ろくな返事ができなかった。 ──着替えも、起きてからにしよう。──今は、何も考えたくない。 ──あたしは、そう、思いながら。──握った電報を机へ。 ベッドに横たわったまま机へ手を伸ばす。封筒を置きかけて。 手が止まった。差出人の欄を目にしたせい。 ……え……? ……シャーリィ、から……。え、これ……。 眠りかけていた意識がすぐに覚醒する。差出人の欄。間違いない。 差出人、シャーロット・ブロンテ。封筒の表を見ると日付指定の印があった。 電報の入力日付は13日前。シャーリィが昏睡した晩よりも1日前。 ペーパーナイフを取る余裕はない。行儀が悪いと怒られても構わない。そう、シャーリィがそうしてくれるのなら。 折れ目を付けて指で封筒の先端を千切る。専用便箋を取り出す。 文面に視線を巡らせる── え、と……。これ……カダス碑文……? 無意味なアルファベットの羅列のような、けれどそれは、確かに文章だった。 碑文の発音をアルファベットで表音して、文章にしているのだ。ごくたまにシャーリィの書いた、暗号。 半年ほど前だったろうか。お遊びで、シャーリィがやり始めたこと。 ……え、と、愛……愛しい……。 神聖文字の小辞典を手に取ることすら、今は煩わしい。文面を、なんとか、読み取る── 『愛しい、メアリへ』 ──少しだけ時間がかかった。──焦る気持ちが、読解の邪魔をする。 ──それでも読み取れないことはない。──シャーリィの、言葉。 『あなたが、この電報を……』 『愛しいメアリへ』 『あなたがこの電報を読む頃には』 『わたしは死んでいるか、 そうでなくても、きっと……』 『あなたやアーシェと、午後のお茶を 楽しむことはできていないのでしょうね』 『ごめんね。メアリ』 『きっと、あなたは混乱しているでしょう』 『何が起きたのかさえわからずに、 混乱させてしまっていると思います』 『ごめんなさい』 『でも、それでいいのよ。 あなたは知らなくても良いことなの』 『だから……』 『お願い』 『もしも、あなたが…… わたしを心配するあまり、何か、危ない ものに関わりかけているのだとしたら』 『お願いだから、やめて』 『忘れて。忘れてしまって。 嫌なこと、怖いことの全部と一緒に』 『わたしのことは、どうか忘れて。 わたしはきっと、大丈夫だから。 お願い、メアリ』 『まじめに勉強をしてね。 アーシェとはずっと仲良しでいて頂戴ね。 あなたは、ちゃんと明日を楽しく生きて』 『お願い』 『お願いね。 可愛いメアリ』 『わたしの大好きなメアリ。 泣いてはだめよ、ずっと笑っていて』 『メアリ・クラリッサ。 あなたが、どうか幸せでありますように』 文の解読には。少しだけ、時間がかかった。 ほんの少しだけ。機関式暖房機のスイッチを入れてから、部屋が暖まるまでの、ほんの数分程度。 ああ、そうだ。暖房のスイッチを入れていない。 ああ、そうだ。せがまれていた“続き”も書かないと。 教授と約束した個人課題だって残ってる。皆で劇場へ行く約束も、皆でハロッズへ行く約束もある。 月に1度は夕食を一緒に。そんな約束も、そういえば、あった。 やるべきことはたくさんあった。約束したこともたくさんあった。でも。 今は、無理。今は、ここから動けない。 足が動かない。電報が記された専用便箋を握り締めた手も。 動くのは── 瞼と、そこから落ちる雫が少しと。あとは唇くらい。 ……何よ。 何よ……。何なのよ、それ……。 忘れて、って……言われ、たって……。そんなの……。 ……無理、に、決まって……。 ……なに、よ……。ひとりで、いつも、いつも……。 ……誰にも、黙って……。 強く強く握り締められた専用便箋からは、くしゃり、と、音がした。 あまりに軽い感触だった。言葉の重さに対して、あまりに軽い。 雫が落ちて── 握り締められた便箋をひどく濡らして、インクが滲む。文字が、歪む。 忘れられる訳……ないじゃない……。馬鹿、ばか……。 ……シャーリィ……!  『……怖いの』  『もしも』  『もしも、何かがあって』  『あなたに何かがあったら』  『わたし……』  『シャーリィ、大丈夫よ』 『メアリは大丈夫。つよいもの』 『だから』 『だからね。シャーリィに何かあったら』 『メアリがきっと助けにいくわ』 『約束したもの』 『約束……』 『うん。約束』 『……うん。ありがとう』 『約束…』  『いっぱい泣いていいのよ』  『わたしが拭ってあげるから』  『ね、メアリ……』  『泣かないわ』  『あたし、男の子にだって負けないのよ』 ──暗い。 ──ここはなんて暗さなんだ。 石畳の路地を走る革靴の乾いた音が響く。それ以外に何の音もない。 いや。違う、他にもあるだろう。そうだ。聞こえるのは俺の靴音だけでない、逃げるためにと走るこの俺の靴音以外にも。 息づかい。喉から漏れる声ではない音がある。 誤った歴史を歩み続ける我が大英帝国、首都ロンドンの片隅を走る男の荒い息、この俺の喉の音。 ここには誰もいない。そんなことは始めからわかっているんだ。 時間がない。そう焦る気持ちが俺の足を動かしてしまう。 走る。走る。俺は機関街灯の明かりの下で、せめてこのブロックからは逃げ延びようと走り続けるのだ。 機関街灯の明かり。ソーホーの共同住宅の温熱機関の稼働音。生活を感じさせるものは確かに在るのに。 ここには誰もいない。俺しか、生きる者も動く者もいない。 俺は走っている。俺は、迫り来るものを感じているから。 ──逃げろ。 逃げろ。         逃げろ。                 逃げろ。 背後から迫るもの。それが、この俺に追い縋り、その鋭い牙で俺の喉笛を噛み千切ろうとするのがわかる。 捕まってたまるか。俺は走る。 ふと俺は気付いた。長いはずのこの俺の手足がひどく短くて、ああ、そうだ、少年の頃の姿でいるのを。 幼い俺は逃げる。背後から追い続ける“あいつ”から逃れて。 生け贄となった少女など知ったことか、俺は、俺の力ですべてを成し遂げてみせる。だから俺を追うな。俺を殺すな、この俺を。 俺が── 俺が、俺が王にさえなれば、すべて。一切の問題は消失するのだ。背後から迫るものもいずれ消えるだろう。 時間。時間だけが俺の敵だった。時間さえ、俺に味方してくれれば、俺は。 俺は王になることができるのに── けれど。 けれど、 もしも、この身が闇ならば── 暗がりが消えていく。 冷たさが薄れていく。 朝の陽は雲の向こうからロンドンを暖める。 朝を告げる小鳥たちの囀りの中、まだ外に出る人も少ないテムズのほとりで。 誰の視界にも入ることなく、誰にも気付かれずに立ち尽くす人影ひとつ。 稼働を始めたテムズ向こう岸の機関工場群、それらのもたらす排煙が混ざる霧の匂いに眉を顰めることさえなく。 ひとつの人影はテムズの沿岸道に立って、ひとつの建物の2階を見つめ続けている。ひとつの窓を。 人影は、言葉なく見つめる。ひとつの窓を。 ……。 人影の名はセバスチャン・モラン。かのMなる人物の補佐を務める女だった。 広域フラグメント監視網、もしくはごく短く“情報網”と呼称される無形の情報ネットワーク網を把握する女だ。 網はこのロンドン全域を覆い尽くす。市民にも、政府の人間や情報処理機関にも気付かれることなくすべてを監視するのだ。 情報網を用いるだけで十二分なはずだった。目標Aの監視任務など。 テムズのほとりのささやかな下宿。あれが目標Aの住居。あれが今の監視対象。 けれど、機体をここまで移動させる必要などない。女は、ロンドンの何処からでも網を見る。 大脳と置き換えられた演算機関がフラグメントと常に接続されているから、女は、機体の光学眼を用いる必要はない。 ここに立つ必要も、窓を見つめている意味もない。 陸軍服に施された暗示迷彩によって人々の視覚と意識から“外れる”ことで擬似的な“透明”を続ける必要も、ない。 ここにいる必要はない。接続した網から情報を受け取るだけで良い。 それでも── …………。 ……メアリ・クラリッサ。 それでも、女は、窓を見つめていた。小さく呟いて。 ──暗がりの中で。 ──ふと、名を呼ばれた気がした。 ──誰? いつも通りの朝だった。テムズ向こうの工場区域から響く機械音。 遠くでカーンと高い音を立てる機械音に、今ではもう、慣れてしまった。ここへ越した時は驚いたのに。 瞼を閉じたままでも、朝の気配が周囲に充ちていくのがわかる。 テムズ河の澱んだ流れから生まれる音。仕事場や学校へと出かける人々の足音。僅かな小鳥たちの、囀り。 いつもの、朝。この2年間に感じてきたものと同じ。 ──気のせいだろうか。──今は、特にそれを強く感じている。 ──音を聞いているのに。──瞼を閉じた右目に像が浮かぶかのよう。 朝の気配。朝の景色。いつも通りのロンドンの朝。 ……んー……。 ゆっくりと瞼を半ばまで開き、枕元に置いた非機関式時計の表示板を見る。 かちり、かちり、と秒針を鳴らす時計。昔ながらのもの。幼い頃と、同じ。 時計までもが機関で動くこのロンドンで、せめて眠る時と目覚める時くらいは機関の駆動音を聞かずにいたかった。 だから古い時計。母の、そのまた母が誰かから貰ったもの。 温熱機関や周囲の建物から響く機関音はあるけれど、枕元に置くなら、非機関式。ちょっとしたこだわりだ。 ウェールズの片田舎の頃を思わせる、静かな気配が欲しいから。せめて、眠っている時は。 ……7時半……。 もう、朝……。おはよう、メアリ……。 ……おはよう。 呟いてみる。いつもの朝の風景に、いつもの空気に。 いつもと同じ。1階から漂う、卵料理と、ミルク多めのコーヒーの香り。 いつもと同じ。ここに残った、昨日の夜に服へ吹きかけたコロンの香り。 いつもと同じ。けれども、何かが違う。 ──違うのだとわかる。──いつもと。 ──黄金色の右目がそう告げている。──そんな錯覚があった。 ……起きないと。 ベッドから這うように出て、テムズに面した窓を覆うカーテンを開ける。灰色の空越しに輝くはずの太陽を、感じる。 灰色雲が、やや、白んで見えているような。でも、目が眩しいと思えるほどの光はない。白んだ気がするだけ。 沿岸道を歩いて地下鉄駅や大通りへ向かう人々を眺めて、朝を強く感じる。人々が目覚めて、動き出す時間。 ……顔、洗お。 洗面台へ。たっぷりの冷たい水を使って顔を洗う。 ウェールズの井戸水ほどではないけれど、ロンドンの水道水は冷たい。顔を洗うのには最適。目が覚める。 澱んだ意識が澄み渡っていく。今日、何をすべきかが思い出されていく。 いつものように碩学院へ。それから── 本当に、朝食はあれだけで良いの?後から、お腹が空いてしまわないかしら。 卵料理だけなんて……。だめよ。パンもちゃんと食べないと。 ごめんなさい。今朝は、お腹が空いていなくて。 昨日も同じことを言っていたわね、メアリ。その前の日もそう。 成人年齢が法律で下がったとは言っても、まだまだ育ち盛りなんですからね。だめよ。ちゃんと沢山食べないと、ね? はい。ごめんなさい、ミセス・ハドスン。 心配なのはわかるけど、あなたがろくに食べずに倒れたりしたら、本末転倒なのだからね。覚えておいて。 ……はい。 1階での朝食の後。ミセス・ハドスンに見送られて、外出する。 すべてを見透かしてしまうようなミセス・ハドスンの穏やかな目を見るのが少しだけ嫌だった。そう、ほんの少しだけ。 そう感じてしまう自分自身のことが、もっと嫌だった。沿道を歩きながらメアリは溜息を漏らす。 濁ったテムズから漂う匂いは今朝も酷くて、いつもなら眉を顰めていただろう。けれど、今、メアリはそうしない。 あまり気にならなかった。五感に与えられるものの殆どを、どこか、遠い夢の出来事のように感じてしまって。 いつもと同じ朝。なのに、確実に何かが違う。 ……。 ……少なくとも。これは、いつもと、違うわよね。 囁く。誰に言うでもなく。 視線は“影”へと巡らせていた。自分のではなくて、すれ違う紳士や街路樹、いつもは目を向けることなどないただの影。 見えるものがあった。いつもは、目にしたことなどないもの。 人影── そう呼ぶのには抵抗があった。少なくとも、それは人間には見えないから。 人型の影。正確にはそう。人間であるとか“誰か”であるとか、そういうことは決してない、人型の。 ──影人間。 ──あたしにだけ見えるという人型の影。──監視役を務める影。 ……本当に。 本当に不気味だわ。すごく、不気味。なんなのかしら……。 あたしだけに見える……。っていうのは……。 呟く。ただの独り言を。 あの彼のような黒い服を着た人型のもの。こんなに異彩を放ってテムズのほとりに立っているのに、誰ひとり驚かない。 すれ違う婦人も紳士も、テムズ向こうの人らしき労働者の男性も、誰も、誰も、この奇妙な白い顔を見ない。 本当に、他の誰にも見えないのだろう。始めは信じられなかったけれど。 ……。 まじまじと顔を見ても、視線が合わない。それには目がないからだろう。 初めて目にした時は驚いた。黒い街の怪物の時ほどではなかったけれど。 ──他の誰にも見えない、彼の影。──これはきっと、そう。 ──悪霊か何かなのだろうと思う。──契約を交わしたあたしに取り憑いた。 ……契約……。 口の中で言葉を転がす。どんなに“いつも”が歪んでも忘れない。 どんなに気分が晴れなくても、どんなに奇妙なものが見えていようとも。どんなに黒い街と怪物を恐れたとしても。 忘れない。そう、契約を交わしたことだけは。 ──助け出すの。──絶対に、あたしが。 ……シャーリィ。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「かのバスカヴィル公の悲しむべき事件は 皆さまの記憶にありましょうや」 「吾輩にとっては記憶に新しく、 昨日のように思い返すことができますが」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「さて、しかして」 「バスカヴィルに仇なす怒りの獣、 怨念の最たる黒き魔犬はいかがでしょう」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「何の仕掛けもございません」 「怒りとは、 純粋なる人間の情念につきますれば」 そこに音はなかった。そこに声はなかった。静寂と、無言の祈りが空間に充ちていた。 それは過去、1904年の暮れ。7名が集まって行った、とある降霊会にて。 ひとりの男が宣言する。同胞たる6名へ、確固たる意志を持って。 周囲に充ちた暗がりの中に何かがある。それは、蠢く闇だったか。それは、赤い瞳だったか。 無数のそれらに無音で取り囲まれたまま、男は、言葉を。 ──高らかに。──高らかに、けれど僅かに怯えを残して。 ──誇らしく。──誇らしく、けれど強い信念を込めて。 そして、俺は願いを叶える。 それは終焉だ。それは願いの果てへと至る、我が信念。 俺は恐怖より解き放たれる。俺の信念は、やがて、タタールの門を開く。 だが……。 俺は思う。俺は願う。この恐怖がもしも幻想であってくれればと。 しかし、俺は既に知っている。俺の恐怖が紛うことなき現実であることを。揺るぎなき信念でさえ、敵うことは、ない。 この身を苛む俺の恐怖。それは── 不滅のはずの信念と想いが、ただ一陣の風に過ぎなかったとしたら── おはよ! メアリ! おはよう、アーシェリカ。今日も元気いっぱいね。 そうよ、いつもアーシェは元気なんだから。朝食もたくさん食べてきたし、課題はなんにもやってないし。 ……アーシェ。 うそうそ。あはは、ふたつはやってきましたよーだ。 ……全部で幾つ出てたの? よっつ。 アーシェリカ。シャーリィの代わりにあたしがあなたにお説教してあげないといけないのかしら。 お喋りならいつでも大歓迎よ♪いいの、ふたつの課題はお昼休みにやるの。 もう……。 ふふふ。 困った顔のメアリへ笑顔を向けると、アーシェは隣に立ってするりと腕を組む。自然と。ハワードにするよりも親しげに。 メアリの体温を腕に感じる。アーシェは、内心でほっと息をつく。 ここに。碩学院の中庭に。確かにメアリは現実として立っている。 シャーリィのように消えてしまわないかと、アーシェは意識の片隅でそう考えてしまう。だから、こうして確かめる。 ここにメアリがいること。毎朝、ちゃんと院に来てくれていること。 あれから1ヶ月──シャーリィは未だに碩学院に姿を見せない。昏睡状態のまま、今も、目覚めてはいない。 あの不気味なチャペック博士は姿を消して、失踪だとか噂にはなったけれど、シャーリィの時ほど騒ぎにはならなかった。 元から客員教授扱いで、いつ国に戻るのかわからないような話があったらしい、とはハワードから聞いたアーシェである。 (そういえば……) (メアリもあんまり驚いていなかったっけ。 うん、確かそう、よね) そう、メアリ── 1ヶ月という時間が過ぎた現在では、メアリの様子はあの時より随分良くなった。あの時。シャーリィが倒れてからの1週間。 あの時と違って、ここ暫くのメアリはいつも通りに見える。けれど、何だろう。なぜか、気になって。 ふとしたことが気になって仕方がないのだ。例えば、仕草であるとか、表情であるとか。アーシェは小さな不安を感じていた。 そう。ここから消えてしまうのじゃないか、と。 ね、メアリ。講義の予定ってどうなってる? ん? ええと── きょうは午前中の講義だけね。木曜は、特に午前中に集中してるから。 またカフェに行かない?ドアーズのいいのが入ったんですよってベルが言ってたの。あとあと、アッサムも。 素敵ね。 でも……ごめんなさい、アーシェ。 メアリの表情が曇る。何かを言い淀んでいるとアーシェは思う。 言葉を待つ。いつもなら急いて先を訊ねているけれど、今は、何を言うのかを、静かに、待って。 予定があるの。人と会わないといけなくて。 誰と? ……ごめんね。 ──ごめんね?──どうしてアーシェに謝るの、メアリ。 言ってくれない。メアリは誰と会うのか、どこへ行くのか。 ごめんねと呟いたメアリの横顔を見つめて、続く言葉を待つけれど、唇は、動かなくて。沈黙。 登院する若い男女が行き交う中庭で、ふたりの、アーシェとメアリの間の空気が奇妙に、歪んでいる。そんな錯覚があった。 ──秘密なの?──アーシェに、何も話してくれないの。 ──1ヶ月前は話してくれたよね。──ミスター・ホームズと約束した、って。 あの日、あの晩、あの時は、心配するあまりおかしくなりそうだった。今も思い出すだけでアーシェは怖くなる。 火付け通り魔という恐ろしい犯罪者が出て、メアリがその出没地にいるのではないかと、歯の根が鳴るほど震えてしまった。 後からメアリ本人に聞いた話では、電信が混線して不通になった直後、地下鉄に乗ってちゃんと帰れたのだという。 本当に良かった、とアーシェは思う。何事もなくて。 ──うん。何事もないなら、いいのよ。──大好きなメアリ。 ──今日も、そう、なのよね、メアリ?──なんにもないんだよね? ……うん。じゃあまた明日ね、メアリ。今度は一緒にお茶しよう? ええ。近いうちに。 それじゃあ、約束ね。クローディアさんのお店へ一緒に行くって。 ……うん。ごめんね。 謝らないで、メアリ。ううん、用事があるなら仕方ないもの。 でも約束したからね!極東だと、約束破るとこわいのよ〜。 近いうちに。そう約束してくれたことが何より嬉しい。 でも── ──でも、明日じゃ、ないんだね。──メアリ。 明日ではなくて、近いうちに。期待した答えではないけれど、それでも、アーシェリカは決して落ち込まなかった。 約束してくれたことが嬉しい。何よりも。でも、でも。 気になってしまう。何を隠されているのだろうかと、思って。 思って、気になって── ──悲しい、って、感じちゃうよ。 ──少しだけ。 コッツウォルズのクロテッドクリーム。機関製の手作り風ストロベリージャム。スコーンと、ティー。 素朴な外見とは裏腹に抜群に美味しくて、お値段も手頃。 アーシェお気に入りのティーセットらしい。アフタヌーン・ティーを楽しむ時は、大抵、このセットを頼んでいるのだとか。 もっとも、特別にお勧めのものがあったり、一緒に来たメアリやシャーリィが他のメニューを注文する時は、別らしい。 けれど、今日は、メアリもシャーリィもいないのだ。 紅茶をベルお勧めのドアーズのものにして、あとは、アーシェのいつもの通りのセット。なんという幸福だろう。 そう、彼は── 彼は、ハワードは言いようのない幸福感を感じながらティーカップに口をつける。熱いティーが流れ込む感触が心地よい。 見事な香りだ。 流石はきみのお勧めの店、流石はきみのお勧めのセットだね、ハニー。 ……うん……。 ハワード・フィリップスは愛する婚約者と小さなテーブルを挟んだ正面の椅子に座り、確かな幸せを噛み締めていた。 彼にはこの上ない幸福ではあったが、しかし、どうにも婚約者の表情は晴れない。 ふふ、お楽しみいただけていますですか?おふたりとも── どうです?インドから飛空艇便で届けられたばかりの、よい茶葉なんですけど、お口に合いますか? レディ・クローディアもお気に入りで、きのうも今日もご自分で淹れて楽しまれてらっしゃるんですよ〜。 それにそれに、あの夕暮れの君も、ドアーズは最高だって仰ってくだすって…。 ……うん、おいしい……。 ああ、実に美味だ。芳醇で香り深く、新大陸人のこの僕でさえこの紅茶が上品で良いものだとわかるとは。 どうかご店主に宜しく伝えて下さい。ありがとう。あと、その“夕暮れの君”にもね。 えっ、あっ、は、はい!聞こえてらしたんですね、すみません…。あたし、ひとりごと大きくって……。 (この彼女の様子は──) (何か良いことでもあったかな?) 恐らく気のせいではないのだろう。女給の笑みには艶というか、健康的でまっすぐな華やかさが感じられる。 この女給は自分と同じに違いない。そう、ハワードは見当を付ける。 オックスフォードの学舎移転という奇跡から始まった自分の幸運と、同じく。 恋という幸運を、この女給も感じているに違いない。 同じく恋をしている者に特有の直感だとか、脳作用だとか、そういう類に違いあるまい、そう冗談めかして思うハワードである。 大学の講義を当然のように欠席し、事業の取引相手との会合を延期し、暇をしていた顔で店へ来たハワードである。 どんな予定があろうとも構うことはない。なぜなら、以前より話題には上っていたカフェなのだから。 愛するアーシェの唇から、友人たちとの楽しい時間を過ごすこの店の話を聞く度に体験したいと思っていたのだ。 そしてそれは、本日、現在、叶うこととなった。 アーシェから突然の電信通信があったのだ。アフタヌーン・ティーを一緒に、と。 それじゃあ、ごゆっくりしてらして下さい。レディがお戻りになったら、きっとこちらへご挨拶に伺いますから。 ありがとう。 満面の笑みの続く女給へと頷き、他のテーブルへと向かうその姿を眺めて── ハワードは、小声で、愛する婚約者にだけ聞こえるように。 ……やれやれ。あれは恋の病にでも落ちたのかな? 同じ病に罹っているから、僕にはピンとわかってしまうのだけどね、ハニー。 ……うん。そうかも。 俯き気味に頷くアーシェリカの表情は、やや翳って見えた。 1ヶ月前にドライブをしたあの時と同じ、華奢でか細い体いっぱいに心配事を隠し、俯きがちに何かを考える表情。 本来、多大な勇気と誇りに充ちた彼女が助けを求めることなどありはしない。現に今もアーシェリカは、何も、言わない。 (けれどね) (僕はひとつ知ったのさ) (きみが何よりも大切にする友人の苦難、 それだけは、勇気あるきみさえ持て余す) 大切にしているが故、か。その中に自分も含まれていますようにと神へと密かに祈りを捧げ、彼は唇を開く。 ところで、と。穏やかな声で。まずは、今日のために用意した世間話を。 ──新型機関が発表された話。 ──女王陛下のご健在を祝した贈り物の話。──カダス北央と東部からの秘密の贈り物。 ──カダス地方東部の王侯連合の新技術。──その基礎理論が英国へ譲渡された話。 ──レース編みの機関工場の株価の話。──現在のインド領の話。 ──アフリカ大陸の秘境の話。──ダ・カールレースが開始されたとの話。 ──ハロッズの新作ケーキの入手難度の話。──毎日1時間で売り切れてしまうのだ。 そして── バスカヴィル家の令嬢が、ここロンドンへ訪れたという噂があるんだ。 社交界は盛り上がっているそうだよ。そうだ、アーシェ。アーシェリカ。お姉さんや父君から何か聞いていないかい? ……ううん。どうだった、かな。お姉さま、何か言ってたかも、知れない。 ……うん……。 上の空、というやつだ。ハワードは悲しげな表情を浮かべるものの、決して責めることなく、優しい声で尋ねる。 窺うのではなく、確かめるように。自分が関わっても良いのかと遠慮がちに。 気になることがあるようだね、ハニー。僕が尋ねても良いことかな。 ……うん。気になること、あるの。 何かな。 えっと、ね── ああ。 恐らくは、黄金色の瞳の彼女のことだろう。アーシェリカのもうひとりの大切な友人は、未だに目覚めていない。 であれば。以前のドライブの時と同じく── ……うん。そうなの。心配事。メアリのこと。 様子がおかしいと以前は言っていたね。でも、元に戻ったとも、その後に。 うん。様子は元に戻ったのだけど、ね。最近またちょっと……。 様子がおかしいことはないの。ちゃんと話してくれるし笑ってくれる。でもね。でも。 でも……。 そうして言い淀む。その理由を、ハワードは確かめなかった。 言う必要のあることであれば彼女は言う。アーシェリカはそういう女性だから、ハワードは、尋ねずに、ただ待った。 ……誰かとね、会うんだって。アーシェの知らない誰かと会うみたいなの。誰なんだろ、すごく、気になる。 きみも知らない“誰か”か……。 真剣な面持ちで頷きながら、ハワードは思い出していた。1ヶ月前に、新聞記者の彼の話していた言葉の数々を。 かの碩学たるチャペック博士は姿を消し、夜のクィーンズストリートに突如現れた通り魔は自殺した姿で発見されたというが。 果たしてふたつの件に関わりはあったのか、それとも、一切、何の関わりもなかったか。記者ザックは推論を避けていた。 現在に至るも眠り続けるシャーロット嬢と、チャペック博士の失踪に関わりはあるのか。それも、わからない。 欧州の闇に潜むという《結社》なる組織が、結局のところチャペック博士とどのような関係を持っていたのかさえ── 何ひとつが繋がっていなかった。何ひとつもわからない。 ただ、ひとつだけ。夜の《怪異》の噂は未だに消えることなく今もロンドンに残り、街の噂となっている。 通り魔は死んだというのに── この都市には……。 我知らず呟いていた。最愛の婚約者にさえ届かないほどの声で。 この都市には何かあるのかも知れない。何とも、不気味な感覚だ。嫌な予感は大概にして当たると言うが……。 ……。 ん、なあに? ハワード? いや、何でもないよ。ハニー。 何も── ──そう、何も終わっていないのだ。──未だ、何ひとつ。 ──夜は、始まったばかりなのだから。 「何ひとつ終わってはいない。 何ひとつ、だ」 短く告げる声だった。こちらと会話をするための言葉ではない。 返答の類などを待っていないということは、言われずともわかる。声は、情報を伝えるためだけに、その男の唇から放たれる。 男。そう。部屋の様子に似つかわしくない、黒い男。 ──ザ・リッツ・ロンドン最上階の一部屋。──スィート1502のあるじ。 男の背後に位置する窓からは高層建築群や議事堂、さらには時計塔の姿までも見える。ウェストエンドの街並みだ。 ロンドン西部のウェストミンスターエリア。歴史的建造物と高層建築が建ち並び、女王陛下のおわす宮殿もこの地区に在る。 成る程確かに、王宮と政治の中心とが集う地区の高級ホテルの一室であるだけあって、この部屋は華やかではあった。 形容するなら、そう。貴族の部屋── 中流層の市民であれば夢や物語の中でしか見れないような手製の敷物に調度品の数々。 おとぎ話に出てくるような豪奢な部屋の中、黒い男の姿は奇妙に、浮かび上がるような、違和感を伴って視界に映る。 ──こう思ってしまうのは何度目かしら。──素敵な部屋なのに。 ──せっかくの綺麗な部屋が台無し。──きっと、あなたのせいで。 自分から10フィート以上も離れた彼を、黒い男を、メアリは見つめる。 黒い男。Mという名は、イニシャルか何かの暗号か。 およそ1ヶ月前のあの日、あの晩、あの時、自分へと手を差し伸べてきた黒色を纏う男。彼について、メアリは多くを知らない。 名はM。ホームズであると一度は名乗ったはずの男。いいえ、考えてみれば名は告げなかったか。 ホームズではなかった男。黒い男。犯罪組織のエージェント。 犯罪組織。正しく形容すれば、それは碩学の集う秘密組織であるという。 呼び名はさまざまだが実態はひとつ。欧州を暗躍するその組織は、英国では、ただ《結社》とだけ呼ばれる。 その活動は、純然たる合法科学実験から重大な犯罪行為まで、多岐に及ぶという。 この男が組織の中でどういう位置に在り、何をしているのか、なぜこうしているか、メアリは知らない。 告げられなかったからだ。質問をしても返答がなかったとの言い方もできるだろうけれど、正確な表現ではない。 告げられなかった。それだけだ。 ──この1ヶ月、何度も質問をした。──あなたは何者なのか、と。 ──組織とは何なのか。──犯罪組織、碩学たちの集う秘密組織? ──それがどうして。──怪物を、殺して回るの。 ──電信通信機の“計器”がなぜ動くの。──頭の中に響くあなたの“声”は、何。 ──何度も、何度も、尋ねた。──でも。 ──彼は唇を開かない。──表情を僅かに歪めるだけで、殆ど何も。 そもそも、ヨゼフ・チャペック博士が接触したという組織の情報を告げた人物が彼であったのに。 彼自身がその一員だった。そんなこと、メアリは夢にも思わなかった。 その、恐らくは事実なのだろうことを告げられたのはほんの1週間前のこと。声を失うメアリへ、彼は── Mは、冷ややかな視線を向けて、こう短く告げた。 『いずれ、他の結社員と会う機会もある』 『覚悟はしておけ。 連中は、大概の場合』 『狂人か殺人者だ』 ──では、あなたはそうではないの、と。──あたしは尋ねられなかった。 そして今日もまた。メアリは、彼の冷たい視線を受け止める。 葉巻から紫煙をくゆらせながらうっすらと睨め付けてくる彼。薄い色の瞳が、ひとつ。左瞳だけなのに、気圧されそう。 奇妙な模様の刻まれた眼帯で覆われた右瞳を揃えて睨み付けられたら、こうもまっすぐ立っていられるだろうか。 数度目になるこの部屋での男との対面。どうか気圧されまいと、メアリは胸の奥で自分を鼓舞する。 毎週一度のこの対面に、いい加減、慣れてきても良い頃と思うのに。油断すると、圧倒されてしまいそうになる。 契約の確認だ。 お前は俺と契約した。この俺と。 奴ら《怪異》の出現時期は不定だ。だが、必ず、お前を狙う。 お前の電信通信機は《怪異》に連動する。それを使って“声”を集めろ。 お前が見事に逃げ延び、4つ集めた時。 お前は“こちら”へと戻ることができる。集められなければ、それで終わりだ。 忘れるな。友を助けたくば“声”を集めろ。 どこか気安く──けれども威圧的に、高圧的な声で。 ──また、契約の確認。──週に一度はこうして彼は確認する。 ──わかっているのに。──あたしは、もう、わかっている。 ──けれど、彼は、同じ言葉を述べる。──同じ表情で。 ──まるで機械仕掛けの人形のよう。──ハロッズの時計台の仕掛けのような。 ──機械。そう。 メアリは目を逸らさず、彼の視線をまっすぐに受け止めたままで、視界の端にもうひとりの人物を認識する。 この広い部屋へメアリが入ってきた時も、彼が話している間も、いつでも、同じに、表情ひとつ変えないひと。 ──背の高いひと。──美しく整った顔立ちに薄い色の瞳。 ──陸軍服に身を包んだひと。──モラン大佐。 フルネームはセバスチャン・モラン。女性であるはずなのに男性の名を持つひと。 倒れる前のシャーリィと歩いていた時、確かにシティエリアで見かけた美しいひと。すらりとした、赤い陸軍服を忘れはしない。 美しいひと。寡黙なひと。少なくとも彼女は人間であるはずだった。 けれど、まるで── 本当の人形であるかのように表情ひとつ動かさず、じっとメアリを見つめてくる。いつも。いつも。 先週のこの契約確認の際、思い切って、メアリはMに尋ねてみた。彼女は、一体どういう人物なのか、と。 見た目通りの軍人?それとも、何か別の何かをしている人? するとMは返答した。数少ない、質問に対して答えたひとつだ。 短く、彼はメアリにこう告げた。何の感情も込めず。 『軍人ではない』 『俺の武器だ』 『それに、ああ。 専用の演算装置でもある』 ──武器。演算装置?──意味がわからない。なによ、それ。 ──たったひとつ答えてくれた言葉がこれ。──あたしは、馬鹿にされてるの? ──わからない、何も。──何ひとつ。 そう── メアリにとってすべてが不可解だった。Mも、モランも。 何もかもが不可解で歪んで見えてしまった。この1ヶ月というもの、TIMESに載る記事でさえもが嘘に思えた。 新聞で発表された事件と“実際”との違い。通り魔ということにされていた炎の怪物、伯父からの電報さえも信じられなかった。 自分の体験したことが周囲の事実と違う。それは、メアリにとって、初めて感じる違和感と嫌悪感だった。 けれど── けれど、誰にも言うことはできないのだ。誰ひとりとして巻き込むことはできない。アーシェも、伯父も。 たとえ嘘をつくことになったとしても、あの、黒い街と怪物にだけは関わらせない。シャーリィと、同じ目に遭うかも知れない。 だから、誰にも。大切な誰かであればこそ、尚更── お前が“こちら”へ一歩近づけば、俺が《怪異》を殺すだろう。 お前は餌だ。奴らを釣り上げるための生き餌。釣り餌。 ええ。わかっているわ、M。 声は震えていないだろうか。凛と、話せているだろうか。視線を受け止めたままメアリは唇を開いた。 彼は多くを語らないけれど、メアリにも幾つかわかることはあるのだ。朧気な記憶の彼方にある黒い街と、怪物。 そう。記憶は、朧気だった。今回は、忘れようと意識してはいないのに。 黒い街で起きた出来事の多くは、記憶の彼方にあって霞んでしまっていた。まるで、霧の濃い日のこの都市のように。 はっきりと思い出せない。記憶にあるのは、息を潜めた自分のこと、そして、懸命に、走っていたということ。 そして── 強く感じた、あの、恐怖の感情の残滓。 他の出来事はあまりにも朧気で。明瞭には、思い出せない。 目にした怪物たちの姿さえ、記憶の中ではぼんやりとしたものになって。 由来不明なれど《怪異》と彼の呼ぶあれは、この、右目を狙う。黄金色の瞳を狙う。 ──黄金瞳。──そう、怪物と、Mは言っていた。 あたしにも確認させて。いつも、あなただけで、ずるいわ。 ほう。 いいだろう。言え。 あたしがあなたの“釣り餌”でいれば、あなたの言葉通りにしていれば……。 ──そうすれば。──友は目覚めると、あなたは言った。 シャーリィは……。無事に、元の通りに目覚めてくれるのね。 そうだ。 俺の指示に従えば、いずれシャーロットは目覚める。 ……本当、なのよね。神さまに誓って、あなたはそう言うのね。 ああ。 口元を歪ませて彼は言う。けれど── けれど、その顔には、何の感情も浮かんでいるようには思えない。確かに、表情は、薄く変化しているけれど。 それだけだ。表情が変化した、という、ただそれだけ。 表情の下でどんな感情を浮かべているのか、メアリにはわからなかった。 彼の薄い色の瞳を見つめても、何も。彼の冷ややかな声を聞いても、何も。わからない。 そう、何ひとつ── お前につく嘘はひとつだけだ。仔猫。 ……そうですか。 ──ああそう。そうですか。──ホームズと誤解させたままだった癖に。 ──でも、きっと彼はわかっている。──言葉は冷たくて威圧的で横暴だけれど。 ──彼は決して愚かではない。──わかっているの、あたしの考えを。 ──名前を偽ったこと以外に嘘はつかない。──彼は、そう言っている。 条件は最悪だった。契約と言っても主導権の何もかも彼にある。けれど、メアリは他に何も選ぶものがない。 黒い街と怪物の話など、ヤードに駆け込んでも意味はないだろう。 ジョージ伯父からの電報には、嬉々として、怪異だと騒がれた通り魔の遺体発見の報が記されていた。 ──だめ。だめ。──ヤードも本当のことを知らない。 ──あたしは、彼を信じるしかない。──Mと名乗るこの男を。 ふとメアリは目を逸らす。部屋に入ってから今まで受け止めてきた彼の視線よりも、気になることがあって。 Mと少し離れた場所、ややメアリに近い位置に立つ彼女を見る。 セバスチャン・モラン大佐。武器や演算装置、であると告げる間柄が、一体どういうものを指すかはわからない。 それでも。少なくとも自分よりは付き合いが長いはず。 ──モランというひと。──あなたのこと。──あたしは知らないけれど。 ──感心するわ。──こんな意地の悪い男に傅くだなんて。 あるじの誓いは絶対です。ご安心下さい、メアリ・クラリッサ。 ……え。 ──え?──今、あたし、喋ってないのに? ご安心下さい。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 ……え、ええ。  『誓い?』  『そう、神さまに。誓うの』  『そうすれば、きっと、叶うの』  『誰も泣かないようになるわ』  『……神さまが、本当にいれば、ね』 薄暗いとも呼べる部屋だった。控えめの機関灯が設置された、幾人もの紳士が集うことのできる広い部屋。 機関式パイプから排出される煙が漂って、広い部屋の中にいつまでも留まったまま。 グラスを片手に談笑する者もいれば、ひとり静かに読書をする者もいれば、ソファに腰掛けて新聞を広げる者もいる。 カードに興じる者もいるし、隣の部屋には食事を楽しむ者さえいる。 労働者の集うパブとも異なり、貴族たちの社交界とも異なる。若い紳士たちばかりの集まった場所だった。 所謂、クラブというものだ。かつては、特定の政党支持者であるとか各種芸術作品の愛好家たちが集った場所。 現在ではいささか趣が異なる。入会にある程度の規約が設けられているが、特定の政党や芸術を好んでいる必要はない。 必要なのは身元確認と既存会員による紹介、他には堅苦しい規則は特にない。政治信条も議会派から宮殿派まで様々だ。 さすがにラツダイト支持者はいないが、それは紳士であれば当然のこと。機関体制と文明を否定する紳士はいない。 ハイドパークの片隅に専用施設を持つこのクラブもまた然り。年若い紳士の集うクラブのひとつだ。 旅行者クラブや演劇クラブとは違い、さしたる目的や共通点などは必要のない、国籍さえも自由である、おおらかなもの。 新会員が月にひとりは増えることも、そう珍しいことではない── ……ん。何だって。 社交界に出入りしている新会員が入会?初耳だね、一体どこの紳士かな。 ──ハワード・フィリップス。──彼もまた、このクラブの一員だった。 ──クラブ2人目の新大陸人である。──ちなみにひとり目は既に帰国済らしい。 クラブに集う煙草仲間や留学生仲間は、ハワードにとって貴重な情報源なのだ。貿易商という事業はなにぶん情報を要する。 ここにはさまざまな情報が集う。新聞記者に話を聞く時のような精度の高いピンポイントな話はともかく、噂は豊富だ。 それに、ついでもある。新大陸の新聞を購読していないハワードにとって母国の情報はやはり気になるものだ。 さらには、社交界に顔を出す金持ち息子や貴族の放蕩息子あたりの漏らす話は、新大陸人にとって大いに社会勉強になる。 そう。社交界── 貴族の世界というものを知っておかねば、愛する婚約者との未来を明るくすることはなかなかに困難であろうし、とも彼は思う。 であるからこそ、煙草仲間から紹介されたひとりの紳士は、大層、ハワードの興味を引く人物だった。 社交界にさえ出入りするという男。勿論、年齢はこのクラブ相応に若かった。 ──輝く眼差しを持った男だった。──意思の強さが、一目で、見て取れる。 なるほど── きみが件の貿易商か。話は聞いているぜ、類い希なる成功者どの。 どうぞ宜しく、ハワード・フィリップス。お見知り置きを。 俺はウィンストン・チャーチル。獅子心王の生まれ変わりと名高い天才さ。 宜しく、ウィンストン・チャーチル。自分を天才と呼ぶ人間に出会ったのは、きみでふたりめだよ。 それは僥倖。俺は2番目までなら許せるんだが、3番目にはどうにも我慢できない性質でね。 本当は1番目を獲りたかったが、ここはその幸運などなたかにお譲りしよう。非常に、非常に残念だがね。 申し訳ないね。ギリシャのクロノス神に頼んだとしても、この順番だけは変わらないはずなんだ。 時の翁?おや、きみは流行のオカルトを嗜むのか? 人並みにはね。ただ、実を言うとあまり得意ではないんだ。試しに口にしてみたが、きみはどうだい? それは良かった。実は俺も、ギリシャ神話ってのは苦手でね。俺は王だから、神にだけは頭が上がらない。 はは。奇矯な男だ。社交界でもその調子なのかい? まさか。もう少し控えるさ。ただ、淑女の耳元であれば話は別だがね。 貴族に対しては口数少なく、ただし、愛の詩はすべての淑女に区別なく。 そいつが俺の信条でね。笑うかい? 瞬時に打ち解けてしまいそうなほど、きっぷが良く、人好きのする── カリスマとも言うべき魅力に充ちた、一風変わった“伊達男”か。 それが、ハワードの、チャーチルに対する第一印象だった。 彼の周囲には人が集い、笑い合いながら彼の話に耳を傾けている。いつの間に。ハワードは気付かなかった。 おどけた顔も落ち着いた声も、使い分けてみせる表情と声の何もかもが、人々を惹きつけるためにあるかのようだ。 出会って二言、三言を交わしただけなのに、そう感じてしまう自分を、ハワードは奇妙に思わざるを得ない── (変わった紳士だ。 ウィンストン・チャーチル、か) (話術が特別に上手い訳でもないのに、 あっという間に、人だかりを作っている) ハワードが少し唇を閉ざしている間に、チャーチルには幾人も若い紳士が話しかけ、中には、肩を組もうとする者までいる始末。 大した人気ぶりだ。普段は酒に酔うようなことのない躾のよい若者たちが、下流の酔った労働者のようだ。 大したものだ。きみは、貴族なのかい? んん? いいや。よく言われるがね、俺はただの貿易商さ。貴族なんかじゃない。 会社はなんとか軌道に乗せたところだが、大儲けと言うには程遠くてね。社交界に顔を出してるのも、ただの縁故さ。 それにしてはいいステッキだ。獅子の杖とは、まさに獅子心王と言う訳だ、現代のリチャード・ライオンハーテッド君? ハワードの見当違いでなければ、杖には、刀剣が仕込まれている。勿論、所持免許は有していることだろうが。 大学でサーブレを一通り習得したハワードにはよくわかる。造りの良い仕込み杖は、ひどく高価な品だ。 帽子も、最新型の機関機械つきだ。あれは確か情報蓄積用の計算機関だったか。 杖も帽子も、どちらも高価で稀少なものに違いない。並の紳士では手に入れることは難しい。 王と名乗る割には謙遜しているという訳だ。しかし、なぜか不思議と嫌味には感じない。彼の、奇妙な魅力のせいだろうか。 王としては当然だからな。ステッキとは剣の延長上に在るものであり、そして、強い王は剣を有するものだろう? 違いない。勇猛を忘れ得ぬ頃の王であれば特にね。 しかし大した男だな、きみは。女王陛下のおわすこの国で王を名乗るとは、不遜だが、度胸があると認めざるを得ない。 なあに、不遜なものか。 彼は軽く笑ってみせた。周囲に集ってきた年若い紳士のひとりへとグラスを渡し、帽子の鍔へと右手を掛けて。 演劇者がそうするように、見栄を切って── 王がいないから名乗れるのさ。いずれ、誰もが俺の名を聞くことになる。 世界の誰もが、な。その日を楽しみにしてくれたまえよ。 いやはや。すごいな。きみという男は。 笑いかけて── ハワードは見た。彼の瞳を。 不遜を口にするチャーチルの瞳を。友人となった若い紳士たちの笑い声の中で、冗談めかした口調であったはずの彼の瞳を。 信念らしき揺るぎない輝きを湛えた、彼の瞳を── 「……聞いた?」 「聞いた?」「聞いた?」「うん聞いたわ」 「聞いた聞いた」「聞いたわ」 「そんなことってあるのね」「噂だけど」 「今夜には到着するんですって」 「ええっ。嘘」 「そんなことってあるのね」「噂だけど」 「もうご滞在を始めてるという話よ?」 「ええっ。本当かい」 「そんなことってあるのね」「噂だけど」 滅多にあることではなかった。碩学院じゅうの女子が口々に噂を囁いて、まるで、朝を告げる小鳥の群れのように。 普段は紳士然として女子の会話の輪とは一定の距離を置いている男子学生までも、噂話に加わってしまうなどということは。 滅多にあることではなかった。それほど大きなニュースであったのだ。 名門貴族にして希代の大富豪、数々の国際的な慈善事業を行っている名家。バスカヴィル家の当主が、首都へと訪れる。 しかもただの当主ではない。年若い淑女だ。お嬢さま、いいえ、お姫さまと呼ぶべきか。 その“お姫さま”がロンドンへ来る。そんな噂で碩学院じゅうが持ちきりだった。 滅多にあることではなかった。噂も、当主が首都を訪れるということも。 名門の貴族とはいえ準男爵に過ぎないバスカヴィル家の令嬢が、何故に貴族子女も多い碩学院で話題になるのか。 院だけではない。この朝、ロンドンじゅうが騒然となった。新聞にその旨を告げる記事が載った故に。 ──バスカヴィル家。──西部イングランドの名門貴族。 英国有数の大富豪であり、慈善事業の推進を行っていることの他にも、もうひとつの大きな“話題性”があるのだ。 それは、かつて、TIMESを初めとする大新聞から安物のタブロイド雑誌までをも騒がせた大事件に由来する。 事件の名は現在ではこう伝えられている。バスカヴィル家の── 聞いた、メアリ?あの有名な《魔犬》のお家のお嬢さまが、近々、ロンドンへご滞在されるんだって! 数学部のアンの噂だとね、なんと!もしかしたら、今日にもロンドン入りしてるかも知れないって! 理学部のジェシーの話だとね、あのね、もうウェストミンスターで見た人がいて、ご挨拶まで交わしたんだって! 信じられない!あのバスカヴィル家のお姫さまが……。アーシェたちと同じ、ロンドンに……。 いらっしゃるなんて!ううん、もう、いらしてるかもなんて! ……? 突然何を言うのだろう、と。朝の新聞を読んでいなかったメアリは思う。 アーシェはひどく興奮しているようで、桃色の可憐な頬をいっそう紅潮させながら、メアリの手を両手で掴んで離そうとしない。 何かこんなに喜ぶことがあっただろうか。メアリは首を傾げてしまう。 この1ヶ月というもの気分は沈みがちで、こんなに嬉しい声を聞くことも殆どなく、不意をつかれてしまって。 ──何かしら?──こんなにアーシェが興奮するなんて? ──ええと、確か、犬の家が、何か。──犬。犬。犬? ……いぬ? メアリー!? そ……。 そーよね。メアリはうん、うん、そうね。お話好きで本もよく読むぶん、かえって。 かえってわかり難いかもだもんね。事件とかにはうといもんね、うん、うん。 え、えっと?? いぬが、どうしたの……。アーシェはそうね、動物とか大好きよね。 リージェントパークに行きたいの?そうね、動物園、まだ皆で行ってない── ちっがーうの!あのね、ワンワンの犬のことじゃなくてね、あ、でも、ある意味、犬のことなんだけど。 ?? バスカヴィルの《魔犬》事件のこと!先々代のチャールズ・バスカヴィル卿がね、昔、財産を狙う親族のこわーい罠に……。 命をね、奪われちゃったの。家督を継いだヘンリー・バスカヴィル卿も命を狙われてあわや、となった大事件なの。 当時のTIMES紙のスクープ記事!かの名探偵ホームズの活躍がなければ、バスカヴィル卿は命を落としただろうって。 他の新聞各紙もこぞって書き連ねてたっけ。ラジオもペーパーバックもそう、すぐにロンドンじゅうに広まって。 もう10年以上も前になるのかな。あの頃、もーすっごい大騒ぎだったんだよ? あ── 説明されて、ようやくメアリは思い出していた。 そういえば読んだことがある。新聞の類は覚えがないものの、ドクター・ワトスンの伝記小説を読んだ。 ──題は、そう。──確か“バスカヴィル家の犬”とか。 む。そーいえば。 ディテクティブ・ホームズといえば、ねえ、メアリ……。 彼に……。 シャーリィのこと、頼んだんだよね? この1ヶ月でもう何度目かになるだろう、シャーリィについての話題。遠慮がちに、窺うような声。 紅潮していた頬がすっと色を薄くする。アーシェはおそるおそるメアリを見て、様子を窺っている。 メアリには痛いほどよくわかる。アーシェが、自分を心配してくれること。 でも。この1ヶ月でいつもそうだったように── 今もそう── ……ううん。お忙しいらしくて、断られてしまったの。 だから、何度かお会いしただけ。それだけなの。ごめんね。 そう言って、何度目かになる仕草で目線を逸らす。 こんな返答でアーシェの不安は拭えない。そのことを、メアリも、自覚はしていた。それでも。 ──それでも。──ごめんなさい、アーシェリカ。 ──言えないの。──いつか、シャーリィが目覚めるまでは。 院での講義を終えた午後。日没には、まだ、幾らかの時間があった。 ウェストエンドのとある地下鉄駅を出る。本来なら、メアリにとってはあまり来る機会のないエリアだった。 週に複数回来たことは数えるほどしかない。政治と王宮の中心地であるここに、今まで馴染みを感じたことはない。 劇場へ赴くであるとか、庁舎で機関カードの更新を行う以外にはそもそも足を止める理由もないのだから。 建ち並ぶ高級ホテルの高層建築にしても、旅行者でもないメアリには関わりがない。 子供の頃に、母と一緒に値の張るレストランへ足を運んだくらい。劇場や庁舎以外の記憶といえばその程度。 それでも、週に一度はここへ来るのだ。契約をした以上── 今日のような急な呼び出しの際にも、やはり、このエリアへ来なくてはいけない。 どんなに憂鬱な気分でも。どんなに他の理由があったとしても、駄目。呼び出されたからには、ここへ、来ないと。 (……本当は) (憧れてたのにな。 ザ・リッツ・ロンドンのスィート) 通りを行き交う外国人旅行客や、庁舎勤めの公務員らしき姿の人々を横目に、メアリは視線を高層建築のひとつへ向ける。 ロンドン有数の高級ホテル。ザ・リッツ・ロンドン。 以前、目にする時は憧れの眼差しだった。今では溜息を吐きそうになる。 ──シャーリィは目覚めない。──アーシェにも、心配をかけている。 ──それに、ああ、今日は違うのに。──週に一度の契約確認の日ではないのに。 呼び出しを掛けられたのは、初めてだった。そもそも、自分の電信通信機の回線番号を教えたつもりもないのに。 彼──M自身の声ではなかった。電信越しに届いた音声は。 落ち着いた女性の声。大佐、と名乗ったあのモランというひと。 『本日午後4時、 リッツ・ロンドン1502へ招集です』 『遅れないようにして下さい。 それではまた、後ほどお会いしましょう』 名乗ることさえされなかった。そう、告げられただけ。 彼女があるじと呼んだ彼と同じように、ああ、そうだ、どこか似ていると思う。一方的に告げるところ。 ……でも。 行かない訳にも、いかないものね。頑張るのよ、メアリ。 自分自身へ喝を入れて──遙か高く聳えるリッツへと足を踏み入れる。 ドアボーイが何か挨拶をしてくれたけれど、会釈をしたり、微笑み返すような余裕など一切なかった。 外国人客で静かに賑わうロビーを抜けて、幾つも並んだ昇降機開閉門の付近に立つ。 バトラーサービスを断って。 暫く待つ。ほんの数分で1基が降りて来た。 乗り込み、自動式昇降機のスイッチを押す。設定する階は── 最上階── ──ザ・リッツ・ロンドン最上階。──スィート1502。 幾らかの躊躇の後に扉を開く。僅かな音もせずに開く扉の先に、誰かの姿。 ノックは必要ないと思っていたし、そう、モランから言われていたし、ふたり以外の人物の姿など予想しなかった。 扉を開けた先に見えた人の後ろ姿は違う。黒色でも赤でもない、見たことのない誰か。 紫色の綺麗なドレスが視界に入っていた。部屋を間違えたのだろうかと思って、メアリは慌てて扉の部屋番号を見る。 部屋番号1502。どうやら、間違えてはいないらしい。 では── 視線の先に見える人は誰だろう。紫のドレス、綺麗にカールした長い髪は。 (誰……?) 幾らか慌てかけたメアリの耳は、人物の話し声らしきものを聞き取っていた。話している相手は誰だろうか。モラン、M? 誰かの声が聞こえる。長い髪とすらりとした容姿の通りに、女性。女性の声。年上と思う。どちらの声だろう。 視界に見えている後ろ姿の誰か?それとも、あの、モランというひとの声? (……そういえば……) (声を聞いたの、さっきで3度目かしら。 殆ど、声を出さないから) モラン大佐というひと。彼女の声を聞いたのは、先刻の電信と昨日の契約確認の際以外には。 あの暗がりの不気味な黒い街の中にいた時、朧気な記憶の中で、確かに耳にした覚えが。ひどく短い言葉だったけれど。 はい、とか。その程度の短い言葉だけ。 (まともに声を聞いたのって、 昨日と、今日が初めてだった……のね) (……変なの) 内心で奇妙を感じるメアリをよそに、視界の先に見える紫色のドレスの女性は、今も、見えない誰かと会話を続けていた。 もう一歩踏み込んで、もう幾らか扉をきちんと開けば見えるはず。 迷ってしまう。果たして会話中に邪魔をして良いものか。呼び出されたのは、こちらなのだけれど。 と── 何をしている。入れ。 それは、Mの声だった。どうやら女性の話し相手は彼だったらしい。 なるほどと思いながらも、やや警戒心を抱きつつメアリは部屋へ入る。すると、背を向けていた女性が振り返った。 あら……。 ごめんなさい、可愛らしいお嬢さん。気付かずに背中を向けたままで。 いえ、こちらこそ── 紫色のドレス姿がよく似合う上品なひと。どこからどう見ても“淑女”だとわかり、貴族の気配すらある。 そう、貴族。思ったのは物腰からだけではなくて。 身に纏っているドレスがそう感じさせる。間違いなく、合成ではなく天然物の絹で、機関製ではなくハンドメイドだ。 そのひとは、穏やかな表情を浮かべ、優しげな視線をそっとこちらへ投げ掛ける。この部屋には相応しくないと思えるほどに。 優しげで、どこか柔らかい印象のある視線── 誰なのだろう。この部屋で彼と話していたということは、ああ、あの、組織とかいうものの一員か。 けれど、けれどそう判断するにはあまりに穏やかで、柔和な、どこかで見た、暖かな視線の女性。 初対面の淑女を前にしているというのに、メアリは、思わず見とれてしまっていて。挨拶も、名乗ることさえ忘れていた。 ──綺麗な色の髪。──きっと上質の染料で色をつけたのね。 ──綺麗なひと。──あのモランというひととは、また別の。 何を黙っている。躾がないな。 挨拶しろ。仔猫。ヴァイオラ・バスカヴィル準男爵夫人だ。 え? ──え。今、え、名前、何? ──バス、何? ごきげんよう、初めまして。ヴァイオラ・バスカヴィルといいます。 え。 …………。 ……。 ………………。 ……。 ………………………………。 ……。 (……うう……) 驚くほど居心地が悪かった。大型の有料ガーニーに揺られている間も、降りてから、こうして歩き始めてからも。 夜の訪れたソーホーエリア。先刻、院からウェストエンドへ至るためにここの地下鉄駅で乗り換えたばかりなのに。 リッツの部屋で上品な女性とかろうじて挨拶を交わしたかと思いきや、Mは突然、ソーホーへ行けと短く告げて。 なぜと問う前にモランがいつの間にかメアリの隣に立っていた。流石に、驚いてしまった。 にこやかなヴァイオラ嬢の微笑みが誰かに似ていると思って、自分の知る誰と似ているのだろうかと考える暇もなかった。 モランに腕を掴まれて、僅かも力を入れているように見えないのにあっという間に部屋の外へと連れ出されて。 気付けばリッツの入口前で、有料ガーニーの後部座席の中に自分はいて、こちらへと挨拶するドアボーイを見ていた。 そして、20分と経たずにここへ。目的地へ着いたかと思えば、こうして── 歩いている。ソーホーの静かな人通りの中を。 …………。 どうしたものかと考えようにも、まずこれがどういう状況かが、わからない。爪を噛みそうになってしまうほど混乱する。 何なのだろう、これは。呼びつけておいてソーホーへ行けだなんて。 それならそう言えばいいものを。無駄にリッツへ行くこともなく、行くべき場所へ自分で歩いて行けたのに。 それに。それに、なぜ、バスカヴィル嬢が── ──確かにあのひとは言った。──ヴァイオラ・バスカヴィルです、と。 ──今朝、アーシェの言っていたひと。──噂のお姫さま。 なぜ、噂の彼女が、名門貴族にして大富豪であるはずの人物が犯罪組織だか秘密結社だかの男と会話して。 会話の内容など何も聞き取れていなかった。盗み聞きしようと思う前に名を呼ばれたし、何より、彼女の声はか細くて。 彼は、Mは、そもそも言葉を発していなかった。 一方的に彼女が何かを話していたような、そんな様子を、かろうじて、感じ取ることができただけ。 ……。 (……うう……) (質問したい。聞きたい。 どうしてあんなにも怪しい男のところに、 貴族のお姫さまが、準男爵夫人がいるの) (服は天然の絹のドレス。 そんな高価なものが着られるのは……) (貴族か富豪かしかいないもの。 だからきっと、名は、嘘ではないわ) (でも……) だからこそ疑問が尽きないのだった。なぜ、あそこに?なぜ、Mと話を? 自分の斜め前方を歩くモランへと質問して話を聞きたいけれど、どうにも声が出ない。こちらから話しかけ難い。 むしろ、この耐え難い沈黙の空気を破れば何かに負けるような気がして話し出せない。だから、沈黙する。 当然のように声を発さないモランに、幾らかの憤りに似た感情を抱きつつ、メアリは歩く。 車を降りて5分以上は歩いているだろうか。別段、ガーニーの入れないほどの雑多な狭い路地を進む気配はない。 ならば、目的地の前までガーニーをつければ良いのに、と、思う。口にはできないので、ただ、内心で思う。 (……待って、メアリ) (これはチャンスなのかも知れないわ。  ええ、そう。そうよ) (意固地になる意味なんてない。 このひとと、今はふたりきりなんだから) 何を言っても殆ど答えない彼と違い、このモランのことはあまり多くを知らない。もしかしたら、まともな会話ができるかも。 そう思い至ったのは、モランがこちらへ僅かに振り向いた瞬間。 自分の想いに決着がついてしまえば、あとは、簡単だった。そもそもからして、見知らぬ人と話すのに抵抗はない性質だ。 幼い頃から、そう。初めて出会った誰かに話しかけるのは得意。 このモランというひとは、初めて出会った訳ではないけれど── いいえ、そうでもない。目を合わせた回数も言葉を交わした回数も、殆どなく、初対面と言っても構わないはず。 ……モラン、さん。 はい。 意外と。無視されるかと覚悟していたものの。 あっさりと返答があった。すらりと、当然のように返事をしてくれた。 あのヴァイオラという女性は、なぜ、あなたたちの部屋にいたの。 はい。あなたとは別の用件で参られました。 そう……なの……。でも、悪いひとには見えないけれど……。 あの方は《結社》の一員ではありません。ごく一般的な保守系貴族です。 そ、そう、よね。 ごく一般的な貴族などというものを、実感したことはないメアリではある。けれど、組織とは関係ないことはわかった。 やや、戸惑いがあった。モランの声を間近で聞いたせいだろうか。 昨日に言葉を掛けられた時は距離があった。先刻の際には電信独特のくぐもりがあった。だから、ちゃんと声を聞けたのは初めて。 透き通るような声をしていた。綺麗、と表現できる。 けれど── ──どこかに違和感があった。──こんなに綺麗な声なのに、抑揚が薄い。 ──まるで、作り物の声のよう。──極東製機関式の喋る“人形”のような。 ええ、と。 それで、あなたはその組織のひと……。なの、よね。近衛や軍人さんではなくて。 はい。 ──予想通りの返答。──迷いなんて微塵も感じさせない、声。 なのに大佐さんなの?階級は、その、あなたたちの組織のもの? いいえ。はい。軍務に就いた際の階級です。 インド戦線へ派遣されたことがあります。軍ではなく《結社》の命ですが。 ……そんなに話してもいいの?あたしに、昔のことなんて。 はい。 運用に支障を来さない範囲で、情報の一部公開が許可されています。 一部……。 はい。 つまり、あなたのことは聞いても良いのね。じ、じゃあ、彼とは……長い付き合いなの?その、Mと。 はい。 た、大変でしょう、あんなに冷たいひとと一緒なんて。 いいえ。はい。あるじは誠実です。 え。 ──予想外の返答。──迷いなんて微塵も感じさせない、声。 あるじと言うからには主従の関係、序列かどうかは知らないけれど、そういう、上下の在る関係なのだとはわかる、ものの。 迷いなく返答されてしまった。誠実です、と。 ……そう、なの? はい。 どのあたりが……。彼のこと、何か知っている訳じゃないけど、誠実なようには……あまり、見えないわ。 いいえ。はい。 あるじは誠実です。あなたにはわかるはずです。 あなたには、その目があります。黄金瞳は真実を見抜くと伝えられています。 ……この右目に、どんな迷信があるかは知らないけれど。 もしもあたしに見えるのが真実というなら、きっと、あなたの目がおかしいんだわ。 彼を形容するのは……。誠実とかの言葉では、ないと思う。 いいえ。私の視覚は強化されています。あなたほどの価値はありませんが。 ? ──視覚は強化されている?──どういう意味? ──視力矯正のこと?──でも、眼鏡を掛けてなどいないのに。 私は機関人間ですから。視覚について誤認することはありません。 もっとも、あなたの言う意味とは、異なる返答なのでしょうが。 ……機関人間? はい。 それは、どういう意味?初めて聞く言葉だと思うのだけれど……。 はい。機関機械です。 え……? ──機関機械?──機関人間という言葉の、意味が? 私は機械です。人間ではありません。眼球もまた同じく。 ……ええ、と……。 何を言っているのだろう。彼女の言葉の意味を理解はしているものの、そう受け取るのが正しいのかどうか、迷う。 何かの比喩にしても唐突だ。機関機械並の視力を持っているという意味? それとも言葉の通りに。モランというひとは、機械でできている? ……冗談を言ってなんて、あたし、あなたに頼んでないわ。 はい。 頷くモランの顔を見上げながら、ふと、メアリは気付く。 ようやく気付いたと表現すべきなのだろう。行き交う人々から視線を浴びていることを、今、ようやく認識できた。 何の違和感もなく話していた、けれど。往来の注目を集めても無理はない。 女性の軍人が女学生とふたりで連れ歩いて、口論とは行かないまでも対等に会話をしてあまつさえ口答えしている、などと。 目を引かないほうがどうかしている。気付かないほうが、おかしい。 ──感覚が麻痺していた。──このひとと話すことばかり、考えて。 ──初めはあたしも彼女を見て驚いた。──軍人が、部屋に立っていて。 ──でも、今、こうして。──あまり抵抗なく話せてしまうのは。 ここ1ヶ月というもの、言葉を交わさずとも、何度も顔を合わせたせいで、緊張と違和感が薄れたのだろうか。 ……あ、あの、あたしたち、とっても目立ってるみたいだから……。 話は、また後で……。 いいえ。私は暗示迷彩で防護されています。 ? 我が《結社》に関与する者以外には、私の姿は見えません。 周囲100フィート以内では、あなただけが私の姿を視認しています。 え。 我が《結社》は人間の精神に作用するごく特殊な碩学機械を開発しています。幻覚の類を操ることは、比較的、容易です。 暗示迷彩はそのひとつです。原理を説明するには数時間を要しますが、あるじによれば、哲学の分野の理論です。 嘘……。 いいえ。 ──なんとなく、わかってしまう。──彼女は嘘を言わない。 ──信用するとかしないではなくて。──ただ、そう確信に近い直感があって。 ──あたしは彼女の言葉を信じた。──突拍子もない、碩学機械という話を。 そもそも碩学機械と呼ばれるものの多くが、一般的解釈や研究では原理を解明できない特殊な存在であることは周知の事実だ。 碩学院に通うメアリであるからこそ、そんなはずがないとは言い切れなかった。 心理学またはメスメル学と呼ばれる学問が、奇術めいた作用をもたらす効果を証明した。そういう事実も、一応、知っている。 知ってはいても。それが“在る”と言われたのは初めて── それが本当、なら……。つまり、注目されているのは……。 ……あたし、だけ……。 はい。 …………。 沈黙をお勧めします。ほんの数分で衆人の興味は逸れるでしょう。 ……はい……。 ソーホーエリアの表通りに面した古書店。辿り着いたのは、ここだった。 やはりガーニーで横付けすればもっと早く到着できたのではとメアリは呟いたものの、店の主はガーニーの排煙を嫌うらしく。 であれば仕方ない、と。夜でも開いている古書店の扉をくぐる。 普段なら、存在にさえ気付くこともなく通り過ぎてしまいそうな、鄙びた小さな個人商店だ。 治安の良いソーホーエリアであるとはいえ、不用心に、扉を開け放したままであるのが些かメアリは気になった。 ガーニーや馬車の音もこの時間では少ない静かな表通りよりも、遙かに、店内の中には静寂が充ちていた。 扉は開け放したままなのに、不思議と、そう、静寂。 客入りの気配はなかった。それどころか、人間の気配さえ感じない。 それでも── すぐにメアリはひとりの人物を見つけた。店の中、立ち並ぶ本棚の陰にいる青年を。 線の細い青年だった。彼は、古書店の暗がりの中に立っていた。彼は、何かの本を読み耽っている様子で。 青年は視線をこちらに向けようともしない。メアリとモランが店へと入っても、本を読んだまま、顔を上げる素振りすら。 メアリ・クラリッサ。本は読みますか。 え、ええ、人並みには……。 そうですか。 これから幾つかの書籍をあなたに与えます。シャルノスの記述に目を通しておくように。 シャルノス。 はい。あなたが2度迷い込んだ異界です。 2度迷い込んだ場所。そう形容されて思い浮かぶのはひとつだけ。 あの日、あの晩、あの時に訪れた場所。一見ロンドンのようでありながら、まったく異なる気配を持つ黒い街。 2度の記憶はどちらも朧気だけれど、今も、確かに覚えていることはある。あれは、夢や幻ではなかったという実感と。 そして、今も残る恐怖の感情と、永遠にも思える時を走り続けたという記憶。 ──シャルノス。 ──それが、あの、黒い街の名なのね。──あたしに定められた場所。 ──契約を果たすための場所。──あたしが、怪物から逃げ回る場所。 ──音の並びは綺麗な響きに思えても。──実感はない。──寒気を、幾らか、感じるだけで。 聞いていますね、アーサー。古の書かアルソフォカスの書をこれへ。 アーサーと言うのが、本を読み耽り続けている彼の名だろうか。キャメロットと同じ名は珍しくはないが。 奇妙な違和感があった。彼はこちらへ注意を向けているどころか、会話に耳を傾けている素振りもないのに。 頷いたのだ。 モランの言葉へ応じるように。 あのひとは……? 彼も《結社》に関わる者です。正式な一員ではないと聞いていますが。 変わり者です。あなたが深く関わるべき人物ではない。 そ、そう……。変わり者、ね。 どの口で言うのだろう。変わっているという分類で構わないのなら、モランやMも充分に普通ではないと、思う。 それを口には出さずに、メアリは店内を埋め尽くすように立ち並ぶ書架群へと、自然と、視線を巡らせていた。 本は好きだ。だから、ミューディーズや図書館も好き。 目録がどこかにないかしらと思うものの、そういった類のものは見あたらなかった。なので、背表紙を眺める。 あまりうろつかないほうがいい。組織に関係する“変わり者”であるなら、やはり、危険な男かも知れないのだから。 その場に立ったまま、メアリはモランの隣で書架をぐるりと見る。 一秒。 二秒。 三秒の後には表情が変わってしまっていた。 (す……) (すごい、これ……嘘、こんなに……。 幾らするのかしら……これ……) ボルヘス卿の幻獣辞典の初版本らしきもの、かの《博物王》のカダス博物誌の第2版も、エジプト神聖語辞典の英語版まである。 博物学や考古学の書架だったのだろうか。その手の貴重な本や稀覯本が並んでいて、メアリは息を呑んでしまう。 なんとか声を上げるのを我慢する。隣にいるのがシャーリィやアーシェならば、遠慮せずに手を取って歓声を上げただろう。 ミューディーズとは質の違う凄さ。大英図書館よりも、ということはなくても、素晴らしい並びの書架であるには違いない。 押し込められた本の無作為な雑多さも凄い。博物学や考古学、などと纏められておらず、よく見れば小説などの類もある。 ……あ……。 目を留める。そこには大デュマの初版本があった。 子供の頃── そう、母と一緒にウェールズへと越す前。シャーリィと遊んでいた頃に読んでいた。大デュマのモンテ・クリスト伯。 恐ろしく、残酷で、空しく、悲しく切ない、けれど愛の在処を感じさせられる、復讐劇。希代の名作と言っても過言ではない。 ただ、そう思うようになったのは、ごく近年になってから読み返した時の感想。幼い頃はどう思って触れたのだったろうか。 ──今では、もう、よく覚えていない。──ずっと昔のこと。 ──ただ、あのフレーズは好きだった。──昔からずっと。 ──“待て。しかして希望せよ” ……アルソフォカスの書、ね……。 ……ここに、あるよ。勝手にどこへなりと持って行くといい。 メアリ・クラリッサ。こちらへ。 は、はい。 考えている最中に呼ばれて、僅かに狼狽しつつモランの元へと近寄る。その手には、一冊の本が携えられていた。 古めかしい本だった。本物の革で装丁された赤茶けた本。 アルソフォカスの書です。これに、目を通しておいて下さい。 シャルノスについて書かれています。知識は、あなたの役に立つかも知れません。 本を手渡される。ひどく重みを感じる本だった。 これまで、本をプレゼントされたことは何度もある。母や、友人たちから何度も。その度に、嬉しく思った。 贈り物を嫌がったことは一度もない。特に、本であれば、尚更、嬉しくて。けれど── ──今は、嬉しくない。──モランには悪いけれど、そう、思う。 ありがとう、読んでおくわ。モラン。 ──嬉しくないけれど。──でも、悪意の類は感じていないから。 いいえ。あなたは生存しなくてはなりません。 その確率を上げるためならば、協力は惜しみません。ですから、この本をあなたに渡します。 ──ああ。──あたしは、この瞬間に理解した。 ──何の感情もないこの彼女の声は。──そう、まるで同じ。 ──あの、黒い彼と。──Mの言葉とそっくり同じに感じられて。 ──あたしは目を逸らさなかった。──拒絶感が、どれだけ胸の奥に湧いても。 ──あたしは。──モランというひとの目を見つめて。 ……ありがとう。 困るということね。あたしが、途中で死んでしまったら。 そう言って。メアリは、本を持つ指に力を込める。 一言だけ喋った青年が何かを呟くけれど、明瞭には聞こえなかったし、重要な風にも感じなかった。 メアリは、本を持つ指に力を込める。跡がつくほどに── 夜更け過ぎ── 既にメアリは下宿へと戻っていた。時間的にもそう遅い時間になることはなく、ミセス・ハドスンに咎められることもなく。 結局のところ、Mが呼びつけてきた用件はあの古書店で本を受け取ることだけだった。何のこともない。 憂鬱を感じていたのが馬鹿らしい。あの程度なら、ひとりでも済ませられた。 けれど無駄ではなかったとメアリは思う。モランと、話すことができたから。 機械がどうとか変わったことを言う、奇妙な女性ではあったけれど。 どれだけの長さの付き合いになるのか、それは、まったくわからないのだけど、多少なりとも知っておきたかった。 Mよりは会話はできたけれど、彼と同じ声と表情を浮かべられるのだとわかったのも、ある意味では収穫だった。 彼らの意図は何もわからない。契約を持ちかけてきた理由も、何も。でも、少なくとも、モランの僅かなことは知った。 だから、今日の呼び出しは無駄ではない。気疲れただけとは思わない。 そう、思わない── ……ふぅ。 今日初めての溜息を吐いた。なんとか、朝から、ずっと我慢できた。 溜息ひとつごとに疲れてしまう、ここ数日、そんな風に感じられるから。溜息の回数を減らそう、と決めたのだ。 特にアーシェと会っている時など言語道断。また心配させてしまうだろうし、そもそも人前で溜息なんて礼儀にもとる。 家に帰るまで我慢できた。昨日の朝は、つい、吐いてしまったけれど。 まだ濡れている髪をタオルで拭きながら、乾燥機関から取り出し忘れていた寝間着が縮んでいないかどうか確認して、ベッドへ。 今夜すべき課題はない。眠ってしまおう。 ……そうだ、電報。寝る前に読んでおかないと、ね。 えっと、ペーパーナイフ……。 机の引き出しから取り出したペーパーナイフで電報の封筒を切り開く。 ついさっき、出迎えてくれたミセス・ハドスンから手渡されたものだ。今日も伯父さんからの電報が届いていた。 手渡されたもの。そう、いつものように嬉しく思えたもの。 ずしりと重い赤茶けたあの本とは違って、そう、いつものようにありがとうと言えた。伯父さんからの電報。 中身はいつもの通りの文面。電信通信機を意固地になって使おうとせず、やや時代遅れの電報を送り続ける伯父さん。 ──いつもの文面。──心配が凝固したかのような言葉の羅列。 ──嬉しく思う。──誰かがあたしを想ってくれること。 ふとアーシェの横顔を思い浮かべて、胸の奥に痛みを感じてしまう。そう、あの子も心配してくれているのに。 嬉しい。そう思うのは本当。けれど、それ以上に済まないと感じるから。 伯父さんにも、そう。本当のことは伝えられていないのだから。今の自分の状況を伝えたりなんて、駄目。 誰も巻き込まない。危険な目に遭うのは自分ひとりで充分と、そう決めたのだから、仕方のない、こと。 ……ごめんね。ジョージ伯父さん。あたし、悪い姪です。 アーシェも……。ごめんね、ごめん、アーシェリカ。 涙は、零さない。挫けてしまいそうになる自分を感じるから。 何度か瞼を瞬かせて、視界の端に気付く。机の上に置いたままにしていた1冊の本、確か、名は── ……アルソフォカスの書。 自然と手を向けていた。ベッドから、うんと全身と指とを伸ばして、大仰な名前のついた古びた本を、手に取る。 英語の本だ。古びた様子からラテン語かと思ったものの、何のことはない、見慣れたアルファベット。 そう、思ったものの。些か違う。 言い回しが現代文と異なっていると思しい。まさか、中世英語の類だろうか。ペストの時代に資料の多くを失った古語だ。 ……ああ、もう。まさか古語読解のためにあたしを選んだの。 課題を進める必要のない晩のはずなのに、結局、いつものように、古語を読むのだ。嫌がらせにさえ思えてしまう。 とはいえ、まったく読めない訳ではない。 正確に読み解くには時間と資料が要るが、目を通す程度ならベッドに横たわってもできないことはない。 専門としている碩学ほどではなくとも、幾らかならば読めはする。それで論文を書けと言われれば困るけれど。 古語読解なら得意と言えば得意、だから。メアリは意を決して本を開く── ──アルソフォカスの書。 ──確かに“シャルノス”についての本。──序文からしてそう書いてある。 ──興味を引く記述が幾つか見て取れた。──勿論、事実と仮定するならの話。 ──ただ、それは。──確かに黒い街への記述はあったけれど。 ──あたしの疑問にはひとつも答えがない。──知りたいことは、書いていなくて。 ──シャーリィの懐中時計がなぜ動くの。──頭の中に響くあのMの“声”は、何。──怪物は、何者なの。 解読できたのは僅かな説明だけ。シャルノスという名を持つのは、ここではないどこかにある果ての世界だと。 王の城、それこそがシャルノス。本当はもっと大きなものであるらしい。メアリが目にした黒い街より、遙かに。 では、メアリの体験からすればクィーンズストリートと入れ替わったあの黒い街は、城下町といったところなのか。 いいえ、違う── 狭間、というらしい。現実から一歩“ずれる”ことで辿り着く、シャルノスと現実の間にある、黒い場所。 言わば“どちらでもない”場所。シャルノスでもなく、この地上でさえもない、曖昧な、どこか。 わかり難い表現ね。狭間……。 本当にわかり難い表現の多い書だった。けれど、読み耽ってしまう。 王についての記述が気になったのだ。そう、王。 城があるからには王もあるのだ。少なくともこの本には、そう書かれている。 王──それは、ひとりきりの王。 ──永劫の世界を支配する、恐るべきもの。──この世ならざるものの支配者。 ──おぞましき混沌、その頂きに立つもの。──這いうねる暗黒宇宙そのもの。 ──それらしく訳すならこういう感じ。──直接的に言えば、そうね。 ──怪物の王。 ……おとぎ話、よね。これは。 怪物の王が支配する、永劫の世界、なんて、なぜこんなものを読ませるんだろう。さすがにメアリは首を傾げてしまう。 信憑性を疑ってしまう。確かに、信じられないものを目にした以上、これまで信じた常識はあてにはならないが。 あの異様なまでに恐ろしい黒い街は、本当に“シャルノス”なのだろうか。疑ってしまいそうになる。 この本に記載された内容は、まるで、おとぎ話のようで── ──おとぎ話。──その言葉に、あたしは、視線を動かす。 机の脇の床に置いた平たい缶を見る。厳重に封をした原稿用紙の束とペンの箱だ。 書きかけていた“お話”は中断している。おとぎ話。シャーリィが目覚めるまでは、筆を取ることはしないと、神さまに誓った。 こうして思い出してしまうことにさえ罪悪感を覚えてしまう。 ──大切なシャーロット。──今も、目覚めないあなた。シャーリィ。 あの時── シャーリィ。あなたの後ろから、あいつは出てきた。 ……なぜ。 なぜ、あなたは、手紙を寄越したの。何日も、遅れて届くようにして。 シャーリィ……。あなたは、もしかして……。 ……シャルノスのこと……。 ──知っているはずがない。──知っている理由がない。 ──永劫の世界?──恐るべきものの支配者? ──この本がどれだけ正確かはわからない。──記述を現実と仮定するなんてできない。──でも。でも。 ──もしも、本当のこと、だとして。 ……わからない。あなたが関わる理由なんて、ない。 ……永劫……。……恐るべきもの、狭間……。 わからないよ……。何も、あたし……シャーリィ……。 と── 突然、電信通信からのコール音があった。夜更け過ぎだというのに何の遠慮もなく、静かな部屋に反響する。 アーシェ、だろうか。なら、涙の気配を含んだ声では出られない。また、沢山、心配させてしまうだろうから。 浮かびそうになった涙を拭って、メアリは深呼吸ひとつ。 あ、あ、と声を出して震えがないと確認し、電信のジョグダイアルを回して回線を繋ぐ。 静かに、声を出す。 ……はい。 『問題が発生した』 アーシェの声ではない。夕刻前に耳にしたモラン大佐の声とも違う。 男性の声。電信越しの彼の声は聞こえ難いと思ったが、予想よりも遙かに通る声は、肉声のようで。 まさか聞き間違えるはずがない。彼の声。 ──彼の声。──誰あろう、それは、Mの声だった。 『リッツへ来い。今すぐにだ』 え。 『寝間着を持つのを忘れるな』 え……。 『ガーニーを回す。 下宿から400フィート離れた沿道に』 え……? ……ごめんなさいね。わたし、ひとり寝に慣れていなくて。いつもなら、ジョンがいるのだけど。 え。 ロンドンへ来るのには、やはり、汽車か飛空艇の長旅になってしまうんです。でも、ジョンは乗り物にとても弱くて……。 それで、その──わたし、困ってしまって。 ジョンがいないと……。わたし……。 恥ずかしそうに頬を染めながら、これ以上ないほど困った風に眉根を寄せて。 俯きがちに囁く様子は、やはり、知っている誰かに似ていると思う。 混乱しかけた頭ではきちんと考えられない。メアリは呼吸を整えながら、首を傾げつつ、この状況へ至るまでを思い返す。 突然の呼び出し電信に疑問を挟む間もなく、着替えて、髪に櫛を一度も通すこともなくミセス・ハドスンに内緒で外に出て。 電信通話の内容通りに400フィート離れた位置に停まっていた有料ガーニーに飛び乗って、行き先を告げ。 なぜ呼び出されたのか── なぜ寝間着を用意する必要があるのかと、何度も何度もガーニーの中で考えてみた。 推論は幾つかあったけれど、どれも明確にこれだと感じるものはなく。疑問を抱いたままリッツ1502へ到着。 ノックせずに扉を開けると、出迎えたのは電信を寄越した彼ではなくて、困った表情を浮かべたヴァイオラ嬢の姿で。 それで。 今のような言葉を掛けられた、のだけれど。 ──ジョンって、何の、こと?──誰? ジョンっていうのは── 犬です。犬種はビーグルとのことです。 犬。 はい。 ──いぬ。──ビーグル犬のジョンが、いない? つまり── ヴァイオラ・バスカヴィル準男爵夫人は今回の旅に愛犬を同行させていなかった。そのためどうにも寝付けなくて困っていて。 なぜか呼び出されたのがメアリだった、と、そういう解釈で良いのだろうか。 部屋のソファから腰を上げた状態でおろおろとしているヴァイオラ嬢の仕草は貴族令嬢と呼ぶにはあまりに子供っぽくて。 怒る気にはなれなかった。少し、驚くだけ。 ただ、理由を微塵も言わずに来いとだけ告げた彼、Mに対して思うところはある。 彼の姿はない。豪奢なスィートにいるのは、この令嬢と、それに少し離れて控えているモランのみ。 ともかく。 ともかく。 合計20の想定のどれもが外れて良かった。 そっと胸を撫で下ろすメアリである。大したことのない用件で、本当に、良かったと思う。 (……ほっ) 寝間着を持って来いというあの言葉にまさか何を言い出すのかと戦慄しつつ、けれど仕方ないと思った自分が恥ずかしい。 ともかく。 ともかく。 今は、そういうことかと胸を撫で下ろす。 ……それで、つまるところ……。あたしは何をすれば……。 つまり、今夜のあなたにはジョン氏の代わりを務めてもらいます。 え。 ヴァイオラ嬢の言葉を聞いた時点で、ある程度の、そうかなという予感はあったものの。 文句のひとつも言っておこうと思うけれど、このお姫さまにつらく当たっても仕方なく、しかし、モランでは── この背の高いひとを相手に何を言っても埒があかないだろうという直感があった。確信に、近いほど。 けれど、部屋には彼がいない。 部屋の主であるはずのMの姿が見えない。こんな遅い時間に、どこへ── あるじは不在です。何か言づてがあれば伝えますが。 ……ええ、と。 何を伝えれば良いのだろう。浮かんだ言葉をそのまま述べて意味がある? あなたがやればいいじゃない、とか。次からはもう少し詳しく言え、とか。伝言を頼んだとしても、きっと反応は同じ。 ぎりぎりで何とか踏み留まる。人前では、溜息は禁止。 結局、メアリは内心で息を吐きながらも、渋々、首を横に振るしかなかった。 (……契約……って……。 こういうのも含まれてるだなんて……) (そりゃあ、ええ、 怪物に追われるよりよほどいいけれど) ともかく。 ともかく。 こうして、話が纏まったのか不明なままに。 モランの説明と、貴族令嬢の済まなそうな声に圧され── ──ザ・リッツ・ロンドン1503号室。──この部屋の隣のスィートにて。 ──話題のお姫さまのベッドへと。──なぜか、あたしは、潜り込むのだった。 (犬のかわり……) 本当に、ごめんなさい。出会ったばかりのあなたに、こんなこと、お願いしてしまって……。 いえ、いいんです。思っていたことよりも全然、その。 ? ……いえ。 驚くほど柔らかなベッドの中で首を振る。毒気を抜かれてしまって、いささか呆然としながら。 この1ヶ月というもの、気を張りつめながら彼と相対してきたのに、こんな、突拍子もないことを頼むだなんて。 わからなかった。やはり、彼の考えていることは何ひとつ。 この綺麗な女性と、あの不気味な黒い姿の彼がどういう関係か、それさえも。何もかも、全然、わからない。 スィートでこうしてふたりで初めて出会ったひとと眠ろうとする理由も。全然、一切、メアリにわかるわけがなくて。 その……。ぴったり寄らないと駄目なんです。誰かの温もりがないと、眠れなくって。 ごめんなさい。 いえ── ──別にあなたが悪い訳じゃないもの。──悪いのは、ぜんぶ。あの男。 内心では憤りつつも、なんとか表情は柔らかく保つよう努めて。 嘘の表情を作って誰かに見せるなんて、今までは、する必要などなかったのに。 ……アーシェにもしてしまった。 嘘をついた。そうしたいと望んでもいないのに。 また溜息を吐きそうになる。 と── 未だ眠る気配のないヴァイオラ嬢が、あの柔らかな表情を浮かべたままで、語りかけてきた。 それは、質問だった。少しも予想していなかった自分への質問。 あなたは、彼とはどういうご関係?助手さんか何かを? いえ、その……はい。彼の……。 彼の仕事の手伝いをしてるんです。それだけです、はい。 そんなにお若いのに……。わたしとあまり変わらないでしょう? 年齢は── 物腰も顔立ちも表情も、初見の印象ではこのひとのほうが上のはず。そう、メアリは疑問なく思っていたものの。 告げられた年齢に愕然となる。なんとも、はや。 ──え。うそ。──ヴァイオラさん、あたしと、同じ? ──前世紀に改訂された成人年齢ちょうど。──え、こんなに、大人っぽいのに? 自分と同じとは思わなかった。こんなにも大人っぽく落ち着いて、上品で、綺麗なレディが自分と同い年でいるなんて。 年齢が同じ。その共通点からようやく思い浮かんだ。 やはり、どこか雰囲気が似ている。同い年なのに綺麗なひと。 ──ああ。シャーリィに、似ているのかな。──同い年なのに。──大人のレディ。 それで……。あなたは、いつも、彼のお手伝いを? いいえ、普段は、シティの碩学院に通っているんです。 碩学院……。もしかして、王立碩学院? はい。2年生です。 すごいわ。碩学さまの卵だなんて。エイダ時代の到来というのは本当なんだわ。 そう言う彼女の瞳は輝いていて。メアリは、思わず目を丸くしてしまった。 この若さで名門の準男爵夫人であって、有数の大富豪というほうがよほど凄い。若くして家督を継ぐのは、並大抵ではない。 女性であるなら特に。どんなに現代がかつてより変化していて、性差が社会的地位への影響を薄くしても。 厳然として性差の問題は残っている。女性ひとり、貴族として立つのは困難だ。 特に、先代のバスカヴィル当主は、引退ではなく病没なのだと聞いているし── 彼も碩学さまなんですよね。その関係で、ご一緒されてるんですね。 え……? あら、ご存じ……ない?ミスター・Mは博物学の碩学さまで、生前の父とも親交がおありだったんです。 そう……なんですか……。碩学……。 ──博物学。ボルヘス卿と同じ?──彼は、Mは、そんな風には見えない。 本当の話と受け取って良いのだろうか。もしかしたら、偽の身分かも知れない。なにせ犯罪組織のエージェントなのだから。 身分くらい幾つも持っているのだろう。たとえ彼が爵位の類まで有していても、きっと驚かない自信がある。 彼は父とわたしを救ってくれたんです。大切な恩人です。 恩人……。 想像し難いフレーズだった。恩人、という単語。 流石に、驚いてしまう。驚かない自信があると思ったばかりなのに。 当時のわたしは幼くて、詳しいことを覚えていないのですけれど。 先年に病没するよりも前、父はよく当時のことを話してくれました。 彼は、ミスター・ホームズと一緒に父を恐るべき魔犬から救ってくれたんです。わたしのことも。 バスカヴィルの魔犬ですね。ドクター・ワトスンの著書で読みました。 でも── ええ。あのご本には、わたしも、ミスター・Mもいなかった、でしょう? はい。確かに。 父の話では、わたしと彼のことは伏せるようにと、ドクターにお願いしたんだそうです。 そうなんですか……。 ──やっぱり、それは。──犯罪組織の人間だからだろうか。 ──後ろ暗いことがあるからに違いない。──そう、あたしは思う。 不思議ですよね。なぜ、折角の功績を隠されるんでしょう。 でも、何か理由があったのでしょうね。わたしもよく覚えてはいなくて。 それでも、あの方の大きな背中は覚えているんです。父とわたしを守ってくれた立派な方。 ──認識がずれている感覚があった。──彼女の話と、あたしの考え。 ──同じ人物についてのことだろうか。──彼女の話しているのは違うひと? 思わず確認してしまいそうになる。それほど、彼女の語る人物像なるものはメアリの認識と大きく大きく外れていて。 立派な方。あの、一切の感情も見せない男が? ……怖くはなかったんですか?。彼、黒ずくめで不気味で、暴力的で。 ふふ。いいえ?そんなことありませんよ。 くすりと微笑む。そこには一切の嘘は感じられなかった。 おかしなことを言うひとね、と諭されてしまったような感覚まであった。 彼は、ミスター・ホームズよりもよほど優しくしてくれました。とても、子供のことがお好きなようで。 え。 ──子供好き?──え。誰、それは、本当に、誰のこと。 流石に、流石に、信じられなくて。メアリはささやかに抗議を呟くも、ヴァイオラは変わらずに微笑んだままで。 そんなことはありませんよ、と。彼は優しいひとです。と。 そう言って── 微笑む笑顔を見て── ──あたしはやっぱり思い出してしまう。──シャーリィのこと。 どこか、このヴァイオラというひとは、彼女と似ているような気がしてならない。 だから、添い寝も断れなかったのだろうか。こんな風に一緒のベッドで眠ることは、昔はよくあったと思う。シャーリィと。 そういえば、何時からだっただろうか。 そういうことがなくなったのは。子供の頃は、いつでも、一緒にいたのに。 母の仕事の都合でウェールズへと越して、ずっと、手紙をやりとりしてきたけれど、再会したのはふたりが碩学院に入ってから。 そう。子供でなくなってから。だから、再会した時にはもうこんな風には。 ……まだ子供でした。あの、魔犬騒ぎの時のわたしは。 囁く声。独り言かと思ったけれど。 確かに、ヴァイオラの呟きだった。メアリへと向けられたもの。 さっきもお話したように、魔犬のことは、正直なところ……。詳しくは、覚えていないんです。 でも。 いつも父から言い聞かせられたことがある。そう、彼女は小さく続けた。 ずっと、ずっと。病没するその瞬間までずっと言われ続けた。それは俄には信じ難い、おとぎ話のような。 魔犬の話── 魔犬の遠吠えが、もしも、また聞こえてくることがあったら。 ……ミスター・Mを頼れ、と。 ──信じられなかった。──こんなにも、彼が頼られていること。 この1ヶ月でメアリの知ったMの人物像は、傲慢で、高圧的で、他人の感情を無視することに何を感じることもない冷血漢。 機関機械を使うような面持ちと声で、平然と命令を下す男。 その受け止め方に誤りがあるとは思えない。今も、その解釈を変えるつもりはなかった。けれど。 けれど── この目の前のひとの言葉の数々。お姫さまの語ったこと。 ──そのすべてが嘘であるとは。──どうしても、思うことができなくて。 ──あたしは。──混乱しながら、眠りへと就いた。 翌日の正午前── メアリの姿はシティエリアの一角にあった。クィーンズストリートの無国籍風カフェ、通りに面した場所に位置するテラスに。 本来なら講義のあるはずの時間。碩学院に行っているはずの時間。それなのに、カフェテラスで紅茶を飲んで。 正真正銘のレディと同じ席について、店主お勧めの紅茶を。 講義の終了時間へ今にも届きそうなのに、慌てるような素振りのひとつも見せずに。通りを行き交う人の流れを、横目に。 優雅に── 時間など気にせず── 少し早めのアフタヌーン・ティ‐か、少し遅めのイレブンシス。 (……おばさまの姿がなくて、幸いね) (きっと、見つかってしまったら 何か言われるのは間違いないのだし) 碩学院の講義の時間、午前中のこの時刻なら機関史学の講義だ。 ミス・クローディアに気付かれたなら注意を受けるのは確実であったけれど、今は奥にいるらしい。 黙っておいてねとベルに頼んだものの、なんだか彼女は上の空といった様子で、見慣れない連れに気付いた素振りがない。 変わらず給仕の仕事をしているものの、どこか、視線が宙をさまよったり、時折立ち止まって溜息を吐いているような。 熱があるのかしら、とメアリは思ってしまう。 そういえば、どことなくベルの頬は赤みが差していて。 (新しいお友だちですか、とか、 言われなくてすむぶん気が楽だけど) (変なベルね。 本当に、熱があるのかしら……?) 卓を挟んだ相手、メアリの視線の先にいる新しいお友だち。ある意味では、正しい表現かも知れない。 きっちり文字通りの意味しかないけれど、一晩を共に過ごした相手ではあるのだし、お友だちになってね、とも言われたし。 悪いひととは思わない。上品で、優美で、素敵なひとと思う。 でも、それでもどこか不安が拭えないのは、彼について語る彼女の言葉が現実の彼と結びつかないから? ──でも、嘘は、言われてないと思う。──確信があるの。 ──言葉にできない勘のようなもの。──直感。確信? おいしいわ。こんなに芳醇なスコーンは初めてです。 わたしの地元では素朴なものが多いんです。本当、ロンドンへ来て良かった。 カップとソーサーまで素敵。ブラウン&ホワイトはロンドンの流行?ルイボスもこんなに香り高いなんて。 喜んで貰えて、あたしも嬉しいです。レディ・ヴァイオラ。 本当に。ありがとう、メアリ。 レディ・クローディア特製のスコーンに舌鼓をうつメアリの連れ合い── ──ヴァイオラ・バスカヴィル嬢。──話題の中心のひと。 鍔の広い帽子を被ったままであるのは、メアリがそう薦めたため。機関煤が紅茶に入るのを防げるから。 でも、困ってしまいます。ううん……。 どうかされました? 田舎者ねとお笑いにならないで下さいね。わたし、感激してしまって、本当に。 こんなに美味しいものを出すお店にこんなに沢山のメニューがあるだなんて。どれも試したいのですけれど……。 もう、お腹がいっぱいで、困ってしまって……。 それなら、きっと明日にも来ましょう?明日もご案内しますから。 ここへ来る度に別のメニューを注文して、うん、あたしも別のものを頼みますね。 あ。わたし、わかりました。それで味見し合えば沢山味わえますね? はい、レディ。お嫌でなければ、ですけれど── 嬉しいです。わたし、そういう風に提案してくれるお友だちが殆どいなくて。 ……憧れなんです。 ひとつのケーキを皆でつつくこと。昔、絵本で見て、憧れていたんです。 同じ絵本、見たことがあります。木のうろに住む小人のお話ですよね。 まあ、あなたも?そう、そのお話がわたしは大好きで。 それじゃあ、明日もお願いしますね。ここであなたとお茶を。 はい。レディ。 名で呼んでくださって結構ですよ、メアリ。お友だちと、思っていただけるなら。 ええ、ヴァイオラ。明日もここで。 ──そう、明日も。──明後日もここに来ると思うから。 それはつい先刻のリッツ1503でのこと。広くて柔らかいベッドの上で目覚めて、着替えて、髪に櫛を入れた後でのこと。 ヴァイオラとふたりでルームサービスの朝食を頂いていたら、ノックもなく部屋に現れたのだ。彼が。 鍵はどうしたのだろう。隣の1502と違って、確かにメアリが締めていたはずだったのに。 後で確認したところ壊されてはいなかった。犯罪組織の一員ならば鍵開けをすることも可能かと思うものの、彼には似合わない。 きっと合い鍵を持っていたとか、そういうことなのだろう。 ともかく。 部屋へ入ってきた彼はこう言ったのだ。いや、告げたのだ。 『メアリ・クラリッサ。 お前はこのヴァイオラ嬢に付き添え』 『今から。 俺がいいと言うまで』 『もしも、何かを見たら俺に言え』 こう告げられた。 碩学院の講義があると言ったら無視された。休むのが当然、というかこちらの都合など一切考えていないだけに違いない。 もしも見るかもしれない何かとは何、と尋ねても、やはり無視された。 ──で。 ──ともかくも──あたしにはひとつの使命が課せられた。 ──ロンドンシティの案内。──レディ・ヴァイオラを伴って。 ヴァイオラが聞いたという“何か”の声。その調査をMが進めている間、案内をして面倒をみろということらしい。 夜中に聞こえるという“何か”の鳴き声。それが本当に《魔犬》のものであるのか、Mは答えなかった。 ただ、依頼を受けるとだけ言っていた。個人的にだろうか?組織の一員として? 例によって何も返答はなく。メアリにはロンドン案内の使命が下された。 ロンドン案内。観光させていれば良い、とMは言った。 きちんとした自意識を持ってロンドンに暮らすようになって、およそ、2年近く。それでもあまり自信はない。 自分ひとりでは力不足だと感じて、電信通信機で友に助けを求めることにした。迷ったけれど、話しだけはしようと思って。 暫く院に顔を出せないから、声を聞かせて安心させたいとも考えつつ。 そして── ホテルを出る前に回線を繋いだ。電信越しのあの子の声はとびきり明るくて、メアリは、少しだけ、たじろいでしまった。 講義を休ませてしまうことになるのに、一向に気にしない素振りで、じゃあすぐに行くね、と元気よい声で── おまたせ‐! おまたせっ。ごめんメアリ、遅くなって! あっ。えと、初めまして!アーシェリカ・ダレスです、レディ。 ──時間通りに来てくれたアーシェ。──ぜんぜん遅くないのに、息せき切って。 講義をさぼって来てくれたアーシェである。ここ数日に見た中で一番元気な顔と、声で、初対面の彼女にも屈託がない。 人見知りしている様子はなかった。笑顔を浮かべて── よろしく! ご挨拶ありがとうございます。ミス・アーシェリカ。 メアリさんにお世話になっている者で、ヴァイオラ・バスカヴィルといいます。どうか、仲良くしてくださいね。 ヴァイオラね。ええ、よろしく!メアリの友だちはアーシェの友だちよ。仲良くしましょーね。 名前はアーシェって呼んで。親しいひとは、みんな、そう呼ぶから。 ……はい。ありがとう、アーシェ。 ううん、いいのいいの。お客さんって感じだと話しにくいもの。 ね。メアリ? え、ええと、どう、かしら。レディ・ヴァイオラが宜しければ……。 こちらこそよろしくお願いします。アーシェ、メアリ。 はーい! (……もう打ち解けてる。すごいわ) 自分は丸一晩かかったのに、やはりアーシェリカは凄いとメアリは思う。好奇心と勇気と明るさは彼女の得意分野だ。 ヴァイオラの名を聞いても驚きもしない。まったく気にしない素振りで、いつもと同じ明るい笑顔と声。 羨ましい、とメアリは思う。灰色雲の向こうにあるという太陽の輝きは、きっと、こういう明るさであるに違いない。 ──アーシェリカ。──あたしたち自慢の、物怖じしない子。 ──以前はもっと人見知りをしたのに。──今では、もう。 どうか、よろしくお願いします。ロンドンは初めてで、色々と教えていただけると嬉しいです。 今もちょうど、行きつけのお店というここを紹介して頂いたところなんです。 あっ。もしかして、あなたも? うん、アーシェも常連さんです。ね、ここのスコーン美味しいでしょー!ジャムをたっぷりつけるとすごいのよ? クリームもおすすめなの。ベル‐、アーシェ、いつものセットね☆ と── ん。 ヴァイオラ? はい? バスカヴィル? はい? ええええええええええええぇぇぇぇぇ!えっ、ちょっ、と、メアリ、え、うそ!なに、ばすかびるて! あわわわ── (え、あれ!? アーシェ、気付いてなかったの!?) あ、あのね、お母さまの遠縁の方なの。あたしも驚いたのだけど、本当で、そのね、ええと……。 お忍びということだから、その、ね、あんまり騒がないで頂戴、アーシェ、ね! あわわ── ──う、うん。騒がない。 ぴたり、と。目に見えて錯乱しかけたアーシェが止まる。 驚くほどのぴたりとした反応だった。メアリの言葉に従うように、泳いでいた目も慌てる言葉も、ぴたり、と。 メアリが見守る中で、アーシェはゆっくり二度頷いてみせた。うん、うん、と。納得したような顔で。 ……納得したよ。うん、もう、アーシェは驚いたりしない。 それに、もう友だちだもんね。ね、ヴァイオラ? はい。ありがとう、アーシェ。素敵なお友だちが増えて、本当に嬉しい。 アーシェもよ。それに、ふふ、あなたのお陰で叶ったの。ふふ。メアリとのカフェが1ヶ月ぶりに! まあ、1ヶ月も……? う……。 この日をどんなに待ったことでしょう!カフェに来る元気が出てくれて良かった!お茶の飲み方、忘れちゃってない? まあ……。メアリ、病気だったのですか? えっと……。 えっとぉ……。 ……ええ、そうなんです。ここのところ体調が悪い日が続いて。 ──また。──あたしは嘘をつく。 嘘を。今日もひとつ。胸の奥の痛みをはっきりと感じながら、メアリはヴァイオラとアーシェを見る。 今もアーシェは納得した顔をしていた。倒れたシャーリィのことを彼女に話すのは、今すぐでなくてもいいよね、と。声にせず。 大事はないの?お医者さまにはもう診せて── と・も・か・く! アップルウォルナットケーキひとつね!あと、紅茶はおすすめで! ウォルナット……。 ウォルナットケーキもあるんですね。やっぱり、凄いわ。このお店。 ん。ヴァイオラも好き?アップルウォルナットケーキ、いいよね〜。 ええ。大好きです。子供の頃、それが大好きなお友だちがいて。 はい……。いつものクロテッドクリームつきセット、お待たせしました、ミス・アーシェ……。 あ。ありがと〜。 ……アップルウォルナットケーキ……。 ん。注文してないけど、えと、ヴァイオラは頼んじゃう? いえ、今日はもうお腹がいっぱいで。明日にまたお願いしますね。 アップルウォルナットケーキ……。ああ、あのひとの注文と同じです……。 あのひと? 夕暮れの君……。ああ、今日は来てくれるでしょうか……。……はぁ……。 ?? やはり、ベルの様子はなんだか妙な具合で。きらきらと目を輝かせながら、ぶつぶつと小さく呟いている。 さっきもぼうっとした風だったものの、今はより酷くなっているような。 ……麗しの……。……ああ、あたしの王子さま……。 王子さま? 王子さま? カフェを出る頃には既に、正午を少しだけ回っていた。 目に見えて人通りが多くなる。昼休みで外に出る企業人たちの姿が増えて、それを当て込んだ移動露店の数もちらほら。 輸送業者から払い下げられた旧式の蒸気ガーニーを改修した移動露店や、昔ながらの手押し型のものが通りに並んで。 出勤時と正午付近の名物、フィッシュ&チップスの香りが漂う。 必ずどこかにあるフィッシュ&チップスの移動露店── それは、ロンドンの常識ではあるものの、メアリたちにはあまり馴染みがない。指先が、油で汚れてしまうのが嫌で。 そんな説明をヴァイオラにしつつ、初めて見たという彼女の言葉に驚きつつ。メアリは、さてどうしよう、と首を捻る。 お昼が過ぎて──さて、次はどこへ案内すべきかしら? 特別なところでなくて良いんです。でも、せっかくだから……。 あなたたちの普段することを教えて?同じことを、わたしもしてみたい。 何もかもがわたしには珍しいんです。故郷では、屋敷と敷地内くらいしか出歩くことがなかったから。 ……何でもいいんです。あなたたちの、普段通りのことで。 そう言われて── ──あたしは思い出してしまう。──シャーリィを交えた3人のお茶の時間。 ──きっとアーシェも思い出してる。──3人という数が、同じだから。 ──皆でお茶をして。──ミューディーズでは立ち読みをして。──ハロッズを巡り、篆刻写真を撮って。 ──それから、そう。──ハイドパークで空を見るの。 それがいつもの3人でしていたこと。すぐに思い浮かぶこと。 他に思い浮かぶのは、自分たちの年頃の中流階級子女であればさして珍しくない、定番のお散歩コース。 ハイドパークを歩き回って、設置型篆刻写真機ではしゃぐだけのもの。 あまりにもステレオタイプというか、定番で、ひねりがなく個性に乏しく、メアリはこれまでの日々を恥ずかしく思う。 誰かに経験させて、本当に楽しいと思って貰えるか自信がない。 少なくとも、自分では楽しかったと思うのだけれど── うーん、うーん。ロンドン案内……。 ハワードがいればロンドン港の向こうまでドライブできるけど……今日はいないし……。うーん……。 (うう……流石……。 アーシェの行動範囲は広いのね……) (ミスター・ハワードがいるものね。 ガーニー、かぁ……) 同じように首を捻り、呟くアーシェの言葉をつい聞いてしまう。行動的な彼女には、到底敵うべくもない。 どうしたものかと考えて、やはりいつものコースしかないかと思う。そう望まれているのだから、仕方がない。 (うん。そう、ね。 ちょっと恥ずかしいけれど) (ミューディーズへ行ってから、 ハロッズを回って、ハイドパークへ) (それがいつものコースだから……) ──そう考えて。──あたしは、ふと、気付いてしまった。 ──誰かを裏切ったような感覚。──約束を、破ったような。 ──シャーリィ。──そう。あなたが目覚めるまでは、って。 シャーリィが再び瞼を開けてくれるまで、カフェに来ることもなければ街を散策することもないと思っていたのに。 だからアーシェの誘いも避けてきた。そう意識しなくても、いつか3人でまた来ようねと思いながら。 なのに── こんなにも。こんなにも簡単に同じことができるなんて。こんなにも簡単になぞろうと思えるなんて。 シャーリィは目覚めていないのに。ただ、彼に、そうしろと言われただけで。 いつもと同じことをしようとしてる。シャーリィは、いないのに。 ──薄情、だよね。あたし。──シャーリィ。 ──ごめんね。 ……すごいわ、こんなに……。こんなに本が沢山あるだなんて……。 うちの書斎の何倍、いいえ、何十倍も、本が……。こんなに素晴らしい……。 でしょでしょ。初めてだと目移りして動けないよねー。これが、ソーホー名物ミューディーズ! そうね、あたしも初めての時は驚いてしまって、もう……。 アーシェと一緒に来るようになっても、メアリはぽかんとしてたもんねー。 ……そ、そう? あー。もう忘れてる。最初の3回くらいまでは、メアリってば、シャーリィに手を引かれて歩いてたのよ。 シャーリィという方は、お友だち?碩学院の学生さん? そう。仲良しなの。紹介してあげたいんだけど、えっと。 彼女も体調を崩しているんです。快復したら、あなたにも紹介しますね。 ええ、ぜひ。そのひとはきっとここに詳しいのね……。 こんなに沢山の本があるだなんて、わたし、どうしたものか困ってしまうのに、誰かを案内できるだなんて、すごいわ。 (う。聞かれてた…) ふふ。メアリ、恥ずかしそう。でもしょうがないの、本当だもんね。 ぅ……。 声をひそめながら、他の中流階級の子女のようにはしゃいで。 新刊や稀書を見て回って── 次は有料ガーニーでハイドパークエリアへ。2ヶ月ぶりのハロッズで── 幾つもの店舗が入った総合百貨店ハロッズ。衣服を見たり、刺繍の新作や布地を見たり、そのどれもに羨望の眼差しを向けたり。 我慢しきれなくなった様子で大量に刺繍やドレスを買い付けてしまって、はにかんでみせるヴァイオラに唖然として。 ホテルへ届ける輸送馬車へのサインを、最後にはメアリとアーシェも手伝って。これは、偽造よね、とぽつりと囁きながら。 それから、証明写真用篆刻機関に入って狭いながらも3人で写真を撮ったりして。写真映りが悪いとアーシェが膨れて。 そして── 機関工房の出張展示ホールへ出向いて、新作の、機関機械群の展示品を眺めて。 ジャカール織物機関の新作や、開発中の電信通信機の新作に目を輝かせて。 カダス技術で作られた“腕”つきの工業機関機械の動作に喜ぶアーシェの姿に、ヴァイオラは、柔らかく、優しく微笑んで。 小さな声で── あんなにはしゃいで、アーシェ。まるで腕白な男の子みたい。 ……あっ。い、今の、本人には言わないで下さいね? 変な意味で言ったんじゃないんです。わたし、好きなんです。ああいう風に、元気にできるひとが。 男の子でも、女の子でも。輝いて見えるから。 そう言って。微笑むヴァイオラの横顔に── ──あたしは、息を呑んでしまう。──ヴァイオラの笑顔。 ──それは、あまりにもよく似ていたから。──見間違えたかと思ってしまって。 ──ああ。──やっぱり、似ているのね。 ──シャーリィ。あなたの。──柔らかな微笑みに、よく、似てる。 緑の木々と広い芝。週末には紳士や淑女の姿が多く見られる。 平日の昼間である今でさえ、子守メイドに連れられた貴族の子女たちや、休息にと訪れた中流階級の女性の姿がある。 過去にヘンリー8世が狩場としたここを、現在では、ハイドパークと人は呼ぶ。 ロンドンで穏やかな散策を行うのなら、ここかリージェントパークのどちらか。機関化した都市の数少ない緑の園だ。 富裕区であるハイドパークの中にあって、ここだけは穏やかに、来る者を拒まずに、緑に充ちて人々を待つ。 都市の大切な宝物を皆へと注ぐ場所。かけがえのないものを。 そう。宝物。英国ではここにしかないという。 綺麗……。 機関に充ちたロンドンにも、こんな風に、緑の木々があるのですね。 田舎者のわたしは安堵してしまうんです。機関の素晴らしさはよくわかっていても、やっぱり、そう。 木々の香りとは、離れられないのだと感じられて……。 静かな表情ながらも、期待に胸躍らせる様子のヴァイオラを見て、メアリは思う。ああ、このひとは似ている。 碩学院へ入学するためにロンドンへ戻ってきたばかりの頃の自分をここへ連れてきたくれたシャーリィの横顔。 ──顔立ちが似ている訳ではないの。──ただ、雰囲気が。 ──表情が。──笑顔が、あなたに似ていると思う。 メアリ? ヴァイオラ?何してるの、もっとこっちに来ないと。 もっと近付かないと見えないよ〜。グラウンドゼロから離れたら、駄目駄目。 はーい。ヴァイオラ、こちらへどうぞ。 はい。近付かないと見えないのですね。本当に、不思議……。 そうなんです、不思議で。原理はわからないそうなんですけれど。 グラウンドゼロ。誰がそう呼び始めたのかはわからない、クリスタルパレス跡公園の、中心区域。 空から降り注ぐ幾つもの“陽差し”と、もうひとつの“あれ”が見える場所。 この機関都市ロンドンの中で、唯一“あれ”を見ることができる── ほら、あそこに。見えます? メアリは空の隙間を指さす。ロンドンでは唯一ここでのみ見える奇跡を。 ロンドンの奇跡。世界に出現した怪現象地帯のひとつ。 本当の“奇跡”だ。ローマ教皇猊下もそう言ったという、神々しささえ感じさせる、太陽の残滓。 今はもう灰色雲の向こうに隠れてしまった、メアリもアーシェも一度も見たことのない、太陽なるものの輝き。 空に生まれた“隙間”が見える。輝く陽光が注ぐところ。 そこから溢れる陽光は暖かくて、ロンドンの空気の冷たさを忘れさせる。近付く冬の寒ささえここでは感じない。 見える。誰もが見ることのできる奇跡が。 跡公園から一歩でも外に出ようものなら、目にはできないという、神秘的な、何か。ええ、そう。奇跡。 ……はい。見えます。 そう……。これが、話に聞いた……。 ……こんなにも……。 ヴァイオラは── 眩しそうに、空を、見上げて── 青いのですね……。 パレス跡の空は、こんなに……。どうして、こんなに……美しいの……。 ……こんなにも綺麗な、青色の空。 青空──ヴァイオラの唇から漏れた言葉。 一瞬、メアリは言葉の意味が取れなかった。戸惑ってしまう。青空。それは、ここで、誰もが意識しながらも目にできないもの。 ただ、雲と雲の切れ間である“隙間”には、普通の何倍もの“陽射し”が溢れるだけで見えるはずがないのに。 青色の空。老人たちが口にする言葉。 子供たちがおとぎ話として語るもの。もしくは、ただの噂話。 美しく、青く澄み渡った旧き空。この灰色雲の向こうに広がっているはずの、かつては世界のすべてを覆っていたはずの。 けれど、もう見ることはない。現代に生まれたメアリたちにとっては特に、それは失われた空であって、現実ではない。 なのに。ヴァイオラは口にした。 ──そう。確かに聞いた。──こんなにも綺麗な、青色の空、と。 ──聞き間違い?──ううん、違うわ。あたしは聞いた。 ──腕を広げて空を仰ぐ彼女。──ヴァイオラの、溜息のような声を。 すぐ隣に立つアーシェも、きっと自分もそうなのだろうと思えるほど、驚いてしまい、ぽかんとした顔をしている。 無理もない。見えるはずなどないものを口にされて、いつか見たいと願うものを口にされて。 驚かないはずがない。空の“隙間”とヴァイオラを交互に見て、見間違えているのと思わないはずがない。 青い?え、あれ……それって……。 アーシェ、ただの噂話だと思ってたわ。見えるひと、本当にいるのね……。 青い、空── 光溢れる“隙間”に青空が見えるという、とりとめもない子供や老人の噂は、ある。けれど── それはただの噂話。おとぎ話。 機関科学に満ち溢れた現代文明に、おとぎ話や噂の入り込む余地は少しもない。それは、ロンドンに住んでいれば、わかる。 噂話なんて、本当はない。そのはずなのに。 ──でも。あたしは思う。──本当に、本当に、そう言い切れる? ──噂の存在。──暗闇に潜む《怪異》は確かに在った。 ──おとぎ話が実在してしまうことを。──可能性が現実に変わるのを。──あたしは、知っているから。 ──もしかして。──本当に。ヴァイオラには。 ──青空が、見えているのかも知れない。──そう思ってしまう。 見つめるメアリの視線には気づかずに、両手を広げて空を仰ぐヴァイオラは、くるりと振り返る。 そして。初めて聞く、明るく澄み渡った声で言う。 誰より愛するひとを前にした恋人のように。この上ない喜びを告げられた、神と空とに愛された誰かのように。 幻かと思っていたんです、幼い頃の。ほら、あるでしょう?幼い頃の思い出は、空想との区別がなくて。 でも。この空を、わたし……。 ずっと以前に見たことがあるんです。この、青色の空。 新大陸の西部で、この色と同じ青い空をわたしは見た── そう言うと、ヴァイオラは眩しそうに瞼を閉じる。 その姿を見て。やはり、似ていると感じる。もう、今日だけで何度目かになるこの感覚。目を閉じたヴァイオラの姿が重なる。 シャーリィの姿と、重なる。セントポール大聖堂で祈りを捧げていた彼女と、今のヴァイオラはよく似ている。 ──あれは、そう、──半年ほど前のことだったと思う。 ──お祈りがしたいの、と言ったあなた。──いつもはそう熱心ではないのに。 うーん、うーん。眩しい光しか見えないんだけどなぁ……。 光が沢山漏れる“隙間”なら見えるのに。青い空、アーシェも見てみたいなぁ……。 ね。メアリ。メアリには見える? ううん、見えないわ。いつも通り。でも── 雲の向こうには青色の空がある。それは、観測史上も確かなことのはずよね。 もしかしたら、特定の環境と目の条件下では……。 ……見えるのかも知れない……。 メアリ、科学の教授みたい。やっぱりメアリはサイエンス向きだわ。 可能性を言っただけです。だって、彼女が── 彼女が嘘をついているようには見えない。彼女は嘘をつくひとではない。そう、メアリは直感していて。 この目では見えない。すべてを見るとモランに言われた右目でも、空に、青色を見ることは、できないけれど。 それでも。きっと、ヴァイオラには見えている。 メアリはそう思う。嘘は、わかるから。嘘は、自分が誰かへと言うものだから。 短い間に嘘に浸かってしまった自分だから、誰かが、嘘を言っていないのかは、わかる。根拠はない。それでも。 ──見えているのね。──ヴァイオラ、あなたには、きっと。 ──羨ましいと思う。──あたしには見えない、美しいもの。 ──老人たちの懐かしむもの。──子供たちの、ささやかな噂の対象。 ──何よりも美しくて。──もう二度と戻らないという、本当の空。 青空……。 日没── 日没という言葉は正確ではない。夕刻や夕暮れについても同じく。なぜなら、沈む陽も暮れる陽もないからだ。 けれど、人は言葉を捨てなかった。夜闇の訪れ。それが言葉を塗り替えることは、今もない。 そして。今日の日没過ぎ── 灰色雲の向こうで輝くはずの太陽が沈み、都市には夜の帳が落ちて、機関街灯が目覚める時刻。 メアリの姿は碩学院の中庭にあった。ハイドパークから大分遠回りをして、有料ガーニーを碩学院へ回して貰ったのだ。 ヴァイオラとアーシェには、正門前に停めたガーニーで待って貰って。 教授棟へと赴いて、今日出されたぶんの課題を受け取って。足早に、メアリは中庭を横切っていた。 地下鉄の終電を意識するほどの遅い時間ではないけれど、人は少なかった。残る院生は、研究会所属の男子たちばかり。 女子の姿は殆どなかった。中庭には特に。 ちらほらと、疲れた顔で教授棟から出る男子学生の姿があるばかり。 (優秀な人は、優秀な人で大変よね。 毎日遅くまで……) 思いながら中庭を歩く。やがて、噴水前に差し掛かって── そんなに急いで、どうかしたのかな。メアリ・クラリッサ? まさか、日付が変わる前にきみの顔が見られるとは思わなかったな。確か、今日は、欠席をしていたはずだね? それともとうとうどこかの研究会にスカウトされたかな。 あ……。 ──ハインツ・ヘーガー。──以前、言葉を交わしたことのある男子。 見覚えのある顔だった。挨拶以外の言葉を交わしたのは、確か、1ヶ月前のことだったと記憶している。 あれはそう、シャーリィを待っていた時。地下鉄の終電近くまでここで待ち続けて、このひとに話しかけられた。 会話の内容も覚えている。彼から挨拶された後に、チャペック博士の噂について何かを知らないですかと尋ねた。 特に収穫はなくて、オカルト絡みの話を二、三聞いて。 それで別れた。他には、特に、何も。 ごきげんよう、ハインツさん。はい。今日は、私用で休んでしまったので、課題だけでも頂いておこうと思ったんです。 研究会じゃありません。あたし、それほど優秀じゃないですから。 それはどうかな。麗しのメアリ・クラリッサ嬢。きみは、自分で思っているよりも注目の的だよ。 きみの論文は読ませて貰った。カダス北央部遺跡の発祥時期について、きみは、実に興味深い考察をしている。 僕であればボルヘス卿の欧州帰還と絡め、博物史と神学を交えた、ありきたりの論文にしてしまうところさ。 カダスと欧州の共通性ではなく、あくまで“相違点”を突いたきみの論文。あれは、注目に値する素晴らしいものだ。 え……。 不意を打たれてしまった。突然、1年以上前の論文の話なんて。 カダス北央部遺跡発祥の論文。去年、論文の書き方にさえ四苦八苦しつつなんとか形にしただけの、拙い、初の論文。 自信もなかったし、実際に教授からの評価も並だった。 こうして彼に言われるまで、メアリ自身ですら内容を失念していた。 あの論文をそんな風に言って下さったの、ハインツさんが初めてです。 ありがとうございます。でも、拙い考察です。そんなに褒めて頂くほどでは……。 きみさえ良ければ、もっと話をさせて欲しいくらいさ。 ミス・メアリ・クラリッサ。もし、これからひとりで帰宅するのなら、今度こそ途中まで送らせて貰えないかな。 きみに憧れる男子は多いが、その点、僕は、きみの才能に憧れている。紳士ならざる獣にはならないと誓おう。 花は距離を置いて愛でてこそ美しい。手元に置こうとは考えない男だよ、僕は。 その点、安心してくれて良い。どうだい? え、と── ──さすがに。──あたしは、何度も目を瞬かせてしまう。 ──こんなに明け透けに誘われるなんて。──驚いてしまう。 遠慮がちな手紙が届くことや、私的な食事会に誘われることはあっても、こんな風な言葉を掛けられたのは初めて。 嬉しいとは思わなかった。困ったとも思わなかった。ただ、驚いて、思考が固まってしまって。 何を言っているんだろう。このひとは。 この、彼。ハインツ・ヘーガー。碩学院の女子の多くから人気で、貴族令嬢からの誘いまであると聞いている。 その彼が、どうして自分を誘ったりするのだろう。こんな時間に、こんなに華美な言葉で。 妙なくらいに、下心が一切ないと強調までして── その、すみません……。あたし、あの、突然のことで……。 ええ、と、人を待たせているんです。だから……。 なるほど。それは気付かなかったな、失礼。 そんなに強ばることはないよ。大丈夫、僕に遠慮する必要なんてないんだ。きみは、いつも華やかでいてくれたまえよ。 麗しのメアリ嬢。では、僕はいつかの機会を待つとしよう。 美しきグネヴィアとの逢瀬に焦がれる、湖の騎士のようにね。 は、はい……。 ──また。あたしは硬直してしまう。──驚きのあまり。 ──自分をランスロット卿に例えるなんて。──そんなひとがいるなんて。 ──凄い自信家。──でも、妙に、似合っても思える。 けれど、残念であることは確かだよ。きみとはもっと言葉を交わしたい。 きみの才能をね、僕は、知りたいと願っているんだよ。どうだろう。5分でも、今、時間を。 ……おい。ハインツ。 いい加減にしろよ、ハインツ・ヘーガー。お嬢さんが困っているのがわかるだろう。まったく、お前は。 助け船──そう表現しても良いだろう。 驚きでまた硬直しかけてしまったメアリに、この場で5分の会話をと続けるハインツの誘いを断るのは、難しい。 そこへちょうど。この声。流れを遮ってくれる誰かの言葉。 学生にしては落ち着いた声。教授にしては若々しすぎると感じられる、それは、噴水脇のベンチから届いていた。 ベンチから腰を上げる人影がある。ステッキを携えた、帽子姿の紳士の影。 もういいだろう、ハインツ。嫌がる女性を引き留めるのは感心しないし、どうやら、お嬢さんは急いでいるようだぜ。 やれやれ。いつから聞いていたんだい。 始めからだ。お前が俺と話している最中に、いきなり、そのお嬢さんへ声を掛けたのを忘れたか。 そうだったかな? まったく。お嬢さん、足を止めさせて済まないな。 こいつは俺の連れ合いでね。この通り、変わり者過ぎて困った奴だ。 え、ええと、いえ、その……。急いでは、いないんですが、友人を待たせてしまっているので……。 なら、早く行ってやるといい。名も知らぬお嬢さん。 ──本当は、すぐにでも。──正門へ急ごうと思ったのだけれど。 ──母さまから躾けられていたから。──紳士に、名も告げずには去れなくて。 あの、ありがとうございます。メアリといいます。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 ウィンストン・チャーチルだ。ハインツとは悪友でね。 おやおや。奇妙な運びだね。これではまるで僕は悪役じゃないかい? 状況を見てものを言え。さあ、お嬢さん、もう行くといい── その瞬間。チャーチルと名乗る紳士の動きが、止まる。 そのことにメアリは気付かない。紳士の視線がどこへと向いていたのかさえ、慌てていたために、気付くことはなかった。 チャーチルが見ていたのは。メアリの右瞳── あの、失礼しますね。……すみません。おふたりとも。 おやすみ、メアリ・クラリッサ。どうか良い夢を。 メアリは気付かない。その時、その瞬間── ──見送る紳士の唇が。──小さく、小さく、動いていたことに。 ──見つけた、と。 ──そう、僅かに、囁いていたことにも。──あたしは気付かない。 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。献体が使用されたようです。 フラグメント類型は。 はい。数式パターンの思考ノイズを確認しました。 妖精型か。 はい。 そうか。 さて。王たる者よ、お前はどの程度の叫びを聞かせるのか。 それは── ──それは、夜闇に佇む小さな人影だった。──きっと子供。 こんな夜遅くに、子供が、たったひとりで。佇んでいるのか歩いているのかわからない。姿は、朧で。 そう、朧気な印象があった。立ちこめる霧と排煙の混合物に紛れて。 それは幻のようでもあったけれど、機関街灯からの明かりは幼子の影を作り、今が現実であることを強かに告げている。 しかし、あり得ない。遠目に見てもあの子は浮浪児ではないのだ。 風のままたなびく髪と服装がそう告げる。中流階級か、それ以上の家の子だろう。 誰ひとりの供もつけずに、この時間、テムズの橋をひとりきりで歩く訳がない。 ──けれど、幼子は確かにそこにいた。──霧と排煙の中で。 ──幼子の、口元が動く。──小さく、何かの言葉を囁いているのだ。 ──幼子の、瞳が揺れる。──都市を見つめる双眸から滴が落ちる。 溢れ落ちた涙はかたちとなる。囁き声と共に。 「……うつら、うつらと……」 「……よびよせる……」 「……あなたの、こわいもの……」 「……なあに……?」 幼子の影が── かたちとなる── 歪み、ねじれて、軋む音を立てて。数え切れないほどの黒い首を振り上げ、数え切れないほどの紅い瞳を瞬かせて。 影は、黒い怪物となる。幼子の足下の影から、次々と、次々と。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 メアリが悪夢と呼んだあの晩に湧いた、黒い怪物が、幾つも、幾つも。 「……群れは、おろかで、みにくく……」 「……だれかを、いつも、傷つけて……」 「……罪と、なって……」 「……風が……」 「……罰を、はこぶ……」 「……去りしはずの、国、から……」 「……ふたつめの、ものが……。 ……ここへ、来る……」 「……なにも、かもを……」 「……切り裂く、ため、だけに……」 ──幼子は、都市のさまを見つめている。──そうして、何かを囁いて。 ──岸からは遠すぎて、表情は見えない。──けれど。 けれど。その表情とその涙を、ただひとりの人影だけが見つめていた。 蠢く黒色の怪物に怯むこともなく、その群れを率いて囁く幼子にも怯えずに。ただ、沿道から橋の上をじっと見つめて。 さて。さて。 きみの焦がれる想いとやらは、果たしてどの程度のものを生み出すのかな。 実に興味深い実験だ。願わくば。 ……きみに、甘く芳しい死の香りを。 ガーニーを使ったお陰で、夕食時に幾分かの余裕をもって到着できた。さして時間も掛からずにウェストエンドへ。 素敵な場所を案内してくれたお礼にホテル近くのレストランで夕食を、とのヴァイオラの提案にアーシェが賛同して。 リッツの少し手前でガーニーを降りた。夜中のロンドンを歩いてみたい、とのヴァイオラの提案にアーシェが賛同して。 3人で通りを歩く──治安の良い場所で良かったとメアリは思う。 イーストエンドあたりであれば、まさか、女性だけで歩く訳にもいかない。 ここやシティエリアなら特に治安は良い。だから、夜の通りを女3人で歩くことへの心配はなかった。 少し前であれば、シティやウェストエンドの通りであっても女性のひとり歩きなど非常識だったという。 何もかも、20世紀に入ってから変わった。機関も都市も人も思想もそうだと、老齢の教授たちがたまに口にする。 実感はない。メアリにとってのロンドンは“今”だ。 ただ── 夜のロンドンを怖いと思う。つい1ヶ月ほど前までは考えもしなかった。 この夜のどこかに、あの、恐ろしい黒い街への入口が在って、犠牲者たちを呑み込んでいるということ。 こうしていると、誰かと歩いていると忘れそうになる。 けれど、通りから覗ける路地裏を見る時。けれど、機関街灯のない暗がりを見る時。メアリは思い出す。 朧気な記憶の彼方で体験した、あの、黒い街を── そういえば、メアリは大丈夫?門限あんまり遅いとミセス・ハドスンが。 門限は、ええ、いいの。今日も外泊するって伝えておいたから。 へ。外泊?だ、だだだだだ誰と? わたしとです。ふふ。昨日は一緒のベッドで眠ったんですよ。 ええっ。いいな、アーシェも呼んでよぅ。羨ましい羨ましい……。 いいな、メアリも一緒にお泊まりなんて。あ、そうか、親戚だものね。うんうん。なら、仕方ない。 それで、ヴァイオラ、どこのホテル?ここから近い? ええと、ね……。ヴァイオラはほら、お金持ちだから……。 リッツというホテルに宿泊しています。夜の街の眺めがとても綺麗なんです。 リッツ!?いいなぁー、超高級ホテルでお泊まり! お、大きな声出さないの。あなたの家は高級ホテルと同じか、ううん、もしかしたら、それ以上のお屋敷でしょう? 貴族もピンキリなの〜。 あなたはピンのほうです。アーシェリカ。 ぶー。 可愛く頬を膨らませて。そうしているとシャーリィに怒られるわよ、と、メアリが囁こうとした、その瞬間── 何か── ──何かが聞こえた気がした。──声。アーシェでもヴァイオラでもない。 ──誰かがあたしに呼びかける声。──通りをすれ違う誰か。違う。違うわ。 声は明瞭には聞こえていなかった。ただ、背後で響いたという実感だけがある。誰。違う。誰でもない。 人間の声には聞こえなかった。覚えのない声。 今までに聞いたことのない音。声。けれど、確かに以前感じたことのあるもの。 一度。違う、二度。あの時は、そう、思い出す、シティエリア。舗装道路の上にいるのは自分ひとりだけで。 ……嘘……。 今は── 隣にはアーシェの姿がある。ヴァイオラもいる。通りを行き交う人々も、姿を消すことはなく、周囲に実在している。 なのに聞こえていた。気のせいではない。どこか遠くから、背後から、呼びかける声。 朧気な記憶をメアリは探る。何をしたか。これを聞いて自分は何をした。背後。そう、背後に、だから、振り返った。 そして背後に“あれ”はいたのだ。一度目は鋼。二度目は炎。 ならば“今”背後から声を掛けてきたのは、何で、あるのか。わからない。わからない。ただ、悪寒だけが強くなる。 唐突に平衡感覚が揺らいでしまう。地面に立っているはずなのに、まるで、激しく波打つ水上に立つような不安感。 焦り。戸惑い。汗さえ出ないほどに凍り付いていく全身。 ──駄目。駄目、だめ。だめ!──何。ここで、なぜ、こんなに唐突に。 ──いいえ、違う。違うわ。今までもそう。──予告されたことなんてなかった。多分。──電信越しに初めに声があって。 ──でも今は?──何もなかったはずなのに、なぜ、なぜ。──1ヶ月も、何もなかった。何も。何も。 悪寒と吐き気がメアリを襲う。同時に、ああ、そうか、と理解できた。 どうしてこの1ヶ月というもの、これを感じずに過ごすことができたのかを。黒い街の記憶は、いつも、霞がかって滲む。 いつもははっきりと思い出せないから。だから、平気でいられる。 ──これを。この、強烈な感情を。──常に実感を伴って思い出せるのなら。 ──1日と保たないと思う。──きっと、すぐに、狂ってしまうから。 ひとりでに強くなる鼓動を感じる。走ってもいないのに、息切れしそうになる。 背後にまだ気配は感じない。ただ、一度だけ、遠くから声を聞いただけ。焦りと寒気が全身を苛む中、メアリは思う。 何をすべきか。この右目を求めて来るはずのものに対して。 視線がさ迷って何かを探していた。警官? 助けてくれるひと?いいえ、そんなものは、何の意味もない。 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──そう。そうよね。 ──できることは。──ひとつだけだと彼も言っていたもの。 アーシェ。 ん。なに? ……あのね。 こちらを向くアーシェへ笑顔を向ける。冷静に。冷静に。そう内心で叫ぶ。 気付かれてはいけない。何かを察されることも今だけは避けて、どんなに嫌な嘘でも、今だけは吐ける。 痛みはある。迷いはない。ただ、気付かれませんようにと願うだけ。 院に忘れ物をしちゃったみたい。先に、ヴァイオラと一緒に行っていて。 すぐに追いつくから。お願いね。 え? ひとりで行くの? あっ。メアリ! 返答を待たずにメアリは駆け出す。真横に見えた路地裏への入口へ、するりと。 背後を振り返ってはいけないという直感が、来た道を引き返そうとしていた意思と体を拒んで、そうさせる。路地裏。 路地裏を走る── 走る。 走る。 走る。 ──来た。来た。来た!──今ではもう痛いほどはっきりとわかる。 ──2体の“あれ”と同じ怪物が近くに。──あたしの背後にいるのがわかる。 誰もいない路地で良かった。シティなら、ケインズやアンリのような孤児たちの姿があったかも知れないから。 けれど。ここはロンドンで最も治安の良い場所。 孤児はいない。路地裏をねぐらにするような少年も少女も、犯罪を生業とするような大人たちもいない。 誰もいないから。ここでならきっと誰をも巻き込まない。 大切なアーシェも。よく似た微笑を浮かべるヴァイオラをも、決して、これに、巻き込まずにいられる。 四肢を痺れさせようとする寒気と、意識を奪おうとする呼吸の乱れと、思考を混乱させようとうねる流れとに。 すなわち、メアリを襲うこの恐怖そのものに。 これまでと同じように混濁しかけた意識で、メアリは、密かに安堵する。良かった、と。これであとは── あとは── することは、ひとつ、だけ──  ──振り返る、だけ── ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──群れを恐れた誰かのそれ。 計器の示した通りの位置に声は在った。でも、理由はわからない。なぜ、この声があるのかさえ。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 なぜ、この瞳を欲しがるのか。何ひとつわからない。 ──なぜシャーリィが瞼を開けないのか。──同じ。何もわからない。 ──でも。今は、それでもいい。──構わないわ。 この街にはいないのなら、それでいい。自分以外の誰もここにはいない。あの、恐ろしい声を上げる怪物以外には。 自分ひとりが逃げ延びればいいのなら。それでもいい。 ──走り続けて、声を集めて。──それから。 ──それから後は。 何かがあったはず。どこかへ目指して走っていた記憶。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。前にもこうして隠れながら───  『目ヲ、クダサイィ……!』 突然、叫び声が周囲に充ちる!怪物。大小6つに分かれたものの中でも最も恐ろしい声を上げるものが、目前に。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。黄金瞳を取り込もうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。まともに、その姿を見てしまった。 ──苦しい呼吸が恐怖でさらに引きつる。──駄目。駄目!  『……アナタ、ノ……』  『……右、目、ヲ……』 その巨大なものは、今まで見たものとはかたちが違う。鋼鉄でできた、昆虫の型。虫に、似ている。 鋼でできた、まるで、蟻のよう。けれど僅かに人型に似た部位を蠢かせつつ、瞳から赤色を流しながら、悲鳴を、続けて。 目前にいるのはその1体のはずなのに。見える。見えてしまう。見ては、いけない。 それ1体であるはずなのに幾つも蠢いて、ああ、そう、これは、これらだとわかる。群れ── 怪物ひとつが見えているのではない。そこにいるのはひとつでも、これは、幾つもの怪物の合わさったもの。 おぞましく蠢く── ひとつと化した、群れ──  『オ前ノォォ……』  『目ヲォォ……!』 あげない、だめ……!あたしは……! まだ、終わってない……!死ねないわ! メアリは意思を振り絞る。叫ぶ。怪物の絶叫に負けないくらい、大きく。              『群れのムリアン』 ──何。今の。 ──声。誰の。 群れのムリアン。そう囁く声が聞こえた。思い出すのは、ボルヘス卿の本で読んだ、蟻のような小人の妖精たち。 群れの……ムリアン……。                『ここへ来い』 ──声。あなたは誰。──あなたは、前にもあたしを呼んだ。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。──聞き覚えのある。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。 ──前は誰かもわからなかった。──今は、違う。 ……M……?                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他には“群れのムリアン”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 ──そこに。 ──行けばいいの? ……ッ!! メアリは再び走っていた。あの時と同じようにして、恐怖の波が膝をおかしくさせるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる。前もそうした。 声の先にMがいる。何度も彼が確認した通り、いるはずだから。 ──あなたを信じる。──あたしは、契約を果たしてみせる。  『目ヲォォ……!』  『クダサイィ……!』 駄目よ! ──まだ。走れる。──群れになんか呑み込まれたりしない。            『諦めていないのなら』             『ここへ来い。仔猫』 仔猫って、言わないで……! ──走って、走って、走って。 ──喉が渇く。──荒い息が掠れた喉を通る度に痛む。 前は何かを考えていたと思う。けれど、今は、何ひとつ頭に浮かばない。走る、という漠然とした決意だけがある。 体が軋む。立ち止まればすぐにでも全身が痙攣して、動けなくなりそう。痛い。痛い。 途絶えそうになる意識を懸命に繋ぎ止めて、メアリは考える。考えようとする。漠然とした意識で、ただひとつを。 場所は── あの声の主の言った場所は、ここ。この場所のはずだと朦朧と考える。確信と、以前の黒い街での記憶があった。 方向はこれで間違っていない。確信と記憶。 けれど── ──周囲には誰の姿も見えなかった。──自然と視線が動く。──黒い人影、あの声の主、彼を、探して。 ──でも。いない。──ここへ来いと言ったはずのあなた。 ……はっ、はあっ、……はっ……。 来た、わ……。ここまで……言う、通り、に……。 怪物の気配がする。あの鋼の虫の群れ。幾つもの脚のはずなのに巨人のような足音。 かすかに聞くことができる。巨人のようなふたつの足音、その中で幾つも蠢く怪物の群れの音を── 周囲を見回す。あの夜と同じ、異形の黒色、建物のかたちをしているだけの嘘の石細工。街でも、建物でもない。 路地も見当たらない。狭い直線の1本道で、物陰が、ない。 巨体の怪物であれば入って来れないだろう。でも、あれは、あれらはそうではなく、大きく見えていても、群れに過ぎない。 かたちを自在に変えてここへ来る。この黄金瞳を求めて。 ……は、や、く……して……。 ……もう……。……脚、動か、ない……から……。 ──そう。脚はもう動かない。──立ち止まると同時に、怪物の重い足音。 ……だめ……。 ──脚が。 これ、以上……。 ──恐怖に、耐えきれない。 ……前に、行け、ない……。 ──砕けそうなほど激しく震えて。 ……シャーリィ……。  『ココォ……!』 ──だめ。──これ以上は、脚が動いてくれない。 ──だめ。駄目。そう、駄目なの。──あなたはそうなの。 ──そう。これ以上、本当に動けないの?──あなたは諦めるの? ──もう、終わりで、いいの。──あなたはいいの? ──メアリ?  『黄金瞳……クダサイ……!』 ……いや、絶対……。 あなたには、あげない、から……。駄目よ……。 ──諦めない! 諦めない。嫌、嫌。契約をしたのだから。まだ、シャーリィは目覚める気配もない。それなのに! ──呑まれて、終わりにはしない! 力の入らない脚へ意識を集中させる。強気に笑顔を浮かべようと思ったけれど、歯の根が鳴るほど顎が震えていて、駄目。 それでもなんとか立っている。そう、立っている。まだ、倒れてない。 ……鬼ごっこは。追いつかれたと思ってから、本番、よ。 あなたには、捕まらない。あなたたちには……。 ……捕まってあげない。ずっと。 ──怪物が、あたしに近付いてくる。──幾つもの脚を蠢かせて。 耳障りな金属音が怪物の実在を告げる。鋭く尖った先端を備えた幾つもの脚が、黒い石畳を抉った。 怪物が異様に歪んだ胴体部を近付ける。鉄の擦れる嫌な音がした。 鋼の塊であるのに、人間のような胴体。気味の悪い怪奇画でさえ見たことのない姿。 メアリは見た。胴に、一筋の亀裂のようなものがあるのを。 ──ああ。これは。──きっと、この虫の“口”か、何か。  『……イタダキ、マス……』 嫌、だっ、たら……! 恐怖に震える全身の力を、残っていないかも知れない力のすべてを両脚へと込める。地面を蹴って走るべく。 彼が来ないのなら、どこまででも、逃げるしか方法はない。 果てがなくても逃げてみせる。いつまで、でも── ご苦労。 お前は願いにひとつ近付いた。褒めてやろう、仔猫。 声── 誰。背後から声。だから姿は見えない。でも、男の声だとわかる。 それは、メアリをここへと導いたあの声。耳でないところへ届く声と、同じで。 ──あたしは声の方向へと振り返る。──その、刹那。 モラン。銃を持て! はい。我があるじ。 彼の声が何かを呼び寄せる。誰かを。視線の先の暗がりから、もうひとつの長身の影が姿を見せて──  ───────────────────!  『ギイィイイイイイイッ!!』 ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。──それは、怪物の胴を消し飛ばす。 ──誰。誰。銃を携えた、背の高い女性。──この人を、あたしは知っている。 ──セバスチャン・モラン大佐。──Mが“武器”であると言った女性。 怪物の悲鳴が撒き散らされる。激しい衝撃音にメアリが悲鳴を漏らす、その最中にも、銃撃は断続的に続いて。 穿たれていく。群れのひとつひとつが、砕かれていく。 ひとつ、ふたつ、みっつ。群れだった怪物が着実に数を減らしていく。 以前見た時には、炎の怪物は苛烈な銃撃を受けても倒れずに、悲鳴を幾つも生むだけだった。それなのに。 数が減っていく。ひとつの銃撃ごとに、確かに、消えていく。 効いている──銃撃を受ける毎に怪物は猛烈な風を撒いて、風船が弾けるように、音を立てて、消える。 ひとつ、 ふたつ、 みっつ、ああ、もっと、もっと、沢山の数。 凄惨な── 凄惨な光景だった。あれほど恐ろしかった怪物たちが、砕かれ、小さな悲鳴のひとつひとつまでも、潰され。 メアリは思い出す。あの、4つの声を。何かを請い願うような誰かの声を。 気のせいだと思い込む。冷静に砕かれていく怪物たちの悲鳴が── ──あの4つの声に。──どこか、似ているなんて、こと。 ──でも。でも、もしも、似ているなら。──あの4つの声は、何、なの。 ──この怪物たちと関係があるの。──こうして砕かれていく、恐怖の塊と。 現実離れした光景をメアリは見つめる。黒い街も、到底、確かな現実とは思えない、けれども、この、凄惨さは何か違っていた。 もっと別の、何か。恐怖とは別の感情が、胸に、渦巻く。 自分が助かったという感慨は一切なかった。脚と喉の痛みさえ意識することもなかった。ただ、呆然と。 呆然と。呆然と。銃撃の雨による破壊を見ているだけ── ……やめて。 声。誰の。Mではなかった。 自分の声だと認識した瞬間、メアリの視界がぐらりと大きく傾いていた。 銃撃は続いている。怪物たちは幾つも幾つも砕かれ続けている。もう、群れなどとは、呼べそうもないほど。 ……や、め、て……。 ──どうして。──あたしは、やめてと、言うの。 ──疑問と、何かの感情が渦巻いて。──この感覚だけは忘れまいとするけれど。 ──限界だった。──もう耐えられない。立っていられない。 このまま倒れたら、そのまま意識を失ってしまう自覚があった。 そうすれば、また、朧気になってしまう記憶はこの疑問と感情、すべてを、また、遠くへ追いやってしまう。 そう── 思っても── ──もう、立っていられなかった。──視界が傾く。 ──意識が、保てない。──寸前に何を考えていたのかも霞んで。 ──感覚はないのにひどい痛みだけ感じる。──脚。震える、あたしの、両脚。 ──そう。脚。あたしの脚。──砕かれる怪物たちの脚ではない、脚。 ──そう。もっと、鍛えないといけない。──走るために。──またここで。 …………。 何かを呟くと、メアリは、その場に倒れていた。 最後に思ったのは、自分が涙を流していないかどうか。 それと── 視界の向こうで佇むあの男。黒い男、こちらを見下ろす彼への決意だけ。 契約通りに彼は《怪異》を壊しているのだ。それだけだと、わかるから。守られたとは、思えなくて。 だから── 決意を、ひとつ── ──ありがとうなんて、この男には。絶対。──絶対、言わない。 夜が明ける──灰色雲の向こうの太陽が機関都市を暖める。 都市を稼働させる機関の駆動音が、人々の活動と共にあちこちに充ちていく。 4号までのロンドン橋が同時に稼働を始め、ウェストエンドの時計塔は朝の鐘を鳴らす。都市に朝が充ちていく。 機関都市ロンドン。世界有数の大都市にして英国の中枢。 第3の怪物が跋扈したことを知る者は、殆どいないだろう。かの《結社》に連なる者か── 或いは── この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者以外には。 べーカー街221B。整頓とは程遠い状態の部屋に、男がいた。 彼の名を知る者は多い。ロンドン警視庁のあらゆる警官であるとか、殺人さえ厭わぬ犯罪組織の下僕であるとか。 他にも、そう、多くの市民たちもそうだ。彼の武勇伝は新聞や伝記的小説によって幅広く伝えられている。 それは、パイプを片手にした男だ。知識の深淵ですべてを見通すという男だ。 英国はおろか西欧諸国全土、果ては極東部の小帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。 欧州全土の事件を解き明かすという、男。ディテクティブの王だと自ら称する、男。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、男。 かの北央帝国皇帝と謁見し、生還を果たした唯一の人間と目される男。 その容貌は伝記的小説の書く通り。高い鼻も、また然り── 男の名は、シャーロック・ホームズという。睡眠を忘れた諮問探偵であった。 ……ありがとう。 電信通信機の回線と閉じて、彼は、部屋の奥で静かに佇む何者かを見る。 やれやれ、シャルノスを知る者がもうひとり増えたか。またも《結社》は私の不在を狙ったようだ。 姑息な手段に溺れるものは、やがて身を沈ませてしまうというのに。 或いは彼ら自身が、そう、望んでいるのかも知れないがね。ああ、全員であるとは勿論限らないが。 何にせよ、断言しよう。叡智というものの意味を忘れた連中だよ。 すべてを見抜くと評された眼光が、窓越しに見える複合超高層高架を捉える。 排煙を噴き上げて空を充たすそれらを、彼は、忌々しげに睨み── ……まったく。 実に、困ったものだ。《教授》も面倒を増やすのが好きと見える。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「文明だけでなく、 人間の精神もまた変容を免れぬのだと」 「すなわち。 誰も彼もが明日には狂っているのです」 「さて」 「我らが愛する哀れなる刺客のひとりは、 無垢なる乙女を 仕留めることができませなんだ」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「刺客は乙女を仕留められなかった。 であるからには、訪れることでしょう」 「かのバスカヴィルの魔犬と同じくして、 遠からず──」 「──怒りの代償であるものを」 ──遠い昔。──今では朧気な霞の彼方となった過去。 ──脳裏に焼き付いて離れない記憶がある。──俺が少年だった頃。──父が生きていた頃。 父。そう、父だ。父の“計画”は完璧であるはずだった。 それまでの暮らしぶりを忘れられるほどの、一生では使い切れない財産を得て、俺たちは夢のような幸せを掴むはずだった。 だが。すべては幻と消えた。従順で大人しかったはずの母の裏切りと、忌々しいホームズの来訪さえ、なければ。 父の“計画”は完璧であるはずだった。おとぎ話の《魔犬》を操り、バスカヴィル家の当主を殺してみせた。 犯人のいない殺人。まさか俺の父を疑う者など何処にもおらず、すべて順調に進んでいた。あと1人殺せば。 あと1人。あと1人、殺せばよかっただけなのに。 完璧なはずの“計画”は失敗した。そして、父は死んだ。 爛々と光る眼、火を吐く口、体が青い炎で包まれた《魔犬》など存在していなかった。すべては父が仕組んだこと。 だが、《魔犬》はいたのだ。奴が父を殺した。 かつて、バスカヴィル家の人間の暴虐を断罪したという黒色の《魔犬》が殺した。いるはずがないのに。 断罪の獣。荒ぶる黒色の風── それはただのおとぎ話に過ぎない。なのに、奴は、確かに、俺の前に現れた。 父を殺したもの。俺の見たバスカヴィルの《魔犬》が。 それは、犬ではなかった。決して、獣ではなかった。黒いコートを身につけた男の姿をしていた。 覚えている。決して“あれ”を忘れることはない。 無惨な父の最後を、今も、忘れはしない。あの時、俺は知ったのだ。 失敗こそが断罪を導くのだと。真に完璧なる計算を施した計画を立てねば、いつか必ず、人は、断罪されてしまうのだ。 黒色を纏った怪物が。跡形もなく何もかもを喰らい尽くすのだ。 俺は見たのだ。父の望みも、命さえも、何もかも喰らった、この脳裏に恐怖を焼き付けた断罪のさまを。 ──だから。 だから俺は完璧な頭脳を得ると決めた。あらゆる学問を、俺は、頭に納め続けた。 誰よりも貪欲に。誰よりも勤勉に。施設の片隅で、機関街灯の明かりの下で。 俺は勉学に立ち向かった。どんなものであろうと、取り組み、激しく食らいつき、理解し続けた。 そして俺は得たのだ。本当に完璧な“計画”を生む、頭脳を。 碩学となる道も開かれた。だが、俺は、学者などに興味はなかった。 王の頭脳を得るのだ。そのために、学んだ。いいや、俺は、既にそれを身に得たのだ。 ──誇り高き誓いと共に。──今や、英国で俺だけが王の素質を持つ。 ──王となれば、誰も俺を裁くことはない。──誰も。──誰も。 ──俺が。──王だけが、誰かを断罪できるのだから。 『だいじょうぶ?』 ──やめろ。 『お父様、たいへん! この子、怪我をしているみたい』 ──やめろ。 ──俺に近付くな。──王は、孤高であるが故に力を持つ。 ──だから。──それ以上、俺に、近付くな。 『ねえ、あなた、だいじょうぶ──』 ──やめろ! ──暗い。 ──ここはなんて暗さなんだ。 石畳の路地を走る乾いた靴の音はない。既に、ここにはひとつの音しか。 俺の靴音はない。俺の息遣いの音だけが響いていた。 誤った歴史を歩み続ける我が大英帝国、首都ロンドンの路地裏で苦しむ男の息、この俺の喉の音。 闇から迫り来る恐ろしい“あいつ”の音は、今はもう聞こえて来なかった。だが、俺の背後にはまだ悪寒が残っている。 音の正体は、俺には、言うことができない。ただ、無限の暗がりであるとしか。 俺は、逃げ切ることができなかった。俺は、一度は追いつかれてしまった。それでも、まだ、こうして俺は生きている。 機関街灯の明かりさえ届かない路地裏で、俺は、冷たい壁に背を預ける。無音の周囲に、途切れがちな呼吸が響く。 苦しい。苦しい。だが、この荒い息は俺の存在の証明だ。 ……糞ッ……話が、違う……。なぜ、奴が、黄金瞳の側に、いる……! 博士は……。奴に、やられた、のか……? 半身を引き裂かれる苦しみに耐えながら、俺は、言葉を投げ掛ける。路地裏の暗がりに潜む“協力者”へと。 不気味に沈黙を保っていたそいつは、笑っているようだった。声もなく、音もなく、微笑だけを浮かべて。 睨み付ける俺の視線を受け流し、そいつは言った。俺の苦しい呼吸に隠されるほどの小声で。 耳障りな囁き声で。癪に障る── ……情けないことだね。 いけないね、失敗だ。きみは黄金瞳を聖餐とすることに失敗した。これでは、チャペック氏と同じじゃないか。 シャルノスの王はきっとご立腹だよ。きみの半身は誰かに破壊されてしまった。 眷属進化を果たさなくては、きみは黄金瞳を聖餐とするどころか、その身に授かるすべてを失ってしまうよ。 そいつは笑みを隠すことなく、この俺の無様な行いと失態とを嘲っていた。 癪に障る。まさか真似でもしているのか。嘲る気配がよく似ていた。あの、仮面のミュンヒハウゼンと。 黙れと言おうとした俺の口からは、別の言葉が漏れていた。それは、王たる自覚を持つ俺の尊厳だった。 俺には覚悟と意思がある。それを、暗がりの中のそいつは知らない。だから、こうも、俺へ軽口を叩けるのだ。 俺は言葉を述べる。多大な苦しみの中で、絶え絶えに。 ……チャペックの為し得なかった成果、そんなものは……。俺には、どうでも良い、ことだ……。 かがり火になどなるものか……。俺は、王と、なる。 タタールの門などに、取り込まれて、なる、ものか……! きみは実に強い男だよ、チャーチル。 それで?結局きみはどうするんだい。 そう言って、そいつは笑みを崩さない。なぜだ。なぜだ。 なぜお前は笑っている。俺の、覚悟と、意思を、嘲り続けるのか。 色々と仕込んでいるんだろう。議事堂のお歴々から保守系の貴族連中、果てはカフェの女給にまで手を伸ばして。 首尾はどうだい?そろそろこの国の土台に手を掛けた頃だ、きみが起つ日を楽しみにしてるんだが……。 しかし困ったものだね。目前に、幸運が、転がり込んでしまった。 きみは探していなかったはずの黄金瞳。それはそうだ、きみはもう、チャペック研究会の一員ではないのだから。 ……でも、きみは見つけてしまった。すべてを見通す黄金瞳を。 チャペック博士が欲したあれを。タタールの門を開くであろう、あれをね。 ……幸運に手を伸ばした、ざまが……。これか……。 俺は自嘲した。もしも、そいつの誘いがなかったとしても、俺はこうしたはずだ。黄金瞳を狙ったはず。 俺は会を脱けたはずだった。であるのに俺は、あの娘の瞳を見た瞬間、その時が来たのだという直感に襲われた。 そいつが何を囁かなくとも、俺は、俺の《怪異》を顕現させただろう。 マリアベルの“代わり”のお陰で、タタールの門が既に近付いていたことを、俺は、知っていた。顕現が可能なことも。 顕現させたものをあの娘の元へ送り込み、黄金瞳を求めること。あの娘を目にした瞬間に、決定していた。 そして── あの、黒い男に── なぜだ……。 なぜ、奴が、いる……。ミュンヒハウゼンは何をしている!? 偉大なる《結社》とやらも一枚岩じゃない。それは、きみも充分知っていて、利用もしているはずじゃあないか。 違う……。違う、違う、違う! お前は何もわかっていない!ゲルマネンオルデン如きの小僧などに、あれの恐ろしさがわかるものか! 幸運ではなかった……。黄金瞳は、俺に、不運をもたらす……。 ……なぜだ……! それは違うよ。降って湧いた幸運とはこのことなんだ。僕はね、きみが羨ましいんだよ。 きみは、この幸運を拾うべきだよ。人と人の出会いは“エン”だ。黄金瞳と、きみは、出会ってしまったんだ。 きみは選ばなくちゃいけない。次こそ、聖餐として殺してみせておくれ。 それとも……。当初の予定通り、会を降りるかい? きみが野望を貫き通してみるのも一興か。未だに宮殿へしがみつく哀れなる女王と、欺瞞のクラブを討ち滅ぼして。 …………。 ふたつの道。そいつに提示されるまでもなく── 嫌でも俺にはわかっていた。明確に、俺の前には、ふたつの道がある。 俺がこれまで人生を賭けてきた王への道と、博士の意思に賛同した研究会としての道と。どちらを、選ぶか。 既に前者を選んだはずだ。結局、俺は研究会の成功を信じなかった。 だが。だが、黄金瞳は俺の前に現れた。 この手のすぐ先に会の成功が待っている。それを、放っておくことはできない! そして同じく。この俺の眼前に用意された王の道も!あとは、掴み取るだけの、王の位も! どちらも──! ……あと、一歩だ。 へえ? 黄金瞳も……。そうだな……この、英国も、同じ……。 この俺の視界に入った。もう、この手の届くところに、在る……。 ……俺は、選んだはずだ。しかし、国、だけでは足りぬのも事実。研究会など、降りたつもりだった、が。 それで? ……両方だ。 両方。 黄金瞳を殺してタタールの門を開く。英国も、王の地位も、奪い取ってみせる。 どちらもだ!俺は、どちらの獲物も奪い取る! 声に、生気が戻る。引き裂かれたはずの半身の感覚が戻る。 そうだ。俺は、ここでは倒れはしない。こんなところで死ぬものか。 このチャーチルは決して揺るがない。血が失われたのであれば覇気で補い、肉が失われたのであれば決意で補おう。 姿を見せないそいつが驚くのがわかる。俺の、変容に対して。 ああ、荒い息が“元の通り”に戻っていく。引き裂かれた半身の痛みは消えずとも、奪われたと感じていたものが、蘇って。 精神の変容が、肉体の変容を促しているのだとわかる。俺は── 途切れることなく、俺は、決意と共に、言葉を放つ。 そう。そうだとも。この俺だけがすべてを得る。 俺は、すべてを手に入れる。ロンドンを……いいや、この大英帝国を、比類なき千年王国として再生させてやるさ。 女王の幻想は終わる。そして、俺は、シャルノスを得る。 ただし。 焦土と化した後に、だろ? 些細な犠牲だ。チャペックの危惧したものが訪れた時、到底、女王と英国では乗り越えられない。 新しい王と新しい国が、必要となる。俺は王となり。タタールの門の先に在るものが国となる。 さて。そう、うまくことが運ぶといいね? 僕とのチェス勝負。覚えているかい?現在のきみの勝率は8割。だが、きみの宣言した数字にはまだ遠い。 その程度の頭で、果たして、きみは、王となれるかな? ……馬鹿め。 王とは、そう成るものではない。お前にはわかるまい。 俺は、高らかにそいつへと告げる。両腕を広げて── 夜の空を仰ぎ── ……王とは、そう生まれつくものだ。 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 やはり、危険な状況です。メアリ・クラリッサ・クリスティには。 構うな。 しかし、それでは── 黙れ。 ……はい。我があるじ。 あの女は俺と契約した。であれば、俺はそれを見届けるだけだ。 人間の“それ”が如何に弱く、脆く、虚ろなものであるのか。 ──果てへと至るさまを、この目で。 ……さて、と。 右手に携えた電信通信機の表示盤を見やる。未だ朝の気配の残るクィーンズストリート、とあるカフェテラスにて。 白黒パネル式表示盤つきの電信通信機。これこそ、彼の、チャーチルの命綱だった。 自分が王となるための剣。そのひとつだ。 中型船舶を複数購入できるほどの大金で一切のアシを残さずに買い取ってみせた、最新の碩学機械、情報機関端末である。 帽子内部に搭載した小型の情報処理機関と電信回線を繋ぎ、同期・連動させることで情報の確認と整理を可能とする。 片手でジョグダイアルとスイッチを操作し、チャーチルは今も、情報整理を行っていた。革命同盟の同志たちの情報網の確認だ。 ──そう。革命だ。──欺瞞に充ちた現体制転覆のための。 ──革命はフランスのものだけではない。──必要なのだ。──この国にも。 チャーチルの革命計画は無数に存在する。極小の細胞化を果たした革命同盟は、今や、基礎的なネットワークさえ築き上げていた。 女王派ではない旧貴族たちの協力もある。当初こそ彼らの走狗として動いていたが、今では既に、彼らの宣誓書まで手に入れた。 欧州の闇を支配する《結社》をはじめ、ゲルマン騎士団ともコネクションを得た。銃や爆弾、機関兵器さえも揃いつつある。 英国の独占的カダス国交を危ぶむ各国とも、現在では密接的な協力関係にある。大使館の多くは同盟の拠点となっている。 実働部隊としてラツダイト派を取り込み、アイルランド派を纏めることにも成功した。貧しく、怒れる者たちも、ネットの一部だ。 お堅いヤードを取り込むことは失敗したが、空軍の一部軍閥の籠絡には成功している。もはや、恐れるものは何もない。 無数の人々の怒りと欲と希望を繋ぎ合わせ、チャーチルの作り上げた、姿なき巨大な獣。目に見えぬ網。ネットワーク。 それが、革命同盟だ。チャーチルが王となるための剣だ。 時が迫り、十分な資金と人員さえ揃えば、それは都市ロンドンを覆う、刃の網へと変じるだろう。 チャーチルの合図ひとつで── 国会議事堂を、バッキンガム宮殿を、空軍基地を、各新聞社を、地下鉄を、巨大な電信通信塔であるビッグベンを。 ロンドン地下大型機関7基を、複層式超高層高架の支柱塔を、ヤードを、同盟の網はそれぞれを襲う刃へ変貌する。 ネットワークが断罪の刃へと変貌するのだ。その日は近いと確信する部下も多い。 だが、チャーチルは焦らない── 実力行使に最も必要なのは“機”であって、それは未だこのロンドンへは訪れていない。 その時が来るまで、せいぜい、女王陛下のお膝元で準備をさせて貰うだけ。完成度を上げていくネットワークを眺めて。 焦ってはいけない。決して、王たる者は急いたりしない。 焦りは計算に狂いを生じさせ、失敗を生み出すからだ。そして、チャーチルはそれを実感している。 ……へえ。 数日前の狼狽は微塵もない。半身を切り裂かれたあの日とはもう違う。既に、チャーチルはいつもの通りだった。 冷静に。冷徹に。パネルに表示される情報へ目を通す。 ネットワーク構築の穴がないかの確認作業。その最中、ひとつの情報を彼は見つけ出す。声が漏れたのはそのためだ。 チャペック研究会を脱ける以前より、同盟を研究会のために動かしたことはない。しかし、今は、違う。 ネットワークによる情報を彼は求めた。すなわち、黄金瞳の少女の所在── 碩学院の情報保護は堅固で歯が立たない。流石に、王立の組織だけはある。国家繁栄の礎は大切に守るという訳だ。 女王の肝煎りとされるだけのことはある。しかし、であれば、別の方法で辿るまでだ。 チャーチルによる入力から数時間。革命同盟によるネットワークは、このシティにおける目撃情報を掴んでいた。 革命同盟を動かす幹部のひとりではなく、私人としてのチャーチルの意識が、動く。脱けたはずの研究会の一員としての意識が。 あの黄金瞳は、革命の先にあるもののために必要なのだ。 ……借りも、ある。 借りは返す。あの痛みの代償は、高くつくぞ。 数日前の、半身を裂かれる痛みを思い出し、チャーチルは密かに笑みを溢す。 成功する時というものは間が良いものだ。例えば── そう、例えば、今現在のように。声を上げて笑うことをチャーチルは耐えた。 この無国籍風カフェ。メニューの豊富さと接客や客層の良さから暫く行きつけにしたことがある、この、店。 このカフェテラスに碩学院の女子学生が集うという話は、既に、裏が取れていた。僥倖だ── 幸先が良い。予測よりも早く借りは返せそうだ。 チャーチルは視線を巡らせて、ひとりの女給へと手を挙げる。虚ろな様子のその女給には、既に── ベル。久しぶり。 あっ、ああっ!そんな、ああん、夕暮れの君……! ……じゃなくて、えと、チャーチルさん!ミスター、お久しぶりですっ♪ ──既に、仕込んである。──いつでも噂を出し入れできるように。 噂を聞いて、噂を広める。どちらも行える相手として仕込み済みだ。 まだ、手は付けていない。年若い娘の憧れを得ることなど至極容易で、深い関係になる必要など、彼にはなかった。 ただ、偽りの笑顔を向けて。控えめな賛美の言葉を贈り続けるだけ。 さらに花や指輪のひとつも贈れば、下流の娘など、言うがままの人形となる。 これまでにも、ネットワークの一環としてこの娘や他の娘たちを通じて噂を広げ、ヤードの捜査を攪乱させたことがある。 逆に、ヤード絡みの情報を得たこともある。使い勝手が非常に良いのだ。女と、その想いというものは。 仕事が忙しくてね。きみの顔が見れないのは非常に辛かった。 あ、あ、あたしもです……。チャーチルさんとお会いできなくって、寂しくて……。 元気そうで何よりだ。変わらずにいてくれて嬉しい。ああ、いや、違うな。以前よりも── 綺麗になったようだ。ベル、今度、きみに似合う傘を贈ろう。いまのきみに丁度いい柄を見つけたからね。 ふと思う。こうしている時の自分の言動というものは、あのハインツ・ヘーガーと、そう大差ない。 あの生意気な留学生の小僧。悪友などではない。共通点があるというだけで、吐き気がする。 そ、そんな……。勿体ないです、チャーチルさん……。 いいんだ。きみには、よく、面白い話を教えて貰ったりしているじゃないか。遠慮することはない。 ああ。そうだ── 俺のいない間、何か、面白いものを見つけたりはしなかったかい?何かあれば、それへのお礼ということで。 刑事の聞き込みほどではないが。我ながら不自然な言葉だ、と彼は考える。 けれど、この程度で構わない。充分これで通じる。 冷静であれば違和感を覚えるだろうが、熱に浮かされた人間は思考が鈍い。命令に近い言葉でさえ、容易く受け入れる。 えーっと、えと、そですね、面白いもの……うーん、ミスターが好む、面白いことっていったら……。 ……うーん、うーん? あれは見間違えだったかな── 以前、確か、このあたりで見かけてね。 はい?? 少し前、右目だけが黄金色の少女を見てね。珍しいと思ったんだが、見間違えだったか、それとも偶然かな。 黄金色の……。 あ! それなら、わかります! へえ。本当かい。 それ、メアリさんです。メアリ・クラリッサ・クリスティお嬢さん。碩学院に通われてる学生さんなんですよ。 すごいんですよ、女の子なのに、若いのに、碩学の卵の学生さんです。よくお友だちと一緒に来てくれて、うん、常連さんです! 驚いたな。きみの知り合いだったか。 はい。下宿がテムズの脇にあるんです。ホーボーンのあたりだから、あたしの下宿からも近くてたまに会います。 時間合わなくて、あんまりたくさんはご一緒できないんですけど、お誘い頂いてハロッズへ行ったことも── じゃあ友人だ。なら、俺と会うこともあるかも知れないな。 えっ。 え、え、あ、ミスター・チャーチル……。も、もしかして、そのぅ……。 女給の表情が暗くなる。いや、さまざまな、疑問と、困惑と諦念と、戸惑うさまが手に取るように伝わってくる。 声も震えていて。ああ、そうかとチャーチルは思う。 何のことはない。疑われた訳ではなく、これは── 左右で異なる色を持つ眼は妖精眼と呼ばれるんだ。知っているかい? これは非常に珍しいのさ。俺の研究している命題の中にもあってね。ケルトの歴史と神秘学についてのものだ。 あの、あの、あの! あたし難しいお話はわかんないです……。 単純に、学術的好奇心ってことさ。安心してくれ、俺のベル。 名を囁きながら── ごく自然な素振りで女給の手を取って。瞳を合わせる。言葉は告げず。 ただ見つめるだけでいい。後は相手が、勝手に言葉を想像するだろう。 甘ったるい恋愛小説のような言葉の数々を、これ以上何もせずとも、自分で思い浮かべ、また熱に浮かされる。 経験則だった。チャーチルにとって、女というものは── ……は、はい……。安心……します、ね……。 ……夕暮れの君……。 (夕暮れ? ああ、そうか。以前は夕刻が多かったか) (では、この次は夕刻に来るとしよう。 夕暮れの君を、演出しておかないとな) ──女とは、こうして利用するものだ。──容易なことだ。 決して、心奪われてはいけない。決して、情を抱いてはいけない。父のような失敗をチャーチルは起こさない。 王たる者は誰にも心を許さない。常に己の利得を計算し、立ち振る舞うのみ。 ──それこそが。 ──それだけが。──俺の導き出した王の回答なのだから。 嘘ばかりだ。何もかも。 そう、壮年の男は言った。クィーンズストリートの人混みを横目に。 誰に言うでもなく呟いたはずだったが、紙巻きを口にして目前に佇む長身の青年は幼い頃から、耳が良いことで知られていた。 当然のように、青年に聞き咎められていた。親父さん、何を言ってるんだと。肩を竦めながら、顔を覗き込まれて。 まったくもって煩わしいことだった。青年についてもそうだが、何よりも、近頃の出来事のすべてがそうだ。 捜査本部でがなり立てる署長のことも、取るに足らないはずの噂話についてを話す若い署員たちも、警邏巡査連中の目撃談も。 煩わしいことこの上ない。その癖、すべてを嘘で覆い隠そうとする。 何だよ。どうしたってんだ。ヤードにこの人ありと謳われた鬼警部、ミスター・レストレイドが弱気な声なんて。 なあ、親父さんよ。もう歳か? お前さんに心配されるようじゃ、確かに、儂も歳を喰っちまったんだろう。やれやれ、だ。 疲れてんのか?そもそも、わざわざここまで来るなんざ。俺が呼び出しても大概は無視するくせに。 疲れもする。切り裂きジャック当時の署長たちのことを考えるなら同情さえする。 ……やれやれ、だ。 もう“轢き殺し魔”のことは聞いてるか? あれだろ。連続轢殺事件ってやつ。 ここ数日でシティエリアを中心に発生し、そして、前回に続き隠蔽が行われている連続轢殺事件。 恐らくは蒸気式ガーニーと思われる、猛烈な運動速度と硬度を備えた物体により引き裂かれた無残な死体が発見されたのだ。 被害者は現在4名。歳の頃は全員同じで、性別も同じ。 この上もなく明確な殺人事件だった。被害者のプロフィールに共通性が多いのは、まるで、あの、ジャック事件さえ思わせる。 前の“火付け魔”の野郎は無作為に殺して回ってる感じだったが、今回の“轢き殺し魔”はまったく違う。 今度は全員に共通項がある。年頃が……。 全員とも、うちの姪と同じくらいだ。まったく。嫌になる。 ……マジかよ。被害者は、女、だったのか。 嘘と思っても構わんぞ。そのほうが、儂も気が楽だ。 信じるさ。だが……またかよ……。終わったはずの《怪異》案件とは、また。 おっと、悪い、口が滑った! 今のはわざとじゃないんだ。本当に口が滑った、悪い、親父さん。ヤードじゃ《怪異》なんざ呼んでないよな。 ……詳細不明の通り魔の犯行。 だよな。済まねえ、口が滑った。 ……いや。いや、それが、そうでもない。噂の《怪異》がどうのと言う連中は、あろうことか捜査本部にまで出てきてな。 は? あんなものはただの噂に過ぎん。通りがいいってんで捜査本部でもそう呼ぶ阿呆が多いだけの話だ。そう思ったんだが。 どうやら、阿呆が多すぎるらしい。その《怪異》がどうのと言い出す連中は大概が頭のネジが緩んでるが、しかし。 ……署長まで、言い出すようになるとな。なんとも。 お……おいおい……。 親父さんよ、冗談が相変わらず下手だぜ。寝言にしちゃまだ真っ昼間だし、酔ってるにしちゃタチが悪いってもんだ。 そもそも《怪異》案件なんざ噂だろう。水死体を指してなんだかんだと、3流タブロイドが書き立てただけの。 正確には、1年前の水死体だ。それと、2ヶ月弱前に見つかったものも。 今回は轢死だろ?原因不明の水死体と結びつけようにも── 言いかけて、青年は、吸おうとしていた紙巻きを唇から離す。 壮年のレストレイド警部にとっては今でも到底大人になど見えないこの青年が、煙草を吸うようになったのはいつだったか。 こうして、昔の自分のように煙草を指で挟み── ……待てよ。何か、あるのか、共通点が。 いいや。何もないのさ。何もな。死体も、聞いたこともない検屍医のところへ運ばれちまって儂らには手も出せない。 検屍医? 確かにヤードに登録されちゃいるが、署長以下数名しか直接会うことのできん。訳のわからん検屍医さ。女って話だが。 お前さんに言うのはこれが初めてだがな、タブロイドは、少なくとも、ひとつだけ正しいことを言ってる。 何だ。 署長の机を調べたりしていないからな。だが、警察組織はおろか、軍部まで絡んで、何かが行われてる。そいつは多分、確かだ。 水死体やら焼死体やら轢死体やらの変死事件に関して、新聞発表は勿論のこと、ヤードの内部にまで隠してやがるんだよ。 前回の火付け通り魔の死体、な。あれも件の検屍医のところに行った。 儂の見たところ、ありゃあ、それこそテムズの溺死体を焼いただけだ。見られたのは、ほんの一瞬だがな。 ……つまり……。親父さんが、言ってるには、こうか。 隠蔽……。 そのうちお前さんのとこでも書かれるさ。噂の《怪異》事件がまたも発生、とな。 天下のTIMESでか?いや、待てよ、親父さん、待てって。 なんで隠蔽が《怪異》の話に繋がるんだよ。 意味が……って、おい、おい、もしかして、そういう……。 ヤードの捜査本部でさえそうなんだ。わかるだろう? これは推論に過ぎない。警部が署長の机を極秘裏に調べた限りでは、そういう結論を導けるだけの証拠は、ない。 政府からの隠蔽命令と、軍部と協調行動を行えとの指示のみ。他には、何も、見つけられなかった。 だから推論だ。しかし、職業柄の勘でもあった。 ──隠蔽工作の一環であるやも知れない。──夜の《怪異》の噂は。 ──変死体の続出の原因である“何か”を。──覆い隠すための。 ……どうにも物騒な話になってきたな。手を出すなって本能が叫んでるぜ? ザック・マーレイの本能なんざ知るか。ブン屋だろうが、お前さんは。 そういやそうだったっけかな。で。なんで俺に話す? ブン屋なんざ鼠みたいなもんだ。ザック。特別に、餌の匂いは充分に嗅がせてやる。わかるな。 ……俺もネタを探せってか。忘れてたぜ、あんたのネズミ使いの荒さ。 肩を竦めて──軽口を叩きつつも青年の表情は真剣だった。 信用に値する男であると警部は思う。こうまで推論を含めて口にしたのは、この青年が、署長よりも信じられるからだ。 本当は、行動に出るつもりはなかった。せいぜい、署長が好き放題やろうとした時、牽制の材料になるだろうと思う程度で。 隠蔽など珍しい話ではない。こうも、実情が見えないものは珍しいが、しかし、今回、警部は見逃せなかった。 被害者の性別、年齢。それがどうにも警部を焦らせる。 ──最愛の姪に危険が及んでしまう可能性。──それを、考えてしまうから。 アイルランド派やラツダイトが妙な動きをしてやがるって話もある。いいか、ザック、正攻法でかかるなよ。 お前さんがイーストエンドの行き止まりで署内の誰かにズドンとやられたとしても、儂は驚かんね。 ……やれやれ。本当に、まあ、物騒な親父だぜ。 そして── レストレイド警部は個人的捜査を開始した。 部下を使わない捜査は実に久しぶりだった。行うことは普段と変わることなく、何をすべきか戸惑うことも一切ないが。 各現場をもう一度見て回り、近辺の建物や通行人への聞き込みを続けて、根気よく、連続轢殺事件の手掛かりを探る。 本部主導の捜査と異なる点があるとすれば、轢死事件のことは口にしなかったこと、か。他は、普段と、何も変わらない。 それでも成果はあった。いいや、そう呼べるかは不明ではあるが。 事件との関連性も不明な証言だった。いつでもいい、夜中に何かを見なかったか。そんな質問への返答で── 老若男女がそれを口にした。中流の紳士もいれば、下流の主婦や老婆、孤児の連中でさえもが同じことを伸べた。 曰く── いずれも真夜中に。テムズ沿岸で、妙な子供を見た、という。 明確に覚えているという目撃証言が、多数。かすかに歌か詩のようなものを囁きながら、黒いものを河へと落とす子供の姿。 誰も近くで見た者はおらず、沿道から、橋の上に立つ子供を見たという。 長い髪を風になびかせた、それは、女児であったと彼らは言う。 ……ふむ。 期間はおよそ1ヶ月前から現在に至るまで。それ以外の日付に見たという者は、未だ、誰ひとり現れてはいなかった。 真夜中の女児。詩を囁きながらテムズへ何かを落とす── 普段通りのレストレイド警部であれば、メアリ・シェリーの小説の読み過ぎだ、と鼻で笑って、終わらせるところではあるが。 今回はそうもいかない。殺人者の凶刃が姪を襲う可能性がある以上、どんな些細な情報であっても、見逃せない。 妄言だ、と非難されるようなことでも、確認せずにはいられない。 これらの一風変わった目撃証言が、注目すべき情報であるのか、どうか── 知恵を拝借するか。 ドクター不在の時に赴くと、だいぶ、胃に来てしまうんだがな……。 あまり気乗りはしなかったが、そんなことを言っていられる余裕などない。こんな時であるからこそ、彼を頼るべきだ。 暫くの後── レストレイド警部は表情険しく、かのベーカー街の一角へと足を運んでいた。 べーカー街221B。整頓とは程遠い状態の部屋に、男がいた。 彼の名を知る者は多い。ヤードに勤める刑事たちの全員であるとか、日夜、事件を報道する新聞記者であるとか。 他にも、そう、多くの市民たちもそうだ。彼の武勇伝は新聞や伝記的小説によって幅広く伝えられている。 それは、パイプを片手にした男だ。知識の深淵ですべてを見通すという男だ。 英国はおろか西欧諸国全土、果ては異境カダスの北央帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。 欧州全土の事件を解き明かすという、男。ディテクティブの王だと自ら称する、男。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、男。 この男には敵わないとレストレイド警部が降参した、唯一の男。 その容貌は伝記的小説の書く通り。高い鼻も、また然り── 男の名は、シャーロック・ホームズという。不機嫌がちな諮問探偵であった。 ……なるほど。 出迎えてくれたのがあの医者の男ではなく、ホームズ氏本人であったのは不運だった。レストレイド警部は、すぐに辟易となる。 いつものやり取りで、まずは、来訪が轢殺事件に関することだと見抜かれてしまった。至極、あっさりとだ。 そして次には、事態の説明をしようとするのを阻まれて、女児の目撃談についてだけを言わされ── 満足したようにホームズは小さく頷いた。パイプを手にしながら。 実に、面白い話だ。つまりこうだね、レストレイド君。 轢死事件、ひいては水死事件に対しても、その女児は何らかの関与があるはずだ、と。たとえば。 女児目撃の証言はすべて、死体が発見される前日の晩である、とか。 そういった根拠があるのだね? よくおわかりですな。流石だ。 至極単純なことだよ。レストレイド君。子供の夜歩きと事件を結びつけるなど、普段のきみでは考えようがない。 よほど強く関連性を思わせるものがあって、初めて、きみはそう考えるだろうからね。 ……なるほど。確かにそうです、突拍子もない。 内心で警部は溜息を吐く。ああ、今のは恐らく馬鹿にされたのだろう。いいや、当然の如く、区別をされただけか。 療養でも結婚旅行でもなんでもいいから、早くドクター・ワトスンが帰ってくれば良いものをと思わざるを得ない。 知恵のある人間というのはどうして、話すごとに多大な疲労を感じさせるのか! いいや、彼の叡智はそんな些細な問題を差し引いてもお釣りがくるほどのもので、目を見張ることも多いが。 この時、警部の脳裏にあったのは最愛の姪もあまり頭が良くなりすぎるとこうなるのだろうかという心配であった。 可愛い可愛い姪が、どうか、会話し難い類の人間になりませんようにと、教会へも行かない不信心な警部は祈るのみ。 そう、きみは覚えているかな。バスカヴィル家の当主を襲ったあの事件を。 あれは《魔犬》の仕業などではなかった。この現代の文明社会において、妖物魔物など、幻想にすぎない。 つまり、子供の目撃談は、バスカヴィル事件の《魔犬》のように、誤った結論を導かせるためのものだと? 忘れてはいけないよ。この文明社会において、人間を殺すのは。 人間だけだ。 そう言うと── パイプに火を点けて、ホームズは暫く言葉を発さなかった。 期待に充ちた眼差しで警部は彼を見つめる。まさか、この雰囲気は。 ……個人的な調査を開始することにしよう。少し、興味が湧いた。 協力して貰えると嬉しいね。レストレイド君。 あ、いや、何を仰る! いや、いや、こちらこそ助かりますとも。助かります。いや、本当に。こちらこそ、協力頂ければ願ってもない。 宜しく頼みます。ミスター・シャーロック・ホームズ。 彼が味方につけば百人力だ。無能な署長や本部長たちを懐柔するよりも、よほど、ホームズひとりのほうが役に立つ。 さて。今度はきちんと伝えなくては。まだ話していないこともある。 それで、ですな。まだご説明していなかったことが── ザックに話した捜査本部の内情について。驚くこともなく、頷くだけのホームズに些か疑問を覚えたものの。 彼のことだ。また独自の調査によって何かを掴んでいて、話のすべてを知っていても不思議ではない。 そう、納得しつつ。すべてを話し終えた後── 警部は221Bを後にした。よろしく頼む、と最後にもう一度伝えて。 ──警部が去ってから、数分後。 ホームズは、電信通信機を手にしていた。手際よく通信回線を繋ぐ。 ……私だ。 既に、バンシーが目撃されている。テムズの監視と暗示迷彩を強化させるよう、かの《結社》へ正式に要請してくれたまえ。 必要であれば兄の名前を使っても構わない。拒否するのならば実力行使の準備もあると伝えておくように。 余計な隠蔽など行うほどに綻びが生じる。事前の策を講じるべきだよ、彼らは。 通話の相手は、ホームズの言葉に対して何かを返答する。 それは同意の言葉であるものか、しかし、ホームズの表情は変わらない。 冷徹な面持ちのまま、視線を僅かも揺るがせずに言葉を続ける。 ヤードについては問題ない。あちらはあちらで、正規手続きによってテムズの警備強化を行ってくれるだろう。 あの警部は決して天才や秀才ではないが、道理のわかる有能な人間だ。 ……いや。貴国のためではない。ゲルマネンオルデンの盛衰に興味はないよ。 言いながら、彼は雑然とした机の上に盤を見つけていた。 この部屋のもうひとりの借り主である男と以前に楽しんだ、それは、チェス盤だった。古ぼけた安物である。 それを、本と書類の上に置いて。ふたつの駒を配置する。 私が行動するのは、あくまで、英国と、理性的ロンドンの存続のためだ。 ……それだけだ。 ──ふたつの駒を配置する。 ──王(キング)の前に、兵(ポーン)を。 ロンドン社交界── その、とある侯爵主催のパーティにて。 社交界が富裕層へ門戸を開いたと言っても、新しき時代たる20世紀なのだと言っても、身分の差は厳然と在る。 貴族たちは富裕層市民を歓迎しない。例え自分たちを凌ぐほどの財を有す者でも、社交界では、新参の、下賎の民に過ぎない。 一般的なロンドン市民が予想するように、金さえ得れば、社交界の一員として貴族と肩を並べられると思うのは間違いだ。 世界が違うのだ。領土と税金を永遠に有する生来の貴族と、商いによって金を得た中流層の市民では。 しかし。チャーチルは、自然と、この場に在る。 ゲルマン騎士団に名を連ねたドイツ貴族。その養子となる旨の紹介を以て、侯爵主催のこのパーティに参加していた。 これ以上の貴族とのコネクション作りをチャーチルは求めていなかった。枝葉に広がりすぎれば、計画は破綻する。 特に貴族連中に対しては、だ。生来の持ち得る者らである貴族たちは、革新というものに真に興味を抱かない。 それでも。組織のため、資金集めは重要だ。 折しも、降霊などのオカルティズムの類は、この上流階級にこそ流行の兆しを見せていた。即ち、稼ぎ時、であった。 蘊蓄と、演出のための知識が役に立つ。いんちき降霊会などに大量の金を出すのは、何も、金の余った文化人どもだけではない。 貴族の──特にご婦人連中こそ格好の金づるだ。 「時に、かのフランスにおいても、 サン・ジェルマン伯爵は予見しました」 「来るべき革命の時を。 当時のフランス貴族たちの不幸は、 予言に耳を傾けなかったことでしょう」 「しかし、美しきご婦人方よ。 貴女方は、実に、聡明でいらっしゃる」 「真に国家を語ることができるのは、 聡明なる女性方の特権であるということ。 それを、貴女方は、知っているはずです」 「輝けるヴィクトリア女王陛下と、 かのレイディ・エイダが証明しています」 「その知識と判断力を以て、 貴女方は、降りたる霊の言葉を耳にし、 未来を判断することができるのです──」 チャーチルは語る。僅かも考えていないような言葉を、次々と。 夢見がちな世間知らずの年若い婦人たち。彼女らの、父や夫への不満を吸い上げて、ほんの少し後押しするだけでいい。 彼女らはいんちき降霊会への参加を希望し、その程度の金で女の自尊心が満足すればと当主どもは金を出す。 「華やかなる英国の未来は」 「皆さまに、かかっているのですよ」 侮蔑の感情を微笑の表情で覆い隠しながら、チャーチルはレディたちへと言葉を掛ける。心理を、巧に操って。 メスメル学は一通り修めている。お仕着せ通りの人間の行動を操ることなど、彼にとっては、児戯にも等しい。 そうやって、革命同盟をも作り上げたのだ。駒だ。何もかもが、自分以外の、すべてが、チェス盤の駒に過ぎない。 駒を動かすのは自分と、そして、金だ。故に、資金は必要だ。 ゲルマン騎士団や組織とのコネクションも、金がなければ何も活用することはできない。逆に言えば、金さえあればどうとでも。 ──この国を転覆させるために。──この国の貴族どもから金を毟り取る。 ──お笑いだ。──なんとも皮肉なものじゃないか。 あの── 女たちへの言葉に区切りをつけた、その時。ひとりの貴婦人から話し掛けられた。 まだ何か疑問があるというのか。大抵は、こうまで言えば引っかかるもので、疑問の声を上げることはなくなるはずだが。 内心で訝しみつつも、微笑を絶やさずにチャーチルは振り返る。 声を掛けてきた貴婦人へ── な……。 な……んだと……。 声を掛けてきた貴婦人は── ──美しい女へと成長していた。──そう、何も考えることなくそう思った。 それは見覚えのある相手だった。幼い少女であったあの声の主が、眼前に。 不意を突かれた。次の瞬間にはそう思った。根拠はない。ただ、視線の先にいた婦人は、誰もが認めるだろう美しさを備えた婦人は。 ヴァイオラ・バスカヴィル準男爵夫人。見間違えるはずなどなかった。 近頃の都市の噂については耳にしていた。名門貴族にして大富豪、そしてかの事件で名探偵に救われたバスカヴィル家の現当主。 先代のヘンリー・バスカヴィル卿の病没後、当主の座を継いだ準男爵夫人の称号を得た年若い貴婦人。 見目麗しい娘。祖父の代からの慈善事業に更なる力を入れ、領民はおろか、欧州諸国からの評価も高く。 凛々しくもひとりきりで立つお姫さま。イギリス西部の魔犬姫。 聞かないようにしていた。二度と、己の人生と交わることなどないと。 交わるはずがなかったのだ。噂など、ただの噂に過ぎないはずだった。 けれど、眼前に彼女はいた。当然のように周囲の貴族の注目を集めつつ、こちらへと声を掛けてくる、穏やかな微笑。 チャーチルは戦慄していた。何かの歯車が噛み合わさってしまう音と、何かの歯車が突然外れて落ちていく音に。 ──なぜだ。──なぜ、お前がここにいる! ──なぜ、俺に言葉を掛ける! もしも間違っていたらごめんなさい。あなたはもしかして……。 ……デニー? ──その名前は捨てた。 ──なぜ、お前は、その名で俺を呼ぶ。──そんなはずはない!──そんなはずはない! 一目で見抜かれたことに戦慄しながら、同時に別の想いを胸の奥に抱きながら、チャーチルは、しかし、動揺を見せない。 笑顔を浮かべて。相手を見つめる。見知らぬ貴婦人に声を掛けられた男の顔で。 ほんの刹那だけ生まれた驚愕がもたらした感情の揺らぎも、周囲の貴族には品定めをしているようにしか見えないだろう。 ──それでいい。──俺は、何ひとつ変わることはない。 ──たとえ、お前が今さら現れてもだ。──ヴァイオラ。 初めまして。ミス── ヴァイオラ・バスカヴィルです。あなたは、本当に……。 光栄ですよ。ミス・バスカヴィル。あなたほどの美しく高名な貴婦人に、貴族ならぬ私の顔を覚えて頂いていたとは。 ウィンストン・チャーチルと申します。美しきバスカヴィル準男爵夫人。 大変失礼なご質問をいたします。私たちは、どこのパーティでお会いしたか、お教え願えますでしょうか。 ここのところ、多くのパーティに顔を出しているもので── いえ、わたしは……。あまりパーティの経験はないんです。 このロンドンにも来たばかりで、社交界にも疎いのです。 これは失礼をいたしました。そうでしたか。では、これを機にぜひお近づきに。 ……あなた。ミスター・チャーチルと、仰いましたね。 人違い……でしょうか。わたしには、やはり、そう思えません。 近くで見ればわかります。あなたは……デニー、なのでしょう? 食い下がってくる── 彼の思惑を大きく外れた反応ではあった。ヴァイオラは退かなかった。 何故。理由がわからない。戸惑いが顔に出ようとするのを懸命に抑え、チャーチルは微笑む己の表情を再確認する。 ──なぜだ。なぜ声を掛ける。──俺のことは、放っておけばそれでいい。 ──お前は、お前たちは。──貴族の気紛れで俺を拾おうとしただけ。 ──それだけだ。──犬ころを気紛れで育て、殺すのと同じ。 ──なのに。──どうして、お前は。 ──そんな目で、俺を見つめてくる。──ヴァイオラ。 ずっと前に……。屋敷で一緒に暮らしましたよね。覚えていませんか、わたしのこと。 いつも遊んでくれましたよね。友達のいない、わたしの手を引いて。 あなたは虫取りも上手で、食べられる草や綺麗な花を見つけるのも上手で……。 でも、わたしは何ひとつうまくできなくて。あなたの後について歩くわたしを、あなたは、いつも、手を引いてくれて── 今でも覚えています。はっきりと。 ……そう、言われましても。困ったな。何と返したものか。 ──それは、その記憶は、俺の記憶だ。──お前のじゃない。 ──どうして、覚えているんだ。──お前は。ただ気紛れをしただけだろう? ──お前は、あんなに小さかったお前は。──俺のことを覚えているはずがないのに。 でも、突然、姿を消して……。今までどうしていたんですか、デニー。 父もあなたのことを心配していました。最後まで、ずっと── なるほど。その、幼い頃のご友人と私とは、よほど顔かたちが似ているらしいですね。 私はそれほど、子供の顔つきとは自認していないのですが、しかし、嬉しいです。ご友人と似た顔とは。 デニー……。 申し訳ありません。私が、ご当人であれば良かったのですが。 でも── ミス・バスカヴィル。私は、そのご友人ではありませんよ。 声は震えてなどいないはずだった。なのに、ヴァイオラの瞳が不安げに揺れる。 ──なぜだ! ──なぜ。なぜ!──なぜ、お前はそんなにも確信を持つ! ──髪の色も既に変えた。──顔にも、名残りがあるとは思えない。──なのに、どうしてお前はそんな風に。 ──まっすぐに俺を見つめてくるんだ。──ああ、変わらない。 ──すみれ色のお前。──ああ、あの時と、何も変わっていない。 ──どんなに美しく成長したとしても。──お前は変わっていない。──この目で見れば、すぐに、わかるとも。 ──わかるさ。──だが、もう、俺は。 本当に……。あなたは、デニーでは……。 はい。失礼ながら。 私は、生まれた時よりチャーチルです。お人違いをされていらっしゃるようですね。 笑顔を崩さずに── 胸の奥に生まれ出る痛みのような何かを、こころの底でのたうつ疼きを、無視して。チャーチルは言葉を続ける。 考えてはいけない。これ以上、何かを考えれば、敗北する。自分自身の動揺に呑み込まれてしまう。 王たる者は動揺しない。焦らない。 だから、これ以上は会話を続けられない。自分が、王たる者で在り続けるためには。チャーチルは自答する。 目の前で起きている出来事を、無視して、そう言うべきと判断される言葉を告げる。静かに。冷静に。 感情も込めずに── それで、私の申し出は如何でしょう。ぜひ、これを機にお近づきに。 『ねえ、あなた』 『お名前は、なんというの?』 『わたしはヴァイオラ』 ──遠い昔。──今では朧気な霞の彼方となった過去。 ──脳裏に焼き付いて離れない記憶がある。──俺が少年だった頃。──父が、死んだ後のこと。 母が裏切り、ホームズたちの手によって父が真なる《魔犬》の餌食となった後で。俺は、逃げた。 広大な森の中を逃げていた。俺は仕掛けの犬の世話係をしていたんだ、だから、老バスカヴィル殺害の咎がある。 捕まればおしまいだ。だから、俺は、森の中を逃げ続けた。 どこまでも続く広い森だった。いつまでも続く長い夜だった。俺は、ただひたすらに走って、逃げた。 気付けば夜は明けていて、気付けば陽は暮れていて、何日も過ぎ去っていった感覚があった。 俺は、ただ、森の中で。飲まず食わずで走って、逃げ続けて── やがて倒れた。すぐに抜けられるはずだった森の深くで、俺は、父を殺した《魔犬》の声を聞いた。 もう駄目だ。確信に近い絶望が俺を充たしていた。 断罪されぬ咎など何処にもない。そのことを、俺は、父によって知っていた。だから、俺は、やがて訪れるそれを感じて。 死を覚悟した。何もかもを諦めようとした、その時だった。 『だいじょうぶ? まだ、お口、動かない……?』 ──声を、掛けられた。 後で知ったところによれば。何日も掛けて走っていたはずのあの時間は、現実には、3日しか経っておらず。 俺は森の同じところを走り続けていたのだ。そして、3日目に── 幼いヴァイオラが声を掛けてきたのだ。衰弱し、倒れた俺へ。 ヘンリー卿や従者と共に、森へ散歩に来ただけの無垢なお嬢さま。 祖父が死んだことさえも理解できず、何があったのかもわからないほど幼い子。お前に、俺は、出会った。 ──俺は、お前に、デニーと名乗った。──本名を。 あの時、なぜ、俺は嘘を吐かなかった?お前に名前を言ってしまった。 事件に巻き込まれた子供のフリをすれば、折を見て逃げる機会だってあっただろう。なのに、俺は。 俺は……。 あの日、あの朝、あの時。 俺のこの瞳を覗き込んできたお前の瞳と、優しげに、心配そうにかけられた、声に。 ──惹かれたんだ。──どうしようもなく、お前に。 脚がもつれる── 前のめりに転び掛けて石畳に手をつく。 唇から溢れ出る呟きは呪詛の言葉。チャーチルは、ありとあらゆるものを呪い、人間の運命なるものを操る存在を罵倒した。 咎める者は誰もいない。人の気配のない、ロンドンの一角。 機関街灯の照らす僅かな明かりの下で、暗がりから辛うじて逃れられる場所で、彼は、水音を聞いた。 用水路か下水が近いのか。冷静なはずの頭脳で正常な判断ができない。 確実に。チャーチルを名乗るその男は、錯乱し、困惑し、焦っていた。 ──馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な!──あり得ない! ──この動悸は何だ。──この呼吸は何だ。──この耐え難い感覚は、まるで、まるで。 膨れ上がった感情は思考さえ鈍らせる。王たる資格を持つはずの彼の頭脳さえ、凍り付いてしまう。 ヴァイオラと話した後のことは朧気で、思い返そうとしても霞がかかっていた。確か、会場を出て……。 逃げ出すように乗り込んだ有料ガーニーを停めて、外の空気を吸おうと転がり出て、呼び止める運転手へと紙幣を叩き付けて。 そして、激しく嘔吐した。沿道の向こうの── 河へ。そう、テムズだ。テムズの沿道に自分がいることにさえ、すぐにはチャーチルは気付かなかった。 何処でもいいからガーニーを出せ、と運転手に言ったことさえ記憶になかった。酷い錯乱状態だった。 未来を……。 俺の……。ここまで来て、親父は、俺を呪うのか! ──ヴァイオラは、すべて、見抜いていた。──この仮面を。 ──チャーチルという仮面の下を。──俺がデニーであることを。 名家の長子を縊り殺し、ウィンストン・チャーチルに成り代わった自分という男が、デニーであることを。 先々代のバスカヴィル卿を手に掛けた殺人者の息子であることを。デニー・ステープルトンであることを。 錯乱する。焦燥する。落ち着け、とチャーチルは己へと告げる。 この身はあらゆる事態を想定している。国家の転覆を目論む以上、潜伏場所など幾らでも用意してあるのだ。 ロンドンの外へ出て1年でも2年でも、隠れていられるだけの準備はある。そのための資金も人材も、確保している。 そう。その通り。身を隠してしまえば誰も── ……隠れる、だと? ──王たる俺が。──王と定められ、生まれてきたこの俺が? ささやかな違和感だった。王であると信じたはずのこの身が、なぜ、こんなところで、誰もいない沿道にいる。 理由があるはずだ。何か、王である自分は誤った選択をしない。 ──そして、俺は気付いた。──己の立っている場所が何処であるのか。 情報処理機関を起動せずともわかる。端末の表示盤を目にせずともわかる。テムズ沿岸、ホーボーンエリア10番通り。 頭脳に叩き込んだ都市全図を思い浮かべる。そうだ、ここは。 チャーチルは顔を上げる。ここなのだ。 女給の証言を元に同盟のネットを用いて、その情報は、既に今朝には入手していた。そうだ、ここだ。 すぐに手を下さなかったのは、未だ、その機ではなかったために過ぎない。 昼間ではいけない。狭間へと引きずり込めば獲物を孤立させる。チャーチルの半身と言えども、夜が適当だ。 暗がりこそが半身の活動の場となる。故に、機を待った。 夜を待っていたのだ。そして、今、自分はここにいる。 チャーチルは見上げた先の建物を見る。2階建てのささやかな下宿を。 ──部屋の灯りがわかる。──黄金瞳の、メアリ・クラリッサの下宿。 ──偶然、か? ──いいや、そんなものはこの世にない。 すべてのことには理由があるはずだった。父の死にも、母の裏切りにも、そして、黄金瞳の発見さえも。 ……黄金瞳を、手に入れれば。 獅子をかたどった杖を握り締める。獅子、それこそ、己の二つ名と決めたもの。 王の権力の象徴。それを常に手にすることの意味は── 俺はシャルノスへと至る。そう、博士に成し得なかったことを、俺が。 かの都さえ手中に収めれば、そうだ、もう逃げる必要など、ない── 思考が── 思考が淀んでいく。恐らく、父が落ちていった思考迷路へと。 偶然とも思えるはずのこの状況に、チャーチルは俄に理性を取り戻していたが、しかし、それは、仮初めのものに過ぎない。 自分と黄金瞳の存在以外には、何も、その頭脳では思考されていなかった。その他の状況が、するりと抜け落ちていた。 半ば無意識に。そして、半ば意識的に。 縋るように言葉を続けたヴァイオラの顔が、今も、脳裏にちらついていた。それから逃れるように、チャーチルは歩く。 チャーチルは杖を持ち上げ、ゆっくりと、無人のテムズ沿道を歩く── ゆっくりと。 ゆっくりと。 灯りを漏らす下宿へと近づいていく。 と── 背後に、何者かの気配があった。瞬間、チャーチルは悲鳴を上げていた。 撃つ──! 反射的ではあったが躊躇いはなかった。背後に忍び寄るものは、それは、父を殺し、未だ王となり得ない自分を断罪する、誰か。 だから、迷わずにそうした。機関兵器を仕込んだ獅子杖の引き金を引く。 激しい衝撃があった。そして、破砕の音。圧縮された蒸気塊が獅子杖の“口”から吐き出され── 背後から忍び寄る人影を砕いた。殺した、そういう実感が確かにあった。 ──殺った。──何だ、俺は、今、何をした? ──今、死んだのは誰だ?──違う。断罪のあれではない、人間だ。 ──誰だ?──俺は、今、誰かを殺したのか?             『お前には、無理だ』 声── 誰、だ……。誰だ、誰だ、お前は、誰だ!! 砕いたはずの人影が盛り上がって、かたちとなる。どこか歪んだ、人型の影。見覚えのない白い顔── 白い顔──黒い男の体── それは、白い仮面を纏う不気味な影だった。人型をしているが、人間には見えない。 ひぃ……! 撃つ──! 口の中で悲鳴を押し殺しながら、再び、獅子杖から圧縮蒸気を撃つ。砕ける人影。だが、すぐに……。 砕いたはずの影がかたちとなる。砕かれる寸前と一切変わった様子などなく、ぎぎ、と操り人形のようにぎこちなく動く。 効かない。あらゆる生物を一度の射撃で殺害できる、驚異的な破壊力を持つ蒸気式機関兵器が。 そんな、馬鹿なことが……。あるはずが……。                 『黄金瞳は』            『お前には、勿体ない』 黙れ、黙れ、黙れ……! ──撃つ!  撃つ!  撃つ! 次々と、充填された圧縮蒸気弾を撃ち放つ。何度も何度も影人間を打ち砕き、叫び声を抑えもせずにチャーチルは撃った。 錯乱状態である自己に気付きもしない。置かれた状況さえも── 一切の思考を放棄して、チャーチルは獅子杖の凶弾を撃ち尽くす。気倉が空になっても引き金を引き続けた。 理性と呼べるだけの思考が戻ったのは、新たな音を耳にしたせいだった。そう、何かの音が── 音── 幾つもの警笛── ……な、ん、だと……? 警笛。間違いない。最も警戒すべき音が、こちらへ近付いているのが聞こえていた。他には何の音もない。 聞こえたはずの何者かの声も消えていた。急速に判断力を取り戻していく思考の中、チャーチルは、屈辱を噛み締める。 警笛と、石畳を走る靴の音は複数。数名の警官隊がこちらへと駆け寄ってくる。騒ぎすぎたか、ああまで機関兵器を撃てば。 ──何だ。これは?──俺は、何をした、今、何があった。 ──近付いてくる警笛と靴音の群れ。──警官隊。間違いない。 ──馬鹿な、そんな、はずがない!──警官隊!? ──警官隊、だと! テムズ沿岸に警官隊が在るはずがない!なぜだ、なぜ、こんな……。 テムズに警戒態勢を敷いたのか!?なぜ、そんな……。 馬鹿な…… バンシーは守られるはずだ。実験者がいる以上、組織と、騎士団が── 言葉は理性を完全に取り戻す。しかし、既に遅い。 自分の置かれた状況を彼はようやく知った。圧縮蒸気に砕かれて消えた影人間の残滓を、鋭く、睨み付ける。 罠か── 俺を……嵌めたな……!道化師、バロン・ミュンヒハウゼン……! そして……! ──シャーロック・ホームズ!  『わたしは怖いの』  『神さまが怖い』  『悪いことのすべてを見ている神さま』  『そして、罰をくださる神さま』  『怖いの……』  『いつ、わたしに罰をくださるか……』  『大丈夫よ』  『神さまはちゃんと見てるもの』  『シャーリィは、悪い子じゃないわ』  『でも』  『もしも神さまが……』 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国の新たなる王となるべく命を賭す、革命同盟の主幹と呼ばれる若者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。またも、献体が使用されたようです。 見ている。 はい。パターンBの思考ノイズを確認しました。 既に殺害した4名を要素として、眷属型への進化を果たしたと予想されます。 ……思ったよりも、脆かったな。 はい。 面白い。足掻き、むせび泣き、己の内より断罪者を生み出すか。 零時時点の成長率は。 臨界です。 予測通りだ。 では、収穫を始めよう。第2に罪を狩りとるもの、汝の最後だ。 ──断末魔が、僅かに響く。 あり得るはずのない永遠の痛みと苦しみに、もがき、苦しみ、足掻き、泣き叫ぶもの。 それは、都市の闇に潜む。それは、砕かれた鋼の内から生まれ落ちた。 それは、追いつめるもの。怯えるこころに喰いつき引き裂くもの。 それは苦しんでいた。叫んでいた。淀む大気はそれが存在することを許さない。濁った水はそれが思考することを許さない。 あまねくすべてがそれを許さない。許してくれない。そのことは、既に定められた摂理だった。 しかし、それは生まれ落ちてしまったのだ。在るべきはずではないロンドンの闇に、暗がりの中で、断末魔の嘆きと共に。 ──時を経ずして、それは風を巻き起こす。──叫び声をあげ続けながら。 死の灰色が体を包むけれど、しかし、決してそれが死滅することはなく。 それは喘ぐ。乾く、欲しい、潤うものが。全身にまとわりつく灰色の風は目を覆う。見えない。何も、見えない。 故に、それはもがき続けるしかない。目も見えず耳も聞こえず喋ることもできず、苦しむしかなかった。僅かな例外を除いて。 たとえば── ──どこかで叫ぶ、生け贄の少女の声。──どこかで叫ぶ、若き警官たちの声。 悲鳴。自分と同じ断末魔。それを聞くことでのみ、乾きは、癒える。ここに在らざるべきそれは、充たされる。 だから。悲鳴を追うことしか、それにはできない。  ──もしくは──  ──黄金色に輝く──  ──たったひとつの── 輝く機関街灯──夜の街を霧越しにぼんやりと照らす。 雨が降りそうな夜だった。普段と変わらない灰色雲ではあるものの、霧とは異なった湿度が大気に感じられて。 レストレイド警部は帰路をやや急いでいた。セント・ジェイムズ街のアパルトメントへ、真夜中の通りを歩いて。 日付が変わる直前の時刻。流石に、住宅街の夜ともなれば人はいない。 旧世紀末に量産され始めた携帯用の雨傘を持てばいいのに、と、以前の姪の電報には書いてあったが、未だに持っていない。 電信通信機については仕事柄の必要に迫られて購入したものの、傘は未だに持つ気になれない警部だった。 警部の育った時代は、傘と言えば婦人の持つものと決まっていた。今は携帯雨傘を持つ紳士も増えたらしいが。 自分には電信通信機だけで充分だ。矜持にかけても傘を持つ訳にはいかない。 レストレイド警部はそう思う。とはいえ、電信通信機についてさえ、本当は手紙や電報が好みではあるが。 姪の声がいつでも聞けるぞと購入当時は喜んだものの、さあいざかけるとなると、どうにも勝手がわからない。 姪の電報には、会って話すのと同じよと書いてあったが、どうにも、こうにも。 ……やれやれ。 普段と変わらないはずが、どうにも違和感を覚える夜だった。何度も、姪のことを思い浮かべる。 それが凶事への予感であるとは、ジョージ・レストレイドは気付かなかった。姪についてのこととなると、勘が働かない。 呼び出し音── 姪のものと同じ種類の電信呼び出し音がコートの内側で響いた時にも、警部は、また何か事件かと思っただけで。 もしもし。こちら、レストレイド警部。 ……何? おい、お前、レベル1だと!? 聞き間違えたのかと思った。電信越しに響く部下の刑事の興奮した声は、レベル1と告げていた。非常時の緊急連絡。 殺人犯の逃亡報告でさえレベル2とされる。それがレベル1ともなれば── 『本当にレベル1なんですよ! ホーボーンのテムズ沿道を警邏していた 警官隊2隊が、その、全滅、したそうで』 『出動した機関機動隊が確認しています。 例の4名の少女たちと酷似した、 轢死状態の警官隊が恐らく、十数名!』 糞っ、アフガンかここは!そいつは── 『犯人は発見できていません! ただ、時間的に見て未だにホーボーンに』 ……ホーボーン、だと。詳細位置は! 『ホーボーン10番通りテムズ河沿岸! 警邏の遺体は沿道で発見されています! あれ、これって警部──』 糞ったれが!!(Bloody hell!) 電信通信機を握り潰しそうになる。視界中がちかちかと明滅して思えるのは、血圧が急激に上がったためだろう。 冷静でなどいられなかった。テムズ沿岸ホーボーンエリア10番通り、それは、姪の住む下宿を含む区域で── 警部は戦慄していた。後で掛け直すと告げて電信の回線を切り、慣れない操作に舌打ちしつつ回線を探す。 回線はどれだ!記録したはずの、姪への回線は── 真夜中。突然のベル音── まさかコールが掛かるとは思っておらず、一瞬、メアリはホテル備え付けの電信が鳴ったものかと錯覚してしまう。 けれど、音を聞いてそうでないと気付く。これは、鞄の中に納めた自分のものだ。 ごめんね、ちょっと中断。そうヴァイオラに告げて電信を取る。 数日目になる今日のロンドン散策について、ヴァイオラと、感想を言い合っていたのだ。明日の予定についても。 もう時刻は遅い。シャワーを浴びて眠ろうとふたりで決めて、先に予定を決めよう、と話していたばかり。 誰からの呼び出しだろう。首を傾げつつ、メアリは受話口を耳へ。 『俺だ』 『お前の下宿から掛けている』 ……え。 ど、どうして、あたしの部屋にいるの。ちょっと……。 な、何しているのあなた。やめて、そこには何もないのに── 『この付近に《怪異》が顕現した。 現在は姿を消しているが、すぐに』 『お前を求めて顕現するだろう。 さあ、仕事の時間だ』 『契約を果たせ』 ──冷ややかな声。──電信越しに聞くのは初めてだった。 ──契約のそれを告げる、彼の、Mの声。──大丈夫。慌てたりしないわ。 ──あたしはもう覚悟しているから。──契約を、果たすだけ。 ……わかったわ。教えて。どこに出るの、あれは。 『既にお前は知っているはずだ。 前回は、見事だった』 『お前が《怪異》の気配を感じた時だ。 振り返れば、そこにいるだろう』 『急げ』 『あまり時間はない。 気配を放っておけば、お前は、死ぬ』 ……わかったわ。 短く応えて回線を切る。もう、聞くことはない。やるべきことが何であるかは知っている。 理由はわからない。仕組みについても未だに教えてくれない。なぜ、背後へと振り返れば現れるのかも。 同じ。同じだ。これまでの彼と何もかも同じ。 シャーリィが今でも目覚めない理由、自分の黄金色の右目が狙われる理由、なぜ“あれ”を彼が破壊するのかの理由。 すべて、同じ。何ひとつ回答されることはない── 今は未だ4つの計器が動く気配はない電信通信機をポケットへと仕舞い込み、メアリは、靴紐を結び直す。 外で走る練習は未だにできていないけれど、人体運動力学に基づく基礎体力訓練だけは、ここ数日、行っている。 走ろう。これから、あの、黒い街を── ……どうしたのですか、メアリ? 失礼だとは思うのですけれど、こんなに遅い時刻に電信が掛かってきて、それで、そんな風に……。 靴紐を直して……。まさか、今から外へ出るのですか。 ちょっと用事があるの。Mから、ね。 それだけで済ませたかった。多くを話せば嘘を吐くことになってしまう。 けれど、駄目だった。ヴァイオラは真剣な表情を浮かべていて、あの、優しい微笑はどこかへ消えていて。 この表情は知っている。彼女と出会ってから2日目の夜、黒い街でムリアンから逃げた後、明け方にも、見た。 怯えるようで、それでいて毅然としたヴァイオラの表情。聞こえてくる現実へ真正面から向かう顔。 ──そう。聞こえてくる音。──ヴァイオラがロンドンへ来た理由。 ──Mと会った理由。──幼い頃に聞いた《魔犬》の鳴き声。 僅かな記憶の中で、確かに、父や祖父を襲ったという《魔犬》の咆哮を、ヴァイオラは聞いたことがあるのだという。 そしてそれは、ここ1ヶ月というもの再び耳に届いていて。 故に、彼女はロンドンへと至ったのだ。父の遺言の通りに、Mの助けを求めて。 この真剣な表情は── その咆哮を聞いた時の、顔── お願い、やめて下さい。つい先ほどにも聞こえたばかりなんです。 あなたが心配です、メアリ。お願い、今だけは外へ出ないで欲しいの。嫌な、とても、嫌な感じがするんです。 何か……。良くないものが、近くに……。 まるで、何かに、いいえ、きっと誰かに、縋り付くようにして……叫んでいて……。こんな風に聞こえたのは……。 初めてなんです、だからメアリ。ここにいて下さい。 真剣に、真摯に、強く懇願する言葉。メアリはその顔をまともに見られなかった。 結び直したばかりの靴紐を、見つめて。冷静にと内心で自分自身へ呟きながら、表情を形作る。 契約への決意に充ちていてもいけない。怪物への恐怖を溢れさせてもいけない。穏やかな、笑顔にしよう。 そう、相手を安心させられる── 柔らかな微笑── ううん、本当に、大した用事じゃないの。すぐに戻ってくるわ。 ここは治安の抜群に良いウェストエンド。危ないことなんか、何もないわ。 あたしは大丈夫。心配しないで、ヴァイオラ。 ──ああ、きっと、今のあたしの顔は。──あなたと似ている。 ──シャーリィ。──同じ言葉を述べた日の、あなたと。 昇降機の扉が開くと同時に、ロビーへと駆け出していた。まっすぐ走ってエントランスを抜けていく。 非常識な娘だと眉を顰められても構わない。誰かに呼び止められても無視してしまおう。時間がない── ドアボーイが慌てて回転扉を開けてくれる。お礼を言うべきなのだとわかってはいても、そんな余裕もない。急ぐ。走る。 メアリは外へ出る。 思ったよりも、通りには人の姿がある。 誰もいなければいいのにと思ったけれど、仕方がない。きっと、遅い便で到着した外国からの訪客なのだろう。 想定はしていた。もしも外に誰かの姿があれば、と。 メアリは走る。目指すのは、通りの建物と建物の間。 できるだけ密接した建物同士がいい。人のいない、路地裏へ── ──見えた。路地裏。──前回とよく似た建物と建物の間。 勢いを殺さずにそのまま走り続けて、真横にある路地裏への入口へ、するりと。 前回よりも明確な意思があった。ここへ来て、確かに、自分の他には誰もいないことを確認して、前へと。 路地裏を走る── 走る。 走る。 走る。 そして──  『……イ……』  『……イ、ィ……』  『……イ……タ……イ……』 ──声。それが聞こえるのを待っていた。──大丈夫、もう、人はいない。 ──それは頭の中へ響く声にも思えて。──ううん、いいえ、違う。背後からの。 声は漠然と、しかし確かに背後から響く。誰か。違う。人間の声には聞こえなかった。 ……来た……。 背後から響く声の主へと振り返る。その、刹那── ──また、呼吸が止まりかける。 ──息苦しさを確かにあたしは感じていた。──胸が、締め付けられる。 ──同時に湧き上がってくる何か。──吹き荒ぶように、強く、胸に疼く。 ──これは、そう。前にも。 息ができない。 我知らず喘ぐ。 続けざまに強烈な目眩が視界を歪ませる。 呼吸困難。目眩。思考が途切れて意識がぼやけてしまう。同じ。同じだ、前と同じ、あの先触れ。 ──苦しい。胸が、胸の奥が疼く。──あたしは、これが何かを、覚えてる。 ──あの時と同じ。目眩と、ひどい苦しさ。──これまでの時とそっくり。 ──あの醜い怪物たちが感じさせるもの。──心と、体を、苛むもの。 ──あたしが。──あの時から、ずっと感じているもの。 振り返ったメアリの視界に見えているもの。それは奇妙な歪みであって、昏く荒れ狂う強い風だった。 塗り固めた排煙と埃のような灰色が、視界に入る── ……あなたが……。 ……あなたが、あたしを……。襲うのなら……。 ……あたしは、こうする、だけ……。どこまでも、どこまでも……。 ……逃げてみせるんだから! 一度だけ、瞼を強く閉じて── それを目にする──  『……イ、タ、イ……』  『……カ、ラ、ダ……』  『……サ、ケ、ル……』 ──暗がりから、何かが、見える。──これは何。 問いかけても答える者はない。自分を助けてくれる誰かはここにはいない。 自ら選んでここへと来たのだ。誰も、友人も、伯父も、新しい友人さえも、絶対にこんなことに巻き込んではいけない。 誰かを殺すと彼の言った“あれ”がいる。暗闇から浮かびあがるもの。路地を埋め尽くす、巨大な。 耐え難いほどの悪臭と腐乱臭を漂わせて、耐え難いほどの暴風と揺らぎを身に纏う、風の、怪物。 夜の暗がりに、それの生み出した奇妙な明かりが浮かぶ。体表を覆う無数の紅い瞳がぐるりと蠢く。 それは風を全身から身に纏いながら、煤煙を固めたものに似た色を湛えて、ゴム状の体表を軋ませて。 あの夜の怪物と似ていた。けれど、何かが明らかに違っていた。 それは炎ではなく、黒く淀みながらも、引き裂くほど吹き荒ぶ風を纏っていたから。 けれど、よく似て見える。黒い体。紅い瞳。それは、ロンドン中の恐怖の噂。 誰かが《怪異》と呼んだもの、この世ならざる歪んだもの、おとぎ話にしか存在しないはずのもの。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 ──あたしは、強く、強くそれを自覚する。──呼吸困難と目眩の正体。 ──恐怖。 涙を懸命に堪える。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、ひきつった声が出るだけ。 ──誰か。誰か。誰か。──あたしは。 ──あたしは、これを、止められない。 ──駄目、だめ、だめ!──意識が揺さぶられる! 駄目。だめ、だめ、だめ。思考がまとまらない。混乱が襲い掛かる。舗装街路を裂くほどの、猛風の黒い怪物。 何、何。これは。自分には、すべきことがあるはずなのに。 自分が何を考えようとしていたのかが霞んでいく。ただ、恐怖が体に充ちる。苦しい。風が空気を奪う。 混乱する思考の濁流で意思だけが迸る。メアリは、涙を堪えながら、喘ぐ喉を、振り絞りながら。 ただ、ひとつのことを思う。ただ、ひとつのことを願う。 それは、事前の使命感であったはずだ。または、恐怖で麻痺した脳の生む狂気か。 ──教えて。M。 ──もしも、こいつが、この風の怪物が。 ──これが、あなたの言う通りに。──シャーリィの昏睡と関係しているなら。 ──あたしはにできることはひとつ。──そうでしょう、M。 ……そう、よね……。 ささやかだけど声が出た。息が、喉を通る。詰まった空気が通り抜けて、酸素が脳へと回ってくれる。 揺らぐ意識が僅かに定まる。それは、ほんの一瞬だけの平衡状態だった。 その一瞬で状況を把握する。暗い。誰もいない。果てなく続く暗がりは、すべてが黒色に染まったのだと告げている。 ──黒い街。──そう、ここは、もうシャルノスだった。 ──助けてくれるひとは。誰も。──あたしだけ。 何もかもが同じ。あの時と。これまでと同じ。 あたし……できる、わ……。 掠れる。自然と、声が。一瞬の平衡を失った意識が再び揺らいでも、あの時と同じに、呼吸は、止まっていない。 止まってはいない。呼吸は続いている。意識は、揺れて、でも、辛うじて留まる。 ──どうするの。──どうするの、メアリ。 涙を流して瞼を閉ざす? 何もかも諦めてしまう? それとも、助けてとあの赤い瞳に叫ぶ? ──駄目。どれも、駄目!──あたしは何をすべきか知っている。 思考がどろりと恐怖と怪物の風で裂けて、何をすべきか、何をするのかが、意味を失いそうになる。 メアリは、冷静にはほど遠い思考で、それでも、揺らぐ視界で怪物を見る。風に煌めく白い牙。 赤い瞳が── ……そう……。 同じだ。あの時と、これも、同じ。怪物はメアリを見ていた。 ──風の怪物の無数の瞳が見ているのは。──あたしの、右目。  『……ミ……エ……ナ……イ……』  『……デモ、ワ、カ、ル……』  『……カガヤク、黄金瞳……』  『……ソレヲ……クダサイ……』 喋った── 喋った。そう、これらの怪物は喋るのだ。恐怖に麻痺したメアリの神経は、霞の向こうにある記憶を呼び覚ましていた。 黄金瞳、と、この怪物も同じものを求める。黄金の瞳。黄金の。それは── ……あなたも、同じ……そうよね……。あたしの……。 ……あたしの目が欲しいの。  『……ホ、シ、イ……』 ……そう。ええ、そうね。  『……ク、ダ、サ、イ……』 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──そう。お前たちは。 ──この目が欲しいの。──だから、こうして、あたしを狙う。 駄目。  『……クダサイィ……!』  『……黄、金、瞳……!』 ──襲い掛かってくる!──堅固な四肢で石畳を吹き飛ばして! 意識と思考はぼやけてしまって意思を挫き、怖さで今にも失神しそう、でも、それでも。メアリは、決意に頷く。 四肢の感覚がないほど恐怖は全身に充ちて、歯が鳴ってしまうくらい震えているけれど、でも、それでも。 走ることならできる。そう、決めた。 ──何度でも、何度でも。──あたし、あなたたちから逃げてみせる。 ──やることは、あの時と、同じだから。──覚悟はできている。 ヴィドック卿の発展理論を思い出しながら、正しく走ることだけに集中して。 恐怖を引き剥がせなくても、足だけは。前へ進むことだけは── 走って、走って、怪物から離れて、それから、それから先の記憶は掠れて。でも、彼、Mがいたのは辛うじてわかる。 ──できる、メアリ? ──できるわ。だって、こんなところで。──諦めたりしない。絶対。 ──まだシャーリィは眠ったままなのに。──まだヴァイオラの案内も、残ってる。──だから。 あなたには、無理、なんだから!あたしは……! あなたになんか捕まらない!……絶対……! メアリは走り出す。怪物が大小6つに分裂して、猛烈な勢いで襲い掛かってくる気配を背中に感じながら。 ──全力で、あたしは、前へと。 ──暗い。 ──ここはなんて暗さなんだ。 石畳の路地を走る乾いた靴の音はない。既に、ここにはひとつの音しか。 俺の靴音はない。俺の息遣いの音だけが響いていた。 誤った歴史を歩み続ける我が大英帝国、首都ロンドンの路地裏で苦しむ男の息、この俺の喉の音。 糞っ、糞っ、なぜだ……!なぜ、俺の風が捕らえられない……! 4つの命を捧げた!罪もない、女を、殺して、進化を果たした! それなのに……!何が足りない、なぜ、こうまでも……! 俺の風は黄金瞳を喰らえていない。俺の風はあらゆる人間を殺せるはずなのに、それでも、あの娘は、未だ走り続けている。 機関街灯の灯りさえ届かない路地裏で、俺は、あの娘が狭間へと消えた石畳を指で触れる。 苦しい。苦しい。だが、この荒い息は俺の存命の証明だ。 まだだ。まだ、俺には機が残っているはずなんだ。まだ、俺には王たり得る資格があるはず。 ……引き裂け……! 噛み殺せ、我が恐怖、我がブラックドッグ!お前の断罪の牙は、罪あるものを許さない!ならば……! 父を救わなかった人間すべてを許すな!誰も彼も、殺せ! まずは……あの、黄金瞳の娘を……!メアリ・クラリッサを……! 殺してくれ……!俺の……! 俺は叫ぶ。誰もいないはずの路地裏で、ひとり。 誰も俺の声を聞き届ける者などいない。今も、昔も、ずっとそうだった。 俺はひとりで叫び続ける。王となり、国を得て、君臨するその日まで。王となり、国を得て、安堵するその日まで。 断罪の牙でさえ俺はこうして操れるのだ。俺に、不可能などない。叶わないことも、理解できないことも── 何もない── 「……あなた」 ──声。ああ、それは。 ──忘れるはずのない声。──どれだけ時を経ようと忘れられない。 聞き間違えではなかった。この、誰もいないはずの狭間の気配が残るウェストエンドの路地裏に、しかし確かに。 幼い頃とは違う声であるはずなのに、そうだとすぐにわかってしまう。これは、ああ、お前の声なのか。 どうしようもなく、惹かれて、それが故に離れるしかなかった、お前の。どれだけ求めようと得られない、あの声。 ……ヴァイ……オラ……? 振り返る。そこに佇む人影は、やはり、お前だった。 見間違えるはずがない。暗がりの中でも、たとえ視力を奪われても、お前のことは、誰とも見間違えなどしない。 ヴァイオラ。俺の、ただひとつの、すみれ色── あなた、やっぱり、デニー……。 虫の報せが、あったの……。近くに……。 あなたが、わたしの近くにいるって……。本当に、あなた……いてくれた……。 ……デニー。人違いじゃないわ、あなたは、デニー。 荒い息を吐きながら、俺の姿を見つめるお前の瞳があった。 なぜお前がここにいるかを俺は知らない。あの娘と、お前に、何かの関与があると、俺が思うはずもない。 ただ、俺は、暗がりの中に現れたお前を見て── 来るな。 デニー……。 来るな! ──怖かった。俺は、お前が怖いんだ。──どうしようもなく。 惹かれるからこそ、焦がれるからこそ、俺にとって、お前はあまりにも眩しくて。 ただ、俺はずっと恐れ続けていた。お前のその手を。 あの時と同じ。今も、こうして、差し伸べられる手を。その、美しくも繊細な、お前の指先を。 あなたがいなくなってから……。ずっと、探していたの。父も、わたしも……ずっと、あなたを……。 ……来るな……。 ──嘘だ。──嘘だ、嘘だ、嘘だ。嘘を吐くな! お前が俺のことを覚えていたはずがない。一時の感傷。嘘だ。違う、王が、貴族がそうであるはずがない。 ただの人間のように在るはずがない。王たる者に生まれついた血を持つ者は、そんな風に、誰かへと縋ったりしない。 だから違う。その言葉は、違う。 違うと言ってくれ、ヴァイオラ。俺はそうだと信じ続けてここまで来た。 お前は、貴族なんだ。だから── 帰りましょう、一緒に。お願い……。 わたし、ひとりでは……。あの屋敷は……広すぎるから……。 ……だから、デニー。 名前を変えた理由なんて、聞かないわ。髪の色も……。 一緒に、あそこへ帰りましょう。わたしと── お前の手が── 俺の、肩に、触れる── 来るな……! 俺は叫んだ。あまりの恐怖に発狂しそうなほど震えて、俺は、震える脚で立ち上がって、走った。 お前には触れられない。今は、まだ。 けれど。けれど、この身が王となるその日が来れば、その時には、恐れることなく俺は、お前と。 だから、俺は逃げ出した。お前の手を振り切って、暗がりの中へと。 ──拒絶した。影の中へと逃げた。──だから。 ──お前がどんな表情を見せていたのか。──お前がどんな感情を抱いていたのか。──俺は、見なかった。 ──俺は。──お前の、顔を、見られない。 ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──風を恐れた誰かのそれ。 計器の示した通りの位置に声は在った。やはり、理由はわからない。声のことも、他のあらゆることも。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 まるで縋るように叫び続けて、まるで涙のように滴を流して。なぜ、それほどまでに瞳を欲しがるのか。 ──知りたいと思う。──叫ぶ声、悲鳴を上げ続けている理由。 ──けれど、あたしに余裕はなかった。──それに、この想いも。 ──知りたいとあたしが考えたことさえ。──逃げ延びた先の朝には、忘れてしまう。 ──なぜ。──なぜ、なぜ、あたしの記憶は霞むの。 疑念を浮かべながらもメアリは走る。そうすることしかできない。今は、4つの声を集めて、それから。 ──走り続けて、声を集めて。──それから。 ──それから後は。あたしは、そう。──声を待つのよ。 何かを聞いたはず。誰かの声に導かれたという記憶。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。誰かの声に、導かれて──  『……キミ、ノ、目ヲ……!』 吐き出される、悲鳴!怪物。大小6つに分かれたものの中でも、最も恐ろしい暴風を纏うものが、目前に。 粉々に黒い街路を引き裂きながら、異臭を撒き散らしつつメアリを追いつめる。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。黄金瞳を引き裂こうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。また、吹き荒ぶ姿を見てしまった。 ──恐怖が意識と思考を歪ませてしまう。──駄目。駄目よ!  『……アナタ、ノ……』  『……右、目、ヲ……』 いやよ……! メアリは意思を振り絞る。叫ぶ。怪物の懇願に負けないくらい、大きく。              『ブラックドッグ』 ──声。誰かの。 ──声。あなたの。 ──ブラックドッグ。──それは、ヴァイオラの言っていた獣。 ブラックドッグ。そう囁く声が聞こえた。思い出すのは、ヴァイオラが話していた、風の黒犬。 ……ブラックドッグ……。                『ここへ来い』 ──声。あなたの。──聞こえる、前にも聞いたはずのもの。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。──聞き覚えのある。 ──あなたの声よ。待ったわ、M。 ……遅い、のよ……!                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他には“ブラックドッグ”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 ──そこに。 ──行けばいいのね、M。 ……ッ!! メアリは再び走っていた。あの時と同じようにして。恐怖の波が膝をおかしくさせるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる。前もそうした。 声の先にMがいる。確か、そうだったと記憶が告げているから。 ──あなたを信じる。──あたしは、契約を果たしてみせる。  『……黄、金、瞳ォ……!』  『……クダサ、イィ……!』 無理よ! ──まだ。走れる。──風になんて絶対に裂かれたりしない。            『諦めていないのなら』             『ここへ来い。仔猫』 仔猫って、言わないで!! ──走って、走って、走って。 ──鋭い痛みがいつの間にか体じゅうに。──痛い。痛い。何なの。 ぬるりとした嫌な感触が両脚全体にあった。気のせいか。妙な寒気が全身を襲っている。それでもメアリは走る。 この場所のはずだと内心で繰り返す。直感的に、そうだとわかる気がしていて。 ここまで走って辿り着けばいい。体に染みついた経験と直感とがそう告げる。だから、体に残った力のすべてを費やした。 脚だけではなくて、全身が軋む。一歩進む度にどこかに痛みが生まれていた。 もう足の裏の感触さえない。踏みしめる石畳の抵抗は太股で感じていた。 胸が痛い。この肺のすべて、軋む音を立ててばらばらになりそうなほど。 あの声の主が言った場所は、ここ。方向は間違っていない。 けれど── ──周囲には誰の姿も見えなかった。──無意識に彼を探す。──契約を交わしたはずの、彼の、姿を。 ──見えない。──どこ、彼は、今、どこにいるの。 ──終点に油断するあたしを嘲笑うように。──近付く。怪物の重い足音。 ……………。 ……ここが……。狭間の、終わり……の、はず……。 怪物の気配がする。あの、伝承の魔の獣の名を冠した白牙の怪物の音が。 粉々に石畳を引き裂きながら、メアリの右目を欲して黒い街を進むあの音。 まだ僅かに距離がある。そう思う、けれど、それは祈りでしかない。 周囲を見回す。あの夜と同じ、異形の黒色、建物のかたちをしているだけの嘘の石細工。街でも、建物でもない。 ここが“果て”だ。メアリはあの本を読んでそのことを知った。狭間は広大ではあるけれど、無限ではない。 ……遅い……。 ──あたしは、ひとつだけ気付く。──以前と同じように。 ……何を……。 ──この黒い街と、ロンドンの共通点。 ……何、しているの……M……。 ──霧。煤煙の混ざる、病んだ感触。 ……遅い、よ……。  『……イマ、シ、タ……!』  『……ア、ナ、タ……!』 ──あたしは、瞼を閉じなかった。──避けられない死と共に在るそれを見て。 ──真正面からそれを見る。──白い牙と、赤色に蠢くあの瞳の群れを。  『……ヒ、メ、イ……』  『……ド、コ、デ、ス……?』  『……目ダケデハ、ダメ……』 余裕を伴った響きに聞こえていた。今まで本気ではなかったとでも言いたげな風を纏う怪物の唸り声と、片言の、言葉と。 それが接近するほどに汗が流れ落ちていく。怪物の風が、痛い。痛い。痛い。 服は一切破られてなどいないのに、風の刃で撫でられるような錯覚があった。痛い、痛い、叫んで、喚いてしまいたい。 メアリは目を閉じなかった。だから、それを、まともに間近で目にした。 粘性の涎を次々と垂らす顎の上の“貌”を。白色の硬質なものに覆われた、仮面のような“貌”のかたち。 それが、ひび割れて── 音を立てて石畳に落ちる── ……ひッ……! 目を閉ざすべきだったのだろうか。メアリは、2フィートの距離でそれを見た。 仮面の下にあった本当の“貌”を。紅い瞳。けれど、蠢く無数の瞳とは異なる、人間のものにひどく酷似した血色の双眸を。 ──見覚えが、あった。 ──それは、見開かれた誰かの瞳に似て。──誰。誰、覚えのある誰か。 瞳は偏執的にひとつずつ別方向に動いて、何かを探す、ああ、そうか、探している。黄金色の。 右目を。この怪物も探しているのだ。 『……願イハ、果タサレル……。    ……コレデ、闇ハ、閉ザサレル……』 『……俺ノ、顕現ヲ、以テ……。    ……恐怖ハ、永遠ニ眠リノ中ヘ……』  『……消エサル、ノデス……』 ──怪物は悲鳴を止めて囁く。──どこか、優しげな響きさえ込めて。 ──駄目。──違う、これ以上聞いてはいけない! 駄目。これ以上、この声を聞いては駄目。心のどこかで自分自身が叫ぶ。けれど、メアリは視線を外せなかった。 空間が、前後の感覚が揺らぐ、上下左右も。立っているのかどうか、もう、わからなかった。 仰向けに倒れていたのかも知れない。かろうじて立っていたかも知れない。ただ、もう、逃げることはできなかった。 僅か2フィートの距離から、鋭い風の吐息がそっと吹き掛けられる。 服が僅かに切り裂かれる。その下の肌に、うっすらと血の玉が滲んだ。一息で切断できるはずなのに、そうしない。 ──いたぶろうとしているんだ。──あたしを。 ──そして、あたしは自分の両脚を見る。──暗がりで黒く染まったそれは。 ──目に見えない風の刃で薄く切られて。──脚を覆う、あたしの血だった。 ……ッ……! 悲鳴を上げそうになる。あの、ぬるりとした脚の感覚の正体だった。寒気の原因をメアリは知った。失血の症状。 口元を手で押さえて声を我慢する。悲鳴は、駄目。涙を堪えられなくなるから。 泣いてしまえばもう何もできない。嗚咽して、身動きが取れなくなって終わり。 それだけは。駄目、駄目だと内心で囁く。どんなに追い詰められたとしても、自分で動きを止めることはしない。 そう、意識したのと同時に。何かが動いた。 風が疾って── ぬるりとしたものが両脚から吹き出る。脚の肉が薄く削ぎ落とされたのだとは、すぐには、わからなかった。 1秒。 2秒。 3秒が経って、ようやくメアリは理解する。 ……う、あッ……!や、あッ……い、たい……ッ!! 悲鳴が漏れてしまう。駄目。駄目。考えてなんか、いられない。殺される。このまま、こうしていたなら。 何度も、風の吐息は吐き出される。およそ生物のものには思えない舌が蠢き、ゆっくりと、ゆっくりと、黄金色の瞳へ。 逃げようとした。避けようとした。けれど、その前に、脚は薄く切り裂かれる。 何も── できない、ままで──  『……怖ガッテモ、イイ、デス……』  『……ソレガ、オ前タチナノダカラ……』 ……や、めて、もう……。 ──痛い。痛い、痛いよ、こんなに。 ……やめてよ……。 ──脚が動かない。痛いのに、寒いの。 ……どうして、こんな……。 ──獣の歪んだ舌が、あたしへ、伸びる。 ……もう、あたし、は……。 ──すぐに終わる。舌は、目を抉るから。 ……もう……。 ──もう、いいの? ……あたしは……。 ──あたしは、諦めるの? ……いや……。 ……駄目、そんなの……。……あたし、あなたと契約したわ……。 ……いや、いやよ!……諦めない、諦めない、諦めない……。 ──契約したわ。──あたしは、絶対に諦めたりしない。 ……M……! ──怪物の舌が、あたしの瞳と頭を。──刺し貫く。 ──その、ほんの少しの刹那。  「そこまでだ」 ……生意気にも。言語を解すか。 黒い影。暗がりに溶け込む誰か。見覚えがある── 鋭い風に晒されて思考を裂かれかけた状態でも、彼が誰かはすぐにわかった。恐怖に食い荒らされて、意識が、霞んでも。 彼を知っている。M。あの日、あの晩、あの時に契約した男。 ──遅いわ、M。 ──こんな風になるのを待っていたの?──あたしが、叫ぶのを。  『……貴様、カ……!』 『……ココニハ、誰モ、入レナイ……。  ……俺ノ選ンダ生贄ノ他ハ、誰モ……』 『……シャルノス、ハ、神聖の場……。  ……禁ヲ犯ス、傲慢デ矮小ナ人間……』  『……親父ノォ……!』  『……オ前ハ、誰、ナン、ダ……!!』  『……ダ、レ、ダ……!』 ──また、怪物が悲鳴を上げる。──あたしを放って、彼の方へと向いて。 はは。 彼が漏らしたのは、嘲笑、なのだろうか。暗がりの中で肩を竦めたのがわかった。 夢か幻に思えてならない。この恐ろしい怪物を前にして、笑うなんて、気が違っているのでなければ、虚栄だろう。 けれど。Mは確かに笑っていた。 ほんの僅かな間だけ。蔑む青い瞳を、メアリは目にした。 お前こそ誰だ。 四大のひとつ、ブラックドッグ。確か、そう騙っていたはずだったな。 引き裂くもの、疾く来たりて駆けるもの。断罪の牙より生まれ出でて、罪ある者らを刈り取るもの。 嵐の恐怖。 ──声。揺るぎない自信。 ──石畳さえ易々と切り裂く風を纏う獣。──そんな怪物に睨まれて、彼は。 一切の動揺は見えなかった。彼は、感情の色を見せない声と表情のまま。 わかりやすい“かたち”だな。だが、故に、原始の力に充ちている。 ……モラン! はい。我があるじ。 その声は何かを呼び寄せる。そう感じた。彼のいる暗がりから、もうひとつの長身の影が姿を見せて──  ───────────────────!  『ギヒィイイイイイイイッ!?』 ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。──それは、怪物の額を穿つ。 ──鋼鉄の銃で輝く弾を撃ち放つ、誰か。──銃を携えた、背の高いあなた。 ──セバスチャン・モラン大佐。──男性の名を持った“武器”のひと。 怪物の悲鳴が撒き散らされる。メアリが新たな人影へと視線を投げ掛けるその最中にも、銃撃は次々に行われていた。 ひとつ、ふたつ、みっつ。ゴム状の怪物に大きな穴が穿たれていく。 けれど、それだけだ。悲鳴を幾つも生むだけで、通じはしない。倒れてくれない。弾丸は怪物を貫くだけ。 体躯に空いた孔から風が吹き出して、それは、黒い街の建造物の幾つかを割った。 ……状態確認。パターンCノイズが検出されています。 これ以上の銃撃は拡大変容を招きます。あるじ、ご指示を。 方程式を使う。モラン、連中の“目”を潰せ。 必要なし。目標周囲に展開する空間はあらゆる結社員の“目”を阻害します。 未熟な連中だ。 ──そう言う人影、黒いMの声は。──やはり、笑っているように聞こえて。 ──あたしは、感じていた。──この黒い街で平然と会話するふたりに。 ──恐怖を。──嫌悪を。──初めてその様子を目にした時と、同じ。 提案しよう! ブラックドッグ! 食事の時間だ!  『ガァアアアアアアアッ!!』  「──城よりこぼれたかけらのひとつ」  「クルーシュチャの名を以て」  「方程式は導き出す」  「我が姿と我が権能、失われたもの」  「喰らう牙」  「足掻くすべてを一とするもの」  ──黒い男の周囲が──  ──ざわつき、沸き立って、うねる── 見えているものは幻か、それとも、夢か。黒い男を取り巻き蠢くものが見えている、それは、何かを思わせる。 顕現した怪物が大小6つに分かたれる瞬間、かたちを得る寸前に見える、黒い液体。もしくは粘液状の、半固形である何か。 ひどく似ていた。違うのは、黒い粘液に似た不定形の群れが、男の周囲に浮かんで“かたち”となること。  ──黒い文字──  ──カダスの碑文を思わせる── ぐるりと取り巻く文字のような黒い群れは、男の影から吐き出され、周囲で蠢き回転し、不規則な幾何学模様を描き出す。 もしも、本当にカダス碑文なのだとしたら、それは言葉ではない。近いものは、恐らく、数式。複雑な。 関数──違う、何かの方程式だ。長く複雑すぎて、メアリには読めなかった。式を読もうとしたのは2度目のはずなのに。 目にした次の瞬間には忘れてしまう。似ていた、この、黒い街での記憶のさまと。 黒い群れを男は呑み込んでいく。口で、足下の影で、黒色のコートの影で。 ──人間のかたちをしたものが。──怪物のなり損ないを、食べて、いる。 ──耐えられない。──吐き気と、寒気があたしの胸を突く。 文字の羅列を男は次々と呑み込んでいく。女が銃撃で怪物の動きを止めている間に、ごくり、ごくり、と。 未だ多くの黒い群れを残したままで、男は、静かに言った。  「喰らうぞ」  ──そして──  ──男の姿が変わる──  ──右目を覆うものが──  ──紅く紅く、輝いて── ──闇が充ちた夜のように、影のように。──彼の姿が変わる。 右目を隠した眼帯から浮き上がる紅い光は奇妙な紋様を描き出して、揺れる、揺れる、揺れる。  ──そして──  ──次に、右の腕が歪む──  ──服を、肉を食い破り── 肩口を突き破るのも黒い刃。半身を蝕むのと同じく硬度のあるそれらは、互いに擦り合わさって、軋む、軋む、軋む。 右腕の末端にまで同じ変化が起こっていた。服を破り、肉と骨を砕いて、幾つもの刃が震える、震える、震える。  ──そして──  ──最後に──  ──体に、赤色の亀裂が走る──  ──胴を、斜めに引き裂いて── 男の右半身が歪んでいた。鋭い肋骨にも乱杭歯にも見える黒色の刃が幾つも宙に突き出され、歪む、歪む、歪む。 眼帯に浮かぶものと同じ赤色をした亀裂は、男の胴を引き裂きながらもその体を砕かず、人型を保って蠢く、蠢く、蠢く。 脈動しているのだ。まるで、巨大な蛇が胎動するかの如く── ──人間が。歪んでいく。壊れていく。──こんなものは見たくない。 ──これを、見たのは、初めてなの?──それとも2度目? ──黒い街の霞む記憶がぐるぐると渦巻く。──何、こんなもの、覚えていない。 ──怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。──理由は幾らでも。不可解。奇妙。異形。──理解できない。怪物。人の、かたちを。 ──怖い。──あれは、彼は、何をしているの!  「ブラックドッグを騙る哀れな者よ」  「お前の声は届かない」  「残 念 だ っ た な!」 ──彼の声が。 ──あらゆる闇を引き裂いて、砕く。  ───────────────────!  『ギィイイイイイイイ……ッ!』 吹き荒ぶ風を上げながら荒れ狂う怪物が。瞬時に、砕かれる。 砕いたのは、奇妙な、黒い腕だった。男の胴体部の亀裂からずるりと伸ばされて、巻き付くように怪物を取り込み、押し潰す。 砕く── 砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。元の形が何であったのかさえ認識できない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。 ──正視、できない。──あたしは瞼を強く閉じて耳を手で覆う。 ──怖い。怖い。こんなにも痛ましい。──怪物のはずなのに。──あれは、あたしを傷つけた怪物なのに。 ──どうして。なぜ。──こんなに、疼く両脚よりも遙かに。 ──痛いの。胸。奥が、疼く、疼く。──じくじくと熱を伴って。  『……ギィ、オ、オ、ァアア……』  『……タ……ス……ケ……テ……』  『……ヤ、メ、テ……!』 懇願。悲鳴。絶叫。断末魔──怪物が、破壊される。 怪物の声はかき消される。男の黒い巨腕は、異様なまでに巨大な“口”を、押し開いて、懇願する怪物を。  ──引き裂き──  ──喰らい尽くす──  「は は は」 ──耳を塞いでいても聞こえてくる。──Mの。笑い声。  「はは、ははは!」  「ブラックドッグを、謳うのならば」  「この程度で死ぬな。引き裂け」  「あらゆる物質を己の元素へと換えろ」  「パラケルススを嘲笑ってみせるがいい」  「は、は、は、はッ!」 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ──哄笑があたしの頭蓋の中を揺らす。──思考ができない。 ──意識が、どろりと溶けて消えていく。──耐えられそうにない。 ──恐怖が、押し寄せる。──この肌を切られた時より、強く、強く。 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ……もう、いい……。やめて、M……もう、いい、の……。 声を絞り出す。言葉になったか、どうか。震える舌、震える喉、震える体のすべて、哄笑と異形に怯えてしまう。 意識が混濁する。何が起きたのかを理解できない思考のせい、それとも、まともに呼吸できない喉のせい。 男の声だけが聞こえる。自分の声も、息も、何も聞こえてこない。 Mが哄笑しているだけ── 本当に? その顔には感情が浮かんでいたのだろうか。それを、確認していなかった。けれど、メアリの意識は、急速に。 急速に── ──霞んでいく。 ──あたしは、闇へと、落ちる。 ──黒に塗り潰される。──恐怖に押し潰されるまま、視界を失う。 ──ひどく恐ろしい闇色の奥底へと。──あたしは、落ちていく。 ──悲鳴と叫び声の主が。──どうか、安らかに在りますようにと。 ──誰かに、何かに、祈り続けながら。 暗い── ここは何と暗いのだ── ウェストエンドの路地裏にいたはずだった。そこから俺は、あの暗がりへと逃げ出して、気付けばここにいた。 この目で見たことはなくとも理解できた。既に、チャペック研究会での降霊会にて、この様子は認識していたんだ。 俺の求めたもの。博士と、研究会の同志たちの悲願。 ロンドンでもなくシャルノスでもない狭間、その最果てに在るという、無限の嘆きの門。地上ならざる異界への最後の扉。 タタールの門。それは、黒く聳えるシャルノスへと続く、狭間の異界、最後に到達するはずの場所。 今や、それが、眼前に在った。しかし俺にはわかる。 届かない── この俺の手は門に触れることはできず、この俺の脚はこれ以上動くこともない。 黄金瞳を得られなかったからだ。俺は、鍵を手に入れることができなかった。 だから門は開かない。ただ、俺の眼前に在って、聳えるだけで。 ……届け、届け、届け!俺の手は、すべてを掴むことができる! 漆黒の扉の前は遠い。届かない。 救いを求め、手を伸ばし、もがいても、俺がタタールの門を開けることはない。俺は── 俺は! 俺は! 間違ってはいない!何も、何も……! 求めただけだ!俺の国を、俺だけの国を! 俺だけの、俺のための、俺だけが生きることのできる明日を── ……あいつと、一緒に。あの日、あの時を永遠に生きようと、俺は。 俺は……。何も、間違っては、いなかった……! 絶叫は断末魔か。俺は、己の声に色濃く落ちる黒色を知る。 足掻く俺の背後に佇んで、無様に這いつくばった姿を見つめる黒色を。 黒色の人物は宣告する。背後から視線を送って、この俺へ、避けることのできない運命を。  ──お前は失敗した。それだけだ──  ──お前の愛した父と同じく──  ──デニー──  ──お前の王国はここにはない── ……だが、俺は……。俺は、王になる、いいや、俺が……。 俺が……。ただひとりの、王である、はず……。  ──王は、成るものではない──  ──生まれつくものでもない──  ──或いは世界に空があれば──  ──お前は王であったかも知れないが──  ──お前は、ここで終わりだ──  ──若き獅子── 黒色のもたらす最後の声は、耳でなく頭の奥底に響いてくるその言葉は、既に、崩壊を始めつつある俺には届かない。 亀裂が走るのがわかる。精神が、肉体を変容させるのだ。 ひび割れてゆくのがわかる。精神が、生命の在りようを変えるのだ。  ──さらばだ── 静かに告げる声は既に届かない。俺は、瞼を閉じた。 小さく。 小さく。 ヴァイオラの名を囁いて……。 ──遠い昔。──消えゆく俺が最後に思い浮かべる記憶。 ──脳裏に焼き付いて離れない記憶がある。──俺が少年だった頃。──あいつと、出会った頃のこと。 父の死に様に怯えて、母の裏切りに絶望し、森の中をさ迷って倒れた俺は、その後に。 『だいじょうぶ?』 『お父様、たいへん! この子、怪我をしているみたい』 『ねえ、あなた、だいじょうぶ──』 声をかけられたのだ。俺よりも何歳か下の、幼い少女に。 目を覚ましたのは、ベッドの上だった。今まで感じたことのないほど柔らかく、暖かな寝床だった。 どこまでも沈んでゆきそうな羽毛の感覚、ああ、俺は森で死んだのだと思っていた。天国へ行けたのかな、と。 そう思いながら。俺は、すみれ色の天使を見た。 森で倒れて死んだはずの俺を覗き込む、それは、そうだ、あの少女の姿だった。 疲労と飢えと渇きで倒れた俺に、声をかけてきた、あいつ。何の苦労も知らないような明るい声の。 『だいじょうぶ? まだ、お口、動かない……?』 目を覚ました俺に気付いたのか、待っていて、と少女は言った。 逃げるべきだった。絵本に出てくるような豪奢な部屋の中には、あらゆるものが金になりそうな品物ばかり。 ──そうしよう。金を作って。逃げるんだ。──幼い俺は、そう思った。 ──思ったはずだった。──なのに。 俺は動けなかった。もう一度……。 もう一度でいい。あいつの、あの子の顔を見たい。 戻ってくる時は大人たちや警官どもが一緒に違いないと、わかっていたのに。俺は、動けなかったんだ。 ──やがて、少女は戻ってきた。──ひとりで。 ──そうだ、ひとりきりで。──両手いっぱいにパンとチーズを抱えて。 献立も何もあったもんじゃなかった。厨房で適当に掴んで持ってきたんだろう、分別がつくほどの年齢にも見えなかった。 あいつは、にっこり笑うと、強引に俺の手を取って── いっぱいのパンとチーズを押しつけてきた。食べて、と、内緒話をするように、囁いて。 何がそんなに嬉しいのか知らないが、にっこり笑ったまま。 俺はその時、初めてそれを知った。俺を見ようともしない冷酷な父に対して、母と共に怯えて生きてきた、この、俺は。 デニーであった俺は、その時、初めて知ってしまったのだ。 柔らかな手で、笑顔を浮かべて俺に触れるあいつが、俺に、教えてくれたんだ。 ──人の手が、暖かいということを。 事件の顛末は簡潔だった、警部が予想した通りの結末が待っていた。 今年第2の通り魔である“轢殺魔”は、碩学式の小型ガーニーを凶器とした青年で、機関機動隊に射殺されたと発表されていた。 誰もその発表を疑う者はいなかったし、犯人の死を悼む者などいるはずもなかった。 犯人と思しき青年が、突然、苦しみ始めて、黒い液体となって消えた── そんな通報がとある貴族令嬢から出されたという噂がヤード通信課で話題になったが、すぐに、その話をする署員もいなくなった。 警部の案じた悲劇は起こらなかった。警官隊18名の殺害以外に、それ以上の被害者は報告されていない。 満足できる結果ではなかったが、ただ、姪が無事であったことだけが救いだ。 そう、姪は無事だった。事件の当日は友人宅に泊まっていたという。勿論、友人が女性であるかはすぐ確認した。 警部は大いに安堵したが、警官隊の合同葬儀のために休暇を失い、姪と会う時間をまた失うこととなった。 不可解さは残る。射殺されたはずの通り魔の死体は、また、ヤードで検屍されることなく移送された。 署長お抱えの検屍医のところへだ。前回と、同じように。 通り魔が何者であったかも不明のまま。ラツダイトの過激派という見方があるが、素性も、機関カードの番号も一切が不明。 ……やれやれ、だ。 ホームズ殿には手土産が要るな。こんな無様な形で、事件解決の報告とは。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「吾輩は望むでしょう」 「飽和した文明の終焉と、 虚構と現実とが行き違う回転悲劇を」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 失敗です。そう、これは失敗」 「ですが、吾輩には思えてならないのです。 我々が求めるのはひとつの成功ではなく、 無数の失敗と、嘆きではないのかと」 「2人目の調子はすこぶる良い模様です。 ご案じめされることはありません」 「いずれ、タタールの門は開きましょう。 悲鳴は取り揃えております。 まだまだ《怪異》のストックは豊富です」 「次に、ご期待下さい」 「計画は、今や、我らの 思うがままに進んでおります故に」 それでさ、メアリは今すっげーとこでお姫さまと一緒にホテル暮らしってワケ! ってワケ! リッツのスィートルームってどんなんだ?俺、ぜんぜん想像つかなくてさー、なー、ホームズの旦那なら泊まったことあるだろ? あるだろ? さて。どうだったかな。それで、そのメアリ嬢とは誰のことかな。 メアリ姉ちゃん。話したことなかったっけ。最近つきあい悪いんだけどさ、負けん気で、面白い姉ちゃんなんだー。 なんだー。 碩学院に通えるくらい頭のデキがよくてさ、将来は多分メアリは相当稼ぐようになるね。俺、そういう目端はきくんだ。 きくんだー。 この1週間スィート暮らしだもんなー。なんとかっていう家の貴族のお姫さまとずっと一緒だったんだぜ。俺、見たし。 みたしー。 あれは大物になる女だな、うん。旦那が探せって言ったチャーチルとかいう若造なんかより、俺のメアリのが上。うん。 俺の‐? メアリはさ、ザック兄貴とも仲いいんだぜ。さっさとふたりとも結婚しろって言ったらすんげー怒るけどさ。 はいはい。あんまり馬鹿ばっかり晒さないの。 あんたは空気読めないからね。男と女が一緒にいたらすぐに結婚だとか、ないからそういうの。色ガキのマセガキ。 な、なんだよー。お前だってそう思わないのかよー。 友情と恋愛は違うの。お子さまのガキ。あんたそれだからケインズのままなのよ。 な、なんだよー。 ってワケで。報告ね、旦那。チャーチルって奴はどっかに消えたわ。 あちこちの子供たちに話聞いてみたけど、もうロンドンにはいないんじゃないかしら。クラブにも顔出してないみたい。 そうか。ご苦労だったね、ふたりとも。 はーい。 それにしても── そのメアリというお嬢さんには、いつか、私も会ってみたいものだね。 そう言って、シャーロック・ホームズは微笑んだ。 ロンドンの中でも僅かな者しか見られない、それは、非常に貴重な彼の表情であったが、子供たちには珍しくもなかった。 ただ、漠然と予感はあった。彼がこうして微笑むような場合は大抵── 何かが起きるのだ。TIMESの一面を賑わすような事件が。 予感の類はなかった。ただ、漠然と予想をしていただけだった。 最低でも1週間以上だと予想していたのに。黒い街を走った5日目の夜中を過ぎてから、6日目の朝に── メアリにとっては意外なことに、予想を大きく外れて。 ヴァイオラの帰郷が唐突に決まっていた。また、一方的に。横から口を挟む暇など当然なかった。 ホテルの部屋へ入ってきたかと思うと、ヴァイオラにとっての問題は終了した、とMが短く告げたのだ。静かに、それだけを。 何か彼に問うことがあったはずだった。黒い街で見た第4の怪物に、メアリは何かを感じていたような気がして。 けれど、思い出せなかった。例によって黒い街での記憶は霞んでいて。 何も言えなかった。ただ、ヴァイオラがやや疲れた顔で頷き、Mへと礼を述べるのを見つめることしか。 心のどこかで、メアリは違和感を覚えたまま── 「……結局、どういうことなの。 あなたは本当に彼女の問題を解決したの」 「ああ、じゃなくて。 何がどうしたのかを教えて欲しいの」 そう、メアリが言っても── 質問にはやはり彼は答えてくれなかった。Mは、黙ったままで、じっとヴァイオラを見つめていた。 ヴァイオラは、何かを言おうとして僅かに口を開いたようだったけれど、数秒の間の後── 小さく── ……ありがとうございます。 そう言った。2度目になる彼女の礼の言葉だった。 けれどメアリは耳にした。そう言うまでの無言のはずの数秒の間に。小さな声で、彼女の呟きが聞こえていた。 「デニーは──」 確かにそう聞こえた。デニー。誰のことかはわからない。 Mにも聞こえていたと思う。それでも、彼は、無言のままだった。 大型馬車が到着する── 蒸気ガーニーを呼びつけなかったのは、単純に、荷物が嵩んでしまったためだ。ハロッズで買い込んだ品物が山ほどあった。 モランが、ヴァイオラの荷物を積み込む。彼女が途中まで同行するらしい。 Mへは出来る限りひとりで会うようにと亡くなった父君から言われていたとかで、そのため従者を連れていないらしい。 貴族は従者を連れ歩くということも、よく知る貴族がアーシェであったせいか、メアリは言われるまで思い出せなかった。 アーシェには連絡したものの、あまりに急なことで間に合いそうにない。今は、まだ、碩学院の講義の時間のはず。 2日目以降のロンドン散策では、流石にアーシェの院での単位のことを鑑み、落としても大丈夫な日のみ来て貰っていた。 ヴァイオラはメアリの単位のことも心配して、院へ行くように言ってくれたが、幸いにして史学科の単位はそう厳しくない。 それに、あまり考えたくないけれど、メアリにとってはこれも契約の一部だから。 勿論、それは口にしていない。Mの指示を彼女は直接聞いてはいるけれど、わざわざ言うことでもないとメアリは思う。 メアリはヴァイオラのことを新しい友人と思っていたし、彼女も、きっとそうだから。その関係だけでいい。 友人が少ないと言った彼女。幼い頃に、ひとりだけと言いかけて── ひとりだけ── メアリには想像できない。幼い頃は、今より沢山の友人がいたと思う。子供とは、そういうものだと、考えていた。 思い返せば、ヴァイオラのことを多く知らなかった。身の上の話を聞いたのは、出会った晩。 友人のことについても、カフェで何度か口にしていた程度で。 もう少し、沢山、話せると思っていた。もう少し、多くを知り合えると思った。ロンドン散策の時は── メアリは案内に精一杯で、ヴァイオラは感想を述べるのに忙しくて。 時間が欲しかった。そうすれば、もっと、親しくなれるのに。シャーリィの病状も話せたかも知れない。 もっと言うなら、そう。子供の頃に会ってみたかったとさえ思う。 きっと、素敵な子供だったのだと思う。きっと、今と同じ柔らかな笑顔の子のはず。 ……。 本当に例の鳴き声は聞こえなくなったのか。先刻、そっと耳元で問いけかたメアリにも、ヴァイオラは── 彼女は、微笑を浮かべていた。言葉はなく、ただ、笑顔を見せてくれた。普段通りに、柔らかく、優しく、暖かに。 どこか── 寂しげな気配を漂わせて── ……さよなら。ヴァイオラ。 ええ。さよなら、メアリ。いつか、またどこかで会いましょうね。 ロンドンか、それとも他のどこか。わたしの家へ遊びに来てくれても嬉しい。 今度は……あなたの、もうひとりのお友だちとも会ってみたいです。 ええ、あたしもあなたに会って貰いたい。ふたりとも、きっと仲良くなるわ。 楽しみです。お手紙、出しますね。 あたしも出すわ。きっと長いけれど、覚悟してね。 はい。わたしも長く長く書きますね。 ……それじゃあ、さようなら。ありがとう、メアリ。 さよなら、ヴァイオラ。 結局── シャーリィのことは説明できなかった。 ただ、具合を悪くしている、としか。それ以上のことは言っていない。 また次に会うことがあったら。その時には、きっと、もっと説明をしよう。アーシェにいつか真実を話す時は、一緒に。 馬車の扉が閉められる。モランが御者として馬に鞭を入れる。 馬車が、走り去っていく。すぐに遠く小さくなっていく後ろ姿── じっと見つめながら、メアリは、思う。ヴァイオラの笑顔は、やはり似ていた。何かを隠して微笑む姿。 わからない。結局、わからないままだった。彼女が何を隠していたのか、彼女が何を黙っていたのか。 夜中に聞こえてくる鳴き声の正体が何か、彼女は、知っていたのだろうか。 デニーとは誰のことなのか。終わりだと告げるMに、彼女は、何を、誰のことを、尋ねようとしていたのか。 メアリにはわからない。Mも、最後まで告げることはなかった。 それでも。わかることは確かにあった。 柔らかな笑みを浮かべるヴァイオラの、その、表情の下── あのお姫さまは── 新しい友人は── 本当は── ──本当は、泣いていたのね。──あの時のシャーリィと、同じように。  『いっぱい泣いていいのよ』  『わたしが、拭ってあげる』  『泣かないわ』  『あたし、強いのよ、シャーリィ』  『男の子にだって負けないんだから』 そっと、涙を拭う。自覚せずに泣いていたのは何度目だろう。 ……ん。駄目ですね、昼前は。 油断するといつもこんな。今度、お医者さまに診て頂かないと。 この別邸にいるのが自分とシャーリィのふたりだけで良かった。ドナは、静かに考えながら眼鏡を掛け直す。 事実上、今は、ひとりきりだ。シャーリィは未だに目覚めていないから。 一般的に雑役メイドひとりで家事をこなす小規模な中流層家屋と違って、別邸は広い。かつては貴族の屋敷だったと聞いている。 ひとりでこの家を維持するのは困難だった。だが、ドナは、一度も後悔したことはない。自ら選んだ道だ。 道は他にもあった。貴族の客間女中という話も幾つかあったし、ブロンテ家の本邸で家庭教師を続ける道も。 中流階級の家に生まれ、エイダ主義の時流から上質な教育を受けて、名家であるブロンテ家の家庭教師となった。 母が同家でナースメイドを務めており、その縁故ということもあったが。何より、シャーリィのことがあった。 シャーリィという存在は、ウェールズの比較的保守的な位置付けのブロンテ家の中では些か浮いていたから。 心配だったのだ。才媛として生まれついてしまったが故に、扱い方に戸惑ってしまった当主と奥方が。 そして、予想は的中してしまった。シャーロット・ブロンテは両親とは徐々に疎遠になっていったのだ。 両親はロンドンの別邸にシャーリィを残し、ウェールズの本邸へと居を移してしまった。シャーリィは、ひとり、残された。 既に家庭教師の範疇を超える学問へと移行しつつあったシャーリィにとって、もう、ドナの教えは必要なかった。 ドナもまた本邸へと移り、親族の子女の家庭教師を務めるはずだった。もしくは、貴族の誘いを受けて客間女中か。 どちらも選ばなかった。碩学院を目指して勉学に励むシャーリィを陰ながら支えるべく、雑役メイドとなった。 そして、シャーリィは碩学院生となった。ドナ・ワーグマンは後悔をしていない。自分は正しい選択をしたと信じている。 けれど── あまりに現在の状況はつらいものだった。シャーリィが、最愛の娘が目覚めない。 社会問題となりつつある“交通事故”で夫を早くに亡くしたドナにとっては、シャーリィは娘にも等しい存在だった。 口には出さない。ただ、密かにそう感じているだけ。 だから。涙も密かに流す── シャーリィ。何が、あなたを眠らせているのですか。 あなたのいない1ヶ月は、私には、あまりに、長く感じられます。 静かに囁く。涙をもう一度拭って眼鏡を掛け直すと、工場製の清掃機関のスイッチを入れる。 本来であれば、シャーリィの寝室近くでは起動しない。そう、勿論、眠っている最中は。 けれど今は話が違う。たとえ眠り姫がいたとしても清掃は必要だ。放っておけば、寝室に埃が積もってしまう。 だから、今日も、ごめんなさいねと小さく呟きながら。 シャーリィの眠る寝室へと入る。清掃機関を絨毯用に切り替えながら── 眠り姫の部屋へと入る── どんなに清掃機関の強度を上げたとしても、目覚めることのない、綺麗な綺麗な眠り姫。誰もに愛される娘。 今にも起き上がりそうに見えるのに、一向に、シャーリィは、目覚めない。原因不明の昏睡状態。 多くのお医者が診断不能と言っていた。両親さえもが、死んだものと考えると口にしていた── どんな夢を見ているのだろうか。いいえ、夢を、見られているのかさえ。 華やかな花々に囲まれたお姫さま。シャーロット・ブロンテ。 無機質に寝かせておくなんて寂しいと、友人のアーシェリカ・ダレスの提案で、こんなにも色とりどりの花が飾られている。 初めは驚いたものの、ドナも、今ではこの花々を美しいと思う。 花のことを言われた時は、内心は、恐らく錯乱状態となっていて、何がどうなのかさえ理解できなかった。 今はわかる。この花々や人形は、すべて、シャーリィの。 あの娘が好んだものばかり。花は、マリーゴールドやアネモネが中心。サシェに、ポプリに、切り花に、色々と。 ぬいぐるみは、以前にハロッズでシャーリィが欲しがっていたものだそう。 シャーリィの素敵な友人たち。目覚めたら、また、食事会に来て欲しい。お礼を兼ねて腕によりをかけよう── と── 何か── ふと何かの音が聞こえた気がした。そっと、背後から。 清掃機関のスイッチを切って稼働を止める。音。ああ、もしかして、今のは。 誰かの声── お嬢さま……? ──まさか、とドナは囁いてみるものの。 ──応える声はなかった。──ただ、静寂だけが、部屋の中に充ちて。 ──他には。何も。  『王子さまがいると思う?』  『思うわ』  『どうして?』  『お姫さまがいるんだから』  『王子さまだって、きっといるわ』 ──暗い。 ──ここはなんと暗いのだろう。 石畳の路地を走る革靴の乾いた音が響く。それ以外に何の音もない。 果たしてそうだろうか。耳を澄ませよう、聞こえてくるものがある。焦りを込めて歩く靴音だけではなく、他に。 息遣いがある。怯えを込めて密やかに繰り返される、私の。 灰色雲の下で仮初めの繁栄を謳歌する英国、首都ロンドンの暗がりを歩く、この私の息。音は、靴音に混ざる。 ここには誰もいない。私の焦がれる、あのひとさえも、いない。 そうだ。私はあのひとのことを思い出していた。 私は誰かを探して歩いているのだった。焦がれ、求める、美しいあのひとを。 けれど。ここには誰もいない。私以外には。 私は走っている。たったひとりのあのひとだけを探しながら、同時に、迫り来るものから逃れようとして。 ──逃げろ。 逃げろ。         逃げろ。                 逃げろ。 何処からか迫るもの。私から吸い上げようとする恐るべき暗がり。 この暗がりに追いつかれたら終わりだ。大地に染みこむ色のひとつへと私は変じて、二度とあのひとの声を聞くことはないのだ。 いけない。暗がりの“あいつ”に追いつかれては。 生け贄の少女の悲鳴が続く限り、“あいつ”は容易に私を引き裂くのだろう。 私や少女が恐れるものさながらの力で。殺すことができるのだ。何もかも、何もかもを。 ああ、私の中に滾るものがある。それは、この肉体に詰め込まれた命の色か。もしくは、私に迫り来る暗がりそのものか。 滾っているのがわかる。私は頭を振り、内から湧き上がる熱と声を、これ以上聞かないようにと、耳を閉ざして。 ぽとり──と何かが落ちる。命の色が。 ああ── 間に合わない。私は“あいつ”から逃げられないのだろう。 迫り来るものが、もしも、私の内に在るのだとしたら── けれど。 けれど、 もしも、この身が闇ならば── 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「皆さまには、 愛するひとはおりますでしょうか」 「まこと奇妙なものでありますな、愛とは。 それゆえに人は時に奮い立ち、時に狂い、 時に登り、時に堕ちる」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「我々はあなたがたを愛しています。 おわかりでしょうか」 「いつも、常に」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「何の仕掛けもございません」 「愛とは、 純粋なる人間の情念につきますれば」 そこに音はなかった。そこに声はなかった。静寂と、無言の祈りが空間に充ちていた。 それは過去、1904年の暮れ。7名が集まって行った、とある降霊会にて。 ひとりの人物が宣言する。同胞たる6名へ、静かなる決意を込めて。 周囲に充ちた暗がりの中に何かがある。それは、蠢く闇だったか。それは、赤い瞳だったか。 無数のそれらに無音で取り囲まれたまま、人物は、言葉を。 ──穏やかに。──穏やかに、けれど僅かに震えを残して。 ──謳うように。──謳うように、けれど強い想いを込めて。 そして、私は願いを叶える。 それは想い。それは願いの果てへと至る、我が情念。 しかし……。 私は思う。私は願うのです。この恐怖がもしも幻想であってくれればと。 けれど、私は知ってしまった。私の恐怖が紛うことなき事実であることを。内で滾る情念でさえ、抗うことはできない。 この身を苛む私の恐怖。それは── この想いが届かぬままに、もしも、死がふたりを別つのだとしたら── ──何かが滴る音だった。 耳元に落ちる何かの音。知っているけれど思い出せない、何かの音。 それが何かを知りたくて、あたしは視線を音のほうへ向けようとする。 だめ。いけない。 視線をそちらへ向ければ、背後へと振り返ることになってしまうから。あたしは、じっと、横たわったまま耐えて。 耐えて。耐えて。耐えて。でも、ううん、駄目、耐え切れそうにない。 滴り落ちる僅かな何かの音に、あたしは、どうしても耐えることができなくて。 それでも視線は向けない。それでも振り返ったりしなかった、けど。 耐えきれずに── あたしの右目から涙が溢れていた。耐えきれなくて、そうするしかなくて。 しばらく涙を流してから気付く。そこはあたしの知るロンドンではなくて、もっと、ずっと暗い、明かりの薄い場所。 今までのように追いすがるものはなかった。それは自分自身であることが、わかる。追うのも、追われるのも、共に、自分。 誰かを傷つけようだなんて思ってはいない。引き裂くことも、殺すことも、思わないわ。それなのに。 あたしの右目からは涙が溢れてしまう。耐えきれないほどの悲しみと、絶望と。あと、もうひとつ。 もうひとつ── これは、何── だめ。駄目。言葉に、しては、いけない── 「──すべて、きみのその言葉通りに」 「きみは僕の新たな神となった。 きみが僕を“恋人”と呼んだ、その瞬間」 「ロミオであった僕は、 きみの言葉によって生まれ変わった」 高らかな声に導かれて── メアリは瞼を開けていた。右目から流れていた涙を、そっと、拭う。 白昼夢を見ていたのだという自覚がある。隣の席のアーシェには気付かれていない、と、思う。 白昼夢──内容はいつものように覚えていなかった。 ただ、自分が僅かな間だけ意識を失って、右目から涙を溢していたことは、わかる。久しぶりのことだった。 そう。久しぶり。もう、1ヶ月以上も見ていなかったのに。 もう見ないものかと思っていたのに。この黄金色へと変わった右目は、きっと、黒い街を見た瞬間に変質したのだろうと。 けれど、今、確かに白昼夢を見てしまった。右目からはその証が流れていた。 ふと、Mのことをメアリは思い浮かべる。多くを知ることになるだろうと言いながら、その実、何も語ろうとしないあの黒い男を。 思い浮かべながら── 視線は、舞台上の人物へ吸い込まれる。 美しく、麗しく、凛々しい。それは物語の中にだけ存在する主人公── (……綺麗……) 僅かな溜息が漏れてしまう。たった今、見たばかりの白昼夢のことさえ、黒い街の出来事のように霞んでしまいそう。 舞台上で高らかに声を上げる、彼。ロミオを演じるあのひと。 舞台俳優ヘンリー・アーヴィング。ロンドン一、いいえ、英国一、ともすれば欧州一とも称えられる美形俳優の姿がある。 麗しく艶のある姿と声に見惚れてしまう。目が、離せない。 隣のアーシェと同じように、溜息混じりに彼のことを見つめてしまう。 シェイクスピアの一節── 「ジュリエット、僕の愛。 僕の生きる糧、僕の求めるすべて」 聞き覚えのある一節。けれど、どこか、異なる響きがあった。 このライシーアム劇場の主宰でもある作家ブラム・ストーカー氏の手による大胆な翻案と現代的な台詞の調整の賜物だ。 シェイクスピア本来のものとはまた違った味わいを備えた言葉の数々は、名優による迫真の演技と相まって、心へと響く。 憧れ以上の恋を知らないメアリにさえ、恋というものが、命とすべてを懸けるに相応しいものであると感じてしまうほど。 あまり好んで読むことはないけれど、そう、恋愛小説の類とはまったく違う趣。 ただひたすらに甘い言葉の続くものとは、根本的に何かが異なっているとさえ思う。詳しい訳でも、ないのに。 崇高さをメアリは思う。これほどまでに誰かを想うことが、人間にできるなんて。神を引き合いに出してまで。 ためらう素振りも、周囲の何を気にすることもなく── (ああん、もう……すてき……) (ほんとうに……) (……素敵な、ロミオ……) アーシェの囁きに頷き返す。見とれてしまう。 こんなにも凛々しく美しい声で高らかに愛を語ることのできるひとが、自分と同じ、この地上にいるだなんて── 信じられない── 「この愛は永遠に。 この命が、たとえ燃え尽きようとも。 暗き闇に、きみが閉ざされようとも」 「きらめく宝石よりも美しいきみ。 僕はきみを愛し、いつまでも守るだろう」 「──名前など、何も惜しむことはない」 気高きふたりの男女の物語。悲しいすれ違いの物語。苦難の愛の物語。 瑞々しい若い命がふたつ、果たされない愛と残酷な運命に翻弄される、美しさと儚さ極まるシェイクスピアの悲劇。 話の筋は知っている。本の形で出版されたものを何度も読んだ。 感激したのも覚えている。筆致と表現の細やかさに感嘆したことも。 知っているはずの、驚くはずなどない物語であるのに── こんなにも、胸に── 響いて── 演目がすべて終わり、夜── メアリとアーシェはふたりで劇場前へ出た。 劇場の中は暖かかったのだとわかる。既に11月半ばを過ぎたロンドンの夜気は、とても冷たくて、白い息が、霧へと混ざる。 特に、霧の多い夜だった。劇場前で賑わう人々の姿が霞んで見える。 周囲には同じ年頃の子女の姿も多い。一昔前であれば子女だけで出歩くなんてと大人たちに非難されてしまうところだろう。 今も非難はされるけれども、仕方ないか、という結論になるだけずっとましと言える。 この劇場のあるウェストエンドの治安はロンドンでもやはり格別に良いものだし。ここでも警邏巡査の姿を見ることができる。 それに、社会的な風潮の変化もある。カフェの主人ことレディ・クローディアが、よく口にしているのをメアリは憶えている。 エイダ主義がカダスから浸透したお陰で女性のひとり歩きにも随分と理解ができた、という類の話── ──あたしにとってはさほど実感はない。──きっと、アーシェもそう。 ──ううん、特に、アーシェはそうね。──エイダ主義を体現する可愛い子。 ──アーシェの存在も言動も。──時代の顕現だと“教授”は言っていた。 貴族と平民の身分差を微塵も気にせずに、道理が違うと感じれば男性にも貴族にもそう言ってみせる、勇気ある子。 とはいえ……。 今日のような時にはあまりそう感じない。 明るい表情で、周囲の中流階層の子女たちと同じように笑顔を振りまいているアーシェには── 来て良かったね、だよね、メアリ!チケット取れて良かったー! 次はシャーリィも一緒に来られるといいね。きっと、喜んでくれるよね! うん。そうね。きっとあたしたちみたいに見とれるわ。 ──あたしは笑顔を形作る。──刹那、浮かびかけた想いを隠しながら。 ──ごめんね。──もう、何度、あなたに謝るのかな。 ──ごめんね、今日も。アーシェ。 ヴァイオラを案内した数日のこともあり、アーシェのことをメアリは避けなくなった。その理由を、あまり、考えたくはなかった。 嘘に、慣れてしまった。穏やかな表情を形作ることにも── 沈みそうになる自分の心を隠して、隠して、アーシェだけは笑顔でいて欲しいと願って。それに慣れかけている自分を感じる。 今夜の劇場のこともそうだった。経緯を、覚えている。 ハワードと行こうと予定していた公演のチケットが余ってしまったの、と告げるアーシェに微笑み返して。 窺うようなアーシェの瞳はわかっていた。でも、そのことには一言も触れずに、じゃあ、良ければ一緒に、と言葉を述べて。 きっと、アーシェは、励まそうとしてくれているのだと思う。 嘘の言葉と表情でも覆い隠せないものを、きっと、アーシェは、幾らか感じている。だから── アーシェもあんな恋してみたい……。あんな風に……。 何もかも投げ出して、アーシェのこと、大好きって言ってほしいなぁ……。 素敵……。ロミオさまみたいなひとと……。 いいの? そうなるとー……。ミスター・ハワードがとっても大変よ? ぅぐ。 そうだけど、そうだけど、でもね、本当のアーシェやハワードとは別のお話ね。本当にそうなったらいいとかじゃなくてね。 もしも自分がジュリエットだったらって、憧れちゃうよぉ……。 脚色も素敵だったものね。本当に、あたしも、憧れちゃうかも── と── 心の奥底に“言うことのできない”何かを隠しながら、ささやかな、けれど穏やかな、少なくとも嘘偽りのない会話を交わして。 劇場前の先にあるガーニーターミナルへ行こうとした、矢先。 ふと、背の高い誰かが近付くのがわかった。こちらへ視線を投げ掛けて、それは黒と灰色の紳士の姿。 黒い姿の紳士というものに注意を引かれる。つい、メアリはMのことを思い出す。 違う。彼ではない。彼よりも長めの髪と髭、それは黒色ではなくて穏やかな灰色だった。空を覆うものよりも、優しく感じられる。 ──紳士の姿。──黒色と、赤色の裏地のマントが目立つ。 ──赤色。──どうしてか、視線を吸い寄せるの。 美髯をたくわえた紳士だった。黒色の、コートではなくてマント姿の男性。 物腰柔らかく、まるで舞台の俳優のようによく響く声── これは、麗しきお嬢様方。今宵の演目はお気に召して下さいましたか。 はい。とても。あなたは── 話しかけてきた紳士に名乗るべきだろうか、それとも、淑女としては待つべきだろうか。そんなことを考える。 道を尋ねるような風ではない。劇場の、誰か、関係者なのだろうかと思う。 あれ、とメアリは隣のアーシェを見ていた。いつもなら元気よく挨拶を返しているはず、そう疑問を浮かべながら。 見知らぬ人に話しかけられて緊張するとか、アーシェはそういう性質の子ではないのに。どうしたのだろう? ……あ、あわ……。 ………………………………。 ──知っている人?──アーシェが、固まっちゃうなんて。 ──誰だろう。──まさか、アーシェの家の誰か、とか。 詳しいことを知っている訳ではないけれど、ダレス家の人間の中にはアーシェのことを快く思わないひともいるという。 むしろそういったひとのほうが多い。そう、以前、メアリは聞いた。 特に3人の兄は旧来の貴族然としていて。新大陸人であるハワードのことを毛嫌いし、アーシェと激しく喧嘩をしたまま、だとか。 ──まさかその兄君の誰か?──あたしは、つい、警戒してしまう。 ──けれど。──目の前に立つ紳士は、穏やかな声で。 ブラム・ストーカーと申します。宜しければ、以後、お見知り置きのほどを。 (え) (ブラム・ストーカー) 短時間の間にどこかで聞いた名前だった。それが果たして誰であるのか記憶を探って、メアリは、一瞬、驚愕で硬直してしまった。 ブラム・ストーカー氏── あまりに有名な名すぎて結びつかなかった。 忘れたりする訳がない。多少なりとも本に親しんでいる身であれば、なおさら、その名前を知らないはずがない。 ──ブラム・ストーカー。──ああ、著者近影の篆刻写真と同じ姿! ──劇場主のブラム氏!──英国における怪奇小説の代表的作家! メアリ・シェリーと双璧を成す怪奇小説家、そして、ヘンリー・アーヴィングの無二の親友であると伝えられる人。 有名人中の有名人だった。かの名探偵とはまた趣の異なる意味合いで。 そんな人が一体、なぜ声を掛けたのだろう。疑問を浮かべながらも── メアリは、教育された通りに、淑女としての礼儀を失わずに応対していた。名を告げられてから、およそ0.5秒ほど。 僅かな動揺と逡巡を、果たして目の前の紳士は見抜いたろうか? はじめまして── メアリ・クラリッサ・クリスティです。 アーシェリカ・ダレスです……。わあー、本物だぁ……。 ありがとうございます、おふたりとも。先ほどの会話を、失礼ながら、こちらにて聞かせて頂いてしまいました。 お詫びを申し上げます。どうか、おふたりには許して頂きたい。 というのも、素晴らしい原作に僭越ながら僕が手を加えたことにより、年頃の女性に受け入れられるかどうか心配だったのです。 ご丁寧に、ありがとうございます。素晴らしい舞台だったと感じ入っています。 こんなことを申し上げて、失礼にあたるのではと恐縮なのですけれど、本当に、素敵な、素敵な翻案だと思います。 ね、アーシェリカ。 う、う、う、うん!すごく、すっごく素敵でした、ミスター!ヘンリーさまもとっても素晴らしくって! 勿体ないお言葉です、お嬢さん方。受け入れて頂ければ無上の幸いですとも。 ヘンリーも喜びます。必ず、ご感想は伝えておきましょう。 ──ヘンリー・アーヴィングに伝わる!?──感激でよろめきそうになる。 アーシェは文字通りくらくらとよろめいて。メアリはなんとか自分だけはと踏ん張って、淑女たろうと表情を固めて。 まさしく雲の上の俳優の名が出てくるとは、まさか感想が本人に伝わることがあるとは、少しも考えていなかったから。 本当に、本当に。この場にシャーリィがいれば良かったのに、そう、メアリは思わずにはいられなかった。 きっともっと相応しい言葉を述べたろうし、どうしよう何を言おうと慌てることもなく、落ち着いた返答をしてくれたと思う。 自分は、まだまだ。アーシェがいなかったら、まず間違いなく舞い上がってしまってろくに話せもしない。 そう、考えながら── ──何か、妙な違和感。──あたしは心のどこかで感じてしまう。 ──気のせいだろうか。何か。──この紳士の視線が気になってしまって。 ──だって。彼は。──ブラム・ストーカーというこのひとは。 ──初対面で、この右瞳へ視線を向けない。──一切。気配さえ。 そんなひとは初めてだったから。メアリは、妙に、気になってしまって。 さらに言葉を何度か交わしてから、彼が劇場の中へと立ち去るまでの短い時間。ずっと、その視線を、追い続けてしまった。 ──赤色の裏地のマント。──その、鮮やかな赤のことも、なぜか。 ──少しだけ。──あたしは、気になってしまって。 ホーボーンエリア10番通り。もしくは、テムズ第7沿岸北エリアの一角。 ホーボーンに面したテムズ沿岸区。公式地図にはホーボーンの一部と記載され、住人の多くには第7沿岸北部とされる一角。 メアリの下宿のある一角だ。もう、時刻はだいぶ遅い── 劇場のあるウェストエンドから帰り着いて、メアリは、誰の人影も見ることはなかった。人間の影はひとつも。 ただ、強く意識すれば見える。あの気味の悪いMの操る影人間が1体だけ。 監視役であるという、あれ。週に一度の契約確認もここ暫くはないのに、あの影人間は、いる。 それはメアリに現実を告げる。まだ、何も終わっていないのだということ。 劇場で素晴らしい演劇を楽しんだ帰り道も、この身の置かれた“生き餌”という状況を忘れさせてはくれない。 ──構わない。──忘れる必要なんて、ないんだから。 メアリはそう思う。いつでも、自分は覚悟しなくてはいけない。いつでも、あの黒い街の中を走れるように。 ……忘れたり、しないわ。 M。モラン。 言葉が通じるかどうかさえ怪しい影人間へ、小さく、告げて。 メアリは下宿の玄関の呼び鈴を鳴らす。そうせずに扉を開けて階段を昇っても良いのだけれど、挨拶は、交わしておこう。 ──これ以上、心配をかけさせたくないの。──ミセス・ハドスンに。 おかえりなさい、メアリ・クリスティ。劇場では楽しんできたかしら? はい。ミセス・ハドスン。とっても素敵で夢みたいな舞台でした。 それは良かったわ。私も、何度か、アーヴィングさんの舞台は観劇させていただいたけれど、本当に……。 見て損はない素晴らしいものよね。良かったわ、あなたが楽しんできてくれて。 たまには息抜きをしないとね。碩学院でのお勉強も大切でしょうけれど、あなたは、すぐに根を詰めてしまうから。 アーシェリカちゃんにはお礼をしないとね。今度、連れてきなさいな。お手製のケーキをご馳走するわ。 今夜、舞台へ寄る旨は電信で告げておいた。黙って夜遅くなると、ミセス・ハドスンは心配してしまうから。 にこやかに迎えてくれたミセス・ハドスン。どこか、気を遣ってくれているのがわかる。仕草も、言葉も。 普段はそう感じたことはないのに、近頃は、ことさらにそういうことがわかる。 直感── はい。今度、近いうちに。その時は、どうか、お願いします。 まかせなさいな。じゃあ、今日はゆっくりお休みなさいね。 せっかく息抜きをしたのだから、勉強したりしないできちんと疲れを取って。 そんなに、疲れたりは……。いつもとそんなに変わらないです。 だめよ。だめ、だめ。いつもと違うことをすると、気は晴れても、体はちょっと疲れてしまうものなんだから。 今日はお休みなさいな。ね? ……はい。わかりました、ミセス・ハドスン。 ──どうしてだろう。──あたし、今、嘘なんてついてないのに。 ──ことさらにそうしようと意識すると、──あたしの顔、笑顔が。 ──なぜか。──強ばってしまいそうに、なる。 顔に、髪に、体に── 熱いシャワーを浴びて、煤と、今日の嘘とを洗い流してしまって。 寝間着へ着替えて。少し逡巡してからメアリは机についた。 碩学院試験に受かったお祝いに、と、母が買ってくれたやや高級な学習用木製机。手で触れると、ひどく冷たい感触が伝わる。 鞄の中から取り出した課題のノートを、広げるだけ広げてみる。 ……言われたもの、ね。今夜は、もう、すぐに休むって。 うん……。だから、ちょっと、見るだけ。見るだけよ。 先刻のミセス・ハドスンの言葉を思い出す。取り組んでしまうことはせずに、明日、起きたらやろうと決めて。 少しだけ目を通す。機関工学の課題。数学系の勉強は専門ではないけれど、ある程度は講義も課題もある。 機動要塞理論、カダス発祥という軍事用の数学理論、さらに、奇妙な方程式の数々も。正直、ちんぷんかんぷんなものばかり。 数学が軍事というものに対して有用で、碩学院が力を入れていることは知っている。それでも、個人的には、興味を抱けない。 多くの学院生がそうだ。特に、機動要塞理論や軍事用数学の類は、即物的に過ぎる、というのが感想の大半。 効率的な兵器運用と言われても、あまり、ぴんと来ない。そもそも機動要塞なるものがわからない。 その存在を耳にしたことはあっても、目にしたことのある学院生は恐らく皆無だ。 そして、実際に触れる方程式の数々や、演算機関の効果的運用と能率向上の理論は、さらに、実体としての“兵器”を霞ませる。 要は機関工場の運用理論と同じだと思う。そう、以前、アーシェが言っていた。 やはり実感の伴わない顔で。思い出しながら、メアリは、首を傾げる。 機動要塞理論、ね……。やっぱり、ぴんと来ない、のよね……。 ……うん……。 首を傾げながら、取りあえずノートは広げたままにして。 視線を自然と机の引き出しへと向けて。あの、箱のことを意識する。 趣味用のノートが入ったあの秘密の箱。書きかけのお話、言葉や、文章、それに絵。絵本のなりそこないが入った、小さな箱を。 今夜も── ──今夜も。──あたしは、それに触れられない。 ──書けない。──触れることは、まだ、できない。 ……ふぅ。 机に備え付けた機関灯のスイッチを消し、そのまま、メアリはベッドへ。 一日の最後だからと言い聞かせた溜息を、ひとつだけ吐いて、ベッドへと横たわる。ふわりと── 枕の冷たい感触。熱いシャワーで暖められた自分の体、肌が、ひんやりとしたシーツに体温を分けていく。 柔らかなベッドの中で、メアリは、瞼を閉じる前に思い出す。 ……ああ……。 ……そう、いえば……。 ……そう、ね……。……しばらく、来て、ない……。 ──ミセス・ハドスンの言葉もあって。──実感を伴って、思い出す。 ──そういえば。──近頃。 ──母さまからの電報が届いていない。──でも、それは。 ……べつに……。 ──別に。──珍しいことなんかじゃ、ないもの。 ──頻繁に送ってくることのほうが。──珍しいのだから、ね。 ……べつに……。……気にしない、わ……。 ……ね、メアリ……。 自分自身へ囁きながら。メアリは、深い眠りへと落ちてゆく──  『お姫さま……?』  『あたしたち、お姫さまなのよ』  『ママ……母さまが言ってたの』  『女の子は、みんな』  『みんな、そうなんだって』  『みんな、お姫さまなのよ』 行きたい行きたいあたしも舞台行きたい!綺麗なお姫さまと王子さまを見てみたい!あんたなんとかしなさいよケインズ‐! 無理言うなよ‐。どんだけ金かかると思ってんだよぉー。 ったくよー。なー、ホームズの旦那。なんでこう女って色恋沙汰の劇やら歌やら本が大好きなんだ? 女性は皆がそうなんだよ。覚えておくと良い、ケインズ君。 女性は、恋という神話を信じている。時に、それは、主に対するものよりも強い想いとなる。否定されるかも知れないがね。 何にせよ権利があるのだ。揺るぎのないものが。 ケンリ? 恋する女性が王子を待つ権利。わかるかね。 ??? ……無理もない、か。 首を捻る少年の頭を一撫でして、英国じゅうの人々が名を称える名探偵は微笑んでみせる。穏やかな、薄い、笑み。 ベイカー街遊撃隊や不正規部隊であるとか呼ばれることになるこれらの少年少女らは、彼にとって大切な仲間であった。 かつて、名探偵はこう述べた。友人であり同居人である医師へ向けて── 「この子らひとりの方が、 ヤードの警官1ダースよりも優秀だよ」 大げさな表現のつもりはないのだろう。事実、彼ら孤児たちの情報収集能力は目を見張るものがあると言わざるを得ない。 要は、使いようだ。制服警官ではイーストエンドを探れないし、孤児たちでは警護や道路封鎖などできない。 記者ザックのように、名探偵と同じく、その有用性に気付いている者は少なくない。ただ、群れとしての孤児を率いるかは別だ。 この男は、シャーロック・ホームズはそれを成した。かの革命同盟を監視できるほどの練度で。 無論、孤児である少年少女が、自分たちが統率されているという実感など持つことはない。首領格たる少年以外には。 ケインズやアンリにとっては、新聞記者の青年に対するのと同じように、名探偵も彼らの顧客のひとりに過ぎない。 奇妙な関係の3人であった。ベイカー街221Bのコンドミニアムで、たまに、こうして顔を付き合わせながら。 とりとめのない話をする。特に興味深い話であれば、ホームズは1ギニーを子供らに与えるのだ。 私はよくわかるのさ。あの女性の王子たり得なかった男だからね。 ??? へ。女嫌いのミスター・ホームズがぁ?なになに、その話、聞きたい聞きたい!聞かせてちょうだいな! う、嘘だぁ。旦那が浮いた話なんざある訳ないって。な、ないってばアンリ! さて。それはどうかな── え、ええーっ、似合わないって旦那には!もっとこう、クールで、こう、なんだっけ、ええっと新大陸風に言うと、こう……。 言いかけたケインズの言葉が止まる。同じく、アンリも笑顔を消していた。 気配というものには敏感な子供たちだった。それは、シティエリアやこのベーカー街を根城にしているからなのだろう。 硬い靴音を隠そうともせず、ノックもなく部屋へ入る男を警戒したのだ。 それは大柄な男だった。ザックと同じかそれ以上の体格の大男。 ──軍人であると一目でわかる。──失われた空の色をした軍服を纏う男。 例えばザックの雰囲気を剃刀と例えるなら、その男のことは分厚い長剣と呼べるだろう。鋭く、剣呑な。 男は部屋を一瞥すると、子供の姿に目を留めることなく、言った。 男の視界に入っても存在などしていない。薄汚い孤児など汚れきった大気に等しい。そう、態度と視線と声が告げる。 邪魔するぞ。時間はあるか、シャーロック・ホームズ。 ないこともないな。残念なことに。 うっそだ、旦那。聞いてるぜ、ええっと、ほら、ヤードの。 ……警部の依頼はいいの? ああ。それはそれ、だ。きみたち、少し外で遊んでいると良い。 空気を読んで声をひそめた子供ふたりへシリングを渡すと、ホームズは微笑んだ。それはひとつの指示の動作だ。 人払い。ここから立ち去るようにと。ケインズは何かを言いたそうな顔をしたが、アンリは頷き、少年の手を引いて外へ出る。 軍服の男の脇を、見上げることもなく無視して通り過ぎて、階段を下りてベーカー街へと消えてゆく。 子供らの姿を見送ると、ホームズは軍服の男へと視線を移す── 英国空軍上級大佐、エド・オニール氏。きみと会うのはこれで3度目だ。 欧州一の頭脳ともあろう男が衰えたか。お前とまみえるのは2度目だ。宮殿で一度挨拶を交わしたが、他に会ったことはない。 2週間前、きみはカダス地方から訪れた外交特使のひとりと密談を交わしたはずだ。 ……貴様、どこで。 特使を警護する中東人傭兵がいたはずだ。あれは、私の変装でね。 気付かなくとも無理はない。我ながら、変装には自信があってね。 ……。 沈黙にホームズは微笑むこともなく、まるでつい先刻とは別人であるかのように、冷ややかな視線のままで、言葉を、続ける。 これは彼にとって一種の儀式だった。訪れた相手の虚を突き、その素性を見抜き、そして、次には来訪の理由を当ててみせる。 そう、あの黒い男がそうしたように。これはホームズにとっての慣習であった。 きみの来訪の理由はあまりに明確だ。そして、あまりにも、愚かしいことだ。 あれの軍事利用とは、ね。 ……その通り。かの《怪異》の威力に対して人類は無力だ。そのことは前回の4号《怪異》が証明した。 忌々しくも《結社》の掃除屋風情に英国首都の治安を委ねている現状には軍部も《我々》も甘んじるつもりなどない。 なるほど。それはクラブの総意だと? そう、お前に“正式”な調査依頼だ。新たに出現した《怪異》の何たるかを探れ。残念なことに、私の位階はお前より上だよ。 5号《怪異》らしき唯一の目撃例は、とある売文屋の未発表原稿に酷似している。無論、目撃者はその姿を告げた後に死んだ。 ふむ……。 これ以上《結社》の跳梁を見逃せはしない。既に《ディオゲネス》最高会議は、計画の再調整を決定した。 報告はすべて私に行え。どんな些末なことであろうとも、だ。 マイクロフト卿を通すことは禁ずる。貴様の兄が絡むと、話がこじれるからな。 私は記憶力に些かの自信があるが、《怪異》案件は《結社》に委譲されたはず。 その通りだとも。故に、調査は内密に。ゲルマン騎士団にも勘づかれるな。連中は既に同盟から外れた。 連中の一部は、ゾシーク計画の中断後にも首都に残った可能性があると報告があった。今や、奴らは異分子だ。 なるほど。 ほんの一瞬、考える素振りを見せて。シャーロック・ホームズは窓の外を見る。 真実を露呈させると評された眼光が、窓越しに見える複合超高層高架を捉える。 排煙を噴き上げて空を充たすそれらを、彼は、忌々しげに睨み── まず、きみの手元にある情報のすべて、この私に譲って頂くこととしよう。どんな些末なものも、すべて私に。 紙片のひとつたりとも漏らさずに、2時間以内に用意したまえ。 すべてはそこからだ。条件を呑まないのであれば話は終わりだ。それがクラブの総意としても。 私にクラブの位階など無意味だ。私は探偵であって── きみは、依頼者だ。それ以外の関係は存在しない。 ……承知している。 目を、逸らしてはいない。それらの存在をハワードは認識できている。 煙害の増加、第3次ラツダイト運動の兆し、ヨークシャー地方における公害問題のデモ、複合超高層高架設置後も増加する蒸気病。 碩学たちの生み出す新たな理論や技術、生産力の拡大などの成果群に隠れがちだが、諸問題や反抗的運動は、着実に増えている。 長きに渡って英国を治め繁栄させてきた女王陛下の威光もあり、そう大きな声になりようもないのが救いか。 返して言えば── 女王が崩御してしまえばどうなるか。 社会問題に注目するのは、ハワードの仕事上は当然のことではあった。貿易は、常に変動する相場と政情に関わる。 意識すべきはこの英国だけではない。ひとつの国だけでは世界は成立しておらず、ひとつの国だけでは商売も成立しないのだ。 諸外国やカダスの状況をも考えながら、ハワードは夜明けをクラブで過ごしていた。既に、都市の空気は朝の訪れを告げている。 いつものクラブだ。年若い紳士たちが集うささやかな専用施設、つい先日にも、新会員が登録されたばかり。 「よろしいですか。 どなたか、彼の所在をご存じでは……」 「彼?」「あの社交界に通じているという」 「ああ、あの彼か」「そういえば見ないな」 「よそにも属していたそうですし」「ええ」 件の新会員を探している誰かの声があった。しかし、他の会員は誰もその所在を知らず、尋ねる誰かは右往左往するばかり。 何でも、この2週間というもの、連絡が取れずに困っているのだという話だ。 探しているのはまだ若い、確か下級貴族である紳士である。 貴族らしい傲慢さを隠さない性質の彼が、まさか、声を潜めてあの王を名乗る青年を探しているとは想像だにしない光景だった。 ともすれば大量の資金貸し付けをしたとか、そういう類ではないだろうか。あの顔色の悪さはそう思わせる。 だが、さほど、驚くことでもない。いつもろくな人物に引っかからないことで、あの青い顔の若い貴族の紳士は有名だった。 以前は密貿易で逮捕寸前の豪商や、植民地の違法活動で財を成した貴族崩れとつるんでいた。どれも痛い目を見たはずだ。 今回は、あの新会員──チャーチルと何かを企んでいたようだが。 (ふむ……) (また親父殿が尻ぬぐいをするのだろう。 しかし、そうか、あの彼が……) (チャーチルが、消えた、か。 何か大きなことをするかと思ったんだが) 連絡をつけられないということは、王を名乗ったあの若き男は、もう、既に、このロンドンにはいないのかも知れない。 新大陸あたりで才能を発揮しているという可能性もあるだろう。いかにも、あの男は荒々しい新大陸の空気が似合う。 故郷を悪く言うことに一切の抵抗のないハワードにしてみれば、新大陸は、山師たちの国と呼んで過言ではない。 国として落ち着くには、まだ、幾らかの年数が要るのだろうと思う。自分の生きているうちであれば良いのだが。 この英国ほどの落ち着きを得るには、どれほどかかることか── よう。相変わらず面長だな、ミスター。景気はどうだい。 知的と呼んでくれたまえよ、ザック。 商売は順調。恋愛も順調。 いや、恋愛とかは聞いてねえから。まったくお前はいっつも顔見せればそれだ。 こんな時刻にクラブに顔を出すなんて、きみこそ、今夜も眠らずにネタ集めかい? お前が言うな、お前が。まともな紳士さまが夜明かしなんかするか。 ……はあ。 なんだよ、溜息なんざついて。カードで負けたか? いやね。逞しくも荒々しいザックというこの男は、本当に英国紳士かしらんと思っただけさ。 紳士と名乗った覚えはないぜ。俺ぁ、生粋のロンドンっ子ってだけだ。 やれやれ。いや、嫌いじゃないがね。結局のところ、どこも同じかも知れないな。 また故郷を思い出してるのか?そんなに、俺みたいないい男のいる国かね。 はは。まあ、それはそうときみはどうだい。あのウィンストン・チャーチルの行方、何か知っていたりすることはないのかい。 ああ。あいつか。 ……そうだ。ここの会員登録はもうないぜ。 何? 行方は俺も知らねえが、どうやら、あいつは見た目通りの酔狂者だったらしい。 それを言うならきみもだろう。言葉を、ハワードはぎりぎり喉元で堪える。 自分と同じく、どこで時間を潰してきたか、酔った素振りも一切無く夜明けのクラブに顔を見せた、この、ザックという友人。 彼の情報は概ね正確だ。確信がない場合の話であればその旨を必ず事前に言う、という姿勢が、実に清々しい。 ダチにはそう言うようにしてるのさ、とは、半年ほど前に聞いた彼の言葉である。 テムズ沿岸で警官隊が数名殺害された事件。お前、知ってるか。 噂はね。だが公式発表はないはずだ。警察用機関兵器演習の事故という虚偽の発表でやり過ごしたとかなんとか。 事実だ。ヤード経由だから間違いない、で、だな。ここからだ。 事件当夜に前後して、不審な動きがヤード内部にあったって話だ。なんとも、署長やヤード幹部まで絡んでな。 それにチャーチルって奴が絡んでたらしい。レストレイドの親父さんが躍起になって探ってるが、大規模テロ屋がどうのとさ。 な、何? テロリスト? あまりに不穏な話だった。ラツダイトを標榜するテロ組織の噂などはあるが、ヤードとの関与などはあり得ない。 それならば《西インド会社》の話のほうがまだ信憑性があるというものだ。英国にて、表立ったテロリズム組織は存在しない。 アイルランドできな臭い気配があるとも言われてはいるが、それもまだ噂の範疇だ。それが── かの名探偵もお手上げって噂だ。まあ、それはいかにも嘘臭いんだが……。 事実だけ言うならこうだ。2人目の轢殺通り魔による警官隊の殺害。事件当夜、ヤード内部とテロ屋共の動き。 で、チャーチルって奴はテロ屋に絡んでた。通り魔かと思いきや、テロルの可能性まで出てきやがった。 それは、また……。公式発表できそうもない話ばかりだ……。 通り魔ってだけでも大騒ぎになるのは間違いないってのによ。こうも次々にまあ、盛大な嘘ってほうが、まだ現実感があるぜ。 大騒ぎ、か── 例の1人目は撃ち殺されたって話だろ。なのに今度は警官が、しかも小隊ふたつが誰かに殺されたなんて話、出回ってみろよ。 首都は大騒ぎだ。いや、英国じゅうが騒ぎになるだろう。 欧州各国も黙ってはいまいね。まあ、新大陸のほうでも騒ぎそうではある。 で。大騒ぎにしたくない連中がいるのさ。そもそも、親父さんはそういう隠蔽絡みで署長やらに目を付けてたらしい。 で、テロ屋だなんだと話が出てきた。俺の聞いたとこじゃ── ジェイムズ・モリアーティ絡みの話らしい。テロルの話は眉唾ものじゃあるが、とうとう、この名前が出ちまった。 ……犯罪の帝王、か……。 その名には覚えがあった。些かハワードも個人的に調べてはいたのだ。欧州の、社会の裏側というやつを、色々と。 かのチャペック博士は突然に故国へ戻った。しかし、未だ《結社》と関与していたとの噂が覆された訳ではない。 故に、ハワードは調べていた。愛する婚約者に幾らか関わる事柄である故、悪寒を覚えるほどの闇組織のことを探った。 流通と貿易の暗部を牛耳る犯罪組織。カダス貿易を営む者にとっての、禁忌の名。 カダス北央帝国軍部とさえ内通し、違法機関機械や薬物の闇取引を一手に行う恐るべき組織、欧州暗部の実質的な支配者。 ジェイムズ・モリアーティ。それは《結社》の代表的人物の名であった。 ──犯罪の天才。──犯罪世界のナポレオンとも呼ばれる。 まさかとは思うけれど、その通り魔たちとチャペック博士の件……。関連があるなんてことは、ない、だろうね。 さあな。だが……。 言いながら、ザックは紙巻きを強く吸って見せた。 朝靄と呼ぶには幾分か色濃い白煙を吐き、同時に、言葉をも放つ。 あってもおかしかねえ。なにせ、あのモリアーティが動いてるんだからな。 昨日も、新しく1件あったって噂だぜ。ヤードの連中は真っ青だ。 何が── 果たして何者であるやら、だ。ハワード。謎のテロ組織による国家への刺客か、それとも《結社》に関わる何か、か。 では、まさか。 そのまさか、だ。正解だぜ。 通り魔さ。これで、3人目の殺人鬼って訳だ。 人のいない古書店。覗き込んでも誰の姿も見つけられない。 常に扉を開け放したままの店だった。ソーホーの表通りに面していながら、そこには訪れる客の姿など殆どなかった。 もしも気が向いて、もしも魔が差して、店の中へ足を踏み入れたなら見るだろう。 書架の影の中に佇んで本を読み耽る青年を。昼間でも、真夜中でも、こんな早い朝でも、その青年は佇んでいるから。 ただし、客を迎える言葉は一切耳にできない。彼は決して視線を向けることがない。 誰にも。恐らく女王陛下が訪れたとしてもそのまま、手にした何らかの本を読み続けるのだろう。 青年は狂人だった。昼夜を問わず佇んで本を読み耽るだけの、寝食さえ忘れてしまった、年若い気狂い。 来客に気付かない訳ではない。ただ、彼にとって注目に値しないだけだ。 彼の神経は並の人々よりもよほど鋭敏だ。暗示迷彩によって姿を隠した人物でさえ、この狂った青年は感知できる。 脳が── 常人とは構造が異なるのだ── Mは、一緒じゃないのかい。 興味なさげに本を読み耽りつつ彼は言った。古書店へと踏み入れた、誰かへ。 来客は暗示迷彩を纏った人物だった。すらりと背の高い、透き通った瞳をした── ……あるじは多忙です。私はここへ、資料の徴収のため訪れました。 あるじはスラヴの民間伝承を欲しています。特に、血吸いの魔に関するものを。これは《結社》の上位第3経路指令です。 モランの声に青年は応えない。薄い硝子の眼鏡越しに本を見つめるだけで。 返答をモランは待つ。一秒、二秒、三秒が過ぎた頃に唇を開いて、任務への怠慢を指摘しようとした僅かな間。 モランの唇は声を出さなかった。代わりに、眼前の書棚へ視線を送っていた。 彼女の目は書棚の幾つかの書籍を見ていた。スラヴの民間伝承が記録された本、スラヴを訪れた英国碩学の博物誌。 あるじに指定された幾つもの書籍、具体名を挙げられた博物誌までもが在る。 ……流石ですね。あなたの“図書館”は非常に優秀です。 敵の非難がそう当てにならないのと同様に、味方の讃美もあまり過信してはいけない。 ──ピエール・アベラール。 あるじも喜ぶでしょう。現在のあなたがこの都市に留まることを選ばれたことは、我々にとって幸いです。 けだし人間は、自分自身を判断する際、常に他人の心持を考慮に入れるものである。 ──デーヴィッド・ヒューム。 可能であれば、スラヴ系以外の吸血伝承の書籍についても譲って頂きたい。報酬は《結社》規定通り。 我々を説得するのは確実な認識ではなく、まさにそれ以上に慣習と実例である。 ──ルネ・デカルト。 ……助かります。 会話は成立していないはずだった。それどころか青年が静かに述べていたのは、手にした本に記載された金言集からの引用。 噛み合わないはずの会話。けれど、不思議と、意思は交わされている。 このままの調子で彼の言葉が続くものかとモランは僅かに想定していたが、次に投げ掛けられた声は、些か、違った。 吐き捨てるように、忌々しげに告げられる、溜息混じりの言葉。 ふたりの距離感を象徴した言葉── 遠く離れた、同胞でも仲間でもない間柄。 ……やれやれ。 ああ、本当にきみは。腹を立たせるのが上手なお人形さんだな。 随分と平静でいるものだ。こういう嫌がらせに大抵の者は怒るんだが、きみの場合は、なんとも張り合いがないね。 あの《機械卿》くらいの反応をおくれよ。以前、彼に同じことをしたらあやうく殺されかけたというのに。 《黄金王》とは言わないまでも、きみ、少しぐらいは反応してくれないと。 あなたは私をおわかりのはずです。アーサー・コナン・ドイル。 わかってるとも、鉄もどき。まさかきみが嫉妬心を感じているとはね。 作動も発声もこれまでと変化なし。けれど明らかにわかるのさ、きみのことは。 みっともないね、きみは。あんな小娘、彼が本気で執着するとでも。 ……何を仰っているのか。この私には、わかりかねます。 そして、アーサー。あなたに言われることではありません。あるじを揶揄できる構成員は存在しない。 揶揄?随分と感情的な言葉じゃないか、鉄人形。 彼が見ているのはあんな小娘じゃない。きみでもない、誰でもない。彼らでもない、僕でもない。 彼はもっと尊いのさ。だから視線の先にあるのも、尊いもの、儚いもの、僕らには予想もつかない美しいものであるんだよ。 たとえば、きみにはこれが見えるかい?感じるかい? 彼は人差し指をそっと立ててみせる。視線をモランへは向けずに。 彼の指先に、空飛ぶ優雅な何かが降りる。そんな風に思わせる仕草だった。 蝶や、小鳥の飛来を想起させる。もしくは── 妖精── 見えません。何も。 だろう? では、やはり、きみでは無理なのさ。 時刻はやや過ぎて── 正午を回った頃。夕刻からの開始が予定された公演のために数多くの役者や関係者で騒然とした劇場内。 ライシーアム劇場。現在のロンドンの演劇界で脚光を浴びる、人気俳優を擁した劇団の専用劇場である。 一切の妥協を許さないこの劇場の演目では、用いられる衣装や小道具もすべて、本物だ。ドレスも装飾品も合成品は存在しない。 演劇によってひとつの世界を作り上げる。それが、ライシーアム劇場の謳い文句だ。そしてそれは一種の誇りでもある。 舞台装置を制作するために、宮殿お抱えの建築技師を雇ったというのはあまりにも有名な逸話のひとつではあった。 今も、舞台装置の調整と段取りの確認が、大量の人員によって行われている。 俳優と女優の声以外には静謐が充ちる、夜の劇場とはあまりに異なる様子であった。騒然と、雑然として。 しかし。たったひとつの目的のために統率された、意味ある雑然であり、雑然さであるのだ。 そんな劇場内で── 飛び交う声や物音とは切り離された、静かな場所があった。 それは座長専用の控え室。ヘンリー・アーヴィングのための部屋だ。 ソファに腰を落として熱っぽい息を吐く、ロンドン一と称される美しい俳優がひとり。そして、黒色と赤に身を包む紳士がひとり。 具合の悪そうな俳優に対して、紳士は、案ずる言葉を掛けていた── 本当に体調に問題はないのかな。無理をしてはいけないよ。ヘンリエッタ。 わかっているよ。過保護だな、きみは。前のように、一晩中も僕に付きっきりで看病なんてしないでくれよ? 申し訳なくて僕は一層参ってしまうから。大丈夫、少し風邪気味なだけさ。 その少しというのが不安だ。もしもまた舞台裏で倒れたりしたなら、僕は同じことをせざるを得ない立場だ。 ……はは。まったく、もう、きみは。 会話の、距離感── ふたりの会話は互いへの思いやりに充ちて、しかし、恋人のような親密さとは異なって。奇妙な言葉の距離だった。 一定以上の距離を保ちながら。それでも、親密さと友愛に充ちて── 迷惑だと言っておくよ、エイブラム。私はひとりでも大丈夫なんだ。きみこそ、私が言う筋合いではないかも知れないけど。 戯曲作りも有り難いけど、ひとりのファンとしてはブラム氏の新作を、いいかい、小説の新作を早く読みたいんだ。 善処するよ。今日の舞台を見守り終えてからね。 ああ、もう。きみはいっつもそれなんだから。 それぐらいの我が儘は許してくれたまえよ、ヘンリエッタ。心配性は僕の性質だ。 ……本当に。きみはいつまでも心配性なんだから。 ──あたしは。──そんなものを感じたことはなかった。 ──そうよね、メアリ。──ええ、そうですとも。そうよ。そう。 ──M。黒い男。──何をも語ろうとしない仏頂面の男。 ──彼との距離感が縮まることなんてない。──そういう、確信があった。 ──たとえば、お茶をするだとか。──たとえば、食事をするだとか。 ──それに、昨夜のアーシェとみたいに。──演劇を楽しむだなんて、あり得ない。 ──そうよね、メアリ。──ええ、そうですとも。あり得ないわ。 ──あたしは、彼の“生き餌”であって。──彼は、あたしと契約を交わしたひと。──それだけ。 ──なのに、何。これ、何。──なんなの? (ええ、と……) 何がどうしてこうなってしまったのか。メアリは俯き加減に考えていた。 昨日の今日でまたここへ来てしまっている。同じ、シェイクスピアの演目を眼下にして。 ……この男と。 言いようのない感覚があった。違和感とも拒絶感とも呼べない奇妙なもの、それが足の爪先から髪の先端にまで充ちて。 ただひとつだけわかるのは、ひどい緊張感。 緊張のあまり体が縮んでしまいそう。貴賓席だなんて。しかも、どういう理由か、この黒ずくめで表情の薄い男と、ふたりで。 ──ふたりで、あろうことか、──ライシーアム劇場の貴賓席だなんて! ウェストエンド西部のライシーアム劇場。当世一の名優ヘンリー・アーヴィングが座長を務める、どこより華やかな新興劇場。 演目には実に評価が高く、人気があり、上流階級や諸外国からの賓客からも、日々、賞賛の言葉や電報や贈り物が届くという。 多くのロンドン娘にとって憧れの的であるヘンリー・アーヴィング。彼こそがこの劇場の花形だ。 彼の演ずるシェイクスピア劇を、つい昨日、アーシェが奇跡的に手配できたチケットで目にしてきたばかりなのに。 驚くべきことにこの短期間で、再び、同じ演目を目にすることになるなんて── 想像だにしなかった。高所に位置する貴賓席から舞台を見下ろし、ロミオを演ずる彼の姿を目にするだなんて。 想像だにしなかった。まさか彼が、Mがチケットを突然押しつけ、あれよという間に連れてこられるだなんて。 ──行くぞ、と無感情な声で告げられて。──ついて行った先が“ここ”だなんて。 ライシーアム劇場の── 貴賓席だなんて── なんで、あなたが……。 ここのチケットを持ってるの。しかも、こ、こんな、すごい貴賓席の……。 遠慮がちに声を漏らす。貴賓席の作りのお陰で、これぐらいの声なら出しても外に漏れない。 頭だけで知っていた劇場についての知識がまさか、役に立つような日が来るだなんて、思ってみたこともなかった。 思ってもみなかったことだらけ。ただ、ただ、分不相応な状況に恐縮して、緊張と言いしれぬ感覚とに身を縮ませる。 ……沈黙。……舞台上から名優の声だけが聞こえる。 Mへ聞こえるように勇気を出して囁いたのに、返答は、ない。 返答はない。 返答はない。 これだけは予想の範囲内のことではあった。 けれど、メアリは俯いてしまう。他にどうすればいいのか何も思いつかない。 こんなところにふたりで入って、しかも、座席はひとつでいいと係員に短く告げて、自分ひとりだけ座ろうとした男の隣で── 見かねた係員が持ってきてくれた小間使い用の小さな椅子に座って、小さく小さくなってしまう。 自分が高貴だと考えたことは一度もない。でも、この男の、使用人の類だと扱われて、異議も唱えられない自分が、恥ずかしくて。 咄嗟の状況に何も言えなかった、この自分。きっとシャーリィやアーシェであるなれば、こうはならなかったはずなのに。 恥ずかしさで顔から火が出そうだった。最高の舞台なのに、最低の気分── 興味がある。 と── 返答はなかったはずなのに。短く、声。 き……。 興味……。 ──興味がある? 彼の言葉を反芻する。恋愛劇、しかも、シェイクスピアに興味? そんなまさかとメアリは思う。思いつつも、現に、こうして、わざわざ劇場へ足を運んでいるという事実があった。 わざわざ見に来ているのだ。興味があって。 それなのに何だろう。彼は、いつも通りの、冷たい顔で── ヘンリー演ずるロミオ・モンタギューが窓辺のジュリエットへ高らかに愛を告げる名シーンへ差し掛かっても、なお、同じ顔。 Mは表情ひとつ変えずに舞台を睨み付ける。そこに、一切の変化はない。 ──興味が、ある?──本当に? ──気になってしまう。──疑問が、どんどん胸の内で膨れあがる。 彼の言葉と態度はあまりに矛盾していて。興味があると言いながら、まったく何も、興味の欠片もない顔で。視線で。 その、矛盾が、気になってしまって。メアリはそっと視線を動かす。 ──俯いたまま、視線を、彼へと向けて。──彼の顔をよく観察する。 いつも通りに上から見下ろすMの視線。ともすれば、彼がこの貴賓席を選んだのは、見下ろしたいからなのではないか、とさえ。 そっと。 そっと。 気付かれないよう、メアリは観察する。 彼の表情を見つめる。普段と何ら変わることはないように見える。 感情の窺えない、感情の浮かばない薄い表情しか見せない彼。 口元を笑みの形にしている時でさえ、感情は少しも伝わってこない、彼の、顔。 (何も……) (いつもと違うというほど、 常に会っている訳では、ないけど……) (変わらない、わよね。 いつもと何も) 高い鼻。血色が悪いほどではないけれども白い肌、何か、彫像のような硬さを思わせる、顔。 何も変わらない。いつもと。 少なくとも、舞台に興味を抱いているようには見えない。俳優にも、女優にも、物語にも、何ひとつ。 静かに、静かに。メアリはよくよく観察するものの── いつも通りのMだった。冷たい視線で、何かを見下ろす、黒い男。 その視線が。僅かに動いてこちらを見る── ──こちらを見る。 ──そう、彼を盗み見ているあたしの顔を。 ……舞台を見ろ。俺を見るな。 な。 な、なんの根拠があってそんな──あなたのことなんて見ていません。見てないわ。 俺を見るな。 み、見てないわ。 見るな。 見ていません。 見るな。 み── …………はい。 演目がすべて終わり、夜── メアリはMに連れられて劇場の外へと出た。 昨夜と同じ風景だった。ターミナルで待つ馬車やガーニーへ向かう劇場客にはやはり子女の姿が多く見られて。 知己らしき紳士や淑女同士が挨拶を交わし、各々の馬車やガーニーへと姿を消していく。昨夜がまた繰り返されるような、錯覚。 だから、メアリは驚くのが一瞬遅れた。赤色と黒色のマント姿の紳士を目にした時、これは昨夜の記憶かと、錯覚してしまって。 慌てて挨拶を交わす。黒と赤色を纏った灰色の美髯の紳士へと。 ──昨夜は、彼の姿を連想したけれど。──Mとは、あまり似ていない。 ──優美な紳士。──黒色と、赤色の裏地のマントが目立つ。 ──赤色。──今夜もそう、視線が吸い寄せられる。 灰色の美髯が年齢を隠している。黒色の、コートではなくてマント姿の男性。 隣のMとは違って物腰柔らかく、隣のMとは違って優しげな色で響く声── 驚きました、ミス・メアリ・クリスティ。今宵もおいでいただいていたとは。 それほどまでにお気に召して頂いたとは、幸いです。シェイクスピアは、若い方に受け入れられ難いとばかり── ごきげんよう、ミスター。今夜も素敵な舞台をありがとうございます。 シェイクスピアは、ええ、その、とても好きなんです。だから、今夜も。 嘘。嘘。シェイクスピアは嫌いではないけれど、自分から来ようとした訳ではないから。 喜びの笑みを浮かべてくれるブラム氏には演劇のことや名優アーヴィングのことなど話したいことは幾らもある、けれど。 この、自分の隣にたつ男。M。無愛想な彼が一緒ではそんな話もできない。むしろ、今でさえ、どうなってしまうのか。 まだ、ブラム氏には連れ合いだとは気付かれていない、と思う。すぐに挨拶を済ませて立ち去ってしまおう。 いつもの調子で、Mに不遜な言葉を投げ掛けられたら── 本当に、もうどうなってしまうかと気が気でなく── それで、こちらの紳士は?昨夜にはお目に掛かりませんでしたね。 (あ!) 初めまして。ブラム・ストーカーです。お見知り置き頂ければ幸いです。もしや、ああ、ご婚約者でいらっしゃる? え。 (婚約者!? え、な、なんで、そう、なるんですか) (見た目……。 年齢、そ、そうね年齢からして、うん、 確かになんだかよくわからない、から) (年の離れた婚約者……とか……。 思っても、不思議じゃ、ない、か……) ええ、と、その── 叔父だ。 彼女は姪だ。今宵は、勧められるままに観劇してみたが。 素晴らしい舞台だった。見事なものだ。 これは、ご丁寧にありがとうございます。ミスター・クリスティ? いや。違う。クリスティ姓ではない。 (……?) ──なぜだろう。──わからない。──訂正することの意味なんてないのに。 ──どうせ、嘘なのに。──彼はあたしの叔父なんかじゃない。 ──父さまに兄弟なんていないもの。──その場しのぎの、嘘。 ──なのに。──静かに、Mはブラム氏へ名を告げた。 それは、M、ではなかった。アルファベットのたった一文字ではなく、怪しげな暗号名の類でもない人間の名前。 確かに人間の名前だった。聞き覚えのない、英国人の名前。 俺は── ジェイムズ・モリアーティだ。 ──ジェイムズ・モリアーティ。──そう、確かに、彼は名乗ったのだった。 初めて聞いた名だった。確かにイニシャルがMではある、その名前。 彼の本名だろうか。それとも口から出任せに述べただけの名前。 尋ねても意味はないとわかっていたけれど、一応、ガーニーの中でメアリは尋ねていた。それは本名なの、と。 返答はない。 返答はない。 代わりに告げられたのは別の事柄だった。 「アーサーの店に所用がある。 お前は、このガーニーで下宿へ戻れ」 そう── メアリはガーニーに乗っていた。いつものように地下鉄で帰るものとばかり思っていたのに、Mは、ガーニーを拾って。 Mも同じガーニーに乗った。ウェストエンドのザ・リッツ・ロンドンは、あの劇場から歩いて行ける距離であるのに。 歩いて、は、やや難しいか。それでもそれほど遠い距離ではないはずだ。 であるのに、Mは、メアリを連れてこのガーニーに乗ったのだ。目的地にメアリの下宿のある地区を告げて。 途中のソーホーに用がある。そう、Mは、短く言ったのだった── ──あたしの質問へ答えることなく。──そう言った。 ──今さら驚かないし不満にも思わないわ。──ただ、ああそう、と思うだけ。 程なくしてガーニーはソーホーに停まり、Mは、メアリを残してガーニーを降りた。電信回線は常に繋がるようにしろと言って。 言われなくともそうしている。週に一度の契約確認がなくなった代わりに、メアリに課せられた新たな命令が、電信だ。 肌身離さず持ち歩け、と。常にそうしているわと口答えをしてみたら、一度、視線を向けられた。それ以外は何も。 以後は連絡を待て。今夜は、ご苦労だった。 ……。 ……いいえ、どういたしまして。 走った後のあたしには言ったことないのに、劇場へ連れて行った後には、そう言うのね。 言いながら。メアリもガーニーを降りていた。 何をしている。 ソーホーからなら地下鉄で行けるの。もう降ります。 勝手にしろ。 感情の窺えない視線ではあっても、その意味するところは何となく理解できた。何をしているんだ、愚かな奴め、という目。 メアリは構わなかった。どんな目で見られようが気にはしない。 彼の恩恵を受けてガーニーに乗り続けて、下宿へ帰ることが我慢ならなかっただけ。 ──借りはなるべく作りたくなかった。──ありがとう、なんて。 ──あなたには言わない。──そう、あたしは、決めたはず。 ──朧気な黒い街の記憶の彼方で。──そう決めた、と、ぼんやりと思い出す。 密かに息巻きながらガーニーを降りる。もう真夜中のソーホーの石畳の街路は、既に、殆ど人の姿もなくて、静かだった。 地下鉄駅まではそう近くもないが、遠いとも言い切れない。 Mに背を向けて、さっさと、地下鉄駅へ向かってしまおう。 そうメアリは内心で決めて、夜のソーホーへ歩き出そうとした── その矢先のことだった。 静かだった表通りに元気な声が響いていて、そして、その声は、聞き覚えのある誰かの。 お、やっぱりメアリだー!なんだよ、ソーホーにゃ酒場なんかないぜ! ないぜー! ひっさしぶりー!なんだよぅ、元気みたいじゃんかよメアリ!生意気にガーニーなんか乗っちゃってさー! 乗っちゃってさー! ──薄暗いソーホーの表通りに見知った姿。──小さな子供たちふたり! 気分が、ぱっと明るくなる。密閉されたガーニー後部座席という空間でMと一緒だったことへの沈む気分が晴れる。 こちらへ駆け寄ってくるふたりを抱きしめながら受け止めようと腰を屈めて。いいえ、それはまずい、と屈むのを止めて。 よく目を凝らして。 駆け寄る小さな影ふたつをするりと避ける。 するりと回避して。 くるりと振り返る。 そこには、走り抜けた子らの笑顔があった。 (あぶな!) (や、やっぱり、ぶつかってきてた! あ、危ない、危ないわ、もう少しで……) ちぇー。なんだよ、生意気だぜメアリ。メアリのくせになんか動きが素早いなんて、お前、ほんとにあのどんくさいメアリか〜? メアリか〜? ふふ、残念でした。そう何度もズロース見られてたまりますか。 ち、ちげーよ!お前がどんくさいからスカート捲ってだな、こー、危機感って奴を教えてやってるだけ! ませがき。 アンリ!? 相変わらずなんだから、ふたりとも。ちゃんと元気にやっていた?ザックをあんまり困らせてあげないでね? 元気だぜー。稼ぎもまーぼちぼちってとこ。ま、色々と稼ぎ先を見つけてるからな、俺。すげー旦那の下で働いてたりするんだぜ。 するんだぜ‐。 相変わらず逞しそうね。うん。安心したわ、ケインズ、アンリ。 微笑みかけて── ふと、Mの存在を忘れていたことに気付く。彼は未だ自分から数フィートの距離にいて、一連のやり取りを無言で見ていた。 早く古書店へ行ってしまえばいいのに。なぜか、彼はそうせずにメアリと子供らを見つめ、無言のままでその場に佇んでいて。 想像しかけて。メアリはぞっとしてしまう。 このMという冷血漢の行動は読めない。世の中の一切に興味のないような素振りで、演劇に興味があると言ってみせたりもする。 けれど、風貌と普段の印象から。もしも子供がじゃれついてきたりしたら── もしかして。 もしかして、蹴ったりするんじゃないだろうかと。 知り合いか。 え、ええ。そう。友達……。昔、ロンドンにいた頃に仲の良かった人と、この子たち、付き合いがあって……。 友人か。 ……なるほど、そうか。 そこの子供たち。来い。 何だ? 何かくれるのかよ、黒い旦那?あんたメアリの何だ? ツレ? くれるのかー? (え?) ぽかん、とその様子を見つめてしまう。Mは子供たちを手招きして── 近寄ってきたふたりへ。何と、紙幣を1枚ずつ握らせたのだった。あろうことか、ポンド札である。大金だ。 わ。すげ、大金! 大金! 礼だ。メアリが世話になっている。以後も宜しく頼む。 (礼!? あたしが世話!? ど、どうして、そういうことに、なるの) まっかせとけって! へへ、な〜んだよ〜!メアリ姉ちゃん、金持ちの妾になったのか!そうならそうって言えよなー! 言えよなー。 メアリったらほんとに水くさいんだから。それならそうで言ってくれれば、お祝い、色々用意してあげたのに。 ち、ちがいます── 水くさいよなーほんとに。妾になったならあれだよな!もう、あんまりスカート下ろせねーな! 下ろせねーな! ち、ちが……。 たまに、ぐらいにしてやるから!旦那に捨てられないよう頑張れよな! がんばれ! ちがうっていうのに── 呆気に取られているような場合ではない。猛然と否定すべく口を開くメアリである。 けれども、遅かった。 貰った金を早速どこかへ仕舞い込むためか、ふたりの子供たちは満面の笑みを浮かべてあれよという間に走っていってしまう。 誤りに対して訂正の言葉をかける暇もない。本気で走って路地裏に入られてしまったら、メアリにはもう追いつけない。 ──近いうちに、捕まえて。──訂正と注意をしておかなくちゃ。 ──彼から何かを貰うだなんて。──何か恐ろしいことをさせられかねない。 ……。 ──でも。──でも、少し、意外に思えた。 ──何ひとつわからない彼ではあるけれど。──子供たちへ、あんな風に。 ──突飛な行動過ぎて。──そう表現できるかはわからないけれど。 ──でも。──あたしは、そう、感じた。 ──何もかもわからない黒い男。M。──あなた、子供には。 …………。 何だ。 ……………………。 何だ。 ……あなた。子供には、少し、優しいのね。 ──優しいという表現は違うと思う。──でも、他には、浮かんだ言葉がなくて。 ──勿論。──返答の類はなかった。 子供たちと別れて── 金額振り込み済みの機関カードで前払いを済ませた有料ガーニーへと押し込められて、ほんの少しの時間の後。 Mにひょいと抱え上げられて、別のガーニーへと押し込められてしまった。メアリは、何が起きたのかわからなかった。 ──怒ったの?──あたしに、子供好きと言われたから? ──勿論、何を言われることもなくて。──ひとりでガーニーに乗せられて。 予想外の出来事にメアリは声もなかった。ガーニーの後部座席に座らされ、外からドアを乱暴に閉められて。 「下宿に戻れ」 そう言われて── 唖然としているうちに下宿前へ着いていた。 運転手に礼を言いながら慌てて外へ降りる。ガーニーで下宿玄関に横付けることだけは、今まで、避けてきた。 値の張るガーニーにひとりで乗ることなど、母からの仕送りで成り立つメアリの生活でそうできることはない。 シャーリィやアーシェと一緒に、3人で、遠出する時に使うぐらいだった。今まで。割り勘なら何とか払えなくもない。 けれど。ひとりで乗るなんて── ミセス・ハドスンに気付かれてはいけない。怪しまれて追求された挙げ句、Mのことを漏らしでもしたら大変だ。 ガーニー代は自分で払ったなどと言ったら、無駄遣いと普段の素行について追求されて、自由に出歩けなくなる可能性もある。 夜に外へ出られなければ、契約を果たせない── だから慌てて降りたのだけれど。 何と、既に、待ち構えられていたのだった。 ……おかえりなさい、メアリ? た! た……。 た、ただいま帰りました……。ミセス・ハドスン……。 そろそろ帰る頃よねと話していたの。そうしたら、なんとぴったり! 夕食は済ませてきたのでしょう?もしもまだなら、うちで食べていく? 私はもう食べてしまったのだけど、賑やかなのは大好きだから。あなたたちを上げるのも久しぶりだし。 どうかしら、メアリ?お腹すいてる? (あれ……?) ──ミセス・ハドスン。──なんだか妙ににこにこしている? ──まるで、何か嬉しいことがあって。──浮かれているかのよう。 (ガーニーのこと、もしかして……。 気付いてないのかしら……?) ごめんなさい、ミセス・ハドスン。もう済ませてしまっていて……。 あら、そう?残念だわ。ああ、でも、それなら。 3人でお酒でも……。 ああ、いえ、いいえ、だめね、だめだめ。お酒はあなたたちにはまだ少し早いわね。 成人したとはいっても、まだお酒の味を覚えてしまうには早いもの。ああ、残念だわ……。 (……3人?) ──そういえば。──あなたたち、と言っていたような? ──あたしと、他に、誰?──今はミセス・ハドスンとあたしだけ。 ──他には、誰も。──ここにはいない、わ、よ、ね? メーアリっ! アーシェ!? 栗色の大きな瞳がそこにあった。アーシェ。アーシェリカが顔を出していて。 玄関の向こう──ミセス・ハドスンの住居である1階奥から驚かせるようにして突然、姿を見せていて。 ──もう、今日は予想外のことばかり。──まさかアーシェがいるなんて! んも〜、メアリっ!昨日、ふたりで舞台見に行ったのにぃ!まさか、まさか……昨日の今日でぇ〜。 誰かと夜までどこかへ行ってるなんて!もー、不良、メアリの不良‐! ア、アーシェ、声大きい……。もう、ね、夜だから……。 そうね、もう夜だものね。メアリの素行については、アーシェちゃん、明日の朝にでもたっぷり追求しておいてね? むーむむむ……。 ……はーい、ミセス・ハドスン。 明日の朝? あら、あら?ふたりで約束をしていたんじゃなくって? してました〜。だよね、メアリ。きょうはお泊まりの日! (でないとガーニーのこと言っちゃうぞ〜。 ハドスンさん、まだ気付いてないけど〜) (……う……) (お泊まり……あたしはいいけれど、 アーシェは、その、本当に、いいの?) (外泊のお許し……) (だーいじょぶ、だよ! ちゃんと言い訳しといたから兄貴も平気) (もう。兄貴だなんて……) ──驚いてしまった。──まさか、泊まりに来ていただなんて。 ──アーシェのお兄さんは特に厳しい人で。──外泊なんてそうそう許してくれない。 ──でも、この自信に満ちた笑顔。──きっと、何か、うまくやった、のね? メアリ、じゃあすぐにお風呂入ろう!あのね、お泊まり用に寝間着は用意したの。着替えもタオルもちゃーんと持ってきたの。 え。お風呂?で、でも、うちのはふたり同時には── お風呂入ろ?ほらほら、早く〜。 アーシェ、あのね。話を聞いて。うちの浴室はね── ──シャーリィの真似をしてみる。──少し、落ち着いたトーンの声を出して。 ね。入ろ? …………。 ──真似、失敗。 まずは──ふたりで、2階の部屋へと上がって。 本当に外泊をしても大丈夫なのかどうかを再三、しつこく何度もアーシェに確認して。自分のことは── 自分のことは完全に棚に上げてしまった。アーシェを責めるような真似をする資格は、本当は微塵もないと、メアリは思いながら。 何も気にする様子なく、お風呂に入ろう入ろうとせがむアーシェへ、狭いから、ふたりでは無理と言い聞かせて。 本当に、狭いのだ。ミセス・ハドスンのいた場所ではそうはっきり言えなかったものの。 バスタブはごく小さいものだし、完全なカダス式の浴室とは違って床までは防水ではないから、どうしても無理なのだ。 先にどうぞと薦めたけれど、アーシェはすっかり機嫌を損ねた様子で、頬を膨らませてそっぽを向いてしまって。 何を言っても同じ反応のまま。少しだけ、メアリはMのことを思い出す。 「……じゃあ、アーシェ。 ほんとに、先に入っちゃうからね」 そう言って。ひとり、メアリは浴室へ── ふぅ……。 バスタブで一通り体を洗い終えてから、シャワーを止めて。 腰を下ろして、事前に脇に置いておいた1冊の本を広げる。 シャワーだけ浴びる時はそうしないけれど、バスタブで暖まる時には、ほんの数分だけ本を読み進めるのが最近の日課。 ──用意したのは社会機関学の本。──あの、チャペック博士の本。 読むのは学術書が殆ど。ここ暫くは、古書店でモランの与えてくる人体運動理論や人体測定式犯罪学などの本。 他は、講義や課題のための本を読むばかり。あまり気は休まらない、けれど。 シャーリィが目覚めるまでは、楽しむための読書をするつもりはないし、難しい本を読むことにも抵抗はなかった。 それにしても、モランが犯罪と名の付くものばかりを読ませようとするのは何なのだろうか。 漠然としていて実態はおろか概要さえも怪しい《結社》というものは、それほど犯罪と名のつくものが好みなのか。 ……ん……。 ……ふぅ……。 心地よい温もりに声が出てしまう。息が漏れる。 湯沸機関のごく正常な稼働音というものは、入浴中の居眠りを妨げる、という意味では最高の発明品ではないかとさえ思う。 この音さえなければ……。もっと気持ちよく入浴できるのだけれど。 やっぱり……。カダス式の最新モデルじゃないと、だめかしら……。 入浴といえば、カダスだ。そういう風潮が欧州中にはあるという。 入浴という慣習自体は英国にもある。バスタブで体を洗い、清潔に。 しかし元々は上流階級や資産家などの、裕福さの証としての慣習だったという。多くの人々は体を拭く程度で済ませていた。 湿度の低い欧州では、基本的に、あまり入浴が重要視されなかったという話。メアリにとっては、あまりぴんと来ない話。 機関革命が慣習を変えたのだという。煤や煙で汚れた体を洗い流すという風習は、機関の浸透と同時に欧州全土へと広がった。 ──あたしやアーシェが生まれるよりも、──ずっとずっと前のこと。 ──だから、あたしは。──バスタブのない生活は考えられない。 メアリ〜。下でタライ貰ってきたから入ってもいい? え? だめ? 明るく聞こえはするけれど、そっと窺うような声がドアの向こうから。 少し、寂しそうな響き。本当に寂しいと思っているからだろう。 ──嘘のない声。──耳にすると、胸の奥が締め付けられる。 ……駄目じゃないわ。 ほんと? 本当に。ほら、こっちへどうぞ。 ……怒ってない? 怒ったりしてないわ。ここ、本当に狭いから、ふたり一緒じゃ入れないなーと思ったからああ言ったの。 それとね、覚悟しておいて。たぶん、アーシェが今まで見たようなお風呂に比べると本当に狭いけど……。 ありがと、メアリ!大好きよ! ──あたしもよ。──そう、口の中で小さく呟いて。 メアリは本の頁をめくる。アーシェが体を洗い終わったらバスタブを交代しよう。それまでに、次の頁、までは。 読み進めておかないと。難しい本はさっさと読んでしまうに限る。 ……ねえメアリ。 なに? 怒らないで聞いてね。 ──何だろう?──随分と、神妙な調子のアーシェの声。 はいはい。なあに? えっとね……。なんだか、恥ずかしくなってきたのだわ。誰かとお風呂入るの久しぶりで……。 お姫さま。早くしてくださらないと、お湯であたしがふやけてしまいますよ? は、はーい!それじゃあ、入りまーす! 慌てないでね。この浴室、お尻で転ぶと本当に痛いのよ。 がさごそと服を脱ぐ音が聞こえてくる。割合に、おおざっぱな。 きっと畳んだりはしていないのだと思う。脱いだ服を籠へ放る音がわかる。 ──本当に、もう、元気な子。──作法はあたしよりよほど詳しいのに。 ──物音。ああ、なんだか。──あたしは、妙な実感を得ていた。 ──誰かと一緒に入浴するなんて。──いつぶりだろう。 ──ああ、そう、そうよね。──あの頃以来。 ──シャーリィや、母さまと一緒に。──よく洗いっこしたっけ。 ──でも。──でも、すぐに。それもなくなった。 ──あたしは母さまとウェールズへ越して。──それからは、ひとりだった。 ──母さまは帰りが遅くなるようになって。──夕食を一緒に摂ることさえなくて。 わっぷ!熱いお湯と石けんって、煤、取れるよね〜。(ごしごし) ほんと、カダス文化さまさま!(ごしごし) わ! おっとと。借り物のアヒルくんが……。(ごしごし) 気をつけるのよ。ここの床、すごく滑りやすいから。 う、うん。メアリも気をつけてね。泡、結構飛んじゃったみたい。(ごしごし) うん。気をつける── 石けんの真っ白な泡にまみれながら、体を洗う、アーシェの細い肩。 細い肩。お湯の熱さで桃色に染まって。きっと自分よりも細いのだろう、華奢な体。メアリは、ぼんやりとアーシェを見つめる。 ──可愛いアーシェ。笑顔のアーシェ。──元気で、健気で、賢い子。 ──いつも、誰よりも元気だけれど。──それでも。 誰かが守らなければ折れてしまいそう。それほどに、か細く見えて。メアリは、自然と、不安になってしまう。 特に何をと思った訳ではないのに。浮かんだ言葉を、つい、口にしてしまって。 ……アーシェ。ミスター・ハワードとの仲は順調? ん? うん、いつもと変わらないけど。どうしたの、急に?(ごしごし) 入浴中のアーシェを見ていたら、急にミスター・ハワードが憎くなったの。駄目ですからね、お嫁入り前までは絶対。 またシャーリィみたいなこと言う……。(ごしごし) はい、は? アヒルくん。大変よ。メアリはお風呂場ではシャーリィになるの。(ごしごし) ……もう。あたしじゃやっぱりだめね。でも、本当に駄目よ。 はーい。それで、何が駄目なの?(ごしごし) ……アーシェ。 アヒルくん。大変よ。メアリがちょっと怒ったみたいなの。(ごしごし) 怒ってないわ。でも。シャーリィが起きたら言いますからね。 アヒルくん。大変よ。アーシェの分が悪くなってきちゃった……。(ごしごし) ──気をつける。──うん、そう、いつもそうしないとね。 ──何もかもを。あたしは。──気をつけないといけないのだから。 ──生き残るために。──そうして、シャーリィを助けるために。 ──昨夜や今夜のような夜を。──3人で、一緒に、過ごすために。 ──また、聞こえていた。 ──何かが滴る音だった。 耳元に落ちる何かの音。知っているけれど思い出せない、何かの音。 ああ。これは。これは夢ね、いつか見た白昼夢の、続き。あたしは、メアリは、それを自覚できた。 音の正体が何かを知りたくて、あたしは視線を音のほうへ向けようとする。 白昼夢と同じ。でも、そう、だめ。いけない。 視線を音へ向ければ、背後へと振り返ることになってしまうから。あたしは、じっと、横たわったまま耐えて。 あたしは涙を流すの。右目から、耐えきれずにこぼれ落ちる涙。 何に耐えきれないの。ああ、それは、それだけは思い出せない。何を、あたしは、耐えようとしていたの。 しばらく涙を流してから気付く。そこはあたしの知るロンドンではなくて、もっと、ずっと暗い、黒い街によく似て。 背後から追いすがる“何か”はなかった。それは自分自身であることが、わかる。追うのも、追われるのも、共に、自分。 もしかすると、背後から迫るものも同じなのかも知れない。すべて、自分。自分自身なのかも知れない。 そう、自分── 何もかも── ただひとつの願いさえ叶わずに、ただ、その場に立ち竦み、悲しみ、絶望して。そして── あたしの右目からは涙が溢れてしまう。耐えきれないほどの悲しみと、絶望と。あと、もうひとつ。 もうひとつ── これは、何── だめ。駄目。それだけは言葉に、しては、だめよ── そして、朝が訪れる。小鳥たちの囀りと工場区域から響く機械音。 河向こうで高い音を立てる金属の機械音と、ささやかに唄う数少ない小鳥たちの鳴き声。ロンドンの朝を告げる、音と音。 ……ん……。 目を覚ますと、右目から涙を溢していたことに気付いた。 初めに思ったのはアーシェのことだった。まだ、あの子は、起きていないかしらと。涙を、見られてしまっていませんようにと。 ちょうど視線の先にあったアーシェの姿、安らかに眠るその顔を見て安堵する。 ……良かった。おはよう、可愛いアーシェリカ。 起こさないように囁いて。そっと、寝間着の袖口で右目の涙を拭う。 気付かれないようにベッドから抜け出して、まずは、洗面所で、寝ぼけ眼ごと顔を洗う。水が、とても冷たい。 やはり11月の水は冷たい。そろそろ、温熱機関の熱を利用しなくては蛇口から流れる冷水を痛いと感じてしまう。 顔を洗って。洗面台の鏡の脇にある乾燥機関を確認。 アーシェの服が乾いているのを確認する。仕立ての良い、でも華美なほどではない、可愛らしいあの子の服。 あ、そうだ……うん……。 うん。そうね。 アイロン、借りないと。乾燥機関の自動機能じゃ心もとないものね。 ……起きてこないうちに、ええ。手早く。手早く。 寝間着で降りてしまおうか思ったものの、さすがにそれはあり得ないと考え直して。さっと部屋着に着替えて。 静かに階段を降りて1階へ。丁度、朝食の用意をしてくれていた最中のハドスン夫人に頼んで、アイロンを借りて。 綺麗に整頓された洗濯室で、ふたりの服をアイロンがけさせてもらう── 火傷しないように気をつけてね。最近、温度が少し高めになってしまうの。 はい。大丈夫です。あたし、痛がり屋さんですから。 こういうものには細心の注意を払おうって、小さな頃からずっと決めてるんです。お陰で、あんまり、怪我はしません。 安心なような不安な話ね……。ともかく、指先と扱いには気をつけてね。 はい。わかりました、ミセス・ハドスン。 あら、あら? ええ、アーシェリカちゃんのお陰かしらね、今朝は随分と調子が良さそうな顔をしてる。 ……はい。あの子といると元気を分けて貰えます。 自然な笑顔で応えることができた。アーシェが泊まってくれたお陰、だろうか。少し、まだ、表情に違和感があったけれど。 それでも── 昨日よりずっといい笑顔になった気がする。 吸血鬼? そう。俗に吸血鬼と呼ばれるものさ。正しくスラヴ風の名を言うのであれば── ヴァンパイア、という。名前ぐらいは聞いたことがあるのでは? ──どこか得意げな調子で。──ひとさし指を立てた、貴公子の言葉に。 ──アーシェは驚いた顔をしていた。──あたしも、そう、驚いて。 メアリも戸惑ってはいた。けれど、先にアーシェが驚いていたために、自分は、あまり、顔に出さずに済んでいた。 唐突な言葉だった。何を言っているのかしらと微笑んで流して、立ち去っても良いはずだとは、思うものの。 それでも──ハインツが口にした名詞に意識を引かれる。 吸血鬼。ヴァンパイア。朝の碩学院へ登院したばかりの自分たちが、ハインツ・ヘーガーに投げ掛けられた言葉。 普段なら、そう、おかしな貴公子さんねと微笑みを向けて終わりのはずの突然の言葉。それなのに、メアリもアーシェも。 立ち止まってしまっていた。実に、それは、絶妙なタイミングだった。 ホーボーンの下宿から地下鉄へ乗り込んで、降車して、シティの碩学院への道すがらはずっとアーシェに質問され通しだった。 質問。メアリのことについて。最近会っていると思しき“誰か”のことをアーシェは根掘り葉掘る勢いで問い続けて。 ──年齢は、顔は、年収は。──真剣な表情でアーシェは尋ねてきて。 ──冗談を言っている顔じゃ、なくて。──アーシェは本当に真剣で。 そういう風な相手ではない、ホームズ氏の知人で、いかがわしいことは何もないのよ。そう言ってもアーシェは信じなくて。 前はお医者さまだったじゃない、と。そのひととは別だからと言い訳をしても、納得がいかないらしく、首を横に振って。 「その男……。 もしもメアリにひどいことしたら……」 「ハワードになんか頼まないんだからね、 アーシェが直々に天罰! なんだから!」 ちょうど碩学院の正門をくぐる頃に、我慢ならない様子のアーシェが声を上げて。宥めようとしたものの、勢いは止まらずに。 男性かどうかも言っていないのに、すっかり、アーシェは思い込んでしまって。 ──嬉しかった。──アーシェが心配してくれていること。 ──勘違いされたままでいようと思った。──本当のこと、知られるよりも。──きっとこのままのほうがいい。 事実を気付かれることだけは避けたかった。嘘を言うことになっても、勘違いをされたままでも。 黒い街と怪物の多くを知る、正体不明の、恐らく犯罪組織の人間であるところの彼。 ──M。 ジェイムズ・モリアーティと名乗った男。偽名かも知れない。だから、まだ、メアリにはMとしか。 彼とアーシェを近付ける訳にはいかない。だから、勘違いされたままでも良いから、ともかく興味を失って欲しかった。 けれどアーシェはすっかり意気込んでいて、なんと言って宥めたものかとメアリは考え、口ごもっていたところ── ──その時だった。──中庭で、彼が話し掛けてきたのは。 ──待ち構えていたように声を掛けた彼。──ハインツ・ヘーガー。 アーシェはそれどころではない顔で、ハインツには一切興味のない素振りだった。一方のメアリ自身も同じく、だったものの。 ハインツが口にした名詞に興味を引かれた。スラヴ伝承に登場する吸血鬼ヴァンパイア。足を、止めてしまっていた。 言葉にできるほど明確な理由はなかった。ただの、直感だった。 つられてアーシェも立ち止まってしまって。そして、こうして、驚いた表情を浮かべて、首を傾げながら── 吸血鬼……。 光栄なことに興味がおありのようだね。良かった、面白い話を仕入れたのだけれど、肝心の話し相手が見つからずにいたんだよ。 麗しのメアリ・クラリッサ。それに、かの数学の秀才ダレス家令嬢まで。 とっておきの話を披露する相手としては申し分ない顔ぶれだ。ああ、今朝の僕は、幸運の女神の申し子だ。 (メアリ、ね、メアリ。 このひと、メアリの知り合いなの?) (知り合いというか……。 ええ、挨拶を交わしたことなら何度か) (それ知り合いじゃないじゃん……。 でも、メアリはいいの? 吸血鬼って、これ、多分怖い話だと思う) (ええ、大丈夫。 最近はね、うん、多分……平気よ) (白昼夢も殆ど見ないの。 だから、話を聞くぐらいなら、別に) さてと、それでは早速── と、言いたいところなのだけれどね。 詳しい話は研究棟の中でも構わないかな?さる教授から頼まれ事があってね、書類をひとつ届けなくてはならないんだ。 時間かかるなら無理だからね。始業まで、もう、20分しかないんだし。話しかけといてついてこいって、何なの。 ア、アーシェ?そんな言葉遣いを── いや、確かにアーシェリカ嬢の言う通りだ。しかし僕も失礼を承知で言っている。 ……? 何せ僕がこれから向かうのは第1教授室だ。しかも、かの教授はご不在ときている。つまり、どういうことかは、わかるね? 誰もいないの!?第1教授室って、あの第1教授室!? そう。しかも今朝の僕の得た入出許可は、室内にあるものであれば、何であっても自由に閲覧が許される── え。 うん、よーっし、行く! メアリ、ほら何してるの早く行こうよ! ア、アーシェ!? 本当に、第1教授の部屋だった。メアリにとっては唯一見覚えのある教授室。 数理の道を志した院生たちにとっては、神にも等しいとさえ言われる第1教授。数学は天体すら解き明かせると示した人物。 その彼の部屋、その彼の蔵書や研究書類は、数学専攻の院生にとってはまさに宝の山だ。同じ量の黄金よりも尊いのだろう。 部屋の扉をくぐった途端、アーシェは目を輝かせて溜息を吐いていた。男子が近くにいるというのに、構いもせず。 ──まるで、一昨日の劇場の時のように。──憧れと羨望の眼差し。 ──そして、自分もこうなろうという願い。──アーシェの強い意思を感じる。 33あるアーシェの夢のひとつは女優で、同じくそのひとつが数学を極めた碩学で。メアリはよく覚えている。 およそ2年ほど前。初めて会った時にアーシェの述べた言葉。 ──虚栄心なんて一切ない澄んだ瞳で。──夢を語る、アーシェの姿。 ──その表情は、とても、輝いて見えて。──眩しいとさえ思った。 すごぉぉぉい……。エルンスト・クンマーのイデアル論原本に、コワレフスカヤ女史のアーベル第3関数論! ああっ、こっちはジーゲルの天体力学!学会で否定されちゃって出版できないままどっかにいっちゃったはずの論文の写し〜! 訂正ラプラス方程式に、超越数への疑問、第5次方程式の幻の解法まである〜!んもー、なんなの、第1教授、ずるい!! アーシェ、ちょっと、だめ……。あまり騒いで本を落としでもしたら……。 はは。気にすることはないさ。ここにあるもののすべてを第1教授は既に読了しているし、扱いは随分とぞんざいだ。 自由に手に取るといいさ。大丈夫、僕は彼の研究会のメンバーなんだ、それくらいの裁量はしても許されるんだよ。 ……そう、なんですか。 ──少しだけ。──ほんの少しだけ、彼に、興味を抱いた。 ──第1教授が誰かを手元に置くだなんて。──俄には信じ難いことだもの。 ──あんなにも迷いなく。──自分と自分以外の人を区別した教授が。 ──静かな観察者であり続けるのみ。──そう言っていた、あの、第1教授が。 さてと、これで書類の提出は完了だ。それではお待ち兼ねの話の続きとしようか。 吸血鬼、ヴァンパイア。今までに何かの本で読んだことはあるかな? あるけどー。うん、ブラム・ストーカーさんの小説で。 本当に遠慮のない様子で書架を漁っては幾つも胸元に書籍や紙束を抱えたアーシェは、かの著名な“ドラキュラ”の名前を挙げた。 メアリが思い浮かべたのも同じ。一昨日、昨日と続けて出会ったあの紳士が発表した怪奇小説“吸血鬼ドラキュラ”だ。 うら若き乙女の血を欲する吸血鬼。中世に実在したドラクル公と同じ名を冠し、幾人もの犠牲者を生みながら、斃れた怪人。 その小説が発表されたのは数年前のこと。まだ、その頃には、大丈夫だった。恐ろしい話に触れても白昼夢を見なかった。 まだ、メアリは子供だった。右目も黄金瞳には変わっていない頃のこと。 しかし、ね。本来のヴァンパイアというものの由来とは、かの怪奇小説は些か描写が異なっていてね。 ええっと、あんまり詳しくないけど、吸血鬼って……スラヴのおばけだよね? そう。その通り。しかし本来は人のかたちを保つことはなく、埋めた死体が這い出て人を襲うだけなのさ。 ……歩く、死体? 然り。 うぇ。きもちわるー。じゃあ小説のほうがいいね、腐ってないし。 (……うう) (アーシェ、すごい……。 朽ちた死体なんて想像もしたくないのに、 け、結構、あなたは……平気な、顔……) ──本当に、気味の悪い話だった。──ハインツという彼のことが少しわかる。 ──貴公子と呼ばれるほどの容貌なのに。──このひと、ええ、間違いない。 ──悪趣味なんだわ。──女子に、平然とこんな話をするなんて。 まるで舞台上の俳優のように、高らかに、ハインツは言葉を紡ぎ続ける。 名劇場から週に1度はスカウトが来る、と囁かれるのも頷ける。整った鼻梁に、よく通る綺麗な声。 まるで、この部屋が舞台になったかのよう。決して、昨日や一昨日のような素敵な演目内容ではないけれど。 ヴァンパイア、それに、ノスフェラトゥ。歩く死体。狼男も恐らくは由来のひとつ。ブラム氏の生み出した吸血鬼は……。 死を匂わせる怪物たちの新たなかたちさ。既に怪物や妖精たちの伝承を過去とした現代文明における、新たな怪物像なんだよ。 古代や中世のように人々は伝承を恐れず、実在のものではなく、創作されたものを愉しむというすべを知った。 怪奇小説という存在がそれを示している。今や、恐怖でさえも娯楽のひとつだ。 しかし、そうも言い切れないかも知れない。近頃の噂……。 あ、う、うん。噂ね、たまに女子の間でも聞くね。うん。 アーシェの表情が強ばる。きっと、ハインツの続く言葉を察したせい。 怪物や恐怖に連なる近頃の噂。そんなものはこのロンドンにはひとつだけ、夜の影に潜み人を襲うものたちの、噂だけ。 つまり── 夜の《怪異》── これは一番新しい噂だ。新たな《怪異》は人の生き血を啜るらしい。 つまり吸血鬼の復活という訳だ。 で、でも、ヴァンパイアってさ、伝承や怪奇小説に出てくる登場人物でしょ?おとぎ話とか、創作なんだから……。 人を襲ったりできないよ。も、もう、そんな噂話やめてよね。 奇妙な一致ということさ。もしかすると《怪異》と名付けられた噂は、おとぎ話の成れの果てであるかも知れない。 現在の文明が荒唐無稽として排斥した伝承、おとぎ話、神話。それらがこうして再び姿を見せて。 人智の及ばぬ存在として蘇り、確かにこのロンドンに実在している── そう断言するタブロイドもあるくらいさ。この風潮が加速すれば、いずれ、各地の伝承の再発見が行われる可能性もある。 わかるかい?これは、つまるところ文化の再誕さ。 20世紀というこの繁栄に充ちた新時代と機関文明に駆逐されたはずのおとぎ話たち、それが、蘇るんだ。 興味深いと思わないかい?夢や幻が再び、実体として人に認識される。 これはある意味では、ひとつの世界の創世であるとも言える── ……え、えっと……。 む、難しい……ねー……?あはは、アーシェ、数学専攻だから……。 ……う‐ん、と……。 アーシェがこちらを意識するのがわかる。不安げに、大丈夫かなと、視線をそっと向けてくる。 夜の《怪異》の噂を聞いてしまうだけで、メアリは、白昼夢へと落ちてしまうから。右目から涙を流して。 初めてメアリがそうなった時、アーシェもシャーリィもひどく驚いていた。原因が何だか見当もつかずに、ただ慌てて。 何度か繰り返しているうちに、理由や原因はわからないままだったけれど、因果関係だけは判明した。噂、白昼夢、涙。 だから、ふたりはメアリを守ってくれた。その噂が話題に上りそうになった時には、話を逸らしたり、席を立たせたり。 そんな時は、いつも、シャーリィがいた。アーシェと連携して見事にメアリを守って。 でも、今は── シャーリィはここにはいない── ……どうか、したかな。顔色があまり良くないようだけれど。 麗しのメアリ・クラリッサ・クリスティ。繊細なきみを僕は傷つけてしまったのかい? 確かに、気味の悪い話だ。苦手なようであればこれ以上はしないよ。 博物学及び文化人類学的見地からの興味で僕はこういった話を好みはするが、夜の《怪異》の噂を信じる女性たちは多い。 悪いことをしたね、メアリ、きみもそのひとりとは── ……いえ……。 自然と右の目元へ手が伸びる。確かに、今、白昼夢と、涙の予感があった。 話を逸らさなくてはいけない。もう、駄目。このままでは白昼夢に落ちる。涙を、誰かの前で流してしまうことになる。 涙を流す自分を見られたくない。できれば、誰にも。 ──もしも、見せてしまうとしても。──アーシェにだけ。 ──シャーリィとアーシェ以外の誰にも。──こんな姿、見られたく、ない。 ……ハインツ、さん。 何だい。メアリ。質問かい? 大衆小説もお読みになるんですね。少し、意外でした。 才能は認めなくてはいけないからね。それに、あれはよくできている物語だよ。 想い、縋り、焦がれ、けれど届きはしない、哀れにして恐るべき、ひとりの人間の物語。神を想い、彼は神に呪われた。 素晴らしい物語だった。それは、認めざるを得ない厳然たる事実さ。 だがね。僕はこうも思うのさ。 あれは、神とあの男との物語である以前に、己を己で縛り付けた男の話であるとね。 ……きみは、どう思う? ──なぜだろう。──あたしはその時、思い浮かべていた。 ──暗がりの中で黒と赤に彩られた男。──Mの、姿を。 午後── ぽっかりと講義のない時間。ある程度までは学年度の初めに調整して、あとは日々の講義予定と睨めっこをして。 ささやかな自由時間。およそ1ヶ月と暫く前の10月のあの日、あの時までは、シャーリィもいたはずの。 でも、今日はふたり。メアリはアーシェと共に院を抜け出して、クィーンズストリートに面したカフェへ。 レディ・クローディアの無国籍風カフェだ。いつものテラスのいつものテーブルに着き、いつものように── アフタヌーン・ティ。この1週間ほどのアーシェとの習慣。 もう1ヶ月以上も途絶えていた習慣だった。こうして再開できたのは、きっとヴァイオラのお陰。 彼女を案内してここへ来ていなければ、メアリもアーシェも、自分から言い出してカフェへ来ようとはしなかったと思うから。 ──シャーリィのことを忘れずに。──けれど、気持ちを沈ませずに。 ──そんな風には。──あたしたちふたりでは、無理、だった。 ──ヴァイオラのお陰。──シャーリィにどこか似た、あなたの。 「寝てる間、しょんぼりお茶してた‐、 なんて言ったらシャーリィ悲しい顔する」 「そうだよね。メアリ? だから、しょんぼりしないようにしよう」 ヴァイオラが故郷へと発った後、決意を込めた瞳でそう言っていたアーシェ。 ──うん、そうね。そうだよね。──シャーリィなら、きっと、そうね。 ──だから。──目を覚ました時のために。 ──あたしたちが先んじて。──うん。予定、立てておかなくちゃ。 えーっと、ねー。劇場巡りの予定は一昨日にもう立てたから、次は、おいしいもの巡りの予定を立てよう! ハワードがね、エジプト風の料理を出すおいしいレストランを見つけたんだって得意げな顔してたの。 シャーリィはエジプト好きだったよね!だからー、一番最初はここ行こ! うん、うん。そうね。行きたいけれど暑さにきっと耐えられない、なんて、前に何度か嘆いていたし── ええ。きっと喜ぶわ。エジプト料理ってどんなものかしら? タンドリーチキン、とか? それはインドでしょう?エジプトはインドのもっと西にあって、欧州に近いのよ。ほら、スエズの運河。 ……インドと違うの? アーシェリカ。今度、世界地図をおさらいしますからね。貿易商のお嫁さんがそんな風では、だめ。 そもそも、エジプト王国は英国によるれっきとした保護国で……。 あれ。え、ふぇ?でも、あれ、オスマン機関帝国は?? それはエジプトの宗主国。それも、ええと、言いにくいのだけど── ……もー、こんがらがっちゃうよぅ。ハワードもこういうの全部覚えてるのかな、もしそうなら、話、合わないのかも……。 こら。投げ出さないの。あなたが方程式をすいすい覚えるみたいに、ミスタ・ハワードもきっと覚えてますとも。 本当に、もう。数学はあんなによくできるのに……。 地名とか地図のほうが難しいよぅ。 そんなことより、次のお店どこか決めよ!ほらほらー、次の講義の前に決めちゃお! 世界地図のことは忘れませんからね。今度、きっちり暗記ね。 で、そうね、そう……次のお店……。 ……ね。アーシェ。 なに? おいしい料理屋さんにも行こうね。でも、それの他にもちょっと提案があるの。 シャーリィとも少しだけ話したのだけど、まだ、あなたには言っていなかったから。どうかなと思って。 なに、なに?それって、楽しい話? そ。もちろん楽しい話ですとも。あのね。 心持ち静かな口調になってしまった。慎重に、記憶を思い出そうとしていたから。あの日、あの晩にふたりで話していたこと。 あの時、シャーリィと交わしかけた約束。まだ返事を聞いていない。 ──それでも。──目が覚めたら返事を貰うのだから。 ──先に、アーシェリカ。あなたにも。──きちんと話しておかなきゃ。 ……ふんふん。なるほど。いいね、毎月1度開催のお食事会! 場所はどこでやるの?あ、そっか、またシャーリィのお屋敷で?ドナの料理、アーシェ、大好きなんだ〜。 シャーリィのところでもね。それから、あたしの下宿でも開いてみよう? ……う……。そ、その流れからするとぉ。もしかして、順々にみんなの家でやるの? うん── やっぱり、アーシェのところは難しそう? う〜〜ん。ちょっと、難しい、かも。かも。アーシェはいいんだけど兄貴たちが、うん。 そだ。ハワードの部屋じゃだめ? んー……。そう、ね。勿論、駄目だなんて言わないわ。でも。 できれば、ミスター・ハワードのお部屋が、正式にあなたの部屋になっていて欲しい。 ……かしら? ふぇ。 そ、それ、それって……。そのぅ……。 あのぅ── ──ぴたり、と。──言葉ごとアーシェが動きを止める。 恥ずかしげに俯きかけたアーシェの動きが、突然、篆刻写真のように止まっていた。 まだミスター・ハワードとの恋の話は恥ずかしいのかしら、とメアリは首を傾げてみる。 普段は、もっと違う反応が返るはずなのに。こんな風に突然に動きまで止めて、視線をどこかへまっすぐに向けて。 視線? 疑問に思ってメアリはそれを辿る。 アーシェの視線の先には──昨日も、その前日にも目にした覚えのある、穏やかで美しい灰色と、黒と、赤があった。 印象的なマント姿。昼間であっても周囲に溶け込むかのような、落ち着いた黒色で、裏地は、鮮やかな赤色。 ──ブラム・ストーカー氏の姿。──それと。 ──あと、もうひとり。──これも見覚えのある小柄な、黒髪の。 氏の座る椅子の向こうにいる誰か。テーブルを挟んだあちら側に座り、優美な仕草でカップを手にしている人物。 見覚えがあった。それも、昨日や一昨日に見たばかりの顔。 美しく── 思慮深い瞳をした── ヘンリー・アーヴィングさま!?うそ、やだ、うそ‐!! (アーシェ、だ、だめよ! 声、声、すごく大きな声出てる!) 悲鳴のようなアーシェの言葉。びっくりしてしまうほどの大きな大きな声! お陰で、メアリは我に返ることができた。まさか、ここで、あの俳優を見るなんて、呆然としてしまいかけていた。 連れ合いがすみませんと周囲に謝りつつ、咄嗟に、アーシェを宥めようとする── (アーシェ、落ち着きなさい! 大きな声を出しては迷惑になるから!) で、で、でもー!ほ、ほら、あそこでお茶飲んでるぅ!!ど、ど、どど、どうしよ、メアリっ!! (とりあえず声! アーシェ、まずは声、我慢してっ) 窘めようとするメアリであるものの、自分も驚きのあまり思考がうまく回らない。行きつけの店で、こんな事態があるなんて! 何を言えばいいのか判断がつかない。小声になるのが精一杯。 とりあえず落ち着かせようとは思い、何度も小さく声を掛けはするものの、すっかりアーシェは興奮してしまっていて。 (ああん、もう……! と、とりあえず、椅子に座ってー!) こらこら。そんなに慌てないの、みっともない。 黄色い声をそう軽々しく出すんじゃないの。自分から安く売ってどうするの、まったく。アーシェリカ? だ、だって、だって!ほ、ほほほら、そそこにヘンリーさま! (アーシェ、声、声!) もう、少しくらい自制しなさいな。そんな声は相手に出させてあげるぐらいの気持ちでいないと、先々で、損をするわよ。 ただの常連さん相手に、いちいち、そんな反応しないで頂戴な? 常連さん?? そう、あなたたちと同じね。昔から行きつけにしてくれてるのよ。 ……ええ。そういうことです、お嬢さん方。 ご機嫌よう、おふたりとも。こうも連続してお会いすることになるとは。 じ……常連、さん、なん、だ。そ、そなんだ……。 (アーシェ、言葉遣い! きちんとしなくてはだめよ、もう!) ええ、一時は毎日顔を出していましたよ。ここと自室のどちらが家であるのか、自分でわからなくなってしまうほどにね。 暇人だと思ってたのにねえ。まさか、劇場なんて始めるとはねぇ。 今でもそのつもりではあるんですが、そう言う訳にもいかず、ご無沙汰しました。 しかしやはりここの味は素晴らしい。たまには、息抜きも良いかと思いまして、再び顔を出させていただきました。 そういうこと。ふと、ここのことを思い立ったんだ。 力を入れていたシェイクスピアが無事に最終日を迎えてくれそうな気配だし、ね。久しぶり、レディ・クローディア。 それに……ああ、そこのお嬢さん方も。初めまして、ご機嫌よう。 私の舞台を観にきてくれた子たちだね?ブラムから話を聞いているよ、ありがとう。 少し、息をつきたいと思っただけなんだ。もしも驚かせてしまったら、ごめんよ。 ──そう言って、微笑むのは。──件のヘンリー・アーヴィングその人。 ──舞台上にいるはずのひとが。──いつも訪れているカフェに、いる。 ──現実感がなかった。──まるで、ここも舞台の一部のようで。 ──すぐに挨拶を返すべきだとわかるのに。──ぽかん、となってしまって。 はわ……!ヘンリー・アーヴィングさまーっ!! (あ!) (ああっ、アーシェ! また、大きな声出してるっ……!) 線の細い、ひとりの男が── 男が、古書店の暗がりの中に立っている。男は、縦横に本が詰め込まれた本棚から一冊の本を抜き出す。 男の名はアーサーという。しかし、彼は最早、己の名を覚えていない。 彼の世界は本の中にのみあった。故に、あらゆる虚実が彼には世界であり、故に、あらゆる現実は彼には意味がない。 手に取った本を開く。赤い装丁の、ひどく古ぼけた本だった。 それは忘れられたおとぎ話であり、過去に忘れられた神話の類でもあった。 その本には名前がない。いや、彼は本の名など必要がないのだ。 闇夜の如く麗しい吸血鬼。彼は美しい乙女を目にすると、付け狙い、必ずやその柔肌に牙を突き立てるだろう。 逃れることはできない。夜が、必ず訪れるのと同じように。 彼は本を読み上げる。暗がりの、何もない空間に向かって。 そう、本当なら恐ろしいね。そういうことになっているけどね。 だが、実際のところ。吸血鬼なんてものは存在していないのさ。 見えない何かへと彼は囁く。彼にだけ見える、妖精の小人に向かって。 彼は決して人間を認識しない。彼の目は、架空の存在だけを視るから。 このロンドンで未だ燻り続ける《怪異》。5匹目は、まだ── まだ、わかっていないだけなのさ。自分が何者であるかを。 ……どうかな。もう、そろそろ落ち着いたかい? 可愛らしいお嬢さん。驚かせてしまったようで申し訳ないね。 名優ヘンリー・アーヴィングの微笑。完璧な表情だった。 美しく涼やかで輝くような、それはまさに、街にすんなりと在ってよいものではなくて。在るべき場所は他にあるのだろう。 劇場という限られた場でのみ見ることを許された、大輪の花。神の恩恵のひとつ。少し、大げさだろうか。 ──戯曲のロマンスが頭に残ってるみたい。──普段思わないようなことを、思う。 ──ヘンリー・アーヴィングさん。──憧れの、俳優。 それじゃあ、おふたりは、このカフェの常連の先輩さんだったんだ? そういうことになるのかな。そう、きみたちは私たちの後輩になるね。 碩学院に通う将来有望なお嬢さんたちが私たちの後輩とはね。鼻が高いよ。なあ、エイブラム? まったく、本当に。まさかおふたりが碩学院の院生だったとは。 えへへ。なんか恥ずかしいな。……世界地図はちんぷんかんぷんだけどね。 うん? ううん、なんでもないなんでもない。秘密のお話。秘密ってほどじゃないけど、ちょっと恥ずかしいから黙ってるお話ね。 ああも声を張り上げてしまったアーシェは、流石はアーシェ、順応する能力が高いこと。けろりとしている。 少しだけ早口になってはいるけれど、あの名優に対してまともに会話できている。 やはりアーシェは凄い人物なのだ。ひとしきり驚いた後には、こんなに平然と、物怖じする素振りさえなく話せるだなんて。 一方、メアリといえば。あまりまともに喋れていないというか、何を喋ればよいものかわからない状態。 ──ああ、アーシェがいてくれてよかった。──ええ。本当に。 ──相づちを打ってさえいれば。──ひとまずの形にはなる。 ──無理に話して、しどろもどろになる。──そんな失礼を働かずにすみそう。 もうひとりのご友人にも会いたかったな。病気が治ったら、ぜひここでまた。 うん、ぜひ!シャーリィ、きっとびっくりするよね〜。 ええ。それにとっても喜ぶと思うわ。どんな顔をするか、楽しみ。 それほど珍しいものじゃないのだけどね。ただ、喜んで貰えれば幸いだよ。だから、いち早い快復を祈ることにしよう。 今が昼間じゃなければ、グラスで乾杯をしたいところなんだがね? ヘンリーは涼やかな調子のままで、アーシェとメアリのふたりへと話し掛ける。 朝に出会ったハインツのことを思い出す。彼も、見目麗しい青年ではあるとは思う。舞台俳優に相応しい素養があるとも。 けれども、何かが違う。ヘンリーの華やかさが輝くものであるなら、ハインツの華やかさには昏さが感じられて。 目前のヘンリーは男性らしささえ見せず、中性的で、ひたすらに優美で。舞台上にいる時と何ら変わりなく感じる。 こういう男性が世の中にはいるのね、と、メアリは思わず感心してしまう── (……きれい……) (……こんなに、間近で……) やはり緊張してしまう。同じテーブルに着いているというこの現状。 完璧なまでの微笑と共に、親しげに話し掛けられるという、この現状。 どうかしたかい?メアリ、なんだか俯きがちなようだけど。 ……ヘンリエッタ。 きみは自分の身に備わったその魅力を、もっと理解したほうがいい。かわいそうに、お嬢さんを緊張させてしまっているようだ。 なんだいブラム、私に嫉妬かい?珍しいね。ふふ。 ──意地悪い風に笑ってみせる、彼。──演技。それとも本物? 舞台の上にいるような錯覚を感じてしまう。強く、強く。自分は本当は観客席に座って、何かの演目を観ているのだろうか、と。 けれど。目前のふたりの会話は自然なものに思える。 完璧な表情は舞台上のそれと同じだけれど、どこか、自然な素振りというものを感じる。親しげな、ふたり。 これが男性同士の距離感なのだろうか。あまり、親しみのないものだった。 昔はメアリも男の子に混ざって遊んでいた。でも、この年齢になれば流石に。 こんな風な── ともすれば仲睦まじい男女のように思える雰囲気が、男性同士の友情、なのだろうか。 ふぅむ……。きみが女性にもてないことは、別段、私のせいじゃないと思うんだけどな……。 ヘンリエッタ……。 (……ん?) ──ヘンリエッタ。──確かに、そう呼ぶのが聞こえた。 ──そういえば、ついさっきもそう。──ヘンリエッタ。──女性の名前を。 自然と首を傾げてしまう。聞き間違えかしら、と、静かに思いながら。 ……? あれ。メアリ、知らない?本名はヘンリー・アーヴィングじゃないの。 ヘンリエッタ・アーヴィングなんだよ?あれ。前、言わなかったっけ?シャーリィとほら、ハロッズの写真機関で。 ふふ。 え? ミス・ヘンリエッタ・アーヴィング。俳優さんだけど、女優さんなんだよ。あれ。ほんとにアーシェ言わなかったっけ。 え?? 無理もないことです。知らない人は驚いてしまうでしょうね。 ……女性? 正真正銘のね。そう、私は女だよ。別に、隠してる訳じゃないんだけれど。 自然と男役が多いものだから、ヘンリーのほうが通りが良いだろうってね。 一時期はタブロイドに騒がれましてね。しかし、別に彼女は隠している訳でもない。 うんうん。そんな記事あった、あった!でもすぐに騒ぎは収まって……。 そっか。メアリ、そういうの疎いもんね。タブロイドとかあんまり読まないし、噂話とかもあんまり聞かないほうだし? え。 ──女性?──ヘンリー・アーヴィングが?? ──え? え?──え、え、え、えええっ??? (あれ、友情……男性同士の……。 あれ、それじゃあ、その……え……?) (女性、と……男性……?) また、驚かせてしまったね。申し訳ない。どうか許して欲しい、メアリ。 でもね。実は少しだけわざとなんだ。そうして知らない誰かが驚く顔を見るのが、私は、好きなんだ。 ……ごめんよ? またも完璧な笑顔。今度は、少し、悪戯っぽい雰囲気を混ぜて。 ああ、言われてみればそう、男性相手に感じるはずもないこの艶やかさ。これはそう、女性の持つものかも知れない。 驚いてしまったままの意識で、メアリは、なんとか、そう受け止めて。 笑顔を返す。鏡を見なくてもぎこちない自分がわかる。嘘を吐く時とは、また、別のぎこちなさ。 済まないことをしたね、綺麗な瞳のメアリ。けれど。僕も少し驚いたんだよ? ……はい? 驚いたの?何に? その黄金色の瞳さ。とても綺麗だ。妖精眼……カダスでいう黄金瞳だったかな。 ふぇ。黄金瞳? そう。願いを叶える瞳と聞いているよ。まさか、本当に存在したとはね。おとぎ話のものだとばかり思っていたから。 ……驚いたんだ。うん、これでおあいこじゃないかな? また悪戯っぽく言って。ヘンリーの瞳が、黄金色の右目を見つめる。少し遅れて、アーシェと、ブラムも同じく。 急に注目されてしまって、メアリは当然困ってしまったのだけれど。 別の感覚があった。緩い困惑とは別の、もっと、冷ややかな。 ──なぜだろう。──その瞬間、背筋を走ったものは。 ──奇妙に思えてしまうほどに。──ひどく、冷たくて。 はー……。今日は、もー……すごかったねぇ……。 ええ。すごい体験だったわ。もう、緊張の連続で……。 アーシェなんて大声出しちゃったもんね。ほんと、すごい日だったね……。ほんと、すごい濃かったあ……。 そうね、密度のすごい……。ティータイムだった、わね……。 夕刻からの講義を終えて。ティータイムを捻出してしまったお陰で、帰宅の時刻は、やや遅くなってしまった。 正門を出るまでの短い間だけれど、メアリは、アーシェと一緒に中庭を歩く。 午後のひとときの出来事を思い返しながら。自然と、話題はあのふたりについて。ヘンリーとブラムのふたりについて。 あのふたりって恋人同士なのかな、と首を傾げるアーシェに対して。同じように自分も首を傾げて。 ──シャーリィがいれば、もっと。──素敵なことを口にできるのだろうけど。 ──あたしたちふたりでは、うん。──ちょっと難しい。 ──もう。アーシェったら。──婚約までして、恋の大先輩なのに。 じゃあ、また明日ね。おやすみなさい。アーシェリカ。 うん。おやすみ、メアリ!どうか、いい夢を見てね。できればアーヴィングさまの舞台みたいな! ……緊張しちゃいそう。アーシェこそ、夢で浮気しては駄目よ? はーい。じゃあ、おやすみ。メアリ! 夜になっても明るいままの笑顔。元気よく手を振って。 アーシェがガーニーに乗るのを見送って。自分は、最寄りの地下鉄駅へ向かうため、クィーンズストリートへ。 正門を出る、直前。中庭の中央に立った時計を振り返る。 時刻は21時。ここ暫く、帰宅の時刻を気にしてしまう。 ──夜の時刻。──そう、あたしは気になってしまう。 ──23時ではないかどうか。──帰宅が夜になる時は、ええ、そう。 ──確認するの。──振り返ることにさえ、少し、怯えて。 初めの印象のせいなのだろう。23時のクィーンズストリートを歩けば、また、黒い街が訪れるのではないか、と。 自然と身構えてしまう。走るべく、本物の怪物から逃れるべく。 ──怪物。おとぎ話や伝承じゃない。──正真正銘、本物の。 ──あたしを追う不気味な《怪異》たち。──他の何もかもが幻想でも。──彼らだけは、違う。本物。 …………。 軽く息を吐く。溜息にはならないように。 今夜、気のせいではなく黒い街を走るなら。必ず連絡が来るはずなのだから。 それまでは考えない。記憶の彼方の黒い街。電信越しに、あの男の声を聞くまでは── 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──暗がりの殺人鬼の真相を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 欧州の闇深くで蠢く結社の刺客であるとか。故国のために命を賭す若き騎士であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回廊を思う者もいる。──螺旋を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。献体がまたも使用されたようです。 順調だな。フラグメント類型は。 はい。数式パターンの思考ノイズを確認しました。 妖精型か。 はい。5体目です。正確には、3体目となりますが。 そうか。 さて。求める者よ、お前はどの程度の叫びを聞かせるのか。 それは── ──それは、夜闇に佇む小さな人影だった。──きっと子供。 こんな夜遅くに、子供が、たったひとりで。佇んでいるのか歩いているのかわからない。姿は、朧で。 そう、涙の印象があった。不気味な暗がりと距離とに隠されながら。 それは幻のようでもあったけれど、機関街灯からの明かりは幼子の影を作り、今が現実であることを強かに告げている。 しかし、あり得ない。遠目に見てもあの子は浮浪児ではないのだ。 風のままたなびく髪と服装がそう告げる。朧に揺れるそれらは透き通って。 誰ひとりの供もつけずに、この時間、テムズの橋をひとりきりで歩く、幼い子。 ──ひとりきりで、幼子はそこにいた。──霧と排煙の中で。 ──幼子の、口元が動く。──小さく、何かの言葉を囁いているのだ。 ──幼子の、瞳が揺れる。──都市を見つめる双眸から滴が落ちる。 溢れ落ちた涙はかたちとなる。揺れる言葉と共に。 「……うつら、うつらと……」 「……よびよせる……」 「……あなたの、こわいもの……」 「……なあに……?」 幼子の影が── かたちとなる── 歪み、ねじれて、軋む音を立てて。数え切れないほどの黒い首を振り上げ、数え切れないほどの紅い瞳を瞬かせて。 影は、黒い怪物となる。幼子の足下の影から、次々と、次々と。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 メアリが悪夢と呼んだあの晩に湧いた、黒い怪物が、幾つも、幾つも。 「……それは、どろりと、したたって……」 「……だれかが、いつも、傷ついて……」 「……しずくと、なって……」 「……土が……」 「……赤を、すいこむ……」 「……去りしはずの、国、から……」 「……みっつめの、ものが……。 ……ここへ、来る……」 「……なにも、かもを……」 「……すいこむ、ため、だけに……」 ──幼子は、都市のさまを見つめている。──そうして、何かを囁いて。 ──岸からは遠すぎて、表情は見えない。──けれど。 けれど。その表情とその涙を、ただひとりの人影だけが見つめていた。 蠢く黒色の怪物に怯むこともなく、その群れを率いて囁く幼子にも怯えずに。ただ、沿道から橋の上をじっと見つめて。 違法品の暗号変換器付き電信通信機で、誰かと、静かに会話しながら── ええ、ミスター・ホームズ。確認しました。 新型《怪異》の発生を目視にて確認。ええ、わかっていますとも。 オニール大佐に連絡します。愚かな軍人程度でも、何かの役には立つ。 保険は多いに越したことはない。そうでしょう? ──真夜中のシティエリア。──ひとりで、霧の多い表通りを歩く。 クィーンズストリート。人通りに自然と意識を向けてしまっていた。大丈夫、街路を行き交う人々の姿は、多い。 クラブやパブから帰る男性たちの姿もあり、逞しく駆け回る浮浪児の子たちの姿もある。商社や金融会社の社員の姿がやはり多い。 これが正常。いつかのように人が“いない”のが異常。 都市の心臓部と呼ばれるだけのことはあり、夜であってもある程度の人の行き来がある。心臓を、常に血液が流れるように。 遙か高みに位置する複合超高層高架がこの都市の大動脈であるとするならば、やはり、ここは心臓だ。 シティエリアには巨大な支柱塔もある。数基のそれら中でも最大のものだ。 ギリシャ神話の神々の如き偉容を伴って、聳える巨人のようにして人々を見下ろす。紛うことなき、現実の柱。 ……寒い、な。 ぽつり、と呟く。他の誰に聞かせるでもなく。 声は、反響しながら消えて。音が人通りの中に吸い込まれていくような。 寒い。そう、11月の肌寒さを強く感じる。年明け以降の強烈な寒さのことを考えれば、衣替えにはまだ早いけれど。 白い息を視界に捉えながら、メアリは歩く。 もう目指す地下鉄駅は見えている。碩学院に最寄りの、ホーボーンへの路線。 地下鉄駅入り口の、街路に穿たれた地中への階段へ、足を── 踏み入れようとした。 その寸前── 自分の声より大きな音、鞄の中の電信通信機からベルの音が鳴った。 誰かからのコール音。ぞ、と背筋を走る嫌なものを感じてしまう。 言うまでもなく、それは一瞬の緊張だった。掛けてきたのが誰なのかわかってくれればいいのに。強く、そう思う。 ──誰。──アーシェ、今別れたばかりなのに? ──それとも。別の誰か。──例えば、ええ、そう、黒色をした彼。 ──今までにはなかったのに。──ベルの音を怖いと思ったことなんて。 ベル音が続く電信を取り出し、耳元へ。ジョグダイアルをずらして、回線を開く。彼の声を予想しながら。 アーシェであればいいのに。もうひとりの可能性をどこかで否定しつつ。 機械を、耳元へと近付けて。静かに唇を開く。 ……誰。 『俺だ』 ──ああ。そう。──やはり、あなた、だったのね。 ──その、瞬間、あたしは感じていた。──奇妙に落ち着いた意識で。 ──背後に在る何か。──姿は“まだ”見えない“あれ”の気配。 ──来た。来た。来たのだ。──ああ、わかる。背後に生まれた気配が。 ──電信越しの声と同時に生まれた気配。──彼の、Mの声と同時に。 ──何かが聞こえた気がした。──声。電信越しの彼のものではない、声。 ──誰かがあたしに呼びかける声。──地下鉄入口を歩く誰か。違う。違うわ。 声は明瞭には聞こえていなかった。ただ、背後で響いたという実感だけがある。誰。違う。誰でもない。 人間の声には聞こえなかった。覚えのない歪んだ音。 今までに聞いたことのない音。声。けれど、確かに以前感じたことのあるもの。 3度。違う、4度。最初と2度目の時はここのすぐ近くの場所、舗装道路の上にいるのは自分ひとりだけで。 ……来た、のね。 『わかるか』 ……いいえ、でも……。 何かが……。あたし、の……近くに……。 背後から声を掛けてきたのは何であるのか。わかる。既に、4度、メアリはそれを見た。確信と悪寒が強くなる。 予想はしていた。唐突な、平衡感覚の揺らぎ── 地面に立っているはずなのに、まるで、激しく波打つ水上に立つような不安感。立っていられないとさえ感じるほど、強く。 焦り。戸惑い。汗さえ出ないほどに凍り付いていく四肢。 あの気配。これまで4度目にしたのと同じ、新たな“あれ”が近くにいるのが、わかる。悪寒。吐き気も。 いつもははっきりと思い出せないもの。それが、再び、この身に。 ──ああ、この、強烈な感情。──ようやく、実感を伴って思い出せる。 ──走るあたしが常に感じていたもの。──目覚めた後には、いつも、消えるもの。 ひとりでに強くなる鼓動を感じる。走ってもいないのに、息切れしそうになる。どこか、他人の体であるような気さえする。 背後に気配を感じていた。焦りと寒気が全身を苛む中、メアリは思う。 ──駄目。まだよ、まだ。まだ。──人のいる場所で振り返ってはいけない。 ──あたしだけでいい。そうよ、メアリ。──あそこへ行くのはあたしだけ。 ──そう決めたわ。他の、誰も。──あたし、誰ひとり巻き込まないって。 『シティエリアに《怪異》が顕現した。 現在は姿を消しているが、すぐに』 『すぐに、お前を求めて顕現するだろう。 さあ、仕事の時間だ』 『契約を果たせ。仔猫』 ……仔猫って、言わないで。 言いながら── メアリは、周囲へ視線を巡らせる── 何をすべきか、迷わない。この右目を求めて来るはずのものに対して。 周囲には、ああ、誰も。寸前まで多くの人通りがあったはずなのに、誰も、メアリの周囲には誰の姿もなかった。 自分以外に、誰も。前回の時と違うのは何故なのだろうか。 気付けば、立ちこめる霧の濁った色は濃く。まるでメアリを呑み込むようにして、目前の地下鉄入口さえも覆い隠して。 吐き気、悪寒、寒気、焦り、すべてを感じ、ずっと、揺らぎ続けている平衡感覚を感じ、メアリは思う。 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──ええ、そうよね。 ──欲しいのはひとつだけ。──そうなんでしょう、あなたたちは。 ──それでいいわ。──他の、誰も、巻き込んだりしないで。 背後に迫る気配がどんどん存在感を増して、周囲が黒く染め上げられていくのがわかる。メアリは、意識を強く保つ。 大丈夫、もう、既に知っているから。何が訪れるのか。何を為すべきか。 周囲を包み、変えていくもの。これが── 何であるのか── 知っている── ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──鮮血を恐れた誰かのそれ。 計器の示した通りの位置に声は在った。でも、これまで4度と同じ。なぜ、この声があるのかは不明なままで。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 黒色の空に薄く浮かび上がる、あの黄金色の大時計は、一体、何なのか。 なぜ、この瞳を怪物たちが欲しがるのか。何ひとつわからない。 ──なぜシャーリィが瞼を開けないのか。──なぜ地下鉄入口の人々は消えたのか。──同じ。何もわからない。 ──でも。今は、そんなことどうでも。──どうでもいいの。 自分ひとりが逃げ延びればいいのなら、彼に、Mに言われたように走るだけで。他に、思うことはない。 いいえ、違う。思わないようにするだけ。逃げるだけでいい。余計なことはいい。 自分以外の誰もここにはいない。あの、恐ろしい声を上げる怪物以外には。 大小6つに分裂して襲いかかってくる、あの、怪物たち。まだ大きなほうを明確には目にしていない。 目にしたくない。きっとまた立ち竦んで、思考も意識も吹き飛ばされそうになって、それから。それから。 朧な記憶が恨めしい。走っていても、肝心な部分が思い出せない。 ──走り続けて、声を集めて。──それから。 ──それから後は。 何かがあったはず。どこかへ目指して走っていた記憶。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。前にもこうして隠れながら─── 影が伸びて── 視界を覆われて── あっ……!? ──追いつかれる!?──ああ、聞こえる、金属が擦れる音!  『目ヲ、クレエェェ……!』 視界を覆う影と同時に、叫び声!怪物。大小6つに分かれたものの中でも最も恐ろしい声を上げるものが、目前に。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。黄金瞳を抉り出そうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。まともに、その姿を見てしまった。 ──たったひとつの強烈な感情が充ちる。──それは、あたしの呼吸を奪う。 ──恐怖が胸を掴んで呼吸を止めてしまう。──駄目。駄目!  『……キサマ、ノ……』  『……右、目、クレ……』 その巨大なものは、今まで見たものとはかたちが違う。鋼鉄でできた、人間の型。人間に、似ている。 巨大であるのに鈍重な印象は僅かもない。屋内であれば天井を優に超える背の高さで、しかし、小型の動物のような俊敏な気配で。 鋼でできた、まるで、巨人のよう。けれど最初に目にしたあの怪物とは異なり、肋のような鋼も“格納”した犠牲者もない。 その、代わりに。長く伸びた腕の先の鋭い爪が濡れていた。 鮮やかなまでの赤色を湛えた血が、金属板を鋭く削り出したかのような鉤爪にまとわりついて、今も、ああ、滴り落ちて。 ぽとり、と。 どろり、と。 鋼の爪から命の赤色を大量に溢しながら。 ぽとり、と。 どろり、と。 歪んだ頭部の単眼から赤色を溢しながら。 ……あな、た……。 ……まさか……。誰か、もう、その……手で……。 ──溢れ落ちる、きっと誰かの命の赤色。──それを目にして。 ──あたしは、赤色の意味を理解していた。──この鋼の怪物は。誰かを。 ──誰かを。殺してきたのだ。──あたしにこうして迫るよりも、前に。 怪物を目にして湧き上がったはずの恐怖が、急速に、メアリの中で、意味を失っていく。締め付けられる胸の感触が薄れる。 呼吸が戻る。荒い息ではあったけれど、あらゆる意思を挫くほどの苦しさではない。 恐怖は消えていない。目前の、恐ろしい、機関と鋼を無茶苦茶に繋ぎ止めて壊して組んだような怪物は怖い。 怖くないはずが、ない。舌先が震えているのをメアリは自覚する。 ──怖い。怖いよ。──でも、でも、あたしは、それ以上に。 ──許せなかった。──誰を。誰を、あなたは殺してきたの。 殺す。誰かを── 理不尽な死を、誰かへ── 死── 見知ったことはない。人の死が、一体、どういうものであるのか。祖父母も、父も、見えないところで死んだ。 それでも。幼い頃に日曜日に通った教会の牧師さまと、幼い頃に父の葬儀で涙に暮れた母の言葉が。 それらがメアリを震わせる。恐怖ではなく、理不尽に対する憤りとして。 そう。憤り。もしくは怒りと呼べるもの── ──あたしは憤っていた。──そして、同時に、奇妙な納得があった。 ──誰かを殺したこの怪物にじゃないわ。──奇妙な、納得は、自分自身へ。 ──怒ることができるほどに、あたしは。──慣れてしまったのだと感じただけ。 ──恐怖に。 メアリは怪物を睨み付ける。耳障りな金属音を響かせるのは濡れた鉤爪。 目を逸らしてしまいそうになる。どんな上質のナイフよりも鋭く尖るそれは、容易に、肉を抉り、人の命を奪うのだろう。 鋼を彩る誰かの命の赤色。見える。見えてしまう。見ては、いけない。 恐怖に震えてはいけない。怒りに震えてはいけない。どちらも、正しい判断を妨げてしまうから。 メアリは唇を噛む。吐き気と寒気を強く強く感じたままで── 自覚している── できることは、たったひとつ── 逃げるだけ──  『貴様ノォォ……』  『右、目、ヲォ……!』 いつも、いつも、いつも!同じこと、ばかり……あなたたち……! あげないわ!何度、何度だって言ってあげる! 舞台女優のように。声を。怪物の絶叫に負けないくらい、大きく。              『レッドキャップ』 ──何。今の。 ──声。誰の。 レッドキャップ。そう囁く声が聞こえた。思い出すのは、ボルヘス卿の本で読んだ、古城で人を襲う赤帽子の妖精。 ……レッドキャップ……。                『ここへ来い』 ──声。あなたの声。──あなたの声を、あたしは待っていた。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。──聞き覚えのある。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。 ──前は誰かもわからなかった。──今は、違う。 ……M……。                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他には“レッドキャップ”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 ──そこへ。 ──今すぐに行くわ。 ……ッ!! メアリは再び走っていた。今までと同じようにして、恐怖と憤りが全身を硬直させるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる。前もそうした。 声の先にMがいる。必ず。黒い街で起きたことの記憶は曖昧だけれど、今も、こうして生きている自分がその証拠。 ──あなたを信じる。──あたしは、まだ、立ち止まらない。  『目ヲォォ……!』  『クレエエェェ……!』 駄目よ! ──まだ。走れる。──鉤爪になんか抉り取られたりしない。            『諦めていないのなら』             『ここへ来い。仔猫』 仔猫って、言わないで……! ──走って、走って、走って。 ──膝が痛む。──硬い石畳を踏みしめる度に痛む。 既に考えることは何もなかった。恐怖も憤りも意識しないようにしながら、走る、という漠然とした決意だけを思う。 膝が痛い。立ち止まればすぐにでも悲鳴を上げて、動けなくなるだろう。痛い。痛い。 あまりの痛みに霞みかけた思考を奮わせて、途絶えそうになる意識を懸命に繋ぎ止めて、メアリは考える。考えようとする。 目指すべき── 場所は── 彼が待っている場所は、ここ。この場所で間違いないわと朦朧と考える。確信と、以前の黒い街での頼りない記憶。 方向はこれで間違っていない。確信と記憶。 けれど── ──自然と視線が動く。──黒い人影、あの声の主、彼を、探して。 ──まだ見えない。──音ではない声でここへと導いた、彼。 ……遅い、の、よ……。 どう、して……。待って、いて……くれない、の……。 怪物の気配がする。腕の長い鋼の人型。極端に短い脚が生み出す巨人のような足音。 かすかに聞くことができる。巨人のようなふたつの足音、誤ることなくまっすぐにこちらへ迫る── 周囲を見回す。あの夜と同じ、異形の黒色、建物のかたちをしているだけの嘘の石細工。街でも、建物でもない。 路地も見当たらない。狭い直線の1本道で、物陰が、ない。 どこかへ隠れることはできない。息を潜めることも、ここでは、無理だった。 ……なに、して……るの……。あなた……。 ……痛い……。……脚、もう、痛い……痛い、よ……。 ──そう。膝が、もう。──意識とは別に走る動作を止めてしまう。 ──脚が動かない。──立ち止まると同時に、怪物の重い足音。 ……だめ……。 ──脚が。 もう、脚……。 ──恐怖と、憤りを充たしたまま。 ……動いて、くれ、ない……。 ──今にも折れそうなほどに痛む。 ……M……。  『オイツイタァ……!』 ──叫ぶ怪物。──ああ、それは悲鳴のようにも感じて。 ──気圧されてしまう。──脚が、動いてくれない。駄目。駄目。 ──だめ。駄目。そう、駄目。──そう、意識の片隅であたしは思う。 ──そう。これ以上、本当に走れないの?──あなたは、駄目なの? ──ここで。諦めてしまうの? ──もう、終わりで、いいの。──本当にいいの? ──メアリ?  『黄金瞳……クレエェ……!』 ……駄目……。 ……そう、駄目、だめよ、あげない。あなたなんかに……。あたしの、何ひとつ、渡さない……。 ──諦めない。──そうでしょう、メアリ・クラリッサ。 諦めない。そう、契約をしたのだから。脚と膝が言うことを聞かないくらいで、立ち止まって、絶望することはできない。 ──這いずってでも。──あたしは、逃げ延びないといけない。 ──諦めることだけは。──しないと誓って、約束、契約したの。 感覚さえない両脚へ意識を集中させる。そう。感じない。あるのは膝の痛みだけで、他には、ああ、石畳を踏む感触すら、ない。 それでもメアリは立っていた。まだ、倒れていない。 壁に手をついて進もう。倒れた時には、そう、這いずってでも。 ……調子に乗らないで。体の大きい子に、捕まった、ことなんて。 追いかけ鬼は……。誰にも、負けないんだから……。 ……あなたなんかに。捕まらないわ。 ──怪物が、あたしに近付いてくる。──長い長い鉤爪を揺らして。 耳障りな金属音が怪物の実在を告げる。長く垂れた両腕の先端の濡れた鉤爪が、黒い石畳に溝を作る。 熱したナイフでバターを切るよりも容易に、硬い、石畳を、するすると引き裂きながら。近付く。近付く。 怪物が鉤爪をメアリの顔へと近付ける。鉄の擦れる嫌な音がした。 鋼の塊であるのに、人間のような動作。気味の悪い怪奇画でさえ見たことのない姿。 メアリは見た。頭部、赤色を滴り落とし続ける大きな単眼。 ──ああ。これは。──きっと、人間と同じ“目”なのね。  『……逃ガサ、ナイ……』 ……無理よ……! ……あなたには、できない! 激しい憤りを感じてしまう。恐怖とそれが混ざった濁る感情のすべてを、痛む膝へと込める。地面を蹴って走るべく。 彼が来ないのなら、どこまででも、怪物と追いかけ鬼を続ける。 果てがなくても逃げてみせる。そう、やることは決まっているのだから── この黒い街で── 走るだけ── ご苦労。 お前は願いにひとつ近付いた。見事だ、仔猫。 声── 誰。背後から声。だから姿は見えない。でも、彼の声だとわかる。 一切の感情を見せようとしない彼の声。誰よりも沈んだ黒色を身に纏う彼の声。そう、この、声は。 ──あたしは声の方向へと振り返る。──その、刹那。 モラン。銃を持て! はい。我があるじ。 背後に在ったのは彼ひとりのはずだった。他の気配を、メアリは感じない。 何もないはずの暗がりの中に生まれる気配。彼の声が何かを、誰かを、呼び寄せるのだ。それは、怪物とは異なる赤。 視線の先の暗がりに、もうひとつの赤色の影が姿を見せて── 腕を、伸ばして──  ───────────────────!  『キィィイイイイイイイイイイッ!!』 ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。──それは、鉤爪を吹き飛ばす。 ──誰。誰。銃を携えた、赤色を纏うひと。──この人を、あたしは知っている。 ──セバスチャン・モラン大佐。──Mが“武器”であると言った女性。 銃撃が怪物の各部位を砕く。激しい衝撃音にメアリが両耳を抑える、その最中にも、銃撃は断続的に続いて。 穿たれていく。鋼で構成された人型が、砕かれていく。 鉤爪の1本、2本、3本。人間を易々と切り裂くだろう爪が砕かれる。 鋼の群れを駆逐した時のように、着実に鋼の人は損傷を受けて悲鳴を上げる。身動きすることもできず、弾の雨を浴びる。 削り取られていく。ひとつの銃撃ごとに、人型が、消えていく。 圧倒的だった──銃撃を受ける毎に怪物は不気味に震動して、崩れる崖のように、音を立てて、砕かれて。 ひとつ、 ふたつ、 みっつ、ああ、数え切れない数になるほど。 寒気が── 強い寒気をメアリは感じていた。吐き気も、そう。怪物のもたらすものとは違うようで、けれど、殆ど似たような感覚。 瞼を閉じたかった。容易に誰かを殺したはずの怪物が、砕かれ、漏らす悲鳴のひとつひとつまでも、潰され。 メアリは思い出す。あの、4つの声を。何かを請い願うような誰かの声を。 そう、前にも感じたこと。銃撃に砕かれていく怪物たちの悲鳴が── ──あの4つの声に。──どこか、似ているように感じられて。 ──あたしは瞼を閉じられない。──こんなもの、目にしたく、ないのに。 ──前にも思った。覚えていなかっただけ。──この、砕かれる怪物の悲鳴は似ている。──本当に? ──わからない。わからない。──そう、思ってしまっただけなのかも。 ──でも。でも、もしも、似ているなら。──あの4つの声は、何、なの。 ──この怪物たちと関係があるの。──感情なく砕かれていく、恐怖の塊と。 物語に見るような誇らしい剣戟ではない。騎士と騎士の誉れを賭けた戦いでもなく、ああ、これはそう、処刑と呼ばれるものだ。 怪物の処刑をメアリは見る。微塵も現実感のない、凄惨な、銃殺の光景。吐き気がした。言い知れない奇妙な違和感。 黒い街も、到底、確かな現実とは思えない、けれども、この、凄惨さは何かが違うのだ。前にも感じた、何かが。 もっと別の、何か。恐怖とは別の感情が、胸に、渦巻く。 誰かを殺した怪物がこうして罰されている。憤りと恐怖は消えていた。けれど、違う。これは違う、こんなものを求めていない。 ──違う。違うわ。──あたし、こんな風に、なんて。 膝の強い痛みさえ意識することもなかった。胸の奥に、違和感と、拒絶感を抱えたまま、ただ、呆然と。 呆然と。呆然と。銃撃の雨による破壊を見ているだけ── ……やめて。 ひとりでに。声が、また、唇から漏れていた。 拒絶感が声となった瞬間、メアリの視界がぐらりと大きく傾いていた。 銃撃は続いている。鋼の怪物は次から次へと砕かれ続けている。もう、人型などとは、呼べそうもないほど。 ……やめ、て、よ……。 ──わからない。──あたしは、なぜ、そう言うの。 ──疑問と、何かの感情が渦巻いて。──この感覚だけは忘れまいとするけれど。 ──限界だった。──もう耐えられない。立っていられない。 このまま倒れたら、そのまま意識を失ってしまう自覚があった。 そうすれば、また、朧気になってしまう記憶はこの疑問と感情、すべてを、また、遠くへ追いやってしまう。 そう── 思っても── ──もう、立っていられなかった。──膝が崩れる。──視界が傾く。 ──意識が、保てない。──寸前に何を考えていたのかも霞んで。 ──感覚はないのにひどい痛みだけ感じる。──膝。震える、あたしの、からだ。 ──そう。体。あたしの四肢。──砕かれる怪物の体ではない、あたしの。 ──そう。もっと、鍛えないといけない。──走るために。──またここで。 …………。 何かを呟くと、メアリは、その場に倒れていた。 最後に思ったのは、自分が涙を流していないかどうか。 それと── 視界の向こうで佇むあの男。M、こちらを見下ろす彼への疑問がひとつ。 彼は何を考えているのか。なぜ。なぜ。 なぜ、彼は《怪異》を砕くの。なぜ、彼はシャーリィを助けると言ったの。 なぜ、暗がりの《怪異》たちは人を殺すの。なぜ、4つの声はあるの。 なぜ、怪物の悲鳴は── 4つの声に、どこか、似ているの── 何も知らない。何ひとつわかることはない。だから、メアリは思う。 ──知りたい。──なぜ。なぜ、あなたは。 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──ゾシークの名の意味を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 錬金術なるぺてんを騙る奇術師であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、機関の群れがあるだけだ。 それでも構わずに。ここへと降りる者がある── ──それは男だった。──英国最高の頭脳を持つと謳われる人物。 ──簡素な型の電信通信機を耳元へ当てて。──何事かを話す人物だ。 ……わかった。 監視を続行してくれたまえ。変化があれば、また報告を頼む。騎士殿。 冷ややかに告げて── 男は、回線を切ると、まるで興味のない様子で回廊の奥を見やる。 すべてを見抜くと評された鋭い瞳が、驚嘆するほど埋め尽くされた機関群を見る。 興味深い案件だ。現実ですらない《怪異》が変容するか。 変容する怪物と、変容する精神。これはいかにも我々への皮肉に充ちている。 お前たちは……。果たして、そうして何かを得られるのか。 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「文明だけでなく、 人間の精神もまた変容を免れぬのだと」 「すなわち。 あなたも明日には狂っているのです」 「さて」 「我らが愛する渇望の刺客のひとりは、 無垢なる乙女を 仕留めることができませなんだ」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「刺客は乙女を仕留められなかった。 であるからには、訪れることでしょう」 「かの串刺しのドラクル公と同じくして、 遠からず──」 「鮮血の代償であるものを」 ──思い出す。──私たちふたりが出逢った頃。 あれはもう幾年前になるだろう。人生を賭して打ち込んできたものに対する理解者を得られぬままに生きてきた、2人が。 私たちがロンドンの街角で出逢ったのは、未だ空に“隙間”が生まれるよりも以前。差し込む“陽差し”さえない頃。 私が何も知らぬ求道者であった頃のこと。無為に日々を過ごすだけで、何も得られなかったあの日。 私たちは出逢った。それは、恐らく運命なる糸の導きだった。 ──今でも克明に思い出せる。──あの日、あの朝、あの時のことを。 ひどい頭痛と目眩を感じながら、ああ、呂律が回っていたかどうかも怪しい。 お互いに、安い酒に魂の際まで浸かり、ひどく酩酊した状態で、私たちは出逢った。お互いにお互いを認識できていたかどうか。 気付けばタワーブリッジ2号棟の脇で、排液混じりの異臭漂うテムズ河を前に、座り込んで酒を酌み交わした。 銘柄は覚えている。安物の、機関製のグレーンウィスキー。 私も、きみも。ふたりとも、ひとり勝手に、不満、屈辱、希望、展望。己の想いを散々ぶちまけて。 明け方近くまで──羨む才能の持ち主を讃え、時に蔑みつつ、夢を阻む誰かの悪口を叫びながら泣いて。 恥がどうのと考えることもなく、思いの丈を、己の夢についてを言葉にした。 朝を告げる機関工場の金属音が響く頃には、気付けば、もう、酒気も抜けていて。 ──ふと、思ったのだ。──自分の前にいるのは誰なのだろうと。 自分と同じような不満、同じような屈辱、自分と似たような希望、輝く夢を秘めた、自分ではない誰か。 外見のどこかが似ていることはないのに。内に秘めたものは、こんなにも似ていて。違うのは、立ち向かう先だけ。 ──到底、他人とは思えなかった。──相手のことが。──きみのことが。 ──ぶちまけられたすべての言葉に。──自分は頷いて、相手もまた、頷いて。 ──姿形はこんなにも違うのに。──まるで。 ──まるで、鏡の向こうのように思えた。──もうひとりの自分。 ──悪臭に充ちたテムズのほとりで。──酩酊して、冷たい地面に座り込んで。 「……おかしいや。こんなの」 ──笑顔と共に。──ヘンリエッタ・アーヴィングが言って。 「……まったくだ。他人とは思えない」 ──笑顔を返して。──エイブラム・ストーカーが言った。 この日、この時、この瞬間から。ふたりは友人となった。 私たちはかけがえのない友人だ。この世にふたりとない、もうひとりの自分。 誰よりも大切なあなた。そう、まさしく。 それまで実感したことのなかったもの。神なる者が私たち人間へとお贈り下さった、運命の糸を持つ者同士── 「私はヘンリエッタ。 ヘンリーと呼ばれることが多いけど。 実のところ、女なんだ。……驚いた?」 「いいや、驚くことはないよ。 いやらしい目で見てくる女興行主への 文句をさっき聞いたばかりだ」 「はは。そうだった」 「まさか、かの悪名高きフィード出版の 男色社長以外にも、そういう、 下卑たことをする輩がいるとはね」 「私もそうさ。そういうのは、 芝居の世界だけかと思っていた」 「僕たちはどうやら、 随分と狭窄した視野を持っていたらしい」 「これからは違うさ」 「ああ、そうだよ。これからは違うとも」 「──うん」 ──そうして。──私たちは、固い握手を交わして。 ──最愛の友人となったのだ。──どんなに時を経ても変わることのない。 ──永遠の、尊い友情を。──結んだのだ。 「……きみがこの部屋へ来るのは」 「随分と久方ぶりな気がするね。 その後変わりないかい、聡明なクラリス」 はい。教授。 ……あれ。おかしいな。どうしたんだろう、あたし。前にいつ、お邪魔したか覚えていません。 首を傾げたメアリの言葉に、彼は、その老人は僅かに微笑んだようだった。 最新型の機関製パイプから紫煙が漂う。部屋はやや白くなるけれど、メアリはあまり煙草の煙は嫌いではない。 薄く煙るその“部屋”で。メアリは、ひとりの老人と対話していた。 「そうかな」 老人は、また微笑んで。静かに言葉を紡ぐ。 「それで。 きみはその男と出会ったという訳だね」 はい。そうです。……そうして、あたしは彼と出会いました。 「変わった名だね。Mとは」 はい。でも、もうひとつの名を聞きました。本名かは、わからないのですけど。 「教えてくれるかな。 クラリッサ、私もその男性に興味がある」 ジェイムズ・モリアーティ。 「なるほど。 では、彼は犯罪の天才と言う訳だ」 そう……なのですか……?聞いたことのない名前です。あなたは、ご存じでいらっしゃるんですか。 「名前だけは」 そう……。ですか……。 「おやおや。随分と表情が翳っているね。 何をそんなに憂えているのかな」 ……はい。 あたしは……。何も……。 ……あたし、何も知りません。彼のことを。ジェイムズという名前だって。 あなたが知っていることさえ。あたしは知らなくて。 「多くを知ることになると、 契約の際、男はきみに言ったのだろう?」 はい。でも……。 彼は、何も言わないんです。何を知っているのかさえ、わからない。 何も言わずに、ただ……。怪物たちを、殺して回る、だけで……。 ……だから。あたしは、ただ、走るだけで。 「しかしきみは契約した。 友が目覚める時まで、きみは走り続ける」 はい。そうです。あたしは、黒い街で走り続ける。 でも……。 知りたいことがあるんです……。幾つも、幾つも。怪物のこと、声のことも。 ……なのに……。彼は、何も、言ってくれない……。 何も……。 ゾシーク計画の跡地。機関回廊。既に、ここには何ひとつ残ってはいない。 この回廊は遠からず、女王陛下の密命によって消え去るだろう。 男は告げる。静かに、暗がりの中に潜む異形の人物へと。 異形。そう、異形だった。およそ人間とは思えない形相を浮かべた男。けれどそれは仮面に過ぎない。異形の仮面。 ゾシークの名すら記録されることはない。あれは大いなる誤りだった。 発展を続ける機関文明には必要ないもの。オカルティストたちの妄念など、迫り来る鋼鉄に対して無力に過ぎない。 愛すべきロンドン市民……。いいや、欧州のすべての民草に一切を告げずにこのような行いを企むなどと。 言語同断、だ。 「はは。これは、これは」 「秘密の守り手の言葉とは思いませんね、 サー・シャーロック・ホームズ」 その呼び方は止めるがいい。既に、私は騎士位を返上している。 「これは失礼。 しかし、吾輩はこうも思うのですよ」 仮面の怪人は高らかに告げる。ホームズへ── もしくはすべての人間たちへと向けて。謳うように高らかに、舞台上の俳優の如く。 「あまりに愚かなことである、と、ね。 我々からすれば──」 「儚く脆き人間たちよ」 「あなたたちは何も知らないのだ。 赤子は、導き手なくしては這うことも 立ち上がることも不可能だというのに」 赤子か。 「そう。赤子ですとも」 「自らが捨て去ろうとするものの意味すら、 知りはしない。愛すべき子供たち」 「もっとも──」 「愛が何であるのか、 未だ、吾輩は理解できないのですがね?」 ──慣れない速度。 ──景色が次々に後ろへと流れてゆく。──連続写真みたいに。 ──瞼を開けたあたしの視界にあったのは。──暗いガーニーの車内と、窓。 連続写真のように流れる景色は窓のもの。暗い車内にぽっかりと開いた、現実の姿。まるで、黒い街で夢をみているよう。 ここは違う。もう、黒い街ではなかった。 シャルノスの狭間ではない。暗がりの中に切り取られた硝子窓の景色は、現実。行き交う馬車やガーニーの姿がある。 ぼんやりとそれらを見つめて。メアリは、思う。 ──どこ。ここは。──あたし、何してるの、ここで。 ──視線をゆっくりと巡らせる。──運転席。 有料ガーニーの運転手の灰色の服ではなく、ハンドルを握る誰かの服は、赤い色だった。近衛と間違えそうになる。 それは陸軍服。ハンドルを握るのは、そう、モラン大佐。 朧気な意識のままでメアリは視線を動かす。他にも、誰かがいるから。 後部座席で眠るように横たわっていた自分を見下ろす、もうひとりの、誰か。黒い色をした誰か。 ──薄い色の瞳があたしを見ていた。──黒色の男。M。 なぜ、自分はガーニーに乗っているのか。ふたりの車でどこへ行くのか。 レッドキャップの鋼がもたらす金切り音が今も耳の奥に残って、意識を揺らしていた。視界がぼんやりと霞んでしまう。 そう。揺れる意識。黒い街の朧の記憶。まだ、あれから僅かな時しか経っていない。 いつもであれば──黒い街を駆け抜けた後は、意識を、失って。気付かないうちに下宿へと戻っているのに。 自力で歩いて帰ったのは2度目の夜だけ。それ以外は、そう。いつの間にか下宿へ。なのに。今夜は。 今夜は違った。怪物から逃げ延びて、それから……。 ──後のことを、よく、思い出せない。──大きな音を聞いた気がする。 ──モランが何かをしていたような記憶。──漠然として、思い出せない。 明確にわかるのは“今”のことだけ。モランの運転する蒸気ガーニーに揺られて、後部座席には、Mの姿があって。それだけ。 ……ん……。 ……ここ、は……。どこ……? 一度、ウェストエンドへ寄る。まだ眠っていろ。 ……え……。 あたし……下宿……。帰らないと、ミセス・ハドスン……。 ……心配、して……。 すぐに着く。眠れ。 命令だった。冷たく告げる彼の声。 無機質で無感情であるはずのその声が、不思議と、するりと耳へと入り込んで── 疲労感と共に── メアリを眠りへ誘う── ──それから、一体。──どれくらい眠っていたのだろう。 ──自然と瞼を開けていた。──沈み込むほど柔らかなソファの上で。 ……あれ? ゆっくりと起き上がりながら。メアリは、周囲を見回しつつ首を傾げる。 見覚えのある部屋ではあった。でも。自分の下宿と違う。 紛うことなき上流階層の部屋。中流層の市民であれば夢や物語の中でしか見られないような手製の敷物に調度の数々。 壁紙のひとつとっても何ポンドするのか、想像するだけで目眩がしそう。 ──ザ・リッツ・ロンドン最上階。──スィート1502。 ──ここはMの部屋だった。──現に、すぐそこにはMとモランの姿。 どうして── 黒い街を走った後、ここへ── 先刻よりも思考が明瞭に働いてくれていた。ただ、視界が朦朧としかける気配があって、メアリは頭を二度振った。 ぐらりと視界が傾く。それでも、思考はちゃんと働いてくれる。 ──うん、大丈夫。──全身に充ちた恐怖はもう残っていない。 ──吐き気もない。寒気も。──疲労感と、頭が少しぼんやりするだけ。 いつもと同じはず。つい先ほどであるはずの黒い街での記憶は、やはり、霞がかかっていて。実感が、ない。 お陰で、恐怖が再生されない。あの怪物の姿も詳細までは思い出せなくて。 ……モラン。 はい。我があるじ。 メアリ・クラリッサの体を確認しろ。あれは血に混ざる。 感染を確認し、消毒を施す。速やかに用意しろ。 はい。 え……?な、に……あたし……血……? ──ふたりは何を話してるの?──あたしは、疑問を口にしようとして。 ──舌の呂律がきちんと回らなかった。──何だろう。何か、変。 はい。あなたに特殊な滅菌処理を施します。こちらへどうぞ、メアリ。 滅菌? こちらって、何?どこへ……。 浴室です。 え? お前を追っていた《怪異》は、妖精型だが危険な個体だ。感染力がある。 別段大した力はないが、接近した人間の精神を破壊する。 大したことは、って……。……人間の、精神を、え……? ──危険な個体、感染力。──接近した人間の精神を破壊する。 ──何が、どう、大したことがないの。──ぞ、と背筋が寒くなる。 言葉を額面通りに受け取るだけでも相当に危険なことを言っているとわかった。 感染。確かにMはそう言った。あの怪物には、細菌のようなものがある? そ、それって……。あたし……。 ……死ぬの? いいえ。はい。処理を施せば狂死することはありません。 メアリ・クラリッサ。現在、意識に朦朧さが残っていませんか。もしくは、五感のうちいずれかに異常は。 それは……。あるといえば、ある、けど……。 視界が、少し……。あと、舌も、ちゃんと、回らない……。 それは平時も時折感じるものですか。それとも、現在のみ。 えっ、と……。いつもは、感じるのは疲労ぐらい……。記憶の混濁も……。 では、処理が必要です。こちらへ。 お、お風呂……で……その……。処理? それを、すればいいの……? すぐに終わる。お前は目を閉じていろ。 ……で、でも。その。 黙れ。 お前は契約したはずだ。俺と。口答えは必要ない。 ……わ、わかったわよ。わかりました。でも、入って来ないって約束して。 モランがしてくれるんでしょう?あ、あなたは、絶対、入って来ないで。 ……ん。 あるじ。スキルワイヤ・プログラムに該当処理のプロセスを確認できています。 私ひとりでも処置は完遂可能です。あるじは、暫し、ここでお待ち下さい。 ん……。 ……お前まで何を言っている。 何でも構わん。さっさと除去処理を行え。 はい。では、メアリ・クラリッサ。こちらへどうぞ。 ……うん。 ──そして。──モランの言うがままに、服を脱いで。 ──あたしは広い広い浴室へと入った。──初めてだった。 ──スィートの浴室、ううん、浴場ね。──大理石で形作られた広い場所。 ヴァイオラの部屋に連泊した時には、シャワー室を使うようにしていたから。大浴場は、初めて。 複雑な気分ではあった。一度、目にしたいとは思っていたものの、こう、微妙な緊張を湛えた状態となると。 ブリタニア時代のローマ風浴場を思わせる、やはり、豪奢だと感じられる造りの大浴室。半ば感心しつつ、半ば緊張しつつ。 服を脱いで。導かれるままに、中央付近へ進んで。 これもまた大理石製の椅子に座って。ぽつん、とひとり。 待っていて下さいと言ったモランを待つ。特に湯沸機関を稼働した様子もないのに、立ちこめる湯気と熱気── 常に湯沸機関は動いているのだろう。大いなる、無駄遣いだ。 ぼんやりと。言われた通りのぼんやりとした意識で、メアリは、そう考えながら── モランを待つ。1秒、2秒、3秒以上は経っただろう。 ややあって彼女が戻ってきた。バスローブ姿で、両手に何かを携えて。 ──特殊な道具のようには見えなかった。──入浴の際に使う石鹸やブラシ。 ──でも、目を引くものがあった。──赤色の。 ──なんだろう。──赤色の、あれは、石鹸? …………。 ……。 ………………。 ……。 ………………………………。 ……。 ──滅菌処理だとか。──汚染除去だとか。 ──仰々しく言うから何かと思ったけれど。──少し、拍子抜けしてしまう。 何のことはない入浴だった。妙に泡が良く立つ、赤い色をした石鹸を使っているだけで他には何も変わらない。 泡の色も結局は白い普通のもので、気味の悪い赤い泡が全身を包むこともない。何か、肌に触れて異常を感じる訳でもない。 入浴だった。まるで、お姫さまみたいに手取り足取り。 最初は黙っていた。ふたりとも。 いつも静かな表情を湛えたモランの意図はわからないまでも、メアリとしては、些か、根比べ的なものを感じてしまって。 モランから話し掛けてくるまでは、何も言うまいと思って── 無言。 無言。 広い浴室に、湯沸機関の駆動音だけ響いて。 ──ずっと、黙っていると。──時間をあまりに長く感じてしまう。 ──ああ、もう。──あたし、何をしているんだろう。 ──子供みたいに意地を張って。──彼女が静かなのはいつものことなのに。 ──意地を張るならモランにじゃないわ。──それなら、彼へ。 ──珍しく、何かを言ったかと思えば。──精神を破壊とか、何とか。 ──彼のほうにこそ腹を立てるべきだわ。──あたしは。 あのひと……。 何を考えてるんだろう。声を聞いても、顔を見てもわからない。 ……あなたは、わかるの? 何をでしょうか。 彼が何を考えているのか。なぜ、彼は、あたしを使って怪物を……。 あなたが黄金瞳であるからです。すべての《怪異》は、すべてを見通す黄金瞳を得ることで門をくぐるのです。 タタールの門ね。おとぎ話の。 覚えている。古書店でモランから渡された本の内容を。 伝承、いいえ、とりとめもないおとぎ話。でも、あれには《怪異》についてなんて一言も書いていなかった。 はい。 ……ううん。そうじゃなくて。彼は、なぜ怪物を殺そうとしているの。 我が《結社》は《怪異》を排除すべき対象であると判断しました。 でも、彼は自由なのでしょう。任務ではないって……。 はい。 じゃあ、なぜ。彼はこんなことをしてるの。 ……私には返答の権限がありません。 つまり、知っているのね。あなたは。 ……。 ──返答は、なかった。──沈黙。 メアリはそれ以上を尋ねられなかった。また、暫く沈黙が続く。 他人に体を洗われている違和感だけが、メアリの意識を揺らす。気付けば、視界の異常はもう感じなかった。 赤い石鹸の効果だろうか。こんなにすぐに影響を受けるものなのかと疑問に思いかけたものの、問うのは止めた。 彼らが嘘を吐いているとは感じない。そういう直感はあった。 今は、こうしているのが最善なのだろう。その判断をメアリは疑わなかった。 されるがままに。体を、肌を、四肢を、隅々まで洗われて。 恥ずかしいと思う気持ちはある。けれど、不思議と。 微動だにしないモランの表情のせいもあり、慌てたり、騒いだりせずに済んだ。そのことはありがたいと素直に思う。 そうして── 足の爪先まで洗い終えた頃── 小さな呟き声が、ふと、耳に届いた。自分のものではない。 ──それは、モランの声だった。──囁くような。 メアリ・クラリッサ。あなたは、その理由がわかるはずです。 ……ううん。わからないわ。 あなた、長く彼と一緒なのよね。そういう感じ、するわ。 はい。 彼は、何を考えているの。どうして彼は怪物を……殺すの。 極秘事項です。 やっぱり、教えてくれないのね。あなたは同じだと思ったのだけど……。 あたしは彼と契約してる。あなたも、きっと、そうなんでしょう? 私は── モランの言葉には確かに間があった。逡巡、するような── 表情にも変化があった。気のせいかとメアリは思いかけたけれど。 ──いいえ、ううん、気のせいじゃない。──モランの表情。 ──どこか、物憂げに思える。──そんな横顔。 はい。いいえ。あなたのそれとは異なりますが。 私は、あるじと契約を交わしています。ずっと以前に。 どんな契約……?あなたは、何を引き替えにしたの。 極秘事項です。 ……ですが。 いつか、きっとわかるはずです。あなたが諦めない限り。 ──静かな言葉だった。──でも。 ──どういう意味なのか、あたしには。──やはり、わからなくて。 ──けれど、ひとつわかったことがある。──言葉のことではないけれど。 それはこの彼女のこと。セバスチャン・モランと名乗った彼女。 暖かな浴室の中で、熱い湯に触れてもなお白いままの肌をした、完璧さを感じるほど美しい横顔をした彼女。 モランのこと。美しい、プラチナブランドのこのひと。 このひとは── ──あなたは、そう。──以前、あたしにそう言っていたけれど。 ──機械なんかじゃないわ。──あなたは。 ──強く、強く、何かの想いを秘めたひと。──機械であるはず、ないじゃない。 ──鋼でできたあの怪物たちとは違う。──あなたは、違うわ。 ──どんなに静かな表情をしても。──あんなにも大きな銃を撃てていても。 ──あたしと同じ、人間だわ。モラン。──そうでしょう? 浴室から、これもまた広い脱衣所へ出て。厚いカーペットの上で体を拭いて。 髪を乾かすのに時間が掛かりそう、と思い至って── 夜遅くに帰った上に髪が濡れていたら、ミセス・ハドスンはどんな顔をするだろう。そんな想像にまで、考えが及んでしまって。 溜息を我慢していたら、モランがすんなりと温風器を渡してくれた。小型の機関機械で、まだ数の少ない高級品。 扱い方がわからずに困っていたら、結局、モランがそれで髪を乾かしてくれた。 自分が貴族の子女になったように思えて、物珍しさの反面、手取り足取り何もかも任せてしまう自分が不甲斐なくて。 やや赤面しながら俯いて。気付けば、服まで着付けられていて── 礼を言うのに時間がかかった。脱衣所を出る寸前にようやく口にできて。 そして、ようやく、Mの待つ豪奢なリビングへ戻った。彼は先刻と同じ場所に立っていた。 彼は、興味があるようには思えない目で冷ややかにメアリを眺めて。 静かに頷くと、予想外の言葉を述べた。 「そろそろ教えておこう」 メアリの目を見ることもなく、一切の感情を窺わせないいつもの声で。 気負うこともなく。自然に、それが当然だという様子で。 ……教えておこう……? え、な、なに……。今まで、訊いても答えなかったのに……。 何を言っている。忘れたか。 お前は多くを知ることになる。そう告げたはずだ。 そ……。そ、それは、そうです、けど。 今までは何も……訊いても、返事もなくて。 すべてを一度に話すとは言っていない。何を言っているんだ、お前は。 ……。 ──かちん、と来た。──まるであたしが悪いみたいな言い方。 ──腹が立って仕方がない。──でも、我慢。我慢するのよ、メアリ。 ──口答えをしたら。──彼が、話すのをやめてしまうかも。 ……それで、何を教えてくれるの。シャーリィのこと、それとも。 お前を狙うのが誰であるのか。そろそろ、知っても良い頃合いだ。 ……待って。今、あなたは“誰”と言ったわ。 決して《怪異》は自然発生しない。必ず、それを顕現させた“宿主”がいる。 愚かな人間たちが、宿主と化してあれらを生む。 ……人間……? ──そう、人間と、彼は言ったわ。──待って。──待って。 ──あれは人間が生み出している?──宿主? 何? ──待って。待ってよ。──鋼の、炎の、風の、奇怪な怪物たち。──この世のものとは思えない、異形の。 ──人間。あれが、人間から生まれた? ──信じられない。──信じたくない。 ──博物学を修めていなくてもわかるわ。──人間は人間しか産み落とさない。 ──完全機関機械の人形の、理論が。──ごく一部の碩学から提唱されただけで。──そう、あの、チャペック博士のように。 ──人間以外の、もの、なんて。──生み出せない。 ──そんなこと、無理よ。──おとぎ話の魔法使いじゃ、なければ。 ……嘘、よね。 ああ。 お前に吐く嘘の数はもう残っていない。これが事実だ。 ……うそ……。だって、そんなこと……。 あり得るはずのないものを見ている。お前は、シャルノスの狭間で。 現実を認識しろ、仔猫。お前は既に幾つかのそれを目にした。 狭間で、声を聞いたはずだ。4つの断片を。 ──4つの断片。声。──言葉に導かれるようにあたしは思う。 内容までは思い出せなくとも、そういったものを集めたような記憶は確かに、薄く、頭の奥底に残っている。 それは何かを叫ぶ声。誰かの悲鳴。 ……聞いたわ。内容までは、思い出せないけれど。 あなたは、あの声が……。その、宿主たちのものだと言いたいの。 あれは想いだ。そう、宿主のものだ。 ごく特殊な条件下にある強い情念だけが、奴ら《怪異》を生み出すことになる。4つの声は、その際に零れた残滓だ。 強い……情念……。人間の……。 そうだ。 迷うことなく告げられる返答。普段よりも何倍も多く質問に応える、彼。 薄い色の瞳がこちらを見つめている。じっと、値踏みをするようでもありながら、静かに、視線を向けているだけにも思える。 反応を待っているのだろうか。それとも。 ──あたしは唇を薄く開いて、閉じて。──それを何度か繰り返す。 ──何を言えばいいのかわからなかった。──待っていたはずの、彼の言葉。 ──疑問に対する回答。──すべてではないけれど、その、一部。 ──この時をあたしは待っていたはずよ。──言葉だって、幾つも用意した。 ──ひとつに答えてくれた時には。──機を逃さずに、すべてを尋ねようって。──なのに。 声が出てくれない。街路で怪物たちを目にした瞬間のように、喉から、声が出なかった。言葉が出ない。 人間が怪物を生み出す。悲鳴と、叫びを、4つだけ溢しながら。 人間が。人間を殺すものを生み出す。 そんなこと── 信じられる、はずが、なくて── ──それなら。──どうしてあたしは怪物を生まないの。 ──血濡れた《怪異》たち。──ただひとつの恐怖の感情を凝縮させて。 ──情念が生み出すとあなたは言った。──でも、それなら。 ──シャーリィを助けたい。助けたい。──あたしは強く想っているわ。──でも、怪物なんて、生んでいない。 ──想いが。──願いが、かたちを得るはずなんてない。──あたしは、そう、考えて。 けれど。同時に強い確信があった。 直感にほど近い、確信。彼の言葉には嘘の響きを感じない── 特殊な条件下……。それは、どんなものなの。教えて。 お前には理解できない条件だ。知る必要はない。 ……。 ……じゃあ、もしも……。 もしも、あなたの言葉が真実だとするなら。その条件の下で怪物を生み出した後、宿主となった“誰か”は……どうなるの? あんなものを産み落として、無事で、いられるの? そのまま、産み落とした怪物に……。襲われる……なんてこと……。 ない。 じゃあ── お前は余計なことを考えるな。メアリ・クラリッサ。 生み出した者にその意図がなかろうと、顕現した《怪異》は、必ず、お前を狙う。 今回のレッドキャップは砕かれたが、条件が揃えばさらなる進化を果たす。その時、お前は、再び追われることとなる。 ……進化。 その言葉を知らない碩学院生は存在しない。かの《博物王》の学説だ。 偉大にして至高なる《博物王》の名と共に、輝ける《十碩学》の称号を与えられた人物、ダーウィン卿の理論。 進化論。生物が年を経て、世代を経て形態と生態を変化させるという学説。牧師さまの嫌う話。 メアリは思う。言葉を。先刻の怪物が進化を果たすというのなら。 ──それなら。──これまでは、どう、だったの? ──鉄枷ジャックは? ──進化を果たしてサラマンドラに? ──群れのムリアンは? ──進化を果たしてブラックドッグに? いいか、仔猫。 あれら如きを恐れるな。その両脚を竦ませるな。たかが、人間の情念のかたちに過ぎない。 未だ、第3の《怪異》はロンドンに在る。お前は逃げることだけを考えろ。 もしもお前が未だ諦めず、友を救うと言い切るのならば、だが。 ……諦めない。 どんなに足が竦もうと、次も、あたしは生き延びてみせるわ。 ……良い威勢だ。 気のせいだろうか。一瞬、Mの表情が眩しげに歪んだような。 ──あたしは思う。──あの日、あの晩、あの時のことを。 ──あたしとあなたが契約を交わした時。──あなた、そう、確かに。 ──眩しそうな顔をしていたわ。──ほんの少しだけ、目元を、歪めて。 ──なぜ。──なぜ、今、同じ顔をするの。 夢を見ていた。暗闇の、あの黒い街よりもなお昏い場所で。 いつか見たものを見ていた。メアリは、静かに。 それは人間のかたちをしていた。幼い、女の子の姿を。 遠目に── けれど同時に、ごく間近── 朧な印象を湛えた幼子。薄く、透き通るような青色の姿をして。 以前、どこかで目にした。先日?いいえ、違う。 遠目にこの姿を目にした記憶がある。近くでこの姿を目にした記憶がある。名前も、知っている。 以前、どこかで言葉を交わした。10月?いいえ、違う。 もっと、ずっとずっと昔。メアリはこの幼子のことを知っていた。 暗闇の夢に佇む子。涙を、とめどもなく溢れさせて──  「…………………………………」 何かを幼子は口にしていた。言葉。言葉。 けれど、その声はあまりに小さい囁き声で。遠くに在って── 聞こえない── 何を、言っているのか── 静けさの薄れ始めた明け方のシティエリア。その、路地裏にて。 馬車やガーニーの行き交う音からも離れて、暗がりの路地裏に私は佇んでいた。高層建築の投げ掛ける、影の中で。 壁に背を預けて、赤色の裏地の黒いマントを煤で汚して。 親友から贈られた電信通信機を片手に、私は、何者かと対話していた。 ここには誰もいないけれど。声を、ひそめて── 声から焦りの色が拭えない。電信越しの“彼”は取引を持ちかけていて、私は、それを、拒絶しようとしていたのだ。 だが、空しく。たったひとつの言葉が私の拒絶を砕く。 『これは女王陛下のご意向だ。 ──意味は、言わずともわかるだろう?』 電信越しの声は、溢れるほどの自信に充ちて。 取り出したばかりの心臓から流れ落ちる赤色の如く溢れて、私の拒絶を呑み込む。嘲笑と共に。 『ようやく見つけた糸口だ。 気を焦いているのはこちらも同じだ』 『先刻に交戦した我が部隊の生存者が、 次々と発狂してしまった。 結果として、部隊は全滅したという訳だ』 『見事なものだな。 まさか、心理的感染を果たすとは』 『あれが《恐慌》の能力か? 超常の威なるものを容易く振るうのか』 『今すぐにでも貴様たちを撃ち殺したいが、 残念ながら、叶わぬことだ』 電信の向こうの何者かの語る言葉には、やはり、嘲笑が含まれていた。 恐るべき“何か”の偉容を讃えながらも、同時に、その無力を嘲っていた。揺るぎない自信と余裕を伴って。 『取引といこう。 ミスター・エイブラム・ストーカー』 『我ら《ディオゲネス》は、きみと アーヴィング女史を保護する準備がある』 『研究会に所属していた過去は不問に処す。 あれは一般の降霊会と同じ──』 『無害なオカルティストの集いに過ぎない。 貴様は、保身だけを考えれば良い』 『選択したまえ』 『彼女を失うことは、 貴様にとっては死と同意義なのだろう? 彼女を真に守りたければ協力したまえ』 『あくまで自主的に。 それは女王陛下の望みでもある』 通信が切られる。一方的に。 私は暫くその場に力なく立ち竦んだ後、小さく、愛する者の名を呼んだ。 誰にも、届かぬように。灰色雲の彼方に座す神にも聞こえぬように。 秘めやかに。短く。 ……ヘンリエッタ……。 数時間の後── 私は、ブラム・ストーカーは、シティエリア西部の出版社を後にしていた。 予定していた編集者との打ち合せも中途で打ち切って、ただ時刻だけを気にしながら有料ガーニーへ乗り込んで。 手短に行き先を告げて、苛立つ表情を隠すこともなく舌打ちして。 考えるのはひとつ。最愛の親友たる彼女のことだけ。 ──ヘンリエッタ。──我が親友、我が最愛のひと。 ──もしもきみを失うことがあるとすれば。──きみと別れることになれば。 ──それは私の人生が終わるということ。──だから、何としても。 何としてもきみを守ろう。ロンドンの夜で咆哮する《怪異》など、そのためならば何匹でも屠ってみせよう。 たとえこの手に。一振りの剣さえなくとも。 ──きみを守る。──きみの舞台、きみが演ずること。──きみが生きること、そのすべて。 いつからだろう。こんな風に考えるようになったのは。 ああ、私は、誰よりも、神よりも。きみを── ガーニーを降りて。議事堂と第1号時計塔を遠くに眺めながら、私は、ウェストエンドの街路を足早に急ぐ。 自然とマントで打ち払いながら、排煙混じりの霧を裂くようにして歩く。 この路地をきみと歩いたことを、私は忘れはしない。 何度、きみは涙に暮れたのだろう。何度、僕はきみを励ましただろう。 同じように、何度、僕は何度きみに心を吐露しただろう。何度、救われただろう。数え切れはしない。 ──我が愛するヘンリエッタ。──最愛の。友。 ──きみは私の新たな神なのだ。──きみが私を“友”と呼んだ、その瞬間。 ──エイブラムであった私は。──きみの言葉によって生まれ変わった。 ──ヘンリエッタ、我が愛。──私の生きる糧、私の求めるすべて。 ──きみを。私は。 ……ああ、驚いた。エイブラム、予告もなく訪れるだなんて。 どうしたんだい、珍しいね?昼間からきみが外を出歩いているとはね。 夕方まで眠るきみを私が叩き起こさなきゃ、アフタヌーン・ティーすらまともに口にできないきみなのに。 ともかく、ようこそ。きみが訪れてくれて嬉しいよ。 柔らかくそう言って、ヘンリエッタは最高の笑顔で迎えてくれる。 嗚呼、きみの笑顔はまさに大輪の花だ。いや、陳腐な表現など相応しくはなく、ただそこに在るだけできみは輝いているよ。 リッツ・ロンドンのスィート1403。きみが仮の宿としているこの部屋に、僕が足を踏み入れるのは何度目だろうか。 こうして、きみの最高の笑顔を独り占めにしながら、密かな想いを胸に抱くのは何度目だろう。 仕事にようやく目処がついたんだ。ああ、本業のね。 本当かい!?とうとうきみの新作が世に出るんだね! この日を何度夢見ただろう!ああ、そうだ、お祝いをしなくちゃ! そうだ、そう、ミリアムがね、美味しいフランス料理店を見つけたらしい。明日の最終公演が終わったら……。 劇場の皆と、いや、ううん、駄目だ。まずは私とふたりでお祝いだ! いいだろう、エイブラム?勿論、一番最初に私に祝わせてくれよ? まるで我がことのように喜びながら、きみは微笑んでみせる。 批評家連盟から賞を与えられた時でさえ、きみはこんなにも喜んではいなかったね。ああ、きみは── なんと、友情に篤いのだろうか── ……ありがとう、ヘンリエッタ。 ふふ。水くさいぞ、エイブラム君?私たちの仲じゃないか。 ──そう。私たちの、仲。 私たちはお互いが最愛の友なのだ。ふたりといない、もうひとりの自分自身。それが私たちだ。 永遠に。それは死であっても分かつことはできない、そう、私は、信じていた。今まで、ずっと。 きみが昼間に訪問してきた快挙も祝おう。この1年というもの、きみという奴は……。 遠慮がちな顔をしている癖に、いつも必ず夜中に尋ねてくるものだから、私の安眠は妨げられてばかりだったんだ。 ……確かに、その通りだよ。しかしね。 僕の記憶が確かなら、きみは確か、夜明け前に眠りに就く人間だ。 僕の思い違いかな? ……それはそれ、だよ。 悪戯っぽくはにかむ、きみ。太陽の輝きはまさにこれだと私は確信する。 ──いつものように、私は、耐える。──狂おしいほどの衝動に。 ──きみを抱きしめ、愛を囁く誘惑に。──私は懸命に耐える。 ずっと耐えてきた。それは激しい苦痛とさえ呼べる感覚だった。幾万の剣に貫かれるほどの、苦しみだった。 この苦痛に比べれば、夜中じゅう出歩くことなど何でもない。 あの《怪異》が徘徊していないかどうか、夜の都市を歩くことなど何の苦でもない。 きみのためであれば、怪物探しなど、恐れることはないのだ。 シャンパンを開けよう。大丈夫。公園前に軽く一杯やったほうが演技が滑らかになると先達も言っている。 初耳だな── ──私は、笑顔を浮かべて応える。──努めて自然に。 ──表情はぎこちなく崩れてないだろうか。──そう、心配をしながら。 慣れた手つきで瓶を手に取り、ふたつのグラスへとシャンパンを注ぐきみ。私は、そんなきみの横顔をじっと見つめる。 そう、きみは本当に酒精が好きだね。出逢った時もそうだった。 酔いの回ったきみは、少しだけ饒舌になることを僕は知っている。飾らないきみが、さらに飾りを捨てる瞬間。 酒精に触れると、きみは、いつも、夢を語るのだ。 年若い少年少女のように── 輝く瞳で── ……それでは。きみの新作と、私の公演の成功を祈って。 乾杯。 ああ、乾杯だ。 ……何か、あった? 何も。 そう。こっちもさ。別段何事もなく、穏やかな日々ってやつ。 長細いグラスでシャンパンを飲み干して、喪服姿の女は肩を竦める。 珍しい客人が来たことへのお祝いだという。その割には、客である男へ薦めることなく、自分ひとりで。 この女は知っているのだ。彼が、酒はおろか食物も口にしないことを。 新規の《怪異》犠牲者はゼロ。こっちに届いてる死体はなぁんにもない。 普通の人間の殺人者はいたけど、どれも、まあ、代わり映えのしない金絡み、そうでなければ女絡み。あとは恨みつらみ。 組織関係の処刑の類は……。聞きたい? 把握している。必要ない。 把握って、ね。わざわざここへ来なくても、あんた。 新しい《怪異》が出たかどうかなんてそっちのフラグメント監視網でわからない?常時監視、してるんでしょうに。 情報書庫への記録も済ませているし。なんでまた、顔なんか出して。 ……まったく。こっちはいい迷惑だってのよ、莫迦。 不満げに言いながら、器用にヴェールを捲らずにグラスを傾ける。 女の言葉の端々には妙な含みがあった。普段の彼女を知る者があれば、熱に浮かされたようだと表現するだろう。 事実として女は興奮していた。もっとも、常人とは全く異質であるけれど。 嫌悪感と吐き気を愉しみ、震える指先を甘美と捉え、興奮を覚えることは余人には難しいだろう。 この男と会う度に彼女の感じるもの。それは、恐怖だった。 機嫌が良いな。随分と。 あんたの顔を見てるからね。ほら、あたしはあんたに惚れてるだろう? そうか。 そうさ、あたしは人間なんか嫌いなのさ。簡単に死ぬから。死ぬと、臭いんだ。 その点であんたは最高。あんた、絶対に死なないんでしょ? いいや。死のない生物はいない。 あ、そ。 馬鹿馬鹿しいわと肩を竦めて。女は男にキスをしようかと思ったけれども、止めておくことにした。まだ、昼間だから。 淑女としてのモラル?違う、決して、そうではない。 あの忌々しい“陽差し”が空に在るうちは、この顔を、誰の前にも晒したくはないだけ。ただ、それだけのこと。 それで、あのお人形は元気にしている?泣かせてないでしょうね。 誰だ。 ん……? そういや増えたんだっけ。あんた、小娘を囲い始めたんだってねぇ。 もう、味見はした? ……下らん。 はいはい。ああ、その可哀想な小娘が心配だわ。引っかからないことを祈るばかり。 あんたのそのからっぽの瞳に、吸い込まれちまう馬鹿がたまにいるからね。 ここにもね── そう小さく続けて、ドクター・ファネルは男に口づけする。 空のことは気にするのを止めた。神なるものが空に在るのなら、見るがいい。お前を冒涜することなど恐れない者の姿を。 この、黒色を。この、理不尽そのものである男を。 這い寄る暗黒が如きものを。見るがいい。 ……ああ、いつも通り。 最高に気持ち悪い感触だわ。あんたの唇。 地下鉄の乗り換え駅。未だ、午後に入って間もない時刻のためか、ソーホー区の地下通路はがらんとしていた。 自分と同じくらいの年格好は、特に少なかった。 メアリは自分の姿がやや浮いていることを自覚しながら、それでも迷わず歩いていた。目指すは、院や下宿とは別の路線。 ……。 走るほどの速度ではないけれど、やや、息が切れる。 急ぎ足をしながら考える。昨夜から、ずっと、同じことを考えている。 逃げることだけ考えろと言われたけれど、到底、無理な話だった。 ──人間。 ──人間。誰か。──宿主となって《怪異》を生み出す? ──もしも、本当に、──どこかの誰かが原因となっているなら。 ──可能かも知れない。──止めること。 ──言葉の通じない《怪異》とは違うわ。──だって、人間であるなら。 ──話ができる。──そう、あたしは考えて。 もう生み落としてしまったのなら、せめて、進化することを止められないのか。 メアリは記憶の彼方を探る。はっきりとは思い出せないけれど、あの声、シャルノスの狭間に散逸していた、4つの。 内容までは思い出せない。でも、少しだけ。 漠然とした印象だけがメアリの頭の片隅に漂って、そう、囁く。恐ろしいものではなかったと。 ──何かを求めて。──焦がれて、悲しさに充ちたもの。 ──そんな印象だけがある。──単語ひとつさえ、思い出せないのに。 ──印象。──悲鳴と、叫びと、涙。 ──それらが声となったもの。──多分、そう。 曖昧として、実に頼りない記憶ではあった。それでもメアリは迷わなかった。 ……うん。迷わないわ。 小さく呟く。ささやかな決意を込めて。 ──あたしは言葉を交わしてみたい。──その“誰か”と。 ──涙と共に何かを求めて、焦がれたひと。──そう、あなたと。 Mには何も話していない。伺うつもりはなかったし、自分で思い至った行動は自分で決めたい。 電信通信機は受動状態を切っている。影人間が自分を見ている以上、彼から制止の連絡があるかも知れないから。 碩学院には遅刻の旨を連絡済みだ。それと、アーシェにも。 時間はあまりない。自分がこれから何をしようとしているかを、影人間越しにMやモランが気付くより前に。 するべきことをしよう。話を、したいから。 ──まずは、ここで。──地下鉄の路線を乗り換えて。 ──あたしはウェストエンドへと向かう。──いつもの場所へ。 そこは、いつも訪れている場所だった。ザ・ホテル・リッツ。 初めは気後れしながら入っていたけれど、今は、もう、躊躇うこともない。すっかりここも慣れてしまった。 いつもと同じ。回転扉をくぐってホールへ。迷うことなくまっすぐ進んで、昇降機前へ。上階へのスイッチを押して。 いつもと同じ。違うのは階と部屋番号か。いつもと別階の、端と端ほどに離れた場所。 昇降機を降りて廊下を進んで、ブリタニア風の彫刻が施された扉の前へ。 ──ノックを2回。──気持ち、やや、控えめに。 ──もう、起きていると良いのだけれど。──眠っていたらどうしよう。 昼間の時刻に来たのは時間を計ったから。この時間なら公演は始まっていないはず、昨日に聞いた話の通りなら。 いつもこの時刻までは眠っているかな、と話しているのを覚えていた。 涼やかな顔と── 美しく響く声で── ──はい? 部屋の中からの声は、そう。欧州一と謳われる舞台俳優のそれだった。 嬉しいな、訪ねて来てくれるなんて。今日はとても良い日だ。 つい先刻もね、ブラムが訪ねてくれたんだ。夜が大好きな彼が、実に、珍しいことにね。 ともかく上がってくれたまえよ。お茶を淹れよう。 美しく、優しげで穏やかな声。警戒する様子など欠片も感じられなかった。 突然の来訪にも関わらず、彼女はにこやかにメアリを出迎えてくれた。その仕草は、昨日に見た時と同じく優美で。 おおむねMの部屋と同じ作りをした、リッツのスィートルーム。 豪奢な部屋。けれど印象が少し違うのは、主のせい? 公演中は劇場にほど近いここを借りている、と、先日のカフェで聞いてはいたけれど。個人でここを何日も借りられるだなんて。 メアリの想像を超える世界だった。数日借りるだけで、きっと仕送りの半年分は消えてしまうはず。 Mの場合は──きっと組織からお金が出ているに違いない。もしくは、彼は、資産家なのかも知れない。 そうであっても驚かない。欧州一の名優が女性である事実に比べれば。 ソファへ腰掛けたメアリのために、上質のセイロン・ティーを淹れる彼女。 ──ヘンリエッタ・アーヴィング。──あたしは、あなたを。 ──疑っています。──もしかして、あなたが、と。 それで? 今日はどうしたのかな。お友だちの姿は見えないようだけど? ……はい。 言葉に出し難いのは当然だ。我ながら、唐突で、奇妙な内容の話だから。 それでも尋ねなければいけない。そのために、ここへ来た。 ひどく緊張する自分をメアリは感じている。でも、不思議と、怖くはない。あの、黒い街の気配とは違う。 彼女は“そうではない”のだろうか。そうも思う。でも── 緊張に揺れる指先でティーカップを持ち、一口だけセイロンを飲み込んで。 香りと味わいを感じることができた。大丈夫、余裕は、ある。 あなたに尋ねたいことがあるんです。唐突に、ごめんなさい。 どうか、失礼を許して下さい。あなたは……。 ……何かを、強く想ってはいませんか。ひとつのことを。激しく、強く、焦がれるほどに。 ──迷いはあった。──こう言うこと、こうすることすべて。 ──でも。でも、──あたしは、感じていたはずだから。 ──朧気な記憶の彼方に残った、実感。──4つの声を聞いて。 ──あたしは、このひとのことを。──思い出していたはず。 ──同じ声だったかどうかは覚えていない。──それでも、確かに。 ──ヘンリエッタさんのことを。──あたしは、思い浮かべていたはず。 ……奇妙な質問をしてごめんなさい。本当に、あたしは、今、失礼をしています。 でも、聞かせて欲しい。どうしても……それを、知りたくて。 変わった取材だね?いや、取材とは違うか。ふむ。 小さく頷くと、ヘンリエッタはメアリの顔を見つめた。 唇を閉ざし、沈黙して。瞬時に真剣な表情となって。 ややあって。形のよい唇を彼女は開く── 俳優だからと言うつもりはないけれど、私はね、演技と真実の区別がわかるんだ。 思考と嘘の仮面を被っているのかどうか、こうして見つめれば、ある程度はわかる。きみは、そうだね……。 私にはさっぱりわからないけれど、それは、きみにとって大切な質問なんだね。 そうだろう? はい。大切な質問です。失礼は承知しています、でも。 答えて欲しいんです。あなたに。 ……ああ、わかるよ。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 きみも、何かを強く想っているってこと。私も、そうだからね。 語尾に笑みを混ぜながら、彼女は、やや小さな声でそう言った。 その笑顔は、今までに見た彼女の顔とは少しだけ違う。 完璧な輝く笑顔?いいえ、違う。それは── 名優ヘンリー・アーヴィングによる無欠の演技ではなく── 構わないよ、メアリ。私の答えがきみの想いの一助となるなら。 口外しないと誓ってくれるかい?私の想いは、未だ誰にも語ったことがない。重大な秘密だからね。 ……はい。誓います、ヘンリエッタ。 ありがとう。 ……私の、想いを知りたいと言ったね。 私の想い。それはね、世の多くの女性と同じものだよ。 取り立てて特別なことはないはずのもの、けれど、私には特別過ぎるものさ。多くの女性が抱くものと、同じなのにね。 同じ── そう、同じ。 恋ってやつさ。心を焦がし冷めやらぬ、っていう。 まさにあれが。私の想いだ。 ──はにかむように。──ああ、その、あなたの笑顔はわかる。 ──わかるわ。──ひとりの女性の、素朴な笑顔。 ──瞬間、あたしは強く確信する。──あなたは違う。 ──そう。違う。 ──きっと、あなたじゃない。──怪物をあなたが生み出すはずがない。 ──そう、あたしは強く強く感じられて。──ひとつの安堵と。──ひとつの罪悪感。 ──秘めていたことを聞き出してしまった。──責められることもなく。 ──ごめんなさい。──でも、本当に、黒い街であたしは。 ──あなたの存在を感じたの。──ヘンリエッタ、あなたの、横顔を。 確信と安堵と罪悪感。それらを感じて口ごもるメアリをよそに、ヘンリエッタは、未だ言葉を続けていた。 いつも、誰かに聞かせたかった。この身に秘めた想いのすべてを、彼以外の誰かに。 そう言葉を告げると、絶対に秘密にしてねと前置きして── 私は彼に恋慕しているんだ。エイブラムにね。 この地上に在る人々の誰よりも愛している。そう、誰よりも強く。 私たちの間にあるのは無二の友情だった。そのはずなのに、いつの間にか、私の中では恋へと変わってしまった。 理想と夢に殉じると決めたのに。ただの、女になってしまったという訳だ。 ──遠い目をするあなた。──どこを、何を、誰を、見ているの。 ──友情を感じていた頃。──それとも、自分の想いに気付いた頃。 ──自分のこと。──それとも、焦がれる彼のこと。 ──あたしは何も言い出せない。──恋というものを、まだ、知らないから。 ──ただ、ただ。──申し訳なく思う気持ちだけがあって。 ──あたしは口を開き、閉じて。──何も言えない。 あのふたりが羨ましい。ほら、きみのお友だちの彼女さ。 アーシェ、ですか……? そう、彼女さ。黒髪の男性と仲睦まじく一緒にいるのを、以前、舞台の上から目にしてしまってね。 勿論、普段は舞台から客席をそれほどはっきり見てしまうことはないのだけれど、どうしてかな。その時だけは。 見えてしまった。視界に、入ってしまったんだ。 若く、麗しく、仲睦まじい恋人たち。ひどく輝いて見えてね。 そう言って、視線を足元へ移す彼女は。表情を僅かに沈ませて── ……私はね。 怖いんだ、とてつもなく。耐え難いほどに。 私は、意気地のない女だから。もしも、この想いを彼に告げてしまったら、どんなことになるかと考えてしまう。 私が愛を口にでもしたら、その時、すべては終わってしまうとね。 彼は、永遠の友人である私を失うんだ。ただの女でしかなかった私を知って。 彼はきっと、それを望まない。私たちは“永遠の親友”なんだからね。 だから、秘密なんだ。 ……きみの想いは、どうなんだろうね。 私のようになってはいけないよ。恐れるあまり、身動きが取れなくなるから。 肩を竦めて。囁くように彼女は言った。 その表情には── 確かに、見覚えがある── (ああ……) (そうね……) (これが……。 誰かを想うひとの、顔……) 忘れるはずもない。婚約したことを告げた時のアーシェリカの表情とそっくり同じ、嬉しげで寂しげな顔。 ──あたしは、そっと微笑み返す。──意識することなく。 ──相応しい表情を形作ろうとは。──欠片も思わずに。 ──誰かへ焦がれる彼女に。──ヘンリエッタ・アーヴィングに応えて。  『メアリは信じているのね』  『お母さまのこと、好き?』  『……うん』  『女の子にはね』  『王子さまを待つケンリがあるんだって』  『難しい言葉、知ってるのね』  『でも』  『でもね、メアリ。もしも……』 音が響く。音が響く。 機関の揺籃から鳴り響くのは鋼鉄の産声か。 地下深くに隠された巨大な鋼鉄の竜だ。物言わず、動くこともなく。 複数連結式の超大型計算機関である鋼の竜。これが《機関回廊》と呼ばれる大隧道だとわかる人間は多くはない。 ──女王存命の理由を知る者と。──恐らくその数は概ね同じであるはずだ。 例えば── 殺人さえ厭わぬ犯罪組織の重鎮であるとか、欧州の闇深くで蠢く結社の頭脳であるとか。 狂おしいほどの想いにその身と心を焦がす、たったひとりの“求める誰か”であるとか。 ロンドン地下奥深く。無数の機関が組み合わさった大隧道であり、英国頭脳の一部である《機関回廊》の一角。 ──回路を思う者もいる。──祭壇を思う者もいる。 決してそこに足を踏み入れてはいけない。命が惜しければ。 何者が潜むのかすら想像してはいけない。命が惜しければ。 そこにはまともな人間はひとりもいない。暗がりと、黒と鋼があるだけだ。 黒色の男と。鋼鉄の女と。 ──機関の揺籃の中で。──鋼鉄の女は、そこで“視る”のだ。 ……我があるじ。 怪異の発生フラグメントを確認しました。またも、献体が使用されたようです。過度の、揺らぎが生じ始めています。 見ている。 はい。パターンBの思考ノイズを確認しました。 自己の精神を残る要素として、眷属型への進化を果たしたと予想されます。 ……大したものだ。 はい。 面白い。求め、血の涙を流し、己の求めるものさえ引き裂いてみせるか。 零時時点の成長率は。 臨界です。 予測通りだ。 では、収穫を始めよう。第3に血の大地を砕くもの、汝の最後だ。 ──断末魔が、高らかに響く。 あり得るはずのない永遠の痛みと苦しみに、もがき、あえぎ、足掻き、涙に暮れるもの。 それは、都市の闇に潜む。それは、砕かれた鋼の内から生まれ落ちた。 それは、待ち受けるもの。焦がれるこころを磨り潰し打ち砕くもの。 それは苦しんでいた。嘆いていた。澱む大気はそれが存在することを許さない。濁った土はそれが思考することを許さない。 あまねくすべてがそれを許さない。許してくれない。そのことは、既に定められた摂理だった。 しかし、それは生まれ落ちてしまったのだ。在るべきはずではないロンドンの闇に、暗がりの中で、断末魔の震えと共に。 ──時を経ずに、それは土くれを纏った。──叫び声を上げ続けながら。 岩や石さえもが体を包むけれど、しかし、決してそれが窒息することはなく。 それは喘ぐ。乾く。欲しい、潤うものが。全身にまとわりつく硬質なものが目を覆う。仮面だ。見えない。何も、見えない。 故に、それはさ迷い続けるしかない。目も見えず耳も聞こえず喋ることもできず、苦しむしかなかった。僅かな例外を除いて。 たとえば── ──どこかで叫ぶ、生け贄の少女の声。──どこかで叫ぶ、哀れな犠牲者の声。 だから。悲鳴を追うことしか、それにはできない。  ──もしくは──  ──黄金色に輝く──  ──たったひとつの── リッツを後にして。メアリは地下鉄駅への帰り道を歩く。 自然と、俯きがちに歩いて、舗装された石畳を見つめながら考えていた。 黒い街で耳にしたはずの4つの声について。電信通信機の計器の表示に導かれるままに、集めて回った、悲鳴。叫ぶ声。 声の主はヘンリエッタではなかった。彼女ではない、絶対に。 そういう確信があった。明確な言葉にするのは難しいけれど、メアリは判断を迷うことはなかった。 あの4つの声に一度は触れた。だから、その声の主に会えば、話を聞けばわかるという確信があったのだ。 朧気だけれど覚えていることも幾つかある。例えば、断片とMの呼ぶあれらを聞いた時、彼女の横顔が浮かんだこと。 ──間違いないわ。──他の誰でもなく、彼女の顔だった。 ──それでも。──宿主はヘンリエッタじゃない。 違う、絶対に。足元の石畳を数えながらメアリは思う。 (……では、誰が……) (……彼女のことを想いながら? 人を殺す、あの、レッドキャップを) 考えながら── 自動監視を続ける不気味な影人間を探す。不思議と、姿が見えない。 彼らが常にメアリを見ている以上、自分の行動のすべては筒抜けのはずなのに。なぜ今、影人間が姿を消しているのだろう。 まさか、この行動が黙認されている?そうなのだろうか。 宿主となった人間と会うのをMが黙認する。そうであるなら、その意味は。 ──危険はないということ?──宿主と会っても意味がないということ? ──あたしは、無駄なことをしている。──そう、言いたいの。 辻褄は合う。 メアリがひとり勝手な行動をすることを、彼が、認めるはずがない── 影人間を探すのを諦めて、メアリは再び足元の石畳へと視線を移す。また、ひとつ、ひとつ、数えながら歩く。 地下鉄駅まではすぐのはずなのに、やけに長く感じられた。 道を間違えていることはない。ただ、時間の感覚がいつもと違うだけ。 と── 軽い衝撃があった。 誰かに、頭からぶつかってしまった? 体格からして男性だとすぐにわかる。優しげに、メアリの体を抱き留めた誰か。 転ばないように、傷つかないように、細心の注意を払いながら── 黒色を纏った紳士だった。刹那、メアリは、Mのことを思いかけたが、違った。マントの裏地の赤色が見えたから。 美髯の紳士── 見紛うことなきブラム・ストーカー。 危うく前のめりに転び掛けたメアリを支え、紳士は、穏やかなあの表情を浮かべて。 危ないところでしたね。美しく麗しい、黄金瞳のお嬢さん。 考えごとですか、メアリ・クラリッサ?歩行中のよそ見は褒められませんね。 す、すみません……。ミスター……。 気を付けてくださいね。まだ、昼間であるから良いものの。 夜道であれば。何かと物騒なのですから。 そうですね、と。返す瞬間。 ──その、刹那。──あたしの体は硬直しかけていた。 ──見た。見てしまった。──ブラムさんの、穏やかなはずの目を。 彼がメアリの黄金瞳を見つめたのは、ヘンリエッタが言葉を述べたその瞬間だけ。初対面の時には、決して、そうではなくて。 不思議に思うほど、彼はこの右目に注意を向けなかった。 なのに、今。彼はメアリの黄金瞳を見ていた。 決して顔を見てはいない。ただ、右目だけを。 ──背筋に何かが走った。──ひどく冷たい、それは、悪寒。 ──どうしてその考えが及ばなかったの。──あたし、どうかしていた? ──あんなにも親しげな様子だったふたり。──ヘンリエッタを見る彼の瞳。──親愛とは思えないほどの、あの。 ──ああ、どうして。──今なの。 ──暗示迷彩という言葉が脳裏に浮かぶ。──人間の精神に作用する能力のことも。──それなら。 ──気付かなかったのは、あれの力?──歪んだ怪物の? ──彼。彼が。──声のあるじであると、今は、思う。 ──今度こそ確信する。──あなたが、あれを、生み出した。 ミスター……。……ブラム・ストーカー……。 ……あなた、が……? はい。 ……どうして……? ええ。 ……あなた、だった、の……?だから、あたし……。 4つの声に、彼女のことを……。感じたの……? ──ああ、そうか、と。あたしは思う。──ヘンリーの横顔。 ──4つの声に感じた、あの、横顔は。──あなたの想い。 ──狂おしくも焦がれるあなたの想い。──ヘンリエッタがそうであるように。──あなたも。 ──彼女のことを誰よりも想って。──わかるわ。今は。 ──わからないのは、ひとつだけ。──どうして。 ──どうして、あなたの、その強い想いは。──あれを生んでしまうの。 ──なぜ。なぜ、なぜ。わからない。──どうして? 私は、僕は誰にも許して貰えないでしょう。わかっています。たとえ神であっても、この罪深さを救うことはないだろうと。 ですが、最早こうする他に道がない。許して下さい。メアリ。 軍は僕と会の関係性に気付いてしまった。僕の近しい人が危ない。 僕は、僕自身の生み出したあの怪物を用いるつもりなどなかった、それなのに。 それなのに……。あなたは、僕の前に現れてしまった……。 ……メアリ……。 名を呼ばれると同時に全身が震えた。どうしようもないほどに。 怖い。 怖い。 怪物たちと相対する時とそっくり同じ。 息ができない。 我知らず喘ぐ。 続けざまに強烈な吐き気が胸に生まれる。 呼吸困難。胸の痛み。思考が途切れて意識がぼやけてしまう。同じ。同じだ、前と同じ、あの先触れ。 ──苦しい。胸が、胸の奥が疼く。──あたしは、これが何かを、知っている。 ──あの時と同じ。目眩と、ひどい苦しさ。──怪物の時とそっくり。 ──あの醜い怪物たちが感じさせるもの。──心と、体を、引き裂くもの。 ──あたしが。──あの時から、ずっと感じているもの。──あの時から、ずっと忘れているもの。 呼吸ができない。胸が苦しい。吐き気と、嫌悪感、それに、激しい震え。 言葉が出ない。強烈なひとつの感情がそれを阻む。 恐怖が── 全身へと充ちて── 何も言えない── どうか、許して欲しい。お嬢さん。 ……僕の《怪異》は進化を果たしている。もう、止めることはできない。 言葉を耳にした、直後。メアリの体はひとりでに動き出していた。 強烈な感情に全身を苛まれながらも、それでも、脚は動いてくれて。 言葉を聞かずにメアリは駆け出す。真横に見えた路地裏への入口へ、するりと。 奇しくも、その場所は、群れのムリアンの際に飛び込んだのと同じ。 ウェストエンドの無人の路地裏。異なる点はひとつだけ。時刻が、夜でないこと。 夜の《怪異》と噂は告げるのに、そんなもの── 何の意味も、ない── 路地裏を走る── 走る。 走る。 走る。 ──来た。来た。来た!──昨夜と同じ気配がはっきりとわかる。 ──4体の“あれ”と同じ怪物が近くに。──あたしの背後に迫るのがわかる。 路地に誰もいないことを確認する。孤児の姿は一切ない。誰も、ここにいない。 ここはロンドンで最も治安の良い場所、ウェストエンドなのだから。 誰の姿もいない。路地裏をねぐらにするような少年も少女も、犯罪を生業とするような大人たちもいない。 誰もいないから。ここでならその姿を目にすることができる。 眠り続けるシャーリィも、今は碩学院にいるはずのアーシェのことも、決して、これに、巻き込まずにいられる。 四肢を痺れさせようとする寒気と、意識を奪おうとする呼吸の乱れと、思考を混乱させようと揺れる気配などに。 すなわち、メアリを襲うこの恐怖そのものに。 これまでと同じように混濁しかけた意識で、メアリは、自分の為すべきことだけ考える。たったひとつ── あとは── することは、ひとつ、だけ──  ──振り返る、だけ──  『……ツ、ラ、イ……』  『……コ、コ、ロ……』  『……ク、ダ、ケ、ル……』 ──暗がりから、何かが、見える。──これは何。 問いかけても答える者はない。疑問に答えてくれる教授はここにはいない。 これをいつも覚悟していたはずだ。誰も、友人も、伯父も、ここにはいない、ひとりで、暗闇に浮かぶこれと相対する。 人間が生むと彼の言った“あれ”がいる。鋼を纏うことをやめたもの。路地を埋め尽くす、巨大な。 耐え難いほどの悪臭と刺激臭を漂わせて、耐え難いほどの振動と揺らぎを身に纏う、土の、怪物。 暗がりに、それの生み出した奇妙な明かりが浮かぶ。体表を覆う無数の紅い瞳がぐるりと蠢く。 それは石と土とを全身に纏いながら、濁った土によく似た色を湛えて、体表の破片を溢して。 炎と風の怪物と似ていた。けれど、何かが明らかに違っていた。 それは炎でも風でもなく、濁った色に沈んだ土と岩を纏っていたから。 けれど、よく似て見える。黒い体。紅い瞳。それは、ロンドン中の恐怖の噂。 誰かが《怪異》と呼んだもの、この世ならざる歪んだもの、おとぎ話にしか存在しないはずのもの。 闇から生まれる怪物。赤い雫を滴らせてうねる、化け物。 ──あたしは、視線をそれから逸らさない。──呼吸困難と目眩の正体。 ──恐怖。 涙を懸命に堪える。悲鳴も同じく。呼吸の止まった喉からは、ひきつった声が出るだけ。 それさえも完全に止めたかったけれど、無理だった。声が、漏れる。 ──誰か。誰か。誰か。──お願い。 ──勇気を下さい。──どこまでも、走り続けることへの。 強くそう願う。けれど、すぐ、思考はぐちゃぐちゃになる。 駄目。だめ、だめ、だめ。思考がまとまらない。混乱が襲い掛かる。舗装街路を砕くほどの、激震の黒い怪物。 そう、それは常に揺れていた。何もかもを崩落させる地揺れのようにして。 何、何。これは。炎でも風でもなく震動を纏った、怪物。 自分が何を考えようとしていたのかが霞んでいく。ただ、恐怖が体に充ちる。苦しい。震動が肌に痛い。 混乱する思考の濁流で意思だけが迸る。メアリは、涙を堪えながら、喘ぐ喉を、振り絞りながら。 ただ、ひとつのことを思う。ただ、ひとつのことを願う。 それは、事前の使命感であったはずだ。または、直感か、確信のどちらか。 ──教えて。M。 ──もしも、これが、この土の怪物が。 ──これが、あなたの言う通りに。──人間が生み出すものであるというなら。 ──どうして、あたしを殺そうとするの。──この目を狙うの。 ……なぜ……? ささやかだけど声が出た。息が、喉を通る。詰まった空気が通り抜けて、酸素が脳へと回ってくれる。 震える四肢が僅かに止まる。それは、ほんの一瞬だけの平衡状態だった。 その一瞬でメアリは思う。暗い。誰もいない。果てなく続く暗がりは、すべてが黒色に染まったのだと告げている。 ──黒い街。──そう、ここは、もうシャルノスの狭間。 ──助けてくれるひとは。誰も。──あたしだけ。 何もかもが同じ。あの時や、これまでとすべて同じ。 揺らぐ、石の、土のあなた……。あなたが……。 ……あたしを、どれだけ求めても……。だめよ……。 ……あたし、は……。 掠れる。自然と、声が。一瞬の平衡を失った四肢が再び震えても、あの時と同じ、呼吸は、止まっていない。 止まってはいない。呼吸は続いている。四肢は、震えて、でも、辛うじて動く。 ──どうするの。──どうするの、メアリ。 震えにまかせて倒れ込む? 黙ったままその時を待つ? それとも、どうしてとあの赤い瞳に叫ぶ? ──駄目。どれも、嫌よ!──あたしは何をすべきか知っている。 ──問いかけたい。──震えたまま、倒れ込んでしまいたい。 ──でも、駄目。それは。──それだけは。 思考がどろりと恐怖と怪物の震動で砕け、何をすべきか、何をするのか定まらない。たったひとつなのに。 できることはひとつなのに。それを、失いそうになる。 メアリは、冷静にはほど遠い思考で、それでも、震えながらも怪物を見る。土を纏った巨人を。 赤い瞳が── ……そう……。 同じだ。あの時と、これも、同じ。怪物はメアリを見ている。 ──土の怪物の無数の瞳が見ているのは。──あたしの、右目。  『……ミ……エ……ナ……イ……』  『……キコ、エ、ナイ……』  『……デモ、ワ、カ、ル……』  『……カガヤク、黄金瞳……』  『……ソレヲ……クレ……』 喋った── 喋った。そう、これらの怪物は喋るのだ。恐怖に麻痺したメアリの神経は、霞の向こうにある記憶を呼び覚ましていた。 黄金瞳、とこの怪物も同じものを求める。黄金の瞳。黄金の。それは── ……あなたも、同じ……これまでと……。変わらない……。 ……あたしの目が欲しい? それは、あなたの、願い……。それとも……あなたを生んだ、彼の……?  『……ホ、シ、イ……』 ……そう。  『……目、ヲ、ク、レ……』 ──思考が。ひとつに纏まっていく。──ようやく。ようやく。 ──そうね。──お前たちは、いつも、そう。 ──この目が欲しいの。──だから、こうして、あたしを狙う。 ──宿主の意思?──それとも、本当に、ひとりでに? どちら、だとしても。あたしは……。 ……あなたたちには捕まらない!ええ、絶対に!  『……クレエエェ……!』  『……黄、金、瞳……!』 ──襲い掛かってくる!──震動する四肢で石畳を粉砕しながら! そっくり同じ反応であることが幸いだった。意識と思考はぼやけてしまって意思を挫き、怖さで今にも失神しそう、でも。 メアリは、既に決意している。何をすべきかは体に染みついているはず。 瞬きする暇もないほど恐怖は全身に充ちて、倒れてしまいそうなほど震えているけれど、でも、それでも。 走ることならできる。そう、決めた。 ──何度でも、何度でも。──あたし、あなたたちから逃げてみせる。 ──やることは、あの時と、同じだから。──覚悟はできている。 ──たとえ。──あなたが人間から生まれたとしても。 ヴィドック卿の発展理論を思い出しながら、正しく走ることだけに集中して。 恐怖を引き剥がせなくても、足だけは。前へ進むことだけは── 走って、走って、怪物から離れて、それから、それから先の記憶は掠れて。でも、彼、Mがいたのは辛うじてわかる。 ──できる、メアリ? ──できるわ。だって、こんなところで。──諦めたりしない。絶対。 ──まだシャーリィは眠ったままなのに。──まだ素敵な舞台も一緒に行ってない。──だから。 あなたが、どれほど姿を変えても!絶対……! その腕はあたしを捕まえられない!……証明、してあげる! メアリは走り出す。怪物が大小6つに分裂して、猛烈な勢いで襲い掛かってくる気配を背中に感じながら。 ──全力で、あたしは、前へと。 全身を苛む痛みは常にあった。昨晩、妖精型の《怪異》を砕かれた時から。 魂と身体を同時に引き裂く痛みだ。私は、耐えられる。愛する誰かのためと信じればこそ、常に。 信じ込んでさえいれば、疑問を微塵も浮かべていなければ、そう、私は、痛みを感じないはずなのに── 全身が、魂が── こんなにも酷く痛む── ずっと、私はこれに耐えてきた。一度は拒絶したはずの降霊会の“成果”を前にして、私は、誘惑に耐えられなかった。 黄金瞳の少女。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 どうしてきみは私の前に現れたのだ。きみを、目にさえしなければ、私は《怪異》を生み落とすこともなかった。 いや。いいや。今はもう何も言うまい。 私の制御を離れた《怪異》は夜を切り裂き、幾人もの犠牲者を生み出した。新聞発表がなくとも私にはわかっている。 軍人らしき一団を私の《怪異》は殺した。意識の奥底で繋がっているが故に、私は、それを我が記憶として実感できる。 既に、この手は血塗られてしまった。ならば── 私はもう迷うまい。黄金瞳を、今度こそ得てみせよう。 ──だが。──私には、心残りがひとつだけあった。 ──それは《怪異》を生む理由でもある。──我が、情念そのもの。 私は全身を引き裂かれる苦しみに喘ぎつつ、何とか、電信通信機を取り出す。 ああ、この電信こそ。最愛の彼女から贈られた、私の、大切な。 電信通信機は震動していた。そう、進化を果たした《怪異》のように。 けれどこれは超常の現象ではない。最新の震動機能、だ。誰かが私に回線を繋ごうとしている── 私は苦しい息を抑えて、電信の通話スイッチを押し込む── ……やあ、ヘンリエッタ。 『よくわかったね。僕だよ。エイブラム。 実は、その……時間は、あるかい』 どうしたんだい。改まって。 『その……これから僕は最終公演だろう? もし良かったら、その後、一杯どうだい。 打ち上げの後にさ』 『昼間の続きをしたいんだ。 晩酌、付き合ってくれる……よな?』 『今夜はなんだか眠れそうにないんだ。 きみはどうせ、また深夜の徘徊だろ?』 そうかも知れない。しかし、きみが晩酌とは珍しい。 ……何か、あったのかい。 『何も。ただ先刻、人と話してね。 そうしたら、きみの……』 『きみの顔をふと見たくなったんだ。 ああ。ただ、それだけだよ』 ……奇遇だね。僕もだよ。 『さすがは私たちだ。 親友というのも、伊達ではないね』 ああ、本当に……。けれど、少し、僕には用事があってね。それが終わったら、すぐに行くよ。 『打ち上げも間に合いそうにないかい? そっちは、うん、別にいいんだ。 劇場主がいないと皆驚くだろうけど』 『その代わり、晩酌には遅れないでくれよ。 瓶を冷やして待っているから』 ああ……。 掠れる声と共に、私は通話スイッチを再び押し込む。 回線が切れたことに気が緩んだのか、私の喉からは声が漏れた。それは、恐らく、絶叫だったかも知れない。 苦痛と無念とが混ざった、世にもおぞましく未練に充ちた我が叫び。 後悔が私を襲う。輝けるきみ、我が最愛のヘンリエッタ。きみは、私を許しはしないだろう── もしも、私が黄金瞳を得たとしても── きみの心を得ることはできない。それを、私は、知っているというのに── ……チャペック、博士。僕は。僕は、私は……間違って、いるのか……? 誰かを、犠牲に、して……。得た、ものなど……。 ……意味も、価値も、何も……。 痛みにふらつく私は、路地裏の冷たい壁に危なげに寄り掛かる。 その時、誰かの姿が見えた。黒い男の姿。 ああ、とうとう、私の前にも姿を見せたか。黒色を纏って嘲笑うもの。タタールの門を阻むもの。 ……きみが……。そうか、チャーチルも……きみが……。 思い上がるな。黙れ。 お前たちの生死などに俺は関わらない。俺は、ただ、見届けるのみ。 ──きみの姿を初めて目にする。──降霊会で、何度もその名を耳にした。 ──闇に咆えるもの。──それに類する、人間、だとか。 ──確か、そう。──今は“M”とだけ名乗る、きみ。 容姿についても聞き及んだ通り。姿を現す時期さえも。 けれど、何故だろう。私には── きみが── 人間のようには、見えない── ……きみが、Mか。これほどまでに恐ろしい姿、とは、ね。 なるほど。ジェーン・ドゥの言った通り、人間には思えない、男だ……。 僕を殺しに来たのかい。黒い男?だが、遅かったな……。 ……黄金瞳の少女は、もう……。この、僕の……。 手の、届くところに……。あるんだ……。 声は我ながら弱々しく。けれど、まだ、私の意思は挫けていない── ──4つ、集めた。 ──誰かの声。ううん、誰かの叫ぶ声。──大地を恐れた誰かのそれ。 計器の示した通りの位置に声は在った。やはり、理由はわからない。声のことも、他のあらゆることも。 この暗がりの街と同じ。なぜこれが在って、なぜ怪物がいるのか。 まるで願うように叫び続けて、まるで涙のように赤を流して。なぜ、彼は怪物を生み出してしまったのか。 ──知りたいと思う。──叫ぶ声、悲鳴を上げ続けている理由。 ──ブラム・ストーカー。──こうも、あたしの瞳を欲しがる理由。 疑念を浮かべながらもメアリは走る。そうすることしかできない。今は、4つの声を集めて、それから。 ──走り続けて、声を集めて。──それから。 ──何かがあったはず。──どこかを目指してあたしは走った。 何かを聞いたはず。Mの声に導かれたという記憶。 建物の濃い影に息を潜めながら、考える。どうする、どこへ逃げるの。Mの声に、導かれて──  『……黄、金、瞳ォ……!』 引き裂くような激しい声!怪物。大小6つに分かれたものの中でも、最も恐ろしい暴風を纏うものが、目前に。 黒い街路を震動で打ち砕いて、異臭を撒き散らしつつメアリを追いつめる。 ──恐ろしさで全身が硬直しかける。──駄目。駄目! 叫び声は4つのものとは全く違う、これは、もっともっと濁って、澱んで。黄金瞳を打ち砕こうと泣き叫ぶ、悲鳴。 見てしまった。また、その揺れる姿を見てしまった。 ──恐怖が意識と四肢を震わせてしまう。──駄目。駄目!  『……キ、ミ、ノ……』  『……右、目、ヲ……』 いやよ……! メアリは意思を振り絞る。叫ぶ。怪物の懇願に負けないくらい、大きく。                 『トロール』 ──声。誰かの。 ──声。あなたの。 ──トロール。──それは、おとぎ話に出てきた鬼の名。 トロール。そう囁く声が聞こえていた。思い出すのは、幼い頃に絵本で読んだ、土の巨人。 ……トロール……。                『ここへ来い』 ──声。あなたの。──聞こえる、前にも聞いたはずのもの。 ──怪物の声じゃない。人間の、声。──聞き覚えのある。 ──あなたの声よ。遅いわ、M。 ……どこへ、行けば……!                『ここへ来い』                『まだお前が』            『諦めていないのなら』 耳に届いた声ではない、と直感的に思った。周囲には誰もいない。 自分と、他にはこの“トロール”だけ。声は確かに背中の方角から聞こえた。 ──そこに。 ──行けばいいのね、M。 ……ッ!! メアリは再び走っていた。あの時と同じようにして。恐怖の波が膝をおかしくさせるよりも前に。 声ならぬ声の主の言葉。ここへ来い。それを信じる。前もそうした。 声の先にMがいる。確か、そうだったと記憶が告げているから。 ──あなたを信じる。──あたしは、誰にも捕まったりしない。  『……黄、金、瞳ォ……!』  『……クレェエエ……!』 駄目! ──まだ。走れる。──土になんて絶対に砕かれたりしない。            『諦めていないのなら』             『ここへ来い。仔猫』 仔猫って、言わないで!! ──走って、走って、走って。 ──鈍い痛みが両脚全体に広がっていた。──痛い。長い時間を走ったせい? この場所のはずだと内心で繰り返す。直感的に、そうだとわかる気がしていて。 ここまで走って辿り着けばいい。体に染みついた経験と直感とがそう告げる。だから、体に残った力のすべてを費やした。 脚だけではなくて、全身が軋む。とうに限界は超えてしまっているはずだ。 もう呼吸をする感覚も失っていた。引き裂かれるような胸の痛みだけがある。 脚が痛い。無数の礫が突き刺さり、肉を裂いて骨にまで埋め込まれたかのよう。 あの声の主が言った場所は、ここ。方向は間違っていない。 けれど── ──周囲には誰の姿も見えなかった。──無意識に彼を探す。──怪物を恐れることのない、彼の、姿を。 ──見えない。──でも、彼は“ここ”へ来いと言った。 ──注意を逸らしたあたしを嘲笑うように。──鳴り響く。怪物の重い足音。 ……………。 ……早く、来て……。あなたの、言う……通り、来た、わ……。 怪物の気配がする。あの、土くれが幾つも折り重なったような姿の怪物の音が。 震動で石畳を打ち砕き、破片を撒きあたしの右目を欲して黒い街を進むあの音。 まだ僅かに距離がある。そう思う、けれど、それは望みでしかない。 周囲を見回す。あの夜と同じ、異形の黒色、建物のかたちをしているだけの嘘の石細工。街でも、建物でもない。 ここが“果て”だ。こんなにも高く聳える、黒い塀。終点の壁。狭間は広大ではあるけれど、無限ではない。 ……M……。 ──あたしは、ひとつだけ気付く。──以前と同じように。 ……早く……。 ──この黒い街と、ロンドンの共通点。 ……追いつかれたら、あたし……。 ──霧。煤煙の混ざる、病んだ大気。 ……だめ、なのに……。  『……追イ、ツメ、タ……!』  『……キ、ミ、ヲ……!』 ──あたしは、歯を食いしばる。──避けられない死と共に在るそれを見て。 ──瞼は閉じなかった。見る。──土色の姿と、赤色に蠢くあの瞳の群れ。  『……ヒ、メ、イ……』  『……ド、コ、ニ……?』  『……目ダケデハ、ソウ……』  『……タ、ラ、ナ、イ……』 戸惑いを含んだ声だった。怪物はこんなにも巨大な偉容であるのに。土を纏う怪物の唸り声と、片言の、言葉。 それが接近するほどに汗が流れ落ちていく。怪物の礫が、揺れる。揺れる。揺れる。 服を着ているはずなのに、まるで、裸を打ち据えられるような錯覚があった。怖い、怖い、叫んで、喚いてしまいたい。 メアリは目を閉じなかった。だから、それを、まともに間近で目にした。 幾つもの石と岩と土の上にある“貌”を。白色の硬質なものに覆われた、仮面のような“貌”のかたち。 それが、ひび割れて── 音を立てて石畳に落ちる── ……ひ、ぃ……! 目を閉ざすべきだったのだろうか。メアリは、3フィートの距離でそれを見た。 仮面の下にあった本当の“貌”を。紅い瞳。けれど、蠢く無数の瞳とは異なる、人間のものにひどく酷似した血色の双眸を。 ──よく、似ていた。 ──穏やかなはずのブラムさんの瞳と。 瞳は奇妙にもひとつずつ別方向に動いて、何かを探す、ああ、そうか、探している。黄金色の。 右目を。彼も探しているのだ。 『……願イハ、果タサレル……。    ……コレデ、闇ハ、閉ザサレル……』 『……私ノ、顕現ヲ、以テ……。    ……恐怖ハ、永遠ニ眠リノ中ヘ……』  『……消エサル、ハズダ……』 ──怪物は悲鳴を止めて囁く。──どこか、優しげな響きさえ込めて。 ──駄目。──あなたは、きっと、嘘を言っている。 駄目。これ以上、この声を聞いては駄目。心のどこかで自分自身が叫ぶ。けれど、メアリは視線を外せなかった。 恐怖と疑問が頭の中でぐるぐると渦巻いて、溶け合って、何もかもを呑み込んでしまう。思考と意識が奪われる。 立ち止まってはいけないのに、自分が、体がどうなっているかわからない。 空間が、前後の感覚が揺らぐ、上下左右も。立っているのかどうか、もう、わからなかった。 前のめりに倒れていたのかも知れない。壁に手をついて佇んだのかも知れない。ただ、もう、逃げることはできなかった。 僅か3フィートの距離から、激しく震動する土くれの破片が落ちていく。 小さな破片が触れると、スカートの端が風船のようにぱんと弾けた。肌が、同時に、僅かに裂かれたのを感じる。 新たな鈍い痛みに、メアリの唇から悲鳴が漏れる。 ……くッ、ぅ……! 絶叫しそうになるのを耐える。これが、あの鈍い両脚の痛みの正体だった。寒気の原因をメアリは知った。失血の症状。 口元を手で押さえて声を我慢する。悲鳴は、駄目。涙もそう。 どちらも駄目、駄目だと内心で何度も叫ぶ。どんなに追い詰められたとしても、自分で動きを止めることはしない。 そう、意識したのと同時に。何かが動いた。 土が揺れて── ぱん、ぱん、と何度も弾ける音がして。脚の肌がさらに引き裂かれたのだとは、すぐには、わからなかった。 1秒。 2秒。 3秒が経って、ようやくメアリは理解する。 ……い、ぅッ……!や、めて……痛い……ッ!! 悲鳴が抑えきれない。駄目。駄目。何をすべきかを懸命に考える。殺される。このまま、立ち止まっていたら。 何度も、土の破片は溢れ落ちる。およそ生物のものには思えない指が蠢き、ゆっくりと、ゆっくりと、黄金色の瞳へ。 逃げようとした。避けようとした。けれど、その前に、脚の肌が引き裂かれる。 一歩も── 動けない、ままで──  『……怖ガッテモ、イイ、ヨ……』  『……ソレガ、オ前タチナノダカラ……』 ……い、たい、よ……。 ──痛い。痛い、もう。駄目。駄目。 ……痛い……。 ──悲鳴を上げる以外に。何ができるの。 ……シャーリィ……。 ──巨人の歪んだ指が、あたしへ、伸びる。 ……アーシェ……。 ──暗がりの果てで、あたしは死ぬの? ……いや……。 ──ここで、いいの? ……まだよ……。 ──あたしは、諦めるの? ……いや……。 ……駄目、駄目、駄目……。……あたし、それだけはしない……。 ……いや、いやよ!……諦めない、諦めない、諦めない……。 ──契約したわ。──あたしは、いつまでも諦めないって。 ……諦めない……! ──怪物の指先が、あたしの瞳と頭を。──強く抉る。 ──その、ほんの少しの刹那。 黒い沼のように沈んだ石畳が、視界の端に、何かが動いた訳でもないのに、見えていた。黒い、黒い、深み。 深み。もしくは、淀みか。濁った闇──  ──そこへ──  ──手を、指先を、伸ばして──  ──掴み──  ──強く、引き抜く── 来ないで……!  ──長い何か──  ──それは、黒色をした剣── 黒色の淀みの奥深くから引き抜かれた長剣。突然の困惑と疑問よりも先に、体が動いて、切っ先を突きつける。 空間を易々と引き裂く手応えは、吐き気にも似た嫌悪感を伴って全身へ回る。メアリは、小さく、呻きながら剣を振るう。 剣先が── 怪物の鼻先に向いて── ごく近距離だったはずの間の空間が広がる。平衡感覚がぐらりと揺れて、自分が背後へ後ずさったのではないと知る。 空間が広がる。怪物とメアリとの距離が、ひとりでに。 来ないでと言ったメアリの言葉の通りに、黒い空間が、僅かに歪み、両者の距離を開けていた。 剣の切っ先は、怪物の“貌”の寸前で止まっている。 怪物が一歩でも進めば、剣は、貫くだろう。それだけの鋭さを備えていることがわかる。理由はない。ただ、わかる。 剣を前に、怪物は僅かに怯んだようだった。それを見取ってしまったが故に、どんなに痛みがあっても、離せない。 けれど、今なら。怪物が怯んだ素振りを見せた今であれば。 メアリは唇を開く。言葉を掛ける。 怪物の先に在るはずの、怪物を生み出した誰かへと向けて── どうして。 どうして、あなたは、そうするの。それを生むの……? あなたが誰かを傷つけても、殺しても、何にだってなりはしないのに。 何を恐れるの。 恋のこと、あたしは何もわからない。でも……! あなたが間違ってしまったことは!わかるわ! もう、やめて……!来ないで……! 剣は── 幾つかの茨を生み出していた。それが、メアリの手に絡んで刺さる。痛み。針で刺すような痛みよりも、よほど、強い。 ……あッ……! 強い痛み──痛い、痛い、痛い。こんなにも、激しく。 耐え難い痛みだった。涙が溢れそうになるのをメアリは耐える。 痛みのせい──?違う。茨の痛みでは、なかった。 この剣を“誰か”に突きつけていること、それがたまらなく悔しくて、涙が溢れる。 こんな剣なんて要らない。武器を欲しいと願ったつもりはなかった。今までの怪物とは、もう、違うのだから。 訳もわからずに襲いかかってくるものとは、違う。わかるのだ。誰なのか。襲ってきたのが、誰の想いであるのか。 ブラム!  『……ヨ、コ、セ……!』 『……黄金瞳サエ、アレバ……願イハ、   叶ウ……ソウ、スベテ、ミトオシテ……』 『言ッタ……誰モガ……、        タタールノ門ノ在処サエ、ワカル……』  『ダカラ……!』 ──あたしの言葉は、もう、届かない。──怪物が、襲いかかる。 ──構えたままの黒剣の切っ先が、──のしかかる怪物の胸板に突き刺さる。 ──駄目。駄目、だめ、だめよ!──やめて! 剣が怪物を刺し貫く── その、寸前に──  「そこまでだ」 ……生意気にも。言語を解すか。 黒い影。暗がりに溶け込む誰か。見覚えがある── 砕く礫に晒されて意思を挫かれかけた状態でも、彼が誰かはすぐにわかった。恐怖に食い荒らされて、意識が、霞んでも。 彼を知っている。M。あの日、あの晩、あの時に契約した男。 ──遅いわ、M。 ──なぜ、こんなにも来るのが遅いの。──待っていたの? ──あたしが、叫ぶのを。──あたしが、諦めてしまうのを。  『……来タ、カ……!』 『……ココニハ、誰モ、入レナイ……。  ……私ノ選ンダ生贄ノ他ハ、誰モ……』 『……シャルノス、ハ、神聖の場……。  ……禁ヲ犯ス、傲慢デ矮小ナ人間……』  『……オ前ハ、誰ダ……!!』  『……ダ、レ、ダ……!』 ──また、怪物が悲鳴を上げる。──あたしを放って、彼の方へと向いて。 はは。 彼が漏らしたのは、嘲笑、なのだろうか。暗がりの中で肩を竦めたのがわかった。 現実には思えなかった。この恐ろしい怪物を前にして、笑うなんて、気が違っているのでなければ、夢か、幻か。 けれど。Mは確かに笑っていた。 ほんの僅かな間だけ。蔑む青い瞳を、メアリは目にした。 お前こそ誰だ。 四大のひとつ、トロール。確か、そう騙っていたはずだったな。 打ち砕くもの、揺るがずに聳え立つもの。朱の大地より生まれ出でて、小さき命を吸い続けるもの。 大地の恐怖。 ──声。あなたの声。 ──すべてを打ち砕く土くれを纏う巨人。──そんな怪物に睨まれて、彼は。 一切の動揺は見えなかった。彼は、感情の色を見せない声と表情のまま。 わかりやすい“かたち”だな。だが、故に、原始の力に充ちている。 ……モラン! はい。我があるじ。 背後に在ったのは彼ひとりのはずだった。他の気配を、メアリは感じない。 何もないはずの暗がりの中に生まれる気配。彼の声が何かを、誰かを、呼び寄せるのだ。それは、静かに佇む赤。 視線の先の暗がりに、もうひとつの人影が姿を見せて── 砲の如き、銃身を──  ───────────────────!  『ギヒィイイイイイイイッ!?』 ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。──それは、怪物の分厚い額を穿つ。 ──緑色の軌跡を描く銃弾を放つ、誰か。──銃を携えた、背の高いあなた。 ──セバスチャン・モラン大佐。──男性の名を持った“武器”のひと。 怪物の悲鳴が撒き散らされる。メアリが薄く緑色に光る弾丸の軌跡を見るその最中にも、銃撃は次々に行われていた。 ひとつ、ふたつ、みっつ。土くれの怪物に大きな穴が穿たれていく。 けれど、それだけだ。悲鳴を幾つも生むだけで、通じはしない。倒れてくれない。弾丸は怪物を貫くだけ。 体躯に空いた孔から土が吹き出して、それは、黒い街の建造物の幾つかを砕いた。 ……状態確認。パターンCノイズが検出されています。 これ以上の銃撃は拡大変容を招きます。あるじ、ご指示を。 方程式を使う。モラン、連中の“目”を潰せ。 必要なし。目標周囲に展開する空間はあらゆる結社員の“目”を阻害します。 未熟な連中だ。 ──そう言う人影、黒いMの声は。──やはり、笑っているように聞こえて。 ──あたしは、感じていた。──この黒い街で平然と会話するふたりに。 ──恐怖を。──嫌悪を。──初めてその様子を目にした時と、同じ。 提案しよう! トロール! 食事の時間だ!  『オォオオオオオッ!!』  「──城よりこぼれたかけらのひとつ」  「クルーシュチャの名を以て」  「方程式は導き出す」  「我が姿と我が権能、失われたもの」  「喰らう牙」  「足掻くすべてを一とするもの」  ──黒い男の周囲が──  ──ざわつき、沸き立って、うねる── 見えているものは幻か、それとも、夢か。黒い男を取り巻き蠢くものが見えている、それは、何かを思わせる。 顕現した怪物が大小6つに分かたれる瞬間、かたちを得る寸前に見える、黒い液体。もしくは粘液状の、半固形である何か。 ひどく似ていた。違うのは、黒い粘液に似た不定形の群れが、男の周囲に浮かんで“かたち”となること。  ──黒い文字──  ──文字とわかるのに蠢くもの──  ──カダス碑文によく似て── ぐるりと取り巻く文字のような黒い群れは、男の影から吐き出され、周囲で蠢き回転し、不規則な幾何学模様を描き出す。 もしも、本当にカダス碑文なのだとしたら、それは言葉ではない。近いものは、恐らく、数式。複雑な。 関数──違う、何かの方程式だ。長く複雑すぎて、メアリには読めなかった。式を読もうとしたのは3度目のはずなのに。 目にした次の瞬間には記憶が弾ける。僅かな間でさえも、メアリの頭に残らない。 黒い群れを男は呑み込んでいく。口で、足下の影で、黒色のコートの影で。 ──人間のかたちをしたものが。──怪物のなり損ないを、食べて、いる。 ──気持ち悪い。──嫌悪感があたしの唇をわななかせる。 文字の羅列を男は次々と呑み込んでいく。女が銃撃で怪物の動きを止めている間に、ごくり、ごくり、と。 未だ多くの黒い群れを残したままで、男は、静かに言った。  「喰らうぞ」  ──そして──  ──男の姿が歪む──  ──右目を覆うものが──  ──紅く紅く、輝いて── ──黒い街の果てのように、闇夜のように。──彼の姿が変わる。 右目を隠した眼帯から浮き上がる紅い光は奇妙な紋様を描き出して、揺れる、揺れる、揺れる。  ──そして──  ──次に、右の腕が歪む──  ──服を、肉を食い破り── 肩口を突き破るのも黒い刃。半身を蝕むのと同じく硬度のあるそれらは、互いに擦り合わさって、軋む、軋む、軋む。 右腕の末端にまで同じ変化が起こっていた。服を破り、肉と骨を砕いて、幾つもの刃が震える、震える、震える。  ──そして──  ──最後に──  ──体に、赤色の亀裂が走る──  ──胴を、斜めに引き裂いて── 男の右半身が歪んでいた。鋭い肋骨にも乱杭歯にも見える黒色の刃が幾つも宙に突き出され、歪む、歪む、歪む。 眼帯に浮かぶものと同じ赤色をした亀裂は、男の胴を引き裂きながらもその体を砕かず、人型を保って蠢く、蠢く、蠢く。 脈動しているのだ。まるで、巨大な蟲がのたうつが如く── ──人間が。歪んでいく。壊れていく。──あたしは耐えられない。 ──なのに、目が離せない。──後に何が起こるかを知っているのに。 ──待って、待って。知っている?──誰が。あたしが? ──これを見るのは、何度目になるの。──2度目。それとも。 ──黒い街の霞む記憶がぐるぐると渦巻く。──何、こんなもの、覚えていない。 ──怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。──理由は幾らでも。不可解。奇妙。異形。──理解できない。怪物。人の、かたちを。 ──怖い。──あれは、彼は、何をしているの!  「トロールを騙る哀れな者よ」  「お前の声は届かない」  「残 念 だ っ た な!」 ──彼の声が。 ──あらゆる闇を引き裂いて、砕く。  ───────────────────!  『ヒィイイイイイイ……ッ!』 揺れる土を纏って迫り来るあの怪物が。瞬時に、砕かれる。 砕いたのは、奇妙な、黒い腕だった。男の胴体部の亀裂からずるりと伸ばされて、巻き付くように怪物を取り込み、押し潰す。 砕く── 砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。元の形が何であったのかさえ認識できない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。 ──正視できない!──あたしは瞼を強く閉じて耳を手で覆う。 ──嫌よ。嫌。あたしはもう見たくない。──怪物のはずなのに。──あれは、あたしを傷つけた怪物なのに。 ──どうして。なぜ。──こんなに、痛む両脚よりも遙かに。 ──苦しい。胸。奥が、疼く、疼く。──耐えきれないほどに。  『……ガ、ガ、ァ、アアア、ゥ……』  『……タ……ス……ケ……テ……』  『……ヤ、メ、テ……!』 懇願。悲鳴。絶叫。断末魔──怪物が、破壊される。 怪物の声はかき消される。男の黒い巨腕は、異様なまでに巨大な“口”を、押し開いて、懇願する怪物を。  ──打ち砕き──  ──喰らい尽くす──  「は は は」 ──耳を塞いでいても聞こえてくる。──Mの。笑い声。  「はは、ははは!」  「トロールを、謳うのならば」  「この程度で死ぬな。打ち砕け」  「あらゆる物質を己の元素へと換えろ」  「パラケルススを嘲笑ってみせるがいい」  「は、は、は、はッ!」 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ──哄笑があたしの頭蓋の中を揺らす。──立っていられない。 ──両膝が、震えて、もう倒れてしまう。──耐えられそうにない。 ──恐怖が、押し寄せる。──この肌を裂かれた時より、強く、強く。 「はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは  はははははははははははははははははは」 ………………ッ! 声を絞り出す。言葉になったか、どうか。震える舌、震える喉、震える体のすべて、彼の哄笑に怯えて、動かない。 意識が混濁する。何が起きたのかを理解できない思考のせい、それとも、まともに呼吸できない喉のせい。 彼の哄笑だけが聞こえる。自分の声も、息も、何も聞こえてこない。 Mが哄笑しているだけ── いいえ、違う。 その顔には感情が浮かんでいたはずだった。それを、まだ確認していない。けれど、メアリの意識は、耐えきれず── そして── ──意識が歪んで。 ──あたしは、闇へと、落ちる。 ──黒に塗り潰される。──恐怖に押し潰されるまま、視界を失う。 ──ひどく恐ろしい闇色の奥底へと。──あたしは、落ちていく。 ──悲鳴と叫び声の主が。──あれを生み出してしまった、彼が。 ──どうか、無事で在りますようにと。──砕かれることがないように。 ──誰かに、何かに、祈り続けながら。 暗い── ここは何と暗いのだろうか── 石畳の路地を歩く革靴の乾いた音はない。既に、ここにはひとつの音しか。 私の息遣いだけしかない。ウェストエンドの路地裏にいたはずだった、私の、暗がりの中で繰り返される、荒い息。 ここには誰もいない。私以外の誰も、ここへは来られないはずだ。そう、たったひとりの、黒色の王以外には。 既に、チャペック研究会における降霊会で、ここの景色は把握していた。 私がかつて求めたもの。博士と、研究会の同志たちの悲願だ。 ロンドンでもなくシャルノスでもない狭間、その最果てに在るという、無限の嘆きの門。地上ならざる異界への最後の扉。 タタールの門。それは、黒く聳えるシャルノスへと続く、狭間の異界、最後に到達するはずの場所。 今や、それが、眼前に在った。けれど── 私の手は── この私の手は門に触れることはできず、この私の脚はこれ以上動くこともない。 黄金瞳の少女は未だ健在だ。そのことだけが、私の、唯一の安堵だった。 私はとうとう鍵を手に入れることなく、かつて私の否定した道程を進まずに済んだ。これ以上、手を、血に濡らすことなく。 矛盾しているだろうか。ああ、そうだ。私はきっともう狂っている。 けれど、本当に。あの少女を手に掛けなくて良かったと思う。 門へ至らぬ我が身の無念を感じながらも、愛するヘンリエッタへの裏切りを、これ以上、重ねずとも良いという喜び── けれど、きっと。黒色の彼はそれを理解しないのだろう。 ……きみは、僕を嘲笑うんだね。黒い男。 きみには……僕のこの姿が、さぞや、滑稽に映っていることだろうね。 そして、きみは……。きっと僕を理解できないだろうね。 きみには……。きみたちには、わかるまい。 空へと手を伸ばす。亀裂の入った空へ。我が声に色濃く落ちる黒色を知りながら。 この私の背後に佇んで、無様に這いつくばった姿を見つめる黒色を。 黒色の人物は宣告する。背後から視線を送って、無力な私へ、避けることのできない運命を。  ──お前は失敗した。それだけだ──  ──お前の愛は届かない──  ──そも、愛とは、何だ── きみたちにも、きっと在ったものさ。或いは、世界に空があれば……。 きみも、誰かを……。愛していたのかもしれないが……。  ──戯れ言だ。すべて──  ──お前は、ここで終わりだ──  ──彷徨う者── 静かに告げる声ならぬ声は消えていく。ひとり残された私だけが空を見つめて、手を、伸ばしたまま。 私は囁く。それは、黒色の王へではなく。 この暗い空の果てにもあるはずのもの。何よりも輝く、太陽。 すなわち、それは。私の愛、ヘンリエッタ。我が愛、我が命。 たったひとつの、美しい太陽── ……ヘンリエッタ。我が愛……。 すまない。どうやら、約束には……。 指先から走る亀裂がわかる。ああ、それは、すぐに頬にまで至って。 私は、すぐに── 崩れ落ちて、しまう── ……間に合いそうも、ない……。 ──やがて。──数刻を経て夜が訪れた頃。 ──第6号《怪異》案件の噂が流れていた。──情報の出所は、不明。 政府ともヤード上層部ともつかない出所で、その情報の信頼性はひどく疑わしかったが、一部のタブロイド紙編集部は色めいた。 夕刊の発行には間に合わなかったものの、翌朝には記事が出せる。そう、とある編集長は叫んだというが。 記事が書かれることはなかった。決して、圧力のせいではない。 当件における被害者数はゼロだったという。何も、起こらなかったのだ。第6号出現の報せ、それだけ。 故に、タブロイドの記事は書かれなかった。機関機動隊の出動報告という虚偽発表も、TIMESの虚偽記事の発行もなかった。 政府組織や報道に圧力が掛かることもなく、そして、6体目となる《怪異》顕現報告が深奥の《結社》に届くこともなかった。 新聞記者ザックは個人的に調査を行ったが、めぼしい成果は得られず、TIMES社情報書庫への蓄積もなかった。 ただ、それとは別に。空軍将校が何らかの暗躍を行ったとの噂がシティエリアの裏界隈に流れはしたものの。 目立つ痕跡も事件もなかったが故に、すぐに忘れ去られた。 ただ、ひとりの怪奇作家が姿を消していた。けれどそれが囁かれることもなく。 かの作家の消失という事実が判明するのは、暫く、後のことであったから。 誰も── 結びつけて考える者など── 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「吾輩は望むでしょう」 「奢り続ける王の終焉と、 止めどない悲鳴と叫びの回転悲劇を」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 失敗です。そう、これは失敗」 「ですが、吾輩には思えてならないのです。 我々が求めるのはひとつの成功ではなく、 無数の失敗と、嘆きではないのかと」 「計画は順調です。 ゲルマンの若き騎士もそう言っています」 「女王陛下のご意向など、 吾輩や彼には、何の意味も持ちません」 「いずれ、タタールの門は開きましょう。 悲鳴は取り揃えております。 次の《怪異》は、特別に、強力でしょう」 「次に、ご期待下さい」 「かの乙女も── ようやく、黒の剣能を手にしました故に」 いつもの朝ではなかった。部屋へと届くはずの音の数々が聞こえない。 テムズ向こうの工場区域から響く機械音も、ささやかに朝を告げる小鳥たちの囀りない。部屋を包むのは、静けさ。 朝の気配がない。そう、何故なら、時刻は未だ夜であるから。 夜更けと呼べる頃。けれど、充分な睡眠をとった実感。 メアリは瞼を開ける。奇妙に冷ややかなベッドの中で── ……ん……? ──あたしは瞼を開ける。──朝にしては、何か、多くのものが違う。 ──違和感があった。──部屋の暗さとシーツの冷たさと、音。 ──いつもの朝じゃない。──そう、あたしは、思いながら。 眠りから目を覚ましたメアリの視界には、いつもの自分の下宿の様子があった。 でも、暗い。朝ではなくて夜だから。それを理解するのに数秒が掛かってしまう。黒い街で目覚めたのかと、錯覚、しかけて。 レッドキャップの時とは違う。今まで通りの、自分の部屋に間違いない。 棘か何かで傷つけたはずの、でも、今は、もう傷ひとつない指先で触れるのは、枕。そう、ここは自分のベッド。 ここには自分ひとり。誰もいない。 黒い街は夢だったのかと思いそうになる。ひとりきりで── ──悪い夢を見たのかと、そう思って。──でも。いいえ、違う。 ──部屋の中。──暗がりの片隅に、誰かが、いる。 ──沈んだ黒色を纏った誰か。 ──ブラム、さん? 違う── ……起きたか。 黒色を纏う人物はMだった。静かに、佇んで。 遠慮なく葉巻に火を点けて紫煙を漂わせて、彼は、じっと、メアリを見つめていた。 眠っている間もそうしていたのだろうか。疑問をメアリは口にしなかった。無言で起きあがり、Mを、見る。 なぜ佇んでいるのか。今までは、下宿へ送り届けてくれても、書き置きを残すことすらなかったのに。 疑問をメアリは口にしない。他に── 他に訊くべきことがあったから。黙って、Mの視線を受け止め続ける。 ──そうして。──暫く、時間が過ぎていく。 ──彼が何かを言うのを待ったけれど。──駄目、だった。 ──沈黙に耐え切れずに。──あたしは、ゆっくりと唇を開く。 ……聞かせて欲しいことが、あるの。 あなたは言ったわ。怪物を生み出した人間、宿主のことを。 昨晩は聞きそびれてしまって、だから、今、聞くわ。 宿主となった誰か。そのひとは、その後、どうなってしまうの。 顕現した《怪異》は宿主を襲わない。それは、あなたが教えてくれた。でも。 でも……。怪物が死んだ後は、どうなの。 宿主は……無事で、いられるの……?何か、危害が加わることは……。 ──そう、あたしの疑問。──宿主となった人間の“その後”のこと。 ──昨晩は、聞けなかった。──強く疑問に思うようなこともなくて。 ──でも。でも。──記憶の奥底に、疑問があるの。 ──黒い狭間の果てで──あなたが《怪異》を砕く朧気な記憶。 ──最後に、あたしは何かを思った。──よく、覚えていない。 ──覚えているのはひとつだけ。──たったひとつ。 ──宿主となってしまった誰かのことを。──あたしは、最後に、思ったはず。 余計なことを考えるな、仔猫。お前には必要ない。 聞かせて。 考えるな。 ……聞かせてよ。 駄目だ。 聞かせて、お願い。言わないなら、あたし自身で調べるだけ。 ミューディーズや、あの古書店で調べるわ。碩学院の第1教授のコネクションも頼るわ。TIMESに駆け込んだっていいの。 どうしても知りたいの。ブラムが……。 やめておけ。無駄だ。 無駄でも、調べるわ。何かひとつくらい知ってみせる。 無駄な処理が増える。煩わせるな。 じゃあ、教えて。無駄な処理を増やしたくないのなら。 ……。 彼は視線を揺るがせなかった。脅しなど、効くはずがないとメアリは思う。 それでも言わずにはいられない。知らずに、このまま、朝を迎えられない。 ──嫌な予感がしていた。──棘のような感触が、指先に、残って。 ──痛みはない。──でも、感触が、気になって。 ──指先の感触が不安を掻き立てる。──知りたい。──教えてよ。 ──いいえ、違う。あたしは、きっと。──知らなくてはいけない。 己の《怪異》を失った者は、シャルノスとの関わりを永遠に失う。 それだけのことだ。取り立てて、何がある訳ではない。 関わりを失う── そうだ。 どういう、意味……?もう、怪物とは……関係がなくなるの。 それなら、ブラム氏と再び会っても、もう危険はないということだろうか。メアリは思う。 あのふたりを、あのままにしておけない。ヘンリエッタは伝えないでと言っていた。だから、言うつもりはないけれど。 お節介な小娘と嫌われるかも知れない。でも、放ってはおけない。 ──ふたりのすれ違いが、あれを生んだ。──もしも、そうなら。 ──このままにしてはおけない。──そう、思うから。 そうだ。 そして、それが故に死ぬ者もいるだろう。精神の変容は時に物質へ及ぶ。 え? ──え? 何? え、何……? ──死ぬ? ……死、ぬ、って……そんな……。冗談、言わないで……。 ──誰が。いいえ、誰でもだめよ。 ……うそ……でしょう?M、あなたの、そんな、冗談なんて……。 聞きたくない……。面白く、ないわ、そんなの……。 違う。 事実だ。お前に吐く嘘はもう残っていない。自己の《怪異》を完全に破壊された後には、死ぬ者も、いる。 死、ぬ、の……? ……でも、あれは……。怪物は、宿主とは、別の……。 繋がっている訳でも、ないわ……。なのに……。 死ぬ、と、あなたは言うの……。……M……? そうだ。人には、願いと想いなくしては生きることもできない者がいる。 彼らにとって精神と肉体は不可分だ。精神の変容は物質へ及ぶ。 精神の死を迎えた時、肉体にも同じものを迎える者が、いる。 ──────! 強く瞼を閉じて、何かを、メアリは叫んでいた。 それは言葉にならない。音だ。悲鳴に近いものをメアリは漏らしていた。 ──嘘、嘘、そんなの、信じない。──死ぬ。死ぬ? ──全身の血の気が引くのがわかる。──目眩が、あたしを襲う。 ──怪物の時とはまったく違う、感情。──よく似ているけれど、別のもの。 ひとりでに震えが走る。舌を噛みそうなくらいに顎までが揺れて、メアリは、まともに、声も出せなかった。 声が出ない。ただ、ただ、震えながら思うだけ。 ──死ぬ?──死。死ぬ。死ぬの、誰が、人が。 ──死ぬ。命を失う。──怪物が死ねば、それを生んだ誰かが。 ──ブラムさん、が?──顔を知っている誰かが、死ぬの? 脳裏には父の朧気な姿があった。死、それを初めて知ったのはあの時のこと。 紙切れ一枚で告げられた父の死、静かに俯く母の後ろ姿とシャーリィの涙。 わからない。 わからない。 実感を伴ったそれをメアリは未だ知らない。 ただ、今まで在った人が消えるという事実。違和感と、理不尽と、嫌悪と、内臓が、締め付けられる感覚。 理解できない。言葉の意味。死。それを、黒の街で自分の身に感じたことはあっても、自分以外の、誰かが── ──命を。──ひとりでに、それとも、奪われて。 ……死ぬ……。 ようやく出てきた声で、メアリは囁く。 少しも視線を揺るがせずにMが頷く。揺るぎない肯定の意味。 自滅、自壊、そして死ぬ。 恐怖に呑まれ、自らの生み出した《怪異》にすべてを奪われているなら、死ぬ。本人次第だ。 な……に……あなた、何、言って……。死ぬ……って……。 ……死……? 拒絶感。胸に生まれてくるものがある。それは、黒く、暗い。 すべてを拒絶したい。彼の言葉のすべて。死ぬ。誰かが死ぬ。怪物がこの男の手に掛かることで、誰かが死ぬ。 死。殺される、と言うべきなのだろうか。それは即ち、契約し、協力をする自分も、その死に── ──あたしも。──いいえ、違うわ、あたしが。 ──あたしが、契約を果たすたびに。──誰かが。 ──誰かが、死んでしまう、可能性。──あたしのせいで。 忘れるな、メアリ・クラリッサ。 いや……。 聞くがいい。 ……いや、よ……。 聞け。 顎を掴まれていた。冷ややかな指先がメアリの頬へ触れる。 呆然として、メアリは抗えない。顔を背けられない。Mの目を見つめる。 震える唇で何かを言おうとしても、言葉にならない。声が幾つか出ただけで。 何も言えない。言葉に、ならない。 生まれ出た《怪異》を見逃せば、いずれ、ロンドンじゅうの人間がその牙に掛かる。それが事実だ。 黄金瞳を求めて何もかもを殺す。お前の知人、友人、すべてが死ぬだろう。 ……いや……。 いや……いや、いや、嫌……。そんなの、いやよ……。 ならば、契約を果たせ。暗がりのシャルノスで走り続けるがいい。 お前は俺と契約を交わしたはずだ。友を、助けるために。 ……シャーリィ、を……。 お前の自由だ。諦めるのならばここで終わる。 好きに選ぶがいい。お前には、未だ、選択の権利がある。 ……あ、たし……。あたしは、シャーリィの、ことを……。 ……ただ……。助けたい、だけ……よ……。 顎を捕まれたまま── 瞳からは雫が溢れていた。無力な己を呪いながら、ただ、流れ落ちる。 揺らぐことのないMの視線に晒されながら。黄金色の右目だけを、じっと、見つめられながら。 彼は、その間、何も言わなかった。慰めも。叱咤も。 ──何ひとつ。──暖かな言葉も、冷たな言葉も。 ──あなたは口にしない。──ただ、視線を、向けているだけで。 ──あたしは。──涙を、止めることができない。 ──暗い。 ──ここはなんと暗いのだろう。 石畳の路地を走る革靴の乾いた音が響く。それ以外に何の音もない。 果たしてそうだろうか。耳を澄ませよう、聞こえてくるものがある。焦りを込めて歩く靴音だけではなく、他に。 息遣いがある。怯えを込めて密やかに繰り返される、私の。 灰色雲の下で仮初めの繁栄を謳歌する英国、首都ロンドンの暗がりを歩く、この私の息。音は、靴音に混ざる。 ここには誰もいない。私の焦がれる、あのひとさえも、いない。 そうだ。私はあのひとのことを思い出していた。 私は誰かを探して歩いているのだった。焦がれ、求める、美しいあのひとを。 けれど。ここには誰もいない。私以外には。 私は走っている。たったひとりのあのひとだけを探しながら、同時に、迫り来るものから逃れようとして。 ──逃げろ。 逃げろ。         逃げろ。                 逃げろ。 何処からか迫るもの。私から吸い上げようとする恐るべき暗がり。 この暗がりに追いつかれたら終わりだ。大地に染みこむ色のひとつへと私は変じて、二度とあのひとの声を聞くことはないのだ。 いけない。暗がりの“あいつ”に追いつかれては。 生け贄の少女の悲鳴が続く限り、“あいつ”は容易に私を引き裂くのだろう。 私や少女が恐れるものさながらの力で。殺すことができるのだ。何もかも、何もかもを。 ああ、私の中に滾るものがある。それは、この肉体に詰め込まれた命の色か。もしくは、私に迫り来る暗がりそのものか。 滾っているのがわかる。私は頭を振り、内から湧き上がる熱と声を、これ以上聞かないようにと、耳を閉ざして。 ぽとり──と何かが落ちる。命の色が。 ああ── 間に合わない。私は“あいつ”から逃げられないのだろう。 迫り来るものが、もしも、私の内に在るのだとしたら── けれど。 けれど、 もしも、この身が闇ならば── ――そう、手帳には記されていた。  『もしも、王子さまと』  『会えなかったら、どうするの……?』  『そうしたら』  『自分から会いにいくわ』  『馬に乗って、あたしが探すのよ』 「だが……。 待て、あの窓から漏れる光は何だ?」 「それはきみだ。 たったひとつの美しい太陽はきみなんだ。 あの窓は東の空で、きみこそが、太陽だ」 「きみの姿は」 「この空の太陽が灰色雲に隠されるように、 僕の前からも、隠れて──」 「消えてしまうのだろうか。 ……ジュリエット。我が愛、我が命」 「たったひとつの、美しい太陽……」 気高きふたりの男女の物語。悲しいすれ違いの物語。苦難の愛の物語。 瑞々しい若い命がふたつ、果たされない愛と残酷な運命に翻弄される、美しさと儚さ極まるシェイクスピアの悲劇。 話の筋はよく知られている。本の形でもさまざまに出版されている。 多くの人が知るはずの、驚くはずなどない物語であるのに── すべての観客たちが、彼女に、瞬く間に視線を奪われてしまう。 ヘンリエッタ演ずるロミオは語る。恋人ふたりに立ちはだかる幾多の困難を。けれど挫けず、想い続けると誓う言葉を。 ジュリエットを纏う年若い女優へ。もしくは── その先にいるはずの── 誰かへと、向けて── 「けれど、僕は誓う」 「たとえ、空の果てへ、 きみの姿が消え去ってしまったとしても」 「僕はすぐに、きみの元へ辿り着く」 「必ず……」  『お母さまのこと、好き?』  『……うん。好きよ。大好き』  『そう』  『でも、もしも』  『もしもママが、あなたのことを……』 「……きみがこの部屋へ来るのは」 「随分と久方ぶりな気がするね。 その後変わりないかい、聡明なクラリス」 ……はい。教授。 「聞かせてくれたまえ。 彼のことを。きみは彼と契約を交わした」 「そして、 きみは幾つかの困難を乗り越えた。 きみは彼のことを幾つか知ったはずだね」 はい。でも……。あたしは……知らないこと、ばかりで。 俯くメアリの言葉に、彼は、その老人は僅かに微笑んだようだった。 最新型の機関製パイプから紫煙が漂う。部屋はやや白くなるけれど、メアリは今やそれに気付くこともなかった。 薄く煙るその“部屋”で。メアリは、ひとりの老人と対話していた。 「そうかな」 老人は、また微笑んで。静かに言葉を紡ぐ。 「聞かせてくれたまえ。 きみが、未だ、何を知らずにいるのかを」 知らないことだらけです、何もかも。なぜ、彼が《怪異》たちを破壊するのか、なぜ、彼は多くを言わなかったのか……。 なぜ、宿主たちのことを話さなかったのか。なぜ、彼は、それでも躊躇わないのか。 なぜ……。あたしの黄金瞳を、見つめて……。 「気になるのかね、彼のことが。 きみが誰かへそれほど興味を抱くとは」 「きみは変化してしまっているようだ。 例えば、そう、恋をしたとか」 恋……? いいえ、違います。そういうものではありません。 「だが、きみは健全な女性だ。 異性に惹かれるのは自然なことだろう」 「秘密を持つ誰か。 それは時に、迷いと共に人を惹き付ける」 いいえ……。ううん。違う、そうじゃないんです。 エイダ主義の申し子だなんて言うつもり、ないです。でも。違う。 違うんです。これは、そうじゃない……。 「好奇心。興味。 そういったものに過ぎないと?」 ……わかりません。言葉が、正しい言葉が見つからない。 知りたいと思うのは確かです。彼が言わないこと、幾つもあるはずの秘密、その何もかもをあたしは知りたいと思う。 「なぜ」 ……目を見たんです。 「誰の」 彼の。 あたしの瞳を見つめて、まるで、眩しそうに細められた彼の薄い色の瞳を。 あたしは、見てしまった。だから……。 だから、なぜそんな目をするのか。この右目に何を見たのか。 あたしは……。それを、知りたいと……思って……。 そこに音はなかった。そこに声はなかった。静寂と、無言の祈りが空間に充ちていた。 それは過去、1905年の半ば。7名が集まって行った、とある降霊会にて。 ひとりの男が宣言する。同胞たる6名へ、確固たる意志を持って。 周囲に充ちた暗がりの中に何かがある。それは、蠢く闇だったか。それは、赤い瞳だったか。 無数のそれらに無音で取り囲まれたまま、男は、言葉を。 ──厳かに。──厳かに、あらゆるものへ決別を込めて。 ──誇らしく。──誇らしく、けれど強い願いを込めて。 これなるマリアベルが門へと導く。彼女は優れた素質に加え、私の目的に賛同してくれた勇気ある女性だ。 これはこれは、美しいレディ。博士にこんな甲斐性がおありだとはね。 お見知りおきを、美しきマリアベル。それで博士。この麗しくも瑞々しい彼女が、我らの願いを果たすための触媒たり得ると? その通り。 ……僕は、反対です。これまでに行った降霊会と今回のものは異なり過ぎている。危険です、あまりに。 おやおや。怖じ気づいたかい、先生? 僕は確かに博士の言葉を受け入れました。しかし、犠牲は求めない。誰も、誰かのために血を流してはならないと考えます。 犠牲ではないわ。彼女は死なない。博士の数式は完璧よ。 《結社》の演算機関は博士の計算に一切の誤りがないと結論づけているの。 数少ない《石》の残りは彼に回収されたわ。もう、私たちに残された機会は多くはない。マリアベルは貴重な存在と言える。 あなた。誇り高きマリアベル。博士を愛し、理想に殉じようとするひと。 私はあなたを受け入れる。今や、タタールの門へと続く道を開き、私たちを導くためのゾシーク数式はない。 あなたしかいない。私の、私たちの想いを遂げられるのは、触媒たり得る素質と《石》を持つあなた。 あなただけよ。勇気ある、誇り高きマリアベル……。 ──さて。 吾輩は勿論、賛成でございます。これなる少女マリアベルが求めるものは、すべての人間たちに必要なことでしょう。 これより先、我々の開く降霊会は、文明を切り拓く先がけとなるでしょうとも! しかし……。 誰かの血が流される必要があるのですか。僕らは、そういったものを否定するため、こうして集ったはずなのに。 僕らの選ぼうとする道は矛盾しています。僕は、降霊会の一時解散を提案します。大地を朱に染めるものを、僕は認めない。 ひとりの小娘に── おっと、失礼。しかしひとりの少女にすべてを託すというのは如何にもまずいな。 俺も伯爵の意見に同意させてもらう。確かに求めるものが同じだった時もあるが、事を成す前に捕まるような暴れ方は無理だ。 ──さて。さて。 4名のかがり火のうち、2名から否定意見が出てしまいましたな。 これではいかにも彼の思うがままでしょう。吾輩が《結社》の主流派を抑えているのもそろそろ限界というもの。 実に。実に残念なことに。さらに、機を見たほうが宜しいですかな? ……いいえ。 それでも、私たちは選択せねばならない。 かつて、博士が目にした刹那の幻視を。そして、私たちの中で今も蠢く恐れを。否定するために。 拒絶するために。 私たちはタタールの門を開き── やがて、無数の平穏と安寧を抱き、無限の黒のシャルノスへと至るために。 ……シャルノス……。 その名が何を意味するのかも、あたしは知りません。本で目にしただけで。 黒い街。引き裂かれてもなお暗い空。怪物たちが自分の周囲を歪めて作り出す、獲物を、あたしを追いつめるための牢獄。 狩り場……。でも、あれはシャルノスの狭間でしかない。 本当のシャルノスは何であるのか、それを、あたしは知りません。 「彼は、きみに教えてくれなかったのかい。 シャルノスが何処であるのか」 はい。 彼は、あたしに何も言いません。求めても……。 教えては、くれない── 「──さて」 男は言った。それは、奇妙な仮面を被った男だった。 道化の如き姿であるが、一世代前の仏蘭西貴族のようでもある。 奇妙な人物。仮面と服装は彼をそう思わせる。 あらゆる虚構を口から吐き出すというその男は、眼前の何者かへと語りかける。 奇妙なマーブル模様の床の部屋。ソファに腰掛けた男と、もうひとりの“誰か”がそこにいた。 男の格好と同じく奇妙な部屋だった。古びた本棚や壁には幾つもの仮面が掛けられて。 静謐なる知識の間と人は呼ぶ。男の名と同じく、ごく限られた人が、だ。 静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。 遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、男が属する組織の有する知識の余技で作られた部屋。 暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。 「さて。ここに吾輩は宣言するでしょう」 ──偉大なる実験の継続と。──深遠なる認識の継続を。 ──そして、新たな時代の幕開けを。 「皆さま。 博士を導いたかのドルイドの魔女のこと、 果たしてご記憶にございましょうや」 「吾輩にとっては記憶に新しく、 昨日のように思い返すことができますが」 男の声には笑みが含まれている。対する何者かは、無言。 「さて、かの魔女──」 「シャルノスの王に一度は寄り添った女。 しかし、王と共に歩み続けることなく、 自ら城を去った忌々しき魔女」 「果たして彼女は、 このロンドンで何を成し遂げるのか」 男の声には嘲りが含まれている。対する何者かは、無言。 「成る程」 「そういうこともあるでしょうが、 そうでないこともあるでしょう」 「さて」 「我らが愛してやまない人間の皆さま。 どうか御笑覧あれ」 「何の仕掛けもございません」 「後悔とは、 純粋なる人間の情念につきますれば」 ロンドンの夜はひどく寒い。特に、12月に差し掛かった現在であれば。 日に日に厳しさを増していく寒さの中で、とある街路を行き来する人々もまた、歩みつつ、霧と空気の冷たさを感じていた。 ただ。ひとりの男はそうではなかった。 ひとり、ロンドンの夜を歩く黒の男だった。夜空を充たす空の黒よりなお暗く、くわえた葉巻の先端に火の灯りを点した男。 夜霧の中に黒い姿を浮かび上がらせて、男は、静かに歩いていた。 黒い男は、己の視界の端にあるものを見る。眼帯に覆われている右目ではなく、ごく薄い青色を纏う左目によって。 視線を送る。霧の街路を行き交う人混みに混ざるそれは、人間によく似た形をした、誰かの“影”だ。 忌まわしき紛い物の“影人間”。それは、静かに、奇妙な言葉を囁いていた。 黒い男にのみ聞こえる声を放つそれは、確かに《結社》の生み出す意思なき投影体。幾人もの碩学の手で形作られた、朧の人影。 本来、このロンドンに於いては、黒い男自身以外に扱う者のないはずのもの。 しかし、今、影人間は確かにそこにいた。嘲笑の気配を漂わせて。 嘲笑。であればまず間違いない。黒い男の知己の手による影人間なのだろう。 『最高位エージェント・M。 偉大なる《結社》基幹結合本部よりの 新たなるオーダーが届いてございます』 断る。 『これは、これは』 『相も変わらぬご返答有り難うございます。 我ら《三博士》によるオーダー程度では、 貴方を動かすことは叶わない』 『恐るべき《機械卿》や《鋼鉄姫》でさえ、 貴方を意のままに操ることは不可能です。 ええ、ええ。存じ上げておりますとも』 『貴方にはすべての権能が与えられている。 吾輩などよりも、よほど多く』 『しかし、ですな。 総帥代理人のオーダーでは如何です』 ほう。 静かなるジェイムズ・モリアーティ老が、今さら、この俺に命令をするか。 『然り』 ……。 返答の代わりに、黒い男は右手の指を鳴らしてみせた。 同時に視線をやや強くする── 瞬間、影人間は粉々に砕け散って消えた。 無感情な黒い男の視線ひとつで、余人にとっての不可視の影は蒸発していた。一切の痕跡を残さず、完全に、消え去った。 短い断末魔。街路をすれ違うロンドンの人々は誰ひとり、気付くことはない。黒い男を見ることさえ。 ……ふん。 ……血迷ったか。老人。 興味ある素振りもなく、男は影人間の在った場所から視線を逸らす。 そして、そのまま、排煙に濁った霧の中へと消える── 情報網。もしくは、広域フラグメント監視網と呼ばれるもの。 都市に充ちるのは排煙と霧だけではない。ロンドン地下に張り巡らされた導力管を通じて、数式化した情報が充ち渡っている。 流れてゆく情報は幅広く、際限がない。数え切れないほどの、無数の、数字の羅列。 貿易会社が海外と取り交わす商取引情報、暗号化された銀行や証券会社の資産情報、国民番号による行動管理情報も── すべてを視ることのできる人間はいない。バッキンガム宮殿地下に位置する大機関だけが全記録を残すのみだ。 しかし──地下の《機関回廊》と接続すれば。 最新の《結社》機体であるモランには、すべてを視ることが可能だった。あらゆる情報を同時に視ることができた。 彼女は機体能力によって情報網を走査する。暗号化された《結社》情報でさえも。 ──私は、情報網を走査する。──いつもと、何ら、変わることなく。 ──半径3000フィート以内に異状なし。──障害の可能性を有した人物3名を確認。 ──3名の登録情報を検索。──うち2名は《結社》と無関係の英国人。 ──残る1名に焦点を当てる。──私に割り当てられた情報書庫にて照合。 ──新大陸の企業家と判明。──新興の“ギャング”の幹部というもの。 ──現在は《結社》との関与の痕跡はなし。──しかし、要注目。 いつもと変わることなく、静かに、都市情報を次々と走査しながら。 リッツ・ロンドン・スィート1502にて、モランはあるじ不在の時を過ごす。 いつもと変わらない夜を過ごすのだ。ひとりで。 音── 僅かな物音しか立てていないというのに。部屋には、やけに大きく響く。 銀器の研磨。葉巻の品質管理。このふたつの音。 他には何もない。何もしない。必要がない。清掃の類はホテル従業員が済ませてしまい、することがないから。 たったふたつのこと。これが、あるじ不在の部屋で行うこと。 ……。 モランは、銀器を研磨し続ける。同時に都市の情報網を走査し続けながら。 遠隔接続で《機関回廊》を用いている以上、情報走査中でも、こうして機体を動かせる。何をすることもできる。 戦闘行動でも可能だろう。だが、そう命令されていない以上── モランにできることはこれだけだった。銀器の研磨、葉巻の品質管理。 それだけだ。搭載されたスキルワイヤ・プログラムが真価を発揮する機会はそう多くなかった。 戦闘行動以外にナイフを用いる術も一応は備えているが、意味はない。 あるじは食事を口にすることすらないのだ。時折、戯れにルームサービスに届けさせたきつい蒸留酒で唇を湿らせる程度。 だから、モランは銀器を研磨する。他に、何も、することなどないから。 特に、これには時間を幾らでも費やせる。それに意味はないとしても。 あるじがいない時に、何もせずに佇んでいるのは、嫌、だった。 こうして機体の時間を費やしながら、頭脳では情報走査を続けて。あるじの帰りを待ち続ける。 ──あるじ。我が、あるじ。──私は思う。 ──あるじに何の変化もないことを。──そう、そのはずだ。 ──目標Aもそう。──彼女があるじの多くを知ることはない。 ──ただ、命令を受諾して。──黒のシャルノスの狭間を駆けずるのみ。 ──杞憂にすぎなかったのだ、すべて。──私の感情回路の異常動作に過ぎない。 ──そのはずだ。──あるじは、何も、変わってなどいない。 夜更けを過ぎてもあるじは戻らない。それも、いつものこと。 居場所は把握している。この都市のどこかにいる限り、わかるのだ。 この部屋にいてもどこにいても同じこと。命令を口にされれば、モランは動く。 脇に控えている状態と何ら変わらずに、彼の命令を遂行できる。だから、ここには不在でも一向に構わない。 けれど── (……今夜は、戻って頂かなくては) (我が、あるじ) 視線を動かす。光学機械がオーク材のテーブルの上を視る。 そこに在るのは一通の電信文書だった。暗号化が施されたもの。 封蝋を破らずとも内容は読み上げられる。文書に記されたものと同じ内容を、事前に、情報網を通じて感知していたから。 ──それは最高機密。──それは《結社》総帥代理人からの指令。 ──曰く。──ハプスブルグ家最後の血脈を確保せよ。 ──彼らの血と遺伝子に隠されたもの。──即ち“支配者の物質”を入手せよ、と。 仰々しくも総帥代理人を通しての指令とは、恐らく《結社》基幹部の決定なのだろう。 あるじは、しかし、この指令を完全に無視しようとしていた。 実際のところ、総帥代理人から届いた電信をあるじは見て、しかしモランに何を告げることもなかった。 その他の《結社》指令と同じく、無視していれば良いのだという反応── ……しかし、あるじ。 絶大な権能を与えられた、あなた……。我があるじ、あなたであっても。 位階は、総帥代理人であるあの老人には、及ばない……。 ……我が、あるじ。現段階での《結社》との衝突だけは……。 呟いてしまう。唇から声が漏れるのは感情回路のせいか。 けれど、そう。彼の目的はひとつだ。その他の事情など無視してしまうだろう。 そして、その判断は決して間違いではない。それをモランもわかってはいる── あるじ……。 ──我が、あるじ。──あなたは変わっていないはずなのに。 ──なぜ、ですか。──今回の指令への反応はこれまでと違う。 ──いつも、彼の言葉は渋々受け入れて。──ある意味では御されていた、あるじが。 ──迷う素振りも見せずに。──総帥代理人である彼の指令を無視した。 ──変化? ──あなたは変わっていないはずなのに。──なぜ。なぜ? 目標Aをモランは思う。そして、感情回路の軋みを自覚する。 言葉にはならなかった。ただ、沈黙したまま銀器を磨いて── ……相変わらずね。 もう、みっともないわね。こんなに綺麗なお人形さんをひとりにして、困ったものね、彼。ねえ、可哀想なモラン? と── ひとりの女性の声。余裕と自信をたっぷりと湛えた響き。 この部屋には誰もいないはずなのに、しかし、確かに、それは自分の声ではない。 警戒にも臨戦にも機体の状態が移行しない。モランは我が身を疑った。この機体は、自動的に侵入者を排除するはずなのに。 視覚情報を再認識する。モランの感知機関のすべてをくぐり抜けて、スィートのソファの前に立つ女性がひとり。 ──女性がひとり。──美しいと形容できる容貌を持つひと。 ──その瞳には覚えがある。──その唇には覚えがある。 ──あなたは。──ああ、機体を凌駕しても無理もない。 ──声の主。知っている。──あなたは《結社》の上位エージェント。 ……ジェーン・ドゥ。 そう、名無しのジェーン・ドゥよ。お久しぶりね、モラン。今度のは随分とまた綺麗な機体じゃない? 気に入ったわ。あなた、その型を維持なさいな。 ──以前に目にしたのと変わらない表情。──あなたは、人間であるのに。 ──名もなきひと。──名もなき魔女。──秘儀を収めた最後のドルイドのひとり。 ──魔女の名を冠する唯一のひと。──あなたは。 ジェイムズはまだ戻っていないの? ああ、違うわね。違う。 今は、確か、ええと。……M、だったかしらね。現在の名は。 はい。ジェーン・ドゥ。 ──ジェーン・ドゥ。──あなたは、最後のドルイド直系の魔女。 ──かつて、ただひとり。──地上に在ってあなただけが。 ようこそ、いらっしゃいました。上位エージェント・ジェーン・ドゥ。 ジェーンでいいわ。久しぶりね、綺麗なお人形さんのモラン。 ──魔女ジェーン・ドゥ。 ──ほんの一時とはいえ。──我があるじに寄り添った、ただひとり。 駆動音が夜の街に響く── 夜のロンドンを走る蒸気機関式ガーニー。景色を次々に背後へと流しながら、走る。 英国では、未だ、道路交通法の整備が遅れている現状がある。最早、社会問題と化すのも時間の問題だ。 現在は、良識ある富裕層の一部が持つ嗜好品の如き扱いを受けているものの── 大量生産ラインが国内で開発されるか、もしくは新大陸が輸出ラインを確保すれば、いずれ英国にもガーニーは普及するだろう。 そうなった時には、最速のギアを入れた状態でこれほどまでに強くペダルを踏むこともなくなるのだろう。 そう、ハワードは思う。猛烈な速度を全身とハンドルに感じながら。 今夜のガーニー、ちょっと遅いね。 愛する婚約者からこんな風に、俯いて、不満げに、ぽつりと漏らされてしまえば。 夜中ゆえに安全のため徐行運転がどうのと言ってなどいられなかった。ペダルを踏み込むしかない。 ──強く踏み込む。──ぐん、と車体に加速がかかる。 瞬時に前方の空間との相対距離が縮まって、速度と質量が生み出すエネルギーについて、つい、思いを巡らせてしまいそうになる。 このままではまずい。加速を続けていけばやがて大事故になる。 愛する婚約者と共に死するのはある意味でハワードにとっては本望であると言えたが、理由なくそうなる訳にはいかない。 無事に結婚して暖かな家庭を築き、彼女の夢の通りに子供をたくさん作らねば。 その時が来るまでは絶対に交通事故などは起こせなかったし、無辜の誰かを轢いてしまうのも避けたい。 内心の焦りを悟らせないように努めつつ、ハワード・フィリップスは唇を開く。駆動音に負けないよう、些か大声で。 どうだい、ハニー。かなりのスピードを出しているつもりだよ。これ以上というのは、些か無理があるかな。 うん。すごい。背中が座席に押しつけられるわ。加速って何もしなくても感じられるのね。 でも。事故とか、嫌だからね。 ……勿論だとも。 ハワードと一緒に死んじゃうなら、アーシェはそれでもいいの。でも、まだ駄目。絶対駄目。 まだちゃんと結婚していないし、まだ食べてない国の料理あるし、まだ子供たくさん生んでないし。 シャーリィは眠っているままだし。メアリは……。 ……メアリ……。 ──珍しいことだった。──本当に。 こんなに短期間で何度もこうして彼女が落ち込んでしまうなどということは、これまでの経験上、一度もないことだった。 原因はわかる。彼女がそう口にしなくとも。 今回もまた、愛する婚約者アーシェリカが何より大切にする彼女らのことなのだろう。 話し出すのを待つハワードではあったが、速度計の針が振り切れてもなお言葉を続けようとしない彼女を見かね── また浮かない顔だね、ハニー。きみの可愛い顔には陰さえも似合うけれど、僕は、笑顔のきみのほうが百倍は好きだな。 僕が聞いてもいい話かな。アーシェリカ。 うん……。ハワードに、隠し事なんかしないわ。 実家のことも友達のことも、みんな、あなたに話してるもの。 秘密なんかじゃ、ないの……。でもね……。 心配なんだ……。メアリ、また、様子がおかしいの。 会っているという“誰か”のことかい?以前、話してくれたね。カフェテラスで。あれからまた何かあったのかな。 それとも、シャーロッテ嬢のことか。いや、違うか。きみから聞いたことだ。目覚めるような兆しはないのだったね。 うん……そう。そうなの。やっぱり“誰か”と会ってるみたい。 きみは優しいね、ハニー。自分のこと以上に友達を想うなんてことは、人間ができていないと、なかなかできない。 ううん、そんなことない。当たり前でしょ、アーシェはみんなでできてるんだから。心配、しちゃうよ。 ん? メアリとシャーリィと、うん、ハワードも。誰かひとり欠けたら、もう、その瞬間からアーシェはアーシェじゃなくなるの。 友達って……。大好きなひとって、そういう、ことなんでしょう……? ああ。そうだね。 今すぐに抱き締めてキスの雨を浴びせたい。そんな衝動にハワードは耐えた。 当然のことのようにそれをさらりと述べるアーシェリカは、やはり、世界で最高の、自分の愛すべき相手だと確信する。 今どき、教会へ足を運んでさえ、他を想う心をこれほどまでに自然に口にできる人は世界にいないとさえ思う。 ──けれど、同時に。──こうも思わざるを得ない。 当然のようにこう言える誰かがいるから、今の自分が在るのだろうということ。 新大陸出身の貿易商人として数年しか経ていないハワードではあるが、幾つかの修羅場には遭遇した。 それでもこうして健在でいられるのは、迷わずに他を思うことのできる人々とどこかで必ず出会ってきたからなのだろう。 であるからこそ。自分は、無事に人生を過ごすことができて。 今ではこのロンドンへ至り。愛すべきアーシェリカと出会えたのだ、と。 ……心配。すごく心配。でもね、それと同じくらいにこうも思うの。 何かな。 気に入らない……。 え? 気に入らない……。アーシェの大切なメアリに手ェ出して……。 誰だか知らないけど、前から、さ……。何かしてる“誰か”がやっぱりね……。いるの……。 ア、アーシェ? 気に入らない……。ものすごく、すっごく気に入らない……。 前々から、シャーリィのことで参ってるメアリに誰か取り入ってるんじゃないか、そう、思ってたけど……。 ケインズとアンリがね。見たの……。 な、何を、だい。 運転に意識が集中できず慌てかけてしまう。この兆候は。良くない。 アーシェリカの声の調子に不穏なものを感じて、ハワードは焦っていた。 なんとか速度をゆるめる。よし、これでひとまずは大丈夫のはず── 「すげーいい紳士の妾になったんだぜ、 メアリ姉ちゃん」ってケインズが……。 (今のはすごく似ていたな) ベーカー街で会った孤児のことを思い出す。彼らは確かにメアリと知己のようだった。 では、本当に彼らの言う通りなのだろうか。あのメアリ嬢が、妾。想像し難い。 相当に完璧な紳士であったとしてもそう納得し難いだろうとハワードは思う。 彼女は、誰かの妾になることを望むような性質の人間には見えない。碩学院にまで通っているのだから── ハワードはそう確信する。数年間の貿易業で鍛えてきた人間観察眼は、彼にとっては、ある種の特技でさえあった。 その話は俄には信じ難いな。あのメアリ嬢のことはきみのほうが僕より詳しいだろう? そんな与太を信じるかい? 信じなかったよ……。でも……。 見たの……。 み、見た? 何を? 見たの!メアリが“誰か”と会ってるところ! そそくさと学院からソーホーあたりまで歩いて、ウェストエンド行きの地下鉄に乗ってどっかに行っちゃったんだから! ひとりでウェストエンドだなんて!高級ホテルわんさかのウェストエンド! 議事堂やビッグベンも……。 月曜から金曜まで毎日なんだから!この目で見たんだから、間違いないもん! 大きな声で── 激昂する、愛するアーシェ── その勇姿に一瞬だけ見とれかけながらも、ハワードは彼女の瞳を確かに目にした。 激昂したアーシェの瞳の奥にあるのは決して弱々しさではなく、くじけず、友を虐げようとする誰かへの強い義憤であった。 (ああ、アーシェ! それでこそ、僕のアーシェリカだ!) (凛々しくも勇ましい、愛しいハニー。 曇り顔はきみには似合わないのだから) ──だが。──それはそれとして、だ。 今にも立ち上がりそうな前傾姿勢だけは、どうにもいただけない。それを言おうか言うまいか悩む── ん。 この目で見た? そーよっ!この目でちゃんと5日間見てたの! それはつまり尾行したっていう── ああもう!何なの誰なのほんとに許せないっ! ──立ち上がった!──迷うことなくがたんと音を立てて! 危ない。危ない!先刻よりは速度を落としたとは言っても、速度は恐らく時速50マイルは出ている。 幌のない高速のガーニーで立ち上がって、堂々と拳を掲げて、声を張り上げる。 そんなアーシェリカの姿は美しかったが、あまりにあまりに危うくて── ア、アーシェ、あぶ、あぶな── 尾行じゃないんだから!同じ地下鉄にまで乗り込んだらさすがにばれた時言い訳できないから我慢したわ! メアリにはまだ早いんだからっ!誰よ、弱り切った乙女につけ込んで、卑怯にも言い寄る“謎の男”なんて! メアリは男女のあれこれに興味ないのに、迷子みたいにしょげてるのをいいことにつけこんじゃって! ゆっるせない! NO!お、落ち着いて、ハニー! 立ち上がると危ないから! ぬおー!! 落ち着きたまえー! 翌日── シティの空に“陽差し”の見える日だった。どこか心穏やかになる日。 パレス跡公園を思わせるあの白光の下、大通りを歩く人々の表情はどこか明るくて。 灰色雲にできたほんの僅かな切れ目。ハイドパークで見られる“隙間”とは違う、その、もっと小規模なもの。溢るる陽の光。 1904年12月25日のあの朝から、1年が過ぎた現在。既に語る人は多くない。 感嘆と喝采を以て受け入れられた空の異変、法皇猊下が“奇跡”と認められた空の白光。今では、ごく自然なものとなっていた。 以前は“隙間”が空に見える度に、立ち止まって空を見上げる人の姿も多くて。 今では、もう、立ち止まる人はそう多くはなかった。 それでも表情の僅かな変化が人々にあって、穏やかなものを感じずにはいられない。灰色雲の向こうにある太陽からの、光。 ただ── メアリは“陽差し”を見上げながらも、穏やかさを心に感じながらも。この朝、表情までは笑顔になれなかった。 ただ1年前の時のことを思う。シャーリィやアーシェと、大騒ぎをして、珍しくはしゃぐシャーリィの手を握って。 もう1年が経ったのかとも思う。まだ1年しか、とも。 過去を思い出しながら。明日と今日を思いながら、メアリは歩いて。 碩学院への道行きを変えて、ソーホー方面へ── ブロンテ家──メアリは、ドナの案内で寝室へと向かう。 こうして訪れることにもメアリは慣れた。もう、2ヶ月余りが過ぎている。あの、初めて黒い街を見てから。 もう12月。クリスマスの時期も近い。シティはさして代わり映えしないものの、ハロッズでは模様替えが行われたらしい。 もう12月。空の奇跡が訪れた日も近い。奇跡の日に3人で過ごすことを、シャーリィは楽しみにしていた。 長い廊下を先行して進むドナの背中に、そっと、語りかける── あのね、ドナ。他意がある訳じゃないのだけど……。 25日までに目覚めるといいなって、そう、思ってるの。 クリスマスの日は……。できれば、皆でお祝いをしたいわ。 はい。 私も同じ気持ちでいます。メアリさま。 ……ええ。 また、あなたの手料理を食べたいわ。とっても美味しかったから。 ありがとうございます。 そうして、何度か言葉のやり取りをして。やがて寝室前へと至って。 扉を開けてくれたドナへ静かに頷いて、メアリは寝室へ入る── 眠る、シャーリィ── アーシェと一緒に用意した花々に囲まれて、今日も静かに横たわる、綺麗な眠り姫の姿。今日も変わらない。 無機質に寝かせておくのは可哀想。そう、アーシェが言って。 ふたりでハロッズへ赴いて花を沢山買った。マリーゴールドとアネモネを、山ほど。 病床への見舞いのつもりは一切なかった。ただ、笑顔の似合うシャーリィには、眠っていても華やいでいて欲しくて。 サシェに、ポプリに、切り花に。沢山。生花は萎れてしまうからそれ以外のもので。 ドナに頼んで一緒に置いて貰った人形は、アーシェがいつの間にか買っていたもの。以前、シャーリィが欲しがっていたもの。 ──目覚めたら驚くかしら、シャーリィ。──それとも怒る? ──どっちでもいいの。──目覚めてくれるなら、どっちでも。 ──シャーリィ。シャーロット。──眠り続けるあなた。 ほんの少し、痩せてしまった気がする。定期的に点滴を打っているとは聞いたけど、人間の体はそれだけで生きることができる? メアリは不安を感じてしまう。言いようのない感覚が、胸の奥で、蠢く。 ……シャーリィ。久しぶり。 背後でドナが扉を閉めたのを確認して、メアリは静かに話し出す。 ──可愛いアーシェリカのこと。──碩学院でのこと。 ──あたしのこと。──あの、恐ろしい、黒い街でのこと。 ──そして。──新たに知った、知らされた、こと。 ──怪物を生み出してしまう人間たち。──宿主たちの、ことも。 あたし……。 どうしたら、いいのかな……。シャーリィ……。 やっぱり駄目ね、あたし。あなたなら、きっと、こんな風には……。 ……迷ったりしないのでしょうね。 返答はない。 返答はない。 耳を澄ませてようやく息遣いがわかる程度。 静寂、と表現しても構わないのだろう。何の反応もない。 メアリの、縋るような問いかけにも。涙を堪えた瞳にも。 眠り姫は、その名の通り眠り続けるだけで、繊細な睫を震わせることもない。 何も── また、来るわね。できればその前に起きていて欲しいけど。……そうでなくても、いいわ。 必ず、あたしは生きて。また、ここへ来てみせるからね。 必ず……。 ……あれ? ひとりで座って、どうしたんです?迷子かな? シティの一角──クィーンズストリートのあるカフェテラス。 勤め先のカフェ・アクランドにて。いつの間にかテラスの椅子に座っていた小さな女の子に、ベルは声を掛けていた。 珍しいことだった。ベル・ウェブはここに勤めてはや2年にはなるけれど、迷子を見かけたのは初めてで。 ソーホーやハイドパークなら兎も角も、シティでは子供をあまり見かけないし、もしいたとしても逞しい孤児の少年少女だ。 いわゆる道っ子というあれ。逞しく生きるストリート・チルドレンたち。 でも、そういう風には見えなかった。ひとりの幼い女の子。迷子かと思ったのだ。 両膝をそろえて、ぽつんと座って、じっと空の“陽差し”を見ている女の子。 ……ううん。迷子じゃないわ。 座っていたのに、話し掛けるとすっくと立ち上がって。 空を見ていた時はかわいい顔してたのに、なぜか、むすっとした顔になって。 どこの子かな?路地裏の子供って感じと違いますけど。 でも結構、服の感じがそうかも。シティの孤児さんかな? ……ううん。違うわ。 うーんと。じゃ、お父さんとお母さんは?一緒にシティへ来たんです? ……ううん。違うわ。 じゃあー……。お家はどこかな? ……ううん。家なんてないわ。 じゃあ、やっぱりシティの孤児さん?でも、あんまり見た顔じゃないですよね。 ……ううん。違うわ。 ううん。違うわ。何を話し掛けてもこの繰り返し。 女の子はすべての質問に首を横に振って、答えてくれたのはひとつだけ。 それじゃあ〜……あっ、そうだ、名前!あなたの名前はなあに? エリー。 エリーっていうんですね。それじゃあきっと、エリザベスですね。 うん。 綺麗な名前です。 うん。ママもそう言ってた。 ふむふむ。じゃあ、そのママはどこにいるんです?そろそろお姉さんに教えてくださいな? ……。 エリー? …………。 今度は、沈黙と、ぶんぶんと横に首振り。ベルは困ってしまう。 こういう時に限って頼りの女主人は留守で、他の従業員も「暇な時間だからいいだろう」とか言って休憩を取ってしまって。 ベルは子供と話すのは大好きだったけれど、あまり時間を取られるとまずいし、何より迷子かも知れない子は放っておけない。 子供をさらう怖い《怪異》が出てきた、なんて噂も耳にした── ……うーん。どうしよう。 うーん。困るベル。 ねえ。 エリーが声をかけてくる。何だろう? なんです? あんただれ。 え、えと、あたし?あたしはベルですよ。ベル・ウェブ。 ベルは、今までに誰かを好きになったことある。 なんだろう突然。それに、むすっとしたまま色恋の話だなんておませな子。 ……え、ええ、もちろん!大人のレディは恋のひとつやふたつ、当然こなしていますとも。 でも── ベル・ウェブの表情は少し曇ってしまう。心配と、不安とで。 思い人、夕暮れの君。ミスター・チャーチルはめっきりカフェに来なくなっていたのだ。もう1ヶ月近くも。 前から言っていたように、仕事で外国へ行ってしまったのだろうかとベルは思う。それは、寂しいことだった。 でも一番好きなひとは……。最近、お姿を見ないんですよね。どこかに行っちゃったみたいで……。 ……うん。うん。 エリーは頷いて。むすっとしたまま、呟くように、言った。 空の“陽差し”を横目に── だいじょうぶ。想う人は、きっと、青い空の下にいる。 まいどー! まいどー。 幾つかの白光指す灰色空の下で、ケインズとアンリはいつものように── 臨時荷運びや手紙運びで日銭を稼いでいた。煙突掃除ができなくなってしまって以降、稼げる金額は日々減っていく一方である。 お腹は減るのにパンは買えない、これじゃスリやたかりをするしかない。 けれどもスリをしてしまうと警部のおっさんにこっぴどく怒られるから除外して、仕方ない、足りない分はたかる。 うん、たかろう。ふたりで目配せして頷いた矢先のこと。 おーい。ケインズ、アンリ。いるか? (こりゃ幸先がいいや。 たかる相手が寄ってきたぜ。ラッキー!) (ラッキー) ん? くわえ煙草のその男はふたりのカモだった。良い商売相手という意味で。 世辞にも紳士とは言えない、一歩間違えれば東区のロンドン・ドックや飛空艇区にいるやくざ者と間違えそうな男。 ザック。姓は聞いたものの覚えていない。数少ない“味方”の大人だ。 ケインズとアンリにとっての感覚では、ロンドンには二通りの人間しかいない。味方か、それ以外。 イーストエンドのスラムに隠れた情報屋の今日の“居場所”を教えるたびに小遣いやパンやスープを奢ってくれるザックは── ふたりには“味方”に分類されている。信用のできる相手だ。 (あ。タバコみっけ) ザックの胸ポケットに新品の煙草の箱の頭を見つけたケインズは、一切の遠慮なく、裏路地の石畳を蹴り── ダッシュで彼に体当たり!当然、アンリも同じように駆けて体当たり。 おわっ。痛ぇな! ザックだ! なんか食わせろー!フィッシュ&チップス一袋食わせろー! 食わせろー。 あと今週ぶんの煙草のおまけ、おくれー。どーせたっぷり溜まってんだろ、おくれー。 おくれー。 ったく。 苦笑しつつも、嫌がることはなく。煙草の箱にくっついた小さな別箱を外して、取り出したブリキの玩具を手渡してくれる。 カダス北央の飛空要塞モデルの小型模型だ。すっごく小さくて、よくできている。 これでは腹は膨れないけど、ケインズはにんまり笑顔を浮かべてしまう。 どうしようもなく“子供心”ってやつが刺激されてしまって敵わない。煙草のおまけはたまらない嗜好品だ。 へへっ、ありがとよ! って。なんだよ、ふたつだけかよー。 かよー。 お前らいっつもふたりだろうが。みっつも要らねぇだろ。 いるんだよ。みっつ。こちとらいつまでもふたつじゃ満足しねー。 しねー。 なんでだよ。 素で問われてしまって。思わずケインズは口ごもる。危ない危ない。 いかに“味方”と言えども、大人にはそう簡単には話せない── 惚れた女がいるの。一人前にませちゃって、プレゼントなんて考えてるんだから、ほんとケインズには10年早いわよ。 おい! 言うなよアンリー! おいおい本当か?何だ、面白そうだな。詳しく聞かせろよ。 まさかケインズが色気づくとはなぁ。相手はどこの誰だ? ダメだね。何積まれたって言わねーぞ。ロンドンっ子はダチを売らねーんだかんな。 エリーっていうの。外国から、密輸船に潜り込んでロンドンまで来たんだってさ。新しい仲間。 言うなよー! アンリのばかー! ザックの兄貴は味方でしょ。ねー、兄貴? ああ。なんだかわからんが大丈夫だぞ。 エリー、ね。 ──軽い調子で。──そう言って、ザックは肩を竦める。 ──足取りはやや重かった。 登院するべくひとり、メアリは町を歩く。いつもと同じはずのブーツが重い。 重い靴。重い足。沈んだ心は、未だに引き上げられていない。 第5の《怪異》であるレッドキャップと、それが進化したというトロールの件以来。ずっと、重く沈んで。 ──胸のつかえが少しも取れない。──取れて、くれない。 ──重いものが胸いっぱいに詰まって、──少しも消えようとしない。 ──息をする時にさえ胸の重さを感じる。──足は、引きずってしまいそう。 ふと気が緩むと横顔を思い浮かべてしまう。下宿の暗がりにいたMの表情。最後に見た、ブラム氏の表情。 胸が重い。胸が痛む。静かな恐怖がそこへ充ちていくのがわかる。 死を、自分は導いてきたのだろうか。彼の言う通りにしてきた、今まで。それで何が行われたのか、考えたこともなかった。 誰かが傷つくかも知れない可能性。宿主となり、そして彼らは── ──死ぬの。死んだの?──これまで6体の怪物を生んだ彼ら。 ──きっと、3人の誰か。──ブラムさんを含めた、誰か、3人。 ──あの日から、ブラムさんは姿を消した。──どこにもいない。 ──他の人も。そうなの?──死。精神の死、導かれる肉体の死。 ──本当に。──死んでしまったというの。 考えたことなど一度もなかった。Mに知らされることもなくて、ずっと、シャーリィのことを考えていた。 ずっと、目の前の《怪異》から逃げ延びて、自分が生き延びて。親友が目覚めることだけを。 (……神さま) (あたしは、間違っていますか。 あたしが逃げるから……) (……誰かが、死ぬというのなら) 答えは出ない。返答も、当然。神の声は聞こえず、ここは懺悔室でもない。 そう。結局、教会にも暫くは行けていない。学院で貰った課題も1週間ぶんまるまる溜まってしまっている。 宿主の“その後”を考えることもできない。多くを考えようとする度に、体は震えて、黒い街の残滓とは異なる感情に襲われて。 弱さ。自分の弱さを感じて震えるだけで、何も、為せてはいない── こなせているのは、足腰を鍛えるためのジョギングばかり。 朝のテムズ沿道を走ることだけ。人に見られるたびにおかしな顔をされる。 碩学院へは、一応、行ってはいる。顔を合わせたら何か察されてしまいそうで、アーシェのことさえここ数日は避けていた。 勉学にも身が入る訳はない。シャーリィがあの昏睡状態になってからはずっと形ばかりノートをつけていたけれど。 それさえもまともにできなくなっている。ノートは、白い。 ──駄目。メアリ、どうしたの。──あたしは諦めないと決めたのに。 ──これじゃ、駄目よ。──こんなに弱った気持ちではいけない。 ぼんやりとなんてしていられないのに。いつまた周囲がシャルノスとなり、怪物たちが現れるかもわからない。 心を強く持たなくては、走れない。あの黒い街のもたらす恐怖に呑み込まれる。 怖い話を聞いても白昼夢を見ることは、あの日、劇場の日以降すっかりなくなった。 その代わりに──現実感を伴った、朧気な黒い街のことをメアリは、時折、思うようになっていた。 何を見てきているのか、自分は。いつも、黒い街を脱出して目を覚ませば、残っているのは、霞がかった記憶ばかり。 初めはわざと思い出さないようにしていた。2回目に黒い街を走ってからは、記憶を探れないことに気付いた。 残るのは、ぼんやりとした記憶の断片と、逃げ続ける覚悟と── と── ──ぐい、と袖の裾を引かれた感触。──何かに引っかかった? ──そう思った途端。──今度は、袖ではなくて指先に感触。 ──あたしは右手の指を握られていた。──小さな、誰かの手に。 ──何。誰? (……誰?) ……。 無言で自分の手を引く、小さな女の子。綺麗な大きな瞳でメアリを見て。 ──見たことのない子だった。──誰だろう。 ──吸い寄せられそうになる大きな瞳。──どこか、不思議な輝きを感じる。 ──何だろう。──不思議な子。そう、あたしは思う。 きっと可愛い子に違いない。顔立ちと、大きな瞳でそうだとわかる。 けれど、表情がそれを覆い隠そうとする。不機嫌にむっとした顔で、じっとメアリを見つめて。 ……ママ。 え。 「ママ……?」 「どこ。ママ、ママ」 「行かないで。置いていかないで」 「あたし、ここよ」 「ここにいるのに……」 「ひとりに、しないで。ママ」 (あれ……) ──白昼夢?──いいえ、違う。内容を覚えているもの。 ──過去のあたし。──あれは、いつ。思い出したくない。 ──いつもは思い出さないのに。──知らない子の短い一言で、こんな。 ──やっぱり。──あたし、弱っているのかも知れない。 もしもし、お嬢さん?ごめんね。あたしはママじゃないわ。 ……。 ママと間違えちゃったのかしら?あたしと、似たひと? 迷子?あなた、ママと一緒にシティへ来たの? ……ううん。ママはいない。 ぶんぶんと迷いなく首を横に振って、表情は不機嫌なまま。 母親と来た訳ではないということだろうか。それとも、言葉通りの意味か。 メアリが逡巡する僅か2秒ほどの間に、何かを納得したのだろうか、指を離さないまま女の子は小さく頷いて。 そして。ぽつりと、呟く── ……あなたも、ママがいないのね。 なぜか── 学院へ行くはずだったのに、なぜか、メアリは来た道を引き返していた。 地下鉄に乗ってテムズ沿岸区の住宅地帯へ。地下鉄駅から地上へ出て、テムズの沿道を急ぎ足で歩いて。 すぐに姿が見えた。下宿── あら。あら?今日は随分と帰りが早いのね、メアリ? さっき出たと思ったら、もう?どうしたの、どこか具合でも悪いのかしら。 熱が……あるようには見えないけれど、そうなら言ってね。お医者さま、呼ぶ? あ、あの……。いえ、違うんです。ミセス・ハドスン。 今日は教授たちが全員お休みで、まるまる休講になっちゃったんです。それで……。 ふうん?そう、なの? 首を傾げてそう言いながら、2階への階段を見やるミセス・ハドスン。 まさかもう気付かれてしまったのだろうか。でも、口にしないということはまだ、確信ではないに違いない。 メアリは内心で冷や汗をかきつつ、表情は普段の作り笑いを浮かべて。ああ、これにも慣れてしまったと思いつつ。 それじゃあ、また。本当に、今日は驚きました……。 風邪、流行ってるのかも知れませんね。あはは……。 作り笑顔で、誤魔化そうとしながら。メアリも2階へ上がる── ──すぐにドアを閉める。──見つからなかった、多分。大丈夫。 やや気疲れした感覚があった。努めて嘘を吐いてしまったからだろうか。 息を吐いてしまいそうになるのを堪えて、メアリは、部屋の中を見る。ベッドの上にちょこんと座る女の子を。 碧の瞳をした、まだ名前も知らないあの女の子。 あれきりすっかり押し黙ってしまって、手を離そうとしなかった女の子を、警邏の巡査に引き渡そうとしたのだけれど。 警官の姿を見るや否や顔を青ざめさせて、いやいやと首を左右に振って手を強く引くこの子の瞳を見ると── 引き渡すのがなぜかどうしても躊躇われて、ではどうしたものかと考えながら、下宿まで連れてきてしまったのだった。 ──我ながらおかしな判断だと思う。──お巡りさんに渡すのが、一番いいはず。 ──でも。どうしてか、あの時は。──こうするのが一番いいのね、と思って。 ──連れてきてしまった。──あたし、どうかしているのかな。 ──ちゃんと、考えられているの?──物事を? ……あなた、凄く上手なのね。びっくりした。 ミセス・ハドスンがドアを開ける前に、あっという間に階段を昇って。 まさに早業だった。本気でメアリが感心してしまうほどに。 ミセス・ハドスンとの会話の最中にしどろもどろになってしまった理由の半分。それが、この子の、あの早業に驚いたせい。 慣れてるの。大人の目をかいくぐるのは。 ? あたし、エリー。あんたは……えっと、うん。 メアリ・クラリッサ、ね。 素っ気なく。すんなりと。エリーは、メアリの名を言い当ててみせた。 どうして名前を言えたのだろうか。そう、セカンドネームまで。 あれ……。あたし、あなたに自己紹介をした? さっきハドスンって人が言ってたでしょ。聞こえたの。 ありがと。 ──素っ気ない口調で、この子は言う。──何のお礼? ──女の子。エリー。──あたしはその大きな碧の瞳を見つめる。 ──惹きつけられてしまう輝きを湛えた瞳。──見つめていると、どうして、かな。 ──不思議な感覚があった。──ハイドパークで空を見ている時のよう。 ──眩しい白光を見る、あの時みたいに。──幾らか心やすらぐ感覚。 ずっと沈みきっていたと自覚する胸の内が、まるで、解れるかのような錯覚まで感じて。メアリは内心で首を傾げてしまう。 不思議な子。口数少なくて、素早くて、綺麗な瞳で。 (……ええっ、と) (どこの子、なのかしら) メアリはようやく我に返る。綺麗な瞳にぼうっとしている場合ではない。 それより、何よりも今は、この子をどうしたらいいのか考えるのが先。 ついさっきまでは手を離してくれずに下宿にまで連れてきてしまったこの子。多分、迷子であるはずの女の子。 警官を見ただけで青ざめたのはなぜ?まさか犯罪行為をしている子には見えない。 警察へ届けるのが正しい選択だとはわかる。けれど、あんなにも嫌がるのなら、他に手段はないだろうかと、一応。 例えばモラン大佐に頼んで、組織の“情報網”とやらで親を探して── ──駄目。だめ。──それは、多分、できないわ。 舌を巻くほどの即時性と知識、新聞より、伯父さんよりも都市で起きている出来事に詳しいモラン。でも、彼女に頼るだなんて。 当初より話すのに抵抗がないとはいえ、Mの部下なのだ。M。あの無感情な瞳。間違っても、彼に子供を託したりできない。 ぞっとしてしまう。 でも── いつかのことを思い出す。彼は、ケインズとアンリには甘かった。 ……駄目。 ……でも。ううん、やっぱり駄目。やっぱり、まずはアーシェに連絡して……。 ミスタ・ハワードに親御さん探しを……。……うん、それなら、きっと安全……。 大丈夫よ。 あたし、迷子じゃないわ。パパもママも、探す必要なんてないわ。 もういないもの。ふたりとも。 いない……? だから逃げてきたの。この国がようやく、最後。 え。 何……? ──言葉をそのままの意味で取れない。──逃げてきた? ──親がいないから、とエリーは言った。──それが理由という言葉の流れ。 あたし、カダスへ行くの。もうすぐ。 空へと駆けるの。灰色じゃなくて青い空に。 もしも空に果てがないなら、誰も見たことない場所へあたしは行くの。 だから、親はいないわ。迷子じゃないの。 ……わかった? ……。 ──わからなかった。──この子、エリーが何を言っているのか。 ──ただ、確かに。──小さな体に不釣り合いなものを感じた。 ──揺るぐことのない意思を。──強く。強く。  『もしも、お母さまがいなくなったら』  『あなたは、どうする?』  『困ってしまって、泣いてしまう?』  『……うん』  『そうね。ママのこと、好きだものね』  『でも、もしも……』 夜が耽る──灰色雲の向こうの太陽がどこかへ消えて。 都市を稼働させる機関の駆動音が、人々の休止と共にあちこちから消えていく。 4号までのロンドン橋も全基稼働を止めて、ウェストエンドの時計塔は夜の鐘を鳴らす。都市に夜が充ちていく。 機関都市ロンドン。世界有数の大都市にして英国の中枢。 第6までの怪物が跋扈したことを知る者は、殆どいないだろう。かの《結社》に連なる者か── 或いは── この英国を統治する女王陛下の手足たる《ディオゲネス》の位を得た者以外には。 べーカー街221B。整頓とは程遠い状態の部屋に、男がいた。 彼の名を知る者は多い。ロンドン警視庁のあらゆる警官であるとか、殺人さえ厭わぬ犯罪組織の下僕であるとか。 他にも、そう、多くの市民たちもそうだ。彼の武勇伝は新聞や伝記的小説によって幅広く伝えられている。 それは、表情少ない冷徹な男だ。知識の深淵ですべてを見通すという男だ。 英国はおろか西欧諸国全土、果ては極東部の小帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。 欧州全土の事件を解き明かすという、男。ディテクティブの王だと自ら称する、男。碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、男。 かの《結社》総帥と対峙し、ただひとつの回答を得たと目される男。 その容貌は伝記的小説の書く通り。高い鼻も、また然り── ……ふむ。 彼は、遊撃隊の中でも特に目を掛けたふたりが今日までの数日間に“誰”と会っていたかの報告書に目を通していた。 遊撃隊リーダーの少年からの報告書だ。ふたりは自分が監視下にあるとは知るまい。 脳細胞が冴え渡る感覚。思考が── 状況と情報を繋ぎ合わせて“推理”を行う。あのえせフランス人であれば、そう、灰色の脳細胞、とでも言うところか。 なるほど。 そろそろ来る頃だと思っていたよ。エド・オニール大佐。 報告書を机の脇に置いて、彼は、部屋の奥で静かに佇む何者かを見る。 ……忌々しくも《結社》に動きがあった。これは《怪異》案件とは別件ではあるが、見逃せないとの結論をクラブは導き出した。 兄君の判断だ。今度こそお前にも協力して貰うぞ。 はは。 別段、前回も邪魔をしたつもりはない。きみが、無駄に接触を図るからああなった。 黙るがいい、探偵。お前はクラブからの指令を── 年端もいかない子供の大脳皮質とは、また、実にオカルトじみている。狂気とも呼べる。それはもはや科学ではない。 ぺてんに惑わされるとは。兄の冗談を真に受けるのも大概にしたまえ。 ……貴様、どこまで知っている。 さて、ね。 ──こん、こん、と。──ささやかなノックの音で目が覚めた。 まだ夜中なのにと思いながら瞼を開けると、カーテン越しに窓から差し込む光に気付く。もう、朝だ。 時刻は朝の6時前、かなり早い時間のはずだった。 こんな時間に来客があるはずはないのに。でも、確かにノックが聞こえた。 ……え、っと……。 寝ぼけ眼を拭ってベッドを見る。自分の隣で、エリーは、まだ眠っていて。 ──不思議な子。エリー。──カダスの向こうに、青空、だなんて。 遙かカダス地方の空にもここ1年で眩い“陽差し”や“隙間”は発見されたというけれど、青空の話は聞いたことがない。 メアリの知識によれば現代カダス語では青空を指す言葉は伝わっていない。それを示すのは、遺跡の碑文や古語だけだ。 それほどの長い時を掛けて、カダスの空は排煙を受け止め続けてきた。だから、青空なんてものは── ──ぼんやりと。──エリーの顔を見ながら考えていたら。 ──こん、こん、と。──もう一度、扉からノックの音が響いて。 ……は、はい。 ノックを忘れていた!寝起きは、どうにも頭がはっきりしない。 誰が来たのだろう。扉の向こうにいる早朝の客人は、誰? もしミセス・ハドスンだったらどうしよう。彼女に気付かれてしまっていたら。 何と言えばいいか考える。親戚の子を預かっていると言い訳をしても、ミセス・ハドスンは母の旧くからの友人だ。 父や母の家系について、メアリ以上に知っていてもおかしくはない。 ……今、開けますね。 僅かに緊張しながら── ほんの少しだけドアを開ける。そこにいたのは── よっ。メアリ! よっ! え。 ケインズ! アンリ! これまでで一番大きなエリーの声!つい今まで可愛い寝顔で眠っていたはずのエリーが、飛び起きて、ドアへ駆け寄って。 混乱してしまいそうになる。ふたりが下宿を訪れたことは一度もないし、こんな朝早くに顔を見ることになるなんて。 それに、何よりも── ──エリーの声!──こんなに元気な声が出せる子だったの? ──夕食の時も口数少なかったのに。──まるで人が変わったように明るい顔で。 ごめんね。ケインズ、アンリ。黙っていなくなって。 無事ならそれでいいってことよ!エリーは特別だからな。 だからなー。 し、知り合いなの?えっと、エリー、それにふたりとも、駄目、あんまり大きな声……。 ダニエルの言ってた通りだったな!エリー、ここにいたのか!よかったー! さらわれたのかと思ったぜ! 思ったぜ! ほんとにメアリんとこだったんだな〜。壁掃除のホプキンス兄弟が見かけててさ、聞き出すのに手間取ったぜー。 手間取ったぜー。 うん。行くとこないって言ったらね、今夜、メアリが泊めてくれたの。 おう、メアリなら安心だな。 あれ? 俺たち、メアリとダチだってこと、エリーに言ったことあったっけ?? うん。 そ、そうなの?それならそうと言ってくれれば……。 それよりみんな、声、声!騒ぐと大家さんに気付かれちゃうから! やー。ひさしぶり、メアリ!俺たちのダチを泊めてくれてありがとな! ありがとな! あのね、静かに……。 やっほう、ベッドの感触久しぶりぃ!悪いなメアリ! あれよという間に── ケインズとアンリは遠慮なくベッドに座り、エリーを交えて3人で話し始めてしまった。止める暇もない。 うまい残飯を出す店をみつけたであるとか、うまい働き口を新しく見つけたであるとか、ケインズは誇らしげに話し始めて。 メアリが目眩を覚えてしまうほどの逞しい道っ子ぶりをケインズは見せつつ── ──さすがに。──そういう会話には混ざれそうにない。 ──声に気をつけてね、と言うぐらい。──あたしは圧倒されてしまって。 仕方ない。と、メアリは考えて、放っておいても暫くはいそうねと判断して。 キッチンへ引っ込んで早めの朝食の用意。あまりに本格的な料理は無理だけれど、この部屋でも一応は調理ができるのだ。 昨夜もエリーとサンドイッチを食べた。おいしいと、一応、エリーは言ってくれた。 ──ケインズの話を遠くに聞きながら。──珍しい小さなお客へ、簡単な朝食を。 紅茶と、簡単な軽食。買い置きのスコーンとクリームチーズを用意して、小さなお客3人へ振る舞って。 あんがとな、と顎で言って、ケインズはスコーンを頬張りながら── んあー、っと。そうだ。 んぐ。駄賃貰ったら何か買ってやろっか。好きなもん買ってやるから言ってくれよ、1シリング以内ならなんでもいーぜ? (えっ、そんな額あなた) ううん、いい。あたし働いてないから。 いいんだって。お前の場合はしょーがない。働けない奴は働いてる奴が食わせるんだよ、なんか前にそんなこと聞いたぜ? ……それロシアの絵本。 えー、っと。じゃああれだ!すっげー機関機械を見つけたんだよ!イーストエンド近くの廃棄場の奥でさ。 そいつ、鉄でできた虫みたいでさ。すげーでかくて、たまーに動くんだ。見ると感動するぞ〜。 ……ちょっと見てみたいかも。 だろ!やっぱりな、そー言うと思ったんだ。よし。よし。うん。 (こ……) (これは……) ──その手の話に疎いあたしでもわかる。──こ、これは。 ──ケインズったら。──こ、こんなにあからさまなのね。 明らかにエリーを意識していると思しきケインズの懸命な様子に、戸惑ってしまう。 ひとつの疑問を浮かべながら。そう、戸惑いながらもメアリは考える。 ふたりの逞しさはいつも通りのこと。でも、エリー。 ──この子もストリート・チルドレン?──そうは、思えない。 ──でもこんなにふたりと仲が良い。──なぜ、かしら。 エリー。服は着古していたけれど、何か、ふたりの逞しさとは違っている気がする。 それでも、こんなにふたりと仲が良い。やはり街路孤児なのだろうか。 でもこんなに仲が良い子であるなら、今まで、どこかで見かけたり、ザックから話を聞いても良さそうなものだとも、思う。 ──あたしは首を傾げてしまう。──すると。 おっ。その顔はよーやく気付いた顔だ。碩学の卵のくせに、おせーよ。 な、なによぅ。 ほんとに気付いたか?エリーはさ、いいとこのお嬢さまなんだぜ。 なんだぜー。 そうなの? ……。 ワケあって、悪人から逃げてんだ。だからさ。俺たちみたいのが寝床にしてる街路施設なんかに寝かせるのが可哀想でさ。 どこに泊めたもんかって、もー、ここんとこ毎日大変だったんだよ。 だよー。 ……そうなの……エリー? ……。 そうなんだってば。で──良かったら、メアリ、さ。しばらくこいつ泊めてやってくんない? え。こ、この子を? いいってさ。良かったなエリー!これであったかいベッドで寝れるぞ! 別にいい。 そうむくれるなって。大人が嫌いなのは、まー、わかるけどさ、メアリはまだまだガキだから大丈夫だよ。 ……ケインズ君。ちょっとお話があるんですけれど。 レディなメアリに失礼よ、ケインズ。あんたよりはよっぽどメアリのが大人。 ……アンリがいい子で良かったわ。ええ。そうですとも。あたし、もう子供じゃないですからね。 で。立派な大人のメアリは、悪い連中に追われた子供を放ったり、しないわよねー? ……アンリ? わよねー? …………もぅ。 たまにこうしてくるくると喋るアンリの口のうまさには参ってしまう。 どうにも、毎回言い負けてばかりで一度も勝った試しがないような。 ──アンリのほうが、よっぽど。──あたしよりも。 ──大人なんじゃないかとさえ思う。──本当に、逞しくてしっかりした女の子。 ──そのアンリの表情が言っている。──嘘ではない、と。 ──エリーが誰かに追われていること。──嘘ではない、と。 頼むよ。な。メアリ。カダス行きの飛行船に潜り込ませる算段が、もう何日かしたらつきそうなんだよ。 それまでで、いーからさ。な! 頼む! このとーり! 極東風にベッドに額までつけてみせて。どこで覚えたのだろう。 ──これは本当に、その、ええと。──いわゆるひとつの。 ──誰かに一目惚れをした男の子の姿?──そ、そう、なの? ──ケインズのその仕草も、そう。同じ。──嘘をついているようには思えない。 ……こほん。 その前にひとつ聞かせて。エリー。いい? ……。 あなたは、逃げてるって言ったわね。ケインズは悪い大人が追ってるって言った。 本当なのね? ややあって── むすっとしたままのエリーだったけれど、ケインズとアンリが「大丈夫」と囁いて頷くのを見ると、しぶしぶ、頭を。 横ではなくて。まっすぐに、縦へと振って。 ……うん。 本当。 大人たちが、あたしを追いかけてるわ。あたしに話しかけてくるような大人は、だいたい……。 悪い人。 そう言って、エリーはじっとメアリの目を見つめてくる。 黙って、じっと。みじろぎもせずに視線をまっすぐに。 値踏みされているのだろうか。不思議と、そう、直感に近い確信があった。 動揺を見せてはいけないと告げる直感に逆らわずに、メアリは視線を受け止める。エリーと同じくまっすぐに。 身じろぎしないように。躊躇わないように。 ──疑ってはいけない。言葉を。──そう、あたしのどこかで直感が囁く。 ──それは、どこ。──胸の奥。違う。頭の片隅。違う。 ──右目が。──そう、あたしに告げている気がした。 すると── ずっと逃げてきたわ。朝も、昼も。夜にだって。 ……ようやく、この国に来たの。 この国で最後なのに、見つかって、捕まりそうになって……。 そこを俺たちが助けたってワケさ。大体わかったか、メアリ? ありがと。ケインズ、アンリ。 い、いーってことよ。ロンドンっ子は情に篤いんだよ! てきとー言っちゃって。調子のいい奴。……どうしたのメアリ? ほ……ほんとう、なの……? おいおい、まだ疑ってんのかよ。そんなんじゃメアリも大人と一緒だな。エリーのことが信じらんないなんてさ。 あーやだやだ。大人様はガキひとり助けてくれねーの。 そうじゃなくて……。本当に、ケインズとアンリで助けたの? 悪い奴を!?どうやったの!? なぜか── 悪い奴と聞いて脳裏に浮かぶのは、この子供らにじゃれつかれて引き倒される、あの、無愛想で背の高い黒い男の姿だった。 ──エリーは誰かに追われている。──外国から、ずっと。 ──小さな3人から話を聞いて。──あたしは、迷うことなく確信していた。 分別のある大人ならどう思うだろう。けれど、メアリは3人の言葉と勘を信じた。 何ひとつとして嘘は言われていない。そう、直感が確かにある。 けれど、今度は、混乱と戸惑いがあった。小さなエリーが誰かに追われている。親のない子が、外国から逃げてきた。 どうしたらいいのか何も思いつかない。いや、思い浮かぶことは幾つかあった。そのどれにも問題があって先へと進まない。 初めに思いついたジョージ伯父への連絡はケインズに断固として反対されてしまった。こんな剣幕は初めてだった。 英国の外に逃げなきゃ意味がないんだよー!ここにはもう悪い連中がわんさかいて、エリーは隠れるのが精一杯なんだよ! それに、エリーはカダスに行きたいんだ。行かせてやるのが男ってもんだ! もんだー! 猛烈に抗議する彼に、メアリは反論することができなかった。こんなに幼い子に圧倒されてしまった。 そうするだけの迫力があったのだ。真摯で、真剣な。 気を許してくれているのだろうけど、秘密も何もなく喋ってしまうケインズの言葉の端々から、メアリは感じてしまう。 普段ただの子供だと思っていたふたりが、スラムにすら顔を出してしまう街路孤児であることを、感じさせられる。 そして、結局のところ── んじゃ、約束なメアリ!エリーがロンドンを出る算段がつくまで、匿ってやってくれよ。な、頼む! というわけだから。どうかお願いね、メアリ。 ……。 エリーからも、ほら! ……お願い。メアリ。 うん、わかったわ。知った以上は放っておいたりしません。 突拍子もない話だとは思うけれど、そういうのは、うん、慣れてきたから……。 ? な、何でもないわ。わかった。匿うって約束するわ。 ──約束した。してしまった。──本当に、これでいいの。メアリ? 子供たちだけに任せる訳にはいかないと、わかっていても手段が思いつかない。 前なら迷わずジョージ伯父に頼っただろう。今は、警察の手に余ることが世の中にあることを、なまじ、知ってしまっていて。 こんな突拍子もない話である以上。頼るなら、伯父さんよりも── そう── もっと、別の── ──どうせ。──すべてを監視されているのだから。 白光が眩い──今日も“陽差し”の見える1日だった。 本当は院での講義のある日だった。昨日に続いて、今日も欠席することになる。 ウェストエンドのとある地下鉄駅を出る。この地下階段を昇ることにも、すっかり慣れてしまっていた。 下宿最寄りの地下鉄駅からまずソーホーへ。そして、路線を乗り換えてウェストエンド。この2ヶ月ほどで何度もそうした。 最初の1ヶ月は毎週顔を出していたから、シティほどではなくても慣れてしまった。 本来であれば関わりのないエリア。今は、呼び出されれば否応なしに赴かなくてはならない、そういう契約だ。 (……予定も呼び出しも、なくて) (自分から行くのは、初めて、かしら。 ザ・リッツ・ロンドン……) 通りを行き交う外国人旅行客や、庁舎勤めの公務員らしき姿の人々を横目に、メアリは視線を高層建築のひとつへ向ける。 ロンドン有数の高級ホテル。ザ・リッツ・ロンドン。 以前、目にする時は憧れの眼差しだった。今では見慣れてしまった。溜息さえ吐きそうになる。 ……うまく話を纏められると良いのだけど。神さま、幸運をください。 シャーリィ。あたし、何とかやってみるわ。 話しやすいのはモランであるのだけれど、彼女はMの許可なしに何もしないだろう。それぐらいには、理解をしているつもり。 彼、Mへ。話をしなくてはならない。 エリーの話と同じように確信があった。Mの反応はきっと“どちらか”だ。 応じてくれるか──もしくは、一切の反応なく関与もしないか。 最悪でも“エリーを追う誰か”などにあの子を引き渡したりはしないはずだ。そう、メアリは、不思議と確信していた。 ……無反応で元々。なら、当たって砕けてみるわ。 そうよね、メアリ。 小さく自分自身へ囁いて、遙か高く聳えるリッツへと足を踏み入れる。 いつものドアボーイが挨拶をしてくれる。会釈をしたり、微笑み返すような余裕は今日もなかった。 外国人客で静かに賑わうロビーを抜けて、幾つも並んだ昇降機開閉門の付近に立つ。 バトラーサービスを静かに断って。 暫く待つ。ほんの数分で1基が降りて来た。 乗り込み、自動式昇降機のスイッチを押す。設定する階は── 最上階── ……中へどうぞ。メアリ・クラリッサ・クリスティ。 ──ザ・リッツ・ロンドン最上階。──スィート1502。 いつもは扉にノックをすることはなかった。自分が来ることを部屋の主は知っているし、礼儀や作法に意味を感じなかったから。 冷静に考えれば失礼にも程があるだろう。それでも、作法を一通り教え込まれても、メアリはそうしなかった。 ささやかな意地のつもりでもあった。契約に対して、自らの命を賭けることへの。 今日は違う。ノックをした。契約の外のことを頼むつもりで来た以上は、今さら、と思いつつもせざるを得なかった。 重い扉が軽々と開かれて、静かなモランの視線に出迎えられて── 豪奢な部屋へと足を踏み入れる。視線を部屋の奥へと送る。いた。Mの姿。葉巻を片手にいつものソファに腰掛けて。 ……。 ──黒い男。彼、M。──いつもと変わることなく腰掛けて。 ──いつもと変わることなくあたしを見る。──その、表情。 ──彼は、奇妙な表情を浮かべていた。──不満げな眼差し。 ──いつもと違う。──そこには、薄くではあるけれど感情が。 ……お前か。 (え) 思わず思考が止まりかける。確かに視界の中央に捉えている像の意味を失いそうになる。何。今、何を見ているの。 信じられないものを見てしまった。夢か、と思いかける。 夢ではない。夢ではない。現実として絨毯の上に立つ自分がわかる。 ──でも、で、嘘。嘘?──あの冷血漢が、こんな顔、するの。 ──信じられない。──あたしはもう一度、夢かどうか疑って。 まあ、噂をすれば、というやつね。随分とまた可愛いじゃない。彼女でしょう? 本当に黄金瞳なのね。実物を見るのは、これで2度目だわ。 誰── 誰かがMの隣にいる。立っていた。 余裕のある立ち居振る舞いに思えた。ヴァイオラのことを思い出しかけるものの、彼女とは、違う。もっと、艶っぽい雰囲気。 甘い香水の匂いがわかる。薔薇のもの。 ──暗めのドレスに身を包んだひと。──艶やかな唇が、ひどく印象的に思えて。 ──誰。あたしは彼女を見つめてしまう。──ここに、知らないひと。 そこにいたのはひとりの女性だった。知的な瞳、艶のある表情。 微笑みかけてくる表情からは、大人の女性の雰囲気を受け取ってしまう。 強く、強く。メアリは気圧される自分を感じてしまう。 大人の女性は苦手?いいえ、違う。そう自覚したことはない。 ミセス・ハドスンにも感じないもの。レディ・クローディアも、少し似ていても、違う。こんな風に気圧されたことは一度も。 ──感じたことのないもの。──でも、あたしは、この感じを知ってる。 ──少し、似ている。──顔立ち。いいえ。目元、ほんの少し。 ──誰かに、少し。 失礼しました。ご挨拶するのが遅れてすみません。 ごきげんよう、はじめまして。ええと、レディ……。 ごきげんよう。メアリ・クラリッサ。私はジェーン。ジェーン・ドゥ。彼と同じ組織のエージェントをしているの。 随分とこの男がお世話になっているそうね?お疲れさま、メアリ。 彼の相手は大変でしょう。何を考えているかもわからないものね。 ごきげんよう、レディ・ジェーン・ドゥ。い、いえ、あたしは……。 別に、何も……。 気圧されてしまう。やはり。 誰、何者なの。エージェント?こんなに親しげに言葉をかけてくるのに。 誰。そう、名前。ジェーン・ドゥ。そんなものが本当に名であるはずがない。それは、名無しの女の意味の言葉のはず。 なぜそんな名を言うのかと尋ねようにも、気圧されてしまう。笑顔に。 やはり。似ている気がしてならない。そんなはずはないのに── 朴念仁の相手をするのは大変でしょうね。同情するわ、メアリ。 腹の立つことがあったら怒ってあげなさい?そうでもしないと聞かないんだから。 ……。 (……何、この反応?) 如何なる理由か、Mは「黙れ」と言わない。メアリやモランが多くを述べようものならすぐにそう言って遮るというのに。 自然とモランを横目で盗み見てしまう。視線は、合わない。 門前の近衛や番兵のように、モランはドアの脇に佇んで一切動かない。 メアリは何かを感じていた。奇妙な、部屋に充ちた緊張感のようなもの。 自分が感じているのだろうか。Mではない。では、まさか、モランが? 本当にこの男と来たら、無愛想で冷たくて、冗談のひとつも言わなくて。つまらない男。ねえ? あなたたち。メアリ、モラン?そんなに我慢していると体に毒よ? 息抜き、毒抜き。してる? 息抜き……。 ど、毒抜き、ですか……?その、ええと……いえ、あたしは……。 尋ねられてもメアリには答えられない。もごもごと口の中で言葉にならない声を漏らすのみで。 先生に問いつめられた幼い生徒のよう。とても成人している女性の態度ではないと、はっきりと、強く自覚させられてしまって。 恥ずかしくなる。失礼だとわかるのに、俯いてしまう。 ……。 ……あら、まあ。その様子だとできてないみたいね。 これじゃ計画の遂行も心配だわ。ね、M。私、ロンドンの逗留の間の宿、決めていなかったのだけど── この娘のところにするわ。いいわね。 え? ミス・ジェーン。問題があります。それは……。 なあに? 私が総帥代理人の指令を受けていること。あなた、わかっていて? この朴念仁が首を縦に振らないものだから、私がこうして派遣されてきたことへの意味。あなたなら、わかるはずね。 そうよね。綺麗なモラン? ……はい。 押しの強さならMにも負けていないはずのモランでさえ、笑顔に気圧されたかのよう。メアリは目を丸くして、言葉もない。 アーサーのところへ行った時のあの会話。モランも相当のものなのに。 軽くあしらわれたかのよう。一体── ──誰、なの。このひと。──それに、彼にこんな風に言葉を掛けて。 ──親しげ。──そう表現していいのかわからない。 ──ただ、彼との距離は近い感じがする。──少なくともあたしよりは。 M。いいわね。 あなたにこき使われて可哀想な女の子を、私の前に出したあなたのミスね。 ……ああ。 好きにするがいい。お前にはその権限があるようだ。 お前のあらゆる行動は俺に左右されない。お前が、奴に委任されているなら。 よろしい。おわかりのようで結構。それじゃあ、メアリ? はい……。 暫くあなたのところに泊めて貰うわね。よろしく、メアリ・クラリッサ。 ……あたしの……ところ……。泊まる……? メアリの身柄は私の預かりに代えるから、監視の目も外しておいてね。影人間、あれ、私とっても嫌いなの。 お願いね、M。 ああ。 ……え……? 呆然と── 呆然となってしまう。彼女のあらゆる申し出にMは頷いていて。 メアリの下宿に泊まる? 影人間たちの目を外す? 契約下にあるはずのメアリに関わることを、こうも簡単に許可させてしまう、ジェーン。許可する彼、M。 ──あたしは混乱してしまう。──何が、一体、どうなっているのか。 ──待って。──あたしは用があってここへ来たのに。 あなたのことは聞いてるわ、メアリ。大変な苦労をしているようね。 でも安心なさいな。暫くは、私が側にいてあげるから。 柔らかくそう言って。微笑みかけてくる彼女の顔を見つめる── 予想外の事態に戸惑いながらも、メアリは思わずにはいられなかった。 声も違う。顔も違う。でも、その微笑みの表情に見覚えがあって。 ヴァイオラの時と似ている、けれど、まったく違うとも感じられて。 ──表情が似ていると、あたしは思う。──さっきよりも強く。 ──シャーリィ、いいえ、違う。──この笑顔は、そう。もっと別の。 ──もっと、別の、誰か。 それがね、メアリ。ひどいのよ。うちの組織は本当に人使いが荒くってもう。 先日までローマにいたのだけれど、突然呼び出されて、着の身着のままで飛空艇に乗せられて……。 今日にはもう英国だもの。それもこれもあの男のせいなんだけれどね? あなたも、その口でしょう。彼に巻き込まれると疲れてしまうわよ。 はい、いえ、ええと── 何を、しているのだろう。何を、付き合ってしまっているのだろうか。 高級ガーニーを遠慮なく呼び止める彼女に驚いているうちに、ここまで来てしまった。ハイドパークのハロッズ。 暫くは足を運ぶこともないと思っていたここへ連れて来られてしまって。 服や装飾品やお菓子を次々に買い込む彼女。ヴァイオラの時ほどは派手ではないけれど、それでも、目が、回る。 下宿にはふたりで住むのは無理ですから、こんなにも沢山部屋には入りませんから、そう何度説得しても、聞き入れてくれない。 大きな荷物はMの部屋へ届けるから大丈夫、そう、あの笑顔で返されてしまって。 ひとりでなければ絶対に眠れない、真夜中に歯ぎしりをする癖がある、などの嘘も、同じように、笑顔で流されて。 (……どうしよう……) (あたし、何で、こういう……。 エリーのことを相談しに行ったのに!) (一言も頼む前に、こんな……。 情けない、気圧されるだなんて……) 次々と生活用品を買っていくジェーンを見つめながら、メアリは考える。 ──今さらあたしのことはどうでもいいの。──それより、エリーのこと。 ──あの子のことをどうにかしないと──誰かに、追われている以上。 ──電信でMに連絡を取る?──それとも。 ──それとも、このひとに頼んでみるとか。──彼と、Mと同じ組織のひと。 ──どうしよう。──情けないことにあたしは動揺していた。 (……どうしよう、これから……) そんなに怯えなくても良いの、メアリ。大家さんに内緒で子猫の一匹くらい飼っていたって、私、別に気にしないわよ? 猫……。 い、いいえ、猫では、ないんです……。その……。 そうなの? そう言って、また、ジェーンはあの微笑を浮かべる。 やはり── やはり、誰かに似ている── ──結局。 ──言いなりになってしまったのだった。 大半はMのスィートに送ったとは言っても、それでも沢山の荷物を馬車へと積み込んで半時ほどで下宿前へ。 大通りが空いているせいもあって早かった。積載量過多で、馬は大変そうだったけれど。 押しの強さに完全に負けてしまった。こんな大荷物、どう説明したらいいのか。 馬車を降りて馬の首を「ごめんね」と撫で、メアリは溜息をなんとか堪える。 ミセス・ハドスンへの言い訳が出てこない。アーシェの遠縁の女性が滞在するからとか、そういう── 駄目。きっと別の部屋を用意してくれる。ミセス・ハドスンはそういうひとだ。 そもそも、ミセス・ハドスンにばれない上手な嘘をつくには、こんなに混乱した状態の頭では── あら、あら……? 今日も帰りが早いのね、メアリ? あら、はじめまして。こちらはどなた? ただいま帰りました、ミセス・ハドスン。あの、彼女は── お久しぶり、ミセス・ハドスン。いつもメアリがお世話になってしまって。 (え) あら、あら……。あなたは、ええと── 嫌ですわ。お忘れになられて?ジェーンです。クララの妹のジェーン。昔、ロンドン動物園へご一緒させて貰って。 ああ、ジェーン!お久しぶりね、その後元気にしてらして?ええと、どこか外国へ行っていたのよね? (え?) お陰さまで。お仕事でロンドンへ戻ってきたのですけど、ほら、もう家はないでしょう? もしもあなたが宜しければ、姪の部屋にお邪魔させて貰おうと思って。 お帰りなさい、ジェーン。あなたが戻ってきてくれてとても嬉しいわ。 (え!?) でも、メアリの部屋にふたりは難しいかも。隣の部屋が空いているから、そこへ── どうかお構いなく、ミセス・ハドスン。少しの間だけだから大丈夫。 そう……?もしも不自由があったら仰って下さいね。 顔を忘れるなんてどうかしていたわ。大切な親友の妹さんは、親友も同然なのに。 いいえ、随分とお久しぶりですから。無理もありませんわ。 (………) ──見事に意気投合してしまって。──嘘、そんなはずない。 ──どうしてこんな簡単に嘘を信じるの。──ミセス・ハドスン? 普段は海外で暮らしているメアリの叔母で、暫くの間、ロンドンに滞在する── そう言うジェーンの嘘はあからさまで、母に妹がいないことをミセス・ハドスンも知っているはずなのに。どうして、こんな。 本当に母の妹なのかとさえ、メアリは混乱しながら思ってしまって。 滞在の間、ゆっくりしてらしてね。落ち着いたらぜひお茶をご一緒しましょう? ええ、ぜひ。楽しみにしていますわ。 (……嘘……) そ。もちろん嘘よ? 嘘を信じ込ませることは簡単なのよ。暗示迷彩のことはもう知っているわね? 私の暗号名は“魔女”というの。暗示迷彩の服を作ったりはできないけれど、代わりに、私は言葉を使える。 言葉にそれと似たものを組み込んで、語ることすべてを信じ込ませただけ。多少の設定も、するりと彼女の頭の中へね? ……。 ──信じ難いことを。──さらりと、するりと述べてみせる彼女。 ──信じるも、何も。──あたしは呆然とそれを聞くしかなくて。 暗示迷彩のことなら既に知っている。姿を消すことのできるモランのあの陸軍服。 メスメル学を応用していると説明された。メアリの知るそれとは随分と意味が違い、心理を自在に操るという、突拍子もない話。 けれどそれが確かに実在することを、メアリは身を以て知った。それは、今回も同じこと。 呆然と言葉を失い掛けたものの、なんとか声を絞り出して── あたしには使わないでください……。 小さくそう言うので精一杯。だから、次にジェーンの唇から出た言葉に、為す術があるはずもない。不意打ちだった。 にこやかなまま表情を変えずに、ジェーンは楽しげに── さてと。これで部屋は一安心ね。次は、挨拶をしてくれない仔猫ちゃんね。 隠れていないで出てきなさいな。ね、仔猫ちゃん? だ、誰もいません!ここにはあたししか、いない……。 メアリはこう言っているけど、う〜ん。ベッドの下だなんて埃が付いてしまうわよ? 仔猫ちゃん。いい子だから顔を見せて頂戴な。 誰も── 部屋の扉を開けた瞬間に姿はなかった。だから、どこかに隠れているはず。 もしくは窓から出て行った可能性もあった。けれど、この部屋でひとり、メアリの帰りを待っていたはずの子は── ──ジェーンの言葉の通りだった。──ベッドの、下。 ──息を潜めていたエリーが顔を出す。──あたしにも、わかった。 ──部屋へ入るのと同時に。──我知らず、右目が、ベッドを見ていた。 ……。 あら、可愛い。大きな仔猫ちゃんがふたりいる部屋ね。 ……はい。 ね、小さいほうの元気な仔猫ちゃん。あなた、どこの子かしら? ……。 ……レディ・ジェーン。誰にも言わないって約束してください。 いいわよ。 ──思いがけない、あっさりした返事。──拍子抜けしそうになる。 ──駄目。駄目よ、メアリ。──ここ、ここからが本番なんだから。 この子はエリーといいます。 その、孤児なんです。今年に入ってからご両親を亡くして……。 そこのお宅とはあたし、前から顔見知りで。この子は親戚に引き取られたのですけれど、そこで、その。 ……ひどい扱いを受けていたようなんです。それで、あたし、我慢できなくて。 その親戚にもミセス・ハドスンにも内緒で、この子を引き取ったんです。 遠縁の、別の引き取り手が来てくれるまで、ここで匿うつもりで……。 ふぅん? 本当の話? はい。 状況に混乱しているはずなのに、自分でも驚くほどさらりと嘘が出てくれた。 エリーも驚いた顔をしていた。すぐに、むっとした表情に戻ったけれど。 ──嘘を言うこと。──あたし、やっぱり慣れてるのね。 ──罪悪感も嫌悪感も感じていられない。──このひとが信用できるか、どうか。 ──少なくともそれを確信しないと。──事情は話せない。 ロンドン滞在中はメアリの身柄を預かる。そう、確かに彼女は言っていた。 彼女が滞在中はMを頼れるかはわからない。そもそも、頼れるかどうか、それ自体が問題なのだけど。 ともかく。今は、Mよりも彼女に力があるのだ。それをメアリは確かに認識していた。 ──見極めないと。──それからでないと、まだ、話せない。 ──エリー。ケインズとアンリの友達。──匿うと約束したもの。 ──このひとが大丈夫と信じられるまでは。──何も、頼んだりしない。 ねえ、エリー?今のメアリの話は本当のことかしら? う、うん。そうよ。 そう。事情はわかったわ。それなら、暫くの間、私とも仲良くしてね。 私はジェーン。メアリの叔母よ。ジェーンお姉さんって呼んでいいからね? おばさん。 (!) お姉さん。 おばさん。 お姉さん。 おばさん。 ……仔猫ちゃんにはしつけが必要かしら?結構、お転婆みたいだわ。 肩を竦めて── メアリへと振り返り、困ったような気配で微笑を向けてくる── ──ああ、やっぱり。──似ている。そう、あたしには思える。 ──誰。シャーリィ?──いいえ、違う。この笑顔は、そう。 ──ええ。そうね。──顔立ちは似ていないのに、そっくり。 ──母さまに、よく、似ている。 ──暗い。 ──ここはなんて暗さなの。 石畳の路地を走る素足の音が響いている。それ以外に何の音もない。 いいえ、違う。他にも聞こえる。そう、聞こえるのは私の足音だけではない。暗がりの街の路地を走るこの足音以外にも。 息づかい。喉から漏れる声ではない音がある。 ひとりきりの王のみが住まうシャルノス。現実とそこの狭間で。私は、息を漏らすの。 ここには誰もいない。そう、シャルノスの王はここにはいない。 私はここを否定したはずなのに。タタールの門を、私は、求めなかったはず。 なのにどうしてここにいるの。走る。走る。たったひとつの黒ではない色が空に在る。それは、歪