……空、だ。 ……ん? 俺いつの間に眠ってたんだろう。 ……ていうか…なんで寝転がってるんだ、俺は。 ……あれ? ………なんでだ? 手も足も…動かない…? ……一体、何があったんだ? ……俺、どこにいるんだ?? …………。 ………。 えっ!? ここ――ゴミ置き場? ど、どうしてこんな場所に、俺――……!? 「あれっ?」 「こんなところに…どうしちゃったの?」 ……は、はい!? 「かわいそう、捨てられちゃったのかなぁ」 ……捨てられた? 誰が、一体……。 「す、捨てられてるなら――連れて帰ってあげても、大丈夫だよね」 ……えっ? 「うん、ゴミ箱行きよりかはいいよねっ!」 ……ええ? 「よしよし一緒においでっ」 ……なんで、なんで、何がどうなってるんだ!? 何がなんだかわからない。 頭の中が大混乱してる。 大丈夫か、俺……まずは一個ずつ目の前のことから整理だ。 「でもどうしてこんなに可愛いの、捨てちゃうのかな」 ……俺のどこが、おかしい? 「落し物だったら、職員室に届けられるし……」 ……だいたい、俺の視線はなんでこんなに低いんだ? 「もしも誰かのだったら、その時返してあげたらいいよね?」 …そうだ、この声、どこかで聞いたことがある。 誰だっけ? 確かに聞いたことはあるんだ。 たった一つだけの自由――俺は目を思いっきり開いた。 「ねえ、名前はなんていうの? なんてね」 ……………!? 「ぬいぐるみちゃんが、おしゃべりできるわけないよねぇ」 ええええええっ!? ……な、な、なんで俺が!! なんで俺がぬいぐるみなんだ――!? 思い出せ、思い出せ、思い出すんだ。 一体なにが、どうして、こんなことになったのか? 今日一日のこと、俺が一体何をしたっていうのかを…。 「うん、ほんっとに私もそう思うよ」 「やっぱそうかー…信子さんにまでそう思われてたのかぁ」 「っていうかさ、クラス全員かもよ〜」 「うーん、誤解なんだよなぁ。おいハル、ハールッ! 正晴っ!!」 「――ん?」 ……俺を呼んでいるのは、えーっと……。 ……顔をあげて、まっすぐ前を見て……。 「あ、圭介か」 「あ〜。またぼんやりしてた?」 圭介は腕組みをしたまま、あきれたようにため息をついた。 「今もさ、ハルの話題で盛り上がってたところなんだよ?」 「盛り上がってるって――」 「ちょ、圭介! それじゃ私たちが石蕗のこと悪くいってたみたいじゃないか!」 「ええ、そ、そんな風に聞こえた?」 「聞こえたってー、ねぇフローラ」 「あ…うーん、そうかなぁ? そうでもないと思うけど…」 「っていうか! フローラは何でもいいように解釈するからなぁ」 「ふーちゃんちは、牛乳屋サンだからねぇ。のんちゃんも牛乳いっぱい飲んだらいいと思いまーす」 「はたっ」 「弥生の発言はなし、話こんがらがるから!」 「うぅ…いじめられた〜、のんちゃんにいじめられたよ〜」 「よしよし、信子は悪い子だねぇ。あと、私の家、牛乳屋じゃなくて喫茶店だからね〜」 「もう! あんたたちが話しそらすからさ…ほらっ」 「石蕗がまた一人の世界に入ってる」 「え?」 深道のその一言で、俺の目の前で交わされていた会話がとまった。 全部、まるで一時停止のボタンを押したみたいに。 「そうそう、話を戻してっと」 「俺の話って、何?」 「ほらまた、それだよ、それ!」 「……?」 「うーん、いやね、ハルは別に人嫌いとかそういうんじゃないんだけど」 「圭介くんとは真逆よね」 「磁石ですか? S極とN極みたいな感じで〜」 「そ、それっていいのか悪いのか………」 「ほらまたズレた! つまりさ、石蕗…こういうのって嫌い?」 「……こういうの?」 また会話は停止。 合計四人ぶんの視線が俺に集中した。 「うーん、つまり…みんなと楽しくおしゃべりしたりとかかな?」 「そうそう、それよ」 「別にイヤじゃないけど」 「………」 ――さっきの返事、ちょっとおかしかったんだろうか。 俺をぐるりと囲む圭介たちは、示し合わせたように黙り込んだ。 「あの……」 「あのねー!!」 「ちょ、の、信子!!」 「げほっげほっ…ちょ、離っ…」 「もう新しいクラスになってから、一ヶ月半! 一ヶ月半もたってるの」 「うぅ……え?」 「それなのにさ、石蕗ってぜっんぜん打ち解けてないだろ?」 「げ、げほっ」 「信子さんヤバイっす、ちょっと首しめすぎかも」 「………そう?」 「――はぁっはぁっ、な、なにすんだ」 「ふんっ」 一瞬、本気で息がとまった。 それだけでも充分抗議できるっていうのに、深道は不機嫌そうにそっぽを向いた。 「石蕗くん〜大丈夫?」 「……あ、ああ」 「あのね、のんちゃんは心配してたんだよ〜」 「は?」 「弥生っ!!」 「あっ! えーとのんちゃんだけじゃなくって、みんなね。ふーちゃんとか、けーくんも」 「だから、何?」 「だからさ」 ……今度は圭介までも険しい顔をしている。 本当に俺、何かしたんだろうか。 「さっき信子さんも言ってたけど…ハルってあんまり誰ともしゃべってないよね」 「しゃべって…るけど」 「オレたちのことじゃなくて」 「私たちは、去年も石蕗くんと同じクラスだったでしょ? そうじゃなくて、新しく同じクラスになった人とってことなの」 「あ……」 そういうことだったのか。 やっと俺はこうやって囲まれている意味を理解した…かもしれない。 「………ごめん」 「あ、謝ってってわけじゃないのよ??」 「怒ってるんじゃなくってさ。おせっかいかもしれないけど、俺たち心配してるんだ、ハルのこと」 「…………」 「あー…ハルは結局、真面目に考えすぎなのかもな」 「そっかぁ。どうすればいいかな。あっ如月先生みたいにとかは?」 「如月先生?」 「うん、如月先生って優しくって誰にでも明るく話し掛けるじゃない?」 「いっつもニコニコ顔だよね」 「いや、いきなり如月先生レベルは難しいだろ?」 「とにかく石蕗くんがお友達いーっぱいになれば、万事オッケィってことだよね」 「……そうか」 「えっもうチャイム鳴っちゃったよ」 「そんなにお話してた?」 「席にもどるもどる〜っ」 「あの、深道っ!」 「……何?」 「ごめん、さっき」 「それって私の方が言わなきゃいけないんだから」 「だから、そーいう時に黙るなってば」 「――ふう」 旧校舎の裏側――そこは日当たりは少し悪いけど、誰もこなくて静かな場所。 なんとなく、俺のお気に入りの場所だ。 放課後、ほんのちょっとそこで本を読んだり、何もせずぼんやりするのが好きだった。 『それなのにさ、石蕗ってぜっんぜん打ち解けてないだろ?』 「そう、なのかな」 新しいクラスになって、クラスメイトはほとんど入れ替わった。 だからといって、誰とも喋ってないつもりはないんだけど……。 「……うーん」 正直、よくわからなかった。 でも圭介たちが心配してくれてたのは事実だ。 もうみんなクラブに行ってるだろうから、明日もっと話してみよう…かな。 「ん?」 「……ひゃあっ!!」 「おわっ」 校舎の影から突然現れた人影。 頭ふたつぶん低いその顔には見覚えがあった。 名前順でも身長順でも、クラスで一番前になるんだって、圭介が言ってた子だ。 「…あ………」 「秋姫すもも?」 「えっ、ど…どして?? えっ、あっ、きゃあっ!!」 「――わっ」 「あ…あ………」 「……つ、つめて…」 秋姫の持っていたジョウロが、地面にころころと転がっている。 そして、たぶんその中になみなみと溢れていた水は――……俺の半身をビシャビシャにしてくれた。 「あ…あの…う…つ、つわ……う」 「………水が…」 「あ、あの…ご…ごめ…」 「……もういいよ」 真っ赤な顔をして立ち尽くす秋姫を見ていたら、俺はそれ以上何も言えなかった。 「ジョウロ、落としただろ」 「―――っ」 「ええっ!?」 「……ふっえぐっ…」 「な、なんで、おい」 「……うっ」 「――??」 「――すもも!」 「ふぇ…あ…ナコちゃ……」 「どうしたの、すもも」 「……八重野?」 ショベルを片手に駆け寄ってきたのは、八重野だった。 八重野撫子……俺は一度も話したことはない。 けれどそのクラスメイトは、人の顔を覚えるのが苦手な俺ですらすぐに思い出せる容姿だ。 背が高く、長い髪とよく通る声の持ち主。 だけど、そんなにおしゃべりではない。 「――石蕗」 そして八重野の方も、俺に同じような印象を抱いていると思う。 明らかな敵意以外は――。 「何をしたの」 「えっ?」 「すももが泣いている」 「や、そ、それは――」 「ふぇっ、ナ、ナコちゃ……」 「理由はどうであれ、私は許さないから」 「ちがっ、ナコちゃ……」 「女子を、ましてやすももを泣かせるなんて」 八重野はショベルを持つ手をゆらりと上げる。 その構えは、園芸用のショベルを立派な武器に変身させていた。 「ま、まってナコちゃぁんっ!!」 「覚悟なさい!」 「うわっ! ま、ま、まて、まって……」 「おやおや?」 「――!?」 「おもしろい面子だなぁ」 「如月先生っ」 「いやねえ、なかなか皆が戻ってこないから」 「すみません」 「………?」 間一髪で俺を救ってくれた――らしい声の持ち主は口元に笑みを浮かべ、校舎の影から現れた。 「どうしたのかな? 秋姫さんは泣きべそだし、八重野さんは怒ってる」 「おまけに、石蕗君までいるときた。何の秘密会議なのかな?」 如月先生は生物教師で、俺たちのクラスも担当している。 若く見えるけど、変に落ち着いてる感じも受ける――正直よくわからない人だ。 でも、どうしていきなりここに? 「違います! すももが泣かされていたから……」 「ほう」 「あっ、ち、違うのナコちゃん、わたし」 「どうして泣いていたの? すもも」 「そ…それはわたしがあの…驚いて…で……つ、つわ…」 如月先生と八重野の視線が、地面に転がるジョウロからゆっくり移動した。 ポタポタと水滴を垂らしている、俺の方へと。 「ご、ごめんな…さい……」 「………うう」 「――あるある! 誤解とかね、こういうのよくあること!」 「そういう時はともに汗をかいて解決しようじゃないか」 「さ、いこう皆で! ね?」 「なっ」 如月先生はいきなり俺の腕をつかんだ。 唇をキュッと結んでいた八重野も、まだ少し涙を浮かべていた秋姫も、これには呆然としていた。 「いこういこう、こんなジメジメした所じゃ人間関係も悪化するよ」 「ま、待て、離して……」 「石蕗君は場所わからないだろう?」 「は? な、なんの場所ですか?」 「秋姫さんも八重野さんも、ついてきてるかーい?」 「ま、まってください〜」 如月先生に引きずられる俺の後ろを、不思議そうな面持ちで八重野たちが追いかけてくる。 どこへ向かうのか、何が始まるのか――。 八重野の勘違いひとつから、俺はなんだか大変なことに巻き込まれたような気がした。 「ここは……?」 いきなり連れてこられた場所は、俺が休んでたところから更に奥まっていた。 「――…あ」 かなり古そうな小さい噴水と、つつましい花壇らしきもの。 かすかな風にのって、ほんのりと甘い匂いがする。 そしてその向こうには、鳥かごを思わせるような温室があった。 校舎の裏側にこんな場所があるなんて、俺は全く知らなかった。 「ようこそ、我が園芸部自慢の花園へ」 「え…園芸部?」 「そう。小さいけどなかなか立派でしょう?」 「特にあのくちなしなんかは、秋姫さんがよーく手入れしてくれてるから、こんなにいい香りなんだよ」 如月先生が指差した先には、白い花をつけた生垣があった。 「そんな…普通にお手入れしてただけです……」 「いやいや、植物ってのはね〜かけられた愛情には敏感だからね〜」 「………あの」 ここが園芸部の活動場所ということはわかった。 秋姫が…たぶん八重野もだろう、園芸部の部員だってのもなんとなくわかった。 たったひとつわからなかったのは、何故俺がここにいるってことだけだ。 「如月先生、俺は――」 「はい、これ貸してあげよう」 「へ?」 満面の笑みで如月先生が差し出したのは、一組の軍手とスコップだった。 「これは……」 「軍手とスコップ。園芸部基本道具のひとつだよ」 「……お、俺に?」 如月先生はコクンと頷くと、その基本道具とやらを無理やり俺の手の中に押しつけてきた。 「皆して泣いたり怒ったり無愛想な顔してたでしょ? これで万事解決。一緒に花を植えればいい」 「え!?」 「い、一緒……!?」 「と、いうわけで八重野さん、石蕗君をたっぷりこき使ってあげて」 八重野はちらりと俺を見て、かすかにため息をついた。 秋姫はその後ろで、でっかい目を更に見開いてキョロキョロしていた。 俺はというと……ただ立ち尽くすだけ。 頭の中のありとあらゆるものが、一時停止してた。 「わかりました」 「えっ!?」 「はい、じゃあ今日もいい感じによろしく! それじゃ僕は戻るね」 「あっあの、ちょっと……!!」 ……。 如月先生は大きく手を振って、校舎の影へと消えていった。 残されたのは、俺と、八重野と、秋姫。 それぞれスコップを手に、呆然と立ち尽くしていた。 「えっと、俺は何をしたら…いい?」 「え、あ、えっとそのっ……ナ、ナ、ナコちゃん」 明らかに俺、場違いだ。 もともと二人の、しかも仲良しの二人しかいない場所にいる俺は、間違いなく邪魔者だと思う。 「やることないなら――帰るけど」 「ナ、ナコちゃん…どうしたら……いいかな……」 「――石蕗、園芸はしたことがある?」 「ないよ」 「……じゃあ基本をやってもらおうか、すもも」 「あっ、あ…うん…」 秋姫は八重野の後ろに隠れるようにして立っていた。 俺がさっき、少し怒鳴ったからだろう。 ――ちょっと悪かったな。 「あの」 「それじゃ、基本。雑草とりをして」 八重野は一番近くの花壇を指さした。 丸くレンガで囲まれた花壇内には、数種類の花が咲いている。 「花が育つところは、どうしても雑草も生えてくるの」 八重野の後ろで、秋姫がコクコクと頭をふった。 「それを取り除くことが、園芸の一番基本的なことよ」 「……わ、わかった」 それだけ言って、八重野はくるりと俺に背を向けた。 俺は言われたとおりにするしかない。 ともかく花壇のふちにしゃがみこみ、土の中から芽を出す雑草へと手を伸ばした。 「すもも、こっちの花壇元気がないみたいだから、少し土を足そうか」 「あっうん…」 「少し水分が足りないみたいだし…あの土を使おうかな。すもも、一緒に運んでくれる?」 「う、うん」 「ナコちゃん、怒ってる?」 「どうして? すももに怒ることなんて何もないじゃない」 「あ、ううん、わたしのことじゃなくて――あの…」 「……さっき、泣いてたこと?」 「うん、あれはね、本当にわたしのせいなの…だから…怒らないで? ナコちゃん」 「本当に…あの…つ、石蕗くんは――あっ!」 「………ん?」 すとん、と目の前に影が落ちてきた。 顔をあげると、秋姫が三歩向こうに立って俺を見下ろしていた。 「なに?」 「あっ、そ…そこは…」 「ここ?」 「…そこ…あの…」 「……なに?」 「あっ、ごめ…なさい…でもそこ………だ、だめな…」 「そこ!」 「へ!?」 「そこ、どいて!!」 「………??」 八重野の勢いに、俺は思い切りしりもちをついてしまった。 「な、なんだよ?」 秋姫は振り向いたとたんにまた目を潤ませてるし、八重野はまた怒ってる。 …一体、なんなんだ? 「そこは種を植えた場所よ」 柔らかい土の上に残された俺の足跡を、秋姫が見つめている。 秋姫はコクンと頷いた。 けど、看板も何もないところに種が埋まっているなんて……。 「気づかなかった」 「ご、ごめ…ごめ…なさい……」 「別に謝ることないよ」 やばい。 また俺の言い方、悪かったみたいだ。 今日はなんだか――そんなことばっかりだ。 「俺、あっちの方…草取りするよ」 「――はあ」 俺は秋姫と八重野に背を向けた。 しゃがんだ先はもう花壇からは離れている。 だけど…俺はそのままその辺の雑草を、指先で引っこ抜いていった。 「意味ないよな…こんなの」 でも。 俺は顔をあげた。 目の前には、いくつもの整えられた花壇がある。 秋姫と八重野、たった二人だけの園芸部でつくった、花壇。 立ち上がり、振り向くと――。 秋姫はまだあの場所にしゃがみこんでいた。 足跡を消すように、スコップで土をならしている。 俺は立ち上がって、そんな秋姫のもとへ近づいた。 「……あのさ」 「ひゃ、えっえっ?」 「さっきの、踏んでごめん」 「あ、え、えっと…う…は…はい」 秋姫が持つと、一番小さいスコップですら大きく見える。 そんな手で花壇を作っていくなんて、大変だと思う。 俺は同じスコップを、ただ手持ち無沙汰にしていた。 「邪魔ばっかだな」 「そ、そんな…こと」 「いや…だって」 「…俺、何したらいい?」 「あ…ちょ、ちょっと、ま、まってて…くださ…」 「ナコちゃん」 「どうしたの? すもも」 「あの、つ、石蕗くんに手伝ってもらうの……何をお願いしたらいいかな……」 八重野が顔をあげ、俺の方を見つめた。 まるで心の中を見透かすような強い視線だ。 「いや、またさっきみたいにならないようにさ」 八重野の手が何故かとまっていた。 秋姫がそんな八重野の顔を心配そうに覗き込んでいる。 もしかして、あの場所に種を植えたのは、八重野だったのか? 「あのさ……」 「……え?」 「謝る。さっきのこと」 「八重野?」 八重野は何も言わないまま立ち上がり、花壇の脇を通り抜けていった。 さっきのことも、ここに俺がいることも八重野は許せないのかもしれない。 そう思うとますます居辛くなってきた。 「わっ」 俺の視界を、白い何かが突然ふさいだ。 手を伸ばしてみると、ほんの少しも汚れていない一枚のタオルだった。 「それで体をふいて」 「あ、ああ…どうも」 八重野はそれから何も言わず、再び花壇の方にしゃがみこんだ。 「あのさ」 「また失敗しないうちに…手伝えること教えてほしいんだけど」 「……わかった」 「石蕗にはあれを作ってもらう」 「あ、あれ?」 「そう…材料はもうあるから」 「ナ、ナコちゃん?」 八重野は一人、花壇から離れた。 その先にあったのは、小さな倉庫だ。 ポケットから出したカギで扉を開き、八重野は何かを探すように倉庫の中へ頭をつっこんだ。 「よし、そろってる」 振り返ったその両手には、古いホースやいろんなガラクタがめいっぱい抱えられていた。 「……??」 「ナコちゃん、これって…もしかして……」 「ほら、すももが前から欲しいっていってたから、作ろうと思ってね」 「ほんと!?」 「ええ。材料になりそうなものをいろいろわけてもらったのよ」 「わあ、ナコちゃん、ありがとう!!」 秋姫はよっぽど嬉しかったのか、今日俺が耳にしたどの時よりも大きな声だった。 だけど、どうしてそんなに嬉しいんだろ? 地面に転がっているのは、どう見てもガラクタばかりだ。 「コレ、何の材料?」 「お手製のスプリンクラーなのっ! って、あ、ご、ごめんな…さい」 「スプリンクラー?」 「ええ、スプリンクラーよ」 「これ」 八重野が指差したのは、ガラクタの中でも一番不思議な形をしていた。 何かの部品の一部に見えるけど……。 まるで羽根のない扇風機の骨組みが横たわってるみたいだ。 「これがスプリンクラー本体」 「へえ…初めて見たな」 「これをホースでつなぎ、花壇の真中に設置すれば完成」 「うん」 「はい」 八重野は俺の目の前にいきなり左手をつきだし、握っていた拳を開いた。 「は…い?」 細くて長い指の間から現れたのは、十数本のネジだった。 「えっと、それ…何?」 「石蕗の仕事。このネジはスプリンクラーとホースを固定するもの。説明書はないわ」 「ええっ?」 「予算が少ないから」 言葉を返す前に、八重野は俺の手にそのネジを押し付けてくる。 不揃いな形のネジが手のひらにいっぱいになる。 ……俺の心の中も、不安でいっぱいだ。 「よし、じゃあアレは石蕗にまかせておいて」 「えっ…えっ、でも……」 「すももがほら…ちょっと心配してた花壇を整えようか?」 「う…うん」 おろおろと頭を振ってる秋姫の手を引いて、八重野はさっさと噴水の横の花壇へと向かった。 俺に残されたのは、見た事もない部品とネジと、それを組み立てろという仕事。 「……やるか」 俺は地面に腰をおろし、スプリンクラーの部品を目の前に並べた。 ここからは手探り。ネジの一つ一つの大きさとか、見ていかなきゃいけない。 「よし」 「ふうっ」 思わずこぼれたため息は、熱をもってノドを通り抜けていった。 「――んっ?」 地面へと手を伸ばして、気づいた。 さっきまで転がっていたネジが、なくなっている。 「お、できた?」 集中していたせいだろうか、俺は気づかなかった。 スプリンクラーはちゃんと出来上がっていたのだ。 「説明書なくても、作れるもんなんだ……んっ」 「げほっ」 「ねえナコちゃん、わたし…ちょっと飲み物買ってこようかな」 「どうしたの? すもも、ノド渇いたの?」 「ううん、そうじゃないの」 「……私は大丈夫よ?」 「あのほら…石蕗くん…ほらっ、手伝ってもらってるし、なんだか疲れてるっぽいから」 「――確かに疲れてるわね」 「えっ、えっ?」 「石蕗」 「水分補給、してきたら?」 「屋外での活動は、そういうこと気をつけるのよ」 「……あ」 スプリンクラーの組み立てに夢中になっていて、自分でも気づかなかった。 いつのまにか、額から頬まで汗が流れてる。 八重野の言うとおり、ノドはからからだった。 「わかった」 「ここからだったら……購買部の自販機が一番近いかな」 いつの間にこんなに時間、たったんだろう? 立ち上がって空を仰いだら、校舎の向こうはもう夕焼け色だった。 「秋姫たちは?」 「えっ、あの、い…いいです、は、はい」 秋姫は両手と頭を思いっきり左右にふった。 隣に立っている八重野も、無言で首をふっている。 「そっか」 「あ、スプリンクラー組み立てられたよ」 「わかった。ご苦労様」 苦労した割には、そっけない返事だな……。 でも八重野はいつもそんな感じだし、それが普通の返事なのかもしれない。 「じゃあ」 そうしているうちにもノドはますます渇いている。 俺は指先の泥を払い落とし、校舎へと向かった。 「ふう」 ……ああ、気持ちいい。 自販機から取り出したジュース缶はよく冷えていた。 手に持っているだけで充分癒される。 「園芸部って結構ハードだな」 腕や額に触れたら、日焼けまでとはいかないけど少し火照ってる。 今までは園芸部っていうと、花に水をやってるイメージしかなかったけど……それだけじゃないみたいだ。 「わ、わ、わぁあああっ」 「ああっ!?」 「あ、あぶ…わわわわ!!」 「――っいてて」 「………うぅ」 「なんだ?」 「……す、すみませんっすみません、急いでいたもので……ごめんなさい」 「あんた……」 目の前を飛んでいた星が消えたとたん、俺は信じられないものを見た。 「一体……それ……」 顔を覆い隠すような、でかいマスクも気になった。 気になったけど、それどころじゃないものが俺の目に映っている。 「それ?」 まだ廊下にへたりこんでいるその男の頭を指差した。 ずれた帽子の下から覗く、ちょこんと尖った三角形のものを――。 「――ハッ!!」 「それ…なに?」 「ちっちっちがいっちがいまっ――」 「……もしかして……みみ?」 「あっうっ……コ……」 「こ?」 「コスプレです、た、ただのコスプレですっ!!」 「………はぁ?」 「あっ、こ、こここれ、貴方様が落とされたものですよねっ」 男は廊下に転がっていた缶を拾いあげ、俺の手にギュッと押し付けてくる。 それから、ソイツ自身も持っていたらしい缶を慌てて拾い集めていた。 「あ、手伝……」 「やっ、結構です、ほんっとにありがとうございます!!」 「し、失礼しました、あとこれは何でもありませんからね!」 「………お、おい」 片手で缶を抱え、もう片方の手で帽子をおさえ――男はフラフラと再びどこかへと駆け出していく。 「なんだったんだ?」 制服も着ていなかったし、教師って感じでもなかった。 おまけにコスプレ? 「アイツ、一体何者なんだ?」 廊下の向こうへと消えていった影が、答えるはずもない。 「ま、いっか」 「……あ。ぬるくなってる?」 「誰だ、廊下にゴミを捨てていったのは! 全く常識のない……」 「可愛いね〜。名前とかってあるのかなぁ」 ――――ハッ!! 「あなたって…羊さん、かな? ふふ、なでなで」 ……これが、現実? 「今日はわたしのお家に一緒に帰ろうね。明日からはちゃんと元の持ち主も探してあげるからね!」 俺を…たぶんこれが夢でなければ…俺を連れまわしてるのは、秋姫だ。 俺より、いやクラスの誰よりも小さい秋姫の手に、なんで俺が? 「すぐ戻ってくるから待っててね、ぬいぐるみちゃん」 ……お、おい、また俺、一人になるのか? 「えっと…用具入れのカギ閉めはナコちゃんがやってくれたし、あとは今日の報告を一緒にして…うん、それだけね」 ……やっぱり夢じゃない。 ……ちゃんと話、続いてるよ……。 「そういえば、石蕗くん……戻ってこない……やっぱり…いきなり手伝いなんかいやだったのかなぁ…」 い、いや、俺ここにいるから!! ここにいるんだってば!! 「じゃあね、ぬいぐるみちゃん」 ……どうやら俺の声は、全然届いてないようだ。 手足もうまく動かないし、声だって出てないのかもしれない。 いやそんなことより。 俺、本当にぬいぐるみになってるのか? どうして、なんで――夢じゃなくて? ―――誰か来た! 「――なんだかおかしな気配だな」 「こんな匂いを感じるなんて……何かあったのか?」 「ここだ」 ――如月…先生か? ――え? 「困ったことになりましたね」 ――ええっ? 如月先生は俺のことに気づいた!? 「一緒に行きましょう」 ――!? ……ここって……。 あたりをぐるりと囲む、怪しすぎるものたちの山、山、山。 たぶんここは、生物室の横にある教諭室。 如月先生の部屋ってことになるんだけど……。 「星の巡りというものが、これほどにも不思議だとは――」 「僕はあまり…運命などを信じないタイプなんだがね」 「こうして目の当たりにすると、そうも言ってはいられなくなるな」 ……な、何を言ってるんだ? 「さて……石蕗君」 ………!! ………どうしてわかったんだ? 俺が、俺だってことを――……。 「ちょっと待ってなさい」 如月先生はいつものように笑みを浮かべ、部屋の奥の棚に手をのばした。 「えーっと、これだったかな」 やたら大きな気泡が浮かんだ、原色の液体の瓶詰め。 ワケのわからないものだらけのこの部屋の中でも、如月先生が手にしているのは一番不気味な代物だ。 ……で、それ、どうするつもりなんだろう? 「大さじ三杯…よし、間違いないな」 如月先生はその液体をスプーンですくいだし、俺の方を見る。 そして今にも零れ落ちそうなあやしい液体は、そのまま俺の頭上へとかざされた。 ……ちょ、ちょっとまて? 「はい、痛くないからね〜」 …――ちょ、ちょっとまてぇええ! 「――ぇえええ」 「はい成功っ」 「………え?」 「声。もう普通に話せるし、手足の自由もきくはずだよ?」 「あ、あ、ああ…ほんとだ」 「さて、石蕗君」 如月先生は頭をふって、ボサボサとした横髪を払った。 たぶんそれはクセなんだろうけど……なんだか気取りすぎって感じがする。 「道に落ちてるもの食べたり飲んだりしてない?」 「君がそんな姿になってしまった原因なのだけどね…多分、普通じゃないものを体の中に取り込んだからなんだ」 「……そんな…あ!」 記憶が途切れる一瞬前――そうだ、あの怪しい奴とぶつかった時だ。 相手も俺も、ジュースの缶を持ってた。 あの時、俺も怪しい奴も慌てて……。 「あの時のジュース……」 「なんだ、身に覚えあるんじゃないか」 たったひとつ、今日の出来事のなかでひとつだけあったおかしなこと。 俺とあの怪しい奴の缶が、廊下に落とした時に入れ替わっていたとしたら――? 「廊下でヘンな耳の生えた男とぶつかって…俺、その時ジュースを持ってて…相手も同じような缶を持ってたみたいで…」 「あ〜じゃあそれが、フィグラーレのモノか」 「フィ…?」 「はい深呼吸〜、ふぅ〜っ」 ……まさか、俺、バカにされてるんだろうか。 それか、ものすごく長くてリアルな悪夢でも見てるんだろうか、俺。 頬をつねってみたくても、感じるのは柔らかな布の手触りだけだ。 「――悪夢だ」 「まぁ、そう落ち込まずに! さてわかりやすく説明するとしますかねえ」 「まずはこの世界、簡単に言うと君や、君の友達が毎日を過ごしているこの場所のことね、ここをレトロシェーナと僕たちは呼んでいるんだ」 「は? へ?」 「そして、空を境にしてこのレトロシェーナの反対側に、鏡の表と裏のように、別の世界があるのだよ」 「そしてそこは…フィグラーレは全てが輝き力に満ち溢れた世界なのさ」 「……あの、如月先生」 「何?」 「その…一体何の話なのか…さっぱり」 「あのねぇ石蕗君。世の中というのは目に見えるものばかりが真実じゃないんだ、時として見えないものも信じる必要があるのだよ?」 「えっ」 「はいコレ真実。君、あきらかにぬいぐるみ」 如月先生が持っていたのは、一枚の鏡だった。 そこに映し出されていたのは――さっき窓に映っていたのと同じ、まるまるとした羊のぬいぐるみ。 俺の姿だ。 「……ぅう」 「……ね? おかしいよね? 常識では考えられないよね?」 「……は…い」 「じゃ話を戻すけど、その常識はずれなことが何故起こったのか? それこそがさっき僕が説明していたことなんだよ」 「フィグラーレという世界には、こちらでは常識的に考えられないことがあたりまえなんだ。例えば何かに変身するだの、空を飛ぶことなんかね」 ――変身? 空を飛ぶ? そんなおとぎ話みたいなこと、信じられるワケない。 でも確かに、俺の体には『信じられないこと』が起こってる。 「ま、難しく考えないでいいよ。この世界でいうところの科学技術や機械なんかが、僕らの世界じゃ違う意味を持ってるってこと? わかる?」 「あの何がなんだかさっぱりわかりません…やっぱり」 「――しぃ」 「えっ? う、うわわっ!?」 うるさいほど話しつづけていた如月先生が、いきなり声をひそめた。 と、同時にその手は俺を掴みあげ、情け容赦なしに棚の奥へと放り投げた。 「……ぅあ!?」 ぐるぐると視界が回転した後に暗闇がやってきた。 おまけに俺の全身をザラザラとイヤな感触がつつみこんだ。 「先生、今日の活動は終わりました」 「はいはい、ご苦労さん」 「カギもここに――」 「はい、カギもちゃんと返却っと……」 「あの…如月先生………石蕗くん、が……その…」 「ああ! そうそう、さっき僕の所に来てね、なんだか急用ができたようで先に帰るって言ってたよ」 「二人にごめんって、あと園芸部はなかなか楽しかったとかも言ってたな」 「ほ、ほんとですか…よかったぁ……」 「さて、もうだいぶ暗くなってきてるよ? そろそろ帰りなさいな」 「大丈夫です、すももはちゃんと送っていきますから」 「いつもごめんね、ナコちゃん」 「ううん、私自転車だし。それにすももを一人で帰すなんて心配だから」 「ありがとう、あっ、そうだ教室に取りにいくものがあるの」 「うむ、二人とも気をつけてね」 「はいっ」 「では、失礼いたしました」 「げほげほっ」 「あれれ…やっぱりこまめに掃除しないとダメだな」 いきなり棚の奥へと放り込まれ、そして引っ張りだされた俺の体――ぬいぐるみ状態だけど――は全身灰色のワタボコリに包まれていた。 「さてさて、どこまで話したっけ?」 「ごほっ…えーっと…世界が二つあるとか、だったような」 「ああ。そうだった、うん。つまり君たちの知らないもうひとつの世界が、この世界の裏側にはあるってことだよ」 「そしてその世界の力が、君がぬいぐるみになってしまった原因」 「……はあ」 「あのさ…ウサギ追いかけたり、亀助けたりしたら、とんでもない世界に行くって話あるでしょ」 「ちょっとした出来事から、異世界に迷い込んじゃうお話ね、あれと一緒。簡単に説明すると」 「か、簡単って」 「まあ今回は君の方が異世界に近づいちゃったんだけど」 「余計にわかりません」 「ん〜、これはもう理解っていうより、慣れて。現実に。ほらほら、人間がぬいぐるみになるなんて異常ってことで」 「……」 信じられないけど、実際今の俺に起きていることを考えると…仕方ない。 そのナントカっていう空の向こうの世界は、あるんだってことにしておこう。 したくないけど、はっきりいって信じられないけど―。 それよりも大事な事を聞かなきゃならない。 普通に喋れて、手足が動かせるようになったからって、問題は解決してない。 手も足も…体のすべてが、やけにフワフワしてる。 「で、俺はずっとこのままですか」 「教えてほしいかい?」 「……はい」 「う〜ん」 ……まさか、もう俺…人間に戻れない? 「効果を中和させる薬があれば戻れます。おまけに僕はそれ、作れちゃうんだな〜」 「ほ、ほんとですか!?」 「ですが。それにはある材料が必要でね〜、これがまたやっかいというか……」 「??」 「こちらの言葉でいうなら…そう『星のしずく』というのが妥当かな?」 なんだか随分と可愛らしい響きの言葉だな。 さっきからそんな言葉の連続で、俺の頭の中はパンクしてしまいそうだ。 「それはどこにあるんですか?」 俺がそう問い掛けた瞬間、如月先生はおもむろに右手を振り上げた。 ピンとたった人差し指が指している場所は――天井。 「空です」 「そ、そ、そら?」 「そう、空から降ってくるんだよ。君も知ってるだろう、この街の別名をさ」 この街。 坂の多くて、繁華街までは少し遠い――圭介たちが言うには『何もないとこ』。 そんな俺たちの街の呼び名って――……。 「世界で一番、星に近い町……?」 「ご名答! それなんだよ。ほら、流れ星がよく落ちてくるだろう?」 観光地らしいものなんて何ひとつない、いや、だからこそなのかもしれない。 確かにこの街は他に比べてよく流れ星が見えるって聞いたことがある。 ……世界一かどうかはあやしいけれど。 「星のしずくというのは、この街に降る流れ星のこと」 「流れ星を…取るんですか?!」 「ははは、まるで青春ドラマみたいだ……はは、いや、ごめんごめん。星のしずくってのはね、ただの流れ星とは違うんだよ」 「流れ星に不思議な力がくっついて落ちてくるっていう方がわかりやすいかな」 如月先生は左手をあげ、斜めにすばやく振り下ろした。 しずくの落ちてくる様子をジェスチャーしているみたいだ。 「星のしずくはこっちの世界でいうところの液体状のものでね。呼び合うように水のある場所に落ちてくる」 「……それをどうすればいいんですか、俺は」 「せっかちだな石蕗君。じゃあ結論から話そうか? すくいあげればいいんだよ」 「すくいあげる? ……どうやって?」 「ふふふ、ここからが本題だからね」 「げほ…うわ…本気で掃除しないといかんな……」 さっきのホコリだらけの棚に頭をつっこんで、如月先生は何かを探している。 もうもうと舞い上がるホコリは、煙みたいに部屋中に充満した。 「ふう、これこれ」 体中にまとわりついたホコリをはらいのけ、如月先生は一度背伸びをした。 そして振り返り……何かをにぎりしめている拳を前に差し出した。 「………スピリオ・ローザブロッサム」 「な、なんだ!?」 如月先生が小さな声で何かを呟いた瞬間、目の前が真っ白になった。 そしてもう一度目を開けた時。 俺はまた信じられないものを見た。 「それは一体――何ですか」 さっきまで、さっきまで如月先生は何かを手の中に握り締めていた。 すっぽり拳の中に隠れてしまうような何かを。 けど今、その手にあるものは……長い杖のようなものだった。 「正式名称はね、レードル。これでしか星のしずくはすくえません。ほら先っちょがスプーンみたいになってるでしょ」 「や…じゃなくて、それ……今いきなり…光って、出てきて」 「ははは、もう素直に信じようよ石蕗君。フィグラーレではこれは何でもないこと、そういう技術なの」 「ほら、リモコンでテレビのチャンネルが変わるみたいにさ」 「…………絶対違うと思う」 それは何かの紋章のような飾りがついていて、たぶん…金属でできているように見える。 どうあっても手のひらに隠れるサイズじゃない。 「説明しろって顔だな。はいはい、これはさっきまで僕の手のひらの中にあった指輪でした」 「指輪…だったのか」 「いくらなんでも、こんな長モノ持ち歩くのは不便だからね。ま、別の役目もあるんだけど…それはまた後で」 「さて、話を戻して……このレードルは星のしずくを集める為に必須なもの、それはわかったね?」 「は…はぁ」 如月先生は心底楽しそうな顔で杖を振り回していた。 ……本当に…大丈夫なんだろうか…。 「夜空を滑って落ちてくる星のしずくを、このレードルですくいあげる。そうだねぇ…君を元に戻すなら……七つは必要かな」 「な、ななつも!?」 「うん。それで元の人間の姿に戻してあげられるよ」 「でも――俺、このままじゃその杖もてませんよ」 「ん? そりゃそうだ。これは君のものじゃない」 「はぁ!?」 せっかく何もかも飲み込もうとしていたのに。 俺の頭はまた、あの微笑みからこぼれる言葉にまどわされるのか? 「レードルは一本一本、持ち主が決まっているんだ」 「……この子の持ち主も、たった一人。運命共同体なんだよ……」 如月先生は可愛がっている子供を抱くみたいに、杖をゆっくりとなでている。 それは今までの冗談じみた仕草じゃなく、本気のようだった。 「そんな、じゃあ…俺は」 「まあまあ、ちゃんとそのレードルのスピニアには会わせてあげるよ」 「すぴに??」 「ステラスピニア。このレードルを使って星のしずくを集めることのできる人のこと。しずくを採ることができるのは彼女たちだけなんだ」 「スピニアはね〜、フィグラーレではすっごいエリート職なんだよ。たっかいたっかい」 如月先生は人差し指と親指で輪をつくっている。 数秒前までのファンタジーな話が吹き飛ぶ仕草だ。 「それってお金が…ってことですか?」 「そうそう。ま、そんなわけでプロフェッショナルなスピニアを紹介するのは無理なんだよね」 「だから、このレードルの持ち主は…こちらの世界の、普通のどこにでもいる女の子だ。君が何かとサポートしてあげなきゃいけない」 「えええっ!?」 「ははは、そんな心配そうな顔しなくても。ちゃーんとマニュアルもあるから安心するっ!」 「……先生、なんでそんな楽しそうなんですか」 「ごめんね、そのビジュアルでする石蕗君のリアクションが面白くて、つい…」 「で。このマニュアルは君と持ち主のレベルによって内容が変わるからね。最初はごくごく簡単なことしか書いていない。見てみるかい?」 「よしよし、だいーぶ前向きになってきたな。いい事だよ」 ……こういうの、前向きって言うんだろうか。 どっちかっていうと、投げやりの方が近いと思う。 どのみち言う通りにする以外、何もわからないし話も進まないんだ。 「今のところ、レシピはこの1ページぶんしかないなぁ」 如月先生がレシピと呼んだ本は教科書くらいの大きさだ。 それでも今の俺には体よりも大きい物だった。 ほとんど上に乗っかるみたいにして、俺はそのページを覗き込んだ。 「ね、ちょっとしか書いてないでしょ」 「……読めません」 「うん、そうだね」 「はい、これ日本語対応表。これ見て理解してね」 「――え、えええ!?」 「はい、じゃあサクっとやり方を解説しておこうか。ほら、図なら君にもわかるだろう。大丈夫大丈夫、いうほど難しいことはないって」 「い、いやっ……」 「さ、始めよう!」 「ハァ〜疲れたぁ〜」 ……それはこっちのセリフだ。 『難しいことはない』って言った後、如月先生は恐ろしいスピードでしゃべりたおした。 時間にして数十分。 やけに長く、そして頭の痛くなる数十分だった。 「……はぁ」 「いやぁ人に物事教えるってのは疲れるな〜。ちょっと一息いれよ」 「あ、今さっき僕が言ったこと、全部スピニアに説明してあげてね」 「は……ぜ、ぜんぶ?」 「ちょっと待ってください、全部俺が説明するんですか? その杖の持ち主ってほんっとに何も知らないんですか?」 「だーかーら、今細かく説明したでしょうが。このレードルの持ち主は、普通の女の子。何も知らないから、説明するのは、君の役目」 ……できるか? ……ほんとにできるのか? あんな長ったらしい解説を、何も知らない誰かに説明できるのか? というか、そもそもこの姿で説明するのか?! 「ふんふふ〜」 如月先生は俺に背を向け、奥の机で何かを書いている。 その顔がどんな表情なのかは、俺には窺い知れなかった。 「……ふう。こんなもんでいいかなぁ」 再び振り返った如月先生は心底楽しそうに笑っていた。 まるでダンスのステップを踏むように、俺の乗っているテーブルまで跳ね飛んでくる。 さっきからずっとそうだけど、何がそんなに楽しいんだろうか……。 「はいっと、これで万事オッケー。必ずうまくいくよ」 「ふふふ、これからの君の行く末に幸福あれって……おまじないだよ」 如月先生は何かを俺の体にくくりつけた。 ほんの少し触れる感触だと、それは紙のようだ。 「さてさて、そろそろレードルも元に戻してっと」 大きく弧を描いて振られた後、杖は再び姿を変えた。 如月先生の手の中に、ころんと赤い石のついた指輪が乗っている。 「ほら。これ結構キレイでしょう?」 「あ、それともう一つ、君が実は人間で、正体が石蕗君だってことは他の人達にはバレないようにした方がいい」 「バレたら多分、もう人間に戻れない。もっとシンプルに言うとホントのぬいぐるみになっちゃうから」 「そんな危険なものなんですか?! その、フィなんとかのジュースは!」 「うーん、ジュースじゃなくて、多分君が飲んだのはフィグラーレの人間用の変身薬なんだよね。こっちの人間が摂取すると副作用が出るんだよ」 「はぁあ!?」 「えーっと、説明はこれで抜けなかったかなぁ」 「如月先生……」 「いやー、今日は良く晴れた夜空だ。なかなかいい門出だよ石蕗君」 「さ、お前の主のいる場所へきちんと石蕗君を導くんだよ?」 例の指輪が俺の体に添えられる。 背中ごしに、石からはかすかな振動が伝わってきた。 まるで生きてるみたいに――そんなはず、ないんだけれど。 「あ…せ、先生……」 如月先生はニコリと微笑んで、俺の体をぐっと握り締めた。 今の俺の体じゃ、細いその手のひらにすらすっぽり納まってしまう。 「最後に一つだけ教えてください、先生って一体何者な――…」 「じゃあ、いってらっしゃい石蕗君」 更にその指の狭間から見えたのは、長い棒を持っているもう片方の手。 「こ、これは……この構えって……」 「君の運命を握る女の子のもとへ――」 「――――うっ」 予想通り、というか…それしかないだろうって感じで……。 如月先生はバットをフルスィングするポーズをとった。 「――ぁあああああっ!?」 「ハハハハ」 「よいしょ…」 「今日も星がすごくいっぱい…」 「……きれいだなあ」 「あああああぁ―――っ」 「……へっ?」 「ぁぁあああ!!」 「きゃああっ!?」 「い…たたたっ」 「――――……!?」 「ぬいぐるみちゃん!!」 「あ、あき――……」 秋姫、と叫びそうになった声を俺は死ぬ気で飲み込んだ。 そうだ……正体がバレちゃいけないんだった。 「びっくりしたぁ」 ……しまった。 聞くの忘れてたけど……声は、俺のままなんだろうか。 もしも俺のままなら。 クラスメイトだしいくらなんでもバレるんじゃ――!? 「今日帰りに教室寄った時にいなくなっちゃってたから、もう会えないと思ってたよ?」 っていうか、その前に…例の杖が選んだってのが、なんで秋姫なんだ? 少し大きな声を出しただけで、怖がって八重野の後ろに隠れてた秋姫なのに、いきなり人形が話し出したりなんかしたら…最悪、気絶してしまうかもしれない。 「まさか空から降ってくるとは思わなかったけど……あれ?」 如月先生が俺にくくりつけたものは、封筒のようだった。 秋姫はそっと封を切り、中身に目を通している。 そういえばあれ…幸福のおまじない…とか言ってたな。 しかし今までのことを考えると、なんだか素直に信じられない。 ……どうしよう、説明……。 「――ふえ」 「ふえ?」 「ぇえええん!! か、かわいそう……」 「……!?」 「ふぇっ、ええん…そんな…お家に帰れないなんて…ふぇっ」 「う…うちに帰れない??」 「ふぇ、ううっ」 「ちょ…なんで泣くの? か、帰れないって…え!?」 秋姫はコクコクと頷いている。 そしてこぼれる涙を手の甲でぬぐいながら、さっきの手紙を指差した。 「手紙?」 俺は秋姫の手もとに置かれた手紙を覗き込んだ。 すこし右上がりの特徴のある文字は、間違いなく如月先生のものだ。 『さっきも会ったね! ボク、ちょっと不思議なぬいぐるみ。わけあってお家に帰れなくて困ってます』 『ボクがぬいぐるみの国に戻るには、きみの力が必要なんです』 『なんでもするので、もしよかったらボクをお家においてください(泣)』 ――な!? ――なんだよ、この手紙は!? なんでもする、なんて! いやそれよりも『かっこ・なき』って、そんなバカみたいな書き方…如月……!! 「え‐…とその…」 「わぁ、しゃべった! 動いてる! すごぉい! 本当に不思議なぬいぐるみちゃんだ!」 「あ…うん…で、この声…俺の声って…聞き覚えとか、ある?」 やっぱり声は変わってないのか? 「こら! おれなんて言葉使っちゃいけません」 「……………へ?」 「今、おれのって言ったよね?」 「は、はぁ」 「お家に帰れないからって、そんな風にやさぐれちゃだめ!」 「や…やさぐれ…」 「わたし、ぬいぐるみちゃんがお家に戻れるように頑張るから、ね?」 秋姫はどうやら、でっちあげの手紙をすっかり信じているみたいだ。 偽るにしてもちょっとやりすぎだと思うほどの、ストーリーを。 「わたしの力が必要って、どういうことかな?」 「ええっと…俺、うまく説明できるか……」 「ボ・ク!! でしょ? ほら、手紙にはそう書いてあるよ?」 「え…ボ、ボク……」 「あっ!」 「うっかりしてたわ。ねぇ、お名前は?」 「……え、あの」 これは予想外な質問だ。 まさか俺自身の名前を言うわけにもいかないし…とっさに偽名なんて思いつかない。 ど…どうすればいい…? 「わたしはね、秋姫すもも。ぬいぐるみちゃんのお名前も教えて?」 「な……ない……」 「名前なんて…ない…」 「ごめんね、ごめんね…わ…わたし……」 「……へ? な、ちょっ……」 「名前ない…なんて…何かわけ…あるんだよね…ひくっ…」 「……ふえっ………そ…そうだ!」 さっきから泣き出したかと思えば、急に笑ったり。 一体なんだっていうんだ? 秋姫って、こんな感じ……だったか? 「ぬいぐるみちゃん、わたしが名前つけてあげる!」 「どうしようかなぁ」 「……うわわっ」 秋姫は俺を……いや、ぬいぐるみな俺を両手で持ち上げた。 俺なんかの半分くらいしかない手だったけど、小さなぬいぐるみを包み込むには充分だ。 「白くて、ふわふわで、ちっちゃくて………」 「……や、やめ……」 「うん! 決めた!!」 「ユキちゃん」 「ゆ!?」 「今からきみは、ユキちゃんだよ!」 ………ユキちゃん? ………俺が、ユキちゃん? 「いや……かな」 「ユキ…ちゃ…なんで俺が……」 「あ、ほらまた! ボクでしょ、ユキちゃん」 ……もうだめだ、秋姫はすでにその名前で俺を呼んでいる。 ……回避は無理なようだ。 「ねえ、ユキちゃん」 ……ユキちゃん。 仕方ない、この姿の俺は…ユキちゃん…だ。 ユキちゃん…なんだ。 「ユキちゃん♪」 頑張れ…俺……。 「え、えっと…それでその…俺が戻るには」 「ボク」 秋姫、チェック厳しいな。 教室で見るのと全然違う。 家にいるせいかもしれないけど、本当に何もかも、俺の知ってる秋姫じゃない。 ……って言っても、俺、秋姫のこと何も知らないよな。 「……ボ、ボクが」 「うんうん」 「戻るためには、星のしずく、というのがいる」 「星のしずく?」 「えーっと…不思議な力のもと? か…な」 「ユキちゃんをお家に戻してあげるには、それが必要なのね!!」 こんな突拍子もない話なのに、秋姫はすんなりと納得してるみたいだ。 それどころか、俺の方へと前のめりになってきてる気もする。 「で、それは…その…空から落ちてくる」 「そ、空から?!?」 「うん。流れ星みたいに」 「流れ星みたいに落ちてくる…だから星のしずく、なんだね。キレイな名前」 「き、きれい……?」 「うん! なんだかおとぎ話みたいね」 この話を聞かされた時、俺もそう思ったけど――。 秋姫はもっとイイ話っぽく感じてるようだ。 「そのしずくを集められるのは、選ばれた人だけなんだ」 「選ばれた人…そ、それって」 「わ、わたしのこと!?」 「うん…なんか…そうみたいだよ」 「そう…なんだ……うん、わたしにできることなら、なんでもするよ?」 「……あ、ありがと」 「うん! それで星のしずくってどうやって採るの?」 「あ、そ、そうだ」 俺は背中に結わえつけられていた指輪を下ろした。 付いてる石が大きいせいで、今の俺が持ち運ぶのには一苦労だ。 「わっ、真っ赤な石。キレイだね」 ……ちゃんと思い出せ、思い出すんだ。 まずは深く息を吸い込んで――。 俺はあの数十分にも渡る如月先生の演説を思い出した。 『まず星のしずくの探索。これは指輪の状態の時に夜空へかざすだけでいい。もしもしずくが落ちてきそうなら、光って教えてくれるから』 「ま、まず。指輪を空に向けるんだ」 「わかった、これを…空に向けるのね」 秋姫は慣れない手つきで指輪を通した。 小さな手にはめられているからか、指輪の赤い石はいっそう大きく見える。 「星のしずくが落ちてきそうなら、光るから」 「それって落ちてくる場所を教えてくれるの?」 「……えっと、うん」 「じゃあ早速ためしてみよう!」 「だって、どんな風になるか見てみないとわからないんだもん」 「そりゃそうだろうけど――……」 俺が不安でいっぱいなのとは逆に、秋姫の目はきらきらと輝いている。 秋姫、放課後とは大違いだ。 俺に水をかけて、大慌てで謝っていたことがなんだかずいぶん昔のことに思えて仕方ない。 あれは今日の出来事――だったんだよな? 「指輪を空にかざしてみるんだよね」 「そう」 秋姫は出窓のカギをはずして、大きく開いた。 微かな夜風はまだ少しだけ冷たく、カーテンをふわりとふくらませる。 「ユキちゃん、外、見える?」 よく晴れた夜空だった。 真っ黒な布の上に砂をばらまいたように、星々が広がっている。 「じゃあ、やってみるね」 秋姫は深呼吸をしてから、指輪をはめた右手をあげた。 まっすぐ、空に向かって伸びる秋姫の腕。 「………あれ?」 「何も…起こらない…」 「…な、なんでだろう? わたし、間違えちゃったかな?」 秋姫は突き出したままの手を下ろせず、おろおろと俺と自分の指先を見ている。 「ちょ、ちょっと待って」 ……指輪がちゃんと機能していないときは? 「…マニュアル! そうだ、本! 本はどこいった?」 「本…?」 すっかり忘れてた。 大事な物なのに……。 まさかここまで飛ばされてる途中に、落っことしたりしてないだろうか。 「ど、どうしよう…あれ?」 「本…ユキちゃんの本って……あ、これかな?」 「それ!」 例の本は無造作に床に転がっていた。。 きっと窓から飛び込んで来た時に落ちたんだろう。 「よかったね、ユキちゃん。はい」 「あ、ありがとう」 俺は必死でページをめくり、文字対応表に照らし合わせた。 「ええ―……ない、ない!!」 しかしそんなこと…指輪の反応がない時…なんてどこにも載ってない。 そうだ、この本は取り扱い説明書じゃない。 おまけに使う人間のレベルに合わせて内容が変わるって言われたような…。 「…………どうしよう」 「ね、ねえユキちゃん。わたし思うんだけど、『星のしずく』って毎晩降り注いでくるものなの?」 「………ち、違うのかな」 「なんとなく…貴重なものみたいだし…もしかしたら時々しか落ちてこないのかも」 「そう言われれば…そうかもしれない」 「だとしたら…今日は落ちてこない日、なのかも」 「そ、そう…みたい……かも…」 「ちょっと残念」 秋姫は窓をしめて、大きくため息をついた。 右手の指輪をそっと撫でてる後姿は、本当に残念そうだ。 「じゃあ、実践はあとにして――次はどうすればいいか教えて?」 えっと、確か……。 『次。しずくは必ず水のある場所へ落ちる。落ちた場所にたどり着いたら指輪をレードルへと変化させてからが本番だ。ほら、ここに図があるでしょう』 ……図? ……あ、そうだ。 あの本の1ページめに描いてあった簡単な絵を、如月先生はしきりに指差していた。 「……えーと続きは…この中に描いてある図を見てほしいんだ」 「うんっ」 秋姫は本に手をかけて覗き込んでいる。 今の俺にとっては巨大な一冊、だが秋姫には普通の大きさだった。 「わ、なんだろうこの文字。ユキちゃんは読めるの?」 「んー…いや、少しだけ……」 「すごいね! あ、図ってこれのことかな?」 「これは…水たまりか池の絵かなぁ」 丸い楕円を水たまりに見立てて、そこへと落ちてゆく雫。 まるで子供の落書きみたく、線で描かれただけの簡単な絵だ。 秋姫と一緒に図を見つめ、俺は続けた。 『この通り、しずくの落ちた水面にレードルをかざし、分離の言葉をとなえる』 「星のしずくは、水のある場所へ落ちてくる。その場所にいったら、杖をもち……」 「もしかして、この線みたいなのが杖?」 「そうだ、うん。指輪が杖になるんだった。そしてその杖を水面にかざして……」 「かざして?」 『んで。水中のしずくは分離の言葉にひきよせられるから、そこを上手にレードルですくいあげるんだよ?』 『まぁこれは君じゃなくスピニアの腕次第なんだけどね。手早くやらないと、水と融合してしまうから気をつけて』 「分離の言葉をとなえて、杖で星のしずくをすくいあげる」 「すくいあげる…難しそうね」 「で。水の中に落ちた星のしずくは、すぐにすくいあげなきゃいけないんだ。じゃないと、水と融合してしまうから」 「それって、ただの水になっちゃうってことだよね?」 「うーん…た、たぶん……」 「じゃ、素早くやらなきゃいけないんだよね…」 「で、できそう?」 「う、うん…頑張る」 もしかしたら、秋姫って運動は苦手なんだろうか? ちょっとばかり不安がまじった笑顔を見ると、なんだかそう思えて仕方ない。 「えっ、な、なに」 「星のしずくの採り方の続き、教えて?」 「あ、そうだった、ごめん」 秋姫よりも俺の方が、この不思議な出来事にまだなじんでないようだ。 『すくいあげたら、何でもいいから瓶につめておく』 『この時忘れちゃいけないのは、必ずスピニアがフタを閉めること! でないとしずくは消えてしまうから』 「星のしずくをすくったら、必ず瓶につめること」 「ふむふむ。瓶につめる…わかった」 「その時の注意は必ず瓶のフタをあき……」 ――あ、やばい。 今、俺は『ユキちゃん』なんだっけ。 秋姫のこと、なんて呼べばいいんだろう。 「ユキちゃん? どうしたの?」 「あ…う……」 「ユキちゃん!? 苦しいの? えっえっ、どうしよっ!?」 秋姫の大きな目が、今にもこぼれそうだ。 黙ってると今度は心配されてしまう――ってことは、話し続けてないとダメなのか? 「ユキちゃん?」 ……仕方ない、名前でいこう。 「えっと、瓶のフタは必ず…す、すも…もが閉めること」 「はい! わたしがフタをしめるんだね」 「うん…」 「………あの…ボ、ボクがした話、信じてくれるの」 「どうして?」 「だってこんなの、突拍子もなくて、ワケわからなくって」 「確かにすごく不思議で、信じられないようなことだけど……」 「わたし、信じるよ! ユキちゃんの話。だって、不思議なことって本当にあるもの……わたし…」 「う、ううん、何でもない! ねえ、この指輪が、杖になるんだよね?」 「………そうだけど」 「それってまるで、魔法みたいだね!」 「だって、ほら…昔話に出てくる魔法使いとか、みんな杖持ってるでしょ?」 秋姫は夢でも見てるみたいに、うっとりと指輪を見つめ――その手を握り締めた。 「わたしにもそういうの、できたら――…」 「な…なんだ?」 「きゃ、きゃあっ!!」 頬杖をついていた手を、秋姫はふとあごから離す。 変化はそんな何気ない仕草と一緒に、始まった。 「な、なんだ、この音」 「指輪…指輪が鳴ってる……」 「――だんだん、大きくなってきてる」 「きゃああっ」 「だ、だ、だいじょう……」 指輪は一度眩く光り、強くまっすぐな光線を放った。 それは閉じた出窓のガラスすらも突き抜けて、遠くを示している。 「これが――」 「この光が、しずくが落ちてくる場所を教えてくれるの?」 その先にある場所に、星のしずくは落ちてくる。 信じられないような光景だった。 けど、如月先生の言ったとおりの光景でもあった。 「行こう、ユキちゃん」 「ちょ、ちょっと待って、ま、まだ説明だって途中なのに」 「そうだけど…はやく行かないと、星のしずくがお水になっちゃうんでしょ?」 「そりゃ…そうみたい…だけど」 「でも準備は一応、しとかなきゃね」 秋姫は俺の言う事なんか耳に入っていない。 「えと、あっこれとこれは一応持ってくね」 「これ、ペンライト。お父さんがお部屋に置いときなさいってくれたの」 引き出しから取り出したペンライトを、秋姫はポケットの奥深くへと押し込んだ。 「えと、えとバンソコと…これ、これもいる」 「あ、飴玉はいらないだろ?」 「ううん、これは…これはいるの」 「これは特別なの…」 「特別?」 「きゃっ」 指輪は何かに反応するように、また強く光っている。 あれこれとポケットに詰め込んでいた秋姫も、その光には驚いていた。 「早く行かなきゃ!」 「わかった、行こう!」 「頑張るから、わたしユキちゃんのために!」 「……ん?」 「……あ、あれ?」 ――先に走り出したはずなのに。 数秒もたたないうちに、俺は秋姫の背中を見ていた。 「……すもも」 「ユキちゃんはここに。落っこちないようにちゃんと掴まっててね」 「わ、わかった」 ……自分がぬいぐるみってこと、忘れてた。 簡単に掴みあげられ、ちょこんと肩に乗ることができるってことも。 「本はわたしが持っておくね」 「ありがとう」 「……うん、じゃあ……」 「一緒にいこう、ユキちゃん!」 「いこう」 秋姫は俺の手を……。 小さなたよりないぬいぐるみの俺の手を強く握り締めていた。 「……また光った」 「すもも!」 「空を……見て」 「あれが…星のしずくなのかな?」 「わからない」 「急ごう、ユキちゃん」 「が、学校?」 光を追っていた俺たちがたどり着いた先は、学校だった。 しかも光は更に奥を示している。 「学校になんて……落ちるの?」 「わからない、でも水のある場所なら落ちてくるみたいだし……」 「な、なんだ?」 「わ、わからない…もしかしたら、もう近いのかも」 「……かな」 明かりの消えた校舎。 ズラリと並んだ窓ガラスは、闇を吸い取って真っ黒な鏡みたいだ。 「………ユキちゃん」 秋姫は両手で力強く俺を包み込んだ。 そっと覗いた横顔は、緊張した空気がまとわりついている。 「大丈夫?」 「うん、いかなきゃ…うん……ユキちゃん、しっかり掴まっててね」 「ああ」 俺がいつもの体だったら、何か起こっても秋姫を連れて逃げ出すことはできる。 けど今はそうじゃない。 ぬいぐるみの俺ができることは、話しかけることぐらいだ。 「がんばろう」 「――うん」 「こ、ここなの?」 俺と秋姫がたどり着いた場所は、夜の学校の奥――。 そこは園芸部の花壇と温室がある場所だった。 「きゃっ、ま、また――」 「あ…! す、すもも!」 「え? どうしたのユキちゃん」 「あそこ……」 「……!!」 ……信じられない。 きっと俺と同じ気持ちが、秋姫の中にも広がっていたはずだ。 その不思議な光景を見た瞬間、俺も秋姫も声を失ったのだから。 「どうして…ここの噴水…もう古くて……」 秋姫は独り言みたいにぽつりともらした。 まっすぐ噴水を見つめる横顔に、ゆらゆらと光が差し込んでいた。 「あんなに水…でないはずなのに……」 ところどころ塗装のはがれた白い噴水の内側で、水は勢いよく跳ね上がっていた。 舞い散る水滴も、満たされた水面も、ゆらゆらと輝いている。 まるで水底から、七色の光で照らされているように――。 「あそこに――星のしずくが!?」 「うん……だって指輪の光がとまってるもん」 「わわっ!」 突然大きく揺れた水面。 秋姫が立つ場所まで雫をはねて、何かが飛び出した。 「ねえ、今何か跳ね上がったの、見えた?」 「一瞬だけど、小さな光の球みたいなの」 「ごめん、よくわからなかった」 「また水の中に落ちていったけど、あれがきっと星のしずくだと思う」 秋姫はピンと背筋をのばして、大きく息をはいた。 一歩ずつ噴水へと近づいてゆく秋姫。 その肩に乗りながら、俺は色とりどりに輝く水面の底でうごめいているものを見た。 「……あれか」 「………すもも?」 「……えっと…えとえっと…、最初はどうするんだったっけ?」 「えっ!」 「えっと……あ! まずは杖だ」 「そ、そうだった! えと…指輪を…杖にしなきゃ…ね」 「杖に……杖に……しなきゃ……」 「ユ、ユキちゃん! ど、どうすればいいの?」 「指輪を…杖にする方法……!」 「し、しまった」 如月先生は指輪を杖にするとき、何かを囁いていた。 けれど、俺にはその呪文めいた言葉を聞き取れなかった。 わからない、なんて言えなかった。 「ごめん、実は――」 「杖に…ならないと…いけない……んだよね」 「……うわっ」 「――あっ……み、見て! ユキちゃん!!」 「!!」 「杖に…なってる! ねえほら、杖になったよ!!」 「ほんとだ」 「すごい! ほんとに魔法みたい!」 「い、一体どうやったんだ?」 「えっとね、杖にしなきゃって…そう思ってぎゅってしたら、変わったの」 「思った…それが指輪を杖にする方法なのか……」 「今のって、今のってわたしがやったのかな? すごいよぉ」 「わわっ!! ちょっちょっと!」 視界がぐるんとまわって――次の瞬間、俺は秋姫の手の中にいた。 もう片方の手には、あの杖。 秋姫は俺と杖を相手に、ダンスをするようにくるくるまわった。 「ユキちゃん、これってすっごく不思議で、すっごく楽しい!」 「わか、わかった、けどもう…ま、まわるな……」 「あれれ?」 「目…目がまわ……る」 「きゃっ、ごめんねユキちゃん! 大丈夫?」 「――はぁ、はぁ」 「ご、ごめんね」 「おれ…ボクは大丈夫だから、早くしずくを……」 「あっ、そ、そうだ! いけない」 秋姫は杖を持ち、光を放つ噴水のふちに身を乗り出した。 肩に乗っている俺も一緒になって、水中を覗き込む。 「……すごい」 「ここ、深さなんてほんの数十センチしかないはずなのに……」 噴水は外から見ても、たいした深さはないのは明らかだった。 けれど今俺たちが覗いている噴水は、夜の闇と星のしずくの光を飲みこんで、まるで底なんてないように深く見える。 「……ユキちゃん」 「……うん」 秋姫は杖を水面へと、ゆっくり振りおろした。 「まずは……しずくの落ちた水面に杖をかざす……」 「――!!」 「見て、水の中の光…くるくる回りだしたよ!」 『星のしずく』が杖に反応しているのだろうか。 さっきまで浮き沈みを繰り返すだけだった光たちが、円を描きはじめた。 「……コレ…上手にすくえるかなぁ」 「うわああっ」 杖を水中につけたとたんに強い光が弾け、俺たちの視界をうばった。 「ど、どうして? しずく…採れない…よ?」 「な、なに?」 「忘れてた! 言葉、分離の言葉を言ってないからだよ!」 「――あっ! で、でもユキちゃん…」 「わたし…まだその言葉…知らない…よ?」 「ああっ!!」 ――そうだ。その言葉を伝える前に、指輪が反応したんだ。 「ユ、ユキちゃん?」 「ごめん、す、すぐに探すから」 白紙、白紙――…焦ってめくったページはどこもかしこも、何も書いていない。 「どこ…どこだ?」 転びそうになりながら、俺はページをめくり続けた。 こうしている間にも、星のしずくは水に溶けていってしまうのだろう。 どれくらいで消えてしまうのか、わからないから余計に俺の手は震えた。 「――あった!」 「……ユキちゃん、光が弱くなってる!!」 「ま、まって…すぐ、すぐ調べる」 探していたページを開く瞬間まで、俺はすっかり忘れていた。 それが『向こうの言葉』だってことを。 「ちっ、い、急いでるのにっ」 「えっと…この文字は…あ、か、さ…は…ぷ?」 「で、次は……」 俺は急いでページをめくる。 「ユキちゃん、この文字は…ル、だと思う」 「……すもも?」 いつのまにか、秋姫の顔が俺の真上にあった。 必死で読み取っていた文字対応表の上を、秋姫の指がなぞってゆく。 「わたしも一緒に探すよ?」 「ありが…と」 「こういうの、結構得意なの…あ、次はウ…ちがう、ヴかな」 秋姫は俺よりも早く、どんどんあてはまる言葉を見つけ出していった。 「プ・ル・ヴ・ラ・デ・イ、だわ」 「すごいな、すもも!」 「でも、この…文字と文字の隙間は何の意味だろう?」 「うぅーん……そこで文字を区切る、ってことじゃないか?」 「プルヴ・ラ・デイ」 静かに秋姫が口にしたその言葉は、不思議な響きだった。 秋姫は頷き、すっと立ち上がる。 水の中で輝く光に照らされた秋姫の横顔は、きゅっと唇をかみ締めていた。 「プルヴ」 「……きた! 光が…杖に引き寄せられてる!」 「ラ・デイ!」 「――ああっ」 「えっ、あ、まって!」 「な、なんでだ?」 星のしずくは、一度は杖の先に引き寄せられていた。 なのに、秋姫が言葉を叫び終わった瞬間、しずくはいっそう激しくその身を躍らせた。 「あっ、だ、だめ!!」 「――ああっ!!」 「お、落ちちゃった……地面に……」 「…どうしよう」 「う、うーん」 星のしずくが落ちたのは、噴水から少し離れた花壇の中だった。 まだ背の低い花と草しか生えていない、作りかけの花壇だ。 「消えちゃったのかな、星のしずく……さっきまであんなに光ってたのに」 確かにあたりはシンとした、『普通の夜』の闇に包まれている。 あんなに勢いよく出ていた噴水の水も、ひび割れた石の上を静かに流れるばかりだ。 「何が悪かったんだろう? 言われたとおりにしたはずなのに」 俺はもう一度本をめくり、分離の言葉のページを覗いた。 「あっ」 「ごめんね、ユキちゃん…わたしが…おまじない失敗しちゃった…から……」 「違う…ごめん、間違ってたのはおれ…ボクの方だった」 秋姫もしゃがみこみ、俺の前に広げられた本に視線を落とした。 象形文字にしか見えない、うやうやしく飾り枠でくくられた『向こうの世界』の文字。 自分の間違いに気づいたのは、ほんの少し離れてそのページを見た時だった。 「さっき、分離の言葉はなんて言ったっけ?」 「……違う。この言葉は、二つしか単語がないみたいだ」 「二つ……ってことは…プルヴ・ラデイかな」 「うん! それだ!」 「あ、まってユキちゃん。よく見てみて! 最後の一文字だけちょっと小さくない?」 秋姫の持ってきたペンライトは、やっぱり役立った。 ペンライトに照らされた『分離の言葉』の最後の一文字は、確かにやや小さい。 「て…ことは…えっと」 「プルヴ・ラデ…イ…ディ……『プルヴ・ラディ』?」 「す、すもも?」 「当たりよ! ユキちゃん、今この杖…返事をするみたいに震えたもの」 さっきまでの不安げな表情は消えさって、秋姫は微笑んでいた。 「ユキちゃん、もう一度……やってみよう!」 また、秋姫の新しい顔を俺は見た。 素直に頷けてしまうほどの、まっすぐな瞳。 「あ、でも――地面に落ちちゃったんだ」 花壇はほとんど何も咲いていないせいか、そこだけ落とし穴のようだった。 星のしずくの明かりは、ほんの少しも見当たらない。 「……早く分離しないと、ただの水になっちゃうんだよね?」 「ん? 水…水に向かって落ちてくる……!!」 「すもも! 星のしずくは、水に引き寄せられるんだよ!」 「ほ、ほら、今日作ったスプ――……」 しまった! しずく回収に気を取られて、俺は一番大事な約束事を忘れていた。 俺の正体が、石蕗正晴だとバレないようにするってことを。 ……どうやって、うまくこの作戦を秋姫に伝えられるだろう? 「えー…あ、すもも! あれ! あの長いのって何?」 「あれ? あれはスプリンクラーにつながるホースだよ」 「スプリンクラーっていうのは花壇にお水をあげる機械でね、いっせいにたくさんのお水を……水…」 秋姫も俺と同じことに気づいたのだろう。 細いノドがゴクンと音をたてた。 「星のしずく、取れるかも…しれない」 花壇へと伸びるホースの先の蛇口を、秋姫は勢いよくひねった。 数瞬後、花壇の中央でスプリンクラーは動き出した。 噴き出し口が水圧でくるくると回転しながら、水のアーチをつくりあげてゆく。 「……あっ」 「よかった、土の中で消えてなかったんだ」 思ったとおりだ。 星のしずくはスプリンクラーの水に誘われて、地中から飛び出てきた。 水中にいた時みたいに七色ではなかったけど、しずくは白い光を放って水のアーチの上を飛び回っている。 「すっごく元気な蛍みたいだね」 「……はは」 ……元気な蛍、か。 確かに光りながら空中を飛び回る姿は、そんな感じだ。 「今度こそ失敗しないようにしなきゃっ」 「がんばれ、あき……すもも」 「うんっ、ユキちゃんも一緒に!」 俺は再び秋姫の肩の上に乗せられた。 そして一緒に、俺と秋姫は一緒に、飛び跳ねるしずくの元へ駆け出す。 「あっちに飛んでいった!」 「だ、だめっそっちは……」 「んっ、こっちに……ひゃあっ」 「わわあっ」 すもも、足元が危ないぞ――。 そう言おうとした瞬間。 俺の視界は一回転した。 「わわっ、ユ、ユキちゃん! ごめんねっ!!」 「すももこそ…大丈夫?」 「……またこけちゃった……」 「どうしたの? なんだかフラフラしてたぞ?」 「すもも?」 「花壇の中、お花があるから――」 「お花……?」 コクンと頷く秋姫。 俺はその時やっと気づいた。 さっきまで花壇の中を走り回ってた秋姫の足跡が、小さく芽吹いている花たちをきちんとよけていることに。 「お花を踏んじゃうことは、できないもの」 「……ごめん」 「えっ、ど、どうしてユキちゃん謝るの?」 「いや…だってその……」 この作戦を考えた時、俺は花壇の花のことなんてほんの一瞬も考えなかったから――…。 「今度はもっとうまくよけるね!」 「でもこのままじゃ――」 「きたっ!」 ――落ちてくる! ちょうど秋姫の斜め後ろで、星のしずくが弧を描いていた。 不思議な音をたてながら、光の尾を引いて――……。 「すもも! 杖! 杖を上に向けて」 「えっ? い、今?」 「今っ! 上に!!」 「は、はいった!!」 「言葉を…分離の言葉!!」 「あっ、う、うん…今度はちゃんと…言わなきゃ…」 しずくは杖の先でぐるぐる回っている。 ほんの少し傾けただけでも、またどこかへ飛んでいってしまいそうだ。 「すももっ」 「プルヴ・ラディ!」 「………!」 「星のしずく……採れた…」 「採れた!」 騒がしく飛び交っていた鋭い光は消えていた。 ゆっくりと落ちてくるのは、真中にきらきらと七色に輝くものを包んだ、小さな透明のしずく。 星のしずく――その呼び名は見たまんまだったんだと思えるほど、美しかった。 「――きれい」 「本当に、お星様が落ちてきたみたい」 「そうだね」 「……本当に……本当に…不思議…」 「そ、そだ…最後は瓶の中にいれなきゃいけないんだよね!」 「あ、そうだったよ、うん」 「えと…よかった、忘れてなかった」 秋姫は小さなガラス瓶を手に取り、フタをあける。 ゆらゆらと揺れるしずくは、瓶をあてがうとすっと中へ吸い込まれていった。 「ユキちゃん! 見て!」 「瓶の中にいれたら、色がひとつになるんだね」 ガラス瓶の中で液体になった星のしずくは、うっすらと赤い光を帯びている。 秋姫は目の高さに瓶をかざして、淡い光をじっと見つめていた。 「杖…杖が……消えちゃった!?」 「すもも、指! ちゃんとすももの指にはまってるよ」 「ほ、ほんとだ!!」 細い指に収まった指輪を、秋姫は愛しげに撫でていた。 「大事にしなきゃね」 「――……」 その杖はたった一人にしか使えない、運命共同体。 ――杖へと変化するとき、そしてまた指輪へと戻った時――。 まばゆい光に包まれた秋姫を見たら、なんだかそんな事もすんなりと信じられた。 「ユキちゃんが早くお家に帰れるように、わたし頑張るね」 「……ありがと」 「じゃあ帰ろうか」 「わっ、ユキちゃんちょっと汚れちゃってるー!! ごめんね」 「えっ? そ、そんなのどうでもいいよ…って」 「すももの服も」 「きゃっ! ほ、ほんとだ……早く帰ってお洗濯しなきゃー!」 泥だらけになって帰ってきた俺と秋姫。 幸いなことに秋姫のお父さんにはその姿は見られなかった。 そっと部屋に戻り、秋姫は俺を机の上に置いた。 そして今度は秋姫だけが慌しく階下へと降りていった。 「はぁ。星のしずくを集めるのって…結構大変だな」 「でも俺より秋姫の方が大変か」 星のしずくが入ったガラス瓶は、俺の真横に置かれてる。 うっすらとした赤い光は消えることなく瞬いていた。 「そういえばこれ……」 「持って帰らなきゃ……いけないんだっけ?」 「やば…、結構デカイな」 秋姫の手にすっぽり収まるほどの大きさだったのに。 ぬいぐるみの俺には、背負うことすら難しそうだ。 「………くっ」 「う、うわあっ」 「ふう…あれ? ユ、ユキちゃん!?」 「た、大変っ!!」 「……うう」 「瓶が倒れてきちゃったのね、大丈夫? ケガしてない?」 「はぁ、はぁ、危なかった……」 「ユキちゃんちっちゃいんだから、気をつけなきゃ!」 ……秋姫に言われると、なんだか複雑な言葉だな。 「ねぇユキちゃん、この星のしずくはどうするの?」 「うー…ん、持って帰りたい…かな」 「あ、だから瓶の下敷きになってたの? ユキちゃん」 案外秋姫は鋭いのかも。 俺は自分の隣に並べられたガラス瓶に目をやり、ため息をついた。 「そうだよ」 「そっかぁ、でもユキちゃんが持つには大きすぎるよね」 「……みたいだ」 「あっそうだ、すっかり忘れてた」 「ユキちゃんもキレイにしてあげなきゃっ!」 「へ? わ、うわっ」 「ちゃんと取れるかな」 「ひゃっ、や、やめっ」 「あっ、ユキちゃん動いちゃダメだよ〜」 「やめっ、く、くすぐった…ひゃっ」 「お湯も持ってくるべきだったかな」 「す、すももっ」 「え、い、いい! 自分でできるよっ」 「そ、そう?」 「うんっうんうんっ」 「じゃあ…はい」 こんなぬいぐるみの体のくせに、くすぐったいとかそんな感覚はあるみたいだ。 ちょっと残念そうな秋姫からタオルを引っ張って、俺は机の奥にひっこんだ。 「本当にキレイ……」 「星のしずく」 さっき採ってきたばかりの星のしずくが、秋姫の手の中のガラス瓶で揺れていた。 「噴水のところで飛び跳ねてた時も、空中を飛んでたときも……星のしずくって本当にキレイだね」 「ねえユキちゃん、この瓶、ここに飾っておいてもいい?」 「ユキちゃん、持って帰れないみたいだし――もし良かったら」 「……そうだよな」 また下敷きになるのはゴメンだ。 さっきは秋姫に見つかったけど、誰にも知られずどこかでそんな目にあったりなんかしたら……。 「……それはイヤだな」 「あ、べ、別に……。いいよ、すももの部屋に置いて」 「ほんとっ? やった」 「じゃあここにっ」 「うふふ、やっぱりキレイ! ほら、瓶の中でもキラキラ光ってるよ、ユキちゃん」 ガラス瓶を見つめて、秋姫は目を細めている。 俺は……俺がもし秋姫だったらこんな時、やっと手に入れたぞって気持ちになると思う。 でも今の秋姫を見ていると、なんだかそうじゃないみたいだ。 「ユキちゃん、わたしのところに来てくれてありがとね!」 「だってこんなに不思議な出来事――」 「わたし、すごくドキドキしてるよ。ユキちゃんと会えて」 「うん……あ、ありがと」 「ななつのしずく…残りはあと六つ……」 「一緒に頑張ろうね」 「……!」 「すももちゃん、誰かいるのかい?」 「う、ううんっ、一人だよ。お、お父さんこそ、どうしたの?」 「お母さんから電話だよ」 「えっ!? お母さんから??」 「もしもし、お母さん…どうしたの? 今の時間ってそっちは早朝じゃないの?」 「そうなんだ。うん、元気。え? 大丈夫、お父さんも元気だよ。毎日美味しいご飯作ってくれるの! あ…でもわたしも作ってるからね」 「……え? 変わったこと? うーん、あっ」 「…ねえお母さん、お母さんは不思議なことって信じる?」 「うんうん、そう。魔法みたいな…不思議なこと……」 「うん…えっ? お母さんも……そういうの……」 受話器を持った秋姫は、笑ったり驚いてみせたり、くるくる表情を変えている。 まるで目の前にお母さんがいるみたいに。 ……他人の電話なんて、あんまり聞いちゃいけないよな――。 何の効果もないだろうけど、俺は机の上で回れ右をして、秋姫に背をむけた。 「よかったぁ、お母さん。うん、あ、わかった…また電話するね」 「はい、お母さんも体に気をつけて。うん、お父さんにも伝えておく」 「ごめんね」 「ううん…いいよ」 「お母さんと話し出しちゃうと、つい長電話になっちゃうんだ」 「仲良しなんだ、お母さんと」 「うーん、だってなかなか会えないんだもの」 「会えない?」 「うん。お母さん、今お仕事で海外にいるの」 「そ、そっか」 秋姫は何気なく言ってるけど、やっぱりどこか寂しいみたいだ。 一瞬窓の外を見てから、椅子に座りなおした。 「でも、そのかわりお父さんがずっとお家にいてくれるから寂しくないよ」 「そうなんだ」 「うん、あのねー…わたしのお父さん、小説家なんだよ」 「えっ!!」 「えへへ」 お母さんは仕事で外国で、お父さんは小説家か。 まるっきり普通の家族しかいない俺には、なんだか想像しがたい。 「そうだ」 「ん? どうしたのユキちゃん。あ、これはね、日記帳だよ」 「日記……」 秋姫は机の上で開いた分厚い日記帳を、とんとんと叩いた。 「今から書いてもいいかな」 「それ、毎日書いてるの?」 「うん。いーっぱい書く時もあるし、ほんのちょっとしか書かないときもあるけど」 「すごいな」 そして秋姫は日記を書き始めた。 きりの良いところまで書いて、パジャマに着替えて、また書いていた。 「ふわぁあ」 日記を書き終えたのか、ペンを置いた秋姫は大きなあくびをこぼした。 今日は俺にとっても大変な一日だったけど、それは秋姫も同じだ。 瞳の端に浮かんだ涙をぬぐう秋姫の横顔を見ていると、何故か小さな罪悪感が生まれた。 「ごめんな」 「え? えっ?」 「あの…なんか急にこんなことに巻き込んで」 「大丈夫だよ、ユキちゃん! 心配しないでいいのっ」 「わ、わわっ!!」 「でも、疲れちゃった。明日寝坊しちゃわないようにしないと」 「ちょ、ちょっと、あき……すもも!!」 すももは俺を抱いたままパタパタと歩いて、ベッドに入った。 「ふう…ユキちゃん」 「えええ!?」 「おやすみしよ、ユキちゃん」 「は、離し…て…」 「はふぃ……ねむ…あ、そうだ…ユキちゃんにもパジャマ買ってあげないとなぁ」 「へ? パ、パジャマ?」 がっちりと俺を抱いたまま、秋姫はベッドに倒れこんだ。 ふわりとした感触は、ふかふかの布団なのか秋姫なのか……わからない。 わからないっていうか……。 「だ、だ、だめだ! 離せっ離せ、すもも」 「ううん…」 「すっすももっ!!」 「明日…がっこも…一緒にいこ…ね」 「〜〜〜!!」 「……すう…すう…ふぅ…」 「ね、寝たのか」 ゆっくりとしたリズムの寝息が、俺の頭斜め上から聞こえてくる。 よっぽど疲れたのか、秋姫はすぐに深い眠りに落ちたみたいだ。 「ふに…くすぐった……うぅ」 「……だめだ」 「すう…ふふふ…ユキちゃ……」 「わ、わあっ」 ……秋姫、なんでこんなに力入ってるんだ。 俺を…ぬいぐるみをしっかりと抱きかかえたその腕をほどくことは、不可能だ。 「あ、朝までこのままなのか?」 「すう…うん…い……しょ」 「…………はぁ」 俺のことをしっかり掴んでる腕とか、すぐ横で聞こえてくる寝息とか。 しかもそれが、ほとんど喋ったこともなかったクラスメイトのものだってこととか。 そんなことを考えだす前に、俺の意識も秋姫につられて遠くなっていった――。 ……………。 もう、朝か……。 あれ、俺…目覚ましかけてなかったっけ? いつもの………。 あ、鳴った鳴った。 って……こんな可愛い音…じゃなかったような……。 「いってぇ」 目覚ましに手を伸ばそうとしたら、気がつけば床の上。 寝ぼけすぎだ。 「……って…え? こ、ここ……」 「ちょ、ちょっとまてよ? え?」 カーテンも、ベッドも、カーペットも、ぬいぐるみとかが並んだ出窓も……。 間違いなく、俺の部屋じゃない。 ……そうだ、ここは……。 「……すぅ、すうう」 すぐそこから聞こえてくるのは秋姫の寝息だ。 ベッドの中央、シーツをすっぽりとかぶって……かぶってる姿を、なんで俺は見下ろしているんだ? 「あぇっ!?」 「も…もどって…る? な、なんで!?」 「ふにゅ……ううっ」 「ど、どうする? え、ホントに戻ってる?」 「……ふわぁああ」 「……はれ…ふあぁ」 「――――!!」 「………………」 「あ……あ……」 「!!!!!!!」 「お、落ち着いて…こ、これは夢……」 「……すう…すう」 「……ね、寝た?」 「…ふに…もうちょっと……すぅ…ふう」 「な、なんとかし、しなきゃ」 とりあえず、秋姫は寝ぼけてたし大丈夫……だろう。 あとはこの家から脱出するだけだ。 「窓、窓から出られるかな?」 正面の大きな出窓なら、俺でも充分出られそうだ。 「おっと…忘れるとこだった……」 例の本――これを無くしたら大変だ。 ぬいぐるみの時にはあんなにでっかく感じたのに、今じゃ簡単に手の中に収まった。 「……いける、よな」 隣家との間の壁が、ちょうどいい具合に足をかけられそうだ。 それにしても、庭先に落っこちてしまう可能性は結構高い。 けど、他にいい手なんてない。 「いってててて」 足の先からじんじんと痛みがあがってくる。 でもここでうずくまってるワケにはいかない。 「誰もいないな」 秋姫の家が騒がしいところに建ってなくて、本当によかった。 ……これじゃまるっきり泥棒だよな。 ともかく。 俺はこの場から立ち去るため、思いっきり地面を蹴り上げた。 「いつもと一緒だ……」 「うん、そうそう。私さきに帰ってるね」 「わかったぁ、じゃあ後でのんちゃんと一緒にいくよぉ」 いつもと一緒の一日。 チャイムとチャイムの間で授業を受けて、昼飯を食って――そして放課後。 「えっ? ナコちゃん、それ本当?」 「本当。さっき渡り廊下の上から見えたから」 「うわぁ、う、嬉しい! ナコちゃん!」 「うん、今から一緒に見に行こうか」 「行こ行こっ!」 朝からずっと、秋姫のことを見ていた。 何度か目が合った時にはぱっとそらされたけど、今朝のことを覚えてる感じはしなかった。 「はあ」 今朝、秋姫の部屋で目が覚めて。 その前はそうだ、あの園芸部の花壇のとこで星のしずくを採って。 俺はぬいぐるみになってしまって………。 「よっ、ハル! なんか今日は調子悪そーだなぁ」 背中を叩かれて、むせてしまった 「ハルもやっぱりクラブに入って運動しろよーっ! んじゃまた明日」 「また明日……」 やっぱりいつもの放課後だ。 「クラブ……か」 でも俺は、そんな『いつも』を壊す場所へと向かわなければならなかった。 「おい」 「えっ? ああ、麻宮」 「後ろ、秋乃が出られなくなってる」 「後ろ?」 「ご、ごめんなさいっ」 「いや、こっちこそ……」 俺が扉のところに立っていたせいで、立ち往生していたのは麻宮秋乃だった。 秋姫の次くらいに背の低い…あと話し声がすごく小さい、そんな印象のクラスメイト。 そして目の前に立つ麻宮夏樹の妹だ。 「お、おい。どうしたんだよ」 「……ううん」 秋乃は兄の…三つ子だから同じ学年だけど…夏樹の後ろにまわりこんだ。 「校内で会うの、なんか久々だな」 麻宮は去年、俺や圭介たちと同じクラスだった。 麻宮も積極的に誰かと話すってタイプじゃない。 けど、お互い寮生だから顔を合わせる機会は他の誰より多かった。 「今年は向こう側の校舎だからな」 「そうか、だからあまり顔合わさなかったんだ」 秋乃が夏樹の後ろからじっと俺を見ている。 そしてその眼差しは、もう一人の妹のことを思い浮かばせた。 「あの…もう一人の妹はそっちの校舎?」 「みたいだな」 「それはどうでもいいけど、石蕗」 「なんだか疲れてるぞ、顔」 「あー…うん。ちょっとな」 「桜庭とか、前と同じクラスのヤツ多いだろ、こっちは」 淡々と麻宮がこぼす言葉は、昨日圭介たちが言っていたことと同じ意味だろう。 麻宮がそんなことを言うなんて、ちょっと意外だった。 「ああ、そういうんじゃないんだ」 「ふーん」 「あー! ナツキ〜こっちにいたんだぁあ」 「きゃうっ」 「うっ」 「あれれ、ハルたん久しぶり〜っ元気にしってた〜?」 「あ、ああ」 「こ、こらっ! 袖引っ張るなって!」 「あはは、ビリってなっちゃうよね、ごっめ〜ん」 麻宮の二人の妹は、いつもこんな調子だ。 秋乃は極端に恥ずかしがりやで、冬亜はいつもふざけてて。 顔立ちは驚くほど似ているのに、三人は全く違った性格だった。 「相変わらずだな」 「……まったく」 無愛想にも見える麻宮だけど、この二人を相手にしている時はさすがに違った。 「――もうちょっと落ち着けって、いつも言ってるだろう?」 「ごめんなさーい。だってアキノを早く迎えにこなきゃって思ったんだもん」 「そ、そうだったの?」 「うんっ! だぁって一緒に部室まで行きたいんだも〜ん」 「ひゃ、ひゃあっ」 元気な方の妹・冬亜が秋乃の手をとり、くるりとその場で踊る。 そんな二人を夏樹は苦い表情で見つめている。 「クラブ、入ってるんだ」 「そうだよぉ、トウアたち手芸部なんだよ〜!!」 「……そっか。えっ、じゃあ」 「ち、違う、僕は違う。何にも入ってない」 麻宮は俺が言いかけたことに先に気づいて、思い切り頭を振った。 「ナツキも入ったらいいのにっ! 楽しいよぉ」 「………いい」 去年一年、教室でも寮でも、いつでも夏樹はこんな風に妹たちにふりまわされていた。 そんなところが、夏樹の無愛想な一面を打ち消してるんだと俺は思う。 「ハルたんもナツキも、一緒に手芸部はいろーよっ!! はいろ〜はいろ〜」 「そしたら放課後もトウアとナツキ、ずっと一緒だよね……」 「いいってば!! それより早く部室に行かないと遅刻するぞ?」 「あっ!!」 「ホントだ! あっぶな〜い、怒られちゃ〜う」 「アキノ〜、ここからは超特急便だよぉ!」 「へ? わっ、きゃううっ」 「じゃハルたーん、ナツキィ、ばいば〜いっ」 「やあぁあぁああ」 「……全く」 嵐のようにやってきた冬亜は、妹をまきこんでまた嵐のように去っていった。 「なあ」 「――?」 「麻宮もクラブ入ってないのか?」 「……ちょっとくらいは一人の時間ほしいからな」 「まったくアイツら、寮に帰ってからもおしかけてくるからな」 俺は笑みをかみころした。 寮棟はもちろん男女別だ。中央のロビーを除いては。 そのロビーで、夏樹は毎日あの二人に消灯時間まで付き合わされていた。 「そうだったな」 「笑うな」 「ごめん」 夏樹は怒った様子もなく、苦笑いを一瞬浮かべてから歩き出した。 俺も一呼吸おいてから、如月先生の部屋へと向かった。 「――で。昨日の夜のことだけど。うまくいったのかな?」 如月先生の声が頭の内側でやたらと大きく響く。 まるで眠りに落ちる瞬間みたいな錯覚だ。 「石蕗君?」 「……! あ、す、すみません」 昨日の事、今朝の事――…。 そのどっちもが現実離れしていて、俺の頭は朝からずっとぼんやりとしてた。 「星のしずくは…採れました」 「うんうん。初めてにしてはなかなかよくやったみたいね」 「だけど、採った星のしずくを持って帰れなかったんです」 俺はようやく本題を口にした。 もちろん他にも聞きたいことがたくさんあったけれど……。 「あ〜」 「瓶に入れたんですけど、重くて」 「まぁ別にいいよ〜」 ……い、いいのか? まるで気にかけてないような口ぶりに、なんだか俺の方が不安だ。 「本当にいいんですか?」 「なに? 一日でなんだか疑い深くなってきたんじゃない? 石蕗君」 「………いや、あの……もういいです」 だんだんわかってきた。 如月先生のことは、俺には何一つわからないかもしれないってことだけが。 「ともかく、しずくはその子の部屋に置いてあるんで」 「了解。まぁ大丈夫でしょう、あそこなら」 「なんでもありませーん」 如月先生は俺の顔を見てから、何故か不思議そうに首を傾けている。 そんな表情をするのは、本当なら俺の方のはずだ。 頭の中には疑問が山のように積み重なってる。 でもひとつだけ、俺はどうしても聞きたいことがあった。 「先生、ひとつだけ教えてください」 「どうして、秋姫なんですか?」 「えっ? 何が?」 「だから、あの杖を使ってしずくを採るのに選ばれたのが、どうして秋姫……」 「ごめん、僕にもそれわからないんだ」 「――なっ!?」 「わからないって――」 「あきっ!!」 「如月先生っ!」 「秋姫さん、そんなに急いでどうしたのかな?」 「せっせんせっ、お、お外っ」 「落ち着いて落ち着いて」 「……はぁ、はぁ、すすすみません」 秋姫は目の前で大きく息をしながら、呼吸を整えている。 けど俺の心臓も、そんな秋姫と同じくらいに跳ね上がっていた。 「聞いてください、ずっとお花があまり咲かなかった花壇が――」 「ああ、あの花壇ね」 「今日きたら、お花がちゃんと咲いてたんですっ」 「どれどれ?」 如月先生が椅子から立ち上がり、窓辺に身を乗り出している。 その時やっと、秋姫は俺がここにいることに気づいたようだった。 「……あっ、つ、つわぶ…き、く…」 「花壇」 「は、はっいい? あの…えっと……」 「花、咲いたんだ」 「え…な、な、えっと…あう……その」 「ほう、あの花壇は無理かなぁと思ってたんだけどなぁ」 「ここから見えるんだ…」 校舎の狭間がうまいことあいているからだろう。 切り取られたように、園芸部の花壇や噴水がこの部屋からまっすぐ見渡せる。 俺と、秋姫と如月先生の視線の先にある花壇――。 そこは昨日、星のしずくが落ちてきた場所だった。 「きれいに咲いてるじゃないか」 「あ、あの、今日きたら……いつもよりお花たちが元気に…なってて」 「それは良かった、きっと秋姫さんの想いが通じたんだね」 秋姫の頭を、如月先生がポンポンと撫でた。 それだけのことだったけど――。 恥ずかしがりやの秋姫が、全く平気そうだったのが驚きだった。 いやでも、秋姫は園芸部にずっと入ってるし、如月先生は顧問だ。 あたりまえのことなのかもしれない……けど。 「失礼します」 「ナコちゃん――あっ、ご、ごめん、わたし」 「大丈夫、カギはちゃんと私がかけておいたから」 「ごめんね……」 「いいの。すもも、花壇が元気になって本当に嬉しかったんだね」 「はい、先生。カギ、返却します」 「はーい、確認しました」 どちらかっていうと無表情である時のほうが多い八重野も、今日は少しばかり柔和な表情だった。 「俺、帰ります」 「あー…ちょっと待った待った」 「……は?」 「えー、秋姫さんに八重野さん。嬉しいお知らせがあります」 「……お知らせ?」 「この度、石蕗君が正式に園芸部の一員となりましたぁ〜!!」 「えっ、えええっ!?」 「えええええええっ!?」 「ちょ、ちょっと如月せ……ううっ」 「この方がね、なにかと都合がいいんだってば」 「だって石蕗君、これからもいろいろ僕に聞きにこなきゃいけないでしょう?」 「そ、そりゃ……」 「僕が顧問をしてる園芸部に入っとけば、なーんにも怪しくない」 「シンプルでかなり有効的なプランだと思わないかい?」 「はいっ、石蕗君。この間はレンタルだったけど、今日からこれは君のものね」 「は…はい?」 気が付いた時には、もう俺の手の中には軍手とスコップが押し込められていた。 しかも…ご丁寧に名前まで記入してあるものを。 「はい、挨拶!」 「………よろしく」 「あ…よ、よろしく」 八重野の挨拶は短すぎて、歓迎されてるのか嫌がられてるのかわからなかった。 「えっと」 「よろしく、秋姫」 「あっうっ…よ、よろ……しくです」 「うんうん、仲良くやってね! いやぁ部員もはれて三人! これでやっと部活らしくなってきたなぁ」 「さ、三人!?」 たった二人、園芸部ってそれだけだったのか……。 「いや〜やっぱり男手があると、作業の幅も広がるしねぇ」 「そ、そんな」 「さぁ、後はもう若い者同士で楽しくやっちゃってくださいな〜」 「あ、石蕗君。基本理念は清く正しく楽しくだから、そこんとこ忘れないようにね。特に最初の二項目」 如月先生に無理やり背中を押された俺は、その後ずっと秋姫たちの隣を歩いた。 どこへ向かってるのかも、わからないままで。 「えっと、何したらいい?」 「部活のこと?」 八重野は足をとめ、ゆっくりと俺の顔を見つめた。 俺が頷くのを確認すると、八重野はまた視線を前に向ける。 「今日はもう終わったから、明日から参加してくれる?」 「放課後はいつもあの場所でやってるから」 「……………」 「特に決まった規定はないの。次に来た時また説明するよ」 「あの…俺、園芸って何も知らないんだけど」 八重野はまっすぐ前を見たままだ。 時折秋姫のほうへと顔を寄せる時以外は、俺はずっと八重野の横顔を見つづけた。 「そんなに難しいことなんて、してないから平気」 「ね、すもも」 「えっ? な、なに? ナコちゃ……」 「? なんでもない」 「園芸部…か」 教室に戻ってくると、八重野は自分の席にいって荷物を手早くまとめ始めた。 「ナ、ナコちゃん、ま、まって」 「大丈夫、すももを置いてくわけないじゃない」 「すもも、どこについてきて欲しいって言ってたっけ?」 「え、えっと……すばる通りの向こうのお店なの」 「わかった、あのお店ね」 園芸部の活動が終わった後って、いつもこんな風にして帰ってるんだろうか。 鞄に荷物をつめおえた二人は、自然と並んで立っていた。 秋姫は俺がそっちを向いただけで、視線をそらした。 とてもじゃないけど、昨日俺と一緒に夜の学校へ向かった秋姫と同じとは思えない。 でもそれは、秋姫も同じだろう。 目の前にいる俺が、あのぬいぐるみだなんて――。 「さようなら」 短い挨拶だけを口にして、八重野は俺の前をすり抜けた。 「行こうか、すもも」 「あっ、ナコちゃん」 「さ…さよなら」 「あっ……」 秋姫は二度振り返ったけど、何も言わないまま教室を後にした。 誰もいなくなった教室に、日が差してくる。 夕陽のオレンジ色が、足元まですっと伸びてきた。 「もう夕方なんだ」 今日はいつもよりも何倍もの速さで時間が過ぎた気がする。 「……夕方?」 「――そうだ、夕方だ」 屋上にやってきた理由はたった一つ。 「俺は……またあの姿になるのか?」 俺はあたりを見回し、この場所に誰もいないことを確認する。 それから深呼吸をして――空を仰いだ。 「昨日は……このくらいの時間だったよな」 屋上は真っ赤に染まっていた。 フェンスの向こうの、今にも山端に吸い込まれていきそうな太陽の色だ。 「……よし」 深呼吸をし、一度固く目を閉じて……。 俺は夕暮れの屋上にまっすぐ立ち尽くした。 「なんだ、変わらないじゃないか」 空から視線を落としてみる。 そこにある両手は見慣れた自分の手だった。 「先生…あんなに大げさに言って…なんだよ」 肩、腕、足――。 どこを叩いてもさっきと変わりない。 ふわふわでも、真っ白でもない。 何も、どこもかしこも、俺のままだ。 「なんだよ……よかった……」 「あのヘンなジュースの効力、切れたのかな」 コンクリートのざらざらした感じ。 手のひらから伝わってくるのは、いつもの感触だ。 「――はぁ、よかった」 あ、でも。 秋姫には悪かったな。 あんな無茶苦茶な話をちゃんと聞いてくれた。 俺の手助けを本気で考えてくれていた。 「秋姫………」 教室で見た笑顔と、家で見た笑顔の両方が頭の中に浮かんだ。 全く違う二つの笑顔、でもどっちも間違いなく秋姫の、笑顔。 ………ウソだろ? ………ウソであってくれよ? 「やっぱりなのか――!?」 「あーあ、もう」 「………!!」 「石蕗君――こんなところで何してたんです?」 「き…さらぎ…先生」 「当ててみせましょうか」 「は、はい?」 「ああ、昨日のことは全部夢、夢だった! もしくはあの変身は一日限定イベントだった……とかでしょ」 「甘い。甘いよ石蕗君。これは夢じゃないんだよ〜」 「……そうみたいですね」 「だいたい気づいたと思ってたけど」 「な、なにを…ですか?」 「君の身体の変化だ。至極簡単な法則だよ? 日が暮れれば変わり、日が昇れば戻る。ね、シンプルでしょう?」 ――そういう、ことだったのか。 それなら今朝、秋姫の部屋で目を覚ました時のことも納得できる。 納得……したくはなかったけど。 「ま、今度から気をつけることだ。変化は日暮れとともに訪れる、だよ?」 「うわっ」 如月先生のすっと手が伸びてきて、俺を軽々と持ち上げた。 ……間違いなく、俺はまたぬいぐるみになってる。 「あと、レシピは肌身離さず持つこと。これはマニュアルとして以外にももうひとつの役目があるんだからね」 「もうひとつの役目? ていうか、先生、その本……」 例の本は、確か鞄の一番奥につっこんどいたはず。 それが何故か、今如月先生の手の中にある。 意味することは、たった一つだ。 「ちょっと待ってください、それ俺の鞄の中から」 「さあ、よーく見ておくんだよ」 細い三日月を描いた笑顔のまま、如月先生は指先を開いて傾けた。 あの本が地面へ落下していく様子は、スローモーションで俺の目に焼きついた。 「な、なにするんですか! 古そうな本なのに」 「ほーら、よく見てみて」 「う、浮いてる?」 「ご名答」 まるで反発しあう磁石のようだ。 地面からわずか数センチ、本はコンクリートに叩きつけられずに浮いていた。 「そう。まさか毎日僕がふっ飛ばすわけにもいかないからね。コレに乗ってスピニアのもとまで行くんだよ」 「は、は、はい?」 「ほらほら! まずは試してみるのが基本!」 「わわっ」 「はっはっはっ、よく似合ってる」 いきなりつかまれ、投げられ、おまけに最後にはちょっと笑われて――。 気が付いた時には、俺は地面すれすれを浮く本の上に乗せられている。 「バランスを取るのはそんなに難しくないでしょ? 後は人に見つからないようにね」 「ほんとに…これでいくんですか」 「ここでウソついてどうするのさ」 「さて。石蕗君は寮生だったよね? 教室の荷物は僕がうまーいこと部屋に運んでおいてあげるよ。ま、この貸しは大きいから覚えておくように」 ……ほんとにこの人は。 つい二日ほど前までは、ただの…ただの担当教師の一人だったのに。 最初は……最初は俺のことを助けてくれる、そう思っていた。 今だって…今だってそうであると信じたいけど………。 いいひとなのか、実は楽しんでるだけなのか――わからなくなってくる。 「………はぁ」 「あ、ため息ついた」 「……ダメですか」 ため息くらい、つかせてほしい。 けど如月先生はそんな俺を咎めるかのような視線で、一歩また一歩と歩みよってくる。 「本当はね、こんなこと言いたくなかったんだけど…」 「な、なんですか」 「はっきり言ってください!」 「今更になって申し訳ないんだけどね…石蕗君。君、もしも月が七回満ちるまでにしずくを七つ集める事が出来なかったら…」 「ほら、昨日言っただろう? 君の飲んだ薬は本来はフィグラーレの人間用の薬……副作用があるんだ。一定の時間が経つまでに中和させないと…」 「もう二度と戻れなくなるよ?」 「そ、それ本当ですかっ!!」 「は〜い、本当で〜す、じゃあしっかりやってらっしゃ〜い」 「ちょっ――」 「わぁあっ!!」 「はぁ…や、やっとついた………」 如月先生の言うとおり、例の本は俺を乗せて空を飛んだ。 だけどいくら小さいって言っても、人目につかないほどでもない。 家々の軒先から軒先へと渡り続け――。 ようやく秋姫の家までたどりついた頃にはすっかり辺りは真っ暗だった。 「あれ……?」 「おかしいな、秋姫まだ帰ってないのか?」 「すもも……」 「すももちゃーん……あれ?」 「おかしいな? さっき帰ってきたと思ってたけど…いないな」 「カリンさんからの贈り物、早く見せてあげたかったのになぁ」 「仕方ない、とりあえずここに置いていくか」 秋姫のお父さんは、残念そうにため息をついている。 そして大きな箱をひとつ、ベッドの脇に置いて出て行った。 「………あ、危なかった」 「そうだよな、家なんだもんな……いつ誰が入ってきても、おかしくない」 ……これからは気をつけないと。 その時また、階段を上る足音が扉の向こうから近づいてきた。 こ、今度は誰だ? また秋姫のお父さん……なのか? 「ユキちゃん!」 「……ハァ、よかった」 「もお! ユキちゃんどこ行ってたの! 心配したんだよ」 「朝起きたらいなくなってたんだもん、昨日のこと、全部夢だったのかと思っちゃったよ?」 「わ…ちょ、ちょっとくるし……かも」 「あ、ごめんね」 「……はぁ、はぁ」 「本当にどこかへ行っちゃったんだって…すごく悲しかったんだよ?」 「ご…ごめん」 秋姫は俺を両手で持ったまま話しつづけた。 目の高さよりほんの少し上で、すぐ近くにある秋姫の顔。 なんだかそれは、まるで俺が人間の時みたいな目線だ。 「今度から、出かける時はちゃんと教えてほしいな…ユキちゃん」 「あ…そ、そのことなんだけど」 「ボクは昼間、あき…すもものところにいられない」 「すもものところに来れるのは、夜の間だけなんだ」 「…そんな…そんな……」 「ちょ、ちょっといろいろワケがあって」 「……へ?」 「せ、せっかく買ってきたのに…いっぱい…」 「か…買ってきた?」 うるうるとした瞳のままで、秋姫はくるりと振り返った。 その足元には、やたらと可愛い絵柄の紙袋があった。 「ほら、これ!」 「これ…って、何?」 「ユキちゃん用のお洋服」 「………よ?」 「うん、こっちはレインコートでしょ、これは帽子」 「え? え? なんでそんなにいっぱい――」 「ぬいぐるみ用のお洋服って、おもちゃ屋さんに売ってるんだよ」 「そ…そう……」 バザーのように並べられた小さな服たち。 それらは秋姫の目に浮かんでいた涙を引っ込めてくれた。 「ユキちゃんの大きさを覚えてて良かった、きっとぴったり……」 「だけど……だけど…いらないよね…」 「一緒におでかけしたりとか、登校したりとか…したかったのにな」 「あ…えっと…その…」 ……ヤバイ。秋姫、また泣き出しそうになってる。 なんとか話題を変えないと。 「あっ、こ、こっちの服はなんなの?」 並べられたなかの一番端にあった洋服へ、俺は駆け寄った。 白い布に、黒い模様が入った布だ。 「ていうか…なんだこりゃ?」 「パジャマだよ」 「ほら、こっち見てみて」 「あっ、可愛い♪」 「え…これって…う、牛柄?」 「牛柄…。カウプリントっていってほしいな」 「牛…。ボク…羊…なのに牛……」 「そっか、パジャマなら大丈夫だよね」 「ほら、夜は一緒なんだもん」 「……うん、まぁ……ハァ」 さっきから泣きそうになったり、笑いそうになったり……秋姫の表情はくるくる変わる。 俺はそのたびに、机の上をあたふたと行ったり来たりしていた。 「ふふふ、ユキちゃんやっぱり可愛いなぁ」 「あー…そ、そうかな」 「ずーっと一緒にいられないのが残念」 「ど、どした!?」 「あれ? この箱……なんだろう?」 秋姫がぶつかったのは、さっき秋姫のお父さんが運んできた箱だ。 丁寧に包装されたその箱は、秋姫が両手で抱えきれないほどに大きかった。 「それ、さっきすもものお父さんが持ってきた」 「えっ、ほ、ほんと!?」 何故か秋姫は顔を赤くしてうつむいた。 どうしたんだろう? さっき見た秋姫のお父さん、別に変ってところは何もなかった。 「それより、なんかその荷物を早く見て欲しい、みたいなこと言ってたよ?」 「わあっ!!」 「お母さんからのお届けものだ!」 「何かなぁ、こんな大きな箱…何が入ってるのかな」 「あけてみたら?」 「ユ、ユキちゃん………!!」 「お洋服っ!」 「ほんとだ。これ、ドレス…とかなの?」 「ドレスじゃないと思うけど」 「…ん? 今何か落ちたよ」 「え? あっ手紙が入ってたんだ」 秋姫は丁寧に封をあけた。 封筒も手紙も淡い色味で、角には花びらが型押しされていた。 「……すももへ、昨日は少しだけど声が聞けて嬉しかったわ」 「すももの話は、いつも楽しくてお母さん楽しい。すももが言っていた不思議な出来事は、お母さんにとっても不思議で、すごく興味深かったわ」 「そんなすももに、このお洋服をあげるね。ちょっと前にお母さんが作ったものだけど、大事にしてあげてね。お母さんより」 「こ、これ、すもものお母さんが作ったんだ!」 「すごいな……」 「うん…うん…」 「すもも、ちゃんと箱から出して見てみたら?」 「そ、そうよね、うんっ」 飛び出した、って言い方がそのまま当てはまる。 俺は秋姫がその服を引っ張り出した時、本当にそう思った。 「わああっ」 「見て、すごく可愛い…可愛いよね、ユキちゃん…」 「うん、キレイな色だと…思う」 白と薄い桜色が、俺の目には秋姫の手の中で柔らかく光っているようにも見えた。 「嬉しいっ!」 「よかったな、すもも」 秋姫は本当に嬉しそうだ。 また瞳の端にちょっとだけ涙が浮かんできている。 けど、この涙は心配ない。 「うん、うん…お母さん…ありがと」 「しかし本当に器用なんだな、すもものお母さん」 「うん、ちっちゃい頃はね、わたしのお洋服全部作ってくれたんだ」 「ほんとにすごいな」 「今はお母さんの仕事が忙しくなっちゃったから……そういうのあんまりできなくなっちゃったけどね」 「…………そうだ」 「ユキちゃん! ひとつお願いがあるの!!」 「お願い……?」 「今度から星のしずくを集める時、これを着てやってもいい?」 「お母さんが私のために作ってくれたんだもの――」 「そ、そうだけど」 「なんだかもっともっと、頑張れそうなの!!」 「う、うーん……」 「……だめ?」 「だめかなぁ」 「別に…お…ボクはどっちでも……」 「ほんとっ!?」 「ありがとうユキちゃん!! 嬉しいっ!」 「うわわっ」 「わたし、頑張るね! ユキちゃんが早くお家に帰れるように」 「わ、わかった、だから、は、離して……」 「わっ、ご、ごめんね」 「けほけほ」 「………ふう」 「ふっふふ〜」 「ご機嫌だね」 「うん…今日はね、嬉しい事が二つあったの!!」 「ふたつ?」 ……ふたつの嬉しいことってなんだろう? ひとつは、きっとこのお母さんからの贈り物だろう。 もうひとつは――…? 「うん……今日はお母さんから素敵な贈り物があったし」 「ほかにもね――…その…」 「ユキちゃんにだけ、話しちゃおうかなぁ」 「ボクに…だけ?」 「うん、お母さんからの贈り物も嬉しかったけど、もういっこ……」 「もういっこ?」 学校での秋姫を思い出してみる。 っていっても、教室での秋姫のことなんて何一つ思い出せなかった。 ……あ、ひとつだけ。 「お〜い、すももちゃ〜ん」 「――!」 「はぁ〜い!」 「ご飯できたよー。あと部屋にあったもの、見たかーい?」 「うんっ、ちょっと待ってて! すぐ降りるーっ」 「はーい」 「ごめんねユキちゃん」 「うん、いいよ」 「ふふっ」 秋姫はもう一度、あの洋服を胸元にあててくるんと回った。 スカートのすそが少し遅れて広がる。 見た事のない、嬉しそうな笑顔だった。 「お母さんからもらったお洋服、大事にしなきゃね!」 秋姫は洋服を体から離し、丁寧にハンガーにかけた。 それをどんなに大事に思っているか。 秋姫のひとつひとつの仕草が、俺に教えてくれた。 「じゃあ、指輪の反応もないし…階下(した)でご飯食べてくる。すぐに戻ってくるね!」 「ゆっくり食べたほうがいいよ」 「ありがとっ」 「はやくななつ、揃うといいね!」 クロゼットの前で揺れる、秋姫のお母さんからの贈り物。 その淡い色は、秋姫が花壇で咲かせた花たちに似てる。 如月先生の部屋から覗いた、あの痩せた花壇に咲いた花。 元気に咲いた花たちを見て笑っていた秋姫。 嬉しい事のもうひとつは、きっとその事だったんだろう。 ……たぶん、そう思う。 「わ、わわっ」 「あ、あのね、お父さんにはユキちゃんが特別なぬいぐるみってこと、バレてないよね?」 「……? たぶんね」 「ああ、よかったぁ。お父さん、ユキちゃんのこと見たらきっと……」 「きっと?」 「あ、ううん、なんでもない……なんでもないよ」 ……やっぱりまだ、俺は秋姫のことが全然わからなかった。 このメッセージが表示されたらバグです。担当者すぐに連絡を下さい。 「……地方は今日から本格的な梅雨入りを迎え……」 どこかの家から、梅雨入りを伝えるニュースキャスターの声が聞こえた。 空の色は夕暮れと夜の間のグラデーションだったけど、雨は降りそうになかった。 「今年は雨、降るのかな」 「ふう…ついたついた」 「秋姫ん家にくるの、これでもう何度目だろう」 最初は何度も挟まれそうになった窓も、すぐに開けられるようになった。 「よし!」 俺は結局、すぐに慣れてしまった。 ぬいぐるみになることも、秋姫の部屋へやってくることも……。 「よいしょ」 でもたったひとつ、ひとつだけ慣れないことといえば――。 「こんばんはー」 「……もががっもがっ」 「えっええええ!?」 「あっ…ユ、ユキちゃ…なの?」 「すっすっすも――!?」 「ちょ、ま、まえみえなくて…あれっ」 「お、おっ、おまえっそんなかっこっ」 「こ、この背中のボタンがね…なかなか留まらなくって」 「わぁああっ、は、はやく服、お、おろっ」 「あ、やった、やっと留まったぁ! わわっ」 「きゃうっ!」 「は、はふ…ふう」 「あ、あうう」 「へ? あ、ユ、ユキちゃんごめんね、びっくりした?」 「……はぁはぁ、そ、そりゃ…だって背中…」 「ん? どこか痛いの?」 「ち、ちがっ…なんでも…ない」 「やっとお着替え終了」 ――ひとつだけ慣れない、慣れることのできないこと。 それは、今目の前に立つ秋姫本人……だ。 「どうしたの? ユキちゃん。ぼんやりしてる?」 「ん、あ、ううん」 「今日はどうかなぁ」 この部屋にいる、普段の秋姫。 もう何度も顔をあわせてるし、秋姫はぬいぐるみの俺に向かっていろいろ話しかけてくる。 そして、教室で、廊下で――『普段の俺』の前の秋姫。 同じクラブに入ってからはだいぶましになったけれど……まだどこか距離が遠い。 俺はまだ、その二つの秋姫に慣れられないでいる。 「ねえねえ、ユキちゃん」 「……今日も反応ないみたいだよ」 いつのまにか窓辺に身を乗り出していた秋姫が、残念そうな顔で右手を胸元に当てている。 「星のしずく、からからになってるのかな?」 「からから?」 「ほら、梅雨みたいに…あ、ユキちゃんは梅雨って知ってる?」 「知ってるよ」 「そうなんだ、でね、去年は梅雨なのに雨が全然ふらなかったの」 「あ、そうだ――」 そうだったな、と言いかけて俺は慌てて口をつぐんだ。 今の俺は石蕗正晴じゃない……危なかった。 「その雨みたいに、星のしずくもなかなか降ってこないのかな…なんて」 光らない指輪を見つめて、秋姫は小さなため息をつく。 「どうなんだろ?」 俺が初めてぬいぐるみになった日に落ちて来た『星のしずく』。 その日以来、指輪はなんの反応も示さなかった。 はりきっていた秋姫の意気込みもむなしく、しずくの入ったガラス瓶は、まだたったひとつのままだった。 「そういえば…期限…あったんだよな」 「あ、なんでもないよ」 『もしも月が七回満ちるまでに元にもどれなかったら』 『もう二度と戻れないからね』 ――そんなこといわれても。 俺を元に戻す『星のしずく』がずっと落ちてこなかったらどうするんだよ。 「うん、これはすぐできるようになった」 「え、ど、どうしたんだよ」 「いきなり…杖…出したから」 「あっこれね!」 秋姫は本当に嬉しそうに、杖を体に寄せて抱きしめた。 「指輪から杖に変化させるのは、すぐにできるようになったんだぁ」 「へ…へえ」 「ユキちゃんが寝てる間にこっそり練習したの」 「そ…そんな練習してたんだ」 そういえば、前よりも杖を握り締める姿がさまになってる気が…しなくもない。 着ている服のせいかもしれないけど。 秋姫がそんな風に頑張る子ってのが、なんだか意外だった。 「初めてしずくを採ったとき、すごく大変だったから」 「次はちょっとでもうまくいくようになりたいの」 「やっぱり一番難しいのって、しずくをキャッチするところだよね」 「かな」 「だってこんな長い杖を使うんだもの…バランスが難しいの」 「えいっ!」 「きゃう!」 「わぁ、し、しずく! お、落ちるっ」 「はっ、あ、あわわっ」 「〜〜〜〜〜!」 「あああ…危なかったよぉ」 「ユキちゃん、だ、大丈夫だったよ」 指先まで赤くなった秋姫の手の中に、星のしずくの入ったガラス瓶がころんと転がっている。 「よかった。落っこちなかったんだ」 「うん、でも危なかった……」 「?」 「杖を使う練習、部屋の中でやるのは危ないと思うんだけど」 構える仕草はさまになってるんだけど……。 実際杖を振る時の秋姫は、なんだか腰が引けていた。 そういえば秋姫、授業でも運動は苦手そうだったっけかな。 「あれ? なんで俺そんなこと…」 「うーん…やっぱりそうだよねえ」 「へ? あ、そういう意味じゃ」 「え? やっぱりお部屋で杖を使うのは危ないなってことだよね?」 「う、あ…うん…そっちのことか」 「どうしようかな……あっ、そうだ!」 「ユキちゃん、こっちきて」 すももが腕を伸ばしてきたので、俺はその上にぴょんと飛び乗った。 「練習するのにちょうどいい場所、あるの」 「いい場所??」 どこだろう、と俺は頭の中でいろんな場所を思い浮かべた。 人のこない場所――…どこだ? 「それってどこ?」 「屋根の上、だよ」 「や、や、屋根?」 俺の疑問に答える間もなく、秋姫はドアノブに手をかけた。 「ね、こんな感じになってるの」 「へえ、これって屋根っていうより屋上って感じだな」 「そんなにいいものじゃないよー」 秋姫が『屋根の上』と言っていた場所は、屋根の傾斜を切り取るように開いた空間だった。 六畳ほどの広さで、小さな花を咲かせているプランターがたくさん置かれている。 「誰もいないかなぁ」 「わ、わ、そんなに乗り出したら…あぶなっ」 「大丈夫! わたし、ちっちゃい頃からここで遊んでるんだもん」 「でも」 「――うん、誰もいないみたい」 「ほんとに気をつけろよ?」 「あ…うん」 「で、ここで一体何をするんだ?」 「ふふふ、それは……」 「星のしずくキャッチの練習だよ」 「れ、れれ、れんしゅう??」 秋姫の口元が、にっと小さな三日月をつくる。 そして傍らにあった小さな椅子の上に俺を置き、床に跪いて何かを探し始めた。 「えーっとこのあたりだったかなぁ」 「んーあった! やっぱりちゃんと残ってた」 「ちょっと待ってね」 「これ、見てみて」 「なんだこれ…ボール?」 「うん! ちっちゃい頃によくこれで遊んだんだけど…まだちゃんと残ってたんだ」 目の前に差し出された手のひらの上には、色とりどりの小さなボール。 汚れてはいなかったけど、年月を感じさせる細かな傷が目立っていた。 「これで何するの?」 「練習! はい、ユキちゃん」 「えっ? えっ?」 「これを星のしずくと思って〜」 「そこからぽんっって投げてみて!」 「ボ、ボクが?」 目の前に置かれたボールたちを、俺は複雑な気持ちで見つめた。 しずくのキャッチの練習――っていっても、こんなことでいいのか? 秋姫の目が、なんだかキラキラしているのは気のせいだろうか。 ……やらなきゃ。 「わかった、投げたらいいんだよね?」 「お願い!」 小さなボールだったが、ぬいぐるみの俺にとっては両手で抱えなきゃいけない。 ひとつずつ抱えては、思いっきり投げあげてみた。 「やったぁ!」 「もう一個いくよ」 「こっちね、えいっ」 「ふふふっ、成功♪」 「なんだか、このお洋服とユキちゃんがいると、何でも上手に出来る気がするの!」 「そ、そうなんだ」 役に立たないとか、立つとかじゃないんだな。 このちょっとズレたキャッチボールもいいのかもしれない。 なんてことを、秋姫の笑顔を見ながら考えてしまった。 「じゃあ、もういっかい♪」 「あ、あっ、そっちいっちゃ……きゃっ」 「すももっ!!」 ボールが高くあがりすぎたせいだ。 大してスピードは出てなかったけど、秋姫の額で小気味いい音が鳴った。 「えへへ…失敗失敗〜」 「ご、ごめん」 「大丈夫だよ」 「――あ」 「どうしたの?」 「雨だ」 「やんっ、どうしよっ…ぬ、ぬれちゃうっ」 「へ??」 秋姫は肩口に落ちてきた水滴を思い切り払いのけた。 まだそれほど雨は強くはないのに、何故か大慌てでくるくる回ってる。 「お母さんがくれた服、ぬ、ぬれちゃう……」 「あ、そ、そうだよな。早く戻ろう」 「う、うんっ…ユキちゃんもぬれちゃわないように、早く」 「すももっ!」 「だ、大丈夫……杖、杖を戻さなきゃ」 よっぽど慌てていたのか、秋姫は杖を出入り口に引っ掛けていた。 そうこうしているうちに降り出した雨はどんどん強くなってくる。 「こっち、このへんなら、雨吹き込んでくるのましだよ」 「ありがと、ユキちゃん、先に中へ戻ってて」 ちょうど屋内へと踏み込んだところで、後ろから不思議な旋律が聞こえてくる。 秋姫が杖を指輪に戻したんだろう。 その固い鉱石が触れ合うような澄んだ音色は、嫌いじゃなかった。 「……あれ? すもも?」 どうしてだろう、杖を指輪に戻してからすぐに秋姫は戻ってこなかった。 あんなに服を濡れるのを気にかけていたのに。 「すもも、どうしたの?」 「あ、ユ、ユキちゃん」 「部屋に戻ろうよ」 「う、うん。も、もどらなきゃ、もどらなきゃっ…あうっ」 「すごいな、通り雨かな」 窓を叩く雨粒は、さっきよりも大きくなっている。 もう少し部屋に戻ってくるのが遅かったら、ずぶ濡れになっていたところだ。 「………ど」 「そのままじゃ風邪ひくよ?」 「ど、どうしよっどうしよっ」 「なっ、どうしたの!?」 「ユキちゃんっ、さっき…あああ、どうしようっ」 「ちょっ、落ち着い…わわっ」 「もががっ、す、すもも…」 「あっ、ごめんなさい」 「は…はぁ…はぁ…すもも? わっ!!」 ――ど、どうしたんだ一体。 腕の中から解放されたと思ったら、今度はこぼれそうな瞳が間近に迫ってきた。 「もしも、もしもこうやってしずくを採ろうとしてるところをね」 「誰かに見られちゃったら…ど、どどうなるのかな」 「…はわ、ど、どうしよう、さっきのって…絶対……んだよね」 「だ、誰かに見られた? さっき??」 「……わからない、でも」 あの長い髪は……と、すももが不安げに呟いている。 長い髪って、まさか……!? 「どーしよーっ!! ふぇえん」 「うっうぎゃぁっ」 「ユキちゃぁあん、わた、わたし…どうしよお〜」 「ふももー…ふ、ふるひい…ううっ」 「ふ、ひっく、ごめんねー」 「はぁはぁ、ふー。すもも、ボクを机の上に戻して」 「うん…ひっく」 「ちょっと待ってて」 「誰かに見られた時…で探せばいいのか?」 「じゃ、無いみたいだな」 例のマニュアルは、やっぱり真っ白なページが続いている。 それでも俺は必死にページをめくりつづけた。 「ううーん…何で探せばいいんだろう」 「てか…本当に何も書いてないな……」 なげやりに開いたページに、ゆっくりと文字が浮き上がる。 驚くよりも先に、俺はその一文字一文字を目でおった。 「…れ…どる…しようれい……」 『レードルの使用例B:スピニアの活動に不都合が生じた際の使用方法』 この『向こうの言葉』を読み解くスピードも、最初の頃よりずっと早くなった。 泣きじゃくる秋姫の方をちらりと見てから、更に読み進めていくと――。 「これか!?」 『スピニアはしずくを採るところを、絶対に他者に見られてはならない』 『記憶を消去したい場合:レードルで対象者の頭部を叩く』 『杖で触れた瞬間、その者が見た『力』に関する記憶は、全て消える』 「これってつまり――」 「ユキちゃん、なにかわかった?」 「えーと…」 「見られた相手の頭を、その杖で叩けばいいんだって」 「た、た、たたく!?」 「うん。そうすれば記憶が消えるらしい」 「そんな……そんなーっ」 「でも…力を使ったところは絶対他人に見られちゃいけないって…書いてある」 「絶対…か」 「そんなの…できないよ」 「だって、そんなの……ナコちゃんを叩くなんて……」 「えっ、すもも、い、いまなんて」 「そんなのできないよ――っ!!」 「み、見られたのって、やえ――」 「指輪が……反応してる」 「こ、こんな時にっ!?」 「い、いかなきゃ……ユキちゃん」 指輪の光が部屋の中に満ち、それから一本の細い線になる。 俺と秋姫が行かなきゃいけない場所を指して――。 「す、すもも」 「なな、なに? ユキちゃん」 「あ、あのさ――さっき」 「うわわっ、だ、だいじょ…ぶ?」 「うん、ちょっと雨が跳ねただけ…ユキちゃん、濡れなかった?」 「大丈夫、すもももこけないようにしないと――」 「そうだね、雨…やまないのかなぁ」 秋姫はさしていた傘をほんの少し傾け、空を見上げた。 暗く厚い雲で覆われていて、雨足は一向に弱まりそうにもない。 「光、見失わないようにしなきゃ」 「もうちょっと急ぐね、ユキちゃん…こっちに」 「へ? わわっ」 すっと伸びてきた秋姫の腕が、俺をしっかり掴みあげる。 ほんの一瞬で俺は胸元へと引き寄せられた。 一瞬で――温かい柔らかさが、ぎゅっと俺の背中に広がって…。 「こうしてた方が落っこちないでしょ?」 「ひっ、あっ…あき…」 「走るよ」 「じゃ、なかった…すも……も」 ――ちょ、ちょっと待て――…。 走り出した秋姫の鼓動が、より早く鳴っている。 そんな音さえ簡単に聞こえるくらい、俺の体は秋姫に近い。 「あっち! 星ノ森公園のほうみたい!」 「う…ああ……まてまてまって」 「大丈夫、ユキちゃん抱っこしながらころんだりしないよ」 「ちがっ」 「いくよ〜」 「はぁっ、はぁっ…ふう」 「……う、うう…す、すも…も」 「はわっ!! ユキちゃ…大丈夫!? ま…真っ赤だよ?」 「えっ…あ、あか…い?」 心配そうに秋姫は覗きこんできたけど、なんだか目があわせられない。 俺は顔をそらすのを隠すために、あたりを見回すふりをした。 「…………あ」 「あれ……しずく?」 「えっどれ?」 「きゃあっ」 雨の音。 雫にうたれるすべり台やブランコ。 曇り空の下でも、鮮やかさを失わないあじさいの花たち――。 光に奪われた視界がゆっくりと戻ってきた。 「いま…もしかして…ちょうど」 「ちょうど星のしずくが落ちてきたところ…だった?」 秋姫が傘の柄を強く握り締めていた手をほどく。 見上げた空は、あんなに光っていたなんて思えないほど分厚い雲に覆われていた。 「みたい…だね。指輪の反応、消えちゃった」 「どこに落ちたのかなぁ。光って見えなかったよ……」 足元をはうように聞こえてきた音の先。 そこには、雨に打たれて色づくあじさいの生垣があった。 青や紫のほのかな色が、ふわりと輝く。 「ユキちゃん、しずく…あそこにあるみたい」 「ほんとだ、光ってる!」 ぽたぽたと雨粒に揺れる花たちの奥。 呼吸するように光の加減を変えて、星のしずくは輝いていた。 「今回は水の中じゃないんだな」 「あじさいの花に…落ちたってこと?」 「なのかな…」 「とにかく…近づいてみよ?」 「んー」 「見える?」 あじさいの生垣は、近づいてみると予想外に入り組んでいた。 しずくが光っている場所は幾重にも重なった花と葉の一番奥だ。 「う…うーん」 精一杯爪先立ちしているせいか、秋姫の足元が小刻みに震えだした。 「ふう〜っだ、だめ」 「結構…遠いかも…ここからじゃ無理かなぁ」 「そうだ、杖! 杖をかざしたらうまくいくかも」 「やってみる!」 「気をつけて」 秋姫は傘の柄を肩に挟むように少しだけ頭を傾ける。 杖を両手で抱えてぴんと伸ばした先が、やっとあの光る部分に届きそうだ。 「あ…手をいっぱい伸ばしたら…届きそう……」 「がんばれ、すももっ!」 「うん、も…もうちょっと……」 「もうちょっとだ、ほら」 「う……んん…あっ」 「うん、平気よ」 ……俺は何にも手伝うことができないんだ。 やっとそこに手が届くかどうか。 そんな風につま先立ちで震えている秋姫の、こんなにそばにいるのに。 「すもも、がんばれ!」 「…言葉を……」 「プルヴ…ラ…」 「きゃんっ」 「わわっ!?」 ぬかるみに足をとられたのか、秋姫の体が大きく傾いた。 「あぶなっ」 「――んっ、だっだいじょぶっ……えっ?」 「なななんだっ?」 「ど、どしたんだ!? なんでしずく…こんなに暴れ…わっ」 「わたし、さっき言葉…途中でとめちゃったから……」 「ま…まってぇ……」 「すもも、そ、そんなに走る…なっ」 「で、でもっ」 光の尾を引きながら、しずくは俺と秋姫の頭上を越えていった。 まるで暴れまわるように、雨の中を飛び回っている。 「ど…どうして…はぁ…言葉を…とめたか…ら?」 「しずくって…水…水のところにいくんだよ…な」 「はぁっ、まって…まって――」 「水…あっ雨、雨が降ってるから、飛び回ってるの…か?」 「――落ちてくる…あっちね!」 「わわっすもも、か、傘……」 「――っ!!」 目が回った――…。 もう少しで、俺は秋姫の肩から振り落とされるところだった。 でも今はそれどころじゃない。 「………う…ユ、ユキちゃん、濡れなかった…?」 「そんなことより、すももがっ」 「う、うん…びしょぬれ…だね」 「……すもも、もういいよ。しずく、また降ってくるから!」 「だめだよ…だってもうちょっとだもん………」 「もういいよ、ほら傘を拾おう」 「……だめ。だめだもん……あっ」 「今度こそ――頑張るっ」 「もうちょ…もうちょっと……ほらっ採れた!」 「すもも、だめだっ! 杖…あぶなっ――」 濡れていた杖は、秋姫の手からするりと滑りおちていく――…。 雨の雫が伝っていたせいだ。 もっと早く、俺がそう言えばよかった。 「……ごめ…んね…わたし…またうまくできなかったみたい……」 「いいよ、そんなのっ」 「………ごめんね」 「それよりも――」 「や、やえっ……」 「すもも、どうしたの!?」 「な、なな…ナコちゃんっ!」 「傘もささないで…こんなに濡れて。風邪、ひいてしまうよ?」 「あの…そ、それは……」 「何かあったの?」 「ううん、こ、これは…えっと…」 「あ、あぶないっ!!」 「う、うそっ!」 「しずくが!」 「そっちへいったわ!」 「わ、わわわっ」 とっさに八重野が振り上げた傘が、星のしずくをバウンドさせた。 飛び上がったしずくは、弧を描きながら俺と秋姫の方へと落ちてくる。 秋姫も、その肩にしがみついていた俺も、何故かその光景をスローモーションで見ていた。 「ハッ! そうだ…こ、ことばを!!」 「プルヴ――…」 「ラディ!」 「と、採れたぁ!」 「――…きれい」 杖の先端で揺れていた星のしずくが、ゆっくりと落ちてくる。 秋姫の言葉を聞いたしずくはもう飛び跳ねることもない。 「すもも」 「あっそうだ…瓶…瓶にいれなきゃ」 雨で濡れた手が滑らないように、秋姫は慎重に瓶のフタを開いた。 「ハァ」 「よかった…ちゃんと…採れたよ」 「ふふ」 「ユキちゃんユキちゃん、ほら、星のしずくっ!」 ……終わった。成功だ。 秋姫、よっぽど嬉しかったんだろう。 しずくが揺れるガラス瓶を、俺の方へと満面の笑顔で差し出してきた。 俺もなんだか、嬉しくなって――……あ。 「……どうしたの?」 「あの…その…やえ…じゃなかった、友達…」 「あっナコちゃんはね、わたしの幼馴染。ほら前にお話しなかった?」 「そ、そうじゃなくて」 「えっ? どうしたのユキちゃ……!!」 「ど、ど、どうしよう」 「と、とりあえず」 「おれ…や、ボ…ボクと話してるのもだめだろ」 「はっ! そ、そうだよね」 「あああっ、つ、杖とか、戻さないと」 「そ…そっか! うん、わかった」 「すごいね、まるで魔法みたいだ」 「はっはわっ」 「しまった……ますますあやしまれてる…」 「ど、どうしよ――っ!?」 「わ、お、落ち着…いて」 「で、でもでもっでもっ」 「どう…しよ」 「逃げる…か?」 「えええっ!? 逃げる…の?」 「それしか思いつかないよ……」 「うぅ……」 「ひゃっ!?」 「さっきからうつむいてるけど……大丈夫?」 「あっあの…ううん、大丈夫だよっ」 「なら、よかった」 「えと…その…ナコちゃん、わた、わたし」 秋姫がはっと顔をあげた時に、八重野はもうしっかりと細い手を握り締めていた。 「ナ、ナコちゃんっ?」 「私の家に寄っておいでよ」 「で、でも」 「だって、そんな風に濡れたままじゃ……風邪をひいてしまう」 「あ…」 「うちは大丈夫だから。ねっ」 「あ…う、うん……」 「ユキちゃん…どうしよ」 「行くしか……ないかな」 「…うん」 「私の傘、結構大きいから濡れずにすむよ」 「ありがと、ナコちゃん!」 ……八重野は秋姫の前では、こんな風に笑うんだ。 頭上にかざされた傘は、秋姫を雨からしっかり守っていた。 「いこうか」 「う、うんっ」 俺と星のしずくをぎゅっと抱きしめた秋姫と、八重野。 なんだかヘンな組み合わせだ。 雨の中を三人…いや、俺は一人に数えるのはおかしいか。 二人とプラスアルファの俺たちは、雨の中をゆっくりと歩きだした。 「な…なんか…すごく大きな家なんだな」 初めてやってきた八重野の家は、純和風の重厚な邸宅だった。 玄関から風呂場へと通される時にも、まるで旅館みたいな中庭が見えた。 そんな作りの家を実際に目にするなんて、初めてだ。 「そうなの、ナコちゃんちって結構古風なお家なの」 「へえ」 「畳のお部屋とかもたくさんあるんだよ」 「……ほんと旅館みたいだな」 「な、なんでもないよ」 「ごめんね、少し遅くなっちゃった」 「…………っ」 「え、あ、ううん」 「ほら、早く体を温めないと風邪ひいてしまう」 「はい、タオル。本当に遠慮しなくていいから」 「ほら、はやく! 体が冷えてしまわないうちに――」 「ユキちゃん、あの…とりあえずわたし、お風呂はいってくる」 「わ…わかった……わわっ!!」 「〜〜〜〜〜〜っ!!」 すっかり秋姫に気を取られていた。 気がついた時には、俺はすでに八重野の手の中だった。 「(お、おいっ何するつもりだ、八重野っ!!)」 「あああ…あのっ、ナコちゃんっ、その子は」 「これ…なんだかすごく大事にしてるものみたいだね」 「大丈夫。こっちに置いておけば、濡れないよ」 「……あ。ありがとう」 「はい、君はここにいなさい」 作りつけの棚の上に、俺はぽんと置かれた。 いつもよりもほんのすこし柔らかな表情の八重野の顔。 八重野も秋姫みたいに、ぬいぐるみに話しかけるタイプなんだろうか。 「じゃあ、お風呂かりる…ね、ナコちゃん」 とにかく今は黙ってなきゃいけない。 ………これ以上、八重野にあやしまれないようにしなきゃ――。 「……ん、んしょ」 「大丈夫? 服、濡れてるから脱ぎにくい?」 「う…うん。ちょっとだけ」 一歩だけ前に出た八重野の肩の向こう。 そこで秋姫は、あの服を思いっきり上へとたくし上げていた。 や…今から風呂なんだから…脱いで当たり前か。 脱いで…当たり前……。 「〜〜〜っ!?」 「ほらこっち…持ってあげるね」 「ありがとー…もうちょっとで…うん」 ――えっと、俺は。 俺はどうすれば…そ、そうだ目をつむればいいか。 「ふえ…ブラまでちょっと濡れちゃってる」 「(…あ、秋姫!? 今なんて)」 「――ぅあ」 「それなら…少しだけ乾燥機にかけておこう」 「そこの中に入れておいて」 「うん。じゃあお風呂入ってくるー」 「(な、なんなんだよ…さっきから)」 「(う、わわっ)」 「〜〜〜〜〜っ」 「………ふにふに…だ」 「(ふ、ふにふに!?)」 「(う…は、早く離してくれないかな)」 「ふーん…」 「(――わわっ)」 八重野の視線がふっと斜め下へと傾いた。 何かに気づいたのか、八重野は俺を棚の上に置いてからしゃがみこんだ。 ようやく解放されたんだけど――……。 「これ……」 「な、なにする――」 「(しまった!!)」 「今喋ったのは、きみ?」 「きみだよね?」 「――だよね?」 負けてしまった。 秋姫、ごめん。 八重野の静かな尋問に、俺は負けてしまった。 「そうなんだ、きみは喋ることもできるんだ」 「うっ!?」 「飛んだり動いたりしてたのは見ていたけど」 「(あ…、あああ〜そうだ! 全部見られてたんじゃないか!!)」 「なかなかおもしろいけれど……今は話し相手になれないよ」 「あ、そ、それ――」 八重野は秋姫のあの服を持って、洗面所のほうに向かう。 そうだ、俺がうっかり声を出した理由はそのせいだった。 「(一体何をするつもりなんだ?)」 「……きみも洗ってほしい?」 「い、いいっ!!」 「……ふっ」 「(八重野――もしかして)」 「よかった。シミになる前にきれいに落ちた」 振り向いた八重野は、スカートの端を優しく叩いている。 水に濡れてできていたシワが、そっと伸びていった。 ……もしかして、秋姫のためにあの服を洗ってやったのか? 「……ナコちゃん」 「すもも、ちゃんと体は温まった?」 「私の服…すももにはちょっと大きいかもしれないけど」 「すももが着てた服、濡れていたからね」 「わ…ご、ごめんね」 「いいよ」 丁寧に折りたたんだ服を、八重野はきれいな紙袋にいれた。 俺が知ってる八重野ってイメージが、どんどん変わっていく。 小さい頃から仲良しだという秋姫には、あたりまえのことなのかもしれないけど。 「サイズ…大きすぎなかった?」 「ぜ、ぜんぜんっ、大丈夫だよ」 「よかった。あとこの服は、帰ってからちゃんと洗濯した方がいい」 「うん、ありがとう」 「そうそう、こっちの子は…お風呂入りたくないそうだよ」 「えっ、あっ、ユ、ユキちゃん」 「ユキちゃん……っていうのか」 「あっ、え、えーと……」 「………すもも。バレちゃった」 「ええええっ!?」 秋姫は今にもひっくり返りそうだ。 俺だってもう、頭の中はパンクしそうだ。 「あわっあのっ、ナナ、ナコちゃん、えっと」 「可愛いね、それ。今度私もゆっくり話したいと思ったよ」 ……何故か一番冷静なのは、八重野だった。 「あの……ナコちゃん」 「撫子ーっ、お風呂はもういいの?」 「お母さん、私のこと呼んでいるのかな……ちょっといってくる」 「ちゃんと髪も乾かしてね」 すりガラスの向こう側で、八重野の姿が遠ざかってゆく。 木製の廊下を踏んでいく足音が聞こえなくなってから、俺は秋姫の顔を見た。 「…やえ…あっ、あの友達さ」 「ナコちゃん?」 「ナ…ナコちゃん…」 「ナコちゃんて、なんかいい友達だね」 「うん、いつもわたしのこと心配してくれたり、一緒にいてすごく安心するの」 「……へえ」 「もしかしたら、一番ずっと一緒にいるかもしれないなぁ」 「ずっと一緒かぁ」 ずっと一緒にいる……。 女の子同士の友達って、そんな感じなんだろうか。 すりガラスの向こうが見えているかのように、秋姫はずっとそっちを見ていた。 「――はっ!」 「な、なんかすごく和んじゃったけど…わ、わたし…」 「ユキちゃんとわたし、なんかいろいろバレちゃってるよね? ナコちゃんに」 「ごめんごめん、お母さんが向こうでお茶を用意していたの」 「えっ、でも、そ、そんなのっ」 「いいよ。あと…もう遅いから帰りはお母さんが送ってくれるって」 「えええっ」 「本当は私が送っていこうかなって、思ってたんだけど」 「そんなの、悪いよ」 「だめ、もう外は暗いからね」 「うん……」 「決定。居間に冷たいお茶が用意してあるから、いこう」 あたふたと言葉につまる秋姫とは正反対に、八重野は普段と変わらない様子にしか見えない。 まるでさっきのことなんて……あの、星のしずくを採ったことなどなかったみたいに。 「い、行っても…いいよね」 「…うん。おれ……ボクは声出さないようにしないと」 「そ、そうだね」 「あ…ま、まってナコちゃーん」 結局、帰りは八重野のお母さんが車で送ってくれた。 もう時間も遅かったし、その厚意はすごくありがたかった。 秋姫はきっと何度もそんなもてなしを受けてるんだろう。 八重野のお母さんのうちとけた笑顔を見ていると、そんな気がする。 だけど帰り道、秋姫はあの服の入った紙袋を抱きしめたまま、ずっと黙っていた。 「(秋姫…大丈夫かな)」 部屋に戻ってきてすぐ、秋姫は一度洗濯すると言って階下へ降りていった。 その時の横顔、なんだか悲しそうだった。 「(俺、どうしたらいいかな)」 「あ、おかえり」 「洗濯、おわった?」 「うん、きれいになったよ」 自分の部屋に戻ったとたん、気が抜けたんだろうか。 秋姫はベッドにぱたんと体を沈めた。 「……ん」 「あ、わ、忘れてた…しずく、置いておかなきゃ…ね」 「う、うん……」 ゆっくり起き上がり、ポケットの中に入れていたガラス瓶を棚に置いている。 なんだかひどく疲れているように見えた。 「(前はあんなにはしゃいでたのに)」 棚の上には二つのガラス瓶が並んでる。 初めに採った『しずく』は未だ輝きを失わず、ほのかな赤さを揺らしていた。 そして今日採ったしずく――橙色の光を宿したガラス瓶。 互いの光を映しているガラスは、きれいだった。 「すもも、疲れた?」 「ううん」 「もしかして、調子悪い?」 「……雨に、あたったから」 「ううん、大丈夫…いけない、パジャマに着替えないと……」 八重野に『しずく』を採るところを見られたから、だろうか。 本当なら、俺の方こそもっと慌てなきゃいけないはずだ。 けれど、あのまるで『何もなかった』みたいに静かな表情の八重野を思い出すと、不思議とそんな気にはならなかった。 「――んん」 「……すもも、ねえ」 「ユキちゃん、こっちくる?」 「あ、うん」 大きなクッションに半身を預けた秋姫のもとへと歩み寄る。 そばに座ると、横顔がすぐそこにあった。 「すもも、どうしたんだよ」 「あのね」 「星のしずく採ってるところとか…人に見られちゃ、ダメなんだよね」 「うん、絶対に……って、本には書いてあった」 「ナコちゃんは、すごくすっごく大事なお友達なの」 「うんそれは――」 ……知ってるよ。 もう少しで言葉にでてしまいそうだった。 俺は今日初めて八重野と秋姫のことを知ったことになってるんだよな。 ぬいぐるみの、ユキちゃんとして。 「さっき下でお洋服を出したら、たぶん泥か何かがはねたんだと思うんだけど…」 「スカートの所、きれいに洗ってくれたあとがあったの。……ナコちゃんがしてくれたの」 「だから」 「だから、できないよ。記憶を消しちゃうなんて……できない」 「でもあの不思議なことに関係することだけ――だよ」 「うん。でもねユキちゃん、ナコちゃんがお洋服を洗ってくれたことは消えちゃう」 「あのお洋服は……力を使った時のものだもん」 「えっ、すももの記憶は消えないんじゃ」 「ちがうの、ユキちゃん」 「……ナコちゃんが…、わたしのお洋服を洗ってくれたこと――」 「そんなナコちゃんの優しい気持ち、消すことなんてできないよ、わたし……」 「どうしてなんだろ…くすん…わたしが悪いんだよね」 「だって、しずくを採る練習とか…見られて…おまけに手伝ってもらうなんて」 「ぐすん…すん…うえーん、ユキちゃあんーっ」 「わわわっ」 「ふえ…ユキちゃん…わたし…わたし」 「もがっ、ふ、ふもも…」 「どして…うえっ」 「うううっ…げほげほっ」 「失敗…ばっか…しちゃうのかなぁ」 「し、失敗ばっか?」 「や、あの…星のしずくは採れたし」 「でも、ナコちゃんに見られちゃった」 「うーん…」 「うわぁああん」 「ちょっちょっと、そんな泣き……」 「だって、だって……ふぇえん」 「うわぁあああん」 「――っ!?」 ――く、苦しい!! ――いきいき、息ができな――……。 「あれ? ユキちゃん…眠っちゃったの?」 「ぐすん…すん…もっとお話したかったのに…でも今日はユキちゃんも疲れてるよね……」 いつの間に眠っていたんだろう。 眠ったっていうか、気絶したような――気がするけど。 「ユキちゃ……」 「な、なんだ、寝てるのか」 秋姫は俺の真横で、枕を抱きしめるようにして寝息をたてていた。 「疲れてたもんな」 ふっと、本に浮かんだあの文字が思い出された。 『絶対』という言葉に、秋姫はぴくんと肩を震わせていた。 「……これ、日記…じゃないか」 『ナコちゃんのコト すごくだいじ。やさしいキモチ、 うれしかったよ』 「……秋姫」 いつの間に書いていたんだろう。 眠りに落ちる前かな…少しだけ斜めに傾いた小さな文字。 「…すう…すう…んん」 「本当に八重野のこと、大事なんだな」 ぎゅっと枕に顔をうずめる秋姫の目元は、まだ少しだけ赤い気がする。 「(明日、如月先生に相談してみるか)」 「(八重野の記憶を消したりしないですむ方法、ないか――)」 かすかな光に振り返ると、それは例の本から発せられていた。 「な、なんだ…なんで光ってるんだ?」 「わっ!?」 開いたとたん、何も書いていなかったはずのページに文字がゆっくりと浮かび上がっていった。 「これ…えっと…この文字は…これで…」 「……と、こっちはこれ…か」 「――え?」 一文字も間違わないように、俺は目をこらして解読していった。 新しいページに刻まれた、新しい文字……それは。 「……ん…ユキ…ちゃ…」 「ね、寝言か…よかった」 慌てて本を閉じると、光はぴたりとやんだ。 さっきまでと同じ薄闇のなか、俺はそっと秋姫のそばへ向かった。 「秋姫、もしかしたら」 「秋姫が心配していたこと――大丈夫かもしれないぞ」 「……ふにゅ?」 俺の言葉に返事したわけじゃないだろうけど――。 秋姫は寝顔のまま、枕を抱き寄せ頷いた。 ――昨日の雨はすっかりあがり、校舎の窓の向こうは遠くまで真っ青な空が広がっている。 梅雨なんてことをすっかり忘れさせる晴れ空だった。 視線を教室内へ戻すと、衣替えの時期になったこともあり、夏服を着た生徒と冬服を着た生徒が混じっていた。 「おーいっ」 「い…ててっ」 「ハル、なんか今日ぼーっとしてるなぁ」 「まあ、石蕗って結構ぼーっとしてる方だけどさ」 「そんなこと――」 「すもも、行こうか」 「え、あ、うん……」 (もし…もし昨日俺が考えたとおりなら) (なんだか、全部うまくいきそうじゃないか?) 「ハル?」 「――ごめん」 「石蕗?」 「俺、ちょっと用事」 「ちょ、ちょっと! 授業、遅れるよっ」 「ハ、ハル〜!?」 「如月先生!」 「な、ななっ」 「びっくりしたじゃないかー…。ドアはもっと丁寧に。それでなくてもここの建物古いのに……」 「あ…す、すみません」 「で、そんなに急いで何の用事でしょう?」 「あ…えっと…話せば長くなるけど……」 「手短にして」 「いや…休み時間そんなに長くないからね」 「は…はあ」 この人を前にすると、やっぱり調子を崩される。 ためいきをついてから、俺は昨日あった出来事すべて――星のしずくを採ったこと、八重野に見つかってしまったこと… そして真夜中、例の本に浮かび上がった文字のことを話した。 「どれどれ、ちょっといいかな?」 「ここです」 「……これは」 「……ああ、そうか…八重野さん、だもんなぁ」 「この文字――『信じあうもの同士が許される』ってどう意味ですか?」 「意味…ね」 如月先生の顔が何故か一瞬固くなった気がした。 「石蕗君、フィグラーレの力に関わる者は秘密を守らなきゃいけないんだ。わかるかな?」 「――なんとなく」 「もしも『こちら側』の人にそれを見られたら、秘密を守るために記憶を奪わなきゃいけない」 「如月先生、俺はそのことで相談が……」 「だが」 「たった一つだけ、その決まりごとを覆すことができるんだよ。それがここに書かれている方法」 「信じあう者…互いに疑いを持たない者同士なら、その秘密を許しあうことができるんだよ、たった一人だけね」 それなら、八重野の記憶を奪わなくてもいい。 秋姫と八重野の二人は、その条件――信じあう者――に充分かなうだろう。 「――どうやってやるんですか」 「知りたいの? どうしてそんなに焦ってるのかな?」 「秋姫と八重野は…仲良しだから」 「たぶん俺にはわからないくらい、お互いを大事にしてると思うから」 「方法は簡単だよ。ほら、ここに記された言葉を相手に触れながら唱えればいいんだ。『許される者』の体にしるしが現れたら完了」 「しるしのある人は、例えレードルで叩いたとしても記憶が無くならない」 「この言葉……」 真っ白だったページに刻まれたその言葉。 泣きつかれて眠ったような、昨日秋姫の横顔が頭に浮かんだ。 「ありがとうございます」 「待って、ちゃんと僕の話をきいていたかい? 石蕗君」 「……? はい」 「それがどういう意味なのかもわかった?」 「本当に?」 「わかりました!」 予鈴が廊下に鳴り響いた。 教室を出る時、圭介や深道に投げかけられた言葉を思い出す。 急がないと、本当に遅れるな。 「じゃあ、戻ります」 「……気をつけるように」 「……まあ…大丈夫、かな」 「あ、みんな帰ってきた〜」 扉を開けたとたん、雨森の高い声が響きわたる。 スポーツ科目を選択してないクラスメイトたちが、思い思いの場所で何個かのグループを作っていた。 「おかえり! この天気じゃ、そっちって大変だったんじゃない?」 「うんもう最低っ、オレも美術とか音楽を選択しときゃあ良かった」 「そんなのだから、体がなまるっての!」 「……あれれ?」 「石蕗くん、さっきからなぁんでそんなにキョロキョロしてるの〜?」 「えっ、いや……あのさ、秋姫と八重野は?」 雨森たちが帰ってきているなら、秋姫や八重野が帰ってきてるはず――だけど、教室のなかに二人はいなかった。 「すももちゃんと、ナコさん?」 「確か雨森たち、同じ選択科目だったよな」 「そ〜だよん。さっきまでそこに……あれ?」 「八重野さんたちなら、もうクラブの方に向かったよ?」 「ほんとに!?」 「……う、うん」 「………そっか」 「私たちの方の授業、今日ちょっと早く終わったから……先に行ったんじゃない?」 「うんうん〜! のんちゃんたちが帰ってくるまで、十五分くらい待ったよぉ」 「あっ、石蕗くん」 「なんだか残念そうですねぇ〜、石蕗くん」 「あ、ほんとだ。そんな顔してる」 「どれどれ〜?」 ……残念? 何が、残念なんだ? 雨森がヘンなことをいうから、圭介も深道も皆して俺の顔を覗き込んでくる。 「残念じゃない」 「本当〜? 置いてけぼりくらって寂しいんじゃないの〜?」 「違う!」 「あれ、ハル…?」 「クラブ行く」 「やっぱり寂しかったんだぁ〜でも仲間はずれじゃないですよん♪」 「違うってば。じゃあな!」 「バイバーイ、石蕗くん」 「ねえ」 「なんだか石蕗くんって……ちょーっとだけ何か変わったと思わない?」 「フローラもそう思ってたんだ?」 「もっちろん弥生もですよ〜」 「え、な、なんのこと? オレわからないんだけど」 「え? ほんとに、な、なに?」 「……あんた、やっぱり石蕗の友達だわ」 「いてっ!」 「………はぁ、はぁ」 教室から飛び出した俺は、まっすぐ園芸部の方へと向かった。 旧校舎の裏側へとたどり着く頃には、もう背中にじっとり汗がにじんでた。 なんだか蒸し暑い。 もしかしたら、一雨くるのかもしれない。 「あ、秋姫……」 「石蕗、どうしてそんなに急いでるの?」 「いや、別に……」 さすがにもう、秋姫は八重野の後ろに隠れることはなかった。 けど、やっぱり教室や廊下でいきなり出くわしたり、こっちから突然話し掛けるとこんな調子だ。 (…ユキちゃんの時の俺に見せるような元気があったらなぁ) (っていうか、秋姫が元気だったら何が変わるっていうんだよ……俺) 「あの、クラブ」 「遅れてごめん」 「あっ、きょ、今日はっ」 「今日は――」 「……ご、ごめんナコちゃ…ん」 「う、ううん、な、何もないよ。ナコちゃんが言って」 「今日は図書室で調べものをしただけだよ」 「調べ……もの?」 「梅雨はいろいろ気をつけないといけないからね」 「ああ…雨とか、多いから」 「ええ。でも調べるのはすぐに終わったから、大丈夫」 「すもも、今日はどうしようか」 やっぱりだ。 やっぱり、今日の秋姫はどこかおかしい。 俺に対してだけじゃなく、八重野にまでなんだかおかしい態度だ。 「あっえっと…ごめん…あれ?」 「この後はどうしようか?」 「ん…ナ、ナコちゃん決めちゃってほしい…な」 「じゃあ今日は土の様子だけ見て、帰ろうか」 「俺も行くよ」 (……やっぱり、昨日のこと…なんだろうな) あの後、俺たちは園芸部の花壇のもとまで向かった。 雨の多いこの季節、土の水分には気をつけなきゃいけない――。 八重野は俺にそういいながら、花壇の土を丁寧にならしていた。 いつもなら――俺の知ってる八重野と秋姫なら――いつだってそんな時、二人で教えてくれた。 「すもも、体調悪いの?」 「えっ? そ、そんなことないよ」 「そうか、うん。なら、良かった」 帰り道、八重野と秋姫はいつも一緒だ。 部活が終わったら、八重野が自転車を取りにいって夕暮れの中を秋姫と並んで歩く。 そしてその後ろに、時々俺がいる――それがここ最近の習慣になっていた。 俺のいる学生寮が一番学園から近い。 だからこうして帰りが同じになっても、いつもすぐに別れてたけど……。 それでもわかった。 今日の八重野と秋姫が、互いに言葉が少ないってことが。 「ナコちゃん、本…良かったら今日とりにくる?」 「ありがとう。でも一度家に戻るよ」 「うっ、うん」 「それじゃ、俺はここで――」 「あっ、さ、さよな……」 「お願いがあるんだ」 「なっ、なに?」 突然のことだった。 秋姫の隣に並んでいた八重野が、いきなり俺の前に一歩踏み出してきた。 唇を一文字に結んだその表情に、何か叱られるんだろうか…なんて思ってしまった。 「ちゃんと送っていって、すもものこと」 「――えっ!?」 「ちゃんと…って?」 「家の前まで、ちゃんとという意味」 「俺が、秋姫を家の前まで送っていくって……ことだよな」 「えっえっ!? ナ、ナコちゃんは?」 「ごめん、すもも。少し寄っていかなきゃいけない所があって」 「……そうなんだ」 「大丈夫、後ですももの家に行く約束は守るから」 「で、でもでもっ…ナコちゃ…」 「……雨」 「降ってきた、ね」 空の色はそんなに暗くない。 雨粒は小さく霧のようだけど、だからこそ長く降り続きそうな雨だった。 「すもも、傘はもってる?」 「あっ……ううん」 秋姫がほんの少しうつむいて首を横にふった。 そうしているうちにも、水滴が制服の上に小さなしみを作っていく。 「そっか、じゃあこれ……はい」 「この季節は、いつも持ち歩いておかないと」 八重野が鞄から出したのは、軽そうな折りたたみ傘だった。 まるで新品みたいにきちんと折り目がついているところが、八重野らしい。 「でも、ナコちゃんは……?」 「私は自転車だから」 「平気よ。それにすぐ近くの親戚のとこに寄るから、そこで借りる」 「ほんと?」 「本当」 秋姫がどれほど遠慮してみても、八重野は一向に差し出した手を引かなかった。 「あ……ありがとう、ナコちゃん」 「すもも、昨日みたいに無理しちゃ…だめだよ?」 「風邪をひいてしまうから」 「………うん」 秋姫の声は明らかにとまどっていた。 きっと昨日のことを思い出しているんだ。 「じゃあ、また後で」 「石蕗、よろしく頼むね」 八重野は走るように自転車を押して、サドルに飛び乗った。 あっという間にその後姿が遠くへと去ってゆく。 「はっはいっ」 「えーっと、ちゃんと送ってく…から」 「あ…ありがとう…です…あっ!」 「つわ、石蕗くんも風邪…ひいちゃう……」 「きゃっ、ごめ、ごめんなさいっ」 秋姫が俺の方へと傾けたカサが、肩にぶつかりそうになった。 とっさに体を引いた俺を、秋姫はびっくりしたような目で見つめている。 「わ…わたし小さいから…背…」 「平気だよ」 「でも雨――」 「そうだ、寮の中にあったかな」 「ちょっと待っててくれる?」 「あっ、えっ?」 「傘…取ってくる」 「すぐ戻ってくるし、そしたらちゃんと家まで送ってく」 「はっははいっ」 八重野から渡された傘をさした秋姫は、うつむいたまま口を閉ざしていた。 この雨が昨日のことを思い出させているんだろうか。 朝からずっと感じる、二人の間の小さな壁。 俺にさえわかるほどの、強い壁……。 「――っ!」 「あ、ごめん」 「い、いえ、はい……」 「……元気?」 「えっええ?」 (…しまった、元気じゃないのはわかってるじゃないか) 「えと…はい…」 もし…もしも俺が、昨日のことを何も知らなかったら。 俺は秋姫と八重野が、ほんのちょっとケンカでもしたんだって思っただろう。 「はっはい」 「あ、フツーに…喋ってよ」 「あ、ご、ごめんなさ…い、はい」 「えーと…うん、とかでいいから」 「えっあ…う…ん」 「元気…なら…いいけどさ」 「元気……」 秋姫と歩幅をあわせてゆっくり歩く。 視界の中の風景がいつもよりゆらいで見えるのは、雨のせいだろうか。 「傘……」 「俺が寮の中にいって、二本取ってくればよかったんだよな」 「今更、だけどさ」 「う、ううん…」 ふるふると頭を大きく振ってから、秋姫はまたうつむいた。 また俺の言葉がきつかったんだろうかって思ったけど、違った。 秋姫の頭の中は、きっと昨日のことでいっぱいなんだ。 今にも泣きそうに、八重野のことをどうしようって……考えているんだ。 「どうしたんだよ」 「……つ、つわぶき…くん?」 「ごめん、だけど……秋姫が違うから」 「ち、ちがう?」 「いつもと」 「あ、あの」 「つ、石蕗くん…には、大切な友達っていますか?」 「え、あ…うん。たぶん」 「小さな頃からずっとずっと一緒で、なんでも知ってて……」 「隠し事なんてしたことないの…本当に何でも話せて、大切で――」 「話、続けて」 「その友達に」 「大切な人の心に嘘をついちゃうことって……ダメ…だよね」 秋姫の足がふっと止まった。 一瞬遅れて立ち止まった俺は、斜めうしろの秋姫の顔を見た。 「――…」 小さな雨粒をはじく傘の下で、秋姫の目が俺を見上げていた。 こんなにまっすぐに俺は秋姫を見たことがないし、秋姫もきっとそうだと思う。 「……わ、わたし…こんな話…ごめんなさい」 「ダメ、なのかな」 「嘘にも…いろんな意味があるから」 「いろんな…意味?」 「えっと…なんていうか」 「その…たぶん、たぶんだけど」 「大事に思ってるんだろ、その友達のこと」 「じゃあそれでいいと思う」 「い、いい?」 「ごめん、うまく言えない」 ――俺、何が言いたかったんだ。 隣に並んだ秋姫の背は、俺より頭ふたつぶん以上小さい。 困ったような横顔に、言いたかったことはひとつだけだった。 (八重野の記憶、消さなくてすむ方法があるんだ) でもそれは言えない。 今の俺は『ユキちゃん』じゃないから。 何もかもが自由にできる自分の体なのに。 何もできないもどかしさは、結局一緒ってことなのか……? 「石蕗く……」 「八重野、わかってると思う」 「秋姫が八重野のこと大事なんだってこととか、なんとなく」 「石蕗くん…わかって…たんだ」 「なに…が?」 「その…わ、わたしの大切な…友達がナコちゃんってこと」 「あっ、そ、それは、同じクラブだし、その」 「いつも一緒だろ」 「秋姫と八重野」 「あっえ…うん…そ、そう…だよね…うん」 「雨……ちょっとずつ、やんで…きてるね」 「本当だ」 顔をあげると、雨雲の端が少しだけ明るくなっていた。 「でもまだ気をつけないと――また降ってきそう」 「あっあの、石蕗くん…」 雨粒が傘の上で跳ねる音の狭間で、秋姫の小さな声が聞こえてくる。 「あの…ご、ごめんね」 「え? な、なにが?」 「その…えっと…なんとなくだけどわたし、ずっと……ごめんなさい」 「え? なんで謝る…の?」 「わたし…ほ、ほんのちょっとだけ…石蕗くんのこと…」 「ちょっとだけ…こわい人かもって……」 秋姫の声をかきけすように、遠くから鐘の音が響いてくる。 街のはずれにある、展望台の時計の音だ。 「――あっ!!」 「ひゃっ」 空がずっと雲に覆われていたせいで、気づかなかった。 下校してからもうどれくらい時間がたったのだろう? 「ごめん、ちょ、ちょっと俺っ」 日没まで時間がどれくらいある? もしも、もしも秋姫の前でその時間をむかえてしまったら――。 『ちゃんと送っていって、すもものこと』 「……あの、秋姫ん家はもう…すぐ?」 「う、うん。あの角を曲がったら…すぐ……」 「ちゃんと送るから」 「えっ……」 「でもゴメン、ちょっとだけ…急いでいい?」 「えっえっ……?」 (――やばいな) ちらりと自分の時計に目をやる。 時計の針は、晴れていたなら、空が真っ赤に染まっている頃を指している。 けど、秋姫はそんなこと知らない。 どうしてなんだろうって目で、俺の顔を見ていた。 「ほんと、ごめん」 俺は秋姫の腕に手をやり、そっと引いた。 「あ、あのっ、つ、つわ……」 「――ちょっと速すぎる?」 「う、ううん、ち、ちがっ」 「こっちだよな」 「うんっ、そ、そっち――…あ、あの」 「……はぁ、はあ、ふう」 「平気?」 「ごめん、俺の勝手で」 「ううん、お、送ってもらった…から……ふう」 真っ赤な顔をして立つ秋姫は、それきり黙ってしまった。 ここまで走らせてしまったせいか、小さな肩が上下している。 (ごめんな、でも…そうだ) 「きっと、うまくいくよ」 「秋姫、友達とか、すごく大事にしてるから」 俺はそのことを知らないけど。 俺が『ユキちゃん』の時に見た、秋姫が八重野のことを思う気持ちは知っている。 だから…あの言葉が本に浮かび上がったんだ。 「石蕗く――」 「…また明日」 「あっあっ……」 顔をあげると、雲間から陽光が覗いている。 傘を叩いていた雨音は、いつのまにか止まっていた。 「石蕗くん……」 秋姫と別れ、大急ぎで寮に帰ってきた俺は、いつものように窓を少しだけ開けた。 例の本はちゃんと近くに置いてある。 今日、ぬいぐるみになって秋姫の家にいったら一番に言おう。 八重野の記憶を奪わなくてもいいことを。 ……喜んでくれるだろうか。 きっと――……。 「……あれ?」 おかしい。 「時計、壊れたのか?」 窓の外に広がる風景。 また少し曇りだしていたが、西の方は雲が切れていた。 「なんでだ? もう…日は沈んでるのに……」 右手、左手…そして床の上に立つ足に目をやる。 見慣れた自分の手足だ。 「な…んで?」 「ええっと、この科目はぁ…うん、この本がいる〜」 「あっあれれ、トウア…それわたしの時間割だよ……」 「……まったく、なんで毎日ここで明日の用意するんだ」 「だってぇ一人でやったらい〜っぱい忘れ物するんだもん……あっ」 「ハルたんだっ!!」 寮のロビーには、三つ子が全員揃っていた。 いつものことだけど、一番にぎやかな冬亜が早速俺を見つけ駆け寄ってくる。 「どっこいっくのぉ〜!?」 「……ちょっと」 「おもしろいとこ?」 「い、いや、そんなじゃなくて」 「トウア、邪魔するなってば」 「どこに行くか知らないけど、雨が降るよ」 「え? さっき止んでたのに」 「また降ってきてる……そこの傘、持ってけよ」 何本かの傘が無造作に置かれたままの傘立てを、麻宮は指差した。 誰のものってわけでもなく、雨が降り出せば誰かが持っていってはまた置いてを繰り返してるやつだ。 手近にあった一本を抜き取る。 ついでにロビーの時計で、時間を確認する。 (この時間じゃ…如月先生、もう帰ってるかな) 「じゃ、ちょっといってくる」 「……じゃあ」 「いってらっしゃいです……」 「ハルた〜ん、気をつけてぇ〜!」 麻宮たちの声を背に、俺は再び走りだした。 ……どうしたらいいとか、何故なんだって思いよりも先に体が動いていた。 傘をさしながら走ったけれど、顔や肩に濡れた感触が広がってる。 (日が沈んだってのに、俺の体はどうしてそのままなんだ?) 角を曲がって、そのすぐ先。 俺は目をこすって、もう一度その光景を見た。 八重野、だった。 雨の中、道路際の壁に自転車をたてかけてしゃがんでいる。 雨粒が八重野の長くてまっすぐな髪の上で、きらきら輝いていた。 八重野はいきなり立ちあがった。 俺の方を振り向いたその顔は、ひどく驚いていた。 「あ」 「いけなっ――」 「あぶなっ…っとと」 ……間に合った。 とっさに伸ばした手が、タイミングよく届いた。 八重野の肩から落ちようとしていたカバンは、俺と八重野の間で止まった。 ふっと見えたカバンの中に入ってたのは、マンガだった。 (……あ、本だから……濡れないように気にしてたのか) 「あ…ありがとう。良かった…落とさなくて」 「八重野、一体何してたんだ?」 「タイヤの空気が抜けてしまったみたい」 「ちょっと見せて」 さっきまで八重野がそうしていたように、俺もしゃがんだ。 すっかり張りのなくなった自転車のタイヤは、ただ空気が抜けているだけではなさそうだ。 ガラスか何かを踏んだのか、パンクしていた。 「これは修理するしかないかもな」 「このまま乗ったら危ない、こけるかもしれないよ」 「そうか」 とりあえず、雨に濡れ続る撫子へ傘を差しだした。 「――ん」 ……雨に濡れるから。 そんな風にちゃんと言えばよかった。 言えなかった俺は、ただ自分の傘を八重野の方へと突き出すことしかできなかった。 「さっき……この鞄の中身、見えた?」 ほんの一瞬カバンから覗いた、マンガの背表紙。 たぶんそれは、本屋でよく見かける少女マンガだったと思う。 「あ…うん。ちょっとだけ」 「似合わない、とか、おかしい、とか思わない?」 「べ、別に――」 「マンガを読むのに、似合わないとかってあるのか?」 「や、あの…誰でもマンガ読むし」 「秋姫だって読んでる…だろ?」 「これもそうだよ」 「え? ああ、なんだ。秋姫から借りたんだ」 秋姫の本だったのか……。 さっき八重野は自分の髪や腕が濡れていることより、カバンのことを気にしていた。 その理由は、きっとそれが秋姫の本だからだろう。 「どうしてだろう」 「時々、だけど……私はあまりマンガとか読まないと言われる」 「随分前のことだけど。教室で鞄の整理をしていたら言われたんだ」 「八重野さんってそういうマンガ、読まないと思った――と」 「そういうマンガ?」 「例えば…恋愛のものとか。すももも好きな本」 「うん、みんな読んでるんじゃない?」 「本屋にいっぱいあるし」 「俺、上に姉がいるけど…やっぱりそんなの、いっぱい持ってたし」 「石蕗はヘンだとは思わない?」 「そうか…それなら、いい」 八重野の口元が、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。 どうして笑ってるんだ、と聞いてみたかった。 だけど。 俺は結局その言葉を飲み込み、雨音にばかり耳を傾けながら歩いた。 「こんなところまで送ってもらって、ありがとう」 「別に…いいよ」 「どこかへ急いで向かう途中みたいだったけれど――よかった?」 「あっ、うん…ちょっと、如月先生に」 (……もう帰宅してるだろうなあ) 如月先生の自宅なんて知らないし……むやみに動き回って、いきなりあの姿に変化しないとも限らない。 (部屋に戻っておとなしくしている方がいいよな) でもひとつだけ、俺にはやらなきゃいけないことがあった。 秋姫にあの言葉のことを伝えないきゃいけない。 『信じあうもの同士が許される』 八重野の記憶を奪わないですむ方法を、俺は秋姫に伝えなきゃいけない。 なんとかして、秋姫にうまく連絡をとる方法はないだろうか――。 「ごめん、八重野っ」 「このあたりでその…手紙とか売ってる店、ある?」 「便箋? コンビニなら、そこの角の先にあったけれど」 「ありがと」 「……帰り、気をつけて」 「カサ、いれてくれてありがとう」 「うん、でも早く髪とか服、乾かせよ」 「――わかった」 八重野が言ったとおり、角を曲がって少し行くとコンビニの明かりが見えた。 メモ帳やペンといった文具類が並んだコーナーに、便箋と封筒もあった。 何の素っ気もない便箋。 そんなのを買うのは初めてだったし、ましてやそれは女の子への手紙だ。 「あ……でも」 「ユキちゃんからの手紙、なんだよな」 何度も何度も書き直して、便箋はどんどん残り少なくなってゆく。 考えては破り捨て、また書き出して……。 最後には、たった一枚の便箋に数行の文字だけの手紙になってしまった。 「これでいいか」 「……ふう、お風呂きもちよかったぁ」 「ユキちゃん、まだきてないの〜?」 「いつもなら、もうとっくに来てる時間なのにな……」 「あ…れ? なんだろう」 「……手紙?」 『すももへ、ごめん、今日はいけない』 「ユ、ユキちゃんからの手紙?」 『時々そんな日があるから、ごめん。それから友達のナコちゃんのこと』 『すももがナコちゃんを大事にしているから、記憶を消さなくてもすむ方法が見つかったよ』 『この言葉を、ナコちゃんに触れながら唱えて。なにかしるしがでたら、成功だよ』 「言葉……?」 「トゥ・アーロウナ」 「……なんだか優しい響きの言葉……」 「ユキちゃん、ありがとう」 「…で、このように冷却した状態での植物体をとりだし……」 (秋姫、ちゃんと手紙読んだかな) 結局、昨日俺の体はほんの一瞬も変化しなかった。 おまけに一晩中起きていたせいで、眠気は昼過ぎからピークだ。 教壇から聞こえてくる声、斜め前の席に秋姫、それから、教科書の文字たちが目の前でしだいに混じり始めて――……。 秋姫の姿が見える。 それから少し遅れて、八重野も。 二人並んでいる姿は、今までと一緒で、すごく仲良さそうだ。 (……あれ?) 「……抽出液にいれ、今度は60度の湯で温めながら静かに混合します…」 (あれは…朝のこと…だったはず…今、何時…だっけ……) 「この作業手順は必ず守ること――ん?」 「つーわーぶーきーく――……」 「……は!!」 「なんてタイミング」 「とにかく! そこまで爆睡するのはいけないな、石蕗君」 「す…すみません」 「じゃ、今日の授業はここまで、ごきげんよう〜」 「ナコちゃん、昨日うちから帰る時大丈夫だった?」 「……なんとかね」 「よかったぁ、昨日は一日中降ったりやんだりだったよね」 「そうだ、昨日借りた分はもうほとんど読めた」 「えっ、ほ、ほんとっ? ナコちゃん読むの速いよ…」 秋姫は立ち上がるとすぐに八重野の席に向かう。 無表情に頬杖をついて座っていた八重野の口元が、一瞬でふわりと緩んだ。 (……え?) もう一度目をこらしてみる。 八重野が時々頭を傾けた時に見える、首もとのその部分。 (他の奴には、見えてないのか……?) ――それはうっすらと光る、小さなアザみたいだった。 あれが例の本に書かれた『信じあうもの同士が許される』証だとしたら。 秋姫は手紙を読んで、その方法を成功させたってことだ。 (よかった、これでひとつは解決した……) そしてもう一つ、俺は知りたいことがあった。 「あれ、ハルどこいくの?」 「え…あ、ちょっと…如月先生のところに」 「旧校舎の方か。次オレら体育館だからちょっと遠いぞ」 「あー、うん。走って戻る」 「遅れないようにな〜っ」 もう一つの疑問。 その答えを知っているのは、たった一人だ。 「如月先生っ!!」 「んげほっ、げほげほっ」 「ノック忘れるような男は、嫌われるよ〜石蕗君」 「そ、それどころじゃなくって!!」 「ああ…このお茶…せっかくお取り寄せした高いやつだったのに……」 「先生、俺、き、昨日あの姿にならなかったんです!」 「はい〜?」 「あの、羊の姿に…夜になったのに……」 「ああ、はいはい」 俺の必死さ加減と反対に、如月先生はおもむろにカレンダーなんかに手をのばしている。 そしてゆっくりと日付をなぞり、二度ほどうなずいてから如月先生は顔をあげた。 「あ〜昨日はちょうど新月だったから」 「は? し、新月?」 「あれ? 僕言ってなかったっけ? 新月の日は一日人間の姿のままなんだよ。フィグラーレの力は月の力に比例するからね」 「な…なに…え?」 「そうそ、反対に満月の日は一日人間に戻ることができないから、注意!」 「は、ははい!?」 「はい、そういうことです」 「な、なんで…えっ!?」 「いやだから、月の力の影響力ってやつ?」 「――………」 「……石蕗君。何固まってるんです? 今のは予鈴じゃないんだよ?」 「ハッ!!」 「はいはい、いってらっしゃ〜い。遅刻決定だけどね」 「〜〜〜〜!!」 「やれやれ」 「おーい、大丈夫か?」 「あ、ああ、なんとか持てる」 「こらこら圭介、手伝っちゃいかん。遅刻したのは、石蕗なんだからね」 「それじゃ、がんばれっ! 制服汚さないようにな」 「ん〜」 両手にいっぱいのボールやグローブ、今日授業で使ったものたち。 結局授業に遅刻してしまった俺は、それらの後片付けを全部一人でしなきゃいけなかった。 「――……はあ」 俺はほこりだらけの倉庫から、逃げるように飛び出した。 大きく息を吸いながら両手を見てみると、真っ赤になっていた。 「今日は…ついてない日なのか」 手についた砂埃を洗い流しながら、ふとそんなことが頭をよぎる。 (……そんなこと、ないか) (秋姫と八重野も、仲直りしたし…な) 後は部活に向かうだけ。 教室にはゆっくりともどることにしよう。 じんと痛む手を握り締め、俺は廊下をとぼとぼ踏み出した。 「じゃあこれとこれは、三号教室の方へ戻しておくように」 「ふぇえ、お、重たい……」 「………うーむ」 「むぅ…あ、あぶな…わわぁ」 「気をつけるように」 「ふぁ、ふぁ〜い」 「きゃわわっ」 「う、うわっ危ない!」 「ふ…ふう…セーフだぁ」 「これ、なに?」 角から現れたのは、あの三つ子の中でも一番元気な麻宮冬亜だった。 両手にいっぱいに本や書類や、身長とそう変わらないほどの大きなロールを抱えている。 どうやらそのせいで自分の足元すらよく見えないようだ。 「んっとね、トウア授業に遅刻したからね、コラァって怒られちゃったんだよ」 「……なんだ、俺と同じか」 「ほええ? ハルたんも遅刻したの?」 「そんでね、トウアはこれを三号教室まで持っていかなきゃいけないのでーす」 「さ、三号教室?」 それはちょうど今歩いているこの場所から、正反対側の一番奥の教室だ。 笑顔でこっちを見ているけど、両手はふるふると小刻みに震えていた。 「こっち、持つ」 「ほえ」 「貸して」 「ほわわっ」 一番大きな――たぶん、黒板にかける世界地図とかだろう。 くるくると巻かれた長いロールを、俺は麻宮の手から引き離した。 「これで大丈夫?」 「わ〜い、大丈夫大丈夫っ! ほら走れちゃうよっ」 「お、おいっ」 残りの本をぎゅっと抱え、麻宮はいきなり走り出す。 くるくるとダンスみたいなステップを踏む後姿が、視界の隅から隅へとすばっしこく動き回った。 ……麻宮、毎日こんな感じなんだろうな。 いつもため息をついているような夏樹の顔が頭の中をよぎった。 「ハルたん〜?」 「……今いく」 「えへへ〜っ、ハルたんごめんねぇ」 「別にいいよ」 「とーっても助かったよん」 「……そっか」 「そうだー、ハルたんはアキノと一緒じゃなかったの?」 「え? ああ、こっちのクラスの麻宮は家庭科の方だ」 「ハルたんとは違う科目?」 「あっ、じゃあ今ごろあま〜いの作ってるんだ」 「甘い?」 「ふう。到着ーっ!!」 「今日はアキノお菓子つくるとか言ってたよ! トウアいーっぱいもらうんだ♪」 「へえ、実習か」 「すっごくすっごく楽しみ〜♪ もうできてるはずだよ〜っ」 「はは」 「んじゃ、トウア戻る。ハルたん、お手伝いあーりがっとねっ」 手ぶらになった麻宮は、早速廊下の向こうへと姿を消した。 いつも思うけど、あれはまるで嵐のようだ。 「……俺も戻るか」 顔をあげると、廊下の窓ガラスがもう真っ赤に染まっていた。 陽が落ちるまであまり時間はない。 「間に合うかな」 せめて一瞬だけでも、園芸部の方に顔を出しておきたい。 少しだけ急ぎ足で、俺は教室へと向かった。 「あれ?」 額に浮いた汗をぬぐい、顔をあげる。 俺の目の前にあったものは、黄昏色のガランとした教室だった。 「誰もいない…もうクラブに行ったのか」 麻宮を手伝って三号教室まで足をのばしていた間に、皆行ってしまったようだ。 机の上にもロッカーにも、荷物すら残っていなかった。 「あとどれくらいだろ?」 陽が落ちて、俺はぬいぐるみになるまで――。 壁にかけられた時計に視線を移した時だった。 甘い、におい。 「……なんだ?」 誰もいない教室には似つかわしくない、甘い匂いが鼻先を掠めた。 「そういえば、さっき麻宮が言ってたっけ……」 『今日はアキノ、お菓子つくるとか言ってたよ! トウアいーっぱいもらうんだ♪』 家庭科をとっているのは、麻宮だけじゃない。 きっと何人かの服や体についた匂いが、教室の中に残ってたんだろう。 「何作ったんだろ」 甘い匂いに気を取られている間にも、陽はどんどん沈んでいってしまう。 「急ごう」 自分の机に手をかけた時だった。 本やノートとは違う何かの手触りが、指先にふれた。 「…これ…なんだ?」 ピンクのチェック柄の袋は、きゅっとリボンで結ばれていた。 サンタクロースが背負っているような、あのプレゼントがいっぱいつまった袋。 それが小さく可愛らしくなって……俺の手の中にある。 甘い、匂いがする。 『石蕗くんへ 急に机の中にこれが入ってて、驚かせてしまったと思います。ごめんなさい』 『今日の家庭科で、クッキーを作りました。昨日は、たくさんおしゃべりしてくれて、ありがとうです』 『ナコちゃんとのことも、本当にありがとうです。うまく書けないけど、すごく嬉しかったです』 袋の脇に添えられていた封筒の中に、こんな手紙があった。 秋姫らしい…いつも日記に書いてる時に見せる、あの小さなころんとした文字。 『クッキー、上手にできてなかったらごめんなさい』 リボンをといて中身を取り出すと、香ばしい甘い匂いがいっそう強くなる。 狐色のクッキーを一枚つまみだすと、それは俺が思い描いていたものとは少し違う形だった。 「……雲?」 まん丸、じゃない。 ふちが大きな半円をかたどってる。 もう少し楕円なら、本当に雲形って感じだ。 「違う、これ…もしかして」 「……ははは」 (これって、俺だよな) ひっくりかえしたら、簡単な線で描かれた顔があった。 それはぬいぐるみの時の俺……ユキちゃんにそっくりだ。 「秋姫」 ほんの少しだけこげたような狐色もまじった、クッキー。 甘い匂いがまた鼻の奥をくすぐる。 (なんでいま、俺、秋姫の笑顔とか、思い出して――) 「あっはははっ、おっかしい〜、ははっ」 「おかしいけど…でも私にとってはすーっごく重要なことじゃない?」 「あれ、石蕗」 「あ…ああ」 「もうとっくに部活行ってるんだと思ってた」 「うん、すももちゃんとさっきすれ違ったよ」 「旧校舎の方だったから、クラブじゃないかな〜」 「そ、そっか…」 慌てて鞄の中につっこんでしまった、秋姫からの贈り物は無事だろうか。 気になったけど、ここであのピンクの袋を取り出すのは無理だ。 「じゃあ俺も…行くよ」 「な、なんだよ」 「鞄、開いてる」 「な、なんだ? 石蕗のヤツ」 「本当……なんだか変だね」 「はぁっ、はあ――……」 「はぁああ」 教室を飛び出してからすいぶん走った。 走りながら鞄の留め金をとめようとして、何度もつまづきそうだった。 そんな風に走ったせいか、いつのまにか旧校舎はもう目の前だ。 階段を下りて向かいの校舎を抜ければ、園芸部へとたどりつく。 そこにはたぶん秋姫がいる。 秋姫がいたら――……。 「いたら…なんて言えばいいんだ?」 ……足をとめてみても、何も思い浮かばない。 「え…こんな時、なんて言うんだろ」 ――ありがとう、とか。 ――嬉しい、とか。 ――美味しそう、だとか……。 きっとなんて言ってもいいんだろうけど。 どれもこれもたった一言なのに、言葉として口から出すのは難しそうだ。 「どうしよう…っていうか、早く行かないと日が暮れてしまうな」 窓の外の旧校舎は、半身を赤く染めている。 園芸部はもうすぐそこなのに――……。 一瞬だったと思う。 ほんの一瞬のはずなのに、足は廊下に何時間も立っていたみたいに重かった。 「秋姫に、お礼……」 言わなきゃいけない、と思う。 でも言葉は何も思い浮かばない。 「また今度…でもいい、かな」 踏み出した足は階段とは反対側に向かった。 「今度にしよう」 「あれ、あの時俺…何しようとしてたんだっけ」 ――えっと。 どこへと向かって、何をしに走ってたのか。 (秋姫のところへ、お礼をいいに) ――なんで、俺そんなこと。 (だって、クッキーもらったじゃないか) うん、そうだった。 なんだか恥かしくなるような包みを開けたのは、ついさっきのことだ。 それはさっき、如月先生に渡してたのと、同じだったけど――。 「えっと……」 口の中で言おうとしていた言葉を繰り返してみた。 「ありがとう、嬉しい、美味しそうだ……」 最後まで言い終わらないうちに、日が暮れた。 「……あれ、雨だ」 まだ降りだしたばかりだ。 急いでいけばそんなに濡れないかもしれない。 「……どうしよう」 カーテンの隙間で窓に映りこむ俺の姿は、もうすっかり『ユキちゃん』だ。 秋姫の焼いてくれたクッキーの形と、甘いにおいがふっと浮かんだ。 ……同じ、だったよな。 ……でも如月先生に渡している時、すごく嬉しそうだったし。 雨が強くなってきた。 俺の心は、秋姫が焼いたクッキーの形みたいなユキちゃんには、似つかわしくないくらいに重かった。 「今日は…行かない」 口に出して言ってしまうと、まるで呪文のように体も重くなる。 「もういいや」 見慣れた部屋の天井が、やけに高いな……。 そんなことを思いながら、俺はベッドのすみに転がった。 「もうこんな時間……」 「ユキちゃん、今日は遅いな」 「……雨、降ってるからかな」 「傘とか、もってるのかな…ユキちゃん。迎えに行ったほうが…いいかなぁ」 「そうだ…わたし…ユキちゃんがどこからきてるのか、知らないんだよね」 「……遅いな…あ」 「……………はあ」 「………どうしよう…か」 体を傾け、少しだけ早く進んでみる。 最初は苦労したこの移動方法も、だんだん慣れてきたせいかずいぶん素早く動けるようになった。 このまままっすぐ飛んでゆけば、秋姫の家につく。 「やっぱり、うーん…」 一週間。 あの日から、一週間が過ぎていた。 結局あの日、俺は秋姫の家には行かなかった。 次の日も、行けなかった。 何もなかったような顔をしていけばいいのに、気が付けば一週間たっていた。 本当に行けなかったのはたった一日だけだったのに。 だから今日は――……。 「帰ろ……」 「(帰るって、どこへ?)」 頭の中で、この数日の秋姫の顔がいくつも思い浮かんだ。 園芸部でも、教室でも、八重野と一緒にいる時でさえなんだか悲しそうな、顔。 「(あんな顔させてる原因は…俺だよな)」 「(俺が……ユキちゃんが、いないせいだよな)」 ――………どうしよう。 「――へ!?」 「!?」 「なんてのどかな街……ふふふっ、こんなところが戦いの舞台になるのね」 「見なさい、アーサー」 「は、はいっ」 「この街のどこかにいる、もう一人のプリマはかわいそうね」 「このアタシが、セント・アスパラス始まって以来最も成績優秀なアタシが、勝負の相手なのだから――ふふふふっ」 「ホントですっ、おじょうさまは輝ける星のようですっ」 「ええ、アタシは誰にも負けないのよ」 「アーサー、よく見ておきなさいっ! この街に降るしずくは、全てアタシのものになるのだからーっ!!」 「ははははい!!」 「な、な、なんだ……あれ?」 「ふっふふふふふっ」 「(でも確か…しずくがどうのって…言ってたな…まさか何か関係あるのか?)」 「(もう一人のなんとかって…まさか…まさか…)」 「――すもも!!」 「すっすもも!! 大変なんだっ!!」 「大変っていうか…その…あれ?」 「す…もも?」 「う…うわぁあん」 「ユキちゃん、ユキちゃん、ユキちゃあんっ!!」 「むぐぐっ!?」 「…ふく…ユキちゃん…どうしたのかなって思ったの……」 「ずっとこないんだもん…なにかあったのかなって…くすん」 「それとも…もうわたしの力じゃ…だめなのかなって…思って……」 「な、な、泣くなよ〜」 「うぐっふえっ…ええん」 「ご…ごめっ…ひくっ…なんだかと…とまらない…ひっく」 「し…深呼吸とか、どうかな」 「ひくっ…うん…してみ…る」 「すー…はぁー…」 「どう?」 「ん、もういっかい、すー…はぁー…」 やっと落ち着いたのか、秋姫は俺をひざもとに置いてベッドに深く座った。 それでもまだ、グスグスと鼻を鳴らしていた。 「お、落ち着いた?」 秋姫を見上げると、まだまつげの先が濡れていた。 もう泣いてはいない、いないけど、胸の奥がチクチク痛んだ。 「ちょ…ちょっとその、用事があって…ていうか」 「来れなくなったこと、連絡とかできなくて……」 「ううん、いいの。こうしてまた来てくれたんだもん」 秋姫の手が、ぎゅっと俺を包む。 このぬいぐるみの手触りが、少しでも秋姫の寂しかった心を癒してくれたら、いいんだけど。 「すももの家に来る途中に見たんだ」 「見た? 何を……?」 「はっきりとはわからないけど、しずくのことを知っていた…変な…人…みたいな」 「しずくって…星のしずく?」 「たぶん」 「どういうこと…なんだろう」 「あっ、あともう一人のなんとかって…もしかしたらすももの事を探してるのかな……」 「えええっ!? そ、そんな…わたしを!?」 「(でも…よく考えたら全部俺の…想像だよな)」 「わたし、どうすればいいんだろう」 「……今のところ、何もできない…よな」 「っ!!」 「は、はーい」 「すももちゃん、いいかな」 「お父さんだ……うん、いいよ」 「昼間でかけた時に買ったのを忘れててね。ほらキレイだろう、金平糖。よく冷やしておいたよ」 「わ、本当だー、ありがとうお父さん」 「……あれ? すももちゃん、目が赤いような気が…どうかしたのかな」 「へ? なんでもないなんでもないよっ」 「わ〜〜〜っ」 「はわっ、ご、ごめんユキちゃん」 「そうか、大丈夫ならいいんだ。ところで…この子は一体誰かな? 可愛いね」 「――……!」 「あ、あのっ、ユキちゃん! ユキちゃんっていうの、か、可愛い?」 「ほほう、ユキちゃんか…うんうん…へえ」 「………お父さん?」 「あ、すまない…ついちょっとね…あんまり可愛かったから」 「うんうん、次回作のキーアイテムとかに…いいかもねえ」 「(…な、なんなんだ?)」 「も、もう! お父さんすぐお仕事のこと考えるんだから〜」 「ははは、ごめんごめん。それじゃ、おやすみ」 「……ふう」 「び、びっくりした」 「ごめんねぇ、ユキちゃん」 「あんなにじっと見られて…バ、バレてないかな」 「たぶん…大丈夫だと思う。お父さんってちょっとのんびりしてる人だから」 「ふーん…あ、そういえばすもものお父さん…小説家だっけ?」 「……うん、そうだよ」 「さっき、次回作がって言ってたから」 「(……あ、あれ、なんか聞いちゃいけなかった……のか?)」 「ご、ごめんね、すももちゃん」 「お父さん?」 ドアの向こうの声に、俺はまたぐっと口をつぐんだ。 ずいぶんと慌てている感じがしたけれど――なんだろう? 「うん、それがね…さっきのええっと……白いの…」 「ユキちゃんのこと?」 「そうそう、ユキちゃん。あの子を重要な鍵にして考えた物語がちょっと浮かんでね…これ見てほしいんだよ、走り書きだけど――」 「あいたっ」 「お、お父さん!?」 よっぽど慌てているのかドアの上部に頭をうちつけながらも、秋姫のお父さんは笑顔で一枚のメモを差し出した。 「…ははは、平気だよ。一番の読者のすももに、見てもらおうと思ってね」 「ごめんね、それだけだから、うん」 「……お父さんってば」 「……やっぱり」 秋姫は机の前まで戻ると、あのメモを開いた。 そのとたんに、深いため息が秋姫の口からこぼれた。 「これ…見ていい?」 「うん…いいよ…いいけど……はあ」 歯切れの悪い返事だったけど、俺はため息の原因であるメモを覗き込んでみる。 そこには、達筆な文字がところせましと並んでいた。 「……なっ!!」 『白羊邸事件――謎に包まれた死体と、部屋に残された血文字…それは一匹の白羊を指していた』 『旧家にまつわる因習、そして古の唄が呼ぶ連続殺人。悲劇は許されない恋から始まった……』 「こ、これ」 「一番の読者…になりたいんだけどね」 「これ、推理小説とか…かな」 「うん、お父さんが書いてるのって、そういうのなの」 「いつも見せてくれるんだけどね…実はわたし、その…怖くて読めないの」 「……そ、そうなんだ」 「お父さん、もっと可愛いお話とか書いてくれないかなぁ」 ……可愛い話、は無理かもなぁ。 入り組んだ人間関係が書き込まれたメモを見ていたら、何故か笑いがこみあげてきた。 「……あはは」 「わ、笑わないで、ほんっとに怖いの…だ、だって犯人がわからないのにどんどん事件は進んでいくし…」 「あははは、ご、ごめん」 「もうっ」 「ははは」 「ふふっ…ユキちゃんってば笑いすぎだよ」 「ごめ……」 ――あっ。 「(やっとちゃんと、笑ってくれた)」 秋姫はあのメモを丁寧に折りたたんだ。 そして机の引出しにしまうと、勢いよくベッドに飛び込んだ。 「なんだかユキちゃんが帰ってきたとたん、時間がすぎるの早くなっちゃったみたい」 「どうしたの? ユキちゃん」 「うん、ちゃんと言っておく」 「ごめん…ずっと来れなくて、すももが心配してたの…知ってた」 「えっ、ほ、ほんとに? どうして!?」 「あ、その…えっと…わ、わかるんだ、そういうの」 「そうなんだ、うん…心配だった」 「でもこうしてまた来てくれたから、いいの。ユキちゃん」 「今日はいーっぱいお話しようね」 「いっぱい?」 「うんっ! だって一週間も会えなかったんだもん」 「ふふふ、なんだか嬉しくって眠くなくなっちゃった」 大きなクッションに半身を沈めて、秋姫の大きな瞳がこっちを見つめている。 それは俺がこの状態、ぬいぐるみの時にしか見られない表情。 間近で、安心しきったような笑顔で……。 ……俺、なんであんなに迷ってたんだろう。 ……なんで…俺…。 「へ? な、なに?」 「ぼんやりしてたから…じゃあ何から話そうかなぁ」 まるで忘れていた日記を書くときのように、秋姫はゆっくりとこの一週間のことを語りだした。 「でね、その日は窓を開けて寝ちゃってね……」 とりとめのない、何の変哲もない毎日の出来事を話す秋姫。 「びっくりしたんだー、本当にちっちゃな虫だったんだけど――」 けれど、不思議と退屈じゃなかった。 「ふわ…あ、もっとお話したかったなぁ」 「うん…でもそろそろ寝よう」 「ん…おやすみなさい、ユキちゃん」 今日は本当に、本当に指輪が反応しなくてよかった。 星のしずくを集めなきゃいけないことはわかってる。 わかってるけど、こんな風にずっと…なんでもない話を聞いている時間が続いてほしい。 「……すう…すう…」 そんな風に思ったのは、初めてだった。 「あ…おはよう」 「っ!?」 「石蕗? お、おはよう」 二人ともびっくりしてるみたいだ。 そんなに俺は、自分から挨拶とかしないタイプだったかな。 思い返してみたら、確かに秋姫たちにはそうだったかもしれない。 「おはよ…う」 「石蕗、いつもこんなに早く登校するんだ」 「俺…寮だから近いし」 「そ…そっか。石蕗くん、寮だったよね」 俺はほんの少しだけ歩く速度を緩めた。 「ナコちゃん、それでね…今度の土曜日なんかどうかなって…」 「ああ、あの本に載っていた店のこと?」 二歩先を歩いている秋姫。 昨日だってその前の日だって八重野と並んでたわいない会話をしていた。 けど今日は違う。 もう心の奥の心配がなくなった笑顔だ。 「いけない、結構ゆっくりしてしまったみたいだ」 「本当っ、あ…あの」 二人がいきなり足をとめて振り返る。 今度は俺の方がびっくりさせられる番だった。 「あの…わたしとナコちゃん日直なんで、ちょっとだけ急いで……」 「教室まで走っていくけれど、石蕗は?」 「あ、ああ。いいよ。気にしないで」 「ご、ごめんなさい」 「うん、日直だしな」 「じゃあまた後で――」 ちょうど自分のロッカーの前だった。 小さな四角い箱のようなものが転がっている。 しゃがんで顔を近づけてみると、その箱にはやたら細かな装飾がされていた。 「なんだ、これ」 手のひらに乗るほどの小ささだけど、きらきらと輝くそれはズシンと重い。 「誰かの…落し物? あれ?」 「なん…なんだ?」 「……っと、また落ちてる」 「――…!?」 「あ、お、お嬢様! そこにいらしたんですね」 「大変申し訳ありません、…これしきの荷物で手間取るなど…本当に申し訳ありません」 「…お叱りを受ける覚悟はできております、松田はお嬢様を見失いかけました……執事失格です…ですが!」 「この松田、お嬢様のためならたとえ地の果てでも滝壷までも――」 「ですがお嬢様、申しあげにくいのですが…私達は迷ってるのでは…」 「――ハッ!! 申し訳ありませんっ、こ、言葉がすぎてしまいました、お…おおおじょうさまどうかお怒りを――」 荷物いっぱいで前が見えてないせいだと思うけど、この人は誰かと俺を間違えているようだ。 「………へ?」 「違うんだけど」 「う、うわわわっ!?」 「あいたたたた」 「お、お嬢さまを男性と間違えるなんて…一生の不覚……」 「松田、どきなさい」 「………わ、わあああっ!! お、お嬢様っ、し、しし下着がっ!!」 「――…何故」 「おおおおお嬢様っ、し、し、失礼いたします」 「も、申し訳ありません、お嬢様の上に倒れこむなど…ああ…どうお詫び申し上げれば……」 「ああああ、おまけにあんな! あんな! お嬢様の…ああうっ!!」 「――貴方は」 荷物を床にぶちまけたまま謝る彼を無視して、その子は俺をまっすぐ見つめていた。 「えっ、なに……」 怒っているのか? いや、普通怒る…よな。あんなに派手にこけて、しかもあんな格好見られたんだし。 けれどその子は眉一つ動かさず、無表情のままだった。 「貴方は何故」 「あ、あの…どうかこのことはご内密に…どうか…お嬢様の将来のために…うぅ」 「あ…えーっと。これ落し物」 「じゃ、じゃあ」 「へっ? あ、あのっ」 俺は回れ右をして、そのまま一気に駆け出した。 ……あの子は一体誰なんだろう? 制服も着てなかったし、あの荷物に…付き人みたいな男。 ……転校生? ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。 「おはよっ」 「おはよう、石蕗くん」 「……おはよう」 「おっはよ〜ん、ハル。あれ?? まだ寝ぼけてるのか〜?」 「ち、違うよ」 「ならいっけど、なーんかボケっとしてたからさ」 「なんでもない」 ぐるり、と教室を見渡してみる。 何故かどこかにさっきのあの子がまぎれているような、そんな気がしてならなかったから。 「へっ!?」 「教室に来る前に部室にでも行った?」 「行ってないよ」 「そうか。さっき昇降口で会ったのに、教室に来るのが遅かったから」 「ちょ…ちょっとな」 「あ、ナコちゃん。今日の放課後のことも……」 「七夕の件」 「七夕?」 「そう、近くの幼稚園や子供会のために、笹飾りを送ってあげることになったから」 「今日の放課後に、あの、先生も一緒にうちあわせするから…」 「石蕗くんも……」 「行くよ」 「放課後、如月先生のところへ集合だから」 「席に戻ろう、すもも」 もう一度、教室の中で視界をめぐらせる。 「(……さっきの子、本当になんだったんだろう?)」 席についたクラスメイトの中に、知らない顔はなかった。 「はふ〜っ、今日も終わった終わった〜」 「弥生、その話し方…お父さんみたい」 「ええっ? そ、そうかなぁ」 チャイムの音が鳴ったとたん、クラスメイトたちは一斉に席から立ち上がる。 大きく伸びをしたり、友達のところに駆け寄ったりと教室の中は急にざわめきたった。 「あ〜あ、今日もよく晴れてるな…外暑そうだなこりゃ」 「ん、ハルはクラブ行かないのか? 秋姫さんたちと」 「ああ…いくよ」 「八重野」 「今朝言ってたけど、部活…何かあるのか?」 「そう。今日は少し忙しいかもしれない」 「忙しい? あと…秋姫は?」 「先に行ってる」 「そっか。なんか…珍しいな」 「珍しい?」 「秋姫だけ先に行くの」 「……少し準備があるから」 「準備?」 「私ももう行くけれど、石蕗は?」 「あ、俺も――」 八重野は短く頷き、さっと立ち上がった。 まるで一人で歩いてゆくような八重野を、俺は早足で追いかけた。 「やあ、いらっしゃい」 「あっ、も、もうみんな来ちゃった!」 「準備はどう? すもも」 「な、なんだこれ」 今日の放課後は如月先生のところで打ち合わせ――。 確かに八重野はそう言ってた。 「え? こ、これは…折り紙だよ?」 如月先生の机の上、それから秋姫の手元に、色とりどりの折り紙が広がっている。 わけのわからない俺を横目に、八重野は折り紙に手をのばした。 「そう…だけど」 「(……なんだこれ?)」 園芸部の活動……には見えなかった。 けど、ぽかんとしているのは俺だけだった。 八重野も秋姫も、当たり前のように折り紙をきれいに折ったり、はさみをいれたりしている。 「――ああ、石蕗君は初めてだったよね」 「八重野さんはそのままこれを作っていってくれる?」 「それから、秋姫さん」 「石蕗君にいろいろ作り方を教えてあげて」 「えっええっ、わ、わたしっ?」 「たぶんこういうの、やったことないんだよ…石蕗君。というわけで秋姫さん、よろしく」 「あ…は…はい」 「ま、まずは好きな色を選んで、こうやって折ってください」 「…えっと…えと、はさみ…はさみは、これを」 「はさみ? ああ、この箱の中の使えばいいんだな?」 「う、うん。それでここと、この角を切ります…」 「できた…かな」 「それじゃ、端っこと端っこを持って、ゆっくり開いていってください」 「できました! 石蕗くん、ちゃんとできてるよっ」 「う〜ん……」 秋姫の言うとおりに切っていった折り紙は、雪の結晶みたいな形になった。 「(あれ…これってなんだっけ)」 折り紙でできた六角の結晶――どこかで見たことがある。 まじまじと眺めていると、今度は八重野が手をのばしてきた。 「こっちに渡して」 紙に小さな穴をあけるパンチ。 八重野の手にしていたのは、そんなものだった。 「(何、するんだろう?)」 「よし、ここにしよう」 八重野は折り紙の結晶をしばらく眺めたあと、ぱちん、と片隅に穴をあけた。 そして脇に置いていた糸をゆるく輪にしてその穴に通していった。 「できた」 「――あっ! これ、もしかして七夕飾り?」 「石蕗君…もしかして今気づいたのか?」 「……ご…めん」 「あは…ははは…」 「はっははは、石蕗君ってそういう感じだったんだ」 「……え? な、なに?」 「いやいや、新しい一面ってやつかな」 秋姫たちだけでなく、如月先生までも驚き半分で笑顔を――今度は本当に笑っているみたいだ――見せていた。 「しかし石蕗……本当に上手だと思うよ、それ」 「……そうなのか?」 「うんっ、わたしもそう思う」 「そ…そっか」 「次、この色の飾りが欲しいのだけど――」 「あっ、じゃあじゃあ、石蕗くんに作ってもらおう?」 「石蕗君、石蕗君っ」 「盛り上がってきたのは重々承知なんだがねぇ」 「盛り上がって…ってそんなっ」 「もうちょっとで日暮れの時間だ…君はそろそろ席をはずしたほうがいいかと思うんだが」 如月先生にそう言われて、俺はやっと窓の外が赤くなっていることに気が付いた。 「あ、お、俺」 「……石蕗?」 「ああっと、俺、ちょ、ちょっと――」 「はぁ〜〜っ」 「石蕗君、確か君…今日の放課後に補習が一つあったと思うけど」 「あっ…え?」 「えっ、そ、そうだったんだ!」 「時間、大丈夫なのか?」 「今から思いっきり走っていけば間に合うよねぇ、石蕗君?」 「えっ、あっ…はあ」 とっさのフォローについていけてない、俺。 そして如月先生の目は笑っているのに冷たい眼差しだった。 「急いだ方がいいと思うなぁ〜、先生は」 「クラブは大丈夫だよっ! い、いいそいでっ!!」 「そうした方がいいと思う」 「まあ一番忙しいのは明日だと思うから、はははっ」 「ご、ごめんっ!」 「はあ、はあはあ…まだ少し余裕ありそう…だな」 ぐるりと辺りを見回してみても、人のいる気配はない。 「ちょ…っと休憩…はあ」 壁によりかかるようにして、俺は一度足をとめた。 いきなり走り出したせいか、胸の奥で鼓動は踊るように強く脈打っている。 旧校舎は学園の一番奥だったってことを、体で知った瞬間だった。 「はあ…寮まではあと10分もかからないし…大丈夫そうだな」 「………!?」 無言で立ち尽くすこの顔を、忘れるはずもなかった。 分厚い眼鏡の奥から俺を見下ろす視線は、今朝と同じ。 表情の読めない、冷たい眼差しだ。 「……あの」 「見ましたね?」 「へっ?」 「今朝のことです。あなたは見ましたね?」 「見たって……なにを…」 ――あ。 もしかして、今朝派手にこけた時のことだろうか。 スカートが思い切りめくれあがって、パンツ丸見えだった。 確かに見た…けど……。 「(…こういう時って………そっとしといた方がいいのかな)」 「黙秘ですか?」 「……お、覚えてないな」 「覚えていない? じ、十時間も経過していないのに…」 「う…ん」 「えっと、俺ちょっと急いでるから」 「はい?」 「じゃ、じゃあっ」 「ちょっと!」 「(なんなんだ、あの子)」 「………さまぁ」 「おじょ〜さま〜っどちらにいらっしゃるのですか〜っ」 「うはっ、し、失礼いたしましたっ」 「おじょうさま〜っ! 松田はここでございます〜っ! おじょうさま〜っ!!」 「ホントに…なんなんだ?」 たぶんさっきの子を探しているんだろうけど。 まるでホテルのボーイみたいな格好だの、お嬢様なんて言い方だの――。 あの子が周りにいると、なんだか調子が狂ってしまいそうだ。 「やば…ちょっと急がないとっ」 うっかり足を止めていた時間のぶん、また走らなきゃいけない。 寮まで一番速く戻れる道のりを思いうかべ、俺は再び足を踏み出した。 「あっ、お、お嬢様〜っ」 「ここにいらっしゃったのですね! お嬢様と離れてこの松田、もう心臓がとまる思いで……」 「松田」 「見えるでしょう?」 「……あ……あ」 「……う…お」 「松田?」 「も……」 「も?」 「申し訳あ……り…ば…うっ」 「やはり、通常の反応はこうなのだけれど――」 「………研究が必要だわ」 「はぁ………」 「ユキちゃん? 調子悪いの?」 「えっ、あ、なんでもない」 「ほんとに? 何かあったのかなって思っちゃった」 秋姫の顔が目の前までに近づいていた。 慌てて両手をふると、納得したのか再び椅子に座りなおしている。 「(はぁ……)」 今度は気づかれないように、小さくため息をつく。 「(今日はほんとに危なかった)」 日が落ちたのは学園から走って走って、自分の部屋に飛び込んだ瞬間だった。 もう少し遅かったら、部屋に入ることもできなかったかもしれない。 だけど――。 それより頭を離れなかったのは、学園で会ったあの子のことだった。 「(あの子、一体なんだったんだろう…何かひっかかるなぁ)」 「ねえユキちゃん」 「このお洋服なんだけど…始めにこことここのボタンをはずしておけば、今までよりちょっと早く着替えられそうなの!」 「そ…そうなんだ」 「本当に何もないの? なんだか変だよ?」 「大丈夫、なんでもないっ」 秋姫の大きな目が、審判のようにじっと俺を見つめる。 大げさに両手をふってはみたけど、いまいち信じてもらえてないみたいだ。 「光った!」 「見て、ユキちゃん!!」 窓をあけて、俺たちは指輪が示す方角に目を向けた。 明かりの灯りだした家々の向こうの、ゆるやかな高台。 その頂上に向かって、白い光の筋が夜空をまっすぐ落ちてゆく。 「あれ、きっと星のしずくだ」 「本当に流れ星みたいなんだね」 「いけない、は、はやく着替えなきゃ!」 「えっ! じゃ、じゃあおれ…じゃない、ボクはこっちに……」 「だめえっ! ユキちゃん…後ろのボタン…とめてほしいな」 「な!?」 「ここ、お願ーいっ」 「さ、さっき早く着替えられるって」 「うん、でもこのボタン先にはずすと、自分でとめるの大変なのっ」 指輪の光を追ってたどりついた先は、高台にあるプラネタリウムだった。 大きな公園と展望台が併設されていて、昼間は家族づれなんかで賑わう場所だ。 でも――。 「まっくら…ここって、夜はこんなに暗い場所だったんだ」 「星のしずく、確かに落ちたよな。この屋根の上に」 見上げた半円の屋根は、夜空を更に黒く切り取ったようだ。 辺りに人影はない。 しんとした空気を、時折強い風が切り裂いていった。 「あれ? ユキちゃん、これ見て」 『空調故障中のため、下記の期間のプラネタリウム投影は一時中止しております』 秋姫が指差したプラネタリウムの入り口には、こんな張り紙があった。 「閉まってるって、ことだよね?」 「中にも誰もいないのかな……」 「すもも、こっちこっち」 「ここから中を覗いてみるよ、両手でできるだけ上のほうまであげてみて」 「うん、わ、わかった」 「うーん、やっぱり真っ暗だな」 「真っ暗…?」 「でも反応はこの中から…だよな」 秋姫の指輪から放たれる光は、今もプラネタリウムの奥へと差し込んでいる。 『星のしずく』は必ずこの中にあるんだ。 「どうしよう、ユキちゃん」 「か…風、風の音だよ」 「どうしよう…怖いよ……」 「大丈夫か? すもも」 秋姫の肩がほんの少し震えていた。 「(あ…そっか、そうだよな)」 こんな夜遅く、人気のない場所に女の子がいるなんて――よく考えたらそうとう危ないことじゃないか。 俺はいつの間にか、自分が『秋姫の肩に乗ってるぬいぐるみ』だったことをすっかり忘れていた。 「今日は帰ろうか」 「だめだよぉ…」 「だって、だって星のしずくがそこにあるってわかってるのに」 「それは…そうだけど……」 「な、ななにっ??」 「お、おまじない…かな」 「ユキちゃんがそばにいるって思うと、怖いなって気持ちがちょっとなくなるみたいな……」 「うん、大丈夫。暗いのは怖いけど…一人じゃないもの」 「えっ??」 「い、いま何が光った?」 光の源はすぐそばにあった。 秋姫が傍らに持ってくれていた、俺たちの本だ。 ゆっくりと表紙に手をかけると、まるで待っていたようにあるページが開いた。 「このページの言葉、見るの…初めてかも!!」 「ホントに!?」 「すぐに調べるよ! これは…ぶ、だな。ぶろ…ぐ」 「ぐりー、でぃ…あ?」 「プログリーディア!」 「う、うわっ」 「――ひゃう」 「ユキちゃん、見て! これって、これって……」 「向こう側に、いける!?」 「……たぶん」 「うん――行ってみよう」 「きゃうんっ」 一瞬だけ体が浮いたかと思ったら、俺たちはもう建物の中に入っていた。 秋姫も同じような感覚だったみたいで、きょろきょろとあたりを見回していた。 「ユキちゃん…やっぱり中も、まっくらだね」 「うん、でもすぐ目が慣れるよ」 「ほんと……?」 「明かり…つけるとやばそうだし」 「そ、そうだよね」 「床…濡れてる?」 「うん、あちこちに水たまりができてる」 そういえば、空調の故障って表の貼り紙に書いてあった。 クーラーの水でも漏れてるんだろうか。 「こっちも濡れてる…こけないように気をつけないとね」 「わっ…大丈夫?」 「うん、だ、大丈夫……椅子につまづいちゃったみたい」 「もう少し見えるようになるまで、じっとしておこう」 秋姫は一番はしっこの席に腰をおろした。 相変わらず辺りは暗い。 けれど入り口の前にいた時よりも、秋姫はだいぶ落ち着いているみたいだ。 「ユキちゃんは暗いの、怖くない?」 「うん。あんまり」 「そっかぁ」 「ここ、プラネタリウムっていうんだよ。いろんな場所の夜空が天井に映されるところなの」 「それでね、お星様映してる時って、すごく暗いの」 ほんの少し感じた違和感は、俺がプラネタリウムを知ってるからだと思う。 『ユキちゃん』はそれを知らないはずだからってつもりで、秋姫は話しているから――。 「横の人の顔も見えないくらい真っ暗なんだよ! 小さい頃初めて連れて来てもらった時にほんっとに驚いたの」 「結局途中で泣いて出てきちゃった」 「(そっか…秋姫、暗いとこが苦手なんだな)」 「…それ以来ずーっと観てないんだ、プラネタリウム。へ、変かな? こういうの」 「きれいな夜空は好きなんだけどなぁ」 前の椅子にひじを乗せ、秋姫は何も映っていない天井を見上げていた。 「ねえ、だいぶ見えてきたよ」 「ユキちゃん、落ちないようにね」 秋姫はゆっくり立ち上がり、座席の合間を歩きだした。 しん、と静まった空気の中に秋姫の靴音だけが反響している。 「なんだか――いつもと違わないか?」 ぐるりとプラネタリウム内を見回してみる。 けれど薄暗い館内に見えるものは、二つの球をつなげたような投影機と、ずらりと並ぶ椅子ばっかりだ。 「いつもなら、落ちた場所で光ってるのに」 「水もないし…星のしずくって、水のある所に落ちてくるよね?」 「わ、なんだこれ! ここ、ひどい水漏れだ」 座席が途切れた場所にあったのは、ひときわ大きな水溜りだった。 慌てて身をひいた秋姫の肩の上で、俺も落っこちないようにと力をこめた。 「(水漏れ…水たまり…水……)」 「ユキちゃん、もしかして…もしかしてあれ」 「あれが…今日落ちてきた星のしずく?」 「…だと思う」 「いつものみたいに光ってないんだね」 「なんだかすぐに…壊れてしまいそう」 「今までのみたいに動きまわらないな」 「星のしずくにも、いろんな種類があるんだね」 「ユキちゃん、がんばるねっ」 光った指輪は、一瞬にして杖になる。 最初はもてあましていた長い杖も、今ではもうすっかり秋姫の手に収まっていた。 「なんかすごく、うまくなってきたっていうか――」 「さまになってる、って思った」 「いくねっ」 「相変わらずプラムクローリスは略式の言葉を使ってるのね!」 暗闇の中に響きわたる声は、頭上から聞こえてくる。 目を凝らして見渡した先にあったもの――それは信じられない光景だった。 「……すもも!」 「あそこに…誰か…いる」 「やっと、見つけたわ」 「あ、あなたは誰…ですかっ?」 「あらあら、プラムクローリスでは礼儀についても教えてないようね? 人に名前を聞くときは、自分から名乗るものよっ!」 「……う…わ、わたしはあき…むぐぐ」 「ふ…ふひひゃんっ??」 「な…名前とか勝手にいっちゃ危なくないか?」 「そ…そっかぁ…どどどうしよう、ユキちゃん」 「ちょっとあなたたち! 人の話をきちんと目を見てききなさーい!!」 裾の長い上着を翻し、その声の持ち主は俺たちの前に降り立った。 気の強そうな口もとには、余裕の笑みが浮かんでいるように見える。 「初めまして、プリマ・プラム」 「へ? ぷ…りま??」 「アタシはセント・アスパラスのプリマ――プリマ・アスパラスよ」 「少しトラブルがあってこちらに来るのが遅れたけれど、手心は必要ないわ」 「ユ、ユキちゃん…し、知ってる人?」 「い…いや…知らない…けど」 まくしたてるように名乗りをあげたかと思えば、今度は無言のまま俺たちを見ている。 その沈黙は、俺にも秋姫にもやけに長く感じられた。 こっちを見下ろしている人物のシルエット、それからこの声。 ――思い出した。 この間は遠くて小さい影だったけど、間違いないはずだ。 あの時…秋姫の家に向かうべきかどうか、迷っていた時に見たあやしい人影……。 「すもも、や、やばいかもしれな――…」 「プリマ・プラム、あなたのお供は優秀?」 「お…おと…も?」 「ティ・ペアルレト!」 「きゃああんっ」 「――ええ!?」 視界が真っ白になった瞬間、秋姫の腕が強張った。 体が何かに吸い込まれるようにフワリと浮いた。 そして再び目を開けた時見たものは……放心して俺を見つめる秋姫の顔だった。 「ふむ」 「い、いつの間に!?」 さっきまで秋姫の腕の中にいた。それは確かだ。 なのに俺は一瞬であの子の手に……捕らえられていた。 「……変わった形態をしているのね」 「か、かか返してください――っ!!」 「見せていただいただけよ、ちゃんと返すわ」 「あ…ごめんなさい」 「うわわっ!!」 グンっと視界がスライドした。 おそるおそる目を開けると、俺を持ったままであの子は腕をまっすぐ上に伸ばしている。 50センチほど高くなった視界の下では、秋姫が今にも泣きそうに俺を見上げていた。 「あ…あの…うーん」 ――秋姫はやっぱり小さかった。 俺を捕まえているこの子もそんなに背は高くないはずだ。 それでも、精一杯背伸びしても…秋姫の手は俺のところまで届かなかった。 「え…えっと…と、届かない…」 「どうして? ちょっとお待ちなさい、それはどういうこと?」 「何故力を使わないの? 対抗はしないから、使ってごらんなさいよ」 「そ…そ、そんな…どう…したらいいの…ユキちゃ…」 「――おかしいわね」 「ユキちゃ…ん」 「う、は、はな…せってば」 「アーサー!」 かけ声と共にすっと現れたのは、灰色がかかった毛足の短い犬。 それも猟犬を思わすような筋肉を持った、大きな犬だ。 「……っひゃ!」 「はい、おじょうさまっ」 「い、犬がしゃべった!?」 「あなただってひつじでしょっ!」 「アーサー、あれをお持ちなさいっ」 「はひ、おひょーはま」 アーサーと呼ばれた犬がくわえているのは、角に金色の装飾のされた青い本だ。 もしもこの子が秋姫と同じ『星のしずく』を集める子だったなら――。 あれは俺が持っている本と同じ内容のものなのかもしれない。 「それをプリマ・プラムの前へ出しておあげなさい」 「ほへっ!?」 「構わないわ。さ、いきなさい」 「(一体…何するんだ?)」 主人の命令にとまどっているのだろうか。 少しだけ背を丸めて、犬は秋姫の方へと近寄っていった。 「あ、あうぅ」 「アーサーはアタシのお供よ。あなたに危害を加えることはないわ」 「わ…わたひははにもしまふぇんよ…はひ」 犬は秋姫の足元で青い本をそっと口から離した。 それはほのかに発光し、地面よりも数センチ浮き上がっているように見える。 「それ――見てもいいわよ」 「えっ…?」 「アタシのレシピになら、このひつじを取り戻せる方法が載っているかもしれないわよ?」 「そ、そんなの絶対うそだっ」 「余計なことを言う者は、こうですっ!」 「もっもがが〜っ」 「ユ、ユキちゃんっ」 「も、もがっ、もががっ」 「さあ、どうぞ」 俺の声は届くことなく、秋姫はゆっくりとひざを折った。 何度もとまどいを見せながらも、指先は青い本へと伸びていって――。 「きゃううっ」 「あら、ごめんなさい…先に言っておくのを忘れたわ」 「読めたら読んでもいいわ――ってね」 「ふ…ふぇ…うっ」 「…むぐ…ぐぐっ…はなせっはなせーっ」 「おとなしくなさーいっ!」 「な、なんだよっ離せっ! いじわるばっかしやがって!!」 「……い、いじわる?」 「その言葉――このアタシの行動全てを把握したうえで言っているの? ん? 答えなさい、ひつじ」 「あ…うっ…」 「いいこと? これは個人的な感情ではなく、正々堂々とした勝負! アタシはそのつもりでこんな所までやってきたのよ!?」 「は? しょ、勝負?」 「アタシのレシピに触れることができたなら…それはアタシと同等か、より強い力を持っているということ――」 「あ…あの」 「アタシはアタシに見合うだけの力の持ち主と対決したい! なのにどうなの? どういうことよ!! あのプリマ・プラムといったら――」 「な、何を言ってるんだ? おまえ……」 「ふ…えぐ…ユキちゃ…」 「ユキちゃ――んっ!!」 「……ユキちゃんを返してくださぁああいっ!!」 「――きゃあ!!」 「うわわあっ」 「ユキちゃぁああん」 「目…目が…まわ…る……」 「ふ…ふえええん」 「こ…こんな行動に出るとは…このプリマ・プラムはどれだけアタシをバカにしているの!?」 「ち…ちがっ…わ、わたしは…ユ…ユキちゃ…を」 「うげほ…げほっ」 一瞬前に見た光景は、いきなり突っ込んできた秋姫の姿。 そこから何もかもがグルグル回って、気づいた時には秋姫の手の中に戻っていた。 「はぁ…はぁ、一体…な、なにがあった…?」 「ふえぅ…ユキちゃんごめんね、こわくなかった?」 「……もしかしてあなた、本当に初心者なの?」 秋姫の様子にあの子も驚いたみたいだった。 さっきまでの強気な顔のなかに、とまどいが浮かんでいる。 「そ、それっ、もってかれたらっ」 「ちょっと見るだけよっ!」 いつの間に落としていたんだろう。 俺たちの赤い本を、あの子はスッと拾い上げた。 「……ふ〜む」 「あら…はいはい…そうなの」 「はい。返すわ」 「……ふくっうぅ…うん」 「あなた本当にプリマ・プラムなのよね?」 「ひくっ…ぷりむ…ひっ…ぷら?」 「はぁー…もう泣き止んで! もうひつじ取らないから!」 「ひっ…うん…でも…ひっく、ちょ…ちょと…とまらないかも…」 「これじゃ本当に弱いものいじめになっちゃうじゃないの」 「どうしてなの? これってどういうわけ? アタシはいつだって本気でいたいと思っているの」 「……えっええっ?」 「――例えそれがどんなに簡単なことであっても!!」 「…はぁ…ふう。そういうことなの」 澄み切った高い声が、プラネタリウムの中に響き渡る。 そしてその後、久しぶりの静寂が訪れた。 「……あ、あの…ほんとに…あなたが探してる人って…わたし?」 「ほんとに間違ってないか?」 「アタシは間違ったことなんてありませんっ!!」 「ですから、あんなに大人しい『星のしずく』ごときに振り回されているあなたが許せないっていうこと!」 「…あ! ほ、星のしずくっ! どど…どこいっちゃったんだろう」 「ほ、ほんとだ、また見失った…?」 「あなた! 話題をいきなり変えるのも失礼よっ!」 「ルーチェ・ルヴィ・アヴィス!」 「う、うわっ! なんだこれ」 「光が飛んで……きゃっ」 あの子が何かを叫び、杖をくるりとまわした瞬間だった。 丸い光の球が浮かび上がり、生き物みたいに空中を飛び交っている。 「……この力も、結構初歩の方なのだけれど」 「そんなに驚いてるってことは、まだお使いにはなれないようね。是非お勉強されてはいかがかしら?」 「お、おいっ!!」 「……ユキちゃん?」 「そんな言い方、やめろよ」 「見つけたわ」 舞い飛んでいた光の球は、くるくる回転しながら一箇所に集まった。 回転が止まると、その中央部分にゆらゆらと揺れるゼリーみたいな影が見える。 「星のしずくっ」 秋姫がそう叫んだのは、聞こえていただろうか。 俺たちのほうを少しも見ないまま、あの子はすっと手を前に伸ばした。 「おじょうさま、お持ちいたしました」 ベストタイミングで、アーサーと呼ばれていたお供の犬がガラス瓶を持ってくる。 遠目で見ても、それは高価そうな細工の瓶だ。 「プルヴィ・ラディウス」 決して大きくはないのに、その声はプラネタリウムの中に反響した。 あの子は背筋をのばし、まるで踊るように杖をふりあげる。 「う、うそだろ」 同じ言葉を、秋姫が隣でのみこんでいた。 「(あんなに遠いところにあるのに!?)」 星のしずくがあったのは、俺たちからもあの子からもずいぶん離れていた。 なのに、あの子が『言葉』を唱えた瞬間、しずくは杖の方へとまっすぐ引き寄せられた。 「おじょうさま、お見事ですー! まずはひとつめの星のしずく回収ですねっ!!」 「ええ、さあ大事にしまっておいて」 「かしこまりました」 きらきらと輝くガラス瓶をくわえ、お供の犬は機嫌よく鼻をならしている。 その時ばかりはきつく結ばれた唇もかすかに笑みを浮かべていたけど――本当に一瞬だった。 「アタシはあなたたちのことを嫌っているわけではないわ」 「ただ…ステラスピニアのすべきことはただ一つ、誇りを持って星のしずくを集めること」 「レードルを持つことを許されるのはそういうことだと、あなたはもう少し自覚なさった方がいいわ」 「……戻りましょう、アーサー」 「は、はははいっ」 「す…もも」 「………う」 ぽろり、と何かの雫が落ちてきた。 顔をあげると秋姫が泣いていた。 まばたきもしないままの瞳から幾粒もこぼれていく涙は、秋姫の頬を濡らしてゆく。 俺は秋姫の腕をつたい、くしゃくしゃになった頬に手をのばした。 「だ、だめだよ! ユキちゃんが濡れちゃう……」 「帰ろう」 「うん…帰ろう、か」 部屋に戻ってからも、秋姫は口数少なかった。 パジャマに着替えて椅子に座る秋姫を、俺は横から黙ったまま見ることしかできない。 何か声をかけたかったけど、どうしたらいいとか、何を言えばいいかなんてわからなかった。 いつものように、机の上に日記帳を広げる。 時々俺の方に気を使いながらも、秋姫はかかさずに日記をつけている。 お母さんからもらったという、きれいな柄のペンを走らせて――。 「あれ? どうしたの?」 「ううん?」 「ユキちゃん、こっち」 ベッドの上の大きなクッションを、秋姫は両手をまわして抱きしめていた。 髪が乱れるのも気にしていないように、頬を埋めた秋姫。 そんな顔を見れるのも、俺が小さなぬいぐるみだからだ。 「(――なんて言えば、いいんだろう)」 「さっき…濡れたの大丈夫?」 「平気」 「よかった」 「あのね…わたしね、ちょっとでも上手にできるようにって練習してたの」 「嬉しいこともたくさんあったのにね、でもね」 「……今日はもう…日記かけないよう…ふぇ…ん」 「明日また書いたらいいと思う」 「でも…でも…くすん」 「毎日書いてるのに…書きたいのに…ぐす」 「今日は…さ」 「今日は天気だけでも書いとけばいいっ」 「天気…だけ?」 「……ふ、ふふっ、ユキちゃんって…おもしろいこと言うのね」 「おもしろ…い?」 深呼吸をした後、秋姫は勢いよくベッドから立ちあがった。 そして開いたままの日記帳にさらさらとペンを走らせ、またくるりとベッドに戻ってきた。 「うん、天気だけ書いてきた」 「本当に書いたんだ……」 「あ…明日、七夕だぁ。いろいろやらないと…いけないのに」 「じゃ、じゃあ早く休んだほうがいい」 「うん、そうするね」 「ね、ユキちゃん」 「ごめんね、おやすみ」 「…おやすみ」 秋姫は柔らかい枕に顔を埋めた。 静かな時間が、部屋の中に流れ始めた。 「(明日、新月じゃないか)」 新月の日は、一日中俺が人間のままでいられる日。 「(なんてタイミングが悪いんだ)」 羊のぬいぐるみ――そんなたよりない体でいるほうが、俺は秋姫のそばにいられる。 人間のままの俺じゃ、例え肩を並べて歩いたって言いたいことの半分も伝えられない。 「(……ごめんな)」 日が昇るまでって、あとどれくらいなんだろう? そんなことを考えながら、横たわる秋姫の肩先にもたれかかった。 「教えてくださいっ!!」 「な、な、なにを?」 「だから…その…あ、秋姫みたいな女の子がもう一人いたからっ」 「もう一人?」 「もう一人って、どういうことかな?」 如月先生は椅子に座りなおして、顔だけをこっちに向ける。 「昨日のことなんですけど――」 いつものように、指輪が反応したこと。 秋姫と一緒に、プラネタリウムに向かったこと。 そこで出くわした、不思議な格好をしていた女の子のこと。 息を呑んでから、俺は昨日あった全てのことを話した。 「ふーむ……」 俺の話を聞き終えた如月先生は、頬杖をついて机の上に目を落とした。 「先生?」 「(もしかして…すごく悪いことなんだろうか、あの女の子が現れたこと……)」 椅子にかけなおすと、深いため息がこぼれた。 「(そういえば、秋姫…元気なかったな)」 今朝のこと。いつもの教室での出来事。 数時間前のことが、俺の頭の中に蘇ってくる。 「おはよう」 「おはよ」 「おはよう…石蕗くん」 「おはよ――あのさ」 「いや…べつに」 「石蕗、今日は昨日作った笹飾りを配布する日だから」 「あ、ああ。わかった」 「一緒に…一緒にがんばろうね」 「もちろんよ、すもも。石蕗もよろしく」 ――今朝。 秋姫と八重野はいつものように登校してきた。 笑ってたけど、なんだか違う感じがして……心配だったけど何も言えなかった。 「(あれってやっぱり、昨日のあの子のこと…引きずってるんだよな)」 「……如月先生?」 如月先生の横顔は、珍しく険しい表情だった。 机の上に広げたノートの上を、何度もトントンと指先ではじいている。 「う〜ん…やっぱり…こうするしかないか……」 「あの、もう一人のあの女の子が現れたことって…すごく大変なことなんですか?」 「ん? ごめんごめん、今ちょっと違うこと考えてた」 「――はぁ!?」 「いやーこの書類、今日までに仕上げないといけないんだけど……」 「ちょ、ちょっと俺の話は――」 「――失礼します」 「失礼しま……あっ」 「石蕗、先に来てたんだ」 「よかったぁ」 「教室にいなかったから、どうしたのかと思った」 「さて、みんな集まったところで……そろそろ始めようか」 「って言っても、ごめんね。僕はもうちょっと手が空きそうにないんだよ」 「はい、昨日うちあわせたもの、ここにまとめました」 「おお〜これは丁寧にまとめてくれたみたいだね」 「そうなんです、ナコちゃんって字もきれいだから、見やすいですっ!」 「うんうん、じゃあおまかせしても安心だね」 「(………)」 そっと見てみた秋姫の横顔は、いつもと同じ――いや、いつもよりもっと元気そうな笑顔を浮かべていた。 でも、だからこそ。 昨日の出来事を知っている俺は、そんな秋姫の笑顔が気になって仕方ない。 「(秋姫、本当は――)」 「石蕗君」 「というわけで、僕はちょっと今忙しいから…さっきの質問には後日お答えするとしようか」 「え…はい…」 「石蕗、これだけ持てる?」 昨日俺が帰った後、二人はこれをどれほど作ったんだろう? 八重野は両手にいっぱいの笹を差し出してきた。 「では、いってきます」 「はいは〜い、気をつけて〜」 「今持ってるぶんはこっちで良かったよね?」 「えっと、あ、うん。表の広場のところ…きゃっ」 「俺、持つよ」 「う、ううん、平気だよ? うんっ」 飾りのついた笹を抱えて、秋姫はふらふら歩いている。 俺も八重野も同じくらい持っていたけど、やっぱり体が小さいぶん秋姫は大変そうだ。 「ナコちゃん、こっちだよね」 「そう、もうちょっとだから」 「えっと…ここの幼稚園は七本」 「こっちは二本…石蕗、それ取ってもらえる?」 「あっはいっ、こっちです」 「どうぞ」 「……これ、数間違ってないよな」 「えっ、うん。大丈夫だと思…あ、はいっ」 小さな子供を連れた、おばあさん。 おそろいの制服を着た園児をひきつれてやってきた、保育士さんたち。 どこかの自治会の役員なのか、すごく明るい声の夫婦。 「あとこれだけしかないぞ?」 一息つくひまもなく、いろいろな人たちがやってくる。 俺たち三人が抱えて運んできた笹飾りは、あっという間になくなっていった。 「一…二、三…こっちがこれって、あれ?」 「石蕗くん」 「あの…これ、ナコちゃんがすごく丁寧に表を作ってくれたし」 「石蕗くんも数間違えてなかったから――大丈夫だよ」 「はい、この数であっていますか…あっ」 「ひゃっ、ナコちゃんっ!!」 「ごめん、平気」 「ほんとに? よかった」 「あ…八重野、髪に葉がついてる」 「え? ああ、これか」 八重野の髪に絡んでいた葉が一枚、はらりと地面に落ちる。 その時やっと俺は気づいた。 いつのまにか俺たちが立っていた場所は、夕暮れ色に包まれていた。 「――すもも、石蕗、ご苦労様」 「うん、ナコちゃんもお疲れさま」 「お疲れ」 最後に残った笹を職員室に運んだあと、俺たちは再び園芸部の前まで戻ってきた。 昼すぎから始めたのに、もう日はすっかり傾いている。 「そうだ、ナコちゃん…と石蕗くん」 「なにか飲み物……買ってこようか」 「ありがとう、でも今日は私、少し急がないといけないの」 「え? あ、お稽古??」 「うん、先生の都合でいつもより少し時間が早くなったから」 「ううんっ、遅れないようにしなきゃっ! 時間、大丈夫かな」 「まだ大丈夫。石蕗は?」 「俺?」 「もう帰るけど――あっ、カバン」 秋姫も八重野も、ここに来る時にもう荷物を持ってきていたみたいだ。 手ぶらなのは、俺だけだった。 「教室に戻らないと」 「じゃあ…ここでさようなら、かな?」 「大丈夫? 途中までなら送れるけど……」 「……大丈夫だよぉ。ナコちゃんこそ、遅れちゃだめだよ?」 秋姫と八重野は、旧校舎の間を抜けてゆく方を向く。 俺は教室に戻るから、校舎の中の階段の方へ。 「また明日」 教室への一番近道、渡り廊下の方へ向かいながら、俺は何度も振り返った。 八重野と秋姫、二人ははじめ、一緒に昇降口の方へと歩いていた。 だけど途中で長い方の影……八重野は自転車置き場へと向かって離れてゆく。 遠くに見える八重野は、長い髪をゆらして幾度も振り返った。 俺と同じように――。 『じゃあ…ここでさようなら、かな?』 「――秋姫?」 振り返ってみても、教室の中には誰もいない。 今のは、空耳だったんだろうか。 秋姫はあの時。 本当はあそこでみんなと別れたくないって言ってたんじゃ――ないのか? 「(やっぱり追いかけよう)」 まだ昇降口にいるかもしれない――。 カバンを脇に抱え、俺は走り出した。 ――今日は新月。 俺は秋姫の所に行ってやれない。 秋姫が一番助けてほしい時に、俺はいつだって手を貸すことはできない。 『ユキちゃん』になってたら、今晩俺はどんな言葉をかけられただろう。 「……いない? もう外なのか?」 校門の方を見てみても、秋姫らしい人影はない。 もう遠くまで行ってしまったんだろうか。 ほんの一瞬だけ見えた背中、それが秋姫かどうかだなんてわからなかったけど――。 俺は再び走った。 「あっ、秋姫」 「……は、はぁ、ふう」 「つ、石蕗くん……?」 ――追いついた。 一呼吸だけおいて、俺は秋姫のそばに駆け寄った。 「えっ? あ、あの…どうし…て?」 「ごめ、ちょ、ちょっとまって……はぁはぁ」 「ああ、ごめん」 「あのな」 同じタイミングで話し出してしまった。 驚きと気まずさが混ざりあって、俺たちの足をとめる。 「ごっごめんなさい…」 「あ、いや」 「石蕗くん…な、なにかな?」 「えっと…その…今日の七夕の準備さ」 「忙しかったな」 「疲れた?」 「あ…えと…ちょ、ちょっとだけ……」 「でも、でももう平気…だよ」 「(突然こんな風に話し掛けたから、驚いてるんだろうな……)」 秋姫は何度もまばたきしながら、こっちをちらちらと見ている。 またさっきと同じ気まずい空気が戻ってきそうだ。 「(だめだ、俺のほうからもうちょっと頑張らないと――)」 「あ、あのさ」 「俺はちょっと違った」 「なんか秋姫、ちょっと無理してるかもって、なんかそう思ったんだ」 ぴくん、と秋姫の肩が動いた。 どうしてわかるんだろうって、黙ったまま俺を見てる秋姫の目がそう言っていた。 「俺の勘違いだったらごめん」 「う…ううん」 廊下の向こうから、窓ガラスが朱色に変わってゆく。 ひどくゆっくりに感じられたのは、秋姫と俺の間の沈黙のせいだと思う。 何か言い出したいけれど、言葉が見つからない。 俺も秋姫も、きっと同じように言葉を飲み込んでいた。 「ほ、ほんとはちょっとだけ…ね、落ち込んでた……あの、いろいろあって…」 「――そっか」 「でもね」 「今晩は七夕だから…ナコちゃんや石蕗くんたちと一緒につくった笹にね」 「いろんな人たちが、いろんなお願いするんだって思ったら……ちょっとずつ平気になってきたの」 「こ…こういうの、へん…かな」 「いや」 「……よかった…ふふ」 並んで歩くと、やっぱり秋姫は小さい。 その顔を覗きこむには、俺はちょっとかがまないといけない。 うつむきかげんな顔にかかる横髪の奥で、秋姫はどんなふうに笑ってるんだろう。 「あの、石蕗くんって――あのね」 「なんだか、すごいね……」 「すごいって、何が?」 「誰かが寂しいとか、悲しいとか、そういうのすぐわかるんだもん」 視線をあわせると、秋姫は嬉しそうに微笑んでいた。 まるで尊敬するみたいに俺を見上げていた。 「(――ああ、そうか)」 秋姫がどうして落ち込んでたのかとか――。 だから今日は、笑ってたけど無理してたのに気づいたとか――……。 それは俺が『ユキちゃん』だから知ってることなんだ。 だけど秋姫はそうは思ってない、思うはずない。 「そんなこと、ないから」 「――あっ」 「あっ、秋乃ちゃん」 「それ……」 「秋乃ちゃんももらってくれたんだ! 笹飾り」 麻宮が手にしていたのは、ついさっきまで俺や秋姫たちが飾りつけていた笹だった。 「はいっ、職員室でわけてもらったの…寮に飾る…ぶん」 「冬亜ちゃんも喜んでくれるかな」 「うんっ! きっとすっごく喜ぶと思う、トウア」 「よかったぁ、気をつけて持って帰ってね」 「はい〜」 ゆらゆら揺れる笹を抱えて、麻宮は嬉しそうに駆けていく。 あの笹飾りを見てはしゃぐ冬亜の姿が簡単に想像できた。 「(……そっか)」 俺はさっき秋姫が言っていたことが本当にわかった。 「麻宮、嬉しそうだったな」 「うん、やっぱりみんなで頑張ってよかったね」 折り紙を切ったり貼ったりしただけの飾りと、たよりない一本の笹に願いをかける。 子供の頃は、そんな風に七夕を過ごしてきたはずだ。 けど、そんなことに喜んだり心を躍らせるなんて、もうずっと忘れてた。 「秋姫の家は、七夕やってるのか?」 「え? ど、どうかな…」 「お父さんが用意してたらあるかも…でも、ここ何日が締め切りで大変そうだし…」 「そうだ…笹」 「もしかしたらまだ、残ってるかもしれない。さっき麻宮が職員室でもらったって言ってたし」 「ちょっと見てくる」 「えっ、あの、石蕗くん?」 「園芸部のとこで待ってて」 「えっえええ?」 秋姫は誰かのために笹を作って、誰かが喜んでくれることを嬉しがってた。 じゃあ、今度は……。 今度は秋姫が喜ぶ番だ。 走り出した俺のなかに浮かんだ、たった一つだけの妙案だった。 「秋姫!」 日の落ちてゆく花壇の前に、影が長く伸びる。 振り返った秋姫は、びっくりしたように瞳を見開いていた。 「これしか無かった」 結局俺が職員室で見つけられたのは、30センチくらいの笹だった。 細い枝が2、3本あるとはいえ、七夕の笹飾りというにはあまりにお粗末だ。 「秋姫のぶん、最初からわけてたらよかったな」 「石蕗くん…これ、わたしの…?」 「に、したかったんだけど」 ちゃんと手で支えてないとすぐに頭をもたれてしまう。 そんなたよりなく細い笹を、秋姫はそっと両手で包んだ。 「い、いいよっ、わたし…嬉しい…」 「でもこれじゃ只の…葉っぱじゃないか」 「(――あ、俺また余計なことを!)」 これが只の葉っぱにしか見えないのは、誰だってわかる。 秋姫だってそう感じていたはずだ。 だけど秋姫は俺に気を使って、ああ言ってくれたんだ。 「(……なんでいつもこうなんだ)」 「石蕗…くん?」 秋姫の手の中で、小さな笹がゆらゆら揺れている。 「石蕗くん、ど、どうしたのかな」 もっと早くに思いついていたら、笹の一本くらい残せたはずなのに。 ちゃんと飾りのついた、七夕らしい笹を――…。 「つわ――」 「飾り…飾りも小さくしたら、よくないか?」 「飾りを…小さくする?」 「で、できるかわからないけどさ…例えばこの輪の飾りの折り紙を、もっと細かく切るとか……」 「あっ! う、うんうんっ!」 「そしたらこの笹にもさ、なんか七夕っぽくなるかもしれない…かな」 「お、折り紙とってこなきゃっ」 「え、あっ…」 「まってて、石蕗くんっ」 目をきらきらさせながら、秋姫は飛ぶように走っていった。 まるでそれは、『ユキちゃん』の前で見せる姿だ。 ……あたりまえだけど、わかっているけどやっぱり、まだ俺は素の秋姫を知らない。 この、普通の、俺のままの俺は。 「はぁ、ふう。折り紙…は、はいっ」 「だ…大丈夫?」 「うんっ!」 秋姫が抱えて持ってきた箱には、折り紙と一緒にハサミやノリまで一式入っていた。 かたかたと箱の中で揺れるハサミは、二つある。 俺が思いつきで言ったことに、秋姫はちゃんと道具までそろえてくれたのか――。 「(そっか…俺、そこまで考えてなかったな…ただ言うだけで)」 「石蕗くん……こ、ここで作る?」 「あ、あの…そこのベンチに座って…作る…かな」 「あ、ああ。そうしよう」 俺が頷くと、秋姫もぱっと顔を輝かせた。 夕暮れの柔らかい陽が落ちるベンチ――秋姫が三歩先にそこへ駆け寄ってゆく。 俺もその後姿にゆっくりとついてゆく。 「石蕗くん?」 こんな風に夕暮れの中を歩くのは、すごく久しぶりな気がした。 「結構…難しいな」 「で、でも…上手だと思うよ」 「石蕗くん、こっちのハサミなら……うまくいくかも」 「本当だ、これよく切れるな」 ベンチの上で広げた折り紙を、俺も秋姫も真剣な眼差しで見つめている。 笹の大きさにあわせて作る、それは今日作っていたものを、ふたまわりほど小さくしなきゃいけない。 そしてそれは、思っていたよりも難しかった。 「あ、破れた」 「わわ…ほ、ほんとだ…」 「えっ、な、なんでそんな泣きそうなの!?」 「だ…だって……もうすぐキレイにできそうって感じだったから…」 「また作るから! ほら、今度はこっちの色でやってみる」 「この輪っかをつなげるのが難しいな」 「ノリもちょっとずつつけたら…ちゃんとできるみたいだよ?」 「どれ?」 「え、えっと…あ、これ……こんなふうに」 秋姫の手元を見ながら、俺も同じようにやってみる。 不思議なことに、何度も失敗していた所がすらすらできていった。 「おっ」 「――できた!」 「できたな」 「うんっ、うんうんっ!」 冗談みたいに言い出したことだけど……。 秋姫が手にする小さな笹と飾りは、思いのほかいい出来だった。 「こんなちっちゃい笹で作れるなんて……」 「石蕗くん、すごい…」 「本当にできた…から」 「そ…そんな」 秋姫だって手伝ってたし、俺が切ったのよりも秋姫が作った飾りのほうが、よっぽど丁寧だし――。 「(あれ? 俺言いたいこと今いっぱいあるのに)」 「ど、どうしたのかな」 「や、なんでもない」 どうしたんだろって感じで、秋姫が覗き込んできた。 ふいに近づいてきた肩が一瞬だけ、俺の腕をかすった。 「――なんでもないよ」 「そ、そっか…なんでもない…んだよね、ごめん」 心配そうな目をそっと伏せてから、秋姫は微笑んだ。 「(……ごめん)」 「あのね、これ…持って帰ってもいいのかな?」 「そりゃ、もちろん」 「……嬉しい」 何も言えない。 俺は結局、何も言えないまま、言葉どおりに嬉しそうに微笑む秋姫からそっと視線をはずした。 「短冊、ない」 「たんざく…あっ」 「これくらいの大きさ…なら大丈夫かなぁ」 秋姫はもともとあった短冊を半分に折り、丁寧にハサミをいれた。 「そうだな」 「これ以上小さいと、字が書きにくいだろうし」 「こ、これ――はいっ」 「あ、ありがと」 手のひらに隠れてしまうほどの、小さな短冊。 秋姫は一枚を俺に渡したあと、じっとこっちを見つめている。 「………書かないの?」 「……石蕗くん…は?」 「あ、あとで…あとでいい」 秋姫は少し体を傾け、短冊に願い事を書き込んでいた。 ちょっとだけ顔を横に向けて、秋姫の方を見ても――真剣そうな眼差ししか見えなかった。 「(秋姫の願い事って、なんなんだろ)」 「できたっ!」 「お、おお…じゃあつるそうか」 「あ…ありがとう……あれ? つ、石蕗くん…のは?」 「あ…えっと」 「たぶんコレ…一枚くらいしかつけられないと思うから」 「いいよ、ほんと…うん」 「気にしなくていい」 「――うまくいって、良かった」 その時、俺の視界の隅に小さな影が落ちた。 緋色に染まった渡り廊下の上を、幾人かの人影がゆっくり歩いていた。 大きな鞄を抱えているのは、体育系の部活の生徒たちだろう。 みんな校門の方へと向かっている。 「……石蕗くん?」 「もうこんな時間か…」 「ほ、ほんとだ!! あの、つ、石蕗くんは…どうするのかな?」 「どうするって…帰るだけだよ」 「そ、そっか…うん。わたしも帰る…だけ」 「じゃ、それ片付けて――帰ろうか」 「ちょっと…暗くなってきちゃったね」 「ああ、大丈夫。家の前まで送るから」 「あっ、ご、ごめんね…うち遠いのに……」 秋姫は本当に申し訳なさそうに俺の顔を覗き込んだあと、そっと頭を垂れた。 「これ、本当に本当にありがとうっ!」 「えっ、ああ……でも秋姫も一緒に作ったからさ」 「う…うん、だけど」 ……だけど。 続きの言葉は秋姫の口からこぼれなかった。 きっとそれは俺のせいだ。 もっとうまく、秋姫が悲しげにうつむいてしまわないようにできないのか? 答えがわからなかった俺は、頭上に広がる星空を見上げた。 「今日晴れてよかったな」 「うん、織姫さまと彦星さま…会えたかな?」 「えっと…あのへん…だったっけ」 秋姫は顔をあげて、夜空の一点をまっすぐ指差した。 「えっと、織姫さまと彦星さま…」 「あっちの…一番明るいのがベガだよ…あ、えっと織姫の星」 「えっえっ、じゃあ私逆に見てたんだ!」 「で…こっち…ほうのがアルタイル」 「それが彦星さま? あれ、ど、どこいっちゃったっけ…」 「ほらもう一個明るいのがあるから、三角形みたいに。そうやって探した方がいいかもしれない」 「三角三角…あ、あの十字架の一番上みたいなの!」 「あの十字は白鳥座。明るいのは、しっぽの方」 「そうなんだ! あっ、三角形の場所わかった…かも」 「夏の大三角形って、よく言われるやつだよ」 ふと視線を隣に移した時だ。 指先で三角を描いていた俺を、秋姫はじっと見つめていた。 「…ごめん。俺一人で話してた」 「う、ううん、すごいっ! 石蕗くんって勉強家なんだ!」 「そんなことないよ」 「今の話だって――子供の頃に習ったことだし」 「そ…そうなの? わたし…覚えてないかも…たぶん習ったのに、だめだなあ」 「俺だって星の話しか覚えてないよ」 「石蕗くん、本当にお星様が好きなんだね」 「ま…まあ」 「ちゃんと勉強したことはないけど、天文の本とか読むのは好きだな」 「もしかして、星が好きだからこの学園を選んだのかな」 ああ――そうか。 この町は『世界で一番星に近い町』…なんだっけ。 「それは違う、偶然だよ…」 きょとんとした秋姫の表情に、俺は初めてその事に気づいた。 星がよく見えるなんて町にいるのに、ここに来てから夜空をゆっくりと眺めたことがない。 「最近見てないな、星」 「ど、どうして?」 「――なんでだろうな」 「あ……石蕗くんってお家から通ってるんじゃないんだよね?」 「ああ、寮だよ」 「そっか…大変だよね、家族から離れちゃうんだもん…寂しいよね」 まるで自分のことのように、秋姫は目を伏せた。 秋姫の家族のこと、ほんの少ししか知らないけど――すごく大切にしているってのはわかる。 「(秋姫の家もお母さんは単身赴任してるんだっけ)」 「(きっとそれが、すごく寂しいんだろうな)」 なだらかな頬に落ちる影を見ながら、俺はそんなことを考えていた。 「ついた」 「うん…おしゃべりしてると、すぐだね」 「つ…石蕗…くん」 「いっぱいおしゃべりしてくれてありがとうっ!」 「す、すごく嬉しかったの、この笹も、い…一緒に…つく…」 「作ってくれたことも―…」 「うん、よかった」 秋姫の唇が、何かを言いたそうに小さく動いていた。 さっきまで全力で走ってきたみたいに、頬は真っ赤だった。 そんな秋姫を見るの、俺は初めてで、やっぱり俺は言葉足らずなことしか言えなかった。 「秋姫が元気になって、よかったよ」 「じゃ、また明日」 「う、うん、また……明日」 秋姫は笹を持ったまま、ずっと玄関の前に立っていた。 時々吹いてくる穏やかな風が、たよりない笹の葉と秋姫の髪を揺らしている。 「……家、入らないの?」 「え、あ…あの」 「お、お見送り…かな」 「ありがと、じゃあ」 「石蕗くん、また…明日」 「大丈夫かな」 もう見えないけど、俺を見送ってくれた秋姫は微笑んでいた。 昼に見たような、無理して見せてる笑顔じゃなかった。 「今日は俺……あいつになって秋姫の所にいってやれないけど」 ふわふわした、秋姫の小さな腕でも抱き上げられる大きさの――俺。 「大丈夫だよな」 一度だけ振り返ってから、俺は寮へと戻った。 撫子の家は、薙刀を教えてる道場だとクラスの誰かから聞いたことがある。 そして――この街でそんな道場は、たった一つだけだ。 行ったことはなかったけれど、やたらと大きな敷地をもつ日本家屋。 その場所を頭の片隅に思い浮かべながら、俺は走った。 「……はぁはぁ、はぁ」 生垣の向こうに、平屋の大きな建物が見える。 立ち止まると奥からかけ声らしき人の声が聞こえてきた。 「ここかな」 突然、風を切る音が耳元で鳴った。 「誰だ!」 「覗きは許さな――…」 「つ、石蕗!?」 「やえ……」 「ひっ」 「何、しているの?」 「あ…あぶ…な…八重野、これ」 「え? ああ」 生垣へ深々と突き刺さった薙刀を、八重野はすっと自分のもとへ引き戻した。 「一体どうしてここに?」 「その、ちょっと」 「ちょっと相談っていうか、うん」 「相談……」 「でもまだ稽古の途中、だよな?」 「あらあら、撫子ちゃん。お友達?」 廊下の奥から聞こえてきた足音を振り返ると、品の良さそうな小柄な女の人が立っていた。 この道場の人だろうか。 髪は半分以上白くなっていたけれど、背筋はぴんと張っている。 「はい。同級生です」 「まあようこそ、見学かしら?」 「い、いえ、違うんですけど――…すみません、稽古中に」 「まあ、せっかくここまで来たのでしょう? もうすぐお稽古の時間も終わるから…あっちでお待ちなさいな」 「撫子ちゃんの好きな『らいむらいと』の大福もあるわよ」 「ね、お稽古が終わったあとにでも二人で召し上がりなさいな」 「……すみません」 「ふふふ、それじゃあなたはこちらで休んでらして」 「は、はい」 「後で」 八重野と別れ、俺が通された場所は、整えられた庭に面した縁側だった。 稽古場となっている所から少し離れているせいだろうか。 一人で座っていると、吹き抜ける風の音が大きく聞こえるほどに静かな場所だった。 「(…ていうか、俺…思いつきで来ちゃったけど)」 「(八重野にとっちゃ迷惑かもしれない…よな)」 静か過ぎるせいか、一人でいるせいか、その両方のせいなのか……。 だんだんそんな考えになってくる。 「(そんなことないか、八重野……そんな風に思うヤツじゃなさそうだもんな)」 「ごめんなさいねえ、お待たせしちゃって」 「い、いえ」 あの小柄な女の人、それから八重野が縁側へと戻ってきた。 稽古を終えたばかりなのか、八重野の頬は少し紅みがさしている。 「ゆっくりしていってね」 「あ……すみません」 無言で隣に座った八重野と俺の間に、まっしろな大福が山のように詰まれたお皿。 思わず笑いだしてしまいそうな、何だか不思議な光景だった。 「随分待った?」 「いや、そんなには。急に来てごめん」 「別に構わないけれど――」 「あっ、先に…これ」 「食べなよ。それから話す」 「………わかった」 「……もぐもぐ」 「…もぐ…ん、ごくごく」 「食べないの?」 「あ…じゃあ」 山のような大福を、八重野は次々と口の中に放り込んでゆく。 そんな中の一つに手を伸ばすのには、ちょっとだけ勇気が必要だった。 「もぐもぐ…ん…」 「ん……ふぅ。ここの大福はとても美味しい」 俺は、大福をひとつ手にして、頬張った。 「ん…んぐ!?」 「石蕗はそう思わない?」 「……ん…お…お茶…!」 「そう、やや渋めのお茶はよく合うのよ」 「ちょ…と…ごめん……」 「だ……の…のど…んっ」 ――大福、のどにつまってるんだ。 声が出ないままにもがく俺を見て、八重野はすぐに気づいてくれた。 「……あ。のどにつまっているのか」 「ん、んんっ」 「…んぐ、んっ…はあ」 「――助かった」 八重野の言うとおり、湯のみの中のお茶はかなり渋かった。 確かに甘いあんこにはぴったりかもしれない。 しかしそれより、のどにつまったモノを流し込む方が先だ。 「美味しかったかな」 ……美味しかったと…思うんだけど。 あんまりにも嬉しそうな八重野の笑顔は、俺の胸の奥をチクチクさせる。 「(やっぱりちゃんと、味わっておいた方がいいよな)」 「もう一個…いただきます」 「んっ!!」 「んぐ…えっ!?」 「……最後の…ひとつ……」 「あっ、ご、ごめん」 「ほんと気が付かなかった…ごめん」 「……美味しかった?」 「うん、大福って久々に食べたけど…美味かった」 「なら、いいよ」 「…ごめん」 「どうしてここに来たのかな」 「あ…ああ、ちょっと、なんとなく」 「(なんとなく、なんて理由――おかしいだろ)」 自分で言っておきながらも、俺は心の中で舌打ちした。 昨日あんなことがあったから、秋姫が落ち込んでるから、今日もそのせいで無理して笑ってたから……。 でもそれを知っているのは『ユキちゃん』であって俺じゃない。 秋姫が落ち込む理由を、俺が知っていたらおかしい。 「あのさ、今日あきひ――」 「すもも、七夕……楽しめたかな」 「今日まで、ちょっとずつ準備してたけど」 「短冊や飾りを作ってる時、本当に楽しそうだった」 「誰かを喜ばせたり、嬉しいって思ってもらうこと…すごく好きだから、すもも」 八重野の横顔を覗いてみると、ほんの少し口元がほころんでいた。 秋姫の話をするとき、八重野はいつもこんなふうに微笑んでいる気がする。 「だから、私はすももが楽しそうにしてるところを見るのが好き」 「でも今日は…なんだか無理していたような気がした」 俺が言おうとしていたことを、八重野はとっくに気づいていた。 そりゃそうだな、なんて今更ながらに気づいた。 俺が『ユキちゃん』になって秋姫のそばにいる時間の何倍もの時を、八重野は秋姫と過ごしてるんだ。 「なあ…何かできないか?」 「何か?」 「秋姫を元気づけること…」 「石蕗、ここで待っててくれる?」 「え? あ、うん」 何かを思いついたのか、八重野は廊下の奥へと小走りに走っていった。 空っぽになったお皿と湯のみと一緒に並んで、俺は取り残された。 ぼんやりと夕空を見上げる。 八重野と秋姫って、見た目も話し方も…何もかもが正反対の二人だ。 なのに、八重野は秋姫のことをよくわかってる。 それはまるで心を見透かしているように、なんて思えるほどに。 「申し訳ありません、こんなに――」 「いいのよ、毎年ついつい作りすぎてしまうの」 「え、な、なに?」 「笹。それから、いろいろな飾りなど」 「これで作ろう、石蕗」 「つく…る?」 「すもものための、七夕飾りを作る」 「あっ! そういうことか」 八重野が深く頷いた。 秋姫のためだけの、七夕飾りを作る。 それが、八重野が思いついた『答え』なんだ。 「作ろう」 「ただ、私はすももみたいに器用じゃない…から」 「そうか?」 「石蕗が教わっていたあれは…私にはできなかったんだ」 「あれか…俺、たぶん覚えてる」 「それはよかった」 八重野は小さく笑ってから、折り紙に手をのばした。 俺も折り紙とハサミを持って、覚えたばかりの笹飾りを切り出してゆく。 時間を忘れたように、俺も八重野も手を動かしつづけた。 できあがった笹飾りを掲げると、八重野も目を大きく開けて驚いていた。 腕ほどの長さしかない一本の笹だったけれど、色とりどりの折り紙細工に彩られ、立派な笹飾りになっていたからだ。 「なかなか賑やかだ」 「そうだな、うん」 「そういえば…短冊、短冊はどうすればいいと思う?」 「書けばいいじゃないか」 「私が? すももが、ではなく?」 「いいと思う…けど」 八重野は長い髪を何度もかきあげて、短冊を見つめている。 何かを書こうとして、考えているように小首をかしげて、そんなことを2、3度繰り返していた。 「……こうしよう」 「…すももが…元気になりますように……」 少しだけクセのある細い文字で、短冊にはそう書いてあった。 俺が読み上げると、八重野がこくりと頷く。 「お見舞い……みたいだな」 「じゃ、じゃあこうしよう」 「…元気だして…」 「これも駄目なのか?」 「あ、いや、ダメとかじゃない」 「石蕗ならどう書く?」 「へ? そ、そんな急に言われても」 「さっきから書いているけれど……」 「そういう意味じゃ……」 「石蕗はどうしたら元気が出ると思う?」 「え…笑うとか、かな」 「……笑う?」 納得がいったように八重野が頷いたので、俺は身を乗り出しその短冊を覗いた。 「…す、すももの…えが……」 「『すももの笑顔が好きだよ』これなら、おかしくないかな」 「(これじゃラブレターみたいじゃないか)」 八重野は大真面目な顔で首を傾げている。 俺の考えていたことに、八重野は全く気づいてないようだった。 「……そう。じゃあ、どうぞ」 「石蕗は書かないの?」 「えっ、い、いい。俺はいい」 「じゃあ、こうしよう」 「ちょ、ちょっと待て、なんで俺の名前……」 『石蕗正晴』 あの恥ずかしい言葉の書かれた短冊の端に、しっかりと俺の名前が書きこまれている。 もちろん八重野の名前もあったけど、それでもなんだか恥ずかしい。 「お、おい」 「石蕗も提案だしたから、別に構わないと思うのだけど」 それは……そうだけどさ……。 どうもさっきから、調子が狂いっぱなしだった。 「何してるの?」 「これもすももに渡すもの」 八重野は再び笹の葉を手にしている。 今度は一本というよりも、か細い笹の先だけをちぎったようなものだ。 「なんだ? やけに小さいな」 「それは……」 「…なんでもない」 「(――あっ)」 「(あの小さい笹…もしかして俺……じゃなくて、ユキちゃんのぶん?)」 もちろん、八重野に直接そう聞くわけにはいかない。 ユキちゃんの秘密を守っているかのように、八重野は一人黙々と小さな笹飾りを作り続けていった。 「(そっか…八重野ってそういうこと、する奴だったんだ)」 満足そうな、だけど真剣に集中した横顔。 喜んでくれるかな、と心の中で八重野は囁いているのかもしれない。 教室での八重野を知っているだけに、たったそれだけのことがすごく新鮮だった。 「いけない、もうこんなに日が暮れている」 空を見上げた八重野の長い髪が、さらさらと肩から流れた。 少し遅れて、俺も同じように空を仰いだ。 「時間を忘れてしまったようだ」 さっきまで夕陽がさして明るかった空は、もう半分以上夜の色に染まっている。 東の方にはもう、星が二、三輝いているのが見えた。 「よく晴れているね」 「……よかった」 「よかった…って?」 「……だって今日は七夕だろう?」 「一年に一度しか会えないのだから、晴れていた方がいい」 八重野の顔は真剣そのものだった。 だから最初、俺は気づくことができなかった。 それが七夕の話だってことに――。 「……ははっ」 「や…なんかおかしくって…ははっ」 「何故? 晴れていた方がいいっておかしいのか?」 「いや、そうじゃなくって」 「八重野がそんなこと言うのが…意外で」 「意外? 一体何のこと――」 「七夕、織姫と彦星が一年に一回会うって話」 「じゃ、秋姫ん家まで行こうか」 「ええ」 「えっ? えええっ!?」 「あ、あれ? どうしたの、ナコちゃんに…石蕗くんも……」 「――…八重野が」 「ナコちゃん…が??」 「すもも、これ……あげる」 「えっ、これ――どうしたのナコちゃん?」 「七夕飾り…わたしの?」 「いつのまに…? え、もしかしてわたしのために?」 「石蕗も一緒に作ったから」 「や、俺ほとんど何もしてない…よ」 「これ――」 俺と八重野の間で行き来していた秋姫の視線が、ふっと落ちた。 その先にあるのは、あの短冊だ。 「ナコちゃん、石蕗くん…ありがとう、本当に嬉しい」 「ほんとに嬉しいよ、ありがとう!」 八重野が何度うなずいても、秋姫はずっと『嬉しい』って言い続けていた。 俺はその横で、ただその言葉を聞いていただけだけど……なんだかすごく恥ずかしかった。 「喜んでくれてよかったな」 「本当によかった」 「あっ……家の人、心配してないか?」 「大丈夫、急いで帰るから」 「あっちだよな、家」 「送ってく」 八重野は驚いた様子で俺を見つめてから、ゆっくりと頷いた。 いつも夕焼けと一緒に帰る俺だから、驚かれるのも無理ないけれど……。 「今日はありがとう、石蕗」 「すもものこと。私も少しだけ気になっていたけれど」 「石蕗が来なかったら、こんな風に何かをしていなかったと思う」 「やっぱり友達は、笑顔の方がいい」 心の奥がむずむずとするのは、嬉しいからだったろうか。 わからなかったけど、八重野に相談して良かった。 秋姫が元気づけられたことに、間違いはなかったから。 「あ、あの…これ、すももちゃんのハンカチ?」 「あっ! うんっ、ありがとう」 「はい。あの、えっと、すももちゃん」 「すももちゃん、今日はとってもにこにこだね」 「え、そ、そうかなぁ」 「そ、そうかな、ナコちゃん」 「……ふふっ」 休み時間。 教室の中は、クラスメイトたちが行ったり来たりで騒がしい。 秋姫と八重野はそんななか、窓際に立って何かを話していた。 話していることはわからないけど、秋姫は笑ってた。 昨日みたいな、無理してるんじゃない笑顔で――。 秋姫と目があった。 「ナコちゃん、ちょっとごめんね」 「あ、あの――石蕗くん」 「あのねっ、き、昨日…ほんとにありが…」 「……チャイム」 「今日も園芸部行くから」 「こっち……」 窓際から俺の座っている席の場所まで、秋姫が駆け寄ってきた。 八重野もちょっと不思議そうな顔で、その後ろをついてきている。 「秋姫?」 「あ、あのね…石蕗くん、ナコちゃん」 「うん?」 「――すぅうっ」 「昨日は、あっありがとう! わたし…ほんとに…ほんとに嬉しかったよ!」 「はぁ、はぁ…ふう…よかった、ちゃんと言えた」 「ふふふ」 「…ははっ」 「えっ…ええ?」 秋姫はきょろきょろと俺たちを見ながら、真っ赤になっている。 そんな様子に八重野も俺も、自然と笑い出してしまった。 「チャイム鳴っちゃった」 「今日からはいつも通りの園芸部だね」 「はいは〜い、ごきげんよ〜」 「あれれ? 次ってホームルームじゃなかったぁ?」 「うん、そのはずだけど。どうして如月先生なんだろ」 チャイムとともに入ってきたのは、如月先生だ。 どうしてだろう、という空気が教室内に広がる。 しかし如月先生はそんなことおかまいなしな様子で、軽やかに教壇に立った。 「はいはい、静かに〜。ちょっと担任の先生が早退することになったので、今日は僕がホームルームをしまーす」 「こんな時に限ってだけど、今日はちょっとしたイベントがあります」 「イベント?」 「一体なんだろ?」 「なーんか如月先生テンション高いよなぁ」 「どうぞっ」 「わぁ〜もしかして転校生!?」 「こらこら、弥生! 声大きいって」 「はい、本日からこちらのクラスに転入することになった…」 「ああ、名前は自分で言ったほうがいいかな」 「――結城ノナ、です」 よく通る声でそう名乗った転入生は、シンとした教室をゆっくり見渡していった。 感情をあらわにしない、あの時と同じ瞳。 結城ノナ――転入してきた生徒は、廊下でぶつかって派手にこけたあの子だ。 「やっぱり転入生だったんだ」 「(あれ、向こうも気づいたか?)」 目が合った一瞬、転入生の唇がぴくんと動いた。 何かを言うのだろうかとそのまま見ていると、唇はまたキュッと固く結ばれた。 「……結城さん、もうちょっとほら…自己紹介してもかまわないんだよ?」 「あ、あれ? 緊張してるのかな?」 「――いいえ、特に緊張はしておりません」 「そ…そう。ん〜…そうそう途中編入だから、授業の進み具合をみんなで教えてあげるようにね」 「結構です」 「こちらのカリキュラムに関しては、もう把握してますわ」 「カリキュラム?」 「教科のことよ、ほら学園によって進め方って違うじゃない?」 「すごいな…よっぽど勉強好きなんだ」 「オレなんか努力してもダメだわ〜はははっ」 「なあハル――そう思わないか?」 圭介が椅子に座ったまま、俺の方へと体を傾け話し掛けてきた。 俺が何か返事をしないと、と思っていた時。 転入生は初めて感情らしいものを見せた。 「――努力」 「はへ?」 「私、その言葉は好きではありません。だって当たり前のことですわ!」 教室の中で呆然としていないのは、教壇に立つ転入生ただ一人。 俺も、秋姫や八重野も、めったなことでは沈黙しない圭介でさえ、ぽかんと口を開いている。 「さて、紹介もおわったようだし――」 「結城さんはそこ…麻宮さんの隣の席に座って」 「あ…あの…よ、よろしく…です」 「お気遣いなく」 「…あぅ…は、はい…」 あの麻宮の小さな声ですら聞こえるほどに、教室内はシンと静まり返っていた。 「……? 如月先生、どうぞホームルームの本題を進めてください」 「あっ、そ、そうだね。これからサマーキャンプもあることだし、うん、すぐ仲良くなるよ…ハハ…ハハハ」 「サマーキャンプといえば、今回は僕が実行委員やってるんで。おもしろおかしい企画目白おしにしておくからね! 詳しくはコレ見ておくこと〜」 「(あ…そういえばこの間言ってたな、そんなこと)」 前の席から後ろの生徒へと、順にプリントが回ってくる。 教室の中にやっといつものざわめきが戻ってきていた。 「(サマーキャンプ…か)」 「(秋姫、大丈夫かな)」 俺が心配することじゃないのかもしれないけど――。 なんとなく、秋姫はこういうの大丈夫なんだろうかって思ってしまう。 「(……そうだ、八重野だっているんだし)」 「(ていうか、なんで俺そんなこと気にしてるんだ?)」 熱心にプリントを見ていた秋姫が、ふいに顔をあげた。 なんだか不思議そうな顔でこっちを見ている。 俺は慌てて、視線を落とした。 「(八重野って普段、どんな風にすごしてるんだろう)」 少し俯いてプリントを眺める八重野。 長い髪がたれていて、どんな表情をしているのかわからない。 「(そういえば昨日、山盛りの大福食べてたな)」 不意に思い出したその光景。 あんなにほっそりした体なのに、皿の上にいっぱいの大福をたいらげた。 「(あ、き、気づかれたかな)」 思わずもらしてしまった笑いを隠すため、俺は慌ててプリントを引き寄せた。 「いろいろ注意事項なんかが書いてあるから、きっちり読んでおくように!」 如月先生が作ったらしい、サマーキャンプの予定表には、日程や時間、何をするか――そんな事項が細かく書いてあった。 「………二泊三日?」 「あーもう時間か。まあ詳しくはまた担任の先生からよろしく〜。それじゃあホームルーム、終わります」 「ん? 何か質問かな?」 「いやあの…サマーキャンプのことで……」 「俺、夜はどうしたらいいんですか」 「ああ、大丈夫! そこんとこ僕がうま〜く手をまわしといたからね」 「二日めは新月の日に合わせられた。一日めはまぁ…なんとかなるかな?」 「なっなんとか?」 「言っておくけど、その為に実行委員になったんだからね。しかしそれよりも問題はあっちだな」 「あっち?」 如月先生が指差した先にいるのは、結城だった。 どこからきたのだとか、何が得意とか、そんな質問責めにあうこともなく……結城は姿勢正しく椅子にかけている。 「ま、最初はあんなものかな」 「………はあ」 「このクラスなら、心配ないと思うんだけどね。さて、僕はそろそろ戻らないと」 「……はあ、大丈夫…なのか?」 新月の日はいいとして――。 問題は一日目だ。 プリントには、サマーキャンプでは二人一部屋で泊まるとあるけど……。 ――まさか、如月先生と同室? それだけは避けたかった。 「お昼お昼〜!」 「あ、ちょっと待って、私も行くから」 「あ…もう昼…か」 雨森たちが走り去っていくと、教室の中には誰もいなくなっていた。 みんな購買部や、広場のベンチにでも向かったみたいだ。 「やべ、早く行かないと」 まともな昼食にありつけなくなってしまう――。 そう思って再び廊下に向かった瞬間だった。 「昼、忘れた? 購買部なら向こうの校舎だけど――」 「違います」 「どうして何も言わないのですか」 「下着を見た場合の反応――あなたはおかしいです」 「(反応? 謝らなかったこと…なのか?)」 「さまざまな理論から考え出した結果」 「あなたの記憶する能力がおかしいのか、私が記憶するほどの存在でもないということなのか」 「いや、だからそういうんじゃなくて――」 「そうではない、別の答えがあるというと?」 「こ、こたえ?」 「おもしろいわ、更に研究せよということですね? ふふ、受けて立ちましょう」 「あの、ゆ、結城…だっけ。あのさ…」 「解けない謎こそ、私を一番楽しませてくれるの」 「お嬢様ぁ〜、お、お昼でございますー」 「あら、もうそんな時間なの?」 「はあ…遅くなって申し訳ありません。お嬢様、私ここに来るまでの間、十数回も名前や所在の質問をされてしまいました〜…」 「松田。こちらではそういう事はあるものと説明したでしょう?」 「ははいっ! ではご昼食を」 「いただくわ」 「……な、なんだ、それ……」 「何でしょう?」 「な、なんでもない」 「じゃ…じゃあ」 『このクラスなら、心配ないと思うんだけどね。さて、僕はそろそろ戻らないと』 ――本当かよ。 「あれれ? 石蕗君はお昼ごはん食べないの〜?」 「あっ、いや…食べる」 「購買部、早く行かないとな〜んにもなくなっちゃうよぉ。弥生もお財布忘れちゃってすっごい急いで戻ってきた」 「うん。あと園芸部のみんなは一緒に食べるの? それなら温室の方かも〜」 「は、はいっ!?」 「はぅ〜、お財布お財布っ」 「きゃぁあっ!! す、すっごーい」 「なになに? きらきらしてるの〜」 「ちょ、ちょっと…松田ッ!」 「あわわわっす、すみません、ご学友のぶんも用意すべきところを気がきかず申しわけありませ……」 「――ちがうっ!!」 如月先生の言葉が再び頭の中で響いた。 このクラスなら、大丈夫――……。 まだまだ俺はこのクラスのことをわかってない。 園芸部に入ったり、一言も話したことのなかった秋姫や八重野たちとも普通に――たぶん普通に話せるようになったりした。 ポケットに押し込んでいたプリントが、はらりと廊下に落ちた。 「サマーキャンプか」 変に俺につっかかってきた、転入生の――結城ノナ。 羊のぬいぐるみになってしまう俺。 それから――……。 「ほんとに大丈夫なのかな」 如月先生手書きのプリントには、ずいぶん気楽そうなイラストまで添えられている。 よく見てみると、それは羊だった。 サマーキャンプまでの日にちを指折り数えたら、またため息がでてしまった。 眩しい光が部屋の中に差し込んできている。 窓の向こう側は、よく晴れているようだ。 いつもの朝……じゃない。 今日はサマーキャンプの出発日だ。 「(本当に大丈夫なのかよ)」 夜になると、ぬいぐるみの『ユキちゃん』になってしまう。 こんな生活になってから、24時間を外で過ごすことは初めてだ。 「(ここでこうしてても仕方ないか)」 小さく息を吐いてから、俺は荷物を持って部屋を出た。 「お! ハルた〜ん!!」 「あ、石蕗君」 「よう。おはよう」 「ああ、おはよう……」 ロビーに出ると、麻宮達が揃っていた。 大きなカバンを抱えて、三人とも準備はしっかり出来ているらしい。 珍しく、夏樹も楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。 「あれ〜? ハルたん、なんか暗いね」 「そ、そうか?」 「うん。ちょっと元気ないよ」 「本当。具合でも悪い? 大丈夫?」 「あ、ああ。ごめん、大丈夫だから」 「どうせ、寝不足か何かだろ」 「……そう、かも知れない」 「寝不足で倒れるなんてかっこ悪いからな、向こうで気をつけろよ」 「悪い」 「辛くなったら、すぐに言ってね」 「うん。そうする」 「ハルたん、いーーーっぱい楽しもうね!」 「ははは。そう、だな……」 「アキノ、ナツキ! ハルたんも部屋から出て来たし、そろそろ行こうよー!」 「うん。そうだね」 「そろそろ行くか」 「しゅっぱーつ!!」 駆け出していった麻宮たち、足音までもが楽しそうだ。 たぶん、クラスメイトは皆そうなんだろう。 こんなに不安でいっぱいなのは、きっと俺だけだ。 時計に目をやると、もうそろそろ集合場所に行かなきゃ遅れてしまう時間だ。 不安は増してゆくばっかりだったけれど、俺はカバンを持ち、麻宮たちの後を追った。 「はいは〜い」 「みんな静かにしてね〜」 「はい、それじゃあお約束だけど、林間学校の注意をしておくよ〜」 「まず、林間学校はあくまでも授業の一環です。あんまりはしゃぎ過ぎないように」 「次、ここは整備された場所ではあるけれど、自然がそのまま残っている場所でもあります」 「興味本位で、あんまりその辺の奥に行きすぎないようにねー」 「はーい! 先生、質問!」 「はい、桜庭君」 「もし、行きすぎちゃったら、どうするんですか?」 「ああ、その時はねえ……」 「迷子になって、戻って来れなくなるかも知れないねえ」 「そんなに広いんですか、ここ」 「そうだよ。林の奥の方は結構手入れされてないみたいだから、みんな気をつけるようにね」 「はぁーい」 学園に集合したあと、俺たちがバスに揺られてやってきた場所は、山の中腹にあるキャンプ場だった。 ロッジが立ち並んだ大きな宿泊施設みたいだけど、近くには川も流れているし、空気もきれいだ。 快晴で、林から吹いてくる風は涼しい。 「(……はあ)」 ため息はここまでにしておこう。 大丈夫? と、ここに向かうバスの中で秋姫や八重野や、圭介たちにまで言われてしまった。 不安はなくならないけど、心配ばっかりかけちゃいけない。 「(夜のことは、夜になってから考えるか……)」 「さて、大雑把な注意はここまで〜」 「じゃ、今から班ごとに分かれて、定番のカレーを作りま〜す」 「班のみんなで協力して、美味しいカレーを作ってくださいね〜」 「上手にできたら、先生にも食べさせてね」 「それじゃあ、それぞれ作業してくださ〜い」 如月先生のかけ声とともに、生徒たちはあらかじめ決められたグループに分かれて集まった。 秋姫と八重野はやっぱり一緒の班で、他には小岩井と麻宮秋乃がいる。 俺は、深道と雨森と圭介、それから転入生の結城と同じ班だった。 「さー! それじゃあカレー作るよー!」 「おー!」 「お〜!」 「なになに、二人ともノリ悪いなあ。こういう時は、みんなでおー! ってやんなくちゃ」 「そ、そういうもんか?」 「……そうなんですか?」 「そうそう!」 「よし! とりあえず道具受け取りに行こうぜ」 「じゃあ、それは圭介と石蕗でお願い!」 「私と弥生と結城さんは、材料取りにいこっか!!」 「は〜い!」 こういう時、やっぱり深道は頼りがいがある。 相変わらず固い表情の結城でさえ、ぐいぐいと深道のペースに乗せられていた。 「それじゃあ、後でもう一回集合!」 「じゃあ、行って来る」 深道がよく通る声でそう言ったのを合図に、俺と圭介は道具を取りに、残りのみんなは材料を取りにと、それぞれの場所へ向かった。 「はいはい、集まって〜」 「これにざっと作り方書いてあるんだけどさ、やっぱ一番に湯をわかせってことなのかな」 深道はプリントを広げ、『下ごしらえ』の部分を指差して言った。 周りをぐるりと囲んだ全員が、無言で互いの顔を見合う。 「ちょっとまって、もしかして私たちの班…料理できる奴いないの!?」 「は〜い! お菓子なら得意かもでーすっ」 「小岩井さんは向こうの班だしなぁ」 「ねえねえ、石蕗くんはこういうの得意なんじゃないの?」 「でっ、できない」 「え? そうなのお? 一人暮らしだし、お料理できるんだろーなぁって思ってた」 「いや、寮だから…」 「どうしようかな」 隣のグループの方に視線をやると、みんなで一生懸命に火をおこしていた。 他もそうで、キャンプ場のそこかしこで煙があがっている。 「私らもとりえず火を――」 「……作業分担、効率でいうとその方法が一番です」 「分担?」 「あっ! この下ごしらえんとこ、担当きめて別れてやるってことだね?」 「そうだよ…うん、メシを炊く用意とカレー煮込む用意、あと火を起こしてお湯をわかす――この人数なら同時にできるじゃん」 「ほんとだよ! 結城さん、アドバイスありがとっ」 「うわ〜い、弥生たちの班ってなんだか最強っぽい」 「最強ッ!!」 「さーいきょおっ!」 「……あんたたちねぇ!」 鍋にいれられた米、ボウルいっぱいの野菜、それから三角につみあげられた薪。 まるで今から戦うみたいに、深道は腕を組んでそれらを見下ろしていた。 「すもも、一人で大丈夫?」 ふっと耳に入ってきたのは、隣の班の秋姫たちの声だった。 「ナコちゃんも気をつけてね、本当に本当にっ」 「大丈夫」 「でも、薪とかって重そうだし…林の方に行かなきゃだし…」 「すももも気をつけて、野菜は結構重いものだから」 秋姫たちの班は、人数わりで他より一人少ないみたいで大変そうだ。 「さて…と。どうしようか」 「薪…足りるのか?」 大きな鍋の横につまれている薪の数を見て、俺はそう言った。 これだけの人数のカレーを作るにしてはちょっと少ない気がする。 「どうだろう」 「うーん、ぎりぎり足りそうな気がするんだけどなぁ」 「……ならいいんだけど」 「……足りません」 「これほどの質量のものを完全に煮沸するには、薪の数は足りません」 「そう…なんだ」 「残念ながらこれは目分量で暗算した数値ですけど」 眉ひとつ動かさない表情の裏で、計算機を叩く音が聞こえた気がした。 「……すごいな」 「うん、すごいすごいっ! やっぱり弥生たちの班は最強〜ッ!!」 結城の眉がぴくりとかすかに動いた。 けどそれが誉められて嬉しいからか、そんな風に言われるのが面倒なのか、どっちなのかはわからない。 「それじゃあ追加の薪収集係は、石蕗!」 「こういうのは言い出しっぺが行くってのが鉄則!」 「……わかったよ」 「じゃあよろしく! いい薪拾ってきてくれっ」 「そーだそーだ、これ持っていた方がいいぞ〜」 ぽん、と圭介の手元から白い塊が飛んでくる。 慌ててキャッチしてみると、それはくるんと丸められた一組の手袋だった。 「助かる」 「わわっ、けーくん用意いいねえ。ねえノナちゃんっ」 「それには同意できます」 「弥生も同意〜っ!」 「それじゃ」 「いってらっしゃーい♪ がんばってねんっ」 キャンプ場から少し踏み込んだ場所にある林。 木々が立ち並ぶなかに、道のように踏みならされた所があった。 その道なりに林の中に入ってきたものの――。 背の高い木は、とても届きそうにない位置に枝をはっているし、下に落ちているのは短く細いものばかり。 薪になりそうなものは見つからなかった。 「手袋して拾うほどのものじゃないな」 「………石蕗」 「何してるの、こんなとこで」 「……薪ひろい」 ……そうだよな、他の理由でこんなとこに入ってくる奴なんていないか。 「ないね」 「薪にできるような枝」 「俺もそう思ってた」 小枝を踏みながら、俺と八重野はもう少し奥まで入ってみた。 ……辺りを囲む木々のせいだろうか。 キャンプ場からそんなに離れていないはずなのに、やけに静かだ。 さっと光がさしこんでくる。 いきなり開けた場所に、枝がたくさん張り出した木が立っていた。 「八重野、この木の枝どうかな。使えそうだ」 「いけない」 「生えているのを折るのはいけない」 「あ…や、優しいんだな」 「優しい?」 不思議そうな目が、俺をまっすぐ映しこんだ。 八重野がこんな顔をするところなんて――初めて見た。 「ふ…ふふっ」 「違うよ、石蕗。生えている木は乾いていないから燃えないんだ」 「そういう意味か」 八重野はまだ口元にほんの少し笑みを浮かべている。 なんだかバツが悪くなってしまった。 だから俺は、また黙って少しだけ斜め後ろを歩き出した。 「あれならいいかもしれない、ほら」 八重野の指差す先には、薄茶色の枯れた枝が落ちていた。 それも細く短いものじゃなく、火にくべるにはちょうどよさそうなものばかりだ。 強い風にでもふかれて、枝を落としたんだろうか。 地面に散らばった枝たちは、みんなよく燃えそうな乾いたものだった。 「これだけあれば、足りるね」 少し嬉しそうにそう言ってから、八重野は膝を折る。 細くて長い指が、視界のすみを横切った。 「八重野、素手じゃないか」 「危ないから、これ使えば?」 俺は自分の手にはめていた手袋を引っ張った。 指先についていた土ぼこりや小枝をはらい、八重野のほうへとゆっくり投げる。 ゆるい弧を描いて、手袋は八重野の手の中に落ちた。 「石蕗のぶんは?」 「……俺は気をつけて拾うよ」 「一双しかないんだね」 「い…いっそう?」 「手袋のこと」 「あっ、一組ってことか」 「そうともいうけれど」 「本当にいろいろ知ってるな、八重野は」 「ああそうだ、はい」 「一組しかないのなら、片方ずつ使おう」 渡したばかりの手袋が、片方だけ俺に戻される。 どうしてだろう。 八重野が差し出すと、同じ手袋でもなんだかキレイに見えた。 「私も平気だから、片方は石蕗が使う方がいい」 「不便じゃないか?」 片方ずつ手袋をはめて、枝を拾い集めてる俺と八重野。 互いに真面目な顔して地面を見つめてるなんて――なんだか可笑しくなってくる。 「――どうして笑ってる?」 「へ? わっ」 「別に――笑ってない」 「……そう」 さっき俺は声を出して笑ってしまった? そんなつもりはなかったけど――また地面に視線を落としている八重野からは、何も答えを得られそうにない。 「そろそろ戻ろうか、もうこんなに拾えた」 「すもも、野菜ひっくり返したりしてないかな……」 「八重野って、本当に秋姫と仲良しなんだな」 八重野はまっすぐにこっちを見て、頷いた。 「子供の頃から、一緒だからね」 「すもも、お母さんもお父さんも忙しい人だから――できるだけ一緒にいてあげたい」 「私は家族の代わりにはなれないけれど」 「一番の友達でいたいって思った事があるから」 「思った…事?」 「それは――」 「おーい、ハルーッ」 「圭介」 「はぁはぁ、こんなトコまで来てたのかよ…あんまり遠く行くと怒られるぞ。それにやっぱり薪が足りなくて……あ」 「八重野さんも、薪探し?」 「そっちの班でも、秋姫さんと小岩井さんが誰かを探してたみたいだったよ」 圭介が俺を探すのと同じ理由だとしたら――。 秋姫たちの方がもっと慌てているんじゃないだろうか。 「ああ。そうだ八重野、さっきの話……」 「今度、また話す」 「(……今度)」 俺と八重野が二人で話すことなんて、ほんの数回しかない。 八重野はいつも秋姫と一緒だし、俺はその後ろをゆっくり着いてゆく。 それが園芸部のいつもの姿。 だから『今度』って言葉は、俺にとってすごく――落ち着かない言葉だった。 「すごい量の米だな」 「石蕗は米係。まずはお米といできて」 「ええ!?」 「じゃあ、二人で頑張って! 結城さんと!」 「えっ、ちょ、ちょっと」 「作業分担」 「あ…の…」 「カレーの方は弥生たちがすっごいの作るからね♪」 「結構な量あるな〜。じゃ、米はハルなっ」 5人分の米が入った袋の重みが、ずっしりと両手にかかる。 かなり重い。 おまけに薄いビニールの袋は、落としてしまったら一気に破れてしまいそうだった。 慎重に、俺は米袋を抱えなおした。 「落とすなよ〜石蕗」 「じゃあ、ノナちゃんはこっちを持ってくださいで〜す」 「………ん」 「じゃあよろしく頼むね〜っ!!」 結城は大きな釜を、居心地悪そうに抱えて立っていた。 細い腕がほんの少しふるふると震えている。 「(重いのかな……結城、お嬢様って感じだし、こんなの持ったことないのかな)」 手を貸してあげたくとも、俺の両手はすでにいっぱいいっぱいだ。 結城が釜を落としてしまわないうちに、さっさと目的地に向かおう。 「あっちに水道あるし……」 「――ええ」 「いくよ」 結城はそれっきり口を閉ざしたまま、俺の斜め後ろをすたすたと歩いてくる。 ……やっぱりあの時のことを、まだ怒ってるんだろうか。 結城が転入してきたその日のことを思い出しても、今更なんて言えばいいのかわからない。 俺も同じように黙ったまま、蛇口の並んだ東屋の方へと向かった。 蛇口が並んだ水場は普通よりも広い作りで、米を研ぐのにちょうどいい感じだ。 米袋をそこに置くと、結城も釜をゴトンとおろした。 相当重かったのか、それとも重いものを運ぶことがイヤだったのか、結城の眉間には深々とシワが刻み込まれている。 「結城?」 「なんか…どっか調子悪いのか?」 「ずっと黙ってるから」 「私がさっきから疑問に感じていることは――」 「ぎ、疑問?」 「研ぐというのは、刃物などを鋭くする際に使う言葉です」 「ですがこれは――食物です」 何を言ってるんだ、と言いかけて、俺はその言葉を飲み込んだ。 結城が疑問に思ってること、それは『研ぐ』って言葉の意味のことだ。 「ああ! とぐってのは…その、洗うって意味」 もしかして……さっきからずっと眉間にシワを寄せていたのは、そのことばかりを考えていたからなのだろうか。 「意味がわかりません。それなら何故最初から洗う、とは言わないのでしょうか」 「…なんでだろ、昔から…そう言ってるから…か?」 「昔から…習慣化している言葉……」 「も、もういい?」 無言で小さく頷いた結城はそのまま直立不動だ。 河原やキャンプ場の方から、楽しそうな声がやけに大きく聞こえてくる。 空っぽの釜を目の前に、俺と結城の間に気まずい沈黙が流れる。 「(本当にわからない、のか)」 やっぱり、執事がついているようなお嬢様は自分で料理なんてしないのだろう。 ちゃんと教えられるか自信はないけど、仕方ない。 ここは俺がやるべき、なんだろう。 こんなに大量の米を一度に洗ったことはないけど、なんとかなるだろう。 「さてと」 俺が蛇口へと手を伸ばした時だった。 結城の手が、俺の手首をぎゅっと握っていた。 「な、なに」 「私に教えてください」 「結城、やって……みる?」 結城はこくこくと大きく頷いている。 「(も、もしかして……やりたかったのかな)」 結城はあまり表情を出さないうえに、いつもぎゅっと唇を結んでいる。 さっきだって機嫌が悪そうに見えていたけど、実は考え込んでいただけだった。 だからそんな風に見えるだけ、なのかもしれない。 「(……それって、ほんの少し前に俺がよく言われてたことじゃないか)」 俺も結城に大きく頷き返した。 「えっとまず」 「まず?」 「水をいれてっと……」 「水の比率は自由でよろしいのかしら?」 「ひ、比率? まあ、こぼれない程度なら……」 「こぼれない程度で、最も効率の良い量を考えればいいのですね」 「じゃ、次」 「水の中でかきまわして、それから水を捨てて……」 「水気を切った状態でまたかきまわすんだ、ギュギュっと」 「音で判断すべき、という意味ですか?」 「いや…なんていうか」 言葉ではなかなか上手に説明できなかった。 とりあえず、やって見せるしかない。 「やってみるな」 俺は水の入った釜のなかを、さっき言ったとおりにくるくるとかきまぜた。 「水を流したら、次はこんな感じで……ギュギュっと」 「……ギュギュ? これで間違ってなければいいのだけれど」 結城は空中で手を握ったり開いたり、釜の中の俺の手つきを真似して見せた。 「うん、そんな感じ」 「これが『ギュギュ』という行為ですか」 「じゃあ、結城もやってみて」 再び水を入れた釜の中に、結城はおそるおそる手をいれる。 少し冷たかったのか、一瞬顔をしかめていたけど、すぐ慣れたようだ。 俺と同じように二、三度かきまぜて、慎重に水を切った。 「うんうん、できてる」 「結城、なかなかうまいじゃないか」 米を研ぐ手つきを誉めた時、ほんの少し微笑んで見えた気がした。 だけど、やっぱり結城は無言のまま、再び蛇口をひねった。 とぎ汁はもうずいぶん透明になってきていた。 「……次の過程は」 「ああ、もう水を流すだけでもいいかも……」 「ゆ、結城っ!?」 「なな流れてる! 米!」 「流せと聞きましたが」 「あっ、そ、それは水のことで――って、わわ」 「ダ、ダメだってば!!」 「――はい!?」 「だ、だから、米は流しちゃダメなんだって」 「……っ!!」 「ですが!」 「ですがあなたは! 先ほど流せと言いましたっ!」 「えっ…そりゃ…そうだけど……」 「そんな…こんな単純な作業でミスを犯すなんて…」 「……結城?」 俺は流れ落ちた米粒のことばかりに目がいっていた。 だから気づかなかった。 顔を上げたとき俺の目に映ったものは、悔しそうに唇をかむ結城だった。 「だ、大丈夫じゃないか? そんなに流れてないし…さ」 「おーい」 「もう火は起こせたし、あとは飯たくだけだよ〜。早く早くっ」 「桜庭さん」 「えっ? な、な、なに?」 「私が観察をしながらの作業となったので、遅くなってしまいました」 「観察? そ、そうなんだ」 「まだ間に合いますか」 「うん…大丈夫…だよ、ごめん」 「いいえ」 「じゃあ、オ、オレ、信子さんたちにもうすぐだって伝えてくるから!」 「……じゃあ持っていくか」 結城は無言だった。 おまけにそれはさっきまでとは違う無言だ。 俯きかげんの、悔しそうな表情――。 「あなたは――」 「あ…な、なに?」 「もう少し明解に説明していただけたら――あのような失敗はしませんでした」 「俺もそう思った……」 「わかっていただけたら、結構です」 俺が返事を言い切らないうちに、結城は何故か顔をそらして走りだしていった。 「(あ、あれ? もう怒ってないのか?)」 そう思ってみても、結城はもうだいぶ先へと走っていってる。 残された俺は、洗いたての米の入った釜を抱えながらその後を追った。 「これはどうするの?」 両手で抱えなきゃいけないほどの、大きなボウル。 俺はその中に山と積まれたニンジンやジャガイモを指差した。 「そりゃもちろん、全部きれいに洗って一口大に切る! って書いてある」 「ねえねえノナちゃーん、ご飯の量って…えっと、分析だとどうするんだっけ?」 「…ですから、水分と穀物の比率から割り出す場合は全体量を二分割して……」 「ちょ、ちょちょっと待ってねん。メ、メモメモっ」 「あっちもうまくいきそうだな〜…」 「じゃ、石蕗にそっちはまかせた!」 「野菜! 私の分析だと、野菜係は石蕗が一番だってこと」 「ぶ、分析?」 「なによ、お前のはカンだろって顔してさー」 「そんなことは―…」 「ま、そうなんだけどさ。じゃあよろしく」 巨大なボウルを指差してから、深道はすたすたと皆のもとへと戻ってゆく。 ……結局、取り残された俺は野菜係に決まってしまった。 「(大丈夫か……結城)」 相変わらず結城は無表情だった。 でも…案外、雨森は結城と相性がいいのかもしれない。 それに深道は面倒見がいいタイプだし、圭介もいる。 「大丈夫……か」 「石蕗くーん、野菜はやくはやくっ〜」 「あ…ああっ」 水道が並ぶ小さな東屋には、俺以外に誰もいなかった。 振り返ってみると、他の班の野菜係は川のほうへ向かっているようだ。 「(あっちにすればよかったかな)」 石造りの手洗い場で、早速水に浸してみる。 ボウルの中でジャガイモやニンジンは勢いよくごろごろと回った。 「(なんだこれ、結構量多いな……)」 「(五人分のカレーだし、こんなものか)」 キャンプ用の小さな包丁はあまり切れやすいとはいえなかった。 おまけにこんな風にジャガイモの皮をむくなんて、本当に久しぶりだ。 「……まだこんなに」 くるくると手の中で回しているうちに、ジャガイモは何度も地面に落っこちそうになった。 「いてっ」 「あ、あのっ」 「あ…ご、ごめんなさいっ、おど…驚かせっ…わたし」 「だ、大丈夫、だから」 「えっとあの……ゆ、ゆびっ」 「指……?」 秋姫がおどおどと差し出した人差し指の先をたどってみる。 そこはちょうど俺の手――さっき切ってしまったところだった。 「あ、これ」 「………あの、えっと……」 「ちょっと切れたみたいだ」 「血が出てる……」 「これぐらい、たいしたことないよ」 「あっ! だ、だめ!」 秋姫の手がいきなりのびて、俺の手首をぎゅっと掴んだ。 口元まであと数センチというところで止まった俺の指先。 ふるふると小さく頭を横ふりする秋姫の顔。 同じくらいに赤く染まっていた。 「え…な、なに?」 「ご、ごめんなさいっ……で、でも」 「そういう風にするの…えっと、よくないと思うから」 「こ、これ!」 「これでちゃんとしてくださいっ」 「あ…ありがと……」 「(こんなのがあるんだ)」 秋姫が出してくれたバンソウコウは、やたら可愛い模様がついてた。 「あの…バンソコ……」 「あっ! そっか、わた、わたしが…貼ってあげたほうが」 「だ、大丈夫、それは大丈夫」 「なんか…うん、後で!」 「えっ…ええ!?」 「も、もったいないっていうか、えっと」 「ま、まだあるですっ」 「きゃあっ!?」 「や、やっちゃった……」 「秋姫も野菜係なんだ」 「……うん。あ、ひ、拾わなきゃっ」 秋姫は地面にヒザをついてジャガイモを拾いだした。 俺も一緒になって、ボウルから落っこちた野菜たちに手をのばした。 「ごご、ごめんなさい」 「いいよ…はい、これも」 「結構量あるよな、人数多いと」 「良かった…洗っちゃう前で」 「秋姫もさ」 「う、うん?」 「指、怪我しないようにな」 「おーい、ハル〜ッ、野菜がないと何もできないって信子さんが怒ってるぞ〜っ!」 「わかったー!」 「じゃ、俺戻る」 「う、うん…あの、つ、石蕗くん」 「ほんとに、あ…ありがとう」 「え? 絆創膏もらったの、俺だよ」 「そ、そうじゃなくて…あの…」 「つーわーぶーきー」 「もう行かなきゃ」 「う、うん。そっちの班も、がんばってね」 「秋姫もな」 ポケットの中につっこんだ、秋姫のバンソウコウ。 せっかくくれたのに、結局使えなかった。 あんなに可愛いガラのバンソウコウを貼るなんて――でも。 「(ごめんな)」 振り向くと、一生懸命野菜を洗ってる秋姫の背中が見えた。 「いい? 開けるよ?」 「う、うん。ちゃんとできてるかなぁ」 「大丈夫じゃない?」 「わ、わああ!」 「ちょっとこれ、ものすごく美味しそうに見えるんだけど!」 「あったりまえよ! でも結城さんのおかげでだーいぶ助かったよ」 「うんうん! なんていうか、マメ知識みたいなの? あれで絶対味変わってくると思った」 「……まめ…知識……」 全員で覗き込んだ鍋の中で、カレーは上出来の色と香りだ。 湯気に顔をなでられながら、みんなが驚きの声をあげている。 俺も同じで、美味しそうな匂いに思わずツバを飲み込んでしまった。 「あんなにいろんな知ってるなんて、料理大好きなんだろ? 結城さん」 「あくまでも知識として、なので、実際にはやっていません。必要もありませんから……」 「ほんとに? ま、それでもすごいけどさ」 「ねえねえっ、まだ食べないの? 食べようよ〜」 「はいはい……あ、石蕗そっちから皿とってくれる?」 「ん? これか…はい」 俺が皿を渡すと、深道が上手によそってゆく。 洗ったばっかりの真っ白な皿に盛ると、一層美味しそうに見えた。 「ちゃんと全員にまわったね。じゃあ――」 「いただきますっ」 「いただきま〜す」 「いただきます」 「おおおっ! これは本格的な味がする!!」 「うん…いいな」 「ねっねっ、ノナちゃんも美味しい?」 「え? ええ…」 「天気もいいし、カレーもうまい!! 最高だよ」 深道の言い方は決して大げさじゃない。 俺も、結城も圭介も雨森も、その言葉どおりの顔でカレーを口に運んでいた。 「みなさ〜ん、こんにちはぁ」 足音の先に立っていたのは、すぐ隣のグループだった小岩井だった。 そのすぐ後ろから麻宮秋乃が恥かしそうにこっちを覗いていた。 「あ〜そっちの班もうまくいった?」 「ええ! ねえちょっと食べ比べしてみない?」 小岩井が得意げに持っていた皿を俺たちに差し出した。 見た目は変わらないけれど、ふんわりとかすかに甘い香りがする。 「えっ? これって何? なんだか甘い匂いがする気がする」 「ほんとだっほんとだっ、あ、これ! これ何っ!?」 「あの…おりんごです……」 「り、りんごっ!?」 「小岩井さんが持ってきてくれたの…」 「そう! 前にパパに教わったから! 食べてみて〜」 「もぐもぐ…わぁなんか甘い〜おいしいっ」 「ふむ…このレシピはどの本にあったものかしら……」 「こういうの初めてだ」 「ほんと? でも甘いの苦手な人にはキビシイかな。圭介くんは平気?」 「平気ッス! やっぱ喫茶店やってるお父さん仕込みってだけで一味違うッス」 「お父さん…?」 「ああ、フローラんち喫茶店なんだ。『らいむらいと』って星城の近くにあるんだけど行ったことない?」 「ないです」 「そうなんだ、今度是非きてみてね」 「は、はい!」 「石蕗も試す?」 「ちょっとだけ、甘く感じるかもだけど…ど、どうぞ」 いつの間にか、秋姫たちもやってきていた。 味見用にと小皿に乗せたカレーを、秋姫がそっと差し出してくれた。 「美味しい」 「じゃあ、ごはんも、ごはんにちゃんと乗せたのも、あのっ、持ってき……」 「あ、いいよ」 「そ…そっかぁ」 「えっ……、あの、ちょっとご飯と一緒は無理って意味で…」 「あ、えっと…マズイとかじゃなくて、腹いっぱいでって意味」 「そっちのも、おいしかったと思ってるから」 「じゃあミックス〜」 「わっ、わわわっ」 「これでどっちも食べられるね♪」 雨森がやらかしてくれた。 もともと持ってた俺たちの班のカレーに、秋姫たちの班のが思いっきりミックスされてる。 「こ……これは……」 「マジかよ」 「…うふふふっ」 「おーいハルっ、八重野さんたちも〜っ! オレたちの班の食べない?」 まだまだどっちの班のナベにも、カレーは残っていた。 周りを見てみれば、他のクラスでも同じようにカレーの交換をしているようだ。 「呼んでる」 「うんっ、わたしたちも石蕗くんたちの班の…いただこう?」 「あ〜腹いっぱいだ」 圭介が隣で思いっきりノビをした。 河原で食べたカレーは思いのほかおいしかった。 あんなに大きなナベにいっぱいだったカレーは、俺たちの班のも秋姫たちの班のも、すぐに空っぽになった。 片付けを終え、バンガローに戻ってきたら後はもう風呂に入って寝るだけ――。 ……だけ、なんだけど……。 「圭介、もう部屋戻るか?」 「どうしようっかなぁ」 「そうだ、ちょっと飲み物欲しくってさ。オレ、自販機んとこまで行ってくる」 「ハルは? 何かいる? それとも、一緒に見に行くか?」 「俺…ちょっと眠いし、先に部屋戻る」 「え? 風呂はどうするの?」 「……適当にシャワー浴びて寝る」 「ええ!? せっかくデッカイ風呂あるのに? なんか温泉っぽいらしいぜ?」 「あ…い、いいよ。じゃ、先に部屋戻るっ」 「……はぁはぁ、ふう」 「こ、これでいい…かな」 これも如月先生の配慮なのか、俺がふりわけられたのは二人部屋だった。 圭介のいない今なら安心して……っていうのもおかしいけど、なんとか誰にも見られずにすみそうだ。 「本はある、圭介はしばらく…戻ってこなさそうだな」 窓から外を見ると、きれいな夕焼けが見えた。 山の端にのみこまれていく太陽。 だけど今の俺にとってそれは、嫌なカウントダウンだった。 「(……やっぱり行くしか…ないんだよな)」 「廊下…のほうはさすがにマズイな」 「窓から抜け出すか……よっと」 「皆の前で声を出さないように、あとは……」 「なるべく隅っこに隠れてたら…なんとかなるかな…はあ」 「だ、大丈夫そうだな」 「あ、ちょっと待って待って〜」 「早く戻ろうよっ」 「――ッ!!」 「あ、あぶなかった……」 どうやら気づかれなかったみたいだ。 辺りが暗くなっていたおかげで助かった。 助かったけど――舗装されてない地面に落っこちた俺は、すっかり砂まみれになってしまった。 「しまった」 飛び跳ねたり、体をゆすってみたりして砂粒を落としてみる。 「全部取れたかな」 気になったけど、またさっきみたいに誰がいつここを通るかわからない。 再び本の上に飛び乗り、俺は少しだけスピードをあげた。 「(俺ほんとに秋姫がいる部屋まで、無事たどり着けるのかな……)」 「ユキちゃん!!」 「しぃ――っ」 秋姫が開けてくれた窓から、俺は部屋の中へと入った。 思わず声をあげた秋姫の肩越しに、同室の麻宮の様子をうかがってみたけど、どうやら気づかれなかったようだ。 「ユキちゃんってすごいね! 私のいる場所、いつもわかるんだもの」 「そ、それは……」 ……すごく困る質問だ。 なんて答えようかと思っていたら、後ろから小さな足音が聞こえてきた。 「あ、あの…すももちゃん」 「ご…ごめんなさい。あの、そろそろお風呂の用意しない…かな」 「あっ、そうだね。すぐ用意するね!」 「すももっ、すももっ」 「お…ボクはどっか隅っこの方に隠れてるよ」 「う、うーんでも…ユキちゃん、ここ汚れてるよ」 体をねじって背中を見てみると、茶色のまだら模様になっている。 さっき地面に落ちた時に土がついたんだろう。 「ねえユキちゃん、お風呂で洗ってあげようか?」 「は!?」 「そそそんなのダメだよ! 危ないっ! ダメ!」 「でも背中の汚れ洗わないと、シミになっちゃいそう」 「そ、そんなのいい! 大丈夫! だって風呂にぬいぐるみなんてオカシイよっ!!」 「だーめっ! 洗面所で誰にも見えないように洗ってあげるから……ね?」 「ダメだよ…すもも……」 「も〜っアキノってば遅いよぉ! 迎えにきちゃったよ!」 「あっご、ごめんね」 「すももたんも一緒にいこいこっ、お風呂にいっこう〜♪」 「う、うん、きゃわっ」 「ト、トウア!」 「よ〜し、じゃあ出発〜っ」 「きゃっ、と、」 声もあげられないままに、俺は秋姫のカバンの中につっこまれてしまった。 ゆらゆらと揺れるカバンの中で、向かう方向はわからない。 だけど、だんだん足音が増えてゆくことだけは足音と話し声でわかった。 「あ! すももちゃんたちもお風呂行くの?」 「は〜い! 今からみんなでジャブジャブしようかな〜って」 「弥生たちも今から行くとこなの! 一緒に行こうよ」 「さんせーいっ!!」 「信子たちもねぇ、今ノナちゃん探しにいってるとこなんだっ。すぐ戻ってくるから」 「あっ、小岩井さんたち、来たみたいよ」 「ふうー…遠かった。なんであの部屋だけあんなに遠いんだろう」 「急に人数増えたからじゃないかなぁ。ほら、結城さんが転入してきたのって急だったでしょ?」 「あれれ? ノナちゃんは?」 「それがね、もうお風呂入っちゃったんだって」 「ちょっと残念だけどさ、しょーがないか。さ、みんなで行こっ!」 「はーいっ」 「ひゃっ、ト、トウア!」 「な…なあ…大丈夫…なの?」 「た、たぶん。わたし…がんばるから」 「がんば……る」 「ちゃんと目をつぶっててね」 「すももちゃ〜ん! こんなすみっこで何してるのぉ? もうみんなシャワーあびてお湯につかっちゃってるよ」 「えっ、うん、す、すぐ行くよ」 「早く早くっ〜」 「ええっ、わっ、ひゃあっ」 「〜〜〜〜っ!?」 突然視界が一回転したかと思うと、背中にひんやりとした感触。 目を開けると、すももの顔が真上から俺を覗いていた。 「ユ、ユキちゃ、ごめんねっ」 「あれれ? これなーに?」 「(……あ、秋姫、俺を…そ、外に…)」 「え、あの、その…えっと…ユキちゃん?」 「トウアー…お風呂で走っちゃ危ないよぉ」 「だいじょぶっ!」 「わぁ、すももたんすっごい可愛いの持ってる〜!」 「ほ、ほんとだ」 「そうかな」 「うん、ふわふわさんだねっ! すももたんも早くあっちにおいでよ〜」 「あっ、ト、トウアまってぇ」 「ね、このコも一緒にお風呂はいるの〜?」 「一緒に?」 雨森の言葉のあと、秋姫は俺を目線の高さに抱き上げて、じっとこっちを見つめている。 秋姫は何かを言い出そうとしてる。 小さい唇がもごもごと動いていた。 「わたしもちょっとだけ思ってたんだ」 「一度ユキちゃんと一緒に、お風呂に入りたいなって」 「いっ!?」 思わず声をはりあげてしまった俺の口を押え、秋姫はきょろきょろと辺りを見回した。 「よ、よかった。小さめの声なら、お湯の音とかであんまり聞こえないみたい」 「そ、そうかもだけど、い、一緒って、む、むり」 「大丈夫。誰にも気づかれないように、わたしがんばるから!」 「(お、おおおいっ)」 ――見つかるとか、見つからないとかじゃなくって!! ――俺、石蕗正晴なんだよ!! 「ユキちゃん、お湯は平気?」 「(てか、それよりも……)」 周りの皆が皆、全員が裸だ。 風呂なんだから当たり前の事だ。おかしいのは俺の方だ。 しかも全然知らない人ならともかく、クラスメイトばっかりだ。 「(い、いまいきなり人間に戻ったりなんか、しないよな)」 そんなことになったら……なんて想像しただけで気が遠くなった。 「大丈夫? すもも…ひつじ君も一緒につれてきて」 「たぶん…大丈夫だよね?」 「………う、ん」 「それならよかった」 「(よ、よくないっ!!)」 「ふふっ、なんだかすももちゃんてそういうの、好きそう」 「えっえっ?」 「可愛いぬいぐるみ、とかね」 「いいないいなっ、弥生も欲しいなぁ。すももちゃん、どこで買ったの?」 「えっ、えと、そ、それは――あの」 「……お土産」 「そうそう、スモモちゃんのお母さんって、仕事でよく外国に行くんだよね」 「外国のお土産かあ。それはちょっと買いにいけないな〜」 「う、うん…ごめんね」 「いいよいいよ〜、でもね、ちょっとだけなでなでさせて♪」 「(わっわわわっ)」 「やーん! ふわふわだよ〜」 「ふ、ふわふわ!? トウアも〜」 「ほんとだ♪ ふわふわひつじさ〜ん」 「(た、たすけ、てっ!!)」 視線で秋姫に助けを求めてみたけど、だめだ。 秋姫は俺以上におろおろしている。 俺……本当にどうなるんだ!? 「なでなで〜なでなで〜っ」 「麻宮」 「ほえ?」 「私にも貸してほしい」 「うん、いいよ〜ん」 ……へ? 八重野は頭を撫でるフリをして、自然に俺を秋姫のもとへと返してくれた。 「ありがと、ナコちゃん」 さすがに秋姫も気を遣ってか、俺を自分の近くから離さなくなった。 湯気が視界を悪くしてくれているのが幸いだ。 なるべく何も見ないように……もちろん秋姫の体もなるべく見ないように……。 そんな風に下を向いてばかりだった俺は、ここにいる誰より早くのぼせてしまった。 「あ…あつい」 「ああ、ご、ごめんねっ…じゃ、じゃあここに」 「(はあ…もう)」 秋姫は俺を湯船の端にそっと置いてくれた。 湯気から離れたとたん、冷たい空気に包まれる。 ぼんやりしてた頭が、ちょっとずつクリアになってきた。 なんで……俺……。 「―――!?」 「ひああっ」 なな、なんだ…………? 「ト、トトトウア! 大丈夫?」 「はふはふ……はっ!」 「大丈夫よねぇ、どーんと私がキャッチしたからさ」 「ふぁーい…ふくふくでびっくりした」 「ふ、ふくふく……?」 「冬亜ちゃん良かったわね、信子の胸キャッチでケガしなかったわ」 「ナイスキャッチだったよね、今の」 「ふくふく……」 「信子…もしかしてまた大きくなった?」 「ううん、ずっとFのままだよ?」 「えふ? えふってなに?」 「胸のサイズ。Fカップってこと」 「えっえふ!?」 「そ、そんなに驚かなくっても」 「は、はわ、ごごごめんなさい」 「ははは、うそうそ。でもFカップの子って結構いるよ?」 「……えふ…いるんだ……けっこう……」 「すもも? のぼせた?」 「う、ううん」 「きゃぅ! ト…トウア?」 「トウア、もっかい体洗おうっと」 「だっておっきいお風呂、楽しいんだもん〜」 「大きいお風呂はっ楽しいな〜ってあれ?」 「セッケンなくなってる……」 「ナーツキィ〜」 「ナツキ〜! もうあがったのぉ!?」 「――まだだ」 「ね、秋乃ちゃん、なつきってあのあんまり喋らないおにーさん?」 「あ…はい。三人一緒だから、おにーさんじゃないけど……」 「ねーねーナツキ、せっけんせっけん!」 「……せっけん?」 「せっけんなくなったぁ〜持ってきてナツキーっ!!」 「こっち、もってきてよーう」 「い、行けるわけないだろっ!」 「えええっ!? ナツキのけちぃ! いつもは一緒に入ってるのになんでなんで〜?」 「…一緒?」 「一緒?」 「やっぱり仲良しさんだね〜」 「―――っ!!」 「ひゃあ、と、飛んできたぁ〜」 「もお、危ないよぅナツキ! でもこれであわあわできるぞ〜」 「はっはは、あの妹じゃあ大変だな、麻宮」 「あはは、もうあんなに泡まみれになってるわ、冬亜ちゃん」 「ねえねえ、そういえば皆…お風呂で体洗うのって、どこから洗うの?」 「私、背中。思いっきり洗うと気持ちいいんだ〜」 「私は…えっと…あ、左手かな?」 「あっ! 弥生もだ!!」 「わたしも…です」 「私も左腕だな。髪は先に洗うけれど」 「八重野さん、髪の毛長いから大変そう」 「……少しだけ」 「ふ〜ん、だいたいみんな左手からかぁ」 「やっぱり右利きだからじゃない?」 「ねえねえ、すももちゃんは?」 「えっ、わた…わたし…あの」 「お…おなか」 「エ――っ!?」 「そ、それは珍しいかも」 「で、で、でも、おなかは大切にしなきゃいけないって」 「こ、子供のころお父さん言ってたから……」 「確かにそりゃ間違ってないけど」 「だから…お…お風呂でも一番に洗ってて…おなか」 「すもも…だいじょ…」 「すももたんはおなか大事大事なんだね〜」 「ひゃうっ!?」 「ふっふふ〜、トウアはね、いつもアキノの背中を一番に洗ってあげるんだよ! すももたん」 「…ふふっ、仲良しさん…なんだね」 「あ…う、うん…」 「そうだよん♪」 「ま、どっから洗ってもいいってことか!」 「……信子、それちょっとオジサンっぽい」 「なんだと〜!」 ……はっ! 何かが思いっきりぶつかってから、目の前に星が飛んで、それから俺は……。 俺はどうなったんだ? 「すもも、すももっ」 「ひつじ君の様子が……」 「えっえっ!? ユキちゃん!?」 「(あれ? なんか、おかしい…ぞ)」 「ひゃああっ、ユキちゃん――……」 「……ちゃん、ユ…ちゃん……」 「――ユキちゃん」 「はっ!?」 「気が付いたみたいだ」 「よかったぁ〜、のぼせたんだねぇユキちゃん」 「あ…うん…ていうか」 ぐるり、と部屋の中を見渡す。 同じ形のバンガローだけど、さっきよりもずいぶん広く見える。 「ここは、どこ?」 「えっ!? ユ、ユキちゃん記憶がっ」 「ここは私たちの部屋の方」 「あ…。そ、そういう意味…」 「(さっきの部屋じゃないのか)」 秋姫たちや俺と圭介の部屋はベッドのある二人部屋だった。 ここはもう少し人数が入れる部屋みたいで、ふとんが何組か敷いてある。 「すもも、あのさ…部屋に戻らないと…だって」 「うん、でもね――お風呂上がったときに、信子さんたちが一緒におしゃべりしようって…まっててねって……」 「あ、指輪の反応は…さっき皆がいない間にやってみたけど、なかった」 「やっぱり星ヶ丘から離れてるからかなぁ」 「い、いやそうじゃなくって」 「しっ、誰か戻ってきたみたいだ」 「はぁ、ただいま! 秋乃ちゃん、それ重かったでしょ?」 「へ、平気です」 「見て見て、全員ぶんの飲み物は確保できたわ! 自販機売り切れてなくってよかった」 ――うそだろ? こっちの部屋は、秋姫や八重野だけの部屋じゃない。 小岩井と麻宮が床に置いた袋には、何本もの缶が入ってる。 それだけの人数が戻ってくるってことだ。 俺はなるべく目立たないようにと、秋姫の後ろで固まった。 「麻宮、あの長い耳の妹は?」 「長い耳の妹? ……あの、ト、トウア…ですか?」 「トウアも来たがってたんですけど、違うクラスだからって…ナツキが連れて帰りました」 「そうか、残念だな」 「冬亜ちゃん、元気な人だよね」 「(元気……よすぎるよ)」 断片的な記憶だったけど、風呂の中に響きわたる麻宮冬亜の声だけは鮮明に覚えている。 「(そういえば…麻宮がなんだか大変なこと言われてたような……)」 「もうそろそろ信子たち戻ってくるはずだけど――」 ――!! 「ただいま〜っ! いやさぁ結城さんの部屋、なかなかわからなくって迷っちゃた」 「うんうん。一番離れてたんだよー」 「お疲れ様〜、じゃあ私たちもそろそろパジャマに着替えようか」 「そうだね、じゃあ結城さんそのへん座ってて!」 「……どうも」 「んじゃ、お着替えお着替え♪ 秋乃ちゃんもパジャマ持ってきたぁ?」 「あっ、は、はいっ」 「あ、あの……」 「なんでしょう?」 「か…可愛いね、そのパジャマ」 秋姫の向かいに座る結城は、どうやら無理やり連れてこられたらしい。 しかし不機嫌そうな顔をしながらも、結城はちょこんとそこに座っていた。 「よぉ〜し、 準備完了!! みんなっ、フトンに飛び込めえぇ」 「了解っ」 「ひゃ、ひゃあ」 「――やっ」 「(び…びっくりした……)」 秋姫がとっさに避けてくれたおかげで、俺は隅に座ることができた。 一歩間違えば、フトンの上で寝転ぶ誰かに押しつぶされるところだった。 「は〜い、じゃあ全員そろったところで! 何する? やっぱ身の毛もよだつ恐怖体験談!?」 「えっ…ええっ!?」 「もう、それは違うでしょー信子」 「へ? なんだよーじゃあ何するんだよー」 「コイバナ! 恋愛話にきまってるじゃないの」 「わーっどきどきの話ばっかりなんだね〜っ」 「で…この中にはいるの? そのコイバナが話せる恋人とかいるヤツ」 「な、ないのか」 「じゃあっ! 好きな人の話とか、好みのタイプの話にしよ、ね! じゃあ信子からっ」 「はぁ? 私から? う、うーん、私はまあ…私を大事にしてくれる人かなぁ」 「うんうんっ」 「顔とかあんまりよく考えたことないなぁ…ま、何かあった時とかは私が守ってあげるけどさ、いつも大事にしてくれるヤツがいい」 「信子、男らしいよ〜っ、私が大事にしてあげる〜っ」 「ちょ、ちょっとそれは違うってば!」 「(――わわっ、危なっ!)」 「ふふふ、やっぱり仲良しだね」 「そうだよ〜。でも、すももちゃんと八重野さんほどじゃないかも」 「え、ええっ??」 「ねえねえ、弥生はナコさんの話、聞きたい聞きたいっ」 「………私の」 ふいに名前を出された八重野は、少しだけ首をかしげて考えた後、いつものようにぽつりと言った。 「うん、実は私ちょっとだけ気になってた…なんだか八重野さんって不思議なんだもん」 「不思議、なのかな?」 「うーん、不思議系とかじゃなくって…なんだろう…あ! ミステリアスって感じ!!」 「ははは、確かにそうだよな〜。で、八重野さんはどんなタイプなのかしら〜」 「今、好きな人はいないけれど――恋はしたいと思う」 「誰かのことをすごく…心の奥から好きになれたら、と思っている…かな」 「ああ…わかる! 運命の恋みたいな!!」 「そっか…ナコちゃんもそんな風に思ってるんだ…」 「…も?」 「も、ってことは…スモモちゃんも何かあるんだ?」 「ほえっ??」 「そ、そんなのっ、あのっだって…わたわたしっ」 「あうあう…だめだよぅ…い、いえなっ」 「(――あれ?)」 両手でおおって隠そうとしているけど、秋姫の頬はリンゴみたいに真っ赤に染まっていた。 「はうぅ…あの、えっと…あうあう」 「ふふふ、すももちゃん可愛いよぉ」 「そそそんなじゃないです、ないでっすっ、ふぇええ」 「もうそれが答えってことだね。ははは、無理に言わせてごめんな。よしよし」 「あうう…こた、答えだなん…て」 頭をなでられて、秋姫はふとんの上で小さく丸まってしまった。 深道も小岩井も、部屋にいるみんながにこにことその様子を見つめていた。 「す、すももちゃん大丈夫ですか?」 「う、うん。だいだいじょうぶ…だもん」 「秋乃ちゃんは? 弥生はね、秋乃ちゃんだーいすきだよ!」 「へ…はぅ…う…うれしいです…で、でも…」 「――ふふ」 「も〜、弥生は好きな人いっぱいなんだから」 「ねえ、結城さんは? 結城さんは恋人とかいないの? 転入してくる前に彼氏がいたとか……」 「うわ、なんかドラマっぽいよね? 転入でわかれちゃう恋人同士とかさ」 「い、いません!!」 「じゃ、じゃあどんなタイプの男の子が好き?」 「好きなタイプですか? …今は的確に説明することはできません」 「そ…そう」 「ですが」 「が?」 「嫌いなタイプなら言い表せます。先日大変不愉快な思いをしました」 「へえ、どんな?」 「……たいがいの人ならば、なんらかの反応をしめすような出来事があったにも関わらず」 「(……ん?)」 「その男はまったく認識していなかった――これが私の最も嫌悪する部類の人間です」 その力説の最後、結城はふとんの上にこぶしを振り下ろした。 どうやら本気で怒っているらしい……けど。 「(それは…もしかして……俺のことか? あの転んだ時のこと?)」 話の流れを聞いてると、そうとしか思えなかった。 「うわぁ、それってひどいねえ!」 「ほんとだよ!! 私だったらぶん殴ってるとこだよ!」 「今度そんなことあったら私に言いなよ!」 「やばっ、見回り! みんなフトンかぶっちゃお!」 「はいはい失礼〜おや? 皆さんもう就寝ですか」 「ゆ…結城さんっ」 「むぐぐ…」 「きゃっ、や、弥生! 足っ!」 「…ってそんなわけないですね。なんだか楽しそうなことしてたみたいだけど」 「もう消灯だから秋姫さん、麻宮さん、それから結城さん。ちゃんと自分の部屋に戻りなさ〜い」 「はわわっ」 「は、ははいっ」 秋姫は慌てて起き上がった。 そのままここに俺を置き忘れるんじゃないかと焦ったけど、ちゃんと覚えていてくれたようだ。 「………っ」 「ご…ごめんなさい…先生」 「ははは、みんなでおしゃべりってのはこういう時の醍醐味だけどね」 「は…はい」 「じゃあ、もう暗いし部屋まで案内しましょう」 「ジュースやお菓子、ちゃんと片付けてからフトンに入るようにね」 「は〜いっ」 「それでは、おやすみなさい」 「…はうぅ」 「あ、秋乃ちゃん…大丈夫?」 「あ…すみま…せん…もうねむ…いです…おやすみな…すうう」 部屋に戻ってくるやいなや、麻宮はベッドに倒れこんだ。 眠気をガマンしてたんだろうか? そのまま一分もたたないうちに、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。 「ね、寝ちゃった?」 「…みたいだな」 「はぁー…もう疲れたよ。ずっと動かないように黙っててさ…」 「ごめんね、大丈夫だった?」 「…う、うん」 体を動かせなかったことよりも、もっと別の疲労感が重い。 クラスメイトの、しかも女の子の裏話を聞いてしまったってだけで、心が重い。 しかしそれを秋姫に悟られるワケにはいかない。 「それよりすももの方こそ大丈夫かよ」 「だからその…なんかいろいろ聞かれてたし」 「あ…ああ! 恥ずかしかったけど、けど――」 「みんなといっぱいしゃべれて、楽しかったな」 「…ふわぁ。もうこんな時間」 「わたしもそろそろ寝ようかな」 「じゃあユキちゃんはここに」 「おやすみなさい、ユキちゃん」 「おやすみ」 部屋の明かりを落とした後、秋姫もすぐに眠ったようだ。 静かな部屋の中で聞こえてくるものは、心地よさそうな寝息が二つだけだった。 俺は秋姫の枕もとに置かれたまま、眠れなかった。 『そ、そんなのっ、あのっだって…わたわたしっ』 『あうあう…だめだよぅ…い、いえなっ』 『ほんっと! もうそれが答えってことだね。ははは、無理に言わせてごめんな』 たぶん、深道の言ってたことは間違いじゃないと…思う。 何故かって言われると答えられないけど、あの時そこにいた俺もそう感じていた。 ――秋姫って好きな人いるんだな。 「すう…すう……」 「へ? なんでそんなこと、俺いきなり――」 「(なんで今思い出すんだよ、あのこと)」 「むにゅ…ふう……んんっ」 ……だめだ、もう考えるのやめよ。 それより俺が気をつけなきゃいけないことは、うっかりここで朝を迎えてしまうことだ。 日が昇る前にうまいこと部屋に戻れるだろうか……。 夜はまだまだ長いけど、今日はいつもよりも疲れてる。 寝過ごしてしまわないように、そう頭の中に刻み付けてから、俺は目を閉じた。 「――ま、まにあった」 部屋の中にとびこんだ瞬間に、俺は『ユキちゃん』からもとの姿へと戻った。 太陽が昇りきった時間と、部屋の中へと戻ってこれた時間はほとんと同時だったようだ。 「ん〜…もう朝かよ…あれ?」 「ハル、いつの間に帰ってきてたんだ? オレ全然気づかなかったよ」 「あ…う、うん。ちょっと遅くなった」 「先生にバレなくてよかったなぁ!」 どうやら圭介には俺のこと、バレてないようだ。 「なんか顔色悪いな、風邪か? 今日って昼過ぎまで自由行動だし、部屋で休んどくか?」 「……そうしようかな」 「おう、夜の肝試しまでには体調戻しとけよな〜」 「(肝試し…ああ、なんかあったな、そんなの――)」 いつもなら夜はあの姿に変わってしまうけど、今日は新月だから人間の姿のままだ。 肝試しに参加することもできる。 ベッドに横たわると、自分の体がひどく重く感じられた。 秋姫たちの部屋ではちゃんと眠れるはずもなかった。 「(……ほんとに、夕方まで休もう)」 まぶたはすぐに重くなった。 昨日一晩ぶんの睡眠が、即効で俺を眠りの中にひきずりこんでいった。 「ねえねえ、どうしてキャンプって絶対きもだめしあるのかな」 「さあ? でもなんだか伝統みたいよ、昔からサマーキャンプの二日目は、コレやるんだってさ」 「へえ、信子よく知ってるねえ」 「うちの従兄弟がさ、10歳上なんだけど星城出身だからね」 俺は朝食をとった後、そのまま部屋で眠りつづけた。 自由時間をほとんどまるまるそんな風に過ごしたものだから、俺の顔はひどいことになってたようだ。 夕方になってクラス全員が集まった時に、ずいぶん心配されてしまった。 俺と同じようなため息が聞こえてきた。 その先にいたのは秋姫だった。 秋姫も顔色が少し悪いみたいだけど、どうしたんだろう? 「へ? う、うん、だいじょぶ…だよ……あ」 「石蕗は?」 「体調はもう良くなった? 風邪で寝てるって、桜庭が言っていたから」 「お薬、飲んだかな?」 「あ……う、うん。もう大丈夫」 風邪って話になってたのか……。 本当はただの睡眠不足なんだけれど、心配そうに俺を見る二人にはそう言えなかった。 「はいはい〜皆さんお待たせしました〜」 「サマーキャンプ恒例、肝試しの組み分けしまーす。男子はこの箱の中のくじをひいてくださーい」 「この箱の中のくじを引いたら、中にペアとなる人の名前が書いてあります。それからくじの端に赤い印がついていたら、僕の方まで来てください」 「なんだ〜私たちは引けないのか」 「まあまあ! でも誰とあたるのかわからないのが、どきどきするよね」 言われたままに並んで、男子生徒たちが次々とクジをひいてゆく。 俺もその列に加わり、四つに折られた小さな紙切れをひいた。 「……八重野だ」 『八重野撫子』 クジにはその名前があった。 しかもクジのはしには、赤い小さな丸印もついていた。 「当たった」 「ああ、くじ引きの名前…私だったのか」 「おまけに赤い印もついていた」 「……本当だ。実行委員の所に行かないと」 「何なんだろう」 これがさっき如月先生の言っていた印だろうか? 俺と八重野はお互いに首を傾げつつ、一緒に如月先生のもとへと向かった。 「あれ、君たちが当たったの?」 八重野が例のクジを如月先生の前に差し出した。 「実は肝試しのお化け役が少なくてね……この当たりクジの人に頼むことになったんだ」 「お化け役」 「この紙袋の中に地図とかいろいろ用意したから、それ持ってちょっとだけ皆より早く出てくれる?」 『秋姫すもも』 「ハルッ、ちょ、ちょっと」 「ハルにお願いがあるんだよ〜」 「お願い?」 「……くじ、交換してくれない?」 すまなさそうに圭介が俺の前で手を合わせる。 圭介が持っていてたクジに書いてあったのは、結城の名前だった。 「だってオレ…結城さん…苦手っていうか…怖いっていうか…」 「すまん! 本当にお願いしますっ! 交換して〜っ!!」 「……そんな」 「あ、やっぱダメ?」 「圭介、そんなに苦手そうに見えなかったけど」 「いやだって、二人っきりってさ…ま、いいや。がんばるよ。ごめん」 圭介はもう一度ゴメン、と言ってから結城のもとへと走っていった。 おそろおそる名前を呼んでいる圭介に、結城は小さく会釈している。 結城、確かに話し掛けづらいところがあるけど……圭介の方がよっぽどちゃんと話せるだろう。 「はい、じゃあもう少し日が暮れたらスタートでーす。それまでにちゃんとペア同士確認しておくことー!」 「あ、そうだ…俺も行かないと」 ペアの相手がわからずに、困っていたんだろうか。 秋姫はきょろきょろと辺りを見回している。 「俺、秋姫とペアみたいだ」 「えっえっええ!?」 「……いいけど」 「ほ、ほんと!? 助かった!!」 そう答えると、圭介は俺の顔の前で大げさに手を合わせた。 ホントに困っていたようだけど……そんなに結城とペアになるのがイヤだったんだろうか。 「結城のこと、嫌いなのか?」 クジを交換しながら、俺は圭介にそう聞いた。 「まさか! そんなんじゃないけどさ……ほんとゴメン」 「……ああ」 「(圭介って、誰とでも仲良くなれるように思ってたのに)」 ゴメンゴメンと何度も頭を下げる圭介は、本当に困ってる様子だった。 「えーと…ゆ、結城」 結城は眉ひとつ動かさず、俺の顔をまっすぐ見つめていた。 「結城とペア、俺みたいだ」 「それではサマーキャンプ二日目・肝試し大会をはじめます。折り返し地点にそれぞれのペアと同じ番号の石があるので、必ずそれを持ち帰ってきてください」 「基本的には一本道ですが、山道なので気をつけてください」 大きな声を張り上げた実行委員の声が、だいぶ後ろから聞こえてきた。 「石蕗、どうした?」 「少し急ごう。ここに書かれている場所まで、結構距離がありそうだから」 日が暮れると、明かりの少ないキャンプ場は一気に暗くなった。 周りではくじでペアになった生徒同士が、並んで立っていた。 楽しそうに喋ってる二人もいれば、緊張しているのか会話がほとんどない二人もいる。 そんな風に自分たちの出発時間がやってくるのを待つペアより一足先に、俺と八重野は林の中へと向かっている。 俺たちは赤い印のついたクジ……幽霊役をやる方だったからだ。 「ちょっと残念だな」 「……? なにが残念?」 「え、ほら、俺たち裏方っていうか、脅かす方の係りだから」 「それもおもしろそうだと私は思うよ」 そう言った口元にかすかな笑みが浮かんでいる。 八重野がそんな風に思っているなんて、ちょっと意外だった。 「このあたりでいいかな」 八重野が指差すあたりは、しゃがみこんだらちょうど体が隠れるぐらいの高さで草が茂っていた。 俺が草をかきわけると、八重野がやや遅れてついてきた。 そこは肝試しのコースに面して、生垣のように俺たちの体を隠してくれる。 地面に座りこんで、俺と八重野は係りから渡された紙袋を開けた。 「なんだこれ」 白い布でつくられた三角形。 底辺に長いひもがついていた。 それから、やたら濃い赤色の口紅が一本と小さな手鏡。 紙袋から出てきたのは、それだけだった。 「これ…こうやって額につけるものじゃないかな」 「あ!」 「(なんてお約束な――…)」 言いかけたけど、俺はその言葉をのみこんだ。 八重野は生真面目にそれをちゃんとつけようとしていたからだ。 「つけるの?」 「あ…石蕗、つけたいの?」 「い、いい」 「じゃあ私がした方がいいよね」 「あ…ああ、まあ」 頭にあの白い三角をつけた八重野は、今度は濃い口紅を出した。 暗闇でもはっきりわかるほどのきつい赤に、八重野もびっくりしている。 口紅を持ったまま、硬直していた。 それでもやっぱり口紅を引こうとして、手鏡を覗いた八重野は更に固まった。 もしかして……。 頭にあの三角をつけていた自分を見て、恥かしくなったんだろうか? 暗くて顔色はよくわからなかったけど、八重野はずっと無言のまま固まっていた。 「別につけなくても、いいんじゃないかな。口紅も、その頭のやつも」 「そ、そうかな?」 「暗いし……それになんていうか」 「(そんな真面目にお化けやらなくても……いいのに)」 俺はそんな言葉と、こみあげてきた笑みを押し殺した。 「……じゃ、じゃあ…これは置いていこう」 八重野は額につけた三角と口紅を再び紙袋にしまった。 もう肝試しは始まったんだろうか。 俺と八重野が指示された場所は、折り返し地点からキャンプ場へと戻るほうの道だった。 誰もやってこないのは、途中でリタイアしたり道に迷ったりしてるからだろうか。 それとも俺たちが、来る場所を間違っていた? 虫の声と風の音しか聞こえない闇の中、俺はずっと一人で話していた。 ……心の中で。 「……気まずいな」 隣に座る八重野は、ひざを抱えたまま沈黙している。 ずっと、さっきからずっとだ。 「……そうだ」 ここに座りだしてから何分後だっただろう。 八重野が先に、ぽつりと言葉をこぼした。 「昼間の話の続き…忘れてるところだった」 「昼間……ああ」 「秋姫の一番の友達でいたいって話…だったっけ」 「――たぶん、すももも覚えていないことだと思うけれど」 「すもものお母さん、今は仕事で外国に行ったりしているけど、小さい頃はそうじゃなかったんだ」 「でもお母さんの仕事が忙しくなって…家にはほとんどお父さんと二人になっちゃったんだ」 「それでもすもも、寂しくないって言ってた。だけど、ある日一緒に帰ってすももを送っていったら……」 「たまたまお父さんがいない日だったんだ」 「さよなら、って手を振ろうとしたら…すももがぽろぽろ涙を流してた」 「笑顔でバイバイってしようとしてたけど、すもも…涙とまらなかったんだね」 「だから私は、家族の代わりにはなれないけど……すももが寂しいと思う時に、そばにいてあげたいと思ったんだ」 八重野の横顔を、ちらりと見てみる。 八重野は俺を見ていない。 今聞いたばかりの、うんと小さな頃のことを思い出して、その風景を見ていた。 その横顔は、俺が知ってる八重野の表情のなかで一番やさしい。 「(八重野と秋姫って……そんなに昔から仲良かったんだ)」 「誰か……きた」 「石蕗、幽霊は、幽霊はどうする?」 「え!? そ、それはえっ…と」 「どうしよう、立ち上がれば―…いい?」 「そ、そうだな…えっとじゃあ、俺は光あてるから……」 「き、きたよっ」 「ひぃいいいっ」 「きゃぁあああああ」 八重野はただ立ち上がり、俺は大慌てで懐中電灯を照らした。 それだけだったのに……。 俺たちが初めて驚かせたペアは、悲鳴とともに恐ろしい勢いで走っていった。 「………あ」 「これで良かったみたい」 「すっごい驚いてたぞ」 「立っただけなのにね」 「やっぱり無言で立ち上がったからじゃないかな」 八重野が笑ってる。 ただ立ち上がっただけなのに、幽霊役を成功させたから。 俺も笑った。 八重野が……笑ってるから……そんな気がした。 それから何組ものペアを、俺たちは驚かせた。 最初の時みたいに悲鳴と一緒に逃げる二人もいれば、女子だけ置いて逃げるヤツもいた。 時々小さな悲鳴をあげた後に、笑顔で手を振ってくれるペアもいた。 そんな時は八重野もちゃんと手を振りかえした。 何人くらいがこの道を通っただろう。 急に人のざわめきがぷっつりと消え、風と木のざわめきばかりが耳につくようになった。 「もう誰も来なさそうだし、帰ろうか」 「石蕗、靴ひもがゆるんでるよ」 「ちょっと持ってて」 俺は八重野に懐中電灯を渡し、しゃがみこんだ。 「あっその懐中電灯、スイッチを少し斜めに押し上げてないとつかないんだ」 「斜め上?」 「接触が悪いんだな」 「え? い、今ヘンな音…しなかった?」 「消えた」 「……ぅう…」 「だ、大丈夫か? すぐ目が慣れるから、じっとして」 「………う、うん」 「や…八重野?」 「や…えの……」 ほんの一瞬だった。 一瞬だったけど、俺は確かに固まっていた。 俺を見上げる八重野の目が、うるんで、怯えていて、助けを求めるようだったからだ。 「(あ……急によろけたんだ……そんな顔してあたりまえだよな……)」 ぶんぶんと頭を振って、俺は自分にそう言った。 それでも、もう一度八重野の目を見ることはできなかった。 斜め下に視線をずらしながら、俺は八重野を起こした。 「木の根か何かに、つまづいた?」 「う…う、うん」 「暗いし、足元悪いし……」 足元を気にして俯く八重野に、俺は手を差し出した。 「……手、つなぐ…のか?」 「俺、先に歩いて足元確認するから」 本当に、心からそう思ってた。 だから八重野の顔が少し赤くなっていたことも、手をつないで歩くなんて初めてだったことも……俺は忘れていた。 忘れていなかったら、とてもじゃないけど、無理だ。 「歩ける?」 「大丈夫、ひねったりはしてないようだから」 「ごめんなさい」 「懐中電灯、私が壊してしまったから」 「あ、ああ…あれ、なんで壊れたんだろうな」 「私が――」 「私が触ったから」 「へ? ま、まさかそんなワケないだろ」 「ううん……実は、実はな……石蕗」 「な…なに?」 「私、家でも何回か壊したんだ。テレビのリモコンとか、電子レンジとか……」 「ボタンを触ってただけなのに。そんなことで壊れるんだろうか?」 「ふはははっ」 「まさか――偶然だと思うよ。ボタン触っただけで壊れるなんて」 「そ、そうかな……手から何か出ているのかと思った」 「ははは、それなら八重野といつも手をつなでいる秋姫は―……」 手をつないでる――のは、俺と八重野。 俺と八重野は今手をつないでる。 その事実が、いきなり俺の頭の中に流れ込んできて……一瞬だけど、指先に力が入ってしまった。 八重野の長くて細い指も、ぴくりと反応するように動いた。 ただそれだけで、それ以上のことも、言葉もない。 「や、八重野、足…気をつけてな」 「……ありがとう」 それきり、俺と八重野は言葉を交わさないまま林を抜けていった。 「あっ、ハル…に八重野さん、遅かったなー」 キャンプ場の広場へと戻ってきた俺と八重野を、クラスメイトたちは心配げな顔で迎えた。 「俺たち……ずいぶん遅くなっちゃったようだな」 八重野が広場を見渡しながら、こくんと頷いた。 他のクラスの生徒たちの姿はほとんどない。 幽霊役の俺たちが、どうやら一番最後に戻ってきたようだった。 「すももちゃん、八重野さん帰ってきたよ」 「ほ、ほんとだ〜」 「ナコちゃんっ!! 心配したよ…す、すっごく怖かったでしょ?」 「え…あ、うん……」 「幽霊役なんて、も、もしわたしだったら絶対泣いてる…ナコちゃんはやっぱりすごいな」 「そ…そんなことないよ」 秋姫はよっぽど心配だったのか、半分涙目になって八重野の隣に並んだ。 そんな二人を見て、圭介や深道たちも微笑んでいる。 俺だけが、何故かみんなから少し離れている場所にいる……そんな気がした。 「さて、全員そろったところで解散します! 明日は帰りのバスが早いので、たっぷり睡眠とるように〜」 「ふ〜疲れた」 「今日は早く寝ようね」 「弥生もそれに賛成でーす」 「ほんっと……早かったな二日間……」 「石蕗っ」 「さっきはありがとう……」 「あ、ああ…うん」 「ナコちゃーん」 走ってゆく八重野の背中で、長い髪がゆれている。 じゃあ、と言った八重野の顔は、いつもの八重野だった。 でもさっき……暗闇の中で俺を見上げていたのも、八重野だ。 「なんだよ……俺」 いつもと同じ八重野の背中から、俺は目が離せなかった。 でもあれは夜だったから。 八重野が木につまづいて、よろけたから。 「……考えるのやめよう」 サマーキャンプは今日でおしまいだ。 明日の朝にはもう、いつもの街へと帰るし、いつもの毎日に戻る。 もう一度だけため息をつく。 サマーキャンプはこうやって、ため息で始まって、ため息で終わるようだった。 俺は結城とペアになったんだけど――。 なんだか、気まずい。 さっきから結城は一言も喋らないし、全くこっちを見ることもない。 緊張して話せない二人、という感じじゃない。 結城が俺のことを視界にいれてない、そんな感じだ。 おまけに俺は、クジを交換してくれと言われて結城とペアになってしまった。 「こんなんで、大丈夫かな……」 「はいは〜い、みんな注目〜」 「それじゃあ、そろそろ日も沈んで来たから、肝試し始めようか〜」 「それじゃあ、まず最初に実行委員の方から、ルールの説明があるから、よく聞くように」 「以上かな?」 「じゃあ、1番のペアから順番に出発〜」 いよいよ肝試しが始まったようだ。 笑いあってる声や、どうしようと今にも泣きそうな声も聞こえてくる。 そんな生徒たちを、実行委員はどんどん誘導してゆく。 次々と早い番号のペアが呼ばれてゆくなか、俺と結城も渡された番号を手にして並んだ。 「なあ、結城」 「な、なんですか!」 「いや、もうすぐ順番だから」 「それくらいわかってます」 「ああ……」 ……なんだろう、これ? さっきから、結城の言葉に刺がある。 もともと結城はそんな話し方をする方だけど……何かいつもと違うような気がする。 そう思っても、結城が答えてくれるワケはないだろう。 疑問を頭のすみに置いたまま、俺は黙って結城の隣に並んだ。 「はい、それじゃあ次のペアね〜」 手渡されたのは、たよりなさそうな懐中電灯一本。 それは俺と結城の、肝試し始まりの合図だ。 「じゃあ、行こうか」 「い、言われなくても行きます」 「じゃ、気をつけて〜」 能天気な如月先生の声に見送られ、俺と結城は歩き出した。 肝試しのコースは、林の中の一本道だ。 背の高い木々が生い茂っているから相当暗かったけど、時折ランプがつるされている。 真っ暗というわけではなかったけれど、歩きなれない道や木々のざわめきは充分怖さを演出してくれる。 結城の横顔を覗いてみたけど、何も変わらない。 広場で並んでいた時と同じだ。 結城は唇をきゅっと結んで前だけを見つめている。 もちろん会話なんて、歩き出してからたった一言もなかった。 「あ、次来たみたい」 「ホント? よしよし、また脅かすわよ〜」 「本当に楽しそうな顔するねえ」 「だって、こっちの方が断然楽しいに決まってるじゃない」 「そうだけどね〜」 「あ! 次は石蕗くんと結城さんだ」 「よし! 張り切って脅かすわよ!!」 「このまま、何もなく終わりそうだな」 「………ええ」 「あのさ、結城」 「なんですか」 「あの、もしかして、俺何か怒らせるような事したかな」 「べ、別にそんな事はないですけど」 「それならいいんだけど」 だったら、どうしてさっきからずっと黙ってるんだろう。 やっぱり俺が何か気に触る事でもしてしまったんだろうか。 「え!!」 「さ、さっき、何か音が……」 「ああ、風でも吹いたのかな。葉の音が聞こえたけど」 「は、葉っぱですか」 「(あれ、もしかして結城……)」 「もしかして、こういうの苦手?」 「な! 何をいきなり!!! べ、別に苦手とかそういうんじゃなくて!!!」 「ひっ!!!」 「(あれ、やっぱり苦手なんじゃ……)」 「に、苦手なんかじゃありません! いいから、早く行きましょう!!」 早足で歩き出した結城を追いかけ、隣に並ぶ。 その顔をこっそり見てみると、心なしか怯えているようだった。 「っ!!!!」 「え……」 どこか近くにオバケ役がいるようだ。 茂みが不自然な動きをしている。 「な、結城…こういうのって全部生徒たちが……」 「がおおおお!!!!」 「わああああ!!!!」 「きゃあああああああああああ!!!!!」 「なっ!?」 「きゃあああ!!! いやああああ!!!!」 「お、おい結城」 「う、ううううう」 「え、ええー…!?」 あまりに突然のことで、俺は一瞬結城がどこかへ消えたのかと思った。 結城はいた。 斜め下に視線を落とした俺は再び驚いた。 ――地面に座り込み、がくがく震えていたのだ。 「う、うわ。やりすぎたかな」 「で、でもさっきまでもこんな感じだったよ」 「う、う〜ん……ま、肝試しだもんね」 「とりあえず、次いこう〜」 「おい、結城。大丈夫か?」 「う、うううう……」 「もう周り、誰もいないみたいだぞ」 「うううう……え!!」 「大丈夫か?」 「へ、平気です! これくらい!!」 「いや、その割には……」 「(随分大声出してたけど、なんて言ったら怒られそうだな)」 「もう早く先に進んで終わらせよう」 「それがいいです」 「じゃあ、立って」 「わ、わかってま……ん?」 「どうした?」 「た、立てない……ん!」 結城は立ちあがろうと手をついて腰をもちあげた。 だけどすぐにストンと力が抜けてしまうようだ。 「(…もしかして………さっき驚いた時に腰が抜けたのか?)」 何度も何度も立ち上がろうとして、失敗している。 自分の身に何が起こったのか理解できないのか、結城の顔にだんだん焦りが見えてきた。 「……結城」 「嫌かも知れないけど、ほら、手」 「……え」 手のひらを差し出すと、結城は少し戸惑ったようだった。 最初はきゅっと唇を結んで、また腰を浮かせようとしたけれど……やっぱり無理だ。 「無理するなよ」 そう言うと、さすがに結城も観念したらしい。 結城はおずおずと自分の手を出し、俺の手のひらを強く握り締めた。 「じゃ、ちょっと引っ張るから」 「せーの」 「……んっ!」 少し引いてはみるが、上半身が動くだけで下半身は中々動かない。 どうやら、本当に腰が抜けて立てないみたいだ。 「腰、抜けたみたいだな」 「こ、こんなのすぐに元に戻ります」 「いや、でもずっとここにいるわけにもいかないから」 「それは、そうですけど……」 結城は、嫌がるかもしれないけど……仕方ないか。 俺は結城の前にしゃがみ込み、背中を向けた。 背中越しに視線を向けると、結城の眼差しはきょとんと俺を見ていた。 「このままじゃ、中々帰れないだろうから、おんぶする」 「お、おんぶ!」 「嫌かも知れないけど、ここにずっといるよりいいだろ」 「ほら、早く」 「わ、わかりました」 腰が抜けて動けない結城にめいっぱい近付くと、肩に手のひらが触れた。 ゆっくりと結城の体が背中にもたれかかってくる。 「………平気です」 よっぽど怖かったんだろう、腰から下が持ち上がらないようだ。 上半身がしっかりと背中に乗ったのを確認してから、俺は一気に結城を担ぎ上げた。 「きゃっ!!」 「悪い、ビックリさせた」 「大丈夫です……」 背中に乗っている結城の体は、びっくりするほど軽い。 そして、柔らかかった。 「落ちないように、気をつけて」 「わかってます」 「じゃ、歩くからあんまり、腕とか動かさないように気をつけて……」 「重く……ないですか」 「え? 別に大丈夫だけど」 「それなら、いいです」 ……気を使ってくれてるのかな。 背負っているので顔は見えなかったけど、声の調子はさっきよりも幾分か柔らかい。 だから余計に……なんて言うとおかしいけれど、俺はますます何を話していいのかわからなくなった。 「え? あ、はい」 「こ、腰が抜けた事、みんなには内緒にしてください」 「え、でも、このまま戻ったら」 「と、途中で歩けるようになったら、すぐにおりますから」 「わかった。じゃあ、大丈夫だと思ったらすぐに言って」 結城の声は素直だった。 それは俺が結城の秘密を握っているとか、そういうんじゃなかった。 本当は、結城もこんな返事をできるんだ。 俺は結城を背負いながら、何故かそう思っていた。 結城をおぶったまま歩き続けていると、折り返し地点がようやく見えてきた。 目の前には番号を書いた石が幾つも並んでいる。 この中から自分達の番号の石を持って帰るというのが、肝試しのルールだった。 「結城、折り返し地点着いたぞ」 「あ、はい」 「もう歩けそうか?」 「多分」 「じゃあ、ちょっと降ろすから。危ないと思ったら、こっちに掴まって」 ゆっくりと慎重に前かがみになってゆくと、ふと背中が軽くなった。 結城の足が地面に届いたようだ。 「大丈夫、みたいです」 「うん。良かった。じゃあ、石持って帰ろうか」 「そうですね」 浅い木箱の中には、大小さまざまな石ころが入っていた。 ここまで来れたペアが少ないのか、フェイクなのかはわからないけど、まだたくさんの石が残っている。 「ゆ、結城?」 結城は木箱の中にほとんど顔をつっこむようにして、石を探している。 「結城、そんなに顔近づけなくても――」 「この、自分の番号のついた石を持って帰ればいいんですか?」 俺の目の前に、結城は一つの石を差し出した。 確認しろとばかりに渡されたそれに書かれた番号と、俺たちの番号は一緒だった。 「うん、あってる……それじゃ行こうか」 石を持って、俺たちはキャンプ場の広場へ戻るだけになった。 折り返し地点から帰るほうへの道は、往路よりも少し広く開けていたので明るい。 そのせいか結城の表情も少し和らいでいた。 相変わらず会話はなく、結城の歩くペースは早い。 「(帰り道なんだから、もう少しゆっくり歩けばいいのに)」 「あの、さっきの……」 「さっきの?」 「さ、さっきのです!」 ……あの、腰を抜かしたことだろうか? それとも、俺に背負われたことだろうか? どっち? とは聞けなかったけど、どっちも黙っておこう。 「大丈夫、誰にも言わないから」 そう答えた瞬間、結城は突然足をとめ俺をまっすぐ見つめた。 「そうしてもらえると、助かります」 「おお、戻って来た」 「お帰りなさ〜い」 「ああ、ただいま」 「随分遅かったね。順位、最後から数えた方が早いんじゃない?」 「順位?」 「あれ、知らない? どのペアが一番早く帰って来たか、順位を決めてたんだよ」 「ああ、そうか」 それで番号のついた石を持って帰ってくる事になってたんだ。 皆は口々に自分たちのペアは何番目くらいだろうとざわめいていたけど、結城は興味ないらしい。 唇を結んでまっすぐ前を見ている、いつもの結城に戻っていた。 「それじゃあ、全員揃ったみたいだから順位の発表をするよ〜」 「あ、順位発表みたいだ。聞きに行こう」 「お、誰が一番だったんだろうな」 ざわめきの向こうから聞こえてきたのは、知らない名前のペアだった。 5位まで発表されても、俺の知ってる名前は出てこない。 そのあたりで、俺も結城と同じように順位発表から興味をそらした。 「さて、それじゃあ順位の発表も終わったから解散します!」 「明日は帰りのバスが早いので、たっぷり睡眠とるように〜」 「結城さん、肝試しどうだった?」 「……別になにも」 そっけない返事に言葉を返せなかった秋姫は、助けを求めるように俺の方を見つめる。 「なにもなかったよ、うん」 「(秋姫、ごめんな)」 正直に答えるワケにはいかない。 俺はついさっき、この事は秘密にするって約束したばかりだ。 「二人とも、どうかしたんですか?」 「いや、別に〜」 「うん。なんでもないよー」 「(もしかしてさっき俺たちを驚かせたのって……この二人?)」 尋ねられるわけもなく、また向こうから公表されることもなく……深道も小岩井もくるりと背を向けた。 「さっさと戻って寝ようぜ。俺、結構疲れた」 いつのまにか、広場に残っていた生徒の数はまばらになっていた。 残った者も、みんなバンガローの自分たちの部屋へと向かっている。 「(二日間、結構すぐに終わったな……)」 最後に一度だけため息をつく。 俺にとってサマーキャンプは、ため息で始まってため息で終わるようだった。 俺と秋姫は、そのどちらでもなかった。 「あ、うっうん」 「……そろそろみたい」 「そ、そうだね、うん」 緊張している……というよりも、なんだか様子がおかしい。 何も目に入っていない、って感じだった。 「(どうしたんだろ、秋姫)」 「はい、これね。地図と懐中電灯」 「あ…ああ…はい」 「石蕗君、秋姫さんかなり怖がってるねえ」 「……はあ、じゃなくて。ちゃーんと支えてあげるように!」 「……わ、わかりました」 口調は軽かったけど、如月先生の目は本気だった。 秋姫の方はというと、まるで真っ白になったように固まっていた。 「ほんとに大丈夫かな」 簡単な地図と懐中電灯を渡され、いよいよ肝試しが始まった。 肝試しのコースは、林道を伝って森の奥まで行って帰ってくるだけのようだ。 ちゃんとならされた道だったので、俺たちは普通に歩いてゆける。 ただ足元を照らすのはこの懐中電灯と星の明かりだけ。 その暗さに、秋姫はそうとう怯えているようだった。 秋姫はずっと俯いたままで、俺のすぐ隣を歩いている。 「は、はぃっ」 「秋姫って、暗いとこ苦手?」 「う、うん…」 「あと、あとお化けとかも、苦手……」 「(ああ……そうだったよなぁ)」 ふるふる震えている秋姫を見て、俺は思い出した。 プラネタリウムの暗闇でも、秋姫は怖がっていたじゃないか。 「……つ、石蕗くんは?」 「別に…普通?」 「い、いいな…わたしは…だ、だめ」 「お化けって、実行委員がやるんだし」 風に揺れる葉ずれの音や、地面をぴょんと横切る小さな虫に出会うたびに、秋姫は真っ青になって立ちどまった。 「(ほんとに怖いみたいだな)」 そんな横顔を見て笑っちゃいけないんだろうけど……。 なんだか可笑しくてたまらなかった。 秋姫と並んで歩きだしてから、もう十数分がたった。 さすがに秋姫もこの暗さに慣れてきたようだ。 だけど俺は別のことが気になって仕方なかった。 俺たちは、まだ一度もお化けや仕掛けに出くわしていない。 秋姫にとって、それはありがたい事かもしれない。 しかし俺は逆に不安になってきた。 「……おかしいな」 「えっえっ、ななななに!?」 「もしかして道、間違ってないかな」 「た、大変、どうしよう…ち、地図……」 「きゃうぅ」 「秋姫っ!!」 「いた……」 「だ、大丈夫か?」 秋姫が目の前で思いっきり転んだ。 地面をはう木の根につまづいたみたいだ。 「ほら、手持って」 「う…ん…」 遠慮がちに差し出された腕を持って、秋姫の体を引っ張る。 立ち上がることはできたけど、秋姫は一瞬フラリと傾いた。 「足、ひねった?」 「そんなにひどくない…――あっ!」 「ど、ど、どうしよう…石蕗くん」 「ち…地図…なくしちゃった……みたい」 「ほんとに?」 さっき秋姫が転んだあたりや、その周り……。 しゃがみこんで辺りを見回してみたけれど、地図らしきものはない。 ここまで来る途中で落としてしまったんだろうか。 「ど、どうしよう…ちゃんとポケットにいれたのに」 「……あぅ」 「ホントは…痛いんじゃないのか?」 「あ、えと…うん…ちょっとだけ……」 秋姫は顔をそらして、足首のあたりに手を添えた。 「(やっぱり痛いんだ……)」 このまま進むのも戻るのも、どっちも秋姫の足にとってよくはないだろう。 少し休んで、冷やしてやれればいいのだけど――。 すまなさそうに俯く秋姫を見ていると、なんだか胸が苦しくなる。 「(どこか座れそうな場所はないかな)」 俺は慌ててあたりを見回した。 「――あ、あそこ」 少し先に行ったあたりの木々の狭間から、屋根らしきものが見える。 もしかしたらそこが折り返し地点かもしれない。 もしそうじゃなくても、休憩できるような椅子くらいはあるだろう。 「秋姫、ちょっと座って休んだ方がいいだろ?」 「あっちに屋根が見えたから、休めるところあるかもしれない」 「それから、また来た道を戻ろう」 秋姫はひどくしょげた様子で、ずっと俯いている。 何もかも自分が悪いって思ってるように……目の端にはじんわり涙がにじんでいた。 「大丈夫、つかまって」 おそるおそる伸びてきた秋姫の手。 触れた瞬間にわかるほど、その指先は冷たかった。 こんな時、なんて言えば一番安心させられるんだろう。 俺にはさっぱりわからなかった。 「すぐつくよ」 痛めた足をかばいながら歩く秋姫が、小さく頷いた。 「く…暗いね」 木々の間に見つけた屋根は、小屋の形をした少し立派な休憩所だった。 しかし、もうずいぶんと人が来ていないのかそこらじゅうがホコリっぽい。 「ここ、座れるよ」 「ありがと…」 「きゃぅう」 「……大丈夫か?」 薄暗さが、秋姫には一層不気味なんだろう。 座って休むことはできても、ちっとも落ち着けない様子だった。 「………ぐす」 「……ごめんね、石蕗くん。肝試し……途中で抜けちゃって…」 「いいよ、そんなの」 「ほんと…? でも…ごめんなさい」 秋姫は何度も小さくごめんなさい、と呟いた。 別にいいから、気にしていないから――そう伝えたかった。 だけど、俺は言葉をうまく選べない。 何も言い出せないまま、俺は謝る秋姫の横で口を閉ざした。 どれくらい黙っていただろう。 俺はやっと話し出すきっかけを見つけた。 「秋姫、こっちこっち」 そこは秋姫の方から見えなかったようだ。 入ってきた入り口と反対側。 そこは縁側みたいに、外へと大きく開けていた。 「外の方が明るいよ」 「でも…外は暗く…ない?」 「ちょうど木の間が大きくあいてるんだ」 まるでそれは台風の目のようだった。 高い木々がこの小屋の上だけ切れていて、夜空がぽっかりあいている。 よく晴れた空に、星々がきらきらと瞬いていた。 「うわぁ」 「な、こっちの方が明るいだろう?」 「うん! すごい…こんなに明るいんだ」 「ここ、結構高い場所だからな」 「星がすごく賑やかに見える」 「にぎやか?」 「ん…なんていうか…光がよく見えるっていうか……」 「あ…わかったかも……」 「きらきらしてて、なんだかみんなおしゃべりしてるみたい!」 「おしゃべりしてるみたい?」 「う、うん…おかしい…?」 「そんな風に見えるのか…秋姫には」 「おかしい…よね」 「いや……そんなじゃなくて……」 「俺――星が瞬く理由を知ってるから、そんな風には見えないんだ」 「そ、そうなの? 石蕗くんは物知りさんなんだね…わたし、全然わからないよ。お星様がきらきらしてる理由」 「でも秋姫みたいに」 「星がしゃべってるとか、そんな見え方ができるのも…すごいと思う」 「えっ、えっ、そんなの、ぜ、全然すごくないよっ」 「すごいよ」 秋姫は俺の方をみて、それから真っ赤になった。 星を見上げたかと思えば、今度は急に手元を見たり……せわしなく視線を動かしている。 「(あ、ちょっと元気になったみたいだな)」 わたわたと動いている秋姫を見て、俺はほっとした。 「あ、あの、あっちの明るい星! き、きれいなの…石蕗くん、あの星のことは、知ってる?」 「あれ…はどれくらい向こうのなんだろう」 「向こう?」 「あ、えっと…地球からどれくらい離れてるかってこと」 「例えばさ」 「あの星…たぶんすっごく遠いやつだと思うんだけど」 「今見えてる光ってすごい昔のものなんだ」 「あっ、それは習ったことがある…かも」 「でさ、だからあの星ってもうないかもしれないんだ」 「今見えてる光が、星の最期の光だったらの話だけどさ」 ――遠い星の光が自分たちの目に映る時、その光を放った星はもう消えてなくなっているかもしれない。 それは俺が昔、理科の授業で聞いた話だった。 教科書に載ってる話じゃなく、先生の雑談かなにかだったと思う。 だけど、何年たってもずっと心に残った話だった。 「その話を昔聞いてさ、なんだか星とかに興味を持ち出して……」 「……って、あれ?」 「あきひ…」 「わ、あの、びっくりした、あの、あのね」 「あのお星様、もしかしたらもう無いのかなって思ったら、寂しくなっちゃった…えへへ」 秋姫は慌てて頬に手をやり、ひとつぶこぼれた涙をぬぐった。 泣いた、というにはあまりに一瞬の出来事だった。 一瞬だったけど、俺の目には秋姫が涙を流した瞬間が焼きついていた。 「(――あ)」 「(なんだろ、これ)」 なんだか顔が熱い。 顔だけじゃなくて、もっと奥…誰かに強くつきとばされたみたいに、胸が熱い。 「…石蕗くん?」 「あ、あの…もし良かったら…お星様の話もっと…聞かせてほしいな」 「(星の話なら……もっともっと話せるのに……)」 秋姫が話してくれと、そう言ってるのに。 頭の中で何もかもが混ざり合って、言葉にできない。 「ご、ごめんなさい…あのわたし、き、急に泣いちゃって」 「えっ!? あ、ああ……それはわかった」 俺が黙ると、秋姫はまた謝ってしまう。 何か言わないといけない……のに。 「ん、いや、それはいい…別に…大丈夫」 「俺のほうこそ…ごめん」 何度も謝らせてごめん。 秋姫は何ひとつ悪くないから。 星の話だって、もっともっといろいろ話したいんだ。 ――言葉はたくさん浮かんでくるのに、ひとつも声に出せなかった。 「よかった、僕まで遭難したかと思ったよ」 「他にもコースアウトしたペアいたけど、こんな所までさまよっていたのは君たちだけだよ」 「まあホントに遭難までいかなくて良かった良かった。とにかく戻ろうか」 「良かったな、秋姫」 秋姫は安心した顔でこくんと頷く。 如月先生に先導され、俺たちはやっと林の中の暗闇から解放された。 ちゃんとした道を歩いていれば、数十メートルごとに明かりが吊ってあったのだ。 ぽつんぽつんと道を照らす明かりの隣を通るたび、俺は秋姫の横顔を覗いた。 「足、大丈夫?」 「うんっ、もう平気だよ」 「あのさ……あきひ」 「ちゃんとついてきてるかーい?」 如月先生の声が林道に響き渡る。 秋姫は俺の話の続きを待ってるみたいに、しばらくこっちを見ていた。 だけど俺は続けなかった。 「(手、つなごうかなんて……なんで思ったんだろ)」 道を囲んだ木々が、しだいにまばらになってきた。 広場はもうすぐそこのようだ。 「あれ、最後って石蕗たちのペアだったの?」 「ほんとだ〜っ!」 広場を見渡すと、他のクラスの生徒たちはほとんど見当たらなかった。 残っているのは片付けをしいている実行委員と、俺たちのクラスの数人だけだ。 「ずいぶん遅くなっちゃったんだね、もう順位発表とか終わっちゃったよ?」 「あっ、あの石蕗くん……」 「途中で石を取ってくるの…忘れちゃったね」 「あ…そういえば」 それで順位を決めてたんだ……。 途中で迷ったせいで、石を取ってくることなんてさっぱり忘れていた。 「そんなの、気にしてない」 小岩井たちはかなり早くに戻ってきてたんだろうか。 思い切りノビをしてから、それぞれのバンガローへと向かって歩き出した。 「はぁあ……終わった……」 「圭介? 顔…どうしたんだ?」 圭介も残ってくれていた。 とぼとぼと俺に近づいてきた圭介の顔をみると、三本線のすりきずが入っていた。 「…それは話せば長くなるから、部屋で話すよ」 結城の様子もなんだかおかしい。 圭介のキズと結城の真っ青な顔、きっと肝試しの最中に何かあったんだろう。 圭介は苦笑いしながら、部屋へと戻っていった。 「二日間…結構早かったな」 「あのね…ありがとう、石蕗くん」 「そ、そ、それだけっ」 秋姫は照れ笑いのまま、くるりと体の方向を変えた。 その先には、八重野が心配そうに手を振っていた。 教室で、園芸部で、廊下で――俺は何回もそんな光景を見た。 「(……えっ?)」 何故秋姫の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。 その声は誰にも届いてなかった。 俺にとってサマーキャンプはため息で始まって、ため息で終わるようだった。 「わぁ〜い、やっと帰ってきたよぉん」 「わあ、ま、まってよぅ、トウア。荷物……」 サマーキャンプから帰ってきたばかりにも関わらず、麻宮冬亜は飛び跳ねるようにロビーをかけぬけてゆく。 大きなバッグとともに取り残された秋乃が、困り顔で振り向いた。 「まったく。いいよ、後で運んでおくから。アキノも部屋に戻っとけ」 ため息まじりにそう言ったのは、俺のすぐ横を歩く夏樹だ。 「麻宮、大変だな」 「な、なんだよいきなり」 「そのままの…意味だけど」 「石蕗、疲れてるのか?」 珍しく困惑している夏樹に、俺は素直にこくりと頷いた。 「……おつかれ」 他の生徒たちも、みな重そうにカバンをひきずって部屋へと戻ってゆく。 俺もその中の一人だ。 なんとか無事に誰にも見つからず過ごせたけれど、こんなに疲れた二日間はなかった。 「つ…疲れた……」 床に投げ出したバッグの中――。 シャツやタオルや、洗濯しなきゃいけないものが入ってる。 起き上がって中身をちゃんと整理して、あと何と何をしなきゃいけなかったっけ……。 「あ…それより……もうこんな時間…か」 顔をあげると、もう窓の外は真っ赤になっていた。 「(今日は行くの…やめておくか?)」 そんな声が頭の中で聞こえる。 だけどその一瞬後に、秋姫が寂しそうにしている横顔が浮かんだ。 「………やっぱ行こう」 「あの本は……ここにあるな、よし」 体は重かったし、荷物もそのままだったけど……俺は立ち上がり、窓の鍵を開けた。 「こ…んばんは」 「わー、ユキちゃん! ちゃんと帰れてたんだねっ」 「ほら、キャンプ先のバンガローまで来てくれたでしょ? 朝になったらいつもみたいにいなくなってたけど――」 「いつもと違う場所だったから、ちゃんと帰れたかなって…ちょっと心配だったの」 「ほんとに嬉しかったよ! ユキちゃんが来てくれて」 「う、うん…それなら…よかった」 秋姫の手が俺の…じゃなくて、ユキちゃんの頭をなでている。 普段は俺より小さな秋姫にそんな風にされるのは、何度経験しても不思議な感じだ。 秋姫、嬉しそうだな。 やっぱり来てよかった。 にこにこしている秋姫の顔を見ていると、自然にそう思えた。 「今日は落ちてくるかな、星のしずく」 「どうだろう…そろそろ流れ星の多い時期なんだけど……」 「え? なぁに?」 「あ、な、なんでもないよ」 「それじゃ、やってみるね」 指輪は光らない。 開け放った窓からは、蒸し暑い空気をかきわけた風が吹き込んでくるだけだった。 「反応しないねえ」 「指輪、壊れてないよね?」 「だ、大丈夫じゃないかな…どうして?」 「星のしずく、なかなか見つけられないから……」 「そんな時もあるんじゃない?」 「疲れた? ユキちゃん、あんな風にお外でお泊りするのって初めてじゃない?」 「あ、う、うんまぁ…うん」 「今日はゆっくりしようね」 「ゆっくり…うん」 「(確かに……この体になっても、なんだか疲れが残ってるような気がするな)」 ぬいぐるみになっても残ってる疲れなんて……俺、どんなぐらい疲れてるんだ? そう思うとなんだか可笑しくなってきた。 「あのね、この前こんなクッション見つけたの! ちょうどユキちゃんにいいかなって思って」 「へえ、どれ?」 「ふふふ〜、すっごいフワフワなの!」 秋姫が手にとった紙袋は、ちょうど両手で抱えられるくらいの大きさだ。 俺もそのそばに寄って、秋姫が開けようとしている包みを覗き込んでみた。 ガサガサと包みを開けている真っ最中の、突然のノック。 俺も秋姫も一瞬停止してから、目くばせをした。 「晩御飯できたよ、今日はね、ちょっと豪華にしたんだ」 「あ、そ、そうなんだ〜」 「うんうん。今日はお客さんが来るからね。それから、すももちゃんサマーキャンプからおかえりなさいの気持ちもこもってるんだよ?」 「お客さん?」 秋姫は部屋の中に戻ってくると、さっきの包みを片付けるフリをしながら俺に話しかけてきた。 「ユキちゃん、ごめんね。ちょっと待ってて」 「すももちゃん」 「はははいっ!?」 「ユキちゃんも連れてっちゃおうか?」 「(ええええ!?)」 「だってすももちゃん、その子お気に入りなんでしょう?」 「それは…うん。そう。大事だよ?」 「うんうん、じゃあ一緒に連れていっちゃおう〜!」 「あうぅ」 結局勢いに流されて、俺は秋姫とともにリビングまでやってきてしまった。 秋姫のお父さんは一階に降りてきたとたんにキッチンに向かった。 今もそのまませわしなく立ち回っている。 「ご、ごめんね、ユキちゃん」 「でもうちのお父さんってノンビリやさんだから、大丈夫だと思う…」 ノンビリやさんだからって……。 秋姫にそんな風に言われるなんて、一体どんな位ノンビリしてるんだ? いや、そんなことよりも今はどうやってバレないようにするかだけを考えよう。 動かないでしゃべらないで……秋姫の後ろに隠れてたら……大丈夫かなぁ。 じっとしてるのには、結構慣れた。 だけど一番気になるのは、あのお父さんが『ユキちゃん』に興味津々なことだ。 ……大丈夫かな……はあ。 「すももちゃん、これそっちに並べてくれるかな?」 「はぁ〜い」 「おや、お客さんが来たようだ」 「こんばんは〜! 失礼しますよ〜」 玄関の方から聞こえてきた、楽しそうな声。 その声には、いやというほど聞き覚えがある。 あるけど……もしその人ならば、どうして秋姫の家に来るんだ?? 「お邪魔しまーす」 ――や、やっぱり如月先生だ!? 「いらっしゃいナツメ君」 「いらっしゃいませ、お客さんってナツメさんだったんだ!!」 「(――ナッ…ナツメさん!?)」 「ほんっと急にお邪魔してすみません。お義兄さんのご馳走、楽しみにしてたんですよ〜」 「あ〜、そんなの気にしなくていいんだよ? サマーキャンプとかで疲れてるだろうし、今晩はたっぷり食べていって」 「ありがとうございます。すももちゃんも、疲れてないかい?」 「大丈夫! だってサマーキャンプすっごく楽しかったもんっ!」 「(す、すももちゃん!?)」 「(え…? どういうことなんだ? なんで如月先生が、秋姫んちで、すごく親しそうにして……)」 如月先生が、秋姫の家にやってきて、秋姫のお父さんを兄さんと呼んでいた。 秋姫のお父さんも、秋姫も、如月先生をナツメさんと呼んでいた。 如月先生は教室では見せないような素の顔で、秋姫のことを名前で呼んでいた。 えっえっ? 秋姫のお父さんが兄で、如月先生は弟? あれ? 「(――わけがわからないぞ?)」 「おや? すももちゃん、ユキちゃんテーブルから落っこちたよ?」 「ああぅっ! ユ、ユキちゃん!?」 「真っ白なぬいぐるみさんなんだから、テーブルに置いておくと汚れるかもしれないよ? そっちのソファにでも置いておきなさい」 「うんうん、ぬいぐるみなんだし落ちてもケガすることなんてないじゃないか。はははは」 「あ…あうぅ」 「何? ちょ、ちょっといきなり顔が怒ってるよ、石蕗君」 「どういう意味なんですか……」 如月先生は相変わらず、人を自分のペースに巻き込もうとする。 だけど今日だけは、そういうわけにはいかなかった。 夏休みの真っ最中だし、他の生徒が突然やってくることもないだろう。 二つ――俺には質問が二つあった。 「どうして秋姫の家に来た上に、家族みたいに飯食って帰ったんですか!?」 「あれ? ホントに怒ってる?」 「だから! いろいろちゃんと説明をしてくだ……」 「はいはい。わかったよもう〜…まずは何からいこうか?」 「何からって…そ、それは」 「あ、じゃあ昨日僕がすももちゃん家でごはん食べてたとこからいこうかな?」 「まあ、わかりやすく言うと、すももちゃんのお母さんが、僕の姉さんなんだよねー」 「だから、すももちゃんのお父さん…昨日あの美味しいごはん作ってくれたあの人と、僕の姉さんが出会い、結婚して、すももちゃんが生まれたと」 「つまり、僕にとって姪になるわけだよ」 「籍に入っちゃったから名字も違うし、すももちゃんも八重野さんあたりにしか言ってないだろうから、石蕗君が知らなくても無理ないけどねえ〜」 「な、なに? 二人の出会いのエピソードから、結婚式の大爆笑をかった出来事あたりまで詳しく説明しないとわからないの? 石蕗君」 「そ、その話はわかりました!」 一つ目の疑問はあっさりと聞き出せた。 秋姫と如月先生が親戚だってことは、あの日の会話でなんとなく気づいていたけど……。 「じゃあ何がわからないのかな」 「俺…俺…最初に聞いたはずです」 俺はごくりとツバを飲み込み、もう一つの疑問を口に出した。 「なんで秋姫があの杖の持ち主に選ばれたのかって」 「えー…そうだったっけー?」 「―――はあ!?」 「まあまあ…あ、そうだせっかくだし、今渡しておこうかな」 「……はい?」 「いや、これね。すももちゃんに渡してほしいんだ」 「なんですか、これ」 「すももちゃん、頑張ってしずく集めてくれてるからね…ごほうびだよ」 「ごほうび?」 「そう、ユキちゃんになって渡してあげてくれる? ちゃんとすももちゃんにも飲めるように甘くしてあるから」 「一体…何なんですか? 薬?」 「ま〜ね、ちょっとだけ勇気が出る薬、とでも言っておこうかな?」 「そんなことより! 石蕗君はこれを渡す時うまいこと説明できるように、今からセリフでも考えておきなさいっ」 「ぬいぐるみの国の秘法薬とか、そんな感じでさー」 「な、なんで俺が!?」 思わず唸った瞬間、俺は思い出した。 俺の質問は上手にはぐらかされていた。 ……また、如月先生のペースにはめられてしまってる。 「それより、先生! 話を元に戻してください」 「もと?」 「どうして秋姫が、あの杖の持ち主に選ばれたのか―」 「そういえば、星のしずくを集めてるもう一人の女の子の話もまだですよね」 「へ? なに、そんなこと話してた?」 「如月先生、はっきりしてください!」 「お知らせします。如月先生、如月先生、お電話が入っております。職員室までお願いいたします」 「んっ?」 「そーゆーことだから! じゃ、それちゃんとすももちゃんに渡しておいて」 「ちょ、ちょっと」 「え……?」 「ちょっと待ってくださいーっ!!」 「……また逃げられた」 如月先生は校内放送で呼ばれた後、ものすごい勢いで飛び出していった。 大慌てで俺も廊下に飛び出たけど、そこに如月先生の姿はすでになかった。 「まったくあの人って……一体なんなんだ?」 夏休みにわざわざ教室まで出向いてわかったのは、如月先生が秋姫の叔父だってことだけだった。 「それだけ……か」 如月先生はいつだってそうだ。 そういう風に考えないと、こっちばかりが疲れてしまう。 「(今日は園芸部のみんな、来てないんだよな)」 旧校舎側の廊下はシンと静まりかえっていた。 「今日はもう帰ろう」 その時ふと浮かんだのは、俺がたまたま見てしまったあの光景だった。 授業で作ったというクッキーを、如月先生に嬉しそうに渡す秋姫。 あれは結局、仲の良い叔父と姪っ子ってことだ。 昨日の夕食の時でも、秋姫と如月先生は家族みたいに気楽そうだった。 「(あれ……?)」 ――秋姫には、好きな人がいる。 クラスメイトたちとの秘密の話のなかで、それは明らかだった。 俺はそれはなんとなく如月先生じゃないかって、思ってたけど……違った。 「(じゃあ……秋姫の好きな人って誰なんだ……?)」 ユキちゃんの時と、クラスメイトの石蕗正晴の時と――俺は秋姫の近くで結構な時間を過ごしている。 なのに、まったくわからない。 「てか、俺…なんでそんなこと真剣に考えてるんだ?」 誰もいない廊下は、何だかヘンな考え事をさせるようだ。 俺はぶんぶんと首をふって、頭の中にうずまいてた考えを振り落とした。 「どうしよう、ナコちゃん……」 「どうしよう…か」 昇降口へと向かう途中、その三人はちょうど俺と反対側から歩いてきた。 「珍しいな」 秋姫と八重野の二人組み、ならわかるけど、今日はそこに結城も加わっていた。 「……石蕗」 「あ、あれ? 石蕗くん…どうしてここに?」 「ああ、ちょっと」 「秋姫たちは、なんで?」 「………え、えと」 「――」 「な、何? 何かあったのか?」 「う……うん……」 「補習なんだ」 「補習?」 「水泳の授業…テスト合格できなかったから…うぅ」 「明後日が再テストで、その話を聞きにきていた」 秋姫が泳げないってのは、なんとなく想像がつく。 だけど八重野と結城が補習を受けなきゃいけないほど泳げない、というのには驚きだ。 「あの、石蕗くんは泳げる?」 「俺? 一応は」 「そうか…どれくらい?」 「どれくらいって…距離なら最高で2キロ…くらいかな」 「それはすごいな」 「え…そうなのか?」 秋姫も八重野も、大きく何度も頷いた。 「俺の実家、海の近くだから――」 男も女も、プールではたいてい泳げる。 海に出たら俺よりもっと泳げるヤツもたくさんいたから、それが当たり前だと思ってた。 「ねえねえナコちゃん……」 「あのね……って無理かな?」 「聞いてみればいいと思うよ」 「えっ、でで、でも」 「石蕗、もし今から予定がなければ――」 「私たちに水泳を教えてくれないか?」 「い、今から!?」 「今日はプール開放されてる日だから」 「や、でも俺、いま水着持ってない」 「ナ、ナコちゃん…わたしが急に頼んだんだし…」 秋姫がすまなさそうに八重野の顔を覗き込む。 八重野は、秋姫が『やっぱりいい』って言ったらそのとおりにすると思う。 二人の顔をみていると、なんだか断る方が悪い気がしてきた。 「わかったよ」 「ふぇっ?」 寮まで帰るのに、ゆっくり歩いてなら10分。 ちょっと走れば、往復15分くらいで帰ってこれそうかな。 「一旦寮に戻るから……15分待てるなら」 「大丈夫、待てるよ」 「ほ、ほんとにっ? ほんとに…いいの? 石蕗くんっ」 「ああ…でもちゃんと教えられるか、わからない」 「う、ううんっ、ありがとう!!」 「結城!」 「結城も行く?」 「……ふんっ」 「結城さん、一緒に…いかない?」 「行ったほうがいいと思う」 「どうしてそんなこと、あなたたちに――」 「だって」 「さっき角で見つけたけど…あの人が水着持って来てたから」 「あの人…??」 「一体なんのことでしょ……はっ!!」 「松田っ!!」 「あ、あの、おおお嬢様……」 「今日は車で待ってなさいって言ってたでしょう?」 「い、いえ、はい…ですがお嬢様、聞けば本日は水泳の補習というものがあるとお伺いしまして」 「松田が不勉強でございました。水泳というものには…このお召し物が必要であると気づいたのが、お嬢様が校内へ入られてからだったのです!」 「………松田」 「私のせいでお嬢様に…お嬢様に忘れ物をさせるなど…ああうっ」 「……松田っ」 「ご学友との楽しいひと時をお邪魔してしまい、本当に申し訳…えうっ、ありませんでし…ひくっ…た……」 「結城さんも一緒に泳ごう」 「――…はぁ」 無理やり水着いりのバッグを持たされた結城は、深いため息とともに首をたてにふった。 「それじゃ、後で」 「プールサイドの方で待ってる」 「(結城はちょっと怒ってたような気がしたけど――大丈夫かな)」 一度だけ振り返ったら、結城はとぼとぼと秋姫たちの後ろを歩いていた。 水着を取ってきて、着替えて、プールサイドまでやってくる。 ちょうど往復15分とちょっとで戻ってこれた。 戻ってこれたのはいいけど……。 プールサイドでは早速結城が不満げな声をあげていた。 「だから、わかってる!」 「はい…ですから松田は…お嬢様のおそばで応援させていただきます」 「もう」 「あ…えーっと」 「――はい」 「秋姫と八重野は……」 「もうすぐいらっしゃいますわ」 結城はぶっきらぼうにそう答えて、スタスタとプールサイドの端へと向かった。 近づいてくる足音に振り向くと、長い髪をきれいにまとめた八重野が立っていた。 秋姫は長身の影にすっぽり隠れる勢いで、八重野の後ろからこっちを見ている。 「大丈夫、ほら…ちゃんと教えてもらわないと」 「うん…だ、だめだよね…うんっ」 「お…お願いします」 「(どうしたんだろう?)」 秋姫はおずおずと八重野の背中から離れた。 それでも半分はその影に隠れたままだった。 「じゃ、えっと…準備体操しよう」 「ストレッチとか、その、自由にやって」 結城はプールサイドの端で、一人不満そうに立っている。 後ろの方ではあの松田さんっていう付き人が、おろおろと結城の様子をうかがっていた。 「あの…結城も準備体操…した方がいいぞ」 「……プールに入るなら」 「お嬢様ぁ」 結城はぷいと横を向くと、プールサイドに腰掛けた。 慌ててタオルをもってきた松田さんが何か言ってるみたいだけど、結城は頑として動かないようだ。 「(…いいか。俺も準備体操しないとな)」 「い…いち、にっ…」 「へっ、あ! つ、つわ…」 「背中…痛めてる? もう少し大きく伸びた方がいいよ」 秋姫の視線が、コンクリートの地面に落ちてゆく。 「(あ…しまった)」 また…だろうか。 俺の言葉、本当に何も思わずに言った一言が、秋姫にはすごくイヤな風に聞こえたりしたんだろうか。 「あ、あの…もっといっぱい…手をあげたらいいかな」 「準備体操……」 「あ、ああ、うん。両手を大きく動かすのがいいと思う」 「はい、が、がんばる…うん!」 「(…俺、嫌われてるのか、そうじゃないのか…どっちなんだろう)」 「もしかして、体調悪かったのか?」 「いや、それはない、ただ――」 「すももは…ちょっと恥かしがりやだから。でも大丈夫だよ」 「いや、なんでもない」 「石蕗…あの」 「急に言い出したことなのに、協力してくれてありがとう」 「断られるかと思ってたけれど…嬉しいよ」 「べ、別に」 「ちゃんとストレッチできた?」 「始めようか」 「じゃあ…水の中、入るから」 「では、よろしくお願いします」 「……し、します」 二人は礼儀正しく、ぺこりと頭を下げた。 「はい…っていっても、俺、あんまり何もできないけど」 「水の中に入るのは、大丈夫だよね?」 さすがに水に入るのが無理ってなると、教えようもない。 二人ともそれは大丈夫だったようで、俺の言葉に頷くとプールの中へと入っていった。 「あの…さ」 「結城は…入らないの?」 「そっか……でも」 「あぁああ…お嬢様! お嬢さまぁあ……どうかご無事で……!」 「(あの人…松田さんだっけ……ずいぶん心配そうだけど……)」 「気が向けば入りますので、どうぞお先に講習を始めてください」 俺も無理やり入れって言うわけにもいかない。 気にはなったけど、俺は先に秋姫たちに教えることにした。 「何からしたらいい?」 「うーん。じゃあとりあえず、泳げるとこまで泳いでみて」 「えっえっ」 「泳げる…ところ……」 秋姫と八重野は、互いの顔を見あわせた。 それからそのまま、どっちも動き出そうとしない。 「えっ? あの……じゃあ」 「――あ、秋姫から」 「はははいっ」 「あ…秋姫?」 「秋姫…それ泳いでないよ…歩いてるよ…」 「えぇっ、で、でもっ」 「じゃあ、その場でいいから、潜ってみて」 「……すうっ」 「……ぷくぷくぷく」 「(………わかった。秋姫…、水に顔がつけられないんだな)」 「ぷくぷくぷ?」 「あっ、ごめん。もういいよ」 「ぷはーっ。ふぅ」 「じゃあ、八重野」 プールサイドを蹴って泳ぎ出した八重野は、五メートルほどをクロールで泳いでみせた。 その後スッとプールの底の方まで潜水していく。 八重野のフォームは、俺から見ても充分キレイなフォームだった。 「がんばれーナコちゃーん」 「なんだ、泳げるんじゃないか」 そろそろ息継ぎに顔を出していい頃だ。 潜水が得意っていうなら別だけど、八重野は水泳の授業で補習を出されてる。 こんなに長く息を止められるとは思えない。 「えっ、ま、まさか溺れた!? 八重野!!」 「――はぁ、はぁっ」 「うわ!?」 「息が続かないので、これ以上進めない」 「……八重野、普通にクロールで泳いでみて…」 また浮いてこない……ぞ。 「やってみた」 「……ほかにもできる? 平泳ぎとか」 「うん、じゃあ次はそれを」 八重野は平泳ぎも、クロールもしっかりとやっていた。 できないのは、水に浮く術と……息継ぎか。 「ふうっ、こんな感じだけれど」 「…秋姫は顔、水につける練習」 「……は、はいっ」 「……八重野はとりあえず浮こう」 俺は一度プールからあがって、倉庫の中から器具を引っ張り出した。 あまりに特徴のある泳げ無さだ……自分の力だけではとうてい面倒みきれない。 「八重野は泳げたんだけど……」 「そうなのか?」 「そうだな…一度これ使ってみて」 八重野に差し出したのは、ビート板だ。 「あんまりすすまなくてもいいから、顔をあげて息を吸う練習してみたらいいと思う」 「顔…あげて、息を吸う……」 八重野はビート板を抱えたまま、首を傾げている。 「あ……じゃあ見てて」 「えっと、こんな感じ…クロールなら横を向くみたいにして」 「……こういう感じか」 「うん。これができるようになったら、八重野すぐ泳げるようになるよ」 「そ…そうかな。じゃあこの練習をしてみる」 「じゃあ…秋姫もこれ…ちょっと使ってやってみる?」 ビート板差し出してみると、秋姫はふるふると頭を横にふった。 「こ、こわい…の…水のなか…落っこちちゃう…から」 「お、落っこちる?」 頑なに秋姫はそう言った。 「(何かイヤな思い出でもあるのかな?)」 横で泳ぎの練習を始めた八重野を見て、心は焦っている。 焦っているけど、体は動かない。 ……秋姫はたゆたう水をじっと見つめたまま、俯いた。 「じゃあ、俺が手を持ってるから」 「ひゃ、ひゃわっ」 「俺の手しっかり握って、そしたら体を水に浮かせてみせて」 「はわ…わわっ」 「うん、ちゃんと浮いてる」 「あ…あうぅ…つ、つわぶ…きく…」 「大丈夫、絶対離さないから」 「ふ…ううっ…でも、でも…」 「離さないから、溺れないよ」 「…でも、で、できる…かな…わたし」 「大丈夫だよ、できる」 「ほ、ほんと?」 「できるって思えば…ほんとに簡単なことだから」 「できる…できると思う…」 「息いっぱい吸って、最初は目を閉じてて構わないから」 「う…うん……ふうっ!」 「…ぷくぷくっ」 「……ぷく…ぷくぷくっ」 「秋姫、できてる! ちゃんと顔つけられてるぞ」 「ふ…ぷくぷく、ふ、ふわぶ…ひ…ふ」 「ちゃんと泳ぐ形、できてるよ」 「……ふ…に…ぷはぁっ!!」 「はぁ、はぁ、石蕗くんっ!!」 「ちゃんと顔つけられてたぞ」 「足もきちんと動いてた」 「はじめはさ…あれ使ってでもいいと思うからさ」 俺がビート板を指差すと、秋姫はもう怖くないのかうんうんと頷く。 「そしたら秋姫、ちゃんと泳げるよ、25メートル」 「ほ、ほんと!? ほんとにっ!?」 「ほんと」 「うれしい!!」 「えっ? ど、どうしたの石蕗くん」 「あ…えっと…なんでもない」 「ナコちゃんっ! あのねあのね、わたし水に顔つけられたの!」 「見てたよ」 「石蕗の言う通りだよ、すもも」 「えへへ…テスト、ちゃんと合格できるかな」 「うん。私も息継ぎのしかたがやっとわかった」 八重野はにこりと笑ってから、水の中に潜った。 今度はちゃんと浮いて、タイミングよく息継ぎもしている。 プールの真中までいったところで立ち上がったけど、もうしっかり泳げていた。 「ほんとだ、もう出来てる」 「すごいな、ナコちゃんやっぱり運動神経いいから、すぐにできちゃうんだよね!」 「……すももも、ちゃんとできてた」 「うんっ! 石蕗くんありがと……っくしゅ」 「すもも、寒い?」 「ううん、そんなことないよ」 「ちょっと休憩しようか」 「平気だよ、石蕗くんっ」 「結構水につかってたから、一度体を温めたほうがいい」 「そ、そっか、うん」 よっぽど嬉しかったのか、秋姫は水の中をはねるように歩いてみせた。 八重野も水しぶきを浴びながら、にこにこ笑ってる。 「よかったな」 そう言うと、プールサイドにあがった二人はコクンと大きく頷いた。 「ちゃんと体、乾かした?」 「あっ、う、うん」 「ちゃんと、これで……」 秋姫は髪を拭いていたタオルを指差し、こくこくと何度も頷いた。 「そっか。よかった」 「……お嬢様」 「結城さん、プール嫌いなのかな……」 「どうなんだろうな」 「無理に誘っちゃって…悪かったかな」 「ごめん、髪をとくのに少し時間がかかってしまった」 「あ、ナコちゃんおかえりな……」 風にあおられた八重野の髪が、後ろに流れる。 深い色の髪が、よく晴れた青空を切り取るように広っていった。 「大丈夫? ナコちゃん」 「平気よ」 「ナコちゃん、髪が長いから…プールの時は大変だね」 「少しだけ、大変かな」 「でも帽子をかぶっていたから、大丈夫」 風に流された髪を、八重野は器用にくるくるとまとめて帽子の中に押し込んだ。 「石蕗、本当にありがとう、泳ぎ方を教えてくれて」 「う、うん! 石蕗くん教えるの上手だったよ!」 「えっ…あ、いや……」 「松田、のどが渇いた」 「は、ははい! すぐにお持ちいたします」 ……相変わらず結城はマイペースで、プールに目もくれずずっと同じ場所に座ったままだった。 「そうだ。私たちもさっきの取ってこようか」 「あ、そ、そうだね」 「お…お茶とか、ジュース」 「石蕗が寮に行っている間に、買っておいたんだ」 「あの、こ、更衣室に小さい冷蔵庫があるから、そこに…いれてて」 「良く冷えてるよ」 「それは…嬉しいな」 「じゃあ、取ってくるね」 「あ、ナコちゃん、わたしも行くっ」 「あ――えと」 「ごめん、気…使わせて」 「う、ううんっ!! だ、だって石蕗くんは、せ、先生やってくれたから……」 「うん。だから待ってて」 秋姫と八重野の影が、プールサイドの階段を駆け下りてゆく。 すとんと消えていった二人の影。 「(俺…最初はちょっと面倒だとか思ってたのに)」 今は違う。 ……ちゃんと教えられて、良かった。 コンクリートの壁にもたれながら頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。 「お、お待たせしましたっ、お嬢様」 結城のもとに駆け寄った松田さんは、カバンの中から瓶を取り出していた。 「お飲み物、お持ちいたしました」 「(ずいぶんレトロな瓶の飲み物……もってるんだな……)」 「って、えっ!?」 「あれ……俺のカバンじゃないか?」 眼鏡がないから、はっきりとは見えなかったけど、あれは間違いなく俺のカバンだ。 「ちょ、ちょっと――」 「どうぞ、お嬢様」 「ごくごくごく」 「わーっ!?」 「お嬢様、日差しはきつくございませんか? 日傘などもご用意できますが――…」 「いいわ、はい」 「ではお荷物の方、少し整理してまいります」 結城が松田さんへと返したガラス瓶は、すっかり空っぽになっていた。 あれは……あれはさっき如月先生に渡されたモノだ。 「……ど、どうしよう……!?」 「…ひくっ」 「ひくっ…んんっ」 「ん……」 結城はがくりと肩を落とし、今にも倒れそうなくらい前のめりになった。 まさか毒……じゃないよな? 秋姫にやってくれ、というぐらいだから毒ではないと思うけど……。 「お、おい、結城?」 「……ふ」 「え? な、なに?」 「隣に…いたいです……」 「―――えええ!?」 ふわりとした感触の方を見ると、俺の腕に結城の指先が絡まっていた。 それからほんのり熱くなった髪が肩にあたった。 「結城? 気分悪いの…か?」 「嬉しいのです…胸いっぱいに…」 「は、はい!?」 「つ、冷たいっ」 「ほら、タオルをもうちょっとこっちにすればいいよ」 「うん…あっ」 「え? な、な…え?」 「結城…さん?」 「あの、あれ…ど、どうなって…るんだ?」 秋姫と八重野は、水滴を浮かべた冷たそうな缶を持ったまま、その場で立ち尽くしていた。 俺はそんな二人と向かいあって凍り付いていた。 ただ隣にいる……俺にぴったりと体を寄せている結城の影だけが、ゆらゆら揺れている。 「ど、ど、どうしよう…あ、ああ」 「お嬢さまぁあ! も、申し訳ありません」 「ふ…んん…」 「い、今ですね、私お嬢様のお荷物を整理に、も、戻ったらですね」 「お嬢様にとご用意しておりましたお飲み物が、その、か、鞄の中にございまして…申し訳ありません、松田は過ちを――」 「あ…あの、結城、ちょっと様子が」 「……ん、んん」 「お嬢様…何か…ご様子が……何かおかしなものでも口に…?」 「(さっきお前が持ってきたやつだよ!!)」 そう叫べたら良かった。 だけどあれが如月先生の作った薬だってことも、それを俺が持っていたことも、口に出してはいけないことだ。 「ちょ、あ、あのさ」 少し強引かもしれないけれど、俺は結城の手をふりほどいた。 結城は抵抗することもなく、ただほんの少しだけ顔をあげている。 ただ一ついつもと決定的に違うことがある――そして、その異変はこの場所にいる全員が気づいていた。 「……あ…わた…し」 頬が赤く染まった、なんだか悲しそうな目の結城。 「え、おじょっ…ええ!?」 それはきっと誰も、俺や秋姫たちよりもずっとそばにいる松田さんも、見たことのない表情なんだろう。 全員がぽかんと結城のその顔を見ていた。 「あのな、き、聞こえるか? もしかしたら結城、今なんていうか」 「……う」 「ちょっと…あの…悪いものでも食べた…ていうか」 「うう」 「や、休んだ方がよく…ないか?」 「……おそばに…いたいです」 「ひと時も離れたくないんですーっ!!」 「きゃっ!」 「お、おお、お嬢様!?」 「う、うわああ!!」 「が…がぼっがぼぼっ!?」 「ぐ…ぶくくっ……」 「…見つけたの……」 「が…ぶ…ううっ!?」 「……見つけましたの……」 「う…うう…ぶくぶく」 「運命…なの? うん…だって…」 「ぶ…くくっ…ぐる…し」 「私しか映してないもの…あなたの…目」 「(だめだ! 死ぬっ!!)」 「はあっはあっ、はあっ」 「……ふぅ、ふぅ…同じなのですね」 「はぁ…へ? な、何が?」 「私の胸に…触れてみてください?」 「はっはああ!?」 「ほら…あなたと同じく…こんなに高鳴っていますの」 「お、お、俺は」 「いきなり水中に落とされたからだって!!」 「私と同じように、どきどきしている心臓の音…好きです」 「だ、だめだ…ほんとにおかしくなってる…」 結城の体がぴったり俺にくっついてる。 このままここにいたら、もう一度水の中に引き込まれそうだ。 「あ…あぅあの」 「石蕗、大丈夫…か?」 「お…お嬢様ぁあ」 「と、とにかくあがろ……」 プールサイドへと上がる時も、結城は決して俺から離れなかった。 「(……あの薬、一体何だったんだ?)」 「待ってください…あの…」 「私…私にも教えてほしいです…」 ……さっきまでは、自分でイヤだって言ってたのに。 あやうく出そうになったその言葉を、俺はぐっと飲み込んだ。 今の結城は薬のせいで、こんな風になっているんだ。 「わ、わかった。結城はどれくらい泳げるの?」 「……見てくれますの?」 「嬉しいっ」 「ゆ、ゆうきっ!?」 「わわっ! す、すごい!! すごくキレイなクロールだよ」 「それに…速いね」 結城はキレイな弧を描いてプールに飛び込み、そのまま向こう側まで泳いでゆく。 秋姫も八重野も思わず見とれてしまうほどの、キレイなフォームだ。 補習になるなんて信じられない。 呆気に取られているうちに、結城はターンをして戻ってきた。 「なんだ結城、ちゃんと泳げるんじゃないか」 「はいっ♪」 「はい…って…じゃあなんで補習なんかに……」 「だってこんな誰が入っているかもわからない庶民的なプール、恐ろしくて入れませんもの」 「――は、はい?」 「でもいいんです、運命の人が一緒なら…私何も怖くはないもの…ふふっ」 プールサイドへ上がった結城は、ぴんと背筋をのばして髪に含んだ水気を払った。 「お…お嬢様…こ、この松田が不手際をしたばかりに…ううう。ああ、濡れたお体を早くお乾かしにならないと…」 「御髪がすっかり濡れておしまいに…お嬢様、タオルを」 「いらない」 「だってまだ泳ぐのでしょ? ね? 私の泳ぐところ…もっと見てくださいっ」 「う…うわああ…ぐす、わ、私はもう…お役目がはた…はたせないと…うううっ」 「お、おい結城……」 「私、あなたが見ていたいと言うならいつまでもいつまでも、泳いでいられますわ」 「うわああぁん―……」 「あっ…」 「……いってしまった」 「いいの、だってこうしている方がいいんですもの」 結城はまた俺のそばにしなだれてきた。 松田さんが泣きながら走り去っていったことなど、まるで眼中にない様子だ。 「……あ…、あの、もうプールは終わり、終わりにしよう!?」 「み…皆泳げるようになったし…」 秋姫も八重野も、このただならぬ雰囲気にうんうんと頷いている。 「そうですの……」 「そ、そ、それにもうあがった方がいいかも」 「あんまり水につかりすぎてるのは、よ、よくないし」 「……そんなにも私のことを心配してくださるなんて」 「嬉しい…好き……」 「あぁうぅ…あう」 「……結城さん、本当にどうしたんだろう」 「と、とにかく…着替えよ」 「はい♪」 結城の返事だけが、よく晴れた空に高く響いた。 プールからあがっても、結城の様子はおかしいままだった。 秋姫と八重野は無言で、俺と、その横にいる結城の顔を見ている。 結城は相変わらず、俺の腕を掴んで離さない。 俺が避けたらこけてしまうんじゃないかっていうくらいに、よりかかってきていた。 「こうしておそばにいるのが…幸せ…はぁ」 「あの…ゆ、結城?」 「も、もう少し離れた方がよくない…か?」 「いいえ、全然大丈夫なのです」 だめだ、言葉も通じない。 「(ほんとにどうしよう……部屋までついてくるなんて言い出さないだろうな)」 あの薬のせいだろう……結城のせいじゃない。 そうわかってるからこそ、余計にどうすればいいのかわからない。 「あ、あのぅ」 「あっ、ゆ、結城…さん、おうちの人…だよ」 「松田さん…戻ってきたみたい」 「…お嬢様…お迎えにあがりました…」 「はははい!?」 「帰るのは、いや」 「ですが…お嬢様……うぅ」 「う…うるさいのっ!」 「もーなんで邪魔するのぉ! 先に帰っててえ!!」 「は…う…おじょ…うぅ…かしこ、かしこまりまし…うわあぁっん」 「…結城さん、いいの? あの人また泣いていたよ?」 「いいんです」 「正晴のそばから離れたくないです」 「まっ、まさっ!?」 「ちょ、で、でも」 「………どうしたのだろう、結城さん」 「俺はど、どうすれば――…」 「あの、こういうのはどうかな」 「ちょっと休もう。結城さんの様子も戻るかもしれないから」 「や、やすむ!?」 「うん、いいところがあるから」 八重野がいいところと言った場所は、星城を出て少し歩いたところにある『らいむらいと』というお店だった。 和菓子屋の一角が改装されて喫茶店になっている、という感じだ。 その店構えよりも俺が気になっていたのは、ここが小岩井の家族がやっている店だってことだ。 「(…………ま、まさか小岩井が出てきたりしないだろうな??)」 びくびくしながら待っていると、注文を聞きにきたのは違う人だった。 「私は…あ、大福とお茶セットをひとつください。すももは?」 「あ、えと……あんみつ」 「石蕗は、何にする?」 八重野が俺の方へとメニューを回してくる。 甘そうな名前がずらりと並んでいるけど、それも頭に入ってこなかった。 何故なら――…。 「お、俺はお茶…これ…でいい」 「私も正晴と同じの!」 まるで磁石のように、結城が俺から決して離れないからだ。 「(ど、どうしたら元に戻るんだ…?)」 「お待たせしましたーっ、て、あれ?」 「――こ!」 「小岩井さん」 「わぁ、みんなで来てくれたんだ…でもどうして制服なの?」 「あ…あの…プールの補習で」 「そうなんだ。頑張ってるんだね! あ、こちらご注文のお品です」 「こちらこそ! いつもごひいきにしてくれて嬉しいわ」 「はい、すももちゃんはあんみつね」 「石蕗くんは冷たい緑茶と……」 「どうも」 「あら、結城さんもお茶だけでいいのかな」 「はい、だってまさは…」 「ふとひっひょはから…ほえ?」 「ふぐぐ、ぐ?」 「こ、これでいいって」 「そ…そう、じゃあみんな、ゆっくりしていってね〜」 「(……小岩井、絶対誤解してるだろうな……)」 「も…もう…今とてもどきどきでした…ね、正晴は?」 「……結城さん、大丈夫?」 「ええ! 胸が苦しいのは…仕方ないですから」 「ね、だってこんなにそばにいるんだもの! ふふっ」 「ち、違っ――」 「あ…あぅ……」 「(い、一体あの薬は何だったんだ!?)」 如月先生は確か――。 確かそう、『ちょっとだけ勇気が出る薬』なんて言っていた。 「(ぜ、絶対何か間違ってる…間違った薬を渡したんだ)」 秋姫にそのまま渡していたらどうなっただろう。 結城の顔は、まるで酔っ払いみたいに真っ赤だ。 ……こんな風に思うのは悪いけど、秋姫に渡さなくて良かった。 普段あんなにしっかりしてる結城でさえ、こんなになってしまうのだから――。 「正晴、もっともっとこっち見てほしいです」 視界が九十度、がくりと変わった。 結城が俺のアゴに手をかけ、ぐいっと方向を変えたからだ。 「あのさ、結城…し、しっかりしろ? 大丈夫か?」 「しっかりしてますわ、この気持ちは本物ですもの」 「……ああもう!」 「結城さんも、石蕗も…落ち着いて。お茶、飲もうよ。氷が溶けてしまうから」 「はい、いただきます」 結城の様子に気を取られていたせいで、すっかり忘れてた。 店のすみに置かれた時計を見ると、もう日没まで間がない。 「や、やばい!」 「お、俺、ちょっと…帰る!」 「い、いやですー」 「ほんっとにちょっと…い、急がないと」 「あっ! こ、これ」 「待って。おつりを返そう……」 「い、いい! じゃあっ」 「正晴ー! 離れるのはいやですーっ!」 「ごめんっ」 結城をふりきり、ポケットの中にあった千円札を押し付け、思い切り走りだす。 秋姫にも八重野にも悪いと思ったけど、こればっかりは仕方ない。 ここで『ユキちゃん』に変わってしまうワケにはいかないんだ。 「わわわわあっ」 「えぐぅ…は、はひ…ぐすっ」 「店の中に結城…さん、いるからさ」 「ふ…で、でぼ…わ、わだしはも…必要ないど…えぐっお嬢さ…うう」 「い…いや、そんなことないってば」 「えっぅう…ほ、ほんとでづ…が…?」 「ご、ごめん、俺ちょっと急ぐから」 「ほ、ほんとにお嬢様にとって私は…ひ、必要…」 「とにかく、ちゃ、ちゃんと家まで連れてって休ませた方が…」 「かしこまりましたっ!」 「うわああ、もう日が…く、暮れる」 「―――!!」 「し…しまった……」 街の風景がいきなり変わる。 さっきまで見えてみたものが全部、巨大化した――んじゃなくて、俺が小さくなってしまったんだ。 「誰もいない…よな」 「とりあえず…本…本だけは……」 あの本がないことには移動もできない。 苦心してカバンの中に潜り込み、なんとかそれを引きずりだすことはできた。 「仕方ないな、鞄はここに隠しておこ」 「とりあえず、秋姫ん家いかなきゃ――」 人目に気をつけながら、俺は本に飛び乗った。 「(よし、もうちょっとだ)」 すっかり暗くなってきた町を、俺はゆっくりと飛んでいた。 数十分前の、イヤに緊張した空気が背筋を走る。 薬を飲んでおかしくなった結城は、あの後どうしたんだろう。 ちゃんと家まで帰れたんだろうか。 松田さんがいたから、大丈夫だとは思うけれど――。 「秋姫の方は…もう家に帰ってるのかな」 空気を震わすような音に、聞き覚えがあった。 視線を空に向けるとそこには一筋の赤い光があった。 「あれは…指輪の光じゃ」 「ど、どうしよ…まだユキちゃ…来てないのにっ」 「待ってすもも、背中のボタンが一つ外れてる」 「えっあっごめ…ごめんねっ、はぁ、はあ…」 「あき!? っじゃない、すもも!」 「ユ、ユキちゃん!? どどどこ…?」 「あ、あそこだ」 慌てて方向を変え、二人のそばへと飛んでゆく。 秋姫も八重野も、少し息が荒かった。 俺と同じように人目をさけてながら裏道を走っていたんだろう。 「ユキちゃん!! よ、よかった! あの、あのね」 「ナコちゃんとお家の前に着いたとたんにね、ひ、光っちゃったの!」 「わっ、お、落ち着いて…」 「で、でも良かった…ユキちゃんにちゃんと会えて…」 秋姫は本当に心配した様子で、俺をそっと抱き上げた。 昼間にプールで俺が引いていた手と同じなんだ…そう思うとなんだか不思議だった。 「すもも、光が消えてしまいそうだよ」 「あ、いけない」 秋姫が手を掲げると、再び空に一筋の光が描かれる。 「星城の方向か…そんなに遠くはなさそうだね」 「行こう!」 「こ、ここに落ちたの?」 「……みたいだね」 指輪の光を追って俺たちがたどり着いた先は、星城学園のプールサイドだった。 そこは数時間前に、秋姫や八重野に泳ぎを教えていた場所。 だけど明かりの消えた夜のプールは、姿を変えて真っ暗な底なし沼のようだ。 「間違いないよ、ここで指輪の光が消えたから……」 「水に引かれて落ちてくる…ってことは…」 「プールの中?」 プールの水面に、夜空がゆらゆら映っている。 本当にここにしずくが沈んでいるんだろうか? そう思えるほどに辺りはしんと静まっていた。 「誰か、きた」 「あら奇遇ね、プリマ・プラム」 「す、すもも…き、気をつけろ」 「何っ?」 「ひつじ! 失礼ね、まるでアタシが悪者みたいな言い方して!」 「…うっ」 「すもも、この人は誰?」 「えっと…ぷ…あれ? あ、アスパラさん?」 「ち、ちがーう!!」 「は、はわっ?」 「ア、ア、アスパラっ!? それは緑の野菜!」 「ごご、ごめんなさっ…えっと」 「プリマ・アスパラス! セント・アスパラスのプリマという意味よ!」 「あ、え? セン…アスパ?」 「プリマ・アスパラス!!」 「ア…アスパラ…さん」 「アスパラさんか、はじめまして」 「だから違うってば――!!」 「あ…アスパラさん?」 「すもも、アスパラさんも星のしずくを集める人なの?」 「う、うん。そう…みたい。でもわたしよりすごい人みたいなの、アスパラさん」 「ちが――う!」 「えっ、でも……」 「もういい、こんなことに時間を使っている場合じゃないでしょ!?」 ますます眉を吊り上げたプリマ・アスパラスが、びしりと指差したのはプールの真中だった。 静かだった水面に、突然ゆるやかな波紋が生まれる。 プリマ・アスパラスと秋姫の指輪が同時に反応したようだ。 「そ…そうだ…しずく」 「あ! ま、また邪魔しに来たのか!?」 「失礼ね!! アタシはもうとっくに手に入れましたっ! アーサー!」 「アーサー?」 「は、はひ…おじょふはま」 「おひごとでひた」 「……なんだか今日は元気がないわね、アーサー」 「――この通り、もうしずくは手に入れてるし、今日はあなたの実力をこの目できちんと確認しておこうと思っただけよ」 「ほ、ほんとかな…」 「きっ!!」 「う、ううっ」 じっと睨まれてはいたけど、プリマ・アスパラスがこっちに手出ししてくる事はなさそうだ。 星のしずくはプールの中にある。 秋姫もそれはわかっているようで、おずおずとプールサイドへと近づいていった。 「なんだ、これ。ここってこんなに深かった?」 「(そうだ…秋姫、水に顔つけることもできなかったんだっけ)」 恐々と水の中を覗いている秋姫を見て、俺は今日の昼間のことを思い出した。 泳げるようになったといっても……あれは昼間の明るいプールの中だった。 こんなに暗い夜の水の中なんて、怖いに決まってる。 「大丈夫、すもも」 「う…うう?」 「落ちないように手をつなごう…うん、こっちへ」 八重野と手を握りあい、秋姫はめいっぱい杖を差し出した。 もちろんそんなのじゃ、プールの真中になんか届くはずもなかった。 「おかしいな、そ、そんなに深くないはずなのに…」 「すもも、一度言葉を使ってみたら?」 「そ…うだね」 「…プルヴ・ラディ!」 何も起こらない。 秋姫が杖をつけて起こした波紋だけが、プールの中で広がってゆく。 「なんでだ? ここにあるはずなのに」 水中にあるはずの星のしずくは、なんの反応も示さなかった。 「ああああっもう!」 「は、はあ!?」 「もお〜見てられない! イライラするっ! プリマ・プラム、こっちにいらっしゃい!!」 「へ? あ、あう……」 「すもも! 乱暴はよしてアスパラさん!」 「別にあなたに何もしないわよ! 教えるだけ!! あとアスパラじゃないからアタシはっ!!」 「え? お、おしえる??」 「そこに立って見てなさい」 「水中でのしずく採取には、この言葉による力が適する」 「ヴィム・コミティ・アクア」 「……レシピをきちんと使いこなせていたならば、すぐにわかることよ?」 「……えと」 「そ、それはあの…ど、どんな風に…きくのかな…アスパラさん」 「は、はははいっ!?」 「ひゃう」 「ちょ…、ちょっと、そんなところから説明が必要なの?」 「あ…ご、ごめんなさい」 「……まあいいわ。口で説明するよりも、見たほうが早いかもしれないわね」 「アーサー、そこのバケツでプールの水を汲みなさい」 「は、はい…おじょうさま」 アーサーはトトトっと倉庫の方に向かい、小さなバケツをくわえて戻ってきた。 それから器用に水を汲むと、言われたとおりに主人の足元へとバケツを置いた。 「ア、アスパラさんっ」 確かに俺は見た。 俺だけじゃなく、秋姫も八重野も見ていた。 プリマ・アスパラスは自分の頭の上でバケツを逆さにした。 「どう? わかった?」 自信たっぷりな笑顔のプリマ・アスパラスは、ほんの一滴も濡れていなかった。 「これは水と交わる言葉……使えば濡れることもないし、息ができなくなることもないのよ」 「水の中で息が…できる」 「言っておくけど、ごく初級の言葉だからね! 水に恐れをなさなければ、すぐに使えるようになるんだから!!」 秋姫の肩がぴくんと震えた。 それから、秋姫は俺の脇にある本へと自ら手を伸ばした。 「……水に恐れをなさなければ」 「わたしが水を恐れてなかったら、あの言葉…わたしの本にも記されているのよ…ね」 秋姫の思いに一番早く気づいたのは、八重野だった。 心配げな顔で、秋姫のことをじっと見つめていた。 「ナコちゃん、大丈夫だよ」 「だって…だって今日わたし、石蕗くんにいっぱい教えてもらったんだもん」 「お水に顔をつけて泳げるようになったんだもん…ビート板、必要だけど」 「それでも、できるようになったよ」 秋姫はそっとページを開いた。 「すもも―…」 「……あった!」 ゆっくりと秋姫がその言葉を唱えた瞬間、温かな空気が体中をおおった。 透明な薄い膜が全身を包んでいるような感覚は、秋姫も同じだったみたいだ。 少し不思議そうに自分の手のひらを見つめてから、秋姫はコクンと頷いた。 「ユキちゃんも、大丈夫?」 「ナコちゃん――わたし、いってきます」 「すもも、頑張って!」 「……わあ」 「…ほ、ほんとに息ができる…んだ……」 「星のしずく…探さなきゃ…」 「……すごい、ここ…プールなのに…どこまでも続いていそう…」 「(なんでこんなに…深いんだ?)」 このプールは、端のほうは秋姫ですら立てば肩から上が出る位だ。 真ん中にいったからって、こんなに潜れるほどの深さなわけない。 「どこまでいくんだろう」 「わからない…どれくらい…潜ったのかな……」 「――あった」 真っ暗な水底にたったひとつある光は、砂粒みたいに小さな点だった。 「……あんなに遠い!」 息はできる、話すこともできる。 でも……それでも、泳げない秋姫にとって、真っ暗な水底をたどることはとても怖いことだろう。 「できると思えば…簡単なこと…うん!」 「(…秋姫……今日のこと、ちゃんと覚えてくれてた……)」 秋姫の握る杖の周りに、細かな泡が生まれている。 星のしずくに反応して震えているようだ。 星のしずくが近い――。 「プルヴ・ラディ!!」 「――大丈夫!?」 「はぁ、ふう……」 「こっちへ」 「はあ…あれ、ほんとに濡れてないな」 「おかえり」 「とれたっ! ねえ、星のしずく採れたよっ!」 「よかった…ま、まっくらなお水の中…ちょっとだけ怖かったけど、頑張れたよっ」 「うん、よかったね――…すも」 「お待ちなさい!!」 「プリマ・プラム」 「えっ…わ、わたし?」 「ほかにどこにプリマがいるの? ねえ、あなたはそのしずくが採れたことを大変喜んでいるようだけど―」 「あなたが今使った力、そのしずくの採り方、はっきり言って初級よ!」 「え…あ…その……」 「な、なんだよ! そんな風に言わなくても……」 「口を挟まないで!」 「あっ、あの」 「プリマ・プラム!」 「ひええっ」 「あなたはどうしてそこまで何も知らないの!?」 「一体プラムクローリスで何を教わってきたの?」 「あぅ、はうう……」 「アーサー! 眼鏡をお持ちなさい」 「か、かしこまりましたっ」 「あの、あの、どうした…んです…か?」 「このぼやけたピンク具合は…秋姫さん?」 「ぼやけた…ピンク」 「ど、どうしよっ、どうしよっバレちゃった」 「あ、つつ…杖! 杖で叩かなきゃ」 「えっえっ、そんなっ……ええーい」 「ちょ、お待ちなさいっ! そのレードルの力はアタシには効かないわよ!!」 「ですから! アタシはあなたと同じスピニアで、フィグラーレの住人なんだから!」 「ふぃぐれーら? え?」 「………ちょっと待って。……あなた、本当に…わからないの?」 きょとんとしている秋姫に、プリマ・アスパラスもはっと顔色を変えた。 この噛みあわない会話の原因に、薄々気づきだしたのだろう。 秋姫は杖を持って星のしずくを集めてるけど、ただの女の子だってことに……。 「ぼやけた…ピンク…って…あの」 「結城さんは、本当は視力悪いの? いいの?」 「えっ? ナ、ナコちゃん?」 「ゆ、ゆうき……!?」 「んなっ!!」 今度は俺も秋姫も、そしてプリマ・アスパラスも凍りついた。 「それともその格好をしていると目がよくなるの?」 「い、い、いま結城と呼びました!? 呼びましたよね!?」 「その眼鏡は結城さんのものだもの」 「えええっ!? えと、ゆ、結城さんがアスパラさん!?」 秋姫も俺も、ぐっと顔を近づけてプリマ・アスパラスの眼鏡を見つめた。 ……八重野の指摘は正しかった。 それは見覚えのある、いつも結城がかけていた眼鏡だ。 プリマ・アスパラスは結城……じゃあ結城は一体何でここにいるんだ……? ぐるぐると疑問が頭の中をまわってる。 ふと横を見ると、秋姫も俺と同じように目をぱちくりさせていた。 「たったっ確かにこれは世界に一つしかないものだけど――いいえ、今はそんな話じゃなくて!!」 「貴重なものなのか…でもなんとなく、結城さんを見ているとそのレンズは合っていない気がするんだ」 「そんなのいいのっ! そ、それより質問を戻しますっ!!」 「一体何なのあなたたちはっ!! ほんっとにプリマなの!? どうして何も知らないのよっ!?」 「え…えっと…ぷり…ま? ユキちゃん、ぷりまって…」 「――う??」 「どうしてっ!? プラムクローリスの制服を着てるくせに、自分の立場もわかっていないの? そんなのおかしいわ! じゃあ何でレードルを持ってるのよ!」 「レードル?」 「だからっ! その杖のこと!!」 「これは、そ、その……」 うっ…… 秋姫は口をぱくぱくさせながら、俺の方へと視線を傾ける。 プリマ・アスパラスがその視線の動きに気づかないわけない。 「ひつじ! どうやらお前のようね? 教えなさい、どうしてレードルを手に入れたのかを!!」 「え、え、え、えーっとボクは…ある人から、貰って…星のしずくを集めたらいい、って言われて…」 「ある人?」 「あ…ある…人……」 「わかったわ」 「ソイツが全ての黒幕ね! プリマの名を汚すような行いをする者に、アタシ自ら抗議します!」 「そういうわけで、連れて行きなさい」 「だーから、ソイツのいる場所へ、連れて行きなさぁーい!!」 「い・き・な・さーいっ!」 ……ついに来てしまった。 プリマ・アスパラスに逆らえず、俺は結局皆をここまで連れてきてしまった。 「えっ、えっユキちゃ、ここって……」 「…如月先生の部屋?」 「――やっぱり、そうだったのね」 「あれあれ、八重野さんに秋姫さ……って、あれ…」 扉の向こうから顔を出した如月先生も、この面子にはさすがに驚いたようだった。 「………あらら」 「すいません…」 「あなたが黒幕だったんですね?」 「な、なに? 黒幕?」 「アタシにはわかってました」 「ずいぶんお上手に隠しているみたいですけど……かなり力のある方のはずです、だって、あなたは――」 「ははは、それはないないっ、僕はしがないレードル職人だよ」 「ステラウェバー…レトロシェーナに一緒に来ているという噂は聞きましたけど、何故こんなことするんです? 学園対抗はお遊びではないのに、こ、こんな…」 「あ…あう」 「すもも、結城さ…アスパラさんが言っているステラウェバーって何か知ってる?」 「わ、わかんないよ? ユキちゃんは……?」 「わからないよ」 「あ、ああごめんね…みんな、プリマ・アスパラスもちょっと落ち着いて」 「如月先生、あの…教えてください…!!」 「先生はユキちゃんのことや、この不思議な指輪のことも知っていたの…??」 「わかった、じゃあ最初から説明するから。ね?」 「あの、先生。その前に一つ質問いいですか」 「はい、どうぞ」 「……あの、薄々気付いてましたけど、先生はいわゆるこっちの世界の人じゃないんですよね」 「はい。そうですよ」 「えー!!!」 「こっこっちの世界って何ですか!?」 「…………ここではない、どこか他の世界が別の場所にあるという事ですか?」 「まあね」 八重野は不思議そうに首を傾げて、如月先生の次の言葉を待っていた。 秋姫は信じられない――それはこの不思議な世界の話じゃなく、如月先生が星のしずくに関することを知っていたことだ――といった顔でわなわな震えていた。 「そんな事も知らないなんて…本当にどうなっているのかしら」 「何か訳ありみたいですね、おじょうさま」 「そうでないとおかしいでしょ」 プリマ・アスパラスは自分の知っていることは全てだと思っていた。 秋姫と八重野は、全てのことを如月先生が知っているということに驚いていた。 そして俺は……俺は何に驚いているのかすら、わからなくなってきていた。 「まあまあ」 「それじゃあまずは、プリマ・アスパラスが言っていた学園対抗戦の事からね」 「あの、そもそも学園対抗って何なんですか」 「えーっと。今、僕達がいる世界と別の世界、そこから僕とプリマ・アスパラスと、そこの……」 「アーサーです!」 「はい、アーサー君ね。僕たちはもともと、違う世界の者なんだ」 「違う世界…? それってユキちゃんのいたぬいぐるみの国?」 「えっ、あっ……」 「まあ…近いというか、なんていうか、そう思っててくれても良いよ」 「向こうの世界では、こちらの世界を『レトロシェーナ』と呼んでいるんだよ」 「そして、向こうの世界の名前は『フィグラーレ』」 「れ、レトロシェーナと、ふぃ…フィグラーレ」 「そう。まあ、その辺はしっかり覚えなくても差し障りはないから」 「それで、そのフィグラーレには2つの学園があるんだ。スピニア……星のしずくを集める事のできる者を育てるためのね」 「この2つの学園は互いに対立・競争して成り立っている」 「互いを磨き合うためですか」 「ま、そういう事だね」 「そして2つの学園は、毎年それぞれ代表を選出してレトロシェーナ、つまりこちらの世界で星のしずくの奪い合いをするんだ」 「へ…へえ…対抗試合、みたいなのかな」 「学園の名前は、プラムクローリスとセント・アスパラス」 「アスパラス……」 「もうわかったかな。ここにいるプリマ・アスパラスは、セント・アスパラスの今年の代表なんだよ」 「それぞれの学園の代表という意味で、学園の名前をとっているんです」 「私はセント・アスパラスの代表ですから、プリマ・アスパラス。プリマは『第一の』という意味です!」 「ふええ……」 「そ、そうだったのか」 「おじょうさまは、それはそれは優秀な成績を修められて満場一致でプリマに選ばれたんですよ!!」 「す、すごい」 「今まではそれぞれ互角という前評判でしたが、今年は違うんですよ!」 「おじょうさまがプリマを務められる、セント・アスパラスの勝ちがほぼ決定していると言われていたくらいなんですから!」 「これは、それぞれの学園の成績優秀者同士の伝統ある勝負なんです。それをあなたのような……!!!」 「あ、あの、ごめんなさい!!」 「プリマ・アスパラス、落ち着いて」 「失礼しました」 「この学園対抗というのは、星のしずくを先に七つ集めた方が勝ちなんだよ」 「七つの星のしずく……」 ……秋姫に本当の理由を隠しておくために、俺はいいように使われてたんだろうか。 プリマ・アスパラスが来なければ、学園対抗の事はずっとわからなかったわけだ。 如月先生のほうをちらりと見てみたけれど、その答えは聞き出せそうにない。 「あの、でもその…もう一つの学園の代表の人はどうしたんですか?」 「ああ、それがね……」 「その子、一度こっちに来たんだけど、急病で帰っちゃったんだよ」 「そうなんですか」 「本来ならば、次の代表を送りこみたいところなんだけど、これがまた大変なんだ」 「大変?」 「そう。向こうの世界からこちらの世界に来るのって、凄く大掛かりな設備が必要なんだ」 「それでね、それを動かすのには、結構な額のお金が必要なんだよ」 「……あ、それで」 「え? どういう事?」 「八重野さんはわかったみたいだね」 「実はもう一人代表を送り込むための資金が、プラムクローリスにはない」 「だけど、プラムクローリス側はどうしても学園対抗はしたい」 「そこで、こちらの世界に住んでいる僕に連絡があって、お願いされたわけ」 「あ、あの、それで私がしずくを集める事に……?」 「いや、別に最初から秋姫さんを代表に、とは思ってなかったのだけど」 「ただ、星のしずくが必要な子が居たからねえ……」 「!!!!!」 「あ、ユキちゃん」 「その子を助けるついでに、学園対抗もできたらな〜っと」 つ、ついで!? 「ついで!!! そのひつじを助けるついでに学園対抗!?」 「あ、いや。しまった、言い方がマズかったかな」 「伝統ある勝負になんて事を言うんですかっ、如月先生!」 「お、おおおじょうさま! 落ち着いてください〜!」 「いやいやいや。でも、秋姫さんは中々の逸材だと思うよ」 「向こうの学園で勉強をして来たわけじゃないのに、もう星のしずくを幾つか手に入れているし」 「それは…そうですけれど」 「この先、どう化けるかわからないと思うんだけどなあ」 「そうなってもらわないと、困ります!」 「あの、如月先生」 「はいはい」 「先生は、どうしてそんな事をたくさん知っているんですか」 「ああ、それはね。僕はプラムクローリスの卒業生だから」 「向こうの世界からこちらの世界に来るのって、必ず何らかの手続きが必要なんだ」 「だから、こちらにいる人間の事は向こうの方で把握されている。だから、僕に何とかできないかって話が来たんだよ」 「そ、そうなんですか」 秋姫は如月先生の語る話に、なんだか感動しているようだ。 俺はそんなことよりも、ぐるぐるといろんなコトが回転している頭の中を整理するのに必死だった。 如月先生は……向こうの世界の人で……プラムなんとかの卒業生で……って。 「えっ、じゃ、じゃあもしかして如月先生もしずくを集めることできるんですか?!」 「え……? いや、できないよ?」 「だ、だってさっき『星のしずくを集める事のできる者を育てる学校』って…そこの卒業生なんですよね?」 「あぁ、僕があそこでしていたのは、薬やレードルを作る勉強。言うなればスピニアの補佐役だね」 「だからレードルは扱えるけれど、しずくをすくう事は僕にはできないんだよ」 ……なんだ、そうなのか……。 確かに自分でしずくを採れるなら、わざわざ秋姫に頼む必要もないだろう。 それに如月先生があの杖を振り回している姿も……なんだか想像しがたい。 「ま、そういうわけでちょうど素質のあった秋姫さんに、わが母校の命運をかけたってこと」 「う…うう…で、でも」 「まあ、プラムクローリスとしても、棄権だけは避けたかったんだ」 「アタシだって不戦勝はイヤよ」 「…ということなんだけど……秋姫さん、今更の報告になって申し訳ないが、学園対抗戦に参加してもらえるかな?」 「もちろん、君はいままでどおりユキちゃんと一緒にしずくを集めてくれるだけでいいのだけれど」 「は…はい…」 「ありがとう、すももちゃん」 秋姫は顔を赤くして俯いている。 秋姫は行った事もない学園の代表に選ばれてしまった。 おまけにライバルは……プリマ・アスパラス。 普段の結城とは真逆の、かなり熱い性格の持ち主だ。 「二人とも、学園対抗の本当の意味は自分の力を磨くということを忘れずにがんばるようにね」 「……もちろん」 「は、はいっ!」 「さて〜。それじゃあ、他に聞きたい事はもうないかな」 「一応、大体理解できました」 「ぼ、ボクも」 ……理解というか、無理やり理解せざるをえなかったというか……。 ともかく疑問だったことのほとんどを、如月先生は語ってくれた。 最初は驚いて言葉も出せなかった秋姫も、あの長い話の中で納得がいったようだ。 「じゃ、もういいかな」 「ちょっと、お二人とも!」 「え! な、なに?」 「お二人とも、確かそこにいる如月先生が顧問のクラブに入ってましたね」 「う、うん。園芸部だけど……」 「部員、まだ三人だけどね」 「それがどうかしたの?」 「園芸部……」 「どうかされましたか?」 「決めました!」 「何を」 「私もその園芸部に入ります!」 「え!」 「え、なんで」 「そっか、そっか! 園芸部に入るのか」 「ええ、勝負の条件は対等にしておきたいですから!」 「あの、別に園芸部ではそう言う……」 「いいえ! もう決めましたから!」 「おじょうさまがお友達と同じクラブに入ると決められるとは……!!!」 プリマ・アスパラスはぐっと拳を握り、うんうんと頷いている。 その横でアーサーは嬉しそうに尻尾をふり、如月先生が微笑んでいた。 ……これでプリマ・アスパラスの、いや、結城の園芸部入りは決定となった。 「明日から早速参加させてもらいます!」 「私もお供いたします〜!」 「そうか、そうかー。じゃあ、クラブも賑やかになるねえ」 「そういう問題なんですか」 「いいんじゃないかな、人数が増えるのは」 「(この人に任せておいて、本当に俺大丈夫なんだろうか……)」 「それじゃあ、明日の放課後から結城さんも園芸部に来てね」 「僕はたいがいここにいるけど、みんなは放課後は校舎裏の花壇とか温室で活動しているから」 「あ、そーそー」 「石蕗君には、色々内緒にしておかないといけないねー」 ぐっ!? 「フィグラーレの話は、基本的にはこちらの世界では秘密だから。まあ、八重野さんはしるしがあるから良いとして」 「あ、そうですね」 「まあ、わからないとは思うけど」 呆れて何も言えない――ってのは本当にこんな時のことを言うんだろう。 如月先生がまだ秋姫たちに告げていない事実、それはユキちゃんが本当は石蕗正晴ってことだ。 ……俺は明日からどんな顔して園芸部に出ればいいんだ? 「じゃ、こんなもんかな」 「それでは、私は先に帰らせてもらいます」 「はーい。気をつけてね」 「明日からもよろしくね、プリマ・プラム」 「あなたといい勝負ができる事を期待しているわ!」 「は、はう!!」 「……がんばろうね、すもも」 「それじゃあ、失礼します」 「はい。じゃ、入り口くらいまで送りましょうかねえ」 「そうです!」 「カリン様は今どこにいらっしゃるんですか?」 「(カリン様……?)」 「あーえー」 「あの人はいま近くには住んでないんだよねー」 「そうですか……」 「残念です。お会いしたかったのに」 「カリン様は、おじょうさまの憧れの方なんですよー」 「余計な事は言わない!!」 「す、すいません!!」 「ああ、そういう事か」 「(カリン様って、誰なんだろう)」 「ユキちゃん、どうしたの?」 「ううん。なんでもない」 「それでは、失礼します」 「はい、気をつけて。また明日、教室でね」 怒涛のごとく去っていったプリマ・アスパラス……というか、結城。 その背中が見えなくなってからも、部屋の中に残った俺たちはしばらく無言だった。 「あ、あの! 質問…まだいいですか!?」 「もちろんかまわないよ。どうしたの?」 「え…えっと…さっき言ってた、対決に負けちゃったら…ユキちゃんはぬいぐるみの国に帰れなくなっちゃうんですか?」 「ああ、そのことが心配だったんだね、すももちゃん」 「そんな事はないよ。あの子より遅くてもいいから、期限内にきちんと星のしずくを七つ集めれば、ユキちゃんはぬいぐるみの国に帰れます」 「よ、よかったぁ」 「ユキちゃん、ちゃんとお家に帰れるように、アスパラさんより遅くなっても、絶対絶対ななつ集めるからね!」 ……秋姫、本当に心配してくれてるんだな。 俺の、ユキちゃんの体をぎゅっと抱きしめて、頭を撫でてくれる。 恥かしかったけど、ちょっと嬉しかった。 「それからもうひとつ」 「すももちゃんの願い事も……叶うかもしれないよ?」 「頑張ったらね!」 「先生、私も質問です」 「何かな?」 「アスパラさんが結城さんなのはわかったのですが」 「うん、わかっちゃってたみたいだね」 「それは今日結城さんの様子がおかしかったことに関係するのですか?」 「おかしかったこと?」 「はい…ちょっと……」 ――そうだ。 昼間にプールで起こったあの一件を、すっかり忘れてしまっていた。 プリマ・アスパラスが結城と同一人物だったとして……。 さっき俺たちの前にいたプリマ・アスパラスは普通だった。 じゃあもう治った……ってことなのか? 「そういえば…微かに僕の薬の反応が……」 「いや、結城さんも向こう側の世界の住人だからね。ほらこっちの世界の水があわないというか、体調壊しちゃうようなこともあったりとかね」 「水を飲んだら、酔っ払ってしまう…ような?」 「う、うーん…ちょっと違うんだけど…まあ、それほど心配することでもないよ」 「なら良かったです」 「さ、すももちゃんも八重野さんも…もう遅いからそろそろ帰りなさい。お家の人が心配する前にね」 「はい、じゃあすもも…送っていくね」 「あ、ちょっとまって」 「えー…ユキちゃん。君は残ってもらおうか、ちょっと話があるから」 「そ、そうなんだ…じゃあユキちゃん、寂しいけど今日はここでお別れ…かな」 「う…うん、た、たぶん」 秋姫は少しだけ寂しそうな顔をして、俺を如月先生の机の上に置いた。 「それじゃおやすみなさい、ユキちゃん」 「如月先生も、おやすみなさい」 「はい、気をつけてね」 ドアの向こうの秋姫と八重野の足音は、すぐにすっかり聞こえなくなった。 俺はくるりと向き直り、如月先生の顔を見上げた。 「話ってなんですか?」 「いや、さっきの八重野さんの話…あれは一体何?」 「あっ、そうだ! 実は、今日如月先生にもらった薬が―…」 今日の昼間、プールであったこと……。 如月先生からもらった薬が誤って結城の手に渡り、それを飲んだ結城のおかしな行動、俺は今日あったこと全部を話した。 「あ〜そういうことか、だからあの子から僕の薬の反応がしたんだ」 「あんな危険な薬、何のつもりで作ったんですか!? おまけに秋姫に渡せって!!」 「まあまあ、落ち着いて」 「あれはね、こっちの世界の人が飲めばなんてことない、本当にちょっとした効果しかないものなんだ」 「原料がね、ほんの少し違うんだよ」 「だから逆に、フィグラーレの者にとっては劇薬になってしまうことがあるんだ」 「げ…げきやく…」 だから結城はあんなに……。 あんなに俺にくっついてきたのか。 原因がわかってホッとした。 「それで…そんなの飲んだ結城は大丈夫なんですか?」 「ん〜どうだろうねえ」 「二、三日で切れるかもしれないし……」 「よかった…でもそれなら二、三日我慢すればいいか」 「ず〜っと効いてるかもしれないし……」 「どっちなんだろうねえ?」 「………先生」 「それって、実はよくわからないって意味なんじゃ…」 「そういうことに…なるかな?」 「〜〜〜〜〜!!」 「まあまあ、落ち着いて。しばらく様子を見てみましょう」 「(しばらくって……)」 「そんなことより、君は正体がバレないように気をつけることだね『石蕗君』」 「は…い…って、あっ!!」 自分の本当の名前を呼ばれたとき、ふと気づいたことがあった。 如月先生はこのぬいぐるみの姿を見てすぐに、俺の正体に気づいた……ってことは……。 「なんか、今…ちょっと気になってたことが解けたような」 「俺の本当の姿は石蕗正晴だってこと、如月先生はすぐに見抜いた」 「うん、薬に関しては専門だからね」 「だけど…俺はぬいぐるみに…本物のぬいぐるみにならない」 「そりゃそうだよ」 「だって、僕はフィグラーレの住人だし」 「あ…そ、それに今気づいたって…言おうとしたんですけど」 「うん、向こう側の住人には君の正体を知られても大丈夫。だいたいそうじゃなきゃ、最初に僕に知られた時点でアウトじゃないか」 「は、はあ」 「そんなことより、結城さんには気をつけることだ」 「君は特殊なケースなんだから」 「………へ??」 「それじゃ、お話はもう終わり! 帰っていいよ」 「………はい」 「さよーならー」 ほとんど投げ出されるように、俺は如月先生の部屋の窓から外へ出た。 外はすっかり暗く、人通りも少ない。 今の俺にとっては好都合だったけど――。 「あ、忘れてた。荷物…道端に置いて来たままだ」 「(そういえば聞き忘れてたな……)」 「(あの薬、秋姫が飲んでたらどんな風に効くものだったんだろう?)」 いろいろな事がありすぎた昨日が明けて――。 自分の部屋で迎えた朝はやたら頭が重かった。 「……麻宮?」 「昨日これ…掲示板にあったぞ」 寮の掲示板には、授業変更やクラブについての連絡メモがよく貼り付けられる。 夏樹が渡してくれたのも、その一枚だった。 『明日は園芸部の活動日です。水遣りくらいなので、一時間ほどです』 『それから、新しく入った部員の紹介もしたいのでよかったら来てください』 秋姫たちか、如月先生が寮に伝言してきたみたいだ。 「明日ってことは…今日か」 「新しく入った部員……」 結城のことだ。 だけど俺はそれを知らない事になっている。 「……気をつけないとな、いろいろ」 「夏休み中に急だけど、結城さんが新しく園芸部に入部になりました」 「……よろしくお願いします」 「よろしく、です」 「よろしく」 「ほら、石蕗くんもちゃんと挨拶〜」 如月先生はいつもと変わらぬ笑顔だった。 けど、俺にはその笑顔すらいじわるく見えてくる。 「……あ…はい」 「よろしくね」 結城は俺の方をちらちら見ると、頬をぽっと染めた。 「(……まだ薬効いてるよ)」 「三人で結城さんにいろいろ教えてあげるように! ま、今日は花壇や温室に水をやるくらいだけどね」 「それじゃ、皆仲良くね〜」 如月先生が戻ってゆくと、俺は水道の方へと向かった。 一番大きな花壇に水をまく用意をしていると、秋姫たちもそれぞれ動き始めた。 「すもも、そこはさっきもう水あげた場所だよ」 「ひゃっ、そ、そうだっけ?」 秋姫は八重野の前で笑っていたが、どうも心ここにあらずといった顔だ。 結城は空になったジョウロを傾けたまま、ため息をこぼしている。 「(な、なんだこの空気――……)」 ……重い。 昨日のことだろうか。 プールの一件なのか、それともそのあとの……しずくを採った時のこと? どっちにしろ、俺には口を出すような隙がない。 「や、八重野」 「あ…俺ちょっと、教室の方に行って来る…忘れ物…」 「(うわ……俺、なにしてるんだろう)」 あの重い空気に耐えられなかった俺は、結局逃げ出してしまった。 一息ついたのはいいけど……どうしよう。 結城の薬の効き目はちゃんと切れるんだろうか。 それより俺、このまま園芸部にいていいんだろうか。 「(あ……もうワケわからなくなってきたよ……)」 「ゆ、結城!?」 「しいっ」 「……ここなら、誰にも見られないわね」 「……な、なに?」 「だから、なに?」 「――スピリオ・シャルルズウェイン」 「ええっ」 「(な、なんでいきなりここで!? しかも俺の…前で)」 「……あ、あ、えっと」 「思ったより驚かないわね。まるで最初から知ってたみたいに」 「昨日、『らいむらいと』に行って…その後は何していたの?」 「な、なんでそんなこと聞くんだよ」 「じゃあアタシの話を聞く?」 「え……??」 「昨日の夜…あの後アタシはそのまま帰ったと思う?」 「あの後って、何のことだよ」 「……帰ったわ。でも教室に忘れ物をしてまた戻ったの」 「そこでアタシが見たものはなんでしょう?」 「空飛ぶひつじ」 「――うっ」 「で、どこに行くのかと思ったら、路地裏に入って必死に荷物をとろうとしてるわけ」 「見覚えのある――そ、あなたの鞄をね」 見られていた!? 昨日、路地裏に落ちていたカバンを拾いに行った時のことだ。 言い逃れなんて、絶対できない。 「(――も、もう終わりだ!)」 俺の正体が、ぬいぐるみに変身してしまうってことがバレたら……。 「(――本物のぬいぐるみになってしまう!)」 本能的に俺はその場でしゃがみこんでしまった。 本物のぬいぐるみになるって……痛いのか……それとも……。 「……ううっ…う?」 おそるおそる目を開けると、自分の両手が見える。 何も変わってない、俺の手だった。 「(そ、そうか…結城はあっちの世界の人間なんだっけ)」 「何やってるの?」 「そ、それは」 「お…俺があの「ユキちゃん」だってことがバレたら、ホントにぬいぐるみになるんだよっ」 「だから…バレちゃやばいんだって」 「ホントのぬいぐるみって何よ?」 「……もしかして」 「えっえっ??」 「正晴、もしかして…あなたフィグラーレの者じゃ、ないの?」 フィグラーレの者じゃない――ってことは、普通の人間ってことだよな? どうしてそんな当たり前のことを聞くんだろう? 「そ、そう…だけど?」 そう答えた俺に、結城の…プリマ・アスパラスの表情がゆっくり変わってゆく。 「――怪しいヤツが持ってたジュースと取り違えて、それを飲んだからこんな風になったんだ」 「……それって、もしかしてフィグラーレの物を口にした…?」 「う…うん、如月先生もそう言ってたな……」 「ふぅん…レトロシェーナの人間がアタシたちの作ったものを口にすると…そんな風になるんだ」 「で、正体がバレたら『ホントのぬいぐるみ』ってやつになってしまう……ってことなんだ」 「結城や…如月先生はあっちの世界の人間だから平気だけど」 「ほっほう〜」 「それは……正晴がさっき取り乱した理由と関係あるのね?」 『そんなことより、結城さんには気をつけることだ』 『君は特殊なケースなんだから』 しまった、と思った時にはもう遅かった。 「アタシが他の誰かにバラしたりなんかしちゃったら、おしまいってことね?」 「大丈夫、他の人には黙っていてあげるから」 「そのかわり…」 「キスして」 「……へ? い、いまなんて」 「私にキスして」 「だって、正晴の顔を見てたらしたくなるんだもん」 「(ま、まさかあの薬…まだこんなに強く効いてるのか?)」 「ちょ、ちょっと? ゆ、結城…なんか違うぞ…」 「いいえ、違わない。だってここは教室でもないし、誰もいないでしょ?」 「(結城、こんな性格じゃなかったはずなのに)」 「だって正晴の顔を見てると、胸がどきどきしたりキスしたり触ってほしくなったりするんだもの」 「さ、さわ!?」 眼鏡の奥の結城の瞳が、俺をじっと映している。 あの薬は一日たっても、まだ絶大な効果を発揮しているようだ。 「……いや?」 「だって、そんな、おかしいだろ…いきなり」 「正晴がぬいぐるみになったら悲しいけど…それでも私のそばにずっと置いてあげるからね」 「な!!」 「ま、まままって」 「むぐぐっ」 「だ、だめ、まって」 「じゃあ……キス」 「(そ、そんな…一体どうしたらいいんだ?)」 「(……こ、ここなら…別に)」 俺は目をつむる結城に手をのばし……。 「し、したからな」 「だ、だって今の、お、おでこじゃない!」 「キ……スはしたぞ」 「でもでも――っ」 「も、もうしたからな」 「はあっ、はあっ、わっ」 「わわ、す、すみません」 「まつだー!!」 「は、ははい?」 「捕まえてー!!」 「えっあっ、はい! かしこまりました、お嬢様ぁ」 「う、お、追いかけてきた」 「ま、ま、待ってくださいー!」 「も、もう早く薬切れてくれー!」 「あれ? すももたん」 「わぁい〜、何してるの?」 「じょうろ…落としちゃったんですね…はい」 「ねえ、すももたんのクラブも、今日は活動日?」 「あ、うん…」 「園芸部さんは、お花にお水あげたりだから…夏休みも大変だね」 「ねっねっ、今からだったらお花のお庭見てもいい?」 「え…い、いま…ちょっと」 「トウア、お前は自分の部活に行くんだろ?」 「そうだけど…すももたんの園芸部も見学してみたかったなぁ」 「ほら、遅れるからそろそろ急げ! アキノまで遅刻するだろ?」 「そっか…わかった、アキノ行こう〜」 「顔色悪いぞ、今日は早く帰ったら?」 「あ…うん。ありがとう」 「石蕗……くん」 「すもも…ここにいたんだ」 「……大丈夫?」 「えっえっどうして? な、なにもないよ?」 「ナコちゃ…みて…た?」 「ううん、すもも……行こう」 「あっ、うん」 「帰り…寄り道して帰ろうか」 俺は目をつむる結城に手をのばし、肩をつかんだ。 そのまま顔を近付けて、目を閉じる結城に近付く。 「(……で、でも、やっぱり)」 最大限に顔を近付けて、結城の唇と俺の唇を触れ合わせようとした。 「ご、ごめん、やっぱり……」 「…………え!」 「やっぱりできない! ごめん!」 慌てて顔を離し、結城の体を自分から遠ざけた。 目の前の結城は泣きそうな表情をしてこっちを見つめている。 期待させて結局しないなんて、悪い事したとは思うけど……。 やっぱりこんな事は流されてする事じゃない。 「そんなぁ、正晴!」 「ダメだって! こういうのは本当に好きな人にしてもらわな……」 「いやっ!!!」 「う、うわ!!」 突然、結城が俺の体に全体重をかけた。 そして、情けない事にそれを支えきれなかった俺は押し倒されてしまった。 「正晴……」 「ゆ、結城降りて……」 「い、いやって」 体の上に結城が乗り、俺に覆い被さるようにしている。 見下ろされた状態で視線を向けると、結城は目を潤ませながら俺を見つめていた。 「こんなにお慕いしているのに」 「いや、あの……」 「もう私の頭の中は、正晴の事でいっぱいになっているの……それなのに!!」 「いっ!!!」 俺の上にまたがったまま、結城はいきなり制服のベストを脱ぎ始めた。 「正晴、私はもう……」 「ゆ、結城降りろ! 頼むから降りてくれ!!」 「いやっ!! 離れたくないの!」 ふるふると首を振った結城は、制服のリボンに手をやりゆっくりとそれをほどき始めた。 「ゆ、結城……」 俺を見下ろしながら、結城は切なげな表情を浮かべていた。 あの薬って、ここまで効果があるものなのか? 「私に魅力がないから?」 「正晴を惹きつけるほどの魅力がないから、こんなにも拒まれてしまうの?」 「あ、そ、そうじゃ……なくて……」 「そうじゃないなら、どうして私をちゃんと見てくれないの!?」 「そ、それは、そのー……」 「やっぱり、私に魅力がないから?」 「あ、えー……」 「どうすれば、もっと私を見てもらえるの?」 また結城の手が動き、今度は片手でブラウスのボタンを外した。 ゆっくり、ゆっくりと割れ広がる白いブラウスの下から、結城の肌が見えた。 「正晴、お願い。私を見て」 結城の手が全てのボタンを外すと、その手は今度はスカートに向かった。 「貴方の事以外に何も考えたくない」 ホックが外されたスカートは腰から落ちて、太腿で引っ掛かっている。 視線が目の前から外せなかった。 目の前にある結城の肢体には俺を惹きつける魅力が間違いなくある。 そうでなければ、こんなにも見つめ続ける事は出来ない。 「私が好きなのは正晴だけ。こんな事、他の人にはできない」 「正晴、私嬉しいの」 「嬉しい?」 「ええ、嬉しい。貴方にこんなにも見つめられているから」 「そ、それは!!」 目の前の結城は俺を見つめて、本当に嬉しそうに微笑みを浮かべた。 少し赤くなった頬が、その微笑みを魅力的なものにさせている気がする。 「でも、もっと私を見て欲しい」 「正晴にだったら、私の全てを……」 また動き出した手のひら。 白くて細い結城の指先は胸元にのびた。 そして、指先はブラの中央に近付き、そこで動きを止めた。 「………!!!!!」 指先が小さく動くと同時に、結城のブラジャーが外れた。 目の前では、二つの膨らみが露わになっている。 大きくて柔らかそうな二つの膨らみ。 その先にある、小さな蕾。 間違いなく、そこには結城の胸があった。 制服の上からはわからなかったけれど、案外大きい。 「正晴になら、触られても平気」 「(……ゴクリ……)」 目の前にある二つの大きな膨らみが俺を誘う。 そして、その持ち主はそれに触れても構わないと言っている。 「…好きな人に触れてもらうことは………悪くないんでしょ?」 「あ…いや…」 「知ってるもん…私…そういうこと」 「ね、触って……大好き」 その二つの膨らみに触れたいと、ゆっくりと手が動き出しそうだった。 「正晴なら、いいの……」 頬を真っ赤に染め、とろんとした表情を浮かべた結城が呟くように言った。 「お嬢様〜。どちらにいらっしゃるんですか〜?」 突然、遠くから松田さんの声が聞こえた。 声が聞こえた瞬間、頭の中が急激に冷静になっていくのがわかった。 「あ……! あ、の……」 何しようとしてた、俺! この場所で、こんな事をしている場合じゃない! は、早く何とかしないと!!! それに、結城だってこんな姿を松田さんに見られていいわけがない! 「どうしたの、正晴?」 結城は松田さんの声が聞こえていないのか、そのままの状態で俺を見つめている。 目の前にある表情は、その先を待ち望んでいるようにしか見えない。 「ご、ごめん結城!!!!」 「ま、正晴、ひどい!」 体にまたがっていた結城を無理やり自分から降ろさせると、無理やりその場に立ち上がった。 「ごめん! 本当にごめん!!」 「だったら続き!」 「む、無理だから!!」 「どうして!」 「本当にごめん。こういうのダメだって!!!」 「私はダメじゃない!」 「結城がダメじゃなくても、俺がダメなの!」 「そんな……」 しゅんと下を向く結城を見ていると、自分がひどい事をしてしまったような気になる。 でも、流されてる場合じゃない。 「じゃ、じゃあ俺行くから! 結城、ちゃんと服着た方がいいよ!!」 「あ、正晴〜!!」 走り出した背後から、結城の叫び声が聞こえていた。 あのまま、冷静になれなくて流されてたら……。 だ、ダメだ! あんな風に流されるなんて、絶対にダメだ! しかも、惚れ薬のせいでなんて……。 ほんとにあの薬、いつ効果が切れるんだろう。 「すもも、そっちに逃げたよ!」 「うん! 大丈夫、つかまえる!!」 しずくが逃げた方向に素早く走り、軌道が変わる前に秋姫は追いついた。 「うまいっ!」 「うん!」 思わずそんな言葉が出た。 その声に秋姫は嬉しそうに頷き、しずくに向かって杖を振り上げる。 秋姫がそう叫んだ途端、しずくは逃げる力を失ってしまったようにあっさりとこちらに引き寄せられた。 抵抗する事なく近付いたしずくに、秋姫は振り上げた杖をおろす。 「つかまった!」 「す、すもも、瓶!」 俺は抱え込んでいたガラス瓶を慌てて渡した。 秋姫は手早く蓋を開けてその中にしずくを入れる。 「4つ目だ!」 「うん!!」 「すもも、だんだんうまくなってきたよな」 「え、そうかな」 「うん、なってる」 「最初の頃よりも、すぐにしずくを採れるようになったよ」 「ふふっ、そうなら嬉しいな! やっぱり練習したのが役にたったのかな」 「そうだ、きっとそうだよ」 ガラス瓶のフタをしっかりしめて、秋姫は頷いた。 落としてしまわないよう、割れてしまわないようにと、星のしずくをしまった秋姫は、俺を抱き上げる。 「(あれ、なんか元気ない……?)」 間近にある秋姫の横顔を見て、俺はそう思った。 「(でも、どうしたんだろう?)」 さっき星のしずくを採っていた時の元気は、どこにいったんだろう。 そんなことを考えていた俺に、秋姫は気づいたようだ。 「ん? ユキちゃん、どうしたの?」 「え? あ、あの、すももが元気ないみたいだから」 「え、わ、わたしそんな顔してたかな!?」 「そっか。心配させちゃったかな? ごめんね、ユキちゃん」 「ううん。大丈夫なら、いいんだけど」 「大丈夫だよ、うん……たぶん」 首を振って笑顔で答える秋姫に、それ以上なにも聞けなかった。 「しずくも採れたし、そろそろ帰ろうかユキちゃん」 星のしずくが採れたのに――。 しかも、ずいぶんと手際よく上手に採れたのに、どうして? 結局俺はその疑問を口にすることないまま、秋姫とともに帰路についた。 いつものように秋姫の家にやってきて、星のしずくに反応した指輪の光を追って、そして無事にしずくを手に入れた。 さすがに秋姫も杖の使い方に手慣れてきたようで、前ほどてこずらなくなっていた。 それが、ユキちゃんになった俺と秋姫の『いつも』だった。 ……でも。 「あ、な、なにかな?」 部屋に戻ってからも、秋姫の様子は変わらない。 帰り道にずっと気になっていた、沈んだ表情。 秋姫はそのまま、しずくの入った瓶を眺めながらぼんやりとしていた。 「やっぱり少し元気がない気がする」 頷いた秋姫は少しだけ考えるような素振りを見せる。 それから俺の方に顔を向けると、また黙り込んでしまった。 「あのね、ユキちゃん」 「う〜んと……」 「ユキちゃんにだったら、言おうかな」 「何が?」 「あのね、えーっとね」 秋姫は何かを迷うように体を左右に揺らしていた。 しばらくそのまま見つめていると、ついに決心がついたのか、ぴたりと動きをとめ――。 「わたし、あのね……好きな人がいるんだ」 小さくそう囁いた。 ……そ、そうなのか。 知らなかった。 やっぱり女の子って、こういう事で悩んだりするものなんだな。 思わず素で驚いてしまった俺は、慌てて『ユキちゃん』の自分に集中した。 「その人の事を考えたりしてたの」 「だから…かな、ちょっと元気ないみたいに見えたの」 「え? ど、どうして?」 「う〜ん。えーっと」 「うまくいえないけど……その…好きな人とね、もうちょっとちゃんとおしゃべりしたりとかできたらいいのになーと思って」 「ちゃんと話せないの?」 「だって…だってね、その人がわたしのことどんな風に思ってるのかな、とか考えちゃうと――」 「む、無理なの、話したいことの半分もできなくなっちゃうの」 頬を染めた秋姫は、大きくため息をこぼしヒザを抱える。 好きな人の前にいると、話したいことの半分もできなくなってしまう。 わからなくもない。 俺なんか、好きとか嫌いとかじゃなくても、そんな風になることの方が多い。 「(……結城さん、好きなのかな……でも如月先生は結城さんが急にこっちの世界にきたせいだからって……)」 「(だから…あのときのことも……結城さんがおかしくなってからだって……でも……)」 「(……でも、あんなことされたら、好きになっちゃうのかな……男の人)」 「へっ! あ、わ、わたし、ごめんっ」 なんだろ、なんだかいつもより気が抜けてるっていうか……ぼんやりしてる? 俺が声をかけて、どこかへとさまよっていた心がいきなり戻ってきたようだ。 秋姫は椅子の上でわたわたと焦っている。 「それで、すももはどうしたいの?」 「したい、こと?」 「えっあっ、そそそんな――あんなこと、わ、わわたしっ」 「あ、ごめんなさい。なんでもないよ」 「そうだなぁ……もっと……おしゃべりしたいな」 「すももがそう思えているなら、大丈夫なんじゃないかな」 心に思うことを、ちゃんと言葉にして誰かに伝える。 秋姫の方が俺よりもずっとずっと上手にできるはずなのに……。 それでもこんな風に思うことあるんだ。 「えっと……な、なんていうか…さ」 「ちょっとずつ会話、していったらいいと思った……すももが望んでるなら」 「……ごめん、そんなのすももだってわかってるよな」 なんとなく自分のことと重ねて、素で話してしまった。 なんか俺、偉そうに言っちゃったよな…… 「ううんっ」 「ありがとう、ユキちゃん」 「励ましてくれてるんだよね」 「え! あ……う、うん」 「そうだよね、ちょっとずつでも頑張ったら……できるようになるよね」 「うん、がんばって」 「明日から二学期だもの。うん、ユキちゃんの言う通り……」 「わたし、頑張ってみる!」 「む、むぐむぐ…わ、わかった〜」 「うんっ、がんばるがんばるっ!」 目覚まし時計を止め、体を起こした。 夜中や明け方に秋姫の部屋を抜け出し、自分の部屋に戻って少し眠る。 そんな日々が始まって、三ヶ月以上たつ。 「あ、そうか。昨日で夏休み終わりだったんだよな」 机の上の小さなカレンダーをめくる。 長かった、そして色んな事があった夏休みが終わり…。 今日から新学期が始まる。 「よう、ハル。おはよう」 近付いた足音に振り返ると、圭介が笑顔を向けていた。 「どうだった? 夏休み」 「まあ、それなりに」 「なんだ、それ? ハルらしい答えだけど!」 「お〜い! おっはよう」 「おはよう〜」 「おはようでーす」 「おっはよーう」 賑やかな声が聞こえて、一気に周りが明るくなる。 深道も小岩井も雨森も元気そうだ。 「二人とも朝から眠そうな顔して歩いてたよ」 「え? そうかな」 「あ! もしかして、今日の朝まで課題やってたとか?」 「違うよ」 「本当〜?」 「あれ、でも〜」 「けーくんはかーなり眠そうだよ〜」 「圭介君は間違いなく課題よね」 「そ、そんな事ないって!」 「いいっていいって、私たちわかってるんだから」 「信子さんまでそんな事言うの? ひどいなあ」 「あはは! でもちゃんと出来てるんでしょ?」 「そうそ、弥生みたいにほんっとに放置とかしないわよね」 「むー! みんな、あとで見せてー」 「やっぱりな〜、はははは」 「ホントに何もやってないの!?」 みんなの笑い声は明るかった。 一学期の初め頃には、俺はその笑い声がこんなにも明るくていいものだってことに気づいてなかった。 「あ、みんな。おはよう」 後ろから走ってきたのは秋姫と八重野だった。 「お。スモモちゃん、八重野さん、おはよう!」 「秋姫、八重野。おはよう」 「つ、つわぶきくっ……」 「おはよう……」 「……? おはよ」 「おはよう、石蕗」 「おはよう、八重野」 「なんだか凄い大人数になっちゃったね〜」 「ホント。早く教室に行かないと邪魔かな」 「ああ、そうかもな」 「よし、じゃあ急ごう〜!」 「あ、ちょっと信子さん!」 走り出した深道を追って、圭介も走り出す。 「あ〜。弥生も走っちゃおう〜!」 「え? 走るの!?」 雨森と小岩井も走り出した。 その姿を見て、秋姫は何故かオロオロしている。 「え、あ、あれ? わたしたちも走った方がいいのかな、ナコちゃん」 「一緒に走る?」 「え、えーっと……」 校舎にかかっている時計に目をやると、あと少しで予鈴が鳴る時間だった。 「もうすぐ予鈴鳴るな」 「ど、どうしよう…か」 「よし。走ろう、すもも」 秋姫の手を取った撫子は、軽く走り出した。 置いていかれる形になった俺は、少し呆然としたが、そんな俺に秋姫と八重野が振り返る。 「石蕗!」 「ほら、走って、石蕗も」 手を取り合って走る二人の後ろ姿を追いかけるように、俺も教室に向かって走り出した。 教室に入るとクラスメイト全員がほとんど揃っていた。 そして、俺は既に席に座っている結城の姿を見付けた。 「あ、結城さん。もう来てるんだ」 結城は俺に気付くと、椅子から立ち上がりこちらに近付いた。 思わず身構えてしまったけれど、結城は特に変わった様子はない。 「おはようございます」 「あ、ああ。おはよう」 「おはよう、結城さん」 「……え? あの、えーっと」 「何かご用ですか??」 あの時と全然違う、いつも通りの結城だ。 もしかしたら……。 「ゆ、結城……その、体の具合はどう?」 「あ、別にフツーならいいんだけど……」 「(あれ?)」 「あ……もう」 「こ、この間のことは忘れてくださいっ」 「あの……プ、プールのことなど……」 良かった! 薬の効果は切れたんだ。 俺はホッと胸をなでおろした。 クラスメイト全員の前で飛びついてこられたりしたら、それこそ俺も結城も大変なことになっていただろう。 「はあ……ホントによかったよ……」 「そ、それから!!」 「ア、アタシ、その、まま松田が、あとでっ」 「う、うん、わかった」 薬のこと、松田さんに聞いたんだろうか。 それならそれで説明する手間もはぶけたし、いいんだけどさ……。 結城は俺の胸倉をつかんだまま、ずいぶん慌てた声で続けた。 「……だ、だからあのせいで行った全てのことは、き、記憶から消去してください!! キ、キキキスとか、あのあたりのっ」 「ふ、不快なら、ア、アタシが如月先生に頼んで、あの記憶ふっとばしてもらうとか――」 「いい、いい! 忘れるから」 「結城」 八重野が結城を手招きしている。 結城は俺から手を離すと、小走りにそっちへと向かっていった。 「園芸部もやめてしまうの?」 「この間のこと、全部忘れてということは、そういうことかなと……」 「やめちゃうの?」 「い、いいえ」 「行きます、園芸部は……やめません」 教室の隅に並んだ三人の会話は聞こえてこなかったけど、その顔を見る限り深刻そうな感じじゃない。 むしろ八重野や秋姫は笑顔だった。 「(何も心配することはなさそうだな)」 「あっ、もう時間か」 「ねえ、園芸部……人数ふえたから、これからはいろいろなことできるよね」 「あ、つ、石蕗くん」 自分の席へと戻る途中、秋姫は俺の方を振り返ってそう言った。 「(あ、さっき八重野としてた話の続き……なのかな)」 一瞬とまどい、なにげなく耳にしていた話の内容を思い出す。 園芸部でやりたいこと、みたいな話だった。 「石蕗くんは」 「俺はあんまりそういうのわからないから……秋姫たちが考えたこと、また教えて」 「はいはーい、今日も元気に授業していきますよ〜っ」 「あ、じゃ、じゃあまた放課後に」 「ふー、なんだかまだ暑いよねぇ」 「それはトウアが人よりも走り回るからだ」 「ええっ!? そ、そうなの!?」 「あ、ハルたーん」 元気な声が背中に浴びせられる。 続いて軽快な足音が近づいてきた。 声だけでもわかったけれど、そこにいたのは冬亜と夏樹。 珍しく三つ子のもう一人、秋乃はいない。 二人とも俺と同じく、放課後を迎えクラブに向かっているようだった。 「ああ、麻宮」 「今からクラブ?」 「そうだよ。麻宮たちも?」 「は〜いっ! そうですっ」 「冬亜と秋乃だけな」 「えぇー、ナツキも入ったらいいのにー」 「……いい」 「ははっ」 「それじゃあな石蕗、そっちも頑張れなー」 きっと今から秋乃を迎えにいくんだろう。 元気な足音はどんどん遠ざかってゆく。 二人と別れて、俺は校舎の中を抜けていった。 向かう場所はもちろん、園芸部。ここからだと旧校舎の裏にある花壇は少し遠い。 俺は少しだけ歩みを速めた。 「ああ、石蕗」 「すももはちょっと職員室へ行ってる、結城はあの松田さんって人に何か伝言があるそう」 そういえば……あんまりないな、こういうの。 俺と八重野の二人っきり。 八重野は無言のまま、てきぱきとジョウロやスコップを用意しはじめている。 俺はその隣に並び、せめて邪魔にならないようにと気をつけながら準備を手伝った。 突然名前を呼ばれて、俺はびくりと手を止めた。 隣にいる八重野の方を向くと、八重野もまた手を止めこっちを見ていた。 「この間たまたま見つけたのだけど……ツワブキって花があるのは知ってる?」 「いや、知らなかった……俺の名前と同じ花なんてあったんだ」 「うん。それに、秋から冬に咲く花らしい」 「そうか……じゃあもうすぐしたら咲くんだな」 「観賞用なら、鉢植えで育てるのが主流らしい。栽培は難しくないみたいだった」 「へえ、どんな花なの?」 「小さくて黄色い花」 「すもも、喜ぶかな」 「その花……もしもここにあったら喜ぶかな、すもも」 「ああ、秋姫はその花が好きなんだ」 返事はなかった。 どうしたの、と声をかける間もなく八重野は立ち上がり、水道の方へと歩いていった。 「(今の話……なんだったんだろう)」 他愛無い話といえば、その通りだ。 ふと思い出したことを口にしただけだったんだと思う。 だけど八重野がそんな風に話すのは……すごく珍しかった。 勢いよく流れる水の音に続いた、短い悲鳴。 俺は慌てて八重野の様子を窺った。 おろおろとこっちを振り返った八重野。 水の流れる音は、その手元にあった蛇口からだった。 「おかしいな……壊れた?」 「ああ、蛇口の中のゴムパッキンが傷んだんじゃないかな」 そう言っている間にもジャアジャアと水が流れつづけている。 いくら閉めても止まらないようで、八重野は困ったようにそれを手で押えていた。 「ちょっと待って」 俺は蛇口の下にしゃがみこみ、その奥を覗き込んだ。 思ったとおり水道の元栓となるコックがそこにあった。 「とりあえず、水止めとくか……」 サビのせいでずいぶん固くなっていたが、力をこめてまわすと溢れていた水はすぐに止まった。 「ちょっとの間、水止めておくから…換えのをもらってくるよ」 「たぶん蛇口のゴム換えるくらいだろうし、すぐ直るよ」 「そのままじゃ、手を洗うたびにびしょ濡れになるし」 職員室に向かった俺は、早速校務を担当している先生に蛇口のことを告げた。 旧校舎に近い方の蛇口は結構修理が必要なものが多いんだと、呟きながらすぐに新しいゴムを渡してくれた。 「あの場所の水道使えないと、ちょっと不便だよな……」 そう思いながらもと来た道を戻っていると、ふいに誰かの話し声が聞こえてきた。 「遅くなってごめんね」 「ううん、もういいの?」 「(秋姫か。もう来てたんだ。どっかですれ違ってたんだな)」 「うんっ、この間の提出した課題のノート、間違ったのを出しちゃってたみたい……でももう大丈夫」 「そうか……あ、そうだすもも」 「ど、どうしたの? ナコちゃん」 「あの後……なにもない? アスパラさんと……」 「(その話か……じゃあ俺は出て行かないほうがいいな)」 ちょっと悪い気もしたけど、『何も知らない』ことになっている俺はその場で身を潜めることにした。 「何もないよ? ついこの間、また星のしずくを取りにいったんだけど…、結城さ……アスパラさんは、来なかったんだ」 「結城自身もそうだけどさ、アスパラさんの時ってすごく真っ直ぐな性格なんだと思う。だから……」 「だから、悪い人じゃないと思ってるんだ、アスパラさん」 「わたしもそう思うよ」 「そうか、すももも一緒のこと考えてたんだ。私、少し心配しすぎたかな」 「そうだよー、ナコちゃんってば、わたしのお姉さんみたい」 「お姉さん? ふふ、そんなことないよ」 「それからすもも、あの時の事……」 「あの時?」 「……ううん、なんでもない」 「よかった、すももが悲しむことがなくなって……」 「やっぱり私、すももが笑顔なのが一番だよ」 「へ? ナ、ナコちゃんってば、急にどうしたの?」 「ふふ、なんでもないの」 八重野は何の話をしてるんだろう? プリマ・アスパラスとのことをひどく気にしているのはわかったけど……。 一瞬、八重野は今までに見たことないほど心配そうな顔をしていた。 「(ほんとに仲良いんだよな、あの二人……)」 「いいですねー、なんだかこっちの世界の学園というのは、のほほんとして――」 「い……てててっ」 「石蕗に……松田、さん?」 「あ……ど、どうも〜」 「あの、ど、どうかされたんですか?」 「結城なら、まだこっちに来てないですよ」 「あ、そ、それはいいんです、お嬢様はもうすぐいらっしゃいますので」 「じゃ…じゃあ結城さんを探しているんじゃないんですね?」 「は……はあ」 「そ、その……お嬢様のことを…よくお願いしようとしまして……」 「そういうことですか」 「松田さん、結城さんのこと心配なんですね」 「つきましては! 私もこの園芸部活動に参加して、お嬢様を見守りつつ皆様のお力になれるように頑張りたく思いますっ!!」 「さ、参加って……」 俺も八重野も秋姫も、目が点になった。 松田さんだけが、唇をギュッと噛み締め目を輝かせている。 「あの……参加って…園芸部に入るって感じですよね」 そう問い掛けると、松田さんはぱっと笑顔になり大げさに頷いた。 「ハッ! そういえば石蕗君、その手にもっているものは何ですか?」 「あ…これは…そこの蛇口を直そうと思って……」 「そういうことですか! 任せてくださいっ」 「えっ、あ、あのっ――ええっ!?」 バッと上着の中に手をつっこんだかと思うと、次の瞬間には松田さんはレンチを目の前に掲げていた。 そして俺の手からゴムを取り、目にもとまらぬ速さで蛇口を解体し始めた。 「わ、わわっ、なんだかすごい」 「ほんとに器用だな」 「うん、なんだか…意外といってはいけないけど……」 「はあ。昔からお嬢様がうっかり壊されたモノをいろいろと直すのが私の役目でして――」 「あっ、お嬢様」 「松田ー!!」 「もうっ!!」 「ゆ、結城さんっ」 「う、うわわっ!!」 「つ、石蕗くんっ」 「石蕗っ!!」 結城に飛ばされた松田さんは、見事な弧を描いて俺の上に落ちてきた。 「も、もう! 学園の中ではお昼以外は構わないで良いって言ったでしょー!!」 「で、ですがお嬢様っ! わ、わたくしは祖父の代からのご恩をお返ししなくては……」 「そういうことじゃないのっ!!」 「あ、あううっ」 「ゆ、結城さんっ、あんまり怒らないであげて」 「うん。松田さんも一緒に園芸部にいてくれても構わないよ?」 「……だめっ!!」 「お……お嬢様〜っ」 「お願いします……松田にもお許しください、園芸部……」 「結城さん」 「げ…げほっ」 「あ、つ、石蕗くん!」 「ハッ!! す、すみません、石蕗君」 「あ…いや……だ、大丈夫だからさ、ちょっとどいてくれる?」 松田さんが退いた時、夕焼け空が目に映った。 なんだか皆とこうしていると、時間がたつのがすごく早い。 「……じゃなくて!!」 「やばっ!」 「ごめん、俺、そろそろ帰るな」 「あ…ああ、何か用事があったのか」 「そ、そう。ほんとごめんなっ」 「き、気をつけて」 「うん。途中でぬけて、ごめんっ」 「はあ……まだ背中痛い」 さっき松田さんに直撃された背中に、鈍い痛みが走る。 俺より背の高い人が上から落ちてきたんだから、相当打ったはずだ。 鏡で見るヒマなんてなかったけど、大きなアザになってるんじゃないだろうか。 「あれ? 八重野」 「……どこ行くんだろう?」 八重野が歩いているのは薙刀の道場とも違う方向だ。 こんな時間にどうしたんだろう、こっそりその様子を窺っていると……。 「あ、もしかして……今日言ってた花、買うのかな」 八重野は小さな花屋の前で歩みを止めた。 何かに迷っているように店先の花を見ては目をそらしを繰り返して、結局そのまま引き返してしまった。 「……どうしたんだろ」 八重野はなんだか元気のなさそうな顔をしていた。 あんまり表情には出さないタイプの八重野にしては、珍しいことだ。 気にはなったけど――。 「そろそろ行かないとな」 「いらっしゃい、ユキちゃん」 「こんばんはー…」 「あれ? ユキちゃん、何かあったのかな?」 「へ? ど、どうして?」 「何だか元気なさそうだったから」 「そんなことないよ?」 「そっか、それなら良かった〜」 八重野がそんな顔してる理由、秋姫は知ってるんだろうか。 そんなことを思いながら見つめると、秋姫はきょとんと首を傾げた。 まあ、八重野にだってそんな日あるよな…… 花屋の前で迷っていた八重野の表情は消えなかったけど、俺は今『ユキちゃん』だ。 頭を切り替えないとな……。 そうして俺はいつものように、ユキちゃんとして夜を過ごした。 結城が誤って飲んでしまったあの薬の効果も消えて、放課後の園芸部は落ち着きを取り戻した。 夏休みが終わってから、結城は少しだけみんなに馴染めてきている気がする。 それから、俺自身も……。 勘違いかも知れないけど、秋姫や八重野とは以前よりよく話すようになっていた。 「う、うぅあううぅう」 「ま、松田さん??」 「い、いいの? 結城さん」 「いいんです! だってこの学園に執事つきの生徒なんていないでしょう?」 「あっ、おはよう」 結城の顔を見ると、ずいぶん怒った後のようで頬が真っ赤になっていた。 きっとさっき松田さんが泣きながら走っていったことに関係するんだろう。 「おはよう、みんな」 「さっき松田さんがまた泣いていたけれど…いいの?」 「いいんです。あれからずーっとクラブに行きたい行きたいって泣いているんだもの……」 「ず、ずっと……」 「ねえ結城、もう松田さんも一緒においでよ」 「……そっちの方が、ラクだと思うけど」 「うーん……わかったわよ」 「わーい、きっと松田さん喜ぶよっ!」 「そうだね、早速お昼休みにでも伝えてあげるといいよ」 「……わかりました」 秋姫と八重野に押されて根負けしたのか、結城はしぶしぶ頷いてみせた。 きっとそのことを聞いた松田さんは大喜びするだろう。 きっと今日の放課後には見れるだろう、松田さんの満面の笑顔は容易く想像できた。 「ほんとに……嬉しかったんですね、松田さん」 「よろしくお願いしますーっ!」 思ったとおり、松田さんは全身に嬉しそうな空気をまとっている。 秋姫も八重野もさすがにその様子には笑みを隠せなかったようだ。 「あのあの、今日は何をされるんですか?」 「そうだな……人数もいるし」 「ナコちゃん! 冬にむけて花壇の植え替えしようよ」 「ああ、そうだね、みんなでやったら一日で終わるものね」 「じゃあ、最初は土をならせばいいか?」 「わああ〜なんだか楽しそうですね、お嬢様っ」 「……わかったから、松田もみんなに迷惑かけないでよっ」 言葉どおり松田さんはよく動いてくれた。 男手が一人増えるだけで、やれることはずいぶん変わってくる。 花壇の土を全体的に入れ替えることだって、いつもより数倍早く進んでいった。 「温室の中にホース持って行った?」 「あっ、朝にお水あげに行った時、そのままにしてたかも……」 「そっか。わかった」 「取りに行くんですか?」 「じゃあ私が取って来ます」 「八重野さんは作業の途中でしたから、私が取りに行こうかと思って」 「うん、ありがとう。じゃあ、お願いするね」 「お嬢様が自ら行動を起こされるとは!」 「素晴らしいです! 私もお手伝いさせて頂きます〜!!」 「……ふふっ、相変わらず松田さんは心配性だね」 「あ、あのね、わたし最近思うんだけど」 「結城さん、クラスとか園芸部になじんできたよね」 「ああ、私もそう思う」 「楽しんでくれてるかな。だったら嬉しいな」 「お待たせしました。ホース、持って来ましたわ」 「長いホースなんですねー」 「ありがとう。長いから結構重かったでしょ」 「えっ、そんな……平気です」 「ご苦労さま」 結城はちょっと照れたように顔をそむけた。 「そ、それでは、これを使って水をまくんですよね?」 「そう。スプリンクラーに繋げてね」 「スプリンクラ……?」 「うん、ほら、あそこにある十字の形のやつだよ」 ホースと花壇に置いてあるスプリンクラーを交互に眺めながら、結城は興味深そうな表情だった。 やっぱり、以前とはどこか違う。 クラブを楽しんでいるような様子だ。 「なんですか?」 「なんだか、前と変わった気がする」 「そうですか? 何も変わってませんよ」 「ううん。変わったと思う」 「クラスにいる時も、クラブも楽しんでるみたいだし」 「ああ、その事ですか」 「勉学はもちろんですけど、学園での生活やクラブ活動も楽しもうと思って」 「だったら、みんなでもっといろんな事が出来るといいね!」 「いろんな事?」 「うん、いろんな事」 「確かに……できたらいいですね」 「何かないかなあ。みんなでできる事」 なんだか、秋姫も楽しそうだ。 みんなで出来る事って、何があるだろう。 俺にはなかなか思いつくことなんてないけど……。 何かがあればいいなと心の底からそう思った。 「それより、水をまくんでしょう?」 「あ、そうだった!」 「やってみたいです。教えてください」 「ああ、わかった。じゃあ、一緒にやろう」 「じゃあ水出すよ、気をつけて!」 蛇口を勢いよくひねってすぐに、水のアーチが生まれた。 よく晴れた太陽の光が細かな水滴に反射して、花壇の上に小さな虹ができる。 俺や秋姫たちは何度もその一瞬を見てきた。 でも結城は初めて見たその虹に驚き、嬉しそうに微笑んでいる。 「結城、もうちょっとこっち、こっちに来ないと濡れる」 「あ、は、はいっ」 「気をつけてね」 「おもしろいですねー、お嬢様! まるでお嬢様のお力をつか……」 「松田っ!」 「あわわわっ」 「あら?」 「あっ、ま、松田さん、ホース踏んでる」 「し、失礼しました」 「ちょ、ちょっと待って――」 「わぁああっ」 「きゃわっ」 「水、とめないとっ」 急に噴出した水を頭からかぶったのは……松田さんだった。 結城が髪と肩や手が少し濡れたぐらいですんだのは、とっさに松田さんが結城の体を押したからだろう。 「……っ」 「わ、わわあっお嬢様! 申し訳ありません!!」 「松田さん、これを使って」 「あ、ありがとうございます……お嬢様っ、今すぐ御髪を」 「……先に自分の髪をふいた方がいいです」 「う、うんっ! ノナちゃんはわたしのタオル貸してあげ……あっ」 「ごめんね、ノナちゃんって……呼んじゃった」 「あ…ああ、そうです…ね」 「あ…あの、ちょっと前からそういう風に呼べたらいいなぁって思ってたの」 「えっと…結城さんのこと……ノナちゃんって」 「い、いやならいいけど、ご、ごめんなさい」 「いえ、イヤとかそういう風には、お、思いません」 「ほんとにっ!? じゃ、じゃあ今からノナちゃんって呼んでいいのかな」 「え…ええ。ご自由に……どうぞ」 「ありがとう、じゃ、じゃあわたしのことも好きに呼んでね」 「す、すす好きに!?」 「うんっ。ナコちゃんはすももって呼んでるけど」 「わわ私はいつものように呼びます」 「そっかぁ、わかった」 「私はいつも通りだけど――それでもいい?」 「け、け、結構ですよ」 「お嬢さま〜っ」 「こんなお嬢様を見るのは初めてで……松田、感動しております!」 「もうっ!」 「……ふふ」 「あははっ」 ああ、やっぱり……。 やっぱり、みんな少しずつ、こうやって歩みよっていくんだ。 クラスに馴染んでないって圭介や深道に言われた時、俺はそんなことないって言った。 でも今はわかる。 それぞれスピードはちがうけど、俺も結城も少しずつ前に進んでいるんだ。 俺は秋姫と八重野の方を見た。 二人は俺の視線に気づかず、笑っている。 心の中で、俺はこっそりと『ありがとう』って言ってみた。 「それでは皆さん、お疲れ様でした!」 「松田さん、大丈夫ですか?」 「あ、髪ですか? まだちょっと濡れてますが平気ですよ」 「結局……結構濡れちゃったわ」 「うん、帰ったら早く着替えてね、ノナちゃん」 「さ、お嬢様」 「それでは失礼します」 「また明日!」 「気をつけてなー」 車で帰ってゆく二人を見送って、俺たちは互いの顔を見合わせた。 「秋姫と八重野も、もう帰る?」 「俺も帰る……」 時計を見てみると、いつもよりも少し早い。 これなら二人とも一緒に帰れそうだ。 「八重野、今日も秋姫を送ってく?」 「ああ……今日は俺も一緒に送っていこうかと思って」 「いつも先に帰ってばっかりだし。い、いいかな」 「あ、えと……」 「うん。すももの家まで行こう」 「あ、ありが…とう」 「う、うん……じゃ帰ろう」 「今日は楽しかったね」 「ああ、なんだか――」 「うん。結城が……」 「いいよ、石蕗から話して」 「あ……うん」 八重野は俺を気遣いそう言ってくれた。 一瞬だけ間をおいてから、俺はさっきの続きを話しだした。 「いや、さっきも言ったことだけど……結城ってさ、変わったな」 「園芸部入って、秋姫や八重野たちと仲良くなったからだな」 「そ、そうかな」 「俺はそう思った」 「石蕗くんもそうだと思うよっ」 「……な、なんとなく」 秋姫の隣を歩いていた八重野は、俯きかげんでずっと黙っていた。 もしかして俺ばかりが話したせいで怒っているんだろうか? 「さっきごめんな、八重野の話しの続きは……?」 「俺から先に話しただろ、さっき」 「私の話しは……」 「石蕗と同じだった」 「石蕗が言ってたことと、同じことを言おうとしてた」 八重野はかすかに微笑んで頷いた。 怒ってはいないみたいだ。 第一、八重野はそんなことぐらいで怒るようなやつじゃない。 「(でもなんだかちょっと……違う?)」 秋姫と八重野が二人で帰る時はどうなんだろう。 やっぱり話すことが途切れたら、こうして無言のまま並んで歩くんだろうか? 「(俺がいるから……なのか?)」 「――すもも」 「ごめん、私……」 「忘れ物したみたい」 「え? 教室に? それとも……」 「うん、取りにいってくる」 「じゃあ、わたしも一緒に」 「それだと遅くなってしまうから、すもも……先に帰っていいよ」 「石蕗、すももを家まで送ってくれる?」 「ごめん、じゃあ……」 俺が返事をするとすぐに、八重野は急いだ様子でもと来た道を引き返していった。 「ナコちゃん、何を忘れたんだろう」 「わたしはよく忘れ物しちゃうけど、ナコちゃんってめったにそんなことないから」 「あ…じゃ、じゃあ、秋姫ん家まで送ってくな」 二人きりになった後の秋姫は、全く無口になってしまった。 俺も話し出すきっかけがつかめず、結局ほとんど何も話さないままに秋姫の家の前までやってきてしまった。 「それじゃ、また明日」 秋姫に手をふり、俺も来た道を戻る。 学園から一番遠いのは八重野の家のはず……。 寮まで戻る途中に、もしかしたら会うかもしれないな。 そう思いながら帰ったけれど、結局その日八重野に会うことはなかった。 いつものように秋姫の部屋までやってきて、窓を叩く。 そうすれば秋姫が出てきて、窓を開けてくれる。 ……はずなんだけど。 どうしたんだろ? 今日は一向にその気配がない。 仕方なく俺は自分で窓を開けて部屋の中に入ることにした。 「あ、こんなとこで寝てる――」 返事がないはずだ。 秋姫は椅子に座ったまま、机によりかかって眠っていた。 「お、おーいっ、風邪ひくぞーっ」 「……ふっ…すう」 名前を呼んでも机の上を駆け回っても、全く起きる気配はない。 「どうしよう……んっ?」 「なんだこれ?」 秋姫の腕の下あたりに、一枚の紙が引かれていた。 「(公園バザーのお知らせ?)」 辺りを見回すと、他にもいろんなものが机の上に広げられていた。 何かを書いている途中に寝てしまったんだろうか? ノートを覗いてみると、秋姫の小さな字が目に入る。 そこにも『バザー』って単語が何度も出てきていた。 「(……秋姫、バザーに出るのかな?)」 「……んんっ」 「あ、ユキちゃん……来てたんだね、ごめん」 「すもも、うたたねしてた。風邪ひくぞ」 「ご…ごめんなさい……」 秋姫はまだ夢うつつの様子だった。 昼間にはしゃぎすぎたのか、ちょっと疲れているんだろう。 今日も指輪の反応はない。 毎日俺につき合わせて、秋姫には星のしずくのことばかり気にかけさせている。 だから今日はゆっくり寝てみれば、と言ったら秋姫は申し訳なさそうにベッドに横になった。 あ、そういえばバザーって何だったろ……? 机の上に置かれたままのあのちらしのことは気になった。 だけど、今日はゆっくり寝かせてあげよう。 秋姫がすっかり眠ってしまってから、俺は再び夜の空を飛び自分の部屋へと帰った。 「お? 石蕗おはよう〜。今日はちょっと早いね」 「え…、ああ、まだこんな時間なんだ」 「おはよ、ハル」 今日は寮を出るのが早かった。 それだけだったけど、朝の教室の様子はかなり違う。 教室や廊下を行き交う生徒たちの姿が、まだまだまばらだった。 「あ、あの……石蕗くん」 「あ、おはよう、秋姫」 扉を開けて入ってきた秋姫は元気そうだった。 昨日、やっぱり早く寝たのがよかったのかもしれない。 「今日は一人?」 「あ、ナコちゃんはちょっと職員室に行ってるだけだよ」 「あ……あのねっ!」 「石蕗くんは今日、園芸部くるかな?」 「え、ああ……いつもみたいに夕方までなら」 「う、うん……良かった」 「あ、じゃ、じゃああの、放課後に……」 「な、なんだろ?」 嬉しそうな恥ずかしそうな笑みを押し隠すようにして、秋姫は自分の席へと戻っていった。 ――放課後。 今日は温室の中にある花壇の植え替えをすることになった。 園芸部全員と、松田さんの5人で作業を進めていく。 時々会話を交わしながら、ゆったりと時間が過ぎていった。 ――その時、秋姫が立ち上がるまでは。 「は、はいっ!!」 突然立ち上がった秋姫の方を、温室にいる全員が見上げた。 八重野が立ち上がったので、俺と結城もつられて立ち上がった。 最後に松田さんが結城の後ろに立ち、全員に見つめられるなか、秋姫は言った。 「あのね、わたしちょっと考えた事があるんだ」 「考えた事?」 「うん。みんなで協力して出来る事、何かないかなって」 「みんなで……ですか?」 「園芸部全員で出来る事……」 確かに俺も少し考えていたけど、何も浮かばなかった。 「あ、あの! 考えてたら……あの、こういうのが見つかって」 「こういう……の?」 「うん。ちょっとまってね……えっと、あった!!」 「あった!!」 「これ、見てみてっ」 秋姫がポケットの中から出してきたのは、昨日机の上に置いてあったあのちらしだった。 「公園バザー? あっ、近所の公園で毎月やってるやつね」 「その公園バザーがどうかしたんですか?」 「あのね、園芸部みんなで参加できないかなって思ったの」 「みんなで育てたお花を小さい植木鉢とかに植え替えて、バザーに出そうかなって」 「そういうのって二人の時にはできなかったね」 「み、みんなはどうかな??」 「バザーというものには参加したことないですけど……楽しそうね、秋姫さんの顔を見てると」 「はい! 私も大賛成です」 八重野はもちろん、結城も松田さんも興味深げにそのちらしを覗いていた。 秋姫の提案に、みんな賛成のようだ。 「俺もいいと思うよ、秋姫」 「良かったあ!」 「……でも」 「クラブ活動として参加するなら、許可をもらわないといけないのではないですか?」 「許可っていうのは、顧問にもらえばいいんだよな?」 「つ、石蕗くん?」 「なら、今から如月先生のとこ行こう」 俺がそう言ったことが意外だったのか、秋姫と八重野がきょとんとこっちを見ている。 「あ…あれ? 今からでもいいよね、別に」 「え、あ、そう……だよね」 「バザーに参加する用意をするなら、早く許可をもらった方がいいですから」 「あ、あの、みんなで行こう?」 「う…うん、みんなでするんだし、そのほうがいいかなって……」 「ふふ、そうだね」 「私も行きますわ。松田は……廊下でまってて」 「は……はい」 「石蕗も、いいよね?」 「如月先生に話をするのは、秋姫さんの役ですよ」 「え、ええ!?」 「言い出しっぺですから」 「そ、そっか……うん!」 こくりと力強く頷いた秋姫は、両手を胸元で強く握り締めた。 「わかった。がんばる!」 「それじゃあ、あの、いきますっ」 「あ、ま、待ってくださいー」 そうして俺たちは温室を後にした。 結城と秋姫はバザーのことでちょっと盛り上がってるらしい。 二人並んで何かを話し合ってるすぐ後ろに、松田さん。 そして最後に俺と……隣に八重野が歩いている。 「石蕗のいいところは、そういうところだね」 「さっきの」 「なにが?」 「……いや、いい」 いいところってことは、何か誉められていたんだと思う。 もう一度聞き返そうかと思ったけれど――。 八重野はそれきり黙って、前を向いた。 「(まあ……いいか)」 「公園バザー?」 「はい、これ……見てもらえますか?」 如月先生は秋姫の差し出したちらしを手に取り、目を通している。 反対されるんだろうか、と秋姫も結城もその様子に不安げだ。 「あ、知ってるよ、毎月一回公園でやってるやつだね?」 「その公園バザーに、園芸部でも参加したいなって思ったんです」 「へえ〜。面白い事を考えたね」 「園芸部で育てた花を植木鉢に植え替えて、それを出そうかと話してました」 「はいはい。確かに今年は花壇の花がうまく咲いたからね……うん」 「参加してもいいですか? 先生!」 「えーっと……」 如月先生は秋姫と八重野の後ろに立っていた、俺と結城に視線を向けて何事か考える素振りを見せる。 「秋姫さん、八重野さん」 「それはみんなで、かな?」 「私はお二人と同じく、バザーに参加してみたいと思っています」 「はい、わかりました」 結城が答えた後、全員が俺に視線を向けた。 これはもちろん、俺も答えろって事だよな。 「俺も参加します」 「そうか〜、ええっとバザーはいつだっけかな」 カレンダーを覗いた如月先生は、日にちを数えているのか小さく頭を振っている。 「あ〜、来週の日曜か。ちょうど新月の日ですねえ」 「……あっ!」 如月先生がさっき念を押すように俺に参加するか聞いてきたのは、そのことを気にかけていたからだろう。 俺も参加するってことは、日没後のことも気にしなきゃいけない。 新月の日だけが、俺にとってまるまる一日自由だから、バザーの日が重なっているのは都合がいい。 「新月の日だと、何かあるんですか?」 「あ、いえいえ。なんでもないです」 「はい、それじゃあ。顧問としては許可を出しますよ〜」 「あ、ありがとうございます!」 「ちゃんとした許可は僕からお願いしておくから、みんなはバザーの準備に専念してくれればいいよ」 「よかったね、すもも。頑張ろう」 「そうだ。参加費とか、用意するものの費用はどうする?」 「あっ…そうだよね、そういうことも決めないとね」 「ああ、参加費なんかは残った部費を使ってもいいよ」 「ほ、ほんとですか?」 「うん、もしバザーで売上がよかったら、それで新しい球根や種なんか買えるしね…みんなで頑張りなさーい」 「ほ、ほんとに頑張らなきゃっ!」 「ふふふっ」 「もしよろしければ、私一番有効な方法を考えてまいりますけど」 胸元で手を上げて、結城がきっぱりとそう言った。 「えっ? ほ、ほんとに?」 「結城ならすごい綿密な計画を作ってきそうだな」 「はい、できるだけ有効な計画をたてますわ」 「頑張ろう〜」 「そうね」 廊下に出たとたん、待っていた松田さんがにこにこしながら駆け寄ってきた。 「あっ! お嬢様〜っ、どうでした?」 「松田さん、許可もらってきたよ!」 「ほんとですか! や、やったぁ〜」 「あいたたっ」 「ま、松田さんっ!?」 「大丈夫か!?」 喜びすぎたのか、はしゃいでいた松田さんは廊下の柱に思いっきりぶつかってしまった。 無言のまましゃがんで、数十秒……。 松田さんは笑顔で立ち上がった。 「もう、松田はいっつもどこかにぶつかるんだから!!」 「も、申し訳ありません……」 「はははいっ、バザーのお手伝いの時にはこのような失態はいたしません!!」 「……あたりまえでしょ」 「ふ、ふふふっ」 「ははは…結城さん、よろしくね」 「ええ、明日から本格的に動けるようにしますわ」 「準備する時間、ちょっと短いからなぁ」 「うん、でもみんなで頑張ったら、大丈夫だと思う」 「そうだね、明日から頑張ろう」 結城は前日に言っていた通り、細かい予定を書き込んだノートを持って来ていた。 少しだけ中を見せてもらったけれどそれは本当に細かく書いてあり、予定を立てるのに充分すぎるほどの書き込みだった。 全員でそのノートを少し眺めてから、当日までの予定と役割を決める事にした。 「それじゃあ、どの花にするか選ぶ係と、鉢植えに植え替える係でわかれたらいいかな?」 「二人ずつでいいんじゃないか」 「じゃあ……」 「じゃあ、私と結城で花を選びにいこうか」 「え、え!?」 「別に構いませんけど」 「私もお手伝いします!」 「あなたは別に手伝わなくても……」 「いえいえ! 人数は多い方がいいですよ!」 「そうだね、私と結城で選んで、松田さんに運んでもらう事もできるかな」 「な、ナコちゃん」 「なあ、八重野」 八重野の決めた組み合わせに疑問があったのか、秋姫は俺と一緒に八重野に声をかけていた。 「秋姫と一緒じゃなくていいのか?」 「いや、いつも一緒だから」 「一緒の時もあるけど……そうじゃない時もあるよ」 それはそうなんだろうけど、なんとなく釈然としないものがあるのはどうしてだろう。 「すももは……いや? 石蕗とお花の植え替え……」 「そ、そんな事ない!!」 思わず大きな声で答えた秋姫は、自分の声に驚いたように頬を真っ赤にしていた。 俺も驚いたけれど、それは全員が同じだったようで、みんなの視線が秋姫に集まっていた。 「じゃあ、一緒でも……いいかな」 「すもも、花の植え替え……すごく丁寧だし、是非やってほしいな」 「でも土を運んだり柔らかくしたりするのは、やっぱり男の人がやった方がいいと思うから」 「俺と秋姫が植え替え係なんだな」 「決まりましたか? それなら、早くやってしまいましょう」 「うん、ごめん結城。じゃあ、花選ぼう」 「はい!」 八重野は率先して温室内に入って行き、結城と松田さんがそれに続いた。 残された俺と秋姫は、とりあえず顔を見合わせる。 「どうしようか」 まだ花は無いから、する事があまりない。 「あ、えっと! どのくらい植木鉢を作るかとか、考えないといけない…かな」 「ああ、そうだな。あと、植木鉢の大きさも」 「そ、それは考えてるんだけど……あの」 「小さいサイズの方が可愛くて、手に取りやすいかなあって」 「それもそうか」 バザーに参加したいって言い出しただけあって、ちゃんと色々考えて来たんだな。 偉いなあ、秋姫。 「あとは、植木鉢の数だけど……」 「ああ、倉庫に見に行ってくるよ。小さいやつの方がいいんだよな?」 「じゃあ、ちょっと待ってて」 「お願いします」 「お待たせしました〜」 「あ、松田さん。ありがとうございます」 「いえいえ〜。あのところで、あとどれくらい用意すればいいですか?」 「そうですね、5株くらいでいいと思います。まだ植木鉢がどれくらいあるかもわからないですから」 「わかりました。お嬢様達にそう伝えて来ますね」 「はい、お願いします」 「では〜」 「あ、おかえりなさい」 「植木鉢……どれぐらいあったかな?」 「小さいのは、あんまり無かったよ」 持って来た植木鉢を置くと、秋姫がその数を数えて困ったような表情を作った。 倉庫にあった数は思っていた以上に少ない。 「そっか……。小さいのって、園芸部ではあんまり使わなかったからかな」 「ここにある分くらいは植え替えられると思うんだけど、バザーに出すんだとしたらもう少しいるよな」 足りない植木鉢をどうしたものかと考えていると、温室の方から足音が聞こえて来た。 秋姫と一緒にそちらに視線を向けると、八重野が走って来るのが見えた。 「ナコちゃん、どうしたの?」 「花、あんまり持って来なくていいみたいだから、どうしたのかと思って」 不安そうに声をかけた八重野だったが、足元に置いてある植木鉢の数を確認して、その理由に納得した。 「……あ。植木鉢が足りないんだ」 「だから、今日はこれだけ植え替えて、新しい植木鉢を用意してから続きをやろうと思うの」 「そうだね、それがいいと思う」 今日はこれくらいしか出来ないかと思っていると、今度は結城達がやってくる足音が聞こえた。 「もういいんですか?」 「あ、結城。ごめんね、植木鉢の数が少なかったんだ」 「もうちょっと調べておけば良かったね」 残念そうに秋姫と八重野が言うと、結城も足元に置いてある植木鉢を見つめた。 大きさと数を確認するように植木鉢を眺めていた結城は、顔をあげて秋姫と八重野を見つめる。 「そのくらいの大きさので良いんですか?」 「うん。小さくて可愛いから、手に取ってもらいやすいかなって」 「松田、家にあったように思うんだけど」 「そうですね、少しならあったと思います」 松田さんの返事を聞いて、結城は満足げに頷き、それから全員を見つめた。 「明日、持って来ます」 「いいのか?」 「ええ、家では使いませんから」 「うわあ! ありがとう、ノナちゃん」 「でも、売り物にするならまだ足りないね」 う〜んと腕組みをしながら八重野が考えていた。 俺もなんとかならないかと考えるのだが、その時に頭に浮かんだのは顧問の如月先生だった。 「部費で買ったりとかできないかな? 如月先生に聞いてみて」 「聞いてみようか」 「わたし、聞いてみる!」 今にも聞きに行きそうな秋姫だったが、八重野はそれを目で制した。 「明日の午前中にでも聞きに行って、許可が出たら放課後に買いに行くのはどうかな?」 「あ、その方がいいかも知れないね」 「じゃあ、そうしようか」 「植木鉢って誰が買いに行くんだ?」 「すももたちは?」 少し考えた後、八重野は俺と秋姫を指して言った。 なんでまた、俺と秋姫の二人を選ぶんだ。 「俺と秋姫で?」 「そう。植木鉢を選ぶのはすももがやってくれた方がいいと思うの」 「わ、わたしが?」 「うん。可愛いのとか選ぶの得意だし」 「でも、すもも一人じゃ荷物が持てないから……さっきみたいに、二人で……どうかな」 「まあ、それはそれで別にいいけど……」 答えに納得がいくはずなのに、なんだか腑に落ちないのはどうしてだろうか。 「それなら、私と松田で行っても……」 「はい! 荷物をたくさん持つのは得意ですよ!」 ピンと手をのばして、松田さんは嬉しそうに答えた。 荷物をたくさん持つのが得意って、いつも結城に荷物をたくさん持たされてるからだろうか。 「あ……そ、そうか」 「今晩帰って早速このあたり一帯のお店の住所と電話番号を調べて、より品数の豊富な店をしぼっていったら……きっとうまくいくと思うのですが……」 俺と八重野と秋姫の頭の中に、松田さんが一生懸命いろんなお店を調べて、そして電話をしている映像が浮かんだに違いない。 それを考えると、そこまでやってもらう事もないし…。 「あ、あの、やっぱり……わたしたちで行った方がいいかも…ね」 「う、うん、そうかもな」 「そうですか?」 結城だけがきょとんとしていたけれど、多分、理由とかよくわかってないんだろう。 まあ、それが結城らしいのかも知れないけど。 「ナコちゃん、あの……」 「じゃあ、そういう事で。みんなで頑張ろうね」 「皆さん、明日までに全ての予定をちゃーんと頭にいれてきてくださいね」 「あ、お嬢様のノートはこの通りコピーしてきましたので」 結城がきびきびとした調子で言うと、松田さんは嬉しそうにコピーの束を取り出した。 「わー、すごいっ!!」 「当日までの予定がびっしり……すごいな」 どうやら結城の方もやる気満々のようだ。 心なしか楽しそうにも見えるし、バザーに参加しようって計画は園芸部のために良かったのかもな。 「ああ、そうそう。明日の昼食は私たちとご一緒しましょう?」 「えっ、ほ、ほんとに!?」 「その方が打ち合わせもゆっくりできますわ」 「ありがとう!!」 「ありがとう、結城」 八重野と秋姫はノートのコピーを受け取り、その中身をもう一度確認しながら楽しそうに話をしていた。 俺も受け取ったコピーに改めて目を通してみたけれど、詳細すぎる計画は俺をうんざりさせるのに充分すぎる内容だった。 これ、幾らなんでも細かすぎないか……? 「ん……?」 ぼんやりと目を覚ますと、見慣れた自分の部屋の中だった。 疲れて少し眠ってしまったらしい。 でも、なんだかおかしい……。 窓の外に目をやると、もう日が高く昇っている。 どうやら、昨日疲れて帰って来てバタバタしているうちに、知らない間に眠ってしまったらしい。 しまったなあ……秋姫の家に行けなかった。 「わーい、お昼だお昼だ〜っ」 「さっそく購買へと向かいますかっ」 「あ、私も一緒にいく〜っ」 「えええっ、みんな待って待って!!」 昼休みになると途端に元気になる圭介達が、揃って購買に向かっていった。 今日の俺は結城と一緒にお昼を食べるため、慌てて購買に行く必要もない。 賑やかな教室の声を聞きながら結城の席に移動するのだが、秋姫と八重野の姿はない。 「あれ? 秋姫たちは?」 「ああ、授業が終わってすぐに如月先生のもとへ行かれました」 「は、早いな」 ついさっき授業が終わったばっかりなのに、なんだかバザーに向けて二人とも張り切ってるなあ。 「ただいま〜」 「ただいま」 暫く結城の席の側で待っていると、八重野と秋姫が嬉しそうな表情をして戻って来た。 結城は少しそわそわしたように立ち上がり、二人に声をかける。 「あ、おかえりなさいっ! ど、どうでした?」 「部費の残りで、なんとかなりそうだ」 「やったわ! これで何もかも順調に行きそう!!」 珍しく結城も嬉しそうな笑顔を見せて、三人は顔を見合わせて喜んでいた。 「お嬢様〜、お待たせしましたぁ〜!」 三人が喜んでいると、松田さんが勢いよく扉を開けて現れた。 手にはいっぱいに昼食が持たれていて、そこからお腹の減るいい匂いがしていた。 「わ……なんかすげーいい匂いだな」 「はい、今日は皆様と昼食会ということなのでいつもより二割増でございます」 用意して来た昼食を広げながら、松田さんは嬉しそうに説明をしていた。 だけど、いつも量が多い気がするのに、その二割増しってどれだけ多いんだ。 並べられた料理は、四人で食べるのには少し多いのではないかという量で、二割増し以上ありそうだった。 「二割増し……?」 「本当に美味しそうだね」 「ふふふ、それでは昼食をいただいたら、早速今日の放課後からのスケジュールの再確認ですわ」 満足そうな結城に頷いてから、みんなで手を合わせてから昼食を食べ始めた。 買い出し係に指定された俺と秋姫は、二人でホームセンターに向かう。 並んで歩いてはいるけれど、以前みたいに怯えられていないか少し不安ではある。 「あの、秋姫」 「いや、あの。別になんでもないんだけど」 「秋姫って……あんまり喋らない人だったっけ……」 「あ! そ、そっか。わたし、さっきから何も言ってないから、ごめん」 「いや、気にしなくていいよ。俺も喋ってなかったから」 それにしても、どうして俺と秋姫が一緒なんだろうか。 いつもなら、こういう秋姫と一緒の行動は、八重野が率先してやっている気がするのに。 「あのね、石蕗くん」 「あの、えっと……こういう事、石蕗くんに言うの変かなって思うんだけど」 「こういう事って?」 「ナコちゃんの事……。最近、ちょっと様子が変じゃないかなって」 「石蕗くんもそんな風に思ってた?」 「う〜ん。具体的にどうっていうのはわからないけど」 「何かが違うんだ、なんとなく……秋姫と一緒の時間が少ない気もするし……」 俺が知ってる八重野の事なんて、秋姫に比べたら微々たるものだけど、それでも最近の八重野は以前までと違うような気がしてならない。 「そういえばそうだね」 「今までにそんなことって……あったのか?」 「う、ううん…ない」 「ほんとにそういうの……なかった」 「そうか。それじゃ、どうしてなんだろうな」 「どうしてなんだろうね……」 不安そうにしている秋姫に、俺はなんて言葉をかければいいのかわからない。 俺以上に八重野について知っている秋姫にかける言葉なんて、元々ないのかも知れない。 「わたしにも理由がよくわからないんだけど、ちょっと寂しいなって思ってて」 「そりゃそうだよな」 何か秋姫に言えない理由でもあるのかなあ……。 学園に戻ったら、一度聞いてみるか。 「ま、とりあえず買物終わらせて帰ろう」 買物を終わらせた俺と秋姫は、みんなが集まる場所に戻った。 買って来た植木鉢をみんなに見せていると、八重野は満足そうに微笑んでいた。 「やっぱり、すももが選ぶと可愛いのになるね」 「そ、そんな事ないよ」 「家から持って来たのと合わせると、結構色んな種類になったね」 「じゃあ、明日から植木鉢に植え替える作業を本格的にやらないといけないね」 「じゃあ、運ぶのと植え替える係と……それはこの前と一緒でいいか」 八重野の言葉を聞いて、やっぱり秋姫は少し寂しそうだった。 そりゃ、いつも一緒だったんだから、寂しいよな。 「俺、やっぱり花を運ぶ方やっちゃだめかな」 「いや、だって……。秋姫は八重野と一緒がいいみたいだし」 「すもも……ごめんね」 「え? わ、わたしはあの、別に……」 「……どうしたのですか?」 「わたしがお花を選ぶから、ナコちゃんが石蕗くんと植え替えるのは?」 「え!? そ、それはあの……」 「だめ?」 「それは、いいよ」 もしかして俺、八重野に避けられてるのかな。 だから、わざわざ秋姫と俺を一緒にしてるんだろうか。 それなら、納得が少しだけ行くけど……なんか辛いな。 「い、いいの! あ! ごめん、薙刀の稽古があるんだった」 「え? そうだった?」 「うん。忘れてた! ごめんね、すもも。私、先に帰る」 「明日から準備頑張ろうね。じゃあ」 一人、慌しい様子で帰ってしまった八重野を、秋姫は寂しそうに見送っていた。 なんだったんだろうか……。 「石蕗君は、時間はいいんですか?」 「え? あ! そ、そうだ!」 空を見上げると日が傾き始めていた。 今から帰れば、寮に戻れるかな。 わざわざ結城に心配させて、悪い事したな。 「ごめん、秋姫。俺も先に帰るな」 「あ、うん……」 「あの。元気出せよ、な?」 「さようなら、石蕗君」 「二人とも帰ってしまいましたね」 「仕方ありません、今日は解散しましょう……松田、帰るわよ」 「あ、あの植木鉢のお片づけは……」 「あっいけない」 「あ、あの! わたしが片付けておきますから、大丈夫です」 「一人で大丈夫?」 「うん。平気……」 「ちょっとバザーのことで思い浮かんだことがあるから、片付けながら考えるね!」 「いいんですの?」 「う。うん、一人で一度考えてみたかったの」 「……そう、ですか。では私たちは」 「さようなら、暗くならないうちに帰ってくださいね」 「さ、片付けとかなくちゃ!」 「ナコちゃん……どうしちゃったのかな」 人気のない校門を通って、ノナと松田が帰路についていた。 「お嬢様、どうされましたか?」 「黙って」 静かな振動……指輪が一瞬だけ震えた。 息を呑んでそれを見つめると、青い石がぱっと光を放つ。 「指輪が反応してます!」 「しずくが落ちて来るわ!」 半分は確信していたといっても、しずくに指輪が反応したこの瞬間は一番緊張する。 「さあ、すぐに行きましょう!」 「わかりました! お嬢様!!」 「スピリオ・シャルルズウェイン!」 「行くわよ、アーサー!」 「秋姫さ……プリマ・プラムはまださっきと同じ場所にいるわよね?」 「はい、おそらくは」 不思議そうに主人を見つめるアーサーに向かって、プリマ・アスパラスは微笑みかける。 「プリマ・プラムも気づいたかしら、この星のしずくの気配に」 「……それは……気づいてると思われます」 「そうね、こんなに強い反応を示すしずくだもの」 「おまけにかなり近いわ、アーサー」 「おじょうさま?」 「ちょっといってみましょうか? プリマ・プラムのもとへ。もしかしたらおもしろいコトになるかもしれないでしょ?」 「は…はあ。でもあんまり無茶なことはしないでくださいね、おじょうさま」 「わかってる!」 持っていた植木鉢を危うく落とす所だった。 目の前に現れたのが、この場所には不釣合いな――プリマ・アスパラスだった。 「アスパラさん、ど、どうしたの?」 「プリマ・プラム! どうしたのじゃないわ!」 「え? ええ?」 「あなたにはわからないの? この指輪の反応が!」 「は、反応??」 差し出されたプリマ・アスパラスの指輪は、しずくの反応を示す輝きがあった。 「本当だ、光ってる……」 「かなり近い場所に落ちてくるはずよ」 「プリマ・プラム、早くレードルをかまえなさいっ」 「え、で、でも」 「さあ、勝負よ!」 「ま、待って、指輪の反応って!!」 「ほらっ!」 慌てたように差し出した差し出された手のひら。 その指にはめられた指輪には、あるべき光りがない。 プリマ・アスパラスは一瞬言葉を失った。 「どういう事?」 「指輪の反応がありませんね」 「……おかしいわね?」 「アスパラさんの指輪にはちゃんと反応があるのに…」 「どうしてだろう?」 「アタシにもわからないわ」 「申し訳ありません。私にも理由が……」 「そんな、どうしてなんだろう……」 「どうやら、勝負どころの話ではなくなってしまったみたいね」 「本当に、どうしてなんでしょうね」 「指輪……。どうして光らないんだろう、壊れたのかな?」 「それはないと思うわ」 「……そんな顔しないでよ、勝負はおあずけね」 「……どうしたんだろう」 「一過性のものかもしれないし、この力はもともと不安定なものだもの。ましてやあなたは特別なタイプ」 「そんなに深くお悩みにならない方がいいですよ?」 「ま、早くアタシのライバルとして復活してちょうだいよね」 「アーサー、そろそろ行くわよ」 「はい、おじょうさま!」 「はー……」 園芸部のある旧校舎裏から駆け出して、校門を抜け、寮のロビーまで――。 走って走って、一度も止まらずに走って、やっと日没少し前に戻ってこれた。 「今日もギリギリになったな」 「あっ、ハルたん! おかえりなさーい」 「おかえりなさい」 「た…ただいま」 「あの、明日はバザーの日なんだよね?」 「毎日用意とか、ごくろうさまでしたー」 「えええっ! バザーってなになに? 明日って!?」 「あのね、園芸部のみんなでお花屋さんやるんだよ」 「いいなっいいなっ! トウアも行くーっ」 「明日はダメだろ、トウア」 「え〜、行きたかったのにぃ〜!!」 「石蕗、明日は僕たち行けないけど……頑張ってな」 「ありがとう、じゃあ!」 ごめんな! ……そう心の中で謝りつつ、俺は三つ子たちを振り切り部屋へと戻った。 「うわ〜ん、行きたかったよぉお」 「ふう……あ、いけない」 「準備はよし、と」 明日は新月……俺が一日ゆっくりできる日だ。 バザーの日がちょうどその日にあたって本当によかった。 やっぱり時間に縛られる俺は、皆よりもバザーの準備に参加できなかったと思う。 「バザーの準備をしてから、秋姫の家に行くのも結構ハードだったなあ」 「でも、それも明日で終わりか」 「……いこう」 「明日、晴れるかなあ」 見上げた空には満面の星空があった。 どこにも雲はなく、空が綺麗に見えている。 「天気は大丈夫そうだな」 みんなが楽しみにしてるんだから、やっぱり天気はいい方がいいよな。 「こんばんは」 俺はいつものように、秋姫の机の上に降りた。 そこには明日のためのメモや、バザーの注意書きなんかが書いたちらしが置かれていた。 「バザー、いよいよ明日だね」 「うん、そうなの」 「楽しそうだね、すもも」 「だって、楽しみなんだもん」 「そっか、そうだよな」 そうだよな。 普段から、あんなに一生懸命準備してたもんな。 やっぱり、明日はいい天気で、みんなで頑張れたらいいな。 秋姫の顔を見て、八重野や結城たちの顔を思い出して、俺は素直にそう思えた。 「さっきここまで来る時、空を見てたんだけどさ」 「星がすごく綺麗だったから、明日はいい天気になると思う」 「本当? 良かったあ!」 「ユキちゃんも一緒に行ければ良かったのにね」 「えっ!? ぼ、ボクは別にいいよ!」 「そう? きっと楽しいのに」 「い、いいよ。みんなと楽しんで来て」 「じゃあ今日も――」 「指輪が……!」 突然光り始めた指輪は、真っ直ぐにある一点を向かって指す。 「星のしずく、落ちてきたんだ」 「行かなきゃ、ユキちゃん! す、すぐ着替えるね」 秋姫がばたばたと部屋の中をかけまわり、服を着替えだした。 俺はなるべく秋姫に背を向け、いつでも出られるように本の上に立つ。 「ふう、お着替え完了!」 「光がさしてた方、確かこっちだったよね……」 「うん。こっちだったよ」 きょろきょろと周りを見渡しても、星のしずくらしい光りはなかなか見つからない。 方向しかわからなかったから、もっと広い範囲を探した方がいいんだろうか。 「おかしいな……」 「前はすぐに光りが見つけられたのに」 「そういう日もあるよ」 「ちょっと顔色が悪いよ、どうしたの?」 「え? そ、そんな事ないよ」 「ほんとに大丈夫!」 「無理しちゃだめだ、今日は戻ろう?」 「ユキちゃんってば心配性なんだから……それに、しずくは捕まえなくちゃ」 「でも……」 「平気だよ。あ、もしかしたら、疲れが溜まってるだけかな」 「でも明日は――」 「大丈夫、大丈夫!」 「――あ!!」 「やっぱり近くなんだ、探さないとっ!!」 「すもも、急に走ったら!」 「すもも!?」 走り出した秋姫の体がぐらりと揺れた。 そして、真っ青な顔をしたまま、秋姫は地面に倒れた。 「すもも! 大丈夫か? すもも!!」 何が起こったんだろう? このぬいぐるみの体じゃ、倒れた秋姫をどうする事もできなくて、情けなく叫ぶ事しかできなかった。 「すもも! すもも!!」 「どうしよう、このままじゃ助けも呼びにいけない…」 ただ叫ぶ事しか出来ない俺の背後で、音がした。 それは突然聞こえた音だった。 まるで、空からいきなりやって来たような……。 空から……!? まさに天からの助けだ。 ぐったりした秋姫の前に降り立ったのは、プリマ・アスパラスだった。 「……どうしたの」 「よ、よかった! 助けてくれっ!!」 「はい!?」 「すももが倒れたんだ!」 「そ、そうみたいね、一体どうしたの――」 「俺のこの体じゃどうしようもできない! 何とかしてくれ! 頼む!」 「わかったわ!」 「おじょうさま〜〜!!」 「どこに行っていたの!」 「も、申し訳ございません!」 「おじょうさまが急に飛んで行かれてしまい、追いかけるので精一杯でした!」 「それよりも!!」 「ええ!? あ、秋姫さん! どうされたんですか!!」 「急に倒れたんだ!」 「そういう事だから、早急にいつもの姿に戻りなさい」 「は、はい!!!!」 「お待たせしました!」 「とりあえずここにいても仕方ないわ、屋敷の方につれて帰りましょう」 「ゆっくりと、慎重にね」 「羊!」 「あなたはもうちょっと落ち着きなさい」 倒れた秋姫の体を、松田さんが慎重に抱き上げた。 なるべく体に振動を与えないように、本当にゆっくりと。 「すもも! 気が付いたのか?」 「あ、あれ? わたし……」 松田さんに抱きかかえられた秋姫は、ゆっくりと目を開いた。 自分がどこにいるのかわからないといった様子で、頭だけを動かしキョロキョロしている。 「大丈夫ですか?」 「あ! え!? アスパラさんに、松田さん!」 「ああ、いいからそのままにしてください」 「はい……」 「すもも、急に倒れちゃったんだ」 「え? た、倒れた?」 「ともかく一度アタシの家にいらっしゃい」 「温かいお茶もご用意しますよ」 「あっ、で、でも」 「あき……すもも、そうしよう」 「う……うん」 「松田、今日はアタシも戻るわ」 事態を飲み込んで落ち着きを取り戻したものの、その表情は不安げだった。 「そうだったんだ」 「ええ、アタシもあなたが気づいたしずくと同じものを追っていたの」 結城……いやプリマ・アスパラスは、秋姫のためにソファと温かい紅茶を出してくれた。 柔らかな湯気のたつカップに口をつけ、秋姫はようやく一息ついたようだ。 「あの、そのしずくって……目に見えないとか、ものすごく早いとか、そういうものだった?」 「いいえ、今日落ちてきたのはごく普通のタイプのものよ」 「あのまま追っていたら、先に見つけた方がすぐに採ってはずよ。あなたでも、アタシでも」 「ごめんなさい、わたしを助けてくれたから……採りにいけなかったよね」 「それはいいの、また別のを採ればいいこと」 「ありがとう……あのね、アスパラさん」 「ア、アスパラス! ま、まあもうどっちでもいいけど……」 「わたし……ね、そのしずくが見えなかったの」 「見えなかった?」 「うん……指輪が反応する力も、なんだか途切れ途切れみたいな感じで」 「うーん」 「……それはあなたの力が不安定になっているのではない?」 「力が不安定に……?」 「ええ。レードルを扱うには強い集中力が必要なのよ、自分の心が弱くなっていると不安定になるわ。心当たりはない?」 「わからない……」 「でも、そんな事ないよ、きっと。疲れてるだけだと思う」 「それなら、ゆっくり休みなさい」 「ごめんなさい。ありがとう」 「そうやって謝るくらいなら、倒れないように気をつけることが先なのよ」 「レードルを手にしてる者は、心を常に平常にしておくことが大切なの、それにはもちろん体調管理も含まれるわ」 「ましてプリマの名をいただいたんだから」 「そ、そんな言い方――すももは」 「すももはいきなりプリマとかになったんだ、そんな言い方ないだろ?」 「あ……あわわ、皆さん落ち着いてください、ほ、ほら温かいお茶のおかわりなどは……」 「アスパラさんは、わたしの事心配して言ってくれてるんだよ」 「アタシはライバルが居ないと、張り合いがないからで……その」 「もっと、ちゃんとしなきゃだね」 「一度ゆっくりお休みになってはどうですか? 秋姫さん、いきなりプリマに任命されたのに今まで頑張ってこられましたし」 「すもも、明日のバザー……」 「無理そうなら、家でゆっくり寝ていなさい」 「大丈夫よ、そんな顔しなくても」 「アタシが、ちゃんとやるから」 「あ……。ありがとう」 「私も微力ながらお手伝いいたしますよー!!」 「……ホントかしら、みんなの足をひっぱらないでよ」 「そんな、お嬢様〜っ」 結城の強い勧めで、俺たちは家まで車で送ってもらうことになった。 門の前で車を待っている間、秋姫はずっと俯いていた。 「何もないよ、バザーの用意でいろいろしてたから……疲れちゃってたんだよ」 「明日、どうするの?」 「どうしようかな……残念だけど、アスパラさんの言う通り休んだ方がいいかもね」 「ユキちゃん、ありがとう。心配してくれてるんだよね」 「大丈夫だよ、ね?」 「お待たせしました、さあお送りいたしますね」 「あ、す、すみません」 「いえいえ、さあどうぞ〜」 秋姫は無理に笑顔を作っていた。 あんなにも楽しみにしてたバザーを休んでしまうこと? それともさっきプリマ・アスパラスに言われたこと? 何が秋姫にそんな顔をさせてるのかわからない。 だから結局その後も、俺は秋姫の沈んだ表情の理由を尋ねることができなかった。 バザー当日。 昨晩あの後、秋姫は帰宅してぐっすり眠った。 空は昨日思った通り、雲ひとつない最高の天気だった。 今日という日にぴったりの空模様だ。 こんなにも天気がいいなら、やっぱりみんなが揃っている方がいい。 「ああ、おはよう」 「あの、すももなんだけど」 びくん、と身がすくんだ。 気づかれただろうかと八重野の顔を覗いてみたけど、大丈夫みたいだ。 「昨日の夜から急に体調が悪くなったとかで、今日来れなくなっちゃったんだ」 「凄く楽しみにしてたのに」 「そうだな。一番楽しみにしてたのに、残念だな」 ……やっぱり来れなかったのか。 体調が悪かったら仕方ないと思う。 でもあんなに楽しみにしていたんだ、秋姫…すごく残念だったろう。 「秋姫が心配しないくらいに、バザー頑張らないとな」 「後は結城が来るのを待つだけかな」 「うん、送り迎えに使ってる車で、荷物も一緒に運んでくれるんだ」 「え、ほんとに?」 「あ…この間、石蕗が帰ったあとに話してたんだ。持っていくもの、結構かさばるからって話していたら、結城がうちの車を使えばいいって――」 「結城も、バザーを楽しみにしてるみたいだよ」 「そうだな、今日は一緒に頑張ろうな」 「う、うん。頑張ろう」 「来た来た」 遠くから聞こえた車のエンジンの音が近付き、校門の前に見慣れた高級車が止まる。 運転席から出て来た松田さんは、すぐに後部座席の方に移動して扉を開けた。 「おはようございまーす!」 「それでは、早速荷物を積み込んで出発しましょう」 「それでは、植木鉢を取りに行きます〜」 「あ、私も行く」 「じゃあ、俺も」 「私は?」 「誰かが残っていないといけないだろうから、結城は残っておいてくれる?」 荷物を積み込んだら、急いで公園に行かないといけない。 「(育てた花、全部買って行ってもらえればいいけどな…)」 松田さんの運転する車に乗って、俺達は公園に移動した。 車の中にはもちろん、いっぱいの植木鉢が詰まれている。 高級車のトランクいっぱいの植木鉢というのは、なんだか珍しい光景だった。 「もう結構人がいるね」 「そうだな。思ってたより多いよ」 公園に着くと既に人が大勢集まっていた。 これみんな、バザーに参加する人達なんだろうか。 予想外のざわめきに、俺も八重野も結城も一瞬言葉を失った。 「早く運びましょう」 「荷物を降ろし終わったら、私は車を移動させて来ますね〜」 「はい、すいません」 「いえいえ〜」 「それじゃあ、全員で運んでしまおう」 「場所はどこなんですか?」 「こっちだ、ほら、この地図の丸がついているとこ」 「ああ、もうちょっと先だな。急いだ方がいい?」 「ここのバザーは場所が決まってるから、ゆっくり行っても大丈夫だよ」 「そうじゃないバザーもあるの?」 「うん。早く来て好きな場所を決めるバザーもあるみたい」 「それは場所取り大変そうだな」 「きっともっと早くこないといけないんだろうね」 「さあ、行きましょう」 地図に記された俺たちのグループの場所は、メインとなる通りに面したかなりいい場所だった。 日当たりもいいし、植木鉢の花たちもよりキレイに見えそうだ。 「ここ、かな」 「へえ……」 「入り口からそれ程遠くないし、人通りも多そうな場所だな」 「そうみたい。いい場所だね」 「それじゃあ、早速準備しましょう」 結城が早速布を広げ、植木鉢を並べ始める。 事前に勉強でもしたんだろうか、なかなか上手な並べ方だった。 「結城、なんだか張り切ってるね」 「ああ、俺もそう思ってた。よっぽど楽しみにしてたんだろうな」 「うん、そうだとは思うけど……」 「どうかしたのか?」 「張り切りすぎて、途中で疲れないか心配なんだ」 「そっか……」 確かにその通りだ。 でも、俺はとっさにそこまで考えられなかった。 すぐにそこまで考える事が出来る八重野って、やっぱりしっかりしてる。 すごいなと言おうとしたとき、俺は八重野の表情が一瞬曇ったのを見てしまった。 「すももも準備の時に無理させてしまったから……もっと私、手伝えばよかった」 「そんな、八重野のせいじゃないだろ?」 「――でも」 「秋姫もそんな風には絶対考えないよ」 「ごめん、石蕗」 「あ、べ、別に……」 俺、何言ってるんだろう。 そんなの一番仲のいい八重野の方がよくわかってるはずだ。 「結城のことは、松田さんも居るから大丈夫だとは思うし私も気をつけているけど、石蕗も見ておいてあげて」 「二人とも何をしているんですか? 早く準備を手伝ってください」 「ごめんね、今すぐ行くよ」 ずいぶん張り切っている結城に急かされて、俺と八重野も準備に取り掛かった。 「お待たせ致しました〜!」 「あ、お疲れ様です」 「おお〜。なんだか、バザーって感じになってますね!!」 「ふふふ。そうでしょう!」 車を置いた松田さんがやって来た頃には、既に準備はほとんど終わっていた。 すっかりお店らしくなっていた俺たちのスペースを見て、松田さんは喜んでいた。 その表情を見て、結城もなんだか嬉しそうだった。 「売り子は二人くらいかな?」 「そうだな。それだと、順番にバザーも見て回れるから、丁度いいんじゃないかな」 「あ、あのっ!」 「私、最初に売り子をしてみたいです」 「お嬢様が残られるのなら、私も残ります!」 「お店を開くのってどんなのかしら……なんだか興奮しますわ」 「はい、お嬢様〜! 私もお嬢様のお仕え以外にお仕事するのは初めてですよ〜」 「なあ八重野、どっちか……残っておいた方がいいと思うんだけど」 「石蕗、先にバザー見て来ていいよ」 「俺が先に?」 「うん、私はその間に、結城たちにできるだけいろいろ……教えるから」 「八重野も残るみたいだ」 「そ、そうなの?」 「最初に俺、見てくるよ。次は結城たちがって……こんな感じでどうかな」 俺は最初にバザーを見に行きたいって言い出すのは結城だと思っていた。 だけど本当にやりたかったのは、売り子の方のようだ。 「あ、そろそろバザー開場の時間かな」 「始まるんですね!」 「ワクワクして来ますね、お嬢様!!」 「じゃあ、先に回って来るよ」 「うん。行ってらっしゃい」 「行ってらっしゃい」 「いってらっしゃ〜い」 とりあえず、みんなより先に回らせてもらったけれど……歩き出すとどこをどう見ようか結構迷うもんだ。 他にどんな物を売ってるのか見るって意味で、うろうろしてみるか……。 古着に古本、手作りの洋服、ぬいぐるみ、中には部屋の中で何年放置されてたんだって物まで売っている。 バザーと一口で言っても、商品は様々だ。 みんな好きな物を持ち寄って売っているようだ。 「(あ……そういえば、こういうの圭介が集めてたな)」 アメコミのフィギアがたくさん転がっている店もあった。 色とりどりの人形たちの名前、圭介なら全部わかるだろうけど俺には全く区別がつかなかった。 「お兄さん、お兄さん」 「ゲームソフトとかどう? 中にはレア物もあるよ」 「あ、いや。いいです」 「ゲーム機本体もあるよ。もうこれ売ってないからね。どう? 見て行ってよー」 「俺、寮に住んでるから」 「そうか〜。それじゃあ無理だな。ごめんね」 「あ、いえ」 本当、いろんな人がいろんな物を売ってるようだ。 その後俺は公園をぐるりとまわってみたけど、花を売ってるところはなかった。 それに割と年配の人も多かったから、ひょっとしたら全部売れるかも知れない。 腕時計に目をやると、歩き始めてから結構時間が経ってしまっていた。 そろそろ戻った方がいいだろう。 戻る前に、缶ジュースでも買って行こう。 確か、公園の入り口辺りに自動販売機があったはずだ。 「ありがとうございました」 「ありがとうございました〜」 自分達のスペースに戻ると、丁度一人のお客さんが植木鉢を選んで買い終わった所だったらしい。 三人が同時に頭を下げているのが見えた。 最初に用意した植木鉢も三分の一ほど売れたらしく、出だしは上々といった感じだ。 「石蕗君、おかえりなさーい。ふう」 「結構売れてたみたいだな」 「うん。年配の人がよく買ってくれた」 「思っていたより、見て行ってくれる人も多いんです」 「そっかそっか」 「あ、これジュース。みんな好きなの選んで」 「松田さんのもありますから」 「わー。すいません、ありがとうございます」 買って来たジュースを渡すと、みんなそれぞれ口を開けて飲み始めた。 ずっと売り子をしていて喉が渇いていたんだろう、三人ともおいしそうに飲んでくれた。 「じゃあ、次は結城が見てきなよ」 「はい。これを飲んだら色々見て来ます」 「私もご一緒しますね」 「ええー…」 「お嬢様〜」 「うそよ」 「はぁ……お嬢様、からかうのはよしてください!」 「じゃあ、代わるよ」 結城と松田さんと入れ違いに売り子をするため、八重野の隣に並んだ。 「実は俺もこういう風にモノを売るの、初めてなんだ」 「私もよ」 「でもなんとなくつかめてきた。だから石蕗も大丈夫だよ」 「そ、そんなもんかな」 「そういうものだと思う」 「それでは、私たち他の場所を見て来ます」 「うん。ゆっくり見てきて」 「人多いし、気をつけてな」 「それでは行って来ます〜」 松田さんがぺこりと頭を下げるのを見てから、結城はくるりと背中を向けて歩き出した。 その後ろを、松田さんが慌てて追いかける。 「すいませ〜ん。お花、見てもいいですか?」 「あ、はい。いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」 結城と松田さんが出て行ったのと入れ替わりに、女の人が並んでいる植木鉢を見に来た。 そしてそれがきっかけになって、他にも数人が並んでいる植木鉢に興味を持ったようだ。 「これはなんてお花かしら?」 「あっ、その鉢のは……」 たちまち、俺と八重野の前に数名の人だかりが出来る。 これは結構忙しくなりそうだな……。 「あ、はい。ありがとうございます」 「あ、えっと……おつりはこっちから、だよな」 「一緒に頑張ろう」 「あ、ほらまたお客さん」 「は、はいはいっ」 数分続いた人の波が引いた頃には、植木鉢の数は半分に減っていた。 「かなり売れるものだね」 「さっき歩いてた時見てきたんだけどさ」 「こんな感じで花を売ってるとこ、他になかったからかもな」 「うん。だから、もしかしたら全部売れるかも」 「全部……」 「全部売れたら、すもも喜ぶね」 八重野、本当に秋姫の事が好きなんだ。 秋姫も八重野が好きだって言ってた。 「(二人とも、本当に仲がいいんだな…)」 「あ、でも」 「やっぱり少し心配だな」 「秋姫のこと?」 「いや、結城のこと。やっぱり結城って器用だし何でもすぐに覚えるからさ、さっき石蕗が出かけてた時もちゃんと売り子してたんだよ」 「今までの準備でも結構頑張ってくれてたし」 「そうだな、楽しみにしてたみたいだし」 「大丈夫かな……結城ってあまり弱みを見せないところがあるから」 「ちゃんと見てあげないとね」 「秋姫みたいに倒れちゃ大変だもんな」 「すいませ〜ん」 会話しているうちに、またお客さんが来た。 一人が声をかけると、周りの人もこっちに目を向けて誘い合うように人が増える。 またしても数名ながらも人だかりができる。 相乗効果っていうのは本当にあるんだ……慌てて植木鉢を並べながら、俺はそう思った。 「これ、一つもらえますか?」 「あ、はい。500円になります」 「育てるのは難しいの?」 「これはお水と日光にさえ気をつけてたら大丈夫です、丈夫な花ですから」 「ただいま戻りました」 「すっかり堪能してしまいました」 嬉しそうに笑顔で言う松田さんの両手には、バザーで買ったと思われる品物がたくさん持たれていた。 声をかけられる度にそこの品物を買ったんじゃないかと思うほどの量だ。 「お花、いっぱい売れたんですね」 「うん。もう三分の二は売れたかな」 結城が戻って来た頃には、既に植木鉢はほとんど売れていた。 思っていた以上の売り上げで、これは本当に売り切れるかも知れない。 それぐらいの勢いだった。 「本当だわ! すごい!!」 「ええ、お嬢様! お休みになられた秋姫さんにも吉報を持って帰れそうですね」 「ええ、そうね……ふう」 「ちょっと疲れてるね? 大丈夫?」 八重野に言われて結城の顔を見ると、少し顔色が悪いようだった。 「そんな事はありません」 「それならいいんだけど、無理はしないで」 「はい。わかっています」 「ほ、本当に大丈夫ですか、お嬢様!」 「大丈夫よ。……確かに、少し疲れているかも知れないけれど」 「無理そうだったらすぐに言えよ」 「ほ、本当に大丈夫ですかお嬢様〜」 「大丈夫です。それより、八重野さん」 「次はあなたがバザーを回って来てください。順番ですから」 「八重野さんも楽しまないといけませんわ」 「…石蕗」 「行ってくるけど、なるべく早く戻って来るから、それまで結城の事お願いね」 「それじゃ、ちょっと行ってくる」 「はい。行ってらっしゃい」 「ほんとに大丈夫?」 「だ、大丈夫ですっ」 「そっちで座っときな」 「品物もあと少しだし、しばらく俺と松田さんでなんとかできるから」 「いいってば」 「で、では少しだけ――」 結城は後ろに下がると、その場にへたりと座り込んだ。 「(ほんとに大丈夫かなぁ……)」 「あ……もうあとこれだけしか残ってないんだ」 「そうなんですよ〜、足を止めた方はほとんど買っていってくれるんです!」 「結城は?」 「少し休んでもらってたんだ、ほらそっちに――え?」 ずっと売り子に集中してて気づかなかった。 振り返ったその先にいたのは、真っ青な顔をした結城…だった。 「あ、八重野さん」 「結城? 顔色悪いよ??」 「おおお、お嬢様!?」 「お、おい、大丈夫か?」 八重野が結城に近寄って額に手をあてる。 「うん、熱はないみたい」 「でも……やっぱり疲れてたんだね」 「ごめんなさい……」 「あ、あわわわ! お嬢様〜!」 「こっちは大丈夫だから、先に帰って休んだ方がいい」 「でも、荷物が……」 「植木鉢は全部売れそうだし、後のは手で持って帰れるものばっかだな」 「うん、これぐらいなら大丈夫」 「結城、こっちは気にしなくていいよ」 「松田さん、よろしくお願いします」 「はい! さあ、お嬢様帰りましょう」 「わかったわ……」 松田さんに支えられて、結城は先に帰って行った。 足取りも少しフラついているようで心配だ。 でも、今から帰ってゆっくり休めば明日には元気になっているだろう。 慣れないバザーと人ごみと、張り切りすぎて頑張ったのが体に負担をかけたのかも知れない。 とにかく全部売り切って、明日、秋姫と結城にいい報告ができるようにしよう。 「あともう少しだし、二人で頑張ろう」 「すももにも結城にも、いい報告しないとね」 「……よし、じゃあ」 「いらっしゃいませ〜! 花の植木鉢はいかがですか〜!」 いきなり八重野が大きな声で呼び込みを始めた。 当然、周りの視線がこちらに集中する。 そんな事を始めるとは思わなかったから、俺はかなり驚いてしまった。 「ほら、石蕗も」 「わ、わかったよ……」 「い、いらっしゃいませ〜」 「いらっしゃいませ〜! 植木鉢いかがですか〜」 「残りわずかですよ〜!」 「すいません、見て行っていいですか?」 「あ、はい。どうぞ、見てください」 「いらっしゃいませ〜!」 ぺこりと下げた頭を上げると、目の前には何も残っていなかった。 「……やった」 そう。 ついに全部の植木鉢を売り切ったんだ。 「凄い、全部売れた!」 「ああ! これで明日、二人にいい報告ができるな」 「それじゃあ、片付け始めようか」 「うん、まだ少し時間あるからゆっくりできるね」 「こんなに早く全部売り切れるなんて思わなかった」 「本当によかった。すももたち、喜んでくれるね」 「絶対喜ぶって……でも」 「八重野がすごく頑張ってくれたことも、喜ぶよ」 片付けを始めている八重野は、本当に嬉しそうな表情をしている。 あれだけ回りに気を使ったりしていたけど、本当は売れるかどうか不安だったのかも知れない。 「こっちはこんなもんかな」 「石蕗、そっち終わった?」 「うん。大体終わった」 「こっちも、もうちょっとで終わるから」 「手伝わなくて大丈夫か?」 「大丈夫。一人ででき……」 「きゃ!!」 「八重野、どうしたんだ!?」 「つ、石蕗……」 慌てて振り返ると、八重野は片付けの最中だったジョウロをひっくり返してしまったらしい。 そのせいで、ジョウロの中に少し残っていた水が土の上にこぼれた。 そして、その上に転んだ八重野の髪や腕が泥で汚れてしまっていた。 「つ、冷たい……」 「あ…うん、へ、平気」 「いや、でも髪とか少し洗った方がいいよな」 「それはそうだけど」 ここからなら、八重野の家よりも寮の方が近いかな。 だったら、一旦寮に行って、誰か女子の部屋でシャワーを借りた方がいいかも知れない。 服も染みにならないように軽く洗った方がいいし……。 「八重野、ここからなら寮の方が近いから、一旦寮に帰ろう」 「寮なら女子もいるから、そこでシャワーも借りられるし、髪とか、洗えるから」 「そのままじゃ、風邪ひきそうだから」 「……じゃあ、そうさせてもらう」 「じゃ、早く片付け終わらせて行こう」 「大体終わったか」 「こんな感じでいいと思う」 「じゃあ行こう。早く行った方がいいから」 バザー会場を出た俺と八重野はすぐに寮に戻った。 俺の部屋に八重野を連れて行くわけにはいかない。 ちょっと申し訳なかったけど、八重野にはとりあえずロビーで待ってもらう事にした。 「ちょっと待って。多分、誰かいると思うから」 普段の昼間なら、ここによく麻宮秋乃と冬亜が揃っているんだけど、今日に限って姿が見えない。 他の女子とはあまり会話はしないけど、こんな時ばかりはそんな事も言ってられない。 とにかく、誰か探してシャワーを借りないと。 「向こうとか探してくる。ごめん」 寮の中を少し見て回ったけれど、誰もいる様子がない。 部屋の中までさすがに見ていないけれど、外から見ても誰もいないように思えた。 普段なら誰かいるのに、今日に限って誰もいない。 日曜だから、仕方ないのかな。 「ごめん、八重野」 「あ。どうしたの?」 「今、寮に誰もいないみたいで」 「うん、それで……八重野さえ良ければ、だけど」 「俺の部屋の……使えるけど……」 「本当にごめん」 「………えっと」 やっぱり、俺の部屋じゃ嫌だよな。 でも、それ以外に方法もないし、どうしよう……。 「いいよ、別に」 「他に方法もないし、このまま帰るのも……ちょっと」 八重野はきょとんとしていた。 「じゃあ、部屋こっち……だから」 「(俺がヘンに意識しすぎだったんだよな)」 辺りをうかがいながら、俺は八重野を自分の部屋へと案内した。 「ごめん、俺の部屋になって」 「大丈夫だから」 「えっと、そっちのドアがシャワーな」 部屋を入ってすぐ横に、シャワーがある。 八重野はこくんと頷くと、そっちへと歩みを進めた。 「あ、そ、そうだ、タオルとかいるよな」 「え、あ、うん」 「あのこれ……俺、使ってないやつだから」 「うん。ありがとう」 意識しすぎないように……別にヘンな意味とかじゃないし。 そんな言葉を頭の中で繰り返しながら、俺は八重野にタオルを手渡した。 「そ、そんなのいいよ、俺の方こそ、ごめん」 「いや、だって……その、イヤだろ、俺の部屋だし、ここ」 「あ……そんなことない、助かってる」 「じゃ、じゃあ、しばらく部屋の外出てる」 「え、あっ、うん」 風呂ってどれくらい時間がかかるものなんだろう。 八重野は髪とか長いから時間がかかるんだろうか。 まあ、もう少ししたら戻るか……。 「つ、石蕗っ!!」 部屋に戻ると、シャワーの音はまだしている。 入っていいんだろうか? どうしたものかと迷ってると、八重野の慌てた声がもう一度聞こえてきた。 「ご、ごめん石蕗、シャワーが……あつっ」 「な、なに? どうしたの?」 「シャワーの温度が、熱くなって……止まらないんだ」 「下のほうについてるレバーで止めて!」 「さ、さっきからやってみてるんだけど……」 「どうしたんだろう」 「(ぜ、全部脱いで入ったのか……?)」 「……石蕗、ごめん。シャワー…壊してしまったかもしれない」 「あの、タオルとか、その……体に……ある?」 「タオル? ああ、さっき借りたものを使ってる」 「じゃ、じゃあ……俺今から、右側の壁の方向きながら入る」 「だから八重野は、ひ、左側の壁の方むいて……出てきてくれるか?」 「わ…わかった」 お互い背中向きどうしになって、狭い通路をやりすごす。 人から見たらおかしな構図に違いない。 でもその時の俺は、それでいっぱいいっぱいだった。 「あ、う、うん」 「あれ? 湯…普通にとまる??」 「壊れてなかったよ、うん」 「本当? よ、よかった……きゃっ」 「あ……いててっ」 「ご、ごめん、大丈夫?」 「いま、頭打った? すごい音が……」 「だ、大丈夫、たぶん……たぶ……」 「…………っ!!」 「あ……あの」 「――ご、ごめんなさいっ」 「ご、ごめん、俺、あの……」 「す、すぐ着替えます」 あの後、俺はすぐに部屋を飛び出した。 別に引っぱたかれたり悲鳴をあげられたわけじゃないけど……すごく悪いコトをしてしまった気分だ。 髪も体もキレイになった八重野は、今俺の隣に座り口を閉ざしていた。 もちろん服は着ている。 「遅いし、送っていくな」 「どっちにしろ……送っていくつもりだったし」 「う、うん……ありがとう」 「あ、そうだ……あの、シートとかは明日、俺が持っていくよ」 「八重野ん家より、こっちの方がずっと近いだろ?」 「それは……そうだけど」 「それじゃ、送ってくな」 「あ、ああ、うん」 気まずかった。 いっそ大声で怒鳴られたり、涙を流されたりした方がよかった。 八重野はそのどっちにも当てはまらない。 「な、なにが?」 「せっかく…さ、バザーで楽しかったのに、あんなことになって……」 「あんなことって、でも」 「あれは、私が最初に滑ったから悪いんだ」 「悪いなんて、俺だってもともと……その…俺の部屋なんかに呼んだわけだし」 「だけど私は助かった、髪が汚れたままなのは……気持ち悪いもの」 「でも、ごめん」 「別に、気にしてないから」 ほんの一瞬だけ見せた笑みは、俺を気遣ってくれたからだろうか。 八重野はまた前を向き、唇を結んだ。 「送ってくれて、ありがとう」 「今日は楽しかった」 「俺も」 「石蕗、帰り気をつけて。もう暗いし」 「ああ、それじゃ、また明日」 長く慌しかった一日があけた。 バザーの喧騒から、まだ十数時間しかたっていないというのに、昨日がもうずいぶん前のことに思えてならない。 教室をぐるりと見渡すと、結城はちゃんと登校していた。 昨日やっぱり先に帰したのが正解だったんだろう。 顔色ももう悪くなかった。 そして秋姫は……。 今日も学校を休んでいた。 「スモモちゃん、休みなんだね」 「体、そんなに悪いのかな」 「石蕗、知らない?」 「すももちゃんが休んでる理由とか、聞いてない?」 「ごめん……八重野だったら、何か知ってるかも」 昨日は新月だったから、いつもみたいにぬいぐるみには変身しなかった。 だけど、そのおかげで秋姫の様子を見に行く事ができなかった。 「石蕗くんは聞いてないの?」 「え、ああ……」 昨日あれから、何となく八重野と顔が合わせ辛い。 八重野の体を見てしまったから? それもある。 でも本当にそれだけなんだろうか。 俺はどうしても、真っ直ぐに八重野の顔を見ることができなかった。 八重野に視線を向けてみたけれど、向こうがこっちを見ていないから見ている事ができる。 だけど、こっちを向くと……やっぱり見ていられないと思う。 八重野がこっちを向く前に、俺は慌てて視線を外した。 「放課後、お見舞いとか行くの?」 「あ……どうなんだろう」 「八重野さん、行くんじゃないのかな」 「石蕗も行くなら、スモモちゃんにお大事にって伝えておいてね」 「え、ああ」 八重野とはいまいち何も話せないまま、俺は放課後を迎えた。 園芸部に行かなきゃいけない、それはわかってる。 八重野のように普通にしていればいい、それもわかってる。 「俺……何やってるんだろ」 顔をあげると、少し向こうで八重野と結城が向かい合って何かを話している。 「行こう…うん」 「結城、八重野!!」 「石蕗君も来ましたよ」 「あ…今から園芸部いくんだよな?」 「いや……あの……」 「今日は園芸部、お休みなんです。ほら、秋姫さんも休みですし……今日はみんな疲れてるかもしれないから」 「そっか、うん、わかった」 「お見舞いにいきませんか?」 「お見舞い……秋姫さんの……と、八重野さんが提案されてます」 「うん、石蕗はどうする?」 「あ…ああ、じゃあ俺も……行く」 「よかった! じゃあ八重野さん、石蕗君と一緒に行ってきてくださいね」 「私、今日はどうしてもやらなければいけないことがあって……ごめんなさい」 「え、じゃ、じゃあ……」 「お嬢様ーっ」 「あ、はい! 八重野さん、秋姫さんにお大事にと伝えてください」 結城は廊下をタタタと駆けてゆき、あっという間に姿を消した。 残ったのは俺と八重野の二人きり。 顔を合わすのは気まずいとか、そんなこと言ってられない事態になってしまった。 「……行こうか」 俺と八重野は帰り支度をすませると、秋姫の家へと向かった。 こうやって並んで歩いたのは初めてじゃない。 だけどやっぱり、空気は少し重かった。 「石蕗、一緒に来てくれてありがとう」 「お見舞い。すもも、喜ぶと思う」 「うん。絶対喜ぶよ」 それきり、会話が止まってしまう。 何を話せばいいのか、わからない。 前からずっとそうだったろうかと考える。 けれど、最近はそうでもなかった気がする。 打ち解けられるようになって来たと思っていたけれど、昨日のあれ以来、何を話せばいいのかわからない。 結局、俺は八重野と一緒に無言で歩き続けた。 正面から秋姫の家に来るのって、なんだか変な感じだった。 普段はぬいぐるみの姿で窓から入っているんだから無理もない。 八重野が玄関のチャイムを鳴らすと、家の中から秋姫のお父さんの声がした。 「すもものお父さんの声」 「やあ、撫子ちゃん」 「こんにちは、おじさん。お仕事中にすいません」 「いやいや。すももちゃんのお見舞いに来てくれたんだよね? ありがとう」 「はい。すもも、元気ですか?」 「ああ、朝から部屋で大人しくしてるから大丈夫だよ。ずいぶん退屈してるみたいだけど」 「ところで、そっちの彼は……」 「あ、同じクラスで、園芸部の石蕗君です」 「石蕗正晴です」 「すももと同じクラスで園芸部なんだ〜」 「はい、ど…どうも」 「二人とも来てくれてありがとう。すももちゃん、喜ぶよ」 「あ、こんな所じゃ何だね、さあ上がって」 「はい。おじゃまします」 「おじゃまします」 「撫子ちゃん、すももちゃんの部屋はわかるよね? 部屋まで行ってくれればいいよ」 「すもも〜?」 「あ、ナコちゃん」 「お見舞いに来てくれたんだ、ありがとう」 「私だけじゃないんだ」 「お、おじゃまします……」 「へ! あ、わわわ! つ、石蕗くんも来てくれたの!?」 「ごめん。邪魔だよな、俺」 「そ、そんな事ないよ、大丈夫! で、でもわたしこんな、き、着替えないと」 「そんなの気にしなくていいよ、そのままで構わないし」 「えっ、あ……うん」 「あ、そそそうだ、ふたりとも座ってね、ごめんね」 「すもも、何も気を使わなくていいよ?」 秋姫の部屋に正面から入るのは、ますます変な感じだ。 なんだか何もかもがいつもよりも小さく見える。 でも、ここできょろきょろするのも失礼だろう。 俺は視線を床に落とした。 「具合はどう?」 「もうほとんど平気だよ」 「そっか、それなら良かった」 「あれ、でも今日クラブ……」 「今日は休み」 「秋姫も休みだし、結城もバザーで疲れてたみたいだから」 「そうだ! 昨日、バザーどうだったの?」 「え? あ、ああ……よく晴れてて、人もたくさん来てた」 「うん、お花たくさん売れた?」 最後まで二人で残った後、あんな事があったんだよな……。 思い出したら、嫌でも意識しそうになる。 八重野の方、ちょっと見れそうにない。見たらイヤでも、あの時の姿が頭に浮かんでしまう。 「全部売れたよ」 「みんな頑張ったけど、八重野が一番頑張ってた」 「そうなんだー!」 「全部売れるなんてすごいよっ、うん、嬉しいなぁ」 「(……あれ?)」 「ナコちゃん、どうかしたの?」 「ナコちゃんも疲れてるのかな?」 「そんな事、ないよ」 「そうかなあ」 秋姫は不思議そうにしているけれど、八重野はいつもと違うように思えた。 やっぱり、昨日の事思い出してるんだろうか。 なんだか、悪い事した気がする。 「全部売れたけど、すももがいなかったから……やっぱり少し寂しかった」 「でも、石蕗くんもノナちゃんも、松田さんも一緒だったから――」 「結城と松田さん、途中で帰ったんだ」 「あ、その……結城、途中でちょっと辛そうだったから」 「ナコちゃんが寂しいって言うの、初めてだよ……大丈夫?」 「バザーで何かあったのかな?」 八重野の答えの中のうそを、秋姫は勘付いていたんだろうか? 何かあったの? というまなざしが俺をまっすぐ見つめてくる。 「あ……べ、べつに何も」 秋姫が戸惑っている。 俺と八重野がいつもと様子が違う事に、気付いているのだろうか。 「あの、すもも……」 二人が声を出した時、不意に窓の外に視線をやった。 夕暮れが窓に反射している……もうすぐ日が沈みそうだった。 「(ヤバイ! そろそろ帰らないと!!)」 「ごめん。俺、そろそろ帰るな」 「じゃ、早く良くなるといいな」 「う、うん。石蕗くん、ありがとう」 「さよなら、また明日」 「ああ、なんかバタバタして、ご、ごめんな!」 「あれ、石蕗君。帰るのかい?」 「あ、はい。お邪魔しました」 「いえいえ」 「あ、あの。秋姫、元気そうで良かったです」 「それじゃ、失礼します」 「さようなら、また来てね」 「はあ、はあ、はあ」 頭上の空が、どんどん暗くなってゆく。 寮まで戻るには、間に合いそうもない。 「(と、とりあえず、どこか人が少ない場所へ……!!)」 空から見た時だと、確かもう少し向こうなら人通りが少なかったはずだ。 どうにかして、そっちまで行かないと……! 「うわあ!」 「はあ、はあ……はぁ……」 きょろきょろと周りを見渡すけれど、どこにも人の気配はない。 「と、とりあえず姿を見られる事はなかったみたいだ」 ひとまずホッと息をつく。 カバンはどこかそのへんに隠して、後から取りにくるしかない。 「よいっしょと」 カバンから本を取り出して、その上に飛び乗る。 そして俺はいつものように、上空に浮かび上がった。 「よし、行くか」 「こ、こんばんは」 「昨日は来れなくてごめんね」 ……そう言いながら平常心を保とうとしたけど、鼓動はドキドキと高鳴っていた。 八重野はまだ秋姫の家にいた。 ついさっき飛び出したんだから、別にまだ八重野がいるのはおかしくない。 だけどまだ『俺』の痕跡の残る部屋に通されるのは、なんだか複雑な気分だった。 「ううん、いいんだよ。わたしもちょっと体調が悪かったから」 「そっか、もう大丈夫? ……あ、パジャマだし、まだみたいだね」 「今日も学校休んでたんだよ。私はすもものお見舞い」 「さっきまで、もう一人クラスメイトも居たんだけど、帰っちゃった。今来て丁度よかったかもね」 「ごめんね、ユキちゃん。心配させちゃったね」 「ううん。それより、早く体よくなるといいね」 「ひさしぶりだね」 「あ……う…うん」 「(う……そういえば八重野…『ユキちゃん』のことなんだか気に入ってたんだっけ)」 八重野が俺をそっと抱き上げた。 俺を覗き込む八重野は、秋姫の前でしか見せたことないような、柔らかな笑みを浮かべている。 「ひつじ君はすももの部屋に居ない時は、どこにいるんだろう?」 「え! ええ!?」 「それはわたしも知らないの。秘密なんだって」 「う、うん。ごめん」 「そうか、秘密か」 「そ、そうだよ」 「ナコちゃん、ユキちゃんが好きなんだねえ」 「う、うう……っ」 「指輪が!」 「しずくの反応だ!!」 「あれ、でもなんだか……」 「光りが、小さい」 いつもなら眩しいほどに輝く指輪が、今日はとても弱く小さい。 星のしずくのありかを示すまっすぐな光が、全く現れる様子がない。 そして、小さな輝きはついに消えてしまった。 どうしてだ? 今まで、こんな事なかったのに。 「ど、どうしよう」 「どうしよう、どうしよう!!」 「どうしよう、ナコちゃん! ユキちゃん!」 「すもも、お、落ち着いて?」 指輪の光りが消えたのを見届けた秋姫は、随分と取り乱していた。 「わたし、本当は少し気付いていたの。何かおかしいかも知れないって」 「何かあったの? 落ち着いて、すもも」 「前にもあったの! 変な事!」 「前にも……?」 そんな事、一緒にいる時には何も感じなかった。 もしかしたら、俺がそばにいない時に何かあったんだろうか? 「そうなの、前にもあって、その時は少しおかしいなって思ってただけだったの」 「でも、今気付いたの! 指輪の光りが小さくなった事で!」 「すもも、落ち着いて」 「でも!」 「何に気付いたの? ゆっくりでいいから、言ってみて」 「ナコちゃん! ナコちゃん、わたし!!」 「わたし、あの杖を使うための力が弱くなってるのかも知れない!!」 「だって、前にも指輪が光らない事があって」 「そうなの?」 「うん! その時はユキちゃんはいなかったの」 「放課後にクラブが終わった後で、その時はノナちゃんの指輪は光ってて……!!」 「そんな事があったんだ」 「でも、きっとそういう事もあるかも知れないって、あんまり考えないようにしてた」 「だから、それもユキちゃんに言ってなくて!」 「どうしよう! あの時ユキちゃんに言っていれば良かったのかも知れない!!」 「どうしよう! どうして!?」 「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて、すもも」 「でも! でも!!」 「うん。わかってる。ひつじ君の事が心配なんだよね」 「うん。このままじゃ、ユキちゃんを助けてあげられないよ!」 「どうしよう、ナコちゃん。どうしよう!」 「わたし、ユキちゃんをぬいぐるみの国に帰してあげるって約束したのに!」 「星のしずく……ななつ集めて……帰してあげるって……」 秋姫の言葉の語尾に、涙声がまじった。 白い頬にぽろぽろと大粒の涙がこぼれている。 秋姫はそれをぬぐうこともなく、呆然と涙を流していた。 「大丈夫だよ。泣かなくていいいから、ね?」 「だって、約束守れなくなっちゃう!」 「すもも、泣くなよ」 「ほら、ひつじ君も言ってる」 「でも、でも……!!」 「なにもできないなんて、そんなの、なにもできない自分なんて、そんなのっ!!」 「約束……したのに……やっとうまく…できるようになったのに……」 「すもも。大丈夫、ね?」 「何とか考えよう。どうすればいいのか」 「ナコちゃん……」 「すももは一人じゃないよ。ひつじ君がいつも一緒だし」 「それに、私もすももと一緒にいる」 「だから、そんなに泣かないで」 「ありがとう、ナコちゃん」 「ほら、泣くのやめよう」 「ユキちゃんも、ごめんね」 「ううん、何か…何かいい方法ないか、考えよう?」 「ほら、ひつじ君もこう言ってる」 八重野の手が、秋姫の頬に触れた。 その瞬間、ふっと秋姫の顔から悲しみの表情が消えていった。 それはまるで魔法のようだった。 「どうすればいいか、本当に考えないといけないね」 でも、どうすればいいんだろう。 考えるって言っても、俺には何も浮かばなかった。 「本には何も浮かんでは来ないし」 こういう時、どうしたらいいんだろう。 如月先生だったら何か方法を………ん!? そうだ! 忘れてた!! 如月先生がいるじゃないか! 「なに、ユキちゃん?」 「せ、先生だよ! 如月先生!!」 「そうか。如月先生に聞けば、何かわかるかも知れない」 「う、うん!」 「どうしよう? 明日の朝早くに行って聞いてみればいいかな」 「ダメだよ、すもも」 「朝だと、ひつじ君がいないんでしょう?」 「確かにその通りだけど……」 「だったら、今すぐ聞きに行こう。今ならきっと、まだ如月先生いると思うから」 「で、でもわたし、今日休んじゃったし……いいのかな」 「大丈夫、私もついていくから」 「それに、ひつじ君も一緒だよ」 「すもも、先生に聞きに行こう。どうすればいいのか」 「すもも、一緒にいこう」 「如月先生、まだ残ってるかな」 「どうだろう……」 「行ってみよう」 なかなか動き出せないでいた秋姫の手を、八重野が握る。 俺にも秋姫にも、何の確信もなかった。 八重野だって同じだろう。 だけど八重野は強い言葉で、俺たちの背中を押してくれた。 「ひつじ君もちゃんとついてきてね」 「わかった!」 「し、失礼します」 如月先生はまだ学園内にいた。 机に向かって何か書きものでもしていた様子だった。 俺たちが挨拶した一瞬あとで、くるりと椅子の向きを変えた。 「どうしたのこんな時間に、おや、すももちゃん?」 「体は大丈夫? お義兄さんに電話で様子を聞いてみようかと思ってたんだけど」 「は、はい。大丈夫です。すいません!」 「大丈夫ならいいんだけど……。みんな揃って、今日はどうしたの?」 「あの、えっと」 「なんだか長くなりそうだね、そこに座って」 俺たちは全員椅子に座り……如月先生を正面から見据えた。 如月先生もその空気を読んでか、いつもと違って真剣な表情で俺たちと向かい合っている。 「で、どうかしたんですか?」 「すもも、私から言おう…か?」 「ううん、大丈夫。わたし自身の事だから、自分でちゃんと話す」 「すももちゃん自身の事?」 「はい、そうなんです」 「詳しく聞かせてもらえるかな」 「実は、あの……。あの杖を使う力が、とても弱くなっているみたいなんです」 「力が? どうして、そう思ったの?」 「さっき、星のしずくの反応があったみたいで、指輪が光ったんです」 「でも、その光りがとても小さくて弱いもので……すぐに、消えてしまったんです」 「消えちゃった?」 「それは、さっきの一回だけ?」 「いえ、以前にもあったんです」 「以前にもか」 「その時は、ノナちゃんと一緒だったんです」 「ほほう」 「ノナちゃんの指輪には反応があったんですけど、わたしの指輪には反応すらなくて……」 「そうか……」 「う〜ん、困ったねえ〜」 「如月先生、理由とかわからないんですか?」 「お願いします。わかる事、なんでもいいから教えてください!」 「まあ、何となくわかってはいるんだけど」 「ほ、本当ですか!?」 「僕は嘘は言わないよ〜」 「お、教えてください!」 秋姫は今にも立ち上がらんばかりに、如月先生につめよった。 俺は……一瞬とまどっていた。 如月先生の言葉のはしに、なんだかすごくイヤな予感がしたからだ。 「う〜ん。これは多分ね、すももちゃんの心が不安定になってる事が原因だと思うんだ」 「心が……不安定?」 「そう。本人も多分気付いていないとは思うけれど、心の中で何かが引っ掛かっているのかも知れない」 「その心の中にある引っ掛かりが、きっと力を使うのを邪魔してるんだね」 「(そういえば……結城もそんなこと言ってたな)」 「そ、それはどうすればいいんですか!?」 「そこまでは僕にもわからない」 「わからないって、それじゃどうしたら……」 「これはすももちゃんの心の問題だからね」 「こればかりは僕も八重野さんもユキちゃんも、どうこうするわけにもいかないし、できないんだよ」 「すもも自身がどうにかしないといけないという事ですか?」 「でも、すももちゃん自身もそれが何なのか気付いていないなら、難しいかも知れない」 「こんな状態では、しずくを集めることは……やめた方がいいかもしれない」 シン、と部屋の中の空気が一瞬固まった。 秋姫は絶句し、八重野がそんな秋姫の顔をゆっくりと覗き込む。 俺は……。 俺は、漠然と感じていた不安が現実になったことに、何も言い出せなかった。 「心には波があるからね、明日になったらまた力は元に戻るかもしれない」 「だけど、それがずっと続くかはわからない。何かふとしたきっかけで、また弱くなるかも知れない」 「もしそれが、すももちゃんが力を使っている時だとしたら、どうなると思う?」 「どうって……」 「何か、事故が起こる可能性もあるかも知れない――ということですか」 「その通り」 「でも、あと少しなのに」 「あともう少しでユキちゃんをヌイグルミの国に戻してあげられるんです!」 「その後少しの間に、何も起こらないとは、限らないでしょう?」 「もともとは僕がすももちゃんに頼んだことだ、学園対抗戦のことについては、今回は辞退するよう向こうに連絡をとってみるよ」 「でもそれじゃ、ユキちゃんがかわいそう!」 「……わかってるよ、すももちゃん」 如月先生の表情は、俺の状態をわかった上での苦渋の選択だと告げていた。 先生という立場でもなく、またこの杖を作り出した職人の顔でもなく、自分の姪を思いやるやさしい顔だった。 「どうしましたか、八重野さん」 「私が、すももの代わりにしずくをすくう事はできませんか?」 「え!!!」 「さっきから、ずっとそれを考えてたんです」 「すももみたいな力は私にはないのはわかってます」 「でも、杖を支えてあげるとか、そういうことだけでも、私にはできませんか?」 「もしも…もしも何かが起こっても、私、すももを助けます! 必ず!!」 「ちょっと待ってくださいね。こんなケースは初めてだから……」 「無理ですか?」 「あのね、八重野さん」 「レードルを扱うというのは、なかなか簡単なことじゃない。すももちゃんはとても特別な存在なんだ」 「はい。わかります」 「だからハッキリ言って、君がすももちゃんを手伝える手段があるかどうかは、僕にもわからない」 八重野の唇が、きゅっと強く噛み締められる。 自分は力にはなれないかもしれない……それが一番よくわかっていたのは、八重野自身だったんだろう。 「でも、探してみるよ」 「力を持たない八重野さんが、すももちゃんを手伝う方法があるのかどうか」 「ナツメさんっ」 「でも、あんまり期待しないでね。本当にできるのか、まだわからないから」 「はい……お願いします、先生」 「……いろいろと調べるのに数日かかるかも知れないな」 「じゃあ、とりあえず今日は一旦帰りなさい」 「それから、すももちゃん」 「力がまだ不安定だと感じている間は、ゆっくり体を休めた方がいい」 「そういう時は、いつどんな事が起こるかわからないからね」 「まあ、風邪が長引いたとでも思って、ゆっくり休んでおきなさい」 「すももちゃん、いい友達をもったね」 「八重野さんの気持ちを汲んで、僕も精一杯頑張りましょう」 「じゃあ、もう遅いから気をつけて帰るんだよ」 「はい、失礼します」 あの夜の翌日から、如月先生は八重野にどうやったら手伝いができるかを考え始めていた。 結城や松田さんにも力を借りて調べているらしく、時々クラブ中に二人は部屋に呼ばれている。 だけど、それから何日経っても、具体的な方法はまだ見付かっていないらしかった。 八重野は毎日、秋姫の家に行っては現状を報告している。 俺もぬいぐるみの姿でそれを聞いていた。 何もできないのは……俺だけだった。 「結城さ〜ん」 「ごめんね、ちょっと来てくれるかな」 「わかりました〜!」 「お嬢様、私は」 「松田は二人を手伝っておいて」 「はい、わかりました!」 「ごめんなさい、ちょっと行って来ます」 立ち上がった結城は、すぐに如月先生の部屋に向かって行った。 「結城、よく呼ばれてるよな」 本当は何もかもわかっているのに、八重野にはその事実を口にできない。 秋姫のためにみんな一生懸命なのに、俺だけが取り残されている。 実際、俺が口を出す事はできないんだから仕方ないけれど、なんだか少し寂しかった。 「え、何が?」 「なんでもない。なんとなく」 「おーい。八重野さーん」 「ごめんね、松田さんと一緒に来てくれるかな〜?」 「わ、私もですか」 「石蕗――」 「いいよ、行って来て。こっちは一人でも大丈夫だから」 「うん。ありがとう、石蕗」 「すいません」 八重野はすごく一生懸命だった。 本当に秋姫が好きなんだって、伝わってくる。 結城はライバルがこんな状態じゃ張り合いがないみたいだからって顔をしてたけど、本当は心配でたまらないんだろう。 だからこそ如月先生と一緒に、連日何かを調べ上げていた。 松田さんも如月先生と結城の間で立ち回り、役に立ってるみたいだった。 本当、俺だけ何やってるんだろう。 「驚かせてすまない、もうすぐ日没なのに、気づいていなかったようだから」 「え? あ!」 如月先生に声をかけられ、俺は日が沈みかけているのにやっと気付いた。 「す、すいません! 帰ります!!」 「石蕗君、しばらくは辛い時間が続くね」 「自分のためとはいえ、上手にウソをつくのは苦手そうだからね、石蕗君は」 「あ……でも…仕方ないです」 「すももちゃんのことだけど――」 「さあ、早く帰ったほうがいい」 いつものように、空から秋姫の家に向かう。 ここのところ毎日、八重野が家に来ていろいろな話をしてくれている。 そのおかげか、秋姫は少し元気になってきているようだ。 それに、八重野が星のしずくをすくう方法もついに見つかったのかもしれない。 今日、明日中にはいい報告ができるかも知れない。 昨日来た時に八重野が言っていた言葉だ。 「……こんばんは」 「ユキちゃん。いらっしゃい」 「気分はどう?」 「大丈夫! お家にばっかりいて退屈しちゃいそう」 「そうか。元気そうで良かった」 「でも?」 「やっぱり、まだ力は安定していない気がする」 「うん。指輪を杖に変えるだけでも、失敗しちゃって……」 「やってみたんだ」 「そうなの。でも、失敗しちゃって」 「どうすれば、力が安定するようになるんだろうね」 こればっかりは、如月先生も言っていたけれど、本人の事だからどうしようもない。 俺は無言で秋姫を見つめるしかなかった。 何もできないって意味が、今になってやっとわかった気がする。 「すもも、入っていい?」 「ナコちゃん! 入って、入って」 「すもも、聞いて!」 「どうしたの? ナコちゃん」 部屋に入って来た八重野は、いつもよりも元気な様子だった。 「如月先生と結城が頑張ってくれたんだ!」 「あの、もしかして」 「ひつじ君の思ってる通り」 「私、すもものお手伝いができるよ!」 「本当? ナコちゃん!」 頷いた八重野は、普段見る事が出来ないような笑顔を浮かべていた。 秋姫を助ける事ができるのが本当に嬉しい。 そんな表情に見えた。 「ど、どうすればいいの?」 「大丈夫、落ち着いて聞いて」 「すもも、力は不安定でもしずくが落ちて来る時に指輪は光る?」 「う、うん。前みたいに小さい光りだけど」 「うん。それなら大丈夫」 「如月先生が、すももの力を補助するための薬を作ってくれたの」 「これ!」 八重野が制服のポケットから取り出したのは、香水が入っているような小さな瓶だった。 ぱっと見ただけじゃ、本当にそれがそんな効果のある薬だとは思えない。 「指輪が光って星のしずくの場所を教えてくれるんだよね?」 「そして、指輪を杖にして、その杖で星のしずくをすくう」 「そうだよ。でも、今は指輪を杖にする事も少し難しくて」 「だから、それを助ける薬」 「少しでもいいから指輪が光った時、この薬を一滴だけ指輪に垂らすの」 「そうすると、一時的だけど、指輪の光りが大きくなるんだ」 「うん。その時なら、指輪を杖に変えるのも簡単にできるって」 「そっか……。でも、指輪が杖になっても、力が弱くなってると」 「大丈夫!」 「うん。薬の力で、杖自身にしずくを吸い寄せる事ができるようになるって」 「本当?」 「如月先生がそう言っていたし、そうできるように結城の力を借りたって」 「でもね、その力って凄く弱いものなんだって」 「それってどういう事?」 「しずくに物凄く近寄らないといけない」 「どれくらい?」 「半径1メートルくらい……かな」 「そ、それってかなり近くないと!!」 「だから、ものすごく」 「そんなの、言葉を使わないでなんて……難しいよ?」 「大丈夫。私がすももの代わりに杖を持って、しずくを追いかけるから」 「ええ!!」 「そ、そんな、ナコちゃん無理だよ!」 「しずく、すごく早いんだぞ!!」 「無理じゃない。やらなくちゃわからないから」 「でも! でも、ナコちゃん!!」 「走るのも苦手じゃないし、薙刀の稽古で長いものを操るのは慣れてる」 「すもものためなら、私はできるから」 「すももは私が無事にしずくをつかまえられるようにって、祈っておいて」 「信じて……くれる?」 「それなら、私は大丈夫」 「……うん!」 俺は不安だった。 二人が星のしずくを集めるのは、俺を元に戻そうとしているからだ。 でもそれで……そのせいで秋姫に、八重野に何かあったらどうする? 重く暗いなにかが、俺の上にのしかかってきた。 「わたし、ナコちゃんなら大丈夫な気がする」 「だって、わたしの大好きなナコちゃんだもん!」 「そ、そうか」 「す、すもも……」 「あ! ナコちゃん」 「杖、使う練習とかした方がいいかな」 「ああ、どうだろう……した方がいいと思うけど、でも」 「わたし、やってみる」 「でも、さっきすもも……杖にするのもうまくいかないって……」 「うん……でもね、ユキちゃん、いま」 「いま、ナコちゃんがわたしに勇気をいっぱいくれたから、できそうなの」 「うん。きっとできる!」 秋姫は早速立ち上がり、指輪を握りしめた。 「あ、ご、ごめんね」 「無理しないほうがいいよ」 「でも、せっかくうまくいったのに」 「すもも、明日になったらもっとうまくいくよ」 八重野の言葉は、何よりも強く正しく、そして秋姫を思いやっていた。 まだ星のしずくを集めて間もなかったあの頃、秋姫が八重野を『許しあう者』に選んだ意味が、俺は今になってようやく実感できた。 「うん、わかった」 「じゃあ、明日からはいっぱい練習しよう」 「ボクも付き合うよ」 「でも、今日はとりあえず帰るね」 「そうだね。少し遅くなっちゃった。ごめんね、ナコちゃん」 「ううん。気にしないで」 「それじゃあ、また明日ね」 「うん。またね、すもも、ひつじ君」 「またね」 八重野が帰った後、秋姫は体の力が抜けたようにベッドにもたれかかった。 「うん、少しだけ……でも嬉しい疲れなの」 「ナコちゃんもノナちゃんも、みんな優しくしてくれて嬉しい」 「そうだよな」 「ちょっと横になった方がいいよ?」 秋姫はうなずき、そっとベッドに横たわった。 「石蕗くんは……どうしてるかな」 「あ、ううん、なんでもないよ?」 窓際に近寄った時、俺は家路へと向かう八重野の姿を見つけた。 ピンと背筋を伸ばした、姿勢のいい歩きかたはどんなに遠くても見つけられる。 「(すごいよな、八重野――あんなにも一生懸命で、優しくって)」 「(なんであんなに、頑張れるんだろう)」 次第に遠く小さくなってゆく後姿から、俺はいつまでたっても目が離せなかった。 「ふん!」 「たあ!」 「とお!!」 放課後、八重野はかかさず秋姫の家に来るようになった。 数日前、力の弱くなった秋姫のために自分が手を貸すといってから、それは途絶えることのない習慣になっていた。 「わー。ナコちゃんすごーい」 「うん。薙刀のお稽古の時みたい」 「(秋姫の杖の使い方とは全然違うと思うんだけど、言わない方が良さそうだな……)」 「なんだか、わたしよりも様になってるかも知れないね」 「思ってたよりもこれ、扱いやすいんだ」 「うん。だから、これを持って走っても大丈夫だと思う」 「すごい、すごーい!」 「本当に、走ってしずくに追いつけちゃいそうだな」 「追いつくよ」 「追いついて、つかまえる」 ぐっと握り拳を作って答える八重野は、静かながらも本気の瞳をしていた。 「ほ、本気で言ってたんだ」 「あ、すもも。ちょっと疲れてない? 休もう」 「杖、元に戻してくれていいよ」 八重野の手のひらの中にあった杖が光り、秋姫の手の中に戻って指輪の状態になった。 「大丈夫? すもも」 テラスの隅に腰掛けた秋姫の顔色は、まだ少し血色が悪かった。 秋姫が感じているのは、まるで長く患う風邪にかかってしまったような心地悪さだろう。 それでも秋姫は、にこりと笑って顔をあげた。 「うん。大丈夫だよ」 「そんなに心配しないで。最近は少しだけど、力が安定している気がするから」 「それならいいんだけど……」 「……あ、すもも!」 小さく、弱い光だった。 俺たちに気づいてくれといわんばかりに、指輪の赤い石は何度も何度も光を放った。 「すもも、薬!」 「そ、そうだ!!」 少し慌てながら、秋姫は服の中からあの瓶を取り出した。 指先で蓋をつまんで開け、中の液体をそっと一滴だけ指輪に垂らした。 「指輪が!!」 「こ、これ、いつもよりよく光ってない?」 「あ、光りが」 強く大きく光り輝いていた指輪の光りが収縮し、そして一筋の線になった。 久しぶりに目にした、力強い光。 それはまっすぐ、星のしずくのありかを指していた。 「あっちにしずくがあるんだ!」 「あれ、向こうって」 「星城の方だ」 「ほ、ほんとだっ」 「それなら都合がいいよ、すもも」 「あそこなら、わからない場所が少ないから」 立ち上がろうとした秋姫の肩に、八重野がそっと手を置いた。 「すもも、いってくるよ」 「すももはここで待っていて、私とひつじ君でやってみる」 「うん。いってくるよ、すもも」 「うん……わかった!」 「それじゃあ」 秋姫の手の中で指輪がまた杖の状態になる。 そして、その杖といつもの小さなガラス瓶を八重野に差し出した。 「ナコちゃん、わたしここで二人が大丈夫なようにってずっと願ってる」 「すももがそうやって応援してくれるから、私はきっと大丈夫」 自信に満ちた、八重野の表情。 それは心からの言葉で、秋姫はそれを見て安心していた。 本当に深い、深い信頼関係が二人にはあるんだ。 「いこう、ひつじ君」 八重野に抱き上げられ、肩に乗せられる。 振り落とされないようにしっかりとつかまり、秋姫に視線を向けた。 「ユキちゃん、ナコちゃんをお願いね」 この姿の俺に、どこまで八重野を守る事ができるかはわからない。 だけど、絶対にしずくをつかまえて戻ってこないと! 「あ、そうだ。すもも」 「なぁに?」 「役に立つかはわからないけど、一応本を持って行っておくよ」 「うん。わかった」 「じゃあ、私が預かっておく」 八重野が練習している最中にも使えるようにと、外に持ち出しておいた本を秋姫が持ち上げた。 すかさず八重野は自分が手を出し、本を受け取る。 「よし。行こう」 「いってらっしゃい、二人とも」 「しずく、どの辺に落ちたんだろう」 「せめて、方向だけでも……」 「あ! な、ナコちゃん」 「え? あ……杖が」 「もしかしたら、しずくの場所を教えてくれてるのかも」 「そうかも知れない」 「でも、どっちなんだろう」 「走ってみればわかるよ」 「きっと、光りが強い方にしずくはある」 杖の光りが強くなる方に向かって八重野は走り続けていた。 そして、辿り着いたのは校舎裏。 八重野の手にある杖はより一層輝きを増す。 「みたいだね。杖の光りが強くなってる」 「校舎の裏……。ここのどこにしずくが」 八重野の肩に乗ったまま、きょろきょろと周りを見渡すが、しずくのものらしい光りは見えない。 「ちょっと歩いてみる」 「あ、待って!」 「あっち! ほら、何か光ってる!」 「どこ?」 「向こう側、校舎の角曲がった!」 「星のしずくだ!」 八重野が追いかけた先に、眩しいほどの輝きがあった。 間違いなく星のしずくだ。 星のしずくは校舎裏に僅かにあった水たまりの上で、きらきらと輝いている。 「ゆっくり近付けば、大丈夫かな」 「わからないけど」 「でも、とりあえずゆっくり近付いてみる。ひつじ君、じっとしててね」 ゆっくりゆっくりと、八重野は足音さえ立てずに星のしずくに近付く。 星のしずくはこちらに気付いていないのか、同じ場所に止まったまま輝き続けていた。 「うまくいきそう」 八重野が後もう少しという所まで近付いた途端、星のしずくはこちらに気付いたように動き出した。 輝きながら動き出した星のしずくは、上空高くいきなり飛び上がる。 「あ、待って! そっちに行かれたら!」 「違う! また戻って来る」 飛び上がった星のしずくは、また下に戻って来そうだ。 「何をしてるんだろう」 輝きを増しながら落ちてきた星のしずくは、さっきの水たまりの上に戻って来る。 だけど、戻って来たと同時にこっちから逃げ出すように、方向を変えて校舎の方に行ってしまった。 星のしずくは、水を探して迷走しているようにも見えた。 「向こうへ行っちゃった!」 「校舎の方だね。確か向こうには、中に入る扉がある」 「え! う、うん」 「追いかけよう」 「ここで見失うわけにはいかないから」 学園内の廊下を星のしずくは飛んでいた。 やはり水場を探しているのか、時々ふらふらと軌道を変えている。 しずく自身が光っているおかげで、真っ暗な廊下でもその姿を見失う事はない。 「水のある場所を探してるみたいだ」 「だったら、水道?」 「それもあるだろうし……あ、えっと」 確か、教室に水槽が置いてあるクラスもあった。 八重野は気づいていないようだけど……『ユキちゃん』の俺からどうやってそれを伝えればいいだろう。 「えっと、えっと? 魚の入ってる水槽とか、そういうのはないの?」 「ああ、そういうクラスもあったと思う」 「じゃあ、そっちに気付かれたら危ないかも知れない」 「危ない?」 「うん。暴れ回って、教室の中がめちゃくちゃになったら大変だから」 「なるほど、そうか」 「じゃあ、なるべく何もない所まで追い詰めた方がいいかも知れない」 「まかせて」 そう言った途端、八重野の足取りは今までよりも更に速くなる。 星のしずくはそれに気付いたのか、輝きながら飛び回る速度を早くした。 「……このっ」 「わ、わ! お、落とされ……!」 「ごめん。しっかり掴まってて」 「どこに行くんだろう。もっと上?」 「う、上?」 「うん。階段をのぼって上に行くみたい」 「うえ? 上に水って……」 上には何があった? この上には屋上があるだけで、水なんてないような気がする。 だけど、星のしずくは上に向かっているみたいだし。 「上……。上で、水……」 「お、屋上?」 そうだ、屋上には給水タンクがある! もしかしたら、そこに向かっているのかも知れない。 「屋上! そうか、給水タンク」 「非常用の給水タンク。屋上に水を貯めておくタンクがあるんだ。そこを目指しているのかもしれない」 「あ、曲がった」 「あっちは階段の方。やっぱり、屋上に行くのかも知れない」 「星のしずくって、タンクの中に直接入ったりはできるの?」 「わ、わからない」 「でも、水がある場所を探す事はできるみたいだから」 「そっか。それなら屋上で間違いないかも知れない。追いかけよう!」 「あ、そうだ」 「屋上ってあの先でいいんだよね?」 「うん。角を曲がった所にある階段の一番上」 「だったら、先に行って! こっちはこの本に乗って後から追いかけるから」 「え、でも……」 「その方が、早く走れる」 「確かに、そうだけど」 「一人でも大丈夫だから、早く追いかけて」 「わかった。じゃあ、これ」 八重野は本を廊下に置き、その上に俺の体を乗せた。 本はいつものように浮き上がる。 「見失わないように、早く」 「うん! ひつじ君、迷子にならないようにね」 「じゃあ、追いかける!」 答えた八重野は俺を肩に乗せていた時よりも、もっと早いスピードで走り出した。 やっぱり、俺を乗せて走っていたから少しは遠慮していたんだ。 あの早さなら、すぐに星のしずくに追いつけるかも知れない。 ――俺も早く追いかけよう。 「……このっ!」 俺が屋上に辿り着いた時には、もう八重野は星のしずくを追いかけ回していた。 さすがに八重野の足の速さでも、しずくに追いつく事は難しいらしい。 逃げ回るしずくに翻弄されながら、八重野は必死で杖を振り回している。 だけど、やっぱり距離が少し遠いみたいで一向にしずくはすくえない。 「ひつじ君! 良かった、そこで見てて」 「このしずく、軌道を変える時に一瞬だけクセがある」 「ど、どういう事?」 「角度を変える前に、少しだけ動きを止めて方向を変えるの」 「その方向を見て、そこから私に教えて」 「そ、そんな事って」 「本当に一瞬だから、よく見てて」 「え、えええ!?」 いきなりそんな事言われても、俺にそんな事わかるんだろうか。 それに、一瞬だけって……! 「よく見てればわかるから」 「あ。今もほら、向きを変えた時に!」 「え、ええええ!!??!?!」 「(そ、そんなのわからなかったぞ? どう見てたらいいんだ!?)」 給水タンクの周りを中心にぐるぐると飛び回っているしずくを、八重野は追いかけ続けている。 だけど、どれだけじっと見ていても、星のしずくが軌道を変える瞬間がわからない。 なんで八重野はそれがわかるんだ? 「ひつじ君、ほら、今」 「一瞬止まってから、動き出す方向に少しだけ進む感じ」 軌道を変える時のクセを教えてくれたんだろうけど、そうなっていたのか本当にわからない。 さっきからじっと見ているのに、どうして八重野にだけそれがわかるんだろう? 「よく見てればわかるから、次は教えて」 よく見ていればわかる……。 八重野に見えているんだから、きっとわかるはずだ! 相変わらず、給水タンクの周りをぐるぐると動きまわって星のしずくは止まる気配がない。 あのタンクの中に水があるって事だけはわかってるみたいだけど、どうしようもできないんだな。 それなら、他の場所に気付く前に捕まえてしまわないと。 「あ!!」 「今度はそっち?」 向きまではわからなかったけれど、確かにさっき星のしずくが一瞬動きを止めた。 その後、今までと違う方向に向かって動き出した。 もっとよく見たら、次こそはどっちに向かって進むかわかるかも知れない。 「よ、よし、もっとちゃんと見れば!」 「はっ!!」 すごい早さで飛んでいる星のしずくの動きが、本当に一瞬だけ止まった。 そして、今まで飛んでいた方向とは全く逆の方向に少しだけ動いた。 「な、ナコちゃん! 今度は逆方向!」 「え? 反対?」 八重野が足を止めて方向を変えようとした瞬間、星のしずくはその八重野を笑うように飛び越えた。 そのまま反対方向まで飛んで行った星のしずくの先にあるのは、屋上のフェンスだ。 「そっちは!」 「と、飛び越えて行く!?」 このままじゃ、屋上のフェンスを飛び越えて星のしずくが飛び出してしまう! そうなったら、またどこか違う場所に行ってしまうかも知れない。 見失ってしまったら、俺たちはしずくをまた探す所から始めないといけなくなる。 「だめだ! なんとかして星のしずくを!」 突然、乗っている本が凄い勢いで浮かび上がった。 何が起こっているのかわからない。 こんな事が起こったのは初めてだ。 「ひつじ君!」 「わ、わわわわ!」 浮かび上がった本から振り落とされないように必死につかまると、本は更に高く浮かび上がった。 高く高く、星のしずくと同じくらいの高さまで上昇した本が、俺を乗せたまま一気に飛びだした。 「い、いいいい、一体何が!!!!」 「ひつじ君、どうするの!」 「わ、わわわわからない〜!!」 振り落とされないように必死でつかまっているのがやっとの状態だった。 これから何が起こるのか、どうなっているのかなんて、考えている余裕はない。 ただただ、この高さから落とされないようにするのに必死だ。 「ひつじ君! 目の前、星のしずく」 必死でしがみ付きながら、何とか目の前を確かめるとそこには確かに星のしずくがあった。 屋上のフェンスに向かっていた星のしずくがすぐ近くに見える。 俺を乗せた本は、まるでしずくに引き寄せられるように飛んでいた。 「(も、もしかしたら、俺がなんとかしてって言ったから?)」 本当の理由はわからないけれど、そういう事なのかも知れない。 「ひつじ君、そのままこっちに向かわせて」 「え、えっと!」 どうすればいいのかわからない。 だけど、わからないならやってみればいい。 言葉に出さなくても、きっと思うだけでどうにかなるはずだ。 だって俺は、いつもこの本に乗って秋姫の家まで行ってるんだから。 「(星のしずくを追いかけて、そのまま八重野の方に!!)」 思った通り、本は星のしずくを追いかけ始めた。 追いかけられた星のしずくは、また方向を変える。 「ありがとう、ひつじ君」 真っ直ぐに自分に向かって飛んで来る星のしずくの方へ、八重野は力強く走り出した。 走ってくる八重野には気付いていないのか、星のしずくはそのまま真っ直ぐ飛び続ける。 「この距離なら」 星のしずくと八重野の距離が近付いた。 追いかける俺に気を取られているのか、星のしずくは八重野に向かってまだ飛び続けている。 走ったままの状態で、八重野が杖を振り上げる。 空中に浮かんでいる星のしずくと杖の距離が更に近付き、その距離は1メートルも離れていない。 この近さなら、しずくは杖に引き寄せられる! 「たあっ!!」 秋姫や結城がやるのとは全く違う、力強い振りだった。 真っ直ぐに星のしずくに向かって振り下ろされた杖は、空中に綺麗な軌跡を描く。 その先には、見事に星のしずくがすくわれていた。 「や、やったああ!!!」 「しずく! 星のしずくだよ!」 「あ、え……。ほ、本当だ!」 「さ、さあ。早く瓶の中に」 「そ、そうだった」 片手で器用に杖を持ったまま、八重野はポケットの中から瓶を取り出し蓋を開ける。 蓋を開けた瓶の中に、そっと星のしずくが入れられた。 「やった……。よかった」 「すごい! すごいよ!」 「うん。でも」 「これは私一人の力じゃないから」 「すももが私を信じて家で待っていてくれたから」 「だから、私は頑張ってできたんだ。それに、如月先生も結城も松田さんも頑張ったし……」 「それに、ひつじ君も頑張ってくれたしね」 「さあ、すももの所に帰ろう。これ、早く見せなくちゃ」 女の子って、友達のためにこんなにも強くなれるんだろうか。 それとも、八重野だからこんなに強くなれるんだろうか……。 微笑んだ八重野は、俺を肩に乗せると走り出した。 「すもも、何してるの?」 八重野が星のしずくを持って帰ってきた、その後……。 もう眠るのかと思っていた秋姫が、ごそごそと何かを始めた。 「明日の準備だよ」 「明日?」 「うん。明日から学校に行こうと思って」 「え? 大丈夫なの?」 「今日は、ナコちゃんもユキちゃんもすごく頑張ってくれたでしょう」 「それを見てたら、わたしも頑張らなくちゃって思ったんだ」 「まだ、杖を使う力は安定しないけどね」 「え? それじゃあ、どうするの」 「ナコちゃんがいてくれるから――」 「一人じゃ無理かも知れないけど、ナコちゃんが一緒ならできるような気がするの」 「そうか。じゃあ、これからも頑張ろう!」 「よし。準備も終わったし、明日のためにちゃんと睡眠とらなきゃね」 「うん、ゆっくり寝なきゃな」 「ありがとう……ナコちゃん」 「(秋姫、ほんとに今日から来れるのかな)」 登校してきた生徒たちを見渡し、俺は秋姫の姿を探した。 「つ…石蕗くんっ」 「あっ、秋姫……八重野、おはよう」 「おはようっ」 八重野――やっぱり少し様子がおかしい。 感情を押し殺してるような感じがする。 でもどうして、とは聞けない。 いつもと一緒の朝のように、俺たちは三人並んで教室へと向かった。 「ごめんね、ずっと休んでて……迷惑かけちゃったね」 「あ、ああ……そんなの気にしなくていいって」 「園芸部の方もまかせっきりになっちゃったから……」 「それは八重野の方だな」 「ナコちゃん、ありがとう」 「園芸部のこと」 「あ、うん。すもも、心配しなくても大丈夫だよ」 「やっぱり、まだ体調…本調子じゃない?」 「ううん、大丈夫!」 「あっ! すももちゃん!!」 「お〜、秋姫さん復帰したんだ」 「もう体良くなったんだ! よかったぁ。みんな心配してたよ」 教室に秋姫の姿が戻ってきたとたん、みんな嬉しそうに駆け寄ってきた。 心配してたのは、皆同じなんだな……。 俺は秋姫たちから一歩下がって、その様子を見ていた。 「ごめんね、もう平気だよ」 「きっと信子さんたちもホッとするよ〜」 「そういえば、今日まだ深道も雨森も来てない?」 「うん。寝坊したのかな……このぶんだとギリギリかも」 「こんなところまで見送りはしなくていいのっ」 「あ、あぁ……申し訳ありません〜っ」 「おはよう、ノナちゃん」 「秋姫さん」 「もう体調はいいのかしら?」 「良かった、でも油断は禁物よ?」 結城も嬉しそうだ。 単にライバルだからじゃなくって、本当に一人の友達として心配していた。 「なあなあ! 園芸部のみんなでさ『秋姫さん元気になってオメデトウ』パーティとかしないの?」 「あ……そうね。パーティまでとは言わなくても、そういうのしてあげるのっていいと思うなっ。八重野さんはどう?」 「あ、私は……すもも」 「すももは、どう? イヤじゃ…ない?」 「い、イヤだなんて! も、もししてくれたら、すっごく嬉しいよ」 「では、やりましょう。秋姫さんはどこか行きたい場所はあるかしら?」 「そういうことなら! これあげるっ」 小岩井はにこにこしながら、カバンの中から紙切れを差し出した。 「ね、これ使って!!」 「『らいむらいと』の割引券――」 八重野がそれを受け取り、全員がその割引券とやらを覗き込む。 「じゃあそこで秋姫の全快祝い、する?」 「あの…わ、わたしのため、だけじゃなくて、みんなで行きたいな」 「その方が楽しそうだし、嬉しいよ」 「じゃ、じゃあオレたちも行っていいのかな?」 「信子たちも誘っちゃう?」 「いつにしましょう?」 「そうだなぁ、来週の週末とかだと、まだみんな予定あわせられるかな? 秋姫さんたちはどう?」 「あ、わたしはいつでも――」 「ええ……それぐらいなら」 もう一度八重野の手元を覗いた時に、俺は小さな数字に気づいた。 目をこらしてみると、ハンコで押された数字の羅列は有効期限のようだ。 そしてその数字は、今日の日付だった……。 「あ、これ……今日までみたいだな」 「え! あ、ほんとだ」 「ほんとだね」 「今日だったら、何かマズイの?」 「今日は信子と弥生の三人で買い物に行くって約束してるの」 「ごめんなさい、私も今日は難しいです」 「じゃあみんなで行くのは、また今度にしよっか。オレみんなに予定聞いておくからさ」 「私、またママから割引券もらってくるよ!」 「うん、楽しみにしてるね」 「セ、セーフ、はぁはぁっ……」 「まにあったぁ……みんなおはようっ!」 「もう、ほんっとにギリギリじゃない」 放課後。 久々に全員がそろった園芸部だ。 特別なにをするってわけではないけど、水やりも草取りも皆そろっている方が、何かとはかどった。 「わ……ナコちゃん」 「ナコちゃん、ありがとね」 「だって、ほらあっちの花壇って、すぐ雑草が生えてきちゃうのに……すごくきれいなまま」 「あ、ああ……」 「雑草とりとか、こまめにしてくれたんだよね、ほんとにありがとうっ」 「でもそれは結城や松田さんや……石蕗もいたから」 「だから、できたんだ」 「あ、あの……みんな」 「みんな、お花のお世話……いつもありがとうですっ」 「い、いえいえいえっ!!」 「ふふっ。秋姫さん、私たちみんな園芸部なんだから!」 「あ……あははっ」 八重野の表情がふっと和らいだ。 やっぱり秋姫がそばにいてこそ、八重野は八重野らしいのかもしれない。 和やかに進む時間のなかで、俺はふとそんなことを思った。 「この花壇は土ばっかりで、少し寂しいわね」 「うん、でも、もう少ししたら小さい芽がたくさん出てくるよ」 「ああ、そうなのね」 「冬にも花が絶えない花壇……すごいですね!」 「そ、そうですか? 嬉しいです」 秋姫と結城が花壇を覗き込んでいるその横で、八重野はすっと立ち上がった。 そして一人、別の花壇へと向かう。 「(さっきまであんな笑顔だったのに)」 なんだか今の八重野は、自分から人を避けている気がする。 それは秋姫ではない……と思う。 だとしたら…やっぱり俺なんだろうか? 「そっちの方は、俺さっき水やったよ」 「あ、そうだったのか、わかった」 「八重野、どうかした?」 「いや……別に」 「私、どうもしてないから」 「あ……ああ」 八重野はぴしゃりとそう言った。 冷たい言い方じゃなかった。 でも決して、俺を八重野の内側にはいれてくれない、そんな感じがした。 「それではここで失礼いたします」 「さよなら、ノナちゃん」 「元気になったのはわかったけれど、無理しないように、秋姫さん」 「お嬢様っ」 「ではではみなさん、お先に失礼します〜」 結城たちの乗った車を見送った後、少し間をあけて俺たちは顔をみあわせた。 「私たちも帰ろうか」 「石蕗…は?」 「あ、俺も帰るけど――」 日没までまだ時間ある。 少し迷ったけれど、さっきの八重野の様子も気になったし…俺はもう少し二人と一緒にいることを選んだ。 「まだ少し時間あるし、送ってくよ」 「あの、ナコちゃん」 「疲れてない?」 「な、ならいいんだ……」 話し出しては途切れ、沈黙を嫌うように誰かが話し出して……。 俺たちはそんな気まずさを繰り返していた。 「(俺、やっぱり来ないほうがよかったのかな)」 「ねえ、これ……せっかくだから、今からみんなで行かない?」 「みんなで……『らいむらいと』行かない?」 「う、うん……つ…石蕗くんは?」 時間は気になったけど、今日はまだ少しなら大丈夫そうだ。 「じゃあみんなで行く?」 『らいむらいと』に入った俺たちは、四人がけのテーブルに座った。 秋姫と八重野が並んですわり、その向かい側に俺がいる。 二人は定番のメニューを頼み、運ばれてきたそれらににこりと笑った。 そう、いつもこんな感じ。 いつもこんな感じだったはず―…だった。 「(どうしたんだろう、二人とも)」 気づいていたのは俺だけだろうか。 八重野の様子、やっぱり何か違う気がする。 「ナコちゃん、これどうぞ」 「ほら、ここの黒蜜のかかったところ、ナコちゃんにあげるっ」 「あ…ありがとう」 「おいしい」 八重野は笑みを浮かべる。 これはいつもの八重野。やっぱり俺の考えすぎなんだろうか。 「女の子どうしってさ」 「そういう風にわけあいっこ、よくするよな」 「えっ、あ…うん。するかも」 「男の子はしない……のかな?」 「しないよ」 「それにこういう店も、あんまり来ないし」 「秋姫や八重野がいるから、来るんだ」 「そうなんだ……ナコちゃん、わたしとナコちゃんっていつ頃からこのお店知ってたかなぁ」 「え……あ、ああ」 「星城に入る前には、知ってたと思うよ」 「そっかぁ、ほんとにいつからなんだろー……」 急に何かを思い出したように、八重野が顔をあげた。 俺も秋姫もスプーンを持つ手を止めて、一瞬八重野の顔をまじまじと見てしまった。 「私、忘れてた」 「ど、どうしたの?」 「今日……道場に行かなきゃ……早く」 「そ、そうなの!?」 「だから……ごめん」 「お金、ここに置いておくね」 「で、でもまだ半分も食べてないのに」 「や、やえの??」 「いいよ、ほんとにごめんね」 「さよなら。すもも、石蕗」 「気をつけてな、帰り……」 「お稽古がんばってね」 「ナコちゃん、帰っちゃったね」 「ナコちゃん、こんなに残しちゃうなんて……初めてかも」 お皿に半分残った大福を見て、秋姫は心配そうに俯いた。 「稽古とか大変なんだな」 「小さい頃からずっとやってるし、ナコちゃんって何にでもすごく真剣だし!」 「そういうところ、わたし……尊敬するな」 「あの、石蕗くん……」 「あの、間違ってたらごめんなさい」 「わたしが休んでる間に……ナコちゃんとけんかしちゃったり……したのかな」 「へ? 俺と八重野が?」 「まさか……そ、そんなことないよ」 「……そうだよね」 「う、うん。そうだよ」 「わたしね、ナコちゃんが誰かとケンカしてるとこなんて見たことないのに……」 「なんでそんな風に思っちゃったんだろ、えへ…ごめんね」 「い、いいよそんなの、謝らなくて」 「それよりそれ、早く食べないと溶けるぞ」 「ひゃ……ほ、ほんとだっ」 「ナコちゃん……もしかして……」 「ヘンなの、わたし。なんだかヘンなことばっかり考えちゃった」 俺は八重野のことばかり考えていたけど……。 秋姫だってこのところ、しずくのことばかりに振り回されていた。 もしこんなことになってなかったら、秋姫は八重野ともっと一緒に過ごす時間があったかもしれない。 「(だから……なのか? だから最近、様子がおかしかったのか?)」 「えっ、あ、はい」 「秋姫と八重野は……その、どこか一緒に遊びに行ったりしないのか?」 「ほら今日、小岩井が言ってただろ? 深道たちと買い物に行くとかって……そういうの」 「あ……そうだな、最近そんなふうに遊んでないなあ」 「なら、八重野と二人で遊んだりしたらどうかな」 「……つ、石蕗くん?」 「そうだね、今度……お買い物行こうかな」 「うん、きっと八重野だって喜ぶよ」 「(あ……もうこんな時間だ、やばいな)」 「あっ、な、なに?」 「そろそろ帰る時間なのかな」 「――えっ」 気づかれてしまったのか? 秋姫の言葉に、心臓がどくんと鳴った。 「石蕗くん、いつもこの時間に帰るから」 「(なんだ……いつも帰る時間、気づいてくれてたのか)」 「そうなんだ、もうそろそろ帰らないと――」 「でも秋姫、家まで送って……」 「大丈夫だよ、ありがとう」 「ここからならお家までまっすぐだし、お店が並んでる方の道から帰れるから」 「そ……そっか」 「じゃあ、ここで。気をつけてな」 「石蕗くんも」 「それじゃっ」 秋姫に手をふって、俺はそこから直接寮へと帰った。 気のせいかもしれない。 秋姫と八重野の時間を、俺がとってしまったからかもしれない。 そんな風に俺は思っていた。 全部間違ってると知らず、それさえクリアできれば八重野も秋姫もみんな元に戻ると、その時の俺はそう信じていた。 今日は満月だから、一日中ユキちゃんの姿で過ごすことになる。 そのため、朝からすももの家にいた。 「ほんとに行くの?」 「……危険じゃないかな」 「大丈夫、気をつける!」 「ナコちゃんも一緒なんだから」 「ユキちゃん、じっとしててね」 言われなくても大人しくしているし、こんな所で誰かに見付かったら大変な事になりそうだ。 秋姫は俺が入っている鞄の口を押さえると、周りで誰も見ていなかったか注意した。 「ナコちゃん、まだかな」 待ち合わせ場所には秋姫が先に来ていたみたいで、八重野の姿はまだない。 外から足音が聞こえる。 八重野が来たのかな。 やっぱり、思った通りだった。 さっきの足音は八重野のものだったんだ。 「ごめん。待たせた?」 「ううん、そんな事ないよ」 「あのね、ナコちゃん」 「今日は、ユキちゃんも一緒なんだ」 「ひつじ君も?」 「うん。ほら!」 鞄の口を開かれると、日の光りが差し込んだ。 眩しさに瞬きをしてから目を凝らす。 すると、鞄の中をのぞきこんでいる八重野が見えた。 「こ、こんにちは」 「あ、本当だ」 「だから、今日は三人でお買物」 「うん。見付からないように気を付けないとね」 「それじゃあ、お買物に行こう」 「そうしよう」 「またしばらく、鞄の中で我慢してね」 鞄の口を閉じると、秋姫は歩き出した。 中から外の様子はわからない。 でも、少しだけ口を開けてくれているから、こっそり覗く事くらいはできそうだ。 女の子が普段どういう所で買い物をしているのか全く分からない。 外を覗けばわかるのかも知れないけれど、それも何となく恥ずかしい。 結局、俺はこの時間のほとんどを鞄の中でひっそり息をひそめる事に費やす事に決めた。 「今日は何を買うの?」 「うーん、決めてないけど……お洋服とか見たいなぁ、自分のとか、ユキちゃんのとか」 「(ふ、服!? もしかして、また色々増えるのか!?)」 「そうか。ひつじ君のなら、雑貨屋かな」 「どこからまわろうか」 「えっと……あ、じゃあいつものお洋服屋さん覗いてもいい?」 「ああ、あそこか。うんっ行こう」 二人が歩く方向を変えたのが、鞄の中でわかった。 多分、目的の店に向かっているんだろう。 「(あそこ……? いつも服を買う店が決まってるのか)」 「すももの服、ほとんどあのお店の?」 「そうだなあ……そうかも」 「ふふ、やっぱりそうだったんだ。好きなんだね」 「一番好きなお洋服はお母さんが作ってくれる服だけど……」 「すももはお母さんの服、大好きだね」 「すもものために作ってるから、だろうね」 「えへ」 「(お母さんの服か……。確か、あの服を作ったのも、秋姫のお母さんなんだよな)」 「でもお店に飾ってる新しい服は見てるだけでも楽しいよ」 「すもも、可愛い服たくさん持ってるよね」 「そんな事ないよー」 「でもそういうの、よく似合うよ」 「うん。うらやましいな」 「えっ、そんなことないよ……ナコちゃんみたいにすらっとしてる方が、カッコイイもん」 「うーん、ど、どうかな……」 「そうだよ〜」 二人は歩きながら会話を続けている。 何だか女の子同士の会話を盗み聞きしてるみたいで、凄く気が引ける。 でも、聞こえて来るものだし、二人は俺がユキちゃんだと思ってるから気にしてないし……。 「ナコちゃんは欲しい物はないの?」 「うーん……特にないかな。すももの行きたい所についてゆくよ」 「あとは……あ、本屋さんにも行きたいかも」 「いいよ。何か欲しい本があるの?」 「うん。いつも買ってる漫画の新しい巻が出たの!」 「ナコちゃんは?」 「そうだな……私も何かおもしろそうなのないか、探してみる」 二人の足が止まり、秋姫の声が聞こえた。 少しだけ顔を覗かせてみると、可愛らしい外観をした建物が目に入った。 「着いたね、すもも」 「中、入らなくていいの?」 「あ、えっと……今日は外から見てるだけでもいいかなぁ」 「う…うん。お店の中入っちゃうと絶対買っちゃうもん!」 「今日は買わないの?」 「うん……見るだけにする」 「ふふ、わかった」 「わあ、新作のスカートが出てる!可愛いなあ」 どうやら秋姫は、展示されているスカートを見ているようだった。 やっぱり、女の子ってこういうのが好きなんだな。 聞こえて来る秋姫の声は、いつもより明るい気がする。 「ねえ、ナコちゃんはああいうの穿かないの?」 「ス、スカート?」 「あれ、きっとナコちゃんに似合うと思うんだけどなあ」 「私はいいよ……。スカートとか、似合わないし」 そういえば、八重野…私服はいつもズボン履いてるな。 「そうかなあ。可愛いと思うんだけどなあ」 「……すももの方が似合うよ」 「すももが着てるのを眺めてる方がいい」 「わたしはナコちゃんがあのスカートはいてるとこ、見たいな」 「また……いつか……かな」 「ナコちゃん、スカートきらい?」 「きらい…というより、似合わないと思う」 「そんなことないと思うのになあ」 「あ! あのねナコちゃん!!」 「もしスカートはきたいな〜って思ったら、わたしに選ばせてくれる?」 「え? ええ?! だ、だって、そんなのいつになるかわからないし」 「いいの。いつになっても。ナコちゃんがそう思う日が来たらっていう約束」 「わ、わかった……考えとく」 「ありがとう〜!」 「(やっぱり、八重野は秋姫だけに弱いんだな)」 鞄の外から聞こえて来る会話が、意識しなくても自然と耳に入って来る。 やっぱり、盗み聞きしているような気になって仕方がない。 でも、二人は俺がユキちゃんだと思ってるんだから、俺が気にしなきゃいいんだ、気にしなきゃ……。 そんなの難しいよな、やっぱり。 「(二人とも、ゴメン)」 「じゃあ、もう行こうナコちゃん」 「もういいの?」 「うん。新しいスカート見れたから」 「そっか、じゃあ次はどこに行く?」 「雑貨屋さんがいい」 しばらく買物を続けていた二人は、いろいろと欲しい物を選んだらしい。 おまけに秋姫は、やっぱりユキちゃん用にと服を買っていた。 一緒に出かけられる事は少ないって前にも言ったんだけどなあ……。 まあ、楽しそうだったからいいか。 買物を終わらせた二人は『らいむらいと』に行くと話していた。 いつも行き慣れた場所だけど、この姿で行くなら注意しないといけない。 見付からないように気をつけよう。 「ふう……いっぱい歩いたね」 「うん。すもも、疲れてない?」 カバンの隙間からあたりを見回すと、客はそれほど入っていないようだ。 おまけに小岩井もいない。 それでも用心しながら、俺はカバンの中で息を潜めていた。 「お買い物の後って、いっつも『らいむらいと』に来ちゃうね」 「美味しいから」 「はい、ナコちゃん」 「いちご大福にしよう。すももは?」 「ん〜っと……」 「どれも美味しそうだから、いつも迷ってるよね」 「これ! 抹茶クリームパフェにする」 「うん……あ、ひつじ君は……」 「あっ、ユ、ユキちゃん、何か食べたい?」 「い、いいっ!」 「わかった。すいませ〜ん」 「はい。ご注文は決まりましたか?」 「いちご大福と抹茶クリームパフェ一つずつ、お願いします」 「はい、かしこまりました。ご注文繰り返します。いちご大福と抹茶クリームパフェですね」 「少々お待ちくださ〜い」 「ねえ、ナコちゃん」 「ナコちゃん、今日……いつも通りだね」 「え? 私はいつもと変わらないよ」 「最近、ちょっと様子がおかしかったから」 「そ…そうかな」 「いつもと同じだと思う……けどな」 秋姫、なんだか言いにくい事でもあるのかな。 確かに、最近の八重野は少し様子がおかしいと俺も思ってたけど、原因はわからない。 「お待たせいたしました〜」 「こちら、いちご大福になります」 「抹茶クリームパフェです」 二人の座っているテーブルに店員が来たらしく、二人の会話が一旦止まった。 「それでは、ごゆっくりどうぞ」 「美味しそう」 店員が去っていくと、二人の声がまた聞こえた。 目の前に置かれたデザートに喜んでいるようだ。 「さっきの話の続きなんだけど」 「うん。最近ちょっと様子がおかしいなって思ってた事」 「あの……。ナコちゃんね、石蕗くんが居ると少し様子が違う気がするの」 「(えええ!?)」 そ、それってどういう事なんだ!? 全然意味がわからない。 俺、もしかしてあの事で八重野にすごく嫌な思いをさせてたんだろうか。 八重野は本当はずっと、俺のこと怒ってたんだろうか? 「あ、あの、ナコちゃん……石蕗くんとケンカした?」 「してないよ」 「石蕗くんのこと、きらい?」 「まさか……」 「園芸部で一緒に頑張ってくれてるし……嫌いだなんて思ってないよ?」 「わ、わたしの考えすぎだったのかも、ごめんね」 「すもも、ごめん」 「石蕗のこと、嫌いではない」 「そう言ったけど……わからないんだ」 「わからない??」 「ナコちゃん……じゃあやっぱり様子がおかしかったのは、本当?」 「……そんな風に見えたかな。やっぱり」 「……うん。どうしたのかなって」 秋姫は、落ち込んだように俯いている。 その様子に八重野は少し慌てて身を乗り出した。 「すもものせいじゃない、私が石蕗と一緒にいると…なんだか居心地が悪いんだ」 「(――お、俺!?)」 「何故かはわからない」 「石蕗が悪いヤツじゃないことも、私が石蕗を嫌ってるわけじゃないこともわかってる」 「だけど……何か……ごめん、うまく説明できない」 「だから、すももが気にする事じゃないよ。私のせいだから……ごめん」 「ううん。わたしこそごめんね」 「ナコちゃん、ほら。早く食べようよ、ね」 「ありがとう、すもも」 「ナコちゃん、わたしなんでも……お話聞くからね」 「わたしなんかじゃ力になれないかもしれないけど……」 「そんなことない」 「わたし、ナコちゃんの笑ってる顔、好きだもん」 その後、二人の会話は聞こえなくなってきた。 でも、会話が聞こえて来なくて良かった。 八重野が口にした言葉が何故かショックで、これ以上何も聞こえない方がありがたかったから……。 「ふう……ユキちゃん、お疲れさま」 「ずっとカバンの中になっちゃって……ごめんね」 「ユキちゃん、今日買ったお洋服、あわせてみる?」 「ううん……いい」 「どうかしたのかな?」 「すもも、ごめん……」 「今日、おれ……ボク、帰るよ」 「え? ど、どうしたの?」 「ごめんな、すもも……あの、いろいろ買ってくれてありがとう」 「ううん、何か……あったのかな?」 「あ、えっと、ちょ…ちょっと思い出したことがあったから」 「あ……ユキちゃん、雨降りそうだよ? 大丈夫?」 秋姫の声が後ろから聞こえる。 振り返って答えようとしたけど――できなかった。 俺はそのまま秋姫の部屋を飛び出した。 『石蕗と一緒にいると…なんだか居心地が悪いんだ』 満月のあの日に、俺は確かにそう聞いた。 八重野は確かにそう言っていた。 あの後、俺は自分の部屋に戻る途中に強い雨にうたれた。 「……はい、今日はここまでにしようか」 授業が終わり、みんなが席をたつ。 のどが渇いたな……。 あの夜雨に打たれてから、ずっと体の奥が熱かった。 「……は、はい?」 「ずいぶん熱っぽいようだね、風邪でもこじらせた?」 「熱はそんなにないと思います……」 「いや、そんなことないだろう? ひどい顔だよ」 「午後の授業は休んで、保健室で寝てきたらどうかな?」 「……風邪をこじらせた状態でユキちゃんになったら、どうなるか知らないよ僕は」 「さあ、休んできなさい」 「あれ……? 誰もいない?」 保健室には誰もいなかった。 薬をもらおうにも、何がどこにあるかわからない。 仕方なく、俺はベッドを勝手に拝借することにした。 「八重野はどして俺がいると、おかしくなるんだろう」 「八重野は一体何を考えてるんだろう」 「どうして俺……こんなにも……八重野…のこと……」 声にしていたかどうかは、わからなかった。 もうろうとした意識の中で、ただそんなことばかりがぐるぐるまわっていた。 「(……誰だろう)」 「(保健医さん……戻ってきたのかな)」 「今……誰か来てた……よな?」 保健室の机のはしに置かれていたのは、風邪薬の箱だった。 「誰だろう…やっぱり保険医さんだろうか?」 今の俺にとってはありがたい差し入れだった。 「もうすこし…眠ろう」 放課後はクラブ活動の時間。 それはわかっている。 でも、なんとなくクラブに行くのが辛い。 それは、あの翌日からずっとだ……。 『らいむらいと』での二人の会話。 あれを聞いてから、なんだか気が重い。 だから一人でこんな所にしゃがみ込んで、ボーっとしている。 何が原因なのかは、自分でもわかっている。 八重野が俺と一緒に居ると、居心地が悪いと言ったからだ。 どうしてそう思っているのか、どうしたらそうじゃなくなるのか。 そんな事を考えはするけれど、多分どうしようもない。 だけど俺、どうしてそんなに気にしてるんだろう。 八重野の裸を見てしまったから? でも、それだけじゃ理由にならない気がする。 クラブに黙って行かなくなったから、みんな心配してるんだろうか。 教室では時々、秋姫がこっちを気にしてるみたいだし、気にしてるんだろうな。 でも、理由を言って欠席するわけにもいかないし……。 俺、どうしたらいいんだろう。 こんな所に隠れるようにして、情けないよな。 「……何してんだろう」 聞こえて来た小さな足音に気付いて振り返ると、そこには秋姫がいた。 「良かった。石蕗くん、まだ学校にいたんだ」 「もう体……大丈夫?」 「保健室で寝てたら、だいぶマシになった。薬ももらったし」 薬…といえば、あれは誰がもってきたんだろう。 「秋姫さ」 「俺が休んでる時、保健室に来た?」 「ううん、行ってないよ」 あれは誰だったんだろう、やっぱり先生だったんだろうか。 「あのさ……秋姫」 「園芸部、しばらく顔出してなかったから」 「あ。うん。でもちょっと風邪気味だったし……ね」 「風邪だけのせいじゃないよ」 心配して探しに来たのかと思ったけれど、口ぶりを聞いているとそうでもないみたいだ。 でも、だったらどうして秋姫はここに……。 「あの、石蕗くん」 「ちょっとだけ…いいかな? あ、えっと……も、もう帰るならいいけど……」 「いいよ。大丈夫。なに?」 「あ、あの――」 「……あそこ、座る?」 俺は校舎のすみのベンチを指差した。 俺は先にベンチに座った。 秋姫はちょっと迷うみたいに立っていた。 「お、お隣に座っても、いい……かな」 「うん、もちろんいいよ」 頷いた俺の隣に、秋姫は遠慮がちに腰をおろした。 少しだけそちらに視線を向けると、秋姫は何か考えているようだった。 何を話そうかという事でも考えているんだろうか。 「えっと、あのね……」 「つ、石蕗くん、最近悩んでる事とか…あるのかな…」 「あの、ごめんね、教室でも何か考えてるみたいだったから」 ああ、そうか。 それで気になって秋姫は時々こっちを見てたんだ。 「あ! は、話すのが嫌だったら、話さなくていいよ」 「ただ、す、すっごく考えてるみたいだったから、誰かに話した方がいいかなって思って」 「あ! あ、でも! も、もう、男の子の友達に話してるかも知れないよね。ごめんね」 くるくると表情を変えながら、こちらの様子を伺うように秋姫は言葉を続けていた。 多分、これだけの事を言うためにいろいろ考えて、秋姫自身も悩んだに違いないだろう。 「あのさ、秋姫」 「なんか、ありがとう」 「それと、ごめん。クラブ出てないから、心配させたみたいだし」 「う、うん……。ノナちゃんも、ナコちゃんも心配してるよ」 しまった。 八重野の名前が出た時、無意識に返事が暗くなってしまった。 そして秋姫は、そんな俺の動揺を見逃さなかった。 「石蕗くん。気になる事があるなら、本当に何でも言ってね」 「わ、わたしだと、ちょっと頼りないかも知れないけど……」 「……そんなことないよ」 「その、聞いてもらっていいか?」 「う、うん! もちろんだよ?」 俺、今ぬいぐるみじゃないけど……。 このもやもやした感じ、秋姫にだったら話していいような気がした。 でも、話したくて、誰かに聞いてほしくてたまらない。 「あの………」 「俺が」 「俺が秋姫や八重野たちと一緒にいると……なんだかおかしくないか?」 「お、おかしい?」 「うん。八重野が……すごく息苦しそうで」 「八重野はそんな風には見せまいって、平気なフリしてるけど……なんでかわかってしまうんだ」 「八重野、そんなだから…何考えてるんだろうとか、どうしてなんだろっていろいろ思うんだけど――」 「何にもわからない」 「わからないんだ……だから俺……なんか頭の中混乱してる」 「うん。ごめん……だから、クラブが嫌になったとか、そういうんじゃないんだ」 「園芸部でみんなと色々な事をするのは、楽しいと思ってる」 「だけど、それをさ……壊してるのは俺なんじゃないかって」 「そんなっ」 「なんか、そんな風に考えちゃって、行けなかった」 「……ごめんな」 秋姫も迷惑じゃなかっただろうか。 俺は秋姫に甘えて、素直に思った事をぶつけてしまった……。 やっぱり、言わない方が良かったんだろうか。 「ナコちゃんのこと、いっぱい考えちゃって、頭の中がいっぱいになったんだよね?」 「何を考えてるんだろう、どうしてそんな顔するんだろう……って」 「そっか……。あの、それはね」 「それはね……石蕗くんが、ナコちゃんを気にしているからだと思うの」 「気にしてる……とは思うけど」 「そういう意味じゃなくて、あの…。石蕗くんは……」 「石蕗くんは、ナコちゃんが好きなんじゃないかな」 「ナコちゃんが好きだから、そんな風に心の中がいっぱいになるんじゃないかな?」 「お、俺が……八重野を?」 「す…き……? まさか……」 「わたしも、好きな人のことを思うとそうなるから」 「何を考えてるんだろうな、とか、どうしてそんな顔してるのかな、とか……」 確かにそうだ。 秋姫の言うことに思い当たることがたくさんある。 じゃあ…じゃあ俺は八重野のことが好きなのか? 「あ……あのね」 「そういう気持ちって……ね、すごく強いのに…ね」 「言葉にしないと……伝わらないみたい」 「不思議だよね、すごくすごく強い思いなのに」 「ご、ごめんね、なんだかわたし、無理やり聞いちゃったかな」 「秋姫、真剣に答えてくれたから……少しラクになった」 「良かった! 石蕗くん、はやく元気になってね」 「みんなが揃ってないと、園芸部やっぱり寂しいもん」 「今度からちゃんと行く、俺……園芸部、好きだから」 「ありがとう、石蕗くん。みんな待ってるから」 「話――聞いてくれてありがとう」 「秋姫、本当に優しいな。八重野が秋姫のことを大事にしてる気持ち、わかった」 「じゃあ、また明日――」 「石蕗くん、明日は祝日でお休みだよ」 「ほら、明日は祝日でしょ……だから次に会うのは来週だね」 「……ほんとだ」 それから、秋姫は俺を昇降口まで送ってくれた。 無理やりクラブにでることはない、いつでも戻ってきてと、やさしい言葉もくれた。 「ほんとに……ありがとうな」 「こんなこと……聞いてくれて……さ」 「う、ううん、いいよー」 「ううん、なんでもない」 「そっかー石蕗くん、ナコちゃんのこと好きだったんだ…」 「な、なんだよ……」 「頑張ってね、石蕗くん」 「秋姫、本当に仲良くしてくれてありがとう」 「だって、石蕗くんは大切な友達だもん」 「そ、それじゃまた来週」 「うん、また来週……」 「ぐす……すん。ぐす」 「……ひぅ、う」 「すもも、いる?」 「ぐす……! あ、な、ナコちゃん!」 「すもも……?」 「ど、どうしたの、ナコちゃん」 「すもも、泣いてた?」 「えっ、な、泣いてないよ? ナコちゃん、どうしたの?」 「すもも、頬に…涙のあとがある」 「あ、あの、なんでもないの、目が痛くってこすっちゃったら涙が出ちゃって――」 「え、あの、ナコちゃん」 「ねえ、何かあったの? 教えてすもも」 「ほ、本当になんでもないの。ごめん、ナコちゃん」 「どうして謝ってるの、すもも?」 「石蕗に会いに行くって言ってたけど……何かあったの?」 「本当になんでもないから!」 「ごめん、ナコちゃん……」 「何か、用事あったんだよね?」 「別に……。如月先生が、今日はもう終わりにしていいって言ったから」 「そっか。じゃあ、帰ろう」 「本当になんでもないんだよ。だから、そんな顔しないで、ね?」 「ナコちゃん、帰りにね『らいむらいと』寄っていかない?」 「小岩井さんがね、言ってたの。新しいお菓子ができたからおいでねって! だから一緒に行こう?」 「わかった……でも、すもも」 「じゃあ、帰る用意しよう」 秋姫の家にくるのは、久しぶりだった。 あの買い物の日以来、俺はどうしてもここに来れずにいた。 一応手紙は書いてみたけれど……。 「……秋姫、怒ってるかな」 昼間の様子は元気そうだったから、大丈夫かなとも思う。 だけどやっぱり、突然行かなくなった俺を怒ってる可能性だってなくもない。 「そんなことないかな」 秋姫は出てこない。 仕方なく俺は自分で窓を開けて入っていった。 「……んっ、しょ……」 「あれ、寝てたの?」 秋姫はベッドに横になっていた。 「寂しかったよ、ユキちゃん……もう用事は終わったのかな」 「う…うん。しばらく来れなくて、ごめん」 寂しそうな秋姫の顔を見ると、心の奥がちくりと痛んだ。 「具合…悪いのかな?」 「何だか熱あるみたいだよ、目…赤いし」 「あ、だ、大丈夫」 「風邪、ひいちゃったのかな? でもそんなに熱はなさそうだよ?」 「すもも、しずくを採ることとかさ……体壊すくらいなら、しばらく忘れてもいいんだよ?」 「ユキちゃん……」 「あ、起きてこなくていいよ、そのまま横になって休んどきなよ」 「ユキちゃん、優しいね」 「優しいの…うれしい。ありがとうユキちゃん」 「好きな人には優しくするものかな?」 「あ……なんでもない、ご、ごめんね」 「ううん、好きな人には……みんな優しくなるんじゃないのかな?」 「……そっかぁ」 「好きって、いろんな種類があるんだね」 秋姫は横になったまま、もううとうとと眠っていた。 「寝ちゃったのか」 『すもものせいじゃない、私が石蕗と一緒にいると…なんだか居心地が悪いんだ』 『ナコちゃんが好きだから、そんな風に心の中がいっぱいになるんじゃないかな?』 『何を考えてるんだろうな、とか、どうしてそんな顔してるのかな、とか……』 「電話がかかってきてるらしいぞ、石蕗に」 「俺に電話? 誰から?」 「ロビーにいって聞いてみな」 「わかった。ありがとう」 「……もしもし?」 電話の向こうから聞こえてきたのは、意外な声だった。 「や、八重野っ」 「どうした……の?」 「話しがある」 「話し? な、なに?」 「電話じゃできない」 「(電話じゃできないような……話し?)」 一体何なんだろう。 八重野がそんな風にもったいぶるなんて今までなかった。 「会って話さなきゃいけない…時間ないかな?」 「いつなら大丈夫?」 「いつ……そうだな」 電話の横にかけられたカレンダーを見ると、ちょうど明日は新月の日だった。 「明日なら、いつでも」 「わかった。じゃあ星ノ森公園に夕方…5時くらいで」 「星ノ森公園に5時だな、わかった」 八重野の様子は、なんだかおかしかった。 だけど八重野の声を聞けて、嬉しいなと思ってしまう俺もいた。 「(……それはやっぱり、俺が八重野のこと、好きだから?)」 わからない。 何もかもわからないまま、俺には約束の明日を待つことしかできなかった。 ――翌日。 五時よりも少し早めにつくように、俺は公園へと向かった。 「ごめん、遅かった?」 「いや、私が早く来ただけ」 八重野の様子は、やっぱりおかしい。 もともとそっけない感じはするけれど、今日はそれとも違う……なんだか冷たい感じがした。 「……話って…なに?」 「すももが、泣いてた」 「秋姫…が? どうして――」 「石蕗、すももに何をしたの?」 「石蕗はすもものこと、どう思ってるの? なぜ傷つけるの?」 「ま、まって八重野――」 八重野の顔が、怒りに満ちていた。 すももが泣いていた、それが理由なんだろう。 でも俺は秋姫を泣かせたことなんてない。 俺はごくんと唾を飲み込み、はっきり八重野に伝えた。 「俺、秋姫のことはすごく大切に思ってる」 「どんなことでも頑張って、真剣に考えてて……なんにでも一生懸命なとこ、すごいと思うんだ」 「だから、秋姫は俺にとって大切な友達だ」 「俺、ずっと、ずっと女の子が苦手だった。いつも言葉が足りなくて、傷つけることが多かったから」 「でも秋姫は、そんな俺の話を……言葉たらずな俺の話を真剣に聞いてくれて、本当の気持ちに気づかせてくれたんだ」 「そんな大事な友達を、傷つけたりしない」 「本当の……気持ち?」 「俺、八重野のことが、好きなんだ――」 「つ…わぶ……き」 「本当の気持ち……なんだ」 「俺、初めてそんな気持ちになって…だからずっとわからなかった」 「それが八重野のこと、好きなんだってことに」 「……やめて」 「秋姫は、俺の気持ちに気づかせてくれたんだ」 「ずっと……八重野の顔を見ると苦しかったのは、俺が八重野のこと好きだからなんだって」 「秋姫が俺に答えを教えてくれたんだ」 「……どうして」 「どうしてすももに……そんな…私…」 「八重野、どうしたんだ?」 八重野の怒りが、ストンと消え去った。 その代わりにやってきたのは、何もない八重野。 何もない。どこも見ていない。 目の前にいる俺すら見えていない、八重野だった。 「八重野!!」 「……じゃなかったら」 「私じゃなかったら……」 「石蕗、もう……私のことは……見ないで」 八重野は、いやいやと顔を横にふりながら、少しずつ後ずさりする。 俺が手を伸ばせばそのぶん、一歩すすめば同じだけ、俺から離れていった。 「や……そ、そんな…の」 「八重野っ」 「あ、ありが……」 言葉を途中で飲み込んだ八重野は、うなだれるように地面を見つめ続けていた。 「八重野、どうしたんだ? いつもの八重野らしくない」 「俺の…俺の知ってる八重野は……さ」 「いつでも、周りのことを見て、誰もしんどかったり悲しかったりしてないか、気遣っててさ」 「八重野も俺みたいに、話す時はすごく言葉少ないのに」 「なのにさ、俺と違って……少ない言葉で、人の気持ちをあったかくすることができるだろ?」 八重野は呆然とした瞳で、俺の顔を見上げた。 「ごめん、俺、八重野のこと何もかも知ってるワケじゃないのにこんなこと言って」 「だから俺、もっと八重野のこと知りたい」 「知りたいから、そばにいたい」 「俺、八重野の一番そばにいたいんだ」 「……くっ」 「や…えの?」 「八重野、なんで?」 「なんで泣いて…るの?」 「――八重野」 「泣かないで…くれよ」 辛そうに涙を流す八重野に、俺は自然と手が伸びた。 「……つわ…っ」 「八重野、待って」 「八重野っ!!」 「――っ」 柔らかな腕、細い首、震える肩……八重野を抱きしめてはじめて、やっと俺は八重野にこんなにも弱い部分があることを知った。 「なんでなんだ、八重野」 「……ぅうっ、くっ……」 「……つわぶ……き」 「ごめん、ごめん……俺」 「八重野の気持ちとか、聞いてないのに……こんなことしてる」 「ごめんな、でも八重野が泣いてるとこ見てたら、我慢できなかった」 「なんで泣いてるんだよ」 「俺、八重野の……ひとつも嘘をついてないところが好きなんだ」 「いつもさ、一生懸命なところとか、まっすぐなところとか」 「そういうとこが、たまらなく好きなんだ……」 「……くっ…うぅ」 「俺、いつだってうまく言えないから……自分の気持ち、うまく伝えられないから……だから八重野を泣かせてるのか?」 「もしもそうなら、ごめん。泣かないで、八重野」 「八重野、泣いてるの……俺のせいなら……ごめん」 「……つわ…ぶき」 「ちが……う」 「八重野……?」 「違う……んだ」 「わ…たし……」 「私は、すももの笑顔が、一番好き……なのに」 「私は」 「すもものことが好きなのに」 「ずっと、子供のころから」 「すももが泣いていると悲しくて」 「すももが笑ってると嬉しくて…………」 「だから…すももが悲しむのは……苦しいのに」 「石蕗、どうして私を好きになったの?」 俺はぎゅっと八重野を抱き寄せた。 一瞬、お互いの鼓動が重なりあった気がした。 「そんなの、説明できない」 「俺は八重野のこと、好きになったんだ」 「……うぅっ」 「だめなんだ…だめなんだよ……石蕗」 「くっ……うぅ、ふくっ……」 「……ごめん、八重野、誰か好きな人とか……いたなら、ごめん」 そうだ。 俺は自分の思いだけを一方的に告げて、八重野の体を抱きしめていた。 八重野を抱く腕の力をゆるめた時、俺は……やっと本当のことに気づいた。 八重野が、俺の腕をぎゅっと握っている。 「だめなんだけど……どうしたらいい」 「どうしたらいいの?」 「私は……すもも…悲しむ顔……見たくないのに……」 「石蕗が、石蕗の手…が……」 「離れて……ほしくないって……思ってしまったんだ……」 「う…くくっ……うううっ」 俺は間違っていた。 いろいろなことを、間違えていた。 秋姫は、俺のことが好きだったんだ。 でも俺は八重野を好きになった。 そして八重野は……。 八重野は俺のことを、好きになってしまったんだ……。 秋姫と八重野と顔を合わせるのを避けるため、今日はいつもより早く寮を出た。 我が事ながら、情けなくて仕方ない。 でも、朝から二人の顔を見ながら学校に来るなんてできなかった。 扉の音に驚いてそちらに振り返る。 さっきから、それを何度繰り返しただろう。 「あ。お、おはよう」 教室の扉を開いて中に入って来たのは、秋姫だった。 目が合ったので挨拶すると、向こうも同じように挨拶をしてくれた。 だけど、今日は秋姫の隣に八重野の姿がない。 「今日は朝、会わなかったね」 「えっと……。あ、ナコちゃん?」 「朝、家に電話があって、今日はお休みするって……」 「うん。こんな事初めてだから、ビックリしちゃった」 八重野が学校を休むって、やっぱり俺が原因だよな。 それ以外に考えられない。 「あ、なに?」 「心配だよね…ナコちゃんのこと」 「――う、うん」 「じゃあ今日……放課後にナコちゃんのお見舞い行かないかな?」 「つ、石蕗君一人だと行きにくいと思うし、わたしもナコちゃんのこと気になるし」 「……俺、いけない」 「あの、放課後は……ちょっと」 「あっ、そういえば……そうだよね」 「放課後、いつも用事があるってこと……忘れちゃってた、ごめんね」 「いや……俺の方こそごめん。せっかく誘ってくれたのに」 「ううん、いいの! 気にしないで」 「わたし、お見舞いに行ったら……石蕗くんも心配してたよって、ちゃんと伝えておくね」 「(心配してたよ……か)」 心配はもちろんしてる。 誰より八重野のことを思ってるつもりだ。 でも、でもそれを秋姫の口から聞いたら、八重野はどう思うだろうか。 「八重野……」 何も……考えられなかった。 「来てたんだね、ほら、早く入って入って」 「ユキちゃん、いらっしゃい」 秋姫はいつものようにしずくの反応を見ていたけど、やっぱり今日も反応はない。 「やっぱり……何も反応しないな」 「もう星のしずくを見つけることも……できなくなっちゃったのかな」 「そ、そんなことないよ!!」 「ありがとう、そうだね、自分がそんな風に思ってたら、ほんとにできなくなっちゃうよね」 秋姫は自分を戒めるように俯き、一度こくんと頷いてから、また顔をあげた。 「……そうだ、ユキちゃん」 「あのね、ナコちゃんのお見舞いに行かない? 一緒に」 「ええっ!? い、今から!?」 「う…うーん……」 「ナコちゃん……元気かなぁ」 断る理由なんて、『ユキちゃん』にはない。 むしろ嫌がるほうがあやしいだろう。 こうして俺は、秋姫とともに八重野のお見舞いに向かうことになってしまった。 「ごめんね、ナコちゃん。急に来て」 「ううん。こっちこそ、ごめん」 「今日、休んじゃったから」 「そんな。ナコちゃんだって、そんな日くらいあるよ」 「ユキちゃんも心配してるみたいだし、早く元気になるといいね」 八重野の様子は、やっぱりいつもと違っていた。 秋姫と一緒なのに、あまり笑わない。 声にも元気がない。 原因はやっぱり俺だよな……あんな事言ったから。 「ナコちゃん、本当にどうしたの?」 「凄く元気がないもん。もしかして、何かあったの?」 「わたしにも言えないかな……。わたし、ナコちゃんが悩んでるなら、助けてあげたい」 それは秋姫の本心だろう。 嘘いつわりのない、まっすぐな心だ。 そして何よりそのまっすぐさを知っているのが、八重野本人だ。 八重野は床をじっと見つめ、唇を噛んでいた。 「すもも、好きな人いるよね」 「えっ、えっ? あの……」 「石蕗のこと……好きだよね」 「は……う…ナ、ナコちゃ……ど、どうしてわか…っ」 「すもものことだもの」 「すももの気持ち、私…気づいてた」 「ナコちゃ…ん」 「ごめん、もっとちゃんと話したかった」 「すももがいろんなことを考えて、石蕗のことで笑ってたり苦しそうだったりしてること、気づいてた」 「できたら私、すももの力になってあげたいって思ってた」 「すもも……ごめんなさい」 「もしかしたらすももの気持ち、石蕗にわかってしまったかも知れない」 「え!? な、ナコちゃん、それどういう……」 「すももが、石蕗を好きだっていう事が、石蕗に知られたかもしれない……」 「そ、それ、えっと……どうしてそう思うの?」 「……ごめんなさい」 秋姫の『どうして』にただひたすら謝り続けていた。 理由なんて話せるわけない。 八重野が本当に秋姫のことが好きだからこそ、真実を伝えられない。 八重野…ごめん。 謝らなくていいのに。八重野は謝ることなんて、なにもないのに! 「そっか…石蕗くん、だから今日少し様子がヘンだったのかな」 「で、でもナコちゃん、そんなの気にしないで!!」 「……っく」 「…く……ぅう」 「ナコ……ちゃん?」 「ごめん……ごめんなさい……すもも…ごめん……」 「ナコちゃん、泣かないで」 「……う…く…」 「ナコちゃんは小さな頃からずっと変わらない、わたしの大切な友達」 「何があっても、変わらないよ」 「すもも……私も……私もすもものことが大事だよ」 「うん、知ってる」 秋姫の手がぴくんと動いた。 秋姫は八重野の鏡だ。 何もかもが正反対の二人に共通しているのは、互いを思いやる気持ちだ。 だからこそ……秋姫は何かに気づいたのかもしれない。 八重野が唇をかみながら隠している、何かに……。 今日も八重野は休んでいる。 秋姫は学校に来てはいるものの、いつもより元気がないように見える。 二人がこうなったのは俺のせいだ。 俺が何にも気付かずに二人と一緒に居たから……。 秋姫にも八重野にも辛い思いをさせて、俺はどうしたらいいんだろう。 「はあ……」 「暗い顔してんなー、ハル」 「ああ、圭介か」 「……ホントにどうしたんだ?」 「え? いや、別に」 「別にって顔じゃないぞ。なんかおもしろいコト言って和ませよーかなって思ったんだけどさ……それどころじゃないみたいだな」 「そんなに暗い顔してたか?」 「ああ、すごく」 自分では気付いてなかったけど、やっぱり顔に出てたのか。 参ったな、こんなんじゃまたクラブにも行けないじゃないか。 「まあ、半年前のハルしか知らなかったら、いつも通りって思うのかもしれないけどな」 「顔のこわ〜い石蕗君って事」 「なんだよ、それ」 「そのまんまの意味だけど」 「ま、それよりさ」 「なんだよ?」 「何か悩みがあるなら言えよ? 誰にも言わずに考えるのはハルの悪い癖だぞ」 「なんだ? オレにも言えないような事か?」 「別に、そういう事じゃないけど……」 「じゃあ、言ってみろよ」 「簡単に言える事じゃないんだ」 「じゃあ簡単に言ってくれ」 「……どうしても聞きたいって事か」 「当たり」 ニカっと笑った圭介を見て、俺は少し呆れつつも嬉しかった。 こうやって誰かが自分の心配をしてくれるのは、ありがたいもんな。 「さあさあ、遠慮せずに言ってみろ」 「あのさ、自分のせいで辛い思いをした人が居るとしたら、圭介ならどうする?」 「また、えらく簡単に言ったな」 「簡単に言えって言ったのはそっちだろ」 「オレのせいで辛い思いねえ……。その度合いにもよるけれど、やっぱり自分のできる事をするかな」 「自分ができる事……」 「そう。例えば誠意を見せるとか、謝るとか、色々あるじゃん」 「そういうのは、相手にわかるような状態で、しっかりしておかないとダメだと思う」 「……そうだな」 「お、なんかちょっと顔が明るくなったな。オレの意見は参考になったか?」 「ま、それなりに」 「それなりね〜。まあ、別にいいけど」 「ハル、あんまり暗い顔してるなよ? ただでさえ普段から無愛想なんだから」 「いいだろ、どんな顔してたって」 「ダメだって。怖い顔してたら、誰も近寄らないぞ」 そうか、それで誰も声をかけて来なかったのかな。 圭介、それだけ言うために声かけてくれたんだろうか。 「悪かった。気をつける」 「うむ。圭介先生の授業終了」 二人がどれくらい辛い思いをしたのか、俺には想像もできない。 だけど、俺が辛い思いをさせたのは間違いのない事実なんだから、二人に謝らないといけないと思う。 今すぐに許してもらえないかも知れないけど、いつかちゃんと謝ろう。 授業の終わった放課後、教室からは人の姿が少なくなっていく。 結城は既にクラブに行ったようで、姿が見えない。 松田さんもいないから間違いないだろう。 教室の中をキョロキョロすると、秋姫が教室を出て行こうとしている姿が見えた。 秋姫を追いかけ呼び止めると、驚いたように振り返られた。 「ごめん。あの、ちょっと話したいんだけど、いいかな?」 「じゃあ、どっか別の場所に……」 「……じゃあまた、あの場所で」 慌てて席に戻って鞄を取り、俺は秋姫と一緒に教室を出た。 この前と同じ場所に、秋姫と一緒に座る。 空は夕焼けの赤に変わり始めている。 早く話を終わらせてクラブに行かないと、俺は変化してしまう。 「どうしたの、石蕗くん?」 そわそわしていた俺に気づき、秋姫はきょとんとこっちを見ていた。 「俺、秋姫に謝らないといけない事があるんだ」 「あやまる? ど、どうしてかな?」 「あの……。俺、この前……」 はっきりと言わなくちゃいけない事はわかっていた。 だけど、言葉が口から出ない。 真実を告げる事を俺は怖がっていた。 「この間の日曜日、何かあったんだよね?」 「わたし、その次の日にナコちゃんのお見舞いに行ったんだ」 俺も行ったから知ってる。 その時の八重野の姿を見ていたから、だから余計に言葉が口に出せないんだ。 「や、八重野、元気だった?」 「ちょっと元気なかったかな。でも、大丈夫」 「わたし、ナコちゃんの事よく知ってるから。ゆっくりでも、いつも通りのナコちゃんに戻るから」 「秋姫……」 「秋姫、ごめん」 「俺……。八重野に告白したんだ」 「驚かないんだな」 「うん。ナコちゃんの所に行って話をした時、そうじゃないかなって思ったから」 やっぱり秋姫は気づいていたんだ。 それでいて、俺にも八重野にも、変わらずに接してくれてたんだ。 秋姫は本当はすごく強い子なのかもしれない。 夕暮れに照らされる横顔を見て、そう感じた。 「それで俺、今まで気付かなかったんだけど……秋姫の気持ち……」 「本当に全然気付いてなくて、ごめん。それしか言えなくて」 「俺の事想っててくれたのに、あんな風に相談してしまって、辛い思いをさせたと思ったから……」 「謝らなきゃって思ったんだ」 「ごめん。でも、俺は自分の気持ちに嘘はつけない」 この言葉は余計に秋姫を傷つけて、辛い思いをさせているかも知れない。 でも、心にもない優しい言葉をかけるなんて、俺にはできそうにない。 「ごめん…な」 秋姫は、こんなことを言った俺に、やさしく笑みを返してくれた。 「石蕗くんとナコちゃんは、どこか似てるかも知れない」 「二人とも自分の気持ちに鈍感で、一人で気付けなくて、でも優しくて正直で」 「わたし、だから二人が好きなのかな」 「あ、秋姫?」 「ごめんね、石蕗くん」 「な、なんで秋姫が謝るんだよ。俺が……」 「ううん、いいの。何となくそんな気持ちになったから」 「さっきも言ったけど、ナコちゃんなら大丈夫だよ」 「きっと、元通りのナコちゃんに戻るから」 「秋姫は強いんだな」 「そう思った」 「わたしは強いんじゃないと思うよ」 「うん。わたしは強いんじゃなくて、二人が大好きなだけだと思う」 「だからナコちゃんも石蕗くんも……わたしの好きなままでいて」 「自分の気持ちにまっすぐで、優しくて、正直な――わたしの大好きな二人でいてほしい」 「ナコちゃんは強い人だけど……でもやっぱり、女の子だから」 「恋する心ってとても小さくて弱いから、石蕗くん」 「だから、大事にしてあげて」 「ああ、もちろん」 「わかってる、ありがとう秋姫……」 胸の中がいっぱいになって、その熱さがこみあげてきて、俺はもう少しで涙を流してしまうところだった。 顔をそむけた俺の肩を、何もかもわかっているように、秋姫の小さな手のひらがぽんぽんと叩いてくれた。 すももは強い子だった。 初めて出会った時の、今にも泣きそうな顔をしていた子と一緒だとは思えなかった。 自分もいろいろなことから、逃げていてはいけない。 そう、苦しんでいる八重野から逃げてちゃ……いけない。 「みんな……変わるんだよな」 「わー。やっと来てくれた! 良かったー!」 「ずっと来なかったから、心配してたんだよ」 「謝らなくていいよ。入って、入って」 やっぱり、俺が来ない事心配してたみたいだ。 悪い事したんだな、俺……。 「あの、すもも」 「なぁに、ユキちゃん?」 「し、しばらく来れなくてごめんね」 「うん。ちょっと心配だった」 「ひ、一人で大丈夫だった?」 俺は何聞いてるんだろう。 でもなんとなく気になって、聞かずにはいられなかった。 「ユキちゃん…どうしたの?」 「い、いや、だって!」 「いろいろ……あったし」 「ユキちゃん、心配してくれてありがとう」 「でもね、ユキちゃんが来ない間は、ユキちゃんの事ばっかり考えてたの」 「だって、星のしずく……あと、2つで全部揃うんだよ」 「あ、そうか」 秋姫は思ってたよりも元気みたいだ。 俺に見せてくれたやさしさは、決して強がりじゃなかったんだ。 「嫌だなあ、ユキちゃん。忘れてたの?」 「そ、そういうわけじゃないけど! ご、ごめん」 「……本当にあと2つなんだね」 「ちょっと寂しいな」 「星のしずくが全部揃うと、ユキちゃんとお別れしないといけないんだもん」 「そうだね……」 「謝らないで、ユキちゃん。わたし、ユキちゃんに会えた事すごく嬉しかったから」 「たくさん、たくさん、不思議な経験をさせてくれたもの」 「ユキちゃんと一緒にいたからできたこととか、変わったこともたくさんあるんだよ」 でも、そう思ってるのは秋姫だけじゃないんだ。 俺も最初は驚いたけど、同じように思ってる……。 園芸部にも入ったし、秋姫や結城と仲良くなって、そして人を好きになれた。 全部、あの偶然の事件から始まったんだ。 「ユキちゃんが居なくなるのは本当に寂しいけれど、心配しないで」 「わたしには大事な家族や友達が側にいてくれているもの」 「だからユキちゃんがお家に帰るときは……笑顔で送ってあげる」 「やっとやっとお家に帰れるんだもの」 秋姫の笑顔がふっと曇った。 本当に辛そうな、何かを心の奥に隠しているような、そんな表情だ。 「あのね……」 「どうしたんだよ、すもも、話して! 何も遠慮なんかしなくていいから」 「……なんでも、聞くから」 「あのね…わたしの大事なお友達が、今とても辛そうなの」 「……な、ナコちゃん?」 「うん。わたしは、ナコちゃんに何をしてあげられるのかな……」 「いつもナコちゃんがわたしを助けてくれるみたいに、わたしもナコちゃんを助けてあげたい」 「で、できると思うよ、すももなら」 「それから、ナコちゃんだってわかってる」 「すももがナコちゃんのことをさ、すごく大切に思ってること」 「たとえすももが何もできないって思ってても、きっとできてるんだ」 「ナコちゃんのこと、助けられるんだよ」 「あ、すもも」 突然、すももの指にはめられた指輪が、ぼんやりと小さな光りを放った。 それは本当に小さく、今にも消えてしまいそうなほどの輝きだ。 「指輪が光ってる」 「でも、これじゃあ」 「うん。場所がわからない……」 今にも消えそうな輝きの指輪を握りしめながら、秋姫は一瞬だけ困ったように眉をひそめた。 だが、すぐにその表情を引き締める。 「でも、大丈夫」 「ナコちゃんが一緒なら、わたし頑張れると思う」 「うん。本当だよ」 「だって、今までだってずっとそうだったもん。一人じゃできなくても、二人ならできた」 「だから、今からナコちゃんに会わなくちゃ」 立ち上がった秋姫は、俺を肩に乗せて、いつもの本を抱えて走り出した。 「ナコちゃん――」 秋姫の手が、そっと俺の頭を撫でる。 「……大丈夫だよ、ユキちゃん」 「さっきユキちゃんが言ってくれた」 「わたしでもナコちゃんを助けてあげられる」 「わたし…またナコちゃんに力を借りちゃうけど」 「きっときっと、ナコちゃんの悲しい気持ちを、助けてあげられるって」 「……はあはあ」 「ナコちゃん! 良かった」 「ナコちゃん、指輪が!」 慌てた様子で、秋姫は指輪を八重野に差し出した。 まだ光りは消えずにぼんやりと輝いている。 「このままじゃ、しずくの位置が見つけられないの」 「お願い……ナコちゃんの力を貸して」 「……どうすればいい? 私はすももに何がしてあげられる?」 「……今の私に……すもものこと…助けられるかな」 「ナコちゃん!」 「何もしてくれなくてもいいの。ただ、わたしのそばに居て、ナコちゃん」 「ナコちゃんと一緒なら、しずくの場所を探せる気がするから」 「わかった。ちょっと待ってて」 「行こう、すもも」 「指輪っ!」 指輪に目をやると、その輝きはさっきよりも増しているように思えた。 「さっきより強く光ってる」 「どうして」 「きっと、ナコちゃんがいてくれるからだよ」 「ボクもそう思う」 二人が一緒にいるから。 根拠なんてないけれど、それしか理由は考えられない。 秋姫の力が心に左右されるものだというのなら、八重野がいる事で力も心も安定しているのかも知れない。 「今なら、星のしずくの場所がわかるかも」 「でも、どうやって?」 八重野の手に、秋姫がそっと自分の手を添えた。 「手を……空に向けて、一緒に」 「そうすれば、わかる気がする」 二人は頷き合い、八重野が秋姫の手を握った。 そして、二人は同時に腕を高くかかげる。 「わあっ!」 「やっぱりっ!」 大きく光り輝き始めた指輪は、眩しいほどの輝きを放った。 そしてその光りは、真っ直ぐにある一点を指す。 「あっち!」 「あっちは……学園の方!?」 「光り、まだ消えない! このまま行こう、ナコちゃん、ユキちゃん!」 頷きあった二人は、並んで走り出した。 俺は秋姫の肩に必死に掴まる。 二人が走るたびに、指輪の光りは輝きを増す。 星のしずくの居場所が近付いているのを必死で教えるように、強く大きく輝き続ける。 これならきっと、星のしずくの場所はすぐわかるはずだ。 近付けば近付くほど、輝きは増すだろうから――。 「あ! 指輪の光りが!」 「また大きくなってる」 「きっと近付いてるんだよ、中に入ってみよう」 「光りが差してるのは……」 「校舎の裏の方?」 「そうみたい。行ってみよう」 「ユキちゃん、落ちないように気をつけて」 しずくに弄ばれるように、俺たちは校舎の中を走り回った。 そして辿りついた場所は……旧校舎のあたり。 園芸部がある場所の、すぐ近くだった。 「ここ……?」 「違う、すもも。指輪が」 「ここじゃないんだ。もっと向こうを指してるよ」 向こうは確か、園芸部の温室の方だ。 多分、それには二人とも気付いている。 「向こうは、温室……」 「温室に落ちてきた?」 「……かもしれない」 「うん、行こうナコちゃん」 いつもより少しだけ、秋姫の口調が力強い。 そして、それに答える八重野もだ。 きっと、二人でいるからなんだろう。 二人とも、一緒にいることで互いの心を強く支えている。 秋姫と八重野はそんな二人だった。 「あ! 向こうを指してる」 「温室の中だ」 「――温室の扉、開いてる!!」 「本当だ。あそこから中に入ったのかな」 「星のしずくに壁やガラスをすり抜けることができないなら、そうだと思う」 「あの中に、星のしずくが……」 「すもも、大丈夫?」 「大丈夫、心配しないで。私が一緒だから」 「すももが杖を持つのが不安だって言うなら、私が杖を持ってしずくを追いかける」 「大丈夫。二人一緒なら、きっとできるから」 頷いた秋姫の手の中で指輪が杖に変わった。 一度、強く杖を握った秋姫は、八重野に視線を向ける。 「すもも。大丈夫、任せて」 手の中の杖を秋姫が差し出し、八重野がそれをしっかりと受け取った。 そして杖を持った八重野が先に立ち、その後ろに秋姫が並ぶ。 俺は秋姫の肩に乗ったまま、息の合った二人を見つめていた。 「大丈夫だよ。ナコちゃんと一緒だから」 俺も、本当に心からそう思ってる。 足を踏み入れた温室の中央では、星のしずくがきらきらと輝いていた。 「水だ……」 「今日撒いて帰った水が残ってたんだ」 「それに反応して来たんだね」 「動かないね、星のしずく」 八重野の言う通り、星のしずくは温室の中央にできていた水たまりの上に止まって動かない。 そこで気持ちよく昼寝をしているように、ゆらゆらと揺れている。 「ちょっと近付いてみる。すももは星のしずくが、入り口から逃げないようにそこに立ってて」 入り口に秋姫を立たせて、八重野は星のしずくに近付き始めた。 すると、その足音に気付いたのか星のしずくはゆっくりと動き始めた。 「なんだか、随分ゆっくりな動きだね」 「ナコちゃんを警戒してるのかな」 「でも、今までのしずくは、いつもすぐに逃げ出してたよ」 「そうだよね」 理由はわからないが、今回の星のしずくは動きが遅いようだった。 もしかしたら、これはすぐに捕まえられるかもしれない。 そう思ったのは八重野も一緒のようで、いっきに間合いを縮めていった。 「すもも、このまま捕まえられるかも知れない」 「さっきからずっと追いかけてるけど、早さが変わらない」 「もしかしたら、このしずくは動きが遅いのかも知れない」 「そ、そうなのかな?」 「わからない。けど、捕まえられるなら、このまますぐに捕まえよう!」 「しまった!」 八重野が杖を振り上げ、星のしずくに向かって振り下ろそうとした瞬間、星のしずくはスピードを上げた。 やっぱり、元々遅いんじゃないんだ。 「でも、そんなに早くない!」 捕まえられる事に気付き、逃げ出した星のしずく。 だけど、今までのものに比べると、やっぱりスピードは遅い。 これなら八重野の足で捕まえられるかも知れない。 「そ、そうだ扉!」 「ナコちゃん、こっちの扉、閉めたから大丈夫!」 「ありがとう、すもも!」 秋姫に礼を言った八重野は、本格的に走り出した。 星のしずくもまたスピードを上げる。 だけど、狭い温室の中では逃げ場がない。 スピードが速いからといって、逃げ切れるものでもない。 「これなら、捕まえられる」 「ナコちゃん、頑張って!!」 「が、がんばれー!」 こちらに視線だけを向けて、八重野は頷いた。 その表情は自信に溢れているようだった。 この前一人で星のしずくを捕まえに来た時よりも、ずっとずっと自信のある表情。 ……秋姫がいるだけで、八重野はこんなに強くなれるんだ。 杖を振り上げた状態のまま、八重野は更に強く地面を蹴って走った。 星のしずくとの距離が縮まり、杖を振り下ろせばすぐにでも捕まえられそうだ。 「ナコちゃん、凄い!」 「わたしじゃなくても、星のしずくは集められたのかな……」 「そ、それは違うよ」 「な、ナコちゃんは、すももが居るから星のしずくを捕まえられるんだ」 「すももがここで見てるから、一緒に居るからだと思うんだ」 「あ、あう……」 礼を言いながら、秋姫は俺の体を強く抱きしめた。 その感触が照れくさくて逃げ出してしまいたかった。 「そ、それより、しずく」 「あ、そうだった」 俺の体を抱きしめる力を緩めると、秋姫はまた八重野に目をやった。 八重野と星のしずくの距離は更に縮まっている。 「ナコちゃんっ!!」 「たああ!!」 かかげられていた杖が、勢いのよい声とともに振り下ろされた。 八重野の目の前を飛んでいた星のしずくは、それを避ける事すらできない。 「すごい!」 「やった!」 「よしっ!!」 杖の動きを避け切れなかった星のしずくは、そのまま八重野にすくわれた。 「やったー! 凄いよ、ナコちゃん!!」 「待って、すもも! 何かおかしいよ!」 「え???」 しかし、八重野にすくわれたはずの星のしずくはその動きを止めなかった。 それどころか、杖にすくわれたまま激しく動き出した。 自分の体をすくった杖の上で暴れ、今にも零れ落ちてしまいそうだ。 「な、なに!? どうなって!」 「しずくが二つに!!」 杖の中で暴れていた星のしずくが、突然二つに割れて、飛び出した。 いきなりの事で、俺たちは誰も事態を把握できなかった。 杖を持ったままの状態で、八重野も星のしずくを見つめる事しかできない。 「ど、どういう事……?」 「ゆ、ユキちゃん」 「そんな」 どういう状態なのか、本当にわからない。 星のしずくが二つに割れる事なんてあるのか? 「こんなの、どうしたらいいの?」 「大丈夫。二つに割れたなら、両方捕まえればいいんだよ」 「両方って……」 割れた星のしずくは明らかにさっきよりも動きが早くなっている。 どちらもバラバラに好き勝手に動いているように見えるが、二つのしずくはお互いから離れようとはしない。 「しずく、バラバラに飛んで行かないね」 「うん。ずっと一緒に飛んでる」 「もしかしたら……」 「双子のしずくなのかな」 「わからない。でも、そう思ったんだ」 相変わらず、二つの星のしずくは寄り添うようにしながら飛び回っている。 温室の中にいるせいで、遠くまで飛んで行かないのが幸いだった。 なんとかして、この中で捕まえてしまわないと。 「くっついて離れないなら、一緒に捕まえられるかも」 「大丈夫、ナコちゃん?」 「わからない。でも、やってみるしかない!!」 星のしずくに向かって八重野が走り出した。 近付いて来る八重野に気付いたのか、星のしずくが慌てたように逃げ出す。 「あっ! しずくが離れる!」 寄り添うように飛び回っていたしずくは、こちらを翻弄するようにバラバラに飛び回った。 「っく!」 どちらを追いかけるか一瞬迷った八重野の目の前から、二つのしずくが同時に消える。 「後ろだよ!」 消えたと思った星のしずくは凄い早さで八重野の背後に回り、また寄り添った。 「さっきよりも、早い」 「ど、どうしよう、ユキちゃん」 「こんなの、どうやったら捕まえられるんだ!?」 「このっ」 方向を変えて星のしずくの方を向いた八重野は、また走り出す。 だが、星のしずくはそれをからかうように、また分かれて飛び回った。 狭い温室の中で、二つの星のしずくが輝きながら飛び回る。 「っく」 「あ!!!」 狭い温室の中だけでは物足りなくなって来たのか、星のしずくのスピードがまた上がった。 二つは近付き、離れてを繰り返しながら飛び回る。 そのスピードの早さに、温室のガラスがびりびりと震えていた。 「お、温室が」 「こ、このままじゃ壊れる?」 「ガラスが…割れそうだ」 「すもも、外に出て! このままじゃ危ない!」 「え、でもナコちゃん!」 「私は大丈夫だから、ひつじ君と一緒に早く!」 「そんな、ナコちゃん置いてなんて」 「大丈夫! 私は絶対に大丈夫だから」 「……ナコちゃ」 「どうしよう、どうしよう……」 「すもも! ナコちゃんを信じて」 「でも、ナコちゃんを置いてなんて……」 「あっ!!!」 だが、秋姫が動き出すよりも早く、星のしずくが動き出した。 物凄いスピードで動き出した星のしずくは、温室中を飛び回り、ガラスを震わせる。 「きゃ! な、なに!?」 「二人とも危ない! 伏せて!!!」 「え、ええ!!?」 俺はとっさに叫んだ。 二人とも驚いていたようだけど、すぐに体を伏せた。 その瞬間、星のしずくの輝きとスピードは更に増す。 星のしずくのスピードに合わせて温室のガラスが震え、体を伏せている八重野と秋姫の服や髪も揺れる。 ところが、ぴったりと寄り添うようにぐるぐると動き回っていた星のしずくは、中央で突然動きを止めた。 「……止まった?」 動きを止めた星のしずくは、激しく大きく輝いてから、二つ揃って高く飛び上がり始めた。 「きゃあああ!!!!」 「きゃーー!!!」 「うわああ!」 星のしずくは、温室のガラスを突き破って空高く飛んで行く。 割れたガラスはばらばらと飛び散り、星のしずくの輝きを受けてキラキラと輝いていた。 「ほ、星のしずくが」 誰よりも早くその状態から立ち上がったのは八重野だった。 足元のガラスを踏みしめて上空を見つめてから、俺と秋姫に視線を向けてこちらに近付く。 「すもも、ひつじ君、大丈夫?」 「ここは危ない。とりあえず、外に出よう」 「足元、気をつけて」 秋姫の手を取り、立ち上がらせた八重野はそのまま手を繋いで温室の外に向かった。 「どうしたらいいんだろう。あんなに高くに……」 「こっちに来るようにすればいいんだよね」 「それは、そうだけど」 空高くで寄り添い合いながら飛び回っている星のしずくは、きらきらと輝き続ける。 夜空の星に紛れてどこに行ったのかわからなくなる事はないが、あの状態では八重野には捕まえられない。 「わたしもナコちゃんと一緒に頑張るから!」 「だって、二つだもん! あれを捕まえたら、ユキちゃんが帰れるんだよ!」 「……うん。そうだね!」 「あ……!」 突然、秋姫が持っていた本が光り出した。 そして、いつものように自然と本が開かれる。 「こ、これ……」 「待って! え、えっと……」 開かれた本を指でなぞって、書かれている文字を確かめる。 一文字、一文字、指でなぞって確認しながら、秋姫はその言葉を読み終えた。 「ナコちゃん、わかった」 「やってみる」 杖を持った八重野の隣に並んだ秋姫は、八重野と手を重ねるようにして杖を握った。 二人は一緒に空を見上げて星のしずくを見つめる。 秋姫は小さく息を吸い込み、表情を引き締めて口を開いた。 「アクアドゥ・プルヴィナ」 秋姫の凛とした声と同時に、二人は一緒に腕を高く上げて、杖をかかげた。 途端に二人の周りが輝き、杖を中心にして水が振りまかれる。 「水が」 「これで、星のしずくがこっちに来るかも知れない!」 「来たよ!」 周りに振りまかれた水に気付いたのか、星のしずくはまた寄り添いあいながらこちらに近付いた。 「水たまりに!」 「飛び回って」 水たまりに落ちた星のしずくは、すぐに飛び出し、また違う水たまりへと飛び移る。 飛び移る事を楽しむように、あっちこっちへ星のしずくは飛んでいた。 「こんなに飛び回られちゃ」 「そ、それに早い」 「ど、どうしたらいいの?」 おろおろと周りを見渡しても、星のしずくはこちらを翻弄するように飛び回るだけだった。 「っく!!」 「えい!」 八重野は星のしずくに向かって何度か杖を振り上げ、振り下ろしていたが、しずくはすくえない。 杖の間をすり抜けるように、寄り添いあったまま飛び回り続ける。 「捕まえられない」 「早すぎるんだよ」 じっと八重野の目を見た秋姫は、先ほどと同じように八重野と並んで立った。 二人また手を重ねて杖を持つ。 息を吸い込んだ秋姫は、飛び回る星のしずくを見つめて集中していた。 「すもも、一緒に」 言葉と同時に、二人は星のしずくに向かって杖をかかげた。 二人の手を重ね合わせたまま振り上げられた杖が、ゆっくりと金色の軌跡を描く。 きらきらと輝く軌跡を目で追うと、その先には星のしずくがあった。 そのまま、逃げる事もできずに星のしずくは二人の持っていた杖にすくわれた。 きらきらと輝く二つの星のしずくが、杖の中で輝き続ける。 「やったあ……!!」 「二つも、一度に」 「は、はやく瓶にいれよう!」 「……ひとつの瓶にいれても大丈夫かな」 「た…たぶん」 「混ざり合うことはなさそうだけど……」 「フタ、きつく閉めとかないとね!」 「あれれっ? わっ、ひゃわっ」 「す、すももっ!!」 ガラス瓶が落ちてしまう!! あんなに二人が頑張ったのに、瓶が割れてしまったらおしまいだ!! 「ユ、ユキちゃん!?」 「〜〜〜〜……」 「ええっ!? ど、どうしちゃったの!?」 「気絶…してる?」 「あ、頭うっちゃったのかな、こ、このままじゃ死んじゃう!?」 「……す……ぐう」 「……すう……むぐぐ」 「ふぇ?」 「ひつじ君……寝てる?」 「ええっ??」 「ほら……すもも、なんだか大丈夫そうな顔してるよ、ひつじ君」 「ひつじ君、疲れてたのかな」 「うん…そういえば、わたしの家に来ない日もたくさんあったし」 「すもも、ひつじ君を抱っこしてあげて」 「きっとその方が、よく眠れるよ」 「……やっと揃ったね」 「二つも一緒にとれるなんて、思わなかった」 「そうだね、双子星だったのかな」 「双子星?」 「あるんだって、そういうの……ずっと寄り添いあってくるくる回ってる二つの星。童話……だったかな」 「そうなんだ……知らなかった」 「でもこれ……まるでナコちゃんとわたしみたい」 「私と、すもも?」 「うん。ナコちゃん、いつも一緒にいてくれたね」 「初めて会ったのはいつだったかな……もう忘れてしまった」 「うん……だってナコちゃんがまだおかっぱだった頃だもん」 「すもも、ちゃんと覚えてるの?」 「……ふふふ、だってすっごく格好良かったもん。同じ組の男の子にいじめられてたとこ、助けてくれて」 「そう……だったっけ」 「うん。ナコちゃんはいつもわたしを大事にしてくれたね」 「でも、ナコちゃん。大事なものって、一つだけじゃないよ」 「ナコちゃんのね……恋心、わたしにとってすごく大事なもの」 「お願いだから……その恋心、固く凍らせちゃわないでほしいの」 「石蕗くんのこと、好きな気持ち……ナコちゃんの気持ち、どうか大事にしてあげて」 「わたしの大事なナコちゃんの、気持ちだもの」 「でも……でもっ!!」 「私はそんなの許せないんだ」 「自分が許せない……大事なものを傷つけて…恋に落ちるなんて、許せないの」 「わたしは、いつもまっすぐなナコちゃんのことが好きなの」 「ナコちゃんのまっすぐさは、絶対に人を傷つけない」 「だからいつものナコちゃんでいて」 「わたしのことを思ってくれるのと同じくらい……」 「ナコちゃんの恋心、大事にしてあげて」 「すもも、ありがとう」 「あ……目が覚めた?」 「わ、わわわっ!? す、すもも、しずくの入った瓶!! 瓶が!!」 「ひつじ君」 八重野が微笑みながら、ガラス瓶を目の前に差し出した。 中身もちゃんと、しずくが二つ入ってる。 「無事だったよ」 「よ……よかったぁ!」 「ふふふ、ありがとう、ユキちゃん」 「星のしずく、七つ集まったんだ……」 「うん。そうだよ」 「わたし一人の力じゃないよ、ナコちゃんとユキちゃんが居てくれたから」 「ぼ、ボクも?」 「そうだよ、ユキちゃんも」 「ボ、ボクは何もしてないよ」 むしろ、俺が居たから秋姫と八重野はこんな苦労をする事になったんだ。 それなのに、そんな風に言われたら……。 「そんな事ないよ」 「でも、ボクが来たから!」 「わたし、ユキちゃんが来てくれて良かったと思ってるんだよ」 「こんなに不思議で、ドキドキする体験、今までした事がなかったもん」 「わたしにこんな体験をさせてくれたユキちゃんを、わたしは助けてあげたかったの」 「すももは本当に、心からそう思ってる」 「君を助けたいってずっと思って、それが今かなえられて、喜んでる」 「私にはわかるよ、すももの気持ち」 「うん…ユキちゃん、これでお家に帰れるね、おめでとう」 「おめでとう」 秋姫と八重野、それぞれが俺を愛しげに抱きしめてくれた。 俺は…俺は本当は『ユキちゃん』じゃない。 だけど今だけは素直に、俺は『ユキちゃん』になって二人の気持ちを受け取っていた。 「ユキちゃん、わたし絶対忘れないから」 「忘れない」 「本当にありがとう。すもも、ナコちゃん」 ただ、それだけしか言えなくて、他に言葉が浮かばない自分が嫌だった。 でも、本当に『ありがとう』以外に言葉が浮かばなかった。 「ボク、きっと何度『ありがとう』って言っても、二人には伝え足りないと思う」 「いいよ、そんなの。だって、ユキちゃん戻れるんだもん」 「あ、そうだ……」 手にしていた瓶をもう一度見つめて、秋姫は困ったような表情を浮かべた。 その表情は鮮やかな星のしずくに照らされて輝いている。 「これ、やっぱり如月先生のところに持っていけばいいんだよね」 「そうか、このままじゃひつじ君をお家に帰す薬にはならないんだよね」 「行こう」 「うん、先生……いるかな」 足を止めた二人は、扉の前で呼吸を整えた。 部屋の中から蛍光灯の明かりが漏れている。 どうやら、如月先生は部屋の中にいるようだ。 でも、もしかしたら電気を消し忘れているという可能性もある。 呼吸を整え、顔を見合わせた二人は頷き、秋姫が扉に腕をのばしてノックをした。 「よ、よかった」 「どうぞ〜」 「来たね、二人とも」 笑顔で俺達を出迎えた如月先生は、ここに来る事が当然のように答えた。 それは何もかも見透かしたような表情に思える。 「先生、もしかして私達が学園内に居た事、知ってたんですか?」 「勿論。あれだけ大きな輝きが近付いていたし、温室で派手な音がしてたからね」 「……あ、あの、温室」 「ガラスが割れてしまったんです」 「そっか、さっきの派手な音はそれか。何かな〜とは思ってたんだよね」 やっぱりこの人、わかってて顔を出さなかったのか。 本当、いい性格してるよな。 「知ってたなら話が早いです! 如月先生、これ見てください!!」 「おお。星のしずく」 「はい! 七つ集まったんです!!」 「へえ、凄いじゃないか」 「さっきここで見付けたのが、二つ重なった星のしずくだったんです」 「そうか。最後の二つはそれで一気に集まったんだね」 「良かったね、ユキちゃん」 「あの、如月先生……」 「これで、ユキちゃんとはもうお別れなんですか?」 「うん。そういう事になっちゃうね」 「あの! せ、せめてお見送りだけでも!!」 「あー、それは……」 「ごめん、すもも! 無理なんだ!!」 「で、できないんだ。お見送り……」 「そんな! どうして、ユキちゃん!?」 「ひ、秘密なんだ。ぬいぐるみの国の場所」 「どこから行くのかも、どうやって行くのかも、知ってる人以外に教えちゃダメなんだ」 「ごめん、すもも」 「すもも、元気出して」 「そういう事なんだ、ごめんね、すももちゃん」 「如月先生は、その場所を知っているの?」 「まあ、そりゃ一応ね。帰してあげる事ができる人だから」 「ユキちゃん。わたしともう一度、会う事はできるかな?」 「ごめん、すもも。わからない……」 「もしかしたら、すももとは二度と会えなくなるかも知れない」 石蕗正晴としては何度でも顔は見れるだろうけど、ぬいぐるみだった頃の事は話せない。 俺は今、秋姫に嘘をついている事になるんだろうか。 でも、だからと言って本当の事は言えない。 それがわかっているからなのか、如月先生は何も言わずに黙ってくれている。 「そっか……。寂しくなっちゃうね」 「わたしの事、忘れないでいてくれる?」 「もちろんだよ!!」 「わたしも、ユキちゃんの事忘れないよ」 「寂しくなっちゃうけど、わたしは大丈夫。大切な人達がわたしの周りにはいるもの」 「お父さんとお母さん、ナツメさん、学校の友達……」 「それに、わたしのそばにはいつでもナコちゃんが居てくれるよ」 「わたしが寂しがってたら、ユキちゃん帰れなくなっちゃうもんね」 「だから、大丈夫だよ。安心して帰ってね、ユキちゃん」 「うん。すもも……ボク、絶対に忘れないから」 「本当に、すももには感謝してるんだ。ありがとう……!」 「ひつじ君、元気でね」 「ナコちゃんも、ありがとう」 今日までの事は、きっと俺の中では一生忘れる事ができない。 これだけは、紛れも無い事実だ。 「それじゃあ、そろそろユキちゃんがぬいぐるみの国に帰る準備をするから、二人は家に帰りなさい」 「もう時間も遅いから、気をつけるんだよ」 「温室の事は、朝になったら先生が上手い事言っておくから心配しないで」 「よろしくお願いします」 「うん。それじゃあ、また明日、教室で」 「はい。如月先生、ありがとう」 「ありがとうございました、如月先生」 深々と頭を下げた二人は、頭を上げると歩き出した。 入り口に移動した秋姫は最後にこちらに視線を向ける。 背中を押した八重野に頷き、秋姫は何も言わずに部屋を出て行った。 それに続いて八重野も部屋を出て扉を閉めた。 二人の足音が部屋から遠ざかって行くと、如月先生はこちらを見つめて微笑んだ。 「さて……。随分と嘘をつくのが上手くなったみたいだね、石蕗君」 「……全部が嘘じゃないですよ」 「わかってる」 楽しそうに言った如月先生は、秋姫が机の上に置いた瓶を手に取って見つめる。 「星のしずくが揃ったから、これで君を元に戻す薬が作れるよ。少し待ってなさい」 薬を作るための作業を如月先生が始めた。 これで俺は本当に元の体に戻れるんだ。 「これが完成したら、明日から君は元通りの石蕗正晴君だよ」 そう、ユキちゃんとして過ごす夜は今日が最後。 如月先生が薬を作っている間、頭の中にはいろんな場面が映し出されていた。 とても辛いこともあったし、でも嬉しいこともあった。 そして何より、俺は人を好きになる気持ちを手に入れた。 ……そうだ、俺、元の体に戻ったら一番にやらなきゃいけないこと…あったよな。 ぼんやりとした頭で目覚めると、見えて来たのは部屋の天井だった。 眼鏡をかけないままに開けた目に映るのは、ぼやけた風景だけだ。 体を起こし、ベッドのそばに置いていた眼鏡をかけると視界がはっきりする。 窓の外に目をやってみると、まだ日は昇っていないらしい。 部屋はまだ薄暗く、日の光も差し込んでこなかった。 「俺、本当に……」 元に戻ったのか、少し疑わしかった。 だけど昨晩、俺は確かにぬいぐるみから人間の姿に戻る事ができた。 如月先生が作った薬を飲んで元に戻り、夜中に自分の足で歩いて寮まで戻って来たんだ。 向かう場所はただひとつ。 俺はがむしゃらにそこへと向かって走り出した。 俺が向かった先……。 それは八重野の家だった。 でもあたりはまだ薄暗く、シンと静まりかえっている。 誰も起きている気配なんてなかった。 「……八重野」 「…………!!」 「や、や、八重野?」 「あ……え?」 「あの……お、おはよ……は、早いな」 「うん…新聞を……とりに」 「……石蕗は、何してるの」 「お、俺は」 何も考えられなかった。 八重野がそこにいる。 だから俺は思いを伝えたくて、でもどうしていいのかわからなくて、八重野の手を強く握りしめ走り出していた。 「つ、石蕗」 「ど、どこ…行くの?」 「わからないんだ」 「わからないけど、一緒に来てほしいんだ」 「はあ…はあはあ」 一度も足をとめず、俺と八重野は坂をかけのぼった。 街で一番高い、展望台のある場所。 気づかないうちに俺と八重野はそんなところまでやってきていた。 「こんなところまで来てしまった」 「八重野に」 「八重野に言いたいことあって」 「でも、お、俺……いつも……うまくいえなくて……」 「石蕗、息を」 「息を整えて」 八重野が心配そうに俺を覗き込む。 俺は小さくごめんと囁いてから、深呼吸した。 冷たい空気が肺いっぱいに満たされる。 「俺……」 言いたいことはたったひとつ。 八重野に伝えたいことはたったひとつ。 だけど…簡単な言葉だからこそ、なかなか声にできない。 「夜が明けたね」 「ほら」 八重野のまっすぐな黒い髪の上を、真っ赤な朝焼けが滑ってゆく。 ゆっくりゆっくりと昇る太陽が、俺と八重野を包み込んだ。 陽の光に照らされて、何かがすっと溶けていった気がした。 そう、簡単な言葉なら……。 自分の声で、飾らずにまっすぐ思いを伝えればいい。 それだけでいいはずだ。 「俺、八重野が秋姫のことを大事にしてたこと知ってる」 「秋姫が……俺のことを好きになってくれてたことも」 「でも俺、自分の気持ちにはウソはつけない」 「私もだ」 「私の本当の気持ち、伝える」 「……好きです」 「私は……あなたが……好きです」 「ずっと一緒にいたい、隣を歩いていたい」 「――俺もだよ」 普通の人間に戻った俺は、何でもない毎日を過ごしていた。 時々、夕方になるとあの時の事を思い出して、未だぬいぐるみになるんじゃないかと錯覚する。 もうそんな事はないのに、今までの条件反射というやつは恐ろしい。 「……さむ」 なだらかな坂を、いつもよりも早い時間に――。 八重野を迎えに、俺は歩きだした。 『私は……あなたが……好きです』 『ずっと一緒にいたい、隣を歩いていたい』 あの日。 秋姫と八重野がななつめのしずくを採ったあの日から、もう一ヶ月がたとうとしている。 そしてそれは、八重野と付き合いだしてからの日数と同じだ。 二度目の告白は八重野からで、俺が一番欲しかった言葉を八重野はくれた。 一ヶ月――恋人同士らしい日々といえば、そうかもしれない。 でも……。 「ねえ、ハル」 「今日はちょっと寒いね」 「ああ、そうだな」 隣を歩く八重野との距離は、確かにほんの少し近くなった。 時々、手をつなごうかと八重野が照れながら言うこともあった。 だけど今までと、何も変わっていない気もする。 それが、俺と八重野が付き合いだしてから過ごした一ヶ月間だった。 「夕方から、雪になるかもしれない」 「じゃあもっと寒くなるのか」 「ハルは寒いの嫌いなんだ」 「……苦手なほうかな」 「私は好きだよ、雪。真っ白で綺麗だから」 八重野は嬉しそうに笑みをこぼした。 「雪ね、すももも好きなんだ」 「積もったら、雪だるま作ろうって言い出すかな」 秋姫の事を話す時の八重野は本当に楽しそうだ。 まるで、妹の事を話す姉のようだといつも思う。 こんな風に、二人でいる時の会話は秋姫の事が一番多い。 二人の共通の友達なんだから、話題に出て当然だろう。 「もしも雪がつもったら、一緒に作ろうか」 「雪だるま」 「あ……そうだな」 でも、他に何か話題がないだろうかといつも思ってしまう。 恋人同士って、普通二人だけの時に何を話すものなんだろうか。 全くわからない。 「(別に……今のままでもいいんだけどさ)」 他愛ない話をしながら歩いていると、すぐに秋姫の家が見えてきた。 玄関の前に移動して、チャイムを押すのはいつも八重野の役目だ。 「は〜い」 「おはよう、すもも」 「おはよう。ナコちゃん、ハル君」 俺と八重野が付き合うようになってしばらくしてから、秋姫は俺を『ハル君』と呼ぶようになった。 そうしないと、八重野が俺のことをいつまでたっても『石蕗』って呼ぶからだと、秋姫は笑いながら話していた。 最初はそんな風に呼ばれるたび、照れくさくて俺は俯いてばかりだった。 そのうち秋姫につられてか、八重野は俺のことを『ハル』と呼びはじめた。 恥かしさが少し、心地よさがたくさん……そんな響きの俺の名前だ。 「もう出られる?」 「うん。大丈夫」 「お父さ〜ん、行って来ま〜す!」 「は〜い。行ってらっしゃい」 「いつもありがとう、二人とも」 「ううん、平気」 笑顔で頷いた秋姫の隣に、八重野が並んだ。 学校に続く道を三人で歩く。 八重野が真ん中で、俺と秋姫が両隣。 歩き方を決めたわけではないけれど、その歩き方が俺達に一番しっくりしている気がした。 「今日は寒いねえ」 「うん、さっきもハルと言ってた。雪が降るかも知れないね」 「雪!? 降ったらいいな、降らないかなぁ」 「ほら、同じ反応だった」 「え、なに?」 俺と八重野の会話の意味が分からず、秋姫は目をぱちくりさせている。 思わず八重野と視線を合わせて笑うと、秋姫は更に不思議そうな顔をした。 「ハルは寒いから雪は苦手なんだって」 「えー。白くて綺麗なのに」 「八重野と同じ事言ってる。本当に仲いいんだな」 「ふふふふ」 「でも、雪が降って寒いのは本当に勘弁してほしいな」 「まだ言ってる」 「だって、あんまり寒いと温室の花も枯れそうで不安だし」 八重野はふっと、心配そうに空を見上げた。 あの時壊れた温室のガラスは、未だ直っていない。 だからあまり寒くなると、温室に残っている草木に影響が出るかもしれない。 「(八重野も花のこと……心配なのかな)」 あの日に割れた温室のガラスの一件は、悪質ないたずらという事で犯人探しをしている最中らしい。 如月先生のおかげで、秋姫と八重野が関わっているという事は誰も知らないようだ。 もちろん、俺もそれは知らない事になっている。 「あ、そうだ……温室」 「温室のガラス、修理がもうすぐ終わるみたい」 「うん。昨日、修理している人がそう言ってたよ」 「今よりもっと寒くなる前に直りそうかな」 「うん、多分」 「じゃあ、花も大丈夫かも知れないな」 「良かった。それなら雪が降っても安心だね」 「そこでまた雪の話になるのか」 「ハル、本当に雪は苦手みたいだね」 「うん。あ、ナコちゃん」 「雪が降って積もったら、雪だるま作ろう。小さいのでいいから」 「うん、そうしよう」 「本当に、八重野が言った通りの事を秋姫は言うんだな」 「え、ええ?!」 「さっき、雪だるま作ろうって言うかも知れないって、八重野が言ってた」 「ナコちゃんはわたしの事、何でもわかるんだね」 「もちろん。私、すももが大好きだから」 「えへへへへ」 「雪がふったらね、作りたい雪だるまがあるの」 「作りたい?」 「それってどんなの?」 「……秘密」 「おっはよー!! 今日はすっごく寒いね!!」 「こら、トウア!! カバン置いてってどうするんだー!!」 「わぁあ、もう追いついてきた!!」 「だ、だからやめようっていったのに……ト、トウア」 「わわっ追いつかれないうちにバイバイでーすっ!!」 「や、やーん」 「うん、楽しいね」 「こらーっ逃げるなぁー!」 「麻宮、がんばれよっ」 「はあ……もう、仕方ないな」 「おはよう、皆さん」 「あっ、おはようございます〜」 「おはよう、ノナちゃん、松田さん」 「松田、早く車に戻ってなさい」 「は…はい……でももうちょっと」 「松田さん、教室が気に入ってる?」 「まったくもう、『私も生徒になりたかったくらいです』なんですって」 「ははははは」 「も、もう! そんなに笑わないでくださいよ」 「ふふ、松田さんもクラスメイトだったら……きっと楽しいと思うな」 「そんなことありません!! きっと大変なことになるわ……」 「ほら、チャイム鳴ったわよ!! 早く戻りなさいってば」 「ああう……はーい」 「それから! さっき話したことも忘れずに」 「あ、はいはい。今日のお迎えはちょっと時間をずらすんですよね〜」 「それでは失礼します〜」 「お迎えの時間ずらす……?」 「なんでもない、なんでもないから気にしないで」 「放課後といえば……」 「あ、先生もう来るよっ」 「あ…ハ、ハル、後でまた……」 「え? あ、ああ……」 何かを言いかけた八重野は、席に着く間際も一瞬だけ振り返った。 ふと今日の時間割に目を落として気が付いた。 今日は選択授業や教室を移動する科目ばかりだ。 八重野と同じ教室で授業をうけるのは、この朝の一時間だけだ。 「(まあいいか、どうせ帰りも一緒なんだし……)」 さっき言いかけたことは何だったんだろう、と思いつつ、俺も教科書を開いた。 ……今日最後の科目が終わった。 放課後を迎えた生徒たちはグラウンドから帰ってきたり、逆にクラブへと向かい急ぎ足で廊下を走ってゆく。 俺はそんななか、教室へと向かった。 「おかえりなさい、ハル君」 「あぁ、うん」 「遅かったわね」 「ごめん、ちょっと片付けるの時間かかったんだ」 教室には、これから園芸部へと向かうのかカバンを持った結城と秋姫がいた。 俺も用意しなくちゃ、と机に歩みよった時に気づいた。 「あれ? 八重野は…?」 「ふふ、ナコちゃんは道場に行ったんだよ。今日はお稽古の日だもの」 「あ…そうだったっけ」 八重野が朝、言いかけてたのはこの事だったんだろうか。 だとしたら、ちょっと悪いことしたかもしれない。 それに……少し寂しい。 「今日はナコちゃんいないし、花壇の様子だけみんなで見て帰ろう?」 「そうだな…」 「…?」 「ノナちゃん、どうしたの?」 「ねえ、石蕗君はずっとそのままなの?」 結城が不思議そうな顔で俺を見上げてきた。 何のことを言ってるのかわからない。 俺も結城と同じくらい不思議そうに眉をよせた。 「そのままって…?」 「二人きりの時も八重野、八重野ってずっと呼んでるのかと思って」 「え…」 「だって、八重野さんはハルって呼んでいるでしょう?」 「そっそれは…」 「……余計なことだったかしら」 余計なこと、というよりも――。 俺自身どうしていいのかわからないことだった。 やっぱりずっと『八重野』って呼んでるの、変なんだろうか。 「あ、あの…ハル君!」 「ま、まってて」 秋姫は急にカバンの中に手を入れて、何かを探している。 差し出された一冊のノートに見覚えはなかった。 どう言っていいのかわからず黙っていると、秋姫がはにかみながら言った。 「ナコちゃんに、借りたままだったの忘れてた」 「あら、これ明日の授業で使うものじゃないの」 「ナコちゃん、無いと困ると思うの……だから、ハル君ナコちゃんに届けてあげて」 「え……俺?」 「今ならまだ、お稽古してると思うから…あ、道場の場所はね…」 「あ、いいよ、知ってるけど……」 「よかった、じゃあ届けてあげてくれる、かな」 「うん、じゃあ、帰りにでも……」 「ダメよ、今すぐ行きなさい」 「えっ、今? クラブはどうするの?」 「あっ、道場のおばさん優しいから、友達だって言ったら自由に見学とかさせてくれるよ」 「花壇は二人で充分なのよ、すももは私が車で送るから、大丈夫」 「そういう事を踏まえると、あなたが今すぐ行くのが最も効率的なの」 もう反論なんてないでしょう、とばかりに結城が腕組みをしている。 おまけに秋姫まで、その横でこっちをじっと見ていた。 「…わかった、じゃあ今から行ってくる」 秋姫が満面の笑顔を浮かべ、ノートを俺に手渡す。 なんだか恥ずかしくて、それを隠すようにうつむきながら、俺はノートをカバンの中に押し込んだ。 「あぁ」 ……ああ、でも…言っておかないと。 二人は俺と八重野のことを思ってくれてるんだ。 俺が上手にすすめないぶん、余計に。 「………二人とも」 「ううん、ありがとな」 「……世話がやけるわね」 八重野の通う道場まで早足で向かいながら、俺はずっと考えていた。 俺と八重野は、恋人同士になった。 でも、まだあんまり恋人っぽいことってしてないと思う。 「……恋人っぽいことって、なんだよ」 「はいはい…あら、あなたは確か…」 「あの、すみません。八重野撫子さんの…友達なんですけど、忘れ物を届けに……」 「撫子ちゃんなら今お稽古が終わったところよ、少し待っててね」 「あ、縁側で待っていてくださる? この間と同じ所」 どうやら顔を覚えてもらってたようだ。 いきなりやってきて大丈夫だろうかと思ってたけど、俺はすぐに奥の縁側へと通された。 縁側は前に来た時と同じく、静かな場所だった。 季節は変わって冬になった。 夏にここへ初めて来た時のことを思い出すと、今俺と八重野が恋人同士だなんて信じられなかった。 「…ハル」 「どうしたの? こんな所まで来てくれて…」 「秋姫が…ノート返しておいてくれって」 ノートを差し出すと八重野は一瞬驚き、それからうれしそうに微笑んでくれた。 練習を終えたばかりみたいで、少しだけ頬が紅い。 「(……こんなに寒いのに、風邪ひかないか)」 まとっているのは道着だけだし、汗もかいてたら冷えるかもしれない。 そんな些細なことが、自分でも変に思えるほど気になってしまう。 「やえ――」 「なんだか、懐かしいな」 「…前にハルがここに来たときのこと」 「あぁ、うん…」 戻ろうかと言いそびれてしまった。 八重野もまだここを後にしようとする気配はない。 「八重野、大福いっぱい食べてたよな。俺が最後の一個を取って……ふふっ」 「あの時の八重野のさ、寂しそうな顔まだ覚えてるよ」 「……あ、ごめん」 女の子にこういうこと言うのって、ダメだったかな。 反省しつつも、さっきとは違う感じで顔を真っ赤にしてる八重野を、俺は本当に可愛いなと思ってしまった。 「……少し控えた方がいいかな、甘いもの」 「い、いいよ、俺は食べてるときの八重野の幸せそうな顔、好きだからさ」 ……今度は俺まで恥ずかしくなってきた。 何か言わなきゃと、いろんな言葉を口の中で繰り返す。 でも出てくるのは全部、なんでもないことばっかりだ。 「ええと、あのさ」 「あ…なに?」 「稽古、終わったの?」 「…終わったよ。後は着替えて帰るだけ」 「じゃあ、八重野の家まで一緒に帰ろう、か」 「……じゃあ、着替えてくる」 着替え終わった八重野とともに帰り道を歩きだしたとき、もう辺りはすっかり夜を迎えていた。 よく晴れた冬の夜空は、どの季節よりも星がキレイに見える。 隣を歩く八重野の方を見ると、八重野も夜空を仰いでいた。 「八重野、疲れてない?」 「稽古の後だったから…」 「私は大丈夫」 「そっか、それならいいんだけど」 「うん。ごめん」 「いや、別に」 「……あ、あのさ」 「…ん?」 『ねえ、石蕗君はずっとそのままなの?』 『二人きりの時も八重野、八重野ってずっと呼んでるのかと思って』 結城の言葉が脳裏によみがえる。 八重野って呼ばないなら、やっぱり名前で呼ぶのだろうか。 でもいきなり『撫子』って呼んでいいんだろうか。 秋姫みたいに愛称で呼ぶなんてできないし――。 「(八重野に直接聞けたら、早いんだけどな)」 「あ、あぁ…」 「あの、まだ俺とさ…二人でいたら、やっぱり居心地が悪い?」 八重野が不思議そうに眉をしかめた。 そうだ……俺といると居心地が悪いっていうのは、ユキちゃんの時に聞いたんだっけ? 「いや、あの…なんか、ちょっと緊張してるっぽかったから」 「緊張…は」 「確かに……してるかな」 「し、してるんだ」 「どうすればいいか……よくわからないから…」 「こういうときって」 「二人きりのとき…?」 「そっか…」 「俺も、八重野と一緒だ」 「俺も…どうしていいか、わからなくて緊張するから」 「何を話していいのかとか…」 「どうやったら、喜んでくれるのかとか」 「ハル…」 八重野は何かを言おうとしていたけど、唇をきゅっと結んで俯いてしまった。 「あ、ええと」 本当にこういう時、どうすればいいんだろう。 恋人同士って言葉が頭の中でぐるぐる回って、何も思い浮かばない。 「あの……えーっと…さ」 「ほら、八重野さ…秋姫からいっぱい少女漫画とか、借りてるんだろ?」 「こういうときって、どうするの?」 「え…漫画の中で…?」 「それは……その…」 「………手をつないだりとか…かな」 「手を…」 手をつなぐ。 ――どうしてそんなこと、気づかなかったんだろう! 手をつないで歩くなんて、サマーキャンプの時にしてたはずなのに。 「………ハル」 「つなごうか?」 八重野の顔が見れない。 手も見れない。 視線は前を向いたままでそっと差し出した手に、八重野の指先が当たった。 八重野の指は冷たかった。 「……あのとき…つないだのにな…」 「キャンプの時?」 「え、あぁ…うん…覚えてたんだ」 「あのとき……私、はじめて男の子と二人で…手をつないだんだよ」 「え、そう…なんだ」 「はじめて引っ張ってもらったんだ」 「この手の…感じ……あのときと同じ」 「どうして、指が触れ合うだけでこんなに……」 手をつないでる。 ただそれだけなのに、俺は何も話せなくなった。 「ん…?」 「手、こわばってる」 「え…え、ほんとに?」 八重野の手に、ぎゅっと力が加わる。 柔らかな感触だった。 「……嫌じゃない?」 「…いやじゃない、けど。驚いた」 「…あっ」 俺も八重野と同じくらい、ぎゅっとその手を握り返した。 「驚いた」 「驚くだろ?」 「…ふふ」 冷えていた細い指先から、八重野の温度が伝わってくる。 触れ合ってるのは、互いの五本の指だけなのに、まるでそこから心臓の音まで聞こえてきそうだ。 トクトクとリズムを早くしていっているのは、どっちなんだろう。 「…………八重野」 立ち止まって、横を向く。 きょとんとしている八重野を引き寄せる。 最初はきょとんとした表情だった。 ちょっとだけ心が痛んだ。 俺はそのまま八重野の唇にキスをした。 「――ご、ごめん」 「ごめんほんとに。いきなり……」 「あ…その……八重野の知ってる少女漫画とかじゃ……こういうのしてないかもだけど…」 「俺、いまどうしてもしたかった……キス」 「……し…してた…」 「………してた、か」 「………お…驚いた」 「………うぅん…」 やっぱり…いきなりすぎた。 でも俺は自分の気持ちを抑えきれなかった。 柔らかい指先から伝わってきた鼓動が、体中をめぐってどうしようもなかった。 もう一度謝った俺に、八重野はにこりと笑ってくれた。 繋いでいた手は、無理やりキスした後もずっと離れなかった。 「つ、ついた」 「あの、じゃあ……またな」 「っ!」 走り出した俺の腕を八重野が強く掴んだ。 引き戻されて振り返った俺の顔を、八重野がじっと覗き込んでいる。 「漫画、で」 「え、なに…?」 「こういうときも……してたから」 最初に感じたのはくすぐったさで、それは風にあおられた八重野の髪だった。 それから。 八重野が俺にキスをした。 本当に一瞬だった。 唇がほんのわずか触れただけのキスだった。 なのに、まだ目の前に八重野がいるような気がする。 「(俺、明日からちゃんと八重野の顔見れるかな)」 授業中、斜め前の席の八重野の姿がやたらと目に入ってくる。 俺は…八重野が好きだ。 八重野も俺を好きだといってくれた。 だから俺たちは恋人同士になった……のに。 俺はデートらしいデートも、恋人同士らしいことも、何一つ八重野にしてやれなかった。 八重野、ごめんな。 そうだ、俺……もっと頑張らなきゃな。 八重野は俺の、一番大事な人なんだから……。 「ふう、終わった終わった」 「今日は寒いよねー……なのにさ、やっぱ走ったら汗はかくしで……ひっくしゅ」 「深道、汗…ちゃんとふいておいた方がいいぞ」 「風邪……ひくから」 「あっ、ああ。冬休み前に風邪ひいて寝込んじゃサイアクだよねー」 「確かに……」 「はい? 圭介は別に寝込もうが元気だろうが、なーんにもないから関係ないだろ?」 「う、うわっ、ひどいっすよ信子さん」 「……風邪ひいちゃいけないのは、石蕗だよね」 「そういや、この後園芸部ってあるの? ほら、一ヶ月前に温室壊れちゃってからどうしてんのかなって思ってて」 「寒さに弱い花は、空いてる教室に置かせてもらってる」 「あ、そうなんだ」 「他のはなんとか大丈夫みたいだ」 「よかったね」 「はあ……石蕗がそんな笑顔を見せるようになったとはねえ……恋って恐ろしいもんだ」 「あっ、あれ、八重野さんじゃない?」 「あらあら、じゃあ私たちはここで退散〜っ、圭介、行くよっ」 「ういっす、じゃ、じゃあなハル〜」 「……ハル」 「ハルたちの選択授業、外だったんだね」 「寒かった?」 「ちょっとな。でも走ってたら逆に汗かいたよ」 「そうか……風邪、ひかないようにして」 「(八重野、俺と同じこと言ってるよ……)」 八重野が小さなタオルをとりだして俺に渡してくれた。 「今から空き教室の方、見に行こうと思うけど……ハルは?」 「俺も一緒に行く」 「うん、行こう」 「もう来ちゃった」 「二人で何してたの?」 「あのね、ナコちゃん、ハル君。見てみて」 「すももと二人で作っていたの。素敵でしょう」 「これは……リース?」 「うん、綺麗でしょ?」 二人が八重野に差し出したのは、綺麗な花で作られたリースだった。 確かこの花は俺達が温室で育てていた花だ。 みんなで育てた花がこんなに綺麗なリースになるなんて、少し不思議な感じだった。 「(それにしても、リースが作れるなんて二人とも器用なんだな)」 「うわあ、綺麗」 「急にこんなの作って、どうしたんだ?」 「私、もうすぐ……また転校するから」 「(ああ、そうか……向こうの世界へ帰るんだな)」 すっかり忘れていた。 結城はもう俺たちのクラスになじんでいたし、転校生だったことすら忘れていた。 そう思うと……なんだか悲しかった。 「だから、何か残して帰れないかなと思って」 「何がいいかなって、二人でいろいろ考えてたの」 「それで、このリース作ったの?」 「ノナちゃん、作るのがすっごく上手なんだよ。ほとんど一人で作ってくれた」 「へええ。すごいなあ」 「本当だ。これ、凄く綺麗にできてる」 「そ、そんなに言われるほどの事じゃ……それに花を選んでくれたのはすももです」 「すもも……これ」 「園芸部で育てた花で……作ってある?」 「みんなの物っていう感じがして、いいね」 「うん。そうだな」 「あ、あの……それね、ナコちゃんにあげる」 「え? いいの?」 「そのために作ったんだもの」 「なんで急に、八重野のためにって」 「それは、えーっと……」 俺が聞くと秋姫は困ったような表情をした。 だが、結城はくすくすと小さく笑って俺と八重野を見つめた。 「魔法をかけておいたから」 「ま、魔法?」 「そう。二人が今よりも、もっと親密になれますようにって、おまじない」 「な、な! そ、そんな!」 「な、なんだよそれは!!」 「えへへ、そういう事……」 「だって、見ていてこちらがイライラするほど、二人ともじれったいんだもの」 「だから、もっと親密に……ね!」 俺達を見てにっこりと笑った結城の表情は、悪戯を思いついた時の子供のようだった。 少し恥ずかしいけれど、こんな風に言ってもらえるのは嫌ではない。 「すもも、結城、二人ともありがとう」 「良かった、ナコちゃん喜んでくれた!」 「ね、やっぱり作って良かったでしょう?」 「これ、本当に嬉しい。ありがとう」 「うふふっ」 「ハル。ほら、これ綺麗だよね」 リースをもらった八重野がやけにはしゃいでいる。 普段あまり見せないような笑顔を見せて、胸元にそのリースを潰れないように抱いていた。 「嬉しいなあ。どうしよう。部屋に飾ったら変じゃないかな」 「大丈夫だよ。部屋に飾っておいて」 「いつも見える場所に飾るのがいいと思います」 「そっか。じゃあ、部屋のどこにしよう」 よっぽど嬉しかったんだろう。 普段、八重野は自分が女の子らしくない事を気にしていた。 だけどそんな風に悩む八重野は充分に女の子らしいと俺は思う。 それに……八重野が見せるその笑顔は、俺をドキドキさせていた。 「いつまでも……大事にしてね」 「私はもうちょっとしかいないけど……あの……」 「結城、大丈夫」 「もしもね……このリースがいつか壊れて無くなってしまっても……結城のことは忘れないから」 「……ええ」 「ノナちゃん」 「そ、そんな、リースが壊れそうになる頃には、アタシは世界をかけめぐるぐらいのスピニアになって帰ってきてるから!!」 「ノナちゃん、しいっ」 「あ、ご、ごめんっ」 本当は聞こえていたけど、俺は聞こえなかったフリをして横を向いた。 「冬が終わる頃までは、ここにいますから」 「結城の好きな花、それまでに咲くといいな」 「結城、どんな花が好きなんだ?」 「どんな……花?」 結城は俺たちの質問に唇を結んで、しばらく考え込んでからこう言った。 「あの温室の中に咲いている、みんなが育てた花たちです!」 「結城……」 「はは、じゃあ暖かくなったら、温室中の花で結城のこと送ってやる」 「するよ」 「……はいっ」 クラブが終わった後、八重野と秋姫と一緒に毎日帰っている。 結城は松田さんの運転する車で帰るので一緒にはならない。 時々『らいむらいと』に寄ったりすることはあったけれど、向こうに帰る日がそう遠くないせいか慌しく帰ることも多かった。 「それじゃあ、バイバイ!」 「気をつけて帰れよ」 「うん。もう近いから大丈夫! ハル君たちも気をつけて!」 「うん。またね、すもも」 「じゃあな」 手を振って走り出した秋姫を見送り、その背中が見えなくなるまで見つめた後、俺達は歩き出した。 秋姫と途中で分かれた後、俺は八重野を送ってから寮に戻る。 遠回りになるけど、俺がそうしたいからと言い出した。 それからは、ずっとこうして一緒に帰っていた。 「帰ろうか」 二人で並んで歩くと、俺も八重野もあまり話をしなくなる。 話したくないわけじゃいない。 ただ、何を話せばいいのかわからなくなるだけだ。 「ハル、いつもごめんね」 「え? 何が」 「帰り道。遠回りになっちゃうから」 「それは別に……いいんだ」 「え? 嬉しいなって思っただけ」 「そ、そうか……」 ふっと俺の方を向く八重野の顔。 目が合った時、八重野は少しだけ恥かしそうに視線をそらしてから、微笑んだ。 その瞬間の八重野が、俺は一番好きだった。 「雨だな」 空を仰ぐと、重い雲間から雨粒が落ちてきた。 「急ごう。走ればもうすぐだ」 空の色はあいまいで、雨足はこれから強くなるのか弱くなるのかわからなかった。 走っている間にも、ぱらぱらと降り続く雨粒が肩や髪に落ちてきた。 息をのみ、横に立つ八重野を呼んだ。 八重野も俺と同じように、肩を上下させながら息を整えている。 その長い髪も、肩も腕も、小さな水滴を乗せているだけだった。 「良かった、そんなに濡れてなくて」 「雨、激しくなる前に帰って来れたから」 「じゃ、俺走って帰る。今から走れば、そんなに濡れないだろうし」 「あ、待って。ハル」 走り出そうとした俺の手を八重野が握った。 突然の事に顔をあげると、八重野自身も驚いたように目を見開いていた。 「ど、どうしたんだ?」 「あ、あの。雨降ってるから……」 「強くなったらいけないから、少し雨宿りして行ったら?」 きっと八重野の両親もいるだろう。 それに、もしかしたら雨はもっと強くなるかもしれない。 「(八重野、俺……八重野の部屋にあがっていいのか?)」 このまま帰るよ、と言う理由を俺は頭の中でいくつもあげていった。 本当はもっと一緒に居たいと思っている。 俺の手を握っている八重野の温度が、ゆっくりと体の中にしみこんでくる。 「うちなら、大丈夫だから」 引き止めてくれる八重野を振り切って帰るなんて、やっぱりできそうになかった。 その言葉に素直に頷き、俺は家にお邪魔させてもらう事にした。 「これ、タオル。すぐ体拭いて」 八重野が手渡してくれたタオルで、俺は濡れた肩や腕をふいた。 八重野の部屋――俺は初めて入る。 いや、『ユキちゃん』としてなら、一度入ったことはあった。 けれど、あの時とは何もかもが違う。 「良かった、あんまり濡れてないみたい」 「うん。すぐに走ったから」 「八重野も濡れなくて良かった」 「うん。これも、濡れなかったし」 「あ、リース」 八重野は胸元に大事そうに抱えていたリースを差し出し、それが濡れていなかった事を喜んでいた。 随分気に入っていたみたいだし、本当に良かった。 「これ、どこに飾ろうかな」 「よく見える所がいいな」 「どこがいいだろう」 リースを抱えながら部屋の中を少し歩く八重野。 どこかうきうきしたようなその表情は、いつも以上に女の子らしい気がした。 「こことかどうかな、ハル」 「ここ。窓の近く」 「ここなら、空気の出入りもいいし、リースの持ちも良さそうだから」 「うん。やっぱり、ここにしよう」 「雪」 「ほら、雪が降ってる!」 八重野が言う通り、窓の外には雪が降りだしていた。 さっきの雨はどうやら雪になったらしい。 道理で寒いはずだ。 「雪だ。嬉しいな」 窓の外に降り続く雪を見つめながら、八重野は少しだけいつもよりはしゃいでいた。 寒くないのだろうかと心配になるが、楽しそうな姿を見ていると野暮な事は聞けなかった。 「ねえ、ハル。積もるかな、雪」 「え? あ、どうだろう。積もるといいけど」 「うん。私も積もった方がいい」 「雪、綺麗だな……」 雪を見てると寒さを忘れるみたいだけど、そろそろ冷えるかも知れない。 「え? ……あ」 「っくしゅん!」 「あ、うん。平気、これくらい」 「あの、そのままじゃ寒いから」 窓を開けて外を見ていた八重野に近付き、背後からそっと抱きしめた。 冷たい空気を浴びたその体を温めるように、俺は強く目の前の少女を抱きしめる。 「窓、閉めるね」 「……な、撫子」 「そう、呼んじゃだめかな」 「ううん。だめじゃない」 「体、まだ少し冷えてるな」 「大丈夫? 寒くない?」 「うん。ハルがこうしてくれてるから」 「ハル、あったかいよ。すごく」 抱きしめられたまま、撫子がこちらに顔を向けた。 予想外に、互いの顔が近付く。 恥ずかしくて堪らない。 だけど、じっと見つめていたかった。 「……撫子」 「ハル」 撫子が目を閉じた。 俺はゆっくりと、その顔に自分の顔を近付ける。 目を閉じたままたの撫子の唇に、俺の唇が重なった。 その感触は柔らかくて、暖かい。 重なった唇を撫子が押し付ける。 同じように唇を押し付け、口付けを繰り返す。 「んん」 押し付けた唇が苦しかったのか、撫子は小さな声を漏らした。 少しだけ唇を離して表情を盗み見ると、撫子はまだ瞳を閉じて口付けを望んでいるように見えた。 「ん、大丈夫」 「……ぅん」 頷いた撫子の唇にもう一度唇を押し付け、また口付けを繰り返す。 「ん、ん」 「ぁん、ん」 口付けながら、抱きしめる手のひらをわずかに動かす。 撫子の体がその動きに反応して少し震えた。 それを気にしながら、制服のセーターをまくりあげてみた。 小さくあげられた声に少しだけ驚き、手の動きが止まってしまった。 だけど、撫子は小さく首を振るとわずかに瞳を開いて俺を見つめた。 「いいよ、ハル」 たったそれだけを言うのが精一杯だった。 止まっていた手を動かし、セーターを胸の上までまくりあげ、次にシャツのボタンに指をかけた。 声をあげた撫子の口を塞ぐように唇を重ねて、下のボタンから一つずつ外していく。 ボタンが外れるたびにシャツが割り広がり、その下に隠されていた白い肌が見える。 「あ、はあ」 一番上を残してボタンを外すと、白い肌と下着が目の前にあらわれる。 「ん、ん……」 そっと、肌の上を手のひらで撫でると、撫子が小さく声をあげた。 そのまま、口付けながらもう少し肌を撫でる。 さらさらとした肌触りの撫子の肌は、とても気持ちよかった。 「ふ……。んぅ」 小さく漏れる声が嬉しくて仕方ない。 もっと声を聞きたいと思ってしまう。 「ん、撫子」 「ハル……」 「あの、もっと……」 「え、あの……」 「ごめん、やっぱりいい」 肌から離そうとした手を撫子がぎゅっと握り締めた。 握り締められる手のひらの感触は、まだ少しだけ冷たい。 「私、大丈夫……」 それ以上の言葉を口にするのが恥ずかしいようで、撫子はただ『大丈夫』だと口にしていた。 撫子は戸惑いながらも強く抵抗しない。 いやがうえにも胸の鼓動が早くなる。 俺はゆっくりと撫子の制服を脱がせていった。 「は、ハル……こんなの……」 謝りながらも撫子の姿から目が離せなかった。 恥ずかしがっている姿はより一層、撫子を魅力的に見せている。 もっと見たい。 そう思っているのに、それを口に出す事が出来ない。 手のひらでそっと、目の前にある形の良い柔らかそうなお尻を撫でてみる。 「きゃっ! ハ、ハル?」 柔らかい感触を手のひらの中で楽しむと、撫子の声はどんどん大きくなる。 「や! あ、ぁん! は、ハルっ」 柔らかい感触に嬉しくなり、更に手のひらを動かす。 肉に指を食い込ませ、柔らかい感触を楽しむうちに、もっともっと撫子の全てを知りたいと思ってしまう。 「ん、ふ……! あ、ぁっ!」 さっきまであんなに緊張していた自分が、撫子の肌の感触と声だけでこんな風に考えるようになるなんて思ってもいなかった。 「んふぁ! あ、ん」 「え! あ、や! そっち、ダメ!!」 抵抗する撫子の声に聞こえない振りをして、下着に指をかけた。 両端にかけた指をそっとおろしていくと、隠された部分が露わになる。 「だ、ダメ、ハル。恥ずかしい」 だけど、目の前にある撫子の秘部はうっすらと愛液で輝いており、そこは綺麗な桜色をしていた。 目にしてしまうと、そこから目が離せない。 それに、恥ずかしがる撫子の姿も可愛いと思ってしまう。 「本当にダメ。ダメ!」 「でも、こんなに綺麗だし……」 「ああっ!」 ふらふらと吸い寄せられるように、俺は撫子の秘部に顔を近付けていた。 うっすらと愛液が滲むそこに口付けると、撫子が震えながら声をあげた。 「ふぁあっ!!」 唇に触れた感触は熱かった。 そのまま、何度も口付けてみると、奥からじんわりと愛液が溢れ出す。 「ん、んんぅ!! や、ハルっ! 恥ずかしい……からっ」 「は、あん、んむ」 「ふぁっ! あ、んんぅ!!」 口付けだけでは物足りず、舌を差し出し、撫子の秘部を舐めた。 少し舐めるだけで、口の中に愛液の味が広がる。 無性に嬉しくなって、何度も舌を動かすと、奥からとろとろと愛液が溢れ出す。 「んっ! ハルぅ! ふぁ、あっ!」 「はあ、はあ……ん、んぅ、撫子……」 自分がしている事で撫子が声をあげ、愛液を溢れさせてくれている事が嬉しかった。 俺は一心に舌を動かし、秘部を舐め続ける。 「ん、んぅ! や、ふぁっ!」 割れ目に沿って舐めているだけだったそこに指をあて、そっと襞を割り開くととろりと愛液が溢れた。 「あ! い、いや……」 「大丈夫、だから」 なだめるように言葉を口にしてから、俺は割り広げた襞の奥に舌を進ませた。 「あ、んん!!!!」 舌が奥に進むと、撫子が甘い声をあげた。 奥に進んだ舌は少しだけ締め付けられる。 とろとろと溢れる愛液は止まらず、襞を広げる指先も濡らしていく。 「あ…や……ダメだよ、ハル……うくっ」 「はあ、んぅ。ん……」 音を立てて舐め上げ、愛液をすする。 零すのが勿体無くて、すべてを舐め取りたくなる。 執拗に舌を動かし続けていると、自然と口から声が漏れるんだろう。 撫子は必死で唇に指を咥えて声を抑えようとしていた。 「ん、んふっ!!」 「声、我慢しなくても……」 「や、いや! 恥ずかしい」 わずかに指を離し、駄々っ子のように首を振る姿が愛らしかった。 恥ずかしさで真っ赤になった頬と、充血した瞳に薄っすらと浮かぶ涙を見つめていると、罪悪感が湧き上がると同時に興奮もした。 もっと声を聞きたいと思っているのに、それを口にする事は出来なかった。 ただ、その代わりにまた舌を差し出し、秘部を舐める。 襞を広げる指先も軽く動かし、指先と舌で何度も刺激を与えると撫子の体は小さく震えた。 「ひぅ! あ、あぁんぅ!!」 堪えようと指を咥えながらも、時々漏れ聞こえる声がやけに大きく聞こえた。 舌に伝わる柔らかい感触。 ねっとりとまとわりつくような柔らかさは、今までに感じた事がない。 指先は既に秘部から伝う愛液でぐっしょりと濡れている。 もっと感じたいと、奥まで舌を差し込んで小さく動かし、指先で秘部の突起を擦ると撫子はまた震える。 「ふ! ん、んぅ!! ふぁ、あ!」 奥に進んだ舌が動くたびに愛液は更に溢れて指を濡らし、その中はひくひくと痙攣する。 「はぁはぁ、ハル…あぁ……んぅ」 指先と舌先の感触。 それだけでは物足りなくなって来ているのに気付いていた。 もっと撫子を感じたい。 そう思いながら、更に舌を奥に進ませる。 「ふぁっ!! やだ…あ…そんなこと……しちゃ……」 舌を進ませその中を感じていると、また声が上がる。 気持ちが更に高ぶる。 これだけでは足りないと、体が訴えていた。 「はあ、はあ……撫子、俺」 口に出せずにいる俺の言いたい事がわかったのか、撫子はこちらに少しだけ視線を向けて頬を真っ赤に染めた。 何故か、口から出た言葉は謝罪の言葉だった。 何を口にすればいいのかわからなくて、ただ申し訳ない気持ちになったのかも知れない。 それ以上に口にするべき言葉がわからない。 「………いいよ」 「ハルにだったら………いいから……」 恥ずかしげに、だけどはっきりと口にされた言葉が嬉しく、そして同時に恥ずかしかった。 「あんまり……み、みないで……」 ベッドの上でうつ伏せになっていた撫子の体を起き上がらせ、壁に手をつかせた。 「ちょっとだけ、我慢して」 その言葉に頷いた撫子の背後から近付き、秘部に指を近付けた。 「あぁ!」 そこはさっきまでの行為で充分に濡れていて、これ以上何もしなくても大丈夫なようだった。 だが、指をそのままにして、しばらくそこで動かす。 「あ、ふぁ! あ、ああ!」 くちゅくちゅと愛液の音がして、また指先が濡れて来る。 「撫子……」 かすかに動かした指先を離して、俺は撫子の名前を呼んだ。 切なげに、どこか物足りなげに振り返った撫子は、頬を真っ赤に染めている。 「入れる、から」 俺の言葉を聞いて、自然と撫子の体に力が入った。 ぴったりと背後に近付き、撫子の腰に手をやって既に大きくなっている肉棒を近付ける。 「う…きゃっ……ハル…の?」 「するん……だね」 片手で腰を支え、片手で足を少し広げさせる。 広げさせた足の間に肉棒を近付け、先端を少し肌に触れさせた。 驚いた撫子に、つい謝ってしまうが、少しだけこちらに視線を向けた撫子は無言で首を振った。 その撫子に頷き、開かれた足の中央にある秘部に先端を近付ける。 「んっ!」 充分に潤っている割れ目を指先で少し広げ、先端をゆっくりと進ませる。 「んん! ふっ!」 小さく愛液が溢れる音と共に、肉棒の先端が撫子の中に進んでいった。 「ハル…いっ…ああぅ!」 先端が少し入っただけでも酷い痛みが体を襲うのか、撫子の声はほとんど聞こえない。 聞こえるのは痛みを堪えるために漏れる息だけだ。 そんな撫子を気遣いながら、ゆっくりゆっくりと、中に入った肉棒を奥へと進めていく。 「んんっ! ハル……い、た…い」 撫子の中は窮屈で、まるで何かに締め付けられているようだった。 「はぁ……はぁ……!」 「んん!」 「うくっ……い…や……ハル、ハル……」 あまり苦痛にならないようにと、ゆっくりと腰を突き上げるのだが、それでも撫子は辛そうだった。 「平気……?」 「……はあっ……うん……だい…じょうぶ」 「ハル……私…大丈夫……だか…ら」 気丈に答える撫子に頷きながら、俺は更にその奥へと進んで行った。 先に進むたびに更に窮屈になり、締め付けは強くなる。 その感触と声は、そこが撫子の中なのだとはっきりと気付かせてくれる。 「ふ……んんっ!」 「ぁあ、ああ、ふぁ!」 更に奥へと進もうと腰を突き上げると、最奥まで届いていたらしく、何度も突き上げる度に先端が肉壁に当たっていた。 「あっ! や、ふぁあっ!」 その肉壁に先端が当たる感触が、撫子を震わせ、声をあげさせていた。 驚いて一旦動きを止めると、撫子は壁に手をついたまま息を整えていた。 「撫子?」 「ん……平気」 「だから、ハル……」 肩越しに視線を向けて見つめられた。 赤くなった頬と潤んだ瞳に胸が高鳴る。 黙って頷くと、俺は撫子の腰を両手でしっかりと抱えるように掴んで腰を突き上げ始めた。 「ああ…い、あう……あつ…いよ」 ゆっくりと腰を引き抜き、またゆっくりと突き上げる。 撫子の体の中で肉棒は締め付けられ、柔らかい肉壁に絡み取られる。 「ん! ふ、あっ!」 「あああ……はぁ、あっ! ふぁあ……ぁん!」 声をあげ、髪を乱しながら撫子が必死で壁に掴まっていた。 その姿を見つめながら、俺はゆっくりゆっくりと、腰を上下に動かして撫子の中から肉棒を出入りさせる。 締め付け絡み付くような感触は、動く度に強くなる。 窮屈だった撫子の中は、動きに合わせて愛液が溢れ、柔らかになって行く。 「はあ……ふぁあ、あっ! あ、ふぁっ、んぅ!」 「っく、んっ! ふ、う!」 腰を突き上げる度に、撫子が声をあげる。 ビクビクと震えながら背中を仰け反らせる姿に、次第に動きが早くなった。 ゆっくりだった動きは撫子の声をもっと聞きたいと早くなり、何度も何度もその体を突き上げる。 「はあ、はあ……あっ!」 「ふぁっ! あ、ふ、ああ……あ、あぁ!」 動きは早くなり、撫子の腰を掴んだまま、一心に何度も突き上げる。 「は、あっ! ハルっ! ふぁ、あっん!」 時々角度が変わり、肉壁に肉棒が当たると、中が強く収縮して締め付けられる。 その締め付けに反応して、また奥へ奥へと突き上げた。 「は、ああっ! ハル……ぁんぅ!」 「んっ! ふ、あっ!」 何度も突き上げるたびに撫子の体が震えた。 体を支える腕も震え、足もフラつく。 「きゃ、あっ!!」 半ば無理やり体をベッドの上に仰向けに寝かせ、その上に覆い被さった。 「ハル……ハル……」 「辛かった……よな」 「ハル……こうやって…してほしい」 「撫子」 「このまま……してほしい……」 「お願い……ハル、こうやってると……ほんとに一緒になってるみたいだから」 「このまま……して」 「んんっ…あ、ハル……」 「はあ……はぁ……ああっ、ハルっ」 ゆっくりとした動きに合わせるように、撫子も腰を動かしていた。 それは多分、無意識でしているのだろう。 それでも、その無意識の行動が嬉しかった。 撫子も感じてくれているのだとわかったから。 「はあ、は……あ、ふぁ、ぁあ……ぁん!」 「ふ、んっ。は、あっ!」 辛そうに、だけどどこか嬉しそうな表情を撫子は浮かべる。 その表情を見つめながら、何度も何度も撫子の中に肉棒を打ちつけ、かき回す。 溢れる愛液の音も、聞こえる撫子の声も、軋むベッドの音も、全部が体中を刺激していた。 「ハル、もう…いたく……ないから」 もっともっと、撫子の体を感じていたい。 それなのに、締め付けられる度に体が震え、達してしまいそうになる。 撫子も無意識に腰を動かしながら、時々震えては何かを堪えるように辛そうに眉間にしわを寄せる。 「ハルっ! んんっ、きもち…よくなって……きたよ……んんっ」 「俺も…」 「ハル、あ、うぅ……んんっ!!」 辛そうに声をあげた撫子がしがみつく。 その体をしっかりと支えながら、今まで以上に体を動かした。 「ハル……やっ、ああ……ハルっ!!」 撫子の声と反応が大きくなった。 互いにもう限界が近いのだとわかる。 何度も何度も腰を打ちつけ、奥まで辿り着かせる。 奥に届かせ、先端ぎりぎりまで引き抜き、また奥まで叩き付ける。 「ああ、っあ! ふぁあ……ぁあんっ!」 何度も繰り返された規則正しい動きに、撫子の体が大きく震えた。 「やあ! ああ……ぁあああっ!!」 肉棒が奥まで辿り着き、また肉壁を強く叩いた瞬間、撫子は絶頂を迎え、その中は大きく収縮した。 その瞬間、体が激しくビクビクと震えた。 奥深くにねじ込んでいた肉棒をそのままにしてはいけないと感じ、中に埋めた肉棒を慌てて引き抜いた。 解放された悦びからか、撫子の中から引き抜いた瞬間、肉棒から勢いよく精液が飛び出した。 「ハル……ハルっ!!」 撫子の白い体に精液が降り注ぐ。 白い体は精液で汚される。 俺の中いっぱいに溢れる罪悪感。 だけど、撫子は俺を見つめながら微笑んでいた。 「ご、ごめん、撫子」 「はぁ……はあ、はあ……うん」 「…へ、平気……」 「……ほ、ほんとは……ちょっとびっくりした……けど」 「ごめん、本当」 「いいの」 「……ハルが、喜んでくれた証だから」 「ハル……温かいね」 「眠ったかと思った」 「眠らないよ……」 「だって今、好きな人といるんだから」 抱き寄せた撫子の体は、すごく細かった。 あんなにも激しく抱きしめたけれど…大丈夫だったろうか。 さっきまで自分のしたことすべてが、心の中をちくちくと刺した。 「体……痛くない?」 「撫子の体……抱いてる時、俺……」 「すごく気持ちよくて、撫子のこと壊しそうなことばっかりした」 「大丈夫。ほんとに大丈夫だよ、ハル」 「ほら、どこも壊れてない」 「指も髪も……全部ハルに触られても……どこも壊れないから」 「……大事にする、撫子のこと」 「う、ううん……昔好きだった、こういう恋愛がしたいなって思ったことのあるお話のこと、思い出しただけ」 「今ハルが言ってくれたこと、いつか恋愛したら言われたいなぁって思ってた」 「そうなんだ、はは……」 そんなこと、撫子も思ってたんだ。 今腕の中にいる撫子は、強さも弱さも持っていた。 そして、すごくすごく大切な人だ。 「恋人ができたら……いろんなことしたいなって思ってたよ」 「マンガとか、映画に出てくるようないろんなこと……一緒にデートしたり、好きな人のためにケーキを焼いたり、そんなこと」 「すごく、すごくたくさん夢見てた」 「でも……本当に恋人ができたら、私何もできなかったんだ」 「胸がいっぱいで、何するのも怖くて、失敗したらどうしようとか……ね」 「これからひとつずつ叶えていこう」 撫子の細い指をぎゅっと握る。 まっすぐなその指……俺は撫子の指が大好きだった。 そんな撫子の指を飾るものを、いつか贈ってあげたい……。 「俺も……いろいろあるから。してあげたいこと」 「……人、多いな。やっぱり家まで迎えに行けばよかった」 十二月は、どこに行ったって人が多い。 ましてやいろんな店が立ち並ぶこのショッピングセンターは、どこよりも混んでいる。 幅広い年齢の男女が行き交うこの場所で、俺は撫子と待ち合わせをしていた。 「いろいろ……探したいものもあって」 「あ、やえ……撫子の行きたい場所にももちろん行く」 「予定……なかったら、どうかな」 「うん、大丈夫」 「じゃ、じゃあ昼頃に家まで迎えにいくよ」 「……うん…あっ」 「ハル、その日は……待ち合わせしてもいいかな」 「待ち合わせ?」 「いい?」 「あ……わかった。じゃあ待ち合わせにしよう」 こんな風に外で待ち合わせをするのは初めてだ。 「(なんでだろ)」 理由は聞かなかったけど、ちょっと不思議だ。 それにちゃんとした…って言うと変だけど、こうやってデートらしいことをするのは、初めてかもしれない。 そんなことを考えながら、俺は雑踏の中に撫子の姿を探した。 「時間は……遅れてない」 「でもこんななか、見つけられるかな」 「ハルっ」 「あっ……え?」 「な、撫子」 撫子は俺のことをすぐ見つけたようで、まっすぐ走ってきた。 待ち合わせ時間には間に合ってるのに、すまなさそうに眉を寄せて走ってきた。 そんな撫子が……いつもと違う。 「スカート、はいてる」 「……おかしい?」 真っ赤になっていたのは、ここまで走ってきたからだけではないみたいだ。 撫子は自分の足元をちらちら不安げに見ている。 「そ…そういう格好……初めて見たから」 「わたしも、あまりしない」 「似合わない?」 「私には似合わないような気がする」 「自分でそう……思うから」 「よく似合ってる」 撫子は一瞬俯き、それから笑顔で顔をあげた。 俺が言わなくても、きっと誰が言わなくったって、撫子の姿は可愛かった。 だけど撫子は俺の言葉を、まるで宝物みたいに扱ってくれる。 感じたことを口にしただけの言葉であっても、撫子は嬉しそうに笑う。 ずっとわからなかったけど、『恋人同士』ってこういうことなんだろうな。 「ハル、探してるものって何?」 「あ、ああ……それが……えっと」 「え、えーっと、ほら、結城ってもうすぐ転校するって聞いたし、同じ園芸部だったし、な、なにか贈り物とか、そういうの……」 「この前のリースのお礼もしたいし……結城と秋姫に……」 本当は違う。 もちろん結城や秋姫にお礼をしたいって気持ちはウソじゃなかった。 でも本当の理由は……。 撫子に何か贈りたかった。 何か、が思いつかなかったんだけど…。 「わかった。何か探そうか。ハルはどんなものがいいと思ってる?」 「う…うーん……実はその、何も思い浮かばない」 「ふふっ、いいよ。一緒に考えよう」 「ああ、ありがとう」 「結城ってこういうの好きかな」 「すももならきっと……この色が好きそう」 「……そうだハル、やっぱり松田さんにも何かあげよう」 「うん、これならいいかも」 「ごめん…ちょ、ちょっと……」 「あの……こ、ここで……待っててほしい」 「ここで? あ、うん」 「私…あの……ちょっと」 もしかして、トイレに行きたいとか……なんだろうか。 そんなこと、気にせず言ってくれたらいいのにと思ったけど、言えないのが女の子なのかもしれない。 「う、うん! 待ってる」 「んっ」 結局、撫子にほしいものを聞きだせなかった。 「どうしよう……聞いた方がいいのかな、でもそれじゃきっと……」 「いいよ、って言うだろうしな」 その時、アクセサリーなんかがずらりと並んだ店先が目に入った。 漫画とかドラマみたいだけど、やっぱり指輪をあげようかな。 それぐらいしか、思いつかない。 「あ、あのっ――」 「こ、これください……」 「あ…お…おかえり……」 買い物を終えて星ヶ丘まで戻ってくると、辺りはもうすっかり夜になっていた。 そんなに特別なことなんて何もなかったけれど、撫子は満足そうに微笑んでくれた。 「疲れた? ハル」 「大丈夫。撫子は?」 俺は、あの時に買った贈り物をぎゅっと握り締め、息を飲んだ。 たった一言、どうぞって言えばいい。 それだけだ……。 「い、急いでたから、あの、箱とかきれいな包装とかしてないけど……これ」 「撫子に……」 「私に…くれるの?」 「ゆ、指輪!?」 「ありがとう、うれしい」 撫子は早速指輪を持って、開いた左手の指にはめようとした。 「ちょ、ちょっと大きいかも」 「ほ、ほんとに?」 薬指でも中指でも、指輪はストンストンと動いてしまう。 これじゃすぐに落としてしまうだろう。 「ごめん、どうしよう……店の人に言ったら換えてくれるかな」 「これ……ハルが選んでくれたの?」 「うれしいよ」 「だけどそれ、サイズが合わないんじゃ――」 「……いいよ」 「これ……いつも持ってる」 「ほら、鎖を通して首からかければ……大丈夫」 「大切にするね」 「ハルが選んでくれたから」 「ハル、雪だよ」 「降ってきたな、寒くない?」 落ちてくる雪を、撫子は嬉しそうに眺めている。 真っ黒な長い髪に雪が舞い降りて、キラキラ輝く髪飾りをつけているみたいだった。 「積もるかな?」 「夜にたくさん降ったら積もるかもな」 「明日の朝、積もってたらみんなで雪だるま作ろうか」 「雪だるま?」 「そう、すももや結城や松田さんたちも誘って」 「雪、積もるといいな」 「あなたのこと、本当に好き」 「……なっ」 「なんだよ…急に……」 「本当だよ」 「……あ、ありがとう」 指先から、鼓動が伝わってくる。 なんでもないことを、これからたくさんたくさん積み重ねていこう。 それがきっと、恋人同士なんだ。 「うん、一緒に帰ろう」 俺は撫子の手を、強く強く握りしめた。 指輪に星のしずくの反応があった、雨上がりの夜。 水たまりを踏みながら走る秋姫に連れられ、しずくの反応する方に向かった。 秋姫と一緒にその反応があった場所に向かうと、そこは学園の校庭だった。 俺達が校庭に辿り着くと、星のしずくは校庭に無数に出来ていた水たまりを行き交うように、自由自在に飛び回っていた。 そして、その星のしずくを秋姫はさっきからずっと追いかけ続けている。 「そっちに行ったよ、すもも!」 逃げる星のしずくを、秋姫が追いかけていた。 星のしずくの動きは相変わらず早い。 距離が離れていると、秋姫の力じゃ側に引き寄せる事はまだまだ難しそうだ。 「はぁ、はぁ…ま、まって…」 だから、必死で追いかけている。 「追いかけるよりも先に、別の方法をお試しになったらどうなの?」 「うう〜」 さっきから自分もこの場にいるのに、秋姫が必死で星のしずくを追いかける姿を見たまま、プリマ・アスパラスは何もしようとはしない。 「早くしないと、アタシがつかまえてしまうわよ!」 そんな事、秋姫にだってわかってる。 だから必死で追いかけてるのに。 「がんばれ、すもも!」 「うん、ユキちゃん!」 俺にうなずく隙に、星のしずくは秋姫との距離を更に離してしまった。 「あ、ああ〜」 「はぁ〜」 わざとらしく大きくため息をついてから、プリマ・アスパラスは背筋をのばし、杖を振り上げた。 「あ! すもも、あの杖、気をつけ…」 「そこのひつじ!」 「これは杖じゃないわ、正式名称はレードルよ。覚えておきなさい!」 あまりの迫力に、言い返せなかった……。 レードルを振り上げたプリマ・アスパラスを見たアーサーが、瓶をくわえてその側に近付く。 すっと、当たり前のように口から出た声が校庭に響く。 声が響くと、秋姫から逃げまどっていた星のしずくは、まっすぐにプリマ・アスパラスの方に引き寄せられる。 「………やめた」 そのまま、星のしずくを瓶に入れられると思った。 だけど、プリマ・アスパラスは瓶の蓋を開けなかった。 星のしずくはそのまま、また逃げ始める。 「お、おじょうさま!? どうしたんですか」 「こんなに簡単にしずくが手に入っても仕方ないわ」 「アタシはこの対決をずっとずっと楽しみにしていた……本気でプリマ・プラムと勝負がしたいの!」 「そして、その本気の勝負の後にしずくを手に入れたい!」 「なのに肝心の勝負の相手は、こんな簡単なしずくにも手間取る低レベルな有様……」 「はっきり言って、今のアナタではちっともお話にならないわ」 「そ、そんな……」 はっきりと、自分には実力がないと言われた。 見るからに秋姫は落ち込んでいる。 「ま、まだ、しずくが取られちゃったわけじゃないよ! 頑張ろうすもも!」 「う、うん。そうだね、ユキちゃん」 「……そうね。まずはそこからかしら」 「どうかされましたか? おじょうさま」 気が付くと、秋姫の脇にプリマ・アスパラスが近付いて来ていた。 一体、なんだっていうんだ。 「ちょっと」 「あ、ああー!」 「うわあああ! な、何するんだ!」 「か、返してください〜!」 秋姫の手の中から俺を取り上げると、プリマ・アスパラスは首根っこをつかまえて俺をプラプラ揺らした。 視界が右へ左へとゆれ、たちまち気分が悪くなってきた。 「どうやら、このひつじに頼りっぱなしなのが良くないのではないかしら?」 「あなたはアタシのライバルなんだから、いつまでもこのままでいてもらっては困るわ」 「変身の言葉くらいは習得して、それからお供をつけてはどう?」 「う、ううう……」 「す、すもも〜!」 じたばたもがいてみるけれど、逃げられそうにない。 「セント・アスパラスやプラムクローリスではそれが常識よ」 「そ、そんな事言われても……」 「アタシに言われっぱなしでは何もできないかしら?」 「それなら……」 「アラ・ディウム・メイ!」 「う、うわわわわ!!」 「えぇえっ?!」 俺をつかまえたまま、言葉を唱えたプリマ・アスパラスは、ふわりと空中に浮かび上がった。 「しばらくの間、この子はアタシが預かっておくというのはどうかしら!」 「そんな! ユキちゃん!!」 「ちょ、ちょっと…!」 「この子がいなければ、アナタも本気で言葉を習得しようっていう気になれるんじゃない?」 「こ、こら!」 「そうね、一人で頑張って…それなりのレベルになったら返してあげるわ」 「また近いうちにお会いしましょう、プリマ・プラム」 「すももぉ〜!!」 抵抗もむなしく、プリマ・アスパラスは俺をつかまえたまま、秋姫の前から飛び去った。 ああ……すももがどんどん小さくなってゆく……。 「ま、待って〜! ユキちゃ〜ん!」 「……はっ! おじょうさま〜! 待ってくださ〜い!!」 「ちょ、もう離して……なんなんだよ!!」 「もう少し静かにしなさい!」 「なっ…」 俺を連れたまま自宅に戻ったプリマ・アスパラス。 さっきから抵抗し続けている俺に一言だけ言うと、やっと腕の中から解放してくれた。 「…わっ」 自由になった俺は、プリマ・アスパラスと向かい合う状態になってその姿を見上げた。 「……どういう事だよ」 「どうもこうも、あの子に言った通りの事よ」 少しだけこっちに視線を向けてから、つまらなそうに視線を外された。 プリマ・アスパラスの体が光ったと同時に、その姿は学校で見慣れた結城のものに変わっていた。 見慣れた姿に戻った結城は、またこっちに視線を向けて口を開く。 「これからは、夜になったらあの子の家じゃなくて、私の家に来なさい」 「…どうして」 「理解できないっていう感じね」 「だって、秋姫は…」 「あの子はまだ基本すらできていないの。それなのに、お供を連れるなんて早すぎるわ」 「そ、そんな事言うけど、秋姫はまだ何もわかっていないんだし……」 結城達みたいに向こうの世界で勉強をして来たわけでもないし…。 そりゃ、俺も何がなんだかわかっていないから、手助けできてるかどうか微妙だけど。 「ハッキリ言わないとわからないかしら? 今の状態のあの子の側にあなたが居ても邪魔なのよ」 「う…!」 「本来、あの子のレベルでは自らレシピを開いて、様々な事を学ぶべきよ」 「でも、あなたがいると、何もかも教えてもらえると思って頼りっきりになってしまう」 確かに今まで、秋姫は俺を頼りにして来た事もあるかも知れない。 そして、俺はそれを当たり前の事だと思ってた。 「プリマ・プラムとして私と競い、星のしずくを集めるのなら、あなたに頼りっきりではいけないわ」 「だから、あの子自らが一人で学んで、私のライバルに相応しくなってもらわなくちゃ」 「そういう事よ、わかった?」 「………わかった…」 小さく頷くと、結城は満足したように微笑んだ。 「理解してもらえたみたいね。じゃあ明日からはうちに来るのよ?」 「…う、うん……」 「もちろん、秋姫さんが成長するまでだから一時的にだけれど……あっ」 「なにっ?」 「……校庭の水たまりのせいで少し汚れちゃったわ」 砂埃を浴びた腕や体を見ながら、結城は困ったように表情をゆがめた。 「悪いけれど、お風呂に入って来るから」 くるんと回転して背中を向けると、結城はそのまま部屋を出て行ってしまった。 と思ったら、結城はまたすぐに戻って来た。 ん? 「ちょっと?」 「えっ?!」 戻って来た結城は、俺にめいっぱい顔を近付けてこちらを見つめている。 「ねえ。ちゃんとお風呂には入っているの?」 「だから、お風呂には入っているの?」 「は、入ってるよ」 「それにしては……」 結城の視線がじろじろと俺の体を観察している。 「少し汚れてない? こことか、真っ白じゃないと思うんだけど」 「わ、やめろって!!」 指先で白いふわふわの部分をつまんで、じっくりと観察しながら言われてしまう。 そりゃ、この体の時には確かに定期的にしか風呂には入れないけど……。 「仕方ないわねー」 「な、何がだよ」 「お風呂で一緒に洗ってあげるわ」 「う、うわぁぁー!!」 「いらないいらないっ!!」 「遠慮しなくていいのよ」 どうにかして逃げられないかと思うけれど、手のひらの中から逃げ出せない。 ど、どうにか出来ないのか!? ちょうどそこに、誰かの足音が響いた。 良かった! 松田さんが戻って来たんだ。 助かるかも知れない!! 「お嬢様ぁー、置いて行くなんて酷いですよー」 「あら、おかえりなさい」 「?? ユキちゃんさんを連れて、どこかに行かれるのですか?」 「た、助け……」 「どこにも行かないわ。お風呂に入るだけ」 「ついでだから、このひつじも洗おうと思ったの」 「!!!」 助けてくれ!! ぬいぐるみと風呂に入るなんてとんでもないとか! 言ってくれー!! 「ああ! おじょうさまがお洗濯物にご挑戦されるなんて!!」 「へ…」 せ、洗濯物って……俺の事だろう…か!? 「祖父の代からお嬢様のお世話をさせて頂き、ご成長を見守って来ましたが……」 「今まで一度もご自分で家事をしようと言い出した事のないおじょうさまが、洗濯をされるだなんて!」 「ご自分の手を煩わせる事にわざわざ挑戦されるとは、なんとご立派に成長されたのでしょうか!!」 そんな、洗濯ぐらいで大げさな……。 しかし松田さんの目は本気だった。 「きっと、祖父もこれを知ったら喜ぶ事でしょう!」 「松田は…松田は感動いたしました!」 「い、いや、あの。だから、たすけ……」 「ごゆっくりお風呂に入ってくださいねっ!」 「ちょ、ちょっと、あの……!」 「ちょっとぉ〜!」 ななんで、こんな事になってるんだ……? 「ふん、ふふ〜ん♪」 「わ、わわ!!」 「どうかした?」 「な、何脱いでるんだよ!」 「お風呂に入るんだから、脱ぐに決まってるじゃない」 「そりゃそうだけど…」 いきなり脱がれたら目のやり場に困るじゃないか。 「うわっ! み、見えてるって!!」 「それがどうかした?」 「それじゃ、洗ってあげるわよ。ふふっ」 そ、そんな、このまま風呂に入るなんて! な、なんで結城はこんなに満足そうなんだよ!! 「さて……あっ!」 結城は風呂に入って油断していた。 そのスキに、俺は結城の手の中から逃げ出す事に成功した。 ど、どこかに逃げないと! 「あ! 待ちなさい」 「待たない!」 「逃げられるわけないでしょ!」 わかってるけど、素直につかまってたまるかよ。 「ほら、つかまえた!」 「う、うわ!!!」 またしても俺をつかまえると、結城は自分の裸を見せつけるように俺を持ち直した。 「だ、だから見えてるって!!」 「ふふーん」 結城はどうあっても俺に裸を見せたいみたいだ。 それがどうしてだかはわからないけど……。 とりあえず、もうこうなったら!! 「こうすれば見えないからな」 何もバカ正直に見てる必要なんてないんだ。 洗われている間だけ、目を閉じていればいい。 「開けなさい、こら!」 「嫌だ」 開ければまた、結城はまた裸を見せようとするんだ。 開けるわけがないじゃないか。 こうしておけば、そのうち諦めるだろう。 「開けなさいよ」 そろそろ、諦めたかな。 「ぅえ!?」 な、なんか…や、柔らかい感触がむぎゅって。 「ほら、えい」 さ、左右から柔らかいものが……。 こ、これって、もしかして。 「な! うわぁぁあぁー?!!!!」 「ほ〜ら。えい、えい!」 何を考えているのか、結城が自分の胸の谷間に俺を挟んでいる。 し、しかも、何度も何度も挟まれて……!! 「うわ! うわああ!」 な、なんでこんな事に! どうしたらいいんだ!! 「ほら、これならどう?」 何がどうなんだよ! なんで、こんな事に! 「は、放せ!」 とりあえず、この状況から逃げ出さないと。 「あ、こらぁ。暴れないの」 「んわ!!」 逃げようともがいてみるけど、左右の柔らかい感触は逃げ出させてくれない。 「うわあああ!!」 また、左右から圧迫されて! 「ねえ、どうなのよ?」 「なにがどうなんだよ!」 「少しは色々ないの?」 「なんだよ、色々って」 「だから、色々よ! ないの?」 「今度は覚えてないなんて言わせないんだから!」 ま、また胸が!!! 結城、一体何がしたいんだ。 「い、いい加減にしろよ」 「何よ」 「……本気で怒るぞ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃない」 やっと結城から解放され、風呂場の床に放り投げられた。 「タオルを巻けばいいんでしょ!」 「………怒らせたかな」 でも、あれは結城があんな事をするせいだし。 ……本当に、なんだってあんな事を。 「これでいいのでしょう?」 戻って来た結城は体にバスタオルを巻いていた。 良かった、これでさっきよりはましだ。 「ふーっ」 「………ふん」 「なんだよ」 「なんでもないわ」 「うわわ!! 今度はなんだよ」 ま、まだ何かするつもりなのか。 「私に洗われるのは嫌なんでしょ」 「え? それ、どういう……」 「それなら、松田に洗ってもらって」 何なんだ、急に。 本当にわけがわからない。 「松田!」 「はい、お嬢様!」 「って! うわわわ! お、おじょうさま、そんなお姿で!!!」 呼ばれてやって来た松田さんは、バスタオル一枚の結城の姿を見て慌てていた。 「このひつじ、洗面所で洗ってあげて」 「うわぁっ!」 結城は手にしていた俺を放り投げた。 驚いていたようだが、松田さんは上手く俺をキャッチしてくれた。 「え? あ? は、はい!」 「お願いね」 「かしこまりましたー!」 「それでは、洗面所でお体を洗わせてもらいます」 「あ。は、はい」 今までのは一体なんだったんだ? 結城は一体、何の目的であんな事を……。 何がなんだか、さっぱりわからない。 でも、とりあえず…助かった。 「ちょっと待ってくださいね」 洗面台の上に俺を置くと、松田さんはにっこり笑った。 「えーっと、お客様用のタオルはこっち……」 「じゃなかった! えっと、こっちだったかな」 「ああ、あったあった!」 「すいません、お待たせしました」 「じゃあ、洗いましょうか」 「少し、くすぐったいかも知れないですけど、我慢してくださいね」 松田さんが石鹸を泡立てた手で、丁寧に体を洗ってくれている。 蛇口から溢れ出しているお湯が気持ちいい。 さっきまでの大騒ぎとは違い、これこそ風呂って感じだった。 「…………あの、石蕗君」 「……え! は、はい!?」 「あ! あの先日お嬢様から石蕗君の事を伺いまして、それで!」 「あ。そうでしたか…」 「あの…」 「お嬢様の事なんですけれど――」 「あの、あまり悪く思われないでくださいね…」 「お嬢様、本当は石蕗君の事を心配されていると思うんです」 「心配……? 結城が…?」 「あ! わ、私がこんな風にお嬢様の話をするのも差し出がましいんですが!」 「あ、いえ。続けてください」 オロオロと慌てたようだった松田さんだったけど、俺が先を促すと安心したような表情を浮かべた。 「ユキちゃんさんを預かっておくというのも、秋姫さんの所にいるよりも正体がバレにくいだろうと、言われたと思うんです」 「あ! 私が勝手にそう思ってるんですけど、あの、多分お嬢様もそう思っておられたと…」 確かに、秋姫の家に居るといつか正体がバレる可能性もある。 いやその可能性は、かなり高いだろう。 あの時、俺はそんな事まで考えられなかった。 「………そっか…」 「――お嬢様は、お優しい方なんですよ」 松田さんはすごく嬉しそうに結城の事を話しながら、体を洗い続けてくれていた。 結城、大事にされてるんだな。 「うわ!」 お湯で石鹸を洗い流してくれていた松田さんが手を滑らせた。 「わ! わぁ! お、落ちっ!!」 「わ! うわわ! す、すいません!!」 え? 今、なんか松田さんの方から音がしたような。 「――――っ!!」 「ふうぅぅ〜。よ、良かった〜」 寸での所で、松田さんは床に落ちそうになった俺を拾い上げてくれた。 助かった……。 それにしても、さっきの音ってなんだったんだろう? 「も、申し訳ありませんっ!!」 「大丈夫でしたか?!」 「あ、はい……?」 何だか、松田さんに違和感があった。 違和感……違和感というか……。 よく見ると、頭のてっぺんに……犬の耳!? 「ま、まつださ……み、耳が……!」 「え、耳? ―――あ、ああッ!!」 「あ、あわわわ!!! す、すいません!」 急に松田さんから犬の耳が生えて来た! これ、さっき犬の姿だった時の耳みたいだけど。 頭を押さえた松田さんはオロオロしながら俺に謝っている。 謝る事じゃないと思うんだけど……。 「お、落ち着いて、落ち着いてー」 「すーはー。すーはー」 あれ? でも、その前にも見た事あるような気がする。 「うーん。や、やっぱり慌てるとダメですねぇ」 「また薬を飲まないと……」 慌てるとダメ? 薬? なんの事だろう。 「あ、ちょっと待ってくださいね」 「えっと、ここに……あ、うわ!」 「あった、あった」 じっと見ていると、松田さんはどこからかジュースのような物を取り出した。 どこかで見た事あるような気がする缶を、松田さんはゴクゴクと飲み干していた。 「ふぅ……」 「………あっ!」 『君がそんな姿になってしまった原因なのだけどね…多分、普通じゃないものを体の中に取り込んだからなんだ』 『ああ。そうだった、うん。つまり君たちの知らないもうひとつの世界が、この世界の裏側にはあるってことだよ』 『そしてその世界の力が、君がぬいぐるみになってしまった原因』 あれってもしかして、あの時俺が飲んだジュースと同じ物? あの時、ぶつかった怪しい奴は、松田さんで……。 もしかすると、俺がこうなったのって、松田さんがあれを落としたから? 「あれ? どうかしましたか?」 松田さんが落としたあの缶と、俺の缶ジュースが入れ替わってこうなったんじゃ……。 「あ! も、もしかして、まだ耳が出てますか?」 「あ、いえ、そうじゃないです」 「それなら良かったー」 「……あ、あの、さっきの耳って」 「……いやぁ、犬に変身するのに薬を飲んでいるんですけどね」 「慌てると犬の時の耳が出てしまって、困っちゃいます」 焦ったように頭上を気にした松田さんに、俺は思った事を口に出来なかった。 「じゃあ、石鹸を洗い流しましょう」 でも間違いなく、あの時に俺と松田さんのジュースが入れ替わって、今こんな状況になってるんだ。 「さぁ、綺麗になりましたよ」 ふかふかの綺麗なタオルを出して俺の体を拭きながら、松田さんは嬉しそうに笑っていた。 松田さんが原因で俺がこうなったって言ったら、多分すごくショックを受けるんだろうな……。 秋姫が星のしずくを7つ集められれば元に戻れるんだし、この事は黙っておこう。 結城の家に行った翌日。 この日は登校日で、久し振りに朝から学校だ。 クラブがあるから学校に来る事は久し振りという感じはしない。 だけど、久し振りに会うクラスメイト達はみんな賑やかだった。 夏休みが始まってから登校日まで、そんなに時間があったわけではないのに、この賑やかさに懐かしい気持ちになってしまった。 「ハルは相変わらず毎日、園芸部なのか?」 「長く続いてるよね〜」 「うん、本当」 「そりゃ、まあ」 理由が理由なだけに長続きしてるんだけど、それは言うわけにはいかなくて口ごもる。 「そりゃそうよね」 「何が」 「可愛い女の子があんなにいるんだから!」 「お? ハルでもそういう事を思うようになったんだ」 「あ〜。そうなんだ〜」 「いや、何勝手な事…」 「じゃあ、どういう理由?」 「どういうって……」 「―――純粋に園芸が楽しいから」 嘘じゃなくて、ちょっと楽しいと思うようにもなって来たし…。 「う〜ん。70点ってとこかな」 「あ、俺もそんなトコかと」 「何が70点だよ」 「動機として弱いから、70点って事」 「じゃあ結局、どう答えてもそう言われるんじゃないか…」 「石蕗くん、よくわかってるよね〜」 「あははははっ」 雨森がそう言った後、全員が一斉に笑った。 好きにしてくれと思うと同時に、こんなやり取りが久し振りで楽しいとも思う。 その後も、俺を抜きにしてみんなが楽しそうに話していた。 久し振りの会話は弾み続けているみたいだ。 みんなの声を耳に入れながら、視線は自然と違う場所に移動していた。 落ち込んでいる様子の秋姫。 無表情な結城。 秋姫は、昨日の事まだ気にしてるんだろうか。 席に座ったまま、ちょっと元気がないみたいだ。 逆に結城は、昨日あんな事があったばかりなのに、何事もないみたいに自分の席に座って本を読んでいる。 「……ふぅ」 「スモモちゃん、ちょっと元気ないね」 秋姫の様子がおかしいことに、深道も気付いたみたいだ。 「あ、そうかも……」 「ちょっと行ってくる」 「スモモちゃん」 「あ、信子さん…」 「ちょっと元気ない? 大丈夫?」 「え……!?」 「そんな風に見えたから。ね、八重野さん」 「うん…そうね」 「そ、そんな事ないよ!」 「ちょっといつもと様子が違うから、気にはなってた」 「そんな事ないよ、大丈夫だよ」 パタパタと両手を振りながら秋姫は否定してる。 でも、そんな様子もいつもと違うんだよな。 やっぱり、ユキちゃんを取り上げられたからだろうか。 ……大丈夫かな。 音がした方に目をやると、結城が本を閉じて立ち上がっていた。 「そうやって落ち込んでいる暇があるのなら、きちんと練習をしたらどうですか?」 「!」 「え…?」 「スモモちゃん、練習って?」 結城の言葉に深道と八重野が不思議そうな表情を浮かべていた。 でも、秋姫だけは戸惑ったような表情を浮かべている。 ライバルだと思ってる人間に、いきなりこんな事言われるとは思わないもんな。 「元気をなくしたままで居続けても、何も進歩はありませんから」 「それだけです。お話の邪魔をしてごめんなさい」 「スモモちゃん、結城さんが言った事の意味わかる?」 「え? あ、うん…なんとなく…」 「すもも、練習ってもしかして」 「うん。後で言うね、ナコちゃん」 結城本人は、あれでも励ましたつもりなんだろうな。 言った本人は、もう席に戻って本の続きを読んでる。 結城の励まし方ってわかりにくい。 「なんか、わかんないけど」 「結城さんはスモモちゃんを励まそうとしたって事でいいのかな」 「あ、えと。うん!」 「そっか。ま、なんだかわかんないけど、頑張って」 深道はなんだかよくわからないって顔をしながら秋姫を励ましてた。 秋姫と八重野は、結城が言いたい事がわかったみたいで、顔を見合わせて頷きあってた。 俺も深道と同じように、なんだかよくわからなかっただろう。 昨日、松田さんと話をしなかったら…。 ホームルームが終わった後……。 体育館で集会があるとかで、生徒たちは皆それぞれ思い思いに体育館に向かっていた。 秋姫は八重野と一緒で、他のみんなもだいたいグループを作って歩いてる。 「久し振りの登校日はいいんだけど、集会ってめんどくさいよね」 「うんうん、めんどくさい〜」 「校長先生の話が長いから、眠くなっちゃうよねぇ〜」 「確かに」 「でも、立って寝るわけにもいかないから我慢するの大変だよね」 「やろうと思ったらできると思うよ〜。立ったまま寝るの〜」 「雨森さんならできそうだよな」 「え? みんなはできない?」 「普通はできないんじゃないの」 楽しそうに喋りながら歩いているみんなと一緒に歩いていると、その少し前を歩いていた結城の姿を見付けた。 どうやら、一人みたいだ。 「………ごめん、ちょっと」 「どうしたんだ、ハル?」 「結城、一人みたいだから」 「あ、うん。わかった」 「結城さん、あんまりみんなと一緒にいないね」 「石蕗くんなりに心配してるのかな〜」 「おい、結城」 「……なんですか」 「あ、いや、何というか…」 振り返った結城は、少し険しい表情をしていた。 まるで、近付くなと威嚇してるみたいだ。 「用が無いのなら、声をかけないで頂けますか」 「…う」 「用ですか?」 「別に、特に用事って事はないんだけど……」 正直に、結城が一人だったからとは、今の様子を見ていると口にする事ができなかった。 「では、私は行きますから」 「石蕗君も早く行かないと、遅れても知りませんから」 結城、ちょっと怒ってるのかな。 昨日の事のせいかな、やっぱり。 ぼんやりしていると、圭介に肩を叩かれた。 近くにはみんなもいる。 「ハル、ちょっと急ごうぜ」 「ちょっとお喋りしすぎたみたい」 「登校日に怒られるなんて、嫌だもんね」 「急ごう〜」 登校日は授業がないから、拘束される時間も短い。 ちょっと校長先生の話なんかを聞かされた後は、すぐに下校だ。 深道を先頭にして教室から出ると、賑やかに学校の外へ向かう。 一応、結城も一緒について来ていた。 「久し振りに全員揃ってるわけだしさ、これから駅前くらいまで行ってお茶でも飲まない?」 「あ、行きた〜い」 「私、ケーキが食べたいかも」 「あ、いいねケーキ。私も食べたい」 「スモモちゃんと八重野さんも行くわよね?」 「あ、あの、うん。ナコちゃんが行くなら」 「すももが行きたいなら行こうよ」 「うん、行きたいな」 「じゃあ、行こう」 秋姫の視線が少しだけこっちを見たような気がした。 どうかしたのかな。 「ハルも行くよな」 「つ、石蕗くんも行こうよ」 「うん、別に」 答えると秋姫は真っ赤な顔をして微笑んだ。 この後は別に用事もないし、一緒にお茶を飲みに行くぐらい平気だな。 「じゃあ、石蕗くんも一緒にみんなで……」 「ダメです」 今まで黙っていた結城が、秋姫の言葉を遮るようにしていきなり口を開いた。 「申し訳ありませんが、今日石蕗君は私と約束があるんです」 「ちょ、ちょっと待てよ、いきなり何を」 「黙ってて」 「結城さん、あの、約束って?」 「約束の内容まで言わなくてはいけませんか?」 「いや、そうじゃなくてさ」 「つ、石蕗くん……」 「ちょっと待てよ、俺約束って」 「黙らないと、正体をバラします」 約束なんてあるわけない。 真っ赤な嘘なのに……俺は言い返せない。 本物のぬいぐるみになるのは、ごめんだ。 「石蕗くん、約束あったの?」 「…………い、一応。その、忘れてた」 「ダメだよ〜。約束は覚えてなくちゃ〜」 「それでは、私達は先に失礼させてもらいます」 結城に腕をつかまれて、俺は引きずられるように歩かされた。 みんな、こっちを驚いたように見てる。 そりゃそうだろうな。 今度会ったら、どう言えばいいんだ……。 引きずられるように歩いていると、隣を物凄いスピードで高級車が走って行った。 そして、慌てたように急ブレーキで止まる。 「行くわよ」 「行くって?」 結城はさっきの高級車を指差し、そちらに近付いた。 俺たちが近付くと窓が開き、松田さんの笑顔が見えた。 これ、結城の家の車だったのか。 「お嬢様、お待たせしました」 「さあ、乗って」 中に押し込まれるようにその高級車に乗せられ、すぐ後に結城も乗ってくる。 「……あの二人、いつの間にそういう関係になってるんだ?」 「私が知るわけないでしょ」 「仲良さそうだったね」 「そういえば……」 「そういえば〜?」 「結城さん、プールの補習の時からちょっと様子が変だったよね」 「ねえねえ、どういう事?」 車に用意されていた紅茶を手にした結城は、口を開く事もなくその紅茶を飲み始めた。 口を開かないだけじゃない。 それどころか、こっちを見ようともしない。 何をそんなに怒っているんだろう? 「どうしたんだよ、いきなり…」 「何がですか」 俺が口を開くと、やっと結城も口を開いた。 そして、カップを手にしたままこっちを見る。 「いきなり脅したり、車に乗せたり、どういうつもりだって言ってるんだ」 「石蕗君は、自分の立場や状況をわかっていてそういう事を言っているんですか?」 「……立場って…」 結城の言いたいことが、いまいちよくわからない。 「何か、勘違いしているのかも知れませんけど……」 「さっきの皆さんとの会話、覚えてますか?」 「さっき?」 「駅前の方まで行って、お茶を飲もうという話です」 「そりゃ、覚えてるけど」 「駅前まで行って、どこかでお喋りをしながらお茶を飲んで、みんなでゆっくりして…」 「その後、帰宅が何時になるか考えていましたか?」 そういう事…か。 駅前からここまで帰ってくるのには、割と時間がかかる。 これから皆と一緒に駅前に行って、お茶を飲んで…やがて時間が経って、もしそのままぬいぐるみになってしまったら……。 そんな事、全然考えてなかった。 みんなが久し振りに揃ってたから、お茶でも飲もうって言われて、普通にいつも通りに答えて……。 「…………ご、ごめん」 結城が言った通り、みんなと一緒だと時間の事とか忘れてたかも知れない。 それに、思い出した頃にはすぐに夜になっていた可能性もあるよな。 「そんなの全然考えないで返事してた。ごめん」 結城なりに心配してやってくれたんだ。 それなのに俺は、そんな事何も気づいていなかった。 「私に謝られても困ります」 「でも、結城が……」 「や、やめてよ!」 「お、お嬢様! どうかされましたか?」 突然、結城が大きな声を出した。 その声に驚いたのか、松田さんが心配そうに振り返っている。 「なんでもないわ。それより、ちゃんと前を見て運転しなさい」 「は、はい! すいません!!」 「……なあ」 「やめてって、何が?」 何故か結城は、怒ったように俺に視線を向けた。 「そういう風に言うのやめてって言ってるの!」 どうしたんだろう、急に。 別に何も変な事は言ってないのに。 また怒られる理由が全然わからない。 「そういう風にって、どんな?」 「……惚れ薬」 「惚れ薬よ! 惚れ薬のせいよ!!」 「……意味がわからない。何の事?」 「惚れ薬を飲んでたんだから!」 「なにか変だと思ってたら、あの時飲んでたの!」 「あの時って…」 「プールの時に決まってるでしょう! 他にいつがあるって言うのよ!!」 「え、えぇ?!」 頭の中で、あの時の事がすぐに思い出された。 俺のペットボトルを松田さんが間違って結城に渡して、それを結城が飲んで……。 補習中に急に抱きつかれて、その後ずっと隣にいて、それから……。 「まだ薬が効いてるみたいでおかしいんだから!」 「だから、そんな声とか出さないでよ!」 「そんな声って…」 「あなたがそばにいるとドキドキする感じなの! ―――こんな思いしたくないんだから!」 「だから、あんまり近付きたくないの!」 「もう! 早くあのひつじの姿になってよ!」 「あの姿なら、このドキドキも少しは平気になるの!」 「だから、早くあのひつじになってよ!」 「そ…そう言われても…」 「だからそういう声出さないで!!」 「あと、あの時の事は…き、記憶から消去して!!」 「あの時って…?」 「プールの事! それから……キ、キスとか、あのあたりのっ」 「……あ、ぁ…はい…」 言い終わると、結城はまた顔をそらした。 一応薬の効き目は弱くなってるみたいだけど、まだ効果は続いてるのか…。 『ず〜っと効いてるかもしれないし……』 『どっちなんだろうねえ?』 ……如月先生もとんでもない物作ってくれたなぁ…。 結局あの後、結城はまた怒ってしまったのか口を開いてはくれなかった。 おまけに、帰って来たらさっさと部屋に行ってしまった。 「どうぞ、遠慮せずにお好きな場所に座ってください」 「あ、はい。すいません」 「そのうち、お嬢様もお部屋からいらっしゃるでしょうから、待っていてくださいね」 なんだか松田さんの様子まで慌しいみたいだけど、どうしたんだろう? 「では、お茶の準備をしてまいります」 松田さんがいなくなって、広いリビングに俺一人残されてしまった。 結城、自分の部屋から出て来るんだろうか。 俺に近づくの、嫌がっていたからなあ……。 「あ、着替えてたのか…」 「そうよ」 「自分の家で制服のままなわけないでしょ」 「まあ、そうだけど」 それだけ言うと、結城は手にしていた本を開いて読み始めた。 別に怒っているわけでも、いらだってるわけでもなさそうだ。 きっと、こういう言い方しか出来ないんだろう。 「お待たせしましたー」 トレイに紅茶の用意をした松田さんが戻って来た。 紅茶なんてめったに飲まないし、こんなに本格的な感じのは初めてだった。 「すぐにご用意いたします」 「お嬢様のお好みのお茶なんですが、石蕗君も気に入ると思いますよ」 「どうも…」 さすがに慣れた手付きで松田さんは用意を続けている。 「………あっ!!」 「どうかしたの、松田?」 「あああああああっ!!!!」 「!??!!?」 「な、何?」 「わ、私とした事がぁっ!!」 松田さんの視線の先には、結城の鞄がある。 確かさっき、松田さんが車から持って降りたものだ。 「申し訳ありません、お嬢様!」 「私、学校に辞書を忘れて来てしまったようです!」 「辞書?」 「はい! 鞄の中に入れたと思ったのですが……今見ると厚みが…」 「あの、辞書って……」 「すぐに探しに行ってまいります!!!」 「……あのさ、辞書って」 「―――――これの事かしら?」 読んでいた本を閉じて、こちらに表紙を向けながら結城が俺に言った。 確かにそれは、辞書だった……。 「ま、松田さん行っちゃったじゃないか」 「ちょっと、追いかけてくる」 「だめだ。もう車で出た後だった」 「そのうち諦めて帰ってくるんじゃないかしら?」 「そうかな……」 あれだけ結城に対して一生懸命なんだから、そんなにすぐに諦められないんじゃないだろうか。 「行ってしまったものは仕方ないから、待っていましょう」 松田さんが心配ではあるけど、どうしようもできないか。 とりあえず、座ろう。 「……そんなに心配しなくても大丈夫よ」 「よくある事だから」 「そ、そう」 よくあるのもどうかと思うんだけど…。 座った視線の先には机がある。 その上には、松田さんが淹れようとしていた紅茶の用意がそのままになっていた。 「これ? ああ、お茶」 「あと、葉を入れるだけみたいだけど」 せっかく、松田さんが用意してくれたんだし、このまま置いておくのも申し訳ない気がする。 それに、好きなお茶だって松田さん言ってたし、結城も飲みたいかも知れない。 「どうする? 俺、やろうか?」 「せっかく用意してくれたんだし…、あとは葉を入れるだけみたいだし」 結城、こういうのやった事なさそうだし。 「わ、私がやるわよ」 さっきまで黙ってたのに、急にどうしたんだろう。 「石蕗君は一応お客様なのだから、そんな事をさせるわけにはいきません!」 あ、そうか。 一応、気を使ってもらってるのかな。 なんか、見るからにこういう物の扱いに慣れてませんって感じなんだけど。 「大丈夫です! キッチンでやりますから、待っていて下さい」 なんだか、不安な音がしている。 自分で言い出したって事は、俺の予想に反して結城ってお茶とか淹れた事あるのかな。 …。 松田さんがいるから、多分ないんだろうな。 「………なあ、結城」 「なんですか!」 「いや、手伝わなくて大丈夫かと思って…」 「私を手伝う?」 「そう。一人で大丈夫か?」 「し、失礼な事を言わないでちょうだい!」 「これくらい、一人で完璧にできるわよ! 邪魔をしないでくれるかしら!」 「わかったなら、戻っていて」 無理に手伝うと怒るだろうし、待ってるしかないか。 でも、本当に大丈夫なのかな。 心配しながらもしばらくおとなしく待っていると、結城がカップを二つトレイに乗せて戻ってきた。 「お待たせしました」 結城がそっと、机の上にカップを置いた。 その中に入っているのは、普通の紅茶だ。 別に変わった色はしていない。 「飲まないの?」 「いや、飲む……」 「私だって、お茶ぐらい淹れられるのよ」 ちゃんとできたのが意外だなって思ったのは、内緒にしとこう。 「じゃあ、いただきます」 「ええ、どうぞ」 「お砂糖とか、こっちだから」 「私もいただくわ」 カップを顔に近づけると、香りが漂ってくる。 ちょっと普通の紅茶と違うような匂いがしている気がするんだけど…。 でも、折角入れてくれたんだし、一口飲んでみよう。 「…………?」 まずくはないけど、ちょっと普通の味とは違うような気がする。 こういうものなんだろうか。 それに、やっぱり匂いが少し気になる。 何の匂いだっただろう、これ…? 「あら、意外と美味しい」 結城は美味しそうに飲んでるし、これはこういうお茶なのかも知れないな。 「遠慮しないで飲んで、おかわりもあるから」 う〜ん。 あんまりおかわりとか、たくさん飲めないと思うんだけどな…。 「おいしい〜。もっと飲もう〜っと」 「ゆ、結城…?」 なんか、さっきからすごい勢いで紅茶を飲んでるけど。 「正晴も〜、もっと飲みなさぁい」 「ま、正晴って……」 「何よ〜。あんた、石蕗正晴でしょう〜」 「そうだけどさ」 なんで呼び捨てなんだろう…。 紅茶を飲んでるだけなのに、おかしくないか!? なんか、酔っ払ってるみたいな……。 ………酔っ払ってる!? 「ちょ、ちょっと!」 「あ〜?」 「もしかして!」 ポットの蓋を開けて、直接匂いを嗅いでみた。 「うっ!!」 な、なんか…物凄く酒臭くないかこれ!? さっきカップに入ってる状態の時より、もっと強烈な匂いがしてる。 「結城、このお茶に何かいれた?」 「何かってなぁによ〜」 「お茶ぐらい、ふつ〜に淹れられるわよお〜」 「そうじゃなくて! 葉以外に!」 「えぇ〜?」 「ん〜とぉ〜」 「ちょっと思い出す〜」 「お茶の葉でしょお〜。それからぁあ」 「それから?」 「松田がぁ、いつもブランデーを入れてるって言ってたから、それもちゃんと入れたわよ〜」 「ぶ、ブランデー?」 そうか、ブランデーを入れすぎたんだ! それに気付かずに飲んでたに違いない。 「それがどうしたって言うのよお〜。ええ〜?」 「……うっ!」 酔っ払った結城が体をすり寄せて来る。 すり寄せるというか、体ごとこっちにもたれかけさせるというのか。 「正晴もいっぱい飲みなさいよ〜」 「お、俺はいい」 「はぁああ〜? アタシの淹れたお茶が飲めないっていうの〜?」 う、うう。 体を密着させて来る結城の息が……酒臭い。 「まあ、いいけろさ〜」 「そーいえば〜」 「責任とりなさいよ、せきにん〜!」 せ、責任!? 一体何の責任をとれって言うんだ! 「この前の事よ、この前〜!!」 「こ、この前?」 この前のって、やっぱりプール補習があった日の後の……。 さっき、忘れてくれって言われたばかりなのに。 「あそこまでやってぇ、正晴逃げたじゃないのぉ」 あの状態で逃げる以外にどんな選択肢があるって言うんだ。 「女の子にあんな事させて〜、恥ずかしくないの? えぇ?」 「あれは、その、不可抗力っていうか」 「はあ〜? なんれすって?」 「だ、だから」 「らから、あによ」 結城の目がヤバイ気がする。 このままじゃ、何されるかわからない。 「そろそろ帰らなきゃ」 「ああ! こらぁああ!」 逃げるしかない。 でも、どこに逃げる? 「正晴ぅ! まちなさ〜い!」 「ま、待たない!」 とりあえず、この家広そうだからどこかに隠れられるかも知れない。 「ふふん」 「スピリオ・シャルルズウェイン」 「アタシから逃げようたって、そうはいかないんらかられ〜」 結城がプリマ・アスパラスに変身した。 そして、手にしたレードルを振り上げる。 ヤバイ、何かする気だ。 早くこの部屋から出ないと! 「ティ……」 「うわあ! な、なんだ!!」 結城の言葉の後、体の自由が奪われた。 しまった、動く事ができない。 「ペアルレト!」 「う、うわ! うわあああ!!」 体がソファに引き寄せられ、そして見えない何かに拘束されたのがわかった。 こ、こんな事までできるのかよ。 「ふふん。アタシから逃げられなんかしないんらから」 「イヤ。責任とってもらうんれすからね!」 ソファに俺を拘束した後、結城がそばに来て座る。 「う、うわ! こら、やめろって!!」 「い〜や〜」 「べ、ベルトを外すな!!」 「うわぁぁ!!!」 抵抗も空しく、ズボンのベルトとボタンを外され、ジッパーもおろされた。 「責任よ、せきにん〜」 にんまりと笑う結城は、ズボンに手をかけると一気に下にずりおろした。 隠す事もできず、結城の目の前に下半身が晒されてしまう。 「確かぁ、ここをこうして」 反応を確かめるようにしながら、結城の手のひらが動き始めた。 「で〜、こう」 「うっ!」 指先がしなやかに動いて、根元から先端をなぞる。 な、なんでこんな……。 嫌でも体が反応してしまう自分が悔しい。 「あはは〜。ピクピクぅってなったわよ」 「う、うるさい!」 「あら、そんな風に言うのね」 あ、ヤバイ。 怒らせたかも。 ジロリと俺を睨みつけた結城は、上半身だけをソファの上に乗せるような状態になる。 勿論、そうなるって事は俺のが結城の目の前に来るという事で……。 「お、おりろ! 今すぐおりてくれ!」 「い・や!」 「ん、んん〜」 「うわっ! ああっ!」 抵抗できないのをいい事に、結城は口を開いて舌を差し出した。 「あ、んん。ん、ちゅ…ふぁ」 「んと、こう……。んふ、ふ、んんぅ」 結城の舌が動いて俺を責め立てる。 そうなると、体はさっきよりも余計に反応してしまう。 「ほらぁ〜。かららは、す〜なおに反応してるれしょ〜」 「な、なんだよそれは!」 「らから〜。こういう事ぉ」 両手でしっかりとモノを掴まれ、顔を近づけられた。 この状態じゃ、何をされるか嫌でもわかる。 「ぅあ!」 「ん、ふ! ちゅ、んんぅ、んむ」 舌がぎこちなく動いて、下から上へと舐めあげられた。 「んんん、んむ、んん」 「ん!!」 必死で声を我慢すると、結城はつまらなそうに顔をあげてこっちに視線を向けた。 「声らしてもいいのに〜」 「だ、だれがっ!」 「ははぁ、そういうたいろをとるのね」 「うわ、またっ! っく!」 結城の手と舌が同時に動いた。 先端を舌で舐めている時は、指先が根元に移動する。 舌は細かく動き先端を刺激し、指先は根元の辺りを優しくマッサージするように動く。 「はぁ、はあ…ぁあん、んんむ」 「あ、はぁ。こんどはこっちをぉ」 そして、一旦動きを止めると、今度は根元に舌が移動して、指先が先端に移動する。 「こう、してぇ」 「あ、んむ。んちゅ、んむ、んふ」 唇が優しく根元の辺りを甘噛みし、指先がくるくると円を描くように先端で動く。 指の動きは強すぎず、弱すぎない、優しい感触。 「あん、ん、んん。んむ、んく」 ねっとりとした唾液を含んだ舌の感触と、柔らかい唇。 それに、優しい指先の動きに流されそうになる。 「……っは!」 「はあ、ああ……。ぁんむ」 唾液で口元をとろとろにしながら、結城は楽しそうに舌を動かし続けていた。 「ん、ちゅ! ぷは!」 一瞬顔を離すと、酔っ払いながらもどこか納得したような表情を浮かべていた。 視線は目の前と俺の顔を往復している。 「やっぱり。こうしたら、こうなるんら」 「な、なんなんだよ」 「アタシのやり方がぁ、まちがってなかった〜って事よ」 「や、やり方……」 「そぉいう事〜」 にっこり微笑んだ結城は、また口を大きく開いて舌をさし出す。 「ぁんん、んむぅ……。ん、ふは……! ん、ちゅう」 「ぅく!!」 「んく、んむ。ん、んんぅ、んふ」 「ちょ、ちょ! いい加減にしろっ!!」 「んんぅ…ぷ、はぁ」 「………むぅ〜」 口を離し、手の甲で口元を拭いながら、結城は不満そうに俺を睨み付けている。 「いったい、なぁにが不満なのよぉ!」 「ふ、不満って」 「ちゃんとれきてたじゃないのぉ」 「そえなのに、正晴は嫌がってばかりじゃないのよ〜」 「い、嫌がってと言うか」 「じゃあ、なに?」 「なぁに? ろんな風らったら満足なの? え?」 「はっきりきっぱり言ってみなさぁい!」 「どんな…風って……」 「もっと、おとなしい方がいい」 「はぁ? おとなしいのがいいって〜?」 「うっ…」 ちょっと、この言い方はマズかったか。 でも、なんて答えればいいかわからないし。 「おとなしーい……」 「おとなしいのが好きって事ね!」 「は? 好きっていうか、あの」 「わかぁったわよぉ! ちょっと待ってなさいよ〜」 「え? ちょっと待て、これ!」 「ちょ、ちょっと! 外して…」 立ち上がった結城は、俺をそのままにして去って行ってしまった。 ほ、本当に何考えてるんだ? 足音がこちらに近付く。 良かった、やっと戻って来た。 「結城……ええええ!?」 「お待たせぇ〜」 戻って来た結城は、何故かパジャマ姿だった。 「な、ななっ、なにを!?」 「正晴がおとなしい方がイイって言うかられしょうが〜」 「う!!!」 目の前でくるんと回転した結城のパジャマの裾がひるがえった。 あきらかに裾の短いパジャマから結城の足がのび、ひるがえったパジャマの下には、何も履いてなかった気がする。 「だからあ、ほらあ。夜寝る時のパジャマ姿にしてみた」 「そ、そそそそういう意味じゃ!!」 「どうどう〜?」 「それに! そ、その裾の短いパジャマ! どこがおとなしいんだよ!」 「ふふ〜ん」 「ちゃぁんと見てたんだぁ」 「う、うわっ!!」 「んふ、ろう〜」 パジャマ姿の結城が俺の上にまたがる。 裾を口に咥えてまくりあげられたパジャマの下には、何も着ていない。 という事は、普通は勿論見られちゃいけないような所がはっきり見えている……。 「ちょ! な、何考えてんだ!!」 こんな状態じゃ、嫌でも目がそっちに行きそうになる。 どうにかして、見ないようにして…。 「こらぁ〜。ちゃんとこっちを見なさいよ〜」 目をそらそうとすると、結城は無理やり自分の方を向かせようとした。 「な! お、おい! 何考えて!」 「ちゃんと見てて」 「ねえ、正晴ぅ〜。ぁあ、ん」 緊張したように息を吐きながら、結城が動き出した。 ゆっくりと結城の下半身が、俺のモノに近付いてくる。 逃げようにも逃げられない。 そして、ぴったりと俺のモノと結城の秘部が触れ合い、お互いに体がピクリと震えた。 「あん……。ああ」 「ふぁ、ぁあん。変な感じぃ」 明らかに結城は俺の反応を見て楽しんでいる。 触れ合った部分を擦り付けるように、結城はゆっくりと腰を揺らし始めた。 「あ、ああっ……。ふぁ、ああっん!」 「ちょ! あっ!」 柔らかい部分がぎこちなく擦り付けられ、たまらず声が出た。 「ふ、はぁ! あ、ふ! ぁあん、ん……こう、してぇ」 さっきの行為の唾液のせいで、触れ合った部分はスムーズに擦れ合い、ぐちゅぐちゅと音がする。 「こっち、あ、んぅ! 当たるみたいにぃ」 何かを確かめるような言葉を口にしながら、時々視線を下に向けて位置を確認して結城は動く。 「あふぁ……。あ、ぁあ、あんぅ! あ、ああ…なんか、すごい」 でも、段々とその唾液だけじゃない湿り気が増えて来ているような……。 結城の声も少しずつ大きくなって、表情もうっとりとし始めている気がした。 「ふぁ! ぁあん、あああっ!」 「あ、あん! ほらぁ、正晴ぅ。ふぁ、あっ。もっとちゃんと見てよぉ。ねえ、気持ちい〜い?」 頬を赤く染めあげ、うっとりとした表情をしながら結城が俺を見つめて聞く。 その間も腰は動いて、体中になんとも言えない感触が与え続けられている。 「あ、はっ! こ、答えられるかっ」 「ぁん、んんぅ。んふ、声は上ずってるクセにぃ」 「だ、だれの! あっ!!」 「ああっ……。ゃあん! はぁ、はぁ……」 自分で聞いておきながら、結城は答えなんか望んでいなかった。 俺の言葉を遮るように、腰を揺らして、またうっとりした表情を浮かべる。 「はぁ、あぁ! ふぁ、ぁあんぅ……正晴ぅ」 「ゆ、結城! ちょっ」 さっきよりも、ぐちょぐちょという音が大きくなっていた。 脈打つ俺のものに擦り付ける結城の秘部からは、とろとろとした愛液が溢れ出していた。 動くたびに、それが大きく音をならしている。 「や、ああっ! 正晴のが、ビクビクぅってぇ! ふぁあっ……」 「もっと、こっちもぉ。あ、ふぁあっ!」 「はあっ!」 自分がいいと思う部分を探っているのか、結城の腰は止まる事なく動き続ける。 結城の声と同じように俺からも声が漏れそうになる。 「あ、はぁ……。ぁああん、やあ、んん!」 「ふ、あん。ねえ、正晴。先の方なんか、とろって出て来てるよ」 「ん!!!」 「ねえ、これぇ。はぁ、はあ…どうしてぇ?」 興味深く観察するようにしながら、結城は腰を揺らし、自分に俺のモノを擦り付け続けている。 「はぁ、はぁ…ね、ろうしてぇ」 「し、知るか!」 「ろうしてぇ。あ、ふぁあ! 自分の事なのにぃ」 悪戯っこのような微笑みを浮かべながら、結城はまたじっくりと俺のモノに視線を向けた。 「ん、ふふ…。変なのぉ、自分のかららなのに。ふぁ、ああっ」 「ぁあ、ふ!」 「こっちのとろとろもぉ、擦り付けてみる?」 「な、あっ!」 結城の腰が根元や先端を往復するように大きく動いた。 ぐっちょぐちょとした音が、更に一層大きくなる。 「ふぁ、あっん! あ、ああっ」 目のやり場に困る。 でも、視線をそらすと無理やり見せられるし、そらす事もできない。 それなら、嫌でも目の前の体に視線をやっていた方がいい。 「んんっ! 正晴の目ぇ、いやらし……ああっ!」 「じ、自分が見ろって!」 「ん、ふぁ! 見られるの、嫌じゃない、あっ」 結城が腰を動かし続け、それに合わせて、その上の胸も揺れていた。 俺の体の上で揺れる結城の体。 そこから、目がそらせない。 「はあ、あ、あん! ん、そうよ、見て欲しいの」 からかうように言うくせに、表情は嬉しそうに変わる。 その間も腰はゆらゆらと揺れ、秘部を擦り付けて愛液がぴちゃぴちゃという音をさせる。 ねっとりとした感触は、今まで感じた事がないものだった。 「んく!」 「ん、正晴に見て欲しい。もっと見て……」 「ゆ、結城」 潤んだ瞳で見つめられて、鼓動が少し早くなった。 頬が熱くなった気がする。 結城を見ているのが、恥ずかしい。 だけど、ずっと見ていたいと思ってしまう。 「ね、もっとぉ」 「もっと?」 「アタシ、正晴ともっとしたい」 「だから、ねえ……」 「え、あ!」 擦り付けるのをやめると、結城が少しだけ腰を浮かす。 そして、先端を秘部に近付けてそこを触れ合わせる。 「あんぅ!」 浮かせた腰を小さく揺らされ、先端に何度か柔らかい感触が伝わった。 「え!? あ、おい!」 「はぁ、はぁ…はぁ……。正晴ぅ、アタシ…」 「ゆ、結城…ダメだっ!」 「はぁ、あ……。だって、アタシ…」 「アタシ……」 「え、あれ……あ、そうか」 日が沈んだから、この姿になったんだ。 「…………ちょ」 「た、助かった…のかな」 あのまま流されてたら、ちょっとヤバかったかも。 いや、ちょっとどころじゃなくヤバかったか。 あんな、流されるみたいなの、ダメだよな。 「………ちょっと」 この姿に変身する体質で助かったと思ったのって、今日が初めてかも知れない。 「ちょっとぉ!!!」 「こらぁ! 何勝手に変身してるのよぉ〜!! もぉ、ばかぁっ!!」 「はあ!?」 「まだ、途中じゃないのよぉ!!」 「そ、そんな事言われても!」 「こらぁ、ひつじぃ! 元にもどりなさい〜!」 「戻れるならとっくに自分の力で何とかしてるよ!」 「じゃあ、なんとかしなさいよお〜!!」 「ムチャクチャ言うな〜!」 もう動けるみたいだし、逃げるに限る! 「こらあ! ひつじぃ〜!!」 「げっ!」 な、なんで追いかけて来るんだよ!! 「待ちなさい、ひつじぃ〜!!」 「い、嫌だ! 待たない!!」 「ひつじぃ、こらぁああ!!!」 「あぁぁあう、辞書やぁーい〜!」 「お嬢様の辞書は一体どこへぇぇ〜!!」 「も、もっとちゃんとしてる方がいい」 「もっとちゃんとぉ〜?」 もっと違う答え方の方が良かったかな。 でも、他になんて答えればいいかわからないし。 「ちゃんと……」 「ちゃんとしてるのがいいのね!」 「正晴がちゃんとしてる方がイイって言うかられしょうが〜」 「そ、それのどこがちゃんとしてるんだ!!!」 どこか上機嫌な様子で、目の前の結城がくるんと回転した。 まるで、惜しげもなくその姿をこっちに見せつけているみたいだ。 「らからあ、ほらあ。ちゃんと体にフィットしてる感じ」 どうやったらそういう考え方になるんだ! 「そういう意味じゃないって!!」 「じゃあ、こういう感じ?」 にんまり笑った結城が俺の上にまたがり、こちらを見下ろしている。 水着の胸元をはだけさせると、大き目の胸が目の前に晒された。 おまけに下半身の部分もわざとずらして、俺にそこを見せつけるようにしていた。 「こらぁ、ひつじぃ! 元に戻りなさい〜!」 「別に、不満なんかないけど…」 「不満なんか無い〜?」 「無い。だけど俺が言いたいのはそういう事じゃなくて……」 「そう。じゃあ、このままでいいんら〜♪」 「だ、だから人の話聞けって!」 「んふふ〜。じゃあ、このまんまれ〜」 いきなりスカートの下に手を入れた結城は、その下で手を動かして何かをし始めた。 「お、おい! 何してるんだよ!」 「見ればわかるれしょ〜」 「わ、わかんないから聞いてるんだろう」 「ふふ〜ん♪」 結城の手と体がもぞもぞと動き、服の裾からゆっくりと手が出て来る。 「ふふふ〜ん♪」 服の裾から出て来た結城の手には、脱いだばかりの下着が握られていた。 手にしていた下着を放り投げると、結城はこちらを見てニンマリと微笑んだ。 いきなり結城が俺の上にまたがった。 そして、スカートの裾をめくってこちらに見せ付けるようにしている。 さっき下着を脱いでいたのだから、めくり上げられたスカートの下は何も身に着けていない状態。 蛇口から溢れ出しているお湯が気持ちいいな。 「……え! あ、はい!?」 そうか。 確かに、秋姫の家に居るといつか正体がバレる可能性もあるよな。 あの時は、そんな事まで考えられなかった。 何だか、松田さんに違和感が。 あの缶、どこかで見た事あるような気がする。 「ふーっ。ビックリしました」 「……あれ」 「どうかしましたか?」 「ああぁぁ――――――――ッ!!!!」 「え!? え! ど、どうしたんですか!!」 「え、えっと、あの……」 さっきのあれってもしかして、あの時俺が飲んだジュースと同じ物? 「あの、別に、なんでも」 「そんな! あんなに大声を出されたんですから、何かあるんですね!?」 「いや、あのー」 「私の事で気になる事があったなら、遠慮なく仰ってください!」 「(本人はこう言ってるけど、ハッキリ言ったらショックを受けそうだしなあ……)」 「もしかして!? さっき落ちそうになった時にどこかぶつけたりしてしまったのでは!!」 「そ、そういうんじゃないんです!」 「ほっ、それなら良かったー」 「……でも、それならどうされたんでしょうか?」 「……どうしました?」 なんだか、このまま黙ってると喋るまで追求されてしまいそうな気がする……。 もう、言っちゃった方がいいんだろうか。 「私にできる事なら何でもしますよ! そのお姿では何かと不便でしょうから」 「あ、あの……実は……」 「松田さん、さっき何かジュースみたいなの出してましたよね」 「はい。あ、あれがどこから出て来たのか不思議だったんですね?」 「あ、いや。それも確かに不思議で……」 「あれはですね、普段は服に隠れて見えないんですが、首につけているチョーカーの飾りの中に入っているんですよ」 「ちょ、チョーカー!?」 犬の時の首輪がそうなのかな? でも、どうやって入るんだ? あんな大きさなのに。 「取り出すと缶ジュースみたいな大きさになるんですけど、チョーカーの中では小さくなってるんですよ」 「へ、へええ……」 「便利でしょう〜」 「あ、あれ? も、もしかして違いましたか!?」 「え、ええ?」 「そうじゃないという表情をされたような気がしたんですが……」 ああ……。 やっぱり、隠し通せないか…。 もう、正直に言ってしまおう。 「あ、あのジュースなんですけど…」 「……もしかしたら、一度どこかで落とした事ないですか?」 「落とした……落とした……?」 「は、はい! た、たたた、確かに無くした事があるんです!! いつの間にか、一本だけ普通のジュースになってたんです!」 「そのせいでお嬢様には大変なご迷惑をおかけしたのです…薬を取りに一度フィグラーレに戻ることになってしまって…」 「それで…それで、お嬢様は対決に遅れてしまい……ああっ! 思い出しただけでも転がりたくなります、私のせいでお嬢様はぁっ!」 「あ、あの、いいですか?」 「…は、はいっ! すみません…個人的な事を思い出してしまいまして…」 「実は俺、春に学校で松田さんとぶつかった事があるみたいなんです」 「その時俺が持ってた缶ジュースと、さっきの松田さんの薬が入れ替わったみたいで……」 「そ、それに気付かなくて、あの……全部飲んじゃったんです」 「も……も、もしかして……」 「石蕗君がそんなに可愛らしい姿になってしまったのは、私が落とした薬のせいっ!!!!」 「……た、多分」 「――――――……」 「わ、私……」 目の前で松田さんがぷるぷると肩を震わせて下を向いてしまった。 心なしか声も震えている。 もしかして、これって……。 「私のせいで石蕗君がぁぁあああ!!!!」 「も、申し訳ありませぇぇんん!! 私が不注意だったばっかりにこんなお姿に!!」 「え、いや、あの。そんなに泣かなくても」 「う、うっぐ…本当に! 本当になんと言ってお詫びをすればよろしいのでしょうか!!!!」 「いや、あの」 「星のしずくを7つ集めれば、元に戻す薬が作れるって如月先生が言っていたし……」 「その為に、秋姫にお願いし……」 「星のしずくですね!」 「石蕗君!」 「その姿、この松田が責任を持って元に戻させていただきます!!」 「え、えええ!? だ、だってそんな事!」 「そうしなければ私の気がすみません! いえ! 絶対にそうしなければいけないんです!!」 なんだか、松田さんが人が変わったような……。 ああ、でも、責任を感じてくれてるのはわかるんだけど、どうしたらいいんだろう。 「そ、そんな……他人様をこのようなお姿にしてしまったなどと……う、う、ううううううっ!!」 「あ、あのー」 「はっ!! な、泣いている場合ではありませんでした」 「う、うわあ!!」 「今すぐ! 今すぐどうにかしましょう!!」 「うわ! う! わわ!!」 松田さんはいきなり、俺の体中の石鹸を洗い流した。 タオルで濡れた体を拭かれた後、そのまま肩に乗せられる。 「さあ、行きましょう!」 「は、はい!? 行くってどこに?」 「お嬢様の所です! しずくを頂かなければいけません!」 走り出した松田さんに振り落とされないように、俺は必死でしがみ付く事しか出来なかった。 「あら松田。慌てているようだけど、どうかしたの?」 「良かったお嬢様、もうお風呂からはあがられていたのですね」 「ええ。眠る前に温かい物が飲みたくなったの、何か淹れてくれる?」 「は、はい! あ、いえ、その前に!!」 「お嬢様に大事なお話があるんですっ!」 勢いよく話す松田さんと対照的に、結城の方はいつも通りだ。 そりゃ、いきなりこんな勢いじゃ普通はわけがわからないよな。 「実は、石蕗君のこの姿なのですが!!!」 「うわあ!!!」 「………何よ」 肩につかまっていた俺をがっしり捕まえた松田さんは、結城に向かって俺をずいっと差し出す。 目が合った結城は、眉間にしわを寄せて俺を見ている。 お、俺は悪くないぞ……。 「以前私が落とした薬と、石蕗君が持っていたジュースが入れ替わってしまった事が原因だったのです!」 「私が薬を一つなくしてしまって、お嬢様には大変ご迷惑をおかけしました…」 「……確かに、そうだったけど…」 「あの時の薬を、石蕗君が間違って飲んでしまったせいで、こんな姿に!!」 「……そうなの?」 「そうみたい」 「そう。それで?」 「お嬢様! 大変失礼な事と承知した上で、この松田はお嬢様にお願いがあるのです!!」 「お嬢様がこれまで手に入れられた星のしずく! 石蕗君の為に譲ってはいただけないでしょうか!!!」 「はあ!? どういうこと、ひつじ?」 「え、えぇと、星のしずくが7つあれば元の姿に戻れるんだ、俺」 「こんな姿になってしまったのも、元々は私のせいです!」 「私が頭を下げる事でお嬢様の持っている星のしずくを譲って頂けるのなら、いくらでも頭をお下げしますからああ!!」 「どうか、この松田めに星のしずくをぉぉ!!」 松田さんは頭を床にこすり付ける勢いで土下座をしている。 幾らなんでも、やりすぎじゃないだろうか。 それに星のしずくって、そんなに簡単に他人に譲ったりしていい物なのか? 「執事のミスは私のミスも同然」 「い、いえ! お嬢様のせいでは!!」 「黙りなさい!」 「は、はい!!!」 「家の者のせいで、他人をこのような姿にしたのならば、放ってはおけません」 「お、お嬢様ぁぁ……!!!」 「きっと、お父様やお母様ならこう言っていたかも知れないわよね」 結城はそれを松田さんに差し出す。 差し出された瓶を、松田さんは両手で恭しく受け取った。 「そこまで言うのなら、石蕗君は貴方が責任を持って元の姿に戻しなさい」 「勿論です!!!」 「お、お嬢様……! 不甲斐ない私の為に星のしずくを差し出してくださった事、感謝いたします!!!」 「お嬢様のお心遣いを無駄にしないためにも、一刻も早く石蕗君を元に戻さなければいけません!!」 「さあ、次です!!!」 「つ、次!?」 「秋姫さんのお家です!!!」 「へっ!!???!?」 「松田、その前に何か飲み物を……」 「それではお嬢様、行ってまいります!!」 結城の声も、今の使命に燃える松田さんには聞こえていないようだった。 松田さんはまた俺を捕まえて肩に乗せると、勢いよく走り出して家を飛び出した。 走り出した松田さんから落ちないように、俺は必死で掴まるので精一杯だった。 「はーはーはー」 全速力で走った松田さんは、肩に俺を乗せたまま息を切らしている。 「だ、大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫です……これくらい〜」 「はーはーはー……。あ!」 「い、犬の姿で走った方が、は、速かったかも知れない……」 「あ……。た、確かに」 「はーはーはー! そ、それよりも!!」 「どうやって秋姫さんにしずくを譲って頂くかです!」 とは言うものの、もう夜中だから玄関のチャイムを押すなんて迷惑だろうし……。 「もう寝てしまわれていますかねえ……」 「そ、そうかも知れない」 「何か……何か考えないとー!!」 「ま、松田さん…、あんまり大声を出すと近所迷惑に……!」 「あ、あああっ! すいません、でも、こう……なんとかしなくちゃと思うと!!」 「い、いや。だから、声を……」 「あっ!?」 松田さんの声が聞こえたんだろうか!? 今、どこかで窓の開く音がしたような……。 「あ、あの声!」 「はっ!!!」 上の方から声が聞こえた。 そっちに視線を向けると、二階の窓から秋姫が顔をのぞかせていた。 「え!? ユキちゃん、松田さん!?」 「す、すもも〜」 「秋姫さ〜ん」 「ちょ、ちょっと待っててください!!」 窓が閉まると部屋の中で少し音がした。 多分、こっちまで秋姫が降りて来るんだろう。 「秋姫さん、こっちまで来てくれるみたいですね」 「そ、そうですね」 扉が開くと秋姫がパジャマ姿のままで外にやって来た。 「ご、ごめん、すもも。こんな時間に」 「すみません、秋姫さん」 「そ、それは構わないけど……。ユキちゃん、どうして松田さんと?」 「え、ええーっと……」 どう説明したらいいんだろうか。 俺がこうなったのは、松田さんのせいで、それをどうにかする為に、松田さんが俺を連れて来た。 なんてバカ正直に答えられるわけがない。 「秋姫さん!」 「実はこの松田、折り入って秋姫さんにお願いがあるんです!」 「だ、だから松田さん、声が大きい……」 「お、お願いってなんですか?」 「え、えええっ!?」 「お願いです、秋姫さん! 星のしずくをこの松田に譲ってはもらえませんでしょうか!!」 「あ、あの、松田さん、頭をあげてくださいっ」 「ゆ、ユキちゃんどういう事なの?」 「え、えっと……。ボ、ボク、ぬいぐるみの国に帰れなくなったって言ってたでしょ」 「そ、そうなんです! そ、そうなったのは、私のせいなんです!」 「え! ええええ!? そうなの?」 本当の理由は言えないけど、なんとか松田さんが話を合わせてくれたから、秋姫を誤魔化せそうだな。 「お願いします! ユキちゃんさんがこのような事になって、放ってはおけないんです!」 「で、でも私もそのために星のしずくを…」 「このように! お嬢様の星のしずくもお譲りして頂いたんです!!」 「え……!」 「後は秋姫さんのしずくを譲って頂ければ、7つのしずくが揃うんです!!」 松田さんは秋姫の目の前にズイっと、星のしずくの入った瓶を見せた。 それを見た秋姫は驚いたように瓶と松田さんを交互に見ている。 「お願いですぅ!!! 秋姫さんっ!!」 「えっ! ……え、えっと」 ぺこぺこと頭を下げる松田さんを見ながら、秋姫は困ったようにこっちを見ていた。 そりゃ、いきなりやって来てしずくを渡せって言われたら困るよな……。 「ゆ、ユキちゃん…」 「えっと……ボクは……」 「お願いします! 私はユキちゃんさんをこのような状態にしてしまった責任を取らなくてはいけないんです!!」 松田さんの目は真剣だった。 秋姫はその目を見て、すこし考えているようだった。 そりゃあ、俺だって元に戻れるのならすぐに戻りたい。 でも、本当にこんな事でいいんだろうか……。 「ま、松田さん」 「ちょっと待っててください!!」 「も、もしかしたらしずくを……!」 多分、真剣な様子を見て持って来るつもりになったんだろうと思う。 それに秋姫は、本当に一生懸命やってくれていたから、俺をすぐにぬいぐるみの国に帰らせてあげないといけないと思ったんだろう。 「お待たせしました!!」 戻って来た秋姫の手には、小さな袋と本が握られていた。 袋の中には、3つの瓶がかちゃかちゃと揺れている。 「これ、ユキちゃんのために使ってください!」 「あ、ありがとうございますっ!!」 差し出された袋を受け取った松田さんは、本当に嬉しそうにぺこぺこと何度も頭を下げていた。 秋姫はその姿を見た後、俺に視線を向けた。 「本当はわたしが自分でユキちゃんをぬいぐるみの国に帰してあげたかったけど……」 「でも、今すぐに帰れるなら、きっとその方がいいんだよね」 「ユキちゃんと一緒に居られて、わたし楽しかった」 松田さんの肩に乗っていた俺を抱き上げると、秋姫はぎゅっと抱きしめてくれた。 そうか……この姿で会うのは、最後になるんだ…。 「不思議な体験をさせてくれて、ありがとう」 「す、すもも……!」 「ボクのために、一生懸命やってくれてありがとう」 「ううん! とっても楽しかったから!」 抱きしめる腕の力を緩めると、秋姫は俺に本を差し出し、指から指輪を抜いた。 「本と指輪も返さないといけないね」 「あ…。うん」 本を受け取り、その上に乗る。 指輪は落とさないように、しっかりと抱きしめた。 「あ、秋姫さん。すいません……」 「ゆ、ユキちゃんさんと…お、お別れなんですね」 「あ! は、はい……」 「う、うううう! 私がしでかしてしまった事で、このような事が!!!」 「あ、あああっ。泣かなくていいですから」 「は、はいっ!! ぐすっ!」 「それじゃあ松田さん、ユキちゃんをお願いします」 「はい! 任せてくださいませ!!」 ぺこりと頭を下げた秋姫に、松田さんは涙を拭いて力強く答えた。 「それでは行きましょう!」 「え? ど、どこに!?」 「あの人の所です!!」 「う、うわああ!!!」 言い出した松田さんは、いきなり俺の体をつかむと走り出した。 「す、すもも〜! ありがと〜!!」 「ゆ、ユキちゃ〜ん! 元気でね〜!」 勢いよく走った松田さんは、すぐに学校の前に到着していた。 肩で息をしながら、松田さんは呼吸を整えている。 「はーはーはーはー」 「ま、松田さん、犬の姿になった方が……」 「わ、わかってます……」 多分、勢い余りすぎて忘れてたんだろうな。 それにしても、学校って事は如月先生なんだろうけど。 まだ学校にいるんだろうか。 「如月先生、学校にいるのかな」 「と、とりあえず行ってみましょう」 裏口からこっそりと学校内に入り、真っ暗な校舎の中を歩き続ける。 誰もいない学校は、ちょっとだけ気味が悪い。 「あ、部屋に電気がついてるみたいです」 如月先生の部屋に近付くと、そこだけ窓から灯りが漏れていた。 どうやら、如月先生は居るらしい。 ……何してるんだろう、こんな時間に。 「失礼します!」 部屋の扉を開けると、いつものように如月先生が居た。 「おや、珍しいお客さんだ」 「失礼します、如月先生」 「何か予感がすると思ったら、君が来る事だったのか」 「予感?」 「そう。今晩、ここに誰かが来る予感がしてたんだよ」 「そ、そんな事まで分かるんですか?」 「まあ、勘みたいなものだよ」 「さて、どういう用事かな? 松田さんが一緒っていうのは予想外だったけれど…」 俺と松田さんを交互に見比べて、如月先生は楽しそうに微笑みを浮かべている。 「実は、お願いがあって来たんです!!」 「お願いですか」 「ここにいるユキちゃんさん……石蕗君ですが! 実は私のせいで、このような姿になったんです!」 「へええ。松田さんのせいだったんですか」 「そう、らしいです……」 「そこでお願いなんです! 石蕗君を元に戻す薬を作って頂けませんでしょうか!!」 ペコリと松田さんが頭を下げると、如月先生は笑顔を浮かべたままそれを見つめていた。 「いや、いくら僕でもしずく無しに彼を元に戻す薬は作れないですよ」 「用意して来ました!!!」 驚く如月先生の目の前に、松田さんはズイっと瓶の入った袋を差し出した。 中には2人が今まで集めたしずくが入っている。 その数は、結城の物と秋姫の物とあわせて7つ。 「これは、確かに……」 差し出された瓶を受け取り、中身を確認しながら如月先生は驚いていた。 「どうしたんですか、これ?」 「お嬢様と秋姫さんに譲って頂きました!!」 「まあ、手に入れた経緯は問題じゃないんだけどね」 「しずくが揃っているなら、薬を作りましょうか」 「あ、ありがとうございます!!!」 「つ、作れるんですか!?」 「言ったでしょう。星のしずくが7つあれば作れるって」 「それじゃあ、少しだけ待ってて」 目の前で如月先生が星のしずくを不思議な色の薬に変えている。 それはまるで手品のように鮮やかで、何をしているのかはわからない。 けれど、何だかとても凄い事のように見えた。 「はい、出来た」 暫く待っていると、先生は俺の目の前に薬の入ったコップを差し出した。 差し出されたコップの中には、7つの星のしずくがそのまま溶けたような不思議な色と輝きを持つ液体が入っていた。 「これを飲むと、石蕗君は元の姿に戻ります」 「さ、一気にグイっと飲んで」 差し出されたコップを両手いっぱいで掴み、ゆっくりと飲み込み始めた。 口の中に入った液体は、おかしな味はしない。 それはすんなりと俺の喉の奥に進み、鼻に不思議な匂いが通り過ぎて行った。 口に入った液体を全て飲み込んだ瞬間、体が……。 「おおおおっ!!!」 「うん。成功」 一瞬で視界が高くなった。 周りに見える景色全てが、いつもの人間の時のものになっている。 俺、元に戻れたんだ! 「よ、良かったです! 石蕗君!!」 「あ、ああ。ありがとうございます」 「松田さんに、よーくお礼を言うんだよ〜」 「あ、は、はい。ありがとうございました!」 「い、いえいえ〜! こうなってしまったのも、私のせいでしたから。迷惑をかけて、すみませんでした」 松田さんに頭を下げると、逆に謝られてしまった。 良かった、無事に戻れて。 「それじゃあ、用事は終わったね。さ、帰ろうか」 「は! お、お嬢様をお屋敷に一人にしたままでした!!」 「わ、私はお先に失礼させて頂きます!」 「あ、はい。本当にありがとうございました!」 「結城さんに、しずくのお礼を言っておいてねー」 「は、はい! それでは失礼します!!」 扉を開けた松田さんは、大慌てでまた走って帰ってしまった。 足音を聞く限り、犬の姿になるのをまた忘れていたようだ。 「さ、それじゃあ僕達も帰りましょう」 「あ、そうだ。如月先生、これ」 「秋姫に渡してあった、本と指輪です…返してくれたんですけど…」 「あの、学校対決は…」 「あぁ、いいんだよ。これは僕が預かっておきます」 本と指輪を受け取った先生は、目を細めてそれを見つめていた。 「時期が来たら、またちゃんと渡す事にしようか」 「なんでもないよー。さ、行きましょう」 「それじゃあ、石蕗君。また明日、学校で」 「はい。ありがとうございました」 校門前で如月先生に頭を下げて、別々の方向に向かって歩き出した。 夜空の星を眺めながら普通に歩くのなんて、どれくらいぶりなんだろう。 そんな事を考えながら、夜空を見上げる。 空から降ってきそうなほど、星が輝いていた。 思わず立ち止まって、その星空を眺める。 この中の幾つが流れ星になって、星のしずくとして落ちて来るのだろうか。 ぼんやりと考えたけれど、もうこれからの俺にはそんな事は関係ないのだと気付く。 「元に戻ったんだ……」 呟いてから、また歩き出す。 これから、また石蕗正晴としての普通の生活に戻れると思うと安心した。 ヌイグルミになって秋姫と一緒に体験して来た事も面白かったけれど、やっぱりこうやって普通にしているのが一番だ。 明日から日が沈むのを気にしなくて済む。 当たり前の事なのに、妙に清々しい気分になっている自分が居た。 明日は松田さんに会ったら改めてお礼を言って、放課後はゆっくりとクラブ活動をして、その後にどこかに出かけて……。 寮の前に辿り着くと、麻宮が立っていた。 誰かを探すみたいに周りをキョロキョロ見ている。 どうしたんだろう。 「ああじゃない。どこ行ってたんだよ」 「悪い……」 「お前、最近夜になると部屋から居なくなってるだろ」 「し、知ってたのか?」 「結構、噂になってる」 「そうなのか」 「今晩もいなかったら、色々とうるさくなってたかもしれない」 それで心配して寮の前を見てたんだろうか。 だったら、悪い事したな。 「……悪い」 「悪いと思うなら、もう部屋から居なくなったりするなよ」 「もう大丈夫だよ、これからは」 「本当か?」 「本当だって」 「それなら信じるけど……」 「いいから、もう入ろう」 心配してわざわざ外まで見に来てくれるなんて、麻宮っていい奴だな。 でも、もう夜に居なくなる事もないし、心配かける事もない。 ヌイグルミに変身しなくなるんだから。 目覚まし時計より早く起きた今日、足取りも軽く学校に向かう。 途中で圭介と会ったから、珍しく二人で並んで学校に向かって歩いていた。 「なー、ハル。今日の放課後、暇か?」 「ああ、クラブ終わった後なら」 「じゃあ、良かった。また、放課後らいむらいとに行くんだ、お前も来いよ」 「最近、ハルの付き合いが悪いから、みんな心配してたぞ」 「そっか、悪い……」 「いいって、気にすんな」 「もう、これからはそんな事ないと思うから」 「お? そうか?」 そうだ、これからはもう日が沈むのを気にしなくていいんだ。 もう普通なんだから。 校門の方で賑やかな車の音が聞こえた、そちらに目をやるとすっかり見慣れた高級車から結城が出て来る所だった。 松田さんは車の側に立って、結城を見送っている。 「桜庭、ちょっと先行ってて」 「あ? ああ、わかった」 こちらに向かって歩いて来る結城と目が合った。 俺が口を開く前に、結城が先に口を開く。 「あら、おはよう」 「うん、おはよう。昨日はありがとう」 「私よりも、松田にお礼を言ったら?」 「あれ、石蕗君。おはようございます」 車に乗って帰ってしまう所だった松田さんは、俺の姿を見て立ち止まると笑顔で挨拶をしてくれた。 「あの、松田さん。昨日は本当にありがとうございました」 「いえいえっ! どうかお気になさらず! 元はと言えば、私のせいだったんですから」 「でも、元に戻るように走り回ってくれたのは、松田さんでしたから」 「本当に、ありがとうございました」 深々と頭を下げてから頭を上げると、松田さんは照れくさそうに微笑みを浮かべていた。 「そんな風に改めてお礼を言われると、照れますねぇ」 「……でも、石蕗君が元に戻る事が出来て良かったです。本当に」 長かった、そして色んな事があった夏休みが終わって、二学期が始まっている。 放課後は今まで通り、みんなと園芸部の活動。 温室での土いじりも慣れて来た気がする。 「じゃあ、今日はこのくらいかな」 「あ、そうだね」 しゃがみこんで松田さんと一緒に土をならしていた結城が、顔を上げて八重野と秋姫を見つめた。 秋姫と八重野は、もう片付けも終わらせたみたいだ。 「うん。慌ててやる必要はないから」 「あ、もう終わりですか」 答えを聞いた結城は、スカートの土を払いながら立ち上がった。 「じゃ、じゃあナコちゃん」 「じゃあ、こっち片付けといたから、私たち先に帰るね」 「え。あ、わかった」 「それじゃ。石蕗くん、結城さん、また明日」 「ああ、またな」 「さようなら、秋姫さん」 「じゃあね」 「ああ、八重野もまたな」 「さようなら、八重野さん」 「秋姫さん、八重野さん、さようなら」 「はい。松田さんもまた明日」 なんか、松田さんもすっかり馴染んでるよな。 「私たちも片付けて帰りましょう」 「お嬢様、私もお手伝いします」 そういえば、最近あの二人はやけに早く帰る気がする。 二人で何かしてるんだろうか。 結城の家にいるから、秋姫の様子もわからないし……。 少し心配だった。 元気にしてるのだろうか。 「石蕗君、これはこっちでいいんですか?」 両手で植木鉢を抱えた松田さんが聞く。 詳しい片付け場所はまだ把握しきれていないけど、植木鉢なら松田さんの言った場所でいいと思うから……。 「あ、はい。いいと思います」 「は〜い。わかりました」 「松田、気をつけて」 「はい! あ、うわわ!」 「うわわわわ!」 結城が気をつけてと言った途端、松田さんは手にしていた植木鉢を落として割ってしまった。 まるで狙ってやったような、絶妙なタイミングだった。 ……なんて思ってる場合じゃない。 「しっかりしなさい」 「あ、ああ〜! す、すいません! 私とした事が、大事な植木鉢を……なんという失態!」 「いえ、それはいいんですけど…。怪我とかしてませんか?」 「は、はい。それは大丈夫です」 「それなら良かった」 「植木鉢を割ってしまって、その上怪我までしてしまっていたら、大失態です!」 松田さんに怪我が無かったのは良かったんだけど。 「でも、困ったな」 割れた植木鉢の代わりを用意しないといけない。 次はいつ使うかわからないから、明日にでも使う事になるかも知れないし。 「こっちは片付けておくから、新しい植木鉢を買って来てちょうだい」 「は、はい! わかりました。申し訳ありません、お嬢様!」 「私が不甲斐ないばかりに、お嬢様の手を煩わせてしまう事になってしまって……!!!」 「気にしなくていいから、早く買って来て」 「はい! では行ってまいります!」 走り去った松田さんを見送り、結城は息を吐いてから俺に視線を向けた。 「これで良かった?」 「え? あ、ああ。助かった、ありがとう」 「別に! 石蕗君の為に言ったわけじゃありませんから」 俺が頷くと結城は視線を外し、割れた植木鉢の側にしゃがみ込んだ。 「一人で大丈夫か?」 「これくらい一人でできます」 「そっか。じゃあ、俺こっち片付けてるから」 植木鉢の方は結城に任せて、俺はさっきまで使っていた道具を片付ける事にした。 そんなに片付ける物もないし、すぐ終わるだろう。 「……あ…あの」 「……この間の…」 「忘れて」 「お、お酒のせいだから忘れて!」 「わかったわね!」 だめだ、その後のことはだめだ。 忘れなきゃ……忘れてしまえ! 俺の頭!! 俺は頭を大きくふって、再びクラブの方へと集中した。 「ふ〜」 今日はそんなに道具を使っていないから、大体片付いたかな。 後は、結城の方だけど……。 やっぱり、こういうの慣れてないっぽいな。 まだ終わってないや。 一人でできるって言ってたけど、やっぱり手伝った方がいいかも知れない。 「手伝う」 「べ、別に手伝ってもらわなくても!」 「一緒にやった方が早く終わるだろ」 「ひ、一人で出来るって言ってるのに」 「二人の方が早く終わるから」 「そうですけど」 結構、広い範囲に飛び散っちゃったみたいだ。 松田さん、どうやって植木鉢落としたんだろう。 「あ、悪い」 結城の手と俺の手が、同じ破片を拾おうとしてしまった。 少しだけ出し遅れた手が、結城の手の上に重なった。 「―――っ!」 重なった俺の手から逃げるように、結城が慌てて手を引っ込めた。 「な、何よ」 少しだけ、照れたみたいな顔をしているのは俺の気のせいだろうか。 「いや、別になんでもない」 「何よそれ! ハッキリ言いなさい」 「いや……」 「酔っ払ったらあんな風になったくせに、今は手だけで顔が真っ赤だなと思って」 思い出したら少しおかしくなって、思わずくすくす笑ってしまった。 「なッ……!!」 「何よ! 笑わないで!! それに、あの時の事は忘れてって言ったじゃない!」 「ごめん、悪かったって。でも、あんなに…」 「だから、笑わないでってば!!」 「も、もうすぐ日が沈んじゃうんだから、あんたなんかさっさと家に帰ればいいのよ!!」 「ごめん、ごめん」 「しつこいわね! 早く帰りなさい!」 俺を無理やり立ち上がらせると、結城も立ち上がって背中を強く押す。 さっさと帰れって事らしい。 「誰かに見付かっても知りませんから!」 「わかった、先に帰るって」 「早く帰りなさい!」 「わかったって」 そっか。 これって、結城は恥ずかしがってるって事なんだろう。 なんとなく、パターンがわかって来たかも知れない。 「あれ、石蕗君」 「あ、おかえりなさい松田さん」 「はい、ただいま戻りました!」 「あの、お嬢様は?」 「まだ中です。もうすぐ日が沈むから、先に帰ってろって言われて」 「そうですかー! さすがお嬢様はお優しいです」 にこにこ笑いながら嬉しそうに言う松田さんには、本当の事が言えそうになかった。 「それじゃあ、先に帰ります」 「はい。それでは、また後で家にいらしてください〜」 手を振りながら見送ってくれた松田さんに背を向けて、俺は走り出した。 日が沈むまでに寮に戻らないと……。 「ふぅ〜」 あの時猛ダッシュしたおかげで、俺は変身する前に寮に戻れた。 このまま、今日も結城の家に……。 「…秋姫、大丈夫かな」 あれから様子を一度も見に行っていない。 放課後も八重野と二人で早く帰ってるみたいだし、ちょっと気になるな。 「見付からないようにこっそり見に行くだけなら、別に構わないよな」 結城の家に行くの少し遅れるけど、やっぱりあのまま秋姫もほっとけない。 秋姫の家に近づくと、前に二人で練習をした場所に人の姿があった。 それも、二人分。 「あんまり近づくと見付かるから……」 見付からないように遠くから様子を見ると、そこには秋姫と八重野の二人がいるようだった。 秋姫はいつものあの服を着ている。 どうやら、二人で特訓してるみたいだ。 「すもも、行くよ」 掛け声と一緒に八重野がボールを投げる。 あの時、二人でやってた練習と一緒だ。 「はい、もう一回」 随分上手くなったみたいだなあ。 あれから毎日やってたのかな。 「捕まえる方はもう大丈夫みたいだね」 「うん! ナコちゃんのおかげだよ」 「……でも、これだけじゃダメなんだ」 「これだけじゃ、ユキちゃんを取り戻せない」 秋姫は一生懸命だった。 もしかしたら、八重野は毎日一緒に練習してくれてるんだろうか。 良かった。 あんまり心配しなくても大丈夫だったみたいだ。 元気がなかったら、どうしようかと思った俺の考えは、ただの心配性だったらしい。 「次は本で見た事を試してみる!」 「出来るかな。難しそうって言ってたでしょ」 「でも、やらなくちゃ!」 「……そうだね」 「ナコちゃん、もう一回ボール投げて」 うん、秋姫は大丈夫そうだ。 八重野も居てくれたみたいだし。 見付かると帰って来いって言われるかも知れないし、その前にもう行こう。 それに、遅くなったら結城が心配するかな。 「すももー。行くよ」 ―――頑張れ、秋姫。 「…こんにちはー」 部屋に入った瞬間、レードルを手にした結城が高らかに言う声が聞こえて来た。 これは確か、しずくを引き寄せる言葉。 目の前ではくるくると回転しながら結城に近付く星のしずく。 「あら、やっと来たのね」 「おかえりなさいませ」 気がなさそうに瓶の蓋を閉めながら言った結城の声と、嬉しそうな松田さんの声が俺を出迎えた。 「何してるんだ?」 「見てわからない? 言葉の練習よ」 「練習?」 「そう、今日はしずくが降る気配がないみたいだから」 「そうなんだ…」 「石蕗君も来られましたし、新しいお茶をご用意しますね」 「あ、ありがとうございます」 にこにこしながら松田さんが言って、俺がお礼を言うと結城はそれをじっと見つめていた。 何か考えてるみたいな表情を浮かべてから、結城は背筋をぴんとのばしてレードルをかざした。 「ティム・フォールナ・メイ」 綺麗な発音で、結城が言葉を口にする。。 そして、キッチンに移動しようとした松田さんに向かって、レードルを振りおろした。 「…ぉおぉ?!」 途端に、松田さんの動きがゆっくりになる。 「お、お嬢様何を!!」 「練習よ、練習…」 「これも結城の力?」 「ええ、そうよ。……っ」 すると、松田さんの動きが突然元に戻った。 「あ、わ! うわわ!!」 いきなり動きが元に戻った松田さんは、勢い余って転んでしまった。 転んだ松田さんは、今度は慌てて立ち上がる。 「お、お茶を用意して来ます〜」 「……ふむ」 「今の、なに?」 「時間をゆっくりにする言葉…でも、まだ少しの間しか使えないの」 「へえ…」 「難しい部類に入るから、習得するには何度も練習しておかないといけないわね」 「何度も練習……しなきゃいけないんだ」 「それだけじゃないわ。言葉は、美しく正しい発音の方が効果が大きくなるものなのよ」 「ええ、そうよ」 満足げに答えた後、結城はまたレードルをかざして、小さく揺らした。 「ルーチェ・ルヴィ・アヴィス」 「うわ、眩しい!」 「そ、それにしても」 「……凄いな、結城は」 「本当に頑張ってるんだな」 「……ふん」 「練習なんかしなくても、当たり前に出来てると思ってた」 「これくらい、当然の事だから」 それで、俺に頼りっきりだった秋姫を見て怒ってたのかな。 「あなたが見ていなくても、毎日これくらいはやっていたわ」 「そっか。すごいな」 「だから、これくらい普通の事なの」 「お嬢様〜、お茶が入りましたよ」 「あら、ありがとう」 「今日はこれくらいにしておくわね」 松田さんは淹れてくれたお茶を机の上に置いてから、俺の体を捕まえてソファの上に座らせてくれた。 「その姿だと、移動も大変そうですね」 「あはは」 置かれているカップに手を伸ばそうとすると、結城が少し不機嫌そうな様子でこっちに近付いて来た。 答える前に、結城は俺の隣に座った。 そして、こっちをじっと見つめている。 ……かと思っていたら、いきなり俺の手を捕まえて自慢げな表情を浮かべた。 「え!? な、なんだよ!」 「ほら、平気よ!」 「な、何が」 「ほら、ほらほら!」 「うわ! うわ、うわ!」 俺の手をつかんだまま、結城が上下に手を揺らす。 揺らされるたびに、体ごと揺れる。 「ね、もう手を握ったって平気なんだから」 「…手、って…」 もしかして、夕方の学校での事を言ってるのか……? まさか、物凄く根に持ってたとか! 「前は、ひつじの時だったら平気だって言ってなかった?」 「――う!」 「だったら、今は平気でも……」 「も、もう人間の時でも平気だもの!!」 いつの間に平気になったんだろう。 その割に、なんだかむきになってる気がするけど。 「でもさ」 「でも何よ!」 「惚れ薬はまだ効いてるんだよね?」 「ううっ!」 結城が言葉に詰まってるようだった。 このままじゃ、やっぱり色々困る事もあるのかもしれない。 「……あの、思うんだけどさ」 「今度は何よ!」 「もし何だったら、如月先生に効果を消す薬を作ってもらったらどうかな」 「きっと、先生だったら作ってくれるよ」 そうすれば、結城も困らないだろうし。 その方がいいかも知れない気がする。 「別にいいの」 「日常生活で大して困っていないから」 「そう?」 「いいのっ!」 俺を手離した結城は、こっちから完全に視線を外してお茶を飲み始めた。 そのまま、ずっとこっちを向いてくれない。 本当に、このままでいいのかな。 どうしてなんだろう。 「あなたもお茶飲みなさいよ」 視線を向けないまま言った結城の言葉に従い、カップを両手で抱えるように取った。 やっぱり、ちょっと飲みにくい。 「大丈夫ですか石蕗君?」 「あ、はい。大丈夫です」 「飲みにくければ、別のカップを探して来ますから何でも言ってくださいね!」 「もぉ何でも! ご遠慮なく! ねっ!」 「は、はい…」 なんか、松田さんがやけに上機嫌なのはどういう事なんだろう。 俺、結城と言い争ってたような気がするんだけどなあ。 それにしても、俺はいつまでここに居る事になるんだろう。 星のしずくが降るまで……かなあ。 結城の家にいるようになってから暫く経つけれど、あれからまだ星のしずくの反応はない。 まだ暫く、結城の家にいる事になりそうだな。 「ハルー。今日も園芸部か?」 「あ、今日は休み」 「おう、そっか。これからどっか行く?」 「えっと…」 「なんか用事か?」 「あ、うん。ごめん」 「いいって。用事あるなら、早めに寮へ帰れよ」 今日は部活がないけど、秋姫と八重野はいつも通り早めに教室を出たみたいだ。 また特訓するんだろうか。 今から追いかけたら間に合うだろうか……。 「じゃあ、先帰る」 「おう。またなー」 教室を出て少し離れた所に、秋姫と八重野がいた。 良かった、今から帰るところなんだ。 「秋姫、八重野」 声をかけると二人は立ち止まった。 でも、声をかけたのはいいけど、何をどうやって話そう。 秋姫が元気にしてるかどうか気になった…なんて、ぬいぐるみの姿じゃないから言えない。 他には……何も思いつかなかった。 「もう帰るのか?」 急に話しかけたら、やっぱり変だったのかな。 秋姫も八重野も不思議そうにこっちを見てる気がする。 「あ、俺はもうちょっと……」 「何かあるの?」 「うん。図書室に本返しに行かないと」 「何の本?」 「そういう本も読むんだ」 「一応、園芸部員だし、こういうのも読んで色々覚えた方がいいと思って」 「……変かな」 「ううん! 全然そんな事ないと思うよ」 「本返しに行くなら、早めに行った方がいいね」 「あ、そうか。閉まっちゃうな」 「そういえば図書室、確か結城さんも行ってたよ」 「うん。さっき教室出る前に挨拶したら、両手に本とノート抱えてたから、そうだと思う」 「あ、そう言えばそうだったね」 教室で姿が見えないと思ったら、図書室に行ってたのか。 「石蕗さ……」 「結城さんの事、大事にしてあげなよ」 「…………へ?」 なんで、いきなりそういう話になるんだ。 結城の名前が出ただけなのに。 「なんで、いきなりそういう」 「あ、あの、だって……」 「結城さん、石蕗くんと一緒だと…楽しそうだよ」 「楽しそう…結城が?」 「あの、それに石蕗くんも…そう、見えるから」 少しだけ目を伏せて、秋姫は俺から視線を外して答えていた。 「それに、この前とか一緒に帰ってたし」 「あ、あれは」 本当の事を言うわけにもいかないし、かと言って違う理由も浮かばないし……。 どう言えばいいんだろう。 「あの、だから、結城さんを大事にしてあげて欲しいなって」 秋姫はやっぱりあんまりこっちを見てくれない。 もしかして、二人とも俺と結城の事誤解してるんだろうか。 「そういう事」 でも、なんで誤解されるんだ。 別に仲良くしてるようには思えないんだけど。 どっちかと言うと、結城とは口喧嘩ばっかりしてるような気がするんだけど。 「そ、それじゃあ、もう帰るね。石蕗くん、図書室行くんでしょ」 「ああ、じゃあ」 「さようなら、石蕗くん」 「………なんで」 どうして二人とも、あんな誤解してるんだろう。 結城とだけ特別に仲良くしてた事はないと思うし、結城もみんなの前と俺の前で別に変わってないと思う。 まあ、あの時は無理やり車に乗せられて帰ったりはしたけど、それ以外はみんなの前で何もない。 別に普通にしてるんだけどな。 でも、多少は色々……。 ……してたりするんだよな。 惚れ薬のせいみたいだけど。 でも、あれは本当に薬のせいで、やろうと思ってやったわけじゃなくて……。 「はぁ〜…」 考えてもよくわからない。 なんで、あんな風に思われてるんだろう。 もしかしたら、他のみんなも俺と結城の事をあんな風に思ってるんだろうか。 「そうだ、本」 それより、早く本返しに行こう。 考えてもわからないし。 放課後の図書室には人の姿が少なかった。 『そういえば図書室、確か結城さんも行ってたよ』 八重野が言ってたな、結城もいるって。 まだ、いるのかな。 姿を探すように、図書室の中を見渡してみる。 図書室の奥の方にある机で、結城が本を読んでいた。 何かの勉強をしているのか、ノートも広げられている。 やっぱり普段から真面目なんだ。 『結城さんの事、大事にしてあげなよ』 さっき、八重野に言われた言葉が気になっている。 なんとなく、声をかけにくい。 大事にって、どういう風にすればいいんだろう。 それより、俺が大事にするってどういう事なんだろう。 気になるけど、わからない。 結城はこちらに気付く様子もなく、勉強を続けている。 少しだけ、結城に近付いてみる。 やっぱりこっちには気付いていないみたいだ。 ……真面目に勉強してるなあ。 『結城さん、石蕗くんと一緒だと…楽しそうだよ』 みんなの目には、そういう風に見えるんだろうか。 自分ではよくわからない。 「!!!!」 そっと見てたつもりだけど、結城に気付かれたみたいだ。 なんだか結城、ちょっと慌ててるみたいだな。 気付かれない方が良かったのかも知れない。 「な、何見てるの」 「別にって何よ」 「本返しに来たら、結城が居たから。ほら、これ」 誤魔化すみたいに、わざと本を見せて言った。 別に何も誤魔化すつもりはないのに。 本当に本を返しに来たのに、どうしてこんな事してるんだろう。 「だったら、早く返せばいいじゃない」 「うん。返して来る。園芸の本だから、向こうの棚かな」 結城の居た場所から、園芸の棚まではそんなに離れていない。 カテゴリー別に分かれた本棚を確認しながら、移動をする。 「あ、ここだ」 立ち止まって本棚を確認すると、俺が借りていた本のところだけ綺麗に隙間が空いていた。 園芸の本はあんまり借りる人がいないのか、この前借りた時のままになっているようだった。 ……結城の所に戻ろう。 戻って来ると、結城はさっき見付けた時と同じように本とノートを開いて勉強を続けていた。 「返して来たの?」 「……来てたなら、声くらいかけてくれればいいじゃない」 当たり前の事を結城に言われた。 さっき、秋姫と八重野に言われた事が気になって声がかけられないなんて、答えられそうにない。 「勉強してたみたいだから、邪魔かなと思って」 「別に邪魔にはならないわよ」 「じゃあ、ここ座ってていい?」 「別に……」 「別にって何だよ」 「べ、別に構わないって意味よ!」 さっきの結城の真似をして聞いてみると、怒ったみたいに答えられた。 なんとなく、反応が面白い。 本とノートに目を落としながら、結城が勉強の続きをしている。 開かれている本に目をやってみると、数学の公式が書かれていた。 それは今習ってる範囲より先のやつだった。 「(……凄いな、結城)」 こんなの、習ってないのにもうわかるんだ。 本とノートに目をやっていた結城が、時々チラチラとこちらを見ている。 やっぱり、ここに居たら邪魔かな。 「どうしたんだ?」 結城がいきなり立ち上がって、本とノートを手に持った。 「もう帰る!」 「え? もういいのか?」 「この本を借りて帰れば、家でも出来ますから」 「あ、ちょっと」 「俺も………一緒に行く」 「あら、そう」 前を歩く結城の後ろをついて歩く。 隣に並んで歩けばいいんだけど、なんだかそうできなかった。 なんだか、変な気持ちだった。 どうしたんだろう、俺……。 図書館を出てから、俺は結城と二人で正門前に移動した。 並んで歩いているけれど、特に会話はない。 何を話せばいいのかわからないし、下手な事を言って結城を怒らせるのもどうかと思った。 正門前に辿り着くと、いつもと違う様子に気付いた。 いつもなら正門前に大きな高級車が止まっていて、その側で松田さんが立って、結城が出て来るのを待っている。 だけど、今日はそのどちらもない。 「松田さんが、いない」 いつもある光景がないと違和感があるものだけど、まるで当たり前の事のように結城が言う。 よくある事なんだろうか。 「少し待てば来るかも知れないわ」 正門前に立ち止まった結城は、綺麗に姿勢をのばして松田さんを待っていた。 「………石蕗君」 「帰らないんですか」 「別に一緒に待ってくれなくても構いません」 「そうなんだけど…」 「結城一人を置いて帰るのもどうかと思うから」 「べ、別に!」 「松田を待つくらい、一人でできます!」 「いや、でも」 突然遠くから、物凄い車の音がして来た。 俺も結城も言葉を止めて、その音がする方に視線を向けた。 ま、まさか、あの音って。 「お嬢様ぁぁぁああ!!」 車の音と一緒に聞こえて来るのは、松田さんの叫び声。 絶叫…と言った方が正しいかも知れない。 やっぱりあの音って、松田さんの運転してる車の音だったんだ! 「松田!?」 「松田さん!!」 「申し訳ありません! お嬢様あああ〜っ!!」 近付いて来た松田さんの絶叫と車の音。 そして車は、止まる事なく俺たちの目の前を通り過ぎて行こうとする。 「え!? な、何が!」 車の運転先からチラリと見えた松田さんは、涙目になっているようだった。 「車のブレーキが壊れたみたいですううう〜!!」 「な……」 ブレーキが壊れた車を運転したまま、松田さんはそのまま行ってしまった。 車が通り過ぎて行くと、辺りは先ほどの音が嘘のように静かになった。 松田さん、大丈夫なんだろうか。 「……仕方ないわね」 「今日は歩いて帰らないとダメみたい」 なんだか慣れた様子で答えてるけど、よくある事なんだろうか。 そう言えば、松田さんってあんまり運転が得意じゃなさそうな……。 「そうだけど、松田さんは?」 「車を直してから帰って来るでしょ」 結城がそう言うんだから、それでいいんだろうな。 いや、でも……まあ、いいか。 俺がぼんやりしていると、結城はもう校門を出て歩き始めていた。 方向一緒みたいだけど、並んで歩くのは……。 黙って後ろを歩いてれば、別に怒らないかな。 特に会話もなく、結城の後ろを一緒に歩く。 何を話せばいいのかもわからないし、向こうも気にしていないなら、声をかけなくてもいいと思うし。 突然、結城が立ち止まった。 「……ねえ」 小さく呟いてから、結城はこちらに振り返る。 その表情は、少し怒っているような気もした。 「ねえ、石蕗君」 「何…?」 「どうしてさっきから何も喋らないの?」 「黙って後ろを歩かれても、落ち着かないの」 「ねえ、どうして?」 そんな事、言われても……。 どうして、話しかけられないんだろう。 頭の中で考えてみると、図書館に行く前に秋姫と八重野が言った事が気になってるからだった。 どうして、自分でもわからない事がこんなに気になってるんだろう。 「どうしてって言われても」 「………もういい」 こっちを向いていた結城が、拗ねたような表情を浮かべてから背中を向けて、また歩き出した。 怒らせたのかな……。 結城は振り返らずに歩き続け、こちらに声だけをかけた。 その声は、少し怒っているような気がした。 「……効果、消して欲しいの?」 「は? 効果?」 効果って、何の話だ……? 「だから、惚れ薬よ!」 「……惚れ薬?」 「惚れ薬の効果! 消して欲しいの?」 惚れ薬の効果……。 そんな事、考えた事もなかった。 でも…。 「石蕗君は、それをずっと気にして黙っていたんじゃないの?」 「それは…」 違うんだけど、まさか秋姫と八重野が言った事が気になってるからとは言えない。 「どうなの? 消して欲しいの?」 「え、あ」 「石蕗君が消して欲しいって言うんなら、如月先生に頼むから」 「…俺は……」 「そのままで、いい」 背中を向けたままの結城が、そのまま二・三歩先に進んで行ってしまった。 この答えじゃ、ダメだったようだ。 「……なんでもない」 「じゃあ、声をかけないで」 さっきは、黙ってついて来るなって言ってたのに。 でも、さっきよりも結城の声が明るくなっているような気がして、何となく嬉しかった。 ……どうしてだろう。 気が付くと、寮の近くまで来ていた。 なんだか、今のこの状態が無性に照れくさい。 今まで平気だったのに、どうして急に照れくさくなったんだろう。 もう、あんまり考えないようにしよう。 数歩前を歩いていた結城が振り返る。 「俺、寮こっちだから」 結城の家と寮との分かれ道、寮の方を指差しながら言うと結城は気のないように答えた。 顔を見ていると、少しだけ照れくさい。 だから、わざとあんまり見ないようにした。 「じゃあ、行くな」 後ろから足音が聞こえてるような。 やっぱり、聞こえてる! 慌てて振り返ると、俺の後ろを結城が歩いていた。 確か、こっちだと逆方向になるはずなのに。 「家、こっちじゃないだろ」 なんか、様子がおかしいような。 あ、そうか! 「もしかして、道わからない?」 「そ、そんな事ないけど」 ああ、この反応はわからないんだろうな。 何となくわかって来た。 そりゃそうだ。 普段は松田さんに車で送ってもらってるんだから。 わからなくて当然だよな。 「結城、ちょっとここで待ってて」 「え? 何よ」 「いいから、待ってて」 「ちょっと…!」 きっと、送るから待ってろなんて言ったら怒るだろうから、理由を言わずに待たせておこう。 ま、待たせておいたらどっちにしろ怒るような気もするけど。 急がないと、日が沈むな。 それに早くしないと、結城が道も分からないのに歩き出しそうだ。 急いで戻って来ると、結城はちゃんとそこで待っていてくれた。 良かった、一人で歩いてたらどうしようかと思った。 「お待たせ」 「何よ、もう…」 「荷物、寮に置いて来た。送っていく」 「いつも車だから、道わからないんだろ?」 「それに、もうすぐ夕方だから。どうせ結城の家に行かなきゃいけないし」 「こっち。行こう」 「……ひ、一人で!」 「ほんとは一人で帰れるの、心配されなくても!」 怒ったように言った結城は、また先に進んで歩き出してしまった。 道もわかってないのに、あんなに先に進んで大丈夫なのかな。 「あ、結城」 「何」 「そっちじゃないよ、こっち」 「し、知ってるわ!」 どうしてかはわからないけど、結城は常に前に行こうとしてるみたいだ。 「(あ、あんまり離れないようにしないと)」 俺は結城を見失わないように、歩みを速めた。 結城を見失うことなく、俺たちは無事に家まで辿り着く事が出来た。 突然、結城が立ち止まって自分の指輪を見つめた。 これってデザインは違うけど、秋姫のと同じ指輪のようだ。 「結城、どうかした?」 突然、目の前で指輪が光り出した。 この反応も、秋姫の指輪と同じだ。 「あ、これって……」 「あわっ!」 指輪が光り出した途端に、俺はぬいぐるみの姿に変身してしまった。 気が付かない間に、夕暮れになってしまっていたんだ。 「しずくの反応よ」 俺がぬいぐるみの姿になっても、結城は冷静にそう答えていた。 「やっぱり、そうなのか」 結城の横顔は、今までにないくらいに真剣なものに変わっていた。 「行かなくちゃ」 指輪の輝きが小さくなると、結城の手の中でレードルに変化した。 「うわ」 はっきりとした綺麗な発音で、結城が言葉を唱えた。 途端に周りが眩しく光り、結城がプリマ・アスパラスとしての姿に変わる。 「さあ、行くわよ!」 プリマ・アスパラスに姿を変えた結城が俺をつかまえ、そして肩に乗せた。 俺は落ちないように、慌ててその肩にしがみついた。 「大丈夫、振り落としたりはしないから!」 「え? ふ、振り落とす!?」 「アラ・ディウム・メイ」 あの時と同じだ。 初めて結城の家に連れて行かれた時と同じ…言葉の力だ。 結城が空に浮かんでいる。 つかまったまま下に目をやると、やっぱり空中に浮かんでいた。 「あっあの、松田さんは……?」 「まだ車と格闘してるだろうし、このまま行くわ!」 「目指すは星のしずく。そして……!」 「う、うわ!」 かすかな衝撃の後、浮かんでいた結城の体が空中で移動を始めた。 「うわあぁぁ…」 あの時は連れて行かれた事に驚いて、何がなんだかわからなかったけれど…。 今こうして、結城の肩に乗って空を飛んでいると不思議な気分になる。 自分達の下に広がる街の景色が、まるでおもちゃのように小さい。 「すごいなあ…」 「これくらい、きちんと学んで練習をしっかりすれば誰にでも出来るものよ!」 「誰にでも?」 「そうよ。誰にでも!」 これって、やっぱり秋姫の事を意識して言ってるんだろうな。 結城なりに、気にかけてるって事なんだろうか。 「―――しずくの反応が近いわ!」 風を体全部で受け、金色の髪を揺らしながら、結城は目の前の景色を見つめていた。 その表情はどこか楽しげに見える。 「あそこよ!」 結城が指差した先には、展望台が見えていた。 あそこに、次の星のしずくがあるんだ! 「展望台……」 「星のしずくが、わざわざ星を見る場所に近付くなんて!」 「できすぎだわ!」 楽しそうに言いながら、結城は展望台に向かってスピードを速くした。 速くなったスピードに驚いて、俺は必死で結城につかまっていた。 夜の展望台は静かで、周りには人の姿がなかった。 「誰もいない…」 展望台は俺達以外に誰もいないらしい。 秋姫、まだ来てないのか。 「……あっちね!」 きょろきょろと周りに目をやっていた結城が、ある一箇所に視線を集中させた。 「行くわよ!」 「ま、待って!」 走り出した結城に慌ててついていくと、少し行った先で立ち止まっていた。 立ち止まった結城は、足元にある水たまりを見つめている。 「これね」 近付いて水たまりに目を向けると、その中でしずくがくるくると行き場無く動き回っていた。 きっと、水がここにしかないからどこにも行けなくて、水たまりの中で動き回ってるんだ。 今なら、すぐにでもすくい上げる事が出来る! でも、そうしたら秋姫は……!? 「え!? しずくが!!」 結城が声を出すと同時に、辺り一面に水が振りまかれた。 途端に水たまりの中のしずくが勢いよく外に飛び出す。 水たまりの外に飛び出したしずくは、水を得た魚のように、辺りを自由自在に動き回る。 「これでいいわ」 「なんでこんな事?」 「今だったら、すぐにすくえたのに…」 結城のしている事の意味がわからない。 どうして、わざわざこうする必要があるんだ? 「決まっているでしょう!」 遠くから、足音が聞こえる。 結城がそちらに視線を向けて微笑んでいた。 同じようにそちらに視線を向ける。 「はぁ、はぁ……」 「待っていたわよ!」 「――――すもも!」 「はぁはぁ…アスパラスさん」 「あ! ユキちゃん!」 そこには秋姫の姿があった。 必死に走ってここまで来たらしく、息が切れているようだ。 俺を見て一瞬、嬉しそうな表情を浮かべたけれど、すぐに周りを飛び回っているしずくに気付いた。 飛び回る星のしずくを見て、秋姫は驚いている。 そして、それを見た結城は満足そうに俺に視線を向けていた。 「わかった?」 俺が納得すると、結城は頷いてから視線を秋姫に向けた。 「この子と勝負をするためよ!」 「ま、負けません!!」 秋姫の指輪がレードルに変わった。 そして、レードルをかざして秋姫が高らかに声を張り上げる。 「スピリオ・ローザブロッサム!」 結城が唱えていたあの言葉と、似たような感じの言葉。 同じように唱えると、目の前の制服姿の秋姫の姿が変わった。 それはいつもの、プリマ・プラムとしての姿だ。 「す、すごい、すもも!」 「あら」 いつの間にか、変身できるようになってたんだ。 頑張って練習してたもんな。 「うん! ユキちゃんがいなくてもわたし、頑張ってたんだよ」 「少しは言葉が扱えるようになったみたいね!」 「わたし…たくさん、練習してきました!」 「ふふふ! それでこそ、やり甲斐があるというものだわ!」 二人の周りを星のしずくが飛び回っていた。 結城はそれを少し気にしながら、満足げに微笑んでいる。 「それじゃあ、本気で行くわよ!」 「もう、負けません!」 星のしずくが光り輝きながら、二人の周りを飛び回っている。 結城が水を振りまいたおかげで行き場のたくさんある、星のしずく。 その全てを行き交おうとしているように、しずくは相当早く動き回っている。 「さっきより、速くなったかも……」 「目で追うだけで精一杯だ」 動きは素早く、そして一定じゃない。 追いかけようにも、どっちに飛んで行くか予想もできないし、動きが速すぎて追いつけそうにない。 秋姫は必死でしずくの動きを目で追っていた。 「すもも…」 「つかまえる方法、なんとかして考えなくちゃ」 「絶対に、星のしずくを手に入れるんだから!」 必死でしずくの動きを目で追う秋姫と同じように、結城も飛び回るしずくを目で追っていた。 どうすれば良いのか考えている秋姫と違って、その表情には余裕が浮かんでいるように見える。 「……行くわよ!」 小さく呟いた結城は、秋姫を見て微笑みを浮かべた。 秋姫もその微笑みに気付いたのか、結城に視線を向けた。 何をするつもりなんだ!? 「飛んだ!?」 結城はまたあの言葉を口にして、空を飛んだ。 飛び回るしずくを、空から追いかけるつもりなんだ! こんなの、秋姫に不利じゃないか。 「大丈夫! 負けないから!!」 「勝つのはアタシよ!」 物凄い速さで水から飛び出したしずくを、空を飛んでいる結城が追いかけている。 輝きながら飛ぶしずくを結城が追う。 まるで意思を持って結城から逃げるように、しずくは空を飛び回っていた。 「すごい、結城さん……!」 キラキラと輝きながら飛ぶしずくは、軌跡を残して夜空を飛び続けている。 残された軌跡を追うように、結城は綺麗に飛び続ける。 まるで地面を走る時のように、それが当たり前の事のように結城はしずくを追って飛んでいた。 「待ちなさい!」 結城の言葉に反応するように、しずくは一瞬だけ動きを止めると方向を変えた。 方向を変えた先は、秋姫の目の前だ。 「すもも! こっちに来た!」 頷いた秋姫はしずくをじっと見つめながら、レードルを構えた。 レードルを構えた秋姫の前に、しずくは真っ直ぐ向かって飛んで来る。 上手くいったら、このままつかまえられるかもしれない! 「こ、怖いけど!」 真っ直ぐに秋姫に向かって飛んで行くしずくのスピードは速い。 もしかして、受け止めるのに失敗して怪我をしたら! 「すもも、動きが速いから気をつけて!」 「ありがとう、ユキちゃん!」 「簡単につかまえさせない!」 秋姫に向かって飛んで来るしずくを追って、結城もこちらに近付いて来た。 物凄いスピードで飛んでいる。 下手をすると秋姫にぶつかるんじゃないかという程の勢いだ。 「ぶつかりたくなかったら、そこをどきなさい!」 「どかない!!!」 「すもも!!」 「あああっ!」 「また!!」 秋姫の目の前に向かって来ていたしずくが、また一瞬動きを止めて、移動する方向を変えた。 「また方向を!」 向きを変えたしずくは秋姫の脇をすり抜け、通り過ぎていく。 秋姫の脇をすり抜けて行ったしずくを追い、結城も空中でまた向きを変えた。 「このくらいっ!」 「追いかけなくちゃ!」 通り過ぎて行ったしずくを振り返り、秋姫が走り出そうとした瞬間、結城が近付く音がした。 音の方に振り返った瞬間、物凄い勢いで結城が近付く。 「きゃあ!」 そして、秋姫の隣ぎりぎりを飛んでしずくを追いかけて行った。 「ごめんなさいね、プリマ・プラム!」 「大丈夫。このくらいで驚いてる場合じゃないよね」 両手をぎゅっと握って気合いを入れるように答える。 少し会わない間に、何だか秋姫は強くなったみたいだ。 「なんとかしなくちゃ、先につかまえられちゃう」 「でも、あんな所を飛んでちゃ……」 結城の追いかけているしずくは、いつの間にか空高くまで飛び上がっていた。 輝き、軌跡を残すしずくの光が、結城の姿を照らしていた。 「あんなに高くまで……」 空高く浮かんだしずくは結城に追いかけられながら、また向きを変えた。 今度は真っ直ぐほぼ直角に下に向かって、こちらに落ちて来る。 しずくの進行方向には、また秋姫がいる。 「え! こっちに来る!?」 俺もそう思った。 でも、違う。 秋姫の足元にはさっき結城が振りまいた水でできた、水たまりがある。 「違う! すももの足元にある水たまりを目指してるんだ!」 「水の中に戻らせたりしない!」 水たまりを目指すしずくを追って、結城も向きを変えた。 しずくと同じようにほぼ直角になって降りて来る結城のスピードは、しずくと変わらない程速かった。 「すごい……」 これが、結城の言う本気なんだろうか。 「あれ」 「どうしたの、ユキちゃん?」 「しずく、ちょっとだけスピードが遅くなった気がするんだ」 それは見間違いじゃなかった。 その証拠に、離れていた結城としずくの距離が一気に縮まった。 「これなら!!」 レードルの上に座っていた結城が、自分の下からレードルを引き抜いた。 「ああ!」 その上に座って飛んでいたと思った俺と秋姫は、思わず声をあげた。 だけど、結城の体勢はほとんど変わらなかった。 引き抜かれたレードルは結城の両手に握られ、そして背中のマントが風を受けて大きく膨らむ。 「すごい…」 「レードルに乗って飛んでたんじゃないんだ」 秋姫も俺も、じっと結城を見つめていた。 目の前で起こっている事が凄すぎる。 目の前を飛ぶしずくに向かって、結城がレードルを振り上げた。 「行くわよ!!」 自分の目の前を飛ぶしずくに向かって、結城がレードルを振りおろす。 「プルヴィ・ラディウス!」 結城の振りおろしたレードルの中に、星のしずくがすくわれた。 「ふふっ!」 星のしずくが、結城につかまえられた…。 「アタシの勝ちね! プリマ・プラム!」 高らかに宣言した結城が星のしずくをしまう瓶を取り出した。 そのまま、瓶の中にしずくが入れられてしまう。 そう思った瞬間! すくわれた筈の星のしずくが、レードルの中で音を立てて暴れ出した。 暴れる星のしずくは今にも飛び出して行きそうだ。 暴れる星のしずくは突然2つに分かれ、レードルから飛び出して行った。 そのまま、2つに分かれたしずくはそれぞれ好き勝手に動き出し、空中を飛び回る。 「ど、どうして!?」 さっきよりも素早くなったしずくは、2つがバラバラに好き勝手に動き回っている。 飛び回る2つの星のしずくを空中で見つめていた結城が地面ぎりぎりで体勢を整え、秋姫のそばに着地した。 「あ、あの…」 結城はこっちに視線を向けない。 ただじっと、飛び回る星のしずくを見つめている。 「2つのしずくが重なり合って、1つになっていたようね!」 結城は一瞬だけ秋姫と俺に視線を向けると、すぐに視線を戻して飛び回るしずくを見た。 独り言のように言ってから、結城はまた空を飛んでしずくを追いかけ始めた。 もしかして、俺達に教えてくれたのかな。 「すもも、今プリマ・アスパラスが…」 「うん、聞いてたよ」 「2つのしずくが1つになってたんだね」 分かれた2つのしずくは、それぞれが素早い動きで自由自在に飛び回っている。 1つになって身軽になった事でスピードが増したのか、さっきよりも随分と動きが早くなっているようだった。 「っく! 早いっ!!」 「でも!!」 結城はさっきのように空から追いかけているけれど、早くなったしずくの動きに翻弄されて中々追いつけていないようだった。 「このっ!」 何度かレードルを振りおろしているみたいだけど、しずくはうまく逃げ回ってつかまらない。 こんなの、どうやってつかまえればいいんだろう。 早くしないと、水と同化してしまう。 「大丈夫、ユキちゃん」 おろおろしていると、秋姫が優しく声をかけてくれた。 その声は、自信に満ちている。 「空は飛べないけど、わたし頑張るから!」 「だから、心配しないで!」 秋姫が俺にそう言って、にっこりと微笑んだ瞬間。 秋姫が持って来ていたあの本が眩しく光り出した。 まるで何かを伝えようとしているように眩しく、キラキラと輝き続けている。 前にも同じような事があった。 あの時に似てる。 「すもも、本が!」 光り続ける本を、秋姫がそっとめくった。 前と同じように、まるで待っていたようにあるページが開いた。 という事は、もしかして。 「これ……初めて見る言葉だ!」 「新しい言葉…!」 「うん! ちょっと待って」 紙と本を交互に広げ、秋姫は戸惑う事なく本を読み進めていた。 ちょっと会えない間に、本当にたくさん頑張ったみたいだ。 「うんと……」 「わかったよ、ユキちゃん!」 「うん! 大丈夫!」 力強く頷いた秋姫は、上空を飛び回る2つのしずくとそれを追いかける結城の姿を見つめた。 「もう少し、こっちに近付いたら……」 秋姫が呟いた途端、2つのしずくはそれが聞こえたように動き出した。 突然向きを変えて、勢いを増してこっちに向かって落ちて来る。 「う、うわ! 来た!」 「このっ!!」 向きを変えたしずくを追って、結城もこちらに向かって来る。 でも、しずくの方が早い。 2つのしずくと結城の距離は離されるばかりだ。 しずくがどんどん秋姫に向かって近付く。 「よぉし!!」 近付くしずくに視線を向けながら、秋姫はレードルをかざした。 じっとしずくに視線を向けたまま、大きな声で秋姫は言葉を唱える。 「ティム・フォールナ・メイ!」 「…!!!」 こちらに向かって来ていた2つの星のしずく。 その2つのしずくのスピードが同時に、突然遅くなった。 そして、ゆっくりと秋姫の方に近付いてくる。 「しずくの動きが、遅くなった…」 「そんな、だってこれは!」 俺もしずくを追いかけていた結城も驚いた。 俺は秋姫がこんなに凄い事ができた事に驚いていたけれど、結城の方はもっと別の驚きのようだった。 「さっき本に出たばかりなのに、こんな事って……」 しずくを追いかけていた結城は、ゆっくりになったしずくに追いつく事も忘れて呆然と秋姫を見つめている。 「やった! 上手くいったよ、ユキちゃん!」 「う、うん! すもも、集中しなくちゃ!」 「あっ、そうだね!」 一瞬こちらに視線を向けて喜んだ秋姫は、またすぐに向かって来る2つのしずくに視線を向けた。 まだゆっくりとこちらに向かって来るしずく。 でも、いつまた元のスピードに戻るかわからない。 「これだけ近付けば!」 服の中に手をやり、暫くしてから秋姫はしずくを入れる小瓶を取り出し蓋を開けた。 「ユキちゃん、持ってて!」 「あ、うん!」 両手で瓶を抱えて秋姫を見つめる。 蓋を開けた瓶を俺に渡すと、秋姫はレードルを構え直していた。 きゅっと口を結んで表情を引き締めると、構えたレードルをしずくに向ける。 いつもの、しずくを引き寄せる言葉。 秋姫の言葉はいつもよりも自信に満ちていたような気がする。 秋姫の言葉を聞いた星のしずくは、2つともまっすぐにレードルに引き寄せられる。 「2つもいっぺんに!」 まっすぐとレードルに引き寄せられた星のしずく。 その2つは逃げる事もスピードを戻す事もなく、素直にレードルの中にすくわれた。 「やったあ! やったよ、ユキちゃん!」 きらきらと輝く星のしずくが2つ、秋姫のレードルの中にある。 「すもも、瓶!」 抱えていた瓶を差し出すと、秋姫はそっとその中にしずくを入れた。 2つのしずくは互いに輝きながら、瓶の中に入って行った。 「はい、すもも」 しずくの入った瓶を差し出すと、落とさないようにそっと秋姫は受け取った。 そして持っていた蓋で瓶の口を閉める。 「やった…」 「やったー!」 「すごい、2つもしずくが」 「やったね、ユキちゃん! 2つもとれちゃったよ!」 「やったぁー!」 喜ぶ秋姫は何度も声を上げて、瓶に入った星のしずくを見つめていた。 「……良かったね、すもも」 「うん。わたし、頑張ったよ!」 「うん! すごく頑張った」 しずくを一度に2つもとった秋姫は、嬉しそうにはしゃいでいた。 本当に、会えない間に一生懸命頑張ったんだろうな。 特訓を手伝ってくれていた八重野にも、感謝しないといけない。 「これで一緒に帰れるよね?」 そうだ、秋姫の家にこれで帰れるんだ。 結城は秋姫に自分で色んな事をさせようとして、わざと俺を連れて帰ったんだから。 しずくを2つとった秋姫の元になら、俺を帰してくれるんだろう。 でも、なんだか……。 「良かったぁ!」 「わ、うわ!」 突然、秋姫が嬉しそうに俺の体を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。 「す、すもも!」 何度も同じようにされて来たけれど、やっぱりこうやって腕の中で抱きしめられるのには慣れられない。 どうしても恥ずかしいんだけど、今喜んでる秋姫にやめろなんて言えないし…。 そう言えば、結城は? 秋姫が星のしずくをとってから、姿が見えない。 さっきは、驚きながら上から見ていたみたいだけど。 きょろきょろ周りを見渡していると、飛んでいた結城が降りて来た。 ゆっくりと降りて来た結城は、秋姫を見つめて黙っている。 自分を見ている結城に、秋姫はゆっくり近付く。 途端に、結城は秋姫から視線を外した。 「約束だから」 「そのひつじ、返すわ」 声をかけたいのに、秋姫の前でどう結城に声をかければいいのかわからなかった。 いつも通りなんて、秋姫の前ではできない。 結城は前を見たまま、こっちに視線を向けない。 横顔は正面を向いたまま、唇は真っ直ぐに結ばれている。 何か言いたいのに、口にできなくてもどかしい。 秋姫も同じらしくて、結城を見つめながら言葉を探しているようだった。 でも、同じように言葉が見付からないみたいだった。 「やればできるんじゃない」 「ありがとう!」 大きく明るい声で言った秋姫は、結城に深く頭を下げてから走り出した。 秋姫の腕に抱かれたまま、俺はじっと結城を見つめていた。 こっちを見ない結城の横顔は、ただ黙って遠くを見つめていた。 「結城…」 「ユキちゃん、どうかした?」 「う、ううん! なんでもない」 秋姫が走り続け、肩越しに見える結城の姿が小さくなって行く。 秋姫がこんなに喜んでいるのに。 秋姫がしずくを手に入れて嬉しい筈なのに。 秋姫が一人で成長していた事が嬉しい筈なのに。 どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。 どうして、結城が気になるんだろう。 小さくなって行く結城の姿を見つめていると、胸がどんどん苦しくなった。 結城……。 明日になったら、またいつも通りの表情が見られるんだよな? 秋姫が星のしずくを2つ一度に集めた日から、俺はまた秋姫の家に行くユキちゃんの生活を始めていた。 俺が居ない間に秋姫は本当に頑張っていたらしくて、毎日のようにどんな練習をしたのか、どんな勉強をしたのかを教えてくれる。 だけど、俺は――…。 俺はずっと結城のことを考えていた。 「それでね、ユキちゃん」 「ナコちゃんとしずくを採る練習だけじゃなくて、この本の字を読む練習もやってたんだよ」 「そういえば、この前も随分読むのが早くなってたね」 「でも、まだこの紙を見てじゃないと読めないんだけどね」 「この前はあんなに早く読めるようになってたんだし、すももならすぐにそれが無くても読めるようになると思うよ」 「そうかな?」 「うん。ボクはそう思うな」 「わ、うわわ! すもも!!」 秋姫がまた、俺の体を強く抱きしめる。 嬉しくてやってるんだろうというのはわかるけど、やっぱり慣れられなくて、ばたばともがいてしまう。 「だ、だからあんまり……」 ばたばたともがいていると、少しだけ抱きしめる力を緩めてくれた。 「ごめんね、何だかとっても嬉しくて」 「う、うん。それはわかるけど」 体を離すと、秋姫は俺を自分の目の前に座らせてじっと顔を見つめた。 俺もじっとその顔を見つめる。 「もうすぐ、しずくが全部集まりそうだね」 そうだ、秋姫が集めたしずくはもう5つ。 残り、2つで7つ揃うんだ……。 本当に、もうすぐだ。 「……もうすぐだね」 「………でも」 さっきまで、あんなに楽しそうな表情だったのに、秋姫は寂しそうに俯いていた。 「何か、気になる事でもあるの?」 「結城さん……」 秋姫の口から出たのは、結城の名前だった。 その名前が出るとは思わなくて、少し驚く。 「ゆ……プリマ・アスパラス?」 「あの次の日から、学校に来てないんだ…」 秋姫がしずくを2つ手に入れた次の日から、結城の姿を見ていない。 あれから一週間近く経つのに、学校に一度も来ていないからだ。 教室の結城の席。 誰も座っていないそこは、いつもポツンと寂しそうに見えていた。 きっと、俺だけじゃなくて、みんなもそう思ってるに違いない。 「結城さん、どうしたんだろ……」 「き、きっと」 「きっと、星のしずくの反応があればいつもみたいに会えるよ!」 結城はプリマ・アスパラスなんだ。 プリマ・プラムの秋姫と星のしずくを集める競争をしているんだから、しずくの反応がある場所で会える筈だ。 きっと、そうに違いない。 「そうだよね。わたしと結城さん――ノナちゃん…、星のしずくのある場所で会えるんだよね」 「そうだよ。今までそうだったじゃないか」 「今までは星のしずくの反応が無かったから顔が見れなかったけど、次に反応があったらきっと…」 「きっと、会える…」 きっと、結城はそこに現れるんだ。 あんなにもプリマ・アスパラスとしての自信を持っていたんだから。 秋姫を励まして言っていたつもりだけど、自分で言った言葉で俺自身も元気になったみたいだ。 結城、星のしずくの反応があったら、絶対に来るよな。 「あれ……」 「しずくの反応だ!」 あの日から今日まで、何の反応も示さなかった指輪が光り出した。 「行こう、すもも!」 本を手にした秋姫が、俺の体を抱き上げて肩に乗せてくれた。 落ちないようにしっかりとつかまる。 「ノナちゃん、来るよね」 「うん。きっと来るよ!」 そうだ、きっと来る筈だ。 星のしずくの反応が、今もこんなに指輪から続いているんだから。 これで結城に会える。 これでやっと結城に会える。 秋姫には悪かったけど、俺の心は結城の名前を何度も呼んでいた。 指輪の反応を追いながら走り続けた秋姫と俺が辿り着いたのは、大きな池だった。 「……池?」 光が差す池の周りに視線をやるが、人の姿はない。 結城、来ないんだろうか。 「この中かな」 大きく音を鳴らした指輪が光り、その光は池のほぼ中央を指した。 「やっぱり、この中!」 「池の中に落ちたんだ」 しずくのある場所を指した指輪から音が止み、光を小さくしていった。 「やらなくちゃ!」 秋姫が集中すると、指輪がレードルに変わった。 それを持ち、かかげながら秋姫は言葉を口にする。 いつもの服に変身した秋姫は、大きな池の中央に視線を向ける。 「これ、プールの時と同じだよね」 「え? ああ!」 「あの言葉で水の中に入れるようにすれば、泳いでしずくをとりに行ける」 俺が頷くと、秋姫はレードルをかかげてまた言葉を口にする。 あの時、プールに落ちたしずくを探した時と同じ言葉だ。 秋姫の体が光り始め、その周りに薄い膜が現れた。 「うん、これで大丈夫!」 体の周りを包んだ薄い光の膜を見つめて秋姫が頷き、俺を抱き上げて肩に乗せた。 秋姫を包む光の膜に、俺も一緒に包まれる。 「ユキちゃん、瓶持っててくれる?」 差し出された蓋を開けた瓶を両手で抱えて頷く。 秋姫はそれを確認してから、肩に乗せた俺が落ちないように注意してから小さく深呼吸をした。 「行くよ、ユキちゃん」 真っ暗な水中は、秋姫を包む光の膜だけが唯一の明かりだった。 光のない水中は少しだけ、気味が悪い。 「あそこ!」 秋姫が指差した方向に、光があった。 「光ってる!」 「あれだね、星のしずく!」 驚くほどあっさりと、星のしずくに近付いていた。 結城の姿は、まだ見えない。 このままじゃ、また秋姫が星のしずくを手に入れてしまうのに…。 「……来ないね」 一瞬、秋姫が何の事を言っているのかわからなかった。 でもすぐに、結城の事を言っているのに気付いた。 「うん…でも」 寂しそうに表情を変えた秋姫は一瞬だけ俯いた。 でも、すぐに正面のしずくに視線を戻す。 「しずく、つかまえなくちゃ」 両手のレードルを握り直し、それをしずくに向かって振り上げる。 言葉が口を出た途端、しずくが秋姫の方に引き寄せられる。 抵抗する事なく側に近付くしずくに向かって、秋姫はレードルを振り下ろした。 振り下ろされたレードルが、見事にしずくをすくいあげた。 「ユキちゃん、瓶お願い」 抱えていた瓶を差し出すと、秋姫は片手でそれを受け取ってその中にしずくを入れて蓋をした。 「6つめ……!」 瓶に入った星のしずくを眺めながら、秋姫は感激したように呟いていた。 手のひらの中でぎゅっと瓶を握りしめて、胸元で抱きしめるようにしてから秋姫は小さく頷いた。 「とりあえず池から出よう、ユキちゃん」 池の中から出ると、秋姫の周りの光を帯びた膜が消えていた。 「…ふう」 小さく息を吐くと同時に、秋姫の服が元に戻り、レードルも指輪の姿に戻る。 手のひらに握った瓶を見つめてから、秋姫はきょろきょろと周りを見渡す。 だけど、周りに人の姿はない。 「………ノナちゃん」 「結局……来なかったね」 ここでなら、星のしずくの反応がある場所でなら、プリマ・アスパラスの姿で会えると思ったのに……。 「どうして……来ないんだろう…」 「そうだね…ノナちゃん……」 秋姫が6つ目のしずくを手に入れた翌日も、結城は学校に姿を見せなかった。 一週間も学校を休むなんて、酷い病気になっているんじゃないだろうかとみんなが心配している。 如月先生に聞いても、休んでいる理由は特に教えてもらえなかった。 結城の座っていない席は、朝から……いや、もう一週間も前からずっと寂しそうだ。 そして、昼休みになるとその寂しさは増す。 何故なら……。 「結城さんのお弁当がないのは、なんとなく寂しいよね〜」 持って来ていた弁当や、購買部で買ったパンを広げながら、俺達は揃って教室で昼食を食べていた。 今までなら、昼休みになると松田さんが大きくて豪華な弁当を結城の為に持ち込んでいたから、その光景がなくなるのはかなり寂しい。 「居たら居たで『なんだありゃ』ってなるけど、居ないとやっぱり寂しいな」 「そういうものだよね〜」 「結城さん、大丈夫なのかな」 「そうね。もう休んで一週間になるし」 「今まで、ちょっと取っ付きにくい感じはあったけど、休むようには見えなかったしな」 「うん〜。原因見当たらないよ」 「そうだね。成績も良かったし、態度も真面目だったし…やっぱり病気なのかなあ」 昼食を食べながら、みんなそれぞれ結城を心配していた。 俺には、何となくだけど理由はわかっている。 あの日の事が原因に違いないんだ。 でも、そんな事は誰にも言う事が出来なくて、ただ黙って話を聞いているしかない。 「病気だったら、きっと大変だよ」 「でも、病気だって決まったわけじゃないし」 「うん、でも心配だから…」 「確かに心配だよなあ」 「そうよね。そろそろ、テストも始まる時期だしさ」 「まあ、結城さんは成績がいいから、あんまりそういうの心配なさそうだけど」 「でも〜。テストは受けないといけないでしょ」 本当に、結城はどうしてるんだろう。 あの広い家で何をしてるんだろう。 学校来てないの、松田さんが心配してるんだろうな。 「ねえ、石蕗」 「……あ、なに?」 「石蕗は何か知らない? 結城さんが休んでる理由」 「そうだ。石蕗くんなら知ってるんじゃないの?」 「なんで、そう思うんだ?」 「え〜。だって、ねえ?」 「なあ?」 みんな顔を見合わせて頷き合ってるけど、俺には何がなんだかわからない。 不思議そうにみんなを見ていると、深道が少し呆れたように口を開いた。 「だって石蕗、結城さんと仲いいじゃない」 「なんだよ、その反応は」 「だって、別にそんな」 「そんな風に見えるよ?」 なんで、そんな風に思うんだろうか。 秋姫も八重野も同じような事を言っていたけど、自分には全くわからない。 「だからさ、何か知らないの?」 「何かって言われても……」 多分、直接の原因はあの時、秋姫に負けた事だとは思うんだけど…。 そんなの、みんなには説明出来ない。 「――ごめん、わからない」 「そっかー」 それに、何だかそれだけが理由じゃないような気もするから、本当の事はわからない。 でも、それだけじゃない理由が何なのかは、わかっていない。 ただ、あの時の結城の表情は、秋姫に負けた事だけが原因じゃないような気がした。 「心当たりとか、何もないの?」 聞かれても、答えられない。 俺にだってわかっているけれど、わかっていないようなものだ。 わかっていても、答えられはしないんだけど。 結城はどうして、学校にもしずくの反応があった場所にも来ないんだろう。 あんなに、自分がしている事に自信と誇りを持ってたみたいなのに。 「お〜い、石蕗く〜ん」 顔が見れないより、怒鳴られてる方がマシだって思うのは何なんだろう。 なんか、変な感じだ。 俺、何考えてるんだろう。 「……ハルも心配してるって事か」 「そうみたいね」 「まあ、心配してるのはいいけど、そういう態度は俺達以外にするんじゃないぞ〜」 「聞こえてないんじゃない?」 「それっぽいな……」 「ねえ、お見舞いとか行った方がいいのかな〜」 「う〜ん。気になるから行きたいけど、行って迷惑にならないかな」 「そっか。もし本当に病気だったら、お邪魔だよねえ」 「うん。具合、悪くなったりするかも知れないし」 「ね、それなら、石蕗が行けばいいんじゃないの」 「あ! それもそうだな」 「え? あ……なに? ごめん」 「だからさー。結城さんのお見舞い!」 「みんなで行くと迷惑だろうから、石蕗くんが行ったらどうかなって」 「あ、そっか…。お見舞いか」 「よかったら、考えときなよ」 「うん。そうする…」 「あ、やべ」 「はい、みんな戻って戻って〜」 クラスメイトたちが自分の席に戻るのを、俺はただぼんやりと見つめていた。 午後の授業が始まっている。 でも、授業の内容なんてさっぱり頭に入ってこなかった。 「お見舞い、か……」 やっぱり、様子とか見に行った方がいいのかな。 俺が行ったらまた怒ったりしないだろうか。 でも、怒られてもいいから結城の様子が知りたい。 昼休みから、ずっと結城の事が気になったまま放課後になってしまった。 ずっと気にしていたから、授業なんてほとんど耳に入っていない。 それに、お見舞いの事も考えていたし。 「なあ、ハル」 「え? なんだ」 ぼんやりしていると、圭介が声をかけて来た。 その表情は、少し心配そうに見える。 「お前、なんかずっと上の空だったな」 「あー。圭介もそう思ってたんだ」 圭介と話していると、深道もこっちに近付いてそんな事を言った。 俺、そんなにぼんやりしてたんだろうか。 そっか、それで圭介はちょっと心配そうだったんだな。 「信子さんも?」 「あ、そうか……。ごめん」 「いや、別に謝る事じゃないけどさ」 「そうそう。なんか気になる事があるなら、すっきりさせとけよ」 「考え過ぎてもどうにもならないよ。行動しとかないと」 気になる事……。 言われて頭に浮かぶのは、やっぱり結城の事だった。 今、結城の事以上に気になる事なんか無い。 「あ、悪い。クラブあるんだよな」 「そうだった。ごめんね、石蕗。引き止めちゃったね」 「いや、別に大丈夫だから」 「んじゃ、またね石蕗」 「クラブ頑張ってなー」 そうだ、クラブに行かないと。 秋姫と八重野の二人は、もう温室の方に行ったみたいだな。俺も急ごう。 そう言えば、如月先生が新しい花の種を植えたいって言ってたような気がする。 結城が来てからにしようって言ってたから、ずっと先延ばしになってるんだ。 やっぱり、こういうのは全員揃ってる時がいいよな。 温室に着くと、もう秋姫と八重野はいた。 二人はしゃがみ込んで、土をならしている。 やっぱり、まだ新しい花の種は植えないみたいで、その準備だけしてるんだ。 二人だけの温室は、少し寂しい。 少し前までは、ここに結城と松田さんも居たから余計にそう思う。 「あ、石蕗くん」 「ちょっと遅かったね」 「ううん、別に大丈夫だから」 「そう言えば、今日は昼くらいからボーっとしてたね。具合でも悪い?」 「そういえば、そんな感じだったね。ちょっと心配してたんだよ」 「あ、そっか……」 頷く秋姫の方も、一週間前から元気はない。 理由はわかっている。 結城が学校に来ていないからだ。 秋姫だけは、結城が学校に来ない理由が何となくわかってる。 多分、八重野くらいにしかその理由は言えないんだろう。 俺に言えないもどかしさが、毎日何となく伝わる。 「それじゃ、石蕗も来たから本格的にやろうか」 立ち上がって言い出した八重野だったけど、俺には言わないといけない事があった。 「あのさ、二人とも」 申し訳ない気がしたけれど、俺は口を開く。 「今日、結城のお見舞い…行こうと思うんだけど」 真っ直ぐに俺を見つめている二人に言い出しにくい。 恥ずかしい……のかな。 「行っていいかな」 驚く程あっさりと二人に了承され、少しだけ恥ずかしさが増した。 やっぱり、誤解されたままなんだろうか。 「私達も、結城さんの事気になるんだ」 「うん。ずっとお休みしてるから……」 その先を口にしたいけれど、できないような、秋姫にはそんなもどかしさが今日もある気がした。 「でも、みんなで行くよりも、石蕗一人で行く方がいいと思う」 「そ、そうかも…知れないね」 「みんなで行ったら、気を使うだろうし」 「それに、もし病気じゃなくて休んでいるなら…」 一旦、言葉を止めた八重野が秋姫に視線を向けた。 秋姫は何も言わずに小さく首を振る。 「石蕗にだったら、結城さんも休んでる本当の理由が言えるかも知れない」 「……うん。わたしも、そんな気がする」 「だから、一人で行って来て。それで、私達の分もお見舞いして来て」 「あ、あの、石蕗くん」 「なに、秋姫?」 「ノナちゃんに……みんなが心配してたって、伝えておいてもらってもいい?」 「……ああ、わかった」 「わたしも凄く心配だから…。また、元気な顔が見たいなって思ってるって」 「うん。伝えとく」 こくんと頷きながら答えると、秋姫は安心したように微笑んでいた。 本当に、結城の事心配してくれてるんだ。 「ごめん、二人とも。ありがとう」 「いいから、早く行ってあげて」 「うん。そうしてあげて」 「うん。じゃあ、行ってくる」 「じゃあね、石蕗」 「うん。また、明日」 秋姫と八重野に手を振ってから、走って温室を飛び出した。 早くしないと、日が沈む。 その前に、結城の家に急がないといけないな。 話をするなら、あのぬいぐるみの姿じゃなくて、ちゃんと石蕗正晴の姿で話した方がいい気がする。 温室を飛び出して、結城の家に向かう。 学校から結構距離があったから、このまま走っていかないと日が沈んでしまうかも知れない。 「あれ…」 校門に向かって真っ直ぐ走っていると、遠くに見慣れた高級車と人の姿があった。 他の生徒はクラブ中か、既に帰った後なので周りに人の姿はない。 だから、その姿は余計に目立つ。 「松田さん!」 「よ、良かった! 石蕗君!!」 俺の姿を見た松田さんは、今にも泣きそうな表情でこちらを見ていた。 「どうしてここに? 結城は?」 「そうなんですぅぅ、お嬢様の事なんです〜っ!」 「何があったんですか?」 「それが……」 「それが?」 落ち着きなく、泣き出しそうな程にオロオロしている松田さんを見ていると、不安ばかりが膨らんでいく。 結城、どうしてるんだ!? 「そ、それが、ご自分の殻に閉じこもってしまわれたんです」 「殻に閉じこもる……?」 「はい、そうなんですぅぅう〜!! うっうっ…」 それって、どういう意味なんだ? 自分の心の内側にこもるとか、心を開かないとかそういう意味なのか? でも、なんだかちょっとおかしいような。 「あの、松田さん。それってどういう意味…」 「どういう意味も何も、そのままですよぉお…えぐえぐ」 「お嬢様は、ご自分の貝殻の中に閉じこもってしまわれたんです…」 「だから、貝殻です!!!」 意味が、本当にわからない。 なんで結城が貝殻の中に閉じこもるんだ。 大体、貝殻の中に入れるものなのか?! 「う、ううう! 一週間前からずうううううっとそこに閉じこもっておられて、出て来てくださらないんです!! ううっ!」 「あの、松田さん」 「ぐす……はい」 「結城が貝殻の中に閉じこもってしまった…って事でいいんですよね?」 「はい、そうです。ううう」 なんだかよくわからないけど、そういう事で納得しておこう。 今の松田さんに詳しい説明を求めると時間がかかってしまいそうだ。 「貝殻の中のお嬢様と少しお話をしたんですが、なんだか要領を得なくて」 「なんて言ってたか、わかりますか?」 「はい! それはもう!!」 「確か、あんな高度の術とか、本を一度見ただけでとか、そんな風な事を言っておられたと思うんです」 高度な術。 本を一度見ただけ……。 「あの、もしかしたら」 「な、何か心当たりがあるんでしょうかあ!!」 「あ、あの!」 「この前、秋姫が星のしずくを手に入れたんです。2つ一度に」 「はい、お嬢様から聞きました」 「私は、その…全てが終わった後にあの場に到着してしまって、お嬢様のお役に立てなかった事が悔やまれて悔やまれて!!!」 「あ、あの! それで、ですね!」 「それで、その時に秋姫の本に新しい言葉が浮かんだんです」 「それ! ど、どんな風だったか覚えてますか?」 「えっと、確かしずくに向かって言葉を唱えると、しずくの動きがゆっくりになって…」 「あ、ほら前に結城が松田さんに使っていた……」 「そ、それは……!」 俺の説明を聞いた松田さんは、かなり驚いたような表情を浮かべていた。 秋姫の本に浮かんだ新しい言葉って、どういうものなんだ? 「あれは、かなり高度な力ですよ!」 「そうなんですか?」 「はい! お嬢様も使いこなせるようになるには、かなりの練習を繰り返しておられました!」 そうなんだ、そんなに凄いものなんだ。 それを、秋姫はあっさりと……。 「あの時のお嬢様は、それはもう物凄い練習を毎日毎日…いや、あれは!」 「地獄の特訓という感じでした!!」 その時の事を思い出しているのか、松田さんは握り拳を作りながら説明してくれた。 だけど、すぐに力なくしょんぼりとうつむいた。 「だから、その」 「秋姫さんが、その力をあっさり使ったのがショックだったのでは……」 「そうなんですか……」 「お嬢様、もうずっと貝殻に閉じこもったままで、お食事もまともにされていないんです」 「あの、結城の好きな物とか俺持って行きます!」 「用意したんです。お嬢様の好きなお菓子とか、お茶とか…でも、ダメなんです」 「じゃ、じゃあ何か好きな物とか、気に入ってる場所とか、何か……!」 食事もしてないなんて、普通じゃない。 何とかして元気になってもらわないと、結城が倒れてしまうかも知れない。 「……あの、石蕗君」 「私、少し考えたんですが」 「あの、とっても差し出がましい考えで、もしかしたら間違っているかも知れないんですけど」 「それでもいいです。言ってください」 「お嬢様には、石蕗君が話をしてあげるだけでいいと思うんです」 「え!? どうしてですか?」 「お嬢様は石蕗君と一緒の時は、凄く楽しそうな表情をされるんです。とっても嬉しそうに見えるんです!」 「……ほ、ほんとですか…?」 確か、みんなにも似たような事を言われた。 松田さんにもそう見えていたのか。 俺にはちっともわからなかったのに。 「もしかしたら、石蕗君には同じように見えてるかも知れないですけど、やっぱり違うんです!」 「この松田にはわかるんです!!」 ずっと一緒にいる松田さんがそう言うんだから、その通りなんだと思う。 他の誰が言うより、ずっと説得力がある。 「――だから、石蕗君と話すだけでいいと思うんです」 「松田さん……」 「だからあの、お嬢様に声をかけてくれませんか。お願いします!!」 そこまで言った松田さんは、俺に向かって深々と頭を下げた。 俺が声をかけるだけでいい。 それだけで、結城は元気になるかも知れない。 松田さんがそう言うのだから、本当にそうなのかも知れない。 何故だろう。 少しだけ、心があったかくなる感じがする。 俺なら結城をどうにかしてあげられる、そう言われたからかな。 「松田さん」 声をかけると、松田さんは頭を上げてこっちを見た。 瞳は少し潤んでいた。 今は涙が止まっているけど、また泣き出しそうだ。 「俺、今から結城に会いに行こうと思ってたんです」 「つ、石蕗君!!」 「家まで連れて行ってくれますか?」 「も、勿論ですぅ〜!!」 「お嬢様はきっと石蕗君の声を聞いて元気になります! ありがとうございます!!」 俺が行けば、またいつものように怒られるかな。 でも、それでもいい。 結城が元気になるなら。 俺が話し掛けて、怒鳴れるぐらいに結城が元気になってくれるなら。 「石蕗君、乗ってください」 「すぐにお連れしますから〜!」 俺が話しかける事で結城が元気になるのは、もしかしたら、それは惚れ薬がまだ効いているからなんだろうか。 それなら、俺じゃなくても惚れ薬で好きになったら誰でもいいって事になる。 それは別に…。 「…俺じゃなくても……」 「どうしました?」 「…あ、いえ。何でもありません」 「そうですか、それでは!」 なんだろう。 あったかくなった心が、また冷たくなっていきそうな感じがする。 俺、本当にどうしたんだろう…。 「こっちです、石蕗君」 「お嬢様はこちらに!」 「……………貝殻」 松田さんに連れられて結城の家に行くと、そこには松田さんが言っていた通り、貝殻が置かれていた。 しかも、物凄く大きい。 「あの、松田さん…」 「お嬢様はあの中なんです〜」 一瞬、言葉を無くしてしまった。 いや、向こうの世界ではこういうのが当たり前なのかも知れない。 それなら、驚いている場合じゃない。 なんとか外に出て来てもらわなくちゃいけない。 「お嬢様〜!」 「………あっちへ行っていて」 俺が頭の中で考えている間に、松田さんは貝殻に向かって声をかけていた。 中からは、確かに結城の声が聞こえている。 「お嬢様、そろそろ外に出て来て、きちんとお食事をしてください〜!」 「いいから、あっちへ行って」 「あの、でも!」 「あのっ、石蕗君が来てくれたんですよ〜」 俺の名前が出た途端、結城の言葉が止まった。 声が聞こえなくなると、松田さんは視線を俺に向けた。 どうすればいいのかわからなくて、松田さんをじっと見つめると、困ったように眉毛を八の字にしたまま頷かれた。 話しかけろって事らしい。 一歩足を踏み出して、貝殻に近付く。 「えっと、結城?」 「……石蕗君?」 呼びかけて聞こえて来たのは、遠慮がちな声。 貝殻の中からだから、少し声はくぐもっていたけれど、間違いなく結城の声だった。 声が返って来た事が少し嬉しかった。 「結城なんだよな?」 良かった、やっぱり結城だ。 答えてくれるって事は、俺が来た事怒ってないのかな。 それなら、もっと話しかけた方がいいのかも知れない。 「ずっとその中にいたのか?」 「体調は悪くなってないか?」 「でも、ずっと食べてないんだろ」 「食事くらい、ちゃんとしないとダメだぞ」 「松田さんも心配してる」 ちらりと松田さんに視線を向けると、結城が素直に頷いている事が嬉しいのか目を潤ませていた。 今まで、まともに返事もしなかったんだろうか。 「そうだ、学校」 「がっこう…」 「学校、ずっと休んでたからみんな心配してた」 「そういえば、もうすぐテストなの覚えてる?」 「テスト範囲とか、今度教えるから」 「一緒に勉強……」 そこまで言ってから、結城が図書館で勉強してたのを思い出した。 授業で習っているよりも、随分先の部分を自分でやってたっけ。 「あ、結城だったら俺としなくても平気か」 返って来たのは、意外な答え。 でも、その答えが俺は嬉しかった。 「じゃあ、一緒にテスト勉強もしよう。俺わかんないとこ、教えてくれるよな?」 あとは、何を話せばいいだろう。 素直に頷いてはくれるけど、出て来てくれるように思えない。 でも、もっともっと何か言わなくちゃいけない気がする。 「あ、あと、そうだ園芸部!」 「……クラブ?」 「また、新しい花の種を植えるって如月先生が言ってた」 「みんなが揃ってる時にしようって言ってたから、まだ植えてないんだ」 「だから、今度みんなと一緒に植えよう」 松田さんはさっきと同じように、こちらを見てうんうんと何度も頷いていた。 「…なに?」 「俺、結城の事凄いと思ってるんだ」 「……どうして?」 「だって、学校の勉強も一人でしてたし」 「そんなの、当たり前だもの」 やっと、結城らしい言葉が聞こえて来た。 少しずつ、出て来ようとしているんだろうか。 だとしたら、もう少しで顔が見れるかも知れない。 「でも、学校の勉強以外でも、しずくの事もさ。ずっと…あんなにたくさん練習してきたの、凄いと思う」 「…でも」 「秋姫さんは…」 「結城が今まで、たくさんたくさん練習してきて積み重ねてきたって事は、凄いことだと思うんだ」 「本当に…偉いし、凄いと思う」 あれ…? 返事が、なくなった。 「石蕗君、いい感じですよ!」 「お嬢様が黙っている時は、おおむね嬉しがっている事が多いんです!」 そうか、それなら今もっと話しかければいいのかも知れない。 でも、何を話せばいいんだろう。 「どうか、もう一押しお願いしますっ!」 「…でも、何を話せばいいのか」 「あとは…」 「あとは?」 俺が尋ねると、松田さんは少し考えていた。 結城の事をよく知ってる松田さんなら、俺よりいい考えがきっと浮かぶ。 「そうですね、ライバルとしての気持ちを刺激してみるというのは、どうでしょうか」 「ライバルとしてのですか?」 「はい。それがいいんじゃないかと思うんです」 他に何を話せばいいのかもわからないし、さっきしずくの話をしたら黙ってしまったから、もしかしたらそれでうまく行くかも知れない。 「昨日、星のしずくの反応があったの知ってるか?」 「……しらなかった」 「昨日、結城も来ると思ってたんだ」 「でも、全然そんな様子がなくて、心配してたんだ。俺も秋姫も」 「結局、秋姫が星のしずくつかまえたんだぞ」 「これで秋姫は6つ目のしずくなんだ」 「次で秋姫は7つしずくが集まっちゃうんだ。こんな風にしてて終わっていいのか?」 「いい感じです、いい感じですよ〜!!」 黙り続ける結城が気になったけど、松田さんがうんうんと何度も頷いてる。 これで、いいのかも知れない。 もう少し、何か話す事……。 「なあ……」 「結城がいないと心配で、秋姫も身が入らないみたいなんだ」 「秋姫、この間からずっと落ち着かなさそうで…、学校でも元気が無いんだ」 「なあ、ライバルの筈の秋姫も心配してる」 「そんな所に閉じこもってないで外に……」 「お、お嬢様が出られるかも知れないです! もう一押しですよ石蕗君!!」 「結城、秋姫と勝負しないで負けてもいいのか?」 突然、目の前から大きな音がしたかと思うと、二つに重なった貝殻の隙間が開いた。 「お…お嬢様あああ!!!」 「結城! 良かった!」 「何が良かったよ!!!!!!」 「お、お嬢様…!?」 開いた貝殻の中から出て来た結城に怒鳴られ、俺も松田さんも驚いた。 やっと姿を見せてくれた結城は、仁王立ちになったままこちらを睨みつけていた。 目には、涙が溜まっている……。 「なんで……!?」 折角出て来てくれたのに、なんでこんな表情…。 「さっきから黙って聞いてれば…秋姫、秋姫、秋姫って……!!!」 「そ、それは、秋姫も結城を心配して…」 「もういいわよ! 黙って!!! わざわざそんな事言いにここまで来たの!?」 「お嬢様っ?! 一体どうされたのですか〜!!」 「松田も黙ってよ!!!」 「は、はいぃぃ!! 申し訳ありません!!!」 「――どうせ、あなたが心配してたのはアタシじゃないんでしょう!」 「あなたが心配してたのは、アタシじゃなくて秋姫さんなんでしょう!!」 そこまで言った途端、結城の瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。 それは丸いしずくになって、頬を何度も伝う。 止まる事のない涙は、結城の頬を伝い続けている。 なんで、泣いてるんだよ。 「そんな、俺は結城の事が……」 「うるさい!!! 黙ってよ!!!!」 「もう声も聞きたくない! もういらない、こんなのもう嫌!!」 「もういい……」 「もういいって、何が…」 「こんな気持ち、もういらない!!」 「お、お嬢様〜」 「惚れ薬のせいでこんな気持ちになるなら、もうこんなのはごめんよ!!」 「あんたなんか、もう好きにならない!」 「こんな気持ちなんか、もういらない!!!」 「もう、こんなのやめるんだから!!」 叫びながら、貝殻の中から飛び出した結城は、そのまま走り出して行ってしまった。 「お、お、おじょうさまぁぁ〜!?!」 なんで…。 どうして、こんな風に……なったんだ? 折角外に出て来てくれたのに、顔が見れたのに、どうしてこうなっちゃったんだよ……。 泣きながら、飛び出して行っちゃうなんて…。 結城、なんで……!! 「はっ!!!!!」 「え、あ!?」 俺と一緒に呆然としていた松田さんが声を出した時、俺も目の前の状況にやっと気付けた。 「お、お嬢様ああ!!!」 「そ、そうだ! 結城!!」 あまりにも突然の事に、松田さんと一緒に呆然としてしていた。 それどころじゃない、結城を追わなくちゃ。 もっとちゃんと、顔を見て話をしないと! 「お嬢様ああ! お嬢様〜!!!」 外に出ても、どこにも結城の姿は見えなかった。 学校から家まで一人で戻れなかったりするのに、一体どこに行っちゃったんだよ! 泣きながらだから、そんな事考えられもしなかったんだろうけど……。 「お嬢様あああ! どこに行かれてしまったんですか〜!!!」 周りをキョロキョロ見回しても、やっぱりどこにもそれらしい姿はない。 もっと、遠くまで行ってしまったんだろうか。 それだったら、すぐに探しに行かないと…。 「あの、俺ちょっとこの辺を…」 「うひゃっ!!」 気が付くと周りはもう真っ暗だった。 結城を説得している間に、かなり時間が過ぎてしまっていたらしい。 そして俺は、いつものぬいぐるみの姿に変身してしまう。 これじゃあ、結城を探しに行く事なんて出来ない! 「す、すいません、石蕗君!!!」 「しまった、もう日が沈んで…!」 「あ、あ!」 「あ、あの! 秋姫さんの家に向かわないといけないんですよね?」 「あ! は、はい!」 結城の事が心配で、秋姫の所に行くって事をすっかり忘れてた! そうだ、早く行かないとまた心配される。 「こ、こちらは私が何とかお嬢様を探しておきますから、石蕗君はいつも通り秋姫さんのところに〜!!」 「あの、でも…」 「大丈夫です! お嬢様は私が必ず見つけますから、早く行ってあげてください!」 結城は勿論心配だけど、ちょっと落ち着きをなくしているような松田さんを一人にするのも心配だ。 本当に一人で大丈夫かな。 「松田さん、一人で大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫です〜! いざとなったら、犬の姿になってその嗅覚で探しますから!」 また涙目になっている松田さんに言われ、素直に頷くしか出来なかった。 ま、任せても大丈夫だよな…。 でも、心配だからってこの姿では探しに行けないし。 「あ、あああ! お嬢様ああ! どこに行かれたんですか〜!!!」 「あ、耳……」 慌てた様子の松田さんは、頭に出て来た耳にも気付かずに走って結城を探しに行ってしまった。 耳、後で気付くかな。 本当に大丈夫かな……。 「………でも、こうしてても仕方がないか」 「秋姫のところに行かなくちゃ」 ……結城、どこ行っちゃったんだろう。 迷子になったりしてないかな。 松田さんが、すぐに結城を見つけられればいいんだけど。 いつものように、本に乗って秋姫の家に向かう。 だけど、頭の中に浮かぶのはさっきの結城の事だった。 そう言えば、泣き顔を見たのなんか初めてだ。 俺と一緒に居ると、結城は怒ってる顔ばかりのような気がするな。 『惚れ薬のせいでこんな気持ちになるなら、もうこんなのはごめんよ!!』 惚れ薬の力で誰かを好きになるのは、偽物の気持ちなんだろうか……。 結城は、俺の事が好きでずっと辛かったのかな。 もっと早く、薬の効果を消してくれって俺が言ったら良かったんだろうか…。 「……わからない…」 どうする事が、結城にとって良かったんだろう。 ずっと、ずっと辛かったのかな。 じゃあ、俺のこの気持ちは何なんだろう……。 「……なんだか、わからない」 なんだろう、この胸の中にあるもやもやした感じは。 「あ、もう秋姫の家に着くのか…」 ぼんやり考えてる間に、いつの間にか秋姫の家の近くまで来てたみたいだ。 「あ、ユキちゃん!」 窓の外を眺めて、俺が来るのを待っていたらしい秋姫がすぐに見つけてくれた。 「今日はちょっと遅かったんだね」 「う、うん。ごめんね」 「ううん、いいの。来てくれたから!」 「ユキちゃん、ちょっと元気ない?」 「え!? そ、そんな事ないよ! 大丈夫!!」 「それならいいけど…。あ! ごめんね!」 「中に入って! 誰かに見付かったら大変!」 「ふう……」 「やっぱり、元気ない? 何か悩みでもあるの?」 「そ、そんな事……」 「うん。それならいいけど、何かあるならわたしにも話して欲しいなって思うから」 「……ユキちゃんが元気ないと心配だから」 「あ、でも! 無理に話してって言ってるんじゃないよ、話したくなったらでいいの!」 「うん。ありがとう、すもも」 秋姫、心配してくれてるんだな。 一人で考えてもわからないなら、秋姫に話してみた方がいいのかも知れない。 でも、どう言えばいいだろう。 結城の事だっていうのは言えないし、惚れ薬とか……。 う〜ん……。 「え!? あ、何? すもも」 「何か考えてたみたいだから」 「あ。え〜と……」 「あ、あのね、すもも」 「あんまり、詳しく言えないんだけど、聞いてくれるかな?」 「うん。もちろん!」 「えっと、女の子…。うん、友達の女の子がいるんだ」 「その子もぬいぐるみなの?」 「え!? あ、あ! うん、そう!!」 「その子がどうかしたの?」 「う〜ん、と。ちょ、ちょっと待ってね」 惚れ薬の事とか、どう言えばいいんだろう。 結城がぬいぐるみの女の子で、惚れ薬が……。 「うんと、ぬいぐるみの国でボクとよく一緒に居た女の子がいるんだ」 「でも、その子はボクと一緒の時は怒ってばっかりだと思ってたんだ」 「あの、でもね。他の人から見ると、その子はボクと一緒だったら、楽しそうに見えてたみたいなんだ」 「ふ〜ん」 「ユキちゃんは、どうしてその子と一緒に居たの?」 「えっと、それは」 惚れ薬の事、説明した方がいいのかな。 それとも、別の理由にした方が……。 …あ! そうだ! 「わ、悪い魔法使い!」 「悪い魔法使いが、その子に魔法をかけたんだ」 「魔法?」 「う、うん。その子が、ボクの事を好きになる魔法」 ……幾らなんでも、この理由はダメか。 「そうなんだ!!」 秋姫、信じてくれるんだ。 良かった…。 これで、話を続けられる。 「そ、その悪い魔法使いが魔法をかけて、その子とボクはよく一緒に居るようになったの」 「でも、ユキちゃんは、その子は一緒に居る時は怒ってばっかりだと思ってたの?」 「もしかしたら…」 「もしかしたら?」 「それって、その子の照れ隠しだったのかも知れないね」 今になったら、そうじゃないかって自分でも思える。 でも、すぐにそう考えられる秋姫って凄いな。 「で、でも、怒ってばっかりだと思ってたんだけど、段々とボクもその子の事がわかって来て…」 真面目で努力家で、怒ってるように見えるのも、照れ隠しで…それで…。 「でも、その子にちょっとショックな事があって、会えなくなった事があったんだ」 「ショックな事?」 「えーっと」 「自分が頑張って練習をいっぱいして出来るようになった事が、ある日他の誰かが簡単に出来るようになっちゃったんだ」 「そうなんだ……」 秋姫の事なんだけど、本人を目の前にしながら言うのは変な感じだ。 でも、それで結城はショックを受けたんだよな。 「頑張り屋さんだったら、それはショックかも知れないね」 「それで、暫く会えなかったから、ボク、家まで行ってみたんだ」 「その子のお家に?」 「わあ! もしかしたら、ユキちゃん以外にもこの街には、喋るぬいぐるみさんがいるの?」 「だって、ユキちゃんはぬいぐるみの国に帰れなくなったから、この街にいるんでしょ?」 「え! あ、あの! それは! ひ、秘密だから!」 「そっかー。残念だなあ」 しまった、そういう理由で秋姫の家にいたのに、うっかりしてた。 でも良かった、秋姫が素直な性格で……。 「あ、ごめんね。お話の途中なのに、違う事聞いちゃって」 「それで、お家に行ってどうしたの?」 「いっぱい、話をしたんだ。また一緒に遊ぼうとか、いろんな事、いっぱい……」 そこまでは、良かったんだ。 結城も素直に頷いてくれて、出て来てくれそうだったんだ。 「でも、ボクがまた…怒らせて……」 「その子が気にしてた事を、ボクは気付かないうちにいっぱい言ってしまって……」 「泣かせちゃったんだ」 「その子が泣いてるのなんか初めて見た」 「それで気にしてたんだね、ユキちゃん」 「うん。その子、泣きながら、こんな気持ちいらないって……」 「え? どうして?」 「その子が頑張って出来るようになった事、あっさり出来ちゃった子」 「うん。さっき言ってたね」 「その子も家から出て来ないのを心配してたから、その子の名前を出しながら話しかけてたら……」 「ボクが心配してるのは、そっちの子だろうって」 「そんなつもりは無かったのに、ボクはその子を傷付けちゃって」 「ボクを好きになる気持ちなんて、もういらないって言われちゃって」 そう言われてから、変な気持ちなんだ。 ……変な気持ちなんて、曖昧なものじゃなくて、もっと違う、別の…。 「ボクはその魔法を解く方法を知ってたんだ」 「でも、その子がそのままでいいって言うから、魔法をそのままにしてたんだ」 「でも、泣いてるのを見て、その魔法をもっと早く解いてあげればよかったと思った」 「でも違うんだ。それだけじゃない。変な気持ちなんだ」 これは結城が、こんな気持ちいらないって言ったからなんだ。 それって、どういう事なんだ。 「ボク、こんな気持ちなんかいらないって言われて、ショックを受けてるのかも知れない」 秋姫に話しながら、考えていたら、なんだかわかった気がする。 結城が俺を好きになっていた気持ちがいらないって言ったから、俺はそれがショックだったんだ。 偽物の気持ちでも、結城と一緒で俺は楽しかった。 でも同時に、ほんの少しの後ろめたさもあった。 それって……もしかして。 「ねえ、すもも…。これって、ボクが…」 「ボクが、その子の事を好きって事なのかな?」 だから、泣き顔を見たのも、いらないって言われた事も全部気になって仕方ないんだ。 だから、もっと早く俺を好きな気持ちを消してあげていればって思うのかも知れない。 「その気持ちはわたしが言わなくても、ユキちゃん自身が気付いてるんじゃないかな」 「その子と、もう一度ちゃんとお話しないといけないね」 「その子も、魔法でユキちゃんを好きになったのかも知れないけれど」 「そんな風に泣くのって、魔法のせいだけじゃないと思うんだ」 「わたしは、そう思うなあ」 「……そうかな」 「うん! だから、もう一度ちゃんと会わないと!」 もう一度ちゃんと会って、今度は顔を見て話しをしなくちゃ。 明日、もう一度結城の家に行こう。 日が沈む前に会って、今日よりもちゃんと話をしなくちゃ。 「話、聞いてくれたから。だから、ありがとう!」 「ううん。わたしは本当に聞いてただけだから」 「でも、すももが聞いてくれないと、ボクは色々気付かなかったかも知れない」 「明日、またその子の所に行ってみるね」 「うん。頑張って!」 「仲直り出来たら、わたしもその子に会いたいなあ」 「え!? あ、あ、えっと……」 「ダメかなあ?」 「そ、その子、恥ずかしがり屋だから!!」 「そっかー。会ってみたいなあ、ユキちゃん以外の喋るぬいぐるみさん」 「あ、あははは……」 素直すぎるのも、ちょっと問題かなあ……。 でも、そのおかげで自分の気持ちが整理できたしな。 よし、明日ちゃんと話をしよう! 「う、うわっなに!?」 「如月先生」 「あれ、結城さん。どうしたの? 昼間は学校に来ないのに、夜に来るなんて」 「それに、扉はもっと丁寧に開け閉めしないといけないな〜」 「そんな事より先生!」 「そんな事って……」 「私の惚れ薬の効果を消して欲しいんです!」 「そうです、惚れ薬です!」 「惚れ薬、惚れ薬……」 「夏、プールの補習の時に、松田がどこからか持って来たペットボトルの…!」 「惚れ薬、プールの補習、ペットボトル……」 「あぁあ、はいはい! ペットボトルに入った惚れ薬ね!」 「だから、そう言ってるじゃありませんか」 マイペースな様子の如月に、ノナは少し苛ついているようだった。 だが、如月のペースはその様子に気付きながらも変わらない。 「それは僕が作ったものだね。うん」 「でしたらお話は早いです。惚れ薬の効果を消してください!」 「惚れ薬の効果を?」 「私がその惚れ薬を飲んでしまったんです」 「いつ?」 「だから、プールの補習の時です!」 「あぁ、そうでした。ごめんごめん。それで?」 「今、大変困った状況になってるんです、だからその効果を消して欲しいんです」 「なるほど。そういう事か」 「……う〜ん」 驚いた様子もなくノナの話を聞き終わった如月は、少し考えるような素振りを見せた。 ノナが声をかけると、考える素振りをやめてにっこり微笑む。 「ちょっと待っていて」 「すぐに用意できるからね」 「これを入れて、これを混ぜて……」 手際よく作業をしながら薬の調合をする如月を、ノナは真剣な眼差しで見つめていた。 そして、暫くするとその作業は終わる。 作業を終わらせた如月は、片付けもそこそこにノナに視線を向けて微笑んだ。 「さあ、これだよ」 「これ、ですか?」 差し出されたのは透明の液体が入ったコップだった。 見た目はただの水にしか見えない。 「これを飲めば、惚れ薬の効果はなくなる」 「……ねえ、結城さん。本当にそれでいいの?」 「後悔したりしない?」 「いいんです!!」 「ああ。そんなに一気に飲まなくても」 「一気に飲んじゃったんだねえ。大丈夫?」 「な、なんだか……凄く甘いんですけれど…」 「うん。そういう薬だから」 「さあ、それじゃあ全部飲んだね。すぐに効いてくるけれど、気分はどうかな?」 「どうと言われても、甘いくらいしか…」 「それは薬が効いているという事だよ」 「それじゃあ、そろそろ家に帰った方がいい。きっと今頃、松田さんも心配しているんじゃないかな」 「……そうですね…」 「そうさせてもらいます……」 「少しフラついてるみたいだけど、大丈夫かい?」 「大丈夫です。甘さが凄かっただけですから」 「それなら心配しなくても大丈夫そうだね」 「はい。それじゃあ、さようなら。来週は学校にちゃんと来るようにね」 「……考えておきます」 「わかった。出来たら、学校に来てくださいね」 「如月先生、ありがとうございました」 「はあ…。それにしても、甘かった……」 「お嬢様ああああ!!!!」 「松田……」 「お嬢様ああ、良かった! あらゆる場所をお探ししたんですよおお!!!」 「泣きながら飛び出して行かれ、道もわからぬまま迷子になっているのではないかと思うと、この松田心配で心配で!!」 「どんなに色んな場所をお探しした事か! このまま見付からなければ、御主人様と奥様と祖父に顔向けできない所でした!!!」 「お、お嬢様がお謝りになられる事ではありません! 無事に見付かったんですから、それでいいんです!!」 「ふ〜。なんだか、すっきりしたわ」 「すっきりしたの。だから、帰りましょう」 「え、えっと。もう、大丈夫なんです…か?」 「あの、あの、石蕗君は…」 「すっきりしたって言ったでしょう。さあ、帰りましょう」 「あ、は、はい!」 「お嬢様……」 「あの、お嬢様。そのままでは風邪をひかれてしまいますよ」 「お嬢様、何か上に羽織るものをお持ちいたしましょうか?」 「…いいわ」 「………あ、あの!」 「石蕗君の事を気にしていられるのでしたら、彼は何も悪くないんです!」 「あ! た、確かに迎えに行ったのは私ですけれど、それはお嬢様を思っての事で……じゃなくて!」 「学校に行ってみたら、石蕗君はお嬢様に会いに来ると言って出て来られる所だったんです」 「そうなの」 「はい、そうなんです! 石蕗君は自分の意思でこの家に来てくれたんです」 「……だから、私が無理やりお連れした訳ではありません!」 「こちらに来られて、お嬢様にお話をされていた時も最初は色々な事を話されていたでしょう!?」 「そうです! お嬢様も聞いておられたでしょう」 「あれは石蕗君が一生懸命にお嬢様の事を思って、お話になられていたんですよ!!」 「…そう」 「お嬢様もお返事をされておりましたから、この松田が調子に乗ってしまって……」 「ああああ! それであのような事を、石蕗君に言ってしまって!!!」 「秋姫さんの事をお話しされたのは、私がそうした方が良いのではないかと言ったからなのです!!」 「この松田があのような事を言わなければ、あのようにお嬢様が泣かれる事も、家を飛び出される事もなかったのに!!!!」 「あああ! 私がお嬢様の事なら、何でもわかっていると図々しくも思っていたばっかりにあのような事になってしまって!!」 「だから、悪いのはこの松田なのです! 石蕗君は一切悪くないんです、お嬢様!」 「そう……」 「はい、そうです! ですから、お叱りになられるのでしたら、この松田めをっ!!!!」 「はい!!! なんでしょうか、お嬢様!!」 「もういいの」 「お叱りなら幾らでも受けますから、石蕗君の事を!!! ……って、え?」 「もう関係ないの。石蕗君のことは」 「ど、どういう事です…か?」 「無くなったから…」 「は?! そ、それは…どういう…」 「効果、消えたから…だから…もう関係ないの…」 「あんな思いも…もうしなくていいの…」 「……お嬢様…」 「もう眠いから寝るわ」 「だから、眠いから寝る……」 「え、あ……。は、はい」 「おやすみなさい」 「お、お嬢様ぁ……」 「昨日はお疲れだったとしても、もう正午なのに起きて来られないなんて…」 「学校が無い日ですから、まだ良いのですが……」 「いつもなら、学校がお休みの日でも時間通りにお目覚めになれるのに」 「今日こそはきちんとお食事をされるかもと思って、朝食にお好きな物を用意したのになぁ……」 「…とりあえず片付けておこう」 「早く元気になられるといいんですけど……」 「わ! うわ!!」 「で、電話! え、あの音は…」 「フィグラーレからの緊急連絡用の電話!!」 「あ! はいはい! 今出ます、出ます!」 「はい、お待たせ致しました! 結城です!」 「もしもし、今年度のプリマ・アスパラスの結城さんですか?」 「はい、そうです!」 「ああ、執事の方ですね」 「はい、そうです。執事の松田です」 「私、セント・アスパラスの管理部の者なのですが」 「は、はい! 学校の!」 「急なご連絡ですが、どうかされましたか?」 「はい。大変な事態が起こっています」 「大変な事態?」 「はい、そうです。その為の連絡です」 「結城ノナさんはいらっしゃいますか?」 「松田さんにも関わりのある事ですが、急いでご本人にお伝えしなければならない事があります」 「お、お嬢様は今、その…」 「電話に出る事が出来ない状態という事ですか? 何か事故でも!?」 「あ、いえ違います! すぐにお取次ぎしますので、少々お待ちください!!」 「大変な事態って一体……」 「早くお嬢様に出て頂かないと!!」 「こちらです、お嬢様」 「わかったわ。ありがとう」 「はい、お電話変わりました。結城ノナです」 「ああ、結城さん。良かったわ、電話に出られない状態なのかと思いました」 「執事の方が、心配そうな声をされていましたから」 「あ……。すみません」 「いえ、いいんです。今はそれどころではないのです」 「あの、何かあったのですか?」 「ええ、緊急事態です」 「緊急事態?」 「き、緊急!?」 「松田、黙って」 「は、はい。すいません」 「まずは簡潔に要点だけを伝えます」 「フィグラーレとレトロシェーナを繋ぐ装置。その機械に重大な欠陥が見付かりました」 「それが見付かったのは昨晩です。技師が夜を徹して装置の修復を試みておりますが、今のところ改善の目処はたっておりません」 「そ、そんな。それじゃあ、どうすれば? このままでは、そちらに戻れないのではないのですか?」 「落ち着いてください、結城さん。大丈夫です」 「少なくとも今現在、装置はまだ無事に動いております。しかし、それにも限度があるとの事」 「そちらの時間にすると…深夜0時ですね。その時間までは何とか持ち堪える事ができるそうです」 「深夜0時……」 「ええ、そうです。ですから、それまでにこちらに戻って来てください」 「それを過ぎると、あなた方はフィグラーレに戻れなくなります」 「そ、そんな!!」 「世界各地にいるスピニア達も、現在続々とフィグラーレに帰還しています」 「勿論、学園対抗戦はこのような事態を想定しておりませんから、中止となりました」 「あなたも直ちに帰還の準備を整え、フィグラーレに戻ってください」 「…はい、わかりました」 「時間はレトロシェーナの時間で、深夜0時まで。それまでに必ず戻ってください」 「あなたは優秀なスピニアですから、今回の事は残念でしょうけれど、気を落とさないようにね」 「それでは、急いでください」 「はい。失礼します……」 「お、お嬢様、何が起こったんですか?」 「フィグラーレとレトロシェーナを繋ぐ機械に、欠陥が見付かったそうよ。行き来が出来なくなるんですって」 「……え!? そ、それって…あ、あの、じゃあ私達は…」 「大丈夫、今夜0時までにフィグラーレに戻ればいいそうだから」 「そ、そうなんですか〜」 「え! あ、あの、それじゃあ、あの! すぐに帰る準備をしないといけないんですか!!!」 「……そうね」 「そ、そんな! ああ、急がないと!!」 「……今夜0時まで…」 「お嬢様……?」 「なんでもないわ。早く準備をして」 「あと、12時間……」 秋姫に話を聞いてもらってすっきりした昨晩から、寮に戻って来るまでの間、早く朝を迎えたかった。 自分にはしては珍しいと、我ながら思う。 でも、今すぐにでも結城に会って話をしなくちゃと思う気持ちが何よりも大きい。 この気持ちにだけは、間違いはない。 幸い、今日は土曜で学校は休みだ。 これで朝から結城の家に行く事が出来る。 もしかしたら、追い返されるかも知れないけれど、家の中に入れてもらえるまで粘るしかない。 それが俺にできるのかは、わからない。 いや、考えるよりも先に行動しないといけない。 玄関に向かう途中、休憩所の前を通りかかると麻宮秋乃と冬亜が居た。 「お天気悪いね」 「そだね〜。どうしよう〜?」 二人は窓の外を眺めながら、何か話をしている。 窓の外…というよりは、どうやら空を眺めているみたいだ。 俺が近くまで行くと、麻宮冬亜の方がこちらに気が付いた。 「あれ〜! ハルたんだ!」 「おっはよ〜!」 こちらに近付いた麻宮冬亜は嬉しそうに笑顔を向けて俺を見上げている。 秋乃もこちらに近付き、微笑んだ。 「おはよう、石蕗君」 「うん、おはよう」 「ハルたん、今起きたの? ねぼすけサンだね〜」 「別に、今起きたばっかりじゃないけど」 「そっか〜!」 「石蕗君、どこかにお出かけ?」 「うん、ちょっと……」 「あ、もしかして、結城さんのお見舞いかな」 「えっと…。まあ、そんなとこ」 言い当てられて、なんとなく恥ずかしい。 やっぱり、秋乃にも俺と結城は仲が良さそうに見えてたんだろうな。 「二人は、何してたんだ? 窓の外見てたみたいだけど」 「トウアとアキノね〜。お空見てたんだよ!」 「空?」 「うん。お洗濯しようかと思ったんだけど、曇ってるからどうしようかなって」 「洗濯物は、お日様い〜っぱい浴びた方が気持ちよくなるもんね〜!」 答えた二人から視線を外し、窓の外を眺めてみた。 確かに空はどんよりと重い雲が広がっている。 今すぐにでは無さそうだけど、雨が降りそうだ。 「雨が降ると、お洗濯してもすぐに取り込まなきゃいけないし」 「明日も休みだから、明日晴れるのを待った方がいいかも知れないな」 「うん。だから、そうしようかなって思ってる」 「そいえば、ハルたん出かけるんだよね?」 「だったら、石蕗君も雨には気をつけてね」 「ああ、わかった。ありがとう」 「雨降られちゃうと、風邪ひくよ〜」 「うん。気をつける」 「じゃあ、そろそろ行くから」 「あ、引き止めちゃってごめんね。行ってらっしゃい」 「いってらっしゃ〜い!」 秋乃と冬亜に見送られながら、俺は休憩所を出て玄関に向かった。 雨、降らないといいけど…大丈夫かな。 「……さて」 玄関に辿り着き、そろそろ出発しようかと思っていると、背後から誰かが近付く音がした。 振り返ると、そこには夏樹の姿があった。 「あれ、麻宮」 「良かった、まだ居たんだな」 「アキノとトウアが、出かけるの見かけたって言ったから焦ったけど」 「何かあったのか?」 「電話」 「電話?」 「そう、石蕗に電話。男の人から」 「そっか、ありがとう」 男の人って、誰だろう。 圭介かな。 でも、電話なんて今までめったにかかって来なかったから、違うような気もするし。 「なんか、慌てた様子だったぞ」 「泣いてるような感じもした」 そんな風に慌てて電話をかけて来る男の人なんて、俺の知り合いでは一人しかいない。 「急いだ方がいいんじゃないか」 「あ、ああ。じゃ、ちょっと戻る」 休憩所に戻ると、電話の側に秋乃と冬亜がいた。 冬亜は俺に気が付くと嬉しそうに手を振る。 「ハルた〜ん! お電話! お電話!」 「トウア、そんな大きな声で言わなくても、石蕗君もわかってるよ」 「二人とも、ありがとう」 「もしも……」 「石蕗くぅ〜ん!!!!!」 電話に出て早々、松田さんが泣きそうになりながら声を出した。 やっぱり、松田さんからの電話だったんだ。 「あ、あの、松田さん?」 「そうです! 松田です!!!」 麻宮夏樹が言ったように、慌てた様子だった。 しかも、ちょっとどころじゃない。 大慌てだ。 この人がこんな風に慌てる理由なんて、一つしか思い浮かばない。 「どうしたんですか? 何かあったんですか?」 「あ、あの! お嬢様が!!」 「結城がどうかしたんですか!?」 俺が結城の名前を口に出すと、側に居た秋乃が心配そうな表情を浮かべた。 「私がうっかり、帰還の準備に手を取られている間にお嬢様があああ!!!」 「お姿が見えないばかりか、しずくもなく!」 帰還の準備? 何の事を言ってるんだ。 しかも、しずくが無いって一体どういう事なんだ。 「松田さん、とりあえず落ち着いてください!」 「う、うううう。すいません、石蕗君」 「今のままじゃ、状況がちっともわからないです」 「す、すいません……うぐ、うぐ…」 「もっとわかるように説明してもらえますか?」 「あの、そもそも帰還の準備って?」 「あ、あああ! そうです、そうなんです!!」 「な、何がですか?」 「実は、こちらの世界と私達の住む世界を繋ぐ機械に重大な欠陥が見付かったみたいなんです!!」 「え、それって!?」 結城が住んでいた世界に帰れなくなるって事なのか!? でも、それじゃあ帰還の準備っていう言葉と意味が繋がらなくなるな。 「それで、私達の世界に帰る事が出来るのが今夜0時までという事なんです!」 今夜……!? そんな、いきなりそんな事になってるなんて……。 「そ、それって、あの…今夜、帰らなきゃいけないって事ですか…?」 「そうですっ! 今日の0時までにフィグラーレに戻らなければ、もう帰れなくなってしまうらしいんです〜!」 「そんな、そんな大事な事……いきなり…」 「け、今朝フィグラーレから連絡があったばかりです」 「…そうだったんですか」 それで、昨日は二人とも何も言わなかったんだ。 でも、そんなのあまりにも突然過ぎる。 「―――私は大慌てで帰還の準備をしておりました」 「お嬢様もお部屋で、ご自分の荷物をまとめておられるとばかり思っていたのですが!!」 「ご憔悴されているお嬢様をお一人にしたばっかりに! ああああ!!!」 「ま、松田さん! 結局、結城はどうしたんですか」 「そ、それが、さっきお部屋にご様子を見に行ったら……」 「荷物は綺麗にまとめられていたのですが、お嬢様の姿がなかったんです」 「お、おまけに星のしずくの入った、あの瓶もないんです!」 「星のしずくの瓶も?」 「ええ、多分お嬢様が持って出られたのだと思うのですが……」 「それに、どうやら指輪も忘れて行かれたみたいなんですよおお!!」 「指輪?」 「お嬢様がいつもしておられた指輪です。星のしずくの反応がわかったり、レードルになったりする」 「ああ、あの青色の」 「はい。それが置いてあったままなんです!!」 「それが、どうかしたんですか?」 「あれが無いと、お嬢様は力が使えないんです!」 「え? それじゃあ」 「多分、何か困った事があっても一人で何も出来ないのでは……」 「あああ〜っ!!!!! だから、私は心配で心配で仕方ないんです!!! 石蕗君!」 「お嬢様はそちらに行かれておりませんか!? もしや、石蕗君の所にならと思ったのですが!!」 「き、来てないです……」 「そ、そんなああ!!!!! じゃあ、お嬢様は一体どこに行ってしまったんでしょうか!!」 「あ、あの、松田さん」 「はい!!!」 「俺、探して来ます」 「い、いいんですか!!!」 「はい。松田さんは手が離せないでしょうから、俺が探します」 「お願いします〜!」 「見付けたらすぐに電話しますから、家にいてください。お願いします」 「わ、わかりました! お願いします、石蕗君!」 「今夜0時…ですよね?」 「そうです! それまでに是非お嬢様を!!」 「はい。それじゃあ、また後で電話します」 「つ、石蕗君?」 電話を切った俺を、秋乃が心配そうに見つめた。 結城の名前と、聞こえて来た電話の内容が気になったんだろう。 「結城さん、どうかしたの?」 「家から居なくなったって」 「ええ!! それって家出とか?」 「そうなのかどうか、まだわからない。けど、家から居なくなったのは事実みたいだ」 「結城って、アキノとハルたんと同じクラスの、のなたん?」 「いなくなったのか?」 「松田さんが、そう言ってた」 「とりあえず、俺探しに行ってくる」 「あ、あの、石蕗君、わたし達も……」 「ううん、いいよ。一人で探しに行く」 「もしかしたら結城はここに来るかも知れないんだ」 「その時は、俺が戻るまでここに居ろって、麻宮が言ってくれるか?」 こっちに来る可能性が無いとは言い切れない。 その時、クラスメイトの秋乃がいれば、結城も素直にここに居てくれるかも知れない。 「いーよー! トウア、のなたん来たらお相手するするー!」 「お前がいるとややこしくなるから、別に何もするな」 「えー!」 「なーにー。ハルたん!」 「結城が来たら、俺の事心配するなって伝えといてくれるか?」 「うん! トウアちゃんと伝えるよー!」 とりあえず、役割さえ与えておけば、冬亜が暴走するって事はないかも知れない。 その場凌ぎにしろ、何も言わないよりいいかもな。 「と、とりあえず、行って来る」 「ああ、気をつけてな。こっちも、寮の周りとか探しとく」 「ありがとう、麻宮。じゃ!」 「いいから、早く行け」 麻宮達が居てくれるから、これで寮に結城が来ても大丈夫だ。 秋乃と冬亜が寮に居て、夏樹が周りを探してくれるなら心強い。 でも、本当にどこに行ったんだろう。 思い当たる場所なんて、あんまりない。 星のしずくを持って、いつも持っていた指輪も忘れて……。 「……結城…!」 でも、探さないと…!! 寮を出て走り出すと、体にまとわりわりつく空気は重く、湿っている感じがした。 やっぱり、雨が降り出しそうだ。 一人で結城を探しに行く事にしたけれど、心当たりなんて少しもない。 でも、手掛かりがあるとすれば、松田さんが言っていた、星のしずくを持って出たらしいという事だ。 星のしずくを持って行って何かをしてもらえる人なんて、この街には一人しか居ない。 如月先生だ。 だから、結城は如月先生の所に行っているかも知れない。 他に結城が行くあても分からないし、とにかく学校に向かってみよう。 土曜だから、如月先生がいるかもわからないけど……。 行かないよりも、よっぽどいい。 如月先生の部屋に行くなら、裏門から入った方が早いかも知れないな。 そっちから行ってみよう。 如月先生、居てくれればいいけど。 「失礼しますっ!」 部屋の扉を開けると、如月先生がこちらを向いて答えてくれた。 良かった、学校に居てくれた。 でも、なんで学校に居るんだろう。 まあ今は、そんな事は問題じゃない。 「今日は部活はなかったと思うけど」 「はい、部活の事じゃなくて…」 「そうだよね〜。秋姫さん達が来てないのに、石蕗君が一人で来て部活の事を聞くわけがないよね」 「どういう意味ですか」 「そのままの意味だけど」 いつも通りのマイペースな如月先生。 もうすぐ向こうの世界に帰れなくなってしまうって言うのに。 あれ、でも……。 如月先生も向こうの世界の人なら、その話は無関係じゃないような気がする。 でも、そんな風には見えない。 目の前にいるのはいつも通りの如月先生だ。 「で、何かあったの? 何だか深刻な顔に見えるんだけど」 「あ……ええと、結城がここに来ませんでしたか?」 「結城さん? 来てませんよ」 「そう、ですか……」 じゃあ、一体どこに行ったんだ。 星のしずくを持っていると思ったから、如月先生の所だと思っていたのに。 もしかして、もっと違う場所に行ってしまったのか? 「あー。そうそう」 「昨日の夜だったら来たよ」 「家を飛び出して来ました〜。みたいな恰好だったから、何事かと思ったよ」 「なんだか深刻な顔してたな〜。その後、松田さんが迎えに来てたみたいだけどね」 「そうですか」 昨日の夜って、やっぱりあの後だよな。 惚れ薬の効果なんて、もういらないって……。 あの後に来たって事は、如月先生に効果をなくす薬でも作ってもらったんだろうか。 「あれ、でもあの後は松田さんと家に帰ってたみたいだよ。もしかして、また飛び出したのかな」 「そう……。です」 俺が答えると、今まで笑顔だった如月先生は急に真面目な顔をしてこちらを見つめた。 「結城さんが関係してるって事はもしかして……」 「石蕗君の用事は、こちらと向こうを繋ぐ機械の欠陥についても関係してるのかな?」 「確か、帰還命令が出ていたよね」 「え!? 先生もそれを?」 「まあ一応、僕もフィグラーレの人間だからね。そういう連絡は来るんだよ」 そうか、当たり前だよな。 如月先生も向こうから来た人なんだったら、その機械を使ってこっちに来たんだろうし。 「二つの世界を繋ぐ機械ってね、たったひとつしか無いんだ」 「ひとつ…?」 「そう、だから費用も並じゃなくてね。それで、こっちの世界に来た人は全員把握されているわけ」 「そう…なんですか。それで、先生の所にも帰還命令が…?」 「いや………僕も、僕の姉さんもフィグラーレの人間だけど、今はもうこっちの世界で生きていくつもり」 「はあ…」 「姉さんは特に家庭を持っているから、向こうには帰らないだろうね。ま、僕も帰るつもりはないけど」 「だから、今回の帰還命令は僕達姉弟にはあまり関係ないかな」 「そういうものですか」 「そういうものだよ」 「まあ、戻れない事実は少し寂しいと思ったりはするけれど、それだけかな」 「でも、結城さんは違う」 「あの子は、フィグラーレでも名門のお家の子だからね〜」 「それに向こうの世界に家もあるし、ご両親もいらっしゃる」 「僕や姉さんみたいに、こっちに残るっていうのは難しいんじゃないかなあ」 でも、考えれば当たり前の事なんだ。 結城はこっちの世界に生活をしに来たわけじゃない。 スピニアとして、星のしずくを集めに来たんだ。 だったら、向こうに帰らなくちゃいけない。 でも、いきなりこんな風に帰る事になるなんて…! 「―――それなら、余計にわだかまりを残したまま別れたくないじゃないですか!」 「…何かわだかまりでもあったのかな?」 「昨日来た時に言ってた事かな〜」 「ま、そんな事より!」 「結城さん、探しに行かなくていいのかな?」 「あ! い、行きますよ!」 今は如月先生と話している場合じゃない。 すぐに結城を探しに行かないと! このままじゃ、別れられない!! 「如月先生、ありがとうございました!」 「いいえ〜。僕は何もしてないですから」 とにかく、どこでもいいから探さないといけない。 学校の近くも、結城の家の側も、星のしずくが落ちた場所でも、とにかくどこでも。 それしか俺には出来ないんだから。 外に出るなら、さっきみたいに裏門からの方が早いか。 「……う〜ん。青春してるみたいだねえ」 「おや?」 「はい、開けて入ってくださいね」 「あれ、結城さん」 「ふ〜ん……。行き違いになったかな」 「ああ、はい。ごめんね。それで、二日も続けてやって来るなんて、どうしたのかな?」 「先生にお願いがあって来ました」 「お願いね〜。昨日、聞いたと思うんだけど」 「それとは別の事です」 「なるほど」 「そう言えば、君の所にも『あの』連絡は行ったんだろう?」 「はい。だから、急いでのお願いです」 「…わかりました。じゃあ、聞きましょうか」 「はぁ、はぁ…」 とりあえず、学校から結城の家まで辿るのがいいかも知れない。 結城の家からより、寮からの方が学校には近い。 もし学校に向かっているとしたら、俺の方が早く着いた可能性もある。 それなら、どこか途中で結城本人と会えるかも知れない。 それに、まだ道を覚えていないとしたら、どこで道を間違って迷っている可能性もある。 途中の道も注意して見ていく必要があるかな。 他に行くあてもないし、結城の家に向かおう。 学校から結城の家までの道のりを、ただ走る。 時々立ち止まって、曲がり角の方に視線をやって、結城が歩いていないかと確かめる。 でも、どこにも結城の姿は見えない。 迷子にはなってないって事なんだろうか。 走り続けている間に、いつの間にか結城の家の前まで辿り着いていた。 でも、途中で一度も結城の姿は見付けられなかった。 どこかで見落としてでもしたんだろうか。 それとも、行き違いになって、結城は学校に着いている頃なんだろうか。 家の中に戻っているとも考えにくいし……。 それに、見付かっていないのに松田さんに声をかけるのも少し辛い。 忙しいのに、また取り乱させてしまうかも知れない。 「仕方ないか」 結城が見付からない以上、ここに居ても仕方ない。 他に行く先もわからないから、もう一度学校の方に戻ってみよう。 それで見付かればいいんだけど、見付からなかったらどうすればいいんだろう……。 考えても仕方がない。 とりあえず、走ろう。 結城の家から学校までを、走って折り返して来た。 だけど、途中の道にも、学校に辿り着いても結城の姿はない。 もし、行き違いだったとしたら、如月先生の部屋に行って話を聞けば何かわかるだろうか。 でも、もし行き違いになってなかったら……。 それなら、他の場所を探した方が早いんだろうか。 どうしたらいいのか、本当にわからない。 どこか、他に行く場所はあるだろうか。 考えれば、放課後に結城とどこかに行くとか、あんまり無かった。 でも、一度だけあったな。 プールの補習で、結城が惚れ薬を飲んだ日に。 あれはみんなと一緒だったけど、いつもみんなでよく集まる喫茶店『らいむらいと』に結城も一緒に行ったっけ。 結城はそこまでの道を覚えてるだろうか。 でも、それ以外に結城と一緒だった場所は、星のしずくが落ちて来た場所しかない。 星のしずくの場所を一つずつ探すより、まず『らいむらいと』に行ってみよう。 「いらっしゃいませ〜。お一人様ですか?」 「あ、えっと」 「あれ、石蕗くんだ」 「あ、ホント」 「お〜い。石蕗く〜ん」 店の扉を開けると元気な店員の声が俺を出迎え、それと同時に聞き慣れた声が耳に入った。 店内には、小岩井と深道と雨森の三人がいた。 そちらに視線を向けると、笑顔を向ける。 雨森が手を振り、深道と小岩井はこっちに来いと手招きをする。 「一人? だったらこっちおいでよ」 「え? あ、ああ」 「すいません、その人連れで〜す」 「はい、わかりました〜」 深道の言葉を聞いて、店員はそちらにペコリと頭を下げてから奥へと戻って行った。 深道は四人がけの机の一つ空いていた椅子を引きながら、早くこっちに来いという表情を作っていた。 そちらに近付き、空いている椅子に一応座る。 「珍しいね、一人で来るなんて〜」 「えっと、その……」 「なんか慌ててる?」 「そんな風に見えるよ」 「あ、もしかしたら、結城さんが関係してるのかな」 「え!? なんで」 「弥生達、さっき結城さんに会ったから〜」 「え、本当に!? ど、どこで!」 「まあ、ちょっと落ち着きなさいよ、石蕗」 「あ、ああ。ごめん」 思わず立ち上がり、机を揺らしてしまった。 そんな俺を見て、三人とも少し驚いているようだった。 確かに、いつもと比べたら慌ててるし、落ち着きもないと思われて仕方ないよな……。 「あの、結城に会ったって」 「さっき、ここに来る前に会ったよ」 「一人で歩いてたから、声かけてみたの」 「学校来てなかったのも心配だったしね」 「学校に来てなかった事を心配させたのなら、ごめんなさいって律儀に言ってたね」 「でも、元気そうで良かったよね〜」 「本当。酷い病気じゃなくて良かった」 三人は口々にさっき会った結城について話している。 本当に心配してくれていたんだと、その会話の内容だけで理解できて、なんだか嬉しくなった。 「あのさ、結城にどこに行くとか聞かなかった?」 「あ、聞いたよ」 「え、どこに行くって!?」 「すももちゃんの家に行くって言ってたよ〜」 「秋姫の? なんで?」 「詳しくは知らないけど、なんだか大事な話があるって言ってた」 「大事な話……」 秋姫の家に大事な話って、もしかして星のしずくが関係してるんだろうか。 結城は自分の星のしずくを持って家を出たんだから、その可能性もあるよな。 でも、なんでしずくを……。 とりあえず、秋姫の家に行ってみるしかないか。 「それより石蕗くん、何も頼まないの?」 「これとか美味しそうだよ〜。……白玉クリームあんみつ!」 お品書きを手にした小岩井が俺に聞くと、雨森が目を輝かせながら白玉クリームあんみつの文字を指差していた。 「それは弥生が食べたいんでしょ?」 「あはは。そうなんだけどね〜」 いつもの楽しそうなやり取りだった。 だけど、三人には悪いけれど、今は一緒にしゃべってる時間はないんだ。 「石蕗、どうしたの?」 「ごめん。俺、ちょっともう行く」 「あ、白玉クリームあんみつイヤだった? 抹茶フロートとかの方が良かったかな〜」 「弥生、そういう理由じゃないと思うよ」 「本当にごめん。そのうち、またみんなで食べに来よう」 「いや、別にそれはいつでもいいんだけどさ」 「じゃあ、また。月曜に学校で」 「どうしちゃったの、石蕗?」 「さあ……」 「何かあったのかな〜」 外の空気はさっきよりも益々重くなっていた。 湿り気を帯びた空気に触れた土から、雨の匂いがして来ていた。 らいむらいとからここまで走って来ると、さすがに息が切れる。 結城と途中で会わなかったけど、また別の所に行ってるんだろうか。 何にしても、秋姫に話を聞かないといけない。 いつもはぬいぐるみの姿で秋姫の部屋の窓から中に入るから、こうやって玄関からは初めてだな。 なんとなく、不思議な感じだ。 「は〜い。ちょっと待ってくださーい」 「え!? つ、石蕗くん! ど、どうしたの?」 「いきなり、ごめん」 「う、ううん。別に、あの、全然構わないよ」 いきなり尋ねて来て、秋姫はかなり驚いていた。 そりゃ、今まで来た事が無いんだから当然だよな。 「あの、どうしたの?」 「結城が来なかったか?」 「深道達に会ったら、秋姫の家に行くって聞いたって言ってたから」 「うん。ノナちゃん、来てたよ」 「本当に!?」 「うん。でも、またすぐにどこかに走って行っちゃって…」 「そっか、どこに行ったのかはわかる?」 「ご、ごめんなさい。そこまでは聞いてなかったの」 「あ、いや。秋姫は悪くないから。ごめんな、色々聞いて」 「なあ、秋姫。結城って、何の用事で来たんだ?」 「え!? そ、それは、その……。あんまり、人に言っちゃいけない事で…」 言いにくそうに理由を考えている秋姫を見て、結城が何をしに来たのかすぐにわかった。 星のしずくだ。 ぬいぐるみの時の俺が、他の人に言っちゃいけないと言ったから、口に出来ないんだろう。 「それで、あの……。どうしても、ダメで…えっと、どうしよう……!」 「ごめん、俺全部知ってるんだ」 「え!? な、何を?」 「星のしずくの事だろ?」 「え! どうして石蕗くんが!?」 当然の事ながら、秋姫は驚いたように俺を見ていた。 でも、もう何も知らない振りをしている時間なんてないんだ。 すぐにでも、ここに結城が何をしに来たのか聞かないといけない。 「理由は言えないけど、もう全部知ってるんだ」 「全部って?」 「星のしずくやフィグラーレの事とか、それに秋姫や結城の事も」 「そっか……。石蕗くん、知ってるんだ」 「うん、ごめん。黙ってて」 「ううん! 謝る事じゃないから!」 「だから、教えてくれないか? 結城がここに何をしに来たのか」 「あの、結城さんね」 「大切な人を助けたいんだって」 「大切な人?」 「うん、そう言ってたよ。その人を助けるのに、星のしずくが必要だって」 「だから、わたしの持っている星のしずくを分けて欲しいって……」 「秋姫は、どうしたんだ?」 「少し迷ったけど、ノナちゃん真剣だったから」 「わたしの星のしずく、分けてあげたの」 大切な人を助けるために、星のしずくを使う……? それって、どういう事なんだろう。 大切な人を助けるって一体。 「星のしずくをあげた後、ノナちゃん走って行っちゃったの」 「ねえ、石蕗くん!」 「ノナちゃん、何かあったのかな?」 「走って行っちゃう前に、わたしと競い合うのは結構楽しかったって言ってたの」 「そ、それって」 「まるで、もう会えないみたいな言い方じゃないかな。ノナちゃん、どうしちゃったんだろう……」 そっか、秋姫には向こうの世界に帰るって事は言ってないのかな。 でも、何か言っておきたかったんだ。 結城らしい事言って、行っちゃったんだな。 「ねえ、ノナちゃんどうしたんだろう」 「あの、俺…。結城、探しに行って来る」 「……それで、秋姫が疑問に思ってる事も聞いてくるから!」 星のしずくを持ってって事は、如月先生の所だよな。 他にそれを持って行く場所なんて考えられないし。 「ノナちゃんに伝えてくれる?」 「大切な人、助けられたらいいねって」 「その人、本当にとっても大切な人みたいだと思ったから」 「ありがとう、石蕗くん」 俺が頷くと、秋姫はにっこりと微笑みを浮かべた。 「じゃあ、ちょっと探しに行って来る」 「ごめんな、秋姫。それじゃ」 「あ! 石蕗くん」 走り出そうとした所を、秋姫に呼び止められた。 振り返った俺を、秋姫は困ったように見ていたが、すぐに口を開いてくれた。 「雨……」 そう言えば、今日は朝から雨が降りそうな曇り空だ。 「雨、降りそうだから気をつけてね」 「ありがとう。じゃあ、行くよ」 「うん? あの音は……そろそろ戻って来たって事かな」 「やあ、おかえり。しずくは7つ揃ったかい?」 「あります! ここに!!」 ノナが如月に瓶を差し出すと、そこには確かに7つの星のしずくが入っていた。 如月はそれを受け取り、目の高さまで持ち上げて瓶の中身を揺らしながら眺める。 「へえ〜。本当に揃えて来たんだね」 「どうやって、こんな短時間で見付けて来たんだい?」 ノナに背を向け、机の上に様々な器具を用意しながら如月は楽しげにしている。 「秋姫さんにお願いして、分けてもらって来たんです」 「そうか、よく分けてくれたねえ」 「そんな事はいいんです!」 「これでさっき教えてもらった通り、石蕗君を元に戻せるんですよね?」 「そうですか、良かった……!」 「まあ、座って待っていて」 「待ってる間、退屈かも知れないけど、そんなにすぐにはできないから我慢してね」 「………結城さん」 「もう少し落ち着いて待っていた方がいいよ」 「わ、私は別に!!」 「そういう風に見えたから。落ち着いていたなら、ごめんね」 「あのね、結城さん」 「実は、さっき来た時に言い忘れた事があるんだ」 「さっき君が来た時、その少し前に石蕗君もここに来てたんだよ」 「すぐに言えば良かったかな。ごめんね」 ごめんねと口にしながらも、表情を変えたノナに気付いた如月の表情は悪戯っこのそれのようだった。 「どうやら、君の帰還命令の事を知っていたみたいだよ」 「そ、そうですか」 「それが理由かどうかはわからないけれど、君の事を探していたみたいだね」 「必死でここまで来たみたいだったよ。息も切らしていたし」 「そう……なんですか」 如月の言葉を聞き終えたノナは、落ち着きなく座りながらもどこか嬉しそうに頬を染めた。 「ふぅん」 「な、なんですか?」 「いえ、なんでも〜。嬉しそうな表情をしてるなと思っただけ」 「え!!!!」 「わ、私は別にそんな! 嬉しそうになんて!!」 ノナの反応を確かめながらも、如月の手は動き続けて星のしずくを使った薬を精製し続けていた。 会話しながらだが、その手際はてきぱきとした物だ。 「………あのね、結城さん」 「今度はなんですか」 「もう自分でも少し気付いているかも知れないけど、昨日君が飲んだ薬ね」 「はい…?」 「あれ、ただの砂糖水だったんだよねえ」 「え!? そ、そうなんですか!!」 「本当はどんな物だか、ちょっぴり気付いていたんでしょ?」 「そ、それは……。あんなに甘かったですから砂糖が入ってるとは思ってましたけど…」 「それにね、惚れ薬の事だけど」 「星のしずくを使わずに、長時間効果が持続するような薬なんて、いくら僕でも作れないんだ」 「え……。あ、あの、それは……」 「だから、あの時に君が飲んだっていう惚れ薬は試しに作った物。言ってみれば、簡易版かな」 「それって、つまり」 「そう。あの惚れ薬の効果なんて、とっくに切れてるんだよ」 「三日間くらいで切れてたんじゃないかなあ」 「そ、そんな。じゃあ……」 「お、そろそろできるよ」 「はい、できたよ」 そう言って差し出されたのは、小さな瓶に入ったキラキラと輝く液体だった。 それはまるで、7つの星のしずくがそのまま液体になったように不思議な色と輝きを持っている。 「これで、石蕗君は……」 ノナは小さな瓶を、そっと両手で優しく包み込みながら受け取る。 「そう。それを飲んだら元の…ただの人間に戻ることが出来る」 「ありがとうございます、如月先生」 「ところで、結城さん」 立ち上がったノナを如月が引き止める。 今すぐにでも飛び出して行きそうだったノナだったが、じっと如月を見つめて言葉を待った。 「本当はね、君が自分で気付くまで言わないでおこうかなと思ってたんだ」 「何をですか?」 「惚れ薬の事と、君が昨日飲んだ薬の事」 「……でも、そうも言ってられなくなっちゃったね」 にっこりと笑った如月に、ノナはどういう表情を向ければいいのかわからなかった。 「そう……ですね」 「さ、引き止めて悪かったね」 「あの、私……」 「私、石蕗君を探して来ます!」 「はい。気をつけてね」 「それに、そろそろ日が沈む。早く行った方がいいかも知れないよ」 「はい! ……如月先生、本当にありがとうございました!」 胸元に大事そうに小さな瓶を抱えたまま、丁寧にお辞儀をしてから出て行ったノナを、如月は微笑みながら見送った。 「………いやあ、僕ってお人好しだなあ」 「それにしても……」 窓の外に目をやると、そこにはどんよりとした厚い雲から今にも雨が降り出しそうだった。 空気もじんわりとした、体にまとわりつくようなものに変わっている。 「荒れないといいけどねえ」 朝からずっと曇っていた空から、ついに大粒の雨が降り出した。 冷たい雨粒は俺の体も髪も、服も靴も濡らして行く。 雨を含んだ服や靴がやけに重い。 秋姫の家から、学校までの道のり。 雨が降り出したからか、それは遠くて辛いものに思えて来た。 そのせいか、走る足も徐々に重くなって行く感じがした。 「はぁ……」 「うわっ!!」 雲っていて気付かなかった! いつの間にか日が暮れてしまったんだ。 俺の体はいつものように、このちっぽけなぬいぐるみの姿に変わってしまう。 「は、早く行かないといけないのに!」 焦ったって、口にしたって、仕方ないのはわかってる。 だけど、どうしても言葉が口を出る。 「そうだ、本!」 そうだ、本は寮に置いて来たんだ。 寮を出る前に松田さんに電話をもらったから、慌てて忘れたんだ。 取りに戻ってる心の余裕なんて、あの時にはなかった。 「仕方ないか……」 本が無いなら、せめて人通りのすくない場所に移動した方がいい。 確か、ここと反対の方にあまり人が通らない道があったはずだ。 この姿で歩いているのを見付かったら、ややこしい事になってしまう。急ごう。 やっぱり、この姿じゃ歩くのは遅くなる。 でも、走らないと仕方ない。 裏の道に行くと、学校へは遠回りになる。 このまま学校に向かわず、寮に戻って本を探しに行った方が早いんだろうか。 「いや、それどころじゃないか」 寮に戻ったらまた余計に遠回りになるかも知れない。 とにかく、学校に向かって走ろう。 今この状態じゃ、そうする以外に何も無い。 走っても走っても、ちっとも前に進んでいる気がしない。 こんなにも、このぬいぐるみの体がもどかしいと思った事はない。 今までだって、色んな事がこの体で起こっていたけど、今こうして走っている事に比べれば大した事が無かった気がする。 「はあ、はあ!」 走りながら、いろんな思いが駆け巡って行った。 結城が……帰ってしまう。 このまま会えなかったら、もう、二度と会えないんだろうか。 俺が覚えている最後の結城の顔は、涙を流していた。 こんなままで…こんな別れ方で…。 雨はやむどころか、ますます強く降り続く。 体にしみこむ雨粒が、体を重くする。 そして、余計に足取りが重くなる。 「や、やっぱり、本……」 かなり長い時間を走り続けた気がするけれど、一向に学校に近付いているように思えない。 周りに見える景色は、いつまで経っても同じに見える。 このままじゃ、ちっともここから先に進む事が出来ないかも知れない。 やっぱり、本を取りに行った方がいいみたいだ。 もっと早く気付けば良かった。 「えっと、ここから寮に戻るには……」 きょろきょろと周りを見渡してみても、普段と違う視点と雨のしぶきのせいで、どの辺りにいるのか中々わからない。 降り続く雨粒を受けながら周りを見渡し、どちらに向かえばいいのか考える。 「あっちか」 何とかどちらに進むべきか気付き、また走り出した。 体は重い。 でも、走らないと前に進めない。 早く寮に戻って、本を取りに行かないと! 「はあ、はあ……」 走って、走って、走って……どれくらい走ったのか、わからない。 もう体は雨で随分と重くなっていたし、周りの景色はいつもと少し違って見えたから、どれくらい進んだのかもよくわからない。 それでも、少しずつ寮には近付いて来ていた。 前方から、誰かが近付く足音がした。 ヤバイ! こんな姿で走ってるのを見付かったら、面倒な事になってしまう! 折角、寮まで近付いて来ていたのに、どこか隠れる場所を探さないといけない。 近付き、聞こえた声に顔を上げた。 そこには、結城が立っていた。 俺と同じように雨でずぶ濡れになったまま、結城は俺を見下ろしていた。 「――――バカっ!!!!」 なんで俺はいきなり怒鳴られてるんだ? わけがわからない。 でも、結城が見付かって良かったと思っている俺もいる。 「そんな恰好で、こんな所走って! 誰かに見付かったらどうするのよ!!」 「そ、そんな事言っても仕方ないだろう!」 なんで、いきなり怒られないといけないんだ。 大体、家を飛び出した結城を探しに行ってたのに、その当の本人に怒られるなんて。 「だ、大体っ!」 「もう、バカ! 大バカ!!」 「どうして寮で待ってないのよ! 日が沈みそうになるのも気付かないで、本当にバカじゃないの!?」 「そ、そんな事言うけど……」 「黙ってよ! バカ!!!」 反論しようとした俺の体を、結城は両手で包み込むようにして抱き上げると、胸元でぎゅっと抱きしめた。 雨に濡れていたけれど、結城の体温を感じてじんわりと体が温かくなった気がした。 「本当にバカよ、貴方って」 俺を抱きしめたまま、結城は呟くように言った。 その言葉に、さっきまでの勢いがなくなっていたのが気になった。 抱きしめられる腕から抜け出そうと体を動かし、顔を見上げようとしたがそれはできなかった。 「うるさい!」 結城は服のポケットから瓶を取り出した。 取り出された瓶はよく見えなかったけれど、キラキラと輝く綺麗な液体が入っていたようだった。 「バカ……」 そして取り出した瓶の蓋を開けると、突然その瓶の中身を口に含んだ。 キラキラと輝く綺麗な液体を口に含んだ結城は、胸元で抱きしめていた俺を体から少し離してじっと見つめた。 「んん……」 俺を見つめていた結城が突然、こちらに顔を近づけ、そして唇を重ねた。 あまりにも突然すぎて、何がなんだかわからなかった。 よりによって、初めてのキスがぬいぐるみの状態だなんて……。 「ぅん!?」 驚いていると、口の中に何かが入って来た。 それは、間違いなく液体だった。 多分、さっき結城が口に含んでいた、あの瓶に入っていたキラキラと輝く綺麗な液体だ。 でも、なんでそれが俺の口の中に!? 「んんん!!?」 口に入った液体が何なのか気になった。 だけどこの状態だとどうする事も出来ず、飲み込んでしまうしか選択肢はない。 口の中に流れ込んでくる液体を、俺はわけもわからず飲み込んだ。 おかしな味はしない。 だけど、どうしても例えようのない、今までに感じた事のない味が口いっぱいに広がり、喉の奥を通って鼻に不思議な匂いが通り過ぎた。 そして、口に入って来た液体を全部飲み込んだ瞬間、なんだか体が……。 抱きしめられていた筈の体が、突然変わった。 足が地面に着き、腕が自由になって……唇が、結城と重なり合っていた。 俺………。 元に、戻ってる! 「……んっ」 人間に戻って感じた結城の唇の感触は、とても柔らかく、そして暖かかった……。 もしかして、さっきのは俺が元に戻るための薬? 結城、もしかしてこれのために星のしずくを持って家を飛び出して、秋姫や如月先生の所に……? ゆっくりと、結城の唇が離れていった。 後に俺に残されたのは、その柔らかい唇の余韻だけ。 「……あ…」 「こんなどさくさで……初めてのキスが……」 「ア、アタシだって初めてよ!!!」 「そ、そうなのか」 思わず口にしてしまった言葉に結城が反応した。 そして、顔を真っ赤にしながらこちらを見ている。 もしかしたら、怒らせたんだろうか。 「そうよ! は、初めてのキスがひつじとだなんて最悪だわ!!」 「な、なんだよその言い方は!!」 「だってそうじゃない! その通りよ! そのままを言っただけじゃない!!」 売り言葉に買い言葉っていうのは、こういうのを言うんだと思った。 だけど、カチンと来てしまった俺の口からはもっと言葉が出てしまう。 「だったら、薬だって言って手渡せば良かったんだろう!」 「そっちが勝手に口移しで飲ませたんじゃないか!」 「い、急いでたのよ」 「貴方を早く戻さなきゃいけないって、そう思ってやったんじゃないの!」 「それはありがたいと思ってるよ!」 「じゃあ、もういいじゃないの! 大体、貴方が寮に居ないのが悪いんでしょう!」 「結城が松田さんに黙って、家を飛び出すからだろうが!」 「うるさい! 今は松田は関係ないでしょう!!」 「あるよ! 物凄く心配して、俺に電話かけて来たんだぞ!」 「松田なんか心配させとけばいいのよ!!」 「そういう言い方はないだろうが!!」 「だって!!!」 「だってなんだよ!」 「だって……」 「…薬……もう…れ……」 小さくなった結城の声は、雨音に掻き消されて聞こえない。 何か、言いにくそうな事を口にしているのだけはわかるけれど、はっきりとは聞こえない。 「なんだって? 聞こえない」 「だから、惚れ薬もう切れて……」 「何!? 雨で聞こえない!」 「だから! 惚れ薬はもう切れてたの! とっくに効果なんて無くなってたんだから!!!」 それじゃあ、今まで惚れ薬が効いていると思っていたのは何だったんだ。 「もう、プールの次の次の日にはとっくに切れてたのよ! そう言われたんだから!!」 「あ、そ、そうなんだ……」 「何よその反応は! 聞こえなかったの!?」 「私が飲んだ惚れ薬の効果は、もうとっくに切れてたの!」 「き、聞こえてたよ! 聞こえてた!! わかったから!」 「わかってない!!!」 「全然わかってない!!」 「何がわかってないんだよ!」 「だから、私が言ってる事が全然わかってない!」 「どういう事だよ、結城の言ってる事って!」 「だから……!!」 「何が言いたいんだよ!」 「惚れ薬とか関係なくて……」 「私はあんたの事が好きになってたの!!!」 雨音に負けないほどの大声で叫んだ結城は、真っ赤な顔をしてうつむいてしまった。 さっきまでの叫び声は、もう聞こえて来ない。 耳に聞こえるのは、うるさいくらいの雨の音だけ。 「なによ……」 ゆっくりと近付くと、結城は顔を真っ赤にしたまま俺を見上げる。 その瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。 「だから、なによ…」 「……俺も………」 雨音で掻き消されないように顔を近付けて、それだけを呟くのが精一杯だった。 結城の顔は、すぐには見れそうにない。 雨はまだ止みそうにはない。 だけど、耳に聞こえる雨音が、さっきの自分の言葉を隠してくれているような気がして、少しだけ安心していた。 俺も結城も、うつむいたまま顔を上げられなかった。 どんな顔をして、お互いを見つめればいいのかわからないんだと思う。 今、雨が降っていて良かったと、心から思う。 雨音が全ての音を消してくれていたから。 呼吸する音も、心臓の鼓動も、ほんの少しの仕種も、何もかもを。 「……っしゅん」 うっかりしていた。 雨のせいで、俺も結城もずぶ濡れなんだ。 ずっとこのままだと、本格的に風邪をひく。 「ごめん、結城。寒いよな」 「別に、そんなの……」 「このまんまじゃよくない。寮に戻ろう」 素直に頷いてくれて良かった。 このまま、結城を連れて寮まで戻ろう。 松田さんに連絡もしないといけないけれど、それより先に結城の服とかを何とかしないといけない。 「場所、わかってると思うけど、すぐそこだから」 結城に背を向けて、少し早めに歩き出す。 だけど、背後からついて来る足音がしない。 「あ! ごめんなさい」 立ち止まって振り返ると、結城は慌てたようにこちらに走り寄った。 近付いた姿を確認してから、また歩き出す。 今度は、ちゃんと結城の足音が後ろから聞こえて来た。 たったそれだけの事なのに、やけに安心した。 聞こえて来る足音と、結城の姿を確認しながら、俺は寮に向かって歩き続けた。 やっと、寮が見えて来て安心する。 でも、まだ雨は降り続いて俺達の体を濡らしている。 さっきより雨粒は小さくなったけれど、それでもまだ止みそうにない。 早く中に入って体を拭いて、シャワーも浴びた方がいいだろうな。 それに着替えもしないといけない。 俺の部屋は……流石にまずいか。 寮には麻宮達もいるし、結城が一緒でも大丈夫だろう。 みんなも心配していたし、結城が無事だったのを教えた方がいい。 あれだけ心配してもらって、何もなしってわけにもいかない。 「結城、見えて来た」 「中入ったら、シャワー浴びてから着替えた方がいい」 「朝には、麻宮達も居たからシャワーも着替えも貸してもらえると思う」 そのまま、正面玄関に向かって寮の中に入ろうとした。 だけど、俺が玄関に進もうとすると、結城は俺の服の裾を掴んで引いた。 結城に引かれて立ち止まり、そちらを見つめた。 「どうした? 早く入らないと風邪……」 「つわぶ……ま、正晴の部屋がいい」 心臓が大きく高鳴った。 呟くような声で必死に言った結城の一言が、俺を動揺させている。 でも、その言葉はたまらなく嬉しい。 「え、っと」 見上げながら聞いた結城の小さな手をぎゅっと握った。 驚いたように俺を見直した結城だったけど、同じように手を強く握る。 「……見付からないように、裏から入ろう」 握った結城の手を引きながら、寮の裏口を目指してもう一度歩き出した。 「裏なら、普段誰もいないし、こっそり中に入れると思うから」 繋いだ手の感触は、暖かかった。 触れている部分があるだけで、雨の冷たさは和らぐような気がした。 それよりも、結城と繋がっている部分があるだけで何よりも嬉しいと思っていた。 誰にも見付かる事なく寮の裏口から部屋に戻る事が出来た俺は、部屋に結城を入れると慌てて扉を閉めた。 「奥、入ってて」 誰も入って来ないだろうとは思うけれど、一応鍵をかけておこう。 結城が部屋にいるのが見付かるといろいろと面倒だ。 鍵をかけた後、俺は部屋の奥に入ってそのままタンスの方に近付く。 「ちょっとだけ待ってて、タオル探す」 素直に答えた結城に無言で頷いてから、タンスの中からタオルを探す。 確か昨日洗ったばかりのがあったはずだ。 「あ、あった」 昨日洗ったばかりの真っ白なタオルを取り出し、軽く頭を拭く。 あとは結城に、バスタオルもいるな。 「ちょっと待って。すぐにバスタオル出すから」 「バスタオル?」 「うん、部屋に簡易シャワーあるんだ」 「シャワー…」 「俺は後でいいから、結城が先に使えよ」 白くて大きなバスタオルを見付け、それを取り出してからタンスを閉めた。 昨日、洗濯をしておいて良かった。 「はい、バスタオル」 受け取ったバスタオルで髪を軽く拭いた後、結城はどうすれば良いのかわからないと言った表情をして俺を見つめていた。 「あ、ごめん。シャワーそっち」 指差した先には、小さな扉があった。 そこはユニットバスになっていて、一応部屋でもシャワーが使えるようになっている。 でも、あんまりユニットバスは好きじゃないから、寮にある共同の浴室を使う事の方が多い。 「普段あんまり使わないけど、ちゃんと掃除はしてあるから」 「あと、結城の家みたいに広くないから、ちょっと使いにくいかも知れないけど我慢して」 「大丈夫、平気」 「じゃあ、使わせてもらう」 「遠慮しないでいいから」 「ありがとう……」 礼を言った後、結城は俺に背中を向けた。 どうしたんだろうと思っていると、結城の手は躊躇なく服のボタンを外した。 結城がいきなりその場で服を脱ぎ出す。 突然の事に慌てた俺は、急いで結城から視線を外した。 「い、いきなり服脱ぎ出すから!」 慌てながら答えた俺に、結城の笑い声が聞こえた。 「あははは。変なの」 視線を外すだけでは耐え切れず、思わず結城に背中を向けた。 「ふ、服。その辺にあるハンガーにかけといてくれたらいいから」 背後からは、まだ服を脱ぐ音が聞こえている。 でも、これは脱いでるだけじゃなくて、ハンガーに服をかけたり、畳んだりもしてるんだろうか。 いちいち、その音が気になる自分が少しだけ嫌だった。 でも、気にするなって言う方が無理なんだ。 「どうしてそんなに驚いてるの? 前にも見たじゃない」 「そ、それはそうだけど!!」 確かにあのヌイグルミの時に、結城に無理やり一緒に風呂に入れられたけど、あの時と今とじゃ状況が全然違っている。 「違うから!」 「俺が! あの時と全然違うから!!」 「何が? ひつじじゃないって事?」 「そ、それもあるけど……そうじゃなくて…」 「他に何があるの?」 結城の声は、本当に何もわかっていないようだった。 あの時と決定的に違う事が、たった一つあるのに。 「お、俺が……意識してるから」 「………え!」 「だから、そんな風に目の前で脱がれると……困る…」 続きを口に出せないでいると、結城は黙ってしまった。 こんな事、答えるんじゃなかったかも知れない。 どんな表情で俺を見ているのか気になったけれど、今さら振り返る事は出来そうにない。 恥ずかしくなってしまったのか、結城は俺が背中を向けている間にシャワーを浴びに行ってしまった。 でも、それで良かったと思う。 あのまま沈黙が続いたら、ちょっと耐え切れなかったかも知れない。 「そうだ、着替え」 ハンガーにかかった結城の服は、濡れたままだった。 シャワーを終わらせた結城がこれをこのまま着るのは無理だろう。 共同で使っている乾燥機があるから、乾かすのはそれで出来るけど、その間に着る物を用意しないといけない。 普段あまり着ないけど、綺麗にしてあって結城が着ても大丈夫な服……あったっけ。 タンスの中に丁度いいシャツがあったから、それを出しておこう。 ベッドの上にでも置いておけばいいか。 ベッドの脇に腰をおろして、ぼんやりと窓の外を眺めてみた。 雨は少し止み始めているようで、小さなパラパラとした音だけが聞こえて来た。 この様子だと、日が昇る前に雨は止みそうだ。 浴室の方からシャワーの音が聞こえて来ていた。 向こうでは、結城がシャワーを浴びてるんだから当然だよな。 でも、聞こえて来るシャワーの音を意識すると、どうしても落ち着きがなくなる。 頭に乗せたタオルで無理やり髪を拭き、シャワーの音が聞こえないようにする。 そんな事をしても、やっぱり耳にはシャワーの音が聞こえて来る。 何してるんだろう俺。 今日の0時には、結城はもう向こうに帰るっていうのに。 そうだ、明日になったらもう会えなくなるんだ。 でも、本当にそうなんだろうか。 もしかすると『嘘でした』なんて言うんじゃないだろうか。 ……そんなわけない。 松田さんも如月先生も言っていた。 結城が明日には居なくなるのは、紛れも無い事実だ。 でも、そんな現実を受け入れたくない。 ここに、俺の部屋に結城はいるのに、それが明日には居なくなるなんて。 このままでいいんだろうか。 こっちと向こうを繋ぐ機械に重大な欠陥があった。 という事は、もう二度と結城には会えなくなるんだろうか。 シャワーの音が止まった。 結城、出て来るんだ。 当然ながら、シャワーを終わらせて出て来た結城はバスタオル一枚だった。 慌てて背中を向けるけれど、一度見てしまった姿は頭の中から中々出て行ってくれない。 「そ、そっち着替え!」 「ベッドの上、置いてあるから!!」 ベッドの上に用意しておいたのは、普段あんまり着ない白いシャツだった。 それなら、結城の体も全部隠れると思ったからだ。 「これ、着ればいいの?」 「うん! それなら、裾長いから」 背後で結城が着替えをしている音がしている。 何をどうしているのか、頭の中で嫌というくらい想像してしまう。 こんな時ばかり想像力が無駄に働いている気がする。 何も考えないように……。 「………うぅ…」 できるわけがない。 シャワーの音が聞こえていただけでも、あんなに意識していたのに、すぐ側で着替えをしてるんだから。 でも、何か別の事……。 「そうだ、松田さんに電話!」 朝からずっと心配してるだろうし、連絡してあげなくちゃいけない。 今の今まで忘れたままで、悪い事したな。 「……待って!」 立ち上がろうとした俺を引き止め、結城がぎゅっと手を握り締めた。 中途半端に腰を浮かせた俺は、立ち上がらずにそのまま座り直す。 立ち上がるのをやめて座り直しはしたが、お互いの手は重なり合ったままだった。 「どうしたんだ? 松田さんに電話しないと、きっと凄く心配してるぞ」 「うん。それは分かってる」 「じゃあ、なんで?」 「もう、後少ししか一緒に居られないから……」 結城の口からはっきりとそう言われて、改めて現実を思い知らされた気がした。 やっぱり、結城は向こうに帰ってしまうんだ。 それが、現実なんだ。 「だから、それまでは二人だけがいいの」 「ふ、二人だけって」 「だから、正晴の部屋がいいって言ったの」 重なり合った手が離れないように、指を絡ませ合って互いに握った。 シャワーを浴び終わったばかりの結城の手は暖かい。 目の前の結城は俺のシャツ一枚だけという姿で、どこに目をやればいいのか困ってしまう。 顔に目をやると、はだけた胸元や鎖骨が気になって、だからと言って足元に目をやると、すらりとのびた足がシャツの裾から見え隠れする。 どこに目をやっても、落ち着きがなくなってしまい、結局は部屋の絨毯に目をやるしか出来なくなる。 「ねえ、こっちを見てよ」 「お願い」 結城が片手で俺の頬を撫で、横を向いていた顔を自分に向けさせた。 目の前には、頬を赤く染めた結城の顔があった。 「私も、すごく緊張してるから」 「あのね、正晴」 「私、もう少ししたら向こうに帰ってしまうの」 「うん。知ってる」 「でも、その前に自分の気持ちははっきりさせておきたい」 指を絡ませながら手を握る力が、少しだけ強くなった。 どうしても、この感触を離したくなかった。 「あんなのじゃなくて、もっとちゃんと貴方に気持ちを伝えたい」 「正晴」 「私のこの気持ち、最初は惚れ薬のせいだと思ってた」 「でも、違ったの。あんなにも心がドキドキして、あんなにも心が痛かったのは、薬のせいじゃなかった」 「今も、貴方の前でこうしているだけで、痛いくらいに胸がドキドキしている」 「……でもこれは、薬のせいじゃない」 「私は貴方を見て、貴方の視線を感じて、貴方の肌のぬくもりを感じて、ドキドキしている」 「正晴…………私は貴方の事が好き」 「好き……。大好き」 真っ直ぐに俺を見つめて、結城は頬を染めていた。 その姿と表情と言葉が、ただ嬉しかった。 ただ夢中に、目の前の小さな体に腕をのばして抱きしめていた。 驚いていた結城も俺の背中に腕を回して、強く抱き着いてくる。 腕の中の結城が小さな声で俺を呼ぶ。 抱きしめる腕の力を緩めて、顔をじっと見つめると、目の前には潤んだ瞳をした結城がいる。 目の前に居る結城が愛しくて仕方がなかった。 手のひらをのばし、頬をそっと撫でると結城はくすぐったそうに微笑みを浮かべた。 その微笑みに向かって、ゆっくりと顔を近付ける。 俺の顔が近付くと結城は瞳を閉じた。 その表情を見つめてから、唇を重ねた。 結城の唇はすぐに小さく開き、俺は遠慮なくそこから舌をねじ込んで絡めあった。 「ん、んん」 結城が少しだけ苦しそうに声を出す。 耳に聞こえるその声は、やけに俺を興奮させる。 「んん、ふ」 「ぁん、ん、ん……!」 互いに唇と舌を貪るように口付けながら、舌を絡ませ合う。 唾液が口中に絡み付くようにとろりと糸を引き、口内も唇もべとべとにする。 「ぁあ、は……。んん」 「はぁ……ぁん」 この感触を忘れないように。 そう思いながら、舌を絡ませ続ける。 舌を絡ませ口付けながら、指先は自然と結城の着ているシャツのボタンにかかった。 「あ、ん、んん、ふぅ」 「はぁ、はあ……ん」 舌を絡ませ唾液をすすりながら、指先でボタンを外す。 小さなボタンを外すと白いシャツの下から、更に白い結城の肌が見える。 口付けたまま、少しだけ目を開いてその白い肌に目をやる。 はだけたシャツの胸元から、大き目の結城の胸が見えた。 「あ、はあ……正晴ぅ」 「ん、結城」 一瞬唇が離れると、互いに名前を呼んだ。 その声が耳に聞こえると、嬉しくなった。 口付けながら手のひらを移動させる。 ゆっくりと、結城の胸の上に移動させ、そっと触れた。 「あ、んん!」 ピクリと体を震わせながら、結城が声を出した。 少し驚いたけれど、そのまま優しく手のひらで乳房を包み込んでみる。 柔らかい感触を手のひらいっぱいに感じたまま、そっと大きな膨らみを揉む。 「あ、ふぁ……んんぅ」 「ん、ふ……。ん」 胸を揉む俺の手のひらに反応して、結城は声を漏らす。 それでも唇を離したくないらしくて、俺に唇を押し付けて口付けを続ける。 手のひらの動きに合わせて声を漏らしながら、絡ませる舌は動き続ける。 「ふぁ、あぁ……。ぁん、んふ」 「あ、んぅ」 柔らかい膨らみだけでは、物足りなくなって、少しだけ気になっていた部分に指を触れさせてみる。 指先で乳首に少し触れると、結城は敏感に反応した。 驚き、すぐに指を離してしまった。 「あ、んんぅ……正晴……」 だけど、結城はもっと触って欲しかったのか、俺に体をすり寄せた。 すり寄せられた体を支えながら、さっきと同じように指先で乳首を触った。 「あ、ああっ!」 また、結城が大きな声を出す。 硬くなり始めたそこに気付き、調子に乗って指の腹でこねるように触り続ける。 「あ、んぅ! ふぁ、あっ!」 「はぁ、はぁ。あ、んん」 触られると感じるのか、結城の声は俺が指を動かす度に更に可愛らしく、甘いものになっていた。 その感触と甘く可愛らしい声が、俺を興奮させる。 口付けと、手のひらと指先の愛撫だけじゃなくて、もっともっと結城を感じたいと思ってしまう。 唇を離して結城を見つめると、真っ赤な顔をした結城は恥ずかしげな表情をしていた。 「ま、正晴?」 「ごめん、俺……」 どう言えばわからずに黙ってしまった俺を見て、結城は微笑んでくれた。 「今は、薬もブランデーも飲んでないけど」 「私、正晴と一つになりたいの」 「正晴も、脱いで」 恥ずかしげに言った結城に頷き、俺は服を脱ぎ始めた。 俺が服を脱ぐ姿を恥ずかしそうに見ていた結城だが、ズボンに手をかけると恥ずかしそうに背を向けた。 全てを脱ぎ終わった俺は、背中を向けたままの結城を見つめる。 恥ずかしいのか、こっちを向く様子はない。 「結城、こっち」 「きゃ!」 背中を向けたままの結城を抱きしめ、そのままベッドの上に腰をおろした。 膝の上に結城が座る形にして、そのまま腕に力を入れて強く抱きしめた。 「ま、正晴ぅ」 恥ずかしげに振り返る結城に謝る事しか出来なかった。 だけど、さっきの言葉が嬉しくて、どうしてもすぐに体を抱きしめたかった。 さっきまでの口付けと愛撫で反応している体の一部に気付いたのか、結城は恥ずかしそうに頬を染めた。 「……いい?」 囁くほどの小さな声で頷いた結城の体をもう一度抱きしめてから、腕の力を緩めた。 「腰、ちょっと浮かせて」 「こ、こう?」 少しだけ浮かされた腰の隙間から手を入れ、そっと脚の付け根に近付ける。 「あ、あっ!」 「や、あ……。あ、謝らないでいいっ」 結城の言葉に甘えて、そのまま手を進ませる。 指先を脚の付け根のその奥まで進ませて、そっと触れてみる。 「ふぁっ!!!」 「あ、もう……」 「あ、あぁっ!」 奥に触れさせた指先を少しだけ動かすと、そこに湿った感触があるのがわかった。 小さく動かすとくちゅくちゅと音がして、結城が声をあげた。 「あ、ふっ! ぁあ、あっ」 暫く指を動かしていると、結城の秘部から更にとろりと愛液が溢れだして来たのがわかった。 充分に濡れたのがわかり、指先の動きを止める。 「入れる……から」 手のひらを移動させ、自分のモノへと近付ける。 結城の秘部と、自分のモノがぴったりと重なる位置を探りながらゆっくりと体を動かす。 自分の秘部に、俺のモノが当たった事に気付いた結城が声をあげた。 驚いたような、怯えているような声を聞いて、少しだけ冷静になれた気がした。 「ち、力抜いて」 言われた通りに素直に力を抜いた体をしっかりと抱きしめて、触れ合う部分を先端で感じるように腰を揺らしてみた。 「あ、あ……」 「痛かったら、言ってくれればいいから」 少しでも先に進みやすいようにと、指先で結城の秘部を少し広げた。 触れるだけで声を出す結城の頬に軽く口付け、ゆっくりと先端をその中に埋める為に進めていく。 「……っふ!」 ぴったりと閉じていた秘部の入り口を割り開くように、本当にゆっくりと奥へ奥へと進ませる。 「いっ! ん!」 徐々に結城の中へと進むたび、力を抜いていた筈の体が辛そうに強張る。 なるべく力を抜いてもらおうと、先端が少し埋まったところで動きを止めた。 「はぁ、はぁ……。正晴……?」 「無理、しなくていいから」 「し、してない。大丈夫、だから」 小さく首を振った結城の表情は、やっぱりどこか辛そうに見えた。 でも、大丈夫だと言ってくれる事が嬉しかった。 「じゃあ、もっと奥」 頷いた体をもう一度抱きしめながら、埋まった先端を更に奥に進めるために腰を動かしながら、結城の腰を沈めさせた。 「ふっ! ……いっ、んんぅ!!」 「あ、ああ……!」 ゆっくりと窮屈な結城の中に進んで行くたび、包み込まれるような感触に気持ちが飲み込まれていきそうになった。 このまま、何も考えずに一気に先に進んでしまいたい。 そう思ってしまいそうになる気持ちを、結城の辛そうな声が繋ぎ止めてくれる。 「あ、あっ!!!」 「はぁ、はあ……。ああ……」 包み込まれる感触に溺れないようにしながら、ゆっくりと奥へと進む。 ゆっくりとした動きが、結城の中で何かにぶつかり止った。 それが、一番奥に辿りついたからだと気付くのに数秒かかった。 気付くと、俺のモノはすっぱりと結城の中に埋まっていた。 その感触は、まるで何かに包み込まれているようだ。 「はぁ、はぁはぁ……」 「全部、入ったよ」 体の奥に俺を埋めた結城は辛そうに息をしていたが、俺の言葉を聞いて驚いたように自分の下腹部を見つめた。 そして、その言葉が本当だとわかると恥ずかしそうにほほを染めた。 「も、ちょっと我慢して」 「え、あっ!!」 またしっかりと抱きしめ、俺は結城の体を軽く突き上げてみた。 「あ、ああっ!!」 少し動いてみただけで、結城の体は拒絶するように俺を締め付ける。 だけど、その締め付けは俺にとっては拒絶にならない。 包み込まれるように優しい締め付けは、今までに感じた事がない感触だった。 「はぁはぁ……! 結城!」 「あ、あ! ゃあ、あ、正晴ぅ!」 小刻みにゆっくりと、結城の体に負担がかからないようにしながら腰を動かす。 体の中で軽く擦れているだけだと思うのに、体に与えられる感触はとてもじゃないけど軽くはない。 これは体全体を震わせる、激しい感触。 「あ、いっ! あ、ああっ!」 「んっ! く、ふ!」 体が揺れるたび、結城は辛そうに声を出す。 痛みがあるのだろうか、その声はさっきまでの甘い声とは違って苦痛を伴っているようだった。 「ゆ、結城……!」 「ふぁ、あっ! あっ!!」 背後から抱きしめ、腰を小さく揺らしながら言うと結城は気丈にも首を振った。 その姿は俺を感動させる。 「ん、ぁん! む、無理なんか、してなっ!」 「ひっ! あ、あっ!」 頷き、また結城の腰を突き上げた。 今度は一度、大きく。 すると結城の声は今までにない程大きくなった。 大きく突き上げた体は一旦浮き上がり、そしてもう一度沈み込む。 軽く擦られた俺のモノは、それに反応してまた大きくなったような気がした。 無理をしていないという言葉に甘えて、俺は二度、三度と腰を大きく突き上げる。 「あ、ぁあっ! 正晴ぅ!」 浮き上がった体が深く沈みこみ、俺のモノを咥え直すたび、例えようの無い感触が訪れる。 調子に乗って何度もそうしていると、結城の腕に力が入ったような気がした。 「ん、やっ!」 「いや?」 ぎゅっと身体を抱きしめ、動きを止める。 そっと顔をのぞき込むと結城が潤んだ瞳で見つめた。 「そ、そっか。じゃあ、やめる?」 嫌という言葉がショックだったわけじゃない。 でも、結城が嫌なのにこのまま続けるのは俺が嫌だ。 だったら、途中でもやめた方がいい。 「ち、違うの」 「違う?」 だけど、結城の『いや』は、俺の思っていた意味じゃなかったらしい。 「うん。もっと……」 「もっと、どうしたらいい?」 「ぎゅって抱きしめて欲しい」 「もっと、ぎゅって抱っこして……」 抱きしめていた結城の体を離すと、俺と向かい合うようにさせた。 そのまま、結城をベッドの上に座らせてみると、俺が膝立ちになるのが丁度良かった。 「正晴、抱っこ……」 両手でしっかりと結城の体を抱きしめると、結城も両手を俺の体に絡めて抱き着いた。 さっきよりも、もっともっとお互いの体が近付き合い、体温を感じられる。 「嬉しい……」 抱き着きながらすり寄る結城に答え、しっかりと抱きしめた体を少しだけ離してじっと見つめる。 「もう一回、動くから」 頷いた姿を確認してから、俺はまたゆっくりと腰を動かし始めた。 「んんっ!」 俺のモノがゆっくりと動き、結城の中で半ばまで入ったり出たりを繰り返す。 「ふぁ、あっ! ん、ゃああっ!」 「結城っ!」 動く度に結城の中で擦られ、絡み付くような感触と合わさっていく。 「や、ああっ! ふぁ、あ、あっ!」 ゆっくりだった動きを、徐々に早くしていく。 あまり結城の体の負担にならないようにしているつもりでも、気が付くと動きが激しくなる。 「はぁ、はぁ……! あ、っく」 激しくなった動きに気付いて、また動きをゆっくりにする。 先端をゆっくりとぎりぎりまで引き抜いて、また奥までゆっくりと戻していく。 結城の中の感触がゆっくりとまとわりつき、絡み付くように感じられる。 「あ、ああ……。ふぁ、あっ」 ゆっくりと、何度もそれを繰り返していると、絡み付く感触は激しくなっていく気がした。 そして、ゆっくりな動きに慣れて来たのか、結城もかすかに腰を揺らし始めていた。 「ああ、あ、あ……! ふぁ、あっ!」 無意識なのか、結城はしっかりと俺にしがみ付いたまま腰を動かし続けている。 「は、はぁ。あ、あっ!」 「ん、んっ!」 無意識に動かされる腰にもどかしさを感じながら、それでも激しくならないように気をつける。 「ふぁ、ああっ。正晴ぅ!」 「うん。大丈夫だから」 頷いて軽く口付け、俺はまた結城の奥深くまで進んだ。 「あ、あああっ!」 ビクリと大きく震えた結城は、俺をしっかりとその体の中に咥え込んだまましがみ付く。 腕に力を入れて強く抱きしめると、結城もしがみ付く力を強くした。 中に埋まった感触は例えようのないもので、俺が少し体を動かすだけでひくひくと小さくそこは動く。 「ま、正晴……」 「結城、わかる?」 「え、え……?」 「結城が言った通りに出来た」 「え? あ……!」 言葉の意味がわからなかったようだが、すぐに理解できた結城は真っ赤な顔をした。 「私、今……。正晴と、一つになってる……」 「正晴ぅ……」 俺が頷くと、結城の声から苦痛のそれが消えていくようだった。 「動いて大丈夫か?」 「あ、ああああっ!」 体をまたしっかりと抱きしめて、俺は結城の体を貫かんばかりの勢いで動き始めた。 「あっ! ゃあん! あ、ああっ!」 大きく腰を引き、また戻してを繰り返すと、俺のモノが愛液にまみれながら結城の中を出入りする。 「ふぁ、あっ! ま、正晴っ! や、ああっ!」 「はあ、はあ……あ! っく……うっ!」 絡み付いて締め付ける、結城の中。 それは俺を捕まえて離さないと言っているようで、何故かたまらなく嬉しくなる。 もっと感じたい。 もっとこうしていたい。 そう思うはずなのに、体は激しく動く。 「ぁふぁあ、ひぅ!! ぁあん、ああっ!」 結城はもう、されるがままと言った感じだった。 その姿が更に俺を刺激して、激しくなる動きを止められない。 「結城……っ!」 「や、やあっ! や、だっ! 正晴ぅ!」 「……い、や?」 言葉を聞いて、動きをゆっくりにする。 また聞こえた拒絶に似た言葉。 それはやっぱり、俺を冷静にした。 「やじゃ……ないよう」 「体、へんなの! あ!!」 「あっ! や、あ! 動いちゃっ! ああっ!」 小さく体を揺らしながら聞いてみると、そちらに意識が集中するのか結城は答えられずにただ声を漏らす。 「だ、って! 変な感じ、なっちゃ! ふぁっ!」 「変じゃない。可愛い」 「可愛いから……」 自分で言っておきながら恥ずかしくなって、思わず動きが止まった。 驚いたように結城がこっちを見つめる。 「……い、いいから!」 「きゃっ! あ、あああっ!」 照れ隠しにまた腰を動かすと、結城はしっかりと俺にしがみ付いた。 「や、あ! だ、だから、私! あ、ああっ! 変になっちゃうからあ! ふぁあ、ぁああん!!」 激しくなった動きに結城は必死に堪え、しっかりとしがみ付いて声をあげる。 それは全然変じゃない。 むしろ、さっき言ったみたいに可愛くて仕方ない。 もっともっとそんな姿が見たくて、俺は自分自身が抑えられなくなりそうになる。 「結城……!!」 「あ、ああああっ!!!」 しがみ付く結城をしっかり抱きしめ、腰を何度も動かした。 結城の中で俺は締め付けられ、絡み取られ、すぐにでも絶頂を迎えてしまいそうになる。 だけど、本当はもっとこうしていたい。 「ん、やぁあっ! あ、ああっ!」 「はぁはぁ、はあ……!」 結城の声と感触は、もっとこうしていたいという考えを消し飛ばさせた。 「ふぁっ! やあ! ああっ! あっん!!」 しっかりと抱きしめたまま、俺は何度も何度も腰を動かして結城の中で出入りをした。 何度も何度もそう繰り返していると、しがみ付く結城が腕に更に力を込めた。 「も、もう! あ、ああっ! や、あ、アタシぃ! アタシもう!!」 「お、俺も……!!」 体にしっかりと結城がしがみ付いたまま、その最奥まで辿り着いた瞬間、その中がきつく俺を締め付けた。 「あ、ああ! ふぁああああっ!!」 「っくう! 結城っ!!!!」 締め付けられた瞬間、結城の動きが止まり、声が大きく震えた。 そして俺は、その中で自分の全てを迸らせていた。 「ふぁ、あ……。あ、あああ……」 「はぁ、はぁはぁ……はぁ……」 ぐったりと力が抜けそうになる結城の体をしっかり抱きしめたまま、俺は余韻を味わっていた。 明日になれば居なくなる結城の体を、忘れてしまわないようにしっかりと抱きしめて。 部屋に置いてある小さくて狭いベッドに、結城と二人で寝転んでいた。 結城は俺の腕枕で横になりながら、体をすり寄せて微笑んでいる。 「え、えっと」 「ふふふ。私、貴方と一つになれて幸せ」 「そ、そっか……」 こうはっきり言われると恥ずかしいけれど、同時にすごく嬉しくなる。 もっと早く、自分の気持ちに気付けていたら良かった。 「困ったな……」 「私、もっともっと正晴を好きになってしまった気がするの」 「そう思ったの」 俺を見てにっこりと結城が微笑んだ。 でも、すぐにその表情は暗くなる。 そうなる理由なんて、一つしかない。 他にそんな理由、あるもんか。 「でも、もうすぐ帰らないと…いけない」 「本当はもっと一緒にいたい…。でも、私にはフィグラーレに家族がいるの」 「うん。わかってる」 「正晴より、家族が大事っていう意味じゃないわよ」 「大丈夫、わかってるから」 「でも、でもね」 「向こうの世界の何もかも捨ててしまって、こちらに残りたいって思ってる自分もいる」 「私にとっては、向こうの世界もこちらの世界もどちらも大切になってしまったの」 「どちらの世界にも、私の大切な人がいる」 その、大切な人の中に自分が入っているのが嬉しくて仕方なかった。 「正晴は?」 「正晴はどうなの?」 「正晴の本当の気持ち、教えて欲しい」 「俺は……。その、結城は迷惑だと思うかも知れないけれど……」 「いいの。正直に言って」 「本当は、何もかも捨てて俺のそばに居て欲しい。帰って欲しくなんかない……」 自分勝手な答えだって自分でもわかっている。 だけど、これが俺の素直な気持ちなんだ。 やっと自分の気持ちに気付けたのに、すぐに離れ離れになるなんて、寂しすぎる。 「……迷惑なんかじゃない。嬉しい」 「正晴にそう思われて、私すごく嬉しい」 俺の目の前でにっこりと微笑む結城を見たら、やっぱり向こうに帰って欲しくないと思ってしまう。 でも、やっぱりそれは俺の我が侭なんだ。 その我が侭で、結城を困らせる事はできない。 「機械、重大な欠陥って言ってたよな」 「ええ、そうみたい」 「俺、思うんだけど、結城だったらその原因がわかるかも」 「結城は頑張り屋だし、勉強もできるし、何にでも一生懸命だしさ、原因がわかるかも知れない」 「そ、そそそそ、そんな風に言うけど」 「それで、原因がわかったら、結城だったら直せるんじゃないかな」 「あ、あれは、フィグラーレの技師達が何十年もかけて作り上げた大掛かりな物なの!」 「――でも、そうしたら……」 「……もう一度、正晴に会いに来れるよね」 元気づけようとして、思い付きで言った事だけど、いい考えだったかも知れない。 俺は待っているだけしか出来ないけれど、結城ならできる気がする。 「そう言えば、私正晴に好きって言ってもらってない!」 「ええ?!」 「聞いてない」 「そ、そうだっけ?」 結城の頭の下で枕になっていた腕を引き抜き、自分の下に組み敷いた。 驚いたようだった結城だけど、俺が顔をのぞき込むと嬉しそうに微笑む。 「俺、結城のこと……」 「あ、やっぱり待って!」 自分から言い出したのに、結城は俺の唇に人差し指を当てると言葉を遮った。 「やっぱり、言わないで」 「なんで?」 「やっぱり聞かない」 「その言葉は、私が戻って来た時に取っておいて欲しいの」 「戻ってきた時に、聞くから」 「必ず戻って来るから、それまでは……」 「わかった。じゃあ、その時に言う」 「約束」 「私がまた、ここに戻って来るための約束」 結城の上から覆い被さるのをやめると、手を引いて体を起こしてやった。 二人でベッドの上に座り、お互いを見つめる。 「そろそろ、松田に電話した方がいいかも知れないわね」 「泣きながら正晴からの電話待ってるのかしら」 「仕方ないわねえ、本当に」 「大事にしてもらってるんだな」 二人で結城の家まで戻ると、そこには松田さんだけじゃなくて、秋姫、八重野、如月先生の姿もあった。 「秋姫に八重野。如月先生まで」 「あの、如月先生から連絡もらったの。ノナちゃん、フィグラーレに帰っちゃうって」 「折角仲良くなったんだから、見送りぐらいしたいしね」 「そっか。ありがとうな、二人とも」 「あれ〜? どうして石蕗君が二人にお礼を言うのかな?」 「……いいじゃないですか別に」 結城も如月先生の所に行ってたみたいだから、そっちからも何か話を聞いてるんだろうな……。 「お嬢様あああ!!!」 「ごめんなさい、松田。心配させたわね」 「い、いいんです! お嬢様がご無事なら!!」 「すいません、松田さん。遅くなっちゃって」 「いえ! 石蕗君はちゃんとお嬢様を見つけてくださいましたから!!!」 なんだかやけに感激しているような松田さんに、今まで二人でずっと一緒だったのはバレていないみたいだった。 でも、代わりに如月先生がニヤニヤ笑っている。 何もかもわかってるみたいで、何だか悔しいな。 「秋姫さん、八重野さん。それに如月先生も、来てくれてありがとうございます」 「の、ノナちゃん……本当に行っちゃうの?」 「……ええ。私にはあちらの世界に両親も居るから」 「急だから、びっくりした。居なくなると、寂しくなるね」 「びっくりしたのは、私も一緒よ」 「そうか。そんなに急だったんだ」 「ええ。でも、そうやって寂しくなると言ってもらえると嬉しいわ」 「また会える?」 「……多分ね」 「もう二度と会えなくなるって事じゃないって思っていい?」 頷いた後、結城は二人から視線を外した。 横顔は寂しそうで、二人とも何も言えないようだった。 結城が視線を外した後、松田さんが秋姫と八重野の前に立って深々と頭を下げた。 これには二人とも驚いたようだった。 「お嬢様と仲良くしてくださって、本当にありがとうございました」 「あ、あの、そんなお礼を言われるような!」 「そうですよ。別に、そんなに」 「いいえっ!!!!」 「今まで中々お友達の出来なかったお嬢様が、クラブ活動は楽しくされてました!!」 「お二人が仲良くしてくださったからこそ、お嬢様はあのように楽しくしておられたんです!」 「は、はあ……」 「はい! ですから、こうして私は二人にお礼を言わずにはいられないです!!!」 「それに石蕗君!!」 「お嬢様は石蕗君に会われてから、確実に変わられました!」 「石蕗君が居てくれたからこそ、お嬢様は!!」 「松田、もういいから……」 「し、しかしお嬢様!!!」 「いいから!!」 結城の一言で、松田さんはやっと言葉を止めた。 でも、本当に俺達に感謝しているんだろうって事は嫌ってくらいにわかった。 それに、俺に会って変わったって言われたのが、何よりも嬉しかった。 「如月先生、色々ありがとうございました」 「いいえ〜」 如月先生は、どんな時でもいつもの如月先生だった。 マイペースに返事をし、笑顔で結城を見つめている。 「結城さんは優秀な生徒ですから、居なくなると授業に張り合いがなくて寂しいですよ」 「でも、こればかりはどうしようもないですね」 「はい……。あの、如月先生と…カリン様は?」 「もう僕も姉も、こちらで生きていくと決めましたから」 「僕の答えは、君を迷わせてしまいませんか?」 「大丈夫です」 笑顔で言った如月先生に、結城は深く頭を下げた。 松田さんも口こそ出さなかったが、同じように深く頭を下げる。 そして、結城はゆっくりとこちらに視線を向けた。 俺に近付いた結城が、突然力いっぱい抱き着いて来た。 周りのみんなが驚いたように見つめていたが、結城は全くそれを気にせずに抱き着き続ける。 「正晴、忘れないでね」 「私が一番好きな人は貴方だから」 「私が一番逢いたい人はいつでも貴方だから」 「私、必ずこっちに戻って来る」 「うん。待ってる」 「必ずよ? 必ず待っていてね」 「大丈夫。俺が一番逢いたいのも結城だから」 体から離れた結城は、俺を見上げてにっこり笑った。 少し、名残惜しいと思っている。 だけど、両腕いっぱいに抱きしめてしまうと、離したくなくなる。 だから、抱きしめられなかった。 「…正晴。私、貴方の所に戻ってくるって証を残していくわ」 「はいっお嬢様! 指輪はこちらに!」 「わぁ…きれい」 「正晴! 手をこっちに、出して」 手を差し出すと、結城がぽんとレードルを押し付けてきた。 「……わっ!」 「これ…」 手のひらに、うっすらとアザが見える。 それはどこかで見覚えのある形だった。 「これはね、『信じあうもの同士が許される』証。秋姫さん、八重野さん、貴方たちは知ってる…わよね?」 「……これと、同じものね」 八重野が頭を傾けて、自分の首もとのしるしを見せた。 「…そうか」 「俺、結城の……『たった一人』に選んでもらったんだな」 「ええ。ふふふ、私、憧れの人と同じことしちゃった」 「なんでもない!」 「お嬢様、そろそろお時間が……」 「ええ、そうね」 「どうやって行くんだ?」 「こっち」 「こっち?」 結城と松田さんの後ろをついて行った先には、大きな扉が置いてあった。 「と、扉」 「もしかして、これで?」 意外にも、向こうの世界とこちらの世界を繋ぐ物というのは大掛かりな機械ではないようだった。 もっと大げさで豪華な感じをイメージしていたので、少しだけ拍子抜けした。 「フィグラーレからレトロシェーナを繋ぐ扉は世界中にあるの。そして、その全ての扉が一つの機械に繋がっているのよ」 「ふえ〜……」 「なんか、すごいね」 どういう仕組みでそうなっているのかは分からないが、こちらの世界と向こうの世界はそうやって繋がっているらしい。 世界っていうのは、俺達の知らない事で溢れているみたいだ。 「でも、0時を迎えるとこの扉は、ただの扉になってしまいます」 頷いた結城の横顔は、寂しそうだけれど決意がこもっていた。 こんな横顔にかける言葉を俺は知らない。 まだどこかで、行って欲しくないと思っている。 「正晴、少しだけお別れね」 でも、真っ直ぐに結城を見つめるとその言葉は口にしてはいけないと、やっぱり思う。 「さあ、そろそろ急いだ方がいいかもしれないよ」 「そ、そうですね、お嬢様!」 「結城、またな」 「うん。さっきの…約束、覚えていてね」 頷いて答えた俺に背中を向けた結城を見てから、松田さんが扉に手をかけた。 ノブを回して開かれた扉の向こうは、結城が元々居た世界とこちらの世界を繋いでいる。 「皆さま、大変お世話になりました!」 「みんな、ありがとう」 「ノナちゃん、松田さん。またね」 「フィグラーレの人達によろしく」 扉の向こうに、まず松田さんが入って行った。 ゆっくりとその体が扉の中に吸い込まれるように消えて行く。 背中を向けたままの結城を呼んだ。 こっちを向いた結城は、俺を見て微笑む。 「正晴、待っててね!」 「ああ! 絶対待ってるから!」 黙って頷いた結城は、また背中を向けた。 そして、ゆっくりゆっくりと、扉の中にその姿を消していく。 扉が閉まると同時に、如月先生は懐中時計を取り出して目をやった。 「………0時だ」 時計の針は、0時を指したらしい。 小さくつぶやいた如月先生の言葉が、心に深く染み入った気がした。 もう、目の前の扉の向こうは、違う世界とは繋がっていない。 「ノナちゃん……」 「大丈夫すもも、また会えるって結城は言ってたから」 寂しそうにつぶやく秋姫の声を聞いて、俺は思い出した事があった。 「どうしたの? 石蕗くん」 「俺さ、秋姫のおかげで自分の気持ちに気付く事ができたんだ」 「わたし、何もしてないよ」 「ううん。俺、すごく秋姫に色んな事を教えてもらった気がするよ」 「……? 石蕗、何の話をしてるの?」 「ご、ごめんね、本当にわからないんだけど……」 「これ、返しとく」 不思議そうにしている秋姫に、あの本とあのパジャマを差し出した。 差し出した本とパジャマを受け取った秋姫は、その両方を見て目を丸くしていた。 「え!? これ、ユキちゃんの……」 「え! じゃあ、あの!?」 「本当、色々ありがとうな」 「え……ええ!?」 「じゃ、先に帰るから」 「ええええ!? じゃあ、ユキちゃんって!」 「粋な演出するねぇ、石蕗君も」 「如月先生、もしかして全部知った上で……」 「さあ、どうでしょう〜」 夕方から降り出していた雨はいつの間にか止んでいた。空にはたくさんの星が輝いていた。 ちゃんとした説明をせずに、逃げるように帰ったのはズルイと思うけど、秋姫に改めて説明するのは恥ずかしかった。 多分、如月先生が居るからその辺は大丈夫だろう。 「あ、流れ星」 空を見上げながら歩いていると、小さな星が一つ流れて行った。 思わず立ち止まり、その軌跡を眺める。 もしかしたら、あの流れ星も星のしずくだったのかも知れない。 でも、今の俺にはそれを確かめる術はない。 もう一度結城が戻って来たら、あの流れ星が星のしずくなのかどうか、確かめる事ができるだろうか? 「あ、もう一つ」 また空から輝きながら星が落ちて来る。 思わず心の中で願いを唱えた。 俺の願いは一つだけ。 いつかきっと、それは叶うはず。 この大きな星空の向こう側から、結城は必ず戻って来るから。 俺はそう信じている。 その時は約束を果たそう。 言えなかった言葉を、結城に伝えよう。 薄いピンク色の花びらがヒラヒラと舞い散る。 何枚もの花びらを散らす、桜の花を見上げる。 頭上にはいっぱいの桜。 その全てから桜の花びらが舞い散り、俺や周りに居るみんなに降り注いでいた。 「綺麗だねー。さくら」 「うん、綺麗」 「でも、学校で見る桜も今日で最後だね〜」 「そうだな。そう思うと、ちょっと感慨深いものがあるよな」 「なあ、ハル?」 時間が過ぎていくのは早い。 いつの間にか俺達は最上級生という存在になっていて、そしていつの間にか、もう卒業だ。 いや、別に早くはなかったかな。 結城が向こうに帰ってから、俺の周りの時間はやけにゆっくり流れるようになった気がする。 「よし、じゃあ制服姿で最後のお茶行こう!」 「賛成〜!」 「あ、行きたい」 「俺も! ハルはどうする?」 折角、みんなが誘ってくれているけれど、今日だけは一人で行きたい場所があった。 「悪い、俺……」 「いいって! そう言うと思ってたし」 「そうね。そんな気はしてた」 「いいよ、謝らなくて。最後まで石蕗くんらしいから」 「どういう意味だよ、それ」 「そのままの意味だよ〜」 「そういう事!」 「じゃ、俺達行くわ」 「おう」 「時々連絡するから、またみんなで会おうね」 「じゃ〜ね〜」 「石蕗くん、ばいばーい」 それぞれ片手に卒業証書を持ちながら、勢いよく俺に手を振っていた。 俺も片手をあげて手を振り返す。 こうやって、制服姿で手を振るのも今日が最後なんだよな。 折角だから、他の場所も見て回ろう。 今日で最後になるんだから。 三年間、お世話になった温室。 園芸部に入ったのはヌイグルミになる薬を飲んだせいだけど、部活で得た事は大きかったと思う。 秋姫や八重野とも友達になれたし、それに……。 「……うん?」 聞こえて来た足音に振り返ると、そこには見慣れない女子生徒の姿があった。 多分、下級生の子だと思うけれど、心当たりがない。 「あ、あの、石蕗先輩!」 「そ、卒業おめでとうございます!」 こっちを見て真っ赤になっているけれど、時々ちらりと背後に視線を向けている。 そちらを見てみると、校舎の影にこの子の友達らしき数名の女子の姿が見えた。 「あ、あの! 実は先輩が学校に来なくなる前に、言っておきたい事があるんです!!」 「何……かな?」 何となく、言われるであろう言葉が何かわかる。 でも、言葉は口に出さないでおく。 「わ、私、石蕗先輩の事が好きです!!」 「ごめん、折角だけど」 「好きって言ってくれたのは、ありがたいと思ってる」 「あの、じゃあなんで……」 「……他に好きな女の子がいるんだ」 「今は、遠くにいるんだけど」 何故だろう、自然に微笑む事が出来た。 多分、結城の顔を思い出したからなんだろうな。 「そ、そうなんですか……」 「うん。だから、ごめん」 「い、いいえ! いいんです! 聞いてもらえただけで、満足しましたから!!」 「うん……。ごめんね」 「私の方こそ、ごめんなさい! それじゃあ、さようなら石蕗先輩!!」 最後にペコリと頭を下げたその子は、校舎の方へと走って行った。 校舎の向こう側で、さっき見かけた女の子達が彼女を慰めている。 折角、告白してくれたのにこんな答えしか返せなくて申し訳なくなってしまう。 でも、今の俺には他の誰かを好きになるなんて無理なんだ。 もうずっと、心の中には結城だけがいる。 「そろそろ行こうかな」 卒業前に温室を見ておきたかったのは確かだけど、本当に行きたい場所は他にある。 こうやって結城の家に来るのは何回目だろう。 あの日、結城が自分の住む世界に帰ってから、俺は何度となくこの場所に足を運んだ。 学校が終わってから制服のままで来る事もあったし、休日にふらりと来る事もあった。 来るたびに何度も結城を思い出して、寂しくなったり、懐かしくなったりした。 中庭の方に移動してみても、あの時の扉はなくなっていた。 いつの間にか、如月先生が見付かりにくい場所に移動させてしまったらしい。 本人がそう言っていたから、その通りなんだろう。 この場所から結城が帰って行った証拠がなくなったようで寂しかった。 けれど、ここに足を運ぶたびにはっきりとあの日の事を思い出せる事に気付いてからは、扉の有無は関係ないと気付いた。 中庭をぼんやり歩いてから、もう一度家の外周に沿って歩いてみる。 家の中に入ろうと思えば、いつでも入る事ができる。 何故か扉には鍵がかかっていないからだ。 でも、家の中に入るのは少しだけためらいがある。 何故なら、家の中を歩いていると、どこからか松田さんの声がして、結城が自分の部屋から出て来るんじゃないかと思ってしまうからだ。 そう思うと、家の中を歩こうとは思えなかった。 こうやって、制服姿でこの家を見つめるのも最後になるんだろうな。 結城、元気にしてるだろうか………。 「な、なっ!?」 突然、家の中から物凄い爆音が聞こえて来た。 い、一体何があったっていうんだ!? 音がしたのは、確かリビングの方だった。 必死でそこまで走り、勢いよく扉を開けた。 部屋に入っていきなり目に入って来たのは、天井に開いた大きな穴。 そして部屋中に、機械の破片のような物が散乱していた。 これって一体なんなんだ。 「はあ、はあ……な、なんだ!?」 大きく天上に開いた穴を見上げると、そこからは見事に青空が見えている。 「お、お嬢さまぁぁ〜」 この声って……松田さん!? じゃあ、もしかしたら………!!! 「正晴っ!!!」 「ゆ、結城っ!!!」 体に突然の衝撃。 でも、それは決して不快ではない、むしろ心地よい衝撃だった。 「ただいま、正晴!」 「結城っ…おかえり!!」 懐かしい声、懐かしい感触、懐かしい表情……。 俺の体の衝撃は、全て結城が与えてくれたものだった。 「正晴の言う通り、ちゃ〜んと機械を直して帰って来たわよ!」 「本当にできたんだ。やっぱりすごいな、結城は」 「でも、この周りに落ちてる破片って」 「直ったし、戻って来れたけど、途中で機械が爆発しちゃったみたい」 「ええ!? そ、それって……」 今度は戻れなくなっちゃうんじゃないのか!? それってちょっと、問題あるような気がする。 「大丈夫よ! こっちは古い方の機械なの」 「古い方?」 「ええ。新しい欠陥の無い機械も作る事ができたのよ! だから他の人はそっちで行き来できるようになったの」 「そうか、良かった」 「でも、そっちがなかったとしても、私は構わないの」 「もうず〜っと、こっちで正晴と一緒に居るって決めたから」 その言葉が嬉しくて、腕に力を入れて抱きしめた。 結城も俺に腕を回して強く抱き着く。 「そうだ!」 抱き着くのをやめた結城は、顔を上げて俺をじっと見つめた。 頷くと、結城はにっこり微笑んだ。 「あ! え、えーっと……ノナ」 「……好きだよ」 「私も、正晴が大好きっ!」 「はぁ、はあっ、ま、まって……はあっ」 「んひゃっ」 「あ、あっちだ!」 「やっ、ま、またみうしなっちゃ……」 「きゃう」 「はぁ、はぁっはぁっ……んん」 「すもも、ケガは?」 「ん…だ、だいじょぶ…でも早くしないと……しずくが消えちゃう」 秋姫は立ち上がると、唇をかんで前を見ている。 いつものように家に行き、星のしずくに反応した指輪の光を追って俺たちはここまでやってきた。 しずくは飛び回り、秋姫はいつもよりもてこずっている。 何かがおかしかった。 「水の中に落ちた!」 「ん…うん…うん、いかなきゃ…はやく…」 しずくの落ちた水の中を、秋姫は覗きこんだ。 水の中で輝いていた星のしずくが、細かい泡に包まれて光を失った。 「き…消えちゃった」 「時間…かかりすぎちゃったんだ」 秋姫はしゃがんだまま、水中を見つめている。 光も泡も消えてしまったその場所は、夜の暗さを映しているだけだ。 「今日は帰ろう、すもも」 「しずく採るの、失敗しちゃった」 「また次に落ちてくるの、採ろうよ」 部屋に帰ってきても秋姫は沈んでいるようだった。 机に頬づえをついて、ずっとぼんやりしている。 「……明日は登校日だ、忘れちゃうとこだった」 「(あ…俺も忘れてた、危ない)」 俺は机の上に置いてあったカレンダーに目をやった。 明日は夏休み最後の出席日だ。 早かったな……。 「帰りには園芸部の方にもよって、お水あげないとな……」 秋姫は今度は窓の外を見ていた。 そっとその横顔を覗くと、なんだか寂しそうだった。 「すもも、クラブ…辛い?」 「えっ、ど、どうして?」 「そんなことないよ、みんな仲良しだし、お花のお世話も楽しいもん」 「なら、いいんだけど」 「うん。ほんとに園芸部、好きだよ」 「今日は失敗しちゃったけど……次にしずくが落ちてきたら」 「今日のぶんまで頑張る!」 「でも、あんまり無理しなくていいよ?」 「ありがと、ユキちゃん」 「明日は早いの?」 「ううん、お昼までに行けばいいかな」 「そっか…でも今日はいっぱい走ったから、早く休んだ方がいい」 「そうだね、もう足がぱんぱんになってる」 秋姫は立ち上がると、俺を持ち上げてベッドへと向かう。 ベッドの脇にクッションで作られているのが、俺の寝る場所だ。 秋姫がそっと俺の頭を撫でる。 それが秋姫が眠る前にいつもする仕草だ。 「それじゃ…今日はもうおやすみ」 「……んん…すう…ふ…」 秋姫の寝顔が、すぐそこにある。 手を伸ばせば……もとの俺の体だったら、だけど……すぐに触れられる距離だ。 プールで一緒に練習した時の手。 小さくて、一生懸命な手がぎゅっと俺を手を掴んでた。 ……あれ、なんでそんなこと今思い出してるんだよ。 秋姫がどんなこと思ってるとか、何で急に黙るんだろとか――。 寝よう、俺ももう寝よう。 ……秋姫、なんで元気なかったんだろう? それだけは、横になって目をつむっても頭から離れなかった。 「ねえねえ、どこか泳ぎにいってきたの?」 「うんっ家族で旅行にいったんだ」 「いいな、うらやまし〜」 「夏休み、あともう少しだけどどこか行けないかなぁ」 別のクラスの女子たちが、足早に俺を追い越してゆく。 夏休み中に何度かある出席日だけど、普段の朝の風景よりか人の数はまばらだ。 寮から実家へ帰省していたり、さっきすれ違った誰かの話みたいに旅行に出かけている生徒が少なくないからだろう。 「うちのクラスはどうなんだろ……」 うちのクラスにいる寮生は、麻宮秋乃と俺の二人だけだ。 「(秋姫は来てるのかな)」 今朝も日が明けないうちに、こっそり秋姫の家を出た。 秋姫は気持ちよさそうに眠っていたけど、今日はちゃんと来れたんだろうか。 「(……ちょっと元気なさそうだったし)」 「あっおはよ〜! ひっさしぶりっ」 「おはよっ、ハルは実家の方に帰ってなかったんだな」 「ああ、ちょっと遠いから」 圭介にそう答えながら、俺は教室を見回した。 「(あっ……)」 「すももちゃん、おはよう〜」 「あ、お、おはよう」 「あれ? 何だか元気ないね、クーラー冷えでもしたのかな?」 「ううん、大丈夫! ちょっぴり寝不足なだけだよ…」 秋姫は今日は一人で登校したんだろうか。 いつも一緒にいる八重野が、教室のどこにもいない。 「なあ…八重野は?」 「そういえば――おかしいな、いつも秋姫さんと一緒なのに。信子さん、知らない?」 「ん? ああ…そういえば家の用事で遅れるとか、さっきスモモちゃん言ってたような気がする」 もう一度秋姫の方に視線を移すと、小岩井と会話を続けていた。 窓辺からさしてくる日に照らされた横顔は、いつもと同じの秋姫に戻っていた。 「はあ、ホームルームだけってのも、面倒だよな」 圭介がおどけた調子で言いながら席についた。 俺も自分の席につき、斜め前を見る。 いつもの秋姫。 たぶん、いつもと同じ…はずの秋姫がそこに座っている。 「(――って、あれ? 俺なんでさっきから同じこと、何度も考えてるんだ?)」 「――あ、あのさっ」 「秋姫っ」 「ひゃうっ」 「あ、驚かせてごめん」 「今日はクラブあるのか?」 「う…うん。お水やりだけど――」 「ナコちゃんも、もうすぐ来るから…それから行こうかなって……」 秋姫は俺からずっと目をそらしたままで、床ばっかり眺めてる。 だから俺はなんでもない一言が口に出せなかった。 園芸部、俺も一緒に行くって、そんな簡単なことが。 「ちょっと待ってください!」 「ゆ、結城っ!!」 「今から――例の園芸部へ?」 「う、うん。そうだ…よ?」 結城は眼鏡の奥の大きな目で、俺と秋姫をじっと見つめている。 あれから……あの日から一週間ほどたってるけど、もう大丈夫なんだろうか? 額にだったけど、俺は結城にキスしてしまった。 薬のせいだとはいえ……気まずい。 「(例の薬の効果…もう切れてるのかな)」 「では私も行きます」 「私も…園芸部員ですから……」 「う、うん、そうだよね」 「はあ――ごめんね、少し遅くなってしまった」 「みんなそろってるね」 「あ…う、うん!」 結城の様子、本当の所どうなのかよくわからない。 けどこの前みたいに、俺の顔を見たとたん飛んでくるようなことはなさそうだ。 「今日は水やりと、土の状態を見るくらいだよ」 「……少し雑草が多い気がするのだけど」 「雑草はいつも手分けして除いてはいるけれど――」 「夏はどうしても追いつかない。週に二度しか来ないし、育つのも早いから」 「ふーむ」 「ナコちゃん、お道具、結城さんのぶんも足りそう」 「でもジョウロとかは二つしかなかったの…どうしよう?」 「私は結城さんと一緒にプランターの方からまわるよ、説明もしながら」 「すももは……石蕗と花壇の水やりの方、お願いしてもいい?」 「う、うん、わかった!」 花壇は八重野たちがまわるプランターとはちょうど逆側の場所にある。 俺と秋姫はジョウロの中に水をたっぷりいれると、無言のままそこへと向かった。 花壇は八重野も言ったとおり、背の低い雑草が目立っていた。 秋姫もそのことを気にしてるのか、少し悲しそうな顔でジョウロを傾けている。 「(雑草……取ろうって言ったほうがいいのかな)」 そうすれば、秋姫は喜んでくれそうだ。 でも秋姫だったら、一緒に手伝うって言い出すかもしれない。 まだ昼前だけど日差しは結構強い。 「(秋姫、倒れそうだもんな)」 それよりも――。 悲しそうな顔してるのって、花壇に雑草がたくさん生えてるから……なのか? 「(……て、何をこんなに考えてるんだ?)」 「ん、な、なに?」 「えと…水泳の…再テスト、受かったよ」 「あ、そ…なんだ」 「良かった」 おめでとう。 やっぱりうまくいったんだ、よかったな。 ちゃんと泳げるようになったのは、秋姫が頑張ったからだよ。 頭の中には言いたいことが浮かぶのに……。 「(言えないよ、そんなこと)」 「ハルッ!!」 「ほらよっと〜」 とっさに伸ばした手の中に落ちてきたのは、良く冷えたペットボトルだった。 「こんにちはー」 「すももちゃん、帽子かぶらないで大丈夫?」 「え? う、うん」 「ナコさんとノナちゃんにもは〜いっ! 冷たいお茶だよ!」 突然現れたのは、圭介や深道たちだった。 みんな、水滴の光るよく冷えたペットボトルを手にしている。 「な、なんなんだ?」 「今日はちょうどみんな午後の予定なくってさ」 「そ、今日だけみんなで園芸部! って感じで遊びにきた」 「弥生、一回でいいからホースでお水びゃーってやるのやってみたかったんだよね!」 「……みんな」 「すもも、今日は温室の方も花壇も、全部まわれそうね」 「あ…う、うん」 「何でも言って! 夏って雑草がのびやすいでしょ?」 「おっ、じゃあ手分けして片付けよっか!?」 「そうそう、せっかく人数がいるんだから」 「すももちゃん、このジョウロ…フタがしまらないよう」 「あ、それはこうやって…ね」 「ここをひねってみるんだ、ふ〜ん」 「(…そうだ、これがいつもの秋姫だ)」 飛び入りでやってきたクラスメイトたちを教えるのは秋姫だった。 八重野はそんな秋姫をてきぱきと助け、結城のそばについている。 「でさ、その説明書になんて書いてあったかっていうと」 「なになに?」 「こまめに水をあげてください、なんだよ?」 「それをさ…何度も何度もめいっぱい水をやってて…最後は大洪水の後みたいになったんだ」 「あはは、けーくんのお母さんおもしろーい」 「ふふふふっ」 「秋姫さん、今度うちの母に『こまめ』の本当の意味を教えてやってよ」 「え、そんな…でも」 「実はまだ勘違いしてて、同じ鉢を買ってきては破壊を繰り返してるんだ」 「…ふふ…あははは」 「もう三個めなんだよな。いいかげんかわいそうになってきてさ、花が」 「あはは、さ、桜庭く…やめて…ふふっ」 「ちょっと圭介! まーたバカな話してるの?」 「バカ話じゃないって、うちで本当にあった怖い話だよ」 「あはは…桜庭くんち…きっと家族みんな仲良いんだろうな」 「え〜そうかなぁ」 「確かに圭介くんちは、パパもママもお姉さんもそっくりな気がする……」 「そういえば…同じだと思う」 「お…同じ?」 「うん、けーくんと同じ顔なの」 「そおかあ!?」 「ふ…ふふっ、ご、ごめ…笑っちゃダメだよね」 「やっぱりたくさんいると、楽しいな」 「そう、みたいですね」 「石蕗……そこはもうさっき、水まいたよ」 「ごめん。俺、温室の方の水まきやってくるよ」 「(俺は何やってるんだろう……?)」 圭介の明るい口調は、誰だって笑顔になる。 それはわかってる。 「(俺は……俺はなんでできないんだろう)」 屈託なく笑ってる秋姫の笑顔を見て、ほっとしたのに……。 次の瞬間にはそんなことばかりが頭をよぎる。 「(ああ……そっか……俺、秋姫の笑顔知ってるからな)」 俺が『ユキちゃん』の時に見せる笑顔。 それは素直で、自然で、今さっき見たような笑顔だ。 「(どうして俺……俺自身の時はそういう風にできないんだろう)」 「(どうして秋姫……黙るんだろう)」 どうして、と何度も思うけど、本当は原因なんてわかってた。 俺が不器用で、それをちゃんと直せていないからだ。 「つわ……ぶきくん?」 「ご、ごめんね…驚かせちゃったかな」 「あ…いや……」 「温室の方までお水やりにきてくれたんだ」 「えっ……あ、ああ」 「う、うん…俺も一応園芸部だしな」 「一応だなんて!」 「石蕗くんは、ちゃんとした園芸部の仲間だよ!」 「(秋姫……)」 秋姫は真っ赤になって俯いている。 俺の胸の中の何かが、コトンと音をたてて倒れた。 さっきまでぐるぐると頭の中を巡っていたことがすっかり消えていた。 「あの、あきひ――」 「はわっ」 「昼食…みんなで食べないかと言ってるようだけど――……」 「あ、う、うんっ」 「結城さん…は?」 「お嬢様〜っ、朗報でございま〜す! なんとか昼食のご用意が間に合いました〜!!」 「ご学友の皆様は7名でお間違いありませんよね〜??」 「結城さん、わたしたちのぶんまで…用意してくれたの?」 「松田がまた勝手にやったことよ」 「でも…ありがとう! 結城さんと一緒にお昼食べるのって、初めてだよね」 「松田はよく人数を数え間違えるから、もっと多くあるかもしれないわ」 「だから、キレイに食べるには全員で昼食会でもしないと無理かもね」 結城は少し照れたように頬を染め、早足で温室から出て行った。 「松田っ! やっぱり多いわよ!! 人数間違えたでしょう?」 「えっ、そそそんなことは……あっ!!」 「結城…薬きれたのかな」 「へっ??」 「や、なんでもない。結城、今日は普通だったなって思って……あの…前のプールの時と違って……」 「う…うん、そうだ…ね」 こういう時、どうしたらいいんだろう? 秋姫のこと、黙らせたいわけじゃない。 できることなら、笑顔を見たいって思ってる。 「(圭介みたいにできるかな)」 俺は秋姫に向かって、できるだけ明るい声で言った。 「俺たちも、行こうか」 「あ、きたきた」 「あのね、今みんなで話してたんだけど…ここにシートをひいてごはんにしようかなって思ってるの」 「ピクニックみたいでしょー」 「う、うん! 楽しそうだね」 「たぶん大きなシートが倉庫の方にあったと思う、取ってこようか」 「松田っ、手伝いなさい」 「ありがとう……こっちですけど」 「いえいえ! 私などにできることなら何でも仰ってください!!」 ああ……そうか……。 ただ皆で昼食を食べようってだけなのに。 みんな楽しそうに笑ってる。 なんでもないことなのに、心の中が軽くなる。 そうか、こういうの……なんだよな。こんな空気が笑顔にさせるんだよな。 「(俺も……秋姫も……)」 俺は秋姫の方を見た。 今の気持ちそのままで秋姫を見ると、最初は不思議そうに見つめ返された。 「あっ、そうだ…なあ、ちゃんと手洗いにいっておこ」 「あっちの水道のところに、セッケンがあるの」 「おっけー! あ、ノナちゃんも洗わなきゃバイ菌にやられちゃうよ」 「………? ど、どうしたの…かな」 「なんでもない、行こ」 言えない。 やっぱり俺まだ、いろんなことが上手に伝えられない。 暑さとか、笑い声とか、ふっと変わる表情とか……。 いろんなものが俺の体を通り過ぎていった。 「この姿の時の方が…絶対話しやすいんだよな」 結局、あの後みんなで一緒に昼食をとった。 秋姫は笑ってたし、俺も笑ったし、みんな楽しそうだった。 圭介も、深道も小岩井たちも……みんな自分の心を上手に言葉にできる。 「(いろいろ……俺も他の皆と同じように……なんで話せないんだろ)」 ため息を飲み込んで、俺は窓の方を見た。 「今日もし指輪の反応なかったら――いろいろ話せるようにがんばろ」 部屋に入ると、秋姫は本の片付けをしている途中だったようだ。 「な、なにっ??」 「……? 星のしずくの反応あるか、試してみるね」 「うん、わ、わかったー」 秋姫は窓をあけて、指輪を空に向かって差し出した。 しばらくそのままにしていたけど、何の反応もない。 「今日は落ちてこないのかな」 「そっそうだね」 「ねえユキちゃんっ」 「また練習しようか」 「星のしずくを採る練習!」 「あっ、う、うん! わかった」 二階のテラスに出た俺と秋姫は、前と同じようにボールでしずくを採る練習を始めた。 「……えいっ」 「じゃあもう一個」 俺が投げる小さなボールを、秋姫がキャッチする。 ある程度いろんな角度で投げても、秋姫はボールを落とさなくなった。 「結構うまくなってきたね!」 「ほんと? でも本番でちゃんとできなきゃね」 「できるよ」 「ふふっ、ありがと!」 それからも俺たちはしばらく快調に練習を続けた。 いつのまにか西の空に残っていた赤みは消えて、あたりはすっかり暗くなっていた。 「ふう。すもも、ちょっと休憩しようよ」 「今日はあんまり暑くないね、ユキちゃん」 テラスの隅に座った秋姫の髪が、ゆらゆら揺れている。 ちょうど吹いてきた涼しい風が心地よい。 あんまり秋姫が気持ちよさげに空を見上げているから、俺は言葉をかけるのをためらってしまった。 ……心の中、そのままを言葉にするんだ。 ……俺は今『ユキちゃん』だし、できるはず…だ。 「あ、あのさ……えーっと」 「えっと……ちょ、ちょっと気になってたんだけど」 「最近、ちょっと元気なかったよね」 「何か…あったの?」 「あ…あのさ、何か役に立つとか、そういうのわからないけど」 「……す、すももの力になりたいし、もし何か悩みとかあるなら……聞くけど……」 「あ、えと、話すのがイヤじゃなかったらだけど! うん」 俺の頭を撫でた後、秋姫はまた空を見つめて口を閉ざした。 「(やっぱり悩みごとなんか、なかなか打ち明けるものじゃないか……)」 いくらこんなにそばにいるっていっても……やっぱり。 やっぱりそんなこと、軽々しく聞くのは悪かったかな……。 謝らないと、と俺が顔をあげた瞬間だった。 「じゃあ、ちょっとだけ話しちゃおうかな」 「誰にもいっちゃダメだよ?」 「……あ、あのね」 「ユキちゃんって…いちおう男の子……だよね?」 ……一応ってなんだろう? そう思ったけど、とりあえずここは頷いておいた。 「そうだけど」 「あ、あの……ね、男のこって……例えば、かわいい女の子に好きって言われたり、キスしてって言われたりしたら…う、嬉しいのかな?」 「え、えーっと」 「そ、それは本人の好みとか、性格とか、そういうのによるんじゃないかな……」 「そっかあ……そうだよね…本人じゃないとわからないよね…」 「……ゴメン。相談聞くよなんていったのに……」 「えっ、あっユキちゃん、そんなっ! いいんだよ??」 「ユキちゃんの言ってること、当たってると思うもん」 「すももは優しいから、きっと思いは伝わると思うよ……」 「ユキちゃん! ありがとう……元気でたよ」 秋姫、そんな風に笑うんだ。 「好きな人いるんだよね……」 きっと秋姫は今好きな人のことを思って笑ってる。 誰のことが好きなんだろう。 秋姫、一体誰のこと思ってこんな顔するんだろう。 今わかることは、秋姫は誰かのことが好きで――。 俺は秋姫のその笑顔を見るのがほんの少しだけ、切なかった。 「ユキちゃん、学園ってどういうものかわかる?」 「わ、わかるよ、そりゃ」 「わたしの通ってるところは、星城学園っていうんだけどね…すっごく大きな学園なの」 ……確かに寮もあるし、このあたりでは一番生徒数も多いけど。 あんまりにも力説する秋姫の様子が、俺にはなんだか可笑しくてたまらなかった。 「一年前の春、入学式の時……わたしいきなり迷子になっちゃってね」 「その日はナコちゃんともはぐれて――」 「それで、校舎の一番奥に桜がたくさん植えられた場所があるんだけどね…そこに迷いこんじゃって、本当に大変だったの」 「桜の…ある場所」 「桜ってね、すっごく大きい木なんだよ。上の方に枝が広がってて、おまけにいっぱい植えられてるから…天井みたいになるの」 「とてもきれいなんだけど、まるで迷路みたいだった……」 「初めて来た場所で、しかもそんなところで迷子になっちゃって…わたし、ほんとに心細くって、ちょっと泣いちゃった」 「その時…わたしと同じ新入生の男の子が助けてくれたんだ」 一年前の春。 入学式。 そうだ、秋姫も俺も同じ日に初めて星城学園の門をくぐった。 同じ日、同じ時間、同じ場所――。 でも、桜ばかりのあの場所には、誰もいなかった。 見事な桜に目を奪われ足を運んだ俺と―…俺が見つけた、迷子の子以外には。 「どうしよ…ふっ…ええ」 ――誰だろ、誰か迷子になってる? 「ナコちゃん、どこ……?」 ――ああ、やっぱりそうだ。俺と同じ、まだ新しい制服。 ――桜を見に来て、迷ったのかな。 「戻れないよ…お父さん…お母さん……」 ――もうすぐ式が始まってしまうぞ。 「これがね」 「へっ、あ、うん」 「は…初恋…かな?」 「こんなのってヘンかな」 「え? そ、そんなこと…ないんじゃないかな……」 「……初恋は実らないっていうけど」 「そんなことないよね!」 うわ……聞いちゃった……。 秋姫はきっと、俺が『ユキちゃん』だからこの大事な思い出を話してくれたんだろう。 俺が本当は石蕗正晴だと知ったら……そんなことはないけど、もしも知られたら……。 秋姫は俺のこと、嫌うだろうか。 「もっともっと頑張っておしゃべりとかしなきゃ……あっ」 俯いていた俺の目の前に、ころんと何かが落ちてきた。 一歩前に出てよく見てみると、少し変わった包み紙のキャンディーだった。 「何か落ちたよ」 「(あれ? これ……前にも見たことがあるな)」 記憶をたどると、初めて秋姫の所へ来た日に繋がった。 初めて指輪が反応して、星のしずくを採りに行った時にも秋姫はこのキャンディーをポケットに入れていた。 「すもも、それ……前も大事そうに持ってたよね?」 「え? あ、うん。これはね、勇気がでるおくすりなの」 「勇気が出るくすり?」 「……ほんとは普通のキャンディーなんだけどね」 「小さい頃のわたし、すっごく恥かしがりやだったんだって。それでお母さんが『勇気のでるおまじないをかけておいたからね』ってくれたの」 「うん。外国のキャンディーなんだけど、今でも時々買ってきてもらってるんだ」 「勇気の出るおまじないかぁ」 秋姫はキャンディーを手のひらに乗せて、しばらくじっと眺めていた。 食べるのかな、と思っていると、秋姫は結局またそれをポケットにしまいこむ。 「あれ? 食べないの?」 「……勇気、自分で出さなきゃね」 「な、なんだ??」 「ユ、ユキちゃん! 本が光ってる!!」 「ほんとだ!」 「と、と、とにかく部屋にもどろっ」 いきなり光り出した本を抱えて、俺と秋姫は慌てて部屋へ戻った。 机の上に置いてしばらく様子をうかがっても、光は一向に消えなかった。 「ページ、開いてみようか」 「ボクが、しようか?」 「ううん、自分で開いてみる」 秋姫が本を開いたとたん、視界が一瞬真っ白になった。 「この…ページみたい、新しい言葉が…浮かんでる?」 「う、うん! ある! 少し長い言葉だよ」 文字ははっきりと浮かび上がっている。 光に目を細めながら、秋姫はその言葉を解読しはじめた。 「これは…る…ち、ちぇ、ね。」 「この部分も、る、だよ。る…び…かな」 「る、ちぇ、るび…あ…」 「わたし…この言葉知ってる…どこかで聞いたことがあるの」 「この言葉…発音の仕方、たぶん」 「ルーチェ…ルヴィ…アヴィス、だと――思う」 「すもも、指輪が」 「すもも、この言葉知ってたの?」 「うん、だってあの時――聞いたもの」 「ユキちゃん…試してみて、いい?」 「うん。すももができるようになったから、ページに言葉が浮かんだんだからさ」 秋姫は何かを確信しているようだ。 電気を消した部屋の中で、杖をしっかりと握りしめ立っている。 一呼吸、静かな部屋の中で秋姫が息を吸い込んだ。 「ひゃぅ」 「すご―…光の球がこんなに」 「やっぱり!! ねえ、ユキちゃん」 「ほら、初めて結城さ…アスパラさんに会った時に見たやつだよ!」 「あ! そ、そういえば!!」 「わたしにも使えるようになったんだ……」 そう言われて、俺もあの時のことを思い出した。 暗いプラネタリウムの中に浮かび上がったプリマ・アスパラスの姿――。 あれはこの言葉の力で、自分の周りに光の球を浮かばせていたのだ。 「でもどうして使えるようになったんだろう?」 「何か…すももの中で何か変わったから、とか」 「何か…なんだろう」 「さっきユキちゃんと話してた時――」 「……君のこと思ってたら、心の中がすごく温かくなったからかなぁ」 「へ? あ、な、なんでもないよっ」 「やばっ」 「きゃ、いけない…」 「すももちゃん?」 「お部屋の掃除中だった?」 「う、うんっ! ちょ、ちょっとだけ」 「お邪魔してごめんね」 「ううんっ、どうしたの? お父さん」 「明日、ちょっと買い物に付き合ってほしいんだけど…どうかな? しばらく締め切りで買い物にいけなかったから、結構な量になりそうなんだよ」 「明日…明日は……」 「もう何か予定が入ってたかな」 「ううん、お昼すぎまでなら大丈夫!」 「撫子ちゃんと会うのかな? もしそうならお昼を食べていってもらったら――…」 「違うの、ちょっと気になるお花があって…様子を見に行こうかなって思ってただけなの」 「ああ、園芸部のだね」 「うん。だからお父さんのお手伝いできるよ」 「それは助かった。それじゃ明日頼むね」 一息ついて部屋の中を見渡してみる。 さっき秋姫がきちんと積んでいた本が、部屋の隅でなだれを起こしていた。 「お部屋の中で『言葉』を試すのはやめた方がいいね」 「ホントだよ」 秋姫は苦笑しながら本を拾いだした。 俺も一冊ずつ運ぶくらいなら、秋姫の手伝いはできそうだ。 足手まといにならない程度に、俺は秋姫と一緒に部屋の片付けを始めた。 「そうだ…さっきお話の途中だったね」 「入学式の時の話」 「入学式の時に会ったその人とね、今年一緒のクラスになったんだ」 「でも、でもきっとわたしのことも、入学式のことも覚えてなかったんだと思う」 「だから……ずっと、ずっと上手におしゃべりできなかったの」 「ユキちゃんがわたしの所へ来てくれた次の日にね…園芸部に入ってくれたの!」 「本当に嬉しかった…今度は嬉しくて、上手におしゃべりできなくなっちゃった、ふふっ」 「(そうだったんだ)」 「あのね、まだ誰にも…ナコちゃんにまだ言ってないんだけど」 「わたしの好きなひと、石蕗くんっていうんだよ」 「―――!」 「ユキちゃん、ひ、秘密にしておいてね!」 「……はあ。言っちゃった」 「お、おやすみっ」 秋姫は真っ赤になって、頭からすっぽりとふとんの中にもぐりこんだ。 「――……あ、秋姫」 「……すう、すう……」 「そんな……ほんとに…お、俺なのかよ……」 秋姫は言ってた。 好きな人の前では上手に話せない、思いが伝えられないと。 それは俺も一緒だ。 好きとか嫌いとかだけじゃなく、俺はもともとそれが苦手だ。 秋姫は俺の名前を言った。 わたしの好きな人の名前だと……。 俺は――。 俺は秋姫のことが好き……なんだろうか。 秋姫が見せる、幸せそうな、でも少しだけ苦しそうな儚い……好きな人のことを思ってる笑顔。 その秋姫の笑顔を見た時、俺はそれは誰を思ってのことなのかすごく気になった。 「俺は秋姫のことが好き……なのか?」 言葉に出してみても、答えはわからない。 突然のノックにびくりとなる。 「……誰だろう?」 俺は体を起こし、ドアを開けた。 「麻宮?」 「ちょっと来い」 「いいから」 「え、な、なんだよっ、麻宮?」 突然やってきた夏樹は、そのまま無言で俺の腕を引き歩き続けた。 「ハルたん〜っ」 「……つれてきたぞ」 ロビーにいたのは冬亜と秋乃だった。 何故か両手にパンを抱えていて、二人そろってそれを俺の方へと差し出してきた。 「えっ? い、一体、なに?」 「んとね、これぜーんぶハルたんの朝ご飯! ってもうお昼ごはんにもなっちゃうけど」 「あ、あの…座って食べてね」 何だかわけがわからなかったが、とりあえず俺は椅子に座った。 腕の中に押し込まれたパンの一つを口の中に放り込むと、冬亜と秋乃がじっとこっちを見つづけていた。 「う〜〜ん」 「ねえトウア、本当にそう思う?」 「うん! トウアがそう感じた!」 「ねえ! ハルたんはラブラブで悩んでるの?」 「……げ、げほっ」 「ハルたんは好きな子にはどんな風に好きっていうのお?」 「い、いないし、そんなのわからないっ」 とっさにそう答えてしまった。 ウソだったけど、ホントのことも言えない。 「うんとね、だったらお手紙! ず〜っと大好きだよっていっぱい書くの!」 「ト、トウア、す、好きな人いるの!?」 「ううん、前の席の子が書いてた」 「お前…それ覗いたのか」 「えへへ、見えちゃったんだもん」 「でも手紙は…嬉しいね」 「うんっ。でもトウアはいっぱい会っていっぱいお話の方が嬉しいかも〜」 「あれれ? ハルたん元気なーい、もっとお腹いっぱい食べて食べてっ」 「あっ、い、いいよ…もう」 「いいの? まだまだあるよ」 一つ食べ終わっても、冬亜は納得してくれなかった。 秋乃も冬亜と同じく、おずおずとこれはどうですかとばかりに別のパンを指差している。 「あ、あの……もう……」 「トウア、もういいってよ」 「そんなに一気に食えないだろーが」 「えぇっ!? そうなんだ。ハルたんおっきーからいっぱい食べると思ってたのにぃ! だからいっぱい買っておいたんだよ」 「そう……なんだ」 冬亜も秋乃もコクコクと頷いた。 腕の中に押し込まれた大量のパンは、この二人が俺のためにと用意してくれたものだったのか。 「別に何に悩んでても構わないけど――飯はちゃんと食べろ」 「あ…ああ…」 「じゃないと、こいつらが石蕗はどうしたんだってうるさいんだ」 「(心配してくれてたのか?)」 なんだか申し訳なかった。 それと、俺がいろいろ考えていたことに気づいてくれて……ありがとう。 全部を言葉にできないかわりに、俺はもう一個、パンをかじった。 「あのね、ハルたんって、手も足も長くて大きいから、トウアたちよりももっと早く遠くまで行けると思うの」 「……あ、でもだから余計にぐるぐるしちゃうのかなぁ」 「ぐるぐる?」 「最近の石蕗のことだよ」 「なんか、同じとこでぐるぐる回ってるみたいだって意味」 「――わかってるよ」 「……ま、いいけどさ」 同じところでぐるぐる回ってる。 夏樹は俺の状態をぴたりと当てた。 俺は同じところでずっと同じことを考えている。 「(……秋姫)」 「きゃぅ」 「ほええ??」 「ごめん。パン、ありがと」 「俺…ちょっと用事思い出した。残りのは、また帰ってきてから食べる」 「ハルたん?」 「昨日、昼過ぎからならって言ってたから――まだいるかな」 確かな約束なんてしてない。 そこに秋姫がいるかなんて、わからなかった。 それでも俺は園芸部へと向かって、がむしゃらに走り出した。 「いない? もう…帰ったのか?」 「こっち……にはいないかな」 温室の中はシンとしていた。 ガラスごしの昼下がりの陽光は柔らかく、まるでここだけ時間が切り取られたようだった。 「(秋姫、いないのかな……)」 「び…びっくりした…石蕗くん、どうしたの?」 そうだ……今日は園芸部として出てくる日じゃない。 昨日の夜、秋姫が行くと言ってたから俺はこうしてやって来た。 「あ、その」 そんな理由、言えるわけない。 大慌てで、俺は頭の中に浮かんだことを口にした。 「ほら、前にみんなで花壇や温室の雑草とりした時…さ」 「なんだか、ここに植えてあるの、気になった……から」 「石蕗くん、本当によくお花のこと見てくれてたんだね…わたしも同じ」 「このお花、ちょっと育て方が難しくてね、よく見てあげないとすぐに枯れちゃうの!」 「そ…うなんだ」 ……なんだか後ろめたい。 本当のことは言えないけど、純粋に喜んでる秋姫の顔を見ると心がちくちく痛んだ。 「ちょ…ちょっと嬉しい、石蕗くんが気づいてくれたなんて」 「へ? あ、ううんっ」 ふっと顔をそらした秋姫の頬は、なんだか少し赤かった。 その赤さと、昨日の話が頭の中で混ざり合って、俺も何も言えなくなってしまう。 そんな風に黙り込んだ俺と秋姫は、同じタイミングで花壇の隅にしゃがみこんだ。 「あ、べつに」 音の無い温室の中――最初はすごく辛かった。 だけど一生懸命に花を世話している秋姫を見て、次第にそうじゃなくなっていった。 むしろ静かに土をなでたり、水が流れたりする音が耳に心地よくなっていった。 「(なんだか落ち着くな、こういうの)」 ふと秋姫の方を向くと、秋姫もちょうど顔をあげた瞬間だった。 目が合って、そして一瞬だけ目をそらした後、秋姫は微笑んだ。 「ふう、あ…夕方になっちゃった」 「もうそんな時間?」 温室の中にいたせいで気づかなかったようだ。 もう陽はかなり傾いている。 「(しまった、もう時間が――)」 「あ、あの、つ、石蕗くん」 「あのね…あの…石蕗くん…」 「わたし……」 「あの、こ、こっちに…ちょっとだけこっちに来てほしい…な」 突然立ち上がった秋姫は、温室の真ん中へと駆け出した。 ドーム状になった天井の一番高い場所の真下――秋姫はそこで立ち止まり俺を手招きしている。 聞いてみても、秋姫は唇を結んだままそこに立っている。 秋姫がせかすように手を振るので、俺はともかくそこへ歩み寄った。 「秋姫、一体どうし……」 そう言おうとした瞬間――。 「……すごい、な」 「うん、夕方のほんのちょっとだけの時間…こんな風に光るの」 「きれいだよね」 「うん、きれいだ」 いつも見ている温室が、こんな風に姿を変えるなんて――。 天井のガラスが、夕陽を呑みこんで赤く光る。 丸みを帯びた形とガラス自体の曇りが、その赤を優しく中和していた。 真っ赤な夕焼けの陽光が、ふわふわと軽くなって俺と秋姫のもとへ降り注いできた。 「どうした…の?」 ……秋姫が俺を見つめていた。 「あ、あの、あのねっ」 「ふ…ふた……」 「ここ…あの、ふ、二人…」 「二人だけのひみつにしておいちゃ、駄目…かな」 「そ、そ、その…あの」 「えと、ヤだったらいいの…へ、ヘンだよね、ひ、ひみつなんて…」 「そういう意味じゃなくて、その――」 カチンと胸の中で何かが鳴った。 俺がずっと秋姫に言えなかった言葉をほどく、小さな音だった。 「秋姫、俺と二人になるのって…イヤなのかって思ってた、ずっと」 「そ、そんなっ」 「そ、そんなことないよ、ち、違うよっ」 「なんか…ごめん」 「あの…あのっ」 「なんだかさ、秋姫にすごく気を使わせてたと思うんだ…今まで」 「俺、ほんとに、いろいろ――うまく話したり」 「誰かに気を使ったりとか、そういうの本当に苦手で、いつも……ごめん」 「ち、違うよっ」 「それは……あの、つ、石蕗くんのせいじゃなくて」 「わたしが、わたし…勝手に緊張…しちゃって…だ、だから」 「石蕗くんのせいじゃないの!」 「――…!!」 「秋姫――」 「な、な、なに?」 「ウソなんだ」 「花壇が気になったからここへ来たって、ウソなんだ」 「えっ、あの、そ、そうなんだ」 「でも…ど、どして?」 「探してたから」 「えっ? な、なに…を?」 「秋姫のこと、探してた」 「は、はぃ」 「俺、秋姫のこと、好きだ」 「あ……あ…」 「秋姫探して、見つかったら、言おうと思ってた」 「俺…秋姫のこと…好きになってた」 「そ、それだけ」 「………あ、う…」 ――言ってしまった。 あんなに迷ってたのに、俺の本当の気持ちはどうなんだって悩んでたくせに……言葉にしたとたん、止められなかった。 秋姫は黙っている。 どんな顔してるのか、わからない。 黙ったまま俯く秋姫の顔を、俺は見れなかった。 「(驚いてる……だろうな)」 秋姫が教えてくれた温室の中の特別な時間は、もう消えゆこうとしていた。 俺の心を後押ししてくれた陽光はもうグッと西へ傾いている。 「(もう日没まで時間がない!!)」 「ご、ごめ…俺ちょっと戻らないと――」 「あ、えっ、あの」 「ごめん、ま、また今度――……」 「は…えっと…あ、あれ?」 「えっ、今の…あぅ…つ、石蕗く……わた、わたし…えぇ!?」 「はぁ〜…青春ですな〜」 「すももちゃん……よかったね、星のしずくを七つ集める前にもう、願いを自分の力でかなえたんだね」 「僕が余計なことをする必要も無くなったな」 「それにしても……石蕗君もわかってないなぁ。いくら時間がないからって、女の子をおいてけぼりにしてっちゃ」 「なんか…あんなこと言ったあとで…俺どんな顔すれば……」 あの後、大慌てで帰った俺は部屋に戻った瞬間に変化した。 秋姫には悪かったけど、あそこで帰らなかったら大変なところだった。 あんな帰り方をしたのに、またすぐに顔をあわせなきゃいけない。 でも、だからこそ行かなきゃいけないような気もする。 ど……どうしよう。 「……やっぱ帰ろうかな」 「ユキちゃーん!!」 「わわーっ」 「ユ、ユキちゃん」 「あ…ぅ…すも…も?」 いきなり掴まれて部屋の中にひきずりこまれたかと思うと……。 目の前に真っ赤になった秋姫の顔があった。 「ユユ、ユキちゃ、きいてぇえ!」 「げほっ、す、すもも苦しっ」 「ど、ど、どうしよう、ユキちゃん、わたっ、わたしっ」 「……ぅうっ」 「あ…ご、ごめん」 「……は、はあ……」 「どうしよ…ユキちゃん…わたし…す、すきって……」 「夢…だったのかな、わたし、ずっとお昼寝してたとか――」 「で、でも…うん、やっぱり違う。ちゃんと行ったもん…」 「――どうしよう」 「どうしよーうっ」 「(俺の方が、どうしよう…だよ)」 「うぅう……」 そんな日々が始まって、もう三ヶ月以上たつ。 そしてあの日から……秋姫に告白してしまったあの日以来初めての、秋姫と顔を合わせる日だ。 ユキちゃんじゃなく、石蕗正晴として……。 「早く支度しないとな」 ベッドから起き上がり、つるしたままの制服に手をかける。 今日は始業式やホームルームだけだから、荷物はそんなにない。 カバンを持ち上げた時、足元に何かが落ちた。 「俺…何やってるんだろ」 折りたたみ式の携帯電話。 いまだに、それは俺の手になじんでくれない。 あれは夏休みが終わる数日前、突然の出来事だった。 「小岩井…?」 寮の管理人さんから『お友達が来ていますよ』と言われて出て行くと、ロビーにいたのは小岩井だった。 「突然ごめんね」 「あ…いいけど、なに?」 どうして小岩井がここに来たんだろう。 そんな疑問を持つ間もなく、小岩井はまた突然俺に問いかけてきた。 「石蕗くんって携帯持ってた?」 「は? 持ってないけど」 「ちょうど良かった〜! あのね、うちの通りに新しくできたお店があって、今なら超お得なんだって」 「へ? 小岩井…?」 「でもね、もうすぐ終わっちゃうの。夏休みキャンペーンだから」 「だ、だから、なんで俺が――…」 「これからはぜ〜ったい持ってた方がいいと思うんだけど…だって寮って自分のお部屋に電話ないでしょ? 秋乃ちゃんから聞いたんだけど」 「あ、ああ…でもロビーにはある。それにそんなに電話なんて使わないし」 「今までは…ね」 「(何? 何の話なんだ?)」 全く話がつながらない。 携帯電話を持つ持たないなんて話を、どうして俺は小岩井としてるんだ? 「見て! これ私の携帯。すももちゃんと同じ機種なの。すももちゃんは持ってるんだよ」 「――な!?」 「あ。赤くなってる…やっぱり当たり」 「ち、ちがっ」 「な、な、なっ」 「すももちゃんは何も言ってないよ。私のカン。そういうのよく当てるんだ〜」 「あ、大丈夫! 誰にも言ってないし、信子たちは全然気づいてないと思う。でもホントに当たってるとは…ちょっとびっくりしたわ」 「じゃ、早速携帯買いにいきましょ!」 「へ? い、いいよ」 「いるから!」 「そういうのなかったら、絶対寂しくなるもん!」 「さ、さみしい?」 小岩井は大きく頷き返して、一歩も引かない。 「……ほ、本気?」 「すももちゃん…ずっと石蕗くんのこと好きだったと思うから」 「………こ、小岩井、おまえ」 「も〜やぁあっと友達の中でカップル成立したんだから! 絶対うまくいってよね!!」 「うあっ」 「あと、今携帯つくったらすっごく可愛いノベルティがもらえるの。それ、私がもらってもいい?」 こうして、結局俺は携帯電話を買うはめになってしまった。 「小岩井ってあんな性格だったんだ……」 無理やりつれていかれた携帯ショップ。 そこで一番安い機種とプランを選んでいる俺を尻目に、小岩井はノベルティーとかいう小さなぬいぐるみをもらっていた。 「あの強引さ…なんだか…うちの姉に似てるな」 でももしも、秋姫に告白してなかったら。 自分が秋姫のことが好きだったって気づいてなかったら。 「買ってなかったよな…」 取り扱い説明書はもう目を通したし、一通りの機能はもう使いこなせるようになった。 なったけど……。 教室に入ると、久々に揃ったクラスメイトたちの楽しげな話が耳に入ってくる。 でも俺の耳にはなんだか何もかもが遠い。 ぐるりと教室を見渡して、俺は秋姫の姿を見つけた。 「石蕗、おはよう」 「お、おはよっ」 短い挨拶のあと、秋姫は自分の席の方へと駆けていった。 後を追った八重野は不思議そうな顔をして、一度だけ俺を振り返った。 「すももちゃん、どうしたのかな? ちょっと顔が赤かったね」 「そだね、なーにかヘン。石蕗、何か知ってる?」 「し、しらない」 ポケットの中に入れた携帯が、やけに重い。 久々に顔を合わせたクラスメイト達にさえ、うまく顔を合わせられない。 「(俺、どうすればいいんだろう)」 誰にも聞けない問いかけを飲み込む。 結局一度も秋姫と言葉を交わすことができないまま、始業式を告げるチャイムが鳴った。 始業式もホームルームも終わった教室の中は、どこかまだ休み気分の取れない声がそこら中で飛び交っている。 みんなすぐに帰宅せず、夏休みにあったことをそれぞれ語り合っているようだった。 「八重野さん」 「今日は園芸部、あるのかしら?」 「ああ、ええと……少し待ってて」 「今日は始業式だし、クラブ活動はなかったと思うんだけど……どうだったかな」 「え、えーと……ど、どうだろ…うーん」 「石蕗は知らない?」 八重野が突然俺の名を呼んだ。 顔をあげると、秋姫と八重野、それに結城が並んで立っていた。 「如月先生、何か言ってたかな」 「あ、クラブのことか…ごめん、わからない」 ぼんやりしていた。 八重野たちはクラブのことを話していた。 俺も同じ部員なんだし、話し掛けられてあたりまえだ。 でもやっぱり秋姫は俺を見ないし、俺も目をそらしてしまった。 「八重野さん、今日は確かどこのクラブもお休みだったと思うよ〜」 「やっぱりそうだったんだ、ありがとう」 「活動はないのですね」 「では……今日は帰ります。迎えも来ているので」 「あ、お嬢様〜、今日はお帰りの時間早いのですね〜」 結城は俺たちにも優雅に会釈して帰っていった。 「……じゃあ今日はどうしようか…すもも?」 「え、あ、な、なに?」 「クラブ、ないから……まっすぐ帰る? それとも」 「あ……う、うーん」 「お、俺? 夕方までなら別に」 八重野はしらない……のかな。 俺が秋姫に告白したこと、聞いてないんだろうか。 知ってて俺と秋姫の時間を作ってくれてるのか、友達として秋姫と同じくらい気遣ってくれてるのか、正直わからない。 「ねえっ」 「よかったらさ、みんなで『らいむらいと』行かない?」 「……小岩井は?」 「ふーちゃんはお店のお手伝いだから、先に帰っちゃったー」 「圭介も行くし、石蕗もおいでよ」 「えっ、オレ入ってるの!?」 「……すももはどうする?」 「…う、うん…い、いこうか…な」 秋姫の視線がとまどいながらこっちを見る。 一緒に行こう、って意味なのか? それとも行かない方がいいってことなのか? 「俺はどっちでも……かまわないよ」 「じゃ、決定! みんなで行こう」 「みんなでいこーっ!!」 「(あ…もしかして……)」 秋姫の視線の意味がわかった…と思う。 秋姫はどうやら俺のことを心配してくれてたようだ。 「……よ、よかった」 深道たちは早速帰り支度を始めている。 秋姫も八重野も、圭介たちにはやされて慌ててカバンを手にしていた。 「(よかった)」 秋姫にも、それから俺自身にもあった緊張がほんの少しほぐれた気がした。 「いらっしゃいませ……あ、みんな!」 「よっ! みんなで来ちゃった!」 「きちゃった〜」 「ありがとう! ちょうど今お客さんが切れちゃった時間だったのよー!」 大喜びした小岩井に案内され、俺たちは店の中で一番大きなテーブルに通された。 「さてさて、ご注文は何になさいますか?」 「じゃあ…このオススメ花鳥風月セットってやつ」 「やーん、それ弥生が頼もうと思ってたのにー!」 「オレはこの抹茶のセット」 「私はいつもの……すももはどうする?」 「わたしは……えっと…これ」 「はいはい〜、白玉とお抹茶アイスね。石蕗くんは?」 「あ……俺は……これで」 「は〜い、ご注文ありがとうございました〜」 「あー、やっぱりこっちにすればよかったぁ」 「……確かにそれは今しか食べられない」 「えええっ! そうなんだ」 「わかったわかった、また近いうちに一緒に来よう、弥生」 皆『らいむらいと』によく来るのか、迷う事なく注文を決めていった。 小岩井が厨房のある店の奥へと戻ると、何気ない雑談が始まった。 最初はずっと聞き役ばっかりだった八重野でさえ、次第に笑みをこぼしぽつりぽつりと夏の出来事を話している。 そんななか、俺と秋姫だけが取り残されていた。 秋姫はちゃんと皆の話に耳を傾けていたけど、やっぱりいつもと少し違う。 時々視線がさまよい、俺の近くを通りすぎてはテーブルの上へと落ちた。 「わー、きたきたっ!!」 「おまたせいたしました〜♪」 「帰る途中で食べる甘いものって最高だよね」 「小岩井さんちのお菓子ってさ、甘すぎないのもいいんだよな」 「うふふふっ、そんなに喜んでもらえると嬉しい! 目一杯食べていってね〜」 「……いただきます」 「ねえねえ、夏休みって何かあった〜? 旅行とか、遊びに行ったりとか」 「……何もなかったなぁ」 「すももちゃんは?」 「え? あ、わたしも旅行とか、そういうのなかったよ。あっ、みんなでサマーキャンプ行ったのは楽しかったけど……」 「そっかぁ、もうあれから二週間以上たってるんだね、夏休みって過ぎるの早いなぁ」 「オレもそう思う……」 「私は泳げるようになった」 「あ、わたしも……夏休みの補習で」 「えっ、ほんと?」 「そうなんだよね〜、八重野さんって運動神経バツグンなのに、水泳だけ苦手なんだよ」 「で、でもナコちゃんもう上手に泳げるんだよ」 「すご〜い、じゃあもうスポーツなんでもOKって感じ?」 「そんなことない、泳ぎなら石蕗の方が上手だったから」 「それにすももも、結構泳げるようになったよ」 「えへ、そ、そうかな〜」 「ちょっとちょっと、八重野さんに誉められてるってスゴイことなんだよ?」 「あ、ご、ごめん」 「そうそう、石蕗くんってこの間携帯買ったんだよね〜」 「この前、近くの携帯ショップで見かけちゃったんだもーん」 「こっ……」 ……小岩井、何のつもりだ? 言いかけて、慌てて呑みこんだ。 小岩井は何か企んでるような目で、にこにこ俺の顔を見ている。 「えっ、ほんと!? なーんだ知らなかったよ。どんなの?」 「見せて見せて〜」 渋々携帯をポケットから出し、テーブルの上に置く。 一番に手を伸ばしてきたのは圭介だった。 「あれ、なーんも登録されてないじゃん」 「ま、まだ持ったばかりだし」 「ホントだ、ちょっと私たちのアドレス登録しといてよ〜」 「な、なに? イヤだった?」 「あ、そ、そんなんじゃなくて」 「……登録の仕方、まだ覚えてない」 苦し紛れのウソだった。 真新しい携帯が、木製のテーブルの上でひどく浮いて見える。 「なんだ〜、じゃあ自分で登録しよっと」 「ハルのアドレスもこっちに登録していい?」 「あれ〜? ナコさんは〜?」 「私は携帯持ってないの」 「機械とか、そういうの苦手で――」 「なんだか意外だなぁ」 「(……やっぱ、みんな持ってるもんなんだな)」 皆それぞれ自分の携帯を取り出して、ボタンを押している。 俺の携帯はどんどんその輪の中をまわされていった。 「(秋姫も携帯持ってるって……小岩井が言ってたもんな)」 秋姫もおずおずと携帯を出している。 恥かしそうにしている秋姫の顔を、俺はじっと見つめてしまった。 「はい、すももちゃん。次はすももちゃんがアドレス入れる番だよ」 「へっ? あ、あっ、うん」 雨森から手渡された俺の携帯を、秋姫はそっと両手で包んだ。 俺の携帯がテーブルの上に転げて落ちた。 そんなに高い場所からじゃなかった。 だけど落とした秋姫の方は、今にもこぼれそうなくらい大きく目を見開いていた。 「ご、ごめ、ごめんなさいっ」 「あっ、いいよ…そんなの」 「キズとか、つ、ついてない?」 「う、うん……大丈夫」 「……は、はい」 すまなさそうな顔で、秋姫は携帯を手渡してくれた。 小さな手の指先が、ふるふる震えてた。 「(……俺、やっぱり来なかったほうがよかったのかな)」 「あのさー二人とも何かあったの?」 「ひゃぅ……え?」 「あ……う…」 「別に」 「別になにもない」 「なんでもないの……な、なんでも……」 「ふ〜ん、ならいいけどさ」 小岩井のため息の後、何故か皆一斉に黙ってしまった。 食べかけの和菓子やアイスを口にいれ、でも何か言いたげな空気が流れてくる。 「すもも、アイスが溶けてしまう」 「あ、お客さん……じゃあみんな、ゆっくりしてってね」 「ふーちゃん、お仕事がんばって〜」 「いらっしゃいませ〜」 また新しいお客が入ってきた。 何組かのグループが、テーブルの空き具合をうかがっている。 「お客さん、増えてきたね」 「そろそろ出ようか、私たち」 「ふーちゃん、ごちそうさまでした」 「おいしかった」 「よかった、またみんなで来てね」 「バカ圭介っ」 「いてえっ」 「痛いな〜なんだよ〜」 「けーちゃんはホントにそーいうとこ、直さないとダメだよ」 先に店を出ていた深道たちが、何だかもめてるように見える。 弱った顔をした圭介が、こっちを時々振り返った。 「すもも、おいしかった?」 「え? あ、うん! いつも美味しいね、らいむらいとのデザート」 「でも、ちょっと溶けてしまってた」 「もっと早く気づいてあげれたらよかったのに」 「アイスが溶けてること」 「ア、アイス……ううん、溶けても美味しかったよ」 八重野は秋姫の様子に気づいているのか、いないのか、いつものとおりに接していた。 俺は……やっぱりまだおかしい。 さっき秋姫が触れていた携帯をポケットの中で転がして、俺はずっと地面ばかり見ていた。 「ねえ、八重野さんたちはこれからどうする? もう帰っちゃう?」 「うん、帰ろうかな――すももは?」 「あ、う、うんっ、一緒に帰る」 「じゃあ石蕗くんたちは帰るのね〜」 「弥生たちはのんちゃんち遊びにいくつもり〜」 「圭介っ! あんたもうち来るんだからね!」 「じゃあ、また明日っ」 「ちょ、ちょっとまってなんでオレまで――……」 「み、皆……どうしたのかな」 「私はすももの家まで一緒に送っていくけど……石蕗は?」 「……あ、俺も行く」 「じゃあ一緒に行こう」 街中は少しずつ赤く染まり始めていた。 俺と、秋姫と八重野……。 三つ並んだ影も、どんどん長くなってゆく。 「珍しいね、石蕗も一緒の帰り道」 「たまにはいいかなと思って……」 「ぶ、部活、明日はいつも通りあるのか?」 「う、うんうん。明日はあるよ、ねっねっナコちゃん」 「そうだね、明日はいつも通りかな」 八重野がいてくれたから、秋姫は言葉を絶やすことはなかった。 俺は言葉を探し、アドレスの増えた携帯をポケットの中で弄んでいた。 とてもじゃないけど秋姫ときちんと話すことなんてできない。 斜め前を歩く秋姫の背中を見ると、風呂場で見てしまった裸が重なってしまう。 「(バカ、なんで今そんなこと思い出してるんだよ)」 それがすごくいけないことに思えて、俺はずっと俯いたままで歩いた。 「な、ナコちゃん?」 「ど、どうかしたのかな」 「別にどうもしないよ」 「そ、そう? なんとなく今―…」 「私、道場の掃除を頼まれてた」 「道場の掃除?」 「薙刀の道場。今日、私が掃除の当番だった」 「大変だな、八重野」 「そうでもないよ。あの……石蕗」 「私はこのまま直接道場まで行く、だから、すももを家まで送ってくれる?」 「だめかな。すももが一人だと心配だから」 「そ、そんな、ナコちゃん! わたし一人でも大丈夫だから!!」 「つ、石蕗くん!?」 「そっか。良かった」 「石蕗、すもものことお願いね」 「ナコちゃん!!」 「二人とも、また明日」 「それじゃ、お先に」 八重野は勢いよく駆け出してから、自転車に乗った。 その後姿を秋姫と見つめていたけど、あっという間に見えなくなってしまった。 「それじゃ、家まで、だよな」 「あ、う、うん! ありがとう」 「(参ったな……)」 「(八重野……気を利かせてくれたのかな)」 さっきまでと違い、秋姫は俺のすぐ隣を歩いている。 今までだってこんな風に秋姫を送っていったことはある。 「(俺と秋姫って……一体どんな関係なんだろう)」 恋人……だったらいいと思う。 俺は好きだって言ったし、秋姫も俺のことを好きでいてくれている。 でも、俺も秋姫も何も変わってない。 「ご、ごめんね、送ってもらっちゃって」 「いや、女の子が一人なのもどうかと思うし、八重野もそう言ってたから」 「そ、そか、うん……そっか、な」 秋姫も話さないし、俺も何を言えばいいのかわからないし……。 何も言葉がでてこない。 「……ど、どうしよ、どうしよ」 「(やっぱり俺から……いろいろ話すべきなんだろな、俺から言ったんだし)」 「……あ、あぅ……言わなきゃ…なのに……」 「(と、とりあえず何か言わなきゃ)」 「あ、あのさ、秋姫」 「え、えっと。俺、どうしたらいいかな」 「俺、あんまりしゃべらないからさ……楽しくないよな」 「(……しまった)」 今の言い方じゃ、まるで秋姫が悪いように聞こえたかもしれない。 こんな言い方するんじゃなかった。 もうちょっと、考えて言えば良かった。 「ご、ごめん、今のはさ――」 「え、えっと、あの」 「わ、わたし、あの」 「あ、あの、まだ…わたしのほうこそ、お返事を…考えないと…いけないよね」 「へ、返事!?」 「(返事って、秋姫の気持ちはもう俺、知ってるのに……)」 ――あ、そうか。 俺は『ユキちゃん』の時に秋姫の気持ちを聞いたから、そのことを知ってるんだ。 でも、秋姫は自分の気持ちをまだ俺に伝えていないと思ってる。 「そっか……だから、か……」 「あ、家……」 いつの間にこんなに歩いていたんだろう。 見覚えのある角にハッと顔をあげると、秋姫の家がもう目の前だった。 「ついたな」 「あの、送ってくれてありがとう、石蕗くん」 秋姫はすぐには家に入らず、そわそわと視線を漂わせている。 俺もそのまま、秋姫の前で立ち尽くしていた。 「(あれ…俺が帰らないと、秋姫も家に入らないのかな)」 「あ…あぅ……えっと…お、おへんじ……」 「えっと、わ、わたし」 さっと秋姫の横顔が真っ赤に染まった。 俺は慌てて空を見上げた。 暮れてゆく空の端で、太陽が今にも姿を隠そうとしていた。 「あっ、や、やば」 「へ? つ、つわぶきく……」 「秋姫、ごめんっ」 「えっ? ええっ?」 「ちょ、ちょっと俺、急いで帰らなきゃ……」 「えっと、へ、返事待ってるな!」 「そ、それじゃまた明日!」 「あ、あう、あの!」 「(ごめんな、秋姫)」 ……返事なんて、いらないのに。 さっき秋姫が言った言葉が、未だに忘れられない。 つい『返事は待ってる』だなんて答えてしまったけど。 「付き合ってるって思ってたの……俺だけだった…のか?」 そう思うと、何もかもが恥ずかしくなってくる。 「ほんと……俺…何やってるんだろ……あっ」 悩んでいようがいまいが、俺の体は日没とともに変化する。 何よりキツイのは、俺はまた秋姫のそばに行かなきゃならないってことだ。 そばにいられるのは嬉しい……けど。 「……行くか」 重い気分を振り払い、俺は本の上に飛び乗った。 「こ、こんばんは……」 「今日は少し遅かったね」 「あー…う、うん」 「すもも、星のしずく……」 「あ、うん、ちょっと待ってね」 秋姫は俺を机の上に乗せてから、手を掲げた。 窓の外に広がる夜空は良く晴れて、星が瞬いている。 星のしずくが落ちてくるには、もってこいな感じだ。 「今日は――落ちてこないのかな」 「みたいだね」 秋姫は窓を閉め、再び椅子に座った。 やっぱり元気ない…のかな。 星のしずくが落ちてきたらよかったのに。 そうしたら、きっとしずくを採ることに集中して、時間なんてあっという間に過ぎてしまうだろうから。 物憂げに俯く秋姫を見て、俺はそう思ってしまった。 「そういえば、あの……どうなったの?」 秋姫が顔をあげる。 俺は視線をそらした。 そしてそのまま、話を始めた。 「えーと、告白された……の話」 「うん、お返事をね、待ってるって……」 「嬉しくないの?」 「そ、そんなことないよ! とっても嬉しいよ!」 「よ…よかったね」 「(どうしてだろ)」 秋姫の表情は沈んでる。 ……秋姫は俺のこと、好きじゃなかったのかな。 そんなはずはない。 ……でも秋姫はなんだか苦しそうだ。 ……前よりずっと、苦しそうだ。 「ユキちゃんには好きなコとか、いないの?」 「――へっ!?」 「ぬいぐるみの国に置いてきた恋人さんがいるとか」 「(そ、そんなの、目の前にいるなんて――)」 「〜〜っ!?」 「た、たいへん…大丈夫?」 「うっうん」 「(中身、熱いのじゃなくってよかった……)」 「ひゃっ、ユキちゃん、背中がびしょびしょだよ」 体をねじってみると、背中一面にうっすらとお茶の色がにじんでいた。 「早く洗っちゃわないとシミになっちゃう!! どうしよう……」 「そうだ、今からお風呂入ろうと思ってたから、ユキちゃんも一緒に入ろう?」 「お水で洗うより、キレイに落ちると思うし……ね?」 「ちょっと待っててね! すぐに用意するからっ」 「えええーっ!?」 ――ちょっと待って。 それだけは避けたい。 このままじゃ、一緒に風呂につれてかれる。 秋姫、ちょっと待って!! 「お父さーん、わたし今からお風呂入るね〜!」 ユキちゃんが見つからないようになんだろう。 俺を後ろ手に抱えた秋姫は、どんどん風呂場へと近づいていってる。 「そうだ、今日はこの入浴剤を使おう」 「ねえユキちゃん、これってすごく楽しいんだよ? お風呂が泡々になるの!」 「お風呂、やっぱりいい」 「ココで待ってるから、すももだけ入ってきてよ」 「ダメ、だってユキちゃんを洗ってあげないといけないもの」 「そ…それはその……水道でかまわないよ」 「お湯の方がちゃんと落ちるよ? ね?」 「だだっこはだめだよ、ユキちゃん。めっ!」 「ちょっとここで待っててね」 もしかしたら、さっきまでの落ち込んでいた気持ちまでも流してしまおうとしてるのかもしれない。 俺にはわからなかったけど、もし風呂に入って秋姫の気持ちが晴れるならそれでいいと思う。 だけど、俺が一緒に入るなんて――。 「(こ、こっそり逃げるか? で、でも階段も昇れないし……秋姫の部屋にも戻れないかも……)」 とにかくこの場から離れないと!! 「あ、ユキちゃんっ! タオルひっかけちゃだめだよ〜」 「(どうしようどうしようどうしたらいいんだ、俺)」 「はい、準備できました。さ、お風呂に入ろうね!」 「シャワー、熱くないよね? じゃあ洗ってあげる」 「(う、うわ、くすぐった……い)」 「良かった〜! キレイに落ちたよ」 「(み、見ない見ない……)」 「ふう……やっぱり泡々のお風呂は気持ちいいなぁ」 「(あわあわ?)」 「も〜ユキちゃんってば!」 「さっきからずーっとお返事してくれないっ」 「は…う………」 「もしかしてユキちゃん」 「お風呂がキライなコなんでしょ?」 「だってさっきからずっとイヤイヤしてるんだもん」 「そ、そんなじゃなくて」 「ちゃーんとお風呂に入らなくちゃダメです!」 「あ……うう」 「ぬいぐるみの国にはお風呂はないの?」 「そ、それはその――えっと」 「ユキちゃんはふわふわなんだから、ホコリがつきやすいんだよ?」 「それにユキちゃんは真っ白なんだから、気をつけなきゃダメっ」 「は、はい……」 「はふ〜、お風呂気持ちよかったね」 「ユキちゃん、のぼせたの?」 「……ん…うん」 「大丈夫? ここで横になって」 「……んん」 「(な…なんで俺……こんなことになってるんだよ)」 秋姫の裸、見たかったワケじゃない……って言い切れない。 それにサマーキャンプの時だって見たことある。 だけど……。 だけど好きな子の体、こんな形で見ちゃっていいんだろうか……。 いいわけないよな……はあ。 「ユキちゃん、あのね」 「わたし、ユキちゃんとお話して、お気に入りの泡々のお風呂に入ったら元気でてきたの!」 「だから明日、わたし頑張るっ」 「がんばる?」 「石蕗くんにお返事できるように!」 「(そ…そっか…可愛いな……秋姫)」 「(本当は俺、ここにいるんだけどさ……ごめんな)」 「頑張る〜っ!」 「が…がんばれ〜」 静かな教室の中で、先生の声だけが響いている。 その音は耳に入ってきたけれど、なんだかすごく遠い場所からの声に聞こえた。 心に余裕がないわけじゃない。 むしろ、昨日に比べると随分穏やかになっている。 焦る事はない、秋姫もいろいろ考えてるんだ。 振り返った秋姫と目があった。 でも秋姫はふっと目をそらしてしまう。 焦ることはない……そう思っても、やっぱり寂しかった。 「お昼休みだー!!」 「お腹減ったー!」 「……二人とも、いつも昼になると元気になってる気がするんだけど」 「そんな事ないって」 「失礼ね、圭介と一緒にしないでよ」 「今日はどこでお昼食べようかな」 「お天気いいから、お日様当たる所がいいな〜」 「じゃあ、中庭かな。ねえ、みんなで行かない?」 「よし! じゃ、お弁当組は先に行って場所確保! 購買組はお昼買ったら中庭ね」 「じゃあ俺、先に中庭行って場所取ってくる」 「お願いねー! じゃ、購買行く人!」 「はーい!」 「弥生もで〜す」 「石蕗! 石蕗も購買組だよな」 深道が俺のもとへと駆け寄ってきた。 なんだろうと顔をあげると、深道はやたらニヤニヤとしている。 「じゃ、私たちと一緒に買出しね」 「え、あ、一緒??」 「スモモちゃんと八重野さんはお弁当だよね? 先に中庭行く?」 「そうしようかな」 「わ、わたし、お弁当忘れて来ちゃったみたい」 「そうか、どうしよう」 「購買……行こうかな」 「でも、スモモちゃん普段行かないからなあ」 「お昼の購買はね、戦場だよ」 「せ、戦場?」 「そうだねー。みんな、お腹すいてるから凶暴になってるし」 「危険だよ〜!!」 「う……。ど、どうしよう……」 「(お、大げさだな……間違っちゃいないけど)」 「お? 結城さんも一緒にお昼食べない? 私たち中庭に行くけど」 「いえ、私は別に……ところで、秋姫さん」 「お弁当、忘れたんですか」 「う、うん。忘れちゃったみたい」 「私、いつも松田が多めにお昼を持って来るから」 「え? あの」 「購買に行くのが怖いなら、それを食べるのはいかがかしら」 「え? そ、そんな……いいの?」 「え〜。すももちゃん、結城さんのお弁当食べるの? いいな〜」 「いつも豪華で美味しそうだもんね」 「い、いいのかな」 「多めにありますから」 「で、でも……」 「ご遠慮なく、準備はすぐにできますから」 「よかったねすもも」 「う…うん! ありがとう」 「べ、別に……」 「お! それどころじゃなかった、購買行かなくちゃ」 「そうだった!」 「パン売り切れちゃうよ〜早く行こう」 「わ、わかったよ」 まったく、深道たちはいつも強引だ。 でもそれはイヤな強引さじゃない。 一緒に走り出した時、俺の頭の中をまわっていた寂しさはすっかり消え去っていた。 「………戦場」 「ほんとにそうなのかな」 「……さあ」 「すもも、結城」 「私たちは中庭に向かおうか」 「中庭ですね。ではそのように松田に伝えます。それではお先に」 「うんっ! 結城さん、ありがとね」 「お…おかしいわ。あの子はライバルなのに、おまけに何もできないレベルの――」 「……調子くるっちゃう」 「あ、ごめんなさい」 「ご、ごめんなさい。私も不注意でした…あ、あれ?」 「ああ、眼鏡を落としてしまったんだね」 「え、あ……はい」 「キズがついていなければいいのだけど」 「………あ!」 「どうかしましたか? あ、すももちゃんのクラスの子かな」 「す、すももちゃん? え、あの?」 「はい、眼鏡。レンズもツルも大丈夫みたいだ」 「秋姫さん?」 「そう。秋姫すももの父です、今日はお弁当を忘れたから届けに来たんだよ」 「え……お、おとうさ……でもこの方は、カ、カリン様の……えっ??」 「あ! お父さん」 「ああ、すももちゃん」 「お父さん、どうしたの?」 「すももちゃん、お弁当忘れて行ったでしょう。だから、届けに来たんだよ」 「えっ!! わ、わざわざありがとう……」 「ちゃんと食べないとお腹が減るからねえ」 「おじさん、こんにちは」 「あ、撫子ちゃん。こんにちは」 「あ、あの、秋姫さん……」 「あ! そ、そうだ。結城さん、ごめんね」 「お父さん……お弁当、持って来てくれたから」 「ごめんね、折角お弁当わけてくれるって言ってたのに」 「いえ、それは別に……」 「あれ、もしかしてすももちゃんにお昼をわけてくれるつもりだったのかい?」 「ははは、はい」 「そうか。すももちゃんに良くしてくれてありがとうね」 「い、いえあの、はい」 「あのね、お父さん。こっちは結城ノナちゃん」 「結城さんか、私は秋姫正史郎と言います。よろしくね」 「あっ、は、はい」 「……や、や、やっぱりだ」 「お嬢様〜! お昼をお持ちしました!!」 「こ、この方は……」 「松田さん?」 「おじさんのお知りあいですか?」 「う〜ん?」 「ご、御主人様!!」 「バ、バカ!!」 「わはぁっ」 「え? えぇえ!? で、でも、お嬢様、あの方はカリン様のご主人様ですよね」 「そうよ! だから失礼な事を言わないで!!」 「カリン……様?」 「すもものお母さんの名前だね」 「二人とも、カリンさんの事を知ってるのかな」 「し、失礼な事と言っても、ご主人様ですし……」 「だから、その呼び方をやめなさい」 「二人とも、どうかしたの?」 「な、なんでもありません!」 「はい。失礼だとは思いますが、様を外して『ご主人』と呼ばせてもらいます」 「はあ、なんだかよくわからないけれど……よろしく」 「こ、こ、こちらこそご主人!」 「あ! いけない」 「お喋りしてると、お弁当を食べる時間がなくなるね」 「そうだ。中庭でみんな待ってるんだ」 「それならすぐに行って、みんなとお弁当を食べておいで」 「うん! ありがとう、お父さん」 「じゃあ、帰るよ」 「撫子ちゃんも、また家に遊びに来てね」 「はい。結城さんも、良かったらいつか家に遊びに来てね」 「じゃあ、またね」 「ナコちゃん、中庭行こう」 「うん。きっと、もうみんな待ってるね」 騒がしかった昼休みを終え、午後の授業も終わった放課後。 俺は園芸部へと向かって歩いていた。 「それにしても…やっぱり……」 昼休み、みんなで昼食を食べたけど、何かがおかしかった。 わきあいあいとしていたけど、何かがズレれてる気がする。 何か不自然な空気が漂っていた。 でも一番落ち着いていなかったのは、やっぱり秋姫だった。 「俺のせい……なのかなぁ」 「……ちゃんと言う、今度こそ言う、がんばる……」 「……言える…言える…言える…かなぁ」 「や、八重野、ごめん」 「……あ、俺が一番最後か」 「私もさっき来たばかりだ」 秋姫も八重野も、結城もすでにそこにいた。 俺がちょっと遅れてしまったようだ。 秋姫も結城も、どっちもなんだか様子がおかしい。 秋姫はなんとなく目をそらしてるし、結城ははそわそわしている。 「(え…? な、なんなんだ??)」 「石蕗? どうかした?」 「いや、なんでもない。今日は何からする?」 「私は向こうの花壇を少し直そうと思う……前に降った雨のせいで、少し土が流れたようだから」 「あ、じゃあ俺も――」 ぐっと俺の腕を掴んでいたのは、結城だった。 「如月先生のところに、用事があるのだけれど」 「植物の種をもらいにいこうと思うの」 「――きっ」 「(星のしずくとか、あっちの世界の話……聞きにいくって意味か)」 「私、ちょっと如月先生のところへ行ってきます」 「うん……あれ?」 「石蕗も一緒に?」 「あ、うん。ちょっと」 「じゃ、行きましょ」 「先生!!」 「び…びっくりした……なんですか一体」 「何故この間教えてくれなかったんですか!?」 「え…なに? ちょっと石蕗君、どうして結城さんこんなに怒ってるの?」 「知りません」 俺だって如月先生の次くらいには驚いていた。 結城がこんなにも表情を変えている理由なんてわからない。 結城の隣から一歩さがり、俺は二人の様子を窺った。 「せーんーせーいっ!!」 「どうして教えてくれなかったんですか!?」 「秋姫さんのお母さんが、カリン様だったってこと!!」 「あ…あらら〜なんで知ったの?」 「(カリン…様? そういえば前にも聞いたような)」 「さきほどカリン様の旦那様が見えたんです! 実際に見るのは初めてだけど……ご結婚された当時の新聞で見ました!」 「姉さんの結婚当時の新聞…? ずいぶん前のを持ってるんだね」 「だってカリン様のものですもの……」 「プラムクローリスの生徒だった頃のお写真から、最優秀の卒業生になった記事、もちろんご結婚の時なんていろんな新聞を探して切り抜いたんですから」 「確かに姉さんが結婚してこっちに移る時は結構大きな記事になったみたいだけど――すごいな結城さん」 「カリン様……フィグラーレにいらっしゃったら、絶対絶対会いにいくのに……」 「でもカリン様ったら素敵なんですよね、フィグラーレ中の反対を押し切っても、こちらで暮されることを選んで……」 「いや、あれは単なる強情っていうか……言い出したら聞かない性質なんだよな……はあ」 「――って、違います! そんなことを言いにきたのではなくっ!!」 「どうして黙っていたのですか、先生。秋姫さんがカリン様の娘だってこと!!」 「(え……? カリン様って、秋姫のお母さん?)」 「今近くには住んでいないって言ったのに!」 「い、いやー姉さんどうしても世界中飛び回ることが多いから、そういう意味で言ってみたんだけどなーははは」 「――なによっ!!」 「ごめん……あのさ、か、カリン様ってのは…秋姫のお母さんなんだよな?」 「そうですよ〜、そして僕の姉」 「……結城、なんでそんなに詳しいんだ? 秋姫のお母さんのこと」 「――んもうっ!! なんで知らないのよぉ!!」 「まあま結城さん、石蕗君はレトロシェーナの人なんだから」 「うちの姉さんは随分スピニア……星のしずくを採るのに向いている人らしくってね――前に説明した向こうにある学園を首席で卒業したんだよ」 「もうすごいんだから……かっこよくってキレイで…アタシの目標はカリン様なの……」 「かっこよくてキレイ……か…はは、ははは」 「で、卒業試験でこっちの世界に来た時に正史郎さんに出会って、結婚…」 「首席の卒業生だったからさ、こっちで暮すってなった時は大変な騒ぎになったもんだよ……」 「だって、カリン様は歴代の首席の中でも一番優秀だったんだもの!!」 「……あの人はそんなの、おかまいなしだよ」 「(秋姫のお母さんって、秋姫とは全然違う性格みたいだな……)」 「それより先生!」 「秋姫さんが代理でプリマに選ばれたのは……カリン様の娘だからなんですか?」 「それは……ま、そんな感じでもあり…うーん」 「う〜ん、ま、確かに今回は特例中の特例って状態ですしねえ」 「むー!! 特例でも、アタシにはたった一度の試験なんだからっ!!」 「大丈夫大丈夫、そのへんは向こうも考慮にいれてると思うし、結城さんも姉に負けず劣らず優秀だからね〜」 「……まあまあ、ちょっと落ち着いて、ね? そうだお茶でも出そうか?」 「………あら?」 「はいー?」 「せ、先生これ……総合図書館で持ち出し禁止になっている本じゃないですか……?」 結城は目を見開き、机の隅で開いたままになった分厚い本を覗き込んでいる。 どのページも少し端の黄ばんだ、みるからに古そうな一冊だ。 「そうそう、薬の作成レシピ。フィグラーレ総合図書の中でも最重要ランクの一冊でありまーす。結城さんよく知ってるね」 「だって、最重要ランクの本は私たち学園生は見られないんですもの! 気にならないわけないです!!」 「あーそっか。勉強家だねえ」 「も、持ち出し禁止の本が……ど、ど、どうしてここに!?」 「それね、本物じゃなくてぜーんぶ写したもの。僕が」 「写した!? こんなに分厚いものを……?」 「ああ……姉さんに脅さ…いや、頼まれてね…あの時は一ヶ月眠れなかったさ……はは」 「すごいすごい……セント・アスパラスではこんな応用までは習わないわ……」 「結城さん、思う存分読んでかまわないよ」 「ええっ! で、でも」 「ここはフィグラーレじゃないし、それは写本。ま、古いものだから破れないように気をつけてね」 「ぃやった〜!!」 「……ハッ、あ、ありがとうございます」 「さっきの話だけど」 「本当はね、うまいことはぐらかそうと思ってたんだよ」 「はぐらかす?」 「これ以上結城さんのライバル心を刺激するのはまずいと思ってね……」 「はあ…でも隠してたら余計に逆効果なんじゃ」 「うーん…ま、あんまり結城さんが白熱しすぎないように気をつけて」 「お、俺がですか?」 「君と、ユキちゃんね」 ……また面倒なことを頼まれてしまった。 そんな大役、俺にできるだろうか。 「それから」 「まだ何かあるんですか?」 「……時計」 「とけい??」 如月先生が指差す時計を見て、俺は気づいた。 もう日没の時間まで間もない。 「う、うわ! もう帰りますっ」 「……やば、間に合うかな」 「ちょっと急がないとね〜頑張れ〜」 「あら? 石蕗君は?」 「今さっき帰りましたよ。さすがセント・アスパラスのプリマだけあって、すごい集中力だね」 「いえ」 「好きなだけ読んでいいですよ〜」 「ほんとに? 嬉しいっ!!」 「失礼します……あ、結城さん」 「あら、もうこんなに暗くなってる!」 「うん、もうそろそろ帰ろうかってナコちゃんとも言ってるんだけど――結城さんは?」 「ええ、帰るわ」 「あの、つ、石蕗くんは…?」 「ああ、さっき急いで帰ったわよ」 「そ、そうなんだ…」 「ああ、秋姫さん。もう帰るところなのかな?」 「そうそう、石蕗君はなんだか用事があるそうで――」 「あ、あの、ナコちゃんが待ってるのでっ! 失礼しますっ」 「あ……っ」 「……困ったな」 「ふー…危なかった」 如月先生の部屋を飛び出して、そのまま思いきり走って帰ってギリギリセーフ。 部屋の扉を閉めた瞬間に、俺はユキちゃんになった。 「最近ギリギリになること多いな…気をつけないと」 カバンの中から本を引きずりだすのに手間取ってしまったけど、今日も無事秋姫の部屋までやってこれた。 「いないのかな?」 部屋の中に入ると、秋姫はちゃんとそこにいた。 何か考え事でもしているのか、俺が入ってきたことにすら気づいていないようだ。 「あっユキちゃん……」 「(どしたんだろ)」 「ごめんね、窓……気づかなくて」 なんだか話し声すら、いつもと違う気がする。 そんな秋姫の顔を見ると、俺の胸の中はちくちく痛んだ。 「どこか調子悪いの?」 「熱とか、ない? 風邪ひいたとか」 「なんだか様子がおかしいよ」 「大丈夫だよ、ユキちゃん」 秋姫が笑顔を見せるので、俺はそれ以上聞くのをやめた。 でもその笑顔は、カラ元気な気がする。 どうしたんだろ秋姫…最近気分にムラがあるみたいだ。 もし本当に風邪とか、疲れじゃなかったら――。 やっぱり俺のせいなんだろうか。 俺が秋姫に気持ちを伝えたからなんだろうか……。 「星のしずくだっ」 「ユ、ユキちゃん、いつもより……光が強い気がする」 「い、いそいでいかなきゃ、いかなきゃ」 いつもと違う何かを感じているんだろうか。 秋姫は光り続ける指輪を握り、慌てて出て行く用意を始めた。 「あれ、すもも…着替えないの?」 「う、うん……急がなきゃいけない気がするの、だから今日はこのままで行くね」 「ユキちゃん――行こ」 星のしずくの反応を追ってやってきた場所は、夜の公園だった。 「ここに、星のしずくが?」 「ユキちゃん、あっち…見てみて」 「あっ、あんなとこに……川?」 目を凝らしてみると、公園の真ん中を人工の浅い川が流れていた。 今は誰もいないけど、飛び石なんかがあったから昼間は子供たちの格好の遊び場所になるだろう。 「このあたりで水があるのは、あの小川くらいだよ」 「うん。ここって、小さい頃によく遊びにきてた場所だもん」 小川は浅く、秋姫のヒザまでもない。 流れも速くないし、危険な感じはなかった。 「他に水がないなら、星のしずくはあそこに落ちたのかな」 「そうだと思うんだけど……」 「いつもより大きな輝きだと思ったのに、どこにも光りが見えないの」 「そ、そうだな」 しんとした水面には、どこにも光の気配がない。 音もしなければ、指輪の反応すらなかった。 「どこに行っちゃったんだろう」 「どうして光りが見えないの?」 「落ち着いて、すもも。探せばきっと見つかるから」 「でも、ユキちゃん」 「どこにも光りは見えないし、お母さんの服も着てないし……!」 「できないよ……どうしよう……見えない、見つからない…よ」 秋姫はためらいなく水の中へと足を踏み入れた。 でもそれは思惑があってとかじゃない。 焦って、何も思い浮かばなくてがむしゃらに足を進めているという感じだった。 「早く見つけないと……消えてなくなっちゃうのに」 「待って、すもも、あぶないっ」 川底の石に、足を取られたようだった。 前のめりに倒れた秋姫が水の中に手をついていた。 「ケガしてないか?」 「う……うん、ちょっと濡れた…だけ」 何だ? 一体どうしたんだ?? 秋姫の様子がおかしい。 今までだって、星のしずくを見失ったりした時はあった。 プリマ・アスパラスに負けた時にはひどく落ち込んだりもした。 ――でも違う。 何かがおかしい!! 「ううん…ううん……なんでもないっ」 「……う…うぅ」 「言って」 「言ってよ」 ……今にもこぼれそうな涙が、秋姫の目の端に光っていた。 「……ふ…うう…うん」 「あの、あのね……」 「わたしの…好きなひ…と…石蕗くんの……ことなの」 「石蕗くんはわたしのこと、好きだって言ってくれた」 「でもね、でも…付き合おうって言われたわけじゃないから……」 「ふ…うく…ねえユキちゃん…もしかしたら」 「嫌いじゃないって意味なのかも…告白じゃなかったのかも……ふ…うく」 「うっ…ふくっ…ぅう…どうしよう…ユキちゃん」 「………わからないよ……どうしたらいいかわからないよお!!」 「うくっ…ええん…ふぇえん」 ――なんでだ、なんで秋姫がこんなに悲しい顔してるんだ? 俺が…俺が中途半端な態度で秋姫のことを不安にさせてるからだ。 好きだから、そう言った後…俺はもうそれだけでいっぱいになってた。 メールだって、話すことだって、二人は近づいたはずなのにどうしてうまくいかないんだろうって思ってしまったのは何故だ? 俺は知ってたから。 秋姫が俺のことを好きだったって、知ってたから甘えてたんだ。 「ええ…ん…ひくっ…ふっ」 「あき……すももっ」 「そ、そんなはずないよ!!」 「ユ、ユキちゃん……?」 この姿じゃ、秋姫のことを抱きしめることも、頭を撫でてやることもできない。 俺にできるのはたったひとつ……言葉で伝えることだけだった。 「誰かに本当の気持ちを伝えるのって、凄く勇気がいるんだ」 「だから、そんな簡単に好きだなんてすももに伝えるはずない」 「すももに気持ちを伝えたいから、必死で言ったに決まってる」 「すももになら、できるよ」 「でもわたし、怖くて、失敗しちゃったらって思うと、うまく言えなくて……」 「大丈夫、すももは……すももはそんな弱い子じゃないよ」 「ご、ごめん、すもも……」 「ユキちゃん、すごいね」 「な、何が?」 「まるで、石蕗くんの気持ちがわかるみたい」 「(しまった! もしかしてバレた……!?)」 まさか、いやでも……。 俺は心の中の言葉をそのまま口にしてしまった。 もしかしたら……本当にバレたかもしれない。 おそるおそる顔をあげると――。 「そうだよ…ね」 「きっと…石蕗くんだって、きっと好きだって言うのにすごく頑張ったんだよね」 「……わたし、どうして迷っちゃったんだろう」 「嬉しかったの、本当に好きだから…だからかな」 秋姫は笑顔だった。 ぽろりとこぼれた一粒の涙をぬぐって、秋姫は微笑んでいた。 「わたしがいつまでも迷ってたら、だめだよね」 「おれ…や、ボクは笑ってるすももの方がいいと思う」 「なんだ、こ、こんなの初めてみるぞ?」 俺と秋姫の前に浮かび上がったのは、象形文字のような光る文字。 いつもなら俺が持っている本に浮かび上がってくるあの文字だ。 でも今……それは地面の上にくっきり浮かび上がっていた。 「でも…文字だよ……あの本に書いてあるのと同じ」 「な…なんて読むん…だろ」 「……スピリオ…ローザ」 「……ブロッサム」 「ユキちゃ…なんだか…杖が熱い気がする……」 「一体…何の言葉…なんだ…?」 「わ、わああ……」 「す、凄い!」 「こ、この言葉って、もしかして」 「変身の言葉?」 「でも、私自身は何も変わっていないよ。服が変わっただけだもん」 「……あ、でも」 「心も、変わったかも知れない」 「心……?」 「ユ、ユキちゃん、今度は本が!!」 「また新しい言葉だ」 「リ…ペ・リ・オ・ルー・メ・ン」 「今度は、何の言葉なんだろう」 「でも、きっとすももの力になる言葉だよ」 「リペリオ・ルーメン」 秋姫が言葉を唱えた瞬間、浅い水面がざわめき光が走った。 視界が真っ白になるほどの輝きは、しばらくするとふっと一点に集まった。 「あそこ! 星のしずく!!」 「凄い光!」 「これがさっきの言葉の力……」 「これなら、どこに行っても見失わないよ」 「大丈夫。今すぐすくうから」 秋姫の言葉は力強かった。 先ほどまでとはまるで別人のように、その姿は自信に満ちているように見える。 浅い流れの中できらきらと輝く、星のしずく。 その星のしずくを、秋姫はじっと見つめていた。 「……すぅ」 凛とした声が響いた。 途端に水の中の星のしずくが反応を始める。 言葉に反応したしずくは水から飛び出し、空中でくるくると回転した。 「こっちだよ」 優しく言いながら、秋姫は杖を振り上げ星のしずくを迎える。 空中を旋回しながら近付く星のしずく。 しずくを追うように秋姫もくるりと回る。 それはまるで踊っているように見えた。 思わず、感嘆の声が漏れてしまった。 それほどに俺の見ている光景は、とても不思議で、とても綺麗だった。 「やったあ!」 「心が変わったから……この言葉使えるようになったんだと思う」 「心が…変わった? どんな風に?」 「ユキちゃんの言葉がね、お日様みたいに……わたしの心の中にぱあって射してきたの」 「わたし、そんな気がするんだ」 「もしそうなら、おれ……や、ボクも嬉しいよ」 「これで、残りは3つだね!」 「まあまあ出来るようになってきたみたいね」 「次はそろそろ本気で勝負しても……いい頃かしら」 秋姫の驚くようなあの力を見た時、俺は心に誓った。 やっぱりちゃんと、秋姫に伝えなきゃいけない。 俺はもともと心の中を上手に伝えられない。 だからこそ、ちゃんとしなきゃいけない。 そう…思っていた……だから……。 「すもも、少し目が赤いよ。寝不足なの?」 「え、ほんと?」 「秋姫!! あの…お、おはよ」 「ひゃっ…つ、石蕗くん!? お、おはよ」 「おはよう、今日は早いんだね」 「秋姫、話があるんだ。ちょっと来てほしい」 「えっ、ええっ」 「あ、あの、わた…し」 「すもも。鞄は私が教室まで持っていくから、いっておいでよ」 「ナ、ナコちゃ……ん」 「きゃ、きゃうっ」 俺は八重野に向かって会釈をして、秋姫の手をひいた。 「つ、つ、石蕗…くんっ」 「はあ―…」 「はあっ、はぁ…ふう」 「う、ううん……大丈夫…」 「…ふぅ…ふ…はあ」 「俺、どうしても」 「どうしても、早く伝えたかったんだ」 この時間、温室の前は風の音がそよぐくらいで、すごく静かだった。 秋姫の息遣いすら、耳に入ってくる。 「はっはいっ!」 「(あ、また俺……秋姫を不安にさせてる)」 「この間は急にごめん――」 「あっ、あ、うん……」 「あの時言った気持ちはその……本当」 「―……」 「あのさ、それでな」 「俺、秋姫にはっきり言えなかった」 「俺と、俺とちゃんと」 「付き合って――ください」 「あ……ぅ……」 「へ、返事はさ、すぐじゃなくていいし、ゆっくり考えて」 「俺、ずっと待ってるから」 「だから焦らないでいい、ゆっくりでいいよ」 「……あ、つ、つわ……」 「無理やりひっぱってきて悪かった、じゃ…じゃあ…」 それだけ伝えて、俺は走り出そうとした。 自分の顔が真っ赤になっていたのがわかるから、振り返れなかった。 「まって」 「石蕗くん、まって」 「あ、あのね、わたし、もうお返事考えてきたの!」 「わ、わたしもっ」 「わたしも石蕗くんが好き……好きだからっ」 「お付き合いしたい……です」 頭の中が真っ白になった。 秋姫は、言ってくれた。 返事をしてくれたんだ。 「――あ、ああ」 「え? な、なにか…な?」 「はい、って――秋姫の返事」 「なんだか、授業中みたいだった」 「そ、そう? そうかなぁ……なんでだろ…ふふっ」 秋姫が笑顔をこぼす。 俺もそれにつられて、笑ってしまった。 「(あ…俺、本当に秋姫のこと……好きなんだな)」 「……やっぱりここに……如月先生っ!」 「あ、あいたたっ」 「いたたた」 「うわっ、如月先生大丈夫?」 「な、な、なんだ?」 「お、おはようございます」 「あははは」 「如月先生、な、なにしてるん――」 「いや〜青春だよ。よかった、よかったねえ、ハル君」 「――ハ、ハルくん!?」 「だってほら、恋人同士名前の呼び方って重要だよ? 今度からはハル君と呼ばれてしまいなさ〜い」 「うん! 確かにハル君って呼び方、なんだかいい感じ」 「は…はうぅ」 「石蕗君も秋姫さんにハル君って呼ばれた方がうれしーよねー?」 「う、うわぁあいいなぁ! いいなそれ!」 「こら、からかうんじゃないのっ」 「がんばっがんばっ、すももちゃん!!」 「はぅ…うう……」 「わーん、ナコちゃん、ど、どうしよお!?」 「ど、どしよ、どーしよぉ」 「ふふ。すももの好きなようにしたらいいよ」 「ほら、すもも。こっちじゃないでしょ?」 「は…は…」 「ハル…君」 「おめでとー!」 「すももちゃーん、よかったねぇ」 「こんな風に…覗いちゃってごめんね、おめでとう」 「節度を守って健全なお付き合い、するよーにね! ふふふっ」 「……如月先生」 「ふふ、顔真っ赤だよ、すもも」 「だ…だって……」 「よかったね、すもも」 「石蕗、すもものこと…大事にしなかったら私が怒るからね」 「わかった、大事にする」 「おっと忘れてた。皆さん、そろそろホームルームが始まる時間ですよ〜」 「わっほんとだよ」 「え〜、記者会見は!? そーゆーのしないのー?」 「やーよーい、そこまでやっちゃ、ダメ」 「はいはい、戻りましょ〜戻りましょ〜」 「へーい」 「ナ、ナコちゃん」 「あのね、これからも一緒に帰ろうね! だってナコちゃんも、ハ…ハル君もわたしの大好きな人だもん」 少し不安げな秋姫の目が、俺の方をちらりと見た。 「うん、そうしようよ」 「……うん、ありがとう」 「ほーら、急がないと遅刻になっちゃうよ!」 「はーいっ! 行こう。すもも、石蕗」 「ん」 「……ど、どしたの…かな?」 「……そ、そっか」 今誰かが俺の部屋に入ってきたら……そんなこと絶対ないと思うけど、もしあったら、なんて思うだろう。 窓のふちに立つ『ユキちゃん』の姿を見て……。 そんなことを考えているうちに、夜明けがやってきた。 告白して、告白されなおして……俺と秋姫は付き合うことになった。 「(ごめんな、秋姫……さすがに昨日の夜は、行くの無理だった)」 もう一眠りしようとベッドに向かった時、携帯のライトが点滅していることに気づいた。 画面を見てみると……新着メールが一件。 『ハル君へ、これからよろしくね』 「――秋姫」 秋姫からの、初めてのメールだった。 二学期がはじまってもう数週間がたっていた。 放課後の園芸部には、俺と、秋姫と八重野、結城の四人が必ず顔を出すようになっていた。 「今日は、備品の整理とか掃除をしようと思うのだけれど…水やりと分担してやった方がいいかな」 「確かにその方が…効率がいいですね」 「ん、そうだね、せっかく部員も増えたことだし……」 「うん、うん」 秋姫は嬉しそうにこくこく頷いている。 そういえば、五月のあの頃は八重野と二人っきりだった。 今は四人になって、きっと嬉しいんだろうな。 「…ハル…君? どうしたの?」 「あ、ごめん…。なんでもない」 俺はいつのまにか、秋姫の事をじっと見ていたようだ。 まだちょっとハルって呼ばれると照れてしまう。 その名で呼ばれるたびに、俺は秋姫から一瞬目をそらしてしまった。 「じゃあ、結城さんは花の世話の方をお願いできる?」 「わかりました。それでは今日は全ての花壇に水をやっておきます」 「あ、あの、結城さん…」 「はい? 何か問題でも?」 「違うの、あの…さっきからあそこで……」 秋姫が指差したのは、校舎の裏側だった。 「あっ…あれは…」 「……っ!」 「な、なにやってるの松田!」 「――はっ!! お、お嬢様申し訳…あうっ」 「あ、だ、大丈夫ですか…?」 「もう、なにやってるのよ…」 「申し訳ありません! 出過ぎた真似とは思いましたが、お嬢様のことがどうしても心配になりまして…」 「せめて! せめて影から見守るだけでもお許しいただけましたらと!」 「結城さんの執事さん、心配性なんだね」 「………松田は車に戻ってなさい」 「し、しかし! もしお嬢様がお水でもこぼされてお風邪を召されたらと思うと、松田はもう…!」 「今更こぼさないわよ! どういう順番で水をあげればいいのかもとっくに覚えたわ」 「さすがお嬢様ですっ! もはや園芸の達人ですねっ」 「あの……結城、さん」 「一人で全部のお花にお水あげるの…大変だと思うから…」 「その、松田…さんも一緒に手伝ってもらったらどうかな…?」 秋姫がこんな意見言うなんて……俺は驚いてしまった。 「本当だね。そうすれば近くで見守ってあげられる」 「…うん。俺も、賛成」 「ちょっと待って、そもそも松田はここの生徒じゃないし…」 「さすがお嬢様ですっ! 部活のお友達もお優しい、いい方ばかりを選んでらっしゃる!」 「おとも…って、ア、アタシが園芸部に入ったのは対等な条件で勝負したかったからよ! それだけなんだから!」 「……だいたい秋姫さんと私はライバルなんですから、お友達というのは…」 「そ、そんなことないよ!」 「?!」 「わたし、結城さんともうお友達だと思ってるし…もっと仲良くなりたいもの」 「例えライバルだって、いい友達にはなれるよね?」 「う………」 「そうだね。同じ園芸部の仲間だし、ね」 「うん! 結城さん、お花の世話もうまいし…、いっぱい色んな事知ってるし、それに…」 「わ、わかったわよ! もういいわ!」 「じゃあ、わたし……これからノナちゃん、って呼んでいいかな?」 「え、えっ……?!」 「確かに結城さん、じゃ味気ないね。じゃ私は結城…って呼びたい」 「わたしのことは、好きに呼んでね! みんな名前で呼ぶことが多いけど――」 「―――別に、何とでも呼んでくれていいわよ! 松田、いらっしゃい!」 「ははははいー! 待ってください、お嬢様〜ぁ!」 結城は松田さんを引きずりながら、ジョウロを持って去っていった。 「お、怒っちゃったかな…?」 「大丈夫、多分怒ってないよ」 「じゃあ私は倉庫の整理をしようかと思うけど……後は、温室の掃除くらいかな」 「温室の植木鉢はどうするの?」 「一旦外に出して作業しないと駄目かもね」 「あ、俺が……植木鉢出すよ」 「え、でも…」 「秋姫には重いだろ? 植木鉢とか…」 「そういうのは、俺がやるよ」 「外の植木鉢も、俺がどけるから。秋姫はそこ、掃いてくれる?」 「…大丈夫みたいだね」 こうして温室内の掃除が始まった。 後ろで、秋姫が箒で地面を掃いている。 俺は植木鉢をひとつずつ割れないように移動させた。 「よっ…と」 「…あれ?」 使っていなかった植木鉢の後ろに、小さな袋が落ちている。 拾って中を見てみると、球根がひとつだけ入っていた。 「……球根…?」 「ここに植える予定だったのかな…?」 わからないけれど、むやみに動かすのも気が引ける。 俺は球根を袋に戻し、もとの植木鉢の中へと入れた。 「あの…ハル君、大丈夫? 重くない?」 「あ、大丈夫…」 「あのね、もし一人で持つの重かったら、わたしお手伝いするからっ」 「遠慮せずに言ってね!」 「いや、ごめん…秋姫が、あんまり一生懸命に言うから…」 「! おかしかった…かなぁ…」 「おかしくないよ」 はにかんだその顔に、俺は見覚えがある。 それはユキちゃんの時に見せてくれる、素の笑顔。 俺が俺である時にも、秋姫はその笑顔を見せてくれるようになったんだ……そう思うと、胸の中が少しくすぐったくなってしまった。 「これでだいたい終わった、かな」 「おつかれさまでした」 「もうこんな時間になっちゃったね」 「(時間……ヤバイかもしれないな)」 「もう秋だね。日が沈むのが早くなってきたから…」 「あ、秋姫」 「俺…ちょっと、そろそろ帰らなきゃ…いけない」 「そっか……うん、わかった。ナコちゃんと、ノナちゃんには言っておくね」 「…あのさ」 「これからも…ずっと、これくらいの時間には帰らなきゃいけないから…」 「だから…部活の日は、送って行けない…かも」 「……あ…そうなんだ…」 やっぱり秋姫の顔は、多少なりとも寂しそうだった。 俺だって一日中、秋姫と一緒にいたい。 時間を気にせずに、ずっと……そうだ。 新月の日があるじゃないか! 「あ、でも、一ヶ月に一回くらいは……一緒に帰れる…と思う」 ばかだな俺、一ヶ月に一回って、どんだけ少ないんだよ。 言ってから、それは余計に秋姫を悲しませるかもしれないことに気づいた。 「……たった一回…だけだけど」 「ううん。一回でも、ハル君と一緒に帰れるの…」 「ハル君が一緒に帰りたいって思ってくれるの、嬉しい」 「……秋姫…」 「じゃ、じゃあ俺、帰るから」 「はい…」 もっと話したかった。 ユキちゃんじゃなく、俺のままでもっともっと話したかった。 だけど日没までもう間がない。俺は慌てて温室から駆け出した。 昨日温室で別れたあと、また俺は秋姫に会いにいった。 もちろんそれはユキちゃんとして。 でも星のしずくは落ちてこなくて、結局はいつものように練習したり、他愛ない話をしたりで時間はすぎていってしまった。 「…なんかもう、すっかり慣れたよな…」 明け方にこっそり帰ってきて寝て起きてまた学校行ってと、ユキちゃんとしての生活サイクルがすっかり出来上がってしまってる。 「…秋姫からだ」 『おはようハル君。昨日、お父さんから展望台のプラネタリウムのチケットをもらいました。もしよければ、今度のお休みの日に一緒に行きませんか?』 「これって…」 デート、だよな……? 「えっと。なんてしたらいいかな…返事…」 『何度もごめんなさい。今度のお休みの日というのは、日曜日です。その日なら流星群のプログラムが見れるそうです』 「………秋姫も、緊張してるんだな…」 きっと秋姫も慌てて追加のメールを送りなおしてたんだろう。 その様子を思い浮かべるだけでも、なんだか可笑しくてたまらなかった。 「…よし」 『楽しみにしてます』 俺はゆっくりと、そう返事を打った。 「いっただきまーす!」 「すももちゃんのお弁当って、いつも美味しそうよね〜」 「うん、お父さんが作ってくれてるんだけどとっても美味しいよ」 「羨ましいなぁ〜うちなんかほら、こんな弁当だよ…」 「なに言ってんの、作ってもらえるだけありがたく思っとかなきゃ」 「桜庭のも立派なお弁当だと思うけれど」 メールの返事を打ったけど、あれから秋姫とは一度もデートの話はしていない。 顔を合わせても、お互いに恥ずかしくてその話を言い出せなかった。 「ねえねえ〜、そういえばみんな、昨日の夜の映画見た?」 「あ、見た見た〜! 特番のやつだよねー?」 「わたしも見たよ! ナコちゃんも見たよね?」 「うん…面白かったね。石蕗は知ってる?」 「え……あ、うん…見た…」 昨日の夜、秋姫のひざにのっけられて…一緒に見ていたやつだ。 もちろんそんな事、口になんてできなかったけど……。 「ええっ、ハルまで見てるのかぁ」 「私も見たよ」 「ええぇーっ! 見てないのオレだけ〜? だってあれホラーっぽかったよ?」 「ホラーじゃないわよ、ちゃんとしたラブストーリーよ?」 「うん、わたしホラーは怖いから見れないけど…昨日のは平気だったよ」 「よかったよねぇ?」 「………まさかハルまで見てるとはなぁ…どんな話だったんだよ?」 「どんなって……呪いをかけられた婚約者を助けようとする話、かな」 「石蕗くん、かいつまみすぎだよ〜っ」 「なんだかつまらなさそうに聞こえるなぁ」 「ふふふ…」 「そうね、政略結婚で全く愛のなかった二人が、呪いっていうアクシデントでほんとに愛し合うようになる話、って感じかな」 「うーん、わかるようなわからないような…」 「私は、ラストがよかったと思う」 「そう! キスシーンでしょ?」 「ほんとのキスは一回だけ、ってヤツね」 「うん、素敵だったぁ」 「………ねぇー、そういえば」 「すももちゃんたちは、もうキスとかしちゃった?」 「げ、げほっ…!!」 「はっ、わ、はははる君だいじょぶ?!」 「げほ、ごほっ、ぐっ……」 「弥生あんた…ズバッとやるね…」 「だってー、気になるんだもーん。最近随分仲良しさんになったみたいだし〜」 「なっ、はっ、わた、わたしそんな…」 「あ、すももちゃんったら真っ赤〜」 「そんなわたし、だって、…だってデートだって今度がはじめて…」 「デートぉ?!」 「いまデートって言ったよぉ」 「デート!!」 「あっあっ……えっ?! ひゃっ?!」 目にもとまらぬ速さで、深道が秋姫を引き寄せた。 小岩井や雨森に囲まれた秋姫は、顔を真っ赤にしてキョロキョロしている。 「おめでとうすももちゃん!! で、いつ? いつするの?」 「えっ、えと、あの…今週の日曜…」 「よくやった!」 「弥生、いきなりチャンス到来だと思うの〜」 「ちゃ、ちゃんす…」 「初デートで初キス…ちょっと早い気もするけど、愛し合う二人は止められないわよね」 「やっちゃえ、やっちゃえ〜」 「………ハル…」 「…はぁ…」 ……全部聞こえてるよ。 頭を抱えても、『キスキス』とコールし続ける声は消えなかった。 週末、秋姫と展望台へ行くと約束した日はあっという間にやってきた。 「…ちょっと早すぎたかな……」 俺たちはプラネタリウムの入り口の前で待ち合わせした。 天気もよく、周りには家族連れのほうが目立っていた。 いろいろ考えたけど、やっぱり普通にしてる方がいいと思うし、きっと秋姫もそうだと思う。 デートっていうには、ちょっと穏やかすぎる空気が流れてたけど、今の俺たちにはそれぐらいがちょうど良かった。 「でもなあ……はぁ」 ――キス。 何日たっても、あの日無邪気にそう言った雨森の声が頭のどこかに残ってた。 「あんまり意識…するのやめよ」 「あっ……ハ、ハル君!」 「はぁ、はぁ…ごめんね! いっぱい待たせちゃったかも…」 「そんなに待ってないよ」 「そっか、よかったぁ……」 「それに、まだ時間よりちょっと早い」 「う……そっか…」 遅れてなんかいないのに、秋姫はなんだかちょっとしょげ気味に頭を垂れている。 「もうちょっと頑張ればよかった」 「…な、なんでもない! ハル君、あのえっと、きょ、今日はよろしくお願いします」 「え、あ……俺の方こそ、よろしく…」 秋姫がぎこちなくぺこりとお辞儀をする。 緊張が空気を伝って俺にもうつりそうだった。 「…あの、じゃあ、行こうか」 「へっ? どこに…!?」 「えっと、中に…プラネタリウムの…」 「あ……うん! そう、だねっ」 「わたし、わたしチケット交換してくるねっ」 秋姫が落ち着かなさそうなのは、きっとあの話のせいだ。 キス……あの時皆が言ったみたいに、秋姫はそれを望んでるんだろうか。 俺は……俺はどうなんだろう? 「……したほうがいいのかな」 いや、いきなりそれはないだろう。 そんなの、秋姫にだってペースってものもあるし。 「あんまり深く考えない方がいいな…」 「わぁ、広い…」 ドーム状の天井を見上げて、秋姫がため息をこぼしている。 俺もちゃんとここに星を鑑賞しに来たのは初めてだった。 「(……初めて来た時は、あんなことがあった時だもんな)」 初めてプリマ・アスパラスと対峙した夜。 それがこの場所だった。 「思ってたよりずっと広いとこだったんだ」 「ハル君は来たことあるの?」 「あ、ううん……こことは違うけど、同じくらいの大きさのとこには行ったことある、昔……」 「わたしも、プラネタリウムはひさしぶりなの」 「あ、席ここだよ」 「もうすぐはじまっちゃう、ジュースとか…買ってきたほうがいいかな?」 「あ、喉渇いたの?」 「ううん、平気だよ」 「じゃあ、終わってからでいいよ」 「えへへ、なんだかドキドキする…あんまり久しぶりだから」 「久しぶりって、どれくらい?」 「えっと…いくつの時かなあ…小さい頃に見て以来なの」 秋姫は席に座っても落ち着かないようで、クッションのいい背もたれの上で何度も体勢を変えていた。 「(そういえば秋姫……プラネタリウム怖いって言ってなかったっけ?)」 暗闇が怖いって、確かにそう言ってた気がする。 もしかして、今日はずいぶん無理をしてるんじゃないだろうか。 俺が星好きだって言ったから……。 「あ、はじまるよ…」 「あ、秋姫っ」 「本日は星ヶ丘展望台にようこそお越しくださいました。ここ、星ヶ丘は流れ星の多い町として有名です」 「今月のプログラムでは一年で通じて見られる、さまざまな流星群の特集を――」 「え…? えと、大丈夫…だけど…」 「違うよ、そうじゃなくて……プラネタリウムで真っ暗になるの、嫌いなんだろ?」 「怖いの我慢してまで、見ることなんて無いからさ」 「あの、ハル君、どうして知ってるの?」 「あれ? 昔のお話とかしたかな…?」 「あ、あ、いやっ…」 「暗い所、苦手だって言ってたから。駄目なのかと思った」 秋姫がそれは『ユキちゃんに話したこと』だと思い出さないだろうか? 慌てて話のつじつまを合わせたけど、内心ヒヤヒヤしていた。 「無理しなくてもいいから」 「ううん、いいの」 「今でもちょっと苦手だけど、でも大丈夫! わたしも見たかったんだよ、流星群」 「……そう、か。大丈夫なら…いいんだけど」 「彗星が通った後に残る塵に、地球が近付く時に起こる現象が流星群です。星空のある点を中心として、たくさんの流れ星が放射状に流れます」 「それでは、五年前に観測されたわが国最大規模の流星群を――」 「わぁぁ……」 「ハル君、プラネタリウムってこんなに凄かったんだね」 「もっと早くこればよかったなぁ」 「(…大丈夫みたいだ)」 秋姫はスクリーンの満天の星を見つめていた。 ここに初めて星のしずくを追ってきた時は、中に入るだけでも怖々としていたのに――。 「(秋姫、成長したんだな)」 「ハル君?」 「あの、一緒に来てくれてありがとう」 スクリーンにはたくさんの流星が映し出され、手をのばせばつかみとれそうなくらい美しく輝いていた。 それはこの『世界で一番星に近い町』でも見れないほどの星々だ。 小さく呼んでみたけど、流星を見つめる秋姫には届かなかった。 それでもかまわない。 秋姫が嬉しそうだから、俺も嬉しい。 今日ここに来てよかったと、俺は本当にそう思った。 「流星群、すごかったね! あんなにいっぱい種類があるとは思わなかった!」 「うん、誘ってもらってよかったよ」 「そうだね、来週は違うプログラムに変わっちゃうから」 「ほんとにすごかったなぁ…あんなのが、ほんとに空で見れるのかな?」 「今からの季節でも……見られるんじゃないかな」 「さっき程の規模じゃないけど…もう少ししたらオリオン座の流星群が見られると思う」 「も、もうすぐあるの!?」 「……うん、多分だけど」 「ハル君、どうしてわかるの? すごい!」 「そっかぁ、もうすぐ見れるんだ…」 一緒に見ようか、と言いかけて慌てて言葉をのみこむ。 今日見たほどじゃないけど、肉眼で見る流星は違った美しさがあるから、ほんとに一緒に見たかった。 でも……俺は夜になったら『ユキちゃん』になってしまう。 ユキちゃんの時に一緒に見られるだろうけど……それは何だか違う。 「あ、そうだ。ジュース、買ってくるよ」 「秋姫はそこのベンチ、座ってて。何がいい?」 「えっ? ええと…ココアがいいかな」 「わかった。じゃ、ちょっと待ってて」 近くの売店へ向かう途中に、ふと時計が目に入った。 日没までにはまだ時間あるけど、それほど長くはない。 せっかくのデートだって、あの姿になってしまう限りは早く帰らなきゃいけない。 「(一緒に星を見ることもできないんだ……)」 「早く、元の姿に戻らなきゃな……」 「秋姫、お待たせ」 秋姫は何故か赤くなって黙っていた。 「はい、ココア。あったかいのでいい?」 「あ、あ、あ、あ、うん、ありが…とう」 隣に座って温かいココアの缶を渡す。 秋姫はそれを受け取ったけど、一向に口をつけようとしない。 「…もしかして、気分とか悪い?」 なんだか熱があるみたいに、秋姫はぼんやりとどこかを見ている。 プラネタリウムではしゃぎすぎたんだろうか? 俺は体の向きを変えて、秋姫の額に手を伸ばした。 「熱とかあるんじゃ――」 「へえっ!? あ、違うの、違うのっ……だいじょぶ」 「でも…顔色が」 「ううん、なんっなんでもないのっ!」 「………なら、いいんだけど…」 おかしいなと思いつつ、俺はベンチに座りなおした。 深く座り顔を前に向けると――。 「………ぅぅ」 秋姫の様子がおかしい理由がわかった。 ちょうど俺たちの正面にあるベンチ……向こうはきっと生垣があるから見えないと思ってるんだろう……で、思いきりいちゃついてるカップルがいた。 ……そりゃ、思い出すよな……あんなの見せられたら。 「…………あ、こ、ココア……のまないと…」 「……っ、う、う…」 「…あ、えっと、開けよ…うか?」 「(うわ、俺も声うわずってるよ……)」 頭の中からあのカップルや小岩井の言葉をふりはらい、俺は秋姫の缶に手を伸ばした。 「ひゃあうっ!!」 「ぅわっ!」 「ハハハハル君っ、ご、めんなさいっ!」 「あ、うん…大丈夫…」 「ごめ、ごめんね、あの、拾うねっ…」 「砂ついちゃったな」 「ううんっ、飲むとこにはついてないから…」 「あの…ごめんね、あのっ、ちょっとびっくりしてっ…」 「……うん…あの、俺が開けるよ、缶」 「…………う、うん…」 「なっなんですかっ?!」 「いや、缶…くれないと…」 「あ……はい…どうぞ…」 あんなに真っ赤になって、ちょっと指先が触れるだけでびっくりしてしまった……。 秋姫は、キスなんてまだまだ恥かしくて嫌なのかな。 俺も秋姫も恋愛は得意ってタイプじゃない。 気持ちさえしっかり伝えていれば、そんなに急ぐ必要なんて……ないかな。 「開いたよ」 「あ、ありが…と…」 秋姫の手の上にそっとココアの缶を置いた。 まだほんのりと温かかった。 「……ぅん…」 結局あの後も、秋姫はずっとぎこちないままだった。 日没まで少し時間はあった。 少し早めに別れて帰ってきたから、変化するまでにはまだ時間がある。 「はーあ」 「うーん、今日は…よかったのかな…あんなんで」 「…考えててもしょうがないか」 秋姫も同じこと考えてるだろうか。 そう思うと、このあと『ユキちゃん』になって部屋へ向かうのがすごく恥かしくなってきた。 「ま……でも行くか……」 「…すももー? あれ?」 「…すもも?」 いつもなら秋姫はだいたい机に向かっているか、床に座って本を読んだりしてる。 でも今日は違った。 秋姫の姿が見えない。 代わりに見つけたものは、ベッドの上にこんもりと山を作ったフトンだった。 え? 秋姫……だよな?? 「……ユキちゃぁん」 「………どうしたの?」 「…今日ね、はじめてのデートだったの。…ハル君と」 「へ、へえ〜…」 「でもわたし、なんだか今日は………あうぅ〜!」 フトンの中から顔を出したり入れたり、その様子に思わず笑ってしまいそうだ。 だけど秋姫の顔は真剣そのものだった。 「今日、せっかくはじめてのデートだから、とっておきの可愛い服をね、用意してたの!」 「でもね、朝ごはん食べるとき……慌ててミルクこぼしちゃって…」 「他の服を探して着替えてる時間もなくってね」 「結局この服を着ていったの…」 「…で、でもその服だって、似合ってるよ」 「それだけじゃないの!」 「ハル君の顔を見ちゃうとね、どうしても思い出しちゃって、緊張してきて…」 「それでまともにお話もできなかったの〜!」 「………えっと…思い出しちゃうって、何を…?」 「……キス、とか…」 「き…」 「違うのっ! 前の日にみんなでそんな話になっちゃって、それで…」 「それで…意識しちゃって…だめだなぁ、もう」 「ハル君もびっくりしてたみたいだし…あうぅぅ〜」 「うーん、はじめてだからさ…しょうがないんじゃ、ないかな…」 「…………しょうがないかなぁ?」 「うん、そういうのって緊張するよ、やっぱり」 「――決めた! 今度デートするときは、キスとか言われても気にしないで、もっと自然にする!」 「が、がんばれすもも!」 やっぱりキスのこと、気にしてたんだ……。 でももう元気になったみたいだし、いいか。 「ユキちゃん! 今日は、指輪光らないみたいなんだけどね…」 「今日だけ、デートの練習してもいい?」 「………………で、でーと?」 「うん、自然にする練習! ユキちゃん、ハル君の役やってほしいな」 「え、えぇ〜っ!?」 「お願いっ!」 あまりに真剣な秋姫の顔に、断れない雰囲気が漂ってくる。 今日ホントにデートしたばっかりなのに、練習だなんて……。 ……え? ……練習? 「い…いいけど…何するの…?」 「ベッドに座って、ここ」 「えっと、あのね、ハル君」 「へぇ!?」 「ユキちゃんは、ハル君役だから。ハル君って呼ぶね」 「あ…うん、はあ」 「ユキちゃんもハル君のつもりで答えてね」 「え、ええぇ…」 「この間は、ごめんね。うまくデート出来なくて……。今日はうまく出来るように、がんばるからね!」 「…はぁ」 「と、ところでねハル君っ!」 「ハル君は、き……キス…とか…きらいじゃない?」 なんて答えればいいんだ、こういう場合。 俺は『ユキちゃん』だけど、本当は『ハル君』なんだ。 いや、それは言えない。 「ユキちゃん、黙っちゃだめっ」 「は、え、えーっと…ああ、うーん…きらいじゃない…かな?」 「ほんと?!」 「あ、う、うん…」 「えっと、どうしよ…」 「ううん、ここで喋れなくなるから、だめなんだよね」 「でもしてみるって聞くのもおかしいかな…」 「ユキちゃんどう思う?!」 「……はっ、え?」 「ユキちゃんはいきなりキスがどうこう言われるのって、びっくりする?」 「…うん…まあ、するかも」 「そうだよね…」 「なに…?」 「ひゃあー!」 「す、す、すも、すももっ?!!?!」 「……うーん、ユキちゃんならいくらでも平気でできるのになぁ」 「な、なにをっ……すもも、なに…」 「うーんうーん…」 「おはよう、ハル君」 少しだけ気恥ずかしそうな秋姫の挨拶に、俺は小さく返事をかえした。 秋姫はきょとんと俺の顔を覗き込んできた。 きっと俺の目がちょっと赤いからだろう。 昨日あんなことがあったせいで、ほとんど眠れなかったから……。 「おはよう、石蕗は最近早いんだね」 「おはよ、八重野」 「あのね…わたし、明日からこれくらいの時間にしようと思ってるの」 「ナコちゃんもいいよ、って言ってくれたから…」 「じゃあ俺も、明日から遅れないように気をつけないと」 秋姫は一瞬驚いた顔をすると、嬉しそうに返事をした。 「ところで二人とも。プラネタリウムはどうだった?」 「あっ、そうなの! すごかったよ!」 「流れ星がいっぱい落ちてくるの、たくさん見たんだよ!」 「へえ……流れ星か」 「あ、季節の星空、ってのも見たんだ」 「解説つきで見ると楽しかったな」 「うん、画像つきでね、見方とかもぜんぶ説明してくれるの」 「じゃあ今度から、星空のことはすももに聞いたらいいんだ」 「う、う…」 「本当の星はプラネタリウムみたいに画像とか説明がつかないから……見つけるの、とっても難しいの」 「あ…そうだね、空に絵が書いてあるわけじゃないもんね」 「でもでも、ハル君はすごいんだよ! 説明つきじゃなくってもわかっちゃうの!」 「でも特徴さえ掴めば、結構簡単だから秋姫たちもすぐできるよ」 「ううっ!?」 「ハールー!! 朝から一緒とはうらやましーなー!」 「わ、びっくりした…」 「スモモちゃぁーん、きみはこっちだ!」 「わぁっ!」 「すももちゃーんつかまえたー!」 「どうなのどうなの〜? どうだったの初めてのデート!」 「アレの行方はどうよ?」 「アレ…???」 「もうっ、アレって言ったらキスの事に決まってるじゃない」 「したの? しちゃったの〜?」 秋姫の体は、背の高い深道に後ろからしっかり抱きかかえられてる。 「あ、あきひ…め?」 名前は呼んでみたけど、雨森と小岩井の鉄壁は頑丈だった。 捕らえられた秋姫は深道の腕の中でなす術もなく、もがいていた。 「……八重野、秋姫助けなくていいのか?」 「私より、石蕗が助けたほうがいいと思うけれど」 「ごもっとも! ハル、行け! そして颯爽と二人の愛を宣言しちゃって! ついでにデートで何があったのかも!」 「……わわっ」 「あっ、逃げられちゃった」 「すももちゃぁ〜ん」 「スモモちゃん、最後に何か一言だけでも!」 「もちろん、キスについてね!」 「し、してませぇーん〜!」 「あ……すもも……」 「行っちゃった」 秋姫はどこへ行ったんだ? てか、俺たちなんでこんな風に遊ばれてるんだ? とりあえず差し出した腕が、虚しく空を掴んでいた。 「……はっ」 「…な、なんだよ……」 「へぇー」 「そっかあ」 「してないんだぁ…」 「ハル…あんな可愛い子と二人きりでデートして、よく我慢できるな」 「オレにはわからない!」 「ところで、皆そろそろ急いだ方がいいと思う」 「あっちょっと待って! おーいー!」 八重野が時計を指差したとたん、深道たちは思いっきりダッシュした。 あんなにも俺と秋姫のことで盛り上がってたのに……あんまりじゃないか。 「…石蕗も、急ごう」 「あぁ…うん」 八重野だけは冷静だった。 けど、それでもちょっと楽しそうに見えたのは俺の気のせいだろうか。 ……あんな可愛い子といて、よく我慢できるな……か。 「……俺もわからないんだよな…はぁ…」 「……はぁー…」 放課後、俺は逃げるように旧校舎の方へと走った。 園芸部の活動場所は静かだし、なにより落ち着く。 特に、今日みたいな頭の中でいろんなことがグルグルまわるような日は……。 「憂鬱そうですね」 突然話し掛けてきたのは、結城だった。 「別にユウウツってわけじゃあ…ないけど」 「………プリマ・プラムのこと?」 「…!」 俺は慌てて辺りを見回した。 幸いなことに誰もいない。 「お、おい結城、俺はその名前のこと知らないことに――」 「大丈夫よ、八重野さんと秋姫さんなら、今向こうの花壇を見に行ったわ」 「そうか…ふぅ」 「……最近、どんな様子なの? プリマ・プラムは」 「どんなって言われても…調子はいいみたいだけど」 「………もう、そろそろいい頃だと思うの」 結城は珍しくしおらしい素振りを見せた。 プリマ・アスパラスの時のテンションの高さとも、結城ノナの時のビシリとした姿勢ともちがう……どことなく寂しげな顔だった。 「アタシが手を抜いて親切に教えてあげなくても、いい頃だと思うわけ」 「もう大分、レードルの扱いもわかってきたようだし。それに…」 「あの子は何といってもカリン様の娘なんですもの。あの才能を、受け継いでいるはずよ」 「そういうわけで、ちゃんとあの子を勝負する気にさせてね」 「え、俺が? なんで…」 「パートナーでしょ」 「それは、そうだけど…でも、秋姫はあんまり人と争うのとか、好きなほうじゃないから」 「……ねえ、アタシはね、この対決をとっても楽しみにしていたの」 「セントアスパラスではアタシと同等の力の子なんて一人もいなかったわ」 「別に争いをするつもりはないわ、でも正々堂々と、勝負がしたいだけ」 「だけど、秋姫はしずくを集めだしてから、まだ日が浅い。結城の期待するような勝負になるかどうかわからないんじゃ…」 「確かに秋姫さん…プリマ・プラムはほんの初心者だけど、レードルを扱うセンスはあると思うし…」 「それに今まで学んだ術で創意工夫すれば、状況次第では勝機が見出せるはずよ」 結城は真剣なんだ。 今までだって何度もそう思う場面はあったけど、こんなにまっすぐに結城の口から聞かされたのは初めてだ。 「(結城、本当に自分が代表に選ばれたってことを誇りにしてるんだ)」 「結城ー!」 「あ、八重野…」 「…………なんでしょう?」 「悪いんだけど、この肥料が無くなってて。一緒に買出しに付き合ってほしいんだけど」 「買出し…わかりました。お付き合いします」 「すもも、温室にいるから」 「失礼します。先程のお話、よろしくお願いしますね」 「…わかったよ。気をつけてな」 八重野の言うとおり、秋姫は温室の中にいた。 花壇の隅にしゃがみこみ、それぞれ咲いている花を丁寧に見ているようだった。 「あ、ハル君……」 「八重野と結城、買出しに行ったよ」 秋姫は手をとめて、立ち上がった。 「…花の調子とか大丈夫?」 「だいじょぶ、みんな元気だよ」 「そうか、よかった」 だめだ。 これじゃいつもどおりじゃないか。 おまけに俺が来たせいで秋姫は手を止めてしまった。 「(何か喋らないと……何か……)」 「朝は…ごめんなさい」 「わたし一人だけ逃げちゃって」 「あ、ううん…」 「ごめんね…し、してない…とか…言って……」 「あ、ああ…」 「だってそれ、別に…うそはついてないし」 「そうだけど…もしかしたらハル君、そういうの恥ずかしいかな、って」 「わたしばっかり…なんか意識してるみたいで…ごめんね」 秋姫は顔をあげて笑顔を作ろうとしていた。 でもその目の端が、ほんの少し濡れている。 ……朝言われたことが悲しかったわけじゃない。 言葉はないけど、秋姫の声が聞こえてきた。 一歩だけ秋姫に近づく。 ちゃんと顔を見て、目をそらさないで、俺の思っていることをちゃんと伝えよう。 そうじゃないと、秋姫が涙がこぼれるのを我慢しながら笑ってることが無駄になってしまう。 「別に意識をしてるのは、秋姫だけじゃない」 「俺だって…あれだけ言われたら、キスとか…」 「え、えっ……じゃ……ハル、くん…」 「どっ、どお、どおしよっわたし…心の準備がまだっ」 「はいっ!」 「その、違うんだ」 「な、なにが?!」 「だから、その、キスとか…」 「あんまり焦らなくても…そういうのって、自分たちのペースでいいんじゃないかな」 「じぶんたちの…」 「秋姫と俺が…二人とも、そういう気持ちになった時で、いいと思う」 「どうもさ…俺たちって、なんだか二人とも、あんまり気持ち伝えるのうまくないみたいだから…」 「まわりと比べて焦ったりしなくていい…違うんだから、さ」 「だから、気にしなくていいよ。朝のも」 「ハル君ってすごいね」 「えへへ、なんでもない。さ、植木鉢のチェックあと半分しなきゃ!」 止まっていた秋姫が動きだした。 朝からずっと続いていたぎこちなさが、するりと抜けていったのがわかる。 「(よかった……ちゃんと伝えられて……本当によかった)」 秋姫は植木鉢に生える花の葉を、丁寧にチェックしはじめた。 俺もその隣にしゃがんで、秋姫の真似をする。 そうすると秋姫がこっちを見て、ふっと微笑んでくれた。 「あ……そうだ」 一つの植木鉢を手にとったとき、ふと思い出したことがあった。 「秋姫、ちょっと見てほしいものがあるんだけど…」 温室の中小さな棚に置かれた、空の植木鉢。 俺はその一つを手にとり、秋姫のもとへと戻った。 「これ…掃除していた時に見つけたんだけど」 「何かな…?」 「球根だ…」 「あの植木鉢の後に、落ちてたんだ」 「何の球根かわかる?」 秋姫は袋から出てきた球根を手のひらに乗せ、じっと見つめる。 「んー……ううん、これだけじゃわからない」 「こういう球根は、いつも花別にまとめて植えるんだけど…」 「もしかしたら、このひとつだけ場所が無くて植えられなかったのかも…」 「そうか…」 「ひとつしかないけど…捨てるの、かわいそうだね」 「あいてるとこにこっそり植える…ってのは駄目かな?」 「こっそり?」 「端の方に、とか」 「……わたし、そうしたい」 「じゃあ、そうしよう。俺、土とか持ってくるよ」 温室の片隅の、今は使われてない少し崩れかかった花壇。 俺と秋姫はその場所の土を入れ替えて、球根を埋める事にした。 一つだけの球根には広すぎるような気もするけど、花の種類がわからないからその方がいいと秋姫は言った。 最後にその場所が間違って踏んでしまわれないように、同じ位の大きさの石でぐるりと囲む。 本当に手作りって感じだったけど、ひとつだけの球根の花壇ができあがった。 「楽しみだね、芽が出てくるの」 「そうだな、何の球根だったんだろうな」 「何の花かわからないって、ドキドキしていいかも」 「ふふふ…早く芽が出ないかなあ」 「秋姫、ほんと嬉しそうだな」 「だって嬉しいから!」 「ハル君と二人で植えたお花だもの」 秋姫は花壇のふちの石を指先で愛しげに撫でていた。 なんだかその姿が、俺の中の深い場所へとどんどん染み込んでくる。 「……また秋姫との秘密が増えた」 「この温室の夕日と、この花」 「あ…もうこんな時間だったんだ…」 秋姫は立ちあがり、数歩前へと進んだ。 「まぶしいね」 秋姫が教えてくれた、秘密の時間だった。 西日が天井が降り注いで、その光を秋姫はまぶしそうに見上げている。 「この花も、この光も、ハル君とわたしだけの秘密かぁ」 「なんだかとっても嬉しい、わたし」 「……うん、でも」 ――でも俺にとっては、今こうしてる秋姫の方がきれいに見える。 降り注いでくる夕陽よりも、ガラスが反射して作るこの一瞬の時間よりも、目の前にいる秋姫がその中に立っていることのほうが大事だ。 誰にも見せたくない、秘密にしたい。 「ハル君」 「どうしよ…」 「……どうかした?」 「違うの、ただ…」 「…ただ?」 「わたし、まだ焦ってるかも……さっきの」 「……さっきの」 「キス……のお話…ね」 「あ、焦らなくていいんだよねっ」 「…俺も」 「俺も焦らなくてもいいと思う……けど」 「ハル君…」 「う…? うん」 「もう……時間、いいの?」 「時間…早く帰らなきゃいけないんじゃ…」 「――あっ!」 曇ったガラスの向こうの太陽は、もうすぐ沈んでしまいそうだった。 「ご、ごめ…俺帰らなきゃ…っ!」 「ぅわ、わ、わっ…!」 「大丈夫?!」 「大丈夫、大丈夫…」 「ふふ…」 「ふふ、くすくす…ハル君、あわててる…」 「……じゃ…」 ほんとに慌ててた。 夕暮れ間近だからだけじゃなくて、秋姫にキスしたし、その時自分の胸の中にあった気持ちにも驚いてた。 「秋姫のこと、俺……俺だけのにしたいなんて……」 それってすごく自己中心的な気持ちじゃないか。 秋姫のこと好きなのに……そんな気持ち……。 「って、今からまた秋姫のとこ行かなきゃなんないのかよっ」 唇に、ふっと秋姫の感触が蘇った。 「あ…でも俺、ユキちゃんのときに一回キスされてんだよな……」 なんとなく悲しいから、それはカウントしないでおこう。 「…あぁー…行くの恥ずかしいな……」 「でもなぁ…」 「……最近、しずく落ちてきてないもんな…」 「……こほん」 「す、すももぉー、きたよー」 秋姫の部屋に着いたとたん目にとびこんできたのは、いつもの服に着替えた秋姫だった。 「指輪、光ってる!」 「うん、肩に乗って!」 「遠い?」 「まだ先! まだまだ続いてるよ!」 「もちろん!」 光を追って走った秋姫がたどりついたのは、街の端にある広い池だった。 辺りは整備されてるので、昼間はマラソンしたり散歩したりする人が多い。 しかし夜になると急に寂しくなる、そんな場所だった。 「はぁ、はぁ、はぁ…ここだね、ユキちゃん!」 「おっきな池があるよ。…しずく、池の中かな?」 「たぶんそうだろうけど……あ!」 「すもも、あれを見て!」 風に揺れる木の葉の間に、人の影があった。 暗闇でもわかる明るい髪が風になびいている。 プリマ・アスパラスだった。 「待ってたわ、プリマ・プラム!」 「あ…ノナちゃん!」 「あぁもう、違うわよ! いい? あなたと、アタシは、これから学び舎の誇りをかけて戦うの!」 「アタシはセントアスパラスのプリマ・アスパラス!」 「そしてあなたはプラムクローリスのプリマ・プラム! わかる?」 プリマ・アスパラスがびしりと秋姫を指差す。 秋姫の体が一瞬びくりと震えた。 「はっ、はい…」 「なら! アタシのことはなんて呼ぶの? 言ってみなさい?!」 「えっと…アスパラ、さん」 「あ、アスパラス、だよ、すもも」 「……まぁいいわ、もうそこは直しようが無いと諦めます」 「とにかくっ!」 プリマ・アスパラスは今度は池のほうを指差した。 俺も秋姫も同じ方向を見つめる。 「あれが見えるかしら?」 「……あれ…?」 「池?」 「――あっ!! 見て、ユキちゃん!」 「池の上! 真ん中くらいのとこ!」 大きさはビー玉くらいだろうか。 光ってなければ絶対気づかない大きさだった。それが水面の上をすべるように飛び回っている。 「……なにか飛んでる!」 「そう! あれこそ今日アタシとあなたが取り合うしずくよ!」 「あれを…!?」 「今までのと動きがぜんぜん違う…」 「ほんとだ、すごく早いね…」 しずくは時々水中に入ってはまた水面へと出てきて飛び回ってる。 小さくて、しかも今まで見たしずくの中で一番素早い動きだ。 「今日のしずくはこれまでで一番難しいもの! 真剣勝負には相応しいレベルだわ!」 「わぁっ、あぶなっ…!」 「パディス・アクア・オムニス!」 「――立った!」 「すごぉい!」 それはまるで銀盤の上に立っているようだった。 足元に小さな波紋を生みながら、プリマ・アスパラスは水の上にまっすぐ立ち上がった。 「…! はい」 「今日は……本気で勝負してもらうわよ」 「勝負……」 「そう、アタシと、あのしずくを取り合うの」 「それが、アスパラさんの望んでいること?」 「そうよ。前にも言ったはず…アタシはアタシに見合うだけの力の持ち主と対決したい」 「プリマ・プラム。考えようによっては…あなたほどその素質のあるスピニアはいないわ」 「…わかった!」 「わたし、真剣にやります!」 「――これでやっとプリマ同士の対決を始められるわね!」 「アーサー! 瓶の準備はいいかしら?」 「はい、おじょうさまっ!」 「では、はじめましょうか!」 プリマ・アスパラスは早速動きだした。 星のしずくへと向かって、水面を勢いよく駆け出す。 池のふちに立ったままの秋姫じゃ、どう考えても不利な勝負だった。 「うん! ユキちゃん、がんばろっ!」 「でも、どうやってあそこまで…」 「真ん中だもんね…泳いでいくしかないと思う」 「でも大丈夫! 前はもっともっと深いところまでもぐったもの!」 「……すもも、なんだか今日はすごく元気に見える」 「元気だよ!」 秋姫はきっぱりそう言い、池へと走り出した。 「ヴィム・コミティ・アクア!」 「でも元気とか、それだけじゃないような…」 「ふふふふっ!」 あんなに水を怖がってたのに……。 夜の、しかもプールと違って深さのわからない池にも物怖じせず、秋姫は進んでいった。 言葉の力を使っているとはいえ……秋姫は変わった。 「わたし、今ならなんでもできる気がするの!」 「なんでも?!」 「なんでも! なんだかね、いつもより勇気がある気がするから」 「勇気…」 「――ハル君が、くれたの!」 「は……」 「ハル君が、わたしにいっぱい勇気をくれたんだよ!」 秋姫が変わったのは、俺のせい? 俺が秋姫のことを、変えたのか? それは心の奥がくすぐったくなるような言葉だった。 「見て、ユキちゃん!」 「おじょうさま、しっかりぃ!」 「くっ……凄いわ、このスピード…」 「あっ、惜しい〜!」 星のしずくは恐ろしい速さで飛び去り、プリマ・アスパラスの手元を抜けた。 「…駄目ね! 引き寄せられない」 「かなり強力なしずくだわ。やっぱり、レードルで直接すくわないと…!」 水面に立つプリマ・アスパラスが悔しげに唇を結ぶ。 しずくまで後少しというところで、水中へとまた潜ってしまったからだ。 「近くで見たら、すごくはやい…!」 「あんなの、杖で受け止めなきゃいけないなんて…」 「……ね、ユキちゃん」 「あれを見て」 秋姫が指差す方に目を向ける。 やや遠くに、しずくの光が見えた。 水中で泡の尾を引きながら駆け巡っているしずくは……空中で見た時よりも少し遅い気がする。 「あっ…そうか、水の抵抗があるから、遅くなるんだ」 「ユキちゃん、難しいこと知ってるんだね」 「う、うん、まあ」 「水の中でなら、頑張ればすくえるかも!」 秋姫は水をかき、少しずつ少しずつしずくの方へと近づいてゆく。 幸いにも空中へと飛び出す素振りは見せていない。 「もうちょっとだよ!」 「ん!」 このまま…このままいけばうまくいくかもしれない! 「えぇいっ!」 秋姫は杖をかまえ、その手をしずくの方へと目一杯伸ばした。 「き、消えたぁ…?!」 「どこに…?」 「――うしろだっ!」 「えぇっ…?」 秋姫は慌てて体をひねり、向きを変えた。 「今、しずくが動いたの見えた?」 「いや、ぜんぜん見えなかった…」 「もう一回、やってみよう!」 「アーサー、今の見たわよね?」 「申し訳ありません、なにぶんにも水の中だったものでイマイチ…」 「しずくの光がどうなったのかくらいはわかるでしょっ!」 「なるほど! さすがはおじょうさまです」 「それにしても瞬間移動するしずくなんて、聞いたことがないわ…」 「もしかして、大発見ですか? おじょうさまっ」 「こうなると、水中で勝負するのは賢くない。上に出てくるのを待ちましょう」 「あぁ〜」 「また消えちゃった」 しずくは俺と秋姫を弄ぶように、突然現れてはまた消えた。 「今度はどこへ行ったのかな…」 もう少しで手が届きそうと思えば、次の瞬間には遠くで光っている。 いくら言葉の力で守られているとはいえ、このまま同じことを繰り返していたら疲ればかりがたまるだけだ。 「ねえ、すもも」 「なあに?」 「闇雲に捕まえようとしても消えるだけじゃないかな…」 「もっとこう、ピンポイントに狙いを定めたほうがいいと思うんだ」 「……ユキちゃんってほんとに頭がいいなぁ」 「……うぅ」 「あれ、照れちゃった? ユキちゃん、頭がいいのに恥ずかしがり屋さんだよね」 「それより! しずくが池の上に出ようとするときを狙ってみるのはどうかな?」 「わかった、やってみる!」 体をひねり、秋姫はきょろきょろと暗い水の中を見回した。 一度姿を消したしずくは、どこから出てくるかわからない。 俺も秋姫も息を殺して、小さな光を探し続けた。 「えーっと…あそこだ!」 「あんまり近づきすぎないで、動きが上に向いた瞬間に手を伸ばそう!」 今までと違い、秋姫は水中を漂うようにゆっくりと近寄っていった。 「いまだ!」 「やぁ!」 「っ…もう一回!」 秋姫は空振りした杖をもう一度構えなおし、しずくを追った。 「がんばれ! すもも!」 「届いてっ!」 「上に出た!」 「まだ、いけるかも―――」 「――――プルヴ・ラディ!」 「あーっ…いまの、惜しかった!」 しずくは秋姫の杖をかすめて飛んでいってしまった。 「はぁ、はぁ…惜しかったね! もうちょっとで届いたのに」 「もっと勢いをつけて、飛び上がればよかった!」 「と、飛び上がるの?!」 「そうだよ! トビウオみたいにね、ピョンって――」 「ユキちゃん! いまのは…」 「待って、きっと新しい術だよ!」 「えーっと、これは、あ…あら…」 本に浮かんだ文字を読み解く。 何度も何度も目にしたせいか、象形文字みたいなそれを俺はだいぶ読めるようになっていた。 「ユキちゃん、あの紙無しでもわかるようになったんだ」 「うん、まあ……それで続きだけど……でぃ、うむ…めい…かな」 「アラ・ディウム・メイ?」 「わぁぁあっ!」 「ええぇぇっ!?」 「なにっ?! 一体なにが…」 「――うそっ!?」 飛び上がったすももの背に、羽根が見えた。 うっすらと色のついたガラスのような、輝く何枚もの羽根。 秋姫はその羽根をひろげ、空に舞い上がっていた。 「すごいすごい! すごいよユキちゃん!」 「す、すももがすごいんだよっ」 「ユキちゃんもすごいよ!」 「それよりはやく、しずく!」 「あっ、そうだ!」 「ま、待ちなさぁーい! アラ・ディウム・メイッ!」 「わっ! おじょうさま、待ってくださぁーい、おいてかないでくださぁーい」 「と申しますか、わたし、おじょうさまの近くにいないとしず、しずんで…がぼがぼ」 「ちょっと!! ちょっと、待って! 秋姫さんっ!」 「あっ、アスパラさんも飛べるんですね!」 「そんな事はどうでもいいの! どうして、あなた…その、羽根!」 「どういうこと? プラムクローリスのその言葉は羽根が生えるものなの?!」 「わかりません! 今使えるようになったばかりだもの」 「ひつじ!」 「俺も知らないってば!」 「うわっ! すごいな…」 水中からあがると、しずくはやはり相当速い動きを見せていた。 「いいわ、今はそんなこと…気にしてる場合じゃないものね!」 「はっ!」 「ユキちゃん、お空ではやっぱりとっても速いよ、しずく」 「さっきみたいに水にもぐった方がいいんじゃないかな?」 「うん…あ、いや、待って」 「せっかく空、飛べるようになったんだから……」 「一度離れて上から観察してみるのはどうかな」 「上? 高く飛んで上から見るってこと?」 「そう……高いところ、怖くない?」 「うん、怖くない!」 秋姫は一度体をぎゅっと折り曲げ、次に思いきり背中をそらした。 透明な羽根たちはそれぞれしなり、秋姫の体はあっという間に上空へと舞い上がった。 「ユキちゃん、しっかりつかまってる?」 「風が強いから、気をつけてね。下…向くよ」 「見えるよ、ユキちゃん!」 「ここから見ると、動きがよくわかるね…」 「あっ、もぐっちゃった」 光が弱くなったのは、しずくが水中にもぐったからだろう。 俺とすももはそのまま観察を続けた。 「―――消え……あっ!」 「見て! 今、一瞬だけど光がふたつになったよ!?」 秋姫のいうとおり小さな光は二つにわかれ、片方は消えて、もう片方は水の中へもぐっていった。 「そうか、移動したんじゃないんだ」 「しずくはふたつあったんだ!」 「ふたつ…?」 「今までも、光らないタイプのしずくってあったじゃないか」 「うん…苦労したよね」 「きっとあのしずくは、光ったり光らなかったり出来るんだよ」 「さっき消えたのは、消えたんじゃなくって光るのをやめただけなんだよ!」 「そして、一個のしずくが光るのをやめたら、もう一個のしずくが光りだすんだ」 「あっ、そうかぁ!」 「じゃあ、一個ずつ確実にすくえばいいのね」 「そうだね。消えてもそのまま杖を伸ばして、もう一個に気をとられないようにしよう」 「空飛ぶのって、気持ちいい!」 「すもも、もっと怖がるかと思ったよ」 「うん、怖かったかも……今までなら…」 「でも、今は大丈夫なの。どうしてだろ…」 「…平気なの!」 「ハル君がね」 「ハル君が、そばにいる気がするから!」 「――っ……?!」 「ユキちゃん、本…! また、光ってるよ!」 俺の真横で、本が再びまばゆき光を放った。 一日でこんなに何度も光るのは初めてだ。 「あ、そ、そうだねっ、本、ほんっ…」 俺はおそるおそるそのページに手を伸ばした。 「――ティム・フォールナ・メイ……これは」 「あらゆるものを留まらせる、大きな、力……って書いてある」 「――唱えてみる?」 「まぶしい…!」 「なに…? どうしたの?! 今度は何よ……」 「ど、どうなったんだ? すもも、まだちょっと光ってるみたいだけど…」 「……わからない」 あの言葉は、どんな力を及ぼすものだったんだろう? 光が消え、ゆっくりと地上へ向かって降りてゆくすももは、ふと顔をあげた。 「風の音が…とまった」 「すもも! しずくが……」 「えっ…」 しずくの動きがものすごくゆるくなってる。 それだけじゃない、風の音も雲の動きも、何もかもがスローモーションの映像を見ているみたいだった。 「アスパラさんも、なんだか変」 「……止まってる…??」 「奇跡みたい…」 すももはやがて水面まで舞い降り、ゆっくりとしずくに近づいて杖を伸ばした。 「プルヴ・ラディ」 「………今の光…何があったの…?」 杖に引き寄せられたしずくが、秋姫の手の中でするりとガラス瓶の中に吸い込まれていった。 「できた…」 「…!! 秋姫さん、さっきまで上に――」 「すもも! もうひとつのしずくだ!」 「わかった、もう一度!」 秋姫は杖をかまえなおした。 「――えっと…」 「ティム、フォールナ、メイ…だよ」 「ありがとう。――ティム・フォールナ・メイ」 「ティムフォールナ…ですって?!」 「…すもも、今日はすごくがんばったね」 「ユキちゃんがいっぱい助けてくれたからだよ」 「でも、一日で二つも言葉が出るなんておもわなかった」 秋姫の手の中にあるガラス瓶には、星のしずくが二つも入っていた。 あの時間をゆっくりにする言葉を使い、秋姫はしずくをふたつとも手にすることができた。 「これで、六個目…」 「あとひとつだね、ユキちゃん」 「――ありがとう、すもも」 「まだ全部集まっていないもの。お礼は早いよ、ユキちゃん」 「そうかな、はは…」 嬉しそうな秋姫の笑みが、何故かふっと消えた。 シンとした公園の中を見回し、秋姫は不安げな声で言った。 「ノナちゃん、どうしちゃったのかな。いなくなっちゃった……」 「…ほんとうだ」 結城…いや、プリマ・アスパラスは、俺とすももが二つ目のしずくを採っている最中にいなくなってしまった。 あの勝負好きのプリマ・アスパラスが途中で消えるなんて、考えられない。 「……もう遅いね、帰らないと…」 ほんとに……どうしたんだろうな。 「はっ、お探ししました! おじょうさま!」 「………アーサー…そこにいたの」 「……ふえぇっくしょ!」 「この季節に水泳は少々寒うございました」 「………そう」 「……………おじょうさま??」 「い、いかがなされましたっ?! どこかお体の具合でも…」 「――――どうして」 「どうして、どうして……アタシもまだ使えないのに…何回も挑戦したのに…」 「…才能があるのはわかってた、けど……そんなのって!」 「……お、おじょうさま」 「……帰るわ」 「は、はい、かしこまりました」 「わぁぁ、まだ電気が点いてる家がいっぱい。すごくきれい!」 秋姫と俺は、夜空をぬって家へと戻ることにした。 透明な羽根は、鳥のようなはばたきは必要なかった。 どちらかというと、飛行機の方が近いかもしれない。 風を切り、よく晴れた空をすべるように飛んだ。 「これならすぐ帰れるね」 「もうちょっとお散歩してたいなあ」 「でも、もうそろそろ着いちゃうよ」 「ほんとだね、家が見えてきた」 「気をつけて降りなよ」 「到着」 「まだ覚えたばっかりなのに、うまいね」 「ああぁぁぁ―――――ッ!!!」 「空からすももたんが降ってきたよー!!」 「す、すももちゃん……」 「あ…あ…わ、わ、わ…」 「どうしたの? そんな可愛い格好して…そ、空飛んで…」 「すごいすごい! すっご〜い! すももたん!」 「あ、あの…みんな…」 「すももちゃ…」 「ごめんなさぁーい!」 麻宮たちを叩いて飛んで、秋姫は屋根の向こうに隠れた。 「……………だ、だいじょうぶかなユキちゃん」 「う、うーん…」 「……はれ?」 「……どうしたんだ?」 「ううん…なんだか、ちょっとぼーっとしてたみたい…」 「あれ? あれれれれ?」 「――とにかく、早く帰ろう。いくぞ、トウア」 首をひねりつづけるトウアをひっぱって、麻宮たちは帰っていった。 やっぱり杖で頭をたたくというのは、効果絶大らしい。 「…行っちゃった」 「だいじょうぶ…みたいだね」 「うん、ほんとに忘れてるみたい」 「すごいね、ちょっと触っただけなのに」 「でも、気を緩めちゃだめだね! 誰にも見られないように気をつけないと…」 「あとひとつだもんね」 秋姫は空を見上げた。 一緒に見たプラネタリウムにも劣らないほど、美しい星々が頭上に浮かんでいる。 「頑張らなきゃ…」 見上げる秋姫の顔は笑顔だった。 でも、その横顔がちょっと寂しそうに見えた気がした。 慌しい日々はあっという間で、テスト期間に入った。 あれから……すももと初めてキスをした日から何日たっただろう。 『ユキちゃん』の時はまだ大丈夫だった。 俺自身の時は、もう秋姫の顔を見ることすら恥ずかしい日もあった。 秋姫もそうだったようで、ぎこちない日々が俺たちの間に流れていた。 「(……やっぱ…ああいうのって……嫌われたかな)」 またどこかに一緒に行こうか。 そんな一言すら、まだ上手に伝えられなかった。 でも今日こそは言わなきゃいけない。 「(新月だもんな……時間気にせず、一緒にいられるし……)」 「それじゃ、ちょっと自転車とめてくるね」 「うん、ここで待ってる」 「――ひゃ」 「ご、ごめん、驚いた?」 「ちょ、ちょっとだけ……おはようハル君」 「おはよう…あの」 「今日さ、俺……」 「その、用事とかないし…さ、夕方からも一緒にいられるんだけど」 「ほんとにっ!?」 「わあ、嬉しいな、ど、どうしよ」 「秋姫の行きたいとことか、付き合うよ」 「どうしよう…あ、でも……」 「ハル君、もし良かったら、わたしのお家にこない?」 「うん、もうすぐテストだし、一緒に勉強とか…どうかな?」 「あの、ハル君って数学は得意?」 「普通くらいだと思うけど」 「あのね、わたし、数学がすっごく苦手なんだ」 「だから教えてほしいな……」 「ほんと? 嬉しいっ!!」 「ひゃ!!」 いつのまにか、八重野が自転車置き場から戻ってきていた。 「ふふふ……よかったね、すもも」 「えっ、えっ……聞こえてた?」 悪気は無かったけれど……。 と、八重野はすももに向かって小さく謝り、今度はにこりと微笑んだ。 「石蕗、すももは古文とか歴史が得意だから」 「そ、そんな、得意じゃないよ」 「じゃあ俺はそっちを教えてもらおう」 「……で、できるかな」 「そろそろ教室に向かおうか」 「あ、もうこんな時間? 急がなきゃ」 八重野は一番先に、秋姫の手を引きながら駆け出した。 そんな二人の背中を見ながら、俺も少し遅れて走る。 「(……なんだ、普通に一緒にいたいって言えばよかったのか)」 秋姫は嬉しそうだった。 俺と一緒にいたいって、本当にそう思ってくれてる笑顔だった。 「授業おしま〜い!!」 「ああ、疲れたああ」 放課後を告げるチャイムが鳴ったとたん、圭介も深道も大きくノビをしている。 クラス中のほとんどの生徒たちがそんなことを口々にこぼした。 「もう〜。二人とも大袈裟ね」 「でも、弥生もちょっと疲れたよぉ」 「ま、でも今日からテスト前だからまだましかな」 「そっか、テストまでもう一週間きっちゃったもんね」 「これで通常授業だったらぶっ倒れてるよ……ふぁあ」 「大丈夫。……大丈夫? 寝不足なのかな」 「うーん、ちょっとね」 「今日から部活ないから、早く帰って休んでね」 「ありがと〜! でも勉強も本腰いれないとなぁ」 「そうだよ、テスト。勉強とかどうする?」 「テスト勉強かあ……」 「秋乃ちゃんは、どうするんですか〜?」 「わ、わたしですか?」 「わたしは寮で、ナツキとトウアと一緒に勉強しようと思って」 「あ、そうなんだ。三人で勉強か、いいね」 「でも、ほとんどがトウアに教える時間なの」 「トウアってあの子だよね、元気ちゃん」 「うん。トウアはちょっとお勉強苦手だから……」 「三人仲良しなんだね」 「あ! いい事考えた!」 「え? なになに?」 「私達もみんなで勉強会やろう!」 「勉強会!?」 「そう! 一人じゃわからない所は、みんなで教えあうってやつ!」 「わ〜! それ楽しそう〜」 「そんな事言って、結局お喋りで終わっちゃう気がするんだけどな……」 「そうなるかも知れないけど、それはそれ! 勉強するかもしれないじゃん?」 「あはははは」 「そういえばハル」 「さっきからずっと黙ってるけど、お前はどうするんだよ、テスト勉強」 圭介が突然俺の方を振り返った。 「ああ、俺は……」 「秋姫と約束してるから」 「わ〜。いいなあ、二人でテスト勉強!!」 「彼女と勉強ですか! いいですなあ、石蕗君は!」 「ち、ちがう」 「あっあの! わたしが」 「わたしがお願いして……ハル君とわたし、あの、苦手な教科が違うから、一緒に勉強した方がいいかなって」 「ふふふ、いいなぁ。頑張ってね」 「いいな、いいな、でもお二人さんの邪魔しちゃダメだよね」 「そ、邪魔しちゃダメ」 小岩井も雨森も深道も、あまつさえ圭介までなんだか恥ずかしそうにしている。 でも一番恥ずかしかったのは俺だ。 「それじゃナコさんは弥生達と一緒にテスト勉強しようぐみ〜!!」 「あ、いや、私は……」 「ええっ!? 弥生達と一緒は嫌ですか〜?」 「そ、そういうわけじゃないけど」 「え! 八重野さんも来るの? わ、それだったらなんかちゃんと勉強できそう」 「ナコちゃん、行かないの?」 「う、うーん……じゃ、じゃあ行く」 「もう大歓迎っ! 八重野さんも来てくれるなんて、嬉しいな」 「あ…そ、そんな、何もできないけど、よろしく」 「麻宮さんもさ、三人で一緒に来たらどう?」 「あ……ありがとです……でもたぶん…無理だと思うな」 「え、なんで?」 「トウアがはしゃいじゃうから」 「えー。でもそれくらい大丈夫だよ?」 「た、たぶんみんなびっくりすると思う…ナツキも怒っちゃうかもだし」 「そうかー」 「ごめんなさい、折角誘ってくれたのに」 「いいの、いいの! 気にしないで!」 「わたしはハル君とお勉強があるから行けないけど…」 「今日の放課後、もう二人で勉強するの?」 「そのつもり……ね?」 「ラブラブですねえ」 「ラブラブですなあ」 「えっ、そそそんなじゃ、だってお勉強……」 「はいはい! じゃあ、私たちの勉強会はうちのお店でしようか?」 「おー! 賛成〜!」 「弥生、抹茶クリームあんみつ食べたいで〜す」 「それ、勉強にならないんじゃないのか」 「ま、なんでもいいって!」 「それじゃあ、そろそろ帰ろう。みんな、そのままお店来るよね」 「うん。行く行く」 「んじゃ、行きますかー」 「それでは皆さん、さようなら〜」 「さあ、ナコさんも行きましょう〜」 「あ、ああ。うん。すもも、また明日ね」 「うん。ナコちゃん、またね」 「また明日〜」 「ハルもしっかりやれよー、このお!」 「………圭介め」 「あ、あの……それじゃあ、わたしもトウアとナツキと一緒に帰るです」 「秋乃ちゃん、さようなら」 「それじゃあ、俺達も帰ろうか」 帰り道、秋姫が俺の隣に並んでいる。 付き合ってるんだからあたりまえのことだけど……すごく新鮮だ。 「(そうか……いつもは八重野と三人だったり、俺が先に帰るもんな)」 嬉しそうに隣を歩く顔を見ながら、俺は心の中でゴメンと小さく謝った。 「あ、今日はここまででいいよ」 寮の前までやってきた時、秋姫がいきなり足をとめてそう言った。 「だってハル君に何度も往復させちゃうから」 「帰り道、一人で大丈夫か?」 「うん、まだ明るいから! ……あ、そうだ」 「はい、これ。ちょっと、わかりにくいかも知れないけど……」 差し出されたのは可愛い花柄のメモだった。 簡単な図が書かれていて、よく見ると寮から秋姫の家までの地図のようだ。 「地図? ありがとう」 「道わからなくなったら、電話してね」 「あ、あと、ゆっくりでいいからね!」 「(あ、部屋のなか片付けるから――かな)」 「わかった、ゆっくり行く」 「じゃあ、あの、また後で」 「気をつけてな」 「(地図、なくても行けるんだけどな)」 そうは思っているのに、秋姫が書いてくれた地図を見ながら先に進む。 可愛らしい図柄と字を見ると少しだけ、何となく嬉しくなってしまう。 それに歩いて一人で秋姫の家に行くのは初めてだ。 「(なんか変な感じだよな)」 「ゆ…ゆっくりすぎたか?」 「ううん、違うの」 「あの、ハル君が迷子になってないかなって心配で」 「え……待っててくれた…の?」 「心配しすぎちゃったみたいだね」 「はは……そうだな」 「あ、あの、じゃあ入ってください」 「家の中、まだ少し汚いかも知れないけど」 「い、いや、大丈夫なんじゃないかな」 「(普段からきれいな部屋だと思うけどなあ)」 「えへ。なんか、嬉しいな」 「(……あ、玄関から入るの初めてだな)」 「あ、いや……お邪魔します」 「おや、こんにちは」 「こ、こんにちは!!」 「あ、お父さん。あ、あの、石蕗君です」 「は…初めまして、石蕗正晴です」 「そうか、石蕗君か。すももちゃんの父親の、秋姫正史郎です」 「今日はお勉強を教えてもらうために来てもらったの」 「そうか、そうか。もうすぐテストだもんねえ」 「うんうん、すももちゃんをよろしくね〜」 「お父さん、わたしたち居間でお勉強してるね」 「わかった、二人ともがんばってね〜」 秋姫のお父さんは、そのまま奥の部屋へと戻っていった。 ユキちゃんとしては何度か会ったことがあるけど、こうやって対面するとイヤに緊張してしまう。 「ハル君、緊張してるの?」 「え? そ、そりゃ…ちょっと」 「ふふ、大丈夫だよ。うちのお父さんのんびりやさんだもん。怖くないよ?」 「あ…ああ……じゃあ始めようか」 リビングの大きなテーブルの前に、秋姫と俺は並んで座った。 秋姫はいろいろ気を使ってくれて、ジュースやお菓子の載ったお皿を持ってきてくれた。 なんだか最初はそんなことに照れてしまって全然集中できなかった。 それでもノートと本を広げ始めるとそれなりに勉強会っぽくなってくる。 「ハル君、ここわかる?」 「ああ、見せて」 「この問題がわからないんだけど」 秋姫の小さい字が並んだノートに目を落とす。 どの教科のノートを見ても、みんな丁寧に板書が写されていた。 「えっと、ここは……」 「ここが、こうなるから」 「あ、そうか。それで、こっちの式をたして……」 「できた!」 「秋姫わかってるじゃないか」 「う、うん、なんだかね、ぱーってできるようになった」 「ハル君、ありがとう……教え方うまいね」 「いや、秋姫…たぶんほとんどわかってたんだと思うよ」 「だって俺、ちょっとしか教えてないけど、すぐわかったから」 「そ……そうかな」 「テストの時もきっと大丈夫だよ、秋姫。次はこっちのページを……」 秋姫の目の前の教科書に手を伸ばした時だった。 「………ハ、ハルくっ」 秋姫はぱっと顔を上げて、なんだか困ったような表情でこっちを見ている。 「…あのね」 「忘れちゃうかも」 ……なんだ、そんなことを心配してたのか。 そんなすももに、思わず笑みがこぼれた。 「大丈夫だよ、今できてたから」 「だって……ハ、ハル君が」 「す、すごく、ち、近かった……から」 「どきどきしてるから…忘れちゃうかも」 「ご、ごめん、じゃ、じゃあもうちょっと離れて座る」 「お〜い。二人とも、もう晩御飯の時間だよ」 「もう、そんな時間――」 俺は慌てて筆記用具をかき集め、カバンの中におしこんだ。 「あの、それじゃあ俺そろそろ帰ります」 「何を言ってるんだい、石蕗君」 「お、お父さん?」 「折角来てくれたんだから、一緒に晩御飯を食べよう」 「あ、あの、でも」 「何故ならもう、石蕗君の分も用意してあるのです〜」 「お、お父さん、そんな」 「ほらほら二人とも頑張ったんだから、そろそろ勉強は終わりにしてご飯にしよう」 秋姫のお父さんはにこにこしながら、テーブルの上に残っていたノートや本を揃えだした。 「ん、いいよいいよ〜」 「さて、すももちゃん。ご飯の準備をするよ〜」 二人はキッチンの方へと姿を消した。 俺がそこにいって手伝うわけにもいかないし、ただここで座ったまま待ってるのは気が引ける。 なんだか落ち着かない。 俺は何度も座りなおしながら、秋姫が戻ってくるのを待った。 「………わ」 テーブルに並んだおかずの数々を見て、俺は思わず絶句した。 俺が来るからなのか、いつもそうなのかはわからないけど、とにかく豪華だった。 おまけにすごく美味しかった。 「石蕗君、遠慮しなくっていいんだよ? もっと食べて」 「お父さん、も、もういっぱいあるから! ハル君おなかこわしちゃうよ!」 「あ、だ、大丈夫だから」 「……ごめんね」 「あはは、思い出すなぁ〜こういうの」 「私の家にね……ああ、ここじゃなくて、私の両親のところに、カリンさんが来たときのこと」 「お母さん……が?」 「そうそう。こうやって食卓を囲んだんだけどね――カリンさんだけだったよ、思いっきりご飯を食べてたのは! ははは」 「ほんとにっ!? お母さんすごーい!!」 「ああ、うちの両親も私も緊張しちゃってね。いーっぱいあった料理、ほとんど全部カリンさんが食べたなぁ〜」 「……は、はは」 「そうだ、あの時もちょうど今の石蕗君みたいに緊張しながら笑ってたんだ……ナツメ君が! ははは、懐かしいなぁ」 「き、如月先生……が?」 「へえ…見てみたかったなぁ」 「あはは、すももちゃんの生まれる数年前の話だよ。でも、そういうなんでもないことって、何故かいつまでも覚えてるんだよね」 「(な、なんでもないこと……なのか)」 「だからね、石蕗君もなーんにも遠慮することないん――」 「ん? 誰だろう、こんな時間に」 「ご、ごめんね……うちのお父さん、お客さんおもてなしするのが大好きなの」 「あ、き、気にしないでいいよ、ご飯も美味しいし」 「ほんとに? よかったぁ、たくさん食べてねっ」 「(秋姫のお母さんの話って、如月先生のお姉さんなんだよな……)」 さっきの話を聞いていると、ずいぶんすごい人のようだけど……秋姫の性格はお父さん似なのかな。 そんなことを思いながら、俺は秋姫の顔をちらちら覗いた。 「あ、お父さん。電話何だったの?」 「すももちゃん、石蕗君……ごめんね」 「ちょっと出版社の方から電話があってね、仕事の事で今すぐ出掛けないといけなくなったんだ」 「えー?」 「うん。だから、今から出ないといけないんだ。二人とも本当にごめんね」 「大変なんですね、お仕事」 「まあ、こんな風に夜に呼び出されるのはあまりないけどねえ」 「お、お父さん気をつけて行って来てね」 「大丈夫だよ。それより、すももちゃんも気をつけてね」 「悪いけれど、後片付けだけお願いしてもいいかな」 「わかった。やっておくね」 「それじゃあ、慌しいけど今から準備して行って来るよ」 「はい。行ってらっしゃい、お父さん」 「ごちそうさまでした」 「石蕗君も、おもてなしの途中でごめんね。行って来ます」 自分のぶんのお皿を流しに運び、秋姫のお父さんはばたばたと出かけていった。 よっぽど急ぎの用事だったんだろうか。 残された俺と秋姫の方が、なんだかぽかんとしてしまう。 「あーあ、寂しいなぁ、お父さんいないと……」 「(そ、そういえば今、家に二人っきり……)」 「あ、あの、秋姫」 「ハル君、どうしたの?」 「俺も……そろそろ帰るよ」 「え! ど、どうして?」 「ハル君、あの、いやじゃなかったら」 「いやじゃなかったら、いてほしいな」 「一人だと寂しいし……夜だし……」 「お父さんが出かける事ってあんまりないから」 「……ダメ?」 ダメなわけない。 秋姫ともっと一緒にいたいし話がしたい。 今日は月に一度だけしかない、自由な時間を持てる日なんだから。 「わかった…じゃあ、もうちょっと」 「よ、よかったぁ!」 「嬉しいな、今日はすっごく長い時間、ハル君と一緒にいれる」 「あ、じゃ、じゃあわたし、後片付けしてくるね」 「俺も手伝うよ」 「(いいのかなあ、本当に)」 その後、残りの夕食を残さず食べた俺に秋姫はびっくりしていた。 やっぱり普段はすももとお父さんの二人だから、もっと少ないらしい。 だからお父さん、今日は作りすぎちゃったんだと、秋姫は笑っていた。 それから一緒に後片付けをして、リビングに戻って他愛ない話をして……。 いつしかお互いに無言になっていた。 「ハル君、テレビ…見たいのある?」 「あ……秋姫の見たいのでいいよ」 「そっか、じゃ、じゃあこの番組にしようかな」 「ハル君っ」 「忘れてた、すっごく美味しいジュースがあるの、一緒に飲もう!」 「へ? あ、ああ…ありがとう」 時計を見上げれば、夕食を終えてからもう数時間がたっていた。 「お父さん、帰ってくるの遅いな」 「わたしの家、ハル君がおもしろいと思うもの、なにもないから」 「そんなの、気にしなくていいよ」 「それよりテスト勉強、他の教科とか……大丈夫?」 「あ…そ、そだっ」 「わたしが教えてもらってばっかりだった」 「あ、いや、それはいいよ」 「ううん、他の教科の本とか、部屋に置いてあるから……そっちいこう!」 「二階なの、わたしの部屋」 「え、ちょ、ちょっとまって……」 「わたし、先にいってちょっと片付けてくる! ハル君、二階に来たらノックしてね」 「あ……あの…お邪魔します」 「こ…ここがわたしの部屋です」 「(え……)」 「(こんなに小さな部屋…だったんだ)」 机、ベッド、本棚――。 みんな、もう何度も目にしていたものばかりだ。 でもその全部がなんだかこぢんまりとして見える。 「(ああ、本当に秋姫の部屋って感じだな)」 「あの…へ、へん…かな、わたしのお部屋」 「え、そんなことないと思うよ」 「なんだかちっちゃいなって思って」 「そ、そうかなぁ」 「なんとなく」 いつもあのヌイグルミの姿で部屋にいるから、部屋の中全部が小さく見えるんだろうけど……。 やっぱり、ちょっと不思議な感じだ。 ぼーっと部屋の中を見ていると、秋姫は突然何かを思い出したように声をあげた。 それがあまりに突然だったから、俺は驚いて秋姫をじっと見つめた。 「わたし、下にジュースとかお菓子とか、置いてきちゃった!!」 「と、取ってくるね!」 「あ、い、いいよ」 俺はその時焦っていて、手をのばしたそのままの勢いで秋姫の腕を掴んでしまった。 「ご、ごめん、どっか打たなかった!?」 「う…うん、平気だよ」 勢いよく立ち上がろうとした秋姫と、強く腕を引っ張ってしまった俺。 軽い秋姫の体は、コロンと転げてしまった。 「ごめんな……何してんだろ俺……ちょっと強く引っ張りすぎた」 「そ、そんなことないよ、あの、びっくりしただけだから」 「でも腕――ちょっと見せて、アザになってたらごめん」 「ハ…ハルくっ」 慌てて秋姫の腕を見てみるけれど、アザにはなっていなかったらしい。 良かった、女の子の腕にアザなんて作らせない方がいいに決まってる。 「……よかった、大丈夫みたい。ほんとにごめんな、あきひ……」 秋姫が真っ赤になっている理由に、俺は気づいた。 アザはないかなんて、本当にそう思っていたけど、俺は素肌の秋姫の腕を握っていた。 「お、俺――」 「……あう…うぅ…わたし…ね」 「さ、さっき、ハル君がね、帰るって言った意味のね、ホントの意味みたいなの……わ、わかったかも」 「ホントの意味?」 「だ、だって夜だし、おと…お父さんいないし、こ、ここ、わたしの部屋だしっ」 「わ、わたしっ――……ぅう」 「……あは、はは」 そ、そっか。 俺が言った事の意味がわかって、急に恥ずかしくなったんだ。 なんだか、思い出して自分まで恥ずかしくなって来た。 「俺もだよ……女の子の部屋に来て、何期待してるんだろ…とか思ってたから」 口に出しながら恥ずかしくなって来た。 俺、わざわざ何言わなくていい事言ってるんだろう。 でも、口に出してしまったから、途中で言うのをやめるなんておかしいし。 「……一緒?」 「うん、何か……本当は何かあるかも、とかさ」 「ふふっ、ほんとだ、一緒だね」 「はは、そっか、一緒だったかー」 「はは、勉強なんてできないよな」 「う、うん……ほんとに……」 なんか、言って良かった……かな。 少しだけ、ほんの少しだけ和んだ気もするし。 「ぜ、ぜんぶ一緒か……試してみよう…か?」 「試す?」 秋姫がストンと床に座り、俯いた。 それから二度三度部屋の隅を漂って、まっすぐこっちを見つめる秋姫の目は……うるうると潤んでいた。 「どうやって?」 「えっと……そ、そうだ。せーので、耳元で言ってみるの、とか」 秋姫は俺に近付いて耳元にそっと唇を近づけ、俺も同じように秋姫の耳元に唇を近づけた。 耳元にかかる、秋姫の息に心臓が大きく高鳴った。 「じゃ、じゃあいくね」 「キス」 「……キス」 互いの唇から出た言葉に驚き、俺達は顔を離して見つめあった。 秋姫の顔は真っ赤になっていたけど、多分俺も真っ赤になっていたと思う。 その証拠に、今、耳まで熱い。 「い、一緒だ!」 恥ずかしくて言葉が口から出て来ない。 それは秋姫も同じようだけど、こちらをちらちらと見つめながら何かを考えているようだった。 だけど、考えるのをやめたかと思うと、座っていた秋姫は急に膝立ちの状態になった。 「ど、どしたの」 「え……えと…こうしないと…ハル君、背高いし…届かないし……」 だけどすぐに、頭の中でさっきのお互いが口にした言葉が繰り返された。 そして、秋姫は恥ずかしげにもう一度口にする。 「ハル君……キス」 「キスしても……いい?」 「……うん、したい」 驚くぐらいに素直に、俺は秋姫に頷いていた。 顔と顔が近付く。 もうすぐで唇が触れるんじゃないかという距離。 互いの息がかかって、真っ赤になった頬が嫌でも目に飛び込んで来る。 恥ずかしいけれど、視線すらそらせない。 「は、恥ずかしい」 「ハルく…ん」 瞳を閉じた秋姫の唇に、俺はゆっくりと自分の唇を近づけた。 柔らかい感触が唇に触れた。 それが秋姫の唇だと気付くのに、少し時間がかかった気がした。 口付けた唇を少し離して、もう一度重ねる。 秋姫は唇が離れて不安になったようだったけれど、俺がもう一度唇を重ねると安心したように、自分からも少し唇を押し付けた。 「ふっ……ん、んっ」 唇を何度も押し付け、少し離して、また押し付ける。 それを繰り返していると、秋姫の方も同じように唇を何度も俺に押し付けてくれる。 「はぅ…ふ……」 何度も何度も俺と秋姫の唇が近付いて、そして離れる。 繰り返しているうちに、俺は少しずつ自分が興奮しているのに気付いていた。 もっと、口付けを続けたいと思っていたけれど、急に秋姫の体が小さく揺れた。 「………ひゃうっ」 小さく揺れた秋姫の体がバランスを崩してそのまま倒れそうになった。 慌てて腕をのばして体を支え、秋姫が転ぶのを何とか受け止めた。 「び、びっくりした……」 「良かった……後ろにこけなくて」 「うん、あ、ありがと……ハル君」 秋姫を受け止めた腕を緩める事をうっかり忘れてしまい、まるで抱きしめているような状態になっている。 どうしよう……。 このままなのもおかしいけど、急に手を離すのも変な感じだし……秋姫、嫌じゃないだろうか。 「えへ…ハル君に抱っこしてもらってる…みたい」 「あ、ほ、ほんとだ……」 「こ、こんな近くなるの、はじめて……だよね」 答えてから俺は気付いた事があった。 腕の中にある秋姫の体は、驚くぐらいに軽い。 今まで腕の中で支えていたのに、ちっとも腕がだるくなったり、しびれたりしない。 女の子って、こんなに軽いものなのかな……。 「すご……秋姫ってこんなに軽かったんだ」 「ほ、ほんと? ほんとに?」 「な、なんだか嬉しい…な」 腕の中で微笑む秋姫は本当に嬉しそうだった。 こんな事で、喜ぶものなんだ……。 なんだか、本当に嬉しそうな微笑みで……可愛いな。 「あ、あの……もう大丈夫だよね」 「そろそろ……は、離れよう…か」 「えっ、あ…でもこうしてるの……いや、かな、ハル君」 「(――イヤじゃないから、だよ)」 このままこうしてたら、俺なんか……ダメな気がする。 秋姫が可愛すぎて、どうしたらいいかわからなくて、それで……。 「あ、そ、そか、ハル君……腕が痛く…なっちゃうから」 「違うよ、腕とかじゃなくてあの、俺がダメなんだ。その――だから」 「だから、もっと触りたくなったりとか……するから」 見る見る間に秋姫が真っ赤になった。 俺だって恥ずかしいし、多分、顔は真っ赤だ。 勢いとはいえ、何言ってるんだ俺。 こんな事言われたら、秋姫だって困るってわかってるのに。 ああ、でも、もう言っちゃったし。 「………だから」 「ハル君が……わたしのこと…あの…好きでいてくれるの…嬉しいの」 「ハル君になら……触られてもいいの……」 「あ、秋姫、でも」 本当にいいんだろうか。 俺が迷っている間も、秋姫は俺をじっと見つめて、頬を染めている。 ……やっぱり、いい……んだよな。 黙って俺を見つめる秋姫に頷いてから、俺はそっと手をのばして肌に触れてみた。 秋姫のシャツをたくしあげると、小さくて可愛い下着が見えた。 その上から、そっと小さな膨らみに触れてみる。 「――ひゃぅ」 「ごめ……痛い?」 小さく声をあげた秋姫に驚き、不安そうに声をかけると見上げられながら首を振られた。 「う、ううん……ちょ、ちょっとだけ冷たかった…の」 慌てて手のひらを離すと、秋姫は慌てて俺の手を取って握ってくれた。 「で、でも、もう平気……だよ」 頷いた秋姫の手を一度握ってから離す。 そして、もう一度膨らみの上へ移動させていった。 手のひらに、秋姫の柔らかい感触が伝わる。 「――んぅっ」 手のひらに伝わる感触は今までに感じた事のないもので、女の子はこんなに柔らかいのかと驚いた。 「へ、へん…かな……」 「わた、し、どうしたらいいの……かな」 「……何もしなくて、いいよ」 「ひゃ、やっん」 柔らかい膨らみの上で少し手を動かしていたけれど、秋姫は随分緊張しているようで体が強張っていた。 無理に続けても辛いだけだし、少しだけ手の動きを止めて秋姫を見つめた。 嫌がる事はしたくないし。 「あ…あのあの…ハ、ハルく…ん」 「やめ…や、やめちゃう…のかな?」 「あ、その――」 「急ぎ…すぎた、かなって……思った」 実際、これ以上してもいいのか不安だし、こんな状態で秋姫に触れていいのかよくわからない。 俺も秋姫もお互いに緊張してるみたいだし、このまま続けてもいい結果にはならない気がする。 俺の言葉を聞いて、秋姫は黙ってしまった。 俺もこれ以上何を言えばいいのかわからなくて、ただ黙る事しかできない。 そっと、膨らみの上の手のひらを離そうとした時、秋姫が口を開いた。 「ハル君……」 「ハル君…大好き……」 「好き……だから」 「………だ…から」 真っ赤になった秋姫は小さく頭を振って俯いた。 こちらを見ずに恥ずかしそうにしている姿を見つめていると、秋姫が言おうとしている事がなんとなくわかった。 頷き、秋姫のブラを少しだけずらした。 目の前に小さな二つの膨らみが現れる。 「あっ――」 そ、そう言えば……あのヌイグルミの姿では秋姫の胸、見た事あったけど、こ、この状態だと初めてだな。 ……なんだか、あの時と今とだと、同じようで何か違うような……。 「ハルく……ん」 「あの……そ、そんなに見るの、はずかし……」 思わず視線をそらしても、頭の中にはさっきまで見ていた秋姫の胸がハッキリと浮かんでいた。 黙ってしまった俺と同じように秋姫も黙る。 お互い、何を言えばいいのかわらかない。 「ごめんね、ハル君……む、胸とか、あの」 「あの……え、えっと…うぅ」 「ち、ちっちゃい……から…わた、し」 「な、なんだ、そんなの」 「はうぅ……」 「そんなの、全然関係ない」 「ハルく……んっ」 手のひらを動かして、柔らかい膨らみを直に揉んでみる。 秋姫は小さいのを気にしてたみたいだけど、そんな事本当に関係ない。 秋姫の体はこんなに柔らかくて、それに気持ちいい。 「はぅ…んっ」 「………うぅ…ん…ハル…くん」 どうすればいいのかわからなくて、撫でるようにしていた手のひらを強く動かして、手のひらいっぱいに胸を包み込んでみる。 「――きゃうぅ」 「力、強すぎ…る?」 「んんっ、だ、だいじょ……ぶ」 「……ハル君の手……おっきいんだね」 包み込んだ秋姫の胸を優しく撫でながら、じっと見つめる。 手のひらが動くたびに、秋姫が小さく声を漏らしながら反応してくれる。 「あっ…ん……」 「わ、わたしが…ち、ちっちゃいから……かもだけど…えへ…」 「ごめんね、あの……やっぱりおっぱいって……」 「お、おっきい方が……き、きもち…いいんだよ…ね」 「きゃぅ、ハ、ハルく…ん?」 「俺は…その」 「そういうんじゃなくて……秋姫が好きだから」 「だから……触れたいって思うし」 「気持ちいい」 口にするのは恥ずかしかったけれど、秋姫は胸の大きさの事を気にしてるみたいだから、ハッキリと言った。 だから、ちっとも気にしなくていいって、わかって欲しい。 「ありがと……ハル君…もっと…もっと触れて」 「わたしもハル君のおっきな手…好き」 「ハル君のおっきな手に触られてると……気持ちいい……」 秋姫の言葉は俺をドキドキさせてくれる。 こんな気持ちになるのは、生まれて初めてかも知れない。 秋姫の言葉と気持ちが嬉しくて、俺はもっともっと手のひらを動かした。 「や……ぁあ、ん」 「ハル…く…ん、んっ」 「……ぅう、んっ、うっ」 手のひらが動き、小さな膨らみを撫で、時々その先にある乳首に触れると秋姫は大きく反応した。 それに驚いたけれど、自分のしている事で秋姫が感じてくれているのだとわかると、すぐに嬉しくなる。 「ハル君……どきどきするよ……ねえ、ハルく……ん」 「うん、俺も……一緒……」 「ひゃ、あぅ……んっ」 「お、お父さん、も、もう帰ってきた……のかなっ」 慌てたように秋姫は体を起き上がらせ、立ち上がる。 そのまま走って行こうとしたけれど、シャツがそのままだった。 「あ、秋姫、シャ、シャツ! ちょっとあがってる!」 「――きゃっ」 シャツを直した秋姫は他におかしな所はないか確認してから、大きく頷いた。 「あ、の、見て、見てくるっ」 「うん……って、まって、お、俺が秋姫の部屋にいるのもおかしくないか!?」 「え、そ、そうかな? どうしよ…じゃ、じゃあハル君も一緒にいこっ」 「ちょ…ちょっと、ま、まって」 慌てて立ち上がった俺は、秋姫と一緒に玄関に向かった。 「あっ如月せんせ……じゃなくて、ナツメさんっ」 「どうも〜、すももちゃん」 「あ、あの、今お父さんおでかけ中なのっ」 「義兄さんから、今晩は家にすももちゃん一人になるかもしれないから心配だって連絡があってね」 「あっ、そ、そうなんだ」 少し遅れて玄関に辿り着くと、そこには俺にとって意外な人……如月先生の姿があった。 「あれ、石蕗君来てたんだ」 学校で見るのと変わらない笑顔を浮かべて、如月先生は少し楽しそうに俺に言う。 俺と如月先生を交互に見ていた秋姫は、少しオロオロした様子で口を開く。 「あ、あのね、お勉強会してたのっ。わたしが苦手な数学とか、教えてもらったり……とか」 「そうなんだ、僕はお邪魔だったかな」 秋姫の説明を聞いた如月先生は、今までよりも更に楽しそうな表情を浮かべて俺を見つめる。 秋姫はそんな様子を見ながら、顔を真っ赤にしていた。 なんだか、何もかもわかってて言ってるんじゃないだろうかと思ってしまう。 「べ、別にそんな……ていうか、俺もうそろそろ」 「ああ、出ておいでよ。お父さんからかもしれないよ?」 秋姫が電話を取りに行った後ろ姿をわざわざ確認してから、如月先生は俺を見つめて嬉しそうに笑った。 「泊まっていかないの?」 「い、いきません」 「正史郎さんには秘密にしてあげようか?」 「だ、だから帰りますって」 「僕一階にいるから、ぜんっぜん気にしなくていいんだよ?」 「気になるって!!」 思わず大きな声で反論してしまい、それから自分の浅はかさに気が付いた。 気が付いた時には遅かった。 如月先生は俺を見つめながら、本当に楽しそうに笑顔を浮かべている。 「……ふ〜ん、な〜んでそんな気になるのかな〜」 「お父さん、やっぱり帰ってくるのは夜中になりそうだって」 「そうか〜。じゃあ義兄さんが帰ってくるまでいようかな……石蕗君はどうする?」 「だ、だからっ!!」 また大声を出してしまいそうになったけど、秋姫の視線に気付いて声を出すのをやめた。 「きょ、今日はもう帰るよ」 「そ、そっか……、そうだよね。テ、テストももうすぐだし…」 少し残念そうに秋姫は言ったけれど、泊まってくれと言われたらどうしようかと思っていただけに、少しだけ安心した。 「……ハル君っ」 「今日はお勉強教えてくれて、ありがとう」 「で、ほんとに帰るの?」 「か、帰りますっ」 「うん、き、気をつけて帰ってね」 「あ、ハ、ハル君」 「きゃぅ…」 「あ、大丈夫?」 「う、うん、ちょっと打っちゃった……えへ」 あの勉強会の夜から数日たっても、秋姫はまだどこか照れた顔を見せた。 俺も教室で秋姫を見かけるたび、どきりとして視線をそらすことがあった。 だけど、それより愛しいと思う気持ちの方が強くなってきた。 「あのね、ハル君……今日、今から何か用事あるかな?」 「今から? 夕方までなら、大丈夫だよ」 「あのね、ナコちゃんと一緒にノナちゃんのお見舞いに行こうと思ってるの」 「結城の?」 「(そういえば、ずっと来てないな――結城)」 テスト期間に入る少し前から、結城はずっと休んでいた。 先生は特に何も言ってないから無断欠席ではないのだろうけど、何かあったんだろうか。 「だから、ハル君も一緒に行かない?」 「ああ、いいよ」 「うんっ、もうすぐナコちゃん戻ってくるから、三人で行こう」 「あれ? お出かけ中…なのかな」 「どうなんだろう」 もしかして、急な用事で向こうの世界に帰らなきゃいけなくなったとか? そう思いながら、俺はもう一度チャイムに手を伸ばした。 「……はい…あ、石蕗君に…秋姫さんと八重野さんですか?」 「あのっ、ノナちゃんのお見舞いにきましたっ」 「はい、少々お待ちくださいね」 松田さんに案内されリビングに通された俺たちは、ふかふかのソファに腰掛けた。 お見舞いにやってきたのがよっぽど嬉しかったのか、お菓子やお茶を用意してもてなしてくれた。 結城は一向に姿を現さない。 「あ、あの、すみません」 「ちょっと手伝ってほしいことがあるのですが」 「……ああ、いいですけど」 「あのっ、わたしたちにできることはないですか?」 「遠慮なく言ってください」 「あっ、秋姫さんたちは、い……いいんですっ、す、すみません……ありがとうございます」 「あ、石蕗君、こ、こっちです〜」 何故か俺を指名した松田さんはリビングを出たとたん、いきなりぺこりと頭を下げた。 「た、助けてくださいっ」 「実は…お薬がもうほとんどないんです。お嬢様に頼めばすぐに手に入るのですが、あのご様子ですし……」 「石蕗君しか頼めないんです! ど、どうかちょこっとわけてもらえませんか?」 「あの、何の話ですか?」 「だから、あの…自分の形を変える薬……」 「自分の形を変える薬って……あれ?」 「ああ!?」 「わわわぁん」 「ちょ、ちょっと――それ、その姿って」 「一回ぶんの分量を少しずつ減らして使ってたら、こ、こんな有り様になってしまったんですー!!」 「そんな、あ、あんただったのか!?」 その耳の形に見覚えがあった。 あの日帽子とマスクで顔を隠していた怪しい人物は、松田さんだったんだ。 「廊下であんたとぶつかって、その時もってた缶を取り違えたんだ!!」 「それで、その缶を間違って飲んだから、俺は……」 「は…はて…そんなこともあったような…なかったような……」 「あったんだよ!!」 「す、すすみません」 「え……? で、では石蕗君はフィグラーレの方ではないのですか?」 「そうだけど…結城から聞いてないのか?」 「そそそそーなんですか!? 私はてっきり、プリマ・プラムのお付きの方だとばっかり……」 「だから違うって! 羊の姿になるのは、あんたが落としていったのを飲んだせい!!」 「す、すみませんっ!!」 「あ、あの……もう少し…詳しく説明しては…いただけないでしょうか」 松田さんの耳が、申し訳なさそうに後ろ側へと倒れた。 そんな姿を見たら、さっきまで溢れてた怒りまで頭を下げてしまう。 この無茶な二重生活を始めなきゃいけなくなった、きっかけ。 あの日ジュースを取り違えた時からのことと、元に戻る方法。 一息ついてから、俺は松田さんに話しはじめた。 「そーいうわけで、俺は秋姫にしずくを集めてもらってるんだ」 「………ああうああ」 「あああ――!! も、申し訳ありませんっ!!」 「ちょ、ちょっと?」 「わた、私が大変なことを、な、なんて大変なことを――っ!!」 「や、でもま……」 「あの缶を無くしてしまってお嬢様には大変なご迷惑をおかけしたのです! で、でも…」 「うわぁああ!! お、お、お嬢様にだけでなく、ご学友の方までにも私はぁああっ」 「ま、松田さんっ、も、もういいって」 「えぐえぐ……えっ?」 「星のしずくだって後一個だし……それに」 それがきっかけで、俺は秋姫と仲良くなって、付き合ってるんだもんな……。 そうじゃなきゃ、俺は園芸部にも入ってなかっただろう。 「悪いことだけじゃ……なかったから」 「わぁああん、つ、石蕗く……あ、ありがとうぅ」 「うわ、だ、だからもう、泣きやんでってば!!」 「えぐ……は、はい」 「薬の話は俺じゃわからないから、如月先生に一度聞いてみるよ」 「ありがとうございますっ!!」 「石蕗君はいい人ですね〜」 「戻ってきた」 「お待たせして申し訳ありませんでした〜」 松田さんは持ってきた花瓶に、秋姫たちのお見舞いの花を早速生けはじめた。 「きれいですね、きっとお嬢様も喜ばれると思います」 「早く良くなってと、伝えてください」 「ずっとお休みだから……みんな心配してます」 「はい、お嬢様には必ずお伝えしますので」 「お願いします!」 「みなさん、ありがとうございます……ううっ」 結局、俺たちは結城に会えなかった。 松田さんが感激して泣き出してしまったからだ。 「結局会えなかったね」 「うん……お花喜んでくれるかな」 「きっと喜んでくれるよ」 「早く来れるようになるといいな」 「うん、テストまでには来れるかな」 ……どうだろう。 あの松田さんの慌てようは何だったんだろうか。 薬だって結城に頼めば手に入るのにって言ってたけど、どうして頼めないんだろう。 気になることばかりだった。 「え? あ、なに?」 「石蕗はすももと一緒に帰る?」 「――ナ、ナコちゃん!!」 「あ、い、いや」 「一緒なら、私は先に帰ってもいいかなと思ったけれど……」 「そ、そんな、ナコちゃんも一緒に帰ろうよ」 「そ、そうだよって――あっ」 あたりに薄闇がせまってきている。 結城の家に長くいすぎたようだ。日没まであと少ししかない。 「て、ていうか、俺の方が先に帰らないといけないかも」 「そういえば……ハル君、夕方から用事があるんだっけ?」 「う、うんっ、そう」 「そうだったのか」 「だ、だから、八重野、秋姫のこと送っていって」 「じゃあ、ここで……」 「さよなら」 「ああ、ごめんな」 いつものように、あの本に乗って秋姫の家に向かう。 空は驚くくらいに澄んで星が綺麗だけど、それをじっくり見ている余裕なんてない。 「はーっ、さすがに疲れたな」 「すもも、帰ってるかな?」 いつものように窓を開けてもらって部屋の中に入り、秋姫の隣にちょこんと座る。 秋姫は指輪を見つめながらぼんやりとしていた。 指輪の反応がないからだろうか。 「今日も指輪の反応ないね」 「(あれ……? なんだか、いつもと様子が違う)」 いつもだったら、指輪の反応がないと寂しそうにしているのに、今日はそうじゃない感じがする。 どっちかって言うと、指輪の反応がなくて安心してるような、そんな感じ……気のせいだろうか。 「なあに、ユキちゃん?」 「少し、元気がない?」 「え? そんな事ないよ」 「でも、いつもなら指輪の反応がないと残念そうだから」 「あ、ああ…そ、そっか」 「どうかしたの?」 「うん。しずくは早く集めたいけど……」 「けど?」 「全部集めちゃうと、ユキちゃんは自分のお家に帰っちゃうんだよね」 嘘をついているのが、少しだけ心苦しい。 秋姫は俺をヌイグルミの国に帰すためだと信じて、星のしずくを集めてくれている。 だけど、本当は石蕗正晴に戻るためだって知ったら、どう思うんだろう。 「そうなったら、寂しいなって思って」 「もっともっと、ユキちゃんとずっと一緒に居たいなって思っちゃったの」 「ねえ、ユキちゃん。ぬいぐるみの国に帰っちゃったら、もう二度と会えないのかな」 「私ね、ずっとず〜っと小さい頃に不思議な事があったんだ」 「不思議な事?」 「そう、とっても不思議な事……」 「どんなこと?」 「私、小さい頃に海だったか川だったかで溺れそうになったの」 「その時に、不思議な人に助けてもらったんだ」 「魔法みたいな不思議な力で、その人は私を助けてくれた」 そうか……。 それで秋姫は急にやって来た俺の事も、指輪や杖や星のしずくの事も、あっさりと信じて受け入れてくれたんだ。 「あ…うう……こわいよ……おとうさ…おかあさ……ん」 「ほら、こっちよ」 「(お水が、われた?)」 「(すごいすごい、お空飛んでる)」 「ほら、もう大丈夫」 「(すごい、すごいな)」 「気をつけなきゃ、だめよ」 「でも、その人がどんな髪の色だったのか、どんな服を着ていたのか、どんな顔だったのか思い出せなくて……」 「だからユキちゃんが居なくなって、もう二度と会えなくなったら、ユキちゃんの事も思い出せなくなるのかなって」 呟きながら、秋姫の顔は泣き出しそうになっていた。 思い出せない事が辛くて、俺との事をその時みたいに思いだせなくなるのが辛くて、だからずっと一緒に居たいって思ったんだ。 泣き出しそうな秋姫に、俺はなんて言ってやれるんだろう。 「またあの時の事みたいに、忘れちゃうのかなって思ってたの」 「大丈夫だよ、きっといつでも会えるよ」 「そんな気がするから」 「だから、忘れたりなんかしないよ」 そうだよ、ちゃんと人間に戻れたら、自分が『ユキちゃん』だった事を口にしても大丈夫なんだから。 少し驚くかも知れないけれど、きっと秋姫なら喜んでくれる。 だから、秋姫が『ユキちゃん』を忘れる事なんてないんだ。 「うん。ありがとう、ユキちゃん」 俺の言葉を聞いて安心したのか、秋姫はにっこりと微笑んで俺の体を抱きしめた。 いつもなら抱きしめられるのは、恥ずかしくて逃げ出したくなる。 だけど、今日だけは逃げ出さずにおとなしく抱きしめられる事にした。 「そうだよね、ユキちゃんを忘れちゃうことなんて……ないよね」 「ユキちゃんは優しいな」 こんな風に、俺なんかの事を忘れたらどうしようって本気で心配して、泣きそうになってくれて……優しいのは秋姫の方だって言いたかった。 優しく抱きしめられる腕の力を感じながら、俺は本当に秋姫の事が好きなんだって思ってしまった。 今ここにいるのは、石蕗正晴を見てる秋姫じゃなくて、ユキちゃんを見てる秋姫なのに……。 耳元で何か音がしている。 何の音だろう。 目覚まし、かけてたかな……。 「やべ、もうこんな時間……!!」 慌てて起き上がり、耳元に置いていた携帯電話に目をやった。 だけど、アラームは鳴っていない。 その代わり、液晶にはメール着信を知らせるアイコンが点滅していた。 「って、違う……今日はテスト休みだったんだ」 携帯電話を開き、メールを確認する。 届いていたのは秋姫からのメールだった。 『ハル君、おはよう。今日のお昼すぎ、花壇の様子をナコちゃんと一緒に見に行くよ。ハル君ももしよかったら、来てね』 今日は用事もないし、秋姫が行くっていうなら俺も一緒に行きたい……。 『わかった、俺も行くよ』 あんまり短すぎる文面も冷たすぎるかなと考えながら、俺は秋姫へメールを送り返した。 今から準備して、秋姫達と一緒に花壇の様子を見に行こう。 「あ、ハル君きた」 「俺が最後か……」 準備を終わらせて慌てて寮を飛び出して来たけど、秋姫と八重野はもう俺を待っている所だった。 二人もこちらに気付いて視線を向けて、軽く手を振ってくれる。 「でも…ノナちゃんは来ないの」 秋姫は少し寂しそうに俯いて呟いていた。 「そっか……もう何日くらい休んでるかな」 「テスト前からだから、10日…もうすぐ二週間位になるかもしれない」 「昨日もね、電話してみようかなって思ったけど……まだ調子悪いのかもしれないし……」 「またお見舞いいこうよ、みんなで」 俺と八重野の言葉を聞いて、秋姫は少しだけ表情を元に戻していた。 「そうだ……」 廊下を歩いていると、急に八重野が何かを思い出したように立ち止まった。 俺と秋姫も同じように立ち止まり、八重野を見つめた。 「あの、図書館に寄ってもいいかな、帰りでもいいんだけど」 「うん! ナコちゃん何か借りてたの?」 「テスト前に借りてた本を、一冊返し忘れてて……期限が今日までだったから」 「それじゃ先に行った方がいいよね」 「先に行った方がいいな」 俺が思った通り口にすると、秋姫も同じような言葉を口にしていた。 思わず秋姫に視線を向けると、同じようにこちらを向いていた。 なんとなく、恥ずかしい。 でも、それは秋姫も同じようだった。 「あ、ご、ごめんねハル君」 「いや、俺もごめん」 「ふふふ。じゃあちょっとだけ、寄り道お願い」 お互いに少しだけ頬が赤くなっていた。 それに気付いたのか、八重野は楽しそうに微笑みを浮かべながら先を歩いた。 「図書室だったらこっちから回ろう」 休日の俺達以外に誰もいないようだった。 がらんとした図書室の中はとても静かで、俺達の声と足音だけがやけに大きく聞こえた。 図書委員も司書の先生もいないため、八重野は借りていた本が入っていた棚を自分で探す事にしたらしい。 しかしどこに入っていたのかわからないようで、俺と秋姫も一緒に棚を探す事にした。 「ナコちゃーん、こっちの棚じゃないみたい」 「困ったな…司書の先生もいないし…どうしよう」 「俺、あっちの窓際の棚を見てみるよ」 「先生も図書委員さんも、どこにいっちゃったんだろう?」 「(本当に静かだな)」 聞こえて来る二人の足音だけが、ここに自分が一人ではないと確認させてくれる唯一のものだった。 それにしても、本当にどこの棚に入ってた本なんだろうか。 図書室が広すぎて、中々目当ての棚が見付けられない。 それに、幾ら休みだとは言え、司書の先生くらいは居ていいような気がする。 今日に限って、どうして誰もいなんだろう。 「――あれ?」 不意に校庭に視線を向けると、そこに人影があった。 小さな人影は校庭の中央に立っている。 よく見てみると、そこに立っているのは結城だ。 しばらく来ていなかったのに、休日の今日になってどうしたんだ? それに、どうして校庭の中央に……。 何かあったのか? 校庭を見つめている俺に気付いたのか、秋姫が不思議そうに近付いて来た。 「あそこにいるの…結城、だよな」 「――呼んでる」 結城を見つめていた秋姫が、小さな声で呟いた。 それはまるで独り言のようで、こんなに静かでなければ聞き取れないような声だった。 でも、呼んでるってどういう事なんだ? 「ノナちゃんが…わたしのこと呼んでるみたい」 「あきひ……」 突然走り出した秋姫に驚いたのは、八重野も同じだったらしい。 呼びかけにも答えずに図書室を出て行った背中を呆然と見送ってから、俺に向かってどういう事だという表情をして見せる。 「グラウンド」 どう説明すればいいのかわからず、俺は窓の外を指差しながら八重野に言った。 八重野も窓の外に視線を向け、そこに結城が立っているのに気が付いたようだ。 その表情は俺と同じように驚きに満ちていた。 「秋姫、そっちに向かったと思う」 「私たちもいこう」 飛び出した秋姫を追いかけるため、俺と八重野も走り出した。 「はあ、はあ……ノナちゃん」 「も…もう体はいいの? ずっと休んでたから、みんな心配してたよ?」 「今日は本当のあなたと勝負したかったの」 「だから、今日この時間を、アタシたちだけのものにしたの」 「ノナちゃん、どうしたの? 怒って…るの?」 「今この場所にいるの、アタシたちだけよ」 「アタシと、あなたたちだけ。他のすべては今、この場所からシャットアウトしているの」 「決着をつけるのに誰にも邪魔されたくなかったから」 「ノナちゃん!?」 校庭に辿り着いた瞬間、結城の体が大きく光り、俺は驚いて思わず目を閉じた。 一瞬、何が起こったのかわからなかった。 「――んっ!」 再び目を開けた瞬間、何が起こったのかすぐにわかった。 目の前に居た結城は、プリマ・アスパラスの姿に変わっていたからだ。 「さあ、きて――プリマ・プラム!!」 秋姫に向かって手のひらを差し出し、挑発するようにプリマ・アスパラスが口にする。 「ノナ……ちゃん」 「い、一体、どうしたんだよ」 いつものプリマ・アスパラスとは全く違う。 こんな風に挑発的に秋姫を誘って、一体ここで何をしようって言うんだ。 それに、今この状態じゃ、俺は秋姫に対して何もしてやれない。 せめて、日が沈んでくれないと俺は……。 「ナコちゃん、ハル君を……ハル君を教室へ連れてってあげて」 「なっ!」 突然の秋姫の言葉に驚いたのは、俺だけじゃなかった。 八重野も目を見開いて秋姫を見つめている。 だが、八重野の表情はすぐに真剣なものに変わった。 その表情を見つめた秋姫は、力強く頷く。 「だって……ハル君は…ハル君は……」 「お願い、ナコちゃん!」 「……わかったよ、すもも」 答えた八重野は俺の腕をしっかりと掴んで離さない。 なんとか振りほどこうとしてみても、その力は驚くほどに強かった。 俺と八重野を見つめている秋姫に視線を向ける。 その表情は辛そうで、こちらを見ていたくないようにも思えた。 「な、なんでだよっ、秋姫」 辛そうな表情をしていた秋姫は、俺から視線を外して結城を見つめた。 どうして、俺だけこんな風にこの場から離れなくちゃいけないんだ! ここに残って、なんとかしてやりたいのに。 「――やっ、八重野」 腕を引きながら八重野が俺を呼ぶ。 その手を振りほどこうとしながら八重野に視線を向けると、八重野も辛そうに俺を見つめていた。 どうして、二人ともそんな表情で……。 「すももが……そう言ってるから、お願い」 辛そうな秋姫の表情と八重野の表情。 二人の表情を見てしまった俺は、八重野の手を振りほどくだけの力がなくなってしまった。 力が抜けた俺に気付いた八重野はそのまま腕を引き、校舎に向かって走り出した。 「(秋姫……!!)」 遠ざかる秋姫の後ろ姿を見つめながら、俺は声にならない叫びをあげていた。 「お、おい!」 「八重野、鍵開けてくれよ! なんでだよ!!」 こんな所でじっとしてるわけにはいかないんだ。 あんな状態の秋姫、ほっておけるわけがない。 今の俺が何もしてやれなくても、ただ側にいるだけでもいいのに! 「なんで、こんな……!!」 「後で…後で全部話すから」 「すもものこと思うなら、今はここでおとなしくしていて」 「さあ、始めましょう! プリマ・プラム」 「ノナちゃん……!」 「ナコちゃん! ハル君は?」 「大丈夫、教室に閉じ込めて来た」 「そうでもしないと、無理やりこっちにきそうだったから」 「そっか……。ごめんね、ハル君」 「準備はいいみたいね」 「ノナちゃん、どうして?」 「アタシ、今までずっと自分には何でもできる力があると思っていたの」 「努力して頑張って実力をつける。そんなの当たり前の事だと思っていた」 「だから、努力とか頑張るっていう言葉は好きじゃなかった。アタシにとってそれは当たり前の事だから」 「な、何を言っているの?」 「でも、違っていたみたい」 「貴女はアタシにできない事を、何の努力もせずあっさりとやってのけた」 「これが恵まれた血の才能かと、アタシは愕然とした」 「の、ノナちゃん……」 「だから、好きでもない努力とか頑張るっていう事を、初めて意識してやってみたのよ、もっともっと、もっと何でも出来るように!!」 「結城、どうしたの? ねえ、いつもの結城じゃない」 「ノナちゃ……」 「見ていなさい、あなたがした事と同じ事をしてあげるから」 プリマ・アスパラスが言葉を口にした途端、その周り一面に水が勢いよく振りまかれ、辺りを漂った。 「な、何!?」 「これからよ!」 振りまかれた水はプリマ・アスパラスの言葉を聞き、その動きをゆっくりとしたものに変えた。 「ふふふ、わかった?」 「水が……漂って…る?」 「今の…今の言葉……」 「あ、あの時、私が使ったのと同じ」 「ええ、そうよ!」 「時間を支配する言葉よ、わかっていただけた?」 「ノナちゃん……!!」 「でも、これだけじゃ貴女と勝負はできないわね」 「星の……しずく?」 取り出された星のしずくの入った瓶。 蓋を開けられた途端、その中から星のしずくが勢いよく飛び出した。 勢いよく飛び出した星のしずくは、まるで水を得た魚のように飛び回り、漂う水の間を飛び交う。 漂う水は高く高く上空に上がり、それを追うように星のしずくも高く空へとのぼっていく。 「しずくが……水に引き寄せられてるんだ……」 「あんなに高く……速く……!!」 「そう。アタシのつくった水の狭間で、しずくはさまよい続けるわ」 「ど、どうして、ノナちゃん!」 「さあ、プリマ・プラム。あの星のしずくを狙って二人で勝負よ!」 「どちらが早く捕まえられるかしらね!」 「あの星のしずく……。あれがあれば、ユキちゃんは自分の家に帰れるの」 「だから、私は……」 「わたし、あれを採らなきゃいけないの!」 「スピリオ・ローザブロッサム」 「だから、わたし行くね、ナコちゃん!」 「ナコちゃんはどこか安全なところで待っていて……ノナちゃんはきっと」 「きっとわたしと二人だけで、勝負したいんだと思うから……」 「気をつけて、すもも」 「うん! 大丈夫」 「さあ、始めましょう!!」 「負けない!」 走り出したすももに向かって、プリマ・アスパラスはレードルをかかげて微笑みを浮かべた。 「大丈夫よ、悪影響を与える言葉ではないわ」 「ただほんの少しの間、あなたの体の時間を『ゆっくり』にしただけよ」 「少しそこで遊んでいて!」 「そ、そんな! 体が!」 「勝つのはアタシ!!」 高らかに宣言してから、プリマ・アスパラスは星のしずくを追って水の狭間に向かって飛び上がった。 「さあ、待ちなさい! 星のしずく!!」 「すもも! 大丈夫!?」 「だ、大丈夫……。すぐ、動けるように……!」 すももの頭上ではプリマ・アスパラスが星のしずくを追って飛び回っている。 ちらりとそちらに視線を向けてから、すももは撫子に微笑んだ。 「ナコちゃんは、危ないから下がってて」 「くっ……んんっ……」 「……っは!!」 「うん! 体が動く!!」 「すもも、あれ! 上を見て!」 「え! あ、ノナちゃん!!」 体が動くようになったすももは、撫子が指差すままに上空を見上げた。 視線の中に飛び込んできたのは、星のしずくに今にも手が届きそうなプリマ・アスパラスだった。 「あんなに星のしずくの近くに!!」 「できるかどうか、わからないけど!」 「……やらなきゃ!」 かかげたレードルとすももに反応するように、星のしずくの動きが変わった。 水の狭間を飛び回っていた星のしずくは、真っ直ぐにすももに向かって飛んで来る。 「まさか! あんなに離れた場所から!?」 「う、うまくいった!?」 「そんなに簡単にさせはしない!」 上空から降り立ったプリマ・アスパラスは大きく頭上にレードルをかかげる。 「もう一度、あなたの時間を支配するわっ!」 だが、プリマ・アスパラスのレードルは主人の意思を拒むように、突然小さな火花を散らす。 「…くっ……なに? もうちょっとなのよ」 「お願い……しずく……こっちへ……きて」 「このままでは、プリマ・プラムの元に星のしずくが近付いてしまう!」 「おじょうさまあああ!!」 「アーサー! 今頃何をしに来たの!」 「ああ! やっぱりその力を!!」 「いけません、おじょうさま! その力は何度も使うとレードルが暴走してしまいます!!」 「――アタシならそれを抑えられるわ!!」 「そうよ! アタシはあの子と同じようにできるようになったんだから!!」 自分を拒むように火花を散らすレードルを抑えながら、プリマ・アスパラスはアーサーに言い返す。 だが、レードルはアーサーの言うように暴れ出そうとしているようだった。 「ダメです! おじょうさま!!」 「おじょうさま――っ!!」 「――ど、どうして!!」 「……えっ?」 「な、なに!?」 「ど、どういうこと? こ、こんなの――しらなっ」 「きゃぁああああああ」 「お、おじょうさまぁああ!」 「な、なんなの!? これ――」 「……力が暴走したんです」 「レードルには、その本体自体に強い力がこめられているんです……だから……無理に強い力を引き出そうとするとこんな風に暴走して……」 「……あ……きゃああ……」 「アスパラさ――んっ!!」 「……あ…ああ……」 「きゃああああっ」 「どこ!? ノナちゃん、どこにいるの!?」 「お……おじょ…さま……!!」 「だめっ!!」 「わぁあああっ」 「……もも……すももっ」 「このコ……」 「どうしよう、砂嵐に弾き飛ばされて……どうしよう」 「息、してる?」 「大丈夫、気を失ってるだけみたい」 「よかった……」 「ナコちゃん、いぬさんを連れて元の場所に戻って! ここは危ないから」 「でも、すもも――すももも戻ろう、先生を探して呼んだ方がいい」 「助けるの……わたしにしか、できないかもしれない…から」 「ケガしないでね、すもも」 「(……ノナちゃんがどこにいるのか見えない)」 「(でも…でもあの嵐の中にいるんだ……絶対に)」 『一度離れて上から観察してみるのはどうかな』 「そうだ! 空から見下ろしたら――ノナちゃんのいる場所、わかるかも!!」 「………ノナちゃんっ」 「台風…みたいになってるのね」 「なんとかあそこに飛び込めれば――ノナちゃんを助けだせるんだ」 「――いこう!」 「どうなってんだよ!!」 教室の窓は一枚残らず、砂埃をかぶってにごっていた。 それでも目をこらすと、校庭で起こっている恐ろしい状況が見えた。 「あの中に……あの中に秋姫がいるなんて……」 体中の血が、一斉にわきあがる。 自分の恋人があんなに危険な場所にいるのに、俺は何をしてるんだ? 「そうだ、これは……ここにあるんだ」 それは『言葉』の書いてある本。 ピンチを切り抜ける何かが、また浮かび上がるかもしれない。 でもそれを持っているのは『ユキちゃん』だ。 もし、これを俺が持っていけば……… 「そんなこと、どうでもいい……すもも」 「今行くからなっ」 「きゃあっ!!」 「すごい……砂埃……けほっ」 「ノナちゃ――んっ!! どこ!?」 「……が……える……れ……」 「そ、そっちね! 今いくから――きゃあっ」 「……痛っ……なに?」 「やんっ――これ…砂…すごい勢いで飛んでるん……だ」 「こ、これじゃ……近づく事もできな……いよ」 「あの言葉……時間をゆっくりにする……あの言葉を……」 「(ユキちゃん、わたし、一人でもできるかな)」 「――石蕗っ」 校庭のすみに、八重野がぺたりと座り込んでいた。 呆然とした八重野のひざには、アーサーがぐったりとしていた。 「すもも、あの中にいるんだな」 「石蕗……?」 「――行かないと」 「だめ……行っては怪我をしてしまう……」 「助けたい、でも…でも、私たちにできること、ないんだ」 「ある」 「俺にはあるんだ」 「石蕗っ!」 「ティ…フォルナ・メ……!!」 「ティ・フォルナ・メイッ!!」 「どうして……どうしてうまくいかないの…?」 「いたっ……い」 『すも……も……』 『まって……いま…そっち……』 「ユキ……ちゃん? まさか、そんな――」 「すももっ!! 今行くから!!」 声が届くかどうかなんてわからなかった。 自分の声すらかすれて聞こえるほどの嵐だ。 「いっ」 頬にするどい痛みが走る。 手の甲でぬぐってみると、うっすらと血がにじんでいた。 「くっ……なんだよ、これ……一体何が起こってるんだ?」 恐ろしいスピードの風にふきあげられた砂粒が舞い飛んでいる。 それらは小さな凶器になっていた。 「こんな中にいるのかよ……すもも」 「(無事で…いてくれ……)」 「待っててくれ! 今、そっち行くからなー!!」 「うわあっ」 ……なんだ? ……何が起こったんだ? 足元をすくわれたような気がしたのは一瞬で、俺の視界はぐるりと反転した。 「ハル……くん?」 「う……た…たすかった……」 俺を救ってくれたのは、すももだった。 砂嵐に巻き込まれた俺は、空高く吹き上げられた。 あのままだったら、地面に落ちて全身を強打していただろう。 「ど、どうしてハル君……」 「よかった……ケガしてないか?」 すももの体を抱きしめる。 服も顔も、あちこち汚れていたけど、すももはちゃんとそこにいた。 こんな砂嵐の中にいるのに、俺を心配そうに見つめている。 「で、でも、ハル君の方が危ないよ! 早く戻って」 「戻らない」 「ハル君っ……だめだよ……」 「すもも、これがいるだろ?」 俺は、俺がここに来た意味を、すももの前に差し出した。 「ど、どうして……これ、ハル君が……!」 「ハル…君?」 「結城、早く助けてやろ!」 「俺も手伝うから」 「ハル君――…」 砂嵐はますます勢いを増している。 このままじゃ結城を救いだすどころか、近づくことすら危険だ。 「でもこれじゃ近づくこともできないな」 「さっきから……何とかしようとして頑張ってるけど…けど……」 「でき……ないの……ううっ」 俺にできること。 俺にできることは何だろう? 言葉の力を使うこともできない。 もちろん杖なんて、俺には使えない。 たったひとつできることは……すももを強く抱きしめることだけだった。 「ハ、ハル君っ」 「これ、見ればいい」 「ハル君、ど、どうして、わたしのこと……」 「……すもも、本を…見て」 「――あ…う、うん」 「どの言葉?」 「時間を……ゆっくり…する言葉……」 「……うまくいかないの……前にできたのに」 「できるよ、だって一度はできたことなんだから」 「すもも……その言葉の書いてあるページ探して」 「うん……えと、えっと」 「――あった!!」 「落ち着いて……」 「ゆっくり、ちゃんと言えばできるよ」 「ゆっくり、ちゃんと――」 「うん、できるから」 「――すうっ」 「……がんばれ、すもも」 俺もすももも、大きな風の音の中に飲み込まれた。 視界のほんの数センチ先すら見えない中、俺はすももを強く強く抱きしめた。 「でき……た」 「すもも!! ほら!!」 「あそこ、結城がいるの見えた」 「――ノナちゃん!!」 「大丈夫、行けるよ! わたし、ノナちゃんを助けられる!」 風はまだ不安定な流れを残していた。 でもそんなことになど物怖じせず、すももは倒れた結城のもとへと駆け出してゆく。 強かった。 俺の腕の中で迷っていたさっきまでのすももはもういなかった。 「……ノナちゃん、ノナちゃん」 「……ふ、うう……きゃっ」 「ハ…ハルく…ん」 結城はぐったりと力を失い、目を覚まそうともしない。 俺はすももに手をかし、結城の体を支えた。 「あのね……やっぱり……ノナちゃ……ちから使い…すぎちゃったんだね……」 「大丈夫、俺が支えるから」 「杖が…熱くて……今にも燃えそうで……ノナちゃんの手から離れなくて……」 「……ん……うっ」 「でもがんばって、杖を離したら……あ、嵐…とまったよ」 「うん……うん…すもも、頑張ったな」 「すももは本当に……頑張った」 「――すももっ」 「ナコちゃ……ん」 「ケガ……してない? ああ、ほらここ……少し血がにじんでる」 「わたしは平気、でもノナちゃんが……」 「わかった、私が保健室か、如月先生のところへ連れてゆく」 「八重野、大丈夫か? 俺が――」 「平気よ。結城、軽いから。石蕗はすももといて」 八重野は結城を背負いこんだ。 いくら結城と体格差があるといっても、気絶した人は重い。 それでも八重野は大丈夫とばかりに笑みを見せ、校舎の方へと歩いていった。 すももの指先が、ふるふる震えている。 俺はすももの手を包みこみ、そっと抱き寄せた。 「こ、怖かったよ……ハル君……」 「痛かったし…で、できるか…わかんなくって…ふぇ…うくっ」 「……ハル君」 「大丈夫――すももはそんな弱い子じゃない」 「ハル君――?」 「今の……わたし……前にも聞いた」 「わたしが辛かったときに……言ってくれた言葉……」 「それに…あの本…いつもユキちゃんが持ってて上に乗っかってた…」 「いつも私のこと助けてくれた……」 「ハル君が…ユキちゃんだったの?」 驚いてる。 それから、嬉しそうに微笑んで…。 秋姫の瞳の端が、きらりと光った。 「そ…そっかあ、ハル君がユキちゃんだったんだね」 「ごめん…すもも…俺…」 「えっ、あっあの、いまハル君――」 「ごめんな…俺今まで…すももにウソついてたんだよ」 「えっえっ!?」 「俺はすもものことを何も知らないフリして…ずっとそばにいたんだから」 「何でも話してくれたのにさ」 「すももはいつでも…いつもウソなんてつかないで、何でも話してくれてたのにさ…俺」 「俺、ほんとに、一番好きな人に、すももにウソついてたんだよ」 「ユキちゃんはハル君と一緒…一度もウソなんてついてないよ」 「さっきだって嬉しかった……ハル君…助けにきてくれてありがとう」 「ハ、ハル君」 「わたしのこと…ハル君の時も名前で呼んでほしい…な」 「あ――」 「わかった、これからは……そうする」 「うん…嬉しいよ…ハル君」 「でも……もういっこ謝らなきゃいけないんだ」 「ごめんな、すもも」 「ハル……君?」 「俺が……『ユキちゃん』ってばれたら……俺……は……」 「ユキちゃん? ほんとに……ハル君がユキちゃんだったんだ」 「あれ? どうしたの? ねえ…ユキちゃ…ハル君!?」 「お返事して、ねえハル君、どうしたのかな、ねえっ」 「……どうして…ホントのぬいぐるみになっちゃったみたいに……ねえ、ユキちゃ……」 『俺が……『ユキちゃん』ってばれたら……俺……は……』 「――ハル君!? ね、ねえ、さっきなんて言おうとしてたの!?」 「ねえ、返事して、ハル君、ハル君ーっ!!」 「そんな……そんなそんな……いや、ハル君…いやだよおっ!!」 「あ〜、テスト明けの休みってなんでこんなに短いんだ?」 「圭介ってさ、連休明けるといっつも同じこと言ってるよね」 「ええっ!? そ、そうかな」 「言ってる言ってる」 「えー…」 「あ、すももちゃん、おはようございます」 「あっ、お、おはよう」 「おはよう、麻宮」 「すももちゃん、どうしたの?」 「うん、ちょっと元気ない〜」 「そ、そんなことないよ?」 「ほんとにー?」 「そういや……ハルは?」 「スモモちゃん?」 「すもも、ほら席にいってなよ」 「ごめん、みんな」 「八重野さん、な、何があったの?」 「石蕗が半月ほど休学するんだ」 「休学!?」 「ど、どうして!? 石蕗くんどうかしたの?」 「それは……あの」 「風邪をこじらせたみたいで、少し入院することになったって」 「そうだったの……」 「だからすももちゃん、元気なかったんだね」 「そ、そうだ! 見舞いに行こうよ! もちろん秋姫さんも一緒にっ」 「それはできない」 「あの…実家の近くの病院らしいから、遠いんだ」 「すもも、やっぱりすごく落ち込んでるんだ」 「そうだよね……すももちゃん、石蕗くんのこと大好きだもん」 「半月入院したら、ちゃんと治って帰ってくるんだよな?」 「風邪こじらせたんなら、病院入ってちゃんと医者にかかってたら大丈夫なんだよな?」 「圭介っ」 「……うん、大丈夫」 「じゃあ石蕗くん帰ってくるまでね、私たちですももちゃんのこと……」 「うまく言えないけど、ちょっとでも元気になれるようにしてあげよ?」 「もちろんだよ」 「うんっ、弥生も!」 「………私」 「ねえ、今日のお昼は何にする?」 「ちょっと購買の方にいってもいいかな?」 「すもも、お昼だよ」 「お昼、食べようか」 「う…うん……」 「そうだ、みんなも一緒に――」 「あのね、お昼の前にね…ハルく……ユキちゃんの様子を見に行きたいの」 「す、すぐ戻ってくるから」 「わかった、待ってる」 「あれ? 八重野さん、すももちゃんは?」 「あ、ちょっと……先生のところに用事があるって」 「弥生たち、中庭のベンチの方でごはん食べるの! 後でよかったらナコさんたちもきてきて〜!」 「……いらっしゃい」 「今日も様子を見に来てあげたんだね」 いつもの昼休み。 毎日毎日続く、お昼の時間。 テストが終わったばかりで、誰もがほっとした顔で廊下を行き交っている。 だけどそこには無いものがある。 怒ったような顔をしているけれど、本当は困った顔をしていた人がいない。 ひんやりと指先に伝わってくる、四角いガラスケースの感触。 その中には、見慣れた姿がある。 そう名前を呼んでも、ぴくりとも動かない。 「ごめんね、ハル君……」 もうひとつの、本当の名前で呼んでも――同じ。 「秋姫さ……すももちゃん」 「ふぇ……っく」 髪の毛をそっと撫でる感触に、顔をあげる。 その先にあったのは、優しくて大きな手だった。 「えっく、ご、ごめんなさい」 「……な…ないちゃだめって…ふっ、お、思うのに…」 「泣いてもいいからね」 「ふぇ…ん……ごめ……なさい…」 「泣いてばっかりじゃ……こんなじゃダメなの…わかってるのに……」 「ねえ、すももちゃん」 「誰でも大切なものや、好きなものがあるよね」 「それから、誰でも毎日やらなきゃいけないこと……」 「僕だったら仕事だし、すももちゃんたちなら学業かな。いろいろあるよね、しなきゃいけないこと、たくさん」 「でもね時々……やらなきゃいけないこと全部を放り出してでも、大事なものを守らないとって時があるんだよ、時々…ね」 「そういう時は、泣いたりわめいたりしても全然悪くないんだよ?」 「……ナツメさん」 「すももちゃんの一番大切なもののことを、考えていていいんだよ?」 「えぅ…ふっ…うえぇん」 「ハルくっ……ごめ…ね、わたしのために……だからわたしっ…ぜ、ぜったい元に戻すからねっ……」 「――すももちゃん」 それは、ほんの数日前のこと。 もう校庭はきれいに掃除されていて、誰もそこであんなことがあったなんて知らない。 ただの、小さな竜巻が夜の校庭で起こったんだって思ってる。 ほんとのことは誰も知らない。 『……わたしと、ハル君がそこにいたことも』 「先生、結城の様子は……」 「大丈夫。少し熱っぽいけど、休ませてあげればすぐに引くよ」 「キズも幸いかすりキズだけのようだ、結城さんもそこにいる彼もね」 如月先生の部屋のソファの上で、プリマ・アスパラスは固く目を閉じたまま横になっていた。 その足元では、体を丸くして眠るアーサーもいる。 「八重野さんも頑張ったね」 「頑張ったのはすももです……すももと、石蕗……」 「石蕗君が……?」 如月先生が探していた人影は、簡単に見つかった。 たった一人で、廊下を歩く足取りはおぼつかない。 悪い予感が当たってしまった。 すももに駆け寄ろうとした足が床に釘付けられる。 「……もう少し気をつけていれば良かった……ごめんね」 「――こんな形になってしまうなんて」 「ナ、ナツメさん、ユキちゃ……ハルくんだった…の」 「たすけてくれたの……で、でも……うえぇ…えええん」 長い腕がすももの肩に触れた。 まるで何もかもわかっているみたいな、優しさだった。 その腕は、ユキちゃんを抱えたまま泣いて震えるすももの体を包んだ。 「……とにかく教室に戻ろう」 「ひぅ…ひっく……はい……」 「えぐ…うっうう……」 「どうしたのすもも、石蕗は?」 「ふぇ…うう…なこちゃ……ひっく、うう」 「とりあえずここに座って……少し水を飲んだほうがいい」 「水――…」 「はい……飲んで、すもも」 「ふぇ……う、うん。んくっ、んっ……」 冷たい水がすもものノドの奥へと落ちてゆく。 それでもまだ、心配そうに覗き込んでくる四つの瞳にまともな返事はできなかった。 「ナツメさんっ、ど、どしてユキちゃん……動かなくなっ」 「落ち着いて、秋姫さん」 「どうしよう、こ、このままだったら――わたしのせいでっ」 「すもも? どうしたの?」 「あきひ……いや、すももちゃん。……全部話すから、落ち着いて」 「すももちゃん、知ってしまったんだね。ユキちゃんの本当の姿は、石蕗君だったってことを」 こくん、と頷いた瞬間、如月先生の顔がくもった。 その顔色がどういう意味なのか、これから始まる如月先生の話はどんな内容なのか――。 それを物語るような、悲しげな顔だった。 「……先生、私は……」 「すももちゃんのそばで一緒に話を聞いてくれるかな……八重野さんなら構わないから」 立っていても椅子に座っても、体はどこか宙を浮いているような感覚だ。 ただぴくりとも動かない、柔らかなユキちゃんの体だけが不思議と現実じみた感触だった。 如月先生はぎゅっと手を組み、深く息を吐き出してから話し出した。 「――石蕗君はね、ちょっとしたアクシデントで、向こうの世界…フィグラーレのものを口にしてしまったんだ」 「それは僕たちフィグラーレの人間にとっては、大したことない薬だ。だけど、石蕗君は純粋にこっち側の人間だ」 「そのせいで昼は人間の姿でいられるけど、夜になるとこのぬいぐるみ……ユキちゃんの姿に変化してしまうんだ」 「星のしずくをななつ集めたら……元に戻れる」 「ユキちゃんがぬいぐるみの国にじゃなくて、元のハル君の体に……?」 「……そう、だったんだ…ハルく…ん」 「で、でもじゃあどうして!? どうしてユキちゃんはどうして……」 「もう一つね、誰にも言えない決まりごとがあるんだ」 「誰にも……言えない?」 「そう、フィグラーレって世界はね、その存在をレトロシェーナ…こちらの世界の人間に知られる事を厳しく禁じている」 「それはどんなレードルや薬を作る時も最低の条件だ。だからその影響で…」 「正体が、つまりユキちゃんの本当の姿が石蕗君だとレトロシェーナの人に知られてしまったら」 「変化している物、そのものになってしまうんだ」 「本当の、ぬいぐるみにね」 「あ……あのとき…ハル君そのことを……」 「ナ、ナツメさっ、ハル君は、ハル君はどうなってるの!?」 「眠ってる、ユキちゃんの体の中でね」 「――どうやったら元に戻せるの? 星のしずくをたくさん集めればいいの?」 「いやっ、やだ…やだよ……」 ユキちゃんが小さな体で、いつも一生懸命に後を追いかけてきたときのこと。 「ハル君は、ハル君はとっても大事なひとだから」 言葉につまると、照れ隠しに眼鏡ですっと視線をそらしてしまうクセに、気づいたときのこと。 「わたしにとって……たった一人の人だから……!!」 「やだよぉ……うっ…ハルく…ん…おいていかないで……」 何もかもが頭の中をかけめぐる。 全部が大切なものなのに、全部が指の隙間から落ちていってしまう。 時間が戻ればいいのに――。 そんな言葉が心の中で溢れてはじけ飛んでゆく。 「ふ……うく、ハル…く……ん」 「すもも、本が……」 「……えぐ…うぅ…」 「あの本、光ってる! すもも…見て」 「……ふ…ぇえ?」 「見てみよう」 「『ティム・フォールナ・プリンシパトゥ』……この言葉」 「どうしてこんな高等な言葉が……」 「ナツメさん、それ…それに似たの、わたし……使えるようになったの」 「本当? すももちゃん、それはどんな力だった?」 「えと…自分の周りだけ時間がゆっくりなるみたいな……感じだった……」 「時間を司る言葉だからね……なら、もしかしたら…」 「しかしこのレベルの言葉を……コントロールできるだろうか」 「この、この言葉でユキちゃんを救えるんですか!?」 「この言葉はね、すももちゃん。対象物の時間を操るという、かなり高度な力を生み出す言葉なんだ」 「対象物の時間を……操る?」 「この言葉の力で、石蕗君…ユキちゃんの身体の時間を戻すんだよ。『正体がばれていない』という時間まで」 「え…え…?」 「そうしたら夜はユキちゃん、昼間は石蕗君という状態の…昨日までと同じ状態に戻せるだろう」 「しかし……」 「ナツメさん、わ、わたしがんばりますっ、がんばるから、がんばるから――」 「がんばるから…ユキちゃ…元に……」 「この言葉はね、かなり難しいレベルのものなんだ。例えちゃんと使えたとしても、コントロールがとても難しい」 「そ、そんな…でもっ」 「だから今は焦らないで、少し待とう」 「ま…待つ……?」 「フィグラーレの力が強くなる満月の日まで…待つしかないよ」 「次の満月の日まで」 「ユキちゃんは僕がここで預かっておこう。今日は……今日は帰ってゆっくりお休み」 ユキちゃんの体を、如月先生がそっと抱き上げる。 ガラスケースの中で横たわるその姿は、本当にぬいぐるみになっていた。 ふわふわの白い毛の、可愛い羊のぬいぐるみで――動かない。 「……ハルく…ん」 「すもも…先生の言う通りだよ、今日は休んだ方がいい」 「二人とも気をつけて帰るようにね」 ガラスケースの中で、柔らかい布の上に横たわっていたユキちゃん。 悪い冗談みたいだったけど、ユキちゃんが起きてくることはない。 ユキちゃんの本当の姿…ハル君はあの動かない小さな体の中に閉じ込められてる。 『次の満月の夜までは……あと2週間。』 「……おや?」 「目が覚めてたんだね、もう」 「結城さんは平気だよ、熱もすぐに下がるだろう。ケガも痕が残るほどじゃない」 「あ、あの……石蕗君は、も、もとに戻れるんですよねっ!?」 「さっきすももちゃ……秋姫さんたちと話していた通りにできたなら」 「もちろん、とても難しいけれどね」 「あ、秋姫さんならできると思うんですっ! だって、だってあんなに石蕗君のこと……ううっ…わ、私に何かできることはな、ないでしょうか」 「残念だけれど――僕たちは何の力にもなってあげられない」 「ううっ……先生、石蕗君は…わ、私のせいであんな体になったっていうのに……いいよって、いいこともあったからって……言ってくれたんです」 「(いい事があった…か)」 「……ふっ…うう」 「そうだね、きっと秋姫さんは自分の持てる力を全て使うでしょう」 「結城さん、連れて帰ってゆっくり休ませてあげなさい」 「お嬢様、失礼いたします……よいしょ」 「――んん…ん」 「それでは…失礼します」 「あの言葉が使えたとしても……もう一度、調べなおさないといけないな」 『何度見つめても、現実は変わらなかった。あの日からユキちゃんは、ずっとこのガラスケースの中で眠ってるんだよ……ハル君。ハル君と一緒に』 「絶対……絶対助けるからね……」 「――結城さん?」 「ノナ…ちゃん?」 扉を開けたのは、意外な人物だった。 無表情のまま、少しだけ唇をかんだノナはすもものもとへと歩みよる。 「お昼はここで食べたの?」 「まだ食べてないのね」 「あんまり……いらないの」 「そんなのダメ!」 囁くようなすももの声に返されたのは、大きく厳しい返事だった。 きょとんと驚いてるすももの顔を見る間もなく、ノナはその手を伸ばした。 「お昼ごはんくらい、ちゃんと食べるの!」 「え、ノ、ノナちゃっ」 「こんな時だから、食べないとダメッ」 「いってらっしゃい」 しっかりと手を繋いだ二人は、そのまま廊下へと飛び出してゆく。 その騒々しい足音も、開け放たれたままだった扉のことも、如月先生は咎めなかった。 ただ優しく、二人の背中を見守っていた。 「ノナ……ちゃん?」 「さっきも言ったけど、食事はきちんととらないとダメ」 「倒れるのは、つわぶ……ひつじだけで充分なんだから」 「アタシのせいで…これ以上……んっ」 眼鏡の奥の瞳に、小さな涙の粒が浮かんでいる。 驚いたすももが手を伸ばすと、ノナは慌てて顔をそむけた。 「……ごめん…ね」 ちょうど廊下の角を曲がったところに立っていたのは、撫子だった。 撫子は目をぱちくりしている二人に声をかけた。 「ごめん、大丈夫?」 「うん、だいじょ…ぶ」 「お弁当」 撫子の手元にあるのは、可愛い弁当包みがふたつ。 すももと撫子のものだ。 「如月先生の所で食べるのかと思ったから、持っていこうとしてたところ」 「もし教室に戻って食べるなら……中庭の方に行こう」 「みんなが一緒に食べようかって言ってた」 「まだ時間はあるから」 「えっ、わ、私も?」 「うん。結城も」 「ごめん…ね」 ――そうだ、みんな待っててくれてる。 撫子の背中と、隣を歩くノナの横顔。 二人とも優しい笑顔ですももを包んでくれていた。 中庭に向かえば、クラスメイトたちがそれぞれの笑顔ですももを迎えてくれる。 すももの胸の奥にある冷たい氷が、ほんの少しだけ溶けていった。 「あ…た、ただいま」 すももはいつもと同じ『ただいま』を言ったつもりだった。 それからいつものように、自分の部屋へと向かう。 その背中を心配そうに見つめる人がいたことにも気づかないまま、すももは階段を昇っていった。 「(ユキちゃんはこない……んだよね)」 窓の外の光景は、いつもと同じだ。 暮れてゆく空はいつも同じで、どんなに悲しい時も嬉しい時も変わることはない。 「着替えなきゃ」 クラスメイトたちの顔が浮かぶ。 すももが悲しい顔をしないように、少しでも心が軽くなるようにと思ってくれてる。 それは優しくすももを包んでくれた。 だけど……だからといって忘れることはできなかった。 「(ユキちゃん…ハル君…わたし、どうすればいいの?)」 窓辺に手をかざしてみる。 指輪の赤い石は何の反応も示さなかった。 「わたし、わからないよ……」 何もできない。 何ができるの? ふいに目をやった机の上には、ずっと閉じたままの日記帳が置かれている。 「日記も、携帯も、全部……ユキちゃんもハル君もいないと…書けないのかな、わたし……」 「すももちゃーん、そろそろご飯にしようかー」 「は、はーいっ!」 リビングに下りると、テーブルの上にはもう料理の皿がいくつも並んでいる。 湯気をあげる夕食は、どれもついさっき出来上がったばかりのようだ。 「遅くなっちゃってごめんね、お父さん」 「今日はちょっと煮物が多めの、温かい料理にしてみたよ」 「さあ食べよう! いただきます」 「すももちゃん、最近何だか元気ないね」 「えっ、あっ、そそんなこと……ない」 「ほんとに? あるでしょう? どうしたのかな……すももちゃんが元気ないと、お父さん心配なんだよ」 「お父さん、わたしね」 「(友達はみんな心配して、すごく優しくしてくれるのに)」 「(ハル君を助けられるのは…わたしだけかもしれないのに)」 「(どうしても落ちこんじゃって…わたし……)」 「お父さんっ」 「わたし、ど、どうしたらいいんだろう?」 「すももちゃん――」 「お父さん…わたし、ね…いろいろ…わからないの……」 「……みんな優しいのに…わたししかできないのに……」 「ああ、ほらほら、泣きだしちゃったらご飯が食べられないよ?」 「ふ…う、うん……」 「ご、ごめんね、お父さ……ごはんなのに」 「いいよ、ちゃーんと涙が止まったら、ゆっくり食べたらいいんだよ?」 「今自分に何か出来ることはないのか、ゆっくりと考えてごらん」 「今…できること……」 「すごく些細なことでもかまわないんだよ?」 「何かやるのと、何もしないのは全然違うからねー」 「お父さん」 「ま、なんでもお腹がすいてちゃできない! 食べよう食べよう〜」 すももは止まっていた手を、再び動かした。 心の奥に沈んでいた言葉を全部はきだした。 すごくすごく重くて、自分勝手で、どうしようもない思いだったかもしれない。 それでも、自分に向けられた眼差しは優しく微笑んでくれている。 誰にも気づかれなかったけれど、すももはコクンと小さく頷いた。 『何かやるのと、何もしないのは全然違うからねー』 「何か…できること…そうだ」 「少しだけでも、あの言葉の練習しておこう」 指先にはまっていた指輪が姿を変え、長い杖へと変わる。 その感触は、もうずいぶんと手になじんで来ていた。 「でも……物の時間を操るってどうやって練習すればいいのかな」 「ボールとかにかけても仕方ないし……」 「時間を少しだけ未来に操れたら……芽が出るはず。やってみよう」 「ティム・フォールナ・プリンシパトゥ」 「あ!! で、できた!!」 植木鉢の中で頭を出した芽は、小さく震えるとまたもとの種に戻ってしまった。 「コントロールが難しいって、如月先生言ってたよね」 「もう一度やってみよう」 何度やっても、結果は同じだった。 小さな芽は出るけれど、すぐにもとに戻ってしまう。 「ハル君、こんなのでわたし……ハル君を助けられるのかな」 「ノナちゃん?」 「ノ、ノナちゃ…ん?」 何も言わずに立ったノナは、すももをじっと見つめた。 おろおろと自分を見つめ返すすももは、初めて出会った日と同じ顔だった。 『じゃあ、わたし……これからノナちゃん、って呼んでいいかな?』 『わたしのことは、好きに呼んでね! みんな名前で呼ぶことが多いけど――』 「別に、ちょっと通りがかっただけよ」 「……練習してたの?」 「え…あっ、杖…そのまま持ってきちゃった!」 「レードル、すぐに指輪にしまえるんでしょう?」 「う、うん。なおしておかなきゃ、だね」 「松田が頼みもしないのに、私の本棚を整理したの」 「そうしたら、こんな古いモノが見つかったから、あなたに持ってきたんだけど」 ノナが差し出してきたのは一冊のノートだった。 まだ新しい感じがするのに、ページの端が反っている。 すももはそっとノートを開いた。 「……これ」 「今は使われていない、古い本から写したものなの。とても良い教科書だったわ」 「……ノナちゃん、これ…ちゃんとわたしたちの言葉で書いてくれたんだ」 「だって秋姫さんがフィグラーレの言葉を読み解くより、私が翻訳した方が早いでしょ」 ノートに書かれた文字は、フィグラーレのものではなかった。 キレイなその文字と図はすももにもすぐに読み解ける。 そしてそのノートには、どのページも『レードルの高度な使い方』について書かれていた。 「如月先生に聞いたの?」 「わたしが難しい言葉の力を使わなきゃいけないから……」 「そ、そうよ」 「つ、次の満月までまだ何日もあるって思ってちゃダメよ! あと少ししかないんだから! だからそれを読んで……」 「ちょ、ちょっとでもレードルを…使いこなせるようになったら…って」 「それだけだからっ」 「ま、松田がそろそろ探しだすから、帰るわっ!!」 「ホントにありがとぉっ、ノナちゃーん」 すももは日記帳を見つめた。 あの日から――。 『ユキちゃん』が本当のぬいぐるみになってしまってから、触れることができないでいた。 毎日毎日、どんな日でも、ほんの数行だけでもずっと書いていたけれど……。 「今日から――」 「また書くね。元に戻ったハル君に、今日あったこと話すときに……」 「ノナちゃんやナコちゃんや、みんながくれたやさしい気持ちのこと、ひとつも忘れないように」 「うん、いやちょっと気になってね」 「でも気にしすぎだったかな? さっきよりも元気な顔だ」 「うん、元気になったの」 「良い友達がいるのは、何より素敵なことだね」 「え、お、お父さん、見てた?」 「はは、そんな気がしただけだよ」 「う、うぅ…そうなんだ」 「でもお父さん、わたしも本当にそう思うよ」 「頑張ってね。それから風邪をひかないように気をつけて」 日記帳を開く。 日記が途切れてしまった日のことを思い出すと、まだ胸が痛い。 その痛みは忘れることはできないけれど……すももはペンを手にした。 「『それから、満月までの毎日は長いような短いような、でもすごく苦しかった時間だった』」 「『でもねハル君、みんながわたしのことを支えてくれたから、わたし、泣かなかったよ』」 「すもも、寒くない?」 「……これからなのね」 「――如月先生に頼まれていたものがあったから、来たの」 「頼まれたもの?」 「お嬢様ぁ〜! 私がお願いされたお使いなのに、わざわざご一緒していただいて……松田感激しております」 「うっ、うるさい松田っ!!」 「えええ〜っ!?」 「……頼まれたのと、ちょっと心配だったからのもあるわ」 「あ…ありがとう、ノナちゃん」 「みんなそろって来たんだ」 すももと、ノナと撫子と、松田さん。 ぱっと見れば、それは園芸部が全員集まっただけに見えただろう。 「松田さん、頼んでいたものは……」 「あ、はい! ギリギリ間に合いましたよ! 特別輸送便で送ってもらいました」 「ちょーっと無理言ったけどね」 「助かりました」 「まずは秋姫さんと八重野さん、これを食べてくれるかな?」 如月先生が差し出してきたのは、キャンディーのようなものだった。 ガラス瓶に入っているのは、たった二つ……すももと撫子のぶんのみしかない。 「キャンディー……ですか?」 「そう、見た目も味もキャンディーそのもの」 「先生、どうして私とすももだけがこれを食べなければならないのですか?」 「二人ともユキちゃんの正体を知ってしまったからね」 「あ…そ、そうか」 「フィグラーレの者ならかまわないんだけど、二人はこっちの世界の人でしょう? だからこれを食べないと――」 「……また石蕗が、ぬいぐるみになってしまう?」 「正解」 「じゃ、じゃあ、これを食べたら、ハル君がユキちゃんだってわかってても大丈夫なんですか?」 「うん、一時的にだけどね」 「一時的……」 「だいたい一ヶ月くらいかな」 「一ヶ月くらい……じゃあその間に、最後のしずくを採らないといけないんですね」 「ナコちゃん、食べよう」 「(最後のしずく―…早く採らないといけないんだ)」 すももは心の中でそう呟き、キャンディを口にした。 今日この日から一ヶ月。 気まぐれにやってくる星のしずくを相手に、失敗は許されない。 「さあ、始めようか」 如月先生は校庭の真ん中にユキちゃんを置いた。 そしてその周りにいろいろな図形の組み合わさった、まるで魔法陣みたいなものを描き始めた。 「あれは何の模様だろう」 「力を増幅させるおまじない、という感じのものね」 「さてと――秋姫さん、こっちへ」 「この時計が、戻す時間の目安になるからね」 如月先生が持っていたのは、日にち表示付きの時計だ。 ユキちゃんの隣にそっと置かれる。 なんだか可笑しな組み合わせのオブジェだったけど、張り詰める空気がそこにいる全員に表情を硬くさせていた。 「後は秋姫さんの準備だけだよ」 「私の準備……あ、そ、そうか」 「秋姫さん、杖をこっちへ」 「少しだけでも、力を増幅させる効果があればいいのだけど」 如月先生はポケットから小瓶を出すと、すももの杖に数滴その中身を落とした。 「後は杖をユキちゃんに触れさせて、言葉をとなえるだけだよ」 「時計の日付が、ちょうどあの日を示すまで触れ続けていればいい」 「ただし――時間の流れを逆流させるってことは、自然に反することだからね」 「かなりの反発がくるはず……レードルは凄く暴れるだろう」 「それを押さえ込まなきゃいけない」 「わたし、やります」 「頑張って、あきひ……いや、すももちゃん」 「僕はまだやらなくちゃならない事があるからここを離れるけど、応援してるからね」 それができるのは、自分しかいない。 あの時、こうなることをわかっていても自分を助けてくれた人のために――。 やるしかない。 「……ユキちゃん、ハル君、まっててね」 「がんばれ! できるはずよ!!」 「(ごめんね……ユキちゃん、あの時わたしがうまくできてたら、こんなことにはならなかったよね?)」 『スモモちゃん、こっちで一緒にご飯食べようよ』 『秋姫さん、ハル帰ってきたら怒ってやるからな!』 『弥生も!!』 『園芸部も手伝うからね、遠慮しないで!』 「……みんな、心配ばっかりかけて、ごめんね」 『すもも』 『集中して、深呼吸して、できるって思うのよ』 『少しでも、力になれたら……』 『ゆっくりと考えてごらん』 「………ありがとう」 「――ハル君」 「(ハル君、あの時助けにきてくれてありがとう)」 「(わたし、わたし本当に嬉しかった)」 「待ってて、ハル君」 「……ん…んんっ」 「…ティム…フォールナ・プリンシパトゥ!!」 風の音の間で、カチカチという機械的な音が聞こえた。 すももは必死に目をあけて、時計を見つめた。 「時計の日付が……戻ってる!!」 「ん…ふうっ……は…つ、杖が離れないように…しなきゃ」 指先に汗がにじんでくる。 ヒジのあたりまで、帯電しているようなしびれもあった。 でも今この杖を離すわけにはいかない! 「あと…あと何日ぶん…?」 「もうちょっと!」 すももの目の前を、小さな火花が散ってゆく。 その火花が少しずつ増え、構えていた杖の軸がずれようとしていた。 「えっ…な、なに?」 「きゃぅ!」 「だめ、だめっ、そっちにいっちゃ……離れちゃう」 「あ…あううっ」 「やぁああっ」 「ダメッ!」 「わかる、わかるけど――…ダメなの」 「レードルは持ち主以外が触れると拒否反応が増すだけなのよ」 「私だって助けてあげたいけど……」 「すももに任せるしか…ないから……」 「結城――…」 「や、やぁ…だめっ、もうちょっとなの」 「もうちょっとなのに……う、うう、きゃっ」 「……ダメ…なの……ユキちゃ…ハ……ルく……」 さっきまであんなにも痺れていた手の痛みが、ふっと掻き消えた。 すももは一瞬、ついに自分は杖を落としてしまったんだと、絶望した。 「つ、杖、杖どっかに……いっちゃっ……」 「ここにあるわ」 「こっちの手も……ほら、もう大丈夫でしょう?」 「さ、ちゃんと両手で握って」 「……え、ええ……!?」 「ほら、もう大丈夫でしょ」 「杖……あんなに熱くて…暴れてたのに……」 「もう平気でしょ?」 「もうすぐよ、集中して」 「――あの時に、戻った!」 「……できたね」 「あの、ありがとう……ございます」 「あの、あの、あ、あなたは――」 「(お水、われた?)」 「――あの時の!!」 「あの時の、魔法使いさん……!!」 目をあけると、そこは見慣れた校庭だった。 水もない。青空もない。 夜の、寂しい校庭だった。 「……ゆ、夢?」 「(でも、今度は忘れてない。はっきりと思い出せる)」 「(杖も、服も、自分と一緒だった事も覚えてる)」 「わたしと同じ格好……だった」 でも、どうして? 私をもう一度助けにきてくれた? あの人は一体……誰? 「――ユキちゃん!!」 「やったわぁあ!」 「ハルく……ううん、ユキちゃん」 「う…あう…んっ??」 「ユキちゃんっユキちゃんっ、よかった…うまくいったの!!」 「あ…うぅ……ナコちゃ……ん、ノナちゃん…」 「よかった、すもも……ひつじ君、動いてる」 「うん…うん…戻ってきた、戻ってきたの」 「……う…うう…すも…も」 「ご、ごめん、ごめんなさい――すもも、わたしのせいで……」 「ノナちゃん!!」 「ごめん……ごめんね……いえなくて今まで…ちゃんと…ごめんなさいって……」 「ううん、いいの、ノナちゃん泣かないで」 「ふ…うぅ…いっぱい悲しい思いさせて、苦しい思いさせて――ごめんなさい……」 「……うん、でももう大丈夫だもん、だってもうユキちゃん」 「んーんー!!」 「ほら、動いてる!!」 「むぐぐ、すっ、すもも!?」 「嬉しい、嬉しい……もう会えなかったらどうしようって思った……ユキちゃん……」 「あの嵐は、あ、あいつはもう助けられたのかよ!?」 「……うれしい…よ……ふ…ええっ」 「……ふっ…よ、よか…た」 「え!? な、なんで泣いてるんだよ、なんでみんな…えっ!?」 「――ハル君、もうどこにもいかないでね」 「うまくいった……か」 「成功したみたいね」 「ここよー、ここ!!」 「お疲れ様でした」 「なによ〜、元気なさそうな顔しちゃって」 「そんなことないですよ……それより結局は力を借りることになってしまって……」 「あ、いーのいーの! 実はね、私のお手伝い…あんまりいらなかったみたい」 「すもも、ほとんど自分の力でやってたのよ」 「そうだったんですか、さすがというべきか……驚いたな」 「うん、すもももなかなかやるわね」 「今日は遠いところを呼び出してすみません」 「いいのよ〜。久々にこの姿になれたし、なんだかリフレッシュしていい気分♪」 「それに、昔私が使ってたあのレードルがまた生かされてるの見るのって、やっぱり嬉しいからね」 「そういうものですか?」 「そういうもの。あなたもレードル職人なんだから、そのへんもっと気にかけなさいよ」 「……さてと、じゃあそろそろ帰ろうかな」 「今度はまたゆっくり話せる時間をとりますね」 「うそ〜、本当は早く帰ってくれって思ってるんでしょ?」 「うそうそ。やっといつもの顔になったわね」 「さっきまでのあなたの顔!」 「いつまでもそんなしけた顔してたらすももが不安がるからやめなさいよ」 「それじゃ〜ね♪」 「はぁー…姉さんにはかなわないなあ」 「あ、ちょ、ちょっとそんなに引っ張らないで!」 「わぁい、ユキちゃん――おかえり、おかえりっ!」 「――よかった」 「よかった……これで石蕗君も戻ってこれたし」 「星のしずくはあと一つ……でも」 「でも…すももちゃんはまた……泣かなきゃいけないかもしれない…か」 「わ、ちょ、ちょっと待って、えっ!? えええっ!?」 ――な、なんでここにいるんだ? てか、どうしてすももたちがこんなに集まって……な、なにしてるんだ!? 「ユキちゃん、ユキちゃんっ!!」 「むぐぐぐっ」 「すもも、そんなに強く抱きしめたら、ひつじ君また気を失っちゃうよ」 「お嬢様、お車の用意ができておりますが……」 「ちょ、えっ!? 一体なに? 何なの??」 「そうか、ひつじ君は眠っていた時のことわからないんだね」 眠っていた? それは一体……どういう意味なんだ? 「あ、そ、そうだよね。ユキちゃん、お家に帰ったら、全部話すね」 「……あの、お二人とも一緒…良かったらお家まで送るけど?」 「ほんとに!? ありがとうーノナちゃんっ」 「あううっ、ちょ、ちょっと!」 「ああ……お嬢様がこんなにもご学友と親しくしていらっしゃる……松田感激です……ささ、皆様こちらへどうぞ」 「ありがとう〜」 「……もう。松田、帰るわよ」 「……ふあ…あ」 久々の登校だった。 なんとなく体が固いような気もする。 昨日あれから秋姫の家に戻った後、俺はこの半月の間に起こったことを聞いた。 プリマ・アスパラスとの戦いで俺がとった行動、その後に起こったこと、それから……秋姫や八重野、そして結城たちが頑張ってくれたこと。 「あっ、あきひ――」 「……っと」 昨日話したなかで、俺はあの日ある約束をしていたらしい。 秋姫のことを、すもも、と呼ぶようにと……。 「じゃなかった」 「……すもも、おはよう」 「あれ? 八重野は?」 「今、駐輪場に自転車をとめにいってるの」 「うん、ここでちょっとだけ待っててもいい?」 「いってらっしゃいませ、お嬢様」 「ノナちゃん!」 「お、おはよ……」 「ごめん、待たせたかな?」 「石蕗、結城、おはよう」 「ううん、なんだかこうやってみんなで登校できるの、嬉しいなぁって」 「………そうね」 結城は頬を染めると、ぷいと横を向いた。 そんな表情を見せるようになった結城にも驚き、いっそう仲良くなったみんなにも驚いた。 半月の間に、きっと話を聞いただけではわからない、いろいろなことがあったんだろう。 「少しスピードをあげて行かないと、遅刻です!」 「ふふふ、うん、行こう」 「ハル君も……い、いこっ」 「あっ!! すももちゃん、石蕗君っ」 「おはよう、秋乃ちゃん」 「おはよ……久しぶり」 「おかえりなさい。あれ? 石蕗君、今朝帰ってきたの?」 「あ、ああ。寮に着いたの早かったから挨拶できなかった」 「ナツキもトウアも心配してたから、きっと喜ぶですっ」 「あーっ!! ハル!」 「お、今日から復帰なんだな? おかえり!!」 「…うん、た、ただいま」 「すももちゃん、すももちゃん」 「あ、おはよう……えっ」 「こっちこっち、うん、そこに立って」 「お帰り! すももちゃん、石蕗君!」 「わぁ! なんだか記者会見みたーい」 「き、きしゃかいけっ!?」 「ハル、もう体調は万全なのか? 風邪で入院って、よっぽどひどかったんだな」 ……そういうことになってたのか。 きっと如月先生が仕組んでくれたんだろう。 俺は話をあわせて、頷きかえした。 「う…うん、まあ。心配かけてごめん」 「一番心配してたのは、すももちゃんだよ」 「あっ、えと…えっと…で、でもみんなも……」 「でもホントによかった! 私、すももちゃんの笑顔好きだし……まあ一番そう思ってるのは、石蕗君なんだろうけどね」 「――なっ」 「よかったね、スモモちゃん」 「うんうん! 弥生、石蕗君とすももちゃんが並んでるの、好きーっ!!」 「いいな…いいな…なんかこう……いいよなーっ」 「はぁ〜…いいよね、ホント…いい……」 「あ、あのっそ、そんな、えっと」 「ご、ごめんね、ハル君……」 「い、一緒に教室入っちゃったから……あの」 「い、いいよ、別に……すももとは同じクラスなんだし」 「い、いま、石蕗くん、すももって、すももって呼んだ〜っ」 「ど、ど、どこまでいったんだよおまえら…いつのまにそんなに仲良く…!」 「の、信子さん、その聞き方はあまりにもっ!!」 「あ、あう…あぅ……」 俺はすももの手をゆるくつかんだ。 皆からは見えていないはずだ。 「お、俺……余計に……騒がしくした……」 「ハ、ハルく……」 「大丈夫……だよ」 「――いつまでも扉の前で止まってらしたら、私や八重野さんが遅刻します」 「ご、ごめーん」 「嬉しくってついつい記者会見しちゃったの〜」 「ふふふ、でも石蕗くんが元気になってよかった! 私たちもすっごく心配してたんだからね」 「そうそう、ほんとだぞー」 ありがと、と言いたかった。 だけどいろんな気持ちがまざりあって、言葉にならない。 今思ってたこと、そのまますももが言ってくれた。 「あ、先生が来たみたい」 「ひゃ、せ、席につかなきゃ」 「ハル〜、後でいろいろ聞かせろよなっ」 「な、なにもないって」 「うそだー、絶対ある」 「こらっ、ぬけがけなしだぞ圭介っ」 「いて」 ああ、俺は教室に帰ってきたんだな。 仲の良いクラスメイトに囲まれて、くだらない話をしあうだけでも……すごく大切なものだ。 ざわめきの中、席についた俺は本当に嬉しかった。 ここにちゃんと帰ってこれたことが、本当に嬉しかった。 「ハル君、大丈夫?」 「……い、いいのかな」 「う…うん! たぶん」 「たぶん……」 俺が再びこの体に――日が昇ってるうちは人間、沈めば『ユキちゃん』――戻って数日がたった。 すももからその半月の間の話を聞きながら、俺は何度もごめんと謝った。 すももはその度に、俺は悪くないと謝って、そんなことを繰り返しているうちに笑いあった。 そして今日――。 「あれ? すももちゃんおかえり〜、石蕗君も一緒なんだね」 「あ、お父さん、ただいま」 「お邪魔します」 「ゆっくりしていってねー」 今日、俺とすももはあることを試そうとしていた。 「……ほ、ほんっとに大丈夫なんだよな?」 「う、うん。如月先生もそう言ってくれたし、そのキャンディーみたいなの食べたから……今だけは大丈夫」 「大丈夫……だよ?」 窓の外に目をやってみる。 日没まではもう間もない。 あと数分で、俺が『ユキちゃん』になる時間だ。 「お、俺さ……人に見られるの初めてなんだけど」 「あ、いや…その…ユキちゃんに変わるところ」 「そっか……あ、でもそうだよね」 「お父さんは?」 「だ、大丈夫! 今お買い物にいってる」 「く、靴はここにある…な」 「……あとは」 「あ、あのね、ハル君」 「お、お、お洋服は……大丈夫なの?」 「あっ、そ、それは――」 「……ほ、ほんとにユキちゃん…だ」 「こ…こんな感じ、だけど?」 「ほんとに、なんだか、へ、ヘンな感じ……ふふふっ」 「ま、そ、そうだよな…ははは」 さっきまでの視界が、すっかり逆転してる。 俺はすももの顔を見上げながらひとしきり笑った。 「ところで、すもも」 「もう一回確認しとくな」 「――やっぱり他の人にはまだバレちゃいけないんだよね?」 「うん、お薬飲んだのは、わたしとナコちゃんだけだから」 「そ…そっか。じゃあこれからも気をつけないといけないのか…」 「ユキちゃんの時はいままでどおり、ユキちゃんて呼んだ方がいいんだよね」 「そうだなー」 「ユキちゃん、ユキちゃん……うん、大丈夫だと思う」 「でもハル君の時に、間違ってユキちゃんって呼んじゃいそう」 「そ、それは気をつけてっ」 また誰かにバレて、本当のぬいぐるみになってしまうなんてゴメンだ。 俺は…俺は眠ってるだけみたいなものだから平気だけど、すももがまた悲しむのは嫌だ。 「おかえりなさいっ!」 「ほんとによかった……ハル君もユキちゃんも帰ってきてくれて!!」 すももが俺のために頑張ってくれた。 きっと何度も泣きそうになったことだろう。 でもそれを我慢していたのだろう。 今、俺がいつもの体だったら……きっとすももの背中に手をまわして、ぎゅっと抱き寄せているだろう。 ぎゅっとすももの力が強くなる。 視界がまっくらになったとたん、暖かくて柔らかいものが顔中をおおった。 「むぐっ、むぐぐっ」 「あの、あのさっ」 「あ、ごめんね。抱っこしすぎて苦しかった?」 「……その、だっこはもういいよ…」 「えぇー」 「いや、だって恥ずかしいっていうか、なんていうか―…」 すももはぷっと頬を膨らませて俺を見つめている。 鼻先数センチまでに近づいたその顔に、どきりとしてしまう。 「ほ、ホントは俺だってわかってるのに、そういうのってちょっと……」 「あ、俺っていった」 「えっ、や、やっぱり『ボク』じゃないとダメなの? これからも」 「なんとなく……」 「抱っこはイヤ?」 今までは必死で『ユキちゃん』として接しようといっぱいいっぱいだった。 だからこんな風に感じなかったんだと思う。 今の俺は、ユキちゃんと石蕗正晴のちょうど真中で……。 すももの腕の中で、冷静でいられるだろうか。 「だって、一緒に寝たし、お風呂だって一緒に入ったし……」 「(……そ、そうなんだけど……)」 「ユキちゃん…お風呂…ちゅーってしたこともあって……あ……」 「ユキちゃんって……ハル君なんだよ…ね?」 「う……」 「う?」 「うわぁああ! そ、そ、そんなのって!!」 「へっ? へっ? す、すもも?」 「そんなのって! は、恥ずかしいよー」 「いや……でも…」 「……うう…わたし…ハル君に……見られちゃってたんだ」 「み、みみ見てないっ!」 「見たもん」 「だ、だから、こういう時はなんか違うんだって!!」 「でもホントにハル君なんだよね」 フトンから出てきたすももが、俺を抱き寄せた。 「だから、抱っことか……なしで」 「んんー…」 「ユキちゃん抱っこできないのも寂しいな……」 「ど、どっちなんだよ」 「すももちゃーん」 「撫子ちゃんからお電話だよ」 「あれ? 石蕗君は帰っちゃったのかな?」 「え!? あ、えっと…ちょっと用事はあるからって―…」 「そうか〜。また夜ご飯一緒に食べようかなと思ってたんだけど、残念だなぁ」 「ああ、撫子ちゃんからの電話、早く出てあげないと」 「あっ、う、うんっ」 すもものお父さんは、電話の子機を渡すと部屋から出て行った。 俺もほっと息をはき、すももを見上げた。 「ユキちゃん、ちょっとごめんね」 「もしもし…、あ、ごめんね…うん、うん」 「そうなんだ…うん、わかった、じゃあ明日はそうしようかな…うん、はーい」 「あれ? もういいの?」 八重野からの電話だから、もっと長くなるかと思ったのに――。 ほんの数分も話さないうちに、秋姫は電話を終えた。 「ナコちゃん、明日は日直だから先に行かなきゃいけないんだって」 「だから…あの、明日はハル君と一緒に行ったらどうかなって」 それだけ言うと、すももはちょっと視線をそらした。 ほんのりと頬が紅い。 ……あ、そっか。俺が石蕗正晴だってわかってるだもんな……。 「じゃあ…朝になって戻ったら、また迎えにくるよ」 「朝にはお家に戻るの?」 「か、帰るよ」 「そそ、そんな、朝俺が戻って一緒にいたら、おかしいだろ」 「あ、あの、うん、か、帰るときには気をつけてね」 「はふ…わ、わたし…さっきから何言ってるんだろ、もう」 すももはさらに顔を真っ赤にすると、ぱたんとベッドに倒れた。 ……ああ、可愛いな。 正体がばれてしまってるからか、今までより素直な感想が思い浮かんでしまう。 もう名前を呼ぶ時に気をつけることもないし、なによりすももにウソをついてない。 なんだか、すごく気持ちがラクになった。 「じゃあハル君…じゃなかった、ユキちゃん、いつまでいる?」 「んー…えっと、いつまでいたらいい?」 「……な、なるべく一緒がいいな」 「まだまだいろいろ話したいことあるんだもん」 「いっぱい、聞いてくれるかな」 すももの手がふっと伸びてくる。 いつものように、頭をなでられる……と思ったら、すももははにかみながら俺の顔を覗き込んでいた。 「なんだかやっぱりヘンな感じ。いつもはハル君ってすっごく大きいんだもん」 「……う、うーん」 「えへ、ごめんね」 「……ふあ」 ロビーに響くのは、俺の足音のみ。 まだまだ登校時間まで余裕のあるこの時間に起きている生徒は少ない。 俺だって、いつもだったらまだ部屋の中でベッドから起き上がった頃だ。 でも今日はこの時間に起きてなきゃいけなかった。 「(すももと約束した時間まで、まだちょっとあるよな)」 「アキノ! アキノ! ちゃんと起きてよぉ」 「お…おきてま……ふ…すぅ」 「全くなんでこんな早くから起きなきゃなんないんだよ」 「だってだって、見たいテレビがあるんだもんー…あっ」 騒がしい足音ともに、麻宮たちがロビーへとやってきた。 三人は、ついさっき起きたばっかりという感じだ。 「ハルたん、な、なんでもう制服着てるの?」 「…むにゅ……んん…へっ?」 「登校する前にちょっと行くとこあるから」 「早起きハルたんだねーっ、どこいくの?」 「あー…えっと、その」 「どこどこ?」 すももを向かえに行くから――なんて、言えないな。 なんて答えよう。 口ごもっていたら、秋乃がぱっと目を開けた。 「……ひゃ、わ、わたし寝坊したで…すか!?」 「あー、これはねー」 「ど、どうしよう、ちち遅刻……っ」 「寝ぼけてるな」 夏樹が寝ぼけた秋乃を落ち着かせている。 いましかないと、俺はこの場を抜け出した。 「あー、ハルたーんどこいくのーっ」 時間には余裕をもっていた。 ゆっくり歩いても十分間にあう。 それなのに俺は早足ですももの家に向かってしまい、かなり早くについてしまった。 「(あ…すもも、用意とかできてなかったらどうしよう)」 すももはちゃんと制服を着ていた。 やっぱり俺と同じく、いつもより早く起きて用意とかしたんだろうか。 「(もしそうなら……なんか嬉しいな)」 「ハル君、うちの方にお迎えだと遠回りになっちゃうよね、ごめんね」 「え? あっ、大丈夫、そんなに遠くないし」 すももは申し訳なさそうにしてるけど……。 俺は夕方にはユキちゃんになってしまうから、こうして朝一緒にいられる時間があるのは嬉しい。 「(どうやったらそれ……伝えられるかな……って、あれ?)」 ふとすももの手元を見ると、カバンがいつもよりも膨れている気がする。 「すもも、なんだかカバン重そうだけど……」 「え、そうかな?」 「持とうか?」 「う、ううん、これはいいの!」 「……ふわぁ」 「眠い?」 「ちょ、ちょっとだけ」 「昨日、遅くまで話しちゃったからなー」 「う…うん。そうだね」 「俺もちょっとだけ眠い」 「あ、ご、ごめんね、ホントに遅くまでつき合わせちゃって」 「あの……これ」 すももは、可愛い柄のちょっと分厚い紙袋をカバンの中から取り出した。 「え、あ…えっと」 「ハル君が欠席してたぶんのノート」 「(だからカバン、いっぱいいっぱいだったんだ)」 紙袋を受け取ると、ずしりと紙の重みが手に伝わる。 半月ぶんのノートを、全部用意してくれたんだろうか。 「こんなにたくさん――」 「う、うん、あのね、わたしの字で書いたのをコピーしたから、えっと」 「その……読みにくいかも」 「ほ…ほんと?」 「よかったー」 「俺のよりわかりやすいよ」 「そうかなぁ、そうだったら嬉しいけど」 「ありがとう、助かる」 隣を歩くすももが、時々俺の方を向いて顔をあげる。 そんなちょっとした動きが、すごく可愛い。 「(って、俺、なんかさっきからそんなことばかり考えてる)」 やっぱり早い時間に出て正解だ。 教室へと向かう間、クラスメイトの誰ともすれ違わなかった。 「またどっか行きたいな」 「ど、どこか?」 「うん、ほら前…プラネタリウムとか行ったきりだし」 「俺、夜は…あの姿になるからさ」 「ふふふ、そうだよね」 「でもわたし、ユキちゃんと一緒にデートでもいいかも」 「う、うーん、でも」 「夜ってやっぱり危ないよ、一人で歩くの」 「一人? ユキちゃんも一緒だよ?」 「ユキちゃんの時じゃ…俺、何もできないしさ。何かあったとき」 「あ……そ、そっか」 「ヘンな人が出てきたら、がんばって撃退するよ!」 「ダメだよ」 今まで気づかなかったけど、いつも夜に出歩いてたんだよな。 いくら俺が一緒だったって言っても、ユキちゃんの姿だ。 「心配だから」 「(ホントに今まで何もなくて良かった……)」 「ハル君、心配してくれてるんだね」 「う…嬉しいな」 「おはよう! 日直ごくろうさま、ナコちゃん」 八重野は教室の窓を開け、まぶしそうに目を細めている。 教壇や黒板はもうキレイになっていたから、日直の仕事は早々に終えていたのだろう。 「園芸部の方さ、長いこと手伝えなくてごめんな」 「今日からハル君も本格的に園芸部復帰だね」 「また…よろしく」 八重野は黙ったまま、俺とすももの方を見ていた。 よく見てみると、八重野の視線は俺達じゃない…もう少し後ろを見ているようだ。 八重野がすっと腕をあげ、指をさす。 その先は俺の肩の向こう、教室の扉のあたりをさしていて――。 「みんな登校してきてるみたい」 「あっ…お…おはよーっ! あはは」 「きょ、今日はいい天気だよね、ちょっと寒いけど」 「えー、寒いかなぁ?」 「圭介っ!」 「ぐはっ」 「全然気にしないで、あの、フツーに教室に入ろうかなって思ってだけだし、ねっ」 「(い、いつから後ろにいたんだよ)」 「――他の選択科目、時間のびてるのかな」 放課後を向かえ、俺は園芸部へと向かった。 選択科目の授業が長引いたので、教室には戻らずそのままやってきたけれど、まだ誰もきていない。 ホースを倉庫の方へ直そうとした時だった。 温室の方に、ふっと人影がよぎった気がした。 「誰か来てる…?」 「こっちにいたんだ」 温室の片隅にしゃがんでいたすももを見つけた。 俺の声に驚いて、すももはぴょこんと立ち上がり振り向いた。 「表に誰もいなかったから、俺が一番に来たんだと思ってた」 「あ、あれ? ナコちゃんいなかった?」 「……いなかったよ」 「おかしいな、授業終わったあとにナコちゃんだけ教室に戻ったんだけど……」 「後ですぐに行くねって言ってたよ」 「そっか。じゃあもうすぐ来るかもな」 すももが覗いていたのは、前に二人で球根をうめた場所だ。 こまめに見てくれたおかげで、雑草はひとつも生えていない。 俺はさっきすももがしていたように、しゃがんだ。 「もうすぐ咲きそう?」 「んー…まだちょっと先かなぁ」 「ハル君、あのね」 「わたし、これが何の花かわかったよ!」 「うん。球根の形を図鑑で調べてみたの」 「へえ…球根からわかったのか。すごいな」 「それで――何の花だった?」 「えっとね……マ……」 「や、やっぱり、もうちょっと秘密」 「な、なんで?」 「あ……うーんと、その…いろいろ」 「いろいろ?」 「う、うんうん」 どうしてだろう、と見つめると、すももはプイと横を向いてしまった。 「教えてよ」 「う、うーん……えと…その……」 「は、恥ずかしいから!」 恥ずかしい? 花の種類を教えるのが、どうして恥ずかしいんだろう? 「ま、また後で教える!」 「あっ……と」 すももの足に当たって倒れたジョウロが、からからと地面に転がった。 残っていた水がこぼれたせいで、すももはバッと俺の手元にしゃがみこんでくる。 「ひゃ、ご、ごめんなさいっ」 「大丈夫だよ、手が濡れただけ」 「まってね、今ハンカチ…出すね」 「あ、いいよいいよ」 「ううん…使って、ハル君」 真っ白なハンカチを使うのは、なんだかもったいない気がする。 それでもすももは引かなかった。 仕方なく、俺はしわにならないように注意して水滴をぬぐった。 「ごめんね……二回目、だよね」 「ハル君に水かけちゃったの」 「そういえば、そうだよな」 まだ俺が園芸部に入る前のことだ。 校舎の角でぶつかった時、すももはジョウロを落っことし、俺はびしょぬれになった。 あの時は、すももは何も言えずにおろおろしていた。 今目の前に立つすももと比べてしまい、つい可笑しくなって笑ってしまった。 「な、なに? ハル君、今ちょっとだけ笑ってた」 「え? えっと……あの」 「や、初めて水かけられた時のこと思い出してた」 「あの時と、今のことちょっとだけ比べてて」 「あ、あのときは、だ…だって突然だったから」 あの時の俺は、こんな風に二人が一緒に並んでるなんて思いもよらなかった。 早いようで、でもこうやって一緒に過ごしているのはまだ半年くらいで……時間の流れは不思議だ。 「早く咲かないかな」 「どんな花が咲くんだろ。すももはもう知ってるんだよな」 「う…うん…間違ってなかったら」 すももと俺は、まだ芽の出ない手作りの花壇を見つめた。 どんな花が咲くんだろう。 すももが丁寧に丁寧に育ててくれてるから、きっとキレイに咲くはずだ。 「もしもわたしが先に、このお花が咲いたの見つけたら……ハル君に一番に教えるね」 「はは、ありがとう」 「俺が先に見つけても、そうする」 「でも一緒に見つけられたら、いいな」 俺は立ち上がり、すももの隣に並んだ。 すももは一瞬俺の顔を見上げて、少しずつ俺のそばへ近づいてくる。 一歩ずつ様子をうかがうように、すももとの距離が縮まってゆく。 俺の方からも一歩踏み出したとき、お互いのヒジがそっと当たった。 どちらからってわけじゃないけど、いつの間にか俺たちはゆるく手を繋いでいた。 「なんだか不思議なの、わたし」 「ハル君とこうやって手をつなげること」 「そ…そうか。でも…付き合ってるから…さ」 「ふふふ、うんっ」 すももに返した自分の言葉が恥かしくなってきた。 本当のことだけど……なんだかむずがゆい。 「好きになった人が」 「好きになってくれるのってね」 「すごいことだと思うよ」 返事をする代わりに、俺はぎゅっとすももの手を握り返した。 細い指がくすぐったそうに、俺の手の中で動く。 俺が言葉にできなかった返事を、すももはとびきりの笑顔で返してくれた。 「……八重野さん」 「結城さんに…松田さん。どうしたの?」 「別に……え、園芸部だし、ここにいてもお、おかしくないでしょ?」 「…うん。そうだ結城さん、すももと石蕗を見なかった?」 「ああ…そ、その件で、でしたら……」 「松田っ!! 私が説明するわ」 「は…はひ…」 「石蕗君と秋姫さん、温室の奥にいらっしゃるわ」 「で、でも、とてもじゃないけど、あそこには入っていけないと思うんですけど」 「あ、だからここにいるんだ」 「そうです」 「す、すみませんっ」 「困ったな…如月先生から言付けがあるのだけど――」 「ま…まあ、もうちょっとしたら出てくるんじゃないかしら? 私たちはそろそろ帰ります。行くわよ、松田」 温室から出てすぐのところに、八重野が立っていた。 「(……うっかり、手をつないで出てこなくてよかった)」 「すもも…如月先生が呼んでるよ」 「え? なんだろう?」 顔が赤くなってないだろうか、なんて心配しているのは俺だけみたいだ。 すももと八重野は、いつものように自然だ。 「じゃ、俺は先に帰って――」 「石蕗も」 「石蕗のことも、呼んでる」 「俺も?」 「なんなんだろうね…ハル君」 「なんだろう」 小さく首を傾げるすももに、俺は何も答えることはできなかった。 「ともかく、行ってみよう」 部屋に入ると、如月先生は何かが入った試験管を見つめていた。 「……石蕗君、ちょっと実験をしたいんだ」 「じ、実験? 何のですか?」 「しーっ、ちょっと待っててくれたまえ。最後のこの薬の加減が一番難しいんだ……」 その表情があまりに真剣だったから、俺もすももも声をかけられなかった。 試験管をゆるく振り、火のついたランプにかざす。 如月先生は、そんな実験のような動作を繰り返していた。 「石蕗君、これを飲んでみて」 「そんな顔をしなくても…大丈夫、命に関わるようなことは何もない薬だよ」 試験管からコップへと移された謎の液体……。 鮮やかな色がすごく怪しい。 如月先生が飲めとばかりにジッと見つめてくる。 「(飲むしかない……よな)」 「そろそろかな」 「八重野さん、ちょっと悪いんだけれど…少し髪をあげてくれるかな? そう、ちょうど首元が見えるくらいで」 斜め前に立っている八重野。 ゆっくりと髪をすくいあげる。 いつもは見えない、八重野の首のあたりを指差す如月先生。 「(……なんだ? 声がやたら遠くから聞こえる……ような)」 「石蕗君、ちゃんと聞こえているね?」 「あ…は、はい」 「八重野さんのここ、首のところだね。何か見えるかい?」 顔をあげる。 八重野の首はまっすぐで白くて――それだけだった。 「八重野さん、ご協力ありがとう。ごめんね」 「き、如月先生? あの、あの……」 みんな不思議そうな顔をしている。 秋姫も八重野も、そろって俺を見てる。 「じゃあもうひとつ。石蕗君、今は何月かな?」 「は…? 今は」 「5月…ですけど」 「やっぱり…か」 どうしてみんな、そんなに驚くんだろう? 俺は普通に答えただけなのに……。 「ハ、ハル君? どうしたの? ねえ」 「ハル君、今は11月だよ? ねえ、どうしちゃったの?」 ぐっと腕が引っ張られた。 秋姫が引っ張ってる。 何度も何度も、まるで子供みたいに。 「ハル君っ!?」 「……すももちゃん、少しだけ待ってあげて」 「……先生?」 不思議な感覚だった。 うたたねから急に目覚めたみたいに、頭がすっと軽くなる。 顔をあげたら、何故かすももが今にも泣きそうな目をしていた。 「な、何か…あったの?」 「え、あの…すもも?」 「び、びっくりしたよぉ…ど、どうして5月なんて…思ったの?」 「ご、5月?」 八重野がすももの横でこくんと頭を振った。 「さっき如月先生が今が何月かと聞いたら、石蕗は5月と答えたんだ」 「は!? そ、そんなわけな―……」 俺の腕をつかんでいるすももの指先に、きゅっと力が入る。 俺を見上げる不安でいっぱいの目が、これが冗談でもいたずらでもないことをはっきりと教えてくれた。 「5月…」 「俺、どうして5月って…答えたんだろう」 「あれ…なんでだ…? 頭がボーっとしてた?」 「石蕗、大丈夫か?」 「みんな、椅子に座ってくれるかな? 石蕗君も大丈夫だから」 「大丈夫、さっき君が飲んだものは本当に弱いものだから、後数分もしないうちにすっかり効果は消えてなくなる」 「…効果って………如月先生、あの薬は何だったんですか!?」 「そうだね、じゃあ……」 「話を始めようか」 如月先生は椅子に深く掛け、俺達にも座るようにとうながしてきた。 長い話になるんだろうか。 すすめられるままに椅子に座った俺達の前で、如月先生は静かに話し始めた。 「まずはさっき石蕗君に飲ませた薬についてから、だね」 「あれはごく少量の『星のしずく』を元に作ったものでね。君を元の姿…ただの人間に戻す為の薬だよ」 「元の……?」 「そう。日が沈んでもぬいぐるみに変身することのない、ごくごく普通のこの世界の人間」 普通の、この世界の人間。 日が沈んでもこの姿のままでいるということ。 何故だろう、俺にはそれが随分昔のことに思えた。 「えっ、も、もうお薬できたんですか!? わたしまだ、しずく七つ集めてないのに」 「今のは原料のしずくをほんの少ししか使ってないからね、効果もほんの一瞬なものだよ」 「な…なんだ…そうなんだ…」 「でも、でも後ひとつで揃うんです。そしたらハル君のお薬、できるんですよね!」 「そうだね、ちゃんと…ずっと効く薬が」 「よかった……。またあの時みたいになっちゃったら…どうしようって思った…から」 すももの顔色がほんの一瞬だけ悲しくなった。 あの時のこと――俺が本当にぬいぐるみになってしまった時のことを思い出してるんだ。 俺が目を覚ました時、すももはぽろぽろと大粒の涙を流していた。 「ご、ごめんなさ…い」 「さっきの薬はね、石蕗君」 「分量をとても少なくしているだけで、原料は全く同じものを使っている」 「同じもの…同じ薬…ということですよね、如月先生」 「ええ、そうです――八重野さんはわかったのですね」 「そんなの…もしそうなら……」 「ナコちゃん? ど、どうしたの?」 すももが驚くほど、八重野の表情は厳しかった。 「やえ…の?」 「八重野さん、後は僕が話しましょう」 「石蕗君、さっきこの薬を飲んだ時、少し頭がぼんやりしましたね?」 「そして僕の二つの質問にはこう答えた。一つめは八重野さんの首の『印』について」 「せ、先生?」 「石蕗君はその時『印』が見えないと言った。でも今は見えるでしょう?」 如月先生が八重野の首のあたりを指差した。 そこにはぼんやりとアザのようなものが浮かんで見える。 あれはすももと八重野の間にかわされた『許されるもの』同士の印だ。 「見えます」 「如月先生…あの…ハル君に何か…何か悪いところとか、あるんですか?」 「……二人とも、これから僕の言う事をしっかりと聞いてくれるかい?」 「じゃあ少し話を進めよう。二つ目の質問、今は何月かという問いに石蕗君は5月と答えた」 「何故八重野さんの『印』が見えなくなったのか、何故石蕗君は今が5月だと答えたのか――原因は一つだけなんだ」 「ひとつ?」 「薬は薬を打ち消す、これは自然なことだね? つまり僕の作った薬が、石蕗君の体の中で反応して、さっきはほんの一時だけ元の人間の状態に戻った」 薬が薬を――打ち消す? それは俺が最初に飲んだ、あのジュースのことだろうか。 あのジュースの効力を消す薬、それが七つの星のしずくで作るものだ。 「それは…最初に聞いていたものですよね。あの時、俺が初めてぬいぐるみになった時の」 ちょうどあれは新しいクラスになって一ヶ月半くらいの頃。 皆が少しずつ仲良くなってくると共に、温い風の吹きだした5月だった。 「(……え?)」 「薬はちゃんと効いた、君は普通の人間になった。だから八重野さんの首にあった『印』が見えなくなったんだ」 「……あ、そうか」 「だからナコちゃんにある印、みんなには見えてないんだね」 八重野は黙ったままで、力なく頷いた。 「フィグラーレの『力』は、フィグラーレの『力』を打ち消す。わかるかな?」 「は…はい……たぶん」 「つまりね、星のしずくを薬にする時にはフィグラーレの力を使うんだ。すももちゃんがその本の『言葉』を読むのと同じようにね」 「そして石蕗君の体には、その薬とは別のフィグラーレの『力』がかかっている」 「もし…もしあの時石蕗君の正体がばれることなく、本当のぬいぐるみにならなければ」 「石蕗君の体にあるものは『薬』の効果だけだった」 「しかしあの時、石蕗君を元に戻すためにレードルの力…フィグラーレの『力』を使ってしまった」 ――フィグラーレの『力』は、フィグラーレの『力』を打ち消す。 俺を元に戻す為の『薬』には、フィグラーレの『力』を使う。 そして俺の体には、フィグラーレの『力』がかかっている……らしい。 「(俺はあの時、どうして5月って答えたんだ?)」 隣に座るすももの顔を見てみた。 すももは俺を見て、大きな目を見開いて、何も言わない。 俺と同じように……少しずつ如月先生の話を理解しはじめたんだ。 「前にも言ったね……フィグラーレは、その存在をこちらの世界の人間に知られる事を厳しく禁じている」 「だから、フィグラーレの『力』をかけられると、普通の、レトロシェーナの人の中からフィグラーレの『力』は打ち消されてしまう」 「あ…で、でも……」 「石蕗君が持っていた本になかったかい? こちらの人間に見られたとき、どうするか…」 「フィグラーレの力が打ち消される、というのは…つまりどういう事なのか」 俺は思い出していた。 すももが力を使っている現場を麻宮たちに見られた時のことを。 『……はれ?』 『……どうしたんだ?』 『ううん…なんだか、ちょっとぼーっとしてたみたい…』 杖で見られた相手の頭を叩いて、『力』に関する記憶を奪う。 この力に関する記憶は、消えてしまう。 「先生、俺の記憶……消えるんですか?」 「そうだよ、石蕗君」 「完成した薬を飲んで、ただの人間に戻ったら――」 「石蕗君の記憶は、半年前に戻ってしまう」 「――半年前」 「フィグラーレに関わっていなかった、あの頃の記憶に戻るんだ」 「全部、ですか」 如月先生はゆっくりと頷いた。 「日常生活に支障はないだろう。ただこの半年にあったことだけが消えるんだよ」 「……幸い石蕗君は寮生だから、気をつけるのは学園生活だけだ。面倒なことは全部僕がなんとかしよう」 「そんな……でも…」 「ナコちゃんは、ナコちゃんは記憶を奪わなくてもいいって、あのとき! わたしが星のしずくを採ってる所を見られた時に……」 「……すももちゃん。それはね」 「一人だけにしか使えない力なんだよ」 「そんな……う…く…ひくっ」 「私と石蕗を変えることはできないのですか!?」 「私なら、半年間の記憶をなくしても構わないんです」 「すももとの思い出は、いっぱい…いっぱいあるから……」 「だけど…すももと石蕗は……半年前に戻っちゃったら……」 「すもも…ごめん、ごめんね……」 「ううん、ううん…ナコちゃん、あやまらないで…ナコちゃんは悪くないんだもん」 重い沈黙だった。 すももが八重野のために『許しあう同士』の力を使ったこと。 それがたった一人にしか使えないこと。 誰のせいでもない。 誰のせいでもないのに……。 「……なにかな?」 「俺が元に戻れる方法は、星のしずくの薬だけなんですよね?」 「それを飲んだらこの半年間の記憶がなくなるのも、避けられない」 「僕もいろいろと調べたけれど――無理だった」 薬を飲めば、俺は元の体に戻れる。 最初に如月先生は言っていた。タイムリミットは月が七回月が満ちるまでだと。 その期限を逃してしまえば、もう元には戻れない。 そして薬を飲めば、俺は記憶をなくす。 この半年間……すももと過ごした時間を……。 「ハルくっ……ん」 「う…ひく…うう……」 「ひっく…うぅ…は…はい」 「……薬はしずくが七つぶん集まらないことには作れない」 「だから、その時まで……二人でいろいろなことを決めなさい」 「……う…ひく…うぅ」 「……ふ…ごめんね…は…るく…ん…うっうっ…」 結局、あの後俺はすももの部屋に行けなかった。 行けないってことだけはメールしたけれど、返事は返ってこなかった。 どうしてもすももの顔を見れなかった。 本当にしなくちゃいけないことはわかってる。 でも今の俺に、悲しみに沈んだすももに手を伸ばすことができるだろうか。 わからなかった。 わからなかった、けど――。 俺はたったひとつだけ、すももを傷つけないですむ方法を見つけた。 窓は開かない。 約束なんてしてないし、こんな時間だ。 「あたりまえじゃないか、こんな早朝に……俺、何やってんだよ……」 「あ…あの…ちょっと待ってて、すぐに着替える」 わざわざ着替えてくれたんだろうか。 すももは少しだけはねた髪を気にしながら、出てきてくれた。 俯いたその顔を覗くと、目が赤かった。 「昨日の夜はごめん、来れなくて」 「…う、ううん、あの…わたしもメールのお返事返せなくて…ごめんなさい」 すももは昨日、泣いていたんだろうか。 それとも眠れなかったんだろうか。 「ちゃんと寝た?」 伝えたいことはたくさんあった。 でも、俺はいつも心の中の言葉を上手に声にできない。 些細なことも大事なことも……いつもすももに伝えられない。 すももの手を、俺はそっと握り締めた。 強く握ったら、粉雪みたいに消えてなくなってしまうんじゃないかと思ってしまうほど、その指先は冷たかった。 「ちょっと歩こうか」 「朝のお散歩…こういうの初めてだよね」 「あ、そ、そうか」 「空気がきれい」 「でもちょっと冷たかったよ…胸のなか、冷たくなっちゃった」 すももは微笑みを浮かべて、俺はそんなすももを見て心の中を暖めながら、歩いた。 「公園まで来ちゃったな」 誰もいない公園の空気は澄んでいた。 目の前にあるものすべてが、ついさっき作られたもののようにキレイに見える。 俺もすももも、何もかもを忘れてその光景に息を呑んだ。 「ハル君……ハル君っ……」 まっすぐ俺を見ているすももは、瞳いっぱいにうるうると涙を浮かべている。 すももはそれでも、決して悲しげな顔を見せないように唇を結んでいた。 「ど…どして…ハル君が謝るの?」 「ハル君が悪いんじゃない…だ…だからほんとは…泣いちゃいけないの…」 「無理しなくていいよ」 「俺な……」 「ひとつだけ、考えてきたんだ」 「如月先生に相談して、すももの記憶から、俺を……俺とつきあってることを、消してもらう……こと」 「そういうの、できるかはわからないけど……」 「ど、どうして? ハル君……そんなのヤだよ」 「できないよっ!!」 「やだよ…やだよお……」 「だって…だってハル君……」 「みんな忘れちゃうなんて……そんなのっ」 「……それが一番すももが傷つかないこと…だと俺は思ったんだ」 「そんなの…できな…い、ハル君のこと…大好きな気持ち…なくしちゃうなんて」 「できない…よ……やだよ……ふぇ…う」 「違うもん、違うもん……」 「ハル君が…わ、わたしを忘れて…も」 「わたしは…ハル…くんのこと…忘れるなんてできな…いよ」 「そんな寂しくて…悲しい…こと…できない」 「ほんとに…好き…だから…ハル君……!」 「ごめん、ありがとな」 すももが俺の腕を強く強く掴んでた。 かすかな痛みが、すももの真剣な願いを俺に伝えていた。 「俺……間違ってたな」 すももが俺のことを忘れること……。 すももはそれを望まなかった。 俺はすももが望むことをしたい。 それが…それがすももにとって一番傷つかない方法なんだ。 「すももは何がしたい?」 「ハ…ハル君?」 「聞かせて」 「わたしは……」 「ちょっとでも一緒にいたい、ハル君と一緒に……いっぱい思い出つくりたい」 「ハル君が記憶をなくしてしまっても……寂しくならないくらい…いっぱい」 「ごめんなさい…わがまま…ばっかりだよ…ね」 抱き寄せると、すももは我慢していた涙をやっと流した。 震える背中を何度も何度もさすった。 俺にできるのは、そんなことしかない。 こんなにも愛しいと思ってる気持ちを、俺は本当に忘れてしまうんだろうか? 胸の中にぽっかりと穴があいている。 その穴は暗くて、少しずつ大きくなって、俺を飲み込んでしまうんだろうか。 「すもも…ごめんな」 すももの体温が、俺の中に流れ込んでくる。 一緒にいよう、すもも。 それが一番幸せなのかはわからないけど……。 ぼんやりと部屋の中で座っていると雨音が聞こえて来た。 外は雨が降っているらしい。 頭の中で考えるのは、すももの事ばかりだった。 『ちょっとでも一緒にいたい、ハル君と一緒に……いっぱい思い出つくりたい』 すももがそう願うなら、そうしたい。 だけど一緒にいても、いつかそれは壊れてしまうのかも知れない……。 そうなったら、俺とすももはどうなるんだろう。 ぼんやりと考えても、当然答えなんか出ない。 だけど、やっぱり一緒に居たい。 そういえば、今日は新月だったような気がする。 「この姿のままで今日は一日一緒にいられる…な」 一緒に居たら、すももは喜んでくれるかな。 ぼんやり考えていると、突然メールの着信音が鳴った。 液晶にはメールが届いたアイコンが点滅し、中身を確認すると、それはすももからのメールだった。 『ハル君へ もしよかったらお家へ遊びにきませんか? すこし天気が悪いけど、もしも晴れたら一緒にお散歩したいです。どうかな?』 すもも、俺と同じ事考えてたのか。 ……よし、会いに行こう。 これからどうなるか考えても、仕方が無い。 時間は何をやっていても、過ぎていくんだから……。 『お返事ありがとう! うれしいです。気をつけて来てね』 すももからメールが返ってきたのを確認してから、携帯電話をポケットに突っ込んで俺は出かける準備を始めた。 寮を出ると、雨は結構降っていた。 パシャパシャと水溜りを踏みながら歩いていると、ふっと頭にある考えが浮かんだ。 お土産、何か持って行くと喜んでくれるだろうか。 お菓子とか女の子はみんな好きだし、何か買って行った方がいいかも知れない。 お菓子となれば俺の頭に浮かぶのは『らいむらいと』位だ。 「……行ってみるか」 店に入ると、アルバイトらしい店員さんが声をかけてくれた。 「(あ、今日は小岩井…手伝いしてないんだ)」 何を買おうか迷ったら小岩井に聞いてみようと思ったんだけど、ちょっとできなさそうだな。 女の子が喜ぶのって、どういうお菓子なんだろう。 「じゃあいってきまーす」 「お邪魔しました〜」 どれがいいのかわからずに迷っていると、店の奥から聞き慣れた声が聞こえて来た。 そちらに視線を向けると、小岩井と深道が出て来る所だった。 「あれ? 石蕗君」 「あっ、えっと……」 「なにしてるの? って、買い物か」 「すももちゃんにお土産でしょ?」 「あ! これからスモモちゃんちに行くんだ! いいなぁ!!」 「えっ、あ…ああ……」 ぴたりと言い当てられてしまって、気恥ずかしい。 だけど、俺がオロオロしていると小岩井は何かを察したように笑顔を向けた。 「もし迷ってるなら、私のオススメ詰め合わせなんかできるけど、どうかな?」 「あ……う、うん」 聞く前に言われてしまい、ただ頷く事しかできなかった。 だけど、ずっと迷っているわけにもいかないし、小岩井の申し出は嬉しかった。 「信子、ちょっと待っててね」 「了解」 店の奥へと戻って行った小岩井を見送ると、深道がこちらを見つめながらにっこり微笑んだ。 「あー…でも安心した」 「石蕗の顔にちゃーんとスモモちゃんのことが好きです、って書いてあるから」 「はっ!? そ、そんなワケな……」 「だって今赤くなってるし」 慌てて顔の辺りを押さえると、深道は面白そうにニヤニヤと笑った。 そんなに俺、顔に出てたのか? 自分ではわからないけど、深道は相変わらず面白そうに笑っている。 「最近石蕗とスモモちゃん、どっちもちょっと元気なかった感じだったからさ」 「あのさ、石蕗変わったよな」 「最初同じクラスになったばっかりの頃って、なんていうか……『話しかけるな』みたいなオーラが出てたっていうか」 「そんなことなかったと思う…けど」 俺、そんなもの出してなかったつもりなんだけど……他人にはそう見えてたって事なんだろうか。 ……もしかして、みんなも思ってたのか? 「あったあった、ホントにそうだったって。でもさ、園芸部に入ったりスモモちゃんと付き合うようになって、やっぱり変わったよ」 「だからスモモちゃんのこと、大事にしなよ」 「……わかってる」 「お待たせ、厨房の方からもいろいろ持ってきちゃった」 「はい、きっとすももちゃんが喜んでくれるラインナップになってると思うよ」 しっかりと丁寧に箱に詰められたお菓子を渡された。 中身はわからなかったけれど、小岩井が選んでくれたんだから、きっとすももは喜んでくれるだろう。 「あっ、そうそう。すももちゃんには、このお土産……自分で選んだって言っておくように!」 「もー、そういうもんなのよ! じゃあ後でお会計よろしく」 「じゃあそろそろ行こうか、信子」 「ん! じゃあ石蕗、また月曜に〜」 「お家デート、楽しんできてね」 出かけた二人を見送ってから、俺はレジで会計を済ませて店を出た。 外に出ても相変わらず雨はやんでいないようで、俺は箱を落としてしまわないように気をつけながら傘を開いた。 「あ…えっと……今着いた」 「ちょっと遅くなってごめん」 「ううん、それよりハル君、濡れなかった? 雨、結構ふってきたから……」 「あ…ちょっと、でも平気だよ」 「タオル、持って来る!」 「ちょっとだけだし、本当に……あ、そうだこれ」 タオルを取りに行ってしまいそうになったすももを呼び止め、手にしていた箱を差し出す。 すももは少し不思議そうに、その箱と俺を交互に見つめていた。 「お、おみやげ?」 「嬉しい! あっ、お、お茶もいれなきゃっ」 「じゃなくて、ハル君、あがってあがって……順番間違えちゃった」 「ははっ……お邪魔します」 家にあがらせてもらうと、なんだかいつもより静かな気がした。 もしかして、すもものお父さん居ないんだろうか。 「あれ? すもものお父さん、買い物にでも行ってるの?」 「ううん、今日は出版社の方に出かけてるの。今度新しい本が出るから、そのお話かな」 「そっか、新しい本か…すごいな」 「あ、ありがとう、お父さんも喜ぶよ」 すももは俺を部屋に案内すると、タオルを取り出して貸してくれた。 濡れた服や髪を拭いている間に、すももはお茶の用意をしに行ったらしい。 「おまたせしましたー…」 ゆっくりと部屋の中央に向かって歩いていたすももだが、足を滑らせてそのまま転びそうになった。 慌ててその体を支えようとすると、すももは恥ずかしそうに姿勢を戻した。 「だ、大丈夫……うん」 慌てた様子のすももは少し息を整え、テーブルの上にお茶を置いてから、俺が持って来たお土産の箱を手にした。 「ハル君、お土産…開けてもいい?」 「うん、どうぞ」 「何だろ……わあっ!」 箱を開けた途端、すももは嬉しそうに声をあげながら微笑んだ。 「可愛い!!」 「(か…可愛い?)」 お菓子に対して可愛いって形容詞はおかしくないか? 小岩井が選んでくれたお菓子って、なんだったんだろうか。 「見てみて、これうさぎさんの形してるよ」 嬉しそうに言うすももと一緒に、俺も箱の中をのぞいて見た。 すると、言われた通りにそこにはうさぎの形のお菓子が入っていた。 そうか、これで可愛いって言ってたんだ。 「可愛いなぁ、ハル君が選んでくれたの?」 「あ……えと」 小岩井に言われた事が頭に浮かんだ。 こういう時は、自分で選んだって答えるのがいいらしい。 だけど、今までのやり取りだけじゃ、自分で選んでないのがバレないだろうか。 「俺と…あと店員さんにも聞いたりとか……」 「そうなんだ、ふふふ」 答えを聞いたすももは嬉しそうに声を出して笑っていた。 「ふふっ…あのね、ハル君がこういうの買うとき、どんな風なのかなって思って」 「ふふふっ、ご、ごめんね…怒った?」 「ううん、でも恥ずかしかった、やっぱり」 「そっかぁ、お土産、ほんとにありがとう」 「喜んでくれて、よかった」 こんなに喜んでくれたなら、お土産を持ってきた甲斐がある。 それに、小岩井にも感謝しないと。 今度会ったら、こっそりお礼でも言っておこう。 「なんだか食べるのもったいないね」 「こんなに可愛いし、それに……」 「それに?」 「ハル君がくれたお土産だから」 嬉しそうに微笑みながら言うすももが、なんだか可愛かった。 お菓子くらいでこんなに喜ぶなんて、思ってもいなかった。 不思議な感じだ。 「お茶、冷めないうちに飲んじゃお」 すもものいれてくれたお茶を飲みながら、買って来たお菓子も二人で食べる。 うさぎの形のお菓子は食べるのがもったいないとすももが言っていたので、結局最後まで残っていた。 食べる前にお菓子に向かって『ごめんね』と口にしていたすももが可愛らしかった。 そういえば、こんな風に誰かとお茶を飲んだりした事って今までになかった。 「(たったこれだけの事なのに、こうして過ごすのって楽しいんだな……)」 でも、この事実もいつか忘れてしまうんだろうか……。 こんなにも楽しくて、こんなにも幸せなのに。 お茶を飲み終わって、ケーキも食べて、それから何を口にすればいいのか、わからなくなった。 すもももそれは同じらしく、部屋の中にはただ雨の音だけが聞こえていた。 「雨、やまないな」 「すももは雨、きらい?」 「服が濡れちゃったりするのはイヤだけど……雨の音はキライじゃないよ?」 「でも……雷はこわいな」 「ご、ごめんね。ゲームとか、何かハル君が楽しいもの、……ないな」 「いいよ、なんか……ぼんやりこうやってるのも楽しいし」 もう、二人で過ごせる時間も少ないのにな……。 それはすももだって嫌でもわかってるのに、決して口にしない。 ただそばにいたいと、寄り添うだけだった。 「すももはこうやって黙ってるの、キライ?」 「――わたしは」 「わたしはハル君の声…いっぱい聞きたい」 「本とか、読む?」 「ほ、本?」 「あ……すもも、結構本持ってそうだし」 「い、一番多いのって少女マンガだし、あ、階下のお父さんの書斎なら本あるけど……こ、怖い本ばっかりだし」 「(怖い本……? ああ、お父さんの書いてる小説のことか)」 「ハ、ハル君読みたいのって、あ、ある?」 「すももの昔の写真とかは?」 「子供の頃のアルバムとか」 ああ、そうだ。 それなら話が弾むかも知れない。 それに、俺が知らない頃のすもものことを、俺は知りたかった。 突然すももは立ち上がり、本棚の前に移動した。 そこにアルバムがあるらしいけれど、どうやら見せたくなくて俺から隠しているらしい。 「そ…それはダメ…かな」 「は、恥ずかしいもん」 「大丈夫、だと思うけど」 「そ、そんなことないよ、へ、ヘンな髪型とかしてたかもしれないし」 「ヘンな髪型??」 「階段で転んじゃった直後の泣き顔とか、あるかもだし」 「……そんなのあるんだ」 「あっ、あるっていうか、え、えーと」 困ったように立ち上がったすももは、本棚の前をいったりきたりし始めた。 「あーあ」 つまづいたすももと一緒に、本棚の中から勢いよく本と埃が飛び出して来る。 よっぽど勢いよくつまづいたらしい。 「けほっ…」 「大丈夫? ちゃんとしまってあっても、ホコリってたまるんだな」 「ほんとだね……ハル君大丈夫?」 「俺は平気だけど」 答えを聞いたすももは、本棚から飛び出した本を見渡し少しだけ驚いたような表情をした。 「よかった…アルバムここじゃなかったんだっけ」 「なんだ、違ったんだ」 「う、うん。勘違いしてたみたい…ふふっ……あれ?」 おかしそうに笑っていたすももは、一冊の本を見付けて目を止め拾い上げた。 それは絵本のようで、表紙には大きな絵と字が書かれていた。 「――これ」 「……絵本? ずいぶん古いな」 すももの手が絵本をめくると、中身は全部英語だった。 そして、その英文のそばに綺麗な字で翻訳された文章が書かれていた。 「英語……この字はすもものお母さんの、かな」 「うん……どうして忘れてたんだろう」 「子供の頃、いっぱい読んでもらった本なのにな」 「そうなんだ……どんな話?」 話の内容を聞くと、すももは何かを思い出したような表情をした。 どうしたのかと思って見つめると、その表情はすぐに笑顔に変わった。 「このお話ね、きっとハル君も好きになると思う」 「それはね……この主人公、お魚さんなんだけど、お星様が好きになるの」 「魚なのに、星が好きになる?? どんな話なんだろ」 「わたしも久しぶりに読みたくなっちゃった」 嬉しそうな表情で本を開いたすももは話の内容を思い出したようで、俺に向かってそれを少しだけ教えてくれた。 「そうそう、主人公は世界中の海を旅した魚さん。でももっと大きな海を探したいと思って、ついに空へ飛びあがってしまうの」 「空へ…? 空を飛ぶ魚か……」 「じゃあ、読むね。わ、ページがばらばらになっちゃいそう」 「はじめに見たのは初春の美しいアーモンドの木。きれいな花びらを落とす様は、南の国の海のさんごに似ていました」 「アーモンドの木?」 「こんな風にピンクの花が咲く木なのかな」 「桜に似てる……のかもね」 「つぎに見たのは夏のかみなり雲。真っ白で大きな雲は、北の氷の海に似ていました」 「秋に飛んだ空には、大きな大きなお月様。誰にも見つけられなかった、輝く真珠に似ていました」 「冬に空から舞い落ちた白い雪は海の底からうきあがる、幾千もの泡に似ていました」 「魚は見たことがないものを探して旅しています。そしてある日見上げたものは、満天のお星様」 「さんごの色もありました。氷の色もありました。真珠の色もありました」 「魚は、お星様の間を泳いでみたい。そう思って、高く高くのぼってゆき――あれ?」 「最後のページが……ぬけちゃってる」 「え? 見せてみて」 差し出された絵本を見てみると、最後のページの部分だけ糊付けが弱くなっていたようで、ページが取れてしまったらしい。 本に残っていたのは、そのページがあったとわかる跡だけだった。 「古くなってバラけたんだな」 「最後のページなのに……棚の中に落ちてないかな」 残念そうな表情をしたすももは、一生懸命本棚の中を探し始めた。 「けほっ…けほんっ」 だけど出て来るのは埃だけのようで、肝心の最後のページは見付からないようだ。 「だ、大丈夫?」 「うん……ないみたい…どこかに紛れ込んじゃったのかなぁ」 「――かな」 すももはすごく寂しそうだった。 こんな時、なんて言ったらいいんだろう。 こういう時の言葉が浮かばないって、俺ってやっぱり気が利かないのかも知れない。 ……頭とか、撫でてあげたら安心するんだろうか。 「ねえ、ハル君ならこのお話の続き……どういう風になると思う?」 「話の、続き??」 「うん。最後のページないから、ハル君が考えたお話の続き」 「続き……か、うーん」 なんだか、すももが期待してるようにこちらを見つめている。 これは、しっかり考えないと期待を裏切る事になってしまう。 なんだろう、お話の続き……続き……。 「うーん……」 「そうだな……ずっとずっと、泳ぎ続けるかな……何かを探して」 「え、ちょ…ちょっとヘンな展開だった?」 「おもしろくなかったかな」 「ううん、そんなんじゃないの」 「わたし…そんな風に答えたハル君が、大好き……だよ」 「……ほんとに」 恥ずかしくて、ただ頷く事しか出来ない俺を見つめながら、すももは嬉しそうに微笑みを浮かべていた。 微笑んでいたすももが、ゆっくりと俺の体にもたれかかってくる。 その肩を抱きながら、隣に座るすももを見つめる。 こんなにも愛しくて、大切なのに、この感情もこの感触も、俺は全部忘れてしまうんだろうか。 本当に、何もかも……こんなにも愛しいのに……。 「こうやってるの、好き?」 「すももがそばにいるから」 「……ぎゅって…してほしい」 「ハル君、ぎゅってしてほしいの…ハル君」 戸惑いがないと言ったら、嘘になる。 俺はすももを抱きしめるのに戸惑っていた。 抱きしめても、全てを忘れてしまうのなら、抱きしめない方がいいのかも知れない。 そうは思っても、すももの切なげな表情を見てしまうと腕は自然とすももに近付く。 そして、しっかりとすももの体を強く抱きしめた。 「俺……ごめんな…ごめんな……こんな辛い思い」 「ハル君、もっと触れて」 「うん、すももに触れたい、たくさん――」 「ハル君……触れて」 感情も、感触も、記憶と一緒に忘れてしまうのに。 触れれば触れるほど辛くなるのに、すももに触れたくて仕方がない。 もっとじっくり触れたくて、ゆっくりとすももの服を脱がし始める。 少し露わになった白い肌は、俺の視線をひきつけて離さない。 「ハル君……あのね」 「わたしがハル君の秘密を知っていられるのは、一ヶ月くらいなの」 そんな事、初めて聞いた。 ずっと、知っていられるわけじゃないんだ。 「ノナちゃんがくれたあのお薬は、一ヶ月くらいで切れてしまうから」 「それまでにななつめの星のしずくを採れなかったら……またあの時みたいに本当のぬいぐるみになっちゃうの」 「そんなの…そんなの辛い……それならわたしのことを覚えてなくてもいいから」 「元のハル君に戻ってほしいよ」 泣き出しそうなすももをただ抱きしめるしかできなかった。 こんな時、なんて言えばいい? 考えたってきっと誰にもわからない。 こんな事になったのは、多分世界中で俺とすももだけなんだから。 「でも……俺、記憶なくなるんだぞ? すももとこうやって抱き合ったことも、全部……」 「そんなこと――したら」 「そんなこと、すもも泣かせるようなこと……できない」 「…くっ……なんでだよ…なんですもものこと…俺」 すももの泣き顔が頭の中に浮かんだ。 その泣き顔を思い浮かべながら、俺も泣いてしまいそうだった。 泣いている場合じゃないのに、切なくて、辛くて、すももの事を思うと涙が出そうだった。 「少しだけ未来のハル君は、わたしのこと忘れちゃうから」 「今のハル君を、全部わたしにください」 「………すもも」 「お願い……ハル君」 「最後に……わたしの知ってるハル君を…ぜんぶ……ください」 言い終わったすももは、俺を見上げて瞳を閉じた。 閉じられた瞳の意味を、俺は知っている。 すももに何も言葉をかけられなくて、俺はただ顔を近づけて唇を重ねた。 柔らかい、すももの唇の感触。 この感触も全て忘れてしまうものなのだろうか。 だけど、俺が忘れてもすももは忘れない。 それなら、もっともっと、唇を重ねよう。 「……ふ…んんっ」 唇を押し付けると、すももから甘い吐息が漏れた。 その吐息を聞きながら、そっと優しく、すももの体を押し倒した。 「きゃ……く…くすぐったい」 白い肌に指を這わせる。 柔らかく、すべすべとした感触が指先に伝わった。 名前を呼ぶと驚いたように見つめられた。 それが可愛らしくて、その頬にそっと口付けてみる。 「――んっ」 口付けられたすももは驚いたように身をすくめ、頬を真っ赤にしながら俺を見つめた。 「すももの体……す、すごく柔らかいな」 「やっ…あ、で、でも、ち…ちっちゃいし……わたし」 「胸……」 「そんなの……はは」 そんな事、気にした事もなかった。 すももはすももだし、胸が大きくても小さくても俺にとっては関係ない。 大事なのは、すももがここに居るって事なんだ。 「………あっ」 「すももの体って、小さいな」 「んっ…んんっ…ハルくん……」 「抱いたら…すっぽり抱けるくらい…小さい」 「ハルくん……」 言いながら、すももの体を全部抱きしめる。 腕に、体いっぱいに、すももの柔らかさが伝わった。 本当に全部が抱きしめ、包み込める。 「こうしてると、すもものこと全部包める」 「うん……全部…ハル君のだよ」 抱きしめる腕の力を少し緩めて、下着をそっと脱がす。 恥ずかしがっているようなすももだったが、抵抗せずにあっさりと下着を脱がさせてくれた。 また肌の上に指を滑らせると、すももの体がビクリと震えた。 「あ…ああうっ」 「んっ…」 滑らせる指の動きを止めると、すももは不思議そうにこちらを見つめた。 「ハルく……んっ…ど、どうし…て」 「すもも、可愛い」 見つめてそれだけを言うと、すももの頬は真っ赤になった。 その表情を見つめてから、また指を滑らせる。 首筋から鎖骨を撫でて、小さな膨らみの間を通って下腹部へと指を滑らせるとすももの声は大きくなった。 「んっんんっ…ふ…ああ」 下腹部に移動させた指を、すももの脚の付け根辺りに移動させる。 ビクリと大きく震えてすももは反応し、少しだけ俺にしがみ付いた。 「あっ…ああっ…んっ」 少し不安になったけれど、指先を更に進めて脚の付け根の中央に移動させる。 移動させた指先が少しだけ濡れた。 濡れた指先を動かそうとすると、すももは不安げに俺を見つめた。 「ハル君…わ…わたし」 「や…やだ…ハルく…ん」 驚いて指の動きを止めてすももを見つめる。 もしかしたら、どこか痛かったんだろうか。 調子に乗って触りすぎてしまったのかも知れない。 「あ、痛い…?」 「そ、そうじゃ…なくて……」 「は…恥ずかしい……」 頬を真っ赤にしながらすももは小さな声で囁いた。 その声を聞いて、俺は自分の頬も真っ赤になったのに気付いた。 「そ、それは……俺も」 照れ隠しに指先を更に進めて、濡れた秘部で軽く動かしてみた。 「ひゃっ…きゃあ」 指が動くたびにすももの声が大きく甘くなり、見た事のない表情を浮かべてくれる。 「んっ…んんっ…やっ」 秘部の浅い部分で動かしていた指先を、そっとその奥に進めてみた。 拒絶するように閉じられたそこだったけれど、ゆっくりと俺の指先を飲み込み、咥える。 中に進んだ指先には、すももの温もりが伝わっていた。 潤んだそこは俺を包み込むように柔らかく、温かい。 「すもも、温かい」 「ハルく…ん、ハルくんっ…」 辛そうに声を出すすももを見つめながら、俺はその温かさを指先で感じていた。 小さく音をさせながら、俺の指先がすももの中で出入りする。 「ハルくんっ……あっううっ」 「すもも、好きだ」 もっともっと触れたい、その奥を知りたい。 ただその気持ちが大きくなって、俺は更に指先をその奥に進めようとした。 さっきよりもゆっくりと、指先がすももの中に進んで行こうとする。 「……あぅ……ハルく…んっ……」 「すもも――」 ねっとりと絡み付くような感触。 その感触を指先に感じながら、俺は指を更に進ませた。 押し殺すような声に、俺はすももの様子がおかしい事にやっと気付いた。 すももは、瞳いっぱいに涙をためていた。 「……うっく…ううっ」 「すもも! ご、ごめん」 な、なんですもも、こんな風に……! 俺のした事は、すももを傷つけるだけだったのか。 それなら、どうしてこんな……泣くまで我慢して。 「やっぱり…やっぱりこんなのすももを傷つけ……」 「ち、ちがうの……うっうくっ」 「ひっく…ううっ……は…ハル君とするの……い、いやとか…怖いとかじゃないの……」 泣きながらすももは言葉を続ける。 無理をしていないような言葉。 だけど、精一杯無理をしていたのは、その涙でわかった。 「無理しなくていいんだ」 「ふくっ……うっ…い、今はこんな…に近くにいるのに……」 「ハルく……んがね……どこにも…いなくなるって……うっくっ」 「こんなに近くに……いるのにっ…」 泣いているすももをなだめるように、俺はぐっと顔を近づけた。 「ひ…くっ……うう…ハル君…」 目の前に、泣いているすももの顔がある。 こんな風に泣かせたくないのに、こんなに泣いてしまっている。 今、こうして目の前にいる時だけでも、この涙を止めて欲しい。 「ハル君…わたし……ひっ…く」 流れる涙を拭って、じっと見つめながら、俺はできるだけ優しく微笑んだ。 「すもも、息…深く吸って」 「ゆっくりはいて」 「はぁっ――」 「ちょっとラクになった?」 俺が尋ねると、すももは小さく頷いた。 涙の跡が頬に残っているけれど、それをそっと撫でながら俺は口を開いた。 「じゃあ聞いて」 「俺、すもものこと」 「記憶がなくなっても、もう一度、好きになるから」 「ハ…ハル君っ……」 また、すももの瞳に涙がいっぱい溜まった。 慌てて目尻を指先で拭ってあげて、もう一度じっと見つめた。 「俺……すももと付き合いだしてさ……いろんなこと考えた」 「すももが泣いてたら慰めたいと思ったし」 「一緒にいる時、笑ってくれるのが嬉しかった」 「だから、いろいろ、いろんなこと……すももが笑ってくれることとか、嬉しがってくれることとか」 「たくさんやろうって……思った」 本当にいろいろ、いろんなこと、すももと付き合うようになってから考えるようになった。 だから、口にした言葉は全部、俺の真実だ。 一つも嘘はない。 だから、すももに聞いて欲しい。 「でも今は……」 「今はひとつしかできないから……」 「記憶がなくなっても、すもものこと」 「絶対もう一度、好きになるから…な」 「ハル君――」 「俺、すもものこと、本当に好きだ」 「……ありがと…ハル君、わたし……まってる」 「もう一度好きになってくれたとき……また…ぎゅってして……」 静かな部屋の中、俺はずっとすももを抱きしめていた。 呼吸するたびにすももの体温が溶け込んでくる。 言葉もない。 激しく触れ合うこともない。 ただ腕をからめて、互いの体温を感じているだけ。 それでも、こんなにも心地よい時間があることを俺は初めて知った。 「星のしずく……落ちてきたんだ」 「起きよう、すもも」 「今日は新月の日なのに――」 「ななつめの…星のしずく」 「最後のひとつが、落ちてきたんだね」 その意味を俺たちは無言のままに思い返した。 俺は普通の体に戻る。 そのかわりに……この半年の記憶を失う。 すももに恋をしているこの記憶が、なくなってしまうのだ。 「どうする……?」 「俺はすももが望むこと、してあげたい」 「でもしばらくは……きっとすももに寂しい思いをさせてしまう」 「うん…うん……」 すももを見つめ、俺は答えを待った。 すごく残酷なことを聞いていると思う。 「わたしは」 「最後の星のしずく……採りに行くよ」 「ハル君を、元の体に戻してあげたいから」 「でも…ハル君、わがまま言っても、いいかな」 「最後のしずく、一緒に採りに……いこ」 俺は頷き、すももの手を取った。 指輪の光は俺たちが行かなければならない場所を指して、窓の外へとまっすぐ伸びている。 「(――ここか)」 光に導かれてやってきた場所は、皮肉なことに俺とすももが初めてデートにやってきた場所だった。 あの時とは違い、周りは真っ暗で誰もいない。 「(すももは今……なんて思ってるんだろう)」 「ここ、夜になると真っ暗になるんだね」 「怖い?」 「大丈夫、ハル君と一緒だから」 「指輪が震えてる…なんだかいつもより強く反応してるのかもしれない」 「まぶし……」 「――なんだ??」 空気が震えるような音のあと、視界が真っ白になるほどの光に包まれた。 そして再び顔をあげると、俺とすももの目の前に信じられない光景が広がっていた。 「ハ、ハルくんっ!!」 「すごい……これ…展望台への道…だよね」 「しずくがここを……通ったから?」 「だと思う」 「じゃ、じゃあ星のしずくはこの丘の上……」 「たぶん展望台の方じゃないかな」 丘の上で展望台のシルエットがほんのり明るく浮かび上がってる。 しずくの光がそこにあるからなのだろう。 「あんなに光を放ってる」 「すごく大きなしずく、なのかな?」 「かもしれないな、道をこんな風に変えるぐらいなんだから」 すももの横顔に、かすかな怯えが浮かんでいた。 すももの手を握る。 俺がすももの為に今できることは、それだけだった。 「きれいだね」 「いつもこんなだったら、いいのにな」 「そしたらきっと、毎日ここに来ちゃいそう」 「毎日かー」 「うん、毎日!」 そういえば、俺とすももがちゃんとデートをしたのって、ここに来た一回だけだったかもしれない。 「ハル君? どうしたの?」 「あ…なんでもないよ」 「あの…ハ…ハル君とね、デートで来た時も楽しかったよ」 「あの時は、お昼だったよな」 ……すももも同じことを考えていた。 だけど、その続きをお互い口に出すことはなかった。 きっと胸の中に浮かんだはずだろう『また来よう』という言葉を……。 「ねえハル君」 「もし星空を歩けたらこんな感じなのかな」 「……こんな感じ?」 俺は足元に視線を落とした。 星のしずくのせいで、地面は星が散らばっているように輝いている。 確かに俺とすももの足元には星空が広がっていた。 「……? な、なに? どうして笑ってるの?」 「あ…ううん」 「ほ、ほんとは違うんだよね」 「ほんとは……こんな風にすぐ隣同士に見える星でも、すっごく離れてるんだよね」 「隣にいるのに、すごく遠いって――…寂しいのかな」 「すもも、ごめんな」 「遠く、いかないから」 「俺――」 「ハル君は遠くにいかない」 「ハル君はいつもそばにいてくれる」 「――ああ」 すもも、泣いてる? 俯くすももの横顔を覗いてみた。 「俺の記憶はなくなる――けど」 「俺もすももも、ちゃんといるから…生きてるから……だから」 「もう一回、好きになる約束は、忘れない」 「記憶とか、そんなじゃなくて――」 「ごめん、うまく説明できないや」 「ううん、わかるよ」 「わたしがもし記憶を失っても、きっとそう思う」 「そういう気持ちを、恋しいっていうのかな」 「……恋しいって、すごく強くて、いろんなものを飛び越えて、誰かを思う気持ちのことなんだよ」 「わたし、ハル君の言葉信じてる」 恋しい。 恋しいと呼ぶんだろうか。 切なくて、苦しくて、でも手放すことなんてできないこの気持ち。 すももは顔をあげ、一番可愛い笑顔を見せてくれた。 「星のしずくが……」 「――あ!」 しずくは展望台の屋根の周りを飛び回っている。 それほど動きは早くない。 輝きは今まで見たものの中で一番強かったけれど、上手に先回りすればすくいとれそうだ。 「ななつめ……最後のひとつ」 すももは指輪をした手をにぎっていた。 最後のとまどいを、ぐっと飲み込もうとしていた。 「いっておいで」 「――ハル君っ」 「俺、何も手伝えないけど」 「ハル君がそこにいて、わたしを見ていてくれるだけでも、すごく力になるの!」 「……わたし」 「……がんばるね」 「すもも、俺……絶対約束守るからな」 「――必ず、採るから」 すももが駆け出し、星のしずくを採ろうと回り込む。 しずくもそれに反応して、展望台の屋根の上の方へと飛び上がる。 「……最後の…しずく」 「採るんだから」 しずくは空に高く高く舞い上がった。 すももはちょうどその下へと走っていった。 両手を掲げ星空を仰ぐすももは、今まで見たことないほどに強い意志をまとっている。 もうすぐ夜が明ける。 展望台から見える街の姿は、まだシンとしていて眠っているようだ。 俺もすももも、言葉なくその光景を見つめていた。 「最後のひとつ……」 「……ななつ、揃ったね」 冷たい頬をあっためるように、俺はすももにそっと触れた。 「がんばってくれて、ありがとな」 「ハル君……ハル君……んっ」 手のひらにふと温かい感触を感じた。 「ごめんね、ちょっとだけ涙出ちゃった」 「もう泣かないね」 「ハル君が約束してくれたから」 「もう一度好きになってくれるって約束してくれたから」 「それまで……泣かないから」 「行こう、ハル君」 「如月先生のところへ」 如月先生のもとへ行く。 その意味を、俺もすももも理解している。 記憶を失った俺は、すもものことをどう思うのだろう。 そばにいたいと、すももに触れたい、守りたいという思いをどこへやってしまうのだろう? 何一つわからない。 だけど行くしかなかった。 何もかも失うとわかっていても。 「……お父さん、まだ帰ってないみたい」 今まで集めたしずくが並ぶ棚の前で、すももは目を細めていた。 小さなガラス瓶に入った七つのしずくは、ほんのりと光をはらんでいる。 「きれいな色」 「虹みたいだね、ななついろだから」 すももの瞳に、しずくの光が反射している。 俺の目には、きらきら輝くしずくよりもすももの瞳の方がずっとずっとキレイに思えた。 「……あのね」 「ハル君、わたしね、本当は…本当は怖かったの、ずっと」 「星のしずくが揃うの……怖かった」 「すもも、大丈夫だよ」 「………大丈夫」 「携帯……メールがきてる」 「すもも……からだ」 すももとは昨日の夜からずっと一緒にいた。 その間、すももは一度も携帯に触れていなかった。 いつ送られたものなんだろう……ボタンを押す指先がかすかに震えた。 「あれ……これ…日付がちょっと前になってる」 「少し前にハル君に送ったメール……だ」 「どこで迷子になっちゃってたんだろう」 「あ、ま、まって」 『ハルくんへ。この間、二人で植えたお花の花言葉を調べたら、希望、だそうです。咲くのが楽しみですね』 「希望、か……」 希望――。 この美しい言葉は、今のすももと俺の間には複雑だった。 「あ、あのね、えへ…先生に言われてたこと、忘れちゃってた、わたし」 「えと…えっと……記憶を……記憶をなくした後に、ハル君にできるだけ混乱を与えちゃいけない…ってこと」 「だから……わたしが送ったメール、ハル君の携帯に残ってたら……いけないよね?」 「ハル君は……半年前の…5月のハル君に帰るから…」 「だけど、そんなの」 「そんなの――」 「記憶をなくしたハル君が…混乱しないために…だから……」 すももが、携帯を持つ俺の手をそっと握りしめた。 たった数回ボタンを押しただけで、携帯の中のメールは消えてなくなった。 あっけなく消えたそれらは、もう戻ってくることはない。 「次はわたしの――」 「………ううっ」 「すもも、いいよ、消さなくていい」 「でもダメなんだもん……ハル…く…ん」 「ハル君は…消した…から……わた…しも」 「すもものは、残しておいたらいい」 「でも……でも…」 「ハル君の…ためなのに…わたし……」 「……う…ううん…ダメだよ」 「すももが悲しいこととか、苦しいことは……しなくていい」 「いいんだ、すもも」 すももの手の中の携帯を、そのまま閉じさせる。 そして俺は、ふるふると震えていた小さなすももの手を強く握った。 震えがとまるまで、ずっとずっと握り続けた。 「ハル君の手、温かい」 「ハル君のことね……わたし」 「わたし、好きになってよかった」 「大好きだよ」 「――っくしゅ」 「大丈夫? 風邪、ひいたかな」 「この時間だと、結構寒いな」 「そうだね、いつも登校する時より三時間くらい早いよね」 「街中、誰もいないみたいだ」 「わたしとハル君、ふたりっきり?」 「ふたりっきり…嬉しいけど、でもちょっと怖いかも」 「そっか?」 「ふふ、ちょっとだけ」 もうすでに夜は明けている。 星たちはすっかり姿を消して、キレイな青が俺とすももの頭上に広がっている。 いろいろ話したいことはあった。 星の話、すももの話、俺の家族の話、友達の話……。 夏のあの日から恋人同士になって、その前からユキちゃんとしてそばにいて、俺とすももが一緒に過ごした時間は長かったのに。 それでもすももに伝えていないことが、たくさんあった。 「今度は夜空、見ながら歩こう」 「ハル君…っ」 「うん、歩こうね。約束だよ」 「……わたしは、ずっと」 「ずっと隣にいるね」 誰かと話しながらだったり、急いだように駆け足だったり……たくさんの生徒たちが、皆校門をぬけて教室へと向かう。 それは毎朝繰り返される光景だ。 その中に、いつものように、俺もいたはずだった――。 暗闇から突然ひらけた視界に、俺は思わず声をあげた。 「(ここは……)」 細めた目をおそるおそる開く…。 「寮から教室へ向かう途中で倒れてたから、ここで少し休んでもらってたんだよ」 「倒れてた? 俺が?」 「どうして、ですか?」 「石蕗君、今は何月かな?」 「……? 5月、ですけど」 「石蕗君、よく聞いてね。今は11月です」 「え? 11月……?」 「少し混乱していると思うけれど、軽く説明をしておくからちゃんと聞いて」 「君は、少し前に交通事故にあったんだ」 「事故……?」 「全然覚えてないって表情をしてるね。でも、仕方がないんだ」 「事故に合った君は、記憶を一時的になくしてしまったんだよ」 「記憶を?」 「そう。その後遺症でここ半年間の記憶が抜け落ちているんだ」 「……半年」 「そこまでは理解しましたか」 「でも自分の名前や、誕生日などはちゃんと覚えているね?」 「あ……はい」 「後遺症はその記憶喪失だけのようだけど…」 「しばらくは気をつけたほうがいい。今日もいきなり倒れてしまったんだよ」 「もう動いても大丈夫?」 「はい、大丈夫です」 「教室の場所はわかるね」 「それは覚えてます」 「今日から本格的に学園生活に戻ってもらうことになるけれど…無理しちゃいけないよ?」 「じゃ、気をつけて教室まで行くように」 「(やっぱり、今は11月なんだ)」 廊下から外をのぞくと、コートをひっかけている人の姿が目に入ってくる。 肌に感じる気温は確かに冬に近付いていた。 半年……確かに時間は過ぎていた。 でも、事故に合った記憶が全くない。 傷跡も治療中の外傷もないようだ。 ただひとつだけ感じる違和感は、この寒さだけだった。 どうして、こんなに何も思い出せないんだろう。 「つ、石蕗くん」 振り返ると、そこには秋姫と八重野の姿があった。 「(どうして、俺の名前…呼ぶんだろう?)」 秋姫も八重野もクラスメイトだったけど、こんな風にしていただろうか。 「あの、ごめん」 「俺、事故にあったみたいで、半年ぐらいの記憶が…」 「私もすももも知ってるんだ」 「そ、そうなのか?」 ――みんな知ってる事なんだろうか。 もしかしたら、俺が戻る前に先生が先に伝えていたのかもしれない。 「ごめんね、色々覚えていないのに急に挨拶しちゃビックリするね」 「あ、いや……」 目の前の秋姫は少し寂しそうに微笑んだ。 秋姫って、こんな顔をする子だったかな……。 妙な違和感があるのはどうしてなんだろう。 忘れてしまった半年間、俺は一体何をしていたんだろう。 「記憶、なくなって色々大変だろ?」 「まあ、そりゃ」 何もかも曖昧すぎる。 今自分の置かれている状況すら、俺にははっきりわからない。 それなのに、目の前にいる二人の表情が気になって仕方なかった。 「何か困った事があれば相談して」 「え」 「私とすももで、力になれると思う」 「あのさ、教えてくれないか?」 「どうして、そんなに心配してくれるのか」 「石蕗、園芸部の仲間だから」 「園芸部?」 「お、覚えてないと思うけど、石蕗くん園芸部に入ってくれたの」 「そう、なのか?」 園芸部――? また違和感が襲ってきた。 俺はどうして園芸部に入ったんだろう? 「石蕗くん…」 去年のことははっきりと思い出せる。 半年前…このクラスになったばかりの時のことも思い出せる。 でも俺が園芸部に入る理由なんて、何一つ思い当たらない。 「石蕗、何かあったら力になるから」 「うん、無理しないでね」 「ううん……」 「あ! ハル!!」 「石蕗! あんた大丈夫なの!?」 「どっか痛くないか? 頭とか!」 「心配したんだよ!」 「もう平気〜?」 「あ、あの、みんな一体……」 「如月先生から聞いたの! 石蕗が事故にあったって」 ……やっぱり俺のことは伝わっていたようだ。 よく考えてみると、それは当然なことだ。 記憶が一部抜け落ちてるクラスメイト、なんていきなり来れるものじゃない。 「(でも、なんだか……)」 俺は心配そうなクラスメイトたちの顔を見渡した。 みんな本当に心配そうに俺を見つめている。 「(なんだか、変な感じだ)」 ――これが記憶喪失ってやつなのか? 「それで、記憶も、その……」 「ああ、もう全部聞いたのか」 「やっぱり、少し覚えてないところがあるの?」 「……半年ぶんくらい、らしい」 「そのくらいの記憶が、あんまり」 「そっか。じゃあ、色々大変だね」 「気を使わせて、ごめん」 「秋姫たちも、何でも相談してくれって……」 「記憶なくなったせいで、面倒かけたらごめん」 「面倒なんて、そんなことない」 「こんな時は誰でも、やっぱり辛いと思うから」 「大丈夫だよっ! 私達もいるから〜」 「どうしたんだ、圭介?」 「あ、あのさ……」 「あ、秋姫さんの事……」 「桜庭くん」 「石蕗くんは今、色々混乱してるだろうから」 「そ、そうだよな。ごめん」 「何の事?」 「ごめん、ハル」 「俺、何か――」 「ハル……つ、石蕗くんっ」 「無理しないで」 「無理に思い出そうとして、具合が悪くなったりしたらダメだから」 「そう、だな……」 また、違和感がした。 クラスメイトたちが心配してくれてるのはわかる。 それが違和感のひとつなのもわかる。 だけど俺の中で一番何かを感じるのは……目の前に立つ秋姫だった。 「(秋姫ってこんな風に喋る子だったかな)」 薄い膜の向こうに見えるみたいに、はっきりしない。 だけど俺の記憶の中の秋姫は、もっとおろおろしてて、すぐに泣きそうな顔をしていた。 だけど今目の前にいる秋姫は……違った。 「石蕗くん、どうしたの?」 「あ、いや、なんでもない」 「そっか。それならいいの」 「みんな、そろそろ授業始まるよ」 「あ、ホントだ」 「ハル、自分の席はわかるよな?」 「ああ、それは大丈夫」 「じゃあ、授業の内容とかは?」 「……あ、それはどうだろう」 「それは圭介くんには相談しない方がいいかも知れないね」 「どういう意味だよ!」 「え? そのままの意味じゃないの!」 「その辺は、すももちゃん達に聞いた方がいいと思うよ〜」 「そこでハルも素直に頷くなよー!」 「え? あ……」 「さあさあっ、席戻ろう、もどろー!」 やっと放課後だ。 幸い途中で気分が悪くなることもなかった。 授業の内容も、少し記憶が飛んでいるところはあったけど、なんとかなりそうだ。 あとは、時々感じる不思議な違和感に慣れるだけ……。 「これから園芸部に行くけど、どうする?」 「体が大丈夫そうなら……どうかな?」 秋姫と八重野は、様子をうかがうように俺の顔を見つめている。 園芸部――。 放課後、俺は毎日そこに行っていたんだろうか。 何も思い出せない。思い出せないけど、俺が園芸部で過ごした『時間』は確かにあったんだ。 「(……俺)」 考えがまとまらないくせに、俺はそこへ行くことをためらっていた。 「今日は……帰る」 「け、今朝みたいに倒れないでね」 「わかった。二人ともありがとう」 「じゃあ、帰り気をつけて」 「あ…ううん、また調子よくなったら、来てみてね」 俺が答えると、二人は頷きあい駆け出していった。 「(すごく心配してくれてるんだよな……)」 きっと一番とまどってるのは、こんな俺を受け止めなきゃいけない秋姫や八重野たちだろう。 そう思うと、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 俺はまるで別人のようになってるんだろうか。 いくら考えても、答えは出そうになかった。 「(帰るか……)」 「今日はもう帰るの?」 「あ、そっか。まだ記憶アレだもんね」 「そうだけど、アレって言い方……」 「あははは。ごめん、ごめん」 「なんか、みんなに心配かけてるな」 「いいって! それより、早く記憶戻るといいね」 「本当に……」 「深道?」 「ん? いや、なんでもなーい」 「それよりさ、帰るなら気をつけなよ」 「わかってる。さっきも言われた」 「うん! じゃあ、また明日!」 学園を後にして、俺は寮へと戻ってきた。 心配されてたほど、体の不調はない。 だけど疲れはどっと肩にのしかかってきた。 「石蕗、クラブは?」 「え、クラブ……」 「ああ、ごめん。記憶……」 「あ、そうか。うん」 園芸部のことか……。 どうしてみんな、そんなに言うのだろう? この半年間、俺はすごく真面目な園芸部員だったのか? 「後遺症とかないのか?」 「朝、倒れたみたいだけど」 「でも、それ以降は何もなかったから」 「そうか。それならいいけど、気をつけろよ」 「ま、今日色んなやつに言われてそうだけど」 「うん。言われた」 「やっぱりそうか」 「じゃあ、部屋戻るな」 「うん。引き止めて悪かった」 「じゃ、またな」 自分の部屋に戻って来たのに、やっぱり少し落ち着かない。 使い慣れたはずのベッド。 見慣れたはずの、寝転んで見上げた天井。 だけど、何かが違う気がしてならない。 「(何が違うんだろう)」 考えてもわからないのに、頭は考えることをやめない。 事故の後遺症で記憶がなくなっているだけだ。 朝からずっと続いている違和感はそのせいだ。 そのせいの、はずなのに……。 「わかるわけないか」 俺はわざと声に出してから起き上がった。 服と服の隙間から何か落ちた気がした。 「(確か、この辺に)」 タンスから離れて少し下の方に視線を向ける。 特に何も見当たらない。 でも、確かに何か落ちたはずだ。 「なんだ、これ?」 落ちていたのは小さな小さな、牛の模様が入ったパジャマだった。 拾い上げてみると、本当にそれは小さかった。 人形用だろうか。 こんなの、俺が自分で買うわけはない。 でも、だったらどうして部屋にあるんだろう。 あきらかに部屋に置いてあるのはおかしい物だ。 いつもなら、そんなものはパッとゴミ箱の中へと投げ捨ててしまうだろう。 だけどできなかった。 俺はその小さなパジャマをそっと引き出しにしまった。 「(俺……本当にどうしたんだろ)」 制服を着替えベッドに横になった途端、また同じ問いかけがわきあがってくる。 「(そんなに変わったのか?)」 思い出せない半年間の自分が、怖い。 その半年間の俺が、今の俺とは違ってるとしたら……。 今ここにいる俺は何なのだろう? 答えの出ない疑問ばかりが頭の中を巡り、俺は重苦しい眠気にさらわれた。 「すもも、そっち終わった?」 「あ、うん。もうちょっと」 「こっちも、もうちょっと」 「だけど……」 「ちょっと大きめのスコップ取って来ないといけない」 「スコップ?」 「いいよ。取って来て」 「ナコちゃん、いってきて」 「わかった、じゃあ取ってくる」 「すぐ戻るからね」 「もう。大丈夫だよー」 「うん、あとはお水ですこし土をやわらかくして……と」 「……あ!」 「あ、あ! ご、ごめんなさ……!」 「誰も、いないんだった……」 「あ、あはは……」 「変なの、私一人なのに笑っちゃって」 「こ、こんなの、変……」 「誰も、隣に……」 「………ハル君」 「だめ」 「私、泣かないって約束したよね」 「……泣かない」 「ハル君、私、約束守るから……」 突然のノックで目が覚めた。 ベッドから体を起こすと、窓の外はすっかり暗くなっていた。 「あれ、俺どのくらい寝てた……」 「ハールーたーん!」 「ハルたーんっ! ご飯だよー!」 「トウア、大声出すなって!! こっち男子寮なんだぞ?」 「えー? 大丈夫だよお」 「大丈夫じゃないっ!」 ドアを開けると、麻宮冬亜と夏樹が立っていた。 いくら兄弟がいるからって、こんな時間に男子寮にいるなんて……。 俺が口を開こうとするより前に、冬亜がぷっと頬を膨らませた。 「もー。ハルたん時間になっても来ないんだもん」 「もう晩御飯の時間でーす! ハルたん、お部屋で何してたの?」 「いや…別に……ぼんやりしてた」 「お部屋の中で、ずぅうっと?」 「変なの!」 「……トウアッ!」 「俺も自分でそう思う」 結局、俺はあれからずっと何もできずにただぼんやりと時間を過ごしていた。 いつの間にかうとうとと浅い眠りに沈んだり、ふと目覚めたりの繰り返しだった。 「もうみんな待ってるよ。行こう」 「トウア、お腹ぺっこぺこだよー!」 「悪い、わざわざ呼びに来てくれて」 「いいって事よー!」 「僕もそろそろ夕食にしたい、行こう」 「お待たせー!」 冬亜にひっぱられて食堂までやってくると、秋乃の姿もあった。 テーブルの上に、丁寧に皿を並べている。 それは四人分……麻宮たちのと、俺のだった。 「ごめん、三人とも」 「謝らなくていいよ、座って」 「そっち、お前の席」 言われるままに席に座ると、俺の隣に冬亜がちょこんと並ぶ。 冬亜はにこにこと嬉しそうな表情を浮かべて、周りを見渡していた。 「おっなか減った〜!」 「ちょっとは落ち着け」 「えー! だってー」 「俺、何か手伝わなくていいか?」 「そっか、悪い」 「ううん、いいの。いつもしてるから」 口に出して言う通り、秋乃の手つきは慣れている。 そして、それを手伝う夏樹も随分慣れているようだ。 「秋乃、これこっちでいいのか?」 「あ、うん。置いといて」 「ごっはん〜♪ ごっはん〜♪」 「トウアも少しは手伝え」 「ああ、もう終わるから大丈夫だよ」 「……なんか、楽しそうだな」 「ふふふ。そうだね」 「ハルたんとご飯食べるの久し振りだからねー!」 「そうだよー!」 「トウア……」 「ああ、いいよ麻宮」 「それじゃ、食べようか」 「ほら、食べる前は?」 冬亜が手を合わせると、夏樹と秋乃も同じように手を合わせた。 「いただきます!」 三人はきっと声を揃えるつもりはなかったんだろう。 だけどその『いただきます』は見事にハモッていた。 「ごはん、美味しいねー」 「うんっ、おいしい」 「冬亜、食べ物を口に入れたまま喋るな」 「ふぁーい!」 「うわ! 言ってるそばから」 「なあ、麻宮」 俺は夏樹に声をかけた。 視線は三人分、そろって俺に注がれる。 「あの、さっき言ってた――」 「俺と食事するのが久し振りだって事」 「ああ、それか」 「石蕗君、最近は夜にはどこかに出かけていたみたいだから」 「そう、なのか……?」 「そうだよー。トウアが呼びに行っても、ハルたん居ないんだもん!」 「そう、なんだ」 夕食の時間をすぎたら、寮からの外出は許可がいる。 もちろん抜け出すこともできるけど……俺は今までそんなことをした覚えはなかった。 「(まただ……)」 夜、どこかへでかけていた、それは事実だろう。 麻宮たちがウソをつく必要なんてない。 ……またひとつ疑問だけが増えてゆく。 「(俺……どこに行って、何をしてたんだろう)」 「あ、そんなに考えすぎないで、ね?」 「ああ。朝にはいつも戻ってたから」 「今日は一緒で嬉しいねー!」 麻宮たちの食事は賑やかで楽しかった。 賑やかで楽しいはずなのに……。 「(俺がここにいることが、おかしい)」 この違和感はなんだろう? どうして俺はそんな風に思ってしまうんだろう? 「たくさんおかわりしてねー」 「冬亜、食事が終わったら風呂だぞ」 「りょーかい!」 「寒くなって来たから、お風呂出た後は早めに寝るんだよ。わかってる?」 「わかってるよー」 「あ、あの……ごめんね、石蕗君」 「わ…わたしたちだけで喋ってる」 「いや、いいって。賑やかだから」 「毎日だと大変なんだぞ」 「ナツキー、何が大変なの?」 「あぁっ、トウア、ごはんつぶ飛んじゃった!!」 「確かに大変そうだ」 「えー? 何がさー!!」 「ふふふふふ」 麻宮達との食事が終わって、後片付けを手伝って、少しだけ三人と会話をして……。 賑やかな夕食を終えて、俺は再び部屋に戻ってきた。 「(楽しかった)」 だけど、違和感は拭えない。 ずっと、この感覚が消えてくれない。 「どうしてだろう……」 シャワーを浴びても、パジャマに着替えても、それはべったりとまとわりつく。 自分の部屋のはずなのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。 「(どうしたんだろう、俺)」 記憶がなくなったから……だけではない。 何故だかわからないけど――俺の中の何かがそう言っている気がしてならなかった。 「(もうあまり考えないようにしよう)」 考えずに寝てしまった方がいいのかも知れない。 ベッドに横になると、視界に入ってくるのは天井だ。 いつもの光景、俺がなくしたという半年以上前から見慣れた天井のはず。 だけど、やっぱり違和感はますます俺の体の上に積もっていった。 「……なんなんだよ」 俺は無理やり目を閉じて、眠ろうとした。 「(眠ってしまえば、きっとこの違和感はなくなる)」 なくなるはず……。 だから……。 「星、綺麗だな」 「もう、寝ようかな」 「おやすみなさい………ハル君」 「……おやすみなさい」 いつも通りの、星城へと向かう歩き慣れた道。 昨日から感じていた違和感や浮遊感は、今のところなくなっていた。 足を止めて振り返ると、秋姫と八重野がいた。 「お、おはよう」 「おはよう。具合とか、悪くない?」 「ああ、大丈夫だから」 秋姫の表情がほっと緩んだ。 「良かったら、一緒に行こうか」 俺と秋姫と八重野。 三人並んで歩いて星城へと向かう。 交わす言葉はほとんどなかったけど、不自然じゃなかった。 「(あれ……前からそうだったみたいに感じる)」 なくした半年間の中に、三人で並んで歩く光景はあったんだろうか? 「あの、俺……園芸部に入ってたって、昨日言ってたよな」 「なんで入ったとか……わかる?」 「そ、それは、わからないけど」 「いつだったかな……あんまりよく覚えてないけど、如月先生が連れて来たんだ」 「それで、石蕗くんも入るって」 予想ははずれた。 俺は秋姫や八重野に誘われて、園芸部に入ったんじゃなかった。 自分から入ったとしたら、一体どんな理由で? 「……なんでだろう」 「まだ復帰したばかりだし、無理に合わせたりしなくていいから」 「でも、石蕗が来たいって思うなら、いつでも来てくれればいい」 「なあ、園芸部での活動って――どんな感じなんだ?」 「校舎裏……」 「校舎裏?」 「旧校舎裏にね、花壇と温室があるの」 「覚えてる?」 「あ、いや……。でも、なんとなく」 なんとなく、その場所が頭に浮かんだ。 だけどそれが園芸部にいるときのことを思い出したから、とは言えない。 校内なんだから、一度や二度は通ったことだってあるはずだ。 「もし調子がよかったら、いつでも来て」 「ああ、そうする」 「みんなで待ってるから」 昼休みになったとたん、教室の中の人数は一気に減る。 購買に行ったり、思い思いの場所で昼食をとるからだ。 人の少なくなった教室の中で、俺は思い切り伸びをした。 「すもも、ちょっと」 「あ、どうしたの?」 秋姫のもとに駆け寄る子は……同じクラスの女の子らしい。 ただその子のことが俺にはさっぱりわからない。 「……だから……で、向こうで」 「うん。わかった……で、いいの?」 「……行こう」 二人は随分親しいんだろうか。 何かを話した後、秋姫たちは揃って教室を出て行った。 「さっき秋姫と話をしてて、いま一緒に教室出て行った子って誰?」 「ああ、結城か」 「覚えてない?」 「いいよ。石蕗は悪くないから」 「あの、もしかして…転入生?」 「えっと、サマーキャンプ前くらいに転入して来た、結城ノナさん」 「結城ノナ……」 「(サマーキャンプ、俺も参加したんだろう……な)」 夏にはいつも行われる行事で、きっと俺もそれに参加していた。 でも何も思い出せない。 そこで起こった出来事や楽しかったことも――夏の暑さですら、記憶からごそっと落ちていた。 「(……仕方ない、ゆっくり思い出すしかないんだろうな)」 自分へ向かって何度言い聞かせても、それは悲しくて気味が悪いものだった。 「結城ノナって、秋姫と仲良さそうだったな」 「ああ、彼女も園芸部だから」 「園芸部は私とすもも、結城……それから石蕗の四人だけ」 「そうか……そうだったんだ」 「ねーねー、皆でご飯食べなーい? あれ? すももちゃんは?」 「ちょっと用事みたいだ」 「そうなんだ〜」 「また教室に戻ってくるよね?」 「たぶん。お弁当は持っていっていないみたいだから」 「じゃあ机を並べて……一緒に食べよう」 「ほらほら、購買行く組はとっとと行ってきなさいよ〜」 「よっしゃー! ハル、行こうぜ!」 圭介たちの明るい声が、俺の目の前に浮かんでいた霧をなぎはらってくれた。 そうだ、いつまでもこんな風じゃいけない。 皆は何も変わってない。 俺がほんの少しだけ、記憶を失っただけなんだから――……。 「あ、あの、ノナちゃん」 「如月先生、用事なにって?」 「それは先生本人に聞いてみて。私はすももを連れて来てって言われただけなの」 「如月先生、失礼します」 「は〜い。どうぞ〜」 「ほら、先に入って」 「え、え?」 「早くしないと、休憩時間終わるわよ」 「結城さん、ありがとう」 「いえ、別に」 「それじゃあ、私は失礼します」 「え? あの、ノナちゃん!」 「ちゃんと話を聞きなさいよ」 「えっ、あ、あの――」 「あ、あの、如月先生……」 「結城さんとは、仲良くやってるみたいだね」 「良かったね、友達になれて」 「うん。でも、ノナちゃんはいつか帰っちゃうから」 「そうだね。そうなると、寂しくなるね」 「あきひ……、いや、すももちゃん」 「何が、ですか?」 「最近、毎日無理してるように見えるから」 「そ、そんな事ないです」 「ハル君は元に戻って、一緒に生活しているし、時々お話もするし」 「そ、それにハル君、また園芸部にも来てくれるって言ってくれたんですっ!」 「だからわたし、無理なんてして……」 「ないわけないだろう」 「少しくらい弱くても、僕はかまわないと思うんだよ」 「でも! わたし、ハル君とや、約束……」 「そうか。約束したんだ」 「強いんだね、すももちゃんは」 「で、でも……ひ、ひく、ううう……」 「大丈夫。大丈夫だよ」 「せ、先生……」 「僕の前では、泣いてもいいんだから」 「ふ、う、うううう」 「辛い思いをさせてしまったね」 「ナツメさん…ふ、うあ、ううう」 「よく頑張っているよ、すももちゃんは」 「う…うくっ、うう……ナツメさ…ひくっ」 「大丈夫。今だけは泣いていいからね」 「う、うう……えくっ…う」 「少し顔を上げて、涙を拭いて」 「ナツメさん……?」 「この薬はね、星のしずくで作った……恋をかなえる薬だよ」 「記憶が戻るわけじゃないけど、この薬を飲めば石蕗君はすももちゃんの事を好きになる」 「ナツメさん……でも…わたし」 「いつ使うかは……すももちゃんが決めたらいいよ」 「お守り、と思って受け取ってもらえたら嬉しいな」 「すももちゃんの心が、少しでも軽くなるお守りとして……」 「ナツメさん?」 「このお薬…星のしずくで作ったって――」 「で、でも、わたしが集めたのは、ハル君の体を元に戻すのに全部使ったんじゃ……」 「ああ、それはね」 「入ってこればいいのに」 「べ、べつにどっちでもいいですけど」 「じゃあ入りなさいな」 「な、なにかしら」 「星のしずく……ノナちゃんが…くれたんだね」 「だ、だって」 「別にもう学園対抗の勝負はついてたし、アタシは別に、そ、そういう薬いらないし」 「そ、それにアタシはしずくなんて、何個でもささーっと採っちゃうから、別に特別ってわけじゃないからっ!」 「きゃっ、き、急に飛びつかないでよっ」 「ノナちゃん、ありがとう」 「だから、あ、余ってただけなのっ!!」 「ううん…ノナちゃん。ノナちゃんもわたしの大事な友達だよ」 「ありがとね…」 「わ、わかったわよ」 「ナツメさんも…ノナちゃんも……みんな心配してくれてるんだよね」 「……僕たちにできることは、これくらいだから」 「一番辛いのはすももよ、だから甘えたり泣いたりしても全然おかしくないんだからね!」 「……ありがとう、ほんとに、嬉しいよ」 放課後はいつも通りの賑やかさだった。 そろそろ傾き始めた太陽が、廊下をオレンジに染めている。 外は寒そうだけど、陽の光は暖かく柔らかだった。 「(どうしようか)」 このまま帰ろうか、そう思ったとき俺は昨日の事を思い出した。 自分の部屋にいても感じる、不思議な違和感。 あの違和感は、このまま帰ったら今日も感じてしまうのだろうか。 「お、ハル。帰るのか?」 「どうしようかと思って」 「そっか。そりゃ、困ったな」 「本当だな」 圭介の軽口がなんだか心地いい。 きっとクラスにいる皆、俺に関わっていた皆も、同じような違和感を感じているに違いない。 それでも今までと変わりなく接してくれる気持ちが、嬉しかった。 「……クラブ、行ってみようかな」 「お? 園芸部?」 「それ、いいかも知れないな」 「うん。今までずっとクラブ行ってたんだし、行ってみたら何か思い出せるかも知れないだろ」 「そうか。そうだな」 「そうしろ、そうしろ」 「そろそろ寒くなってるから、風邪とか気をつけろよ」 「……わかった。ありがとう」 「んじゃ、ハル。また明日な」 「またな」 体が覚えていたんだろうか。 園芸部の活動場所という、校舎裏の花壇まで俺は難なくたどり着いた。 「え? ナコちゃん?」 最初に気づいたのは八重野だった。 小さなスコップを持ったまま、ゆっくりと顔をあげた。 それから、秋姫。 二人は立ち上がり、スカートについた土を払った。 「良かった。石蕗、来たんだ」 「来てくれるといいねって、ナコちゃんとさっき言ってたの」 二人とも俺の姿を見つけて、笑顔になってくれた。 些細なことだったけど、なんだかすごく嬉しかった。 「石蕗、色々覚えてる?」 「えっと……全然…わからない」 「そう、だね」 「どうしたらいいか、教えてもらえるか?」 「も、もちろんだよ!」 「じゃあ、どうすれば……」 「……え、えっと」 「私……温室の水遣りに行ってくる」 「それじゃ、行ってくるね」 「あ、ナ、ナコちゃん…もう……」 小走りに立ち去ってゆく八重野の後姿を見つめ、秋姫がおろおろとしている。 遠くを見たり自分の足もとを見たり、そんなことを二三度繰り返してから、秋姫は顔をあげた。 「……あ、え、えっと…」 「温室」 「温室、あるの?」 「うん。ちょっと古いけど、ちゃんとした温室だよ」 「……向こうの方?」 「そう、ナコちゃんが行った方にあるの」 「あ、あの…石蕗くんも見に行ってみる?」 「いや。今日はいいよ」 「そ、そっか、うん。じゃあ、今日は……」 「どうしようかな。ちょっと待ってね、考えるから」 「あ、じゃあ」 「さっき、ナコちゃんとやってたんだけど、球根一緒に埋めよう…か」 「球根?」 秋姫に少し遅れて、俺は地面に視線を落とした。 二人がさっきまで使っていたスコップと、小さな球根の入った袋があった。 「一定の間隔で穴を掘るの」 「穴の深さとかは?」 「そんなに深くなくていいかな」 「よかったら…あの一緒に…やってみない?」 俺は近くのベンチにカバンを置いて、秋姫の隣に並んだ。 「教えて」 秋姫と俺は花壇のはしにしゃがみこみ、まっすぐ地面を見ていた。 スコップで土を掘り起こし、球根を埋める穴を掘る。 一定の間隔で、あんまり深くならないように……俺は秋姫に言われたことを守りながら、小さな球根をぽとんと穴の中に落としていった。 「いたたた……」 「ご、ごめんね。土の中に尖った石があって」 秋姫の指先を見ると、小さな切り傷ができていた。 「大丈夫、そんなに痛くないから」 「でも、血が出てる」 「あ、あのでも」 「その間に傷口、水で洗っておいて」 「(確か、どこかに入ってた気がする)」 カバンの中に確か絆創膏があったはずだ。 ノートや本をかきわけ、奥底までさらってみる。 何度かそうしているうちに、カサリと絆創膏らしき感触が指先にあたった。 鞄の中から出て来た絆創膏の中に、やけに可愛い模様の物があった。 「(こんなの……なんで持ってたんだろ)」 カバンの底には、もう数枚の絆創膏が落ちていた。 それらはみんな肌色の、よく見かける普通の絆創膏だ。 「(でも、秋姫にはこういうのがいいかもな)」 「あったよ」 「こういうのが、いいと思ったんだけど」 それを差し出したとたん、秋姫は絶句して……。 大きな目が今にも泣きそうなほどに潤んでいった。 「あ! ご、ごめんなさい」 「キズ痛むのか? 保健室に行った方がいいかな」 「ううん、違うの……バンソコ…ありがとう」 「本当に、ありがとう」 「早く貼った方がいいと思う」 俺の渡した絆創膏を、秋姫はゆっくりと指にまいた。 キズが痛むのか、その指をじっと見つめている。 「(ほんとに……どうしたんだろ?)」 さっき泣きそうになってたのはどうしてだろう。 秋姫も八重野も、どうしてこんなに俺に優しくするんだろう。 俺が知っているのは、ほとんど話したことのないクラスメイトとしての二人だ。 「(いや……俺が忘れてる間にきっと……仲良くなったんだよな)」 答えは自分でもよくわかってる。 わかっているから、俺は秋姫に『どうして』って聞けなかった。 聞けなかったから、俺はずっと秋姫の顔を見つめてしまった。 「あれ、結城に松田さん」 「今日は来ないと思ってた、これから――」 「しっ!」 「八重野さん、あれ、あちらを見てくださいよ〜」 「あ、すももと石蕗」 「邪魔したら悪いかと思って」 「……私、今日は帰るわ」 「松田、行くわよ」 「はい、お嬢様」 「あなたも先に帰った方がいいんじゃない?」 「ああ……そうかもしれないな」 「では、車で送りましょう」 「道さえ教えてくだされば大丈夫ですよ!」 「遠慮しなくていいから」 「でも、すもも、黙って帰ると心配するだろうから…」 「わかりました。それでは、校門の所で待ってますわ」 「わかった。ありがとう、結城」 「それでは、また後ほど」 「――すもも、がんばって」 近づいてくる足音の方を振り返ると、八重野が走って戻ってきていた。 隣にいた秋姫も嬉しそうに顔をあげる。 「ナコちゃん、おかえりなさい」 「石蕗、これからもやって行けそう?」 「ああ、なんとか」 「私、今日先に帰るね」 「薙刀の稽古の時間、今日は少し早くなってて……ごめんね」 「あ、そっか」 「二人で大丈夫?」 「全部埋めればいいんだな」 「全部…はできる? 少し量があるから、明日にまわしてもいいよ」 「いいよ、やる」 そう言うと、秋姫は驚いて俺の顔を覗きこんだ。 「え? つ、石蕗くんは別に、あの」 「俺、しばらく休んでたみたいだし」 「でも、わ、わたし一人でも、だ、大丈夫……」 「一人より二人の方が早く終わるから」 「ハル……石蕗く…ん」 「それじゃあ、お願いします」 「う、うんっ!」 「ああ、また」 「そ、それじゃあ……残りも埋めよう」 八重野を見送った後、俺たちは再びしゃがみこんだ。 袋にはまだ半分ほど球根が残ってる。 「(秋姫、手大丈夫なのかな)」 すぐ横から聞こえてくる、スコップが土を掘ってゆく音がやけに大きく感じられた。 「えっ、えっ!?」 「さっきの傷……大丈夫?」 「あっ、う、うん! 平気」 「そっか。園芸部って大変なんだな」 「そ…そうかな。でも楽しいよ」 「俺、もう一回習ってる…んだよな」 「面倒かけて、ごめん」 「ほんとに…そんなこと……ないの」 「うん、また教えて」 それから俺と秋姫は、袋に残っていた球根を全部埋めた。 なるべく俺の方がたくさん埋められるようにと手を伸ばしたけど、やっぱり秋姫の手際には負けてしまった。 「今日はありがとう、石蕗くん」 校門を出て、しばらく歩いた頃だった。 二人の間にあった沈黙を先に破ったのは、秋姫の方だった。 「クラブ、来てくれたから」 「後、最後まで一緒にやってくれたから」 「だから、二人の方が早いから」 「それに、片付けも女の子一人よりは……園芸部って、男、俺だけなんだよな」 「なんでも言って」 「でも、あの、じ…事故の後遺症とか……」 「大丈夫、本当にケガとか後遺症とかあんまり感じないんだ、記憶以外は」 花壇に球根を全部植えた後……俺と秋姫はそのまま並んで帰路についた。 一緒に帰ろうと言い出したわけじゃないけど、なんとなくそのまま、隣同士並んで歩いてる。 「(……何話そう……)」 「また、来たいなって思った時に来てね、園芸部」 「い、いつでも、石蕗くんが来たい時に」 「今日みたいに、球根埋めるだけだったり、お花にお水あげるだけかも知れないけど」 「結構楽しかったよ」 「……良かった」 会話だなんて言えないほどの言葉を交わしながら歩く道は、いつもよりずっと長かった。 寮の前で秋姫は足をとめた。 それから一歩だけ俺の方に近づいて……何かを言おうとして……。 「……ううん、さよなら」 一度閉じた唇が言ったのは、その言葉だった。 「さ、さよなら」 夕暮れの太陽が、秋姫の影を色濃く地面に落としている。 秋姫はそんな自分の影を見つめるように俯いて、再び歩き出した。 「あ、待って」 「な、なに…かな? 忘れ物?」 秋姫は驚いた顔で振り向く。 俺もとっさにそう呼び止めたことに、自分で驚いてしまった。 「あ……えっと…もうすぐ暗くなるから、送ってく」 「冬だし、すぐ暗くなるから」 「えっ、でも」 「いいよ、やっぱり心配だし」 「秋姫の家って、どっち?」 「あ、えっと……あっち、だよ」 とまどう表情で向こうを指差す秋姫の隣に、俺は再び並んだ。 「石蕗くんは……冬が好き?」 「…き、季節のこと。冬は好きなのかなーって」 「夏よりは、冬の方が好きかな」 「そっかぁ。やっぱり…星がきれいに見えるから?」 「――えっ?」 「うん、確かにそれもある……けど」 俺が星とか天体とかに興味があること、秋姫は知ってるんだ。 あたりまえのように話しているから、きっと俺から話したんだろう。 「俺、そんなことも話してたんだ」 「星城に入ってからは、天体観測……してなかったから」 「あ、えと、ま、前に一度だけ、お星様が好きって聞いたから」 秋姫は困ったようにそう続けた。 空を見上げると、いつのまにか星が散らばっていた。 冬の夕暮れは一瞬だ。 「そっか…そういえばこの町って、何か星がよく見えるとか……言われてたよな」 「世界で一番星に近い町、だよ」 「それだ」 「うん……お星様、すごく…すごくキレイに見えるんだよ」 ……俺は、どんな風に秋姫と話してたんだろう? ……どの季節の星を見あげながら、話してたんだろう? 「……ほんとにキレイだな」 冷たい空気の中で、星はきらきらと輝いて見えた。 「石蕗くん、ありがとう」 「(………あれ?)」 秋姫の家に着いた瞬間だった。 ふと二階の窓が視界に入ったとき、頭の奥にずしんと鈍い痛みが走った。 「ハ……石蕗くん?」 「大丈夫? 具合悪いのかな?」 痛みはすぐに消えた。 だけど今度は痛みの代わりに、ある感覚が俺の中に広がった。 「(秋姫の家……なんとなく見覚えあるような……なんでだ??)」 「あ、そ、それじゃまた」 「うん、石蕗くんも帰り道気をつけてね」 秋姫はすぐに家に入らず、俺が歩きだした後も手をふってくれていた。 部屋に帰り、どさりとベッドに腰掛ける。 大して疲れているわけでもないのに、体がひどく重かった。 あの絆創膏、園芸部のこと、秋姫の家のこと……。 それから、星の話――。 「(俺、本当にどんな半年を過ごしてきたんだろう)」 思い出せそうで、思い出せない。 そのくせ、俺が忘れている半年間の名残りはそこらじゅうに落ちている。 思い浮かんだ秋姫の顔をかき消すように、俺は頭を大きく振った。 「なんで秋姫……あんな顔するんだろう」 俺が事故にあって記憶をなくしているから? それなら他のクラスメイトたち――圭介や深道たちや、八重野だって同じだ。 同じように心配して、俺を気遣ってくれている。 でも秋姫は違う。 「……寂しそうな顔……?」 やっぱり答えは出ない。 何故とか、どうしてとか、そんな言葉をいくら繰り返しても、記憶は戻らない。 鈍い痛みが頭を包む前に、俺は固く目を閉じた。 「おっはよー」 「はふはふ…ま、まってぇ」 「あっハルたーん、おはよぉ!」 「……はあはあ、お、おはよ…です」 「こらー、トウア! そんなに走ったらまた転ぶぞ」 「わー逃げろぉー」 「ひゃあっ」 冬亜に固く手をつながれ、秋乃もそのまま走りだす。 二つの白い息が遠ざかっていく頃に、夏樹が俺の横へたどりついた。 「おはよ、朝から大変だな」 「まったくだよ」 「体の調子、どうだ?」 「あ…ああ、良いよ」 「少し顔色悪そうに見えたからな。平気ならいい、じゃ」 夏樹は冬亜たちを追いかけ、走り出した。 そっけない言い方なのは、いつものことだ。 それでも俺のことを心配してくれている。 「(……早く元に戻らないと……な)」 「うんうん、わかる」 「寒いときって、そうなっちゃうよねぇ」 「ほんとに? じゃ、じゃあ私がおかしいっての!?」 教室のすみで、深道たちはひとかたまりになって話している。 寒さのせいもあってだろうけど、ちょっと微笑ましい光景だった。 俺はぐるりと教室を見回した。 「(秋姫と八重野、まだ来てないのか……)」 「すもも、これ…ありがとう」 「あ、ご、ごめんね。もう読んじゃったんだ、また続き持ってくるね」 いつものように、秋姫と八重野はつれだって登校してきた。 八重野が何か話しかけていたけれど、俺にはよく聞こえなかった。 「(……何だか元気なさそうだな)」 秋姫は笑顔を見せていた。 だけど、その笑顔がほんの少し陰っていたような気がする。 「あきひ――」 ――朝に声をかけそこなってから、結局俺は一度も秋姫に話しかけられなかった。 授業の合間に、昼休みに、何度も秋姫の名前を口にしようとした。 だけど何度も飲み込み、すれ違って放課後になってしまった。 「(……秋姫って選択授業、何なんだろう)」 廊下を歩きながら考える。 ……わからない。 わからないけど、俺はともかく教室へと向かった。 「いない…な」 教室の中には誰もいなかった。 もうみんな、クラブへと向かったり帰路についたりしてるんだ。 ガランとした教室を見ていると、不意に寂しさがこみ上げてきた。 「あ…つ、石蕗くん」 「えっええっ!?」 「どうしたの、かな?」 ……秋姫が、いた。 ちょうど真後ろに、秋姫が立っていた。 「あ、い、いや別に―…」 「あ、秋姫、八重野は?」 「ナコちゃん? あ、今日はお家の用事で早く帰らなきゃいけないみたいなの」 「だから選択授業の後、先に……」 「今日は園芸部、行く?」 「結城もさそって―…」 「あ、ノナちゃんも今日は早く帰ったみたい、さっきお迎えが来てたから」 「石蕗くん、は?」 「わたしは……少しよっていくから」 「石蕗くんも行かない、かな」 「……よかったら」 「行こうかな」 園芸部へとやってきた時には、もうずいぶん日が暮れていた。 「あ、あの……あっ」 真っ赤な花壇を前に目を奪われているすきに、秋姫はさっと走り出した。 「……あ、こ、これ使ってね」 戻ってきた秋姫は、ジョウロを二つ抱えている。 ちゃんとした園芸用のジョウロは、小さな秋姫の手には大きい。 「ああ、ごめん。言ってくれたら手伝うのに」 「ううん、大丈夫だよ! じゃあわたしは向こうの花壇からはじめるね」 ジョウロに水をいれ、俺と秋姫は花壇の端と端に立った。 そこから同時にジョウロを傾ける。 土へ落ちてゆく小さな水の音がちゃんと聞こえてくるほど、この場所は静かだった。 一歩ずつ、俺と秋姫の間が近づいてゆく。 時々その横顔を覗くと、朝みたいな陰りはなかった。 「(……もう元気、なのかな)」 また一歩。 夕陽で長く伸びた二つの影が、ゆらりと揺れた。 「(元気になったなら……いいか)」 「(俺……何言おうとしてたんだっけ)」 何度も何度も飲み込んだせいか、秋姫に言おうとしていた言葉を俺は忘れてしまった。 「昨日行ってた、温室……見てみたい」 「……だめ、かな」 「ううん、い、いいよ」 鉄枠でできた扉を開けると、温かな空気がすっと頬を撫でた。 外からはわからなかったけど、結構ちゃんとした温室のようだ。 「中に入ると、結構広いんだな」 「それに、暖かい」 「少し難しいお花も、ここで育ててるんだよ」 「ハル……石蕗くん」 「あのね、こ、こっち」 「えっ? あ、秋姫?」 「もうちょっとこっちに……来てみて…ほしいな」 秋姫は少し焦った様子で俺の手を引っぱる。 何故かはわからなかったけど……俺は秋姫の思うままに身をまかせた。 鳥かごのような形の温室の天井の、一番高い場所。 秋姫が俺を連れてきた場所は、ちょうどその真下だった。 「あの、も、もう少しだから」 「もう…すこし??」 「きれいだ、びっくりしたよ」 「こんな風に光るの、夕方のこの時間だけなの」 「上の方のガラス、古いからちょっと曇ってるんだ…でも、だからこんな柔らかい光になるんだと思う」 降り注ぐ光の雨。 夕陽の緋色が、ガラスを通して少しだけ柔らかくなって落ちてくる。 目を細めるような強い光じゃない。 それに包まれていたい、と思わせるあたたかい光だ。 「俺……前にもここに来たことあった?」 秋姫の表情が一瞬だけ悲しげに曇った。 ……俺は以前にもここに来たんだろう。 だけどこんなにキレイな光景を見ても、何も思い出せない。 先生に、クラスメイトたちに、それから……秋姫に。 俺はどんな思いをさせているのだろう? どうしようもないもどかしさでこみ上げてくる。 「秋姫、あのさ」 「俺…園芸部のこと何も思い出せないけど……ちゃんとクラブ来るよ」 「迷惑かけるだろうけど……よろしく」 夕日に照らされた秋姫は、いつの間にか俺を見ていた。 秋姫は何も答えなかった。 きゅっとかみしめた唇、まるで何かを迷っているような顔だ。 その時俺は気づいた。 秋姫の小さな手が何かを強く握っている。 「……ハル…く…ん」 「わたし…しんじてる…から」 秋姫の手から落ちたのは、光だった。 きらきらと輝くものが、地面へと落ちてゆく。 俺は手を伸ばしたけれど――間に合わなかった。 「秋姫、これ……」 俺はしゃがみこんで、それを見つめた。 秋姫の手から落ちたのは光ではなく、小さなガラス瓶だった。 「ごめん……俺……」 何かが秋姫の足元に落ちてきた。 夕日が温室のガラスに反射して、おどろくほど明るく輝いてた。 それから、地面に転がったガラス瓶。 だけどキラキラと輝くものはそれだけじゃなかった。 秋姫の頬を伝って、涙が一粒零れ落ちる。 「(――あ?)」 「(なんだろう、俺、見たことがある)」 透明で、でも夕日の色を映しこんで、ゆらゆらゆれながら落ちてゆく涙の粒。 光のしずくが、土に吸い込まれていった。 「(……なんで…だ?)」 「これ……大事なものだったのか?」 「いらないの。あの時、もう一度…って言ってくれたの信じてるから、これはいらない」 秋姫の目が、俺を映す。 夕陽に半身を照らされた秋姫は、燃え上がるような緋色をまとっていた。 「……俺」 ――秋姫、秋姫、秋姫!! 心の中で、何度もそう呼んだ。 ――違う。 頭の中でざわざわと何かが騒いでいる。 ――秋姫! もう一度その名前を呼んでみる。 目の前に立つ、俺のことを見つめてるこの子のことを俺は――……。 ざわざわと頭の中の何かがそう叫ぶ。 『わたし……大好きです』 『あなたのことが大好きです』 秋姫がまっすぐ俺を見ていた。 秋姫ははっきりと俺に告げた。 「ごめん、秋姫」 「う、ううん、いいの!」 「つ、石蕗くんはまだ…き、記憶のこととか、すごく大変なのに」 「そんなときに、わ、わたしごめんな……」 「違う! 違うんだ」 「そういうのじゃ、なくて、その……」 「……約束」 「俺、秋姫と何か……約束したよね?」 頭の中で、何かが弾けていた。 知らない光景がぐるぐるとまわっていた。 そしてその全部に、秋姫がいた……。 「今まで忘れてた……どうして忘れてたんだろう……」 「でも、それが何だか思い出せない……約束したことは思い出せたのに…大事なことなのに……」 「ごめん…本当に、ごめん」 きっと、何か凄く大切な事なんだ。 嫌っていうくらい、それはわかってる。 でも、どうしても思い出せない。 俺は秋姫とどんな約束をしたんだ? 思い出さないといけない。 こんな表情をさせたいわけじゃないんだ。 こんな事を言いたいわけじゃないんだ。 だから、思い出さないといけないんだ。 「ハル……君」 「やっぱり、違う」 「石蕗君は全部を、全部の記憶をなくしたんじゃなかったんだね…」 「だって、だって……!」 「半年前の『石蕗君』じゃない」 「ここにいるのは、わたしの知ってるつわぶきく……」 「でも、俺は!」 温室の中で反響するほど、俺は大きな声を出していた。 「ごめんなさい、わ、わたし、いま」 違う? 俺が今までの俺と違う? どういう事なんだろう。 秋姫は俺の何を知っているんだろう。 「俺……なに…なにを忘れて……」 心が落ち着かない。どうしてもじっとしていられない。 この気持ちはなんだろう。 この温室の中にいるからだろうか。 「石蕗くん、大丈夫?」 「ごめんね、わ、わたし、急にいろいろなことを」 「……違うんだ、秋姫のせいじゃない」 ここにいると、何故かじっとしていられなくなる。 何かを、思い出さないといけない気がする。 でも、それが何なのかハッキリとわからない。 小さな鉢に植えられた花、丁寧にならされた地面から生える花。 温室の中は冬とは思えないほどに、萌える緑と花々の色が溢れていた。 「……知ってる?」 花の名前まではわからない。 だけどこの優しい彩りを、俺は知っている。 「……なんでだ?」 花の名前もわからない俺が、どうしてこの場所にこんなにもひかれるのか? 記憶を失った半年の間に、俺は花を育てることばかりしていたのか? 「俺、この場所で――何か」 知ってるんだ。 だけど、全てを思い出せない。 一番大切なはずの、何かを。 「(この場所は、何か…何かを思い出させようとするくらい、俺のなかで大事な場所だった?)」 「ここも――」 昨日来たからとか、そういう事じゃない。 もうずっと以前から俺はここを知ってるんだ。 あの花壇の花には毎日水をやっていた。 一人じゃない、誰かと一緒だった。 「なんで……」 花の事や温室の事は覚えている。 だけど、どうしても思い出せない。 俺は何を忘れてるんだ。 忘れてるはずなのに、どうして大切な事だってわかるんだ? 冷たい風が、俺の頬をぴしゃりと叩いた。 校舎の影と、柔らかな日差し。 その二つが俺の立つ場所にあった。 オレンジ色の日差しに照らされた花壇のなかで、小さな花が揺れている。 寒い風に打たれても、まっすぐと上を向いて咲いている。 「秋姫、俺は……」 秋姫が、いない。 振り返ってやっと気づいた。 さっきまでそばにいた秋姫を、俺は置いてきてしまった。 温室の中はしんと静まりかえっていた。 そんなに広くはないけれど、たくさん生い茂った草木が視界をさえぎる。 「秋姫? どこにいるんだ?」 「さっきはごめん、俺……」 突然鳴り響いたその音は、俺のポケットからだった。 ずっと鳴らなかった着信音。 俺はそれが自分の携帯から鳴っていることにすら、しばらく気づかなかった。 ポケットから取り出して、開く。 「――秋姫!」 携帯のディスプレイに表示された名前は……。 だった。 『石蕗くんへ』 『石蕗くん、無理しないでください』 『園芸部のことも、みんなのことも、ゆっくりゆっくり思い出して』 『石蕗くんが苦しいのを見るのは、わたしもすごく悲しいから』 『だからゆっくり、ひとつずつ思い出してください』 ぼんやりと光るディスプレイの中の文字。 ただの味気ない文字だけなのに、涙が出そうだった。 隣に秋姫がいて、すぐそこで話しかけているように思えた。 「秋姫!!」 「秋姫? もう帰ったのか? なあ」 「……いない、のか?」 「(……そうだ………返事、まだ近くにいるかもしれない……)」 「え――?」 俺はすぐに返信ボタンを押して、返事を打った。 短い文章を打つだけなのに、指先がもたついてうまくいかない。 何度も何度も、書いたり消したりの繰り返しだ。 その時だった。 確かにその文字が、ディスプレイに浮かんだ。 それは携帯の機能のひとつだった。 よく使う語句が、すべての文章を打つ前に候補としてあがるのだ。 サ行を押したときに、まっさきに出るのが、その語句だった。 「なんでだ、まさか、これ――」 何度押してもその名が浮かぶ。 何度も何度も浮かんでくるその名を見ながら、俺は思った。 俺は秋姫のことを、すももって呼んでいた。 名前で呼ぶほどに、親しくしていた。 すももって名前がすぐに変換されてしまうくらいに、何度もメールを交わしてた。 「(…でも………なんでメールがひとつも残ってないんだ?)」 受信しているメールはわずか一件……ついさっき送られてきたものだけだ。 「……すももっ!!」 「……石蕗く…ん」 「もしも間違ってたらごめん」 「俺、今からすごくヘンなこと、言うかもしれない」 「俺は秋姫のこと、すももって呼んでなかったか?」 「すももは……」 「……すももは俺にとって、大事な人だったんじゃないか?」 「ごめん、うまくいえない」 「いえないんだ……」 秋姫は―……。 すももは、何も言わずに俺を見ていた。 きっといきなりそんなことを言い出した俺に、絶句しているのだろう。 「(なんて言ったらいいんだよ)」 夕日を全身にあびて、頼りなく立つ小さな影。 「(なんていったら、わかってもらえるんだよ)」 それは懐かしく、慕わしく、俺の心を強く強くひきつける。 「(こういうの、何て言うんだっけ………なんだったっけ…)」 すももはそっと目を伏せた。 俺の言葉が足りなかったせいだろうか、それとも沈む一瞬前の夕陽のまぶしさのせいだろうか。 「………く」 「石蕗くんっ」 「……ご、めん」 ……俺はすももに背を向けた。 情けなくて、情けない自分に腹が立って流れてきた涙を見られたくなかった。 「間違ってないよ、石蕗くん」 「わたしは石蕗くんが大好きで……」 「石蕗くんもわたしのことを大事にしてくれたの……」 「……じゃ、じゃあ」 ……俺は大事なひとを、すもものことをどれほど傷つけていた? 抜け落ちた半年間の記憶が何だったのか、まだ思い出せない。 すももだけが、暗闇の中の小さな光のように、ぽっかりとあいた俺の記憶のなかにある。 好きだったんだ。 その事実だけは、わかった。 でもそれはなくした記憶を思い出したんじゃなく、心がそう言ったからだ。 消えてしまった半年間の俺は、すももをどうやって好きになって、どんな風に触れ合っていたんだろう? 「ご…め……ん」 俺が思っている以上に、すももは悲しんだろう。 俺がなにもかも忘れてしまったことで――。 「ごめん、俺のせいで」 「石蕗くんは悪くないんだよ」 「わたしのこと助けるために忘れちゃったんだよ。だから、石蕗君は悪くないの」 「それに、わたしが覚えてるから大丈夫」 ……すもも。 まっすぐにこっちを見上げる目は、俺を映していた。 「焦らないで、石蕗くん」 「わたしは、ずっと待ってるから」 「だから焦らないでいいよ、ゆっくりでいいよ」 「石蕗くん、大丈夫? 頭…痛いのかな?」 『わたしは、ずっと待ってるから』 『だから焦らないでいいよ、ゆっくりでいいよ』 この言葉――何でもない、俺のことを心配してくれてる、そんな言葉。 なのに俺の心の奥深くまで突き刺さってくる。 「ここ……」 「何か、色々あるんだよな」 「何か、大切な思い出が……何か…俺とすももの」 多分ここは、大切な場所なんだ。 思い出せないけど、そんな気がする。 絶対に、忘れちゃいけない事。 それを思い出す鍵が、何故かここにあるんだ。 「俺きっと、忘れちゃいけない事、忘れてる」 「ごめん……」 「無理しないで、石蕗くん」 絶対に忘れちゃいけない事なんだ。 それだけはわかるのに、なんで思い出せない――。 「(なんでだよ)」 「私、嬉しいから」 「石蕗くんが思い出そうとしてくれてる事が」 「でも、思い出せないんだ」 「無理に思い出してくれなくていい……」 「きっといつか思い出してくれるから」 「でも……!」 でも、いつかじゃダメな気がする。 今すぐ、大事な事を思い出したい。 「俺…また忘れてしまったらどうすればいい……?」 「思い出そうとしてることすら……忘れてしまったら……」 「石蕗くん……思い出したいの?」 「絶対に、大事な事だから」 「あのね、ここはね」 「ここは……」 「初めての場所」 「私と石蕗くんの初めての場所なんだよ」 「いっぱい、色んな初めて……」 「初めて……?」 「石蕗くんが、私に好きだって言ってくれた場所」 「俺が……ここで……?」 「今日みたいに、温室がきらきら輝いていて、とっても綺麗で……」 「私、石蕗くんと一緒にそれが見れただけでも嬉しかった」 「うん。そしたらね、石蕗くんが言ってくれたの」 「私に、好きだよって」 「嬉しかったよ、わたし、石蕗くんに好きっていってもらえた」 「好きになったひとが、自分のことを好きになってくれたんだもん」 「それから初めて、手を繋いで……」 「初めて……キス、したんだよ」 恥ずかしそうに言ったすももが、俺の手を握った。 小さくて柔らかくて、温かい手のひら。 嬉しいと思っているのに、握り返せない。 「私と石蕗くんの、初めての場所」 「色んな、初めて……」 その日、すもものことを好きだといった俺は……いない。 思い出せない。 俺を映してるすももの目の奥には、不安はないだろうか。 俺が今、すももに感じている気持ちは本物だろうか。 この温室で、すももを好きといって、キスした俺と同じ気持ちなんだろうか。 引き寄せられたのは、俺だった。 小さな唇の感触が伝わってくる。 「(――すもも)」 柔らかくて、優しくて、温かい。 暗く冷たい迷路の中にあった、なくした記憶が音をたてて崩れてゆく。 すぐに泣きそうになったり、落ち込んだり。 でも、すごくすごく頑張りやで……強い。 小さいその体は、抱きしめると手が余ってしまう。 「……つわぶ…き…くん?」 俺の記憶の中のそれらは、きっとすもものカケラだと思う。 全部を思い出せてないことは、自分が一番よくわかってる。 だけど、どのカケラも愛しくてたまらない。 「すもも、俺」 「俺、すもものことが好き……好きだ」 「だから、俺と」 「俺と一緒に……いてほしい」 「ごめんな、俺まだ……初めてすももを好きになった時のこと、思い出せないんだ」 「どんな風にすもものこと、好きだったかってことも――」 「すもものこと、記憶を失う前と同じくらい好きになってるかなんて、わからないんだ」 「……うっ…ん」 「だから、俺」 「もう一回、すもものこと、最初から好きになる」 「それでも……いいかな」 「ありがとう、嬉しい」 「ハル君は約束をまもってくれたよ」 「すもも……好きだよ…ほんとに好き」 「だから………」 「ハル君に……ぜんぶあげます」 「わたしを……ぜんぶあげます……」 「俺、そんな……」 腕の中のすももは、ふるふると頭をふった。 約束。 もう一度、好きになったら……ちゃんとしよう。 ドクンと胸の奥が鳴る。 それは俺もすもも一緒だった。 くちづけをすると、すももの唇は震えながら小さく俺の名前を呼んだ。 ブラウスと下着の隙間から、すももの素肌が見える。 白い肌がほんのりと紅く色づいていた。 「(なんて可愛いんだろ)」 どうしてこんなにもちょっとしたことが、愛しく思えるんだろう。 「あの、ハル君……」 すももの顔は真っ赤になっていた。 「ずっと見てたら、恥ずかしいよな」 「ううん……。平気」 「もっと、いい?」 頷かれた事を素直に喜んでいる自分がいた。 頬を染めるすももと、シャツの狭間の白い肌と――。 でもその先までも俺は全部知ってしまっていいのだろうか。 とまどいながら……俺はそっとスカートをたくしあげた。 「あ、あの、い、いやだったら、言って」 「い、いやじゃないよ」 恥ずかしげにすももが俺を見つめていた。 ほんのすこし伏せた目が潤んでいる。 すももは……こんな表情をする子だったのか? そんな風に思いながらも、こんな表情を以前にも見た事がある気がしてならない。 「ほんとに……無理してない?」 「してないよ、ハル君」 「大丈夫……わたしはハル君のこと…大好きだもの」 ゆっくりと腕を引くと、指にかかった下着がおりていく。 そして、その下からすももの肌が見えてくる。 隠されていた部分が晒された事で、心臓が大きく高鳴り、そこから目が離せなくなる。 声をあげられ、太腿の辺りまで下着をずらして手が止まってしまった。 すももは真っ赤になっていた。 本当に恥ずかしくてたまらないと言った表情。 「……ハ…ハルく…」 俺の顔も真っ赤になっていることは、嫌でもわかった。 見つめているだけで、耳まで熱い。 鼓動が音をたてそうなほど強い。 だけど、目はすももから離せない。 「あの……ごめん」 ふっと胸の中に罪悪感が沸き起こった。 俺はこんな風にすももを扱ってもいいのだろうか。 大切な事を思い出せていないのに、忘れたままなのに、こんな風に……。 「ハル君……?」 「ちゃんと、思い出したわけじゃないのに。好きだって伝えただけなのに、こんな……」 「こんなことしちゃ、いけない気がする」 「いいの、いいの……」 こんなのは、俺がすももの優しさに甘えているだけなんじゃないだろうか。 いいって言われたからするなんて、そんな事は許されないような気がする。 「わたしが、ハル君とこうしたいの。だから、そんな風に言わないで」 「でも、俺は」 「わたし、ハル君となら平気だよ……」 また、その優しい言葉に甘えてしまいたくなる。 だけど、本当にこんな風にしてしまっていいのだろうか。 「あの……。あのね……」 すももの白くて細い指が、俺の下半身に近付いた。 突然の事に俺は戸惑った。 大丈夫と言いつつも、その声は少し震えている。 こんな事をするのが大丈夫なはずはない。 近付いた指先が、ズボンのチャックを探し当てた。 触れられる感触に反応してしまう体が憎らしい。 触れるか触れないかだけの指先の感触に、体全体がビクリと震える。 それに気付いたのか、すももは驚いたように俺を見上げた。 視線が合うと、すももの指先は戸惑うように下半身から離れていった。 「は、ハル君、あの……」 「ど、どうしたの」 「ず、ズボンの……」 何を言い出すのかと思った。 すももがこんな事をするだけでも驚いているのに、更にその先を促す事を言うなんて。 「む、無理」 「でも、あの」 「そんな事、言われても……」 すももの表情と声はずるい。 そんな風に見つめられて、恥ずかしげに言われると迷いが生じてしまう。 だめだと思っているのに、その表情と声が俺を迷わせてしまう。 「お、お願いって言われても……」 下から上目遣いで見上げられ、俺には断る術が見付からなかった。 こんな風に見つめられて、だめという言葉を貫き通せるわけがない。 指先でジッパーを摘む。 だけど、やっぱりためらいがあってそれを下におろせない。 「あの、一緒に」 白く小さい手のひらが俺の手に重なった。 その手が俺の手を握り、重ねられた二人分の手は下におろされていく。 「は、ハル君」 すももは一瞬だけそちらに目をむけていたが、すぐに恥ずかしそうに視線をそらした。 恥ずかしがるすももと同じくらいか、それともそれ以上か、俺も恥ずかしくて仕方なかった。 「あの、この先って……」 「この先って、言われても」 「そ、そうだよね、どうしよう」 「あ、の……」 「えっとぉ」 少しだけまたこちらに視線を向けたすももは、そっとそこへ顔を近付けた。 目を閉じて、唇を軽く突き出したすもも。 柔らかい口付け。 「す、すもも!!」 たったそれだけの、唇が触れるだけの感触でビクリと体が震えた。 「な、なんで、そんな」 「え、あの。ち、違う?」 「違うとか、そういうんじゃなくて、あの……」 情けない事に、すももに口付けられただけで俺は更に反応してしまっていた。 それがわかったのか、また恥ずかしげに視線をそこから離してすももは頬を赤く染める。 「は、ハル君……」 「あ! ちょ、っと!!」 「ん、んんぅ」 すももが、そっと、何度も何度も口付けている。 柔らかな唇の感触が、俺の一番敏感な部分に触れている。 「んっんっ、ちゅっ……」 こんな事した事がないはずなのに。 どういう事かもわかっていないようなのに、一生懸命に口付けを続けるすもも。 恥ずかしいのか、すももは決して自分が口にしている物を見ようとはしない。 だけど一生懸命なその姿にも、俺は反応してしまう。 「でも、あの……こういうの」 「……あ、あの」 「こうしたらハル君、ダメじゃないって思ってくれるかなって」 「わたしはちゃんとハル君が好きで……ハル君とひとつになりたいって……」 「わたし、本当にハル君ならいいの、だから……」 その気持ちが、たまらなく嬉しかった。 「……そんなの、もうしなくても」 「ハルく……」 「俺、いいんだよな、すもものこと、好きでも、愛しいって思っても」 「うん、ハル君」 「もっとすももを抱きしめたいって思っても、いいんだよな」 すももを立ち上がらせると、頬を軽く撫でた。 くすぐったそうに微笑む表情が嬉しくて仕方ない。 立ち上がらせたすももの目の前でシャツを脱ぐと、恥ずかしそうに目をそらされた。 「これ……こうしたら冷たくないと思うから」 脱いだシャツをベンチに敷いた。 すももは一瞬驚いたように俺を見て、それからそっとその上に腰掛けた。 「下、やっぱり冷たい?」 「大丈夫。ハル君のシャツ、あるから」 白い肌の上にあったブラジャーをはずして、その上に覆い被さった。 不安そうなすももは、目の前にあった俺の腕に強くしがみついた。 「ハル君、あの……」 「大丈夫。掴まってて」 頷いたすももの力が強くなった。 その力を感じながら、怖がらせないようにとゆっくり動き始める。 スカートをまくりあげると、すぐにすももの柔らかいお尻に触れた。 「だ、大丈夫」 まくりあげたスカートをそのままにして、自分のズボンのベルトとボタンを外して、下着ごとずり下げた。 引いていた腰を元に戻すと、すももの肌と触れ合う。 「……はっはう!」 「すもも、あの……もうちょっと体……力抜いてほしい」 緊張で体が強張っているのは嫌でもわかる。 俺も同じくらいに緊張しているからだ。 なるべくすももを不安にさせないように気をつけながら、広げられた足の隙間に指を進ませた。 「ひゃぅ!」 柔らかい感触が指先に伝わる。 「あ、や……ハル君……そんなとこ」 先に進ませた指を軽く動かすと、しっとりと湿った感触がした。 温かくて、いつまでも触れていたいと思わせる柔らかさ。 「ん、ん……あっやっ」 その感触を確かめるように俺は指先を動かしていた。 傷つけないように、優しくなぞってゆく。 恥ずかしそうな吐息をもらしていたすももの頬は真っ赤になっていた。 「は、ハル君……そんなとこ……触るの……や…じゃない」 「イヤなわけ……ないよ、すもも、温かい」 「や、やだ……は、ハルくんっ…んっ」 動かす指の感触に声が出そうになっているのを、すももは耐えていた。 俺の腕をつかんでいた細い指が、ふるふる震えている。 それは、俺がしている事を感じてくれているってことだろうか。 「はぁ、あぁ……ハル君が触ってる…の……指……」 動かし続けている指先が、すももから溢れた愛液で濡れていく。 濡れた指先を少しだけ、その奥に進ませた。 「ふぁあっ!」 「あ! ご、ごめん」 「ん、ん。へいき……へいき…っ」 「あっ!やあっ……ハルく…な、なかに入ってきちゃっ……」 小さく漏れる声と同時に体がピクピクとそれに反応して震えていた。 「んっんっ……んっ」 体の反応が増えると同時に、力も抜けていく。 こんなに力が抜けているともう先に進んでも大丈夫なんだろうか。 でも、わからない。 こんなに小さくて柔らかい体で、本当にこの先に進んでも平気なのだろうか。 「あ……はあはあ……ハル君……、ハル君が汚れちゃうよ……」 「汚れないよ」 「で…でも……そこ……すごく…ぬ、ぬれてる……」 「嬉しい」 「俺が触れてるの、気持ちいいって感じてくれてる……気がするから」 「は…ハルく…ん、気持ちよかったよ……」 「ハル君……ハル君は…?」 「ハル君が気持ちよくなるの……は?」 「す、すもも――」 その言葉の先を言い出せないまま、すももは黙ってしまった。 「すもものなかに……」 恥ずかしげに俯くすももの横顔は真っ赤になっていた。 やっぱり、やめた方がいいのだろうか。 そう思うと言葉と行動が止まってしまった。 そんな俺をすももが呼ぶ。 視線を向けると、恥ずかしそうに肩越しに見つめられた。 「わたし、大丈夫だから」 囁くように小さな声で答えられ、俺はただ頷くしかできなかった。 「じゃあ、あの。力抜いて」 頷いたすももは、体から力を抜こうとする。 だけど、それが逆に緊張してしまうのか、体から力が中々抜けない。 「もうちょっと」 「も、もうちょっと……?」 「うん……すももが……痛くないように」 「力抜いて……ほしいかな」 腕にしがみついたまま、すももはもう一度力を抜く。 だけど、やっぱり上手くいかない。 あまり言うと更に緊張するような気がしたので、俺はそのまますももにもう一度指をはわせた。 「あ、はあっ……んっ」 またビクリと震えて声があがった。 はわせた指を何度か動かしてから、俺は自身をすももに近付けた。 「はあ、あ……。ハル君……」 「今から、だから」 また、すももの体に力が入った。 言わない方が良かったかと思ったが、そのままその奥へと進ませてみる。 「んっんんっ……」 「あ、あれ」 奥に進もうとしたけれど、俺を拒むようにすももの体は硬く閉じられてしまう。 「や、あぅ……痛っ……は、ハルく…ん」 声をかければかけるほど、すももは緊張してしまう。 なんとか先に進もうと少し焦りながら、指先でその部分を探り当てた。 淡い裂け目は先端だけを沿わせるだけでも、悲鳴をあげそうだ。 「あぅっ!!」 「……う…くっ…うん」 「すもも、やっぱりもう少し……ちゃんと時間をおいてから俺たち……」 「だ、だいじょうぶ…だから」 大丈夫なようには聞こえない。 でも、ここでやめてしまえば、きっとすももは大丈夫だと無理を言い続けてしまう。 それなら、もっとこの先に進んでしまった方がいいのだろうか。 「ハル君…へいき、だから」 「して……ください」 すももは苦しそうだけど、俺を決して拒まなかった。 「ありがと……すもも」 ゆっくりと、だけどしっかりと、狭く窮屈なすももの奥へと進んで行く。 「んっ! ふ、ぁあ……!!」 聞こえて来る声は苦しそうなもので、その先に更に進むのを戸惑わせる。 だけど、そこで動きを止めてしまう事はできなかった。 俺はもっともっと、すももと触れ合いたい。 「……すもも……いま……してるから」 「ごめんな、痛いよ…な」 「…ちょっと怖い……よ」 「嫌じゃ、ないの……んんっ…で、でも怖いよ……」 そんな風に言われるとは思わなかったから、どうすればいいのかわからない。 でも、確かに今自分に何が起こっているのかわからないのは怖いものかも知れない。 どうすれば、その怖さを少しでも和らげることができるんだろう。 「あの、ね」 「ハル君……ぎゅって……」 「ぎゅって抱っこしながら……してほしい」 「ハル君が近くにいる…って感じながら……したい……よ……ダ…メ?」 「ダメじゃない」 「ハルく……ありがとう」 すももの体に手をのばす。 抱き寄せると、本当に小さい。 そのなかに、俺は今……はいってる。 振動を与えないように、ゆっくりとすももを自分の方に向けさせた。 「あっやぁっ」 「痛くなかった?」 「へ、平気……」 目の前にはあられもない姿のすももがいる。 白い肌、小さな山を描く胸の先はうっすらと色づいている。 俺が触れて、俺が抱いてる体。 つながったままで、俺とすももはお互いの体を見つめあっていた。 「あの、両手……ぎゅってしていい?」 その手を強く握り締めると、すももも同じように強く握り返してきた。 「じゃあ、あの」 先端に埋まったままの俺を先に進めようと、ゆっくりと腰を前に動かした。 「あ、あぁっ!!」 痛みが伴う行為にすももが辛そうな声を出した。 手を握る力が強くなる。 少しでも和らげようと、俺も手を握る力を強くした。 それに安心したのか、すももは少しだけ体の力を抜いた。 「あ、んっ! んん…ハルく…ん……」 ゆっくりと確実にすももの中に入って行く肉棒は、きつく狭いそこで強く締め付けられる。 そして、奥に進むたびにすももは更に辛そうに声をあげる。 もうやめてしまおうかと思う反面、その締め付ける感触をもっと感じたいと思ってしまうのも事実だった。 「は、あ…。はあ、はあ……」 「う、ん」 「もうすぐ、全部」 「んんっ」 半分ほど中に入ったところで一旦動きを止めて、呼吸を整える。 すももも同じように呼吸を整えているのか、胸が上下にゆっくりと動いていた。 「やっ……ああぅ、やっ!!」 手を握り直し、一気に腰を前に突き動かした。 途中で止まっていたものが、一気にすももの奥まで辿り着く。 「あ、はあ。あ……」 「奥まで、全部入ったから」 「全部……?」 「わたしの…なかに、ハル君のが……」 呟いたすももは恥ずかしそうに頬を染めながら、俺を見つめて微笑みを浮かべた。 辛いはずなのに、微笑みを浮かべるすももに胸が高鳴った。 「動くけど……」 「本当に辛かったらやめるから、言って」 「大丈夫。ハル君だから……好き…だから」 もう一度手を握り直し、今度は腰をゆっくりと引いた。 中に埋まっていたものが、ゆっくりゆっくりと外に出る。 絡み付くような感触に襲われていた。 外に出ようとすると、今度はそれを拒まれているように感じる。 「あ、はあ、あっ! ああ……」 「ん、すもも!」 そっと引き抜いたそれをぎりぎりの所で止め、もう一度ゆっくりとすももの中に埋めていく。 「ああ、あっ……やっ、ハルく…んっ」 すももの体を気遣いながら、ゆっくりと腰を動かす。 出るのも入るのも窮屈で狭いそこは、まだまだ俺を受け入れてくれそうになかった。 それでも、俺は何度も何度も、ゆっくりとした動きを続ける。 「んんっ、や……あっ」 「はあ、はあ、んっ」 「……あっ、あっ……ああっ」 手を握るすももの力が強くなった。 まだ怖いのかも知れない。 でも、俺もこうしているのが怖かった。 すももを壊してしまうんじゃないかと思うと、激しく動けなかった。 「ハルく…ん、きもち……いいよ」 拒み続けるように締め付けていたすももの中は、ゆっくりと動いているうちに徐々に俺を受け入れ始めていた。 動きも少しずつだがスムーズになって、先ほどよりも出入りが自由になる。 「は、ああ。はぁ、ああ、んっ」 それに合わせて、すももの声も苦痛だけの声ではなくなっていく。 それでもやっぱり不安で、腰の動きはゆっくりのまま。 だけど何よりも、すももとこうして一つになれている事が嬉しくて仕方ない。 「は、あ! あ、あっん!」 「すもも……!」 「ハルくん! ハルく……!」 「どう、したの?」 「あ、の、今、わたしとハル君……ひとつだよね」 「ひとつに、なってるよね」 「わたし、嬉しいの……」 「俺も…同じ事思ってた」 「俺も一緒だよ……すもも」 「一緒だね……」 繋いだ手を離さないようにしながら、俺は腰を前後に動かし始めた。 「はっ! ああ、あっ! ぁん!」 「はあ、ん、んっ」 ゆっくりだった動きはスムーズになり、すももの中をかき回すように出入りできるようになる。 俺が動くたびに小さな体は壊れそうなほどに揺れて、少し心配だった。 「あ、ふぁっ! あ、ああ、あっ」 だけど、絡み付くようなその中の感触に意識が飲み込まれてしまいそうになる。 気遣う事を忘れて激しく腰を動かしたくなるけれど、その意識をすももの声が繋ぎ止めてくれる。 「(もっともっと丁寧に、大切にしないと、すもものこと、ほんとに)」 「は、あっ、んんぅ!」 「あ、んっ! すもも……」 「ん、あっ! は、ハルくっ!」 何度も名前を呼んで、何度も名前を呼ばれて、顔を見つめ合う。 何度も突き上げるとすももは辛そうな顔をする、だけど俺が見つめると嬉しそうに微笑む。 それが嬉しくてたまらない。 「あ、はっ! ん、あっん! あああっ!」 腰の動きは徐々に早くなっていた。 時々、角度を変えて突き上げる余裕すら出て来る。 柔らかい感触に包み込まれながら、俺は腰を動かし続けていた。 「んっ! はあ、ああ、あっ!」 すももの吐息の中に、苦痛以外のものが混ざっていた。 少しだけ甘い声。 俺を受け止めて、気持ちいいと思ってくれてる。 その甘い声が、俺の体をさっと撫でてゆく。 「あああっ! ふぁ、あっん!!」 「……ふっ! っくぅ!」 しっかりと握り締められる手が痛い。 だけどそれ以上に、窮屈なすももの中で締め付けられる感触が痛い。 その全てがすももが与えてくれているものだった。 そして、俺もすももに同じような痛みを与えている。 いや、俺が与えているのは同じではなく、それ以上の痛みかも知れない。 「すもも…辛く、ない?」 「うん……ハル君、ハル君……好き……好きなのっ」 全てが愛しかった。 こんなにもこんなにも愛しい人が自分にいる。 未だにそれが信じられなかった。 ただ愛したくて、俺はより一層腰を強く動かした。 「やあっ、ああっ」 締め付ける中の感触が強くなる。 すももの限界が近いのだろうか。 そこまではわからない。 けれど、自分が徐々に限界に近付いているのはわかっていた。 「すもも! 俺、んっ!」 「ハル君っ! あ、はあ、あああっ!!」 強く手を握りながら、腰を大きく深く突き上げた。 途端にすももの声が大きくなる。 また大きく腰を引いてから、もう一度深く深く突き上げた。 最奥に辿り着いて動けなくなると、すももの中は強く締め付けてくる。 「んんっ、ハル君……あ…ついよ……」 「っくぅ! す、すもも!!」 ぎりぎりまで引き抜き、最奥まで突き上げた瞬間、すももが強く手を握り締めて少しだけ体をのけぞらせた。 その瞬間、すももの中に埋まっていた俺は今までで一番強く締め付けられた。 その強い締め付けに耐え切れず、俺はそのまま、すももの中でその全てを叩き付けるように吐き出した。 「……あ…んんっ」 すももの中で、俺は果ててしまった。 その感触にすももは体と声を小さく震わせていた。 「はあ、はあ、はあ……」 全てを注ぎ込みながら見つめると、体の下に組み敷いたすももは恥ずかしげに微笑みを浮かべていた。 「すもも……好きだ」 「うん、わたしも……」 「痛くしてごめんな……痛かったよな……」 「こんな風に……俺…すもものこと好きなのに……こんな風にしかできなくてごめん……」 「ずっと……ずっと待ってたよ……ハル君」 「ハル君が、わたしを……もう一度ちゃんと抱きしめてくれる日のこと……」 「ハル君……あったかい……」 温室の中の明かりは緩い。 俺の腕の中には、すももがいる。 素肌にシャツだけをまとったすももの肌が、まだほのかに薄桃色だ。 一枚のシャツをへだてた先にある、ほんのりとした体温が心地いい。 「ハル君、寒くない?」 ゆっくりと振り向いたすももが、小さく囁いた。 「ここ、ほんとに温かいんだな」 「外……寒そうだね」 「ああ、少し風がでてきたみたいだ」 「あったかい」 少しだけ丸くなったすももの背中が、俺にぴったりとくっついてきた。 後ろから抱き寄せたすももは、本当に小さかった。 「……ハル君の温度」 「ハル君の温かさをね、背中から感じるの」 「こんなにそばにいるんだなって思うと……嬉しい」 「……俺も」 さっきまであんなに激しく繋がっていた。 どんなにすももが望んだことであっても、それはすももの体に負担になることだった。 だけど……すももは心地よさげに微笑んでいる。 もう体は繋がっていないけど、すももはこんなにもそばに感じられる。 言葉を交わすことなく、俺たちはそのまま寄り添いあい座っていた。 「……なんだろ、あれ」 「えっ? な、なにか見つけた?」 「うん…ちょっとごめん」 ふと目に入ったのは、温室の隅に生えていた草花だった。 草も木も花も、この温室の中にはたくさんある。 俺たちをぐるりと囲むいろんな草木のなかで、それだけが気になって仕方ない。 「(何か……俺が忘れてる何か……なのかな)」 「ごめんね、ちょっと……気になるんだ」 急に立ちあがった俺を、すももはきょとんと見つめている。 俺にもどうしてかはわからなかった。 ただそれが何なのか……どうしても知りたかった。 気になっていたその場所には、小さな花が咲いていた。 「すもも、こっち、こっちに来てみて」 「あの花が、なんだか気になったんだ」 「すごい、お花…咲いたんだ……」 すももはその小さな花を見て、小さく息を呑んだ。 「芽は出てたけど……お花、なかなか咲かなかったの」 「……でもどうして、このお花の場所……」 「この花は、俺とすももの思い出……だったんだな」 「ここで一緒に植えたんだよ」 すももの横顔が、ほんのり紅い。 俺の中になった焦りがひとつ、すっと消えていった。 忘れてしまった二人の思い出を、ほんのひとかけらだったけど、俺は手に入れたんだ。 「この花の名前、わかる?」 「これはね、マツユキソウ」 「マツユキソウ」 「雪を待つって書いて、待雪草なの」 「そうか……冬に咲く花なんだな」 『もしもわたしが先に、このお花が咲いたの見つけたら……ハル君に一番に教えるね』 『でも一緒に見つけられたら、いいな』 「咲いたとこ、一緒に見つけられて……良かったな」 「う…うん!」 「ハル君、あのね、待雪草の花言葉って凄く素敵なんだよ」 「待雪草の花言葉って――」 「待って」 「知ってる」 「俺…知ってる。前に教えてくれたよね」 「……ハルくっ?」 嬉しかった。 俺はそのことを思い出せた。 つながらない記憶の一片だったけど……俺はその言葉を覚えていた。 「『希望』だろ?」 「うん、うん! 思い出してくれたんだね!」 「ああ、なんだろう……その言葉だけ、すごく頭に残ってた」 「嬉しい!」 「でもね、もうひとつあるの」 「もうひとつ?」 「うん、花言葉ってひとつのお花にいくつかあるの――それでね」 「待雪草の花言葉の中で一番……好きになった言葉」 「わたしと同じ気持ちの言葉だったから」 「どんな言葉?」 「……それは」 「………その花言葉はね」 「あれ、もう家に着いちゃった」 星空から視線を落とすと、目の前にはもうすももの家があった。 優しく明かりが灯る玄関を見つめて、すももが小さく息を吐く。 たった一日の出来事だった。 言葉を交わして、肌を合わせて……いま一緒にいる。 たった一日で、でも俺はたくさんのものをすももからもらった。 「一緒の時間って、すぐ経っちゃうね」 「じゃあ、俺はここで」 「え? でも……」 「もっと、一緒にいたい」 寂しそうに言いながら、すももが自分の指と俺の指を絡めた。 絡まった指が離れないようにと、強く力が込められたすももの指先。 俺も離したくなんて、なかった。 「俺も、一緒にいたい……」 「でもすもも、帰るの少し遅くなったから」 「うん。そうだね、お父さん心配してるかも」 「明日からは、ずっと一緒だから」 「だから……あの……」 絡めた指は離さないといけない。 わかっているけど、どうしてもできなかった。 もっと、ずっと、すももに触れていたい。 「どうしよう……」 「わたし、わがまま」 「これからは、もうずっと一緒なのにね」 「だけど、今もっともっと一緒にいたいって思ってしまったの」 「俺も同じだから」 絡めた指が、繋いだ手が離れないように。 俺はすももの細い指先を握り返した。 小さな細いすももの手が壊れてしまわないように、だけど強く――。 ほんのりと熱を帯びてゆく手のひらの温もりが、心地よかった。 「……こ、これじゃあ帰れないね」 「少し前の俺が約束した通り」 「今の俺は、すもものこと絶対に大切にするな」 「約束、守ってくれてありがとう」 「これからもよろしくね」 瞳を閉じて、すももの口元が優しい笑みを浮かべた。 俺が覚えていた、春のすもも。 言葉をすぐのみこんでしまう、内気な女の子だった。 俺が好きになっていった、夏のすもも。 少しだけ覚えてる姿は、頑張りやな笑顔だった。 それから、俺の隣を歩いてくれるようになった。 俺のことを本当に好きでいてくれたすもも。 何もかも忘れてしまった俺のそばで、ずっと泣くのをがまんしていたすもも。 そのどの顔よりも、今目の前にいるすももが愛しかった。 「やっぱりすももちゃんだ」 「お、お父さん、ただいま」 「はい、おかえりなさい」 「やあ、石蕗君。すももちゃんを送って来てくれたんだね、ありがとう」 俺とすもも、お互いがとっさに手を離したからだろう。 すもものお父さんは、さっきまで俺たちが手をつないでた事に気づいてないようだ。 「お、お父さんどうしたの?」 「玄関から声がしたからね、見に来たんだよ」 「お父さん、遅くなってごめんなさい」 「すいません。俺が引き止めてしまったから」 「あ、違うっ、違うの、わたし」 「いやいや〜。怒ってないよ、大丈夫」 「ただね、今日はすももちゃんがビックリする事があるから」 「びっくりすること?」 「そうだよ。だから、早く帰って来ないかな〜って待ってたんだ」 「お父さん、びっくりすることって何?」 「中に入ればわかるよ、さあおいで」 「あ、じゃあ、俺はここで」 「ああ! 折角だから、石蕗君もおいで」 「え!? あの、でも」 「いいから、いいから。ほら、二人ともおいで」 そう言い残して、すもものお父さんはさっさと家の中へと戻ってしまった。 すもももきょとんと俺を見つめ返している。 このままここで帰るなんて……できなさそうだ。 「え、えっと……いいのかな?」 「う…うん。お父さんもそう言ってるし……」 「良かった。まだ一緒にいられるね」 すももは嬉しそうだけど、俺はちょっと複雑な気分だった。 「お、お邪魔します」 「この靴……あれ」 玄関先には、女性用の靴が綺麗に揃えて置いてあった。 すももは何故かそれを、不思議そうにじっと見つめている。 「帰って来たみたいだね」 「え、本当? わあちょっと待って待って」 「あれ、如月先生の声?」 如月先生がすももの家にいる? 「(そういえば、聞いた気がするな)」 確かすももは如月先生の姪とか……確かそうだったはずだ。 お父さんだけじゃなく如月先生までいるなんて、ますます気が重い。 「や、やっぱりそうだ!」 「すもも? どうしたんだ」 「ハル君、こっち! 一緒に来て!!」 「え! あっ!」 「おかえり〜、すももちゃん」 「ご飯できてるよ、みんなで食べよう」 「石蕗君も、色々ご苦労様だったねえ」 「あ、えっと。は、はい……」 「ちょっとまって〜! 私も今すぐそっちに行くから〜」 「お……お母さん!」 「お母さん、お帰りなさい!!」 「ふふふっ、すももちゃんもおかえりなさい」 「すももちゃん、元気だった?」 「うん! お母さんは?」 「勿論! 私はずーっと元気だったわよ」 「そっかー。良かったあ」 「あ、すももちゃん。あの服は着てくれた?」 「はは、すももちゃんの思った通りに話せばいいよ」 「お母さんの服、わたしにいっぱい勇気をくれたよ」 「ほんと!! 良かったぁ。役に立ったみたいね」 「さあ、お喋りはご飯を食べながらでもできるよ〜。みんなで食べよう」 「正史郎さんのごはん久しぶりだわ! いっぱい食べちゃおう」 「お義兄さんのご飯は美味しいからなあ」 「石蕗君も遠慮しないで食べてねー」 すももに、如月先生に、すももの両親。 そこに俺が加わっての夕食だった。 「(俺……何か……何しゃべったらいいんだろう)」 みんな話しながら箸を動かしている。 思わず面食らっているうちに、食事はどんどん進んでいった。 「ねえねえ、すももちゃん」 「もしかしなくても、この子はすももちゃんの彼氏よね?」 「あ、ああうう!!」 「え、あ…ああ…っと」 「こんばんは! すももの母のカリンです。よろしくねっ、つわ…つわ……」 「あ、お、俺…名前は石蕗正晴でその…えっと……」 「石蕗正晴君ね! うん、覚えた。ま、そんなに緊張しないでいいからね!」 「普通は緊張するって……」 「ナツメ〜?」 「い、いいえ、なんでも〜」 「みんな楽しそうで、嬉しいなあ」 「正晴君」 「は、ははい!」 「すももちゃんの事、よろしくお願いします」 「お、お母さんもハル君も、そんな改まって挨拶なんて〜」 「そうか、すももちゃんはハル君って呼んでるんだ」 「じゃあ、お母さんもそう呼んじゃおうかなあ」 「お、お母さん〜!!」 「ふふふふ。冗談よ、冗談」 「あ、そうだ。ナツメさん」 「うん? どうしたの」 「あの、わたし、あのお薬……」 「薬がどうかした?」 「折角作ってもらったのに、捨てちゃったの……ごめんなさい」 「ああ、使わなかったんだね」 「うん。ごめんなさい」 「いいんだよ、すももちゃん」 「薬を使わなくても、すももちゃんと石蕗君は元通りになったんだよね」 「それなら、それが一番いいんだよ」 「あ、ありがとう、ナツメさん」 「石蕗君も良かったね〜」 すももと如月先生は、何かを知っているのかくすくすと笑いあっている。 記憶をなくす前の俺とすもものことも、きっとたくさん知っていたんだろう。 「(……なんだか複雑だな)」 「ほらね〜。私の言った通りだったでしょ」 「二人は大丈夫だって」 「本当、いつも姉さんにはかなわないです」 「ははは、当たり前よ」 「確かにナツメ君は、ずーっと前からカリンさんにはかなわなかったからね〜」 すももの家族のやりとりは、すごく暖かかった。 突然の訪問者である俺ですら、いつしか頬が緩んでしまうほどだ。 「良かったな」 「すもも、嬉しそうだから」 「うん、嬉しい」 「わたしの周りに、こんなに大好きな人達がいてくれるから」 すももの笑顔は、心の奥から楽しそうだった。 俺のことで、すももはずっとずっとこの笑顔を押し殺していたような気がする。 家族の前で、大事な友達の前で……それから、俺の前で見せてくれるこの笑顔。 すももがこの笑顔をなくしてしまわないようにすること。 それが、俺が守らなきゃいけないことなんだと思う。 「これから、いつでも遊びに来てね」 「今日みたいに、またみんなでご飯を食べよう」 「お、お父さん!」 「だって、今のすももちゃんすごく嬉しそうだからね」 「あ、あの、また来ます、俺」 「俺も、こうやってすももの大好きな人達と一緒にいたいから」 テーブルの下で、俺はすももの手を握った。 小さな手は最初はびっくりして、それからぎゅっと握り返してくる。 それから俺は、誰にも聞こえないように小さく言った。 恥ずかしいから、きっと何度も言えないと思う。 でもきっと、これから先ずっとずっとすももに思いつづける気持ちだ。 「好きだよ」 「大好き」 「大変なことになっちゃった石蕗君」 「まぁそれは定められし運命ってことでさておき……次回は新たな事件が!」 「すももの友人、寡黙な少女・ナコちゃんについに――!! って感じかもしれませーん」 「あれれ? 石蕗君どうしちゃったのかな?と、それは置いておいて」 「次回は新たなる風、噂のお嬢様転校生がついにやってきちゃうよ!」 「一体どんな子なんだろうね〜?」 「いやー、青春キラメキ七夕アワーも終わりました」 「次回は謎が謎を呼ぶ、プリマ・アスパラスの正体とは?」 「ではなくて、次回はなーんとサマーキャンプなんですよね」 「夏まっさかり、青春と汗と恋と恐怖のサマーキャンプ、お楽しみに〜!!」 「あっはっは、すももちゃんちで僕を見た石蕗君の顔、最高でした〜」 「まあ落ち着いて落ち着いて」 「ところでこの時期、我が校では水泳のテストがあるんだよね」 「で、不合格ならもちろん補習……という事で、補習をくらってしまうのは誰でしょうー!?」 「すももちゃん、美味しそうな桃があってね…ついついって…ああごめん、邪魔したかな?」 「あ、ううん」 「すももちゃんの毎日日記をつけるクセは、私に似たのかな」 「きっとそうだと思う」 「じゃあゆっくり続きを書いてね。桃はここに置いておくから」 「ありがとう、お父さん」 「……日記、書きたいこといっぱいあったのにな…」 「すもも………」 「ナコちゃん、今日も送ってくれてありがとう」 「うん、さよなら」 「……すもも、私に何かできるかな」 「すももが泣かないで、笑っていられるように……」 「私ができること……何があるだろう」 「お嬢様」 「お嬢様?」 「お嬢様、どうされたんですかー」 「す、すいません……」 「……アタシ、どうしてしまったのかしら」 「あ、すももちゃん! いらっしゃいませ〜」 「こんにちは、あの、いつものお饅頭…ください」 「はいはい、お父さんにおみやげ?」 「……すももちゃん」 「何か嬉しいことでもあったのかな〜なんて」 「えっえっ!? どうして? 何もないよ?」 「……う、うんっ」 「そうそ、すももちゃんの携帯のメールアドレスって…前に教えあいっこした時から変わってないよね?」 「うん、携帯はあんまり使わないから…ずっと同じだよ? どうして?」 「オッケィ、ふふふ」 「ど、どうしたの…かな? 小岩井さん、携帯変えたのかな?」 「ん? ううん、違うの。もーそんな不安そうな顔しなくても、大丈夫だよ?」 「あ…間違えちゃった」 「うーん…やっぱりこうしようかな」 「『ハル君へ、これからもよろしくね』」 「……や、やっぱり『石蕗君』にしとこうかな」 「ど、どーしよ…そのまま送っちゃった……」 「……は、はる、くん。はるくん…明日からもちゃんと呼べる…かな…はぁ」 「ど、どうしよう、日記……日記にどうやって書こう」 「……キ、キスしちゃったこととか…うれしかったこととか……」 「お、お、お母さん……には…どうやって手紙っ…わわわっどうしよう!!」 「すもも……あれって全部…俺の話なんだよな…俺の方が恥ずかしいよ」 「もう校庭はきれいに掃除されていて、誰もそこであんなことがあったなんて知らない」 「ただの、小さな竜巻が夜の校庭で起こったんだって思ってる」 「ほんとのことは誰も知らない」 「……わたしと、ハル君がそこにいたことも」 「何度見つめても、現実は変わらなかった」 「あの日からユキちゃんは、ずっとこのガラスケースの中で眠ってるんだよ……」 「ハル君……ハル君と一緒に」 「それから、満月までの毎日は長いような短いような、でもすごく苦しかった時間だった」 「でもねハル君、みんながわたしのことを支えてくれたから、わたし、泣かなかったよ」 「……ハル君、おかえりなさい」 「また一緒に、帰れるね」 「すもも、お待たせ」 「……? どうしたの、すもも」 「なんだか元気ないみたい」 「そんなことないけど……ちょっと気になることがあったの」 「……しずくを集めること?」 「何かあったのかな」 「ううん、何もないの。きっとたいしたことないと思う。ありがとうナコちゃん」 「うん。何か力になれることがあったら、言ってね」 「すもも、ただいま!」 「見て……」 「星のしずく……採れた!」 「ナコちゃん、ユキちゃん――ありがとう、ほんとに」 「すもも、ほら…泣かないで」 「う…うん、う、うれしかったの……ありがとう」 「ふふっ…ほらすもも、笑ってね」 「恋がこんなに苦しいなんて」 「私、知らなかった」 「こんなに苦しくて、辛くて、でも――」 「消えない思いなんて……」 「最近のお嬢様は、毎日がとても楽しそうです」 「今までこんなに楽しそうだった事はないですから、私も非常に嬉しいです」 「これも石蕗君や、お友達の皆さんのおかげですね〜」 「……特に石蕗君のおかげですね、きっと」 「これからもずーっと、お嬢様がこのままで楽しそうに生活されてくれれば……」 「しずく取りも順調ですから、これからもきっと色んな事がうまくいきますよね!」 「お嬢様! おかえりなさい!!」 「も、申し訳ありませんでした! お供としてご一緒する事ができずに!!」 「いいの……」 「お叱りはいくらでも受けますから!! ……って、え?」 「お、お嬢様?」 「お嬢様、どうされたんですか? お嬢様!」 「アタシの事はほっておいて」 「え!? あ、あのお嬢様!」 「お嬢様、お嬢様ぁ!!」 「フィグラーレに帰る……」 「フィグラーレに」 「勝負も終わっていないのに、あの子にやられっぱなしなのに……」 「でも、それよりも、アタシは……!!」 「アタシ…………」