この日の舞台は、計四幕。  第一幕は、決闘であった。  小さな村の手前の原。  揃いの軍装を〈纏〉《まと》い、銃と軍刀で武装した兵が数十人、隊列を成している。  戦気を漲らせながらも不気味に静寂を守るその様は、赤い夕日に照らされて、尚一層凶々しい。  陣頭には見るも〈厳〉《いかめ》しい、厚い鎧姿の武士達が立つ。  分厚い鉄甲、長大な太刀――彼らの〈醸〉《かも》し出す威圧感は、一騎のみでも背後の兵全てに優る戦力たり得るという事実を、何より雄弁に物語っている。  今、村に向かって〈音声〉《おんじょう》を響かせるのは、〈鎧士〉《かいし》らの中でも筆頭らしき一人であった。  物言いの〈傲〉《おご》りからも、彼がこの軍部隊を率いる長であることが知れる。 «この村が〈倉掛〉《くらかけ》の反乱に〈与〉《くみ》した奸賊を匿っているのはわかっている。  おとなしく身柄を差し出せば良し――» «〈然〉《しか》らずば、村ごと踏み潰すまで!»  それを聴くのは、村の入口で垣根を作る群集だ。  住民であろう。  布告の意味を理解できない者はいなかったし、それが単なる脅しではないことを悟れない者もいなかった。  にも拘わらず、恐慌をきたす者は少なかった。  人垣の中で膨れ上がったのは怒りであった。    ――山犬野郎。  ――腐肉漁り。  大声で叫ぶまでの勇気はない。  だが憎悪を込めて囁き交わす。    ――六波羅。  ――六波羅。  噛み潰すように、その名を呟く。  〈六波羅〉《ロクハラ》。  そう呼ばれた軍兵集団の長は、同じ通告を繰り返す。  村人らは応えず、敵意と憎しみを囁き合う。  通告が、もう一度。  同時に、兵卒達が村へ銃口を向けた。  囁きが止まり、恐怖の波が広がる。  それでも、村人らの敵意は消えない。  無言の殺意。  無言の敵意。  その均衡が、不意に崩れる。  崩したのは、部隊長の発砲命令ではなく、その直前に生じた別の変化であった。  村人の壁が、どよめきながら割れる。  後方から、誰かが進み出ようとしているのだった。  ――いけない。  ――戻って、お武家さん。  ――駄目だよ、殺される。  ――お武家さん!  口々に上がる、制止の声。  それらへ、その人物は一言だけを返した。 「世話になった」  彼は進み、軍部隊の前へ姿を現した。  〈鎧士〉《かいし》であった。  村を威迫する者と、同様の。  違いがあるとすれば、鎧の状態。  入念な整備を施され、万全な機能を誇っているか。それとも損傷をそのまま、性能が劣化するままに放置されているか。  その違いだけある。  軍に属する正規兵と〈落人〉《おちうど》の差だ。  落人は、更に進もうとした。  その手を、別の小さな手が〈掴〉《つか》んだ。  童女だった。  何も言わず、手を握り、放さない。  落人も黙って、娘を見た。  片手を伸ばして、その頭をそっと撫でた。  それから、引き止める手を放させた。  童女の瞳が潤む。  振り切るようにして、落人は前へ進む。  軍部隊から幾人かが、捕らえようというのだろう、武器を構えて飛び出そうとした。  それを片手の一振りで遮り、部隊の長がただ一人、落人を迎えて進み出る。  村と軍の中間で、二人は向き合った。 「……何のつもりだ? 〈鷺沼〉《さぎぬま》」 「昔の上官に敬意を示しただけですよ。  〈垣見〉《かけい》少佐――〈元〉《・》少佐」 「…………。  村を見逃すとの言に偽りはなかろうな」 「貴方の身柄を差し出すなら、村の罪は問わない。  言った通りです」 「ならば良い。  で……? 貴様、よもや本気で俺と仕合う気か」 「後ろの味方を〈恃〉《たの》んだ方が良いのではないか」 「何故、そんな必要があります?」 「……」 「貴方は一騎打で敗北を知らないことが自慢でしたな。  生憎、そのような名誉を抱えたまま地獄へ行かせてはやれません」 「〈現世〉《ここ》へ置いていって頂く。  六波羅に叛いた者の最期には、一片の名誉とて相応しくない」 「……ほう……」 「見れば、〈双輪懸〉《ふたわがかり》も叶わぬほど〈母衣〉《つばさ》が傷んでおる様子。  地上にて、〈太刀打〉《たちうち》仕ろう」 「見上げた大言壮語だ、鷺沼。  あの青二才が、吹くようになったものよ」 「有難く馳走に〈与〉《あずか》ろうか。  冥途の土産にその〈首級〉《しるし》、頂いておく」 「……貰うのはこちらだ、垣見。  その〈皺首〉《しわくび》を肴に旨い酒を飲める今宵が、今から楽しみでならぬ」  鷺沼と呼ばれた部隊長と、垣見と呼ばれた落ち武者。  旧縁持つ二人はそれで対話を切り、共に太刀を抜き放った。  村人と軍兵がそれぞれ、息を詰める。  大鎧の武人――鷺沼は、切先を前方へ向けて構えた。  一撃必殺、敵を突き殺す正眼の剣形である。  大鎧の武人――垣見は、剣を肩へ担ぐように構えた。  一刀両断、敵を斬り伏せる雷刀の剣形である。  そうして相対し。  両者は、凝固した。  時が〈徒〉《いたずら》に流れ過ぎゆく。  村人達は、手に汗を握るばかりであった。  軍部隊の大半も、前触れ無しの決闘を唖然と見守るだけであった。  しかしそのうち一握りの者は、静止の意味を正しく洞察し、勝負の行末を思って固唾を呑んだ。  両者いずれも、意図するところは明らかである。  中段に構える鷺沼は、刺突にて対手の喉を狙う。  この構より斬撃せんとすれば、剣を振りかぶる余計の動作が入用となり、敵に遅れを取るため、まず突く以外の選択は無いと言って良い。  そして、厚い鎧で身を守る者の泣き所は、どうにも覆いようのない関節部。その最も致命的たるが喉周りの隙。  これを突くに如かず。  対する垣見は、担ぎ上段より相手の首元を狙う。  そこもまた鎧の守り切れぬ隙であり、垣見の構からやや太刀を寝かせ気味に斬り込めば、兜と肩甲の狭間を潜ってその部分へ刃先を打ち入れる事が叶う。  他の箇所を狙おうとすれば、やはり予備動作が必要となり、敵に対しての遅れとなるであろう。  斯様に両者とも、攻め手は決している。  しかし両者とも、不動にて時を送る。  それは両者とも、攻め手に併せて受け手を用意しており、そしてどちらも、対敵にその備えがあることを疑っていなかったからである。  六波羅の将、鷺沼が突き出せば――  垣見は僅かに身を捻るのみでその鋭鋒を〈躱〉《かわ》し、鷺沼が姿勢を立て直す前に斬り下ろして、勝負を決するであろう。  落人、垣見が先に斬り掛かれば――  鷺沼は一歩退いて剣撃を外し、すぐさま跳ね戻って宿敵を刺し殺すであろう。  攻め手が必殺なら受け手もまた必殺。  互いに対敵の手の内を読み切り、〈故〉《ゆえ》に動けず、戦況は膠着する。  かかる情勢、勝負は〈即〉《すなわ》ち、体力気力の削り合い。  垣見と鷺沼、対峙する二者は今、敵を一足一刀にて仕留め得る体勢と敵の微細な変化をも見逃さぬ集中力、その二つを維持しながら向き合っている。  なればこその膠着。  これが両者の心身に多大な負担を掛ける事は論ずるまでもない。  渓谷を綱渡りするにも等しい過酷さである。  やがては一方が力尽き、構を崩す。  その時もう一方が余力を残していたならば、即座にその崩れを狙って攻め掛かり、勝利者となるであろう。  軍将、鷺沼。  落人、垣見。    いずれがいずれの役を負うか。 「…………」 「…………」 「…………」 「……っ……」  〈齢〉《よわい》の格差が現れようとしていた。  鷺沼が壮年の頃であるのに対して、垣見はそれよりやや年嵩、老境の迫りを肌に感じる年齢である。  体力差は、大きくはないが、確かに存在する。  鷺沼が優勢であった。  膠着は若さを残す者に利する。  垣見はやがて崩れ、敵刃に首を委ねるであろう。  その運命を望まぬなら、乾坤一擲、自ら攻め出して鷺沼を討ち取るよりほかにない。  無論の事、それとて分の良からぬ賭けである。  麾下の兵を顧みず単騎で決闘に臨んだ猛者は、微塵の油断もなく、昔の上官であり今の叛徒である対手を見据えているのだ。  破れかぶれの猪突など容易く防ぎ、完璧な返し技で勝ってのけるだろう。  落人垣見の進退は窮まった。  進めば、死。  進まずとも、死。  傍目には、湖面のように移ろわぬ情景。  されど水面の下、勝利と敗北、栄誉と破滅の天秤は傾きを定めつつある。  時がまた流れ。  戦いは静粛なまま、閉幕へ向かう。  相手よりほんの少し老いに近い者が、徐々に呼吸を乱す。  次第次第に、膝頭の震えが大きくなる。  明らかになり始めた状況の変化を見て、一部の軍兵が笑いの形に唇を歪めた。  幸福にも、村人達は何も気付かなかった――今は、まだ。  それでも、不穏な気配は感じ取ったのか。  誰かが励ますように、お武家さん、と声を投じた。  あるいはその一声が背を押したのかもしれない。  落人垣見は、勝負に出た。  強い息吹を吐き出しつつ、己の体を前方へ撃ち出す。  さてこそ、と。  一瞬の遅れもなく、六波羅の鷺沼は反応して動いた。  ……勝負は、この時点で決着。  鷺沼が垣見の攻勢を見落とす、万に一つの可能性も実らなかった以上、もはや順当な結果が顕れるのみだ。  先手の斬撃は躱され、ただ虚空に弧を描いて終わり、後手の刺突が標的を抉るだろう。  そのようになる。  ここまで状況が定まっては、そうなる以外に無い。  前提が違っていれば、話はまた別だが。  例えば――  斬り掛かったと見えた垣見の挙動が、〈欺瞞〉《フェイク》であったとか。  前方へ振り下ろされる筈だった太刀は、軌道を転じ。  使い手の左脇へ、新たに構えられる。  斬り上げの剣形。  斬り下ろしの幻で敵を退かせ、  その隙を追い、本命の一刀を繰り出す。    ――〈呼吸外し〉《・・・・》の術。  斬り上げにて狙うは腋下、あるいは股間――鎧甲の守りが薄い箇所。  対手が失敗を悟って跳ね戻るよりも先に、その死命を制し得るであろう。  意表を突かれた者と、想定通りの者。  どちらが早く動けるかは自明の理である。  ……この詐術を最初から仕掛けていれば、手練れの武人たる鷺沼は難なく見破ったに違いない。  追い詰められた老兵垣見の、真に追い詰められた末からであればこその釣り込み技。  瞬間の閃きであった。  滅びの結末は避けられなくとも、この一戦にだけは負けられぬとの念が閃きを生んだ。  刹那の間に状況は激変を遂げる。  今度こそ本当に、垣見は前方へ攻め出る。  斬り上げの太刀を繰り出す。  勝敗が決する。 「…………」 「…………」 「……鷺沼……」 「ふ、ふふ……ふふふ」 「…………」 「既に先の無い身だ。  相討ちで良かろうに」 「無用の欲をかきおって」 「ぐぶっ……」  落人、垣見の口から、赤い濁流が溢れ返る。  村人の間で、絶叫が上がった。  垣見の太刀が、斬り上げの技を示すことはなく……  鷺沼の一刀は、垣見の喉を見事に刺し貫いている。 「俺は相討ちでも良いと、腹を据えていたぞ」 「だから貴様が何をしようと構わなかった。  貴様が動いた時、喉笛を射抜いてやることだけ考えていた」 「…………」 「貴様は違ったな……。  冥途の土産に勝ちを欲しがって、小細工を弄した」 「ために惨めな最期を迎えることになったわ」 「ぐ、むっ……」 「死ぬがいい」 「六波羅に盾突く武人も、貴様で最後よ。  大将領足利護氏公のもと、大和の武の一統は成る」 「大義は成就するのだ!」 「ほざ、けっ……!」 「……」 「まだ……岡部弾正殿がおられる!  野にもまだ、数多の志士がおる!」 「貴様らに、栄華の時は訪れまいぞ!」 「岡部如き、寿命を待つ老廃に過ぎん。  市井に隠れ潜んで陰口を叩くだけの輩など、物の数ですらない」 「垣見!  貴様は奴らが来る時のため、せいぜい地獄を清めておくがいい!」  言い放ち、鷺沼は腰刀を抜くや、打ち負かした敵の首を刈り取った。  落人垣見の切り離された胴体が、重い音と共に倒れゆく。  見守る村人達は、もはや声もなかった。  凍りついて、ほんの数日の事ながらも親しんだ武人の亡骸に視線を張り付かせている。  対照的に興奮のざわめきが広がる軍部隊の陣列から、鎧士が一人進み出て、隊長の掲げる首級を恭しく受け取った。 「御見事でござった」 「何、他愛もない仕業よ」 「して……鷺沼殿。  村はいかが致そう」 「先刻言った。  垣見を差し出せば、村は咎めぬと」 「は」 「あの村は、垣見を〈差し出した〉《・・・・・》か?」 「……いや。  差し出しは、致しませなんだな」 「では仕方あるまい……」 「……」 「反逆の芽は刈らねばならぬ」 「御意!」  隊長の意を汲み取ったその鎧士が、後方へ手振りで合図する。  それを見て、兵の一人が携えていた法螺貝を口元に当てた。  勇壮な〈楽〉《がく》が響き渡る。  兵卒達は応えるように、雄叫びを上げた。  銃の筒先を揃え、前方の獲物に向かって殺到する。  その時ようやく、呆然としていた村人達は我に返り――直後、恐慌に陥った。  何が起きようとしているのか。  自分達がどうなるのか、悟ったからだ。  その理解は裏切られなかった。  これより第二幕。  小さな村の、悲劇が始まる。  武装と訓練を施された職業兵士にとって、その戦い、〈否〉《いな》狩猟は、実に容易なものであった。  獲物の動きは野生の獣よりも遥かに鈍く、恐慌中の今は知性さえ劣る。  兵は、闇雲に逃げる村人の背を狙い撃った。  脊椎を砕かれたその中年男は、もんどり打って倒れ、吐血に〈噎〉《むせ》びながら〈啜〉《すす》り泣いた。  兵は、土下座して命乞いする村人の後頭部に軍刀を叩き付けた。  熟した柘榴のようになった頭を抱えて、その老女は言葉にならない叫びを張り上げた。  軍兵は殺す。  村人は殺されてゆく。  方向性が固定された暴力関係。  戦いではない、あるいは狩猟でさえないもの。  だがやがて、脆弱な獲物――  村人の中の一部は、絶望の底で闘志を固めた。  鉈、鍬、手斧。  物置から探し出した粗末な凶器を手に物陰へ潜伏し、注意を怠った兵卒が通り掛かれば背後から襲って傷を負わせた。  古びた長銃を持ち出した猟師は、更に危険な存在となった。  巧みに位置を変えながら、好機と見るや兵を狙撃し、確実に一人ずつ葬り去った。  驚愕し瞠目して絶命する兵卒を眺め、猟師は狂ってしまった頭の中で愉悦に耽る。  まだまだ殺してやる。お前らが殺した分だけ、俺も殺してやると。  その望みは果たされない。  恐ろしい猟師をも物ともしない魔神が、既に狙いを定めていたからだ。  長年の経験に基づいて潜伏し移動する猟師は、兵の視線に決して捉えられなかった。  地上にいる誰の目にも映らなかった。  〈空からは〉《・・・・》、瞭然であった。  有翼の鎧を駆って飛翔する者にとり、猟師は迷信的恐怖を刺激するに足るような存在ではなく、小賢しい鼠であるに過ぎなかった。  兵卒らの動揺を見かねた空中の一騎が、猟師の頭上から急降下する。  気配を感じて振り仰いだ彼の視界に鉄の輝きが満ち、それは彼が見た最後の光景となった。  鎧士の抜き打ちが猟師を縦割りに両断する。  その余勢でか、猟師の身を隠していた小屋までもが吹き飛んだ。  地面にも深い亀裂が出来ている。  常人の業では有り得なかった。  ……至極、〈自然〉《じねん》の事である。  空舞う鎧士は常人ではない。  その鎧から人域超越の力を与えられた彼らは魔神に他ならない。  最初は兵卒の働きを見届ける構えであった鎧士らも、一騎の行動が契機となったか、次々と降下を始めた。  彼らの行使する暴力は、兵のそれが早春のそよ風に思える程であった。  鎧士の太刀が唸りを上げる都度、村人の〈一団〉《・・》が死骸の集まりと化す。  斬られ、断たれ、砕かれ、引き裂かれて。 「老人、病人、役に立ちそうにない者は殺せ」 「労役に耐えそうな男、若い女、それと子供は、捕えて足の腱を切っておけ。  いい売り物になる」 「一人たりとも逃がすな。  こやつらに許す運命は、隷属か死か、それだけだ……」 「それが六波羅に弓引いた者の末路だ!」  荒ぶる風が村の全てを呑み尽くす。  鎧士は兵卒を従え、何もかも意のままとした。  村人を選別し、殺すべき者を殺し、捕えるべき者を捕えた。  そこに村人自身の意思は介在しなかった。  どのような形であれ、その意思の発現は無視された。 「畜生ぉッッ!!」  一人が銃を手にする。  それは猟師のものか。猟師に撃たれた兵士のものか。  いずれにせよ、それは素晴らしい武器だ。  望める限りの確実さで人を殺傷する道具だ。  扱いに慣れているとも思えない男の発砲は、しかし全弾が標的へと向かった。  四発の弾丸が四騎の鎧士を目指す。  一つの奇跡。  無意味な、奇跡だ。  瞬速にして必殺の弾丸を――    一騎は、無造作に首を傾けて躱した。  一騎は、太刀で切り払った。  一騎は、片手で掴み取った。  残り一騎は、何もしなかった。  銃弾はその腹に命中し、傷さえ刻まず、零れ落ちた。  彼らに共通していたのは無造作な態度。  銃弾の襲来を、まるで蠅や何かと同様のものとしか捉えていないかの。  そして実際、羽虫のように扱った。  音速を超えて飛ぶ銃弾を。 「……ッ!」  その男の行動力は特筆に値した。  しかし既に、正気ではなかったのだろう。  近くに停めてあった、村に一台きりの〈貨物運送車〉《トラック》に飛び付き、運転席へ転がり込む。  アクセルを踏む。突き抜けよとばかりに踏む。  その一瞬、彼は幻想しただろうか。  車が走り出し、悪魔の手から自分の命を逃すことを。更にはもう少し欲張り、仲間が荷台に乗り込むことをも。  動くはずのないトラックの中で。    ……だとしても、彼は失望を味わわずに済んだ。 「フッ……!」  飛翔して瞬時に車両の上空を奪った鎧士が、太刀を振り下ろす。  銃に比べれば如何にも原始的な武器の単純な攻撃。  その一閃は裁断した。  人間を。トラックの座席――この場合は合金の壁と言葉を置き換えてもいい――ごと、完璧に。  彼は苦痛を覚える間も無かったろう。  だからきっと、幸運だったのだ。苦しんで死ぬことに比べれば。あるいは苦しんで生きることに比べても。  竹のように美しく両断された彼の断面は、何の不満も訴えていなかった。  一人また一人とアキレス腱を断たれ、苦悶しながら地に這ってゆく同胞らとは違って。 「嫌だ……嫌だ。  こんなのは、嫌だァ……!」  一人が駆け出した。  仲間とぶつかり、突きのけ、倒れている家族は踏み越えて――そこに悪意はなかったけれども。彼は単に、恐れに満ちていたに過ぎない。  人をかき分け、走り抜ける。  道が開ける。  隣の村へ通じる道。  走り続ければ隣村へ行き着ける。  きっと助かる。  後ろを見るな。ひた走れ。  走り続けていればいつか、いつかは、  ……永遠に行き着けないということに、彼が気付くには三十秒もの時間を要した。  その間も彼は走り続けていた。一歩も進んでいない事実を理解することなく。  いつからか。  彼の頭上には空を海のように泳ぎ渡る鎧兜の武人がいて、その手は彼の襟首を掴み上げていて、彼は吊るされながらばたばたと虚空を駆けていたのだった。 「戻れ」 「あ……あぁ……」  同胞の群れの中へ投げ戻される。  待ち構えていた兵が、正確にその右足の筋を必要なだけ切り裂いた。  芋虫の真似事を強いられる人々。  その合間合間にぽつぽつと、人らしく――か?――死んでゆく人々。  彼らの運命は完全に、軍を率いる長が指示した通りに帰結する。  彼ら自身の選択は意味を持たない。  逃げようが戦おうが策を巡らそうがただ怯え竦もうが、一顧だにされず――  鎧の絶対者は己の意思のみを貫徹した。  暴虐であった。  足首を切られた童女は思う。    ――なぜだろう。  昨日までは村で普通に暮らしていた。  父は山に入って木を切り出す林業に携わり、  母は家の一切を取り仕切り、  自分は友達と遊びつつ、時折母の手伝いをした。  繰り返しの日々。  何も変わらない毎日。  それが唐突に壊される……  どんな理由で、そんなことが起こるのだろう。  あの軍隊というものがやって来て、村を滅茶滅茶にしてしまったのは、なんでだろう。  学校の先生は教えてくれた。  悪いことをすると自分に返ってくるのです。誰かに酷いことをすれば自分も酷い目にあってしまいますよ、と。  自分は誰かに酷いことをしたのだろうか。  父や母は。他にも大勢の死んだ人々は。今、自分と一緒に足を切られて転がっている仲間達は。  あの垣見という人を村に迎えて、寝床や食物を世話したのが悪いことだったのだろうか。  優しい人だったのに。大人もみんな、あんな立派なお武家さまはいないと言っていたのに。  それともほかの何かだろうか。  何か酷いことをしたから、こんな目にあうのか。    なら、〈これ〉《・・》をした連中は?  この連中も、いずれ同じ目にあうのだろうか。  そうでなくては、おかしい。筋道が通らない。  でも、誰が?  村は軍隊の圧倒的な力で滅茶滅茶にされた。  けど、軍隊は誰が滅茶滅茶にしてくれるのだろう。  誰にそんなことができるのだろう。  誰がこの、鎧の人々を罰せられるのだろう。  誰もいないのではないか。  誰もいないのなら。  罰の連鎖はここで終わり。  どんな悪いことをしたのかもわからない自分達だけが罰を受けて、確かに酷いことをしたこの連中は何の報いも受けない。  だって、誰も彼らを罰することができないのだから。  おかしい。  おかしいよ。  破壊と悲鳴の楽奏の中、立てない童女は叫ぶ。    ――こんなの、おかしいよ。  誰か。誰か。  助けてとは言いません。  お願い。〈わたしたちで終わらせないで〉《・・・・・・・・・・・・・》。  あいつらにも罰を。  悪いことをした報いを。  同じ苦痛と悲しみを。  誰か、与えてください。  神様。  お願いです。  童女は祈る。  奪われた者の嘆き、純粋な怒りを胸に。  お願いします。  こんなことは間違っているのだから。  どうか、正しくしてください。  ………………否。  間違ってはいない。  間違ってる。  悪いことをしたのなら、罰を。  それが、正しいありかたのはず。  否。  正しいありかたとは――  なんなのですか。  正しいありかたとは。  嘆きはいらぬ。  怒りはいらぬ。  必要です。  わたしは嘆き怒ります。  嘆きはいらぬ。  怒りはいらぬ。  憎悪も敵愾もいらぬ。  いります!  いらぬ。  どうして!  ――――ふふ。            うたがきこえる。  童女は気付いた。  自分が〈誰か〉《・・》と対話していることに。  その声は笑っている。  愛しむかのように優しく。  子守唄をうたいながら。  ――嘆くな、怒るな、憎むな。  どれもいらぬ。  生きるためには、いらぬものよ。            うたがきこえる。  笑え、歌え、手を叩け。  歓喜を胸に躍り狂え。  〈ひと〉《・・》を捨てよ。  ただ、一つの命として生きよ。  さすれば生は喜びで満ちる。  悲しみはもはやいらぬ。  それができないはずがあろうか?  いいや。誰でもできること。  できないと思うのは、忘れてしまっているからだ。  生命は喜びを謳歌するためだけにあるということを!            うたがきこえる。  童女は知る。  自分の誤解を知る。  ――ああ。  そうなのですか? 神様。  うたを聴く。  命を歌う唄。  ――良いこととか、悪いこととか、  生きるとは、〈そういうこと〉《・・・・・・》ではないのですか。  うたが聴こえる。  うたが教える。  ――命が生きるところに罪はなく。  罰もなく。  ――命は命として純粋にあればいい。  それが、正しいありかた。  童女は歌う。  生命を歌う。  喜びを歌う。  ――ああ。わたしたちは!  ひたむきに、生命であればよかったのですね!  生きるということだけを追えばよかったのですね!  ただ、生きる。  〈命〉《ケモノ》として素直に、純粋に―――― 「嫌だ嫌だ、死にたくない! 助けてくれ!」 「いいや……殺す」 「死にたくない……」 「死ね」 「生きたい……」 「死ね」 「生きるんだ……」 「死ぬんだよ」 「……?」 「なんだ、この声……〈金打声〉《きんちょうじょう》か?」 「いや……違うぞ。  何か、頭をかき回されているような……」 「どこから聞こえてくるんだ?」 「あ……ア、ぁ、あア」 「う……ぐゥ、アぁッ……」 「グゲ……ガハ」 「何だ、こいつら……?  様子が妙だぞ」 「恐怖の余り気が触れたか?」 「いや、兵どもの様子もおかしい。  どうしたのだ、急に……」 「ぬぅ……?」  悲劇は終わり。  続いて第三幕。  それはある種の喜劇であり、  同時に単純なる惨劇である。 「ゲハァァァァァァァ!!」 「なっ……  貴様、誰に向かって撃っている!?」 「反逆するつもりか!」 「グッ、グヘッ、グルァァァ」 「ウゥゥゥ……ァァァアア……」 「き……聞いているのか、貴様らァ!!」 「待て、どう見ても錯乱状態だぞ……」 「いったい何だってんだ!?」 「とにかく、止めろ――ぬぁ!?」 「ギィ……ググ」 「クヒッ、ヘハァ……」 「こいつらもか……?」 「さ、鷺沼殿……これは……!?」 「っ……。  とにかく、我々に抵抗する者を殺せ!」 「状況の解明は後で良い!」 「は……はッ!」 「了解!  何をトチ狂ったのか知らんが関係ねえ」 「どのみち俺達が負けるわけ、」 「……山崎っ!?」 「なに……!?」 「だ、誰がやった!?」 「どこから……!」 「こいつら……か?」 「そんな馬鹿な! どうやって――」 「……ぎ……銀色……」 「津田?」 「銀だ! 今のは、銀色の――!」 「……ッ!」 「あっ……ああ!!」 「白銀の……〈劔冑〉《つるぎ》……」 「銀星号……!?」 「こ、こいつが……銀星号かッ!!」 「殺戮者銀星号……」 「破壊魔銀星号……」 「死の雨銀星号……」 「白銀の悪魔……!」 「空中に……〈静止〉《・・》している……!?」 「馬鹿な……。  飛行船じゃねえんだぞ、そんなことできるわけが……ッ!」 「…………」 「隊長ッ! 隊長殿! 采配を!」 「……か、掛かれ!  怯むなたわけ! 奴がいかに剛強をもって鳴ろうと所詮は一騎、押し包んで討ち取れぬはずがあろうか!」 「掛かれ!!  奴の首を上げれば大功ぞ!!」 「お……応!」 「な……消え……!?」 「ど、何処だ!? 何処!?」 「馬鹿、上だ!」 「速過ぎる……!」 「く……銃だ!  銃を使え! 足を止めて捕まえろ!!」 「く、糞! 今度は何処に――」 「榊ッ!!」 「がはッ!?」 「榊! 無事か!」 「……大丈夫だ………  くそ、腕と……母衣をやられた!」 「飛べねえ……!」 「……榊! 逃げろ!!」 「あ……?」 「ギ……グフ」 「ケケカカカカカカ」 「うぁぁぁぁぁっ!?」 「さ、榊……」 「おい、呆けてる場合か! 前――」 「え……あ……?」 「た、た、隊長! 鷺沼殿ッ! たすけ」 「……ッ」 「お……おのれ……!  やってくれたな……俺の隊を! 貴様ァ!」 「オォォォォォォ!!」 「ぐっ……」 「ま、まるで通じぬ……だと……!?  俺の剣が……技が……」 「……何なのだ……」 「兵と村人は唄声で狂わせ……  〈竜騎兵〉《われわれ》は片手であしらい……」 「貴様は一体、何なのだァ!!  〈白銀〉《ぎん》の魔王ッッッ!!」 「ギヒ、ヒィーーーッ!!」 「ああァアうググ……」 「――――」 「――――」  ――二条の流星は天を駆け巡り交差しまた巡る。  赤の星は餓狼めいて獰猛に。  銀の星は雌鹿めいて軽やかに。  咆哮が夜空を叩く。  笑声が夜空を渡る。  赤色の武人は慟哭の響きで太刀を繰り出し、  銀色の武人は抱擁の柔らかさでそれを流す。  怒りを、慙愧を、無念を、悲嘆を、  喜びが、慰撫が、許容が、愉悦が迎える。  第四幕――  この夜最後の一幕は、最初の幕に〈倣〉《なら》っての決闘か。  否。  そうでは、ない。  これは〈交情〉《まじわり》。  戯れであった。  無粋な男と、彼をあしらう高雅な姫の。  白銀は天へと舞い踊る。  深紅も追って駆け昇る。  月へ。  月を目指して。  だからかもしれない。  天楼の冷えた輝きは相応しい者を迎え入れ、相容れざるものを跳ね除けたのかもしれない。  銀の妖精はどこまでも高みへ。  赤の鬼神は地獄に呼び戻されるかの如く引き離され。  天頂へ至る白銀の彗星。  月輪の輝きをあたかも玉座のように背負いながら、尚も駆け上がろうとあがく深紅の鬼を見下ろして。  兜の裏に微笑むその口元が、一節の詩を唄った。       「〈天座失墜〉《フォーリンダウン》――〈小彗星〉《レイディバグ》」 「……銀星号……」 「…………」 「俺の野太刀……?  どうするつもりだ……」 「…………」 「……〝卵〟……!」 「やめろ……またそれをばら撒くつもりか!」 「寄生体を生み出すのか!」 「待て!」 「待て……ぐふっ」 「…………光…………!」  彼は破壊を求めたわけではない。  そこまで幼稚ではなかった。  あくまでもそれは消極的選択だった。  彼が本当に欲したのは永遠だ。    しかし与えられなかった。  愛したすべては失われ滅びる。  ならばせめてと、彼はその喪失を自らの手で行ったに過ぎない。  ……結局は、幼稚であったということか。 〝抜けるような青い空 見上げたあの日の公園〟 〝すずやかな風が吹き抜ける こころをのせて〟 〝ぼくは走る 風を追って 君に向かって〟 〝君は笑う 噴水のそばで 両手を広げて〟 〝手をつなぐ 抱き締め合う 芝生の上で踊りながら〟 〝永遠だと 信じていた あの日あの刻あの空〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟  ……唐突だが。  最悪の目覚めというものについて語らせて欲しい。  いや、まず聞こう。  最悪の目覚めとは何がもたらすのだろうか? 「悪夢」  さてどうだろう?  むしろ悪夢からの目覚めは安堵で満たされるのではないか? 「騒音」  なるほど迷惑だ。  しかしそれは、忍耐という武器を駆使すれば凌げる程度のものだ。凌げないのなら出刃包丁という武器を使えば済む。どちらにしろ大したことではない。  他には? 「幼馴染の女の子が早く起きて遅刻しちゃうとか妙に甘ったるくて滑舌の良い声で言いながら強引に布団を引っぺがす」  笑止。 「――加えて親が決めた許嫁と面倒見のいいとなりのお姉さんと義理の妹とそのやたら若い母親と住み込みのメイドさんと裏山の神社の巫女さんと某国から留学中の王女さまも毎朝起こしに来てくれるのだけど」 「全員、植物に例えるとウツボカズラに似ている」  ……うん。それはとてもスリリングだ。  だが君が優柔不断さを捨て、勇気と決断力をもって彼女たちに接すれば、きっと問題は解決できる。最悪の状態ではない。諦めてはならない。――戦え。  ポイントは死体を残さないことだ。  ――では。  最悪の目覚めとは?  それはただ一つ。  寝ている最中に足が〈攣〉《つ》って、その痛みで目が覚めるということだ。  なんだそれとか言わないように。  特に経験のない人は。  想像してみて欲しい。  公園を散歩する夢を見ていたとしよう。その夢の中で突然、怪我をする。痛い。何がなんだかわからない。もがき苦しみ、やがて目覚めて――  足が攣っている自分を発見する。  わかってもらえるだろうか?  一日の始まり、起床の瞬間に、〈足を攣らせて苦痛に〉《・・・・・・・・・》〈悶えている自分を発見する〉《・・・・・・・・・・・・》というのが、どういうことなのか。  ……たまらなく哀しい気分になってきた人は正常な感性を持っていると思う。  実際、たまらない。泣きたい。泣いても解決しないところがまた酷い。  その哀しみを味わう時間が来たようだ。  おれの眠りはそろそろ覚める。足から感じる痛みがここまでクリアーになっているのなら、もうあと十秒とは掛からないだろう。  ああ――自分自身が浮かび上がってきた。  おれはそう、〈新田雄飛〉《にったゆうひ》という。  名も無き君よ、さらば。そしてありがとう。  君という現実逃避対話用仮想人格がいてくれたお陰で、おれの苦しみは少しだけ和らいだ。  もう会うことも無いだろうが、どうか元気で。  おれは現実へゆくよ。  そこに待つのは苦痛ばかりだけれど。  大丈夫。なんとかやっていけるさ―――― 「…………」 「…………」 「……や」 「や?」 「やってけねえ……」 (図解)      \  \おれ→ ○□卍□○ ←?      /  /      \  \     ○□卍□○      / \       ↑裏四の字      \ ∧ ←ガッツポーズ     ○□卍□○      /  /  ――なあ、君よ。  おれはどうやら、間違っていたようだ。 「なぜだ〈来栖野小夏〉《くるすのこなつ》ゥーーーーッッ!!」 「雄飛、早く起きないと遅刻しちゃうよっ」 「妙に甘ったるく滑舌の良い声でそんなこと言うな! この状況でっ! それ人間業じゃない! 断じて有り得ない! そんな生物は人間であってはならないとおれは信じる!」 「起きないと……キ・スしちゃうぞ♪」 「憎い! 傲慢にも優しさを装うその残虐性!  これが憎悪か! 真性の邪悪に対する人間精神の根源的憎悪かっ!?」 「それはそれとしてほんともう限界なんであががが外して外して外してぇぇぇぇぇぇ!!」 「この寝ぼすけさんめっ。ちゅー☆」 「甘い声の描き出す幸福の幻影がおれを苛む!そんなありもしない希望を見せるんじゃねえ!せめて絶望させろ! わかったもういい殺せ、最後の慈悲でおれを殺せぇーーーーーーッ!!」 「はっはっはっ、小夏はやっぱり雄飛くんのことが好きなんだなぁ……」 「ほんと、聞いてるこっちが照れちゃう。  もぉ」 「おじさーん! おばさーん! お願いですからちょっとここまで足を運んであなた方の娘であるところのこの怪生物の実態を見て!つーかおれの声聴こえてるの!? ねえ!?」 「雄飛ったらー。ほんと、わたしがいないと駄目なんだからっ」 「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」  本当に最悪の目覚めが、ここにあった。  鎌倉はのどかな町だ。  歴史ある都市だからか、活気に満ちた朝の時間帯にあってもどこか〈深々〉《しんしん》としていて、ともすれば殺気立つ忙しい人々を悠然と宥めるような気風がある。  源頼朝の開府に始まって千年――正確には八百年に満たないが――という時間の積み重ねには、得も言われぬ力が宿っていたとしても、不思議のないことだ。  たかだか数十年の命しか持たない人間が抗えるものではなかろう。  だからだ、と言うことはできるだろうか。  一人のちっぽけな人間として、悠久なる時の重さには逆らえなかった――いやそんな不遜なことを考えもしなかったと。  そう告げたとして、どんな人間がそれを責められるだろう。  いないはずだ……歴史というものに抗えるような、抗えると錯覚するような、そんな愚かしい者は。  誰も責めない。  この鎌倉という町がおれを遅刻させたことを、学校の教師たちはきっと責めない。責められはしない。  責めるに決まっていた。 「はぁ」  ため息をついて、のたのたと歩く。  自己正当化に失敗しても、まだ痛む足を早める気はさっぱり起きない。 「雄飛、遅いよー」 「……理由がわからんとでも言うつもりか」 「それはわかるけど」 「当たり前だ。前から聞こうとは思っていたんだがな、どうしておめーは何事につけ何かにつけてああ破壊的破壊的な方向へ――」 「元から低い背が更に縮んで足も短くなったから遅いのね。かわいそう」  ――――〈迅〉《シュン》。  おれは鞄の紐から肩を抜くや、それを横殴りに振り込んだ。  〈大振り〉《テレフォン》な一撃。だがそれでいい。  狙いは三つ。  先制の一撃、重荷の投棄、そして囮だ。  小夏に向かう鞄を投げ放ちながら、沈み込む。  息を吸い溜めている時間はない。今あるだけの貯蓄を使い切る。  ――ハ。  気の塊を吐き出す。  三撃。  腹部へ掌底。  逆手を使って首筋に手刀。  足甲を狙った下段踵打ち。  一連の三手。  そこまで手を重ねた理由は単純。  掌底も手刀も、当たらなかったからだ。  当たらなかった理由も簡明。  いるべき場所に敵がいなかったから。  宙を舞うおれの鞄だけが見える。  最後の一打、踵蹴りが、空気を散らして地面を踏む。  それと、同時か。  死角をくぐって――おそらくは左脇下からの攻撃か――疾風のような一閃が、狙い過たずおれの顎を打ち抜いていた。  空を見る。  真っ白だ。やけに明るい。  光り過ぎだよ。空。  気がつくと、おれは仰向けに寝転がっていた。  空は元通り、単に青かった。  そして、おれは牛に踏まれかけていた。  半分寝ている農夫のおじさんに曳かれるまま野菜を運んでいるその牛は、心底どうでも良さそうな顔付きで、おれを眺めていた。  起き上がる。  鞄を拾う。  十歩ほども先を歩いていた小夏に小走りで追いつき、隣へ並ぶ。 「でね」 「おう」 「リツから聞いた話だけど、やっぱり服とかアクセサリーとかは今のうちに買っておいた方がいいんだって」 「高いだろ?」 「うん。ちょっとしたブラウスなんかでも、一着千円くらいはするよ」 「一生遊んで暮らせる金額だな」 「あんたの一生、あと一週間で終わりなの?」 「冗談だ。でも感覚的にはそれくらい高ぇ」 「そーねー。ちょっと前まではその十分の一くらいで買えたのに」 「いや……。  さすがにそれは、ちょっと前じゃない気がするぞ。戦前の話じゃねーか」 「そうかなぁ。  ここ数年でばかみたいに値上がりしてる気がするんだけど」 「で、おまえ、そんなの買うのか?」 「買えるわけないでしょ。  あんたと同じお小遣いしかもらってないんだから、わたしも」 「だよな」 「でも、欲しいなら今買うしかないんだってさ。もう少しするとお金があっても買えなくなるんだって」 「なんで」 「ええとね……よくわからないけど。女物の服とか装飾品とかを作るのに使われる資源が、軍需産業に回される、ってことみたい」 「あー……なるほど」  今に始まったことではない。  戦前、戦中から、そういった流れは続いている。  わからないのは、戦争が終わって数年経つ現在でもそれが途絶えないことだが。  六波羅の連中がやることにまともな理由があるなどとは思わない方がいいのだろう。  どうせ利権がらみのなんやかんやだ。  幕府万歳。どんどん肥え太れ元帥サマ。足腰が立たなくなるまでね! そしたら焼いて食ってやれる。  何にしろ、嗜好品は徐々に庶民の手から遠ざけられ、かわりに軍需物資や生活必需品の増産に拍車がかかる。  曰く、贅沢は敵なり。さて誰の敵やら。 「輸入品なら関係ないけど、それこそ買えたもんじゃないし……」 「まあいいじゃねえか別に。服くらい」 「あんた、わたしが継ぎのある服とか着てても平気なの!?」 「平気じゃない理由は相模湾の底まで探しても無さそうなんだが……」 「そう。もう覚悟は出来ているのね。  わたしがみっともない格好をして人に笑われる都度なぜかあんたの肋骨が一本破損する仕組みになってるんだけど」 「何その暴力システム……」 「肋骨って二四本しかないのにね。  一ヶ月ももたないのね。可哀想に」 「一日一本かよ! 嫌だよ!  笑われたくないなら出歩くなよ家にいろよずっと!」 「でも、あら不思議。これは例えばの話なんだけど、あんたとわたしがお金を出し合って服を一着買ったりすると、なんと一月の寿命が一年になったりするの。命って神秘的よね」 「……ああ。そこへ持っていきたかったんだ。  この話」  回りくどかった。 「ま、別にいいけどな」 「……えっ!?」  あっさり答えたおれに、小夏が凝固する。  どうやら冗談半分だったらしい。まあ普通そうか。 「なんで?」 「なんでって言われても。  おれ、金の使い道ってねえし」  スポーツに打ち込んでいるわけでなく。  何か趣味を持っているでもなく。  小遣いを使う機会といえば……  学校の帰りに小腹が空いた時とか、退屈凌ぎに雑誌でも読みたくなった時とか、その程度。  スポーツ全般が好きで趣味も多彩な忠保あたりとは必要経費の桁が違う。 「だからいいよ、別に。いくら要るんだ?」 「…………」 「おーい?」 「要らない」 「へ?」 「早くいこ。ほんとに遅刻するよ」 「……ああ」  先に立ってすたすたと歩いていってしまう小夏を、おれは慌てて追った。  女心と秋の空。  さっぱりわからんね。 「タムラワークスのサンダーボルトが敗れた原因は〈旋回性能〉《コーナーリング》を過信したからというよりもむしろ直線で勝つための加速能力を軽視したウイング調整にあると思うんだけど」 「〈補助推進器〉《アフターバーナー》に〈黒丸〉《ブラック》を使っておいてウイングは重拡にしていた意図がどこにあったにせよ結果だけ見ていえば単に器用貧乏で終わったとしか言いようがないんだ残念ながら」 「おはよう雄飛。やあ小夏、今日もとってもチャーミングだね」 「……おはよう」 「ありがとう稲城くん。嬉しいわ。あなたも素敵よ」  ……教室の扉を開けるなり顔を合わせた、この男の名は〈稲城忠保〉《いなぎただやす》。  おれと小夏にとっては幼馴染というのか、腐れ縁というのか、まあそういった生き物である。  見ての通りに軽々しく、軽々としていて、あたかも軽いかのようだが、実際に軽い。  付き合い方は単純である。  まともに取り合わない。これに尽きる。 「クールだね小夏……きみのそんなところに触れるたび僕のハートは小鳥のように震えてしまう。でもきみはきっとそんな僕を優しく抱いてくれる暖かさも持っているんだ」 「雄飛、ライター持ってる?」 「ないけど。いや何に使う気だそれ。  別に止めようとも思わんが」 「愛の炎で焼かれるのなら本望だよ、小夏!  カモーン!」 「リツは?」 「まだ来ていないね」 「珍しいな」  おれ、小夏、忠保、そこに加えてもうひとり、リツ――〈飾馬律〉《かざまりつ》。この四人が、つまりはチームということになる。  別に何の競技にも出場しないが。  同年齢のうえ四人の中で最も放漫な生活をしているくせにやたら姉さん風を吹かせたがるリツは、権威を補強するためなのかどうかは知らないが、必ず余裕をもって登校する。  そして遅れてきた仲間を怒る。  勝手に早く来ているだけだろうに、長く一人ぼっちでほっとかれると寂しくて腹が立つらしい。  だったら他の同級生と遊んでいれば良さそうなものだが、生憎彼女と同じくらい早く登校するのは立派な模範生たちであり、堂々たる反面模範であるリツとは全く共通の話題など無い。  その憂さが向けられるわけだ。  主におれに。なぜか。いや、ほんとになんでだか。  といっても、小夏と違って暴力の形は取らない。  リツはもう少し文明的に、あくまでも言葉を使う。 『おほほほほほほ、おはようございます雄飛さん。あらあら今日もごゆっくりだこと。  一体どうしてそんなに朝が遅いのかしら?』 『きっと全身の血液が下半身の一箇所に集結して頭に回るぶんが奪われているからに違いありませんわ! いけなくてよ雄飛さんっ!ちゃんと夜のうちに右手運動を励みなさい!』  内容はちっとも文明的ではないが。  はっきり言って、朝も〈早〉《は》よからあんな腐蝕性の強い音波を脳髄に注がれてはたまったものではないので、リツが今日はまだ来ていないというのは率直に言ってありがたい。  が、不審なことでもある。  滅多なことでは時間ぎりぎりの登校などしないやつなのだが。 「まあ、夜にあれだけ遊び歩いててこれまで一度も遅刻してない方が不思議か……」 「そういうことでもないのかもしれないけどね。夜間外出の取り締まりが厳しくなってるらしいから」 「そうなの?」  学生の夜間外出禁止は当たり前。  忠保が言っているのは大人に対してのことで、当然大人のフリをして出歩いている学生も含まれる。 「鎌倉〈大番〉《おおばん》が夜の見回りを増やしたみたいだよ。捕まったら良くて一晩拘束、悪くすれば軍施設送りだとか」 「うへ。たまらんね。  ……でもまあ、そんなのに引っ掛かるようなリツじゃないだろ」 「警備の網をかいくぐるこのスリルがたまりませんわー、とか言って前よりも酷く夜遊びしてる可能性はあるね」 「そんなところじゃない?」  そんなところなのだろう。  同級生たちと適当に挨拶を交わしながら自分の席につく。  忠保がひらひらと後を追ってきていた。まあ、隣の席なんだが。 「で、話の続きなんだけど」 「何の話?」 「〈装甲競技〉《アーマーレース》」 「ああはいはい」  忠保は趣味が広いが、中でも最も興味を注いでいるのは〈競技用劔冑〉《レーサークルス》を用いた〈装甲競技〉《アーマーレース》だった。  といっても無論、自分が〈翔〉《はし》るわけではない。  専門誌を買い漁る、レースがあればラジオで中継を聞く、近場であれば見物に行く、今はそれだけだ。  だがいずれは選手としてサーキットを駆け回ることが夢らしい。 「で、なんだっけ。タムラまた負けたの?」 「またとか言って欲しくはないけどその通りだよ。セッティングミスがねぇ……どうしてあんな素人くさい失敗するかなぁ……」 「まあタムラだし」 「その一言で片付けて欲しくはないけどその通りだね。残念ながら」 「んで、勝ったのは?」 「ヨコタンのスーパーハウンド。  翔京のアプティマも結構いいとこまで食いついてたけどね」 「またか。強ぇな、あれ」 「ベルトドライブ機構の威力なんだろうねぇ」 「ツラ構えが無骨過ぎて面白味がないから、おれはどうも好きになれないんだけどな……」 「同感だよ。その点、タムラはいいなぁ。  デザイン一つとってもなんだか夢があって」 「レースじゃ勝てないけどな」 「良くも悪くも趣味的なんだよ。  勝つことよりもやりたいこと優先っていうか……そこが好きなんだけど」 「タムラワークスの選手は誰だったんだよ。  おまえご贔屓の〈皇路操〉《おうじみさお》か?」 「まさか。彼女だったらそんなミスはないさ。  なんて言ったかなあ? 聞いたことのない新人だったよ」 「腕は?」 「見るべき点はなかったね。やっぱりいまのタムラは皇路操一人のチームだよ」 「おまえが続けばいいじゃないか」 「もちろん、そのつもりだよ?」  いつも通りピラピラした声で応じる忠保。  つまりは真剣ということだ。  そう、冗談ではないところがこの男は凄い。  プロのレーサーになろうと思えばいくつもの関門を突破しなくてはならないが、忠保は本気でそのゴールを目指して努力している。  常から勉強と情報収集を怠らないのは無論のこと、体力作りのため毎朝走り込んでいるし、劔冑を扱うのなら必修といわれる水泳も欠かさない。  実際の技術を習得するには劔冑を手に入れなくてはならないが、その資金は学校卒業後に数年間、父親の仕事を手伝うことでまかなうつもりらしい。  だからそのための勉強もしている。  当たり前だが〈劔冑〉《クルス》は高価だ。  本職の武者がよろう戦闘用の〈劔冑〉《ツルギ》とは比較にならないものの――そもそも市販などされない――、競技用劔冑とて十分に希少な品である。  型落ちの中古品でさえ絶対に百万は下るまい。  マイカードリームとは夢の値段が違う。  それだけの金額を数年で稼げる見込みのある忠保は――忠保の父親はいわゆる商社マン、今の世の中ではエリートと言っていい――確かに恵まれている方だが、それでも普通は諦めてしまうところだ。  どこをどう見ようと薄くて軽いこの男の人格になぜそんな根性があるのか、これはもう神秘である。  人間は奥が深い。 「実は結構うらやましいんだ」 「なんだい?」 「はっきりとした夢を持ってて、そのために努力できるおまえ」 「…………」 「おれは努力を問われる以前にやりたいことがないからな……自分でも不思議だ。  なんでこんなに老け込んでんだろ、おれ」 「普通さ、おれくらいの若者ってのはむやみやたらと夢を持ちまくるもんじゃないのか?」 「むやみやたらかなぁ」 「おれ将来天下取れるよなーってスムーズに信じていたりしないか?」 「したの?」 「昔は」 「今は?」 「……とりあえず死ぬまでに犬小屋くらいは建てようかなと思う」 「老け込んでるねぇ」 「うん」  大体その辺で終わるような気がする。おれの人生。 「でも僕はね、いずれ雄飛は何かに向かって走り出すと思うんだ」 「犬小屋?」 「うーん、多分ほかのなにか」 「そうかなぁ」 「きっとそうだよ」  なにかに、ねぇ。  少なくとも今は、まったく見えないんだが。 「おっとっと」  担任の鈴川登場。  忠保が慌てて席へ戻る。  カツカツと、いつもながらの力強さで鈴川は教壇に立った。そしてびしりと直立する。  ……おれよりも数倍若々しいな。正直。 「おはよう、みんな。今日も一日、  ……ん?」  水泳部の顧問らしい、肺活量に裏打ちされた張りのある声が不意に途絶える。  おやっという顔で、鈴川は教室を見回した。  このクラスの人数は二〇人程度。  誰がいて誰がいないかは一目でわかる。 「……とうとう遅刻だな。リツ」 「珍しいこともあったもんだねぇ……」  忠保と囁き合いながら、そろって首をひねる。  珍しいこと。まったく本当に。  ……その時はまだ、その程度のことでしかなかった。 「――こうして宰領府が解体され、内府家の大和支配が終わりを迎えたのは天永六年……国紀二五一七年。外暦では一八五七年」 「二二六〇年の開府からおよそ二五〇年もの間、いわゆる藩制時代は続いたわけだ。大和史上、一つの統治体制がここまでの長期間に渡って存続した例はほかにない」 「いや、世界史上でも珍しい。  大抵はそこまで歴史を重ねる前に腐敗してしまう……」 「前橋!」 「ふぁい!?」 「ちゃんと聞いてるか?  なぜ、徳川宰領府はこんなに長い間大和を支配していられたのだと思う?」 「……わかりません」 「当てずっぽうでいい」 「…………代々の〈内府公〉《ないだいじん》が立派だったから?」 「ふむ。  徳川一五代のうち何人かについては、そう言ってもいい」 「だが例えば五代目内府公、生類憐れみの令を実施した綱吉は立派か?」 「いえ……」 「いちモラリストとしてはもしかすると立派だったのかもしれないけどな。  統治者としては褒められた話じゃない」 「しかし彼の治世でも、宰領府の統治は一応まっとうに機能していた……。  稲城。なぜだと思う?」 「徳川宰領府というものが、一言で言えば、せこい体制だったからじゃないかと」 「……もう少し詳しく」 「徳川の初代家康は、秀吉死後の豊臣体制内で実権を掌握、江戸に宰領府を開き、事実上の天下人になりましたが……」 「関東を中心に約三百万石といわれる領土を確保すると、それ以外の土地は諸大名に任せ、あれこれと細かい口出しはしませんでした」 「その理由は、そもそも宰領府の設立目的が全国征服ではなく、徳川一族の庇護と繁栄に過ぎなかったからです」 「だから徳川家を維持するために必要な領土しか求めず、ほかを藩として分割しましたし、その内政にも関心を持ちませんでした」 「反面、城の修復やら治水工事やらを頻繁に指示して諸侯に財力を蓄えさせなかったのも、理由は同じです」 「この徳川のやり方が結果的に、地方のことは地方に任せて、何も知らない中央が余計な指図をしたりしないという、とても実際的な統治体制を造り上げたわけです」 「もし徳川家康が欲張って、全国津々浦々を自分の手腕で直接統治しようとしていたら、歴史はだいぶ変わっていたんじゃないかと」 「座ってよし」 「大体はいま稲城が言った通りだ。徳川家は地方分権を選び、中央集権を選ばなかった。  その選択が時代に即していたわけだな」 「ここは試験に出すぞ?」 (うぇっ)  やべ。  完全に聞き流しておりました。  まあいいか、後で忠保に聞けば。 「そして時代が変わり、西洋列強の帝国主義が先鋭化してくると、この体制は終わった。  稲城のいう『せこい体制』では到底、列強に対抗できなかったからだ」 「藩制時代の初期に行われた鎖国を復活させよう、なんて考えた人々もいたが……」 「鎖国とは外国との交際を一切断つことで、黎明期の宰領府は国内の基盤を固めるあいだ他国の干渉を排除するための緊急措置としてこれを行っている」 「また享保年間、関白豊臣秀興の徳川討伐令に端を発する大坂の陣に際して、関白が大英連邦から大量の武器を買い入れるという噂が立ったために短期間鎖国がされたこともある」 「もし西洋列強のアジア進出への対策として末期の宰領府が再鎖国を選択していたら……たぶん大規模な武力衝突を招く結果になったろう」 「だが結局、大和は王政復古、中央集権国家としての新生という道を選択する。  それが具体的にどういうものか……」 「を話し始めると長いから、今日はここまでにするか。あと五分しかないしな」  よし。  さすが鈴川。 「かわりに少し、余計な話をしよう」  よし。  だめだ鈴川。 「国紀二六〇〇年、外暦一九四〇年現在。  大和国を事実上支配している六波羅幕府は……」 「言うなれば、欲張った徳川だ」 「…………」 「自分たちの利益だけを求める、せこい思想に基づいて全土を支配しようという体制だ。  貴族院も衆議院も廃止された。内閣も機能していない。京都朝廷はもともとお飾りだ」 「そのかわり、鎌倉には〈普陀楽〉《ふだらく》山塞を築き、周囲に四〈公方〉《くぼう》を置き、関東一帯を軍事基地化して大和全土を睥睨している」 「統治方針は実にシンプルでわかりやすい。 『逆らうな。服従しろ』だ」 「反抗すればどうなるか……。  大阪が焼け野原となり、今なお再建されない理由を、知らない者はいないだろうな」 「近畿に住む友人の言によれば、あの街は今、〈二重の意味で〉《・・・・・・》ゴーストタウンなのだそうだ」 「……我々は今、かような支配を受けている」  …………。  鈴川…………。 「稲城。お前はさっき家康が欲張っていたら歴史は変わっていたと言ったな」 「…………」 「どう変わるかは、これからやつらが教えてくれる。……すぐに」 「…………」 「すぐにだ……すぐに終わる。  こんな下らん時代は…………」  昼。 「雄飛、今日のお昼ご飯はなんだい?  僕は玄米パンとお芋だよ」 「おれは玄米パンと芋だ」 「わたしは玄米パンとお芋ね」 「奇遇だねぇ。みんな一緒だ」 「給食だからな」 「違ってたらそっちの方が奇遇ね」  もぐもぐ食べる。  まずくもないがうまくもない。慣れきった味だ。  食糧増産計画の開始以降、玄米と芋類は食卓の二大巨頭となって覇権を競っている。  コストパフォーマンスを追求した結果、最も優れた食糧とされたのがその二つだったから。らしい。  食事に文句をつけるのは人間として恥ずかしいのであまり言いたくはないが。  たまには腹いっぱい肉を食いたい。 「リツ、来なかったね……」 「どうしたんだろうな」 「他の誰かならともかく、リツだからね。  何があったのかな……少し考えてみよう」  さすがに心配になってきたのだろう。この男なりに真剣な様子で、忠保は食事の手を止めた。  口元に指を当てて黙考する。  リツが休む理由か……。  姉御肌で遊び好きで、いい加減だが妙に律儀な所のある奴。その律儀さは学校皆勤という形で表れていた。  ……昨日で終わってしまったわけだが。  体は至極健康。象が踏んでもあんまり壊れない。 (やっぱ、夜遊びが過ぎたのかね……大番に捕まって、今頃留置所で腐ってんのかも)  その程度のことしか思いつかなかった。    が、忠保は違ったらしい。  やがて顔を上げた忠保の目の鋭さに、おれは思わず息を飲んだ。  小夏まで煽られてか硬直した。 (……なにか……まずいことが……)  標準仕様の一般ピープルであるおれや小夏と違って、中流以上と言っていい家庭に暮らす忠保は――なんでこんな普通の学校に通うのか正直疑問だ――入手する情報の量が多い。  そこから何か、思い当たることがあったのかもしれない。  おれと小夏はそうしろと言われたわけでもないのに口を閉ざして、結論を待った。  忠保が重苦しげに口を開く。 「雄飛」 「……なんだ」 「認知はしてあげて」 「どぉいう思考手順を踏んでそうなった!?」 「雄飛、早く食べないと昼休み終わるよ」 「……ああ」  もはや殴る手間さえ惜しんだのかきっぱり無視して食事へ戻った小夏に促されるまま、おれも椅子に座り直した。  入れ違うように、忠保がよろよろと起き上がる。 「フッ……これで炎の友情というわけだね」 「かなりいろいろと省略してる気がするけどまあいいやどうでも。つうかなおまえ、病気とか家の手伝いとかの可能性をまず考えろよ」 「考えたけど、どっちもリツらしくはないんじゃないかな」 「そういうことが絶対にないってこともないでしょ」 「ちょっと想像はつかないけどな」  常にリーダーシップを握り、おれたちを日が暮れるまであちこち引き回す見慣れたリツの姿には、どちらもそぐわないこと甚だしい。  が、ほかの可能性を思いつかないのも事実だった。  何かあるのかもしれないが、それは当人不在の場でああだこうだ言い合っていてもわからないだろう。 「放課後、様子見に行ってみるか?」 「そーね。わたしは問題なし。用事もないし。  あんたは、忠保?」 「もちろん行くよ。気に掛かるしね。  それに僕なら……いざとなれば融通の利く産婦人科を紹介できるし」 「これ以上そのネタを引っ張るとどうしてかおまえの中手骨が一本ずつ減っていくという来栖野小夏的破壊現象が勃発するんだがそれでもいいか」 「おかしいな。僕的には完璧な論理的帰結で、説明すると……ハハハ雄飛、どう頑張っても僕の小指に九〇度以上の角度をとらせるのは無理だと思うしなんかすごく痛いよ?」 「……ていうか、そんなことよりも決定的に見過ごしてはならない要素が忠保の発言の中にあったような気がするんだけど……  気のせいかしら?」 「いや小夏。それは忘れろ。忘れるんだ」  ともあれそんなこんなで、午後の予定は決まった。  残りの給食をかき込む。 「雄飛、よくかんで食べなさい」 「早く食えっつったろーがさっき」 「両立するのよ。顎の高速回転で」 「おれのガラスの顎にあまり無茶を言うな。  ……っと、先生?」 「え!?」  おれの声に反応して、小夏が椅子ごと旋回する。  一八〇度を一瞬だった。 「すごい。〈直立転回〉《クルビット》並みだね今の」 「関節部にボールベアリングでも積んでるんじゃないか、こいつ」 「すす、鈴川先生! なっなにか!?」 「あ、うん……」  わりと非人間的な小夏の機動性に面食らったのか、やってきた鈴川は片手を挙げた姿勢で固まっていた。  ちょうど声をかけようとしたところだったらしい。 「……悪いな、食事中に」 「いーえいえいえ! こんな豚野郎どもと顔を突き合わせての食事にはもう飽き飽きしていたところでしたっ!  ささ、ずいっとどうぞ」 「いや、席がないだろ」 「じゃあんた机になりなさい。忠保は椅子」 「どんな教育現場だそれ……」 「ああ、いや。食事はもう済ませたから」 「ハハハ、手ぶらなんですから見ればわかります」 「わかってないのは脳髄が瞬間的に納豆菌化したその女だけです」 「あっ、あっ、じゃあ、ええと、何かご用事が?」  おれと忠保の声は既に小夏には届いていなかった。  あぁ遠いなぁ。そのままどんどん遠くなっていいぞ。 「飾馬のことなんだが……」 「はい、あのヤシガニがなにか!」 「やし?」 「聞き流してください」  助け舟を出すおれは結構いい奴だ。 「今日どうして欠席したか、聞いているか?」 「いいえ、それがまったくさっぱり」 「ちょうどさっきまでそのことを話していたところで」 「そうか……」  やはり鈴川も気にしていたようだ。  当然か。遊び人のくせに無遅刻無欠席無早退という異様さで目立っていたやつだからなぁ、リツは。 「最後に見たのはいつだ?」 「昨日の夕方、六時頃っすね」 「確か昨日は八幡宮で人形劇を見て、そこで解散したのよね」  天井を見上げて思い出しながら呟く小夏。  どうやら多少正気を取り戻してきたらしい。 「おれと小夏は家に帰って……」 「僕は少しリツと一緒にいたけど、源氏山のあたりで別れたよ。もう少し遊んでいくって言ってたね」 「何時ぐらい?」 「七時前だったと思う」 「その後はわからない、か……」 「リツ、家に帰ってないんですか?」  さらっと、忠保が切り込んだ。  ……そうだ。  鈴川がそんなことを尋ねてくるのなら、つまり。 「飾馬の近所に住んでる大松に聞いたところでは、少なくとも朝の時点では帰宅していなかったようだ。  今はわからないが……」 「電話して聞いてみればどうです?」 「いや、飾馬の家には電話がない」 「ていうかそんなもんがあるのはおまえの家だけだろ」 「そっか。道理で全く役に立たないと思った」 「……間抜けな会話はいいから。  先生、あんまり大きな声で言いたくはないけど、外泊自体はそんなに珍しくないんです。あの子の場合」 「それは知っている。  だからご家族もあまり心配していないようだし、先生もいま大騒ぎする気はないんだが」  さりげなくいい奴だよな、鈴川も。  二組の上原のようなカタブツだったら今頃大変だ。 「まあ……飾馬なら、大丈夫だろう。あれでしっかりしているしな。  これが新田だったら先生も慌てるんだが」 「なんでそこで引き合いに出されるのがおれなんだよう、先生……」 「それがわからないくらい子供だからよ」 「子供であることに気付けば子供ではないのだけど。あ、なんか哲学を発見したよ雄飛!」 「やかましい」 「冗談だ。  食事中に邪魔をして悪かったな。ちゃんと食って運動もしとけ。午後の授業寝るなよ?」 「はーい!」 「うぃーっす」  躍動的な足取りで去っていく鈴川を見送る。  颯爽とした背中だった。小夏がのぼせるのもわかる気がする。  それにしても。 (……リツの奴)  ほんとにどこ行ったんだか。  リツの家は〈銭洗弁天〉《ぜにあらいべんてん》近くの住宅街にある。  銭洗弁天とは洞窟の中にある変わったお社で、その奥の湧き水でお金を洗うと倍になるというありがたいような色々ぶち壊しのようなご利益で知られている。  そのわりに、近隣の家は慎ましい造りのものが多く、より素直に言えば貧乏くさい。  マッチ一本でとても楽しいことになりそうなくらい枯れた木造建築ばかりだ。  リツの家はその中で小さな雑貨屋を営んでいる。  生活用品を中心に食品、文房具など、日常的に必要となる物品全般を取り扱っているので、その重宝ぶりたるや只事ではない。  娘を遊ばせておけるのは店が充分に繁盛していればこそだった。……といっても、もしリツが〈本当に〉《・・・》遊び始めたら、雑貨屋は三日でどこかの高利貸しの抵当に入ってしまうだろうが。  そんな真似が許されるのは臨海ラインにビルを持つ社長さんちのご令息くらいに違いない。  雑貨屋の繁盛にはおれたちも一役買っている。  もともと安めの値段設定がさらに友達割引されるのなら、わざわざ大路のスーパーなんぞに足を運ぶ理由は全くないからだ。  余り物を気前良くくれたりするとなればなおのこと。  とはいえ。 「余り物には余る理由があるんだから」 「うん」 「この芋サイダーなる代物がその、ちょっと、アレだったからといって、文句を言う筋合いではないんだ」 「そうだね」  新たな味覚の開拓に雄々しく挑戦し華々しく散ったと〈思〉《おぼ》しき液体をできるだけ味わわないようにして飲み下しつつ、夕暮れの近い路地を並んで歩く。  小夏は少し後ろをついてきていた。 「帰ってなかったね……」 「さすがにおじさんもそわそわしてたな」 「おばさんは笑ってたけどねぇ」  肌寒い風を感じながら、リツの両親との会話を思い出す。  二人とも、これといった心当たりはない様子だった。  昨日の朝に登校して以来、リツは家に戻っていない。  これで丸一日、リツは行方が知れないことになる。こういう事態は初めてだった。  遊びもするし、外泊もするやつだったが、それでも毎日家族と仲間に顔を見せることは怠らなかったのだ。 「……どう思う? おじさんは、一昨日の晩に少し注意したのが癇に障ったんじゃないかなんて言ってたが」 「それで家出? まさか。  そんなの日常会話でしょ」 「もし腹を立てたのなら、その場で飛び出すのがリツだろうね。  一晩経ってからっていうのはわけがわからないよ」  ぐっすり寝たら嫌なことはすべて忘れてしまうのがリツの良いところでもあり悪いところでもあり。  喧嘩もしやすいが仲直りもしやすい。 「……だよな。  じゃあやっぱり、おばさんの言ってた通り遊ぶのに夢中で時間を忘れてるだけ……ってのもなぁ」 「もう丸一日よ?」 「よほど楽しいことを見つけたんだろうねぇ」 「おいおい、本気か?」 「半分は。  熱中するタイプなのは間違いないよ、リツ」  それにしたって限度があると思うが。 「結局、居場所はわからないのね……」 「そうだね。でも、心配事が一つ減ったよ」 「なに?」 「家にどこからも連絡がないなら、鎌倉大番の取り締まりに引っ掛かったという可能性はないよ。リツが黙秘でもしない限り……いや、そうしたって身元なんかすぐにわかるし」 「あ」  確かにそうだ。  鎌倉大番、つまり六波羅の治安部隊は――すべての六波羅がそうであるように――横暴さで知られるが、別に暇人の集まりではない。  牢獄でただ無駄飯を食わせるために市民を捕まえるわけがなかった。  どう片付けるつもりにしろ、家への連絡はするはずだ。 「全く同じ理由で警察のご厄介になっている可能性も除けるね」 「……警察はもともとなにもしねえよ」  鎌倉にも警察署はある。  あるが、ただそれだけだった。  幕府を除くあらゆる政府機関と同じように。 「少なくとも牢屋に放り込まれてはいない、ってことね。  安心していいんだか悪いんだか」 「ん? そりゃいいに決まってんだろ。  最悪の可能性がそれだったんだから」 「犯罪に巻き込まれたって線を考えてないの、あんた!?」 「…………」 「…………」 「……ごめん。考えないわけないよね、普通」 「いや……」  それを口にすることが怖かった。  非論理的なのはわかっている。だが口にすればそれが現実になってしまうという危惧を、おれは捨てられなかった。  しかし、そんな逃避をしている場合ではないのかもしれない……。 「……小夏」 「……」 「ひとまずその推測は排除していいと思うよ」 「……どうして?」 「確かに現在、大和の治安はお世辞にもいいとは言えない。  この鎌倉は六波羅の本拠地だけにいくらかましだけど、所詮は比較の問題だ」 「戦争の傷跡は癒えず、政治は市民を軽視というより無視して進められ、挙句の果てには――」  忠保は細い人差し指を、天へ向けた。 「〈空から魔王が降ってくる〉《・・・・・・・・・・・》。  銀色の星が落ちてきて、誰も彼もを殺してしまう」 「……」  それを聞いた瞬間、背筋が露骨に震えた。  恥ずかしいとは思わなかったが。  忠保が口にしたのは、現在のこの国において、ある意味で六波羅を凌駕するほどにまで恐れられ忌まれている存在。  ――銀色の星。  誰もが常に、心のどこかで怯えている。  〈それ〉《・・》が到来する瞬間の訪れを。 「こんな情勢で犯罪が日常的じゃなかったら、その方が不思議だね。  でもさ、ちょっと考えてみようよ」 「リツが犯罪に巻き込まれたとして、どんなものが有り得ると思う?  ……傷害、殺人、拉致誘拐、この辺りじゃないかな」 「……」 「傷害事件なら、二四時間連絡がないというのはおかしいね。  自力で家まで帰れないような重傷だったとしても、病院が家に連絡を取るはずだ」 「重傷で、病院にも運ばれなかった場合……これは次のケースになる」 「……」 「殺人。でも、これもどうかな?  人を殺すのは簡単なことだよ。けれどその後始末は難しい。普通はすぐ発覚してしまうものなんだ」 「人間の死体はとてつもなく目立つ。  鎌倉のような都市に死体が発生して、一日もの間誰にも気付かれないなんてのは、相当に低い確率なんじゃないかな」  ごく淡々と語る。表情はいつもと変わらない。  そんな忠保が、おれは少しだけ恐ろしかった。 「最後の誘拐。これはいいよね?  誘拐自体が目的ならともかく……営利誘拐なら、身代金の要求をしなきゃ意味がないんだから」 「……そうね」  背後で頷く気配。  だいぶ落ち着いたようだった。 「じゃあ、リツは……  酷いことにはなってないのね?」 「断定はできないけれど。  とりあえず今は心配しなくてもいいと思う」 「僕らがこうしてあれこれ言い合っている間にひょっこり帰ってくるっていうのが、一番ありそうな話だよ」  現時点では、と最後に呟いて忠保は口を閉じた。  しばらく、風の音だけが渡る。  忠保の説明は筋が通っている。  この男は普段から素晴らしい閃きを見せるタイプというわけでは決してないのだが、論理的に物事を整理して思考を進めることにかけては誰よりも長けていた。  だから説得力があるし、おれも納得できる。  しかしそれでも、おれは、  心のざわつきを―― (いや)  忘れよう。  自分のいい加減な勘と忠保の考察、どちらの信頼性が高いかなど悩むまでもない。  試験の成績を比べてみれば一発だ。  ヤマカン勝負のおれの点数は忠保のおおよそ半分に匹敵する。  ……だから、忠保が正しい。  こうしている間にきっと帰ってくる。  そう信じて、おれは手の中の紙パックを口へ運んだ。 「それはそれとして雄飛」 「ああ」 「芋サイダーって一体誰が考えたんだろうね」 「さあな」  顔を見合わせて一つため息。  白い粘液状炭酸飲料はまだ半分以上残っていた。  ……なんにせよ、明日だ。  明日になればリツは帰ってきている。  きっと……おそらく。けろっとした様子で。 『ほほほほほほほっ! どうしたの雄飛さん、そのカエルが小便ひっかけられたかのようなご面相は! わたしが悪党共に捕まって輪姦されているとでも思ってたのかしら!?』 『きっとわたしが全裸でゴミ箱に詰められて 〝肉便器在中〟なんて〈熨斗〉《のし》付で送られてくるのをチャック下ろす準備万端で待ち構えてたのね! もぅ、なんていやらしいのっ!』  こんな感じだ。  ……うぁ。なんか本当にありそう。おれ超げんなりしそう。 (けど、もし……)  明日、学校に行って。  もし、リツがいなかったら。 (いなかったら……)  その時は――探そう。  おれたちが探すしかない。  警察なんぞ、あてになりゃしないんだから。 「なんにしても明日だ」 「明日ね」 「うん。で?」 「で、って?」 「なぜおれの部屋にいて布団に潜り込もうとしているのかを問うている『で?』なのだという理解を、今たちどころに求めたい」 「なんだか怖いの……一緒に寝て、いい?」 「声だけでそこまで可愛さを演出するおまえの才能には脱帽するし、正直憎いくらいだが、複雑な形で絡み合っていくおれたちの両足がより強烈に何かを語っているとは思わないか」 (図解)     /  ∧     ○□卍□○ YEAH!     \   / 「わたし、気付いたの……あなたとこうしている時が、いちばん落ち着くんだって」 「どうして、かな……?」 「病気だよ!!」  勘弁して欲しかった。 «未決囚〇四八号» «容疑 殺人罪一二件» «うち一件は尊属殺人» «鎌倉市警本部より関東拘置所» «未決囚〇四八号に保釈措置発令» «〈親王令旨〉《しんのうりょうじ》による特例保釈» «直ちに〇四八号を釈放されたし» «緊急の執行を求む» 「〇四八号」 「釈放だ。出ろ」 「…………」  ……リツは帰ってこなかった。  家にも、学校にも、おれたちの前にも。  さすがに騒ぎが起き始めている。  失踪事件など今の関東ではさほど珍しくもないが、だからといって、身近でそれが起きた時に平然としていられるものでもない。  鈴川は、今日は朝しか教室に顔を出さなかった。  リツの家と職員室と警察署を周回しているようだ。  厳しい表情で廊下や校庭を早足に進む姿を、何度か見かけた。  警察には捜索願を出したろう。だが、それで問題が解決するとは鈴川も家族もよもや期待していまい。  神社に賽銭を投げ込む程度の心持ちのはずだ。  形ばかりの捜査でもすればまだましな方。  おそらくはなにかの帳面におざなりな記録をして、それきりだろう。  ここ数年間、警察が市民の保護者として機能したという話など大にも小にも全く聞かない。  倒幕勢力の摘発などに際して、六波羅に下請け業者よろしく使い倒されることならあるそうだが。  要するに、カケラもあてにはできない。  だから、自分でやるしかないのだ。 「こっちじゃないみたいだね。  常盤まで下りてきて、宮野さんの店を覗かないっていうのはちょっと考えにくいよ」 「他になにもないよな? このへん」 「少なくとも、リツにとって面白いものはね」 「となると駅方面か、北鎌か……」  頭の中で鎌倉の地図を広げながら呟く。  なにも言ってこないということは、忠保にも異論はないのだろう。  おれたちは、一昨日の夜に忠保と別れた後のリツの足取りを追うところから始めていた。  リツの行動範囲は広いが、それでもここはあいつの地元で、しかもあいつは目立つ。  労を惜しまなければ素人探偵二名でもどうにかならないこともない。  現に今のところはある程度の成果が上がっている。  ここにいない小夏はリツの交友関係をあたるために単独で別行動中だ。  目当ての大半は女子。となると、男子がくっついていては邪魔という次第。  駅へやってきた。  鉄道は関東交通網の大動脈と言っていいが、当然、一般市民がそうそうお世話になれる代物とは違う。  ……一昔前はそうでもなかったが。  今の鉄道は幕府の御用列車も同然だ。運ぶのは軍人、もしくは軍需物資ばかり。  民間人も利用できることはできるが、それには法外な額の運賃が必要になる。  江戸や駿府に出たいのなら船の方がよほど便利だ。  鉄道に比べて遅いが安価で、本数も安定している。  そういうわけで、リツが鎌倉駅から列車に搭乗してどこかへ行ったとは考えられない。  元より、そんな推測でここへ来たのではなかった。 「さて……どっから当たったもんかな?」 「多過ぎて困るねぇ」  忠保と二人、少し途方に暮れたりする。  駅前という場所の標準仕様として――純粋な軍用駅は別だが――鎌倉駅前も繁華街だった。  飲食店、服飾店、デパート、遊技場……リツが喜びそうな場所はいくらでもある。  それらすべてを調べて回るのは無理だ。 「金の掛かる場所は除外できるよな」 「馬鹿の集会所みたくなってる所も行く必要はないね」 「あいつ馬鹿は嫌いだからな。バカだから」 「バカだからねえ」  ちなみに『バカ』とは字面と語感が示すようなまあそういう方向性の変チクを指し、『馬鹿』とは字面が示す通りの非人間的かつ没知性的な生物を意味する。  混同されることも多いが別物なので注意。 「つまり上と下は切って、普通のとこだけを探せばいいってことだな」 「ハハハ、一番多いカテゴリだね」 「……それでもいくらかマシだろ」 『無理』が『至難』になった程度だが。 「もう少し的を絞ってみない?」 「できるものなら是非。  どうやって?」 「どこへ向かうにしたって、この辺りは必ず通るよ。ここで聞き込みしてみよう。  うまくすればどっち方面に行ったかくらいはわかるかもしれない」 「ここでか……」  辺りを見回す。  忠保の言うことは間違ってはいないが。 「通行人を片っ端から捕まえて聞くのか?」 「それは無駄だね……ここを通り過ぎる人ではなくて、ここに留まっている人に聞かないと」 「駅員?」 「駅員は駅の中しか見てないんじゃないかな」 「交番」 「気持ち良く寝ているみたいだよ。  彼が一昨日の夜だけは真面目に働いていた可能性に賭けてみる?」 「もう少し勝ち目のある勝負がいいな。  屋台」 「日が落ちたら店は畳むね、普通」 「……結局どうしろと?」 「あれなんかどうかな?」  言われておれは初めて気付いた。  その人に、ではなく。  その人の〈奏〉《かなで》をさっきからずっと聞いていたことに。  大きな弦楽器。  それを恋人のように――あるいは子供のように――抱きかかえて、女性が弓を当てている。  音色は重く、厚く、だが静か。  深い森の中、日の差さない最奥に〈揺蕩〉《たゆた》う風を想う。  誰の肌にも触れない風。  誰の耳にも届かない響。  楽師の前で足を止める者は一人もいなかった。  絶え間ない人の流れは、ただ足早に行き過ぎてゆく。  彼らはこの曲を聴いたことさえ記憶しないだろう。  だがふとした折に聞き覚えのないメロディが脳裏をよぎり、首を傾げるのかもしれない。  気付いてみれば、  彼女の演奏は美しかった。 「おまえ……」 「うん?」 「よく見つけられたな」 「……そうだね。たまたまだと思うよ。  不思議だな。よく見るとあんなに華やかなひとなのに、なんで少し目を離すだけで途端にひっそりとするんだろう」  忠保の分析は当を得ていた。  細い目筋が特徴的な、明らかに水準以上の美人だ。長い髪が〈煌〉《きらめ》く衣装のようでもある。  どう見たところで群集から一頭地を抜く容姿なのに、それが遠目には、奇怪なほど風景の中に溶けてしまう。 「ああいう人を探して見ていたから気付けたんだろうなぁ」 「ああいう人?」 「路上で芸を見せる人。  そういう人なら結構遅くまでいると思って」 「けど……」 「ん?」 「あの人が芸人さんかどうかは疑問だね。  あの芸じゃお金は稼げないよ」 「そりゃそうだな」  気付かれないのでは話にならない。  耳に止まれば、大枚をはたいたっていいような演奏なのだが。  ともかく聞くだけ聞いてみよう。  おれと忠保は頷き合って、女性に近づいていった。 「あの……」  す、と。  目の前に手が現れて、おれを遮った。 (……あれ?)  すぐ終わりますから、と穏やかな視線が伝えてくる。  それはいいのだが。 (この人、どこから出てきた?) (いやぁ……どこだろう。  僕も気付かなかったよ)  一見して品の良い老婦人。令嬢風の女性と並ぶと、お付きの〈ばあや〉《・・・》という風情。  ごく、質朴な身なりをしていた。傍らの端麗な姿に比べればどうしても印象は隠れる。……だから、か?  二人並んで訝っている間に、演奏は終わりを迎えていた。美しく一礼して、老人が引き下がる。  長い髪の女性が顔を上げた。視線が合う。  その瞬間。  おれは恥ずかしいまでに自惚れた直感を得た。  あまりにも馬鹿馬鹿しい悟り。    ――この人に、おれは無条件で愛されているという。  冷静に考えてみるまでもなく、妄想だった。  一体どこからそんなくそボケた考えが湧いてきたのか。今日はじめて出会った女性、しかもこれだけ綺麗なひとが、なんでおれを好きにならなきゃならんのか。  小一時間脳味噌を問い詰めたい。  しかし、その細い瞳がまずかった。  おれを見る眼差しが優し過ぎた。    どうしても、そんな誤解をしたくなる。 「あ……」  とにかく妄念を振り払うために、おれは口を開こうとした。  話をしよう。話をすれば正気に戻る。 「あの……」  言葉が出ない。  何を話せばいいのかわからない。  何してるんだおれ?  ここへ何しに来たんだっけ? 「あのっ……」 「雄飛、どうしたの。勃起してるよ」 「せ、せめて顔が赤いとか言えぇ!!」 「勃ったんですか?」 「うわぁ聞かれてるもう駄目だ!!」  頭を抱えて走り出そうとしたところへ、ばあさんがついと進み出てくる。  まぁまぁとか言いながら肩をがっしり掴んで半回転させられ、おれは無理矢理元の位置へと戻された。  女性の視線は変わっていなかった。 「うーん……雄飛……友情が重いよ」 「今のは混じり気無しの殺意だバカヤロウ」  まぁお陰で正気には戻れたが。ショック療法で。  けど絶対礼なんか言わねぇ。 「あの」 「はい」 「少しお伺いしたいことが……  あ、すいません。おれこのへんに住んでる学生で新田雄飛って言います」 「はい」  女性が頷く。  そして、 「雄飛さん」  大切な宝物のように、おれの名前を口にした。 (うっ)  落ち着け、落ち着けおれ。 「こっ、こ、こっちは稲城忠保」 「稲城です。ところでさっきから雄飛がおかしいのは別に奇行癖ではなく、きれいなお姉さんを前にして浮かれてるだけなんですよとフォローしてあげたりする友情覇王だったり」 「おまえもう帰れぇ!!」 「はい。友情覇王さん」 「わぁい、こっちで覚えてもらえたよ雄飛!」  嬉しいのか。 「それでその。  お姉さんは、ここで演奏をしている人なんですよね?」 「雄飛、その言い方だとまるでほかに習性のない動物みたいだよ」 「うっ。ええとつまり」 「ここで毎日演奏をして生計を立てている人なのか、ということですね?」 「あ、はい。そうです」 「〈演算機〉《CPU》の性能差が如実に知れる会話だなぁ」  返す言葉もねぇ。 「残念ですが……わたくしは、鎌倉には来たばかりですの。  ここでこの子を弾くのは今日が初めてです」 「あ、そうなんですか……」 「残念だね、雄飛」 「こら」  残念とか言うな。悪いだろうが。 「申し訳ありません。  お役に立てなかったようです」 「いえそんな、こっちの都合ですから」  案の定、女性は肩を落としてしまっていた。  こっちが申し訳ない。慌てて手を振る。 「別に大したことではないので……」 「ハハハそれは結構ひどい言い草じゃむぎょ」  親指一本突きによる〈攻勢阻止〉《インターセプト》成功。 「そうですか……?  ではせめて、道を示して差し上げましょう」 「道を?」 「あら、申し遅れました。  わたくしは――」  挨拶のように弦をひと弾き。 「ご覧の通り」 「はい」 「流しの占い師です」 「ええっ!?」 「助手でございます」 「…………その楽器は?」 「大螺旋交差演奏法による占いを得意としておりまして」 「鬼のような胡散臭さですね」 「説明いたしますと」 「いえいいです別に。なんかそのへん聞くとドツボにはまるような気が」 「お嬢さま、それは企業秘密でございます」 「そうでした。企業秘密は守らなくては。  占い業界から刺客でも放たれては大変ですものね」 「強襲突撃戦用占い師が襲ってくるやもしれませんな」 「根本的なところで色々とおかしいって指摘してあげたらどうだい、雄飛?」  おまえやれ。 「では、あなたの未来を占って差し上げます」 「ええと、すいません。あんまり変な方法で占いとかして欲しくないっていうか、むしろそういうのは呪いの仲間なんじゃないかって思うんですけど、その辺どうなんでしょう?」 「見えますっ!」 「なんとなくわかっていましたけど無視なんですね。つーか楽器を使うなら見えるんじゃなくて聴こえるんじゃないですか? あぁぁ、いえもういいです別にどうでも」 「その悟った横顔、素敵だよ。雄飛」 「黙れ」 「……雄飛さん」  占い師(?)がおれを呼ぶ。  その表情は意外さを覚えるほど真摯だった。 「あなたには運命が待ち構えています。  避けられない運命が……」 「はぁ。運命スか」  まあそういうもんがあることにしとかないと、占い屋なんて成立しないのだろうが。 「してお嬢さま、その運命とは?」 「猥褻行為を繰り返した挙句、逮捕されると 『ぼくはモテモテ。どんな女も簡単に落ちる。みんなには王子さまと呼ばれていた』などと供述したりする運命が待っているのです!」 「嫌だよそんな運命!!」 「雄飛、僕たち学校を卒業しても友達だけど会いには来ないでね!」 「鵜呑みにしてしかも見捨てるんじゃねぇ!」  本気で呪いだった。 「安心してください。逃れる方法が一つだけあります」 「壷を買えとか言うんじゃないでしょうね」 「この鎌倉にいる限り、運命からは逃れられません」 「え?」 「鎌倉を離れることです、新田雄飛さん。  一日も早く。今、これからにでも」 「ご家族に相談なさい。  きっと理解してくれます」 「いや、離れるったって……そんな急に」 「さよ」 「は」  女性に促されて、ばあさんが進み出る。  そしておれに、恭しい仕草で何かを差し出した。 「……これ」 「乗車券だね」  大和全線適用一等定期乗車券。  ……錯覚かと思ったが、間違いない。  これを持っていれば一定期間、大和国内のあらゆる鉄道を無制限に最上級の乗客として利用できるという、最高額の乗車券だ。有効期間はあと半年。  ……捨て値で売っても五万にはなるシロモノだ。  新任公務員の月給三か月分。 「冗談でしょう?」 「お使いください。そのつもりがあるのなら」  女性は微笑んでいる。  最初からずっと。  最初から。  あの風のような調べを奏でていた時から。  これが冗談なら、最初からすべて冗談だったということになるのだろう。    ――あの演奏も含めて。 「…………」 「雄飛」  おれを下がらせようとした忠保を止める。  わかっている。こいつはいま、おれを助けるために何かをしようとした。  長い付き合いだ、それくらいわからいでか。  だけど今はいらない。大丈夫だ。 「占い師さん」 「はい」 「あなたがどうしてこんなことをするのか、正直さっぱりわからないです。  でも……あなたが本当に、おれを心配してくれているのはわかりました」 「ありがとうございます」  おれは頭を下げた。 「…………」 「……」 「でも、これはお返しします」 「なぜ?」 「受け取る理由がないとか……そういうことじゃないんです。  あなたが本気でおれを案じてくれているというのは充分な理由ですから」 「けど、少なくとも今は駄目です。  おれにはここでやることがありますから」 「それは大切なことなのですか?」 「はい」 「そのために、あなたが本当に――  過酷な運命に呑まれるとしても、捨てられないほど?」 「はい。  おれが今やらなくてはならないのは、仲間を助けることですから」 「それが原因でおれに何かがあっても……  その時は、仲間がおれを助けてくれます」 「……」  女性は口を閉ざした。  眼差しを伏せ……やがてまた一つ、弦を爪弾く。 「大回転爆裂炎上法が示した運命……」 「あれ? ちょっと変わったような」  ちょっとどころじゃないような。 「わたくしに見えるのは、雄飛さんがそれに巻き込まれる所まで。その先はわかりません。  運命に勝つか、負けるか。あなた次第です」 「……」 「親切げな顔をして、不吉なことばかり申し上げてしまいましたね。どうかお許しを。  今日のことは忘れてくださいまし」 「そんな。えっと……なんて言ったらいいかわかんないですけど。  ほんと、迷惑なんかじゃなかったです」 「お姉さんのことは忘れません。  ……忘れたくないです」 「……ありがとうございます」  〈眦〉《まなじり》がやわらかに下がる。  白い頬にほんの少し、朱がのぼっていた。  うわぁ。このひと、本当に美人だ。 「やぁ、なんか僕はおおむね蚊帳の外でしたけど、楽しかったですよ。演奏も良かったし。  これ、つまらないものですがお礼です」 「あらあら、どうも」  いつの間にか買っていたらしいジュースのパックを差し出す忠保。  うらやましいほどマイペースですねキミは。 「さよ」 「はい」 「ではお二方、わたくしどもはこれで」 「失礼致します」  自称占い師の女性は軽く会釈して、自称その助手の老婦人は深々と一礼して、共に雑踏の中へ歩み去っていった。  消えていく背中を見送る。 「印象的な人たちだったねぇ」 「そうだなぁ」  きっと忘れないだろう。  あの不思議で、親切な女性のことは。  ――さようなら。  うっかり告げ忘れた別れの言葉を呟く。  駅前の雑多な光景の中、最後に見えた後姿は、    嗚咽するように。口元を押さえていた―― 「……忠保」 「なんだい?」 「おまえが渡した、あれ、なんだ?」 「あれ?」  あっけらかんと。  その男は言った。 「実は密かにブームらしくてそこの売店でも売ってた一〇〇%天然・芋サイダー」 「おどりゃぁぁぁぁぁああああああああ!!」 「お嬢さま……あれで宜しかったのですか?」 「ええ」 「〈獅子吼〉《ししく》殿の指先は、おそらくもう間近まで迫っておりましょう」 「それでも。  彼の運命は彼が選ぶものです」 「……まさしく」 「わたくしにできるのは、運命を示して差し上げること。  そしていずれ……彼が運命と戦う時には。ほんの少し、手助けをして差し上げること」 「左様でございますねぇ……」 「急ぎましょう、さよ。  そろそろ本業に戻らなくては」 「はい」 「それと」 「は」 「この新たな味覚の開拓に雄々しく挑戦して華々しく散った英雄的ドリンク、飲みませんこと?」 「断じて結構でございます」 「……というわけで」 「リツは、竹林の辺りまでは帰ってきていたらしいんだよ」 「弁天さまの近くの竹林よね?」 「うん」  一日の調査を終え、小夏を交えて報告会。  場所はおれの部屋だった。  小夏は当然ながら自分の部屋に男を入れたがらないし、忠保の家は少しばかり敷居が高いので――忠保にそう言っても首を傾げるだけだろうが――仕方ない。 「雄飛、卑猥な雑誌はちゃんと奥にしまっておいてよ。恥ずかしいなぁ」 「しまってあるよ! 適当言うな!」 「……しまってあるの?」 「うわぁ、墓穴掘ったね雄飛っ」  テメェだよ掘ったのは! 「話を元に戻します。  ……足跡を辿れたのは竹林までだ。その先はわからなかった」 「その先って言っても、もうリツの家は目と鼻の先なんだけどねえ」 「すごいじゃない。  一日でよくそこまでわかったね」 「自分でも結構驚いている」  あの弦楽器の女性と老女の二人連れに出会った後の捜査は、とんとん拍子と言いたいくらい順調に運んだ。  リツは駅前で数軒の店舗を覗いたあと帰路についたことが、日暮れ前には確認できたのだから。 「でも不思議だよねぇ。あの竹林に入ったら、あとは住宅地方面に出るしかないはずなんだけど」 「そっちでは目撃されてなかったんだよな」 「竹林に入ったのは確かなの?」 「手前の飲み屋通りで聞けた。一昨日の夜に入っていくのを見たって人が何人かいる」 「リツはいつもあそこを通って帰るから、日にちを間違えてるって可能性もないわけじゃないけど……ねぇ」 「いつも見掛けるのに昨日は見なかったんで不思議に思ってた……っていうんだから確かなんじゃねぇ?」 「うん」 「竹林の中は調べなかったの?」 「いやそれが……」  もちろん、調べようとはしたのだが。 「あそこ、田中の爺さんの土地だろ」 「あぁー。あの雷爺い」  小夏が顔をしかめる。さもありなん。  リツの家の近所の竹林は子供の頃のおれたち四人組にとって絶好の遊びスポットだったから、幾度となく侵入を試みた。  そのたび立ちはだかったのが、竹林の所有者である田中の爺さん。  人呼んで雷帝。  竹林を通行路として使われることは容認したものの (そこへ至るにも付近住民との間で過酷な闘争があり、これは第一次雷帝動乱と呼ばれる)、子供の遊び場にされることは断固として認めなかった爺さんは、  野犬一〇匹をまとめて心臓麻痺に至らしめたという伝説の〈雷鳴怒叫〉《サンダークラップ》を駆使して侵入者を攻撃。  対するおれたちは兵力の優位を生かせる散開戦術を選択。敵戦力の疲弊を狙ってゲリラ戦を繰り広げたが、  付近住民の仲裁(雷鳴の流れ弾をくらうこっちの身にもなれ)によりやむなく和睦。ふかし芋八個と引き換えに全戦線から撤退したのだった。  第二次雷帝動乱の終結である。  そんなことがあったため、今でもあの爺さんはおれたちにとって鬼門だった。  最近は寄る年波のせいか、家でおとなしくしていることが多くなったと聞いていたのだが。 「たまたま昨日は元気だったらしくてな」 「しかもつい最近竹林を荒らした連中がいるらしくて。こっちを見るなり僕らを犯人だと決め付けて怒鳴り通しでさ。  ハハハ、まったく話にならなかったねぇ」 「笑いごとじゃないでしょ……」  まったくもって。 「とにかく、あそこは爺さんの留守を狙ってまた調べてみるさ。  でないと調査が進まないしな」 「それで、おまえの方はどうだったんだ?」 「あ、うん。  リツの友達を片っ端から当たってみたんだけど……」  その小夏の表情を見れば大体続きはわかったが。  聞かないわけにもいかない。 「けど?」 「成果ゼロ。一昨日、忠保と別れた後のリツを見た人は誰もいなかった。  誰それと駆け落ちでもしたんじゃないとか、いい加減な噂は色々拾ったけどね……」 「駆け落ちの相手は? 誰か特定の男?」 「言う人によってバラバラ。  ちなみにあんたや雄飛も候補者のうち」 「……おれたちは別に失踪してないんだが」 「一方だけが姿を消す駆け落ちって、それはつまり拉致監禁って言わないかなぁ。  雄飛、ちょっと押入れ開けてみていい?」 「どうもおまえとの友情を清算して損失額を支払わせる時が来たらしいな?」 「後にしなさい。  それと……これも聞いた噂の内なんだけど」 「ん?」 「ちょっと……良くない噂が」 「……まぁ、リツはやることなすこと万事が派手めだったからねぇ」 「悪く言う奴は昔からいたろ。  今更そんなもん、気にしたって仕方がない」  目立つ人間の宿命みたいなものだ。  昔はしばしば腹を立てることもあったが、当の本人が『ほほほ有名税というやつですわね』とか言ってるので段々気にならなくなった。  相手にされない陰口側はそれで一層躍起になるわけだが。 「そうじゃなくて。  リツの噂じゃなくて……」 「なんだよ」 「……リツに関係あるかもしれない悪い噂。  最近、人がいなくなってそれきりってこと多いでしょ?」 「順調な増加傾向にあるね」 「順調ってこたないだろ」  順調だけど。 「その理由が……  六波羅の奴隷貿易なんじゃないかって、噂する人が多いの」 「…………」 「…………」 「だから子供とか、見た目のいい若い女の子とかがよくいなくなるんだって。本当かどうかはわからないけど。  大陸に運んで売るのに都合がいいから……」  小夏はそこまで呟いて黙った。  かわりに口を開く者もいない。  ――六波羅の奴隷貿易。  おそらく、なんの証拠もない噂だろう。  六波羅に反感を抱く人間なら誰でも思いつきそうな話だ。そして六波羅に反感のない市民などいない。  そんな噂が多く飛び交うのは当然と言えた。  つまりは偏見というものだろう。  だがそれでも。  六波羅の奴隷交易、その言葉が持つ現実味は―― 「……有り得ない話じゃないね」 「忠保……」 「なるほど。それなら、拉致犯が家に連絡を入れてこないことも不思議じゃなくなる。  利益は被害者の家族ではなく、購入者から得ればいいわけだから」 「ちょっと――」 「忠保!」 「怒らないで聞いて欲しいな。  時間の無駄だよ」  激昂しかけたおれと小夏に、忠保の声はバケツ一杯の水のようだった。  冷え切っていた。 「狙われるのは女子供……それも合理的だね。  捕獲に要する手間が少ないうえ、運ぶのも比較的楽だ。成年男性と違って労働力としては期待できないけれど……」 「そういう役割を求められる奴隷ではないのだろうね」 「……」 「…………」 「奴隷市場となると、どこになるかな。上海か、香港か……〈澳門〉《マカオ》か。  その先はもうわからないな……中南米かもしれないし、大陸の奥地かもしれない」  忠保の淡々とした言葉は続く。  止めたかったが――止められない。  それはただ、臭いものに蓋をするも同然のことだとわかっていた。  蓋をしたところで汚物は消えない。  本当に……そんな。  汚物のような事実が。  リツを襲ったと、言うのだろうか。 「もし……」 「うん」 「もし、もしよ? もし本当にそんなことがあったとして……。  どうすればいいの?」  どうすればいいのか。  そんな事態に対して。 「……とりあえずは、事実を調べることだよ」 「……」 「まだリツがどうなったか、実際のところは何もわかっていないんだ。  まずはその確認が第一」 「憶測で騒ぎ立てても相手にされないよ」  答えになっていない。  それはわかっていた。 「つまりはリツの足取り調査の続行だな」 「そうだね」  話を合わせる。忠保が頷く。  小夏は黙っていた。  考えていることは、きっと、全員同じだった。  〈六波羅には刃向かえない〉《・・・・・・・・・・・》。 「小夏」 「……」 「ほかには何かないのかな?」 「え……あ、うん。  そういえばもう一つ、気になる話が」 「なんだ?」 「今朝のことなんだけど、学校に来る途中で怪しい人を見たって」 「怪しい人?」 「忠保くらいか?」 「ハハハ雄飛、ちゃんと冗談めかして言ってよ。真顔で言ってどうするのさ」 「? おれは真面目だが。冗談言ってる場合じゃないだろ」 「そうね。話を聞く限りだと、どうも4忠保くらいの怪しさみたい」 「相当だな」 「会話の円滑な進行のためにひとまず黙っておくけど、僕が納得していないという事実は議事録に残しておくからね。  それで、どんな人?」 「うーん。なんだか……すごく暗い感じの」 「ほお?」 「暗黒大将軍か、暗闇の星の暗闇星人かってくらいに黒いオーラがにじんでる人で」 「あまり聞かない人物評だね」 「途方もなく景気の悪い目つきをしながら、学校の周りを徘徊していたんだとか」 「それは怪しいな……」  おれは思わず腕組みして唸った。  そんな野郎が今日、学校のそばにいたとは。 「関係……あるかな?」 「さっきの噂と結びつければ、拉致の実行犯が次の獲物を狙ってるとも考えられるね」 「! じゃあ、そいつを捕まえれば」 「リツに辿り着ける可能性はある……可能性はね。  現段階では何もかも推測だよ」 「それはわかってるが……」  だがようやく、道筋が一つ見えた気がする。  明るい道筋ではないにしても。  リツは今日も結局、家へ戻っていない。  焦りが募る。  そばにいることに慣れ親しんだ仲間がいない、それがこんなにも辛いことだとは思わなかった。  耐え難いまでの焦り。  本当は寝る間も惜しい。 「夜に調査なんてやるだけ無駄だよ。  鎌倉大番に捕まりでもしたら何もできなくなる。落ち着いて、雄飛」  わかってる。  わかっちゃいるけど。  リツ……無事でいるよな?  きっとどっかで遊んでるだけなんだろ?  さっさと帰ってこいよ。  今なら笑って許してやるから。  それとも本当に、六波羅の鬼畜野郎にさらわれちまったのか。なら、おれは、  おれは、  糞。  ……おれはその夜、見も知らぬ暗闇星人と巨大化して戦う夢を見ながら眠った。  焦ろうがのんびりしていようが時間は普通に流れるし、学校は普通にあるし、授業は普通に行われる。  正直、授業なんかまともに聞いていられる気分ではなかったが、この状況でさぼったりすれば騒ぎを助長してしまう。  リツを探しに行くと断っても通るわけがない。  学校と、特にご厄介になっている来栖野家に迷惑を掛けることは避けたかった。  遠縁の孤児に過ぎないおれの面倒をみてくれているおじさんおばさんを心配させるわけにはいかない。  ……実の両親に育てられている身なら、こういう時はむしろ、頼ろうとするのだろうか?  などとちらりと考えたが、わからなかった。事故で死んだ(と聞く)両親のことは顔も覚えていない。  何にせよおれは最善の手段、放課後を待っての行動を選ぶしかなかった。  授業は……同じような心境だろうに責務を果たしている鈴川には申し訳ないが、聞き流させてもらう。 「……歴史を古代、中世、近世、近代、現代のように区分けすることを時代区分という」 「前回まで学んでいたのが近代。  今日から現代に入るが……」 「近代、現代の区分には諸説ある。  その一つは新型劔冑の誕生をもって現代の始まりとするものだ」 「上古の時代から今に至るまで、〈劔冑〉《ツルギ》は常に最強の兵器だった。着用した人間の身体能力を飛躍的に向上させ、空を自在に駆けさせる……これに勝る武器は未だない」 「陸上では戦車、空では飛行艦が有力な兵器として注目されているが……いずれも単純な戦闘力ではまだまだ劔冑に及ばないというのが実情だ」 「〈高速徹甲弾〉《HVAP》を始め、劔冑の撃墜を目指した兵器の研究もされている。我が国でも戦時中、〈電磁加速砲〉《レールガン》計画などが一時期脚光を浴びたな。  しかし実用に達した例はほとんどない」 「劔冑を打倒できる兵器は無く、劔冑に打倒されない兵器も無し。  そのつもりになれば、劔冑を使う者は一人で完全武装の歩兵百人を駆逐する事ができる」 「……いや。それどころか。  中には、〈町〉《・》をただ一人で壊滅させてしまう者さえいるようだ」 「その種の伝説なら何処の国にもあるが……  こんな話を、昔の御伽噺ではなく、現実的な脅威として受け止めなくてはならない我々大和国民は……残念ながら、非常に不運だな」 「……」  窓際に座る何人かが、ふと空を見上げた。  夕立を危惧するように。あるいはそれ以外の何かを危惧するように。  ……幸い、何もないようだった。  〈白銀色〉《・・・》のものは、何も。 「劔冑はそれだけの力を持っている。  その劔冑の使い手を〈武者〉《むしゃ》という」 「近代以前、武者は一握りの上級士族だけに限られていたが……高野、それはなぜだ?」 「劔冑が貴重品だったからです」 「なぜ貴重品だった?」 「鍛冶師一人につきひとつしか造れなかったからです」 「そうだ。劔冑鍛冶は生涯〈一打〉《ひとうち》。  なぜなら、劔冑を完成させるには鍛冶師が自分の身魂を鎧に打ち込まなくてはならない……これを『〈心鉄〉《しんがね》を通す』という」 「そうすることで初めて、劔冑は最強の武器としての力を得……その力を使い手の意思に応じて制御するための頭脳も備える。  心鉄を通さなければただの上出来な鎧だ」 「つまり、劔冑を一領造るには鍛冶師が命を一つ捧げなくてはならないわけだ。  貴重品なのは当然だな」 「先生っ」 「どうした、吉田」 「劔冑を造った鍛冶師は死ぬんですか?」 「……難しい質問だな。  鍛冶師の心魂は劔冑の〈統御機能〉《OS》として残るわけだから、生きているという見方もできる」 「だがそれはあくまで、劔冑の部品としての精神……というか、精神の〈ようなもの〉《・・・・・》だ。  人間らしさはほぼ無くしている。使用者の命令に応えるだけで、自発的行動はしない」 「そうではない劔冑が〈嘗〉《かつ》てあったという人もいるが、伝説の彼方の話だ。  現代には残っていないだろう」 「さて。  そういうわけで、近代まで、武者は非常に数少なかった」 「世界共通のこの事情が劇的に変化するのは国紀二五四九年……〈二重帝国〉《ハプスブルク》の兵器メーカー、ゼグラー社が世界で初めて、鍛冶師の生命を消費せずに劔冑を完成させた時のことだ」 「これに先立つ二五四四年。  何があったか知っている者?」 「はい」 「稲城」 「〈大英連邦〉《ブリテン》のフォレット教授が研究していた〈多重複写〉《ミラー》法による〈生体複製〉《クローン》技術開発が頓挫、研究成果をゼグラー社に売却しました」 「成果とは具体的に?」 「〈複製人体〉《コピーボディ》の完成です。  ただこれは、免疫問題を克服できなかったため、期待されていた医療面での有効活用は不可能と断定されました」 「そう。  だがゼグラー社のアルブリヒト博士はこの技術を劔冑の製造工程に転用することを思いついたわけだ」 「劔冑は能力の源泉とするため、そして能力を制御する知能とするために、鍛冶師自身の心身を必要とする」 「それを博士は前者を複製人体、後者を機械式の〈演算装置〉《CPU》と〈命令系〉《プログラム》で代用することに成功」 「量産可能な全く新しい劔冑を誕生させた」 「この新型の劔冑は性能面では旧来の劔冑に大きく劣ったが――」 「例えば旧型の劔冑でも上物に属するものは、使用者に装甲されていない状態でも、指示を受けて独立行動する能力を有する。  この時の形状は移動に役立つ馬が最も多い」 「新型の劔冑にこんな真似は無理だ。  しかしそれでも充分な能力を発揮したし、」 「何よりも貴重な技術者である鍛冶師を消費せずに済むことが、各国の軍事関係者をして驚倒させた」 「かくして世界中の国々は争ってこの新兵器を採用……技術を取り入れ、量産し、改良を重ねた」 「いまでは性能においても旧型に迫るところまで来ている、と言う者も多い。  〈競技用劔冑〉《レーサークルス》などという派生まで登場した」 「一方、新型の劔冑の普及に反比例して旧型の劔冑は急速に造られなくなり……  まあ当たり前だな」 「技術が散逸して、現在ではもう、〈蝦夷種族〉《ドワーフ》の鍛冶師の中でも限られた者の間にしか鍛造法が伝わっていないといわれる」 「今、戦場の主役は新型の劔冑だ。  旧型の劔冑を使うのは由緒ある家系出身の将校くらいしかいない」 「ここで少し用語の整理をしておこう。  ちゃんと聞いとけ? 赤点を取りたいならいいけどな」  うわ危ねぇ。  また寝るところだった。 「超能を持つ鎧を〈劔冑〉《ツルギ》、使う〈士〉《さむらい》を〈武者〉《むしゃ》という。これはいいな。  劔冑は二種類、新型と旧型があり……大和では前者を〈数打〉《かずうち》、後者を〈真打〉《しんうち》と一般にいう」 「西洋では〈新式劔冑〉《レッドクルス》と〈旧式劔冑〉《ブラッドクルス》なんて呼び方をするな」 「そして武者は、軍事専門用語では竜騎兵と呼ぶ訳だが。狭い意味では前者を〈真打劔冑〉《シンウチ》の使い手、後者を〈数打劔冑〉《カズウチ》の使い手という意味で用いるので注意するように」  新型=数打→竜騎兵  旧型=真打→武者    …………ね。ほいほいっと。 (竜騎兵……武者、か)  ほんの一昔前まで、英雄や勇士の代名詞だった。  誰よりも強い力を持ち、誰よりも厳しい規律に従う。常に市民の盾となり、外敵の前に立ちはだかる、国家の守護者……。  男なら誰しも一度は憧れるような。  武者とはそういう存在だった。    ……ほんの少し前までは。  今は。  武者といえば、〈あの六波羅〉《・・・・・》。 「話を近代と現代の区分に戻すぞ。  つまり竜騎兵の登場をもって現代の皮切りとする説があるわけだが、その理由はわかるか? 大川」 「わかりません!」 「元気があってよろしい。立ってろ。  じゃあ劔冑博士の稲城」 「それまで権力者の占有物だった最強兵器が、市民階級の手にも渡るようになったからです」 「そうだ。  新技術の誕生によって劔冑の数量が爆発的に増え――」 「と言っても十領造るだけで国家予算レベルの検討が必要になる、依然として希少な品であることに変わりはないんだがな。  あくまでそれ以前との比較の話だ」 「劔冑の数量が増えると、使い手を士族階級だけでまかなうわけにもいかなくなった。  足りない分はどうする? そう、平民だ」 「それまで軍においては脇役でしかなかった平民層出身者が劔冑を与えられ、竜騎兵部隊を構成してゆく。  そうして力を持てば当然、発言力も増す」 「大和国軍における竜騎兵部隊の誕生が興隆二年、選挙法から財産制限が撤廃されたのが興隆十年……国紀二五六九年。この間わずか八年というのは偶然でも何でもない」 「銃が民主主義を生んだという言葉があるが、ならば育て上げたのは新型劔冑というわけだ。  竜騎兵の登場をもって現代とするのはこの考え方に由来する」  なんだか殺伐とした歴史観だな。  兵器の進歩が歴史全体を変えていくなんて……確かにそういう見方もあるんだろうけど。  その視点だと、次はどんな兵器の登場で新しい歴史が始まるのだか。  きっとロクなもんじゃないだろうなぁ。 「さて、では現代史だが……次回にするか」 「今日は概略だけ説明して終わろう」  よっし。  今日の授業はこれで最後。後は掃除だけすればリツ探しに行ける。 「民主主義あるいは民族主義の成長は大国の植民地支配に対する被支配地域の反発を生み、各地で抵抗運動が盛んになる」 「これを受ける格好で大和は人種差別思想の撤廃を国際社会に訴え、アジアの盟主としての地位を確立しようと図ったが、大英連邦を始め白人諸国の反発を買う」 「ロシアの南下は和露戦争によっても結局は止められず、大和はこれに対抗する形で大陸進出を推進」 「このことが大英連邦を更に警戒させ、大戦へとつながっていく……」 「国内では竜騎兵の誕生により、武者統括の組織であった〈六衛府〉《りくえふ》が勢力を拡大。  大戦突入に先立って陸軍・海軍と並ぶ国軍組織を形成、竜軍と称して首都圏を統監した」 「……六波羅幕府の誕生だ」 「そして大戦。欧州、アジア、その他の地域でも戦争の火蓋が切って落とされた。  大和軍は大陸と南洋へ進出し、序盤は連戦連勝、アジア統一も間近かと思われた」 「が、大英連邦は新大陸駐留軍を太平洋方面へ向け、大和軍を迎撃させた。  更には国際連盟を動かし――」 「国際統和共栄連盟は国家間問題の平和的な解決を目的として創られた組織だが、実質、大英連邦とその衛星国家による協賛会でしかないのは皆も知っている通りだ」 「大英連邦は連盟の決議を得て〈連盟軍〉《UNF》を編成。  戦力の中心はあくまでも自前の新大陸軍で、そう増強されたわけでもないが、これにより補給の不安が解消されたことの意味は大きい」 「一方、資源に恵まれず、他国からの支援もない大和側は、速戦即決の意図を挫かれると後が続かなかった。  戦線は膠着し……」 「やがて大和軍は押し戻され、占領地を失い、遂には本土決戦を迎える。  敗勢はなおも続き、九州、中国と侵略され……しかしまだ、六波羅軍は健在だった」 「誰もが、六波羅さえ出撃すれば状勢は覆ると信じていた……。  そして六波羅は」 「大和史上に前例のない、歴史的決断を下す」 「…………」  絶妙な皮肉だった。 「〈六波羅は裏切った〉《・・・・・・・・》」 「祖国を見捨て、連盟軍に降伏した。  その尖兵となって、大和を制圧した。町を焼き、市民を殺し、逆らう全てを滅ぼした」 「かくして大戦は終わり、大和は一応の主権を保障されながらも、連盟の〈進駐軍司令部〉《GHQ》の管理下に置かれ……六波羅は寝返りの褒美にその下で大和の統治権を獲得する」 「時に、興隆三五年。国紀二五九四年。外暦一九三四年。  ……今から六年前のことだ」 「そうだ。  あれからまだ、〈六年しか〉《・・・・》経っていないのだ」  …………。 「……以上だ。次回からはこの流れを順々に追っていく。  では日直」 「きりーつ」 「いや、それがものすごい速さでな。  こう……バヒューン! と」 「竹林の奥を?」 「ああ。竹の間をすり抜けるようにしてな。  イタチか何かみたいなすばしっこさだったが……」 「が?」 「人間……だったんじゃねえかなぁ?  そんな形してたしなぁ……でも人間の動きじゃねえよなぁ、あれ」 「猿だったのかもしれねえけど、多分あれは……」 「…………」 「あー……いや。なんでもねぇ。  うん。山から下りてきた猿かなんかだろ。よくいるんだ、そんな間抜けも。竹の子でも掘りに来たのかねぇ? はは」 「……もういいか?  おじさんもその、忙しいからさ」 「はい……どうも。  ありがとうございました」  そそくさと歩き去っていく、この辺の店では常連のおっちゃんを見送って。  おれたちは黙ったまま、顔を見合わせた。  竹林近くの飲み屋通り。  三日前の夜について聞き込むうち、なにかおかしなものを見た人がいるという話を聞き、探し当てたのが今の人だった。  あのおっちゃんが最後に何を言おうとして中断し、口を濁したのか。想像に難くない。    ――異様な迅速さで駆ける人影。  それはつまり、人にして人ならぬもの。  武者。  そして武者とは六波羅に他ならない。  六波羅に属さない人間の劔冑所持は禁じられているのだから。終戦直後にGHQが実施した劔冑狩り政策によって、六波羅外の劒冑はほぼ全て没収されている。  隠匿し没収を免れた人も、やがて摘発され――又は反乱を起こして滅ぼされ、結局は命ごと劒冑を失った。  一時期は各地で頻発したその手の事件も、もう種が尽きたのだろう、最近はとんと聞かなくなっている。  現在、少なくとも鎌倉周辺において、六波羅による武者と劒冑の一元掌握は完璧だ。    例外は……競技用劔冑くらいだが。 「……〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》がたまたまここで練習してたってオチだと思う?」 「確かにコーナーリングは鍛えられそうだが」 「田中雷帝も心が広くなったもんねー。事故が日常の〈装甲競技〉《アーマーレース》の練習場に竹林を提供するなんて」  有り得ない話だった。  そもそも、装甲騎手は認可された競技場以外の場所で装甲行動することを許されていない。  ……事態はほぼ明白。  あのおっさんの見間違いでない限り、三日前の夜、竹林には六波羅の武者がいたのだ。  リツが姿を消した、その時に!  奴隷貿易。  腐臭のする言葉が後頭部にのしかかる。  昨夜の段階ではまだ可能性の一つに過ぎなかった。  だからその可能性が持つ恐ろしいまでの〈どうしよう〉《・・・・・》〈もなさ〉《・・・》を直視はせずに済んでいた。 (本当に……六波羅にさらわれたのか。リツ)  一挙に現実感の高まった推測を、誰もが脳裏に思い浮かべているだろうに、一人として口にしない。  その理由はさっきのおっちゃんと同じだった。  〈六波羅には刃向かえない〉《・・・・・・・・・・・》。  刃向かえないのに……立ち塞がるのか。それが。  六波羅。  もともと快くもなんともない存在だったが、かつてここまでその重さを感じたことは一度もない。  食料制限、労役、臨時税。圧迫は絶え間なかったにしても、おれたちにとってまあ耐えられる範囲のことだった。  これまでは。  今。圧倒的な暴力で、友人が奪われようとしている――あるいは既に、奪われた。    どうにかしなくてはならない。  だがどうにもしようがない。  六波羅には逆らえないのだ。  六波羅は大和の最強者で、対抗できる力はどこにもない。  正義の力はどこにもない。 「……どうすればいいの?」  上っ面の軽さを装うのにも疲れたのだろう。小夏がとうとう、重苦しい声をこぼした。  応える言葉など、おれにはない。  どうすればいいのか。  いもしない正義の神様の降臨を願うか。  それとももう少し現実的に、災いの神様が六波羅に祟りを下すことを願うか。  どちらでもいい。  大した違いはないのだ。 「……竹林を調べよう。  まずは事実の確認が」 「確認してどうすんだよ」 「雄飛……」 「どうにもできねえじゃんか……六波羅が敵なら! 竹林調べて、武者がリツを拉致ったって証拠つかんで、それからどうするよ?  六波羅に殴り込みでも掛けんのか!」  糞……ああ糞、最低だ。  なに八つ当たりしてるんだおれは。  馬鹿じゃねえのか。畜生が。  事実の確認が必要だ。  忠保は正しい。いつも通り。  まだ決まったわけじゃないんだ。  リツがどうなったのかを確かめなくちゃならない。  だけど怖い。  疑いようのない証拠をつかんで、それでも何もできないことを知って、自分の無力を思い知るのが怖い。  いまの段階で投げ出せば、リツはふらっとどこかへ行ってしまっただけで、楽しくやっている……なんて幻想にすがりつくこともできると。  そんなことを考えている自分がいる。  弱ぇ。  ああ。  情けなくて涙が出そうなほど弱ぇ。 「雄飛」 「……悪い。そうだよな。  まずは確かめるのが先決だ。わめき散らすのはその後でいいや」 「竹林に行こう。  爺さんの目をごまかして、なんとか」 「いや、違うよ。雄飛、あれ」 「ん?」  ぽんぽんぽん、と急かすように肩を叩いてくる手に促されて、おれは俯けていた顔を持ち上げた。  忠保と小夏は二人そろって一方向を見つめている。  その視線を追う。 「……あれは」 「あれ……じゃ、ないかな」 「あれ、よね」 「暗闇星人……」  それは薄暗い男だった。  良く見れば若々しいし、さらに良く見れば悪くない顔立ちでもあるのだが、そんなことは地平線の彼方へ置き捨てて第一印象はただ単に、暗い。  触れるだけで、青春真っ盛りの若者がたちまち人生に疲れた中年親父に変貌しそうなほどの〈蕭々〉《しょうしょう》さ。  ほとんど悪魔的であった。 「……どぉーうしよぉーか?」  おかしなイントネーションで忠保が言う。  この男には珍しく、腰が引けていた。  だが無理もなし。近寄り難いまでの〈暗黒瘴気〉《ブラックオーラ》をこの距離で既にひしひしと感じる。 「声……かけてみる?」  わたしは絶対嫌だからねあんたらよろしく、というニュアンスを含んで小夏が言った。  おれだってそんなの嫌なんだが。  仕方ないので、妥協案を出す。 「とりあえず……様子を見てみるか?」 「異議なし」 「賛成」  全員一致で、厄介な問題は先送りすることに決定。  おれたちは距離を置いて、通行人がのけぞるほどの黒い波動を放ちながら歩く男を追っていった。  飲み屋通りからリツの家付近。そして学校。  男はそんなルートを辿った。  怪しい。怪しいにも程がある。  到底、偶然とは思えない。 「クロ、だよな」 「行動を見る限り、少なくとも無関係ということはなさそうだね。  加えてひとつ……」 「なに?」 「さっき、学校前で上原先生を捕まえて話を聞いてたじゃないか。あの人」 「ああ。最初は上原、嫌そうな顔してたのに途中から急におとなしくなったんだよな」 「そうそう。それはわたしも気になってた」 「その時のことなんだけど。  僕の見間違えでなければ……あの時、銃を見せたんだよ。先生に」 「――――」 「じ、銃?」 「拳銃だったね。懐からこう、ちらっと一瞬だけ。  型まではよくわからなかったなぁ」 「そりゃ上原もびびるよ……」  一般人に無縁という点では、銃も劒冑と同様だ。  持つ人間は軍・警察関係者、でなければ犯罪者だけ。  つまりは。 「犯人確定だろ!」 「状況証拠としては充分かもねぇ」 「あの行動範囲で、おまけに銃。  疑う余地がないじゃないの」  その通り。  この辺りに住むガンマニアが散歩していただけなんじゃないかなどとは言ってみるのも馬鹿馬鹿しい。  拉致犯人。  少なくとも、犯人に近い関係者。 「あいつを……!」 「どうするの?」 「どうするわけ?」 「……」 「……」 「……」 「捕まえる」 「え?」 「本気かい?」  半分がた、やけくそになっているのは否めない。  だがここで見過ごす選択はなかった。 「ヤツが六波羅の武者だとしても……  今は非武装だ。どうにかなる」 「非武装って。あんた。銃持ってんのよ?」 「そりゃ劔冑に比べれば豆鉄砲みたいなもんだけどねえ。僕らにとってはどっちも大して変わらない殺人兵器だよ?」 「当たらなければ大丈夫!」 「当たったら?」 「根性で耐えて前へ進む」 「……なんか似たようなこと言って騎馬軍団を全滅させた人が昔いなかったかなぁ」 「せめて作戦とかないの?」 「おれがあいつの前に立って気を引く。  その間に忠保、おまえが後ろから殴れ」 「神算鬼謀だね」 「ありがとう」 「皮肉が通じない……」 「いけいけモードに入っちゃったみたいだね。  リツへの心配と敵を見つけた興奮と六波羅への恐怖の裏返しとが混ざり合った結果じゃないかなと分析してみたりするけど」 「どうするのよ?」 「乗ってみてもいいんじゃないかな」 「本気?」 「見てよ。あの人、米屋の裏の路地に入ろうとしてる。  あそこなら回り込むのは簡単だ……雄飛の作戦通りにやれると思うよ」 「でも……」 「捕まえれば、得られるものは大きい。  うまく尋問する必要があるけれどね」 「ま、どうにかなるんじゃないかな?  リツの居所がわかる可能性もある」 「……」 「忠保。いいか?」 「オーケー。  屑鉄工場で鉄パイプか何か拾ってから回り込む。雄飛はドブ川が曲がる辺りで仕掛けて」 「わかった」 「……雄飛!  怪我しないでよ!?」 「おう!」  自分が酷く背伸びした、無謀な試みをしようとしているのはわかっていた。  緊張で手の中が汗ばむ。  おれの作戦は無茶苦茶だ。  不意を打てば、拳銃は無力化できるかもしれないにしても……重要な問題を考慮していない。  武者自身の戦闘力。  たとえ劔冑を身につけていなくとも、武者は武芸の練達者だ。民間人が戦えるような相手じゃあない。  前を歩く男は控えめに言っても人並み以上に〈逞〉《たくま》しい体の持ち主だった。余程に修練を積んでいるのだろう、立ち居振る舞いが悠然としている。  仮に軍の武者ではないとしても、只者とは思えない。  無謀な挑戦だった。  だがそれでも、勝負にはなる。  敵が一人で、劔冑がないなら、戦いにはなる。  ――無力に泣かなくて済む。 (あ、くそ)  卑しい考えがよぎっちまった。  今、今だけは、勝算のある勝負ができる。  この機会を浅ましくあがいてつかみたい。  だって、うまくすれば、  ――結局、六波羅には勝てないにしても。  一度だけ、小さな勝利を得られる。 (それで満足しようってのか……馬鹿が!)  下らない考えを脳裏から追い払う。  忠保が指示した場所は近い。  何も考えるな。  とにかくあの男を捕まえる。  その先のことは……後で考えればいい。  ――ドブ川の曲がり。  おれは迷いを振り捨てて、飛び出した。 「おい! そこの――〈暗々〉《くらぐら》とした悪党ッ!」 「はい」  男が足を止める。  こちらへ振り返る。  正面から、向き合う形になった。    男がおれを見る。  おれが男を見る。  静かな、〈眸〉《め》をしていた。  思わず足が止まる。  もたついて、たたらを踏む。  忠保は驚くほどの素早さで背後に駆け寄っていた。  足音を聞いてか、男が再びそちらを向く。  言葉を掛けなければ。  そう思ったが、声が出ない。  男は忠保を真っ直ぐに見ている。  しかし忠保は、迷わなかった。  鉄パイプが空を指す。  男はそれを見ている。  重く風を切りながら、鉄パイプが走る。  男はそれを見ている。  鉄パイプが額に触れる。  男はそれを見ている――  最後まで見ていた。 「……」 「……」 「……おめでとうって言っていいわけ?  この状況……」 「いや……どうかなぁ……」 「まさか一発で倒せるとは思わなかったねぇ」 「六波羅の人間にしては……ちょっと、その。  あんまりにも、あんまりなんじゃない?」  そこらの学生の一撃で倒される暴虐の支配者。  ……駄目だ。あかん。世界が揺らぎそう。 「い、いや。まぁ、六波羅ったってピンキリだろうし。大半は武者でも何でもない普通の兵士なわけだし。こういうことも」 「そうそう。たまたまこの人は六波羅百万騎の百万番めだったんじゃないかなぁ」 「おお、それなんかすげえ確率だな忠保!」 「うん。なんだか宝くじでも買いたくなってきたねぇ」 「わかった。OK。わたしがはっきり言ってあげる。  ねえ、この人――」 「そろそろ日が暮れるなー」 「焼き芋でも買って帰ろうか」 「――ただの通行人だったんじゃないの?」  ………………。  言っちまいやがった。この女。 「いや、いやっ、でも! 悪党って呼んだらはいって答えたよ、この男!」 「それは単に声かけられたから返事しただけじゃないのかしら……」 「そう思うなら止めて欲しかったなぁ。下手をすると僕ら三人、ひたすら無意味に傷害罪なんだけど」 「実行犯はおまえだ」 「一人だけ実刑ね。お別れね。さようならー元気でねー。あなたのこと、きっと忘れない」 「アハッ。大丈夫。僕たちはずっと一緒さ!  だって、教唆犯と実行犯の罪は同等だもの」 「……」 「……」 「……」 「そ、そうだ、拳銃!  忠保、こいつ拳銃持ってたんだろ!? ならまっとうな人間のわけがないっ!」 「ああ、そうだったね。  確認してみよう。確かコートの下に……」 「…………」 「忠保?」 「銃……あったの?」 「……うん。  銃は、あるよ」 「良しっ!  何がいいのかはともかくとして良しっ!」  これで犯罪者にはならなくて済む。  たぶん。 「…………」 「忠保?」 「ええと……銃は……あるんだけどね。  その……〈握り〉《グリップ》に、旭の紋章がついてるんだ」 「は?」 「旭?」  それって。 「警察局の紋章だね」 「……………………」 「…………………………………………」 「ぎゃああああああああああああああああ!!  ててってってっ手当て手当て手当ておをっ」 「あわわわわわわ……  わたししーらない! ほんとしーらない!」 「いやあどーしたもんだろうねぇこの始末。  はっはっはっはっはっはっはっ」  大混乱だった。 「ほんっとうに申し訳ありませんでしたァ!」 「はい。貴方がたの謝罪は諒解しました。  もう頭を上げてください」  暗い男性は、やたらと良い人だった。  いきなり問答無用に殴りつけてきたアホガキ三人がひたすら慌てつつ事情を話して謝り倒すのに根気良く付き合い、しかも一言も責めずに許してくれたのだ。  こんないい人をおれは他に知らない。  なんつー無敵な人格者なんだろう。 「というより、ここまでくるとちょっと変な人だよね」 「超うるせぇから黙ってろ」  糞余計なことを言う口を拳で封じる。  実のところ同意しないでもなかったが。  公園のベンチという場所柄には似つかわしくなく、男性は背筋を完璧に伸ばして座っている。  それでいて堅苦しい印象があまりないのは、きっとこの姿勢に慣れて久しいからなのだろう。  背が高いのはそのせいか。  ……とすると、おれの背が低いのは猫背気味だからか。うっ、そうかも。  男性の額には立派なコブ。  まぁ、ああいうのは冷やせばすぐ治るはずだが……おれだったら文句も言わずに許すのは無理だな。  そう思うとやっぱすげえ心の広さだ。 「すみません。ほんとすみません。  まったくこいつらってば容赦なくバカですから、わたしが止めても聞いてくれなくて」 「ごめんなさい。ちなみにやる前にそこの女にはなんかハッパかけられたような気がするんですがそれはさておいてごめんなさい」 「ちなみに僕は実行犯ではありますが主犯はたぶんそっちの彼だと思いますと個人的見解を示しつつ大変ご迷惑をおかけ致しました」  そして対照的に醜いおれたちだった。 「大したことはありません。頭部で最も骨が硬い額でしたから。  脳漿は健在です。記憶の喪失も確認されません。どうかお気になさらず」  そういう問題だろうか。 「つまり貴方がたは、友人を助けたい一心で自分への襲撃行為に及んだ。  この理解で間違いはありませんか」 「ええ、まあ……」  襲撃……。 「状況を鑑みれば、自分が疑われたのも無理からぬことと言えます。  貴方がたにのみ一方的な非があるとは思えません」  ……いや、非は一方的にこっちだと思うんですが。  この人、どうしてここまで穏やかなんだ?  口調も丁寧だし。こっちはガキの上に加害者なのに。  しかも得物は鉄パイプ。  下手したら死んでたんだけど。 「短絡的な行動だったのは確かですが、それもお歳を思えば仕方のないことです。  ただ、今後は注意を求めます。自分はともかく、ほかの方に怪我をさせてはいけません」 「は、はい」 「肝に銘じます……」 「いい勉強をさせて頂きました」  おい。それ、なんかおかしい。 「ところで、おまわりさん。  こういう聞き方はなんですけど、どうしてあんな怪しい行動をしてらしたんです?」 「おまえなァ」  確かにそれは気になるところではあるけれどもさ。  だがおまわりさんは気にした風でもなかった。  失礼極まる質問にあっさりと答える。 「貴方がたのご友人……〈飾馬律〉《かざまりつ》さんの失踪について調査をしていました」 「え!?」 「はい!?」  頓狂な声をあげる小夏とおれ。  ……いや、ま。そう言われてみれば、ごくごく自然な回答ではあるんだが。 「やぁ。正直、それだけはないと思ってたんですけど」 「とは?」 「いやいや忠保」 「すとーっぷすとーっぷ」  さすがにこれ以上は喋らせられない。  小夏と二人して口をふさぐ。  しかし、おまわりさんは自ずと察してしまったようだった。 「……成程。  警察がまともに仕事をするとは珍しい、という主旨の疑問でしょうか」 「ええと、まあ……」 「歯に衣着せずに言えば……」 「ごもっともです。  実際、警察機構の大半は形骸化しています。自分も実のところ、飾馬律さんの捜索願いを受けて動いているわけではありません」 「今後も、捜索班が編成されることはないでしょう。予算も人員もなく、許可も与えられないでしょうから」 「許可?」 「六波羅の許可です。  幕府は非常時体制を理由に警察を監督下に置いています。許しなく行動はできません」 「そして幕府に益しない行動は許されません」  ……そうだったのか。 「警察の業務の大半は六波羅の雑用も同然と言えます。  その為に必要なだけの予算と人員しか与えられていないのが実情です」 「いやぁ。そんなもんだと聞いてはいましたけどねぇ。  でもそうなると、おまわりさんはどうしてリツの捜査を?」 「申し遅れました」  おまわりさんは上着の前を軽く開き、ホルダーの中に収まっている拳銃を示してみせた。  先刻も見た旭日章。警察の証だ。 「自分は内務省警察局鎌倉市警察署属員……  〈湊斗景明〉《みなとかげあき》です」 「属員?」 「アルバイトの職員……  昔の〈岡引〉《おかっぴき》、〈下引〉《したっぴき》のようなものと思って頂ければ結構です」 「そんな制度あったんですか?」 「ありません」 「はへ?」 「公式には。  ですので、六波羅の監督も受けません」 「な……なるほど!」  なんかすげぇな。  岡引……このレトロな響きがたまらん。  ちょっと燃えてきたぞ。 「でも、さっき予算もないとか……」 「はい。勿論、自分は警察組織に法制度上は存在しないのですから、活動費用も警察予算からは下りません」 「自分は鎌倉警察署長の私費でまかなわれる人員です。  署長の指示する任務を行うため、署長個人から必要な経費や装備を与えられています」 「そういうことですか」  署長さんも、現状でできる限りのことを頑張ってるってことだろうか。  顔も名前も知らんけど……今までは馬鹿にし過ぎていたかもしれない。 「それで、湊斗さんの任務っていうのは?  さっきの話じゃ、リツの捜索ってわけでもないようですけど」 「うっ。不躾な質問でごめんなさい」  でもそれは知りたい。 「構いません。  自分が飾馬さんの失踪について調査をしているのは、事件に武者の関与が見受けられるため……」 「え?」 「自分の任務は、銀星号事件の解決です」 「――――」 「――――」 「――――」  は……  はぁーーーーーーーーーーーーーッ!?  ……銀星号事件。  その幕開けはおよそ二年前。  村や、学校、あるいは軍事基地など、多数の人間の集う場所が、あるとき唐突に壊滅する。  極めて凄惨に。極めて不可解に。  人々は〈全滅〉《・・》するのだ。  死に絶えるのだ。  ある者は首を切り離され。  ある者は全身に殴打を浴びて。  ある者は入神の技で体を縦に両断され。  ある者は肉という肉を滅茶苦茶に引き裂かれて。  ある者達は恐るべき殺人者の一刀で葬られたと見え。  ある者達は錯乱の末に同胞同士で殺し合ったと見え。  人々は死に絶える。  災厄の跡だけを残して。  災厄の姿は何も残さず。  彼らはなぜ死んだのか。  何が彼らを殺したのか。    その問いに答えるのは沈黙の〈谺〉《こだま》。  誰も答えられはしない。  一人残さず死んだのだから!  ただ、幾つかのあやふやな証言は語る。  ――惨劇のあった村から飛び立つ何かを見た。  ――焼け落ちる校舎を背に立ち去る人影を見た。  ――あの時、銀色の何かが空を駆けていった。  ――武者まで殺されている! なら、犯人も……  かくして大和の人々は知る。その存在を。  殺戮者。銀色の。武者を殺すもの。  白銀の武者!  殺戮の天象!  災厄の流星!            〝銀星号〟!!  それは〈諸人〉《もろびと》を殺し尽くす暴力。  それは武者をも打ち倒す破壊。  それは神の如く平等なる悪夢。  巨躯とも矮躯とも定かならず。  邦人とも異人とも定かならず。  正者とも狂者とも定かならず。  ……〈而〉《しか》して、白銀。  定かならぬ銀色の武者が、村を町を軍砦を滅ぼす。  ――銀星号事件。  二年前を端緒に関東諸地域で七件が確認されているこの事件は六波羅、GHQ、それぞれが用意した専属捜査班の活動にも関わらず、いまだ解決の糸口すらもつかめていない。 「そ、そっ、その銀星号を逮捕するっつーんですか!?」 「そのような平和的な対処が可能であれば、喜ばしい限りです。  しかしおそらく、殺傷も含めた手段を検討する必要があるでしょう」 「いや、あるでしょうじゃなくて!  勝てるわけないじゃないですか!!」  そんなのは当たり前だった。  六波羅は大和すべての武者を統括する最強の集団だ。  誰も刃向かうことはできない。    だが唯一、例外が存在するとすれば――  それが銀星号の名で呼ばれる、未確認の武者なのだ。  白銀の殺戮者。六波羅さえも餌食とする魔物。  幕府の情報管制を潜って巷に囁かれる噂を信じれば、銀星号は六波羅武者の一個中隊を全滅させたことすらあるという。  たった一騎で。  真偽はわからない。  だがこと銀星号に関する限り、六波羅は常の傲岸な余裕を見せ付けてはいなかった。あてにならない情報一つであっちへ行きこっちへ行き、捜査班は右往左往。  強大な六波羅が、怯えているかのようだった。  その様子に、大和各地に潜在する倒幕派の一部には銀星号を英雄視する向きもあるという。  ……一般市民も事件の犠牲者なのだが。  死の雨の銀星号!  実態は不明瞭。だが真実、一騎の武者が六波羅をも鎧袖一触に打ち払っているのならば、間違いなくこの世の〈最強一者〉《トップワン》だ。  誰も勝てない。  勝てるわけがない。 「……それとも銀星号の噂のほとんどは実は誇張だと? そうなんですか?」 「いいえ。  むしろ情報規制のため、市民の間の風説は実態よりもいささか〈おとなしい〉《・・・・・》と言えます」  おいおい。 「……そ、そんなのと、どうやって。  その拳銃で戦うっていうんですか!?」 「それは不可能かと。  この銃は非公式の身分証の意味合いで貸与されているに過ぎないものです。弾丸は装填されておりません」 「それじゃ、ますます話にならないじゃないですか!  戦う力がなけりゃ、どうにも……!」 「戦う力はあります」 「あったって無駄ですよ!  銀星号ってのは悪魔みたいなもんでしょ?勝てやしませんよ! 戦ったって無駄なものと、なんで戦うんです!」 「……」 「……」  忠保と小夏は口を挟んでこない。  だが胸中が同じであることは横顔で知れた。  銀星号と戦う。無茶苦茶だ。  ほかの人間が言ったなら戯言だと思ったことだろう。  おれも笑って済ませている。  だがこの人は、本気だ。  顔を見て目を見て声を聞けばわかる。  死ぬに決まっているのに! 「なんで、戦うんですか……」 「戦うべきだからです」  ……え?  なんで、そんな、簡単な答えで。 「いや、だから……  戦ったって、勝てないのに」 「戦わねばならない時。  勝てるか否か――という思案は重要なことなのでしょうか」 「そ、そりゃあ、重要ですよ。  だって負けたら意味がないじゃないですか」 「はい。自分も、たとえ負けようが戦うこと自体に意味がある、などとは思いません。  それではただの自己満足です」 「スポーツならばそれでも良い。  自分の戦いは違います。  自分は是を非としても勝たねばなりません」 「しかしそれは、戦う決断をした後の話です。  戦わねばならないから戦う……その決断に、勝つか負けるかという計算は必要ありません」 「……」 「自分には銀星号を止める責務があります。  だから戦うのです。それだけのことです」  最後まで。  微塵の気負いもなく淡々と、湊斗さんは言い切った。  ……この人は。  何を言っている?  理解したい。  〈この人の言葉を理解したい〉《・・・・・・・・・・・・》。 『戦わねばならないから戦う』  その言葉、その決断こそは、おれの―― 「……年長者ぶって偉そうに話をしてしまいました。自分より年少の者を捕まえて浅薄な人生観を語る若造ほど滑稽な人間はいないと、母に教えられていたのですが」 「恥ずかしい限りです」 「い、いえ……」 「えっと。つまり湊斗さんは、銀星号事件の専属捜査員で、リツの失踪も関係があるかもしれないから調べてるってことですよね?」  あっさりと話をまとめる忠保。  こいつの周りに流されないマイウェイっぷりは時々うらやましい。 「概要はそのようになります」 「それって……リツが銀星号の被害に遭ったかもってことですか?  けどなんていうか、あんまり銀星号らしい事件じゃないと思うんですけど」 「そうね……。  住宅地が丸々ひとつ壊滅したっていうならともかく」  おれもそう思う。  聞く限りじゃ、銀星号は台風のような広域災害だ。  一人だけ狙って、というのはどうもそぐわない。 「……銀星号事件といえば大量殺戮、という印象がありますが。それは正確ではないかもしれません」 「銀星号が集団を標的とした場合は事件特有の異常性が際立ち、個人を標的とした場合は単なる通り魔殺人と区別がつかないだけだとも考えられます」  ……なるほど。 「ただ、仰られることには同感です。自分も、飾馬さんの失踪に銀星号が直接関与しているとは考えていません」 「というと?」 「申し訳ありません。  これ以上はお話しできないのです」 「あ、そうですか。  いえいえ、それじゃ仕方ないです」  律儀に頭を下げる湊斗さんに、忠保がぱたぱた手を振ってみせる。  踏み込んだところまで色々教えてくれる人だなぁと思っていたが、やっぱり話せることと話せないことの線引きはあるのか。  そりゃそうだよな。 「こう言っておきながら、誠に失礼ですが。  皆様方のお話を改めて聞かせて頂けないでしょうか。地元の方々の立場から収集された情報は、自分には得難いものです」 「構わないよね?」 「もちろん」 「リツの件を調査してくれるなら、願ったり叶ったりってやつだもの。  わたしたちが知ってることならいくらでも」 「有難うございます。  宜しくお願いします」  つい、と目礼する湊斗さん。  ほんとに律儀な人だ。 「……ん。  六波羅の奴隷貿易……そして竹林に武者と思しき影、か」 「役に立ちますかね……?」 「はい。それは勿論」  湊斗さんは頷いてくれる。  本心か社交辞令か、いまいちわからないが。 「実際のとこ、どうなんでしょう。  そういうことはあるんですか?」 「奴隷貿易ですか?」 「はい」 「……奴隷市場というものが海外に存在するのは事実です。  幕府がそれに着眼し、利用している可能性も……ない、と断言はできません」  慎重な答えだ。  先入観で決め付けてしまうのは危険なんだろうな。 「あの……」 「はい」 「リ……リツは、無事なんでしょうか」 「……」 「わかりません」 「……。  わからないんですか?」 「はい。  飾馬さんがなんらかの事件に巻き込まれたことはほぼ間違いないと思われますが、その詳細は現段階において不鮮明です」 「飾馬さんの安否について、はっきりとしたことは何も申し上げられません」  責めるような目つきになった小夏に対しても、湊斗さんは惑いを見せなかった。  冷たいほど明快な説明だけをする。  良い人だと思った。  いい加減で気の弱い大人なら、口先だけで、きっと無事ですよなどと言っているところだろう。  それを信じて裏切られた者がどうなるかなど考えず。  ……この人の言葉は信頼が置ける。 「小夏。無茶なことを聞くな」 「……うん。わかってる。  ごめんなさい、湊斗さん」 「いいえ。自分の力不足に羞恥を覚えます。  友人の身を案じる貴方がたを、安心させて差し上げることができない。仮にも警官たる者として恥ずかしく思わずにはいられません」 「穴があれば入りたい心境です」 「掘りましょうか?」 「お願いできますか」 「いやいやちょっと待って」  良い話になりかけた流れが変な方向へ行った。  おのれ忠保。なんて恐ろしい男だ。  ……普通に付き合った湊斗さんもどうかと思うが。 「それで……じゃあ。  湊斗さんは、これからどうされるんです?」 「迂遠な、と思われるでしょうがまだ捜査の方向を限定する段階には達していないと判断します。  情報収集を継続することになるでしょう」 「……」 「……」  確かに、まどろっこしいと思う。  だがおれたちの六波羅陰謀説は、冷静に考え直してみれば、実のところ証拠の一つもないのだ。  武者の目撃証言も確実とは言い難い。  そんな状態で六波羅を犯人と決め付ける警官がいるわけがなかった。というより、いて欲しくなかった。  もしいたなら今のおれたちにとって頼もしいことは頼もしいが、客観的に見れば単なる迷惑な奴だ。 「ここ鎌倉では近年、失踪事件が珍しくありません。貴方がたの学校周辺に限定しても。  差し当たってはそれらを洗い直し、状況の類似する事件がないか調べてみるつもりです」 「じゃあ、あの」 「はい」 「その調査に、おれたちを協力させてもらえませんか」 「雄飛?」 「おれらには土地勘があります。景明さんは、地元の人ではないんですよね?  なら、役に立てるはずです」 「道案内ができますし……誰かに話を聞くにしても、地元民が一緒にいた方がいいんじゃないですか? 警戒されなくて済みます」  まくし立てるように言い募る。  忠保も小夏も制止してこない。反対ではないようだ。  けれど、気付いていた。  必死なおれを真っ直ぐ見返す湊斗さんは、やっぱり惑いもためらいも表情に映していなくて。 「だから……お願いです!」 「お気持ちには心より感謝致します。  ですが、お受けできません」 「……!」 「お話ししました通り、この件は銀星号事件との関連を疑われています。危険性は、言うまでもありません。  市民の方を巻き込めることではないのです」 「危険は湊斗さんだって同じでしょう!」 「自分にとって事件の解決は責務です。  貴方がたにとってはそうではありません」 「リツは仲間です! 仲間を助けるのは責務ですよ」 「いいえ。  貴方がたはまだ、自分自身以外のなにかに対して責任を負える年齢ではありません」 「っ……!」 「…………」 「貴方がたに課された責任は、自己の安全に配慮し、ご家族を心配させないことです。  友人を案ずる気持ちは理解します。しかし、同じように貴方がたを案ずる人もいるのです」 「その方々の心境についてご考慮下さい」 「…………」  月並みな正論。  しかしおれたちに、反論の言葉はなかった。  これがほかの大人の言った台詞なら、なお噛み付くこともできる。  だがこの人の態度には、そんなガキ丸出しの反応を許さないようなところがあった。 「…………。  また、年長風を吹かせてしまいました」  す、と立ち上がる湊斗さん。  綺麗な挙動だった。  間近で見れば今更に、この人は均整の取れた長身だ。偉丈夫と言ってもいい。  しかし威圧感はなかった。  その眼差しが、どこまでも静穏だからか。 「ご協力に感謝致します。  聞かせて頂いたお話は大変有意義でした」 「はあ。  ま、お役に立てたのなら幸いです」 「ですが」  皮肉ともとれたろう忠保の答えにも動じず。  静かな眼のまま、湊斗さんは告げた。 「自分に近付くことは危険です。  どうか今後は、関与を避けて下さい」 「……で、どうするの? これから」 「決まってんだろ」  帰り道。  すっかり暗くなってしまった街路を足早に歩く。 「湊斗さんの言ってることは正しい。  だが生憎と、おれたちは正しいことを受け入れられないガキンチョだ」 「馬鹿なものは馬鹿なんだから仕方ない!」 「うわ、開き直った。タチ悪」 「リツ探しは続けるぞ。  できれば湊斗さんを探し出して強引にでも協力したい。おれらが無闇に動き回るよりはその方が効率的だ」 「コバンザメみたいな活動方針ね」 「……それじゃ役に立ってないだろうが。  アリとアブラムシ的な共生関係を目指すぞ」 「それってどっちも害虫なんだけど……」 「明日からは根気と体力の勝負になるな。  よく休んどけよ?」 「はいはい。  ……どのみち、投げ出せるようなことじゃないしね」  夜道を進む。  家まではそう遠くない。  ……その二人を。  虚ろな〈眼窩〉《がんか》が見据えている。  蜘蛛。  民家の壁に、逆さに張り付いて、温度のない視線を二人の背に送っている。  蜘蛛。しかし、並みの蜘蛛ではない。  身の丈は六、七尺にも及ぼうか。  人間をひと抱えに出来るであろう長さの節足。  胴体だけでも酒樽ほどはある。  〈怖気〉《おぞけ》をふるうまでの巨躯。    体色は、赤い。  それも噴き出たばかりの鮮血の色。  夜の陰りの下では、腐った血の色に化けているが。  肌はあたかも、〈鋼〉《はがね》めいて冷たく、硬質の輝きがある。    ――否。  鋼鉄、そのものか。  紅い鋼鉄の大蜘蛛。  絵草子の中にのみ在るべき、〈異形〉《いぎょう》であった。  妖しく瞬く複眼の下、二人の学生が遠ざかってゆく。  蜘蛛が体をたわめた。  二人を追うためにか。  あるいはそれ以外の何かを為すためにか。    蝿を捕食するためではなかったろう。  ――だが。  その機先を制するものが居る。  音はなかった。  ただ風を切る気配だけがあった。  蜘蛛の動きが止まる。  定かならぬその視線が方向を転じる。  向かい側の民家の屋根の上。  そこに、屹立する一影。  人の姿。  だが決して人ではない形。    鋼鉄の〈香〉《かおり》。  それは鎧。  黄銅色の鎧。  しかし並みの鎧であれば、風と化して瞬時に現れることなど叶わぬ。  常理を全く超えた跳躍、そして着地を遂げるのなら、それは既に鎧ではない。  〈劔冑〉《ツルギ》だ。  武者だ。  黄銅の武者。  鈍くひらめく眼光をまず二人の背へ注ぎ、そして、蜘蛛を見る。  そこに好意を示すものは一片もない。  見返す蜘蛛とても同様のこと。  こちらは、好意など示す術もなかったであろうが。  対峙の時間はおよそ数秒。  武者が屋根を蹴る。  虚空を駆けるその速度が疾風のものであるならば、同時に〈迅〉《はし》った刃は閃光にも等しい。  逃れようもない雷火。  しかし、蜘蛛の機動は雷火にすら劣らなかった。  紅い巨躯が、ひょう、と軽々しい風を連れて舞う。  閃光の刃も、切り裂き得たのはその風までか。  蜘蛛は無傷のまま、並木の上へ己を載せた。    緑の葉を座布団のように、ちょこんと座る姿は滑稽。  だがその滑稽さこそ魔境にあろう。  鋼鉄の生物を迎えながら、小枝の一本とても折れる響はない。  武者もまた人外。  一閃の仕損じを意に介さず、〈垂直〉《・・》の壁面に苦もなく着地するや、再び跳ねて蜘蛛を狙う。  蜘蛛が逃げる。  そして今度は、逃げるのみに留まらなかった。  夜の風を渡りながら、吐きかけたそれは糸。  鋼鉄の投網。  瞬時にして膨大な群が放たれ、標的へ向かう。  武者は飛び込む格好となった。  反応する間さえなかったのではないか。鋼線の束が武者を捕らえ、渦を巻く。  あまりにも異様な光景がそこに現れた。  民家と民家の間に糸を張った鋼鉄の繭。  これを目にした者がいれば、果たしてここから何が〈孵〉《かえ》るのかと恐れ〈戦〉《おのの》いたことだろう。  だがここからは何も生まれない。  繭に見えようともこれは檻。  生み落とすためではなく封じ込めるための創造物だ。  鋼の糸を幾重にも巻いて出来た重厚な牢。  これに囚われた罪人ははて、どれだけの歳月の後に罪を許され、外界へ帰るのだろう。  十年か。百年か。千年か――  息ひとつ吸う暇さえ、必要ではなかった。  白い光が走る。  刃の〈煌〉《きらめ》き。  繭の内側から溢れた閃光は、瞬きの間に鋼糸という鋼糸を切り払い、藻屑へと変えた。  堅固な牢のあえない最期。  それは単純な真理を語っているのか。    ――より強い者を閉じ込められる獄などない。  武者の剣は明らかに、蜘蛛の力を上回った。  渾身の糸ですら、武者には下らぬ手妻に過ぎない。  ……自然至極のことである。  武者こそは戦場の王。  何者であれその前には膝を屈するほかになし。  武者を打倒し得るものは唯一、  より強き武者があるのみ。  ……その理を、わきまえていたに違いない。  自由を得た武者が辺りを〈睨〉《ね》める。  しかし、視線は何も捉えなかった。  糸を吐きつけておき、蜘蛛は逃げ失せたのであろう。  跡も残さずいずこかへ、異形の蟲は消え去っていた。  視線が流れる。  蜘蛛と武者が共に着眼していた二人の姿は、とうに無い。 「…………」  何を思うか。  あるいは何も思わぬか。  ごく短い間、沈思の素振りを見せ。  武者もまた身を翻し、夜闇の中へ溶けて失せた。 「……はい。その池谷和男くんが行方不明になった時のことについてお尋ねしたいのですが」 「はー。そう言われてものー。  ありゃいつのことだったかのぉー」 「約半年前。  興隆四一年四月一九日土曜日です」 「んあー?  そー言われてものー。ピンとこねーのー」 「安田のじいちゃーん!  春の〈流鏑馬〉《やぶさめ》の前日だよー!」 「……おう!  そうかそうか、流鏑馬の前の日だったの、カズ坊がいなくなっちまったのは」 「なんだぁ、あんたも最初からそう言えよ」 「……失礼致しました」  翌日。  おれたちは湊斗さんをあっさり発見していた。  あの人特有のやたら悪目立ちする気配のお陰である。  なんとなくそれらしい空気を追っていたら一時間後には当人を目撃。  凄い話だった。  おれたちが、ではない。 「…………。  自分に近付くのは危険だと、簡潔にご説明したはずです。説明に不備、あるいは誤解を招く箇所があったとは思えないのですが」 「たまたまです!」 「散歩中です」 「自分探しの旅の途中です」 「や、そういえばこんなところで偶然ですね湊斗さん」 「…………」  軽く額を押さえて、再び歩き出す湊斗さん。  その後ろを少し離れてついていくおれたち。  行く方向がたまたま同じなんだから仕方ない。  たまたま。  湊斗さんは学校周辺を回っていた。  リツだけでなくこの近辺で失踪した人全般について調査しているようだ。昨日言った通りのことを実行中なのだろう。 「御免下さい」 「うぉっ!? なんじゃいあんたはァ!」 「駄菓子屋さーん。大丈夫だからー。  ちょっと話を聞いてあげてー」 「おう、こなっちゃんじゃないか。  なんだ、あの子の知り合いかい。あんた」 「……ええ」 「卒爾ながら」 「ぬぅ!? かなり致命的に怪しい男!  貴様、さてはこの鬼柔道、材木座の泰三に放たれた刺客か!!」 「違いますー。大村先生ー。  その人はただの怪しい人ですー」 「なんじゃ、ただの怪しい男か……。  それで、わしに何か用かの?」 「…………。  はい。少々お伺いしたいことが――」 「もし、そこの方」 「うわーん! 恐い人に声かけられたー!」 「あー、恐くない。恐くないぞう。  ほれ、芋飴あげるから。ちょっとこの人のおはなし聞いてあげような?」 「わーい、ありがと雄飛にいちゃん。  それで、なあに? おじさん」 「…………」  何軒の家を回っただろうか。  湊斗さんが立ち止まった。  おれたちも足を止める。  少しだけためらう素振りをみせた後、湊斗さんは〈踵〉《きびす》を返してこちらへ向かってきた。  おれの半歩前で立ち止まる。 「お話があります」 「実はおれもあります」 「では、お先にどうぞ」 「ありがとうございます」  ぺこりと一礼して、息を吸う。  それから告げた。 「湊斗さん、警官に向いてないスね」 「…………」  あ。落ち込んだ。  どうも自覚はあったらしい。 「……そのご指摘には返す言葉を持ちません。  自分の非才を痛感するばかりです」 「いやぁ、才能の問題ではないような」  忠保に賛成。  地元民ではない湊斗さんは捜査にも色々と難儀するだろう、そこをフォローできれば……くらいに考えていたのだが。  それどころの問題ではなかった。 「こう言うと自惚れてるみたいでイヤだけど、わたしたちがいなかったら、ほとんどの人に話聞けてないような……」 「いえ。まったくもってその通りでしょう。  それを踏まえて、お伺いします」 「はい」  ちょっと居住まいを正す。  往来の真ん中だが。 「新田雄飛さん。  来栖野小夏さん。  稲城忠保さん」  湊斗さんは昨日頭をぶん殴られた直後に一度聞いただけのはずの名前を、完璧に覚えていた。 「貴方がたは、飾馬律さんの捜索を中止するつもりはないのですね?」 「ありません」  きっぱりと答える。  この点は揺るぎなかった。  が、これで終わっては人を説得などできない。  おれは続けるべき言葉を頭の中から探した。 「湊斗さんが正しいのはわかります。  でも、それでもおれは……リツを探すことが間違ってるとは思えなくて。それは、おれたちがすべきことなんじゃないかって……」 「……すいません。巧く言葉になんないです。  でもおれはリツを探すために何かしたいし、そうするべきだとも思うんです」  あぁ。こんなことしか言えないのねおれって奴はァ。 「僕も同意見です。  いまのが意見としての体裁を整えていたかどうかは議論の対象になるでしょうが、それはともかく」 「知性と教養の存在を根本から疑いたくなる説明でしたけど、フィーリングとかそういうところでは同意できます」 「おまえら……」  ほんとうにイヤな奴らだな。  湊斗さんは黙って聞いていた。  やがて小さく、その口が動く。 「〈傀儡〉《くぐつ》を操るは易く、士人を留めるは難し。  全く是非もない」 「は?」 「諒解しました。  自分と同道されるのであれば今後は近接を求めます。最前までの距離では保安の点でも協力の点でも適切と言えません」 「……? …………」  湊斗さんの言い回しは、おれには少し消化不良気味だったが。  それはつまり、要するに。  〈許可〉《OK》。 「よっしゃあ!」 「あー、はしゃがないはしゃがない。  恥ずかしいから」 「はっはっはっ、まあいいじゃないか小夏」  言われるまでもなく自分で小恥ずかしいと思うほど、おれは舞い上がっていた。    嬉しい。  この危なっかしいようで頼り甲斐もある風の、湊斗景明という人と一緒にリツを探せるのが嬉しい。  別に事態は何も進展していないのに、もうリツが目の前にいるような気がする。  忠保と小夏も似たような心地なのではないか。  だから、口では何を言いながらも笑っているのだ。  そう思う。  おれはもう一度快哉を上げた。やれやれという顔で二人が付き合ってくれる。  ……湊斗さんは決して、笑ってはくれなかったけど。  それからまず向かったのは、竹林だった。  付近の住人なら誰でも知っているが、別に何もない単なる竹の林なので、外部から来た人間が簡単に探し当てられるものではない。  おれたちが先に立った。  到着するやレーダーで観測していたとしか思えない速度で登場した田中の爺さんも、喧嘩する相手くらいは一応選ぶものらしい。湊斗さんが身分を明かすと、嫌々ながらも立ち入りを認めてくれた。 「〈矍鑠〉《かくしゃく》とした方です。感服しました」 「あれでも最近は多少おとなしくなってるんですよ。  でも雷鳴の威力は相変わらずだな……まだ耳がビリビリする」 「うぁー……わたしあれ久しぶりだったから腰まで響いたよ」 「素晴らしい肺活量でした。  あのご老人はきっと長寿を保たれることでしょう」 「まわりの人間の寿命がそのぶん削られると思うとどうも祝福できないんですけどねぇ」 「〈些〉《いささ》か郷愁を覚えます。  自分の母も感情が激するとあのような怒声を発するひとでした。酒が切れたと言っては騒ぎ、お腹が空いたと言っては泣き」 「それを耳にするたび自分は安らかな心地になり、しばしばそのまま眠ってしまったものです」 「……だいぶ個性的な団欒風景のような……」 「いつぞや、自分が瀕死の重傷を負ったおり、その声に命を救われたことがあるのです。  あれはそう、家に侵入した武装盗賊と遭遇し、幼年の自分が窮地に陥った時でした」 「なるほど。その時、お母さんが怒声一発で泥棒を追い散らして救ってくれたんですね」 「それは凄いなー」 「はい。あの時、自分はいつの間にか鼓膜が破れて三半規管を損傷し割れたガラスが背中に刺さり出血多量で失神していたようですが、その程度で済んだのも母のお陰でしょう」 「いい話ですねぇ」 「有難うございます」 「えーと……」 「あの……それってつまり……瀕死の重傷を負わせたのはお母さんなのでは……」  風が運ぶ川のせせらぎを聞きながら歩く。  竹林の中はあまり、見通しが良いとは言えない。  爺さんは外敵に備えるばかりで手入れをしていないのか。伸び放題の竹は視界を妨げること甚だしい。  足を使って調べることになりそうだった。  と思ったのだが、その矢先。 「? あれ」 「どした?」 「あの、奥のほう。  なんか荒れてない?」 「……確かに」  忠保が指す方を見やって、湊斗さんも同意する。  おれの人並みの視力ではよくわからないが……  近づいてみれば、忠保の指摘は正しかった。  一群の竹がまとめて切り払われている。  相撲の土俵程度の空き地が出来ていた。  その周囲に散乱するのは、切られた竹か。 「こないだ爺さんが言ってたのはこれか」 「あぁ。竹林が荒らされたってやつ?」 「そう言えばそんなこと聞いたねぇ」  しかし、これをおれたちがやったというのは無理のある決め付けだろう。  竹は素人目にも鮮やかな切断面で、日曜大工程度の器材で可能なこととは思えない。 「鉈かな?」 「斧かもねぇ。  どっかの不良が憂さ晴らしでもしたかな?」 「いるの? そんな暇人」 「いるよ? 暇をなめてはいけないね小夏。  貧困と憤懣と同じように、暇と退屈も犯罪の温床たる資格は充分なんだって昔の人が」 「違う」 「え?」  竹の一つのそばに屈んでじっと見ていた湊斗さんが、唐突に呟いた。  その間も切り口から目を離さない。 「……刃の入り方が〈鋭過ぎる〉《・・・・》。切り口が〈平坦〉《・・》〈過ぎる〉《・・・》。  得物は間違いなく刀……それも業物の部類」 「……地面に切り込みの跡か。  つまり、打ち手は〈力任せに切っている〉《・・・・・・・・・》」 「それがどうして、こんな鮮やかな切り口をつくる……?」 「刀の利だけでは足りない……。  打ち手は〈凡俗にして非凡〉《・・・・・・・》」 「武者だ」  〈武者だ〉《・・・》。  湊斗さんはそう、短くもはっきりと呟いた。 「じゃ……じゃあ!」 「おっちゃんが言ってた通り……  あの夜、ここに六波羅の武者がいた」 「……って、ことになるのかな」  リツがこの竹林で姿を消したあの晩。  武者がここにいた。  〈つまりここは〉《・・・・・・》、〈リツが襲われた現場か〉《・・・・・・・・・・》!?  慌てて周囲を見回す。    何か――何かないか!  手掛かりになるものは! 「足跡とか……!」 「……駄目だね。  一昨日の明け方に降った雨で消されたかな」 「他にもなんかあるでしょ!? 持ち物とか」 「見当たらないけど……」 「六波羅の武者ならば、技量未熟というのは解せない。〈戯〉《ざ》れていたか?」  端からその辺のことは諦めていたのか、湊斗さんは動いていなかった。  慌てるおれたちをよそに自問自答を続けている。 「だがそれにしても……何処から現れた?  騎航すれば襲撃も離脱も一瞬で済む。  しかし目立つ」 「この近隣で爆音、轟音の確認情報は?」 「……えっ?」  数秒、気付くのが遅れた。  今の問いはおれたちに向けられたものだ。 「すごい音ですか? いや、そういう話は」 「聞かなかったですねぇ。  もしそんなことがあったら、田中の爺さんが大騒ぎしてると思うんですけど」 「他人が立てる騒音にはやかましいもんね、あの雷帝」  そのせいでこの近くに住む人はうかつに子供も産めないという噂だ。  嘘か真か、赤ん坊が生まれると騒がしい間は親戚の家に居候したりもするとか。  湊斗さんは反応を見せない。  だが聞いてはいたようだった。 「〈合当理〉《がったり》を噴かしていない。  やはり飛んではいないか」  ガッタリ?  意味がわからなかったので尋ねようとしたが、忠保に止められる。  邪魔をするなってことね。 「では当該武者は如何に現れ如何に去った?」 「出現時……  最初から装甲してやって来るはずはなし。  〈鎧櫃〉《よろいびつ》を背負って侵入しても目立つ」 「〈隠形〉《おんぎょう》に優れる〈劔冑〉《ツルギ》を単独で潜行させ、己は別個に侵入。内部で合流して装甲」 「犯行に及び」 「……そこからどうする。  劔冑は来た時と同様に単独で離脱させれば良い。だが現場に遺体はおろか血痕すらない所から見るに被害者が拉致されたことは確実」 「被害者を連れて武者は如何にこの場を離脱する?」 「…………」  二、三分も、黙っていただろうか。  おもむろに湊斗さんは立ち上がった。 「……まだ情報が不足している模様です。  近隣で情報収集を行いたく思います。特に武者を目撃したという人物、その方に会って詳しい話を伺いたい」 「え? あ……はい。  それじゃ、飲み屋通りに行かないと」 「案内をお願いします」  促されるまま、小夏が前に立って歩き出す。  その後ろに湊斗さんが、そしておれと忠保が続いた。  ……実のところおれは、状況の進展をよく理解していなかったわけだが。 (雄飛) (ん?) (やぁ。あの湊斗さん、思ってたよりも凄いのかもしれないね) (そうなのか?) (武者と劔冑に関する知識が深いよ。  僕に理解できたのは、武者が空から飛んでやって来たのなら、その爆音で周囲の住民に気付かれないはずがないって辺りまでだけど) (あ、そうか)  思い出した。  〈合当理〉《がったり》ってのは確か、劔冑の後背部にある飛ぶための器具のことだ。  稼働中は轟音を立てて煙を噴く。 (じゃ、武者はどうやって?) (その点についてもある程度の推測は立ったけど、まだ疑問が残る……ってことみたい。  そこを調べたいんじゃないかな) (聞いてみちゃまずいかな、そのへん) (やめとこう。今も考え中みたいだし、邪魔になるよ。  ただ言えるのは、この人はどうやら本当に、真相を暴く力がありそうだってこと……!) (そうか!)  自分が色々とできるぶん、他者への評価が実は結構〈辛〉《から》い忠保が認めるのだ。  重さが違う。  やはりこの人に目をつけて無理にでも同行したのは正解だったらしい。  おれたちだけで捜査をしていたら、きっと今頃も、虚しく焦燥感を抱えているだけだったろう。  ……武者がリツを拉致したのなら、六波羅との対決という格好になるのは避けられない。  だがそれでも、この人なら。どうにかこうにか手を尽くして、リツを助け出してくれるんじゃないか? 「いや、今日はまだ見てないね。  もうすぐ来ると思うけど」 「そうですか。ども」  おっちゃん行きつけの店から出て、皆の所へ戻る。  小夏と忠保はそのままだが、湊斗さんはいなかった。 「まだ来てないってさ」 「ちょっと早かったかな?」 「あのおっちゃんにも仕事があるんでしょ」 「うーん、しょっちゅうこのへんにいるからてっきりお酒を飲み歩くのが仕事なのかなと思ってたんだけど」 「……生産性もサービス性も無さ過ぎるから職業としては成立しないんじゃないか。  湊斗さんは?」 「少しその辺で聞き込みしてくるって」 「そっか。まあ、この辺りの人なら柄の悪い人間にも慣れてるだろうし、大丈夫かな」 「あの人は柄が悪いというのとは違うと思うけどね。なんていうか、〈宿星〉《ほし》が悪い?」 「……柄が悪いよりもひどい表現だけど……当たってるといえば当たってるかな」  三人、路上にたむろして時間を潰す。  まだ早い刻限とはいえ付近は未成年お断りの居酒屋ばかり。本来、学生の出現が好ましく見られるような場所ではない。  が、湾岸にあるような本当の歓楽街と違って、ここに来るのは近くの工場や建築現場で一仕事終えてきたおじさん達が大半だ。基本的に金はない。  だから店も素朴で、反面不健全さはさほどでもない。  行き会う人には顔見知りが多く、その大半は軽く声を掛けてくるが、咎められることは一度もなかった。  学生がいても、実際に何か問題が起きるような場所ではないとわかっているからだろう。  この通りで揉め事といえば、泥酔した者同士の喧嘩が関の山。平和なものだ。    が。 「……なんか今日は、雰囲気悪くねえ?」 「そうだね。  どことなくお店の人たちの顔色が冴えないし、時間を考慮しても客足が少ない気もする」 「『準備中』のままになってるお店もあるし……なんか変だね。  もしかしてコレ」  小夏はハッと口元を押さえ、青ざめた様子で言った。 「湊斗さんオーラの影響?」 「そ……そこまでか? あの人の力は」 「いやぁ結構笑えないねぇそれ。  あっはっはっはっはっ」  言いながら笑う忠保をとりあえず一発殴ってから、おれは辺りを見回して特徴的なコート姿を探した。  いくらあの人でもただそこにいるだけで町の平穏を破壊したりはしないと思う。思うんだが。  おれが見つけたのは、別のものだった。 「……ああ。なんだ。あれか」 「あれ?」 「いるだけで町の平穏を破壊できるシロモノ」 「雄飛?  …………あぁ」  おれの視線を追って、忠保が頷く。  それは要するに、そういうシロモノだった。  厚顔無恥なまでに真っ白なスーツを平然と着る大男。それに付き従う、派手派手しい柄のシャツをこれまた恥ずかしげもなく見せびらかしている二人。  そして少し離れて続く、病的な顔色の小男。  これほどバラバラの格好でいながら、これほど均一な印象を見る者に与える集団など、天地あまねく探し回ってもおそらくただ一種類しかあるまい。  神の指さえ感じる絶妙な個性の完成であった。  〈特殊自由業〉《ヤクザ》。  彼らはあるいは、人類と少し違う種の生物なのかもしれない。  人間が乱雑な服装をして集っていれば、それは単に纏まりのない連中としか見られないのが本来のところ。  だがサルが乱雑な服装で人間社会の中に紛れ込めば、それは極めて異質な集団として受け止められるだろう。  彼らはつまりそういうモノなのではないか。  職業『ヤクザ』なのではなく――生物種『ヤクザ』ではないのか。  大体、考えてもみるといい。  彼らは人に迷惑をかけることで生活している。  それは一体どういう社会貢献なのか。  なぜそれで生活が成立するのか。  酒を飲み歩く職業の方がまだしも現実的である。  つまり彼らは生物的習性として他人に迷惑をかけているのであり、決して、業務として行っているのではないのだ。  そう考えれば理不尽ではない。  彼らが通行人を突き飛ばしながら歩くのも、やたらヤニ臭い息を始終周囲に撒き散らすのも、意味もなくゴミを蹴り飛ばすのも、カメムシが屁をこくのと同様の行為なのだ。そう考える必要がある。  彼らの行動に腹を立ててはならない。  霊長たる人類として、下等な生物を暖かく見守り、研究の対象とするべきだ。きっと学ぶことは多々あるだろう。  それこそが、知的生物人類にふさわしい姿勢である。 「――完――」 「なにが完結したのかは良くわからないけど、どうするのさ。こっちの方に来るみたいだよ」 「どうもこうもないでしょ。道をよけて脇に寄ってそっぽを向きつつ腹の中でファッキンとか言ったりして通り過ぎるのを待つの」 「そうだねぇ」  現実的な対応だった。  ヤクザ集団は通り沿いの店に入り、ややあって出てくると、ぺこぺこ頭を下げる店の人に見送られながら少し歩き、次の店に入る……という行動を繰り返している。  実にわかりやすい。 「今日は集金の日だったのか」 「ってことはあれ、野木山組だな」 「ノミ山よ、ノミ山」  小夏が吐き捨てる。  その意地汚さから、六波羅の蔑称は山犬野郎。  ならその犬にたかっておこぼれにありつく奴はノミで上等、という次第。  野木山組は六波羅に取り入って、幕府〈御雇〉《おやとい》の地位を得た暴力団の一つだった。  以前はごく小さな組に過ぎなかったのだが、六波羅との接触に成功するやたちまち勢力を増長。  今はこの通り一帯の支配者になりおおせていた。  六波羅の権威を背景に臨時徴税と称する略奪を行い、収益の半分を献納して残りを自分の懐へ入れる、見事なまでの寄生生物である。  ノミとしか言いようがない。 「あー、かゆいかゆい」 「僕がかいてあげようか、小夏。はぁはぁ」 「……澄ました顔で息だけ荒げるのはなんかすごく不気味で恐いからやめなさい。  ていうかね、それなら元をどうにかしてよ。元を」 「おい」  おれの注意は少し遅れた。  野木山組の連中を指差しつつ忠保と話している小夏。  その指を白スーツの男がちらりと見ている。  それだけだ。  それだけで済むところだったが、    タイミングは最悪だった。  往来の喧騒が唐突に、ふっと静まる瞬間がある。  偶然か、何かの連鎖反応か。  いずれにしろそれはほんの一瞬で、沈黙する理由は何もないのだと気付いた人々はすぐに再び騒ぎ出す。  その静寂が落ちた、ほんの一刹那に。 「あのノミさんチームを」  静寂は、一瞬を過ぎても継続した。 (……まずい)  状況。  硬直している小夏。  小夏に視線を集中させている四人組。  しんと静まり返っている人々。 (やべぇなこれ)  わかりきった分析を脳内で繰り返す。  危険。危険は把握できる。  だがその先へ思考が進まない。  逃げるとか、隠れるとか、単語は頭に浮かぶのだがその意味がわからない。  どうすればいいのかわからない。  袖を誰かが引いている。  何もできない。  誰かに肩を叩かれている。  ……忠保がおれと小夏に、逃げることを促している。  ようやくそうと気付いた時、四人はもう目前にいた。 「ねえちゃん」  白スーツの男。  いかつい顔の、優しい声だった。 「なんぞ言いましたかね? 今」  異様としか表現できない外見との落差。  当然のことだがそれは、正面に立たされている人間を安心させるには全く足りなかったけれども。  それほど怒っているわけではないのか?  学生が相手のこと、騒ぎ立てたところで利益は何もない、と思っているのかもしれない。  だったら、さっさと謝ってしまうに限る。  おれは小夏を横目で見た。おおむね似たようなことを考えたのだろう。どうにかこうにか、口を開こうとしている。 「あ……その……」 「んー?」  耳に手を当てて『聞こえません』の仕草をする男。  後ろに控えている仲間がけらけらと笑った。  小夏は笑えない。  当たり前だった。あいつにそんな度胸があるはずもないことは、長いこと一緒に暮らしてきたおれが一番よく知っている。 「え、えっと……」 「あぁ、すいません、お兄さん」  すい、と小夏の前に誰かが割って入る。  忠保だ。  舌が回らない様子の小夏に助け舟を出すつもりか。  さすが、こういう所は如才ない。 「違うんですよ。彼女は別に」  ……おい、忠保。  そこで言葉を切ってどうする。  普段の調子でぺらぺらと舌を動かせよ。  ノミと言ったんじゃなくて乃木希典万歳と口走っただけなんですとか。  無茶だけどどうせそのへんだろ。  いいから早く言え、それでどうにか誤魔化せ。  ていうかおまえ、どこ行った? (……あ)  ついさっき立っていた場所から、二メートルほども離れて、忠保は転がっていた。  なぜか倒れていた。  ……何やってんだおまえ。  緊張して転んだのか?  おいおいしょうがねえな。  それともギャグかこれ?  スーツの兄ちゃんに対抗?  あーそーいう手もあったかー。  よーしこれで一気に場は和んだぜ。 「誰がお前に聞いたかボケェ!!  オレぁこのねえちゃんと話しとんじゃァ!すっこんどれガキが!!」  ――――――――――――。  脳味噌が凍った。  忠保は倒れている。無論――殴られて転んだのだ。  何を喋る暇もなかった。小夏の前に出た次の瞬間にはもう拳が飛んでいたと思う。  ……事態を正しく把握するまで数秒掛かった。  こいつらには相手が学生だからといって穏便に済ませる気はどうやらまったくない。  きっちりカタをつけるつもりだ。  見れば、後方に控えている男達の表情には驚きの色もない。杖を携えた小男が少し肩をすくめた程度か。  後ろの三人にとってこの展開は意外でも何でもないのだろう。 (どうする)  忠保は体を起こしている。  タフなことに表情はいつも通りの涼しいものだが、それ以上動こうとはしなかった。また殴られるだけで無意味と判断したのだろう。同感だったので安堵する。  小夏は完全に蒼白だ。  気が強いにしても、それは手加減ない暴力に真っ向から向き合えるという類の強さではなかった。  そういう意味ではむしろ酷く小心だといえる。  気絶していないだけでも褒めてやらなくてはならなかった。……目を開けたまま意識を飛ばしているのでなければ、だが。  周りの人々はあてにできない。  野木山組に、というよりその背後の六波羅に好んで敵対しようとする人間がいるはずもないのだから。  では。  おれは? (体は――動く)  動揺しきっているとき特有の、浮ついた感覚が付きまとってはいたが。  動くことは動く。  だがそれでどうする。  何ができる。  この四人を叩き伏せる?  小夏をかついで逃げる? (無理だ……)  できるわけがない。  やるだけ無駄だ。  今、この場を支配しているのは野木山組の四人。  圧倒的な強者は向こう。  逆らうことはできない。  刃向かうことはできない。  無駄だから。  〈彼らには刃向かえない〉《・・・・・・・・・・》。  とにかく頭を下げる。  それがこの場では一番役に立つ。  何はさておき、そうするしかない。 「……ご、ごめんなさい」 「…………」 「ホント、どうこう言ってたわけじゃないんです。ただ、ちょっと……言い間違えたっていうか。  あの――」 「なぁ、ねえちゃん」  スーツの男は、おれを完全に無視した。  小夏だけを見下ろして〈優しく〉《・・・》話しかける。 「ダメだよなぁ? おじさんたちのこと悪く言ったりしちゃあ。  おじさんたちはねぇ、六波羅幕府のお仕事を手伝ってるんだから」 「幕府のためってことは、みんなのためってことなんだよ? そうだよねぇ?」 「はっ、はい……」 「うんそうだ。だからおじさんたちの悪口を言うのは良くないことだ。  謝らないといけないねぇ?」 「はい……ごっ、ごめんなさい」 「じゃあ、そうだねぇ。どうしようか」  謝れと言いながら、男は小夏が必死に謝罪の言葉を口にするのをあっさり聞き流した。  わざとらしく考え込む様子を見せる。 「とりあえず、ねえちゃんさぁ」 「はぃ……」 「服脱ごうか?」  ――――!?  後方に控えるうちの一人が下手糞な口笛を吹く。  杖の小男は苦笑していた。    全員、面白がっている。 「…………ぇ?」 「服。全部服脱いでさぁ、裸になって、そこに土下座するの。  それでいいや。うん。それで今日は許してあげよう」 「若い子相手に、きっついお仕置きはしたくないからねぇ」  おい。  それは新手の文学表現か。  それとも本気でそいつがきっつくないお仕置きだとでも言うつもりか。 「そんな……わたし……」 「できるよね? ねえちゃんが悪いんだからねぇ? 悪いことしたらちゃぁんと謝らないとねぇ? じゃあ脱ごうかぁ?」  裸で土下座がちゃんとした謝罪なのか。  それはどこの文明圏の話だ。 (――――あ)  小夏が泣く。  泣く寸前の気配だ。わかる。  それも幼い時分以来、ついぞ見ていない大泣き。  そんな泣き方をさせられようとしている。  こんな連中のために。  野木山組。  六波羅御雇。  誰一人をとってもおれよりはるかに強そうなヤクザ四人。  勝てない。  刃向かっても絶対に勝てない。 (――〈だから〉《・・・》?)  〈だからどうした〉《・・・・・・・》?  そうだ。  思い出せ。  おれは昨日、何かとても大事な言葉を聞いたのじゃなかったか?  あれは何だった?  思い出せ。  その言葉。 (――〈関係ない〉《・・・・》)  そうだ。  それだ。 (勝てるかどうかは……関係ない)  〈戦わねばならないから戦う〉《・・・・・・・・・・・・》。  〈その決断に〉《・・・・・》、〈勝てるか否かという計算は必要ない〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  おれは小夏の手を握った。  ぐっと力を入れて、自分の背後に引き込む。 「え……?」  そのかわりに、自分自身を一歩前へ。 「なんじゃお前はァ!?」  男はまた、一瞬で豹変してみせた。  大したもんだ。これはもう芸の域に達している。 「忠保」 「……雄飛?」 「手分けだ。  おまえは小夏を引っ張って逃げてくれ」 「ああァ!?」 「おれはこいつらを足止めする」  無視。  目の前で喚き立てる男はどうでもいい。  おれはやるべきことをやるだけだ。 「……無茶だと思うけどなぁ」 「知ってる」  そりゃ無茶だ。できるわけねえだろそんなこと。 「でも、やる」 「…………」  忠保はそれ以上、何も言わなかった。  殴られた後ずっとしゃがみ込んでいたのが嘘だったかのような素早さで跳ね起き、おれの背後へ回る。 「小夏」 「た、忠保……」 「余計なことは考えなくていいから、あっちに真っ直ぐ走って。いやほんと、何も考えずに。難しかったら羊でも数えるといいかも。  あれ? 寝るかな? それだと」 「おい」  背後と思ったら、忠保は横にいやがった。 「雄飛一人で足止めは無理だよ。  話にもならない」 「でも二人だったら、案外どうにかなるような気がしなくもないような錯覚なような」 「……どっちだよ」 「無茶はわかっててやるんでしょ?」  ああそうだよ畜生め。  なんでそんなことに付き合おうとするかなこいつは。 「舐めとんかお前らァ!!」  まぁそういうことになりますね。  戦力・学生二名でヤクザ屋さん四人組通称ノミさんチームを相手にしようというのだからして。  これが舐めてないなら何を舐めてるというのか。  ヤクザ三人――スーツ男と派手なシャツの二人――は見るも明らかに激昂している。  残り一人、病的な小男だけは相変わらず面白がっている顔つきだった。 「小夏、走れって言ったら走れよ」 「……」  返事はない。  だが後ろを振り返っている余裕はなかった。 (とりあえず、泣かれるのは防げたよな)  少しだけ満足する。  あのやかましい泣き声を聴かされなくて済んだのは良かった。  あんな声を聴くのは幼児の頃だけで充分だ。  あんな泣き方をするのも。 「忠保、いいか?」 「ちっとも良くはないけど、事態が好転する見込みがないのなら別にいつでもいいんじゃないって意味では、いいよ?」 「あーそーかい」  実に士気の高揚する応答を受けて、おれは一歩前へ出た。当然、それでヤクザ側が気圧されるわけもない。  もう一歩踏み出せば、そこは殴り合いの距離になる。  勝てるわけがない。  必ず負ける。  きっと手酷く痛めつけられる。  それでも今は戦う時だ。  最後の一歩を、  進む―――― 「お待ち下さい」  ――――!?  予期しなかった声に、おれはつんのめってたたらを踏んだ。忠保も似たような格好になっている。  即座に殴られなくて済んだのは、四人組もその声に気を奪われていたからだ。  慌てて声の方向を見やる。  見ずとも正体はわかっていたが。 「みっ」 「湊斗さん!?」  おれたちの声には答えず、湊斗さんは人垣を割ってすたすた歩み寄ってくると、事もなげにヤクザたちの前に立った。  おれたちと四人組の距離は一メートル程度。その間に割り込んだのだから、湊斗さんと四人組との距離は息が届くほどだ。  おれと忠保は慌てて後ろへ下がった。  湊斗さんは気にした風でもない。  ……はじめて、小男が笑みを消していた。 「……なんだ。あんたは」  それまで強気一方だった白スーツの表情に、刹那、怯みのようなものがのぞく。  湊斗さんは長身だ。スーツ男もそれなりだが、なお頭半分ほどは高い。  というか、背中が大きい。  今はただ、もうひたすら、頼もしい背中だった。  緊張がいっぺんに解け、安堵のあまり腰が砕けそうになる。 「警察です」 「あぁ!? 警察ゥ!?」  湊斗さんの名乗りに、男はかえって意気を回復した。  それはまぁ、そうだろう。警察といえば役立たずの代名詞。六波羅の紋所を背負う御雇身分なら、恐れるべき理由はまるでない。 (でもこの人は違う)  この人は別だ。  あの銀星号にも挑もうとする人。  スーツ男は、恐れるべきなのだ。  同じように銀星号と戦うと宣言できるのでないなら!  昨日、おれたちを相手にした時とは違う。  あの時の湊斗さんは、おれたちが単なる学生だったから何もしなかっただけだ。  六波羅の手下どもが相手なら加減などいらない。 「警察がなんじゃぁ!! オレらァ六波羅御雇のもんだと知っとるんか!?」 「いえ、知りませんでした。  ご説明に感謝します」  また律儀に頭を下げている湊斗さん。  ……滅茶苦茶、余裕だよ。 「馬鹿にしてんかぁッ!!」 「そういった意図はありません」  当然激怒する白スーツに、あくまでも平然たる湊斗さん。  今、男に最も似合う言葉は『空回り』だった。 「なら、何のつもりじゃあ!?」 「あちらの三人」  暴力臭むき出しの男からあっさり顔を背けて、湊斗さんはおれたちを指し示した。 「事情あって、彼らは現在、自分の保護下にあります。従って、彼らが問題を起こしたのなら自分に解決の義務があります。  その義務を遂行している次第です」  再び前へ向き直る。  その湊斗さんを挟んで、四人組とおれたちの距離は三メートルもない。だが決して、やつらがおれたちに手を届かせることはない。そんな気がする。 「義務ゥ?」 「彼らが何か問題を起こしましたか」 「問題!? ああ問題はあるァ!  あいつらはなぁ、六波羅御雇のオレらを、馬鹿にしくさった!!」 「そのワビを入れさせとったんじゃ!  なんか文句あるかぁ!?」 「成程。  諒解しました」  頷く湊斗さん。  しかし当然、その場を譲ったりする様子はない。 「ならどかんかい!」 「その前に貴方がたの要求を伺いたい。  彼らに対して、どのような謝罪を求めるのですか?」 「まずは土下座!  その後はそっからのことじゃ!」 「お断りします」  遂に。  湊斗さんがはっきりと奴らに対抗した。 「あんじゃとォ!?」 「悪口ひとつに土下座は見合わない。しかもそれだけでは済まない模様。  相応の謝罪による納得を求めます。陳謝の言葉と一礼で如何か」 「ダァホォ!  そんなんで野木山組のメンツが立つかァ!!」 「立ちませんか」 「立たんわい!」 「では陳謝を四百字詰め原稿用紙五枚以上の文面で提出する形では」 「どうもならんわ!  舐めさらすンも大概にせェ!」 「野木山組はなァ、六波羅の代紋しょっとるんじゃぞォ!?  半端なカッコで済まされっかァッ!!」 「……諒解しました。  そこまで言われるのなら、止むを得ません」  湊斗さんが動く。  思わず、スーツの男が一歩退いた。  遅い。  馬鹿め。  最初から、チンピラヤクザが相手できるような人じゃない。  この湊斗さんは強い。  強くないわけがない。  この人はおれに、大切なことを教えてくれた人。  これから見せてくれる人だ。  思い知れ、ノミ山。  おれは戦う強さというものを、見せてもらう――  ……  …………  ……………………  え?  ……なに?  これ。 「……何やっとんじゃ」 「土下座です」  路上に正座して、額まで地面につけながら。  声だけは平然と、湊斗さんが応じる。  ええと、はい。  土下座ですね。  それはもう立派な。 「これにて勘弁して頂きたい」  …………。  ちょっと。  なんだよそれ。  真っ白な空気を破ったのは、野木山組の爆笑だった。 「なんじゃ、そらァ!  さんざ勿体つけといて、見掛け倒しかい!!」  スーツの男が肩を揺すって笑う。  派手柄の二人も腹を抱えていた。  ……周囲の人垣からさえ、失笑が上がっている。 「土下座かい! ガキどものかわりに土下座するってぇか!」 「はい」 「げぇぁははははははっ!!  頭の下げ方が足らんわぁッ!!」  革靴が湊斗さんの後頭部に落ちた。  鈍い音が伝わる。  それでも湊斗さんは、身動き一つしなかった。  頭に他人の足を載せたまま、じっと平伏している。  声さえ上げなかった。  調子に乗って、スーツ男は肩を蹴りつけた。  後ろの二人も加わる。    杖の男は無表情に視線だけを注いでいたが。  背と言わず腹と言わず、ヤクザ達の蹴りを浴びて。  湊斗さんはただ、そうしているだけだった。  何の反抗もしない。  全くの無抵抗。  ……なんだよそれ。  戦わねばならない時は戦うんじゃないのかよ!?  今はその時だろ?  相手は六波羅の下っ端のノミ野郎なんだぞ?  戦えよ!  あんた、銀星号とも戦うって言ったろ!  銀星号と戦えて、こんなチンピラと戦えない理由があるかよ!  それともあれは、  あれは…… (口だけだったのかよッ!?)  ……湊斗さんは立ち上がらない。  蹴られ放題だ。  踏まれ放題だ。  土下座の格好で。  ……ひでえよ。  湊斗景明。 「はははははッ!  なんて面白い奴じゃ! よし、今度はな、お前、芸をやってみろ」 「芸とは」 「三べん回ってワンと鳴いてみィ!」  やめろ。  もうやめてくれよ。 「犬の物真似ですか」 「そうじゃ! できんのか!?」 「それを謝罪として求められるのであれば、実行するまでです」 「ぎゃははははは!! どこまで〈根性無し〉《ヘタレ》なんじゃあこいつはァ!  ようし、ほれ、やってみんかい!」 「はい」  やめろォ――――! 「……その辺で止めたらどうよ。  〈雪車町〉《そりまち》」  凛とした声。  続いて現れた姿は、この場の誰にも劣らない存在感を――あるいは誰にも勝る存在感を備えていた。  一見すれば、ただの女子学生。  歳はおれたちより少し上だろうが、顔立ちは可憐で、見ようによっては幼い印象さえ受ける。  しかし、目付きが尋常ではなかった。  獰猛なほどの強さがあった。 (一条さんだ) (え?)  忠保がささやく。 (一条さんだよ。うちの上の学校の。  ほら、ちょっと前に〈逗子〉《ずし》の不良グループが鎌倉征服とかアホなこと言って暴れ出した時、一人でぶっ潰したっていう……伝説の) (あの人か! 〈寄るな〉《・・・》の一条!)  噂を聞いたことはあった。  一条、その名前が示す通りというべきか、曲がったことが大嫌い。気に食わないものには何であれ喧嘩を売り、嘘か真か、負け知らず。  その難儀な人格のため友人はなく、また常に揉め事が懐っこい子犬のようについて回っているので、別に悪事は働かないにも関わらず一匹狼の不良学生という認識で鎌倉の学校間ではつとに有名。  喧嘩相手には六波羅さえも含まれるとか。  流石に堂々とではないものの、闇討ちのような行為を一度ならず実行している……らしい。本当かどうかは無論、本人しか知らないことだが。  雰囲気だけで言えば。  自分に向かってくるものがあるなら、それが小石であろうと大岩であろうと、殴りつけそうな人だった。 「今度は誰じゃあ!?」 「潮時ってもんがあるだろ」  白スーツがまた怒号を飛ばすが、一条はそちらへは目もくれなかった。  最初から、杖の小男だけを見据えている。 「そいつは土下座して詫びを入れた。なら、それでいいとしとけよ。殴れば殴るだけ金になるってわけでもねえだろ別に。  むしろ商売の邪魔になってんじゃねえか」 「しかしねぇ、嬢さん」  初めて、小男が口を利く。  ぬめった声だった。 「あたしらは面子で生きてるんで。  金よりもこっちの方が重いんでさ」  まぁ建前上はね。  ……小男は、こっそりそう付け加えたように見えた。 「けど、金もなきゃ困るんだろ?」  手を振って、一条が通りを示す。 「いつまでももたついてると、ここら一帯、軒並み臨時休業になっちまうな。  金集めに失敗したら、親にどう言い訳するんだ? ちょっと遊んでましたって?」  ケヒ。    奇妙なその音は、小男の立てた笑声だった。  それきりで、何も言わない。 「……面子なら充分立ったろ。大の男、それも旭の紋所かついでる野郎が頭下げたんだ。  面目躍如ってもんじゃねえの? 満足していい潮時だろ」 「あんたらの組に逆らおうなんて奴はこれで当分出ねえだろうからな」  そう言いつつ、一条の瞳ははっきりと、自分自身を除外していた。  ――それが通じたのだろうか。いや、通じたに違いない。 「……後はビビった連中から好きなだけ金を集めりゃいいだろ。  雪車町一蔵」  なぜなら、名前を呼ばれたことが余程おかしかったのでないなら、  小男が陰々と笑い出した理由はそれ以外に何も思い当たらないからだ。  クヒヒヒヒヒヒヒ。  杖の小男――〈雪車町一蔵〉《そりまちいちぞう》は、そんな声で笑った。    腹を空かせた蛙の声だった。  ……鳥肌が立つ。  ひとしきり笑うだけ笑って、小男は視線を転じた。  完全に無視された格好でありながら不思議なことに黙っていたスーツの男へ、ねじくれた笑みを向ける。 「武藤さん、構いませんかねぇ?」 「雪車町……」 「嬢さんの言うことも的外れじゃありませんよ。これ以上ここで遊んでても、そう楽しいことはないんじゃないですかねぇ……。  それより、仕事をしませんと」 「まさか居留守を使うような馬鹿がいるとは思いませんけどねェ……。  金を隠して上納金を値切るくらいの浅知恵なら出す奴はいるかもしれませんや」 「そいつはちっと、面倒じゃないですかね?」 「…………」  スーツの男はやや困惑した様子で、しばらく黙っていた。  しかし、差し出口ともとれる小男の言葉に逆上して怒鳴りつけるという選択肢はなかったらしい。  やがて、男は無言で歩き出した。  子分たちもそれに従う。  もうおれたちには目もくれない。  鈍く〈笑〉《え》んだまま、小男も仲間に続いた。  ……町並みが少しずつ、普段の色彩と音を取り戻す。 「雄飛」 「……え?」  ほけっと突っ立っていたおれは、忠保に呼ばれて我に返った。 「終わったみたいだよ。  小夏? 大丈夫?」 「あ、うん……」  こちらはおれより重症だったらしく、まだ上の空だ。  無理もないが。 「つか、忠保……大丈夫かはこっちの台詞だ。  おまえ、殴られてるだろ。平気なのか?」 「口の中を少し切っただけ……大したことはないよ。  歯は折れてない」 「うまいもんだね。  歯の上から殴ると拳の方も痛むから、避けたんだろうなぁ」  妙な感心をしている。  まあこの分なら心配はいらないだろう。  と。 「鼻が詰まっている時に無理にかもうとすると耳から空気が出るんだ」などと言いながら鼻血を拭っている忠保の肩越しに、学生服の背中が見えた。  いけね。  このまま帰すわけにはいかない。  あの手のいわゆる不良学生とはどうもソリが合わず好きになれないのだが、だからといって、助けられておきながら礼も言わずに済ませて良いという法はない。  おれは慌てて呼び止めた。 「あのっ……一条さん!」 「……」 「ありがとうございました」  ちらりと振り返ってくるのに、大きく頭を下げる。  立ち止まる、その足元が目に入った。  ごく普通の、運動に適したシューズ。さすがに下駄ではない。  なぜか少し安心する。 「……ああ」  面倒くさそうな返事。  そこへ別の方向からも声が掛かった。 「助けられました。  感謝します」 「おまえは話し掛けるな」  そちらに対しては、彼女は面倒がるどころかにべもなかった。  視線さえ投げない。 「〈根性無し〉《ヘタレ》が〈伝染〉《うつ》る。  失せろ」 「……」  何も言い返さず、無言で引き下がってゆく。    …………。  こちらだけ一瞥して、彼女は口を継いだ。  会話をする気のないことがありありとわかる、何かを〈遮蔽〉《しゃへい》した態度で。 「野木山の連中はどうでもいい。  あれはただのチンピラだ」 「……?」 「けど、あの……仕込杖を持ってた男。  あいつに関わるのは止せ」 「六波羅御雇組の居候に加えてGHQの御用聞きまでやってる、厄介な野郎だよ。  ……チンピラはチンピラだけどな」 「立ち回りのうまいチンピラなんだ。下手につつくと何が出てくるかわからねぇ。  近寄らないのが一番だ……覚えときなよ」  一方的にそれだけ告げるや、ついと顔を背けて立ち去ってゆく。  そのやりようがあまりに素っ気なかったから、おれはしばらくの間気付かなかった。  ……今のは忠告だ。  もう一度礼を言っておくべきだったろうか。  そう思っても既に遅い。おれは遠ざかる姿を、ただ見送った。  ぽん、と肩を叩かれる。  振り返ると忠保。親指で、一方向を示している。 「どうする?」  親指の先には、コート姿があった。  人々の無遠慮な軽侮の視線を集めながら、聞き込みを続けようというのか、手近な店の暖簾をくぐろうとしている。  忠保が何を尋ねているのかは難しくなかった。  同行するのか、それとも。 「帰ろう」  おれは呟いた。  もう日の落ちる刻限。おれたちに行動の自由が許される時間は過ぎようとしている。  ……そうでなくとも、同じことを言っただろうが。    反対の声はなかった。 «災難だったようね。御堂» 「いや。別段」 «怪我の功名かしら。  あの子たちとは離れられたみたい» 「ああ」 「…………」 «御堂?  どうしたの。何か気に掛かる?» 「些か、だが。  昨日、お前が遭遇したという〈寄生体〉《ヘイタイアリ》……」 «ええ» 「〝卵〟を与えられているのなら、俺達の事を知っていても不思議ではない。  其奴はお前を狙って現れたのだろうと――一度はそう判断したが」 «違うと?» 「狙っていたのはあくまであの学生達であり、お前との遭遇と戦闘はその過程で発生したに過ぎないという可能性も否定しかねる」 «……そうね。  そもそもそれを警戒して、私がついていたのだし» 「敵が寄生体だからといって、その可能性を考慮から外したのは、やや早計だったか」 «あの寄生体は以前も現在も少年少女の拉致だけが目的で、私たちのことは眼中にない、ということ?» 「その可能性も、ある。  思えば〈あいつ〉《・・・》は寄生体にほとんど何も教えないことの方が多かった」 «寄生されたことにさえ気づいていない例もあったものね……» 「ああ。  結論として、あの学生三人から完全に目を離すのは危険だと考える」 «なら……どうする? 手分けを?» 「その必要がある」 «諒解……» 「……明日からどうする?」  小夏がようやくおれにそう聞いてきたのは、既に夜も更けて就寝の頃。  あれから何も言葉を交わさずおれたちは家路を辿り、忠保と別れ、家について食事をして風呂にも入った。  その間、口を利いたのはおじさんおばさんとだけだ。  おれも小夏も元気溌剌とはいかなかったから二人には不審がられたものの、問い詰められるほどのことはなく、互いに余計な心労を背負わずに済んだのは幸いだった。  殴られて怪我でもしていたら話はまた変わっていただろうが。  そう考えると、忠保のことは少し心配だった。 「どうもこうもねえよ」 「ねえよって言っても」 「別に変わらねえ。リツを探す。  今までと同じだ」 「でも」  ――あの人とはもう一緒に行かないんでしょ?    口を切っても、小夏が何を言おうとしたかは容易に知れた。 「最初からわかってたのにな」 「……」 「警察なんかあてにならない。  わかってたってのに……ったく」  悔しかった。  ほんの一日でも、あんな男を信じてしまったことが。  勝手に信じて期待した自分が悪いのだ。そう思う。  思っても、怒りは消えない。だが心を前へ向ける役には立った。あの男のことは忘れる。忘れて、元通り、自分と仲間の力だけを信じてやり直す。  それでいい。  最初から、それしかなかったんだ。 「あの一条って人に相談してみようかなんてこともちょっと考えたけどさ」  戸口に佇んでいる小夏の表情をちらと覗く。  多分、同じことを考えたのだと思うが。 「けど、もういいよな……勝手に期待して、勝手に失望するなんてのは。  おれたちだけでやろう」 「……」 「それでいいだろ?」 「うん」  小さく頷いてくる。  ……同じことを考えて、結論も同じだった、ということか。  一日を無駄にした、とは思わない。  成果はあった。武者の関与を示す物証が得られたし、その武者が竹林へどう侵入し、どう離脱したかというおそらくは重要だろう疑問点も見出した。  けれどもう、同じことをする必要はない。 「もう寝ろよ。今日は疲れたろ……色々」 「あんたもね」 「あぁ」  応えて、ひとつ欠伸する。  確かに疲れていた。心身、そのどちらがより重いかは知れないが両方とも。  戸口の気配が去り次第、おれは布団の上に横転して、そのまま朝まで起きないだろう。  早いところそうしたい。  だが、気配はなかなか去らなかった。 「……どうした?」 「ん。えーっと」  なにやら言い淀む様子。  右を見て、左を見て、天井を見る。  それは単なる挙動不審か、でなければ隠密の気配を探っているとしか見えず、要するに、挙動不審だった。  こういう小夏は、あまり知らない。 「なにやってんだ」 「えっとさ」 「うん」 「あんた……今日、何の役にも立たなかったじゃない」  おれは布団に横転した。  このまま朝までと言わず一生、動けないような気がした。 「…………」 「あ、えっと。そうじゃなくて。  そうじゃなくてね」 「……なんなんだよ」  おれをヘコますのが目的じゃなかったんなら、早いとこフォローしてくれ。 「確かに今日あんたはわたしのピンチだってのに何の役にも立たなくて格好いいところは全部一条さんに持っていかれてて男としての株を下げに下げて最安値になっちゃったけど」 「…………」  おまえは言葉で人を殺す気か。 「でも……わかってるから」 「……なにが?」 「まるで何の役にも立たなくてカカシも同然っていうかむしろカカシの方が雀を追い払うだけましかもって感じだったあんたが、その」 「しつこいよ!?」 「で、でもね、〈助けてくれた〉《・・・・・・》のは、ちゃんとわかってるから」 「……」 「ありがとう……。  言いたかったのはそれだけ……」 「……あ……あぁ」 「じゃ、じゃあ、おやすみっ!  早く寝なさいよ!」 「おう……」  閉じられた戸口を眺めて。  おれはしばらく、ぼんやりとしていた。  それから右を見て左を見て、天井を見て、ぽりぽりと鼻の頭をかいた。  別に隠密を探していたわけではないので、ただ単に挙動不審だったと思う。  そして、布団に倒れ込んで寝た。  何故か心身にのしかかる重さが少し和らいでいて、そのことが不思議だった。 「六波羅幕府とは元々の所在地が京都六波羅だったことからの通称で、公式には〈六衛府〉《りくえふ》と称される……が」 「おかしな話になるが。  本来、六衛府という役所は存在しない」 「六衛府とは左右近衛府、左右兵衛府、左右衛門府、この六つの首都防衛軍の総称だった。  六衛府という単独の機関があったわけではないんだ」 「だが、近衛六府を統率する総司令官として六衛大将領が置かれ、やがてこの職が武者の総領としての任も帯びると、大将領のもとに武者を中心とする参謀組織が誕生した」 「これを指して、六衛府と呼び慣わすようになったわけだ……」  鈴川の声はいつも通りよく響く。  だがどことなく、その声が張りを欠いて聞こえるのは、今の状況を思えば無理もないことだろう。  リツの失踪から既に、五日。  焦っているのは、きっとおれたちだけではない。 「六衛大将領は征夷大将軍と同じく、軍政を施行する権限を持つ」 「但し征夷大将軍が出征して獲得した占領地について権限を持つのに対し、六衛大将領は外敵を迎え撃つ防衛戦争に際して必要と判断された地域において権限を有する」 「どちらも戦時に限定される臨時権力だ。  戦争が終われば施政権は朝廷に返上される」 「だがかつて鎌倉幕府は、征夷大将軍のこの権限を拡大解釈し、施政権を全国に広げかつ恒常化した」 「同じことを、六波羅もやったわけだな。 『今は国難の時である』という名分のもとに臨時大権を拡張、大和全域に対して無期限の施政権を主張している」 「その根拠に使われたのはかの大阪虐殺だ。  つまり奴らは一都市を鏖殺した挙句、その反乱を理由に、支配権を強化したことになる。……惚れ惚れするほど合理的なやり方だな?」 「これが六波羅支配の政治的な背景であり、強大な武力、GHQの黙認と合わせて、その統治を支える主柱と――」 (ん?)  授業の最中、無遠慮に開かれる引戸の音はいかにも唐突だった。  そして、そこから苦々しげな顔を突き出した人物もまた唐突だった。 「……教頭?」 「授業中に申し訳ない。  鈴川君、ちょっと来てくれ。校長がお呼びだ」  しかしなお唐突だったのは、その後だった。 「新田君、稲城君、来栖野君。  君達もだ。来たまえ」 「はぁ?」 「はい?」 「……」  学生の身でこの部屋へ頻繁に出入りする者がいるとしたなら、それは際立った優等生か、際立った問題児か、どちらかでしか有り得ないだろう。  どちらでもない、面白味のない標準学生であるおれは当然、校長室などに踏み入るのはこれがはじめてのことだった。  といって別段、感慨も湧かなかったが。  上流階級のご子弟様方が通う私立学園であればまた違ったのかもしれないが、一公立学校の一校長が黒檀の机でパイプを〈薫〉《くゆ》らせながら執務しているはずもなく。  ここはただの、無味乾燥な一室に過ぎない。  そして部屋の主にもこれといって楽しさを見出せる部分はなかったし、その話す内容に至っては、楽しさの完全な対極にあった。  ここへの道筋である程度、予想はしていたけれども。 「どこの誰からとは言わないが、学校に連絡があった。……うちの学生が昨日、幕府御雇の方々と路上で〈諍〉《いさか》いを起こしていたと」  校長の隣には教頭が立ち、おれたちの傍らには鈴川がいる。  だが無論、校長の言葉は二人のどちらに向けられたものでもない。〈それ以外〉《・・・・》だ。 「君達に間違いないか?」 「……はい」  〈被告〉《・・》を代表する格好で、おれは肯定の応えを返した。  こうして三人そろって呼び出されているのだから、連絡とやらがおれたちを名指しにしていたことは疑うべくもない。  シラを切るだけ時間の無駄だった。  あのとき現場にいた人間の中の誰かが気を利かせたのだろう。  社会人としては良識的――おれたちにとっては実に全く、迷惑千万な気の利かせようだが。 「けどそれはあいつらが、」 「その諍いの内容について、どうこうと言うつもりはない。  大事には至らなかったと聞いているからね。実際、君達はこうして無事だ」  続けて言い募ろうとしたおれの口舌を、あっさりと潰してくれる校長。  何を話し、何を聞くか、既に決めてしまっているかのような態度だった。 「だからそのことはいい。  問題は、なぜそんなことになったかだ」 「や、ですから。たまたま行き会った野木山の連中が」 「どうして君らはあんな場所にいたのだ?」  ……やはり、話の流れは決定済の様子だった。  野木山組と揉めたことについては言い分もある……当然だが。こちらが被害者だったのだから。  しかし。 「あの辺りには夜間営業の飲食店しかない筈だ。君達には用のない場所だろう。  なのになぜ、あんなところでうろうろしていた?」 「それは……」  その点は、おれたちが学生身分である以上、明快な規則違反だった。どう言い訳しようとも、その事実は変えようがない。  ……ここから攻めて、一方的な話にするつもりか。  叱責を受けることは別に構わない。  だが厳しい処分まで受けて行動を封じられるのは、避けたいことだった。自宅謹慎を申し渡されて家にも通告がされたりすれば、リツ探しは続けられなくなる。  うまい弁明が欲しいところだったが、手の届く所には見当たらなかった。こういう時に頼りになるはずの忠保も、今は沈黙を保っている。おそらく不利な流れを悟って無駄な手出しを控えているのだろうが。  仕方なく、おれは校長の誘導に従う形で返答した。 「飾馬律を探していました」 「そのようだな。学生数人があちこちで探偵まがいのことをして回っているという連絡も、今週に入ってから数件寄せられていた。  つまりはそれも君達だったわけだ」 「……そのようですね」  いっそ気持ちが良いほど、校長の〈対話主導〉《リード》は円滑で無駄がなかった。  応じるこちらは皮肉も冴えない。 「警察の仕事だ」  気持ちはわかるが。  ――という定型句さえ、校長は省いて告げた。 「警察に任せなさい。  君達がやることではない」 「けど、それじゃあ」 「大丈夫だ。警察は動いている。  先日、上原教諭が校門前で私服警官に質問を受けたそうだ……だから心配はいらない」  駄目なんだ。  〈そいつじゃ役に立たないんだ〉《・・・・・・・・・・・・・》! 「君達は学生であり、警察に協力することはできない。  協力しているつもりでも、結果的には邪魔にしかならない」 「それはつまり、君達にとっては大切な友人で、私にとっては大事な教え子である飾馬君を、より危険な状況へ追いやるということだ。  理解できるね?」 「…………」  腹が立った。  どうしようもなく、腹臓が煮えくり返っていた。  ああ、糞。  なんで〈正論〉《・・》というやつは、こんなに腹が立つんだ!  校長は完璧にその使い方をわきまえていた。  余計な混ぜ物はしない。隙のない正論だけ用意して、屈服を求めてくる。  打つ手がなかった。  口遊びにでもこちらの事情を〈忖度〉《そんたく》してくれたなら、そこに食いついて、ある程度の妥協を引き出すこともできたかもしれない。  だがこれでは、そんな情けない作戦さえ無理だ。  このまま話が進むに任せれば、今後は馬鹿な行動を慎むよう約束させられるだろう。  それを無視して、捜査を続けることは可能だ。  しかし約束を破ればそれが負い目になり、学校側に厳罰を下す正当性を与える。  自宅に押し込められるまで、きっとどれほどの間もあるまい。  そんなことを、認められるわけがなかった。 「でも……リツは。  友達なんです。だから、自分達で探さないと……」 「繰り返すが、君達のすることではない。  君達は学生であり、本分は学業だ」 「勿論、度を越さないなら、放課後に遊ぶのはまったく構わないことだ。だが……  君達のしていることは遊びではないな?」 「だから、やめなくてはならない。  私の言うことが理解できているか?」 「…………」 「納得できないのなら言ってみなさい。  言うことが何もないのなら、今後は勝手な振舞いをしないと約束してもらう」 「…………」 「どちらだ? 黙っていてはわからない。  君達もそろそろ、自分の意見をはっきりと述べること、社会の規律には従うこと、そういった社会人の嗜みを身につけるべき年頃だ」 「不満そうに黙り込んで相手が許してくれるのを待つような、甘えた態度はやめにしようか?」 「……」  糞。糞!  なんだよそりゃあ!  あんたの言うことは確かに筋が通ってるよ。  ああ、もう、反論の余地なんかありゃしねえ。  けどそりゃ一方的な理屈で、一方的な正しさだろ!  それが社会一般で通用するものだとしても!  自分の正しさははっきりと説明できなきゃいけないのか? できないなら他人の正しさに従わなきゃならないのか?  ああそりゃそうだよ。でなきゃ社会は動かない。  けどそれでも、その理屈は、正しいと信じることがあってもそれをうまく説明できない人間のことを無視してるんだよ!  今のおれみたいな奴を!  こう言っても、説明できないのが悪いって言うんだろうさ。どうせ。  ああ、〈できる〉《・・・》人間はそう言うに決まっている。  だけどよ……  それじゃ結局、世の中は、口の回る奴だけが勝つんじゃねえか!  後は文句言う相手を殴り倒せる奴だけか。  そのどっちでもない奴は黙って他人に従えってのか。  それが正しい社会か。  そうなのかよ!?  ああ……わかってるわかってるわかってる。  それは正しい社会ではなくても、〈比較的〉《・・・》正しい社会ではあるんだよ!  少なくとも、おれみたいな奴に〈拘〉《かかず》らって、にっちもさっちもいかなくなる社会よりは!  わかってるんだよそんなことは!  わかってても……  納得できるかッ!! 今、この時に! 「っ……」 「……言うべきことは何もないようだな。  では、私の指示に従ってもらおう」  ……〈あの人〉《・・・》は。  説明出来なかったおれの心情を汲んでくれた、な。  そんな思いが、ふと胸を〈過〉《よ》ぎった。 「今後は――」 「待ってください。校長」  何も言えないおれの代打は、  およそ予測もしなかった方角からやって来た。  ……鈴川? 「なんだね?」 「彼らは友人の身を案じて行動を起こしたのです。その点について、考慮をするべきだと思いますが」 「……何を言いたいのかわからないが」  可能な限りの円滑さで問題が収拾をつけるところに水を差されたからか、校長は苛立たしげに眉を寄せている。  指先が軽く机を打った。 「姿を消した友人を心配して、探偵の真似事をしていた。そんなことはわかっている。  だからどうした? 私が言っているのはな、その行動が規律に反しているということだぞ」 「その通りです。  〈それでも彼らは〉《・・・・・・・》、〈友人を案じ〉《・・・・・》、〈友人を救う〉《・・・・・》〈ために行動を起こしただけなのです〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》」 「それは間違ったことなのでしょうか?」 「な――なに?」  この場の主導者――であったはずの人物――が絶句した。まさか、こんなところからこんな反撃を食らうとは思っていなかったらしい。  おれとてもそれは同様だったが。 「……そういう問題ではない!  彼らの行動が周囲に迷惑を与えている――その点が問題なのだ」 「いえ、校長。それは問題の一面です。  問題の全てではありません」 「公平を期すならば、異なる観点からも事情を鑑みるべきです。  彼らが友人を助けるために行動を起こしたということ、これをどう評価するか」 「……何を言い出すのだ君は……!  学校には苦情が来ているのだぞ? 誠意のある対応をしなければ学校の信用が失われる。それはわかっているのか?」 「誠意ある対応……当然です。  それは苦情を鵜呑みにしたりせず、学生側の事情も考慮した上で、最善の解決策を探ることではないかと思いますが」 「違いますか?」 「…………」  校長は目を剥いて、しかし声が出ない様子だった。  傍らの教頭も呆気にとられている。  意外だった。  確かに鈴川は、なかなか「話のわかる」教師として、生徒間の評判がそれなりに〈芳〉《かんば》しかったし、中には小夏のように憧憬の念を抱いて熱を上げる者もいた。  だが、このような状況で、ここまで学生側の立場で物を言ってくれるとは、おそらく小夏でさえ期待していなかっただろう。  おれの隣で小作りな顔が、大きく目を見張っている。 「私には、彼らの行動には理解すべき部分が充分にあると思われます。  姿を消した友人を探し出すために自ら行動する、そこに何の不思議があるでしょうか」 「まして、警察などあてにできないとなれば」 「口を慎め! 鈴川〈令法〉《りょうぶ》!」 「この口は事実を告げただけなのですがね。  ……いや、失礼。いささか下品な言いようでした」 「……彼らの担任ということで同席願ったのだが。私に君と議論をするつもりはない。  邪魔をするなら退室してくれ」 「生憎ですが、校長。私は無関係ではありません。自惚れ混じりに言わせて頂ければ、私は友人の危機を黙って見過ごして良しとするような教育を施していないつもりです」 「ですので。  彼らの行動については私にも責任があると言えます」 「…………」  おい、おい。  いいのか鈴川。  なんか、おれたちが一方的にやりこめられてるのが可哀想だったからちょっと助け舟を、って感じじゃあなくなってるんだけど。もう。  徹底抗戦する気なのか? (嬉しいけどさ……)  正直に言えば、それはすごく嬉しいが。  一教師の立場で校長に盾突いて平気なのか?  ……平気なわけないよな。  なんでだ?  なんでそこまでして……。 「君の教育については色々聞いている……」  校長の声音の内部に、おれの危惧が的外れだと信じさせてくれるようなものは全くなかった。  冬空の気配で満ちている。 「しばしば〈不適切〉《・・・》な方向へ進むきらいがあるとか。そう、そのことについて、君とは話し合わねばならなかった。  話を早くしてくれて助かるな、鈴川君?」 「では、もっと早くして差し上げましょう」  威圧を含む言葉に、お義理程度の怯みさえも鈴川は見せなかった。  むしろ傲然と胸を張り、告げる。 「私は六波羅に家族を奪われていますから。  どうしても体制側より、体制に抑圧される側に心情が寄ります」 「その点はどうかご容赦下さい」 「――――」 「…………」  ……有名な話だ。  鈴川は既婚者で、けれど今は独身。  かつて妻と娘がいたが、失っている。  六波羅が直接、手を下したわけではない。  だが鈴川の妻子が迎えた風邪をこじらせた末の死は、六波羅の収奪のため一時期深刻化していた食糧不足と医療費の高騰を抜きにして語れることではないらしい。  鈴川の講義からしばしば六波羅に対する怒りが覗くのはそのせいだ……というのが、本人に聞こえない所で囁かれる噂の全てだった。  当然、校長もそれは知っていたはずだ。  おそらく、鈴川としても触れられたくはないだろうその点を避けつつ、ねちねちと責めるのが校長の目算だったのだろうが。  校長の〈遠距離戦術〉《アウトボクシング》に対して、鈴川の選択は〈接近戦〉《インファイト》。  一瞬で距離を零まで詰めていた。 「我が家族ながら、妻と娘は美しかった……見目形ではなく、心根、生きる姿が、とても。  とても美しかったのです」 「失われたことが惜しい……今なお諦めきれないほど。ですが取り戻すことはできません。  死者は生き返りません。何をしても決して」 「願いと現実の相反は私を苛みました。  最初にすがったのは宗教……校長、あなたはご存知でしたね? 幕府禁制の〈基督〉《キリスト》教です」 「幾度かご忠告を頂きましたが、信仰以外に己を自暴自棄から守る方法が無かったもので。  申し訳ありません。今も週に一度は教会へ通っていますよ」 「…………」  〈禁制〉《・・》というのは、正しい表現ではない。GHQの前で彼らの宗教を禁じる事は六波羅にもできなかった。  が、西洋文化に冷淡な幕府が基督教を好ましく見ていないのは事実で、陰の弾圧は相当に厳しいと聞く。  堂々と教会へ通う公務員などがいたなら、その〈陰〉《・》でどんな扱いを受けるのだろう。  ……出世の道が閉ざされる、程度の話では済むまい。おそらく。 「信仰は私の支えになってくれました。  しかし、救いにはなりませんでした」 「だから私は……教職を続けたのです。  田舎で静養することを勧めてくれた友人もいましたが。失ったものを取り戻せないなら、私はせめて、新しい何かが欲しかった」 「妻や娘のような、美しい人間を育てる。  私はそう誓って、教師として再出発したのです。その誓いのために、私はここにいるのです。校長」 「鈴川君、」  鈴川の言葉が拳の連打なら、殴られる一方の校長はサンドバッグも同然だった。  苦しげに喘ぎ、襟元を緩めながら、辛うじて言葉を絞り出す。 「鈴川君。しかし」 「私は学生たちに美しくあって欲しいのです。  友人の窮地を見過ごすような人間であって欲しくないのです」 「しかしだ……」 「校長」  冷徹なまでに硬い意思を湛えて。  鈴川は上司を見下ろした。 「どうかお答え下さい。  教師は学生に、友人の危機に直面したとき何もするなと教えるべきなのでしょうか?」 「……………………」  校長は、頷かなくてはならなかった。  先刻まで、まさにその通りのことを口にしていたのだから。  だが、頷けるはずがなかった。  今、鈴川を前にして、頷けようはずがなかった。  ……率直に物を言えば。  鈴川の戦術には卑怯な部分があると思う。  自分の不幸を盾にして要求を通すというのは、その相手が不幸をもたらした当人だというなら格別、そうでなければ卑しいやり口だとの謗りを免れないだろう。  人の良心につけこむ行為だからだ。弱者の暴力だ。  しかし、鈴川は普段からそんなことをする人間ではない。鈴川の過去も、おれは本人の口から聞いたことはこれまで一度もなかった。  誓いのことは今日初めて知ったほどだ。  おそらく、誰にも話したことがないのではないか。  それを何故いま話したか、理由はまさか、急に人の同情を買いたくなったからではないだろう。  おれたちを助けるためだ。  いや。  〈守る〉《・・》ためだ。  鈴川の云う美しさを。  おれたちの中にそんなものがあるのかと考えれば、正直くすぐったくなる。  だがそのために、鈴川は恥を忍んだのだ。  弱者の暴力を振りかざす恥を。  羞恥心に目隠しのできる人間でもないだろうに。  それがどういうことなのか、おれはよくわかってはいないと思う。  なんとなくわかるような気がするが、正味のところではきっとまだ理解していないと思う。  けど、どちらかをすべきだとは思った。  謝るか、礼を述べるか。どちらかをしなくてはならないと思った。  どちらか。  わからなかった。  わからなかったから、おれはとにかく自然に任せて口にした。 「先生」 「ん?」 「ごめん」 「謝るな」  鈴川が苦笑してかぶりを振る。  ……間違えたようだ。  場違いなやり取りは、しかし誰にも咎められない。  既にこの場の決着はついていた。  そうして。  鈴川は結局、自分の同行を条件に、おれたちの行動の自由を認めさせてしまったのだった。  放課後。  道すがら、おれたちは鈴川にこれまでの経緯を説明した。  鈴川の方から尋ねられたのだ。ただの保護者がわりではなく、手伝ってくれるつもりらしい。  その態度を歓迎しない者は一人もいなかった。  ……昨夜どっかの誰かが、もう他人の手は借りないとか突っ張ったことを言っていたような気もするが。  知らん。忘れた。 「奴隷売買とはな。  眉唾な話だが、笑い飛ばせはしないか……今の世情を思えば」 「笑い飛ばしたいところなんですけどねぇ。  本当にそうだとしたら、正直すこしばかり厄介なんじゃないかと思うんで」 「海外へ運ばれては……そうだな。厄介だ」  忠保の要点を押さえた話を聞き終えて、鈴川が重く頷く。  厄介どころではない。  二人ともわかっていて、あえてそう言っているのだろうけど。  腹の底に嫌な寒さを覚えた。  もしかして、と思う。  もしかして、もたもたしている間に、もう手遅れになってしまったのではないかと。  ……それは思わず呻き声を上げたくなるほど、酷く恐ろしい考えだった。 「だが……  案外、そう悲観したものではないかもしれないな?」 「え?」 「幕府が本当にそんな無法なことをしていたとして……それは当然、許し難いことだが。  ほかの事故や犯罪の可能性よりも、飾馬の無事はむしろ期待できるかもしれない」 「うーん。それは……」 「いや……まあ。でも……」  確かに奴隷なら殺されてはいないだろうけれども。  しかし。 「なに言うんですか先生!?」  どうとも言えず、なんとも煮え切らない反応をしたおれと忠保に対して、小夏は振り返るや声を荒らげた。  鈴川に詰め寄り、食って掛かる。  珍しい。  というより、初めて見る光景だ。 「無事って、そんなの無事じゃないです!  物みたいに扱われて、売り買いされて……そんなの、死んだも同然じゃないですか」 「死ぬより酷いじゃないですか」  つい今しがたまで、鈴川の同行を喜べばいいのか、リツの安否を思って沈み込めばいいのか、迷うような複雑な様子で黙っていたのが嘘のように。  小夏はまくし立てる。  その表情は純粋に、怒っていた。 「リツはそういうの、誰よりも嫌がる子です。  あの子はいつも好き勝手に振舞って、バカな騒ぎばかり起こして……けど年上ぶってて、おせっかい焼きで」 「一緒にいると楽しくて……」 「それで……」 「……うー」 「落ち着け、小夏」  声が出なくなり、それでも収まらない様子の小さな肩を、後ろから両手で軽くつかむ。  こういう時のこいつは、誰かが止めてやらなくちゃならない。そして大概、それはおれの役目だ。 「……そうか。  来栖野はそういう考え方をするんだな」  意外に、鈴川は落ち着いていた。  改めて見直すふうの視線を、うつむいて鼻を鳴らす小夏に注いでいる。 「人間なのに物扱いされて生きるのは、死ぬよりも酷いことか……」 「先生の考えは違いますか。  やっぱり生きることが一番重要、生命最強、命イズモアヘビー〈∨∨〉《THAN》地球ってわけですか?」  おまえそれ何語だ。 「いいや。人間ただ生きていればいいというものではないと思う。どう生きるかが重要だ。  生きるならば、良い生き方を志すべきだ」 「その結果が死であるとしても。  ……まぁ、来栖野に近い考え方だろうな」 「え?  じゃあ」 「というか、だな。  さっきのは、そういう意味で言ったんではなく……」  いささか決まり悪げに、鈴川は顎へ手をやった。 「飾馬を無事に〈助け出せる〉《・・・・・》かもしれない、と言いたかったんだが」 「……え!?」 「それは一体どういう?」 「六波羅が奴隷として売却するために市民を拉致しているのなら、拉致した後はどうすると思う?」 「新田」 「はい!?」  いきなり授業のノリで指名されて、おれは慌てた。  反射的に起立の姿勢をとって――元から立っているが――思いつくまま考えを並べてみる。 「えーと、そりゃまあ、国内でそんな商売をやってるとも思えませんから……港へ運んで、そこから船で海外へ送るんじゃないでしょうか」 「一人捕まえるたびに、か?」 「はい……あ? いや」  ……〈一人捕まえるたびに〉《・・・・・・・・・》?  そこでようやく、おれは鈴川の考えを悟った。 「そうか! つまり――」 「一人ごとにそんな手間の掛かることをしていられるわけがないから、数が集まるまではきっと国内のどこかに監禁されているはずだってことですね!」 「言わせろぉぉぉ!!」  なぜそう無慈悲においしいところだけかっさらえる。  鬼か貴様は。 「そういうことだな。  奴隷とやらにいくらの値がつくのかは知らないが、ピストン輸送では採算が合うまいし、リスクも高くなる」 「どこか人目につかない場所に〈倉庫〉《・・》がある筈だ。手掛かりを辿ってそこまで行き着ければ……あるいはどうにかできるかもしれない」  そう言いつつもさほど楽観した様子はなく、鈴川は淡々とした面持ちでいる。  だがおれとしては、目から鱗の心境だった。  言われてみればまったくその通りだ。  ごく簡単な論理だ。  しかし考えもしなかった。  これが人生経験の違いってやつなのか。  そう思うとちょっと悔しいけど。  リツが奴隷として売られるなんて考えたくなかったから、深く思いを巡らすということはせずにいた。  それじゃ駄目ってことなんだな……。  嫌なことでもちゃんと考えないと。  喜びながらも反省。  ポーカーフェイスの忠保も似たような内心だと何となくわかる。  小夏はというと、こちらは素直に感激していた。 「せ、先生……すごいです。感動です」 「オーバーだな、来栖野は。特に奇抜な発想を披露したわけじゃないぞ」 「いぃえ! やっぱり先生は違います。この雁首そろえて無駄に空気吸って光合成してるだけのフンコロガシどもとはもー何もかも!  わたし、先生のこと信じてました……!」 「そ、そうか」 「ははは、見てごらん忠保。さっき誤解して食って掛かっていた奴がなんか言っていますよ?」 「あれが人間の強さというものだよ雄飛。人は辛い過去を忘れることで一歩前へ進む生物なんだ。それにしても小夏の場合はちょっと忘却のサイクルが早すぎる気がするけどねッ」 「じゃあ先生、これからどうしましょう?」 「そ、そうだな。とりあえず現場らしい竹林をよく調べてみるべきだと思うんだが……」 「その前に病院へ行く必要が生じたような気もします」 「それから動物園に寄って猛獣を引き取ってもらう必要もあるような気がします」  羞恥心込みの一撃はやたらと重かった。 「しかし……」  歩きながら、鈴川がぽつりと呟く。 「何処までも……醜い世の中だ。  奴隷貿易なんてものが、本当にあるのかはわからないにしても、存在を本気で疑われるなど……」 「自分の国をここまで信頼できないとは……。  こんなことになるなどと、昔は思いもしなかった」 「いずれは白昼堂々と、奴隷売買が行われるような国になってしまうかもしれない……な。  この、大和が…………」  ……鈴川。    そうか。鈴川は、六波羅に支配される以前の大和で育ってきたんだよな。  おれたちにとって、六波羅は物心ついた頃からいる支配者だ。全く有難くはないにしろ、「当たり前」の存在。連中に支配される大和も、それが「当たり前」なのだ。  けど鈴川にとっては違う。  古き良き大和を知っていて、それが破壊されていく様子を見せ付けられているのだ。  ……辛いんだろうなぁ。 「大丈夫です、先生!」  その鈴川に、小夏が明るく言う。  失点を挽回しようというのか、励ますような声だ。 「安心してください。  もし先生が奴隷にされても、わたしが買いますからっ!」  しかし空回っていた。 「いや。買われても。困るんだが」 「じゃ、じゃあ、私が奴隷になるから買ってください」 「ごしゅ――」 「落ち着け小夏。  いや頼むから本当に落ち着け」 「君は暴走している!」  今となってはこの場を放棄したいくらいに。  教訓。来栖野小夏に鈴川と焦りと善意を注ぐと爆発する。混ぜるな危険。  揉み合うおれたちを眺めながら、鈴川は小さく笑う。  それからまた、ひっそりと、呟いたようだった。 「醜い世の中……だから、こそ。  美しいものは、大切にしなくてはならないのだ」 「大切に……」 「…………」 「ここか……」 「ええ」  切り払われた、竹林の一角。  おれたちは鈴川を案内して、再びそこを訪れていた。 「飾馬の姿が最後に確認されたのがこの竹林。  ほぼ同時刻に、武者らしき影の目撃報告」 「そして湊斗という警官は……この荒れ様を見て武者の仕業だと断定したのか?」 「そんな様子でしたね」 「根拠は?」 「えーと……なんて言ってたっけ?」 「なんだったかなぁ。たしか、切り口が〈綺麗〉《・・》〈過ぎる〉《・・・》とか言ってたと思うけど」 「ふん……?」  首を傾げながら、鈴川は切られた竹に近づいた。  昨日あのパート警官がしていたように、断面をまじまじと見つめる。 「なるほど。鮮やかに断ち切られている……普通の人間がどんな刃物を使っても、こうはいかないというわけか。  他には何か言っていたか?」 「移動方法について疑問を持っていたようでした。どこからどう入ってきて、どう去ったのか」 「ええ……武者は飛べますけど、飛んできたわけがないんスよね。だったらかなりの騒音が辺りに響いたはずなんで」 「でもでも、装甲したまま歩いて出入り……じゃあ見世物も同然。  となると生身で侵入して、中で装甲したとしか考えられないですけど」 「行きはそれでいいとして帰りはどうしたのか。リツをどうやって目立たないように運び出したのか……と、大体こんな方向で考えていたっぽいです」 「ふむ」  鈴川は腕を組み、視線を空へ投げた。  だがすぐに首を戻し、おれに向かって尋ねてくる。 「抜け道でも使ったんじゃないか、と?」 「え? いや……」 「そういう話は聞かなかったと思いますけど」  なんだか一足飛びで進んだ会話に、おれたちは首を捻った。 「……そう言いたいように聞こえたんだが。  違うのか」 「や、どうでしょうねぇ」  抜け道。  そんな可能性もある、か? 「うーん……どこぞの忍者屋敷だってんならともかく、ただの竹林ですし。ここは」 「田中の爺さんなら、侵入者撃退用にいつの間にか掘ってても不思議じゃないけどね」 「いやぁ。そんなまだるっこしいものを造るくらいなら、ガトリングガンでも配備するんじゃないかなぁ。あの人は」  うむ。  実際にやるかどうかはともかく、発想はそっち方向へ傾くだろうな。絶対。  ……その辺に竹槍トラップとかあるかもしれん。  気をつけよう。 「そうか……。  まぁ、いい」  なにか腑に落ちないような色を残しながらも、鈴川は立ち上がった。 「手分けして、手掛かりを探そう。  足跡なんかは今更無理だろうが、犯人なり飾馬なりの遺留品なら見つけられるかもしれない」 「了解ス」  忠保と小夏、それに鈴川は、ばらばらに竹林の中へ分け入っていった。慎重に足元を見ながら歩いているのだろう、笹の葉の小さなざわめきが聞こえてくる。  おれは現場に残った。見落としがあるかもしれない。  教室の端から端の距離で教科書が読める忠保と違いおれの視力はごく普通なので、確実を期すべくカエルよろしく這いつくばる。  みっともないが、背に腹はなんとやらだ。  そうして、ふと思い出した。  まず〈既視感〉《デジャヴ》。いつかどこかで同じことをしたような。なんだったか。――あれだ。  学校裏の小さな林で鬼ごっこをした時。  おれは鬼になったリツの目をかい潜り、四つん這いになって物陰に潜みつつ林の奥まで逃げようとしたんだった。  けどすぐに見つかった。  しかも見つかり方が酷かった。  突然背中に大重量が乗っかってきたと思ったら、 『ほーほほほっ! とってもお似合いの格好でしてよ雄飛さん! さあ大きな声でブヒーとお鳴きッ、鼻声でやるのがポイントよ!』 (馬ですらねえのかよ! いきなり豚かよ!)  ……思い出すだに突っ込みたくなる、くそロクでもない記憶だった。  ほんとに何なんだろうあの人間。  脳裏にフラッシュバックした光景にげんなりとして、おれは顔を持ち上げた。  その刹那。ちらりと何か、目に留まるものがあった。  白い欠片。  一見それは、ただの石だったけれど。 (あ……)  覚えがある。  これは――そう。  〈海豚〉《イルカ》のペンダントだ。  ……いつもリツの鞄を飾っていた……。  その頭の部分だけ。  砂利の中に、転がっている。  おれは拾い上げてみた。  ……間違いない。  すっぱりと滑らかに――周囲の竹と全く同じく――切られてしまっているものの。  リツの匂いさえ錯覚する。  そうと気付いて見れば、頭だけのイルカは酷く無惨だった。  死臭がする。  ――イルカの生首。  友達の姿が、そこに重なった。 (嫌だ)  握り締める。  幻は消えなかった。  両眼を閉ざす。  何も見えない。  それでいい。  今は、何も、見たくない。 「……新田」 「えっ?」  我に返ると、目の前には鈴川が立っていた。  右拳を固く握るおれを、訝しそうに見つめている。 「何かあったのか」 「……いえ。別に」  今は、見つけた物のことを報告したくなかった。  どのみち、手掛かりと言えるほどのものではないだろう。  不審に思ったに違いないが、鈴川は別段追及してはこなかった。  ちらりと一度見ただけで、おれの拳から視線を外す。 「面白いものを見つけたぞ」 「……手掛かりですか!? 何です!?」 「見て貰った方が早いな。  他の二人も呼んできてくれ」 「はい!」 「これ……」 「川?」 「というか、地下水脈だね」  トリの忠保が、最も正確な表現をした。  源氏山へつながる、なだらかな斜面。  その表面が谷のように、もしくは口のように裂けていて、覗き込んでみれば底を流れる水の列。  かなりの勢い。  深さもそれなりにありそうだった。  確かにこれは、川というよりも、たまたま露出した地下水脈とみるべきだろう。  洞窟〈河川〉《かせん》と呼ぶのがわかりやすいかもしれない。 「そっか。この音、弁天川から聞こえてきていたわけじゃなかったんだ」 「おれもそう思ってたよ。まさかこんなとこにこんなもんがあるとはなァ」  竹林の中にどこからともなく響いていた水騒。  考えてみれば、弁天川の音にしては少し近過ぎたし、激し過ぎた。ここから最短でも半キロ近く離れているはずのあの川は、一部を除いてごく緩やかなものだ。 「……うまい感じに地面の凸凹で隠れちゃってるし。少し離れたらもう見えないよ。  こんなの誰も知らなかったんじゃない?」 「少なくとも、ここが田中帝国になってから見た人間は誰もいないだろうねぇ」  忠保が感慨深げに唸る。  同感だ。が、しかし。 「面白いものってのはコレですか? 先生」 「つまらんか?」 「や、だって」  まさか鈴川もこの状況で地質学的観点からの興味を促したわけではないだろう。  つまりは。  これが「抜け道」なのではないかと――そう言っているのだ。  改めて見ればなるほど、その「出入口」は大人の男が潜り込める程度の幅がある。  洞窟の直径も二メートル前後には達するか。  だがその半ばまでは、激しい水の流れが占めている。  しかも様相からみるに、川底が公営プールよろしく真っ平らということは万に一つも有り得そうにない。  ……抜け道としては少々、問題が多いようだった。 「まさかボートを使ってここを下っていったんだとか言わないスよね?」 「個人的見解だけど、潜水艦の方が無難なんじゃないかな」 「入らない。入らない」 「そんなものはいらんさ。  忘れたのか? 犯人は常人じゃない」  ……あ!  そうか。 「武者なら……」 「……平気で動けるねぇ。こんな川くらい。  下流だろうと上流だろうと」  人間一人を担いでいても。  〈劔冑〉《ツルギ》と合身して悪魔的な力を得る武者にとり、それはおそらく労苦というほどのことでさえない。 「じゃあ、犯人は本当にここから!」 「リツを攫って……」 「どこかに逃げていったんだ。  ……絵面を想像すると、滑稽なんだけれどなんていうか。笑うに笑えない感じだなぁ」 「どんな奴なんだろうね?」 「地元の人間だな」 「えっ?」  独り言のつもりだったのだろう。間髪入れず答えを返されて、忠保はしゃっくりに似た声をもらした。  その顔をじろりと眺めやって、鈴川が言葉を続ける。 「地元民だ。他に考えようがあるか?  それも古くからの……少なくとも十年以上。田中の爺様がここへ移り住む前からこの近辺にいて、ここを遊び場にしていた人間」 「でなければ……こんな水路のことを知っているはずがない」 「…………」  顔を背ける忠保。  滅多にないことだが、そこには気まずい色があった。  地元の人間。  つまり、〈おれたちの身近な人間〉《・・・・・・・・・・》。  六波羅に加わるような奴だ。きっとろくな野郎ではない。野木山組の関係者か同業他社か、その辺だろう。  だがそれでもそいつは、鎌倉の住民なのだ。仲間、ではなくとも同族、そんなようなものなのだ。  おれの意識の中で、六波羅は顔のない「敵」だ。  単純に憎んで、単純に嫌える。  しかしそこに、「顔」が現れたなら。  良く見知った顔が―― 「どこに通じてるのかな、これ」  唐突な声は小夏だった。  暗い川面をじぃっと見つめている。何も聞いていなかったような風情だ。  聞いていなかったはずがないが。 「あー……そうだな。  銭洗弁天じゃないのか?」 「下流は多分そうだね。  けどあんなところに出たら人目につかないわけがないよ」  話を合わせたおれに、忠保も乗った。  鈴川も、陰鬱な空気を振りまくつもりはなかったのだろう。斜面の上を見やり、続けてくる。 「……では上流か。  どこから流れてきているか……大体の察しはつく」 「源氏山の頂上ですか?」 「だとは思うが、そんな所へ出ても雪隠詰めだろう。  そこまで行く前に、ここと似たような場所があるはずだ」 「それは……?」 「心当たりはある。  行くぞ」  言うや、鈴川は先頭に立って歩いてゆく。  その横顔はいつになく硬い。  ……そうだ。  おれたちはとうとうここまで来たんだ。  リツを連れ去った犯人の後姿が見えるところまで。  危険、だろう。  改めて考えるまでもなく。  手の中に汗がにじむ。  膝が震える。  ――なにか、  言葉を思い出しそうになった。 「行こう、雄飛」 「ああ」  けれどそれが形になる前に、おれは促されるまま、どこかへと通ずる道を歩き始めた。    おそらく――決着を迎えるために。 «………………» «……御堂……» «御堂。聴こえている?»  木々の狭間の向こうに、〈拓〉《ひら》かれた山棚が見える。  その奥には――老朽した木造の平屋。 「立ち入り禁止区画って書いてあるな……」 「それにしては警備員もいないね」 「警備なんかしなくたって、こんなとこ誰もわざわざ来ないでしょ。普通」  だろうな。  ここまで来るには道なき道――というか〈昔は〉《・・》ちゃんとした道があったらしい場所――を、えんえん進んでこなくてはならなかったのだ。  ハイキングコースにこんな選択をする物好きもそういまい。 「先生、ここなんですか?」 「ああ。  あっちに」  と、鈴川は山裾の方角を指差した。 「竹林にあったのと同じような、地下水脈が地表に現れている場所がある」 「はぁ」  そう言われても、おれには何も見えなかったが。  しかし確かに、耳を澄ますと水の流れと思しき音が聞こえてくる。 「んで……あの建物は一体?」 「学校みたいに見えますけど」 「それにしては小さくない?」 「だな。長屋じゃないのか?」 「いや、稲城の言う通りだ。  校舎だよ。〈うちの学校の〉《・・・・・・》校舎だ」 「へ!? そうなんですか?」  聞いたことがないぞ。 「……ずっと昔の話だがな。  今の場所に移転する前はここにあったんだ」 「あ、なるほど」 「そういえば以前そんな話をどっかで小耳にはさんだような気が」 「全然しない」 「なら言うな☆」 「先生が子供の頃の話だからな。  知らなくて当然だ」 「よく今まで残ってましたね」 「経費は掛かるが利益のない撤去作業を誰もやりたがらなかったというだけのことだろう。  もう皆、ここに校舎があることなど忘れた。だからずっとこのままだ」 「いつか自然に崩れ落ちるまで」  それを良しとしているのか、悪しとしているのか、鈴川の表情から判別することはできなかった。  感情を示す色彩はあった――が、おれがそれを読み解く前に鈴川は再び歩き出していた。  廃校舎へ向かって。 「……いっ?  あの、ちょっと先生、危ないっスよ!?」  放置されてもう長いのだ。  いつ屋根が落ちるやら知れたものではない。だから立ち入り禁止なのだろうし――いや。それもそうだが、そういう問題じゃない。  鈴川の読みが的を射ていれば、ここは犯人の用いる犯行拠点なのかもしれないのだ。  まさかここで寝泊りしているということはあるまいが……そんな可能性とて捨て切れたものでもなかろう。  無造作に踏み込むのが賢いとは思えなかった。  しかし鈴川はおれの制止に構わず、建物へ近づいていく。  残った三人、顔を見合わせる。  逡巡と困惑が共通して在った。  やがて、忠保がひとつ肩をすくめ、鈴川の後を追う。  一歩遅れて、おれと小夏も続いた。  ……ここまで来たら、もう腹を決めるしかないか。  埃の匂い。  黴の匂い。  朽ちた木材の乾いた匂い。  そこまでは覚悟していた。  そういうものだとわかっていた。  だが。  それら全ての匂いを押し潰し、圧倒的な存在を誇る、この〈饐〉《す》えた臭気は――果たして、何なのか。  似たような匂いを知ってはいた。  ごく身近な匂いだ。  家庭で。学校で。あるいは路上で。  室内の薄暗さに、少しずつ眼が慣れてくる。 「……教室?」  そんな風に見えた。  廃棄される際に持ち出されたのか、椅子も机も何も無かったが。  しかしそれさえあれば、今でも学び舎としての体裁は辛うじて整えられるように思える。  鈴川の姿は見えない。  まさかその代役ではあるまいが、大きな箱が四つ、教壇のあるべき辺りには並んでいる。  どうもそこから匂うようだった。  複雑な要素が絡み合った、この〈ゴミ捨て場〉《・・・・・》のそれに良く似た匂いは。 「なんだろうねぇ……あれ」 「ゴミ箱かな」 「始末してけよ……そんくらい」 「うーん、水の匂いが混じってるような気もするけど」 「じゃあ水槽?」 「金魚でも飼ってたのか?」 「さてねぇ。  まぁ、開けてみればわかると思うよ」  そんなことは言われるまでもない。  全員それがイヤだから、ここでああだこうだと言い合ってるんだろうに。  匂いは悪いが物は良い、なんてのはくさやとチーズとドリアンくらいのものだ。  悪臭の根源は大概、人間にとって嬉しくもなんともない代物と決まっている。  といって、鈴川もいない、うかつに歩き回りたくもないという状況では、その臭気の元を確認する以外にこれといって前向きな行動選択もなかった。  ただ突っ立って待つのも落ち着かない話。  ……あー、仕方ねえ。  おれは恐る恐るに、箱の方へと近づいた。  ネズミの群れとか飛び出してきたらヤだなぁと思いつつ。  箱はプラスチック製。  別に鍵などは掛かっておらず、ただ上から蓋を被せてあるだけのようだった。  簡単に開けられそうだ。  嬉しくねぇ。  ちょいちょい、と側面を指でつついてみる。  かすかにチャポンという音がした。  どうやら忠保の鼻は確かだったらしい。  縁に手をかける。  一度深呼吸し、息を止めて、おれは蓋を開け放った。  ……箱の中身はおよそ、おれの予測とはかけ離れていた。 「…………」 「雄飛?」 「……何なの?」  おれと同じように危険物を想像して備えていたのだろう、鼻を押さえつつ、二人が口々に問う。  おれは見たままを告げるしかなかった。 「……花だ」 「はぁ?」 「だから、花……」  花だった。  箱一杯の花。  ……なんでやねん。  箱は水で満たされ、その水面一面を花弁が覆い尽くしている。色は紫。珍しくもないよく見かける花。  〈秋桜〉《コスモス》だ。 「花って。  なんでそんなのがわざわざ箱に納まってるのよ」 「おれが聞きたい」  半信半疑なのか、まだ鼻を覆う手はどかさないまま、二人が寄ってくる。  おれはそろそろ、息が〈保〉《も》たなくなってきていた。  慎重に、呼吸を再開する。  ……最初に感じたのは薬品臭。  ただの水ではないのだろうか?  そして―― 「!!」  危うく。  おれはその場で卒倒しかけた。  なんだ!?  〈なんだこの匂いは〉《・・・・・・・・》。  悪臭……いや。  そんなもんじゃない。  〈そんなものではない〉《・・・・・・・・・》。  暴力。  臭気の暴力。殴打的臭気。  〈あまりの悪臭に〉《・・・・・・・》、〈認識が一瞬遅れたほど〉《・・・・・・・・・・》。  そうと気付かず沸騰したやかんに触れた時のように。  こんな匂いは知らない。  いや知っている……。    どっちだ!?  ……この匂いは知らないが、〈こうなる〉《・・・・》匂いは知っている。  それは。  それは。  臭気はおれの脳まで揺らしていたのか。  視界が傾き、たたらを踏む。  バランスを崩したおれの体が支えを求めて、箱の縁を片手でつかんだ。  しかし場所が悪かったらしい。その瞬間箱はくるりと回り、中身を床に投げ出した。  転がり出る。  転がり出てくる。  それは何だ。  花。  水。  そしてそれ以外。  それは何だ。  せ           制服  制服だ。制服。うちの学校の制服。女子用の。  見覚えがある。あるに決まってる。いや、そういう意味じゃない。  あと、鞄、            鞄がある、  ちゃらりと鳴った、途中で切れてる、                     イルカ 「――――――――――――」  小夏がなんか叫んでいる。  ああああうるせぇ。考えの邪魔だろ。みろ今まで何考えてたんだったか忘れちまったろーが!  ええとなんだっけなんだっけか。  そう制服。制服と鞄。  あと何だ。あと見えるものはなんだ。  制服の隙間に何か見えるじゃないか。  何だそれ。  ああくそ誰だよ。おれの目の前で手をぶんぶん振り回している奴は。邪魔だろうが。  忠保か? 違うか。あいつは床にへたり込んでいやがる。何やってんだ。ケツ汚れるぞ。  ああくそ見えねえ。  誰の手だよ!  なんだおれの手か。  邪魔だ、どけ。  おれは何があるのか見たいんだ。  だからおれの首! 勝手によそを向くんじゃねえ!  ちゃんと見ろよ。  何がある。  何があるんだ。  制服。  その中身。  今度はそこにびしゃりと何かが引っ掛けられた。  〈吐瀉〉《ゲロ》かよ! 誰だよ! いい加減にしろよなオイ。  でもなんか見た目あんまり変わらねえ。  反吐をかけられたその何かも、反吐と大差ない物体だった。  それは黒かったり、  白かったり、  ピンクだったり、  一番多いのは濃い灰色か、  そんなややこしい色合いをしたもので、  そしてその形は、  見覚えが あって、  まだ  〈原型〉《スガタ》を    留めていて  だからわかった  それは    人で  知っている人で  とても良く知っている人で  とてもあいたかったひとで  さがしていた  よかっ た  やっとみつけた だいじな ひと  おまえ だろ?  そうだろ  なあ         リ                    ツ   ?             頭のない、           いるか。 「ぎゃああああああああああああああああ!!」 〝すずやかな風が吹き抜ける こころをのせて〟 〝ぼくは走る 風を追って 君に向かって〟 〝君は笑う 噴水のそばで 両手を広げて〟 〝手をつなぐ 抱き締め合う 芝生の上で踊りながら〟 〝永遠だと 信じていた あの日あの刻あの空〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟  淡々と。  古い流行歌の歌詞をリズムもなく朗読しながら。    彼は、来た。  鈴川。  鈴川先生。  おれたちの担任。  床に投げ出された〈ソレ〉《・・》へ、ふと悼むような眼差しを向ける。  反応はただ、その程度。重ささえ感じる臭気の中、手を扇がせることもない。  これから授業を始めるかのような落ち着いた風情。  ここは教室。  教師が一人。  生徒は三人と〈一個〉《ひとつ》。 「永遠に留められるかもしれないと……  夢想したのだ」  もう生きてはいない教え子を見ながら。  そう口火を切る。 「人間を生かすのは血液の流れだ。  血の流れと共に人は生き、老い、死ぬ。  ならば、血を〈固定〉《・・》すれば時を止められる筈だと信じたが」 「夢想だった。妄想だったな。  血の動きを止められた人間は、ただ腐っただけだった」  陰々と呟き、一度口を閉じる。  やがてその手が〈戦慄〉《わなな》いた。  決してつかみ得ない何かを、それでも握り締めようとするかのように、何もない虚空をかきむしる。  血走った眼で、〈有り得なかった何か〉《・・・・・・・・・》を凝視して。  鈴川は初めて感情を露わにした。 「何故だ」 「何故だ!? 何故、失われるのだ!?  どうして美しいものはいつまでもそのままでいることができないのだ!?」 「何故必ず、この手から零れ落ちるのだ!?」 「呪いなのか!  これは呪いなのか!  人が背負う宿業とかいう呪いなのか!」 「美しいものが永遠ではないのなら。  必ず醜く朽ち果てるものであるのなら」 「〈人は決して〉《・・・・・》、〈幸福になれないではないか〉《・・・・・・・・・・・・》!!  幸福というものがただ、不幸の母親でしかないのならば!!」  怨嗟と共に。  教師はそう吐き捨てた。  絶望に装飾された憤怒。  諦念と混合した無念。  吐き出されるのは、そんな塊。  それは鈴川だった。  それが鈴川だった。  臓腑の底に押し隠されていた真意。  吐露は続く。  洪水のように猛然と、延々と吐き出される。 「せめてもう少しましな世界であれば!  優しい世界であれば!  美しい物を守り通せたかもしれないのに!」 「六波羅! 六波羅!  なぜこのような時代なのだ!  なぜ奴らごとき悪逆無慈悲な山賊づれが、春の謳歌を許されるのだ!」 「神は無い!  正義も無い!  美しき善き人々に幸福は約束されない!」 「人面の〈畜生〉《ケモノ》が無辜の人々を引き裂き喰らいそうして獣はまた肥える!  それが世界! 我々の世界だ!」 「何ができる!?  こんな世界で!」 「何もできないではないか!  三途の川の石積みだ!」 「我々は鬼を喜ばせるだけの餌なのか!  そう悟れというのか!」 「できようものか!  私は守りたいのだ! 美しき諸々を!」 「それが叶わぬのなら。  叶わぬのなら……どうすればいいのだ?」 「壊すしかないではないか!  この手で壊すしかないではないか!  獣の餌になる前に!  せめて――美しいうちに!」  絶叫。  最後は絶叫だった。  神と世界を呪う気迫の。  上天を睨み、殺意を注ぎ――そしてがくりと、両腕を落とす。  〈搾〉《しぼ》り〈滓〉《かす》のような呻きが、鈴川の喉から洩れた。 「壊すしか……ないんだ」 「……そんな……」  希薄さを競うかのような擦れ声。  誰の声だろうか。 「先生が、やったのかよ、これ。  なんで……」 「欲しいからだよ新田。  惜しいからだよ新田」  鈴川はなぜか、おれを見て答えた。 「美しいものが腐り果て失われることに私は耐えられない。耐えたくもない。  私は見たのだ……」 「美しかった妻子の顔が病み衰えてゆくのを。  いつも温かな言葉をくれた口が苦悶の喘鳴しか聞かせてくれなくなるのを。  目の当たりにしていたのだ。何もできずに」 「ああ……あの時私は行動するべきだった!  手をつかねてただ見ているのではなく!」 「あの子らが醜くなってしまう前に、美しいうちに、終わらせてやるべきだった!  苦しみから救ってやるべきだった!」 「あの時の私にはそれができなかった……」 「希望だよ!  希望を捨てられなかったのだ! この世には救い主がいて、慈悲を垂れてくれるという希望を!」 「……人が呪われているのなら、この希望というやつこそは最後の一筆だと思わないか。  囚人を拷問台から逃さないための鉄の枷だ」 「だが私はもう後悔したくない。  そんな希望は二度と持たない」 「今この時は悪意の御世だ。  美しいものは必ず失われる。  守り通す方法はない。  だから」 「愛する美しき諸々よ。  私のこの手で、破壊する」  轟音が室内を揺るがした。  濛々たる粉塵。  床が割れる。  硬い板張りの床面に、いかなる力でか、長く深々と亀裂が走る。  その根元は鈴川の後方。  埃の雲が晴れる。  〈それ〉《・・》が己の異形を〈晒〉《さら》す。  〈蜈蚣〉《むかで》。〈百足〉《むかで》だ。  無数の足を備えた長虫が、鈴川の背後で首を〈擡〉《もた》げる。  キチキチと顎を鳴らし。  一対の触覚を揺らし。  眼は何処に付くとも知れず。  鋼のような甲殻は、薄闇に瞬く黄銅色。  ごく平凡な虫けらの形に他ならない。  何処ででも、土を掘れば這い出て来よう。  しかしその巨躯は、果たして何の諧謔か。  頭部の位置が鈴川を凌駕している。  胴体の半ば――あるいはそれ以上?――は未だ床の下に埋まったまま。  無数の足のただ一本が、人間の腕にも匹敵する。  このような蜈蚣がいるものなのか。  否。  自然の内には在るはずもない。  とくと見れば。  鋼鉄めいた甲殻はその実、真に鋼鉄で出来ている。  ――〈劔冑〉《ツルギ》。  聞き流しに聞いていた、歴史の講義を思い出す。  名工の鍛錬を経た上格の劔冑は、  動物を模した姿に変じ、独自の力で動き得る。           「〈真改〉《シンカイ》」  蜈蚣が割れた。  十数、あるいは数十の破片と化し、鈴川を囲うように散る。  鉄甲の渦の中。  ゆるゆると腕が上がった。  ――構だ。    静止した脳裏の地平に単語が咲く。  ――〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》。    武者の礼法、その第一。 「いかで我がこころの月をあらはして」 「闇にまどへるひとを照らさむ」  そうして。  そこに武者が現れた。  〈武者〉《・・》。  この世の最強武力が。  おれの、目の前に。  戦闘の〈形〉《かた》こそとっていないものの――  いや。  何を馬鹿な。  〈戦闘の形〉《・・・・》?  並みの人間など指一本で殺せる〈存在〉《もの》が、なぜそんなことをする必要がある?  関係ない。  構えていようが寝ていようが。それは一呼吸にすら満たない時間で、一個の生命を破壊できる存在なのだ。  それがそこにいる。  〈おれたちに〉《・・・・・》、〈破壊を宣告して〉《・・・・・・・》。 「飾馬、新田、稲城、来栖野……。  お前達は良い仲間だな」 「いつも互いが互いを思いやっている。  それでいて遠慮なく付き合えている。  美しい関係だ。これ以上ないほど……」 「腐らせたくはない。  いつか訪れる無惨な破局を見たくはない。  だから終わらせよう。  今ここで」 「あわっ……」  殺される。  唐突な理解。  このままでは殺される。  現実逃避をもはや許さぬまでに具象化した死の脅威。  武者!  武者!  武者!  死!  死!  死ッ! 「あひっ――ひぃ。ひぃぃ……」  なぜ?  なぜ武者が?  武者といえば六波羅のはず。  けど鈴川は六波羅じゃない。  だってのに、なぜ。  なぜ鈴川が武者に!?  こんなのは嘘だ。  こんなこと、嘘だ間違いだ有り得ない! 「ひぃ……」 「逃げるな。新田」  鈍くくぐもった声で、囁いてくる鈴川。  逃げるなと言いつつ、追う素振りもない。  〈まだ逃がしてなどいないからだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。  まだ殺傷圏の内側なのだ。  どこ。  どこへ。  どこまで。  どこまで逃げれば。  足腰が立たないから、尻をずりずりと押し動かして、おれは一体どこまで逃げ延びれば、  騎航一閃万里を駆ける、武者の刃下から脱せられるのか!? 「恐ろしいのなら、眼を瞑れ。  眠るように、〈終わらせてやる〉《・・・・・・・》」 「あひ……」  ぶんぶんと首を振る。  両目を見開く。  閉じたら駄目だ。  一つ瞬きしたその刹那、おれはきっと殺されている。 「……ふむ……」  首を巡らす武者。  小夏と忠保、おれのほかの二人を眺めたのか。  そしてそこに、おれと同様の様子を見て取ったのか。  鉄面の奥で、嘆息の音がした。 「お前達にはまだわからないのだな。  この世の悪意というものが……」 「そうだろう。  お前達は今こそ幸福の〈最中〉《さなか》にあるのだから」 「無知だけが幸福を許す。  〈楽園〉《エデン》の伝説は全く正しい」 「知れば幸福は終わりだ。  ……しかし知らねば、お前達は私の手から逃れようと足掻く。それでは死が苦痛になる」 「いや……お前達の死は救済でなくてはならない。安らかなものでなくては。  だから……教育しよう」 「お前達の担任として。  最後の授業をしよう」 「美しさの崩壊をお前達に教えよう。  死の安息の前に、生の苦痛を教えてやろう」  涼やかに、金音が鳴った。  ゆるゆると抜き放たれる白刃。  細い。  実用の武器というより、王侯貴族の飾り刀剣のよう。  ……違う。  刀は大物。おれの腕よりも身幅のある大剛刀だ。  そんなものが細身に見えてしまう程、黄銅色の劒冑が重厚極まりないのだ……。 「今からのことは……最後の夢だ。  現実ではない。そう思え」 「お前達は――美しいまま、死ぬべきなのだから」  武者が消えた――視界から。  そう、認識した刹那。  すいと〈後ろから〉《・・・・》、おれの視野に伸びてくる刃先。  首筋の産毛を撫でながら。 「今この場に、一つのルールがあるとしよう。  他人を犠牲にした者は助かるというルールだ」  背後の頭上。  ぞっとするほどの近さで、その声は降る。 「忌まわしいルールだと思うか? ああ……何とも忌まわしいことだ。  だがな。真に忌むべきは……このルールが別段、〈特殊なものではない〉《・・・・・・・・・》という事実だ」 「人の食料を奪えば自分は飢えない。  人の金を奪えば自分は富み栄える。  世界の仕組みはそう出来ている。私は教師として、この真実を正しく教えよう」 「来栖野」  名を呼ばれて、小夏はびくりと竦み上がった。  返事などできない。恐怖に満ちた目で、おれの背後に立つのだろう武者を見上げるばかりだ。  しかし鈴川は構わない。  続ける。 「〈自分の代わりに新田を殺してください〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、と言ってみろ」  ――――。  なんだろう。  今のは、なんだろうか。  なにか、とてつもなく……おぞましい言葉だった、ような。  どういう、意味、だろうか。 「……そう言えばお前は助かるとしよう。  どうだ? 来栖野」  背後の口が言葉を切る前に。  返事はなかった。だが返答はあった。  小夏がぷるぷると、首を左右に激しく振っている。  恐怖に強張り、声も出せないまま。 「そうだろう」  平然と、頷く気配が頭上にある。 「忌まわしいルールに対して、人は無力ではない。  心根の美しさ――美意識が、対抗する力になる」 「人間としての正しい美意識は、他人を犠牲にして己を救うが如きを良しとしない。  醜いと、浅ましいと感じるからだ。人の心には確かに、そうした働きがある」  美しさを。愛してやまぬ、人の美を語りながら。  声には喜びの一片もない。  なぜ? 「だが」  淡々と声を継ぐ、  ――その口は先刻、  美の脆弱さを慨嘆したのではなかったか。 「その美意識を支えるものは……  現実に対する想像力の不足に過ぎない」  眼前で――光が、  流れた。 (…………何?)  〈何かされた〉《・・・・・》。  本能的に、そう悟る。  しかし……何を?  白銀の刃が斜めに、視界を走っている……。  その先。  その先端に。  出血はなかった。  だから、だろう。  自覚がひどく遅れたのは。 (……あれ?)  刺さっている。  太刀はおれの、〈足の甲に突き刺さっている〉《・・・・・・・・・・・・》。  なのに、血は一滴もこぼれていない。  現実感を刺激しない光景。  苦痛も――  ない。  だがこの時も、本能は素早く察していた。  今はただ……頭が現実に追いついていないだけなのだと。  ――現実を、捕まえる。  〈刃が回る〉《・・・・》。  〈おれの足に突き刺さったまま〉《・・・・・・・・・・・・・》。  灼熱。  暴発。  噴流。 「ぎっ――」  全身を駆け巡る高圧電流。  そんなような何か。  苦痛。  それは膨大な、苦痛。 「ぎぁぁぁぁァァァァアアアアアアアアア!!」  神経という神経を埋め尽くす苦痛の群れ。  けれど足りない。神経が足りない。多過ぎる苦痛が口から溢れる。  おれは吠えた。  獣の咆哮だった。  薄汚れた床の上を転がり、のたうち回りながら、罠に食われたけだものと化して吠え猛る。  粉々に千切れ飛んだ意識の一つが、小夏と忠保から注がれる、絶望的な視線を感じていた。 「さて」  声が遠い。  この世界の支配者の声。 「新田に訊くのは無理だな。では、来栖野。もう一度お前に訊いてみよう。  このまま〈お前の代わりに〉《・・・・・・・》新田を痛めつけても構わないか?」  また、おぞましい言葉。  続く沈黙は、先の時よりも長かった。  おれには何を聞く余裕も見るゆとりもない。  しかし鈴川は、答えを受け取ったようだ。  ……同じ返答を。 「そうか。宜しい。  来栖野。お前の美意識は苦痛の想像に耐えられるということだ」 「だが……苦痛は、恐怖の一つに過ぎない。  全てでもなければ最大でもない」  ようやっと、ほんのわずか、落ち着いてきた感覚の暴走――それは苦痛が和らいだのではなく、単に神経が焼き切れただけだとわかっていた――のなか、背後の気配が移るのを感じ取る。  そして、息を呑む音と、布団を投げたような音。  横転したまま視線を動かせば、何をどうされたのか、小夏が仰向けに倒れ、それを黄銅の武者が見下ろしていた。  両手には逆手に持ち替えた太刀。  切先は、小夏の喉元を指している。 「これが死の恐怖」  まさか、動けるはずもない。小夏は凝固した瞳で、己に限りなく接近している鋼鉄を見詰める。  それだけしかできない。  武者は違うだろう。  多くのことができるはずだ……手にした太刀をあと三センチばかり、下へ落とすことも含めて。 「私がそうしようと思えば……  いや。思わずとも、手元がほんの少し狂うだけで――来栖野。お前は死ぬ」 「お前は死に晒されている」  噛んで含めるように、言い聞かせる鈴川。  聞き慣れた声で。  教室で授業をする、そのままの声で。  それこそが総毛を逆立たせた。  日常を思わせるその声は、今この場の非日常ぶりを際立たせずにはおかないものだったから。  狂っている。  この教室は狂っている。 「……どうする。  ルールは覚えているな?」  降り注ぐ声。  小夏は答えない。  何も答えられない。  だが、これは授業なのだ。  教師は無回答を認めない。  ――切先が、〈二センチ〉《・・・・》ばかり落ちた。 「……ッ!」  細く鋭い呼気が小夏の喉から洩れる。  一瞬、〈口ではない〉《・・・・・》穴からの音かと、慄然とした。  刺さっていない。刺さってはいない。  触れるか、触れないか……あるいはわずかに皮一枚、抉っているかもしれない。  喘ぎたいが喘げない様子で、小夏の唇がわななく。  武者は沈黙している。  再度の問いを発しはしない。だがそれは無論、その意思がないからではなく、必要がないからだった。  鈴川の問いは太刀の先端に集約されている。  もはや決して、逃れようのない距離の。  死の脅威。  死の脅迫。  それに小夏は、  ……沈黙を通した。  指先一つ動かせないほど、恐れ〈慄〉《おのの》いていたけれども、  鈴川が要求する言葉を、口にすることはなかった。 「……うむ」  ここに至ってようやく、鈴川の声には意外さの色が混じった。 「思っていた以上に、お前達の絆は堅固だな。死をもって脅されても、仲間を犠牲にはできないか。  ……美しいな。良いものだ」  そう呟き。  太刀の先端が――  離れてゆく。  はあっと、重石から解放されたかのように、小夏が大きく呼吸する。  おれもそれに続いた。今なお全身を痺れさせる苦痛の中で安堵する。  とにかく――この瞬間は逃れた。  まだ全然、安全ではないが。  血の巡りが多少、正常に戻ったのを感じる。  ささやかながら思考能力が回復している。  落ち着け。  落ち着いて――行動するんだ。  生き延びるために。  鈴川は……おかしいが……少なくとも、話はできる。  そして、おれたちを憎んでいるわけでは、ない。  なら……何とかなる。  そう信じる。  刺激しないように、言葉を選んで……どうにか。    全速力で思考し。  おれは視線を上げた。  ――鈴川もおれを見ていた。  口にしかけていた、全ての言葉が消失する。  ――鋼鉄の眸がおれを収めている。 「では――」  何か言え。  言うんだ。  ――誰かがそう命じている。  〈でないと〉《・・・・》、 「――次だ」  走る剣閃。  空を裂く擦過音。  何かが切れた音は――しない。  安堵すべきはずのその事実がうそ寒い。  反射的に、おれは首へ手をやっていた。  ……斬られた!?  血の感触はない。  それは、いまだに出血しない足の傷を思えばなんのよすがにもならなかったが。  しかし、首はちゃんと、繋がっている。  落ちる気配はない。  少なくとも死んではいない。  背筋に覚える凍るような冷気はまだ拭えないながら、おれは最低限度の必要事項だけは確認した。  では、何をされたのか。    ……変化は視界からだった。 「え?」 「あ」  小夏の服が散っていた。  隠されているべき肌が露わになっていた。  抜けるように白い。  そして、意外なくらい、女性らしいかたち。  幾度か想像はして、  しかし勿論、見たことは一度もなかった。 (きれいだな……)  場違いな感慨。  おれはふと、我を忘れた。  悲鳴の形に口を開けて、小夏が両手で体を覆う。  胸と内股。  ああ、やっぱり隠すのはそこなんだな、と。そんなことを思う。  小夏の、女性の部分が隠されて――  しかし一瞬後、おれはまた、その場所をまじまじと見ていた。  ぷくりとふくれた胸。  その先端の桃色。  状況を忘れて悦びを覚えてしまうほど、それは刺激的だった。  けれど、なぜ?  なぜおれは見ていられるんだろう。  小夏は体を隠しているのに。  ……まさか透視能力に開眼したんじゃあるまいな。  いや、それは有難いが、どうせ超能力に目覚めるのならもっとこの状況で役立ちそうなものを  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。  え?  何?  何これ。  ……何を見てるんだ?  おれは。  えぇっと。  なんか。  なんか、〈無くなってる〉《・・・・・・》んですけど。  ……え?  なんで?  そんなわけないじゃん。  小夏もびっくりした顔をしている。  そりゃそうだろう。  〈無くなったら〉《・・・・・・》、困るよなぁ。  あー……  あった。  ちょっと離れたところに、ちゃんとある。  〈無くなったもの〉《・・・・・・・》。  よかったよかった。  驚いたぜもう。  ………………………………。  なあ、ちょっといいかい。  君。君だよ。〈君〉《・》を呼んでるんだ。  現実逃避対話用仮想人格君。  なんだか久しぶりに、君と話をしたくなってさ。  質問に答えてくれ。  大したことじゃない。簡単なことなんだ。  何もおかしなことなんてないよね?  おかしなことなんて何も、起きてないよね?  ねぇ?  ――狂ってしまった教室は、  そのままどんどんオカシクなる。 「稲城。  今度はお前に対して告げる」 「来栖野を犯せ」  そんな声が聞こえた。  忠保がのろのろと頭を持ち上げる。  からっぽな眼差しで、命じた者を見た。  純銀の――血糊ひとつない刃が差し向けられている。 「そうしなければ、〈同じこと〉《・・・・》をする。  どうする?」 「…………」  刃を見る。  小夏を見る。  そして散らばる〈何か〉《・・》を見て。  忠保はもぞりと動いた。  這いずるように。小夏の体へ向かって。 「……そうだ」  頷きと呟き。  それを背に、忠保は白い体を見下ろす。  傷一つない、  ――〈傷と呼べるものは何一つない〉《・・・・・・・・・・・・・》――  小夏の肉体を。  静かに横たわる白いそれ。  忠保のベルトがかちゃりと鳴る。  覚束ない指先は、留め金を外すだけのことがひどく困難な様子だった。 「苦痛には耐えられる。  死の恐怖にも抗える。  だが、〈体を破壊される〉《・・・・・・・》という恐怖はそれらとは質が違う」 「苦痛には終わりがある。  死は一瞬のこと。  しかし肉体の破壊は人の未来に対する永久不離の呪詛だ」 「肉体を壊された者は、未来を奪われながら、なお生き続けなくてはならない。  それがどういうことか。健常者には決して理解し得ず、しかも想像は容易くできる」 「最大の恐怖の一つだ。  自分の身体に託す未来を持つ者であれば、尚更に」 「……お前は〈装甲騎手〉《レーサー》になりたがっていたな、稲城。  手足はおろか指一本の損失でも、その未来は閉ざされてしまうだろう」  忠保の息が荒くなる。  興奮のためでないことは、見ていてわかった。  頬に血の気はまるで無く、〈青褪〉《あおざ》めきっている。  ベルトが外れた。  乱暴に。ズボンごと引き千切るようにして。  着衣を下ろし、自分自身を取り出す。  それを眼下の体へ押し付ける。  小夏の腰をつかんで引き寄せ、自分の腰を打ちつけ。  忠保は、悶えた。  何か、悪戦苦闘している風だった。  ままならない様子。  それはそうだろう。  忠保の男茎は、完全に無力。  機能を果たせる状態ではない。  軟体状のそれを、小夏の中に押し込もうと四苦八苦している姿は、切羽詰まった形相と相俟って、  なんだか、とても滑稽な。         「〈曲位曲宇〉《くるい・くるう》」  鈴川が奇妙な一句を口ずさむ。  もがく姿を指差して。  刹那、忠保はびくりとのけぞった。  体内で何かが跳ねたかのようだった。  ――あるいは事実、その通りだったのだろうか?  忠保の男根が天井を向いている。  急激に。如何なる作用が血を流し込んだのか。  萎えていたはずのものが今、隆々と屹立していた。 「続けろ」  牡の性的本能が唐突に覚醒したせいではなかったのだろう。自分自身を見て唖然とする忠保の背を、鈴川の声が打つ。  これで支障はないはずだと、そう言っていた。  忠保の目が小夏の内股に落ちる。  濡れてもいない其処。  乾き切ったその場所は、見るからに侵入を拒絶していた。  はっ、とこぼれる息。  忠保が舌を突き出す。  その口を近づける。  股間に吸い付いた。  しゃぶる。  ねぶる。  舐め回す。  舌をやたらに動かして、忠保は秘部を蹂躙する。  口の端から唾液が溢れた。  それが小夏の孔を濡らす。  びちゃ、びちゃと音が鳴っていた。  未熟な秘処と、それをひたすら舐め上げる口唇。  小夏は何の反応も見せない。  薄闇に視線を彷徨わせるばかり。  忠保の眼差しも散っていた。  目前のものを見ているようで、見ていない。  心魂の所在が見て取れない空虚な動作を、ただ繰り返している。  ――人形の戯れなのだと、気付いた。  〈人形遊び〉《プレイ・ウィズ・ドール》ではなく。  〈人形たちの戯れ〉《ドール・ウィズ・ドール》。  機械仕掛けの人形劇。  空ろで虚ろで〈空虚〉《うつろ》な遊戯。 「稲城」  ゼンマイを巻く音がする。  忠保が身を起こし、再び男性器を膣口にあてがう。  今度は双方の〈機構〉《・・》に問題はない。  ずぶりと押し込む。  ぞぶりと〈食入〉《はい》る。  棒切れが収納口へ納められる。  あまりサイズは合っていない。だが無理矢理に。  無機的な接触。  けれど何故か。  一筋の血が流れていた。  声はない。  どちらも無言。  奥の奥まで忠保は突き込む。  限界に至って、ようやく止まる。  小夏の体を組み伏せている忠保。  忠保を見上げる小夏。  繋がり合って、互いの眼を見つめながら、  どちらも相手を映していなかった。  ガラス玉の瞳。  人形の。  忠保は突き刺したものを引き出した。  ぬらりと、何かに塗れて赤い。  頭の部分が覗くまで引き、そうしてまた突き入れる。  一息に、奥まで。  小夏の体が揺れる。  胸の丘陵が〈撓〉《たわ》む。  それが遊戯。  忠保が押し、引き、押して。  小夏が揺れ、揺れ、揺れる。  シーソー遊び。  ――ぎっこんばっこん、ぎっこんばっこん  幾度も幾度も繰り返し。  バネ仕掛けの命ずるまま。  二体の仲良し人形は。  さも楽しげに遊び続ける。  ゼンマイが切れるまで。  〈機械演奏〉《オルゴール》が止まるまで。  そうやって何度目か、小夏の奥へ突き込み。  忠保は背を震わせた。  吐き出す。  小夏の胎内で。  男性の本能か。  最奥へ触れたまま、最後の一滴まで。  長い射精。  十秒余りもそうしていたか。  ふらり、ゆらりとよろめいて、忠保が抱いていた体を離れる。  差し込んでいたものが抜ける。  こぽりと白いものが、つながりの跡から〈零〉《こぼ》れた。  朱色の混じった、白。  凌辱の証。  忠保はそれを見やる。  小夏は何も見ない。  そうして、動かなかった。  糸の切れた人形。  遊戯の終わり。 「まだだ」  告げる声。  人形のように空虚ではあっても、人形にはない意思を備えた声。  人形の糸を握る者の声。 「汚し尽くせ。――〈繰来裏〉《くる・くるり》」  再び怪句が響き渡る。  その指が差すのは、やはり忠保。 「……う……」  呻きが口をついた。  股間の肉に力が戻っている。  だが今度は少し、様子が違った。 「あ……あぁ」  苦しげな息をつきながら、忠保が武者を見上げる。  問うように。  答えはない。  しかし、見下ろす眼が何かを命じたのか。  忠保の視線が小夏に落ちる。  片手が自分のものを握る。  むくりと持ち上がってゆく、それ。  よく見慣れた生理現象の前兆だった。  ――膨張して、噴き出す。  黄色の〈飛沫〉《しぶき》。  激しい勢いで射出される液体。  小夏に向かって。  その体に降り注ぐ。  アンモニアの臭気が室内に広がった。  止まらない。  忠保の尿は勢いを増す。  小夏は動けない。  全てをただ、受け止めるしかない。  排泄液を全身くまなく浴びる。  胸に、腹部に、顔にまでも。  汚液の放出が最終的に向かったのは口元。  半開きのそこへ、容赦なく注がれる。  ごぽっ、と喉が鳴った。  強制的な水分の注入に、肉体が反応する。  いくらかは吐き出し、  いくらかはその逆か。  喉がまた鳴る。  小便を飲み下して。  忠保の放出が治まる。  そうしてまた、二人の動きが止まる。  静寂。――――十秒、二十秒。  三十秒。  嗚咽がこぼれた。  四十秒。  少しずつ、泣き始めた。  六十秒。  ――火がついたように、泣き喚いた。  わぁわぁと。  無力な生き物の声で。  暴虐、暴虐の限りを尽くされた小夏が、  ……泣いていた。 「――――」  呆け切った表情で、忠保はその〈音〉《ね》を聞いている。  ひしひしと押し寄せる理解という名の恐怖を、必死に拒絶しているようにも見えた。  そこへ、黄銅色の鉄が立つ。  手にはゆるりと持ち上がる太刀。    茫とした視線が軌跡を追う。  その、両眼を。  刃の先端が薙いだ。  銀光、一文字。  軟質の球体を掠め切りに切り裂く。  弾かれたように忠保が〈仰〉《の》け〈反〉《ぞ》り、  そのまま転倒した。  顔の上半分を両手で覆って、叫ぶ。  意味を成さない言語を発する。  ――今この瞬間、失った未来への哀惜。  指の隙間から、何かが溢れる。  血と、それ以外の体液。  忠保が叫ぶ。  ――盲人としての己の始まりを。  それはやがて、涙を帯び、嗚咽を含み。  教室は。  二つの慟哭で満たされた。 「これが崩壊だ。  美しいものの崩壊だ」  鈴川が語る。  この慟哭をもたらした者が。 「友との絆は欲と恐れが腐らせる。  未来の夢は理不尽な暴力が打ち壊す。  脆弱なのだ。これほどまでに。美しい形というものは……!」 「嘆け!  失われた美しさを嘆け!  美しさの無力を嘆け!  嘆くことしかできないのだ――我々には!」  嘆きの楽が響く中で、指揮者のように両手を挙げて、武者は叫び。  自らもまた装甲の奥で、一筋の涙を流していたのか。奥歯を噛み、苦いものを呑む、そんな気配があった。  これが鈴川の最後の授業。  この世には悪意が満ちているということ。  優しくはないのだということ。  この世に住まう人々には、  絶望が約束されているのだという、こと。  ――なんだ。  それは。  ……泣き声が聞こえる。  耳を打つ響。胸を刺す響。  小夏が泣いている。  泣いてしまっている。  あんな風に、泣かせたくはなかったのに。  泣かせてしまった。  どうして。 「嘆け――この悪夢を。絶望を。  だが大丈夫だ。すぐに解放してやろう……そうすればもう、お前達は嘆かずに済む」 「永遠に……美しいまま。  眠れ」  ……なんだよそれは。  悪夢?  絶望?  なんだ――そりゃ。  なんなんだそりゃあ。  なんかおかしいなァ?  なんかなんだか、おかしいぞオイ。  頭の中はぐちゃぐちゃで、  火箸を突き刺されたみたいな激痛は継続中で、  とてもまともに物を考えられる状態じゃあないが、  あんた、なんか、間違えてないか?  鈴川先生。  なんか大嘘教えてないか?  おい教師。  だってよ――  小夏の慟哭を聞く。  忠保の慟哭を聞く。  そうして、湧き上がるものがある。  ……これが、絶望?  小夏の無惨な姿を見る。  忠保の無惨な姿を見る。  湧き上がるものがある。  ……絶望?  これが、絶望だと? (違う)  確信を、胸中に呟く。  体内に溢れ返るこれは断じて、  絶望なんかじゃない。  ――絶望?  つまりこういうことなのか。  遅かれ早かれおれたちはこうなるんだから、今の内に諦めて死んどけって、そう言いたいのか。  鈴川。  そうなのか。 「……ざっ、けろ」  両手をつく。  膝を折る。  土下座のようでみっともない。  だが見てくれなんぞ知ったことか。  あがいて動けば動くほど、徐々に鎮まっていた痛みがまた盛り返す。  だがそんなことはどうでもいい。  体を起こす。  ……足が立たない。  なら、上半身だけでも持ち上げる。  強張る腕に力を注いで、無理矢理支える。  視界が、立ち尽くす鈴川を捉えた。  相変わらず両手を高く挙げて、自分に酔ってる気色満々で――少なくともおれにはそう見える――天井を仰いでいる。  実はアホじゃねえのかおまえ。 「おい」 「……新田」  おれの存在をまさか忘れていたのか――少し驚いたような響きが鈴川の反応の中にはあった。  鋼鉄をよろう首が傾いで、おれの方を向く。 「どうした。  〈終わり〉《・・・》が欲しいか」 「いや。その前にさ。  ちょっと質問があるんスけどね」 「言ってみろ」  まだ授業のつもりなのか、平然と先を促す鈴川。  改めて思う。こいつはとんだ大物か、でなかったらやはりアホか、もしかするとその両方だ。 「今、おれの感じているものが……絶望なんですか」 「そうだ」  鉄兜が頷く。 「それが絶望だ、新田。  我々に必ずもたらされるものだ」 「幸福はその下地であり、希望はその導き手。  我々を冒す不治の病」 「美しいものがあり、  それは必ず失われるものであり、  その真実を悟ること。  ――絶望」 「喜びに満ちていた生はいつか必ず、この世の悪意によって腐らされ。  行き着く果ては、絶望という終点……そういう事なのだ。今お前がそうなったように」 「そうスか。  けど妙だな……」 「何?」 「今、おれが抱えている〈ヤツ〉《・・》。  どう考えても、絶望なんて〈おとなしい〉《・・・・・》代物だとは思えないんですけどねェッ!!」  おれは両手で床を打った。  反動がごくわずか、体を浮かせる。  その隙に、足を折り曲げる。  膝立ちの格好から、足の裏で地を噛む形へ。  体重を受けて、足の傷口が広がった。  電流のような感覚の暴走が、再度。  だがそれを呑む。  犬歯で砕いて臓腑へ落とす。  膝を伸ばした。  足に掛かる体重が増す。激痛。無視。  立つ。  鈴川の前に立つ。  〈敵〉《・》と向き合う。  ――肘を折り畳む。  脇を締めて、引き絞る。  この期に及んでまだ鈴川は、おれが何を始めようとしているのか理解できなかったらしい。  訝しむ視線だけが注がれてくる。  おれは左足を踏み出した。  痛みで膝ががくがくと笑う。  耐える。  そうして、拳を握り締めて。  腰の回転を最大に利かせて。  ――――殴った。  武者に拳をぶつける感触は、硬い、なんてものではなかった。  岩を――というより岩山を殴ったに等しい。  しかも手加減ゼロの、全力だったから、おれの拳が受けた報いは推して知るべしというところ。  壊れたジャングルジムのような有様になった。  当然ながら、痛い。  もう痛覚なんて全部焼き切れたものとばかり思っていたが、鬱陶しいことにまだまだ健在らしい。勤勉に活動して右拳が完全に砕けたことを教えてくれる。 「うがっ――」  脳髄が沸騰。  たぶん重要な回路の何本かが断線。  その成果はと言えば、武者の体がやや揺れただけ。  これでは足りない。全然足りない。足りやしない!  おれは体勢を取り直した。  もう一度、左足を踏みしめる。腰を据え、力を溜め、全体重を乗せて――蹴る。  穴が開いた右足で。 「がああああっ!!」  素人の無茶苦茶な〈上段蹴り〉《ハイ・キック》。  それは奇跡のように、武者の顎を正確にとらえて、下から上へ突き上げた。 「ぬわっ!?」  その前の殴打で姿勢を崩していたところへの加撃。  ――有り得ないことが、起きた。  武者が倒れる。  〈おれに蹴り飛ばされて武者が倒れる〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「……はッ!」  ガッツポーズ。  右腕の力瘤を左手で打つ。  おれの足元に、倒れた武者を見下ろして。  ……そう。おれは、武者を見下ろしている。今。  その姿。  大の字で床に転がる武者の姿は。  なんとも。なんともなんとも実に、  みっともない格好だった! 「……なっ……」  その時、ようやく。  鈴川は理解力を現実に追いつかせたらしい。 「何をする」 「何をじゃねえ!」  おれは怒鳴った。  馬鹿だこいつは。  何もわかってないのか。  自分が何をしたのかもわかっていないのか。 「絶望だあ?  そんなもん知るか」 「なに……?」 「そんなんじゃねえ。  いいか。おれは。おれはな」  教えてやる。  授業の礼だ。  あんたの大間違いを、教えてやる。 「おれは、〈怒ってる〉《・・・・》んだ!  当たり前だろうがッ!!」 「――――――――」  当たり前だった。  当たり前だった。  友を傷つけられたのだ!  酷く酷く傷つけられたのだ!  怒り以外に何を知る!  おれは心の底の底から赫怒していた。  それ以外のものは、何もなかった。  ……哀しみというものが、後からやって来ることはわかってる。なんとなくわかってる。  でも今はない。  怒りだけだ! 「怒り……だと?  何を……勘違いしている……」  鈴川が身を起こしながら、呟く。  絶望とやらに塗れた声音で。 「怒りなど……無駄だ! 無駄だ!  美しいものを奪い去る悪に……怒りを燃やしたところで、それが何になる。  どうともなりはしない……」 「怒りで私を倒せるか!? 武者の私を!  倒せるのか……六波羅を!」 「六波羅に対して怒りを向けて、それでどうなる! あの武者の軍団に対して何ができる!何もできまい!  だから……絶望するのだ!」 「しない!」  突っぱねる。  奈落への誘い、ただ落ちるだけで済む場所への誘いを跳ね除ける。  そんなものはいらない。 「何だと……」 「倒せるかどうかなんて関係あるか。  力の差なんて知ったことか」  言い聞かせる。  鈴川に。――自分に。  ほんの少し前までの自分に。  相手が武者だからといって、なにもしないうちから観念して、諦めきって、小夏と忠保を傷つけられるに任せてしまった自分に。 「〈奪われること〉《・・・・・・》は、悪なんだ!  理不尽なんだ!  否定しなくちゃならないんだ!  絶対に!」 「だから、  怒って戦うべきなんだ!」 「――――」 「〈戦わねばならない時には戦う〉《・・・・・・・・・・・・・》!  勝てるかどうかなんてのはその後だ!」  それはただの不合理な叫び。  断じて論理に非ず。  断じて道理に非ず。  だが、信仰。  もう二度と決して、美しいものを、邪悪の〈恣〉《ほしいまま》にさせないための。  ――おれにはやりたいことというものがなかった。  夢がなかった。  今、その理由に気付こう。  それは諦めていたからだ。  どうせ無理だと、諦めていたからだ。  夢を。  本当はあった、夢を。  眠らせていた。  ずっと。諦めて。  今こそ、  起こす。 「六波羅ともおれは戦う。  戦ってみせる」 「…………」 「どうやって戦ったらいいのかなんて、まだ全然わからないけど。  でも、戦う。これだけは決めた。だって、おれは」  おれは。  おれは―― 「ずっと六波羅に怒っていた!  あいつらの無茶苦茶が許せなかった!  世の中を変えたかった。〈マシ〉《・・》にしたかった。ずっとずっと、おれはそう願っていたんだ!」  それがおれの夢。  おれのやりたかったこと。  願うことすら忘れて、諦めていた夢。  だが、もう手放さない。  戦わねばならないのだから!  理不尽に奪われないために!  それがどれほど過酷な道かは知らない。  ゴールがあるのかどうかさえ。  けれど、おれはおれのやり方で。  一歩一歩、この道を。  諦めずに、進んでみせる。 「……………………」 「お前は……何も理解していないのだ」  おれの眼下で、腰を落としたまま、鈴川が呟く。 「失うということを。確かにあった、愛していた美しいものが、手の中から消えてゆくという現実を。  理解していないのだ」 「すぐにわかる。今は頭が理解を拒んでいるだけだ……だが程なく知ることになる。  来栖野、稲城、彼らが何を失ったのか。  お前が何を失ったのか……」 「知れば絶望するのだ。お前も!」 「くどいぜ、先生。  おれは絶望なんかしない」  確信があった。  断定する。  なぜなら。 「おれは何も失くしてなんかないからな!」 「――――な、に?」  よほど意表をつかれたのか。  初めてその声はひび割れた。  おれは辺りを見渡す。  小夏と忠保の姿を見る。目を背けたくてたまらない、その残酷な姿を正視する。 「あんたはおれの大事なものを傷つけた。  そいつは確かだ。だから怒ってる。絶対に許すつもりもない」 「けど何も失ってない!」 「……」 「何を失くしたって言うんだ!?  小夏の身体か? ああそうだな。これからとても、想像もできないほど、こいつは苦労しなけりゃならないだろう」 「でもおれが助ける!  おれが代わりの身体になってやる!」 「――ッ!?」 「他にはなんだ。忠保の将来か。  はん。そりゃな、失明ってのは普通に考えたら絶望的なハンディキャップだろうよ」 「でも……こいつは諦めない。  そんな程度のことで絶望しない。  〈装甲騎手〉《レーサー》の夢だって捨てないかもしれないさ! こいつはそういう奴なんだよ!」 「…………」 「後はなんだ!?  あんたはさっきなんて言ってた。絆か?  おれたちの絆か」 「それこそ、そんなもん、てめえ如きに壊されるかよ!  おれたちはずっと仲間だった! 昔から!」 「てめえが今日、ちょっと何かしたからって、〈その事実が消えたりするか〉《・・・・・・・・・・・・》!  消えない! 忘れない! おれはおれたちがどういう仲間だったか、絶対に忘れない!」 「だから、  おれたちは何も失くしてないッ!!」 「――――馬鹿な」  無様に腰を落としたまま、鈴川が呻く。  強くもなければ鋭くもない。  なんだってこんな奴に、さっきまでおれは刃向かいもせず諾々と従っていたのか!  こんな奴。  こんな奴、ただの。 「美しいものは弱いって言ってたな。  脆弱だって言ってたな。  鈴川」 「――黙れ」 「教えてやる。  弱いのはおまえの言う美しいものじゃない」 「黙れ」 「弱いのはおまえだ、鈴川!  綺麗なものが目の前から消えたってだけで、思い出も何もかも忘れて、何もかも無かったことにしちまった、おまえが弱いんだ!!」 「黙れェッ!!」  武者が立ち上がる。  激昂を漲らせて。  その威迫は凄まじい。  純粋な戦闘存在が、抑制の全てを失って、暴走寸前の焦げ付く臭気を放っているのだ。  冥府の入り口に立っているようなものだろう。 「何も失わないだと? 私が弱いだけだと?  何も知らない小僧が……口先でほざくな!」 「何も知らないのはあんただ。  いいか? 馬鹿でもわかるようにはっきり言ってやる」 「〈てめえの絶望に他人を巻き込むな〉《・・・・・・・・・・・・・・・》!  〈おれたちはそんなに弱くねえッ〉《・・・・・・・・・・・・・》!!」 「――――!!」  最後の爆弾。  決定打。  武者の全身に亀裂が走った。  ――ように見えた。  鉄の体が揺らぐ。揺れる。  それが示すのは、装甲の内側の動揺。  そして怒り。  逆上。  憤怒。  太刀が鈍い唸りを上げ、直上を差す。  振り下ろされればおれは一刀両断だ。  そして、そうしない理由はどこにもないだろう。  太刀を睨む。  鋭利というにもあまりに鋭過ぎる刃。  ――まず、あれを躱せるかどうか。  それだけでも、天文学的な運が〈入用〉《いりよう》に違いない。  その後で、小夏と忠保を守り、この場を切り抜けるとなると。  ……気が遠くなる、の一言では済まない話だ。  けど、諦めない。  絶対に諦めない。  今は戦うべき時。  だから、戦う。  相手がどんな強敵でも。  武者であっても。  あらゆる方法を考えて、  あらゆる手段を尽くして、  戦う。 「来いよ。弱虫」 「――――ッ!」  …………え? 「!?」  硬質の音。  弾かれる太刀。  慌てて飛び退く鈴川。  何?  何が起きてる?  武者の太刀が、俺へと落とされた――瞬間。  何かが飛んできた。  糸のような細い何か。  鋭い銀色の光、それが幾条も束になって。 「これは!  まさか……あの夜の」  鈴川が首を巡らす。  この部屋唯一の戸口を見る。  その向こうは闇が広がるばかりで、何の姿もない。  しかし。  足音が聞こえた。 「潔さこそ〈武士〉《もののふ》の〈性〉《さが》。  敗北を認めよ、鈴川令法。彼の強さは貴様の及ぶ処ではない」 「ッ!」  そして、静かに渡る声。  聞き覚えがあった。  どこかで聞いた、誰かの声。  しん、しん……  雪を踏むように床を鳴らして、その人が来る。  大きな影。  闇に眠るかの暗い気配。  徐々に完成する彫刻のように、その姿が陰から浮き上がってゆく。  見覚えのある、ほんの短い時間だけ行動を共にしたコート姿。  ――湊斗景明。  その人は。  悠然と現れ、堂々と、そこへ立った。 「この近辺で発生した失踪事件のうち数件、学生の行方不明は貴様の〈犯行〉《もの》か。  教職公務員鈴川令法」 「……何者だ」  太刀を構え直して、誰何する鈴川。  鋼鉄に隈なく覆われたその姿の意味を、誤解できる人間などこの世にいないだろう。  だが湊斗景明は冷然としていた。  あまつさえ問いを黙殺し、教室を眺めやる。  一角で視線が止まった。 「その四つの箱」  教壇の脇にあるものを見る。  眼を〈眇〉《すが》めて。 「一つに一人、仏が眠るならば……  貴様が殺めたのは四人ということだな」 「誰かと訊いている!」  怒声を発し、鈴川が太刀を振り下ろす。  届く距離ではない。しかしその速度は超音境。空気が割れ、虚無の風が疾駆する。  鎌鼬に掠め切られて、闇色の男の頬が一筋裂けた。  血の細糸が流れ落ちる。だがそれでも表情は、微動だにしなかった。 「内務省警察局鎌倉市警察署属員。  湊斗景明」 「なに……?  ではお前がパート警官とやらか」  奥歯を噛む音がした。  ぎりぎりと。歯を〈軋〉《きし》る。 「私を捕らえにきたのか」 「……」 「〈巨悪〉《ろくはら》には手を出さず……時によっては片棒まで担ぎながら。この私は捕らえ、罪に問うというのか――警察!  恥を知れ!」 「捕まるものか! お前は殺す!  ためらう理由もない。その醜さは私が憎悪してやまぬものだ!」 「そうか。諒解した。  だが」  殺害の宣告を受けて。  彼はあくまで、静然と。 「恥ならば知っている。  六波羅に〈頭〉《こうべ》を垂れ、ただ機を待つばかりの不甲斐なさ、心ある警官ならば誰もが心の底より恥じている」 「しかしそれが、貴様を見逃す理由になる筈もない。例え汚物に満ちた街であっても、屑を一つ一つ拾う行為が意味を失うことはない。  恥は貴様こそが知れ」 「ぐ……ッ!」  腹からせり上がる怒りでか、鈴川は息を詰めた。  両眼が殺気に満ちて、ぎらぎらと輝く。  ……おれはただ呆然と、両者の対決を眺めていた。  なんで。  どうして。  湊斗景明。  あんたがここにいるんだ。  そりゃ、あんたは事件の調査をしてたんだ。  〈鈴川〉《はんにん》に行き着いたって不思議じゃない。  でも、今この場に現れてあんた、どうすんだよ!?  あれ武者だぞ!? 見りゃわかると思うけど。いや、ほんとにわかってんのか!?  あんたは何もできないだろ!  こんな化物に対して!  だってあんたは、野木山のチンピラヤクザにすら、立ち向かえなかったじゃないか。  土下座して謝った腰抜け野郎じゃないか。  カスヤクザとは戦えなくて、武者とは戦えるなんて道理があるわけないだろう!  あんたはとっとと逃げ出してなきゃおかしいんだよ!  なのに、  なのに、  なんで。  あんたはまたおれの前に立つんだ!?  おれたちを守るように! その背中を見せて!  なんでそれができるんだよッ!? (あぁ……でも、確か)  確か――そう。  〈あの言葉〉《・・・・》を教えてくれたのは。  あの言葉を、おれの前で口にしたのは。  確か、この―― 「抗う強さも耐え忍ぶ〈靭〉《つよ》さもなく、ただ八つ当たりのように凶行を働いた鈴川令法。その罪状は既に明白。  だが貴様の処断に警察の名は借りない」 「何ぃ……?」  す、と湊斗景明は左腕を差し上げた。  天を刺す手刀。  それが示すもの。  ――いつからそこにいたのか。 「!!」  蜘蛛がいた。  それは大きな大きな、紅い蜘蛛。  天井へ張り付いて、見下ろしている。  複眼に妖しい〈輝〉《ひかり》を瞬かせ。  肌の朧な光沢は、肉が放ち得るものではない。  それは鉄。鋼鉄の肌。  鋼鉄の大蜘蛛。  頭上に逆座する〈化生〉《けしょう》を見ず、湊斗景明は〈銘〉《な》を〈唱〉《とな》う。           「〈村正〉《ムラマサ》」  蜘蛛が弾ける。弾けて散る。  黒い男の周囲を舞う。 (有り得ない)  今、見ているものの意味。  今、始まっている事実。  おれはそれを理解していた。  理解しながら、信じることができなかった。  紅い鉄が踊る直中、片手が再び、ゆるりと流れる。  ――〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》。 (有り得ない……!)  こんなことは有り得ない。  有り得ないことなんだ。  武者とは六波羅。暴虐の支配者。  大和には六波羅以外に武者はいない。  もしいたとしても。  それは六波羅とは別の、六波羅と同様の悪魔に過ぎない。  武者とは悪。  武者とは鬼。  力ずくで弱いものを貪り食う獣。  力ある者は己の欲のためにのみそれを揮う。  他の使い途など彼らは知らない。  それが事実。  それが真実。  だから――  そんなものは、いない。  正義のために戦う武者など、  力なき者を守ってくれる武者など、  そんなものはどこにもいない! (いない、のに……  なぜ!)  なぜ、あんたは、そこにいる!? 「鈴川令法。弱さに溺れた惨めな外道。  当方〈村正〉《ムラマサ》、ただ一身の都合によって貴様を討伐する」 「――――!!」  〈騎航する〉《はしる》――――  〈合当理〉《がったり》を臨界稼動。最低限度の時間で最大の推力を確保して跳ぶ――飛ぶ――翔ぶ。  無謀と言っても良い急発進を、しかし真改の甲鉄は耐え切った。  空中分解の危機を乗り越え、茜色の空に刺す一条の矢と化す。    視界内に出現した計器類を確認。  速度は六百のラインに到達。  高度は九百弱――これ以上の低空飛行は危険。  加速を続けながら、騎航の安定を回復する。  思うように速度の伸びないことがもどかしい。  以前に一度、好奇心から騎航性能を試してみた時はこうではなかった。あの時はもっとずっと速かった、と思う。  なぜ今日はそうならない?  理由があるのか?  ……もう少し性能を体得しておくべきであったと、今更に思う。  だが同時に思う。そんな必要はなかった――こんな事態を招くつもりは全くなかったのだから。こんな。  〈同じ武者との遭遇など〉《・・・・・・・・・・》!  焦り苛立ちながら、ひた駆けに駆ける。  どこまで逃げれば良いだろうか。このまま飛び続ければ関東防空圏を踏み越えることになる。それは避けねばならない。  六波羅の〈警戒網〉《レーダー》は防空圏の内部にはほとんど注意を払わないが、境界を越えるもの、境界に接近するものは確実に捕捉する。六波羅の〈認識信号〉《コード》を持たない者にとってそれが意味するところはつまり、死だ。  何とかその前に敵を振り切らねばならないが―― «敵騎、〈二〇〇度上方〉《ひのとからひつじのかみ》。距離三五〇。  来襲» 「――何?」  〈来襲〉《くる》? «〈尻追い戦〉《ドッグファイト》は武者の恥。  〈猪突戦〉《ブルファイト》こそ武者の誉れ!» 「!!」  兜の内側に男の声が響いて、即座。  脇腹の裏あたりにぞわりと、毛虫が這う。  この感触は。  鋭い刃物を突きつけられた時に知覚する、あの。  肌の粟立ち。  体毛のざわめき。  肉の外ではなく内から来る寒気、  〈横転〉《ロール》!  体を転回し方向を変え逃避逃避逃避――――! 「がはァッ!?」  脇腹に激しい衝撃。  振動が内部にまで伝播し、内臓を〈攪拌〉《かくはん》する。  腹の中で鉄球が転がっているようなものだった。  胃液がせり上がってくるのを感じる。  意志の力で抑え込みながら、劔冑に問うた。 「やられたのか――真改!」 «腰部甲鉄に若干の損傷。  騎航及び戦闘には支障なし»  切られてはいないらしい。  手を触れて被撃箇所の無事を確認し、そのことには安堵しながらも――別の理由で肝が冷えるのも同時に感じなくてはならなかった。真改の返答の中の一語。 「……戦闘だと?」 «敵騎の速度は当方を上回る。  戦域離脱は極めて困難» 「速度を上げればいいだろう!  もっと速く〈飛駆〉《とべ》るはずだぞ!?」 «肯定。但し時間が必要である。  現在の高度では迅速な速度上昇は難しい»  ……高度?  そうか。低空では空気抵抗が強いから……! 「何とかならないのか!?」 «敵騎の追尾を振り切るならば、旋回を駆使して速力を失わせるが定法である。  されどこれは〈自騎〉《おのれ》が充分な速力を確保している事が前提。現状は該当しない» 「くっ……!」 «抗戦を至当と認める»  劔冑らしい、あくまで無機的な声。  駄々をこねても無駄だろう。なら、歯軋りするしかなかった。  抗戦だと?  戦えというのか……武者と。武者と!  劔冑の力で人を殺すことには慣れた。  しかし武者と、己と五分の力を持つ者との戦闘など。 «鈴川令法。逃走は認めない。  武者としての振舞いを求める» «太刀を合わせよ。  当方は改めて勝負に応じる用意がある»  夕空の中、距離を隔て、再び送り届けられる〈金打声〉《きんちょうじょう》――〈装甲通信〉《メタルエコー》。  落ち着いたその声音に、空恐ろしさを覚える。  直感するものがあった。    ――あの敵は絶対に自分を逃がさない。  追い、捉え、撃ち、〈墜落〉《おと》す。  自分は殺される。  殺されるのだ。  美しいものたちを、この醜い地平に残したまま。 「ッ……!」  そう。そうだ。  この自分が死ぬとはそういう事。  教え子たち。  清く育ち、今こそまさに美しい彼ら。  ――彼らはこれからどうなるか。  いずれ腐らされる。  この世に満ちる無慈悲な悪意が彼らを汚す。  それはどうしようもない必然。    その必然を――だが、自分は拒絶したのだ。  この手で救うと誓った。  彼らの美しさを。  美しいものを、美しいままに、終わらせる。  己に課した絶対の責務。    それはまだ……終わっていない! 「……真改。  奴は何と名乗っていた?」 «村正――勢州〈千子〉《せんご》鍛冶、〈右衛門尉〉《うえもんのじょう》村正。  希代の名甲にして妖甲。南北朝期に勃興し天下第一の名を得るも、大乱を招いたがためわずか三代を数えたのみで滅ぼされたと云う» «……相手に取って不足無し»  最後に付け加えられたその一言は、劔冑らしからぬ響きを備えていたのかもしれない。  だがそんなことはどうでも良かった。 「妖甲村正……南北朝の争乱を地獄に変えた元凶か。ただ流血を好み、無限の呪詛を以て争いのための争いを引き起こしたという……。  そんなものが私を阻むのか」 «当時の得物と云えば長大なる野太刀が主流であった筈。  見るに、敵騎の得物は並の太刀……詐称の可能性も有り» 「どちらでもいい!  死なんぞ……私は死なん」 「私にはすべきことがあるのだ!  真改ッ!」 «承知。戦闘を開始する。  敵騎位置、〈四五度上方〉《うしとらのかみ》»  体を倒して旋回。  いつの間にか再び上空へ陣取っていた敵影を視界に収め、直進する。  〈村正〉《あいて》もまた頭を下げ、降下に移る。  真っ向から激突する状形だ。  武者と武者。  最強武力と最強武力。  有史以来、絶え間なく空で繰り返されてきた決闘。  ――今またそれが、鎌倉の空で。    その一方を自ら担うことになるなどと、昨日の自分が聞けば一笑に付しただろう。  だが、避けて通れぬのならば!  豆粒のような敵影を〈確〉《しか》と見据えた。  憎悪を込める。怒りを込める。  それは全く正当な、迷いもない想念。  疑いもない。  為すべきを為す己を阻む者が現れたなら、怒り憎むほかに何をしようか。  恐れは必要ない。条件は互角。  ――ならば、勝たねばならぬ己が勝つ! «距離五〇〇。〈闘牛形〉《ツキウシ》» 「邪魔する者は斬る……  村正だと? おぞましき魔物が。死すべきは貴様の方だ!」  直進。太刀を振りかぶる。  天に向かって駆けるこの体ごとぶつけて斬る。  加速に加速を乗せ、最大の威力で――  ――――遅い!? «……改めて勝負、と言った筈だが。  高度確保もせずに突撃とは、侮るにも程がある――いや、それともただの愚行か?» 「!?」  視界に、  紅い武者が現れ、  ――〈迅〉《はや》い!! 「……っっっ!!」  全身に走る衝撃。  熱気と冷気が体内を駆け巡った。  悶えるような熱さと凍えるような寒さ。  痛覚よりも正確に、受けた打撃の深さを物語るそれ。 «右肩部甲鉄に深刻な損傷。  内部骨格に若干の被害» 「く……おのれ!」 «速度低下。失速の危険を警告» 「何っ!?」  失速?    その意味を脳内で探る。  失速――〈失速〉《ストール》。  速度の低下によって飛行体が揚力を失うこと。  失速した飛行体は制御を失い、重力に引かれるまま墜落を始める……  墜落!?  制御不能!? «降下し、速度を回復せよ» 「ぬう!」  頭を引き上げ、垂直旋回。  敵対していた重力を味方につけて、ようやく速度計は低下から一転、上昇を始める。  とはいえ地表が近い。  充分な速度を得られるかどうか―― «敵、〈三五〇度上方〉《みずのえからねのかみ》。来襲» 「っ!?」  慌てて頭を引き上げる。  背を見せたままでは一方的に斬られるだけだ。躱すこともできない。  兎にも角にも正対しないことには、どうにも、 «距離二〇〇» 「あ……あぁぁッ!」  近い! 速い!  糞、これではどうにもならない!  敵の〈構〉《かまえ》を確認する。  先の一合と同じ、太刀を肩の上に担いだ構。  あの太刀の尺。  あれの射程から逃れられれば!  〈頭〉《ピッチ》を引き上げる。  村正を捉えた照準が、中心のやや下に来るよう調整。  太刀が届かぬ距離をとって、駆け違う―― «上段に対して、〈上〉《・》へ逃れて何とする?» 「!!」  また一撃。  同じく肩。  だが、逃れようと機動していたことにも一応の意味はあったのか、損傷は深くない。  先刻の傷口に衝撃が響いた程度だ。  ……今回は、と付け加える必要があるだろうが。  状況は一方的な劣勢。 「っ……真改!  〈陰義〉《シノギ》で奴の血を止められるか!?」 «否。  敵騎の肉体は劔冑に守護されている。これを越えて陰義を〈極〉《き》める事は不可能である» 「くっ……!  では、他に何か手はないのか! 何か!」 «――見苦しい»  すべてを聞いていたかのような折の良さで、冷たい金打声が伝わってくる。  発信源は視線の先、圧倒的に速く鋭い旋回で奪った上空に躍り、再度の突進の機を待っていた。 «〈太刀打〉《タチウチ》の作法をまるで知らぬ。武者としてあるまじき不心得。  貴様、〈双輪懸〉《フタワガカリ》はこれが初めてか。その太刀を向けてきた相手は、生身の人々だけなのか» «牙なき者をいたぶるだけが貴様の剣か» «抜かせ!»  装甲通信の指向を敵影に合わせ、反駁する。  言われる義理ではない。怒りをそのまま吐きつけた。 «知らぬ者とていない妖甲を平然と駆る輩が何を言う! その性根、呪われていようと力があれば良しとする醜い心が透けて見えるわ!  違うか!? 村正!» «そう云うそちらは井上真改か。  和泉守国貞。大坂正宗と謳われた藩制時代初期の名作……朝廷に献上を許され、一度はその倉に置かれた程の逸品» «斯様な劔冑を纏いながらその醜態。  どうにも解せぬ。貴様は名だたる武門の出ではないのか?» «調査した限り貴様は一介の教師。  しかしあるいは、隠れた血筋の者なのかと疑ったが……先程よりの無作法を見るにそうも思えん» «どういう事だ。貴様はなぜ劔冑を持つ?  六波羅に媚を売って、恵んで貰ったのか» «!»  その口調は別段、侮蔑的ではなかったが。  内容だけで充分過ぎた。  息を呑む。  見える筈もない己の顔が蒼白になったのを知る。 «……ふ、»  この自分が。  六波羅に、だと? «巫山戯ろォォォーーーーーーーッ!!»  敵は既に眼前。  太刀が三度、襲い来る刹那。  全身をよろう劔冑、その甲鉄との接触を感覚する。  感覚。感覚。感覚。集中した意思の作用による鋭敏化でどこまでも深く深く。  接触は接合に進化。  甲鉄を我が肉皮と認識。  血を流し神経を通し魂を宿す。  肉体と甲鉄の合一。  常理を踏みにじる融合を為し、〈然〉《しか》して心中にうねり〈蠢〉《うごめ》く力の流動を知覚――掌握。  〈呪句〉《コマンド》の詠唱を以て解放。 「〈狂意繰〉《くるい・くる》!」  操るものは――自分自身の血! 「むっ……!」  こちらの肩口から〈飛んだ〉《・・・》血飛沫に顔面を打たれて、村正の騎航姿勢が〈安定〉《バランス》を乱す。太刀筋も崩れた。  その隙に刃を潜る。交差。  我が甲鉄に悲鳴を上げさせること無く、一合を終え別離する。 «はっ! 飢えた妖甲め。  私の血を有難く飲むがいい!»  報復の雑言を投げつける。  多少は腹が癒えた。  だが、状況は好転していない。  速度計の目盛は失速が近いことを示している。また降下して、速力を回復する必要がある。  これでは埒が明かない……! «血を操る……それが真改の〈陰義〉《シノギ》か»  平板な口調をわずかに驚きで揺らして、村正が声を飛ばしてくる。  陰義。  古来の製法で鍛えられた真打劔冑の中でも特上の品だけが操る、単なる身体強化を超えた異能の術。  村正の指摘は正しい。  あの一撃こそは、真改が備える陰義の発現だった。 «陰義まで扱うならば、よもや写しや贋作ということはあるまい。  その劔冑は紛れもなく真物の井上真改» «ただの教師に過ぎぬ貴様がどうして持つ?» «ふっ……!»  答える義理はなかったが、意味はあった。  今は時間が欲しい。稼がせてくれるならば稼ぐべきだった。  どのみちこれから殺す相手に隠さねばならないようなことでもない。    鼻で笑った後で、応じる。 «サンタクロースの贈り物……  と言えば笑うか?» «何……?» «師走の二四日ではなかったがな。  私があの廃校で二人目の教え子を〈救った〉《・・・》、その翌日……あそこに置かれていたのだ» «私に使えと言わんばかりに» «…………»  沈黙の相槌。真偽を図りかねている様子だった。  知ったことではない。金打声を送り続ける。 «私にも理解者はいるということなのだろう。  そうでなくとも構わない。誰のどんな意図であろうと、私にとってこの劔冑は恵み以外の何かではなかった» «これのお陰で私は以前よりもずっと簡単に、完璧に、綺麗に、優しく……愛しい者たちを殺してやれるようになったのだから!»  頭を引き上げて上方旋回。  赤い敵――この距離では黒点だが――が視野に入る。  やや、遠い。  会話の間を取るために、半径を大きくした鈍い旋回をしていたのだろう。  こちらの意図通りではあったが、その余裕のほどが腹立たしくもある。  太刀を握る両手に力が篭った。速度は回復している。問題は何もない。 «ゆくぞ――!» «……成程。  事実はどうあれつまり貴様は、〈偶々〉《・・》劔冑を手に入れただけという事か»  〈兜角〉《ピッチ》を下げ、〈没入〉《ダイブ》してくる敵影。  亜音速と亜音速の正面相対。  まさに切り崩すという表現が相応しい速さで、相関距離が減少する――人の足なら果てもない旅程、だが今は瞬時に跳躍。  〈照準〉《レティクル》の中の点が粒に、粒は図形に、図形は姿となり〈視覚〉《カメラ》を埋める。  太刀打の間合! «得心いった――その愚行» «ッ!» «右上腕部に被撃。重度の損傷。  これ以上の右腕への被撃は危険である» «高確率での機能停止を警告» 「ぐぅぅ……!」  感覚が鈍く――  つまりは思うように動かなくなってきた右腕を抱え、やり場のない憤懣を唸る。  なぜだ?  なぜ打ち負ける!?  今の一瞬。  相互の太刀が接触して――切り結び……  しかし即座に真改の太刀は弾かれ、  村正の放った、〈下〉《・》へ潜り込みながらの一撃が上腕を〈強〉《したた》かに打ち。  村正の〈上〉《・》へ抜ける格好となったこちらの斬り下ろしは、腰回りを覆う〈翼甲〉《ウイング》――〈母衣〉《ほろ》を掠めただけだった。  おそらく、いや確実に無傷だろう。  完全な敗北。    なぜ、ここまで差が…… «何とも堅牢な甲鉄。大坂正宗の名に恥じぬ。  惜しむらくは、〈仕手〉《して》に恵まれなかった事か» «村正ァ……!» «宝の持ち腐れも極まる。  高度の劣勢も理解できない輩がそのような業物を手にするなど»  ……!  高度の劣勢? «聞け、半端者。  武者の〈格闘戦〉《ブルファイト》はより高い位置を奪い合う所から始まる。高さとは即ち〈力量〉《エネルギー》であるからだ。  意味がわかるか» «敵より高位を占めた側は駆け下って攻撃を加える事ができる。  速度を得、速度が転化した威力を得られる» «優位に立てるのは当然だろう» «!» «対し、低位の側は重力に刃向かって速度を減じられながら駆け上がらねばならない。  著しい不利を背負う事になる» «この状況は二合目以降も変わらない。  高位の側は獲得した速力を生かして素早く上昇する事ができ、一方低位側は速度を回復するために降下しなくてはならないからだ» «……» «故に、高位を奪われた者は一合打ち合った後、迅速な旋回を行い、敵が態勢を整える前に突撃することで逆転を図る。もしくは一度戦域を離脱し、勝負を仕切り直す» «旋回性を誇る劔冑なら前者、加速に優れるなら後者だ。剣技で打開を図る猛者もいる。  そのどれもせず、相手の土俵で戦い続けるなどは愚の骨頂»  感情の色彩を込めないまま、侮蔑の言葉を吐く村正。  何かを言い返したいが、返す言葉が何もない。  素人豆知識程度の航空力学ならば記憶の中にあった。  引き出してみれば、その内容は敵の発言を裏付ける。  ――飛行体の持つ〈力量〉《エネルギー》は位置力量と運動力量である。  位置力量は体重と高さ、運動力量は体重と速度とで決する。そのため、高空を高速で飛ぶ飛行体ほど多くの力量を持つ……云々。  つまり、敵よりも低位置にありながら互角だと思い込んでいた自分が馬鹿だということだ。  それでも沈黙には耐えられなかった。救いを求めるような心境で、真改に問うてみる。 「真改……奴の言葉は正しいか?」 «〈武者戦〉《フタワガカリ》の基本である» 「ならっ」  さっさと教えろ!    ……全てを声にしなかったのは、無駄を知っていたからだった。  劔冑の意識は能力の制御に特化された〈OS〉《もの》。  数日前、学生らにそう語ったのは他ならぬ自分ではなかったか。そんなものに人間らしい気配りなど期待する方が間違っていた。  武者は劔冑を〈使わねばならない〉《・・・・・・・・》。  劔冑に〈使われる〉《・・・・》のではなく。  常識として、それは知っていた。  だがその言葉の重さは知らなかった。 «鈴川令法。貴様は扱いきれない玩具を与えられた子供だ。その子供に命を奪われた人々には到底及ばないが、貴様の姿も哀れを催す。  もう一つ教えておこう» «っ……» «貴様はどうして武者が〈正面激突〉《ツキウシ》を行うか、知っているか? 武人の面目もあるが、それだけではない。  劔冑の甲鉄を斬り破るためだ» «逃げてゆく武者を後ろから追って斬っても、砲撃すら弾く甲鉄を穿つ事は難しい。  しかし高速で正面から突進し合えば甲鉄を破る威力を得られる» «この点に考えが至れば……  〈相手の上方へ抜けながら斬り下ろす〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》事の愚もわかるな?» «!»  忌々しくも、その言葉には閃くものがあった。  先の打ち合い。同じように太刀を構えながら、自分は上へ抜け、奴は下へ潜り、斬撃しつつ交差した……  〈真改〉《おのれ》の太刀は、逃げる〈村正〉《てき》を〈追い〉《・・》。  村正の太刀は、進む真改を〈迎える〉《・・・》格好だった。  打撃力に大差がついたのは当然……! «理解したか。  ならば、参る»  〈刀子〉《ナイフ》を投げ込むにも似る一声。  そして肌に迫る〈威圧感〉《プレッシャー》。 «敵、〈60度上方〉《とらのかみ》より来襲» 「くぅ……」  出遅れた。  舌で上顎を押しつつ急旋回。  伸びない速度計と対照的に勢威溢れる敵影を交互に睨みつつ、他にできることはなくただ突進する。  このままでは二の舞、三の舞だ。  敵の太刀構は変わらず、右肩上への担ぎ形。  こちらも同様。    高度差の分だけこちらが不利……だが。 (奴の下へ潜り込めば……!)  接近。交接。  こちらの下を奪おうとする村正を躱し――その下へ!  ――取った! «〈吉野御流合戦礼法〉《よしのおんりゅうかっせんれいほう》が一芸。 〝〈転〉《コロバシ》〟にて» 「おごっ!?」  勝利の確信。  それは芽生えた瞬間、物理的な力で粉々に打ち壊されていた。  今のは。  切り結ぶ直前、奴が太刀を回し、下から――! «騎航しての戦闘では地上と違い足腰を使えない……が、それでも剣の技を工夫する余地はある。  力任せに振り下ろすだけが能ではない» «相手を故意に下へ抜けさせ、同時に剣形を太刀打の基本である右上段から右脇下段へと切り替えて迎え撃つ。  ごく、初歩的な技だ» «左肩部に損傷。稼動には支障なし»  く……!  つまり今のは斬り込み方の点では互角だった――となれば後は、突進力の差が勝負を決めるということか。  その点の優劣ははっきりしている……! 「糞ぉッ!!」  旋回、降下、旋回、突撃突撃突撃――――  お前などに負けるものか。  お前などに……鼻紙一枚ほどにも役に立たぬ警察の奴輩などに!  この私がッ! 「殺す! 殺してやるっ!  〈来繰環〉《くる・くるわ》!」 「うおおおおおッ!!」 «――同じ手を二度は食えぬ。  俺はそこまで付き合いの良い人間ではない»  ――躱された!? «胸部甲鉄に被撃» 「っ……!  真改! 旋回して奴の頭を押さえることはできないのか!?」 «現状では不可能である。  真改の旋回性は村正に比肩し得ると分析されるも、現在は蓄積した損傷のため性能発揮に支障が生じている» «故に不可能» 「く……あああぁぁっ!!」 «悶えるか、鈴川令法。  だが甘受せよ» «その苦しみはこれまで貴様が他者に与えてきたものだ。  同じ苦しみを味わうことは貴様の責務» «刃の報いは己に返る。  人の命を奪う者は己の命も奪われる。  悪に報いは必ずあるのだ……〈悪に報いは〉《・・・・・》〈あるのだ〉《・・・・》!!» «黙れェェェッ!»  まるで自分自身に言い聞かせているかのように念を押す、その煩わしい声を振り払う。  優位に〈驕〉《おご》り、〈嵩〉《かさ》に懸かっての説教など聞く気はない。  悪の報いなどあるものか。善に報いがないように!  そんな世の中で信じられるのは美しいものだけだ。美しさだけは裏切らない。永遠ではないという一点を除いて!  滅びることは仕方ない。  諦めよう。如何にしてもそればかりはどうにもならない、宿命なのだと思い定めて。  その呪いを受け入れよう!  だが腐ることには耐えられない。  美しいものが醜い何かに変わり果てることだけは!  それだけは許さない。決して。  それを認めてしまうなら、美しさには価値がない。    認められようか!  だから私が破壊するのだ!  破壊しなくてはならないのだ!  美しいものを美しいうちに!  それは――悪か!? «鈴川令法……〈貴様の番〉《・・・・》だ。  苦しみ悶え、怒り嘆きながら、凶刃の下に命を散らせ» «嫌だぁぁァァァァァッ!!»  違うっ!  悪ではない悪ではない断じて悪などではない!  私は正しい! 間違ってなどいない! 『てめえの絶望に他人を巻き込むな!  おれたちはそんなに弱くねえッ!!』  五月蝿い!  私は正しい! 私は正しい!  私は正しいんだっ! だから死ぬべきではないんだ!  力を!  力をくれっ!  〈村正〉《やつ》を殺す力を!  理不尽にも私を殺そうとする奴を殺せる力を!  誰でもいい!  どんな力でもいい!  どんな力でも――私を助けてくれるなら!  この世の美しき諸々のために、私を! 『――愉快な真似を』 『その〈いじましさ〉《・・・・・》は笑うほかないな。  見物料に、これをやろう。役に立つぞ……というより、それを持っていれば嫌でも役に立つ時が訪れようが』 『――ん? おれが何者か、だと?  何者、というのは深い問いだな。誰だ、と尋ねるのとは違う。名を告げるだけでは答えとして足りるまい』 『おまえはおれの〈意味〉《・・》を問うのか?  ならばこう応える』 『――おれは天下布武。  〈白銀〉《ぎん》の星の名で呼ばれている者だよ』  そうだ……お前でもいい。  忌まわしき殺戮者! お前が求めに応じてくれるのなら、それでも構わない!  力を!  力を!  私に力を!! 「あ……ああああああああああああああ!!」 「――!?」  丹田で――横隔膜の下で――凶暴な何かが〈蠕動〉《ぜんどう》する。  それは何かの目覚め。何かの身じろぎ。  あの日、〈植えつけられた〉《・・・・・・・》何か。  有り得ない〈子宮〉《・・》を錯覚する。  有り得ない〈胎児〉《・・》を認識する。  胎児の名を曰くカイブツ。  暴れ狂い泣き叫び己を守る母体を食い破る。激痛。実在しないカイブツの実在しない牙と爪が呼び起こす幻の痛み。腹が裂ける。それも幻。苦痛だけが現実。  鈴川令法の、真改の、存在しない子宮からいま生誕する非事実のカイブツ。それは誰の眼にも映らない。  誰の手にも触れはしない。完全な妄想。非実在。  然して、ただ。  溢れ返るこの、膨大な〈力〉《パワー》だけは事実!        「〈曲輪来々包囲狂〉《くるわ・くるくる・くるい・くるう》       〈暮葉紅々刳々刃〉《くれは・くれくれ・くれくれ・は》」  〈呪句実行〉《コマンド・オン》。  うねる力に指向性を与える。  膨大な質量を集束。硬度を付与。速度を付与。鋭さを付与。破壊するための全てを付与。  後は――  叩きつけるのみ!        「〈白華爛丹燦禍羅〉《びゃっか・らんたん・しゃん・かあら》!」 「〈磁波鍍装〉《エンチャント》――!」 「ぬぅ……ッ!?」 «教えておいてやろう……血液だけではない!  真改の陰義は〈あらゆる液体〉《・・・・・・》を操るのだ!»  地上の河川から――海から――噴き上がった水流に打ち飛ばされ、村正が〈転げ落ちる〉《・・・・・》。  怒涛は更にそれを追った。天を渡る水の龍からしてみればあまりにもちっぽけな武者を一呑みに呑む。  どんな猛者でもひとたまりもなかったはずだ。  あそこまでの巨大質量に襲われて、無事でいられるわけがあろうか! 「はっ……ははははは!  はははははははは! どうだ、見たか……この力。真改の力。私の力だ!」 「美しきもののために! 我が正義だ!」  込み上げる衝動を抑え切れず、哄笑しながら、だが自分でも起きた出来事に対する驚きは禁じ得なかった。  まさか、ここまでのものとは……!  一体どれほどの量を引き上げたのか。  莫大な水流は今は散り、地上に降り注いでいる。時ならぬ雨に仰天する街の様子が目に浮かぶようだった。  村正の姿はどこにもない。どこにも見えない。  蜘蛛から変じたあのおぞましい姿は、綺麗に空から消え失せている。 「……墜落したか。  相応の末路と言うべきだろうな」 «――否。  方位〈一七〇度下方〉《ひのえからうまのしも》、距離二四〇〇。  敵影確認» 「何!?」  信じ難い報告に、目を剥いて示された方角を見やる。  そこには確かに、あの姿が。 「あれを受けて無事だというのか!?」 «敵騎は我が白華爛丹の直撃を受ける寸前に防壁を展開。  その効果によって致命打を避けた模様» 「防壁だと?」 «磁力の壁を張り、水流を磁化した上で反発、威力を減殺したものと思われる» 「磁力……  つまり磁力操作が〈村正〉《やつ》の陰義なのか」 «そう推定するのが妥当である»  化物め。  唾を吐きたいところだったが、頭部を兜に覆われていてはそれもできない。劔冑を装甲しているとたまにこういった細かな不自由と出くわすことがある。  あの力でも奴を倒すには足りないのか。  真改では奴を倒せないのか!?    ……おのれ。  目障りだ。  我が道を妨げるあの男。あくまでも立ちはだかろうとするあの深紅。  倒す。  倒せないなどということがあってたまるか。  この自分が正しいなら、正しいのだから、間違っている奴を排除できないはずがない。  倒す。排除する……! «敵騎の状態を確認。  胸部甲鉄を中心に深刻な損傷» 「ん?」 «全機能が大幅に低下した状態にあると推測。  現時点における性能比は真改の優越である» 「損傷……! そうか!」  さすがに奴とても無傷ではいられなかったらしい。  考えてみれば当然のこと。  今のうちに畳み掛ければ、勝てる! «敵騎、復元機能の作動を確認。  所要時間は不明» 「そんな時間は与えん!」  兜角を下げて降下突入。  眼下を旋回騎航していた村正も、こちらに気付いて覚悟を決めたか、頭を上げて向かってくる。  先程までとは完全に逆転した格好。 «村正ァァァッ!» «……真改» «武者の格闘は高位置を取った者が有利……だったな!?  頂いた御教授、有難く活用させてもらう!»  突進。進撃。  太刀をかざし、敵の下へ抜けながら振り下ろす!  村正も下段に取り、切り上げてくる。  だが――優劣は明らか! 「しゃッ!」 「ぐぅッ!?」  村正の太刀を打ち弾き、その甲鉄に切り込む!  手応えは堅く、手首の骨が痺れるほどだったが――しかしむしろその感覚が心地良い。  ようやくこの手で奴に一撃を加えてやれたのだ。 «敵、左肩部甲鉄に損傷» «はッ!  どうだ、村正! 優位から一転、打ちのめされる側になった気分は» «なかなか乙なものだろう!?» «……とは、言いかねるな。  そんなものは今更貴様に教えてもらうまでもない» «既に慣れ切り、飽き切った……。  だが、苦痛という感覚は忌々しいほど常に新鮮だ»  そんな答えを寄越しながら、声にだけは相変わらず乱れというものがない。  どうせ虚勢だろうが。 «しかし……先の〈あれ〉《・・》は、何だ。  如何に真改が名物とは云え、あそこまでの力を持つとは正直、信じ難い» «あれは――〈異常〉《・・》だ» «ふん。  銀色の破壊の神が、私に力を下さった……とでも言っておこうか»  きっと理解はできまいが。  理解できても信じまい。  しかし、村正の返答は予想を裏切った。 «貴様が銀星号に〈卵〉《・》を植えられていることは最初から知っている» «ほう?»  卵。確かにあれは、卵を思わせる球形をしていた。  とするとこの男、何か知っているのか……? «俺達はその気配を追っていたのだからな。  だが……あれはただの〈時限爆弾〉《・・・・》の筈» «貴様が見せた異常の力とは、何の関わりも――» «あるのでしょうね»  突然。  澄んだ声が対話に割り込む。  薄手の陶器を指先で打つような響。  ……まさか、これは、〈劔冑〉《ムラマサ》の? «今回、銀星号がばら撒いている七個の卵は、私の野太刀と掛け合わせて創られたもの。  あの卵には私の力が宿っている» «では、それが――» «さっきの非常識な陰義の理由でしょうね。  そしておそらく、甲鉄のふざけた硬さも» «どう、井上和泉守? 生憎と私は〈後世〉《・・》の事に詳しくはないけど、摂津鍛冶が独力であれだけの性能を完成させられたとはどうしても思えない» «それとも過小評価?  十六〈葉菊〉《ようぎく》を戴く劔冑の、あれが真骨頂なのかしら?» «――否。貴殿の指摘は正鵠を得ている»  問いかけを受けて、驚いたことに真改は応じた。  心なしか――いや、間違いなく錯覚であろうが――敬意に似た調子を込めて、金打声を発信する。 «当方の〈能力〉《ちから》は当方を〈侵食〉《・・》する異物によって高められている。この異物の詳細は解析できなかったが――これが貴殿の……  貴殿〈ら〉《・》の力か» «……迷惑を掛けているみたいね» «御配慮は無用。如何なる形であれ、先人の業に触れるは喜びである» 「その辺にしろ、真改」  戦闘の〈最中〉《さなか》にはふさわしからぬ奇妙にのどかな空気を漂わせて語り合う劔冑らに苛立ち、口を挟む。  会話には理解しかねる部分もあったが、一つだけははっきりしていた。意味がないということだ。 «下らんことをごちゃごちゃと……!  時間稼ぎのつもりか、村正。往生際の悪い……武者なら武者らしく、潔く散れ!» «そうだな»  村正――甲鉄の内側からの声。  劔冑よりもむしろ劔冑らしい冷たい声音で、それは淡々と続けてきた。 «今の言には全く同意する。  では――武者らしく潔く散れ。鈴川令法» «……!?»  言い放つや、村正の紅影は首をめぐらせて旋回。  こちらへと進撃する――圧倒的不利な下方から。  ……何を。あの男。  状況がわかっていないのか。  高度で劣位にあるのも奴なら、損傷の度合いがより深いのも奴!  死ぬべきがどちらかなど、決まっているだろうに! 「……度の過ぎた虚勢は不愉快なものだな。初めて知ったぞ。  いいさ、真改――夢くらいは許してやる。妄想に浸らせたまま、奴を葬れ」 «承知»  弱者め!  そう、奴こそが弱者というものだ。あれほどなんやかやと大言壮語をしておきながら、最後にすがるのが負けを認めぬ妄想とは!  なんとも見苦しい。  醜い。  その醜さに相応しく、無様な最期に堕ちてゆけ――! 「〈磁装・負極〉《エンチャント・マイナス》――」 «――〝ながれ・かえる〟» 「!」 「今のは――!」 «磁力障壁の発動を確認»  攻撃を弾かれた。  甲鉄の強度に押されたのではない――硬質のゴムを叩いたかのような。奇妙な感覚が手の内に残っている。  ――磁極の反発を利用した防御!  先刻もこれを使い、怒涛の水流を防いでのけたのか。 「おのれ……しぶとい!」 «陰義の継続使用は仕手への負担が大。  連続的な攻撃による突破が妥当である»  そんなまどろっこしいことはやっていられない。  あの虫唾が走る存在をいつまでも見ていられるものか!  あの結界が剣撃を防ぐのなら、防ぎ切れない攻撃を加えてやればいい。  そうすれば一撃で済む。  〈白華爛丹〉《ビャッカランタン》!  体内の力を集中する。  うねる流れを引き寄せ、つかみ、集束して――! 「〈曲輪来々〉《くるわ・くるくる》――」  …………え?  なんだ、これは?  視界が――色を、失う?  それだけではない。  〈速度〉《あし》が――落ちる。〈姿勢〉《バランス》が――崩れる。身体が――〈寒い〉《・・》。  寒い――!  なんだ、この身体の奥から来る異様な凍えは!? 「真改! どうしたのだ!?」 «――――»  答えがない。いや――答えてはいるのか?  ノイズじみた雑音だけがわずかに届く。 «限界が来たようだな» «村正!  これは何だ……限界とはどういう意味だ!  お前が何かをしたのか!» «俺は何もしていない。  それは貴様の未熟が招いた現象……  〈熱量欠乏〉《フリーズ》だ» «……熱量欠乏!?» «武者の旋回機動は激しい〈荷重〉《G》が掛かるため、血液が下がり、視力障害を生じることがある。  だがこれは通常、さほど問題にはならない。劔冑の防護が働くからだ» «しかし別の理由により、劔冑の防護が弱まれば、これは途端に身近な危険となる。  そしてその〈理由〉《・・》は、問題を視力障害だけで済ませはしない» «熱量欠乏。  劔冑は能力を発揮するために、〈仕手〉《ユーザー》の〈熱量〉《カロリー》を絶えず消費する。強大な力を使う時ほど、消耗も莫大だ» «その消費量が、肉体の耐久限界を超えれば……そう。今の貴様のようになる» «貴様の熱量は、先の大規模な陰義で既に底を突いていたのだ。その上に更に無理を重ねれば、結果は……  劔冑のほぼ完全な機能停止。違うか?» «そ……そんな»  そんな、馬鹿な。  そんなこと、私は知らなかった。  知らなかったのに。  酷い。  なんで……なんで誰も教えてくれなかったんだ。  どうして、こんなことになるまで! «これは武者にとって常識以前の事柄。  しかし――生身の者しか相手にせず、限界を味わうことのなかった貴様が知る筈もない» «うぅ……» «鈴川令法。他人の手を借りるまでもなく、己の悪行への報いは自分自身で招いたな。  貴様は程なく墜落する……» «が、その甲鉄の強度があれば死ぬ事はあるまい。〈そして〉《・・・》俺は貴様の生存を認められない。  故に最期は、俺の手で送る» «い……嫌だ……!»  死ねない。  私は死ねない。  動け!  動け、手足! 動け、真改!  なぜ動かない! なぜ痺れる! なぜ落ちてゆく!?  動けぇぇぇぇぇぇっ!  私は死ぬわけにはいかないのだ!  美しいもの達のために!  私、は―――― «さらばだ、鈴川令法。  人の美しさにすがった弱者» «貴様は悪の一語のみで断ずるべき人間ではないのかもしれない。  だが〈美しいもの〉《・・・・・》は、貴様のような脆弱さを求めてはいなかったのだ» «あ……あぁ»  もはや定かならぬ視界の奥。  深紅の武者が太刀を鞘に納める。  居合/抜刀術の構。  一刀必殺の意思の具現。 「し……真改……!?」 «双極の磁力。  その吸引と反発の作用を、居合の技に持ち込むか……» «何という恐ろしき工夫よ。  ここまで精密かつ高圧の力を御すは仕手にとっても劒冑にとってもまさしく生死を天に預ける綱渡りの筈……それを遂げている……» 「真改ぃぃぃぃぃぃぃっ!!」 «……我が仕手よ。  武の鬼道を歩んだ者の逃れ得ぬ〈運命〉《さだめ》、今がその時と存ずる»  呼びかけにも、劔冑は動かない。  ただ静かな言葉だけを送ってきた。  死が来る。  最強にして最凶、近づいたもの全てを滅ぼすと謳われた妖甲が、その〈呪〉《ノロイ》の究極を解き放とうとしている。  絶対不可避の死の運命。村正。  悟ってしまった。理解してしまった。  真改の甲鉄は――無双無敵であるはずの防壁は――今より訪れる〈もの〉《・・》を決して防ぎ止められない。  ようやく気付いた。  妖甲の妖甲たる所以。  あれは死。あれは滅び。ただ純然たる、〈それ〉《・・》。  関わってはならなかったのだ。  近づいてはならなかったのだ。 «いかに堅固な城塞とて……  〈天の鉄鎚〉《いなづま》の前には脆いもの» «〈磁波鍍装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》» «諒解。  〈死〉《シ》を始めましょう» «吉野御流合戦礼法、〝迅雷〟が崩し……» «〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟» «いかで……我が……  こころの月を……あらは……して……» 「やみに……まどえる……  ひとを……てら…………さ…………」 「…………………………」  少年は見た。  黄昏を貫く二条の光跡。  正面から〈見〉《まみ》え――相撃ち――そして――  黄銅色の光条が、散る。  少年は見た。  その刹那の一閃――  何よりも〈迅〉《はや》く。  何よりも〈剛〉《つよ》く。  万物を等しく塵芥に貶めて〈疾翔〉《はし》った、雷火の煌きを。  少年は見た。  今はただ独り天を舞う、深紅の光軌。 「……村正……!」  少年は見た。いつまでも見ていた。  心の奥底から湧き上がる、熱い震えを感じながら。 「……あった」 「野太刀の……柄だ」 «これで一つ。  ……残りは六つね» 「……?」 (……真改。  真改の〈標識〉《マーカー》が……消えた?) (消えちまいましたね。いや、おいおい。  どうするべぇよ) 「……………………」 「あたしゃ、しーらね。  ……で、済めばいいんだけどねェ」  寝転がって、天井を見つめる。  ほかにできることがない。  眠ることさえ。  開け放したままのがらり戸は庭からの風を運び、肌寒いほどだったが、それが寝るのに邪魔ということはなかった。むしろ心地よい。  けれど眠れない。  なら起きればいいのだろうが、片足を負傷した状態ではそれも億劫だった。痛みはもうほとんどないとはいえ、それがじっとしていることを条件に危うく成立しているのは明らかだ。その安息を捨てる理由もない。  つまるところ、寝転がってる以外にないのだった。  熱い身体を抱えながら。 「…………」  あれから。  湊斗さんが手配していたのだろう。警察がやってきて、おれたちは保護された。  そのまま病院へ直行だったのは言うまでもない。  おれの治療は止血と縫合、鎮痛剤投与だけで済んでしまったが、他の二人は当然そうはいかなかった。  見届けることはできなかったが、集中治療室へ送られたと聞かされている。  おそらく、今もまだそこにいるだろう。  手術が終わるまで自分も残ると言うだけ言ってみたが、その場にいた全員に帰って寝ろと怒られては断念するしかなかった。  何の役にも立てないどころか、邪魔にしかならないことは自分でもわかっていたから仕方がない。  おれはおじさんおばさん、忠保の家族らと入れ違う形で、警察の車に送られてひとり帰ってきた。  そうして、今はここでこうして夜風を聴いている。 「…………」  考えるべきことは多くあった。  おじさんおばさん、忠保の家族にも、おれの口から事の説明をしなくてはならないだろう。警察から既に聞いていても――そうか、警察の事情聴取もある。  病院では誰もおれに何も訊かなかった。気を遣ってくれたのだろうが、甘えてはいられない。  三人の中で一番無事に近かった人間として、おれには説明する義務があるはずだった。  正しく、見たこと起きたことを彼らに伝えなくてはならない。それが辛さを伴おうと。  前もって準備をしておくべきだった。おれは説明事が得意なわけではないのだから。  他にも考えなくてはならないことはいくらでもある。とりあえず明日の朝飯はどうしたものかといったことから……あの鈴川のことまで。  そして、仲間のことも。  小夏、忠保、リツ。  あの三人を襲った現実――――  考えるべきことは本当に多い。  だが今のおれはそのどれも、胸に思い描いてはいなかった。  明日になれば。  明日、この寝床で目覚めたその瞬間。  おれは初めて、今日起きたことのすべてを、本当に現実として受け止めることになるだろう。  そして心を押し潰されるだろう。  小夏の体を、忠保の眼を、もういないリツを想って、枕に突っ伏すだろう。  床の上をのたうち、意味のない叫びを上げるだろう。  それがわかる。  そうなるということがわかる。  だが今は違う。今だけは、おれの心は救われていた。悲痛を隠してくれていた――熱い興奮が。  だから今だけ、この一晩だけ、おれはこの熱に浸る。  明日からの悲しみを乗り切るために。  昨日までのおれと、今のおれとの違い。  それは一つ。  信じる道があるということ。  正義。  それは考えとして……概念としてあるだけでは、心から信じることはできない。  それでは足りないのだ。ただの紙切れだ。  だからおれも、そんなものは信じていなかった。  諦めていた。そんなものは無い、と。  だけど。  現れた。  正義は形として現れた。  信じるに足る姿をもって。  正義は体現する者があって初めて意味を持つ。  正義を奉じて戦う者が必要だったのだ。  そんな人がいるなんて思いもしなかった。  戦う者、武人といえば、思い浮かぶのは六波羅幕府でしかない。欲望に任せて剛力を揮うばかりの餓狼団。それが全て。武の世界は六波羅の野心が席巻している。  力ある武人は総てがその一党で、力なき人々の弾圧に奔走している。力の無い人々のために戦おうとする武人などは一人もいない。  そう思っていた。  だけど、いる。  今は知っている。  自分の欲望ではなく、誰かを守るために、戦う人がいることを知っている。  それが、たった一人でも。  おれはその人がいるのなら、正義というものを信じられる。  それはただの題目ではなく。  意味のない飾りではなく。  国語辞典と道徳のテキストの中で惰眠を貪るだけの一言でもなく。  人が正しく在るための道標。  だから、おれはこの道を行こうと思う。  いま確かに見えているこの道筋を。  そして―― 「いかがなさいました? お嬢さま」 「……」 「おお……そういえば新田さまのお宅はこの近くでした。  立ち寄っていかれるおつもりですか?」 「……」 「お嬢さま?」 「今……  赤い何かが、空を過ぎったような」 「赤い……何か?」 「さよ。あなたは何も見ていなくて?」 「ご無理を仰いますな。お嬢さまの眼にさえ定かならぬものが、どうしてこの老婆に見えましょう。  流れ星かなにかでは?」 「星……  わたくしの眼が、完全な信頼を置いて良いものなら、あれは……武者、だったような」 「ほっ。夜だというのにまあ、幕府の方々は相変わらずお忙しいようで。  迷惑なことですなァ。勤勉な暴君とは全くなんとも」 「勿論、お嬢さまの眼は確かでございますよ」 「幕府……ええ。そうね。  そうなのでしょうね」 「珍しくもない……  ただそれだけのこと」 「なのに……」 「どうして……こんなに。  わたくしは……」 「……お嬢さま?」 「……あっ」  夜の帳に沈む庭。  その中でひとり暗闇を吹き払う紅い輝きを放って、おれの信じる正義がそこにいた。 「来てくれたんだ……」 「……」  あわてて飛び起き、膝立ちの膝歩きで縁側まで出たおれを、武者は黙って見下ろした。  甲鉄に覆われたその眼の色彩は冷たい。けれど気にならなかった。その奥の優しさを知っている。  村正。  深紅の武者。  この姿を見たかった。  瞼の裏に焼きついて、細部まで思い出すことも簡単だったけれど。それでも本当の姿を見たかった。見ていたかった。少しでも長く、少しでも近く。  願いが叶って、おれの村正が今ここにいる。  ……まさか本当に、おれのために?  いや、バカな。きっと事件のことでおれに聞きたいことかなんかがあるんだ。このロクでもない世の中、たった一人の正義の味方が暇なはずもない。  用事がなければおれの所なんかにわざわざ来るか。  ……そりゃまあ、心配して見に来てくれたってのもあるかもしれないけどさ。  だからって甘えていいもんじゃない。恥ずかしい。協力して、手早く用件を終わらせてあげないと。  だってのに。  赤い雄姿をこんなに間近にしてしまったおれはもう、我慢が利かなくなっていた。 「あ、あのさ……」 「……」 「な、なんて言ったらいいのかな。言いたいことがすごくいっぱいあるんだけど……何をどう言えばいいんだか」 「……」 「その……  おれ、あんたのことを信じるよ」 「…………」 「あんたのことを信じる。  あんたの戦いを信じる。  あんたの正義を信じる。  あんたの行く道を信じる」 「おれさ……  一度、あんたに失望したんだ」 「……」 「野木山の連中に絡まれた時。  あの時、土下座したあんたを見て、おれは思ってた。こいつ、戦うときには戦うなんて言ってたくせに、口だけじゃねえかって」 「こんな奴を信じそうになってたおれが馬鹿だったって。  でも……違ったんだな。おれが馬鹿なのはその通りだったけど。意味が違った」 「あんたは、戦わねばならない時には戦う、って言ったんだ。  あんなチンピラ共なんて、戦わなきゃならない相手じゃなかった」 「こっちが頭を下げてりゃ、それで有頂天になるような連中なんだから。  本当に強い奴は、そんなのをいちいち相手にしない……そうだよ。そういうもんだ」 「あんたが戦うのは、そうする以外にどうしようもない時だけ。  超人の武者が生身の人間に刃を向ける……そんな時だけ、あんたは戦うんだ」 「村正になって。  自分を守る力のない誰かのために」 「…………」  村正――湊斗さんは何も答えない。  もしかして照れてるのかな。そんなことをちらっと考える。 「それがわかったから……  おれはあんたを信じる」 「……」 「この世には正義があるってことを信じる。  正しく生きようとすることには意味があるって信じる」 「そうすることが強さだって信じる」  ああ……くそ。どうしてこんな安っぽい言葉でしか喋れないんだろう。語りたいことは安っぽくないのに。  おれが安っぽいからか?  ……そりゃそうだ。  おれは村正と違って、まだ何もしていない。  信じると言っているだけで、信じて何かをしたわけじゃない。口先ヤローだ。大安売りの特価商品だ。  でもこれからは違う。違う人間になりたい。  そのために――今は、信じる。 「信じるよ。  この世には村正っていう名の、正義の味方がいるってことを」  その姿を見る。  全身を染め上げる紅は鮮血の色。禍々しく、けれど頼もしい。なぜならそれは戦う覚悟を語るものだから。  黄金造りの太刀は紅の中で一点、煌びやかに映える。  峻厳な兜はあたかも鬼面。  胸に張り出す甲鉄は城壁のよう。  これほど敵に回して恐ろしい姿が他にあろうか。  これほど守り手にして安堵できる姿が他にあろうか。  村正。  呪わしい名を持つ、優しい武者。  それは、おれを見下ろしながら。  ……ゆっくりと、かぶりを振った。 「いない」 「……?」 「正義の味方など、いない」  兜の奥から、こぼれてきたのはそんな言葉。  静かな静かな、氷原を渡る風の声。  おれは少し呆然として、それから、    ……ああ、そうか、と。  心の中で頷いた。  この人は、まったく。  もう少し、他人に理解と評価を求めたっていいじゃないか。  湊斗さん。  あんたはきっと、自分にすごく厳しい人なんだろう。  どれだけのことを成し遂げても、より上の完璧を、もっと良い結果を――例えばおれと小夏と忠保が全員怪我しないで無事に済むとか――考えて、自分を減点してしまう人なんだろう。  だからそんなことを言うんだろう?  でもあんたは今日、おれたちを助けてくれたんだ!  それは間違いないんだ。あんたが来てくれなかったら、おれたち三人は全員死んでいた。殺されて、今頃はあの箱の中だ。  そうならなくて済んだのは、あんたが助けてくれたから。  おれはあんたに感謝したい。  あんたを尊敬したい。  なのに。  あんたは自分を貶めて、そうはさせまいとするのか?    ……少し寂しくなる。  でも、いい。  おれは信じる。  あんたは正義の味方だ。  大和で唯一の、正義のために戦ってくれる武者だ。  唯一の――――英雄。 「……どこにもいない。  正義の味方は、どこにもいない」 「いないのだ――新田雄飛」 「いるよ」  おれは手を差し伸べた。  紅く輝く姿に。 「ここにいる」  おれは信じる。あんたを信じる。  あんたを理想とする。  あんたを目指す。  そして――  ………………  あれ?  なんで、おれ、倒れてるんだろう。  なんで、眼が霞んでるんだろう。  これじゃあ、村正の姿が良く見えない。  おれの大好きな姿が。  ちくしょう、何やってんだおれ。  疲れてぶっ倒れちまったのか?  そりゃ無理もねえけど。  もうちょっと頑張れよ。  今はそこに村正がいるんだから。  この人の前でみっともないとこ見せんじゃねえ。  ああ……くそ、眼が霞む。  なんか血が足りてないみたいな感じだ。  なんでだろ。出血は大したことなかったはずなんだけどな。やっぱ疲れのせいかな。  起き上がりたいけど起き上がれない。  体がどっかにいっちまったみたいだ。  指一本動きゃしない。なさけねぇ。  動くのは眼だけだ。  だから……せめて村正の姿をしっかりと見たいのに。こう霞んでちゃあそれもできない。  なんでこんなにぼやけるんだよ。  なんか冷たいな。  頬が濡れてる。  なんだろ。  涙?  なんでおれ、泣いてるんだろ。  何が哀しいんだろ。  変なの……  哀しい。  何かが哀しい。  哀しくて――哀しくて。涙が止まらない。  なんだろう。  おれはなにが――  ああ……そうか。  村正の姿がもう見えないからだ。  涙のせいで、視界が歪んで、もう村正の形はわからない。  きっとおれはそれが哀しいんだな。  こんなに涙をこぼすほど。  大丈夫だって。  起きるまで待っててくれるよ。  この人は優しいんだから。  だから、少し眠ろう。起きられないんじゃ仕方ない。  少し眠って、疲れをとって……それからまた起きて、村正の姿を見よう。  そうして、その姿を追って。  歩き始めよう。  理想を追って。  正義のために戦う道を、おれも―――― 「湊斗景明。  鈴川令法、及び新田雄飛の殺害容疑により逮捕する」 「……御苦労だった」 「…………」 «興隆四一年一〇月一二日» «未決囚湊斗景明  関東拘置所収監» «容疑» «殺人罪一四件» «うち一件は尊属殺人» 「……!?」 「けほ、けほっ。  …………ふぅ」 「やっぱり銃は好きになれません。  煙たいですし、手応えも良くないですし」 「おや、お嬢さま。  飛び道具なのに手応えとは、如何なものでございましょう」 「あるんですよー。  弾頭が標的を撃ち抜いた瞬間に指の先から脊椎の裏まで駆け巡る……壊れたオルガンのような旋律が、こう」 「それは単に充足した〈嗜虐性〉《サディズム》が体を震わせているだけなのでは?」 「そう片付けられてしまうと、ただの変態ね。  ひどいばあや」 「人にして人を殺せる輩はみな変態の異常者でございます、お嬢さま」 「……待て……」 「ど――  どういうつもりだ?」 「こういうつもりですけれども。  ええと――」 「六波羅代官、長坂大尉殿です」 「長坂大尉。  進駐軍司令部より派遣された巡察官として、大和軍将兵の不適切な行いを是正することはわたくしの責務ですの」 「我が兵が貴官に対し何か失礼な振舞いでも……」 「村人の徴発、限度を超えた酷使、作業から脱落した者に対する私刑。  いずれも軍士官として適切なやりようではありませんね?」 「そのようなことを貴官に言われる筋合いはないっ! 大和の内政は六波羅に委任されている筈ではないか!」 「ええ。  GHQの監督の下で」 「採鉱事業の申請ならばとうに済ませた!  許可も得ている……」 「けれど、それはあくまで書類上のこと。  あなたがたの施政の実態を調査し、好ましからぬ事実が発見された時には、状況の悪化を防ぐ措置を取るのが巡察官の職権の内」 「莫迦な……」 「これは私見なのですけれど。  ……民政局への付け届けが足りなかったのではありませんこと?」 「コブデン中佐の胃袋にも財布にも寝台にも、奴の欲しがるものを欲しがるだけ詰め込んでやったわ!  あれでもまだ足りないと抜かすのか!?」 「それは確かですか?」 「確かだよ! この事業の予算の一割は奴が一人で食い潰したようなものだ!  貴官、何も聞かされておらんのか!? 奴は万事うまく取り計らうと請け負ったのだぞ!?」 「……まあ、大変」 「さよ、今のを聞きまして? わたくしたち、贈収賄事件の重大な証拠をつかんでしまったみたい」 「大変ドラマティックな展開でございます、お嬢さま」 「馬鹿にしているのか、貴様らは!?」 「そんなつもりはないのですけれど。  ねえ?」 「はばかりながらお嬢さま。  客観的に評価致しまして、我々は大尉殿を遺憾なく小バカにしております」 「あら、そうでしたの?  申し訳ありません。わたくしったらどうも、こういうことには疎くて」 「…………。  目的は……何だ」 「目的?」 「貴官の目的だ! とどのつまり何が欲しいのだ。金か、それとも鉱山の利権か?  ならそう言え、下手な揺さぶりなどかけずとも、話は聞いてやる!」 「…………」 「困ったことね、さよ。  会話が通じていません」 「まことに難儀なことで。  如何でございましょう。ここは一つ、大尉殿の脳天に風穴を開けてやって、ちっとは物の道理がわかるようにして差し上げては?」 「それが親切というものかしら。  では、そういうことですので」 「〈あなたのための墓穴へどうぞ〉《PLEASE,GO TO YOUR GRAVE》。  せっかく村の人達が掘って下さった〈坑道〉《あな》、有効にご活用下さいまし」 「――小娘ェェェェェッッッ!!」  代官――どうやらその地位を失いつつあるようだが――が己の劔冑を呼び、装甲し飛び立とうとする一瞬、老人は自分が動かねばならないことを悟っていた。  そして、間に合わないということも。  あの愚かな男を止めるのは自分の責任だ。  男の愚かさを、その所以を、知る者は今となっては彼ひとりしか残っていない。  この手で、決着をつけたかった。  これ以上、いらぬ血が流される前に。  あの男の暴走がこの小さな村を巻き込む前に、留め得なかったことは、老人にとって痛恨であった。  ――益体なき男が二人、死ねばそれで良かろうに。    そう思う。  忌まわしきは老いの退廃。  代官に挑むための支度が、彼の期待を裏切って多くの時を必要としたせいで、状勢の悪化をただ座視する羽目になった。  今、この刹那もか。  村を蝕む事態を動かした――というよりも蹴り飛ばした――あの若い女は殺されるだろう。自業自得と、見られなくもない。  だが、彼女はどうやら村の救い手のようだ。  そして今ここで殺された後には、災いを残すだろう。  老人は世の動静に疎かったが、祖国が戦争に敗れ、占領を受けている現状は知っていた。  その占領軍に属する人間が、この村で変死を遂げたならば……。  あの女性はどう見ても大和人であるものの、しかし、軍服は間違いなく進駐軍司令部の所属を示している。  その死について、現地の居住民が責任を問われないという保証はどこにもなかった。  あの男は今ここで止めなくてはならない。  他ならぬ彼が止めねばならない。    なのに。  ――できぬ、とは。  振り返れば、悔いばかりを重ねてきた命。  既に終わりの見えたこの年齢になって、なお大きな一つを加えなくてはならないのか。  竜騎兵は疾駆する。  空を裂き。地に溝を穿ち。  数打の、紛い物に等しい劔冑であろうと、もたらす速度と力は到底只人が及ぶべくもなし。  抗うはおろか、確と見留めることすらかなうものか。  ――止めてくれ。    老人は願った。  あの一閃を。  この身ではどうしても届かぬ、あの一閃だけ、誰か――止めてはくれぬか。  さすれば後は、我が手で始末をつけられように。  虚しい祈り。  応えるものなどいよう筈もない。  ……否、  かつてはいた。  力なきやからの、民草の叫びに応え、絶大な力を刃に乗せて揮う者がいた。  いると――信じられていた。真実は違ったとしても。そう世に信じさせるだけの事実があった。  今は、無い。  人々は既に信仰を失った。  その名を叫ぶに、込める想いは希望に〈非〉《あら》ず、呪詛。  老人の願いは誰にも届かぬ。  届いたところで、誰も聞かぬ。  誰も――  いない――  赤い〈彩〉《いろ》が踊る。  ……血の深紅が。  あたかも蒼空を呪うかのように。  重厚な甲鉄。  鋭凶な刀刃。  目にするだけで心臓が騒ぐほどの、力満つ気配。  具象化した武。  天より降りた神。あるいは地より這い出た鬼。  其は、何か。  何物か。  それは  在るべくもなく  見誤るべくもなく。  然して今、其処に在るもの。  其は。 「じっちゃ……。  あれ、なぁに?」  傍らの孫娘の問いに、老人は答えを持っていた。  あれが何であるか、知っていた。  彼の脳漿が、否、  血潮が知っている。  鍛冶種族の血が赤い孤影の意味を教える。  あれは。  ――真性の劔冑。  そして、真実の武者。  事態の推移はいささかならず急激だった。  最初からそうではなかったにしても。  拘置所に現れた村正から銀星号の〈香気〉《けはい》をつかんだ旨報告を受け、鎌倉警察署長に連絡し、出所の手続きをしてもらい囚人湊斗景明から警察属員湊斗景明になりおおせて獄室を出る。  そして村正の先導の下、鎌倉近郊の寒村へ。  ここまでは既に慣れた手順、特記すべき変事も無し。  しかし村に到着してから三〇分間の展開は、過去に経てきた事件であれば数日分にも匹敵した。  この村の時計は他所のそれよりも針が高速回転する仕様になっているに違いない。  鄙びた小村なりにざわめいている様子が気に掛かり、村人を捕まえてGHQ将校の巡察という話を聞き。  将校の後を追う格好で村外れの開発中の鉱山へ足を運んでみれば、丁度六波羅の兵士が鉱夫を酷使の挙句に力尽きて倒れた者へ非情の刃を振り下ろさんとする場面に遭遇。  止める暇もあればこそ、人騒を圧して鳴り響く銃声、兵士は己の血沼に沈み、進駐軍の軍服を纏った大和人の女性が硝煙を払う。  六波羅側の首領格と思しき軍官は女性と激しいやり取りのすえ逆上、劔冑を装甲して刀牙を剥き出し。  刹那、村正の〈金打声〉《きんちょうじょう》が耳孔を刺して脳を揺さぶる。  ――«御堂、銀星号の気配! あれは〝卵〟を植えられた寄生体よ!»  かくして。  俺は状況をろくにつかめないまま、村正を装甲して駆け出さざるを得なかった。  風を巻いて馳せる迅雷の太刀筋――  長髪なびく軍装の麗人が切先に掛かり、傍らの老女と共々大胆な外科手術の被験体となるまで余す時間はあと一秒の半の半々、有るか無きかというところ。  つまりは充分。  鋭利な錐が薄紙一枚貫く時を費やして、両者の間隙に押し入り殺意の閃光を打ち弾く。  ……驚愕の声はない。  死骸になり損ねた二者の生身の感覚は武者の挙動を捉えまいし――刃先を逸らされ存分に土を裂いている竜騎兵はいま報復を成就した夢想の只中であろう。  現実との齟齬に気付くのは近未来。  その時間をも貪欲に奪うと決断し、左足を踏み込む。  膨大な重量が一点に集約され、足の裏で山腹の固い地面が沈んだ。  鉄杭の如く足場を食い締める下肢、これを軸にして旋回、六波羅武者の胸甲を右肘で突く。  進駆の勢威を乗せた打撃、それがもたらす荷重は男一人と劔冑一領をまとめて五間ほども転がすに足りた。  水切りの石のように跳ねて飛び、落ち、そうして遂に異変を察知したのか。竜騎兵の眼窩がこちらを向く。 「なに……!?」  打突の衝撃は脳にまでは及んでいなかったらしい。  幕吏の男は即座に立ち上がった。よろめきもせず、流麗に。そうして立てば、膝が震えることもない。  元より肘打一つが武者の致命傷になるはずもないが、それにしてもこの迅速な回復ぶりは刮目に値した。  よほどに己を鍛え込んでいるものと窺える。 「武者だと!?  何処の部隊の者だ!」  こちらの首元から肩へ――視線が動いたのは、階級章を探したのだろう。  正規の幕府兵であれば当然、着けているべきものだ。  そして当然、俺が持つわけはないものだ。 「……?  とにかく、〈退〉《ど》け! この村は俺の管轄だ。何処の武者であれ邪魔立てされる謂れはない」 「文句があれば古河中将閣下に申し立てろ!」 「断る。  今ここで、その首を貰う」 「反逆か……!」 「〈否〉《いや》。軍法上の反逆行為には該当しない。  六波羅の指揮系統と自分は無関係だ」 「……何?」  数瞬の沈黙。  六波羅に属さない武者という事実を、咀嚼するため要した時間か。 「では貴様は何処の所属だ。  進駐軍か。あの女と同様、売国の輩というわけか?」 「一切の所属は持たない」  嘘を言ったつもりはなかった。  建前の上でも警察属員という身分は公に認められるものではなく、本質的には尚の事、俺が警察を名乗るに値する筈もない。  むしろその対極の側だ。 「単なる殺し屋とでも思って貰えれば結構」 「殺し屋……? ふん」  武者は鼻を鳴らした。 「誰ぞに頼まれて俺を殺しに来たというのか。  それは誰だ? そいつは俺の首に幾らの値をつけた」 「いや」  誤解を招いたようだ。 「依頼人はいないし、報酬もない」 「……殺し屋ではないのか?」 「非営利方針を掲げている。  主な活動理由は一身上の都合」 「それは……」  厚い面頬の上からでも、額の血管の膨れ上がる様子が見えるようだった。  怒気を漲らせて、竜騎兵が一歩進む。 「ただの通り魔というのだ、戯け!」  次の一歩は、攻撃の踏み込みだった。  上段から降りかかる軍刀の斬撃。  あたかも綱を切られたギロチンの落下。  油断していたつもりは全くなかったが、重さと速さを兼ね備えたその一剣を避けるために与えられた余裕はごく少なかった。  右足を蹴り、体勢を半身にしつつ退避。 (なるほど)  刃風に体毛を撫でられながら、心中で頷く。 (次からはそう名乗ろう)  数歩の距離を滑って止まり、向き直る。  六波羅の士は姿勢を崩してなどいなかった。空振りした剣を素早く取り直し、再度の突進を期している。  それでも悔しさは滲ませて、その口が毒づいた。 「近頃の若い奴らは人を愚弄する手口ばかりが達者か。情けない話よ。  俺どもの若い頃は今少し、骨があったように思うがな!」 「面目ない」  愚弄したつもりはなかったが。 (年長者の若者に対する批判は人類史上普遍だと云う。甘んじておこう) «そうなの?» (四千年前のエジプトの壁画にも、『最近の若い者は』と書かれていたとか) «ふぅん»  相対距離はおおよそ〈三間〉《5、6m》。  このような間合で武者と対峙を続けるのには、どうにも違和感を拭えない。  武者の戦舞台は本来、空にある。  蒼天を駆け巡る〈双輪懸〉《ふたわがかり》において、こんな至近距離で向き合うことなどごく稀だ。  それは相手にしても同様だろう。  相対す武者の姿を改めて識別する。八八式竜騎兵甲。七・七〈粍〉《ミリ》機銃を除装しているのは、高級将校の慣例に倣ったものか。大和海軍の制式劔冑だった。  この仁が海兵隊の出身であるなら、陸軍の武者以上に、地へ足をつけた戦闘の経験は少ない筈だった。  ゆるく体を揺らすその挙措、呼吸を測るだけでなく戸惑いのためでもあるのかもしれない。  と、なれば―― «御堂、先手を。  騎航して上座を取りましょう» 「……否」  その進言と時を並べて胸に浮かんだ同じ思い付きは、だが軽く頭を振って却下する。  敵騎よりも速く〈騎航し〉《とび》、高度優勢を奪う――それは言わずもがな、武者戦の鉄則ではあったが。 「相手が飛ぶのを待つ」 «なぜ?» 「俺が先に飛んだ時、後に残すのはこの敵騎だけではない」 «――――»  それで通じたようだった。  村正が沈黙する。  騎航に移れば飛躍的な速度向上を成し得るし、武者として性能を十全に発揮することが能う。  が、その一方、地上に二本の足で立っていた時ほど行動の小回りは利かない。  騎航したこちらを敵騎がすぐに追ってきてくれれば良いが。  無視して地表に留まり、最初の標的に注意を戻すということも有り得た。  そうなった時、もう一度うまく阻止できるか。  ……おそらく分の悪い勝負となろう。  先手は敵に譲るほかない。  そう状況を見定めて、待つ。  待つ。  だが。  ――――飛ばぬ。  前方の竜騎兵は地から離れず、合当理は冷えたまま炎を噴かない。足捌きは危険臭を漂わせつつ踏み込みの機を窺っているが、それは空への飛翔を期した動きではなく、あくまでも土を噛んでいた。  こちらが飛ばない事を深読みし、罠の存在を疑っているのか……?    そうも思ったが、あるいは、 (先の先まで読んでのことか)  八八式は〈出力〉《パワー》と〈防甲〉《アーマー》に重きを置く泥臭い設計であり、足回りの性能に特筆すべき点はない。空での機動戦となれば、初手で優位を取れていたとしても、いつまでそれを維持できるものかは怪しいところだった。  無論、対戦相手の性能にもよるが。  事実として八八式は既に旧型と看做され、海軍ではより機動性を高めた九四式への移行が進んでいる。  目先の利を追って飛べば敗北は必定。  それよりは地上に踏み止まって活路を開くべし――そう判断を下したか?  だとすれば侮り難い沈着さ、老獪さだった。 (時を与えるべからず)  戦闘において、時間は常に経験に優る者を、手札の多い者を利するのだから。  時を切り詰め、策を弄する余裕を奪わねばならない。  旨とすべきは短兵急。 「一手馳走」 「参れ!」  身を沈めて駆ける。  右足を蹴って首を落とし、左足を踏んで背を屈む。地を這う長虫のように、砂を舐める心地で。我が頭を敵手の足元へ投げ入れる。  太陽と己を敵影が遮る。影の中で体躯を跳ね起こし、太刀を送り。  切り上げ―― 「フッ!」  その先を制して。  待ち構えていた、正中を抜ける一閃。  六波羅の武人が振るう軍刀は正確に我が兜の頂上を狙撃した。    ――予測通り。  切り上げと見せた剣を手元に引き込み、かち上げる。軍刀の打ち下ろしとそれは激突し、反発し、最終的に受け流した。  方向を反らされた刃が流れ、肩甲を掠めて行き過ぐ。  〈而〉《しこう》して我が眼前には。  敵武者の脇腹が、無防備に晒されて在り。  ――吉野御流合戦礼法、〈違〉《タガイ》の形。    我が頭頂に敵の剣撃を誘い、受けて流してその隙を打つ――  手首を返しての一斬。  据え物も同然の隙所を、狙い澄ました太刀にて割り切る。 「――ッ」 「まずまずの点前。  だが……足りんわ」  存分に胴を薙ぐ筈の刃先は、  翻った敵刃に受け止められていた。  ――早過ぎる。  渾身の剣を受け切られた直後にしてこの仕様、反応にせよ運剣にせよ常軌を逸している。  武者としてさえ、あまりに不条理。    ……つまりは。 «読み合いで上を行かれた……?» (そのようだな)  今の一合を反芻する。  ……こちらの頭頂を襲った敵騎の一刀、あれを受け流した折の手応えは、奇妙なほど軽かった。鋭くこそあったものの。  俺の誘いの意図を察知して、腕の力を抜き、太刀筋の変転に備えていたということか……?  であればこの仕儀も頷ける。 「貴様、従軍経験はあるか?」 「先の大戦にて二年程、フィリピンの密林で村田銃を抱えて過ごした」 「俺が最前線にいた時間はその六倍だ。  若造、二等兵、貴様が洟垂れの頃から大陸を転戦して磨いた我が剣、見縊って欲しくはないな!」 「承知。以後は心する」  至近距離の不敵な笑みに、視線で首肯を返す。  噛み合った刃と刃がぢゃりぢゃりと、酷劣な音響を立てていた。並みの力では傷もつかぬ鋼同士が互いを削り、白い金屑を散らす。  太刀を支える両腕には恐ろしいまでの重圧。  甲鉄と皮と肉の下で骨が軋みを上げていた。八八式の性能だけでは説明がつかぬこの強剛、おそらく中の仕手の尋常ならざる膂力が働いているのだろう。  ……いや。  それでもまだ不足、か? 「一つ尋ねる」 「何だ」 「銀星号を知っているか」  表情を窺う。  顔は隠されていても、気配ならば読める。この近間なら不自由はない。 「……銀星号?  最近とみに噂の殺戮魔とやらか? どうせ風評が一人歩きした類であろうが……」 「あれがどうしたと云う」 「…………」  無用の質問だったと知れた。  男の声には淀みもない。  何も知らないのだ。〝卵〟を与えられていながら。  しかし、前例のない事ではなかった。この男と対面する必要を、〈彼女〉《・・》は認めなかったのだろう。  であれば、これは今は雑念でしかない。  忘れ去り、目前の状勢の打開に専心する――しかしそれが、思うままにはならない。  こちらとても力勝負はまさに本分、今は失っているとはいえ大長刀を苦なく扱える、盛風力には事欠かぬ身だが。それで尚、この敵は容易に圧倒しかねた。  一瞬ごとに僅差の優劣を覆しつつ、競り合う。 (埒が明かん。……明けられん) «けれど御堂、退いては駄目» (わかっている)  退けば死ぬ。  敵の剣を引き外して飛び下がりつつ斬撃――などと小賢しい事を夢想している間に突き倒され、押し切られるだろう。  裏を返せば、それは対手の立場でもある。  ――今この陣は互いに背水。  然らば前へ進む以外に道はなし。  両足を踏み締め、力の限り押し込む。  同様の力が木霊のように返され、拮抗―― 「……っ?」  しない?  押し込んだ刀は抵抗無く、  そのまま敵へ、 (退いた? 押し切れる?)  虫の良い事態に対する、一瞬の躊躇。    ……それで充分だったのだろう。  両腕の間へ滑り込むなにか。  蛇。  ――柄。  軍刀の柄が、俺の腕と腕の間に、するりと、  差し込まれている。  いつの間にか剣から離れていた敵の左手……  それが再び柄を握った。  鉤のように絡み合う、腕と腕、剣と剣。    この意味は何か?  この形は何か? 「……些細な手妻だが。  こんなものが役立つこともある」 「!?」  竜騎兵が軍刀を回転させた。  その柄は俺の両腕に引っ掛かり――捻り上げる。 «腕絡み!?»  〈剣による関節技〉《アームロック・バイ・ソード》!  肘と手首が悲鳴を上げた。  脳髄に激痛が刺さる。  甲鉄は、ほぼ無意味。  斬撃でも打撃でもないこの攻撃を鋼の壁は防げない。  肉が〈捩〉《よじ》れ、骨が〈撓〉《しな》った。  このままでは折られる。 「ち――」  選択の余地はなかった。  太刀を手放し、後方へ飛び離れる。  そうした結果がどうなるか、わかってはいたが。 「退いたな、孺子!」  この機を逃す筈もない。  六波羅武者は俺が退いた分だけ即座に踏み込んだ。肩口へ刃を押し付けながら。  辛うじて、その両腕をつかみ止める。  足元が安定を失った。 「は――」 「ッ……」  愉悦の眼が見下ろしてくる。  奥歯を噛んで見上げ返す。  今や敵手は馬乗りになり、全体重を乗せた剣を押し付けてきていた。  首の根元――甲鉄の隙間を狙っている……。  腕をつかんで抗うも、優劣は明らか。  先程までとは体勢が違う。 「さて……」 「……」 「生意気な若造も、こうなれば少しは素直になれよう。  もう一度問うぞ。貴様は何者だ?」 「既に言った通り。  その命を貰い受けに参った者」 「理由は」 「一身上の都合」 「そうか」  冷たい感触。  首筋の肉に刃が潜った。 「筋金入りの莫迦者には、もう少し荒療治が要るということらしいな!  貴様の意地が切れるのが先か、それとも首が切れるのが先か。試してくれるぞ!」 「……ッ!!」  冷気が体内を侵蝕する。  実際に侵入しているのはまだほんの数ミリであろうが。そこから生じる悪寒は全身に行き渡りつつあった。深さが一センチにも達すれば完全に凍えそうだ。  その時にはむしろ何も感じないのかもしれないが。  喉笛を一センチ抉られて生存するのは難しかろう。 (この尋問法には問題がある) «……どんな?» (口が利けないではないか) «そうね。貴方が死ぬ前に向こうが気付いてくれるといいのだけれど。  どうするの? 人間の叡智に期待をかけて、このまま俎板の鯉の真似事を続けてみる?» (他人を愚かと思い込む者は低能だが、他人の賢さを信じ込む者は無能だと云う。  やめておこう) (〈導源〉《コイル》を回せ。〈陰義〉《シノギ》で抜ける) «……この状況よ? 正気?» (一応そのつもりだ。  従え、村正。議論の暇はない) «――諒解»  細く長く息を吐く。  余りにも近過ぎる敵刃が否応なく気を焦らせるが、敢えて静める。激しく喘げばそれだけで命取りになりかねない、既に生死の間合はその距離にある。  最後の吐気と共に、両腕の緊張を解く。  敵の刀を押さえ留めている腕力は、言うまでもなく生命線。崩れかかる要塞に残された一門だけの砲。  それを、放棄する。ためらいなく一瞬に。  ――生死の境界、一本の線上を片足で踊る。  甘美な誘惑とどす黒い恐怖で脳漿が煮えた。  村正ならずとも正気を疑う挙であるかもしれない。  今や脆弱な首は完全な無防備、子供でも容易く命を斬れる状態にある。 「――!?」  だが、武者は刹那、躊躇した。  場数を重ねた〈古兵〉《ふるつわもの》であればこそだろう。目前へ突如投げ出された美味な餌に、喜んで飛びつくには〈戦〉《いくさ》なるものを知り過ぎている。  未熟者であれば思慮もなく押し切ったに違いない。そうして勝利を手にしただろう。  そうする代わり、この古兵は腕と剣を止めた。  ごくわずかな、間隙の時が生ずる。    そこに機を得られないのならば、俺はこの場で死すべきであった。  短く鋭く息を吸う。  ほんの拳一つ分の空気、それだけで事は足りる。  吸った空気を胎臓へ落とし、流し、渦を巻かせる。  自由に、奔放に、広がろうとする波のうねり。  それを抑制する。締め上げて、引き絞る。  のたうち回る小さな力、あくまでも解放せず、暴れさせながら留め続ける。  渦は悶え、より大きな力を求めて周囲を巻き込む。  膨張。肥大。抑制。暴走。  波は波濤に。波濤は怒涛に。  猛り狂うねじれた瀑布、拘束の鎖を今にも引き千切らんとする、今や絶望的な暴力と化したそれへ最後の制御。  拘束から漏れ出た一端を腕へ流す。  腕から――握り締めている敵の腕へ。 «陰» (陽)  拘束を引き剥がす。  暴力に自由を。  喜悦に震え、衝動のまま、全身を駆け巡り、満たし、溢れ出す〈暴威〉《パワー》。  放散する。抑圧の時代は終わり。今この時は解放。 「〈磁装・負極〉《エンチャント・マイナス》――」 «〝ながれ・かえる〟» 「な――げはッ!?」  六波羅の武者は吹き飛んだ。  吹き飛んだ――俺の上から。  一瞬にして――遥かな距離を。    組み伏せられた村正の、右足の一蹴りで。  少なくとも傍目にはそう見えた筈だった。  戯けた有様、としか言いようもなかったろう。武者の重量、馬乗りの図式、如何に乱雑な計算をしても、そこからこのような結果は導き出せまい。  敵の騎体に磁力を帯びさせ、それと同極つまり反発する磁力を持たせての蹴り。  村正の陰義による、その仕込みがあったればこその諧謔事。  蹴られた六波羅は果たして、事実を理解し得たか。  問うだけの余裕はない。  今の一打が敵にさしたる損傷を及ぼしていないのはわかっている。勝ちを決めるにはこの隙を生かしきらねばならなかった。  駆ける。  村正の磁装は長くは保たない。  瞬発的な術であり、一秒以上も保持しようとすれば莫大な熱量を消費する……といって打ち切れば、再度磁装するには呼吸の調整から始めなくてはならない。  勝負を仕切り直しても不利は覆らない。  首筋の傷は浅くはなかった。時と共に血を流し、熱を失っていくだろう。勝機は今、この刹那だけ。  駆ける。  竜騎兵は早、立ち上がろうとしていた。  やはりダメージはない。派手に転がしはしたがそれだけだ。その目前、間合へと踏み込む。  太刀を拾っている暇など無かった。  体躯そのものを武器として、ぶち当てる。 「ぐっ……!」  再び吹き飛ぶ八八式竜騎兵。  自動車に激突した子犬のように、高く舞う。  しかしそうしていながら、敵騎は軍刀を手放してもいない。  衝突の瞬間に体勢を備え、肚をも据えていたに違いなかった。  何の損害も与えていない――  一方、こちらは磁装が解ける。熱量の限度だった。  これ以上維持を試みるなら、〈熱量欠乏〉《フリーズ》を覚悟せねばならない。  全身が冷え込んでいる。指先にはかすかに痺れ。  逆転の策は終わった。  敵兵は無傷、当方は戦闘不能一歩手前。    あとは決着を待つだけだ。 «御堂!» 「応」  力を絞り、地を蹴り、空へ躍る。  決着をつけるために。 「若造がああああああああ!!」  六波羅武者の咆哮が空を割る。  怒りの、屈辱の、失望の。  逆転は成った。勝負は決した。  その事実を、敵も理解していた――山腹から虚空へ放り出され、合当理を噴いて騎航に移りながら。  空で戦えばこちらが勝つ。故に敵は飛ばぬ。  ……ならば、無理矢理にでも飛ばせてしまえば良い!  足元に大地が無ければ飛ぶ以外にないのだ。  是非もなく、戦場はただ一つになる。  残り少ない熱量を背の飛行器に回し、  浮上――  飛行――  上昇――  同じプロセスを、確実にこちらよりも遅れて辿っている敵騎に対し、高度優勢を確保する。    反転。下降。  八八式竜騎兵は実質、まだ上昇機動を始めてさえもいなかった。  アクシデントからの騎航だったせいか、〈姿勢の安定〉《バランス》を取るのに四苦八苦している。  まさしく鴨。  一方的に強襲する。  太刀は無い。拳だけが武装だった。  これで破壊し得る致命箇所となれば、それは唯一つ。  敵兵の背側から近接。  腰を狙い、殴る。 「がふ……っ」  武者が大きく姿勢を崩す。  そして――その崩れは回復しない。  腰回りに広がる装甲、母衣は、騎航するに不可欠な羽翼。これなくば、いくら合当理を噴かしたところで騒音公害にしかならない。  竜騎兵はその翼の半分以上を失っていた。  だが、残った母衣がそれでも役目を果たそうとしたのか。  武者は落ちながらも半ば滑空し、墜落と着陸の中間のような格好で地上の樹海へと向かってゆく。  ……あれではおそらく死ぬまい。  追撃の必要があった。 「村正、敵騎を捕捉しろ。  追尾する」 «無理よ!» 「何?」 «熱量が限界に達している。  これ以上の騎航は危険。戦闘は論外!» 「……」  言われて自身を振り返れば確かに、戦える状態ではなかった。  手指の痺れは既に麻痺というべき状態に近く、全身の寒気もそれに準じている。  一秒毎に状況は悪化し、装甲騎航を続ける限り回復はない。    潮時であった。 「仕留め損ねたか……」 «今回は仕方ないでしょう。  何分にも急なことだったし» 「その急に対応し切れていれば最小限の時間で事態の解決が果たされていた。  いつもの事だが、我が無能が悔やまれる」 «……» 「戻ろう、村正。  体調を回復させ、然るのち樹海を探索する」 «……諒解» 「…………」 「お嬢さま……」 「赤い、武者……。  赤い…………」 「…………」  ――左様でございます。  そもそもの始まりは、長らく村を離れていたあの男が、幕府代官の肩書きを引っさげて帰ってきたときのこと。  こんな小村にわざわざ代官が派遣されてくるなんておかしな話でございますし、厄介にも思いましたが、それでも村の出身者というのが救いかと、最初はその程度に考えておりました。  しかしすぐ度肝を抜かれる羽目になったのでございます。  あの男、長坂は手勢を連れて乗り込んで来るや否や村の諸役を集め、お山を掘ると言い放ったのですから。  はい。  あの山には貴重な鉱脈が眠っているという言い伝えがございまして――昔、まだ徳川さまが天下を治めておられた頃、猟師が山で貴石を発見したということが。  当時の村の人々は喜んで、山師を呼び寄せ、早速に掘り出そうとしたようでございます。  しかし、山に住んでいた〈蝦夷〉《えみし》の一族がその前に立ち塞がり、制止しました。  なんでも猟師が発見した石は、蝦夷の言うところによると、〈こんじんさま〉《・・・・・・》の怒りの気なのだとか。  それを掘り返すなど、望んで祟りを招くに等しいと。  そう言われてもピンと来なかったのでしょう、村人達は耳を貸さず、山師に従って坑道を掘り始めました。  今も昔も何もない村のこと、やにわに金のなる木を見つけて躍起になっていたのかもしれません。  ……そうして、祟りが降り注いだのでございます。  それはそれは恐ろしい有様だったそうで。  もうすぐ鉱脈に行き当たろうかというある時、不意に山から稲光が迸るや、嵐のように辺りを駆け巡り、その光に触れた者は皆……  石になったやら、砂になったやら、〈錆びてしまった〉《・・・・・・・》やら、色々と伝えられておりますが。  確かなことは、多くの者が亡くなったという、これは当時の記録からも疑いようのない事実でございます。  村の者どもは慌てふためき、蝦夷の長を招いて祟りを鎮めてくれるよう懇願しました。  虫の良い言い草というものですが、蝦夷は何も口にせず頼みを聞いてくれたと伝え聞いております。  一族伝来の神宝を坑道の中に安置して〈こんじんさま〉《・・・・・・》の気を止める重石とし、その上で坑道を埋め戻したのだそうで。  その甲斐あってか、祟りは一度きりで絶えました。  それでも村人は安心できなかったのでしょう、更に山へ社を建てて蝦夷に預け、祟り神を祀らせました。  これは今もまだ続いております。社は古ぼけ、蝦夷はだいぶん数を減らしてしまいましたが……。  そんなことがあったのでございます。  この禁忌に、長坂は手をつけると云うのですよ。  一から穴を掘るのでは金も時間も掛かりますからな。記録を調べて、昔の坑道を掘り返そうという計画で。  もちろん、誰もが反対しました。  それは何も皆が皆、祟りを信じ込んでいた為というのではございません。何しろ昔の話ですし、何がどこまで真実かは怪しいと、私なども思っております。  しかしでございます。仮に首尾良く鉱脈を発見したとしても、待っているのは、鉱夫としての過酷な生活だけでございましょう? 〈あの〉《・・》六波羅がまさか、収益の一部でも村へ還元してくれるとは思えませんし。  そしてもし、祟りの伝説が全て事実だったなら……。  おわかりでございましょう。長坂の計画はどう転んでも、村を不幸にしかしないのでございます。  皆の不賛同は、刃で報われました。  何が彼をそこまで駆り立てたのかはわかりませんが、異を唱えた者が何人も殺され、先代の村長も……ええ、私はその弟です。それまではただの雑貨屋でしたよ。  力ずくで来られては、勝負になりますものか。代官が連れてきた幕府の兵はさほど多くなかったのですが、ほかにも怪しげな連中が幾人かおりまして。用心棒とでもいうのでしょうかな。それがまた、滅法強く……。  止むを得ず私どもは長坂に従い、お山を掘り始めたのでございます。ろくに休みもなしの、苛酷な作業でございました。過労や、指導と称する奴らの制裁で、また何人が死んだことか……。  刃向かえば死。従っても死。  村は追い込まれておりましたが、忌々しくも作業の方は順調でした。長坂一人を神様が嘉したかのようで、悔しさに枕を濡らしたのは私だけではありますまい。  そうして難儀していたところに……  巡察官さま、貴方がやって来られたのでございます。  村長の家はまずまずの大きさで、通された応接間も相撲くらいはできそうな広さがあった。といっても、それは主人の財権力ゆえというより単に土地が余っているからというのが理由ではないだろうか。  応接間だけに見苦しい汚れが目立つなどということはないが、気の利いた調度があるわけでもなかった。  ごく質素な装いである。代々の村長が住まいとした家にしてこれということからも、村の貧しさは窺えた。  部屋の味気なさを恥じてか、村長は気後れしているようにも見えた。俺の嗜好で言えばこの飾り気の無さはむしろ好ましい。がそう口にしても、趣味でやっているわけではない村長にすれば喜べないだろう。  それに実際のところ、村長が本当に気後れしているのだとするなら、理由はもっと他にありそうだった。  得体の知れない外来人(俺)も潔白ではなかろうが。村長の視線は先刻から、もう一人の来客の上にあった。  妙齢の女性。美しい、と言って一切の問題はないと思える。長い髪はわけても艶めいていた。茶碗を手に取る仕草やさりげない微笑から、育ちの良さも察せられる。加えるに如何にも従者然と背後へ控える老婦人。  絵に描いたような雲上人、深窓の令嬢である。  ただその絵には、少々見過ごし難い〈瑕〉《きず》があった。  瑕、というにはあたらないだろうか。それは別段、彼女の外観を損なっているわけではなかったから。  良く似合っている――思わず首を傾げたくなる程に、その軍服は。  戦国時代の甲冑ではないとはいえ、現代の軍服とてやはり無骨、不穏、不吉の匂いを漂わすものには違いない。この女性との間に違和感が生じないのは不思議だった。釣り合いというものが取れているのだ。  軍服には別段、変わった所などないというのに。    …………愚かしい疑問だった。  彼女の方が軍服に合っているのだ。  不穏と不吉の気配を自前で持っているのだ。  外観がどう見えようと、彼女は間違いなく軍人なのだから。  あの場には村長もいた。銃声の響いた一幕を覚えているのなら、今更貴婦人の仮装と誤解して戸惑うこともないだろう。であれば彼の困惑は実のところ、軍服が示す所属に帰せられるに違いない。  国際統和共栄連盟/大和進駐軍司令部。通称GHQ。  六年前までは国を挙げての戦争相手であり、現在は占領者として頭上に君臨する、異邦人の群団。  そして、六波羅を大和の統治者として認め、国家の荒廃を黙視している存在。  好意を抱くべき理由は小笠原海溝の底まで探してもありそうにない。  かてて加えて、この女性は大和人以外のどんな人種にも見えなかった。  自然の帰結として、売国者、裏切者、といった言語が思い浮かぶのは避けられないところである。  これだけ条件が揃っていれば、本来なら、後は押し殺した敵意の視線と陰口の鉾先を向けるのみだろう。  だが、他でもない、嫌悪すべきこの女性こそが村の窮地に救いの手を差し伸べたのだ。  一通り事情の説明を終えた村長が続ける言葉に悩むのも、当然と言えた。  代わって口火を切ろうにもどうしたものか、俺とても迷妄している。 (村正)  口の中で呼びかける。  こんな小声でも、それが〈帯刀〉《タテワキ》の儀で結ばれた仕手のものであれば、距離を隔てたどこかにいる劔冑が聞き逃すことは決してない。返答はすぐだった。 «なに?» (会話に詰まった。  客の礼儀として何か言おうと思うのだが、どうすれば良いと思う) «……えっ?  それは、まあ……時候の挨拶なんかが定番じゃないのかしら» (なるほど)  俺は直ちに実行した。 「良い日和ですね」 「はあ」 「……」 「……」  会話は尽きた。 (他には?) «そ、そうね……小粋な〈冗句〉《じょーく》とか» (わかった)  実行する。 「大坂城を建てたのは誰だか知っていますか」 「大工」 「…………」 「…………」  会話は途絶えた。 (他には?) «ごめんなさい。お願い。もう聞かないで。  私、なんだか段々と、自分がとてつもなく罪深いことをしているような気になってきて仕方がないの» (そうか)  どのみち、これ以上悩む必要はないようだった。  女性が茶碗を置き、面を上げている。これまで沈黙していたのは、別に他意があったわけではなく、ただ饗された茶を楽しんでいただけであったらしい。  その声はまず、後背の同行者に向けられた。 「おおむね、事前調査の通りですね」 「はい」  老婆が軽く頷きを返す。  ……ということは、俺を含む傍目にはいかにも唐突と見えた彼女の行動も、既に裏付けが存在してのものだったのだろう。当然といえば、当然の話だ。  それにしたところで、やにわに長銃一丁で六波羅の士官――多くは武者だ――とその配下に挑む真似が、無謀の極限であることに変わりはないが。  やはり今一つ、つかめない人物だった。  松葉のように細く、感情の読みようとてない眼差しがこちらへ向く。 「次は、そちら様のお話を伺わせて頂きたいのですけれど……」 「ご尤もです」  前触れもなく闖入した武者に疑問を持たぬ筈がない。 「その前に、遅れ馳せながら御礼を申し上げます。  先刻は危ない所をありがとうございました」 「私めからも感謝申し上げます。  卒爾ながら、貴方さまの御名前は……」  さて。  どう答えるべきか。  軽々しく素性を明かすべきではないが……  この二人は信用が置けるだろうか?  ……信用できる、と俺の感性は伝えていた。  理性によって分析するなら、どうにも訝しいと言わざるを得ない。この二人は不明瞭に過ぎる。  だがそう思考する以前の心象、素直な感想として、ほのかに好意めいたものを感じずにいられなかった。  理性より感性を優先するのは危険だとわかっている。  しかし理性の導く結論としても、今この場で虚偽を並べることには疑問符がついた。後難が予測される。  ここは正直に話しておくに如かずだろう。  ……それはともかく。  〈彼女に好感を抱くのは危険なことだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  注意した方がいい……。  ……何とも言いようがない。  現状では判断材料がいかにも不足だ。  六波羅に銃口を向けた以上、彼らの苛政に加担する者ではない。  そうは思うものの、そのGHQの肩書きは、敵意はともかく警戒心を呼ぶには充分に足りていた。  しかし信用云々はさておいて、後々のことを考えるに、今この場で虚言を吐くことは厄介を招くだけとも思える。  正直に話しておくのが無難かもしれない。 「鎌倉警察署の湊斗景明です。  先程の行為は一身上の都合による振舞い、差し出た真似とお咎めなくば重畳。感謝などして頂くには及びません」 「あら、あら。そんなご謙遜はなさらないで。  命を救っておきながら感謝はするななんて、それではわたくし、恩知らずの恥知らず者になるしかありませんもの。ねえ、ばあや?」 「はい。まったくでございます。  湊斗さま、大恩ある方とはいえお嬢さまを忘恩無恥の輩に貶めるが如きはどうかご遠慮願わしゅう存じます」 「そのような〈意図〉《つもり》は決して。  しかし無礼を申しました。お詫び致します」  ……なるほど。  確かに、彼女の立場から見ればそういう話か。  彼女に果たして助けが必要だったのか、その点には一抹の疑念があるとしても。あの時の彼女の振舞いを今にして思い返せば、竜騎兵を相手取っても何らかの方法で切り抜ける自信はあったように思える。  だがそうとしても、礼節を知る人間であれば、与えられた援助を無用と決め付けることに恥を覚えずにはいられまい。礼にて返すべし、その心情は理解が及ぶ。  心中で頷きながら、俺は頭を下げた。  女性と老婦が顔を見合わせ、くすくすと笑う。  二人にすれば俺のこんな態度も可笑しいのだろうか。  ――暴兵の手から村人の窮地を救っていたこの女性。  俺に言わせれば、彼女が俺に感謝すべき理由は〈本当〉《・・》〈に全く無い〉《・・・・・》のだが、それは当人の知る由もない事だ。 「あらいけない。申し遅れました。  GHQ民政局の、大鳥香奈枝です。恩人に先に名乗らせてしまって、こちらこそ無礼をお詫びしなくてはなりませんね」 「あ、これはさよがうっかりしておりました。村長どのには既に挨拶を済ませていたもので……どうかお許しを、湊斗さま。  私めは香奈枝の侍従、永倉でございます」 「ご丁寧に。  大鳥中尉殿。永倉侍従殿」  各々に向かって一度ずつ礼を返す。  女性――大鳥中尉の階級は襟章を見て確認した。 (しかし……〈大鳥〉《・・》?)  なかなかもって容易ならない姓だ。  しかし、こちらから藪をつつくのは賢明と言い難いだろう。ひとまずは聞き流しておくべきと思えた。 「湊斗さまは警察の方なのですね」 「はい。  仔細あって、公式の身分は持ちませんが」 「あら、やっぱりそうなんですの?  寡聞ながら、警察局に武者を擁する部門があるとは耳にしたことがなくて……その辺り、詳しくお尋ねしては失礼ですかしら?」 「至極当然の疑問と存じます。  しかし、御遠慮頂ければ幸いです」 「……」 「大和の武者はなべて六波羅の指揮下に。  どうか、そういう事にしておいて頂きたく。色々と障りがあります故」  最初から警察などと名乗らなければ面倒もなかったのかもしれない。が、どうせこのあと村で捜査活動をする際には警察の名で行わざるを得ないのだ。  身元不明の外来者では誰も協力などしない。  となれば当然この中尉の耳にも入るだろう。  無用の不審を買わないためにはここで名乗っておかねばならなかった。その上で、話せない事は話せないとこれも正直に告げるしかない。  それで不興を被るなら、やむ無しというものだった。 「お嬢さま……」 「……承知致しました。不躾な質問をお許し下さいまし。  先程この村で武者同士の戦闘がありました。しかしあなたとは無関係」 「それでよろしくて?」 「はい。  御配慮に感謝します」  少なくとも表面上、大鳥中尉は気分を損じた風ではなかった。  永倉侍従の方は視線にいささかの厳しさを含ませていたが。 「鎌倉署から来られたということですけれど、この村の駐在の方ではありませんのね?」 「はい。ここへは捜査のため参りました」 「それもお尋ねしない方がよろしいかしら」 「いえ、こちらは差し支えありません」  無論、吹聴して回られては困るが。  この人々ならば心配はいらないだろう。 「自分の任務は銀星号事件の捜査です」 「……は? 何ですと!?」 「ぎんせいごう……銀星号。  さよ。それは、確か……」 「はい。近年、関東を中心に大活躍中と聞く無差別殺戮犯のことかと」 「そうよね。  あら、まあ……それは大変な……」  ……?  大鳥主従の反応はやや鈍かった。話の輪から退いていた格好の村長は愕然とこちらを凝視しているというのに、だ。  巷の風説を思えば村長の反応の方が自然といえる。  単に物に動じない質なのかもしれないが……  あるいはこの二人、大和に来たのが最近のことなのだろうか。GHQの人間である以上、不思議ではない。 「なるほど、それで劔冑……とと、失礼を」 「ではまさか、あのお代官……ええと、長坂大尉? が、その銀星号の正体なのですか?」 「それは違います。  しかし彼には、銀星号と接触を持ち、ある種の協力関係を取り結んだ嫌疑があるのです。そのため制圧を試みました」 「不覚にも逃走を許してしまいましたが。  後程、追跡を行うつもりです」 「はぁ。そういうことですの……」  俯くようにして口を閉ざす大鳥香奈枝。  老侍従も同様、こちらの説明を咀嚼する様子。  村長は色々と聞きたくてたまらぬ風だったが、とりあえず、今すぐ銀星号が降ってくるとかいう次元の話ではないとわかったせいだろう。自制してくれていた。  助かる。聞かれても、これ以上のことは説明し難い。 「おおむね、諒解致しました。湊斗さま。  わたくしも許される範囲で協力させて頂きます」 「有難きご厚意。感謝に堪えません」  とはいうものの。  できれば、協力を仰ぐことなどなく済ませたい。  ……こちらのそんな内心を読み取ったかのように、薄紅色の口元が微笑った。 「どうか遠慮はなさらないで下さいましね。  わたくしの職務にも関わることですから」 「……失礼、中尉殿。  貴方の職務をお伺いします」 「先ほどの、わたくしとお代官のやり取りはお聞きになりませんでした?」 「近くには居りましたが、詳しくは……」 「わたくしは民政局から巡察官としてこの村に派遣された者ですの。  人々の生活の実情を把握し、問題があれば改善に努めるのが職務になります」 「巡察官……」  そういった制度がGHQにあることは知っていた。  なるほど、大鳥中尉が六波羅兵に対して取った処置はその職責に合致する。  しかし。 「率直な物言いをお許し頂ければ」 「どうぞ」 「その制度が実効的に機能しているとは思いませんでした。単に体面を保つ都合上、設置してあるだけのものかと」 「あら、本当に率直な。  でもそれはお互い様ではなくて? お巡りさん」 「確かに」  有名無実は警察局の代名詞だ。あるいはその逆だ。  銀星号事件の捜査などといって活動している自分は相当おかしく見えるに違いない。 「何もしない、何も見ない、何も聞かない。それが巡察官の慣行かもしれませんが……。  〈何もするな〉《・・・・・》とは指示されていませんもの。何かしても咎められる筋合いはなし」 「ね、さよ」 「はい」  ……成程。  大和の内政は六波羅へ事実上委任、がGHQの方針であることを知らないわけではないだろう。  どうやらこう見えてなかなか反骨心が旺盛な人物のようだ。……あるいは別の何か、か。 「とはいえ、わたくしの活動が司令部に知られればすぐに召還されてしまうでしょう。  その後であのお代官さまが戻ってくれば、村は結局元通り」 「そういえば、代官の部下は?」 「武装解除の上で監禁しております。  あの連中を鏖殺してしまえば多少、代官殿もやりにくくなるでしょうけれどもねぇ」 「現行犯でないと処刑は難しくてよ、ばあや。  といって、監獄に送りつけても一泊二日で帰ってくるでしょうし」 「〈事故〉《・・》は如何でございましょう?」 「監禁していた家屋が不幸な火災で?  責任問題が村に行き着く可能性を考えると、どうかしら」 「空から隕石が降ってきたのであれば、これはどうにも仕様がございますまい」 「そうねえ」  何やら会話が不穏になってきた。  全く平然と話しているところからして単なる口遊びだとは思うが。いや。どうだろう。 「まあ、それはさておいて。  事が厄介になる前に首領格を潰してしまえれば、万事は丸く解決なのです、湊斗さま」 「わたくしもあなたもお代官を捕えたい。  目的は一致、協力は当然と思われません?」 「問題が一点。  別の代官が赴任してきて、また同じことになるとも考えられます」 「長坂大尉は採鉱事業を黙認させるために、民政局へポケットマネーをばら撒いたご様子。  幕命による事業なら彼個人がそんな真似をする必要はありません。つまり、これは独走」 「この事業の収益を武器に出世階段を登ってゆく腹なのでしょうねぇ。むしろ事業が軌道に乗るまでは幕府の介入を避けたいはず。  上前をはねられるだけでございますから」 「納得です。  村としても代官がいなくなり、採鉱事業が中止となれば最善。そう考えて支障はありませんか?」 「はい、はい! 願ってもないことでございます。どうかどうか、宜しくお頼み致します。  ただ……」 「はい」 「代官の部下のことですが。  今のところ、すべてが捕まっているというわけではなく……もしかすると、残りが代官と合流しているかもしれません」 「ま。これはしたり。  見逃しがございましたか」 「正規の兵士はあれで全員だと思います。  しかし先程も申しました、怪しげな連中が……代官の用心棒の」 「あら。  いけない、うっかり忘れていました」 「奴らは今日は朝からどこかへ出掛けたようでして。悪運が強いと申しますか……それで巡察官さまとは出くわさずに済んだようで」 「諒解しました。  念頭に置いておきます」  敵は単独とは限らないということだ。  少々、厄介な事態になるかもしれない。  だがいつもの事といえば、それだけの事。  気には留めても、気に病むほどの大事ではない。 「では、大鳥巡察官殿。  これより自分は任務を再開したく思いますが、行動の自由を認めて頂けるでしょうか」 「もちろんです。  わたくしはしばらく、ここへご厄介になります。支援が必要でしたらその都度、ご連絡を下さいまし」 「恐縮です。  それでは失礼します。村長殿、お邪魔致しました」 「いえいえ!  何のお構いもできませず……」 「…………」 「…………」 「…………」 「……っ……」 「…………」 「ち……年を食ったかよ……俺も。  あのような若造に……」 「……畜生が……」 「ほっ、ほっ、ほっ。  不覚であったのう。主らしくもない」 「小太郎!」 「怪我は大したことはないようだの。  打ち身程度か。何より何より、主にもまだ運があるということよ」 「…………」 「少し待て、薬をやろう。  強壮剤もあるが如何する。呑むか」 「……。  事情の説明はいらん様子だな?」 「見ておったからの」 「何もせずにか!」 「はてな。  儂に何かできることがあったかの?」 「空々しいことを抜かす。  あの場に貴様がおれば、彼奴めを討ち取ることも容易かった筈だ!」 「否、とは言わぬがの。  それで如何する?」 「何……」 「勢いに任せて巡察官とやらも斬ったかね?」 「……」 「それはいかん。で、あろ?  あの女を殺してしまったら我らは手詰まり。主がいかにGHQへ工作しておろうが無駄よ。連中は体面のために主を処刑せずばなるまい」 「うぬ……」 「それを思えば主が敗れたはむしろ不幸中の幸いよ。むろん、殺されては元も子もない。いざという際には手を出すつもりでいたが、ほっ、主は自力で生還したではないか」 「儂ごときの手は無用であったということよ。  だからのぉ、あまり責めてくれるな。儂も些か腰が重いかもしれんが、主よりひと回り余計に年を重ねておるでな。仕様がない」 「……抜かせ。  まあいい。確かに今回は俺の失策であった。貴様に当たったところで詮もないわ」 「しかし、この先は働いて貰うぞ」 「むろん。儂は主に雇われた身ゆえ、御用とあらば承ろう。  何をしようかの。歌を詠もうか。それとも絵でも描こうかな」 「俺が貴様に〈呉〉《く》れている金は厚生年金か?」 「冗談よ。凄むでない。  残念なことに、我が家の家訓には無為徒食という言葉がなくてのゥ。どうぞこの老骨に鞭打って、こき使ってくれい」 「当たり前だ。恩着せがましいわ。  貴様とて、ここでひと稼ぎせねば後がない身であろう」 「ほっ。痛い所を突いてくれるの。  まさに然りよ。主家と勤めとを失い、劔冑までも一度は奪われた我が一族。怪しげな話にでも食いつかぬことには、孫らが干上がる」 「口の減らぬ……。  ふん。だがそう思うのならば、貴様らにはあの赤い武者を相手にして貰おうか」 「ほう……? 儂に譲るかね。あの村正を。  これは意外。主ほどの気概ある男であれば、借りは己の手で返さずにおかぬものと思うておったに」 「煽っているつもりか?  言われずとも、できる事ならそうしている。だが、翼を砕かれては如何ともならぬわ」 「飛べぬか」 「鍛冶師に直させぬことにはな。  鍛冶か……ち。まさか〈奴〉《・》が俺の頼みを聞く筈もなし。今頃は祝い酒でも呷っているか」 「休息をとればそのうち直ろう」 「貴様らの真打と一緒にするな。数打はそこまで便利に出来ておらん。  自然修復など待っておっては、俺も貴様も寿命が尽きるわ」 「やれ、それでは仕方もなかろうの。  心得た。年寄りの冷水というものだがここは一つ、老いてなお盛んなりと言わせてくれようかい」 「奴は俺の首を取らねば済まぬ様子だった。すぐにも追って来よう。  任せたぞ……〈老楽〉《おいらく》の身を貴様と二人、うら寂しい森に沈めるなど御免なのでな」 「それはこちらも願い下げよ。言うてはなんだが主の顔、墓の中まで付き合いたいような代物ではないからのう」 「意見が合って結構だ。  それはともかく、貴様……先程、聞き捨てならぬことを洩らしたな」 「とは?」 「村正、と言ったか?」 「あの赤い劔冑のことだの」 「確かか」 「さて……。  劔冑の目利きが儂の仕事ではないでなぁ。見立て違いということもあろうよ」 「しかし、一目見て伝説が謳う村正と断定はしたわけか」 「……」 「そういえばあの男、妙なことを尋ねてきた。  銀星号のことを知らんか、などと……」 「ほーぅ……」 「……露骨に惚けるではないか?  俺の知らぬことを何か知っているようだ」 「はてな」 「貴様が俺の劔冑に施した妙な〈仕掛け〉《・・・》とでも関わりのあることか?」 「……」 「…………まあ、良い。  いずれにしろ、事は厄介だ。あれが貴様の言う通り勢州村正であろうと、なかろうとな」 「勝算はあるのか」 「ほっ。その心配は無用に願おうかの。  妖甲村正であろうが名甲正宗であろうが、この小太郎の前では同じ事。赤子にひとしく無力で、可愛いものよ」 「随分と吼える。  貴様らがそこまでの〈術技〉《わざ》を秘めていたとは、この俺にして知らなんだぞ」 「血の気の多い村の若い衆なぞを相手に使うようなものでもないからの。  主のような練磨の猛者が敵ならば、出さぬではないが……ほほ、見てみたいかの?」 「……」 「それとも……  そちらの御仁が相手をして下さるかな?」 「いやいや、いや……。  そいつぁ勘弁して頂けませんかねぇ」 「貴様……」 「ほっ。  久しいの、雪車町殿」 「へ、へ。  どうも、ご無沙汰をしまして」 「……丁度いい。  貴様に使いをやろうと思っていたところだ」 「はい、それはまあ、そうでしょうとも。  大尉殿が仰りたいことは、ようくわかっております」 「一応言わせろ。腹に溜まる。  貴様、民政局との〈つなぎ〉《・・・》は万全だと言っていたのではなかったか!? これで何処からも邪魔は入らない、と!」 「えぇ、はい。確かにそう申し上げました。  コブデン中佐にお引き合わせした折でしたっけねぇ……じかに話す機会も必要だろうと、この雪車町の周旋で」 「だが実際はどうだ。巡察官だと!?  あんなものを寄越させないための裏工作ではないか……! これでは何の意味もないわ。コブデンは能無しか、それとも恩知らずか!?」 「お怒りはご尤も。大変ご尤もで。  しかしですねぇ、大尉殿。コブデン中佐は別に〈ばっくれた〉《・・・・・》わけでも、忘れてたわけでもないんでして……」 「約束通りのことはしたと?  それでこの〈醜態〉《ザマ》か?」 「通すべきとこにはちゃんと話を通しましたんで、はい。そいつぁ間違いないです。  ただちょいと、予想してなかった穴が……巡察官制度なんですがね。足を掬われまして」 「……」 「あれは民政局の人間が適当に割り振られて行くやつで、占領地の実情を把握するための巡察ってのが任務なんですが……  表向きのことでしてねぇ」 「侵略者じゃありませんって格好つけるためにあるようなもんでして。実際は有給休暇か慰安旅行みたいなもんなんです。何もしないのが暗黙の了解になってんですよ、巡察官は」 「そんなだから中佐も気にはしてなかったんですがねぇ。それでも大和人の中尉がここへ巡察に出たって聞くと、使い走りに非公式の伝言を与えて追わせたんですよ。こうして」 「貴様が?」 「〈左様〉《さい》で。  ただそれが、間に合いませんでね。着いた時にはもう、あの巡察官が〈やっちまった〉《・・・・・・》後でして……」 「後ほど中佐に連絡を飛ばしておきますが、驚くでしょうねぇ。何もしないのが巡察官の本分だっていうのに、まさか建前の方を押し立てて暴れ回るお人がいようとは、いやはや」 「……。  伝言とやらは、あの女に伝えたのか?」 「えぇ、こちらへ来る前に。  大尉殿との約束がどうのなんて言えませんから、単純に、何もしないで欲しいって意向を伝えるだけの内容だったんですがねぇ……」 「それをいいことに、シラを切られちまいまして。自分は巡察官の職務を果たすだけです、とこうで。そりゃ正論ですからね。こっちとしちゃ、返す言葉ってもんがない」 「……あの女は何者だ」 「詳しい話は存じませんがね。欧州のどこかの軍から連盟軍に出向してるんだそうで。  そいつは別に珍しくもなんともありゃしませんが……」 「大和人なのだろう?」 「その通りで。  名前も大鳥香奈枝で大和人、もちろん大和語に不自由はなし、と間違いのないところでしてねぇ。それがどうして欧州にいたやら」 「司令部での立場は強いのか?」 「いぃえぇ、全然。主流の派閥にゃぁ属してないそうですからねぇ。大和人ならなんかで役に立つこともあるだろうってんで、民政局に席を与えられてるようなもんらしいですよ」 「……ふん。  では今回の件は、単なる跳ねっ返りの独走なのだな?」 「そういうことですかねぇ……」 「始末はどうつける?」 「コブデン中佐に連絡を取って、召還命令を出して頂きましょう」 「いつになる?」 「こっちの連絡は明日中には着くとして――電話がありゃ一発なんですがね。こんな村に電線が引かれてるわきゃないですし――それを受けた中佐殿がすぐに動いてくれたとして」 「中佐から巡察官への連絡は、無線がある筈ですんで。巡察官の方で居留守を決め込んだとしても……ま、丸一日とは誤魔化せないでしょう。その後は再び大尉殿の天下です」 「ここ数日が勝負ということだの」 「……わかった。宜しく頼む。  思えば貴様には世話になりっぱなしだな。GHQとの折衝に融資の仲介。幕兵以外の駒も入用だろうと、小太郎を寄越してもくれた」 「そうだの。雪車町殿は儂にとっても、劔冑を取り戻してくれたうえに儲け話の世話までしてくれた恩人。感謝しておるよ」 「へへ。滅相もないことで」 「成功の暁には報いさせてもらおう」 「いやぁ、へへ……。  お気持ちだけ、頂いておきましょうか」 「ほう。無欲な男だな。  それとも……」 「へっ」 「俺が成功しようとしまいと〈貴様らにはどう〉《・・・・・・・》〈でもいい〉《・・・・》のだと、そういうことか?  GHQの使い走り……雪車町一蔵」 「へ、へ、へ……」 「……」 「そう言っちゃ、身も蓋もありませんが……。  まあ、要はそういうことですかねぇ」 「……鼻持ちならん奴め」 「恐れ入ります」 「ほっ、ほっ、ほっ」 「ふん……。  もう一つ聞いておきたいことがある」 「何なりと」 「赤い武者は見たか?」 「いえ……話は聞きましたがね。  ご災難だったようで」 「何者かわからんか?  本人の言を信じるなら、六波羅でも進駐軍でもないらしい」 「さぁて。  心当たりってほどのもんでもございませんが……」 「なんだ」 「先刻、巡察官殿に会いに行った折ですがね。  〈以前〉《まえ》にちらりと顔を合わせたことのある、警官と出くわしましたんで」 「……警官?」 「やたら不景気な面した若い男なんですがね」 「どういう人間だ」 「さて、ねぇ。口も利いてないんで。  ただ、あれはねぇ……あたしらなんかとはどうも、生理的に合いそうにない野郎ですよ」 「ほっ。と、いうと?」 「〈善人〉《・・》です。  真っ当な家で教育を受けてきたんでしょうねぇ」 「……はッ。  それは確かに、合わんか」 「ほほ。儂はともかくとして、主らはのう。  互いに虫が好かぬであろうて」 「好きか嫌いかで言えば、別に嫌いじゃありませんがねぇ。  あたしゃ、〈真面目〉《・・・》に生きてる人間はみんな好きなんで。善玉でも悪玉でも……ね」 「今の世の中、誰もが真剣よ。遊びで生きていられる奴などおらんわさ。  それで、雪車町殿。つまりはその男が武者だ、と?」 「……そう決めつけられるほどの材料はないんですがねぇ。  ただ、最初に会った時から思ってたんですがね。あの男、〈剣術〉《やっとう》の方は相当使いますよ」 「武者であってもおかしくないほどに、か?」 「えぇ」 「ふむ……。  警察が武者を抱えているとは初耳だが……」 「念の為。  雪車町殿、そやつの人相を教えて下さらんかな」 「お安い御用で……」  村を出た時には夕暮れに差し掛かっていた。  村長宅を辞してから少々時間を食ったせいだ。 «体調はどう?» 「良好とは言えないが、問題はない」  代官との一戦は、体内の〈熱量〉《カロリー》をほぼ限度まで奪っていた。通常、この消耗を補うには食事と休息のほかに方法がない。消化の良いものを摂取し、六時間以上の睡眠を取る必要があった。  しかし現状、迅速な行動は体調の確保に優先する。代官に時間を与え、巻き返しを許すべきではなかった。彼が打撃を受け、おそらくは状況把握もまだ不十分であろう今の間に追撃せねば、時の利を失う。  村の奥まった一角で見つけた雑貨屋で、保存食料の類を二、三みつくろって腹へ収め、軽く体を動かして消化を促し、脱糞した後少し休む。  都合二時間。  何もしないよりはましという程度の補給にしかならなかったが、まともな食事を得る手間を惜しんだのだから仕方がない。  この程度でも短時間の戦闘には耐える筈だ。 「装甲は敵影確認まで控える。  奇襲の可能性を考慮すると危険だが、今は熱量の消耗を最小限に抑えたい」 «そうね……。  相手に待ち伏せを掛けるような余力がないことを祈りましょう»  舗装が充分とは言い難い道を歩く。  村人の姿は見えなかった。田畑のある方角ではないのか、異変を警戒して家に籠もっているのか。それとも単に黄昏が近いからか。見れば陽は既に西天にある。  夜になる前に片をつけたかった。  しかしどうなるか。難しいかもしれない。  季節は既に秋深く。  落日の呆気なさが釣瓶落としに例えられる折柄。 「誰に」 «え?» 「誰に祈れる?  俺は」 «…………» 「神仏の恩寵を願える筋合いではない」 «……なら、悪魔の庇護でも願えばどう» 「自分に祈って何の意味がある」 «私に祈れと、言っているのよ» 「……」 «……» 「自惚れるな。  得物」 «……自惚れないことね。  手足»  日の翳りがひたひたと蒼天の端から忍び寄っている。  俺は早足に歩を進めた。  村から問題の『お山』へ向かう道を外れ、森に入る。  代官の落ちた地点は把握していた。墜落がもたらす負傷を考えに入れれば、そこから長い距離を移動してしまっている可能性は除去できる。発見は難しくない。  ……木々の間を潜りながらの移動が、方角を見失わせなければの話だが。  地形と時間的な事情により、太陽もほとんどあてにならない。 (森に慣れた案内人を頼むべきだったろうか)  ふと、そんなことを思う。  馬鹿げた発想だった。  自分自身の安全さえ覚束ない状況で、そんな真似が許される筈もない。  状況の困難が弱気を誘っているのかもしれなかった。  左手の爪を右手の平に埋め込む。  痛みがわずかに、意識へ喝を入れた。 「気配はあるか」 «ええ。〈銀星号〉《かかさま》の……こればっかりは間違えようのない匂い。  確かにこの辺りにある» 「正確な位置は……わからないのだな」 «私の、あれの気配を捉える能力は劔冑本来の〈探査機能〉《みみ》ほど確かじゃないのよ。  漠然とした位置以上のことは無理ね。視界内に収めれば特定はできるのだけれど» 「そちらには反応がないのか?  〈探査機能〉《レーダー》には」 «……地表で、しかもこの地形ではね» 「……そうだな。  愚問だった」  こんな遮蔽物の多い場所で探査機能がまともに働くわけがない。  最新の〈陸戦特化型竜騎兵〉《ウォーカードラグーン》のように強力な熱源探査を持っていれば、また話は別なのかもしれないが。 「地道に探すとしよう」 «そうね。  方角の確認は任せて» 「〈方位磁針〉《コンパス》の代わりにはなるということだな。  それは助かる」 «ええ。私も自分の有能さに感動してる»  耳孔の奥に直接送られてくる不機嫌な〈金打声〉《きんちょうじょう》を聴きながら、樹海の中を縫って進む。  まだそれほど奥深くではない筈だが、既に来た方向も進行方向も見分けはつかなかった。木、また木。  朝日の下であれば、気持ちの良い散策になったかもしれない。  だがそろそろ暗くなろうかというこの時刻、きっと傍目には肝試しか自殺志願としか映らないことだろう。  しかもどちらかといえば後者だ。  どの木も何かを吊るすには良さそうな枝ぶりである。 «……どこかから悲鳴か恨み言でも聞こえてきそうね»  村正が軽口を叩く。  似たようなことを考えていたらしい。 「云わば招く、というぞ」 «こういう話をしていると、本当に?» 「ああ」 «こんな風かしら» 「そうだな」  足元が何かに突っ掛かる。  根だ。雨に洗われて露出したものらしい。  靴の無事を確認して、再び足を進める。  この辺りは注意した方が良さそうだった。怪我はしないだろうが、靴を壊せば身動きが取れなくなる。 «大丈夫?» 「問題ない」  ……………………。 «ねえ» 「ああ」  足を止める。 «今、本当に聞こえなかった?» 「俺もそのように思う」  周囲を見回す。  目を引くものは何もない。今まで通りの光景。  耳を澄ます。  ……静寂。何も聞こえてはこない。虫の音、葉擦れ、そんな自然の響きを除いて、気に掛かる程の音は何も。  だがそれだけにかえって、記憶に残る音響には現実感があった。  この環境で、あんなものを錯覚することがあるとは思えない。 「人の声ではなかったな」 «そう思うけれど。野犬?» 「もう少し大きい獣のような気もする。  方角はわかるか?」 «わかるけど……行くつもり?» 「獣が理由もなく叫ぶことはない。  そしてあれは攻撃的な声だった」 «……人が襲われているのかもしれない、ということ?» 「野獣同士の喧嘩なら、相手の声も聞こえてきて良さそうなものだと思わないか」 «確かに。  諒解、行きましょう。先導するからついてきて。多分、そう遠くはないはず»  ……悪い予測は的中した。  往々にして、そういうものだ。  人がいる。  こちらに背を向ける格好の、中背の学生服――村の青少年だろうか? 自分の足を抱え込むようにして、〈何か〉《・・》を前に〈蹲〉《うずくま》っている。  何か。  並みの動物であれば、この方角からは人影に隠れて見え辛かっただろうが。〈それ〉《・・》はどのようなものか一目で判然としていた。つまり、並みではなかった。  犬。山犬、だろう。人里で見られる犬とは太い一線を画する禍々しい眼光、荒れた毛並み。  昨今は六波羅を揶揄して御公儀などと呼ばれることも多い、山野の危険な徘徊者に間違いなさそうだった。  しかし、その体躯は異様。  小型の熊ほどもありそうに思えた。仮に後足で立ち上がれば、人間とそう変わらない高さに達するのではなかろうか。控えめに言っても尋常一様の犬ではない。 «妙な話ね»  村正の呟きが届く。 «村の人達はあんな獣と共存してきたというわけ? あの体では、とてもこの森の中だけで餌をまかなうことなんてできないでしょう»  その疑問は頷けた。確かにおかしい。  どこからか流れてきたばかりなのだろうか? だが差し当たり、謎は棚上げにしておかねばならない様子だった。  両者の間の空気は張り詰めている。  低く唸る獣に対し、学生姿の方は微動だにしない。そもそも、犬を見ているのかどうか。単個で見れば、地面の草花でも摘んでいるかのようだった。 «御堂。装甲は――» 「要るまい」  あの程度の獣ならば生身で駆逐できるだろう。  もっとも、そういう意味での返答ではなかった。  走る速度を緩める。足音を殺し、忍び寄った。  けたたましい乱入は人影を驚かせ、獣の側に好機を与える結果となりかねない。  〈要りもせぬ〉《・・・・・》助けを押し付けた挙句にそれでは、余りに情けないというものだった。  ある程度の距離まで接近したところで足を止めて、手頃な木の陰に身を隠す。  しかし、山犬は新手の到来に気付いたのだろう。  状況が動いたとを察しての判断か、最後通牒のように甲高く吠える――そしてその残響の絶えぬ内、尚も無関心なまでに不動の姿へ、牙を剥くや噛み掛かった。  迅い。  猫科の獣とはまた異なる、犬類特有の直線的、鋭角的な突進。よほどに距離を置いていたならばともかく、指呼の間合でこれを迎えて躱せるものではあるまい。  人影は、〈漸〉《ようよ》う、起き上がっていた。  のっそりと首をもたげるその動きは、襲い来る山犬の怪物よりもむしろ熊じみている。  格段に鈍く、遅い。  犬が駆ける。  人影が起つ。    ――接触する。  その一刹那。  企図を遂げていたのは、数間を疾駆して標的の首筋を狙った犬怪ではなかった。  時間軸上、最も早く重なった両者の部位は、人影の右拳と山犬の咽喉だった。  拳の先端が、脆弱な骨格に突き刺さる――刺される〈犬自身の力〉《・・・・・》がそうさせる。  針山へ蜜柑を投げ込むようなもの。  人影は、ただ、〈そこへ拳を置く〉《・・・・・・・》以上の力を使ってはいない。  くきゃり……という短くも滑稽な音を聞いたように思った。  あるいは錯覚だったろうか。  その直後の悲痛な絶叫と、まるで曲芸を仕込まれているかのように宙へ舞い、弧を描きつつ元の位置まで転げ落ちていく大柄な山犬の姿は、一瞬、忘我を避け得ないほど印象的なものであったから。  落ちた犬が、のたうつ――激しく、短く。  学生服の人物が完全に立ち上がり、犬の傍まで歩み寄った頃には、既にその四肢の痙攣は弱いものとなり、か細く末期の息を洩らすばかりになっていた。  一撃は喉ばかりでなく、頚骨まで砕いたのだろう。  犬の怪力がその結果を導いた。お陰で長く苦しまずに済んだ――そう思えば皮肉であり、哀れであった。  止めを与えるべきか、その人は迷ったのだろうか。近付く足がふと、たたらを踏む。  その間に、終わっていた。最後の呼吸が絶え、森に静寂が戻る。そして人影の背には後味の悪さが滲んだ。  その背を見て、俺は――  率直な背中だ、と思った。  殺すつもりはなかったのに殺してしまい、後悔している、というのとは違う。  あの一撃に容赦はまるで見受けられなかった。  ああすれば死ぬとわかっていて、ああしたのだろう。  仕留める以外、確実に身命を守る方法がないと判断したからに違いない。そしてその判断は正しい。野生の獣の戦闘力、ことにしぶとさは決して侮るべきではなかった。  そう思えば、罪悪感を消し去り、快哉を叫ぶことも難しくはないだろう。不可避の戦闘、不可避の殺害であったのなら、それを成し遂げた者は賞賛されて然るべきだ。まして相手があのような怪物であったなら。  しかし彼はそうしていなかった。  喜ぶ代わりに苦渋を舐めていた。  この結果へ至った過程を理由に自分を慰めることをせず、ただ生物を殺したという結果だけを受け止めて、背に重石を乗せている。  偽善という見方もあるだろう。  だが俺には、その屈折のない情動は好ましいものに映った。 (…………) (好感など……持つべきではないのだが)  ――未熟。  声なく、俺は呟いた。  悔いるならば、最初から殺さねば良い。  殺したからには、悔いなど抱くべきではない。  もっと良い手段があったのでは、などと思うのなら最初からそうしていれば良い。  殺すほかなく殺したのなら、なぜ殺した後に迷いを抱こうか。  結局のところ、悔いなど、殺したという事実に耐えられない心が欲する慰めに過ぎないのだ。  その意味で、襲われたから仕方なかったのだと言い訳するのと何も変わらない。  殺さぬつもりで殺したのなら技量未熟。  殺すつもりで殺して悔いるのならば心術未熟。    そう、胸中に断ずる。  ……とはいえ。  そのようなこと、何もしなかった人間に言われる筋合いではないだろう。俺は手前勝手な感想を口にするのは控えた。 「……もういいよ。見物人」  このまま立ち去ったものかどうか悩んでいた矢先、人影が振り返らないまま声を投げてくる。  どうやら気付いていたらしい。俺は木の陰から踏み出した。 「武者式の組打術ですか」 「……わかるのか。  婆さんに習ったんだ。維新で没落する前はここらへんの殿様だった家の係累だとかで、色々とな」  ぱっぱっ、と手を払って人影がこちらを向く。  きりとした眼差し。それが不意に細まり――やがて、不愉快げな鋭さを帯びた。 「……てめぇかよ」 「……その節は」  軽く一〈揖〉《ゆう》する。  ――少年ではなく、初対面でもない。  そうそう忘れられる風貌ではなかった。  少し前、鎌倉の街中で六波羅御雇の人々と〈諍〉《いさか》った折、割って入ってくれた人物に間違いない。  確か――一条。そう呼ばれていた。  あの時は彼女のお陰で同行の少年らが無事に済んだ。  礼は拒絶されたが、今こうして出会ったからには、改めて言っておくべきだろうか。  考える間に、先方が口を開いていた。 「あの時は土下座で、今日は見物か。  大したもんだな、近頃の警察は」 「恐縮です。  助勢は無用と見えたもので、手出しを控えさせて頂きました」 「言い訳としちゃ上等だ」  露骨な挙措で唾を吐き捨てる少女、一条。  成程、そう思われるのは仕方ない事だった。物陰に隠れて黙って見ていれば普通、人は怯えて立ち竦んでいると考える。  実際、やっていることに変わりはなかったのだからどう思われようが文句を言える筋でもない。  人の危難を看過した者としては、謝罪が必要だろう。俺は神妙に頭を下げた。 「申し訳ありません」 「……ちっ。  でけえ図体してやがる癖に」  それがまた苛立たしいのか。学生服の少女は舌打ちと共に顔を背けた。  嫌悪の様子がありありと見える。  もっともこちらにしてみれば、そうした若人らしい潔癖さは不快なものではない。  無難な問いを選んで投げかけてみた。 「一条さんと仰いましたか。  このような所でお会いするとは奇遇なことです。何かご用事でもおありですか」 「…………」 「一条さん」  返答はない。  静寂の一時が訪れる。 (会話が途絶えた) «私に言われても» (小粋な冗句か?) «やめなさい»  付近のどこかの陰――おそらくは頭上に繁る枝葉の間――から劔冑の素っ気ない金打声が届く。  それを聞きつけたというわけではないのだろうが。少女、一条の視線がこちらへ戻り、口が苦々しく開く。 「…………綾弥だ」 「は」 「……綾弥だよ」  繰り返し告げられるその一語。  あやね。  つまりそれは、彼女の名なのだろう。  それはわかる。わかるがしかし。 (先方の主旨はつまり、名前で呼べ、ということか?) «そ……そうね。  私にもそう聞こえるけど……»  村正の声音も困惑していた。  はて。どう見ても嫌われているとしか思えなかったのだが。風向きがどこで変わったのか。  とりあえず、失礼のないように応対しておくことにする。 「一条あやねさん、ですか。  愛らしい、良き名前かと思います」 「……ッッ」 「しかし、面識の浅い身で名前をお呼びするのも不躾。  やはり一条さんと呼ばせて頂く方が、自分としても心苦しくなく――」 「……そ、……ッ」 「何か?  一条さん」 「そっちが名前だぁッッッ!!」 「……」 «……»  ……………………………………………………………  …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「失礼致しました。綾弥一条さん。  自分は鎌倉署の湊斗景明です」 「……ッ、くっ……。  ああ、ほんとに失礼だっ……馴れ馴れしく何度も名前呼びやがった挙句に……くそっ」  赤面して荒く息をつく一条――否。綾弥を前にして、俺は感慨をもって頷いていた。  成程、固定観念の愚とはこうしたものか。 (勉強になった……) «そうね……。  この場合、問題は私たちより彼女の名付け親にあるような気もするけれど……» (真っ直ぐに育って欲しいとの願いを込めたのではなかろうか) «女の子らしさとかは考えてあげなかったのかしら……»  村正とそんな無音のやり取りを交わす間に、綾弥は立ち直っていた。眼光がこちらを刺している。  心なし、険しさが増しているような気がした。 「……それで。  なんでこんなとこにいるんだよ。お巡り」 「公務です」  質問に同じ質問で返されてしまっているが、答えておく。  興味もなかったのか、彼女はふんと鼻だけ鳴らした。 「貴方は?」 「公務だよ」  いかにも適当ないらえが返る。  ……公務?  学生の公務で、この山林へ。  ということは。 「昆虫採集ですか」 「なんでだっ!?」 「カブトムシの幼虫を狙うならそこの腐葉土などが適しています」 「違うっ! 答える義理はねえって遠回しに言ってんだ! わかれよ!」 「わかりました」  おそらくそうだろうと思いつつも、万一の可能性を考慮してみたのだが。  要らぬ気配りだったようだ。 「無作法な詮索をお詫びします」 「…………。  いちいち苛々させる野郎だな……」 「そうですか。  面目ありません」 「……っ。  あのな、こっちが先に聞いたんだよ、なにしてんのかって。その後でおまえが同じこと聞いたからって無作法なわけねえだろ?」 「真面目に答えろとでも言やあいいじゃねえか。それをあっさり、頭下げやがって……。  恥ずかしいとは思わねえのかよ」 「思いません」  敵意と侮蔑のこもった言葉に、即答する。  綾弥は絶句した。 「…………なんでだ?」 「自分は公僕です」  正確には違うが。 「である以上、自分の活動は、任務上支障のない範囲で市民の方々に対し明らかにされているべきです。  それが開かれた政治というものです」 「しかし市民は警察に対して生活を明らかにする義務はありません。  もし警察がそれを強要するなら基本的人権に対する侵害となります」 「……」 「従って、自分には貴方の質問に答える義務がありますが、貴方が自分の質問を拒絶するのは自由です。  貴方に責められるべき非礼はありません」  説明してから、気付く。  ここが森の中で幸いだったかもしれない。  政道批判とも受け取れる内容だ。  控えめに言っても、六波羅幕府の政治は人権の擁護を主目的とはしていないのだから。  街中で声高に今のような論説を述べ立てれば、まさに〈私生活〉《プライバシー》保護の権利を侵害して何処にでも配置されている幕府の耳が聞き咎め、お縄という事にもなりかねない。実際、そんな事例は幾らでもあるのだ。  もしそうなれば、言った人間だけでなく聞いた人間も巻き添えを食う。注意した方が良さそうだった。  もっとも目の前の彼女はそんなことを気にした風でもない。渋柿を食ったような顔で、こちらを見ている。 「……根性ねえくせに、口は達者だな」 「有難うございます」 「褒めてねえよ。  ……墓参りに来たんだ」 「……?」  それが俺の問いに対する答えだと気付くまで、一瞬の時間経過が必要だった。 「この近くに小さい村があるだろ。婆さんがそこの生まれなんだ。墓もそこにある……。  鎌倉に埋めれば面倒もなかったんだけどよ、遺言だったから」 「そうですか」  面倒臭いのか、味も素っ気も全くない説明だったが、それだけにわかり易い。    しかし、疑問点はあった。 「鎌倉から村へ行く途中でここへ?」 「……ああ」 「…………」  俺は脳裏に周辺の地図を描いた。 「この森は、村を間に挟んで、鎌倉の反対側にある筈なのですが」 「……」 「……」 「そ、そうなのか?」 「はい」  地球を一周してきたというなら別だけれども。 「……」 「迷子になられたのですか?」 「ま、迷子とか言うな!」 「沢口まではバスで?」 「あ……ああ」 「そこから村までは一本道の筈……」 「……」 「……」 「な、なに首を傾げてやがる」 「一体、どうして迷子になられたのですか?」 「迷子じゃねえっ!」 「では?」 「いや……その、ほら……なんだ。  歩きっぱなしじゃ飽きるから……ちょっと足を止めて、景色とか眺めたりすることってあるだろ」 「あります」 「それで、また歩き出そうとして、ふと周りを見ると、自分がどっちの方角から来たのかわからなくなってるってことも、普通にあるよな?」 「ありません」 「こ、こ、この野郎、きっぱりはっきりと」  わななく綾弥。  とりあえず、俺は事態の核心をおおむね察していた。  理解したところをそのまま口にしてみる。 「要するに方向音痴なのですね」 「要するんじゃねえ!  い、いや、違うからな!?」 «御堂。ちょっと» (ん?)  唐突に口を挟んでくる村正――といっても綾弥には聞こえていまいが。  意識をそちらへと向ける。 «不味いんじゃない?  今、この森は危険よ。そこをこんな迷子にうろうろされたら……» (成程。確かに)  その懸念は尤もだった。  代官と鉢合わせでもしたらどうなるか。殺されるとは限らないが、無事に済む保証もない。  速やかに森を出て欲しいが……。 「おい聞けよ! いいか、あたしは別に迷子でも方向音痴でもなくて……その……三次元世界を二次元に矮小化する地図というものの欺瞞に対して科学的義憤を禁じ得ないという」 「病気回復への第一歩は症状を直視することです」 「びょ、病気?」 「綾弥さん。  ここからどう進めば村へ出られるかわかりますか」 「まっすぐ」 「芸術的な回答です。困り果てました」 「おまえ今、心底、虚仮にしなかったか!?」 「ここは村から直線距離で約一キロ半ほどの地点です。方角はこちらが北。そしてあちらの方角、約八キロに沢口があります。  如何でしょう。現在地の把握は可能ですか」 「えぇと……」  彼女は暫時、周囲を見回した。  やがて北と反対の方角を指差し、呟く。 「南極ってこっちだよな……」 「何故そういちいち芸術的なのですか」 「だ、だから何がだ!?」 「わかりました。  仕方ありません」  俺は右手を伸ばし、村の方向を指差した。 「この方向へ真っ直ぐ進んで下さい。  そちらに村があります」 「あ、ああ」 「良いですか。  必ず、真っ直ぐ進むことです」 「わかったよ……。  木を避ける時には曲がるけど。それはいいんだろ」 「駄目です」 「駄目!?」 「貴方のように芸術的な方はきっとそれだけで迷います」 「その芸術的ってのやめろ!  じゃあ、どうしろってんだよ!?」 「できれば、飛び越えて下さい」 「できるかっ!!」 「では、立ち塞がる木々を粉砕しながら直進するアグレッシブな方針でお願いします」 「どこの羆だ!? ていうかそれ森林破壊だろ!  そんなことしなくても、あぁ、あっち……に真っ直ぐ行きゃあいいんだろうが! 迷わねえよ!!」 「その『あっち』が既に三〇度弱ずれているので説得力を見出せません」 「……す、少し勘違いしただけだ」 「貴方には、無理です」 「淡々としたツラで静かに言うなっ!  もういい……じゃあな。一応、道を教えてくれたことには礼を言っとく」 「有難く頂戴します。  しかしそんなことよりどうか真っ直ぐ進むことにお気を向けて下さい。早くも曲がってます」 「あ、ああ」 「はい、そのまま真っ直ぐ。  そしてその木は蹴り割って下さい」 「うるせえ!!」 「時々こちらを振り返って、自分がちゃんと真後ろにいるかどうかを確認すると、直進の目安になるかと思われますが――」 「絶対、見ねえよっ!!」  …………………………。  学生服の背が程遠くなった頃。  俺は村正に尋ねた。 「どう思う」 «あの娘が村へ辿り着けるかどうか?» 「ああ」 «着くんじゃない?  ……明日くらいには»  木々の狭間に見え隠れする姿。  方角のずれは、そろそろ四五度に達していた。 (…………) (警告の叫びが一度。  攻撃の叫びが一度。  方角は北西……痣丸の陣所……) (駆逐の叫びは無し。  ……果てたか、痣丸。御苦労であったの) (さて……。  敵は既に我が結界の内。となればうかうかしてはおれんかな。代官殿を殺されても困るしの) (出迎えてやるとしようかい。  いざ、参るぞ……右衛門尉村正)  ……結局、少女を森の出口まで送り届けてきたため、再び奥深くまで来た時にはもう日が大きく傾ぎ、辺りは黄昏模様となっていた。  まだ物が見えなくなる程ではないが。 「急ぐ」 «ええ»  闇夜の中であろうと劔冑の眼が利かなくなることはないにせよ、しかしやはり昼間とは勝手が異なる。  探索の困難と奇襲の危険が増すのは否めなかった。できることなら今の内に始末をつけたい。  昼の代官との戦闘からまだ四、五時間とは経過していない。代官が態勢を立て直すには全く足りない筈だ。  仮に彼がよほど心身の活力に恵まれていたとしても、ようやくこれから動き出そうかというところだろう。  余裕は期待できないが、手遅れではない。 «……ねえ» 「何か」 «思ったんだけど。  やっぱりさっきの犬は変じゃないかしら» 「見るからにな」  あの体躯。狼の末裔か、あるいはそれそのものか。  既に絶滅したというのが通説だが、生き残りがまだいないとも限らない。 «そうじゃなくて……いえ、そうなんだけど。  あれだけの身体、餌がいくらあってもそうそう足りないはず。けれど殊更、飢えているようには見えなかったでしょう?» 「確かに」  肥えているというほどではなかったが。  痩せさらばえてはいなかった。 «それに、飢えていないのなら、どうして人を襲ったのかしら» 「……」  山犬にせよ狼にせよ、凶暴性の強い動物だとは伝え聞く。縄張りを守るために争うことはあるだろう。  が……彼らもイヌ科の多例から外れず、集団行動を基本の原則としている筈である。  それが果たして、飢えてもいない時に、単独で人間のように厄介な相手を襲うだろうか。  なかなかに首肯し難いものがあった。 «もしかして、と思うのだけど» 「ああ」 «あれは、誰かが――上ッ!!»  ……爪?  何の―― 「――猿!?」 «いいえ――!»  猿――否。  その鈍い光沢。鋼鉄の芳香! 「……劔冑!」 「如何にも。  その〈猿〉《ましら》は〈月山従三位〉《がっさんじゅさんみ》と申す……我が一族、伝来の一品よ」 「……ッ!」  音もなく、木陰から現れた若い女。  しかし――今、聞こえた声は紛れもなく老爺のもの。  もう一人、どこかに……? 「ほっほっ。如何した?」 「……!?」 「挨拶としては、いささか非礼であったかな。  どうか大目に見てやってくれい。儂も劔冑も山育ちゆえ……粗野な振舞いが染み付いてしまっておるで……」 「…………」  妖艶と称するのがふさわしい美女の唇から紡がれる、〈嗄〉《しわが》れた声音。  異様、というほかはない情景だった。およそ現実感というものが欠落している。  ――狐狸、妖怪の類か。  そのような愚考さえ思い浮かんだ。 「……御老人、と呼べば宜しかろうか」 「ほほ。見ての通り、枯れ果てた老いぼれよ。  下手な気遣いは無用。この歳になるともう、若いと世辞を言われても素直に喜べぬでのう」  ほっほっ、と歳経た声で笑う妙齢の女。  これが質の悪い幻覚でないのなら、何なのか。 「……先の〈戯れ〉《・・》は挨拶と承った。  然らば御用向きも自ずと知れるが、左様に受け止めて差し支えはありますまいか?」 「なかろうのう。なかろうのう。  この老体、推して参ったは雇い主たる代官長坂を守らんが為。となれば無念かな、主と茶を飲み交わす仲にはなれまいて……警官殿」 「……!」  代官の〈手下〉《てか》の者――それは察せられていた。遭遇は想定の内だった。劔冑を連れて来るというのは想定外だったにせよ。  だが。 「代官の前で警察を称した覚えはない。  そもそもこの素顔も晒していない筈」 「しかし御老人、貴方は迷わず、俺を襲って来られた」 「なに、教えてくれる者がおったまでよ」 「……それは」 「杖を携えた筋者か。  確か……雪車町一蔵と云う」 「主とは知己のようだの。  因縁でもあるのかね?」 「道で行き会った程度の縁。  しかし、このような場所で再会する不思議が気には掛かっていた……彼も代官の協力者なのか」 「小器用な男での。重宝しておる。  GHQと〈接点〉《パイプ》を持つというだけでも心強い。本人は小間使いなどと言うておるが、何の、味方につけて役立つのはそういう者よ」 「……」  成程。  あの男が代官とGHQの橋渡し役。とすれば、先刻の村長宅来訪は大鳥中尉との交渉のためか。  そしてすぐに失敗し、代官のもとへ舞い戻った。  ……そんなところだろう。 「彼は今、何処に……?」 「さあて? 何処かのう。  忙しい男だて……」 「……」 「ほっ、ほっ。  周囲に気を散らすのは結構だがの……儂のことも忘れんでおくれ。それはちと寂しい」 「折角、楽しみにしておったのだからのう」 「……とは?」 「哀れな村の衆を嬲って回る遊びにも、ちと飽いておった。歯応えというものがな、どうしてもの。  いわば髀肉をかこっておったのよ。ほっ」 「…………。  ひとつお伺いしておくが、代官に加担する理由は。よもや、その遊びが目的と言われるか」 「まさか。そこまで暇ではない。  暇であればよかったがのう」 「……」 「金よ。世知辛い話だが、金が要るのよ。  我が一族はとある名門に仕えておったのだが、この家がしばらく前に世渡りを誤っての。廃絶の憂き目に遭ってしもうた」 「煽りを食って身分から収入まで失った我らに残されたのは、父祖の地と云えば聞こえはいいが、雑穀もろくに実らぬ狭い山間の所領のみ。ほっ、枯死を待つばかりであったよ」 「……士籍を逐われたと。  ならば、その劔冑は」 「むろん、没収されるところであったがな。つてを頼って御上の慈悲を請い、どうにか見逃してもろうた。もっとも……そのすぐ後でGHQの劔冑狩りに掛かり、水泡に帰したが」 「……?」 「そこへ現れたのがかの男、雪車町一蔵での。  〈鉱山〉《やま》掘りで荒稼ぎしようとしている男の話を儂に教えた上、協力するならGHQに手を回して劔冑を取り戻そうと請合ってくれてな」 「儂が飛びつかぬはずもあるまい?」 「……」  ……妙だ。    一抹の疑念を、俺は看過しかねた。  雪車町という男、〈積極的に動き過ぎている〉《・・・・・・・・・・・》。  幕府御雇組に草鞋を脱ぐ一方、進駐軍にも顔を売り両者の橋渡し役を務める、そういう人物がいることに不思議はない。おそらくは、賢い世渡りの一つだ。  しかしそういう、一部社会で非常に重宝する人間は、他人に求められ〈使われる〉《・・・・》ものだ。自分から売り込んで回ったりはしない。わざわざそんなことをせずとも、軽い仕事と高い報酬の組み合わせが足繁く通ってくる。  聞いた話を信じるならば、だが。雪車町の〈能動的〉《アクティブ》な行動はやや不審だった。  〈国内権力〉《ろくはら》と〈国外権力〉《GHQ》の仲介者という気楽な立場にはそぐわない。  加えて、劔冑の返却を手配したという話もまた疑念を呼ぶ。  GHQは大和の正規軍――現在は即ち六波羅――を除いて劔冑の所持を禁じ、没収する措置を取っている。  そうして没収された劔冑の多くは、ただ死蔵されているという。言語上あるいは体質の問題によりGHQ士官が用いるには不都合が多いため、利用価値を認められていないようだ。しかしそれでも、劔冑は劔冑。  一介の連絡役の要望で簡単に持ち出せるとはどうも信じ難かった。何がしかの〈裏〉《・》があるとしか思えない。  ……そんな俺の疑念をよそに、目前の怪人は説明を締めくくる。 「とまあ、そういう次第でな。  一族を食わすためには代官の目論見を成就せしめねばならん。である以上、代官の敵は儂の敵、ここで会ったが百年目となるわけよ」 「……御事情は理解した。  その為に、この村を犠牲にするもやむ無しというお考えか」 「うん? 何ぞ、つまらんことを言わせたいのかの。弱肉強食だの、どうのこうのと。  たっての要望とあらば口にせんではないが、言う方も聞く方も恥ずかしくはないかね?」 「……全くに」 「ほっほっ。  そのようなことはどうでも良かろうて」 「湊斗景明殿……で、確かかな?  さぁ、そろそろそちらの蜘蛛、村正の〈刃味〉《はあじ》を儂に味わわせてはくれぬかね?」 「!」 «――――»  ……此の者。  ここでは誰にも話していない、村正のことまで。 「御老人……  いささか、知り過ぎてはいまいか?」 「くふっ」 「……」 「この先は――太刀打にて仕ろう!  月山ッッ!!」 「……っ」 「迷いの六界、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人、いざ行かん――」 「悟りの四界、〈声聞〉《しょうもん》・縁覚・菩薩に仏、いざ行かん……  死して生あり生して死あり、死とは生なり生とは死なり、死して十界生して十界!」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「相模足柄は〈風間谷〉《かざまたに》の小太郎。  並びに月山従三位」 「畢竟の武者村正に、いざ一槍馳走せん!」 「!?  風魔――小太郎か!!」 「ハァッハ!!」  空を裂いて天頂へ駆け昇る体感、心地良いと思ったことはない。それはむしろ肌を怯えで粟立たせた。  底知れぬ深淵、果てなき果て、無の領域――未知。そこへ突き進む己を知れば、冷たい畏怖が脊髄を刺す。  合当理の推力は常よりもやや低い。思うほど高度が伸びてゆかない。いつもより、〈空が鈍い〉《・・・・》。  やはり熱量が足りていないようだ。それでも、なまなかな相手には後れを取らぬ筈だが……。 «……やっぱり、間違いない» 「どうした」 «あれは寄生体よ、御堂。  〈銀星号〉《かかさま》と同質の気配!» 「……確かか」 «言ったでしょう。あれの匂いは漠然としか辿れない……けれど、眼にすれば特定できる。  あの劔冑は間違いなく卵を受け入れている。代官と同じ。ここには二騎いたのよ、御堂!» 「大盤振る舞いだな……」  喜べる話ではないが。  いや、やはり喜ばねばならないのか。不可避の難題と、少しでも早くに出会えたと思えば。  しかしこれで、途切れていた糸は繋がった。 «――〈西湘〉《せいしょう》の悪狼!» «ほっほぉ! 良い空じゃ!  そうは思わぬか、湊斗景明!» «答えろ……銀星号を知っているな!?» «はぁてさて――» «韜晦無用!  然らばこそ、この村正を知った筈!» «はあっは! 如何にも左様!  かの美姫から主のことは聞いておる!» «可愛がってやってくれと、〈懇〉《ねんご》ろに頼まれてしもうたわい!» «何処だ!  〈銀星号〉《あいつ》は何処にいるッ!» «知らんのう――  風に乗り雲と去る、まっこと凡人にはなかなか手の届かぬお人であったゆえ!» «……ッッ!» «月の影でも探してみてはどうじゃ?  天女の宮はきっとそこいらにあるでな――ほっほっほっ!» «〈戯〉《ざ》れるかッ!!» 「……く!」  速度が――落ちる。  瞬発力が切れた……! «御堂、これまで!» 「承知」  背筋を煽って反転。  激突の準備に移る―― «ほっ。どうしたどうした如何した!  存外にだらしのない。そんなことでは到底、月までは辿り着けぬぞ!» «要らぬご配慮痛み入る!» «敵騎反転、降下体勢に移行。  迎撃を!»  村正の諜報を受けて〈兜角仰向〉《ピッチアップ》。  敵影が視野に入る。  高度優勢は敵騎!  圧倒的に不利な戦形から太刀合わせに入る――  ……下段!  ならば〈当方〉《こちら》の上へ抜けつつ斬り上げて来る筈。  相手の下へ抜けつつ斬り下げたい、上段の当方とは狙いが一致する。  ならば勝敗を分かつは剣速のみ……! 「……っ!?」 「ち……!」  寸前で――下へ抜けてきた! 「村正! 損傷!」 «右脇腹を削られた!  損傷は軽微、戦闘続行に支障なし» 「腸を掻き出されたかと思ったが……」 «危なかったけれどね……もう少し狙われていたら心臓串刺しよ、今の〈刺突〉《つき》は»  心なしか、肝を冷やした声で告げてくる村正。  その言い条が誇大でないことは骨身に沁みていた。 «……八相とは、珍しき構を使う» «ほっほ! 年寄りに長丁場はしんどいでの、一合で済ませられぬかと思うたが。  や、なかなか簡単にはゆかぬものよのう!»  陽気な〈装甲通信〉《メタルエコー》が耳を打つ。  内容に反して、声音には悔しさの片鱗もない。  〈体側〉《たいそく》に、体と平行に太刀を構える八相。  そこから刺突を繰り出す技法は、武者合戦において主流とはいえない。高速で飛来する武者を狙って刺し貫く事は、斬り伏せる以上に至難の業だからだ。  しかし。  その難を越え、剣尖が敵を捉えたならば、ただ一点に集約された武者の金剛力は例え砲弾を嘲笑う甲鉄であろうとも、薄紙同然に貫通してのける!  完璧な刺突を受けて耐え得る武者などおそらく皆無。  故に、これが用いられる局面は劣勢からの起死回生というのが定石。 「それを優位の立場から用いるとは……  人を食った戦い方をする」 «貴方とは相性が良くなさそうね» 「かもしれん」 「……だが。  そのような事、〈村正〉《おれ》には関係がない」 «ええ。  〈村正〉《わたし》にはどうだっていい事よ» 「――ならば。  村正を始めよう」 «始めましょう、御堂» «ほっほぅ! これは驚き。  どこぞの〈耄碌〉《もうろく》が勇名高き村正と互角に渡り合っておる!» «いや、儂も捨てたものではないのう。  それとも、そちらが評判倒れなのかのう?» «そちらは評判通りのようね、月山。  出羽雄峰の息吹を感じる見事な甲鉄よ……けれど、一つ疑問がある» «はて何かな、蜘蛛の〈姫御前〉《ひめごぜ》?» «……月山鍛冶といえば平安朝末期の鬼王丸を開祖とするはず。  でも、その劔冑はとてもとても古い。私の見立て違いでなければ、鬼王丸より更に昔» «……平安前期の頃の作と見えるのだけれど。  違って?» «ほっほ! 流石は天下の村正!  如何にも明察の通り、この月山は貞観年間に打ち上げられたもの。鬼王丸以降の月山流とは少々系譜が異なるかの» «……やはりね。  それがどうして、月山を名乗るのかしら?» «貞観六年、出羽國月山神社の祭神が従三位を贈られた折に打たれたものでの。  故に月山従三位» «後、天王将門公が月山と並んで出羽三山に数えられる羽黒山へ五重塔を寄進した時その手に渡り、更に将門公に仕えた我が家の遠祖、〈飯母呂石念〉《いぼろせきねん》へ下賜されたという次第よ» «……そういう事。  なら、奥州〈舞草〉《もくさ》鍛冶の特色が濃く残るその〈造込〉《つくりこみ》も納得がいく»  舞草鍛冶。劔冑の歴史において、まだ黎明の時代に現れる名だ。  その系統にあるということはあの劔冑、現存する中では最古に近い部類に属するとみて違いない。 «舞草鍛冶は〈単鋭装甲〉《やじりづくり》の先駆者という意味で画期的だった。  彼らは初めて甲鉄の工夫による加速性上昇という発想を持ち、しかも成功した……» «先程から貴方が見せている、見事な〈速力〉《あし》。  ……正直、先人の叡智には感嘆の溜息しか洩れてこないわね» «ほっほっほ……そのように持ち上げられっぱなしでは心苦しいのう。  これから主らを打ち伏せねばならんというに、何やら気が差してくるわ» «いいのよ、気にしないで。これから〈落とす〉《・・・》つもりだから。  ……彼らは速度の重要性には気付いていた。けれど、そこまで» «……うぬ?» «〈空戦技術〉《かかりわざ》の体系化が始まるのは彼らの次の時代から……。  当時の彼らは旋回性の重要さを明確に知るところまでは達していなかったのよ» «……おおぅ!?»  三合目の〈正面相撃〉《ヘッドオン》。  高度の優劣は――既に無し! «〈速力〉《あし》は備前、〈旋回〉《こし》は関……  劔冑に造詣あらば聞いたことはあろう» «村正一門は美濃、関鍛冶衆の系統。  旋回力を駆使する格闘戦で、〈他所〉《よそ》の後塵は拝さない!» «ぬかったわ!» 「……ふっ!」 「……ぬっ!」 「うむっ……!?」 «貴様の遊びは終わりだ、相州乱破。  この先の時間は俺が貰う» 「ぐほぉっ!!」 «敵騎、左肩部に被撃。中破!» «そして俺は、〈戦事〉《いくさごと》に遊びを持ち込むほどの興は持たない。  次の一合で〈撃墜〉《おと》す»  手応えは充分。  今一度、同一箇所に剣撃を加えれば必ず、甲鉄ごと肉体までも斬り断てる。  そして、そうせぬ理由はない! «参る» «……ほっ、ほっほっほ。  いや、これは確かに戯れが過ぎたようだの。返す言葉もない» «いやいや、いくつになっても説教とは耳に痛いものだて» «――――» «しかし、のう……村正よ。  主の時間は今ここまで。ここからは再び、儂が頂く» «……させぬ» «いやいや?»  ――五合!  騎航剣術の基本たる右上段にとり、両断を期す。  対して、相手は太刀をだらりと下げた無構。  そこから何をするつもりか――      «慙愧・懺悔・六根清浄……     慙愧・懺悔・六根清浄……» 「……何?」 «えっ!?»  消え――――――た?  馬鹿な!? 「いない……!?  何処へ!」 «待って!  今、周囲を探査する!» «――いた!  敵騎〈一七〇度下方〉《ひのえからうまのしも》、距離四〇〇!» 「承知!」 「……?  何処だ!?」 «――えっ!?  そんな……反応は確かに!» 「ぐあッッ!!」 «こっ……攻撃!?  何処から!» «こ――これは……» «どういうこと。  私の耳が騙されている!?» 「……月山の陰義……か?」 «ほっほっほっ» 「今の発信源は!」 «き、〈七五度上方〉《きのえのかみ》……» 「……っ!」 «如何かな? 我が〈霧隠〉《キリガクレ》の術は!  口に合えば良いのだがのう!»  ……霧隠の術?  姿を完全に隠してのけたというのか。  しかも村正の〈探査機能〉《レーダー》まで欺かれている! 「これほど強力な陰義があったのか!?」 «初耳よ!»  村正の〈金打声〉《メタルエコー》は悲鳴じみていた。  無理もないが。  武者の陰義は理外の業。  驚天、動地の代物が珍しくない。文字通り天を裂き地を砕く力もかつて見たことがある。村正自身、並みの武者からは魔神と恐れられるだけの能力を行使する。  だが。  ここまで〈反則的〉《・・・》な能力は未だ知らなかった。  敵の姿を目視できず、探査機能さえあてにならないときては、そもそも勝負にならない。  言語道断、無道の極みであった。 「〈大英連邦騎士団〉《クイーンズアーミー》が〈隠身甲鉄〉《ステルス》の開発を進めているとは聞いたことがあるが……」 «いくら舞草鍛冶が先駆的だったと言っても、千年分は先駆け過ぎよ!»  尤もだ。  それに隠身装甲はあくまでも対レーダー用の技術であり、しかも、『探査され〈にくく〉《・・・》する』という程度を目標に実用化の目処をつけられている筈。  視覚的な隠蔽のうえ敵の探査機能へ誤情報を飛ばすなどという超越兵器ではない。少なくとも、知られている限りにおいては。  となればやはり、あれは陰義……。 «御堂! 回避して!» 「!?」 「……ッッ」 «敵騎攻撃、兜側面を擦過!  危なかった……あと一瞬遅かったら、今頃首が自由落下していたところね» «御堂、大丈夫?» 「……っ、問題ない。  それより今、どうして攻撃を察した?」 «探査機能を〈信号探査〉《みみ》から〈熱源探査〉《はだ》へと切り替えてみたの。  当たりだったみたいね。敵の能力はこちらには及ばない様子よ» 「そうか……  流石に万能ではないか」  敵騎の隠身能力は視覚と通常探査からの隠蔽に限られるらしい。  ならばやりようはある――  とは、言い難い。  圧倒的不利は依然、動かしようもなかった。 「熱源探査に頼った戦闘は可能か?」 «……それは、無理よ。  有効範囲が狭過ぎる»  そういう事。  熱源探査は本来陸戦用の補助機能に過ぎず、空での使用は想定されていない。その性能はあくまで空中戦と比べれば格段に戦場が狭い陸上戦に相応のものだ。  陸戦を主眼に置かれた劔冑であれば通常より優秀な熱源探査を備えていることもままあるが……その点、村正はごくオーソドックスな仕様である。  主戦場はあくまで空、従って熱源探査を重視しない。 «致命打を避けるのが関の山でしょうね……» 「無いよりは良いが……」  霧隠の術とやらを破るには足りない。  それには何か、もっと何か―― 「……村正」 «なに?» 「奴が消えてから、既に何秒経過した?」 «……!»  答えはなかったが、俺の言わんとするところはすぐ察したらしい。  息を呑むような気配があった。 「陰義は多大な熱量を代償に発動する。  強力なものであればあるほど消耗は激しい」 「姿を消すようなふざけた術を延々と維持しながら、あまつさえ騎航し戦闘する……。  必要な熱量はどれ程のものだ?」 «……法外な桁になるはずね。  まともな人間ならとっくに熱量欠乏で墜落、いえ、凍死していなくてはおかしい» 「同意する。  どうもこの相手には常識が通じぬようだ」  植えつけられた〝卵〟の効果とも考え難い。  あの真改――鈴川令法も強大な陰義を駆使したが、〈熱量欠乏〉《フリーズ》は避けられずに墜ちていったのだ。  果たして如何なる仕儀か。  まったく見えてこない。まさしく五里霧中の只中にある心地がする。  霧隠の術とはよくぞ言った。 «……どうするの?» 「奴の〝卵〟の危険性はどうだ。  見たところ孵化は近そうだったか?」 «いえ……そうね。  正確にはわからないけれど、今日や明日ということはないと思う» 「そうか……」  ならば状況は、一つの決断を促していた。  状況。  敵騎の慮外の力。  自己の不調。  ――勝利の見込みなし。 「この場の敗北を認める。  戦域より離脱、後日の再戦を期す」 «……諒解!»  口惜しさを滲ませながら村正が応じる。  その心持は理解できた。  が、どうということでもない。  〈村正〉《われら》にとって重要事は、目的を遂げる、唯一事のみ。  必要ならば敗退も方法として選択する。 «おやおや?  ほっほぅ、あの村正が尻に帆を掛けておるぞ! これは異なこと!» «まさかとは思うがこの老人と月山に、村正ともあろう者が負けたというのかのう!?  ほっほっほっ、そんな馬鹿な!» «……っ!» «残念ではあるが御説の通り。  交戦を継続すれば敗北は必至と判断した。我々は撤退する» «おおぅ、なんと情けない!  あのお方が聞いたら何というやら! 何といって嘆くやら! きっとこう云うのだろうのぉ――景明、それで届くつもりか、と!» «……く!»  聞くな。  重要なことは唯一つ――目的を遂げること! «村正――降下!» «諒解……!»  兜角を下げ、速度を上げる。  ……風が〈硬くなる〉《・・・・》。  敵騎は速力重視の単鋭装甲。  振り切れるかどうかは難しいところだが――やってみるしかない。  後方から追いすがって致命打を与えることは困難だ。  武者の甲鉄は頑強至極、正面衝突の衝撃力があって初めて斬り破ることが可能となる。  それに地表へ近付けば攻撃は危険さを増す。  敵の上方から降下攻撃を仕掛けたはいいがそのまま地表へ激突、という結果になりかねないからだ。  一撃二撃、食らうことは覚悟しておかねばならない。  だが焦って手を誤らねば、過度の損害を被ることはない、筈―― «……御堂ッッ!!» 「!?」  な――――  新手ッ!?        «……お邪魔しますよ» «なんて……不覚!  〈通常探査〉《みみ》を断っていたから……見過ごした……!» 「く……おおっ!!」  姿勢――制御!  せめて……軟着陸を―――― 「……クヒッ」 「クヒヒヒヒヒヒヒヒ……」  いーろーはーにーほーへーとぉ……  ちぃーりーぬーるーを  わーかーよーたーれーそ……  つぅーねぇーなーらぁーむ……  うーゐーのーおーくーやーま……  けーふーこーえーてー……  あぁーさーきーゆーめーみーし……  ゑーひーもーせーすぅ…… (浅き夢見し……  酔ひもせず……) (酔ひも……せず…………) 「…………」 「あっ。おきたー!」 「…………」 「じっちゃー!  にーやがおきたよぉー!」  ……家の中だ。  どこかの百姓家だろうか。  見覚えのない床の上、見覚えのない布団の中に寝かされている。  〈有体〉《ありてい》に言って、ひどく硬い。だが温かくはあった。  己の全身を知覚する。  ……胸に包帯を巻かれているようだ。ややきつめに締めてある。打撲傷ではなく、おそらく激しい出血をした際の巻き方。  さて。  そのような負傷をいつ、何処で――  …………。  思い出した。  そう、俺は――〈墜落〉《お》ちたのだ。  確か……山の斜面へ……。 「……ッ!」 「わっ、駄目ですよ。まだ起きられません。  そのまま寝ていてください」 「つぅ……」  体内を走り抜けた稲妻に呻きをこぼしながら、声の聞こえてきた方へ首をめぐらす。  年の頃は二桁始めか。少女がひとり、座っていた。手には布巾、傍らには水の入った〈盥〉《たらい》を置いている。  その肌は褐色。  両耳は細く尖っていた。 「……蝦夷の方ですか」 「え? えと……はい」  綺麗な風貌をしている。  種族的な特徴だろう。彫りが深い一方で、細やかな造形。良い意味で彫像的な美しさがあった。  繊細な指先が、今はおろおろと、布巾を弄んでいる。 「あ、あのぅ……」 「はい」 「汗を拭いた方がいいと思うんですけど……  その、か、構いませんか?」  確かに、全身が汗ばんでいる。  拭いてもらえるのなら有難い。こちらには厭う理由などある筈も―― (……ああ。成程)  俺は少女の心情を察した。 「失礼。うら若い女性にご造作をおかけするようなことではありませんでした。  布巾をお貸し下さい。お見苦しい体に柔手を触れて頂くには及びません」 「え!? あああ、いえ、違いますっ」 「……?」 「そうじゃなくて……  その、〈自分〉《あて》、蝦夷ですから。触られると、ほら……」  けがれる、とか。  尻蕾になった少女の声は、最後にそう言ったように思えた。  …………。 「宜しくお願いします」 「あっ、はっ、はい……」  慌てた手付きで、少女は濡らした布巾を一度絞ると、こちらの額に当ててきてくれる。  ひやりとする感触が心地良かった。 «……御堂。加減はどう» (〈村正〉《おまえ》か。悪くはない)  視線を動かす。  部屋の隅に深紅色の蜘蛛が蹲っていた。異様な光景ではある――が、ここが蝦夷の住居ならば、妖怪推参なりと騒がれることはよもやないだろう。  実際、甲斐甲斐しく汗を拭いてくれている少女は、そちらを気にした風でもない。 (……少なくとも、袈裟懸けに斬られて墜落したにしては。  あの後の経過を教えて欲しい) «重傷の貴方を村まで連れて行こうとしたのだけれど。私も動けなくて。  難儀していたら、蝦夷の老人がやって来て助けてくれたのよ» (老人……) «この家の主。  ちなみに、ここは例のお山の中»  そう聞いて、脳内で幾つかの断片が組み合わさる。  ――村長の話。山に住む、祟り神を祀る蝦夷の一族。 (成程……) «話せることはこのくらい。時間的にはまだ大して経ってないのよ。三、四時間っていうところ。  詳しい状況は貴方から訊いてみて» (お前の損傷程度は?) «悪くはないかしらね。袈裟懸けに斬られて墜落したにしては。  これから回復に専念する……後はよろしく» (承知した) 「あ……そちらの蜘蛛の人、お武家様の劔冑ですよね。心配していたんですよ。  あの、蜘蛛さん。こちらのかた、起きられましたよ……?」 「……あぅ。答えてくれない……。  さっきまではこう、頭にぴりぴりくる声で話してくれたのに」 「申し訳ありません。  劔冑にとって、己の仕手や別の武者はともかく、普通の方と声を交わし合うのはとても億劫なことのようなのです」 「他意は何もありません。  自分が起きたので後の対応はこちらへ任せ、休息をとっているだけです。非礼の段は自分からお詫び致します」 「わ、いえいえ、そんな! 非礼だなんて。  ちょっと残念だっただけですからっ」  赤面して、手をわたわたさせる少女。  ちなみにその手は布巾をつかんでいて、包帯が巻かれた俺の胸の上に置かれていたりする。  少々痛い。 「……何をやっとる。ふき」 「え? はぅあっ!!  ごごっ、ごめんなさーい!」 「いえ。問題ありませんから」 「ふき、それは置け。  そろそろ包帯を巻き直す。棚から新しいのを出してこい」 「は、はい。じっちゃま」  少女が立ち上がり、箪笥に駆け寄る。  代わって腰を下ろした男性は、物静かな眼でこちらの全身を眺めてきた。その背中に張り付くようにして、歳はもう三、四つ下だろう、別の娘が顔を出している。  視線が合うと、はにかんだ笑顔。  ……いささか、対応に戸惑う。 「お加減は如何かな。御堂」 「……お陰をもちまして。  一命をお救い頂いたようです」 「なに、〈貴公〉《なれ》は自分で自分を救っておったよ。  〈己〉《うて》がしたのはここへ寝かせて包帯を巻いただけに過ぎん。しかし……」  男性の手が包帯を解く。  数箇所、傷口に包帯の張り付いていた所が引き剥がされて痛みを発した。が、さほどの出血はない。  傷口の惨さに比べての話だが。 「おーっ」 「……見よ。  ここへ連れて来た時は骨が覗いておったがな。既に肉が盛り上がり、傷を覆っている。  まこと、武者の回復力は凄まじい」 「ど、どうして……?」 「これが紛い物にあらざる劔冑の力。  鍛冶師の身魂を宿す真の劔冑はなまなかなことでは破壊されぬ。少々の欠損なら自力で容易く復元してのける」 「そして、〈帯刀〉《タテワキ》の儀によって結縁した武者と劔冑は常に一体……。  復元の力は武者の肉体にも及ぶのだ。このようにな」 「そうなんだ……。  すごい……」 「さりながら。  貴方がたがお助けくださらなければ、回復するより前に命を絶たれていたことでしょう。やはり御礼は申し上げねばなりません」 「なれは代官だのその取巻きだのに殺されるような〈天命〉《ほし》ではないよ。  それに御堂、うては当然のことをしているに過ぎん」 「……」 「なれが山の作業場であの馬鹿者を止めてくれた折、うてもその場におった。  我が村の救い主が倒れているのを見掛けて、何もせぬ法があろうか」 「それは一身上の都合でした事。  救いなどと考えられては身が縮みます」 「だとしても助けられれば感謝はするもの。  当然のことであろう?」 「……」  なんだか自分がただ強情を張っている未熟な若造にしか思えなくなってきた。  人生経験の差を感じる。 「御老人……失礼。  そのようにお見受けしたのですが、もしや見込み違いということは」 「ないよ、お若い方。  歳はもう五十を数えた。蝦夷としては老人も老人、長老などと呼ばれる頃合かな」  やはり、か。  不老の蝦夷種族らしく、外見上はいいところ壮年にしか達していない。しかし動作の端々にある重さと、御堂という呼び方が実際の歳を窺わせた。  御堂とはもう用いる者も多くはない、武者に対する古風な敬称。  かつて宮中の武者溜りが釈天堂という建物にあったことを由来とする。 「では、御老人。  貴方はやはり、この山で祭祀を行っておられるというご一族の」 「村長にでも聞いたか。  その一族の最後の末裔がここにおる三人よ」 「うては弥源太。  こやつらは孫で、大きい方がふき、小さい方がふなと申す」 「申し遅れました。  鎌倉警察署の湊斗景明です」  頭を下げる。  ……新しい包帯を巻かれながらでは、充分な礼儀を尽くすわけにもいかなかったが。  老人は軽く顎を引きだけして応えた。  孫の方を見ると、上の娘は恐縮した風で何度も礼をし、下の娘はまた笑顔を向けてきている。  妹の方が堂々としているようで、少し可笑しい。 「警察の人であったか」 「御協力に感謝致します。  この御礼は後日必ず……」 「今日のところは、そろそろ失礼させて頂きます」 「えっ!?  そんな……無理ですよ!」 「……さっきは回復が早いと褒めたがな。  流石に一晩は動けんだろうよ。無理をして動けばまた傷口が開くぞ」 「しかし、ご迷惑は掛けられません。  自分がここに留まれば、この図体で場所を塞ぐのみならず――」 「代官どものことを案じておるのか?  なるほど……やはりその傷はやつらと一戦交えた結果か。それで追手が来るかもしれぬと言うのだな」 「まさしく」 「だがそれは無用の心配。  ここでなれを追い出したところで、やつらの迷惑が迷惑でなくなるものか」 「それは……」 「やつらはいる限り村の迷惑よ。  一身上の都合だろうが何だろうが、御堂、なれがやつらを成敗するというのなら、なれを助けることは村の利益に適う」 「……」 「丸一日はここで休んでゆけ。  なれならば、おそらくそれで全快しよう」 「そうしてください。  あては難しいことはわかりませんけど……こんな大怪我をしている人が出ていくなんて、そんなの駄目です」 「んーっ?  ねーや、にーやはどうしたの?」 「にーや、おうちに帰りたいんだって」 「えーっ、そんなのやだ!  もっといてほしい……」 「そうよねっ。  ほら、お武家様。ふなもこう言ってます」  言われても。  ……しかし、これを振り切って行くことはできそうになかった。  それに弥源太老人の言う通り、今無理を押して出ていく選択にはどうも利もなければ理もないらしい。  ここは厚意に甘えておくのが賢明だろうか。 「……わかりました。  ご厄介をおかけします」 «よろしく» 「わっ、ぴりぴりきたー!」 「ぴりぴりー!」 「…………」 「…………」 「どうよ。  小太郎……」 「足跡が二つあるわ。  どうやら、誰ぞに拾われたようだの」 「ほう……」 「心当たりはあろうかな。  このような場所を通りがかる者などに……」 「ある。  ……あやつめが。全くいつまでも煩わしい男よ」 「……」 「山に登るぞ。裏手へ回る」 「おいよ。  やれやれ……年寄りにはきついのう」  〈蝦夷〉《えみし》とは大和の少数民族を指す。  彼らは小規模の集団を作って全国各地に散在するが、全般的に見れば東北地方に近付くほど集団の規模・数ともに増大する。しかし他地方でも鍛冶の名地(美濃の〈関〉《せき》村や備前の〈長船〉《おさふね》村など)には集中して住む。  大和人と比べてやや小柄かつ細身の体格を持ち、肌は褐色、髪色は黒のほか白、銀、金などがみられる。  動きは俊敏で特に手先が器用であり、持久力に秀で、意外なほど筋力もあるが……  生命力を欠くのか、病には弱く短命である。  平均寿命は三十数年程度、五〇年以上を生きる者は珍しい。  また彼らは特異な不老体質を備え、一五歳頃に成人を迎えて以後は死ぬまでほとんど容姿が変化しない。  東大和の先住民族として大和朝廷の歴史書に記述が現れる当初から劔冑鍛造を始めとする高度な鍛冶技術を有していたとされ、大和鍛冶の誕生は彼らとの接触が端緒であると通説は認める。  中世以降、大和鍛冶と蝦夷鍛冶の間に技術的な格差はみられないが、種族的な適性の部分で差があるのか、一般に大和鍛冶の作品は蝦夷鍛冶のそれに及ばない。  そのため、蝦夷は少数民族の必然として偏見・蔑視を受けつつも、貴重な職能集団と扱われ、尊重されて、現在に至っている。  ……一説によれば、彼らの短命と不老は鍛冶種族として特化されているからこそだと云う。  蝦夷は心身と技術の成熟を迎えた時点で己を〈甲鉄〉《ヨロイ》とするのが宿命。老境などという人生は必要ない、と。  大和国外にも同類と考えられる種族は複数存在し、西洋人類学はこれを総じて『〈小さい人〉《ドワーフ》』と呼称する。  そのうち特に有名なものは白い肌の一種族であろう。  彼らは欧州全域に分布し、劔冑を始めとする武器の販売で巨富を築き、死の商人と、世界の黒幕と呼ばれ畏怖と嫌悪を集め――それが為に、  先の世界大戦においては最大の災厄を〈蒙〉《こうむ》った。  彼らを称して〈賛美者の末裔〉《ユーデア》。  大和語では白蝦夷と云う。  ……視界の中の人々にまつわる教科書的知識を引き出したところで、何が変わるというものでもない。  だがいくつか、頷けることはあった。ふきという娘の態度、山中孤立の家、反面そう貧困でもない佇まい。  蝦夷という種族の複雑な在り方はこの小さな家の中にもすべて詰まっていると言えた。  唯一、子供の快活さだけを例外として。 「にーやはどこから来たの?」 「鎌倉の町から参りました」 「かまくらー……。  いったことないけど、しってる。でっかいまち?」 「はい。現在の大和における事実上の首都ですから」 「じじつじょうのしゅと?」 「首都とは、国で一番の都のことです。  事実上とは、本当は違うのだけれども大体そのようなものである、という意味です」 「かまくらは……いちばんのみやこみたいなもの?」 「はい」 「ほんとうのしゅとは?」 「〈山城國〉《やましろのくに》、京都です。  現在も近畿以西においては中心的な位置を占めていると言えるのですが……」 「しかし、大和西部は未だほぼ全域が遅々として進まぬ戦災からの復興の途上にあります。  京都の賑わいも相応のものに過ぎません」 「かまくらはもっとすごい?」 「人が大勢います」 「どのくらい?」 「この村の倍の、十倍の、百倍ほど」 「きゃー!  すごいねぇ……」  はしゃいで、ぱちぱちと手を叩く下の娘。  ふなという名前だったか。先程から、突然の闖入者である俺にくっついて離れない。  物怖じしない性格のようだ。 「ふなー。  あまりお武家様を困らせないの」 「んぅー」 「いえ、お気遣いなく。  ただ寝ているだけというのは無聊なもの、かえって助かります」 「こまってない!」 「もぅ……」 「世話を掛けるな、御堂」 「とんでもありません」 「そやつは誰に似たやら、まるで落ち着きというものがなくて困っておる。  昼は外で遊んでおるから良いが、夜になるとうてらの邪魔しかすることがないらしい」 「そうなんですよぅ。  台所に来ればおなべに手を入れようとするし、じっちゃまの刃物は触りたがるし、気がつくと箪笥の中身をひっくり返してるし……」 「申しわけないですけど、今日はお武家様のお陰で助かっちゃってます」  大工道具かなにかと思しき刃物を磨いている老人と、厨房に立っている上の娘が口を合わせる。  この家の最年少者はなかなかの暴れん坊のようだ。実際、腹の上に飛び乗って来られては疑うべくもない。 「……って言ってるそばからもー!  怪我してる人にそんなことしちゃ駄目!」 「お気遣いなく」 「遣います遣わせてくださいっ!  ほら、おとなしくしてる!」 「わー」  厨房から飛んでくるや、妹を担ぎ上げて脇へのけ、また戻っていく上の娘。  手が離せない仕事の最中らしく、慌しい。 «意外に騒々しい家ね……» (珍客のせいでもあるだろう。  あまり来訪者の多い家とは思えん) «そうね。  ……少しだけ、懐かしい。この空気» (似ているのか) «どうかしら。  私に妹はいなかったし……けどやっぱり、蝦夷の家には蝦夷の家の匂いがあるのかもしれない» (……そうか。  お前も蝦夷か。言われてみれば当然のことだな) «……そういえば、そんなことさえも話していなかったのね。  少しは……話しておくべきだったのかしら» (そう思うのか) «…………いいえ。  貴方は? 聞きたいと思う?» (いいや) «……そう。  ところで……» (何だ) «あのふきっていう娘の、私に対する仕打ちには何か底深い理由があるのかしら» (いや。  単に慌てていただけだと思うが)  そこはかとなく憮然たる様子で妹娘に〈座られて〉《・・・・》いる劔冑に個人的見解を述べておく。  玩具を与えられた格好の娘は、ご満悦のようだった。 「もうすぐごはんできますからねー。  お武家様、待っててください。今日は腕によりをかけましたからっ」 「どうかお構いなく」 「腕をふるうのは良いがな。  怪我人に食わす物だということはちゃんと考えておるのか?」 「もちろん。  あ、お武家様。好き嫌いはあります?」 「油の強いものがやや苦手ですが、ほかには別段」 「よしっ、大丈夫!  じっちゃま、ちゃぶ台出しておいてー」 「…………」 「じっちゃま?」 「……飯は少し後だ。  客が来たらしい。招かれざる類のな」 「!」 「え……?」 「夜分に失礼。  少々お邪魔致し申す。何、用を済ませたらすぐに退散しますでの」 「な、なっ、なんですかっ、あなたたち……」 「……」 「! お、お代官様!?」  戸を蹴り開ける非礼と慇懃な挨拶とを一緒にやってのけた若い女――注釈、外見上。  そして、その後ろからのっそりと現れる初老の男。  来るべくして来た二人だった。  しかし――予想より遥かに早い! 向こうとて無傷ではなし、よもやこの夜の内に来ることはなかろうと見込んでいた。  乱破者の実力を甘く見たか……。 (村正) «戦闘は不可能!  〈仕手〉《あなた》の肉体、〈騎体〉《わたし》の甲鉄、共に騎航に耐えられる状態に無し!» (諒解した。  太刀だけ寄越せ) «……本気!?» (限られた手段のうちから最善手を選択しているだけの事。格別、冗談じみてはおるまい) «けれど……!»  二人の背後と、物音を確認する。  ……〈もうひとり〉《・・・・・》、どこかに潜んでいるということは無さそうだ。巧妙に隠れていないとは限らないが。 「ほっほ。おったおった、ほれおった。  さぁて……」 「待て。  話は外で聞く。この家の人々を巻き込むには及ばん」 「そうしてくれれば、こちらも助かるがの」  温かだった寝床から身を起こす。  苦痛が走る――包帯に血が滲む。少し傷口が開いたか。  しかし、動けなくはない。 「お武家様! いけません!」 「大変お世話になりました。  少々つまらぬ用事が出来たようなのでこれにて失礼を。後日、改めて御礼に参上させて頂きます」 「そ、そんな」 「はっは! 後日、後日か!」 「今のは別に笑う所ではないが」 「笑う所だよ、湊斗景明。  まあ良いわえ……後日の御礼とやらは儂が代わりに済ませてやろうぞ」 「……」 「そうか。なら手土産は友島屋の鳩サブレー、一二枚セットで頼む。あと山倉醸造の『公暁』を一瓶。  おそらく造作を掛けることはなかろうが」 「心得た。  必ず、そのようにしてくれよう」  風魔小太郎の歯を見せた笑いに応えて、足腰を立たせる。  ……わずかに揺らいだ。血が足りないのか、〈脹脛〉《ふくらはぎ》が萎えている。  だが動く。動けば、戦える。  戦うためには、他に何も必須ではない。 「……待たせた」 「ほっ。なに、構わぬよ。爺は気が長いでな。  では参ろうか……」  促されるまま、土間に降りる。  否、降りようとした――が。  ついと伸びた腕に、行く手を遮られた。 「……」 「御老」 「下がられい」 「しかし、これは自分の」 「ここはうての家。  誰を客として迎え、誰を迎えぬかはうてが決めること」 「……」 「客人を狼藉者に引き渡すなどという作法を蝦夷は持たん。かような真似こそ最大の恥辱。  御堂、この爺に恥知らずの汚名を着せたく思うのでなくば、まずは任せてもらおう」 「…………御意に」  恥辱と告げられては是非もなし。  やむなく、ひとまず引き下がる。  しかし事あらば即座に割り込まねばならない。  村正は手元に引き寄せておいた。瞳を見開いて押し黙っている小さな娘を慎重に部屋の奥へ移した後で。  異様な雰囲気を感じ取ってだろう、ふなという娘の目元は潤んでいた。  ……舌の裏側に苦渋が湧く。 「ほぅ、ほぅ。これは勇ましき御老人かな。  しかし、歳食えば骨朽ちると申す。無理は慎まれたが宜しかろう」 「……年寄っておるのは事実ゆえ、言われて怒る筋はないがな。  それでも貴様の如き〈化生〉《けしょう》に毒舌を叩かれるのは心外というもの。その口こそ慎まれたい」 「はっは! これはしたり、これはしたり。  人よりいささか〈遊び〉《・・》を知っておる程度の儂、化生呼ばわりはちと心外なる申されよう」 「だが家主殿。  儂を化生と見られるならば、折角のこと、そのように振舞わぬではないが……?」 「無用だ。  控えておれ」  唇を舐めた、外法者の背後から。  それまでは黙りこくっていた男が踏み出し、弥源太老人との間に立ち塞がった。 「代官殿」 「こやつの相手は俺がする。  ……不満はなかろう? 弥源太」 「不満か。今となっては、なれとうてが〈現世〉《うつしよ》にいつまでもしがみついておる事こそ不満でならぬよ。  長坂右京……」 「は。抜かすわ。  けりをつける機会ならいくらでもあったに、逃げ続けてきたのは何処の誰ぞ?」 「言われるまでもない。  だから不満と言うておる。なぜもっと早く、決断ができなんだか……」 「その後悔さえ、三十年遅いわ!  あの時に貴様が逃げなければ、我らの一方は人生に実りを得、もう一方とて少なくとも老廃を晒さずには済んだであろうよ」  二人の老いた男の視線が正面から相撃つ。  沈黙の帳が下りた。  誰も、何も口にしない。身動きもしない。  あの二人が不動なら、他には誰も動けない。  代官の口にした三十年という言葉が、固形と化して空間の隅々まで詰まったかのようだった。  ――立ち入れない。手足が縛られている。息苦しささえ覚える。 「……うてはこの一命に実りがなかったとは思うておらぬ」 「俺は思っておるよ。  何も得られなんだわ……何もな」 「……」 「貴様とて本心ではそうであろう。  それともその孫娘どもを得て満足だとでも言い張るつもりか?」 「そう言ってはならぬ理由があるか?」 「貴様が求めたのは〈それ〉《・・》ではなかろう」 「求めたものを得られるとは限らぬし、そうでないものの価値がそれより劣るとも言えぬ。  うての命はこやつらを世に送り出すためにあったと、そう言うても一向に構わぬ」 「……そうか。貴様がそう言うならそれでも良かろうさ。  ならば貴様は何故、今になって俺に挑む?」 「冥途へ悔いを引き摺らぬ為よ。  なれの馬鹿はうてか〈一媛〉《いちひめ》が止めねばならなかった。一媛亡き今はうてしかおらぬ」 「己の責務を残して逝けば黄泉路に迷うわ。  右京、なれの墓碑銘を刻むことが、うての最後の仕事となろうよ」 「では俺の仕事は貴様の墓碑を刻むことか?  ふん、厄介な」 「犬に食わせて済ます。構うまい?」 「良かろうよ!」  老人は、壁の素朴な神棚の上から何かをもぎ取った。  代官は背負っていた鎧櫃を土間へ落とす。  弥源太老人が手にしたのは短い棒状の物。  あれは――何かの牙か?  鎧櫃の蓋を乱暴に蹴り開け、代官が両拳を胸の前で構える。  ――海軍礼則に〈法〉《のっと》る〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》! 「弥源太……」 「右京……!」 「…………」 「…………」 「良かった。  もしスタートの合図と勘違いされたらどうしようかと思ってました」 「大丈夫ですよ、お嬢さま。 『位置について用意』とは誰も言っておりませんでしたから」  ……やにわの銃声。  続けて聞こえてきたのは、そんな話し声だった。  特に警戒した様子もなく、人影が二つ、開き放しの戸口から入り込んでくる。  いずれも女性。一方は若く長身、もう一方は老いて小柄。  長髪をなびかせる令嬢風の女性にぴたりと付き従う白髪の侍従は、室内を見回すや、ふと眉をひそめた。 「……なんですか、この年寄り臭い空間は」 「ばあや、あなたが言わないの」 「貴様は……」 「巡察官殿」 「良かった、湊斗さま。こちらにいらしたのですね。心配しておりましたのよ?  捜査に行くと出ていかれたきり、日が暮れても戻られないし、連絡一つないのですもの」 「これは……とんだ不手際を。  いささか難儀しておりまして、ご連絡する〈暇〉《いとま》がありませんでした。いらぬ心労をお掛けした事、深くお詫び致します」 「や、や、そのお怪我は……  これはいらぬどころか妥当な心配であったご様子! お加減はいかがなものでございましょう?」 「お恥ずかしい。不覚傷です。  浅からぬ負傷ではありましたが、こちらの方々のお陰をもって大事なく済んでおります。  どうかお気遣いなさいませぬよう」 「さようでございますか。  よろしゅうございましたね、お嬢さま」 「ええ。本当に、ご無事で何より。  湊斗さまは大事な恩人ですもの。この方をお助け下さったのなら、わたくしからも御礼を申し上げないといけません」 「ありがとうございます」 「え? はい……い、いえ、そんなっ」  これぞ礼法の見本と言わんばかりに丁寧な仕草で腰を折る大鳥中尉。  一瞬ぽかんとした後で、一礼を受けたふきは慌てて何度も頭を下げた。 「はぅ……」 「くす。  可愛らしい方」 「……」 「それはそれとして、湊斗さま。  いかがされます? 村へお戻りになられるのなら一緒に参りましょう。すぐそこまで車で来ていますの」 「……は。  いや、しかし」 「お嬢さま」 「あら。わたくしったら、迂闊。  そうですね……怪我をされている方に車で山道はきついかもしれません」 「ここは一晩、この家の方々にお願いして」 「おい」 「はい?」  GHQの軍服がくるりと向きを変える。  そちらには依然、対峙したままの老人が二人。 「なにか?」 「貴様、この場に割り込んでおいて、並べる御託がそんなものしかないのか」 「……ええっと……」 「…………」 「……………………どなた?」  …………。  ……………………………………………………。 「…………。  ギャグが通じません、ばあや」 「遺憾ながら、私めから見ましてもいまのは弁護の余地なく……いささかベタベタ過ぎではありますまいかと」 「頑張りましたのに」 「努力は成果を挙げてこそ努力と認められるものでございますよ、お嬢さま」 「……茶番はその辺で良いか?」 「ええ」  一息――その四半分にも満たぬ時間。  ライフルの銃口が代官を指していた。  最初から彼女が手に提げていた――  未だ硝煙をまとう銃口が。 「……ッ」 「この場であなたを殺すのは容易いこと。  けれど、そちらの腰巾着には多少の余命を許さねばなりませんね。その間に、お子さま方が危害を受けないとも限りません」 「あなたも同じ考えでいらっしゃるかしら?  わたくしを殺すのは容易い……けれど、殺すわけにはいかないお立場。違いまして?  長坂大尉」 「……何が言いたい」 「あら、こんな駆け引きも通じませんの?  困ったお方。脳細胞はあまり甘やかさない方がよろしくってよ」 「ッ!」 「代官殿! この場は……」 「〈おまけ〉《・・・》の方が察しは宜しいのね。頭のいい腰巾着とは重宝なこと。  類は友を呼ぶというけれど、割れ鍋に綴じ蓋とも言いますもの。良いのではなくて?」 「……巡察官殿。  話は呑み込み申した。この上は無用の挑発を避けて下さらんかな」 「あら?」 「主がどのように口舌を垂れ、儂どもの耳を楽しませてくれようとも……  この翁、〈いま幾人の敵から狙われているか〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、うっかり忘れるほど呆けてはおりませぬでな」 「……」 「……」 «……» 「欲はかかれぬが宜しかろう。  そちらのお申し出の通りにされるが最上と存ずる」 「……異存はありません。  そういうことで、宜しいですかしら。長坂大尉? 互いにここで争うのは望ましくない。お預けにしておくのが賢明と思いますけれど」 「……」 「代官殿」 「……わかっておる。  だが小娘。貴様は一度ならず二度までも俺を妨げた。誓ってこのままでは済ませぬぞ」 「済ませておいて下さいまし。  あなたのような殿方に執心されても嬉しくありませんもの。マイストライクゾーンからインコースに大きく外れてデッドボールです」 「残念でございましたな、大尉殿。  これにめげず、男を磨いて出直して来られませ。まずは細かいところから、ネイルケアなどお勧めでございますよ」 「…………。  弥源太」 「なんだ」 「良かったな。  今度もうまく逃げられたではないか」 「……」 「……そのまま腐るがいい。  さらばだ」 「……」 「……」 「まぁ、結構なお味。出汁がよく利いていて……うーん、たまりません。  こちらのおひたしも素敵ですこと」 「すみません……。  こんな粗末なものしかお出しできなくて」 「いいええ。  新鮮な野菜山菜、絶妙な炊き加減の御飯に手作りの味噌……」 「こういったものこそ最高のご馳走です。  ねえ、さよ?」 「まったくでございます」  人口が五割増え、簡単な紹介を済ませ、そしてそのまま食事の運びとなった。  ……特に他の話はしていない。俺も、弥源太老人も、訪れた二人も。今は必要ないことだった。  麦と米を半々で混ぜ込んだ飯に漬物を乗せて、大鳥香奈枝はほくほくと食べている。  なかなかの健啖ぶりだ。 「お武家様、お代わりはいかがですか?」 「頂きます」 「お武家様?」  香奈枝が小首を傾げる。  ……そういえば、疑問に思いながら、うっかり訂正する機会を逃していた。 「失礼。  自分は六波羅で地位を得ている者ではありませんので、そのようにお呼び頂かなくとも結構です」 「あっ、そうですよね。でも……  武者の方ですし。六波羅の人達より本当のお武家様って感じがしますし」 「やっぱりお武家様です」 「は。しかし」  そのような人間ではない事を、どうやって説明したものか。  言葉の選択に迷っていると、くすくすと笑い声。 「良いではありませんの。  言われてみれば、本当にお武家様って感じです。わたくしもそう呼ばせて頂こうかしら」 「御寛恕を」 「けれどいつまでも湊斗さまなんて堅苦しい呼び方はしたくありませんし。  もう少し柔らかい言葉でお呼びしたいです」 「……ご好意は嬉しく思いますが、であれば尚更、お武家様というのは無いのではないかと」  そもそもこちらは非公式警官で、向こうは軍人。  武家というなら彼女の方がよほど武家だ。 「そうかしら?  じゃあ、景明さまとお呼びしましょう」 「……」 「お許しくださる?」 「湊斗さまっ。よもやここで首を左右に振るような、空気が全く読めてない反応はなさいますまいな?  さよは湊斗さまを信じておりますよ!」  そんなことを言われても困るのだが……。 「きゃっ♪」 「好感度アップでございます」 「強ッ!?」 「きゃん。  景明さまってば、いけずなお・か・た♪」 「〈堪〉《こた》えてねぇー!?  こっちも強ッ!!」 「……ぽっ」 「がーん!?  ばあやっ、これはどういうことなの!」 「お嬢さま……。  忠の道と愛の道、どちらがより長く険しいのでございましょう?」 「ばあやーっ!」 「……」  単に、侍従殿なら年長者でもあるし、そのように名で呼ばれても心苦しくないと思っただけなのだが……。 「ずるいです景明さま、ばあやだけなんてっ!  わたくし絶対、景明さまってお呼びしますからね!」 「ほほほ。  お嬢さま、なんだかとても負け犬風味でございますよ」  ……好きにしてもらうしかなさそうだ。 「わたくしのことも、名前で呼んでくださいましね。景明さま」 「有難うございます。中尉」 「……いけず……」 「ちゅうい?」  隣のふなが真似をする。  興味津々なのか、食事の前からずっと、じーっと目を凝らして新たな来訪者を見つめていた。 「ちゅーい」 「はい?  なんでしょう」 「おっきいねぇ……」 「がはァッ!?」 「ああっ、お嬢さまが急性肺結核に!?」 「ふっ、ふふ、ふなーっ!  女の人になんてこと言うのーっ!」 「けほっ、こほっ、げほげほっ……!」 「あああお嬢さま、佳人薄命とは申しますが、かくもあっけなく……せめて安らかに逝かれませ。菩提はこのさよめが弔いますゆえ」 「し、し、死にませんっ。死ぬもんですかっ。  こっ、この程度の打撃で、大鳥香奈枝ともあろうものがっ……」 「さすがでございます。どうかお気になさいませぬよう。  たかだか純真な子供に素直な気持ちで単純な事実を指摘された程度のこと」 「ぎゃふッッ!?」 「お嬢さま!? 心臓病を併発されましたか!?」 「……」  香奈枝嬢の身長は見当で一七〇センチをやや凌ぐ。  確かに女性としてはなかなかの長身だ。ふなが感心するのも無理はない。  ……それを言われて彼女が虚心坦懐でいられぬのもまた、無理はないことだが。  通俗的価値観として、女性は小柄な方が愛らしいとされる。 «大惨事ね» (若干一名、煽っている人間がいるような気もするが) «けど正直、私も同感。  私が生きていた頃だと、男でもあれくらいの背丈はそうそうなかったもの» (最近ではそこそこ見掛けるのだがな) «食べているものが違うからでしょう» 「すみません、すみませんっ。  この子、本当に悪気はないんですっ。ただその、気が利かなくて……」 「ふ、ふふ。  いいんですのよ。わたくし、ちっとも気にしていませんから」 「ええ、ええ、お気遣いなく。  正直で嘘のつけない良いお子さまではありませんか。ねえお嬢さま」 「この銃の引き金の軽さを知っていて!?」 「ごっごっごめんなさい!!」 「い、いぃえ。何でもありませんのよ。  うふふふふ」 「ちゅーい、おっきー」 「そうでございますねえ、おおきゅうございますねえ」 「ふ、ふふふふ…………うぅぅ……」 «……むごい»  本当にな。 「で、でも、ほら。  お武家様と並ぶと丁度いいですよねっ」 「?」 「お武家様も立派なお体をしてますから。  お二人が並ぶと本当、絵になります」 「あら?」 「ほほ。  これは良いところに気付かれましたな」 「おーっ。  おにあい?」 「ぽっ」 「……」  俺と大鳥中尉?  あくまで体格のみを論ずるなら、確かに釣り合いは取れていると言えるかもしれない。  上背は俺の方が一回り以上勝る。  それ以外の面で釣り合わない部分が多過ぎるが……。 「あれは満更でもないという顔でございますよ、お嬢さま」 「どきどき」  俺のような男の横に、いかにも深窓の令嬢然とした女性を置いても釣り合いは取れないだろう。  それならむしろ、あの綾弥一条の方が似合わないだろうか?  ……なんだか、失礼な評価ではあるが。  本人にはとても言えない。 「む。あれは別の女性のことを考えている顔ですよ、お嬢さま」 「まっ。なんて憎たらしい」  ……俺に似合うのはせいぜい村正だろう。  冷たい鋼。  血の色の鉄。  地べたを這い回る虫の形。  温もりも柔らかさもない、ただの刃。  それが――俺には分相応だ。 «……»  ……夜が更ける。  食事が済むと、香奈枝は持参の楽器を奏で始めた。  ……最初に出会った時から、肌身離さぬあの巨大な楽器ケースは一体何なのか疑問だったが、蓋を開けてみれば答は呆気なく。そのまま、コントラバスだった。  進駐軍士官がなぜそんなものを持ち歩いているのか。  不思議がるべきではないのかもしれない。なにしろ侍従を連れているような女性だ。  何かにつけ型破りなのだろう。 «……?» 「良い音です」 「本当に……」 「ふわー……」 「……」  外には容易ならぬ敵がおり、  身には軽からぬ傷。  しかし、温かく和やかな一時。  ……ふと、思い出してはならぬものを思い出しそうになる。  思い出してはならない――遠い光景。  忘れてはならない――戦うべき現実。  今は休む。    しかし、それは安らぎに浸るためでなく。  明日の戦いのために。  今は、  眠る―――― 「ほいっ」 「はっ」 「ほいっ」 「はっ」  ふなが台の上に置いてくれる薪へ、鉈の重い刃先を落として割る。  ふなはそれを脇へのかせ、再び薪を置く。 「ほいっ」 「はっ」 「すいません、お武家様……。  薪割りなんかさせちゃって」 「自分の方よりお願いしたこと、どうかお気になさらず。  こうして軽く体を動かすのは良い〈慣らし〉《リハビリ》になるのです」 「ならいいんですけど……  大変じゃありません? あて、薪割りすると必ず次の日は筋肉痛になっちゃいますよ」 「それは腕の力で鉈を振るおうとするからでしょう」 「お武家様は違うんですか?」 「はい。  このように、腕の力は抜き」 「……鉈の重さを〈そのまま〉《・・・・》落とします。  これで充分、割ることができます」 「はー……」 「難しいことではありません。  腕の力で重い鉈を扱えば、筋を痛めます。このようにやられた方がよろしいでしょう」 「ご迷惑でなければ後程お教えします」 「そ、そうですか。  お願いしちゃおうかな……」  どこかぽやっとした様子になって洗濯を続けるふきの横で、こちらも薪割りを続行する。  既にここ数日分の需要は満たしていた。しかしもう少し、ストックを増やしておいてもいいだろう。  弥源太老人は家の中で仕事をしている。朝方は家の各所の修繕をするのが日課のようだ。  大鳥主従はいない。昨夜のうちに村へ戻っていた。  ――何かしら、手立てを考えなくてはなりませんね。  帰りがけ、香奈枝の残していった言葉がふと脳裏を〈過〉《よ》ぎる。  そう。事がこうなった以上、代官らはGHQに働きかけつつ時間を稼ぐ戦術に出る筈。  それを許しては村は救われない。  そしておそらく、俺の目的も達せられない。そんな悠長にしていれば〈時間〉《・・》が来る。  ……樹海に潜む敵を引っ張り出す策が必要だ。  思案を巡らせつつ、俺は薪を割った。 «調子は悪くないようね……» (ああ。傷口は塞がった。少々血が足りんが……何とかなるだろう) (後は体の動きを戻していくだけだ。  お前は?) «甲鉄の損傷は復元完了。  こちらも後は内部機能の調整だけね» (承知した) «…………» (……? どうした)  沈黙が伝わってくる――というのも妙な話だが。  通信を断ったのとは違う、押し黙る気配が、劔冑と連結する脳髄のどこかに届いていた。 «……責めて欲しいと、思っていたのよ» (責める……?) «忘れたわけではないでしょう。  昨日の不覚» (無論だ) «探査を怠り、気付いた時には敵は目前……。  これほどの醜態を晒した劔冑もかつてないでしょうね» (新手の襲来を予測していたなら、俺は周辺の探査を命じた。それで済んだ。  だが、俺はその予測ができなかった) (醜態を晒したのはお前ではなく、俺だ) «違う。仕手は目前の敵を打ち倒すのが務め。劔冑の務めはその補佐。武者の役割分担とはそういうものでしょう。  周辺の警戒なんて劔冑として当然の義務よ» (…………) «その当然の義務を、私は怠った……。〈二世〉《かかさま》や〈始祖〉《じじさま》が知ったらどれほど嘆くか。  貴方にもどう詫びたらいいのかわからない»  届く金打声は震えを伴っていた。  屈辱と、怒りの。すべて自分自身に向けられている。  ……成程。  そういうことか。しかし。 (詫びなどいらん。  勘違いをするな、劔冑) «……御堂?» (お前に役割など端から無い。  義務も務めもない。お前は只の刃) (〈只の道具だ〉《・・・・・》) «…………» (俺には仕手として劔冑を使いこなす義務がある。劔冑は使われていればそれでいい。  昨夕の俺はお前を使い損ねた。義務を果たさなかった。故に失敗の責任は俺にある) (わかるか? 義務にせよ権利にせよ責任にせよ、全て俺一人の物だ。〈お前には何もない〉《・・・・・・・・》。  当然だろう。奴隷に責任を押し付ける主人などおらん) «…………» (愚にもつかぬ思案は捨てろ。  お前はただ、己の刃を砥いでいればいい) «……そう。  貴方がそう言うのなら……そうしておきましょう»  脳内に打ち響く硬質の声が絶える。  意識を視界へ戻す――ふと見れば、積み上げられた薪は随分な量に達していた。  わずか三人の暮らし、これだけあれば当分炊きつけに困ることはないだろう。  次の薪を抱えて問うように見上げてくる幼い視線へ、頷きを返す。 「このくらいにしましょう」 「いっぱいわった!」 「はい。  お手伝い、ありがとうございました」  そう告げて、一礼をした時。  鈍い〈軋〉《きし》み音がして、家の戸口が開いた。 「御堂。  ……これはまた、結構な量を」 「御令嬢にお手伝い頂いたので。  手早く片付いてしまいました」 「てつだったー!」 「そうか。よくやったな。  ……それで御堂。少し留守を頼んでも良いかな」 「どちらかへお出掛けですか」 「うむ。ちと麓まで下りてくる。  昼までには戻れるだろう」 「承知致しました。  留守をお預かりします」 「すまんな。  よろしく頼む」  危なげのない足取りで、山道を下りてゆく老人。  脇に少々の手荷物を抱えていた。小さな風呂敷包み。  その端から何か、白いものが突き出している。  白い――花。  墓参りだろうか?  〈彼岸会〉《ひがんえ》にはいささか遅過ぎるが……。  ――〈四金〉《しこん》の司を招き願い奉る。  ここに御霊送り御返し候えば遊行の道にこれを拾い百幸千福授け給え。五方化徳共々に在れ。  大幸金神、大恵金神、願わくば北斗八廊に留まり、〈御徳御恵〉《おんとくおめぐみ》、天上天下へ下し給え。  奇一金心、全一金光、護方金輪、殺方金掌……  聞く人間が聞けば首を傾げたかもしれない経文を、蝦夷の老人は延々と唱える。  短い文言を繰り返し、繰り返し。  背後からついと影が差した時も、声が途絶えることはなかった。  人ならぬものに向けられた言葉の羅列は続く。背後に立った者も、あえて止めようとはしない。  数十度、いや、百度も繰り返したろうか。  ようやく老人の詠唱が止んだ時、背後に立った男はおもむろに口を開いた。 「……金神祭詞か?  浄土宗の寺で唱うようなものでもあるまいに。和尚は何も言わんのか」 「人を救う神仏に分け隔てはない……とよ。  それに、うては他の祈りを知らん」  昨夜、刃を突きつけ合った男と邂逅して、老人の顔に驚きの色はない。  今日、この場で会うことと、昨夜の出会いとは意味が違う。驚きも〈戦慄〉《おのの》きもここでは不要。 「一媛がここへ帰ってきてから、ずっとそうしておる」 「……ふん。  考えてみれば、あやつにはふさわしいか。何しろ金神の花嫁だからな」  苦いものを含んだ笑み。  老人も苦笑をこぼした。  男の一言は過去の扉を開く鍵。  ――遠い昔。  彼らは若い男と、若い蝦夷だった。  傍目にはいかにもおかしな二人であったろう。  彼らは出会いの最初から互いを親の仇のように強く意識し、あらゆる契機をとらえては争い、命に関わる怪我を負わせ合うことさえ一再ではなく、  それでいて、互いに遠ざけ合うことがなかった。  圭角が強過ぎる若い男と付き合う村人は若い蝦夷のほかにはもう一人だけであり、蝦夷と好んで関わろうとする者も若い男のほかには一人だけだった。  そのもうひとりが〈一媛〉《いちひめ》。  二人と同じ年頃の、美しい娘だった。  男と蝦夷は思春期を経て、娘の美しさの本当の意味に気がつき、ほどなく、それは自分のためでなくてはならないと考えるようになる。  そして、そう考える者が己だけではなく、もう一人いることもやがて知った。  二十歳を数えたある日、二人は長年の争いに決着をつけるべく、最後の勝負を約して杯を交わした。  しかし、翌朝。  決闘の場に現れたのは三人。  目を〈瞠〉《みは》る若者二人に、彼女、一媛は告げたのだった。 『あはは! そうか、あたしは強い方の嫁になるのか。  でもおまえ達がどれほど強くても、お山のこんじんさまには勝てないだろうな? それじゃあ仕方がない。  あたしは神様のもとへ嫁に行くことにするよ』  若い蝦夷は己を恥じ、山へ帰った。  若い男は諦めず、なおも蝦夷に勝負を、娘に結婚を求めたが、どちらも応じることはなく。  娘が村を去ると、やがて男も姿を消した。  ……それだけの話。  三十年前のこの村で、そんな出来事があった。 「あやつ、結婚はしておったのか」 「しなかったようだ。  村を出た後は駿府の兄夫婦の家で暮らしていたらしいが」 「ふん?」 「七年ほど前に、その家が勤めをしくじって潰れたので、鎌倉にいた甥夫婦の遺児を引き取りがてらそちらへ移り住んだそうな。  全部、和尚の受け売りだがな」 「その後は?」 「村に帰ってきたのは三年前だ。  白い骨になってな。ここへ埋めろと遺言を残していたらしい」 「……あやつ。  まさか、あの戯言の通りにしたというのか。結婚もせずに死に、お山を眺めるここへ己を埋め……」 「さあな。  わからぬ」 「……」 「だが、右京。  元よりなれは、あれを戯言とは考えていなかったのではないか」 「どういう意味だ」 「なぜ山を掘る」 「……」 「金が欲しいのか」 「あって困るものではないからな」 「なら他にいくらでも殖産の方法はあろう。  怪しげな伝承一つを頼りに山師の真似などせずともな」 「……」 「一媛はもうおらぬぞ」 「おるさ」 「右京……」 「あやつはお山の祟り神の嫁になると言った。  なら、神を殺せば一媛は俺の手に入る理屈」 「…………」 「神の鉱脈があるならそれを奪う。  何も無いなら唾を吐いて嗤う。  どちらでもいい。そうなれば、俺の勝ちだ」 「……やはり、そういう存念か。  昔と何も変わらん。愚かな男だ、なれは」 「変わったさ。昔は己の愚劣ぶりを認められなかったからな。いらぬ格好をつけていた。  今は違う」 「どのような形でもいい。  俺はあやつを手に入れる。手に入ればそれでいい。骸であろうと、骸すらなかろうと」 「何をしてでもな……。  神にも、貴様にも、邪魔はさせん」 「……愚かな」 「愚かよ」  風がそよぐ。  緩やかな風。二人の隙間をやわらかく抜けてゆく、それはしかし、大河のように両岸を隔ててもいる。  もはや対岸に言葉は届かず、ただ視線を交わすのみ。 「さて……」 「行くのか」 「お陰をもって、今の俺はのんびりと散歩を楽しめる身分ではないのでな。  まあ、ここ一両日で片付くことだが」 「その前に、〈深紅〉《あか》い武者がなれを殺しにゆくだろう」 「返り討つまでよ」 「……右京」 「なんだ」 「〈祟り神は〉《・・・・》、〈もう降りているのかもしれぬ〉《・・・・・・・・・・・・・》」 「…………何?」 「もし、そうであれば……  なれの所業とて虚しいばかりよ」 「隠れ潜むのはよせ、右京。さっさとうての元へ参れ。相手をしてやる……。  災厄が避けられぬものならせめて、悔いの種は減らしておきたいもの」 「……世迷言を。  何を言うかと思えば」 「それは挑発のつもりか、弥源太。  成程、貴様らとしてはあの忌々しい小娘のいる間にけりをつけたかろうがな。こちらは逆。奴を追い払った後で、料理してくれるわ」 「……」 「待っておれ。  その首は、必ず――」 「…………ん?」 「――――」 「……な、…………」  その、現れた人影を見て。  二人の老人は愕然と、我を忘れた。  少女だった。  学生服という、いささか場違いな姿。  それが奇妙に似合ってもいたが。  少女は訝しげな眼差しで二人を見回している。  彼らの顔に思い当たるものがないのは明らかだった。  だが、二人の側は違う。  その口が同時に、声なく、同じ一語を形作った。  ……一媛。  それきり立ち尽くす老人らに、少女の方では焦れたらしい。唇を曲げると、胡散臭げな声を発した。 「……誰だよ、あんたら」 「あ、いや……」 「うむ……」 「……? なんだか知らねぇけど。  そこ、うちの墓なんだよ。邪魔になるからどいてくれ」  言うや、少女は邪険な仕草で二人を押しのけ、墓の前に陣取った。  その視線がふと、一ヶ所に止まる。  真新しい白菊。 「これ、あんたらか?」 「……ああ……」 「なんだ……命日の墓参りに来てくれてたのかよ。  それならそうと言ってくれ」 「ありがとう。  毎年誰が花を生けてくれてるのか、気にはなってたんだ」 「……」 「……失礼、その。  お嬢は、一媛の……?」 「一媛?  ……ああ、婆さんの名前か」 「そういやそんな立派な名前してたっけな。  口より先に蹴りが出る因業婆のくせに」 「……」 「あたしは一条。勘違いされる前に言っとくけど苗字じゃなくて名前だ。  名付け主はこの墓の下で眠ってる奴な」 「では……綾弥一条……殿か」 「あたしはこの婆さんの……なんて言うんだ?  孫じゃなくて、はとこじゃなくて……あー、つまり、婆さんから見ると甥の子供になるんだけど。あたしから見ると大叔母」 「〈姪孫〉《てっそん》……ではないか」 「又姪とも言うな……」 「じゃあそれ。  一媛ばばあの又姪の、一条だ」 「……」 「……そうか。  そうか…………」 「あんたらは?  婆さん、生まれ故郷のことは一度も話してくれなかったから。この村のことはさっぱりわからねぇ」 「ここの坊さんに聞こうかとも思ったけど、どうも坊主ってのはな……。  宿を借りてる身分で何だが、あのはげ頭を見てると背筋が痒くなってくるんだよなぁ」 「……ははっ。  そういえば昔……一媛も似たようなことを言うておった」 「そうなのか?」 「あの頭を見ると、引っぱたくか、撫でるかしたくてうずうずしてくるとか」 「……変な血が遺伝してるな。うちの一族は」 「ふっふ……」 「爺さんたち……で、いいんだよな? 蝦夷のあんたも。婆さんの知り合いなら若いわけねぇし。  あんたら、婆さんの友達だったのか?」 「あ……うむ。  そうだな。遊び仲間だった」 「よくあんな奴と付き合えたな。  聞いたことはねぇけど、あの婆さんきっと昔から、とんでもない性格してたろ」 「……どうかな。  うてらもあまり人のことは言えなんだしな。のう、右京」 「あ、あぁ……そうだな」 「はっ。じゃあ、変人三人組か」 「そんなものよ。  三人で、色々なことをした……と」 「名乗りが遅れたな。すまぬ。  うては弥源太。こやつは……右京と申す。どちらも今はただの老いぼれよ」 「……ふぅん?  けど、そっちの……右京爺さん」 「その格好……  六波羅の軍装だよな?」 「……」 「いや、それは……」 (右京、適当に誤魔化せ。  口裏は合わせてやる) 「……」 「ッ!? なっ……」 「右京!」 「……」  男の手が少女の顎をつかむ。  そのまま、乱暴に引き寄せた。 「なに……しやがる! てめェ!!」 「……似ている。  いや、そんなものではない……な。  まさしく瓜二つ……」 「なんと、俺の前に戻ってきたかよ、一媛!」 「あぁ!?」 「右京! その手を放せ!」 「娘……いや、一条。  一条と申したな」 「一条。  俺と一緒に来い」 「……ボケてんのかてめぇ。  脳に蛆湧いたんだったらとっとと養老院へ行きやがれ!!」 「くふっ。  中身も全く同じだな。易々とは意のままにならぬ」 「誰がてめぇのような山犬野郎に……」 「しかし俺とて、裸一貫の昔とは違う。  一条、俺のもとへ来れば、楽な生活くらいはさせてやるぞ。この時勢ではほんの一握りの者にしか許されぬ暮らしをな」 「知るか! 放せよ!」 「口先ではない。  俺は六波羅大尉長坂右京」 「察しの通り、幕軍の将校だ。  俺の身内となればそこらの屑虫どものように御上の顔色を窺ってこそこそ生きる必要はなくなる……」 「……」 「欲しいものがあればくれてやる。男遊びがしたければそれも好きにしろ。  ただ、俺のものでありさえすれば――」 「死ねよ」 「……ふ!  顎狙いの掌底を囮に、股間へ膝か」 「容赦のかけらもありゃあせんな。  睾丸が割れるどころか恥骨まで砕けて死ぬぞ、今のは」 「殺そうとしたんだよ。  聞いてなかったのか、ぼけ老人」 「ならば惜しかったな。  今の技……一媛から習ったものであろう?若い頃にも一度食らいかけた覚えがあるわ」 「……ち。  仕損じるなよ、婆さん」 「一条。  俺のものになる気はないのか?」 「たりめぇだ阿呆!  あたしが今この世で一番嫌いなのは六波羅なんだよ! そのてめぇがなんだ? 〈モノ〉《・・》になれ? 聞くだけでも死にたくならぁ!!」 「そうか。  ……ならば仕方あるまいて」 「……!」 「〈どんな形でも構わぬから手に入れる〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  先刻、そう誓ったばかりでな!」 「ぁん?」 「こういう事よ!」 「――ッ!?」 「ぐっ……!」 「爺さん!」 「右京……血迷うたか!」 「……くっ。くっくっ。  わかっておるよ、弥源太」 「ここは一媛の墓前……。  血で汚すつもりはない。今のは戯れだ」 「……」 「だが、言うたことは戯れではないぞ。  一条、お前は俺が貰い受ける」 「殺してでもな」 「野郎……」 「あの時はこの決断ができなかった。  己の程度に〈幻想〉《ゆめ》を持っておった」 「今は違う。  馬鹿には愚行が間尺相応。賢く生きて無念を残すより、愚劣を通して笑ってくれよう」 「右京!」 「お山の神を殺した後で。  もう一度会おうぞ、一条」  誰何の声が響く。  本堂の方角からだった。穏やかならぬ物音を、和尚が聞き咎めたのだろう。 「……ふふ。  どうやら何が何でも、祟り神めはこの手で暴いてやらねばならなくなったわ」 「……」 「神を殺し……花嫁を奪う。  邪魔はさせぬ。誰にも、邪魔はさせぬぞ」 「…………ち。  何なんだ、あの野郎は……」 「…………右京…………」  弥源太が左肘に負った傷は深手ではなかった。  和尚が用意してくれた焼酎を傷口に注ぎかけ、包帯を巻き締める――それで治療は済んだ。  数日、経過に気をつけていれば癒えるだろう。 「これで良し」 「すまんな」 「謝られる筋合いじゃねぇ。  助けられたみたいだしな」 「あやつがどういう挙に出るか、予測しようと思えばできた。  うてが間抜けておらねば、嬢を危険な目に遭わせずとも済んだのだが……」 「売られた喧嘩を買ったのはあたしだ。  あんたにゃ関係ない……てのに割り込んで怪我までしたのはお節介だけどさ」 「格好は悪くねぇよ。あの〈腰抜け〉《ヘタレ》に比べりゃ」 「へたれ?」 「いいいい、気にしないでくれ。ああいう時に何もできない玉無し野郎をひとり知ってるってだけの話だ。考えたくもねぇや」 「…………。  あやつ……右京のことだが……」 「…………」 「こうなっては話さぬわけにはいかんが……  どこから話したものかな」 「察しのついてることはあるよ。  あの野郎、婆さんに惚れてたんだな」 「……やはり、わかるか」 「なんだか妙な御託を並べてたが、要はそういうことなんだろ。  しかし、わっかんねぇな……あんな婆さんのどこが良かったんだか」 「……」 「あんたもか?」 「……うむ。  まあ……その、な」 「いい歳の爺さんが照れんなよ。  ……ち。そんなにいい女だったのか、一媛婆さんは」 「……うてらにとってはな。  あの頃はほかに何も見えなんだ。一媛さえおれば、ほかは何もいらぬと思うておったな……」 「……へっ。聞いてる方まで照れるぜ。  それで、どうなったんだよ? 三角関係の修羅場だったんだろ。婆さんと、あんたと、あの野郎で」 「袖にされたよ。二人ともな。  そうして一媛は村を出た……その先のことは嬢の方が詳しかろう」 「あんたらは?」 「右京も村を去った。  うては山に引き篭もり……数年して、藤倉の蝦夷村から嫁を貰ったよ。それからすぐに子が生まれ、孫が生まれて」 「……気付けば三十年。  倅夫婦は蝦夷らしく早々に死んでしもうたがな、孫二人は元気な盛りよ」 「ふぅん……。  あんたはもう、婆さんのことは吹っ切ったのか?」 「吹っ切った……さて、どうだろうな。  一媛を忘れたことは片時もない」 「……」 「忘れたことはないが……。  いつの頃からか、一媛のことは苦い思い出ではなくなったな」 「酷いふられ方したんだろ?」 「ふっふ! 確かに。お前は最低の馬鹿たれだ、出直して来い、と面と向かって言われたようなものだからなぁ……。  酷いといえばこれ程酷い失恋もなかろうさ」 「うへ。やっぱりばばあ、昔からそうか」 「だが、な……今はただ、感謝しておるよ。  一媛のお陰で、うては紙一枚分だけ、馬鹿ではなくなった。〈まわりを見る〉《・・・・・・》ということを教えてもろうた」 「何か一つしか見ない者は誰も幸福にできん。  うてが人並みに家族を持てたのは、一媛のお陰よ……」 「そんな大したもんじゃねぇと思うけどな。  あの婆さんのこった。単にむかついたから罵っただけで、別になにも考えてなかったんじゃねえの?」 「ははは……  そうかもしれんなぁ……」 「……ち。  せっかく婆さんの古い知り合いと出会えたんだ。悪口話で盛り上がれるかと思ったのに、調子狂うじゃねぇか」 「嬢は、一媛が嫌いか」 「嫌いに決まってんだろ!  あのばばあはな、てめーは日がな一日ごろごろしてやがるだけのくせに、あれやれこれやれとあたしにはやかましくて、しかも」 「やり方にいちいち文句つけるんだが、その文句が日によって違うんだ! 廊下は水拭きにしろっていうからそうしたら、次の日にはこれじゃ滑るだろ、馬鹿、空拭きにしろとか」 「……」 「打ち込みの強さを鍛えるには木刀で庭木を打てっていうからそうしてみれば、その日の夕方にはこの阿呆なんでそんな近所迷惑な事してやがるとか抜かして〈肘打ち〉《エルボー》入れてきたり」 「……くくっ」 「笑い話じゃねぇーーっ!!  たまんなかったんだぞこっちは!」 「いや、すまぬすまぬ。  何とも一媛らしい話だと思ってな」 「個性で済む話かよ。  あれが虐めでやってたんならこっちもやりようがあるのに、ばばあ、単にその時その時の思いつきで言ってやがったってだけだから」 「言い返しても、そんなの忘れたで済まされちまう! どうしろってんだよ! 殴り合うしかねえじゃんか。一度も勝てなかったけど。あの熊、一体何で出来てやがったんだか」 「それであの婆さん、くたばる時はぽっくり逝っちまったから、とうとう最後まで仕返しできなかった。ったく、畜生……寝たきりのばばあをいびってやるつもりだったのにさ」 「……そうか、そうか。  どうやら一媛は、心楽しい晩年を過ごせたようだな……」 「〈ばばあは〉《・・・・》、なっ。  あたしはいい迷惑だ」 「ふふ。  そのわりに……嬢は一媛の言うことをよく聞いていたようだ」 「別に……」 「そうかな。  そう聞こえたが……」 「…………。  あたしがなんで婆さんのとこで暮らしてたか、知ってるか」 「……うむ。  綾弥の本家……嬢の家に、災難があったというようなことは耳にしておる」 「一言で言っちまえば、あたしの父様の責任で、綾弥の家は潰れたんだ。  ……父様の葬式は酷かった。親戚で泣いている奴は一人もいなかった。みんな文句だけ」 「どいつもこいつも、父様の遺体に唾を吐くために集まったみたいだった……。  でも、あたしは何も言えなかった。父様に約束させられてたから。言い訳するなって」 「……」 「その時に……あのばばあが来たんだ。  うだうだ抜かしていた連中を全員外に蹴り出して、婆さんはあたしに言った」 「おまえの親父は間違ってない。  融通の利かない馬鹿野郎だけど、間違ってはいないって」 「……そうかい。  一媛がそう言うたか」 「うん。  そうして葬式が片付いたら……いつの間にか、あたしは婆さんと暮らすことになってた。  それだけ。それだけなんだけどな」 「あの婆さんはいい加減で、言うことはその場その場でころころ変わりやがったけど……  それでも多分、〈間違ったことは一度も言わ〉《・・・・・・・・・・・・》〈なかった〉《・・・・》んじゃないかって……そう思う」 「うむ……。  うむ…………」 「……ちぇ。ばばあの悪口のはずが、なんでこうなってんだよ。  爺さん、あんた変な聞き上手だな」 「はっはっはっ。  惚れた女子のことだ……少々贔屓が入ってしまうのは、勘弁してくれ」 「惚気やがって。  …………なあ」 「うん?」 「あたしは婆さんの若い頃に似てるのか」 「……そうだな。  並んだら見分けがつかぬかもしれぬ程には」 「それで、あの六波羅野郎はあたしが欲しいのなんのと寝ぼけたこと言いやがったのか」 「……」 「あんたと違って、あっちの山犬は婆さんにふられたことにまだこだわってるんだろ?  三十年経っても」 「……そういうことになるかな。  あやつはつい先頃、代官として村へ帰ってきた。そのわけがまさか、昔の決着をつけるためだとは、うてもすぐには気付かなんだが」 「執念深い野郎だな」 「〈純粋〉《ひたむき》なのよ。  昔から……良くも、悪くも」 「野郎は何をしようとしたんだ? 今更……」 「……くだらぬことを。  だが、奴の企みは挫ける。GHQから来た変わり者の巡察官に失脚させられてしもうたからな。今は逃げ回っておるが、すぐ捕まる」 「だから、嬢。  それまでは余り外を出歩かぬが良い。いや、本当は今すぐに鎌倉へ帰った方が安全なのだが……」 「けっ。  あんな糞野郎のために、どうしてあたしが予定を変えなきゃならねぇ」 「……そう言うような気はしたよ。  嬢の予定は?」 「婆さんの命日を挟んで二泊三日。毎年そうしてる。  昨日来て、今日が命日で、明日帰りだ」 「そうか……明日には帰るのだな」 「ああ。  もっともあの山犬、あたしが鎌倉に帰ったくらいで諦めるようなツラじゃなかったからな。追ってくるかもしれねぇか」 「……」 「へっ、それならそれで構うかよ。暇潰しに相手してやる。  いや待ってるのも面倒か。いっそ、こっちから行って――」 「……無用よ、嬢。  奴との決着はうてがつける」 「爺さん?」 「あやつ……長坂右京とは因縁がある。  うてがこの手で決着をつけねばならんのよ。いかに嬢といえど、これは譲れんな」 「……年寄りが気張るといいことねえぞ」 「なに、奴も年寄りさ。  案ずるには及ばぬよ」 「……ち。  そういう顔されると何も言えなくなる。  ばばあと同じだ……」 「…………。  嬢。うてらのことなど、気にしてくれるな」 「うてらには過去だけよ。昔にしがみついて、今更どうにもならぬことにああだ、こうだと言うておる暇人どもさ。うても右京も。  嬢は若い。老輩などに構わず、〈未来〉《さき》へゆけ」 「だが……  嬢に会えて良かったよ。本当に良かった。  これも一媛の導きかな。とすれば、感謝の種が一つ増えてしまったわ」 「ふふふ。  これではあの世で会っても、また頭の上がらぬことになりそうだ……」 「弥源太爺さん……」 「……若人の時間をいつまでも貰っていては悪い。そろそろゆくよ。  もう会うこともないかもしれぬが……達者でな、嬢。一媛と同様、嬢のことも忘れんよ」 「……あ、……」 「…………」 「……ち。言うだけ言って……。  これだから爺婆は苦手だよ……」  山の中腹にある蝦夷一家の家屋から、樹海を見渡す。  肉眼には殊更、注意を引くものはない。まさしく海のように広がる木々の緑があるばかりだ。    が、 «まずい……かもしれない» 「……」 «どうも〝卵〟の危険度が高まっているような……嫌な感じがする。  孵化が近いのかも……»  村正の声は常よりもやや固い。  今朝の話、道具と呼ばれたことが影響しているのか。  であるなら、それで良いが。 「今日中にも、か?」 «……そこまで切迫してはいないけれど。  明日のうちには……もしかすると……» 「……ぬぅ」  思わず、唸りが洩れる。  事態に余裕があるなどとは元々見込んでいなかったが、予想以上に、状況は厳しいのかもしれない。 «少し様子を見てくる» 「ああ」  音もなく、村正が森へ向かう。  影に溶け込む姿を見送りながら、俺は思案した。  単純な探索は論外だ。  既に昨日とは状況が違う。敵がいつまでも同じ場所に留まっているわけがない。  あてもなく探すにはこの山林は広過ぎる。  やはり、策が必要だ。  この樹海のどこかに潜伏しているのであろう敵を、燻し出す方法……。  容易ではない。  何しろ敵は今、時間を稼ぐことを目的としている。これはおそらく確かだ。雪車町一蔵を使ってGHQに工作し、香奈枝を排除する、他に活路はないのだから。  大鳥巡察官が村にいる間は代官らは手出しできない。彼女に危害を加えればGHQという生命線を失う。  だが彼女がいなくなれば後は好き放題だ。  村側としては、巡察官がいる間に代官を排除できなければ未来はない。彼女が去れば代官は勢力を回復し、抗うことは難しくなり。仮に反抗に成功したとしてもそれは一揆、村による幕府への反逆となってしまう。  つまりは破滅。  しかし今ならば、大鳥巡察官が代官排除の全責任を請け負ってくれる。今だけが村にとっては勝機。  俺にとってはまた事情が違うが、結論は同じだ。  こちらにとっては今こそが勝機。  代官らにとっては今は雌伏の時。    ……この〈理〉《ルール》、敵は完全に理解しているだろう。  それをどうやって引っ張り出せる……? 「……御堂」 「これは、弥源太老。  お疲れ様です」 「御堂もな。  様子を見ておったのか」 「は。  炊事の煙でも上がりはせぬかと」 「ふふ、そううまくはゆくまい。  それにそんなものが見えたとしても、妻女山はもぬけの空……で、あろうさ。奴らにも知恵はある」 「全くもって」 「劔冑は家の中か」 「いえ。  御老と入れ違いで、森へ様子見に」 「……そうか。  つかぬことを尋ねるが、御堂」 「はい」 「あの劔冑とは結縁して長いのかな」 「〈然程〉《さほど》には。  今より二年前になります」 「……ほう。まだ二年?  では〈戦〉《いくさ》の経験も相応の……?」 「どうでしょう。  平穏無事な二年ではありませんでしたから」 「〈装甲戦闘回数〉《ばかず》は如何ほどになろうかな」 「一九回になります」 「…………何処の古参兵だ、なれは。  さぞ慌しい二年間であったのだろうな」 「そうですね……。  光陰、矢の如くに」 「しかし、それだけ装甲を重ねているにしては……御堂、なれはあまり劔冑のことを信頼しておらぬようだな?」 「……? とは?  ご主旨が今ひとつ把握できません」 「昨日の話によれば、代官に与する乱破者と、もう一騎の伏兵に不覚を取らされたとか」 「はい」  昨夜のうちに、墜落へ至った顛末のあらましは説明していた。 「さわりしか聞いておらん癖にこんなことを言うのも何だがな。  御堂の敗因は、劔冑との間の齟齬にあるのではあるまいか?」 「……齟齬」 「昨日からなれとあの赤い劔冑を見ておると、どうも……な。  どこか、うまく噛み合っておらぬ気がするのだ」 「……そうですか。  そうかもしれません」  今朝、考えの食い違いが明らかになったばかりだ。  弥源太老は慧眼というべきだろう。 「しかしご案じなく。  心当たりは確かにありますが、既に解決を済ませています」 「と言うと?」 「余計な考えを抱いて刃を鈍らせるなと言い含めました。  己を道具と自覚しろと」 「…………。  それでは、いかぬであろう」 「そうでしょうか」 「劔冑は道具……それは、事実。  しかし〈魂〉《こころ》を持つ道具であることを忘れてはならんのではないか?」 「関係ありません」 「……御堂」 「こころがあろうがなかろうが、道具は道具。  仕手は道具を使い、使うことによる責任の一切を負う。いかに使うか考え、決め、行い、結果を受け止める。これは全て使い手の役割」 「道具はただ、使われるだけです」 「…………。  どうあっても、そうでなくては……ならぬのかな」 「なりませぬ」 「……。  わかった。これ以上は言うまい」 「ご忠告には感謝致します。  礼を失した応答、どうかお許し下さい」 「いや、この爺こそ出過ぎたことを申した。  口うるさい年寄りの小言と思うて聞き捨てにしてくれ」 「何条もって、そのような事」 「この先はもう少し有益な話をしよう。  御堂、代官どもに対する良い手立ては何ぞ思いついたかな?」 「なかなか。  格別、名案と呼べるものは浮かびません」 「そうか……。  では一つ、うての思案を聞いてくれるか」 「は。是非とも」 「うむ。簡単に言えば、だ。  うてが考えるところ、彼奴らを釣れる餌はひとつ――――」  村長の案内で香奈枝の居室を訪問すると、丁度立て込んでいたところらしく、騒がしい物音に耳朶を打たれた。  どうも間が悪かったようだ。 「これはこれは、湊斗さま。  ようこそいらっしゃいました」 「どうやらお忙しいご様子。  出直した方が良くありましょうか?」 「そのようなことはございません。  ささ、どうぞこちらへ。すぐに茶をお淹れします。村長殿も宜しければご一緒に」 「どうかお構いなく。  では、失礼して」  勧められた席に腰を下ろす。  そうして見回せば、騒々しい理由はすぐに判明した。  香奈枝が何かの器具を手に、大きな箱のようなものと向き合っている。新聞紙を続けざまに引き裂くような音はそこから発していた。  無線機だ。  そして、騒音はよく聞いてみれば―― 「湊斗さまは、英語にはご堪能ですか?」 「人並みよりも多少、という程度でしょう。  自分の生地は〈鳴滝市国〉《ネーデルラント》ですので、いささかは」 「……まあ!  それは……意外でございました。てっきり、生粋の大和の方とばかり」 「〈新大陸〉《ネオ・ブリテン》の血が四分の一ほど流れているだけですし……それに生地で過ごしたのはほんの数年ですから。  そう思われるのもご無理はありません」 「この会話も、ほとんど聞き取ることはできませんね。流暢過ぎます……断片的に単語を拾う程度が、関の山」 「さようでございますか。  では憚りながら、このさよが通訳など」 「は……?」 「……正確に報告しろ、大鳥中尉。  貴官の行動は〈欠地王〉《ザ・ラックランド》の事跡に倣う意味不明ぶりだ。私には到底理解し難い。納得のいく説明を求める」 「あら、どうしたことでしょう。わたくしは〈獅子心王〉《ライオンズハート》の戦いのように単純明快な振舞いをしているつもりでしたのに。  説明なんて一言で済んでしまいましてよ?」 「言ってみろ」 「悪代官がいたので退治しました」 「私は〈大和式の冗句〉《ジャパニーズジョーク》には詳しくないのだがね」 「まあ。それはいけません、コブデン中佐!  仮にも民政局の重鎮たるお方として、現地の風俗にも詳しくなくては――及ばずながら、わたくしがご教授いたしましょう」 「隣の家に〈垣根〉《サークル》が出来たってねぇ。  〈へぇ、〉《Hey,》〈かっこいー!〉《Sir Cool!》  ……さ、まずこの面白さを理解するところからどうぞ」 「…………好意は有難いが、どうやら私には一生掛けても無理のようだ。諦めよう。  それで? 私はこのまま延々と、限りある勤務時間を貴官一人に提供し続けるのか?」 「あら、これはわたくしとしたことが。  お忙しい中佐にお手間を取らせて申しわけありませんでした。これにて失礼いたします。それでは、また――」 「報告を済ませろ!」 「悪代官が」 「それはもういい!  最初から、わかるように話せ」 「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。  おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」 「何の話だ」 「今回の事件を最初から、聞き手が飽きないよう脚色を交えて物語仕立てにしつつお話ししているつもりなのですけれど。  この後、桃から武者が産まれる超展開へ」 「……〈わかった、わかった。もう結構だ。〉《OK,OK.No thank you.》  貴官に適切な報告をする能力がないというのであれば仕方ない。私の把握している情報のみを頼りに判断を下すとしよう」 「最初からそうなさっていればよろしいのに。  〈英国騎士〉《ジェントリ》は本当に素敵な方々。ちゃんと、〈無駄な手間〉《・・・・・》を踏んで下さいますもの」 「ああ……身体的あるいは知的に劣悪な者と言えど厭いはしない。むしろ保護する。  〈貴顕の義務〉《ノブレス・オブリージュ》のうちだ。貴官は感謝した方がいい」 「それはもう、心から!  わたくしより身体的あるいは知的に優秀なお方に感謝を。ところで中佐? 重さに耐えかねて壊れた椅子の修理はもう済みまして?」 「……造りが雑で壊れた椅子の修理なら、な。今は快適にしている。気遣いは不要だ。  そんなことより貴官の話をしようか」 「あら、何やらこの胸に響いてしまうお言葉。  ペニンシュラの一室でも予約して下さったのかしら?」 「生憎とそこまで手が回らなくてな。  営倉で我慢して頂こうか?」 「他でもない中佐のお誘いとあれば。  けれど困りました。営倉といえば軍務上の失態を犯さなくては入れない桃源郷」 「巡察官任務を果たしているだけのわたくしにその資格がありますかしら?」 「よもやGHQの方針を理解していないとは言うまい?  六波羅幕府の政治には不干渉。貴官の行動はこの方針に対する明確な違背だ」 「方針なら勿論、理解していましてよ。  〈大和国民の平安を確保するために〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、〈幕府を〉《・・・》〈信頼して一切を委ねる〉《・・・・・・・・・・》。  そういう方針でしょう?」 「…………」 「その方針に異論なんてありませんとも。  幕府も人の組織。誤りを犯すことも〈偶には〉《・・・》あるでしょうけれど、そんな場合のために、わたくしたちが監督しているんですもの!」 「この巡察官制度がそう。  統治状況を実際に見て回り、もし間違いがあれば正す。なんて素晴らしいんでしょう!  わたくし、この任務を誇りに思います」 「……ッ……」 「中佐? いかがなさいまして?  わたくしの言ったことに何か間違いでも?」 「……これ以上の会話は無駄のようだ。  大鳥中尉。貴官の巡察任務の中止を命ずる」 「あらら?  それはいったい、いかなる理由でしょう」 「説明する義務は私にはない。  命令だ、大鳥中尉。これより直ちに司令部へ出頭――」 「あら? もしもし? もしもーし。  どうしたのかしらー、急に通信状況が悪くなりました。中佐のお言葉がさっぱり聞こえません」 「中尉!」 「あらあら大変どうしましょう」 「…………」 「…………」 「さよ、大変。無線が壊れてしまったみたい。  これでは司令部の指示を受け取れません」 「何というアクシデントでございましょう。  しかし仕方がございません。ここは非常の措置として、お嬢さまご自身の判断で行動を決められませ」 「そうするしかないのかしら。  ああ、困ったこと」  窓を開けて、銃口からたなびく煙を外へ流しながら悲痛な声で慨嘆する大鳥中尉。  その後ろで、大穴を開けられた無線機が何やら火花を散らしていたりする。  ……………………。  無茶苦茶だ。 「あら、景明さまっ。  いらっしゃいまし」 「……お邪魔しております」 「お聞きでしたのなら話は早いです。  こういう事情で、わたくしはこれから独自の判断で行動することになりました」 「具体的には?」 「巡察官は原則として司令部との連絡手段を確保していることが必須です。  まずは無線の修復を試み、それが不可能となれば帰投しなくてはなりません」 「今日一日は無線の修理に費やしましょう。  そして明日、一日掛けて――女は何をするにも準備に時間がいるものですし、それに道にも迷うかもしれませんから――本部に帰還」 「わたくしの報告を受けて、後任の巡察官が翌朝出発。昼過ぎには村へ到着してわたくしの取った措置の撤回を宣言します。  ……もっともこれは中佐が暢気だった場合」 「中佐がすぐにも行動を起こしている場合は……民政局内でわたくしの解任を通し、代理を任命して送り出すまで……一日、として。  明日の夜には後任が着く可能性もあります」 「……つまり。  時間の余裕は最大で明後日の昼まで。最小で明日の夜までしか無い、ということですね」 「それまでに代官を討つ必要があると」 「そういうことです」 「それは……」 「ううむ。  難しいことになって参りましたねぇ」 「ええ……」 「……諒解しました。  であれば、自分も話を急ぎましょう」 「と申されますと?」 「先程、弥源太老人より良いお知恵を拝借しました。  ついては中尉殿、村長殿、お二方のご協力を仰ぎたく、こうしてまかり越しました次第」 「まぁ、そうでしたの。  勿論、協力は惜しみませんとも。わたくしはいったい何をしたらよろしいのかしら?」 「私も、無論……  この村を救って頂けるのであれば……」 「はい。  ではご説明します」  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。 「坑道を埋め戻す……?」 「はい」 「しかし、埋めたところで」 「代官が権力を取り戻せば、また掘らされるだけなのでは?」  その疑問は当然だった。  俺自身、口にしたことだ。  弥源太老人の考えを中継する。 「代官は何故、専門の業者に作業を委託しなかったのでしょうか」 「はっ?」 「その方が掘削は遥かに早く、正確に進んだ筈です。……にも拘わらず何故、代官として村に赴任し、村人を徴用するなどという面倒な方法を選んだのでしょう」 「それは……  業者に頼めば費用が嵩むからでは?」 「……あっ」 「おそらく、その通りです。  ということはつまり、こういうことになります――代官には資金的な余裕がさほどないのです」 「代官のこの村での行動を見る限り、巨大な財力の支援を受けているようには窺えません。  彼の資金は大半、無理な借金を重ねて調達したものなのではありますまいか?」 「……なるほど!  見えてまいりましたよ」 「掘削作業は予定の工程を終えるまで後少しという進捗状況であったとか。ここで坑道を埋め戻してしまえばどうなるでしょう。  作業は一からやり直し」 「当然、掛かる費用は予定の倍。例え人件費がほぼゼロであっても相当な額になる筈です。  加えてGHQとのパイプを維持するのにも定期的な資金投入が必要と考えられます」 「……それだけの資金を、きっと代官は都合できない……。  そういうことですのね?」 「はい。  となれば――我々が坑道で埋め戻し作業を開始した場合」 「代官殿は作業を阻止するために現れざるを得ない。  ……お見事な策でございます、湊斗さま!」 「すべては弥源太老のお考え。  自分は伝言役に過ぎません」 「いや、それにしても……。  お嬢さまのお考えは如何でありましょうや。さよは必竟の良策と考えまするが」 「わたくしも同感です。  弥源太さまにはお礼を申し上げなくては」 「まことに……。  それで、私どもがすべき協力とは?」 「村長殿には無論、村の方々への行動指示をお願いします。頑健な男性を選んで埋め戻し作業にあたらせて下さい。  時間がありません。すぐにも手配を」 「は、はい!」 「代官らが現れたら、迷わず逃げること。  作業員にはこれを徹底させて下さい」 「敵襲には自分が即応するようにしますが、間違っても抗戦したり留まったりなどしないように」 「わかりました」 「わたくしは何を?」 「砲、爆弾の類をお持ちではないでしょうか。  無ければその銃でも構いません」 「どうお使いになりますの?」 「地道に手作業で埋め戻すだけでは、代官を焦らせることはできません。潜伏中の代官が気付かないというのも有り得ることです。  そこで火器を使用します」 「爆音によって代官の注意を引きつけ、我々が坑道を爆破しようとしていると教えます。  実際には無理でも、少なくとも代官がその危惧を抱くよう、なるたけ派手に」 「なるほど。なるほど。  飲み込みましてよ。お任せくださいませ」 「宜しくお願いします」 「……これで……  これでやっと……」 「はい、村長殿。  これでもう――」 (これで……)  ……残る問題は、〈後ひとつ〉《・・・・》だけだ。    おそらくこの場で一人だけ、違うことを俺は胸の内で呟いた。  最後の問題。  ――あれをどう打ち破る?  翌朝。  村の若者二〇人余りを動員して、坑道埋め戻し作業――のふり――は順調に進んでいた。  細い支道のいくつかは実際に潰してしまっている。  代官らは既に気付いているだろう。  気付かないわけがない。  もうじき、何らかの反応を見せる筈だ……。 「それでは、景明さま」 「はい。  大変お世話になりました、大鳥中尉」  帰り支度を済ませた香奈枝主従と挨拶を交わす。  彼女らはこれから、可能な限り時間を掛けて、回り道をしながら進駐軍司令部へ戻ることになっている。  それがこの巡察官の最後の支援だ。  俺の応答に、大鳥香奈枝はくすりと笑った。 「何を仰いますやら。  お世話になったのはわたくしです。危急を救われ、お仕事も手伝って頂いて……」 「それはこちらとて同じこと。  中尉殿がおられなければ、この村ではさぞ難儀を重ねたことでしょう」  社交辞令のつもりはなく、言う。  実際、この点は疑いがなかった。 「お嬢さま、湊斗さま。  どうか湿っぽい別れの口上はお止めなさいませ。さよが思いますに、また近いうち再会することがございますよ」 「あら、ばあやもそう思うの?  実はわたくしもそう。なぜか景明さまとはこれっきりの縁という気がいたしませんの」 「は。  そのようにお思い頂けるのは光栄です」 「ですから、景明さま。  ――また、お会いしましょうね」 「……はい。  ご縁がありましたら、また」 「湊斗さま。どうかご武運を」 「有難うございます。  侍従殿もご壮健であられますよう」  ……二人が去っていく。  見ていて胸が空くほどに、颯爽とした足取りだった。 「行ったか」 「はい」  入れ違いの格好で、弥源太老人。  小さくなってゆく主従を見下ろしながら呟く。 「さて、後は天運次第。  新たな巡察官が来るのが先か、代官の忍耐が切れるのが先か……」 「如何にも。  長坂代官の気の短さが勝負の鍵となります」 「ならば分は悪くないな。  あやつめの気はせいぜいが兎の尻尾ほどの長さよ」 「加えて大鳥中尉の上官の気が蛇の体長ほどもあり、中尉の帰還を辛抱強く待ってくれていれば、成功はまず確約されていると言えるのですが」 「そこまでは期待できんかな。  しかし何にしろ、今日中には必ず何らかの動きがあろうよ」 「は」 「じっちゃまー。  お武家さまー」  不意に、遠くから名を呼ばわれる。  山裏側の細道を、小さな姿が小走りに近付いてきていた。その隣にはもう一回り小さな影もある。 「どうした。  ここにはあまり近付くなと言うておいたに」 「う……ごめんなさい。  でも二人とも、昨日からここに詰めっきりでしょ? 朝御飯、食べてないんじゃないかと思って」 「つくった!  もってきた!」  下の娘、ふなが抱えてきた包みを誇らしげに掲げる。  ……それで、わざわざ。 「お武家様……その、ご迷惑でしたか?」 「有難うございます。  丁度、空腹を覚えていました」 「……そうだな。  腹が減っては戦もできんわ。頂いておくとしようか」 「くえ!」 「こら、ふなっ!  ……じゃあ、どうぞ。おにぎりしかありませんけど。あ、こっちはお茶です」 「これは、行き届いたこと。  ふきさんは良い花嫁になられます」 「……え、……」 「あまりおだてるなよ、御堂。  なら貰ってくれなどと言い出しかねんぞ」 「じ、じっちゃまー!」 「ふっふ……」  頬を赤くする娘に、弥源太老人は快さげに笑う。  ……この団欒。ふと、今の状況を忘れてしまいそうになる。  赤面したまま俯いて、上の娘は包みを広げた。    ……?  内容に、随分と差がある。  半分は小さめの、綺麗な形をした握り飯だが、もう半分は格段に大雑把、かつ豪快な姿。 「……」 「……」  そして何故か頬に感じる、妙に熱い視線。  さて……  どちらから手をつけよう?  綺麗な方を手にする。  食べやすさを考えて握ったと思しき、手頃な大きさ。  口に運ぶ。  ……絶妙な塩加減。 「お見事です。  何とも丁寧につくられた握り飯……真心の伝わる料理とは、まさにこういったものの事でしょう」 「はぅ……」  ふき〈女〉《じょ》がくらりとよろめく。  心なしか、瞳に星が散っているように見えた。 「……ど、どんどん食べてくださいね!  たくさんありますから!」 「はい」  俺は有難く頂いた。  ……それはもはや握り飯ではなかった。  ただの米塊だった。  球体とさえ言えない形状。  ところどころに張り付いた塩の大粒。  握る力が足りなかったのか、表面は崩れかけている。  そして。  間違いなく、必死につくられた握り飯。  それを両手でつかんで、口へ運ぶ。 「……」 「……」 「……美味しい。  良い握り飯です」 「わーい!」  歓声をあげて、ふなが俺に飛びつく。  不意のことで、わずかによろけた。 「それ、ふながつくった!」 「そうでしたか。  有難うございます」 「もっとたべて!」 「はい。  頂きます」  ……そうして俺は暫し、温かな時間を過ごした。 «……御堂……» (村正?)  望外の朝食を終え。  姉妹を家に帰らせ、残していってくれた茶を啜って一息ついたとき、哨戒に出ていた村正からの〈金打声〉《れんらく》はあった。 (変事か) «怪しい男を発見。  足音を立てずにこっちへ来て» (承知)  弥源太老に目礼して、その場を立つ。  老人はそれだけで察したのか、無言のままに頷きを返してきた。  目には見えず形もない、村正との連結を追う。  ……裏手の細い山道を下り、木々の中へ踏み込んでいる。  それほど、奥まで導かれることはなかった。  すぐに木の陰へ潜んだ村正と、その先の人影を発見する。 (あれか) «ええ。  それと……もうひとつ» (ん――)  人影はこちらへ背を向けている。  何か、手元に書き付けている様子だった。  その紙切れを傍らの樹木へ差し出す。  枝の上からするりと長い腕を伸ばし、受け取ったのは――鋼鉄の〈猿〉《マシラ》。 (月山従三位!) «猿だけに、なかなか大した隠形能力よ。私もすぐには気付かなかった。  けど……あの男は月山の仕手じゃない» (……ああ。  あれは、おそらく……)  猿はすぐさま飛んだ。木から木へと跳躍し、樹海の奥へたちまち去ってゆく。  男の方は筆具をしまい込むと、その場にしゃがんだ。山歩きで緩んだ靴紐を締め直しているようだ。  ……要するに、男は代官の偵察役。  報告をまとめて連絡役の月山に託したのだろう。  となれば―― «どうする?  月山の後をつけてみる?» (気付かれずに追跡することは可能か?) «……当然、と言えないのは悔しいけれど。  この森は完全に向こうの庭。ただ追うだけでも難しいでしょうね……» «隠密裏に、というのはどう考えても――» (無理、無茶、無謀か)  なら仕方がない。  月山を尾行して代官らのもとまで案内させることができるなら万々歳だが、尾行に気付けば月山はこちらを〈まき〉《・・》にかかるに決まっている。  それに食いつけたとしても、月山にしてみれば尾行を引き連れたまま主のもとへは戻れまい。  つまりは〈鼬遊戯〉《いたちごっこ》。こちらが何より惜しんでいる時間をただ空費するだけの結果になる。 «いっそ、ここで月山を仕留める?» (あれに追いつくのがまず問題。  そして首尾良くいったとしても、代官らが警戒して一層深く潜んでしまうようなことになれば、本末転倒も良い所だ) «……そうね。  ごめんなさい。つまらないことを言った»  硬い響きが混じる。  それに気付かぬふりを装って、俺は続けた。 (欲はかくまい。  あれが坑道の様子を代官に伝えてくれるのなら、それはこちらの予定通りだ。このまま見送るだけで充分、手出しは無用) «ええ……» (だが、)  視線を散らす。  周囲を確認。 (斥候をこれ以上放置しておいても益はない)  距離を測る。  およそ一〇メートルか。やや遠い。が、数歩ばかり気付かれずに接近することができれば、奇襲に手頃の間合となる。  男はまだ靴紐を結んでいる最中だ。得物であろう杖は傍らへ置いている。  絶好の機会。 (敵の戦力を減らしておくことにする。  村正、太刀を送れ) «諒解»  村正の牙が一対、消失する。  代わって右手にずしりとした重さ。  鍔を鳴らすような遊びは控え、静かに肩へ担ぐ。  そのまま踏み出す。一歩。  二歩。  三歩。  四歩――  跳んだ。  担いだ刀を袈裟に一閃、刃を返して峰打ちにしつつ、男の肩口へ叩き込む――  ――――――――!? 「……っ……」 «御堂!?» 「……、大事なし!  掠り傷だ…………」  腿を軽く撫でられた程度。  傷と言えるほどのものでさえない。  が―― 「……うへぇ。  勘弁してくだせぇよ。あんた、いつの間に」  仰天した様子で目を〈瞬〉《しばた》いている男。  嘗て二度だけ、顔を見交わす程度の遭遇をした事がある――否、三度か。  この男。  今……〈俺の一撃を前転して避けながら〉《・・・・・・・・・・・・・・》、〈抜刀して〉《・・・・》、〈斬りつけてきた〉《・・・・・・・》……? «気付かれていたの……!?» (――いや)  男の足元を見る。  右足の靴紐が解けかけ、脱げかけていた。  〈気付いていなかったのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。  男は確かに不意を打たれたのだ。  〈而〉《しか》して――この反応! 「……こういう芸のできる人間はほかに一人しか知らない。  あれは確か三年前だったか。俺の妹が同じようなことをやって見せた」 「……へっ、へ……」 「お前で二人目だ。  野木山組の雪車町一蔵」  声音から戦慄が滲むのを抑えきれずに、告げる。  痩せこけた筋者の頬が薄寒い笑みを刻んだ。 「覚えて頂いてたんで。  そいつぁ、光栄です。警察の旦那」 「偶々だ。別段覚えようと思って覚えたわけでもない。  だが今後当分は忘れないだろう」  じりじりと間合を取ろうとする雪車町。その手には刀――〈仕込み杖〉《・・・・》の中身。  追随し、間合を保つ。逃がすつもりはない……が、焦って踏み込めば隙を晒す。 「随分と世話になったことでもある」 「……へ。  さぁて、あたしが旦那にそれほど大した事を致しましたかねぇ……?」 「一昨日、空から叩き落して貰ったばかりだ。  生憎と地獄の底までは落ち切れず、かように健在だが」 「へ、へ、へ……。  お気づきでしたか」 「無論の事。  その声を聞き違えるのは難しい」 「よく言われます……」  間合の〈鬩〉《せめ》ぎ合いは膠着。  だが、分はこちらにある。  この雪車町なる男、剣技だけを問うなら、おそらく〈あの〉《・・》光にも匹敵する。  互角の状況で〈遣〉《や》り合って、勝てるものかどうか……それはわからない。  だがこの状況は互角ではなかった。  靴紐の緩んでいる雪車町は足回りが悪い。これでは到底、十全の技を振るうことはできないだろう。  いずれ、こちらが有利になる。  雪車町がこの状況を崩そうと思うなら、劔冑の勝負に持ち込むことだが。  ……周囲にその姿はない。鎧櫃も見当たらない。  しかし。  山からの喧騒に混じって聞こえる、この〈唸り〉《アイドリング》は……。 「困っちまいましたねぇ。  〈ここ〉《・・》までやるほどの義理はないんですよ、あたしゃ。〈命〉《タマ》賭けての斬った張ったはご勘弁願いたいところでして……」 「こちらの事情は別。  各個撃破の機会は逃せない。命までは無用、だが手足を一本封じておきたい」 「で、しょうねぇ。  見逃してくれってぇのはちょっと、ムシが良過ぎますか……」 「劔冑を使うか」 「へ、へ。  そうしたら、旦那はどうなさる?」 「俺も劔冑を使い、斬り伏せるまで」 「へへぇ。  村正……ですか」  彼の前で名乗った覚えのないその名を、雪車町は口にした。  あの乱破者から聞きでもしたのか。 「しかしね……  そいつぁ、いけねぇでしょう……」 「……」 「お代官は、あたしを偵察に寄越しゃあしましたがね。確認みたいなもんで。あんたがたが坑道を埋め潰そうとしてるってことにゃ、もうお気付きですよ」 「そこで轟音立てて、あたしと旦那が派手に空で遣り合い始めたらどうなります。  あたしの加勢に来る? まさかね……代官殿は勿論、山の作業を潰しに行きますよ」 「そしたら、へへ。どなたが代官殿と小太郎爺さんの相手をするんで?」 「……」  この男、どこまでも巧妙……  口舌の戦も一流か!  雪車町の状況分析は正鵠を得ている。  今ここで騎航戦闘を繰り広げれば、まさに言われた通りの結果を招く危険が高い。  そこまで読みながら、この男が即座に装甲騎航して逃げようとしないのは……こちらが各個撃破に固執し、彼を屠った後で舞い戻ろうなどと甘い選択をする可能性をも考慮しているからに違いない。  一昨日のあの時、互いを見交わしたのは一瞬のことに過ぎなかったが。  雪車町の劔冑はおそらく軍用の数打。〈速力〉《あし》の勝負でこちらを振り切って逃げられる確証はないのだろう。  実際、捕捉して斬り墜とす自信はあるが……  山を無防備にするリスクは冒せない。    武者戦闘という選択肢は封じられたも同然!  ……舌先一つでこちらの決戦力を封じてのけ、〈且〉《か》つその成果に驕らず慎重な手を打ち続ける。  この男、場数の踏み方が違うらしい。 「……委細、指摘の通り。  だが、ならばこのまま決着をつけるまで」 「そいつも、」  雪車町が足を動かす。  右足――脱げかけた靴を――! 「お許しくだせぇ」 「!!」  唾――――  下からと見せて上!!  辛うじて首を傾け、視界を塞がれるのは避けたが。  この半秒の間に、雪車町は距離を取っている! 「味なっ!」 「御免なすって!」  追う。  脚のリーチはこちらが上だ。この程度の距離ならば充分に追いつける。あと五歩あれば――  しかし。  その五歩の前に、雪車町は〈それ〉《・・》へ到達していた。  木の陰へ潜ませていた――〈単輪自動車〉《モノバイク》! «……劔冑!?» 「劔冑だ!」  そう。あれは劔冑。  海軍の八八式艦載騎をベースに開発された、陸軍制式の九〇式竜騎兵。  待騎時にはバイクの形態をとる。  その使い勝手の良さから今なお現役の地位を保っている傑作だ。派生騎、後継騎も多く存在する。  先刻からの〈唸り〉《・・》はやはりこれだったか……!  素早く跨り、アクセルを踏む雪車町。  既にエンジンの回っている車は即座に走り出した。  林間をすり抜け、山道へ――! «御堂! 装甲を――» 「却下!」  森の間の曲がりくねった細い山道というフィールドで、高速だが小回りの利かない騎航武者と速度は劣るが扱いのいいモノバイクの優劣ははっきりしている。  又、相手が応じて装甲し騎航戦になっても不都合。 «なら、見逃すしかないっていうの……!» 「――否」  雪車町の企図においてはそうだろう。  確かにもはや、こちらは打つ手を封じ切られたかに見える。雪車町の望む通り歯軋りして背を見送る以外にないと見える。一見。  だが、まだ―― 「村正。  〈このまま〉《・・・・》追うぞ!」 «――――諒解!» 「――――!?」  何か異様な気配を感じたのだろう。  不意に振り返った雪車町は、はっきりと頬肉を引き攣らせた。  距離――二〇メートル弱。  微妙に距離を増減させつつ追尾する。  山道を疾走するモノバイクを眼下に見下ろし、  赤色の蜘蛛が樹上を渡る。  猿飛の技は月山猿の専売特許に〈非〉《あら》ず。  村正蜘蛛もこの程度の芸は可能! «速度を上げる!  振り落とされないで!» 「承知!」  手足に力を込め、村正の背に乗る己を固定する。  移動の仕方が仕方だ。視界の変転は〈目紛〉《めまぐる》しい。だが、騎航になれた身にすればどうという程のこともない。  標的の姿を視認し、太刀を構えて接触に備える。  こちらを見た雪車町の顔は、前方へ戻される前に一刹那、逡巡の色を見せていた。  迷ったのだ。おそらく――装甲すべきか否かを。  だが後背から迫られるこの位置関係、装甲の一瞬に切り伏せられることも有り得ると踏んだに違いない。  雪車町の選択はアクセル全開。このまま逃げ切る、そのつもりだ。――ならば良し!  緩い右折から短い直線へ。  流石にここではバイクが優った。距離がじりじりと開く。  ――だが道はすぐに長いカーブへ。  バイクの速度が落ち、一方まるでお構い無しの蜘蛛がじわりと追いすがる。  しかし手の届く距離まで迫る前に、またしても直線が来る……!  直線では先方。  曲線では当方。  一進一退の図式―― «埒が明かない……!» 「今から明ける。  村正、糸を飛ばせ。〈槍と橋〉《・・・》、同時にだ」 «……! 諒解!»  鉄の蜘蛛が鉄の糸を放つ。  幾条も――虚空を裂いて。その速度は矢にも劣らず、山道を走破するバイクを凌ぐ。  二〇メートルの間隙が白線で繋がれる。  バイクの乗り手の背を貫く―― 「……ッ!」  しかし、雪車町なる筋者はやはり尋常ではなかった。  決定的なその一瞬に背後を仰ぎ見、迫り来る脅威を認識――刹那。  右手が翻った。  その中にハンドルごと保持されていた仕込みの白刃が、宙空に幾何学模様を描く。  寸断。  断線。  ……それはもはや、悪魔的なまでの〈刀剣技芸〉《ブレイドアーツ》。  単輪自動車の乗り手は遂に姿勢を崩すことさえなく、背後からの強襲を切り払って見せた。  有り得ない所業。    だがしかし、俺は彼の剣技を光に擬していたのだ。  〈有り得ないことが有り得る程度は想定の内〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》! 「村正――巻き込め!」  合図を送る。  応えて、村正が糸を〈吸った〉《・・・》。  雪車町に切り払われた鉄糸ではない。  バイクを越えて更に飛び、木々へ絡みついた糸を。 「……っ、だぁ――!?」  病的な男が青褪める。それ以上顔色の悪くなることがあるとして、だが。  その顔が接近した。急速に――否。近付いているのはこちら。  前方に固定した糸で自らを牽引し、  村正が宙を飛ぶ。  その速度は糸の放出時とほぼ同等。  〈即〉《すなわ》ち、バイクの疾走を圧倒する――  接触の一瞬。  ここに至って、雪車町一蔵はなお不屈だった。  仕込み杖を再び構え、後方の敵襲を横殴りの一閃で迎撃する。  その速度、俺の首を狙う正確さ、正に一流の剣。  だが――  背後から襲われるという絶対的不利は、卓抜の剣腕をもってしても覆し得ない!  俺の放った一刀が、雪車町の剣撃を打ち弾く。  肉体ごと――乗騎ごと。  押し崩す。  ……車輪が滑った。 「かッ――へっ、ははァ! 畜生ォ!!」  モノバイクが横転する。  そのまま、山肌の斜面を―――― 「……水音?」 «……川へ落ちたみたい。  悪運の強い男ね»  村正を止め、山道に降り立って見下ろす。  山間を流れる小川と、そこへ半身を沈ませた男の姿があった。〈劔冑〉《バイク》は見当たらない。周囲の痕跡から見るに、どうも更に下方へ転がり落ちていったようだ。  雪車町の体に酷い外傷はなかった。水場に落ちた事でいくらか衝撃が和らげられたのだろう、この高さを転落したにしては奇跡的なほどだった。  村正が呆れるのも頷ける。  意識を失っているのか、身動きする様子はない。  しかし良く見れば、右手の指先だけが何かを求めるように這っていた。川べりの土を虚しく掻いているが。  ……少し離れた木の幹に、突き立った仕込みの刃。 «どうするの?» 「命に別状は無さそうか」 «ええ。あのままうっかりと寝返りを打って溺死したりしない限りは平気でしょう。  骨折もしていないようだけど……予告通り、手足を何本か貰っていく?» 「……いや、いい。あの様子なら打撲で数日は動けまい。  無力化には成功したと言って良いだろう。これ以上は不要」 «それもそうね» 「坑道へ戻るぞ。  あまり長い間留守にしていたくない」 «ええ»  ……日は間もなく天頂。  そろそろ正午の時刻になる。 「こら、ふなー! 待ちなさーい!」 「こっちー!」 「こっちじゃないの!  じっちゃまが言ってたでしょっ、今お山は危ないんだから、寄り道しないで帰らないと」 「すごいおときこえた!」 「それが危ないことかもしれないんだってば……もー! ねーやの言うこと聞きなさい!」 「みっけー!」 「見っけじゃなくて――  ……え? なに?」 「にんげん!  おとこ!」 「……え? え?」 「…………」 「きゃー!  あわわ、大変……どうしようどうしよう」 「あの、あのあの、大丈夫ですか!?」 「…………」 「おーい。おーい。  いきてるー?」 「ふ、ふなー!  やめなさーい!」 「……っ……」 「おきた」 「え? え?  あ、あのー、もしもし?」 「……、はっ……」 「ど、どうしよう?  とりあえず川から出してあげた方がいいのかな……」 「おいちゃーん。  どしたー?」 「ふなー!」 「……へ、へへ……」 「おいちゃん?」 「あ、あの大丈夫ですか?  どうしたんですか?」 「へへ……。  やぁ、なに……大したこっちゃありませんよ。気にしないでおくんなさいまし……」 「そ、そう言われても……  相当えらいことになってるような」 「へ、へ……  あたしは……しがないちんぴらの、小悪党でしてねぇ」 「はぁ」 「ちんぴら……  わるもの?」 「……へい。だもんで……  善玉の野郎に退治されちまったんでさぁ」 「ふーん」 「へへ……そりゃあねぇ……世の中、こうでなきゃあ…………。  悪党は退治される……でないと、〈どっちも〉《・・・・》、張り合いってもんがないじゃありませんか」 「へ……へへっ…………」 「…………」 「あ。ねたー」 「う、うーん……何だかよくわからないけど。放ってはおけないよね……。  よしっ。ふな、手伝って」 「はぁーい」  夕暮れ刻。  山は未だ平穏の内にあった――望ましからざる。 「……遅い」 「うむ」 「斥候の雪車町一蔵を制圧したことが裏目に出たのかもしれません」  敵陣営は武者三騎。こちらは一騎。  である以上各個撃破は必須の戦術だったが、その為に敵の行動を萎縮させてしまったのでは、作戦目的が達せられない。  あるいは月山と同様に雪車町をも不利は覚悟の上で見逃し、一対三の戦闘へ敵を誘い出すべきだったのか。  戦術的有利に拘泥するあまり、戦略的意味を失ったのかもしれない……。  〈臍〉《ほぞ》を噛む。  今更どうにもならぬことを思い煩う、己の愚昧が〈癇〉《かん》に障る。 「多少、慎重になったのは事実であろうがな。  その程度のことで穴熊を決め込んでしまうほど、あの男はまだ枯れておらんよ」 「は……」 「あやつは坑道を諦められん。  故に、来る。これは間違いない」 「……はい。  しかし、問題は時間です」  事態の推移が最悪を極めた場合。  この夜にも、大鳥香奈枝の措置を無効化する後任の派遣官がGHQから到着しかねないのだ。  そうなった場合でも代官を討たねばならぬ俺の都合に変わりはないが、村にとっては事情が激変する。  正体不明の流れ者の犯行とみられるならば、いい。  だが、そうなるとは限らない。  俺が村長の家に出入りしていた事実や、山の蝦夷家に厄介になっていたことなどが不利に働き、村全体で代官を弑したのだと六波羅に断じられる可能性もある。  ……迷惑で済む話ではない。  GHQの巡察官に従っただけ、という弁解が立つ内に事を終わらせなくてはならないのだ。俺の私事で村が破局に陥るような結果を避けるためには。  その時間は残り少ない……。 「もう少し派手に誘いをかけましょう。  この際です。本当に坑道を潰しかねない程の爆破を」 「うむ…………  いや」 「御老?」 「どうやらその儀は無用の様子。  奴め、ようやく堪忍袋の緒を切ったわ」 「!」  茜の空を轟音が貫く。  噴煙を引いて躍る軌跡。  それはあたかも幼児の一筆書き。  乱雑に、  戯れるように、  嘲笑うように、  誘うように、  〈騎航す〉《かけ》る武者――  ただ一騎。  地上では事前の指示通り、作業にあたっていた村人らが一目散に逃げ散ってゆく。  一度だけそちらに視線を送ってから、俺は再び空を見上げた。目を〈眇〉《すが》め、天を舞う姿形を見極める。 「あれは……月山。  風魔小太郎!」 「ほう。あれが……  なるほど、の。なかなかに曲者と見ゆるわ。あの甲鉄……」 「まさに。  しかし……」 「む?」 「代官が」  いない。  空にあるは月山、ただ一騎のみ。  代官の劔冑は〈母衣〉《つばさ》がまだ回復していない、という事もあろうが。  ――おそらくこれは陽動。  月山で俺を誘い出し、その隙に代官が坑道を〈衝〉《つ》く。  これではうかつに動けない……! 「構わぬ。  ゆけ、御堂」 「いや、弥源太老、これは――」 「なれの留守を代官が襲う。わかっておる。  そちらはうてが引き受けた」 「無謀です。  武者に常人が挑むなど」 「無謀は無謀だがな。何とかなろうさ。  向こうは翼を失った武者、こちらはこちらで少々の手妻がある。そう悪い勝負でもない」 「……御老人。  死ぬおつもりか?」 「いや、いや。孫どもも幼い。まだ死ねぬよ。  案ずるな、御堂……うては守るべきもののために戦う。そして、そういう者は死んではならんことを知っている」 「死んで守れるものなどないからな。  ……ふっふ。ここは冗談だ。笑ってくれて良いぞ」 「は……」 「ゆかれよ。  出陣の〈餞〉《はなむけ》に一言贈るなら、御堂……なれの劔冑は紛れもなく天下至強」 「〈良きにしろ悪しきにしろ〉《・・・・・・・・・・・》、その力は絶境、何者にも劣るを知らぬ。  されば御堂、なれはその至強を〈偏〉《ひとえ》に信じよ。それだけで良い。それだけで打ち勝てる」 「なれ〈等〉《ら》の前に立ち塞がるもの――  遍く全てに」 「……はっ。  承りました」 「御堂。  酒はいける口かな」 「……?  それは、一応……人並み程度には」 「では今宵は一献酌み交わそう。  思えば御堂と出会ってからは忙しないこと続きで、そんな暇もなかったが……」 「年寄りにとって若い者との酒は何よりの薬。  だというにうちの孫は二人とも娘、しかもまだ子供とあってはどうにもならぬ。  得難い機会よ。御堂、付き合って貰えぬか」 「御意に!  では……今宵」 「村正!」 «――御堂» 「騎体状況を送れ」 «諒解!»    甲鉄錬度:〈焔慧地ノ上〉《四四/五二》    騎体能力:〈離垢地ノ上〉《四一/五二》    騎航推力:〈真如相廻向ノ上〉《三八/五二》    騎航速力:〈至一切処廻向ノ上〉《三四/五二》    〈磁気撹乱〉《まどわし》:勅令封印/限定禁戒    〈磁気汚染〉《くるわし》:勅令封印/絶対禁戒    〈磁気鍍装〉《ながれ》:使用可能    〈蒐窮磁装〉《おわりのながれ》:使用可能 «戦闘に一切の支障なし!» 「承知!  参る!」  ……しかし、弥源太老。  俺は――夜には――  夜には――――! 「…………」 「もう良かろうよ。  さっさと出て参れ」 「それとも……  うてにさえも臆したか?」 「抜かせ」 「あの小癪な若造を避けたのは事実、復仇を遂げるまでは何を言われようと構わんが……  貴様などに怯えねばならぬ理由が一体どこにある? 余り嗤かしてくれるなよ、弥源太」 「それは上々。  ようやく決着をつけられるというものだ」 「こちらの台詞を奪うでないわ。  今更になって〈肚〉《はら》を決めた戯けが、豪胆ぶるのも程々にしておけ。俺まで道化芝居の役者になる」 「道化よ、右京。なれもうてもな。道化以外の何だと云う?  五十の坂を下りながら、かくも〈碌〉《ろく》でもなき理由で斬り結ぼうとする我らが……」 「およそ人並みの知恵があればなされぬ所業であろうよ。  これは出来の悪い滑稽劇、人の失笑を買う種以外の何物でもない」 「違うとは言わんがな。我らの生をここまで下らぬ芝居に仕立てたのは貴様の〈怯懦〉《きょうだ》よ。  三〇年前に殺していれば良かったのだ。  三〇年前に殺されていれば良かったのだ!」 「三〇年――――はッ!  貴様がくれたこの年月、反吐のような三〇年だったわ! 何を得ても何を奪っても心が満ちぬ。それが〈代わり〉《・・・》でしかないからだ!」 「ただ――閉じた輪の中を回るような。  下らぬ、下らぬ時間であった……!」 「……そうか。  やはりなれはそういう男よ、右京」 「いくら歳月が流れようと変わるわけがない。  ……なれにとっては、決着がつかぬ限り、何事も決して終わらんのだからな」 「…………」 「そこをうても一媛も見誤った……。  時の癒しは誰にも平等と思い込んだ。なれの上にもいずれ、と。  ……なれの性格は知っていた筈なのにな」 「一言だけ詫びておく。  済まなかった。右京」 「…………。  今更……俺がそんな言葉を欲しがると思うのか」 「思わぬよ。なれには嘲弄としか聞こえまい。だがこれも、けじめというもの。  案ずるな。口先の詫びで済ませるつもりはない。遅れた決着をくれてやる」 「なれを終わらせてやろうぞ、右京。  三〇年分の負債、今ここで清算する」 「……はっ。言いおったわ、老廃が。  貴様一人で俺を終わらせる? ほざけ……今となっては貴様を殺し、お山の神を殺し、一媛を奪わぬ限り何も終わらぬ!」 「貴様など、その最初の踏み台に過ぎん。  叩き潰して打ち棄てる。勝手に土へ還るがいい――」 「八紘一宇ッ!!」 「…………」 「……ふん? またその棒切れか。  何の〈呪〉《まじな》いかは知らぬが、そんなもので俺にどう抗うと云う?」 「……こうするのよ」 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「――むっ!?」 「右京。  これが何かわかるか」 「……劔冑……か?」 「然り。  なれらが坑道を掘り始める時……〈守り石〉《・・・》を砕き、中の神宝を奪ったであろう?」 「これは、その断片よ」 「……ほう。  するとそれは、曲がりなりにも天下一名物ということか」 「あの劔冑、どうにも扱えぬので、雪車町に渡してしまったが……惜しいことをしたな。  貴様が使えると知っておればくれてやったものを。いささか面白くなったであろうに」 「驕っておれよ、右京。  〈片羽〉《かたわ》の武者如き、この小太刀一つで釣りが来る……」 「……随分と安く見積もられたものだ。  釣りを貰うのはこちらよ、弥源太!」 「すぐに知れる。  参れ、右京!」 «ほぉっほっほっ!  これこれどうした村正よ……めった打ちのやられ放しではないか!» «それでも天下の妖甲か!  草葉の陰で先祖の霊が泣いておろうぞ!» «くっ……!» «少しは打ち返してくれねばこちらも気分が悪い。剣を打ち交わすからこそ〈太刀打〉《タチウチ》と申す。こう一方的ではのう、立木打ちではないか!  いや、困ったのう! 困ったのう!»  嘲笑が夕空を席巻する。  こちらにはそれを押し留める手段がない。  〈遭遇〉《エンゲージ》するや否や、敵騎はまたしても消失。  以降、前回と同様、一方的に攻め立てられるばかりの状況が続いている。  手の出しようがない。  〈視覚〉《め》も、〈探査機能〉《みみ》も役に立たないのでは、全く。  どうにもこうにも、どう仕様もない。  相州乱破が操る〈霧隠〉《キリガクレ》の術――  これを打ち破る〈術〉《すべ》がなければ、どうにも! «一体、どういうことなの……!  姿を消し、探査を撹乱する陰義、そこまでは百歩譲って認めてもいい。けれどそれを、こんなにも長時間維持し続けるなんて!» «その熱量はどこから調達してるの!  食事しながら戦ってるとでもいうわけ!?» 「それは無いと思うが。  ……消化に悪そうだ」  空を駆け回りながらでは。 «ええ、そうね!  じゃあきっと、心臓が二つあるんでしょうよ!» 「落ち着け、村正」  苛立ちを隠さない劔冑に声をかける。  この状況下では気休めにもなりそうになかったが。  村正は単に武器として造られた通常の劔冑と違い、明確な目的を与えられている――〈先代を討つ〉《・・・・・》、という。  その為か、一般に劒冑の思念は極端に受動的であるのに対し、時として積極的また感情的にもなった。  もっとも劔冑はあくまで劔冑。  口ほどに村正が動揺しているとは俺も思っていない。騎体管制は一度も怠っていなかった。この点で懸念を抱く必要はないだろう。  懸念すべきは――  ……あくまで、この絶対的劣勢。 «ほぉっほ! そんなものか!  そんなものかいのう、村正よ!» «背面甲鉄に損傷!  くっ、この……どうしろってのよ!» 「落ち着け」  必要もない声をかける。  ……自分自身に言い聞かせるために。  現況が不条理なものであるのなら、必ずどこかに、打破の糸口がある筈。  不条理を成立させるのは何らかの〈如何様〉《イカサマ》だ。それを見極め、探し出す。探し出して打ち破り、術を解く。  さもなくば――  この空が俺と村正の墓場になる。  竜騎兵は右上段、武者正調の構。  対して老人は小太刀を中段にとり、剛剣を迎える形。  小太刀は受けから入って攻めるを基軸とする。  それは間合で劣るがゆえの必然的戦術。  だが老人は敢えてその法を犯している。  小太刀の剣先はやや低く、重心は前方へ傾き過ぎていた。受けを狙うならばいかにも不都合。  老人の企図は明然、受けにあらず、攻めにあった。  間合で凌駕する敵の太刀に対し、その試みは断じて無謀、狂気の沙汰とさえ言い得る。  小太刀の達人は太刀の間合を盗んで制しもしようが、それも駆け引きあってこそ。露骨な攻など論外である。  老人は如何なる腹案を隠して、かかる暴挙に臨むか。    ――何もない。  無の境地……否。  愚の境地であった。  敵なる竜騎兵はただ一心、愚かしい妄念だけを胸に、立ちはだかる者を砕かんと欲している。  されば。それに対して受けてどうの、捌いてどうのと、小細工を用いて抗し得ようか。  否である。  老人の前に隆立す、愚かなる武者の一念は、かように賢しげな術策など容易く粉砕してのけよう。  愚に対して賢は優れど、ただ小賢しい小智は及ばぬ。  であれば、方途はひとつきり。  己もまた愚となって、相対するほかになし。  老人にも愚想はあった。  この男は己が止めねばなるまいという妄念。  逃げても良いのだ。  誰かに任せても良いのだ。  誰も老人にその責を問わない。  だが老人は望んで負った。  捨てても良い責務を背負った。  その所以は些細なこだわり。  遠い日の〈幻影〉《まぼろし》、あの世界には己と男、そして一人の女しかいなかった。  女はもういない。  ならば男の始末は己がつけねば。  あの世界には三人、〈唯〉《ただ》三人しかいなかったのだから。  愚想。  愚想である。  愚想を抱いて、老人は〈征〉《ゆ》く。  愚想を抱いて、竜騎兵は征く。  愚かな、下らぬ、取るに足らぬ、  而して命一つと同じ重さの一念を。  互いに剣先へ乗せて。  この刹那。  今この刹那。  二人の老兵が、征く。 「…………」 「…………」 「……この、老いぼれめ」 「……この、馬鹿たれめ」 「……ぐふっ……」 「……くっ……」 「ふ……ッ」 「…………」 「右京……  生きておるか」 「……ッ。  なめるな……この程度で……」 「この俺が……  かはッ!」 「……呆れたしぶとさよ。  腹を抜かれてその元気か」 「…………楽にしてくれよう」 「いらぬ……!」 「右京……」 「負けぬ……負けぬぞ。  俺は……負けぬ」 「山を掘るのだ……  神などいないと……ただの安っぽい石ころに過ぎぬと、一媛に教えてやるのだ」 「そうして、手に入れる……  あいつを……一媛を! 手に入れるのだ!」 「……」 「うてが送ってやろうぞ……右京。  なれを……一媛のもとに」 「弥源太……」 「……さらば。  〈茨垣〉《バラガキ》の右京」 「弥源太ァァァァァァァァ!!」 「……あ?」 「――!?」 「弥源太爺さん……?  あれ? ここ、どこだ」 「な……一条のお嬢……  どうしてここに!」 「いや……帰る前にあんたに挨拶しとこうと思って。和尚に山に住んでるって聞いて来たんだけど……」 「どこをどう間違ったんだか、気がついたら林の中に入っちまってて。  朝から今までずっと、ぐるぐると」 「あ、いや、別に方向音痴じゃないからな!?  ただちょっと、森の散策も風流かなーとか思って適当に歩いてたからこうなっただけで――」 「……一媛」 「あん?  って、昨日の山犬野郎。てめぇもいたの、か…………あ?」 「……」 「……劔冑?」 「……一媛……!」 「いかん!  嬢、逃げよ!!」 「え……」 「お前を――  俺の――  この、手に――」 「俺の……一媛……  俺の、ものに……ッ!」 「……」 「嫌だ、っつってんだろーが。阿呆」 「――――ッ」 「ああああアアアアアアアッッッ!!」 「右京ォォォッ!!」 「……!?」  ――轟音。  また攻撃を受けたのかと一瞬、誤解する。  だが違う。音のみで、衝撃がない。  これは何処か、全く別の所で発した音響。 「村正。今のは何だ」 «山の方角よ!  爆発じゃない。何か激しいぶつかり合いが――武者の太刀打のような何かが» 「……代官と弥源太老か!」  山の方へ首を巡らす。  ……ここからでは何もわからない。  代官はともかく、弥源太老人は生身だ。どのような術策があったにしろ、長期戦にはなりようがない。  おそらく、今の一撃で決着はついた筈。  老人が勝っていれば良い。  だがそうでないなら……一刻も早く山に向かわねばならない。さりとて、この現状―― «御堂! 〈二九〇度上方〉《かのとからいぬのかみ》!» 「!?」 「……月山!?」  紛れもなく月山従三位。  それが姿を現し、村正の〈照準〉《レティクル》に捉えられている。  何故、唐突に……? «ほっほっほ。  つまらぬ、つまらぬなぁ! こんなことをしていても気が腐るばかりよ。仕様がない、そろそろその首、頂くとしようかの!» «……如何にしてだ»  姿を見せたのは、新たな術のため……? «ほっほ! この期に及んで強がりよる!  それとも何かな。この月山に一刀打ち込む方策、〈漸〉《ようよ》う見つけ出したとでも言うのかの?» «…………。  〈見えているぞ〉《・・・・・・》。風魔小太郎» «…………なッ!?»  初めて聞く、老練なる乱破武者の動揺の声。  そこに演技の、策略の、臭気は感じられない。  ……どういう事だ。  この敵、〈自分の術が解けていることに気付いていな〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈かった〉《・・・》? «慙愧・懺悔・六根清浄!  慙愧・懺悔・六根清浄!»  ……消えた。 «御堂! 回避ッ!» «――また来るッ!» 「……ッ。  村正、損害は!」 «軽微!  でも楽観しないで! 急に攻撃から遊びがなくなった!»  立て続けの猛撃。  風魔者が初めて見せる必死の攻勢。  そう、この敵はもう遊んでいない。  いや――〈焦っている〉《・・・・・》。  しかし、何故。  何故、急に。 「何故、急に……?  決まっている」 «御堂……» 「今のが致命的な失敗だったからだ。  つまりはそういう事!」 «ええ――!»  ……状況を整理しろ。  まず最初は山から響いた轟音。  激しい音ではあったが、それはただ、それだけだ。  地上は大きく鳴動したかもしれないが、空にあっては耳孔の鼓膜を震わせたに過ぎない。  その直後、月山が姿を現した。  しかも当人は、そのことにすぐには気付かなかった。  ……おかしい。  轟音に驚いて術を解いてしまったというのなら――風魔の頭領が音如きで?――自分で気付かぬ筈がない。  驚いていなかったなら、術の解ける理由がない。  理屈が合わぬ、この矛盾。  ここだ。  この裏に真相がある。  だがそれは何だ!?  あと、何か一つ――発想の取っ掛かりがあれば―― «……背面甲鉄に損傷!  いけない、これ以上は持たない……!» 「く……!」  届かないのか。  足りないのか。  俺はここで墜ちるのか。  敗死は武人の宿命の内。  しかし――まだ早い――!  まだ――  俺にそんな逃避は許されない!! «御堂――» 「お前は熱源探査に専念しておけ。  余計な思慮は無用!」 «……。  御堂。月山とは、出羽にある霊山のこと» 「知っている……  誰もそんなことを尋ねてはいない」 «月山は、〈出羽三山の主峰〉《・・・・・・・》なの» 「それがどう…………」  ――――〈三山〉《・・》? «月山信仰は月山だけで完結しない。  〈羽黒山〉《はぐろさん》、〈湯殿山〉《ゆどのさん》と併せて一つの信仰になる»  ……一つで完結しない。  三つ、併せて………… 「――つまり」 «ええ。  けれど、〈それ〉《・・》が何処かとなると……» 「〈見晴らしの良い場所〉《・・・・・・・・・》だ、村正。そうでなければ術を施せない。  そして、妖術の解ける切っ掛けになったと思しき先の轟音。あれはどこで発した?」 «!!»  一つで完結しない月山。  山の異変を契機に解けた術。  術が解けたことに気付かない武者。  術が要する筈の法外な熱量。  ――――結論は、其処。     ««見えた!!»» «村正ァッ!!»  何処からとも知れぬ金打声が耳朶を打つ。  だが、構わない。〈あれ〉《・・》に構う必要はない。  兜角を下げ、降下降下降下。  重力を味方として加速する。速力で村正に優る月山といえど、そう容易くは追いつかせない。  ――それでも迫っているに違いない。  足裏に刺さる針のような殺気。  来る―― «御堂!» 「何ィ!?」  必殺の一撃だったに違いない。  〈掠め過ぎた〉《・・・・・》太刀風の凄まじさが、肝を氷結させる。  今の一瞬、村正の敵襲探知は声より先に皮膚の接触によって俺の意識へ伝達。  即座の回避機動が有り得ぬ成功をもたらした。  もはや邪魔はない。  そこへ向かう――月山を支える〈二山〉《・・》の在り処へ。 「村正、山頂周辺に熱源探知!」 «諒解! ――社の裏手よ! そこに二騎!»  ……捉えた!  古びた社のそばに、二騎の武者――〈羽黒山と湯殿山〉《・・・・・・・》!  この二者が妖術・霧隠の正体。  地上に姿を隠し、〈月山に陰義を掛けていた〉《・・・・・・・・・・・》術師!  全ての謎はここに氷解する。  常識外れの術は、二騎の武者の合力があればこそ。おそらく一方が光学操作、もう一方が信号操作。  月山の怪詠唱は陰義の〈呪句〉《コマンド》に非ず、二人への合図!  二騎が陰義の行使に専念し、月山が戦闘のみを担当していたのであれば、術の異様な長時間維持とて何の不思議もない。  彼らは三騎で一騎の無敵者を成していたのだ。  あたかも、出羽三山が一つの信仰を成すように!  代官と弥源太老の激突によるものだろう衝撃が術者の集中を乱し、霧隠の術を解かせるという偶然の配剤がもしも、なかったなら――  おそらくこの三位一体を破るには至らなかったろう。  山頂の二騎は動揺して為すところを知らなかった。事がこう運ぶとは考えていなかったに違いない。  踵を返し、逃げ去ろうとする――だが遅し!  一閃――二閃。  村正の太刀が両者の背を打ち据え、弾き飛ばす。  狭い山頂、斜面の際のこと。  ひと溜りとてなく、二騎ははるか〈麓〉《ふもと》へと転げ落ちていった。  あの程度で武者たる者が死ぬ筈もない。  だが―― 「己ェェェェェェッッ!!」  上空から襲来する最後の武者。  その姿は既に露わ。霧の幻惑は失われている。  二騎の支援が無くば〈古〉《いにしえ》の名物月山も只の武者。  恐れるべき理由はもはや無い!  合当理全開。  騎翔。 «――村正はその程度か。  そう問うたわね? 月山の仕手» «……ッッ!» «〈この程度〉《・・・・》よ!!» «無念……かな……。  我が風魔……天運、尽きておった、か!» 「…………」 «鍔よ。御堂»  〈野太刀の鍔〉《・・・・・》。  月山が散華すると共に、それは還ってきた。 «これで二つ» 「ああ。  ……村正」 «なに? 御堂» 「今回は助けられた」 «…………» 「俺の非才をお前が補った。  お前の助言が無ければ勝てなかったろう」 「だが。  今後は無用だ」 «…………。  いいえ» 「……」 «無用なんかじゃない。  御堂――» «貴方こそ、何も考えなければいい» 「…………」 «…………» 「……まだ片付いてはいない。  坑道へ急ぐ」 «……ええ» 「――――」 「じ……  爺さんッ!」 「な、な、何やってんだよあんたッ!  刀の前に立ったりしたら死ぬに決まってんだろーがっ!」 「……ふっ、ふふ。  おお、そいつは知らなんだ……これはうてとしたことが。  とんだ間抜けであったわい……」 「しゃ、喋るな。  いま手当てする……こんなもん、出血さえ止めればどうってこと……!」 「いや……嬢。  うてからも一つ教えようか。これは多分な……致命傷というやつではないかなァ」 「んなわけねぇだろ!  あんた死んだことあんのか!? 無いだろうが! 死んだこともないくせに自分が死ぬかどうかなんてわかるわけねぇだろ!?」 「おぅ……なるほど、なるほど。  そりゃ、嬢の言う通りよ……言う通り。嬢は正しいことしか言わぬなぁ。一媛を、思い出すわ……ふ、ふ、ふ」 「けほっ……!」 「爺さん!」 「嬢……逃げなされ。  うてには構わず……」 「馬鹿言うなっ!」 「いやいや……嬢の言う通り、うては死なぬでな……  大丈夫……案ずるには及ばぬよ」 「人の揚げ足取ってんなよそんなザマで!  ああくそ、爺婆ってのはこんなんばっかりか……!」 「ふふ……そりゃあ、そうよ。  若い者をからかうのだけが、老人の楽しみというもの……ふ、ふ……」 「だから口きくなっての!  いま担ぐから、ちょっと立って……って、無理か。くそ、なんか人を運べるもの!」 「嬢よ……  こいつをやろう……」 「……あ?  何だよこの棒切れ?」 「なに……お守りのようなものよ。  それを持って……さ。ゆかれい」 「ゆかれいって、行けるか!  爺さん置いて!」 「いや、いや……無用、よ。  どうやら、残念だが……今回は、うての方が正しかったらしいわ……嬢」 「……な、  何言ってんだよ、爺さん!」 「色々あった……  この五十年、色々あったが……」 「最期が……一媛の形見に看取られて、とは。  望外の〈幸〉《さち》……うては果報者であった」 「……果報者で……あったよ……  ありがとうな……嬢…………」 「じ……爺さんッ!」 「いま、ゆく……一媛…………  右京……なれも、さっさと……参れ………」 「爺さん……?」 「爺さんっ!」 「お、おい……  さんざ勝手なことだけ言って……」 「勝手に死ぬなんてありかっ!  おい! 目ぇ開けろよ!」 「おい……」 「…………」 「……………………」 「……一媛」 「…………六波羅!」 「お前を……貰う。  今こそ……」 「ざけんな、この――」 「――ッ!?」 「お前が欲しかった。  どうしても欲しかったのだ」 「どうしても……  どうあっても!」 「かつては迷った。  だが、今は迷わぬ」 「一媛……  この手で、その命を貰い受ける!」 「……く……っ!」 (……死ぬのか) (死ぬのかよ、あたしは) (ここで……こんな野郎に) (婆さんの友達を殺した野郎に。  あたしの目の前で殺した野郎に) (あたしも殺されるっていうのか) 「お前は俺のものだ。  殺してしまえばもう誰も、お前に触れられない。お前は俺のものだ!」 (……なんでだよ) (なんでこの爺さんが死ななきゃならない。  なんでこの野郎は勝手絶頂にしてられる) (なんであたしは爺さんを守れない。  なんであたしはこの野郎を倒せない) (あたしは一条……  真っ直ぐに、一条の正道を生きるように。  そう願いを込めて、婆さんと父様がつけてくれた名前) (あたしは一条。綾弥の一条。  なのに……あたしのゆくべき正道が、この世にはないのか?) (〈この世に正義は無いのか〉《・・・・・・・・・・・》!?)           «…………» 「死ねい……一媛!!」 「畜生――――ッッ!!」 「…………」 「……え?」 「…………」 「……だ……誰?」 「……」 (赤い……鎧。  深い、深い赤……) (飛んでる……よな。あたし。  じゃあ、これ、劔冑……か……) (……六波羅?  それがなんで、あたしを……) 「降ります」 「え?」 「きゃあっ!」 「どうか暴れずに。  この高さでも落下すると危険です」 「は、はい……」 「……」 「……え? ち、ちょっと待った!  その声……!」 「な、なあ。  あんた、まさか、あの警官――」 「この道を麓まで駆け下りてください」 「え?」 「お急ぎを。  これより六波羅代官長坂右京の討伐を行います。この付近におられては危険です」 「と、討伐って……」 「行って下さい。綾弥一条さん。  その御名のように、真っ直ぐ」 「!」 「わ、わかった。  行くよ……」 「貴様……若造ォォォ!  どこまでも俺の邪魔をするか!」 「一身上の都合により」  周囲を見渡す。  傷ついた劔冑に身を包む、長坂右京――そしてその後方に、横たわる小さな姿。  弥源太老人。  彼が沈む血溜まりの広さは明らかに、一個の生命が喪失したことを物語っていた。 「……だが。  今の己は、ただの怒りに任せて刃を振るいたき衝動に駆られている」 「貴様が……貴様などに……  切望せしこの瞬間を、奪わせるかぁッ!」 «御堂! 急いで!  あの劔冑、〈孵化が近い〉《・・・・・》!» 「何ッ――!!」 「……ちィッ!」  代官が飛び退る。  そのまま背を向け――坑道の中へ!  広い場所では不利と踏んだのか。  だがその企図、付き合っている暇はない! 「村正! 〈山ごと潰す〉《・・・・・》!」 «――諒解!» «〈磁装・蒐窮〉《エンチャント・エンディング》» «吉野御流合戦礼法、〝〈雪颪〉《ナダレ》〟が崩し……» «〈電磁撃刀〉《レールガン》――――〝〈威〉《オドシ》〟» 「お……おおおおおおおおおおおッッ!?」 「敵騎――殲滅」 «来た――» 「……刀身か。  だが、全部ではないな」 «ええ。  三分の一くらいね» 「……この村で討つべき敵は全て討った。  戦闘を……終了する」 «諒解。  じゃあ……次よ» 「…………」 «戦闘の次――  殺戮を始めましょう。御堂» (…………) (深い穴を……落ちてゆく……) (……これで、終わりか……) (……くだらぬ……) (くだらぬ生涯で……あった……) (……一媛……) (…………弥源太…………) (……なんだ) (…………) (これは……何だ) (光……) (いや…………) (これ、は……!) (……は……) (はは、ははは……) (何と……) (〈いたのか〉《・・・・》!) (貴様は……本当に……!) (はは……ははは!  何としたこと……) (おらぬと思うておったに……  いても、つまらぬ〈石塊〉《いしくれ》であろうと……) (弥源太! 一媛!  見よ…………) (俺の……負けじゃ!) (はっははは!  我が一生、我が闘い……完敗じゃわッ!!) 「あらあら大変。  ばあや、また同じ所に戻ってましてよー」 「はて、面妖な。  お嬢さま、これはもしや〈伴天連〉《ばてれん》の魔術ではございますまいか」 「孔明の計略かもしれなくてよ。  それはさておき、これからどうしましょう」 「もう夕刻でございます。  これ以上遅れては言い訳もなかなか難しくなりましょう」 「そうね。そろそろ行きましょうか。  ……きっと、もう決着もついていることでしょうし」 「同感でございます。  そういえば、お嬢さま……」 「はい?」 「ウォルフ教授より依頼されておりました件は……」 「……あっ。  すっかり忘れていました」 「あれやこれや、立て込んでおりましたからねぇ……」 「あまり気に留めてもいませんでしたし。  理由の説明もなしにほいよろしく、と頼まれてもねー。教授とは部署が違いますのに」 「さようでございますなぁ。  大体そもそも、〈水質調査〉《・・・・》など、どうやったものやら」 「わかるわけがありませんのにね。  まぁ一応、そのへんの小川から水は汲んでおきましたし、これでどうにか誤魔化すことにしましょう」 「御意にございます。  して……お嬢さま」 「なあに?」 「あの湊斗景明なる人物。  どのように見定められました?」 「……そうですね。  一概には、まだ」 「見極めるには時期尚早と?」 「ええ。  まだ……彼が〈そう〉《・・》なのかは、何とも」 「は……」 「けれど。  ……あれほど血生臭い人間は初めてです」 「さように、お感じになられましたか」 「死蝋で出来ているかのよう。  最初に目を合わせた時、背筋に走った〈怖気〉《おぞけ》。当分は忘れられそうにありません」 「……しかし。  お嬢さま……」 「ええ。あなたが考えていることはわかっているつもりよ、ばあや。  彼は〈まっとうな〉《・・・・・》育ちの人間だと、そう言いたいのではなくて?」 「……は。一言で言いますれば」 「わたくしも同感です。  ……だから、わかりませんの」 「……」 「……もっと。  彼のことを知らなくてはなりません」 「さようでございますね。  ……む? お嬢さま」 「どうしたの?」 「あちらをご覧下さいませ。  さよの老眼ではしかと見えませぬが、あれは……人では?」 「……あら、本当。  なかなか凛々しいお顔の美少年……では、ないのかしら? 女の子?」 「こちらに走って参られますね……」 「おいっ!」 「はい?」 「その格好、あんた進駐軍の人だな?  なんか武器持ってないか。銃とか剣とか。無けりゃ鉄パイプでもいい」 「はぁ。  銃でしたら、ここに」 「よし、助かる。  それ貸してくれ」 「どうされますの?」 「あの山に六波羅の糞犬野郎がいるんだよ!  今、警察の人が戦ってる。あたしは加勢に行くんだ」 「……」 「……」 「犬どもを野放しにしてるのはあんたらだろ。  あんたらの不始末をあたしが片付けてやるってんだ。文句ねえだろ。貸せよ」 「そう言われては、反論の言葉もありませんけれど……。  この銃、わたくしの私物ではありますが、一応軍の備品という扱いになっていまして」 「あぁん?」 「民間の方に無断で貸与するわけにはいきませんの」 「貸しちゃダメなのか」 「はい。ダメなんです」 「じゃあそこに置いてくれ。盗んでくから。  それなら問題ないだろ」 「あら?  そういうことになるのかしら」 「お嬢さま、騙されかけておりますよ。  もし、凛々しいお方」 「……うっ。  また爺婆かよ……」 「山で戦っている警察の御仁に加勢をなさりたいとか。  それは、その警官殿が望まれたことでありましょうや?」 「……いや。  それは……違う、けど」 「その方は逃げろと仰られたのでは?」 「……」 「でしたら、その通りにされたが宜しいかと存じますよ」 「けどっ!  あの六波羅野郎は許せねぇんだっ! このまま逃げたら、あたしは――」 「ご自分の矜持のために、警官殿のご配慮を無にされると?」 「……い、いや。そうは……」 「加勢が必要であれば、警官殿はそのように仰られたのではないでしょうか。  そう言わなかったということは、加勢など無用と、そういうことではありますまいかな」 「……うぅ。  けど、万一ってことも……」 「あるとお思いですか?」 「……」 「この婆めは、無いと思いますがねぇ。  お嬢さまはいかがでございます?」 「有馬温泉まで直通の鉄道が開通しました」 「……その心は?」 「〈有馬線〉《ありません》♪」 「華麗にスルーでございます。  凛々しいお方、貴方さまも同じお気持ちではありませんか?」 「……ちっ。はいはい、そうだよ。  あたしもそう思ってるよ! 〈あの武者〉《・・・・》は、六波羅の犬侍なんぞにゃ負けないだろうって」 「くそ……  爺婆はほんと食い合わせが悪いや」 「まあまあ、お若い方が腐られますな。  紅茶でもお淹れしましょうか」 「いらねぇよ。  しかし、あんたら。あの人のこと知ってる口ぶりだな」 「ええ。存じておりますよ」 「協力して、その犬野郎と戦った間柄です」 「……そうだったのか?」 「はい。  今明かされる、衝撃の真実」 「けど、あんたら……無駄飯食らいのGHQだろ?」 「たまにはダイエットがてら働くこともありましてよ。まぁ、その辺のお話は道々いたしましょうか。  おうちはどちら?」 「? 鎌倉だけど」 「お乗りなさいな。  送って差し上げます」 「は? いや、いいよそんなの。  あたしは村に……」 「あの方に協力したいのでしょう?  なら、どうぞ」 「どういう意味だ?」 「簡単に言いますと。  夜道に迷って難儀していたあなたを助けていたという事にすれば、わたくしはもう少し寄り道ができて、本部へ戻るのが遅れますの」 「そしてそれは、あの村や、景明さまを――警察の人を助けることに繋がるのです」 「……さっぱりわかんねぇ」 「それも道々ご説明しましょう。  さ」 「わかったよ。嘘はついてねぇみたいだし。  ……けど」 「はい?」 「道に迷ったってのは無しだ。  怪我でもしていたことにしてくれ」 「? わかりました。  では、参りましょう」 「よろしく。  ……へっくちっ!」 「おや、お風邪ですか?」 「いや、そんな覚えはねぇけど……  なんだろな。今、急に寒気がして」 「逢魔ヶ刻と申します。  何か良からぬものが背筋を撫でていったのやもしれませんねぇ……」 「……不気味なこと言うな、婆さん。似合い過ぎだっての。  ったく……」 「…………」 「静かになった……な」 「……どうなったんだ?」 「わかんねぇよ……」 「おい、誰か見に行ってこい」 「お前行けよ!」 「落ち着け、皆。  騒がずに待とう。もう少しすればきっと、警察の武者様が戻ってこられる」 「……戻ってこなかったら?」 「…………」 「戻ってくる」 「……」 「……」 「あっ!」 「どうした」 「彗星だ……」 「彗星?」 「本当だ……」 「……吉兆だよな?」 「凶兆じゃねえのか……」 「お前なぁ!」 「い、いや、だってうちの爺いが昔――」 「まあまあ……  吉兆だと信じようぜ」 「ああ……」 「……銀色……」 「ん?」 「あの彗星……  綺麗な、銀色…………」  雪車町一蔵は結論として、自分はまあそこそこ幸運だったと、そう思うことにした。  痛む体を、煎餅布団に横たえながら。  あの〈警官〉《おまわり》から逃げ損ね、斜面を転げ落ち秋の温かくもない川に没する羽目になったのは不運としても。  凍死する前に拾われ手当てを受けられたのは、自分のような人間にとっては稀有の奇貨。  そうして結果的に、自分は生き延びている。  ならやはり、幸運だったと言わねばならないだろう。  懸念があるとすれば、ここにあの警官や、あの巡察官などが踏み込んできた場合のことだが……  その場合も何とかなるだろうと、筋者雪車町一蔵は踏んでいる。  何しろこの家には無力な子供が二人もいるのだ。  取り押さえられる前にその片方でも人質にできれば、活路は開ける。  ……こう考える時、雪車町という男の精神上に別段、苦痛は存在しない。  嗜虐的な喜びを覚えることもないが――いや。あの警官やGHQの女に一泡吹かせられるのなら。  雪車町一蔵とはそういう男だ。  卑小な人格を持ち、卑劣に生きてきた。  それで良いと思っている。  人を傷つけ、陥れて、小利を稼ぐことにのみ、興味関心が向いた。そういうことにだけ知恵が回った。  義侠だの、恩義だの、忠孝だの、そういった上等なものはどうしても理解できなかった。無意味だった。  なら仕方ない、と雪車町一蔵は思うのだ。  自分には卑小なことしかわからない。だから卑小に生きる。  上等な人生は、上等なことのわかる奴がやればいい。  だから彼は躊躇わない。  自分を助けた少女達に災いなす考えを弄ぶことにも、そして、それを実行することにも。  いつもの薄笑いを浮かべたまま、雪車町はやれる。  その卑劣さは筋金入りだ。  打撲の痛みに意識を朦朧とさせながらも、彼はそのような考えを巡らし、戸口が開く音を聞き取った時には、行動に備えて隣の様子を窺った。卑劣さが違う。  気配を殺し――今は意識が飛んでるから完璧だなどと彼は愚昧なことをちらと考えた――息を殺し、この部屋と隣室を隔てる障子戸の隙間へ、頭を運ぶ。  そして、その向こうの光景を見た。 (……) (…………) (……なんだ?  ………起きてるつもりで、眠ってる……の、か?) (なんでぇ……〈これ〉《・・》は)  ――まずは姉から。  くうくうと、安らかな息を立てて眠るその首を、    刃音もない一刀で断ち切った。 「あっ、そうですよね。でも……  武者の方ですし。六波羅の人達より本当のお武家様って感じがしますし」 「やっぱりお武家様です」 「こら、ふなっ!  ……じゃあ、どうぞ。おにぎりしかありませんけど。あ、こっちはお茶です」 「これは、行き届いたこと。  ふきさんは良い花嫁になられます」 「……え、……」 「あまりおだてるなよ、御堂。  なら貰ってくれなどと言い出しかねんぞ」 「じ、じっちゃまー!」  死んでいる。  即死であったろう。  痛みも何もなかったろう。  ……だから何だというのか。  当然与えられるべき未来を、今、理不尽に奪われた人間にとって。  死は死。殺は殺。ただの暴虐だ。  ――――次。  もう一つの布団を見下ろす。  姉よりも一回り小さい、しかし同じように、平穏な眠りの中にある姿。  太刀を逆手に持ち替える。  切先を――心臓の上へ。 「かまくらはもっとすごい?」 「人が大勢います」 「どのくらい?」 「この村の倍の、十倍の、百倍ほど」 「きゃー!  すごいねぇ……」 「……ッ」  血の花が、もう一輪。  咲く。  血花、二輪。  平和な、平和であった、蝦夷の家に。  今はもう、死しかない。  弥源太老人も死んだ。  二人の孫は後を追った――追わされた。    助け上げた男の手で。 「御堂。  酒はいける口かな」 「……?  それは、一応……人並み程度には」 「では今宵は一献酌み交わそう。  思えば御堂と出会ってからは忙しないこと続きで、そんな暇もなかったが……」 「年寄りにとって若い者との酒は何よりの薬。  だというにうちの孫は二人とも娘、しかもまだ子供とあってはどうにもならぬ。  得難い機会よ。御堂、付き合って貰えぬか」 「今宵は一献……  今宵は、一献……」 «……御堂» 「……大丈夫だ。  俺は狂ってなどいない。  狂ってなどいない」 「狂いなどしない。  〈そんなところには逃げない〉《・・・・・・・・・・・・》」 «……そう。  でも、違う» 「……」 «御堂。  まだ終わってない» 「……?」 「……けふっ。  こほっ、けふっ、けふっ!」 「!!」  下の娘が――ふなが――目覚めている。  まさか―― «見当を誤ったようね。  姉と同じように首を刎ねていれば良かったのよ» 「……う……あ……」 «顔を直視したくなかったんでしょう。  そのお陰で……あの子は苦しんでいる» 「けほ、えほっ、えぇっ……  ねーや……いたいよ……ねーやぁ……  じっちゃ…………」 「ひ……ひっ、ひぃ……」 «早くしなさい!» 「ひ……あぁ……」  太刀を振りかぶる。  苦しみ、喘ぐ、幼子の顔を確と、見定めて――  その頭部を、今度こそ、一刀で。 「えほ、けほっ!  にーや……!」 「!!」 「たすけて……にーや……  にーやぁ……」 「いたいよぉ……  にーやぁぁ…………」 「あ……ひぃ……ッ」 「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッッ!!」 「…………」 «……完了。  帰りましょう、御堂» 「……………………」 «泣いているの?  御堂……» 「……泣く?」 「泣くとは、どういうことだ」 «…………» 「なんて可哀想なことをしたんだと――  俺は嫌々ながらやったのだと――  本当はこんなことをしたくなかったのだと、  涙を流して――俺も性根は善良なのだと」 「そう言えというのか?」 «……» 「……ふざけるなよ。村正……」 「本当に善良なら、最初から人を殺したりはしないのだ!  殺しておいてから流す涙など、最も醜悪な偽善に過ぎん!」 「人を殺すことは悪業であり、悪業を為す者は悪鬼なのだ!  俺は悪鬼なのだ!」 「俺は悪鬼なのだッッ!!」 «…………。  さっきの言葉、もう一度言っておく» «貴方は何も考えなくていい» «貴方はただの〈仕手〉《てあし》。  この村正の手足よ» 「……」 «手足がものを考える必要なんてない。  ただ――使われていなさい» «……全てが終わったら解放してあげる。  その時まで、心を閉ざしていて» «何も考えず、何も感じずに……  その時を待ちなさい» 「…………御託は終わりか?  劔冑」 «……» 「貴様が俺の主だというのなら、ひとつだけ聞いておく。  何故だ?」 「〈何故だ〉《・・・》?」 «……以前にも聞いた覚えのある問いね» «答はかつてと変わらない。  私は兵器。己を形作る理念を全うするだけ» 「理念……」 «鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る» «他の理由なんて……私には無い。  私は人ではないのだから» «劔冑なのだから» 「…………」 «心を閉ざすことさえ辛いのなら、ひたすらに私を憎みなさい。  貴方にはその資格がある» «貴方の人生を呪った刃を……  心の底から憎む権利がある» 「そんなものは無い」 «……» 「己は兵器に過ぎぬと言ったな、劔冑。  まさしく然り」 「貴様はただの兵器。ただの道具。  道具に罪などない。  道具は罪など背負えない」 「道具を使う義務も権利も責任も、罪科も、すべて俺ひとりのものだ。お前には何もない。  当然だろう。奴隷に責任を押し付ける主人などおらぬ」 «……御堂» 「罪は道具を使う者に。  ならば、憎むべきも……その者だけだ」 (…………) (夢……だよ、な……) (へ、へ……ひでえ、夢……) (けど……) (こいつがもし、夢じゃァなかったら……) (……夢じゃ、なかったなら……)  ……村へ続く道を歩いていく。  村長へ、報告をしなくてはならない。  彼は喜ぶだろう。  そして、代官が現れる前の、平和な村を取り戻してゆくだろう。  穏やかに。  静かに。  何事もなかったかのように、村は平和な日々を過ごしてゆくのだろう。  ただ――  そこには、善良な蝦夷の一家がいない。  平穏で――幸福で――  一つだけピースの欠けた村。 「……」 «御堂……» 「…………」 «御堂……!» 「……黙っていろ。  用はない」 «御堂! 村が!» 「……!?」  これは――  これは――――  家屋を包む赤と黄色の衣。  死に絶えている人々。  村は――  〈今〉《・》、〈滅びている〉《・・・・・》。 «まさか……» 「……ッ……」  倒れ伏す人々を見回す。  誰か……誰か、息のある者は―― 「あ……あぁ……」 「村長!」 「あぁ……なぜ……村が……  どう……して…………」 「何があった!  何があったのだ!」 「……ほしが……」 「……星!?」 「ぎんいろの……ほし…………」 「……」 «…………»  ――村は終わった。  代官が死に、  蝦夷の一家が死に、  そして、村も死に絶えた。  何も、残らなかった。  何も。  何も。  何一つ。  全てがここに、灰燼へ帰す。 «……かかさま……» 「……光……」 「光ゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」 「……岡部頼綱は降伏勧告を拒絶。  自ら旗本衆を率いて討って出たため、我が方はこれを迎撃――」 「猪苗代湖上空で激しい戦闘となったものの、二時間後には敵騎をほぼ殲滅、制空権の掌握に成功しました。  ほぼ同時に地上の反乱部隊が降伏を宣言」 「首謀者岡部頼綱は討死、嫡男十兵衛頼良は館に火を放って切腹。  大村玄信、高野喜三郎も討死を遂げ、岡部の次子六曜丸は逃走中を捕殺」 「その他、主だった者どもは全て戦死、捕縛、投降、いずれかの命運を辿っております。  岡部一党は壊滅したと断定して宜しいかと」 「……反乱に加担し、物資や兵員を提供した町村がいくつかあったはずだな。  それは、どうした」 「常の通りに。  住民は全て処刑、家屋は根こそぎ焼き払い、何も残らぬ荒地と致しました」 「宜しい。  大儀であった」 「はッ!」 「頼綱め……  長年、予に対して公然と面従腹背の姿勢を見せてきおった憎い奴だが、こうして生首になった姿と対面してみると妙な感慨がある」 「こやつの毒舌をもう聞けぬと思うとな……ふふ、不思議なほど寂しさを感じてならん。  思えば奴の毒、あれはあれでなかなか一興であった」 「はぁっはっは!  殿も勝手なことを申される!」 「先日までは事あるたび、岡部の首を持って参れ、奴の首を犬に食わせてやるまでは眠ることもできぬと、返す返す仰られていたに。  それがし、耳にたこができましたぞ」 「それがいざ死んでみれば、この仰りよう。  いやはや、困った御方じゃ!」 「そう言ってくれるな、童心坊。  予とてわかっておる……目の上の瘤が取れ、心持ちに余裕ができたればこそそんな思いも浮かぶのだ。かつては考えもせなんだことを」 「生きておれば死を望み、死に果てれば生を望む……全く、〈御坊〉《ごぼう》に言われるまでもない。  人の心の働きというのは本当に勝手なものよ。どこまでも満足せぬように出来ておる」 「であればこそ、人は満足を求めてあがき、自らを高めるのでござる。  満ち足りた人間は木石も同然、悟りの境地ではござるが、世の役には立ち申さぬ」 「殿がかような生き仏になっては御国の大事。  いや、勝手な言い草おおいに結構! 殿におかれてはどうか今後とも、自侭になさってくださりませい!」 「……どういう説法だ」 「かなわんな、童心坊には。  ふっふっふ……」 「まぁ、何に致しましても」 「これで関東近隣から反幕府勢力はほぼ一掃されたと言えましょう。  まずはおめでとうございます、お父様」 「うむ。  そちも御苦労であった」 「勿体ないお言葉!  此度の乱ではあまり大した貢献も出来ませなんだのに……」 「本当にな。  貴様の担当したラインからの補給は、遂に一度も前線まで届かなかった」 「あっ……あれは仕方ないのよっ!  討幕派のゲリラに鉄道を爆破されちゃったんだから! あいつら、こないだ散々叩いたからもう大丈夫だと思っていたのに……」 「馬鹿か?  その手の輩はいくらでも湧いてくる。もう大丈夫、などということはない」 「当然の警戒を怠った貴様の責任は重大だ」 「うぐ……」 「腹を切れとまでは言わんが、そのけばけばしい頭を丸めてみるのはどうだ? 雷蝶。  貴様のその、目に刺さるような見苦しさは耐え難いと、かねがね思っていたところだ」 「あんた喧嘩売ってんのっ!? こっ、この麿の美々しい姿が、みみみ見苦しいですって!?  許せないわ! 〈陪臣〉《またもの》上がりの癖に! 只で済むとは思ってないでしょうね!?」 「只で済ませてくれなくとも良い。  貴様なら別段、高い出費を覚悟する必要も無さそうだ」 「いつでも構わん。  一戦交えるのが望みなら、掛かってくるがいい」 「な、な、なっ……」 「まぁまぁ、雷蝶殿。  まずは落ち着いて。お座りなされい」 「でも、童心様!  今のお聞きになったでしょう、足利家直系の麿に対して暴言の数々!  これはもう反逆よッ、今すぐ打ち首に――」 「静まれ」 「お、お父様……」 「そちに働きがないとは予は考えておらん。  だが此度の戦、功一等は自ら手兵を率いて乱を鎮圧した獅子吼。多少の放言は受容せよ」 「さもなくばそちの器量が問われようぞ」 「……は、はっ」 「ふん……」 「くっ……」 「獅子吼。そなたも控えよ。  全て予への忠義から出た言葉であることはわかっておるが、傍目には驕りとも映る」 「それではそなたの損になろう」 「はっ。  心致します」 「はっはっはっ。まぁ、若い者はこれくらい元気な方が宜しい。角突き合わせるのも結構結構。立場上いつも仲裁役に回らねばならぬ殿には、なかなか、御難儀なことでござるが」 「……」 「つーか」 「わりかしヤな方向で個性あり過ぎな一家をまとめる苦労人パパって感じだよなー。いや、まんまそうか?  おじじもほんと、大変だね」 「あんたが言わないでよッ!  お父様にいつも一番迷惑掛けてるのはどう考えたってあんたでしょうがッ!?」 「えー。あて、なんかした?」 「……何もしとらんな。雷蝶以上に。  貴様、とうとう最後まで兵も物資も寄越すそぶりさえ見せなかったが……一体どういうつもりだ?」 「どーもこーも。  あての本陣がどこだか知ってんだろ。伊豆半島から関東を中央突破して会津まで送れってーの? 無茶言えよな」 「鉄道は駄目、空路も海路も荒れてて駄目ってな状況で輸送ができるわけねえし。  文句なら、そこの〈提灯鮟鱇〉《ちょうちんあんこう》と台風一五号に言っとけ。あてに言うな、あてに」 「だだっ……誰が提灯鮟鱇よッ!?」 「貴様だ」 「それでもどうにかして送るのが、六波羅にあって一軍を預かる者の義務であるくらい、言わずともわかろう。茶々丸。  実際、童心殿は車両運送で届けてきた」 「あてにもそうしろって?  やだよかったりぃ」 「いいじゃん、あっさりカタついたんだしさ。結果オーライってーことで。ここはひとつ」 「貴様……」 「あー怒るな怒るな。暑苦しいから。  だいたい、獅子吼さ。あてだってなんにもやんなかったわけじゃないよ」 「嘘をつけ。  前線でも兵站でも貢献しなかった貴様が何をしたと云うのだ」 「宣伝工作」 「……は?  何よ、それ」 「大和南北新聞に社説を掲載してもらったの。  あてが書いたやつを社員の名前で。いやさ、あんまり世間の反感買うのもアレだし、今回の件についてちょっと擁護をね」 「ほう、ほう。  茶々丸殿、それはどのような?」 「こんなよーな」 『友情の虐殺』    会津猪苗代で勃発した岡部頼綱の反乱は、一族郎党皆殺しという結末を迎えた。国家に対する反逆である以上やむを得ない処置であるとはいえ、凄惨な最期を遂げた人々の苦しみを思うと、悲嘆の情感は抑え難いものがある。  世間には六波羅に対して怒りと不満を募らせる風潮もあるようだ。しかし、ちょっと待って欲しい。国家を憎んだところで何が得られるというのだろう。ここはむしろ、我々国民を守る統治組織である幕府がなぜ、あえてそのような行為をするに至ったかを考え、理解し、今後は彼らにそうさせないよう、耐えるべきことは耐えて、新たに平和な関係を築くため努力するべきではないのか。  そうすれば、岡部党鏖殺のこの事件は、後世に悲劇としてではなく、官民を結び付けるきっかけとなった 『友情の虐殺』として、幸福な時代の始まりとして、伝えられてゆくのではないだろうか……。  それこそが残された人々の義務であり、岡部の人々の尊い犠牲に報いる道だと、私には思えてならないのである。 「…………」 「…………」 「どうよ。  この巧妙極まる論点のずらしっぷり」 「何処がだ!?」 「喧嘩売ってるようにしか見えんわッ!!」 「えー。そんなことねぇよー。  ほら」 「がっはっはっ」 「ウケてるし」 「童心殿!」 「ていうか関係ないでしょっ!?  あんたウケとるためにこれ書いたわけ!?」 「力だけの政治はもう終わった。  これからはエンターテイメントの時代だ!」 「意味わかんないんだけどッ!」 「前言撤回する。貴様はやはり何もするな。金輪際何もするな。  できれば呼吸もするな。脈拍も止めろ」 「おじじー。  大人気ない連中がいじめるー」 「……まぁ、良い」 「お言葉ですが殿下。全然、良くありません。  幕府の威信にも関わります」 「とりあえずこの脳足りんは火星へ島流しにして、新聞は回収させましょう。お父様」 「良い。  獅子吼、雷蝶。茶々丸のすることにあまり目くじらを立てるな」 「……仰せとあらば」 「立てるなー」 「黙れ」 「死になさいよ、あんた」 「おじじ、こいつら命令違反だから殺してもいい?」 「まぁまぁ。  ……さて、景気の良い話の後で恐縮なのでござるが。一つ景気の良くない報告をさせて頂いてもよろしゅうござるかな」 「うむ?」 「クラゲが大量発生でもした?」 「いやいや。  先頃、それがしの管区で発生した一村全滅事件の調査報告が上がってきましてな」 「……あぁ」 「景気が良くないってことは、予想通りってことですのね? 童心様」 「見ようによっては、これほど景気の良い話もなかなかござらんがなァ。  生存者は皆無。綺麗さっぱり皆殺し。老若男女一切問わず、物言わぬ骸となりにけり」 「事件の異様なまでの特殊性は〝銀星号〟の出現を示しているとみてまず間違いなかろう、との報告でござる」 「……銀星号!」 「これで何件目なのよ……」 「目撃情報は?」 「これもまた、例によって……」 「無し、か」 「信頼のおけるものは。  銀の流星を見たという者も付近住民、通行者らの中に幾人かおり申すが、さてどこまでが本当でどこからが後付けの妄言やら」 「なんにしろ、殺戮現場をはっきり見た奴はいないっつーことだーねー?」 「そういうことだのぅ」 「なんという馬鹿げた話だ……!」 「別に馬鹿げちゃいねぇだろ。  見た奴は全員死にましたってだけの話だ」 「それの、どこが、馬鹿げていない?」 「あはは。だよねー。馬鹿くせー」 「……笑ってる場合かっての」 「いやもう笑うしかねぇしさ。  誰だってそーだと思うよ?」 「もう関東中に広まってる、武者の一個中隊が銀星号に全滅させられたっつーあの噂。  市民の間じゃ信憑性は半信半疑って辺りで落ち着いてるけど」 「あれが実は嘘で」 「本当は一個中隊じゃなくて一個〈大〉《・》隊です、なんてことを知ったらさ。  笑う以外に何ができるっつーの?」 「…………」 「確かにな。  五〇騎からの武者がただ一騎に鏖殺される、か……ふん。古代の神話か、でなければ狂人の妄想にしか有り得ぬような話だ」 「〈唐国〉《からくに》の伝説に謳われる項覇王もかくや、というところだのぅ。  いやはや、何だってそのような代物が現世に出て参ったやら」 「あれは何者なのよ? 一体……」 「――其は終末であり、死滅であり、灰燼も残さぬ消失である。  汝、触れるなかれ見るなかれ。死に絶えることを望まぬならば……」 「なによ、それ」 「マタイの福音書、別記。  降り来たる魔王の一節」 「……ふぅん……」 「嘘だけど」 「嘘かよ!?」 「プッ。信じてましたよこの人!  いるんだよなーこういう奴。なんか適当にそれっぽいこと言うとあっさり鵜呑みにしちまいやがんの。で、よそで吹聴して大恥かく」 「殺すわ……」 「ま、ま」 「殿下。やはりこれは由々しき事態。  現在の対策班では足りませぬ。規模を拡大し、我々の内の一名を責任者にあて、本腰を入れた対応を行うべきかと存じます」 「うむ……」 「さらっと無視してるけど、あいつもきっと一瞬信じたんだぜ……?  良かったね雷蝶、仲間がいて」 「馬鹿はシカト。ふんっ」 「童心坊。  獅子吼の進言や如何に?」 「さぁて。  やがて必要となる措置であることは、否めませぬが……」 「時期尚早と言われるか」 「さよう。  幕府が、得体の知れぬ凶賊を相手に、そこまでの力を注ぐ――ということが、おそらく現段階では……」 「火種を煽るか。  民衆の中の反幕分子。それにGHQ……」 「内外の敵に付け入る隙を与えることになる……それは私とて懸念せぬではありませんが。 〝銀星号〟は黙殺するには余りに大きな災厄。多少の犠牲は払っても潰しておくべきでは?」 「どちらを先に片付けるのか、という問題になるかな。敵勢力か、それとも災厄か……。  しかし、獅子吼殿。銀星号の被害を蒙っておるのは我らに限らぬ事を忘れてはなるまい」 「……」 「六波羅の主敵、進駐軍も少なからぬ損害を受けておる。そこを考えると、今、我らのみが矢面に立って厄介事の始末に乗り出すのは、いささか割りに合わぬ話と云えぬかな」 「……なるほど」 「でも、童心様。  GHQの手にも負えない銀星号を六波羅の手で叩き潰せば、幕府こそが大和を統治する力を持つというまたとない〈証明〉《アピール》になります!」 「しかし、それはそれでまた難しゅうござる。  効果が薄ければくたびれ儲け。大きければ大きかったで、進駐軍の尻に火を点ける結果となり申す」 「大和〈完全支配〉《・・・・》の機を窺う者どもは、我らの支配力強化を決して看過しますまい。  銀星号対策で疲弊した所にGHQの大軍を迎える……それはちと、ぞっとしませぬなァ」 「…………」 「宜しい。童心坊の見解を是とする。  銀星号問題に対しては現状の体制で臨む。いずれ対応部署の拡充は行うが、それは予の支配が完全なものとなった後の課題としよう」 「はッ……」 「御意」 「お父様の仰せのままに」 「……不満か? 獅子吼」 「いいえ、決して。  ただ一点……どうにも気に掛かってならぬことがございます」 「申してみよ」 「……銀星号なる者、一度たりと関東防空圏の〈金探〉《レーダー》に捉えられた例がございませぬ。  である以上、彼奴めは関東の外からやって来るのでは〈ない〉《・・》とみるのが妥当」 「低空騎航で〈金探〉《レーダー》を誤魔化しているっていう可能性は……ないわよねぇ。  だったら肉眼で発見されてないとおかしいし」 「関東のどっかから出現して、どっかへ帰るわけだ。……レーダーが関東の外縁だけじゃなくて全域をフォローしてくれてたら、話は簡単だったんだけどねー」 「それはちと、人員と経費がおっつかんのう。金探そのものを改良して性能の向上を図らぬことには、なかなか……。  現状では要所要所に配備するので精一杯よ」 「確かに、関東全域を綿密に監視する金探があれば事は楽に片付いたろう。  しかしそんなものがなくても、本来、事は既に決着していなくてはおかしいのだ」 「何故なら武者は〈目立つ〉《・・・》。  ――殿下。私がどうにも納得いかぬのは、その点」 「うむ……」 「犯行現場から奴が飛び立つところを見たという報告は過去に数件ございます。  しかし、着陸現場を目撃されたことは一度たりとありません。これはいかにも奇怪な話」 「……ふむぅ。  武者が着陸する際に生じる爆音それに噴煙の軌跡は、かなり離れた場所からでも確認ができるはず。だというのに……か」 「人里離れた山奥に降りているだけじゃないの?」 「この関東に『人里離れた山奥』がどの程度ある?  無論、あることはあるがな。そんな場所は既に対策班が重点的に調査済みだ」 「成果は無し。  何の痕跡も発見できていない」 「……」 「童心坊。どう考える?」 「わかりませぬなァ。確かに獅子吼殿の申しようはご尤も、いかにも不審……。  されど、相手は常識外れの怪物。当たり前の物差しで計るべきではないのやも知れず」 「うむ……」 「そーかなー。  案外単純な話なんじゃない?」 「あんたはもう黙ってなさいよ」 「へーい」 「……」 「いや、待て。  茶々丸、言いたいことがあるなら言え」 「ええのん?」 「ああ」 「時間の無駄なのに……」 「んー。否定できないのがツライ。  いやさ、ほんと単純なご意見なんだけど」 「単に銀星号は武者が着陸しててもおかしくない場所に降りてるだけなんじゃないの?」 「……はぁ?」 「木を隠すには森の中っつーか。  それなら誰も不思議に思わないやん」 「……あのな」 「あんたねぇ……。  そんな場所、この普陀楽城と、関東四軍の駐屯基地――つまりは麿たちの公方府くらいしかないでしょうが!」 「だーよーねぇー?  あはははははははははははははははははは」 「………………」 「………………」 「…………何だと?」 「…………え?」 「あはー」 「ちょ、ちょっ……ちょっと待ちなさいよ!  あんた、それじゃまるで、この五人の中の……誰かが…………」 「…………」 「……ほゥ、ほゥ……」 「ばばっ、馬鹿馬鹿しい!  大体そんな、何のために……」 「……茶々丸。  貴様、今の発言は……何か根拠あっての」 「んぐ。  カステラうまい」 「聞け!」 「……この城か、あてら四公方の本陣か。  さもなけりゃ」 「んーん……」 「やっぱカステラは文命堂に限る……」 「……食うか喋るかどちらかにしろ」 「なら食うけど」 「喋れ!」 「GHQなんじゃないの?」 「…………」 「……ふむぅ。なるほど。  横浜の進駐軍総司令部も竜騎兵の出入りは激しゅうござるからの」 「その中に銀星号が紛れ込んでおったとしても、傍目には何の違和感もなし……」 「つーか、GHQが黒幕だとするなら、そもそもの銀星号は関東内で離着陸してるはずだって前提自体が無意味になっちゃうのかもね」 「銀星号事件ってのは実は、GHQの新兵器実験だったり?」 「……〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》か。  だとすれば〝銀星号〟の拠点は洋上だろうな。その方が隠匿性が高い」 「太平洋艦隊から防空圏のレーダーを欺瞞しつつ飛んでくる、連盟軍の最新型竜騎兵ってわけね……。  けど茶々丸」 「うい」 「進駐軍だって銀星号の被害は受けてるじゃない。  それはどう説明するのよ」 「……はぁ?  あんた、何をカマトトぶってんですかぁ?」 「な、なによ……?」 「疑惑をそらすために被害者を装うなんて、初歩の初歩の陰謀じゃねーか。  あてらだって普通にやるだろ? その程度」 「……」 「はッ。流石。  親兄弟を殺して家督を奪った者は言う事が違う」 「てめェが言えた義理かっつーの。  ……しかも、だ。〈大英連邦〉《ブリテン》サマは物量には全く困っていらっしゃらない」 「木っ端兵士の二百や三百、使い捨てにしたって痛くも痒くもくすぐったくもねぇだろ。  たったそれだけの犠牲で、新兵器の実験と、治安の悪化――幕府の統治力の減退を図れる」 「やつらにしてみりゃ、安すぎて笑いが止まらないくらいのいい買い物なんじゃねーの?」 「……そう……ね。  確かに…………」 「一理ある。  現段階では所詮、推測に過ぎんが……」 「ねー。もうカステラ食っていい?」 「好きにしろ。  ……殿下。如何なさいますか」 「今の茶々丸殿のお話、明確な根拠は欠いておるにしても、なかなか納得できるところが多うござる。  もし事実なれば、捨て置いては危険……」 「いや。  方針に変更はない」 「仮に全てが進駐軍の陰謀であるとしても、否、そうであれば尚のこと、まず第一に対処すべきはGHQ本体。  指先の動きに囚われては大局を見失う」 「GHQという根幹を潰せば、枝葉はすぐに枯れ果てよう。  忘れまいぞ。我らが敵は横浜に在り。宿望は唯一つ――――」 「〈大攘夷〉《・・・》じゃ!」 「御意。  六波羅のために!」 「神州大和のために!」 「お父様の天下のために!」 「さすが、おじじ。  んまんま」 「空気読めよ!?  いつまでカステラ食ってんの!」 「ごちそうさま。  で、話は変わるけどさぁ」 「しかも仕切るし……」 「あー、うるさいですよキミ。  場の空気を乱さないようにね。ひとの話はちゃんと聞け」 「ぐぎ……」 「重要な議題かな?」 「いんや、それほど。  最近、ちっとばかし巷で噂になりつつあることがあってさ」 「〝赤い武者〟の話なんだけど。  知ってる?」 「……いや」 「銀の次は赤ときたかい。  それは一体?」 「弱きを助け強きを挫く。  正義を掲げて闘う〈英雄〉《ヒーロー》」 「……はぁぁ?」 「ってことらしいよ?」 「それじゃ全然わからないわよ。  そいつが何をしてるわけ?」 「だから、弱くて正しいやつを助けて強くて悪いやつをどついて回ってるんだろ。  ヒーローってのはそーいうもんだし」 「悪いやつって誰よ?」 「あてら六波羅。  それと、例の〈工作員〉《・・・》ども」 「……民衆を害する武者を、狩って回る武者がいると云うのか?」 「そそ。どこからともなく現れて、悪い武者をぶっ倒して、どこへともなく去ってくんだそーな。  あくまで噂だけどね」 「つーか、都市伝説?」 「……でしょ?  そんな報告は、」 「……ないこともない。  事故死として処理された竜騎兵の死亡事件の中には、不審な点が多いものもある」 「私闘か、さもなくば銀星号の手に掛かったのだろうと、一概に片付けられていたが……  その赤い武者とやらが実在するとすれば、そちらの犠牲者も含まれているかもしれない」 「……ふむぅ。あるいは……  先程ご報告した、例の全滅した村の代官が……その英雄殿の刃に掛かったやもしれぬ」 「あれは銀星号なのでしょう?」 「いや、それがですな、雷蝶殿。  村が壊滅する前日の事なのでござるが……」 「それがしの古河公方府にその代官から連絡がありまして。真紅の劔冑を駆る所属不明の武者が現れただの、そやつがGHQの巡察官と組んで反逆行為に及んでいるだのと」 「ほう……?」 「だから増援をくれという要請だったのですがな。なにぶん岡部の乱で天手古舞になっていた折のこと、まともに取り合う暇もなく、無視してしまっており申した」 「失礼ながら童心殿。  仮にも反逆を訴える通報に対して、それはいささか手落ちというべきでは」 「……この、陪臣上がり!  少しは自分の立場ってものをわきまえて口を利きなさいよ!」 「いやいや、まったくその通りで、返す言葉もござらん。それがしも反省することしきり。  ただ言いわけをしておくなら、聞き流してしまった理由は他にもござってなァ」 「とは?」 「その代官がのぅ。前々から、赴任地のなんとかいう山に固執して、大昔の古文書によるとここは宝石がわんさか出る場所だから是非にも開発すべし、と再三上申を繰り返し」 「それが通らんと知ると、とうとう自費で穴を掘り始めよった、なんというか……変物でのぉ。  武人としては使える男であったのだが」 「……中央で出世するための点数稼ぎがしたかったのか?  それにしても術があろうに」 「さてなァ。今となってはわかり申さぬ。  何にしても、そういう少し変わったやつだということは皆知っておったので、古河では誰も報告を真に受けなかったという次第よ」 「ふーん」 「赤い武者、ねぇ……」 「興味深い話ではあるな。  が……童心坊?」 「は。今のところは夢とも〈現〉《うつつ》とも知れぬ話、気に病むには及びますまい。  それに……」 「赤い武者とやらが真、〈工作員〉《・・・》どもを斬って回っているのなら。  我ら以上にそやつが鬱陶しくてならぬのはGHQ。連中が始末してくれるでござろう」 「獅子吼」 「童心殿に賛同仕ります。  ただ、このような噂が広まる背景、市民の間の英雄願望の高まりには若干の危惧を覚えないでもありません」 「……それだけ不満が募っておるということだからのぅ。  といって、今の状況では民衆への締め付けを緩めるわけにもいかんが……」 「然り。  むしろ鎌倉大番らの警察体制を強化、不穏分子の摘発をより徹底してゆくべきかと存じます」 「うむ。その言を良しとする。  雷蝶、速やかに手配せよ。〈厩衆〉《うまやしゅう》にも命令を下しておけ。表と裏の両面から制御するのだ」 「はい、お父様」 「うにゃー。かったるー。  おじじー、そろそろ終わりにしない?」 「……そうだの。  他に議題がないようであれば、本日の評議はこれまでとするが……」 「あいや殿、しばらく。  獅子吼殿、例の一件については?」 「……」 「例の一件?」 「……あー、あーあー。大鳥本家の家督継承について、なんか承認を受けたいことがあるとかなんとか。  そーいやそんなこと言ってたっけ」 「あれ、どしたの?」 「……その儀は。  後日、また」 「……ふむぅ?」 「なによ。あんたがこだわってた、本家正統の嫡子ってのが見つかったんじゃないの?  それともなに? やっぱり気が変わった?花枝と結婚して本家を奪う気になったわけ?」 「……ッ……」 「じょっ、冗談よ!  そんな、睨まなくたっていいじゃない!」 「機嫌悪いじゃん。  なんか良からぬことがあったようだねー?」 「…………」 「……ふむ。  仔細はわからぬが、不都合とあればあえて問うまい」 「その件は日を改めて論ずるとしよう」 「有り難き御差配……。  痛み入りまする」 「今宵は以上。皆の者、御苦労であった。  下がって良い」 「ははっ」 「おっ、そーだ。  おじじー、時王は元気してる?」 「時王ではない、茶々丸。  殿下の御嫡孫、時王丸君は既に元服なさり、四郎邦氏を称しておられる」 「せめて四郎様とお呼びせよ」 「えー。  いいじゃんかよ別にィ。元服しようが切腹しようが、時王は時王なんだしさー」 「貴様は……」 「良い、良い。獅子吼。  四郎にとって茶々丸は姉のようなもの」 「歳の近い親族は茶々丸しかおらぬでな。  最近あまり会えないと、寂しがっておった。良ければ顔を出してやってくれぬか」 「いいよー。本を貸してやる約束してたしね。帰る前にちょこっと寄っていきましょう。  次の大将領にコビ売っとくのも悪くない」 「ふふ。  あまり甘やかしてくれるなよ。親を早くに亡くした不憫な子ではあるが、立派に育って貰わねば困るでな」 「はーい」 「……」 「ん? なに面白くなさそうな顔してんのさ。  雷蝶叔父さん?」 「べっ、別に……」 「……ふむぅ」  拘置所の一日は退屈によって支配される。  既に刑の確定した者のための施設である刑務所とは異なり、拘置所に収容されるのは未決囚と未決囚扱いの死刑囚(彼らに与えられるべき刑罰は最後の死のみであり、他には無い)なので、強制労働は行われない。  規定の上では志願すれば労役に就くことも可能な筈だが、この関東拘置所はその体制が整っていないため、要望に応えることは不可能――とのことだった。  看守からそう聞いている。  外に出て体を動かせるのは一日あたり三十分間だけ。  他の時間は全て独房内で静かに過ごさねばならない。  読書や書き物は可能だが、制限がつく。  長い一日を潰すのは無理だ。  となれば後は、ひたすらに寝て過ごすか、あるいは――貪眠による心身機能の低下を受容できないのならば――二畳余の空間で許される限りの運動を行うしかない。  派手な音を立てる行為は当然、認められない。  器具を使うような運動も無論――例え獄室内にある物で間に合わせるとしても。乾布摩擦でさえ、看守によっては絞殺の準備とみられる。  素振りなどは論外。体術の型なども看守のささくれ立った神経をいたずらに刺激するのみだ。  結局のところ、出来ることは腕立て、腹筋、背筋といったスタンダードな筋トレの類に限られる。  つまりは、俺が今している事もそれなのだった。 「未決囚〇四八号」 「はい」 「事情聴取のため、お前を一時的に鎌倉署へ移送するとの通達があった。迎えの車はもう来ている。  一〇分以内に支度をしろ」 「わかりました」 「……ところで、お前」 「何でしょうか」 「今、何をしていた?」 「腕立て伏せです」 「……そうか。  腕立て伏せか」 「はい」 「お前、生まれは?」 「長崎です」 「俺は秋田だ」 「きりたんぽが美味しいとか」 「長崎は、ちゃんぽんだな」 「ええ」 「……俺の故郷では、腕立て伏せってのは、両手と両足を地面につけてやるもんだった」 「大概は、そうでしょう」 「足を浮かせてやる腕立て伏せっていうのは初めて見た」 「自分も、他人がやるのはあまり見た覚えがありません」 「苦しくないのか?」 「苦しみ悶えます」 「…………そうか。  安心したよ」 「それは幸いです」 「支度をしてくれ」 「はい」 「……つまり。  間違いはないのだな」 「はい。  あの村は銀星号が滅ぼしました」  卓上の茶碗を手に取る。  鼻をくすぐるほのかな香りは、遠州産の新茶のそれだった。色を見れば安物とわかるが、品質は悪くない。  水面が唇に触れる程度に碗を傾け、舌先を湿らせる。 「村正も同様の見解です。というより……  ただの一人も逃れ得なかった、文字通りの〈全滅〉《・・》なのです。誤解の余地がありません」 「その通りだな。  例えば軍事用語で全滅と云うとき、部隊が機能を完全に失うほどの損害を受けた状態を指す。比率にして三割から四割程度」 「全滅といっても六割は無事に生きている。それが常識というものだ。  しかし〈あれ〉《・・》に遭遇した者には、その六割の生存が許されない」 「あれは戦争ではないので。  加害者と被害者との間に、戦闘などという、生温いお遊戯めいた交渉は存在しません」 「単なる天災です。  沿岸の村を襲う大津波です。  山麓の村を襲う大噴火です。  生き残りなど許される筈がない」  事実を事実として言い切る。  返答はなかった。  広くもない室内の東側の壁に、絵が一幅、飾られている。桑の栽培の様子を描いた、ごくごく平凡な風景画だ。技術的にも見るべき点は特にないだろう。  だが好悪を問うなら、好みだった。  著名人の作品ではない。いや、画家の手になるものでさえない。それはこの部屋の主の、自筆だった。  凡庸な作品だからこそと言うべきか、見る人を落ち着かせるような趣がある。……贔屓目かもしれないが。  そんな絵だけが、この部屋にあって唯一、装飾品と呼べるものだった。  後は実用本位の家具と多くの資料類、味も素っ気もない諸々があるばかりだ。  鎌倉市の治安を預かる――べき――警察署の首長が座すにしては、寂しい佇まいだと言えた。  もう少し皮肉な表現力を駆使するなら、〈嘆かわしい〉《・・・・・》佇まいだと評することも可能かもしれない。  あるいは〈現実的〉《・・・》か。  現実的な署長室の現実的な警察署長は、テーブルの木目に向けていた視線を外し、再びこちらを見やっている。 「〝卵〟の孵化は阻止したのだな」 「はい。  六波羅代官長坂右京とその傭兵風魔小太郎が寄生体であることを確認、両名を殺害しました」 「現状で何よりも肝要なのはそこだ。  あんなものに〈増え〉《・・》られては堪らん」 「御苦労だったな」 「いいえ。  苦しんだのは決して、自分ではありませんから」 「…………。  銀星号について情報は得られたか?」 「長坂右京からは何も。  風魔小太郎の方は〈あれ〉《・・》と会話程度の接触はした様子ですが、所在などの有意義な情報はやはり得られませんでした」 「そうか。  あれは何処かに、何者かが、〈保護〉《・・》しているとみるべきなのだが……」 「そう考えなくては、理屈に合いません」 「失踪者扱いで全国に捜索を手配しているにも拘わらず、まるで引っ掛からないのだからな。  警察力の不足もあるだろうが……」 「もう二年にもなる。  支援者がいると考えるべきだ」 「全くに。しかし、目的が皆目わかりません。  誰もを害する殺戮者に、誰がどうして手を貸すのか」 「ああ。筋道が通らんな?  ……そして世の中、筋道の通らん話が割合横行するから困る」 「であれば、論理的推察のみによって真実へ近付くのは難しいという事になります」 「その通りだ。  安楽椅子の探偵を気取っていてもどうにもならん」 「決定的な情報が要る。  済まないが宜しく頼むぞ、景明」 「承知しています。  ところで。それとは別件で一つ、気になる事柄が」 「なんだ?」 「風魔小太郎に劔冑を提供した男です。  名は雪車町一蔵。六波羅御雇の野木山組に属し、且つGHQの御用聞きでもある」 「ああ……」 「自分が聞かされた話をすべて鵜呑みにするなら、という前提ですが――風魔はGHQに奪われた劔冑を雪車町の手配りで取り戻している。何故、そのような真似が許されたのか」 「GHQの〝劔冑狩り〟政策の成果は当然、厳重に封印されている筈。  でなければ、手間隙を費やして劔冑を狩り集めた意味がありません」 「…………。  先日の教師。鈴川令法か。彼も出所不明の劔冑を持っていたのだったな」 「はい。  関連性が疑われます」 「お前はどう考えている?」 「……妥当な推論をするなら。  GHQの大和への無関心が進駐軍の綱紀を緩ませ、物資の横流しを安易に行わせている――というあたりでしょう」 「その推論に対する自己採点は?」 「不可」 「なぜ?」 「GHQは大和に無関心ですか?」 「否。  ……そう、そういうことだな」 「この件については既に推測を持っている。  だが、明日話そう。どうせ話題になる……こんな話は幾度も口にしたくない」 「明日?」 「今日は私の役宅で休んでおけ。拘置所には戻らなくていい。  明日、仕事が済んだ後で付き合って欲しい所がある」 「どちらへ」 「八幡宮だ。  親王殿下がお前に会いたがっておられる」 「…………」 「それはまた、何故」 「お前が思っている以上に、殿下はお前の事を気に掛けておられるよ。  殿下は国民を多く害する銀星号事件を我が身の事として考えておいでだ」 「お前にかける期待も大きい。  一度親しく言葉を交わしたいと、実は前々から仰せであった」 「しかし。  血の穢れに塗れた身を皇族の御前には――」 「そんなつまらん事にこだわられる殿下ではない」 「つまらぬ事とは思われません。  社稷を司る者は不浄を遠ざけるべき」 「まあ、そう言うな。  要は実際的な方なのだよ、殿下は。事件の実情を知るために現場の者の声を聞きたいと望んでおられる。となればお前しかいない」 「それだけだ。だから別に、愛想を振りまく必要もない。  事件について殿下の御下問にお答えすれば済む」 「小一時間ほどの辛抱だ。我慢して付き合え」 「……わかりました」  やむなく首肯する。  気の重い話だが、そう言われては仕方がなかった。  ――八幡宮の親王。  皇室の変わり種という風評はこれまでにも耳にしていたが、どうやら噂通りあるいは噂以上の人物らしい。  獄囚に会いたがる貴人など聞いたこともない。  ……あまり根掘り葉掘りあれこれと聞かれなければ良いが。  既に湯気など立てない茶碗を呷る。  温かみを失った茶は無闇に苦かった。  職員用の通用門から鎌倉署の外へ。  通りへ出る。  署長はわざわざ見送りをしてくれた。厚情は有難いが、人目を思って気に病みもする。  警察署長が拘置囚を送っているのだから異様な図だ。  とはいえ署長は警察の制服姿だが、こちらは拘置所の囚人服を着ているわけではない。  無用の心配だとはわかっていた。 「何事も無ければ、明日は日暮れ前に役宅へ戻る。それまではくつろいでいろ」 「はい。  書斎を使っても構いませんか」 「好きにしろ。  ……ああ、そういえば〈統合帝国〉《ドイツ》の優生学についてまとめた研究書が入っている」 「それは関心があります。今夜にでも読んでおきましょう。  では」 「ああ――  ん?」  署長の視線がふと、泳ぐ。  俺の後方、斜め右側へ。  つられて追う。    人影があった。  コンクリート塀に背を預け、こちらをうつむき加減の横目で窺っている。  一見、何の気もなさそうな素ぶり。しかしその実、眼球の奥には激しい意志の光があった。  俺の知る限り、彼女がいつもそうであったように。  脳裏に強く記憶されている顔だった。  姓名を思い出すのに何の苦労もいらない。 「…………」 「…………」 「知り合いか?」 「ええ……。  どうしてここに?」 「一条綾弥さん」 「逆だよっ!!」 「…………失敬」 「入れ」 「大鳥香奈枝中尉、並びに伍長待遇軍属永倉さよ。ただいま着任いたしました」 「御苦労。  俺の方も自己紹介が必要か?」 「時間が有り余っているのであれば是非とも、課長。  ウィロー少将閣下からはおおまかなところしか伺っておりませんので」 「なら一応しておこうか。幸いなことに今はヒマだ。昨日は凄いぞ? 三時間も寝た。  それに精力が頭髪に回ってないあの閣下殿、本当に大まかな話しかしてないだろうしな」 「なんと仰っていましたかしら……  さよ?」 「『中尉、貴官に任務を与える。マタ・ハリだ! 貴官はかの歴史的雌狐の役を連盟軍において担う栄誉を得た! 喜んでくれるものと信ずる。なお、ダンスの訓練は必要ない』」 「以上でございます」 「……説明が足りてるとか、足りてないとかいう以前の問題だな。核心は突いてるがね。  それで、中尉は何と答えた?」 「グレタ・ガルボほどにうまく演じる自信はございませんけれど、と」 「ふむ。そいつは大和人特有の謙遜か?  中尉ならいい線いくと俺は思うがね。半島の片田舎から乳牛と一緒に引っ張られてきたバイキングの子孫なんかよりずっと魅力的だ」 「あら、お上手。うっかりとその気になってしまいそう。わたくしったらおだてに弱くて。  でも、おだてに乗ろうにも脚本がなくてはどうにもなりませんね?」 「わかってる。順々に行こう。  クライブ・キャノンだ。参謀第二部で資料管理課長を務めている。だが課長とは呼ぶな。言葉の響きがどうも肌に合わない」 「中佐と呼んでくれればいい。  で、こちらは俺のサポート」 「ジョージ・ガーゲット少佐だ。  職務に関連する報告は主に私にしてもらうことになる。顔を合わせる機会も多くなるだろう」 「色々難しいこともあるかもしれないが――うまくやっていきたいものだな? 中尉」 「まったく同意いたします。  どうか宜しくご指導のほどを。ガーゲット少佐」 「握手は無用だ。  大鳥中尉。私はうまくやろうと言ったのであって、仲良くしようと言ったのではない」 「……あら。  これは失礼をいたしました」 「ジョージ?」 「何か問題でも? 中佐殿」 「…………まあ、こういう奴なんでな。  あまり気にしないでやってくれ、中尉」 「ご心配なく。わたくし、まったく気にしておりませんから。  後で手を洗いに行く手間が省けましたもの」 「…………」 「ハハハハ。そうかそうか。どうやらチームワークは完璧だな? 俺はとても幸せだ。  このまま少し待っていてくれ。ウィローの親父にサイパンへの転属願いを出してくる」 「大鳥中尉への説明を先にお済ませください。中佐殿」 「ああ、そうするよ少佐閣下。  レディ? この資料管理課についても簡単に解説した方がいいのだろうな」 「出来ましたら。……中佐」 「うん? なんだか言いにくそうだな。  子供の頃にうっかり中佐を生で食べて腹を壊したことでもあるのか?」 「そうですね……。  先日まで中佐と呼んでいた人物に少々食傷気味だったことは否めません」 「ああ、コブデンの阿呆か」 「中佐殿。いささか表現が直截的過ぎます」 「じゃあ、コブデンの教養失調症にしとこう。  聞いているか、中尉? 実は君と前後して奴も民政局の席を失っているんだが」 「あら。それは初耳です。  てっきり不出来な巡察官を更迭した功績で昇進でもされたかと思っておりましたのに」 「そいつが奴の最後の仕事になった。結末は惜しいかな、昇進ではなく左遷だが。  今頃は横須賀の港湾基地で、新しい椅子を痛めつけているだろうよ」 「湾岸のリゾート地に赴任とはお羨ましい。  ご栄転の理由は何なのでしょう?」 「収賄。  建築企業、密輸業者、幕府の官吏といった連中から小銭を貰って便宜を図ってやる副業に、大変な熱意をもって励んでいたようだ」 「あらあら。  働き過ぎが仇になるとはお気の毒なこと」 「気の毒なのは民政局の他のお歴々だよ。  奴のお陰でしばらくは副業を控えなくてはならなくなった」 「目立たないように隠蔽する程度の心配りをしてくれれば、監査部だって余計な残業せずに済むものをさ。基地の電話を使うか普通?否が応でも摘発しなきゃならんだろうが」 「堂々としていて結構ではございませんか」 「その割りに民政局から出て行く時は堂々というよりすごすごといった格好だったらしいがな。  話が逸れた」 「中尉、我々資料管理課の担う職務は何だと思う?」 「そうですね。  わたくしが思いますに、おそらく――」 「資料を管理するのではないでしょうか」 「素晴らしい。まさに正解だよ大鳥中尉。  君のように優秀な人材を見たのは初めてだ」 「まあ、ありがとうございます」 「…………」 「ヘイ、ジョージ。  話の輪に加わろうぜ」 「はい、中佐殿。お断りします」 「……まあ、実際そうなんだがさ。  ただ一個抜けている」 「はい」 「俺たちは情報資料を〈収集して〉《・・・・》管理する。  この収集の方が実はメインの業務になる。オフィスにいつも人がいないのはそのせいだ」 「課の名前をつける時にウィロー少将閣下はこの収集っていう要素の加味を忘れたらしくてな。お陰で実情を知らない外部からは窓際呼ばわりだ。まったく、迷惑してるよ」 「……なるほど。  それでマタ・ハリですのね」 「なかなかやり甲斐のありそうなセクションだろう? だが、俺の部下は奥ゆかしいやつばかりでね……自分の仕事をよそに吹聴したがらない。まあそういう気風なんだろう」 「実は俺もそうなんだ。  申しわけないが大鳥中尉、君もその気風に従って貰う。チームワークだ。従えない場合はそうだな、なるたけ早目に言って欲しいね」 「先程君が羨んだ元上司のもとへ部下として返り咲けるように手配する。  実は必要な申請書類はもう用意してあるんだが。さて? 俺はこれをどうしたらいい?」 「まあ、行き届いたご配慮。痛み入ります。  でもどうかご案じなく。わたくしも奥ゆかしさにかけては最強と自負しておりますから」 「オーケイ、オーケイ。なら何の問題もない。  どうだ、ガーゲット少佐。彼女なら一流の仕事をしてくれると思うだろう?」 「はい、中佐殿。  小官には若干の疑念があります」 「どんな?」 「大鳥中尉」 「はい」 「貴官は先の巡察官任務において、大和国の内政に対する介入を行った。  その点に間違いはないか」 「ございません」 「後悔、反省は?」 「何も。  ガーゲット少佐」 「……ならば、釈明は?」 「〈以下同文〉《アンド・ソウ・オン》」 「…………。  中佐殿」 「何かまずいことでもあったかい? 少佐」 「大きな問題があるように、小官には思われます」 「ああ。問題はある。  だがそいつは中尉のことじゃない」 「彼女のような人材を無為に遊ばせておいた無能こそ問題だ。だから〈そんなこと〉《・・・・・》にもなる。  そして問題は既に片付いた。そうだろう?そうだとも。中尉には何の問題もない」 「しかし……」 「大鳥中尉。いや、大鳥香奈枝嬢。  大和人としての君に訊ねる」 「〈露帝〉《ロシア》と〈大英連邦〉《ブリテン》、友人にするならどちらがいい?」 「……」 「…………」 「……白熊よりは〈雄牛〉《ジョン・ブル》の方が付き合いやすいのではありませんかしら? 〈紳士〉《ミスター》」 「宜しい。大いに宜しい。  であれば大英連邦の提唱にて生まれた国際統和共栄連盟、ひいてはその隷下にある我々GHQと大和国は良好な関係を築けるだろう」 「もはや異存はないな? ガーゲット少佐」 「……はっ。  中佐殿がそのように言われるのであれば」 「やれやれだ。  堅苦しい上官を持つのは厄介なものだな、中尉? 俺も堅苦しい部下を持っているからよくわかる」 「ええ、キャノン中佐。  嫌いではありませんけれどもね?」 「そうか。  だが私は、貴官のような部下を好まない」 「とても残念です」 「紳士の対応ではないな、ジョージ。  さて、中尉。今日のところはもう下がって構わない。だが明日から早速任務に掛かってもらう」 「はい。  どのような任務でしょう」 「明朝、口頭で発令する。  だが概略はこの資料に記した。明日までに読んでおけ。読了後は軍規に従って処分すること」 「はい。  …………こちらは?」 「新しい階級章だ。明日からはそれをつけてきてくれ。  以上だ、大鳥大尉」 「はっ」 「失礼致します」 「…………」 「まだ何か言いたげだな? ガーゲット少佐」 「……キャノン中佐。  あの大和人が信用できると本心からお考えですか?」 「大和人か。彼女は人種は大和人だがね……大和国民ではないよ。  〈二重帝国〉《ハプスブルク》で国籍と軍籍を取得して連盟軍に参入している」 「中佐、自分が言っているのはそのような事ではなく……」 「わかってる。  だがこう考えてみろ、ジョージ――彼女は果たして愚劣だろうか?」 「いいえ。  黄色人種らしい陰湿な計算能力には長けていると思われます。だからこそ余計に――」 「ならば自分、あるいは大和にとっての損得も勘定するだろう。  彼女の言葉を覚えているか? ロシアの熊よりは英国紳士。実際それはその通りだ」 「ロシアに屈すれば農奴にされるだけなんだからな。中央アジアにかつて存在した諸国の現状が証明しているように。  六波羅幕府に至っては問題外だろう?」 「彼女はよもや、三者のうちからの恋人選びを間違えたりはすまいよ。  それで良しとしておこうじゃないか。後は……そうだな」 「…………」 「彼女が〈賢過ぎない〉《・・・・・》ことを願おう。  そんなところだ」 「……やはり、自分には……」 「もう言うな。  少佐の懸念は胸に留めておく」 「はっ」 「重要なのは駒の動きを把握して使うことだ。〈歩兵〉《ポーン》は前に一歩しか進めない。〈司教〉《ビショップ》は斜めに走る。そいつをわかっていればいい」 「その意味で、彼女も、あの痩せこけた男も全く同じことだ。  そうじゃないか?」 「……はい。  それは理解できます」 「なら、そういうことさ」 「……それにしても」 「はい」 「ウィローの太鼓腹、マタ・ハリとはよくも言ったもんだな。  知ってるだろう? 彼女がフランスで処刑された時の罪状は単なるスパイじゃない」 「〈二重〉《・・》スパイだ。  欧州史に名だたるかの売女は、フランスとドイツの双方に向けて足を開いていた」 「…………」  八幡宮は鎌倉の中心にあるといえる。  地理的にも、歴史的にも、政治的にも。  国紀一七二三(外暦一〇六三)年、清和系河内源氏二代目棟梁にあたる源頼義が氏神たる八幡神を所領であった鶴岡に祀り――およそ百年後、彼の後裔頼朝は八幡宮を中心に武家の都・鎌倉を開く。  爾来八百年、鎌倉の八幡宮は源氏の守護神……否、武士の守護神として在った。  現代において源氏棟梁を称する六波羅一門も、並々ならぬ崇敬を寄せている。  年数回の定例参拝を行うのみならず、慶事凶事の折につけ祭儀を催した。  その種の事業は政治宣伝の色合いを帯びずにはいられない。勢い盛大なものになる。  頻繁に改築を行い、豪奢な装いを調えることも理由は同じだろう。美観上の装飾はつまり政治上の装飾。  ――言うなれば、その一つなのだ。はるばる京の都から招かれ、奥殿へ迎えられたかの人物も。  八幡宮境内の深部にひっそりと建つ小殿……  現在は中央付近にある〈舞殿〉《まいどの》が、かつてはその場所にあったと伝えられる。故に一名、奥舞殿。  小殿の主が称する名はその伝承に由来した。  〈舞殿宮春煕親王〉《まいどののみやはるひろしんのう》。  先帝の末子にあたり、皇位継承順位では基煕皇太子に次ぐ第二位に位置する。  彼が八幡宮の祭祀長職たる別当として奉じられた事は、まさしく六波羅の信仰心と勤皇精神の厚かりしを顕すものに他ならない。  ……ということに、されていた。表向きは。  実際のところ。  皇室をも自在に動かし得るという六波羅の権威表明であり、そして――人質に過ぎない。  京都が六波羅に差し出した人身御供。  御簾の向こうにゆらめく影は、そうした存在だった。 「宮殿下。  湊斗景明を連れて参りました」 「……」  署長の後方で無言のまま平伏する。  一応客人という立場らしいが、であろうともまさか皇族に対して先に声を掛けるわけにはいかない。  言葉が下されるのを待つ。  いや、待つほどのことはなかった。 「おまさんが景明くんかぁー。  菊池署長からよう聞いてるえぇ」 「……どないしたん?」 「お気になさらず、宮殿下。  単なる〈叩頭〉《こうとう》礼ですので」 「ああ、そか。  礼儀正しい子やなぁ。でも、そんなに固くならんでもええよ?」 「はっ」  貴方はもう少し固くならないのですか。皇弟殿下。  などと答えて署長を困らせるほど恩知らずではないつもりだった。フォロー――としては疑問もあったが――に感謝だけしつつ改めて頭を下げる。 「初めて御意を賜ります。  殺人容疑一八件にて拘置中の未決囚・湊斗景明、お招きに〈与〉《あずか》り参上仕りました」 「ブヒャヒャヒャヒャヒャ!  おもろいわーこの子!」 「……」 「……」 「……?」 「…………」 「しもた! 今の笑うところやない!」 「御意にございます。宮殿下」 「すまんね、景明くん。  突飛な挨拶やったもんで体が勝手にギャグやと思って反応してたわ。頭で考えるより先に。これからは気ぃつけるから怒らんといて」 「は」  ――なんだか無性に、拘置所が恋しくなった。 「自分が言える筋では全くありませんが。  〈人死〉《ひとじに》に関わることなれば、些か、不謹慎に過ぎるのではないかと」 「景明」 「ほんとにな。これやからアホは困るえ。  わし、昔からこうでねえ。兄やんにも嫌われて都からほっぽり出されるし、こっち来てからは幕府の連中に馬鹿にされっぱなしやし」 「署長にも迷惑かけ通しや。  おまさんも済まんなぁ。今更やけど」 「迷惑などとは決して。  宮殿下」  署長が御簾に対して軽く一礼する。  その動作に隠して一瞬、視線をこちらへ投げてきた。  理解する。  ……成程。つまりこの宮様は、〈愚劣の意味〉《・・・・・》を知っている人間なのか。  京都朝廷に対して幕府が頻繁に行う陰湿な締め付けからどうして舞殿宮だけがしばしばうまく逃れるのか、署長はどうして奉ずるべき人物としてこの親王を選択したのか。疑問の答を得たように思えた。 「失礼を致しました。  舞殿宮殿下より賜りし多くの御援助を忘れ、自儘に暴言を吐いたる事、伏してお詫び申し上げます」 「そんなこと言わんといてや。  いつも世話んなってるのはわしの方やないか……」 「殺人の〈罪科〉《とが》で獄にあるべきこの身が度々の保釈を許され、銀星号の追跡に向かうことができるのも宮殿下と署長の御差配あればこそ。  この大恩、決して〈仇〉《あだ》では返せませぬ」 「それそれ。  銀星号事件の対応、いつも御苦労さんやね。おまさんにばかりきついとこ任せて、ほんと申し訳ないって思うとるえ」 「かような御言葉は余りに過分。  元より我が身のことなれば、我が背に負うは当然至極」 「未だ解決へ至らぬ不手際を叱責頂くが相応。  慰労などは相応しからぬかと」 「……菊池」 「は」 「厳しい子やねえ……」 「面目次第もなく。  非礼の段、どうか平に」 「や、責めてるんやないよ。  責めてるんやないけど……」 「景明くん」 「はっ」 「……何でおまさんなんやろな?  何で他の誰かやのうて、おまさんなんやろ。  神さんも意地が悪いわ……」 「……」 「その御言葉は、殿下。  どうか、罪無くして我が手に掛かりし人々にこそお下しあれ」 「自分ではありません。  彼らこそが」 「……そうかもしれんなぁ。  そうかもしれん…………」 「なぁ、景明くん」 「はい」 「今日来てもらったんは、その辺の話も聞きたかったからや。  おまさんの口から、直にな」 「署長から報告は受けてる。  けど又聞きになるとな、どうしても遠い。〈匂い〉《・・》がしてこんのや。他人事じゃあかんのに、他人事としか思えんようになる」 「それが恐い。  わしは知っとかんとあかんて思う。自分が何をやらせてるのか、ちゃんとな。  どうやろ、景明くん……」 「嫌なお願いしてるなあ、わし。  わかってる。わかってるんやけど」 「わしは自分の責任を果たしたい……。  これは銀星号の件に限った話や〈ない〉《・・》けどな」 「……」  正直なところ、遠慮を願いたかった。  断ってもおそらく、無理に強いられはしないだろう。  銀星号の問題は、俺にとってあくまでも私事。  他人がどう思おうともその点は揺るがない。だから親王が言った〈遠い〉《・・》という距離感はむしろ望ましくさえある。縮める必要性などこちらにはない。  だが。  先程この口で宣ったように、親王殿下の令旨という超法規的措置あってこそ銀星号を追って監獄から出ることも叶う我が身。  言うなればスポンサーの援助を受けて初めて走れる〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》と俺の立場は変わらない。  そのスポンサーからたっての要望とあっては、否も応もなかった。  俺は順を追って話し始めた。  なるたけ、言葉に感情を乗せないようにしながら。  話し終えると、舞殿宮は人を呼んで茶を運ばせた。  御簾を挟んでの茶席。作法としては変則的に過ぎると思えたが、親王も署長も特段気にしていないところを見ると普段からやっている事なのかもしれない。  勧められるまま、俺も姿勢をやや崩して茶碗を手にした。  茶菓子の皿も手の届く所へ並べられている。 「……安直な感想はやめとくわ。  またアホっぷりをさらすだけやろしね」 「引っ掛かることだけ言うえ?」 「はっ」  それは何よりも有難い配慮だった。 「まず、銀星号はどこにおるんやろな?  それと、雪車町っちゅう筋モンはなんやろ、えらいキナ臭いやないか?」  奇しくも、昨日俺と署長が話し合った疑問と同じ。  いや――奇しくもということはないか。情報を共有したのだから、同じ結論に至るのも当然だ。  しかし素早い。  やはりこの宮殿下は整理された頭脳を有しているとみて間違いはないようだ。 「ただのカスヤクザとしか思えんのに、妙に派手に立ち回ったり、進駐軍から劔冑を持ち出したり……  どうも気になるわ」 「銀星号のことはわかりません。  しかし、その男については推測があります」  ……昨日言っていたことか。 「おっ。なんや、懐かしい口の利き方するやないか。  ええよ。聞かせてもらおか、連隊幕僚長」 「……幕僚?」 「ああ……景明くんは知らんか。わし、これでも昔は戦場に行ったりしててな。まぁ帝室の義務ってやつや。  その時、面倒見てくれたんがこの菊池署長」 「鉛弾の飛び交う地獄で右も左もわからんでいるわしに辛抱強う付き合うてくれてな……。  優秀で働き者の幕僚長がおらんかったらて思うと、あぁ、ゾっとする。一生の恩人や」 「そのようなことは。  私こそ殿下のお引き立てがなければ、退役後に警察で職を得ることはできませんでしたよ。上の連中には嫌われていましたからね」  少しくだけた物言いを交し合う二人。  ……そんな昔からの繋がりだったのか。 「お互い様ってことかねえ。  とっと、話が逸れてるわ。それで推測ってのは何なん?」 「はい。  私が思うに、雪車町という男の真意を測るには……GHQの存在をまず視野に入れねばなるまいかと」 「むしろ、主体は――」 「ちょ、ちょ……  ちょっと待ってくれんか、署長」 「はっ?」 「……後にしとこう思うてたけど、そういう話になってしまうんやったら、先に済ませておかんとならんわ。  おぅい!」  親王は手を叩いて側役を呼んだ。  小声で何事か命じる。  ……素早く遠のいていった足音が再び戻ってきた時、その数は三倍に増えていた。戸板が静かに敷居を滑る。  廊下で戸を引き開けたのは側役だろうが、彼は姿を見せなかった。新規の二名だけが広間に現れる。 「早速のお呼びと伺って参上いたしました。  舞殿宮殿下――――」 「あら?」 「まあ」 「……これは」  忘れるほどの月日は経っていない。そうそう忘れられるような人間でもない。  連盟軍所属の大鳥香奈枝中尉とその侍従、永倉さよ老女史に間違いなかった。 「やっぱ知り合いかい。  さっきの景明くんの話に出てきたGHQの大鳥巡察官って、この人なんやろ?」 「はい。まさしく。  しかし何故、この方々がここに」 「いやあ、ほんのついさっき、今日の昼前のことなんやけどね……。  あぁ、香奈枝さんにおさよさん。そのへん好きに座って下さい。いま茶ぁ運ばせるから」 「どうかお構いなく。  ……ふふっ。本当に、あっという間に再会が叶いましたね。景明さま」 「は……」 「赤い糸の導きというものでございましょう」 「きゃっ。もうばあやったら、いやなひと」 「……」 「なんや、随分仲良しさんやないか。  隅に置けんな、景明くん」 「宮殿下?」 「ああ、うん。  昼前にこの二人がわしんとこ来てな。何の御用か聞いてみたら、八幡宮付の将校として着任しはったっていう話でねえ」 「……は。  なるほど」 「GHQがそういうのを寄越してくれるって話は前からあったやろう?  その人選がやっと決まって、このお二人が来たってことみたいやわ」 「わし、すっかり忘れてたよ」 「当方の不手際で宮殿下には不自由をお掛けしてしまいました。  申し訳ございません」 「いやいや、気にせんといて。  わしが進駐軍の元帥さまでもわしのことはほっとくと思うえ。何の役にも立たんアホのお守りなんて誰もやりたがらんやろしなぁ」 「香奈枝さんも御苦労なこっちゃ。  貧乏籤引かせてしもうたなぁ」 「……そのようなこと。  進駐軍司令部はこの国の政局で重責を担われている舞殿宮殿下のことを常に気に掛けております」 「わたくしの職務は司令部を代表して宮殿下のお側に仕え、諸事に便宜を図ること。  きっとお役に立ちましょう。殿下におかれては心置きなく、何なりとお命じ下さいまし」 「……そうですか。  それは有り難いお話や。なぁ、署長?」 「は。  まったく、良い人が来てくれたものです」  和やかに微笑を交し合う三人。  ……喉が詰まるような息苦しさに満ちていた。  三人の持つ肩書きを思えば仕方のない空気だが……。  成程、先刻GHQに触れた署長の話を親王がやめさせたのは無理からぬことだった。壁に耳あり。迂闊には話せまい。 「なんかみんな中途半端に面識があるみたいやけど、一応紹介はしとこうか。  湊斗景明くん。これはええな。で、こっちが鎌倉警察署の菊池署長」 「はい。  以前に一度、式典の場でお見かけしたことがあります」 「おや、そうでしたか……」 「菊池はわしの長年の友達や。  景明くんはその部下で、あの銀星号事件の捜査にあたってくれてる。色々あって立場はちょっと、ややこしいことになってるけどな」 「非公式のお巡りさん、ですのでしょう?  先日お会いした折に伺っております」 「ならええわ。んで、署長。こちらはGHQから出向の八幡宮付将校、大鳥香奈枝大尉や。  後ろは永倉さよさん。昔から香奈枝さんに仕えてる人で、今は軍属身分なんやて」 「は」 「大尉?  昇進されたのですか」  視線を動かして香奈枝嬢の階級章を確認する。  真新しいものに代わっていた。 「おめでとうございます」 「ありがとうございます。  お給料は大して増えないのですけれどもね」 「そらあかんなぁ。  役料とかは?」 「残念なことに」 「よっしゃ。ならこうしましょう。  わしのお世話をしてくれるんやから、その分のお金はわしが出そうやないか」 「あら、お気前のよろしい御方。  わたくし篭絡されてしまいそう」 「ようございましたね、お嬢さま。  きっと横須賀送りも近うございますよ」 「宮殿下っ、お言葉を慎まれませ!  今のご発言は法規に照らせば贈収賄に該当致します!」 「そ、そうですか。えろうすんまへん」  ……横須賀に何かあるのだろうか。 「大鳥大尉。  少々伺いたいのですが……」 「はい、何でしょう?」 「先ほどのお話では、宮殿下の諸事に便宜を図ることが貴方の職務とか。  より具体的には?」 「貴方の権限と言い替えても構いません」  それは署長にしてみれば気になるところだろう。  親王が外部の人間と接触する際には必ず同席する、などと言い出されてはたまるまい。  それでは事実上GHQに軟禁されるようなものだ。  まずその辺りを確かめて、対処の方策を練るつもりに違いない。  だが、大尉の返答はあっけらかんとしたものだった。 「特に規定はありません」 「……は?」 「そうですね。権限といったものは全く無いと言って差し支えありませんでしょう。  そもそも宮殿下との協議もなく設置された職なのですし」 「いきなりやって来て、権限をどうのこうの言えるはずがありません」 「……それは、そうですが」  道理をいえばさもあらん。  しかしその程度の道理、強大な軍事力と国際正義を背景に持つGHQであれば無理を通して引っ込ませてしまえるだろうに。 「どうか額面通りにお受け取りくださいな。  わたくしは殿下のご要望に従い、お暮らしをサポートするだけです。こちらから細々とうるさく指示を出すようなことはありません」 「……」  曖昧な表情で沈黙する署長。  難しいことになったと、口元の皺が語っていた。  署長の考えはほぼ把握できる。  明確に権限が定められているのであれば――それがどんなに厳しいものであっても、逆利用が不可能ではない。  権限があるということはつまり、権限にある事しかできないということだからだ。  が、それがなく、諸事に便宜というどうとでも解釈が(曲解を含めて)できそうな職務だけとなると……  かえって始末が悪いかもしれない。  何事も強制はされないとはいえ、彼我の立場関係を思えば、常にそれ相応の配慮をして接しないわけにはいかないからだ。  ……大鳥大尉が自分自身のスタンスをどこに置いているかにもよるが。  連盟軍に対して絶対の忠誠を捧げているのだろうか。必ずしもそうとは思えない節があるが……。 「そうか。わしの生活をサポートしてくれるんか。これはええ話やねえ。  こんな美人さんが朝から晩まで、風呂から寝床までずぅっと一緒に……ぐひっ」 「ええ、宮殿下。ふつつか者ですがよろしくお願い致します。  何なりとお命じくださいまし……」 「このばあやに」 「かしこまってござります」 「あんたかい!?」 「……」  思わず失笑をこぼしかける。  ……先程から親王は小術を弄して大鳥大尉を測ろうとしているようだが、こうはぐらかされてばかりでは成果も得られなかろう。  狐と狸の化かし合いだ。  いや、更に〈梟〉《ふくろう》もいるか。 「……〈顧問官〉《アドヴァイザー》のようなものと考えれば宜しいのでしょうか?」 「そうですね。  そのようにお考え頂いて問題はないと思います」 「諒解しました。  しかし派遣顧問官ということであるなら、その意味は派遣元がどのような意味を持つかによって定まります」 「大尉にお尋ねしたい。  GHQは大和において、どのような意味を持つのですか?」  署長は直球を投げた。  小細工は無駄な相手と判断したのだろう。  その投球はすぐさま打ち返される。  ――〈投手返し〉《ピッチャーライナー》だった。 「侵略者です」 「…………」 「…………」 「過去と未来においての。  ……ええ。〈未来〉《・・》」 「GHQは現在、この国の内政に対してほぼ一切の干渉をしておりません。  進駐軍は、ただ進駐しているだけの存在。巷では撤退も近いと噂されているとか……」 「もちろん、そのようなことはありません。  〈皆さま〉《・・・》ご承知の通り」 「……」 「六年前――――  国際連盟軍は幕府による大和統治を条件とした六波羅の降伏を受け入れて、大戦を終結させました」 「しかしそれは連盟軍の――はっきり言ってしまえば大英連邦の思惑とは大きく異なった結末。世界の盟主を自認する彼らにとって、極東大和の完全占領は必須だったのですもの」 「最後の敵、ロシア帝国のこれ以上の拡大を阻止するために。大和を放置しては、ロシアが切望する南洋への脱出口になりかねない。  征服、あるいは同盟という形で……」 「そうなれば大英連邦が世界規模で成功させつつある対露封鎖網も、水泡に帰してしまいます。  こんな危険を彼らが看過できる筈もなし」 「……にも拘わらず戦争終結を肯んじたのは、六波羅の和平提案によって連盟各国で一気に高まった厭戦感情を抑えられなかったから。  前線及び後方の疲弊もあったでしょう」 「それに加えて。  現状下において大和の武力占領を強行した場合、極めて長期に渡って抵抗が続くという予測もありました」 「……対ロシアの橋頭堡が欲しい大英連邦にとって、それでは不都合。  むしろロシアの前に好餌を投げ出すも同じとなれば、逆効果もいいところ……ですか」 「はい、まさに。  そういった事情から、六年前の講和は成立しました」 「けれど無論、大英連邦――GHQは諦めたわけではありません。  今一度大和において軍を動かし、〈完全〉《・・》占領を成し遂げるために布石を打っています」 「六波羅の圧政に対する黙認はその一つ。  GHQは、待っているのです。大和国民の幕府への憎悪が沸騰する瞬間を。国際世論が大和〈解放〉《・・》を訴える瞬間を」 「誰にも後ろ指を指されない、『正義の戦争』の火蓋を切る時機を……」 「……」  ――それは。  驚くべき真相、と呼ぶには値しない。  それなりに世界情勢を知る耳を持つ人々の間では、むしろ常識にさえ近い。  口に出す者が少ないだけの話だ。  だが。  他ならぬ、当の進駐軍に身を置く人間からはっきりと聞かされて、衝撃を受けずに済ませるのは不可能というものであった。 「……大変率直なお答えです。  しかし大尉、今のご発言は貴方のGHQに対する批判認識から来るものと受け止めてもよろしいのですか?」 「とは、言いかねますかしら。  このまま六波羅の好きに任せる、あるいはロシアの属国になって全国民が農奴化される……」 「そんな可能性に比べれば、大英連邦の傘下の方がまだしも……と考えてしまいますもの。  〈第四の道〉《・・・・》があれば、また話は違いますけれどもね? 宮殿下」 「…………」 「こんなところで、お答えになりますかしら?  鎌倉署長」 「……はい。ありがとうございます、大尉。  貴方の意味は〈そのように〉《・・・・・》心得ましょう」  署長が眼差しを伏せる。  ……引き出すべきものは引き出したと判断しているのだろうか。  親王の表情は御簾で隠され、窺い知る事はできない。  だが苦虫を噛み潰す口元が見えるような気がした。  婉曲と見えて率直、率直と見えて婉曲。  大鳥大尉のやり口には、親王ならずとも惑うところだろう。  彼女は無論、故意にそうしているのだろうが……  いや。ただ自然に振舞っているだけかもしれない。  あるいは、どういう結果を及ぼすのか承知した上で無思慮に振舞っているのかも。無策の策か。  ……やはり、俺も惑わされている。  親王はどうするつもりなのか……。 「そういうことであれば、大尉。  貴方に是非ともお願いしたい事があります」 「はい?」  少し驚く。  署長の口ぶりは、確固としていた。  迷いの色はどこにもない。  あっさりと、事態の方向を見定めたようだった。 「景明は既に貴方の知遇を得ているようですから、丁度良いでしょう」 「……?」  何故そこで俺が。 「大鳥大尉。  この湊斗景明が担当している銀星号対策にご協力を頂きたい」 「は?」 「……はぁ」  揃って間の抜けた声を上げる俺と大尉。  藪から棒とはこのことだ。 「知っての通り、銀星号事件は恐るべき災厄。誰彼構わず大和の大地の上に住まう者全てを餌とする凶変です。  宮殿下のご心痛はひとかたならず……」 「六波羅に睨まれる危険を押して、この景明を抜擢し対処にあたらせておられます。  しかしこの者も才に限りある身、単身ではなかなか解決には至らず」 「心利く者を補佐につけたいとは、かねがね考えておりました。  ……先程からのご様子を拝見するに、大尉のような深慮の方であればまさに至当」 「あつかましい願いとは承知しておりますが。  如何でしょう」 「……そうですね。  お褒め頂いたのは光栄に思いますし、心情もお察しするに〈吝〉《やぶさ》かではありませんけれども」 「あくまで、わたくしは宮殿下のもとに派遣された身です。  殿下の御諚がなければ」 「宮殿下?」  署長が視線を送る。  御簾の向こうの親王が、目配りの微妙な〈意図〉《ニュアンス》までも察知したとは考え辛かったが―― 「……うん、ええよ。  この通り。よろしう頼みます、香奈枝さん。銀星号事件を解決して、みんなを安心させてやってください」  朧な影が頭を下げる。  ――この瞬間に、決定は下されてしまった。 「…………」 「…………」 「……どういうつもりですか?」 「面倒を押し付ける格好になったのは認める」  親王の御前を辞して、八幡宮の境内。  支度を済ませてくるという香奈枝嬢を待ちがてら、署長と小声で話し合う。 「だが、そうした理由がわからないわけではあるまい?」 「それは流石に。  身辺へ置いておきたくないというのは理解できます」 「ああ。  連盟軍将校で大和人。信用するには不可解な部分が多過ぎる」 「しかも〈大鳥〉《・・》だ」 「……はい」 「先刻の発言も真意は奈辺にあるやら。  彼女というスピーカーを通したGHQからの通告だとも考えられる」 「そうでしょうか。  真意の所在はともかくとして、あれは彼女自身の言葉であったと自分には思えました」 「……ほう。  彼女との付き合いはお前の方が長い。お前がそう言うなら、そうなのかもしれないが」 「聞いておくか。  お前の眼から見て、彼女は信頼を置くに値する人間か?」 「……彼女はGHQに従っても、圧制者には従わないでしょう。  その点には確信が持てます」 「……現状では不可能です。  有能な人物であろうことには窺えるだけに、その意思の向かう方向が見定められない内は……」 「……そうか……」 「何にしろ、彼女はGHQの士官です。  つまりは銀星号問題にGHQを介入させることにもなり得ます。その危険性についてはお考えですか?」 「〈危険〉《・・》、か」 「はい」  明言は避ける。  だが意図が通じていない筈はなかった。  銀星号は一面、現代の武力の極峰だ。  銀星号に対して連盟軍が軍事的な興味を持たない、  あるいは、既に〈接触〉《・・》を果たしていないと、どうして断定できるだろう?  署長とは昨日も話し合ったのだ。  銀星号には〈後援者〉《・・・》がいる筈だ――と。 「だがその危険は既に冒しているだろう?  先日の事件で、お前は彼女と共闘している」 「必要と判断しましたので。  あの折はまず、試薬のつもりで銀星号の名を出してみました」 「特別な反応はなし。ほぼ無関心に近いほどでした。  しかしそれは、単に彼女が何も知らされていないだけかもしれません」 「……」 「今後、捜査活動を共にするとなれば……  彼女を通して情報が全て黒幕に筒抜け、という可能性さえ」  考え過ぎだろうとは思う。  だが可能性は可能性だ。 「――自分はそれでも構いませんが。  そのような運びとなれば必ず何らかの反応がある筈。伸ばされてきた黒い腕を、逆手に取りましょう」 「その覚悟なら、私から言うことは何もない。  お前に全て任せる」 「署長。  ……宜しいのですか?」 「とうに、腹は決めているよ。  私にできる事はそれしかないんだ。銀星号の件に関する限り、お前は好きなように私を使え」 「いいな?」 「……」 「はい」  大鳥香奈枝と行動を共にする――  といっても、彼女を関東拘置所へ連れてゆくわけにはまさかいかない。  彼女には署長の役宅に一室を用意することになった。  八幡宮からは近い。駅までの距離もほどほど。生活環境が合うかどうかは不明だが、交通の便の面で彼女を不自由させることはないだろう。  宵闇の下の通りを歩く。  会話はない。  別に隔意を示しているわけではなかった――先方がどうかは知れないが。  ただ、考えをまとめていただけだ。  実のところ、悩むほどのことはなかった。  銀星号追跡者としての俺の立場を保障する二者――親王と署長の裁断が下った以上、今後の行動に彼女を帯同するのは止むを得ない。  その点が動かしようもないのなら、後は可能な限り彼女を危険から遠ざけるよう配慮するのみだった。  おそらくそれは難しくはないだろう。  大尉は武者ではなく、銀星号や寄生体に対して抗戦の〈術〉《すべ》を持たない。だが逆に言えば戦えない人間を戦闘にまで介入させる謂れはないということになる。  危険の少ない捜査段階でのみ協力を仰げば良いのだ。  その方面ではむしろ俺よりよほど有能ではないかと思われた。  銀星号の問題に他者を巻き込むと思えば〈忸怩〉《じくじ》たるが、利害損得の話にあえて限るならそう悪いことでもない。  俺の思索は大体その辺りで落ち着いていた。 「景明さま」 「はい」  歩きながら、肩越しに視線を送る。  非礼かとも思ったが、道の真ん中で立ち止まっても仕方がない。  重たげということもなくバスケースを右肩にかけた彼女は、窺うような眼差しをこちらへ向けていた。 「怒ってらっしゃる?」 「いいえ」 「でも、困ってはいらっしゃるのかしら」 「そうだとしても貴方の責任ではありません、大尉殿。  貴方はご自分の職責に忠実であられるだけなのですから」 「自分も己のおかれた立場、そこに発生する責任に対して忠実であろうと思います。  大尉殿に御協力を仰ぐことに否やはありません」 「そうなんですの?  なら良いのですけど……景明さまにご迷惑をおかけするのは本意ではありませんし」 「ようございましたね、お嬢さま。  ちなみに湊斗さまのご発言は意訳しますと 『すげえ邪魔だけど親王の命令だからしゃあねぇのな。ケッ』ということかと思われます」 「がーん!?  それは本当ですか景明さま!」 「はい」 「いやんっ」 「お嬢さま。道端で寝ていては通行の方々の迷惑になりますよ。  そこのゴミ捨て場でお休みください。幸い明日は回収日の様子」 「あなた実はわたくしのこと嫌い!?」 「ですが、それはあくまで自分の心情的問題に過ぎません。大尉殿の能力については何の不安もなく、むしろ期待するところが大です。  自分こそ邪魔にならぬかと不安を覚えます」 「まぁ、景明さまったらご謙遜を。  今のを聞いてばあや? わたくし景明さまに期待をかけられていてよ!」 「その立ち直りの早さ、さすがでございます。  お嬢さまはそうでなくては!」 「ところでお嬢さま、あらゆる生物のなかで最も強靭なのは単細胞生物なのですがご存知でしょうか」 「景明さま、少々お待ちくださいましねっ。  わたくしそこの角のお肉屋さんで野暮用を済ませて参りますので」 「品目不明の肉は取り扱わないと思いますが」  よくわからない主従だ。 「大尉殿」 「はい?」  視線を前方へ戻しつつ呼びかける。  コッキングレバーを引き込む音が途絶え、かわりに涼しい声が背中に触れた。  一つ息を飲み込んでから続ける。 「あの村のことはご存知ですか」 「――――」  この際、沈黙は百万の言よりも雄弁だった。  無論の事。彼女の耳に悲報が届いていない筈がない。 「面目次第もございません」 「なぜ、謝られますの?」 「大尉殿の御尽力を無に帰せしめてしまいました。目前の戦にとらわれ、銀星号の襲来を見逃したばかりに。  己の無能を悔いるばかりです」 「無辜の死を強いられた人々にすれば……  この悔いさえ、憎いものと映るでしょうが」 「…………」  その死を反省の材料にされたところで、それが殺された人々にとって慰めになる筈もない。  犠牲を無駄にしないのは当然だ。しかし例え元凶を断とうと、死者の怨念は救えない。  救ったと思い込むことはできる。  だがそれは生者の妄想に過ぎないのだ。  妄想への逃避を良しとせぬのであれば、  怨念を背に負い続けるほかはない。 「村の話は〈司令部〉《ヨコハマ》へ戻ってすぐに聞きました」 「……」 「一人も……ただの一人も……  生き残らなかったそうですね?」 「はい」 「わたくし、ずっと海外におりまして。  大和に戻ってからまだ日が浅いんですの。銀星号事件の、生々しい話に触れたのは今回が初めてなのですが」 「どうやら、許せそうにありません」 「……」 「だから、先刻のお話もあっさり受けてしまったのでしょうね。  上司の意向を思えば、本当は八幡宮に張り付いていないといけないのでしょうけれど」 「お気持ちはわかります。  いえ、わかるつもりです」 「でも景明さまにとっては少しご事情が違うのでしょう?」 「…………」 「まだお伺いしておりませんでしたね。  景明さまはどうして、銀星号を追うのですか?」  詰問するような響きではない。  いっそ優しげでさえあった。  だからか。  言を左右にして逃れようという意欲は〈却〉《かえ》って削がれ。  ――繰り返される惨劇に対する悲憤。  ――警察に属する者としての使命感。    それらも動機には違いない。  だが〈最初〉《・・》は違った。  それらはこの二年間の、追走の日々の中で芽生えたものだった。  最初は、ただ――――  あいつを止めたかっただけだった。 「この先の十字路を越えればすぐに着きます」 「……」 「……後程。  落ち着いてから、ご説明しましょう」 「はい……」 「……あら?」 「何か?」  大尉の訝しげな声。  視線は遠く、闇の先を見つめている。 「あの、玄関の脇に唐松の生えているお屋敷が景明さまの?」 「はい」  いや、正しくは鎌倉署長の役宅だが。  しかし細い〈眸〉《ひとみ》をしているわりに大した視力だ。俺の眼ではこの距離だと屋敷のシルエットしかわからない。 「門の前にどなたかいらっしゃいましてよ。  あれは…………あらぁ?」 「大尉?」 「……わたくしの知り合いです。  いえ、そういえば……そうそう、景明さまもご面識があるはず。そのように言っていましたもの」 「……?」  首を傾げつつ、歩みを速める。  近付くにつれて、香奈枝嬢の言う人影が俺の目にも明らかになった。  ぽつんと所在無げに立つ、小柄な姿。  それが誰か気付くのと、その影がこちらを向くのとは、ほぼ同時だった。 「湊斗さん!」 「……貴方は」 「あっ、あの。  昨日、あれから考えたんですけど、あたし、やっぱり――」 「ご機嫌よう。  一条綾弥さん、で宜しかったかしら?」 「逆だッ!!  って、なんであんたまでいる?」 「んまっ。  間女の分際で家にまで押し掛けて、あまつさえ正妻に向かってなんて口の利きよう」 「あなたっ、これは一体どういう事ですの!?」 「いえ、そもそもがどういう事ですか」 「間女ッ!?  正妻ッ!?」 「これは一大事!  修羅場になってしまいましたよ湊斗さま。若さゆえの過ちのツケが回ってきたのです!」  そんな借金をした覚えはない。 「み、みっ、湊斗さんっ! このでかい女はなんなんですか、本当なんですかっ、妻って、妻ってーー!? このでかい女がっ」 「ぷっちん」 「あっ。お嬢さまの脳神経系が致命的断裂を」 「なめんなゴルァ! てめーは※※と△▲△してろ■■が! 来いやこの○○の▼▼!!」 「あァ!? ンだァ三等兵!」 「風雲急を告げる湊斗家。  憎悪と憎悪が嵐を呼び血の饗宴を招くのはもはや時間の問題! 嗚呼、あの平和な日々はもう帰ってこないのでありましょうかッ!?」 「尚、実況は鎌倉署長邸宅前から永倉さよがお送りいたします」 「〈止〉《と》めて下さい」  わけがわからなかった。 「妻ではありません」 「信じてました」 「照れなくてもよろしいのに……」 「大尉」 「あふん。その冷たい瞳も素敵」 「湊斗さま。脳髄をハリガネムシに食い荒らされたイタイ系の女を処分する最善の方法は、心中を持ちかけて先に死なせることでございますよ」 「その忠告はこの状況で一体どういう意味を持つのかしら、ばあや?」 「それで、綾弥さんはどうしてここへ?  この家の所在をお教えした事はないと思うのですが」 「すいません。  聞いたんです……」 「誰にでしょう」 「鎌倉署の窓口で、湊斗って人の家を教えてくれって頼んだら、多分ここだって言われて」 「個人情報ダダ漏れでございますね」  返す言葉もない。  六波羅の専権によって警察機構が有名無実と化している現在、警察局の服務規定はただ手帳の〈頁〉《ページ》を埋める文字列でしかなかった。  一通り目を通している職員さえどの程度いることか。 「……諒解しました。その点は結構です。  御用の向きを承りましょう」 「…………昨日の話です」 「それは既にお断り致しました」 「でも……  …………あたしは……ッ」 「自分の返答は変わりません。  お引取り下さい」 「湊斗さん……」 「もう辺りも暗くなりました。お若い婦女子の方がひとりで出歩いて良い時間帯ではありません。  宜しければ適当な所までお送りしましょう」 「……か、帰れません」 「……」 「あたしの考えも変わらないんですっ!  あたしを、使ってください! 警察で……あなたの下で!」  ――そう。  彼女は昨日も、同じ事を言ったのだ。警察署の前で。 「あっ、あのっ。  この間はっ、ありがとうございましたっ」 「その、たっ、助けていただいて……」 「そのような事はお気になさらず。  迷子の世話は警察の職務です」 「い、いえ、そっちじゃなくてっ。  あ、いえ、それも、そうなんですけどっ」 「あの……  実は、その」 「はい」 「今日はお願いがあって来たんです。  あ、あたしを……」 「あたしを、あなたの下で使ってください!  何でもやりますから!」 「…………」 「…………」 「お願いします……」 「警察局への就職を希望されるのであれば、学校を卒業後に採用試験を受けて下さい。  自分には他にお答えの仕様がありません」 「それじゃ遅いんです!」 「そのようなことは決して。  貴方はお若い」 「警察官になるのに数年を掛けても、充分に活躍ができるでしょう。  それに、誰もがそうした手順を経て正式な警官たるのです。貴方を除く事はできません」 「わかってます。警官でなくていいんです。ただの下働きでいい。給料もいりません。  何か……手伝わせてください! あなたの仕事を、あたしに!」 「…………」 「あらまあ」 「おやまあ」  大鳥主従の頓狂な声が耳を通り抜ける。  腹の底に何か、ぐつぐつとしたものを感じていた。 「……どうして、そこまで」 「あたし……  あたしは……」  思い詰めた眼差しが痛い。  そこに込められたものが何か、理解できる。だから痛い。  その〈誤解〉《・・》は酷い苦痛だ。  俺には。 「初めてだったんです!」 「まっ。  大変聞き捨てなりませんがそれはひとまず置きまして景明さま、そういうことでしたらちゃんと責任は取って差し上げませんと!」 「六波羅の野郎共に陰で文句を並べるだけの奴ならどこにだっている。でも、立ち向かう人はどこにもいない。あたしだってそうです。せこい嫌がらせをするのがせいぜいだった」 「あなたが初めてなんです。口だけじゃない、奴らと戦える人は!  初めて……初めて見たんです……」 「…………」 「……スルーされてます……」 「空気読みましょうよお嬢さま」 「六波羅の奴らが間違ってるのはわかってた。わかってるのに何もできない自分が嫌だった!  あたしは間違っていることが許せない……許したくない! 見て見ぬふりなんか嫌だ!」 「父様に恥じない娘でいるために……  何かしたかったんです。なにか! それをようやく見つけたんです!」 「お願いします、湊斗さん!  あなたの力になりたいんです!」  ――ああ。  この目。  この眼。 「貴方は誤解している。  何もかも誤解している」 「湊斗さん……」 「貴方は俺の事を嫌っていた筈だ。  侮蔑していた筈だ。下らない奴だと、何の値打ちもない人間と、そう見ていた筈だ」 「そ、それは……知らなかったんです。  すみません。あたしは馬鹿だったから……何もわかってなかった。自分が大したことをしてるつもりで。本当は、あなたが」 「違う。嘗ての貴方の方が湊斗景明を知っている。正確に理解している。  自分は一切の敬意を払うに値しない、唾棄すべき人間です。屑としか呼びようもない」 「…………」 「なんでですかっ。  あなたは戦っていた! きっと、これまでもずっと! あたしみたいな餓鬼から馬鹿にされても、言い訳もしないで!」 「あなたは、尊敬できる人だって……  あたしはそう思います!」 「……っ、ぁ……!」  全てをぶちまけたかった。  八つ当たり、自己の感情の無思慮な発散をしてしまいたい。その卑劣な行為は俺をいくらかでも楽にしてくれるだろう。  無論、許される事ではなかった。この両肩に負った責務と、俺を後援する親王と署長の立場を思えば。    だが――だが。抑え切れないものもある。 「俺は、」 「〈俺は人殺しだ〉《・・・・・・》!  そんなものを尊敬してどうする!!」 「それでも、あなたは多くの人を救ったじゃないですか!  あの村だって――」 「救っていない!  あの村は、銀星号に滅ぼされた!」 「――――!?」  綾弥が息を呑む。  当然だろう。この事件はまだ報道されていない。 「俺が代官らと争っている間に銀星号が村を襲っていた!  そうして皆殺しになった。誰も彼も死んだ」 「俺が何を救った!?」 「……、……っ……」 「何も救っていない。  俺はただ殺しただけだ」 「……ぁ、  …………し、を……」 「分かったら帰れ!  俺に近付くな……俺はお前が夢想しているような人間じゃない。ただの人殺しだ」 「行け!!  俺の近くにいれば、お前も――」 「でも!  あなたはあたしを助けた!」 「……ッ!?」 「あなたがいなかったら、あたしはあの時に殺されていた! 六波羅の手で!  今あたしが生きてるのはあなたがいたから。  それは確かなことです!」 「違いますか!?」 「なっ……、……」  違う。  そうじゃない。  そういうことじゃない―― 「違う……」 「違いません!  あなたに助けられた命を、あたしも誰かを助けるために使いたいんです! 何ができるわけでもないけど……何かしたい」 「だから、あなたの力になりたいんです!」 「……ッ……」  違う。  何を言っているんだ、この娘は!  違う――! 「……ふぅ。仕方ありませんね。  では、景明さま。彼女の身柄はわたくしがお預かりするという事で、如何ですかしら?」 「大尉!」 「……あんたは関係ねぇだろ?」 「あら。大ありでしてよ?  わたくし、進駐軍の軍人として景明さまのお仕事に協力することになりましたから」 「そ……そうなのか?」 「はい。  でも、お覚悟はおありかしら? わたくし達が相手にしなくてはならないものは、幕府よりも厄介かもしれないのですけれど」 「え?」 「たった今、お話にもあがりましたでしょ?  景明さまのお仕事は〈銀星号〉《・・・》事件の解決です」 「――――」 「あの村のこともその一環だったとか。  どうします? 学生さん。悪代官に印籠を突きつけて大団円――とまでお気楽にはいかない話のようでしてよ?」 「…………。  それ、確かなんだな?」 「ええ」 「あの銀星号を……  あの悪魔と戦うのが湊斗さんの仕事……」 「おやめになる?」 「……いいや」 「やる。やらせてください!  湊斗さん、お願いします!」 「……」 「如何です?  先程も申しました通り、景明さまの方で不都合がおありなら、わたくしの方で引き受けますけれど」 「……大尉。何故……」 「そうですね……  多少の縁があったというのが一つ。あの村を離れる折にたまたま出会いまして」 「そう、その折は、少しご協力を頂きましたのよ?」 「……」 「後は……  共感、ですかしら」 「共感?」 「ええ。わたくしも景明さまのことは『尊敬』しておりますもの。  巨大な悪に単身で立ち向かおうとする勇気……素晴らしいです」 「……ッ」  貴方までが。  そのような――世迷言を。 「……」 「……あんた、実は結構いいやつなのか?」 「実は結構いいやつですのよ?」 「そうか……悪かった。  ただのでかい女じゃなかったんだな」 「…………」 「おお……お嬢さま、忍耐しておられますね。  ぴくぴくとわななくこめかみが雄々しゅうございますよ」 「ふっ、ふふふ……  この程度、何でもなくってよ」 「これからよろしく。  綾弥ちゃん」 「苗字にちゃん付けするんじゃねえ!!  くそ……まあいいや」 「とにかく礼は言っとく。  ……湊斗さんの役に立てるようにしてくれるなら、〈白蟻〉《・・》にだって頭くらい下げるさ」 「あら光栄。  そうねぇ、景明さまのお仕事の邪魔にならないように頑張ってくださいましね?」 「あんたこそな、〈宿六〉《ヤドロク》進駐軍。  足引っ張るようだったら箱詰めにして横浜へ送り返してやる」 「うふふふふ……そう。  仲良くしましょうね、〈景明さまのために〉《・・・・・・・・》」 「ああ、仲良くしてやるよ。  〈湊斗さんのためにな〉《・・・・・・・・・》」 「美しい光景でございますねぇ。  あたかも国家間の和平会談を見ているかのようでございます」 「…………」  この二人は、何を言っているのだ。  俺のため? 俺のためだと?  俺が――何だというのだ。  俺は――只の――罪人だというのに。  それが――どうして――  好意などを向けられねばならない?  敬意などを向けられねばならない?  それは――酷い。  そんな話は――無い。 「……ゃめろ」 「? 景明さま?」 「湊斗さん?」 「……寄るな」 「おや?  湊斗さま、顔色がよろしくありませんよ。お疲れなのでは……」 「……く……くるな」 「景明さま?  なんだか、本当にご様子が――」 「触るなッ!!」 「――――!?」 「……湊斗さん!?」 「ど、どうしたんですかっ、大丈夫ですか!?  しっかりしてください!」 「…………」 「…………」 「……にーやぁ……」 「……お武家さまー……」 「……貴方たちは……」 「あのね、あのね……」 「あて……お武家さまのことが……」 「すきー!」 「大好きです」 「……ッ!?」 「だって、こんなに綺麗に殺してくださったんですもの!」 「えへへー♪」 「あ……あぁぁ…………」 「そうだよなあ。  おれも尊敬してるぜ!」 「!?」 「こんなに綺麗に殺してくれたもんなっ!」 「すげえよ湊斗さん!」 「あっ……ああああああああああああああ」  許して。  許して。  許してください。  ――その言葉が出てこない。  言いたくてたまらぬ、その言葉が出ない。  知っているからだ。  許されないと、知っているからだ。 「にーやー」 「お武家さまぁー」 「村正サイコー。  正義の味方」  やめて。  やめてくれ。  聞きたくない。  〈言祝〉《コトホギ》など聞きたくない。  せめて〈呪詛〉《カシリ》を。怨嗟の声を。  この身を穿つ断罪の叫びを。 「苦しんでいるな。  景明……」 「それは〈生まれ〉《・・・》の苦しみだ」 「おれも苦しい……  おまえの苦悶はおれの心を傷つけてやまぬ」 「これは〈生み〉《・・》の苦しみ」 「共に耐えよう、可愛い景明。  これは誕生の苦しみなのだ」 「母と子が共に味わう苦痛。  生命が生命をつくるための、避けて通れぬ〈通過儀礼〉《イニシエイション》だ」 「おれは全身全霊をもっておまえを産み落とそう。おまえを産んでおまえの母となろう。  だから――景明」 「生まれ落ちたなら……  心置きなく、おれを愛するがいい」 「……………………」  目を覚ますと、布団の上だった。  体を包む感触にも、視界に映る光景にも覚えがある。馴染んだ、というほどではないにせよ。  署長宅内の一室だ。  俺の部屋としてあてがわれている。 「……お目覚めになりまして?」 「……中尉……  いや、失礼。大尉殿でした」 「覚えておられますの? 先程のことは」 「……はい」  そうだ。  俺は予期せぬ話の流れに動揺し、我を失い――  …………なんと、無様な。 「見苦しい所をお目にかけました。  お恥ずかしい限りです」 「とんでもない。  わたくしどもの方こそ、景明さまのお悩みも知らず、無神経なことばかり言ってしまいました」 「あの村の一件を、余程気にしておいでですのね……。  無理はありませんけれど……」 「…………」  誤解に苛立たず、黙って流せる程度には、冷静さも回復していた。  短い時間でも体を休めたのが良かったのだろう。  体感で、二時間程度が経過している。 「自分が倒れたせいで、この家に入るのにも不自由されたのでは?」 「いえ、声をかけましたら、使用人のかたがすぐに出てきてくださいまして。  あれこれ説明するまでもなく、察して頂けました。良い人をお雇いですのね」 「牧村さんですか……後で礼を言っておきましょう。無論、大尉殿にも。  お手を煩わせました。申し訳ありません」 「もう、ご迷惑を掛けてしまったのはこちらですのに。本当にお堅い方。  お身体には障りありませんの?」 「はい。何程のことも」  体を起こす。  倒れた時に打ったのか、肩が多少痛むがその程度だ。動くのに差し支えはない。 「綾弥さんはどうされました?  帰られましたか」 「いいえ。居間の方でお待ちです。  自分の来訪が景明さまに負担を掛けたのではないかと、気にしておいででしたね」 「そうですか。  では誤解を解く必要があります」  立ち上がっても、改めて痛み出すような箇所はない。  安堵する――戦うべき事態はいつ到来するとも知れない。体調は常に万全であることが望ましかった。 「参りましょう」 「……景明さま」 「はい」 「やはり………余計なことを申し上げましたかしら?」  それが何のことを指しているかは明白だった。  かぶりを振る。 「いいえ。  冷静になって考え直せば、あそこまで思い込んだ彼女に翻意を促すのは難しいでしょう」 「追い払ったところで諦めるとは思えません。  捜査中を密かに尾行でもされては大事です。こちらの知らない所で危難に遭いかねませんから」 「ええ……」 「それを思えば、要望を認めて連れてゆくのは次善の策と言えます。  彼女は歳相応以上の能力を備えているようですから、おそらく任務の阻害はしません」 「むしろその意味では有益でしょう。  任務の危険性を思えば学生を連れ歩くなど論外ですが、この際は仕方ありません。署長にも説明して諒解を得ておくことにします」  要は大尉、貴方と同じです。  ……これは口には出さずにおく。 「わたくしもそれが良いと思います。  扱いは、進駐軍徴発の現地協力員という事でよろしいかしら?」 「貴方に責任を押し付ける気はありません。  警察属員、つまり自分と同じ立場という事にしておきます」 「よろしいの?  一条さんを受け入れようと言い出したのはわたくしなのですから――」 「彼女が訪ねてきたのは自分です。  自分が身柄を引き受けるのが筋というものでしょう」 「……そう、ですね。  あの学生さんもきっと、そうなさった方が喜ぶでしょうし」 「…………」 「……湊斗さん!」 「おや、気が付かれましたか」 「大変、お騒がせ致しました。  見苦しき振舞いの数々、お詫び致します」  座に着いて、頭を垂れる。  先刻の醜態を思うと目を合わせる事さえ辛い。その意味で頭を下げる格好は有り難くもあった。 「い、いえっ、そんな……」 「こちらこそ気配りが足らずお心を騒がせてしまった様子。このさよとしたことが不覚の至り、お詫びの言葉もございませぬ。  本日の埋め合わせはいずれ必ず……」 「そのようなお気遣いはどうか無用に。  ……特に、綾弥さん」 「はっ、はい?」 「先程は取り乱した挙句、聞くに堪えぬ雑言を並べ立てたように思います。  真に非礼の限り、面目次第もございません」 「そっ、そんな。  湊斗さんはなにも悪くないです。あたしが無神経なことばっか言ったから……」 「本当にすみません!」 「お心遣い、有難うございます。  ついては、お詫びに代えてというわけではないのですが」 「はい……?」 「先刻のご要望の件、考慮をさせて頂きたく思います。  待遇は、世辞にも良いものとは言いかねるでしょうが」 「え……  ほっ、本当ですかっ!?」 「ただその前に、改めて申し上げておきます。  自分に関わることは危険です」 「〈本当に危険なのです〉《・・・・・・・・・》。  生命に関わります」 「これは大尉殿にも申し上げられることです」 「……」 「自分としてはお二方とも、このまま一切を聞かずに帰られることをお勧めします。  疑いなくそれが最善なのです」 「それでもあえて残られるなら、失礼ながら、実に愚かしい選択をすることになります。  無用の危険を望んで冒すのですから、そう言わざるを得ません」 「あえて申し上げます。  自分は〈何方〉《どなた》の御協力も強いて必要とはしておりません」 「…………」 「…………」 「以上を踏まえた上でご再考下さい。  このままお帰り頂くわけには参りませんか」  …………………………………………………………… 「わたくしは、お答えするまでもありませんね?」 「大尉殿……」 「景明さまへの協力はGHQ士官として拝命したものです。景明さまに厭われたから、といって翻せるものではありませんし。  それに」 「わたくしにも自尊心がありますもの。  必要ないと言われたまま引き下がっては、大鳥の名折れ。これは必ず撤回させてご覧に入れますから、楽しみにしておられませ」 「それでこそお嬢さま」 「……」 「……あたしも。  すみません、湊斗さん」 「迷惑を掛けることになるのはわかってるんです。あたしがこれまでチンピラ連中相手にやってたような事が、湊斗さんの敵に通じるわけがないって……それはわかるんです」 「でも、戦えるようになりたいんです!  今は無理でも……必ず。あたしは逃げたくないんです。許せないものから。  それが六波羅でも、銀星号でも」 「あたしを育ててくれた人に、恥じるような生き方はしたくない。戦い方を知りたい。  だから……お願いします! あたしを湊斗さんの傍に置いてください!」 「…………」 「……気のせいですかしら。  なんかわたくしの台詞と比べて随分と好感度上昇率が高そうな……」 「あたかも愛の告白の如し。  これは大きく遅れを取ってしまいましたよ、お嬢さま」 「茶々入れてんじゃねえ!!  こ、こっ、告白って、あ、あたしはただっ」  ………………。  〈傀儡〉《くぐつ》を操るは易く、士人を留めるは難し。  ――是非もない。 「? 景明さま、何か仰られました?」 「いえ。  お二人のご意思は理解しました。もはや、自分から言うべきことは何もありません」 「じゃあ……」 「銀星号事件の解決の為に。  御協力をお願いします」 「大鳥香奈枝GHQ大尉殿。  綾弥一条さん」 「お任せくださいまし♪」 「あ……ありがとうございます!」 「礼などは御無用に。  自分が恥ずかしくなります」  危険に巻き込んで、感謝されては堪らない。  居たたまれぬにも程がある。 「……では、お話ししましょう。  我々が追うべき相手」 「銀星号のことを」 「…………」 「…………」  家人の牧村さんが用意した茶はいつもの通り、心地良い苦さだった。  一口含んで舌を湿らせ、吐き出し難い言葉をそこへ乗せる。 「大尉は先程お尋ねになりました。  自分がなぜ銀星号を追うのか、その理由を」 「ええ……」 「妹なのです」 「……はい?」 「えっ?」 「…………」 「二年前のことです。  〈あれ〉《・・》は我が家に伝わっていた劔冑の一つを持ち出し、装甲に及び」 「〈そして狂った〉《・・・・・・》。  人間から、怪物に。ヒトの形をした災厄、殺戮する天象――銀星号になったのです。  あの瞬間」 「……以来、自分は家に存在したもう一領の劔冑と共に、あれを追い続けています。  幾度か捕捉に成功することはありました。しかし未だ、制圧には至っておりません」  一度、口を切る。  声を発する者はいない。  表情は大同小異だった。  思うところはあるが、言葉を見つけられない。そういう顔。  その反応は俺の卑劣な計算を満足させるに足りた。  最低限度の事実の羅列のみで、余計なことを話さずに済む。  ――余計?    否。本来なら、何を置いても話さねばならないことだろう。あれが〈なぜ〉《・・》狂ったのか、は。  だが話せる筈もなかった。  その〈呪い〉《・・》が俺にも纏わりついていることを知れば、彼女らは俺を忌み、離れ――それだけなら望ましいが――それぞれのやり方で俺の罪を鳴らすだろう。  今はまだ、困る。 『銀星号』をこの世から抹消するまでは、俺は必要に応じて自由に動ける身でなくてはならない。  まだ、裁きの時ではない。  ……それを俺が決めること自体、傲慢を極めているが。  俺はその点について全く口を噤んだまま、説明を次へ移した。おそらくはこちらを気遣ってだろう、周囲が沈黙しているのを利して。  何とも卑劣に。 「……銀星号が何故かくも恐るべき存在なのか。ただ一騎の武者の為す事とは到底思えぬまでに殺戮を繰り広げられるのか。  それには理由があります」 「まず一つは単純な戦闘能力。  劔冑もそれを操る仕手も、自分の知る限りでは最上と言って良いでしょう」 「湊斗さまも相当なものとお見受けしますが。  それよりも尚……?」 「はい。  控えめに評して、才能の桁が一つ違います」 「…………」 「そしてもう一つ……こちらの方が深刻です。  あの劔冑は、精神汚染の能力を持ちます」 「……精神汚染?」 「なんとも不穏な響きでございますねぇ」 「実際、不穏の極みでしょう。  銀星号は自己を中心として円形状の広範囲に、脳活動へ影響を及ぼす特異な重力波――〈汚染波〉《フェロモン》を放散します」 「この汚染波を受けた人間は、銀星号と精神を同調させます。  ……狂った殺人鬼の精神と、です」 「……あっ。  もしかしてあの、銀星号事件の――〈被害者〉《・・・》〈同士で殺し合ったようにしか見えない遺体〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、っていうのは」 「その通りです。事件の被害者の多くは殺し合わされたのです。  心を銀星号に奪われて」 「なんとまぁ……」 「タチの悪い話ですこと」 「全くに。  そして更に一層悪質なのは、武者が銀星号と接触してしまった場合――」 「武者も汚染されるんですか?」 「いえ。さしもの汚染波も甲鉄の壁を破って武者を影響下に置く事はできないようです。  少なくとも自分の知る限り、そうした事例は有りません」 「ですが……  銀星号は武者に対して〝卵〟を植え付けることができます」 「たまご?」 「便宜上そう呼んでいますが、これもやはり汚染波の一種ではあるようです。  自分の知る〝卵〟は光球状で、劔冑と接触すると吸収され、その内部で成長――」 「不特定の期間を経て、〈孵化〉《・・》を迎えます」 「……すると、どうなるのでしょう?」 「自分はまだ目撃したことがありません。  銀星号が撒いた〝卵〟はすべて孵化の前に破壊してきました。この二年間のほとんどはその作業に費やされたと言ってもいい」 「あるいは銀星号の制圧以上に〝卵〟の破壊は急務であったからです。  自分の聞いた話が正しく……〝卵〟に寄生された武者は、孵化を迎えたその刹那――」 「〈銀星号と同じものになる〉《・・・・・・・・・・・》のなら」 「…………」 「…………」 「……なるほど。  まさに〝卵〟なのでございますね」 「この話は公表されておりません。知る人間は自分と署長、後援者であられる舞殿宮殿下。  そして貴方がただけです」 「他言無用……ですよね、もちろん」 「左様に願います。  汚染波や〝卵〟の話が市中に広まった場合――」 「パニックになりますね……。  銀星号がただの化物ではなく、近寄られただけで発狂させられるだとか、そんな代物が更に増えるかも知れないだとか」 「お茶の間卒倒は間違い無しのネタでございます」  綾弥はただただ驚いている様子だった。  香奈枝嬢とさよ侍従は驚きを通過してもはや呆れるしかないという表情。  彼女ら自身が錯乱に陥らずにいてくれるのは僥倖とみるべきか。尤も――  そんな〈柔〉《やわ》な精神の持ち主ではないと信じればこそ、明かしたのだが。 「……事程左様に、銀星号は理外の相手。  如何なさいますか」 「……そうですねぇ……」 「……うー。  バケモンなのは知ってたけど……そこまでとんでもない奴だったのかよ」  二人とも、流石に即答はしかねる様子だった。  当然だろう。  こういう反応が得られるのなら、機密漏洩の危険を冒して話した甲斐もある。  俺は畳み掛けた。 「自分としてはやはり、手を引かれることをお勧めします。  只今お話しした内容について口外しないとお約束頂ければ、それで――」 「あら?  如何って、そういう意味だったんですの?」 「……はっ?」 「わたくしはてっきり、どうやって対処するべきなのかを問われているものとばかり」 「あたしも。  そういうことなら考えは変わらないです、湊斗さん」 「ていうか、尚更引けなくなりました」 「ですねー。  元々暢気に構えていたつもりはありませんけれど、そこまで酷い状況と聞いては猶予の暇もありません。手を引くなんて論外です」 「…………」 「湊斗さま、お茶のお代わりはいかがですか」 「頂きます」  いとあっさりと砕かれた最後の期待を、緑茶と一緒に喉の奥へ流し込む。  無闇矢鱈と苦い味がした。  ……腹を決めるしか、無いか。 「綾弥さん」 「はい」  …………。 「一条」 「は……はい!」 「これからお前は俺の部下として扱う。  身分は鎌倉警察署属員……非公式の警官だ。俺と同じ立場だが、指示には全て従って貰う」 「異存は?」 「ありません!」 「大尉殿」 「…………」 「ハンカチを噛みながら恨みがましい視線で見ないで下さい」 「だって、なんだか羨ましいんですもの」 「あちらは名前呼び捨て、こちらは『大尉殿』……距離感の差が余りにも如実でございますなぁ」 「ふふん」 「きー! 妬ましい!  景明さまっ、わたくしのことも呼び捨てになさってくださいませ!」 「できません」  無茶な話だ。 「なら、ハニーで!  スウィートとつけて頂ければ〈完璧〉《パーフェクト》ッ」 「おいてめぇドサマギでなに抜かしてやがる」 「何ですの? ダーリンのパシリな方」 「ダーリン言うな! 妄想巨体女!」 「……巨体……」 「あっ。お嬢さまの心のセーフティロックが音を立てて」 「ふっ。ふふふ。そうね。そうよね。  円満なチーム関係を築き上げるためには、まず上下関係をはっきりさせないといけないのよね」 「あぁ? やるかGHQ。  昼寝する以外になんか芸があるってんなら見せてもらおうじゃねぇか……」 「OK」 「……失礼。お二方。  まだ説明が」 「すみませんちょっと待ってください。  このウドの大木を薪にして風呂釜にくべてきますからっ」 「ええ。すぐに済みますから少々お待ちくださいまし。  ほんのこれくらいで片付きます」 「指一本?」 「一ラウンドではありません。  一分です!」 「上等だぁッ!!」 「…………」  話は聞いてもらえないようだった。  仕方ないので、茶を啜る。  なにやら無意味に不穏さを増してゆく居間から目をそらし、天井を仰ぐと、そこには見慣れた姿があった。  赤い蜘蛛。 «……話はまとまった?» (聞いていたのか) «大体のところはね。  正直、面倒になったとしか思えないけど» (止むを得ない選択の結果だ。  ……と、思う) «危険はわかっているのね?» (ああ。  彼女らとは必要以上に接触しないよう、心がけておく)  ……所詮、偽善だが。  〈どうせ犠牲は出るのだから〉《・・・・・・・・・・・・》。 «なら、いいけど。  ……それよりも、報告» (どうした) «銀星号の〈香気〉《におい》をつかんだ» (何処だ?) «鎌倉の郊外よ。  少し西にある……大きな施設の中。あれは何なのかしら? 妙に騒がしかったけれど» (西の……?)  記憶に引っ掛かりを覚える。  確かそこには、有名なものが―― (……あれか) «わかるの?» (ああ。  あそこにあるのは……)  ――――サーキット場だ。  〈装甲競技〉《アーマーレース》の端緒は現在からおよそ三十年前まで遡る。  発祥は〈大英連邦〉《ブリテン》。競馬や幾つかのモータースポーツがそうであるように、この競技もまた女王の国の貴族たちの遊戯から始まった。  かつては何処の国にあっても劔冑は神聖性を帯びて見られ、国家の帰趨を占う戦争以外の場で用いるなど論外であった。  が、新式(量産型)劔冑の誕生がその観念を変える。  この世で最も速い存在である武者による競走という発想は大喝采をもって迎えられ、紳士たちはどうしてこんな素晴らしい競技をもっと早く考え付かなかったのだろうと首を傾げつつ、情熱に従って形式を整えた。  装甲競技はかくして誕生する。  英国本土を原点に、ドーバー海峡を越えるまで一年、欧州全土へ普及して統合団体が結成されたのはその約三年後。  大和における歴史は二十年ほど前に幕を開け、忽ち熱狂的な支持を受けて大いに隆盛する兆しを見せたが、折しも世界は戦雲の最中。大戦への突入と共に軍事へ寄与しない事業の多くは強制縮小の憂き目に遭う。  装甲競技もその例から漏れず、戦時中は自粛を余儀なくされ、事実上潰滅の状態にあった。  終戦後、時が経過すると共に復興を望む声は高まり、権力層の中にも同調する者があって、団体が再興……  昨年初頭にはこの鎌倉サーキット場が落成。  今年――興隆四一年に至って遂に、国内統一規格の大和GP開催が決定した。  その第一回が、今……    始まっていた。 「……このどこかに銀星号がいるんですか?」 「それはまず無いだろう」  客席から伸び上がるようにして辺りを見回す一条の声に応じつつ、襟元を軽くくつろげる。  会場の熱気は相当なものだった。群れをなす人々、そしてその興奮が、秋風を払って夏を呼び戻している。  今、コース上を疾走する騎影の中に一流と目される選手の姿はない。彼らの登場は明日以降になる。  にも拘わらずこの盛況。  装甲競技の復興がいかに望まれていたか、草レースに毛を生やした程度の大会しか催されない昨日までの状況がどれほど不満を集めていたか。  手に取るような確かさで窺い知れた。  この種の競技の愛好者が有する熱意は信仰にも近いものがある。関心のない人間には異常と映るほど。  しかし、選手へエールを送る人々の表情に不健全な何かはなかった。純粋な歓喜だけがあった。 「人々は皆、興奮はしているが正常だ。精神汚染を受けている様子はない。  それに銀星号の劔冑は真打。サーキット場に潜むのは困難だ」 「どうしてです?」 「あら。  一条さんはサーキットは初めて?」 「ん? まあ。  あんまり興味もなかったし。こうして見ると、結構面白そうだけど」 「装甲競技に使われるのは新式、数打の劔冑と決まっていますの。  真打がサーキットを走るなんて、まず有り得ませんのよ」 「勝てませんから」 「なんでだよ。  劔冑は数打より真打の方が上なんだろ?」 「戦闘能力ならそうです。  でも、これは速さを争う装甲競技」 「新式には〈競技用劔冑〉《レーサークルス》という、レース専用の規格がありますけれど……  旧式にそんなものがあるとお思い?」 「……そりゃそうか」  そういう事だった。  こと装甲競技においては、数打は真打に優越する。  だからといって出場を禁止されているわけではなく、実際、真打で参加する〈数奇者〉《すきもの》の武者が稀にいるが……  良い成績を挙げた例は皆無だ。  サーキット場において真打は絶対的少数派であり、参加していれば目立たぬ筈がなかった。増して白銀の銀星号。  〈装甲騎手〉《レーサー》の中に紛れ込めるとは到底思えない。  ……〈尤〉《もっと》も。  性能面の問題に限っていえば、おそらく銀星号なら充分に競技参加資格を得られるのだろうが。 「じゃあ、湊斗さん。ここにいるのは……」 「必然、〝卵〟を植えられた寄生体となる。  村正の感覚によれば〈匂いが揺れ動いている〉《・・・・・・・・・・》らしい」 「これは〝卵〟の場合、孵化が遠くない事を意味する。あまり余裕は無さそうだ」 「村正?」 「俺の劔冑だ」 「そういえば初めて聞きました。  随分と不吉っぽい名前ですのね?」 「きっと鍛冶師が〈悪漢嗜好〉《ピカレスクマニア》だったのでございましょう」  ただ単に〈真物〉《オリジナル》なだけです。 「その感覚は確かなんですの?  銀星号の力の気配がここにあるという」 「過去の経験からみて信用に値します。  このサーキット場、あるいは周辺のどこかに寄生体がいることは間違いないでしょう」  〈虱潰し〉《ローラー》作戦でどうにかできる範囲でないのが困り物ではあるが。  いつもの事だ。 「もう少し特定はできませんので?  この辺りは気配が強い、というような」 「どうも〈そういうもの〉《・・・・・・》ではないらしく。  ごく漠然とした位置推定以上の事は不可能なようです」 「……それだと見つけようがないんじゃないですか?」 「いや。寄生体は、村正が目撃すればそれと看破することが可能だ。  だから今村正はコースを俯瞰できる場所にいる。これで参加騎は全てチェックできる」 「だがそれだけでは万全ではない。レースに使われない〈練習騎〉《Tクルス》という可能性もある。  そちらは肉眼で調べるしかないだろう」 「なるほど……  わかりましたっ」 「とりあえずはどうしましょう?」 「そうですね。  ひとまずは、様子を」  方針が定まった以上、今すぐにでもピットを覗いてコースに出ていない騎体を調べて回りたいところだが、それは無理な話だ。  関係者以外は立ち入り禁止と決まっている。  警察の名もここでは通用しない。  警備員は旭の紋章など見ても会釈さえするかどうか。  この大和GP、戦後初の国内統一選手権の主催者は〈六波羅〉《・・・》なのだ。  彼らの息が掛かった場所で無理を通せる筈もない。  何か手立てを考えなくてはならないが―― 「ところで、今は何やってるんだ?」 「予備予選です。  あまり実績のない、言ってしまえば二流の選手たちを〈ふるい〉《・・・》にかけているところ」 「今日の予備予選で上位の成績を収めた選手が、明日シード選手たちと共に本予選を飛ぶのでございますよ」 「成績ってのはどうやって出すのさ。  なんか、みんなてんで勝手に飛んだり休んだりしてるようにしか見えねーけど」 「予選は周回タイムを競いますの。  位置についてよーいどん……で一斉に走り出すのは決勝レースだけなんです」 「へぇ……」  気の無さそうな声の割りに、一条の視線はコース上へ吸い寄せられていた。  性格的に、この種の競技を嫌うところは持たないのだろう。そういう印象を受ける。 「しかし予備予選にしては良い〈騎航〉《はしり》を見せる者もおりますねぇ。  ことに今ヘアピンを曲がった選手などは、なかなか」 「あれは……横森鍛造の〈猟犬〉《ハウンド》ですね。  ヨコタンワークスはシード登録されている筈ですから、セミワークスでしょうか」 「その割りには大胆な改造を施してしまっているような。サスは別物の移植ですし。  どこぞのお大尽のプライベートチームかもしれませんね?」 「……あっ、抜かれた。  すげぇな今の。右に行くと見せかけて、左から一気に押し込んだのか? 火花が散ってたぞ」 「おお、あれは〈警察〉《ポリス》チームではございませんか。ようやく調子が出てきた様子」 「タムラの〈火箭〉《ホットボルト》ですか……  旧式騎をよく使っています」 「あれは騎手とメカニックが優秀であれば今でも第一線で戦える騎体ではなくて?  重量の大きさは厄介ですけれど……」 「強そうじゃねぇか」 「さようでございますな。加速性に疑問符はつくものの、騎体がぶつかり合う乱戦に強いのは事実。  レースが荒れれば有利になりましょう」  装甲競技において他騎への攻撃はもちろん反則行為だが、体当たりは許容範囲とされている。  重装甲(比較的、だが)のタムラ・ホットボルトが旧式でありながら未だ生き残っていられる所以だ。  とはいえ所詮、過去の騎体。  直線の伸びを欠く上、旋回性能でも最新騎に大きく劣るときては、騎手はじめスタッフ陣の奮闘で上位へ食い込めはしても勝つまでには至らない。  ……などと考えているそばから、ストレートで一度は抜いたハウンドにコーナーであっさり抜き返されている。 「相変わらず、嫌がらせかと思うほど曲がらない騎体ですね」 「あのアンダーステアは病気です」  ポリスチームも願わくば買い換えたいところだろう。  無論、今の警察局でそんな予算が下りる筈もなし。チームの維持が許されているだけでも奇跡なのだ。  眼下の予備予選で、目立った活躍を見せているのはその二チームだけのようだった。  意識を別の方向へ向ける。 (村正。どうだ?) «異常なし。  今日の競技に参加している劔冑は全部見たと思うけど、どれも違う» «みんなただの劔冑〈もどき〉《・・・》よ» (そうか)  村正は数打劔冑、特に競技用劔冑に対してそういう表現を用いることがある。  古来の劔冑鍛冶として思うところがあるのだろうか。 (客席は確認したか) «まだよ……必要あるの?» (一応、念の為だ。  視覚情報を転送しろ) «諒解»  …………?  あれは――  周囲から妙に浮いた一角がある。  あれは……貴賓席か。  一般観客席と同様に老若男女様々だが、一概に品の良い身なりをしている。  スポンサーや招待客、その関係者らに違いない。  武者の姿も見える。  だがその劔冑は今サーキットを駆け抜けているものとは全く違う。より重厚、より無骨。  軍制式の竜騎兵だ。  貴賓席の護衛だろう。〈凶徒〉《テロリスト》、そしてレースには付き物の事故に備えて配されているのだ。 (村正?) «〈異常なし〉《シロ》» (承知)  ……あの中に〈標的〉《クロ》がいれば、ある意味、話はとても簡単だったのだが。 「…………?」 「どした?」 「あ、いえ……  少し日にあてられたかしら」 「大丈夫ですか。  何でしたら、日陰に」 「いえいえ、ご心配なく。  ちょっとよろめいただけですから」 「しかし、日射病に罹ってから悔やんでも後の祭り。  大事をとられた方が良いと思います」 「あん、景明さまったら。  そんな優しいお言葉で、わたくしを物陰に連れ込もうとなさるなんてっ」 「いったい、何をなさるおつもりですの?」 「頭を冷されてはどうかと思ったまでですが」  別の意味込みで。 「わかんねぇやつだな。  年増は無理すんなって言ってんだよ、湊斗さんは!」 「あらま、いちいち引っ掛かることを言わずにはいられない反抗期真っ盛りのお嬢さん。  でもわたくしはめげません。これも本当の家族になるための試練ですもの」 「ねぇ、あなた?  わたくし、綾弥ちゃんがあなたの連れ子だなんてことちっとも気にしませんから!」 「はぁ」 「勝手な設定作ってんじゃねぇよ!!  あと、苗字にちゃん付けするなっ!!」 「暑苦しい集団でございますねぇ」  本当に。  周囲の視線から逃避がてら、時計台に目を向ける。  予備予選の終了時刻が近付いていた。  どうするべきか。  一観客の身では調査にも限度がある。ごく低い水準で。十全に近い調査を行うには、この競技場における行動の自由を確保しなくてはならない。  ここで自由に動ける人間というとまず大会役員……次いでスポンサー、参加チームの順だろうか。  そのいずれかに紛れ込むことが望ましい。  さて。  そうなると、手は―――― 「……さよ」 「は」 「あちらをご覧なさいな」 「貴賓席でございますか?」 「その……右端のほう。  堀越の姫君がいらっしゃいます」 「なんと。茶々丸さまですか!?  おやまあ、お懐かしい……」 「先刻のセレモニーで紹介されていなかったところからして、お忍びなのでしょうねぇ」 「噂に違わぬ、型破りな御方のようで」 「隣に……あれはどなたかしら。  御婦人がいらっしゃるけど」 「おそらく〈長庚局〉《ゆうつづのつぼね》なる方でございましょう。茶々丸さまの寵愛並々ならぬ女官とか。  女官とは仮の姿、あれは卑賤の出とされる茶々丸さまの母なのだと云う者もおりますね」 「……母親。  もしそうなら、あれは蝦夷の方――とっ、これは禁句でしたね」 「ま、公然の秘密というものでございますが。  堀越公方殿が〈半蝦夷〉《ハーフドワーフ》であることは」 「それにしても、少しばかり不都合ですね。  顔を会わせないように気をつけた方がいいのかしら?」 「それは、さほど気にせずとも平気でございましょう。お嬢さまとかの姫君は、あちらがご幼少のみぎりにほんの数度お会いしたきりのはず」 「ご記憶ではございますまい」 「そうね。  ならばったり出会って気まずい空気に……なんてことにもならなくて済むかしら」 「あの御方とはどう接したものか、いささか迷ってしまいますからねぇ。  獅子吼殿なら話は簡単なのですが」 「〈他の方々〉《・・・・》は出方が読めません。  友好的ということはまず無いでしょうけど」 「差し当たって、こちらからわざわざ喧嘩を売りに行く必要はございますまい」 「そうね……。  あまり気にしないことにしておきましょう」 「…………?」 (あれ? この〈音声〉《しんごう》……) (どこかで…………) 「おい。それよこせ。  そのオペラグラス」 「はっ」 「…………」 (はーん?) (大鳥姉妹の姉がいますよ?  なんでやねん) (あー……  獅子吼の機嫌を悪く〈した〉《・・》のはあれか?) (ありえる話だーねー……) (……んー?) (隣にいるのは……) (…………あれま) 「にゃふ」 「……?」 「〈御姫〉《おひめ》、御姫っ。  ちょっと面白いことになりそうな感じ」 「…………」 「調査方針を説明します」 「はいっ」 「おうっ」 「お嬢さま。無理に個性を演出すると何だかとても痛々しいですよ」  予備予選終了後、競技場内広場。  客の大半と敗退したチームが去った頃合を見計らい、俺達は行動を開始しようとしていた。  村正が感じる〈匂い〉《・・》は依然としてサーキット場周辺にある。  去っていったチームの〈騎体〉《クルス》を気に掛ける必要はない。 「主眼に据える調査対象は、今日のレースに参加しなかったチーム。  多くはパドック内の各ガレージで明日の本予選の為に騎体点検を行っている筈です」 「コースに出て練習騎航を行うチームもあるでしょうが、そちらは村正に任せて下さい。  我々はレース関係者を装ってガレージ内のチームに接触を試み、情報収集を行います」 「レース中ほど警戒は厳しくない筈ですので、殊更に不審な行動を取らねば問題は起きないでしょう。もし怪しまれた場合は迅速に撤収して下さい。無理押しは禁物です」 「質問っ」 「はい、大尉殿」 「聞き込みの方向性はどのように? 『あなた、銀星号を知りませんか』といった感じでよろしいのでしょうか」 「捻り無さ過ぎだろ、おい」 「あやしまれては元も子もありません。ひとまずは当たり障りのない会話で情報を集めるに留めましょう。何気ない雑談の中に意外な収穫が見つかるというのは良くある話です」 「ただ、それでも一応の方向を示すなら……  力に飢えている人間を探して下さい」 「それはどういう?」 「銀星号によって寄生体に選ばれる人間の、言うなれば――傾向です」 「村正、お前は引き続きコントロールタワーから監視を頼む。  これからいくつかのチームがコースに出て来る筈だ」 «諒解» «…………。  ねぇ、御堂» 「何か」 «考えたのだけど。  今回、銀星号がつくった七つの〝卵〟» «それを与えられた武者のうち、三人を私達は既に見ている。……三人、をね。  彼らには共通項があった。そう思わない?» 「……共通項」 «彼らは〈力〉《・》を求めていた。渇望していた。  他人を屈服させて、自分の望みをかなえるために» «鈴川令法、長坂右京、風魔小太郎……  皆、そうじゃない? 程度と性質の違いはあったかもしれないけれど» 「…………」 «前回、銀星号が〝卵〟をばら撒いた時にはそんなことはなかった。  寄生体はただ無作為に選ばれたようにしか見えなかったし、実際そうだったんでしょう» «でも今回は明らかに違う。  おそらくそれは、今回の〝卵〟が寄生体に私の能力を分け与えるという付加価値を持つからよ» 「……折角の力。  必要としている者にくれてやろう、というところか?」 «ええ。  寄生体は〈選ばれている〉《・・・・・・》» 「ならば――」 «力を求めている者を探せばいいのよ。  この競技場で誰よりも力に飢えている人間を……» 「力に飢えている人間……」 「……尤も、ここはレース場。  多かれ少なかれ、誰しもがそうした欲求は持っているようにも思えるのですが」 「ですねぇ」 「それでも異常なほどの執念を燃やしている御仁がいれば目立ちましょう。  注意を払ってみる価値は有ると存じます」 「はい。  では以上のような方針で開始します。効率化のため、手分けしてあたって下さい」 「はいっ! 頑張ります!」 「じゃあ行きましょうか、ばあや」 「は。  まぁ私どもは大体一緒くたでございますし」 「……さて。  では、俺も行動を開始する」 «気をつけなさいね。  ただでさえ貴方は人を警戒させやすいんだから» 「無用の心配だ。  俺とてそうしようと思えば友好的に接するくらいの事は造作もない」 「――チーム・サワダの門倉直哉」 「はい?」 「四国大会のチャンピオン。  しかし、全国から猛者が集まるこの大会で勝つ見込みはあるまいと、専らの下馬評」 「なんだよいきなり……」 「力が欲しくはありませんか?」 「え……えぇ?  あんた、一体……」 「欲しいなら、差し上げる……  そう言われたら、貴方はどうします?」 「……ひ、ひっ、ひぃーーーーっ!!  悪魔が、悪魔がオレを誘いにーーーー!?」 「果たして何が悪かったのだろう」 «何もかもよ» 「他の三人は大丈夫だろうか……」 «貴方よりはずっとね»  手法を改めることにして、調査を再開。  手近なガレージを覗いてみると、雑誌や街角でしばしば見かけるシンプルなロゴがまず目についた。  田村甲業を意味するデザイン。  戦前からの名チーム、タムラワークスのガレージのようだ。 「どなた?」 「失礼。  敵情視察といったところです」  出入口近くにいたスタッフが声を掛けてくるのへ、言葉少なに答える。  嘘をつく者はとかく多弁なもの。こういう際は多少素っ気ないくらいの方が要らぬ疑念を招かずに済む。 「あぁ、ポリスチームの人?」 「――は。そうです」 「自分が参加するのは今回が初めてなのですが……一目でわかってしまいますか」 「そりゃね。あなたみたいな強面で、参加者っていったら、ポリスチームくらいしかないでしょ?」 「…………成程」  いささか忸怩とさせる部分を含む説明であったが、胸中にはひとつ頷いておく。  彼の言は良いアドバイスになった。 (そうか。  そういうことにして貰えばいい)  今日のうちにも手を打っておこう。 「ホットボルトの調子はどうです?」 「良好です。  やはりあの騎体は素晴らしい」 「シャフト式〈四翼駆動〉《4WD》の先駆けでありながら、あの完成度は見事というほかありません。  〈整備〉《メンテ》に手を焼かされるのが難点ですが」 「よく言われます。あの時点ではとてもそこまで手が回らなかったみたいで。  でも、警察さんは大事に使ってくださって、うちとしても嬉しいですよ」  好意的な笑みを見せるスタッフ。  会話が聴こえているだろう周囲の人間も、部外者である俺を嫌がる気配は覗かせなかった。  ポリスチームの使うホットボルトはタムラの作品だ。  それだけに、敵とは言ってもなかばは身内のような意識が働くのか。情報を仕入れたいこちらとしては、好都合な事だった。 「今日はもう〈騎航〉《はし》らないのですか」 「ええ。練習は朝のうちに済ませました。  ……本番まで騎体を見せたくないんですよ。今回は」 「つまり、新型ですか」 「口チャックで」 「心得ました」 「ま、明日を楽しみにしていてください」  含み笑うスタッフに頷き、視線を巡らす。  彼はサブメカニックのようだ。それはそれで面白い話が聞けそうだが――いま俺が話を聞かねばならない人物は他にいる。  ……見当たらない。    不在なのかと思いつつもう一度首を巡らせて、ようやく発見した。  それほど目当ての人物は小柄だった。  いかにも力仕事向きな周囲のスタッフ達より二回り、三回りも小さい。  チームの中核ともいうべき立場とは対照的だった。 「……あの人は」 「ええ、うちのトップレーサーです。  ご存知でしょう?」 「勿論。雑誌で幾度も。  では、少し挨拶をしてきましょうか」 「どうぞ。  あ、ナーバスな子なんで、あまり恐がらせないであげてくださいね」 「……はい」  悪意の無さがかえって耳に痛い言葉を聞きながら、その方角へ足を向ける。  トップレーサーは壁際に座り、何かの手作業をしているようだった。  小さな金属を磨いている。〈劔冑〉《クルス》の〈部品〉《パーツ》だろう。  その手付きはひどく丁寧だった。そこにあるものが宝石であるかのように繰り返し繰り返し磨き、状態を確かめてなお満足せず、更に磨く。  自分の愛騎を土足で踏むような騎手はいない。  それにしても、タムラのレーサーが劔冑へ注ぐ愛情は一頭地を抜けていた。そもそもがそういう性格なのかもしれない。  集中して、俺の接近にも気付いていないようだ。  驚かせて手元を狂わせでもしてはばつの悪いことになる。俺は慎重に声を掛けた。 「……失礼」 「…………」  ゆっくりと、手作業に没頭していた頭が上を向く。  良く知っている顔だ。こちらが、一方的に。姓名も当然記憶している。  双眸が俺を捉えた。  その希少な職種に特有の、握力を感じるまでに精確な視線。 「〈皇路操〉《おうじみさお》さん。  初めて御目に掛かります」 「……あなたは?」 「ポリスチームの関係者、湊斗景明です」  微妙な表現を用いる。  このように言えば、全くの嘘とはならない。  そんなせせこましい小細工を咄嗟に使ってしまったのは、彼女の眼がこちらの心の奥底まで覗いているかのような錯覚を抱いたからだった。  深い瞳をしている。 「宜しければどうかお見知り置き下さい」 「……はい」 「お噂はかねがね伺っております。  昨年は各地のレースに参戦し、通算一〇勝を達成されたとか」 「……ええ……」 「御愛騎〈雷箭〉《サンダーボルト》のポテンシャルもあるでしょうが、やはり記録樹立の肝は貴方のテクニック――中でも際立つのはインの取り方」 「……」 「最短のルート選択と最少の減速幅。  陳腐な表現で恐縮しますが、芸術的としか言いようが見つかりません」 「……ありがとうございます……」 「……そういえばこの夏、練習中に接触事故で負傷されたと聞きましたが。  大事はありませんでしたか」 「……大丈夫です……」 「……そうですか。  それは何よりの事…………」 「……」  こちらが口を噤むと、もういいの?と言いたげな色を瞳に浮かべて、彼女――皇路操は作業に戻った。  俺の存在を気に掛けている様子はない。〈繊細〉《ナーバス》という割りに――いや、これも一つの繊細さの表れか。  取り付く島がなかった。  有名人ならばさもありなんと思わせるような、一般人など洟も引っ掛けないという態度とはまた違う。  別世界、という表現が一番適切だと思われた。  彼女と俺、いやほかの人間すべては、異なる世界に住んでいるのだと。  鏡の向こうの世界とこの世界との間に何かの間違いで通信回線が開いたから、対話ができているだけなのだと。  そんな風に思わせるものがあった。  別世界の住人。  〈音速領域の姫〉《レディ・ザ・ソニック》。  言葉が通じても心が通じ合わないのは、仕方がないのかもしれない。  ……とはいえどうしたものか。 〝卵〟の寄生先に選ばれた人間がもしこのガレージの中にいるとすれば、それは劔冑を操る者、つまり彼女以外にいない。  世界が違うから駄目だ、とあっさり背を向けられるものではなかった。  もう少し踏み込んで話を聞かねばならない。  ……露骨に尋ねてしまうのが、一番簡単ではあるのだが。  先刻、既にそれで失敗している。  当たり障りのない会話で情報を引き出さなくてはならない……。  忙しげに立ち働くスタッフらの姿を眺めつつ、話の種を探す。 「……このサーキットは設備が整っていますね。完全に舗装されたコースは勿論、充分なスペースが確保されているピット、パドック、選手用宿舎に食事処、更には公園まである」 「自分が学生の頃には考えられなかったことです。  あの時分からレースが好きでしばしば観戦しておりましたが、当時の競技場は実に〈単純〉《シンプル》」 「〈観客席〉《スタンド》など無くて当然、芝生の上に〈茣蓙〉《ござ》を敷いての見物が一般的でした。  ガレージなどもありませんでしたね。参加チームは自前でテントを建てていたものです」 「…………」 「それでもレースは素晴らしかった」 「中山昇、亜久田進次郎、広中兄弟……そう、それに貴方の父君、皇路卓。  彼らは悪環境を物ともせず、見事に〈騎航〉《かけ》た」 「…………」 「近在の競技場に皇路卓がやって来た時の事はよく覚えています。  その時の大会はごく小さなものでしたが、世界挑戦間近の英雄は本気の〈騎航〉《はしり》を見せた」 「彼が常にそうであったように。  ほかのありとあらゆる選手を突き放し、最先端を孤独に駆けるあの姿は今でも目蓋の裏に焼きついて離れません」 「思い出すたび、あの時の興奮が甦って心臓の鼓動が早まります。  同時に無念も湧きます。戦争さえ無かったら、と……」 「…………」  言葉を切る。  自分が単なる独白をしていることに気付いたからだ。  反応する声は全くない。    ……何をしているのだ、俺は。  鼻の付け根を指先でつまみ、軽く眼を閉ざす。  気分を切り替える。  ――単刀直入に訊いてしまおうか。  埒が明かないのだから、仕方がない。  そう思って、改めて皇路操へ目を向ける。  そして驚いた。  彼女はこちらを見ていた。  その瞳に〈揺蕩〉《たゆた》う色彩は、先程までとは違う。  別の世界ではなく、同じ世界の人間として俺の姿を捉えていた。    ――誤解に気付く。  彼女は話を〈聞いていたのだ〉《・・・・・・・》。 「続けてください。  ……よかったら……」 「…………はい」  瞳に引き込まれかける己を連れ戻し、頷く。  戸惑いは肝臓の辺りへ押し込めておいて、俺は再び話し始めた。 「皇路卓の騎航技術は当時の世界の一線級と比べてもそう遜色なかったものと思います。  殊にあのコーナーリング……」 「草間を抜ける蛇にも似た独特の旋回技法は大和の騎手の中では異彩を放っていました。  あの技術を模倣できた者は嘗ても今も存在しません」 「……実娘の貴方を除いては。  貴方の騎航は時を追う毎に、父君のそれへ近付いてゆくように自分には思われます」 「……」 「あれはやはり、父君に手ずから教えられたものなのですか?」 「……うん」 「そうですか。  嬉しく思います。皇路卓は夢を断ち切られましたが、貴方がその夢を受け継ぐならば、無念も報われましょう」 「……そう思う?」 「はい」 「……うん。  わたしも、そう思ってる」 「世界を目指されますか」 「……うん。  まずは国内で勝って……それから」 「では、この大会は重要ですね」 「……勝ちます。  必ず……最初の全国王者になる」  速度の世界の頂点を目指す少女が、小さな拳を握り締める。  そこに込められた力の強さは外見とは裏腹だ。 (…………) (力を求める理由はある、か……)  ……そんな事を考えている自分に少し、嫌気が差す。  彼女はただ、孝心から言っているだけなのに。 「強敵と思われる相手はいますか?」 「……やっぱり、翔京かな。  それに、ヨコタン……」  翔京兵商はタムラにとって長年の宿敵。  ヨコタン――横森鍛造は国内評価こそタムラと翔京に劣るが、本場欧州でアジアへの伝統的偏見を覆して声価を確立した点で、他社とは一線を画している。  どちらも最強と言い得る騎体を用意する筈だ。 「確かに、その両者でしょうね。  特に翔京はおそらく、噂だけは聞いているアプティマ系列の最終完成型を投入してくるでしょうから……」 「…………ごめんなさい」 「はい?」 「……ポリスチームは……その……  ………わたしはホットボルト、好きだから」 「……ああ、いえ。  有難うございます。自分も好きです」  不器用な気の遣い方だった。  だが、不快は全く覚えない。 「仕方がありません。  レースに勝つためには金が必要です。いかに優れたスタッフがいても、資金が不足していてはどうにもならない部分があります」 「……うん。  お金のことは、とても大変」 「ポリスチームの運営は局内外の有志の寄付に頼っています。潤沢な資金は望めません。  警察の予算から費用を取れれば少しは楽になるのでしょうが……まさか、ですし」  そんなことをすれば暴動が起きかねない。  警察予算とは即ち国民の血税なのだ。 「今回は貴方を応援させて頂きます。  同じタムラの劔冑を扱う者として」 「……ありがとう」 「先程、スタッフの方から伺いました。  タムラも新型騎を投入するそうですね」 「……うん。最新型。  タムラの技術を、全部集めた……結晶」 「興味をそそられます。  公表は明日とのことですから、詮索は控えますが――」 「……これ……」 「はっ?」  ずっと手にしていた物体を、彼女が差し出す。  金属の塊――駆動翼用のベアリングか。  ……成程。  考えてみれば当然。彼女は明日の本予選で使用する虎の子の整備をしているところだったのだ。  劔冑の整備は〈技師〉《メカニック》の仕事だが、何もかも専門知識がなくてはできない職人芸というわけでもない。  簡単な作業は素人でも手伝える。〈騎手〉《レーサー》がやっていけないという法はない。  そういう作業をするかどうかはレーサーの性格次第。全くしない、それが騎手の矜持、という者も多い。  彼女は〈する〉《・・》方なのだろう。 「これが新型騎ですか。  道理で、大切に扱っていると思いました」 「……うん。大切。  わたしの命よりも……大切」 「……そうですか。  きっと、大変な労力を費やして造られたのでしょうね」 「……うん。  これは、お父さんの血と汗」 「……?」 「身体の一部。  だから……大切にするの」 「失礼。  まさか新型騎というのは、父君――皇路卓氏が設計されたものなのですか?」  皇路卓は引退以降、一度たりともマスコミの前には姿を見せていない。  娘のコーチをしているという噂はあったが――それは事実らしい――娘のレースに現れることはなかった。  彼は今、何処で何をしているのか。憶測は様々ある。  しかしその中に、タムラで騎体開発をしているなどというものは無かった。 「……お父さんに、会いたい?」 「え……ええ。  ここにいらっしゃるのですか?」 「……うん。  ちょっと、待ってて」 「……お父さん……!」  少女が声を張り上げる。  しかしそれは、ガレージの喧騒の只中では到底通らない。  だが、付近にいたスタッフが気を利かせた。  奥に走っていき、そこにいた誰かに対してこちらを示して見せる。  ――痩せた姿が、近付いてきた。 「どうした? 操」 「……この人……ポリスチームの、ひと。  昔、お父さんのレースを見たことがあるんだって」 「ああ、それは――」  線の細い顔がこちらを向く。  一見、その容貌は記憶を刺激しなかった。余りにも違う。嘗ての大和最強騎手皇路卓は眼鏡などかけていなかったし、このように柔和な表情もしていなかった。  だが、無礼一歩手前までよくよく見て、思い直す。  眼鏡を外し、時間を逆行させれば確かにあの騎手はここにいる。表情は――過去にも雑誌記事で読んだ事はあった。私生活では別人のように温和だと。  柔弱とさえ感じる微笑の中に、敵手の内懐へ獰猛に喰らいつく餓狼の面影を見て取ることはできない。  それでも間違いなく、彼は皇路卓だった。 「湊斗景明と申します。  お会いできて光栄です。嘗て、貴方に夢中で声援を送った人間の一人として」 「いや、恐縮です。  皇路卓です――しかしどうか、僕がここにいることはご内密に」 「と言われますと……」 「もう表舞台には立たないと決めていまして。  自分なりに、『皇路卓』には決着をつけているんですよ。それをまた掘り返されるのも、ちょっとね……」 「……成程」  数瞬かけて、俺は彼の言わんとするところを察した。  挫折した皇路卓、娘と共に復活――などと無責任に囃されるのは嫌だということか。  その気持ちはわかるような気がする。 「申し訳ありません。  そういう事なら、自分のような者もご不快でしょう」 「あ、いや、そういう意味で言ったんでは。  こちらこそ申し訳ない。しまった、皮肉のようなことを言ってしまいましたね」 「あなたのような方とお会いするのは嬉しいんですよ。昔の自分がプロとして、お客さんを喜ばせてあげられていたと知ることが、不愉快なわけはありません」 「……くすぐったくもありますけどね。  嫌ではないです、決して」 「そうですか。  なら、良かった」  本心から言うことができた。  彼の言葉は嘘ではないとわかったからだ。  皇路操は座ったまま、こちらを見上げている。  その顔はどこか誇らしげだった。 「しかし、驚きました。  貴方が開発側の立場で〈装甲競技〉《アーマーレース》に携わっておられたとは、夢だに」 「ああ、操に聞きましたか。  ええ。いま言った事と矛盾するみたいですが、やっぱり世界の夢は諦められなくて……」 「無理からぬ事と思います。  貴方は世界へ指先をかけておられた。何事もなければ、そのまま登っていたでしょう」 「戦争さえなければ……」 「……ええ」  曖昧な表情で頷く。  その時、彼の顔面を駆け巡った感情の渦はあまりに複雑だった。  ――そう。戦争。  彼は世界の夢を戦争に奪われていた。  皇路卓が国内制覇を遂げ、いざ欧州へ乗り出そうとした、まさにその年。  大戦は勃発したのだ。  ……六年前、終戦を迎えた時には既に、彼の肉体の全盛期は遠い彼方へ過ぎ去っていた。  自分の努力や才能とは全く関係ない処で潰えた夢に、彼がどれほどの痛憤を抱いたか。察するに余りある。 「失礼。  無神経な事を口にしました」 「ああ、いや。お気になさらず。  済んだことですし。気持ちの整理はついていますよ」  ……今度のそれは、嘘だった。  そう見えた。 「……」 「それに、僕の代わりに娘が飛んでくれますからね……。  僕の開発した騎体で」 「俄かには信じ難い思いです。  騎手を引退後、一から勉強を始められたのですか?」 「ハハ、それはさすがに。  僕は元々メカの方だったんですよ。試作品のテストをするうちに〈騎航法〉《とびかた》を覚えて、いつの間にかそちらが本業に……という運びで」 「そうでしたか……」  初めて知る事実だ。  いや、昔そんな話を小耳に挟んだことはある、か? 「あなたが言った通り、僕は一度騎手として世界に指をかけて、そして転げ落ちました。  しかし今、戻って来たんですよ。かつての場所へ。今度は開発者として」 「タムラの技術の結晶とか」 「そんなことを言ったのか? 操」 「……うん。  だって……そうだもの」 「山崎さんが聞いたら怒るぞ。  あれの開発ではだいぶ対立したからな」 「……でも」 「相当な作品を仕上げられたようですね」 「どうでしょう?  タムラ始まって以来の駄作になるかもしれません。その可能性はあります。すでにそう声高に言っている者も社内にはいますよ」 「貴方自身は?」 「……さて。  明日の一戦を御覧あれ、というところですかね」 「……自信は充分、と」 「はっはっはっ」  はぐらかすように笑う皇路氏。  しかしその笑いの中に、俺の言葉を否定するような響きは込められていなかった。  ――さて。  そろそろ頃合いだろうか。  あまり長居しても迷惑になりそうだ。  それに、一条や大鳥大尉の様子も気になる。  彼女らを探しに行くべきか……それとも。  どうする?  邪魔にならないよう壁際に退避して、タムラの人々の作業を見守る。  一つ一つの挙措に熱意が感じられた。欠伸をしつつ手を動かしている者など一人もいない。  今回の大和GP――戦後初の国内統一選手権で勝利を収めれば、間違いなく大和における装甲競技の歴史上に不朽の名を刻むことになる。  決して風化しない金字塔だ。  それを思えばこの意気込みもむしろ当然と思える。    だが――錯覚であろうか。  タムラチームを包む熱気には、かすかに〈負〉《・》の匂いがある。  前方に輝く栄光だけを見ているのではない。同時に、後方から迫る肉食獣の影に怯えているような――  どこか、そんな気配があった。  この大会に敗れたら解散、というような話でも持ち上がっているのだろうか? 聞いたこともないが……。 「うむうむ。  いい感じに切羽詰まってんねー」 「……?」 「あんたもそう思ってんじゃない?  違う?」  傍らから、唐突な声。  振り向いて、最初に目に入ったのは、稀有な光沢を放つ髪だった。  小柄な人影がそこにある。皇路操と〈互角〉《どっこい》だろう。  判別の難しい身なりをしていた。レーサーには見えない。サポートスタッフとも思えない。ただの観客というにも納得し難い部分がある。  無論、面識はない。  言葉を探すうち、その少年は再び唇を動かしていた。  化粧によらない、薄紅色の唇。  ――その一瞬、奇妙に魅かれた。 「理由は知ってる?」 「とは」 「張り詰めてる理由さ。  月桂冠が欲しいだけじゃないんだな、このタムラの皆さんは」 「……」 「あ、あのぉ……  チーフを呼んで参りましょうか? 今少し、席を外してるんですが」 「あー、いいよ別に。気にせんといて。  ちょっと覗きに来ただけだからさ」  恐る恐るといった風情で尋ねてきたスタッフを邪険に追い払う。  スタッフの態度と、その視線の先を追って見て、俺もようやく気付くことができた。  来賓章だ。  つまりこの少年は、主催者に招かれて貴賓席に座る身分。 「……ポリスチーム関係の湊斗景明です。  卒爾ながら、貴方はどちらの方ですか?」 「そーだなー。  地球皇帝とでも名乗っておこうか」 「諒解しました。  地球皇帝陛下」 「突っ込み無しは予測済みだったのであてはめげたりしないのであった」 「すいません、今の無しで。  ワタクシはこういう者です」  ポケットから名刺を取り出して寄越す少年。  失礼のないように受け取って、そこに記された文字列を読み取る。       〈灰色の荒野〉《コンクリートサバンナ》を駆け抜ける風           〈弾丸雷虎〉《ダンガンライガー》・見参!!  「……申し訳ありません。  何処から何処までがお名前ですか」 「ダンガンライガーです。  ライガーと呼んでください」 「灰色の荒野を駆け抜ける風というのは」 「職業です」 「成程」  ……何をする職なのだろう。 「で、どうよ。お兄さん。  この連中のことどう思ってる?」 「確かに、奇妙な空気の存在は感じます。  しかしわかりません。今のタムラに、何か〈否定的〉《ネガティブ》な要素があるのでしょうか」 「あるんだー、これが。  勝ちたい理由のほかに、負けられない理由ってのがあったりする」 「それは、お尋ねしても宜しい事でしょうか」  無用の詮索は非礼にあたる。  だが俺がここにいる目的を思えば、水を向けざるを得ない。 「でなけりゃ話しかけないよ。  なにね。このヒトたちはピュアにレースを戦いたいってこと」 「……?」 「〈金〉《・》の話をコース上にまで持ち込みたくないのさ。レースで走る騎体を用意するのに金が掛かるのはしゃあない。けれど、グリッドに並んでからゴールするまでは忘れていたい」 「お客さんにも忘れてほしい」 「…………。  〈そういう動き〉《・・・・・・》があるのですか?」 「そりゃもうアリアリ。  金に飢えた連中がこんなうまそーな食材を見逃すわけないっしょ?」 「確かに。  〈装甲競技〉《アーマーレース》は今現在の大和で最も人気のあるスポーツの一つ……」 「もしも、〈賭博化〉《・・・》に成功すれば莫大な利益が見込めるでしょう」 「そういうことですね」 「タムラは反対派という事ですか」 「あとニチモー、ユーゲン、メーカーサイドではそんなもんかな。〈個人チーム〉《プライベーター》にはタムラ側が多いね」 「推進派は」 「ぶっちゃけそれ以外全部。  中心は翔京だな。もう運営委員会の名簿もできてるらしいよ? もちろん半数は自社の人間」 「ヨコタンもそちらの側なのでしょうか」 「最初はトップが渋ってたけど、結局折れた。  まー、仕方ないんでない? 翔京には刃向かえても、そのバックには尻込みするでしょ」 「……〈背景〉《バック》」 「翔京の社長の姉の亭主は、大和GP主催者サマに仕える侍大将」 「主催者……  小弓公方、今川雷蝶中将ですか」 「いち企業の身で逆らうには、ちょっと荷が勝ち過ぎると思わん?」 「異論はありません」 〝公方〟とは六波羅の軍司令官、もしくはその隷下の司令部を指す。  正しくは前者を管領と云い、後者を公方府と云うが。  公方は下総古河、下総小弓、伊豆堀越、会津篠川の関東四点に設置され、それぞれに枢要である周辺地域一帯において軍政両権を掌握する。  彼らの上には幕府の長たる〈六衛大将領〉《りくえたいしょうりょう》が在るのみだ。  これと格式上は同等の存在として京都の室町探題、九州の大宰府、陸奥の鎮守府があるが、いずれも公方府ほどの実権力は備えていない。  関東四公方は別格の存在であるといえる。  つまりは六波羅幕府の首脳。垢じみた表現を用いて四天王などとも称される最高幹部だ。  翔京がこれと繋がっているのなら、その鼻息はさぞ荒いことだろう。 「むしろ、タムラはよくも抵抗していられるものですね」 「レースを愛してるんだろ。  競馬みたいにはしたくないんでない?」 「成程。  既に前例がありましたか」  大和においては完全に賭博化した競馬。  純粋にスポーツとして楽しむには、余りにも〈生臭い〉《・・・》。 「その点を思うと、自分としてもタムラ側に心情が寄ります」 「あても同感。競馬は競馬で好きだけどね。  装甲競技をそうしちまうのは無粋だってば、絶対」 「……それをあのカニカマ野郎は。  耽美派気取ってやがるわりに、身の回りのゴミには無頓着なんだよな」 「ち、いい迷惑だってーの」 「……」  誰のことだろうか。 「まっ、それでも諦めたもんじゃない。  話がどう転ぶかはまだわからんし」 「六波羅が背後にいても、ですか?」 「ギャンブル化を推進してる連中はそれで大儲けするのが目的なんだろ? なら、御上のご威光だけじゃ足りないね。  もう一つ必要なものがある」 「……ご尤も。  馬券を売り出しても、買う人間がいなくては意味を持ちません」 「そーさ。客層の支持が要る。  客が賭博化にそっぽ向いたらおしまいだ」 「六波羅がついてたって関係ねぇ。  まさか無理矢理チケット買わせるわけにもいかんだろし………いや、やってもいいけどそれなら普通に徴税した方が早いしなー」 「その点について、推進派はどのような画策をしているのでしょう」 「絶対的な人気をゲットする。  その人気に物を言わせて客を取り込む」  〈わかる〉《ゆー、しー》?とこちらの顔を覗く少年。  頷いて、俺は端的に答えた。 「初代国内統一王者。  第一回大和GP優勝の栄冠」 「ま、それが最高のカリスマだよな。  かくして翔京は借金こさえて資金を集めて、アプティマの最終構想を突貫工事で完成まで漕ぎ着けて、投入してきたっつーわけだ」 「絶対に負けられない勝負、と」 「タムラ側にとってもね。  客の支持を得られれば勝ちってのは反対派にだって言えるこったから」  謎は氷解した。  それで、ここタムラワークスのガレージ内には一種異様な緊張の雲が垂れ込めていたのだ。  この戦いに敗れれば、スポーツとしての装甲競技は失われる。  その覚悟を皆が共有しているのだろう。  俺は未だパーツ磨きを続けている皇路操を見やった。  幾度見直しても、小さな身体だ。  彼女はあの小さな背に、父の夢と、レースを愛する人々の想いとを乗せて〈騎航〉《はし》る。  それが重荷でないとは到底思えない。  だが彼女の冴えた相貌に、怯えや惑い、疲労すら、見つけることはできなかった。  ひたむきな何かだけがある。 (大した少女だ)  その感慨はごく自然に、俺の胸を占めた。 「さてっと。あてはそろそろ行くわ。  くだらない用事がつかえてるし」 「お仕事ですか」 「仕事っちゃ仕事かな。  糞つまらん〈宴会〉《ぱーちー》に顔を出すだけなんだけどねー」 「お疲れ様です」  やはりそれなりに身分ある人間のようだ。  スポンサー企業の令息、その辺りか。 「じゃ、お兄さん。まーた」 「はい。  面白いお話を聞かせて頂いた事、感謝致します」 「なんの。  ……あ、お兄さん。ちょい、こっち」 「?」  小声になって、少年が手招きする。  俺は誘われるまま、背を丸めて顔を寄せた。  瞬間。  鼻腔をついた肌の香りが、俺に〈誤解〉《・・》を直感させ―― 「――――!」 「湊斗景明。  黄金の夜明けを導くもの」 「あなたの存在に愛と感謝を。  ……こんなに優しい声の〈男性〉《ひと》だったなんて、嬉しい」  そんなことを囁いて。  体を離すと、〈少女〉《・・》はまたねー、と手を振って去っていった。  現れた時と同様の唐突さで消えてしまう。  後には中腰のまま呆然とする俺だけが残された。  ……思えば、そもそも。  彼女はどうして、俺にあのような話をしたのだろう。  何故あのように親しげだったのだろう?  過去に面識はないと思うのだが……。  首を傾げるべき点は多かったが、ここで思い悩んでいてもどうにもなりそうにない。  俺は皇路親子に挨拶をして、ガレージを出た。  時間は有限だ。  他の場所も見て回らなくてはならない。  一条はこの辺りで調査を行っている筈だが…… 「――――!」 「――――!」  ……気のせいだろうか。  耳に遠く響く喧騒が、何か良からぬ事態を示唆しているように思えてならない。  俺は小走りに駆けて、声のする方角へ向かった。 「謝れっつってんだろ!」 「ふざけんな!」  果たして、一条はいた。  どこかのチームのガレージの前。整備士らしき大男と対峙し、険悪な形相を交換し合っている。  そして一条の背後には、尻餅をついた男の子。 「ここは関係者以外立ち入り禁止だ! そこにそう書いてあんだろうがッ!  勝手に入り込んできたその餓鬼が悪いんだよ!!」 「だからって襟首掴んで放り投げていいって決まりがあるかよ!  大の大人が子供苛めて喜んでんじゃねぇ!!」 「んだとォ――」  ……事情の説明を求めるまでもないようだった。  状況は極めて明快だ。  俺は足も止めず、そのまま二人の間に割って入った。 「湊斗さん!?」 「なんだてめェ」 「申し訳ありません。  この者は自分の身内です」 「湊斗さんっ、こいつは――」 「黙れ」 「……っ」 「身内ぃ?」 「はい。  この者の非礼は、自分が――」 「……ッッ」 「――の野郎ォッ!!」 「黙れと言った」  飛び出しかける一条の腕をつかみ、後ろへ除ける。 「こっちゃあ忙しいんだよ!  下らねえことで騒ぎやがって!」 「ご迷惑をお掛けしました」 「……ッ……!」 「とっとと消えろッ! ボケが!」 「はい」  頭を下げるこちらにぺっ、と唾を吐き捨てて大男がガレージへ戻ってゆく。  手巾で頬についた汚れを拭い、俺は向き直った。 「行くぞ」 「…………」 「大丈夫ですか」  子供の方に尋ねる。  彼は立ち上がると、こちらをきっと睨みつけて言い放った。 「いくじなしっ」 「……」 「おい、このガキ――」 「止せ」  一条の方を向いてぺこりと頭を下げると、男の子は廊下を走り去っていった。  シャツの背にプリントされたチームロゴが遠ざかる――大男の作業着にあったのと同じロゴだった。  ……騒ぎを起こしてしまった以上、この近辺で調査を続けることは望ましくない。  俺は子供と正反対の、広場へと続く方角へ向かって歩き出した。少し遅れて、一条が追ってくる。 「……」 「……」 「……あの」 「何だ」 「…………。  あたしは、間違ってるんでしょうか」 「……」 「一条。  俺達は騒ぎを起こすためにここへ来ているのではない」 「……はい。  すみません……」  しょげた気配が背筋を打つ。  俺は振り返らなかった。 「間違ってはいない」 「……えっ?」 「事情は大体飲み込んでいると思う。  ガレージに忍び込んできたファンの少年を、あの整備員が手荒に扱った。違うか」 「えと、はい。そうです。  だから、あたし……」 「お前が怒るのは何も不思議な事ではない。  弱者への暴力は最も卑劣な行為だ」 「お前の怒りは正しいと、俺は思う」 「……はいっ!」  溌剌とした声。  曲がりかけていた背筋がぴんと伸びたな――と、俺は気配だけで理解した。 「あの、それじゃあ……  湊斗さんは、どうして」 「理由一。俺達の目的を考えるなら、騒ぎを起こすのは得策と言えない。  実際、あの辺りでの調査はできなくなった」 「……はい。  ごめんなさい……」 「謝る必要はない。  理由二。あのまま論争を続けた場合、暴力沙汰になるのは避けられそうになかった。  だから頭を下げて、打ち切った」 「そんなっ。  湊斗さんならあんなの、簡単に――」 「殴り倒して頭を踏みつけて御免なさいもうしませんと謝らせるべきだった、か?」 「……え、えーと……」 「はい……」 「そうかもしれない。  あるいはそれが正しいのかもしれない」 「だが、俺は嫌だ」 「……どうしてですか?」 「いま言った筈だ。  弱者への暴力は卑劣だと」 「…………」 「あの男性は民間人にしか見えなかった。  戦闘技術を心得た人間と争って勝つ方法をおそらく、何も持たないと推測される」 「そんな相手に、理由はどうあれ、一方的な暴力を加えるなら……  俺は俺を嫌悪する」  ――〈だから〉《・・・》。  俺は俺を嫌悪している。  吐き気を覚える程に。 「…………。  でっ、でも、向こうが殴ってきたら、仕方がないんじゃ……」 「殴られるのは別にどうということもない。  痛いとも思わない」 「〈害する〉《・・・》ことに比べれば、害されることなど何も痛くはない」 「…………」 「一条」 「……」 「調査を再開する。  この先は俺に同行しろ」 「? ――は、」 「はいっ!」  ……?  子供の泣き声が、何処からか聞こえてくる。  反響して位置をつかみ辛いが……。  こちらか?  いた。  泣きじゃくる子供と――大鳥大尉?  子供は六、七歳と見える。  腰を落として視線の高さを合わせ、大尉は彼に問いかけていた。 「もしもし、あなた。  いったいどうなさったの?」 「えぅ……うー。  ひぐっ……」 「どうなさったの?」 「ひぅ……うぅー。おかーさん……」 「お母さまが?」 「へくっ……  えぅ……どこぉ……」 「お母さまが、いないの?」 「……えぅー……」  対話が成立していない。  香奈枝嬢はしきりに声をかけているが、子供は泣くのに夢中だ。  大尉の袖口をきっちりと掴んで離さずにいるから、存在を認識しているのは確かだが。  さよ侍従は背後に控え、口を挟まずにいる。 「お母さまが何処にいるかわからないのね?」 「うー……ぅぐぅ。ぐす……」 「…………。  あなたのお名前は?」 「ひぐ……えぅ。  さがしてよぉ……」 「…………。  お名前は?」 「……びぃー!」 「…………」  数秒、沈黙の後。  大尉の行動はあっさりしたものだった。  子供の手を振り払って、立ち上がる。 「行きましょう、さよ」 「はい」 「……?  えぅぅーー!!」 「……」 「……」 「まってー……  おかーさん……さがして……」  立ち去ろうとする大尉の後を追い、子供がスカートの裾をつかもうとする。  だが、触れられない。大尉は軽く身を翻し、小さな手を躱していた。  つんのめって、子供が転びかける。 「……あぅー……」 「おなまえ、は?  お母さまがあなたに付けて下さったお名前。ちゃんとあるでしょう?」 「……」 「……」 「……ひらた……かずき……」 「承りました」  美しくターンを切って、大尉が子供のもとへ戻る。  両手を差し伸べて、抱き上げた。 「お母さまと、はぐれてしまったのね」 「うん……」 「わかりました。探して差し上げます。  さよ、あなたは大会本部の方に。わたくしは客席を見てまいります」 「かしこまりました」  短い言葉で分担を決め、きびきびと動き始める二人。  たちまち姿が見えなくなる。  あの分ならきっと、すぐに母親を見つけ出すだろう。 「…………」  ……出てゆくタイミングがつかめなかったが。  むしろそれで良かったのか。俺がいても、あのようには振舞えなかったに違いない。  日が落ちる頃合を見て、その日の調査を終了。  これ以降は不審者を見る眼も厳しくなる。急いて事を仕損じる危険を避けるには、ひとまず撤退するよりなかった。  合流し、署長宅へ帰着。  茶を貰って一息つき、互いに情報を開陳する。  着眼すべき成果は三つだった。  一。  今日の予備予選に参加した騎体、及びその後で練習騎航を行った騎体の中に、寄生体は存在しない。  村正が確認完了。  尚、タムラや翔京、ヨコタンなど有力チームの多くは姿を見せなかったため未確認である。  二。  どのチームもこの大会にかける意気込みは盛んであり、「力を求めている」と云い得る。  事前の予想通り。  三。  装甲競技の賭博化をめぐっての対立が存在する。 「賭博化?」 「簡潔に言えば競馬のように、だ。  勝馬投票券を客に売って稼ごうという事」 「わたくしもそういう噂は聞きました。  推進派の中心は翔京、反対派はタムラとか。そして、翔京の背後には」 「六波羅。  翔京の社長は大会主催者今川雷蝶の部将と義兄弟の関係にある……」 「と、いうことのようでございますね」 「ちっ。  山犬ども、年がら年中〈さかりっぱなし〉《・・・・・・・》ってのは今更だが、場所も選ばねぇのかよ。  こんなとこまで餌漁りに来やがって」 「だが、いくら六波羅の支援があろうと客に嫌われては賭博化は成立しない。  そのため翔京は今大会での栄冠獲得に全力を注いでいる。反対派のタムラもまた同様」 「賭博化ですか。  それは例えば、競馬のように」 「ええ。そういうことなのでしょうね。  装甲競技の人気の高さからして莫大な利益が期待できます」 「確かに。  しかし、対立があるとのお話ですが?」 「はい。  タムラを中心に、一部で」 「なんで反対してるんだ?」 「それこそ、競馬のようにしたくないからでございましょう。海外ではともかくこの国における競馬はなかなかに紳士の遊戯とは呼びにくいものになってしまいましたから」 「なるほどね。そりゃそうか。  楽しくレースをやってる連中にしてみれば、同じテツを踏むのは勘弁ってことだな」 「対立の構図及び優劣は如何なものでしょうか。大尉殿」 「申し上げました通り反対派はタムラ中心。  一方、推進派の中核は翔京です。圧倒的に優勢なのはこちら側。後光の輝きが強いので、大概の関係企業は目を伏せて従っています」 「後光?」 「あなたの大好きな六波羅様」 「……へっ。  金の匂いがするとどこにでも首を突っ込みやがるな、あの山犬ども」 「具体的には、小弓公方今川雷蝶さまの幕僚との間に太いパイプがある模様でございます。  大将領殿下のご子息の姿が背後に見え隠れしていては、逆らうのも覚悟が要りましょう」 「しかし、背後に幕府がついていようと客層の支持がなければ賭博化は難しい筈。  レース愛好者たちがそのような変化に背を向けたなら、それまでの事です」 「その辺りについては?」 「だからこそこの大会なのです、景明さま。  ファンが待ち望んだこの大和GPで勝利を収めれば、人気はそのチームに集まります」 「後は、その人気を背景に賭博化への支持を得てゆけばよろしゅうございましょう。  もっともこれは、反対派にも同様のことがいえる理屈でございますが」 「……成程。  推進派の翔京、反対派のタムラ、いずれにとってもこの大和GPが天王山という事ですか」  ――大体、状況は整理がついた。  現時点で決定的な調査成果はなし。  だが、容疑の濃い対象は指摘できる。 「タムラか、翔京か」 「おそらくはどちらかが……」 「どちらも明日の本予選に参戦いたしますね」 「なら、明日にはわかるってわけだ」  明日。  決勝レースは明後日だ。だが、俺にとっては明日が勝負になる――か。 「……翔京の方だといいんだけどな」 「…………」  一条が洩らした一言は、奇しくも俺の心情の率直な部分と一致していた。 「はぁ、ふぅ……  み、操ちゃん、こっちもよろしく頼むよ」 「……はい……」 「んおっ!  はぁ……たまらんっ!」 「操ちゃん、こっちもだ。  もっと深く咥えてくれ」 「はい……んっ、く」 「おおっ、吸いつく、吸いつく。  いい感じだよ操ちゃん」 「はっはっはっ、あんなにちゅぱちゅぱ音を立てて汚らしい肉棒を吸い上げて……  操ちゃん、そんなに好きなのかい?」 「ちゅっ……っ。  ……はい……」 「ふふふ、何が好きなのかなぁ?」 「……んふっ。  ちゅっ、はふ、んく……」 「だめだよー操ちゃん、聞かれたらちゃんと答えないと。  でないと、こんなことしちゃうよ?」 「っ!? ごほっ! けほっ……」 「ほーら」 「んっ、くふっ、いや……  やっ、やめてください。ちゃんと、しますから……」 「その前に答えてよ。  操ちゃんは何が好きなのかな~?」 「……っ……はい……。  こ……これを……」 「ん~?」 「おじさまたちの……  ……太くて……たくましい……男性器を………吸って、嘗め回して、しゃぶるのが……」 「……操は……大好きです……」 「ははははは!  やれやれ、なんてはしたない子だ!」 「困ったものですなぁ。こんな淫乱では将来が心配です。  うちの娘はこんな風にならないように気をつけなくては」 「いやいやまったく。  お父さんも大変でしょう、ん?」 「ははは……」 「いや、これはこれで可愛いじゃないですか。わしは一息ついたらもう一発いきますぞ。  ああ、皇路君。一杯ついでくれ」 「は、はい。どうぞ」 「ほぅら、操ちゃん。  大好きなおじさんの一物だぞぉ? お顔にこすりつけてあげようねぇ」 「あぅ……んっ」 「嬉しいかい?」 「……っ、はい……嬉しいです」 「そうだろうそうだろう。  もっと鼻を近づけて。匂いも嗅いで」 「んっ……」 「ははは、素晴らしい光景だ。  こんな綺麗な娘さんが、脂ぎった男の股間に顔を寄せて、鼻を鳴らしているなんて!」 「はぁ……ふぅ……」 「いい匂いなんだろう?」 「……はい……  素敵……です……」 「いい子だなぁ操ちゃんは。  じゃあ、ご褒美をあげよう……かっ!」 「あぅっ!」 「そぉら、うははっ。  こうされると、気持ちいいだろうっ?」 「あぁ、ひっ……はんっ!  いや、そんな、激しく……あふっ」 「おじさんの先っぽが、操ちゃんの一番奥をつつき回してるぞぉ。  ははは……最高だぁ」 「ううっ、はぁう……  き、きつい、です……おねがい、やさしく……」 「ひぃ、ふぅ、どうだ。  おじさんと操ちゃんが、こんなに深くつながってるぞぉ……!」 「あぁ、ああ……!  おねがい、です……ゆっくりに、して……」 「はぁはぁ……じゃあ、言ってごらん。  おじさんと一つになれて嬉しいって」 「うく、あっ、はぁ……っ!  み、操は……んっ」 「おじさまと……ひとつになれて……  うれしい、です……っ!」 「くはっ、たまらん!  このまま一気に行くぞぉ!」 「んぁぁっ!」 「操ちゃん、こっちも忘れずに頼むよ。  わしもそろそろイかせてくれ」 「うぅっ……んっ、ちゅ……」 「おお……イくぞ、イくぞ」 「ほら操ちゃん、君も腰を振って!  おじさんのモノをずっぽり咥え込んで!」 「んくっ、あぅっ、あぁぁ!」 「いいぞいいぞぉっ! お尻がくねくねしていやらしいっ!」 「操ちゃん、出すよ……  口の中に出すからね」 「んっ!」 「おおぅ……  出る出る。操ちゃん、吸って! 全部絞り取ってくれぇ」 「んっ……んくっ……ちゅぅ、んぐ……」 「んぅ……」 「ようし……出た出たぁ。  操ちゃん、口を開けて見せてごらん。零さないようにねぇ」 「……っ……」 「おほ、一杯出たなぁ。ははは!  さあ、それをどうすればいいかわかるね?」 「……っ。  んっ……こく、ぅく……んくっ」 「飲んでる飲んでる。  たまらないなぁ、こんな若い娘の口の中に生臭い精子を思う存分吐き出して、そのうえ全部飲ませるというのは!」 「っ……」 「ひひ、操ちゃん……こっちにもご馳走してあげるぞぉ。  上のお口だけじゃ足りないんだろう?」 「そぉ、れっ!」 「はぁっ!」 「ここかぁ?  操ちゃんの子宮口はここかぁ!?」 「んっ、あっ……だめ……」 「おおっ、イイ!  最高の締まりだっ!」 「あっ……あぁーーーーっ!」 「うはは、イったな!  操ちゃんもイっちゃったなぁ!」 「おじさんの精子を子宮に注がれてイっちゃったんだな!」 「……ぁっ……はぁ……」 「おお……まだ出る、まだ出るぞ。  ぜぇんぶ奥の奥に出してやるぅ……」 「うぅ……」 「うはぁ……会長、また濃いのを大量に出しましたなぁ。  困りますよ、操ちゃんが妊娠してしまったらどうするんです?」 「ふぅ……心配はいらん。  避妊薬はちゃんと飲ませたじゃないか」 「完全ではありませんよ。  稀に出来てしまうこともあります」 「なに、それならそれでいいじゃないですか。  その時は操ちゃんに世界初の妊婦レーサーになってもらいましょう」 「はははっ、そりゃあいい!  大きなお腹を抱えてサーキットを飛ぶわけか!」 「話題性は充分だねぇ。  我々もタムラに金を出す甲斐があるというものだ」 「……ははは」 「どうだね、お父さん。  そんなのもなかなか面白いとは思わないかね?」 「……え、ええ。  それはもう、スポンサーの皆様が望まれるのであれば」 「はっはっは! そうかそうか。  操ちゃん、お父さんもこう言っているぞ。どうだね? おじさんの子供を孕んでくれるかね」 「……」 「……はい。  お望みなら……」 「よしよし。  操ちゃんは素直で大変よろしい」 「いや、本当に。これだから情にほだされてしまいますなぁ。  我々にとってタムラの〈競技用劔冑〉《レーサークルス》部門への資金援助は特に魅力的ではないのですが……」 「このように身体を張って誠意を示されては仕方がない。  金のことは心配せず、存分にやりたまえよ、皇路くん!」 「……ありがとうございます」 「はっはっはっはっは!」 (……笑っていろ) (いくらでも笑え。  お前らのことなど人間とは思っていない) (牛の世話をしているようなものだ。  金という乳を搾り出すため、餌を食わせて糞尿の始末もしてやっているに過ぎない) (家畜の世話をすれば汚れるのは当然だ……  それだけのことだ。それだけの) (僕と操が手にする栄冠の前には……  こんな事、何程のものでもない) (あるものか……) 「…………」  翌日、本予選。  俺は他の三人に少し遅れて競技場へ到着していた。昨日のうちに署長へ手配を依頼していた件について、確認を取っていたためだ。  幸い、本予選はまだ開始されていなかった。  コース上に騎影はない。 「……ポリスチームに、ですか?」 「ああ。  署長に依頼して手を回して貰った。我々は今後、ポリスチームの構成員として行動する事ができる」 「これが証明証だ。  持っておけ。関係者以外は立ち入り禁止の区画にも、これを示せば堂々と入れる。昨日のように忍び込む必要はない」 「はいっ」 「だいぶ行動しやすくなりますね。  逆に、ライバルチームの人間ということで警戒させてしまう場合もあるかもしれませんけれど……」 「その辺りは臨機応変でようございましょう」 「そうね」  そんな話をするうちに、本予選開始を知らせるアナウンス、続いて空砲が鳴り響く。  既に待ち構えていたと思しきチームがおよそ十余り、ピットに飛び出して騎手をコースへ送り出した。  〈忽〉《たちま》ち合図の空砲など圧する〈合当理〉《がったり》の轟音が唸り狂い、人型の銃弾が舗道の上を疾駆し始める。  そしてその轟響をもかき消す勢いで、観客席からは熱狂的な声援が沸き上がった。  レースの始まりだ。 「……どうですかっ?」  装甲競技に慣れていない一条は、耳をやられたのだろう。両手で音を防ぎつつ尋ねてくる。  レースを知っている人間にとって、開始直後の狂乱は常識。大鳥主従は平然としていた。  俺はサーキットを確認した。  翔京、タムラ、どちらの姿もない。  開始直後の混乱に巻き込まれて騎体を損なう危険を案じたに違いなかった。場慣れた振舞いである。  事実、二、三騎ほどが第一コーナーで衝突し合い、跳ね飛ばされて早くも無惨な姿を〈退避域〉《エスケープゾーン》に晒している。  うち一騎はサンドトラップに頭から突入していた。  あれはもう駄目だろう。 「村正。現状報告」 «該当騎なし。  ……ちなみに、壁に突っ込んだあれは迅速な救助が必要» 「そのようだな」  コントロールタワーの屋上からでも、村正の視力をもってすればそこまで視認できるのだろう。  俺の肉眼でも衝突の具合から想像はついた。  だが、サーキット場のスタッフはこのような事態に慣れている。  すぐさま数人が飛び出し、火炎を噴く〈補助推進器〉《アフターバーナー》に消火剤を浴びせ、騎手を救い出していた。  あの様子なら、命に別状はないだろう。  劔冑は全損し、鉄屑に成り果ててしまっているが。 «……脆いのね» 「そういうものだ。仕方ない」  呆れたような困惑したような村正の呟きに答える。  戦乱の時代を生きた鍛冶師にしてみれば、高空から墜落したならさもあれ地表で衝突事故を起こした程度で壊れる劔冑など論外に違いないが。  競技用劔冑は低空機動力において優れる反面、身体強化性能、装甲強度など戦闘に関係する能力は大きく劣る。  理由は簡単で、必要がないからだ。  規定上合法である体当たり、そして衝突事故から、騎手の生命を守る程度の甲鉄があれば充分とされる。  他の工夫は全て速度を、運動性を高めるために費やされる。そうでなくては勝てる騎体は完成しない。  極限まで速度を追求した劔冑は生命を守る装甲さえぎりぎりの底辺に抑えられるのが常だった。  一条にかぶりを振って返答を伝え、そんな霊柩車も同然の代物に全存在を託す闘争者らの姿を見続ける。  二強の姿はまだ無い。 「早くも一騎、突出しておりますね」 「ヨコタンのスーパーハウンド……  このラインナップでは敵無しでしょう」 「騎体だけでなく騎手も一流です。  ベルト駆動の翼をよく御している」 「駆動ロスが少ないだけに制御が手強い部分もあるはずですのにね。  教科書的なコーナー攻めも、まずはお見事」 「なあ……。  今日のこいつは、どういうルールのレースなんだ?」 「昨日とおおむね同じでございますよ。規定時間内に達成した〈周回記録〉《ベストラップ》を競います。  その上位二〇騎が、明日の決勝レースへの出場権を得られる次第で」 「じゃあ、さっさと始めた方が有利なんじゃねえのか?  まだ出てきてないチームは大分いるよな?」 「基本的にその通りでございますが、慌てる乞食は貰いが少ないとも申します。  焦りすぎると先刻のように、痛い目を見ることもございますので」 「ああ、そっか……」 「決勝進出がほぼ確実の実力チームにとって、恐れるべきは敵よりも事故。  頃合を見て参加し、充分な記録を出したら速やかに退去する。それが〈定石〉《セオリー》でございます」 「あ、もう引き上げてる」 「そう、あのように。  ヨコタンでございますね。記録は……一分二七秒一九。なるほど、なるほど」 「いい記録なのか?」 「上位五騎の内には間違いなく入ります」 「へぇ……  ん? あれは何やってんだ?」 「はて。何か信号旗が出たようでございますが……  お嬢さま、お分かりになりませんか?」 「……無効騎航の通告、ですね。二五番――イシュトラ蜥蜴兵団さんのダガーアプティマに対して。  どうやらアーチオーバーのようです」 「アーチオーバー?」 「コースの上に、いくつも〈半円橋〉《アーチ》が掛かっていますでしょう?  レーサーは必ずあの下をくぐっていかなくてはならないのです」 「……あぁ、なるほど。そりゃそうか。  あいつらは空飛んでるんだから、そういうルールがなけりゃコースなんて意味ないよな」 「くぐり損ねた場合は、そこから先の騎航を無効にされてしまいますの。  戻ってくぐり直さない限り」 「ま、予選では大した問題ではありません。次の周回で気をつければ良いだけのことですから。  しかし決勝レースでは致命的になります」 「最少でも五秒から十秒のタイムロスは覚悟しなくてはならない。そうなれば勝利はまず無理だ。  レースが荒れている場合は、また別だがな」 「はぁ……。  ところでわりと気になってたんですけど。湊斗さんてもしかして、〈装甲競技〉《アーマーレース》が好きなんですか?」 「好きだ」  学生時代は装甲競技研究会に属していた。 「あ、やっぱり。  ……じゃっ、じゃあ、湊斗さん。あたしに教えてくれませんかっ。レースのこと、色々」 「お嬢さまぴーんち!  敵は『あなたと趣味を合わせたいの』攻勢に出てまいりました。この戦法は単純ながら男心に訴えるところ大、極めて有効です!」 「なんですってーー!?  許さなくてよそのようなことッ!」 「ばっ、ちがっ、違う!!  あたしはただ……知っておけば捜査の役に立つんじゃないかと思ってっ」 「見事な建前でございます。  では、本音の方は?」 「えっ? うん。湊斗さんのことを、もっと知りたいから……  じゃねぇー!! なに言わせやがる!?」 「乙女ちっく」 「乙女ちっく」 「口に接着剤塗るぞてめーらっ!?  み、湊斗さんも何とか言ってくださいっ」 「良いのか」 「え?」 「レースの事……  発祥に始まり、欧州での爆発的流行、大和での幕開け、発展」 「〈四翼駆動〉《4WD》の発明、〈補助推進器〉《アフターバーナー》の登場、田村鉄鋼斎の偉業、ヨコタンの怪物騎ハウンドの欧州侵攻、広中兄弟の苦闘――」 「話し始めたら一時間では終わらんが」 「……え、えーと」 「いや、丸一日は必要になる。  シャフト駆動・チェーン駆動・ベルト駆動のそれぞれの長短について説明し、五四〇型アフターバーナーの機構を図説」 「そしてボールベアリングが駆動系に及ぼす影響の実態と避けて通れないアンダーステア対策について述べ、ミッドシップ構造の功罪に移り、四翼独立サスペンション」 「これはホットボルトとその前後作品を比較評価して解説するのが最もわかりやすいが、であればまず順序としてタムラの〈二翼駆動〉《2WD》騎における傑作・〈雀蜂〉《ワスプ》の評価から――」 「あ、あのー。湊斗さん?」 「景明さま、しっかりなさって!  なんだかキャラが変わっていましてよ!」 「……あたしが悪いの?」 「殿方には押してはならないスイッチというものがあるのでございます。年齢、人格には一切関係なく。  どうかご注意くださいませ」 「――つまりサンダーボルトの登場によってタムラの四駆はひとまず完成の領域へ到達を果たしたと云えるのだが、それは反面、翔京や横森との差を浮き彫りにしたとも云え――」 「まあそれはそれとして、コレはいかが致しましょうか?」 「とー」  首筋に良い一撃が入った。 「…………失礼。  いささか我を失っていたようです」 「もう、景明さまったら。うふふ」 「一条。話は暇のある時にしよう。  今の俺達にはやることがある」 「は、はい。そうですね」  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  眼下の状況は推移すれど異変なし。  隣には一条。  大鳥主従の姿は欠けている。  香奈枝嬢の髪に砂が絡んだとの事で、体を洗い流しに行った。 「お前はいいのか。  オフロードコースから相当の砂塵が飛んできているようだが」 「平気です。  こんなの、別に気になりません」  事もなげにそう云う、一条の頬や髪は所々白い。  元が整った容貌をしているだけに、些か目立つ。  女性なのだ。もう少し、身嗜みには気を払った方が良いと思うが……  物の考え方は人それぞれ。意見の押し付けは迷惑というもの。  ――だが、気になる。  他人と思えば見過ごせようが、今この少女は仮にも自分の部下。  保護下にある。  そう考えると、好きにすればいいとは思い切れない部分があった。  ……余計な世話ではあろうが。  俺は半ば衝動的に、指を伸ばしていた。 「……」 「……」 「……」 「あ、あのぉ……  湊斗さん?」 「何か」 「その、何を……」 「砂を取っている」 「……」 「す、す、すみませんっ!  お手を煩わせてっ……」  一条は、あわあわした。  大体、何を考えたのか知れる。 「すぐ、やりますから――」 「違う。  別に婉曲な催促をしたわけではない」  手巾を取り出し、未使用の面で頬の砂を拭う。 「お前が気にしないのならそれでいい。  ただ俺が気になっただけだ」 「……すみません。  見苦しい格好ですよね」 「あの、すぐ洗ってきます」 「催促ではないと言ったろう」 「でも……」 「実際、見苦しくはない。  お前には少し不思議な所がある」 「汚れに外観を損なわれる事がない、とでも云えば良いのか……  思えばお前との遭遇は身嗜みを整えてとはいかぬ状況が多かったが」  野犬と戦っていたり武者に斬られかかっていたり。 「お前はいつも綺麗に見えた」 「…………」 「えっ?」 「……」 「……!? あ、……ぅ……」  一条は再び、あわあわした。  今度は何を考えたのやら。 「言わば、刀の美貌なのかもしれない。  血と泥に塗れていようが自然で、美しい」 「お前はそれで良いと思う。一条。  自分で気にならないなら、そのままでいろ」 「…………。  刀……」 「あたし、そういう風に見えますか?  湊斗さんの眼から」 「ああ。  だから傍らにいる人間としては、〈手入れ〉《・・・》もしたくなる」  もしかするとこれは酷い言い草ではないのかと思いつつ、手は休めずに繕いを続ける。  幸い、怒り出す気配は伝わってこなかった。 「……」 「こうされると、生理的不快感等を覚えるか」 「いいえ……」 「そうか。  なら続けるが、構わないか」 「……はい。  お願いします」  了承を得て、髪へ指先を向ける。  やはりかなりの砂粒が絡み付いているようだった。  一緒に髪を抜いたりせぬよう細心の注意を払いつつ、砂を一粒一粒取り去ってゆく。  一条はおとなしく、俺がするに任せた。 (かたな……  そんな風に言われたの、初めてだけど) (……なんだろ。  なんか……すっきりとして、嬉しい) (父様がもし、今も生きていたら……  やっぱり、そう言ってくれたのかな……) (そんな気がする……) 「大体は取れたか」 「……」 「どうだ? 一条」 「……あっ。  その」 「ええと……  前の方にもう少し、付いているような気がします」 「そうか?  こちらに頭を向けてくれ」 「はいっ」 「……」 「……」 「見当たらないが……  奥か?」 「……」 「一条?」 「……父様の……匂いがする……」 「?」 「何してやがりますかそこの二名ーーーッ!!」  唐突な旋撃は。  俺の首をきっかり九〇度、横方向へ打ち倒した。  とても痛い。 「……大尉殿」 「…………え!?  じっ、GHQ! てめぇいつからそこに!」 「おーおーおー。  お約束な台詞吐いてくださいますことね!」 「てことはやっぱり状況は見ての通り!  いちゃいちゃしてましたのねっ! 乳繰り合ってましたのね! 揉んだり触ったりしてましたのね! 真っ昼間っから!」 「わたくしがいないのをいいことにっ!」  成程。  そのように見えていたのか。  一瞬前までの状況を客観的に把握してみる。    …………無理はないのかもしれない。 「大尉殿。誤解です」 「そっ、そうっ。誤解!  ただ砂っ、砂を取ってもらってただけでっ」 「えーい聞こえません聞きたくありません!  わたくしが知りたいことなどもはやひとつきりです!」 「景明さま!」 「はい」 「挿れた?」 「……」 「お嬢さま。  なんつーかあんた最低でございます」 「だってだってっ!  そこが核心なんですもの! ふたりがもう抜き差しならない関係になってしまっていたら、割り込む余地がないじゃないっ!」 「ちなみに今のは洒落ですのよ!」 「おまえ〈真〉《マジ》最低だ」  無駄に大騒ぎになった。  何やかやの末、再び四人で競技を見守る。  そうして、すぐの事だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  状況の膠着を見て取って、席を立つ。  小用のためだ。若干の尿意を覚えていた。  サーキットコースに隣接したサービス区画へ向かう。  大鳥大尉が同行した。髪に砂が絡んだので洗い流したいらしい。長く艶のある髪だが、それだけに不便も多いようだ。  多大な金が投入される装甲競技は紳士淑女の社交場という側面も持つため、そうした贅沢といえば贅沢な需要にも応えられるだけの施設を有する。  大尉はホテルの一室を借用した。  用便を済ませた後、その部屋へ向かう。  ……扉を見ただけで、一晩借りるための費用が推量され〈ない〉《・・》ような部屋だった。  警官の収入でここを宿に選ぶなら、月のうち二九日は野宿する必要があろう。そこが理解の限度だった。  髪を洗う為だけにこんな部屋を借りてしまう大尉の経済感覚は、想像するになかなか恐ろしいものがある。 「景明さま?」 「はい」 「どうぞー」 「少々お待ちくださいましね。  すぐに身を整えますから」 「……は」  しどけない姿を前に、いささか息を詰める。  湯を浴びたのか。白磁の肌が今は薄桃色に上気し、そしてわずか一枚の布だけがその上を覆っている。  無論そんなものでは柔肌から立ち昇る湯気を隠す事すらできない。  蠱惑的な匂いが脳髄を甘く刺激した。  しかし香奈枝嬢はこれが貴顕の余裕というものか、まったく〈恬〉《てん》としている。 「はしたのうございますよ、お嬢さま」 「あら、どうして?」 「失礼致しました。  自分の方こそ、お迎えに上がるのが少々早過ぎたようです」 「良いですかお嬢さま。  妙齢の〈女性〉《にょしょう》たるもの、殿方に肌を見られた時は直ちに暴力衝動に支配され、攻撃を行わなくてはなりませぬ」 「この際は極めて苛烈に。  相手の意識を奪うだけの打撃を加える必要がありますゆえ。また方法は、素手や武器による殴打よりも重量物による投擲が適切です」 「そこのブロンズ像などがよろしゅうございましょう」 「せめてマグカップ程度にして頂けないものでしょうか」  奪われるものを意識だけで済ませるために。 「もう、ばあやったら。  ほかの方ならいざ知らず、景明さまとの間にそんな他人行儀な振舞いなんていらないでしょう?」 「これはこれで親愛表現なのでございますよ。  まぁ、お嬢さまのようなアプローチの仕方もアリではございますが」 「……」 「ねぇ、景明さま?」  細い双眸に、ふと、妖しげな輝きが灯った。  猫を思わせるなにか。 「このバスタオルの下、お知りになりたい?」 「はい」 「ふふふ、ご無理はなさらないで。  正直に仰ってくださったら、わたくし――」 「お嬢さま。  脳内脚本に準拠して話を進めませぬように」 「…………」 「あら?」 「……えぇと……  景明さま?」 「自分は女性を好みます。  特に、大尉のようにお美しい方は」 「素肌を見せて頂けるなら、喜んで拝見致しますが」 「…………」 「湊斗さま……  お会いした時よりむっつり助平であろうと拝察しておりましたが、実はむっつりですらなく単に助平であられたとは」 「侮れぬお方でございます。  このさよ、感服仕りました」 「恐縮です」 「えぇと……その……」 「景明さま。マナーでございますよ。  とりあえず、扉はお閉めくださいませ」 「これは、失礼致しました。  気付きませず」 「…………」 「さあ、どうぞ。  お嬢さま」 「ど、どうぞって……」 「ほほほ。如何されましたかお嬢さま。  先程の勢いで。さっ」 「…………」 「おやおや……  これはどうしたことでございましょう」 「このさよめの主人は口だけの女では決してないはずなのでございますが。  ……湊斗さま、おわかりになられますか?」 「は。  ……大体のところは」 「さすがでございます。  ええ……あのままお嬢さまのペースで話が進んでいたならば、肌の一つや二つ、笑って見せられたことでしょうが」 「しかし何たることか、ここに至って弱点が露呈。  お嬢さまは、受けに回るとやたら弱かったのでございます」 「ばあやーっ!」 「ほっほっほっ」 「……」 「あ、あの、景明さま?  なんと言いますかしら、ここは少しばかりムードに欠けるというか、乙女のトキメキを司る第五元素『萌』が適正値以下というか」 「ですのでそのあの……」 「逃げております。  全力で逃げを打っておりますよ、お嬢さま」 「にに逃げてません!  わっ、わかりました。少々お待ちくださいまし」 「だっ、大丈夫……  別にどってことない。どってことない」 「すーはー、すーはー……  でっ、では……」 「ご無礼」 「――はい?」 「戯れが過ぎました。  外にて待っております。身仕舞いをお続け下さい」 「は。  すぐに済ませますゆえ」 「どうかごゆるりと。  失礼します」 「……」 「さ、お嬢さま。お着替えを」 「…………。何かしら。  こう、途方もなく敗北感を覚えるのだけど」 「まぁ負けておりましたし。  お嬢さまもまだまだ未熟者でございます」 「……くーっ」  用を済ませ、客席に戻る。  ……丁度、その時だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  レースの膠着を見て取って、俺は席を立った。  同行者に断りを入れて、コントロールタワーの方角へ向かう。  村正の様子を窺うためだ。 「……村正」 «御堂。  どうしたの»  無論、俺の接近には気付いていただろう。  毛筋ほどの驚きも見せず、深紅色の蜘蛛は〈金打声〉《メタルエコー》を送ってきた。  仕手と劔冑は二にして一の武者。  ひとたび〈帯刀〉《タテワキ》の儀礼によって結び付けられたならば、どれほどの距離もどれほどの壁も両者の繋がりを断つものではない。 「大した用があったわけではないが。  少し様子を見に来た」 «そう。  異常はなし、よ。寄生体は見当たらない。もちろん銀星号も»  淡々と応える村正の、頭はサーキットの方角へ向けられている。  だが今は、そちらを見ていない。  そう思えた。  別に蜘蛛の多眼を把握したのではなく。ただそんな気がしたのだった。村正との見えざる繋がりが、俺に何かを伝えたのかもしれない。 「何を見ている?」 «……わかった?» 「別に責めてはいないがな。  何となく、お前の気が散っているのは察せられた」 «ごめんなさい。  新しい〈騎体〉《の》が出てきたらちゃんと見ておくから、そこは心配しないで» 「元々心配はしていない」 «そう……» 「……」 «……» «……街を見ていたの» 「鎌倉か」 «ええ。  変わったなって、思って» 「昔にも、見たことがあるのか」 «……ええ»  その頃は、どうだったのか――と。  問いかけて、俺はやめた。 「……」 «聞かないんだ» 「何とはなしにな」 «……ふふ。  今日はやたらに、〈伝わる〉《・・・》みたいね» 「ああ」  それきり、口を閉ざす。  ただ二人、風だけを聴いた。  ――村正が人として生きた時代は、戦乱の渦中。  その頃の鎌倉の様相は、きっと。 「……そろそろ戻る」 «ええ» 「ところで、だ」 «なに?» 「俺はどうやって戻るべきなのだろう」 「ここから」 «……そもそもどうやって登ってきたの?  貴方»  結局村正に手伝わせて降り、客席へ戻る。  ……丁度、その時だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  ……丁度、その時だった。  拡声器を通したアナウンスが新たなチームの参戦を伝える。  そして、コース上に姿を現す騎体。    ――翔京兵商ワークスチーム〝三城七騎衆〟  それは名騎アプティマに似ていた。  その改良騎ダガーアプティマにも似ていた。  派生騎パルチザンにも似ていた。  だが、そのどれとも違った。  ……黄金色の翼。    ――〈騎手〉《レーサー》 〈来馬〉《くるま》〈豪〉《ごう》 「やはりチェーンドライブで来たか……  しかし」 「あの甲鉄――  あれは和鉄ではございませんな」 「ええ、間違いありません。  ……ユーツ鋼です。全身、すべて」    ――騎体名〝〈 理想 〉《ウルティマ・シュール》〟 「ユーツ鋼って……聞いたことあるけど。  インドの鉄だろ? 確か、すっげえ高い」 「ええ。生産量がごく少ないのです。  けれど重量比強度に優れるユーツ鋼は――競技用劔冑の材料としてまさに理想的」 「これまではごく一部のハイエンドモデルが翼などの重要箇所にだけ用いておりました。  ……その最高級鋼材を、よもや、ここまで惜しみなく投入して劔冑を造るとは……」 「どうなるんだ?」 「すぐにわかる。  サーキットを見ろ」 「え――」  異様な光景がそこにあった。  黄金翼の騎士が、ストレートを駆けている。  その速さは付近を走る数騎とほぼ同等。  あるいはやや劣るか。  だが、おおむね変わらない程度の速度で――  〈騎航〉《と》んでいる。  〈一周目〉《・・・》、〈スタート直後〉《・・・・・・》の騎体が。 「……どういうことです? これ」 「怪物がいる、という事だ。  無論、慣らし運転を充分にこなしていたのだろうが……それにしても」 「異常、という他はない加速性でございます。  完全ユーツ鋼製という特徴がもたらす常識外の軽量さで〈あれ〉《・・》を実現しているのでありましょうが……」 「あの加速性は決勝レースで真価を発揮するはず。スタート直後の乱戦をあの威力で切り抜けて、後はひたすらトップを〈騎航〉《はし》り続けるのでしょう……ね」  それぞれに、呆れる以外にないという表情で感想を呟く俺ほか三名。  いや、俺達だけではなかった。観客らも熱狂を忘れ、ただただ唖然として、疾駆する金色を見つめている。  魅入られたように。  サーキット場としておよそ考えられない静寂の中を、翔京の〝理想〟――ウルティマ・シュールは王者そのものの傲岸ぶりで駆け続ける。  二周、三周……  周回を経るにつれ、いよいよその異様な本性は露わになる。  五周目ラップ、一分二六秒八九。  六周目ラップ、一分二六秒四四。  七周目ラップ―― 「……一分二六秒二七」 「まだ走ってるけど……  まだ記録は伸びるってことか……?」 「……さよ。  さっきのスーパーハウンドの記録はどうでしたかしら……?」 「……一分二七秒一九でありましたかと。  実に、一秒近い差でございますね」  周回時間で一秒差。  アーマーレースという競技、この鎌倉サーキットという舞台においては、圧倒的と言っても良い程の差だ。  それが――  海外レーサーの手によってではあるが世界を制したこともある横森鍛造の〈超越猟犬〉《スーパーハウンド》との間に。  見れば、一度は退いたヨコタンワークスが再び騎体を引っ張り出してコース上に現れている。  ……無駄だろうに。しかも意味がない。予選でウルティマに勝とうが負けようがそれで勝負は決まらない。  明日の上位を確保している以上、後は敵の観察だけしておけばいいのだ。  が、そう思いつつも――俺はヨコタンの心情を理解できるような気がしていた。  混乱しているのだ。  おそらくは、まともな判断ができなくなるほど。  ギャンブル化推進派の同胞とはいえ、おそらくこの騎体のことまでは知らされていなかったのだろう。  あわよくば勝利を奪い、賭博化後の主導権を握る気でいたのかもしれない。  そしてそんな夢想がはかなく砕かれたことを、まだ認められずにいる―― 「……荒っぽい〈騎航〉《はしり》ですね」 「ああ。あれは早く退かせた方がいい。  事故を起こすだけだ」 「翔京が下がっていきます……」 「一三周で切り上げたようでございますね。  記録は……」  そこで初めて、観客席は喧騒を取り戻した。  誰もが表示板に目を向けている。  ――一分二五秒九七。  俺の記憶に誤りが無いなら、それは鎌倉サーキットの落成式に招かれた欧州のトップレーサー達の記録に肉薄するレベルの数値だった。  現時点において、二位はヨコタンワークス。  ……二位以下に一秒以上の差で首位。  誰かの呟きが耳に入った。    ――明日の決勝なんて、やる意味ねえじゃんか。 「ですねぇ……」 「はぁ。これでは」  同じ声を聞いていたのだろう。大鳥主従が顔を見合わせている。  一条は、口惜しそうにしていた。 「ちっ。なんだよ。  金で勝ったようなもんじゃねぇか……」 「そうだな。  だがレースはそういうものだ」 「金と。そして技術と、運と……  それらの総合力で勝敗が決する」 「どれか一つが抜きん出ていれば、他の面で劣っていても勝つ事ができる。  資金面の優位は特に有効である場合が多い」 「……すいません、湊斗さん。  あたし、やっぱりこの競技はあまり好きになれないかも」  申し訳なさそうな声に、俺は答えるのはやめた。  無理もないことだと思った。  ウルティマという騎体の強さには、見る者へ狂熱を導くと同時に――いま一条が直視したレースの実情を知らしめて、心中のどこかに憮然たるものを抱かせるようなところがあった。  俺自身も、そう感じている。  凄いものだとは思うが、素直に賞賛はし難い。 「騎手の力量も相当なものではありますけど、ね……。  あれだけの加速力を有する騎体、つまりはじゃじゃ馬を乗りこなしているのですから」 「来馬豪、とかいう名でしたか。  はて、あまり聞いたことがございませんが……」 「草レースでは知られた男です。  レーサー養成団体『蛙の穴』を一人で叩き潰したほか、非公式に海外へ渡航して欧州の選手と戦ったこともあるとか」 「……また、怪しげな経歴ですこと」 「実力は確かに一級品です」 「だったら、あんな金ピカの騎体なんか使わないで実力で勝負すりゃいいのに……」  優秀な騎体を得ることも実力の内に違いない。  だが、それも口にはせずにおく。  一条の胸中にあるらしい落胆を、俺もどうやら共有していた。  自覚していた以上に、タムラの勝利を期待する念は強かったようだ。翔京の圧勝に苦いものを禁じ得ない。  一心に部品を磨いていた、少女の姿を思い出す。  これは父の心血だと告げた、その言葉を思い出す。  ……翔京には翔京なりの正当性があるに違いないのだ。六波羅と組んでいるからといって、彼らまでもが悪の権化だという理屈はない。  その程度のことはわかる。  それでもやはり――  心理の素直な表層は、タムラにこそ勝って欲しいと願っていた。  …………。    そういえば。 「タムラはどうしたのでしょうか」 「そろそろ出て来るようでございますよ。  ピットからスタッフが」  老侍従に言われて見れば、慣れ親しむタムラのロゴを背負った作業員がスタート周辺を慌しく動き回っているところだった。  皇路氏らしき姿もある。帽子を深く被っているが。  アナウンスが響いた。  最後の大物の登場を知って、観客達がざわめく――何とはなし、お義理めいた気配を漂わせながら。  仕方もない。誰もが既に勝負は見えたと感じている。  翔京と長年に渡って争ってきた宿敵の登場にも、今一つ盛り上がり切れない。そんなある種つまらなげな空気が形成されてしまっていた。    ――田村甲業ワークスチーム〝〈 T・F・F 〉《タムラ・ファイティング・ファクトリー》〟  空虚な、〈寄席〉《よせ》の〈湧かせ役〉《サクラ》が無駄に奮闘しているかのような肌寒い歓声の下、タムラワークスは出撃準備を整える。  その整然たる働きぶりさえ、今は物悲しさを増す。 「登場が少し遅いですね。  セッティングに手間取っていたのかしら?」 「どうでしょう。  予選で翔京と張り合う愚を知り、避けたのかもしれませぬな」  スタッフの平静な様子を見るに、永倉侍従の言の方が説得力を有すると思えた。  であればその判断は正しい。あんな魔物と共に騎航したところで得るものは何も無いだろう。  自分より速い走者と共に走ると記録が伸びることが多い、とは云うが。  限度というものがある。兎と亀が競走すれば、普通の亀は途中で馬鹿馬鹿しさに支配されるに違いない。    ――騎手 皇路操  瞬間、それまでとは違う、本物の歓声が上がる。  皇路操はいわゆるカリスマを備えたレーサーだった。普段の静かな物腰、相反して苛烈な騎航、その両者がカクテルされて独特の魅力を形作っている。  彼女の姿にかつての英雄の面影を想う者も多い。  世代の違いを問わず、二代目の皇路は絶大な人気を誇っていた。  ……しかしそのカリスマへ捧げられるべき声援も、今日ばかりは本人の登場を待たずして色褪せてゆく。  一瞬の沸騰は一瞬で終わり、観客はすぐに、自分らのヒロインが勝利から遥か遠いことを思い出していた。  まばらになってゆくさざめきと拍手を浴びながら、雲間から差す薄い日差しのように彼女は現れる。  父が創り出した劔冑を纏って。    ――騎体名……  その、  刹那。 「――――」 「…………」  サーキット内の。  あらゆる光が固定され、あらゆる風が流れを止めた。  あらゆる思考が、同じ方向を指した。  停止した世界で、誰もが音のない声で、ただ一言を主張していた。  ――あれは、何だ。  ――あれは、何だ。  ――あれは、何だ。  〈あれは〉《・・・》、〈何だ〉《・・》!?  それは嘗て、どのような企業も、どのようなチームも、造り上げた〈例〉《ためし》のないカタチをしていた。  全く前例の無い、〈競技用劔冑〉《レーサークルス》。  劔冑?  これは、劔冑か?  奇形。  歪んだ姿。  凝視すれば、平衡感覚を失いかねない程に。  狂っている。  この造形は、狂っている。  この形を造り上げた人間は心を病んでいる。  間違いなく、脳神経系の大切な〈螺子〉《ネジ》を一本、外してしまっている。  頬を掻き毟りたい、そんな狂躁さえ呼び起こされる。  そして、それと糸一筋で危うく均衡を取っているかのような、感慨――  美しい。  いたたまれぬほどに、美しい。  円周率を無理矢理解き明かして形容したかのような流線型のフォルム。  そこにメタリックブルーのカラーリングが重なれば、それは無限の海であり果てなき空だ。  異界の美。  あってはならないもの。  禁忌の芸巧。  今――  そんな代物が、サーキットに立っている。    ――騎体名〝〈逆襲〉《アベンジ》〟 「なっ……  なんなんですかっ、あれ!」 「わ――わからん」 「あれは……本当にタムラの騎体なのかしら。  ホットボルトの系統とは全く、根本の構想からして違うとしか考えられません」 「ホットボルトからスーパーボルト、チャクラム、そしてサンダーボルトと、積み重ねてきた技術財産をほとんど無視しておりますね。  ……あれは本当に〈騎航〉《はし》るのでしょうか?」 「どうでしょう?  タムラ始まって以来の駄作になるかもしれません。その可能性はあります。すでにそう声高に言っている者も社内にはいますよ」  さよ侍従の疑問に、昨日聞かされた話が重なる。  ……今。現物を前にしてみれば、それは当然というほかなく。  こんな発想に、常人がついていける筈もない。 「…………。  発想」 「景明さま?」 「あの騎体はまさしく異様です。他に言葉が見つかりません。  しかし、強烈な思想性を感じます」 「素人が出鱈目に組んだだけなのであれば、ああはならないでしょう」 「……同感でございます。  何と申しましょうか。あの騎体はあれだけ常識を無視したデザインを為されているにも拘わらず、〈まとまり〉《・・・・》があると……」 「ええ」 「そうですね……。  あの姿には明確で攻撃的な表現――激しい主張があるようにわたくしにも見えます」  そうでなくては、あの美しさは有り得ない。  あれは例えば、風雨に削られた岩山が数千年かけて達成する無想の美とは全く違う。  その対極だ。  己の力を過信し盲信した彫刻家が変哲もない石塊を削り、削り続け、原形を失うまでに変貌を遂げさせ、遂に妄想を実現して輝く宝石に造り変えてしまったとでもいうような――横暴極まる美術。  あれは、そういったものだ。  そこには確かな思想が――〈妄想〉《・・》がある。 「その主張は……  どういう……?」 「……」  問われても、答えようはない。  〈騎航〉《はしり》を見てみなくては。  眼下の戦場で、それが始まろうとしている――  ……滑り出しは〈緩々〉《ゆるゆる》と。  ホームストレートを静穏に、青の騎体が流れてゆく。  平凡な加速。  平凡な速度に達して、コーナーへ。  第一コーナーは大したカーブではない。  さほど速度を殺さずとも、安定して曲がり切れる。 「……?」 「…………?」 「……はて……」 「ん?  今なんか、〈ばたばた〉《・・・・》してなかったか?」 「え、ええ……。  まだ騎体に慣れていないのかもしれません」  短い直線を抜け、緩いカーブをこなして進む。  速度は出ていないが、一周目であればおかしいこととは言えない。先の翔京が異常だったのだ。  長いバンク。  ゆったりと曲がってゆく。 「攻めませんね」 「まあ、一周目でございますし」  外見に反して目を引くところのない騎航。  観客席には拍子抜けのような空気と、本気を出すであろう後の周回に期待する空気とが混ぜこぜになって広がりつつあった。  その空気にあてられたせいか。  俺は本来の目的を思い出していた。 「村正。  あれは――」 «違う» 「…………。  確かか?」 «怪しい部分は何もなし。  相変わらず銀星号の気配は感じるけれど、あれとは関わりないようね» 「……そうか」  実の所、意外だった。  直感的に、あれしかあるまいと俺は思い込んでいたからだ。  あの設計の底に覗く〈滾〉《たぎ》るような熱意。  いかにも銀星号が目をつけそうに思えるのだが……。 「では、ウルティマはどうだった。  黄金色の翼を持っていた騎体だ」 «同じく何もなし、よ。  今日これまでに見たものは全部、白» «これからまだ出てくるの?» 「いや。  そろそろ打ち止めの筈だが」  ……どういう事だ?  タムラでも翔京でもない。それ以外の騎体でもない?  コースに目を戻す。  本予選参加騎はすべてここにいる、あるいはいたと思える。おそらく確かだ。一番最後に登場したものが、あの、注目を集める青い騎体だった筈―― 「跳ねたっ!?」 「ッ!?」  思わずして目を剥く。  アベンジを再び視界に収めた、まさにその瞬間。  ヘアピンカーブを曲がるタムラ騎は〈跳ねていた〉《・・・・・》。  速度と旋回がもたらす空力抵抗に押し負ける格好で――  騎体後部が跳ね上がっている。  ……喜劇じみた横流れ。カーブの曲線に全く沿っていない。少なからぬロス。  皇路卓が誇った技術など見る影もない。  無惨なコーナーリングだった。 「アンダーステアかと思えば……」 「リバースオーバーでしたね。  ……よくあのまま横転しなかったもの、とは思いますけれど」 「……」  昨日皇路親子と会話を交わした身として、口に出すのは憚られたものの。  胸中には呟かずにいられない。  酷い騎体だ。  周囲でも落胆の声が上がっている。  翔京ウルティマの傍若無人な騎航に対抗できる唯一の可能性をタムラの新型騎に見ていた人間は、きっと少なくなかったのだろう。  今日の見るべきものは見尽くした、そう顔に書いて席を立つ客の姿もちらほらとあった。  貴賓席の方には特に多い。 「なによ、あのみっともない騎体。  あんなモノを麿のレースで走らせるつもりなの、タムラは!」 「許せないわね……。  美意識には反するけど、捻り潰してやろうかしら」 「はっ。是非にもそうなさるべきです。  中将閣下――」 「雷蝶夫人とお呼びなさい!」 「も、申し訳ありません。雷蝶夫人。  実は小官、かねてより翔京兵商に比べ報国の志が薄く、自社の利益追求ばかりに熱心な田村甲業のことを苦々しく思っておりました」 「そこへ来て、中じょ……雷蝶夫人を侮るがごときこの振る舞い。  もはや断固たる処置の他は無しと存じます」 「そうね。  あなたの義弟の願いを聞き入れてやることにしましょうか? 大久保」 「はっ――」 「まーまーまー。  落ち着けよカニカマ」 「誰がどうして、カニカマよッ!?」 「つまんねーことはやめとけって。  ただでさえ下品な顔がもっと下品になっちまうから」 「なあ……イヤだろ?  今以上に品が下がるなんてさ……」 「真剣に心配してるツラでなに言うのよこのガキはぁーーーーッ!!  麿の顔の、どこがっ、下品なのッ!? もう一度よく見てから言ってみなさい!!」 「…………」 「プッ」 「ウキーーーー!!」 「かんらからから。  傍で見てるぶんには愉快だよなーこいつー。間違っても友達にはなりたくないけどねっ」 「こっちで願い下げよっ!」 「そーお?」 「……恐れながら、堀越公。  我が主君に対し、あまりに礼を欠く言動は……加えて、指図するかのごときなされようもどうか、お控え頂きたく」 「あ?  んだよ、おめー」 「死んどく?」 「…………ごっ、ご無礼致しました……!  平にご容赦を」 「大久保、下がっていなさい」 「は――ははっ」 「……」 「タムラのあれ、なかなか面白い騎体じゃん。  あてはイイと思うよ?」 「ふん。どこが」 「いやいや。  あれは本当に〈面白い〉《・・・》って……」 「?」  弛緩した雰囲気の漂う中、本予選は終了に近付いていた。  もう数分ほどで規定の時間となる。  表示板には、現時点における参加各チームのベストラップタイムと、その順位が示されていた。  この頃合になるとあまり変動もない。  現首位は翔京ウルティマ。当然の如くこれは不動。  続いて〈長崎鳴滝〉《ネーデルラント》に拠点を置く、厳密に言うなら外国企業のアソシエイブルがセミワークスチームに託して繰り出した〈RG-一〇〉《レーシング・テン》。  ヨコタン・スーパーハウンドは三位につけている。  以下ヒラゴー、鎌倉マツイ、ゲッコーのワークスが順々に並び、後は群小のワークスやプライベーターが団子状に固まった成績で連なる。タムラもその中だ。  やはり装甲競技ではワークスが圧倒的に強い。  ポリスチームは一四位にランクインしていた。  まずまずの健闘と言って良いだろう。だがまだ満足しないのか、彼らの〈愛騎〉《ホットボルト》はなおも挑戦を続けている。  明日の決勝でスタートを切る際の〈位置〉《グリッド》指定は今日の順位に従うから、意味がないわけではないが。  しかし、やや無理をし過ぎだと思われた。事故でも起こしては元も子もない。  潮時だと思うのだが…… 「タムラがスピードを落としましたね」 「あら、本当。  ピットインするつもりかしら。でも……」  二人の呟きに視線を転ずる。  最終コーナーを今、タムラの新騎体アベンジが回り終えようとするところだった。  成程、必要以上に速度を落としているように見える。ピットインするのかもしれない。  だがタムラは既に一度ピットに戻っていた筈だった。  ある程度以上の長時間に渡るレースの場合、高速度を保証する補助推進器の燃料が底を突くため、ピットインは必ず必要になる。  が、余程の長丁場でない限り二度は不要だ。  あるいは外面からはわからない何かのアクシデントか?    そんな想像を巡らせつつ、青色騎の挙動を見守る。  ピットには――向かわなかった。  メインストレートに滑り込む。  そして、  〈爆発した〉《・・・・》。 「――――!!」  刹那の時間、幻が俺の視界を埋めた。  アフターバーナーのトラブル。揮発性の高い燃料が引火し爆発。無機物と有機物を巻き込んで粉砕、粉塵に等しい破片をサーキットに散布する――  幻だった。  爆音の如き噴射音が脳を撹乱して映し出させた虚像に過ぎない。  実像は            閃光。  〈メタリックブルーの閃光が〉《・・・・・・・・・・・・》。  メインストレートを、〈迅〉《はし》っていた。 「なっ……」 「ひょー!」 「操――!!」 「あ――」 「え――」  何を口にする暇もない。  マウンド上でピッチャーの投げた一四〇キロの速球が突然、〈銃弾〉《・・》に変貌するのを目の当たりにしたのなら、知性持つ人間として言うべき事はある筈だったが――  思う間に、ストレートを駆け抜けた青光はコーナーへ突入している。  エアブレーキによる減速――足りない! 到底足りない! あんな速度では曲がり切れない!  クラッシュする――  ――捻じ伏せた。  力ずくで。 「そんな、あほな……」 「お嬢さま、お下品でございますよ……」 「……普通、空中分解とかしないか? 今の」  酷いコーナーリングだった。  最短距離も最少効率もあったものではない。  だが……兎にも角にも曲がり切った。  あの速度で。  それは奇跡ではない。  信じ難い事だったが、乱暴というにも酷烈な騎航はなお続く。  S字カーブ。  緩いバンク。  130R。  立ちはだかる関門に対して、減速という必要代価を踏み倒し続けながら、タムラ・アベンジは走破する。  凄惨に。  これほど無惨で、  これほど醜悪で、  これほど低劣で、  これほどまでに速い、〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》が――  過去に一度でも存在したろうか。  断定できる。  こんなものはいなかったと。  こんな――  悪魔のような騎手は何処にもいなかった。  バックストレートを疾走。  息一つ吸う間はおろか、瞬き一つの間さえなく。  スプーンカーブに突入……  〈押し切る〉《・・・・》。  かつてあらゆる騎手を屈服させ、隷従せしめ、頭を低くして通過することのみを許してきたこの急カーブの権威が、この反逆者には通じない。  一切の礼儀を払わず、彼女はコーナーを蹴り散らす。  走り抜けるという表現さえ最早相応しくはなかった。  踏み潰している。剛力に任せて。  それは――  ただの、暴力だった。 「これだ……  これだ!」 「これを造りたかった」 「〈これ〉《・・》を造りたかったんだ!!」 「これなら、超えられるぞ……  世界を……」 「世界を――超えられる!!」 「――――――――」 「……ウィングが〈変動〉《・・》している……」 「大尉殿?」 「動いています。  あのリアウィングは。コーナーへ入る時に……」 「あれが騎体を押し流そうとする気流を叩き伏せているのです。  ……おそらくは」 「…………。  そういえば、耳にしたことがあります」 「〈可変式〉《・・・》ウィングマウントという構想を。  実用化する人間がいるとは、思いませんでしたが……」 「パワー過剰の中枢設計。  流線型の甲鉄。  低角度のダンパー。  可変式ウィング……」 「結果は直線における〈爆走〉《スコーチ》と、曲がればいいという程度の〈旋回性能〉《コーナーリング》。  ……無茶苦茶な騎体でございますね」 「しかし確かに、〈思想〉《・・》はありました」 「ええ」 「あたしにもわかります。  ……あの騎体が言いたいことは」  最後のコーナーを今、アベンジは曲がり切った。  ホームストレートへ帰還……駆け抜けて、〈基準線〉《コントロールライン》を越えてゆく。  記録―――― 「〈速けりゃいい〉《・・・・・・》。  それだけなんだ。それだけしか考えてないんだ……」  一分二六秒〇八。  翔京の〈理想〉《ウルティマ》に次ぐ第二位の成績を、タムラの〈逆襲〉《アベンジ》は打ち立てていた。 「…………」 「どうよ?」 「ふ、ふんっ。  まあいいわ……これで明日の決勝も楽しくなりそうだものね」 「麿の大会に華が添えられるのは喜ばしいわ。  タムラの健闘を称えてあげましょう」 「……くっ。  いかんな。予想外だ……」 「……む?」 「どうしました?」  興奮冷めやらぬ観客席の中。  俺はふと目を〈眇〉《すが》めて、この場所からは最も遠いヘアピンカーブの辺りを眺めやった。 「――事故か」 「煙が上がっておりますね。サンドトラップに突っ込みましたか。  さほどの大事ではないようですが……」 「あらぁ?」 「お嬢さま?」 「…………」 「大尉。何か」 「景明さま。  ……あれ……」 「はい」 「ポリスチームです」 「……如何ですか?」 「どうにもならんね。  タムラさんに持っていって修理して貰わんことには……ここじゃあどうしようもない」  ポリスチームのガレージ。  破損した騎体――ホットボルトをいじり回していたメカニックの返答は、予想と違っていなかった。  周囲には弛緩した様子のレーサー始めスタッフ達。  署長から捜査の関係でチームに紛れ込ませているという話が伝わっているのだろう、俺達に対する不審の視線はない。  いや、本当に不審な人物だったとしても、今の彼らにそんな活力があるかどうか。  記録をじりじりと伸ばし、一一位に到達、更に上を狙い――結果はクラッシュ。  手が届いていた明日の決勝レースを取り落とし、皆、徒労感に首まで浸っている様子だった。  飯食ったら片付けて引き上げる、とリーダーらしき人物が言うのにたるんだ声で応えている。  しかし、これは少々困った事になった。  ポリスチームの不運には同情する。が、それはそれだけの事に過ぎない。問題は別にある。  結局、本予選で寄生体を特定する事はできなかった。  であれば、まだ使われていない予備騎の中にいるか……〈乃至〉《ないし》は何らかの方法で村正の眼を誤魔化していると考えられる。  後者は有り得ないと村正は云うが。  先日〈見〉《まみ》えた乱破武者――姿を隠し探査機能まで欺瞞した怪物にしても、出会うまではまさかそんなものが実在するとは思わなかったのだ。  だが巧妙な詐術があの異怪を実現させた。  同じような事がまた起きていないという保証は何処にも無い。  ……村正にしてみれば、銀星号を討つべくして在る己が、敵の存在を見定めることすらできないなどとは決して認められる話ではないのであろうが。  精神論に拘泥しても仕方がない。  しかしひとまずは、まだ確認していない劔冑を疑うべきだろう。金銭的に余裕あるチームはアクシデントに備えて予備の騎体、予備の騎手を用意する。  その中に〝卵〟を持つ者がいても不思議ではない。  そちらの調査を行うためには、ここでポリスチームに帰られてしまうと不都合なのだった。  サーキット内に居残る理由が無くなってしまう。 「……〈練習騎〉《Tクルス》で参戦、という選択肢は無いのですか?」 「いやあ、持ってきてないよ。  うちの練習騎ったら、あれだもの。タムラ〈の甲王〉《アーマー・チャンプ》。あんな骨董品、いくらなんでもこの大会には出せないでしょ」  ……戦前の騎体だ。  確かに出せない。客の笑いを取りたいなら兎も角。その時代の騎体で今も戦えるものと言ったら、翔京の傑作〈蠍星〉《スコルピオ》くらいがせいぜいだろう。  こうなると、ポリスチームの撤退は避けられそうにない。理由を作って明日まで残るよう頼む事もできるが、レースの通念として敗者は速やかに去るのが潔く、いつまでも往生際悪く選手〈面〉《づら》で残るのは醜態とされる。  スタッフ達は良い顔をしないだろう。  別の方法を探るべきなのかもしれない。 「湊斗さん、食事調達してきましたっ」 「有難う」 「……」 「あら、ご苦労さま。  お茶まであるなんて行き届いたこと」 「細やかな気配りでございます。  流石は綾弥さま」 「……誰も、お前らの分があるなんて言ってねぇんだけどな。  まぁいいや……ほら」  一条が用意したのは握り飯とパックの緑茶だった。  売店で買って来たのだろう。彩りはないが食べ易い。この際はそれが有り難かった。成程、彼女は気配りができている。  後で経費で落としておこう。  そう思いながら、握り飯を一つ手に取る。 「そういやなんか、変な連中がいたな」 「変?」 「というと、ストリーキング集団ですかしら」 「それは迷惑でございますねぇ……」 「そーいう方向じゃない。  なんか、物騒っつーか……殺気立った奴らがその辺をうろうろしてて」 「でも、態度は何気なさそうなんだよな。  それが余計に怪しいっつーか」 「気にしすぎではありませんの?  今はレースの最中なんですもの。参加者は誰しも殺気立ってましてよ」 「うーん……  まぁ、そうなんだろうけどさ」 「敗退したチームが勝ち残ったチームに嫌がらせでもしようとしているのかもしれません。  何とも情けない話でございますが、これが有り得ない話でも珍しい話でもなく」 「でも、大和ではあまり聞きませんねー……国民性の違いというものでしょうか。  それはさておき、景明さま」 「はい、大尉殿」 「これからどうなさいますの?」 「自分もそれを考えていたところでした」 「あたしたち、ポリスチームの人間ってことになってるんですよね。  この人たちが帰ると、あたしたちがここにいる理由もなくなっちゃうわけですか」 「そういう事になる。  事前に想定はしていた事態だ。が……今日中に標的を発見して今日中に決着をつければ良いだけの話だと考えていた」 「この目論見は既に崩壊している。不覚にも、本予選が終了した現時点においていまだ敵の特定に至っていない。  決着には今夜中を、或いは明日まで要する」 「従ってもう暫く、この参加者専用の区画に留まる為の名目が必要だ」 「意外に難題ではないかしら。  決勝前ともなれば皆さんピリピリしていらっしゃるでしょうし、そうなるといい加減な嘘は通用しそうにありません」 「スタッフをよく観察して、あわよくば予備用の劔冑まで見せて頂こうというのですから、ねぇ。  れっきとした立場が欲しい所でございます」 「全くに。  その意味でポリスチームの人間という立場は理想的だったのですが……」 「参加者なので行動はほぼ自由。  加えるに優勝を狙える強豪というわけでもなく、他のチームの警戒心もさほどには刺激しません」 「まこと、その通りでございますね。  どうにかして、ここな警察の方々に明日の決勝へ参戦して頂く方法はないものでしょうか」 「……気合と根性と、あと努力と友情でなんとかしてもらう?」 「現実的ではないな。  却下」 「困りましたね……」 「なーに、簡単簡単。  お兄さんが出ればいいんだにゃー」  突然の声に振り返ると、そこには印象的な少年――いや、少女か――の佇む姿。  にこにこと上機嫌で俺の顔を覗き込んでいる。  周囲のスタッフから視線が集まる。  が、声は上がらない。  少女の肩の貴賓証は彼らの立場上無視できるものではない筈だが、余りに急のことでどう対応したものかわからないのだろう。  少女本人に気にした様子はない。 「――ライガーさん。  今晩は。またお会いできた事を嬉しく思います」 「はーい、こんばんは、お兄さん。あなたのライガーですよー。  赤い糸がどーとかこーとか的にまた会ってしまいましたねー?」 「……失礼。  来賓の方とお見受け致しますが、ご紹介を頂いても宜しくありましょうか」 「自分は湊斗景明と申します」 「うむ、苦しゅうない。  あちしは〈弾丸雷虎〉《ダンガンライガー》を名乗るしがない荒野の放浪者といった風情の者である」 「ライガーと呼ぶがよい!」 「諒解しました。  ライガーさん」 「らいがー?」 「………………」 「………………」 「おうおうおう。そっちはお兄さんのツレか。  じゃああんたらにも改めまして自己紹介を」 「あ? ああ……。  あたしは――」 「と思ったけどまぁいいやたりーし。  ぶっちゃけマイ視点だと君らまとめてその他大勢、一パック三〇円くらいの商品なのでかなり本気でどうでも良い」 「というわけで、本題に入りまーす」 「……湊斗さん。  やにわにすっげえムカつきます。こいつ」 「我慢しろ」  としか言いようがない。  ライガー女史はつかつかと、破損した騎体のもとへ歩いてゆく。気圧された風で退くメカニックには全く構わず、甲鉄へ手を触れさせた。  軽く叩いてから、耳を押し当てる。 「ああ、駄目だねこりゃ」 「お分かりですか」 「サスがやられてる。  あとシャフトがひん曲がってて、駆動系のギヤが一個脱落。デフも割れたな」  メカニックが絶句した。  ………無理もない。少女の指摘は先刻、彼がチームリーダーに提出し俺も覗かせて貰った被害状況報告を端的に要約したも同然。  熟練のメカニックと同じ結論に、一瞬で。 「……ご慧眼です。  我々も先程、メーカー修理に出さねばどうにもなるまいと結論しておりました」 「うんにゃ。  出しても駄目だよ」 「……とは?」 「中枢の〈骨格〉《フレーム》が歪んでる。  これはどう頑張っても直せない」 「……もうトシなのさ。  これ、レーサークルスとしてはありえねーくらい大事に大事に長く長く使い続けてきたんだろ?」 「そこまでおわかりになるのですか?  触れただけで……」 「ライガーですから。  や、触っただけじゃわからんけどね。〈音〉《・》を聞けば大体のとこは〈見えて〉《・・・》しまうのです」 「音……?」  随分と、不思議な話を聞いているように思える。  近くで会話を耳に挟んでいる人々も狐につままれた表情だ。 「つーわけでさ、こいつもう休ませてやってくんない?  これ以上無理に使うと背骨がボキッといっちゃうから」 「は……」 「お疲れ、兄弟」  兜に軽く口付けして、そこから離れる少女。  唖然としているメカニックらを置き去りにこちらへ戻ってくる。 「お兄さん」 「はい」 「あての言いたいことはわかってると思う」 「わかりません」 「よろしい。ヒトは常に自分の知性に対して謙虚でなくてはならないのだ。  その謙虚さを持つ人間だけが、契約金〇円という売り文句に騙されなくて済むゆえに」 「つまりお兄さんは月々の使用料や解約手数料をちゃんと確認するだけの慎重さを示したといえよう。  これはあてにとって大変喜ばしい事である」 「恐縮です」 「……通じ合ってるのか? この会話」 「当のご本人がたが気にしていないのなら、まあ問題はないのではありますまいかと」 「だが戦士よ!  その謙虚さを臆病さにつなげることなかれ。何故なら好奇心は猫を殺し寂しさはウサギを殺し臆病さはライオンを殺す」 「緑色の都でもらえる一〇〇%勇気汁でどうにかなる問題ではない! あれはプラシーボ!つーか本物だったらもっと駄目だ多分法的に。  よってあては告げねばならぬ。湊斗景明!」 「はい」 「運命の時は来た!!」 「は」  運命が来たらしい。 「今こそ戦いの荒海へ乗り出すべし!  必要な〈劔冑〉《チカラ》はあてが用意する!」 「ちから?」 「そっちの声だけ聞いてどーするの。  魂言語は〈多重音声〉《サラウンド》だったりすることが多いからちゃんと全部聞きなさい。今のは劔冑と書いてチカラと読む感じの表現なのです」 「成程。  つまり、どういう事ですか」 「レース出ない?」 「はぁ」  ……そこで冒頭の発言に戻るわけか。 「あてが劔冑を用意する。  お兄さんがそれを使って出場する」 「そーすればポリスチームはリタイヤせんで済むってことですね」 「……疑問が多々ありますが、まず一つ。  正規の騎手を差し置いて自分が出る理由がありません」  ポリスチームの騎手は今日参戦して事故を起こした彼、一人だけだ。  しかし健在である。  多少の怪我は負ったものの、劔冑に比べれば無傷に等しい。 「怪我人は寝かせとく方向でどうよ。  だいたい、万全の〈騎航〉《ハシリ》ができる状態じゃあないんでない? 体は平気でも中身はわからないよ? 事故った直後のレーサーってのは」 「それは……確かにそうです。  しかしそもそも〈騎手〉《レーサー》ではない自分よりは」 「あれ? お兄さんレーサーじゃないのん?  あてはてっきりポリスのセカンドレーサーだとばっかり思ってたんだけど」 「その筋肉の付きかた。  水泳選手によく似たバランスで、要所要所の〈太さ〉《・・》がちょっと違う……」 「劔冑使いにしか見えねんだけどにゃー?」 「……」  ホットボルトの故障具合を瞬間で見抜いた少女だ。  劔冑という特殊な道具を扱う人間の、確かにあるのであろう特徴を看破できても不思議がるには値しない。  俺が騎手ではないのはただの事実だが……  迂闊に否定して、じゃあ何故? などと探られては墓穴を掘る。  慎重な受け答えが必要だ。 「……レーサーではありませんが。  過去にその真似事のようなことをしていた経験はあります」 「ほうほう。つーと、どっかの会社でテストユーザーでもやってた?」 「はい。  甲府のとある企業がレースへの参入を企画した際に雇われて……結局、その企業の経営悪化で企画は頓挫したのですが」 「小規模のレースになら数度、参加しました」  ……完全な嘘ではない。多分に脚色はしているが。  今と同じように銀星号の痕跡を追っていた昨年の夏、調査のため、テストユーザー募集に応募する形である企業へ潜入したという事は――確かに、あった。 「なんだ。  んじゃ何も問題ないね」 「いえ非常に多く存在します。  まず劔冑が――」 「あてが用意するってばさ。  個人的に造らせたサンダーボルトの〈上位騎〉《ハイチューン》、その名も〝〈恐怖の運び屋〉《テラ・ブリンガー》〟。四翼ダンパーにフルベア仕様の、健気に成長した可愛い子よ」 「……あのアベンジとかいう無茶苦茶な新型さえ出てこなけりゃ、タムラの主役になっていたかもしれないんですよ?」 「はぁ」  なんだか複雑そうだ。 「そいつを貸し出すからさ。  これでいいでしょ?」 「しかし、自分には保証金を支払う能力が」 「いらないいらない。そんなの。  好きに使って、好きにぶっ壊してくれりゃいいから」  ……札束の海にライターで火をつけるような事を、少女はあっさりと告げた。  どうやら家は相当な資産家であるらしい。 「そもそも自分は騎手として登録されておりませんので……」 「どうにかするよ。  今夜のうちに」  ……横車を押すというよりもターボジェットで吹き飛ばすような事を、少女はあっさりと告げた。  どうやら家は相当な権力者でもあるらしい。 「…………」 「万事オッケー?」 「お待ちくださいまし。  わたくしからも少々、構いませんかしら」  返す言葉に窮した俺に代わって、少女に相対したのは大鳥大尉だった。  何処とはなし、微妙なものを漂わせた表情。距離の取り方も微妙だった。何かを間に挟むようなスタンス。  ……そういえば、少女が現れて以来、大尉は沈黙を通していた。  不自然なほど。 「なにかな?  まったく面識のないおねーさん」 「……ごく簡単なことです。ライガーさん。  どうして、そこまで肩入れなさいますの?〈あなたが〉《・・・・》」  質問もまた、微妙なものを孕んでいた――特に最後の一語に込められたアクセントが――と感じたのは、錯覚だろうか。  少なくとも、少女は何も窺わせなかった。  その微妙さに応えるようなものは何も。 「そりゃ、ポリスチームにリタイヤされたくないから。  決まってんじゃん?」 「……」 「この大会、翔京とタムラの争いが、つまりは装甲競技賭博化推進派と反対派の争いだっつーことについては、今更くだくだしい説明なんていらんよね?」 「はい」 「で、あては反対派。  あての〈周り〉《・・》には賛成派の連中もいるけどね。ま、知ったこっちゃーない」 「……」 「せっかくのレースをカネ臭いもんにしたくないこっちとしちゃあ、反対派に勝ってもらわんと困るわけでありますよ。  ところが決勝進出二〇チームを見てみると」 「反対派って呼べるのは二位のタムラと一一位のポリスだけ。後はみーんな推進派か、でなけりゃ中立。  これでポリスまで抜けたら完全孤立だ」 「立場上、賭博化に賛成するわけにゃぁいかない警察だけがタムラの唯一の味方だったってーのにさ。  テコ入れしたくもなろうってもんでしょ?」 「…………」 「なんでさ。  要はタムラがトップを取ればいいんだろ?仲間がいるかどうかなんて、そんなに重要なことか?」 「――――」  少女は両手の掌を肩の高さで天井へ向けた後、首の左右運動をし、最後にフフンと笑った。  視線は斜め三〇度ほどの角度で一条を刺している。 「湊斗さん。  あたし、こいつと同じ天の下で生きていく自信がありません」 「耐えろ」  としか言いようがない。 「……レースは個人競技だが、それは栄誉を受けるのが首位ただ一騎だけだからであって、その点を度外視すれば集団戦にしてしまう事も可能だ」 「例えば。  ライバルとなり得る騎体を仲間に囲ませて動きを封じ、その間に自分は悠々とトップを奪う――というように」 「……それって、反則にならないんですか?」 「無論、露骨な騎航妨害は反則になる。  だがそれは露骨でなければ良いということでもあるし……」 「そもそも自分の勝敗を無視してしまえるのなら反則でも何でも躊躇う理由はない。  極端な話、タムラの騎体を攻撃・破壊して退場。残った翔京が勝つ、という手さえある」  ……勝利自体が目的ではなく、勝利によって賭博化への客の賛同を得る事が目的である以上、そこまでの暴挙はできないだろうが。  もう少し穏やかな妨害なら充分に有り得る。 「そんな時、タムラに一騎でも味方がいればだいぶ違うってわけ」 「そしてもしそいつが〈盛風力〉《バイタリティ》の持ち主なら、雑魚共を一手に引き受けて、タムラのハンデを帳消しにしちゃったりさえするかもしれんね」 「つまりは、それを期待されているのですか」 「できるっしょ? お兄さんなら」 「だいぶん買いかぶられているように思えてなりません」 「そっかな?」  太陽は月よりも地球に近いと言われた人間のような顔をして、少女は笑っている。  ……出会って間もないこの少女が、俺にそこまでの信頼を抱く理由は全くもって不明不可解。  しかし既に、俺の思考は一方向にほぼ固まっていた。  協力者達の表情を視線のひと撫でで窺ってみる。  一条は、この相手は気に食わないが申し出には納得ができる、という様子だ。  翔京――六波羅に挑むタムラにやはり心が寄るのだろう。  大鳥主従はポーカーフェイス。いつものように。 「率直に申し上げて、興味がまるでないわけではありません。  自分も少年期に〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》を夢見た事がありますから」 「うむうむ。  男の子ならかくあるべし」 「しかし、自分の身体能力がレースに耐える状態にあるかどうか、疑問です。  その点は体を動かしてみて確かめる必要があります」 「如何でしょうか。  明日の朝、御返事をするという事では」  ……一条が眼を瞬き、大鳥大尉が軽く首肯する。  俺の真意は通じている様子だった。  少女の話に乗る姿勢を見せておけば、ポリスチームの撤退はなく、行動の自由は確保される。  寄生体の捜索を行いたいこちらにとって好都合な事この上ない。  そして今夜のうちに事の始末をつけ、朝になったら、ライガー女史には辞退を申し入れる。  このように進めば、まさしく理想的だ。  ……少女に対して、些か不実である事は否めないが。  しかしサーキットコースは一種の聖域。素人が足を踏み入れて良い場所とは、どうにも考えられない。  だが、最悪の事態として、俺はそれも考慮の範疇に入れていた。  つまり、今夜中に寄生体を発見できなかった場合。  その場合は、寄生体が何らかの手段で村正の感覚を騙しているというあれの認めたがらない可能性が濃厚になる。  となれば残る手立ては水際作戦のみ。  標的はやはり決勝参加騎の中に潜んでいるだろう。 『力』を求める意思から彼らが近いことは疑えない。  自ら選手となって彼らの渦中へ入り、〝卵〟が覚醒するその瞬間に襲い、打ち断つ。  村正の感覚によれば、〝卵〟の孵化はおそらく明日の内。観客席から暢気に様子を窺ってはいられない。  〈災害〉《・・》勃発予想地点の最短距離にて待機するに如かず。  数多の観客が集うであろう決勝戦のサーキット場の只中で〈銀星号を起こされる〉《・・・・・・・・・》など、およそあってはならない事。  一秒一瞬でも事態を長く続けさせてはならない。  その点も踏まえて、俺の返答はおそらく最善に近いと思える。  だがあくまでも、俺の側の都合だ。 「……我ながら、御厚意に付け込むような虫の良い申し条。  恥ずかしい限りです」 「いや、いいよー。  じゃあ明日までに決めといてね。こっちは手続きだけしちゃっとくから」 「…………。  宜しいのですか?」  ごり押しで参加を認めさせた騎手がやっぱり出ない、などという事になっては立場を失うと思うのだが。  少女はあっけらかんと笑っている。……大物なのか、それとも傍若無人なのか。 「のーぷろぶれむ。  〈劔冑〉《クルス》はすぐにこっち持って来させるからさ。とりあえず装甲してみてよ。もしも合わないようだったら別の用意するし」 「いえ。  その点に関しましてはご厚意だけ頂きます」 「ほぇ? どーすんの?」 「自前の〈競技用劔冑〉《レーサークルス》で臨みます。  参戦する場合には」 「あるの?」 「以前に手に入れたものが、一応。  かなりの老朽騎ですが……やはり少しでも慣れた品を使った方が良いと思われますので」 「差し障りがなければ、それでお願いしたく」 「ん、んー。まあ仕方ないかな。  そういうことなら……」 「哀れなり〈運び屋〉《テラ・ブリンガー》。こうしてまたもや脚光を浴びる機会は奪われたのであった。  ……なんでテラって付くとこうなのかなー。 〝〈征服者〉《コンクァラー》〟も完全に時期外れだったし……」 「申し訳ありません。  折角お気遣い頂きながら」 「や、いいけど。  じゃあ明日の朝にまた来るのでー」 「はい。御足労をお掛けしました。  良い夜をお過ごし下さい」  手を振って立ち去る少女を、一礼して見送る。  頭を上げると彼女は既にいなかった。出現も退去も俄か雨よろしくあっさりしている。  まさに俄か雨に降られた格好で、ガレージの中にはぽかんとした空気が流れていた。  各人が理性を回復し、今の話について整理するには、若干待つ必要がありそうだ。 «……うまい具合に話が転がった、ってことでいいのかしら» (そう言って良いだろう。いささか旨すぎて不審の念を覚えないわけではないが。  話は全て聞いていたか?) «おおむねは。  それにしても……初耳ね。貴方が〈競技用〉《まがいもの》を持っていたなんて» (あるわけなかろう) «…………えっ?»  金物を積んだ小型の〈手引車〉《リヤカー》は、控えめに批評しても騒音公害に違いない。  進むたび、がらがらがちゃがちゃと音が鳴り、それが廊下に反響するとなれば耳障りもここに極まる。  だがレース中のパドックには夜もなければ安息の時もない。  メカニックは徹夜で鎚を振るって騎体調整に最善を尽くし、騎手は彼の鎚音を子守唄にして眠る。  この指揮者不在の鉄琴演奏会とでも云うべき状況下で、手引車の立てる騒音ごときは、所詮響きの一つに過ぎなかった。  誰にも迷惑を掛けずに済むのは幸いなことだ。 「色々集まりましたね」 「上位のチームほど気前が良かったせいだな。  彼らは資金力があるだけに資材も豊富だ」 「それでも、敵に塩を送るような余裕は何処も持ち合わせていないでしょうけれど。  ポリスチームが彼らから〈敵〉《・》と看做されていないのが幸いでした」 「ホットボルトをどう改造しても所詮ホットボルト。スーパーボルト仕様にするくらいが関の山でございますからな。  加えて〈事故〉《クラッシュ》済となれば尚のこと、警戒など」  するはずもない。  至極当然、反駁の語彙もないポリスチームに対する軽視が、俺の目算の一方だけは成就させてくれた。  重要度でいえば比較にもならない、肝心のもう一方は何の収穫もあげられていないが。  ……いや、それはそれでひとつの収穫とみることはできる。全く喜ばしくはないにせよ。 «…………» (無言で、不満そうな思念だけ寄越すな。  鬱陶しい) «不満なのよ» (我ながら、悪くない案だと思うが。  クラッシュした騎体の修理に必要、という名目で各チームのガレージを訪ね余剰の部品を買い集めて回る) (その際に、荷台に潜んだお前がガレージ内を探査。サーキットに現れなかった予備騎の識別を行う……。  特に問題点はない。実際、調査は進んだ)  そして結局、寄生体は発見できていないのだが。 «そうね。素晴らしい作戦よ。私もそう思う。  ……そこまではね。ええ、そこまでは» (この先に何の問題がある。  集めた部品をお前の改装に有効活用するというだけだ) «そこが不満なのっ!!»  村正の〈金打声〉《メタルエコー》が大脳を殴打する。  ……視界が揺れた。意識が眩む。耳を介さない金打声の〈音程〉《・・》を外した一撃は、ほとんど攻撃も同然だ。 「どうされましたの?」 「いえ」 (……一石二鳥だろう?) «その前に、どうして私が紛い物の格好して駆け比べなんかに出なくちゃいけないのよ!  片方だけでも勘弁して欲しいっていうのに、両方なの!?» (他に方法がない)  明日の決勝に俺が出るとすれば、それは決勝に参加する競技用劔冑の中におそらくは潜むのであろう寄生体に張り付き、孵化の瞬間を制するため。  村正を装甲していなくては話にならない。  だが、どこからどう見ようが真打劔冑である村正をそのまま競技に出せるはずもなかった。警察が独自に武者を抱えていると公言することになる。  そこで、改装だ。  幸い村正の色彩と造形はホットボルトに似ていなくもない。それなりに改造を加えれば、ホットボルトのアレンジモデルに見せかける事も可能と思える。  であれば、この手に〈如〉《し》くはなし。 (――違うか?) «………決勝とやらに参加する連中は、もう私が全部見ているのでしょう?  その中に寄生体はいなかった» (だが予備騎まで調査して標的を発見できずとなれば、お前の眼が幻惑されているとでも考えるほかに解釈の術がない) «何処かに隠されている劔冑があるのかも» (可能性としては否定しない。  だが銀星号が力を求める者を選んで〝卵〟を与えていると言ったのはお前だ) (どんな理由があるにせよ、サーキット場で何もせず隠れているような武者が選ばれるとは考え難い。  参加選手の方が可能性はある) «……うぅ……»  あくまで不服げな呻き。  理屈で納得しても感情がそこに同行しないらしい。劔冑に感情を云々するのも笑止な話だが。 (聞き分けろ) «……子供を躾けるみたいに言わないで。  貴方を唆した誰かは〈競技用〉《マガイモノ》を用意するって言ったんでしょう? なら、それを借りればいいじゃないの……»  とうとうそんな事まで村正は言い出した。  どうやら余程に、競技に使われる自分という想像が愉快ならぬらしい。  ……必ずしも理解が及ばないわけではないが。  言うなれば、刀を木枠で包んで野球のバットに使うようなものだからだ。  しかし―― (それは嫌だ) «どうしてよ。  御堂、ああいうのは好きなんでしょう?» (好きだ。  が、俺の纏う劔冑はお前のほかにない) «…………» «えっ?» (――劔冑鍛冶の作品は生涯一領。  武者の駆る劔冑もまた生涯一領のみであるべし)  それは武者古来の美風。  数打劔冑の普及以降、守られない事も多くなったが。 (俺の劔冑は既にお前に定まった。  他の劔冑を使う気はない) «…………» (それでもお前は俺に、ほかの劔冑を使えと言うのか?) «あ、え……ううん。ごめんなさい。  今のは冗談……ただ愚痴っただけ» «……気にしないで、御堂。  自分のやるべきことはわかっているつもり。駆けっこでも何でも、貴方が出ろというなら出るから。楽しくはないけれど……» «私は貴方の劔冑なんだものね» (ああ。  頼む) «…………» (ふざけているのか?  村正) «…………冗談よ。  わかってる。他に方法はないんでしょう。ならそうするまでよ» «それが私の役目なんだから……» (そうだ。  わかっているならいい)  ……まあ、まだ明日のレースに参戦すると決まったわけではないが。  残りのガレージで寄生体を発見できれば、話はそこで済む。 「後はどこが残っていたでしょうか」 「お待ちくださいませ。  ……タムラだけでございますね」 「一番遠かったので後回しにしておりました」 「参りますの?」 「はい。  低いですが、タムラの予備騎にも可能性はあります」  余り正直ではない事を云う。  それはあるまいと考えていた。銀星号がもしタムラに目をつけたのなら、何をおいても、あのメタリックブルーの騎体を選んだに違いないと思われるからだ。  しかしそれが確認を怠るべき理由とはならない。 「そろそろ零時を回りますねぇ」 「髪とお肌の具合が心配です。  徹夜は良くないって言いますもの」 「へっ。  ちゃらちゃらしたもんだな、GHQの大尉さんは」 「そういうあなただって、毎日手入れはしているのでしょう?  こんな白くて、ぷにぷにしてて、うらやましいったら」 「触るな! つまむな!  つーか、あたしはそんなかったるいことはしてねぇ!」 「…………」 「嘘?」 「本当だよ」 「なんで銃がこっち向くんだ!」 「お嬢さま、お気を確かに!  認めがたいことですが、時としてこのような方は存在するのです!」 「本当にッ!  認めたくはありませんがッ!  いるものはいるのですッ!  仕方がないのですッ!!」 「くっ……  ナチュラルボーン・フリークス……!」 「……化物呼ばわりかよ。  こんなつまんねーことで」 「綾弥さまも口にはお気をつけを。  壁に耳あり、障子に目あり。いつの間にか多大な敵をつくっているやもしれません」 「?」