この日の舞台は、計四幕。  第一幕は、決闘であった。  小さな村の手前の原。  揃いの軍装を〈纏〉《まと》い、銃と軍刀で武装した兵が数十人、隊列を成している。  戦気を漲らせながらも不気味に静寂を守るその様は、赤い夕日に照らされて、尚一層凶々しい。  陣頭には見るも〈厳〉《いかめ》しい、厚い鎧姿の武士達が立つ。  分厚い鉄甲、長大な太刀――彼らの〈醸〉《かも》し出す威圧感は、一騎のみでも背後の兵全てに優る戦力たり得るという事実を、何より雄弁に物語っている。  今、村に向かって〈音声〉《おんじょう》を響かせるのは、〈鎧士〉《かいし》らの中でも筆頭らしき一人であった。  物言いの〈傲〉《おご》りからも、彼がこの軍部隊を率いる長であることが知れる。 «この村が〈倉掛〉《くらかけ》の反乱に〈与〉《くみ》した奸賊を匿っているのはわかっている。  おとなしく身柄を差し出せば良し――» «〈然〉《しか》らずば、村ごと踏み潰すまで!»  それを聴くのは、村の入口で垣根を作る群集だ。  住民であろう。  布告の意味を理解できない者はいなかったし、それが単なる脅しではないことを悟れない者もいなかった。  にも拘わらず、恐慌をきたす者は少なかった。  人垣の中で膨れ上がったのは怒りであった。    ――山犬野郎。  ――腐肉漁り。  大声で叫ぶまでの勇気はない。  だが憎悪を込めて囁き交わす。    ――六波羅。  ――六波羅。  噛み潰すように、その名を呟く。  〈六波羅〉《ロクハラ》。  そう呼ばれた軍兵集団の長は、同じ通告を繰り返す。  村人らは応えず、敵意と憎しみを囁き合う。  通告が、もう一度。  同時に、兵卒達が村へ銃口を向けた。  囁きが止まり、恐怖の波が広がる。  それでも、村人らの敵意は消えない。  無言の殺意。  無言の敵意。  その均衡が、不意に崩れる。  崩したのは、部隊長の発砲命令ではなく、その直前に生じた別の変化であった。  村人の壁が、どよめきながら割れる。  後方から、誰かが進み出ようとしているのだった。  ――いけない。  ――戻って、お武家さん。  ――駄目だよ、殺される。  ――お武家さん!  口々に上がる、制止の声。  それらへ、その人物は一言だけを返した。 「世話になった」  彼は進み、軍部隊の前へ姿を現した。  〈鎧士〉《かいし》であった。  村を威迫する者と、同様の。  違いがあるとすれば、鎧の状態。  入念な整備を施され、万全な機能を誇っているか。それとも損傷をそのまま、性能が劣化するままに放置されているか。  その違いだけある。  軍に属する正規兵と〈落人〉《おちうど》の差だ。  落人は、更に進もうとした。  その手を、別の小さな手が〈掴〉《つか》んだ。  童女だった。  何も言わず、手を握り、放さない。  落人も黙って、娘を見た。  片手を伸ばして、その頭をそっと撫でた。  それから、引き止める手を放させた。  童女の瞳が潤む。  振り切るようにして、落人は前へ進む。  軍部隊から幾人かが、捕らえようというのだろう、武器を構えて飛び出そうとした。  それを片手の一振りで遮り、部隊の長がただ一人、落人を迎えて進み出る。  村と軍の中間で、二人は向き合った。 「……何のつもりだ? 〈鷺沼〉《さぎぬま》」 「昔の上官に敬意を示しただけですよ。  〈垣見〉《かけい》少佐――〈元〉《・》少佐」 「…………。  村を見逃すとの言に偽りはなかろうな」 「貴方の身柄を差し出すなら、村の罪は問わない。  言った通りです」 「ならば良い。  で……? 貴様、よもや本気で俺と仕合う気か」 「後ろの味方を〈恃〉《たの》んだ方が良いのではないか」 「何故、そんな必要があります?」 「……」 「貴方は一騎打で敗北を知らないことが自慢でしたな。  生憎、そのような名誉を抱えたまま地獄へ行かせてはやれません」 「〈現世〉《ここ》へ置いていって頂く。  六波羅に叛いた者の最期には、一片の名誉とて相応しくない」 「……ほう……」 「見れば、〈双輪懸〉《ふたわがかり》も叶わぬほど〈母衣〉《つばさ》が傷んでおる様子。  地上にて、〈太刀打〉《たちうち》仕ろう」 「見上げた大言壮語だ、鷺沼。  あの青二才が、吹くようになったものよ」 「有難く馳走に〈与〉《あずか》ろうか。  冥途の土産にその〈首級〉《しるし》、頂いておく」 「……貰うのはこちらだ、垣見。  その〈皺首〉《しわくび》を肴に旨い酒を飲める今宵が、今から楽しみでならぬ」  鷺沼と呼ばれた部隊長と、垣見と呼ばれた落ち武者。  旧縁持つ二人はそれで対話を切り、共に太刀を抜き放った。  村人と軍兵がそれぞれ、息を詰める。  大鎧の武人――鷺沼は、切先を前方へ向けて構えた。  一撃必殺、敵を突き殺す正眼の剣形である。  大鎧の武人――垣見は、剣を肩へ担ぐように構えた。  一刀両断、敵を斬り伏せる雷刀の剣形である。  そうして相対し。  両者は、凝固した。  時が〈徒〉《いたずら》に流れ過ぎゆく。  村人達は、手に汗を握るばかりであった。  軍部隊の大半も、前触れ無しの決闘を唖然と見守るだけであった。  しかしそのうち一握りの者は、静止の意味を正しく洞察し、勝負の行末を思って固唾を呑んだ。  両者いずれも、意図するところは明らかである。  中段に構える鷺沼は、刺突にて対手の喉を狙う。  この構より斬撃せんとすれば、剣を振りかぶる余計の動作が入用となり、敵に遅れを取るため、まず突く以外の選択は無いと言って良い。  そして、厚い鎧で身を守る者の泣き所は、どうにも覆いようのない関節部。その最も致命的たるが喉周りの隙。  これを突くに如かず。  対する垣見は、担ぎ上段より相手の首元を狙う。  そこもまた鎧の守り切れぬ隙であり、垣見の構からやや太刀を寝かせ気味に斬り込めば、兜と肩甲の狭間を潜ってその部分へ刃先を打ち入れる事が叶う。  他の箇所を狙おうとすれば、やはり予備動作が必要となり、敵に対しての遅れとなるであろう。  斯様に両者とも、攻め手は決している。  しかし両者とも、不動にて時を送る。  それは両者とも、攻め手に併せて受け手を用意しており、そしてどちらも、対敵にその備えがあることを疑っていなかったからである。  六波羅の将、鷺沼が突き出せば――  垣見は僅かに身を捻るのみでその鋭鋒を〈躱〉《かわ》し、鷺沼が姿勢を立て直す前に斬り下ろして、勝負を決するであろう。  落人、垣見が先に斬り掛かれば――  鷺沼は一歩退いて剣撃を外し、すぐさま跳ね戻って宿敵を刺し殺すであろう。  攻め手が必殺なら受け手もまた必殺。  互いに対敵の手の内を読み切り、〈故〉《ゆえ》に動けず、戦況は膠着する。  かかる情勢、勝負は〈即〉《すなわ》ち、体力気力の削り合い。  垣見と鷺沼、対峙する二者は今、敵を一足一刀にて仕留め得る体勢と敵の微細な変化をも見逃さぬ集中力、その二つを維持しながら向き合っている。  なればこその膠着。  これが両者の心身に多大な負担を掛ける事は論ずるまでもない。  渓谷を綱渡りするにも等しい過酷さである。  やがては一方が力尽き、構を崩す。  その時もう一方が余力を残していたならば、即座にその崩れを狙って攻め掛かり、勝利者となるであろう。  軍将、鷺沼。  落人、垣見。    いずれがいずれの役を負うか。 「…………」 「…………」 「…………」 「……っ……」  〈齢〉《よわい》の格差が現れようとしていた。  鷺沼が壮年の頃であるのに対して、垣見はそれよりやや年嵩、老境の迫りを肌に感じる年齢である。  体力差は、大きくはないが、確かに存在する。  鷺沼が優勢であった。  膠着は若さを残す者に利する。  垣見はやがて崩れ、敵刃に首を委ねるであろう。  その運命を望まぬなら、乾坤一擲、自ら攻め出して鷺沼を討ち取るよりほかにない。  無論の事、それとて分の良からぬ賭けである。  麾下の兵を顧みず単騎で決闘に臨んだ猛者は、微塵の油断もなく、昔の上官であり今の叛徒である対手を見据えているのだ。  破れかぶれの猪突など容易く防ぎ、完璧な返し技で勝ってのけるだろう。  落人垣見の進退は窮まった。  進めば、死。  進まずとも、死。  傍目には、湖面のように移ろわぬ情景。  されど水面の下、勝利と敗北、栄誉と破滅の天秤は傾きを定めつつある。  時がまた流れ。  戦いは静粛なまま、閉幕へ向かう。  相手よりほんの少し老いに近い者が、徐々に呼吸を乱す。  次第次第に、膝頭の震えが大きくなる。  明らかになり始めた状況の変化を見て、一部の軍兵が笑いの形に唇を歪めた。  幸福にも、村人達は何も気付かなかった――今は、まだ。  それでも、不穏な気配は感じ取ったのか。  誰かが励ますように、お武家さん、と声を投じた。  あるいはその一声が背を押したのかもしれない。  落人垣見は、勝負に出た。  強い息吹を吐き出しつつ、己の体を前方へ撃ち出す。  さてこそ、と。  一瞬の遅れもなく、六波羅の鷺沼は反応して動いた。  ……勝負は、この時点で決着。  鷺沼が垣見の攻勢を見落とす、万に一つの可能性も実らなかった以上、もはや順当な結果が顕れるのみだ。  先手の斬撃は躱され、ただ虚空に弧を描いて終わり、後手の刺突が標的を抉るだろう。  そのようになる。  ここまで状況が定まっては、そうなる以外に無い。  前提が違っていれば、話はまた別だが。  例えば――  斬り掛かったと見えた垣見の挙動が、〈欺瞞〉《フェイク》であったとか。  前方へ振り下ろされる筈だった太刀は、軌道を転じ。  使い手の左脇へ、新たに構えられる。  斬り上げの剣形。  斬り下ろしの幻で敵を退かせ、  その隙を追い、本命の一刀を繰り出す。    ――〈呼吸外し〉《・・・・》の術。  斬り上げにて狙うは腋下、あるいは股間――鎧甲の守りが薄い箇所。  対手が失敗を悟って跳ね戻るよりも先に、その死命を制し得るであろう。  意表を突かれた者と、想定通りの者。  どちらが早く動けるかは自明の理である。  ……この詐術を最初から仕掛けていれば、手練れの武人たる鷺沼は難なく見破ったに違いない。  追い詰められた老兵垣見の、真に追い詰められた末からであればこその釣り込み技。  瞬間の閃きであった。  滅びの結末は避けられなくとも、この一戦にだけは負けられぬとの念が閃きを生んだ。  刹那の間に状況は激変を遂げる。  今度こそ本当に、垣見は前方へ攻め出る。  斬り上げの太刀を繰り出す。  勝敗が決する。 「…………」 「…………」 「……鷺沼……」 「ふ、ふふ……ふふふ」 「…………」 「既に先の無い身だ。  相討ちで良かろうに」 「無用の欲をかきおって」 「ぐぶっ……」  落人、垣見の口から、赤い濁流が溢れ返る。  村人の間で、絶叫が上がった。  垣見の太刀が、斬り上げの技を示すことはなく……  鷺沼の一刀は、垣見の喉を見事に刺し貫いている。 「俺は相討ちでも良いと、腹を据えていたぞ」 「だから貴様が何をしようと構わなかった。  貴様が動いた時、喉笛を射抜いてやることだけ考えていた」 「…………」 「貴様は違ったな……。  冥途の土産に勝ちを欲しがって、小細工を弄した」 「ために惨めな最期を迎えることになったわ」 「ぐ、むっ……」 「死ぬがいい」 「六波羅に盾突く武人も、貴様で最後よ。  大将領足利護氏公のもと、大和の武の一統は成る」 「大義は成就するのだ!」 「ほざ、けっ……!」 「……」 「まだ……岡部弾正殿がおられる!  野にもまだ、数多の志士がおる!」 「貴様らに、栄華の時は訪れまいぞ!」 「岡部如き、寿命を待つ老廃に過ぎん。  市井に隠れ潜んで陰口を叩くだけの輩など、物の数ですらない」 「垣見!  貴様は奴らが来る時のため、せいぜい地獄を清めておくがいい!」  言い放ち、鷺沼は腰刀を抜くや、打ち負かした敵の首を刈り取った。  落人垣見の切り離された胴体が、重い音と共に倒れゆく。  見守る村人達は、もはや声もなかった。  凍りついて、ほんの数日の事ながらも親しんだ武人の亡骸に視線を張り付かせている。  対照的に興奮のざわめきが広がる軍部隊の陣列から、鎧士が一人進み出て、隊長の掲げる首級を恭しく受け取った。 「御見事でござった」 「何、他愛もない仕業よ」 「して……鷺沼殿。  村はいかが致そう」 「先刻言った。  垣見を差し出せば、村は咎めぬと」 「は」 「あの村は、垣見を〈差し出した〉《・・・・・》か?」 「……いや。  差し出しは、致しませなんだな」 「では仕方あるまい……」 「……」 「反逆の芽は刈らねばならぬ」 「御意!」  隊長の意を汲み取ったその鎧士が、後方へ手振りで合図する。  それを見て、兵の一人が携えていた法螺貝を口元に当てた。  勇壮な〈楽〉《がく》が響き渡る。  兵卒達は応えるように、雄叫びを上げた。  銃の筒先を揃え、前方の獲物に向かって殺到する。  その時ようやく、呆然としていた村人達は我に返り――直後、恐慌に陥った。  何が起きようとしているのか。  自分達がどうなるのか、悟ったからだ。  その理解は裏切られなかった。  これより第二幕。  小さな村の、悲劇が始まる。  武装と訓練を施された職業兵士にとって、その戦い、〈否〉《いな》狩猟は、実に容易なものであった。  獲物の動きは野生の獣よりも遥かに鈍く、恐慌中の今は知性さえ劣る。  兵は、闇雲に逃げる村人の背を狙い撃った。  脊椎を砕かれたその中年男は、もんどり打って倒れ、吐血に〈噎〉《むせ》びながら〈啜〉《すす》り泣いた。  兵は、土下座して命乞いする村人の後頭部に軍刀を叩き付けた。  熟した柘榴のようになった頭を抱えて、その老女は言葉にならない叫びを張り上げた。  軍兵は殺す。  村人は殺されてゆく。  方向性が固定された暴力関係。  戦いではない、あるいは狩猟でさえないもの。  だがやがて、脆弱な獲物――  村人の中の一部は、絶望の底で闘志を固めた。  鉈、鍬、手斧。  物置から探し出した粗末な凶器を手に物陰へ潜伏し、注意を怠った兵卒が通り掛かれば背後から襲って傷を負わせた。  古びた長銃を持ち出した猟師は、更に危険な存在となった。  巧みに位置を変えながら、好機と見るや兵を狙撃し、確実に一人ずつ葬り去った。  驚愕し瞠目して絶命する兵卒を眺め、猟師は狂ってしまった頭の中で愉悦に耽る。  まだまだ殺してやる。お前らが殺した分だけ、俺も殺してやると。  その望みは果たされない。  恐ろしい猟師をも物ともしない魔神が、既に狙いを定めていたからだ。  長年の経験に基づいて潜伏し移動する猟師は、兵の視線に決して捉えられなかった。  地上にいる誰の目にも映らなかった。  〈空からは〉《・・・・》、瞭然であった。  有翼の鎧を駆って飛翔する者にとり、猟師は迷信的恐怖を刺激するに足るような存在ではなく、小賢しい鼠であるに過ぎなかった。  兵卒らの動揺を見かねた空中の一騎が、猟師の頭上から急降下する。  気配を感じて振り仰いだ彼の視界に鉄の輝きが満ち、それは彼が見た最後の光景となった。  鎧士の抜き打ちが猟師を縦割りに両断する。  その余勢でか、猟師の身を隠していた小屋までもが吹き飛んだ。  地面にも深い亀裂が出来ている。  常人の業では有り得なかった。  ……至極、〈自然〉《じねん》の事である。  空舞う鎧士は常人ではない。  その鎧から人域超越の力を与えられた彼らは魔神に他ならない。  最初は兵卒の働きを見届ける構えであった鎧士らも、一騎の行動が契機となったか、次々と降下を始めた。  彼らの行使する暴力は、兵のそれが早春のそよ風に思える程であった。  鎧士の太刀が唸りを上げる都度、村人の〈一団〉《・・》が死骸の集まりと化す。  斬られ、断たれ、砕かれ、引き裂かれて。 「老人、病人、役に立ちそうにない者は殺せ」 「労役に耐えそうな男、若い女、それと子供は、捕えて足の腱を切っておけ。  いい売り物になる」 「一人たりとも逃がすな。  こやつらに許す運命は、隷属か死か、それだけだ……」 「それが六波羅に弓引いた者の末路だ!」  荒ぶる風が村の全てを呑み尽くす。  鎧士は兵卒を従え、何もかも意のままとした。  村人を選別し、殺すべき者を殺し、捕えるべき者を捕えた。  そこに村人自身の意思は介在しなかった。  どのような形であれ、その意思の発現は無視された。 「畜生ぉッッ!!」  一人が銃を手にする。  それは猟師のものか。猟師に撃たれた兵士のものか。  いずれにせよ、それは素晴らしい武器だ。  望める限りの確実さで人を殺傷する道具だ。  扱いに慣れているとも思えない男の発砲は、しかし全弾が標的へと向かった。  四発の弾丸が四騎の鎧士を目指す。  一つの奇跡。  無意味な、奇跡だ。  瞬速にして必殺の弾丸を――    一騎は、無造作に首を傾けて躱した。  一騎は、太刀で切り払った。  一騎は、片手で掴み取った。  残り一騎は、何もしなかった。  銃弾はその腹に命中し、傷さえ刻まず、零れ落ちた。  彼らに共通していたのは無造作な態度。  銃弾の襲来を、まるで蠅や何かと同様のものとしか捉えていないかの。  そして実際、羽虫のように扱った。  音速を超えて飛ぶ銃弾を。 「……ッ!」  その男の行動力は特筆に値した。  しかし既に、正気ではなかったのだろう。  近くに停めてあった、村に一台きりの〈貨物運送車〉《トラック》に飛び付き、運転席へ転がり込む。  アクセルを踏む。突き抜けよとばかりに踏む。  その一瞬、彼は幻想しただろうか。  車が走り出し、悪魔の手から自分の命を逃すことを。更にはもう少し欲張り、仲間が荷台に乗り込むことをも。  動くはずのないトラックの中で。    ……だとしても、彼は失望を味わわずに済んだ。 「フッ……!」  飛翔して瞬時に車両の上空を奪った鎧士が、太刀を振り下ろす。  銃に比べれば如何にも原始的な武器の単純な攻撃。  その一閃は裁断した。  人間を。トラックの座席――この場合は合金の壁と言葉を置き換えてもいい――ごと、完璧に。  彼は苦痛を覚える間も無かったろう。  だからきっと、幸運だったのだ。苦しんで死ぬことに比べれば。あるいは苦しんで生きることに比べても。  竹のように美しく両断された彼の断面は、何の不満も訴えていなかった。  一人また一人とアキレス腱を断たれ、苦悶しながら地に這ってゆく同胞らとは違って。 「嫌だ……嫌だ。  こんなのは、嫌だァ……!」  一人が駆け出した。  仲間とぶつかり、突きのけ、倒れている家族は踏み越えて――そこに悪意はなかったけれども。彼は単に、恐れに満ちていたに過ぎない。  人をかき分け、走り抜ける。  道が開ける。  隣の村へ通じる道。  走り続ければ隣村へ行き着ける。  きっと助かる。  後ろを見るな。ひた走れ。  走り続けていればいつか、いつかは、  ……永遠に行き着けないということに、彼が気付くには三十秒もの時間を要した。  その間も彼は走り続けていた。一歩も進んでいない事実を理解することなく。  いつからか。  彼の頭上には空を海のように泳ぎ渡る鎧兜の武人がいて、その手は彼の襟首を掴み上げていて、彼は吊るされながらばたばたと虚空を駆けていたのだった。 「戻れ」 「あ……あぁ……」  同胞の群れの中へ投げ戻される。  待ち構えていた兵が、正確にその右足の筋を必要なだけ切り裂いた。  芋虫の真似事を強いられる人々。  その合間合間にぽつぽつと、人らしく――か?――死んでゆく人々。  彼らの運命は完全に、軍を率いる長が指示した通りに帰結する。  彼ら自身の選択は意味を持たない。  逃げようが戦おうが策を巡らそうがただ怯え竦もうが、一顧だにされず――  鎧の絶対者は己の意思のみを貫徹した。  暴虐であった。  足首を切られた童女は思う。    ――なぜだろう。  昨日までは村で普通に暮らしていた。  父は山に入って木を切り出す林業に携わり、  母は家の一切を取り仕切り、  自分は友達と遊びつつ、時折母の手伝いをした。  繰り返しの日々。  何も変わらない毎日。  それが唐突に壊される……  どんな理由で、そんなことが起こるのだろう。  あの軍隊というものがやって来て、村を滅茶滅茶にしてしまったのは、なんでだろう。  学校の先生は教えてくれた。  悪いことをすると自分に返ってくるのです。誰かに酷いことをすれば自分も酷い目にあってしまいますよ、と。  自分は誰かに酷いことをしたのだろうか。  父や母は。他にも大勢の死んだ人々は。今、自分と一緒に足を切られて転がっている仲間達は。  あの垣見という人を村に迎えて、寝床や食物を世話したのが悪いことだったのだろうか。  優しい人だったのに。大人もみんな、あんな立派なお武家さまはいないと言っていたのに。  それともほかの何かだろうか。  何か酷いことをしたから、こんな目にあうのか。    なら、〈これ〉《・・》をした連中は?  この連中も、いずれ同じ目にあうのだろうか。  そうでなくては、おかしい。筋道が通らない。  でも、誰が?  村は軍隊の圧倒的な力で滅茶滅茶にされた。  けど、軍隊は誰が滅茶滅茶にしてくれるのだろう。  誰にそんなことができるのだろう。  誰がこの、鎧の人々を罰せられるのだろう。  誰もいないのではないか。  誰もいないのなら。  罰の連鎖はここで終わり。  どんな悪いことをしたのかもわからない自分達だけが罰を受けて、確かに酷いことをしたこの連中は何の報いも受けない。  だって、誰も彼らを罰することができないのだから。  おかしい。  おかしいよ。  破壊と悲鳴の楽奏の中、立てない童女は叫ぶ。    ――こんなの、おかしいよ。  誰か。誰か。  助けてとは言いません。  お願い。〈わたしたちで終わらせないで〉《・・・・・・・・・・・・・》。  あいつらにも罰を。  悪いことをした報いを。  同じ苦痛と悲しみを。  誰か、与えてください。  神様。  お願いです。  童女は祈る。  奪われた者の嘆き、純粋な怒りを胸に。  お願いします。  こんなことは間違っているのだから。  どうか、正しくしてください。  ………………否。  間違ってはいない。  間違ってる。  悪いことをしたのなら、罰を。  それが、正しいありかたのはず。  否。  正しいありかたとは――  なんなのですか。  正しいありかたとは。  嘆きはいらぬ。  怒りはいらぬ。  必要です。  わたしは嘆き怒ります。  嘆きはいらぬ。  怒りはいらぬ。  憎悪も敵愾もいらぬ。  いります!  いらぬ。  どうして!  ――――ふふ。            うたがきこえる。  童女は気付いた。  自分が〈誰か〉《・・》と対話していることに。  その声は笑っている。  愛しむかのように優しく。  子守唄をうたいながら。  ――嘆くな、怒るな、憎むな。  どれもいらぬ。  生きるためには、いらぬものよ。            うたがきこえる。  笑え、歌え、手を叩け。  歓喜を胸に躍り狂え。  〈ひと〉《・・》を捨てよ。  ただ、一つの命として生きよ。  さすれば生は喜びで満ちる。  悲しみはもはやいらぬ。  それができないはずがあろうか?  いいや。誰でもできること。  できないと思うのは、忘れてしまっているからだ。  生命は喜びを謳歌するためだけにあるということを!            うたがきこえる。  童女は知る。  自分の誤解を知る。  ――ああ。  そうなのですか? 神様。  うたを聴く。  命を歌う唄。  ――良いこととか、悪いこととか、  生きるとは、〈そういうこと〉《・・・・・・》ではないのですか。  うたが聴こえる。  うたが教える。  ――命が生きるところに罪はなく。  罰もなく。  ――命は命として純粋にあればいい。  それが、正しいありかた。  童女は歌う。  生命を歌う。  喜びを歌う。  ――ああ。わたしたちは!  ひたむきに、生命であればよかったのですね!  生きるということだけを追えばよかったのですね!  ただ、生きる。  〈命〉《ケモノ》として素直に、純粋に―――― 「嫌だ嫌だ、死にたくない! 助けてくれ!」 「いいや……殺す」 「死にたくない……」 「死ね」 「生きたい……」 「死ね」 「生きるんだ……」 「死ぬんだよ」 「……?」 「なんだ、この声……〈金打声〉《きんちょうじょう》か?」 「いや……違うぞ。  何か、頭をかき回されているような……」 「どこから聞こえてくるんだ?」 「あ……ア、ぁ、あア」 「う……ぐゥ、アぁッ……」 「グゲ……ガハ」 「何だ、こいつら……?  様子が妙だぞ」 「恐怖の余り気が触れたか?」 「いや、兵どもの様子もおかしい。  どうしたのだ、急に……」 「ぬぅ……?」  悲劇は終わり。  続いて第三幕。  それはある種の喜劇であり、  同時に単純なる惨劇である。 「ゲハァァァァァァァ!!」 「なっ……  貴様、誰に向かって撃っている!?」 「反逆するつもりか!」 「グッ、グヘッ、グルァァァ」 「ウゥゥゥ……ァァァアア……」 「き……聞いているのか、貴様らァ!!」 「待て、どう見ても錯乱状態だぞ……」 「いったい何だってんだ!?」 「とにかく、止めろ――ぬぁ!?」 「ギィ……ググ」 「クヒッ、ヘハァ……」 「こいつらもか……?」 「さ、鷺沼殿……これは……!?」 「っ……。  とにかく、我々に抵抗する者を殺せ!」 「状況の解明は後で良い!」 「は……はッ!」 「了解!  何をトチ狂ったのか知らんが関係ねえ」 「どのみち俺達が負けるわけ、」 「……山崎っ!?」 「なに……!?」 「だ、誰がやった!?」 「どこから……!」 「こいつら……か?」 「そんな馬鹿な! どうやって――」 「……ぎ……銀色……」 「津田?」 「銀だ! 今のは、銀色の――!」 「……ッ!」 「あっ……ああ!!」 「白銀の……〈劔冑〉《つるぎ》……」 「銀星号……!?」 「こ、こいつが……銀星号かッ!!」 「殺戮者銀星号……」 「破壊魔銀星号……」 「死の雨銀星号……」 「白銀の悪魔……!」 「空中に……〈静止〉《・・》している……!?」 「馬鹿な……。  飛行船じゃねえんだぞ、そんなことできるわけが……ッ!」 「…………」 「隊長ッ! 隊長殿! 采配を!」 「……か、掛かれ!  怯むなたわけ! 奴がいかに剛強をもって鳴ろうと所詮は一騎、押し包んで討ち取れぬはずがあろうか!」 「掛かれ!!  奴の首を上げれば大功ぞ!!」 「お……応!」 「な……消え……!?」 「ど、何処だ!? 何処!?」 「馬鹿、上だ!」 「速過ぎる……!」 「く……銃だ!  銃を使え! 足を止めて捕まえろ!!」 「く、糞! 今度は何処に――」 「榊ッ!!」 「がはッ!?」 「榊! 無事か!」 「……大丈夫だ………  くそ、腕と……母衣をやられた!」 「飛べねえ……!」 「……榊! 逃げろ!!」 「あ……?」 「ギ……グフ」 「ケケカカカカカカ」 「うぁぁぁぁぁっ!?」 「さ、榊……」 「おい、呆けてる場合か! 前――」 「え……あ……?」 「た、た、隊長! 鷺沼殿ッ! たすけ」 「……ッ」 「お……おのれ……!  やってくれたな……俺の隊を! 貴様ァ!」 「オォォォォォォ!!」 「ぐっ……」 「ま、まるで通じぬ……だと……!?  俺の剣が……技が……」 「……何なのだ……」 「兵と村人は唄声で狂わせ……  〈竜騎兵〉《われわれ》は片手であしらい……」 「貴様は一体、何なのだァ!!  〈白銀〉《ぎん》の魔王ッッッ!!」 「ギヒ、ヒィーーーッ!!」 「ああァアうググ……」 「――――」 「――――」  ――二条の流星は天を駆け巡り交差しまた巡る。  赤の星は餓狼めいて獰猛に。  銀の星は雌鹿めいて軽やかに。  咆哮が夜空を叩く。  笑声が夜空を渡る。  赤色の武人は慟哭の響きで太刀を繰り出し、  銀色の武人は抱擁の柔らかさでそれを流す。  怒りを、慙愧を、無念を、悲嘆を、  喜びが、慰撫が、許容が、愉悦が迎える。  第四幕――  この夜最後の一幕は、最初の幕に〈倣〉《なら》っての決闘か。  否。  そうでは、ない。  これは〈交情〉《まじわり》。  戯れであった。  無粋な男と、彼をあしらう高雅な姫の。  白銀は天へと舞い踊る。  深紅も追って駆け昇る。  月へ。  月を目指して。  だからかもしれない。  天楼の冷えた輝きは相応しい者を迎え入れ、相容れざるものを跳ね除けたのかもしれない。  銀の妖精はどこまでも高みへ。  赤の鬼神は地獄に呼び戻されるかの如く引き離され。  天頂へ至る白銀の彗星。  月輪の輝きをあたかも玉座のように背負いながら、尚も駆け上がろうとあがく深紅の鬼を見下ろして。  兜の裏に微笑むその口元が、一節の詩を唄った。       「〈天座失墜〉《フォーリンダウン》――〈小彗星〉《レイディバグ》」 「……銀星号……」 「…………」 「俺の野太刀……?  どうするつもりだ……」 「…………」 「……〝卵〟……!」 「やめろ……またそれをばら撒くつもりか!」 「寄生体を生み出すのか!」 「待て!」 「待て……ぐふっ」 「…………光…………!」  彼は破壊を求めたわけではない。  そこまで幼稚ではなかった。  あくまでもそれは消極的選択だった。  彼が本当に欲したのは永遠だ。    しかし与えられなかった。  愛したすべては失われ滅びる。  ならばせめてと、彼はその喪失を自らの手で行ったに過ぎない。  ……結局は、幼稚であったということか。 〝抜けるような青い空 見上げたあの日の公園〟 〝すずやかな風が吹き抜ける こころをのせて〟 〝ぼくは走る 風を追って 君に向かって〟 〝君は笑う 噴水のそばで 両手を広げて〟 〝手をつなぐ 抱き締め合う 芝生の上で踊りながら〟 〝永遠だと 信じていた あの日あの刻あの空〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟  ……唐突だが。  最悪の目覚めというものについて語らせて欲しい。  いや、まず聞こう。  最悪の目覚めとは何がもたらすのだろうか? 「悪夢」  さてどうだろう?  むしろ悪夢からの目覚めは安堵で満たされるのではないか? 「騒音」  なるほど迷惑だ。  しかしそれは、忍耐という武器を駆使すれば凌げる程度のものだ。凌げないのなら出刃包丁という武器を使えば済む。どちらにしろ大したことではない。  他には? 「幼馴染の女の子が早く起きて遅刻しちゃうとか妙に甘ったるくて滑舌の良い声で言いながら強引に布団を引っぺがす」  笑止。 「――加えて親が決めた許嫁と面倒見のいいとなりのお姉さんと義理の妹とそのやたら若い母親と住み込みのメイドさんと裏山の神社の巫女さんと某国から留学中の王女さまも毎朝起こしに来てくれるのだけど」 「全員、植物に例えるとウツボカズラに似ている」  ……うん。それはとてもスリリングだ。  だが君が優柔不断さを捨て、勇気と決断力をもって彼女たちに接すれば、きっと問題は解決できる。最悪の状態ではない。諦めてはならない。――戦え。  ポイントは死体を残さないことだ。  ――では。  最悪の目覚めとは?  それはただ一つ。  寝ている最中に足が〈攣〉《つ》って、その痛みで目が覚めるということだ。  なんだそれとか言わないように。  特に経験のない人は。  想像してみて欲しい。  公園を散歩する夢を見ていたとしよう。その夢の中で突然、怪我をする。痛い。何がなんだかわからない。もがき苦しみ、やがて目覚めて――  足が攣っている自分を発見する。  わかってもらえるだろうか?  一日の始まり、起床の瞬間に、〈足を攣らせて苦痛に〉《・・・・・・・・・》〈悶えている自分を発見する〉《・・・・・・・・・・・・》というのが、どういうことなのか。  ……たまらなく哀しい気分になってきた人は正常な感性を持っていると思う。  実際、たまらない。泣きたい。泣いても解決しないところがまた酷い。  その哀しみを味わう時間が来たようだ。  おれの眠りはそろそろ覚める。足から感じる痛みがここまでクリアーになっているのなら、もうあと十秒とは掛からないだろう。  ああ――自分自身が浮かび上がってきた。  おれはそう、〈新田雄飛〉《にったゆうひ》という。  名も無き君よ、さらば。そしてありがとう。  君という現実逃避対話用仮想人格がいてくれたお陰で、おれの苦しみは少しだけ和らいだ。  もう会うことも無いだろうが、どうか元気で。  おれは現実へゆくよ。  そこに待つのは苦痛ばかりだけれど。  大丈夫。なんとかやっていけるさ―――― 「…………」 「…………」 「……や」 「や?」 「やってけねえ……」 (図解)      \  \おれ→ ○□卍□○ ←?      /  /      \  \     ○□卍□○      / \       ↑裏四の字      \ ∧ ←ガッツポーズ     ○□卍□○      /  /  ――なあ、君よ。  おれはどうやら、間違っていたようだ。 「なぜだ〈来栖野小夏〉《くるすのこなつ》ゥーーーーッッ!!」 「雄飛、早く起きないと遅刻しちゃうよっ」 「妙に甘ったるく滑舌の良い声でそんなこと言うな! この状況でっ! それ人間業じゃない! 断じて有り得ない! そんな生物は人間であってはならないとおれは信じる!」 「起きないと……キ・スしちゃうぞ♪」 「憎い! 傲慢にも優しさを装うその残虐性!  これが憎悪か! 真性の邪悪に対する人間精神の根源的憎悪かっ!?」 「それはそれとしてほんともう限界なんであががが外して外して外してぇぇぇぇぇぇ!!」 「この寝ぼすけさんめっ。ちゅー☆」 「甘い声の描き出す幸福の幻影がおれを苛む!そんなありもしない希望を見せるんじゃねえ!せめて絶望させろ! わかったもういい殺せ、最後の慈悲でおれを殺せぇーーーーーーッ!!」 「はっはっはっ、小夏はやっぱり雄飛くんのことが好きなんだなぁ……」 「ほんと、聞いてるこっちが照れちゃう。  もぉ」 「おじさーん! おばさーん! お願いですからちょっとここまで足を運んであなた方の娘であるところのこの怪生物の実態を見て!つーかおれの声聴こえてるの!? ねえ!?」 「雄飛ったらー。ほんと、わたしがいないと駄目なんだからっ」 「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」  本当に最悪の目覚めが、ここにあった。  鎌倉はのどかな町だ。  歴史ある都市だからか、活気に満ちた朝の時間帯にあってもどこか〈深々〉《しんしん》としていて、ともすれば殺気立つ忙しい人々を悠然と宥めるような気風がある。  源頼朝の開府に始まって千年――正確には八百年に満たないが――という時間の積み重ねには、得も言われぬ力が宿っていたとしても、不思議のないことだ。  たかだか数十年の命しか持たない人間が抗えるものではなかろう。  だからだ、と言うことはできるだろうか。  一人のちっぽけな人間として、悠久なる時の重さには逆らえなかった――いやそんな不遜なことを考えもしなかったと。  そう告げたとして、どんな人間がそれを責められるだろう。  いないはずだ……歴史というものに抗えるような、抗えると錯覚するような、そんな愚かしい者は。  誰も責めない。  この鎌倉という町がおれを遅刻させたことを、学校の教師たちはきっと責めない。責められはしない。  責めるに決まっていた。 「はぁ」  ため息をついて、のたのたと歩く。  自己正当化に失敗しても、まだ痛む足を早める気はさっぱり起きない。 「雄飛、遅いよー」 「……理由がわからんとでも言うつもりか」 「それはわかるけど」 「当たり前だ。前から聞こうとは思っていたんだがな、どうしておめーは何事につけ何かにつけてああ破壊的破壊的な方向へ――」 「元から低い背が更に縮んで足も短くなったから遅いのね。かわいそう」  ――――〈迅〉《シュン》。  おれは鞄の紐から肩を抜くや、それを横殴りに振り込んだ。  〈大振り〉《テレフォン》な一撃。だがそれでいい。  狙いは三つ。  先制の一撃、重荷の投棄、そして囮だ。  小夏に向かう鞄を投げ放ちながら、沈み込む。  息を吸い溜めている時間はない。今あるだけの貯蓄を使い切る。  ――ハ。  気の塊を吐き出す。  三撃。  腹部へ掌底。  逆手を使って首筋に手刀。  足甲を狙った下段踵打ち。  一連の三手。  そこまで手を重ねた理由は単純。  掌底も手刀も、当たらなかったからだ。  当たらなかった理由も簡明。  いるべき場所に敵がいなかったから。  宙を舞うおれの鞄だけが見える。  最後の一打、踵蹴りが、空気を散らして地面を踏む。  それと、同時か。  死角をくぐって――おそらくは左脇下からの攻撃か――疾風のような一閃が、狙い過たずおれの顎を打ち抜いていた。  空を見る。  真っ白だ。やけに明るい。  光り過ぎだよ。空。  気がつくと、おれは仰向けに寝転がっていた。  空は元通り、単に青かった。  そして、おれは牛に踏まれかけていた。  半分寝ている農夫のおじさんに曳かれるまま野菜を運んでいるその牛は、心底どうでも良さそうな顔付きで、おれを眺めていた。  起き上がる。  鞄を拾う。  十歩ほども先を歩いていた小夏に小走りで追いつき、隣へ並ぶ。 「でね」 「おう」 「リツから聞いた話だけど、やっぱり服とかアクセサリーとかは今のうちに買っておいた方がいいんだって」 「高いだろ?」 「うん。ちょっとしたブラウスなんかでも、一着千円くらいはするよ」 「一生遊んで暮らせる金額だな」 「あんたの一生、あと一週間で終わりなの?」 「冗談だ。でも感覚的にはそれくらい高ぇ」 「そーねー。ちょっと前まではその十分の一くらいで買えたのに」 「いや……。  さすがにそれは、ちょっと前じゃない気がするぞ。戦前の話じゃねーか」 「そうかなぁ。  ここ数年でばかみたいに値上がりしてる気がするんだけど」 「で、おまえ、そんなの買うのか?」 「買えるわけないでしょ。  あんたと同じお小遣いしかもらってないんだから、わたしも」 「だよな」 「でも、欲しいなら今買うしかないんだってさ。もう少しするとお金があっても買えなくなるんだって」 「なんで」 「ええとね……よくわからないけど。女物の服とか装飾品とかを作るのに使われる資源が、軍需産業に回される、ってことみたい」 「あー……なるほど」  今に始まったことではない。  戦前、戦中から、そういった流れは続いている。  わからないのは、戦争が終わって数年経つ現在でもそれが途絶えないことだが。  六波羅の連中がやることにまともな理由があるなどとは思わない方がいいのだろう。  どうせ利権がらみのなんやかんやだ。  幕府万歳。どんどん肥え太れ元帥サマ。足腰が立たなくなるまでね! そしたら焼いて食ってやれる。  何にしろ、嗜好品は徐々に庶民の手から遠ざけられ、かわりに軍需物資や生活必需品の増産に拍車がかかる。  曰く、贅沢は敵なり。さて誰の敵やら。 「輸入品なら関係ないけど、それこそ買えたもんじゃないし……」 「まあいいじゃねえか別に。服くらい」 「あんた、わたしが継ぎのある服とか着てても平気なの!?」 「平気じゃない理由は相模湾の底まで探しても無さそうなんだが……」 「そう。もう覚悟は出来ているのね。  わたしがみっともない格好をして人に笑われる都度なぜかあんたの肋骨が一本破損する仕組みになってるんだけど」 「何その暴力システム……」 「肋骨って二四本しかないのにね。  一ヶ月ももたないのね。可哀想に」 「一日一本かよ! 嫌だよ!  笑われたくないなら出歩くなよ家にいろよずっと!」 「でも、あら不思議。これは例えばの話なんだけど、あんたとわたしがお金を出し合って服を一着買ったりすると、なんと一月の寿命が一年になったりするの。命って神秘的よね」 「……ああ。そこへ持っていきたかったんだ。  この話」  回りくどかった。 「ま、別にいいけどな」 「……えっ!?」  あっさり答えたおれに、小夏が凝固する。  どうやら冗談半分だったらしい。まあ普通そうか。 「なんで?」 「なんでって言われても。  おれ、金の使い道ってねえし」  スポーツに打ち込んでいるわけでなく。  何か趣味を持っているでもなく。  小遣いを使う機会といえば……  学校の帰りに小腹が空いた時とか、退屈凌ぎに雑誌でも読みたくなった時とか、その程度。  スポーツ全般が好きで趣味も多彩な忠保あたりとは必要経費の桁が違う。 「だからいいよ、別に。いくら要るんだ?」 「…………」 「おーい?」 「要らない」 「へ?」 「早くいこ。ほんとに遅刻するよ」 「……ああ」  先に立ってすたすたと歩いていってしまう小夏を、おれは慌てて追った。  女心と秋の空。  さっぱりわからんね。 「タムラワークスのサンダーボルトが敗れた原因は〈旋回性能〉《コーナーリング》を過信したからというよりもむしろ直線で勝つための加速能力を軽視したウイング調整にあると思うんだけど」 「〈補助推進器〉《アフターバーナー》に〈黒丸〉《ブラック》を使っておいてウイングは重拡にしていた意図がどこにあったにせよ結果だけ見ていえば単に器用貧乏で終わったとしか言いようがないんだ残念ながら」 「おはよう雄飛。やあ小夏、今日もとってもチャーミングだね」 「……おはよう」 「ありがとう稲城くん。嬉しいわ。あなたも素敵よ」  ……教室の扉を開けるなり顔を合わせた、この男の名は〈稲城忠保〉《いなぎただやす》。  おれと小夏にとっては幼馴染というのか、腐れ縁というのか、まあそういった生き物である。  見ての通りに軽々しく、軽々としていて、あたかも軽いかのようだが、実際に軽い。  付き合い方は単純である。  まともに取り合わない。これに尽きる。 「クールだね小夏……きみのそんなところに触れるたび僕のハートは小鳥のように震えてしまう。でもきみはきっとそんな僕を優しく抱いてくれる暖かさも持っているんだ」 「雄飛、ライター持ってる?」 「ないけど。いや何に使う気だそれ。  別に止めようとも思わんが」 「愛の炎で焼かれるのなら本望だよ、小夏!  カモーン!」 「リツは?」 「まだ来ていないね」 「珍しいな」  おれ、小夏、忠保、そこに加えてもうひとり、リツ――〈飾馬律〉《かざまりつ》。この四人が、つまりはチームということになる。  別に何の競技にも出場しないが。  同年齢のうえ四人の中で最も放漫な生活をしているくせにやたら姉さん風を吹かせたがるリツは、権威を補強するためなのかどうかは知らないが、必ず余裕をもって登校する。  そして遅れてきた仲間を怒る。  勝手に早く来ているだけだろうに、長く一人ぼっちでほっとかれると寂しくて腹が立つらしい。  だったら他の同級生と遊んでいれば良さそうなものだが、生憎彼女と同じくらい早く登校するのは立派な模範生たちであり、堂々たる反面模範であるリツとは全く共通の話題など無い。  その憂さが向けられるわけだ。  主におれに。なぜか。いや、ほんとになんでだか。  といっても、小夏と違って暴力の形は取らない。  リツはもう少し文明的に、あくまでも言葉を使う。 『おほほほほほほ、おはようございます雄飛さん。あらあら今日もごゆっくりだこと。  一体どうしてそんなに朝が遅いのかしら?』 『きっと全身の血液が下半身の一箇所に集結して頭に回るぶんが奪われているからに違いありませんわ! いけなくてよ雄飛さんっ!ちゃんと夜のうちに右手運動を励みなさい!』  内容はちっとも文明的ではないが。  はっきり言って、朝も〈早〉《は》よからあんな腐蝕性の強い音波を脳髄に注がれてはたまったものではないので、リツが今日はまだ来ていないというのは率直に言ってありがたい。  が、不審なことでもある。  滅多なことでは時間ぎりぎりの登校などしないやつなのだが。 「まあ、夜にあれだけ遊び歩いててこれまで一度も遅刻してない方が不思議か……」 「そういうことでもないのかもしれないけどね。夜間外出の取り締まりが厳しくなってるらしいから」 「そうなの?」  学生の夜間外出禁止は当たり前。  忠保が言っているのは大人に対してのことで、当然大人のフリをして出歩いている学生も含まれる。 「鎌倉〈大番〉《おおばん》が夜の見回りを増やしたみたいだよ。捕まったら良くて一晩拘束、悪くすれば軍施設送りだとか」 「うへ。たまらんね。  ……でもまあ、そんなのに引っ掛かるようなリツじゃないだろ」 「警備の網をかいくぐるこのスリルがたまりませんわー、とか言って前よりも酷く夜遊びしてる可能性はあるね」 「そんなところじゃない?」  そんなところなのだろう。  同級生たちと適当に挨拶を交わしながら自分の席につく。  忠保がひらひらと後を追ってきていた。まあ、隣の席なんだが。 「で、話の続きなんだけど」 「何の話?」 「〈装甲競技〉《アーマーレース》」 「ああはいはい」  忠保は趣味が広いが、中でも最も興味を注いでいるのは〈競技用劔冑〉《レーサークルス》を用いた〈装甲競技〉《アーマーレース》だった。  といっても無論、自分が〈翔〉《はし》るわけではない。  専門誌を買い漁る、レースがあればラジオで中継を聞く、近場であれば見物に行く、今はそれだけだ。  だがいずれは選手としてサーキットを駆け回ることが夢らしい。 「で、なんだっけ。タムラまた負けたの?」 「またとか言って欲しくはないけどその通りだよ。セッティングミスがねぇ……どうしてあんな素人くさい失敗するかなぁ……」 「まあタムラだし」 「その一言で片付けて欲しくはないけどその通りだね。残念ながら」 「んで、勝ったのは?」 「ヨコタンのスーパーハウンド。  翔京のアプティマも結構いいとこまで食いついてたけどね」 「またか。強ぇな、あれ」 「ベルトドライブ機構の威力なんだろうねぇ」 「ツラ構えが無骨過ぎて面白味がないから、おれはどうも好きになれないんだけどな……」 「同感だよ。その点、タムラはいいなぁ。  デザイン一つとってもなんだか夢があって」 「レースじゃ勝てないけどな」 「良くも悪くも趣味的なんだよ。  勝つことよりもやりたいこと優先っていうか……そこが好きなんだけど」 「タムラワークスの選手は誰だったんだよ。  おまえご贔屓の〈皇路操〉《おうじみさお》か?」 「まさか。彼女だったらそんなミスはないさ。  なんて言ったかなあ? 聞いたことのない新人だったよ」 「腕は?」 「見るべき点はなかったね。やっぱりいまのタムラは皇路操一人のチームだよ」 「おまえが続けばいいじゃないか」 「もちろん、そのつもりだよ?」  いつも通りピラピラした声で応じる忠保。  つまりは真剣ということだ。  そう、冗談ではないところがこの男は凄い。  プロのレーサーになろうと思えばいくつもの関門を突破しなくてはならないが、忠保は本気でそのゴールを目指して努力している。  常から勉強と情報収集を怠らないのは無論のこと、体力作りのため毎朝走り込んでいるし、劔冑を扱うのなら必修といわれる水泳も欠かさない。  実際の技術を習得するには劔冑を手に入れなくてはならないが、その資金は学校卒業後に数年間、父親の仕事を手伝うことでまかなうつもりらしい。  だからそのための勉強もしている。  当たり前だが〈劔冑〉《クルス》は高価だ。  本職の武者がよろう戦闘用の〈劔冑〉《ツルギ》とは比較にならないものの――そもそも市販などされない――、競技用劔冑とて十分に希少な品である。  型落ちの中古品でさえ絶対に百万は下るまい。  マイカードリームとは夢の値段が違う。  それだけの金額を数年で稼げる見込みのある忠保は――忠保の父親はいわゆる商社マン、今の世の中ではエリートと言っていい――確かに恵まれている方だが、それでも普通は諦めてしまうところだ。  どこをどう見ようと薄くて軽いこの男の人格になぜそんな根性があるのか、これはもう神秘である。  人間は奥が深い。 「実は結構うらやましいんだ」 「なんだい?」 「はっきりとした夢を持ってて、そのために努力できるおまえ」 「…………」 「おれは努力を問われる以前にやりたいことがないからな……自分でも不思議だ。  なんでこんなに老け込んでんだろ、おれ」 「普通さ、おれくらいの若者ってのはむやみやたらと夢を持ちまくるもんじゃないのか?」 「むやみやたらかなぁ」 「おれ将来天下取れるよなーってスムーズに信じていたりしないか?」 「したの?」 「昔は」 「今は?」 「……とりあえず死ぬまでに犬小屋くらいは建てようかなと思う」 「老け込んでるねぇ」 「うん」  大体その辺で終わるような気がする。おれの人生。 「でも僕はね、いずれ雄飛は何かに向かって走り出すと思うんだ」 「犬小屋?」 「うーん、多分ほかのなにか」 「そうかなぁ」 「きっとそうだよ」  なにかに、ねぇ。  少なくとも今は、まったく見えないんだが。 「おっとっと」  担任の鈴川登場。  忠保が慌てて席へ戻る。  カツカツと、いつもながらの力強さで鈴川は教壇に立った。そしてびしりと直立する。  ……おれよりも数倍若々しいな。正直。 「おはよう、みんな。今日も一日、  ……ん?」  水泳部の顧問らしい、肺活量に裏打ちされた張りのある声が不意に途絶える。  おやっという顔で、鈴川は教室を見回した。  このクラスの人数は二〇人程度。  誰がいて誰がいないかは一目でわかる。 「……とうとう遅刻だな。リツ」 「珍しいこともあったもんだねぇ……」  忠保と囁き合いながら、そろって首をひねる。  珍しいこと。まったく本当に。  ……その時はまだ、その程度のことでしかなかった。 「――こうして宰領府が解体され、内府家の大和支配が終わりを迎えたのは天永六年……国紀二五一七年。外暦では一八五七年」 「二二六〇年の開府からおよそ二五〇年もの間、いわゆる藩制時代は続いたわけだ。大和史上、一つの統治体制がここまでの長期間に渡って存続した例はほかにない」 「いや、世界史上でも珍しい。  大抵はそこまで歴史を重ねる前に腐敗してしまう……」 「前橋!」 「ふぁい!?」 「ちゃんと聞いてるか?  なぜ、徳川宰領府はこんなに長い間大和を支配していられたのだと思う?」 「……わかりません」 「当てずっぽうでいい」 「…………代々の〈内府公〉《ないだいじん》が立派だったから?」 「ふむ。  徳川一五代のうち何人かについては、そう言ってもいい」 「だが例えば五代目内府公、生類憐れみの令を実施した綱吉は立派か?」 「いえ……」 「いちモラリストとしてはもしかすると立派だったのかもしれないけどな。  統治者としては褒められた話じゃない」 「しかし彼の治世でも、宰領府の統治は一応まっとうに機能していた……。  稲城。なぜだと思う?」 「徳川宰領府というものが、一言で言えば、せこい体制だったからじゃないかと」 「……もう少し詳しく」 「徳川の初代家康は、秀吉死後の豊臣体制内で実権を掌握、江戸に宰領府を開き、事実上の天下人になりましたが……」 「関東を中心に約三百万石といわれる領土を確保すると、それ以外の土地は諸大名に任せ、あれこれと細かい口出しはしませんでした」 「その理由は、そもそも宰領府の設立目的が全国征服ではなく、徳川一族の庇護と繁栄に過ぎなかったからです」 「だから徳川家を維持するために必要な領土しか求めず、ほかを藩として分割しましたし、その内政にも関心を持ちませんでした」 「反面、城の修復やら治水工事やらを頻繁に指示して諸侯に財力を蓄えさせなかったのも、理由は同じです」 「この徳川のやり方が結果的に、地方のことは地方に任せて、何も知らない中央が余計な指図をしたりしないという、とても実際的な統治体制を造り上げたわけです」 「もし徳川家康が欲張って、全国津々浦々を自分の手腕で直接統治しようとしていたら、歴史はだいぶ変わっていたんじゃないかと」 「座ってよし」 「大体はいま稲城が言った通りだ。徳川家は地方分権を選び、中央集権を選ばなかった。  その選択が時代に即していたわけだな」 「ここは試験に出すぞ?」 (うぇっ)  やべ。  完全に聞き流しておりました。  まあいいか、後で忠保に聞けば。 「そして時代が変わり、西洋列強の帝国主義が先鋭化してくると、この体制は終わった。  稲城のいう『せこい体制』では到底、列強に対抗できなかったからだ」 「藩制時代の初期に行われた鎖国を復活させよう、なんて考えた人々もいたが……」 「鎖国とは外国との交際を一切断つことで、黎明期の宰領府は国内の基盤を固めるあいだ他国の干渉を排除するための緊急措置としてこれを行っている」 「また享保年間、関白豊臣秀興の徳川討伐令に端を発する大坂の陣に際して、関白が大英連邦から大量の武器を買い入れるという噂が立ったために短期間鎖国がされたこともある」 「もし西洋列強のアジア進出への対策として末期の宰領府が再鎖国を選択していたら……たぶん大規模な武力衝突を招く結果になったろう」 「だが結局、大和は王政復古、中央集権国家としての新生という道を選択する。  それが具体的にどういうものか……」 「を話し始めると長いから、今日はここまでにするか。あと五分しかないしな」  よし。  さすが鈴川。 「かわりに少し、余計な話をしよう」  よし。  だめだ鈴川。 「国紀二六〇〇年、外暦一九四〇年現在。  大和国を事実上支配している六波羅幕府は……」 「言うなれば、欲張った徳川だ」 「…………」 「自分たちの利益だけを求める、せこい思想に基づいて全土を支配しようという体制だ。  貴族院も衆議院も廃止された。内閣も機能していない。京都朝廷はもともとお飾りだ」 「そのかわり、鎌倉には〈普陀楽〉《ふだらく》山塞を築き、周囲に四〈公方〉《くぼう》を置き、関東一帯を軍事基地化して大和全土を睥睨している」 「統治方針は実にシンプルでわかりやすい。 『逆らうな。服従しろ』だ」 「反抗すればどうなるか……。  大阪が焼け野原となり、今なお再建されない理由を、知らない者はいないだろうな」 「近畿に住む友人の言によれば、あの街は今、〈二重の意味で〉《・・・・・・》ゴーストタウンなのだそうだ」 「……我々は今、かような支配を受けている」  …………。  鈴川…………。 「稲城。お前はさっき家康が欲張っていたら歴史は変わっていたと言ったな」 「…………」 「どう変わるかは、これからやつらが教えてくれる。……すぐに」 「…………」 「すぐにだ……すぐに終わる。  こんな下らん時代は…………」  昼。 「雄飛、今日のお昼ご飯はなんだい?  僕は玄米パンとお芋だよ」 「おれは玄米パンと芋だ」 「わたしは玄米パンとお芋ね」 「奇遇だねぇ。みんな一緒だ」 「給食だからな」 「違ってたらそっちの方が奇遇ね」  もぐもぐ食べる。  まずくもないがうまくもない。慣れきった味だ。  食糧増産計画の開始以降、玄米と芋類は食卓の二大巨頭となって覇権を競っている。  コストパフォーマンスを追求した結果、最も優れた食糧とされたのがその二つだったから。らしい。  食事に文句をつけるのは人間として恥ずかしいのであまり言いたくはないが。  たまには腹いっぱい肉を食いたい。 「リツ、来なかったね……」 「どうしたんだろうな」 「他の誰かならともかく、リツだからね。  何があったのかな……少し考えてみよう」  さすがに心配になってきたのだろう。この男なりに真剣な様子で、忠保は食事の手を止めた。  口元に指を当てて黙考する。  リツが休む理由か……。  姉御肌で遊び好きで、いい加減だが妙に律儀な所のある奴。その律儀さは学校皆勤という形で表れていた。  ……昨日で終わってしまったわけだが。  体は至極健康。象が踏んでもあんまり壊れない。 (やっぱ、夜遊びが過ぎたのかね……大番に捕まって、今頃留置所で腐ってんのかも)  その程度のことしか思いつかなかった。    が、忠保は違ったらしい。  やがて顔を上げた忠保の目の鋭さに、おれは思わず息を飲んだ。  小夏まで煽られてか硬直した。 (……なにか……まずいことが……)  標準仕様の一般ピープルであるおれや小夏と違って、中流以上と言っていい家庭に暮らす忠保は――なんでこんな普通の学校に通うのか正直疑問だ――入手する情報の量が多い。  そこから何か、思い当たることがあったのかもしれない。  おれと小夏はそうしろと言われたわけでもないのに口を閉ざして、結論を待った。  忠保が重苦しげに口を開く。 「雄飛」 「……なんだ」 「認知はしてあげて」 「どぉいう思考手順を踏んでそうなった!?」 「雄飛、早く食べないと昼休み終わるよ」 「……ああ」  もはや殴る手間さえ惜しんだのかきっぱり無視して食事へ戻った小夏に促されるまま、おれも椅子に座り直した。  入れ違うように、忠保がよろよろと起き上がる。 「フッ……これで炎の友情というわけだね」 「かなりいろいろと省略してる気がするけどまあいいやどうでも。つうかなおまえ、病気とか家の手伝いとかの可能性をまず考えろよ」 「考えたけど、どっちもリツらしくはないんじゃないかな」 「そういうことが絶対にないってこともないでしょ」 「ちょっと想像はつかないけどな」  常にリーダーシップを握り、おれたちを日が暮れるまであちこち引き回す見慣れたリツの姿には、どちらもそぐわないこと甚だしい。  が、ほかの可能性を思いつかないのも事実だった。  何かあるのかもしれないが、それは当人不在の場でああだこうだ言い合っていてもわからないだろう。 「放課後、様子見に行ってみるか?」 「そーね。わたしは問題なし。用事もないし。  あんたは、忠保?」 「もちろん行くよ。気に掛かるしね。  それに僕なら……いざとなれば融通の利く産婦人科を紹介できるし」 「これ以上そのネタを引っ張るとどうしてかおまえの中手骨が一本ずつ減っていくという来栖野小夏的破壊現象が勃発するんだがそれでもいいか」 「おかしいな。僕的には完璧な論理的帰結で、説明すると……ハハハ雄飛、どう頑張っても僕の小指に九〇度以上の角度をとらせるのは無理だと思うしなんかすごく痛いよ?」 「……ていうか、そんなことよりも決定的に見過ごしてはならない要素が忠保の発言の中にあったような気がするんだけど……  気のせいかしら?」 「いや小夏。それは忘れろ。忘れるんだ」  ともあれそんなこんなで、午後の予定は決まった。  残りの給食をかき込む。 「雄飛、よくかんで食べなさい」 「早く食えっつったろーがさっき」 「両立するのよ。顎の高速回転で」 「おれのガラスの顎にあまり無茶を言うな。  ……っと、先生?」 「え!?」  おれの声に反応して、小夏が椅子ごと旋回する。  一八〇度を一瞬だった。 「すごい。〈直立転回〉《クルビット》並みだね今の」 「関節部にボールベアリングでも積んでるんじゃないか、こいつ」 「すす、鈴川先生! なっなにか!?」 「あ、うん……」  わりと非人間的な小夏の機動性に面食らったのか、やってきた鈴川は片手を挙げた姿勢で固まっていた。  ちょうど声をかけようとしたところだったらしい。 「……悪いな、食事中に」 「いーえいえいえ! こんな豚野郎どもと顔を突き合わせての食事にはもう飽き飽きしていたところでしたっ!  ささ、ずいっとどうぞ」 「いや、席がないだろ」 「じゃあんた机になりなさい。忠保は椅子」 「どんな教育現場だそれ……」 「ああ、いや。食事はもう済ませたから」 「ハハハ、手ぶらなんですから見ればわかります」 「わかってないのは脳髄が瞬間的に納豆菌化したその女だけです」 「あっ、あっ、じゃあ、ええと、何かご用事が?」  おれと忠保の声は既に小夏には届いていなかった。  あぁ遠いなぁ。そのままどんどん遠くなっていいぞ。 「飾馬のことなんだが……」 「はい、あのヤシガニがなにか!」 「やし?」 「聞き流してください」  助け舟を出すおれは結構いい奴だ。 「今日どうして欠席したか、聞いているか?」 「いいえ、それがまったくさっぱり」 「ちょうどさっきまでそのことを話していたところで」 「そうか……」  やはり鈴川も気にしていたようだ。  当然か。遊び人のくせに無遅刻無欠席無早退という異様さで目立っていたやつだからなぁ、リツは。 「最後に見たのはいつだ?」 「昨日の夕方、六時頃っすね」 「確か昨日は八幡宮で人形劇を見て、そこで解散したのよね」  天井を見上げて思い出しながら呟く小夏。  どうやら多少正気を取り戻してきたらしい。 「おれと小夏は家に帰って……」 「僕は少しリツと一緒にいたけど、源氏山のあたりで別れたよ。もう少し遊んでいくって言ってたね」 「何時ぐらい?」 「七時前だったと思う」 「その後はわからない、か……」 「リツ、家に帰ってないんですか?」  さらっと、忠保が切り込んだ。  ……そうだ。  鈴川がそんなことを尋ねてくるのなら、つまり。 「飾馬の近所に住んでる大松に聞いたところでは、少なくとも朝の時点では帰宅していなかったようだ。  今はわからないが……」 「電話して聞いてみればどうです?」 「いや、飾馬の家には電話がない」 「ていうかそんなもんがあるのはおまえの家だけだろ」 「そっか。道理で全く役に立たないと思った」 「……間抜けな会話はいいから。  先生、あんまり大きな声で言いたくはないけど、外泊自体はそんなに珍しくないんです。あの子の場合」 「それは知っている。  だからご家族もあまり心配していないようだし、先生もいま大騒ぎする気はないんだが」  さりげなくいい奴だよな、鈴川も。  二組の上原のようなカタブツだったら今頃大変だ。 「まあ……飾馬なら、大丈夫だろう。あれでしっかりしているしな。  これが新田だったら先生も慌てるんだが」 「なんでそこで引き合いに出されるのがおれなんだよう、先生……」 「それがわからないくらい子供だからよ」 「子供であることに気付けば子供ではないのだけど。あ、なんか哲学を発見したよ雄飛!」 「やかましい」 「冗談だ。  食事中に邪魔をして悪かったな。ちゃんと食って運動もしとけ。午後の授業寝るなよ?」 「はーい!」 「うぃーっす」  躍動的な足取りで去っていく鈴川を見送る。  颯爽とした背中だった。小夏がのぼせるのもわかる気がする。  それにしても。 (……リツの奴)  ほんとにどこ行ったんだか。  リツの家は〈銭洗弁天〉《ぜにあらいべんてん》近くの住宅街にある。  銭洗弁天とは洞窟の中にある変わったお社で、その奥の湧き水でお金を洗うと倍になるというありがたいような色々ぶち壊しのようなご利益で知られている。  そのわりに、近隣の家は慎ましい造りのものが多く、より素直に言えば貧乏くさい。  マッチ一本でとても楽しいことになりそうなくらい枯れた木造建築ばかりだ。  リツの家はその中で小さな雑貨屋を営んでいる。  生活用品を中心に食品、文房具など、日常的に必要となる物品全般を取り扱っているので、その重宝ぶりたるや只事ではない。  娘を遊ばせておけるのは店が充分に繁盛していればこそだった。……といっても、もしリツが〈本当に〉《・・・》遊び始めたら、雑貨屋は三日でどこかの高利貸しの抵当に入ってしまうだろうが。  そんな真似が許されるのは臨海ラインにビルを持つ社長さんちのご令息くらいに違いない。  雑貨屋の繁盛にはおれたちも一役買っている。  もともと安めの値段設定がさらに友達割引されるのなら、わざわざ大路のスーパーなんぞに足を運ぶ理由は全くないからだ。  余り物を気前良くくれたりするとなればなおのこと。  とはいえ。 「余り物には余る理由があるんだから」 「うん」 「この芋サイダーなる代物がその、ちょっと、アレだったからといって、文句を言う筋合いではないんだ」 「そうだね」  新たな味覚の開拓に雄々しく挑戦し華々しく散ったと〈思〉《おぼ》しき液体をできるだけ味わわないようにして飲み下しつつ、夕暮れの近い路地を並んで歩く。  小夏は少し後ろをついてきていた。 「帰ってなかったね……」 「さすがにおじさんもそわそわしてたな」 「おばさんは笑ってたけどねぇ」  肌寒い風を感じながら、リツの両親との会話を思い出す。  二人とも、これといった心当たりはない様子だった。  昨日の朝に登校して以来、リツは家に戻っていない。  これで丸一日、リツは行方が知れないことになる。こういう事態は初めてだった。  遊びもするし、外泊もするやつだったが、それでも毎日家族と仲間に顔を見せることは怠らなかったのだ。 「……どう思う? おじさんは、一昨日の晩に少し注意したのが癇に障ったんじゃないかなんて言ってたが」 「それで家出? まさか。  そんなの日常会話でしょ」 「もし腹を立てたのなら、その場で飛び出すのがリツだろうね。  一晩経ってからっていうのはわけがわからないよ」  ぐっすり寝たら嫌なことはすべて忘れてしまうのがリツの良いところでもあり悪いところでもあり。  喧嘩もしやすいが仲直りもしやすい。 「……だよな。  じゃあやっぱり、おばさんの言ってた通り遊ぶのに夢中で時間を忘れてるだけ……ってのもなぁ」 「もう丸一日よ?」 「よほど楽しいことを見つけたんだろうねぇ」 「おいおい、本気か?」 「半分は。  熱中するタイプなのは間違いないよ、リツ」  それにしたって限度があると思うが。 「結局、居場所はわからないのね……」 「そうだね。でも、心配事が一つ減ったよ」 「なに?」 「家にどこからも連絡がないなら、鎌倉大番の取り締まりに引っ掛かったという可能性はないよ。リツが黙秘でもしない限り……いや、そうしたって身元なんかすぐにわかるし」 「あ」  確かにそうだ。  鎌倉大番、つまり六波羅の治安部隊は――すべての六波羅がそうであるように――横暴さで知られるが、別に暇人の集まりではない。  牢獄でただ無駄飯を食わせるために市民を捕まえるわけがなかった。  どう片付けるつもりにしろ、家への連絡はするはずだ。 「全く同じ理由で警察のご厄介になっている可能性も除けるね」 「……警察はもともとなにもしねえよ」  鎌倉にも警察署はある。  あるが、ただそれだけだった。  幕府を除くあらゆる政府機関と同じように。 「少なくとも牢屋に放り込まれてはいない、ってことね。  安心していいんだか悪いんだか」 「ん? そりゃいいに決まってんだろ。  最悪の可能性がそれだったんだから」 「犯罪に巻き込まれたって線を考えてないの、あんた!?」 「…………」 「…………」 「……ごめん。考えないわけないよね、普通」 「いや……」  それを口にすることが怖かった。  非論理的なのはわかっている。だが口にすればそれが現実になってしまうという危惧を、おれは捨てられなかった。  しかし、そんな逃避をしている場合ではないのかもしれない……。 「……小夏」 「……」 「ひとまずその推測は排除していいと思うよ」 「……どうして?」 「確かに現在、大和の治安はお世辞にもいいとは言えない。  この鎌倉は六波羅の本拠地だけにいくらかましだけど、所詮は比較の問題だ」 「戦争の傷跡は癒えず、政治は市民を軽視というより無視して進められ、挙句の果てには――」  忠保は細い人差し指を、天へ向けた。 「〈空から魔王が降ってくる〉《・・・・・・・・・・・》。  銀色の星が落ちてきて、誰も彼もを殺してしまう」 「……」  それを聞いた瞬間、背筋が露骨に震えた。  恥ずかしいとは思わなかったが。  忠保が口にしたのは、現在のこの国において、ある意味で六波羅を凌駕するほどにまで恐れられ忌まれている存在。  ――銀色の星。  誰もが常に、心のどこかで怯えている。  〈それ〉《・・》が到来する瞬間の訪れを。 「こんな情勢で犯罪が日常的じゃなかったら、その方が不思議だね。  でもさ、ちょっと考えてみようよ」 「リツが犯罪に巻き込まれたとして、どんなものが有り得ると思う?  ……傷害、殺人、拉致誘拐、この辺りじゃないかな」 「……」 「傷害事件なら、二四時間連絡がないというのはおかしいね。  自力で家まで帰れないような重傷だったとしても、病院が家に連絡を取るはずだ」 「重傷で、病院にも運ばれなかった場合……これは次のケースになる」 「……」 「殺人。でも、これもどうかな?  人を殺すのは簡単なことだよ。けれどその後始末は難しい。普通はすぐ発覚してしまうものなんだ」 「人間の死体はとてつもなく目立つ。  鎌倉のような都市に死体が発生して、一日もの間誰にも気付かれないなんてのは、相当に低い確率なんじゃないかな」  ごく淡々と語る。表情はいつもと変わらない。  そんな忠保が、おれは少しだけ恐ろしかった。 「最後の誘拐。これはいいよね?  誘拐自体が目的ならともかく……営利誘拐なら、身代金の要求をしなきゃ意味がないんだから」 「……そうね」  背後で頷く気配。  だいぶ落ち着いたようだった。 「じゃあ、リツは……  酷いことにはなってないのね?」 「断定はできないけれど。  とりあえず今は心配しなくてもいいと思う」 「僕らがこうしてあれこれ言い合っている間にひょっこり帰ってくるっていうのが、一番ありそうな話だよ」  現時点では、と最後に呟いて忠保は口を閉じた。  しばらく、風の音だけが渡る。  忠保の説明は筋が通っている。  この男は普段から素晴らしい閃きを見せるタイプというわけでは決してないのだが、論理的に物事を整理して思考を進めることにかけては誰よりも長けていた。  だから説得力があるし、おれも納得できる。  しかしそれでも、おれは、  心のざわつきを―― (いや)  忘れよう。  自分のいい加減な勘と忠保の考察、どちらの信頼性が高いかなど悩むまでもない。  試験の成績を比べてみれば一発だ。  ヤマカン勝負のおれの点数は忠保のおおよそ半分に匹敵する。  ……だから、忠保が正しい。  こうしている間にきっと帰ってくる。  そう信じて、おれは手の中の紙パックを口へ運んだ。 「それはそれとして雄飛」 「ああ」 「芋サイダーって一体誰が考えたんだろうね」 「さあな」  顔を見合わせて一つため息。  白い粘液状炭酸飲料はまだ半分以上残っていた。  ……なんにせよ、明日だ。  明日になればリツは帰ってきている。  きっと……おそらく。けろっとした様子で。 『ほほほほほほほっ! どうしたの雄飛さん、そのカエルが小便ひっかけられたかのようなご面相は! わたしが悪党共に捕まって輪姦されているとでも思ってたのかしら!?』 『きっとわたしが全裸でゴミ箱に詰められて 〝肉便器在中〟なんて〈熨斗〉《のし》付で送られてくるのをチャック下ろす準備万端で待ち構えてたのね! もぅ、なんていやらしいのっ!』  こんな感じだ。  ……うぁ。なんか本当にありそう。おれ超げんなりしそう。 (けど、もし……)  明日、学校に行って。  もし、リツがいなかったら。 (いなかったら……)  その時は――探そう。  おれたちが探すしかない。  警察なんぞ、あてになりゃしないんだから。 「なんにしても明日だ」 「明日ね」 「うん。で?」 「で、って?」 「なぜおれの部屋にいて布団に潜り込もうとしているのかを問うている『で?』なのだという理解を、今たちどころに求めたい」 「なんだか怖いの……一緒に寝て、いい?」 「声だけでそこまで可愛さを演出するおまえの才能には脱帽するし、正直憎いくらいだが、複雑な形で絡み合っていくおれたちの両足がより強烈に何かを語っているとは思わないか」 (図解)     /  ∧     ○□卍□○ YEAH!     \   / 「わたし、気付いたの……あなたとこうしている時が、いちばん落ち着くんだって」 「どうして、かな……?」 「病気だよ!!」  勘弁して欲しかった。 «未決囚〇四八号» «容疑 殺人罪一二件» «うち一件は尊属殺人» «鎌倉市警本部より関東拘置所» «未決囚〇四八号に保釈措置発令» «〈親王令旨〉《しんのうりょうじ》による特例保釈» «直ちに〇四八号を釈放されたし» «緊急の執行を求む» 「〇四八号」 「釈放だ。出ろ」 「…………」  ……リツは帰ってこなかった。  家にも、学校にも、おれたちの前にも。  さすがに騒ぎが起き始めている。  失踪事件など今の関東ではさほど珍しくもないが、だからといって、身近でそれが起きた時に平然としていられるものでもない。  鈴川は、今日は朝しか教室に顔を出さなかった。  リツの家と職員室と警察署を周回しているようだ。  厳しい表情で廊下や校庭を早足に進む姿を、何度か見かけた。  警察には捜索願を出したろう。だが、それで問題が解決するとは鈴川も家族もよもや期待していまい。  神社に賽銭を投げ込む程度の心持ちのはずだ。  形ばかりの捜査でもすればまだましな方。  おそらくはなにかの帳面におざなりな記録をして、それきりだろう。  ここ数年間、警察が市民の保護者として機能したという話など大にも小にも全く聞かない。  倒幕勢力の摘発などに際して、六波羅に下請け業者よろしく使い倒されることならあるそうだが。  要するに、カケラもあてにはできない。  だから、自分でやるしかないのだ。 「こっちじゃないみたいだね。  常盤まで下りてきて、宮野さんの店を覗かないっていうのはちょっと考えにくいよ」 「他になにもないよな? このへん」 「少なくとも、リツにとって面白いものはね」 「となると駅方面か、北鎌か……」  頭の中で鎌倉の地図を広げながら呟く。  なにも言ってこないということは、忠保にも異論はないのだろう。  おれたちは、一昨日の夜に忠保と別れた後のリツの足取りを追うところから始めていた。  リツの行動範囲は広いが、それでもここはあいつの地元で、しかもあいつは目立つ。  労を惜しまなければ素人探偵二名でもどうにかならないこともない。  現に今のところはある程度の成果が上がっている。  ここにいない小夏はリツの交友関係をあたるために単独で別行動中だ。  目当ての大半は女子。となると、男子がくっついていては邪魔という次第。  駅へやってきた。  鉄道は関東交通網の大動脈と言っていいが、当然、一般市民がそうそうお世話になれる代物とは違う。  ……一昔前はそうでもなかったが。  今の鉄道は幕府の御用列車も同然だ。運ぶのは軍人、もしくは軍需物資ばかり。  民間人も利用できることはできるが、それには法外な額の運賃が必要になる。  江戸や駿府に出たいのなら船の方がよほど便利だ。  鉄道に比べて遅いが安価で、本数も安定している。  そういうわけで、リツが鎌倉駅から列車に搭乗してどこかへ行ったとは考えられない。  元より、そんな推測でここへ来たのではなかった。 「さて……どっから当たったもんかな?」 「多過ぎて困るねぇ」  忠保と二人、少し途方に暮れたりする。  駅前という場所の標準仕様として――純粋な軍用駅は別だが――鎌倉駅前も繁華街だった。  飲食店、服飾店、デパート、遊技場……リツが喜びそうな場所はいくらでもある。  それらすべてを調べて回るのは無理だ。 「金の掛かる場所は除外できるよな」 「馬鹿の集会所みたくなってる所も行く必要はないね」 「あいつ馬鹿は嫌いだからな。バカだから」 「バカだからねえ」  ちなみに『バカ』とは字面と語感が示すようなまあそういう方向性の変チクを指し、『馬鹿』とは字面が示す通りの非人間的かつ没知性的な生物を意味する。  混同されることも多いが別物なので注意。 「つまり上と下は切って、普通のとこだけを探せばいいってことだな」 「ハハハ、一番多いカテゴリだね」 「……それでもいくらかマシだろ」 『無理』が『至難』になった程度だが。 「もう少し的を絞ってみない?」 「できるものなら是非。  どうやって?」 「どこへ向かうにしたって、この辺りは必ず通るよ。ここで聞き込みしてみよう。  うまくすればどっち方面に行ったかくらいはわかるかもしれない」 「ここでか……」  辺りを見回す。  忠保の言うことは間違ってはいないが。 「通行人を片っ端から捕まえて聞くのか?」 「それは無駄だね……ここを通り過ぎる人ではなくて、ここに留まっている人に聞かないと」 「駅員?」 「駅員は駅の中しか見てないんじゃないかな」 「交番」 「気持ち良く寝ているみたいだよ。  彼が一昨日の夜だけは真面目に働いていた可能性に賭けてみる?」 「もう少し勝ち目のある勝負がいいな。  屋台」 「日が落ちたら店は畳むね、普通」 「……結局どうしろと?」 「あれなんかどうかな?」  言われておれは初めて気付いた。  その人に、ではなく。  その人の〈奏〉《かなで》をさっきからずっと聞いていたことに。  大きな弦楽器。  それを恋人のように――あるいは子供のように――抱きかかえて、女性が弓を当てている。  音色は重く、厚く、だが静か。  深い森の中、日の差さない最奥に〈揺蕩〉《たゆた》う風を想う。  誰の肌にも触れない風。  誰の耳にも届かない響。  楽師の前で足を止める者は一人もいなかった。  絶え間ない人の流れは、ただ足早に行き過ぎてゆく。  彼らはこの曲を聴いたことさえ記憶しないだろう。  だがふとした折に聞き覚えのないメロディが脳裏をよぎり、首を傾げるのかもしれない。  気付いてみれば、  彼女の演奏は美しかった。 「おまえ……」 「うん?」 「よく見つけられたな」 「……そうだね。たまたまだと思うよ。  不思議だな。よく見るとあんなに華やかなひとなのに、なんで少し目を離すだけで途端にひっそりとするんだろう」  忠保の分析は当を得ていた。  細い目筋が特徴的な、明らかに水準以上の美人だ。長い髪が〈煌〉《きらめ》く衣装のようでもある。  どう見たところで群集から一頭地を抜く容姿なのに、それが遠目には、奇怪なほど風景の中に溶けてしまう。 「ああいう人を探して見ていたから気付けたんだろうなぁ」 「ああいう人?」 「路上で芸を見せる人。  そういう人なら結構遅くまでいると思って」 「けど……」 「ん?」 「あの人が芸人さんかどうかは疑問だね。  あの芸じゃお金は稼げないよ」 「そりゃそうだな」  気付かれないのでは話にならない。  耳に止まれば、大枚をはたいたっていいような演奏なのだが。  ともかく聞くだけ聞いてみよう。  おれと忠保は頷き合って、女性に近づいていった。 「あの……」  す、と。  目の前に手が現れて、おれを遮った。 (……あれ?)  すぐ終わりますから、と穏やかな視線が伝えてくる。  それはいいのだが。 (この人、どこから出てきた?) (いやぁ……どこだろう。  僕も気付かなかったよ)  一見して品の良い老婦人。令嬢風の女性と並ぶと、お付きの〈ばあや〉《・・・》という風情。  ごく、質朴な身なりをしていた。傍らの端麗な姿に比べればどうしても印象は隠れる。……だから、か?  二人並んで訝っている間に、演奏は終わりを迎えていた。美しく一礼して、老人が引き下がる。  長い髪の女性が顔を上げた。視線が合う。  その瞬間。  おれは恥ずかしいまでに自惚れた直感を得た。  あまりにも馬鹿馬鹿しい悟り。    ――この人に、おれは無条件で愛されているという。  冷静に考えてみるまでもなく、妄想だった。  一体どこからそんなくそボケた考えが湧いてきたのか。今日はじめて出会った女性、しかもこれだけ綺麗なひとが、なんでおれを好きにならなきゃならんのか。  小一時間脳味噌を問い詰めたい。  しかし、その細い瞳がまずかった。  おれを見る眼差しが優し過ぎた。    どうしても、そんな誤解をしたくなる。 「あ……」  とにかく妄念を振り払うために、おれは口を開こうとした。  話をしよう。話をすれば正気に戻る。 「あの……」  言葉が出ない。  何を話せばいいのかわからない。  何してるんだおれ?  ここへ何しに来たんだっけ? 「あのっ……」 「雄飛、どうしたの。勃起してるよ」 「せ、せめて顔が赤いとか言えぇ!!」 「勃ったんですか?」 「うわぁ聞かれてるもう駄目だ!!」  頭を抱えて走り出そうとしたところへ、ばあさんがついと進み出てくる。  まぁまぁとか言いながら肩をがっしり掴んで半回転させられ、おれは無理矢理元の位置へと戻された。  女性の視線は変わっていなかった。 「うーん……雄飛……友情が重いよ」 「今のは混じり気無しの殺意だバカヤロウ」  まぁお陰で正気には戻れたが。ショック療法で。  けど絶対礼なんか言わねぇ。 「あの」 「はい」 「少しお伺いしたいことが……  あ、すいません。おれこのへんに住んでる学生で新田雄飛って言います」 「はい」  女性が頷く。  そして、 「雄飛さん」  大切な宝物のように、おれの名前を口にした。 (うっ)  落ち着け、落ち着けおれ。 「こっ、こ、こっちは稲城忠保」 「稲城です。ところでさっきから雄飛がおかしいのは別に奇行癖ではなく、きれいなお姉さんを前にして浮かれてるだけなんですよとフォローしてあげたりする友情覇王だったり」 「おまえもう帰れぇ!!」 「はい。友情覇王さん」 「わぁい、こっちで覚えてもらえたよ雄飛!」  嬉しいのか。 「それでその。  お姉さんは、ここで演奏をしている人なんですよね?」 「雄飛、その言い方だとまるでほかに習性のない動物みたいだよ」 「うっ。ええとつまり」 「ここで毎日演奏をして生計を立てている人なのか、ということですね?」 「あ、はい。そうです」 「〈演算機〉《CPU》の性能差が如実に知れる会話だなぁ」  返す言葉もねぇ。 「残念ですが……わたくしは、鎌倉には来たばかりですの。  ここでこの子を弾くのは今日が初めてです」 「あ、そうなんですか……」 「残念だね、雄飛」 「こら」  残念とか言うな。悪いだろうが。 「申し訳ありません。  お役に立てなかったようです」 「いえそんな、こっちの都合ですから」  案の定、女性は肩を落としてしまっていた。  こっちが申し訳ない。慌てて手を振る。 「別に大したことではないので……」 「ハハハそれは結構ひどい言い草じゃむぎょ」  親指一本突きによる〈攻勢阻止〉《インターセプト》成功。 「そうですか……?  ではせめて、道を示して差し上げましょう」 「道を?」 「あら、申し遅れました。  わたくしは――」  挨拶のように弦をひと弾き。 「ご覧の通り」 「はい」 「流しの占い師です」 「ええっ!?」 「助手でございます」 「…………その楽器は?」 「大螺旋交差演奏法による占いを得意としておりまして」 「鬼のような胡散臭さですね」 「説明いたしますと」 「いえいいです別に。なんかそのへん聞くとドツボにはまるような気が」 「お嬢さま、それは企業秘密でございます」 「そうでした。企業秘密は守らなくては。  占い業界から刺客でも放たれては大変ですものね」 「強襲突撃戦用占い師が襲ってくるやもしれませんな」 「根本的なところで色々とおかしいって指摘してあげたらどうだい、雄飛?」  おまえやれ。 「では、あなたの未来を占って差し上げます」 「ええと、すいません。あんまり変な方法で占いとかして欲しくないっていうか、むしろそういうのは呪いの仲間なんじゃないかって思うんですけど、その辺どうなんでしょう?」 「見えますっ!」 「なんとなくわかっていましたけど無視なんですね。つーか楽器を使うなら見えるんじゃなくて聴こえるんじゃないですか? あぁぁ、いえもういいです別にどうでも」 「その悟った横顔、素敵だよ。雄飛」 「黙れ」 「……雄飛さん」  占い師(?)がおれを呼ぶ。  その表情は意外さを覚えるほど真摯だった。 「あなたには運命が待ち構えています。  避けられない運命が……」 「はぁ。運命スか」  まあそういうもんがあることにしとかないと、占い屋なんて成立しないのだろうが。 「してお嬢さま、その運命とは?」 「猥褻行為を繰り返した挙句、逮捕されると 『ぼくはモテモテ。どんな女も簡単に落ちる。みんなには王子さまと呼ばれていた』などと供述したりする運命が待っているのです!」 「嫌だよそんな運命!!」 「雄飛、僕たち学校を卒業しても友達だけど会いには来ないでね!」 「鵜呑みにしてしかも見捨てるんじゃねぇ!」  本気で呪いだった。 「安心してください。逃れる方法が一つだけあります」 「壷を買えとか言うんじゃないでしょうね」 「この鎌倉にいる限り、運命からは逃れられません」 「え?」 「鎌倉を離れることです、新田雄飛さん。  一日も早く。今、これからにでも」 「ご家族に相談なさい。  きっと理解してくれます」 「いや、離れるったって……そんな急に」 「さよ」 「は」  女性に促されて、ばあさんが進み出る。  そしておれに、恭しい仕草で何かを差し出した。 「……これ」 「乗車券だね」  大和全線適用一等定期乗車券。  ……錯覚かと思ったが、間違いない。  これを持っていれば一定期間、大和国内のあらゆる鉄道を無制限に最上級の乗客として利用できるという、最高額の乗車券だ。有効期間はあと半年。  ……捨て値で売っても五万にはなるシロモノだ。  新任公務員の月給三か月分。 「冗談でしょう?」 「お使いください。そのつもりがあるのなら」  女性は微笑んでいる。  最初からずっと。  最初から。  あの風のような調べを奏でていた時から。  これが冗談なら、最初からすべて冗談だったということになるのだろう。    ――あの演奏も含めて。 「…………」 「雄飛」  おれを下がらせようとした忠保を止める。  わかっている。こいつはいま、おれを助けるために何かをしようとした。  長い付き合いだ、それくらいわからいでか。  だけど今はいらない。大丈夫だ。 「占い師さん」 「はい」 「あなたがどうしてこんなことをするのか、正直さっぱりわからないです。  でも……あなたが本当に、おれを心配してくれているのはわかりました」 「ありがとうございます」  おれは頭を下げた。 「…………」 「……」 「でも、これはお返しします」 「なぜ?」 「受け取る理由がないとか……そういうことじゃないんです。  あなたが本気でおれを案じてくれているというのは充分な理由ですから」 「けど、少なくとも今は駄目です。  おれにはここでやることがありますから」 「それは大切なことなのですか?」 「はい」 「そのために、あなたが本当に――  過酷な運命に呑まれるとしても、捨てられないほど?」 「はい。  おれが今やらなくてはならないのは、仲間を助けることですから」 「それが原因でおれに何かがあっても……  その時は、仲間がおれを助けてくれます」 「……」  女性は口を閉ざした。  眼差しを伏せ……やがてまた一つ、弦を爪弾く。 「大回転爆裂炎上法が示した運命……」 「あれ? ちょっと変わったような」  ちょっとどころじゃないような。 「わたくしに見えるのは、雄飛さんがそれに巻き込まれる所まで。その先はわかりません。  運命に勝つか、負けるか。あなた次第です」 「……」 「親切げな顔をして、不吉なことばかり申し上げてしまいましたね。どうかお許しを。  今日のことは忘れてくださいまし」 「そんな。えっと……なんて言ったらいいかわかんないですけど。  ほんと、迷惑なんかじゃなかったです」 「お姉さんのことは忘れません。  ……忘れたくないです」 「……ありがとうございます」  〈眦〉《まなじり》がやわらかに下がる。  白い頬にほんの少し、朱がのぼっていた。  うわぁ。このひと、本当に美人だ。 「やぁ、なんか僕はおおむね蚊帳の外でしたけど、楽しかったですよ。演奏も良かったし。  これ、つまらないものですがお礼です」 「あらあら、どうも」  いつの間にか買っていたらしいジュースのパックを差し出す忠保。  うらやましいほどマイペースですねキミは。 「さよ」 「はい」 「ではお二方、わたくしどもはこれで」 「失礼致します」  自称占い師の女性は軽く会釈して、自称その助手の老婦人は深々と一礼して、共に雑踏の中へ歩み去っていった。  消えていく背中を見送る。 「印象的な人たちだったねぇ」 「そうだなぁ」  きっと忘れないだろう。  あの不思議で、親切な女性のことは。  ――さようなら。  うっかり告げ忘れた別れの言葉を呟く。  駅前の雑多な光景の中、最後に見えた後姿は、    嗚咽するように。口元を押さえていた―― 「……忠保」 「なんだい?」 「おまえが渡した、あれ、なんだ?」 「あれ?」  あっけらかんと。  その男は言った。 「実は密かにブームらしくてそこの売店でも売ってた一〇〇%天然・芋サイダー」 「おどりゃぁぁぁぁぁああああああああ!!」 「お嬢さま……あれで宜しかったのですか?」 「ええ」 「〈獅子吼〉《ししく》殿の指先は、おそらくもう間近まで迫っておりましょう」 「それでも。  彼の運命は彼が選ぶものです」 「……まさしく」 「わたくしにできるのは、運命を示して差し上げること。  そしていずれ……彼が運命と戦う時には。ほんの少し、手助けをして差し上げること」 「左様でございますねぇ……」 「急ぎましょう、さよ。  そろそろ本業に戻らなくては」 「はい」 「それと」 「は」 「この新たな味覚の開拓に雄々しく挑戦して華々しく散った英雄的ドリンク、飲みませんこと?」 「断じて結構でございます」 「……というわけで」 「リツは、竹林の辺りまでは帰ってきていたらしいんだよ」 「弁天さまの近くの竹林よね?」 「うん」  一日の調査を終え、小夏を交えて報告会。  場所はおれの部屋だった。  小夏は当然ながら自分の部屋に男を入れたがらないし、忠保の家は少しばかり敷居が高いので――忠保にそう言っても首を傾げるだけだろうが――仕方ない。 「雄飛、卑猥な雑誌はちゃんと奥にしまっておいてよ。恥ずかしいなぁ」 「しまってあるよ! 適当言うな!」 「……しまってあるの?」 「うわぁ、墓穴掘ったね雄飛っ」  テメェだよ掘ったのは! 「話を元に戻します。  ……足跡を辿れたのは竹林までだ。その先はわからなかった」 「その先って言っても、もうリツの家は目と鼻の先なんだけどねえ」 「すごいじゃない。  一日でよくそこまでわかったね」 「自分でも結構驚いている」  あの弦楽器の女性と老女の二人連れに出会った後の捜査は、とんとん拍子と言いたいくらい順調に運んだ。  リツは駅前で数軒の店舗を覗いたあと帰路についたことが、日暮れ前には確認できたのだから。 「でも不思議だよねぇ。あの竹林に入ったら、あとは住宅地方面に出るしかないはずなんだけど」 「そっちでは目撃されてなかったんだよな」 「竹林に入ったのは確かなの?」 「手前の飲み屋通りで聞けた。一昨日の夜に入っていくのを見たって人が何人かいる」 「リツはいつもあそこを通って帰るから、日にちを間違えてるって可能性もないわけじゃないけど……ねぇ」 「いつも見掛けるのに昨日は見なかったんで不思議に思ってた……っていうんだから確かなんじゃねぇ?」 「うん」 「竹林の中は調べなかったの?」 「いやそれが……」  もちろん、調べようとはしたのだが。 「あそこ、田中の爺さんの土地だろ」 「あぁー。あの雷爺い」  小夏が顔をしかめる。さもありなん。  リツの家の近所の竹林は子供の頃のおれたち四人組にとって絶好の遊びスポットだったから、幾度となく侵入を試みた。  そのたび立ちはだかったのが、竹林の所有者である田中の爺さん。  人呼んで雷帝。  竹林を通行路として使われることは容認したものの (そこへ至るにも付近住民との間で過酷な闘争があり、これは第一次雷帝動乱と呼ばれる)、子供の遊び場にされることは断固として認めなかった爺さんは、  野犬一〇匹をまとめて心臓麻痺に至らしめたという伝説の〈雷鳴怒叫〉《サンダークラップ》を駆使して侵入者を攻撃。  対するおれたちは兵力の優位を生かせる散開戦術を選択。敵戦力の疲弊を狙ってゲリラ戦を繰り広げたが、  付近住民の仲裁(雷鳴の流れ弾をくらうこっちの身にもなれ)によりやむなく和睦。ふかし芋八個と引き換えに全戦線から撤退したのだった。  第二次雷帝動乱の終結である。  そんなことがあったため、今でもあの爺さんはおれたちにとって鬼門だった。  最近は寄る年波のせいか、家でおとなしくしていることが多くなったと聞いていたのだが。 「たまたま昨日は元気だったらしくてな」 「しかもつい最近竹林を荒らした連中がいるらしくて。こっちを見るなり僕らを犯人だと決め付けて怒鳴り通しでさ。  ハハハ、まったく話にならなかったねぇ」 「笑いごとじゃないでしょ……」  まったくもって。 「とにかく、あそこは爺さんの留守を狙ってまた調べてみるさ。  でないと調査が進まないしな」 「それで、おまえの方はどうだったんだ?」 「あ、うん。  リツの友達を片っ端から当たってみたんだけど……」  その小夏の表情を見れば大体続きはわかったが。  聞かないわけにもいかない。 「けど?」 「成果ゼロ。一昨日、忠保と別れた後のリツを見た人は誰もいなかった。  誰それと駆け落ちでもしたんじゃないとか、いい加減な噂は色々拾ったけどね……」 「駆け落ちの相手は? 誰か特定の男?」 「言う人によってバラバラ。  ちなみにあんたや雄飛も候補者のうち」 「……おれたちは別に失踪してないんだが」 「一方だけが姿を消す駆け落ちって、それはつまり拉致監禁って言わないかなぁ。  雄飛、ちょっと押入れ開けてみていい?」 「どうもおまえとの友情を清算して損失額を支払わせる時が来たらしいな?」 「後にしなさい。  それと……これも聞いた噂の内なんだけど」 「ん?」 「ちょっと……良くない噂が」 「……まぁ、リツはやることなすこと万事が派手めだったからねぇ」 「悪く言う奴は昔からいたろ。  今更そんなもん、気にしたって仕方がない」  目立つ人間の宿命みたいなものだ。  昔はしばしば腹を立てることもあったが、当の本人が『ほほほ有名税というやつですわね』とか言ってるので段々気にならなくなった。  相手にされない陰口側はそれで一層躍起になるわけだが。 「そうじゃなくて。  リツの噂じゃなくて……」 「なんだよ」 「……リツに関係あるかもしれない悪い噂。  最近、人がいなくなってそれきりってこと多いでしょ?」 「順調な増加傾向にあるね」 「順調ってこたないだろ」  順調だけど。 「その理由が……  六波羅の奴隷貿易なんじゃないかって、噂する人が多いの」 「…………」 「…………」 「だから子供とか、見た目のいい若い女の子とかがよくいなくなるんだって。本当かどうかはわからないけど。  大陸に運んで売るのに都合がいいから……」  小夏はそこまで呟いて黙った。  かわりに口を開く者もいない。  ――六波羅の奴隷貿易。  おそらく、なんの証拠もない噂だろう。  六波羅に反感を抱く人間なら誰でも思いつきそうな話だ。そして六波羅に反感のない市民などいない。  そんな噂が多く飛び交うのは当然と言えた。  つまりは偏見というものだろう。  だがそれでも。  六波羅の奴隷交易、その言葉が持つ現実味は―― 「……有り得ない話じゃないね」 「忠保……」 「なるほど。それなら、拉致犯が家に連絡を入れてこないことも不思議じゃなくなる。  利益は被害者の家族ではなく、購入者から得ればいいわけだから」 「ちょっと――」 「忠保!」 「怒らないで聞いて欲しいな。  時間の無駄だよ」  激昂しかけたおれと小夏に、忠保の声はバケツ一杯の水のようだった。  冷え切っていた。 「狙われるのは女子供……それも合理的だね。  捕獲に要する手間が少ないうえ、運ぶのも比較的楽だ。成年男性と違って労働力としては期待できないけれど……」 「そういう役割を求められる奴隷ではないのだろうね」 「……」 「…………」 「奴隷市場となると、どこになるかな。上海か、香港か……〈澳門〉《マカオ》か。  その先はもうわからないな……中南米かもしれないし、大陸の奥地かもしれない」  忠保の淡々とした言葉は続く。  止めたかったが――止められない。  それはただ、臭いものに蓋をするも同然のことだとわかっていた。  蓋をしたところで汚物は消えない。  本当に……そんな。  汚物のような事実が。  リツを襲ったと、言うのだろうか。 「もし……」 「うん」 「もし、もしよ? もし本当にそんなことがあったとして……。  どうすればいいの?」  どうすればいいのか。  そんな事態に対して。 「……とりあえずは、事実を調べることだよ」 「……」 「まだリツがどうなったか、実際のところは何もわかっていないんだ。  まずはその確認が第一」 「憶測で騒ぎ立てても相手にされないよ」  答えになっていない。  それはわかっていた。 「つまりはリツの足取り調査の続行だな」 「そうだね」  話を合わせる。忠保が頷く。  小夏は黙っていた。  考えていることは、きっと、全員同じだった。  〈六波羅には刃向かえない〉《・・・・・・・・・・・》。 「小夏」 「……」 「ほかには何かないのかな?」 「え……あ、うん。  そういえばもう一つ、気になる話が」 「なんだ?」 「今朝のことなんだけど、学校に来る途中で怪しい人を見たって」 「怪しい人?」 「忠保くらいか?」 「ハハハ雄飛、ちゃんと冗談めかして言ってよ。真顔で言ってどうするのさ」 「? おれは真面目だが。冗談言ってる場合じゃないだろ」 「そうね。話を聞く限りだと、どうも4忠保くらいの怪しさみたい」 「相当だな」 「会話の円滑な進行のためにひとまず黙っておくけど、僕が納得していないという事実は議事録に残しておくからね。  それで、どんな人?」 「うーん。なんだか……すごく暗い感じの」 「ほお?」 「暗黒大将軍か、暗闇の星の暗闇星人かってくらいに黒いオーラがにじんでる人で」 「あまり聞かない人物評だね」 「途方もなく景気の悪い目つきをしながら、学校の周りを徘徊していたんだとか」 「それは怪しいな……」  おれは思わず腕組みして唸った。  そんな野郎が今日、学校のそばにいたとは。 「関係……あるかな?」 「さっきの噂と結びつければ、拉致の実行犯が次の獲物を狙ってるとも考えられるね」 「! じゃあ、そいつを捕まえれば」 「リツに辿り着ける可能性はある……可能性はね。  現段階では何もかも推測だよ」 「それはわかってるが……」  だがようやく、道筋が一つ見えた気がする。  明るい道筋ではないにしても。  リツは今日も結局、家へ戻っていない。  焦りが募る。  そばにいることに慣れ親しんだ仲間がいない、それがこんなにも辛いことだとは思わなかった。  耐え難いまでの焦り。  本当は寝る間も惜しい。 「夜に調査なんてやるだけ無駄だよ。  鎌倉大番に捕まりでもしたら何もできなくなる。落ち着いて、雄飛」  わかってる。  わかっちゃいるけど。  リツ……無事でいるよな?  きっとどっかで遊んでるだけなんだろ?  さっさと帰ってこいよ。  今なら笑って許してやるから。  それとも本当に、六波羅の鬼畜野郎にさらわれちまったのか。なら、おれは、  おれは、  糞。  ……おれはその夜、見も知らぬ暗闇星人と巨大化して戦う夢を見ながら眠った。  焦ろうがのんびりしていようが時間は普通に流れるし、学校は普通にあるし、授業は普通に行われる。  正直、授業なんかまともに聞いていられる気分ではなかったが、この状況でさぼったりすれば騒ぎを助長してしまう。  リツを探しに行くと断っても通るわけがない。  学校と、特にご厄介になっている来栖野家に迷惑を掛けることは避けたかった。  遠縁の孤児に過ぎないおれの面倒をみてくれているおじさんおばさんを心配させるわけにはいかない。  ……実の両親に育てられている身なら、こういう時はむしろ、頼ろうとするのだろうか?  などとちらりと考えたが、わからなかった。事故で死んだ(と聞く)両親のことは顔も覚えていない。  何にせよおれは最善の手段、放課後を待っての行動を選ぶしかなかった。  授業は……同じような心境だろうに責務を果たしている鈴川には申し訳ないが、聞き流させてもらう。 「……歴史を古代、中世、近世、近代、現代のように区分けすることを時代区分という」 「前回まで学んでいたのが近代。  今日から現代に入るが……」 「近代、現代の区分には諸説ある。  その一つは新型劔冑の誕生をもって現代の始まりとするものだ」 「上古の時代から今に至るまで、〈劔冑〉《ツルギ》は常に最強の兵器だった。着用した人間の身体能力を飛躍的に向上させ、空を自在に駆けさせる……これに勝る武器は未だない」 「陸上では戦車、空では飛行艦が有力な兵器として注目されているが……いずれも単純な戦闘力ではまだまだ劔冑に及ばないというのが実情だ」 「〈高速徹甲弾〉《HVAP》を始め、劔冑の撃墜を目指した兵器の研究もされている。我が国でも戦時中、〈電磁加速砲〉《レールガン》計画などが一時期脚光を浴びたな。  しかし実用に達した例はほとんどない」 「劔冑を打倒できる兵器は無く、劔冑に打倒されない兵器も無し。  そのつもりになれば、劔冑を使う者は一人で完全武装の歩兵百人を駆逐する事ができる」 「……いや。それどころか。  中には、〈町〉《・》をただ一人で壊滅させてしまう者さえいるようだ」 「その種の伝説なら何処の国にもあるが……  こんな話を、昔の御伽噺ではなく、現実的な脅威として受け止めなくてはならない我々大和国民は……残念ながら、非常に不運だな」 「……」  窓際に座る何人かが、ふと空を見上げた。  夕立を危惧するように。あるいはそれ以外の何かを危惧するように。  ……幸い、何もないようだった。  〈白銀色〉《・・・》のものは、何も。 「劔冑はそれだけの力を持っている。  その劔冑の使い手を〈武者〉《むしゃ》という」 「近代以前、武者は一握りの上級士族だけに限られていたが……高野、それはなぜだ?」 「劔冑が貴重品だったからです」 「なぜ貴重品だった?」 「鍛冶師一人につきひとつしか造れなかったからです」 「そうだ。劔冑鍛冶は生涯〈一打〉《ひとうち》。  なぜなら、劔冑を完成させるには鍛冶師が自分の身魂を鎧に打ち込まなくてはならない……これを『〈心鉄〉《しんがね》を通す』という」 「そうすることで初めて、劔冑は最強の武器としての力を得……その力を使い手の意思に応じて制御するための頭脳も備える。  心鉄を通さなければただの上出来な鎧だ」 「つまり、劔冑を一領造るには鍛冶師が命を一つ捧げなくてはならないわけだ。  貴重品なのは当然だな」 「先生っ」 「どうした、吉田」 「劔冑を造った鍛冶師は死ぬんですか?」 「……難しい質問だな。  鍛冶師の心魂は劔冑の〈統御機能〉《OS》として残るわけだから、生きているという見方もできる」 「だがそれはあくまで、劔冑の部品としての精神……というか、精神の〈ようなもの〉《・・・・・》だ。  人間らしさはほぼ無くしている。使用者の命令に応えるだけで、自発的行動はしない」 「そうではない劔冑が〈嘗〉《かつ》てあったという人もいるが、伝説の彼方の話だ。  現代には残っていないだろう」 「さて。  そういうわけで、近代まで、武者は非常に数少なかった」 「世界共通のこの事情が劇的に変化するのは国紀二五四九年……〈二重帝国〉《ハプスブルク》の兵器メーカー、ゼグラー社が世界で初めて、鍛冶師の生命を消費せずに劔冑を完成させた時のことだ」 「これに先立つ二五四四年。  何があったか知っている者?」 「はい」 「稲城」 「〈大英連邦〉《ブリテン》のフォレット教授が研究していた〈多重複写〉《ミラー》法による〈生体複製〉《クローン》技術開発が頓挫、研究成果をゼグラー社に売却しました」 「成果とは具体的に?」 「〈複製人体〉《コピーボディ》の完成です。  ただこれは、免疫問題を克服できなかったため、期待されていた医療面での有効活用は不可能と断定されました」 「そう。  だがゼグラー社のアルブリヒト博士はこの技術を劔冑の製造工程に転用することを思いついたわけだ」 「劔冑は能力の源泉とするため、そして能力を制御する知能とするために、鍛冶師自身の心身を必要とする」 「それを博士は前者を複製人体、後者を機械式の〈演算装置〉《CPU》と〈命令系〉《プログラム》で代用することに成功」 「量産可能な全く新しい劔冑を誕生させた」 「この新型の劔冑は性能面では旧来の劔冑に大きく劣ったが――」 「例えば旧型の劔冑でも上物に属するものは、使用者に装甲されていない状態でも、指示を受けて独立行動する能力を有する。  この時の形状は移動に役立つ馬が最も多い」 「新型の劔冑にこんな真似は無理だ。  しかしそれでも充分な能力を発揮したし、」 「何よりも貴重な技術者である鍛冶師を消費せずに済むことが、各国の軍事関係者をして驚倒させた」 「かくして世界中の国々は争ってこの新兵器を採用……技術を取り入れ、量産し、改良を重ねた」 「いまでは性能においても旧型に迫るところまで来ている、と言う者も多い。  〈競技用劔冑〉《レーサークルス》などという派生まで登場した」 「一方、新型の劔冑の普及に反比例して旧型の劔冑は急速に造られなくなり……  まあ当たり前だな」 「技術が散逸して、現在ではもう、〈蝦夷種族〉《ドワーフ》の鍛冶師の中でも限られた者の間にしか鍛造法が伝わっていないといわれる」 「今、戦場の主役は新型の劔冑だ。  旧型の劔冑を使うのは由緒ある家系出身の将校くらいしかいない」 「ここで少し用語の整理をしておこう。  ちゃんと聞いとけ? 赤点を取りたいならいいけどな」  うわ危ねぇ。  また寝るところだった。 「超能を持つ鎧を〈劔冑〉《ツルギ》、使う〈士〉《さむらい》を〈武者〉《むしゃ》という。これはいいな。  劔冑は二種類、新型と旧型があり……大和では前者を〈数打〉《かずうち》、後者を〈真打〉《しんうち》と一般にいう」 「西洋では〈新式劔冑〉《レッドクルス》と〈旧式劔冑〉《ブラッドクルス》なんて呼び方をするな」 「そして武者は、軍事専門用語では竜騎兵と呼ぶ訳だが。狭い意味では前者を〈真打劔冑〉《シンウチ》の使い手、後者を〈数打劔冑〉《カズウチ》の使い手という意味で用いるので注意するように」  新型=数打→竜騎兵  旧型=真打→武者    …………ね。ほいほいっと。 (竜騎兵……武者、か)  ほんの一昔前まで、英雄や勇士の代名詞だった。  誰よりも強い力を持ち、誰よりも厳しい規律に従う。常に市民の盾となり、外敵の前に立ちはだかる、国家の守護者……。  男なら誰しも一度は憧れるような。  武者とはそういう存在だった。    ……ほんの少し前までは。  今は。  武者といえば、〈あの六波羅〉《・・・・・》。 「話を近代と現代の区分に戻すぞ。  つまり竜騎兵の登場をもって現代の皮切りとする説があるわけだが、その理由はわかるか? 大川」 「わかりません!」 「元気があってよろしい。立ってろ。  じゃあ劔冑博士の稲城」 「それまで権力者の占有物だった最強兵器が、市民階級の手にも渡るようになったからです」 「そうだ。  新技術の誕生によって劔冑の数量が爆発的に増え――」 「と言っても十領造るだけで国家予算レベルの検討が必要になる、依然として希少な品であることに変わりはないんだがな。  あくまでそれ以前との比較の話だ」 「劔冑の数量が増えると、使い手を士族階級だけでまかなうわけにもいかなくなった。  足りない分はどうする? そう、平民だ」 「それまで軍においては脇役でしかなかった平民層出身者が劔冑を与えられ、竜騎兵部隊を構成してゆく。  そうして力を持てば当然、発言力も増す」 「大和国軍における竜騎兵部隊の誕生が興隆二年、選挙法から財産制限が撤廃されたのが興隆十年……国紀二五六九年。この間わずか八年というのは偶然でも何でもない」 「銃が民主主義を生んだという言葉があるが、ならば育て上げたのは新型劔冑というわけだ。  竜騎兵の登場をもって現代とするのはこの考え方に由来する」  なんだか殺伐とした歴史観だな。  兵器の進歩が歴史全体を変えていくなんて……確かにそういう見方もあるんだろうけど。  その視点だと、次はどんな兵器の登場で新しい歴史が始まるのだか。  きっとロクなもんじゃないだろうなぁ。 「さて、では現代史だが……次回にするか」 「今日は概略だけ説明して終わろう」  よっし。  今日の授業はこれで最後。後は掃除だけすればリツ探しに行ける。 「民主主義あるいは民族主義の成長は大国の植民地支配に対する被支配地域の反発を生み、各地で抵抗運動が盛んになる」 「これを受ける格好で大和は人種差別思想の撤廃を国際社会に訴え、アジアの盟主としての地位を確立しようと図ったが、大英連邦を始め白人諸国の反発を買う」 「ロシアの南下は和露戦争によっても結局は止められず、大和はこれに対抗する形で大陸進出を推進」 「このことが大英連邦を更に警戒させ、大戦へとつながっていく……」 「国内では竜騎兵の誕生により、武者統括の組織であった〈六衛府〉《りくえふ》が勢力を拡大。  大戦突入に先立って陸軍・海軍と並ぶ国軍組織を形成、竜軍と称して首都圏を統監した」 「……六波羅幕府の誕生だ」 「そして大戦。欧州、アジア、その他の地域でも戦争の火蓋が切って落とされた。  大和軍は大陸と南洋へ進出し、序盤は連戦連勝、アジア統一も間近かと思われた」 「が、大英連邦は新大陸駐留軍を太平洋方面へ向け、大和軍を迎撃させた。  更には国際連盟を動かし――」 「国際統和共栄連盟は国家間問題の平和的な解決を目的として創られた組織だが、実質、大英連邦とその衛星国家による協賛会でしかないのは皆も知っている通りだ」 「大英連邦は連盟の決議を得て〈連盟軍〉《UNF》を編成。  戦力の中心はあくまでも自前の新大陸軍で、そう増強されたわけでもないが、これにより補給の不安が解消されたことの意味は大きい」 「一方、資源に恵まれず、他国からの支援もない大和側は、速戦即決の意図を挫かれると後が続かなかった。  戦線は膠着し……」 「やがて大和軍は押し戻され、占領地を失い、遂には本土決戦を迎える。  敗勢はなおも続き、九州、中国と侵略され……しかしまだ、六波羅軍は健在だった」 「誰もが、六波羅さえ出撃すれば状勢は覆ると信じていた……。  そして六波羅は」 「大和史上に前例のない、歴史的決断を下す」 「…………」  絶妙な皮肉だった。 「〈六波羅は裏切った〉《・・・・・・・・》」 「祖国を見捨て、連盟軍に降伏した。  その尖兵となって、大和を制圧した。町を焼き、市民を殺し、逆らう全てを滅ぼした」 「かくして大戦は終わり、大和は一応の主権を保障されながらも、連盟の〈進駐軍司令部〉《GHQ》の管理下に置かれ……六波羅は寝返りの褒美にその下で大和の統治権を獲得する」 「時に、興隆三五年。国紀二五九四年。外暦一九三四年。  ……今から六年前のことだ」 「そうだ。  あれからまだ、〈六年しか〉《・・・・》経っていないのだ」  …………。 「……以上だ。次回からはこの流れを順々に追っていく。  では日直」 「きりーつ」 「いや、それがものすごい速さでな。  こう……バヒューン! と」 「竹林の奥を?」 「ああ。竹の間をすり抜けるようにしてな。  イタチか何かみたいなすばしっこさだったが……」 「が?」 「人間……だったんじゃねえかなぁ?  そんな形してたしなぁ……でも人間の動きじゃねえよなぁ、あれ」 「猿だったのかもしれねえけど、多分あれは……」 「…………」 「あー……いや。なんでもねぇ。  うん。山から下りてきた猿かなんかだろ。よくいるんだ、そんな間抜けも。竹の子でも掘りに来たのかねぇ? はは」 「……もういいか?  おじさんもその、忙しいからさ」 「はい……どうも。  ありがとうございました」  そそくさと歩き去っていく、この辺の店では常連のおっちゃんを見送って。  おれたちは黙ったまま、顔を見合わせた。  竹林近くの飲み屋通り。  三日前の夜について聞き込むうち、なにかおかしなものを見た人がいるという話を聞き、探し当てたのが今の人だった。  あのおっちゃんが最後に何を言おうとして中断し、口を濁したのか。想像に難くない。    ――異様な迅速さで駆ける人影。  それはつまり、人にして人ならぬもの。  武者。  そして武者とは六波羅に他ならない。  六波羅に属さない人間の劔冑所持は禁じられているのだから。終戦直後にGHQが実施した劔冑狩り政策によって、六波羅外の劒冑はほぼ全て没収されている。  隠匿し没収を免れた人も、やがて摘発され――又は反乱を起こして滅ぼされ、結局は命ごと劒冑を失った。  一時期は各地で頻発したその手の事件も、もう種が尽きたのだろう、最近はとんと聞かなくなっている。  現在、少なくとも鎌倉周辺において、六波羅による武者と劒冑の一元掌握は完璧だ。    例外は……競技用劔冑くらいだが。 「……〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》がたまたまここで練習してたってオチだと思う?」 「確かにコーナーリングは鍛えられそうだが」 「田中雷帝も心が広くなったもんねー。事故が日常の〈装甲競技〉《アーマーレース》の練習場に竹林を提供するなんて」  有り得ない話だった。  そもそも、装甲騎手は認可された競技場以外の場所で装甲行動することを許されていない。  ……事態はほぼ明白。  あのおっさんの見間違いでない限り、三日前の夜、竹林には六波羅の武者がいたのだ。  リツが姿を消した、その時に!  奴隷貿易。  腐臭のする言葉が後頭部にのしかかる。  昨夜の段階ではまだ可能性の一つに過ぎなかった。  だからその可能性が持つ恐ろしいまでの〈どうしよう〉《・・・・・》〈もなさ〉《・・・》を直視はせずに済んでいた。 (本当に……六波羅にさらわれたのか。リツ)  一挙に現実感の高まった推測を、誰もが脳裏に思い浮かべているだろうに、一人として口にしない。  その理由はさっきのおっちゃんと同じだった。  〈六波羅には刃向かえない〉《・・・・・・・・・・・》。  刃向かえないのに……立ち塞がるのか。それが。  六波羅。  もともと快くもなんともない存在だったが、かつてここまでその重さを感じたことは一度もない。  食料制限、労役、臨時税。圧迫は絶え間なかったにしても、おれたちにとってまあ耐えられる範囲のことだった。  これまでは。  今。圧倒的な暴力で、友人が奪われようとしている――あるいは既に、奪われた。    どうにかしなくてはならない。  だがどうにもしようがない。  六波羅には逆らえないのだ。  六波羅は大和の最強者で、対抗できる力はどこにもない。  正義の力はどこにもない。 「……どうすればいいの?」  上っ面の軽さを装うのにも疲れたのだろう。小夏がとうとう、重苦しい声をこぼした。  応える言葉など、おれにはない。  どうすればいいのか。  いもしない正義の神様の降臨を願うか。  それとももう少し現実的に、災いの神様が六波羅に祟りを下すことを願うか。  どちらでもいい。  大した違いはないのだ。 「……竹林を調べよう。  まずは事実の確認が」 「確認してどうすんだよ」 「雄飛……」 「どうにもできねえじゃんか……六波羅が敵なら! 竹林調べて、武者がリツを拉致ったって証拠つかんで、それからどうするよ?  六波羅に殴り込みでも掛けんのか!」  糞……ああ糞、最低だ。  なに八つ当たりしてるんだおれは。  馬鹿じゃねえのか。畜生が。  事実の確認が必要だ。  忠保は正しい。いつも通り。  まだ決まったわけじゃないんだ。  リツがどうなったのかを確かめなくちゃならない。  だけど怖い。  疑いようのない証拠をつかんで、それでも何もできないことを知って、自分の無力を思い知るのが怖い。  いまの段階で投げ出せば、リツはふらっとどこかへ行ってしまっただけで、楽しくやっている……なんて幻想にすがりつくこともできると。  そんなことを考えている自分がいる。  弱ぇ。  ああ。  情けなくて涙が出そうなほど弱ぇ。 「雄飛」 「……悪い。そうだよな。  まずは確かめるのが先決だ。わめき散らすのはその後でいいや」 「竹林に行こう。  爺さんの目をごまかして、なんとか」 「いや、違うよ。雄飛、あれ」 「ん?」  ぽんぽんぽん、と急かすように肩を叩いてくる手に促されて、おれは俯けていた顔を持ち上げた。  忠保と小夏は二人そろって一方向を見つめている。  その視線を追う。 「……あれは」 「あれ……じゃ、ないかな」 「あれ、よね」 「暗闇星人……」  それは薄暗い男だった。  良く見れば若々しいし、さらに良く見れば悪くない顔立ちでもあるのだが、そんなことは地平線の彼方へ置き捨てて第一印象はただ単に、暗い。  触れるだけで、青春真っ盛りの若者がたちまち人生に疲れた中年親父に変貌しそうなほどの〈蕭々〉《しょうしょう》さ。  ほとんど悪魔的であった。 「……どぉーうしよぉーか?」  おかしなイントネーションで忠保が言う。  この男には珍しく、腰が引けていた。  だが無理もなし。近寄り難いまでの〈暗黒瘴気〉《ブラックオーラ》をこの距離で既にひしひしと感じる。 「声……かけてみる?」  わたしは絶対嫌だからねあんたらよろしく、というニュアンスを含んで小夏が言った。  おれだってそんなの嫌なんだが。  仕方ないので、妥協案を出す。 「とりあえず……様子を見てみるか?」 「異議なし」 「賛成」  全員一致で、厄介な問題は先送りすることに決定。  おれたちは距離を置いて、通行人がのけぞるほどの黒い波動を放ちながら歩く男を追っていった。  飲み屋通りからリツの家付近。そして学校。  男はそんなルートを辿った。  怪しい。怪しいにも程がある。  到底、偶然とは思えない。 「クロ、だよな」 「行動を見る限り、少なくとも無関係ということはなさそうだね。  加えてひとつ……」 「なに?」 「さっき、学校前で上原先生を捕まえて話を聞いてたじゃないか。あの人」 「ああ。最初は上原、嫌そうな顔してたのに途中から急におとなしくなったんだよな」 「そうそう。それはわたしも気になってた」 「その時のことなんだけど。  僕の見間違えでなければ……あの時、銃を見せたんだよ。先生に」 「――――」 「じ、銃?」 「拳銃だったね。懐からこう、ちらっと一瞬だけ。  型まではよくわからなかったなぁ」 「そりゃ上原もびびるよ……」  一般人に無縁という点では、銃も劒冑と同様だ。  持つ人間は軍・警察関係者、でなければ犯罪者だけ。  つまりは。 「犯人確定だろ!」 「状況証拠としては充分かもねぇ」 「あの行動範囲で、おまけに銃。  疑う余地がないじゃないの」  その通り。  この辺りに住むガンマニアが散歩していただけなんじゃないかなどとは言ってみるのも馬鹿馬鹿しい。  拉致犯人。  少なくとも、犯人に近い関係者。 「あいつを……!」 「どうするの?」 「どうするわけ?」 「……」 「……」 「……」 「捕まえる」 「え?」 「本気かい?」  半分がた、やけくそになっているのは否めない。  だがここで見過ごす選択はなかった。 「ヤツが六波羅の武者だとしても……  今は非武装だ。どうにかなる」 「非武装って。あんた。銃持ってんのよ?」 「そりゃ劔冑に比べれば豆鉄砲みたいなもんだけどねえ。僕らにとってはどっちも大して変わらない殺人兵器だよ?」 「当たらなければ大丈夫!」 「当たったら?」 「根性で耐えて前へ進む」 「……なんか似たようなこと言って騎馬軍団を全滅させた人が昔いなかったかなぁ」 「せめて作戦とかないの?」 「おれがあいつの前に立って気を引く。  その間に忠保、おまえが後ろから殴れ」 「神算鬼謀だね」 「ありがとう」 「皮肉が通じない……」 「いけいけモードに入っちゃったみたいだね。  リツへの心配と敵を見つけた興奮と六波羅への恐怖の裏返しとが混ざり合った結果じゃないかなと分析してみたりするけど」 「どうするのよ?」 「乗ってみてもいいんじゃないかな」 「本気?」 「見てよ。あの人、米屋の裏の路地に入ろうとしてる。  あそこなら回り込むのは簡単だ……雄飛の作戦通りにやれると思うよ」 「でも……」 「捕まえれば、得られるものは大きい。  うまく尋問する必要があるけれどね」 「ま、どうにかなるんじゃないかな?  リツの居所がわかる可能性もある」 「……」 「忠保。いいか?」 「オーケー。  屑鉄工場で鉄パイプか何か拾ってから回り込む。雄飛はドブ川が曲がる辺りで仕掛けて」 「わかった」 「……雄飛!  怪我しないでよ!?」 「おう!」  自分が酷く背伸びした、無謀な試みをしようとしているのはわかっていた。  緊張で手の中が汗ばむ。  おれの作戦は無茶苦茶だ。  不意を打てば、拳銃は無力化できるかもしれないにしても……重要な問題を考慮していない。  武者自身の戦闘力。  たとえ劔冑を身につけていなくとも、武者は武芸の練達者だ。民間人が戦えるような相手じゃあない。  前を歩く男は控えめに言っても人並み以上に〈逞〉《たくま》しい体の持ち主だった。余程に修練を積んでいるのだろう、立ち居振る舞いが悠然としている。  仮に軍の武者ではないとしても、只者とは思えない。  無謀な挑戦だった。  だがそれでも、勝負にはなる。  敵が一人で、劔冑がないなら、戦いにはなる。  ――無力に泣かなくて済む。 (あ、くそ)  卑しい考えがよぎっちまった。  今、今だけは、勝算のある勝負ができる。  この機会を浅ましくあがいてつかみたい。  だって、うまくすれば、  ――結局、六波羅には勝てないにしても。  一度だけ、小さな勝利を得られる。 (それで満足しようってのか……馬鹿が!)  下らない考えを脳裏から追い払う。  忠保が指示した場所は近い。  何も考えるな。  とにかくあの男を捕まえる。  その先のことは……後で考えればいい。  ――ドブ川の曲がり。  おれは迷いを振り捨てて、飛び出した。 「おい! そこの――〈暗々〉《くらぐら》とした悪党ッ!」 「はい」  男が足を止める。  こちらへ振り返る。  正面から、向き合う形になった。    男がおれを見る。  おれが男を見る。  静かな、〈眸〉《め》をしていた。  思わず足が止まる。  もたついて、たたらを踏む。  忠保は驚くほどの素早さで背後に駆け寄っていた。  足音を聞いてか、男が再びそちらを向く。  言葉を掛けなければ。  そう思ったが、声が出ない。  男は忠保を真っ直ぐに見ている。  しかし忠保は、迷わなかった。  鉄パイプが空を指す。  男はそれを見ている。  重く風を切りながら、鉄パイプが走る。  男はそれを見ている。  鉄パイプが額に触れる。  男はそれを見ている――  最後まで見ていた。 「……」 「……」 「……おめでとうって言っていいわけ?  この状況……」 「いや……どうかなぁ……」 「まさか一発で倒せるとは思わなかったねぇ」 「六波羅の人間にしては……ちょっと、その。  あんまりにも、あんまりなんじゃない?」  そこらの学生の一撃で倒される暴虐の支配者。  ……駄目だ。あかん。世界が揺らぎそう。 「い、いや。まぁ、六波羅ったってピンキリだろうし。大半は武者でも何でもない普通の兵士なわけだし。こういうことも」 「そうそう。たまたまこの人は六波羅百万騎の百万番めだったんじゃないかなぁ」 「おお、それなんかすげえ確率だな忠保!」 「うん。なんだか宝くじでも買いたくなってきたねぇ」 「わかった。OK。わたしがはっきり言ってあげる。  ねえ、この人――」 「そろそろ日が暮れるなー」 「焼き芋でも買って帰ろうか」 「――ただの通行人だったんじゃないの?」  ………………。  言っちまいやがった。この女。 「いや、いやっ、でも! 悪党って呼んだらはいって答えたよ、この男!」 「それは単に声かけられたから返事しただけじゃないのかしら……」 「そう思うなら止めて欲しかったなぁ。下手をすると僕ら三人、ひたすら無意味に傷害罪なんだけど」 「実行犯はおまえだ」 「一人だけ実刑ね。お別れね。さようならー元気でねー。あなたのこと、きっと忘れない」 「アハッ。大丈夫。僕たちはずっと一緒さ!  だって、教唆犯と実行犯の罪は同等だもの」 「……」 「……」 「……」 「そ、そうだ、拳銃!  忠保、こいつ拳銃持ってたんだろ!? ならまっとうな人間のわけがないっ!」 「ああ、そうだったね。  確認してみよう。確かコートの下に……」 「…………」 「忠保?」 「銃……あったの?」 「……うん。  銃は、あるよ」 「良しっ!  何がいいのかはともかくとして良しっ!」  これで犯罪者にはならなくて済む。  たぶん。 「…………」 「忠保?」 「ええと……銃は……あるんだけどね。  その……〈握り〉《グリップ》に、旭の紋章がついてるんだ」 「は?」 「旭?」  それって。 「警察局の紋章だね」 「……………………」 「…………………………………………」 「ぎゃああああああああああああああああ!!  ててってってっ手当て手当て手当ておをっ」 「あわわわわわわ……  わたししーらない! ほんとしーらない!」 「いやあどーしたもんだろうねぇこの始末。  はっはっはっはっはっはっはっ」  大混乱だった。 「ほんっとうに申し訳ありませんでしたァ!」 「はい。貴方がたの謝罪は諒解しました。  もう頭を上げてください」  暗い男性は、やたらと良い人だった。  いきなり問答無用に殴りつけてきたアホガキ三人がひたすら慌てつつ事情を話して謝り倒すのに根気良く付き合い、しかも一言も責めずに許してくれたのだ。  こんないい人をおれは他に知らない。  なんつー無敵な人格者なんだろう。 「というより、ここまでくるとちょっと変な人だよね」 「超うるせぇから黙ってろ」  糞余計なことを言う口を拳で封じる。  実のところ同意しないでもなかったが。  公園のベンチという場所柄には似つかわしくなく、男性は背筋を完璧に伸ばして座っている。  それでいて堅苦しい印象があまりないのは、きっとこの姿勢に慣れて久しいからなのだろう。  背が高いのはそのせいか。  ……とすると、おれの背が低いのは猫背気味だからか。うっ、そうかも。  男性の額には立派なコブ。  まぁ、ああいうのは冷やせばすぐ治るはずだが……おれだったら文句も言わずに許すのは無理だな。  そう思うとやっぱすげえ心の広さだ。 「すみません。ほんとすみません。  まったくこいつらってば容赦なくバカですから、わたしが止めても聞いてくれなくて」 「ごめんなさい。ちなみにやる前にそこの女にはなんかハッパかけられたような気がするんですがそれはさておいてごめんなさい」 「ちなみに僕は実行犯ではありますが主犯はたぶんそっちの彼だと思いますと個人的見解を示しつつ大変ご迷惑をおかけ致しました」  そして対照的に醜いおれたちだった。 「大したことはありません。頭部で最も骨が硬い額でしたから。  脳漿は健在です。記憶の喪失も確認されません。どうかお気になさらず」  そういう問題だろうか。 「つまり貴方がたは、友人を助けたい一心で自分への襲撃行為に及んだ。  この理解で間違いはありませんか」 「ええ、まあ……」  襲撃……。 「状況を鑑みれば、自分が疑われたのも無理からぬことと言えます。  貴方がたにのみ一方的な非があるとは思えません」  ……いや、非は一方的にこっちだと思うんですが。  この人、どうしてここまで穏やかなんだ?  口調も丁寧だし。こっちはガキの上に加害者なのに。  しかも得物は鉄パイプ。  下手したら死んでたんだけど。 「短絡的な行動だったのは確かですが、それもお歳を思えば仕方のないことです。  ただ、今後は注意を求めます。自分はともかく、ほかの方に怪我をさせてはいけません」 「は、はい」 「肝に銘じます……」 「いい勉強をさせて頂きました」  おい。それ、なんかおかしい。 「ところで、おまわりさん。  こういう聞き方はなんですけど、どうしてあんな怪しい行動をしてらしたんです?」 「おまえなァ」  確かにそれは気になるところではあるけれどもさ。  だがおまわりさんは気にした風でもなかった。  失礼極まる質問にあっさりと答える。 「貴方がたのご友人……〈飾馬律〉《かざまりつ》さんの失踪について調査をしていました」 「え!?」 「はい!?」  頓狂な声をあげる小夏とおれ。  ……いや、ま。そう言われてみれば、ごくごく自然な回答ではあるんだが。 「やぁ。正直、それだけはないと思ってたんですけど」 「とは?」 「いやいや忠保」 「すとーっぷすとーっぷ」  さすがにこれ以上は喋らせられない。  小夏と二人して口をふさぐ。  しかし、おまわりさんは自ずと察してしまったようだった。 「……成程。  警察がまともに仕事をするとは珍しい、という主旨の疑問でしょうか」 「ええと、まあ……」 「歯に衣着せずに言えば……」 「ごもっともです。  実際、警察機構の大半は形骸化しています。自分も実のところ、飾馬律さんの捜索願いを受けて動いているわけではありません」 「今後も、捜索班が編成されることはないでしょう。予算も人員もなく、許可も与えられないでしょうから」 「許可?」 「六波羅の許可です。  幕府は非常時体制を理由に警察を監督下に置いています。許しなく行動はできません」 「そして幕府に益しない行動は許されません」  ……そうだったのか。 「警察の業務の大半は六波羅の雑用も同然と言えます。  その為に必要なだけの予算と人員しか与えられていないのが実情です」 「いやぁ。そんなもんだと聞いてはいましたけどねぇ。  でもそうなると、おまわりさんはどうしてリツの捜査を?」 「申し遅れました」  おまわりさんは上着の前を軽く開き、ホルダーの中に収まっている拳銃を示してみせた。  先刻も見た旭日章。警察の証だ。 「自分は内務省警察局鎌倉市警察署属員……  〈湊斗景明〉《みなとかげあき》です」 「属員?」 「アルバイトの職員……  昔の〈岡引〉《おかっぴき》、〈下引〉《したっぴき》のようなものと思って頂ければ結構です」 「そんな制度あったんですか?」 「ありません」 「はへ?」 「公式には。  ですので、六波羅の監督も受けません」 「な……なるほど!」  なんかすげぇな。  岡引……このレトロな響きがたまらん。  ちょっと燃えてきたぞ。 「でも、さっき予算もないとか……」 「はい。勿論、自分は警察組織に法制度上は存在しないのですから、活動費用も警察予算からは下りません」 「自分は鎌倉警察署長の私費でまかなわれる人員です。  署長の指示する任務を行うため、署長個人から必要な経費や装備を与えられています」 「そういうことですか」  署長さんも、現状でできる限りのことを頑張ってるってことだろうか。  顔も名前も知らんけど……今までは馬鹿にし過ぎていたかもしれない。 「それで、湊斗さんの任務っていうのは?  さっきの話じゃ、リツの捜索ってわけでもないようですけど」 「うっ。不躾な質問でごめんなさい」  でもそれは知りたい。 「構いません。  自分が飾馬さんの失踪について調査をしているのは、事件に武者の関与が見受けられるため……」 「え?」 「自分の任務は、銀星号事件の解決です」 「――――」 「――――」 「――――」  は……  はぁーーーーーーーーーーーーーッ!?  ……銀星号事件。  その幕開けはおよそ二年前。  村や、学校、あるいは軍事基地など、多数の人間の集う場所が、あるとき唐突に壊滅する。  極めて凄惨に。極めて不可解に。  人々は〈全滅〉《・・》するのだ。  死に絶えるのだ。  ある者は首を切り離され。  ある者は全身に殴打を浴びて。  ある者は入神の技で体を縦に両断され。  ある者は肉という肉を滅茶苦茶に引き裂かれて。  ある者達は恐るべき殺人者の一刀で葬られたと見え。  ある者達は錯乱の末に同胞同士で殺し合ったと見え。  人々は死に絶える。  災厄の跡だけを残して。  災厄の姿は何も残さず。  彼らはなぜ死んだのか。  何が彼らを殺したのか。    その問いに答えるのは沈黙の〈谺〉《こだま》。  誰も答えられはしない。  一人残さず死んだのだから!  ただ、幾つかのあやふやな証言は語る。  ――惨劇のあった村から飛び立つ何かを見た。  ――焼け落ちる校舎を背に立ち去る人影を見た。  ――あの時、銀色の何かが空を駆けていった。  ――武者まで殺されている! なら、犯人も……  かくして大和の人々は知る。その存在を。  殺戮者。銀色の。武者を殺すもの。  白銀の武者!  殺戮の天象!  災厄の流星!            〝銀星号〟!!  それは〈諸人〉《もろびと》を殺し尽くす暴力。  それは武者をも打ち倒す破壊。  それは神の如く平等なる悪夢。  巨躯とも矮躯とも定かならず。  邦人とも異人とも定かならず。  正者とも狂者とも定かならず。  ……〈而〉《しか》して、白銀。  定かならぬ銀色の武者が、村を町を軍砦を滅ぼす。  ――銀星号事件。  二年前を端緒に関東諸地域で七件が確認されているこの事件は六波羅、GHQ、それぞれが用意した専属捜査班の活動にも関わらず、いまだ解決の糸口すらもつかめていない。 「そ、そっ、その銀星号を逮捕するっつーんですか!?」 「そのような平和的な対処が可能であれば、喜ばしい限りです。  しかしおそらく、殺傷も含めた手段を検討する必要があるでしょう」 「いや、あるでしょうじゃなくて!  勝てるわけないじゃないですか!!」  そんなのは当たり前だった。  六波羅は大和すべての武者を統括する最強の集団だ。  誰も刃向かうことはできない。    だが唯一、例外が存在するとすれば――  それが銀星号の名で呼ばれる、未確認の武者なのだ。  白銀の殺戮者。六波羅さえも餌食とする魔物。  幕府の情報管制を潜って巷に囁かれる噂を信じれば、銀星号は六波羅武者の一個中隊を全滅させたことすらあるという。  たった一騎で。  真偽はわからない。  だがこと銀星号に関する限り、六波羅は常の傲岸な余裕を見せ付けてはいなかった。あてにならない情報一つであっちへ行きこっちへ行き、捜査班は右往左往。  強大な六波羅が、怯えているかのようだった。  その様子に、大和各地に潜在する倒幕派の一部には銀星号を英雄視する向きもあるという。  ……一般市民も事件の犠牲者なのだが。  死の雨の銀星号!  実態は不明瞭。だが真実、一騎の武者が六波羅をも鎧袖一触に打ち払っているのならば、間違いなくこの世の〈最強一者〉《トップワン》だ。  誰も勝てない。  勝てるわけがない。 「……それとも銀星号の噂のほとんどは実は誇張だと? そうなんですか?」 「いいえ。  むしろ情報規制のため、市民の間の風説は実態よりもいささか〈おとなしい〉《・・・・・》と言えます」  おいおい。 「……そ、そんなのと、どうやって。  その拳銃で戦うっていうんですか!?」 「それは不可能かと。  この銃は非公式の身分証の意味合いで貸与されているに過ぎないものです。弾丸は装填されておりません」 「それじゃ、ますます話にならないじゃないですか!  戦う力がなけりゃ、どうにも……!」 「戦う力はあります」 「あったって無駄ですよ!  銀星号ってのは悪魔みたいなもんでしょ?勝てやしませんよ! 戦ったって無駄なものと、なんで戦うんです!」 「……」 「……」  忠保と小夏は口を挟んでこない。  だが胸中が同じであることは横顔で知れた。  銀星号と戦う。無茶苦茶だ。  ほかの人間が言ったなら戯言だと思ったことだろう。  おれも笑って済ませている。  だがこの人は、本気だ。  顔を見て目を見て声を聞けばわかる。  死ぬに決まっているのに! 「なんで、戦うんですか……」 「戦うべきだからです」  ……え?  なんで、そんな、簡単な答えで。 「いや、だから……  戦ったって、勝てないのに」 「戦わねばならない時。  勝てるか否か――という思案は重要なことなのでしょうか」 「そ、そりゃあ、重要ですよ。  だって負けたら意味がないじゃないですか」 「はい。自分も、たとえ負けようが戦うこと自体に意味がある、などとは思いません。  それではただの自己満足です」 「スポーツならばそれでも良い。  自分の戦いは違います。  自分は是を非としても勝たねばなりません」 「しかしそれは、戦う決断をした後の話です。  戦わねばならないから戦う……その決断に、勝つか負けるかという計算は必要ありません」 「……」 「自分には銀星号を止める責務があります。  だから戦うのです。それだけのことです」  最後まで。  微塵の気負いもなく淡々と、湊斗さんは言い切った。  ……この人は。  何を言っている?  理解したい。  〈この人の言葉を理解したい〉《・・・・・・・・・・・・》。 『戦わねばならないから戦う』  その言葉、その決断こそは、おれの―― 「……年長者ぶって偉そうに話をしてしまいました。自分より年少の者を捕まえて浅薄な人生観を語る若造ほど滑稽な人間はいないと、母に教えられていたのですが」 「恥ずかしい限りです」 「い、いえ……」 「えっと。つまり湊斗さんは、銀星号事件の専属捜査員で、リツの失踪も関係があるかもしれないから調べてるってことですよね?」  あっさりと話をまとめる忠保。  こいつの周りに流されないマイウェイっぷりは時々うらやましい。 「概要はそのようになります」 「それって……リツが銀星号の被害に遭ったかもってことですか?  けどなんていうか、あんまり銀星号らしい事件じゃないと思うんですけど」 「そうね……。  住宅地が丸々ひとつ壊滅したっていうならともかく」  おれもそう思う。  聞く限りじゃ、銀星号は台風のような広域災害だ。  一人だけ狙って、というのはどうもそぐわない。 「……銀星号事件といえば大量殺戮、という印象がありますが。それは正確ではないかもしれません」 「銀星号が集団を標的とした場合は事件特有の異常性が際立ち、個人を標的とした場合は単なる通り魔殺人と区別がつかないだけだとも考えられます」  ……なるほど。 「ただ、仰られることには同感です。自分も、飾馬さんの失踪に銀星号が直接関与しているとは考えていません」 「というと?」 「申し訳ありません。  これ以上はお話しできないのです」 「あ、そうですか。  いえいえ、それじゃ仕方ないです」  律儀に頭を下げる湊斗さんに、忠保がぱたぱた手を振ってみせる。  踏み込んだところまで色々教えてくれる人だなぁと思っていたが、やっぱり話せることと話せないことの線引きはあるのか。  そりゃそうだよな。 「こう言っておきながら、誠に失礼ですが。  皆様方のお話を改めて聞かせて頂けないでしょうか。地元の方々の立場から収集された情報は、自分には得難いものです」 「構わないよね?」 「もちろん」 「リツの件を調査してくれるなら、願ったり叶ったりってやつだもの。  わたしたちが知ってることならいくらでも」 「有難うございます。  宜しくお願いします」  つい、と目礼する湊斗さん。  ほんとに律儀な人だ。 「……ん。  六波羅の奴隷貿易……そして竹林に武者と思しき影、か」 「役に立ちますかね……?」 「はい。それは勿論」  湊斗さんは頷いてくれる。  本心か社交辞令か、いまいちわからないが。 「実際のとこ、どうなんでしょう。  そういうことはあるんですか?」 「奴隷貿易ですか?」 「はい」 「……奴隷市場というものが海外に存在するのは事実です。  幕府がそれに着眼し、利用している可能性も……ない、と断言はできません」  慎重な答えだ。  先入観で決め付けてしまうのは危険なんだろうな。 「あの……」 「はい」 「リ……リツは、無事なんでしょうか」 「……」 「わかりません」 「……。  わからないんですか?」 「はい。  飾馬さんがなんらかの事件に巻き込まれたことはほぼ間違いないと思われますが、その詳細は現段階において不鮮明です」 「飾馬さんの安否について、はっきりとしたことは何も申し上げられません」  責めるような目つきになった小夏に対しても、湊斗さんは惑いを見せなかった。  冷たいほど明快な説明だけをする。  良い人だと思った。  いい加減で気の弱い大人なら、口先だけで、きっと無事ですよなどと言っているところだろう。  それを信じて裏切られた者がどうなるかなど考えず。  ……この人の言葉は信頼が置ける。 「小夏。無茶なことを聞くな」 「……うん。わかってる。  ごめんなさい、湊斗さん」 「いいえ。自分の力不足に羞恥を覚えます。  友人の身を案じる貴方がたを、安心させて差し上げることができない。仮にも警官たる者として恥ずかしく思わずにはいられません」 「穴があれば入りたい心境です」 「掘りましょうか?」 「お願いできますか」 「いやいやちょっと待って」  良い話になりかけた流れが変な方向へ行った。  おのれ忠保。なんて恐ろしい男だ。  ……普通に付き合った湊斗さんもどうかと思うが。 「それで……じゃあ。  湊斗さんは、これからどうされるんです?」 「迂遠な、と思われるでしょうがまだ捜査の方向を限定する段階には達していないと判断します。  情報収集を継続することになるでしょう」 「……」 「……」  確かに、まどろっこしいと思う。  だがおれたちの六波羅陰謀説は、冷静に考え直してみれば、実のところ証拠の一つもないのだ。  武者の目撃証言も確実とは言い難い。  そんな状態で六波羅を犯人と決め付ける警官がいるわけがなかった。というより、いて欲しくなかった。  もしいたなら今のおれたちにとって頼もしいことは頼もしいが、客観的に見れば単なる迷惑な奴だ。 「ここ鎌倉では近年、失踪事件が珍しくありません。貴方がたの学校周辺に限定しても。  差し当たってはそれらを洗い直し、状況の類似する事件がないか調べてみるつもりです」 「じゃあ、あの」 「はい」 「その調査に、おれたちを協力させてもらえませんか」 「雄飛?」 「おれらには土地勘があります。景明さんは、地元の人ではないんですよね?  なら、役に立てるはずです」 「道案内ができますし……誰かに話を聞くにしても、地元民が一緒にいた方がいいんじゃないですか? 警戒されなくて済みます」  まくし立てるように言い募る。  忠保も小夏も制止してこない。反対ではないようだ。  けれど、気付いていた。  必死なおれを真っ直ぐ見返す湊斗さんは、やっぱり惑いもためらいも表情に映していなくて。 「だから……お願いです!」 「お気持ちには心より感謝致します。  ですが、お受けできません」 「……!」 「お話ししました通り、この件は銀星号事件との関連を疑われています。危険性は、言うまでもありません。  市民の方を巻き込めることではないのです」 「危険は湊斗さんだって同じでしょう!」 「自分にとって事件の解決は責務です。  貴方がたにとってはそうではありません」 「リツは仲間です! 仲間を助けるのは責務ですよ」 「いいえ。  貴方がたはまだ、自分自身以外のなにかに対して責任を負える年齢ではありません」 「っ……!」 「…………」 「貴方がたに課された責任は、自己の安全に配慮し、ご家族を心配させないことです。  友人を案ずる気持ちは理解します。しかし、同じように貴方がたを案ずる人もいるのです」 「その方々の心境についてご考慮下さい」 「…………」  月並みな正論。  しかしおれたちに、反論の言葉はなかった。  これがほかの大人の言った台詞なら、なお噛み付くこともできる。  だがこの人の態度には、そんなガキ丸出しの反応を許さないようなところがあった。 「…………。  また、年長風を吹かせてしまいました」  す、と立ち上がる湊斗さん。  綺麗な挙動だった。  間近で見れば今更に、この人は均整の取れた長身だ。偉丈夫と言ってもいい。  しかし威圧感はなかった。  その眼差しが、どこまでも静穏だからか。 「ご協力に感謝致します。  聞かせて頂いたお話は大変有意義でした」 「はあ。  ま、お役に立てたのなら幸いです」 「ですが」  皮肉ともとれたろう忠保の答えにも動じず。  静かな眼のまま、湊斗さんは告げた。 「自分に近付くことは危険です。  どうか今後は、関与を避けて下さい」 「……で、どうするの? これから」 「決まってんだろ」  帰り道。  すっかり暗くなってしまった街路を足早に歩く。 「湊斗さんの言ってることは正しい。  だが生憎と、おれたちは正しいことを受け入れられないガキンチョだ」 「馬鹿なものは馬鹿なんだから仕方ない!」 「うわ、開き直った。タチ悪」 「リツ探しは続けるぞ。  できれば湊斗さんを探し出して強引にでも協力したい。おれらが無闇に動き回るよりはその方が効率的だ」 「コバンザメみたいな活動方針ね」 「……それじゃ役に立ってないだろうが。  アリとアブラムシ的な共生関係を目指すぞ」 「それってどっちも害虫なんだけど……」 「明日からは根気と体力の勝負になるな。  よく休んどけよ?」 「はいはい。  ……どのみち、投げ出せるようなことじゃないしね」  夜道を進む。  家まではそう遠くない。  ……その二人を。  虚ろな〈眼窩〉《がんか》が見据えている。  蜘蛛。  民家の壁に、逆さに張り付いて、温度のない視線を二人の背に送っている。  蜘蛛。しかし、並みの蜘蛛ではない。  身の丈は六、七尺にも及ぼうか。  人間をひと抱えに出来るであろう長さの節足。  胴体だけでも酒樽ほどはある。  〈怖気〉《おぞけ》をふるうまでの巨躯。    体色は、赤い。  それも噴き出たばかりの鮮血の色。  夜の陰りの下では、腐った血の色に化けているが。  肌はあたかも、〈鋼〉《はがね》めいて冷たく、硬質の輝きがある。    ――否。  鋼鉄、そのものか。  紅い鋼鉄の大蜘蛛。  絵草子の中にのみ在るべき、〈異形〉《いぎょう》であった。  妖しく瞬く複眼の下、二人の学生が遠ざかってゆく。  蜘蛛が体をたわめた。  二人を追うためにか。  あるいはそれ以外の何かを為すためにか。    蝿を捕食するためではなかったろう。  ――だが。  その機先を制するものが居る。  音はなかった。  ただ風を切る気配だけがあった。  蜘蛛の動きが止まる。  定かならぬその視線が方向を転じる。  向かい側の民家の屋根の上。  そこに、屹立する一影。  人の姿。  だが決して人ではない形。    鋼鉄の〈香〉《かおり》。  それは鎧。  黄銅色の鎧。  しかし並みの鎧であれば、風と化して瞬時に現れることなど叶わぬ。  常理を全く超えた跳躍、そして着地を遂げるのなら、それは既に鎧ではない。  〈劔冑〉《ツルギ》だ。  武者だ。  黄銅の武者。  鈍くひらめく眼光をまず二人の背へ注ぎ、そして、蜘蛛を見る。  そこに好意を示すものは一片もない。  見返す蜘蛛とても同様のこと。  こちらは、好意など示す術もなかったであろうが。  対峙の時間はおよそ数秒。  武者が屋根を蹴る。  虚空を駆けるその速度が疾風のものであるならば、同時に〈迅〉《はし》った刃は閃光にも等しい。  逃れようもない雷火。  しかし、蜘蛛の機動は雷火にすら劣らなかった。  紅い巨躯が、ひょう、と軽々しい風を連れて舞う。  閃光の刃も、切り裂き得たのはその風までか。  蜘蛛は無傷のまま、並木の上へ己を載せた。    緑の葉を座布団のように、ちょこんと座る姿は滑稽。  だがその滑稽さこそ魔境にあろう。  鋼鉄の生物を迎えながら、小枝の一本とても折れる響はない。  武者もまた人外。  一閃の仕損じを意に介さず、〈垂直〉《・・》の壁面に苦もなく着地するや、再び跳ねて蜘蛛を狙う。  蜘蛛が逃げる。  そして今度は、逃げるのみに留まらなかった。  夜の風を渡りながら、吐きかけたそれは糸。  鋼鉄の投網。  瞬時にして膨大な群が放たれ、標的へ向かう。  武者は飛び込む格好となった。  反応する間さえなかったのではないか。鋼線の束が武者を捕らえ、渦を巻く。  あまりにも異様な光景がそこに現れた。  民家と民家の間に糸を張った鋼鉄の繭。  これを目にした者がいれば、果たしてここから何が〈孵〉《かえ》るのかと恐れ〈戦〉《おのの》いたことだろう。  だがここからは何も生まれない。  繭に見えようともこれは檻。  生み落とすためではなく封じ込めるための創造物だ。  鋼の糸を幾重にも巻いて出来た重厚な牢。  これに囚われた罪人ははて、どれだけの歳月の後に罪を許され、外界へ帰るのだろう。  十年か。百年か。千年か――  息ひとつ吸う暇さえ、必要ではなかった。  白い光が走る。  刃の〈煌〉《きらめ》き。  繭の内側から溢れた閃光は、瞬きの間に鋼糸という鋼糸を切り払い、藻屑へと変えた。  堅固な牢のあえない最期。  それは単純な真理を語っているのか。    ――より強い者を閉じ込められる獄などない。  武者の剣は明らかに、蜘蛛の力を上回った。  渾身の糸ですら、武者には下らぬ手妻に過ぎない。  ……自然至極のことである。  武者こそは戦場の王。  何者であれその前には膝を屈するほかになし。  武者を打倒し得るものは唯一、  より強き武者があるのみ。  ……その理を、わきまえていたに違いない。  自由を得た武者が辺りを〈睨〉《ね》める。  しかし、視線は何も捉えなかった。  糸を吐きつけておき、蜘蛛は逃げ失せたのであろう。  跡も残さずいずこかへ、異形の蟲は消え去っていた。  視線が流れる。  蜘蛛と武者が共に着眼していた二人の姿は、とうに無い。 「…………」  何を思うか。  あるいは何も思わぬか。  ごく短い間、沈思の素振りを見せ。  武者もまた身を翻し、夜闇の中へ溶けて失せた。 「……はい。その池谷和男くんが行方不明になった時のことについてお尋ねしたいのですが」 「はー。そう言われてものー。  ありゃいつのことだったかのぉー」 「約半年前。  興隆四一年四月一九日土曜日です」 「んあー?  そー言われてものー。ピンとこねーのー」 「安田のじいちゃーん!  春の〈流鏑馬〉《やぶさめ》の前日だよー!」 「……おう!  そうかそうか、流鏑馬の前の日だったの、カズ坊がいなくなっちまったのは」 「なんだぁ、あんたも最初からそう言えよ」 「……失礼致しました」  翌日。  おれたちは湊斗さんをあっさり発見していた。  あの人特有のやたら悪目立ちする気配のお陰である。  なんとなくそれらしい空気を追っていたら一時間後には当人を目撃。  凄い話だった。  おれたちが、ではない。 「…………。  自分に近付くのは危険だと、簡潔にご説明したはずです。説明に不備、あるいは誤解を招く箇所があったとは思えないのですが」 「たまたまです!」 「散歩中です」 「自分探しの旅の途中です」 「や、そういえばこんなところで偶然ですね湊斗さん」 「…………」  軽く額を押さえて、再び歩き出す湊斗さん。  その後ろを少し離れてついていくおれたち。  行く方向がたまたま同じなんだから仕方ない。  たまたま。  湊斗さんは学校周辺を回っていた。  リツだけでなくこの近辺で失踪した人全般について調査しているようだ。昨日言った通りのことを実行中なのだろう。 「御免下さい」 「うぉっ!? なんじゃいあんたはァ!」 「駄菓子屋さーん。大丈夫だからー。  ちょっと話を聞いてあげてー」 「おう、こなっちゃんじゃないか。  なんだ、あの子の知り合いかい。あんた」 「……ええ」 「卒爾ながら」 「ぬぅ!? かなり致命的に怪しい男!  貴様、さてはこの鬼柔道、材木座の泰三に放たれた刺客か!!」 「違いますー。大村先生ー。  その人はただの怪しい人ですー」 「なんじゃ、ただの怪しい男か……。  それで、わしに何か用かの?」 「…………。  はい。少々お伺いしたいことが――」 「もし、そこの方」 「うわーん! 恐い人に声かけられたー!」 「あー、恐くない。恐くないぞう。  ほれ、芋飴あげるから。ちょっとこの人のおはなし聞いてあげような?」 「わーい、ありがと雄飛にいちゃん。  それで、なあに? おじさん」 「…………」  何軒の家を回っただろうか。  湊斗さんが立ち止まった。  おれたちも足を止める。  少しだけためらう素振りをみせた後、湊斗さんは〈踵〉《きびす》を返してこちらへ向かってきた。  おれの半歩前で立ち止まる。 「お話があります」 「実はおれもあります」 「では、お先にどうぞ」 「ありがとうございます」  ぺこりと一礼して、息を吸う。  それから告げた。 「湊斗さん、警官に向いてないスね」 「…………」  あ。落ち込んだ。  どうも自覚はあったらしい。 「……そのご指摘には返す言葉を持ちません。  自分の非才を痛感するばかりです」 「いやぁ、才能の問題ではないような」  忠保に賛成。  地元民ではない湊斗さんは捜査にも色々と難儀するだろう、そこをフォローできれば……くらいに考えていたのだが。  それどころの問題ではなかった。 「こう言うと自惚れてるみたいでイヤだけど、わたしたちがいなかったら、ほとんどの人に話聞けてないような……」 「いえ。まったくもってその通りでしょう。  それを踏まえて、お伺いします」 「はい」  ちょっと居住まいを正す。  往来の真ん中だが。 「新田雄飛さん。  来栖野小夏さん。  稲城忠保さん」  湊斗さんは昨日頭をぶん殴られた直後に一度聞いただけのはずの名前を、完璧に覚えていた。 「貴方がたは、飾馬律さんの捜索を中止するつもりはないのですね?」 「ありません」  きっぱりと答える。  この点は揺るぎなかった。  が、これで終わっては人を説得などできない。  おれは続けるべき言葉を頭の中から探した。 「湊斗さんが正しいのはわかります。  でも、それでもおれは……リツを探すことが間違ってるとは思えなくて。それは、おれたちがすべきことなんじゃないかって……」 「……すいません。巧く言葉になんないです。  でもおれはリツを探すために何かしたいし、そうするべきだとも思うんです」  あぁ。こんなことしか言えないのねおれって奴はァ。 「僕も同意見です。  いまのが意見としての体裁を整えていたかどうかは議論の対象になるでしょうが、それはともかく」 「知性と教養の存在を根本から疑いたくなる説明でしたけど、フィーリングとかそういうところでは同意できます」 「おまえら……」  ほんとうにイヤな奴らだな。  湊斗さんは黙って聞いていた。  やがて小さく、その口が動く。 「〈傀儡〉《くぐつ》を操るは易く、士人を留めるは難し。  全く是非もない」 「は?」 「諒解しました。  自分と同道されるのであれば今後は近接を求めます。最前までの距離では保安の点でも協力の点でも適切と言えません」 「……? …………」  湊斗さんの言い回しは、おれには少し消化不良気味だったが。  それはつまり、要するに。  〈許可〉《OK》。 「よっしゃあ!」 「あー、はしゃがないはしゃがない。  恥ずかしいから」 「はっはっはっ、まあいいじゃないか小夏」  言われるまでもなく自分で小恥ずかしいと思うほど、おれは舞い上がっていた。    嬉しい。  この危なっかしいようで頼り甲斐もある風の、湊斗景明という人と一緒にリツを探せるのが嬉しい。  別に事態は何も進展していないのに、もうリツが目の前にいるような気がする。  忠保と小夏も似たような心地なのではないか。  だから、口では何を言いながらも笑っているのだ。  そう思う。  おれはもう一度快哉を上げた。やれやれという顔で二人が付き合ってくれる。  ……湊斗さんは決して、笑ってはくれなかったけど。  それからまず向かったのは、竹林だった。  付近の住人なら誰でも知っているが、別に何もない単なる竹の林なので、外部から来た人間が簡単に探し当てられるものではない。  おれたちが先に立った。  到着するやレーダーで観測していたとしか思えない速度で登場した田中の爺さんも、喧嘩する相手くらいは一応選ぶものらしい。湊斗さんが身分を明かすと、嫌々ながらも立ち入りを認めてくれた。 「〈矍鑠〉《かくしゃく》とした方です。感服しました」 「あれでも最近は多少おとなしくなってるんですよ。  でも雷鳴の威力は相変わらずだな……まだ耳がビリビリする」 「うぁー……わたしあれ久しぶりだったから腰まで響いたよ」 「素晴らしい肺活量でした。  あのご老人はきっと長寿を保たれることでしょう」 「まわりの人間の寿命がそのぶん削られると思うとどうも祝福できないんですけどねぇ」 「〈些〉《いささ》か郷愁を覚えます。  自分の母も感情が激するとあのような怒声を発するひとでした。酒が切れたと言っては騒ぎ、お腹が空いたと言っては泣き」 「それを耳にするたび自分は安らかな心地になり、しばしばそのまま眠ってしまったものです」 「……だいぶ個性的な団欒風景のような……」 「いつぞや、自分が瀕死の重傷を負ったおり、その声に命を救われたことがあるのです。  あれはそう、家に侵入した武装盗賊と遭遇し、幼年の自分が窮地に陥った時でした」 「なるほど。その時、お母さんが怒声一発で泥棒を追い散らして救ってくれたんですね」 「それは凄いなー」 「はい。あの時、自分はいつの間にか鼓膜が破れて三半規管を損傷し割れたガラスが背中に刺さり出血多量で失神していたようですが、その程度で済んだのも母のお陰でしょう」 「いい話ですねぇ」 「有難うございます」 「えーと……」 「あの……それってつまり……瀕死の重傷を負わせたのはお母さんなのでは……」  風が運ぶ川のせせらぎを聞きながら歩く。  竹林の中はあまり、見通しが良いとは言えない。  爺さんは外敵に備えるばかりで手入れをしていないのか。伸び放題の竹は視界を妨げること甚だしい。  足を使って調べることになりそうだった。  と思ったのだが、その矢先。 「? あれ」 「どした?」 「あの、奥のほう。  なんか荒れてない?」 「……確かに」  忠保が指す方を見やって、湊斗さんも同意する。  おれの人並みの視力ではよくわからないが……  近づいてみれば、忠保の指摘は正しかった。  一群の竹がまとめて切り払われている。  相撲の土俵程度の空き地が出来ていた。  その周囲に散乱するのは、切られた竹か。 「こないだ爺さんが言ってたのはこれか」 「あぁ。竹林が荒らされたってやつ?」 「そう言えばそんなこと聞いたねぇ」  しかし、これをおれたちがやったというのは無理のある決め付けだろう。  竹は素人目にも鮮やかな切断面で、日曜大工程度の器材で可能なこととは思えない。 「鉈かな?」 「斧かもねぇ。  どっかの不良が憂さ晴らしでもしたかな?」 「いるの? そんな暇人」 「いるよ? 暇をなめてはいけないね小夏。  貧困と憤懣と同じように、暇と退屈も犯罪の温床たる資格は充分なんだって昔の人が」 「違う」 「え?」  竹の一つのそばに屈んでじっと見ていた湊斗さんが、唐突に呟いた。  その間も切り口から目を離さない。 「……刃の入り方が〈鋭過ぎる〉《・・・・》。切り口が〈平坦〉《・・》〈過ぎる〉《・・・》。  得物は間違いなく刀……それも業物の部類」 「……地面に切り込みの跡か。  つまり、打ち手は〈力任せに切っている〉《・・・・・・・・・》」 「それがどうして、こんな鮮やかな切り口をつくる……?」 「刀の利だけでは足りない……。  打ち手は〈凡俗にして非凡〉《・・・・・・・》」 「武者だ」  〈武者だ〉《・・・》。  湊斗さんはそう、短くもはっきりと呟いた。 「じゃ……じゃあ!」 「おっちゃんが言ってた通り……  あの夜、ここに六波羅の武者がいた」 「……って、ことになるのかな」  リツがこの竹林で姿を消したあの晩。  武者がここにいた。  〈つまりここは〉《・・・・・・》、〈リツが襲われた現場か〉《・・・・・・・・・・》!?  慌てて周囲を見回す。    何か――何かないか!  手掛かりになるものは! 「足跡とか……!」 「……駄目だね。  一昨日の明け方に降った雨で消されたかな」 「他にもなんかあるでしょ!? 持ち物とか」 「見当たらないけど……」 「六波羅の武者ならば、技量未熟というのは解せない。〈戯〉《ざ》れていたか?」  端からその辺のことは諦めていたのか、湊斗さんは動いていなかった。  慌てるおれたちをよそに自問自答を続けている。 「だがそれにしても……何処から現れた?  騎航すれば襲撃も離脱も一瞬で済む。  しかし目立つ」 「この近隣で爆音、轟音の確認情報は?」 「……えっ?」  数秒、気付くのが遅れた。  今の問いはおれたちに向けられたものだ。 「すごい音ですか? いや、そういう話は」 「聞かなかったですねぇ。  もしそんなことがあったら、田中の爺さんが大騒ぎしてると思うんですけど」 「他人が立てる騒音にはやかましいもんね、あの雷帝」  そのせいでこの近くに住む人はうかつに子供も産めないという噂だ。  嘘か真か、赤ん坊が生まれると騒がしい間は親戚の家に居候したりもするとか。  湊斗さんは反応を見せない。  だが聞いてはいたようだった。 「〈合当理〉《がったり》を噴かしていない。  やはり飛んではいないか」  ガッタリ?  意味がわからなかったので尋ねようとしたが、忠保に止められる。  邪魔をするなってことね。 「では当該武者は如何に現れ如何に去った?」 「出現時……  最初から装甲してやって来るはずはなし。  〈鎧櫃〉《よろいびつ》を背負って侵入しても目立つ」 「〈隠形〉《おんぎょう》に優れる〈劔冑〉《ツルギ》を単独で潜行させ、己は別個に侵入。内部で合流して装甲」 「犯行に及び」 「……そこからどうする。  劔冑は来た時と同様に単独で離脱させれば良い。だが現場に遺体はおろか血痕すらない所から見るに被害者が拉致されたことは確実」 「被害者を連れて武者は如何にこの場を離脱する?」 「…………」  二、三分も、黙っていただろうか。  おもむろに湊斗さんは立ち上がった。 「……まだ情報が不足している模様です。  近隣で情報収集を行いたく思います。特に武者を目撃したという人物、その方に会って詳しい話を伺いたい」 「え? あ……はい。  それじゃ、飲み屋通りに行かないと」 「案内をお願いします」  促されるまま、小夏が前に立って歩き出す。  その後ろに湊斗さんが、そしておれと忠保が続いた。  ……実のところおれは、状況の進展をよく理解していなかったわけだが。 (雄飛) (ん?) (やぁ。あの湊斗さん、思ってたよりも凄いのかもしれないね) (そうなのか?) (武者と劔冑に関する知識が深いよ。  僕に理解できたのは、武者が空から飛んでやって来たのなら、その爆音で周囲の住民に気付かれないはずがないって辺りまでだけど) (あ、そうか)  思い出した。  〈合当理〉《がったり》ってのは確か、劔冑の後背部にある飛ぶための器具のことだ。  稼働中は轟音を立てて煙を噴く。 (じゃ、武者はどうやって?) (その点についてもある程度の推測は立ったけど、まだ疑問が残る……ってことみたい。  そこを調べたいんじゃないかな) (聞いてみちゃまずいかな、そのへん) (やめとこう。今も考え中みたいだし、邪魔になるよ。  ただ言えるのは、この人はどうやら本当に、真相を暴く力がありそうだってこと……!) (そうか!)  自分が色々とできるぶん、他者への評価が実は結構〈辛〉《から》い忠保が認めるのだ。  重さが違う。  やはりこの人に目をつけて無理にでも同行したのは正解だったらしい。  おれたちだけで捜査をしていたら、きっと今頃も、虚しく焦燥感を抱えているだけだったろう。  ……武者がリツを拉致したのなら、六波羅との対決という格好になるのは避けられない。  だがそれでも、この人なら。どうにかこうにか手を尽くして、リツを助け出してくれるんじゃないか? 「いや、今日はまだ見てないね。  もうすぐ来ると思うけど」 「そうですか。ども」  おっちゃん行きつけの店から出て、皆の所へ戻る。  小夏と忠保はそのままだが、湊斗さんはいなかった。 「まだ来てないってさ」 「ちょっと早かったかな?」 「あのおっちゃんにも仕事があるんでしょ」 「うーん、しょっちゅうこのへんにいるからてっきりお酒を飲み歩くのが仕事なのかなと思ってたんだけど」 「……生産性もサービス性も無さ過ぎるから職業としては成立しないんじゃないか。  湊斗さんは?」 「少しその辺で聞き込みしてくるって」 「そっか。まあ、この辺りの人なら柄の悪い人間にも慣れてるだろうし、大丈夫かな」 「あの人は柄が悪いというのとは違うと思うけどね。なんていうか、〈宿星〉《ほし》が悪い?」 「……柄が悪いよりもひどい表現だけど……当たってるといえば当たってるかな」  三人、路上にたむろして時間を潰す。  まだ早い刻限とはいえ付近は未成年お断りの居酒屋ばかり。本来、学生の出現が好ましく見られるような場所ではない。  が、湾岸にあるような本当の歓楽街と違って、ここに来るのは近くの工場や建築現場で一仕事終えてきたおじさん達が大半だ。基本的に金はない。  だから店も素朴で、反面不健全さはさほどでもない。  行き会う人には顔見知りが多く、その大半は軽く声を掛けてくるが、咎められることは一度もなかった。  学生がいても、実際に何か問題が起きるような場所ではないとわかっているからだろう。  この通りで揉め事といえば、泥酔した者同士の喧嘩が関の山。平和なものだ。    が。 「……なんか今日は、雰囲気悪くねえ?」 「そうだね。  どことなくお店の人たちの顔色が冴えないし、時間を考慮しても客足が少ない気もする」 「『準備中』のままになってるお店もあるし……なんか変だね。  もしかしてコレ」  小夏はハッと口元を押さえ、青ざめた様子で言った。 「湊斗さんオーラの影響?」 「そ……そこまでか? あの人の力は」 「いやぁ結構笑えないねぇそれ。  あっはっはっはっはっ」  言いながら笑う忠保をとりあえず一発殴ってから、おれは辺りを見回して特徴的なコート姿を探した。  いくらあの人でもただそこにいるだけで町の平穏を破壊したりはしないと思う。思うんだが。  おれが見つけたのは、別のものだった。 「……ああ。なんだ。あれか」 「あれ?」 「いるだけで町の平穏を破壊できるシロモノ」 「雄飛?  …………あぁ」  おれの視線を追って、忠保が頷く。  それは要するに、そういうシロモノだった。  厚顔無恥なまでに真っ白なスーツを平然と着る大男。それに付き従う、派手派手しい柄のシャツをこれまた恥ずかしげもなく見せびらかしている二人。  そして少し離れて続く、病的な顔色の小男。  これほどバラバラの格好でいながら、これほど均一な印象を見る者に与える集団など、天地あまねく探し回ってもおそらくただ一種類しかあるまい。  神の指さえ感じる絶妙な個性の完成であった。  〈特殊自由業〉《ヤクザ》。  彼らはあるいは、人類と少し違う種の生物なのかもしれない。  人間が乱雑な服装をして集っていれば、それは単に纏まりのない連中としか見られないのが本来のところ。  だがサルが乱雑な服装で人間社会の中に紛れ込めば、それは極めて異質な集団として受け止められるだろう。  彼らはつまりそういうモノなのではないか。  職業『ヤクザ』なのではなく――生物種『ヤクザ』ではないのか。  大体、考えてもみるといい。  彼らは人に迷惑をかけることで生活している。  それは一体どういう社会貢献なのか。  なぜそれで生活が成立するのか。  酒を飲み歩く職業の方がまだしも現実的である。  つまり彼らは生物的習性として他人に迷惑をかけているのであり、決して、業務として行っているのではないのだ。  そう考えれば理不尽ではない。  彼らが通行人を突き飛ばしながら歩くのも、やたらヤニ臭い息を始終周囲に撒き散らすのも、意味もなくゴミを蹴り飛ばすのも、カメムシが屁をこくのと同様の行為なのだ。そう考える必要がある。  彼らの行動に腹を立ててはならない。  霊長たる人類として、下等な生物を暖かく見守り、研究の対象とするべきだ。きっと学ぶことは多々あるだろう。  それこそが、知的生物人類にふさわしい姿勢である。 「――完――」 「なにが完結したのかは良くわからないけど、どうするのさ。こっちの方に来るみたいだよ」 「どうもこうもないでしょ。道をよけて脇に寄ってそっぽを向きつつ腹の中でファッキンとか言ったりして通り過ぎるのを待つの」 「そうだねぇ」  現実的な対応だった。  ヤクザ集団は通り沿いの店に入り、ややあって出てくると、ぺこぺこ頭を下げる店の人に見送られながら少し歩き、次の店に入る……という行動を繰り返している。  実にわかりやすい。 「今日は集金の日だったのか」 「ってことはあれ、野木山組だな」 「ノミ山よ、ノミ山」  小夏が吐き捨てる。  その意地汚さから、六波羅の蔑称は山犬野郎。  ならその犬にたかっておこぼれにありつく奴はノミで上等、という次第。  野木山組は六波羅に取り入って、幕府〈御雇〉《おやとい》の地位を得た暴力団の一つだった。  以前はごく小さな組に過ぎなかったのだが、六波羅との接触に成功するやたちまち勢力を増長。  今はこの通り一帯の支配者になりおおせていた。  六波羅の権威を背景に臨時徴税と称する略奪を行い、収益の半分を献納して残りを自分の懐へ入れる、見事なまでの寄生生物である。  ノミとしか言いようがない。 「あー、かゆいかゆい」 「僕がかいてあげようか、小夏。はぁはぁ」 「……澄ました顔で息だけ荒げるのはなんかすごく不気味で恐いからやめなさい。  ていうかね、それなら元をどうにかしてよ。元を」 「おい」  おれの注意は少し遅れた。  野木山組の連中を指差しつつ忠保と話している小夏。  その指を白スーツの男がちらりと見ている。  それだけだ。  それだけで済むところだったが、    タイミングは最悪だった。  往来の喧騒が唐突に、ふっと静まる瞬間がある。  偶然か、何かの連鎖反応か。  いずれにしろそれはほんの一瞬で、沈黙する理由は何もないのだと気付いた人々はすぐに再び騒ぎ出す。  その静寂が落ちた、ほんの一刹那に。 「あのノミさんチームを」  静寂は、一瞬を過ぎても継続した。 (……まずい)  状況。  硬直している小夏。  小夏に視線を集中させている四人組。  しんと静まり返っている人々。 (やべぇなこれ)  わかりきった分析を脳内で繰り返す。  危険。危険は把握できる。  だがその先へ思考が進まない。  逃げるとか、隠れるとか、単語は頭に浮かぶのだがその意味がわからない。  どうすればいいのかわからない。  袖を誰かが引いている。  何もできない。  誰かに肩を叩かれている。  ……忠保がおれと小夏に、逃げることを促している。  ようやくそうと気付いた時、四人はもう目前にいた。 「ねえちゃん」  白スーツの男。  いかつい顔の、優しい声だった。 「なんぞ言いましたかね? 今」  異様としか表現できない外見との落差。  当然のことだがそれは、正面に立たされている人間を安心させるには全く足りなかったけれども。  それほど怒っているわけではないのか?  学生が相手のこと、騒ぎ立てたところで利益は何もない、と思っているのかもしれない。  だったら、さっさと謝ってしまうに限る。  おれは小夏を横目で見た。おおむね似たようなことを考えたのだろう。どうにかこうにか、口を開こうとしている。 「あ……その……」 「んー?」  耳に手を当てて『聞こえません』の仕草をする男。  後ろに控えている仲間がけらけらと笑った。  小夏は笑えない。  当たり前だった。あいつにそんな度胸があるはずもないことは、長いこと一緒に暮らしてきたおれが一番よく知っている。 「え、えっと……」 「あぁ、すいません、お兄さん」  すい、と小夏の前に誰かが割って入る。  忠保だ。  舌が回らない様子の小夏に助け舟を出すつもりか。  さすが、こういう所は如才ない。 「違うんですよ。彼女は別に」  ……おい、忠保。  そこで言葉を切ってどうする。  普段の調子でぺらぺらと舌を動かせよ。  ノミと言ったんじゃなくて乃木希典万歳と口走っただけなんですとか。  無茶だけどどうせそのへんだろ。  いいから早く言え、それでどうにか誤魔化せ。  ていうかおまえ、どこ行った? (……あ)  ついさっき立っていた場所から、二メートルほども離れて、忠保は転がっていた。  なぜか倒れていた。  ……何やってんだおまえ。  緊張して転んだのか?  おいおいしょうがねえな。  それともギャグかこれ?  スーツの兄ちゃんに対抗?  あーそーいう手もあったかー。  よーしこれで一気に場は和んだぜ。 「誰がお前に聞いたかボケェ!!  オレぁこのねえちゃんと話しとんじゃァ!すっこんどれガキが!!」  ――――――――――――。  脳味噌が凍った。  忠保は倒れている。無論――殴られて転んだのだ。  何を喋る暇もなかった。小夏の前に出た次の瞬間にはもう拳が飛んでいたと思う。  ……事態を正しく把握するまで数秒掛かった。  こいつらには相手が学生だからといって穏便に済ませる気はどうやらまったくない。  きっちりカタをつけるつもりだ。  見れば、後方に控えている男達の表情には驚きの色もない。杖を携えた小男が少し肩をすくめた程度か。  後ろの三人にとってこの展開は意外でも何でもないのだろう。 (どうする)  忠保は体を起こしている。  タフなことに表情はいつも通りの涼しいものだが、それ以上動こうとはしなかった。また殴られるだけで無意味と判断したのだろう。同感だったので安堵する。  小夏は完全に蒼白だ。  気が強いにしても、それは手加減ない暴力に真っ向から向き合えるという類の強さではなかった。  そういう意味ではむしろ酷く小心だといえる。  気絶していないだけでも褒めてやらなくてはならなかった。……目を開けたまま意識を飛ばしているのでなければ、だが。  周りの人々はあてにできない。  野木山組に、というよりその背後の六波羅に好んで敵対しようとする人間がいるはずもないのだから。  では。  おれは? (体は――動く)  動揺しきっているとき特有の、浮ついた感覚が付きまとってはいたが。  動くことは動く。  だがそれでどうする。  何ができる。  この四人を叩き伏せる?  小夏をかついで逃げる? (無理だ……)  できるわけがない。  やるだけ無駄だ。  今、この場を支配しているのは野木山組の四人。  圧倒的な強者は向こう。  逆らうことはできない。  刃向かうことはできない。  無駄だから。  〈彼らには刃向かえない〉《・・・・・・・・・・》。  とにかく頭を下げる。  それがこの場では一番役に立つ。  何はさておき、そうするしかない。 「……ご、ごめんなさい」 「…………」 「ホント、どうこう言ってたわけじゃないんです。ただ、ちょっと……言い間違えたっていうか。  あの――」 「なぁ、ねえちゃん」  スーツの男は、おれを完全に無視した。  小夏だけを見下ろして〈優しく〉《・・・》話しかける。 「ダメだよなぁ? おじさんたちのこと悪く言ったりしちゃあ。  おじさんたちはねぇ、六波羅幕府のお仕事を手伝ってるんだから」 「幕府のためってことは、みんなのためってことなんだよ? そうだよねぇ?」 「はっ、はい……」 「うんそうだ。だからおじさんたちの悪口を言うのは良くないことだ。  謝らないといけないねぇ?」 「はい……ごっ、ごめんなさい」 「じゃあ、そうだねぇ。どうしようか」  謝れと言いながら、男は小夏が必死に謝罪の言葉を口にするのをあっさり聞き流した。  わざとらしく考え込む様子を見せる。 「とりあえず、ねえちゃんさぁ」 「はぃ……」 「服脱ごうか?」  ――――!?  後方に控えるうちの一人が下手糞な口笛を吹く。  杖の小男は苦笑していた。    全員、面白がっている。 「…………ぇ?」 「服。全部服脱いでさぁ、裸になって、そこに土下座するの。  それでいいや。うん。それで今日は許してあげよう」 「若い子相手に、きっついお仕置きはしたくないからねぇ」  おい。  それは新手の文学表現か。  それとも本気でそいつがきっつくないお仕置きだとでも言うつもりか。 「そんな……わたし……」 「できるよね? ねえちゃんが悪いんだからねぇ? 悪いことしたらちゃぁんと謝らないとねぇ? じゃあ脱ごうかぁ?」  裸で土下座がちゃんとした謝罪なのか。  それはどこの文明圏の話だ。 (――――あ)  小夏が泣く。  泣く寸前の気配だ。わかる。  それも幼い時分以来、ついぞ見ていない大泣き。  そんな泣き方をさせられようとしている。  こんな連中のために。  野木山組。  六波羅御雇。  誰一人をとってもおれよりはるかに強そうなヤクザ四人。  勝てない。  刃向かっても絶対に勝てない。 (――〈だから〉《・・・》?)  〈だからどうした〉《・・・・・・・》?  そうだ。  思い出せ。  おれは昨日、何かとても大事な言葉を聞いたのじゃなかったか?  あれは何だった?  思い出せ。  その言葉。 (――〈関係ない〉《・・・・》)  そうだ。  それだ。 (勝てるかどうかは……関係ない)  〈戦わねばならないから戦う〉《・・・・・・・・・・・・》。  〈その決断に〉《・・・・・》、〈勝てるか否かという計算は必要ない〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  おれは小夏の手を握った。  ぐっと力を入れて、自分の背後に引き込む。 「え……?」  そのかわりに、自分自身を一歩前へ。 「なんじゃお前はァ!?」  男はまた、一瞬で豹変してみせた。  大したもんだ。これはもう芸の域に達している。 「忠保」 「……雄飛?」 「手分けだ。  おまえは小夏を引っ張って逃げてくれ」 「ああァ!?」 「おれはこいつらを足止めする」  無視。  目の前で喚き立てる男はどうでもいい。  おれはやるべきことをやるだけだ。 「……無茶だと思うけどなぁ」 「知ってる」  そりゃ無茶だ。できるわけねえだろそんなこと。 「でも、やる」 「…………」  忠保はそれ以上、何も言わなかった。  殴られた後ずっとしゃがみ込んでいたのが嘘だったかのような素早さで跳ね起き、おれの背後へ回る。 「小夏」 「た、忠保……」 「余計なことは考えなくていいから、あっちに真っ直ぐ走って。いやほんと、何も考えずに。難しかったら羊でも数えるといいかも。  あれ? 寝るかな? それだと」 「おい」  背後と思ったら、忠保は横にいやがった。 「雄飛一人で足止めは無理だよ。  話にもならない」 「でも二人だったら、案外どうにかなるような気がしなくもないような錯覚なような」 「……どっちだよ」 「無茶はわかっててやるんでしょ?」  ああそうだよ畜生め。  なんでそんなことに付き合おうとするかなこいつは。 「舐めとんかお前らァ!!」  まぁそういうことになりますね。  戦力・学生二名でヤクザ屋さん四人組通称ノミさんチームを相手にしようというのだからして。  これが舐めてないなら何を舐めてるというのか。  ヤクザ三人――スーツ男と派手なシャツの二人――は見るも明らかに激昂している。  残り一人、病的な小男だけは相変わらず面白がっている顔つきだった。 「小夏、走れって言ったら走れよ」 「……」  返事はない。  だが後ろを振り返っている余裕はなかった。 (とりあえず、泣かれるのは防げたよな)  少しだけ満足する。  あのやかましい泣き声を聴かされなくて済んだのは良かった。  あんな声を聴くのは幼児の頃だけで充分だ。  あんな泣き方をするのも。 「忠保、いいか?」 「ちっとも良くはないけど、事態が好転する見込みがないのなら別にいつでもいいんじゃないって意味では、いいよ?」 「あーそーかい」  実に士気の高揚する応答を受けて、おれは一歩前へ出た。当然、それでヤクザ側が気圧されるわけもない。  もう一歩踏み出せば、そこは殴り合いの距離になる。  勝てるわけがない。  必ず負ける。  きっと手酷く痛めつけられる。  それでも今は戦う時だ。  最後の一歩を、  進む―――― 「お待ち下さい」  ――――!?  予期しなかった声に、おれはつんのめってたたらを踏んだ。忠保も似たような格好になっている。  即座に殴られなくて済んだのは、四人組もその声に気を奪われていたからだ。  慌てて声の方向を見やる。  見ずとも正体はわかっていたが。 「みっ」 「湊斗さん!?」  おれたちの声には答えず、湊斗さんは人垣を割ってすたすた歩み寄ってくると、事もなげにヤクザたちの前に立った。  おれたちと四人組の距離は一メートル程度。その間に割り込んだのだから、湊斗さんと四人組との距離は息が届くほどだ。  おれと忠保は慌てて後ろへ下がった。  湊斗さんは気にした風でもない。  ……はじめて、小男が笑みを消していた。 「……なんだ。あんたは」  それまで強気一方だった白スーツの表情に、刹那、怯みのようなものがのぞく。  湊斗さんは長身だ。スーツ男もそれなりだが、なお頭半分ほどは高い。  というか、背中が大きい。  今はただ、もうひたすら、頼もしい背中だった。  緊張がいっぺんに解け、安堵のあまり腰が砕けそうになる。 「警察です」 「あぁ!? 警察ゥ!?」  湊斗さんの名乗りに、男はかえって意気を回復した。  それはまぁ、そうだろう。警察といえば役立たずの代名詞。六波羅の紋所を背負う御雇身分なら、恐れるべき理由はまるでない。 (でもこの人は違う)  この人は別だ。  あの銀星号にも挑もうとする人。  スーツ男は、恐れるべきなのだ。  同じように銀星号と戦うと宣言できるのでないなら!  昨日、おれたちを相手にした時とは違う。  あの時の湊斗さんは、おれたちが単なる学生だったから何もしなかっただけだ。  六波羅の手下どもが相手なら加減などいらない。 「警察がなんじゃぁ!! オレらァ六波羅御雇のもんだと知っとるんか!?」 「いえ、知りませんでした。  ご説明に感謝します」  また律儀に頭を下げている湊斗さん。  ……滅茶苦茶、余裕だよ。 「馬鹿にしてんかぁッ!!」 「そういった意図はありません」  当然激怒する白スーツに、あくまでも平然たる湊斗さん。  今、男に最も似合う言葉は『空回り』だった。 「なら、何のつもりじゃあ!?」 「あちらの三人」  暴力臭むき出しの男からあっさり顔を背けて、湊斗さんはおれたちを指し示した。 「事情あって、彼らは現在、自分の保護下にあります。従って、彼らが問題を起こしたのなら自分に解決の義務があります。  その義務を遂行している次第です」  再び前へ向き直る。  その湊斗さんを挟んで、四人組とおれたちの距離は三メートルもない。だが決して、やつらがおれたちに手を届かせることはない。そんな気がする。 「義務ゥ?」 「彼らが何か問題を起こしましたか」 「問題!? ああ問題はあるァ!  あいつらはなぁ、六波羅御雇のオレらを、馬鹿にしくさった!!」 「そのワビを入れさせとったんじゃ!  なんか文句あるかぁ!?」 「成程。  諒解しました」  頷く湊斗さん。  しかし当然、その場を譲ったりする様子はない。 「ならどかんかい!」 「その前に貴方がたの要求を伺いたい。  彼らに対して、どのような謝罪を求めるのですか?」 「まずは土下座!  その後はそっからのことじゃ!」 「お断りします」  遂に。  湊斗さんがはっきりと奴らに対抗した。 「あんじゃとォ!?」 「悪口ひとつに土下座は見合わない。しかもそれだけでは済まない模様。  相応の謝罪による納得を求めます。陳謝の言葉と一礼で如何か」 「ダァホォ!  そんなんで野木山組のメンツが立つかァ!!」 「立ちませんか」 「立たんわい!」 「では陳謝を四百字詰め原稿用紙五枚以上の文面で提出する形では」 「どうもならんわ!  舐めさらすンも大概にせェ!」 「野木山組はなァ、六波羅の代紋しょっとるんじゃぞォ!?  半端なカッコで済まされっかァッ!!」 「……諒解しました。  そこまで言われるのなら、止むを得ません」  湊斗さんが動く。  思わず、スーツの男が一歩退いた。  遅い。  馬鹿め。  最初から、チンピラヤクザが相手できるような人じゃない。  この湊斗さんは強い。  強くないわけがない。  この人はおれに、大切なことを教えてくれた人。  これから見せてくれる人だ。  思い知れ、ノミ山。  おれは戦う強さというものを、見せてもらう――  ……  …………  ……………………  え?  ……なに?  これ。 「……何やっとんじゃ」 「土下座です」  路上に正座して、額まで地面につけながら。  声だけは平然と、湊斗さんが応じる。  ええと、はい。  土下座ですね。  それはもう立派な。 「これにて勘弁して頂きたい」  …………。  ちょっと。  なんだよそれ。  真っ白な空気を破ったのは、野木山組の爆笑だった。 「なんじゃ、そらァ!  さんざ勿体つけといて、見掛け倒しかい!!」  スーツの男が肩を揺すって笑う。  派手柄の二人も腹を抱えていた。  ……周囲の人垣からさえ、失笑が上がっている。 「土下座かい! ガキどものかわりに土下座するってぇか!」 「はい」 「げぇぁははははははっ!!  頭の下げ方が足らんわぁッ!!」  革靴が湊斗さんの後頭部に落ちた。  鈍い音が伝わる。  それでも湊斗さんは、身動き一つしなかった。  頭に他人の足を載せたまま、じっと平伏している。  声さえ上げなかった。  調子に乗って、スーツ男は肩を蹴りつけた。  後ろの二人も加わる。    杖の男は無表情に視線だけを注いでいたが。  背と言わず腹と言わず、ヤクザ達の蹴りを浴びて。  湊斗さんはただ、そうしているだけだった。  何の反抗もしない。  全くの無抵抗。  ……なんだよそれ。  戦わねばならない時は戦うんじゃないのかよ!?  今はその時だろ?  相手は六波羅の下っ端のノミ野郎なんだぞ?  戦えよ!  あんた、銀星号とも戦うって言ったろ!  銀星号と戦えて、こんなチンピラと戦えない理由があるかよ!  それともあれは、  あれは…… (口だけだったのかよッ!?)  ……湊斗さんは立ち上がらない。  蹴られ放題だ。  踏まれ放題だ。  土下座の格好で。  ……ひでえよ。  湊斗景明。 「はははははッ!  なんて面白い奴じゃ! よし、今度はな、お前、芸をやってみろ」 「芸とは」 「三べん回ってワンと鳴いてみィ!」  やめろ。  もうやめてくれよ。 「犬の物真似ですか」 「そうじゃ! できんのか!?」 「それを謝罪として求められるのであれば、実行するまでです」 「ぎゃははははは!! どこまで〈根性無し〉《ヘタレ》なんじゃあこいつはァ!  ようし、ほれ、やってみんかい!」 「はい」  やめろォ――――! 「……その辺で止めたらどうよ。  〈雪車町〉《そりまち》」  凛とした声。  続いて現れた姿は、この場の誰にも劣らない存在感を――あるいは誰にも勝る存在感を備えていた。  一見すれば、ただの女子学生。  歳はおれたちより少し上だろうが、顔立ちは可憐で、見ようによっては幼い印象さえ受ける。  しかし、目付きが尋常ではなかった。  獰猛なほどの強さがあった。 (一条さんだ) (え?)  忠保がささやく。 (一条さんだよ。うちの上の学校の。  ほら、ちょっと前に〈逗子〉《ずし》の不良グループが鎌倉征服とかアホなこと言って暴れ出した時、一人でぶっ潰したっていう……伝説の) (あの人か! 〈寄るな〉《・・・》の一条!)  噂を聞いたことはあった。  一条、その名前が示す通りというべきか、曲がったことが大嫌い。気に食わないものには何であれ喧嘩を売り、嘘か真か、負け知らず。  その難儀な人格のため友人はなく、また常に揉め事が懐っこい子犬のようについて回っているので、別に悪事は働かないにも関わらず一匹狼の不良学生という認識で鎌倉の学校間ではつとに有名。  喧嘩相手には六波羅さえも含まれるとか。  流石に堂々とではないものの、闇討ちのような行為を一度ならず実行している……らしい。本当かどうかは無論、本人しか知らないことだが。  雰囲気だけで言えば。  自分に向かってくるものがあるなら、それが小石であろうと大岩であろうと、殴りつけそうな人だった。 「今度は誰じゃあ!?」 「潮時ってもんがあるだろ」  白スーツがまた怒号を飛ばすが、一条はそちらへは目もくれなかった。  最初から、杖の小男だけを見据えている。 「そいつは土下座して詫びを入れた。なら、それでいいとしとけよ。殴れば殴るだけ金になるってわけでもねえだろ別に。  むしろ商売の邪魔になってんじゃねえか」 「しかしねぇ、嬢さん」  初めて、小男が口を利く。  ぬめった声だった。 「あたしらは面子で生きてるんで。  金よりもこっちの方が重いんでさ」  まぁ建前上はね。  ……小男は、こっそりそう付け加えたように見えた。 「けど、金もなきゃ困るんだろ?」  手を振って、一条が通りを示す。 「いつまでももたついてると、ここら一帯、軒並み臨時休業になっちまうな。  金集めに失敗したら、親にどう言い訳するんだ? ちょっと遊んでましたって?」  ケヒ。    奇妙なその音は、小男の立てた笑声だった。  それきりで、何も言わない。 「……面子なら充分立ったろ。大の男、それも旭の紋所かついでる野郎が頭下げたんだ。  面目躍如ってもんじゃねえの? 満足していい潮時だろ」 「あんたらの組に逆らおうなんて奴はこれで当分出ねえだろうからな」  そう言いつつ、一条の瞳ははっきりと、自分自身を除外していた。  ――それが通じたのだろうか。いや、通じたに違いない。 「……後はビビった連中から好きなだけ金を集めりゃいいだろ。  雪車町一蔵」  なぜなら、名前を呼ばれたことが余程おかしかったのでないなら、  小男が陰々と笑い出した理由はそれ以外に何も思い当たらないからだ。  クヒヒヒヒヒヒヒ。  杖の小男――〈雪車町一蔵〉《そりまちいちぞう》は、そんな声で笑った。    腹を空かせた蛙の声だった。  ……鳥肌が立つ。  ひとしきり笑うだけ笑って、小男は視線を転じた。  完全に無視された格好でありながら不思議なことに黙っていたスーツの男へ、ねじくれた笑みを向ける。 「武藤さん、構いませんかねぇ?」 「雪車町……」 「嬢さんの言うことも的外れじゃありませんよ。これ以上ここで遊んでても、そう楽しいことはないんじゃないですかねぇ……。  それより、仕事をしませんと」 「まさか居留守を使うような馬鹿がいるとは思いませんけどねェ……。  金を隠して上納金を値切るくらいの浅知恵なら出す奴はいるかもしれませんや」 「そいつはちっと、面倒じゃないですかね?」 「…………」  スーツの男はやや困惑した様子で、しばらく黙っていた。  しかし、差し出口ともとれる小男の言葉に逆上して怒鳴りつけるという選択肢はなかったらしい。  やがて、男は無言で歩き出した。  子分たちもそれに従う。  もうおれたちには目もくれない。  鈍く〈笑〉《え》んだまま、小男も仲間に続いた。  ……町並みが少しずつ、普段の色彩と音を取り戻す。 「雄飛」 「……え?」  ほけっと突っ立っていたおれは、忠保に呼ばれて我に返った。 「終わったみたいだよ。  小夏? 大丈夫?」 「あ、うん……」  こちらはおれより重症だったらしく、まだ上の空だ。  無理もないが。 「つか、忠保……大丈夫かはこっちの台詞だ。  おまえ、殴られてるだろ。平気なのか?」 「口の中を少し切っただけ……大したことはないよ。  歯は折れてない」 「うまいもんだね。  歯の上から殴ると拳の方も痛むから、避けたんだろうなぁ」  妙な感心をしている。  まあこの分なら心配はいらないだろう。  と。 「鼻が詰まっている時に無理にかもうとすると耳から空気が出るんだ」などと言いながら鼻血を拭っている忠保の肩越しに、学生服の背中が見えた。  いけね。  このまま帰すわけにはいかない。  あの手のいわゆる不良学生とはどうもソリが合わず好きになれないのだが、だからといって、助けられておきながら礼も言わずに済ませて良いという法はない。  おれは慌てて呼び止めた。 「あのっ……一条さん!」 「……」 「ありがとうございました」  ちらりと振り返ってくるのに、大きく頭を下げる。  立ち止まる、その足元が目に入った。  ごく普通の、運動に適したシューズ。さすがに下駄ではない。  なぜか少し安心する。 「……ああ」  面倒くさそうな返事。  そこへ別の方向からも声が掛かった。 「助けられました。  感謝します」 「おまえは話し掛けるな」  そちらに対しては、彼女は面倒がるどころかにべもなかった。  視線さえ投げない。 「〈根性無し〉《ヘタレ》が〈伝染〉《うつ》る。  失せろ」 「……」  何も言い返さず、無言で引き下がってゆく。    …………。  こちらだけ一瞥して、彼女は口を継いだ。  会話をする気のないことがありありとわかる、何かを〈遮蔽〉《しゃへい》した態度で。 「野木山の連中はどうでもいい。  あれはただのチンピラだ」 「……?」 「けど、あの……仕込杖を持ってた男。  あいつに関わるのは止せ」 「六波羅御雇組の居候に加えてGHQの御用聞きまでやってる、厄介な野郎だよ。  ……チンピラはチンピラだけどな」 「立ち回りのうまいチンピラなんだ。下手につつくと何が出てくるかわからねぇ。  近寄らないのが一番だ……覚えときなよ」  一方的にそれだけ告げるや、ついと顔を背けて立ち去ってゆく。  そのやりようがあまりに素っ気なかったから、おれはしばらくの間気付かなかった。  ……今のは忠告だ。  もう一度礼を言っておくべきだったろうか。  そう思っても既に遅い。おれは遠ざかる姿を、ただ見送った。  ぽん、と肩を叩かれる。  振り返ると忠保。親指で、一方向を示している。 「どうする?」  親指の先には、コート姿があった。  人々の無遠慮な軽侮の視線を集めながら、聞き込みを続けようというのか、手近な店の暖簾をくぐろうとしている。  忠保が何を尋ねているのかは難しくなかった。  同行するのか、それとも。 「帰ろう」  おれは呟いた。  もう日の落ちる刻限。おれたちに行動の自由が許される時間は過ぎようとしている。  ……そうでなくとも、同じことを言っただろうが。    反対の声はなかった。 «災難だったようね。御堂» 「いや。別段」 «怪我の功名かしら。  あの子たちとは離れられたみたい» 「ああ」 「…………」 «御堂?  どうしたの。何か気に掛かる?» 「些か、だが。  昨日、お前が遭遇したという〈寄生体〉《ヘイタイアリ》……」 «ええ» 「〝卵〟を与えられているのなら、俺達の事を知っていても不思議ではない。  其奴はお前を狙って現れたのだろうと――一度はそう判断したが」 «違うと?» 「狙っていたのはあくまであの学生達であり、お前との遭遇と戦闘はその過程で発生したに過ぎないという可能性も否定しかねる」 «……そうね。  そもそもそれを警戒して、私がついていたのだし» 「敵が寄生体だからといって、その可能性を考慮から外したのは、やや早計だったか」 «あの寄生体は以前も現在も少年少女の拉致だけが目的で、私たちのことは眼中にない、ということ?» 「その可能性も、ある。  思えば〈あいつ〉《・・・》は寄生体にほとんど何も教えないことの方が多かった」 «寄生されたことにさえ気づいていない例もあったものね……» 「ああ。  結論として、あの学生三人から完全に目を離すのは危険だと考える」 «なら……どうする? 手分けを?» 「その必要がある」 «諒解……» 「……明日からどうする?」  小夏がようやくおれにそう聞いてきたのは、既に夜も更けて就寝の頃。  あれから何も言葉を交わさずおれたちは家路を辿り、忠保と別れ、家について食事をして風呂にも入った。  その間、口を利いたのはおじさんおばさんとだけだ。  おれも小夏も元気溌剌とはいかなかったから二人には不審がられたものの、問い詰められるほどのことはなく、互いに余計な心労を背負わずに済んだのは幸いだった。  殴られて怪我でもしていたら話はまた変わっていただろうが。  そう考えると、忠保のことは少し心配だった。 「どうもこうもねえよ」 「ねえよって言っても」 「別に変わらねえ。リツを探す。  今までと同じだ」 「でも」  ――あの人とはもう一緒に行かないんでしょ?    口を切っても、小夏が何を言おうとしたかは容易に知れた。 「最初からわかってたのにな」 「……」 「警察なんかあてにならない。  わかってたってのに……ったく」  悔しかった。  ほんの一日でも、あんな男を信じてしまったことが。  勝手に信じて期待した自分が悪いのだ。そう思う。  思っても、怒りは消えない。だが心を前へ向ける役には立った。あの男のことは忘れる。忘れて、元通り、自分と仲間の力だけを信じてやり直す。  それでいい。  最初から、それしかなかったんだ。 「あの一条って人に相談してみようかなんてこともちょっと考えたけどさ」  戸口に佇んでいる小夏の表情をちらと覗く。  多分、同じことを考えたのだと思うが。 「けど、もういいよな……勝手に期待して、勝手に失望するなんてのは。  おれたちだけでやろう」 「……」 「それでいいだろ?」 「うん」  小さく頷いてくる。  ……同じことを考えて、結論も同じだった、ということか。  一日を無駄にした、とは思わない。  成果はあった。武者の関与を示す物証が得られたし、その武者が竹林へどう侵入し、どう離脱したかというおそらくは重要だろう疑問点も見出した。  けれどもう、同じことをする必要はない。 「もう寝ろよ。今日は疲れたろ……色々」 「あんたもね」 「あぁ」  応えて、ひとつ欠伸する。  確かに疲れていた。心身、そのどちらがより重いかは知れないが両方とも。  戸口の気配が去り次第、おれは布団の上に横転して、そのまま朝まで起きないだろう。  早いところそうしたい。  だが、気配はなかなか去らなかった。 「……どうした?」 「ん。えーっと」  なにやら言い淀む様子。  右を見て、左を見て、天井を見る。  それは単なる挙動不審か、でなければ隠密の気配を探っているとしか見えず、要するに、挙動不審だった。  こういう小夏は、あまり知らない。 「なにやってんだ」 「えっとさ」 「うん」 「あんた……今日、何の役にも立たなかったじゃない」  おれは布団に横転した。  このまま朝までと言わず一生、動けないような気がした。 「…………」 「あ、えっと。そうじゃなくて。  そうじゃなくてね」 「……なんなんだよ」  おれをヘコますのが目的じゃなかったんなら、早いとこフォローしてくれ。 「確かに今日あんたはわたしのピンチだってのに何の役にも立たなくて格好いいところは全部一条さんに持っていかれてて男としての株を下げに下げて最安値になっちゃったけど」 「…………」  おまえは言葉で人を殺す気か。 「でも……わかってるから」 「……なにが?」 「まるで何の役にも立たなくてカカシも同然っていうかむしろカカシの方が雀を追い払うだけましかもって感じだったあんたが、その」 「しつこいよ!?」 「で、でもね、〈助けてくれた〉《・・・・・・》のは、ちゃんとわかってるから」 「……」 「ありがとう……。  言いたかったのはそれだけ……」 「……あ……あぁ」 「じゃ、じゃあ、おやすみっ!  早く寝なさいよ!」 「おう……」  閉じられた戸口を眺めて。  おれはしばらく、ぼんやりとしていた。  それから右を見て左を見て、天井を見て、ぽりぽりと鼻の頭をかいた。  別に隠密を探していたわけではないので、ただ単に挙動不審だったと思う。  そして、布団に倒れ込んで寝た。  何故か心身にのしかかる重さが少し和らいでいて、そのことが不思議だった。 「六波羅幕府とは元々の所在地が京都六波羅だったことからの通称で、公式には〈六衛府〉《りくえふ》と称される……が」 「おかしな話になるが。  本来、六衛府という役所は存在しない」 「六衛府とは左右近衛府、左右兵衛府、左右衛門府、この六つの首都防衛軍の総称だった。  六衛府という単独の機関があったわけではないんだ」 「だが、近衛六府を統率する総司令官として六衛大将領が置かれ、やがてこの職が武者の総領としての任も帯びると、大将領のもとに武者を中心とする参謀組織が誕生した」 「これを指して、六衛府と呼び慣わすようになったわけだ……」  鈴川の声はいつも通りよく響く。  だがどことなく、その声が張りを欠いて聞こえるのは、今の状況を思えば無理もないことだろう。  リツの失踪から既に、五日。  焦っているのは、きっとおれたちだけではない。 「六衛大将領は征夷大将軍と同じく、軍政を施行する権限を持つ」 「但し征夷大将軍が出征して獲得した占領地について権限を持つのに対し、六衛大将領は外敵を迎え撃つ防衛戦争に際して必要と判断された地域において権限を有する」 「どちらも戦時に限定される臨時権力だ。  戦争が終われば施政権は朝廷に返上される」 「だがかつて鎌倉幕府は、征夷大将軍のこの権限を拡大解釈し、施政権を全国に広げかつ恒常化した」 「同じことを、六波羅もやったわけだな。 『今は国難の時である』という名分のもとに臨時大権を拡張、大和全域に対して無期限の施政権を主張している」 「その根拠に使われたのはかの大阪虐殺だ。  つまり奴らは一都市を鏖殺した挙句、その反乱を理由に、支配権を強化したことになる。……惚れ惚れするほど合理的なやり方だな?」 「これが六波羅支配の政治的な背景であり、強大な武力、GHQの黙認と合わせて、その統治を支える主柱と――」 (ん?)  授業の最中、無遠慮に開かれる引戸の音はいかにも唐突だった。  そして、そこから苦々しげな顔を突き出した人物もまた唐突だった。 「……教頭?」 「授業中に申し訳ない。  鈴川君、ちょっと来てくれ。校長がお呼びだ」  しかしなお唐突だったのは、その後だった。 「新田君、稲城君、来栖野君。  君達もだ。来たまえ」 「はぁ?」 「はい?」 「……」  学生の身でこの部屋へ頻繁に出入りする者がいるとしたなら、それは際立った優等生か、際立った問題児か、どちらかでしか有り得ないだろう。  どちらでもない、面白味のない標準学生であるおれは当然、校長室などに踏み入るのはこれがはじめてのことだった。  といって別段、感慨も湧かなかったが。  上流階級のご子弟様方が通う私立学園であればまた違ったのかもしれないが、一公立学校の一校長が黒檀の机でパイプを〈薫〉《くゆ》らせながら執務しているはずもなく。  ここはただの、無味乾燥な一室に過ぎない。  そして部屋の主にもこれといって楽しさを見出せる部分はなかったし、その話す内容に至っては、楽しさの完全な対極にあった。  ここへの道筋である程度、予想はしていたけれども。 「どこの誰からとは言わないが、学校に連絡があった。……うちの学生が昨日、幕府御雇の方々と路上で〈諍〉《いさか》いを起こしていたと」  校長の隣には教頭が立ち、おれたちの傍らには鈴川がいる。  だが無論、校長の言葉は二人のどちらに向けられたものでもない。〈それ以外〉《・・・・》だ。 「君達に間違いないか?」 「……はい」  〈被告〉《・・》を代表する格好で、おれは肯定の応えを返した。  こうして三人そろって呼び出されているのだから、連絡とやらがおれたちを名指しにしていたことは疑うべくもない。  シラを切るだけ時間の無駄だった。  あのとき現場にいた人間の中の誰かが気を利かせたのだろう。  社会人としては良識的――おれたちにとっては実に全く、迷惑千万な気の利かせようだが。 「けどそれはあいつらが、」 「その諍いの内容について、どうこうと言うつもりはない。  大事には至らなかったと聞いているからね。実際、君達はこうして無事だ」  続けて言い募ろうとしたおれの口舌を、あっさりと潰してくれる校長。  何を話し、何を聞くか、既に決めてしまっているかのような態度だった。 「だからそのことはいい。  問題は、なぜそんなことになったかだ」 「や、ですから。たまたま行き会った野木山の連中が」 「どうして君らはあんな場所にいたのだ?」  ……やはり、話の流れは決定済の様子だった。  野木山組と揉めたことについては言い分もある……当然だが。こちらが被害者だったのだから。  しかし。 「あの辺りには夜間営業の飲食店しかない筈だ。君達には用のない場所だろう。  なのになぜ、あんなところでうろうろしていた?」 「それは……」  その点は、おれたちが学生身分である以上、明快な規則違反だった。どう言い訳しようとも、その事実は変えようがない。  ……ここから攻めて、一方的な話にするつもりか。  叱責を受けることは別に構わない。  だが厳しい処分まで受けて行動を封じられるのは、避けたいことだった。自宅謹慎を申し渡されて家にも通告がされたりすれば、リツ探しは続けられなくなる。  うまい弁明が欲しいところだったが、手の届く所には見当たらなかった。こういう時に頼りになるはずの忠保も、今は沈黙を保っている。おそらく不利な流れを悟って無駄な手出しを控えているのだろうが。  仕方なく、おれは校長の誘導に従う形で返答した。 「飾馬律を探していました」 「そのようだな。学生数人があちこちで探偵まがいのことをして回っているという連絡も、今週に入ってから数件寄せられていた。  つまりはそれも君達だったわけだ」 「……そのようですね」  いっそ気持ちが良いほど、校長の〈対話主導〉《リード》は円滑で無駄がなかった。  応じるこちらは皮肉も冴えない。 「警察の仕事だ」  気持ちはわかるが。  ――という定型句さえ、校長は省いて告げた。 「警察に任せなさい。  君達がやることではない」 「けど、それじゃあ」 「大丈夫だ。警察は動いている。  先日、上原教諭が校門前で私服警官に質問を受けたそうだ……だから心配はいらない」  駄目なんだ。  〈そいつじゃ役に立たないんだ〉《・・・・・・・・・・・・・》! 「君達は学生であり、警察に協力することはできない。  協力しているつもりでも、結果的には邪魔にしかならない」 「それはつまり、君達にとっては大切な友人で、私にとっては大事な教え子である飾馬君を、より危険な状況へ追いやるということだ。  理解できるね?」 「…………」  腹が立った。  どうしようもなく、腹臓が煮えくり返っていた。  ああ、糞。  なんで〈正論〉《・・》というやつは、こんなに腹が立つんだ!  校長は完璧にその使い方をわきまえていた。  余計な混ぜ物はしない。隙のない正論だけ用意して、屈服を求めてくる。  打つ手がなかった。  口遊びにでもこちらの事情を〈忖度〉《そんたく》してくれたなら、そこに食いついて、ある程度の妥協を引き出すこともできたかもしれない。  だがこれでは、そんな情けない作戦さえ無理だ。  このまま話が進むに任せれば、今後は馬鹿な行動を慎むよう約束させられるだろう。  それを無視して、捜査を続けることは可能だ。  しかし約束を破ればそれが負い目になり、学校側に厳罰を下す正当性を与える。  自宅に押し込められるまで、きっとどれほどの間もあるまい。  そんなことを、認められるわけがなかった。 「でも……リツは。  友達なんです。だから、自分達で探さないと……」 「繰り返すが、君達のすることではない。  君達は学生であり、本分は学業だ」 「勿論、度を越さないなら、放課後に遊ぶのはまったく構わないことだ。だが……  君達のしていることは遊びではないな?」 「だから、やめなくてはならない。  私の言うことが理解できているか?」 「…………」 「納得できないのなら言ってみなさい。  言うことが何もないのなら、今後は勝手な振舞いをしないと約束してもらう」 「…………」 「どちらだ? 黙っていてはわからない。  君達もそろそろ、自分の意見をはっきりと述べること、社会の規律には従うこと、そういった社会人の嗜みを身につけるべき年頃だ」 「不満そうに黙り込んで相手が許してくれるのを待つような、甘えた態度はやめにしようか?」 「……」  糞。糞!  なんだよそりゃあ!  あんたの言うことは確かに筋が通ってるよ。  ああ、もう、反論の余地なんかありゃしねえ。  けどそりゃ一方的な理屈で、一方的な正しさだろ!  それが社会一般で通用するものだとしても!  自分の正しさははっきりと説明できなきゃいけないのか? できないなら他人の正しさに従わなきゃならないのか?  ああそりゃそうだよ。でなきゃ社会は動かない。  けどそれでも、その理屈は、正しいと信じることがあってもそれをうまく説明できない人間のことを無視してるんだよ!  今のおれみたいな奴を!  こう言っても、説明できないのが悪いって言うんだろうさ。どうせ。  ああ、〈できる〉《・・・》人間はそう言うに決まっている。  だけどよ……  それじゃ結局、世の中は、口の回る奴だけが勝つんじゃねえか!  後は文句言う相手を殴り倒せる奴だけか。  そのどっちでもない奴は黙って他人に従えってのか。  それが正しい社会か。  そうなのかよ!?  ああ……わかってるわかってるわかってる。  それは正しい社会ではなくても、〈比較的〉《・・・》正しい社会ではあるんだよ!  少なくとも、おれみたいな奴に〈拘〉《かかず》らって、にっちもさっちもいかなくなる社会よりは!  わかってるんだよそんなことは!  わかってても……  納得できるかッ!! 今、この時に! 「っ……」 「……言うべきことは何もないようだな。  では、私の指示に従ってもらおう」  ……〈あの人〉《・・・》は。  説明出来なかったおれの心情を汲んでくれた、な。  そんな思いが、ふと胸を〈過〉《よ》ぎった。 「今後は――」 「待ってください。校長」  何も言えないおれの代打は、  およそ予測もしなかった方角からやって来た。  ……鈴川? 「なんだね?」 「彼らは友人の身を案じて行動を起こしたのです。その点について、考慮をするべきだと思いますが」 「……何を言いたいのかわからないが」  可能な限りの円滑さで問題が収拾をつけるところに水を差されたからか、校長は苛立たしげに眉を寄せている。  指先が軽く机を打った。 「姿を消した友人を心配して、探偵の真似事をしていた。そんなことはわかっている。  だからどうした? 私が言っているのはな、その行動が規律に反しているということだぞ」 「その通りです。  〈それでも彼らは〉《・・・・・・・》、〈友人を案じ〉《・・・・・》、〈友人を救う〉《・・・・・》〈ために行動を起こしただけなのです〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》」 「それは間違ったことなのでしょうか?」 「な――なに?」  この場の主導者――であったはずの人物――が絶句した。まさか、こんなところからこんな反撃を食らうとは思っていなかったらしい。  おれとてもそれは同様だったが。 「……そういう問題ではない!  彼らの行動が周囲に迷惑を与えている――その点が問題なのだ」 「いえ、校長。それは問題の一面です。  問題の全てではありません」 「公平を期すならば、異なる観点からも事情を鑑みるべきです。  彼らが友人を助けるために行動を起こしたということ、これをどう評価するか」 「……何を言い出すのだ君は……!  学校には苦情が来ているのだぞ? 誠意のある対応をしなければ学校の信用が失われる。それはわかっているのか?」 「誠意ある対応……当然です。  それは苦情を鵜呑みにしたりせず、学生側の事情も考慮した上で、最善の解決策を探ることではないかと思いますが」 「違いますか?」 「…………」  校長は目を剥いて、しかし声が出ない様子だった。  傍らの教頭も呆気にとられている。  意外だった。  確かに鈴川は、なかなか「話のわかる」教師として、生徒間の評判がそれなりに〈芳〉《かんば》しかったし、中には小夏のように憧憬の念を抱いて熱を上げる者もいた。  だが、このような状況で、ここまで学生側の立場で物を言ってくれるとは、おそらく小夏でさえ期待していなかっただろう。  おれの隣で小作りな顔が、大きく目を見張っている。 「私には、彼らの行動には理解すべき部分が充分にあると思われます。  姿を消した友人を探し出すために自ら行動する、そこに何の不思議があるでしょうか」 「まして、警察などあてにできないとなれば」 「口を慎め! 鈴川〈令法〉《りょうぶ》!」 「この口は事実を告げただけなのですがね。  ……いや、失礼。いささか下品な言いようでした」 「……彼らの担任ということで同席願ったのだが。私に君と議論をするつもりはない。  邪魔をするなら退室してくれ」 「生憎ですが、校長。私は無関係ではありません。自惚れ混じりに言わせて頂ければ、私は友人の危機を黙って見過ごして良しとするような教育を施していないつもりです」 「ですので。  彼らの行動については私にも責任があると言えます」 「…………」  おい、おい。  いいのか鈴川。  なんか、おれたちが一方的にやりこめられてるのが可哀想だったからちょっと助け舟を、って感じじゃあなくなってるんだけど。もう。  徹底抗戦する気なのか? (嬉しいけどさ……)  正直に言えば、それはすごく嬉しいが。  一教師の立場で校長に盾突いて平気なのか?  ……平気なわけないよな。  なんでだ?  なんでそこまでして……。 「君の教育については色々聞いている……」  校長の声音の内部に、おれの危惧が的外れだと信じさせてくれるようなものは全くなかった。  冬空の気配で満ちている。 「しばしば〈不適切〉《・・・》な方向へ進むきらいがあるとか。そう、そのことについて、君とは話し合わねばならなかった。  話を早くしてくれて助かるな、鈴川君?」 「では、もっと早くして差し上げましょう」  威圧を含む言葉に、お義理程度の怯みさえも鈴川は見せなかった。  むしろ傲然と胸を張り、告げる。 「私は六波羅に家族を奪われていますから。  どうしても体制側より、体制に抑圧される側に心情が寄ります」 「その点はどうかご容赦下さい」 「――――」 「…………」  ……有名な話だ。  鈴川は既婚者で、けれど今は独身。  かつて妻と娘がいたが、失っている。  六波羅が直接、手を下したわけではない。  だが鈴川の妻子が迎えた風邪をこじらせた末の死は、六波羅の収奪のため一時期深刻化していた食糧不足と医療費の高騰を抜きにして語れることではないらしい。  鈴川の講義からしばしば六波羅に対する怒りが覗くのはそのせいだ……というのが、本人に聞こえない所で囁かれる噂の全てだった。  当然、校長もそれは知っていたはずだ。  おそらく、鈴川としても触れられたくはないだろうその点を避けつつ、ねちねちと責めるのが校長の目算だったのだろうが。  校長の〈遠距離戦術〉《アウトボクシング》に対して、鈴川の選択は〈接近戦〉《インファイト》。  一瞬で距離を零まで詰めていた。 「我が家族ながら、妻と娘は美しかった……見目形ではなく、心根、生きる姿が、とても。  とても美しかったのです」 「失われたことが惜しい……今なお諦めきれないほど。ですが取り戻すことはできません。  死者は生き返りません。何をしても決して」 「願いと現実の相反は私を苛みました。  最初にすがったのは宗教……校長、あなたはご存知でしたね? 幕府禁制の〈基督〉《キリスト》教です」 「幾度かご忠告を頂きましたが、信仰以外に己を自暴自棄から守る方法が無かったもので。  申し訳ありません。今も週に一度は教会へ通っていますよ」 「…………」  〈禁制〉《・・》というのは、正しい表現ではない。GHQの前で彼らの宗教を禁じる事は六波羅にもできなかった。  が、西洋文化に冷淡な幕府が基督教を好ましく見ていないのは事実で、陰の弾圧は相当に厳しいと聞く。  堂々と教会へ通う公務員などがいたなら、その〈陰〉《・》でどんな扱いを受けるのだろう。  ……出世の道が閉ざされる、程度の話では済むまい。おそらく。 「信仰は私の支えになってくれました。  しかし、救いにはなりませんでした」 「だから私は……教職を続けたのです。  田舎で静養することを勧めてくれた友人もいましたが。失ったものを取り戻せないなら、私はせめて、新しい何かが欲しかった」 「妻や娘のような、美しい人間を育てる。  私はそう誓って、教師として再出発したのです。その誓いのために、私はここにいるのです。校長」 「鈴川君、」  鈴川の言葉が拳の連打なら、殴られる一方の校長はサンドバッグも同然だった。  苦しげに喘ぎ、襟元を緩めながら、辛うじて言葉を絞り出す。 「鈴川君。しかし」 「私は学生たちに美しくあって欲しいのです。  友人の窮地を見過ごすような人間であって欲しくないのです」 「しかしだ……」 「校長」  冷徹なまでに硬い意思を湛えて。  鈴川は上司を見下ろした。 「どうかお答え下さい。  教師は学生に、友人の危機に直面したとき何もするなと教えるべきなのでしょうか?」 「……………………」  校長は、頷かなくてはならなかった。  先刻まで、まさにその通りのことを口にしていたのだから。  だが、頷けるはずがなかった。  今、鈴川を前にして、頷けようはずがなかった。  ……率直に物を言えば。  鈴川の戦術には卑怯な部分があると思う。  自分の不幸を盾にして要求を通すというのは、その相手が不幸をもたらした当人だというなら格別、そうでなければ卑しいやり口だとの謗りを免れないだろう。  人の良心につけこむ行為だからだ。弱者の暴力だ。  しかし、鈴川は普段からそんなことをする人間ではない。鈴川の過去も、おれは本人の口から聞いたことはこれまで一度もなかった。  誓いのことは今日初めて知ったほどだ。  おそらく、誰にも話したことがないのではないか。  それを何故いま話したか、理由はまさか、急に人の同情を買いたくなったからではないだろう。  おれたちを助けるためだ。  いや。  〈守る〉《・・》ためだ。  鈴川の云う美しさを。  おれたちの中にそんなものがあるのかと考えれば、正直くすぐったくなる。  だがそのために、鈴川は恥を忍んだのだ。  弱者の暴力を振りかざす恥を。  羞恥心に目隠しのできる人間でもないだろうに。  それがどういうことなのか、おれはよくわかってはいないと思う。  なんとなくわかるような気がするが、正味のところではきっとまだ理解していないと思う。  けど、どちらかをすべきだとは思った。  謝るか、礼を述べるか。どちらかをしなくてはならないと思った。  どちらか。  わからなかった。  わからなかったから、おれはとにかく自然に任せて口にした。 「先生」 「ん?」 「ごめん」 「謝るな」  鈴川が苦笑してかぶりを振る。  ……間違えたようだ。  場違いなやり取りは、しかし誰にも咎められない。  既にこの場の決着はついていた。  そうして。  鈴川は結局、自分の同行を条件に、おれたちの行動の自由を認めさせてしまったのだった。  放課後。  道すがら、おれたちは鈴川にこれまでの経緯を説明した。  鈴川の方から尋ねられたのだ。ただの保護者がわりではなく、手伝ってくれるつもりらしい。  その態度を歓迎しない者は一人もいなかった。  ……昨夜どっかの誰かが、もう他人の手は借りないとか突っ張ったことを言っていたような気もするが。  知らん。忘れた。 「奴隷売買とはな。  眉唾な話だが、笑い飛ばせはしないか……今の世情を思えば」 「笑い飛ばしたいところなんですけどねぇ。  本当にそうだとしたら、正直すこしばかり厄介なんじゃないかと思うんで」 「海外へ運ばれては……そうだな。厄介だ」  忠保の要点を押さえた話を聞き終えて、鈴川が重く頷く。  厄介どころではない。  二人ともわかっていて、あえてそう言っているのだろうけど。  腹の底に嫌な寒さを覚えた。  もしかして、と思う。  もしかして、もたもたしている間に、もう手遅れになってしまったのではないかと。  ……それは思わず呻き声を上げたくなるほど、酷く恐ろしい考えだった。 「だが……  案外、そう悲観したものではないかもしれないな?」 「え?」 「幕府が本当にそんな無法なことをしていたとして……それは当然、許し難いことだが。  ほかの事故や犯罪の可能性よりも、飾馬の無事はむしろ期待できるかもしれない」 「うーん。それは……」 「いや……まあ。でも……」  確かに奴隷なら殺されてはいないだろうけれども。  しかし。 「なに言うんですか先生!?」  どうとも言えず、なんとも煮え切らない反応をしたおれと忠保に対して、小夏は振り返るや声を荒らげた。  鈴川に詰め寄り、食って掛かる。  珍しい。  というより、初めて見る光景だ。 「無事って、そんなの無事じゃないです!  物みたいに扱われて、売り買いされて……そんなの、死んだも同然じゃないですか」 「死ぬより酷いじゃないですか」  つい今しがたまで、鈴川の同行を喜べばいいのか、リツの安否を思って沈み込めばいいのか、迷うような複雑な様子で黙っていたのが嘘のように。  小夏はまくし立てる。  その表情は純粋に、怒っていた。 「リツはそういうの、誰よりも嫌がる子です。  あの子はいつも好き勝手に振舞って、バカな騒ぎばかり起こして……けど年上ぶってて、おせっかい焼きで」 「一緒にいると楽しくて……」 「それで……」 「……うー」 「落ち着け、小夏」  声が出なくなり、それでも収まらない様子の小さな肩を、後ろから両手で軽くつかむ。  こういう時のこいつは、誰かが止めてやらなくちゃならない。そして大概、それはおれの役目だ。 「……そうか。  来栖野はそういう考え方をするんだな」  意外に、鈴川は落ち着いていた。  改めて見直すふうの視線を、うつむいて鼻を鳴らす小夏に注いでいる。 「人間なのに物扱いされて生きるのは、死ぬよりも酷いことか……」 「先生の考えは違いますか。  やっぱり生きることが一番重要、生命最強、命イズモアヘビー〈∨∨〉《THAN》地球ってわけですか?」  おまえそれ何語だ。 「いいや。人間ただ生きていればいいというものではないと思う。どう生きるかが重要だ。  生きるならば、良い生き方を志すべきだ」 「その結果が死であるとしても。  ……まぁ、来栖野に近い考え方だろうな」 「え?  じゃあ」 「というか、だな。  さっきのは、そういう意味で言ったんではなく……」  いささか決まり悪げに、鈴川は顎へ手をやった。 「飾馬を無事に〈助け出せる〉《・・・・・》かもしれない、と言いたかったんだが」 「……え!?」 「それは一体どういう?」 「六波羅が奴隷として売却するために市民を拉致しているのなら、拉致した後はどうすると思う?」 「新田」 「はい!?」  いきなり授業のノリで指名されて、おれは慌てた。  反射的に起立の姿勢をとって――元から立っているが――思いつくまま考えを並べてみる。 「えーと、そりゃまあ、国内でそんな商売をやってるとも思えませんから……港へ運んで、そこから船で海外へ送るんじゃないでしょうか」 「一人捕まえるたびに、か?」 「はい……あ? いや」  ……〈一人捕まえるたびに〉《・・・・・・・・・》?  そこでようやく、おれは鈴川の考えを悟った。 「そうか! つまり――」 「一人ごとにそんな手間の掛かることをしていられるわけがないから、数が集まるまではきっと国内のどこかに監禁されているはずだってことですね!」 「言わせろぉぉぉ!!」  なぜそう無慈悲においしいところだけかっさらえる。  鬼か貴様は。 「そういうことだな。  奴隷とやらにいくらの値がつくのかは知らないが、ピストン輸送では採算が合うまいし、リスクも高くなる」 「どこか人目につかない場所に〈倉庫〉《・・》がある筈だ。手掛かりを辿ってそこまで行き着ければ……あるいはどうにかできるかもしれない」  そう言いつつもさほど楽観した様子はなく、鈴川は淡々とした面持ちでいる。  だがおれとしては、目から鱗の心境だった。  言われてみればまったくその通りだ。  ごく簡単な論理だ。  しかし考えもしなかった。  これが人生経験の違いってやつなのか。  そう思うとちょっと悔しいけど。  リツが奴隷として売られるなんて考えたくなかったから、深く思いを巡らすということはせずにいた。  それじゃ駄目ってことなんだな……。  嫌なことでもちゃんと考えないと。  喜びながらも反省。  ポーカーフェイスの忠保も似たような内心だと何となくわかる。  小夏はというと、こちらは素直に感激していた。 「せ、先生……すごいです。感動です」 「オーバーだな、来栖野は。特に奇抜な発想を披露したわけじゃないぞ」 「いぃえ! やっぱり先生は違います。この雁首そろえて無駄に空気吸って光合成してるだけのフンコロガシどもとはもー何もかも!  わたし、先生のこと信じてました……!」 「そ、そうか」 「ははは、見てごらん忠保。さっき誤解して食って掛かっていた奴がなんか言っていますよ?」 「あれが人間の強さというものだよ雄飛。人は辛い過去を忘れることで一歩前へ進む生物なんだ。それにしても小夏の場合はちょっと忘却のサイクルが早すぎる気がするけどねッ」 「じゃあ先生、これからどうしましょう?」 「そ、そうだな。とりあえず現場らしい竹林をよく調べてみるべきだと思うんだが……」 「その前に病院へ行く必要が生じたような気もします」 「それから動物園に寄って猛獣を引き取ってもらう必要もあるような気がします」  羞恥心込みの一撃はやたらと重かった。 「しかし……」  歩きながら、鈴川がぽつりと呟く。 「何処までも……醜い世の中だ。  奴隷貿易なんてものが、本当にあるのかはわからないにしても、存在を本気で疑われるなど……」 「自分の国をここまで信頼できないとは……。  こんなことになるなどと、昔は思いもしなかった」 「いずれは白昼堂々と、奴隷売買が行われるような国になってしまうかもしれない……な。  この、大和が…………」  ……鈴川。    そうか。鈴川は、六波羅に支配される以前の大和で育ってきたんだよな。  おれたちにとって、六波羅は物心ついた頃からいる支配者だ。全く有難くはないにしろ、「当たり前」の存在。連中に支配される大和も、それが「当たり前」なのだ。  けど鈴川にとっては違う。  古き良き大和を知っていて、それが破壊されていく様子を見せ付けられているのだ。  ……辛いんだろうなぁ。 「大丈夫です、先生!」  その鈴川に、小夏が明るく言う。  失点を挽回しようというのか、励ますような声だ。 「安心してください。  もし先生が奴隷にされても、わたしが買いますからっ!」  しかし空回っていた。 「いや。買われても。困るんだが」 「じゃ、じゃあ、私が奴隷になるから買ってください」 「ごしゅ――」 「落ち着け小夏。  いや頼むから本当に落ち着け」 「君は暴走している!」  今となってはこの場を放棄したいくらいに。  教訓。来栖野小夏に鈴川と焦りと善意を注ぐと爆発する。混ぜるな危険。  揉み合うおれたちを眺めながら、鈴川は小さく笑う。  それからまた、ひっそりと、呟いたようだった。 「醜い世の中……だから、こそ。  美しいものは、大切にしなくてはならないのだ」 「大切に……」 「…………」 「ここか……」 「ええ」  切り払われた、竹林の一角。  おれたちは鈴川を案内して、再びそこを訪れていた。 「飾馬の姿が最後に確認されたのがこの竹林。  ほぼ同時刻に、武者らしき影の目撃報告」 「そして湊斗という警官は……この荒れ様を見て武者の仕業だと断定したのか?」 「そんな様子でしたね」 「根拠は?」 「えーと……なんて言ってたっけ?」 「なんだったかなぁ。たしか、切り口が〈綺麗〉《・・》〈過ぎる〉《・・・》とか言ってたと思うけど」 「ふん……?」  首を傾げながら、鈴川は切られた竹に近づいた。  昨日あのパート警官がしていたように、断面をまじまじと見つめる。 「なるほど。鮮やかに断ち切られている……普通の人間がどんな刃物を使っても、こうはいかないというわけか。  他には何か言っていたか?」 「移動方法について疑問を持っていたようでした。どこからどう入ってきて、どう去ったのか」 「ええ……武者は飛べますけど、飛んできたわけがないんスよね。だったらかなりの騒音が辺りに響いたはずなんで」 「でもでも、装甲したまま歩いて出入り……じゃあ見世物も同然。  となると生身で侵入して、中で装甲したとしか考えられないですけど」 「行きはそれでいいとして帰りはどうしたのか。リツをどうやって目立たないように運び出したのか……と、大体こんな方向で考えていたっぽいです」 「ふむ」  鈴川は腕を組み、視線を空へ投げた。  だがすぐに首を戻し、おれに向かって尋ねてくる。 「抜け道でも使ったんじゃないか、と?」 「え? いや……」 「そういう話は聞かなかったと思いますけど」  なんだか一足飛びで進んだ会話に、おれたちは首を捻った。 「……そう言いたいように聞こえたんだが。  違うのか」 「や、どうでしょうねぇ」  抜け道。  そんな可能性もある、か? 「うーん……どこぞの忍者屋敷だってんならともかく、ただの竹林ですし。ここは」 「田中の爺さんなら、侵入者撃退用にいつの間にか掘ってても不思議じゃないけどね」 「いやぁ。そんなまだるっこしいものを造るくらいなら、ガトリングガンでも配備するんじゃないかなぁ。あの人は」  うむ。  実際にやるかどうかはともかく、発想はそっち方向へ傾くだろうな。絶対。  ……その辺に竹槍トラップとかあるかもしれん。  気をつけよう。 「そうか……。  まぁ、いい」  なにか腑に落ちないような色を残しながらも、鈴川は立ち上がった。 「手分けして、手掛かりを探そう。  足跡なんかは今更無理だろうが、犯人なり飾馬なりの遺留品なら見つけられるかもしれない」 「了解ス」  忠保と小夏、それに鈴川は、ばらばらに竹林の中へ分け入っていった。慎重に足元を見ながら歩いているのだろう、笹の葉の小さなざわめきが聞こえてくる。  おれは現場に残った。見落としがあるかもしれない。  教室の端から端の距離で教科書が読める忠保と違いおれの視力はごく普通なので、確実を期すべくカエルよろしく這いつくばる。  みっともないが、背に腹はなんとやらだ。  そうして、ふと思い出した。  まず〈既視感〉《デジャヴ》。いつかどこかで同じことをしたような。なんだったか。――あれだ。  学校裏の小さな林で鬼ごっこをした時。  おれは鬼になったリツの目をかい潜り、四つん這いになって物陰に潜みつつ林の奥まで逃げようとしたんだった。  けどすぐに見つかった。  しかも見つかり方が酷かった。  突然背中に大重量が乗っかってきたと思ったら、 『ほーほほほっ! とってもお似合いの格好でしてよ雄飛さん! さあ大きな声でブヒーとお鳴きッ、鼻声でやるのがポイントよ!』 (馬ですらねえのかよ! いきなり豚かよ!)  ……思い出すだに突っ込みたくなる、くそロクでもない記憶だった。  ほんとに何なんだろうあの人間。  脳裏にフラッシュバックした光景にげんなりとして、おれは顔を持ち上げた。  その刹那。ちらりと何か、目に留まるものがあった。  白い欠片。  一見それは、ただの石だったけれど。 (あ……)  覚えがある。  これは――そう。  〈海豚〉《イルカ》のペンダントだ。  ……いつもリツの鞄を飾っていた……。  その頭の部分だけ。  砂利の中に、転がっている。  おれは拾い上げてみた。  ……間違いない。  すっぱりと滑らかに――周囲の竹と全く同じく――切られてしまっているものの。  リツの匂いさえ錯覚する。  そうと気付いて見れば、頭だけのイルカは酷く無惨だった。  死臭がする。  ――イルカの生首。  友達の姿が、そこに重なった。 (嫌だ)  握り締める。  幻は消えなかった。  両眼を閉ざす。  何も見えない。  それでいい。  今は、何も、見たくない。 「……新田」 「えっ?」  我に返ると、目の前には鈴川が立っていた。  右拳を固く握るおれを、訝しそうに見つめている。 「何かあったのか」 「……いえ。別に」  今は、見つけた物のことを報告したくなかった。  どのみち、手掛かりと言えるほどのものではないだろう。  不審に思ったに違いないが、鈴川は別段追及してはこなかった。  ちらりと一度見ただけで、おれの拳から視線を外す。 「面白いものを見つけたぞ」 「……手掛かりですか!? 何です!?」 「見て貰った方が早いな。  他の二人も呼んできてくれ」 「はい!」 「これ……」 「川?」 「というか、地下水脈だね」  トリの忠保が、最も正確な表現をした。  源氏山へつながる、なだらかな斜面。  その表面が谷のように、もしくは口のように裂けていて、覗き込んでみれば底を流れる水の列。  かなりの勢い。  深さもそれなりにありそうだった。  確かにこれは、川というよりも、たまたま露出した地下水脈とみるべきだろう。  洞窟〈河川〉《かせん》と呼ぶのがわかりやすいかもしれない。 「そっか。この音、弁天川から聞こえてきていたわけじゃなかったんだ」 「おれもそう思ってたよ。まさかこんなとこにこんなもんがあるとはなァ」  竹林の中にどこからともなく響いていた水騒。  考えてみれば、弁天川の音にしては少し近過ぎたし、激し過ぎた。ここから最短でも半キロ近く離れているはずのあの川は、一部を除いてごく緩やかなものだ。 「……うまい感じに地面の凸凹で隠れちゃってるし。少し離れたらもう見えないよ。  こんなの誰も知らなかったんじゃない?」 「少なくとも、ここが田中帝国になってから見た人間は誰もいないだろうねぇ」  忠保が感慨深げに唸る。  同感だ。が、しかし。 「面白いものってのはコレですか? 先生」 「つまらんか?」 「や、だって」  まさか鈴川もこの状況で地質学的観点からの興味を促したわけではないだろう。  つまりは。  これが「抜け道」なのではないかと――そう言っているのだ。  改めて見ればなるほど、その「出入口」は大人の男が潜り込める程度の幅がある。  洞窟の直径も二メートル前後には達するか。  だがその半ばまでは、激しい水の流れが占めている。  しかも様相からみるに、川底が公営プールよろしく真っ平らということは万に一つも有り得そうにない。  ……抜け道としては少々、問題が多いようだった。 「まさかボートを使ってここを下っていったんだとか言わないスよね?」 「個人的見解だけど、潜水艦の方が無難なんじゃないかな」 「入らない。入らない」 「そんなものはいらんさ。  忘れたのか? 犯人は常人じゃない」  ……あ!  そうか。 「武者なら……」 「……平気で動けるねぇ。こんな川くらい。  下流だろうと上流だろうと」  人間一人を担いでいても。  〈劔冑〉《ツルギ》と合身して悪魔的な力を得る武者にとり、それはおそらく労苦というほどのことでさえない。 「じゃあ、犯人は本当にここから!」 「リツを攫って……」 「どこかに逃げていったんだ。  ……絵面を想像すると、滑稽なんだけれどなんていうか。笑うに笑えない感じだなぁ」 「どんな奴なんだろうね?」 「地元の人間だな」 「えっ?」  独り言のつもりだったのだろう。間髪入れず答えを返されて、忠保はしゃっくりに似た声をもらした。  その顔をじろりと眺めやって、鈴川が言葉を続ける。 「地元民だ。他に考えようがあるか?  それも古くからの……少なくとも十年以上。田中の爺様がここへ移り住む前からこの近辺にいて、ここを遊び場にしていた人間」 「でなければ……こんな水路のことを知っているはずがない」 「…………」  顔を背ける忠保。  滅多にないことだが、そこには気まずい色があった。  地元の人間。  つまり、〈おれたちの身近な人間〉《・・・・・・・・・・》。  六波羅に加わるような奴だ。きっとろくな野郎ではない。野木山組の関係者か同業他社か、その辺だろう。  だがそれでもそいつは、鎌倉の住民なのだ。仲間、ではなくとも同族、そんなようなものなのだ。  おれの意識の中で、六波羅は顔のない「敵」だ。  単純に憎んで、単純に嫌える。  しかしそこに、「顔」が現れたなら。  良く見知った顔が―― 「どこに通じてるのかな、これ」  唐突な声は小夏だった。  暗い川面をじぃっと見つめている。何も聞いていなかったような風情だ。  聞いていなかったはずがないが。 「あー……そうだな。  銭洗弁天じゃないのか?」 「下流は多分そうだね。  けどあんなところに出たら人目につかないわけがないよ」  話を合わせたおれに、忠保も乗った。  鈴川も、陰鬱な空気を振りまくつもりはなかったのだろう。斜面の上を見やり、続けてくる。 「……では上流か。  どこから流れてきているか……大体の察しはつく」 「源氏山の頂上ですか?」 「だとは思うが、そんな所へ出ても雪隠詰めだろう。  そこまで行く前に、ここと似たような場所があるはずだ」 「それは……?」 「心当たりはある。  行くぞ」  言うや、鈴川は先頭に立って歩いてゆく。  その横顔はいつになく硬い。  ……そうだ。  おれたちはとうとうここまで来たんだ。  リツを連れ去った犯人の後姿が見えるところまで。  危険、だろう。  改めて考えるまでもなく。  手の中に汗がにじむ。  膝が震える。  ――なにか、  言葉を思い出しそうになった。 「行こう、雄飛」 「ああ」  けれどそれが形になる前に、おれは促されるまま、どこかへと通ずる道を歩き始めた。    おそらく――決着を迎えるために。 «………………» «……御堂……» «御堂。聴こえている?»  木々の狭間の向こうに、〈拓〉《ひら》かれた山棚が見える。  その奥には――老朽した木造の平屋。 「立ち入り禁止区画って書いてあるな……」 「それにしては警備員もいないね」 「警備なんかしなくたって、こんなとこ誰もわざわざ来ないでしょ。普通」  だろうな。  ここまで来るには道なき道――というか〈昔は〉《・・》ちゃんとした道があったらしい場所――を、えんえん進んでこなくてはならなかったのだ。  ハイキングコースにこんな選択をする物好きもそういまい。 「先生、ここなんですか?」 「ああ。  あっちに」  と、鈴川は山裾の方角を指差した。 「竹林にあったのと同じような、地下水脈が地表に現れている場所がある」 「はぁ」  そう言われても、おれには何も見えなかったが。  しかし確かに、耳を澄ますと水の流れと思しき音が聞こえてくる。 「んで……あの建物は一体?」 「学校みたいに見えますけど」 「それにしては小さくない?」 「だな。長屋じゃないのか?」 「いや、稲城の言う通りだ。  校舎だよ。〈うちの学校の〉《・・・・・・》校舎だ」 「へ!? そうなんですか?」  聞いたことがないぞ。 「……ずっと昔の話だがな。  今の場所に移転する前はここにあったんだ」 「あ、なるほど」 「そういえば以前そんな話をどっかで小耳にはさんだような気が」 「全然しない」 「なら言うな☆」 「先生が子供の頃の話だからな。  知らなくて当然だ」 「よく今まで残ってましたね」 「経費は掛かるが利益のない撤去作業を誰もやりたがらなかったというだけのことだろう。  もう皆、ここに校舎があることなど忘れた。だからずっとこのままだ」 「いつか自然に崩れ落ちるまで」  それを良しとしているのか、悪しとしているのか、鈴川の表情から判別することはできなかった。  感情を示す色彩はあった――が、おれがそれを読み解く前に鈴川は再び歩き出していた。  廃校舎へ向かって。 「……いっ?  あの、ちょっと先生、危ないっスよ!?」  放置されてもう長いのだ。  いつ屋根が落ちるやら知れたものではない。だから立ち入り禁止なのだろうし――いや。それもそうだが、そういう問題じゃない。  鈴川の読みが的を射ていれば、ここは犯人の用いる犯行拠点なのかもしれないのだ。  まさかここで寝泊りしているということはあるまいが……そんな可能性とて捨て切れたものでもなかろう。  無造作に踏み込むのが賢いとは思えなかった。  しかし鈴川はおれの制止に構わず、建物へ近づいていく。  残った三人、顔を見合わせる。  逡巡と困惑が共通して在った。  やがて、忠保がひとつ肩をすくめ、鈴川の後を追う。  一歩遅れて、おれと小夏も続いた。  ……ここまで来たら、もう腹を決めるしかないか。  埃の匂い。  黴の匂い。  朽ちた木材の乾いた匂い。  そこまでは覚悟していた。  そういうものだとわかっていた。  だが。  それら全ての匂いを押し潰し、圧倒的な存在を誇る、この〈饐〉《す》えた臭気は――果たして、何なのか。  似たような匂いを知ってはいた。  ごく身近な匂いだ。  家庭で。学校で。あるいは路上で。  室内の薄暗さに、少しずつ眼が慣れてくる。 「……教室?」  そんな風に見えた。  廃棄される際に持ち出されたのか、椅子も机も何も無かったが。  しかしそれさえあれば、今でも学び舎としての体裁は辛うじて整えられるように思える。  鈴川の姿は見えない。  まさかその代役ではあるまいが、大きな箱が四つ、教壇のあるべき辺りには並んでいる。  どうもそこから匂うようだった。  複雑な要素が絡み合った、この〈ゴミ捨て場〉《・・・・・》のそれに良く似た匂いは。 「なんだろうねぇ……あれ」 「ゴミ箱かな」 「始末してけよ……そんくらい」 「うーん、水の匂いが混じってるような気もするけど」 「じゃあ水槽?」 「金魚でも飼ってたのか?」 「さてねぇ。  まぁ、開けてみればわかると思うよ」  そんなことは言われるまでもない。  全員それがイヤだから、ここでああだこうだと言い合ってるんだろうに。  匂いは悪いが物は良い、なんてのはくさやとチーズとドリアンくらいのものだ。  悪臭の根源は大概、人間にとって嬉しくもなんともない代物と決まっている。  といって、鈴川もいない、うかつに歩き回りたくもないという状況では、その臭気の元を確認する以外にこれといって前向きな行動選択もなかった。  ただ突っ立って待つのも落ち着かない話。  ……あー、仕方ねえ。  おれは恐る恐るに、箱の方へと近づいた。  ネズミの群れとか飛び出してきたらヤだなぁと思いつつ。  箱はプラスチック製。  別に鍵などは掛かっておらず、ただ上から蓋を被せてあるだけのようだった。  簡単に開けられそうだ。  嬉しくねぇ。  ちょいちょい、と側面を指でつついてみる。  かすかにチャポンという音がした。  どうやら忠保の鼻は確かだったらしい。  縁に手をかける。  一度深呼吸し、息を止めて、おれは蓋を開け放った。  ……箱の中身はおよそ、おれの予測とはかけ離れていた。 「…………」 「雄飛?」 「……何なの?」  おれと同じように危険物を想像して備えていたのだろう、鼻を押さえつつ、二人が口々に問う。  おれは見たままを告げるしかなかった。 「……花だ」 「はぁ?」 「だから、花……」  花だった。  箱一杯の花。  ……なんでやねん。  箱は水で満たされ、その水面一面を花弁が覆い尽くしている。色は紫。珍しくもないよく見かける花。  〈秋桜〉《コスモス》だ。 「花って。  なんでそんなのがわざわざ箱に納まってるのよ」 「おれが聞きたい」  半信半疑なのか、まだ鼻を覆う手はどかさないまま、二人が寄ってくる。  おれはそろそろ、息が〈保〉《も》たなくなってきていた。  慎重に、呼吸を再開する。  ……最初に感じたのは薬品臭。  ただの水ではないのだろうか?  そして―― 「!!」  危うく。  おれはその場で卒倒しかけた。  なんだ!?  〈なんだこの匂いは〉《・・・・・・・・》。  悪臭……いや。  そんなもんじゃない。  〈そんなものではない〉《・・・・・・・・・》。  暴力。  臭気の暴力。殴打的臭気。  〈あまりの悪臭に〉《・・・・・・・》、〈認識が一瞬遅れたほど〉《・・・・・・・・・・》。  そうと気付かず沸騰したやかんに触れた時のように。  こんな匂いは知らない。  いや知っている……。    どっちだ!?  ……この匂いは知らないが、〈こうなる〉《・・・・》匂いは知っている。  それは。  それは。  臭気はおれの脳まで揺らしていたのか。  視界が傾き、たたらを踏む。  バランスを崩したおれの体が支えを求めて、箱の縁を片手でつかんだ。  しかし場所が悪かったらしい。その瞬間箱はくるりと回り、中身を床に投げ出した。  転がり出る。  転がり出てくる。  それは何だ。  花。  水。  そしてそれ以外。  それは何だ。  せ           制服  制服だ。制服。うちの学校の制服。女子用の。  見覚えがある。あるに決まってる。いや、そういう意味じゃない。  あと、鞄、            鞄がある、  ちゃらりと鳴った、途中で切れてる、                     イルカ 「――――――――――――」  小夏がなんか叫んでいる。  ああああうるせぇ。考えの邪魔だろ。みろ今まで何考えてたんだったか忘れちまったろーが!  ええとなんだっけなんだっけか。  そう制服。制服と鞄。  あと何だ。あと見えるものはなんだ。  制服の隙間に何か見えるじゃないか。  何だそれ。  ああくそ誰だよ。おれの目の前で手をぶんぶん振り回している奴は。邪魔だろうが。  忠保か? 違うか。あいつは床にへたり込んでいやがる。何やってんだ。ケツ汚れるぞ。  ああくそ見えねえ。  誰の手だよ!  なんだおれの手か。  邪魔だ、どけ。  おれは何があるのか見たいんだ。  だからおれの首! 勝手によそを向くんじゃねえ!  ちゃんと見ろよ。  何がある。  何があるんだ。  制服。  その中身。  今度はそこにびしゃりと何かが引っ掛けられた。  〈吐瀉〉《ゲロ》かよ! 誰だよ! いい加減にしろよなオイ。  でもなんか見た目あんまり変わらねえ。  反吐をかけられたその何かも、反吐と大差ない物体だった。  それは黒かったり、  白かったり、  ピンクだったり、  一番多いのは濃い灰色か、  そんなややこしい色合いをしたもので、  そしてその形は、  見覚えが あって、  まだ  〈原型〉《スガタ》を    留めていて  だからわかった  それは    人で  知っている人で  とても良く知っている人で  とてもあいたかったひとで  さがしていた  よかっ た  やっとみつけた だいじな ひと  おまえ だろ?  そうだろ  なあ         リ                    ツ   ?             頭のない、           いるか。 「ぎゃああああああああああああああああ!!」 〝すずやかな風が吹き抜ける こころをのせて〟 〝ぼくは走る 風を追って 君に向かって〟 〝君は笑う 噴水のそばで 両手を広げて〟 〝手をつなぐ 抱き締め合う 芝生の上で踊りながら〟 〝永遠だと 信じていた あの日あの刻あの空〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟 〝あの空の色 ずっと忘れない 僕と君の時間〟 〝あの風の音 ずっと忘れない 僕と君の夢〟  淡々と。  古い流行歌の歌詞をリズムもなく朗読しながら。    彼は、来た。  鈴川。  鈴川先生。  おれたちの担任。  床に投げ出された〈ソレ〉《・・》へ、ふと悼むような眼差しを向ける。  反応はただ、その程度。重ささえ感じる臭気の中、手を扇がせることもない。  これから授業を始めるかのような落ち着いた風情。  ここは教室。  教師が一人。  生徒は三人と〈一個〉《ひとつ》。 「永遠に留められるかもしれないと……  夢想したのだ」  もう生きてはいない教え子を見ながら。  そう口火を切る。 「人間を生かすのは血液の流れだ。  血の流れと共に人は生き、老い、死ぬ。  ならば、血を〈固定〉《・・》すれば時を止められる筈だと信じたが」 「夢想だった。妄想だったな。  血の動きを止められた人間は、ただ腐っただけだった」  陰々と呟き、一度口を閉じる。  やがてその手が〈戦慄〉《わなな》いた。  決してつかみ得ない何かを、それでも握り締めようとするかのように、何もない虚空をかきむしる。  血走った眼で、〈有り得なかった何か〉《・・・・・・・・・》を凝視して。  鈴川は初めて感情を露わにした。 「何故だ」 「何故だ!? 何故、失われるのだ!?  どうして美しいものはいつまでもそのままでいることができないのだ!?」 「何故必ず、この手から零れ落ちるのだ!?」 「呪いなのか!  これは呪いなのか!  人が背負う宿業とかいう呪いなのか!」 「美しいものが永遠ではないのなら。  必ず醜く朽ち果てるものであるのなら」 「〈人は決して〉《・・・・・》、〈幸福になれないではないか〉《・・・・・・・・・・・・》!!  幸福というものがただ、不幸の母親でしかないのならば!!」  怨嗟と共に。  教師はそう吐き捨てた。  絶望に装飾された憤怒。  諦念と混合した無念。  吐き出されるのは、そんな塊。  それは鈴川だった。  それが鈴川だった。  臓腑の底に押し隠されていた真意。  吐露は続く。  洪水のように猛然と、延々と吐き出される。 「せめてもう少しましな世界であれば!  優しい世界であれば!  美しい物を守り通せたかもしれないのに!」 「六波羅! 六波羅!  なぜこのような時代なのだ!  なぜ奴らごとき悪逆無慈悲な山賊づれが、春の謳歌を許されるのだ!」 「神は無い!  正義も無い!  美しき善き人々に幸福は約束されない!」 「人面の〈畜生〉《ケモノ》が無辜の人々を引き裂き喰らいそうして獣はまた肥える!  それが世界! 我々の世界だ!」 「何ができる!?  こんな世界で!」 「何もできないではないか!  三途の川の石積みだ!」 「我々は鬼を喜ばせるだけの餌なのか!  そう悟れというのか!」 「できようものか!  私は守りたいのだ! 美しき諸々を!」 「それが叶わぬのなら。  叶わぬのなら……どうすればいいのだ?」 「壊すしかないではないか!  この手で壊すしかないではないか!  獣の餌になる前に!  せめて――美しいうちに!」  絶叫。  最後は絶叫だった。  神と世界を呪う気迫の。  上天を睨み、殺意を注ぎ――そしてがくりと、両腕を落とす。  〈搾〉《しぼ》り〈滓〉《かす》のような呻きが、鈴川の喉から洩れた。 「壊すしか……ないんだ」 「……そんな……」  希薄さを競うかのような擦れ声。  誰の声だろうか。 「先生が、やったのかよ、これ。  なんで……」 「欲しいからだよ新田。  惜しいからだよ新田」  鈴川はなぜか、おれを見て答えた。 「美しいものが腐り果て失われることに私は耐えられない。耐えたくもない。  私は見たのだ……」 「美しかった妻子の顔が病み衰えてゆくのを。  いつも温かな言葉をくれた口が苦悶の喘鳴しか聞かせてくれなくなるのを。  目の当たりにしていたのだ。何もできずに」 「ああ……あの時私は行動するべきだった!  手をつかねてただ見ているのではなく!」 「あの子らが醜くなってしまう前に、美しいうちに、終わらせてやるべきだった!  苦しみから救ってやるべきだった!」 「あの時の私にはそれができなかった……」 「希望だよ!  希望を捨てられなかったのだ! この世には救い主がいて、慈悲を垂れてくれるという希望を!」 「……人が呪われているのなら、この希望というやつこそは最後の一筆だと思わないか。  囚人を拷問台から逃さないための鉄の枷だ」 「だが私はもう後悔したくない。  そんな希望は二度と持たない」 「今この時は悪意の御世だ。  美しいものは必ず失われる。  守り通す方法はない。  だから」 「愛する美しき諸々よ。  私のこの手で、破壊する」  轟音が室内を揺るがした。  濛々たる粉塵。  床が割れる。  硬い板張りの床面に、いかなる力でか、長く深々と亀裂が走る。  その根元は鈴川の後方。  埃の雲が晴れる。  〈それ〉《・・》が己の異形を〈晒〉《さら》す。  〈蜈蚣〉《むかで》。〈百足〉《むかで》だ。  無数の足を備えた長虫が、鈴川の背後で首を〈擡〉《もた》げる。  キチキチと顎を鳴らし。  一対の触覚を揺らし。  眼は何処に付くとも知れず。  鋼のような甲殻は、薄闇に瞬く黄銅色。  ごく平凡な虫けらの形に他ならない。  何処ででも、土を掘れば這い出て来よう。  しかしその巨躯は、果たして何の諧謔か。  頭部の位置が鈴川を凌駕している。  胴体の半ば――あるいはそれ以上?――は未だ床の下に埋まったまま。  無数の足のただ一本が、人間の腕にも匹敵する。  このような蜈蚣がいるものなのか。  否。  自然の内には在るはずもない。  とくと見れば。  鋼鉄めいた甲殻はその実、真に鋼鉄で出来ている。  ――〈劔冑〉《ツルギ》。  聞き流しに聞いていた、歴史の講義を思い出す。  名工の鍛錬を経た上格の劔冑は、  動物を模した姿に変じ、独自の力で動き得る。           「〈真改〉《シンカイ》」  蜈蚣が割れた。  十数、あるいは数十の破片と化し、鈴川を囲うように散る。  鉄甲の渦の中。  ゆるゆると腕が上がった。  ――構だ。    静止した脳裏の地平に単語が咲く。  ――〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》。    武者の礼法、その第一。 「いかで我がこころの月をあらはして」 「闇にまどへるひとを照らさむ」  そうして。  そこに武者が現れた。  〈武者〉《・・》。  この世の最強武力が。  おれの、目の前に。  戦闘の〈形〉《かた》こそとっていないものの――  いや。  何を馬鹿な。  〈戦闘の形〉《・・・・》?  並みの人間など指一本で殺せる〈存在〉《もの》が、なぜそんなことをする必要がある?  関係ない。  構えていようが寝ていようが。それは一呼吸にすら満たない時間で、一個の生命を破壊できる存在なのだ。  それがそこにいる。  〈おれたちに〉《・・・・・》、〈破壊を宣告して〉《・・・・・・・》。 「飾馬、新田、稲城、来栖野……。  お前達は良い仲間だな」 「いつも互いが互いを思いやっている。  それでいて遠慮なく付き合えている。  美しい関係だ。これ以上ないほど……」 「腐らせたくはない。  いつか訪れる無惨な破局を見たくはない。  だから終わらせよう。  今ここで」 「あわっ……」  殺される。  唐突な理解。  このままでは殺される。  現実逃避をもはや許さぬまでに具象化した死の脅威。  武者!  武者!  武者!  死!  死!  死ッ! 「あひっ――ひぃ。ひぃぃ……」  なぜ?  なぜ武者が?  武者といえば六波羅のはず。  けど鈴川は六波羅じゃない。  だってのに、なぜ。  なぜ鈴川が武者に!?  こんなのは嘘だ。  こんなこと、嘘だ間違いだ有り得ない! 「ひぃ……」 「逃げるな。新田」  鈍くくぐもった声で、囁いてくる鈴川。  逃げるなと言いつつ、追う素振りもない。  〈まだ逃がしてなどいないからだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。  まだ殺傷圏の内側なのだ。  どこ。  どこへ。  どこまで。  どこまで逃げれば。  足腰が立たないから、尻をずりずりと押し動かして、おれは一体どこまで逃げ延びれば、  騎航一閃万里を駆ける、武者の刃下から脱せられるのか!? 「恐ろしいのなら、眼を瞑れ。  眠るように、〈終わらせてやる〉《・・・・・・・》」 「あひ……」  ぶんぶんと首を振る。  両目を見開く。  閉じたら駄目だ。  一つ瞬きしたその刹那、おれはきっと殺されている。 「……ふむ……」  首を巡らす武者。  小夏と忠保、おれのほかの二人を眺めたのか。  そしてそこに、おれと同様の様子を見て取ったのか。  鉄面の奥で、嘆息の音がした。 「お前達にはまだわからないのだな。  この世の悪意というものが……」 「そうだろう。  お前達は今こそ幸福の〈最中〉《さなか》にあるのだから」 「無知だけが幸福を許す。  〈楽園〉《エデン》の伝説は全く正しい」 「知れば幸福は終わりだ。  ……しかし知らねば、お前達は私の手から逃れようと足掻く。それでは死が苦痛になる」 「いや……お前達の死は救済でなくてはならない。安らかなものでなくては。  だから……教育しよう」 「お前達の担任として。  最後の授業をしよう」 「美しさの崩壊をお前達に教えよう。  死の安息の前に、生の苦痛を教えてやろう」  涼やかに、金音が鳴った。  ゆるゆると抜き放たれる白刃。  細い。  実用の武器というより、王侯貴族の飾り刀剣のよう。  ……違う。  刀は大物。おれの腕よりも身幅のある大剛刀だ。  そんなものが細身に見えてしまう程、黄銅色の劒冑が重厚極まりないのだ……。 「今からのことは……最後の夢だ。  現実ではない。そう思え」 「お前達は――美しいまま、死ぬべきなのだから」  武者が消えた――視界から。  そう、認識した刹那。  すいと〈後ろから〉《・・・・》、おれの視野に伸びてくる刃先。  首筋の産毛を撫でながら。 「今この場に、一つのルールがあるとしよう。  他人を犠牲にした者は助かるというルールだ」  背後の頭上。  ぞっとするほどの近さで、その声は降る。 「忌まわしいルールだと思うか? ああ……何とも忌まわしいことだ。  だがな。真に忌むべきは……このルールが別段、〈特殊なものではない〉《・・・・・・・・・》という事実だ」 「人の食料を奪えば自分は飢えない。  人の金を奪えば自分は富み栄える。  世界の仕組みはそう出来ている。私は教師として、この真実を正しく教えよう」 「来栖野」  名を呼ばれて、小夏はびくりと竦み上がった。  返事などできない。恐怖に満ちた目で、おれの背後に立つのだろう武者を見上げるばかりだ。  しかし鈴川は構わない。  続ける。 「〈自分の代わりに新田を殺してください〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、と言ってみろ」  ――――。  なんだろう。  今のは、なんだろうか。  なにか、とてつもなく……おぞましい言葉だった、ような。  どういう、意味、だろうか。 「……そう言えばお前は助かるとしよう。  どうだ? 来栖野」  背後の口が言葉を切る前に。  返事はなかった。だが返答はあった。  小夏がぷるぷると、首を左右に激しく振っている。  恐怖に強張り、声も出せないまま。 「そうだろう」  平然と、頷く気配が頭上にある。 「忌まわしいルールに対して、人は無力ではない。  心根の美しさ――美意識が、対抗する力になる」 「人間としての正しい美意識は、他人を犠牲にして己を救うが如きを良しとしない。  醜いと、浅ましいと感じるからだ。人の心には確かに、そうした働きがある」  美しさを。愛してやまぬ、人の美を語りながら。  声には喜びの一片もない。  なぜ? 「だが」  淡々と声を継ぐ、  ――その口は先刻、  美の脆弱さを慨嘆したのではなかったか。 「その美意識を支えるものは……  現実に対する想像力の不足に過ぎない」  眼前で――光が、  流れた。 (…………何?)  〈何かされた〉《・・・・・》。  本能的に、そう悟る。  しかし……何を?  白銀の刃が斜めに、視界を走っている……。  その先。  その先端に。  出血はなかった。  だから、だろう。  自覚がひどく遅れたのは。 (……あれ?)  刺さっている。  太刀はおれの、〈足の甲に突き刺さっている〉《・・・・・・・・・・・・》。  なのに、血は一滴もこぼれていない。  現実感を刺激しない光景。  苦痛も――  ない。  だがこの時も、本能は素早く察していた。  今はただ……頭が現実に追いついていないだけなのだと。  ――現実を、捕まえる。  〈刃が回る〉《・・・・》。  〈おれの足に突き刺さったまま〉《・・・・・・・・・・・・・》。  灼熱。  暴発。  噴流。 「ぎっ――」  全身を駆け巡る高圧電流。  そんなような何か。  苦痛。  それは膨大な、苦痛。 「ぎぁぁぁぁァァァァアアアアアアアアア!!」  神経という神経を埋め尽くす苦痛の群れ。  けれど足りない。神経が足りない。多過ぎる苦痛が口から溢れる。  おれは吠えた。  獣の咆哮だった。  薄汚れた床の上を転がり、のたうち回りながら、罠に食われたけだものと化して吠え猛る。  粉々に千切れ飛んだ意識の一つが、小夏と忠保から注がれる、絶望的な視線を感じていた。 「さて」  声が遠い。  この世界の支配者の声。 「新田に訊くのは無理だな。では、来栖野。もう一度お前に訊いてみよう。  このまま〈お前の代わりに〉《・・・・・・・》新田を痛めつけても構わないか?」  また、おぞましい言葉。  続く沈黙は、先の時よりも長かった。  おれには何を聞く余裕も見るゆとりもない。  しかし鈴川は、答えを受け取ったようだ。  ……同じ返答を。 「そうか。宜しい。  来栖野。お前の美意識は苦痛の想像に耐えられるということだ」 「だが……苦痛は、恐怖の一つに過ぎない。  全てでもなければ最大でもない」  ようやっと、ほんのわずか、落ち着いてきた感覚の暴走――それは苦痛が和らいだのではなく、単に神経が焼き切れただけだとわかっていた――のなか、背後の気配が移るのを感じ取る。  そして、息を呑む音と、布団を投げたような音。  横転したまま視線を動かせば、何をどうされたのか、小夏が仰向けに倒れ、それを黄銅の武者が見下ろしていた。  両手には逆手に持ち替えた太刀。  切先は、小夏の喉元を指している。 「これが死の恐怖」  まさか、動けるはずもない。小夏は凝固した瞳で、己に限りなく接近している鋼鉄を見詰める。  それだけしかできない。  武者は違うだろう。  多くのことができるはずだ……手にした太刀をあと三センチばかり、下へ落とすことも含めて。 「私がそうしようと思えば……  いや。思わずとも、手元がほんの少し狂うだけで――来栖野。お前は死ぬ」 「お前は死に晒されている」  噛んで含めるように、言い聞かせる鈴川。  聞き慣れた声で。  教室で授業をする、そのままの声で。  それこそが総毛を逆立たせた。  日常を思わせるその声は、今この場の非日常ぶりを際立たせずにはおかないものだったから。  狂っている。  この教室は狂っている。 「……どうする。  ルールは覚えているな?」  降り注ぐ声。  小夏は答えない。  何も答えられない。  だが、これは授業なのだ。  教師は無回答を認めない。  ――切先が、〈二センチ〉《・・・・》ばかり落ちた。 「……ッ!」  細く鋭い呼気が小夏の喉から洩れる。  一瞬、〈口ではない〉《・・・・・》穴からの音かと、慄然とした。  刺さっていない。刺さってはいない。  触れるか、触れないか……あるいはわずかに皮一枚、抉っているかもしれない。  喘ぎたいが喘げない様子で、小夏の唇がわななく。  武者は沈黙している。  再度の問いを発しはしない。だがそれは無論、その意思がないからではなく、必要がないからだった。  鈴川の問いは太刀の先端に集約されている。  もはや決して、逃れようのない距離の。  死の脅威。  死の脅迫。  それに小夏は、  ……沈黙を通した。  指先一つ動かせないほど、恐れ〈慄〉《おのの》いていたけれども、  鈴川が要求する言葉を、口にすることはなかった。 「……うむ」  ここに至ってようやく、鈴川の声には意外さの色が混じった。 「思っていた以上に、お前達の絆は堅固だな。死をもって脅されても、仲間を犠牲にはできないか。  ……美しいな。良いものだ」  そう呟き。  太刀の先端が――  離れてゆく。  はあっと、重石から解放されたかのように、小夏が大きく呼吸する。  おれもそれに続いた。今なお全身を痺れさせる苦痛の中で安堵する。  とにかく――この瞬間は逃れた。  まだ全然、安全ではないが。  血の巡りが多少、正常に戻ったのを感じる。  ささやかながら思考能力が回復している。  落ち着け。  落ち着いて――行動するんだ。  生き延びるために。  鈴川は……おかしいが……少なくとも、話はできる。  そして、おれたちを憎んでいるわけでは、ない。  なら……何とかなる。  そう信じる。  刺激しないように、言葉を選んで……どうにか。    全速力で思考し。  おれは視線を上げた。  ――鈴川もおれを見ていた。  口にしかけていた、全ての言葉が消失する。  ――鋼鉄の眸がおれを収めている。 「では――」  何か言え。  言うんだ。  ――誰かがそう命じている。  〈でないと〉《・・・・》、 「――次だ」  走る剣閃。  空を裂く擦過音。  何かが切れた音は――しない。  安堵すべきはずのその事実がうそ寒い。  反射的に、おれは首へ手をやっていた。  ……斬られた!?  血の感触はない。  それは、いまだに出血しない足の傷を思えばなんのよすがにもならなかったが。  しかし、首はちゃんと、繋がっている。  落ちる気配はない。  少なくとも死んではいない。  背筋に覚える凍るような冷気はまだ拭えないながら、おれは最低限度の必要事項だけは確認した。  では、何をされたのか。    ……変化は視界からだった。 「え?」 「あ」  小夏の服が散っていた。  隠されているべき肌が露わになっていた。  抜けるように白い。  そして、意外なくらい、女性らしいかたち。  幾度か想像はして、  しかし勿論、見たことは一度もなかった。 (きれいだな……)  場違いな感慨。  おれはふと、我を忘れた。  悲鳴の形に口を開けて、小夏が両手で体を覆う。  胸と内股。  ああ、やっぱり隠すのはそこなんだな、と。そんなことを思う。  小夏の、女性の部分が隠されて――  しかし一瞬後、おれはまた、その場所をまじまじと見ていた。  ぷくりとふくれた胸。  その先端の桃色。  状況を忘れて悦びを覚えてしまうほど、それは刺激的だった。  けれど、なぜ?  なぜおれは見ていられるんだろう。  小夏は体を隠しているのに。  ……まさか透視能力に開眼したんじゃあるまいな。  いや、それは有難いが、どうせ超能力に目覚めるのならもっとこの状況で役立ちそうなものを  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。  え?  何?  何これ。  ……何を見てるんだ?  おれは。  えぇっと。  なんか。  なんか、〈無くなってる〉《・・・・・・》んですけど。  ……え?  なんで?  そんなわけないじゃん。  小夏もびっくりした顔をしている。  そりゃそうだろう。  〈無くなったら〉《・・・・・・》、困るよなぁ。  あー……  あった。  ちょっと離れたところに、ちゃんとある。  〈無くなったもの〉《・・・・・・・》。  よかったよかった。  驚いたぜもう。  ………………………………。  なあ、ちょっといいかい。  君。君だよ。〈君〉《・》を呼んでるんだ。  現実逃避対話用仮想人格君。  なんだか久しぶりに、君と話をしたくなってさ。  質問に答えてくれ。  大したことじゃない。簡単なことなんだ。  何もおかしなことなんてないよね?  おかしなことなんて何も、起きてないよね?  ねぇ?  ――狂ってしまった教室は、  そのままどんどんオカシクなる。 「稲城。  今度はお前に対して告げる」 「来栖野を犯せ」  そんな声が聞こえた。  忠保がのろのろと頭を持ち上げる。  からっぽな眼差しで、命じた者を見た。  純銀の――血糊ひとつない刃が差し向けられている。 「そうしなければ、〈同じこと〉《・・・・》をする。  どうする?」 「…………」  刃を見る。  小夏を見る。  そして散らばる〈何か〉《・・》を見て。  忠保はもぞりと動いた。  這いずるように。小夏の体へ向かって。 「……そうだ」  頷きと呟き。  それを背に、忠保は白い体を見下ろす。  傷一つない、  ――〈傷と呼べるものは何一つない〉《・・・・・・・・・・・・・》――  小夏の肉体を。  静かに横たわる白いそれ。  忠保のベルトがかちゃりと鳴る。  覚束ない指先は、留め金を外すだけのことがひどく困難な様子だった。 「苦痛には耐えられる。  死の恐怖にも抗える。  だが、〈体を破壊される〉《・・・・・・・》という恐怖はそれらとは質が違う」 「苦痛には終わりがある。  死は一瞬のこと。  しかし肉体の破壊は人の未来に対する永久不離の呪詛だ」 「肉体を壊された者は、未来を奪われながら、なお生き続けなくてはならない。  それがどういうことか。健常者には決して理解し得ず、しかも想像は容易くできる」 「最大の恐怖の一つだ。  自分の身体に託す未来を持つ者であれば、尚更に」 「……お前は〈装甲騎手〉《レーサー》になりたがっていたな、稲城。  手足はおろか指一本の損失でも、その未来は閉ざされてしまうだろう」  忠保の息が荒くなる。  興奮のためでないことは、見ていてわかった。  頬に血の気はまるで無く、〈青褪〉《あおざ》めきっている。  ベルトが外れた。  乱暴に。ズボンごと引き千切るようにして。  着衣を下ろし、自分自身を取り出す。  それを眼下の体へ押し付ける。  小夏の腰をつかんで引き寄せ、自分の腰を打ちつけ。  忠保は、悶えた。  何か、悪戦苦闘している風だった。  ままならない様子。  それはそうだろう。  忠保の男茎は、完全に無力。  機能を果たせる状態ではない。  軟体状のそれを、小夏の中に押し込もうと四苦八苦している姿は、切羽詰まった形相と相俟って、  なんだか、とても滑稽な。         「〈曲位曲宇〉《くるい・くるう》」  鈴川が奇妙な一句を口ずさむ。  もがく姿を指差して。  刹那、忠保はびくりとのけぞった。  体内で何かが跳ねたかのようだった。  ――あるいは事実、その通りだったのだろうか?  忠保の男根が天井を向いている。  急激に。如何なる作用が血を流し込んだのか。  萎えていたはずのものが今、隆々と屹立していた。 「続けろ」  牡の性的本能が唐突に覚醒したせいではなかったのだろう。自分自身を見て唖然とする忠保の背を、鈴川の声が打つ。  これで支障はないはずだと、そう言っていた。  忠保の目が小夏の内股に落ちる。  濡れてもいない其処。  乾き切ったその場所は、見るからに侵入を拒絶していた。  はっ、とこぼれる息。  忠保が舌を突き出す。  その口を近づける。  股間に吸い付いた。  しゃぶる。  ねぶる。  舐め回す。  舌をやたらに動かして、忠保は秘部を蹂躙する。  口の端から唾液が溢れた。  それが小夏の孔を濡らす。  びちゃ、びちゃと音が鳴っていた。  未熟な秘処と、それをひたすら舐め上げる口唇。  小夏は何の反応も見せない。  薄闇に視線を彷徨わせるばかり。  忠保の眼差しも散っていた。  目前のものを見ているようで、見ていない。  心魂の所在が見て取れない空虚な動作を、ただ繰り返している。  ――人形の戯れなのだと、気付いた。  〈人形遊び〉《プレイ・ウィズ・ドール》ではなく。  〈人形たちの戯れ〉《ドール・ウィズ・ドール》。  機械仕掛けの人形劇。  空ろで虚ろで〈空虚〉《うつろ》な遊戯。 「稲城」  ゼンマイを巻く音がする。  忠保が身を起こし、再び男性器を膣口にあてがう。  今度は双方の〈機構〉《・・》に問題はない。  ずぶりと押し込む。  ぞぶりと〈食入〉《はい》る。  棒切れが収納口へ納められる。  あまりサイズは合っていない。だが無理矢理に。  無機的な接触。  けれど何故か。  一筋の血が流れていた。  声はない。  どちらも無言。  奥の奥まで忠保は突き込む。  限界に至って、ようやく止まる。  小夏の体を組み伏せている忠保。  忠保を見上げる小夏。  繋がり合って、互いの眼を見つめながら、  どちらも相手を映していなかった。  ガラス玉の瞳。  人形の。  忠保は突き刺したものを引き出した。  ぬらりと、何かに塗れて赤い。  頭の部分が覗くまで引き、そうしてまた突き入れる。  一息に、奥まで。  小夏の体が揺れる。  胸の丘陵が〈撓〉《たわ》む。  それが遊戯。  忠保が押し、引き、押して。  小夏が揺れ、揺れ、揺れる。  シーソー遊び。  ――ぎっこんばっこん、ぎっこんばっこん  幾度も幾度も繰り返し。  バネ仕掛けの命ずるまま。  二体の仲良し人形は。  さも楽しげに遊び続ける。  ゼンマイが切れるまで。  〈機械演奏〉《オルゴール》が止まるまで。  そうやって何度目か、小夏の奥へ突き込み。  忠保は背を震わせた。  吐き出す。  小夏の胎内で。  男性の本能か。  最奥へ触れたまま、最後の一滴まで。  長い射精。  十秒余りもそうしていたか。  ふらり、ゆらりとよろめいて、忠保が抱いていた体を離れる。  差し込んでいたものが抜ける。  こぽりと白いものが、つながりの跡から〈零〉《こぼ》れた。  朱色の混じった、白。  凌辱の証。  忠保はそれを見やる。  小夏は何も見ない。  そうして、動かなかった。  糸の切れた人形。  遊戯の終わり。 「まだだ」  告げる声。  人形のように空虚ではあっても、人形にはない意思を備えた声。  人形の糸を握る者の声。 「汚し尽くせ。――〈繰来裏〉《くる・くるり》」  再び怪句が響き渡る。  その指が差すのは、やはり忠保。 「……う……」  呻きが口をついた。  股間の肉に力が戻っている。  だが今度は少し、様子が違った。 「あ……あぁ」  苦しげな息をつきながら、忠保が武者を見上げる。  問うように。  答えはない。  しかし、見下ろす眼が何かを命じたのか。  忠保の視線が小夏に落ちる。  片手が自分のものを握る。  むくりと持ち上がってゆく、それ。  よく見慣れた生理現象の前兆だった。  ――膨張して、噴き出す。  黄色の〈飛沫〉《しぶき》。  激しい勢いで射出される液体。  小夏に向かって。  その体に降り注ぐ。  アンモニアの臭気が室内に広がった。  止まらない。  忠保の尿は勢いを増す。  小夏は動けない。  全てをただ、受け止めるしかない。  排泄液を全身くまなく浴びる。  胸に、腹部に、顔にまでも。  汚液の放出が最終的に向かったのは口元。  半開きのそこへ、容赦なく注がれる。  ごぽっ、と喉が鳴った。  強制的な水分の注入に、肉体が反応する。  いくらかは吐き出し、  いくらかはその逆か。  喉がまた鳴る。  小便を飲み下して。  忠保の放出が治まる。  そうしてまた、二人の動きが止まる。  静寂。――――十秒、二十秒。  三十秒。  嗚咽がこぼれた。  四十秒。  少しずつ、泣き始めた。  六十秒。  ――火がついたように、泣き喚いた。  わぁわぁと。  無力な生き物の声で。  暴虐、暴虐の限りを尽くされた小夏が、  ……泣いていた。 「――――」  呆け切った表情で、忠保はその〈音〉《ね》を聞いている。  ひしひしと押し寄せる理解という名の恐怖を、必死に拒絶しているようにも見えた。  そこへ、黄銅色の鉄が立つ。  手にはゆるりと持ち上がる太刀。    茫とした視線が軌跡を追う。  その、両眼を。  刃の先端が薙いだ。  銀光、一文字。  軟質の球体を掠め切りに切り裂く。  弾かれたように忠保が〈仰〉《の》け〈反〉《ぞ》り、  そのまま転倒した。  顔の上半分を両手で覆って、叫ぶ。  意味を成さない言語を発する。  ――今この瞬間、失った未来への哀惜。  指の隙間から、何かが溢れる。  血と、それ以外の体液。  忠保が叫ぶ。  ――盲人としての己の始まりを。  それはやがて、涙を帯び、嗚咽を含み。  教室は。  二つの慟哭で満たされた。 「これが崩壊だ。  美しいものの崩壊だ」  鈴川が語る。  この慟哭をもたらした者が。 「友との絆は欲と恐れが腐らせる。  未来の夢は理不尽な暴力が打ち壊す。  脆弱なのだ。これほどまでに。美しい形というものは……!」 「嘆け!  失われた美しさを嘆け!  美しさの無力を嘆け!  嘆くことしかできないのだ――我々には!」  嘆きの楽が響く中で、指揮者のように両手を挙げて、武者は叫び。  自らもまた装甲の奥で、一筋の涙を流していたのか。奥歯を噛み、苦いものを呑む、そんな気配があった。  これが鈴川の最後の授業。  この世には悪意が満ちているということ。  優しくはないのだということ。  この世に住まう人々には、  絶望が約束されているのだという、こと。  ――なんだ。  それは。  ……泣き声が聞こえる。  耳を打つ響。胸を刺す響。  小夏が泣いている。  泣いてしまっている。  あんな風に、泣かせたくはなかったのに。  泣かせてしまった。  どうして。 「嘆け――この悪夢を。絶望を。  だが大丈夫だ。すぐに解放してやろう……そうすればもう、お前達は嘆かずに済む」 「永遠に……美しいまま。  眠れ」  ……なんだよそれは。  悪夢?  絶望?  なんだ――そりゃ。  なんなんだそりゃあ。  なんかおかしいなァ?  なんかなんだか、おかしいぞオイ。  頭の中はぐちゃぐちゃで、  火箸を突き刺されたみたいな激痛は継続中で、  とてもまともに物を考えられる状態じゃあないが、  あんた、なんか、間違えてないか?  鈴川先生。  なんか大嘘教えてないか?  おい教師。  だってよ――  小夏の慟哭を聞く。  忠保の慟哭を聞く。  そうして、湧き上がるものがある。  ……これが、絶望?  小夏の無惨な姿を見る。  忠保の無惨な姿を見る。  湧き上がるものがある。  ……絶望?  これが、絶望だと? (違う)  確信を、胸中に呟く。  体内に溢れ返るこれは断じて、  絶望なんかじゃない。  ――絶望?  つまりこういうことなのか。  遅かれ早かれおれたちはこうなるんだから、今の内に諦めて死んどけって、そう言いたいのか。  鈴川。  そうなのか。 「……ざっ、けろ」  両手をつく。  膝を折る。  土下座のようでみっともない。  だが見てくれなんぞ知ったことか。  あがいて動けば動くほど、徐々に鎮まっていた痛みがまた盛り返す。  だがそんなことはどうでもいい。  体を起こす。  ……足が立たない。  なら、上半身だけでも持ち上げる。  強張る腕に力を注いで、無理矢理支える。  視界が、立ち尽くす鈴川を捉えた。  相変わらず両手を高く挙げて、自分に酔ってる気色満々で――少なくともおれにはそう見える――天井を仰いでいる。  実はアホじゃねえのかおまえ。 「おい」 「……新田」  おれの存在をまさか忘れていたのか――少し驚いたような響きが鈴川の反応の中にはあった。  鋼鉄をよろう首が傾いで、おれの方を向く。 「どうした。  〈終わり〉《・・・》が欲しいか」 「いや。その前にさ。  ちょっと質問があるんスけどね」 「言ってみろ」  まだ授業のつもりなのか、平然と先を促す鈴川。  改めて思う。こいつはとんだ大物か、でなかったらやはりアホか、もしかするとその両方だ。 「今、おれの感じているものが……絶望なんですか」 「そうだ」  鉄兜が頷く。 「それが絶望だ、新田。  我々に必ずもたらされるものだ」 「幸福はその下地であり、希望はその導き手。  我々を冒す不治の病」 「美しいものがあり、  それは必ず失われるものであり、  その真実を悟ること。  ――絶望」 「喜びに満ちていた生はいつか必ず、この世の悪意によって腐らされ。  行き着く果ては、絶望という終点……そういう事なのだ。今お前がそうなったように」 「そうスか。  けど妙だな……」 「何?」 「今、おれが抱えている〈ヤツ〉《・・》。  どう考えても、絶望なんて〈おとなしい〉《・・・・・》代物だとは思えないんですけどねェッ!!」  おれは両手で床を打った。  反動がごくわずか、体を浮かせる。  その隙に、足を折り曲げる。  膝立ちの格好から、足の裏で地を噛む形へ。  体重を受けて、足の傷口が広がった。  電流のような感覚の暴走が、再度。  だがそれを呑む。  犬歯で砕いて臓腑へ落とす。  膝を伸ばした。  足に掛かる体重が増す。激痛。無視。  立つ。  鈴川の前に立つ。  〈敵〉《・》と向き合う。  ――肘を折り畳む。  脇を締めて、引き絞る。  この期に及んでまだ鈴川は、おれが何を始めようとしているのか理解できなかったらしい。  訝しむ視線だけが注がれてくる。  おれは左足を踏み出した。  痛みで膝ががくがくと笑う。  耐える。  そうして、拳を握り締めて。  腰の回転を最大に利かせて。  ――――殴った。  武者に拳をぶつける感触は、硬い、なんてものではなかった。  岩を――というより岩山を殴ったに等しい。  しかも手加減ゼロの、全力だったから、おれの拳が受けた報いは推して知るべしというところ。  壊れたジャングルジムのような有様になった。  当然ながら、痛い。  もう痛覚なんて全部焼き切れたものとばかり思っていたが、鬱陶しいことにまだまだ健在らしい。勤勉に活動して右拳が完全に砕けたことを教えてくれる。 「うがっ――」  脳髄が沸騰。  たぶん重要な回路の何本かが断線。  その成果はと言えば、武者の体がやや揺れただけ。  これでは足りない。全然足りない。足りやしない!  おれは体勢を取り直した。  もう一度、左足を踏みしめる。腰を据え、力を溜め、全体重を乗せて――蹴る。  穴が開いた右足で。 「がああああっ!!」  素人の無茶苦茶な〈上段蹴り〉《ハイ・キック》。  それは奇跡のように、武者の顎を正確にとらえて、下から上へ突き上げた。 「ぬわっ!?」  その前の殴打で姿勢を崩していたところへの加撃。  ――有り得ないことが、起きた。  武者が倒れる。  〈おれに蹴り飛ばされて武者が倒れる〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「……はッ!」  ガッツポーズ。  右腕の力瘤を左手で打つ。  おれの足元に、倒れた武者を見下ろして。  ……そう。おれは、武者を見下ろしている。今。  その姿。  大の字で床に転がる武者の姿は。  なんとも。なんともなんとも実に、  みっともない格好だった! 「……なっ……」  その時、ようやく。  鈴川は理解力を現実に追いつかせたらしい。 「何をする」 「何をじゃねえ!」  おれは怒鳴った。  馬鹿だこいつは。  何もわかってないのか。  自分が何をしたのかもわかっていないのか。 「絶望だあ?  そんなもん知るか」 「なに……?」 「そんなんじゃねえ。  いいか。おれは。おれはな」  教えてやる。  授業の礼だ。  あんたの大間違いを、教えてやる。 「おれは、〈怒ってる〉《・・・・》んだ!  当たり前だろうがッ!!」 「――――――――」  当たり前だった。  当たり前だった。  友を傷つけられたのだ!  酷く酷く傷つけられたのだ!  怒り以外に何を知る!  おれは心の底の底から赫怒していた。  それ以外のものは、何もなかった。  ……哀しみというものが、後からやって来ることはわかってる。なんとなくわかってる。  でも今はない。  怒りだけだ! 「怒り……だと?  何を……勘違いしている……」  鈴川が身を起こしながら、呟く。  絶望とやらに塗れた声音で。 「怒りなど……無駄だ! 無駄だ!  美しいものを奪い去る悪に……怒りを燃やしたところで、それが何になる。  どうともなりはしない……」 「怒りで私を倒せるか!? 武者の私を!  倒せるのか……六波羅を!」 「六波羅に対して怒りを向けて、それでどうなる! あの武者の軍団に対して何ができる!何もできまい!  だから……絶望するのだ!」 「しない!」  突っぱねる。  奈落への誘い、ただ落ちるだけで済む場所への誘いを跳ね除ける。  そんなものはいらない。 「何だと……」 「倒せるかどうかなんて関係あるか。  力の差なんて知ったことか」  言い聞かせる。  鈴川に。――自分に。  ほんの少し前までの自分に。  相手が武者だからといって、なにもしないうちから観念して、諦めきって、小夏と忠保を傷つけられるに任せてしまった自分に。 「〈奪われること〉《・・・・・・》は、悪なんだ!  理不尽なんだ!  否定しなくちゃならないんだ!  絶対に!」 「だから、  怒って戦うべきなんだ!」 「――――」 「〈戦わねばならない時には戦う〉《・・・・・・・・・・・・・》!  勝てるかどうかなんてのはその後だ!」  それはただの不合理な叫び。  断じて論理に非ず。  断じて道理に非ず。  だが、信仰。  もう二度と決して、美しいものを、邪悪の〈恣〉《ほしいまま》にさせないための。  ――おれにはやりたいことというものがなかった。  夢がなかった。  今、その理由に気付こう。  それは諦めていたからだ。  どうせ無理だと、諦めていたからだ。  夢を。  本当はあった、夢を。  眠らせていた。  ずっと。諦めて。  今こそ、  起こす。 「六波羅ともおれは戦う。  戦ってみせる」 「…………」 「どうやって戦ったらいいのかなんて、まだ全然わからないけど。  でも、戦う。これだけは決めた。だって、おれは」  おれは。  おれは―― 「ずっと六波羅に怒っていた!  あいつらの無茶苦茶が許せなかった!  世の中を変えたかった。〈マシ〉《・・》にしたかった。ずっとずっと、おれはそう願っていたんだ!」  それがおれの夢。  おれのやりたかったこと。  願うことすら忘れて、諦めていた夢。  だが、もう手放さない。  戦わねばならないのだから!  理不尽に奪われないために!  それがどれほど過酷な道かは知らない。  ゴールがあるのかどうかさえ。  けれど、おれはおれのやり方で。  一歩一歩、この道を。  諦めずに、進んでみせる。 「……………………」 「お前は……何も理解していないのだ」  おれの眼下で、腰を落としたまま、鈴川が呟く。 「失うということを。確かにあった、愛していた美しいものが、手の中から消えてゆくという現実を。  理解していないのだ」 「すぐにわかる。今は頭が理解を拒んでいるだけだ……だが程なく知ることになる。  来栖野、稲城、彼らが何を失ったのか。  お前が何を失ったのか……」 「知れば絶望するのだ。お前も!」 「くどいぜ、先生。  おれは絶望なんかしない」  確信があった。  断定する。  なぜなら。 「おれは何も失くしてなんかないからな!」 「――――な、に?」  よほど意表をつかれたのか。  初めてその声はひび割れた。  おれは辺りを見渡す。  小夏と忠保の姿を見る。目を背けたくてたまらない、その残酷な姿を正視する。 「あんたはおれの大事なものを傷つけた。  そいつは確かだ。だから怒ってる。絶対に許すつもりもない」 「けど何も失ってない!」 「……」 「何を失くしたって言うんだ!?  小夏の身体か? ああそうだな。これからとても、想像もできないほど、こいつは苦労しなけりゃならないだろう」 「でもおれが助ける!  おれが代わりの身体になってやる!」 「――ッ!?」 「他にはなんだ。忠保の将来か。  はん。そりゃな、失明ってのは普通に考えたら絶望的なハンディキャップだろうよ」 「でも……こいつは諦めない。  そんな程度のことで絶望しない。  〈装甲騎手〉《レーサー》の夢だって捨てないかもしれないさ! こいつはそういう奴なんだよ!」 「…………」 「後はなんだ!?  あんたはさっきなんて言ってた。絆か?  おれたちの絆か」 「それこそ、そんなもん、てめえ如きに壊されるかよ!  おれたちはずっと仲間だった! 昔から!」 「てめえが今日、ちょっと何かしたからって、〈その事実が消えたりするか〉《・・・・・・・・・・・・》!  消えない! 忘れない! おれはおれたちがどういう仲間だったか、絶対に忘れない!」 「だから、  おれたちは何も失くしてないッ!!」 「――――馬鹿な」  無様に腰を落としたまま、鈴川が呻く。  強くもなければ鋭くもない。  なんだってこんな奴に、さっきまでおれは刃向かいもせず諾々と従っていたのか!  こんな奴。  こんな奴、ただの。 「美しいものは弱いって言ってたな。  脆弱だって言ってたな。  鈴川」 「――黙れ」 「教えてやる。  弱いのはおまえの言う美しいものじゃない」 「黙れ」 「弱いのはおまえだ、鈴川!  綺麗なものが目の前から消えたってだけで、思い出も何もかも忘れて、何もかも無かったことにしちまった、おまえが弱いんだ!!」 「黙れェッ!!」  武者が立ち上がる。  激昂を漲らせて。  その威迫は凄まじい。  純粋な戦闘存在が、抑制の全てを失って、暴走寸前の焦げ付く臭気を放っているのだ。  冥府の入り口に立っているようなものだろう。 「何も失わないだと? 私が弱いだけだと?  何も知らない小僧が……口先でほざくな!」 「何も知らないのはあんただ。  いいか? 馬鹿でもわかるようにはっきり言ってやる」 「〈てめえの絶望に他人を巻き込むな〉《・・・・・・・・・・・・・・・》!  〈おれたちはそんなに弱くねえッ〉《・・・・・・・・・・・・・》!!」 「――――!!」  最後の爆弾。  決定打。  武者の全身に亀裂が走った。  ――ように見えた。  鉄の体が揺らぐ。揺れる。  それが示すのは、装甲の内側の動揺。  そして怒り。  逆上。  憤怒。  太刀が鈍い唸りを上げ、直上を差す。  振り下ろされればおれは一刀両断だ。  そして、そうしない理由はどこにもないだろう。  太刀を睨む。  鋭利というにもあまりに鋭過ぎる刃。  ――まず、あれを躱せるかどうか。  それだけでも、天文学的な運が〈入用〉《いりよう》に違いない。  その後で、小夏と忠保を守り、この場を切り抜けるとなると。  ……気が遠くなる、の一言では済まない話だ。  けど、諦めない。  絶対に諦めない。  今は戦うべき時。  だから、戦う。  相手がどんな強敵でも。  武者であっても。  あらゆる方法を考えて、  あらゆる手段を尽くして、  戦う。 「来いよ。弱虫」 「――――ッ!」  …………え? 「!?」  硬質の音。  弾かれる太刀。  慌てて飛び退く鈴川。  何?  何が起きてる?  武者の太刀が、俺へと落とされた――瞬間。  何かが飛んできた。  糸のような細い何か。  鋭い銀色の光、それが幾条も束になって。 「これは!  まさか……あの夜の」  鈴川が首を巡らす。  この部屋唯一の戸口を見る。  その向こうは闇が広がるばかりで、何の姿もない。  しかし。  足音が聞こえた。 「潔さこそ〈武士〉《もののふ》の〈性〉《さが》。  敗北を認めよ、鈴川令法。彼の強さは貴様の及ぶ処ではない」 「ッ!」  そして、静かに渡る声。  聞き覚えがあった。  どこかで聞いた、誰かの声。  しん、しん……  雪を踏むように床を鳴らして、その人が来る。  大きな影。  闇に眠るかの暗い気配。  徐々に完成する彫刻のように、その姿が陰から浮き上がってゆく。  見覚えのある、ほんの短い時間だけ行動を共にしたコート姿。  ――湊斗景明。  その人は。  悠然と現れ、堂々と、そこへ立った。 「この近辺で発生した失踪事件のうち数件、学生の行方不明は貴様の〈犯行〉《もの》か。  教職公務員鈴川令法」 「……何者だ」  太刀を構え直して、誰何する鈴川。  鋼鉄に隈なく覆われたその姿の意味を、誤解できる人間などこの世にいないだろう。  だが湊斗景明は冷然としていた。  あまつさえ問いを黙殺し、教室を眺めやる。  一角で視線が止まった。 「その四つの箱」  教壇の脇にあるものを見る。  眼を〈眇〉《すが》めて。 「一つに一人、仏が眠るならば……  貴様が殺めたのは四人ということだな」 「誰かと訊いている!」  怒声を発し、鈴川が太刀を振り下ろす。  届く距離ではない。しかしその速度は超音境。空気が割れ、虚無の風が疾駆する。  鎌鼬に掠め切られて、闇色の男の頬が一筋裂けた。  血の細糸が流れ落ちる。だがそれでも表情は、微動だにしなかった。 「内務省警察局鎌倉市警察署属員。  湊斗景明」 「なに……?  ではお前がパート警官とやらか」  奥歯を噛む音がした。  ぎりぎりと。歯を〈軋〉《きし》る。 「私を捕らえにきたのか」 「……」 「〈巨悪〉《ろくはら》には手を出さず……時によっては片棒まで担ぎながら。この私は捕らえ、罪に問うというのか――警察!  恥を知れ!」 「捕まるものか! お前は殺す!  ためらう理由もない。その醜さは私が憎悪してやまぬものだ!」 「そうか。諒解した。  だが」  殺害の宣告を受けて。  彼はあくまで、静然と。 「恥ならば知っている。  六波羅に〈頭〉《こうべ》を垂れ、ただ機を待つばかりの不甲斐なさ、心ある警官ならば誰もが心の底より恥じている」 「しかしそれが、貴様を見逃す理由になる筈もない。例え汚物に満ちた街であっても、屑を一つ一つ拾う行為が意味を失うことはない。  恥は貴様こそが知れ」 「ぐ……ッ!」  腹からせり上がる怒りでか、鈴川は息を詰めた。  両眼が殺気に満ちて、ぎらぎらと輝く。  ……おれはただ呆然と、両者の対決を眺めていた。  なんで。  どうして。  湊斗景明。  あんたがここにいるんだ。  そりゃ、あんたは事件の調査をしてたんだ。  〈鈴川〉《はんにん》に行き着いたって不思議じゃない。  でも、今この場に現れてあんた、どうすんだよ!?  あれ武者だぞ!? 見りゃわかると思うけど。いや、ほんとにわかってんのか!?  あんたは何もできないだろ!  こんな化物に対して!  だってあんたは、野木山のチンピラヤクザにすら、立ち向かえなかったじゃないか。  土下座して謝った腰抜け野郎じゃないか。  カスヤクザとは戦えなくて、武者とは戦えるなんて道理があるわけないだろう!  あんたはとっとと逃げ出してなきゃおかしいんだよ!  なのに、  なのに、  なんで。  あんたはまたおれの前に立つんだ!?  おれたちを守るように! その背中を見せて!  なんでそれができるんだよッ!? (あぁ……でも、確か)  確か――そう。  〈あの言葉〉《・・・・》を教えてくれたのは。  あの言葉を、おれの前で口にしたのは。  確か、この―― 「抗う強さも耐え忍ぶ〈靭〉《つよ》さもなく、ただ八つ当たりのように凶行を働いた鈴川令法。その罪状は既に明白。  だが貴様の処断に警察の名は借りない」 「何ぃ……?」  す、と湊斗景明は左腕を差し上げた。  天を刺す手刀。  それが示すもの。  ――いつからそこにいたのか。 「!!」  蜘蛛がいた。  それは大きな大きな、紅い蜘蛛。  天井へ張り付いて、見下ろしている。  複眼に妖しい〈輝〉《ひかり》を瞬かせ。  肌の朧な光沢は、肉が放ち得るものではない。  それは鉄。鋼鉄の肌。  鋼鉄の大蜘蛛。  頭上に逆座する〈化生〉《けしょう》を見ず、湊斗景明は〈銘〉《な》を〈唱〉《とな》う。           「〈村正〉《ムラマサ》」  蜘蛛が弾ける。弾けて散る。  黒い男の周囲を舞う。 (有り得ない)  今、見ているものの意味。  今、始まっている事実。  おれはそれを理解していた。  理解しながら、信じることができなかった。  紅い鉄が踊る直中、片手が再び、ゆるりと流れる。  ――〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》。 (有り得ない……!)  こんなことは有り得ない。  有り得ないことなんだ。  武者とは六波羅。暴虐の支配者。  大和には六波羅以外に武者はいない。  もしいたとしても。  それは六波羅とは別の、六波羅と同様の悪魔に過ぎない。  武者とは悪。  武者とは鬼。  力ずくで弱いものを貪り食う獣。  力ある者は己の欲のためにのみそれを揮う。  他の使い途など彼らは知らない。  それが事実。  それが真実。  だから――  そんなものは、いない。  正義のために戦う武者など、  力なき者を守ってくれる武者など、  そんなものはどこにもいない! (いない、のに……  なぜ!)  なぜ、あんたは、そこにいる!? 「鈴川令法。弱さに溺れた惨めな外道。  当方〈村正〉《ムラマサ》、ただ一身の都合によって貴様を討伐する」 「――――!!」  〈騎航する〉《はしる》――――  〈合当理〉《がったり》を臨界稼動。最低限度の時間で最大の推力を確保して跳ぶ――飛ぶ――翔ぶ。  無謀と言っても良い急発進を、しかし真改の甲鉄は耐え切った。  空中分解の危機を乗り越え、茜色の空に刺す一条の矢と化す。    視界内に出現した計器類を確認。  速度は六百のラインに到達。  高度は九百弱――これ以上の低空飛行は危険。  加速を続けながら、騎航の安定を回復する。  思うように速度の伸びないことがもどかしい。  以前に一度、好奇心から騎航性能を試してみた時はこうではなかった。あの時はもっとずっと速かった、と思う。  なぜ今日はそうならない?  理由があるのか?  ……もう少し性能を体得しておくべきであったと、今更に思う。  だが同時に思う。そんな必要はなかった――こんな事態を招くつもりは全くなかったのだから。こんな。  〈同じ武者との遭遇など〉《・・・・・・・・・・》!  焦り苛立ちながら、ひた駆けに駆ける。  どこまで逃げれば良いだろうか。このまま飛び続ければ関東防空圏を踏み越えることになる。それは避けねばならない。  六波羅の〈警戒網〉《レーダー》は防空圏の内部にはほとんど注意を払わないが、境界を越えるもの、境界に接近するものは確実に捕捉する。六波羅の〈認識信号〉《コード》を持たない者にとってそれが意味するところはつまり、死だ。  何とかその前に敵を振り切らねばならないが―― «敵騎、〈二〇〇度上方〉《ひのとからひつじのかみ》。距離三五〇。  来襲» 「――何?」  〈来襲〉《くる》? «〈尻追い戦〉《ドッグファイト》は武者の恥。  〈猪突戦〉《ブルファイト》こそ武者の誉れ!» 「!!」  兜の内側に男の声が響いて、即座。  脇腹の裏あたりにぞわりと、毛虫が這う。  この感触は。  鋭い刃物を突きつけられた時に知覚する、あの。  肌の粟立ち。  体毛のざわめき。  肉の外ではなく内から来る寒気、  〈横転〉《ロール》!  体を転回し方向を変え逃避逃避逃避――――! 「がはァッ!?」  脇腹に激しい衝撃。  振動が内部にまで伝播し、内臓を〈攪拌〉《かくはん》する。  腹の中で鉄球が転がっているようなものだった。  胃液がせり上がってくるのを感じる。  意志の力で抑え込みながら、劔冑に問うた。 「やられたのか――真改!」 «腰部甲鉄に若干の損傷。  騎航及び戦闘には支障なし»  切られてはいないらしい。  手を触れて被撃箇所の無事を確認し、そのことには安堵しながらも――別の理由で肝が冷えるのも同時に感じなくてはならなかった。真改の返答の中の一語。 「……戦闘だと?」 «敵騎の速度は当方を上回る。  戦域離脱は極めて困難» 「速度を上げればいいだろう!  もっと速く〈飛駆〉《とべ》るはずだぞ!?」 «肯定。但し時間が必要である。  現在の高度では迅速な速度上昇は難しい»  ……高度?  そうか。低空では空気抵抗が強いから……! 「何とかならないのか!?」 «敵騎の追尾を振り切るならば、旋回を駆使して速力を失わせるが定法である。  されどこれは〈自騎〉《おのれ》が充分な速力を確保している事が前提。現状は該当しない» 「くっ……!」 «抗戦を至当と認める»  劔冑らしい、あくまで無機的な声。  駄々をこねても無駄だろう。なら、歯軋りするしかなかった。  抗戦だと?  戦えというのか……武者と。武者と!  劔冑の力で人を殺すことには慣れた。  しかし武者と、己と五分の力を持つ者との戦闘など。 «鈴川令法。逃走は認めない。  武者としての振舞いを求める» «太刀を合わせよ。  当方は改めて勝負に応じる用意がある»  夕空の中、距離を隔て、再び送り届けられる〈金打声〉《きんちょうじょう》――〈装甲通信〉《メタルエコー》。  落ち着いたその声音に、空恐ろしさを覚える。  直感するものがあった。    ――あの敵は絶対に自分を逃がさない。  追い、捉え、撃ち、〈墜落〉《おと》す。  自分は殺される。  殺されるのだ。  美しいものたちを、この醜い地平に残したまま。 「ッ……!」  そう。そうだ。  この自分が死ぬとはそういう事。  教え子たち。  清く育ち、今こそまさに美しい彼ら。  ――彼らはこれからどうなるか。  いずれ腐らされる。  この世に満ちる無慈悲な悪意が彼らを汚す。  それはどうしようもない必然。    その必然を――だが、自分は拒絶したのだ。  この手で救うと誓った。  彼らの美しさを。  美しいものを、美しいままに、終わらせる。  己に課した絶対の責務。    それはまだ……終わっていない! 「……真改。  奴は何と名乗っていた?」 «村正――勢州〈千子〉《せんご》鍛冶、〈右衛門尉〉《うえもんのじょう》村正。  希代の名甲にして妖甲。南北朝期に勃興し天下第一の名を得るも、大乱を招いたがためわずか三代を数えたのみで滅ぼされたと云う» «……相手に取って不足無し»  最後に付け加えられたその一言は、劔冑らしからぬ響きを備えていたのかもしれない。  だがそんなことはどうでも良かった。 「妖甲村正……南北朝の争乱を地獄に変えた元凶か。ただ流血を好み、無限の呪詛を以て争いのための争いを引き起こしたという……。  そんなものが私を阻むのか」 «当時の得物と云えば長大なる野太刀が主流であった筈。  見るに、敵騎の得物は並の太刀……詐称の可能性も有り» 「どちらでもいい!  死なんぞ……私は死なん」 「私にはすべきことがあるのだ!  真改ッ!」 «承知。戦闘を開始する。  敵騎位置、〈四五度上方〉《うしとらのかみ》»  体を倒して旋回。  いつの間にか再び上空へ陣取っていた敵影を視界に収め、直進する。  〈村正〉《あいて》もまた頭を下げ、降下に移る。  真っ向から激突する状形だ。  武者と武者。  最強武力と最強武力。  有史以来、絶え間なく空で繰り返されてきた決闘。  ――今またそれが、鎌倉の空で。    その一方を自ら担うことになるなどと、昨日の自分が聞けば一笑に付しただろう。  だが、避けて通れぬのならば!  豆粒のような敵影を〈確〉《しか》と見据えた。  憎悪を込める。怒りを込める。  それは全く正当な、迷いもない想念。  疑いもない。  為すべきを為す己を阻む者が現れたなら、怒り憎むほかに何をしようか。  恐れは必要ない。条件は互角。  ――ならば、勝たねばならぬ己が勝つ! «距離五〇〇。〈闘牛形〉《ツキウシ》» 「邪魔する者は斬る……  村正だと? おぞましき魔物が。死すべきは貴様の方だ!」  直進。太刀を振りかぶる。  天に向かって駆けるこの体ごとぶつけて斬る。  加速に加速を乗せ、最大の威力で――  ――――遅い!? «……改めて勝負、と言った筈だが。  高度確保もせずに突撃とは、侮るにも程がある――いや、それともただの愚行か?» 「!?」  視界に、  紅い武者が現れ、  ――〈迅〉《はや》い!! 「……っっっ!!」  全身に走る衝撃。  熱気と冷気が体内を駆け巡った。  悶えるような熱さと凍えるような寒さ。  痛覚よりも正確に、受けた打撃の深さを物語るそれ。 «右肩部甲鉄に深刻な損傷。  内部骨格に若干の被害» 「く……おのれ!」 «速度低下。失速の危険を警告» 「何っ!?」  失速?    その意味を脳内で探る。  失速――〈失速〉《ストール》。  速度の低下によって飛行体が揚力を失うこと。  失速した飛行体は制御を失い、重力に引かれるまま墜落を始める……  墜落!?  制御不能!? «降下し、速度を回復せよ» 「ぬう!」  頭を引き上げ、垂直旋回。  敵対していた重力を味方につけて、ようやく速度計は低下から一転、上昇を始める。  とはいえ地表が近い。  充分な速度を得られるかどうか―― «敵、〈三五〇度上方〉《みずのえからねのかみ》。来襲» 「っ!?」  慌てて頭を引き上げる。  背を見せたままでは一方的に斬られるだけだ。躱すこともできない。  兎にも角にも正対しないことには、どうにも、 «距離二〇〇» 「あ……あぁぁッ!」  近い! 速い!  糞、これではどうにもならない!  敵の〈構〉《かまえ》を確認する。  先の一合と同じ、太刀を肩の上に担いだ構。  あの太刀の尺。  あれの射程から逃れられれば!  〈頭〉《ピッチ》を引き上げる。  村正を捉えた照準が、中心のやや下に来るよう調整。  太刀が届かぬ距離をとって、駆け違う―― «上段に対して、〈上〉《・》へ逃れて何とする?» 「!!」  また一撃。  同じく肩。  だが、逃れようと機動していたことにも一応の意味はあったのか、損傷は深くない。  先刻の傷口に衝撃が響いた程度だ。  ……今回は、と付け加える必要があるだろうが。  状況は一方的な劣勢。 「っ……真改!  〈陰義〉《シノギ》で奴の血を止められるか!?」 «否。  敵騎の肉体は劔冑に守護されている。これを越えて陰義を〈極〉《き》める事は不可能である» 「くっ……!  では、他に何か手はないのか! 何か!」 «――見苦しい»  すべてを聞いていたかのような折の良さで、冷たい金打声が伝わってくる。  発信源は視線の先、圧倒的に速く鋭い旋回で奪った上空に躍り、再度の突進の機を待っていた。 «〈太刀打〉《タチウチ》の作法をまるで知らぬ。武者としてあるまじき不心得。  貴様、〈双輪懸〉《フタワガカリ》はこれが初めてか。その太刀を向けてきた相手は、生身の人々だけなのか» «牙なき者をいたぶるだけが貴様の剣か» «抜かせ!»  装甲通信の指向を敵影に合わせ、反駁する。  言われる義理ではない。怒りをそのまま吐きつけた。 «知らぬ者とていない妖甲を平然と駆る輩が何を言う! その性根、呪われていようと力があれば良しとする醜い心が透けて見えるわ!  違うか!? 村正!» «そう云うそちらは井上真改か。  和泉守国貞。大坂正宗と謳われた藩制時代初期の名作……朝廷に献上を許され、一度はその倉に置かれた程の逸品» «斯様な劔冑を纏いながらその醜態。  どうにも解せぬ。貴様は名だたる武門の出ではないのか?» «調査した限り貴様は一介の教師。  しかしあるいは、隠れた血筋の者なのかと疑ったが……先程よりの無作法を見るにそうも思えん» «どういう事だ。貴様はなぜ劔冑を持つ?  六波羅に媚を売って、恵んで貰ったのか» «!»  その口調は別段、侮蔑的ではなかったが。  内容だけで充分過ぎた。  息を呑む。  見える筈もない己の顔が蒼白になったのを知る。 «……ふ、»  この自分が。  六波羅に、だと? «巫山戯ろォォォーーーーーーーッ!!»  敵は既に眼前。  太刀が三度、襲い来る刹那。  全身をよろう劔冑、その甲鉄との接触を感覚する。  感覚。感覚。感覚。集中した意思の作用による鋭敏化でどこまでも深く深く。  接触は接合に進化。  甲鉄を我が肉皮と認識。  血を流し神経を通し魂を宿す。  肉体と甲鉄の合一。  常理を踏みにじる融合を為し、〈然〉《しか》して心中にうねり〈蠢〉《うごめ》く力の流動を知覚――掌握。  〈呪句〉《コマンド》の詠唱を以て解放。 「〈狂意繰〉《くるい・くる》!」  操るものは――自分自身の血! 「むっ……!」  こちらの肩口から〈飛んだ〉《・・・》血飛沫に顔面を打たれて、村正の騎航姿勢が〈安定〉《バランス》を乱す。太刀筋も崩れた。  その隙に刃を潜る。交差。  我が甲鉄に悲鳴を上げさせること無く、一合を終え別離する。 «はっ! 飢えた妖甲め。  私の血を有難く飲むがいい!»  報復の雑言を投げつける。  多少は腹が癒えた。  だが、状況は好転していない。  速度計の目盛は失速が近いことを示している。また降下して、速力を回復する必要がある。  これでは埒が明かない……! «血を操る……それが真改の〈陰義〉《シノギ》か»  平板な口調をわずかに驚きで揺らして、村正が声を飛ばしてくる。  陰義。  古来の製法で鍛えられた真打劔冑の中でも特上の品だけが操る、単なる身体強化を超えた異能の術。  村正の指摘は正しい。  あの一撃こそは、真改が備える陰義の発現だった。 «陰義まで扱うならば、よもや写しや贋作ということはあるまい。  その劔冑は紛れもなく真物の井上真改» «ただの教師に過ぎぬ貴様がどうして持つ?» «ふっ……!»  答える義理はなかったが、意味はあった。  今は時間が欲しい。稼がせてくれるならば稼ぐべきだった。  どのみちこれから殺す相手に隠さねばならないようなことでもない。    鼻で笑った後で、応じる。 «サンタクロースの贈り物……  と言えば笑うか?» «何……?» «師走の二四日ではなかったがな。  私があの廃校で二人目の教え子を〈救った〉《・・・》、その翌日……あそこに置かれていたのだ» «私に使えと言わんばかりに» «…………»  沈黙の相槌。真偽を図りかねている様子だった。  知ったことではない。金打声を送り続ける。 «私にも理解者はいるということなのだろう。  そうでなくとも構わない。誰のどんな意図であろうと、私にとってこの劔冑は恵み以外の何かではなかった» «これのお陰で私は以前よりもずっと簡単に、完璧に、綺麗に、優しく……愛しい者たちを殺してやれるようになったのだから!»  頭を引き上げて上方旋回。  赤い敵――この距離では黒点だが――が視野に入る。  やや、遠い。  会話の間を取るために、半径を大きくした鈍い旋回をしていたのだろう。  こちらの意図通りではあったが、その余裕のほどが腹立たしくもある。  太刀を握る両手に力が篭った。速度は回復している。問題は何もない。 «ゆくぞ――!» «……成程。  事実はどうあれつまり貴様は、〈偶々〉《・・》劔冑を手に入れただけという事か»  〈兜角〉《ピッチ》を下げ、〈没入〉《ダイブ》してくる敵影。  亜音速と亜音速の正面相対。  まさに切り崩すという表現が相応しい速さで、相関距離が減少する――人の足なら果てもない旅程、だが今は瞬時に跳躍。  〈照準〉《レティクル》の中の点が粒に、粒は図形に、図形は姿となり〈視覚〉《カメラ》を埋める。  太刀打の間合! «得心いった――その愚行» «ッ!» «右上腕部に被撃。重度の損傷。  これ以上の右腕への被撃は危険である» «高確率での機能停止を警告» 「ぐぅぅ……!」  感覚が鈍く――  つまりは思うように動かなくなってきた右腕を抱え、やり場のない憤懣を唸る。  なぜだ?  なぜ打ち負ける!?  今の一瞬。  相互の太刀が接触して――切り結び……  しかし即座に真改の太刀は弾かれ、  村正の放った、〈下〉《・》へ潜り込みながらの一撃が上腕を〈強〉《したた》かに打ち。  村正の〈上〉《・》へ抜ける格好となったこちらの斬り下ろしは、腰回りを覆う〈翼甲〉《ウイング》――〈母衣〉《ほろ》を掠めただけだった。  おそらく、いや確実に無傷だろう。  完全な敗北。    なぜ、ここまで差が…… «何とも堅牢な甲鉄。大坂正宗の名に恥じぬ。  惜しむらくは、〈仕手〉《して》に恵まれなかった事か» «村正ァ……!» «宝の持ち腐れも極まる。  高度の劣勢も理解できない輩がそのような業物を手にするなど»  ……!  高度の劣勢? «聞け、半端者。  武者の〈格闘戦〉《ブルファイト》はより高い位置を奪い合う所から始まる。高さとは即ち〈力量〉《エネルギー》であるからだ。  意味がわかるか» «敵より高位を占めた側は駆け下って攻撃を加える事ができる。  速度を得、速度が転化した威力を得られる» «優位に立てるのは当然だろう» «!» «対し、低位の側は重力に刃向かって速度を減じられながら駆け上がらねばならない。  著しい不利を背負う事になる» «この状況は二合目以降も変わらない。  高位の側は獲得した速力を生かして素早く上昇する事ができ、一方低位側は速度を回復するために降下しなくてはならないからだ» «……» «故に、高位を奪われた者は一合打ち合った後、迅速な旋回を行い、敵が態勢を整える前に突撃することで逆転を図る。もしくは一度戦域を離脱し、勝負を仕切り直す» «旋回性を誇る劔冑なら前者、加速に優れるなら後者だ。剣技で打開を図る猛者もいる。  そのどれもせず、相手の土俵で戦い続けるなどは愚の骨頂»  感情の色彩を込めないまま、侮蔑の言葉を吐く村正。  何かを言い返したいが、返す言葉が何もない。  素人豆知識程度の航空力学ならば記憶の中にあった。  引き出してみれば、その内容は敵の発言を裏付ける。  ――飛行体の持つ〈力量〉《エネルギー》は位置力量と運動力量である。  位置力量は体重と高さ、運動力量は体重と速度とで決する。そのため、高空を高速で飛ぶ飛行体ほど多くの力量を持つ……云々。  つまり、敵よりも低位置にありながら互角だと思い込んでいた自分が馬鹿だということだ。  それでも沈黙には耐えられなかった。救いを求めるような心境で、真改に問うてみる。 「真改……奴の言葉は正しいか?」 «〈武者戦〉《フタワガカリ》の基本である» 「ならっ」  さっさと教えろ!    ……全てを声にしなかったのは、無駄を知っていたからだった。  劔冑の意識は能力の制御に特化された〈OS〉《もの》。  数日前、学生らにそう語ったのは他ならぬ自分ではなかったか。そんなものに人間らしい気配りなど期待する方が間違っていた。  武者は劔冑を〈使わねばならない〉《・・・・・・・・》。  劔冑に〈使われる〉《・・・・》のではなく。  常識として、それは知っていた。  だがその言葉の重さは知らなかった。 «鈴川令法。貴様は扱いきれない玩具を与えられた子供だ。その子供に命を奪われた人々には到底及ばないが、貴様の姿も哀れを催す。  もう一つ教えておこう» «っ……» «貴様はどうして武者が〈正面激突〉《ツキウシ》を行うか、知っているか? 武人の面目もあるが、それだけではない。  劔冑の甲鉄を斬り破るためだ» «逃げてゆく武者を後ろから追って斬っても、砲撃すら弾く甲鉄を穿つ事は難しい。  しかし高速で正面から突進し合えば甲鉄を破る威力を得られる» «この点に考えが至れば……  〈相手の上方へ抜けながら斬り下ろす〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》事の愚もわかるな?» «!»  忌々しくも、その言葉には閃くものがあった。  先の打ち合い。同じように太刀を構えながら、自分は上へ抜け、奴は下へ潜り、斬撃しつつ交差した……  〈真改〉《おのれ》の太刀は、逃げる〈村正〉《てき》を〈追い〉《・・》。  村正の太刀は、進む真改を〈迎える〉《・・・》格好だった。  打撃力に大差がついたのは当然……! «理解したか。  ならば、参る»  〈刀子〉《ナイフ》を投げ込むにも似る一声。  そして肌に迫る〈威圧感〉《プレッシャー》。 «敵、〈60度上方〉《とらのかみ》より来襲» 「くぅ……」  出遅れた。  舌で上顎を押しつつ急旋回。  伸びない速度計と対照的に勢威溢れる敵影を交互に睨みつつ、他にできることはなくただ突進する。  このままでは二の舞、三の舞だ。  敵の太刀構は変わらず、右肩上への担ぎ形。  こちらも同様。    高度差の分だけこちらが不利……だが。 (奴の下へ潜り込めば……!)  接近。交接。  こちらの下を奪おうとする村正を躱し――その下へ!  ――取った! «〈吉野御流合戦礼法〉《よしのおんりゅうかっせんれいほう》が一芸。 〝〈転〉《コロバシ》〟にて» 「おごっ!?」  勝利の確信。  それは芽生えた瞬間、物理的な力で粉々に打ち壊されていた。  今のは。  切り結ぶ直前、奴が太刀を回し、下から――! «騎航しての戦闘では地上と違い足腰を使えない……が、それでも剣の技を工夫する余地はある。  力任せに振り下ろすだけが能ではない» «相手を故意に下へ抜けさせ、同時に剣形を太刀打の基本である右上段から右脇下段へと切り替えて迎え撃つ。  ごく、初歩的な技だ» «左肩部に損傷。稼動には支障なし»  く……!  つまり今のは斬り込み方の点では互角だった――となれば後は、突進力の差が勝負を決めるということか。  その点の優劣ははっきりしている……! 「糞ぉッ!!」  旋回、降下、旋回、突撃突撃突撃――――  お前などに負けるものか。  お前などに……鼻紙一枚ほどにも役に立たぬ警察の奴輩などに!  この私がッ! 「殺す! 殺してやるっ!  〈来繰環〉《くる・くるわ》!」 「うおおおおおッ!!」 «――同じ手を二度は食えぬ。  俺はそこまで付き合いの良い人間ではない»  ――躱された!? «胸部甲鉄に被撃» 「っ……!  真改! 旋回して奴の頭を押さえることはできないのか!?」 «現状では不可能である。  真改の旋回性は村正に比肩し得ると分析されるも、現在は蓄積した損傷のため性能発揮に支障が生じている» «故に不可能» 「く……あああぁぁっ!!」 «悶えるか、鈴川令法。  だが甘受せよ» «その苦しみはこれまで貴様が他者に与えてきたものだ。  同じ苦しみを味わうことは貴様の責務» «刃の報いは己に返る。  人の命を奪う者は己の命も奪われる。  悪に報いは必ずあるのだ……〈悪に報いは〉《・・・・・》〈あるのだ〉《・・・・》!!» «黙れェェェッ!»  まるで自分自身に言い聞かせているかのように念を押す、その煩わしい声を振り払う。  優位に〈驕〉《おご》り、〈嵩〉《かさ》に懸かっての説教など聞く気はない。  悪の報いなどあるものか。善に報いがないように!  そんな世の中で信じられるのは美しいものだけだ。美しさだけは裏切らない。永遠ではないという一点を除いて!  滅びることは仕方ない。  諦めよう。如何にしてもそればかりはどうにもならない、宿命なのだと思い定めて。  その呪いを受け入れよう!  だが腐ることには耐えられない。  美しいものが醜い何かに変わり果てることだけは!  それだけは許さない。決して。  それを認めてしまうなら、美しさには価値がない。    認められようか!  だから私が破壊するのだ!  破壊しなくてはならないのだ!  美しいものを美しいうちに!  それは――悪か!? «鈴川令法……〈貴様の番〉《・・・・》だ。  苦しみ悶え、怒り嘆きながら、凶刃の下に命を散らせ» «嫌だぁぁァァァァァッ!!»  違うっ!  悪ではない悪ではない断じて悪などではない!  私は正しい! 間違ってなどいない! 『てめえの絶望に他人を巻き込むな!  おれたちはそんなに弱くねえッ!!』  五月蝿い!  私は正しい! 私は正しい!  私は正しいんだっ! だから死ぬべきではないんだ!  力を!  力をくれっ!  〈村正〉《やつ》を殺す力を!  理不尽にも私を殺そうとする奴を殺せる力を!  誰でもいい!  どんな力でもいい!  どんな力でも――私を助けてくれるなら!  この世の美しき諸々のために、私を! 『――愉快な真似を』 『その〈いじましさ〉《・・・・・》は笑うほかないな。  見物料に、これをやろう。役に立つぞ……というより、それを持っていれば嫌でも役に立つ時が訪れようが』 『――ん? おれが何者か、だと?  何者、というのは深い問いだな。誰だ、と尋ねるのとは違う。名を告げるだけでは答えとして足りるまい』 『おまえはおれの〈意味〉《・・》を問うのか?  ならばこう応える』 『――おれは天下布武。  〈白銀〉《ぎん》の星の名で呼ばれている者だよ』  そうだ……お前でもいい。  忌まわしき殺戮者! お前が求めに応じてくれるのなら、それでも構わない!  力を!  力を!  私に力を!! 「あ……ああああああああああああああ!!」 「――!?」  丹田で――横隔膜の下で――凶暴な何かが〈蠕動〉《ぜんどう》する。  それは何かの目覚め。何かの身じろぎ。  あの日、〈植えつけられた〉《・・・・・・・》何か。  有り得ない〈子宮〉《・・》を錯覚する。  有り得ない〈胎児〉《・・》を認識する。  胎児の名を曰くカイブツ。  暴れ狂い泣き叫び己を守る母体を食い破る。激痛。実在しないカイブツの実在しない牙と爪が呼び起こす幻の痛み。腹が裂ける。それも幻。苦痛だけが現実。  鈴川令法の、真改の、存在しない子宮からいま生誕する非事実のカイブツ。それは誰の眼にも映らない。  誰の手にも触れはしない。完全な妄想。非実在。  然して、ただ。  溢れ返るこの、膨大な〈力〉《パワー》だけは事実!        「〈曲輪来々包囲狂〉《くるわ・くるくる・くるい・くるう》       〈暮葉紅々刳々刃〉《くれは・くれくれ・くれくれ・は》」  〈呪句実行〉《コマンド・オン》。  うねる力に指向性を与える。  膨大な質量を集束。硬度を付与。速度を付与。鋭さを付与。破壊するための全てを付与。  後は――  叩きつけるのみ!        「〈白華爛丹燦禍羅〉《びゃっか・らんたん・しゃん・かあら》!」 「〈磁波鍍装〉《エンチャント》――!」 「ぬぅ……ッ!?」 «教えておいてやろう……血液だけではない!  真改の陰義は〈あらゆる液体〉《・・・・・・》を操るのだ!»  地上の河川から――海から――噴き上がった水流に打ち飛ばされ、村正が〈転げ落ちる〉《・・・・・》。  怒涛は更にそれを追った。天を渡る水の龍からしてみればあまりにもちっぽけな武者を一呑みに呑む。  どんな猛者でもひとたまりもなかったはずだ。  あそこまでの巨大質量に襲われて、無事でいられるわけがあろうか! 「はっ……ははははは!  はははははははは! どうだ、見たか……この力。真改の力。私の力だ!」 「美しきもののために! 我が正義だ!」  込み上げる衝動を抑え切れず、哄笑しながら、だが自分でも起きた出来事に対する驚きは禁じ得なかった。  まさか、ここまでのものとは……!  一体どれほどの量を引き上げたのか。  莫大な水流は今は散り、地上に降り注いでいる。時ならぬ雨に仰天する街の様子が目に浮かぶようだった。  村正の姿はどこにもない。どこにも見えない。  蜘蛛から変じたあのおぞましい姿は、綺麗に空から消え失せている。 「……墜落したか。  相応の末路と言うべきだろうな」 «――否。  方位〈一七〇度下方〉《ひのえからうまのしも》、距離二四〇〇。  敵影確認» 「何!?」  信じ難い報告に、目を剥いて示された方角を見やる。  そこには確かに、あの姿が。 「あれを受けて無事だというのか!?」 «敵騎は我が白華爛丹の直撃を受ける寸前に防壁を展開。  その効果によって致命打を避けた模様» 「防壁だと?」 «磁力の壁を張り、水流を磁化した上で反発、威力を減殺したものと思われる» 「磁力……  つまり磁力操作が〈村正〉《やつ》の陰義なのか」 «そう推定するのが妥当である»  化物め。  唾を吐きたいところだったが、頭部を兜に覆われていてはそれもできない。劔冑を装甲しているとたまにこういった細かな不自由と出くわすことがある。  あの力でも奴を倒すには足りないのか。  真改では奴を倒せないのか!?    ……おのれ。  目障りだ。  我が道を妨げるあの男。あくまでも立ちはだかろうとするあの深紅。  倒す。  倒せないなどということがあってたまるか。  この自分が正しいなら、正しいのだから、間違っている奴を排除できないはずがない。  倒す。排除する……! «敵騎の状態を確認。  胸部甲鉄を中心に深刻な損傷» 「ん?」 «全機能が大幅に低下した状態にあると推測。  現時点における性能比は真改の優越である» 「損傷……! そうか!」  さすがに奴とても無傷ではいられなかったらしい。  考えてみれば当然のこと。  今のうちに畳み掛ければ、勝てる! «敵騎、復元機能の作動を確認。  所要時間は不明» 「そんな時間は与えん!」  兜角を下げて降下突入。  眼下を旋回騎航していた村正も、こちらに気付いて覚悟を決めたか、頭を上げて向かってくる。  先程までとは完全に逆転した格好。 «村正ァァァッ!» «……真改» «武者の格闘は高位置を取った者が有利……だったな!?  頂いた御教授、有難く活用させてもらう!»  突進。進撃。  太刀をかざし、敵の下へ抜けながら振り下ろす!  村正も下段に取り、切り上げてくる。  だが――優劣は明らか! 「しゃッ!」 「ぐぅッ!?」  村正の太刀を打ち弾き、その甲鉄に切り込む!  手応えは堅く、手首の骨が痺れるほどだったが――しかしむしろその感覚が心地良い。  ようやくこの手で奴に一撃を加えてやれたのだ。 «敵、左肩部甲鉄に損傷» «はッ!  どうだ、村正! 優位から一転、打ちのめされる側になった気分は» «なかなか乙なものだろう!?» «……とは、言いかねるな。  そんなものは今更貴様に教えてもらうまでもない» «既に慣れ切り、飽き切った……。  だが、苦痛という感覚は忌々しいほど常に新鮮だ»  そんな答えを寄越しながら、声にだけは相変わらず乱れというものがない。  どうせ虚勢だろうが。 «しかし……先の〈あれ〉《・・》は、何だ。  如何に真改が名物とは云え、あそこまでの力を持つとは正直、信じ難い» «あれは――〈異常〉《・・》だ» «ふん。  銀色の破壊の神が、私に力を下さった……とでも言っておこうか»  きっと理解はできまいが。  理解できても信じまい。  しかし、村正の返答は予想を裏切った。 «貴様が銀星号に〈卵〉《・》を植えられていることは最初から知っている» «ほう?»  卵。確かにあれは、卵を思わせる球形をしていた。  とするとこの男、何か知っているのか……? «俺達はその気配を追っていたのだからな。  だが……あれはただの〈時限爆弾〉《・・・・》の筈» «貴様が見せた異常の力とは、何の関わりも――» «あるのでしょうね»  突然。  澄んだ声が対話に割り込む。  薄手の陶器を指先で打つような響。  ……まさか、これは、〈劔冑〉《ムラマサ》の? «今回、銀星号がばら撒いている七個の卵は、私の野太刀と掛け合わせて創られたもの。  あの卵には私の力が宿っている» «では、それが――» «さっきの非常識な陰義の理由でしょうね。  そしておそらく、甲鉄のふざけた硬さも» «どう、井上和泉守? 生憎と私は〈後世〉《・・》の事に詳しくはないけど、摂津鍛冶が独力であれだけの性能を完成させられたとはどうしても思えない» «それとも過小評価?  十六〈葉菊〉《ようぎく》を戴く劔冑の、あれが真骨頂なのかしら?» «――否。貴殿の指摘は正鵠を得ている»  問いかけを受けて、驚いたことに真改は応じた。  心なしか――いや、間違いなく錯覚であろうが――敬意に似た調子を込めて、金打声を発信する。 «当方の〈能力〉《ちから》は当方を〈侵食〉《・・》する異物によって高められている。この異物の詳細は解析できなかったが――これが貴殿の……  貴殿〈ら〉《・》の力か» «……迷惑を掛けているみたいね» «御配慮は無用。如何なる形であれ、先人の業に触れるは喜びである» 「その辺にしろ、真改」  戦闘の〈最中〉《さなか》にはふさわしからぬ奇妙にのどかな空気を漂わせて語り合う劔冑らに苛立ち、口を挟む。  会話には理解しかねる部分もあったが、一つだけははっきりしていた。意味がないということだ。 «下らんことをごちゃごちゃと……!  時間稼ぎのつもりか、村正。往生際の悪い……武者なら武者らしく、潔く散れ!» «そうだな»  村正――甲鉄の内側からの声。  劔冑よりもむしろ劔冑らしい冷たい声音で、それは淡々と続けてきた。 «今の言には全く同意する。  では――武者らしく潔く散れ。鈴川令法» «……!?»  言い放つや、村正の紅影は首をめぐらせて旋回。  こちらへと進撃する――圧倒的不利な下方から。  ……何を。あの男。  状況がわかっていないのか。  高度で劣位にあるのも奴なら、損傷の度合いがより深いのも奴!  死ぬべきがどちらかなど、決まっているだろうに! 「……度の過ぎた虚勢は不愉快なものだな。初めて知ったぞ。  いいさ、真改――夢くらいは許してやる。妄想に浸らせたまま、奴を葬れ」 «承知»  弱者め!  そう、奴こそが弱者というものだ。あれほどなんやかやと大言壮語をしておきながら、最後にすがるのが負けを認めぬ妄想とは!  なんとも見苦しい。  醜い。  その醜さに相応しく、無様な最期に堕ちてゆけ――! 「〈磁装・負極〉《エンチャント・マイナス》――」 «――〝ながれ・かえる〟» 「!」 「今のは――!」 «磁力障壁の発動を確認»  攻撃を弾かれた。  甲鉄の強度に押されたのではない――硬質のゴムを叩いたかのような。奇妙な感覚が手の内に残っている。  ――磁極の反発を利用した防御!  先刻もこれを使い、怒涛の水流を防いでのけたのか。 「おのれ……しぶとい!」 «陰義の継続使用は仕手への負担が大。  連続的な攻撃による突破が妥当である»  そんなまどろっこしいことはやっていられない。  あの虫唾が走る存在をいつまでも見ていられるものか!  あの結界が剣撃を防ぐのなら、防ぎ切れない攻撃を加えてやればいい。  そうすれば一撃で済む。  〈白華爛丹〉《ビャッカランタン》!  体内の力を集中する。  うねる流れを引き寄せ、つかみ、集束して――! 「〈曲輪来々〉《くるわ・くるくる》――」  …………え?  なんだ、これは?  視界が――色を、失う?  それだけではない。  〈速度〉《あし》が――落ちる。〈姿勢〉《バランス》が――崩れる。身体が――〈寒い〉《・・》。  寒い――!  なんだ、この身体の奥から来る異様な凍えは!? 「真改! どうしたのだ!?」 «――――»  答えがない。いや――答えてはいるのか?  ノイズじみた雑音だけがわずかに届く。 «限界が来たようだな» «村正!  これは何だ……限界とはどういう意味だ!  お前が何かをしたのか!» «俺は何もしていない。  それは貴様の未熟が招いた現象……  〈熱量欠乏〉《フリーズ》だ» «……熱量欠乏!?» «武者の旋回機動は激しい〈荷重〉《G》が掛かるため、血液が下がり、視力障害を生じることがある。  だがこれは通常、さほど問題にはならない。劔冑の防護が働くからだ» «しかし別の理由により、劔冑の防護が弱まれば、これは途端に身近な危険となる。  そしてその〈理由〉《・・》は、問題を視力障害だけで済ませはしない» «熱量欠乏。  劔冑は能力を発揮するために、〈仕手〉《ユーザー》の〈熱量〉《カロリー》を絶えず消費する。強大な力を使う時ほど、消耗も莫大だ» «その消費量が、肉体の耐久限界を超えれば……そう。今の貴様のようになる» «貴様の熱量は、先の大規模な陰義で既に底を突いていたのだ。その上に更に無理を重ねれば、結果は……  劔冑のほぼ完全な機能停止。違うか?» «そ……そんな»  そんな、馬鹿な。  そんなこと、私は知らなかった。  知らなかったのに。  酷い。  なんで……なんで誰も教えてくれなかったんだ。  どうして、こんなことになるまで! «これは武者にとって常識以前の事柄。  しかし――生身の者しか相手にせず、限界を味わうことのなかった貴様が知る筈もない» «うぅ……» «鈴川令法。他人の手を借りるまでもなく、己の悪行への報いは自分自身で招いたな。  貴様は程なく墜落する……» «が、その甲鉄の強度があれば死ぬ事はあるまい。〈そして〉《・・・》俺は貴様の生存を認められない。  故に最期は、俺の手で送る» «い……嫌だ……!»  死ねない。  私は死ねない。  動け!  動け、手足! 動け、真改!  なぜ動かない! なぜ痺れる! なぜ落ちてゆく!?  動けぇぇぇぇぇぇっ!  私は死ぬわけにはいかないのだ!  美しいもの達のために!  私、は―――― «さらばだ、鈴川令法。  人の美しさにすがった弱者» «貴様は悪の一語のみで断ずるべき人間ではないのかもしれない。  だが〈美しいもの〉《・・・・・》は、貴様のような脆弱さを求めてはいなかったのだ» «あ……あぁ»  もはや定かならぬ視界の奥。  深紅の武者が太刀を鞘に納める。  居合/抜刀術の構。  一刀必殺の意思の具現。 「し……真改……!?」 «双極の磁力。  その吸引と反発の作用を、居合の技に持ち込むか……» «何という恐ろしき工夫よ。  ここまで精密かつ高圧の力を御すは仕手にとっても劒冑にとってもまさしく生死を天に預ける綱渡りの筈……それを遂げている……» 「真改ぃぃぃぃぃぃぃっ!!」 «……我が仕手よ。  武の鬼道を歩んだ者の逃れ得ぬ〈運命〉《さだめ》、今がその時と存ずる»  呼びかけにも、劔冑は動かない。  ただ静かな言葉だけを送ってきた。  死が来る。  最強にして最凶、近づいたもの全てを滅ぼすと謳われた妖甲が、その〈呪〉《ノロイ》の究極を解き放とうとしている。  絶対不可避の死の運命。村正。  悟ってしまった。理解してしまった。  真改の甲鉄は――無双無敵であるはずの防壁は――今より訪れる〈もの〉《・・》を決して防ぎ止められない。  ようやく気付いた。  妖甲の妖甲たる所以。  あれは死。あれは滅び。ただ純然たる、〈それ〉《・・》。  関わってはならなかったのだ。  近づいてはならなかったのだ。 «いかに堅固な城塞とて……  〈天の鉄鎚〉《いなづま》の前には脆いもの» «〈磁波鍍装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》» «諒解。  〈死〉《シ》を始めましょう» «吉野御流合戦礼法、〝迅雷〟が崩し……» «〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟» «いかで……我が……  こころの月を……あらは……して……» 「やみに……まどえる……  ひとを……てら…………さ…………」 「…………………………」  少年は見た。  黄昏を貫く二条の光跡。  正面から〈見〉《まみ》え――相撃ち――そして――  黄銅色の光条が、散る。  少年は見た。  その刹那の一閃――  何よりも〈迅〉《はや》く。  何よりも〈剛〉《つよ》く。  万物を等しく塵芥に貶めて〈疾翔〉《はし》った、雷火の煌きを。  少年は見た。  今はただ独り天を舞う、深紅の光軌。 「……村正……!」  少年は見た。いつまでも見ていた。  心の奥底から湧き上がる、熱い震えを感じながら。 「……あった」 「野太刀の……柄だ」 «これで一つ。  ……残りは六つね» 「……?」 (……真改。  真改の〈標識〉《マーカー》が……消えた?) (消えちまいましたね。いや、おいおい。  どうするべぇよ) 「……………………」 「あたしゃ、しーらね。  ……で、済めばいいんだけどねェ」  寝転がって、天井を見つめる。  ほかにできることがない。  眠ることさえ。  開け放したままのがらり戸は庭からの風を運び、肌寒いほどだったが、それが寝るのに邪魔ということはなかった。むしろ心地よい。  けれど眠れない。  なら起きればいいのだろうが、片足を負傷した状態ではそれも億劫だった。痛みはもうほとんどないとはいえ、それがじっとしていることを条件に危うく成立しているのは明らかだ。その安息を捨てる理由もない。  つまるところ、寝転がってる以外にないのだった。  熱い身体を抱えながら。 「…………」  あれから。  湊斗さんが手配していたのだろう。警察がやってきて、おれたちは保護された。  そのまま病院へ直行だったのは言うまでもない。  おれの治療は止血と縫合、鎮痛剤投与だけで済んでしまったが、他の二人は当然そうはいかなかった。  見届けることはできなかったが、集中治療室へ送られたと聞かされている。  おそらく、今もまだそこにいるだろう。  手術が終わるまで自分も残ると言うだけ言ってみたが、その場にいた全員に帰って寝ろと怒られては断念するしかなかった。  何の役にも立てないどころか、邪魔にしかならないことは自分でもわかっていたから仕方がない。  おれはおじさんおばさん、忠保の家族らと入れ違う形で、警察の車に送られてひとり帰ってきた。  そうして、今はここでこうして夜風を聴いている。 「…………」  考えるべきことは多くあった。  おじさんおばさん、忠保の家族にも、おれの口から事の説明をしなくてはならないだろう。警察から既に聞いていても――そうか、警察の事情聴取もある。  病院では誰もおれに何も訊かなかった。気を遣ってくれたのだろうが、甘えてはいられない。  三人の中で一番無事に近かった人間として、おれには説明する義務があるはずだった。  正しく、見たこと起きたことを彼らに伝えなくてはならない。それが辛さを伴おうと。  前もって準備をしておくべきだった。おれは説明事が得意なわけではないのだから。  他にも考えなくてはならないことはいくらでもある。とりあえず明日の朝飯はどうしたものかといったことから……あの鈴川のことまで。  そして、仲間のことも。  小夏、忠保、リツ。  あの三人を襲った現実――――  考えるべきことは本当に多い。  だが今のおれはそのどれも、胸に思い描いてはいなかった。  明日になれば。  明日、この寝床で目覚めたその瞬間。  おれは初めて、今日起きたことのすべてを、本当に現実として受け止めることになるだろう。  そして心を押し潰されるだろう。  小夏の体を、忠保の眼を、もういないリツを想って、枕に突っ伏すだろう。  床の上をのたうち、意味のない叫びを上げるだろう。  それがわかる。  そうなるということがわかる。  だが今は違う。今だけは、おれの心は救われていた。悲痛を隠してくれていた――熱い興奮が。  だから今だけ、この一晩だけ、おれはこの熱に浸る。  明日からの悲しみを乗り切るために。  昨日までのおれと、今のおれとの違い。  それは一つ。  信じる道があるということ。  正義。  それは考えとして……概念としてあるだけでは、心から信じることはできない。  それでは足りないのだ。ただの紙切れだ。  だからおれも、そんなものは信じていなかった。  諦めていた。そんなものは無い、と。  だけど。  現れた。  正義は形として現れた。  信じるに足る姿をもって。  正義は体現する者があって初めて意味を持つ。  正義を奉じて戦う者が必要だったのだ。  そんな人がいるなんて思いもしなかった。  戦う者、武人といえば、思い浮かぶのは六波羅幕府でしかない。欲望に任せて剛力を揮うばかりの餓狼団。それが全て。武の世界は六波羅の野心が席巻している。  力ある武人は総てがその一党で、力なき人々の弾圧に奔走している。力の無い人々のために戦おうとする武人などは一人もいない。  そう思っていた。  だけど、いる。  今は知っている。  自分の欲望ではなく、誰かを守るために、戦う人がいることを知っている。  それが、たった一人でも。  おれはその人がいるのなら、正義というものを信じられる。  それはただの題目ではなく。  意味のない飾りではなく。  国語辞典と道徳のテキストの中で惰眠を貪るだけの一言でもなく。  人が正しく在るための道標。  だから、おれはこの道を行こうと思う。  いま確かに見えているこの道筋を。  そして―― 「いかがなさいました? お嬢さま」 「……」 「おお……そういえば新田さまのお宅はこの近くでした。  立ち寄っていかれるおつもりですか?」 「……」 「お嬢さま?」 「今……  赤い何かが、空を過ぎったような」 「赤い……何か?」 「さよ。あなたは何も見ていなくて?」 「ご無理を仰いますな。お嬢さまの眼にさえ定かならぬものが、どうしてこの老婆に見えましょう。  流れ星かなにかでは?」 「星……  わたくしの眼が、完全な信頼を置いて良いものなら、あれは……武者、だったような」 「ほっ。夜だというのにまあ、幕府の方々は相変わらずお忙しいようで。  迷惑なことですなァ。勤勉な暴君とは全くなんとも」 「勿論、お嬢さまの眼は確かでございますよ」 「幕府……ええ。そうね。  そうなのでしょうね」 「珍しくもない……  ただそれだけのこと」 「なのに……」 「どうして……こんなに。  わたくしは……」 「……お嬢さま?」 「……あっ」  夜の帳に沈む庭。  その中でひとり暗闇を吹き払う紅い輝きを放って、おれの信じる正義がそこにいた。 「来てくれたんだ……」 「……」  あわてて飛び起き、膝立ちの膝歩きで縁側まで出たおれを、武者は黙って見下ろした。  甲鉄に覆われたその眼の色彩は冷たい。けれど気にならなかった。その奥の優しさを知っている。  村正。  深紅の武者。  この姿を見たかった。  瞼の裏に焼きついて、細部まで思い出すことも簡単だったけれど。それでも本当の姿を見たかった。見ていたかった。少しでも長く、少しでも近く。  願いが叶って、おれの村正が今ここにいる。  ……まさか本当に、おれのために?  いや、バカな。きっと事件のことでおれに聞きたいことかなんかがあるんだ。このロクでもない世の中、たった一人の正義の味方が暇なはずもない。  用事がなければおれの所なんかにわざわざ来るか。  ……そりゃまあ、心配して見に来てくれたってのもあるかもしれないけどさ。  だからって甘えていいもんじゃない。恥ずかしい。協力して、手早く用件を終わらせてあげないと。  だってのに。  赤い雄姿をこんなに間近にしてしまったおれはもう、我慢が利かなくなっていた。 「あ、あのさ……」 「……」 「な、なんて言ったらいいのかな。言いたいことがすごくいっぱいあるんだけど……何をどう言えばいいんだか」 「……」 「その……  おれ、あんたのことを信じるよ」 「…………」 「あんたのことを信じる。  あんたの戦いを信じる。  あんたの正義を信じる。  あんたの行く道を信じる」 「おれさ……  一度、あんたに失望したんだ」 「……」 「野木山の連中に絡まれた時。  あの時、土下座したあんたを見て、おれは思ってた。こいつ、戦うときには戦うなんて言ってたくせに、口だけじゃねえかって」 「こんな奴を信じそうになってたおれが馬鹿だったって。  でも……違ったんだな。おれが馬鹿なのはその通りだったけど。意味が違った」 「あんたは、戦わねばならない時には戦う、って言ったんだ。  あんなチンピラ共なんて、戦わなきゃならない相手じゃなかった」 「こっちが頭を下げてりゃ、それで有頂天になるような連中なんだから。  本当に強い奴は、そんなのをいちいち相手にしない……そうだよ。そういうもんだ」 「あんたが戦うのは、そうする以外にどうしようもない時だけ。  超人の武者が生身の人間に刃を向ける……そんな時だけ、あんたは戦うんだ」 「村正になって。  自分を守る力のない誰かのために」 「…………」  村正――湊斗さんは何も答えない。  もしかして照れてるのかな。そんなことをちらっと考える。 「それがわかったから……  おれはあんたを信じる」 「……」 「この世には正義があるってことを信じる。  正しく生きようとすることには意味があるって信じる」 「そうすることが強さだって信じる」  ああ……くそ。どうしてこんな安っぽい言葉でしか喋れないんだろう。語りたいことは安っぽくないのに。  おれが安っぽいからか?  ……そりゃそうだ。  おれは村正と違って、まだ何もしていない。  信じると言っているだけで、信じて何かをしたわけじゃない。口先ヤローだ。大安売りの特価商品だ。  でもこれからは違う。違う人間になりたい。  そのために――今は、信じる。 「信じるよ。  この世には村正っていう名の、正義の味方がいるってことを」  その姿を見る。  全身を染め上げる紅は鮮血の色。禍々しく、けれど頼もしい。なぜならそれは戦う覚悟を語るものだから。  黄金造りの太刀は紅の中で一点、煌びやかに映える。  峻厳な兜はあたかも鬼面。  胸に張り出す甲鉄は城壁のよう。  これほど敵に回して恐ろしい姿が他にあろうか。  これほど守り手にして安堵できる姿が他にあろうか。  村正。  呪わしい名を持つ、優しい武者。  それは、おれを見下ろしながら。  ……ゆっくりと、かぶりを振った。 「いない」 「……?」 「正義の味方など、いない」  兜の奥から、こぼれてきたのはそんな言葉。  静かな静かな、氷原を渡る風の声。  おれは少し呆然として、それから、    ……ああ、そうか、と。  心の中で頷いた。  この人は、まったく。  もう少し、他人に理解と評価を求めたっていいじゃないか。  湊斗さん。  あんたはきっと、自分にすごく厳しい人なんだろう。  どれだけのことを成し遂げても、より上の完璧を、もっと良い結果を――例えばおれと小夏と忠保が全員怪我しないで無事に済むとか――考えて、自分を減点してしまう人なんだろう。  だからそんなことを言うんだろう?  でもあんたは今日、おれたちを助けてくれたんだ!  それは間違いないんだ。あんたが来てくれなかったら、おれたち三人は全員死んでいた。殺されて、今頃はあの箱の中だ。  そうならなくて済んだのは、あんたが助けてくれたから。  おれはあんたに感謝したい。  あんたを尊敬したい。  なのに。  あんたは自分を貶めて、そうはさせまいとするのか?    ……少し寂しくなる。  でも、いい。  おれは信じる。  あんたは正義の味方だ。  大和で唯一の、正義のために戦ってくれる武者だ。  唯一の――――英雄。 「……どこにもいない。  正義の味方は、どこにもいない」 「いないのだ――新田雄飛」 「いるよ」  おれは手を差し伸べた。  紅く輝く姿に。 「ここにいる」  おれは信じる。あんたを信じる。  あんたを理想とする。  あんたを目指す。  そして――  ………………  あれ?  なんで、おれ、倒れてるんだろう。  なんで、眼が霞んでるんだろう。  これじゃあ、村正の姿が良く見えない。  おれの大好きな姿が。  ちくしょう、何やってんだおれ。  疲れてぶっ倒れちまったのか?  そりゃ無理もねえけど。  もうちょっと頑張れよ。  今はそこに村正がいるんだから。  この人の前でみっともないとこ見せんじゃねえ。  ああ……くそ、眼が霞む。  なんか血が足りてないみたいな感じだ。  なんでだろ。出血は大したことなかったはずなんだけどな。やっぱ疲れのせいかな。  起き上がりたいけど起き上がれない。  体がどっかにいっちまったみたいだ。  指一本動きゃしない。なさけねぇ。  動くのは眼だけだ。  だから……せめて村正の姿をしっかりと見たいのに。こう霞んでちゃあそれもできない。  なんでこんなにぼやけるんだよ。  なんか冷たいな。  頬が濡れてる。  なんだろ。  涙?  なんでおれ、泣いてるんだろ。  何が哀しいんだろ。  変なの……  哀しい。  何かが哀しい。  哀しくて――哀しくて。涙が止まらない。  なんだろう。  おれはなにが――  ああ……そうか。  村正の姿がもう見えないからだ。  涙のせいで、視界が歪んで、もう村正の形はわからない。  きっとおれはそれが哀しいんだな。  こんなに涙をこぼすほど。  大丈夫だって。  起きるまで待っててくれるよ。  この人は優しいんだから。  だから、少し眠ろう。起きられないんじゃ仕方ない。  少し眠って、疲れをとって……それからまた起きて、村正の姿を見よう。  そうして、その姿を追って。  歩き始めよう。  理想を追って。  正義のために戦う道を、おれも―――― 「湊斗景明。  鈴川令法、及び新田雄飛の殺害容疑により逮捕する」 「……御苦労だった」 「…………」 «興隆四一年一〇月一二日» «未決囚湊斗景明  関東拘置所収監» «容疑» «殺人罪一四件» «うち一件は尊属殺人» 「……!?」 「けほ、けほっ。  …………ふぅ」 「やっぱり銃は好きになれません。  煙たいですし、手応えも良くないですし」 「おや、お嬢さま。  飛び道具なのに手応えとは、如何なものでございましょう」 「あるんですよー。  弾頭が標的を撃ち抜いた瞬間に指の先から脊椎の裏まで駆け巡る……壊れたオルガンのような旋律が、こう」 「それは単に充足した〈嗜虐性〉《サディズム》が体を震わせているだけなのでは?」 「そう片付けられてしまうと、ただの変態ね。  ひどいばあや」 「人にして人を殺せる輩はみな変態の異常者でございます、お嬢さま」 「……待て……」 「ど――  どういうつもりだ?」 「こういうつもりですけれども。  ええと――」 「六波羅代官、長坂大尉殿です」 「長坂大尉。  進駐軍司令部より派遣された巡察官として、大和軍将兵の不適切な行いを是正することはわたくしの責務ですの」 「我が兵が貴官に対し何か失礼な振舞いでも……」 「村人の徴発、限度を超えた酷使、作業から脱落した者に対する私刑。  いずれも軍士官として適切なやりようではありませんね?」 「そのようなことを貴官に言われる筋合いはないっ! 大和の内政は六波羅に委任されている筈ではないか!」 「ええ。  GHQの監督の下で」 「採鉱事業の申請ならばとうに済ませた!  許可も得ている……」 「けれど、それはあくまで書類上のこと。  あなたがたの施政の実態を調査し、好ましからぬ事実が発見された時には、状況の悪化を防ぐ措置を取るのが巡察官の職権の内」 「莫迦な……」 「これは私見なのですけれど。  ……民政局への付け届けが足りなかったのではありませんこと?」 「コブデン中佐の胃袋にも財布にも寝台にも、奴の欲しがるものを欲しがるだけ詰め込んでやったわ!  あれでもまだ足りないと抜かすのか!?」 「それは確かですか?」 「確かだよ! この事業の予算の一割は奴が一人で食い潰したようなものだ!  貴官、何も聞かされておらんのか!? 奴は万事うまく取り計らうと請け負ったのだぞ!?」 「……まあ、大変」 「さよ、今のを聞きまして? わたくしたち、贈収賄事件の重大な証拠をつかんでしまったみたい」 「大変ドラマティックな展開でございます、お嬢さま」 「馬鹿にしているのか、貴様らは!?」 「そんなつもりはないのですけれど。  ねえ?」 「はばかりながらお嬢さま。  客観的に評価致しまして、我々は大尉殿を遺憾なく小バカにしております」 「あら、そうでしたの?  申し訳ありません。わたくしったらどうも、こういうことには疎くて」 「…………。  目的は……何だ」 「目的?」 「貴官の目的だ! とどのつまり何が欲しいのだ。金か、それとも鉱山の利権か?  ならそう言え、下手な揺さぶりなどかけずとも、話は聞いてやる!」 「…………」 「困ったことね、さよ。  会話が通じていません」 「まことに難儀なことで。  如何でございましょう。ここは一つ、大尉殿の脳天に風穴を開けてやって、ちっとは物の道理がわかるようにして差し上げては?」 「それが親切というものかしら。  では、そういうことですので」 「〈あなたのための墓穴へどうぞ〉《PLEASE,GO TO YOUR GRAVE》。  せっかく村の人達が掘って下さった〈坑道〉《あな》、有効にご活用下さいまし」 「――小娘ェェェェェッッッ!!」  代官――どうやらその地位を失いつつあるようだが――が己の劔冑を呼び、装甲し飛び立とうとする一瞬、老人は自分が動かねばならないことを悟っていた。  そして、間に合わないということも。  あの愚かな男を止めるのは自分の責任だ。  男の愚かさを、その所以を、知る者は今となっては彼ひとりしか残っていない。  この手で、決着をつけたかった。  これ以上、いらぬ血が流される前に。  あの男の暴走がこの小さな村を巻き込む前に、留め得なかったことは、老人にとって痛恨であった。  ――益体なき男が二人、死ねばそれで良かろうに。    そう思う。  忌まわしきは老いの退廃。  代官に挑むための支度が、彼の期待を裏切って多くの時を必要としたせいで、状勢の悪化をただ座視する羽目になった。  今、この刹那もか。  村を蝕む事態を動かした――というよりも蹴り飛ばした――あの若い女は殺されるだろう。自業自得と、見られなくもない。  だが、彼女はどうやら村の救い手のようだ。  そして今ここで殺された後には、災いを残すだろう。  老人は世の動静に疎かったが、祖国が戦争に敗れ、占領を受けている現状は知っていた。  その占領軍に属する人間が、この村で変死を遂げたならば……。  あの女性はどう見ても大和人であるものの、しかし、軍服は間違いなく進駐軍司令部の所属を示している。  その死について、現地の居住民が責任を問われないという保証はどこにもなかった。  あの男は今ここで止めなくてはならない。  他ならぬ彼が止めねばならない。    なのに。  ――できぬ、とは。  振り返れば、悔いばかりを重ねてきた命。  既に終わりの見えたこの年齢になって、なお大きな一つを加えなくてはならないのか。  竜騎兵は疾駆する。  空を裂き。地に溝を穿ち。  数打の、紛い物に等しい劔冑であろうと、もたらす速度と力は到底只人が及ぶべくもなし。  抗うはおろか、確と見留めることすらかなうものか。  ――止めてくれ。    老人は願った。  あの一閃を。  この身ではどうしても届かぬ、あの一閃だけ、誰か――止めてはくれぬか。  さすれば後は、我が手で始末をつけられように。  虚しい祈り。  応えるものなどいよう筈もない。  ……否、  かつてはいた。  力なきやからの、民草の叫びに応え、絶大な力を刃に乗せて揮う者がいた。  いると――信じられていた。真実は違ったとしても。そう世に信じさせるだけの事実があった。  今は、無い。  人々は既に信仰を失った。  その名を叫ぶに、込める想いは希望に〈非〉《あら》ず、呪詛。  老人の願いは誰にも届かぬ。  届いたところで、誰も聞かぬ。  誰も――  いない――  赤い〈彩〉《いろ》が踊る。  ……血の深紅が。  あたかも蒼空を呪うかのように。  重厚な甲鉄。  鋭凶な刀刃。  目にするだけで心臓が騒ぐほどの、力満つ気配。  具象化した武。  天より降りた神。あるいは地より這い出た鬼。  其は、何か。  何物か。  それは  在るべくもなく  見誤るべくもなく。  然して今、其処に在るもの。  其は。 「じっちゃ……。  あれ、なぁに?」  傍らの孫娘の問いに、老人は答えを持っていた。  あれが何であるか、知っていた。  彼の脳漿が、否、  血潮が知っている。  鍛冶種族の血が赤い孤影の意味を教える。  あれは。  ――真性の劔冑。  そして、真実の武者。  事態の推移はいささかならず急激だった。  最初からそうではなかったにしても。  拘置所に現れた村正から銀星号の〈香気〉《けはい》をつかんだ旨報告を受け、鎌倉警察署長に連絡し、出所の手続きをしてもらい囚人湊斗景明から警察属員湊斗景明になりおおせて獄室を出る。  そして村正の先導の下、鎌倉近郊の寒村へ。  ここまでは既に慣れた手順、特記すべき変事も無し。  しかし村に到着してから三〇分間の展開は、過去に経てきた事件であれば数日分にも匹敵した。  この村の時計は他所のそれよりも針が高速回転する仕様になっているに違いない。  鄙びた小村なりにざわめいている様子が気に掛かり、村人を捕まえてGHQ将校の巡察という話を聞き。  将校の後を追う格好で村外れの開発中の鉱山へ足を運んでみれば、丁度六波羅の兵士が鉱夫を酷使の挙句に力尽きて倒れた者へ非情の刃を振り下ろさんとする場面に遭遇。  止める暇もあればこそ、人騒を圧して鳴り響く銃声、兵士は己の血沼に沈み、進駐軍の軍服を纏った大和人の女性が硝煙を払う。  六波羅側の首領格と思しき軍官は女性と激しいやり取りのすえ逆上、劔冑を装甲して刀牙を剥き出し。  刹那、村正の〈金打声〉《きんちょうじょう》が耳孔を刺して脳を揺さぶる。  ――«御堂、銀星号の気配! あれは〝卵〟を植えられた寄生体よ!»  かくして。  俺は状況をろくにつかめないまま、村正を装甲して駆け出さざるを得なかった。  風を巻いて馳せる迅雷の太刀筋――  長髪なびく軍装の麗人が切先に掛かり、傍らの老女と共々大胆な外科手術の被験体となるまで余す時間はあと一秒の半の半々、有るか無きかというところ。  つまりは充分。  鋭利な錐が薄紙一枚貫く時を費やして、両者の間隙に押し入り殺意の閃光を打ち弾く。  ……驚愕の声はない。  死骸になり損ねた二者の生身の感覚は武者の挙動を捉えまいし――刃先を逸らされ存分に土を裂いている竜騎兵はいま報復を成就した夢想の只中であろう。  現実との齟齬に気付くのは近未来。  その時間をも貪欲に奪うと決断し、左足を踏み込む。  膨大な重量が一点に集約され、足の裏で山腹の固い地面が沈んだ。  鉄杭の如く足場を食い締める下肢、これを軸にして旋回、六波羅武者の胸甲を右肘で突く。  進駆の勢威を乗せた打撃、それがもたらす荷重は男一人と劔冑一領をまとめて五間ほども転がすに足りた。  水切りの石のように跳ねて飛び、落ち、そうして遂に異変を察知したのか。竜騎兵の眼窩がこちらを向く。 「なに……!?」  打突の衝撃は脳にまでは及んでいなかったらしい。  幕吏の男は即座に立ち上がった。よろめきもせず、流麗に。そうして立てば、膝が震えることもない。  元より肘打一つが武者の致命傷になるはずもないが、それにしてもこの迅速な回復ぶりは刮目に値した。  よほどに己を鍛え込んでいるものと窺える。 「武者だと!?  何処の部隊の者だ!」  こちらの首元から肩へ――視線が動いたのは、階級章を探したのだろう。  正規の幕府兵であれば当然、着けているべきものだ。  そして当然、俺が持つわけはないものだ。 「……?  とにかく、〈退〉《ど》け! この村は俺の管轄だ。何処の武者であれ邪魔立てされる謂れはない」 「文句があれば古河中将閣下に申し立てろ!」 「断る。  今ここで、その首を貰う」 「反逆か……!」 「〈否〉《いや》。軍法上の反逆行為には該当しない。  六波羅の指揮系統と自分は無関係だ」 「……何?」  数瞬の沈黙。  六波羅に属さない武者という事実を、咀嚼するため要した時間か。 「では貴様は何処の所属だ。  進駐軍か。あの女と同様、売国の輩というわけか?」 「一切の所属は持たない」  嘘を言ったつもりはなかった。  建前の上でも警察属員という身分は公に認められるものではなく、本質的には尚の事、俺が警察を名乗るに値する筈もない。  むしろその対極の側だ。 「単なる殺し屋とでも思って貰えれば結構」 「殺し屋……? ふん」  武者は鼻を鳴らした。 「誰ぞに頼まれて俺を殺しに来たというのか。  それは誰だ? そいつは俺の首に幾らの値をつけた」 「いや」  誤解を招いたようだ。 「依頼人はいないし、報酬もない」 「……殺し屋ではないのか?」 「非営利方針を掲げている。  主な活動理由は一身上の都合」 「それは……」  厚い面頬の上からでも、額の血管の膨れ上がる様子が見えるようだった。  怒気を漲らせて、竜騎兵が一歩進む。 「ただの通り魔というのだ、戯け!」  次の一歩は、攻撃の踏み込みだった。  上段から降りかかる軍刀の斬撃。  あたかも綱を切られたギロチンの落下。  油断していたつもりは全くなかったが、重さと速さを兼ね備えたその一剣を避けるために与えられた余裕はごく少なかった。  右足を蹴り、体勢を半身にしつつ退避。 (なるほど)  刃風に体毛を撫でられながら、心中で頷く。 (次からはそう名乗ろう)  数歩の距離を滑って止まり、向き直る。  六波羅の士は姿勢を崩してなどいなかった。空振りした剣を素早く取り直し、再度の突進を期している。  それでも悔しさは滲ませて、その口が毒づいた。 「近頃の若い奴らは人を愚弄する手口ばかりが達者か。情けない話よ。  俺どもの若い頃は今少し、骨があったように思うがな!」 「面目ない」  愚弄したつもりはなかったが。 (年長者の若者に対する批判は人類史上普遍だと云う。甘んじておこう) «そうなの?» (四千年前のエジプトの壁画にも、『最近の若い者は』と書かれていたとか) «ふぅん»  相対距離はおおよそ〈三間〉《5、6m》。  このような間合で武者と対峙を続けるのには、どうにも違和感を拭えない。  武者の戦舞台は本来、空にある。  蒼天を駆け巡る〈双輪懸〉《ふたわがかり》において、こんな至近距離で向き合うことなどごく稀だ。  それは相手にしても同様だろう。  相対す武者の姿を改めて識別する。八八式竜騎兵甲。七・七〈粍〉《ミリ》機銃を除装しているのは、高級将校の慣例に倣ったものか。大和海軍の制式劔冑だった。  この仁が海兵隊の出身であるなら、陸軍の武者以上に、地へ足をつけた戦闘の経験は少ない筈だった。  ゆるく体を揺らすその挙措、呼吸を測るだけでなく戸惑いのためでもあるのかもしれない。  と、なれば―― «御堂、先手を。  騎航して上座を取りましょう» 「……否」  その進言と時を並べて胸に浮かんだ同じ思い付きは、だが軽く頭を振って却下する。  敵騎よりも速く〈騎航し〉《とび》、高度優勢を奪う――それは言わずもがな、武者戦の鉄則ではあったが。 「相手が飛ぶのを待つ」 «なぜ?» 「俺が先に飛んだ時、後に残すのはこの敵騎だけではない」 «――――»  それで通じたようだった。  村正が沈黙する。  騎航に移れば飛躍的な速度向上を成し得るし、武者として性能を十全に発揮することが能う。  が、その一方、地上に二本の足で立っていた時ほど行動の小回りは利かない。  騎航したこちらを敵騎がすぐに追ってきてくれれば良いが。  無視して地表に留まり、最初の標的に注意を戻すということも有り得た。  そうなった時、もう一度うまく阻止できるか。  ……おそらく分の悪い勝負となろう。  先手は敵に譲るほかない。  そう状況を見定めて、待つ。  待つ。  だが。  ――――飛ばぬ。  前方の竜騎兵は地から離れず、合当理は冷えたまま炎を噴かない。足捌きは危険臭を漂わせつつ踏み込みの機を窺っているが、それは空への飛翔を期した動きではなく、あくまでも土を噛んでいた。  こちらが飛ばない事を深読みし、罠の存在を疑っているのか……?    そうも思ったが、あるいは、 (先の先まで読んでのことか)  八八式は〈出力〉《パワー》と〈防甲〉《アーマー》に重きを置く泥臭い設計であり、足回りの性能に特筆すべき点はない。空での機動戦となれば、初手で優位を取れていたとしても、いつまでそれを維持できるものかは怪しいところだった。  無論、対戦相手の性能にもよるが。  事実として八八式は既に旧型と看做され、海軍ではより機動性を高めた九四式への移行が進んでいる。  目先の利を追って飛べば敗北は必定。  それよりは地上に踏み止まって活路を開くべし――そう判断を下したか?  だとすれば侮り難い沈着さ、老獪さだった。 (時を与えるべからず)  戦闘において、時間は常に経験に優る者を、手札の多い者を利するのだから。  時を切り詰め、策を弄する余裕を奪わねばならない。  旨とすべきは短兵急。 「一手馳走」 「参れ!」  身を沈めて駆ける。  右足を蹴って首を落とし、左足を踏んで背を屈む。地を這う長虫のように、砂を舐める心地で。我が頭を敵手の足元へ投げ入れる。  太陽と己を敵影が遮る。影の中で体躯を跳ね起こし、太刀を送り。  切り上げ―― 「フッ!」  その先を制して。  待ち構えていた、正中を抜ける一閃。  六波羅の武人が振るう軍刀は正確に我が兜の頂上を狙撃した。    ――予測通り。  切り上げと見せた剣を手元に引き込み、かち上げる。軍刀の打ち下ろしとそれは激突し、反発し、最終的に受け流した。  方向を反らされた刃が流れ、肩甲を掠めて行き過ぐ。  〈而〉《しこう》して我が眼前には。  敵武者の脇腹が、無防備に晒されて在り。  ――吉野御流合戦礼法、〈違〉《タガイ》の形。    我が頭頂に敵の剣撃を誘い、受けて流してその隙を打つ――  手首を返しての一斬。  据え物も同然の隙所を、狙い澄ました太刀にて割り切る。 「――ッ」 「まずまずの点前。  だが……足りんわ」  存分に胴を薙ぐ筈の刃先は、  翻った敵刃に受け止められていた。  ――早過ぎる。  渾身の剣を受け切られた直後にしてこの仕様、反応にせよ運剣にせよ常軌を逸している。  武者としてさえ、あまりに不条理。    ……つまりは。 «読み合いで上を行かれた……?» (そのようだな)  今の一合を反芻する。  ……こちらの頭頂を襲った敵騎の一刀、あれを受け流した折の手応えは、奇妙なほど軽かった。鋭くこそあったものの。  俺の誘いの意図を察知して、腕の力を抜き、太刀筋の変転に備えていたということか……?  であればこの仕儀も頷ける。 「貴様、従軍経験はあるか?」 「先の大戦にて二年程、フィリピンの密林で村田銃を抱えて過ごした」 「俺が最前線にいた時間はその六倍だ。  若造、二等兵、貴様が洟垂れの頃から大陸を転戦して磨いた我が剣、見縊って欲しくはないな!」 「承知。以後は心する」  至近距離の不敵な笑みに、視線で首肯を返す。  噛み合った刃と刃がぢゃりぢゃりと、酷劣な音響を立てていた。並みの力では傷もつかぬ鋼同士が互いを削り、白い金屑を散らす。  太刀を支える両腕には恐ろしいまでの重圧。  甲鉄と皮と肉の下で骨が軋みを上げていた。八八式の性能だけでは説明がつかぬこの強剛、おそらく中の仕手の尋常ならざる膂力が働いているのだろう。  ……いや。  それでもまだ不足、か? 「一つ尋ねる」 「何だ」 「銀星号を知っているか」  表情を窺う。  顔は隠されていても、気配ならば読める。この近間なら不自由はない。 「……銀星号?  最近とみに噂の殺戮魔とやらか? どうせ風評が一人歩きした類であろうが……」 「あれがどうしたと云う」 「…………」  無用の質問だったと知れた。  男の声には淀みもない。  何も知らないのだ。〝卵〟を与えられていながら。  しかし、前例のない事ではなかった。この男と対面する必要を、〈彼女〉《・・》は認めなかったのだろう。  であれば、これは今は雑念でしかない。  忘れ去り、目前の状勢の打開に専心する――しかしそれが、思うままにはならない。  こちらとても力勝負はまさに本分、今は失っているとはいえ大長刀を苦なく扱える、盛風力には事欠かぬ身だが。それで尚、この敵は容易に圧倒しかねた。  一瞬ごとに僅差の優劣を覆しつつ、競り合う。 (埒が明かん。……明けられん) «けれど御堂、退いては駄目» (わかっている)  退けば死ぬ。  敵の剣を引き外して飛び下がりつつ斬撃――などと小賢しい事を夢想している間に突き倒され、押し切られるだろう。  裏を返せば、それは対手の立場でもある。  ――今この陣は互いに背水。  然らば前へ進む以外に道はなし。  両足を踏み締め、力の限り押し込む。  同様の力が木霊のように返され、拮抗―― 「……っ?」  しない?  押し込んだ刀は抵抗無く、  そのまま敵へ、 (退いた? 押し切れる?)  虫の良い事態に対する、一瞬の躊躇。    ……それで充分だったのだろう。  両腕の間へ滑り込むなにか。  蛇。  ――柄。  軍刀の柄が、俺の腕と腕の間に、するりと、  差し込まれている。  いつの間にか剣から離れていた敵の左手……  それが再び柄を握った。  鉤のように絡み合う、腕と腕、剣と剣。    この意味は何か?  この形は何か? 「……些細な手妻だが。  こんなものが役立つこともある」 「!?」  竜騎兵が軍刀を回転させた。  その柄は俺の両腕に引っ掛かり――捻り上げる。 «腕絡み!?»  〈剣による関節技〉《アームロック・バイ・ソード》!  肘と手首が悲鳴を上げた。  脳髄に激痛が刺さる。  甲鉄は、ほぼ無意味。  斬撃でも打撃でもないこの攻撃を鋼の壁は防げない。  肉が〈捩〉《よじ》れ、骨が〈撓〉《しな》った。  このままでは折られる。 「ち――」  選択の余地はなかった。  太刀を手放し、後方へ飛び離れる。  そうした結果がどうなるか、わかってはいたが。 「退いたな、孺子!」  この機を逃す筈もない。  六波羅武者は俺が退いた分だけ即座に踏み込んだ。肩口へ刃を押し付けながら。  辛うじて、その両腕をつかみ止める。  足元が安定を失った。 「は――」 「ッ……」  愉悦の眼が見下ろしてくる。  奥歯を噛んで見上げ返す。  今や敵手は馬乗りになり、全体重を乗せた剣を押し付けてきていた。  首の根元――甲鉄の隙間を狙っている……。  腕をつかんで抗うも、優劣は明らか。  先程までとは体勢が違う。 「さて……」 「……」 「生意気な若造も、こうなれば少しは素直になれよう。  もう一度問うぞ。貴様は何者だ?」 「既に言った通り。  その命を貰い受けに参った者」 「理由は」 「一身上の都合」 「そうか」  冷たい感触。  首筋の肉に刃が潜った。 「筋金入りの莫迦者には、もう少し荒療治が要るということらしいな!  貴様の意地が切れるのが先か、それとも首が切れるのが先か。試してくれるぞ!」 「……ッ!!」  冷気が体内を侵蝕する。  実際に侵入しているのはまだほんの数ミリであろうが。そこから生じる悪寒は全身に行き渡りつつあった。深さが一センチにも達すれば完全に凍えそうだ。  その時にはむしろ何も感じないのかもしれないが。  喉笛を一センチ抉られて生存するのは難しかろう。 (この尋問法には問題がある) «……どんな?» (口が利けないではないか) «そうね。貴方が死ぬ前に向こうが気付いてくれるといいのだけれど。  どうするの? 人間の叡智に期待をかけて、このまま俎板の鯉の真似事を続けてみる?» (他人を愚かと思い込む者は低能だが、他人の賢さを信じ込む者は無能だと云う。  やめておこう) (〈導源〉《コイル》を回せ。〈陰義〉《シノギ》で抜ける) «……この状況よ? 正気?» (一応そのつもりだ。  従え、村正。議論の暇はない) «――諒解»  細く長く息を吐く。  余りにも近過ぎる敵刃が否応なく気を焦らせるが、敢えて静める。激しく喘げばそれだけで命取りになりかねない、既に生死の間合はその距離にある。  最後の吐気と共に、両腕の緊張を解く。  敵の刀を押さえ留めている腕力は、言うまでもなく生命線。崩れかかる要塞に残された一門だけの砲。  それを、放棄する。ためらいなく一瞬に。  ――生死の境界、一本の線上を片足で踊る。  甘美な誘惑とどす黒い恐怖で脳漿が煮えた。  村正ならずとも正気を疑う挙であるかもしれない。  今や脆弱な首は完全な無防備、子供でも容易く命を斬れる状態にある。 「――!?」  だが、武者は刹那、躊躇した。  場数を重ねた〈古兵〉《ふるつわもの》であればこそだろう。目前へ突如投げ出された美味な餌に、喜んで飛びつくには〈戦〉《いくさ》なるものを知り過ぎている。  未熟者であれば思慮もなく押し切ったに違いない。そうして勝利を手にしただろう。  そうする代わり、この古兵は腕と剣を止めた。  ごくわずかな、間隙の時が生ずる。    そこに機を得られないのならば、俺はこの場で死すべきであった。  短く鋭く息を吸う。  ほんの拳一つ分の空気、それだけで事は足りる。  吸った空気を胎臓へ落とし、流し、渦を巻かせる。  自由に、奔放に、広がろうとする波のうねり。  それを抑制する。締め上げて、引き絞る。  のたうち回る小さな力、あくまでも解放せず、暴れさせながら留め続ける。  渦は悶え、より大きな力を求めて周囲を巻き込む。  膨張。肥大。抑制。暴走。  波は波濤に。波濤は怒涛に。  猛り狂うねじれた瀑布、拘束の鎖を今にも引き千切らんとする、今や絶望的な暴力と化したそれへ最後の制御。  拘束から漏れ出た一端を腕へ流す。  腕から――握り締めている敵の腕へ。 «陰» (陽)  拘束を引き剥がす。  暴力に自由を。  喜悦に震え、衝動のまま、全身を駆け巡り、満たし、溢れ出す〈暴威〉《パワー》。  放散する。抑圧の時代は終わり。今この時は解放。 「〈磁装・負極〉《エンチャント・マイナス》――」 «〝ながれ・かえる〟» 「な――げはッ!?」  六波羅の武者は吹き飛んだ。  吹き飛んだ――俺の上から。  一瞬にして――遥かな距離を。    組み伏せられた村正の、右足の一蹴りで。  少なくとも傍目にはそう見えた筈だった。  戯けた有様、としか言いようもなかったろう。武者の重量、馬乗りの図式、如何に乱雑な計算をしても、そこからこのような結果は導き出せまい。  敵の騎体に磁力を帯びさせ、それと同極つまり反発する磁力を持たせての蹴り。  村正の陰義による、その仕込みがあったればこその諧謔事。  蹴られた六波羅は果たして、事実を理解し得たか。  問うだけの余裕はない。  今の一打が敵にさしたる損傷を及ぼしていないのはわかっている。勝ちを決めるにはこの隙を生かしきらねばならなかった。  駆ける。  村正の磁装は長くは保たない。  瞬発的な術であり、一秒以上も保持しようとすれば莫大な熱量を消費する……といって打ち切れば、再度磁装するには呼吸の調整から始めなくてはならない。  勝負を仕切り直しても不利は覆らない。  首筋の傷は浅くはなかった。時と共に血を流し、熱を失っていくだろう。勝機は今、この刹那だけ。  駆ける。  竜騎兵は早、立ち上がろうとしていた。  やはりダメージはない。派手に転がしはしたがそれだけだ。その目前、間合へと踏み込む。  太刀を拾っている暇など無かった。  体躯そのものを武器として、ぶち当てる。 「ぐっ……!」  再び吹き飛ぶ八八式竜騎兵。  自動車に激突した子犬のように、高く舞う。  しかしそうしていながら、敵騎は軍刀を手放してもいない。  衝突の瞬間に体勢を備え、肚をも据えていたに違いなかった。  何の損害も与えていない――  一方、こちらは磁装が解ける。熱量の限度だった。  これ以上維持を試みるなら、〈熱量欠乏〉《フリーズ》を覚悟せねばならない。  全身が冷え込んでいる。指先にはかすかに痺れ。  逆転の策は終わった。  敵兵は無傷、当方は戦闘不能一歩手前。    あとは決着を待つだけだ。 «御堂!» 「応」  力を絞り、地を蹴り、空へ躍る。  決着をつけるために。 「若造がああああああああ!!」  六波羅武者の咆哮が空を割る。  怒りの、屈辱の、失望の。  逆転は成った。勝負は決した。  その事実を、敵も理解していた――山腹から虚空へ放り出され、合当理を噴いて騎航に移りながら。  空で戦えばこちらが勝つ。故に敵は飛ばぬ。  ……ならば、無理矢理にでも飛ばせてしまえば良い!  足元に大地が無ければ飛ぶ以外にないのだ。  是非もなく、戦場はただ一つになる。  残り少ない熱量を背の飛行器に回し、  浮上――  飛行――  上昇――  同じプロセスを、確実にこちらよりも遅れて辿っている敵騎に対し、高度優勢を確保する。    反転。下降。  八八式竜騎兵は実質、まだ上昇機動を始めてさえもいなかった。  アクシデントからの騎航だったせいか、〈姿勢の安定〉《バランス》を取るのに四苦八苦している。  まさしく鴨。  一方的に強襲する。  太刀は無い。拳だけが武装だった。  これで破壊し得る致命箇所となれば、それは唯一つ。  敵兵の背側から近接。  腰を狙い、殴る。 「がふ……っ」  武者が大きく姿勢を崩す。  そして――その崩れは回復しない。  腰回りに広がる装甲、母衣は、騎航するに不可欠な羽翼。これなくば、いくら合当理を噴かしたところで騒音公害にしかならない。  竜騎兵はその翼の半分以上を失っていた。  だが、残った母衣がそれでも役目を果たそうとしたのか。  武者は落ちながらも半ば滑空し、墜落と着陸の中間のような格好で地上の樹海へと向かってゆく。  ……あれではおそらく死ぬまい。  追撃の必要があった。 「村正、敵騎を捕捉しろ。  追尾する」 «無理よ!» 「何?」 «熱量が限界に達している。  これ以上の騎航は危険。戦闘は論外!» 「……」  言われて自身を振り返れば確かに、戦える状態ではなかった。  手指の痺れは既に麻痺というべき状態に近く、全身の寒気もそれに準じている。  一秒毎に状況は悪化し、装甲騎航を続ける限り回復はない。    潮時であった。 「仕留め損ねたか……」 «今回は仕方ないでしょう。  何分にも急なことだったし» 「その急に対応し切れていれば最小限の時間で事態の解決が果たされていた。  いつもの事だが、我が無能が悔やまれる」 «……» 「戻ろう、村正。  体調を回復させ、然るのち樹海を探索する」 «……諒解» 「…………」 「お嬢さま……」 「赤い、武者……。  赤い…………」 「…………」  ――左様でございます。  そもそもの始まりは、長らく村を離れていたあの男が、幕府代官の肩書きを引っさげて帰ってきたときのこと。  こんな小村にわざわざ代官が派遣されてくるなんておかしな話でございますし、厄介にも思いましたが、それでも村の出身者というのが救いかと、最初はその程度に考えておりました。  しかしすぐ度肝を抜かれる羽目になったのでございます。  あの男、長坂は手勢を連れて乗り込んで来るや否や村の諸役を集め、お山を掘ると言い放ったのですから。  はい。  あの山には貴重な鉱脈が眠っているという言い伝えがございまして――昔、まだ徳川さまが天下を治めておられた頃、猟師が山で貴石を発見したということが。  当時の村の人々は喜んで、山師を呼び寄せ、早速に掘り出そうとしたようでございます。  しかし、山に住んでいた〈蝦夷〉《えみし》の一族がその前に立ち塞がり、制止しました。  なんでも猟師が発見した石は、蝦夷の言うところによると、〈こんじんさま〉《・・・・・・》の怒りの気なのだとか。  それを掘り返すなど、望んで祟りを招くに等しいと。  そう言われてもピンと来なかったのでしょう、村人達は耳を貸さず、山師に従って坑道を掘り始めました。  今も昔も何もない村のこと、やにわに金のなる木を見つけて躍起になっていたのかもしれません。  ……そうして、祟りが降り注いだのでございます。  それはそれは恐ろしい有様だったそうで。  もうすぐ鉱脈に行き当たろうかというある時、不意に山から稲光が迸るや、嵐のように辺りを駆け巡り、その光に触れた者は皆……  石になったやら、砂になったやら、〈錆びてしまった〉《・・・・・・・》やら、色々と伝えられておりますが。  確かなことは、多くの者が亡くなったという、これは当時の記録からも疑いようのない事実でございます。  村の者どもは慌てふためき、蝦夷の長を招いて祟りを鎮めてくれるよう懇願しました。  虫の良い言い草というものですが、蝦夷は何も口にせず頼みを聞いてくれたと伝え聞いております。  一族伝来の神宝を坑道の中に安置して〈こんじんさま〉《・・・・・・》の気を止める重石とし、その上で坑道を埋め戻したのだそうで。  その甲斐あってか、祟りは一度きりで絶えました。  それでも村人は安心できなかったのでしょう、更に山へ社を建てて蝦夷に預け、祟り神を祀らせました。  これは今もまだ続いております。社は古ぼけ、蝦夷はだいぶん数を減らしてしまいましたが……。  そんなことがあったのでございます。  この禁忌に、長坂は手をつけると云うのですよ。  一から穴を掘るのでは金も時間も掛かりますからな。記録を調べて、昔の坑道を掘り返そうという計画で。  もちろん、誰もが反対しました。  それは何も皆が皆、祟りを信じ込んでいた為というのではございません。何しろ昔の話ですし、何がどこまで真実かは怪しいと、私なども思っております。  しかしでございます。仮に首尾良く鉱脈を発見したとしても、待っているのは、鉱夫としての過酷な生活だけでございましょう? 〈あの〉《・・》六波羅がまさか、収益の一部でも村へ還元してくれるとは思えませんし。  そしてもし、祟りの伝説が全て事実だったなら……。  おわかりでございましょう。長坂の計画はどう転んでも、村を不幸にしかしないのでございます。  皆の不賛同は、刃で報われました。  何が彼をそこまで駆り立てたのかはわかりませんが、異を唱えた者が何人も殺され、先代の村長も……ええ、私はその弟です。それまではただの雑貨屋でしたよ。  力ずくで来られては、勝負になりますものか。代官が連れてきた幕府の兵はさほど多くなかったのですが、ほかにも怪しげな連中が幾人かおりまして。用心棒とでもいうのでしょうかな。それがまた、滅法強く……。  止むを得ず私どもは長坂に従い、お山を掘り始めたのでございます。ろくに休みもなしの、苛酷な作業でございました。過労や、指導と称する奴らの制裁で、また何人が死んだことか……。  刃向かえば死。従っても死。  村は追い込まれておりましたが、忌々しくも作業の方は順調でした。長坂一人を神様が嘉したかのようで、悔しさに枕を濡らしたのは私だけではありますまい。  そうして難儀していたところに……  巡察官さま、貴方がやって来られたのでございます。  村長の家はまずまずの大きさで、通された応接間も相撲くらいはできそうな広さがあった。といっても、それは主人の財権力ゆえというより単に土地が余っているからというのが理由ではないだろうか。  応接間だけに見苦しい汚れが目立つなどということはないが、気の利いた調度があるわけでもなかった。  ごく質素な装いである。代々の村長が住まいとした家にしてこれということからも、村の貧しさは窺えた。  部屋の味気なさを恥じてか、村長は気後れしているようにも見えた。俺の嗜好で言えばこの飾り気の無さはむしろ好ましい。がそう口にしても、趣味でやっているわけではない村長にすれば喜べないだろう。  それに実際のところ、村長が本当に気後れしているのだとするなら、理由はもっと他にありそうだった。  得体の知れない外来人(俺)も潔白ではなかろうが。村長の視線は先刻から、もう一人の来客の上にあった。  妙齢の女性。美しい、と言って一切の問題はないと思える。長い髪はわけても艶めいていた。茶碗を手に取る仕草やさりげない微笑から、育ちの良さも察せられる。加えるに如何にも従者然と背後へ控える老婦人。  絵に描いたような雲上人、深窓の令嬢である。  ただその絵には、少々見過ごし難い〈瑕〉《きず》があった。  瑕、というにはあたらないだろうか。それは別段、彼女の外観を損なっているわけではなかったから。  良く似合っている――思わず首を傾げたくなる程に、その軍服は。  戦国時代の甲冑ではないとはいえ、現代の軍服とてやはり無骨、不穏、不吉の匂いを漂わすものには違いない。この女性との間に違和感が生じないのは不思議だった。釣り合いというものが取れているのだ。  軍服には別段、変わった所などないというのに。    …………愚かしい疑問だった。  彼女の方が軍服に合っているのだ。  不穏と不吉の気配を自前で持っているのだ。  外観がどう見えようと、彼女は間違いなく軍人なのだから。  あの場には村長もいた。銃声の響いた一幕を覚えているのなら、今更貴婦人の仮装と誤解して戸惑うこともないだろう。であれば彼の困惑は実のところ、軍服が示す所属に帰せられるに違いない。  国際統和共栄連盟/大和進駐軍司令部。通称GHQ。  六年前までは国を挙げての戦争相手であり、現在は占領者として頭上に君臨する、異邦人の群団。  そして、六波羅を大和の統治者として認め、国家の荒廃を黙視している存在。  好意を抱くべき理由は小笠原海溝の底まで探してもありそうにない。  かてて加えて、この女性は大和人以外のどんな人種にも見えなかった。  自然の帰結として、売国者、裏切者、といった言語が思い浮かぶのは避けられないところである。  これだけ条件が揃っていれば、本来なら、後は押し殺した敵意の視線と陰口の鉾先を向けるのみだろう。  だが、他でもない、嫌悪すべきこの女性こそが村の窮地に救いの手を差し伸べたのだ。  一通り事情の説明を終えた村長が続ける言葉に悩むのも、当然と言えた。  代わって口火を切ろうにもどうしたものか、俺とても迷妄している。 (村正)  口の中で呼びかける。  こんな小声でも、それが〈帯刀〉《タテワキ》の儀で結ばれた仕手のものであれば、距離を隔てたどこかにいる劔冑が聞き逃すことは決してない。返答はすぐだった。 «なに?» (会話に詰まった。  客の礼儀として何か言おうと思うのだが、どうすれば良いと思う) «……えっ?  それは、まあ……時候の挨拶なんかが定番じゃないのかしら» (なるほど)  俺は直ちに実行した。 「良い日和ですね」 「はあ」 「……」 「……」  会話は尽きた。 (他には?) «そ、そうね……小粋な〈冗句〉《じょーく》とか» (わかった)  実行する。 「大坂城を建てたのは誰だか知っていますか」 「大工」 「…………」 「…………」  会話は途絶えた。 (他には?) «ごめんなさい。お願い。もう聞かないで。  私、なんだか段々と、自分がとてつもなく罪深いことをしているような気になってきて仕方がないの» (そうか)  どのみち、これ以上悩む必要はないようだった。  女性が茶碗を置き、面を上げている。これまで沈黙していたのは、別に他意があったわけではなく、ただ饗された茶を楽しんでいただけであったらしい。  その声はまず、後背の同行者に向けられた。 「おおむね、事前調査の通りですね」 「はい」  老婆が軽く頷きを返す。  ……ということは、俺を含む傍目にはいかにも唐突と見えた彼女の行動も、既に裏付けが存在してのものだったのだろう。当然といえば、当然の話だ。  それにしたところで、やにわに長銃一丁で六波羅の士官――多くは武者だ――とその配下に挑む真似が、無謀の極限であることに変わりはないが。  やはり今一つ、つかめない人物だった。  松葉のように細く、感情の読みようとてない眼差しがこちらへ向く。 「次は、そちら様のお話を伺わせて頂きたいのですけれど……」 「ご尤もです」  前触れもなく闖入した武者に疑問を持たぬ筈がない。 「その前に、遅れ馳せながら御礼を申し上げます。  先刻は危ない所をありがとうございました」 「私めからも感謝申し上げます。  卒爾ながら、貴方さまの御名前は……」  さて。  どう答えるべきか。  軽々しく素性を明かすべきではないが……  この二人は信用が置けるだろうか?  ……信用できる、と俺の感性は伝えていた。  理性によって分析するなら、どうにも訝しいと言わざるを得ない。この二人は不明瞭に過ぎる。  だがそう思考する以前の心象、素直な感想として、ほのかに好意めいたものを感じずにいられなかった。  理性より感性を優先するのは危険だとわかっている。  しかし理性の導く結論としても、今この場で虚偽を並べることには疑問符がついた。後難が予測される。  ここは正直に話しておくに如かずだろう。  ……それはともかく。  〈彼女に好感を抱くのは危険なことだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  注意した方がいい……。  ……何とも言いようがない。  現状では判断材料がいかにも不足だ。  六波羅に銃口を向けた以上、彼らの苛政に加担する者ではない。  そうは思うものの、そのGHQの肩書きは、敵意はともかく警戒心を呼ぶには充分に足りていた。  しかし信用云々はさておいて、後々のことを考えるに、今この場で虚言を吐くことは厄介を招くだけとも思える。  正直に話しておくのが無難かもしれない。 「鎌倉警察署の湊斗景明です。  先程の行為は一身上の都合による振舞い、差し出た真似とお咎めなくば重畳。感謝などして頂くには及びません」 「あら、あら。そんなご謙遜はなさらないで。  命を救っておきながら感謝はするななんて、それではわたくし、恩知らずの恥知らず者になるしかありませんもの。ねえ、ばあや?」 「はい。まったくでございます。  湊斗さま、大恩ある方とはいえお嬢さまを忘恩無恥の輩に貶めるが如きはどうかご遠慮願わしゅう存じます」 「そのような〈意図〉《つもり》は決して。  しかし無礼を申しました。お詫び致します」  ……なるほど。  確かに、彼女の立場から見ればそういう話か。  彼女に果たして助けが必要だったのか、その点には一抹の疑念があるとしても。あの時の彼女の振舞いを今にして思い返せば、竜騎兵を相手取っても何らかの方法で切り抜ける自信はあったように思える。  だがそうとしても、礼節を知る人間であれば、与えられた援助を無用と決め付けることに恥を覚えずにはいられまい。礼にて返すべし、その心情は理解が及ぶ。  心中で頷きながら、俺は頭を下げた。  女性と老婦が顔を見合わせ、くすくすと笑う。  二人にすれば俺のこんな態度も可笑しいのだろうか。  ――暴兵の手から村人の窮地を救っていたこの女性。  俺に言わせれば、彼女が俺に感謝すべき理由は〈本当〉《・・》〈に全く無い〉《・・・・・》のだが、それは当人の知る由もない事だ。 「あらいけない。申し遅れました。  GHQ民政局の、大鳥香奈枝です。恩人に先に名乗らせてしまって、こちらこそ無礼をお詫びしなくてはなりませんね」 「あ、これはさよがうっかりしておりました。村長どのには既に挨拶を済ませていたもので……どうかお許しを、湊斗さま。  私めは香奈枝の侍従、永倉でございます」 「ご丁寧に。  大鳥中尉殿。永倉侍従殿」  各々に向かって一度ずつ礼を返す。  女性――大鳥中尉の階級は襟章を見て確認した。 (しかし……〈大鳥〉《・・》?)  なかなかもって容易ならない姓だ。  しかし、こちらから藪をつつくのは賢明と言い難いだろう。ひとまずは聞き流しておくべきと思えた。 「湊斗さまは警察の方なのですね」 「はい。  仔細あって、公式の身分は持ちませんが」 「あら、やっぱりそうなんですの?  寡聞ながら、警察局に武者を擁する部門があるとは耳にしたことがなくて……その辺り、詳しくお尋ねしては失礼ですかしら?」 「至極当然の疑問と存じます。  しかし、御遠慮頂ければ幸いです」 「……」 「大和の武者はなべて六波羅の指揮下に。  どうか、そういう事にしておいて頂きたく。色々と障りがあります故」  最初から警察などと名乗らなければ面倒もなかったのかもしれない。が、どうせこのあと村で捜査活動をする際には警察の名で行わざるを得ないのだ。  身元不明の外来者では誰も協力などしない。  となれば当然この中尉の耳にも入るだろう。  無用の不審を買わないためにはここで名乗っておかねばならなかった。その上で、話せない事は話せないとこれも正直に告げるしかない。  それで不興を被るなら、やむ無しというものだった。 「お嬢さま……」 「……承知致しました。不躾な質問をお許し下さいまし。  先程この村で武者同士の戦闘がありました。しかしあなたとは無関係」 「それでよろしくて?」 「はい。  御配慮に感謝します」  少なくとも表面上、大鳥中尉は気分を損じた風ではなかった。  永倉侍従の方は視線にいささかの厳しさを含ませていたが。 「鎌倉署から来られたということですけれど、この村の駐在の方ではありませんのね?」 「はい。ここへは捜査のため参りました」 「それもお尋ねしない方がよろしいかしら」 「いえ、こちらは差し支えありません」  無論、吹聴して回られては困るが。  この人々ならば心配はいらないだろう。 「自分の任務は銀星号事件の捜査です」 「……は? 何ですと!?」 「ぎんせいごう……銀星号。  さよ。それは、確か……」 「はい。近年、関東を中心に大活躍中と聞く無差別殺戮犯のことかと」 「そうよね。  あら、まあ……それは大変な……」  ……?  大鳥主従の反応はやや鈍かった。話の輪から退いていた格好の村長は愕然とこちらを凝視しているというのに、だ。  巷の風説を思えば村長の反応の方が自然といえる。  単に物に動じない質なのかもしれないが……  あるいはこの二人、大和に来たのが最近のことなのだろうか。GHQの人間である以上、不思議ではない。 「なるほど、それで劔冑……とと、失礼を」 「ではまさか、あのお代官……ええと、長坂大尉? が、その銀星号の正体なのですか?」 「それは違います。  しかし彼には、銀星号と接触を持ち、ある種の協力関係を取り結んだ嫌疑があるのです。そのため制圧を試みました」 「不覚にも逃走を許してしまいましたが。  後程、追跡を行うつもりです」 「はぁ。そういうことですの……」  俯くようにして口を閉ざす大鳥香奈枝。  老侍従も同様、こちらの説明を咀嚼する様子。  村長は色々と聞きたくてたまらぬ風だったが、とりあえず、今すぐ銀星号が降ってくるとかいう次元の話ではないとわかったせいだろう。自制してくれていた。  助かる。聞かれても、これ以上のことは説明し難い。 「おおむね、諒解致しました。湊斗さま。  わたくしも許される範囲で協力させて頂きます」 「有難きご厚意。感謝に堪えません」  とはいうものの。  できれば、協力を仰ぐことなどなく済ませたい。  ……こちらのそんな内心を読み取ったかのように、薄紅色の口元が微笑った。 「どうか遠慮はなさらないで下さいましね。  わたくしの職務にも関わることですから」 「……失礼、中尉殿。  貴方の職務をお伺いします」 「先ほどの、わたくしとお代官のやり取りはお聞きになりませんでした?」 「近くには居りましたが、詳しくは……」 「わたくしは民政局から巡察官としてこの村に派遣された者ですの。  人々の生活の実情を把握し、問題があれば改善に努めるのが職務になります」 「巡察官……」  そういった制度がGHQにあることは知っていた。  なるほど、大鳥中尉が六波羅兵に対して取った処置はその職責に合致する。  しかし。 「率直な物言いをお許し頂ければ」 「どうぞ」 「その制度が実効的に機能しているとは思いませんでした。単に体面を保つ都合上、設置してあるだけのものかと」 「あら、本当に率直な。  でもそれはお互い様ではなくて? お巡りさん」 「確かに」  有名無実は警察局の代名詞だ。あるいはその逆だ。  銀星号事件の捜査などといって活動している自分は相当おかしく見えるに違いない。 「何もしない、何も見ない、何も聞かない。それが巡察官の慣行かもしれませんが……。  〈何もするな〉《・・・・・》とは指示されていませんもの。何かしても咎められる筋合いはなし」 「ね、さよ」 「はい」  ……成程。  大和の内政は六波羅へ事実上委任、がGHQの方針であることを知らないわけではないだろう。  どうやらこう見えてなかなか反骨心が旺盛な人物のようだ。……あるいは別の何か、か。 「とはいえ、わたくしの活動が司令部に知られればすぐに召還されてしまうでしょう。  その後であのお代官さまが戻ってくれば、村は結局元通り」 「そういえば、代官の部下は?」 「武装解除の上で監禁しております。  あの連中を鏖殺してしまえば多少、代官殿もやりにくくなるでしょうけれどもねぇ」 「現行犯でないと処刑は難しくてよ、ばあや。  といって、監獄に送りつけても一泊二日で帰ってくるでしょうし」 「〈事故〉《・・》は如何でございましょう?」 「監禁していた家屋が不幸な火災で?  責任問題が村に行き着く可能性を考えると、どうかしら」 「空から隕石が降ってきたのであれば、これはどうにも仕様がございますまい」 「そうねえ」  何やら会話が不穏になってきた。  全く平然と話しているところからして単なる口遊びだとは思うが。いや。どうだろう。 「まあ、それはさておいて。  事が厄介になる前に首領格を潰してしまえれば、万事は丸く解決なのです、湊斗さま」 「わたくしもあなたもお代官を捕えたい。  目的は一致、協力は当然と思われません?」 「問題が一点。  別の代官が赴任してきて、また同じことになるとも考えられます」 「長坂大尉は採鉱事業を黙認させるために、民政局へポケットマネーをばら撒いたご様子。  幕命による事業なら彼個人がそんな真似をする必要はありません。つまり、これは独走」 「この事業の収益を武器に出世階段を登ってゆく腹なのでしょうねぇ。むしろ事業が軌道に乗るまでは幕府の介入を避けたいはず。  上前をはねられるだけでございますから」 「納得です。  村としても代官がいなくなり、採鉱事業が中止となれば最善。そう考えて支障はありませんか?」 「はい、はい! 願ってもないことでございます。どうかどうか、宜しくお頼み致します。  ただ……」 「はい」 「代官の部下のことですが。  今のところ、すべてが捕まっているというわけではなく……もしかすると、残りが代官と合流しているかもしれません」 「ま。これはしたり。  見逃しがございましたか」 「正規の兵士はあれで全員だと思います。  しかし先程も申しました、怪しげな連中が……代官の用心棒の」 「あら。  いけない、うっかり忘れていました」 「奴らは今日は朝からどこかへ出掛けたようでして。悪運が強いと申しますか……それで巡察官さまとは出くわさずに済んだようで」 「諒解しました。  念頭に置いておきます」  敵は単独とは限らないということだ。  少々、厄介な事態になるかもしれない。  だがいつもの事といえば、それだけの事。  気には留めても、気に病むほどの大事ではない。 「では、大鳥巡察官殿。  これより自分は任務を再開したく思いますが、行動の自由を認めて頂けるでしょうか」 「もちろんです。  わたくしはしばらく、ここへご厄介になります。支援が必要でしたらその都度、ご連絡を下さいまし」 「恐縮です。  それでは失礼します。村長殿、お邪魔致しました」 「いえいえ!  何のお構いもできませず……」 「…………」 「…………」 「…………」 「……っ……」 「…………」 「ち……年を食ったかよ……俺も。  あのような若造に……」 「……畜生が……」 「ほっ、ほっ、ほっ。  不覚であったのう。主らしくもない」 「小太郎!」 「怪我は大したことはないようだの。  打ち身程度か。何より何より、主にもまだ運があるということよ」 「…………」 「少し待て、薬をやろう。  強壮剤もあるが如何する。呑むか」 「……。  事情の説明はいらん様子だな?」 「見ておったからの」 「何もせずにか!」 「はてな。  儂に何かできることがあったかの?」 「空々しいことを抜かす。  あの場に貴様がおれば、彼奴めを討ち取ることも容易かった筈だ!」 「否、とは言わぬがの。  それで如何する?」 「何……」 「勢いに任せて巡察官とやらも斬ったかね?」 「……」 「それはいかん。で、あろ?  あの女を殺してしまったら我らは手詰まり。主がいかにGHQへ工作しておろうが無駄よ。連中は体面のために主を処刑せずばなるまい」 「うぬ……」 「それを思えば主が敗れたはむしろ不幸中の幸いよ。むろん、殺されては元も子もない。いざという際には手を出すつもりでいたが、ほっ、主は自力で生還したではないか」 「儂ごときの手は無用であったということよ。  だからのぉ、あまり責めてくれるな。儂も些か腰が重いかもしれんが、主よりひと回り余計に年を重ねておるでな。仕様がない」 「……抜かせ。  まあいい。確かに今回は俺の失策であった。貴様に当たったところで詮もないわ」 「しかし、この先は働いて貰うぞ」 「むろん。儂は主に雇われた身ゆえ、御用とあらば承ろう。  何をしようかの。歌を詠もうか。それとも絵でも描こうかな」 「俺が貴様に〈呉〉《く》れている金は厚生年金か?」 「冗談よ。凄むでない。  残念なことに、我が家の家訓には無為徒食という言葉がなくてのゥ。どうぞこの老骨に鞭打って、こき使ってくれい」 「当たり前だ。恩着せがましいわ。  貴様とて、ここでひと稼ぎせねば後がない身であろう」 「ほっ。痛い所を突いてくれるの。  まさに然りよ。主家と勤めとを失い、劔冑までも一度は奪われた我が一族。怪しげな話にでも食いつかぬことには、孫らが干上がる」 「口の減らぬ……。  ふん。だがそう思うのならば、貴様らにはあの赤い武者を相手にして貰おうか」 「ほう……? 儂に譲るかね。あの村正を。  これは意外。主ほどの気概ある男であれば、借りは己の手で返さずにおかぬものと思うておったに」 「煽っているつもりか?  言われずとも、できる事ならそうしている。だが、翼を砕かれては如何ともならぬわ」 「飛べぬか」 「鍛冶師に直させぬことにはな。  鍛冶か……ち。まさか〈奴〉《・》が俺の頼みを聞く筈もなし。今頃は祝い酒でも呷っているか」 「休息をとればそのうち直ろう」 「貴様らの真打と一緒にするな。数打はそこまで便利に出来ておらん。  自然修復など待っておっては、俺も貴様も寿命が尽きるわ」 「やれ、それでは仕方もなかろうの。  心得た。年寄りの冷水というものだがここは一つ、老いてなお盛んなりと言わせてくれようかい」 「奴は俺の首を取らねば済まぬ様子だった。すぐにも追って来よう。  任せたぞ……〈老楽〉《おいらく》の身を貴様と二人、うら寂しい森に沈めるなど御免なのでな」 「それはこちらも願い下げよ。言うてはなんだが主の顔、墓の中まで付き合いたいような代物ではないからのう」 「意見が合って結構だ。  それはともかく、貴様……先程、聞き捨てならぬことを洩らしたな」 「とは?」 「村正、と言ったか?」 「あの赤い劔冑のことだの」 「確かか」 「さて……。  劔冑の目利きが儂の仕事ではないでなぁ。見立て違いということもあろうよ」 「しかし、一目見て伝説が謳う村正と断定はしたわけか」 「……」 「そういえばあの男、妙なことを尋ねてきた。  銀星号のことを知らんか、などと……」 「ほーぅ……」 「……露骨に惚けるではないか?  俺の知らぬことを何か知っているようだ」 「はてな」 「貴様が俺の劔冑に施した妙な〈仕掛け〉《・・・》とでも関わりのあることか?」 「……」 「…………まあ、良い。  いずれにしろ、事は厄介だ。あれが貴様の言う通り勢州村正であろうと、なかろうとな」 「勝算はあるのか」 「ほっ。その心配は無用に願おうかの。  妖甲村正であろうが名甲正宗であろうが、この小太郎の前では同じ事。赤子にひとしく無力で、可愛いものよ」 「随分と吼える。  貴様らがそこまでの〈術技〉《わざ》を秘めていたとは、この俺にして知らなんだぞ」 「血の気の多い村の若い衆なぞを相手に使うようなものでもないからの。  主のような練磨の猛者が敵ならば、出さぬではないが……ほほ、見てみたいかの?」 「……」 「それとも……  そちらの御仁が相手をして下さるかな?」 「いやいや、いや……。  そいつぁ勘弁して頂けませんかねぇ」 「貴様……」 「ほっ。  久しいの、雪車町殿」 「へ、へ。  どうも、ご無沙汰をしまして」 「……丁度いい。  貴様に使いをやろうと思っていたところだ」 「はい、それはまあ、そうでしょうとも。  大尉殿が仰りたいことは、ようくわかっております」 「一応言わせろ。腹に溜まる。  貴様、民政局との〈つなぎ〉《・・・》は万全だと言っていたのではなかったか!? これで何処からも邪魔は入らない、と!」 「えぇ、はい。確かにそう申し上げました。  コブデン中佐にお引き合わせした折でしたっけねぇ……じかに話す機会も必要だろうと、この雪車町の周旋で」 「だが実際はどうだ。巡察官だと!?  あんなものを寄越させないための裏工作ではないか……! これでは何の意味もないわ。コブデンは能無しか、それとも恩知らずか!?」 「お怒りはご尤も。大変ご尤もで。  しかしですねぇ、大尉殿。コブデン中佐は別に〈ばっくれた〉《・・・・・》わけでも、忘れてたわけでもないんでして……」 「約束通りのことはしたと?  それでこの〈醜態〉《ザマ》か?」 「通すべきとこにはちゃんと話を通しましたんで、はい。そいつぁ間違いないです。  ただちょいと、予想してなかった穴が……巡察官制度なんですがね。足を掬われまして」 「……」 「あれは民政局の人間が適当に割り振られて行くやつで、占領地の実情を把握するための巡察ってのが任務なんですが……  表向きのことでしてねぇ」 「侵略者じゃありませんって格好つけるためにあるようなもんでして。実際は有給休暇か慰安旅行みたいなもんなんです。何もしないのが暗黙の了解になってんですよ、巡察官は」 「そんなだから中佐も気にはしてなかったんですがねぇ。それでも大和人の中尉がここへ巡察に出たって聞くと、使い走りに非公式の伝言を与えて追わせたんですよ。こうして」 「貴様が?」 「〈左様〉《さい》で。  ただそれが、間に合いませんでね。着いた時にはもう、あの巡察官が〈やっちまった〉《・・・・・・》後でして……」 「後ほど中佐に連絡を飛ばしておきますが、驚くでしょうねぇ。何もしないのが巡察官の本分だっていうのに、まさか建前の方を押し立てて暴れ回るお人がいようとは、いやはや」 「……。  伝言とやらは、あの女に伝えたのか?」 「えぇ、こちらへ来る前に。  大尉殿との約束がどうのなんて言えませんから、単純に、何もしないで欲しいって意向を伝えるだけの内容だったんですがねぇ……」 「それをいいことに、シラを切られちまいまして。自分は巡察官の職務を果たすだけです、とこうで。そりゃ正論ですからね。こっちとしちゃ、返す言葉ってもんがない」 「……あの女は何者だ」 「詳しい話は存じませんがね。欧州のどこかの軍から連盟軍に出向してるんだそうで。  そいつは別に珍しくもなんともありゃしませんが……」 「大和人なのだろう?」 「その通りで。  名前も大鳥香奈枝で大和人、もちろん大和語に不自由はなし、と間違いのないところでしてねぇ。それがどうして欧州にいたやら」 「司令部での立場は強いのか?」 「いぃえぇ、全然。主流の派閥にゃぁ属してないそうですからねぇ。大和人ならなんかで役に立つこともあるだろうってんで、民政局に席を与えられてるようなもんらしいですよ」 「……ふん。  では今回の件は、単なる跳ねっ返りの独走なのだな?」 「そういうことですかねぇ……」 「始末はどうつける?」 「コブデン中佐に連絡を取って、召還命令を出して頂きましょう」 「いつになる?」 「こっちの連絡は明日中には着くとして――電話がありゃ一発なんですがね。こんな村に電線が引かれてるわきゃないですし――それを受けた中佐殿がすぐに動いてくれたとして」 「中佐から巡察官への連絡は、無線がある筈ですんで。巡察官の方で居留守を決め込んだとしても……ま、丸一日とは誤魔化せないでしょう。その後は再び大尉殿の天下です」 「ここ数日が勝負ということだの」 「……わかった。宜しく頼む。  思えば貴様には世話になりっぱなしだな。GHQとの折衝に融資の仲介。幕兵以外の駒も入用だろうと、小太郎を寄越してもくれた」 「そうだの。雪車町殿は儂にとっても、劔冑を取り戻してくれたうえに儲け話の世話までしてくれた恩人。感謝しておるよ」 「へへ。滅相もないことで」 「成功の暁には報いさせてもらおう」 「いやぁ、へへ……。  お気持ちだけ、頂いておきましょうか」 「ほう。無欲な男だな。  それとも……」 「へっ」 「俺が成功しようとしまいと〈貴様らにはどう〉《・・・・・・・》〈でもいい〉《・・・・》のだと、そういうことか?  GHQの使い走り……雪車町一蔵」 「へ、へ、へ……」 「……」 「そう言っちゃ、身も蓋もありませんが……。  まあ、要はそういうことですかねぇ」 「……鼻持ちならん奴め」 「恐れ入ります」 「ほっ、ほっ、ほっ」 「ふん……。  もう一つ聞いておきたいことがある」 「何なりと」 「赤い武者は見たか?」 「いえ……話は聞きましたがね。  ご災難だったようで」 「何者かわからんか?  本人の言を信じるなら、六波羅でも進駐軍でもないらしい」 「さぁて。  心当たりってほどのもんでもございませんが……」 「なんだ」 「先刻、巡察官殿に会いに行った折ですがね。  〈以前〉《まえ》にちらりと顔を合わせたことのある、警官と出くわしましたんで」 「……警官?」 「やたら不景気な面した若い男なんですがね」 「どういう人間だ」 「さて、ねぇ。口も利いてないんで。  ただ、あれはねぇ……あたしらなんかとはどうも、生理的に合いそうにない野郎ですよ」 「ほっ。と、いうと?」 「〈善人〉《・・》です。  真っ当な家で教育を受けてきたんでしょうねぇ」 「……はッ。  それは確かに、合わんか」 「ほほ。儂はともかくとして、主らはのう。  互いに虫が好かぬであろうて」 「好きか嫌いかで言えば、別に嫌いじゃありませんがねぇ。  あたしゃ、〈真面目〉《・・・》に生きてる人間はみんな好きなんで。善玉でも悪玉でも……ね」 「今の世の中、誰もが真剣よ。遊びで生きていられる奴などおらんわさ。  それで、雪車町殿。つまりはその男が武者だ、と?」 「……そう決めつけられるほどの材料はないんですがねぇ。  ただ、最初に会った時から思ってたんですがね。あの男、〈剣術〉《やっとう》の方は相当使いますよ」 「武者であってもおかしくないほどに、か?」 「えぇ」 「ふむ……。  警察が武者を抱えているとは初耳だが……」 「念の為。  雪車町殿、そやつの人相を教えて下さらんかな」 「お安い御用で……」  村を出た時には夕暮れに差し掛かっていた。  村長宅を辞してから少々時間を食ったせいだ。 «体調はどう?» 「良好とは言えないが、問題はない」  代官との一戦は、体内の〈熱量〉《カロリー》をほぼ限度まで奪っていた。通常、この消耗を補うには食事と休息のほかに方法がない。消化の良いものを摂取し、六時間以上の睡眠を取る必要があった。  しかし現状、迅速な行動は体調の確保に優先する。代官に時間を与え、巻き返しを許すべきではなかった。彼が打撃を受け、おそらくは状況把握もまだ不十分であろう今の間に追撃せねば、時の利を失う。  村の奥まった一角で見つけた雑貨屋で、保存食料の類を二、三みつくろって腹へ収め、軽く体を動かして消化を促し、脱糞した後少し休む。  都合二時間。  何もしないよりはましという程度の補給にしかならなかったが、まともな食事を得る手間を惜しんだのだから仕方がない。  この程度でも短時間の戦闘には耐える筈だ。 「装甲は敵影確認まで控える。  奇襲の可能性を考慮すると危険だが、今は熱量の消耗を最小限に抑えたい」 «そうね……。  相手に待ち伏せを掛けるような余力がないことを祈りましょう»  舗装が充分とは言い難い道を歩く。  村人の姿は見えなかった。田畑のある方角ではないのか、異変を警戒して家に籠もっているのか。それとも単に黄昏が近いからか。見れば陽は既に西天にある。  夜になる前に片をつけたかった。  しかしどうなるか。難しいかもしれない。  季節は既に秋深く。  落日の呆気なさが釣瓶落としに例えられる折柄。 「誰に」 «え?» 「誰に祈れる?  俺は」 «…………» 「神仏の恩寵を願える筋合いではない」 «……なら、悪魔の庇護でも願えばどう» 「自分に祈って何の意味がある」 «私に祈れと、言っているのよ» 「……」 «……» 「自惚れるな。  得物」 «……自惚れないことね。  手足»  日の翳りがひたひたと蒼天の端から忍び寄っている。  俺は早足に歩を進めた。  村から問題の『お山』へ向かう道を外れ、森に入る。  代官の落ちた地点は把握していた。墜落がもたらす負傷を考えに入れれば、そこから長い距離を移動してしまっている可能性は除去できる。発見は難しくない。  ……木々の間を潜りながらの移動が、方角を見失わせなければの話だが。  地形と時間的な事情により、太陽もほとんどあてにならない。 (森に慣れた案内人を頼むべきだったろうか)  ふと、そんなことを思う。  馬鹿げた発想だった。  自分自身の安全さえ覚束ない状況で、そんな真似が許される筈もない。  状況の困難が弱気を誘っているのかもしれなかった。  左手の爪を右手の平に埋め込む。  痛みがわずかに、意識へ喝を入れた。 「気配はあるか」 «ええ。〈銀星号〉《かかさま》の……こればっかりは間違えようのない匂い。  確かにこの辺りにある» 「正確な位置は……わからないのだな」 «私の、あれの気配を捉える能力は劔冑本来の〈探査機能〉《みみ》ほど確かじゃないのよ。  漠然とした位置以上のことは無理ね。視界内に収めれば特定はできるのだけれど» 「そちらには反応がないのか?  〈探査機能〉《レーダー》には」 «……地表で、しかもこの地形ではね» 「……そうだな。  愚問だった」  こんな遮蔽物の多い場所で探査機能がまともに働くわけがない。  最新の〈陸戦特化型竜騎兵〉《ウォーカードラグーン》のように強力な熱源探査を持っていれば、また話は別なのかもしれないが。 「地道に探すとしよう」 «そうね。  方角の確認は任せて» 「〈方位磁針〉《コンパス》の代わりにはなるということだな。  それは助かる」 «ええ。私も自分の有能さに感動してる»  耳孔の奥に直接送られてくる不機嫌な〈金打声〉《きんちょうじょう》を聴きながら、樹海の中を縫って進む。  まだそれほど奥深くではない筈だが、既に来た方向も進行方向も見分けはつかなかった。木、また木。  朝日の下であれば、気持ちの良い散策になったかもしれない。  だがそろそろ暗くなろうかというこの時刻、きっと傍目には肝試しか自殺志願としか映らないことだろう。  しかもどちらかといえば後者だ。  どの木も何かを吊るすには良さそうな枝ぶりである。 «……どこかから悲鳴か恨み言でも聞こえてきそうね»  村正が軽口を叩く。  似たようなことを考えていたらしい。 「云わば招く、というぞ」 «こういう話をしていると、本当に?» 「ああ」 «こんな風かしら» 「そうだな」  足元が何かに突っ掛かる。  根だ。雨に洗われて露出したものらしい。  靴の無事を確認して、再び足を進める。  この辺りは注意した方が良さそうだった。怪我はしないだろうが、靴を壊せば身動きが取れなくなる。 «大丈夫?» 「問題ない」  ……………………。 «ねえ» 「ああ」  足を止める。 «今、本当に聞こえなかった?» 「俺もそのように思う」  周囲を見回す。  目を引くものは何もない。今まで通りの光景。  耳を澄ます。  ……静寂。何も聞こえてはこない。虫の音、葉擦れ、そんな自然の響きを除いて、気に掛かる程の音は何も。  だがそれだけにかえって、記憶に残る音響には現実感があった。  この環境で、あんなものを錯覚することがあるとは思えない。 「人の声ではなかったな」 «そう思うけれど。野犬?» 「もう少し大きい獣のような気もする。  方角はわかるか?」 «わかるけど……行くつもり?» 「獣が理由もなく叫ぶことはない。  そしてあれは攻撃的な声だった」 «……人が襲われているのかもしれない、ということ?» 「野獣同士の喧嘩なら、相手の声も聞こえてきて良さそうなものだと思わないか」 «確かに。  諒解、行きましょう。先導するからついてきて。多分、そう遠くはないはず»  ……悪い予測は的中した。  往々にして、そういうものだ。  人がいる。  こちらに背を向ける格好の、中背の学生服――村の青少年だろうか? 自分の足を抱え込むようにして、〈何か〉《・・》を前に〈蹲〉《うずくま》っている。  何か。  並みの動物であれば、この方角からは人影に隠れて見え辛かっただろうが。〈それ〉《・・》はどのようなものか一目で判然としていた。つまり、並みではなかった。  犬。山犬、だろう。人里で見られる犬とは太い一線を画する禍々しい眼光、荒れた毛並み。  昨今は六波羅を揶揄して御公儀などと呼ばれることも多い、山野の危険な徘徊者に間違いなさそうだった。  しかし、その体躯は異様。  小型の熊ほどもありそうに思えた。仮に後足で立ち上がれば、人間とそう変わらない高さに達するのではなかろうか。控えめに言っても尋常一様の犬ではない。 «妙な話ね»  村正の呟きが届く。 «村の人達はあんな獣と共存してきたというわけ? あの体では、とてもこの森の中だけで餌をまかなうことなんてできないでしょう»  その疑問は頷けた。確かにおかしい。  どこからか流れてきたばかりなのだろうか? だが差し当たり、謎は棚上げにしておかねばならない様子だった。  両者の間の空気は張り詰めている。  低く唸る獣に対し、学生姿の方は微動だにしない。そもそも、犬を見ているのかどうか。単個で見れば、地面の草花でも摘んでいるかのようだった。 «御堂。装甲は――» 「要るまい」  あの程度の獣ならば生身で駆逐できるだろう。  もっとも、そういう意味での返答ではなかった。  走る速度を緩める。足音を殺し、忍び寄った。  けたたましい乱入は人影を驚かせ、獣の側に好機を与える結果となりかねない。  〈要りもせぬ〉《・・・・・》助けを押し付けた挙句にそれでは、余りに情けないというものだった。  ある程度の距離まで接近したところで足を止めて、手頃な木の陰に身を隠す。  しかし、山犬は新手の到来に気付いたのだろう。  状況が動いたとを察しての判断か、最後通牒のように甲高く吠える――そしてその残響の絶えぬ内、尚も無関心なまでに不動の姿へ、牙を剥くや噛み掛かった。  迅い。  猫科の獣とはまた異なる、犬類特有の直線的、鋭角的な突進。よほどに距離を置いていたならばともかく、指呼の間合でこれを迎えて躱せるものではあるまい。  人影は、〈漸〉《ようよ》う、起き上がっていた。  のっそりと首をもたげるその動きは、襲い来る山犬の怪物よりもむしろ熊じみている。  格段に鈍く、遅い。  犬が駆ける。  人影が起つ。    ――接触する。  その一刹那。  企図を遂げていたのは、数間を疾駆して標的の首筋を狙った犬怪ではなかった。  時間軸上、最も早く重なった両者の部位は、人影の右拳と山犬の咽喉だった。  拳の先端が、脆弱な骨格に突き刺さる――刺される〈犬自身の力〉《・・・・・》がそうさせる。  針山へ蜜柑を投げ込むようなもの。  人影は、ただ、〈そこへ拳を置く〉《・・・・・・・》以上の力を使ってはいない。  くきゃり……という短くも滑稽な音を聞いたように思った。  あるいは錯覚だったろうか。  その直後の悲痛な絶叫と、まるで曲芸を仕込まれているかのように宙へ舞い、弧を描きつつ元の位置まで転げ落ちていく大柄な山犬の姿は、一瞬、忘我を避け得ないほど印象的なものであったから。  落ちた犬が、のたうつ――激しく、短く。  学生服の人物が完全に立ち上がり、犬の傍まで歩み寄った頃には、既にその四肢の痙攣は弱いものとなり、か細く末期の息を洩らすばかりになっていた。  一撃は喉ばかりでなく、頚骨まで砕いたのだろう。  犬の怪力がその結果を導いた。お陰で長く苦しまずに済んだ――そう思えば皮肉であり、哀れであった。  止めを与えるべきか、その人は迷ったのだろうか。近付く足がふと、たたらを踏む。  その間に、終わっていた。最後の呼吸が絶え、森に静寂が戻る。そして人影の背には後味の悪さが滲んだ。  その背を見て、俺は――  率直な背中だ、と思った。  殺すつもりはなかったのに殺してしまい、後悔している、というのとは違う。  あの一撃に容赦はまるで見受けられなかった。  ああすれば死ぬとわかっていて、ああしたのだろう。  仕留める以外、確実に身命を守る方法がないと判断したからに違いない。そしてその判断は正しい。野生の獣の戦闘力、ことにしぶとさは決して侮るべきではなかった。  そう思えば、罪悪感を消し去り、快哉を叫ぶことも難しくはないだろう。不可避の戦闘、不可避の殺害であったのなら、それを成し遂げた者は賞賛されて然るべきだ。まして相手があのような怪物であったなら。  しかし彼はそうしていなかった。  喜ぶ代わりに苦渋を舐めていた。  この結果へ至った過程を理由に自分を慰めることをせず、ただ生物を殺したという結果だけを受け止めて、背に重石を乗せている。  偽善という見方もあるだろう。  だが俺には、その屈折のない情動は好ましいものに映った。 (…………) (好感など……持つべきではないのだが)  ――未熟。  声なく、俺は呟いた。  悔いるならば、最初から殺さねば良い。  殺したからには、悔いなど抱くべきではない。  もっと良い手段があったのでは、などと思うのなら最初からそうしていれば良い。  殺すほかなく殺したのなら、なぜ殺した後に迷いを抱こうか。  結局のところ、悔いなど、殺したという事実に耐えられない心が欲する慰めに過ぎないのだ。  その意味で、襲われたから仕方なかったのだと言い訳するのと何も変わらない。  殺さぬつもりで殺したのなら技量未熟。  殺すつもりで殺して悔いるのならば心術未熟。    そう、胸中に断ずる。  ……とはいえ。  そのようなこと、何もしなかった人間に言われる筋合いではないだろう。俺は手前勝手な感想を口にするのは控えた。 「……もういいよ。見物人」  このまま立ち去ったものかどうか悩んでいた矢先、人影が振り返らないまま声を投げてくる。  どうやら気付いていたらしい。俺は木の陰から踏み出した。 「武者式の組打術ですか」 「……わかるのか。  婆さんに習ったんだ。維新で没落する前はここらへんの殿様だった家の係累だとかで、色々とな」  ぱっぱっ、と手を払って人影がこちらを向く。  きりとした眼差し。それが不意に細まり――やがて、不愉快げな鋭さを帯びた。 「……てめぇかよ」 「……その節は」  軽く一〈揖〉《ゆう》する。  ――少年ではなく、初対面でもない。  そうそう忘れられる風貌ではなかった。  少し前、鎌倉の街中で六波羅御雇の人々と〈諍〉《いさか》った折、割って入ってくれた人物に間違いない。  確か――一条。そう呼ばれていた。  あの時は彼女のお陰で同行の少年らが無事に済んだ。  礼は拒絶されたが、今こうして出会ったからには、改めて言っておくべきだろうか。  考える間に、先方が口を開いていた。 「あの時は土下座で、今日は見物か。  大したもんだな、近頃の警察は」 「恐縮です。  助勢は無用と見えたもので、手出しを控えさせて頂きました」 「言い訳としちゃ上等だ」  露骨な挙措で唾を吐き捨てる少女、一条。  成程、そう思われるのは仕方ない事だった。物陰に隠れて黙って見ていれば普通、人は怯えて立ち竦んでいると考える。  実際、やっていることに変わりはなかったのだからどう思われようが文句を言える筋でもない。  人の危難を看過した者としては、謝罪が必要だろう。俺は神妙に頭を下げた。 「申し訳ありません」 「……ちっ。  でけえ図体してやがる癖に」  それがまた苛立たしいのか。学生服の少女は舌打ちと共に顔を背けた。  嫌悪の様子がありありと見える。  もっともこちらにしてみれば、そうした若人らしい潔癖さは不快なものではない。  無難な問いを選んで投げかけてみた。 「一条さんと仰いましたか。  このような所でお会いするとは奇遇なことです。何かご用事でもおありですか」 「…………」 「一条さん」  返答はない。  静寂の一時が訪れる。 (会話が途絶えた) «私に言われても» (小粋な冗句か?) «やめなさい»  付近のどこかの陰――おそらくは頭上に繁る枝葉の間――から劔冑の素っ気ない金打声が届く。  それを聞きつけたというわけではないのだろうが。少女、一条の視線がこちらへ戻り、口が苦々しく開く。 「…………綾弥だ」 「は」 「……綾弥だよ」  繰り返し告げられるその一語。  あやね。  つまりそれは、彼女の名なのだろう。  それはわかる。わかるがしかし。 (先方の主旨はつまり、名前で呼べ、ということか?) «そ……そうね。  私にもそう聞こえるけど……»  村正の声音も困惑していた。  はて。どう見ても嫌われているとしか思えなかったのだが。風向きがどこで変わったのか。  とりあえず、失礼のないように応対しておくことにする。 「一条あやねさん、ですか。  愛らしい、良き名前かと思います」 「……ッッ」 「しかし、面識の浅い身で名前をお呼びするのも不躾。  やはり一条さんと呼ばせて頂く方が、自分としても心苦しくなく――」 「……そ、……ッ」 「何か?  一条さん」 「そっちが名前だぁッッッ!!」 「……」 «……»  ……………………………………………………………  …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「失礼致しました。綾弥一条さん。  自分は鎌倉署の湊斗景明です」 「……ッ、くっ……。  ああ、ほんとに失礼だっ……馴れ馴れしく何度も名前呼びやがった挙句に……くそっ」  赤面して荒く息をつく一条――否。綾弥を前にして、俺は感慨をもって頷いていた。  成程、固定観念の愚とはこうしたものか。 (勉強になった……) «そうね……。  この場合、問題は私たちより彼女の名付け親にあるような気もするけれど……» (真っ直ぐに育って欲しいとの願いを込めたのではなかろうか) «女の子らしさとかは考えてあげなかったのかしら……»  村正とそんな無音のやり取りを交わす間に、綾弥は立ち直っていた。眼光がこちらを刺している。  心なし、険しさが増しているような気がした。 「……それで。  なんでこんなとこにいるんだよ。お巡り」 「公務です」  質問に同じ質問で返されてしまっているが、答えておく。  興味もなかったのか、彼女はふんと鼻だけ鳴らした。 「貴方は?」 「公務だよ」  いかにも適当ないらえが返る。  ……公務?  学生の公務で、この山林へ。  ということは。 「昆虫採集ですか」 「なんでだっ!?」 「カブトムシの幼虫を狙うならそこの腐葉土などが適しています」 「違うっ! 答える義理はねえって遠回しに言ってんだ! わかれよ!」 「わかりました」  おそらくそうだろうと思いつつも、万一の可能性を考慮してみたのだが。  要らぬ気配りだったようだ。 「無作法な詮索をお詫びします」 「…………。  いちいち苛々させる野郎だな……」 「そうですか。  面目ありません」 「……っ。  あのな、こっちが先に聞いたんだよ、なにしてんのかって。その後でおまえが同じこと聞いたからって無作法なわけねえだろ?」 「真面目に答えろとでも言やあいいじゃねえか。それをあっさり、頭下げやがって……。  恥ずかしいとは思わねえのかよ」 「思いません」  敵意と侮蔑のこもった言葉に、即答する。  綾弥は絶句した。 「…………なんでだ?」 「自分は公僕です」  正確には違うが。 「である以上、自分の活動は、任務上支障のない範囲で市民の方々に対し明らかにされているべきです。  それが開かれた政治というものです」 「しかし市民は警察に対して生活を明らかにする義務はありません。  もし警察がそれを強要するなら基本的人権に対する侵害となります」 「……」 「従って、自分には貴方の質問に答える義務がありますが、貴方が自分の質問を拒絶するのは自由です。  貴方に責められるべき非礼はありません」  説明してから、気付く。  ここが森の中で幸いだったかもしれない。  政道批判とも受け取れる内容だ。  控えめに言っても、六波羅幕府の政治は人権の擁護を主目的とはしていないのだから。  街中で声高に今のような論説を述べ立てれば、まさに〈私生活〉《プライバシー》保護の権利を侵害して何処にでも配置されている幕府の耳が聞き咎め、お縄という事にもなりかねない。実際、そんな事例は幾らでもあるのだ。  もしそうなれば、言った人間だけでなく聞いた人間も巻き添えを食う。注意した方が良さそうだった。  もっとも目の前の彼女はそんなことを気にした風でもない。渋柿を食ったような顔で、こちらを見ている。 「……根性ねえくせに、口は達者だな」 「有難うございます」 「褒めてねえよ。  ……墓参りに来たんだ」 「……?」  それが俺の問いに対する答えだと気付くまで、一瞬の時間経過が必要だった。 「この近くに小さい村があるだろ。婆さんがそこの生まれなんだ。墓もそこにある……。  鎌倉に埋めれば面倒もなかったんだけどよ、遺言だったから」 「そうですか」  面倒臭いのか、味も素っ気も全くない説明だったが、それだけにわかり易い。    しかし、疑問点はあった。 「鎌倉から村へ行く途中でここへ?」 「……ああ」 「…………」  俺は脳裏に周辺の地図を描いた。 「この森は、村を間に挟んで、鎌倉の反対側にある筈なのですが」 「……」 「……」 「そ、そうなのか?」 「はい」  地球を一周してきたというなら別だけれども。 「……」 「迷子になられたのですか?」 「ま、迷子とか言うな!」 「沢口まではバスで?」 「あ……ああ」 「そこから村までは一本道の筈……」 「……」 「……」 「な、なに首を傾げてやがる」 「一体、どうして迷子になられたのですか?」 「迷子じゃねえっ!」 「では?」 「いや……その、ほら……なんだ。  歩きっぱなしじゃ飽きるから……ちょっと足を止めて、景色とか眺めたりすることってあるだろ」 「あります」 「それで、また歩き出そうとして、ふと周りを見ると、自分がどっちの方角から来たのかわからなくなってるってことも、普通にあるよな?」 「ありません」 「こ、こ、この野郎、きっぱりはっきりと」  わななく綾弥。  とりあえず、俺は事態の核心をおおむね察していた。  理解したところをそのまま口にしてみる。 「要するに方向音痴なのですね」 「要するんじゃねえ!  い、いや、違うからな!?」 «御堂。ちょっと» (ん?)  唐突に口を挟んでくる村正――といっても綾弥には聞こえていまいが。  意識をそちらへと向ける。 «不味いんじゃない?  今、この森は危険よ。そこをこんな迷子にうろうろされたら……» (成程。確かに)  その懸念は尤もだった。  代官と鉢合わせでもしたらどうなるか。殺されるとは限らないが、無事に済む保証もない。  速やかに森を出て欲しいが……。 「おい聞けよ! いいか、あたしは別に迷子でも方向音痴でもなくて……その……三次元世界を二次元に矮小化する地図というものの欺瞞に対して科学的義憤を禁じ得ないという」 「病気回復への第一歩は症状を直視することです」 「びょ、病気?」 「綾弥さん。  ここからどう進めば村へ出られるかわかりますか」 「まっすぐ」 「芸術的な回答です。困り果てました」 「おまえ今、心底、虚仮にしなかったか!?」 「ここは村から直線距離で約一キロ半ほどの地点です。方角はこちらが北。そしてあちらの方角、約八キロに沢口があります。  如何でしょう。現在地の把握は可能ですか」 「えぇと……」  彼女は暫時、周囲を見回した。  やがて北と反対の方角を指差し、呟く。 「南極ってこっちだよな……」 「何故そういちいち芸術的なのですか」 「だ、だから何がだ!?」 「わかりました。  仕方ありません」  俺は右手を伸ばし、村の方向を指差した。 「この方向へ真っ直ぐ進んで下さい。  そちらに村があります」 「あ、ああ」 「良いですか。  必ず、真っ直ぐ進むことです」 「わかったよ……。  木を避ける時には曲がるけど。それはいいんだろ」 「駄目です」 「駄目!?」 「貴方のように芸術的な方はきっとそれだけで迷います」 「その芸術的ってのやめろ!  じゃあ、どうしろってんだよ!?」 「できれば、飛び越えて下さい」 「できるかっ!!」 「では、立ち塞がる木々を粉砕しながら直進するアグレッシブな方針でお願いします」 「どこの羆だ!? ていうかそれ森林破壊だろ!  そんなことしなくても、あぁ、あっち……に真っ直ぐ行きゃあいいんだろうが! 迷わねえよ!!」 「その『あっち』が既に三〇度弱ずれているので説得力を見出せません」 「……す、少し勘違いしただけだ」 「貴方には、無理です」 「淡々としたツラで静かに言うなっ!  もういい……じゃあな。一応、道を教えてくれたことには礼を言っとく」 「有難く頂戴します。  しかしそんなことよりどうか真っ直ぐ進むことにお気を向けて下さい。早くも曲がってます」 「あ、ああ」 「はい、そのまま真っ直ぐ。  そしてその木は蹴り割って下さい」 「うるせえ!!」 「時々こちらを振り返って、自分がちゃんと真後ろにいるかどうかを確認すると、直進の目安になるかと思われますが――」 「絶対、見ねえよっ!!」  …………………………。  学生服の背が程遠くなった頃。  俺は村正に尋ねた。 「どう思う」 «あの娘が村へ辿り着けるかどうか?» 「ああ」 «着くんじゃない?  ……明日くらいには»  木々の狭間に見え隠れする姿。  方角のずれは、そろそろ四五度に達していた。 (…………) (警告の叫びが一度。  攻撃の叫びが一度。  方角は北西……痣丸の陣所……) (駆逐の叫びは無し。  ……果てたか、痣丸。御苦労であったの) (さて……。  敵は既に我が結界の内。となればうかうかしてはおれんかな。代官殿を殺されても困るしの) (出迎えてやるとしようかい。  いざ、参るぞ……右衛門尉村正)  ……結局、少女を森の出口まで送り届けてきたため、再び奥深くまで来た時にはもう日が大きく傾ぎ、辺りは黄昏模様となっていた。  まだ物が見えなくなる程ではないが。 「急ぐ」 «ええ»  闇夜の中であろうと劔冑の眼が利かなくなることはないにせよ、しかしやはり昼間とは勝手が異なる。  探索の困難と奇襲の危険が増すのは否めなかった。できることなら今の内に始末をつけたい。  昼の代官との戦闘からまだ四、五時間とは経過していない。代官が態勢を立て直すには全く足りない筈だ。  仮に彼がよほど心身の活力に恵まれていたとしても、ようやくこれから動き出そうかというところだろう。  余裕は期待できないが、手遅れではない。 «……ねえ» 「何か」 «思ったんだけど。  やっぱりさっきの犬は変じゃないかしら» 「見るからにな」  あの体躯。狼の末裔か、あるいはそれそのものか。  既に絶滅したというのが通説だが、生き残りがまだいないとも限らない。 «そうじゃなくて……いえ、そうなんだけど。  あれだけの身体、餌がいくらあってもそうそう足りないはず。けれど殊更、飢えているようには見えなかったでしょう?» 「確かに」  肥えているというほどではなかったが。  痩せさらばえてはいなかった。 «それに、飢えていないのなら、どうして人を襲ったのかしら» 「……」  山犬にせよ狼にせよ、凶暴性の強い動物だとは伝え聞く。縄張りを守るために争うことはあるだろう。  が……彼らもイヌ科の多例から外れず、集団行動を基本の原則としている筈である。  それが果たして、飢えてもいない時に、単独で人間のように厄介な相手を襲うだろうか。  なかなかに首肯し難いものがあった。 «もしかして、と思うのだけど» 「ああ」 «あれは、誰かが――上ッ!!»  ……爪?  何の―― 「――猿!?」 «いいえ――!»  猿――否。  その鈍い光沢。鋼鉄の芳香! 「……劔冑!」 「如何にも。  その〈猿〉《ましら》は〈月山従三位〉《がっさんじゅさんみ》と申す……我が一族、伝来の一品よ」 「……ッ!」  音もなく、木陰から現れた若い女。  しかし――今、聞こえた声は紛れもなく老爺のもの。  もう一人、どこかに……? 「ほっほっ。如何した?」 「……!?」 「挨拶としては、いささか非礼であったかな。  どうか大目に見てやってくれい。儂も劔冑も山育ちゆえ……粗野な振舞いが染み付いてしまっておるで……」 「…………」  妖艶と称するのがふさわしい美女の唇から紡がれる、〈嗄〉《しわが》れた声音。  異様、というほかはない情景だった。およそ現実感というものが欠落している。  ――狐狸、妖怪の類か。  そのような愚考さえ思い浮かんだ。 「……御老人、と呼べば宜しかろうか」 「ほほ。見ての通り、枯れ果てた老いぼれよ。  下手な気遣いは無用。この歳になるともう、若いと世辞を言われても素直に喜べぬでのう」  ほっほっ、と歳経た声で笑う妙齢の女。  これが質の悪い幻覚でないのなら、何なのか。 「……先の〈戯れ〉《・・》は挨拶と承った。  然らば御用向きも自ずと知れるが、左様に受け止めて差し支えはありますまいか?」 「なかろうのう。なかろうのう。  この老体、推して参ったは雇い主たる代官長坂を守らんが為。となれば無念かな、主と茶を飲み交わす仲にはなれまいて……警官殿」 「……!」  代官の〈手下〉《てか》の者――それは察せられていた。遭遇は想定の内だった。劔冑を連れて来るというのは想定外だったにせよ。  だが。 「代官の前で警察を称した覚えはない。  そもそもこの素顔も晒していない筈」 「しかし御老人、貴方は迷わず、俺を襲って来られた」 「なに、教えてくれる者がおったまでよ」 「……それは」 「杖を携えた筋者か。  確か……雪車町一蔵と云う」 「主とは知己のようだの。  因縁でもあるのかね?」 「道で行き会った程度の縁。  しかし、このような場所で再会する不思議が気には掛かっていた……彼も代官の協力者なのか」 「小器用な男での。重宝しておる。  GHQと〈接点〉《パイプ》を持つというだけでも心強い。本人は小間使いなどと言うておるが、何の、味方につけて役立つのはそういう者よ」 「……」  成程。  あの男が代官とGHQの橋渡し役。とすれば、先刻の村長宅来訪は大鳥中尉との交渉のためか。  そしてすぐに失敗し、代官のもとへ舞い戻った。  ……そんなところだろう。 「彼は今、何処に……?」 「さあて? 何処かのう。  忙しい男だて……」 「……」 「ほっ、ほっ。  周囲に気を散らすのは結構だがの……儂のことも忘れんでおくれ。それはちと寂しい」 「折角、楽しみにしておったのだからのう」 「……とは?」 「哀れな村の衆を嬲って回る遊びにも、ちと飽いておった。歯応えというものがな、どうしてもの。  いわば髀肉をかこっておったのよ。ほっ」 「…………。  ひとつお伺いしておくが、代官に加担する理由は。よもや、その遊びが目的と言われるか」 「まさか。そこまで暇ではない。  暇であればよかったがのう」 「……」 「金よ。世知辛い話だが、金が要るのよ。  我が一族はとある名門に仕えておったのだが、この家がしばらく前に世渡りを誤っての。廃絶の憂き目に遭ってしもうた」 「煽りを食って身分から収入まで失った我らに残されたのは、父祖の地と云えば聞こえはいいが、雑穀もろくに実らぬ狭い山間の所領のみ。ほっ、枯死を待つばかりであったよ」 「……士籍を逐われたと。  ならば、その劔冑は」 「むろん、没収されるところであったがな。つてを頼って御上の慈悲を請い、どうにか見逃してもろうた。もっとも……そのすぐ後でGHQの劔冑狩りに掛かり、水泡に帰したが」 「……?」 「そこへ現れたのがかの男、雪車町一蔵での。  〈鉱山〉《やま》掘りで荒稼ぎしようとしている男の話を儂に教えた上、協力するならGHQに手を回して劔冑を取り戻そうと請合ってくれてな」 「儂が飛びつかぬはずもあるまい?」 「……」  ……妙だ。    一抹の疑念を、俺は看過しかねた。  雪車町という男、〈積極的に動き過ぎている〉《・・・・・・・・・・・》。  幕府御雇組に草鞋を脱ぐ一方、進駐軍にも顔を売り両者の橋渡し役を務める、そういう人物がいることに不思議はない。おそらくは、賢い世渡りの一つだ。  しかしそういう、一部社会で非常に重宝する人間は、他人に求められ〈使われる〉《・・・・》ものだ。自分から売り込んで回ったりはしない。わざわざそんなことをせずとも、軽い仕事と高い報酬の組み合わせが足繁く通ってくる。  聞いた話を信じるならば、だが。雪車町の〈能動的〉《アクティブ》な行動はやや不審だった。  〈国内権力〉《ろくはら》と〈国外権力〉《GHQ》の仲介者という気楽な立場にはそぐわない。  加えて、劔冑の返却を手配したという話もまた疑念を呼ぶ。  GHQは大和の正規軍――現在は即ち六波羅――を除いて劔冑の所持を禁じ、没収する措置を取っている。  そうして没収された劔冑の多くは、ただ死蔵されているという。言語上あるいは体質の問題によりGHQ士官が用いるには不都合が多いため、利用価値を認められていないようだ。しかしそれでも、劔冑は劔冑。  一介の連絡役の要望で簡単に持ち出せるとはどうも信じ難かった。何がしかの〈裏〉《・》があるとしか思えない。  ……そんな俺の疑念をよそに、目前の怪人は説明を締めくくる。 「とまあ、そういう次第でな。  一族を食わすためには代官の目論見を成就せしめねばならん。である以上、代官の敵は儂の敵、ここで会ったが百年目となるわけよ」 「……御事情は理解した。  その為に、この村を犠牲にするもやむ無しというお考えか」 「うん? 何ぞ、つまらんことを言わせたいのかの。弱肉強食だの、どうのこうのと。  たっての要望とあらば口にせんではないが、言う方も聞く方も恥ずかしくはないかね?」 「……全くに」 「ほっほっ。  そのようなことはどうでも良かろうて」 「湊斗景明殿……で、確かかな?  さぁ、そろそろそちらの蜘蛛、村正の〈刃味〉《はあじ》を儂に味わわせてはくれぬかね?」 「!」 «――――»  ……此の者。  ここでは誰にも話していない、村正のことまで。 「御老人……  いささか、知り過ぎてはいまいか?」 「くふっ」 「……」 「この先は――太刀打にて仕ろう!  月山ッッ!!」 「……っ」 「迷いの六界、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人、いざ行かん――」 「悟りの四界、〈声聞〉《しょうもん》・縁覚・菩薩に仏、いざ行かん……  死して生あり生して死あり、死とは生なり生とは死なり、死して十界生して十界!」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「相模足柄は〈風間谷〉《かざまたに》の小太郎。  並びに月山従三位」 「畢竟の武者村正に、いざ一槍馳走せん!」 「!?  風魔――小太郎か!!」 「ハァッハ!!」  空を裂いて天頂へ駆け昇る体感、心地良いと思ったことはない。それはむしろ肌を怯えで粟立たせた。  底知れぬ深淵、果てなき果て、無の領域――未知。そこへ突き進む己を知れば、冷たい畏怖が脊髄を刺す。  合当理の推力は常よりもやや低い。思うほど高度が伸びてゆかない。いつもより、〈空が鈍い〉《・・・・》。  やはり熱量が足りていないようだ。それでも、なまなかな相手には後れを取らぬ筈だが……。 «……やっぱり、間違いない» 「どうした」 «あれは寄生体よ、御堂。  〈銀星号〉《かかさま》と同質の気配!» 「……確かか」 «言ったでしょう。あれの匂いは漠然としか辿れない……けれど、眼にすれば特定できる。  あの劔冑は間違いなく卵を受け入れている。代官と同じ。ここには二騎いたのよ、御堂!» 「大盤振る舞いだな……」  喜べる話ではないが。  いや、やはり喜ばねばならないのか。不可避の難題と、少しでも早くに出会えたと思えば。  しかしこれで、途切れていた糸は繋がった。 «――〈西湘〉《せいしょう》の悪狼!» «ほっほぉ! 良い空じゃ!  そうは思わぬか、湊斗景明!» «答えろ……銀星号を知っているな!?» «はぁてさて――» «韜晦無用!  然らばこそ、この村正を知った筈!» «はあっは! 如何にも左様!  かの美姫から主のことは聞いておる!» «可愛がってやってくれと、〈懇〉《ねんご》ろに頼まれてしもうたわい!» «何処だ!  〈銀星号〉《あいつ》は何処にいるッ!» «知らんのう――  風に乗り雲と去る、まっこと凡人にはなかなか手の届かぬお人であったゆえ!» «……ッッ!» «月の影でも探してみてはどうじゃ?  天女の宮はきっとそこいらにあるでな――ほっほっほっ!» «〈戯〉《ざ》れるかッ!!» 「……く!」  速度が――落ちる。  瞬発力が切れた……! «御堂、これまで!» 「承知」  背筋を煽って反転。  激突の準備に移る―― «ほっ。どうしたどうした如何した!  存外にだらしのない。そんなことでは到底、月までは辿り着けぬぞ!» «要らぬご配慮痛み入る!» «敵騎反転、降下体勢に移行。  迎撃を!»  村正の諜報を受けて〈兜角仰向〉《ピッチアップ》。  敵影が視野に入る。  高度優勢は敵騎!  圧倒的に不利な戦形から太刀合わせに入る――  ……下段!  ならば〈当方〉《こちら》の上へ抜けつつ斬り上げて来る筈。  相手の下へ抜けつつ斬り下げたい、上段の当方とは狙いが一致する。  ならば勝敗を分かつは剣速のみ……! 「……っ!?」 「ち……!」  寸前で――下へ抜けてきた! 「村正! 損傷!」 «右脇腹を削られた!  損傷は軽微、戦闘続行に支障なし» 「腸を掻き出されたかと思ったが……」 «危なかったけれどね……もう少し狙われていたら心臓串刺しよ、今の〈刺突〉《つき》は»  心なしか、肝を冷やした声で告げてくる村正。  その言い条が誇大でないことは骨身に沁みていた。 «……八相とは、珍しき構を使う» «ほっほ! 年寄りに長丁場はしんどいでの、一合で済ませられぬかと思うたが。  や、なかなか簡単にはゆかぬものよのう!»  陽気な〈装甲通信〉《メタルエコー》が耳を打つ。  内容に反して、声音には悔しさの片鱗もない。  〈体側〉《たいそく》に、体と平行に太刀を構える八相。  そこから刺突を繰り出す技法は、武者合戦において主流とはいえない。高速で飛来する武者を狙って刺し貫く事は、斬り伏せる以上に至難の業だからだ。  しかし。  その難を越え、剣尖が敵を捉えたならば、ただ一点に集約された武者の金剛力は例え砲弾を嘲笑う甲鉄であろうとも、薄紙同然に貫通してのける!  完璧な刺突を受けて耐え得る武者などおそらく皆無。  故に、これが用いられる局面は劣勢からの起死回生というのが定石。 「それを優位の立場から用いるとは……  人を食った戦い方をする」 «貴方とは相性が良くなさそうね» 「かもしれん」 「……だが。  そのような事、〈村正〉《おれ》には関係がない」 «ええ。  〈村正〉《わたし》にはどうだっていい事よ» 「――ならば。  村正を始めよう」 «始めましょう、御堂» «ほっほぅ! これは驚き。  どこぞの〈耄碌〉《もうろく》が勇名高き村正と互角に渡り合っておる!» «いや、儂も捨てたものではないのう。  それとも、そちらが評判倒れなのかのう?» «そちらは評判通りのようね、月山。  出羽雄峰の息吹を感じる見事な甲鉄よ……けれど、一つ疑問がある» «はて何かな、蜘蛛の〈姫御前〉《ひめごぜ》?» «……月山鍛冶といえば平安朝末期の鬼王丸を開祖とするはず。  でも、その劔冑はとてもとても古い。私の見立て違いでなければ、鬼王丸より更に昔» «……平安前期の頃の作と見えるのだけれど。  違って?» «ほっほ! 流石は天下の村正!  如何にも明察の通り、この月山は貞観年間に打ち上げられたもの。鬼王丸以降の月山流とは少々系譜が異なるかの» «……やはりね。  それがどうして、月山を名乗るのかしら?» «貞観六年、出羽國月山神社の祭神が従三位を贈られた折に打たれたものでの。  故に月山従三位» «後、天王将門公が月山と並んで出羽三山に数えられる羽黒山へ五重塔を寄進した時その手に渡り、更に将門公に仕えた我が家の遠祖、〈飯母呂石念〉《いぼろせきねん》へ下賜されたという次第よ» «……そういう事。  なら、奥州〈舞草〉《もくさ》鍛冶の特色が濃く残るその〈造込〉《つくりこみ》も納得がいく»  舞草鍛冶。劔冑の歴史において、まだ黎明の時代に現れる名だ。  その系統にあるということはあの劔冑、現存する中では最古に近い部類に属するとみて違いない。 «舞草鍛冶は〈単鋭装甲〉《やじりづくり》の先駆者という意味で画期的だった。  彼らは初めて甲鉄の工夫による加速性上昇という発想を持ち、しかも成功した……» «先程から貴方が見せている、見事な〈速力〉《あし》。  ……正直、先人の叡智には感嘆の溜息しか洩れてこないわね» «ほっほっほ……そのように持ち上げられっぱなしでは心苦しいのう。  これから主らを打ち伏せねばならんというに、何やら気が差してくるわ» «いいのよ、気にしないで。これから〈落とす〉《・・・》つもりだから。  ……彼らは速度の重要性には気付いていた。けれど、そこまで» «……うぬ?» «〈空戦技術〉《かかりわざ》の体系化が始まるのは彼らの次の時代から……。  当時の彼らは旋回性の重要さを明確に知るところまでは達していなかったのよ» «……おおぅ!?»  三合目の〈正面相撃〉《ヘッドオン》。  高度の優劣は――既に無し! «〈速力〉《あし》は備前、〈旋回〉《こし》は関……  劔冑に造詣あらば聞いたことはあろう» «村正一門は美濃、関鍛冶衆の系統。  旋回力を駆使する格闘戦で、〈他所〉《よそ》の後塵は拝さない!» «ぬかったわ!» 「……ふっ!」 「……ぬっ!」 「うむっ……!?」 «貴様の遊びは終わりだ、相州乱破。  この先の時間は俺が貰う» 「ぐほぉっ!!」 «敵騎、左肩部に被撃。中破!» «そして俺は、〈戦事〉《いくさごと》に遊びを持ち込むほどの興は持たない。  次の一合で〈撃墜〉《おと》す»  手応えは充分。  今一度、同一箇所に剣撃を加えれば必ず、甲鉄ごと肉体までも斬り断てる。  そして、そうせぬ理由はない! «参る» «……ほっ、ほっほっほ。  いや、これは確かに戯れが過ぎたようだの。返す言葉もない» «いやいや、いくつになっても説教とは耳に痛いものだて» «――――» «しかし、のう……村正よ。  主の時間は今ここまで。ここからは再び、儂が頂く» «……させぬ» «いやいや?»  ――五合!  騎航剣術の基本たる右上段にとり、両断を期す。  対して、相手は太刀をだらりと下げた無構。  そこから何をするつもりか――      «慙愧・懺悔・六根清浄……     慙愧・懺悔・六根清浄……» 「……何?」 «えっ!?»  消え――――――た?  馬鹿な!? 「いない……!?  何処へ!」 «待って!  今、周囲を探査する!» «――いた!  敵騎〈一七〇度下方〉《ひのえからうまのしも》、距離四〇〇!» 「承知!」 「……?  何処だ!?」 «――えっ!?  そんな……反応は確かに!» 「ぐあッッ!!」 «こっ……攻撃!?  何処から!» «こ――これは……» «どういうこと。  私の耳が騙されている!?» 「……月山の陰義……か?」 «ほっほっほっ» 「今の発信源は!」 «き、〈七五度上方〉《きのえのかみ》……» 「……っ!」 «如何かな? 我が〈霧隠〉《キリガクレ》の術は!  口に合えば良いのだがのう!»  ……霧隠の術?  姿を完全に隠してのけたというのか。  しかも村正の〈探査機能〉《レーダー》まで欺かれている! 「これほど強力な陰義があったのか!?」 «初耳よ!»  村正の〈金打声〉《メタルエコー》は悲鳴じみていた。  無理もないが。  武者の陰義は理外の業。  驚天、動地の代物が珍しくない。文字通り天を裂き地を砕く力もかつて見たことがある。村正自身、並みの武者からは魔神と恐れられるだけの能力を行使する。  だが。  ここまで〈反則的〉《・・・》な能力は未だ知らなかった。  敵の姿を目視できず、探査機能さえあてにならないときては、そもそも勝負にならない。  言語道断、無道の極みであった。 「〈大英連邦騎士団〉《クイーンズアーミー》が〈隠身甲鉄〉《ステルス》の開発を進めているとは聞いたことがあるが……」 «いくら舞草鍛冶が先駆的だったと言っても、千年分は先駆け過ぎよ!»  尤もだ。  それに隠身装甲はあくまでも対レーダー用の技術であり、しかも、『探査され〈にくく〉《・・・》する』という程度を目標に実用化の目処をつけられている筈。  視覚的な隠蔽のうえ敵の探査機能へ誤情報を飛ばすなどという超越兵器ではない。少なくとも、知られている限りにおいては。  となればやはり、あれは陰義……。 «御堂! 回避して!» 「!?」 「……ッッ」 «敵騎攻撃、兜側面を擦過!  危なかった……あと一瞬遅かったら、今頃首が自由落下していたところね» «御堂、大丈夫?» 「……っ、問題ない。  それより今、どうして攻撃を察した?」 «探査機能を〈信号探査〉《みみ》から〈熱源探査〉《はだ》へと切り替えてみたの。  当たりだったみたいね。敵の能力はこちらには及ばない様子よ» 「そうか……  流石に万能ではないか」  敵騎の隠身能力は視覚と通常探査からの隠蔽に限られるらしい。  ならばやりようはある――  とは、言い難い。  圧倒的不利は依然、動かしようもなかった。 「熱源探査に頼った戦闘は可能か?」 «……それは、無理よ。  有効範囲が狭過ぎる»  そういう事。  熱源探査は本来陸戦用の補助機能に過ぎず、空での使用は想定されていない。その性能はあくまで空中戦と比べれば格段に戦場が狭い陸上戦に相応のものだ。  陸戦を主眼に置かれた劔冑であれば通常より優秀な熱源探査を備えていることもままあるが……その点、村正はごくオーソドックスな仕様である。  主戦場はあくまで空、従って熱源探査を重視しない。 «致命打を避けるのが関の山でしょうね……» 「無いよりは良いが……」  霧隠の術とやらを破るには足りない。  それには何か、もっと何か―― 「……村正」 «なに?» 「奴が消えてから、既に何秒経過した?」 «……!»  答えはなかったが、俺の言わんとするところはすぐ察したらしい。  息を呑むような気配があった。 「陰義は多大な熱量を代償に発動する。  強力なものであればあるほど消耗は激しい」 「姿を消すようなふざけた術を延々と維持しながら、あまつさえ騎航し戦闘する……。  必要な熱量はどれ程のものだ?」 «……法外な桁になるはずね。  まともな人間ならとっくに熱量欠乏で墜落、いえ、凍死していなくてはおかしい» 「同意する。  どうもこの相手には常識が通じぬようだ」  植えつけられた〝卵〟の効果とも考え難い。  あの真改――鈴川令法も強大な陰義を駆使したが、〈熱量欠乏〉《フリーズ》は避けられずに墜ちていったのだ。  果たして如何なる仕儀か。  まったく見えてこない。まさしく五里霧中の只中にある心地がする。  霧隠の術とはよくぞ言った。 «……どうするの?» 「奴の〝卵〟の危険性はどうだ。  見たところ孵化は近そうだったか?」 «いえ……そうね。  正確にはわからないけれど、今日や明日ということはないと思う» 「そうか……」  ならば状況は、一つの決断を促していた。  状況。  敵騎の慮外の力。  自己の不調。  ――勝利の見込みなし。 「この場の敗北を認める。  戦域より離脱、後日の再戦を期す」 «……諒解!»  口惜しさを滲ませながら村正が応じる。  その心持は理解できた。  が、どうということでもない。  〈村正〉《われら》にとって重要事は、目的を遂げる、唯一事のみ。  必要ならば敗退も方法として選択する。 «おやおや?  ほっほぅ、あの村正が尻に帆を掛けておるぞ! これは異なこと!» «まさかとは思うがこの老人と月山に、村正ともあろう者が負けたというのかのう!?  ほっほっほっ、そんな馬鹿な!» «……っ!» «残念ではあるが御説の通り。  交戦を継続すれば敗北は必至と判断した。我々は撤退する» «おおぅ、なんと情けない!  あのお方が聞いたら何というやら! 何といって嘆くやら! きっとこう云うのだろうのぉ――景明、それで届くつもりか、と!» «……く!»  聞くな。  重要なことは唯一つ――目的を遂げること! «村正――降下!» «諒解……!»  兜角を下げ、速度を上げる。  ……風が〈硬くなる〉《・・・・》。  敵騎は速力重視の単鋭装甲。  振り切れるかどうかは難しいところだが――やってみるしかない。  後方から追いすがって致命打を与えることは困難だ。  武者の甲鉄は頑強至極、正面衝突の衝撃力があって初めて斬り破ることが可能となる。  それに地表へ近付けば攻撃は危険さを増す。  敵の上方から降下攻撃を仕掛けたはいいがそのまま地表へ激突、という結果になりかねないからだ。  一撃二撃、食らうことは覚悟しておかねばならない。  だが焦って手を誤らねば、過度の損害を被ることはない、筈―― «……御堂ッッ!!» 「!?」  な――――  新手ッ!?        «……お邪魔しますよ» «なんて……不覚!  〈通常探査〉《みみ》を断っていたから……見過ごした……!» 「く……おおっ!!」  姿勢――制御!  せめて……軟着陸を―――― 「……クヒッ」 「クヒヒヒヒヒヒヒヒ……」  いーろーはーにーほーへーとぉ……  ちぃーりーぬーるーを  わーかーよーたーれーそ……  つぅーねぇーなーらぁーむ……  うーゐーのーおーくーやーま……  けーふーこーえーてー……  あぁーさーきーゆーめーみーし……  ゑーひーもーせーすぅ…… (浅き夢見し……  酔ひもせず……) (酔ひも……せず…………) 「…………」 「あっ。おきたー!」 「…………」 「じっちゃー!  にーやがおきたよぉー!」  ……家の中だ。  どこかの百姓家だろうか。  見覚えのない床の上、見覚えのない布団の中に寝かされている。  〈有体〉《ありてい》に言って、ひどく硬い。だが温かくはあった。  己の全身を知覚する。  ……胸に包帯を巻かれているようだ。ややきつめに締めてある。打撲傷ではなく、おそらく激しい出血をした際の巻き方。  さて。  そのような負傷をいつ、何処で――  …………。  思い出した。  そう、俺は――〈墜落〉《お》ちたのだ。  確か……山の斜面へ……。 「……ッ!」 「わっ、駄目ですよ。まだ起きられません。  そのまま寝ていてください」 「つぅ……」  体内を走り抜けた稲妻に呻きをこぼしながら、声の聞こえてきた方へ首をめぐらす。  年の頃は二桁始めか。少女がひとり、座っていた。手には布巾、傍らには水の入った〈盥〉《たらい》を置いている。  その肌は褐色。  両耳は細く尖っていた。 「……蝦夷の方ですか」 「え? えと……はい」  綺麗な風貌をしている。  種族的な特徴だろう。彫りが深い一方で、細やかな造形。良い意味で彫像的な美しさがあった。  繊細な指先が、今はおろおろと、布巾を弄んでいる。 「あ、あのぅ……」 「はい」 「汗を拭いた方がいいと思うんですけど……  その、か、構いませんか?」  確かに、全身が汗ばんでいる。  拭いてもらえるのなら有難い。こちらには厭う理由などある筈も―― (……ああ。成程)  俺は少女の心情を察した。 「失礼。うら若い女性にご造作をおかけするようなことではありませんでした。  布巾をお貸し下さい。お見苦しい体に柔手を触れて頂くには及びません」 「え!? あああ、いえ、違いますっ」 「……?」 「そうじゃなくて……  その、〈自分〉《あて》、蝦夷ですから。触られると、ほら……」  けがれる、とか。  尻蕾になった少女の声は、最後にそう言ったように思えた。  …………。 「宜しくお願いします」 「あっ、はっ、はい……」  慌てた手付きで、少女は濡らした布巾を一度絞ると、こちらの額に当ててきてくれる。  ひやりとする感触が心地良かった。 «……御堂。加減はどう» (〈村正〉《おまえ》か。悪くはない)  視線を動かす。  部屋の隅に深紅色の蜘蛛が蹲っていた。異様な光景ではある――が、ここが蝦夷の住居ならば、妖怪推参なりと騒がれることはよもやないだろう。  実際、甲斐甲斐しく汗を拭いてくれている少女は、そちらを気にした風でもない。 (……少なくとも、袈裟懸けに斬られて墜落したにしては。  あの後の経過を教えて欲しい) «重傷の貴方を村まで連れて行こうとしたのだけれど。私も動けなくて。  難儀していたら、蝦夷の老人がやって来て助けてくれたのよ» (老人……) «この家の主。  ちなみに、ここは例のお山の中»  そう聞いて、脳内で幾つかの断片が組み合わさる。  ――村長の話。山に住む、祟り神を祀る蝦夷の一族。 (成程……) «話せることはこのくらい。時間的にはまだ大して経ってないのよ。三、四時間っていうところ。  詳しい状況は貴方から訊いてみて» (お前の損傷程度は?) «悪くはないかしらね。袈裟懸けに斬られて墜落したにしては。  これから回復に専念する……後はよろしく» (承知した) 「あ……そちらの蜘蛛の人、お武家様の劔冑ですよね。心配していたんですよ。  あの、蜘蛛さん。こちらのかた、起きられましたよ……?」 「……あぅ。答えてくれない……。  さっきまではこう、頭にぴりぴりくる声で話してくれたのに」 「申し訳ありません。  劔冑にとって、己の仕手や別の武者はともかく、普通の方と声を交わし合うのはとても億劫なことのようなのです」 「他意は何もありません。  自分が起きたので後の対応はこちらへ任せ、休息をとっているだけです。非礼の段は自分からお詫び致します」 「わ、いえいえ、そんな! 非礼だなんて。  ちょっと残念だっただけですからっ」  赤面して、手をわたわたさせる少女。  ちなみにその手は布巾をつかんでいて、包帯が巻かれた俺の胸の上に置かれていたりする。  少々痛い。 「……何をやっとる。ふき」 「え? はぅあっ!!  ごごっ、ごめんなさーい!」 「いえ。問題ありませんから」 「ふき、それは置け。  そろそろ包帯を巻き直す。棚から新しいのを出してこい」 「は、はい。じっちゃま」  少女が立ち上がり、箪笥に駆け寄る。  代わって腰を下ろした男性は、物静かな眼でこちらの全身を眺めてきた。その背中に張り付くようにして、歳はもう三、四つ下だろう、別の娘が顔を出している。  視線が合うと、はにかんだ笑顔。  ……いささか、対応に戸惑う。 「お加減は如何かな。御堂」 「……お陰をもちまして。  一命をお救い頂いたようです」 「なに、〈貴公〉《なれ》は自分で自分を救っておったよ。  〈己〉《うて》がしたのはここへ寝かせて包帯を巻いただけに過ぎん。しかし……」  男性の手が包帯を解く。  数箇所、傷口に包帯の張り付いていた所が引き剥がされて痛みを発した。が、さほどの出血はない。  傷口の惨さに比べての話だが。 「おーっ」 「……見よ。  ここへ連れて来た時は骨が覗いておったがな。既に肉が盛り上がり、傷を覆っている。  まこと、武者の回復力は凄まじい」 「ど、どうして……?」 「これが紛い物にあらざる劔冑の力。  鍛冶師の身魂を宿す真の劔冑はなまなかなことでは破壊されぬ。少々の欠損なら自力で容易く復元してのける」 「そして、〈帯刀〉《タテワキ》の儀によって結縁した武者と劔冑は常に一体……。  復元の力は武者の肉体にも及ぶのだ。このようにな」 「そうなんだ……。  すごい……」 「さりながら。  貴方がたがお助けくださらなければ、回復するより前に命を絶たれていたことでしょう。やはり御礼は申し上げねばなりません」 「なれは代官だのその取巻きだのに殺されるような〈天命〉《ほし》ではないよ。  それに御堂、うては当然のことをしているに過ぎん」 「……」 「なれが山の作業場であの馬鹿者を止めてくれた折、うてもその場におった。  我が村の救い主が倒れているのを見掛けて、何もせぬ法があろうか」 「それは一身上の都合でした事。  救いなどと考えられては身が縮みます」 「だとしても助けられれば感謝はするもの。  当然のことであろう?」 「……」  なんだか自分がただ強情を張っている未熟な若造にしか思えなくなってきた。  人生経験の差を感じる。 「御老人……失礼。  そのようにお見受けしたのですが、もしや見込み違いということは」 「ないよ、お若い方。  歳はもう五十を数えた。蝦夷としては老人も老人、長老などと呼ばれる頃合かな」  やはり、か。  不老の蝦夷種族らしく、外見上はいいところ壮年にしか達していない。しかし動作の端々にある重さと、御堂という呼び方が実際の歳を窺わせた。  御堂とはもう用いる者も多くはない、武者に対する古風な敬称。  かつて宮中の武者溜りが釈天堂という建物にあったことを由来とする。 「では、御老人。  貴方はやはり、この山で祭祀を行っておられるというご一族の」 「村長にでも聞いたか。  その一族の最後の末裔がここにおる三人よ」 「うては弥源太。  こやつらは孫で、大きい方がふき、小さい方がふなと申す」 「申し遅れました。  鎌倉警察署の湊斗景明です」  頭を下げる。  ……新しい包帯を巻かれながらでは、充分な礼儀を尽くすわけにもいかなかったが。  老人は軽く顎を引きだけして応えた。  孫の方を見ると、上の娘は恐縮した風で何度も礼をし、下の娘はまた笑顔を向けてきている。  妹の方が堂々としているようで、少し可笑しい。 「警察の人であったか」 「御協力に感謝致します。  この御礼は後日必ず……」 「今日のところは、そろそろ失礼させて頂きます」 「えっ!?  そんな……無理ですよ!」 「……さっきは回復が早いと褒めたがな。  流石に一晩は動けんだろうよ。無理をして動けばまた傷口が開くぞ」 「しかし、ご迷惑は掛けられません。  自分がここに留まれば、この図体で場所を塞ぐのみならず――」 「代官どものことを案じておるのか?  なるほど……やはりその傷はやつらと一戦交えた結果か。それで追手が来るかもしれぬと言うのだな」 「まさしく」 「だがそれは無用の心配。  ここでなれを追い出したところで、やつらの迷惑が迷惑でなくなるものか」 「それは……」 「やつらはいる限り村の迷惑よ。  一身上の都合だろうが何だろうが、御堂、なれがやつらを成敗するというのなら、なれを助けることは村の利益に適う」 「……」 「丸一日はここで休んでゆけ。  なれならば、おそらくそれで全快しよう」 「そうしてください。  あては難しいことはわかりませんけど……こんな大怪我をしている人が出ていくなんて、そんなの駄目です」 「んーっ?  ねーや、にーやはどうしたの?」 「にーや、おうちに帰りたいんだって」 「えーっ、そんなのやだ!  もっといてほしい……」 「そうよねっ。  ほら、お武家様。ふなもこう言ってます」  言われても。  ……しかし、これを振り切って行くことはできそうになかった。  それに弥源太老人の言う通り、今無理を押して出ていく選択にはどうも利もなければ理もないらしい。  ここは厚意に甘えておくのが賢明だろうか。 「……わかりました。  ご厄介をおかけします」 «よろしく» 「わっ、ぴりぴりきたー!」 「ぴりぴりー!」 「…………」 「…………」 「どうよ。  小太郎……」 「足跡が二つあるわ。  どうやら、誰ぞに拾われたようだの」 「ほう……」 「心当たりはあろうかな。  このような場所を通りがかる者などに……」 「ある。  ……あやつめが。全くいつまでも煩わしい男よ」 「……」 「山に登るぞ。裏手へ回る」 「おいよ。  やれやれ……年寄りにはきついのう」  〈蝦夷〉《えみし》とは大和の少数民族を指す。  彼らは小規模の集団を作って全国各地に散在するが、全般的に見れば東北地方に近付くほど集団の規模・数ともに増大する。しかし他地方でも鍛冶の名地(美濃の〈関〉《せき》村や備前の〈長船〉《おさふね》村など)には集中して住む。  大和人と比べてやや小柄かつ細身の体格を持ち、肌は褐色、髪色は黒のほか白、銀、金などがみられる。  動きは俊敏で特に手先が器用であり、持久力に秀で、意外なほど筋力もあるが……  生命力を欠くのか、病には弱く短命である。  平均寿命は三十数年程度、五〇年以上を生きる者は珍しい。  また彼らは特異な不老体質を備え、一五歳頃に成人を迎えて以後は死ぬまでほとんど容姿が変化しない。  東大和の先住民族として大和朝廷の歴史書に記述が現れる当初から劔冑鍛造を始めとする高度な鍛冶技術を有していたとされ、大和鍛冶の誕生は彼らとの接触が端緒であると通説は認める。  中世以降、大和鍛冶と蝦夷鍛冶の間に技術的な格差はみられないが、種族的な適性の部分で差があるのか、一般に大和鍛冶の作品は蝦夷鍛冶のそれに及ばない。  そのため、蝦夷は少数民族の必然として偏見・蔑視を受けつつも、貴重な職能集団と扱われ、尊重されて、現在に至っている。  ……一説によれば、彼らの短命と不老は鍛冶種族として特化されているからこそだと云う。  蝦夷は心身と技術の成熟を迎えた時点で己を〈甲鉄〉《ヨロイ》とするのが宿命。老境などという人生は必要ない、と。  大和国外にも同類と考えられる種族は複数存在し、西洋人類学はこれを総じて『〈小さい人〉《ドワーフ》』と呼称する。  そのうち特に有名なものは白い肌の一種族であろう。  彼らは欧州全域に分布し、劔冑を始めとする武器の販売で巨富を築き、死の商人と、世界の黒幕と呼ばれ畏怖と嫌悪を集め――それが為に、  先の世界大戦においては最大の災厄を〈蒙〉《こうむ》った。  彼らを称して〈賛美者の末裔〉《ユーデア》。  大和語では白蝦夷と云う。  ……視界の中の人々にまつわる教科書的知識を引き出したところで、何が変わるというものでもない。  だがいくつか、頷けることはあった。ふきという娘の態度、山中孤立の家、反面そう貧困でもない佇まい。  蝦夷という種族の複雑な在り方はこの小さな家の中にもすべて詰まっていると言えた。  唯一、子供の快活さだけを例外として。 「にーやはどこから来たの?」 「鎌倉の町から参りました」 「かまくらー……。  いったことないけど、しってる。でっかいまち?」 「はい。現在の大和における事実上の首都ですから」 「じじつじょうのしゅと?」 「首都とは、国で一番の都のことです。  事実上とは、本当は違うのだけれども大体そのようなものである、という意味です」 「かまくらは……いちばんのみやこみたいなもの?」 「はい」 「ほんとうのしゅとは?」 「〈山城國〉《やましろのくに》、京都です。  現在も近畿以西においては中心的な位置を占めていると言えるのですが……」 「しかし、大和西部は未だほぼ全域が遅々として進まぬ戦災からの復興の途上にあります。  京都の賑わいも相応のものに過ぎません」 「かまくらはもっとすごい?」 「人が大勢います」 「どのくらい?」 「この村の倍の、十倍の、百倍ほど」 「きゃー!  すごいねぇ……」  はしゃいで、ぱちぱちと手を叩く下の娘。  ふなという名前だったか。先程から、突然の闖入者である俺にくっついて離れない。  物怖じしない性格のようだ。 「ふなー。  あまりお武家様を困らせないの」 「んぅー」 「いえ、お気遣いなく。  ただ寝ているだけというのは無聊なもの、かえって助かります」 「こまってない!」 「もぅ……」 「世話を掛けるな、御堂」 「とんでもありません」 「そやつは誰に似たやら、まるで落ち着きというものがなくて困っておる。  昼は外で遊んでおるから良いが、夜になるとうてらの邪魔しかすることがないらしい」 「そうなんですよぅ。  台所に来ればおなべに手を入れようとするし、じっちゃまの刃物は触りたがるし、気がつくと箪笥の中身をひっくり返してるし……」 「申しわけないですけど、今日はお武家様のお陰で助かっちゃってます」  大工道具かなにかと思しき刃物を磨いている老人と、厨房に立っている上の娘が口を合わせる。  この家の最年少者はなかなかの暴れん坊のようだ。実際、腹の上に飛び乗って来られては疑うべくもない。 「……って言ってるそばからもー!  怪我してる人にそんなことしちゃ駄目!」 「お気遣いなく」 「遣います遣わせてくださいっ!  ほら、おとなしくしてる!」 「わー」  厨房から飛んでくるや、妹を担ぎ上げて脇へのけ、また戻っていく上の娘。  手が離せない仕事の最中らしく、慌しい。 «意外に騒々しい家ね……» (珍客のせいでもあるだろう。  あまり来訪者の多い家とは思えん) «そうね。  ……少しだけ、懐かしい。この空気» (似ているのか) «どうかしら。  私に妹はいなかったし……けどやっぱり、蝦夷の家には蝦夷の家の匂いがあるのかもしれない» (……そうか。  お前も蝦夷か。言われてみれば当然のことだな) «……そういえば、そんなことさえも話していなかったのね。  少しは……話しておくべきだったのかしら» (そう思うのか) «…………いいえ。  貴方は? 聞きたいと思う?» (いいや) «……そう。  ところで……» (何だ) «あのふきっていう娘の、私に対する仕打ちには何か底深い理由があるのかしら» (いや。  単に慌てていただけだと思うが)  そこはかとなく憮然たる様子で妹娘に〈座られて〉《・・・・》いる劔冑に個人的見解を述べておく。  玩具を与えられた格好の娘は、ご満悦のようだった。 「もうすぐごはんできますからねー。  お武家様、待っててください。今日は腕によりをかけましたからっ」 「どうかお構いなく」 「腕をふるうのは良いがな。  怪我人に食わす物だということはちゃんと考えておるのか?」 「もちろん。  あ、お武家様。好き嫌いはあります?」 「油の強いものがやや苦手ですが、ほかには別段」 「よしっ、大丈夫!  じっちゃま、ちゃぶ台出しておいてー」 「…………」 「じっちゃま?」 「……飯は少し後だ。  客が来たらしい。招かれざる類のな」 「!」 「え……?」 「夜分に失礼。  少々お邪魔致し申す。何、用を済ませたらすぐに退散しますでの」 「な、なっ、なんですかっ、あなたたち……」 「……」 「! お、お代官様!?」  戸を蹴り開ける非礼と慇懃な挨拶とを一緒にやってのけた若い女――注釈、外見上。  そして、その後ろからのっそりと現れる初老の男。  来るべくして来た二人だった。  しかし――予想より遥かに早い! 向こうとて無傷ではなし、よもやこの夜の内に来ることはなかろうと見込んでいた。  乱破者の実力を甘く見たか……。 (村正) «戦闘は不可能!  〈仕手〉《あなた》の肉体、〈騎体〉《わたし》の甲鉄、共に騎航に耐えられる状態に無し!» (諒解した。  太刀だけ寄越せ) «……本気!?» (限られた手段のうちから最善手を選択しているだけの事。格別、冗談じみてはおるまい) «けれど……!»  二人の背後と、物音を確認する。  ……〈もうひとり〉《・・・・・》、どこかに潜んでいるということは無さそうだ。巧妙に隠れていないとは限らないが。 「ほっほ。おったおった、ほれおった。  さぁて……」 「待て。  話は外で聞く。この家の人々を巻き込むには及ばん」 「そうしてくれれば、こちらも助かるがの」  温かだった寝床から身を起こす。  苦痛が走る――包帯に血が滲む。少し傷口が開いたか。  しかし、動けなくはない。 「お武家様! いけません!」 「大変お世話になりました。  少々つまらぬ用事が出来たようなのでこれにて失礼を。後日、改めて御礼に参上させて頂きます」 「そ、そんな」 「はっは! 後日、後日か!」 「今のは別に笑う所ではないが」 「笑う所だよ、湊斗景明。  まあ良いわえ……後日の御礼とやらは儂が代わりに済ませてやろうぞ」 「……」 「そうか。なら手土産は友島屋の鳩サブレー、一二枚セットで頼む。あと山倉醸造の『公暁』を一瓶。  おそらく造作を掛けることはなかろうが」 「心得た。  必ず、そのようにしてくれよう」  風魔小太郎の歯を見せた笑いに応えて、足腰を立たせる。  ……わずかに揺らいだ。血が足りないのか、〈脹脛〉《ふくらはぎ》が萎えている。  だが動く。動けば、戦える。  戦うためには、他に何も必須ではない。 「……待たせた」 「ほっ。なに、構わぬよ。爺は気が長いでな。  では参ろうか……」  促されるまま、土間に降りる。  否、降りようとした――が。  ついと伸びた腕に、行く手を遮られた。 「……」 「御老」 「下がられい」 「しかし、これは自分の」 「ここはうての家。  誰を客として迎え、誰を迎えぬかはうてが決めること」 「……」 「客人を狼藉者に引き渡すなどという作法を蝦夷は持たん。かような真似こそ最大の恥辱。  御堂、この爺に恥知らずの汚名を着せたく思うのでなくば、まずは任せてもらおう」 「…………御意に」  恥辱と告げられては是非もなし。  やむなく、ひとまず引き下がる。  しかし事あらば即座に割り込まねばならない。  村正は手元に引き寄せておいた。瞳を見開いて押し黙っている小さな娘を慎重に部屋の奥へ移した後で。  異様な雰囲気を感じ取ってだろう、ふなという娘の目元は潤んでいた。  ……舌の裏側に苦渋が湧く。 「ほぅ、ほぅ。これは勇ましき御老人かな。  しかし、歳食えば骨朽ちると申す。無理は慎まれたが宜しかろう」 「……年寄っておるのは事実ゆえ、言われて怒る筋はないがな。  それでも貴様の如き〈化生〉《けしょう》に毒舌を叩かれるのは心外というもの。その口こそ慎まれたい」 「はっは! これはしたり、これはしたり。  人よりいささか〈遊び〉《・・》を知っておる程度の儂、化生呼ばわりはちと心外なる申されよう」 「だが家主殿。  儂を化生と見られるならば、折角のこと、そのように振舞わぬではないが……?」 「無用だ。  控えておれ」  唇を舐めた、外法者の背後から。  それまでは黙りこくっていた男が踏み出し、弥源太老人との間に立ち塞がった。 「代官殿」 「こやつの相手は俺がする。  ……不満はなかろう? 弥源太」 「不満か。今となっては、なれとうてが〈現世〉《うつしよ》にいつまでもしがみついておる事こそ不満でならぬよ。  長坂右京……」 「は。抜かすわ。  けりをつける機会ならいくらでもあったに、逃げ続けてきたのは何処の誰ぞ?」 「言われるまでもない。  だから不満と言うておる。なぜもっと早く、決断ができなんだか……」 「その後悔さえ、三十年遅いわ!  あの時に貴様が逃げなければ、我らの一方は人生に実りを得、もう一方とて少なくとも老廃を晒さずには済んだであろうよ」  二人の老いた男の視線が正面から相撃つ。  沈黙の帳が下りた。  誰も、何も口にしない。身動きもしない。  あの二人が不動なら、他には誰も動けない。  代官の口にした三十年という言葉が、固形と化して空間の隅々まで詰まったかのようだった。  ――立ち入れない。手足が縛られている。息苦しささえ覚える。 「……うてはこの一命に実りがなかったとは思うておらぬ」 「俺は思っておるよ。  何も得られなんだわ……何もな」 「……」 「貴様とて本心ではそうであろう。  それともその孫娘どもを得て満足だとでも言い張るつもりか?」 「そう言ってはならぬ理由があるか?」 「貴様が求めたのは〈それ〉《・・》ではなかろう」 「求めたものを得られるとは限らぬし、そうでないものの価値がそれより劣るとも言えぬ。  うての命はこやつらを世に送り出すためにあったと、そう言うても一向に構わぬ」 「……そうか。貴様がそう言うならそれでも良かろうさ。  ならば貴様は何故、今になって俺に挑む?」 「冥途へ悔いを引き摺らぬ為よ。  なれの馬鹿はうてか〈一媛〉《いちひめ》が止めねばならなかった。一媛亡き今はうてしかおらぬ」 「己の責務を残して逝けば黄泉路に迷うわ。  右京、なれの墓碑銘を刻むことが、うての最後の仕事となろうよ」 「では俺の仕事は貴様の墓碑を刻むことか?  ふん、厄介な」 「犬に食わせて済ます。構うまい?」 「良かろうよ!」  老人は、壁の素朴な神棚の上から何かをもぎ取った。  代官は背負っていた鎧櫃を土間へ落とす。  弥源太老人が手にしたのは短い棒状の物。  あれは――何かの牙か?  鎧櫃の蓋を乱暴に蹴り開け、代官が両拳を胸の前で構える。  ――海軍礼則に〈法〉《のっと》る〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》! 「弥源太……」 「右京……!」 「…………」 「…………」 「良かった。  もしスタートの合図と勘違いされたらどうしようかと思ってました」 「大丈夫ですよ、お嬢さま。 『位置について用意』とは誰も言っておりませんでしたから」  ……やにわの銃声。  続けて聞こえてきたのは、そんな話し声だった。  特に警戒した様子もなく、人影が二つ、開き放しの戸口から入り込んでくる。  いずれも女性。一方は若く長身、もう一方は老いて小柄。  長髪をなびかせる令嬢風の女性にぴたりと付き従う白髪の侍従は、室内を見回すや、ふと眉をひそめた。 「……なんですか、この年寄り臭い空間は」 「ばあや、あなたが言わないの」 「貴様は……」 「巡察官殿」 「良かった、湊斗さま。こちらにいらしたのですね。心配しておりましたのよ?  捜査に行くと出ていかれたきり、日が暮れても戻られないし、連絡一つないのですもの」 「これは……とんだ不手際を。  いささか難儀しておりまして、ご連絡する〈暇〉《いとま》がありませんでした。いらぬ心労をお掛けした事、深くお詫び致します」 「や、や、そのお怪我は……  これはいらぬどころか妥当な心配であったご様子! お加減はいかがなものでございましょう?」 「お恥ずかしい。不覚傷です。  浅からぬ負傷ではありましたが、こちらの方々のお陰をもって大事なく済んでおります。  どうかお気遣いなさいませぬよう」 「さようでございますか。  よろしゅうございましたね、お嬢さま」 「ええ。本当に、ご無事で何より。  湊斗さまは大事な恩人ですもの。この方をお助け下さったのなら、わたくしからも御礼を申し上げないといけません」 「ありがとうございます」 「え? はい……い、いえ、そんなっ」  これぞ礼法の見本と言わんばかりに丁寧な仕草で腰を折る大鳥中尉。  一瞬ぽかんとした後で、一礼を受けたふきは慌てて何度も頭を下げた。 「はぅ……」 「くす。  可愛らしい方」 「……」 「それはそれとして、湊斗さま。  いかがされます? 村へお戻りになられるのなら一緒に参りましょう。すぐそこまで車で来ていますの」 「……は。  いや、しかし」 「お嬢さま」 「あら。わたくしったら、迂闊。  そうですね……怪我をされている方に車で山道はきついかもしれません」 「ここは一晩、この家の方々にお願いして」 「おい」 「はい?」  GHQの軍服がくるりと向きを変える。  そちらには依然、対峙したままの老人が二人。 「なにか?」 「貴様、この場に割り込んでおいて、並べる御託がそんなものしかないのか」 「……ええっと……」 「…………」 「……………………どなた?」  …………。  ……………………………………………………。 「…………。  ギャグが通じません、ばあや」 「遺憾ながら、私めから見ましてもいまのは弁護の余地なく……いささかベタベタ過ぎではありますまいかと」 「頑張りましたのに」 「努力は成果を挙げてこそ努力と認められるものでございますよ、お嬢さま」 「……茶番はその辺で良いか?」 「ええ」  一息――その四半分にも満たぬ時間。  ライフルの銃口が代官を指していた。  最初から彼女が手に提げていた――  未だ硝煙をまとう銃口が。 「……ッ」 「この場であなたを殺すのは容易いこと。  けれど、そちらの腰巾着には多少の余命を許さねばなりませんね。その間に、お子さま方が危害を受けないとも限りません」 「あなたも同じ考えでいらっしゃるかしら?  わたくしを殺すのは容易い……けれど、殺すわけにはいかないお立場。違いまして?  長坂大尉」 「……何が言いたい」 「あら、こんな駆け引きも通じませんの?  困ったお方。脳細胞はあまり甘やかさない方がよろしくってよ」 「ッ!」 「代官殿! この場は……」 「〈おまけ〉《・・・》の方が察しは宜しいのね。頭のいい腰巾着とは重宝なこと。  類は友を呼ぶというけれど、割れ鍋に綴じ蓋とも言いますもの。良いのではなくて?」 「……巡察官殿。  話は呑み込み申した。この上は無用の挑発を避けて下さらんかな」 「あら?」 「主がどのように口舌を垂れ、儂どもの耳を楽しませてくれようとも……  この翁、〈いま幾人の敵から狙われているか〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、うっかり忘れるほど呆けてはおりませぬでな」 「……」 「……」 «……» 「欲はかかれぬが宜しかろう。  そちらのお申し出の通りにされるが最上と存ずる」 「……異存はありません。  そういうことで、宜しいですかしら。長坂大尉? 互いにここで争うのは望ましくない。お預けにしておくのが賢明と思いますけれど」 「……」 「代官殿」 「……わかっておる。  だが小娘。貴様は一度ならず二度までも俺を妨げた。誓ってこのままでは済ませぬぞ」 「済ませておいて下さいまし。  あなたのような殿方に執心されても嬉しくありませんもの。マイストライクゾーンからインコースに大きく外れてデッドボールです」 「残念でございましたな、大尉殿。  これにめげず、男を磨いて出直して来られませ。まずは細かいところから、ネイルケアなどお勧めでございますよ」 「…………。  弥源太」 「なんだ」 「良かったな。  今度もうまく逃げられたではないか」 「……」 「……そのまま腐るがいい。  さらばだ」 「……」 「……」 「まぁ、結構なお味。出汁がよく利いていて……うーん、たまりません。  こちらのおひたしも素敵ですこと」 「すみません……。  こんな粗末なものしかお出しできなくて」 「いいええ。  新鮮な野菜山菜、絶妙な炊き加減の御飯に手作りの味噌……」 「こういったものこそ最高のご馳走です。  ねえ、さよ?」 「まったくでございます」  人口が五割増え、簡単な紹介を済ませ、そしてそのまま食事の運びとなった。  ……特に他の話はしていない。俺も、弥源太老人も、訪れた二人も。今は必要ないことだった。  麦と米を半々で混ぜ込んだ飯に漬物を乗せて、大鳥香奈枝はほくほくと食べている。  なかなかの健啖ぶりだ。 「お武家様、お代わりはいかがですか?」 「頂きます」 「お武家様?」  香奈枝が小首を傾げる。  ……そういえば、疑問に思いながら、うっかり訂正する機会を逃していた。 「失礼。  自分は六波羅で地位を得ている者ではありませんので、そのようにお呼び頂かなくとも結構です」 「あっ、そうですよね。でも……  武者の方ですし。六波羅の人達より本当のお武家様って感じがしますし」 「やっぱりお武家様です」 「は。しかし」  そのような人間ではない事を、どうやって説明したものか。  言葉の選択に迷っていると、くすくすと笑い声。 「良いではありませんの。  言われてみれば、本当にお武家様って感じです。わたくしもそう呼ばせて頂こうかしら」 「御寛恕を」 「けれどいつまでも湊斗さまなんて堅苦しい呼び方はしたくありませんし。  もう少し柔らかい言葉でお呼びしたいです」 「……ご好意は嬉しく思いますが、であれば尚更、お武家様というのは無いのではないかと」  そもそもこちらは非公式警官で、向こうは軍人。  武家というなら彼女の方がよほど武家だ。 「そうかしら?  じゃあ、景明さまとお呼びしましょう」 「……」 「お許しくださる?」 「湊斗さまっ。よもやここで首を左右に振るような、空気が全く読めてない反応はなさいますまいな?  さよは湊斗さまを信じておりますよ!」  そんなことを言われても困るのだが……。 「きゃっ♪」 「好感度アップでございます」 「強ッ!?」 「きゃん。  景明さまってば、いけずなお・か・た♪」 「〈堪〉《こた》えてねぇー!?  こっちも強ッ!!」 「……ぽっ」 「がーん!?  ばあやっ、これはどういうことなの!」 「お嬢さま……。  忠の道と愛の道、どちらがより長く険しいのでございましょう?」 「ばあやーっ!」 「……」  単に、侍従殿なら年長者でもあるし、そのように名で呼ばれても心苦しくないと思っただけなのだが……。 「ずるいです景明さま、ばあやだけなんてっ!  わたくし絶対、景明さまってお呼びしますからね!」 「ほほほ。  お嬢さま、なんだかとても負け犬風味でございますよ」  ……好きにしてもらうしかなさそうだ。 「わたくしのことも、名前で呼んでくださいましね。景明さま」 「有難うございます。中尉」 「……いけず……」 「ちゅうい?」  隣のふなが真似をする。  興味津々なのか、食事の前からずっと、じーっと目を凝らして新たな来訪者を見つめていた。 「ちゅーい」 「はい?  なんでしょう」 「おっきいねぇ……」 「がはァッ!?」 「ああっ、お嬢さまが急性肺結核に!?」 「ふっ、ふふ、ふなーっ!  女の人になんてこと言うのーっ!」 「けほっ、こほっ、げほげほっ……!」 「あああお嬢さま、佳人薄命とは申しますが、かくもあっけなく……せめて安らかに逝かれませ。菩提はこのさよめが弔いますゆえ」 「し、し、死にませんっ。死ぬもんですかっ。  こっ、この程度の打撃で、大鳥香奈枝ともあろうものがっ……」 「さすがでございます。どうかお気になさいませぬよう。  たかだか純真な子供に素直な気持ちで単純な事実を指摘された程度のこと」 「ぎゃふッッ!?」 「お嬢さま!? 心臓病を併発されましたか!?」 「……」  香奈枝嬢の身長は見当で一七〇センチをやや凌ぐ。  確かに女性としてはなかなかの長身だ。ふなが感心するのも無理はない。  ……それを言われて彼女が虚心坦懐でいられぬのもまた、無理はないことだが。  通俗的価値観として、女性は小柄な方が愛らしいとされる。 «大惨事ね» (若干一名、煽っている人間がいるような気もするが) «けど正直、私も同感。  私が生きていた頃だと、男でもあれくらいの背丈はそうそうなかったもの» (最近ではそこそこ見掛けるのだがな) «食べているものが違うからでしょう» 「すみません、すみませんっ。  この子、本当に悪気はないんですっ。ただその、気が利かなくて……」 「ふ、ふふ。  いいんですのよ。わたくし、ちっとも気にしていませんから」 「ええ、ええ、お気遣いなく。  正直で嘘のつけない良いお子さまではありませんか。ねえお嬢さま」 「この銃の引き金の軽さを知っていて!?」 「ごっごっごめんなさい!!」 「い、いぃえ。何でもありませんのよ。  うふふふふ」 「ちゅーい、おっきー」 「そうでございますねえ、おおきゅうございますねえ」 「ふ、ふふふふ…………うぅぅ……」 «……むごい»  本当にな。 「で、でも、ほら。  お武家様と並ぶと丁度いいですよねっ」 「?」 「お武家様も立派なお体をしてますから。  お二人が並ぶと本当、絵になります」 「あら?」 「ほほ。  これは良いところに気付かれましたな」 「おーっ。  おにあい?」 「ぽっ」 「……」  俺と大鳥中尉?  あくまで体格のみを論ずるなら、確かに釣り合いは取れていると言えるかもしれない。  上背は俺の方が一回り以上勝る。  それ以外の面で釣り合わない部分が多過ぎるが……。 「あれは満更でもないという顔でございますよ、お嬢さま」 「どきどき」  俺のような男の横に、いかにも深窓の令嬢然とした女性を置いても釣り合いは取れないだろう。  それならむしろ、あの綾弥一条の方が似合わないだろうか?  ……なんだか、失礼な評価ではあるが。  本人にはとても言えない。 「む。あれは別の女性のことを考えている顔ですよ、お嬢さま」 「まっ。なんて憎たらしい」  ……俺に似合うのはせいぜい村正だろう。  冷たい鋼。  血の色の鉄。  地べたを這い回る虫の形。  温もりも柔らかさもない、ただの刃。  それが――俺には分相応だ。 «……»  ……夜が更ける。  食事が済むと、香奈枝は持参の楽器を奏で始めた。  ……最初に出会った時から、肌身離さぬあの巨大な楽器ケースは一体何なのか疑問だったが、蓋を開けてみれば答は呆気なく。そのまま、コントラバスだった。  進駐軍士官がなぜそんなものを持ち歩いているのか。  不思議がるべきではないのかもしれない。なにしろ侍従を連れているような女性だ。  何かにつけ型破りなのだろう。 «……?» 「良い音です」 「本当に……」 「ふわー……」 「……」  外には容易ならぬ敵がおり、  身には軽からぬ傷。  しかし、温かく和やかな一時。  ……ふと、思い出してはならぬものを思い出しそうになる。  思い出してはならない――遠い光景。  忘れてはならない――戦うべき現実。  今は休む。    しかし、それは安らぎに浸るためでなく。  明日の戦いのために。  今は、  眠る―――― 「ほいっ」 「はっ」 「ほいっ」 「はっ」  ふなが台の上に置いてくれる薪へ、鉈の重い刃先を落として割る。  ふなはそれを脇へのかせ、再び薪を置く。 「ほいっ」 「はっ」 「すいません、お武家様……。  薪割りなんかさせちゃって」 「自分の方よりお願いしたこと、どうかお気になさらず。  こうして軽く体を動かすのは良い〈慣らし〉《リハビリ》になるのです」 「ならいいんですけど……  大変じゃありません? あて、薪割りすると必ず次の日は筋肉痛になっちゃいますよ」 「それは腕の力で鉈を振るおうとするからでしょう」 「お武家様は違うんですか?」 「はい。  このように、腕の力は抜き」 「……鉈の重さを〈そのまま〉《・・・・》落とします。  これで充分、割ることができます」 「はー……」 「難しいことではありません。  腕の力で重い鉈を扱えば、筋を痛めます。このようにやられた方がよろしいでしょう」 「ご迷惑でなければ後程お教えします」 「そ、そうですか。  お願いしちゃおうかな……」  どこかぽやっとした様子になって洗濯を続けるふきの横で、こちらも薪割りを続行する。  既にここ数日分の需要は満たしていた。しかしもう少し、ストックを増やしておいてもいいだろう。  弥源太老人は家の中で仕事をしている。朝方は家の各所の修繕をするのが日課のようだ。  大鳥主従はいない。昨夜のうちに村へ戻っていた。  ――何かしら、手立てを考えなくてはなりませんね。  帰りがけ、香奈枝の残していった言葉がふと脳裏を〈過〉《よ》ぎる。  そう。事がこうなった以上、代官らはGHQに働きかけつつ時間を稼ぐ戦術に出る筈。  それを許しては村は救われない。  そしておそらく、俺の目的も達せられない。そんな悠長にしていれば〈時間〉《・・》が来る。  ……樹海に潜む敵を引っ張り出す策が必要だ。  思案を巡らせつつ、俺は薪を割った。 «調子は悪くないようね……» (ああ。傷口は塞がった。少々血が足りんが……何とかなるだろう) (後は体の動きを戻していくだけだ。  お前は?) «甲鉄の損傷は復元完了。  こちらも後は内部機能の調整だけね» (承知した) «…………» (……? どうした)  沈黙が伝わってくる――というのも妙な話だが。  通信を断ったのとは違う、押し黙る気配が、劔冑と連結する脳髄のどこかに届いていた。 «……責めて欲しいと、思っていたのよ» (責める……?) «忘れたわけではないでしょう。  昨日の不覚» (無論だ) «探査を怠り、気付いた時には敵は目前……。  これほどの醜態を晒した劔冑もかつてないでしょうね» (新手の襲来を予測していたなら、俺は周辺の探査を命じた。それで済んだ。  だが、俺はその予測ができなかった) (醜態を晒したのはお前ではなく、俺だ) «違う。仕手は目前の敵を打ち倒すのが務め。劔冑の務めはその補佐。武者の役割分担とはそういうものでしょう。  周辺の警戒なんて劔冑として当然の義務よ» (…………) «その当然の義務を、私は怠った……。〈二世〉《かかさま》や〈始祖〉《じじさま》が知ったらどれほど嘆くか。  貴方にもどう詫びたらいいのかわからない»  届く金打声は震えを伴っていた。  屈辱と、怒りの。すべて自分自身に向けられている。  ……成程。  そういうことか。しかし。 (詫びなどいらん。  勘違いをするな、劔冑) «……御堂?» (お前に役割など端から無い。  義務も務めもない。お前は只の刃) (〈只の道具だ〉《・・・・・》) «…………» (俺には仕手として劔冑を使いこなす義務がある。劔冑は使われていればそれでいい。  昨夕の俺はお前を使い損ねた。義務を果たさなかった。故に失敗の責任は俺にある) (わかるか? 義務にせよ権利にせよ責任にせよ、全て俺一人の物だ。〈お前には何もない〉《・・・・・・・・》。  当然だろう。奴隷に責任を押し付ける主人などおらん) «…………» (愚にもつかぬ思案は捨てろ。  お前はただ、己の刃を砥いでいればいい) «……そう。  貴方がそう言うのなら……そうしておきましょう»  脳内に打ち響く硬質の声が絶える。  意識を視界へ戻す――ふと見れば、積み上げられた薪は随分な量に達していた。  わずか三人の暮らし、これだけあれば当分炊きつけに困ることはないだろう。  次の薪を抱えて問うように見上げてくる幼い視線へ、頷きを返す。 「このくらいにしましょう」 「いっぱいわった!」 「はい。  お手伝い、ありがとうございました」  そう告げて、一礼をした時。  鈍い〈軋〉《きし》み音がして、家の戸口が開いた。 「御堂。  ……これはまた、結構な量を」 「御令嬢にお手伝い頂いたので。  手早く片付いてしまいました」 「てつだったー!」 「そうか。よくやったな。  ……それで御堂。少し留守を頼んでも良いかな」 「どちらかへお出掛けですか」 「うむ。ちと麓まで下りてくる。  昼までには戻れるだろう」 「承知致しました。  留守をお預かりします」 「すまんな。  よろしく頼む」  危なげのない足取りで、山道を下りてゆく老人。  脇に少々の手荷物を抱えていた。小さな風呂敷包み。  その端から何か、白いものが突き出している。  白い――花。  墓参りだろうか?  〈彼岸会〉《ひがんえ》にはいささか遅過ぎるが……。  ――〈四金〉《しこん》の司を招き願い奉る。  ここに御霊送り御返し候えば遊行の道にこれを拾い百幸千福授け給え。五方化徳共々に在れ。  大幸金神、大恵金神、願わくば北斗八廊に留まり、〈御徳御恵〉《おんとくおめぐみ》、天上天下へ下し給え。  奇一金心、全一金光、護方金輪、殺方金掌……  聞く人間が聞けば首を傾げたかもしれない経文を、蝦夷の老人は延々と唱える。  短い文言を繰り返し、繰り返し。  背後からついと影が差した時も、声が途絶えることはなかった。  人ならぬものに向けられた言葉の羅列は続く。背後に立った者も、あえて止めようとはしない。  数十度、いや、百度も繰り返したろうか。  ようやく老人の詠唱が止んだ時、背後に立った男はおもむろに口を開いた。 「……金神祭詞か?  浄土宗の寺で唱うようなものでもあるまいに。和尚は何も言わんのか」 「人を救う神仏に分け隔てはない……とよ。  それに、うては他の祈りを知らん」  昨夜、刃を突きつけ合った男と邂逅して、老人の顔に驚きの色はない。  今日、この場で会うことと、昨夜の出会いとは意味が違う。驚きも〈戦慄〉《おのの》きもここでは不要。 「一媛がここへ帰ってきてから、ずっとそうしておる」 「……ふん。  考えてみれば、あやつにはふさわしいか。何しろ金神の花嫁だからな」  苦いものを含んだ笑み。  老人も苦笑をこぼした。  男の一言は過去の扉を開く鍵。  ――遠い昔。  彼らは若い男と、若い蝦夷だった。  傍目にはいかにもおかしな二人であったろう。  彼らは出会いの最初から互いを親の仇のように強く意識し、あらゆる契機をとらえては争い、命に関わる怪我を負わせ合うことさえ一再ではなく、  それでいて、互いに遠ざけ合うことがなかった。  圭角が強過ぎる若い男と付き合う村人は若い蝦夷のほかにはもう一人だけであり、蝦夷と好んで関わろうとする者も若い男のほかには一人だけだった。  そのもうひとりが〈一媛〉《いちひめ》。  二人と同じ年頃の、美しい娘だった。  男と蝦夷は思春期を経て、娘の美しさの本当の意味に気がつき、ほどなく、それは自分のためでなくてはならないと考えるようになる。  そして、そう考える者が己だけではなく、もう一人いることもやがて知った。  二十歳を数えたある日、二人は長年の争いに決着をつけるべく、最後の勝負を約して杯を交わした。  しかし、翌朝。  決闘の場に現れたのは三人。  目を〈瞠〉《みは》る若者二人に、彼女、一媛は告げたのだった。 『あはは! そうか、あたしは強い方の嫁になるのか。  でもおまえ達がどれほど強くても、お山のこんじんさまには勝てないだろうな? それじゃあ仕方がない。  あたしは神様のもとへ嫁に行くことにするよ』  若い蝦夷は己を恥じ、山へ帰った。  若い男は諦めず、なおも蝦夷に勝負を、娘に結婚を求めたが、どちらも応じることはなく。  娘が村を去ると、やがて男も姿を消した。  ……それだけの話。  三十年前のこの村で、そんな出来事があった。 「あやつ、結婚はしておったのか」 「しなかったようだ。  村を出た後は駿府の兄夫婦の家で暮らしていたらしいが」 「ふん?」 「七年ほど前に、その家が勤めをしくじって潰れたので、鎌倉にいた甥夫婦の遺児を引き取りがてらそちらへ移り住んだそうな。  全部、和尚の受け売りだがな」 「その後は?」 「村に帰ってきたのは三年前だ。  白い骨になってな。ここへ埋めろと遺言を残していたらしい」 「……あやつ。  まさか、あの戯言の通りにしたというのか。結婚もせずに死に、お山を眺めるここへ己を埋め……」 「さあな。  わからぬ」 「……」 「だが、右京。  元よりなれは、あれを戯言とは考えていなかったのではないか」 「どういう意味だ」 「なぜ山を掘る」 「……」 「金が欲しいのか」 「あって困るものではないからな」 「なら他にいくらでも殖産の方法はあろう。  怪しげな伝承一つを頼りに山師の真似などせずともな」 「……」 「一媛はもうおらぬぞ」 「おるさ」 「右京……」 「あやつはお山の祟り神の嫁になると言った。  なら、神を殺せば一媛は俺の手に入る理屈」 「…………」 「神の鉱脈があるならそれを奪う。  何も無いなら唾を吐いて嗤う。  どちらでもいい。そうなれば、俺の勝ちだ」 「……やはり、そういう存念か。  昔と何も変わらん。愚かな男だ、なれは」 「変わったさ。昔は己の愚劣ぶりを認められなかったからな。いらぬ格好をつけていた。  今は違う」 「どのような形でもいい。  俺はあやつを手に入れる。手に入ればそれでいい。骸であろうと、骸すらなかろうと」 「何をしてでもな……。  神にも、貴様にも、邪魔はさせん」 「……愚かな」 「愚かよ」  風がそよぐ。  緩やかな風。二人の隙間をやわらかく抜けてゆく、それはしかし、大河のように両岸を隔ててもいる。  もはや対岸に言葉は届かず、ただ視線を交わすのみ。 「さて……」 「行くのか」 「お陰をもって、今の俺はのんびりと散歩を楽しめる身分ではないのでな。  まあ、ここ一両日で片付くことだが」 「その前に、〈深紅〉《あか》い武者がなれを殺しにゆくだろう」 「返り討つまでよ」 「……右京」 「なんだ」 「〈祟り神は〉《・・・・》、〈もう降りているのかもしれぬ〉《・・・・・・・・・・・・・》」 「…………何?」 「もし、そうであれば……  なれの所業とて虚しいばかりよ」 「隠れ潜むのはよせ、右京。さっさとうての元へ参れ。相手をしてやる……。  災厄が避けられぬものならせめて、悔いの種は減らしておきたいもの」 「……世迷言を。  何を言うかと思えば」 「それは挑発のつもりか、弥源太。  成程、貴様らとしてはあの忌々しい小娘のいる間にけりをつけたかろうがな。こちらは逆。奴を追い払った後で、料理してくれるわ」 「……」 「待っておれ。  その首は、必ず――」 「…………ん?」 「――――」 「……な、…………」  その、現れた人影を見て。  二人の老人は愕然と、我を忘れた。  少女だった。  学生服という、いささか場違いな姿。  それが奇妙に似合ってもいたが。  少女は訝しげな眼差しで二人を見回している。  彼らの顔に思い当たるものがないのは明らかだった。  だが、二人の側は違う。  その口が同時に、声なく、同じ一語を形作った。  ……一媛。  それきり立ち尽くす老人らに、少女の方では焦れたらしい。唇を曲げると、胡散臭げな声を発した。 「……誰だよ、あんたら」 「あ、いや……」 「うむ……」 「……? なんだか知らねぇけど。  そこ、うちの墓なんだよ。邪魔になるからどいてくれ」  言うや、少女は邪険な仕草で二人を押しのけ、墓の前に陣取った。  その視線がふと、一ヶ所に止まる。  真新しい白菊。 「これ、あんたらか?」 「……ああ……」 「なんだ……命日の墓参りに来てくれてたのかよ。  それならそうと言ってくれ」 「ありがとう。  毎年誰が花を生けてくれてるのか、気にはなってたんだ」 「……」 「……失礼、その。  お嬢は、一媛の……?」 「一媛?  ……ああ、婆さんの名前か」 「そういやそんな立派な名前してたっけな。  口より先に蹴りが出る因業婆のくせに」 「……」 「あたしは一条。勘違いされる前に言っとくけど苗字じゃなくて名前だ。  名付け主はこの墓の下で眠ってる奴な」 「では……綾弥一条……殿か」 「あたしはこの婆さんの……なんて言うんだ?  孫じゃなくて、はとこじゃなくて……あー、つまり、婆さんから見ると甥の子供になるんだけど。あたしから見ると大叔母」 「〈姪孫〉《てっそん》……ではないか」 「又姪とも言うな……」 「じゃあそれ。  一媛ばばあの又姪の、一条だ」 「……」 「……そうか。  そうか…………」 「あんたらは?  婆さん、生まれ故郷のことは一度も話してくれなかったから。この村のことはさっぱりわからねぇ」 「ここの坊さんに聞こうかとも思ったけど、どうも坊主ってのはな……。  宿を借りてる身分で何だが、あのはげ頭を見てると背筋が痒くなってくるんだよなぁ」 「……ははっ。  そういえば昔……一媛も似たようなことを言うておった」 「そうなのか?」 「あの頭を見ると、引っぱたくか、撫でるかしたくてうずうずしてくるとか」 「……変な血が遺伝してるな。うちの一族は」 「ふっふ……」 「爺さんたち……で、いいんだよな? 蝦夷のあんたも。婆さんの知り合いなら若いわけねぇし。  あんたら、婆さんの友達だったのか?」 「あ……うむ。  そうだな。遊び仲間だった」 「よくあんな奴と付き合えたな。  聞いたことはねぇけど、あの婆さんきっと昔から、とんでもない性格してたろ」 「……どうかな。  うてらもあまり人のことは言えなんだしな。のう、右京」 「あ、あぁ……そうだな」 「はっ。じゃあ、変人三人組か」 「そんなものよ。  三人で、色々なことをした……と」 「名乗りが遅れたな。すまぬ。  うては弥源太。こやつは……右京と申す。どちらも今はただの老いぼれよ」 「……ふぅん?  けど、そっちの……右京爺さん」 「その格好……  六波羅の軍装だよな?」 「……」 「いや、それは……」 (右京、適当に誤魔化せ。  口裏は合わせてやる) 「……」 「ッ!? なっ……」 「右京!」 「……」  男の手が少女の顎をつかむ。  そのまま、乱暴に引き寄せた。 「なに……しやがる! てめェ!!」 「……似ている。  いや、そんなものではない……な。  まさしく瓜二つ……」 「なんと、俺の前に戻ってきたかよ、一媛!」 「あぁ!?」 「右京! その手を放せ!」 「娘……いや、一条。  一条と申したな」 「一条。  俺と一緒に来い」 「……ボケてんのかてめぇ。  脳に蛆湧いたんだったらとっとと養老院へ行きやがれ!!」 「くふっ。  中身も全く同じだな。易々とは意のままにならぬ」 「誰がてめぇのような山犬野郎に……」 「しかし俺とて、裸一貫の昔とは違う。  一条、俺のもとへ来れば、楽な生活くらいはさせてやるぞ。この時勢ではほんの一握りの者にしか許されぬ暮らしをな」 「知るか! 放せよ!」 「口先ではない。  俺は六波羅大尉長坂右京」 「察しの通り、幕軍の将校だ。  俺の身内となればそこらの屑虫どものように御上の顔色を窺ってこそこそ生きる必要はなくなる……」 「……」 「欲しいものがあればくれてやる。男遊びがしたければそれも好きにしろ。  ただ、俺のものでありさえすれば――」 「死ねよ」 「……ふ!  顎狙いの掌底を囮に、股間へ膝か」 「容赦のかけらもありゃあせんな。  睾丸が割れるどころか恥骨まで砕けて死ぬぞ、今のは」 「殺そうとしたんだよ。  聞いてなかったのか、ぼけ老人」 「ならば惜しかったな。  今の技……一媛から習ったものであろう?若い頃にも一度食らいかけた覚えがあるわ」 「……ち。  仕損じるなよ、婆さん」 「一条。  俺のものになる気はないのか?」 「たりめぇだ阿呆!  あたしが今この世で一番嫌いなのは六波羅なんだよ! そのてめぇがなんだ? 〈モノ〉《・・》になれ? 聞くだけでも死にたくならぁ!!」 「そうか。  ……ならば仕方あるまいて」 「……!」 「〈どんな形でも構わぬから手に入れる〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。  先刻、そう誓ったばかりでな!」 「ぁん?」 「こういう事よ!」 「――ッ!?」 「ぐっ……!」 「爺さん!」 「右京……血迷うたか!」 「……くっ。くっくっ。  わかっておるよ、弥源太」 「ここは一媛の墓前……。  血で汚すつもりはない。今のは戯れだ」 「……」 「だが、言うたことは戯れではないぞ。  一条、お前は俺が貰い受ける」 「殺してでもな」 「野郎……」 「あの時はこの決断ができなかった。  己の程度に〈幻想〉《ゆめ》を持っておった」 「今は違う。  馬鹿には愚行が間尺相応。賢く生きて無念を残すより、愚劣を通して笑ってくれよう」 「右京!」 「お山の神を殺した後で。  もう一度会おうぞ、一条」  誰何の声が響く。  本堂の方角からだった。穏やかならぬ物音を、和尚が聞き咎めたのだろう。 「……ふふ。  どうやら何が何でも、祟り神めはこの手で暴いてやらねばならなくなったわ」 「……」 「神を殺し……花嫁を奪う。  邪魔はさせぬ。誰にも、邪魔はさせぬぞ」 「…………ち。  何なんだ、あの野郎は……」 「…………右京…………」  弥源太が左肘に負った傷は深手ではなかった。  和尚が用意してくれた焼酎を傷口に注ぎかけ、包帯を巻き締める――それで治療は済んだ。  数日、経過に気をつけていれば癒えるだろう。 「これで良し」 「すまんな」 「謝られる筋合いじゃねぇ。  助けられたみたいだしな」 「あやつがどういう挙に出るか、予測しようと思えばできた。  うてが間抜けておらねば、嬢を危険な目に遭わせずとも済んだのだが……」 「売られた喧嘩を買ったのはあたしだ。  あんたにゃ関係ない……てのに割り込んで怪我までしたのはお節介だけどさ」 「格好は悪くねぇよ。あの〈腰抜け〉《ヘタレ》に比べりゃ」 「へたれ?」 「いいいい、気にしないでくれ。ああいう時に何もできない玉無し野郎をひとり知ってるってだけの話だ。考えたくもねぇや」 「…………。  あやつ……右京のことだが……」 「…………」 「こうなっては話さぬわけにはいかんが……  どこから話したものかな」 「察しのついてることはあるよ。  あの野郎、婆さんに惚れてたんだな」 「……やはり、わかるか」 「なんだか妙な御託を並べてたが、要はそういうことなんだろ。  しかし、わっかんねぇな……あんな婆さんのどこが良かったんだか」 「……」 「あんたもか?」 「……うむ。  まあ……その、な」 「いい歳の爺さんが照れんなよ。  ……ち。そんなにいい女だったのか、一媛婆さんは」 「……うてらにとってはな。  あの頃はほかに何も見えなんだ。一媛さえおれば、ほかは何もいらぬと思うておったな……」 「……へっ。聞いてる方まで照れるぜ。  それで、どうなったんだよ? 三角関係の修羅場だったんだろ。婆さんと、あんたと、あの野郎で」 「袖にされたよ。二人ともな。  そうして一媛は村を出た……その先のことは嬢の方が詳しかろう」 「あんたらは?」 「右京も村を去った。  うては山に引き篭もり……数年して、藤倉の蝦夷村から嫁を貰ったよ。それからすぐに子が生まれ、孫が生まれて」 「……気付けば三十年。  倅夫婦は蝦夷らしく早々に死んでしもうたがな、孫二人は元気な盛りよ」 「ふぅん……。  あんたはもう、婆さんのことは吹っ切ったのか?」 「吹っ切った……さて、どうだろうな。  一媛を忘れたことは片時もない」 「……」 「忘れたことはないが……。  いつの頃からか、一媛のことは苦い思い出ではなくなったな」 「酷いふられ方したんだろ?」 「ふっふ! 確かに。お前は最低の馬鹿たれだ、出直して来い、と面と向かって言われたようなものだからなぁ……。  酷いといえばこれ程酷い失恋もなかろうさ」 「うへ。やっぱりばばあ、昔からそうか」 「だが、な……今はただ、感謝しておるよ。  一媛のお陰で、うては紙一枚分だけ、馬鹿ではなくなった。〈まわりを見る〉《・・・・・・》ということを教えてもろうた」 「何か一つしか見ない者は誰も幸福にできん。  うてが人並みに家族を持てたのは、一媛のお陰よ……」 「そんな大したもんじゃねぇと思うけどな。  あの婆さんのこった。単にむかついたから罵っただけで、別になにも考えてなかったんじゃねえの?」 「ははは……  そうかもしれんなぁ……」 「……ち。  せっかく婆さんの古い知り合いと出会えたんだ。悪口話で盛り上がれるかと思ったのに、調子狂うじゃねぇか」 「嬢は、一媛が嫌いか」 「嫌いに決まってんだろ!  あのばばあはな、てめーは日がな一日ごろごろしてやがるだけのくせに、あれやれこれやれとあたしにはやかましくて、しかも」 「やり方にいちいち文句つけるんだが、その文句が日によって違うんだ! 廊下は水拭きにしろっていうからそうしたら、次の日にはこれじゃ滑るだろ、馬鹿、空拭きにしろとか」 「……」 「打ち込みの強さを鍛えるには木刀で庭木を打てっていうからそうしてみれば、その日の夕方にはこの阿呆なんでそんな近所迷惑な事してやがるとか抜かして〈肘打ち〉《エルボー》入れてきたり」 「……くくっ」 「笑い話じゃねぇーーっ!!  たまんなかったんだぞこっちは!」 「いや、すまぬすまぬ。  何とも一媛らしい話だと思ってな」 「個性で済む話かよ。  あれが虐めでやってたんならこっちもやりようがあるのに、ばばあ、単にその時その時の思いつきで言ってやがったってだけだから」 「言い返しても、そんなの忘れたで済まされちまう! どうしろってんだよ! 殴り合うしかねえじゃんか。一度も勝てなかったけど。あの熊、一体何で出来てやがったんだか」 「それであの婆さん、くたばる時はぽっくり逝っちまったから、とうとう最後まで仕返しできなかった。ったく、畜生……寝たきりのばばあをいびってやるつもりだったのにさ」 「……そうか、そうか。  どうやら一媛は、心楽しい晩年を過ごせたようだな……」 「〈ばばあは〉《・・・・》、なっ。  あたしはいい迷惑だ」 「ふふ。  そのわりに……嬢は一媛の言うことをよく聞いていたようだ」 「別に……」 「そうかな。  そう聞こえたが……」 「…………。  あたしがなんで婆さんのとこで暮らしてたか、知ってるか」 「……うむ。  綾弥の本家……嬢の家に、災難があったというようなことは耳にしておる」 「一言で言っちまえば、あたしの父様の責任で、綾弥の家は潰れたんだ。  ……父様の葬式は酷かった。親戚で泣いている奴は一人もいなかった。みんな文句だけ」 「どいつもこいつも、父様の遺体に唾を吐くために集まったみたいだった……。  でも、あたしは何も言えなかった。父様に約束させられてたから。言い訳するなって」 「……」 「その時に……あのばばあが来たんだ。  うだうだ抜かしていた連中を全員外に蹴り出して、婆さんはあたしに言った」 「おまえの親父は間違ってない。  融通の利かない馬鹿野郎だけど、間違ってはいないって」 「……そうかい。  一媛がそう言うたか」 「うん。  そうして葬式が片付いたら……いつの間にか、あたしは婆さんと暮らすことになってた。  それだけ。それだけなんだけどな」 「あの婆さんはいい加減で、言うことはその場その場でころころ変わりやがったけど……  それでも多分、〈間違ったことは一度も言わ〉《・・・・・・・・・・・・》〈なかった〉《・・・・》んじゃないかって……そう思う」 「うむ……。  うむ…………」 「……ちぇ。ばばあの悪口のはずが、なんでこうなってんだよ。  爺さん、あんた変な聞き上手だな」 「はっはっはっ。  惚れた女子のことだ……少々贔屓が入ってしまうのは、勘弁してくれ」 「惚気やがって。  …………なあ」 「うん?」 「あたしは婆さんの若い頃に似てるのか」 「……そうだな。  並んだら見分けがつかぬかもしれぬ程には」 「それで、あの六波羅野郎はあたしが欲しいのなんのと寝ぼけたこと言いやがったのか」 「……」 「あんたと違って、あっちの山犬は婆さんにふられたことにまだこだわってるんだろ?  三十年経っても」 「……そういうことになるかな。  あやつはつい先頃、代官として村へ帰ってきた。そのわけがまさか、昔の決着をつけるためだとは、うてもすぐには気付かなんだが」 「執念深い野郎だな」 「〈純粋〉《ひたむき》なのよ。  昔から……良くも、悪くも」 「野郎は何をしようとしたんだ? 今更……」 「……くだらぬことを。  だが、奴の企みは挫ける。GHQから来た変わり者の巡察官に失脚させられてしもうたからな。今は逃げ回っておるが、すぐ捕まる」 「だから、嬢。  それまでは余り外を出歩かぬが良い。いや、本当は今すぐに鎌倉へ帰った方が安全なのだが……」 「けっ。  あんな糞野郎のために、どうしてあたしが予定を変えなきゃならねぇ」 「……そう言うような気はしたよ。  嬢の予定は?」 「婆さんの命日を挟んで二泊三日。毎年そうしてる。  昨日来て、今日が命日で、明日帰りだ」 「そうか……明日には帰るのだな」 「ああ。  もっともあの山犬、あたしが鎌倉に帰ったくらいで諦めるようなツラじゃなかったからな。追ってくるかもしれねぇか」 「……」 「へっ、それならそれで構うかよ。暇潰しに相手してやる。  いや待ってるのも面倒か。いっそ、こっちから行って――」 「……無用よ、嬢。  奴との決着はうてがつける」 「爺さん?」 「あやつ……長坂右京とは因縁がある。  うてがこの手で決着をつけねばならんのよ。いかに嬢といえど、これは譲れんな」 「……年寄りが気張るといいことねえぞ」 「なに、奴も年寄りさ。  案ずるには及ばぬよ」 「……ち。  そういう顔されると何も言えなくなる。  ばばあと同じだ……」 「…………。  嬢。うてらのことなど、気にしてくれるな」 「うてらには過去だけよ。昔にしがみついて、今更どうにもならぬことにああだ、こうだと言うておる暇人どもさ。うても右京も。  嬢は若い。老輩などに構わず、〈未来〉《さき》へゆけ」 「だが……  嬢に会えて良かったよ。本当に良かった。  これも一媛の導きかな。とすれば、感謝の種が一つ増えてしまったわ」 「ふふふ。  これではあの世で会っても、また頭の上がらぬことになりそうだ……」 「弥源太爺さん……」 「……若人の時間をいつまでも貰っていては悪い。そろそろゆくよ。  もう会うこともないかもしれぬが……達者でな、嬢。一媛と同様、嬢のことも忘れんよ」 「……あ、……」 「…………」 「……ち。言うだけ言って……。  これだから爺婆は苦手だよ……」  山の中腹にある蝦夷一家の家屋から、樹海を見渡す。  肉眼には殊更、注意を引くものはない。まさしく海のように広がる木々の緑があるばかりだ。    が、 «まずい……かもしれない» 「……」 «どうも〝卵〟の危険度が高まっているような……嫌な感じがする。  孵化が近いのかも……»  村正の声は常よりもやや固い。  今朝の話、道具と呼ばれたことが影響しているのか。  であるなら、それで良いが。 「今日中にも、か?」 «……そこまで切迫してはいないけれど。  明日のうちには……もしかすると……» 「……ぬぅ」  思わず、唸りが洩れる。  事態に余裕があるなどとは元々見込んでいなかったが、予想以上に、状況は厳しいのかもしれない。 «少し様子を見てくる» 「ああ」  音もなく、村正が森へ向かう。  影に溶け込む姿を見送りながら、俺は思案した。  単純な探索は論外だ。  既に昨日とは状況が違う。敵がいつまでも同じ場所に留まっているわけがない。  あてもなく探すにはこの山林は広過ぎる。  やはり、策が必要だ。  この樹海のどこかに潜伏しているのであろう敵を、燻し出す方法……。  容易ではない。  何しろ敵は今、時間を稼ぐことを目的としている。これはおそらく確かだ。雪車町一蔵を使ってGHQに工作し、香奈枝を排除する、他に活路はないのだから。  大鳥巡察官が村にいる間は代官らは手出しできない。彼女に危害を加えればGHQという生命線を失う。  だが彼女がいなくなれば後は好き放題だ。  村側としては、巡察官がいる間に代官を排除できなければ未来はない。彼女が去れば代官は勢力を回復し、抗うことは難しくなり。仮に反抗に成功したとしてもそれは一揆、村による幕府への反逆となってしまう。  つまりは破滅。  しかし今ならば、大鳥巡察官が代官排除の全責任を請け負ってくれる。今だけが村にとっては勝機。  俺にとってはまた事情が違うが、結論は同じだ。  こちらにとっては今こそが勝機。  代官らにとっては今は雌伏の時。    ……この〈理〉《ルール》、敵は完全に理解しているだろう。  それをどうやって引っ張り出せる……? 「……御堂」 「これは、弥源太老。  お疲れ様です」 「御堂もな。  様子を見ておったのか」 「は。  炊事の煙でも上がりはせぬかと」 「ふふ、そううまくはゆくまい。  それにそんなものが見えたとしても、妻女山はもぬけの空……で、あろうさ。奴らにも知恵はある」 「全くもって」 「劔冑は家の中か」 「いえ。  御老と入れ違いで、森へ様子見に」 「……そうか。  つかぬことを尋ねるが、御堂」 「はい」 「あの劔冑とは結縁して長いのかな」 「〈然程〉《さほど》には。  今より二年前になります」 「……ほう。まだ二年?  では〈戦〉《いくさ》の経験も相応の……?」 「どうでしょう。  平穏無事な二年ではありませんでしたから」 「〈装甲戦闘回数〉《ばかず》は如何ほどになろうかな」 「一九回になります」 「…………何処の古参兵だ、なれは。  さぞ慌しい二年間であったのだろうな」 「そうですね……。  光陰、矢の如くに」 「しかし、それだけ装甲を重ねているにしては……御堂、なれはあまり劔冑のことを信頼しておらぬようだな?」 「……? とは?  ご主旨が今ひとつ把握できません」 「昨日の話によれば、代官に与する乱破者と、もう一騎の伏兵に不覚を取らされたとか」 「はい」  昨夜のうちに、墜落へ至った顛末のあらましは説明していた。 「さわりしか聞いておらん癖にこんなことを言うのも何だがな。  御堂の敗因は、劔冑との間の齟齬にあるのではあるまいか?」 「……齟齬」 「昨日からなれとあの赤い劔冑を見ておると、どうも……な。  どこか、うまく噛み合っておらぬ気がするのだ」 「……そうですか。  そうかもしれません」  今朝、考えの食い違いが明らかになったばかりだ。  弥源太老は慧眼というべきだろう。 「しかしご案じなく。  心当たりは確かにありますが、既に解決を済ませています」 「と言うと?」 「余計な考えを抱いて刃を鈍らせるなと言い含めました。  己を道具と自覚しろと」 「…………。  それでは、いかぬであろう」 「そうでしょうか」 「劔冑は道具……それは、事実。  しかし〈魂〉《こころ》を持つ道具であることを忘れてはならんのではないか?」 「関係ありません」 「……御堂」 「こころがあろうがなかろうが、道具は道具。  仕手は道具を使い、使うことによる責任の一切を負う。いかに使うか考え、決め、行い、結果を受け止める。これは全て使い手の役割」 「道具はただ、使われるだけです」 「…………。  どうあっても、そうでなくては……ならぬのかな」 「なりませぬ」 「……。  わかった。これ以上は言うまい」 「ご忠告には感謝致します。  礼を失した応答、どうかお許し下さい」 「いや、この爺こそ出過ぎたことを申した。  口うるさい年寄りの小言と思うて聞き捨てにしてくれ」 「何条もって、そのような事」 「この先はもう少し有益な話をしよう。  御堂、代官どもに対する良い手立ては何ぞ思いついたかな?」 「なかなか。  格別、名案と呼べるものは浮かびません」 「そうか……。  では一つ、うての思案を聞いてくれるか」 「は。是非とも」 「うむ。簡単に言えば、だ。  うてが考えるところ、彼奴らを釣れる餌はひとつ――――」  村長の案内で香奈枝の居室を訪問すると、丁度立て込んでいたところらしく、騒がしい物音に耳朶を打たれた。  どうも間が悪かったようだ。 「これはこれは、湊斗さま。  ようこそいらっしゃいました」 「どうやらお忙しいご様子。  出直した方が良くありましょうか?」 「そのようなことはございません。  ささ、どうぞこちらへ。すぐに茶をお淹れします。村長殿も宜しければご一緒に」 「どうかお構いなく。  では、失礼して」  勧められた席に腰を下ろす。  そうして見回せば、騒々しい理由はすぐに判明した。  香奈枝が何かの器具を手に、大きな箱のようなものと向き合っている。新聞紙を続けざまに引き裂くような音はそこから発していた。  無線機だ。  そして、騒音はよく聞いてみれば―― 「湊斗さまは、英語にはご堪能ですか?」 「人並みよりも多少、という程度でしょう。  自分の生地は〈鳴滝市国〉《ネーデルラント》ですので、いささかは」 「……まあ!  それは……意外でございました。てっきり、生粋の大和の方とばかり」 「〈新大陸〉《ネオ・ブリテン》の血が四分の一ほど流れているだけですし……それに生地で過ごしたのはほんの数年ですから。  そう思われるのもご無理はありません」 「この会話も、ほとんど聞き取ることはできませんね。流暢過ぎます……断片的に単語を拾う程度が、関の山」 「さようでございますか。  では憚りながら、このさよが通訳など」 「は……?」 「……正確に報告しろ、大鳥中尉。  貴官の行動は〈欠地王〉《ザ・ラックランド》の事跡に倣う意味不明ぶりだ。私には到底理解し難い。納得のいく説明を求める」 「あら、どうしたことでしょう。わたくしは〈獅子心王〉《ライオンズハート》の戦いのように単純明快な振舞いをしているつもりでしたのに。  説明なんて一言で済んでしまいましてよ?」 「言ってみろ」 「悪代官がいたので退治しました」 「私は〈大和式の冗句〉《ジャパニーズジョーク》には詳しくないのだがね」 「まあ。それはいけません、コブデン中佐!  仮にも民政局の重鎮たるお方として、現地の風俗にも詳しくなくては――及ばずながら、わたくしがご教授いたしましょう」 「隣の家に〈垣根〉《サークル》が出来たってねぇ。  〈へぇ、〉《Hey,》〈かっこいー!〉《Sir Cool!》  ……さ、まずこの面白さを理解するところからどうぞ」 「…………好意は有難いが、どうやら私には一生掛けても無理のようだ。諦めよう。  それで? 私はこのまま延々と、限りある勤務時間を貴官一人に提供し続けるのか?」 「あら、これはわたくしとしたことが。  お忙しい中佐にお手間を取らせて申しわけありませんでした。これにて失礼いたします。それでは、また――」 「報告を済ませろ!」 「悪代官が」 「それはもういい!  最初から、わかるように話せ」 「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。  おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」 「何の話だ」 「今回の事件を最初から、聞き手が飽きないよう脚色を交えて物語仕立てにしつつお話ししているつもりなのですけれど。  この後、桃から武者が産まれる超展開へ」 「……〈わかった、わかった。もう結構だ。〉《OK,OK.No thank you.》  貴官に適切な報告をする能力がないというのであれば仕方ない。私の把握している情報のみを頼りに判断を下すとしよう」 「最初からそうなさっていればよろしいのに。  〈英国騎士〉《ジェントリ》は本当に素敵な方々。ちゃんと、〈無駄な手間〉《・・・・・》を踏んで下さいますもの」 「ああ……身体的あるいは知的に劣悪な者と言えど厭いはしない。むしろ保護する。  〈貴顕の義務〉《ノブレス・オブリージュ》のうちだ。貴官は感謝した方がいい」 「それはもう、心から!  わたくしより身体的あるいは知的に優秀なお方に感謝を。ところで中佐? 重さに耐えかねて壊れた椅子の修理はもう済みまして?」 「……造りが雑で壊れた椅子の修理なら、な。今は快適にしている。気遣いは不要だ。  そんなことより貴官の話をしようか」 「あら、何やらこの胸に響いてしまうお言葉。  ペニンシュラの一室でも予約して下さったのかしら?」 「生憎とそこまで手が回らなくてな。  営倉で我慢して頂こうか?」 「他でもない中佐のお誘いとあれば。  けれど困りました。営倉といえば軍務上の失態を犯さなくては入れない桃源郷」 「巡察官任務を果たしているだけのわたくしにその資格がありますかしら?」 「よもやGHQの方針を理解していないとは言うまい?  六波羅幕府の政治には不干渉。貴官の行動はこの方針に対する明確な違背だ」 「方針なら勿論、理解していましてよ。  〈大和国民の平安を確保するために〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、〈幕府を〉《・・・》〈信頼して一切を委ねる〉《・・・・・・・・・・》。  そういう方針でしょう?」 「…………」 「その方針に異論なんてありませんとも。  幕府も人の組織。誤りを犯すことも〈偶には〉《・・・》あるでしょうけれど、そんな場合のために、わたくしたちが監督しているんですもの!」 「この巡察官制度がそう。  統治状況を実際に見て回り、もし間違いがあれば正す。なんて素晴らしいんでしょう!  わたくし、この任務を誇りに思います」 「……ッ……」 「中佐? いかがなさいまして?  わたくしの言ったことに何か間違いでも?」 「……これ以上の会話は無駄のようだ。  大鳥中尉。貴官の巡察任務の中止を命ずる」 「あらら?  それはいったい、いかなる理由でしょう」 「説明する義務は私にはない。  命令だ、大鳥中尉。これより直ちに司令部へ出頭――」 「あら? もしもし? もしもーし。  どうしたのかしらー、急に通信状況が悪くなりました。中佐のお言葉がさっぱり聞こえません」 「中尉!」 「あらあら大変どうしましょう」 「…………」 「…………」 「さよ、大変。無線が壊れてしまったみたい。  これでは司令部の指示を受け取れません」 「何というアクシデントでございましょう。  しかし仕方がございません。ここは非常の措置として、お嬢さまご自身の判断で行動を決められませ」 「そうするしかないのかしら。  ああ、困ったこと」  窓を開けて、銃口からたなびく煙を外へ流しながら悲痛な声で慨嘆する大鳥中尉。  その後ろで、大穴を開けられた無線機が何やら火花を散らしていたりする。  ……………………。  無茶苦茶だ。 「あら、景明さまっ。  いらっしゃいまし」 「……お邪魔しております」 「お聞きでしたのなら話は早いです。  こういう事情で、わたくしはこれから独自の判断で行動することになりました」 「具体的には?」 「巡察官は原則として司令部との連絡手段を確保していることが必須です。  まずは無線の修復を試み、それが不可能となれば帰投しなくてはなりません」 「今日一日は無線の修理に費やしましょう。  そして明日、一日掛けて――女は何をするにも準備に時間がいるものですし、それに道にも迷うかもしれませんから――本部に帰還」 「わたくしの報告を受けて、後任の巡察官が翌朝出発。昼過ぎには村へ到着してわたくしの取った措置の撤回を宣言します。  ……もっともこれは中佐が暢気だった場合」 「中佐がすぐにも行動を起こしている場合は……民政局内でわたくしの解任を通し、代理を任命して送り出すまで……一日、として。  明日の夜には後任が着く可能性もあります」 「……つまり。  時間の余裕は最大で明後日の昼まで。最小で明日の夜までしか無い、ということですね」 「それまでに代官を討つ必要があると」 「そういうことです」 「それは……」 「ううむ。  難しいことになって参りましたねぇ」 「ええ……」 「……諒解しました。  であれば、自分も話を急ぎましょう」 「と申されますと?」 「先程、弥源太老人より良いお知恵を拝借しました。  ついては中尉殿、村長殿、お二方のご協力を仰ぎたく、こうしてまかり越しました次第」 「まぁ、そうでしたの。  勿論、協力は惜しみませんとも。わたくしはいったい何をしたらよろしいのかしら?」 「私も、無論……  この村を救って頂けるのであれば……」 「はい。  ではご説明します」  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。 「坑道を埋め戻す……?」 「はい」 「しかし、埋めたところで」 「代官が権力を取り戻せば、また掘らされるだけなのでは?」  その疑問は当然だった。  俺自身、口にしたことだ。  弥源太老人の考えを中継する。 「代官は何故、専門の業者に作業を委託しなかったのでしょうか」 「はっ?」 「その方が掘削は遥かに早く、正確に進んだ筈です。……にも拘わらず何故、代官として村に赴任し、村人を徴用するなどという面倒な方法を選んだのでしょう」 「それは……  業者に頼めば費用が嵩むからでは?」 「……あっ」 「おそらく、その通りです。  ということはつまり、こういうことになります――代官には資金的な余裕がさほどないのです」 「代官のこの村での行動を見る限り、巨大な財力の支援を受けているようには窺えません。  彼の資金は大半、無理な借金を重ねて調達したものなのではありますまいか?」 「……なるほど!  見えてまいりましたよ」 「掘削作業は予定の工程を終えるまで後少しという進捗状況であったとか。ここで坑道を埋め戻してしまえばどうなるでしょう。  作業は一からやり直し」 「当然、掛かる費用は予定の倍。例え人件費がほぼゼロであっても相当な額になる筈です。  加えてGHQとのパイプを維持するのにも定期的な資金投入が必要と考えられます」 「……それだけの資金を、きっと代官は都合できない……。  そういうことですのね?」 「はい。  となれば――我々が坑道で埋め戻し作業を開始した場合」 「代官殿は作業を阻止するために現れざるを得ない。  ……お見事な策でございます、湊斗さま!」 「すべては弥源太老のお考え。  自分は伝言役に過ぎません」 「いや、それにしても……。  お嬢さまのお考えは如何でありましょうや。さよは必竟の良策と考えまするが」 「わたくしも同感です。  弥源太さまにはお礼を申し上げなくては」 「まことに……。  それで、私どもがすべき協力とは?」 「村長殿には無論、村の方々への行動指示をお願いします。頑健な男性を選んで埋め戻し作業にあたらせて下さい。  時間がありません。すぐにも手配を」 「は、はい!」 「代官らが現れたら、迷わず逃げること。  作業員にはこれを徹底させて下さい」 「敵襲には自分が即応するようにしますが、間違っても抗戦したり留まったりなどしないように」 「わかりました」 「わたくしは何を?」 「砲、爆弾の類をお持ちではないでしょうか。  無ければその銃でも構いません」 「どうお使いになりますの?」 「地道に手作業で埋め戻すだけでは、代官を焦らせることはできません。潜伏中の代官が気付かないというのも有り得ることです。  そこで火器を使用します」 「爆音によって代官の注意を引きつけ、我々が坑道を爆破しようとしていると教えます。  実際には無理でも、少なくとも代官がその危惧を抱くよう、なるたけ派手に」 「なるほど。なるほど。  飲み込みましてよ。お任せくださいませ」 「宜しくお願いします」 「……これで……  これでやっと……」 「はい、村長殿。  これでもう――」 (これで……)  ……残る問題は、〈後ひとつ〉《・・・・》だけだ。    おそらくこの場で一人だけ、違うことを俺は胸の内で呟いた。  最後の問題。  ――あれをどう打ち破る?  翌朝。  村の若者二〇人余りを動員して、坑道埋め戻し作業――のふり――は順調に進んでいた。  細い支道のいくつかは実際に潰してしまっている。  代官らは既に気付いているだろう。  気付かないわけがない。  もうじき、何らかの反応を見せる筈だ……。 「それでは、景明さま」 「はい。  大変お世話になりました、大鳥中尉」  帰り支度を済ませた香奈枝主従と挨拶を交わす。  彼女らはこれから、可能な限り時間を掛けて、回り道をしながら進駐軍司令部へ戻ることになっている。  それがこの巡察官の最後の支援だ。  俺の応答に、大鳥香奈枝はくすりと笑った。 「何を仰いますやら。  お世話になったのはわたくしです。危急を救われ、お仕事も手伝って頂いて……」 「それはこちらとて同じこと。  中尉殿がおられなければ、この村ではさぞ難儀を重ねたことでしょう」  社交辞令のつもりはなく、言う。  実際、この点は疑いがなかった。 「お嬢さま、湊斗さま。  どうか湿っぽい別れの口上はお止めなさいませ。さよが思いますに、また近いうち再会することがございますよ」 「あら、ばあやもそう思うの?  実はわたくしもそう。なぜか景明さまとはこれっきりの縁という気がいたしませんの」 「は。  そのようにお思い頂けるのは光栄です」 「ですから、景明さま。  ――また、お会いしましょうね」 「……はい。  ご縁がありましたら、また」 「湊斗さま。どうかご武運を」 「有難うございます。  侍従殿もご壮健であられますよう」  ……二人が去っていく。  見ていて胸が空くほどに、颯爽とした足取りだった。 「行ったか」 「はい」  入れ違いの格好で、弥源太老人。  小さくなってゆく主従を見下ろしながら呟く。 「さて、後は天運次第。  新たな巡察官が来るのが先か、代官の忍耐が切れるのが先か……」 「如何にも。  長坂代官の気の短さが勝負の鍵となります」 「ならば分は悪くないな。  あやつめの気はせいぜいが兎の尻尾ほどの長さよ」 「加えて大鳥中尉の上官の気が蛇の体長ほどもあり、中尉の帰還を辛抱強く待ってくれていれば、成功はまず確約されていると言えるのですが」 「そこまでは期待できんかな。  しかし何にしろ、今日中には必ず何らかの動きがあろうよ」 「は」 「じっちゃまー。  お武家さまー」  不意に、遠くから名を呼ばわれる。  山裏側の細道を、小さな姿が小走りに近付いてきていた。その隣にはもう一回り小さな影もある。 「どうした。  ここにはあまり近付くなと言うておいたに」 「う……ごめんなさい。  でも二人とも、昨日からここに詰めっきりでしょ? 朝御飯、食べてないんじゃないかと思って」 「つくった!  もってきた!」  下の娘、ふなが抱えてきた包みを誇らしげに掲げる。  ……それで、わざわざ。 「お武家様……その、ご迷惑でしたか?」 「有難うございます。  丁度、空腹を覚えていました」 「……そうだな。  腹が減っては戦もできんわ。頂いておくとしようか」 「くえ!」 「こら、ふなっ!  ……じゃあ、どうぞ。おにぎりしかありませんけど。あ、こっちはお茶です」 「これは、行き届いたこと。  ふきさんは良い花嫁になられます」 「……え、……」 「あまりおだてるなよ、御堂。  なら貰ってくれなどと言い出しかねんぞ」 「じ、じっちゃまー!」 「ふっふ……」  頬を赤くする娘に、弥源太老人は快さげに笑う。  ……この団欒。ふと、今の状況を忘れてしまいそうになる。  赤面したまま俯いて、上の娘は包みを広げた。    ……?  内容に、随分と差がある。  半分は小さめの、綺麗な形をした握り飯だが、もう半分は格段に大雑把、かつ豪快な姿。 「……」 「……」  そして何故か頬に感じる、妙に熱い視線。  さて……  どちらから手をつけよう?  綺麗な方を手にする。  食べやすさを考えて握ったと思しき、手頃な大きさ。  口に運ぶ。  ……絶妙な塩加減。 「お見事です。  何とも丁寧につくられた握り飯……真心の伝わる料理とは、まさにこういったものの事でしょう」 「はぅ……」  ふき〈女〉《じょ》がくらりとよろめく。  心なしか、瞳に星が散っているように見えた。 「……ど、どんどん食べてくださいね!  たくさんありますから!」 「はい」  俺は有難く頂いた。  ……それはもはや握り飯ではなかった。  ただの米塊だった。  球体とさえ言えない形状。  ところどころに張り付いた塩の大粒。  握る力が足りなかったのか、表面は崩れかけている。  そして。  間違いなく、必死につくられた握り飯。  それを両手でつかんで、口へ運ぶ。 「……」 「……」 「……美味しい。  良い握り飯です」 「わーい!」  歓声をあげて、ふなが俺に飛びつく。  不意のことで、わずかによろけた。 「それ、ふながつくった!」 「そうでしたか。  有難うございます」 「もっとたべて!」 「はい。  頂きます」  ……そうして俺は暫し、温かな時間を過ごした。 «……御堂……» (村正?)  望外の朝食を終え。  姉妹を家に帰らせ、残していってくれた茶を啜って一息ついたとき、哨戒に出ていた村正からの〈金打声〉《れんらく》はあった。 (変事か) «怪しい男を発見。  足音を立てずにこっちへ来て» (承知)  弥源太老に目礼して、その場を立つ。  老人はそれだけで察したのか、無言のままに頷きを返してきた。  目には見えず形もない、村正との連結を追う。  ……裏手の細い山道を下り、木々の中へ踏み込んでいる。  それほど、奥まで導かれることはなかった。  すぐに木の陰へ潜んだ村正と、その先の人影を発見する。 (あれか) «ええ。  それと……もうひとつ» (ん――)  人影はこちらへ背を向けている。  何か、手元に書き付けている様子だった。  その紙切れを傍らの樹木へ差し出す。  枝の上からするりと長い腕を伸ばし、受け取ったのは――鋼鉄の〈猿〉《マシラ》。 (月山従三位!) «猿だけに、なかなか大した隠形能力よ。私もすぐには気付かなかった。  けど……あの男は月山の仕手じゃない» (……ああ。  あれは、おそらく……)  猿はすぐさま飛んだ。木から木へと跳躍し、樹海の奥へたちまち去ってゆく。  男の方は筆具をしまい込むと、その場にしゃがんだ。山歩きで緩んだ靴紐を締め直しているようだ。  ……要するに、男は代官の偵察役。  報告をまとめて連絡役の月山に託したのだろう。  となれば―― «どうする?  月山の後をつけてみる?» (気付かれずに追跡することは可能か?) «……当然、と言えないのは悔しいけれど。  この森は完全に向こうの庭。ただ追うだけでも難しいでしょうね……» «隠密裏に、というのはどう考えても――» (無理、無茶、無謀か)  なら仕方がない。  月山を尾行して代官らのもとまで案内させることができるなら万々歳だが、尾行に気付けば月山はこちらを〈まき〉《・・》にかかるに決まっている。  それに食いつけたとしても、月山にしてみれば尾行を引き連れたまま主のもとへは戻れまい。  つまりは〈鼬遊戯〉《いたちごっこ》。こちらが何より惜しんでいる時間をただ空費するだけの結果になる。 «いっそ、ここで月山を仕留める?» (あれに追いつくのがまず問題。  そして首尾良くいったとしても、代官らが警戒して一層深く潜んでしまうようなことになれば、本末転倒も良い所だ) «……そうね。  ごめんなさい。つまらないことを言った»  硬い響きが混じる。  それに気付かぬふりを装って、俺は続けた。 (欲はかくまい。  あれが坑道の様子を代官に伝えてくれるのなら、それはこちらの予定通りだ。このまま見送るだけで充分、手出しは無用) «ええ……» (だが、)  視線を散らす。  周囲を確認。 (斥候をこれ以上放置しておいても益はない)  距離を測る。  およそ一〇メートルか。やや遠い。が、数歩ばかり気付かれずに接近することができれば、奇襲に手頃の間合となる。  男はまだ靴紐を結んでいる最中だ。得物であろう杖は傍らへ置いている。  絶好の機会。 (敵の戦力を減らしておくことにする。  村正、太刀を送れ) «諒解»  村正の牙が一対、消失する。  代わって右手にずしりとした重さ。  鍔を鳴らすような遊びは控え、静かに肩へ担ぐ。  そのまま踏み出す。一歩。  二歩。  三歩。  四歩――  跳んだ。  担いだ刀を袈裟に一閃、刃を返して峰打ちにしつつ、男の肩口へ叩き込む――  ――――――――!? 「……っ……」 «御堂!?» 「……、大事なし!  掠り傷だ…………」  腿を軽く撫でられた程度。  傷と言えるほどのものでさえない。  が―― 「……うへぇ。  勘弁してくだせぇよ。あんた、いつの間に」  仰天した様子で目を〈瞬〉《しばた》いている男。  嘗て二度だけ、顔を見交わす程度の遭遇をした事がある――否、三度か。  この男。  今……〈俺の一撃を前転して避けながら〉《・・・・・・・・・・・・・・》、〈抜刀して〉《・・・・》、〈斬りつけてきた〉《・・・・・・・》……? «気付かれていたの……!?» (――いや)  男の足元を見る。  右足の靴紐が解けかけ、脱げかけていた。  〈気付いていなかったのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。  男は確かに不意を打たれたのだ。  〈而〉《しか》して――この反応! 「……こういう芸のできる人間はほかに一人しか知らない。  あれは確か三年前だったか。俺の妹が同じようなことをやって見せた」 「……へっ、へ……」 「お前で二人目だ。  野木山組の雪車町一蔵」  声音から戦慄が滲むのを抑えきれずに、告げる。  痩せこけた筋者の頬が薄寒い笑みを刻んだ。 「覚えて頂いてたんで。  そいつぁ、光栄です。警察の旦那」 「偶々だ。別段覚えようと思って覚えたわけでもない。  だが今後当分は忘れないだろう」  じりじりと間合を取ろうとする雪車町。その手には刀――〈仕込み杖〉《・・・・》の中身。  追随し、間合を保つ。逃がすつもりはない……が、焦って踏み込めば隙を晒す。 「随分と世話になったことでもある」 「……へ。  さぁて、あたしが旦那にそれほど大した事を致しましたかねぇ……?」 「一昨日、空から叩き落して貰ったばかりだ。  生憎と地獄の底までは落ち切れず、かように健在だが」 「へ、へ、へ……。  お気づきでしたか」 「無論の事。  その声を聞き違えるのは難しい」 「よく言われます……」  間合の〈鬩〉《せめ》ぎ合いは膠着。  だが、分はこちらにある。  この雪車町なる男、剣技だけを問うなら、おそらく〈あの〉《・・》光にも匹敵する。  互角の状況で〈遣〉《や》り合って、勝てるものかどうか……それはわからない。  だがこの状況は互角ではなかった。  靴紐の緩んでいる雪車町は足回りが悪い。これでは到底、十全の技を振るうことはできないだろう。  いずれ、こちらが有利になる。  雪車町がこの状況を崩そうと思うなら、劔冑の勝負に持ち込むことだが。  ……周囲にその姿はない。鎧櫃も見当たらない。  しかし。  山からの喧騒に混じって聞こえる、この〈唸り〉《アイドリング》は……。 「困っちまいましたねぇ。  〈ここ〉《・・》までやるほどの義理はないんですよ、あたしゃ。〈命〉《タマ》賭けての斬った張ったはご勘弁願いたいところでして……」 「こちらの事情は別。  各個撃破の機会は逃せない。命までは無用、だが手足を一本封じておきたい」 「で、しょうねぇ。  見逃してくれってぇのはちょっと、ムシが良過ぎますか……」 「劔冑を使うか」 「へ、へ。  そうしたら、旦那はどうなさる?」 「俺も劔冑を使い、斬り伏せるまで」 「へへぇ。  村正……ですか」  彼の前で名乗った覚えのないその名を、雪車町は口にした。  あの乱破者から聞きでもしたのか。 「しかしね……  そいつぁ、いけねぇでしょう……」 「……」 「お代官は、あたしを偵察に寄越しゃあしましたがね。確認みたいなもんで。あんたがたが坑道を埋め潰そうとしてるってことにゃ、もうお気付きですよ」 「そこで轟音立てて、あたしと旦那が派手に空で遣り合い始めたらどうなります。  あたしの加勢に来る? まさかね……代官殿は勿論、山の作業を潰しに行きますよ」 「そしたら、へへ。どなたが代官殿と小太郎爺さんの相手をするんで?」 「……」  この男、どこまでも巧妙……  口舌の戦も一流か!  雪車町の状況分析は正鵠を得ている。  今ここで騎航戦闘を繰り広げれば、まさに言われた通りの結果を招く危険が高い。  そこまで読みながら、この男が即座に装甲騎航して逃げようとしないのは……こちらが各個撃破に固執し、彼を屠った後で舞い戻ろうなどと甘い選択をする可能性をも考慮しているからに違いない。  一昨日のあの時、互いを見交わしたのは一瞬のことに過ぎなかったが。  雪車町の劔冑はおそらく軍用の数打。〈速力〉《あし》の勝負でこちらを振り切って逃げられる確証はないのだろう。  実際、捕捉して斬り墜とす自信はあるが……  山を無防備にするリスクは冒せない。    武者戦闘という選択肢は封じられたも同然!  ……舌先一つでこちらの決戦力を封じてのけ、〈且〉《か》つその成果に驕らず慎重な手を打ち続ける。  この男、場数の踏み方が違うらしい。 「……委細、指摘の通り。  だが、ならばこのまま決着をつけるまで」 「そいつも、」  雪車町が足を動かす。  右足――脱げかけた靴を――! 「お許しくだせぇ」 「!!」  唾――――  下からと見せて上!!  辛うじて首を傾け、視界を塞がれるのは避けたが。  この半秒の間に、雪車町は距離を取っている! 「味なっ!」 「御免なすって!」  追う。  脚のリーチはこちらが上だ。この程度の距離ならば充分に追いつける。あと五歩あれば――  しかし。  その五歩の前に、雪車町は〈それ〉《・・》へ到達していた。  木の陰へ潜ませていた――〈単輪自動車〉《モノバイク》! «……劔冑!?» 「劔冑だ!」  そう。あれは劔冑。  海軍の八八式艦載騎をベースに開発された、陸軍制式の九〇式竜騎兵。  待騎時にはバイクの形態をとる。  その使い勝手の良さから今なお現役の地位を保っている傑作だ。派生騎、後継騎も多く存在する。  先刻からの〈唸り〉《・・》はやはりこれだったか……!  素早く跨り、アクセルを踏む雪車町。  既にエンジンの回っている車は即座に走り出した。  林間をすり抜け、山道へ――! «御堂! 装甲を――» 「却下!」  森の間の曲がりくねった細い山道というフィールドで、高速だが小回りの利かない騎航武者と速度は劣るが扱いのいいモノバイクの優劣ははっきりしている。  又、相手が応じて装甲し騎航戦になっても不都合。 «なら、見逃すしかないっていうの……!» 「――否」  雪車町の企図においてはそうだろう。  確かにもはや、こちらは打つ手を封じ切られたかに見える。雪車町の望む通り歯軋りして背を見送る以外にないと見える。一見。  だが、まだ―― 「村正。  〈このまま〉《・・・・》追うぞ!」 «――――諒解!» 「――――!?」  何か異様な気配を感じたのだろう。  不意に振り返った雪車町は、はっきりと頬肉を引き攣らせた。  距離――二〇メートル弱。  微妙に距離を増減させつつ追尾する。  山道を疾走するモノバイクを眼下に見下ろし、  赤色の蜘蛛が樹上を渡る。  猿飛の技は月山猿の専売特許に〈非〉《あら》ず。  村正蜘蛛もこの程度の芸は可能! «速度を上げる!  振り落とされないで!» 「承知!」  手足に力を込め、村正の背に乗る己を固定する。  移動の仕方が仕方だ。視界の変転は〈目紛〉《めまぐる》しい。だが、騎航になれた身にすればどうという程のこともない。  標的の姿を視認し、太刀を構えて接触に備える。  こちらを見た雪車町の顔は、前方へ戻される前に一刹那、逡巡の色を見せていた。  迷ったのだ。おそらく――装甲すべきか否かを。  だが後背から迫られるこの位置関係、装甲の一瞬に切り伏せられることも有り得ると踏んだに違いない。  雪車町の選択はアクセル全開。このまま逃げ切る、そのつもりだ。――ならば良し!  緩い右折から短い直線へ。  流石にここではバイクが優った。距離がじりじりと開く。  ――だが道はすぐに長いカーブへ。  バイクの速度が落ち、一方まるでお構い無しの蜘蛛がじわりと追いすがる。  しかし手の届く距離まで迫る前に、またしても直線が来る……!  直線では先方。  曲線では当方。  一進一退の図式―― «埒が明かない……!» 「今から明ける。  村正、糸を飛ばせ。〈槍と橋〉《・・・》、同時にだ」 «……! 諒解!»  鉄の蜘蛛が鉄の糸を放つ。  幾条も――虚空を裂いて。その速度は矢にも劣らず、山道を走破するバイクを凌ぐ。  二〇メートルの間隙が白線で繋がれる。  バイクの乗り手の背を貫く―― 「……ッ!」  しかし、雪車町なる筋者はやはり尋常ではなかった。  決定的なその一瞬に背後を仰ぎ見、迫り来る脅威を認識――刹那。  右手が翻った。  その中にハンドルごと保持されていた仕込みの白刃が、宙空に幾何学模様を描く。  寸断。  断線。  ……それはもはや、悪魔的なまでの〈刀剣技芸〉《ブレイドアーツ》。  単輪自動車の乗り手は遂に姿勢を崩すことさえなく、背後からの強襲を切り払って見せた。  有り得ない所業。    だがしかし、俺は彼の剣技を光に擬していたのだ。  〈有り得ないことが有り得る程度は想定の内〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》! 「村正――巻き込め!」  合図を送る。  応えて、村正が糸を〈吸った〉《・・・》。  雪車町に切り払われた鉄糸ではない。  バイクを越えて更に飛び、木々へ絡みついた糸を。 「……っ、だぁ――!?」  病的な男が青褪める。それ以上顔色の悪くなることがあるとして、だが。  その顔が接近した。急速に――否。近付いているのはこちら。  前方に固定した糸で自らを牽引し、  村正が宙を飛ぶ。  その速度は糸の放出時とほぼ同等。  〈即〉《すなわ》ち、バイクの疾走を圧倒する――  接触の一瞬。  ここに至って、雪車町一蔵はなお不屈だった。  仕込み杖を再び構え、後方の敵襲を横殴りの一閃で迎撃する。  その速度、俺の首を狙う正確さ、正に一流の剣。  だが――  背後から襲われるという絶対的不利は、卓抜の剣腕をもってしても覆し得ない!  俺の放った一刀が、雪車町の剣撃を打ち弾く。  肉体ごと――乗騎ごと。  押し崩す。  ……車輪が滑った。 「かッ――へっ、ははァ! 畜生ォ!!」  モノバイクが横転する。  そのまま、山肌の斜面を―――― 「……水音?」 «……川へ落ちたみたい。  悪運の強い男ね»  村正を止め、山道に降り立って見下ろす。  山間を流れる小川と、そこへ半身を沈ませた男の姿があった。〈劔冑〉《バイク》は見当たらない。周囲の痕跡から見るに、どうも更に下方へ転がり落ちていったようだ。  雪車町の体に酷い外傷はなかった。水場に落ちた事でいくらか衝撃が和らげられたのだろう、この高さを転落したにしては奇跡的なほどだった。  村正が呆れるのも頷ける。  意識を失っているのか、身動きする様子はない。  しかし良く見れば、右手の指先だけが何かを求めるように這っていた。川べりの土を虚しく掻いているが。  ……少し離れた木の幹に、突き立った仕込みの刃。 «どうするの?» 「命に別状は無さそうか」 «ええ。あのままうっかりと寝返りを打って溺死したりしない限りは平気でしょう。  骨折もしていないようだけど……予告通り、手足を何本か貰っていく?» 「……いや、いい。あの様子なら打撲で数日は動けまい。  無力化には成功したと言って良いだろう。これ以上は不要」 «それもそうね» 「坑道へ戻るぞ。  あまり長い間留守にしていたくない」 «ええ»  ……日は間もなく天頂。  そろそろ正午の時刻になる。 「こら、ふなー! 待ちなさーい!」 「こっちー!」 「こっちじゃないの!  じっちゃまが言ってたでしょっ、今お山は危ないんだから、寄り道しないで帰らないと」 「すごいおときこえた!」 「それが危ないことかもしれないんだってば……もー! ねーやの言うこと聞きなさい!」 「みっけー!」 「見っけじゃなくて――  ……え? なに?」 「にんげん!  おとこ!」 「……え? え?」 「…………」 「きゃー!  あわわ、大変……どうしようどうしよう」 「あの、あのあの、大丈夫ですか!?」 「…………」 「おーい。おーい。  いきてるー?」 「ふ、ふなー!  やめなさーい!」 「……っ……」 「おきた」 「え? え?  あ、あのー、もしもし?」 「……、はっ……」 「ど、どうしよう?  とりあえず川から出してあげた方がいいのかな……」 「おいちゃーん。  どしたー?」 「ふなー!」 「……へ、へへ……」 「おいちゃん?」 「あ、あの大丈夫ですか?  どうしたんですか?」 「へへ……。  やぁ、なに……大したこっちゃありませんよ。気にしないでおくんなさいまし……」 「そ、そう言われても……  相当えらいことになってるような」 「へ、へ……  あたしは……しがないちんぴらの、小悪党でしてねぇ」 「はぁ」 「ちんぴら……  わるもの?」 「……へい。だもんで……  善玉の野郎に退治されちまったんでさぁ」 「ふーん」 「へへ……そりゃあねぇ……世の中、こうでなきゃあ…………。  悪党は退治される……でないと、〈どっちも〉《・・・・》、張り合いってもんがないじゃありませんか」 「へ……へへっ…………」 「…………」 「あ。ねたー」 「う、うーん……何だかよくわからないけど。放ってはおけないよね……。  よしっ。ふな、手伝って」 「はぁーい」  夕暮れ刻。  山は未だ平穏の内にあった――望ましからざる。 「……遅い」 「うむ」 「斥候の雪車町一蔵を制圧したことが裏目に出たのかもしれません」  敵陣営は武者三騎。こちらは一騎。  である以上各個撃破は必須の戦術だったが、その為に敵の行動を萎縮させてしまったのでは、作戦目的が達せられない。  あるいは月山と同様に雪車町をも不利は覚悟の上で見逃し、一対三の戦闘へ敵を誘い出すべきだったのか。  戦術的有利に拘泥するあまり、戦略的意味を失ったのかもしれない……。  〈臍〉《ほぞ》を噛む。  今更どうにもならぬことを思い煩う、己の愚昧が〈癇〉《かん》に障る。 「多少、慎重になったのは事実であろうがな。  その程度のことで穴熊を決め込んでしまうほど、あの男はまだ枯れておらんよ」 「は……」 「あやつは坑道を諦められん。  故に、来る。これは間違いない」 「……はい。  しかし、問題は時間です」  事態の推移が最悪を極めた場合。  この夜にも、大鳥香奈枝の措置を無効化する後任の派遣官がGHQから到着しかねないのだ。  そうなった場合でも代官を討たねばならぬ俺の都合に変わりはないが、村にとっては事情が激変する。  正体不明の流れ者の犯行とみられるならば、いい。  だが、そうなるとは限らない。  俺が村長の家に出入りしていた事実や、山の蝦夷家に厄介になっていたことなどが不利に働き、村全体で代官を弑したのだと六波羅に断じられる可能性もある。  ……迷惑で済む話ではない。  GHQの巡察官に従っただけ、という弁解が立つ内に事を終わらせなくてはならないのだ。俺の私事で村が破局に陥るような結果を避けるためには。  その時間は残り少ない……。 「もう少し派手に誘いをかけましょう。  この際です。本当に坑道を潰しかねない程の爆破を」 「うむ…………  いや」 「御老?」 「どうやらその儀は無用の様子。  奴め、ようやく堪忍袋の緒を切ったわ」 「!」  茜の空を轟音が貫く。  噴煙を引いて躍る軌跡。  それはあたかも幼児の一筆書き。  乱雑に、  戯れるように、  嘲笑うように、  誘うように、  〈騎航す〉《かけ》る武者――  ただ一騎。  地上では事前の指示通り、作業にあたっていた村人らが一目散に逃げ散ってゆく。  一度だけそちらに視線を送ってから、俺は再び空を見上げた。目を〈眇〉《すが》め、天を舞う姿形を見極める。 「あれは……月山。  風魔小太郎!」 「ほう。あれが……  なるほど、の。なかなかに曲者と見ゆるわ。あの甲鉄……」 「まさに。  しかし……」 「む?」 「代官が」  いない。  空にあるは月山、ただ一騎のみ。  代官の劔冑は〈母衣〉《つばさ》がまだ回復していない、という事もあろうが。  ――おそらくこれは陽動。  月山で俺を誘い出し、その隙に代官が坑道を〈衝〉《つ》く。  これではうかつに動けない……! 「構わぬ。  ゆけ、御堂」 「いや、弥源太老、これは――」 「なれの留守を代官が襲う。わかっておる。  そちらはうてが引き受けた」 「無謀です。  武者に常人が挑むなど」 「無謀は無謀だがな。何とかなろうさ。  向こうは翼を失った武者、こちらはこちらで少々の手妻がある。そう悪い勝負でもない」 「……御老人。  死ぬおつもりか?」 「いや、いや。孫どもも幼い。まだ死ねぬよ。  案ずるな、御堂……うては守るべきもののために戦う。そして、そういう者は死んではならんことを知っている」 「死んで守れるものなどないからな。  ……ふっふ。ここは冗談だ。笑ってくれて良いぞ」 「は……」 「ゆかれよ。  出陣の〈餞〉《はなむけ》に一言贈るなら、御堂……なれの劔冑は紛れもなく天下至強」 「〈良きにしろ悪しきにしろ〉《・・・・・・・・・・・》、その力は絶境、何者にも劣るを知らぬ。  されば御堂、なれはその至強を〈偏〉《ひとえ》に信じよ。それだけで良い。それだけで打ち勝てる」 「なれ〈等〉《ら》の前に立ち塞がるもの――  遍く全てに」 「……はっ。  承りました」 「御堂。  酒はいける口かな」 「……?  それは、一応……人並み程度には」 「では今宵は一献酌み交わそう。  思えば御堂と出会ってからは忙しないこと続きで、そんな暇もなかったが……」 「年寄りにとって若い者との酒は何よりの薬。  だというにうちの孫は二人とも娘、しかもまだ子供とあってはどうにもならぬ。  得難い機会よ。御堂、付き合って貰えぬか」 「御意に!  では……今宵」 「村正!」 «――御堂» 「騎体状況を送れ」 «諒解!»    甲鉄錬度:〈焔慧地ノ上〉《四四/五二》    騎体能力:〈離垢地ノ上〉《四一/五二》    騎航推力:〈真如相廻向ノ上〉《三八/五二》    騎航速力:〈至一切処廻向ノ上〉《三四/五二》    〈磁気撹乱〉《まどわし》:勅令封印/限定禁戒    〈磁気汚染〉《くるわし》:勅令封印/絶対禁戒    〈磁気鍍装〉《ながれ》:使用可能    〈蒐窮磁装〉《おわりのながれ》:使用可能 «戦闘に一切の支障なし!» 「承知!  参る!」  ……しかし、弥源太老。  俺は――夜には――  夜には――――! 「…………」 「もう良かろうよ。  さっさと出て参れ」 「それとも……  うてにさえも臆したか?」 「抜かせ」 「あの小癪な若造を避けたのは事実、復仇を遂げるまでは何を言われようと構わんが……  貴様などに怯えねばならぬ理由が一体どこにある? 余り嗤かしてくれるなよ、弥源太」 「それは上々。  ようやく決着をつけられるというものだ」 「こちらの台詞を奪うでないわ。  今更になって〈肚〉《はら》を決めた戯けが、豪胆ぶるのも程々にしておけ。俺まで道化芝居の役者になる」 「道化よ、右京。なれもうてもな。道化以外の何だと云う?  五十の坂を下りながら、かくも〈碌〉《ろく》でもなき理由で斬り結ぼうとする我らが……」 「およそ人並みの知恵があればなされぬ所業であろうよ。  これは出来の悪い滑稽劇、人の失笑を買う種以外の何物でもない」 「違うとは言わんがな。我らの生をここまで下らぬ芝居に仕立てたのは貴様の〈怯懦〉《きょうだ》よ。  三〇年前に殺していれば良かったのだ。  三〇年前に殺されていれば良かったのだ!」 「三〇年――――はッ!  貴様がくれたこの年月、反吐のような三〇年だったわ! 何を得ても何を奪っても心が満ちぬ。それが〈代わり〉《・・・》でしかないからだ!」 「ただ――閉じた輪の中を回るような。  下らぬ、下らぬ時間であった……!」 「……そうか。  やはりなれはそういう男よ、右京」 「いくら歳月が流れようと変わるわけがない。  ……なれにとっては、決着がつかぬ限り、何事も決して終わらんのだからな」 「…………」 「そこをうても一媛も見誤った……。  時の癒しは誰にも平等と思い込んだ。なれの上にもいずれ、と。  ……なれの性格は知っていた筈なのにな」 「一言だけ詫びておく。  済まなかった。右京」 「…………。  今更……俺がそんな言葉を欲しがると思うのか」 「思わぬよ。なれには嘲弄としか聞こえまい。だがこれも、けじめというもの。  案ずるな。口先の詫びで済ませるつもりはない。遅れた決着をくれてやる」 「なれを終わらせてやろうぞ、右京。  三〇年分の負債、今ここで清算する」 「……はっ。言いおったわ、老廃が。  貴様一人で俺を終わらせる? ほざけ……今となっては貴様を殺し、お山の神を殺し、一媛を奪わぬ限り何も終わらぬ!」 「貴様など、その最初の踏み台に過ぎん。  叩き潰して打ち棄てる。勝手に土へ還るがいい――」 「八紘一宇ッ!!」 「…………」 「……ふん? またその棒切れか。  何の〈呪〉《まじな》いかは知らぬが、そんなもので俺にどう抗うと云う?」 「……こうするのよ」 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「――むっ!?」 「右京。  これが何かわかるか」 「……劔冑……か?」 「然り。  なれらが坑道を掘り始める時……〈守り石〉《・・・》を砕き、中の神宝を奪ったであろう?」 「これは、その断片よ」 「……ほう。  するとそれは、曲がりなりにも天下一名物ということか」 「あの劔冑、どうにも扱えぬので、雪車町に渡してしまったが……惜しいことをしたな。  貴様が使えると知っておればくれてやったものを。いささか面白くなったであろうに」 「驕っておれよ、右京。  〈片羽〉《かたわ》の武者如き、この小太刀一つで釣りが来る……」 「……随分と安く見積もられたものだ。  釣りを貰うのはこちらよ、弥源太!」 「すぐに知れる。  参れ、右京!」 «ほぉっほっほっ!  これこれどうした村正よ……めった打ちのやられ放しではないか!» «それでも天下の妖甲か!  草葉の陰で先祖の霊が泣いておろうぞ!» «くっ……!» «少しは打ち返してくれねばこちらも気分が悪い。剣を打ち交わすからこそ〈太刀打〉《タチウチ》と申す。こう一方的ではのう、立木打ちではないか!  いや、困ったのう! 困ったのう!»  嘲笑が夕空を席巻する。  こちらにはそれを押し留める手段がない。  〈遭遇〉《エンゲージ》するや否や、敵騎はまたしても消失。  以降、前回と同様、一方的に攻め立てられるばかりの状況が続いている。  手の出しようがない。  〈視覚〉《め》も、〈探査機能〉《みみ》も役に立たないのでは、全く。  どうにもこうにも、どう仕様もない。  相州乱破が操る〈霧隠〉《キリガクレ》の術――  これを打ち破る〈術〉《すべ》がなければ、どうにも! «一体、どういうことなの……!  姿を消し、探査を撹乱する陰義、そこまでは百歩譲って認めてもいい。けれどそれを、こんなにも長時間維持し続けるなんて!» «その熱量はどこから調達してるの!  食事しながら戦ってるとでもいうわけ!?» 「それは無いと思うが。  ……消化に悪そうだ」  空を駆け回りながらでは。 «ええ、そうね!  じゃあきっと、心臓が二つあるんでしょうよ!» 「落ち着け、村正」  苛立ちを隠さない劔冑に声をかける。  この状況下では気休めにもなりそうになかったが。  村正は単に武器として造られた通常の劔冑と違い、明確な目的を与えられている――〈先代を討つ〉《・・・・・》、という。  その為か、一般に劒冑の思念は極端に受動的であるのに対し、時として積極的また感情的にもなった。  もっとも劔冑はあくまで劔冑。  口ほどに村正が動揺しているとは俺も思っていない。騎体管制は一度も怠っていなかった。この点で懸念を抱く必要はないだろう。  懸念すべきは――  ……あくまで、この絶対的劣勢。 «ほぉっほ! そんなものか!  そんなものかいのう、村正よ!» «背面甲鉄に損傷!  くっ、この……どうしろってのよ!» 「落ち着け」  必要もない声をかける。  ……自分自身に言い聞かせるために。  現況が不条理なものであるのなら、必ずどこかに、打破の糸口がある筈。  不条理を成立させるのは何らかの〈如何様〉《イカサマ》だ。それを見極め、探し出す。探し出して打ち破り、術を解く。  さもなくば――  この空が俺と村正の墓場になる。  竜騎兵は右上段、武者正調の構。  対して老人は小太刀を中段にとり、剛剣を迎える形。  小太刀は受けから入って攻めるを基軸とする。  それは間合で劣るがゆえの必然的戦術。  だが老人は敢えてその法を犯している。  小太刀の剣先はやや低く、重心は前方へ傾き過ぎていた。受けを狙うならばいかにも不都合。  老人の企図は明然、受けにあらず、攻めにあった。  間合で凌駕する敵の太刀に対し、その試みは断じて無謀、狂気の沙汰とさえ言い得る。  小太刀の達人は太刀の間合を盗んで制しもしようが、それも駆け引きあってこそ。露骨な攻など論外である。  老人は如何なる腹案を隠して、かかる暴挙に臨むか。    ――何もない。  無の境地……否。  愚の境地であった。  敵なる竜騎兵はただ一心、愚かしい妄念だけを胸に、立ちはだかる者を砕かんと欲している。  されば。それに対して受けてどうの、捌いてどうのと、小細工を用いて抗し得ようか。  否である。  老人の前に隆立す、愚かなる武者の一念は、かように賢しげな術策など容易く粉砕してのけよう。  愚に対して賢は優れど、ただ小賢しい小智は及ばぬ。  であれば、方途はひとつきり。  己もまた愚となって、相対するほかになし。  老人にも愚想はあった。  この男は己が止めねばなるまいという妄念。  逃げても良いのだ。  誰かに任せても良いのだ。  誰も老人にその責を問わない。  だが老人は望んで負った。  捨てても良い責務を背負った。  その所以は些細なこだわり。  遠い日の〈幻影〉《まぼろし》、あの世界には己と男、そして一人の女しかいなかった。  女はもういない。  ならば男の始末は己がつけねば。  あの世界には三人、〈唯〉《ただ》三人しかいなかったのだから。  愚想。  愚想である。  愚想を抱いて、老人は〈征〉《ゆ》く。  愚想を抱いて、竜騎兵は征く。  愚かな、下らぬ、取るに足らぬ、  而して命一つと同じ重さの一念を。  互いに剣先へ乗せて。  この刹那。  今この刹那。  二人の老兵が、征く。 「…………」 「…………」 「……この、老いぼれめ」 「……この、馬鹿たれめ」 「……ぐふっ……」 「……くっ……」 「ふ……ッ」 「…………」 「右京……  生きておるか」 「……ッ。  なめるな……この程度で……」 「この俺が……  かはッ!」 「……呆れたしぶとさよ。  腹を抜かれてその元気か」 「…………楽にしてくれよう」 「いらぬ……!」 「右京……」 「負けぬ……負けぬぞ。  俺は……負けぬ」 「山を掘るのだ……  神などいないと……ただの安っぽい石ころに過ぎぬと、一媛に教えてやるのだ」 「そうして、手に入れる……  あいつを……一媛を! 手に入れるのだ!」 「……」 「うてが送ってやろうぞ……右京。  なれを……一媛のもとに」 「弥源太……」 「……さらば。  〈茨垣〉《バラガキ》の右京」 「弥源太ァァァァァァァァ!!」 「……あ?」 「――!?」 「弥源太爺さん……?  あれ? ここ、どこだ」 「な……一条のお嬢……  どうしてここに!」 「いや……帰る前にあんたに挨拶しとこうと思って。和尚に山に住んでるって聞いて来たんだけど……」 「どこをどう間違ったんだか、気がついたら林の中に入っちまってて。  朝から今までずっと、ぐるぐると」 「あ、いや、別に方向音痴じゃないからな!?  ただちょっと、森の散策も風流かなーとか思って適当に歩いてたからこうなっただけで――」 「……一媛」 「あん?  って、昨日の山犬野郎。てめぇもいたの、か…………あ?」 「……」 「……劔冑?」 「……一媛……!」 「いかん!  嬢、逃げよ!!」 「え……」 「お前を――  俺の――  この、手に――」 「俺の……一媛……  俺の、ものに……ッ!」 「……」 「嫌だ、っつってんだろーが。阿呆」 「――――ッ」 「ああああアアアアアアアッッッ!!」 「右京ォォォッ!!」 「……!?」  ――轟音。  また攻撃を受けたのかと一瞬、誤解する。  だが違う。音のみで、衝撃がない。  これは何処か、全く別の所で発した音響。 「村正。今のは何だ」 «山の方角よ!  爆発じゃない。何か激しいぶつかり合いが――武者の太刀打のような何かが» 「……代官と弥源太老か!」  山の方へ首を巡らす。  ……ここからでは何もわからない。  代官はともかく、弥源太老人は生身だ。どのような術策があったにしろ、長期戦にはなりようがない。  おそらく、今の一撃で決着はついた筈。  老人が勝っていれば良い。  だがそうでないなら……一刻も早く山に向かわねばならない。さりとて、この現状―― «御堂! 〈二九〇度上方〉《かのとからいぬのかみ》!» 「!?」 「……月山!?」  紛れもなく月山従三位。  それが姿を現し、村正の〈照準〉《レティクル》に捉えられている。  何故、唐突に……? «ほっほっほ。  つまらぬ、つまらぬなぁ! こんなことをしていても気が腐るばかりよ。仕様がない、そろそろその首、頂くとしようかの!» «……如何にしてだ»  姿を見せたのは、新たな術のため……? «ほっほ! この期に及んで強がりよる!  それとも何かな。この月山に一刀打ち込む方策、〈漸〉《ようよ》う見つけ出したとでも言うのかの?» «…………。  〈見えているぞ〉《・・・・・・》。風魔小太郎» «…………なッ!?»  初めて聞く、老練なる乱破武者の動揺の声。  そこに演技の、策略の、臭気は感じられない。  ……どういう事だ。  この敵、〈自分の術が解けていることに気付いていな〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈かった〉《・・・》? «慙愧・懺悔・六根清浄!  慙愧・懺悔・六根清浄!»  ……消えた。 «御堂! 回避ッ!» «――また来るッ!» 「……ッ。  村正、損害は!」 «軽微!  でも楽観しないで! 急に攻撃から遊びがなくなった!»  立て続けの猛撃。  風魔者が初めて見せる必死の攻勢。  そう、この敵はもう遊んでいない。  いや――〈焦っている〉《・・・・・》。  しかし、何故。  何故、急に。 「何故、急に……?  決まっている」 «御堂……» 「今のが致命的な失敗だったからだ。  つまりはそういう事!」 «ええ――!»  ……状況を整理しろ。  まず最初は山から響いた轟音。  激しい音ではあったが、それはただ、それだけだ。  地上は大きく鳴動したかもしれないが、空にあっては耳孔の鼓膜を震わせたに過ぎない。  その直後、月山が姿を現した。  しかも当人は、そのことにすぐには気付かなかった。  ……おかしい。  轟音に驚いて術を解いてしまったというのなら――風魔の頭領が音如きで?――自分で気付かぬ筈がない。  驚いていなかったなら、術の解ける理由がない。  理屈が合わぬ、この矛盾。  ここだ。  この裏に真相がある。  だがそれは何だ!?  あと、何か一つ――発想の取っ掛かりがあれば―― «……背面甲鉄に損傷!  いけない、これ以上は持たない……!» 「く……!」  届かないのか。  足りないのか。  俺はここで墜ちるのか。  敗死は武人の宿命の内。  しかし――まだ早い――!  まだ――  俺にそんな逃避は許されない!! «御堂――» 「お前は熱源探査に専念しておけ。  余計な思慮は無用!」 «……。  御堂。月山とは、出羽にある霊山のこと» 「知っている……  誰もそんなことを尋ねてはいない」 «月山は、〈出羽三山の主峰〉《・・・・・・・》なの» 「それがどう…………」  ――――〈三山〉《・・》? «月山信仰は月山だけで完結しない。  〈羽黒山〉《はぐろさん》、〈湯殿山〉《ゆどのさん》と併せて一つの信仰になる»  ……一つで完結しない。  三つ、併せて………… 「――つまり」 «ええ。  けれど、〈それ〉《・・》が何処かとなると……» 「〈見晴らしの良い場所〉《・・・・・・・・・》だ、村正。そうでなければ術を施せない。  そして、妖術の解ける切っ掛けになったと思しき先の轟音。あれはどこで発した?」 «!!»  一つで完結しない月山。  山の異変を契機に解けた術。  術が解けたことに気付かない武者。  術が要する筈の法外な熱量。  ――――結論は、其処。     ««見えた!!»» «村正ァッ!!»  何処からとも知れぬ金打声が耳朶を打つ。  だが、構わない。〈あれ〉《・・》に構う必要はない。  兜角を下げ、降下降下降下。  重力を味方として加速する。速力で村正に優る月山といえど、そう容易くは追いつかせない。  ――それでも迫っているに違いない。  足裏に刺さる針のような殺気。  来る―― «御堂!» 「何ィ!?」  必殺の一撃だったに違いない。  〈掠め過ぎた〉《・・・・・》太刀風の凄まじさが、肝を氷結させる。  今の一瞬、村正の敵襲探知は声より先に皮膚の接触によって俺の意識へ伝達。  即座の回避機動が有り得ぬ成功をもたらした。  もはや邪魔はない。  そこへ向かう――月山を支える〈二山〉《・・》の在り処へ。 「村正、山頂周辺に熱源探知!」 «諒解! ――社の裏手よ! そこに二騎!»  ……捉えた!  古びた社のそばに、二騎の武者――〈羽黒山と湯殿山〉《・・・・・・・》!  この二者が妖術・霧隠の正体。  地上に姿を隠し、〈月山に陰義を掛けていた〉《・・・・・・・・・・・》術師!  全ての謎はここに氷解する。  常識外れの術は、二騎の武者の合力があればこそ。おそらく一方が光学操作、もう一方が信号操作。  月山の怪詠唱は陰義の〈呪句〉《コマンド》に非ず、二人への合図!  二騎が陰義の行使に専念し、月山が戦闘のみを担当していたのであれば、術の異様な長時間維持とて何の不思議もない。  彼らは三騎で一騎の無敵者を成していたのだ。  あたかも、出羽三山が一つの信仰を成すように!  代官と弥源太老の激突によるものだろう衝撃が術者の集中を乱し、霧隠の術を解かせるという偶然の配剤がもしも、なかったなら――  おそらくこの三位一体を破るには至らなかったろう。  山頂の二騎は動揺して為すところを知らなかった。事がこう運ぶとは考えていなかったに違いない。  踵を返し、逃げ去ろうとする――だが遅し!  一閃――二閃。  村正の太刀が両者の背を打ち据え、弾き飛ばす。  狭い山頂、斜面の際のこと。  ひと溜りとてなく、二騎ははるか〈麓〉《ふもと》へと転げ落ちていった。  あの程度で武者たる者が死ぬ筈もない。  だが―― 「己ェェェェェェッッ!!」  上空から襲来する最後の武者。  その姿は既に露わ。霧の幻惑は失われている。  二騎の支援が無くば〈古〉《いにしえ》の名物月山も只の武者。  恐れるべき理由はもはや無い!  合当理全開。  騎翔。 «――村正はその程度か。  そう問うたわね? 月山の仕手» «……ッッ!» «〈この程度〉《・・・・》よ!!» «無念……かな……。  我が風魔……天運、尽きておった、か!» 「…………」 «鍔よ。御堂»  〈野太刀の鍔〉《・・・・・》。  月山が散華すると共に、それは還ってきた。 «これで二つ» 「ああ。  ……村正」 «なに? 御堂» 「今回は助けられた」 «…………» 「俺の非才をお前が補った。  お前の助言が無ければ勝てなかったろう」 「だが。  今後は無用だ」 «…………。  いいえ» 「……」 «無用なんかじゃない。  御堂――» «貴方こそ、何も考えなければいい» 「…………」 «…………» 「……まだ片付いてはいない。  坑道へ急ぐ」 «……ええ» 「――――」 「じ……  爺さんッ!」 「な、な、何やってんだよあんたッ!  刀の前に立ったりしたら死ぬに決まってんだろーがっ!」 「……ふっ、ふふ。  おお、そいつは知らなんだ……これはうてとしたことが。  とんだ間抜けであったわい……」 「しゃ、喋るな。  いま手当てする……こんなもん、出血さえ止めればどうってこと……!」 「いや……嬢。  うてからも一つ教えようか。これは多分な……致命傷というやつではないかなァ」 「んなわけねぇだろ!  あんた死んだことあんのか!? 無いだろうが! 死んだこともないくせに自分が死ぬかどうかなんてわかるわけねぇだろ!?」 「おぅ……なるほど、なるほど。  そりゃ、嬢の言う通りよ……言う通り。嬢は正しいことしか言わぬなぁ。一媛を、思い出すわ……ふ、ふ、ふ」 「けほっ……!」 「爺さん!」 「嬢……逃げなされ。  うてには構わず……」 「馬鹿言うなっ!」 「いやいや……嬢の言う通り、うては死なぬでな……  大丈夫……案ずるには及ばぬよ」 「人の揚げ足取ってんなよそんなザマで!  ああくそ、爺婆ってのはこんなんばっかりか……!」 「ふふ……そりゃあ、そうよ。  若い者をからかうのだけが、老人の楽しみというもの……ふ、ふ……」 「だから口きくなっての!  いま担ぐから、ちょっと立って……って、無理か。くそ、なんか人を運べるもの!」 「嬢よ……  こいつをやろう……」 「……あ?  何だよこの棒切れ?」 「なに……お守りのようなものよ。  それを持って……さ。ゆかれい」 「ゆかれいって、行けるか!  爺さん置いて!」 「いや、いや……無用、よ。  どうやら、残念だが……今回は、うての方が正しかったらしいわ……嬢」 「……な、  何言ってんだよ、爺さん!」 「色々あった……  この五十年、色々あったが……」 「最期が……一媛の形見に看取られて、とは。  望外の〈幸〉《さち》……うては果報者であった」 「……果報者で……あったよ……  ありがとうな……嬢…………」 「じ……爺さんッ!」 「いま、ゆく……一媛…………  右京……なれも、さっさと……参れ………」 「爺さん……?」 「爺さんっ!」 「お、おい……  さんざ勝手なことだけ言って……」 「勝手に死ぬなんてありかっ!  おい! 目ぇ開けろよ!」 「おい……」 「…………」 「……………………」 「……一媛」 「…………六波羅!」 「お前を……貰う。  今こそ……」 「ざけんな、この――」 「――ッ!?」 「お前が欲しかった。  どうしても欲しかったのだ」 「どうしても……  どうあっても!」 「かつては迷った。  だが、今は迷わぬ」 「一媛……  この手で、その命を貰い受ける!」 「……く……っ!」 (……死ぬのか) (死ぬのかよ、あたしは) (ここで……こんな野郎に) (婆さんの友達を殺した野郎に。  あたしの目の前で殺した野郎に) (あたしも殺されるっていうのか) 「お前は俺のものだ。  殺してしまえばもう誰も、お前に触れられない。お前は俺のものだ!」 (……なんでだよ) (なんでこの爺さんが死ななきゃならない。  なんでこの野郎は勝手絶頂にしてられる) (なんであたしは爺さんを守れない。  なんであたしはこの野郎を倒せない) (あたしは一条……  真っ直ぐに、一条の正道を生きるように。  そう願いを込めて、婆さんと父様がつけてくれた名前) (あたしは一条。綾弥の一条。  なのに……あたしのゆくべき正道が、この世にはないのか?) (〈この世に正義は無いのか〉《・・・・・・・・・・・》!?)           «…………» 「死ねい……一媛!!」 「畜生――――ッッ!!」 「…………」 「……え?」 「…………」 「……だ……誰?」 「……」 (赤い……鎧。  深い、深い赤……) (飛んでる……よな。あたし。  じゃあ、これ、劔冑……か……) (……六波羅?  それがなんで、あたしを……) 「降ります」 「え?」 「きゃあっ!」 「どうか暴れずに。  この高さでも落下すると危険です」 「は、はい……」 「……」 「……え? ち、ちょっと待った!  その声……!」 「な、なあ。  あんた、まさか、あの警官――」 「この道を麓まで駆け下りてください」 「え?」 「お急ぎを。  これより六波羅代官長坂右京の討伐を行います。この付近におられては危険です」 「と、討伐って……」 「行って下さい。綾弥一条さん。  その御名のように、真っ直ぐ」 「!」 「わ、わかった。  行くよ……」 「貴様……若造ォォォ!  どこまでも俺の邪魔をするか!」 「一身上の都合により」  周囲を見渡す。  傷ついた劔冑に身を包む、長坂右京――そしてその後方に、横たわる小さな姿。  弥源太老人。  彼が沈む血溜まりの広さは明らかに、一個の生命が喪失したことを物語っていた。 「……だが。  今の己は、ただの怒りに任せて刃を振るいたき衝動に駆られている」 「貴様が……貴様などに……  切望せしこの瞬間を、奪わせるかぁッ!」 «御堂! 急いで!  あの劔冑、〈孵化が近い〉《・・・・・》!» 「何ッ――!!」 「……ちィッ!」  代官が飛び退る。  そのまま背を向け――坑道の中へ!  広い場所では不利と踏んだのか。  だがその企図、付き合っている暇はない! 「村正! 〈山ごと潰す〉《・・・・・》!」 «――諒解!» «〈磁装・蒐窮〉《エンチャント・エンディング》» «吉野御流合戦礼法、〝〈雪颪〉《ナダレ》〟が崩し……» «〈電磁撃刀〉《レールガン》――――〝〈威〉《オドシ》〟» 「お……おおおおおおおおおおおッッ!?」 「敵騎――殲滅」 «来た――» 「……刀身か。  だが、全部ではないな」 «ええ。  三分の一くらいね» 「……この村で討つべき敵は全て討った。  戦闘を……終了する」 «諒解。  じゃあ……次よ» 「…………」 «戦闘の次――  殺戮を始めましょう。御堂» (…………) (深い穴を……落ちてゆく……) (……これで、終わりか……) (……くだらぬ……) (くだらぬ生涯で……あった……) (……一媛……) (…………弥源太…………) (……なんだ) (…………) (これは……何だ) (光……) (いや…………) (これ、は……!) (……は……) (はは、ははは……) (何と……) (〈いたのか〉《・・・・》!) (貴様は……本当に……!) (はは……ははは!  何としたこと……) (おらぬと思うておったに……  いても、つまらぬ〈石塊〉《いしくれ》であろうと……) (弥源太! 一媛!  見よ…………) (俺の……負けじゃ!) (はっははは!  我が一生、我が闘い……完敗じゃわッ!!) 「あらあら大変。  ばあや、また同じ所に戻ってましてよー」 「はて、面妖な。  お嬢さま、これはもしや〈伴天連〉《ばてれん》の魔術ではございますまいか」 「孔明の計略かもしれなくてよ。  それはさておき、これからどうしましょう」 「もう夕刻でございます。  これ以上遅れては言い訳もなかなか難しくなりましょう」 「そうね。そろそろ行きましょうか。  ……きっと、もう決着もついていることでしょうし」 「同感でございます。  そういえば、お嬢さま……」 「はい?」 「ウォルフ教授より依頼されておりました件は……」 「……あっ。  すっかり忘れていました」 「あれやこれや、立て込んでおりましたからねぇ……」 「あまり気に留めてもいませんでしたし。  理由の説明もなしにほいよろしく、と頼まれてもねー。教授とは部署が違いますのに」 「さようでございますなぁ。  大体そもそも、〈水質調査〉《・・・・》など、どうやったものやら」 「わかるわけがありませんのにね。  まぁ一応、そのへんの小川から水は汲んでおきましたし、これでどうにか誤魔化すことにしましょう」 「御意にございます。  して……お嬢さま」 「なあに?」 「あの湊斗景明なる人物。  どのように見定められました?」 「……そうですね。  一概には、まだ」 「見極めるには時期尚早と?」 「ええ。  まだ……彼が〈そう〉《・・》なのかは、何とも」 「は……」 「けれど。  ……あれほど血生臭い人間は初めてです」 「さように、お感じになられましたか」 「死蝋で出来ているかのよう。  最初に目を合わせた時、背筋に走った〈怖気〉《おぞけ》。当分は忘れられそうにありません」 「……しかし。  お嬢さま……」 「ええ。あなたが考えていることはわかっているつもりよ、ばあや。  彼は〈まっとうな〉《・・・・・》育ちの人間だと、そう言いたいのではなくて?」 「……は。一言で言いますれば」 「わたくしも同感です。  ……だから、わかりませんの」 「……」 「……もっと。  彼のことを知らなくてはなりません」 「さようでございますね。  ……む? お嬢さま」 「どうしたの?」 「あちらをご覧下さいませ。  さよの老眼ではしかと見えませぬが、あれは……人では?」 「……あら、本当。  なかなか凛々しいお顔の美少年……では、ないのかしら? 女の子?」 「こちらに走って参られますね……」 「おいっ!」 「はい?」 「その格好、あんた進駐軍の人だな?  なんか武器持ってないか。銃とか剣とか。無けりゃ鉄パイプでもいい」 「はぁ。  銃でしたら、ここに」 「よし、助かる。  それ貸してくれ」 「どうされますの?」 「あの山に六波羅の糞犬野郎がいるんだよ!  今、警察の人が戦ってる。あたしは加勢に行くんだ」 「……」 「……」 「犬どもを野放しにしてるのはあんたらだろ。  あんたらの不始末をあたしが片付けてやるってんだ。文句ねえだろ。貸せよ」 「そう言われては、反論の言葉もありませんけれど……。  この銃、わたくしの私物ではありますが、一応軍の備品という扱いになっていまして」 「あぁん?」 「民間の方に無断で貸与するわけにはいきませんの」 「貸しちゃダメなのか」 「はい。ダメなんです」 「じゃあそこに置いてくれ。盗んでくから。  それなら問題ないだろ」 「あら?  そういうことになるのかしら」 「お嬢さま、騙されかけておりますよ。  もし、凛々しいお方」 「……うっ。  また爺婆かよ……」 「山で戦っている警察の御仁に加勢をなさりたいとか。  それは、その警官殿が望まれたことでありましょうや?」 「……いや。  それは……違う、けど」 「その方は逃げろと仰られたのでは?」 「……」 「でしたら、その通りにされたが宜しいかと存じますよ」 「けどっ!  あの六波羅野郎は許せねぇんだっ! このまま逃げたら、あたしは――」 「ご自分の矜持のために、警官殿のご配慮を無にされると?」 「……い、いや。そうは……」 「加勢が必要であれば、警官殿はそのように仰られたのではないでしょうか。  そう言わなかったということは、加勢など無用と、そういうことではありますまいかな」 「……うぅ。  けど、万一ってことも……」 「あるとお思いですか?」 「……」 「この婆めは、無いと思いますがねぇ。  お嬢さまはいかがでございます?」 「有馬温泉まで直通の鉄道が開通しました」 「……その心は?」 「〈有馬線〉《ありません》♪」 「華麗にスルーでございます。  凛々しいお方、貴方さまも同じお気持ちではありませんか?」 「……ちっ。はいはい、そうだよ。  あたしもそう思ってるよ! 〈あの武者〉《・・・・》は、六波羅の犬侍なんぞにゃ負けないだろうって」 「くそ……  爺婆はほんと食い合わせが悪いや」 「まあまあ、お若い方が腐られますな。  紅茶でもお淹れしましょうか」 「いらねぇよ。  しかし、あんたら。あの人のこと知ってる口ぶりだな」 「ええ。存じておりますよ」 「協力して、その犬野郎と戦った間柄です」 「……そうだったのか?」 「はい。  今明かされる、衝撃の真実」 「けど、あんたら……無駄飯食らいのGHQだろ?」 「たまにはダイエットがてら働くこともありましてよ。まぁ、その辺のお話は道々いたしましょうか。  おうちはどちら?」 「? 鎌倉だけど」 「お乗りなさいな。  送って差し上げます」 「は? いや、いいよそんなの。  あたしは村に……」 「あの方に協力したいのでしょう?  なら、どうぞ」 「どういう意味だ?」 「簡単に言いますと。  夜道に迷って難儀していたあなたを助けていたという事にすれば、わたくしはもう少し寄り道ができて、本部へ戻るのが遅れますの」 「そしてそれは、あの村や、景明さまを――警察の人を助けることに繋がるのです」 「……さっぱりわかんねぇ」 「それも道々ご説明しましょう。  さ」 「わかったよ。嘘はついてねぇみたいだし。  ……けど」 「はい?」 「道に迷ったってのは無しだ。  怪我でもしていたことにしてくれ」 「? わかりました。  では、参りましょう」 「よろしく。  ……へっくちっ!」 「おや、お風邪ですか?」 「いや、そんな覚えはねぇけど……  なんだろな。今、急に寒気がして」 「逢魔ヶ刻と申します。  何か良からぬものが背筋を撫でていったのやもしれませんねぇ……」 「……不気味なこと言うな、婆さん。似合い過ぎだっての。  ったく……」 「…………」 「静かになった……な」 「……どうなったんだ?」 「わかんねぇよ……」 「おい、誰か見に行ってこい」 「お前行けよ!」 「落ち着け、皆。  騒がずに待とう。もう少しすればきっと、警察の武者様が戻ってこられる」 「……戻ってこなかったら?」 「…………」 「戻ってくる」 「……」 「……」 「あっ!」 「どうした」 「彗星だ……」 「彗星?」 「本当だ……」 「……吉兆だよな?」 「凶兆じゃねえのか……」 「お前なぁ!」 「い、いや、だってうちの爺いが昔――」 「まあまあ……  吉兆だと信じようぜ」 「ああ……」 「……銀色……」 「ん?」 「あの彗星……  綺麗な、銀色…………」  雪車町一蔵は結論として、自分はまあそこそこ幸運だったと、そう思うことにした。  痛む体を、煎餅布団に横たえながら。  あの〈警官〉《おまわり》から逃げ損ね、斜面を転げ落ち秋の温かくもない川に没する羽目になったのは不運としても。  凍死する前に拾われ手当てを受けられたのは、自分のような人間にとっては稀有の奇貨。  そうして結果的に、自分は生き延びている。  ならやはり、幸運だったと言わねばならないだろう。  懸念があるとすれば、ここにあの警官や、あの巡察官などが踏み込んできた場合のことだが……  その場合も何とかなるだろうと、筋者雪車町一蔵は踏んでいる。  何しろこの家には無力な子供が二人もいるのだ。  取り押さえられる前にその片方でも人質にできれば、活路は開ける。  ……こう考える時、雪車町という男の精神上に別段、苦痛は存在しない。  嗜虐的な喜びを覚えることもないが――いや。あの警官やGHQの女に一泡吹かせられるのなら。  雪車町一蔵とはそういう男だ。  卑小な人格を持ち、卑劣に生きてきた。  それで良いと思っている。  人を傷つけ、陥れて、小利を稼ぐことにのみ、興味関心が向いた。そういうことにだけ知恵が回った。  義侠だの、恩義だの、忠孝だの、そういった上等なものはどうしても理解できなかった。無意味だった。  なら仕方ない、と雪車町一蔵は思うのだ。  自分には卑小なことしかわからない。だから卑小に生きる。  上等な人生は、上等なことのわかる奴がやればいい。  だから彼は躊躇わない。  自分を助けた少女達に災いなす考えを弄ぶことにも、そして、それを実行することにも。  いつもの薄笑いを浮かべたまま、雪車町はやれる。  その卑劣さは筋金入りだ。  打撲の痛みに意識を朦朧とさせながらも、彼はそのような考えを巡らし、戸口が開く音を聞き取った時には、行動に備えて隣の様子を窺った。卑劣さが違う。  気配を殺し――今は意識が飛んでるから完璧だなどと彼は愚昧なことをちらと考えた――息を殺し、この部屋と隣室を隔てる障子戸の隙間へ、頭を運ぶ。  そして、その向こうの光景を見た。 (……) (…………) (……なんだ?  ………起きてるつもりで、眠ってる……の、か?) (なんでぇ……〈これ〉《・・》は)  ――まずは姉から。  くうくうと、安らかな息を立てて眠るその首を、    刃音もない一刀で断ち切った。 「あっ、そうですよね。でも……  武者の方ですし。六波羅の人達より本当のお武家様って感じがしますし」 「やっぱりお武家様です」 「こら、ふなっ!  ……じゃあ、どうぞ。おにぎりしかありませんけど。あ、こっちはお茶です」 「これは、行き届いたこと。  ふきさんは良い花嫁になられます」 「……え、……」 「あまりおだてるなよ、御堂。  なら貰ってくれなどと言い出しかねんぞ」 「じ、じっちゃまー!」  死んでいる。  即死であったろう。  痛みも何もなかったろう。  ……だから何だというのか。  当然与えられるべき未来を、今、理不尽に奪われた人間にとって。  死は死。殺は殺。ただの暴虐だ。  ――――次。  もう一つの布団を見下ろす。  姉よりも一回り小さい、しかし同じように、平穏な眠りの中にある姿。  太刀を逆手に持ち替える。  切先を――心臓の上へ。 「かまくらはもっとすごい?」 「人が大勢います」 「どのくらい?」 「この村の倍の、十倍の、百倍ほど」 「きゃー!  すごいねぇ……」 「……ッ」  血の花が、もう一輪。  咲く。  血花、二輪。  平和な、平和であった、蝦夷の家に。  今はもう、死しかない。  弥源太老人も死んだ。  二人の孫は後を追った――追わされた。    助け上げた男の手で。 「御堂。  酒はいける口かな」 「……?  それは、一応……人並み程度には」 「では今宵は一献酌み交わそう。  思えば御堂と出会ってからは忙しないこと続きで、そんな暇もなかったが……」 「年寄りにとって若い者との酒は何よりの薬。  だというにうちの孫は二人とも娘、しかもまだ子供とあってはどうにもならぬ。  得難い機会よ。御堂、付き合って貰えぬか」 「今宵は一献……  今宵は、一献……」 «……御堂» 「……大丈夫だ。  俺は狂ってなどいない。  狂ってなどいない」 「狂いなどしない。  〈そんなところには逃げない〉《・・・・・・・・・・・・》」 «……そう。  でも、違う» 「……」 «御堂。  まだ終わってない» 「……?」 「……けふっ。  こほっ、けふっ、けふっ!」 「!!」  下の娘が――ふなが――目覚めている。  まさか―― «見当を誤ったようね。  姉と同じように首を刎ねていれば良かったのよ» 「……う……あ……」 «顔を直視したくなかったんでしょう。  そのお陰で……あの子は苦しんでいる» 「けほ、えほっ、えぇっ……  ねーや……いたいよ……ねーやぁ……  じっちゃ…………」 「ひ……ひっ、ひぃ……」 «早くしなさい!» 「ひ……あぁ……」  太刀を振りかぶる。  苦しみ、喘ぐ、幼子の顔を確と、見定めて――  その頭部を、今度こそ、一刀で。 「えほ、けほっ!  にーや……!」 「!!」 「たすけて……にーや……  にーやぁ……」 「いたいよぉ……  にーやぁぁ…………」 「あ……ひぃ……ッ」 「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッッ!!」 「…………」 «……完了。  帰りましょう、御堂» 「……………………」 «泣いているの?  御堂……» 「……泣く?」 「泣くとは、どういうことだ」 «…………» 「なんて可哀想なことをしたんだと――  俺は嫌々ながらやったのだと――  本当はこんなことをしたくなかったのだと、  涙を流して――俺も性根は善良なのだと」 「そう言えというのか?」 «……» 「……ふざけるなよ。村正……」 「本当に善良なら、最初から人を殺したりはしないのだ!  殺しておいてから流す涙など、最も醜悪な偽善に過ぎん!」 「人を殺すことは悪業であり、悪業を為す者は悪鬼なのだ!  俺は悪鬼なのだ!」 「俺は悪鬼なのだッッ!!」 «…………。  さっきの言葉、もう一度言っておく» «貴方は何も考えなくていい» «貴方はただの〈仕手〉《てあし》。  この村正の手足よ» 「……」 «手足がものを考える必要なんてない。  ただ――使われていなさい» «……全てが終わったら解放してあげる。  その時まで、心を閉ざしていて» «何も考えず、何も感じずに……  その時を待ちなさい» 「…………御託は終わりか?  劔冑」 «……» 「貴様が俺の主だというのなら、ひとつだけ聞いておく。  何故だ?」 「〈何故だ〉《・・・》?」 «……以前にも聞いた覚えのある問いね» «答はかつてと変わらない。  私は兵器。己を形作る理念を全うするだけ» 「理念……」 «鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る» «他の理由なんて……私には無い。  私は人ではないのだから» «劔冑なのだから» 「…………」 «心を閉ざすことさえ辛いのなら、ひたすらに私を憎みなさい。  貴方にはその資格がある» «貴方の人生を呪った刃を……  心の底から憎む権利がある» 「そんなものは無い」 «……» 「己は兵器に過ぎぬと言ったな、劔冑。  まさしく然り」 「貴様はただの兵器。ただの道具。  道具に罪などない。  道具は罪など背負えない」 「道具を使う義務も権利も責任も、罪科も、すべて俺ひとりのものだ。お前には何もない。  当然だろう。奴隷に責任を押し付ける主人などおらぬ」 «……御堂» 「罪は道具を使う者に。  ならば、憎むべきも……その者だけだ」 (…………) (夢……だよ、な……) (へ、へ……ひでえ、夢……) (けど……) (こいつがもし、夢じゃァなかったら……) (……夢じゃ、なかったなら……)  ……村へ続く道を歩いていく。  村長へ、報告をしなくてはならない。  彼は喜ぶだろう。  そして、代官が現れる前の、平和な村を取り戻してゆくだろう。  穏やかに。  静かに。  何事もなかったかのように、村は平和な日々を過ごしてゆくのだろう。  ただ――  そこには、善良な蝦夷の一家がいない。  平穏で――幸福で――  一つだけピースの欠けた村。 「……」 «御堂……» 「…………」 «御堂……!» 「……黙っていろ。  用はない」 «御堂! 村が!» 「……!?」  これは――  これは――――  家屋を包む赤と黄色の衣。  死に絶えている人々。  村は――  〈今〉《・》、〈滅びている〉《・・・・・》。 «まさか……» 「……ッ……」  倒れ伏す人々を見回す。  誰か……誰か、息のある者は―― 「あ……あぁ……」 「村長!」 「あぁ……なぜ……村が……  どう……して…………」 「何があった!  何があったのだ!」 「……ほしが……」 「……星!?」 「ぎんいろの……ほし…………」 「……」 «…………»  ――村は終わった。  代官が死に、  蝦夷の一家が死に、  そして、村も死に絶えた。  何も、残らなかった。  何も。  何も。  何一つ。  全てがここに、灰燼へ帰す。 «……かかさま……» 「……光……」 「光ゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」 「……岡部頼綱は降伏勧告を拒絶。  自ら旗本衆を率いて討って出たため、我が方はこれを迎撃――」 「猪苗代湖上空で激しい戦闘となったものの、二時間後には敵騎をほぼ殲滅、制空権の掌握に成功しました。  ほぼ同時に地上の反乱部隊が降伏を宣言」 「首謀者岡部頼綱は討死、嫡男十兵衛頼良は館に火を放って切腹。  大村玄信、高野喜三郎も討死を遂げ、岡部の次子六曜丸は逃走中を捕殺」 「その他、主だった者どもは全て戦死、捕縛、投降、いずれかの命運を辿っております。  岡部一党は壊滅したと断定して宜しいかと」 「……反乱に加担し、物資や兵員を提供した町村がいくつかあったはずだな。  それは、どうした」 「常の通りに。  住民は全て処刑、家屋は根こそぎ焼き払い、何も残らぬ荒地と致しました」 「宜しい。  大儀であった」 「はッ!」 「頼綱め……  長年、予に対して公然と面従腹背の姿勢を見せてきおった憎い奴だが、こうして生首になった姿と対面してみると妙な感慨がある」 「こやつの毒舌をもう聞けぬと思うとな……ふふ、不思議なほど寂しさを感じてならん。  思えば奴の毒、あれはあれでなかなか一興であった」 「はぁっはっは!  殿も勝手なことを申される!」 「先日までは事あるたび、岡部の首を持って参れ、奴の首を犬に食わせてやるまでは眠ることもできぬと、返す返す仰られていたに。  それがし、耳にたこができましたぞ」 「それがいざ死んでみれば、この仰りよう。  いやはや、困った御方じゃ!」 「そう言ってくれるな、童心坊。  予とてわかっておる……目の上の瘤が取れ、心持ちに余裕ができたればこそそんな思いも浮かぶのだ。かつては考えもせなんだことを」 「生きておれば死を望み、死に果てれば生を望む……全く、〈御坊〉《ごぼう》に言われるまでもない。  人の心の働きというのは本当に勝手なものよ。どこまでも満足せぬように出来ておる」 「であればこそ、人は満足を求めてあがき、自らを高めるのでござる。  満ち足りた人間は木石も同然、悟りの境地ではござるが、世の役には立ち申さぬ」 「殿がかような生き仏になっては御国の大事。  いや、勝手な言い草おおいに結構! 殿におかれてはどうか今後とも、自侭になさってくださりませい!」 「……どういう説法だ」 「かなわんな、童心坊には。  ふっふっふ……」 「まぁ、何に致しましても」 「これで関東近隣から反幕府勢力はほぼ一掃されたと言えましょう。  まずはおめでとうございます、お父様」 「うむ。  そちも御苦労であった」 「勿体ないお言葉!  此度の乱ではあまり大した貢献も出来ませなんだのに……」 「本当にな。  貴様の担当したラインからの補給は、遂に一度も前線まで届かなかった」 「あっ……あれは仕方ないのよっ!  討幕派のゲリラに鉄道を爆破されちゃったんだから! あいつら、こないだ散々叩いたからもう大丈夫だと思っていたのに……」 「馬鹿か?  その手の輩はいくらでも湧いてくる。もう大丈夫、などということはない」 「当然の警戒を怠った貴様の責任は重大だ」 「うぐ……」 「腹を切れとまでは言わんが、そのけばけばしい頭を丸めてみるのはどうだ? 雷蝶。  貴様のその、目に刺さるような見苦しさは耐え難いと、かねがね思っていたところだ」 「あんた喧嘩売ってんのっ!? こっ、この麿の美々しい姿が、みみみ見苦しいですって!?  許せないわ! 〈陪臣〉《またもの》上がりの癖に! 只で済むとは思ってないでしょうね!?」 「只で済ませてくれなくとも良い。  貴様なら別段、高い出費を覚悟する必要も無さそうだ」 「いつでも構わん。  一戦交えるのが望みなら、掛かってくるがいい」 「な、な、なっ……」 「まぁまぁ、雷蝶殿。  まずは落ち着いて。お座りなされい」 「でも、童心様!  今のお聞きになったでしょう、足利家直系の麿に対して暴言の数々!  これはもう反逆よッ、今すぐ打ち首に――」 「静まれ」 「お、お父様……」 「そちに働きがないとは予は考えておらん。  だが此度の戦、功一等は自ら手兵を率いて乱を鎮圧した獅子吼。多少の放言は受容せよ」 「さもなくばそちの器量が問われようぞ」 「……は、はっ」 「ふん……」 「くっ……」 「獅子吼。そなたも控えよ。  全て予への忠義から出た言葉であることはわかっておるが、傍目には驕りとも映る」 「それではそなたの損になろう」 「はっ。  心致します」 「はっはっはっ。まぁ、若い者はこれくらい元気な方が宜しい。角突き合わせるのも結構結構。立場上いつも仲裁役に回らねばならぬ殿には、なかなか、御難儀なことでござるが」 「……」 「つーか」 「わりかしヤな方向で個性あり過ぎな一家をまとめる苦労人パパって感じだよなー。いや、まんまそうか?  おじじもほんと、大変だね」 「あんたが言わないでよッ!  お父様にいつも一番迷惑掛けてるのはどう考えたってあんたでしょうがッ!?」 「えー。あて、なんかした?」 「……何もしとらんな。雷蝶以上に。  貴様、とうとう最後まで兵も物資も寄越すそぶりさえ見せなかったが……一体どういうつもりだ?」 「どーもこーも。  あての本陣がどこだか知ってんだろ。伊豆半島から関東を中央突破して会津まで送れってーの? 無茶言えよな」 「鉄道は駄目、空路も海路も荒れてて駄目ってな状況で輸送ができるわけねえし。  文句なら、そこの〈提灯鮟鱇〉《ちょうちんあんこう》と台風一五号に言っとけ。あてに言うな、あてに」 「だだっ……誰が提灯鮟鱇よッ!?」 「貴様だ」 「それでもどうにかして送るのが、六波羅にあって一軍を預かる者の義務であるくらい、言わずともわかろう。茶々丸。  実際、童心殿は車両運送で届けてきた」 「あてにもそうしろって?  やだよかったりぃ」 「いいじゃん、あっさりカタついたんだしさ。結果オーライってーことで。ここはひとつ」 「貴様……」 「あー怒るな怒るな。暑苦しいから。  だいたい、獅子吼さ。あてだってなんにもやんなかったわけじゃないよ」 「嘘をつけ。  前線でも兵站でも貢献しなかった貴様が何をしたと云うのだ」 「宣伝工作」 「……は?  何よ、それ」 「大和南北新聞に社説を掲載してもらったの。  あてが書いたやつを社員の名前で。いやさ、あんまり世間の反感買うのもアレだし、今回の件についてちょっと擁護をね」 「ほう、ほう。  茶々丸殿、それはどのような?」 「こんなよーな」 『友情の虐殺』    会津猪苗代で勃発した岡部頼綱の反乱は、一族郎党皆殺しという結末を迎えた。国家に対する反逆である以上やむを得ない処置であるとはいえ、凄惨な最期を遂げた人々の苦しみを思うと、悲嘆の情感は抑え難いものがある。  世間には六波羅に対して怒りと不満を募らせる風潮もあるようだ。しかし、ちょっと待って欲しい。国家を憎んだところで何が得られるというのだろう。ここはむしろ、我々国民を守る統治組織である幕府がなぜ、あえてそのような行為をするに至ったかを考え、理解し、今後は彼らにそうさせないよう、耐えるべきことは耐えて、新たに平和な関係を築くため努力するべきではないのか。  そうすれば、岡部党鏖殺のこの事件は、後世に悲劇としてではなく、官民を結び付けるきっかけとなった 『友情の虐殺』として、幸福な時代の始まりとして、伝えられてゆくのではないだろうか……。  それこそが残された人々の義務であり、岡部の人々の尊い犠牲に報いる道だと、私には思えてならないのである。 「…………」 「…………」 「どうよ。  この巧妙極まる論点のずらしっぷり」 「何処がだ!?」 「喧嘩売ってるようにしか見えんわッ!!」 「えー。そんなことねぇよー。  ほら」 「がっはっはっ」 「ウケてるし」 「童心殿!」 「ていうか関係ないでしょっ!?  あんたウケとるためにこれ書いたわけ!?」 「力だけの政治はもう終わった。  これからはエンターテイメントの時代だ!」 「意味わかんないんだけどッ!」 「前言撤回する。貴様はやはり何もするな。金輪際何もするな。  できれば呼吸もするな。脈拍も止めろ」 「おじじー。  大人気ない連中がいじめるー」 「……まぁ、良い」 「お言葉ですが殿下。全然、良くありません。  幕府の威信にも関わります」 「とりあえずこの脳足りんは火星へ島流しにして、新聞は回収させましょう。お父様」 「良い。  獅子吼、雷蝶。茶々丸のすることにあまり目くじらを立てるな」 「……仰せとあらば」 「立てるなー」 「黙れ」 「死になさいよ、あんた」 「おじじ、こいつら命令違反だから殺してもいい?」 「まぁまぁ。  ……さて、景気の良い話の後で恐縮なのでござるが。一つ景気の良くない報告をさせて頂いてもよろしゅうござるかな」 「うむ?」 「クラゲが大量発生でもした?」 「いやいや。  先頃、それがしの管区で発生した一村全滅事件の調査報告が上がってきましてな」 「……あぁ」 「景気が良くないってことは、予想通りってことですのね? 童心様」 「見ようによっては、これほど景気の良い話もなかなかござらんがなァ。  生存者は皆無。綺麗さっぱり皆殺し。老若男女一切問わず、物言わぬ骸となりにけり」 「事件の異様なまでの特殊性は〝銀星号〟の出現を示しているとみてまず間違いなかろう、との報告でござる」 「……銀星号!」 「これで何件目なのよ……」 「目撃情報は?」 「これもまた、例によって……」 「無し、か」 「信頼のおけるものは。  銀の流星を見たという者も付近住民、通行者らの中に幾人かおり申すが、さてどこまでが本当でどこからが後付けの妄言やら」 「なんにしろ、殺戮現場をはっきり見た奴はいないっつーことだーねー?」 「そういうことだのぅ」 「なんという馬鹿げた話だ……!」 「別に馬鹿げちゃいねぇだろ。  見た奴は全員死にましたってだけの話だ」 「それの、どこが、馬鹿げていない?」 「あはは。だよねー。馬鹿くせー」 「……笑ってる場合かっての」 「いやもう笑うしかねぇしさ。  誰だってそーだと思うよ?」 「もう関東中に広まってる、武者の一個中隊が銀星号に全滅させられたっつーあの噂。  市民の間じゃ信憑性は半信半疑って辺りで落ち着いてるけど」 「あれが実は嘘で」 「本当は一個中隊じゃなくて一個〈大〉《・》隊です、なんてことを知ったらさ。  笑う以外に何ができるっつーの?」 「…………」 「確かにな。  五〇騎からの武者がただ一騎に鏖殺される、か……ふん。古代の神話か、でなければ狂人の妄想にしか有り得ぬような話だ」 「〈唐国〉《からくに》の伝説に謳われる項覇王もかくや、というところだのぅ。  いやはや、何だってそのような代物が現世に出て参ったやら」 「あれは何者なのよ? 一体……」 「――其は終末であり、死滅であり、灰燼も残さぬ消失である。  汝、触れるなかれ見るなかれ。死に絶えることを望まぬならば……」 「なによ、それ」 「マタイの福音書、別記。  降り来たる魔王の一節」 「……ふぅん……」 「嘘だけど」 「嘘かよ!?」 「プッ。信じてましたよこの人!  いるんだよなーこういう奴。なんか適当にそれっぽいこと言うとあっさり鵜呑みにしちまいやがんの。で、よそで吹聴して大恥かく」 「殺すわ……」 「ま、ま」 「殿下。やはりこれは由々しき事態。  現在の対策班では足りませぬ。規模を拡大し、我々の内の一名を責任者にあて、本腰を入れた対応を行うべきかと存じます」 「うむ……」 「さらっと無視してるけど、あいつもきっと一瞬信じたんだぜ……?  良かったね雷蝶、仲間がいて」 「馬鹿はシカト。ふんっ」 「童心坊。  獅子吼の進言や如何に?」 「さぁて。  やがて必要となる措置であることは、否めませぬが……」 「時期尚早と言われるか」 「さよう。  幕府が、得体の知れぬ凶賊を相手に、そこまでの力を注ぐ――ということが、おそらく現段階では……」 「火種を煽るか。  民衆の中の反幕分子。それにGHQ……」 「内外の敵に付け入る隙を与えることになる……それは私とて懸念せぬではありませんが。 〝銀星号〟は黙殺するには余りに大きな災厄。多少の犠牲は払っても潰しておくべきでは?」 「どちらを先に片付けるのか、という問題になるかな。敵勢力か、それとも災厄か……。  しかし、獅子吼殿。銀星号の被害を蒙っておるのは我らに限らぬ事を忘れてはなるまい」 「……」 「六波羅の主敵、進駐軍も少なからぬ損害を受けておる。そこを考えると、今、我らのみが矢面に立って厄介事の始末に乗り出すのは、いささか割りに合わぬ話と云えぬかな」 「……なるほど」 「でも、童心様。  GHQの手にも負えない銀星号を六波羅の手で叩き潰せば、幕府こそが大和を統治する力を持つというまたとない〈証明〉《アピール》になります!」 「しかし、それはそれでまた難しゅうござる。  効果が薄ければくたびれ儲け。大きければ大きかったで、進駐軍の尻に火を点ける結果となり申す」 「大和〈完全支配〉《・・・・》の機を窺う者どもは、我らの支配力強化を決して看過しますまい。  銀星号対策で疲弊した所にGHQの大軍を迎える……それはちと、ぞっとしませぬなァ」 「…………」 「宜しい。童心坊の見解を是とする。  銀星号問題に対しては現状の体制で臨む。いずれ対応部署の拡充は行うが、それは予の支配が完全なものとなった後の課題としよう」 「はッ……」 「御意」 「お父様の仰せのままに」 「……不満か? 獅子吼」 「いいえ、決して。  ただ一点……どうにも気に掛かってならぬことがございます」 「申してみよ」 「……銀星号なる者、一度たりと関東防空圏の〈金探〉《レーダー》に捉えられた例がございませぬ。  である以上、彼奴めは関東の外からやって来るのでは〈ない〉《・・》とみるのが妥当」 「低空騎航で〈金探〉《レーダー》を誤魔化しているっていう可能性は……ないわよねぇ。  だったら肉眼で発見されてないとおかしいし」 「関東のどっかから出現して、どっかへ帰るわけだ。……レーダーが関東の外縁だけじゃなくて全域をフォローしてくれてたら、話は簡単だったんだけどねー」 「それはちと、人員と経費がおっつかんのう。金探そのものを改良して性能の向上を図らぬことには、なかなか……。  現状では要所要所に配備するので精一杯よ」 「確かに、関東全域を綿密に監視する金探があれば事は楽に片付いたろう。  しかしそんなものがなくても、本来、事は既に決着していなくてはおかしいのだ」 「何故なら武者は〈目立つ〉《・・・》。  ――殿下。私がどうにも納得いかぬのは、その点」 「うむ……」 「犯行現場から奴が飛び立つところを見たという報告は過去に数件ございます。  しかし、着陸現場を目撃されたことは一度たりとありません。これはいかにも奇怪な話」 「……ふむぅ。  武者が着陸する際に生じる爆音それに噴煙の軌跡は、かなり離れた場所からでも確認ができるはず。だというのに……か」 「人里離れた山奥に降りているだけじゃないの?」 「この関東に『人里離れた山奥』がどの程度ある?  無論、あることはあるがな。そんな場所は既に対策班が重点的に調査済みだ」 「成果は無し。  何の痕跡も発見できていない」 「……」 「童心坊。どう考える?」 「わかりませぬなァ。確かに獅子吼殿の申しようはご尤も、いかにも不審……。  されど、相手は常識外れの怪物。当たり前の物差しで計るべきではないのやも知れず」 「うむ……」 「そーかなー。  案外単純な話なんじゃない?」 「あんたはもう黙ってなさいよ」 「へーい」 「……」 「いや、待て。  茶々丸、言いたいことがあるなら言え」 「ええのん?」 「ああ」 「時間の無駄なのに……」 「んー。否定できないのがツライ。  いやさ、ほんと単純なご意見なんだけど」 「単に銀星号は武者が着陸しててもおかしくない場所に降りてるだけなんじゃないの?」 「……はぁ?」 「木を隠すには森の中っつーか。  それなら誰も不思議に思わないやん」 「……あのな」 「あんたねぇ……。  そんな場所、この普陀楽城と、関東四軍の駐屯基地――つまりは麿たちの公方府くらいしかないでしょうが!」 「だーよーねぇー?  あはははははははははははははははははは」 「………………」 「………………」 「…………何だと?」 「…………え?」 「あはー」 「ちょ、ちょっ……ちょっと待ちなさいよ!  あんた、それじゃまるで、この五人の中の……誰かが…………」 「…………」 「……ほゥ、ほゥ……」 「ばばっ、馬鹿馬鹿しい!  大体そんな、何のために……」 「……茶々丸。  貴様、今の発言は……何か根拠あっての」 「んぐ。  カステラうまい」 「聞け!」 「……この城か、あてら四公方の本陣か。  さもなけりゃ」 「んーん……」 「やっぱカステラは文命堂に限る……」 「……食うか喋るかどちらかにしろ」 「なら食うけど」 「喋れ!」 「GHQなんじゃないの?」 「…………」 「……ふむぅ。なるほど。  横浜の進駐軍総司令部も竜騎兵の出入りは激しゅうござるからの」 「その中に銀星号が紛れ込んでおったとしても、傍目には何の違和感もなし……」 「つーか、GHQが黒幕だとするなら、そもそもの銀星号は関東内で離着陸してるはずだって前提自体が無意味になっちゃうのかもね」 「銀星号事件ってのは実は、GHQの新兵器実験だったり?」 「……〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》か。  だとすれば〝銀星号〟の拠点は洋上だろうな。その方が隠匿性が高い」 「太平洋艦隊から防空圏のレーダーを欺瞞しつつ飛んでくる、連盟軍の最新型竜騎兵ってわけね……。  けど茶々丸」 「うい」 「進駐軍だって銀星号の被害は受けてるじゃない。  それはどう説明するのよ」 「……はぁ?  あんた、何をカマトトぶってんですかぁ?」 「な、なによ……?」 「疑惑をそらすために被害者を装うなんて、初歩の初歩の陰謀じゃねーか。  あてらだって普通にやるだろ? その程度」 「……」 「はッ。流石。  親兄弟を殺して家督を奪った者は言う事が違う」 「てめェが言えた義理かっつーの。  ……しかも、だ。〈大英連邦〉《ブリテン》サマは物量には全く困っていらっしゃらない」 「木っ端兵士の二百や三百、使い捨てにしたって痛くも痒くもくすぐったくもねぇだろ。  たったそれだけの犠牲で、新兵器の実験と、治安の悪化――幕府の統治力の減退を図れる」 「やつらにしてみりゃ、安すぎて笑いが止まらないくらいのいい買い物なんじゃねーの?」 「……そう……ね。  確かに…………」 「一理ある。  現段階では所詮、推測に過ぎんが……」 「ねー。もうカステラ食っていい?」 「好きにしろ。  ……殿下。如何なさいますか」 「今の茶々丸殿のお話、明確な根拠は欠いておるにしても、なかなか納得できるところが多うござる。  もし事実なれば、捨て置いては危険……」 「いや。  方針に変更はない」 「仮に全てが進駐軍の陰謀であるとしても、否、そうであれば尚のこと、まず第一に対処すべきはGHQ本体。  指先の動きに囚われては大局を見失う」 「GHQという根幹を潰せば、枝葉はすぐに枯れ果てよう。  忘れまいぞ。我らが敵は横浜に在り。宿望は唯一つ――――」 「〈大攘夷〉《・・・》じゃ!」 「御意。  六波羅のために!」 「神州大和のために!」 「お父様の天下のために!」 「さすが、おじじ。  んまんま」 「空気読めよ!?  いつまでカステラ食ってんの!」 「ごちそうさま。  で、話は変わるけどさぁ」 「しかも仕切るし……」 「あー、うるさいですよキミ。  場の空気を乱さないようにね。ひとの話はちゃんと聞け」 「ぐぎ……」 「重要な議題かな?」 「いんや、それほど。  最近、ちっとばかし巷で噂になりつつあることがあってさ」 「〝赤い武者〟の話なんだけど。  知ってる?」 「……いや」 「銀の次は赤ときたかい。  それは一体?」 「弱きを助け強きを挫く。  正義を掲げて闘う〈英雄〉《ヒーロー》」 「……はぁぁ?」 「ってことらしいよ?」 「それじゃ全然わからないわよ。  そいつが何をしてるわけ?」 「だから、弱くて正しいやつを助けて強くて悪いやつをどついて回ってるんだろ。  ヒーローってのはそーいうもんだし」 「悪いやつって誰よ?」 「あてら六波羅。  それと、例の〈工作員〉《・・・》ども」 「……民衆を害する武者を、狩って回る武者がいると云うのか?」 「そそ。どこからともなく現れて、悪い武者をぶっ倒して、どこへともなく去ってくんだそーな。  あくまで噂だけどね」 「つーか、都市伝説?」 「……でしょ?  そんな報告は、」 「……ないこともない。  事故死として処理された竜騎兵の死亡事件の中には、不審な点が多いものもある」 「私闘か、さもなくば銀星号の手に掛かったのだろうと、一概に片付けられていたが……  その赤い武者とやらが実在するとすれば、そちらの犠牲者も含まれているかもしれない」 「……ふむぅ。あるいは……  先程ご報告した、例の全滅した村の代官が……その英雄殿の刃に掛かったやもしれぬ」 「あれは銀星号なのでしょう?」 「いや、それがですな、雷蝶殿。  村が壊滅する前日の事なのでござるが……」 「それがしの古河公方府にその代官から連絡がありまして。真紅の劔冑を駆る所属不明の武者が現れただの、そやつがGHQの巡察官と組んで反逆行為に及んでいるだのと」 「ほう……?」 「だから増援をくれという要請だったのですがな。なにぶん岡部の乱で天手古舞になっていた折のこと、まともに取り合う暇もなく、無視してしまっており申した」 「失礼ながら童心殿。  仮にも反逆を訴える通報に対して、それはいささか手落ちというべきでは」 「……この、陪臣上がり!  少しは自分の立場ってものをわきまえて口を利きなさいよ!」 「いやいや、まったくその通りで、返す言葉もござらん。それがしも反省することしきり。  ただ言いわけをしておくなら、聞き流してしまった理由は他にもござってなァ」 「とは?」 「その代官がのぅ。前々から、赴任地のなんとかいう山に固執して、大昔の古文書によるとここは宝石がわんさか出る場所だから是非にも開発すべし、と再三上申を繰り返し」 「それが通らんと知ると、とうとう自費で穴を掘り始めよった、なんというか……変物でのぉ。  武人としては使える男であったのだが」 「……中央で出世するための点数稼ぎがしたかったのか?  それにしても術があろうに」 「さてなァ。今となってはわかり申さぬ。  何にしても、そういう少し変わったやつだということは皆知っておったので、古河では誰も報告を真に受けなかったという次第よ」 「ふーん」 「赤い武者、ねぇ……」 「興味深い話ではあるな。  が……童心坊?」 「は。今のところは夢とも〈現〉《うつつ》とも知れぬ話、気に病むには及びますまい。  それに……」 「赤い武者とやらが真、〈工作員〉《・・・》どもを斬って回っているのなら。  我ら以上にそやつが鬱陶しくてならぬのはGHQ。連中が始末してくれるでござろう」 「獅子吼」 「童心殿に賛同仕ります。  ただ、このような噂が広まる背景、市民の間の英雄願望の高まりには若干の危惧を覚えないでもありません」 「……それだけ不満が募っておるということだからのぅ。  といって、今の状況では民衆への締め付けを緩めるわけにもいかんが……」 「然り。  むしろ鎌倉大番らの警察体制を強化、不穏分子の摘発をより徹底してゆくべきかと存じます」 「うむ。その言を良しとする。  雷蝶、速やかに手配せよ。〈厩衆〉《うまやしゅう》にも命令を下しておけ。表と裏の両面から制御するのだ」 「はい、お父様」 「うにゃー。かったるー。  おじじー、そろそろ終わりにしない?」 「……そうだの。  他に議題がないようであれば、本日の評議はこれまでとするが……」 「あいや殿、しばらく。  獅子吼殿、例の一件については?」 「……」 「例の一件?」 「……あー、あーあー。大鳥本家の家督継承について、なんか承認を受けたいことがあるとかなんとか。  そーいやそんなこと言ってたっけ」 「あれ、どしたの?」 「……その儀は。  後日、また」 「……ふむぅ?」 「なによ。あんたがこだわってた、本家正統の嫡子ってのが見つかったんじゃないの?  それともなに? やっぱり気が変わった?花枝と結婚して本家を奪う気になったわけ?」 「……ッ……」 「じょっ、冗談よ!  そんな、睨まなくたっていいじゃない!」 「機嫌悪いじゃん。  なんか良からぬことがあったようだねー?」 「…………」 「……ふむ。  仔細はわからぬが、不都合とあればあえて問うまい」 「その件は日を改めて論ずるとしよう」 「有り難き御差配……。  痛み入りまする」 「今宵は以上。皆の者、御苦労であった。  下がって良い」 「ははっ」 「おっ、そーだ。  おじじー、時王は元気してる?」 「時王ではない、茶々丸。  殿下の御嫡孫、時王丸君は既に元服なさり、四郎邦氏を称しておられる」 「せめて四郎様とお呼びせよ」 「えー。  いいじゃんかよ別にィ。元服しようが切腹しようが、時王は時王なんだしさー」 「貴様は……」 「良い、良い。獅子吼。  四郎にとって茶々丸は姉のようなもの」 「歳の近い親族は茶々丸しかおらぬでな。  最近あまり会えないと、寂しがっておった。良ければ顔を出してやってくれぬか」 「いいよー。本を貸してやる約束してたしね。帰る前にちょこっと寄っていきましょう。  次の大将領にコビ売っとくのも悪くない」 「ふふ。  あまり甘やかしてくれるなよ。親を早くに亡くした不憫な子ではあるが、立派に育って貰わねば困るでな」 「はーい」 「……」 「ん? なに面白くなさそうな顔してんのさ。  雷蝶叔父さん?」 「べっ、別に……」 「……ふむぅ」  拘置所の一日は退屈によって支配される。  既に刑の確定した者のための施設である刑務所とは異なり、拘置所に収容されるのは未決囚と未決囚扱いの死刑囚(彼らに与えられるべき刑罰は最後の死のみであり、他には無い)なので、強制労働は行われない。  規定の上では志願すれば労役に就くことも可能な筈だが、この関東拘置所はその体制が整っていないため、要望に応えることは不可能――とのことだった。  看守からそう聞いている。  外に出て体を動かせるのは一日あたり三十分間だけ。  他の時間は全て独房内で静かに過ごさねばならない。  読書や書き物は可能だが、制限がつく。  長い一日を潰すのは無理だ。  となれば後は、ひたすらに寝て過ごすか、あるいは――貪眠による心身機能の低下を受容できないのならば――二畳余の空間で許される限りの運動を行うしかない。  派手な音を立てる行為は当然、認められない。  器具を使うような運動も無論――例え獄室内にある物で間に合わせるとしても。乾布摩擦でさえ、看守によっては絞殺の準備とみられる。  素振りなどは論外。体術の型なども看守のささくれ立った神経をいたずらに刺激するのみだ。  結局のところ、出来ることは腕立て、腹筋、背筋といったスタンダードな筋トレの類に限られる。  つまりは、俺が今している事もそれなのだった。 「未決囚〇四八号」 「はい」 「事情聴取のため、お前を一時的に鎌倉署へ移送するとの通達があった。迎えの車はもう来ている。  一〇分以内に支度をしろ」 「わかりました」 「……ところで、お前」 「何でしょうか」 「今、何をしていた?」 「腕立て伏せです」 「……そうか。  腕立て伏せか」 「はい」 「お前、生まれは?」 「長崎です」 「俺は秋田だ」 「きりたんぽが美味しいとか」 「長崎は、ちゃんぽんだな」 「ええ」 「……俺の故郷では、腕立て伏せってのは、両手と両足を地面につけてやるもんだった」 「大概は、そうでしょう」 「足を浮かせてやる腕立て伏せっていうのは初めて見た」 「自分も、他人がやるのはあまり見た覚えがありません」 「苦しくないのか?」 「苦しみ悶えます」 「…………そうか。  安心したよ」 「それは幸いです」 「支度をしてくれ」 「はい」 「……つまり。  間違いはないのだな」 「はい。  あの村は銀星号が滅ぼしました」  卓上の茶碗を手に取る。  鼻をくすぐるほのかな香りは、遠州産の新茶のそれだった。色を見れば安物とわかるが、品質は悪くない。  水面が唇に触れる程度に碗を傾け、舌先を湿らせる。 「村正も同様の見解です。というより……  ただの一人も逃れ得なかった、文字通りの〈全滅〉《・・》なのです。誤解の余地がありません」 「その通りだな。  例えば軍事用語で全滅と云うとき、部隊が機能を完全に失うほどの損害を受けた状態を指す。比率にして三割から四割程度」 「全滅といっても六割は無事に生きている。それが常識というものだ。  しかし〈あれ〉《・・》に遭遇した者には、その六割の生存が許されない」 「あれは戦争ではないので。  加害者と被害者との間に、戦闘などという、生温いお遊戯めいた交渉は存在しません」 「単なる天災です。  沿岸の村を襲う大津波です。  山麓の村を襲う大噴火です。  生き残りなど許される筈がない」  事実を事実として言い切る。  返答はなかった。  広くもない室内の東側の壁に、絵が一幅、飾られている。桑の栽培の様子を描いた、ごくごく平凡な風景画だ。技術的にも見るべき点は特にないだろう。  だが好悪を問うなら、好みだった。  著名人の作品ではない。いや、画家の手になるものでさえない。それはこの部屋の主の、自筆だった。  凡庸な作品だからこそと言うべきか、見る人を落ち着かせるような趣がある。……贔屓目かもしれないが。  そんな絵だけが、この部屋にあって唯一、装飾品と呼べるものだった。  後は実用本位の家具と多くの資料類、味も素っ気もない諸々があるばかりだ。  鎌倉市の治安を預かる――べき――警察署の首長が座すにしては、寂しい佇まいだと言えた。  もう少し皮肉な表現力を駆使するなら、〈嘆かわしい〉《・・・・・》佇まいだと評することも可能かもしれない。  あるいは〈現実的〉《・・・》か。  現実的な署長室の現実的な警察署長は、テーブルの木目に向けていた視線を外し、再びこちらを見やっている。 「〝卵〟の孵化は阻止したのだな」 「はい。  六波羅代官長坂右京とその傭兵風魔小太郎が寄生体であることを確認、両名を殺害しました」 「現状で何よりも肝要なのはそこだ。  あんなものに〈増え〉《・・》られては堪らん」 「御苦労だったな」 「いいえ。  苦しんだのは決して、自分ではありませんから」 「…………。  銀星号について情報は得られたか?」 「長坂右京からは何も。  風魔小太郎の方は〈あれ〉《・・》と会話程度の接触はした様子ですが、所在などの有意義な情報はやはり得られませんでした」 「そうか。  あれは何処かに、何者かが、〈保護〉《・・》しているとみるべきなのだが……」 「そう考えなくては、理屈に合いません」 「失踪者扱いで全国に捜索を手配しているにも拘わらず、まるで引っ掛からないのだからな。  警察力の不足もあるだろうが……」 「もう二年にもなる。  支援者がいると考えるべきだ」 「全くに。しかし、目的が皆目わかりません。  誰もを害する殺戮者に、誰がどうして手を貸すのか」 「ああ。筋道が通らんな?  ……そして世の中、筋道の通らん話が割合横行するから困る」 「であれば、論理的推察のみによって真実へ近付くのは難しいという事になります」 「その通りだ。  安楽椅子の探偵を気取っていてもどうにもならん」 「決定的な情報が要る。  済まないが宜しく頼むぞ、景明」 「承知しています。  ところで。それとは別件で一つ、気になる事柄が」 「なんだ?」 「風魔小太郎に劔冑を提供した男です。  名は雪車町一蔵。六波羅御雇の野木山組に属し、且つGHQの御用聞きでもある」 「ああ……」 「自分が聞かされた話をすべて鵜呑みにするなら、という前提ですが――風魔はGHQに奪われた劔冑を雪車町の手配りで取り戻している。何故、そのような真似が許されたのか」 「GHQの〝劔冑狩り〟政策の成果は当然、厳重に封印されている筈。  でなければ、手間隙を費やして劔冑を狩り集めた意味がありません」 「…………。  先日の教師。鈴川令法か。彼も出所不明の劔冑を持っていたのだったな」 「はい。  関連性が疑われます」 「お前はどう考えている?」 「……妥当な推論をするなら。  GHQの大和への無関心が進駐軍の綱紀を緩ませ、物資の横流しを安易に行わせている――というあたりでしょう」 「その推論に対する自己採点は?」 「不可」 「なぜ?」 「GHQは大和に無関心ですか?」 「否。  ……そう、そういうことだな」 「この件については既に推測を持っている。  だが、明日話そう。どうせ話題になる……こんな話は幾度も口にしたくない」 「明日?」 「今日は私の役宅で休んでおけ。拘置所には戻らなくていい。  明日、仕事が済んだ後で付き合って欲しい所がある」 「どちらへ」 「八幡宮だ。  親王殿下がお前に会いたがっておられる」 「…………」 「それはまた、何故」 「お前が思っている以上に、殿下はお前の事を気に掛けておられるよ。  殿下は国民を多く害する銀星号事件を我が身の事として考えておいでだ」 「お前にかける期待も大きい。  一度親しく言葉を交わしたいと、実は前々から仰せであった」 「しかし。  血の穢れに塗れた身を皇族の御前には――」 「そんなつまらん事にこだわられる殿下ではない」 「つまらぬ事とは思われません。  社稷を司る者は不浄を遠ざけるべき」 「まあ、そう言うな。  要は実際的な方なのだよ、殿下は。事件の実情を知るために現場の者の声を聞きたいと望んでおられる。となればお前しかいない」 「それだけだ。だから別に、愛想を振りまく必要もない。  事件について殿下の御下問にお答えすれば済む」 「小一時間ほどの辛抱だ。我慢して付き合え」 「……わかりました」  やむなく首肯する。  気の重い話だが、そう言われては仕方がなかった。  ――八幡宮の親王。  皇室の変わり種という風評はこれまでにも耳にしていたが、どうやら噂通りあるいは噂以上の人物らしい。  獄囚に会いたがる貴人など聞いたこともない。  ……あまり根掘り葉掘りあれこれと聞かれなければ良いが。  既に湯気など立てない茶碗を呷る。  温かみを失った茶は無闇に苦かった。  職員用の通用門から鎌倉署の外へ。  通りへ出る。  署長はわざわざ見送りをしてくれた。厚情は有難いが、人目を思って気に病みもする。  警察署長が拘置囚を送っているのだから異様な図だ。  とはいえ署長は警察の制服姿だが、こちらは拘置所の囚人服を着ているわけではない。  無用の心配だとはわかっていた。 「何事も無ければ、明日は日暮れ前に役宅へ戻る。それまではくつろいでいろ」 「はい。  書斎を使っても構いませんか」 「好きにしろ。  ……ああ、そういえば〈統合帝国〉《ドイツ》の優生学についてまとめた研究書が入っている」 「それは関心があります。今夜にでも読んでおきましょう。  では」 「ああ――  ん?」  署長の視線がふと、泳ぐ。  俺の後方、斜め右側へ。  つられて追う。    人影があった。  コンクリート塀に背を預け、こちらをうつむき加減の横目で窺っている。  一見、何の気もなさそうな素ぶり。しかしその実、眼球の奥には激しい意志の光があった。  俺の知る限り、彼女がいつもそうであったように。  脳裏に強く記憶されている顔だった。  姓名を思い出すのに何の苦労もいらない。 「…………」 「…………」 「知り合いか?」 「ええ……。  どうしてここに?」 「一条綾弥さん」 「逆だよっ!!」 「…………失敬」 「入れ」 「大鳥香奈枝中尉、並びに伍長待遇軍属永倉さよ。ただいま着任いたしました」 「御苦労。  俺の方も自己紹介が必要か?」 「時間が有り余っているのであれば是非とも、課長。  ウィロー少将閣下からはおおまかなところしか伺っておりませんので」 「なら一応しておこうか。幸いなことに今はヒマだ。昨日は凄いぞ? 三時間も寝た。  それに精力が頭髪に回ってないあの閣下殿、本当に大まかな話しかしてないだろうしな」 「なんと仰っていましたかしら……  さよ?」 「『中尉、貴官に任務を与える。マタ・ハリだ! 貴官はかの歴史的雌狐の役を連盟軍において担う栄誉を得た! 喜んでくれるものと信ずる。なお、ダンスの訓練は必要ない』」 「以上でございます」 「……説明が足りてるとか、足りてないとかいう以前の問題だな。核心は突いてるがね。  それで、中尉は何と答えた?」 「グレタ・ガルボほどにうまく演じる自信はございませんけれど、と」 「ふむ。そいつは大和人特有の謙遜か?  中尉ならいい線いくと俺は思うがね。半島の片田舎から乳牛と一緒に引っ張られてきたバイキングの子孫なんかよりずっと魅力的だ」 「あら、お上手。うっかりとその気になってしまいそう。わたくしったらおだてに弱くて。  でも、おだてに乗ろうにも脚本がなくてはどうにもなりませんね?」 「わかってる。順々に行こう。  クライブ・キャノンだ。参謀第二部で資料管理課長を務めている。だが課長とは呼ぶな。言葉の響きがどうも肌に合わない」 「中佐と呼んでくれればいい。  で、こちらは俺のサポート」 「ジョージ・ガーゲット少佐だ。  職務に関連する報告は主に私にしてもらうことになる。顔を合わせる機会も多くなるだろう」 「色々難しいこともあるかもしれないが――うまくやっていきたいものだな? 中尉」 「まったく同意いたします。  どうか宜しくご指導のほどを。ガーゲット少佐」 「握手は無用だ。  大鳥中尉。私はうまくやろうと言ったのであって、仲良くしようと言ったのではない」 「……あら。  これは失礼をいたしました」 「ジョージ?」 「何か問題でも? 中佐殿」 「…………まあ、こういう奴なんでな。  あまり気にしないでやってくれ、中尉」 「ご心配なく。わたくし、まったく気にしておりませんから。  後で手を洗いに行く手間が省けましたもの」 「…………」 「ハハハハ。そうかそうか。どうやらチームワークは完璧だな? 俺はとても幸せだ。  このまま少し待っていてくれ。ウィローの親父にサイパンへの転属願いを出してくる」 「大鳥中尉への説明を先にお済ませください。中佐殿」 「ああ、そうするよ少佐閣下。  レディ? この資料管理課についても簡単に解説した方がいいのだろうな」 「出来ましたら。……中佐」 「うん? なんだか言いにくそうだな。  子供の頃にうっかり中佐を生で食べて腹を壊したことでもあるのか?」 「そうですね……。  先日まで中佐と呼んでいた人物に少々食傷気味だったことは否めません」 「ああ、コブデンの阿呆か」 「中佐殿。いささか表現が直截的過ぎます」 「じゃあ、コブデンの教養失調症にしとこう。  聞いているか、中尉? 実は君と前後して奴も民政局の席を失っているんだが」 「あら。それは初耳です。  てっきり不出来な巡察官を更迭した功績で昇進でもされたかと思っておりましたのに」 「そいつが奴の最後の仕事になった。結末は惜しいかな、昇進ではなく左遷だが。  今頃は横須賀の港湾基地で、新しい椅子を痛めつけているだろうよ」 「湾岸のリゾート地に赴任とはお羨ましい。  ご栄転の理由は何なのでしょう?」 「収賄。  建築企業、密輸業者、幕府の官吏といった連中から小銭を貰って便宜を図ってやる副業に、大変な熱意をもって励んでいたようだ」 「あらあら。  働き過ぎが仇になるとはお気の毒なこと」 「気の毒なのは民政局の他のお歴々だよ。  奴のお陰でしばらくは副業を控えなくてはならなくなった」 「目立たないように隠蔽する程度の心配りをしてくれれば、監査部だって余計な残業せずに済むものをさ。基地の電話を使うか普通?否が応でも摘発しなきゃならんだろうが」 「堂々としていて結構ではございませんか」 「その割りに民政局から出て行く時は堂々というよりすごすごといった格好だったらしいがな。  話が逸れた」 「中尉、我々資料管理課の担う職務は何だと思う?」 「そうですね。  わたくしが思いますに、おそらく――」 「資料を管理するのではないでしょうか」 「素晴らしい。まさに正解だよ大鳥中尉。  君のように優秀な人材を見たのは初めてだ」 「まあ、ありがとうございます」 「…………」 「ヘイ、ジョージ。  話の輪に加わろうぜ」 「はい、中佐殿。お断りします」 「……まあ、実際そうなんだがさ。  ただ一個抜けている」 「はい」 「俺たちは情報資料を〈収集して〉《・・・・》管理する。  この収集の方が実はメインの業務になる。オフィスにいつも人がいないのはそのせいだ」 「課の名前をつける時にウィロー少将閣下はこの収集っていう要素の加味を忘れたらしくてな。お陰で実情を知らない外部からは窓際呼ばわりだ。まったく、迷惑してるよ」 「……なるほど。  それでマタ・ハリですのね」 「なかなかやり甲斐のありそうなセクションだろう? だが、俺の部下は奥ゆかしいやつばかりでね……自分の仕事をよそに吹聴したがらない。まあそういう気風なんだろう」 「実は俺もそうなんだ。  申しわけないが大鳥中尉、君もその気風に従って貰う。チームワークだ。従えない場合はそうだな、なるたけ早目に言って欲しいね」 「先程君が羨んだ元上司のもとへ部下として返り咲けるように手配する。  実は必要な申請書類はもう用意してあるんだが。さて? 俺はこれをどうしたらいい?」 「まあ、行き届いたご配慮。痛み入ります。  でもどうかご案じなく。わたくしも奥ゆかしさにかけては最強と自負しておりますから」 「オーケイ、オーケイ。なら何の問題もない。  どうだ、ガーゲット少佐。彼女なら一流の仕事をしてくれると思うだろう?」 「はい、中佐殿。  小官には若干の疑念があります」 「どんな?」 「大鳥中尉」 「はい」 「貴官は先の巡察官任務において、大和国の内政に対する介入を行った。  その点に間違いはないか」 「ございません」 「後悔、反省は?」 「何も。  ガーゲット少佐」 「……ならば、釈明は?」 「〈以下同文〉《アンド・ソウ・オン》」 「…………。  中佐殿」 「何かまずいことでもあったかい? 少佐」 「大きな問題があるように、小官には思われます」 「ああ。問題はある。  だがそいつは中尉のことじゃない」 「彼女のような人材を無為に遊ばせておいた無能こそ問題だ。だから〈そんなこと〉《・・・・・》にもなる。  そして問題は既に片付いた。そうだろう?そうだとも。中尉には何の問題もない」 「しかし……」 「大鳥中尉。いや、大鳥香奈枝嬢。  大和人としての君に訊ねる」 「〈露帝〉《ロシア》と〈大英連邦〉《ブリテン》、友人にするならどちらがいい?」 「……」 「…………」 「……白熊よりは〈雄牛〉《ジョン・ブル》の方が付き合いやすいのではありませんかしら? 〈紳士〉《ミスター》」 「宜しい。大いに宜しい。  であれば大英連邦の提唱にて生まれた国際統和共栄連盟、ひいてはその隷下にある我々GHQと大和国は良好な関係を築けるだろう」 「もはや異存はないな? ガーゲット少佐」 「……はっ。  中佐殿がそのように言われるのであれば」 「やれやれだ。  堅苦しい上官を持つのは厄介なものだな、中尉? 俺も堅苦しい部下を持っているからよくわかる」 「ええ、キャノン中佐。  嫌いではありませんけれどもね?」 「そうか。  だが私は、貴官のような部下を好まない」 「とても残念です」 「紳士の対応ではないな、ジョージ。  さて、中尉。今日のところはもう下がって構わない。だが明日から早速任務に掛かってもらう」 「はい。  どのような任務でしょう」 「明朝、口頭で発令する。  だが概略はこの資料に記した。明日までに読んでおけ。読了後は軍規に従って処分すること」 「はい。  …………こちらは?」 「新しい階級章だ。明日からはそれをつけてきてくれ。  以上だ、大鳥大尉」 「はっ」 「失礼致します」 「…………」 「まだ何か言いたげだな? ガーゲット少佐」 「……キャノン中佐。  あの大和人が信用できると本心からお考えですか?」 「大和人か。彼女は人種は大和人だがね……大和国民ではないよ。  〈二重帝国〉《ハプスブルク》で国籍と軍籍を取得して連盟軍に参入している」 「中佐、自分が言っているのはそのような事ではなく……」 「わかってる。  だがこう考えてみろ、ジョージ――彼女は果たして愚劣だろうか?」 「いいえ。  黄色人種らしい陰湿な計算能力には長けていると思われます。だからこそ余計に――」 「ならば自分、あるいは大和にとっての損得も勘定するだろう。  彼女の言葉を覚えているか? ロシアの熊よりは英国紳士。実際それはその通りだ」 「ロシアに屈すれば農奴にされるだけなんだからな。中央アジアにかつて存在した諸国の現状が証明しているように。  六波羅幕府に至っては問題外だろう?」 「彼女はよもや、三者のうちからの恋人選びを間違えたりはすまいよ。  それで良しとしておこうじゃないか。後は……そうだな」 「…………」 「彼女が〈賢過ぎない〉《・・・・・》ことを願おう。  そんなところだ」 「……やはり、自分には……」 「もう言うな。  少佐の懸念は胸に留めておく」 「はっ」 「重要なのは駒の動きを把握して使うことだ。〈歩兵〉《ポーン》は前に一歩しか進めない。〈司教〉《ビショップ》は斜めに走る。そいつをわかっていればいい」 「その意味で、彼女も、あの痩せこけた男も全く同じことだ。  そうじゃないか?」 「……はい。  それは理解できます」 「なら、そういうことさ」 「……それにしても」 「はい」 「ウィローの太鼓腹、マタ・ハリとはよくも言ったもんだな。  知ってるだろう? 彼女がフランスで処刑された時の罪状は単なるスパイじゃない」 「〈二重〉《・・》スパイだ。  欧州史に名だたるかの売女は、フランスとドイツの双方に向けて足を開いていた」 「…………」  八幡宮は鎌倉の中心にあるといえる。  地理的にも、歴史的にも、政治的にも。  国紀一七二三(外暦一〇六三)年、清和系河内源氏二代目棟梁にあたる源頼義が氏神たる八幡神を所領であった鶴岡に祀り――およそ百年後、彼の後裔頼朝は八幡宮を中心に武家の都・鎌倉を開く。  爾来八百年、鎌倉の八幡宮は源氏の守護神……否、武士の守護神として在った。  現代において源氏棟梁を称する六波羅一門も、並々ならぬ崇敬を寄せている。  年数回の定例参拝を行うのみならず、慶事凶事の折につけ祭儀を催した。  その種の事業は政治宣伝の色合いを帯びずにはいられない。勢い盛大なものになる。  頻繁に改築を行い、豪奢な装いを調えることも理由は同じだろう。美観上の装飾はつまり政治上の装飾。  ――言うなれば、その一つなのだ。はるばる京の都から招かれ、奥殿へ迎えられたかの人物も。  八幡宮境内の深部にひっそりと建つ小殿……  現在は中央付近にある〈舞殿〉《まいどの》が、かつてはその場所にあったと伝えられる。故に一名、奥舞殿。  小殿の主が称する名はその伝承に由来した。  〈舞殿宮春煕親王〉《まいどののみやはるひろしんのう》。  先帝の末子にあたり、皇位継承順位では基煕皇太子に次ぐ第二位に位置する。  彼が八幡宮の祭祀長職たる別当として奉じられた事は、まさしく六波羅の信仰心と勤皇精神の厚かりしを顕すものに他ならない。  ……ということに、されていた。表向きは。  実際のところ。  皇室をも自在に動かし得るという六波羅の権威表明であり、そして――人質に過ぎない。  京都が六波羅に差し出した人身御供。  御簾の向こうにゆらめく影は、そうした存在だった。 「宮殿下。  湊斗景明を連れて参りました」 「……」  署長の後方で無言のまま平伏する。  一応客人という立場らしいが、であろうともまさか皇族に対して先に声を掛けるわけにはいかない。  言葉が下されるのを待つ。  いや、待つほどのことはなかった。 「おまさんが景明くんかぁー。  菊池署長からよう聞いてるえぇ」 「……どないしたん?」 「お気になさらず、宮殿下。  単なる〈叩頭〉《こうとう》礼ですので」 「ああ、そか。  礼儀正しい子やなぁ。でも、そんなに固くならんでもええよ?」 「はっ」  貴方はもう少し固くならないのですか。皇弟殿下。  などと答えて署長を困らせるほど恩知らずではないつもりだった。フォロー――としては疑問もあったが――に感謝だけしつつ改めて頭を下げる。 「初めて御意を賜ります。  殺人容疑一八件にて拘置中の未決囚・湊斗景明、お招きに〈与〉《あずか》り参上仕りました」 「ブヒャヒャヒャヒャヒャ!  おもろいわーこの子!」 「……」 「……」 「……?」 「…………」 「しもた! 今の笑うところやない!」 「御意にございます。宮殿下」 「すまんね、景明くん。  突飛な挨拶やったもんで体が勝手にギャグやと思って反応してたわ。頭で考えるより先に。これからは気ぃつけるから怒らんといて」 「は」  ――なんだか無性に、拘置所が恋しくなった。 「自分が言える筋では全くありませんが。  〈人死〉《ひとじに》に関わることなれば、些か、不謹慎に過ぎるのではないかと」 「景明」 「ほんとにな。これやからアホは困るえ。  わし、昔からこうでねえ。兄やんにも嫌われて都からほっぽり出されるし、こっち来てからは幕府の連中に馬鹿にされっぱなしやし」 「署長にも迷惑かけ通しや。  おまさんも済まんなぁ。今更やけど」 「迷惑などとは決して。  宮殿下」  署長が御簾に対して軽く一礼する。  その動作に隠して一瞬、視線をこちらへ投げてきた。  理解する。  ……成程。つまりこの宮様は、〈愚劣の意味〉《・・・・・》を知っている人間なのか。  京都朝廷に対して幕府が頻繁に行う陰湿な締め付けからどうして舞殿宮だけがしばしばうまく逃れるのか、署長はどうして奉ずるべき人物としてこの親王を選択したのか。疑問の答を得たように思えた。 「失礼を致しました。  舞殿宮殿下より賜りし多くの御援助を忘れ、自儘に暴言を吐いたる事、伏してお詫び申し上げます」 「そんなこと言わんといてや。  いつも世話んなってるのはわしの方やないか……」 「殺人の〈罪科〉《とが》で獄にあるべきこの身が度々の保釈を許され、銀星号の追跡に向かうことができるのも宮殿下と署長の御差配あればこそ。  この大恩、決して〈仇〉《あだ》では返せませぬ」 「それそれ。  銀星号事件の対応、いつも御苦労さんやね。おまさんにばかりきついとこ任せて、ほんと申し訳ないって思うとるえ」 「かような御言葉は余りに過分。  元より我が身のことなれば、我が背に負うは当然至極」 「未だ解決へ至らぬ不手際を叱責頂くが相応。  慰労などは相応しからぬかと」 「……菊池」 「は」 「厳しい子やねえ……」 「面目次第もなく。  非礼の段、どうか平に」 「や、責めてるんやないよ。  責めてるんやないけど……」 「景明くん」 「はっ」 「……何でおまさんなんやろな?  何で他の誰かやのうて、おまさんなんやろ。  神さんも意地が悪いわ……」 「……」 「その御言葉は、殿下。  どうか、罪無くして我が手に掛かりし人々にこそお下しあれ」 「自分ではありません。  彼らこそが」 「……そうかもしれんなぁ。  そうかもしれん…………」 「なぁ、景明くん」 「はい」 「今日来てもらったんは、その辺の話も聞きたかったからや。  おまさんの口から、直にな」 「署長から報告は受けてる。  けど又聞きになるとな、どうしても遠い。〈匂い〉《・・》がしてこんのや。他人事じゃあかんのに、他人事としか思えんようになる」 「それが恐い。  わしは知っとかんとあかんて思う。自分が何をやらせてるのか、ちゃんとな。  どうやろ、景明くん……」 「嫌なお願いしてるなあ、わし。  わかってる。わかってるんやけど」 「わしは自分の責任を果たしたい……。  これは銀星号の件に限った話や〈ない〉《・・》けどな」 「……」  正直なところ、遠慮を願いたかった。  断ってもおそらく、無理に強いられはしないだろう。  銀星号の問題は、俺にとってあくまでも私事。  他人がどう思おうともその点は揺るがない。だから親王が言った〈遠い〉《・・》という距離感はむしろ望ましくさえある。縮める必要性などこちらにはない。  だが。  先程この口で宣ったように、親王殿下の令旨という超法規的措置あってこそ銀星号を追って監獄から出ることも叶う我が身。  言うなればスポンサーの援助を受けて初めて走れる〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》と俺の立場は変わらない。  そのスポンサーからたっての要望とあっては、否も応もなかった。  俺は順を追って話し始めた。  なるたけ、言葉に感情を乗せないようにしながら。  話し終えると、舞殿宮は人を呼んで茶を運ばせた。  御簾を挟んでの茶席。作法としては変則的に過ぎると思えたが、親王も署長も特段気にしていないところを見ると普段からやっている事なのかもしれない。  勧められるまま、俺も姿勢をやや崩して茶碗を手にした。  茶菓子の皿も手の届く所へ並べられている。 「……安直な感想はやめとくわ。  またアホっぷりをさらすだけやろしね」 「引っ掛かることだけ言うえ?」 「はっ」  それは何よりも有難い配慮だった。 「まず、銀星号はどこにおるんやろな?  それと、雪車町っちゅう筋モンはなんやろ、えらいキナ臭いやないか?」  奇しくも、昨日俺と署長が話し合った疑問と同じ。  いや――奇しくもということはないか。情報を共有したのだから、同じ結論に至るのも当然だ。  しかし素早い。  やはりこの宮殿下は整理された頭脳を有しているとみて間違いはないようだ。 「ただのカスヤクザとしか思えんのに、妙に派手に立ち回ったり、進駐軍から劔冑を持ち出したり……  どうも気になるわ」 「銀星号のことはわかりません。  しかし、その男については推測があります」  ……昨日言っていたことか。 「おっ。なんや、懐かしい口の利き方するやないか。  ええよ。聞かせてもらおか、連隊幕僚長」 「……幕僚?」 「ああ……景明くんは知らんか。わし、これでも昔は戦場に行ったりしててな。まぁ帝室の義務ってやつや。  その時、面倒見てくれたんがこの菊池署長」 「鉛弾の飛び交う地獄で右も左もわからんでいるわしに辛抱強う付き合うてくれてな……。  優秀で働き者の幕僚長がおらんかったらて思うと、あぁ、ゾっとする。一生の恩人や」 「そのようなことは。  私こそ殿下のお引き立てがなければ、退役後に警察で職を得ることはできませんでしたよ。上の連中には嫌われていましたからね」  少しくだけた物言いを交し合う二人。  ……そんな昔からの繋がりだったのか。 「お互い様ってことかねえ。  とっと、話が逸れてるわ。それで推測ってのは何なん?」 「はい。  私が思うに、雪車町という男の真意を測るには……GHQの存在をまず視野に入れねばなるまいかと」 「むしろ、主体は――」 「ちょ、ちょ……  ちょっと待ってくれんか、署長」 「はっ?」 「……後にしとこう思うてたけど、そういう話になってしまうんやったら、先に済ませておかんとならんわ。  おぅい!」  親王は手を叩いて側役を呼んだ。  小声で何事か命じる。  ……素早く遠のいていった足音が再び戻ってきた時、その数は三倍に増えていた。戸板が静かに敷居を滑る。  廊下で戸を引き開けたのは側役だろうが、彼は姿を見せなかった。新規の二名だけが広間に現れる。 「早速のお呼びと伺って参上いたしました。  舞殿宮殿下――――」 「あら?」 「まあ」 「……これは」  忘れるほどの月日は経っていない。そうそう忘れられるような人間でもない。  連盟軍所属の大鳥香奈枝中尉とその侍従、永倉さよ老女史に間違いなかった。 「やっぱ知り合いかい。  さっきの景明くんの話に出てきたGHQの大鳥巡察官って、この人なんやろ?」 「はい。まさしく。  しかし何故、この方々がここに」 「いやあ、ほんのついさっき、今日の昼前のことなんやけどね……。  あぁ、香奈枝さんにおさよさん。そのへん好きに座って下さい。いま茶ぁ運ばせるから」 「どうかお構いなく。  ……ふふっ。本当に、あっという間に再会が叶いましたね。景明さま」 「は……」 「赤い糸の導きというものでございましょう」 「きゃっ。もうばあやったら、いやなひと」 「……」 「なんや、随分仲良しさんやないか。  隅に置けんな、景明くん」 「宮殿下?」 「ああ、うん。  昼前にこの二人がわしんとこ来てな。何の御用か聞いてみたら、八幡宮付の将校として着任しはったっていう話でねえ」 「……は。  なるほど」 「GHQがそういうのを寄越してくれるって話は前からあったやろう?  その人選がやっと決まって、このお二人が来たってことみたいやわ」 「わし、すっかり忘れてたよ」 「当方の不手際で宮殿下には不自由をお掛けしてしまいました。  申し訳ございません」 「いやいや、気にせんといて。  わしが進駐軍の元帥さまでもわしのことはほっとくと思うえ。何の役にも立たんアホのお守りなんて誰もやりたがらんやろしなぁ」 「香奈枝さんも御苦労なこっちゃ。  貧乏籤引かせてしもうたなぁ」 「……そのようなこと。  進駐軍司令部はこの国の政局で重責を担われている舞殿宮殿下のことを常に気に掛けております」 「わたくしの職務は司令部を代表して宮殿下のお側に仕え、諸事に便宜を図ること。  きっとお役に立ちましょう。殿下におかれては心置きなく、何なりとお命じ下さいまし」 「……そうですか。  それは有り難いお話や。なぁ、署長?」 「は。  まったく、良い人が来てくれたものです」  和やかに微笑を交し合う三人。  ……喉が詰まるような息苦しさに満ちていた。  三人の持つ肩書きを思えば仕方のない空気だが……。  成程、先刻GHQに触れた署長の話を親王がやめさせたのは無理からぬことだった。壁に耳あり。迂闊には話せまい。 「なんかみんな中途半端に面識があるみたいやけど、一応紹介はしとこうか。  湊斗景明くん。これはええな。で、こっちが鎌倉警察署の菊池署長」 「はい。  以前に一度、式典の場でお見かけしたことがあります」 「おや、そうでしたか……」 「菊池はわしの長年の友達や。  景明くんはその部下で、あの銀星号事件の捜査にあたってくれてる。色々あって立場はちょっと、ややこしいことになってるけどな」 「非公式のお巡りさん、ですのでしょう?  先日お会いした折に伺っております」 「ならええわ。んで、署長。こちらはGHQから出向の八幡宮付将校、大鳥香奈枝大尉や。  後ろは永倉さよさん。昔から香奈枝さんに仕えてる人で、今は軍属身分なんやて」 「は」 「大尉?  昇進されたのですか」  視線を動かして香奈枝嬢の階級章を確認する。  真新しいものに代わっていた。 「おめでとうございます」 「ありがとうございます。  お給料は大して増えないのですけれどもね」 「そらあかんなぁ。  役料とかは?」 「残念なことに」 「よっしゃ。ならこうしましょう。  わしのお世話をしてくれるんやから、その分のお金はわしが出そうやないか」 「あら、お気前のよろしい御方。  わたくし篭絡されてしまいそう」 「ようございましたね、お嬢さま。  きっと横須賀送りも近うございますよ」 「宮殿下っ、お言葉を慎まれませ!  今のご発言は法規に照らせば贈収賄に該当致します!」 「そ、そうですか。えろうすんまへん」  ……横須賀に何かあるのだろうか。 「大鳥大尉。  少々伺いたいのですが……」 「はい、何でしょう?」 「先ほどのお話では、宮殿下の諸事に便宜を図ることが貴方の職務とか。  より具体的には?」 「貴方の権限と言い替えても構いません」  それは署長にしてみれば気になるところだろう。  親王が外部の人間と接触する際には必ず同席する、などと言い出されてはたまるまい。  それでは事実上GHQに軟禁されるようなものだ。  まずその辺りを確かめて、対処の方策を練るつもりに違いない。  だが、大尉の返答はあっけらかんとしたものだった。 「特に規定はありません」 「……は?」 「そうですね。権限といったものは全く無いと言って差し支えありませんでしょう。  そもそも宮殿下との協議もなく設置された職なのですし」 「いきなりやって来て、権限をどうのこうの言えるはずがありません」 「……それは、そうですが」  道理をいえばさもあらん。  しかしその程度の道理、強大な軍事力と国際正義を背景に持つGHQであれば無理を通して引っ込ませてしまえるだろうに。 「どうか額面通りにお受け取りくださいな。  わたくしは殿下のご要望に従い、お暮らしをサポートするだけです。こちらから細々とうるさく指示を出すようなことはありません」 「……」  曖昧な表情で沈黙する署長。  難しいことになったと、口元の皺が語っていた。  署長の考えはほぼ把握できる。  明確に権限が定められているのであれば――それがどんなに厳しいものであっても、逆利用が不可能ではない。  権限があるということはつまり、権限にある事しかできないということだからだ。  が、それがなく、諸事に便宜というどうとでも解釈が(曲解を含めて)できそうな職務だけとなると……  かえって始末が悪いかもしれない。  何事も強制はされないとはいえ、彼我の立場関係を思えば、常にそれ相応の配慮をして接しないわけにはいかないからだ。  ……大鳥大尉が自分自身のスタンスをどこに置いているかにもよるが。  連盟軍に対して絶対の忠誠を捧げているのだろうか。必ずしもそうとは思えない節があるが……。 「そうか。わしの生活をサポートしてくれるんか。これはええ話やねえ。  こんな美人さんが朝から晩まで、風呂から寝床までずぅっと一緒に……ぐひっ」 「ええ、宮殿下。ふつつか者ですがよろしくお願い致します。  何なりとお命じくださいまし……」 「このばあやに」 「かしこまってござります」 「あんたかい!?」 「……」  思わず失笑をこぼしかける。  ……先程から親王は小術を弄して大鳥大尉を測ろうとしているようだが、こうはぐらかされてばかりでは成果も得られなかろう。  狐と狸の化かし合いだ。  いや、更に〈梟〉《ふくろう》もいるか。 「……〈顧問官〉《アドヴァイザー》のようなものと考えれば宜しいのでしょうか?」 「そうですね。  そのようにお考え頂いて問題はないと思います」 「諒解しました。  しかし派遣顧問官ということであるなら、その意味は派遣元がどのような意味を持つかによって定まります」 「大尉にお尋ねしたい。  GHQは大和において、どのような意味を持つのですか?」  署長は直球を投げた。  小細工は無駄な相手と判断したのだろう。  その投球はすぐさま打ち返される。  ――〈投手返し〉《ピッチャーライナー》だった。 「侵略者です」 「…………」 「…………」 「過去と未来においての。  ……ええ。〈未来〉《・・》」 「GHQは現在、この国の内政に対してほぼ一切の干渉をしておりません。  進駐軍は、ただ進駐しているだけの存在。巷では撤退も近いと噂されているとか……」 「もちろん、そのようなことはありません。  〈皆さま〉《・・・》ご承知の通り」 「……」 「六年前――――  国際連盟軍は幕府による大和統治を条件とした六波羅の降伏を受け入れて、大戦を終結させました」 「しかしそれは連盟軍の――はっきり言ってしまえば大英連邦の思惑とは大きく異なった結末。世界の盟主を自認する彼らにとって、極東大和の完全占領は必須だったのですもの」 「最後の敵、ロシア帝国のこれ以上の拡大を阻止するために。大和を放置しては、ロシアが切望する南洋への脱出口になりかねない。  征服、あるいは同盟という形で……」 「そうなれば大英連邦が世界規模で成功させつつある対露封鎖網も、水泡に帰してしまいます。  こんな危険を彼らが看過できる筈もなし」 「……にも拘わらず戦争終結を肯んじたのは、六波羅の和平提案によって連盟各国で一気に高まった厭戦感情を抑えられなかったから。  前線及び後方の疲弊もあったでしょう」 「それに加えて。  現状下において大和の武力占領を強行した場合、極めて長期に渡って抵抗が続くという予測もありました」 「……対ロシアの橋頭堡が欲しい大英連邦にとって、それでは不都合。  むしろロシアの前に好餌を投げ出すも同じとなれば、逆効果もいいところ……ですか」 「はい、まさに。  そういった事情から、六年前の講和は成立しました」 「けれど無論、大英連邦――GHQは諦めたわけではありません。  今一度大和において軍を動かし、〈完全〉《・・》占領を成し遂げるために布石を打っています」 「六波羅の圧政に対する黙認はその一つ。  GHQは、待っているのです。大和国民の幕府への憎悪が沸騰する瞬間を。国際世論が大和〈解放〉《・・》を訴える瞬間を」 「誰にも後ろ指を指されない、『正義の戦争』の火蓋を切る時機を……」 「……」  ――それは。  驚くべき真相、と呼ぶには値しない。  それなりに世界情勢を知る耳を持つ人々の間では、むしろ常識にさえ近い。  口に出す者が少ないだけの話だ。  だが。  他ならぬ、当の進駐軍に身を置く人間からはっきりと聞かされて、衝撃を受けずに済ませるのは不可能というものであった。 「……大変率直なお答えです。  しかし大尉、今のご発言は貴方のGHQに対する批判認識から来るものと受け止めてもよろしいのですか?」 「とは、言いかねますかしら。  このまま六波羅の好きに任せる、あるいはロシアの属国になって全国民が農奴化される……」 「そんな可能性に比べれば、大英連邦の傘下の方がまだしも……と考えてしまいますもの。  〈第四の道〉《・・・・》があれば、また話は違いますけれどもね? 宮殿下」 「…………」 「こんなところで、お答えになりますかしら?  鎌倉署長」 「……はい。ありがとうございます、大尉。  貴方の意味は〈そのように〉《・・・・・》心得ましょう」  署長が眼差しを伏せる。  ……引き出すべきものは引き出したと判断しているのだろうか。  親王の表情は御簾で隠され、窺い知る事はできない。  だが苦虫を噛み潰す口元が見えるような気がした。  婉曲と見えて率直、率直と見えて婉曲。  大鳥大尉のやり口には、親王ならずとも惑うところだろう。  彼女は無論、故意にそうしているのだろうが……  いや。ただ自然に振舞っているだけかもしれない。  あるいは、どういう結果を及ぼすのか承知した上で無思慮に振舞っているのかも。無策の策か。  ……やはり、俺も惑わされている。  親王はどうするつもりなのか……。 「そういうことであれば、大尉。  貴方に是非ともお願いしたい事があります」 「はい?」  少し驚く。  署長の口ぶりは、確固としていた。  迷いの色はどこにもない。  あっさりと、事態の方向を見定めたようだった。 「景明は既に貴方の知遇を得ているようですから、丁度良いでしょう」 「……?」  何故そこで俺が。 「大鳥大尉。  この湊斗景明が担当している銀星号対策にご協力を頂きたい」 「は?」 「……はぁ」  揃って間の抜けた声を上げる俺と大尉。  藪から棒とはこのことだ。 「知っての通り、銀星号事件は恐るべき災厄。誰彼構わず大和の大地の上に住まう者全てを餌とする凶変です。  宮殿下のご心痛はひとかたならず……」 「六波羅に睨まれる危険を押して、この景明を抜擢し対処にあたらせておられます。  しかしこの者も才に限りある身、単身ではなかなか解決には至らず」 「心利く者を補佐につけたいとは、かねがね考えておりました。  ……先程からのご様子を拝見するに、大尉のような深慮の方であればまさに至当」 「あつかましい願いとは承知しておりますが。  如何でしょう」 「……そうですね。  お褒め頂いたのは光栄に思いますし、心情もお察しするに〈吝〉《やぶさ》かではありませんけれども」 「あくまで、わたくしは宮殿下のもとに派遣された身です。  殿下の御諚がなければ」 「宮殿下?」  署長が視線を送る。  御簾の向こうの親王が、目配りの微妙な〈意図〉《ニュアンス》までも察知したとは考え辛かったが―― 「……うん、ええよ。  この通り。よろしう頼みます、香奈枝さん。銀星号事件を解決して、みんなを安心させてやってください」  朧な影が頭を下げる。  ――この瞬間に、決定は下されてしまった。 「…………」 「…………」 「……どういうつもりですか?」 「面倒を押し付ける格好になったのは認める」  親王の御前を辞して、八幡宮の境内。  支度を済ませてくるという香奈枝嬢を待ちがてら、署長と小声で話し合う。 「だが、そうした理由がわからないわけではあるまい?」 「それは流石に。  身辺へ置いておきたくないというのは理解できます」 「ああ。  連盟軍将校で大和人。信用するには不可解な部分が多過ぎる」 「しかも〈大鳥〉《・・》だ」 「……はい」 「先刻の発言も真意は奈辺にあるやら。  彼女というスピーカーを通したGHQからの通告だとも考えられる」 「そうでしょうか。  真意の所在はともかくとして、あれは彼女自身の言葉であったと自分には思えました」 「……ほう。  彼女との付き合いはお前の方が長い。お前がそう言うなら、そうなのかもしれないが」 「聞いておくか。  お前の眼から見て、彼女は信頼を置くに値する人間か?」 「……彼女はGHQに従っても、圧制者には従わないでしょう。  その点には確信が持てます」 「……現状では不可能です。  有能な人物であろうことには窺えるだけに、その意思の向かう方向が見定められない内は……」 「……そうか……」 「何にしろ、彼女はGHQの士官です。  つまりは銀星号問題にGHQを介入させることにもなり得ます。その危険性についてはお考えですか?」 「〈危険〉《・・》、か」 「はい」  明言は避ける。  だが意図が通じていない筈はなかった。  銀星号は一面、現代の武力の極峰だ。  銀星号に対して連盟軍が軍事的な興味を持たない、  あるいは、既に〈接触〉《・・》を果たしていないと、どうして断定できるだろう?  署長とは昨日も話し合ったのだ。  銀星号には〈後援者〉《・・・》がいる筈だ――と。 「だがその危険は既に冒しているだろう?  先日の事件で、お前は彼女と共闘している」 「必要と判断しましたので。  あの折はまず、試薬のつもりで銀星号の名を出してみました」 「特別な反応はなし。ほぼ無関心に近いほどでした。  しかしそれは、単に彼女が何も知らされていないだけかもしれません」 「……」 「今後、捜査活動を共にするとなれば……  彼女を通して情報が全て黒幕に筒抜け、という可能性さえ」  考え過ぎだろうとは思う。  だが可能性は可能性だ。 「――自分はそれでも構いませんが。  そのような運びとなれば必ず何らかの反応がある筈。伸ばされてきた黒い腕を、逆手に取りましょう」 「その覚悟なら、私から言うことは何もない。  お前に全て任せる」 「署長。  ……宜しいのですか?」 「とうに、腹は決めているよ。  私にできる事はそれしかないんだ。銀星号の件に関する限り、お前は好きなように私を使え」 「いいな?」 「……」 「はい」  大鳥香奈枝と行動を共にする――  といっても、彼女を関東拘置所へ連れてゆくわけにはまさかいかない。  彼女には署長の役宅に一室を用意することになった。  八幡宮からは近い。駅までの距離もほどほど。生活環境が合うかどうかは不明だが、交通の便の面で彼女を不自由させることはないだろう。  宵闇の下の通りを歩く。  会話はない。  別に隔意を示しているわけではなかった――先方がどうかは知れないが。  ただ、考えをまとめていただけだ。  実のところ、悩むほどのことはなかった。  銀星号追跡者としての俺の立場を保障する二者――親王と署長の裁断が下った以上、今後の行動に彼女を帯同するのは止むを得ない。  その点が動かしようもないのなら、後は可能な限り彼女を危険から遠ざけるよう配慮するのみだった。  おそらくそれは難しくはないだろう。  大尉は武者ではなく、銀星号や寄生体に対して抗戦の〈術〉《すべ》を持たない。だが逆に言えば戦えない人間を戦闘にまで介入させる謂れはないということになる。  危険の少ない捜査段階でのみ協力を仰げば良いのだ。  その方面ではむしろ俺よりよほど有能ではないかと思われた。  銀星号の問題に他者を巻き込むと思えば〈忸怩〉《じくじ》たるが、利害損得の話にあえて限るならそう悪いことでもない。  俺の思索は大体その辺りで落ち着いていた。 「景明さま」 「はい」  歩きながら、肩越しに視線を送る。  非礼かとも思ったが、道の真ん中で立ち止まっても仕方がない。  重たげということもなくバスケースを右肩にかけた彼女は、窺うような眼差しをこちらへ向けていた。 「怒ってらっしゃる?」 「いいえ」 「でも、困ってはいらっしゃるのかしら」 「そうだとしても貴方の責任ではありません、大尉殿。  貴方はご自分の職責に忠実であられるだけなのですから」 「自分も己のおかれた立場、そこに発生する責任に対して忠実であろうと思います。  大尉殿に御協力を仰ぐことに否やはありません」 「そうなんですの?  なら良いのですけど……景明さまにご迷惑をおかけするのは本意ではありませんし」 「ようございましたね、お嬢さま。  ちなみに湊斗さまのご発言は意訳しますと 『すげえ邪魔だけど親王の命令だからしゃあねぇのな。ケッ』ということかと思われます」 「がーん!?  それは本当ですか景明さま!」 「はい」 「いやんっ」 「お嬢さま。道端で寝ていては通行の方々の迷惑になりますよ。  そこのゴミ捨て場でお休みください。幸い明日は回収日の様子」 「あなた実はわたくしのこと嫌い!?」 「ですが、それはあくまで自分の心情的問題に過ぎません。大尉殿の能力については何の不安もなく、むしろ期待するところが大です。  自分こそ邪魔にならぬかと不安を覚えます」 「まぁ、景明さまったらご謙遜を。  今のを聞いてばあや? わたくし景明さまに期待をかけられていてよ!」 「その立ち直りの早さ、さすがでございます。  お嬢さまはそうでなくては!」 「ところでお嬢さま、あらゆる生物のなかで最も強靭なのは単細胞生物なのですがご存知でしょうか」 「景明さま、少々お待ちくださいましねっ。  わたくしそこの角のお肉屋さんで野暮用を済ませて参りますので」 「品目不明の肉は取り扱わないと思いますが」  よくわからない主従だ。 「大尉殿」 「はい?」  視線を前方へ戻しつつ呼びかける。  コッキングレバーを引き込む音が途絶え、かわりに涼しい声が背中に触れた。  一つ息を飲み込んでから続ける。 「あの村のことはご存知ですか」 「――――」  この際、沈黙は百万の言よりも雄弁だった。  無論の事。彼女の耳に悲報が届いていない筈がない。 「面目次第もございません」 「なぜ、謝られますの?」 「大尉殿の御尽力を無に帰せしめてしまいました。目前の戦にとらわれ、銀星号の襲来を見逃したばかりに。  己の無能を悔いるばかりです」 「無辜の死を強いられた人々にすれば……  この悔いさえ、憎いものと映るでしょうが」 「…………」  その死を反省の材料にされたところで、それが殺された人々にとって慰めになる筈もない。  犠牲を無駄にしないのは当然だ。しかし例え元凶を断とうと、死者の怨念は救えない。  救ったと思い込むことはできる。  だがそれは生者の妄想に過ぎないのだ。  妄想への逃避を良しとせぬのであれば、  怨念を背に負い続けるほかはない。 「村の話は〈司令部〉《ヨコハマ》へ戻ってすぐに聞きました」 「……」 「一人も……ただの一人も……  生き残らなかったそうですね?」 「はい」 「わたくし、ずっと海外におりまして。  大和に戻ってからまだ日が浅いんですの。銀星号事件の、生々しい話に触れたのは今回が初めてなのですが」 「どうやら、許せそうにありません」 「……」 「だから、先刻のお話もあっさり受けてしまったのでしょうね。  上司の意向を思えば、本当は八幡宮に張り付いていないといけないのでしょうけれど」 「お気持ちはわかります。  いえ、わかるつもりです」 「でも景明さまにとっては少しご事情が違うのでしょう?」 「…………」 「まだお伺いしておりませんでしたね。  景明さまはどうして、銀星号を追うのですか?」  詰問するような響きではない。  いっそ優しげでさえあった。  だからか。  言を左右にして逃れようという意欲は〈却〉《かえ》って削がれ。  ――繰り返される惨劇に対する悲憤。  ――警察に属する者としての使命感。    それらも動機には違いない。  だが〈最初〉《・・》は違った。  それらはこの二年間の、追走の日々の中で芽生えたものだった。  最初は、ただ――――  あいつを止めたかっただけだった。 「この先の十字路を越えればすぐに着きます」 「……」 「……後程。  落ち着いてから、ご説明しましょう」 「はい……」 「……あら?」 「何か?」  大尉の訝しげな声。  視線は遠く、闇の先を見つめている。 「あの、玄関の脇に唐松の生えているお屋敷が景明さまの?」 「はい」  いや、正しくは鎌倉署長の役宅だが。  しかし細い〈眸〉《ひとみ》をしているわりに大した視力だ。俺の眼ではこの距離だと屋敷のシルエットしかわからない。 「門の前にどなたかいらっしゃいましてよ。  あれは…………あらぁ?」 「大尉?」 「……わたくしの知り合いです。  いえ、そういえば……そうそう、景明さまもご面識があるはず。そのように言っていましたもの」 「……?」  首を傾げつつ、歩みを速める。  近付くにつれて、香奈枝嬢の言う人影が俺の目にも明らかになった。  ぽつんと所在無げに立つ、小柄な姿。  それが誰か気付くのと、その影がこちらを向くのとは、ほぼ同時だった。 「湊斗さん!」 「……貴方は」 「あっ、あの。  昨日、あれから考えたんですけど、あたし、やっぱり――」 「ご機嫌よう。  一条綾弥さん、で宜しかったかしら?」 「逆だッ!!  って、なんであんたまでいる?」 「んまっ。  間女の分際で家にまで押し掛けて、あまつさえ正妻に向かってなんて口の利きよう」 「あなたっ、これは一体どういう事ですの!?」 「いえ、そもそもがどういう事ですか」 「間女ッ!?  正妻ッ!?」 「これは一大事!  修羅場になってしまいましたよ湊斗さま。若さゆえの過ちのツケが回ってきたのです!」  そんな借金をした覚えはない。 「み、みっ、湊斗さんっ! このでかい女はなんなんですか、本当なんですかっ、妻って、妻ってーー!? このでかい女がっ」 「ぷっちん」 「あっ。お嬢さまの脳神経系が致命的断裂を」 「なめんなゴルァ! てめーは※※と△▲△してろ■■が! 来いやこの○○の▼▼!!」 「あァ!? ンだァ三等兵!」 「風雲急を告げる湊斗家。  憎悪と憎悪が嵐を呼び血の饗宴を招くのはもはや時間の問題! 嗚呼、あの平和な日々はもう帰ってこないのでありましょうかッ!?」 「尚、実況は鎌倉署長邸宅前から永倉さよがお送りいたします」 「〈止〉《と》めて下さい」  わけがわからなかった。 「妻ではありません」 「信じてました」 「照れなくてもよろしいのに……」 「大尉」 「あふん。その冷たい瞳も素敵」 「湊斗さま。脳髄をハリガネムシに食い荒らされたイタイ系の女を処分する最善の方法は、心中を持ちかけて先に死なせることでございますよ」 「その忠告はこの状況で一体どういう意味を持つのかしら、ばあや?」 「それで、綾弥さんはどうしてここへ?  この家の所在をお教えした事はないと思うのですが」 「すいません。  聞いたんです……」 「誰にでしょう」 「鎌倉署の窓口で、湊斗って人の家を教えてくれって頼んだら、多分ここだって言われて」 「個人情報ダダ漏れでございますね」  返す言葉もない。  六波羅の専権によって警察機構が有名無実と化している現在、警察局の服務規定はただ手帳の〈頁〉《ページ》を埋める文字列でしかなかった。  一通り目を通している職員さえどの程度いることか。 「……諒解しました。その点は結構です。  御用の向きを承りましょう」 「…………昨日の話です」 「それは既にお断り致しました」 「でも……  …………あたしは……ッ」 「自分の返答は変わりません。  お引取り下さい」 「湊斗さん……」 「もう辺りも暗くなりました。お若い婦女子の方がひとりで出歩いて良い時間帯ではありません。  宜しければ適当な所までお送りしましょう」 「……か、帰れません」 「……」 「あたしの考えも変わらないんですっ!  あたしを、使ってください! 警察で……あなたの下で!」  ――そう。  彼女は昨日も、同じ事を言ったのだ。警察署の前で。 「あっ、あのっ。  この間はっ、ありがとうございましたっ」 「その、たっ、助けていただいて……」 「そのような事はお気になさらず。  迷子の世話は警察の職務です」 「い、いえ、そっちじゃなくてっ。  あ、いえ、それも、そうなんですけどっ」 「あの……  実は、その」 「はい」 「今日はお願いがあって来たんです。  あ、あたしを……」 「あたしを、あなたの下で使ってください!  何でもやりますから!」 「…………」 「…………」 「お願いします……」 「警察局への就職を希望されるのであれば、学校を卒業後に採用試験を受けて下さい。  自分には他にお答えの仕様がありません」 「それじゃ遅いんです!」 「そのようなことは決して。  貴方はお若い」 「警察官になるのに数年を掛けても、充分に活躍ができるでしょう。  それに、誰もがそうした手順を経て正式な警官たるのです。貴方を除く事はできません」 「わかってます。警官でなくていいんです。ただの下働きでいい。給料もいりません。  何か……手伝わせてください! あなたの仕事を、あたしに!」 「…………」 「あらまあ」 「おやまあ」  大鳥主従の頓狂な声が耳を通り抜ける。  腹の底に何か、ぐつぐつとしたものを感じていた。 「……どうして、そこまで」 「あたし……  あたしは……」  思い詰めた眼差しが痛い。  そこに込められたものが何か、理解できる。だから痛い。  その〈誤解〉《・・》は酷い苦痛だ。  俺には。 「初めてだったんです!」 「まっ。  大変聞き捨てなりませんがそれはひとまず置きまして景明さま、そういうことでしたらちゃんと責任は取って差し上げませんと!」 「六波羅の野郎共に陰で文句を並べるだけの奴ならどこにだっている。でも、立ち向かう人はどこにもいない。あたしだってそうです。せこい嫌がらせをするのがせいぜいだった」 「あなたが初めてなんです。口だけじゃない、奴らと戦える人は!  初めて……初めて見たんです……」 「…………」 「……スルーされてます……」 「空気読みましょうよお嬢さま」 「六波羅の奴らが間違ってるのはわかってた。わかってるのに何もできない自分が嫌だった!  あたしは間違っていることが許せない……許したくない! 見て見ぬふりなんか嫌だ!」 「父様に恥じない娘でいるために……  何かしたかったんです。なにか! それをようやく見つけたんです!」 「お願いします、湊斗さん!  あなたの力になりたいんです!」  ――ああ。  この目。  この眼。 「貴方は誤解している。  何もかも誤解している」 「湊斗さん……」 「貴方は俺の事を嫌っていた筈だ。  侮蔑していた筈だ。下らない奴だと、何の値打ちもない人間と、そう見ていた筈だ」 「そ、それは……知らなかったんです。  すみません。あたしは馬鹿だったから……何もわかってなかった。自分が大したことをしてるつもりで。本当は、あなたが」 「違う。嘗ての貴方の方が湊斗景明を知っている。正確に理解している。  自分は一切の敬意を払うに値しない、唾棄すべき人間です。屑としか呼びようもない」 「…………」 「なんでですかっ。  あなたは戦っていた! きっと、これまでもずっと! あたしみたいな餓鬼から馬鹿にされても、言い訳もしないで!」 「あなたは、尊敬できる人だって……  あたしはそう思います!」 「……っ、ぁ……!」  全てをぶちまけたかった。  八つ当たり、自己の感情の無思慮な発散をしてしまいたい。その卑劣な行為は俺をいくらかでも楽にしてくれるだろう。  無論、許される事ではなかった。この両肩に負った責務と、俺を後援する親王と署長の立場を思えば。    だが――だが。抑え切れないものもある。 「俺は、」 「〈俺は人殺しだ〉《・・・・・・》!  そんなものを尊敬してどうする!!」 「それでも、あなたは多くの人を救ったじゃないですか!  あの村だって――」 「救っていない!  あの村は、銀星号に滅ぼされた!」 「――――!?」  綾弥が息を呑む。  当然だろう。この事件はまだ報道されていない。 「俺が代官らと争っている間に銀星号が村を襲っていた!  そうして皆殺しになった。誰も彼も死んだ」 「俺が何を救った!?」 「……、……っ……」 「何も救っていない。  俺はただ殺しただけだ」 「……ぁ、  …………し、を……」 「分かったら帰れ!  俺に近付くな……俺はお前が夢想しているような人間じゃない。ただの人殺しだ」 「行け!!  俺の近くにいれば、お前も――」 「でも!  あなたはあたしを助けた!」 「……ッ!?」 「あなたがいなかったら、あたしはあの時に殺されていた! 六波羅の手で!  今あたしが生きてるのはあなたがいたから。  それは確かなことです!」 「違いますか!?」 「なっ……、……」  違う。  そうじゃない。  そういうことじゃない―― 「違う……」 「違いません!  あなたに助けられた命を、あたしも誰かを助けるために使いたいんです! 何ができるわけでもないけど……何かしたい」 「だから、あなたの力になりたいんです!」 「……ッ……」  違う。  何を言っているんだ、この娘は!  違う――! 「……ふぅ。仕方ありませんね。  では、景明さま。彼女の身柄はわたくしがお預かりするという事で、如何ですかしら?」 「大尉!」 「……あんたは関係ねぇだろ?」 「あら。大ありでしてよ?  わたくし、進駐軍の軍人として景明さまのお仕事に協力することになりましたから」 「そ……そうなのか?」 「はい。  でも、お覚悟はおありかしら? わたくし達が相手にしなくてはならないものは、幕府よりも厄介かもしれないのですけれど」 「え?」 「たった今、お話にもあがりましたでしょ?  景明さまのお仕事は〈銀星号〉《・・・》事件の解決です」 「――――」 「あの村のこともその一環だったとか。  どうします? 学生さん。悪代官に印籠を突きつけて大団円――とまでお気楽にはいかない話のようでしてよ?」 「…………。  それ、確かなんだな?」 「ええ」 「あの銀星号を……  あの悪魔と戦うのが湊斗さんの仕事……」 「おやめになる?」 「……いいや」 「やる。やらせてください!  湊斗さん、お願いします!」 「……」 「如何です?  先程も申しました通り、景明さまの方で不都合がおありなら、わたくしの方で引き受けますけれど」 「……大尉。何故……」 「そうですね……  多少の縁があったというのが一つ。あの村を離れる折にたまたま出会いまして」 「そう、その折は、少しご協力を頂きましたのよ?」 「……」 「後は……  共感、ですかしら」 「共感?」 「ええ。わたくしも景明さまのことは『尊敬』しておりますもの。  巨大な悪に単身で立ち向かおうとする勇気……素晴らしいです」 「……ッ」  貴方までが。  そのような――世迷言を。 「……」 「……あんた、実は結構いいやつなのか?」 「実は結構いいやつですのよ?」 「そうか……悪かった。  ただのでかい女じゃなかったんだな」 「…………」 「おお……お嬢さま、忍耐しておられますね。  ぴくぴくとわななくこめかみが雄々しゅうございますよ」 「ふっ、ふふふ……  この程度、何でもなくってよ」 「これからよろしく。  綾弥ちゃん」 「苗字にちゃん付けするんじゃねえ!!  くそ……まあいいや」 「とにかく礼は言っとく。  ……湊斗さんの役に立てるようにしてくれるなら、〈白蟻〉《・・》にだって頭くらい下げるさ」 「あら光栄。  そうねぇ、景明さまのお仕事の邪魔にならないように頑張ってくださいましね?」 「あんたこそな、〈宿六〉《ヤドロク》進駐軍。  足引っ張るようだったら箱詰めにして横浜へ送り返してやる」 「うふふふふ……そう。  仲良くしましょうね、〈景明さまのために〉《・・・・・・・・》」 「ああ、仲良くしてやるよ。  〈湊斗さんのためにな〉《・・・・・・・・・》」 「美しい光景でございますねぇ。  あたかも国家間の和平会談を見ているかのようでございます」 「…………」  この二人は、何を言っているのだ。  俺のため? 俺のためだと?  俺が――何だというのだ。  俺は――只の――罪人だというのに。  それが――どうして――  好意などを向けられねばならない?  敬意などを向けられねばならない?  それは――酷い。  そんな話は――無い。 「……ゃめろ」 「? 景明さま?」 「湊斗さん?」 「……寄るな」 「おや?  湊斗さま、顔色がよろしくありませんよ。お疲れなのでは……」 「……く……くるな」 「景明さま?  なんだか、本当にご様子が――」 「触るなッ!!」 「――――!?」 「……湊斗さん!?」 「ど、どうしたんですかっ、大丈夫ですか!?  しっかりしてください!」 「…………」 「…………」 「……にーやぁ……」 「……お武家さまー……」 「……貴方たちは……」 「あのね、あのね……」 「あて……お武家さまのことが……」 「すきー!」 「大好きです」 「……ッ!?」 「だって、こんなに綺麗に殺してくださったんですもの!」 「えへへー♪」 「あ……あぁぁ…………」 「そうだよなあ。  おれも尊敬してるぜ!」 「!?」 「こんなに綺麗に殺してくれたもんなっ!」 「すげえよ湊斗さん!」 「あっ……ああああああああああああああ」  許して。  許して。  許してください。  ――その言葉が出てこない。  言いたくてたまらぬ、その言葉が出ない。  知っているからだ。  許されないと、知っているからだ。 「にーやー」 「お武家さまぁー」 「村正サイコー。  正義の味方」  やめて。  やめてくれ。  聞きたくない。  〈言祝〉《コトホギ》など聞きたくない。  せめて〈呪詛〉《カシリ》を。怨嗟の声を。  この身を穿つ断罪の叫びを。 「苦しんでいるな。  景明……」 「それは〈生まれ〉《・・・》の苦しみだ」 「おれも苦しい……  おまえの苦悶はおれの心を傷つけてやまぬ」 「これは〈生み〉《・・》の苦しみ」 「共に耐えよう、可愛い景明。  これは誕生の苦しみなのだ」 「母と子が共に味わう苦痛。  生命が生命をつくるための、避けて通れぬ〈通過儀礼〉《イニシエイション》だ」 「おれは全身全霊をもっておまえを産み落とそう。おまえを産んでおまえの母となろう。  だから――景明」 「生まれ落ちたなら……  心置きなく、おれを愛するがいい」 「……………………」  目を覚ますと、布団の上だった。  体を包む感触にも、視界に映る光景にも覚えがある。馴染んだ、というほどではないにせよ。  署長宅内の一室だ。  俺の部屋としてあてがわれている。 「……お目覚めになりまして?」 「……中尉……  いや、失礼。大尉殿でした」 「覚えておられますの? 先程のことは」 「……はい」  そうだ。  俺は予期せぬ話の流れに動揺し、我を失い――  …………なんと、無様な。 「見苦しい所をお目にかけました。  お恥ずかしい限りです」 「とんでもない。  わたくしどもの方こそ、景明さまのお悩みも知らず、無神経なことばかり言ってしまいました」 「あの村の一件を、余程気にしておいでですのね……。  無理はありませんけれど……」 「…………」  誤解に苛立たず、黙って流せる程度には、冷静さも回復していた。  短い時間でも体を休めたのが良かったのだろう。  体感で、二時間程度が経過している。 「自分が倒れたせいで、この家に入るのにも不自由されたのでは?」 「いえ、声をかけましたら、使用人のかたがすぐに出てきてくださいまして。  あれこれ説明するまでもなく、察して頂けました。良い人をお雇いですのね」 「牧村さんですか……後で礼を言っておきましょう。無論、大尉殿にも。  お手を煩わせました。申し訳ありません」 「もう、ご迷惑を掛けてしまったのはこちらですのに。本当にお堅い方。  お身体には障りありませんの?」 「はい。何程のことも」  体を起こす。  倒れた時に打ったのか、肩が多少痛むがその程度だ。動くのに差し支えはない。 「綾弥さんはどうされました?  帰られましたか」 「いいえ。居間の方でお待ちです。  自分の来訪が景明さまに負担を掛けたのではないかと、気にしておいででしたね」 「そうですか。  では誤解を解く必要があります」  立ち上がっても、改めて痛み出すような箇所はない。  安堵する――戦うべき事態はいつ到来するとも知れない。体調は常に万全であることが望ましかった。 「参りましょう」 「……景明さま」 「はい」 「やはり………余計なことを申し上げましたかしら?」  それが何のことを指しているかは明白だった。  かぶりを振る。 「いいえ。  冷静になって考え直せば、あそこまで思い込んだ彼女に翻意を促すのは難しいでしょう」 「追い払ったところで諦めるとは思えません。  捜査中を密かに尾行でもされては大事です。こちらの知らない所で危難に遭いかねませんから」 「ええ……」 「それを思えば、要望を認めて連れてゆくのは次善の策と言えます。  彼女は歳相応以上の能力を備えているようですから、おそらく任務の阻害はしません」 「むしろその意味では有益でしょう。  任務の危険性を思えば学生を連れ歩くなど論外ですが、この際は仕方ありません。署長にも説明して諒解を得ておくことにします」  要は大尉、貴方と同じです。  ……これは口には出さずにおく。 「わたくしもそれが良いと思います。  扱いは、進駐軍徴発の現地協力員という事でよろしいかしら?」 「貴方に責任を押し付ける気はありません。  警察属員、つまり自分と同じ立場という事にしておきます」 「よろしいの?  一条さんを受け入れようと言い出したのはわたくしなのですから――」 「彼女が訪ねてきたのは自分です。  自分が身柄を引き受けるのが筋というものでしょう」 「……そう、ですね。  あの学生さんもきっと、そうなさった方が喜ぶでしょうし」 「…………」 「……湊斗さん!」 「おや、気が付かれましたか」 「大変、お騒がせ致しました。  見苦しき振舞いの数々、お詫び致します」  座に着いて、頭を垂れる。  先刻の醜態を思うと目を合わせる事さえ辛い。その意味で頭を下げる格好は有り難くもあった。 「い、いえっ、そんな……」 「こちらこそ気配りが足らずお心を騒がせてしまった様子。このさよとしたことが不覚の至り、お詫びの言葉もございませぬ。  本日の埋め合わせはいずれ必ず……」 「そのようなお気遣いはどうか無用に。  ……特に、綾弥さん」 「はっ、はい?」 「先程は取り乱した挙句、聞くに堪えぬ雑言を並べ立てたように思います。  真に非礼の限り、面目次第もございません」 「そっ、そんな。  湊斗さんはなにも悪くないです。あたしが無神経なことばっか言ったから……」 「本当にすみません!」 「お心遣い、有難うございます。  ついては、お詫びに代えてというわけではないのですが」 「はい……?」 「先刻のご要望の件、考慮をさせて頂きたく思います。  待遇は、世辞にも良いものとは言いかねるでしょうが」 「え……  ほっ、本当ですかっ!?」 「ただその前に、改めて申し上げておきます。  自分に関わることは危険です」 「〈本当に危険なのです〉《・・・・・・・・・》。  生命に関わります」 「これは大尉殿にも申し上げられることです」 「……」 「自分としてはお二方とも、このまま一切を聞かずに帰られることをお勧めします。  疑いなくそれが最善なのです」 「それでもあえて残られるなら、失礼ながら、実に愚かしい選択をすることになります。  無用の危険を望んで冒すのですから、そう言わざるを得ません」 「あえて申し上げます。  自分は〈何方〉《どなた》の御協力も強いて必要とはしておりません」 「…………」 「…………」 「以上を踏まえた上でご再考下さい。  このままお帰り頂くわけには参りませんか」  …………………………………………………………… 「わたくしは、お答えするまでもありませんね?」 「大尉殿……」 「景明さまへの協力はGHQ士官として拝命したものです。景明さまに厭われたから、といって翻せるものではありませんし。  それに」 「わたくしにも自尊心がありますもの。  必要ないと言われたまま引き下がっては、大鳥の名折れ。これは必ず撤回させてご覧に入れますから、楽しみにしておられませ」 「それでこそお嬢さま」 「……」 「……あたしも。  すみません、湊斗さん」 「迷惑を掛けることになるのはわかってるんです。あたしがこれまでチンピラ連中相手にやってたような事が、湊斗さんの敵に通じるわけがないって……それはわかるんです」 「でも、戦えるようになりたいんです!  今は無理でも……必ず。あたしは逃げたくないんです。許せないものから。  それが六波羅でも、銀星号でも」 「あたしを育ててくれた人に、恥じるような生き方はしたくない。戦い方を知りたい。  だから……お願いします! あたしを湊斗さんの傍に置いてください!」 「…………」 「……気のせいですかしら。  なんかわたくしの台詞と比べて随分と好感度上昇率が高そうな……」 「あたかも愛の告白の如し。  これは大きく遅れを取ってしまいましたよ、お嬢さま」 「茶々入れてんじゃねえ!!  こ、こっ、告白って、あ、あたしはただっ」  ………………。  〈傀儡〉《くぐつ》を操るは易く、士人を留めるは難し。  ――是非もない。 「? 景明さま、何か仰られました?」 「いえ。  お二人のご意思は理解しました。もはや、自分から言うべきことは何もありません」 「じゃあ……」 「銀星号事件の解決の為に。  御協力をお願いします」 「大鳥香奈枝GHQ大尉殿。  綾弥一条さん」 「お任せくださいまし♪」 「あ……ありがとうございます!」 「礼などは御無用に。  自分が恥ずかしくなります」  危険に巻き込んで、感謝されては堪らない。  居たたまれぬにも程がある。 「……では、お話ししましょう。  我々が追うべき相手」 「銀星号のことを」 「…………」 「…………」  家人の牧村さんが用意した茶はいつもの通り、心地良い苦さだった。  一口含んで舌を湿らせ、吐き出し難い言葉をそこへ乗せる。 「大尉は先程お尋ねになりました。  自分がなぜ銀星号を追うのか、その理由を」 「ええ……」 「妹なのです」 「……はい?」 「えっ?」 「…………」 「二年前のことです。  〈あれ〉《・・》は我が家に伝わっていた劔冑の一つを持ち出し、装甲に及び」 「〈そして狂った〉《・・・・・・》。  人間から、怪物に。ヒトの形をした災厄、殺戮する天象――銀星号になったのです。  あの瞬間」 「……以来、自分は家に存在したもう一領の劔冑と共に、あれを追い続けています。  幾度か捕捉に成功することはありました。しかし未だ、制圧には至っておりません」  一度、口を切る。  声を発する者はいない。  表情は大同小異だった。  思うところはあるが、言葉を見つけられない。そういう顔。  その反応は俺の卑劣な計算を満足させるに足りた。  最低限度の事実の羅列のみで、余計なことを話さずに済む。  ――余計?    否。本来なら、何を置いても話さねばならないことだろう。あれが〈なぜ〉《・・》狂ったのか、は。  だが話せる筈もなかった。  その〈呪い〉《・・》が俺にも纏わりついていることを知れば、彼女らは俺を忌み、離れ――それだけなら望ましいが――それぞれのやり方で俺の罪を鳴らすだろう。  今はまだ、困る。 『銀星号』をこの世から抹消するまでは、俺は必要に応じて自由に動ける身でなくてはならない。  まだ、裁きの時ではない。  ……それを俺が決めること自体、傲慢を極めているが。  俺はその点について全く口を噤んだまま、説明を次へ移した。おそらくはこちらを気遣ってだろう、周囲が沈黙しているのを利して。  何とも卑劣に。 「……銀星号が何故かくも恐るべき存在なのか。ただ一騎の武者の為す事とは到底思えぬまでに殺戮を繰り広げられるのか。  それには理由があります」 「まず一つは単純な戦闘能力。  劔冑もそれを操る仕手も、自分の知る限りでは最上と言って良いでしょう」 「湊斗さまも相当なものとお見受けしますが。  それよりも尚……?」 「はい。  控えめに評して、才能の桁が一つ違います」 「…………」 「そしてもう一つ……こちらの方が深刻です。  あの劔冑は、精神汚染の能力を持ちます」 「……精神汚染?」 「なんとも不穏な響きでございますねぇ」 「実際、不穏の極みでしょう。  銀星号は自己を中心として円形状の広範囲に、脳活動へ影響を及ぼす特異な重力波――〈汚染波〉《フェロモン》を放散します」 「この汚染波を受けた人間は、銀星号と精神を同調させます。  ……狂った殺人鬼の精神と、です」 「……あっ。  もしかしてあの、銀星号事件の――〈被害者〉《・・・》〈同士で殺し合ったようにしか見えない遺体〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、っていうのは」 「その通りです。事件の被害者の多くは殺し合わされたのです。  心を銀星号に奪われて」 「なんとまぁ……」 「タチの悪い話ですこと」 「全くに。  そして更に一層悪質なのは、武者が銀星号と接触してしまった場合――」 「武者も汚染されるんですか?」 「いえ。さしもの汚染波も甲鉄の壁を破って武者を影響下に置く事はできないようです。  少なくとも自分の知る限り、そうした事例は有りません」 「ですが……  銀星号は武者に対して〝卵〟を植え付けることができます」 「たまご?」 「便宜上そう呼んでいますが、これもやはり汚染波の一種ではあるようです。  自分の知る〝卵〟は光球状で、劔冑と接触すると吸収され、その内部で成長――」 「不特定の期間を経て、〈孵化〉《・・》を迎えます」 「……すると、どうなるのでしょう?」 「自分はまだ目撃したことがありません。  銀星号が撒いた〝卵〟はすべて孵化の前に破壊してきました。この二年間のほとんどはその作業に費やされたと言ってもいい」 「あるいは銀星号の制圧以上に〝卵〟の破壊は急務であったからです。  自分の聞いた話が正しく……〝卵〟に寄生された武者は、孵化を迎えたその刹那――」 「〈銀星号と同じものになる〉《・・・・・・・・・・・》のなら」 「…………」 「…………」 「……なるほど。  まさに〝卵〟なのでございますね」 「この話は公表されておりません。知る人間は自分と署長、後援者であられる舞殿宮殿下。  そして貴方がただけです」 「他言無用……ですよね、もちろん」 「左様に願います。  汚染波や〝卵〟の話が市中に広まった場合――」 「パニックになりますね……。  銀星号がただの化物ではなく、近寄られただけで発狂させられるだとか、そんな代物が更に増えるかも知れないだとか」 「お茶の間卒倒は間違い無しのネタでございます」  綾弥はただただ驚いている様子だった。  香奈枝嬢とさよ侍従は驚きを通過してもはや呆れるしかないという表情。  彼女ら自身が錯乱に陥らずにいてくれるのは僥倖とみるべきか。尤も――  そんな〈柔〉《やわ》な精神の持ち主ではないと信じればこそ、明かしたのだが。 「……事程左様に、銀星号は理外の相手。  如何なさいますか」 「……そうですねぇ……」 「……うー。  バケモンなのは知ってたけど……そこまでとんでもない奴だったのかよ」  二人とも、流石に即答はしかねる様子だった。  当然だろう。  こういう反応が得られるのなら、機密漏洩の危険を冒して話した甲斐もある。  俺は畳み掛けた。 「自分としてはやはり、手を引かれることをお勧めします。  只今お話しした内容について口外しないとお約束頂ければ、それで――」 「あら?  如何って、そういう意味だったんですの?」 「……はっ?」 「わたくしはてっきり、どうやって対処するべきなのかを問われているものとばかり」 「あたしも。  そういうことなら考えは変わらないです、湊斗さん」 「ていうか、尚更引けなくなりました」 「ですねー。  元々暢気に構えていたつもりはありませんけれど、そこまで酷い状況と聞いては猶予の暇もありません。手を引くなんて論外です」 「…………」 「湊斗さま、お茶のお代わりはいかがですか」 「頂きます」  いとあっさりと砕かれた最後の期待を、緑茶と一緒に喉の奥へ流し込む。  無闇矢鱈と苦い味がした。  ……腹を決めるしか、無いか。 「綾弥さん」 「はい」  …………。 「一条」 「は……はい!」 「これからお前は俺の部下として扱う。  身分は鎌倉警察署属員……非公式の警官だ。俺と同じ立場だが、指示には全て従って貰う」 「異存は?」 「ありません!」 「大尉殿」 「…………」 「ハンカチを噛みながら恨みがましい視線で見ないで下さい」 「だって、なんだか羨ましいんですもの」 「あちらは名前呼び捨て、こちらは『大尉殿』……距離感の差が余りにも如実でございますなぁ」 「ふふん」 「きー! 妬ましい!  景明さまっ、わたくしのことも呼び捨てになさってくださいませ!」 「できません」  無茶な話だ。 「なら、ハニーで!  スウィートとつけて頂ければ〈完璧〉《パーフェクト》ッ」 「おいてめぇドサマギでなに抜かしてやがる」 「何ですの? ダーリンのパシリな方」 「ダーリン言うな! 妄想巨体女!」 「……巨体……」 「あっ。お嬢さまの心のセーフティロックが音を立てて」 「ふっ。ふふふ。そうね。そうよね。  円満なチーム関係を築き上げるためには、まず上下関係をはっきりさせないといけないのよね」 「あぁ? やるかGHQ。  昼寝する以外になんか芸があるってんなら見せてもらおうじゃねぇか……」 「OK」 「……失礼。お二方。  まだ説明が」 「すみませんちょっと待ってください。  このウドの大木を薪にして風呂釜にくべてきますからっ」 「ええ。すぐに済みますから少々お待ちくださいまし。  ほんのこれくらいで片付きます」 「指一本?」 「一ラウンドではありません。  一分です!」 「上等だぁッ!!」 「…………」  話は聞いてもらえないようだった。  仕方ないので、茶を啜る。  なにやら無意味に不穏さを増してゆく居間から目をそらし、天井を仰ぐと、そこには見慣れた姿があった。  赤い蜘蛛。 «……話はまとまった?» (聞いていたのか) «大体のところはね。  正直、面倒になったとしか思えないけど» (止むを得ない選択の結果だ。  ……と、思う) «危険はわかっているのね?» (ああ。  彼女らとは必要以上に接触しないよう、心がけておく)  ……所詮、偽善だが。  〈どうせ犠牲は出るのだから〉《・・・・・・・・・・・・》。 «なら、いいけど。  ……それよりも、報告» (どうした) «銀星号の〈香気〉《におい》をつかんだ» (何処だ?) «鎌倉の郊外よ。  少し西にある……大きな施設の中。あれは何なのかしら? 妙に騒がしかったけれど» (西の……?)  記憶に引っ掛かりを覚える。  確かそこには、有名なものが―― (……あれか) «わかるの?» (ああ。  あそこにあるのは……)  ――――サーキット場だ。  〈装甲競技〉《アーマーレース》の端緒は現在からおよそ三十年前まで遡る。  発祥は〈大英連邦〉《ブリテン》。競馬や幾つかのモータースポーツがそうであるように、この競技もまた女王の国の貴族たちの遊戯から始まった。  かつては何処の国にあっても劔冑は神聖性を帯びて見られ、国家の帰趨を占う戦争以外の場で用いるなど論外であった。  が、新式(量産型)劔冑の誕生がその観念を変える。  この世で最も速い存在である武者による競走という発想は大喝采をもって迎えられ、紳士たちはどうしてこんな素晴らしい競技をもっと早く考え付かなかったのだろうと首を傾げつつ、情熱に従って形式を整えた。  装甲競技はかくして誕生する。  英国本土を原点に、ドーバー海峡を越えるまで一年、欧州全土へ普及して統合団体が結成されたのはその約三年後。  大和における歴史は二十年ほど前に幕を開け、忽ち熱狂的な支持を受けて大いに隆盛する兆しを見せたが、折しも世界は戦雲の最中。大戦への突入と共に軍事へ寄与しない事業の多くは強制縮小の憂き目に遭う。  装甲競技もその例から漏れず、戦時中は自粛を余儀なくされ、事実上潰滅の状態にあった。  終戦後、時が経過すると共に復興を望む声は高まり、権力層の中にも同調する者があって、団体が再興……  昨年初頭にはこの鎌倉サーキット場が落成。  今年――興隆四一年に至って遂に、国内統一規格の大和GP開催が決定した。  その第一回が、今……    始まっていた。 「……このどこかに銀星号がいるんですか?」 「それはまず無いだろう」  客席から伸び上がるようにして辺りを見回す一条の声に応じつつ、襟元を軽くくつろげる。  会場の熱気は相当なものだった。群れをなす人々、そしてその興奮が、秋風を払って夏を呼び戻している。  今、コース上を疾走する騎影の中に一流と目される選手の姿はない。彼らの登場は明日以降になる。  にも拘わらずこの盛況。  装甲競技の復興がいかに望まれていたか、草レースに毛を生やした程度の大会しか催されない昨日までの状況がどれほど不満を集めていたか。  手に取るような確かさで窺い知れた。  この種の競技の愛好者が有する熱意は信仰にも近いものがある。関心のない人間には異常と映るほど。  しかし、選手へエールを送る人々の表情に不健全な何かはなかった。純粋な歓喜だけがあった。 「人々は皆、興奮はしているが正常だ。精神汚染を受けている様子はない。  それに銀星号の劔冑は真打。サーキット場に潜むのは困難だ」 「どうしてです?」 「あら。  一条さんはサーキットは初めて?」 「ん? まあ。  あんまり興味もなかったし。こうして見ると、結構面白そうだけど」 「装甲競技に使われるのは新式、数打の劔冑と決まっていますの。  真打がサーキットを走るなんて、まず有り得ませんのよ」 「勝てませんから」 「なんでだよ。  劔冑は数打より真打の方が上なんだろ?」 「戦闘能力ならそうです。  でも、これは速さを争う装甲競技」 「新式には〈競技用劔冑〉《レーサークルス》という、レース専用の規格がありますけれど……  旧式にそんなものがあるとお思い?」 「……そりゃそうか」  そういう事だった。  こと装甲競技においては、数打は真打に優越する。  だからといって出場を禁止されているわけではなく、実際、真打で参加する〈数奇者〉《すきもの》の武者が稀にいるが……  良い成績を挙げた例は皆無だ。  サーキット場において真打は絶対的少数派であり、参加していれば目立たぬ筈がなかった。増して白銀の銀星号。  〈装甲騎手〉《レーサー》の中に紛れ込めるとは到底思えない。  ……〈尤〉《もっと》も。  性能面の問題に限っていえば、おそらく銀星号なら充分に競技参加資格を得られるのだろうが。 「じゃあ、湊斗さん。ここにいるのは……」 「必然、〝卵〟を植えられた寄生体となる。  村正の感覚によれば〈匂いが揺れ動いている〉《・・・・・・・・・・》らしい」 「これは〝卵〟の場合、孵化が遠くない事を意味する。あまり余裕は無さそうだ」 「村正?」 「俺の劔冑だ」 「そういえば初めて聞きました。  随分と不吉っぽい名前ですのね?」 「きっと鍛冶師が〈悪漢嗜好〉《ピカレスクマニア》だったのでございましょう」  ただ単に〈真物〉《オリジナル》なだけです。 「その感覚は確かなんですの?  銀星号の力の気配がここにあるという」 「過去の経験からみて信用に値します。  このサーキット場、あるいは周辺のどこかに寄生体がいることは間違いないでしょう」  〈虱潰し〉《ローラー》作戦でどうにかできる範囲でないのが困り物ではあるが。  いつもの事だ。 「もう少し特定はできませんので?  この辺りは気配が強い、というような」 「どうも〈そういうもの〉《・・・・・・》ではないらしく。  ごく漠然とした位置推定以上の事は不可能なようです」 「……それだと見つけようがないんじゃないですか?」 「いや。寄生体は、村正が目撃すればそれと看破することが可能だ。  だから今村正はコースを俯瞰できる場所にいる。これで参加騎は全てチェックできる」 「だがそれだけでは万全ではない。レースに使われない〈練習騎〉《Tクルス》という可能性もある。  そちらは肉眼で調べるしかないだろう」 「なるほど……  わかりましたっ」 「とりあえずはどうしましょう?」 「そうですね。  ひとまずは、様子を」  方針が定まった以上、今すぐにでもピットを覗いてコースに出ていない騎体を調べて回りたいところだが、それは無理な話だ。  関係者以外は立ち入り禁止と決まっている。  警察の名もここでは通用しない。  警備員は旭の紋章など見ても会釈さえするかどうか。  この大和GP、戦後初の国内統一選手権の主催者は〈六波羅〉《・・・》なのだ。  彼らの息が掛かった場所で無理を通せる筈もない。  何か手立てを考えなくてはならないが―― 「ところで、今は何やってるんだ?」 「予備予選です。  あまり実績のない、言ってしまえば二流の選手たちを〈ふるい〉《・・・》にかけているところ」 「今日の予備予選で上位の成績を収めた選手が、明日シード選手たちと共に本予選を飛ぶのでございますよ」 「成績ってのはどうやって出すのさ。  なんか、みんなてんで勝手に飛んだり休んだりしてるようにしか見えねーけど」 「予選は周回タイムを競いますの。  位置についてよーいどん……で一斉に走り出すのは決勝レースだけなんです」 「へぇ……」  気の無さそうな声の割りに、一条の視線はコース上へ吸い寄せられていた。  性格的に、この種の競技を嫌うところは持たないのだろう。そういう印象を受ける。 「しかし予備予選にしては良い〈騎航〉《はしり》を見せる者もおりますねぇ。  ことに今ヘアピンを曲がった選手などは、なかなか」 「あれは……横森鍛造の〈猟犬〉《ハウンド》ですね。  ヨコタンワークスはシード登録されている筈ですから、セミワークスでしょうか」 「その割りには大胆な改造を施してしまっているような。サスは別物の移植ですし。  どこぞのお大尽のプライベートチームかもしれませんね?」 「……あっ、抜かれた。  すげぇな今の。右に行くと見せかけて、左から一気に押し込んだのか? 火花が散ってたぞ」 「おお、あれは〈警察〉《ポリス》チームではございませんか。ようやく調子が出てきた様子」 「タムラの〈火箭〉《ホットボルト》ですか……  旧式騎をよく使っています」 「あれは騎手とメカニックが優秀であれば今でも第一線で戦える騎体ではなくて?  重量の大きさは厄介ですけれど……」 「強そうじゃねぇか」 「さようでございますな。加速性に疑問符はつくものの、騎体がぶつかり合う乱戦に強いのは事実。  レースが荒れれば有利になりましょう」  装甲競技において他騎への攻撃はもちろん反則行為だが、体当たりは許容範囲とされている。  重装甲(比較的、だが)のタムラ・ホットボルトが旧式でありながら未だ生き残っていられる所以だ。  とはいえ所詮、過去の騎体。  直線の伸びを欠く上、旋回性能でも最新騎に大きく劣るときては、騎手はじめスタッフ陣の奮闘で上位へ食い込めはしても勝つまでには至らない。  ……などと考えているそばから、ストレートで一度は抜いたハウンドにコーナーであっさり抜き返されている。 「相変わらず、嫌がらせかと思うほど曲がらない騎体ですね」 「あのアンダーステアは病気です」  ポリスチームも願わくば買い換えたいところだろう。  無論、今の警察局でそんな予算が下りる筈もなし。チームの維持が許されているだけでも奇跡なのだ。  眼下の予備予選で、目立った活躍を見せているのはその二チームだけのようだった。  意識を別の方向へ向ける。 (村正。どうだ?) «異常なし。  今日の競技に参加している劔冑は全部見たと思うけど、どれも違う» «みんなただの劔冑〈もどき〉《・・・》よ» (そうか)  村正は数打劔冑、特に競技用劔冑に対してそういう表現を用いることがある。  古来の劔冑鍛冶として思うところがあるのだろうか。 (客席は確認したか) «まだよ……必要あるの?» (一応、念の為だ。  視覚情報を転送しろ) «諒解»  …………?  あれは――  周囲から妙に浮いた一角がある。  あれは……貴賓席か。  一般観客席と同様に老若男女様々だが、一概に品の良い身なりをしている。  スポンサーや招待客、その関係者らに違いない。  武者の姿も見える。  だがその劔冑は今サーキットを駆け抜けているものとは全く違う。より重厚、より無骨。  軍制式の竜騎兵だ。  貴賓席の護衛だろう。〈凶徒〉《テロリスト》、そしてレースには付き物の事故に備えて配されているのだ。 (村正?) «〈異常なし〉《シロ》» (承知)  ……あの中に〈標的〉《クロ》がいれば、ある意味、話はとても簡単だったのだが。 「…………?」 「どした?」 「あ、いえ……  少し日にあてられたかしら」 「大丈夫ですか。  何でしたら、日陰に」 「いえいえ、ご心配なく。  ちょっとよろめいただけですから」 「しかし、日射病に罹ってから悔やんでも後の祭り。  大事をとられた方が良いと思います」 「あん、景明さまったら。  そんな優しいお言葉で、わたくしを物陰に連れ込もうとなさるなんてっ」 「いったい、何をなさるおつもりですの?」 「頭を冷されてはどうかと思ったまでですが」  別の意味込みで。 「わかんねぇやつだな。  年増は無理すんなって言ってんだよ、湊斗さんは!」 「あらま、いちいち引っ掛かることを言わずにはいられない反抗期真っ盛りのお嬢さん。  でもわたくしはめげません。これも本当の家族になるための試練ですもの」 「ねぇ、あなた?  わたくし、綾弥ちゃんがあなたの連れ子だなんてことちっとも気にしませんから!」 「はぁ」 「勝手な設定作ってんじゃねぇよ!!  あと、苗字にちゃん付けするなっ!!」 「暑苦しい集団でございますねぇ」  本当に。  周囲の視線から逃避がてら、時計台に目を向ける。  予備予選の終了時刻が近付いていた。  どうするべきか。  一観客の身では調査にも限度がある。ごく低い水準で。十全に近い調査を行うには、この競技場における行動の自由を確保しなくてはならない。  ここで自由に動ける人間というとまず大会役員……次いでスポンサー、参加チームの順だろうか。  そのいずれかに紛れ込むことが望ましい。  さて。  そうなると、手は―――― 「……さよ」 「は」 「あちらをご覧なさいな」 「貴賓席でございますか?」 「その……右端のほう。  堀越の姫君がいらっしゃいます」 「なんと。茶々丸さまですか!?  おやまあ、お懐かしい……」 「先刻のセレモニーで紹介されていなかったところからして、お忍びなのでしょうねぇ」 「噂に違わぬ、型破りな御方のようで」 「隣に……あれはどなたかしら。  御婦人がいらっしゃるけど」 「おそらく〈長庚局〉《ゆうつづのつぼね》なる方でございましょう。茶々丸さまの寵愛並々ならぬ女官とか。  女官とは仮の姿、あれは卑賤の出とされる茶々丸さまの母なのだと云う者もおりますね」 「……母親。  もしそうなら、あれは蝦夷の方――とっ、これは禁句でしたね」 「ま、公然の秘密というものでございますが。  堀越公方殿が〈半蝦夷〉《ハーフドワーフ》であることは」 「それにしても、少しばかり不都合ですね。  顔を会わせないように気をつけた方がいいのかしら?」 「それは、さほど気にせずとも平気でございましょう。お嬢さまとかの姫君は、あちらがご幼少のみぎりにほんの数度お会いしたきりのはず」 「ご記憶ではございますまい」 「そうね。  ならばったり出会って気まずい空気に……なんてことにもならなくて済むかしら」 「あの御方とはどう接したものか、いささか迷ってしまいますからねぇ。  獅子吼殿なら話は簡単なのですが」 「〈他の方々〉《・・・・》は出方が読めません。  友好的ということはまず無いでしょうけど」 「差し当たって、こちらからわざわざ喧嘩を売りに行く必要はございますまい」 「そうね……。  あまり気にしないことにしておきましょう」 「…………?」 (あれ? この〈音声〉《しんごう》……) (どこかで…………) 「おい。それよこせ。  そのオペラグラス」 「はっ」 「…………」 (はーん?) (大鳥姉妹の姉がいますよ?  なんでやねん) (あー……  獅子吼の機嫌を悪く〈した〉《・・》のはあれか?) (ありえる話だーねー……) (……んー?) (隣にいるのは……) (…………あれま) 「にゃふ」 「……?」 「〈御姫〉《おひめ》、御姫っ。  ちょっと面白いことになりそうな感じ」 「…………」 「調査方針を説明します」 「はいっ」 「おうっ」 「お嬢さま。無理に個性を演出すると何だかとても痛々しいですよ」  予備予選終了後、競技場内広場。  客の大半と敗退したチームが去った頃合を見計らい、俺達は行動を開始しようとしていた。  村正が感じる〈匂い〉《・・》は依然としてサーキット場周辺にある。  去っていったチームの〈騎体〉《クルス》を気に掛ける必要はない。 「主眼に据える調査対象は、今日のレースに参加しなかったチーム。  多くはパドック内の各ガレージで明日の本予選の為に騎体点検を行っている筈です」 「コースに出て練習騎航を行うチームもあるでしょうが、そちらは村正に任せて下さい。  我々はレース関係者を装ってガレージ内のチームに接触を試み、情報収集を行います」 「レース中ほど警戒は厳しくない筈ですので、殊更に不審な行動を取らねば問題は起きないでしょう。もし怪しまれた場合は迅速に撤収して下さい。無理押しは禁物です」 「質問っ」 「はい、大尉殿」 「聞き込みの方向性はどのように? 『あなた、銀星号を知りませんか』といった感じでよろしいのでしょうか」 「捻り無さ過ぎだろ、おい」 「あやしまれては元も子もありません。ひとまずは当たり障りのない会話で情報を集めるに留めましょう。何気ない雑談の中に意外な収穫が見つかるというのは良くある話です」 「ただ、それでも一応の方向を示すなら……  力に飢えている人間を探して下さい」 「それはどういう?」 「銀星号によって寄生体に選ばれる人間の、言うなれば――傾向です」 「村正、お前は引き続きコントロールタワーから監視を頼む。  これからいくつかのチームがコースに出て来る筈だ」 «諒解» «…………。  ねぇ、御堂» 「何か」 «考えたのだけど。  今回、銀星号がつくった七つの〝卵〟» «それを与えられた武者のうち、三人を私達は既に見ている。……三人、をね。  彼らには共通項があった。そう思わない?» 「……共通項」 «彼らは〈力〉《・》を求めていた。渇望していた。  他人を屈服させて、自分の望みをかなえるために» «鈴川令法、長坂右京、風魔小太郎……  皆、そうじゃない? 程度と性質の違いはあったかもしれないけれど» 「…………」 «前回、銀星号が〝卵〟をばら撒いた時にはそんなことはなかった。  寄生体はただ無作為に選ばれたようにしか見えなかったし、実際そうだったんでしょう» «でも今回は明らかに違う。  おそらくそれは、今回の〝卵〟が寄生体に私の能力を分け与えるという付加価値を持つからよ» 「……折角の力。  必要としている者にくれてやろう、というところか?」 «ええ。  寄生体は〈選ばれている〉《・・・・・・》» 「ならば――」 «力を求めている者を探せばいいのよ。  この競技場で誰よりも力に飢えている人間を……» 「力に飢えている人間……」 「……尤も、ここはレース場。  多かれ少なかれ、誰しもがそうした欲求は持っているようにも思えるのですが」 「ですねぇ」 「それでも異常なほどの執念を燃やしている御仁がいれば目立ちましょう。  注意を払ってみる価値は有ると存じます」 「はい。  では以上のような方針で開始します。効率化のため、手分けしてあたって下さい」 「はいっ! 頑張ります!」 「じゃあ行きましょうか、ばあや」 「は。  まぁ私どもは大体一緒くたでございますし」 「……さて。  では、俺も行動を開始する」 «気をつけなさいね。  ただでさえ貴方は人を警戒させやすいんだから» 「無用の心配だ。  俺とてそうしようと思えば友好的に接するくらいの事は造作もない」 「――チーム・サワダの門倉直哉」 「はい?」 「四国大会のチャンピオン。  しかし、全国から猛者が集まるこの大会で勝つ見込みはあるまいと、専らの下馬評」 「なんだよいきなり……」 「力が欲しくはありませんか?」 「え……えぇ?  あんた、一体……」 「欲しいなら、差し上げる……  そう言われたら、貴方はどうします?」 「……ひ、ひっ、ひぃーーーーっ!!  悪魔が、悪魔がオレを誘いにーーーー!?」 「果たして何が悪かったのだろう」 «何もかもよ» 「他の三人は大丈夫だろうか……」 «貴方よりはずっとね»  手法を改めることにして、調査を再開。  手近なガレージを覗いてみると、雑誌や街角でしばしば見かけるシンプルなロゴがまず目についた。  田村甲業を意味するデザイン。  戦前からの名チーム、タムラワークスのガレージのようだ。 「どなた?」 「失礼。  敵情視察といったところです」  出入口近くにいたスタッフが声を掛けてくるのへ、言葉少なに答える。  嘘をつく者はとかく多弁なもの。こういう際は多少素っ気ないくらいの方が要らぬ疑念を招かずに済む。 「あぁ、ポリスチームの人?」 「――は。そうです」 「自分が参加するのは今回が初めてなのですが……一目でわかってしまいますか」 「そりゃね。あなたみたいな強面で、参加者っていったら、ポリスチームくらいしかないでしょ?」 「…………成程」  いささか忸怩とさせる部分を含む説明であったが、胸中にはひとつ頷いておく。  彼の言は良いアドバイスになった。 (そうか。  そういうことにして貰えばいい)  今日のうちにも手を打っておこう。 「ホットボルトの調子はどうです?」 「良好です。  やはりあの騎体は素晴らしい」 「シャフト式〈四翼駆動〉《4WD》の先駆けでありながら、あの完成度は見事というほかありません。  〈整備〉《メンテ》に手を焼かされるのが難点ですが」 「よく言われます。あの時点ではとてもそこまで手が回らなかったみたいで。  でも、警察さんは大事に使ってくださって、うちとしても嬉しいですよ」  好意的な笑みを見せるスタッフ。  会話が聴こえているだろう周囲の人間も、部外者である俺を嫌がる気配は覗かせなかった。  ポリスチームの使うホットボルトはタムラの作品だ。  それだけに、敵とは言ってもなかばは身内のような意識が働くのか。情報を仕入れたいこちらとしては、好都合な事だった。 「今日はもう〈騎航〉《はし》らないのですか」 「ええ。練習は朝のうちに済ませました。  ……本番まで騎体を見せたくないんですよ。今回は」 「つまり、新型ですか」 「口チャックで」 「心得ました」 「ま、明日を楽しみにしていてください」  含み笑うスタッフに頷き、視線を巡らす。  彼はサブメカニックのようだ。それはそれで面白い話が聞けそうだが――いま俺が話を聞かねばならない人物は他にいる。  ……見当たらない。    不在なのかと思いつつもう一度首を巡らせて、ようやく発見した。  それほど目当ての人物は小柄だった。  いかにも力仕事向きな周囲のスタッフ達より二回り、三回りも小さい。  チームの中核ともいうべき立場とは対照的だった。 「……あの人は」 「ええ、うちのトップレーサーです。  ご存知でしょう?」 「勿論。雑誌で幾度も。  では、少し挨拶をしてきましょうか」 「どうぞ。  あ、ナーバスな子なんで、あまり恐がらせないであげてくださいね」 「……はい」  悪意の無さがかえって耳に痛い言葉を聞きながら、その方角へ足を向ける。  トップレーサーは壁際に座り、何かの手作業をしているようだった。  小さな金属を磨いている。〈劔冑〉《クルス》の〈部品〉《パーツ》だろう。  その手付きはひどく丁寧だった。そこにあるものが宝石であるかのように繰り返し繰り返し磨き、状態を確かめてなお満足せず、更に磨く。  自分の愛騎を土足で踏むような騎手はいない。  それにしても、タムラのレーサーが劔冑へ注ぐ愛情は一頭地を抜けていた。そもそもがそういう性格なのかもしれない。  集中して、俺の接近にも気付いていないようだ。  驚かせて手元を狂わせでもしてはばつの悪いことになる。俺は慎重に声を掛けた。 「……失礼」 「…………」  ゆっくりと、手作業に没頭していた頭が上を向く。  良く知っている顔だ。こちらが、一方的に。姓名も当然記憶している。  双眸が俺を捉えた。  その希少な職種に特有の、握力を感じるまでに精確な視線。 「〈皇路操〉《おうじみさお》さん。  初めて御目に掛かります」 「……あなたは?」 「ポリスチームの関係者、湊斗景明です」  微妙な表現を用いる。  このように言えば、全くの嘘とはならない。  そんなせせこましい小細工を咄嗟に使ってしまったのは、彼女の眼がこちらの心の奥底まで覗いているかのような錯覚を抱いたからだった。  深い瞳をしている。 「宜しければどうかお見知り置き下さい」 「……はい」 「お噂はかねがね伺っております。  昨年は各地のレースに参戦し、通算一〇勝を達成されたとか」 「……ええ……」 「御愛騎〈雷箭〉《サンダーボルト》のポテンシャルもあるでしょうが、やはり記録樹立の肝は貴方のテクニック――中でも際立つのはインの取り方」 「……」 「最短のルート選択と最少の減速幅。  陳腐な表現で恐縮しますが、芸術的としか言いようが見つかりません」 「……ありがとうございます……」 「……そういえばこの夏、練習中に接触事故で負傷されたと聞きましたが。  大事はありませんでしたか」 「……大丈夫です……」 「……そうですか。  それは何よりの事…………」 「……」  こちらが口を噤むと、もういいの?と言いたげな色を瞳に浮かべて、彼女――皇路操は作業に戻った。  俺の存在を気に掛けている様子はない。〈繊細〉《ナーバス》という割りに――いや、これも一つの繊細さの表れか。  取り付く島がなかった。  有名人ならばさもありなんと思わせるような、一般人など洟も引っ掛けないという態度とはまた違う。  別世界、という表現が一番適切だと思われた。  彼女と俺、いやほかの人間すべては、異なる世界に住んでいるのだと。  鏡の向こうの世界とこの世界との間に何かの間違いで通信回線が開いたから、対話ができているだけなのだと。  そんな風に思わせるものがあった。  別世界の住人。  〈音速領域の姫〉《レディ・ザ・ソニック》。  言葉が通じても心が通じ合わないのは、仕方がないのかもしれない。  ……とはいえどうしたものか。 〝卵〟の寄生先に選ばれた人間がもしこのガレージの中にいるとすれば、それは劔冑を操る者、つまり彼女以外にいない。  世界が違うから駄目だ、とあっさり背を向けられるものではなかった。  もう少し踏み込んで話を聞かねばならない。  ……露骨に尋ねてしまうのが、一番簡単ではあるのだが。  先刻、既にそれで失敗している。  当たり障りのない会話で情報を引き出さなくてはならない……。  忙しげに立ち働くスタッフらの姿を眺めつつ、話の種を探す。 「……このサーキットは設備が整っていますね。完全に舗装されたコースは勿論、充分なスペースが確保されているピット、パドック、選手用宿舎に食事処、更には公園まである」 「自分が学生の頃には考えられなかったことです。  あの時分からレースが好きでしばしば観戦しておりましたが、当時の競技場は実に〈単純〉《シンプル》」 「〈観客席〉《スタンド》など無くて当然、芝生の上に〈茣蓙〉《ござ》を敷いての見物が一般的でした。  ガレージなどもありませんでしたね。参加チームは自前でテントを建てていたものです」 「…………」 「それでもレースは素晴らしかった」 「中山昇、亜久田進次郎、広中兄弟……そう、それに貴方の父君、皇路卓。  彼らは悪環境を物ともせず、見事に〈騎航〉《かけ》た」 「…………」 「近在の競技場に皇路卓がやって来た時の事はよく覚えています。  その時の大会はごく小さなものでしたが、世界挑戦間近の英雄は本気の〈騎航〉《はしり》を見せた」 「彼が常にそうであったように。  ほかのありとあらゆる選手を突き放し、最先端を孤独に駆けるあの姿は今でも目蓋の裏に焼きついて離れません」 「思い出すたび、あの時の興奮が甦って心臓の鼓動が早まります。  同時に無念も湧きます。戦争さえ無かったら、と……」 「…………」  言葉を切る。  自分が単なる独白をしていることに気付いたからだ。  反応する声は全くない。    ……何をしているのだ、俺は。  鼻の付け根を指先でつまみ、軽く眼を閉ざす。  気分を切り替える。  ――単刀直入に訊いてしまおうか。  埒が明かないのだから、仕方がない。  そう思って、改めて皇路操へ目を向ける。  そして驚いた。  彼女はこちらを見ていた。  その瞳に〈揺蕩〉《たゆた》う色彩は、先程までとは違う。  別の世界ではなく、同じ世界の人間として俺の姿を捉えていた。    ――誤解に気付く。  彼女は話を〈聞いていたのだ〉《・・・・・・・》。 「続けてください。  ……よかったら……」 「…………はい」  瞳に引き込まれかける己を連れ戻し、頷く。  戸惑いは肝臓の辺りへ押し込めておいて、俺は再び話し始めた。 「皇路卓の騎航技術は当時の世界の一線級と比べてもそう遜色なかったものと思います。  殊にあのコーナーリング……」 「草間を抜ける蛇にも似た独特の旋回技法は大和の騎手の中では異彩を放っていました。  あの技術を模倣できた者は嘗ても今も存在しません」 「……実娘の貴方を除いては。  貴方の騎航は時を追う毎に、父君のそれへ近付いてゆくように自分には思われます」 「……」 「あれはやはり、父君に手ずから教えられたものなのですか?」 「……うん」 「そうですか。  嬉しく思います。皇路卓は夢を断ち切られましたが、貴方がその夢を受け継ぐならば、無念も報われましょう」 「……そう思う?」 「はい」 「……うん。  わたしも、そう思ってる」 「世界を目指されますか」 「……うん。  まずは国内で勝って……それから」 「では、この大会は重要ですね」 「……勝ちます。  必ず……最初の全国王者になる」  速度の世界の頂点を目指す少女が、小さな拳を握り締める。  そこに込められた力の強さは外見とは裏腹だ。 (…………) (力を求める理由はある、か……)  ……そんな事を考えている自分に少し、嫌気が差す。  彼女はただ、孝心から言っているだけなのに。 「強敵と思われる相手はいますか?」 「……やっぱり、翔京かな。  それに、ヨコタン……」  翔京兵商はタムラにとって長年の宿敵。  ヨコタン――横森鍛造は国内評価こそタムラと翔京に劣るが、本場欧州でアジアへの伝統的偏見を覆して声価を確立した点で、他社とは一線を画している。  どちらも最強と言い得る騎体を用意する筈だ。 「確かに、その両者でしょうね。  特に翔京はおそらく、噂だけは聞いているアプティマ系列の最終完成型を投入してくるでしょうから……」 「…………ごめんなさい」 「はい?」 「……ポリスチームは……その……  ………わたしはホットボルト、好きだから」 「……ああ、いえ。  有難うございます。自分も好きです」  不器用な気の遣い方だった。  だが、不快は全く覚えない。 「仕方がありません。  レースに勝つためには金が必要です。いかに優れたスタッフがいても、資金が不足していてはどうにもならない部分があります」 「……うん。  お金のことは、とても大変」 「ポリスチームの運営は局内外の有志の寄付に頼っています。潤沢な資金は望めません。  警察の予算から費用を取れれば少しは楽になるのでしょうが……まさか、ですし」  そんなことをすれば暴動が起きかねない。  警察予算とは即ち国民の血税なのだ。 「今回は貴方を応援させて頂きます。  同じタムラの劔冑を扱う者として」 「……ありがとう」 「先程、スタッフの方から伺いました。  タムラも新型騎を投入するそうですね」 「……うん。最新型。  タムラの技術を、全部集めた……結晶」 「興味をそそられます。  公表は明日とのことですから、詮索は控えますが――」 「……これ……」 「はっ?」  ずっと手にしていた物体を、彼女が差し出す。  金属の塊――駆動翼用のベアリングか。  ……成程。  考えてみれば当然。彼女は明日の本予選で使用する虎の子の整備をしているところだったのだ。  劔冑の整備は〈技師〉《メカニック》の仕事だが、何もかも専門知識がなくてはできない職人芸というわけでもない。  簡単な作業は素人でも手伝える。〈騎手〉《レーサー》がやっていけないという法はない。  そういう作業をするかどうかはレーサーの性格次第。全くしない、それが騎手の矜持、という者も多い。  彼女は〈する〉《・・》方なのだろう。 「これが新型騎ですか。  道理で、大切に扱っていると思いました」 「……うん。大切。  わたしの命よりも……大切」 「……そうですか。  きっと、大変な労力を費やして造られたのでしょうね」 「……うん。  これは、お父さんの血と汗」 「……?」 「身体の一部。  だから……大切にするの」 「失礼。  まさか新型騎というのは、父君――皇路卓氏が設計されたものなのですか?」  皇路卓は引退以降、一度たりともマスコミの前には姿を見せていない。  娘のコーチをしているという噂はあったが――それは事実らしい――娘のレースに現れることはなかった。  彼は今、何処で何をしているのか。憶測は様々ある。  しかしその中に、タムラで騎体開発をしているなどというものは無かった。 「……お父さんに、会いたい?」 「え……ええ。  ここにいらっしゃるのですか?」 「……うん。  ちょっと、待ってて」 「……お父さん……!」  少女が声を張り上げる。  しかしそれは、ガレージの喧騒の只中では到底通らない。  だが、付近にいたスタッフが気を利かせた。  奥に走っていき、そこにいた誰かに対してこちらを示して見せる。  ――痩せた姿が、近付いてきた。 「どうした? 操」 「……この人……ポリスチームの、ひと。  昔、お父さんのレースを見たことがあるんだって」 「ああ、それは――」  線の細い顔がこちらを向く。  一見、その容貌は記憶を刺激しなかった。余りにも違う。嘗ての大和最強騎手皇路卓は眼鏡などかけていなかったし、このように柔和な表情もしていなかった。  だが、無礼一歩手前までよくよく見て、思い直す。  眼鏡を外し、時間を逆行させれば確かにあの騎手はここにいる。表情は――過去にも雑誌記事で読んだ事はあった。私生活では別人のように温和だと。  柔弱とさえ感じる微笑の中に、敵手の内懐へ獰猛に喰らいつく餓狼の面影を見て取ることはできない。  それでも間違いなく、彼は皇路卓だった。 「湊斗景明と申します。  お会いできて光栄です。嘗て、貴方に夢中で声援を送った人間の一人として」 「いや、恐縮です。  皇路卓です――しかしどうか、僕がここにいることはご内密に」 「と言われますと……」 「もう表舞台には立たないと決めていまして。  自分なりに、『皇路卓』には決着をつけているんですよ。それをまた掘り返されるのも、ちょっとね……」 「……成程」  数瞬かけて、俺は彼の言わんとするところを察した。  挫折した皇路卓、娘と共に復活――などと無責任に囃されるのは嫌だということか。  その気持ちはわかるような気がする。 「申し訳ありません。  そういう事なら、自分のような者もご不快でしょう」 「あ、いや、そういう意味で言ったんでは。  こちらこそ申し訳ない。しまった、皮肉のようなことを言ってしまいましたね」 「あなたのような方とお会いするのは嬉しいんですよ。昔の自分がプロとして、お客さんを喜ばせてあげられていたと知ることが、不愉快なわけはありません」 「……くすぐったくもありますけどね。  嫌ではないです、決して」 「そうですか。  なら、良かった」  本心から言うことができた。  彼の言葉は嘘ではないとわかったからだ。  皇路操は座ったまま、こちらを見上げている。  その顔はどこか誇らしげだった。 「しかし、驚きました。  貴方が開発側の立場で〈装甲競技〉《アーマーレース》に携わっておられたとは、夢だに」 「ああ、操に聞きましたか。  ええ。いま言った事と矛盾するみたいですが、やっぱり世界の夢は諦められなくて……」 「無理からぬ事と思います。  貴方は世界へ指先をかけておられた。何事もなければ、そのまま登っていたでしょう」 「戦争さえなければ……」 「……ええ」  曖昧な表情で頷く。  その時、彼の顔面を駆け巡った感情の渦はあまりに複雑だった。  ――そう。戦争。  彼は世界の夢を戦争に奪われていた。  皇路卓が国内制覇を遂げ、いざ欧州へ乗り出そうとした、まさにその年。  大戦は勃発したのだ。  ……六年前、終戦を迎えた時には既に、彼の肉体の全盛期は遠い彼方へ過ぎ去っていた。  自分の努力や才能とは全く関係ない処で潰えた夢に、彼がどれほどの痛憤を抱いたか。察するに余りある。 「失礼。  無神経な事を口にしました」 「ああ、いや。お気になさらず。  済んだことですし。気持ちの整理はついていますよ」  ……今度のそれは、嘘だった。  そう見えた。 「……」 「それに、僕の代わりに娘が飛んでくれますからね……。  僕の開発した騎体で」 「俄かには信じ難い思いです。  騎手を引退後、一から勉強を始められたのですか?」 「ハハ、それはさすがに。  僕は元々メカの方だったんですよ。試作品のテストをするうちに〈騎航法〉《とびかた》を覚えて、いつの間にかそちらが本業に……という運びで」 「そうでしたか……」  初めて知る事実だ。  いや、昔そんな話を小耳に挟んだことはある、か? 「あなたが言った通り、僕は一度騎手として世界に指をかけて、そして転げ落ちました。  しかし今、戻って来たんですよ。かつての場所へ。今度は開発者として」 「タムラの技術の結晶とか」 「そんなことを言ったのか? 操」 「……うん。  だって……そうだもの」 「山崎さんが聞いたら怒るぞ。  あれの開発ではだいぶ対立したからな」 「……でも」 「相当な作品を仕上げられたようですね」 「どうでしょう?  タムラ始まって以来の駄作になるかもしれません。その可能性はあります。すでにそう声高に言っている者も社内にはいますよ」 「貴方自身は?」 「……さて。  明日の一戦を御覧あれ、というところですかね」 「……自信は充分、と」 「はっはっはっ」  はぐらかすように笑う皇路氏。  しかしその笑いの中に、俺の言葉を否定するような響きは込められていなかった。  ――さて。  そろそろ頃合いだろうか。  あまり長居しても迷惑になりそうだ。  それに、一条や大鳥大尉の様子も気になる。  彼女らを探しに行くべきか……それとも。  どうする?  邪魔にならないよう壁際に退避して、タムラの人々の作業を見守る。  一つ一つの挙措に熱意が感じられた。欠伸をしつつ手を動かしている者など一人もいない。  今回の大和GP――戦後初の国内統一選手権で勝利を収めれば、間違いなく大和における装甲競技の歴史上に不朽の名を刻むことになる。  決して風化しない金字塔だ。  それを思えばこの意気込みもむしろ当然と思える。    だが――錯覚であろうか。  タムラチームを包む熱気には、かすかに〈負〉《・》の匂いがある。  前方に輝く栄光だけを見ているのではない。同時に、後方から迫る肉食獣の影に怯えているような――  どこか、そんな気配があった。  この大会に敗れたら解散、というような話でも持ち上がっているのだろうか? 聞いたこともないが……。 「うむうむ。  いい感じに切羽詰まってんねー」 「……?」 「あんたもそう思ってんじゃない?  違う?」  傍らから、唐突な声。  振り向いて、最初に目に入ったのは、稀有な光沢を放つ髪だった。  小柄な人影がそこにある。皇路操と〈互角〉《どっこい》だろう。  判別の難しい身なりをしていた。レーサーには見えない。サポートスタッフとも思えない。ただの観客というにも納得し難い部分がある。  無論、面識はない。  言葉を探すうち、その少年は再び唇を動かしていた。  化粧によらない、薄紅色の唇。  ――その一瞬、奇妙に魅かれた。 「理由は知ってる?」 「とは」 「張り詰めてる理由さ。  月桂冠が欲しいだけじゃないんだな、このタムラの皆さんは」 「……」 「あ、あのぉ……  チーフを呼んで参りましょうか? 今少し、席を外してるんですが」 「あー、いいよ別に。気にせんといて。  ちょっと覗きに来ただけだからさ」  恐る恐るといった風情で尋ねてきたスタッフを邪険に追い払う。  スタッフの態度と、その視線の先を追って見て、俺もようやく気付くことができた。  来賓章だ。  つまりこの少年は、主催者に招かれて貴賓席に座る身分。 「……ポリスチーム関係の湊斗景明です。  卒爾ながら、貴方はどちらの方ですか?」 「そーだなー。  地球皇帝とでも名乗っておこうか」 「諒解しました。  地球皇帝陛下」 「突っ込み無しは予測済みだったのであてはめげたりしないのであった」 「すいません、今の無しで。  ワタクシはこういう者です」  ポケットから名刺を取り出して寄越す少年。  失礼のないように受け取って、そこに記された文字列を読み取る。       〈灰色の荒野〉《コンクリートサバンナ》を駆け抜ける風           〈弾丸雷虎〉《ダンガンライガー》・見参!!  「……申し訳ありません。  何処から何処までがお名前ですか」 「ダンガンライガーです。  ライガーと呼んでください」 「灰色の荒野を駆け抜ける風というのは」 「職業です」 「成程」  ……何をする職なのだろう。 「で、どうよ。お兄さん。  この連中のことどう思ってる?」 「確かに、奇妙な空気の存在は感じます。  しかしわかりません。今のタムラに、何か〈否定的〉《ネガティブ》な要素があるのでしょうか」 「あるんだー、これが。  勝ちたい理由のほかに、負けられない理由ってのがあったりする」 「それは、お尋ねしても宜しい事でしょうか」  無用の詮索は非礼にあたる。  だが俺がここにいる目的を思えば、水を向けざるを得ない。 「でなけりゃ話しかけないよ。  なにね。このヒトたちはピュアにレースを戦いたいってこと」 「……?」 「〈金〉《・》の話をコース上にまで持ち込みたくないのさ。レースで走る騎体を用意するのに金が掛かるのはしゃあない。けれど、グリッドに並んでからゴールするまでは忘れていたい」 「お客さんにも忘れてほしい」 「…………。  〈そういう動き〉《・・・・・・》があるのですか?」 「そりゃもうアリアリ。  金に飢えた連中がこんなうまそーな食材を見逃すわけないっしょ?」 「確かに。  〈装甲競技〉《アーマーレース》は今現在の大和で最も人気のあるスポーツの一つ……」 「もしも、〈賭博化〉《・・・》に成功すれば莫大な利益が見込めるでしょう」 「そういうことですね」 「タムラは反対派という事ですか」 「あとニチモー、ユーゲン、メーカーサイドではそんなもんかな。〈個人チーム〉《プライベーター》にはタムラ側が多いね」 「推進派は」 「ぶっちゃけそれ以外全部。  中心は翔京だな。もう運営委員会の名簿もできてるらしいよ? もちろん半数は自社の人間」 「ヨコタンもそちらの側なのでしょうか」 「最初はトップが渋ってたけど、結局折れた。  まー、仕方ないんでない? 翔京には刃向かえても、そのバックには尻込みするでしょ」 「……〈背景〉《バック》」 「翔京の社長の姉の亭主は、大和GP主催者サマに仕える侍大将」 「主催者……  小弓公方、今川雷蝶中将ですか」 「いち企業の身で逆らうには、ちょっと荷が勝ち過ぎると思わん?」 「異論はありません」 〝公方〟とは六波羅の軍司令官、もしくはその隷下の司令部を指す。  正しくは前者を管領と云い、後者を公方府と云うが。  公方は下総古河、下総小弓、伊豆堀越、会津篠川の関東四点に設置され、それぞれに枢要である周辺地域一帯において軍政両権を掌握する。  彼らの上には幕府の長たる〈六衛大将領〉《りくえたいしょうりょう》が在るのみだ。  これと格式上は同等の存在として京都の室町探題、九州の大宰府、陸奥の鎮守府があるが、いずれも公方府ほどの実権力は備えていない。  関東四公方は別格の存在であるといえる。  つまりは六波羅幕府の首脳。垢じみた表現を用いて四天王などとも称される最高幹部だ。  翔京がこれと繋がっているのなら、その鼻息はさぞ荒いことだろう。 「むしろ、タムラはよくも抵抗していられるものですね」 「レースを愛してるんだろ。  競馬みたいにはしたくないんでない?」 「成程。  既に前例がありましたか」  大和においては完全に賭博化した競馬。  純粋にスポーツとして楽しむには、余りにも〈生臭い〉《・・・》。 「その点を思うと、自分としてもタムラ側に心情が寄ります」 「あても同感。競馬は競馬で好きだけどね。  装甲競技をそうしちまうのは無粋だってば、絶対」 「……それをあのカニカマ野郎は。  耽美派気取ってやがるわりに、身の回りのゴミには無頓着なんだよな」 「ち、いい迷惑だってーの」 「……」  誰のことだろうか。 「まっ、それでも諦めたもんじゃない。  話がどう転ぶかはまだわからんし」 「六波羅が背後にいても、ですか?」 「ギャンブル化を推進してる連中はそれで大儲けするのが目的なんだろ? なら、御上のご威光だけじゃ足りないね。  もう一つ必要なものがある」 「……ご尤も。  馬券を売り出しても、買う人間がいなくては意味を持ちません」 「そーさ。客層の支持が要る。  客が賭博化にそっぽ向いたらおしまいだ」 「六波羅がついてたって関係ねぇ。  まさか無理矢理チケット買わせるわけにもいかんだろし………いや、やってもいいけどそれなら普通に徴税した方が早いしなー」 「その点について、推進派はどのような画策をしているのでしょう」 「絶対的な人気をゲットする。  その人気に物を言わせて客を取り込む」  〈わかる〉《ゆー、しー》?とこちらの顔を覗く少年。  頷いて、俺は端的に答えた。 「初代国内統一王者。  第一回大和GP優勝の栄冠」 「ま、それが最高のカリスマだよな。  かくして翔京は借金こさえて資金を集めて、アプティマの最終構想を突貫工事で完成まで漕ぎ着けて、投入してきたっつーわけだ」 「絶対に負けられない勝負、と」 「タムラ側にとってもね。  客の支持を得られれば勝ちってのは反対派にだって言えるこったから」  謎は氷解した。  それで、ここタムラワークスのガレージ内には一種異様な緊張の雲が垂れ込めていたのだ。  この戦いに敗れれば、スポーツとしての装甲競技は失われる。  その覚悟を皆が共有しているのだろう。  俺は未だパーツ磨きを続けている皇路操を見やった。  幾度見直しても、小さな身体だ。  彼女はあの小さな背に、父の夢と、レースを愛する人々の想いとを乗せて〈騎航〉《はし》る。  それが重荷でないとは到底思えない。  だが彼女の冴えた相貌に、怯えや惑い、疲労すら、見つけることはできなかった。  ひたむきな何かだけがある。 (大した少女だ)  その感慨はごく自然に、俺の胸を占めた。 「さてっと。あてはそろそろ行くわ。  くだらない用事がつかえてるし」 「お仕事ですか」 「仕事っちゃ仕事かな。  糞つまらん〈宴会〉《ぱーちー》に顔を出すだけなんだけどねー」 「お疲れ様です」  やはりそれなりに身分ある人間のようだ。  スポンサー企業の令息、その辺りか。 「じゃ、お兄さん。まーた」 「はい。  面白いお話を聞かせて頂いた事、感謝致します」 「なんの。  ……あ、お兄さん。ちょい、こっち」 「?」  小声になって、少年が手招きする。  俺は誘われるまま、背を丸めて顔を寄せた。  瞬間。  鼻腔をついた肌の香りが、俺に〈誤解〉《・・》を直感させ―― 「――――!」 「湊斗景明。  黄金の夜明けを導くもの」 「あなたの存在に愛と感謝を。  ……こんなに優しい声の〈男性〉《ひと》だったなんて、嬉しい」  そんなことを囁いて。  体を離すと、〈少女〉《・・》はまたねー、と手を振って去っていった。  現れた時と同様の唐突さで消えてしまう。  後には中腰のまま呆然とする俺だけが残された。  ……思えば、そもそも。  彼女はどうして、俺にあのような話をしたのだろう。  何故あのように親しげだったのだろう?  過去に面識はないと思うのだが……。  首を傾げるべき点は多かったが、ここで思い悩んでいてもどうにもなりそうにない。  俺は皇路親子に挨拶をして、ガレージを出た。  時間は有限だ。  他の場所も見て回らなくてはならない。  一条はこの辺りで調査を行っている筈だが…… 「――――!」 「――――!」  ……気のせいだろうか。  耳に遠く響く喧騒が、何か良からぬ事態を示唆しているように思えてならない。  俺は小走りに駆けて、声のする方角へ向かった。 「謝れっつってんだろ!」 「ふざけんな!」  果たして、一条はいた。  どこかのチームのガレージの前。整備士らしき大男と対峙し、険悪な形相を交換し合っている。  そして一条の背後には、尻餅をついた男の子。 「ここは関係者以外立ち入り禁止だ! そこにそう書いてあんだろうがッ!  勝手に入り込んできたその餓鬼が悪いんだよ!!」 「だからって襟首掴んで放り投げていいって決まりがあるかよ!  大の大人が子供苛めて喜んでんじゃねぇ!!」 「んだとォ――」  ……事情の説明を求めるまでもないようだった。  状況は極めて明快だ。  俺は足も止めず、そのまま二人の間に割って入った。 「湊斗さん!?」 「なんだてめェ」 「申し訳ありません。  この者は自分の身内です」 「湊斗さんっ、こいつは――」 「黙れ」 「……っ」 「身内ぃ?」 「はい。  この者の非礼は、自分が――」 「……ッッ」 「――の野郎ォッ!!」 「黙れと言った」  飛び出しかける一条の腕をつかみ、後ろへ除ける。 「こっちゃあ忙しいんだよ!  下らねえことで騒ぎやがって!」 「ご迷惑をお掛けしました」 「……ッ……!」 「とっとと消えろッ! ボケが!」 「はい」  頭を下げるこちらにぺっ、と唾を吐き捨てて大男がガレージへ戻ってゆく。  手巾で頬についた汚れを拭い、俺は向き直った。 「行くぞ」 「…………」 「大丈夫ですか」  子供の方に尋ねる。  彼は立ち上がると、こちらをきっと睨みつけて言い放った。 「いくじなしっ」 「……」 「おい、このガキ――」 「止せ」  一条の方を向いてぺこりと頭を下げると、男の子は廊下を走り去っていった。  シャツの背にプリントされたチームロゴが遠ざかる――大男の作業着にあったのと同じロゴだった。  ……騒ぎを起こしてしまった以上、この近辺で調査を続けることは望ましくない。  俺は子供と正反対の、広場へと続く方角へ向かって歩き出した。少し遅れて、一条が追ってくる。 「……」 「……」 「……あの」 「何だ」 「…………。  あたしは、間違ってるんでしょうか」 「……」 「一条。  俺達は騒ぎを起こすためにここへ来ているのではない」 「……はい。  すみません……」  しょげた気配が背筋を打つ。  俺は振り返らなかった。 「間違ってはいない」 「……えっ?」 「事情は大体飲み込んでいると思う。  ガレージに忍び込んできたファンの少年を、あの整備員が手荒に扱った。違うか」 「えと、はい。そうです。  だから、あたし……」 「お前が怒るのは何も不思議な事ではない。  弱者への暴力は最も卑劣な行為だ」 「お前の怒りは正しいと、俺は思う」 「……はいっ!」  溌剌とした声。  曲がりかけていた背筋がぴんと伸びたな――と、俺は気配だけで理解した。 「あの、それじゃあ……  湊斗さんは、どうして」 「理由一。俺達の目的を考えるなら、騒ぎを起こすのは得策と言えない。  実際、あの辺りでの調査はできなくなった」 「……はい。  ごめんなさい……」 「謝る必要はない。  理由二。あのまま論争を続けた場合、暴力沙汰になるのは避けられそうになかった。  だから頭を下げて、打ち切った」 「そんなっ。  湊斗さんならあんなの、簡単に――」 「殴り倒して頭を踏みつけて御免なさいもうしませんと謝らせるべきだった、か?」 「……え、えーと……」 「はい……」 「そうかもしれない。  あるいはそれが正しいのかもしれない」 「だが、俺は嫌だ」 「……どうしてですか?」 「いま言った筈だ。  弱者への暴力は卑劣だと」 「…………」 「あの男性は民間人にしか見えなかった。  戦闘技術を心得た人間と争って勝つ方法をおそらく、何も持たないと推測される」 「そんな相手に、理由はどうあれ、一方的な暴力を加えるなら……  俺は俺を嫌悪する」  ――〈だから〉《・・・》。  俺は俺を嫌悪している。  吐き気を覚える程に。 「…………。  でっ、でも、向こうが殴ってきたら、仕方がないんじゃ……」 「殴られるのは別にどうということもない。  痛いとも思わない」 「〈害する〉《・・・》ことに比べれば、害されることなど何も痛くはない」 「…………」 「一条」 「……」 「調査を再開する。  この先は俺に同行しろ」 「? ――は、」 「はいっ!」  ……?  子供の泣き声が、何処からか聞こえてくる。  反響して位置をつかみ辛いが……。  こちらか?  いた。  泣きじゃくる子供と――大鳥大尉?  子供は六、七歳と見える。  腰を落として視線の高さを合わせ、大尉は彼に問いかけていた。 「もしもし、あなた。  いったいどうなさったの?」 「えぅ……うー。  ひぐっ……」 「どうなさったの?」 「ひぅ……うぅー。おかーさん……」 「お母さまが?」 「へくっ……  えぅ……どこぉ……」 「お母さまが、いないの?」 「……えぅー……」  対話が成立していない。  香奈枝嬢はしきりに声をかけているが、子供は泣くのに夢中だ。  大尉の袖口をきっちりと掴んで離さずにいるから、存在を認識しているのは確かだが。  さよ侍従は背後に控え、口を挟まずにいる。 「お母さまが何処にいるかわからないのね?」 「うー……ぅぐぅ。ぐす……」 「…………。  あなたのお名前は?」 「ひぐ……えぅ。  さがしてよぉ……」 「…………。  お名前は?」 「……びぃー!」 「…………」  数秒、沈黙の後。  大尉の行動はあっさりしたものだった。  子供の手を振り払って、立ち上がる。 「行きましょう、さよ」 「はい」 「……?  えぅぅーー!!」 「……」 「……」 「まってー……  おかーさん……さがして……」  立ち去ろうとする大尉の後を追い、子供がスカートの裾をつかもうとする。  だが、触れられない。大尉は軽く身を翻し、小さな手を躱していた。  つんのめって、子供が転びかける。 「……あぅー……」 「おなまえ、は?  お母さまがあなたに付けて下さったお名前。ちゃんとあるでしょう?」 「……」 「……」 「……ひらた……かずき……」 「承りました」  美しくターンを切って、大尉が子供のもとへ戻る。  両手を差し伸べて、抱き上げた。 「お母さまと、はぐれてしまったのね」 「うん……」 「わかりました。探して差し上げます。  さよ、あなたは大会本部の方に。わたくしは客席を見てまいります」 「かしこまりました」  短い言葉で分担を決め、きびきびと動き始める二人。  たちまち姿が見えなくなる。  あの分ならきっと、すぐに母親を見つけ出すだろう。 「…………」  ……出てゆくタイミングがつかめなかったが。  むしろそれで良かったのか。俺がいても、あのようには振舞えなかったに違いない。  日が落ちる頃合を見て、その日の調査を終了。  これ以降は不審者を見る眼も厳しくなる。急いて事を仕損じる危険を避けるには、ひとまず撤退するよりなかった。  合流し、署長宅へ帰着。  茶を貰って一息つき、互いに情報を開陳する。  着眼すべき成果は三つだった。  一。  今日の予備予選に参加した騎体、及びその後で練習騎航を行った騎体の中に、寄生体は存在しない。  村正が確認完了。  尚、タムラや翔京、ヨコタンなど有力チームの多くは姿を見せなかったため未確認である。  二。  どのチームもこの大会にかける意気込みは盛んであり、「力を求めている」と云い得る。  事前の予想通り。  三。  装甲競技の賭博化をめぐっての対立が存在する。 「賭博化?」 「簡潔に言えば競馬のように、だ。  勝馬投票券を客に売って稼ごうという事」 「わたくしもそういう噂は聞きました。  推進派の中心は翔京、反対派はタムラとか。そして、翔京の背後には」 「六波羅。  翔京の社長は大会主催者今川雷蝶の部将と義兄弟の関係にある……」 「と、いうことのようでございますね」 「ちっ。  山犬ども、年がら年中〈さかりっぱなし〉《・・・・・・・》ってのは今更だが、場所も選ばねぇのかよ。  こんなとこまで餌漁りに来やがって」 「だが、いくら六波羅の支援があろうと客に嫌われては賭博化は成立しない。  そのため翔京は今大会での栄冠獲得に全力を注いでいる。反対派のタムラもまた同様」 「賭博化ですか。  それは例えば、競馬のように」 「ええ。そういうことなのでしょうね。  装甲競技の人気の高さからして莫大な利益が期待できます」 「確かに。  しかし、対立があるとのお話ですが?」 「はい。  タムラを中心に、一部で」 「なんで反対してるんだ?」 「それこそ、競馬のようにしたくないからでございましょう。海外ではともかくこの国における競馬はなかなかに紳士の遊戯とは呼びにくいものになってしまいましたから」 「なるほどね。そりゃそうか。  楽しくレースをやってる連中にしてみれば、同じテツを踏むのは勘弁ってことだな」 「対立の構図及び優劣は如何なものでしょうか。大尉殿」 「申し上げました通り反対派はタムラ中心。  一方、推進派の中核は翔京です。圧倒的に優勢なのはこちら側。後光の輝きが強いので、大概の関係企業は目を伏せて従っています」 「後光?」 「あなたの大好きな六波羅様」 「……へっ。  金の匂いがするとどこにでも首を突っ込みやがるな、あの山犬ども」 「具体的には、小弓公方今川雷蝶さまの幕僚との間に太いパイプがある模様でございます。  大将領殿下のご子息の姿が背後に見え隠れしていては、逆らうのも覚悟が要りましょう」 「しかし、背後に幕府がついていようと客層の支持がなければ賭博化は難しい筈。  レース愛好者たちがそのような変化に背を向けたなら、それまでの事です」 「その辺りについては?」 「だからこそこの大会なのです、景明さま。  ファンが待ち望んだこの大和GPで勝利を収めれば、人気はそのチームに集まります」 「後は、その人気を背景に賭博化への支持を得てゆけばよろしゅうございましょう。  もっともこれは、反対派にも同様のことがいえる理屈でございますが」 「……成程。  推進派の翔京、反対派のタムラ、いずれにとってもこの大和GPが天王山という事ですか」  ――大体、状況は整理がついた。  現時点で決定的な調査成果はなし。  だが、容疑の濃い対象は指摘できる。 「タムラか、翔京か」 「おそらくはどちらかが……」 「どちらも明日の本予選に参戦いたしますね」 「なら、明日にはわかるってわけだ」  明日。  決勝レースは明後日だ。だが、俺にとっては明日が勝負になる――か。 「……翔京の方だといいんだけどな」 「…………」  一条が洩らした一言は、奇しくも俺の心情の率直な部分と一致していた。 「はぁ、ふぅ……  み、操ちゃん、こっちもよろしく頼むよ」 「……はい……」 「んおっ!  はぁ……たまらんっ!」 「操ちゃん、こっちもだ。  もっと深く咥えてくれ」 「はい……んっ、く」 「おおっ、吸いつく、吸いつく。  いい感じだよ操ちゃん」 「はっはっはっ、あんなにちゅぱちゅぱ音を立てて汚らしい肉棒を吸い上げて……  操ちゃん、そんなに好きなのかい?」 「ちゅっ……っ。  ……はい……」 「ふふふ、何が好きなのかなぁ?」 「……んふっ。  ちゅっ、はふ、んく……」 「だめだよー操ちゃん、聞かれたらちゃんと答えないと。  でないと、こんなことしちゃうよ?」 「っ!? ごほっ! けほっ……」 「ほーら」 「んっ、くふっ、いや……  やっ、やめてください。ちゃんと、しますから……」 「その前に答えてよ。  操ちゃんは何が好きなのかな~?」 「……っ……はい……。  こ……これを……」 「ん~?」 「おじさまたちの……  ……太くて……たくましい……男性器を………吸って、嘗め回して、しゃぶるのが……」 「……操は……大好きです……」 「ははははは!  やれやれ、なんてはしたない子だ!」 「困ったものですなぁ。こんな淫乱では将来が心配です。  うちの娘はこんな風にならないように気をつけなくては」 「いやいやまったく。  お父さんも大変でしょう、ん?」 「ははは……」 「いや、これはこれで可愛いじゃないですか。わしは一息ついたらもう一発いきますぞ。  ああ、皇路君。一杯ついでくれ」 「は、はい。どうぞ」 「ほぅら、操ちゃん。  大好きなおじさんの一物だぞぉ? お顔にこすりつけてあげようねぇ」 「あぅ……んっ」 「嬉しいかい?」 「……っ、はい……嬉しいです」 「そうだろうそうだろう。  もっと鼻を近づけて。匂いも嗅いで」 「んっ……」 「ははは、素晴らしい光景だ。  こんな綺麗な娘さんが、脂ぎった男の股間に顔を寄せて、鼻を鳴らしているなんて!」 「はぁ……ふぅ……」 「いい匂いなんだろう?」 「……はい……  素敵……です……」 「いい子だなぁ操ちゃんは。  じゃあ、ご褒美をあげよう……かっ!」 「あぅっ!」 「そぉら、うははっ。  こうされると、気持ちいいだろうっ?」 「あぁ、ひっ……はんっ!  いや、そんな、激しく……あふっ」 「おじさんの先っぽが、操ちゃんの一番奥をつつき回してるぞぉ。  ははは……最高だぁ」 「ううっ、はぁう……  き、きつい、です……おねがい、やさしく……」 「ひぃ、ふぅ、どうだ。  おじさんと操ちゃんが、こんなに深くつながってるぞぉ……!」 「あぁ、ああ……!  おねがい、です……ゆっくりに、して……」 「はぁはぁ……じゃあ、言ってごらん。  おじさんと一つになれて嬉しいって」 「うく、あっ、はぁ……っ!  み、操は……んっ」 「おじさまと……ひとつになれて……  うれしい、です……っ!」 「くはっ、たまらん!  このまま一気に行くぞぉ!」 「んぁぁっ!」 「操ちゃん、こっちも忘れずに頼むよ。  わしもそろそろイかせてくれ」 「うぅっ……んっ、ちゅ……」 「おお……イくぞ、イくぞ」 「ほら操ちゃん、君も腰を振って!  おじさんのモノをずっぽり咥え込んで!」 「んくっ、あぅっ、あぁぁ!」 「いいぞいいぞぉっ! お尻がくねくねしていやらしいっ!」 「操ちゃん、出すよ……  口の中に出すからね」 「んっ!」 「おおぅ……  出る出る。操ちゃん、吸って! 全部絞り取ってくれぇ」 「んっ……んくっ……ちゅぅ、んぐ……」 「んぅ……」 「ようし……出た出たぁ。  操ちゃん、口を開けて見せてごらん。零さないようにねぇ」 「……っ……」 「おほ、一杯出たなぁ。ははは!  さあ、それをどうすればいいかわかるね?」 「……っ。  んっ……こく、ぅく……んくっ」 「飲んでる飲んでる。  たまらないなぁ、こんな若い娘の口の中に生臭い精子を思う存分吐き出して、そのうえ全部飲ませるというのは!」 「っ……」 「ひひ、操ちゃん……こっちにもご馳走してあげるぞぉ。  上のお口だけじゃ足りないんだろう?」 「そぉ、れっ!」 「はぁっ!」 「ここかぁ?  操ちゃんの子宮口はここかぁ!?」 「んっ、あっ……だめ……」 「おおっ、イイ!  最高の締まりだっ!」 「あっ……あぁーーーーっ!」 「うはは、イったな!  操ちゃんもイっちゃったなぁ!」 「おじさんの精子を子宮に注がれてイっちゃったんだな!」 「……ぁっ……はぁ……」 「おお……まだ出る、まだ出るぞ。  ぜぇんぶ奥の奥に出してやるぅ……」 「うぅ……」 「うはぁ……会長、また濃いのを大量に出しましたなぁ。  困りますよ、操ちゃんが妊娠してしまったらどうするんです?」 「ふぅ……心配はいらん。  避妊薬はちゃんと飲ませたじゃないか」 「完全ではありませんよ。  稀に出来てしまうこともあります」 「なに、それならそれでいいじゃないですか。  その時は操ちゃんに世界初の妊婦レーサーになってもらいましょう」 「はははっ、そりゃあいい!  大きなお腹を抱えてサーキットを飛ぶわけか!」 「話題性は充分だねぇ。  我々もタムラに金を出す甲斐があるというものだ」 「……ははは」 「どうだね、お父さん。  そんなのもなかなか面白いとは思わないかね?」 「……え、ええ。  それはもう、スポンサーの皆様が望まれるのであれば」 「はっはっは! そうかそうか。  操ちゃん、お父さんもこう言っているぞ。どうだね? おじさんの子供を孕んでくれるかね」 「……」 「……はい。  お望みなら……」 「よしよし。  操ちゃんは素直で大変よろしい」 「いや、本当に。これだから情にほだされてしまいますなぁ。  我々にとってタムラの〈競技用劔冑〉《レーサークルス》部門への資金援助は特に魅力的ではないのですが……」 「このように身体を張って誠意を示されては仕方がない。  金のことは心配せず、存分にやりたまえよ、皇路くん!」 「……ありがとうございます」 「はっはっはっはっは!」 (……笑っていろ) (いくらでも笑え。  お前らのことなど人間とは思っていない) (牛の世話をしているようなものだ。  金という乳を搾り出すため、餌を食わせて糞尿の始末もしてやっているに過ぎない) (家畜の世話をすれば汚れるのは当然だ……  それだけのことだ。それだけの) (僕と操が手にする栄冠の前には……  こんな事、何程のものでもない) (あるものか……) 「…………」  翌日、本予選。  俺は他の三人に少し遅れて競技場へ到着していた。昨日のうちに署長へ手配を依頼していた件について、確認を取っていたためだ。  幸い、本予選はまだ開始されていなかった。  コース上に騎影はない。 「……ポリスチームに、ですか?」 「ああ。  署長に依頼して手を回して貰った。我々は今後、ポリスチームの構成員として行動する事ができる」 「これが証明証だ。  持っておけ。関係者以外は立ち入り禁止の区画にも、これを示せば堂々と入れる。昨日のように忍び込む必要はない」 「はいっ」 「だいぶ行動しやすくなりますね。  逆に、ライバルチームの人間ということで警戒させてしまう場合もあるかもしれませんけれど……」 「その辺りは臨機応変でようございましょう」 「そうね」  そんな話をするうちに、本予選開始を知らせるアナウンス、続いて空砲が鳴り響く。  既に待ち構えていたと思しきチームがおよそ十余り、ピットに飛び出して騎手をコースへ送り出した。  〈忽〉《たちま》ち合図の空砲など圧する〈合当理〉《がったり》の轟音が唸り狂い、人型の銃弾が舗道の上を疾駆し始める。  そしてその轟響をもかき消す勢いで、観客席からは熱狂的な声援が沸き上がった。  レースの始まりだ。 「……どうですかっ?」  装甲競技に慣れていない一条は、耳をやられたのだろう。両手で音を防ぎつつ尋ねてくる。  レースを知っている人間にとって、開始直後の狂乱は常識。大鳥主従は平然としていた。  俺はサーキットを確認した。  翔京、タムラ、どちらの姿もない。  開始直後の混乱に巻き込まれて騎体を損なう危険を案じたに違いなかった。場慣れた振舞いである。  事実、二、三騎ほどが第一コーナーで衝突し合い、跳ね飛ばされて早くも無惨な姿を〈退避域〉《エスケープゾーン》に晒している。  うち一騎はサンドトラップに頭から突入していた。  あれはもう駄目だろう。 「村正。現状報告」 «該当騎なし。  ……ちなみに、壁に突っ込んだあれは迅速な救助が必要» 「そのようだな」  コントロールタワーの屋上からでも、村正の視力をもってすればそこまで視認できるのだろう。  俺の肉眼でも衝突の具合から想像はついた。  だが、サーキット場のスタッフはこのような事態に慣れている。  すぐさま数人が飛び出し、火炎を噴く〈補助推進器〉《アフターバーナー》に消火剤を浴びせ、騎手を救い出していた。  あの様子なら、命に別状はないだろう。  劔冑は全損し、鉄屑に成り果ててしまっているが。 «……脆いのね» 「そういうものだ。仕方ない」  呆れたような困惑したような村正の呟きに答える。  戦乱の時代を生きた鍛冶師にしてみれば、高空から墜落したならさもあれ地表で衝突事故を起こした程度で壊れる劔冑など論外に違いないが。  競技用劔冑は低空機動力において優れる反面、身体強化性能、装甲強度など戦闘に関係する能力は大きく劣る。  理由は簡単で、必要がないからだ。  規定上合法である体当たり、そして衝突事故から、騎手の生命を守る程度の甲鉄があれば充分とされる。  他の工夫は全て速度を、運動性を高めるために費やされる。そうでなくては勝てる騎体は完成しない。  極限まで速度を追求した劔冑は生命を守る装甲さえぎりぎりの底辺に抑えられるのが常だった。  一条にかぶりを振って返答を伝え、そんな霊柩車も同然の代物に全存在を託す闘争者らの姿を見続ける。  二強の姿はまだ無い。 「早くも一騎、突出しておりますね」 「ヨコタンのスーパーハウンド……  このラインナップでは敵無しでしょう」 「騎体だけでなく騎手も一流です。  ベルト駆動の翼をよく御している」 「駆動ロスが少ないだけに制御が手強い部分もあるはずですのにね。  教科書的なコーナー攻めも、まずはお見事」 「なあ……。  今日のこいつは、どういうルールのレースなんだ?」 「昨日とおおむね同じでございますよ。規定時間内に達成した〈周回記録〉《ベストラップ》を競います。  その上位二〇騎が、明日の決勝レースへの出場権を得られる次第で」 「じゃあ、さっさと始めた方が有利なんじゃねえのか?  まだ出てきてないチームは大分いるよな?」 「基本的にその通りでございますが、慌てる乞食は貰いが少ないとも申します。  焦りすぎると先刻のように、痛い目を見ることもございますので」 「ああ、そっか……」 「決勝進出がほぼ確実の実力チームにとって、恐れるべきは敵よりも事故。  頃合を見て参加し、充分な記録を出したら速やかに退去する。それが〈定石〉《セオリー》でございます」 「あ、もう引き上げてる」 「そう、あのように。  ヨコタンでございますね。記録は……一分二七秒一九。なるほど、なるほど」 「いい記録なのか?」 「上位五騎の内には間違いなく入ります」 「へぇ……  ん? あれは何やってんだ?」 「はて。何か信号旗が出たようでございますが……  お嬢さま、お分かりになりませんか?」 「……無効騎航の通告、ですね。二五番――イシュトラ蜥蜴兵団さんのダガーアプティマに対して。  どうやらアーチオーバーのようです」 「アーチオーバー?」 「コースの上に、いくつも〈半円橋〉《アーチ》が掛かっていますでしょう?  レーサーは必ずあの下をくぐっていかなくてはならないのです」 「……あぁ、なるほど。そりゃそうか。  あいつらは空飛んでるんだから、そういうルールがなけりゃコースなんて意味ないよな」 「くぐり損ねた場合は、そこから先の騎航を無効にされてしまいますの。  戻ってくぐり直さない限り」 「ま、予選では大した問題ではありません。次の周回で気をつければ良いだけのことですから。  しかし決勝レースでは致命的になります」 「最少でも五秒から十秒のタイムロスは覚悟しなくてはならない。そうなれば勝利はまず無理だ。  レースが荒れている場合は、また別だがな」 「はぁ……。  ところでわりと気になってたんですけど。湊斗さんてもしかして、〈装甲競技〉《アーマーレース》が好きなんですか?」 「好きだ」  学生時代は装甲競技研究会に属していた。 「あ、やっぱり。  ……じゃっ、じゃあ、湊斗さん。あたしに教えてくれませんかっ。レースのこと、色々」 「お嬢さまぴーんち!  敵は『あなたと趣味を合わせたいの』攻勢に出てまいりました。この戦法は単純ながら男心に訴えるところ大、極めて有効です!」 「なんですってーー!?  許さなくてよそのようなことッ!」 「ばっ、ちがっ、違う!!  あたしはただ……知っておけば捜査の役に立つんじゃないかと思ってっ」 「見事な建前でございます。  では、本音の方は?」 「えっ? うん。湊斗さんのことを、もっと知りたいから……  じゃねぇー!! なに言わせやがる!?」 「乙女ちっく」 「乙女ちっく」 「口に接着剤塗るぞてめーらっ!?  み、湊斗さんも何とか言ってくださいっ」 「良いのか」 「え?」 「レースの事……  発祥に始まり、欧州での爆発的流行、大和での幕開け、発展」 「〈四翼駆動〉《4WD》の発明、〈補助推進器〉《アフターバーナー》の登場、田村鉄鋼斎の偉業、ヨコタンの怪物騎ハウンドの欧州侵攻、広中兄弟の苦闘――」 「話し始めたら一時間では終わらんが」 「……え、えーと」 「いや、丸一日は必要になる。  シャフト駆動・チェーン駆動・ベルト駆動のそれぞれの長短について説明し、五四〇型アフターバーナーの機構を図説」 「そしてボールベアリングが駆動系に及ぼす影響の実態と避けて通れないアンダーステア対策について述べ、ミッドシップ構造の功罪に移り、四翼独立サスペンション」 「これはホットボルトとその前後作品を比較評価して解説するのが最もわかりやすいが、であればまず順序としてタムラの〈二翼駆動〉《2WD》騎における傑作・〈雀蜂〉《ワスプ》の評価から――」 「あ、あのー。湊斗さん?」 「景明さま、しっかりなさって!  なんだかキャラが変わっていましてよ!」 「……あたしが悪いの?」 「殿方には押してはならないスイッチというものがあるのでございます。年齢、人格には一切関係なく。  どうかご注意くださいませ」 「――つまりサンダーボルトの登場によってタムラの四駆はひとまず完成の領域へ到達を果たしたと云えるのだが、それは反面、翔京や横森との差を浮き彫りにしたとも云え――」 「まあそれはそれとして、コレはいかが致しましょうか?」 「とー」  首筋に良い一撃が入った。 「…………失礼。  いささか我を失っていたようです」 「もう、景明さまったら。うふふ」 「一条。話は暇のある時にしよう。  今の俺達にはやることがある」 「は、はい。そうですね」  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  眼下の状況は推移すれど異変なし。  隣には一条。  大鳥主従の姿は欠けている。  香奈枝嬢の髪に砂が絡んだとの事で、体を洗い流しに行った。 「お前はいいのか。  オフロードコースから相当の砂塵が飛んできているようだが」 「平気です。  こんなの、別に気になりません」  事もなげにそう云う、一条の頬や髪は所々白い。  元が整った容貌をしているだけに、些か目立つ。  女性なのだ。もう少し、身嗜みには気を払った方が良いと思うが……  物の考え方は人それぞれ。意見の押し付けは迷惑というもの。  ――だが、気になる。  他人と思えば見過ごせようが、今この少女は仮にも自分の部下。  保護下にある。  そう考えると、好きにすればいいとは思い切れない部分があった。  ……余計な世話ではあろうが。  俺は半ば衝動的に、指を伸ばしていた。 「……」 「……」 「……」 「あ、あのぉ……  湊斗さん?」 「何か」 「その、何を……」 「砂を取っている」 「……」 「す、す、すみませんっ!  お手を煩わせてっ……」  一条は、あわあわした。  大体、何を考えたのか知れる。 「すぐ、やりますから――」 「違う。  別に婉曲な催促をしたわけではない」  手巾を取り出し、未使用の面で頬の砂を拭う。 「お前が気にしないのならそれでいい。  ただ俺が気になっただけだ」 「……すみません。  見苦しい格好ですよね」 「あの、すぐ洗ってきます」 「催促ではないと言ったろう」 「でも……」 「実際、見苦しくはない。  お前には少し不思議な所がある」 「汚れに外観を損なわれる事がない、とでも云えば良いのか……  思えばお前との遭遇は身嗜みを整えてとはいかぬ状況が多かったが」  野犬と戦っていたり武者に斬られかかっていたり。 「お前はいつも綺麗に見えた」 「…………」 「えっ?」 「……」 「……!? あ、……ぅ……」  一条は再び、あわあわした。  今度は何を考えたのやら。 「言わば、刀の美貌なのかもしれない。  血と泥に塗れていようが自然で、美しい」 「お前はそれで良いと思う。一条。  自分で気にならないなら、そのままでいろ」 「…………。  刀……」 「あたし、そういう風に見えますか?  湊斗さんの眼から」 「ああ。  だから傍らにいる人間としては、〈手入れ〉《・・・》もしたくなる」  もしかするとこれは酷い言い草ではないのかと思いつつ、手は休めずに繕いを続ける。  幸い、怒り出す気配は伝わってこなかった。 「……」 「こうされると、生理的不快感等を覚えるか」 「いいえ……」 「そうか。  なら続けるが、構わないか」 「……はい。  お願いします」  了承を得て、髪へ指先を向ける。  やはりかなりの砂粒が絡み付いているようだった。  一緒に髪を抜いたりせぬよう細心の注意を払いつつ、砂を一粒一粒取り去ってゆく。  一条はおとなしく、俺がするに任せた。 (かたな……  そんな風に言われたの、初めてだけど) (……なんだろ。  なんか……すっきりとして、嬉しい) (父様がもし、今も生きていたら……  やっぱり、そう言ってくれたのかな……) (そんな気がする……) 「大体は取れたか」 「……」 「どうだ? 一条」 「……あっ。  その」 「ええと……  前の方にもう少し、付いているような気がします」 「そうか?  こちらに頭を向けてくれ」 「はいっ」 「……」 「……」 「見当たらないが……  奥か?」 「……」 「一条?」 「……父様の……匂いがする……」 「?」 「何してやがりますかそこの二名ーーーッ!!」  唐突な旋撃は。  俺の首をきっかり九〇度、横方向へ打ち倒した。  とても痛い。 「……大尉殿」 「…………え!?  じっ、GHQ! てめぇいつからそこに!」 「おーおーおー。  お約束な台詞吐いてくださいますことね!」 「てことはやっぱり状況は見ての通り!  いちゃいちゃしてましたのねっ! 乳繰り合ってましたのね! 揉んだり触ったりしてましたのね! 真っ昼間っから!」 「わたくしがいないのをいいことにっ!」  成程。  そのように見えていたのか。  一瞬前までの状況を客観的に把握してみる。    …………無理はないのかもしれない。 「大尉殿。誤解です」 「そっ、そうっ。誤解!  ただ砂っ、砂を取ってもらってただけでっ」 「えーい聞こえません聞きたくありません!  わたくしが知りたいことなどもはやひとつきりです!」 「景明さま!」 「はい」 「挿れた?」 「……」 「お嬢さま。  なんつーかあんた最低でございます」 「だってだってっ!  そこが核心なんですもの! ふたりがもう抜き差しならない関係になってしまっていたら、割り込む余地がないじゃないっ!」 「ちなみに今のは洒落ですのよ!」 「おまえ〈真〉《マジ》最低だ」  無駄に大騒ぎになった。  何やかやの末、再び四人で競技を見守る。  そうして、すぐの事だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  状況の膠着を見て取って、席を立つ。  小用のためだ。若干の尿意を覚えていた。  サーキットコースに隣接したサービス区画へ向かう。  大鳥大尉が同行した。髪に砂が絡んだので洗い流したいらしい。長く艶のある髪だが、それだけに不便も多いようだ。  多大な金が投入される装甲競技は紳士淑女の社交場という側面も持つため、そうした贅沢といえば贅沢な需要にも応えられるだけの施設を有する。  大尉はホテルの一室を借用した。  用便を済ませた後、その部屋へ向かう。  ……扉を見ただけで、一晩借りるための費用が推量され〈ない〉《・・》ような部屋だった。  警官の収入でここを宿に選ぶなら、月のうち二九日は野宿する必要があろう。そこが理解の限度だった。  髪を洗う為だけにこんな部屋を借りてしまう大尉の経済感覚は、想像するになかなか恐ろしいものがある。 「景明さま?」 「はい」 「どうぞー」 「少々お待ちくださいましね。  すぐに身を整えますから」 「……は」  しどけない姿を前に、いささか息を詰める。  湯を浴びたのか。白磁の肌が今は薄桃色に上気し、そしてわずか一枚の布だけがその上を覆っている。  無論そんなものでは柔肌から立ち昇る湯気を隠す事すらできない。  蠱惑的な匂いが脳髄を甘く刺激した。  しかし香奈枝嬢はこれが貴顕の余裕というものか、まったく〈恬〉《てん》としている。 「はしたのうございますよ、お嬢さま」 「あら、どうして?」 「失礼致しました。  自分の方こそ、お迎えに上がるのが少々早過ぎたようです」 「良いですかお嬢さま。  妙齢の〈女性〉《にょしょう》たるもの、殿方に肌を見られた時は直ちに暴力衝動に支配され、攻撃を行わなくてはなりませぬ」 「この際は極めて苛烈に。  相手の意識を奪うだけの打撃を加える必要がありますゆえ。また方法は、素手や武器による殴打よりも重量物による投擲が適切です」 「そこのブロンズ像などがよろしゅうございましょう」 「せめてマグカップ程度にして頂けないものでしょうか」  奪われるものを意識だけで済ませるために。 「もう、ばあやったら。  ほかの方ならいざ知らず、景明さまとの間にそんな他人行儀な振舞いなんていらないでしょう?」 「これはこれで親愛表現なのでございますよ。  まぁ、お嬢さまのようなアプローチの仕方もアリではございますが」 「……」 「ねぇ、景明さま?」  細い双眸に、ふと、妖しげな輝きが灯った。  猫を思わせるなにか。 「このバスタオルの下、お知りになりたい?」 「はい」 「ふふふ、ご無理はなさらないで。  正直に仰ってくださったら、わたくし――」 「お嬢さま。  脳内脚本に準拠して話を進めませぬように」 「…………」 「あら?」 「……えぇと……  景明さま?」 「自分は女性を好みます。  特に、大尉のようにお美しい方は」 「素肌を見せて頂けるなら、喜んで拝見致しますが」 「…………」 「湊斗さま……  お会いした時よりむっつり助平であろうと拝察しておりましたが、実はむっつりですらなく単に助平であられたとは」 「侮れぬお方でございます。  このさよ、感服仕りました」 「恐縮です」 「えぇと……その……」 「景明さま。マナーでございますよ。  とりあえず、扉はお閉めくださいませ」 「これは、失礼致しました。  気付きませず」 「…………」 「さあ、どうぞ。  お嬢さま」 「ど、どうぞって……」 「ほほほ。如何されましたかお嬢さま。  先程の勢いで。さっ」 「…………」 「おやおや……  これはどうしたことでございましょう」 「このさよめの主人は口だけの女では決してないはずなのでございますが。  ……湊斗さま、おわかりになられますか?」 「は。  ……大体のところは」 「さすがでございます。  ええ……あのままお嬢さまのペースで話が進んでいたならば、肌の一つや二つ、笑って見せられたことでしょうが」 「しかし何たることか、ここに至って弱点が露呈。  お嬢さまは、受けに回るとやたら弱かったのでございます」 「ばあやーっ!」 「ほっほっほっ」 「……」 「あ、あの、景明さま?  なんと言いますかしら、ここは少しばかりムードに欠けるというか、乙女のトキメキを司る第五元素『萌』が適正値以下というか」 「ですのでそのあの……」 「逃げております。  全力で逃げを打っておりますよ、お嬢さま」 「にに逃げてません!  わっ、わかりました。少々お待ちくださいまし」 「だっ、大丈夫……  別にどってことない。どってことない」 「すーはー、すーはー……  でっ、では……」 「ご無礼」 「――はい?」 「戯れが過ぎました。  外にて待っております。身仕舞いをお続け下さい」 「は。  すぐに済ませますゆえ」 「どうかごゆるりと。  失礼します」 「……」 「さ、お嬢さま。お着替えを」 「…………。何かしら。  こう、途方もなく敗北感を覚えるのだけど」 「まぁ負けておりましたし。  お嬢さまもまだまだ未熟者でございます」 「……くーっ」  用を済ませ、客席に戻る。  ……丁度、その時だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  特に動きはない。開始直後と同様――熾烈な争いが繰り広げられている。  俺は暫し、その模様に見入った。  レースの膠着を見て取って、俺は席を立った。  同行者に断りを入れて、コントロールタワーの方角へ向かう。  村正の様子を窺うためだ。 「……村正」 «御堂。  どうしたの»  無論、俺の接近には気付いていただろう。  毛筋ほどの驚きも見せず、深紅色の蜘蛛は〈金打声〉《メタルエコー》を送ってきた。  仕手と劔冑は二にして一の武者。  ひとたび〈帯刀〉《タテワキ》の儀礼によって結び付けられたならば、どれほどの距離もどれほどの壁も両者の繋がりを断つものではない。 「大した用があったわけではないが。  少し様子を見に来た」 «そう。  異常はなし、よ。寄生体は見当たらない。もちろん銀星号も»  淡々と応える村正の、頭はサーキットの方角へ向けられている。  だが今は、そちらを見ていない。  そう思えた。  別に蜘蛛の多眼を把握したのではなく。ただそんな気がしたのだった。村正との見えざる繋がりが、俺に何かを伝えたのかもしれない。 「何を見ている?」 «……わかった?» 「別に責めてはいないがな。  何となく、お前の気が散っているのは察せられた」 «ごめんなさい。  新しい〈騎体〉《の》が出てきたらちゃんと見ておくから、そこは心配しないで» 「元々心配はしていない」 «そう……» 「……」 «……» «……街を見ていたの» 「鎌倉か」 «ええ。  変わったなって、思って» 「昔にも、見たことがあるのか」 «……ええ»  その頃は、どうだったのか――と。  問いかけて、俺はやめた。 「……」 «聞かないんだ» 「何とはなしにな」 «……ふふ。  今日はやたらに、〈伝わる〉《・・・》みたいね» 「ああ」  それきり、口を閉ざす。  ただ二人、風だけを聴いた。  ――村正が人として生きた時代は、戦乱の渦中。  その頃の鎌倉の様相は、きっと。 「……そろそろ戻る」 «ええ» 「ところで、だ」 «なに?» 「俺はどうやって戻るべきなのだろう」 「ここから」 «……そもそもどうやって登ってきたの?  貴方»  結局村正に手伝わせて降り、客席へ戻る。  ……丁度、その時だった。  一条の頷きから視線を外し、注意をレースに戻す。  ……丁度、その時だった。  拡声器を通したアナウンスが新たなチームの参戦を伝える。  そして、コース上に姿を現す騎体。    ――翔京兵商ワークスチーム〝三城七騎衆〟  それは名騎アプティマに似ていた。  その改良騎ダガーアプティマにも似ていた。  派生騎パルチザンにも似ていた。  だが、そのどれとも違った。  ……黄金色の翼。    ――〈騎手〉《レーサー》 〈来馬〉《くるま》〈豪〉《ごう》 「やはりチェーンドライブで来たか……  しかし」 「あの甲鉄――  あれは和鉄ではございませんな」 「ええ、間違いありません。  ……ユーツ鋼です。全身、すべて」    ――騎体名〝〈 理想 〉《ウルティマ・シュール》〟 「ユーツ鋼って……聞いたことあるけど。  インドの鉄だろ? 確か、すっげえ高い」 「ええ。生産量がごく少ないのです。  けれど重量比強度に優れるユーツ鋼は――競技用劔冑の材料としてまさに理想的」 「これまではごく一部のハイエンドモデルが翼などの重要箇所にだけ用いておりました。  ……その最高級鋼材を、よもや、ここまで惜しみなく投入して劔冑を造るとは……」 「どうなるんだ?」 「すぐにわかる。  サーキットを見ろ」 「え――」  異様な光景がそこにあった。  黄金翼の騎士が、ストレートを駆けている。  その速さは付近を走る数騎とほぼ同等。  あるいはやや劣るか。  だが、おおむね変わらない程度の速度で――  〈騎航〉《と》んでいる。  〈一周目〉《・・・》、〈スタート直後〉《・・・・・・》の騎体が。 「……どういうことです? これ」 「怪物がいる、という事だ。  無論、慣らし運転を充分にこなしていたのだろうが……それにしても」 「異常、という他はない加速性でございます。  完全ユーツ鋼製という特徴がもたらす常識外の軽量さで〈あれ〉《・・》を実現しているのでありましょうが……」 「あの加速性は決勝レースで真価を発揮するはず。スタート直後の乱戦をあの威力で切り抜けて、後はひたすらトップを〈騎航〉《はし》り続けるのでしょう……ね」  それぞれに、呆れる以外にないという表情で感想を呟く俺ほか三名。  いや、俺達だけではなかった。観客らも熱狂を忘れ、ただただ唖然として、疾駆する金色を見つめている。  魅入られたように。  サーキット場としておよそ考えられない静寂の中を、翔京の〝理想〟――ウルティマ・シュールは王者そのものの傲岸ぶりで駆け続ける。  二周、三周……  周回を経るにつれ、いよいよその異様な本性は露わになる。  五周目ラップ、一分二六秒八九。  六周目ラップ、一分二六秒四四。  七周目ラップ―― 「……一分二六秒二七」 「まだ走ってるけど……  まだ記録は伸びるってことか……?」 「……さよ。  さっきのスーパーハウンドの記録はどうでしたかしら……?」 「……一分二七秒一九でありましたかと。  実に、一秒近い差でございますね」  周回時間で一秒差。  アーマーレースという競技、この鎌倉サーキットという舞台においては、圧倒的と言っても良い程の差だ。  それが――  海外レーサーの手によってではあるが世界を制したこともある横森鍛造の〈超越猟犬〉《スーパーハウンド》との間に。  見れば、一度は退いたヨコタンワークスが再び騎体を引っ張り出してコース上に現れている。  ……無駄だろうに。しかも意味がない。予選でウルティマに勝とうが負けようがそれで勝負は決まらない。  明日の上位を確保している以上、後は敵の観察だけしておけばいいのだ。  が、そう思いつつも――俺はヨコタンの心情を理解できるような気がしていた。  混乱しているのだ。  おそらくは、まともな判断ができなくなるほど。  ギャンブル化推進派の同胞とはいえ、おそらくこの騎体のことまでは知らされていなかったのだろう。  あわよくば勝利を奪い、賭博化後の主導権を握る気でいたのかもしれない。  そしてそんな夢想がはかなく砕かれたことを、まだ認められずにいる―― 「……荒っぽい〈騎航〉《はしり》ですね」 「ああ。あれは早く退かせた方がいい。  事故を起こすだけだ」 「翔京が下がっていきます……」 「一三周で切り上げたようでございますね。  記録は……」  そこで初めて、観客席は喧騒を取り戻した。  誰もが表示板に目を向けている。  ――一分二五秒九七。  俺の記憶に誤りが無いなら、それは鎌倉サーキットの落成式に招かれた欧州のトップレーサー達の記録に肉薄するレベルの数値だった。  現時点において、二位はヨコタンワークス。  ……二位以下に一秒以上の差で首位。  誰かの呟きが耳に入った。    ――明日の決勝なんて、やる意味ねえじゃんか。 「ですねぇ……」 「はぁ。これでは」  同じ声を聞いていたのだろう。大鳥主従が顔を見合わせている。  一条は、口惜しそうにしていた。 「ちっ。なんだよ。  金で勝ったようなもんじゃねぇか……」 「そうだな。  だがレースはそういうものだ」 「金と。そして技術と、運と……  それらの総合力で勝敗が決する」 「どれか一つが抜きん出ていれば、他の面で劣っていても勝つ事ができる。  資金面の優位は特に有効である場合が多い」 「……すいません、湊斗さん。  あたし、やっぱりこの競技はあまり好きになれないかも」  申し訳なさそうな声に、俺は答えるのはやめた。  無理もないことだと思った。  ウルティマという騎体の強さには、見る者へ狂熱を導くと同時に――いま一条が直視したレースの実情を知らしめて、心中のどこかに憮然たるものを抱かせるようなところがあった。  俺自身も、そう感じている。  凄いものだとは思うが、素直に賞賛はし難い。 「騎手の力量も相当なものではありますけど、ね……。  あれだけの加速力を有する騎体、つまりはじゃじゃ馬を乗りこなしているのですから」 「来馬豪、とかいう名でしたか。  はて、あまり聞いたことがございませんが……」 「草レースでは知られた男です。  レーサー養成団体『蛙の穴』を一人で叩き潰したほか、非公式に海外へ渡航して欧州の選手と戦ったこともあるとか」 「……また、怪しげな経歴ですこと」 「実力は確かに一級品です」 「だったら、あんな金ピカの騎体なんか使わないで実力で勝負すりゃいいのに……」  優秀な騎体を得ることも実力の内に違いない。  だが、それも口にはせずにおく。  一条の胸中にあるらしい落胆を、俺もどうやら共有していた。  自覚していた以上に、タムラの勝利を期待する念は強かったようだ。翔京の圧勝に苦いものを禁じ得ない。  一心に部品を磨いていた、少女の姿を思い出す。  これは父の心血だと告げた、その言葉を思い出す。  ……翔京には翔京なりの正当性があるに違いないのだ。六波羅と組んでいるからといって、彼らまでもが悪の権化だという理屈はない。  その程度のことはわかる。  それでもやはり――  心理の素直な表層は、タムラにこそ勝って欲しいと願っていた。  …………。    そういえば。 「タムラはどうしたのでしょうか」 「そろそろ出て来るようでございますよ。  ピットからスタッフが」  老侍従に言われて見れば、慣れ親しむタムラのロゴを背負った作業員がスタート周辺を慌しく動き回っているところだった。  皇路氏らしき姿もある。帽子を深く被っているが。  アナウンスが響いた。  最後の大物の登場を知って、観客達がざわめく――何とはなし、お義理めいた気配を漂わせながら。  仕方もない。誰もが既に勝負は見えたと感じている。  翔京と長年に渡って争ってきた宿敵の登場にも、今一つ盛り上がり切れない。そんなある種つまらなげな空気が形成されてしまっていた。    ――田村甲業ワークスチーム〝〈 T・F・F 〉《タムラ・ファイティング・ファクトリー》〟  空虚な、〈寄席〉《よせ》の〈湧かせ役〉《サクラ》が無駄に奮闘しているかのような肌寒い歓声の下、タムラワークスは出撃準備を整える。  その整然たる働きぶりさえ、今は物悲しさを増す。 「登場が少し遅いですね。  セッティングに手間取っていたのかしら?」 「どうでしょう。  予選で翔京と張り合う愚を知り、避けたのかもしれませぬな」  スタッフの平静な様子を見るに、永倉侍従の言の方が説得力を有すると思えた。  であればその判断は正しい。あんな魔物と共に騎航したところで得るものは何も無いだろう。  自分より速い走者と共に走ると記録が伸びることが多い、とは云うが。  限度というものがある。兎と亀が競走すれば、普通の亀は途中で馬鹿馬鹿しさに支配されるに違いない。    ――騎手 皇路操  瞬間、それまでとは違う、本物の歓声が上がる。  皇路操はいわゆるカリスマを備えたレーサーだった。普段の静かな物腰、相反して苛烈な騎航、その両者がカクテルされて独特の魅力を形作っている。  彼女の姿にかつての英雄の面影を想う者も多い。  世代の違いを問わず、二代目の皇路は絶大な人気を誇っていた。  ……しかしそのカリスマへ捧げられるべき声援も、今日ばかりは本人の登場を待たずして色褪せてゆく。  一瞬の沸騰は一瞬で終わり、観客はすぐに、自分らのヒロインが勝利から遥か遠いことを思い出していた。  まばらになってゆくさざめきと拍手を浴びながら、雲間から差す薄い日差しのように彼女は現れる。  父が創り出した劔冑を纏って。    ――騎体名……  その、  刹那。 「――――」 「…………」  サーキット内の。  あらゆる光が固定され、あらゆる風が流れを止めた。  あらゆる思考が、同じ方向を指した。  停止した世界で、誰もが音のない声で、ただ一言を主張していた。  ――あれは、何だ。  ――あれは、何だ。  ――あれは、何だ。  〈あれは〉《・・・》、〈何だ〉《・・》!?  それは嘗て、どのような企業も、どのようなチームも、造り上げた〈例〉《ためし》のないカタチをしていた。  全く前例の無い、〈競技用劔冑〉《レーサークルス》。  劔冑?  これは、劔冑か?  奇形。  歪んだ姿。  凝視すれば、平衡感覚を失いかねない程に。  狂っている。  この造形は、狂っている。  この形を造り上げた人間は心を病んでいる。  間違いなく、脳神経系の大切な〈螺子〉《ネジ》を一本、外してしまっている。  頬を掻き毟りたい、そんな狂躁さえ呼び起こされる。  そして、それと糸一筋で危うく均衡を取っているかのような、感慨――  美しい。  いたたまれぬほどに、美しい。  円周率を無理矢理解き明かして形容したかのような流線型のフォルム。  そこにメタリックブルーのカラーリングが重なれば、それは無限の海であり果てなき空だ。  異界の美。  あってはならないもの。  禁忌の芸巧。  今――  そんな代物が、サーキットに立っている。    ――騎体名〝〈逆襲〉《アベンジ》〟 「なっ……  なんなんですかっ、あれ!」 「わ――わからん」 「あれは……本当にタムラの騎体なのかしら。  ホットボルトの系統とは全く、根本の構想からして違うとしか考えられません」 「ホットボルトからスーパーボルト、チャクラム、そしてサンダーボルトと、積み重ねてきた技術財産をほとんど無視しておりますね。  ……あれは本当に〈騎航〉《はし》るのでしょうか?」 「どうでしょう?  タムラ始まって以来の駄作になるかもしれません。その可能性はあります。すでにそう声高に言っている者も社内にはいますよ」  さよ侍従の疑問に、昨日聞かされた話が重なる。  ……今。現物を前にしてみれば、それは当然というほかなく。  こんな発想に、常人がついていける筈もない。 「…………。  発想」 「景明さま?」 「あの騎体はまさしく異様です。他に言葉が見つかりません。  しかし、強烈な思想性を感じます」 「素人が出鱈目に組んだだけなのであれば、ああはならないでしょう」 「……同感でございます。  何と申しましょうか。あの騎体はあれだけ常識を無視したデザインを為されているにも拘わらず、〈まとまり〉《・・・・》があると……」 「ええ」 「そうですね……。  あの姿には明確で攻撃的な表現――激しい主張があるようにわたくしにも見えます」  そうでなくては、あの美しさは有り得ない。  あれは例えば、風雨に削られた岩山が数千年かけて達成する無想の美とは全く違う。  その対極だ。  己の力を過信し盲信した彫刻家が変哲もない石塊を削り、削り続け、原形を失うまでに変貌を遂げさせ、遂に妄想を実現して輝く宝石に造り変えてしまったとでもいうような――横暴極まる美術。  あれは、そういったものだ。  そこには確かな思想が――〈妄想〉《・・》がある。 「その主張は……  どういう……?」 「……」  問われても、答えようはない。  〈騎航〉《はしり》を見てみなくては。  眼下の戦場で、それが始まろうとしている――  ……滑り出しは〈緩々〉《ゆるゆる》と。  ホームストレートを静穏に、青の騎体が流れてゆく。  平凡な加速。  平凡な速度に達して、コーナーへ。  第一コーナーは大したカーブではない。  さほど速度を殺さずとも、安定して曲がり切れる。 「……?」 「…………?」 「……はて……」 「ん?  今なんか、〈ばたばた〉《・・・・》してなかったか?」 「え、ええ……。  まだ騎体に慣れていないのかもしれません」  短い直線を抜け、緩いカーブをこなして進む。  速度は出ていないが、一周目であればおかしいこととは言えない。先の翔京が異常だったのだ。  長いバンク。  ゆったりと曲がってゆく。 「攻めませんね」 「まあ、一周目でございますし」  外見に反して目を引くところのない騎航。  観客席には拍子抜けのような空気と、本気を出すであろう後の周回に期待する空気とが混ぜこぜになって広がりつつあった。  その空気にあてられたせいか。  俺は本来の目的を思い出していた。 「村正。  あれは――」 «違う» 「…………。  確かか?」 «怪しい部分は何もなし。  相変わらず銀星号の気配は感じるけれど、あれとは関わりないようね» 「……そうか」  実の所、意外だった。  直感的に、あれしかあるまいと俺は思い込んでいたからだ。  あの設計の底に覗く〈滾〉《たぎ》るような熱意。  いかにも銀星号が目をつけそうに思えるのだが……。 「では、ウルティマはどうだった。  黄金色の翼を持っていた騎体だ」 «同じく何もなし、よ。  今日これまでに見たものは全部、白» «これからまだ出てくるの?» 「いや。  そろそろ打ち止めの筈だが」  ……どういう事だ?  タムラでも翔京でもない。それ以外の騎体でもない?  コースに目を戻す。  本予選参加騎はすべてここにいる、あるいはいたと思える。おそらく確かだ。一番最後に登場したものが、あの、注目を集める青い騎体だった筈―― 「跳ねたっ!?」 「ッ!?」  思わずして目を剥く。  アベンジを再び視界に収めた、まさにその瞬間。  ヘアピンカーブを曲がるタムラ騎は〈跳ねていた〉《・・・・・》。  速度と旋回がもたらす空力抵抗に押し負ける格好で――  騎体後部が跳ね上がっている。  ……喜劇じみた横流れ。カーブの曲線に全く沿っていない。少なからぬロス。  皇路卓が誇った技術など見る影もない。  無惨なコーナーリングだった。 「アンダーステアかと思えば……」 「リバースオーバーでしたね。  ……よくあのまま横転しなかったもの、とは思いますけれど」 「……」  昨日皇路親子と会話を交わした身として、口に出すのは憚られたものの。  胸中には呟かずにいられない。  酷い騎体だ。  周囲でも落胆の声が上がっている。  翔京ウルティマの傍若無人な騎航に対抗できる唯一の可能性をタムラの新型騎に見ていた人間は、きっと少なくなかったのだろう。  今日の見るべきものは見尽くした、そう顔に書いて席を立つ客の姿もちらほらとあった。  貴賓席の方には特に多い。 「なによ、あのみっともない騎体。  あんなモノを麿のレースで走らせるつもりなの、タムラは!」 「許せないわね……。  美意識には反するけど、捻り潰してやろうかしら」 「はっ。是非にもそうなさるべきです。  中将閣下――」 「雷蝶夫人とお呼びなさい!」 「も、申し訳ありません。雷蝶夫人。  実は小官、かねてより翔京兵商に比べ報国の志が薄く、自社の利益追求ばかりに熱心な田村甲業のことを苦々しく思っておりました」 「そこへ来て、中じょ……雷蝶夫人を侮るがごときこの振る舞い。  もはや断固たる処置の他は無しと存じます」 「そうね。  あなたの義弟の願いを聞き入れてやることにしましょうか? 大久保」 「はっ――」 「まーまーまー。  落ち着けよカニカマ」 「誰がどうして、カニカマよッ!?」 「つまんねーことはやめとけって。  ただでさえ下品な顔がもっと下品になっちまうから」 「なあ……イヤだろ?  今以上に品が下がるなんてさ……」 「真剣に心配してるツラでなに言うのよこのガキはぁーーーーッ!!  麿の顔の、どこがっ、下品なのッ!? もう一度よく見てから言ってみなさい!!」 「…………」 「プッ」 「ウキーーーー!!」 「かんらからから。  傍で見てるぶんには愉快だよなーこいつー。間違っても友達にはなりたくないけどねっ」 「こっちで願い下げよっ!」 「そーお?」 「……恐れながら、堀越公。  我が主君に対し、あまりに礼を欠く言動は……加えて、指図するかのごときなされようもどうか、お控え頂きたく」 「あ?  んだよ、おめー」 「死んどく?」 「…………ごっ、ご無礼致しました……!  平にご容赦を」 「大久保、下がっていなさい」 「は――ははっ」 「……」 「タムラのあれ、なかなか面白い騎体じゃん。  あてはイイと思うよ?」 「ふん。どこが」 「いやいや。  あれは本当に〈面白い〉《・・・》って……」 「?」  弛緩した雰囲気の漂う中、本予選は終了に近付いていた。  もう数分ほどで規定の時間となる。  表示板には、現時点における参加各チームのベストラップタイムと、その順位が示されていた。  この頃合になるとあまり変動もない。  現首位は翔京ウルティマ。当然の如くこれは不動。  続いて〈長崎鳴滝〉《ネーデルラント》に拠点を置く、厳密に言うなら外国企業のアソシエイブルがセミワークスチームに託して繰り出した〈RG-一〇〉《レーシング・テン》。  ヨコタン・スーパーハウンドは三位につけている。  以下ヒラゴー、鎌倉マツイ、ゲッコーのワークスが順々に並び、後は群小のワークスやプライベーターが団子状に固まった成績で連なる。タムラもその中だ。  やはり装甲競技ではワークスが圧倒的に強い。  ポリスチームは一四位にランクインしていた。  まずまずの健闘と言って良いだろう。だがまだ満足しないのか、彼らの〈愛騎〉《ホットボルト》はなおも挑戦を続けている。  明日の決勝でスタートを切る際の〈位置〉《グリッド》指定は今日の順位に従うから、意味がないわけではないが。  しかし、やや無理をし過ぎだと思われた。事故でも起こしては元も子もない。  潮時だと思うのだが…… 「タムラがスピードを落としましたね」 「あら、本当。  ピットインするつもりかしら。でも……」  二人の呟きに視線を転ずる。  最終コーナーを今、タムラの新騎体アベンジが回り終えようとするところだった。  成程、必要以上に速度を落としているように見える。ピットインするのかもしれない。  だがタムラは既に一度ピットに戻っていた筈だった。  ある程度以上の長時間に渡るレースの場合、高速度を保証する補助推進器の燃料が底を突くため、ピットインは必ず必要になる。  が、余程の長丁場でない限り二度は不要だ。  あるいは外面からはわからない何かのアクシデントか?    そんな想像を巡らせつつ、青色騎の挙動を見守る。  ピットには――向かわなかった。  メインストレートに滑り込む。  そして、  〈爆発した〉《・・・・》。 「――――!!」  刹那の時間、幻が俺の視界を埋めた。  アフターバーナーのトラブル。揮発性の高い燃料が引火し爆発。無機物と有機物を巻き込んで粉砕、粉塵に等しい破片をサーキットに散布する――  幻だった。  爆音の如き噴射音が脳を撹乱して映し出させた虚像に過ぎない。  実像は            閃光。  〈メタリックブルーの閃光が〉《・・・・・・・・・・・・》。  メインストレートを、〈迅〉《はし》っていた。 「なっ……」 「ひょー!」 「操――!!」 「あ――」 「え――」  何を口にする暇もない。  マウンド上でピッチャーの投げた一四〇キロの速球が突然、〈銃弾〉《・・》に変貌するのを目の当たりにしたのなら、知性持つ人間として言うべき事はある筈だったが――  思う間に、ストレートを駆け抜けた青光はコーナーへ突入している。  エアブレーキによる減速――足りない! 到底足りない! あんな速度では曲がり切れない!  クラッシュする――  ――捻じ伏せた。  力ずくで。 「そんな、あほな……」 「お嬢さま、お下品でございますよ……」 「……普通、空中分解とかしないか? 今の」  酷いコーナーリングだった。  最短距離も最少効率もあったものではない。  だが……兎にも角にも曲がり切った。  あの速度で。  それは奇跡ではない。  信じ難い事だったが、乱暴というにも酷烈な騎航はなお続く。  S字カーブ。  緩いバンク。  130R。  立ちはだかる関門に対して、減速という必要代価を踏み倒し続けながら、タムラ・アベンジは走破する。  凄惨に。  これほど無惨で、  これほど醜悪で、  これほど低劣で、  これほどまでに速い、〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》が――  過去に一度でも存在したろうか。  断定できる。  こんなものはいなかったと。  こんな――  悪魔のような騎手は何処にもいなかった。  バックストレートを疾走。  息一つ吸う間はおろか、瞬き一つの間さえなく。  スプーンカーブに突入……  〈押し切る〉《・・・・》。  かつてあらゆる騎手を屈服させ、隷従せしめ、頭を低くして通過することのみを許してきたこの急カーブの権威が、この反逆者には通じない。  一切の礼儀を払わず、彼女はコーナーを蹴り散らす。  走り抜けるという表現さえ最早相応しくはなかった。  踏み潰している。剛力に任せて。  それは――  ただの、暴力だった。 「これだ……  これだ!」 「これを造りたかった」 「〈これ〉《・・》を造りたかったんだ!!」 「これなら、超えられるぞ……  世界を……」 「世界を――超えられる!!」 「――――――――」 「……ウィングが〈変動〉《・・》している……」 「大尉殿?」 「動いています。  あのリアウィングは。コーナーへ入る時に……」 「あれが騎体を押し流そうとする気流を叩き伏せているのです。  ……おそらくは」 「…………。  そういえば、耳にしたことがあります」 「〈可変式〉《・・・》ウィングマウントという構想を。  実用化する人間がいるとは、思いませんでしたが……」 「パワー過剰の中枢設計。  流線型の甲鉄。  低角度のダンパー。  可変式ウィング……」 「結果は直線における〈爆走〉《スコーチ》と、曲がればいいという程度の〈旋回性能〉《コーナーリング》。  ……無茶苦茶な騎体でございますね」 「しかし確かに、〈思想〉《・・》はありました」 「ええ」 「あたしにもわかります。  ……あの騎体が言いたいことは」  最後のコーナーを今、アベンジは曲がり切った。  ホームストレートへ帰還……駆け抜けて、〈基準線〉《コントロールライン》を越えてゆく。  記録―――― 「〈速けりゃいい〉《・・・・・・》。  それだけなんだ。それだけしか考えてないんだ……」  一分二六秒〇八。  翔京の〈理想〉《ウルティマ》に次ぐ第二位の成績を、タムラの〈逆襲〉《アベンジ》は打ち立てていた。 「…………」 「どうよ?」 「ふ、ふんっ。  まあいいわ……これで明日の決勝も楽しくなりそうだものね」 「麿の大会に華が添えられるのは喜ばしいわ。  タムラの健闘を称えてあげましょう」 「……くっ。  いかんな。予想外だ……」 「……む?」 「どうしました?」  興奮冷めやらぬ観客席の中。  俺はふと目を〈眇〉《すが》めて、この場所からは最も遠いヘアピンカーブの辺りを眺めやった。 「――事故か」 「煙が上がっておりますね。サンドトラップに突っ込みましたか。  さほどの大事ではないようですが……」 「あらぁ?」 「お嬢さま?」 「…………」 「大尉。何か」 「景明さま。  ……あれ……」 「はい」 「ポリスチームです」 「……如何ですか?」 「どうにもならんね。  タムラさんに持っていって修理して貰わんことには……ここじゃあどうしようもない」  ポリスチームのガレージ。  破損した騎体――ホットボルトをいじり回していたメカニックの返答は、予想と違っていなかった。  周囲には弛緩した様子のレーサー始めスタッフ達。  署長から捜査の関係でチームに紛れ込ませているという話が伝わっているのだろう、俺達に対する不審の視線はない。  いや、本当に不審な人物だったとしても、今の彼らにそんな活力があるかどうか。  記録をじりじりと伸ばし、一一位に到達、更に上を狙い――結果はクラッシュ。  手が届いていた明日の決勝レースを取り落とし、皆、徒労感に首まで浸っている様子だった。  飯食ったら片付けて引き上げる、とリーダーらしき人物が言うのにたるんだ声で応えている。  しかし、これは少々困った事になった。  ポリスチームの不運には同情する。が、それはそれだけの事に過ぎない。問題は別にある。  結局、本予選で寄生体を特定する事はできなかった。  であれば、まだ使われていない予備騎の中にいるか……〈乃至〉《ないし》は何らかの方法で村正の眼を誤魔化していると考えられる。  後者は有り得ないと村正は云うが。  先日〈見〉《まみ》えた乱破武者――姿を隠し探査機能まで欺瞞した怪物にしても、出会うまではまさかそんなものが実在するとは思わなかったのだ。  だが巧妙な詐術があの異怪を実現させた。  同じような事がまた起きていないという保証は何処にも無い。  ……村正にしてみれば、銀星号を討つべくして在る己が、敵の存在を見定めることすらできないなどとは決して認められる話ではないのであろうが。  精神論に拘泥しても仕方がない。  しかしひとまずは、まだ確認していない劔冑を疑うべきだろう。金銭的に余裕あるチームはアクシデントに備えて予備の騎体、予備の騎手を用意する。  その中に〝卵〟を持つ者がいても不思議ではない。  そちらの調査を行うためには、ここでポリスチームに帰られてしまうと不都合なのだった。  サーキット内に居残る理由が無くなってしまう。 「……〈練習騎〉《Tクルス》で参戦、という選択肢は無いのですか?」 「いやあ、持ってきてないよ。  うちの練習騎ったら、あれだもの。タムラ〈の甲王〉《アーマー・チャンプ》。あんな骨董品、いくらなんでもこの大会には出せないでしょ」  ……戦前の騎体だ。  確かに出せない。客の笑いを取りたいなら兎も角。その時代の騎体で今も戦えるものと言ったら、翔京の傑作〈蠍星〉《スコルピオ》くらいがせいぜいだろう。  こうなると、ポリスチームの撤退は避けられそうにない。理由を作って明日まで残るよう頼む事もできるが、レースの通念として敗者は速やかに去るのが潔く、いつまでも往生際悪く選手〈面〉《づら》で残るのは醜態とされる。  スタッフ達は良い顔をしないだろう。  別の方法を探るべきなのかもしれない。 「湊斗さん、食事調達してきましたっ」 「有難う」 「……」 「あら、ご苦労さま。  お茶まであるなんて行き届いたこと」 「細やかな気配りでございます。  流石は綾弥さま」 「……誰も、お前らの分があるなんて言ってねぇんだけどな。  まぁいいや……ほら」  一条が用意したのは握り飯とパックの緑茶だった。  売店で買って来たのだろう。彩りはないが食べ易い。この際はそれが有り難かった。成程、彼女は気配りができている。  後で経費で落としておこう。  そう思いながら、握り飯を一つ手に取る。 「そういやなんか、変な連中がいたな」 「変?」 「というと、ストリーキング集団ですかしら」 「それは迷惑でございますねぇ……」 「そーいう方向じゃない。  なんか、物騒っつーか……殺気立った奴らがその辺をうろうろしてて」 「でも、態度は何気なさそうなんだよな。  それが余計に怪しいっつーか」 「気にしすぎではありませんの?  今はレースの最中なんですもの。参加者は誰しも殺気立ってましてよ」 「うーん……  まぁ、そうなんだろうけどさ」 「敗退したチームが勝ち残ったチームに嫌がらせでもしようとしているのかもしれません。  何とも情けない話でございますが、これが有り得ない話でも珍しい話でもなく」 「でも、大和ではあまり聞きませんねー……国民性の違いというものでしょうか。  それはさておき、景明さま」 「はい、大尉殿」 「これからどうなさいますの?」 「自分もそれを考えていたところでした」 「あたしたち、ポリスチームの人間ってことになってるんですよね。  この人たちが帰ると、あたしたちがここにいる理由もなくなっちゃうわけですか」 「そういう事になる。  事前に想定はしていた事態だ。が……今日中に標的を発見して今日中に決着をつければ良いだけの話だと考えていた」 「この目論見は既に崩壊している。不覚にも、本予選が終了した現時点においていまだ敵の特定に至っていない。  決着には今夜中を、或いは明日まで要する」 「従ってもう暫く、この参加者専用の区画に留まる為の名目が必要だ」 「意外に難題ではないかしら。  決勝前ともなれば皆さんピリピリしていらっしゃるでしょうし、そうなるといい加減な嘘は通用しそうにありません」 「スタッフをよく観察して、あわよくば予備用の劔冑まで見せて頂こうというのですから、ねぇ。  れっきとした立場が欲しい所でございます」 「全くに。  その意味でポリスチームの人間という立場は理想的だったのですが……」 「参加者なので行動はほぼ自由。  加えるに優勝を狙える強豪というわけでもなく、他のチームの警戒心もさほどには刺激しません」 「まこと、その通りでございますね。  どうにかして、ここな警察の方々に明日の決勝へ参戦して頂く方法はないものでしょうか」 「……気合と根性と、あと努力と友情でなんとかしてもらう?」 「現実的ではないな。  却下」 「困りましたね……」 「なーに、簡単簡単。  お兄さんが出ればいいんだにゃー」  突然の声に振り返ると、そこには印象的な少年――いや、少女か――の佇む姿。  にこにこと上機嫌で俺の顔を覗き込んでいる。  周囲のスタッフから視線が集まる。  が、声は上がらない。  少女の肩の貴賓証は彼らの立場上無視できるものではない筈だが、余りに急のことでどう対応したものかわからないのだろう。  少女本人に気にした様子はない。 「――ライガーさん。  今晩は。またお会いできた事を嬉しく思います」 「はーい、こんばんは、お兄さん。あなたのライガーですよー。  赤い糸がどーとかこーとか的にまた会ってしまいましたねー?」 「……失礼。  来賓の方とお見受け致しますが、ご紹介を頂いても宜しくありましょうか」 「自分は湊斗景明と申します」 「うむ、苦しゅうない。  あちしは〈弾丸雷虎〉《ダンガンライガー》を名乗るしがない荒野の放浪者といった風情の者である」 「ライガーと呼ぶがよい!」 「諒解しました。  ライガーさん」 「らいがー?」 「………………」 「………………」 「おうおうおう。そっちはお兄さんのツレか。  じゃああんたらにも改めまして自己紹介を」 「あ? ああ……。  あたしは――」 「と思ったけどまぁいいやたりーし。  ぶっちゃけマイ視点だと君らまとめてその他大勢、一パック三〇円くらいの商品なのでかなり本気でどうでも良い」 「というわけで、本題に入りまーす」 「……湊斗さん。  やにわにすっげえムカつきます。こいつ」 「我慢しろ」  としか言いようがない。  ライガー女史はつかつかと、破損した騎体のもとへ歩いてゆく。気圧された風で退くメカニックには全く構わず、甲鉄へ手を触れさせた。  軽く叩いてから、耳を押し当てる。 「ああ、駄目だねこりゃ」 「お分かりですか」 「サスがやられてる。  あとシャフトがひん曲がってて、駆動系のギヤが一個脱落。デフも割れたな」  メカニックが絶句した。  ………無理もない。少女の指摘は先刻、彼がチームリーダーに提出し俺も覗かせて貰った被害状況報告を端的に要約したも同然。  熟練のメカニックと同じ結論に、一瞬で。 「……ご慧眼です。  我々も先程、メーカー修理に出さねばどうにもなるまいと結論しておりました」 「うんにゃ。  出しても駄目だよ」 「……とは?」 「中枢の〈骨格〉《フレーム》が歪んでる。  これはどう頑張っても直せない」 「……もうトシなのさ。  これ、レーサークルスとしてはありえねーくらい大事に大事に長く長く使い続けてきたんだろ?」 「そこまでおわかりになるのですか?  触れただけで……」 「ライガーですから。  や、触っただけじゃわからんけどね。〈音〉《・》を聞けば大体のとこは〈見えて〉《・・・》しまうのです」 「音……?」  随分と、不思議な話を聞いているように思える。  近くで会話を耳に挟んでいる人々も狐につままれた表情だ。 「つーわけでさ、こいつもう休ませてやってくんない?  これ以上無理に使うと背骨がボキッといっちゃうから」 「は……」 「お疲れ、兄弟」  兜に軽く口付けして、そこから離れる少女。  唖然としているメカニックらを置き去りにこちらへ戻ってくる。 「お兄さん」 「はい」 「あての言いたいことはわかってると思う」 「わかりません」 「よろしい。ヒトは常に自分の知性に対して謙虚でなくてはならないのだ。  その謙虚さを持つ人間だけが、契約金〇円という売り文句に騙されなくて済むゆえに」 「つまりお兄さんは月々の使用料や解約手数料をちゃんと確認するだけの慎重さを示したといえよう。  これはあてにとって大変喜ばしい事である」 「恐縮です」 「……通じ合ってるのか? この会話」 「当のご本人がたが気にしていないのなら、まあ問題はないのではありますまいかと」 「だが戦士よ!  その謙虚さを臆病さにつなげることなかれ。何故なら好奇心は猫を殺し寂しさはウサギを殺し臆病さはライオンを殺す」 「緑色の都でもらえる一〇〇%勇気汁でどうにかなる問題ではない! あれはプラシーボ!つーか本物だったらもっと駄目だ多分法的に。  よってあては告げねばならぬ。湊斗景明!」 「はい」 「運命の時は来た!!」 「は」  運命が来たらしい。 「今こそ戦いの荒海へ乗り出すべし!  必要な〈劔冑〉《チカラ》はあてが用意する!」 「ちから?」 「そっちの声だけ聞いてどーするの。  魂言語は〈多重音声〉《サラウンド》だったりすることが多いからちゃんと全部聞きなさい。今のは劔冑と書いてチカラと読む感じの表現なのです」 「成程。  つまり、どういう事ですか」 「レース出ない?」 「はぁ」  ……そこで冒頭の発言に戻るわけか。 「あてが劔冑を用意する。  お兄さんがそれを使って出場する」 「そーすればポリスチームはリタイヤせんで済むってことですね」 「……疑問が多々ありますが、まず一つ。  正規の騎手を差し置いて自分が出る理由がありません」  ポリスチームの騎手は今日参戦して事故を起こした彼、一人だけだ。  しかし健在である。  多少の怪我は負ったものの、劔冑に比べれば無傷に等しい。 「怪我人は寝かせとく方向でどうよ。  だいたい、万全の〈騎航〉《ハシリ》ができる状態じゃあないんでない? 体は平気でも中身はわからないよ? 事故った直後のレーサーってのは」 「それは……確かにそうです。  しかしそもそも〈騎手〉《レーサー》ではない自分よりは」 「あれ? お兄さんレーサーじゃないのん?  あてはてっきりポリスのセカンドレーサーだとばっかり思ってたんだけど」 「その筋肉の付きかた。  水泳選手によく似たバランスで、要所要所の〈太さ〉《・・》がちょっと違う……」 「劔冑使いにしか見えねんだけどにゃー?」 「……」  ホットボルトの故障具合を瞬間で見抜いた少女だ。  劔冑という特殊な道具を扱う人間の、確かにあるのであろう特徴を看破できても不思議がるには値しない。  俺が騎手ではないのはただの事実だが……  迂闊に否定して、じゃあ何故? などと探られては墓穴を掘る。  慎重な受け答えが必要だ。 「……レーサーではありませんが。  過去にその真似事のようなことをしていた経験はあります」 「ほうほう。つーと、どっかの会社でテストユーザーでもやってた?」 「はい。  甲府のとある企業がレースへの参入を企画した際に雇われて……結局、その企業の経営悪化で企画は頓挫したのですが」 「小規模のレースになら数度、参加しました」  ……完全な嘘ではない。多分に脚色はしているが。  今と同じように銀星号の痕跡を追っていた昨年の夏、調査のため、テストユーザー募集に応募する形である企業へ潜入したという事は――確かに、あった。 「なんだ。  んじゃ何も問題ないね」 「いえ非常に多く存在します。  まず劔冑が――」 「あてが用意するってばさ。  個人的に造らせたサンダーボルトの〈上位騎〉《ハイチューン》、その名も〝〈恐怖の運び屋〉《テラ・ブリンガー》〟。四翼ダンパーにフルベア仕様の、健気に成長した可愛い子よ」 「……あのアベンジとかいう無茶苦茶な新型さえ出てこなけりゃ、タムラの主役になっていたかもしれないんですよ?」 「はぁ」  なんだか複雑そうだ。 「そいつを貸し出すからさ。  これでいいでしょ?」 「しかし、自分には保証金を支払う能力が」 「いらないいらない。そんなの。  好きに使って、好きにぶっ壊してくれりゃいいから」  ……札束の海にライターで火をつけるような事を、少女はあっさりと告げた。  どうやら家は相当な資産家であるらしい。 「そもそも自分は騎手として登録されておりませんので……」 「どうにかするよ。  今夜のうちに」  ……横車を押すというよりもターボジェットで吹き飛ばすような事を、少女はあっさりと告げた。  どうやら家は相当な権力者でもあるらしい。 「…………」 「万事オッケー?」 「お待ちくださいまし。  わたくしからも少々、構いませんかしら」  返す言葉に窮した俺に代わって、少女に相対したのは大鳥大尉だった。  何処とはなし、微妙なものを漂わせた表情。距離の取り方も微妙だった。何かを間に挟むようなスタンス。  ……そういえば、少女が現れて以来、大尉は沈黙を通していた。  不自然なほど。 「なにかな?  まったく面識のないおねーさん」 「……ごく簡単なことです。ライガーさん。  どうして、そこまで肩入れなさいますの?〈あなたが〉《・・・・》」  質問もまた、微妙なものを孕んでいた――特に最後の一語に込められたアクセントが――と感じたのは、錯覚だろうか。  少なくとも、少女は何も窺わせなかった。  その微妙さに応えるようなものは何も。 「そりゃ、ポリスチームにリタイヤされたくないから。  決まってんじゃん?」 「……」 「この大会、翔京とタムラの争いが、つまりは装甲競技賭博化推進派と反対派の争いだっつーことについては、今更くだくだしい説明なんていらんよね?」 「はい」 「で、あては反対派。  あての〈周り〉《・・》には賛成派の連中もいるけどね。ま、知ったこっちゃーない」 「……」 「せっかくのレースをカネ臭いもんにしたくないこっちとしちゃあ、反対派に勝ってもらわんと困るわけでありますよ。  ところが決勝進出二〇チームを見てみると」 「反対派って呼べるのは二位のタムラと一一位のポリスだけ。後はみーんな推進派か、でなけりゃ中立。  これでポリスまで抜けたら完全孤立だ」 「立場上、賭博化に賛成するわけにゃぁいかない警察だけがタムラの唯一の味方だったってーのにさ。  テコ入れしたくもなろうってもんでしょ?」 「…………」 「なんでさ。  要はタムラがトップを取ればいいんだろ?仲間がいるかどうかなんて、そんなに重要なことか?」 「――――」  少女は両手の掌を肩の高さで天井へ向けた後、首の左右運動をし、最後にフフンと笑った。  視線は斜め三〇度ほどの角度で一条を刺している。 「湊斗さん。  あたし、こいつと同じ天の下で生きていく自信がありません」 「耐えろ」  としか言いようがない。 「……レースは個人競技だが、それは栄誉を受けるのが首位ただ一騎だけだからであって、その点を度外視すれば集団戦にしてしまう事も可能だ」 「例えば。  ライバルとなり得る騎体を仲間に囲ませて動きを封じ、その間に自分は悠々とトップを奪う――というように」 「……それって、反則にならないんですか?」 「無論、露骨な騎航妨害は反則になる。  だがそれは露骨でなければ良いということでもあるし……」 「そもそも自分の勝敗を無視してしまえるのなら反則でも何でも躊躇う理由はない。  極端な話、タムラの騎体を攻撃・破壊して退場。残った翔京が勝つ、という手さえある」  ……勝利自体が目的ではなく、勝利によって賭博化への客の賛同を得る事が目的である以上、そこまでの暴挙はできないだろうが。  もう少し穏やかな妨害なら充分に有り得る。 「そんな時、タムラに一騎でも味方がいればだいぶ違うってわけ」 「そしてもしそいつが〈盛風力〉《バイタリティ》の持ち主なら、雑魚共を一手に引き受けて、タムラのハンデを帳消しにしちゃったりさえするかもしれんね」 「つまりは、それを期待されているのですか」 「できるっしょ? お兄さんなら」 「だいぶん買いかぶられているように思えてなりません」 「そっかな?」  太陽は月よりも地球に近いと言われた人間のような顔をして、少女は笑っている。  ……出会って間もないこの少女が、俺にそこまでの信頼を抱く理由は全くもって不明不可解。  しかし既に、俺の思考は一方向にほぼ固まっていた。  協力者達の表情を視線のひと撫でで窺ってみる。  一条は、この相手は気に食わないが申し出には納得ができる、という様子だ。  翔京――六波羅に挑むタムラにやはり心が寄るのだろう。  大鳥主従はポーカーフェイス。いつものように。 「率直に申し上げて、興味がまるでないわけではありません。  自分も少年期に〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》を夢見た事がありますから」 「うむうむ。  男の子ならかくあるべし」 「しかし、自分の身体能力がレースに耐える状態にあるかどうか、疑問です。  その点は体を動かしてみて確かめる必要があります」 「如何でしょうか。  明日の朝、御返事をするという事では」  ……一条が眼を瞬き、大鳥大尉が軽く首肯する。  俺の真意は通じている様子だった。  少女の話に乗る姿勢を見せておけば、ポリスチームの撤退はなく、行動の自由は確保される。  寄生体の捜索を行いたいこちらにとって好都合な事この上ない。  そして今夜のうちに事の始末をつけ、朝になったら、ライガー女史には辞退を申し入れる。  このように進めば、まさしく理想的だ。  ……少女に対して、些か不実である事は否めないが。  しかしサーキットコースは一種の聖域。素人が足を踏み入れて良い場所とは、どうにも考えられない。  だが、最悪の事態として、俺はそれも考慮の範疇に入れていた。  つまり、今夜中に寄生体を発見できなかった場合。  その場合は、寄生体が何らかの手段で村正の感覚を騙しているというあれの認めたがらない可能性が濃厚になる。  となれば残る手立ては水際作戦のみ。  標的はやはり決勝参加騎の中に潜んでいるだろう。 『力』を求める意思から彼らが近いことは疑えない。  自ら選手となって彼らの渦中へ入り、〝卵〟が覚醒するその瞬間に襲い、打ち断つ。  村正の感覚によれば、〝卵〟の孵化はおそらく明日の内。観客席から暢気に様子を窺ってはいられない。  〈災害〉《・・》勃発予想地点の最短距離にて待機するに如かず。  数多の観客が集うであろう決勝戦のサーキット場の只中で〈銀星号を起こされる〉《・・・・・・・・・》など、およそあってはならない事。  一秒一瞬でも事態を長く続けさせてはならない。  その点も踏まえて、俺の返答はおそらく最善に近いと思える。  だがあくまでも、俺の側の都合だ。 「……我ながら、御厚意に付け込むような虫の良い申し条。  恥ずかしい限りです」 「いや、いいよー。  じゃあ明日までに決めといてね。こっちは手続きだけしちゃっとくから」 「…………。  宜しいのですか?」  ごり押しで参加を認めさせた騎手がやっぱり出ない、などという事になっては立場を失うと思うのだが。  少女はあっけらかんと笑っている。……大物なのか、それとも傍若無人なのか。 「のーぷろぶれむ。  〈劔冑〉《クルス》はすぐにこっち持って来させるからさ。とりあえず装甲してみてよ。もしも合わないようだったら別の用意するし」 「いえ。  その点に関しましてはご厚意だけ頂きます」 「ほぇ? どーすんの?」 「自前の〈競技用劔冑〉《レーサークルス》で臨みます。  参戦する場合には」 「あるの?」 「以前に手に入れたものが、一応。  かなりの老朽騎ですが……やはり少しでも慣れた品を使った方が良いと思われますので」 「差し障りがなければ、それでお願いしたく」 「ん、んー。まあ仕方ないかな。  そういうことなら……」 「哀れなり〈運び屋〉《テラ・ブリンガー》。こうしてまたもや脚光を浴びる機会は奪われたのであった。  ……なんでテラって付くとこうなのかなー。 〝〈征服者〉《コンクァラー》〟も完全に時期外れだったし……」 「申し訳ありません。  折角お気遣い頂きながら」 「や、いいけど。  じゃあ明日の朝にまた来るのでー」 「はい。御足労をお掛けしました。  良い夜をお過ごし下さい」  手を振って立ち去る少女を、一礼して見送る。  頭を上げると彼女は既にいなかった。出現も退去も俄か雨よろしくあっさりしている。  まさに俄か雨に降られた格好で、ガレージの中にはぽかんとした空気が流れていた。  各人が理性を回復し、今の話について整理するには、若干待つ必要がありそうだ。 «……うまい具合に話が転がった、ってことでいいのかしら» (そう言って良いだろう。いささか旨すぎて不審の念を覚えないわけではないが。  話は全て聞いていたか?) «おおむねは。  それにしても……初耳ね。貴方が〈競技用〉《まがいもの》を持っていたなんて» (あるわけなかろう) «…………えっ?»  金物を積んだ小型の〈手引車〉《リヤカー》は、控えめに批評しても騒音公害に違いない。  進むたび、がらがらがちゃがちゃと音が鳴り、それが廊下に反響するとなれば耳障りもここに極まる。  だがレース中のパドックには夜もなければ安息の時もない。  メカニックは徹夜で鎚を振るって騎体調整に最善を尽くし、騎手は彼の鎚音を子守唄にして眠る。  この指揮者不在の鉄琴演奏会とでも云うべき状況下で、手引車の立てる騒音ごときは、所詮響きの一つに過ぎなかった。  誰にも迷惑を掛けずに済むのは幸いなことだ。 「色々集まりましたね」 「上位のチームほど気前が良かったせいだな。  彼らは資金力があるだけに資材も豊富だ」 「それでも、敵に塩を送るような余裕は何処も持ち合わせていないでしょうけれど。  ポリスチームが彼らから〈敵〉《・》と看做されていないのが幸いでした」 「ホットボルトをどう改造しても所詮ホットボルト。スーパーボルト仕様にするくらいが関の山でございますからな。  加えて〈事故〉《クラッシュ》済となれば尚のこと、警戒など」  するはずもない。  至極当然、反駁の語彙もないポリスチームに対する軽視が、俺の目算の一方だけは成就させてくれた。  重要度でいえば比較にもならない、肝心のもう一方は何の収穫もあげられていないが。  ……いや、それはそれでひとつの収穫とみることはできる。全く喜ばしくはないにせよ。 «…………» (無言で、不満そうな思念だけ寄越すな。  鬱陶しい) «不満なのよ» (我ながら、悪くない案だと思うが。  クラッシュした騎体の修理に必要、という名目で各チームのガレージを訪ね余剰の部品を買い集めて回る) (その際に、荷台に潜んだお前がガレージ内を探査。サーキットに現れなかった予備騎の識別を行う……。  特に問題点はない。実際、調査は進んだ)  そして結局、寄生体は発見できていないのだが。 «そうね。素晴らしい作戦よ。私もそう思う。  ……そこまではね。ええ、そこまでは» (この先に何の問題がある。  集めた部品をお前の改装に有効活用するというだけだ) «そこが不満なのっ!!»  村正の〈金打声〉《メタルエコー》が大脳を殴打する。  ……視界が揺れた。意識が眩む。耳を介さない金打声の〈音程〉《・・》を外した一撃は、ほとんど攻撃も同然だ。 「どうされましたの?」 「いえ」 (……一石二鳥だろう?) «その前に、どうして私が紛い物の格好して駆け比べなんかに出なくちゃいけないのよ!  片方だけでも勘弁して欲しいっていうのに、両方なの!?» (他に方法がない)  明日の決勝に俺が出るとすれば、それは決勝に参加する競技用劔冑の中におそらくは潜むのであろう寄生体に張り付き、孵化の瞬間を制するため。  村正を装甲していなくては話にならない。  だが、どこからどう見ようが真打劔冑である村正をそのまま競技に出せるはずもなかった。警察が独自に武者を抱えていると公言することになる。  そこで、改装だ。  幸い村正の色彩と造形はホットボルトに似ていなくもない。それなりに改造を加えれば、ホットボルトのアレンジモデルに見せかける事も可能と思える。  であれば、この手に〈如〉《し》くはなし。 (――違うか?) «………決勝とやらに参加する連中は、もう私が全部見ているのでしょう?  その中に寄生体はいなかった» (だが予備騎まで調査して標的を発見できずとなれば、お前の眼が幻惑されているとでも考えるほかに解釈の術がない) «何処かに隠されている劔冑があるのかも» (可能性としては否定しない。  だが銀星号が力を求める者を選んで〝卵〟を与えていると言ったのはお前だ) (どんな理由があるにせよ、サーキット場で何もせず隠れているような武者が選ばれるとは考え難い。  参加選手の方が可能性はある) «……うぅ……»  あくまで不服げな呻き。  理屈で納得しても感情がそこに同行しないらしい。劔冑に感情を云々するのも笑止な話だが。 (聞き分けろ) «……子供を躾けるみたいに言わないで。  貴方を唆した誰かは〈競技用〉《マガイモノ》を用意するって言ったんでしょう? なら、それを借りればいいじゃないの……»  とうとうそんな事まで村正は言い出した。  どうやら余程に、競技に使われる自分という想像が愉快ならぬらしい。  ……必ずしも理解が及ばないわけではないが。  言うなれば、刀を木枠で包んで野球のバットに使うようなものだからだ。  しかし―― (それは嫌だ) «どうしてよ。  御堂、ああいうのは好きなんでしょう?» (好きだ。  が、俺の纏う劔冑はお前のほかにない) «…………» «えっ?» (――劔冑鍛冶の作品は生涯一領。  武者の駆る劔冑もまた生涯一領のみであるべし)  それは武者古来の美風。  数打劔冑の普及以降、守られない事も多くなったが。 (俺の劔冑は既にお前に定まった。  他の劔冑を使う気はない) «…………» (それでもお前は俺に、ほかの劔冑を使えと言うのか?) «あ、え……ううん。ごめんなさい。  今のは冗談……ただ愚痴っただけ» «……気にしないで、御堂。  自分のやるべきことはわかっているつもり。駆けっこでも何でも、貴方が出ろというなら出るから。楽しくはないけれど……» «私は貴方の劔冑なんだものね» (ああ。  頼む) «…………» (ふざけているのか?  村正) «…………冗談よ。  わかってる。他に方法はないんでしょう。ならそうするまでよ» «それが私の役目なんだから……» (そうだ。  わかっているならいい)  ……まあ、まだ明日のレースに参戦すると決まったわけではないが。  残りのガレージで寄生体を発見できれば、話はそこで済む。 「後はどこが残っていたでしょうか」 「お待ちくださいませ。  ……タムラだけでございますね」 「一番遠かったので後回しにしておりました」 「参りますの?」 「はい。  低いですが、タムラの予備騎にも可能性はあります」  余り正直ではない事を云う。  それはあるまいと考えていた。銀星号がもしタムラに目をつけたのなら、何をおいても、あのメタリックブルーの騎体を選んだに違いないと思われるからだ。  しかしそれが確認を怠るべき理由とはならない。 「そろそろ零時を回りますねぇ」 「髪とお肌の具合が心配です。  徹夜は良くないって言いますもの」 「へっ。  ちゃらちゃらしたもんだな、GHQの大尉さんは」 「そういうあなただって、毎日手入れはしているのでしょう?  こんな白くて、ぷにぷにしてて、うらやましいったら」 「触るな! つまむな!  つーか、あたしはそんなかったるいことはしてねぇ!」 「…………」 「嘘?」 「本当だよ」 「なんで銃がこっち向くんだ!」 「お嬢さま、お気を確かに!  認めがたいことですが、時としてこのような方は存在するのです!」 「本当にッ!  認めたくはありませんがッ!  いるものはいるのですッ!  仕方がないのですッ!!」 「くっ……  ナチュラルボーン・フリークス……!」 「……化物呼ばわりかよ。  こんなつまんねーことで」 「綾弥さまも口にはお気をつけを。  壁に耳あり、障子に目あり。いつの間にか多大な敵をつくっているやもしれません」 「?」  ……そういえば。  女性を連れ回すような時間帯ではないか。 「大尉殿。  お先に宿舎へ戻られては」 「あら、あらっ。  景明さま、わたくしの美容にお気を遣ってくださるなんて嬉しいです」 「……」 「でもご心配なく。今のはほんの冗談ですの。  わたくしだってお肌の出来には自信がありますもの」 「この通りっ。  景明さま、触ってくださってもよろしゅうございましてよ?」 「任務中ですので、お気持ちだけ頂きます」  と言っている傍から、腕を胸元へ抱き込まれているわけだが。 「てめー!」 「見事な仕掛け技でございますお嬢さま!  そう、ナチュラルな魅力で迫る年下系ヒロインに対抗して、色気で行く年上系! それこそが正しい在りかたというもの!」 「まぁ大抵の場合、そうした年上系は序盤をリードするものの最後には逆転負けを喫すると相場が決まっているのですけれども」 「皆まで言わなくてもよくってよ、ばあや!  既成事実ねっ! 既成事実があれば勝てるのね!」 「面白夢空間逝ってんじゃねぇぞ腐れアマ。  とっとと離れやがれ、湊斗さん嫌がってるだろうが!」 「あら、誰がそんなことを言ったのかしら。  ねぇ、景明さま? わたくしと一緒に愛の自転車・人生薔薇色号に二人乗りして新たな未来へ漕ぎ出してくださるでしょう?」 「いいえ」 「ほら御覧なさい!」 「そりゃあたしの台詞だぁッ!!」  途方もなく鋭い角度で蹴りが入った。  俺の隣から大尉が消え、ごろごろ、ずしゃーという振り返りたくもないような音が続いて背後から轟いてくる。 「……自転車の二人乗りは交通法規に抵触します、大尉殿」 「遅うございますよ、湊斗さま」  わかってはいるが。  ゆらり、と大鳥大尉が立ち上がった。  手の甲で口元を拭い、彼女はクククと笑う。 「見事な蹴りでしてよ、一条さん。  うっかり走馬灯を見てしまうところでした」 「そのまま帰ってこなけりゃいいもんを。  しぶてぇアマだな」 「今度はこちらから参りましょう。  受けて頂けるかしら?」 「……拳闘か?  笑わせやがる……」 「来い」 「……ふふふ」 「へっ……」 「では、侍従殿。  自分はタムラのガレージを見て参ります」 「は。いってらっしゃいまし」  車を曳き、タムラのガレージ方向へ歩き出す。  ここからなら程近い。  が。  数歩も進まぬ内、ふと足が止まった。 「……」 「おや、いかがされましたか?」 「いえ。  今……」  少し先の交差路を駆け抜けていった、複数の影。  あれは、見間違いでないとしてだが――顔を覆面で隠していた。  いかにも即席の、いい加減なマスク。  まるで銀行強盗か何かのような。  食事と一緒に一条が持ち帰った話を思い出す。    ……妙な連中がうろついている。  物騒な、殺気立った奴らが……  彼らが駆けて行った先には―― 「ッ!」 「湊斗さま?」 「えっ?」 「あら?」  ――タムラのガレージしかない。  村正を連れ出している暇はなかった。  いざとなったら呼べば良い。だがおそらくその必要はあるまいと思えた。  あれはもっと安易な〈事件〉《トラブル》だ。  予測される被害が軽いということを意味するものではないが。傷害、殺人が含まれる可能性もある。  決して座視はできない。  俺は駆けた。背後からも三つ――六つというべきか?――の足音が続いている。  いや。  脇道からも、一つ―― 「やっ」 「!」 「貴方は」 「こんなこともあるんでないの? って思ってねー!」 「ちょっくら張り込んだりしてたわけだけど。  いやはやなんつーか……期待を裏切らない展開じゃない?」 「是非、裏切って欲しいものでしたが!」  駆け続ける。  少女はぴったりと横に併走してきた。俺が加減しているのではない。彼女が小柄な体躯に見合わぬ速さを備えているのだ。……あるいは何かの体術か。  タムラのガレージが見える。  既にその中からは、劔冑の調整作業によるものでは決してない喧騒が聞こえてきていた。  重いものが転がる音。  硬いものがぶつかる音。  ……悲鳴。 「――」 「――」  隣の少女と一度だけ視線を交わして、飛び込む。  状況を確認。  覆面の男が五、六、七人。うちの四人がスタッフを追い散らし、三人が一箇所へ向かっている。  タムラチームは丁度仮眠をとっていたところだったらしい。運が悪い――いや。そんな筈はないか。  運の問題などではなく、まさにその隙を狙われたに決まっている。  スタッフは例外なく惑乱の波に押し流されていた。まだ寝転がったまま凝然と眼を〈瞠〉《みは》るばかりの者も多い。  三人に狙われている標的――ガレージの隅の皇路操は、いま呆然としつつ体を起こそうとしていた。  迫る覆面の手には短い鉄の棒。  無骨かつ有用な凶器。 「警察だ!! 全員静止!!」  腹腔から声を張る。  一瞬、誰もが動きを止めた。  ……だが、一瞬を越えても留まり続けたのはタムラのスタッフらのみ。  覆面の集団は再び動き出す。 (やはりか)  落ちたりとはいえ警察は警察。  このような局面でその名を聞けば、今少しは怯みを見せても良さそうなものだ。  それがまるで知らぬげな態度。  ということはつまり――警察など歯牙にも懸けぬ、それだけの〈裏付け〉《・・・》をもって事に及んでいる。  そして最優先の狙いが騎手。レースチームの心臓部。  であれば、彼らの正体は―― 「――」  隣の少女が大きく踏み込む。  その視線が狙撃しているのは、皇路操に向かう三人の先頭、最も危険な位置にいる男の背中。  彼らの一瞬の停止は、少女の足に追いつかせるだけの余裕を与えていた。  問題はどう制するかだが――この刹那、悩むことをやめる。やるからには手立てがあるのだろうと信じる。  俺は他の二人を制圧しなくてはならない。  踏み出す。背後から怒声。一条か――彼女らも間に合ったらしい。  踏み込む。  追いすがるこの格好、背面を狙う打撃は効果が薄い。狙いは脇。肝臓を引っ掛けるように――否、軌道修正。この男は確実に仕留める必要あり。  腋の下を刺し穿つ。  ――一撃必倒の急所。  男は悲鳴も上げなかった。  泡を吹き、大きくよろけて隣の仲間に体を預ける。  そちらの男が、驚きを覚えたとしても一呼吸に満たない間のことだった。  今や障害でしかない仲間を跳ね除けて、標的を狙い続ける――果断と評して良い行動。  だが届く。  男が右手の凶器を振り下ろすよりも、こちらの方が速い。  左足を踏み締め。  右足で蹴る。 「げぼっ!?」  果断で目的を見失わなかったからこそ、俺に対して全くの無防備だった彼は横腹が背骨までへこむほどに蹴り込まれて、棒立ちになった――半瞬。  〈弾機〉《バネ》が返るように、吹き飛ぶ。凶行を続ける能力を喪失したのは疑いなかった。  開いた視界に、間接的そして直接にも見知った少女騎手の姿が覗く。 「……あなた、は」  蹴り足を戻し、それを軸に回転。  周囲状況を確認。  最初に見たのは――  …………撲殺していた。  いや。  殺してはいないのだろうが。  捉えた敵の目前で沈み込み、伸び上がりながら肝臓を抉る鉤打ちがまず初弾。  続いて左掌での側面張り手――鼓膜潰し。  奇怪な悲鳴を上げ、耳を押さえてのけぞる男の、胸に手を当て、同時に足をからめ、そして押し。  ――男が仰向けに倒れる。  その、転倒の瞬間。  胸板へ踵を打ち下ろした。  背と胸が共に、鈍い音を立てる。  男の口が最後に零した音声は、水袋を踏み潰す時のそれに酷似していた。  ……殺してはいないのだろうが。  充分に、殺人的な光景ではあった。  容赦の〈欠片〉《かけら》もない。  致命打は与えないよう配慮したと〈思〉《おぼ》しいが、それは容赦とは違う。  といって逆に、憤激に任せて暴力を振り回したのとも違う。  彼女は己の暴力を統制している。  でなければ、あんなにも〈綺麗に〉《・・・》人を殴り倒せない。  ……おそらく、一条は……    俺は推測する。  鉄棒でスタッフらを殴り倒す覆面男を見た瞬間に。  胸中で裁判を行い、断罪し、与えるべき刑を決定し、それを執行したのだ。  ならばそこに容赦も加減も不要。  厳格なる執行の精神だけが求められる。  それが一条の戦いであり、戦い方。  そうではないのか。  ――乱戦の中の一瞬。  俺は一条の本質に触れたのかもしれない。  ――その一瞬。  俺は綾弥一条という人間を畏れた。  〈長衣〉《ドレス》が翻る。  取り出されたものは、見覚えのある長い銃。  警告の叫びが、喉までせり上がる。  だが間に合わない。一瞬の〈最中〉《さなか》では、間に合わない。  銃口が躍る。  ――あの洞穴から放たれた弾丸が、敵を射抜くとは限らない。  特にこのような乱闘の渦中では。  あの香奈枝嬢が、その程度の事をわきまえていないとは思えないが――  彼女の前に立つ男は、動きを止めている。  動揺のために。警察の権威は無視できても、銃弾の暴威は看過し得なかったか。  銃口は、彼を指し。  そして外れる。  下へ。  兵器の先端は下を、床を向く。  そこへ添えられる香奈枝の左手。  その上に、右手。  おおむねこの辺りで、俺は察していた。    ――ああ。銃にはそういう使用法もあった、か。  大鳥大尉は銃を掲げる。  剣のように。  振り下ろす。  斧のように。  ……銃床が、酷く重く鈍い響きを立てて、男の額を打ち抜いていた。  ひと溜まりとてあろう筈もなく。眼球を回転、白目を露出させて、ゆっくりと倒れ伏す。  ばたりというつまらない音が、凱歌の代わりだった。 「お粗末さまでした」 「お見事でございます」  長銃の銃把で男を殴打する、淑やかな令嬢。  ……前衛芸術の題材としてはうってつけかもしれなかった。  少女は……いない。  いや――  皇路操に向かっていた三人目の男は、既に床を相手に冷たい接吻をしている。  彼をそこへ誘ったであろう少女の姿はない。  ぱたんっ、と靴底が床を打つ軽い音。  振り返る。  三間余りも離れた距離に、男と少女が対峙していた。  男の背はこちらへ向いている。  ……一瞬前まで――三人の男を同時に攻撃していた間、少女は俺のすぐ傍にいた筈。  然してこの位置関係。加えて、先程の〈着地音〉《・・・》。 (まさか)  〈あそこまで跳んだ〉《・・・・・・・・》? 「んなっ――」 「いい夢見ろよ」  唇と鼻の間に、少女の指先が突き刺さる。  ――〈人中〉《ジンチュウ》。  糸を切られた操り人形よろしく、男は〈頽〉《くずお》れた。  おそらく痛みを覚える間もなく、意識を飛ばしたのではなかろうか。  ……恐ろしいまでに鋭敏な体術。  正道の武術に、邪道の混入したものと見えた。  習い覚えた流儀に飽き足らず、我流の工夫を加えたのか。  いずれにせよ、単なる資産家の子供が手慰みに身に付けたものとは到底思われなかった。  あるいは、彼女は武門の出自。  それは、即ち――  漂いかけた意識を引き戻す。  今は一瞬の浪費が黄金の山でも買い戻せない、時間というものが途方もなく高騰している情勢下。  再度、周囲を把握する。  敵は七人いた。倒されている者は六人。  ――あと一人いる!  傍らの、皇路操の小さな唇が精一杯に押し開かれるのを視界の右端に見た。  叫びが発せられようとしている。  その内容を聞く前に、俺は少女の視線を追った。  ガレージの奥――  そこにある、直方体に近い形状の大箱に走り寄る男。  最後の覆面。  手には――丸い――小さな、果物のような――  〈手榴弾〉《グレネード》。  男が振りかぶる。  箱をめがけて。  箱は〈鎧櫃〉《クルスケース》。  油性ペンで走り書きされた文字列はAVENGE。 「駄目――――!!」  少女の、飛び出そうとする動きを察知する。  阻止。抱え込んで、床に伏せる。 「それは、お父さんの――――」  少女の、これが鉄を纏ってサーキットを駆け抜けるとは信じ難いほどに細い手足が、抗い、もがく。  俺は押さえつけた。  もう間に合わない。男の動作、距離、時間、それら各要素の計算結果が導く結論。  少女が飛び出せば、被害を増やすという点においてだけ間に合ってしまいかねない。  それでもいいと、胸の下に封じた少女の背が訴えた。  ……黙殺する。  投擲。  着弾。  ……今となっては遠い、昔の光景を思い出した。  藪の中に伏せ、銃を構え、怯え狂いながら見詰めていたあの――凍りついた、激動の世界。  あの時、この匂いは空気そのものだった。  火薬のもたらす刺激臭。  薄れゆく煙。  粉々になった、何かの破片。  肌を触れ合わせている誰かの、瞬間的な理解。  瞬間的な慨嘆。  勝ち誇る敵兵。  粗末な覆面が隠さない目元は歪んでいる。  飛び出す。  何か喚いたかもしれない。無言だったかもしれない。  誰かの声を自分のものと取り違えたかもしれない。  駆ける。  男が振り返った。  飛び下がって、逃げようとする。  追う。  ――貫く。  鳩尾の更に中心を打ち抜かれた男はもんどり打って倒れ、胃液を吐いた。  襲撃者の大半は意識を手放している。  そうでない男も、口を利ける状態にはなかった。話を聞くにはしばらく待たねばならぬらしい。  スタッフ達に負傷者は三名。いずれも軽傷。  救急箱を持ち出して簡単に手当てを始めている。  それはすぐに済むだろう。  だがその後で彼らよりも切実に手当てを欲していることは疑いない人々に、救急箱が差し向けられるとは思われなかった。俺もあえて勧めようとも思わない。  嗚咽が耳を叩いていた。  弱々しく。  かける言葉もない。  その少女、皇路操が、あのアベンジという名の劔冑にどれ程の愛情を注いでいたか、それは何故であったのか、俺は目の当たりにして知っている。  知らぬ人間にしても同じだ。  一条の表情は険しい。内心の憤懣があのままに加速すると自分で自分の唇を噛み切る時も遠くないだろう。そうなる前には止めてやる必要がある。  大鳥大尉はといえば、これは更生して神父になったことを悔んでいる元殺人鬼のような顔で銃口を眺めていた。人間性というものを母の胎内か天上に置き忘れ、今更それに気付いたような顔つきでもある。  永倉侍従はその傍らで沈思。  自称ライガー女史は残骸を手にとって調べていた。    ……あの少女が何を想っているのかはわからない。 「くそ」  一条が呟く。  自分自身以外の怒りの捌け口を無意識に探したのか、その眼が覆面集団を見やるが、彼らはいまだ無責任な苦悶の最中。  そこを構わず踏み潰せるようなら比較的楽な人生を送れもするのだろうが、生憎と一条はそういう意味での横着さを全く持ち合わせていないらしい。  忌々しげに睨みだけしながら、唸る。 「こいつら、やっぱり……」 「口にするのも野暮なお話なのでしょうねぇ」  老侍従が応じる。 「黄金の翼で圧倒的な王座に君臨するつもりが、何の間違いでか青い牙に尻尾へ食いつかれている。  ……さぞ、焦ったことでございましょう」 「だからってこれはルール違反……っていうか、それ以前の問題じゃねぇか。  湊斗さん、逮捕できないんですか。全員!」  その全員というのが何から何までを示すのか、この状況で悩むほどには俺も想像力に不足を覚えていない。  答えも、悩むまでもなく導き出せた。口にしたのは俺ではなかったが。 「無駄だろーね?」  立ち上がっている。調べは済んだらしい。  一条に対して皮肉な笑いと、肩をすくめるのを同時にやって見せる。 「連中が脳味噌のつもりでナッツミルクを頭に入れてる甘味過剰のお馬鹿でなけりゃ。  人の手配の段階から〈専門〉《・・》の業者に頼んでるだろ。鎌倉にゃその手のはごまんといるし」 「自分らはただどっかの安っぽい飲み屋で、たまたま隣り合わせた誰かに、こんなことがあったらいいなぁっつー希望を聞かせただけ。  もちろん何の罪も問えない」 「そーいうシステムになってんのね。  十円賭けてもいいけど、こいつらには何も立証できないよ。せいぜいがこいつらの親分止まり……そこから先は、五里霧中」 「……!」  一条の爪先が床を蹴る。  話の内容か、少女か、どちらに対して不快を示したのかはわからなかった。  少女の言は正しい。  覆面達を尋問しても具体的な社名、具体的な人名は引き出せないだろう。引き出せたとしても――裁判で有意義な証拠として取り上げられなければそれまでだ。  翔京の背後に幕府の影がちらつくのなら――そしてそんな控えめな在り方など期待できないなら尚のこと――公正な裁判など望むべくもない高嶺の花。  実行犯の彼らとて、これから鎌倉署に送るつもりではあるが、いつまで留置所に留まっていることか。  尤も、彼らに関しては既にそれなりの報いを受けたと言えなくもない。  隣に誰かが立った。  線の細い佇まい。今は表情を失った相貌。  皇路卓だった。  勿論、彼は俺に話し掛けるために来たのではない。死期を迎えた小鳥のようなか細い嗚咽をもらす愛娘を見下ろしている。言葉を探しあぐむ風だった。 「……お父さん……」 「……」 「……ぅ……」  言葉が無いのはどちらも、誰もが同じか。  皇路氏は結局、まだしも話しやすい側を先に済ませようと決めたらしい。こちらへ視線が動く。 「湊斗さん、でよろしかったですね?」 「ええ。  到着が遅れ、面目次第もありません」 「とんでもない。  あなたがたのお陰で救われました。なんとお礼を言ったものか」 「あちらのご婦人がたも警察の?」 「は……」  簡単には説明し辛い〈顔ぶれ〉《メンツ》だ。  曖昧な返答で茶を濁す。  彼はそれを、こちらの気後れゆえとでも取ったのか。  口元が笑みに似たものを刻んだ。 「あなたには特に感謝します。  見ていました。あなたがいなければ、操はあの爆風に巻き込まれていたでしょう」 「同じチームの人間として、無論まず父親として……湊斗さん、ありがとうございます」  深々と頭を下げる皇路氏。  俺は咄嗟に返す言葉がなかった。  驚いていた。  皇路氏とてあの劔冑に懸けていた想いは並々ならぬだろうに。少なくとも娘と同じほど。  しかし彼は冷静だった。 「危うく、取り返しのつかぬ事になるところでした」 「その点に関しては……  やはり、我々は間に合わなかったようです」  各所に飛び散った、白い劔冑の破片を眺めながらに呟く。  今から修理などできる筈がない。そもそもこの状態から可能とも思えない。  予備騎で出場することはできるだろうが……それでどこまでの成績を打ち出せるか。  大体、誰がその予備騎を扱うのか。泣き暮れる少女が朝までに立ち直れるのか。  そこまで思いが至って、不意に。  ――俺は自分の得た視覚情報に疑問を覚えた。 (白い……破片?)  あのアベンジのカラーリングは目にも鮮やかな青。  白いパーツもどこかにはあったかもしれないが……しかし、これは―― 「我々は〈救われました〉《・・・・・・》。  あなたがたに……ええ。最初に申し上げた通り」 「……皇路氏」  正視を避けていた彼の目を見返す。  冷静、どころではない。悪戯げでさえあった。 「どうしても勝ちたい勝負で、勝てないかもしれない相手がいる……ならそいつを消してしまえ。  予測できない発想ではありませんよ」 「確かにね。  本場じゃわりかし茶飯事らしいよ? そういうのも」  こちらは、もうとっくに気付いていたのか。  馬鹿馬鹿しげに笑いつつ、貴賓の少女が告げてくる。 「狙われるのは〈騎手〉《レーサー》と〈劔冑〉《クルス》。  特に後者だ。なんせ自力じゃ逃げられないし大きくて重くて目立ってかさばる。ルール無視の連中にすりゃ狙いやすい。だから――」 「収納の際にはあらかじめ〈すり替えておく〉《・・・・・・・》。〈海外〉《むこう》では当然過ぎてむしろ使われないほどの防御策です。  この国ではまだ有効で良かった」  吹き飛んだ鎧櫃から最も遠い箇所へ視線を〈遣〉《や》る。  そこにある筈だと、俺は確信していた。  ……大きさは同じほどの、粗末な木箱。  アベンジの名が記されていたものと比べれば格段に汚い。古雑巾が詰まっているようにしか見えなかった。  あくまで、外観の上では。 「…………お父さん?」  会話の流れに理解が及んだのか。  泣くのをやめて、娘が父親を見上げる。  彼は答えなかった。  俺の視線の上を正確に歩いてゆく。 「……あー。  なるほど……」 「あらあら」 「まぁまぁ」  一条は気の抜けた顔をしている。胸では激情が空転してカラカラ音を立てている最中、そんな様子だった。  大鳥主従は感心、あるいは呆れ、はたまたその折半か。  皇路氏が箱の蓋を開く。  手を入れる。  そしてあっさりと、それは皆の視線に晒された。  メタリックブルーに輝く兜。 「――――」  それまでとは全く違った感情から、言葉がない様子の皇路操。  己の劔冑を失わずに済んだ装甲騎手。 「……壊させなどしない。  この〈逆襲〉《アベンジ》は、決して」 「では、破壊されたのは――」 「予備騎です。  これはこれで損失ですが、取り返しのつかないものではありません」  色と形状から察するに、ホットボルトの正統後継騎サンダーボルトか。  皇路操が過去に使っていた騎体だろう。  溜息を一つつく。 「手間が省けてしまいましたね」 「全くです」 「粋な覆面姿のお歴々にはお礼を述べておきましょうか。どうも聞いて頂ける状況にないのが残念でございますが」  確かに、彼らのお陰だ。  もうタムラの予備騎を村正に調べさせる必要はない。  銀星号の気配が未だ在るか、そのことは訊ねておく必要があるが。  この予備騎が寄生体であったのなら消失している筈――だが、よもやそれはあるまいと思えた。  あの〝卵〟を得た劔冑は村正の能力の片鱗をも獲得する。  手榴弾一個で素直に爆破されてしまうのはお粗末に過ぎた。  ……つまりは、ほぼ決定したと云える。  明日の、大和GP決勝戦への、俺の参加が。 (確かに、そんな夢を抱いて眠った事もある。  だがまさか、今更――)  それが叶うとは。  全く、世の中は油断がならない。 「お父さん……!」  困惑に天井を仰ぐことでけりをつけて、ふと視線を傾けると父親にすがりつく皇路操の姿が目に入った。  皇路氏は優しげに頭を撫でてやっている。 「済まないな、操。不安にさせて。  お前にも教えてやれれば良かったんだが。こういう事はこっそりやらないと意味がないからな……」 「……ううん。  良かった……本当に」 「……良かった……」  ただそう繰り返すばかりの娘。  ふと、俺は安堵のようなものを覚えた。  兎も角にも、ここには守り通された何かがある。  それは良いことに違いない。守られなかったよりも。 「……操。  お前も言ったように、この騎体はお父さんの全てだ」 「……」 「一分二五秒一三。  ――知っているな? 操」 「……うん。  ヌヴォラーリ……」 「そうだ。  ……昨年、この鎌倉サーキットの落成式典に招かれた世界最速の男。六年連続欧州統一王者ヌヴォラーリが叩き出した記録だ……」 「僕はあの領域に挑む。  世界の〈頂上〉《いただき》を望んで果たせなかった過去に逆襲する」 「……」 「翔京の〈玩具〉《オモチャ》など敵とは思わない。  僕が狙うのは世界の最高峰だけ……」 「そのためのアベンジ。  そのためのお前だ」 「お前達は僕が必ず守る」 「……お父さん……」 「だから……  超えてみせてくれ」 「世界の極限を。  僕の〈逆襲〉《アベンジ》を果たしてくれ。操」 「……」 「……はい。  お父さん……」 「明日……必ず勝ちます。  そして……世界に」 「ああ……」 「…………」  ――世界、か。  世界の頂点。  そこに、ただ独りで在るということ。  その夢に魅せられた者が速さを望む。  誰にも優る速度を求める。    他の全てを突き放し、孤立を得るために。  その夢を諦めた者は、諦めなかった者の背を眺める。  観客席から、疾走する騎影に己の失われた夢を託す。    だが、両者の距離は余りにも遠い。  ……やはり俺は、〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》の器ではないのだ。  子供の頃、確かに夢見ていた筈なのに、いつの間にか諦めて忘れ去っていたのだから。  孤独な世界を。 «大和初、〈装甲競技〉《アーマーレース》国内統一選手権……  大和〈GP〉《グランプリ》» «決勝まで勝ち残った二十の〈戦隊〉《チーム》。そして、彼らの戦いを見るために詰め掛けた観客席の人々……。  麿がなぜこの大会を開いたか教えましょう» «美よ!  麿は美しいものを見たいのよ!» «強い者は美しい!  〈巧〉《たくみ》な者は美しい!  賢い者は美しい!» «そして、速い者も美しいッ!  風すらも置き去りにして直向に駆け抜ける姿は、ただそれだけで目を奪われる美しさに満ち満ちている!» «その美しさの極限は何処?  決まっているわ……それは最も速いもの» «最も速い者は、最も美しい!  麿はその雄姿を見るために大和GPを開催したのよ!» «いいわね? あなた達……  選ばれし二十の騎手!» «最高の美を見せなさいッ!» «ここに――  大和GP、決勝戦の開始を宣言する!!» «えー、程良い感じにナチュラルジャンキーな開会挨拶でした。ありがとうございます。  決勝開始までもう間もなく! 司会と解説はワタクシ、〈弾丸雷虎〉《ダンガンライガー》がお送りします» «なんでよッ!?» «放送席で大声出すなよケバ太» «誰がケバ太かっ!  司会も解説も麿の手配した人間がちゃんといるはずでしょ!? なんであんたなの!» «あー、あいつら腹痛で休み。  賞味期限の切れた牛乳なんて飲むから» «……牛乳?» «や、ここんとこ伊豆高原の牛乳の売れ行きが悪くてさー。〈北曾〉《えぞ》産に押され気味で。  うちの蔵にもだいぶ余ってんだよね。ヨーグルトになりかけのとか。バター風味のとか» «あんたが飲ませたんじゃないのッ!!» «さー、各チームとも現在ピットで騎航準備に余念がありません!  ミスは許されない! 戦いは既に始まっている!» «ではここで最速を争う二〇チームを順々に紹介していきましょう。  まずはポールポジション――» «翔京ワークス〝三城七騎衆〟!  騎体は黄金の翼の〝〈 理想 〉《ウルティマ・シュール》〟。  騎手は〈真剣勝負〉《ガチンコ》最強と知る人ぞ知る〈来馬豪〉《くるまごう》» «昨日の本予選では騎体名に恥じぬ凄まじい〈騎航〉《はしり》を見せてくれましたッ!  まさに〈装甲競技〉《アーマーレース》の覇王! 圧倒的なパワーでこの決勝も制することができるか!?» «……そうね。今のところはここが一番期待できるかしら。  ともすれば俗っぽい黄金の翼も、全国制覇の意気の顕れと思えば悪くなくってよ» «美しく闘いなさい!  その黄金が〈鍍金〉《メッキ》と笑われないようにね!» «続いてタムラワークス〝〈 T・F・F 〉《タムラ・ファイティング・ファクトリー》〟!  騎体は青く輝く〝〈逆襲〉《アベンジ》〟、  騎手は悲運の天才の血を受け継ぐ皇路操» «こちらの騎体も翔京ウルティマと同様昨日が初登場! 驚天動地の爆走でしたッ!  あれはこの青い〈劔冑〉《クルス》の性能を限界まで出し切った結果か。それとも更に先があるのか!?» «せめて、まぐれではないことを期待するわ。  決勝をつまらない勝負にはして欲しくないもの» «限界を究めなさい!  その青いボディにかけて!» «……おっと、開始が近いようです。  巻いていきましょう» «三番手、シーサイドバーサーカーズ。  ここはアソシエイブルのセミワークスです。騎体は新鋭騎〈RG-一〇〉《レーシング・テン》CX» «奥の手スリッパークラッチは果たして効果を発揮するのかッ!?» «ここの騎体はデザイン面であまり冒険してないわねぇ。  性能の高さは認めるけど» «四番手はヨコタンワークス。  騎体は世界を獲った名騎ハウンドの発展型〈超越猟犬〉《スーパーハウンド》» «この騎体からベルト駆動へ転向!  チェーンの翔京シャフトのタムラに対して優位を示したいところだが!?» «相変わらず不恰好な面構えね……。  でも速さは正義よ。世界の頂点に立つための姿がこれだというなら、貫き通しなさい» «続いてはベルトの本家、ヒラゴーワークス。  新型騎〝〈魅惑〉《セクシー》〟を投入して五番グリッドを確保!» «その異様なほど滑らかな〈騎航〉《ハシリ》には定評あり。  ……しかしセクシーって何だ?» «この会社のネーミングセンスは時々よくわからないわね……» «六番手、鎌倉マツイ。  フラッグシップ〝〈芸者〉《ザ・ゲイシャ》〟に試作品と思しき部品を積み込んでの登場だ!» «……ここもさぁ……  どうしてこう毎度毎度、大和マニアの外国人がつけたみたいなネーミングなんだ?» «そういう人が担当なんでしょ?» «七番手!  ゲッコーワークス、騎体〝〈疾走紳士〉《ジェントルダッシュ》〟!» «……おーい……» «……いつの間にか面白ネーミング選手権になってるんじゃないでしょうね? この大会……» «えー、では一一番グリッド。  官公庁代表ポリスチーム» «騎体は予選で破損した〈火箭〉《ホットボルト》に代わり、その独自アレンジバージョン――» «〝〈串焼腸詰〉《ホットドッグ》〟だぁッ!» «てめーもかオイ!!» «それ、あんたがごり押しで突っ込んだ騎体と騎手でしょうがッ!!» «……何よ、あの名前……» 「……いや。  お前の改装に手一杯で、名前を考えている暇が……」  指定のグリッドに並びつつ、村正のぼやきに答える。  若干の違和感はまだあった。外観擬装以外の意味を持たないパーツの取り付けが、扱い慣れた劔冑の感覚を異なるものにしている。  いささかならず煩わしい。  その思いは村正の方により強いものがあるだろう。 「それにこれはこれで一応、歴とした由緒を持つ名前ではある」 «いい加減なこと言わないの。  私が無知だと思って» 「……本当なんだが」  抗弁は呟きに留めて、周囲を見回す。  見世物扱いのこの処遇に使命感で耐えているらしい村正の神経を更に逆撫でするのは、無益なことでしかない。  ピットの方角から視線を感じた。  訝しげ、あるいは興味深げな。〈競技用劔冑〉《レーサークルス》を装っているとはいえ、彼らプロの〈整備師〉《メカニック》までは騙し通せないのか。  ……流石に、彼らとて触ってみなくては真打と断定するのは無理であろうけれども。  その疑念程度は持たれていても不思議ではなかった。レースが終了したら、早めに姿を消すべきだろう。  タムラのアベンジも同種の視線を浴びている。  ……いや。違うものも混ざっていた。  翔京のピットから向けられているそれ。  いくつか、戸惑うように揺れるものがある。  ……成程。  公にされていない筈の(大会本部に報告はしたが、何の〈反応〉《リアクション》もない)昨夜の襲撃について知る人間か。  襲撃団を送り込み、爆音を聞いた時点で、策の成功を確信していたのかもしれない。  であれば彼らには無傷の青い騎体があたかも不死の怪物のように映るだろう。動揺も当然といえた。  だが、先頭に立つ黄金の騎手にそんな様子は見受けられない。何も知らないのか、知っていても既に心の整理をつけているのか。  彼は自分の世界に没頭を始めている。他の騎手もだ。  辺りに注意を散らしている者など俺しかいない。  やはりどうにも、浮いている。  仕方ない。彼らとは目的が違う。  彼らはレースで首位を奪うためにここにいる。だが俺は、彼らの一騎をあるいは撲滅するために、ここへ来ているのだ。  このレースの中で、俺は異分子に過ぎない。 「村正……気配はどうだ?」 «……相変わらず、強く感じる。  でも方向、距離はやっぱりわからない……この周辺なのは間違いないのだけれど» 「そうか」  やはり何らかの術による隠蔽か。  二〇騎――否、俺を除いた一九騎の誰かが寄生体と見るべきだ。  誰であっても不思議ではない……。 「孵化時期は?」 «……もしかしたら、今この瞬間にも。  正直、そうならないのが不思議なくらいに〈揺れて〉《・・・》いる……» «今日という日が昨日と呼ばれる頃までは、決してもたないでしょうね。  覚悟しておいて、御堂» 「心得た」  孵化は必ず今日の内。  おそらくは、この決勝の内。  一瞬たりと気は抜けないという事だ。  心身を即応の体勢に置いておく必要がある。 «……さぁ全ての〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》がスターティンググリッドに揃った!  いよいよスタートです!» «全騎手、全観衆、スタートランプに注目を!  あれが青になった瞬間だッ!» «大和最速を決する勝負が――  今、火蓋を切るッ!!» «各騎一斉に飛び出したぁーーーッ!!  凄まじい〈爆音交響曲〉《エグゾースト・シンフォニー》!» «群を成してホームストレートを駆け抜けてゆく! 危険だッ! クラッシュの発生率は今この瞬間が最も高いィィィーーーッ!!» «あぁーー!?  一三番、浮いた――――» «直撃ッ!  接触を避けようと無理な騎首転換を行った一三番、チーム・サワダ! 浮いてしまった!コースアーチに激突ぅッ!» «直ちに救助が行われます!» «無様ね。  翼の扱いを知らない鳥は、落ちて当然よ» «吹き飛んだアーチの修復も手早く行われております。この辺りはさすが熟練のスタッフ、仕事に無駄がない。  一方レースは――» «第一コーナーへ突入ッ!  先頭はやはりか! 翔京ウルティマ!» «続いてヨコタン、タムラ、マツイにアソシ、後は団子だ!  最後尾はポリスチーム!» «さぁ、この順位!  最初のコーナーを抜けてどう変化する!?»  …………予想通りと言おうか。 「足の性能が違い過ぎるな」 «…………»  数打劔冑は真打劔冑に劣る。  それは現在における常識であり、疑いない事実でもある。  が、数打劔冑の〈性能的容量〉《キャパシティ》が八しかないとしても、その全てを速度と運動性の増強に費やした〈競技用劔冑〉《レーサークルス》は――一〇の容量を戦闘力と機動力に五ずつ分配している真打劔冑に足の競い合いで負ける筈もない道理だ。  この分析は余りにも数学的に過ぎようが。  実際、力量の差はそれほどにあった。 «……駆けっこで勝つのが目的じゃないんでしょ。いいじゃない、別に» 「その通りだが。  余り遅れるようだと不都合が生じる」  後方に取り残されればそれだけ、孵化が起こった時に駆けつけるのが遅れる。  その遅れが被害者の数を一桁増やさないとは、断言できない。 〝卵〟覚醒の瞬間に訪れる災厄は銀星号。  諸人を殺し、殺し尽くす天象、その複製なのだ。  せめて下位集団の渦中に位置したいところだが……。 «ポリスチームがコーナーを曲がる!  なんというかッ――堅実な騎航だ!» «……なにあれ。  劔冑の性能も騎手の力量も凡庸。見るべき点が無いわね» «…………» 「…………」  気のせいだろうか。  肌に触れる甲鉄から、何かこう、刺すようなものを感じるが……。 «ウルティマがスプーンカーブを抜けるッ!  どうやら頭一つ抜き出たッ!» «続く集団はスーパーハウンド、RG-一〇、アベンジの三強! 激しい鍔迫り合い!  マツイはやや遅れたか!?» «おおむね順当な展開ね。  さあ、これからどうなるかしら……» 「うぅ……  湊斗さん、頑張ってー……」 「……とは言いましても、ねぇ。  〈競技用劔冑〉《レーサークルス》の足に〈軍用〉《ドラコ》で挑むというのは」 「無駄無駄無駄ァでございます。  例えるならそう、鳥と魚の競走とでも申しましょうか」 「比べようがねぇだろ、それ」 「つまりはそういうことでございます。  世界が違うのですよ、綾弥さま」 「くそー……。  じゃあこのままか。悔しいなぁ……」 「まぁま、お忘れなく。  景明さまの――わたくしどもの目的は別にあるんですのよ?」 「はい。  レース参加はあくまで方便でございます」 「……そりゃ、わかってるけどさ。  なんか見てると、こう……熱が入るんだよ」 「お気持ちはよくわかります。  湊斗さまご自身がその熱に流されねば良いのですが」 「あの方なら大丈夫でしょう」 「……見てみたい気も、ちょっとするけど。  そういう湊斗さん」 「ほっほっ。  さようでございますね」 「わかりました。お任せなさい。  今からわたくしが愛のエナジィを送ります」 「おい。  いきなり微妙なこと言い出してんだけど。あんたの主人」 「微妙というか、完全アウトでございますね。  どうかほうっておいてやってくださいませ。白く柔らかい壁に囲まれた密室の中で暮らす方々を見るような感じで」 「こういう時、窮地にある男に闘志を注ぐのは女の愛情ッ!  燃え盛る想いが景明さまを猛り狂わせ逆転の道を開きます! さぁ届けわたくしの愛!」 「ポップコーン食う?」 「ありがたく頂きます。  いや、懐かしゅうございますねぇ。私めの若い頃はこういう物もなかなか珍しく……」  S字カーブを抜ける。  我ながら、危なげのない騎航だ。  全く褒め言葉ではないが。  サーキットコースにおける速度と安全を限界の一線で両立させる〈競技騎航技術〉《レーシングテクニック》の持ち合わせがないため、速度を切り捨てて安全を取っているだけの話である。  観客にしてみれば面白くもなんともあるまい。  どうにも仕様がないので、勘弁して貰うしかないが。  先頭からの遅れはそろそろ半周になろうとしている。現在進行形で伸張中であり、縮まる気配はまるでない。黄金騎は騎手も騎体も調子が良いようだ。  どうしたものか。  この際無理に追うのはやめ、あえて周回遅れになるべきかもしれない。要は選手達に近接できればそれで良いのだ。  ……根本的解決とは言い難いが。  一時的には近付けても、また引き離されれば同じ事。  こちらの速度が大きく劣っているという事実がある以上、騎手達と至近距離を保つという希望はどうにも成立しない。  いっそ発想の転換が必要か。  コースを無視して飛ぶなど…………?  一手ではある。  が――競技放棄、競技妨害とみられればそれまで、レースから排除されてしまう。ポリスチームが蒙るであろう多大な迷惑も看過し得ない。  何か良い策はないだろうか。 «おっ、アソシが抜きに掛かった!  インを攻める――が、駄目だッ!» «ヨコタンのスーパーハウンドが一枚上手!  がっちりラインを封じられては手も足も出せず! 二位三位の変動はありません!» «良い攻防ね。  ……それに引き換え、最下位のあれは何なのよ。どん臭いったら» «よっぽどの駄作なのね、あの〈劔冑〉《クルス》» «…………»  ……黙りこくる村正が妙に気になって仕方ない。 «先頭がコントロールラインを越えたっ。  これで五周! 六周目です!» «残り一五周。そろそろ中盤戦に差し掛かります。  状況はやや膠着してきたか?» «そのようね。  翔京を筆頭にヨコタン、アソシ、タムラ、マツイ……上位陣は順当なところで安定しているわ» «一方、下位の情勢はいまだ混沌。  激突ありコースアウトありの激しいデッドヒートを繰り広げています!» «しかし、最後尾のポリスチームだけは孤立気味だッ! やはり予備騎での参加は無理があったか!? 昨日の事故が痛かった!» «それでもポリスは〈騎航〉《はし》る! ご来場の皆様、血税ではありません! 彼らは皆様の税金を浪費して参戦しているのではありませんッ!月給です! 月給から費用を捻出しています» «安月給の貴重な一部、一食の食費を三〇円から二〇円に切り詰めて貯めたお金で彼らは駆ける! 偉いぞ警察! 頑張れポリス!  失われた給料にかけて飛べ、〈串焼腸詰〉《ホットドッグ》!» «いけー〈串焼腸詰〉《ホットドッグ》!  負けるな〈串焼腸詰〉《ホットドッグ》!  頑張れファイトだ〈串焼腸詰〉《ホットドッグ》ゥーーー!!» «うわーん!  応援してるこっちがアホみてー!» «ほっときゃいいでしょうがッ!?»  悩むのを打ち切る。  ……やはり、そうそう虫の良い手はない。 「村正。コースを外れるぞ。  この際は止むを得ん」 «………………» 「上空から選手集団を把握し――――  ……村正?」 «…………。  〈騎航〉《はし》れば……いいんでしょう……?» 「おい?」 «速く飛べばいいんでしょう。  ……速く……飛べばッ!!» 「応答しろ、村正。  状況を認識しているか」 «……ッッ»  していなかった。  いや、むしろ状況に没頭しているというべきなのか。  村正の注意は遥か先へ集中している。  遠い彼方を駆ける〈競技用劔冑〉《レーサークルス》達に。 「村正――」 «舐めるな〈餓鬼共〉《・・・》!!  ぺらぺらの紙細工がッ!!» «〈真物〉《ほんもの》の劔冑の力――  思い知りなさい!!»  おい。  その前に。  何をするつもりなのか、俺に思い知らせて欲しいのだが。 «〈磁装・正極〉《ながれ・まわる》!»  ……〈磁気鍍装〉《エンチャント》!  防御障壁となる負極とは逆性の、自分自身へ向ける正極―― 「冷静さを回復しろ村正。  その手は俺も考えた」 «――――» 「だが届かん。  消耗だけで終わる」  〈磁装・正極〉《エンチャント・プラス》は甲鉄全領域を分割・複層的に磁化してゆく事によって生じる反発と吸着を利用し、あらゆる駆動系を効率化する術。  機動力の上昇も見込める。  が、〈陰義〉《シノギ》の必然として〈熱量〉《カロリー》の消耗を必要とし、その程度は効果の高さに比例する。  劇的な効果を――レーサークルスに伍する速度など――を望めば無論、消耗は大きく。  持続する筈がない。そもそも、そんな真似が可能であるのかすら疑問だ。  結論として、この状況では無効の一手。 «――御堂。執行を» 「対話が成立していないように思える」 «私が貴方を〈あそこ〉《・・・》へ送る!  嘘はつかない。御堂、これが貴方の欲していた最善の手よ»  ……とてもそうは思えないが。  脳内で計算を行う。  このまま興奮状態の村正と言い合いを続ける場合。  ひとまず好きにさせる場合。  どちらがより不毛か。どちらがより〈致命的な失敗〉《・・・・・・》か。  さほど掛からず、結論は出た。 「……〈磁気加速〉《リニア・アクセル》」  〈呪句実行〉《コマンド・オン》。  風が硬く、重くなる。  速度の急上昇がもたらすものだ。  先程までとは段違いに速い。  ………とはいえようやく、一線級レーサークルスの一番下に引っ掛かったか、というあたりだが。  とりあえず、前方との差の拡大は収まっている。  他騎手のミスを待って順位を上げることも可能かもしれない。無論、こちらはミスをしないという前提でだ。 「……これで満足か?」 «ここからよ» 「何?」  纏う劔冑の低い呟き。  何とはなし、不吉なものを感じ取る。  ――甲鉄が、異様な〈ナニカ〉《・・・》を帯びた。 «天地万物に吸引の力有り。  この作用を〈引辰〉《インシン》、力を〈辰気〉《シンキ》と称す――»  …………!?  これは――まさか。  まさか。 「何の真似だ!?」 «〈辰気収斂〉《シンキシュウレン》»  甲鉄の周囲にエネルギーが満ちる。  それは村正が性質として備える、磁力操作ではない。  全く異なる力。  だが良く似ている力―― 「これは……重力操作……」 «……の、亜流といったところね» 「何故そのような事ができる?  これは、」 「これは……  〈銀星号〉《・・・》の〈能力〉《ちから》だろう!」 «〝卵〟を壊して野太刀の断片を回収した時に〈おまけ〉《・・・》でついてきたのよ。  微々たるものだけれどね»  ……〝卵〟は銀星号の力の結晶。  今回の〝卵〟はそこに村正の力――野太刀の破片を加えて生成されている。  野太刀の破片が村正の元へ戻る時、混合した銀星号の〝力〟も一緒に引き摺ってきたという事か……! 「扱いきれるのか?」 «この高度なら。たぶん、辰気は地表に近いほど御しやすい……はず。  〈先代〉《かかさま》のようにはいかないけれど……足回りを軽くするくらいのことはできる» «〈もどき〉《・・・》共に一泡吹かせるには充分よ!» «御堂!» 「――〈辰気加速〉《グラビティ・アクセル》」 «…………えーーーーーーーーーー!?» «なんじゃありゃァーーーーーーー!?» 「愛、届いたッ!?」 「嘘ぉーーーーーーーーー!?」 「ぶはッッ」   (→ポップコーン噴いた) «すげー! すごいぞホットドッグ!  なんだかわけわかんねー加速で一気に追い上げたぁーーーーーッ!!» «なんでよっ! なんであんな騎体であんなスピードがあんな急に出るのよ!  ありえないわっ、監視員に連絡! なにかおかしな器械を使ってなかったか確かめて!» 「村正! 速過ぎだ!  誰がどう見てもこれは変だッ!」 «ちょっと……力の制御が……  でも追いついたんだからいいでしょ!?» 「それはそうだがここまで異様に目立ちたくはないっ!  後で困るッ!」 «なら、後で困っておいてっ!» 「俺は来月の〈装甲競技〉《アーマーレース》雑誌の表紙を『謎の超新星現る』などという月並みなコピーと一緒に飾るつもりは毛頭ないのだ!」 «良かったじゃない子供の頃の夢が叶って!» 「速度を落とせーーー!!」  渦巻く力に振り回〈されて〉《・・・》いるらしい村正に叫ぶ。  届いているのかどうか知れたものではないが。  もはや風を感じない。  空気はどこかへ消失していた。ここはそんな領域。  〈清々〉《すがすが》しい。  素晴らしい。  ……冗談ではない。  ここは装甲競技の中にさえ〈無い世界〉《・・・・》だ。  そんなところに行ってしまってどうする。  甲鉄表面を駆け巡る力に精神の指先を伸ばす。  村正だけでは抑えかねるのなら、こちらからも制御するほかない。  沸騰した滝のようなエネルギーの渦を握り締める。  意識が白熱。脳梁が弾けた。左脳と右脳が分断され自己が二つに割り裂かれる。  封じる――  もう少し―― «おお!? ホットドッグ、加速が止まった!  結局なんだったのかさっぱりわからんけどとにかく限界に達した模様» «安定した騎航に戻るようです» «……それでもまだ……さっきまでの騎航に比べると随分速いわね。  これが本当の性能なのかしら……?»  重力加速を制御可能範囲内に縮小。  姿勢安定回復。  ……ようやく落ち着いた。 「このペースを維持するぞ、村正。  もう加速は無しだ」 «ええ……» «やー、すごかったね。  そういやおめー、あれに凡庸だの駄作だの散々言ってなかったっけ?» «……くっ。  わかったわよ。取り消すわよ、認めるわよ» «あの騎体は並ではないわね。  どうにもよくわからないところがあるけど……» «あの加速は超常的で――美しくもあったわ。  あれを見せただけでも、この決勝戦に参加する資格はあったと言えるでしょう» «主催者サマのお言葉でした。  良かったねー、ポリスの人!» «ふふっ» 「…………」 «――翔京ウルティマ、ライン通過!  一二周目に入りました!» «上位陣は相変わらず不動!  一〇周前後で各チームとも〈補助推進器〉《アフターバーナー》交換のためにピットインしましたが、ピットクルーの奮闘に優劣なし。結局順位はほぼ変わらず» «見てる側としてはそろそろ動きが欲しい!  だが、難しいかッ!?» «そうね……。  今、レースは完全にあのウルティマに支配されていると言っていいわ» «彼がペースを作っている。  ほかの騎手はそのペースに沿って〈騎航〉《はし》っているだけ……» «為す術もなくね。  どうにかしたい、とは思ってるんでしょうけれど。やっぱりウルティマの力は頭ひとつ抜きん出ているわ» «このまま翔京の勝利で幕を閉じてしまうのかッ!?»  ……一二周目。  残り八周。  ピットインは丁度半分、一〇周目で済ませた。  ……今、背中に付いているレーサークルス用の補助推進器は飾りに過ぎない。ピットに戻る必要など無いのだが、しかし戻らねばこちらの正体が露見する。  戦闘状況と比べれば熱量の消耗は大幅に抑えられるレース競技、このサーキットを二〇周程度であれば、俺と村正は強いて休憩を取る必要もない。  が、それは競技用劔冑ではまず有り得ない話だ。  そうして後半戦に入っている現在。  順位は中盤と下位の境目というところ。  レースの勝ちを狙うなら、そろそろ強引にでも前へ出てゆくべき頃合だが。俺の目的においてはこの位置がほぼ理想的である。  無理をする必要はなかった。先刻の如きは特に。  騎手達の様子に目を配る。  誰も彼も、空気の流れと付近の敵の動きを把握することに腐心している様子だ。特に異奇な行動を示している者はいない。 「全員を疑わねばならないという事だ。  未だ」 «……そうね»  肯定の言葉に不同意の調子を乗せて、村正。 〝卵〟寄生体の存在をこの眼で確認できていないかもしれないという仮説を、事ここに及んでもやはり受け入れる気にはなれないようだ。沽券に関わるのだろう。  そういう部分で村正が酷く頑固、強情であることは既に知っている。  ……仮に知らなかったとしても、先の一幕があれば充分だが。  最も遠い先頭集団に目を凝らす。  前の周回で確認した時と何も変わらなかった。順位も、様子も。  首位は最初から今まで一貫してウルティマ。  スーパーハウンド、RG-一〇、アベンジがその後に続く。  ……さて。  いつまでおとなしくしているつもりだろう?  彼女は―――― 「…………」 «そろそろ温まったか?  操» «……うん。  いつでも、いける» «立体交差を越える!  ウルティマ、ミスを犯しません!» «危なげないわね。  むしろ続く連中の方が怪しくなってきたわ» «おおっ!? 本当だ!  スーパーハウンドとRG-一〇がいま接触しかけた!» «アソシが抜きに掛かってヨコタンが防いだようだが……  今のはどちらもタイミングを外していた!危険です!» «無様ねえ。  ウルティマに支配されるレースに耐え切れなくなってきたんでしょう» «〈騎手〉《レーサー》なんて人種はプライドの塊……  完全に頭を押さえられたこの状況はきっと、屈辱的でたまらないはずよ。ほほほほほっ» «なるほど!  誰しも他人のことはよくわかるようです!» «どういう意味かっ!» «さぁ、バックストレート!  ここで態勢を立て直したいところ――お?» «アベンジが……  速度を落としています!» «……本当。  危なっかしい二騎から離れるつもり?» «間違った判断ではないけれど……  消極的ね» «……いや。  こいつは、多分……あの» 「翼をください。  私は空を駆けたいのです」 「翼をください。  私は風と戯れたいのです」 「翼をください。  私は鳥になりたいのです」 「翼をください。  私は空も風も鳥も裏切りたいのです」 「私の翼は全てを裏切る。  全てを捨て去り忘れ去り、なかったものにしてしまう」 「なぜならこれは恋ではないから。  なぜならこれは逆襲なのだから」 「空は私を厭い風は私を憎み鳥は私を妬め。  慟哭をかき鳴らしてこの名を唄え」           「〈〝逆襲騎〟〉《アベンジ・ザ・ブルー》」 «え? なに!?» 「始まったか」 «来たーーーーーーーーッ!» «こ、この加速は……ッ!» «タムラ・アベンジ、本性を見せたッ!  〈爆走〉《スコーチ》〈爆走〉《スコーチ》〈爆走〉《スコーチ》ィィィーーーーーーーーー!!» «やはり昨日のあれはマグレではなかったッ!  サーキット場の熱が見せた幻でもなかった!  この爆走はリアルな現実だぁッ!!» «凄い……!  さっきポリスチームが見せた魔術のような理解し難い暴走とは全く違う» «完成された機構による統制された爆走よ!  美しい! 美しいわぁ!» «抜いたッ! RG-一〇!  アソシエイブル社の誇る傑作騎、防ぐとかどーとか以前に反応できませんでしたッ!» «ヨコタン、スーパーハウンドも後塵を拝す!  いつの間にか後姿を見せ付けられているッ!騎手の愕然とした顔が見えるようです!» «タムラ・アベンジ、皇路操ッ、一躍二位へ急浮上ぉーーーーーッ!!» 「…………すげぇ」 「まるで青い光……」 「さしずめ〈青い稲妻〉《ブルーライトニング》といったところでございますね。  いやはや……これはなんとも」 「これでレースが荒れてくる。  状況はどう転ぶかわからなくなってきた。俺たちにとっても」 «……あ、ええ。  そうね……» 「どうした」  しばし、村正はアベンジの疾走に気を取られていた様子だった。  確かにあれは瞠目に値する。が、昨日も同じものを見ている筈だ……いや。  装甲競技を好かない村正のことだ。  寄生体の確認だけして、後は無視を決め込んでいたのかもしれない。 «……少し、思ったのよ。  少しだけだけど» «………理解はできないし、したいとも思わないけれど。  今の鍛冶師にも彼らなりの魂はあるのね» 「…………」 «ちょっと、そう思ったの。  それだけよ……» «これはっ……  凄まじい勝負になってきたァーーーッ!!» «直線ではタムラ・アベンジ!  爆発的な速力で首位を強奪するッ!» «しかし、コーナーでは翔京・ウルティマ!  大きくリアを振りながら回るアベンジの懐を容易く破って引き離す!» «それでもアベンジ、完全に振り切られはしない! 粘るッ! そしてストレートで逆転する!» «両者一歩も譲らず!  まさに頂上決戦だぁーーーーーっっ!!» «す――素晴らしい……ッ!» «只今の周回のタイムが出ました。  ……これはすごい!» «翔京ウルティマ、一分二五秒八七!  タムラアベンジ、一分二五秒八八!  どちらも大和人騎手のコースレコードッ!» «百分の一秒の争い!  どちらに軍配が上がるのか、まるで見えません!» «力のアベンジ。技のウルティマ……  いいわ! どちらも最高よ!» «荒々しい野性の美と、精緻を極める技巧の美……どちらがより美しいのか。  答えを教えて頂戴!» «さあどちらだっ! 主催者の求める答えは果たして両者のいずれが与えるのかっ!  もっともワタクシは、別の答えが出されてしまうよーな気がしなくもありません!» «え?» 「……くっ、こうなってしまったか。  馬鹿どもが失敗したばかりに……」 「かくなる上は……」 「……私だ」 「ああ。手筈通りやらせろ。  ……嫌がっている? そんなことは承知の上だ。中将閣下のお言葉ではないが、奴らは自尊心の塊だからな」 「だが言ってやれ! そのプライドを買ってやるとな……どうせ勝ち目はない今日の勝負での意地を売り、明日の勝負での勝ちを買え、と」 「資金援助に技術提供、やつらが喉から手が出るほど欲しがっているものを約束してやれ。  そうすれば動くだろう」 「……案ずるな。後でどうにでも誤魔化せる。  とにかく我々には今日の勝利が必要なのだ。そうだろう? そのためには詐術のひとつやふたつ、こなさねばなるまい……」 「…………」 「………………」  ――――?  周囲で、状況が動いた。  下位を争っていた数騎が姿を消す。  俺は孤立した格好になった。  急に辺りの風通しが良くなる。 «おっと。後方で異変です。  いくつかの騎体がタイミングを同じくして減速っ» «後退していきます» «接触でもしたの?  まあどうでもいいわ。終盤が近いのにあの調子じゃ、どうせ勝ち目はないでしょう。  邪魔にならないようにどいていなさい» «邪魔にならなきゃ、いいけどねー?» «……さっきから何よ、あんたは»  …………そうか。  放送席のライガー女史が示唆しているのは、事前に予測されていた可能性。  つまり、〈始まった〉《・・・・》というわけだ。 «……え?  ちょっと、ちょっと!» «おおーっと、これはアクシデント!  中盤の争いから脱落した騎手らが周回遅れになってトップ二騎に近接» «アベンジ、進路を塞がれた格好になった!» «青旗は出ないの!?  どうせ騎体にトラブルを起こして落ちてきた連中でしょう! さっさと脇へどかせなさいよ!» «いやいやところがあのお歴々、周回遅れになった途端に調子が回復したようでーす。  決勝参戦騎にふさわしい〈騎航〉《はしり》を取り戻しているー。わー。がんばれー» «………なんでそっぽ向いて耳ほじりながら言うのよ?» «別にィ?» «…………» 「……くそ!  こういう手できたか」 (……どうする……) (いざとなれば……) (……〈いざ〉《・・》となれば……) (いや、だが、数が多すぎる。  くっ……どうすればいい) 「……っ……」 「……!」 «ウルティマ、再び単独トップに立った!  アベンジは追えないッ! 周回遅れ集団に捕まってしまっている!» «皇路操、振り切ろうと悪戦苦闘しているが……だめだっ! 完全に囲まれた格好!» «…………» «この状況をどー思われますかサボテンさん» «誰がサボテンよ。  ……これもレース。そうとしか言いようがないわ» «およ? 意外にクールな回答» «ただ速いだけでは勝てない。そういうものでしょう? 〈装甲競技〉《アーマーレース》は。  優秀な騎体、騎手の技術、熟練のスタッフ、充分な資金……それだけでも足りない» «他者を自分のために利用する能力。これは絶対に必要な力よ。  競技が一対一で行われるものではない以上は、ね» «タムラにそれが無いのなら仕方ないわ。  敗れなさい。それだけのことよ» «……なるほど。  ごもっともであります» «確かにタムラにその力はないだろーね。  けどもしかしたら、別の力があるかもしれない» «なによ?» «幸運。  どっかの〈他者〉《・・》が、たまたまタムラのために動いてくれるとか» «……は?»  放送席の声は、歓声と爆音の渦をついてコース上にも届く。  耳を傾けているのは俺だけであろうけれど。 「……背中を押されているようだ」 «やるの?» 「やらざるを得ない。  この形勢は俺にとっても不都合極まる」  今、周囲に併走する騎体はない。  俺が遅れたわけではないから、順位は繰り上がっている。が――それは俺にとって何の意味も持たない。 「より多くの騎体に近接し、危機に備えるのが俺の責務。  それは偶々、アベンジの利害と一致する。確かに彼女は幸運なのかもしれない」 «素直じゃないのね。  助けたいんでしょう?» 「俺を決勝に参加させたライガー女史の期待には応えておかねば、筋が立たぬ」 «本当にそれだけならいいけれど。  御堂。私達が誰かに好意を示すという事は» 「――説明無用。  承知している」 «ええ。  ……けどそれでも、人の心はままならないものだから»  諦観のような呟きを聞き捨てて、母衣の制御に集中する。焦りさえしなければ急減速は難しくない。  つまりは焦りを誘う状況で求められる事が多いからこそ危険なのだが。 「あ……!」 「〈やる〉《・・》みたいね? どうやら」 「はい。〈見物〉《みもの》でございます」 「けど、数の差があり過ぎないか?」 「問題ではありませんよ、綾弥さま。  装甲競技において真打は数打の敵たり得ず。しかし、ま、それもまっとうに足を競い合うならの話で」 「アベンジを囲んで固まっているあの方々はボウリングのピンも同然ですの。  すぐにわかります」 「……」  低速騎航を続行。  何秒も待たされはしない。 «後方から青いのが恋人の群れを引き連れて接近。  どうするの?» 「加速準備。  集団に併走しつつ、機を見て割り込む」 «何処?» 「先頭が良いだろう。  村正、力加減を誤るな。〈撫でる〉《・・・》程度で充分だ」 «それは比喩よね?» 「違う。  優しく、優しく撫でろ……子供をからかうように」 «……諒解……?» «おおーー!? これはどうしたことだ!  大きく後退したポリスチームがアベンジを囲む周回遅れ集団に接触! ゼッケン一五番を吹っ飛ばしたぁっ!» «ゼッケン一五、後退! 包囲集団から離れます!  慌てて追うも速度が伸びない! 今の痛烈な当たりでどこかやられたか!?» 「良し。まずまずだ。  打撃は与え、破壊はせず。ほぼこの力加減で問題ない」 «……なに? えっ?  今のが打撃になったの? 冗談でしょう?» «肩で軽く〈つついた〉《・・・・》だけじゃない!» 「お前が言ったことだろう。  あいつらは〈紙〉《・》細工だと」 «…………。  そ、そんな甲鉄で……» «こんな速度を〈騎航〉《かけ》ているの!?» 「そうだ。  故に、レーサーの引退理由の一割は事故死であり」 「二割は再起不能の負傷。  レーサー一〇人のうち三人までが、競技場で人生を失うのだ」 «……狂ってる» 「ああ。狂ってしまったのだろう。  世界の先端に〈一人でいる〉《・・・・・》という夢に狂ってしまったのだ」 「彼らは……」 «……» 「アベンジに進路を開けるぞ、村正。  我々はレースの勝敗を放棄している。にも拘わらず他の騎体の進路を妨げるならばそれは競技への妨害であると言わざるを得ない」 「アベンジの脱出後、周囲の騎体が追おうとするかもしれないが、それは阻止する。何故なら彼らも勝敗を捨てているからだ。  以上、方針を達する。村正?」 «……諒解。  子供をからかう力加減で……ね» 「――――!!」 「な――何ぃ!?」 «破ったッ! 囲みを破ったッ!  ポリスチームの乱入で出来た隙に、タムラ・アベンジが食いついた! 突破ッ! 包囲陣からの脱出に成功しましたッ!» «…………» «あまりと言えばあまりな展開! あまりな幸運!  大会主催者今川中将が思わずパープリンになってしまうのも無理はありません!» «写真に撮って後ほど公開しようと思います» «撮るなっ!  ていうか、幸運じゃないでしょ! あれ、あんたが押し込んだ奴じゃない!» «さぁっ、アベンジが追う!  ウルティマを追う!» «勝負は再びこの両者の一騎打ちとなるか!?» «聞きなさいよっ!» «…………まあ、いいけどね。  この方が麿の好みでもあるし» 「――良し。  このまま彼らと戯れ続ける」 「俺の目的にも、競技の公正な進行にもそれが最善だ」 «ではあるけれど。  そうもいかない様子ね» 「何?」  周囲の騎群が離れてゆく。  減速して―― 「もう一度やる気か!」 «周回遅れになって妨害ね。  どうするの?» 「させぬ」 «ポリスのホットドッグ、逃がしません!  徹底的にこの下位集団と遊ぶことに決めた模様!» «重装甲恃みの体当たりを武器に威嚇します。迂闊に前へ出ようとすると餌食! 下位集団、彼から離れられません。  さすがホットボルトベース。乱闘に強い!» «ちょっと強過ぎるような気もするけれど。  いくらホットボルトの甲鉄が厚いったって所詮はレーサークルスでしょう?» «あんな扱いに耐えるものなのかしら?» «まあそれはそれとしてトップ争いへ視線を戻しましょう。  アベンジがウルティマを再び射程にとらえようとしています!» «一六周目のバックストレート!  アベンジ、ウルティマに並ぶかぁッ!?» 「……っっ!?」 «――――届かない!  アベンジ、ストレートでウルティマを追いきれず!» «コーナーで引き離されていきます!» «……伸びが足りないわ。  どこかを痛めたようね?» 「いかん!  フロントサスアームをやられている!」 「さっきの乱戦の時ですか!?」 「くっ……!」 「どうします?  ピットインさせて、交換を……」 「そんな暇はない!  あと残り三周なんだぞ!」 「じゃあ……!」 「……ッ……」 「……」 「皇ちゃん……」 「……通信機をくれ」 「え?」 「早く!」 «ウルティマ、一八周目!  ……アベンジもコントロールライン通過!» «しかし、ウルティマとの差は歴然!» «自分の戦場である直線で勝ちきれないのだから当然よ。  あなたの言った『幸運』、ほんの少し足りなかったみたいね?» «……だやな。  まっ、仕方ねーか。勝負ってのはこーいうもんだし» «……にゃふー» «何よ? 溜息ついて。  そこまでタムラに肩入れしてたの?» «まーね。大久保クンに言っとけよ。  おめーらの勝ちだ、好きなだけ稼げってな» «?» 「…………。  届かぬ、か」 «どうするの?» 「俺にできる事は何もない。  このまま結果を見守るだけだ」 «それでいいの?» 「正当な勝負の結果であるなら。  ここへ至る過程には色々あったが、それでもタムラが勝負から降りず、サーキットでの決着を望んだのは事実」 「ならばその結果は厳粛に受け止めねばならない。タムラも、タムラに賭けた者も。  ……まだ勝負はついていないが。ライガー女史は既に受け入れる覚悟を済ませたようだ」 «…………。  残念、ね» 「ああ」 (……届かない……) (届かない、届かない……!) (どうして……!) (このままじゃ負ける……!  負けてしまう) (お父さんが負ける!  わたしのせいで、負ける……!) (そんなのだめ…………) «――操» 「お父さん……!」 «何をしている。  やるんだ» «〈勝つためにすべてを〉《・・・・・・・・・》» 「……!!」 «第一コーナーの手前。  そこで仕掛けろ。そこでしか〈効果〉《・・》はない» 「……で……でも。  お父さん……それは……」 «彼らと〈同じこと〉《・・・・》をしてやるだけだ。  そうだろう?» 「……」 «操……お前は知っているはずだ。  僕がかつて未来をむしり取られたことを» «騎手としての僕はあれで終わった。  だが、お前という娘を得て、もう一度ここまで帰ってきた» «三度目のチャンスはない。  今日タムラが負ければ、装甲競技は翔京の守銭奴どもに支配される» «僕は負けられないのだ!  操!» 「……っ……!」 «操……  僕に勝利をくれ! 世界へ行きたいのだ!» «世界へ逆襲したいのだ!  僕の操、お前さえも、わかってはくれないのか!?» 「…………いいえ。  わかる。わかります、お父さん……」 「この命をくれたのはお父さん。  この命のすべてはお父さんのために」 「血と肉と力のすべては、お父さんの願いを叶えるために……!」 «操……» 「わたしとアベンジはそのためにいる……  そのためにしか、いない……!」 「どうやら決着のようでございますねぇ……」 「…………」 「ええ……。  どうなさいましたの? 一条さん」 「ん、いや、別に……。  なんか、少し……」 「胃の辺りがむずむずしてきた。  嫌な感じだ」 「……嫌な……」 «アベンジ、粘る! 粘ります!  しかし届かない!» «最後まで勝負を諦めない姿勢は立派よ。  その執念が奇跡を呼ぶかしら……» «起きないから鬼籍って言うんですよ» «何が言いたいの、あんた» «けどま、そーだねぇ……。  奇跡が起きりゃ話は変わるんだ。〈奇跡〉《・・》が» «〈ちゃんと〉《・・・・》起こせるかなァ?  奇跡……» «??» «さあホームストレートッ!  ここを抜ければ一九周目だッ! ラスト、二周!» «お――?» «あ――?» «アベンジ、ラストスパートか!?  速い! 速いが――» «こりゃちょっと無茶じゃねえ?» «無茶よ。翼が割れかけてるわ。  あんなの何秒ももたない» «んで、そのあとはツケが回ってガタガタになるな。  ヤケになっちまったか?» «このまま負けるよりは……と思ったのかもしれないわね。  けど残念ながら、同じことよ» «アベンジ、ウルティマを抜いた!  抜いたが――限界だッ!» «翼が折れるわよ!» «アベンジ……速度が落ちます!  限界に達しているっ!» «ウルティマ、その背後を容易く取る!  スリップについた!» «……やっぱり、無駄に終わったわね» «さぁ、第一コーナーが近い!  ウルティマ、その前に抜きに掛かる――» 「……」 «!» 「――――!!」 「ッ!?」 «――――あっ» «……激突ッ!?  ウルティマが……コースアウトしてサンドトラップに突っ込んだわ!!» «それどころじゃない……  客席まで突っ込んで、爆発してる……» «丁度抜きに掛かろうと速度を上げたところで、事故を起こしたのね……!  なんてこと……» «…………» «ちょっとあんた、ぼーっとしてないで解説しなさいよ! こんなのレースでは良くあることでしょ!?  アベンジは……無事ね! 〈騎航〉《はし》ってる……» «まさかこんなことになるなんて……  これは奇跡と言っていいのかしら……» «とにかくアベンジがトップに立ったわ。  神はあの青い騎体を選んだのね……!» 「…………」 「……〈その手〉《・・・》使うのかよ。  馬鹿が……それじゃなんにも面白くねえ」 「レーサーの癖に……  アベンジなんて怪物創ってみせた癖に……  どうして、速く〈騎航〉《はし》る〈以外〉《・・》の事を考える?」 「神話が出来たかもしれないのに。  最後の最後で三文芝居に〈堕〉《おと》しやがった」 「……っ……」 「おい。  雷蝶」 «ん?» 「あて、帰るわ。  あとよろしく」 «え? ……え? ちょっと!  どうしたのよいきなり» 「興味なくした。  もーいい、どうでも」 「……あー。くそ。  つまんねえ……」 「…………」 «…………» «……御堂。  あれは……この競技で認められていることなの?» 「…………」 «…………»  ――――――――汚された。  汚されて、しまった。 «――ええ。麿は大いなる満足と共に今こそ告げましょう。  美しい闘いを見た、と!» «不幸な事故はあったけれど……それもまた闘いの彩り。危険あってこそ輝くものもある。  薔薇の棘は鋭いものよ» «かくも美しく、苛酷な闘争を勝ち残った者は最大の賞賛を浴びるに値するわ。  タムラ・ファイティング・ファクトリー!» «あなた達が勝利者よ!  大和グランプリの栄冠はあなた達のもの!» «あなた達が――  史上初の〈装甲競技大和統一王者〉《アーマーレースナショナルチャンピオン》なのよ!!» «おめでとう!  さあ、〈勝利の杯〉《トロフィー》を掲げなさい!»  ……体が重い。  だが、装甲を解く気にはなれなかった。  解けばきっと、泥のように眠ってしまう。  心と体に圧し掛かる疲労が俺を強制的に安らかな夢へ放逐してしまう。  耐えるだけの力を、今の俺はきっと持たない。 「景明さま」 「どうでしたか」 「ほとんどのチームは帰ったようです。  観客も……」 「タムラは」 「皇路親子は先ほどようやく記者達から解放されたようでございます。  つい今しがた、ガレージへ戻りました」 「有難うございます。  ――村正」 «ええ» 「〝卵〟の反応は」 «まだ、この周辺にある。  覚醒寸前の状態のまま……» 「わかった。  ……消去法で、結論は出たと云えよう」 «……そうなるかしらね» «でも、どうして……  〈寸前〉《・・》で留まっているの……?» 「湊斗さん……  これから、その」 「この先は俺の職責。  お前は戻れ。指示あるまで待機だ」 「……あの。  あたしも……!」 「帰れ」 「…………はい」 「大尉殿も。  後の事はどうかお任せ下さい」 「……わかりました。  後程、またお会いしましょう」 「……では。  失礼致します、湊斗さま」 「ご武運を」 「…………」 「……!  これは……湊斗さん、ですね?」  〈劔冑〉《ツルギ》姿でやにわに現れた俺へ、皇路卓は驚きの表情を向けた。  彼の後ろに、皇路操。俺と同様に〈劔冑〉《クルス》を纏ったままだ。レースから今まで、解く暇もなかったのだろう。  兜だけが外され、傍らに置かれている。  折しも除装するところであったのか。  他にスタッフの姿は見えない。  皇路親子、二人きりだ。 「どうしました、そのような格好で。  まだお帰りではなかったのですか?」 「はい。  やらねばならぬ事が、ありまして」 「……?  まさか、わざわざ祝いに来てくださったのですか?」 「いや、申し訳ありません。お待たせしてしまったでしょう。  入れ替わり立ち代わり、マスコミの襲撃に遭いまして。はは、なかなか――」 「残念ですが、違います」 「……は?」 「――本当に残念ですが。  そのような用件ではありません。皇路氏」 「…………では、一体」 「自分は警察としての職務を果たしに参ったのです。  犯罪を摘発するという職務を」 「……!」 「……」 「田村甲業勤務、皇路卓。並びに皇路操。  貴方がた両名を殺人容疑で逮捕します」 「署までご同行下さい」 「…………な、なんですかそれは。  何のことだかさっぱりだ」 「ウルティマの事故のことですか?  あんなのは装甲競技では珍しくもないことです……」 「はい」 「――ウルティマは客席まで突っ込んだ上に爆発、炎上。  本人を含めて六名の死者と一五名の負傷者を生じさせました」 「……っ……!」 「が……  確かに装甲競技では起こり得ること。特筆すべき事態とは言えません」 「〈事故〉《・・》であるなら」 「そ、そうですよ。  それに第一、あの事故と僕らは何の関わりもない! ウルティマの騎手が焦ってミスを犯しただけです」 「〈否〉《いいえ》」 「うッ……!?」 「ウルティマに焦る理由はありませんでした。  あの状況下、焦っていたのは貴方がたに他ならない」 「違いますか」 「……そ、それは確かに……我々にも焦りはありました。しかし翔京とて同じです。  優勢な側には、優勢な側なりの緊張があるものですよ、湊斗さん」 「その点は否定しません。  しかし自分は翔京の騎手の事を些か知っています。彼はそんな緊張感程度で培った技術を見失うような男ではないのです」 「……だ、だから何だと!  だから我々が何かしたに違いない、とでも言うのですか!」 「とんだ詭弁だ!  湊斗さん、あなたの言うことには何の筋も通っていない! 名誉毀損です!」 「本来なら訴えるところですが、あなたには恩があります。今回は忘れましょう。  お帰り下さい! 早く!」 「…………」 「……ッッ」 「――あの時。  〈あれ〉《・・》を確認できたのは、ウルティマ・アベンジ両騎の様子を後方から窺っていた自分と」 「極めて注意深く、且つ位置と視線の方角が適切であった観客席の人間。これは幾人もいないでしょう。  しかし少なくとも一人はいました」  大鳥大尉の事である。 「な……何を言っているのだか。  さっぱり……」 「ウルティマがアベンジを抜くために、アベンジへ注意を集中させた瞬間。  アベンジの甲鉄の一部が〈鏡面化〉《・・・》し、日光を反射した」 「!!」 「スリップを活用して抜こうとした、まさにその瞬間です。  ウルティマの騎手は視覚を潰され、制御を失い――コースアウトし」 「惨事を引き起こした。  自分自身を含む、二一人を犠牲者とする」 「……」 「……しょ……証拠……  証拠は……!」 「そこに有ります。  ――皇路操。直ちに除装すべし」 「その〈競技用劔冑〉《レーサークルス》を証拠品として押収します」 「うっ……うぅ……!」 「……」 「うっ……ああああ!」 「……お父さん!」 「……無意味な行動です。  その銃を捨てて下さい。それはただ、貴方の罪を増やすだけに過ぎません」 「はは……無意味?  違う……違うな」 「レーサークルスの事なら何でも知っている……この距離で、この口径の弾丸は防げない。  湊斗さん。あなたがいなくなればいいんだ。あなたさえ……」 「無意味です」 「あなたが……  あなたが僕の勝利を奪うのなら……」 「銃を捨てなさい」 「――死ねッ!  死んでしまえッ!」 「……ッ!?」 「……」 「ば……馬鹿な。  そんなはずが!」 「……投降せよ。皇路卓。  貴方の抵抗は不可能である」 「なっ……なぜ……!  レーサークルスの薄い甲鉄で、防ぎきれるはずがないのに……!?」 「……ま、  まさか……それは……」 「それは……ぁッ!?」 「村正。外すぞ」 «やっと?  良かった。ようやく息が継げる……» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……〈真打劔冑〉《シンウチ》……ッ!  そんな、どうして、警察が……!?」 「皇路卓。銃を捨てよ。  皇路操。劔冑を除装せよ」 「両名に投降を命ずる。  一切の抵抗は不可能」 「あ……あぁ……」 「……」 「どうして……  どうしてこんなことになる」 「やっと……勝利を手にしたのに。  やっと、世界に挑戦できるのに」 「みっ、湊斗さん……あなたは僕を応援してくれていたんでしょう!  僕の無念を知っているでしょう!」 「僕は……僕は、ようやくあの挫折からここまで還ってきたんだ!  どれほどの苦労だったか! あなたなら、わかってくれるはずです!」 「……」 「見逃してください……!  お願いします……お願い……」 「貴方の苦労は知っている。  烏滸がましくも、同情さえする」 「みっ……湊斗さん……」 「しかし。  貴方は人を〈殺〉《あや》めた」 「……ッ!」 「……湊斗さん……  やったのは……わたしです……」 「……お父さんじゃ……ありません……」 「み、操……」 「…………」 「しょ、翔京の奴を殺したから……何だっていうんだ。  あなたも見たでしょう! 奴らこそ先に、僕達を傷つけ――殺そうとしたんだ!」 「奴らと同じことをしてやったに過ぎない!」 「彼らと同じ事をしたのなら。  彼らと同じく、罪を負うという事」 「ぅぐッ……」 「――一歩譲って。  仮に、そこに目を瞑るとしても」 「事故に巻き込まれた観客の人々に対しては、一切の弁明が通用しない。  彼らは貴方に何をしたわけでもない。にも拘わらず殺され、あるいは重傷を負った」 「うっ……うぅぅ……  くそっ、くそっ、くそぉっ!!」 「……」 「観客がどうした!  あいつらは僕が活躍している間は拍手喝采を送って寄越し、勝利の余光を浴びて愉しみ」 「ひとたび僕が挫折すれば、あっさり忘れて次の英雄へ笑顔を向けたような連中だ!  奴らは僕を消費しただけだッ! 食い物のように! 玩具のように!」 「そんな奴らをどれだけ巻き込もうが、僕の知ったことか!  知ったことかぁっ!!」 「……投降せよ」 「ぐっ……あああ、あああああ」 「投降し、縛につけば危害は加えない。  法に基いた待遇を保証する」 「逮捕されれば、僕はどうなる……  操はどうなる」 「今日の勝利は……  世界への挑戦は!」 「……」 「奪うんだな!?  全て、何もかも、僕から奪うんだな!?」 「諦めろと――  またしても僕に、諦めろというのか!」 「嫌だぁッ! 嫌だ嫌だ嫌だ!  あんな思いは一度でも嫌だ! 二度も味わわされてたまるものか!」 「渡さないぞぉっ!  今日の勝利は僕の物だ! 世界への道は僕の物だ! 誰にも渡さないぃっ!!」 「皇路卓。  それはもはや貴方のものではない」 「貴方が……  闘い方を、誤った時に。失ったのだ」 「認めなぁい……  認めないぞ、僕はァ……」 「操……  クルスを纏えぇ!」 「……お父さん……」 「皇路卓!  投降を!」 「操ぉッ!」 「……はい」 「皇路操。父の指示に従っても意味は無い!  〈競技用劔冑〉《レーサークルス》をどう操ろうと抗戦は不可能!」 「除装せよ!」 「……ごめんなさい。湊斗さん。  きっと、あなたが正しい……」 「けど……間違っていても……  わたしはお父さんに従います」 「……っ」 「そうだ……操。  僕らは別々のものではない。一つのものだ」 「僕はお前だ。  お前は僕だ」 「はい」 「お前の勝利が僕の勝利だ。  だからお前は勝たなくてはならない」 「はい」 「僕はお前を勝たせなくてはならない……  何をしても」 「――!?」 «御堂!  ……あれは――!!»  皇路卓が懐から取り出したもの。  拳大の、輝く球体――  銀星号の〝卵〟!!  ……植え込まれていなかったのか!?  〈銀星号〉《ひかる》はあのまま手渡したのか!! 「だから発見できなかったのか……!」 «だから孵化しなかったの!?» 「お父さん……  それは……」 「〈ちから〉《・・・》だ。  きっと、とてもとても、恐ろしいちからだ」 「銀色の悪魔に、貰ったのだよ」 「それを直ちに引き渡せ、皇路卓!  それはお前に何も与えない!」 「ただ奪うだけだ!  何もかもを!」 「……ああ。悪魔もそう言った。  これを使えば何もかも失う」 「そして、引き換えに……  望むだけの力を得られると」 「最速の世界を制する夢が叶うと!」 「欺瞞だ!!  確かに力は得られるかもしれない。しかしその力はお前も、娘も、食い破らずにはおかない!」 「だからどうした?  僕は自分の滅びには耐えられる。僕の一部、操を失うことにも耐えられる。  耐えられないのは……」 「僕と操の勝利が失われることだけだ!!」 「皇路卓ッッ!!」 「操ぉッ!  僕らは勝つ! 必ず勝つんだ!!」 「……はい。お父さん」 «御堂ッ!  だめ、止めて――!» 「ぁ――ぁぁあああッ!!」 「――――お父さん!?」 「ぐ……」 「おああああああああああ!!」 «〝卵〟が――!!» 「っ……!」 「お父さん!  ……お父さんっ!!」 「い……いけ。  いけぇ……操ぉぉ!!」 「勝つんだ!  世界に勝つんだ!」 「血が……あぁ……!」 「操!  僕はそこにいる!」 「そのアベンジが僕だ!  お前の血肉が僕だ!  忘れたのかッ!」 「……っ……」 「世界を超えろ、操!  僕の騎体で!  僕の技術で!」 「僕を……世界の頂点へ連れて行ってくれ!  操ぉぉぉぉぉぉっっっ!!」 「あ……ああ、あ」 「あああああああーーーーーーーっ!!」 「……そうだ……操。  速く……速く〈騎航〉《はし》れ……」 「世界の、先端……まで…………」 「……ああ」  皇路卓は死んだ。  殺してしまった。  しかも、止められなかった……!  ただ――殺した、だけ……か。  何という……  酷劣な、罪悪。  俺は……また……。 «御堂!» 「…………」 «御堂ッ! 追って! 追うの!  あの〝卵〟は覚醒寸前だったの! きっとあれは他の劔冑で〈培養〉《・・》された後、摘出されたもの……» «だからこれまでは決して孵化しなかった。  けど今は違う! 〝卵〟はあの劔冑の中で孵化に向かって進んでる! もう間もない!» «このまま待てば――ここがどこかわかっているでしょう、御堂!?  〈鎌倉が滅ぼされる〉《・・・・・・・・》!!» 「……!!」  そうだ。  今は――独り善がりな悔恨に浸っていられる時ではない。  自傷という名の自慰行為を惨めに楽しむなら、全てが終わった後の事だ。  今は為すべき事が……ある。 「――行く」 «ええ!»  ――思えば。  記憶の全ては〈兄〉《ちち》の存在で満たされていた。 «敵騎捕捉!» 「……サーキットに向かっているのか?」  皇路操と皇路卓は実の親子ではない。  歳の離れた兄妹だった。  卓の父が老境に差し掛かってから後添えを迎え、操を産ませたからだ。  そして産ませるや、死んだ。なんとも無責任極まることに。  夫に先立たれた若い妻も無責任さではひけを取らなかった。さっさと姓を復し、新たな男のもとへ嫁いでいったのだ。子供は連れずに。  似合いの夫婦だったというべきだろう。  残されたのは卓と操。  その頃、卓にとってはもう一つ大きな事件があった。  大戦の幕開け――  閉ざされた未来。  家族の崩壊と、騎手としての死……  兄の絶望の渦中で、操は誕生したのだ。  だから操は兄の栄光を知らない。  操にとっての兄は転落から始まっている。  ――兄の失意。  皇路操の原点。            00:00:00  ホームストレートに入った青色の騎体が、スタートラインを越える。    速い。 «引き離される……!» 「磁装を行う!  〈導源〉《コイル》を走らせろ、村正!」 «諒解!  ――〈磁装・正極〉《ながれ・まわる》……» «〈磁気加速〉《リニア・アクセル》!»  卓は操の父になることを決意し、そう呼ばせた。  その時点で、彼の不器用さを推察し得る者もいるに違いない。そして実際、彼はサーキット場以外のあらゆる場所で不器用だったのだ。  彼の育てぶりは、本人の責任によらず突如扶養家族を背負わされたという点を差し引いても、決して褒められたものではなかったろう。  天才騎手は子育ての才能を全く持たなかった。  幼少期、操は色々な不自由をした。  同世代の子供達に比べて、より多くの我慢をした。  そうさせたのは彼女の兄だと言って良い。  けれどそこには愛情があった。  兄の養育が操に良い何かをもたらす時も、悪い何かをもたらす時も、根本の起点は常に愛情だった。  だから、充分だった。  皇路操は人生の全てを幸福の中で過ごした。            00:14:55 「もう一段!」 «いいのね!?» 「今は一瞬でも刹那でも早く追いつくことが必要とされている!  他は全て些事!」 «諒解!  辰気、招き集わせ〈手繰〉《たぐ》る» «〈誘聘〉《ゆうへい》――» «〈辰気加速〉《グラビティ・アクセル》!»  〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》になってからも。  多くの苦痛を味わうようになってからも。  操の兄はサーキットにおける闘い方のほかに知る事がなかった。  それしか教えられる事がなかった。だから教えた。  しかし操の中に才能を見出して以降は、そこに明確な意欲が加わった。  卓は操が、己の代わりに闘えると知ったのだ。  彼は操に全てを教えると告げ、事実そうした。  訓練は辛かった。  専門の勉強も苛酷だった。    何より、資金を集めるための労働には心を削られた。  それでも操は不幸ではなかった。  兄の愛は変わらずそこにあったから。  兄は操を求めていた。  絶対的に必要としていた。  悲願を叶えるために。  ……それは。  あるいは最早、愛ではなかったのかもしれない。  だが、求められていたのなら、  何物にも代え難く、必要とされていたのなら、  それは愛に近しいものだ。  ――例え、そうではなかったとしても、  皇路操という少女には充分だった。  幸福に生きるためにはそれで充分だった。  兄の求めに応えることが喜びだった。  彼女は知っていた。  自分はそのために生まれたのだと。  〈知っ〉《きめ》ていた。            00:36:43 「――良し」 «届く――»  皇路操の腕は兄の腕。  皇路操の足は兄の足。  兄が創り、育てた、兄のための身体。  この命は、唯、  兄の願いを叶えるためにある。  兄の願い――            00:49:64 「……なっ……」 «そんな――» «辰気まで使っている、私よりも……  更に速い!?» 「……ッッ」 「一分二五秒一三。  ――知っているな? 操」 「僕はあの領域に挑む。  世界の〈頂上〉《いただき》を望んで果たせなかった過去に逆襲する」 「だから……  越えてみせてくれ」 「世界の極限を。  僕の〈逆襲〉《アベンジ》を果たしてくれ。操」  ――一分二五秒一三。  その超越が、兄の願い。  一分二五秒一三!  皇路操の、打倒すべき敵――            01:00:38 「村正ッ!  ここから――仕留める!!」 «どうやって――» 「〈裏〉《・》だ!」 «……諒解!» «〈磁気鍍装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》!!» 「翼をください。  空をひた駆けるために」 「翼をください。  〈私〉《ちち》の願いを叶えるために」 「翼をください。  願いに打ち克つための翼を!」 「〈〝逆襲騎〟〉《アベンジ・ザ・ブルー》!!」  ――吉野御流合戦礼法。 〝〈飛蝗〉《ヒコウ》〟が崩し。 «〈電磁擲刀〉《レールガン》――――〝〈呪〉《カシリ》〟» 「……避けた!?」 «――嘘っ!!»  光の一閃にも等しい電磁抜刀の投射を……  避けた、  ――――だとッ!?  世界の先端に独りで立てと、兄は言った。  独りで――兄であり己である、この皇路操だけで。  何もかも振り切って。  追いすがる全てを振り捨てて。  孤独へ。  たった一人分の、その〈場所〉《スペース》へ――            01:07:44 «……駄目……!  追えない! 追いつけない!»  それは初めて聞くかもしれない、  村正の挫折。  彼女にそれを強いたものは銀星号ではなかった。  真打武者ですらなかった。  武者とも呼べない、玩具の使い手。  現代の、神秘の技法からは遥か遠い、浅薄な技術で造られた〈競技用劔冑〉《レーサークルス》が――入神とさえ謳われる劔冑に絶望を強いた。 「……っ。  やむ無し」 「村正!  敵騎の進路と速度を計算、合流可能地点で待ち構える!」 «……御堂。  でも、それじゃ……孵化に間に合うか» 「わからぬ。  だが他の〈途〉《みち》は潰えた」 «……諒解!  じゃあ、目標地点は» 「――ホームストレートほぼ中央。  コントロールライン。〈ゴールライン〉《・・・・・・》だ」 「そこへ直進で向かう」 «……駄目よ。  それではこちらが先に着く! 待たされることになる» «時間の無駄は可能な限り減らさなくては。  あの直線の入口のあたりで待つべきよ» 「――否。  それでは俺達はアベンジの背を拝むことになる。そして二度と、追いつけない」 «そんな、はずは――» 「敵騎の〈速力〉《あし》は〈更に伸びる〉《・・・・・》!  村正、俺の判断に従え!」 «――――諒解!»  〈騎航す〉《かけ》る。  〈疾駆す〉《かけ》る。  〈飛翔す〉《かけ》る。  皇路操はここにいる。  皇路卓はここにいる。  〈青洸騎〉《アベンジ》はここにいる。  世界の先端は、  そこにある。            01:20:04 「……村正!!」 «――――――ッッッ!!»            01:24:57            01:24:89            01:25:02            01:25:07 「……お父さん……  わたし……届くかな」 「……届いた……かな……?」            01:25:10 «吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し……» «〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟»  ……村正、至極の一刀は。  青い稲妻の〈尻尾〉《つばさ》だけをわずかに捉え、切り裂いた。 「うむ……見事。  見事であった。皇路兄妹、そしてアベンジ」 「おまえ達の見せた煌き……  この光、終生忘れぬ」 「なぁ、」 「〈村正〉《ムラマサ》よ」 «…………» 「あの煌きを我らのものとしよう。  あの〈世界〉《はやさ》を我らが受け継ごう」 «……その速さをもって。  何を為す? 御堂» 「知れた事」 「天下に武を示す!」 «……うむ……» 「そして、父のもとへ至るのだ。  この光に血肉を分け与えた、父のもとへ」 「生まれながらに奪われていた父を、我が手に取り戻す!  〈唯〉《ただ》、それだけが光の望み!」 «……» 「愛する父をこの腕に抱くまで。  おれも走り続けてみせる」 「あの青い騎影を越えてゆこう」 «……そう、か» 「さて。  景明よ……」 「焦らすのはそろそろやめだ」 「そろそろ……また。  戯れ合おうじゃないか?」 「……野太刀の、鞘」 «ええ……» 「…………」 «御堂。  ……まだ、生きている» 「なに……?」 «劔冑は完全に破壊されたけれど。  乗り手は……まだ» «……あの劔冑が……  守ったのかも、ね……» 「…………」 «……どうするの?» 「…………」 «そう。  わかった» «なら、せめて……  あの子が生き延びることを祈りましょう» 「……ああ」  ――どのように努力しても。  彼女を憎むことはできそうになかった。  嫌うことも。  その誤り、為した行為の瑕瑾をあげつらうことさえ。  彼女が父に尽くしたのは孝の道に沿う。  人としての美しい在り方。  ただ従い、ただ尽くし、ただ捧げる――  それは忠孝の一種ではあっても決して高等なものではないと、かつて述べた学人がいる。  俺もその見解に同意できる。  だが――  一途な、愚直な孝の姿を前に据えて、賢しらな口を叩き、未熟と断ずる度量は、俺の持ち合わせるものではなかった。  人として。  彼女は正しく在ると、心は理屈を超えてそう評する。  ――〈だから〉《・・・》。  俺は皇路操を殺すことになった。  皇路操は倒れている。  青い甲鉄が粉々になって、周囲に散らばり、あたかも菫の花畑のような情景をつくっていた。  彼女の瞳は俺を映さない。  既にここにはいないのだとわかった。  彼女は彼女のいるべき世界へと行った。  世界の最先端。  唯一人の、彼女だけの処へ。  ――〈音速領域の姫〉《レディ・ザ・ソニック》。  彼女はもう、この下界には帰ってこない。  ここに横臥するのは、彼女の名残り。  彼女を偲ぶ、最後のよすが。  それを断ち切った。  完全に。  ――こうして彼女はいなくなり。  後には俺の、罪だけが残る。 「……………………………………」 『鎌倉サーキット場整備員の手記』 一〇月三一日 第一回大和GP決勝戦  優勝 タムラ/アベンジ  二位 ヨコタン/スーパーハウンド  三位 アソシエイブル/RG-一〇CX ※終盤までレースをリードしていたのは翔京ワークスのウルティマ・シュールであったが、一九周目の第一コーナーでクラッシュ。リタイヤした。  尚、騎手は死亡。 ※レース終了後の晩、タムラ・アベンジは謎の騎航を行い、クラッシュ。全壊した。  騎手は皇路操であったと思われるが、この日以降、彼女の消息は不明。  またほぼ同時刻、タムラのガレージでメカニックの一人が死亡している。  しかしこれについて警察からもタムラからも公的な発表はなく、彼の氏名ほかの素性は明らかでない。 ※上記の事件については様々な憶測が飛び交い、一々記す事もできない。また大半は荒唐無稽なものである。  だが、大和GPの背後に装甲競技賭博化を巡る抗争があったことはほぼ事実とみられ、  翔京がこれを進め、タムラがこれに反対していた事も、複数の関係者が私的な発言で明らかにしている。  賭博化について愛好者の間では賛否両論だが、大和GPにおける皇路操とアベンジの騎航は既に半ば伝説的であり、あの騎影に想いを寄せ再来を願う風潮は党派の枠を超えて強く――  彼らはタムラの姿勢に協調、結集して賭博化反対の宣言を行い、徹底抗戦の構えを見せている。  大和GPで敗れた翔京が賭博化をいまだ断念していないとしても、実現は困難を極めるであろう…………  愛するセシリーへ    白と静寂の季節がまたやって来た。君は体を壊したりなどしていないだろうか? 君のことを想う時間は東の果ての島国で憂鬱な日々を送る僕にとって唯一の安らぎの在り処だが、冬はそれすら不安の影で覆おうとする。早く僕に無事を伝えて欲しい。もし、万が一にも、そうではないのなら――今すぐこの手紙を放り捨ててダクソン博士の診療所へ向かうように。金銭的な心配は一切いらない。大和へ渡る前にきちんと話をつけてある。  あるいは体は健康でも、何か他の心配事があったりはしないだろうか。そのような時にはフロリダの母を頼って欲しい。敬虔な彼女が異教徒を憎悪している事は君も知っているだろうが、よりいっそう憎むものがある事実についてはどうだろう? 彼女は一度身内と定めた人間が理不尽に傷つけられるとき、十字軍にも勝る戦意を発揮せずにはおかない。敵が盗賊であろうと、集金袋を提げた女王騎士であろうと――パン屋の主人が今日最後の白パンにつけた法外な値札であろうとも。彼女は僕にそうすると同様に君を愛している。どんな些細な悩みでも相談を持ちかけて構わない。  ああ、だが僕は何を言っているのだろう。これほど君の身を案じているのだから、今すぐに忌々しい海を越えて帰り、この両腕で君を抱きかかえて、あらゆる害悪から守るべきであるのに。君は僕がそうしない事について、大いなる失望を禁じ得ないのではないか?僕の愛情の不足に確信を持ってしまうのではないか?  セシリー、僕だけのセシリー、君だけの僕のことをどうか理解してくれるように。人の形をしたものの内で僕が最も愛しているのは君だ。しかし僕は、故郷をも愛しているのだ。僕と君を生んだ故郷の大地を。  ああ、〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》! この愛は君への愛と分かつことができないのだ。決して!  だから僕は君との一時的な別離を受け入れ、異教の劣等人種を相手とする任務に従事している。何と気の滅入る日々であることか。美しい文化はなく、気高い人々もおらず、君もおらず――ただ狭い島国の内側によくもこれほどと思うほかない黄色い猿の群ればかりが視界を蠢く。およそ人間性を保証された暮らしとは言い難い。  だが郷里への愛――ひいては君への愛が僕に忍耐を要求するならば、例え百年であろうと耐えてみせよう。無論、その百年を一年に縮めるための闘争であれば尚喜んで。君も理解してくれているものと信じる。僕らは――そう僕らは、この島国を必要としているのだ。  自由と平和のために。  小さなダニーにもどうか教えておいて欲しい。  生まれたばかりの君を置き去りにして、遠い異国へ去ってしまった父親は、決して尊い責務をおろそかにしたのではなく――君の未来を幸福に満たされたものにするため、我々の大陸の未来を獲得するために、 「少佐」 「……なんだ」 「D8号が出頭しました」 「通せ」 「はっ」 「へへ……  どうも、ご無沙汰しております」 「顔を合わせるのは久しぶりにせよ、必要な連絡は随時取り交わしていたはずだ。  無沙汰というのは適切ではないな。それとも今のは、あの鬱陶しい謙遜の美徳とやらか」 「けへっ。  相変わらず、大和語にご堪能なことで」 「現地語の習熟など任務の内。当然のことだ。  貴様らはよほど自分の国の言語が難解だと信じているらしいな?」 「違いましたかね」 「馬鹿馬鹿しい。大和語は単に原始的なだけだ。コツさえ飲み込めば理解は造作もない。  〈新大陸原住民〉《ネイティブ》の用いる絵文字と変わらん」 「こいつは恐れ入ります……」 「貴様の敬意を買いたくて時間を割いたのではない。私は暇を持て余してはいないのだ。  説明を聞くために貴様を呼んだ」 「説明ですか……」 「釈明と言い換えても構わない。  そちらの方が好みならな」 「へ、へ、へ……  じゃあ釈明を致しましょう」 「……」 「と言っても……困りましたねぇ。  やられちまいました、としか言い様がないんで……」 「それで私に納得を求めるつもりか?」 「そうできたら、楽でしょうねぇ」 「貴様に供与した〈劔冑〉《クルス》二領……  シンカイにガッサン、だったな。その二つが大した成果も挙げぬうちに失われた事実を、私は笑い捨てなくてはならないわけか」 「〈費用対効果〉《コストパフォーマンス》という原則くらいは知っているのだろうな?」 「割りに合わねぇ、って言いますよ。  こっちの言葉じゃあね……」 「劔冑は貴重な物資だ。  一騎が〈戦車〉《タンク》数台、歩兵一個中隊の編成費用にも勝る」 「ええ……  〈大和から没収した〉《・・・・・・・・》、貴重な物資ですねぇ」 「それが失われた結果、得られたものは何だ?  少々の殺人事件と、一村の壊滅」 「足りませんかねぇ。後の方は?」 「コストを投ずる意義がなかった、という点が問題だ。  あの村を滅ぼしたのは〈銀星号〉《コード・シルヴァー》であり、貴様の手配りとは何の関わりもない」 「結果的には、そういうことになっちまいました」 「その結果を論じている。  異議があるか」 「滅相もない……」 「しかも銀星号は今もって正体不明の存在。そんなものがいくら凶行を為したところで、我々の目的には寄与しない。  私は〈大和の武者の〉《・・・・・・》凶行を望んでいるのだ」 「つまり貴様の挙げた成果は零に等しい。  異議は?」 「……いいえ……」 「宜しい。  ならば私は貴様にあと一つ尋ねれば済む」 「雪車町一蔵。  貴様は無能か?」 「へ、へ、へ……」 「……」 「はいって答えちまえば、そりゃ楽でしょうねぇ?」 「そうだな。  貴様がそうしたいなら好きにするといい。私は別に止めん」 「ひぇ、へっ……  ま、お時間を頂いて、少しばかり説明ってやつをさせて貰いましょう」 「構いませんかね? ガーゲット少佐」 「選択の自由は既に与えた」 「へへ。  なぁに。別に銀星号なんかが来なくたって、あの村での工作は失敗していたって話でしてね……」 「大鳥香奈枝の件か。  確かに彼女の行動は私としても予期しないものだった。しかし彼女を適切に排除できなかったのはやはり貴様の能力不足だ」 「それで?  銀星号と大鳥大尉さえ現れないなら、もう二度と失敗することはないと?  そう言いたいのか」 「いや、いや。  ま、そう話を急がんでください……」 「ふん?」 「銀星号はどうしようもないとして。  大鳥嬢は少佐殿の方でどうにかして頂ける。けどほかにもう一つ、片付けなきゃならないもんがありましてね……」 「失敗の原因がまだあったというのか」 「月山を実際に潰したのは〈そいつ〉《・・・》です。見たわけじゃありませんが、まァ、間違いはないでしょう。  多分、真改も。こっちはまだ調査中ですが」 「何者だ」 「警察官です。  もっとも、表向きはいないことになってる様子ですが……」 「ガッサンを潰したと言ったな?」 「ええ。  武者ですよ。赤い劔冑を使います」 「銘は村正……  だ、そうで」 「ムラマサ?」 「……不吉な名前ですよ。  とびきりね……」 「警察局が秘密裏に武者を擁しているというのか?」 「ええ……」 「事の最初から話せ」 「こいつぁ、失礼を。  あの村に大鳥中尉……いや、大尉が現れた時、銃を向けられた例のお代官はキレちまいまして」 「大尉を叩っ斬ろうとしたんですがね。  そこで止めに入って、代官を追い散らしたのが問題の村正」 「……」 「それからなのか、最初からそうだったのかは知りませんが……  ご両所は手を組んで、代官殿の一党に対抗してきましてね」 「最後はお代官と月山を誘い出して撃墜……したんでしょうねぇ、まぁ。  あたしはその前にやられっちまったんで、見届けちゃおりませんが」 「それにしては言い切るな。  銀星号ではなくそのムラマサが代官どもを討ったと、何か判断する材料があるのか」 「お代官や村正はお山の周辺にいたはずなんですがね。銀星号はそっちに来なかったんで。  こいつは確かです。山にいたあたしが生き延びたんだから間違いありません」 「ふむ……  だが可能性としては、代官もろとも銀星号に片付けられたとも考えられるわけか」 「いえ。  そいつは無いんで」 「何故だ」 「つい先日、姿を見ましたから。  鎌倉の近くで」 「何をしていた?」 「……さぁて。  悪人退治、のようなことをしていたらしいですが」 「…………。  それがムラマサとやらの行動原理か?」 「へぇへへへへ……!」 「……」 「貴様の笑いは常に私を不快にするが……  今日はまた格別だな」 「へへ、へへへっ……  失礼しました……」 「ムラマサとやらを駆る〈騎士〉《クルセイダー》の名前は?」 「湊斗景明。  こいつとは村の一件以前に会った事がありましてね。その時に警察だと名乗るのを聞いてたんで……」 「ほう?」 「鎌倉の街中で、何かの捜査をしていたらしい湊斗とすれ違ったってだけの話なんですが。  その少し後に真改がやられたんですよ……」 「……面白いのは……  そのとき野郎と一緒にいた三人の学生が、真改――鈴川令法の教え子で、しかも獲物に選ばれちまってるんです」 「〈何故か〉《・・・》命は取り留めましたがね……  いや、一人〈別件〉《・・》で死んじまいましたが」 「つまり、シンカイはその三人を嬲っているところを〈何者か〉《・・・》に殲滅されたわけだな?  残りの二人から事情聴取はしたか」 「それが駄目でして。  一人、まだしもマシな方は真改に目を潰されちまってましてね。肝心なとこは何も見てません」 「もう一人、娘さんの方は……  身体も心もスクラップでして。どうにも」 「ふむ……。  だが、事件にムラマサが関与した可能性は濃厚だというのだな」 「ええ……。  真改も月山も、おそらく始末したのは野郎です。警察の仕事としてやってんだとすると、今後も食いついてくるかもしれませんね……」 「こっちの〈仕掛け〉《・・・》に」 「ふん……。  貴様の言いたいことは理解した」 「へ……」 「……警察だと?  馬鹿な。あの腑抜け共に六波羅を相手取る気概があるか」 「……」 「だが……だからこその〈秘密裏〉《・・・》か?  何にしろ、邪魔だな」 「へへっ……」 「警察であろうとなかろうと、まるで〈正義の〉《・・・》〈味方〉《・・》のように振舞うそやつの存在が噂にでもなれば……  我々の目論見に重大な支障をきたす」 「既になりかけてますよ。  野郎、結構色んな所でご活躍だったようで」 「……猶予は許されんということか。  そのムラマサが英雄になってからでは遅い」 「一度誕生した英雄はもはや不死だ……当の本人が死んでも人々の間の英雄像は滅びない。  大和の民衆の心にムラマサは生き続ける」 「困りますねぇ……」 「……ああ。  英雄は、我々進駐軍だけでいい」 「…………」 「対処についての意見を聞こう」 「まっとうな警察官なら、適当な理由つけて警察局に身柄を差し出させて、どっかの檻へ入れちまえば済む話でしょうがねぇ……。  警察局の名簿に奴の名は無いんで……」 「そんな奴はいねえってシラ切られたらそれまでです」 「……」 「といって、力ずくでやっちまおうにも……。  野郎は鎌倉署長の役宅に囲われてるみたいなんでね。押し込みを掛けるにゃ、ちょっと問題があり過ぎます……」 「当然だな。  強引な真似をして市民の反感を買っては元も子もない」 「ええ……。  その点を考えると、奴が出歩いてるところを狙うってのも旨くないですね。街中じゃあ目立ち過ぎます」 「街中じゃあねぇ……」 「……だから、郊外へ誘い出して処理する。  そういうことか」 「へへ……」 「手立ては」 「奴はどうも、銀星号に大層ご執心らしく。 『正義の味方』ならさもありなんてとこですが」 「……ほう?」 「例の村のお代官ね。村正に尋ねられたそうで。銀星号を知っているか、と。  そして、あの村がたどった末路を考えると……野郎は代官を狙って現れたんじゃあなく」 「銀星号と追いつ追われつしているうちに、たまたま立ち寄っただけなのかもしれませんね……。  だとするとなんで代官を殺ったやら……」 「……ふん。  だがともかく、『銀星号』は奴に対する餌として使える見込みがあるわけだな?」 「ええ」 「ではもう一つの問題だ。  誘い込むのに成功したとして、どうやって始末する」 「へっへ。  まぁ、難儀でしょうなァ……」 「井上真改は、中身はド素人だったにしても、名物中の名物……。  長坂代官も月山の爺さまも一筋縄じゃいかねぇ方々でした」 「それが殺られちまってんですからねぇ。  完全編成の〈竜騎兵一個大隊〉《ドラコスコードロン》……お貸し願えますかぃ?」 「……馬鹿なことを言うな」 「へ、へ、へ。  てぇなると……よその手を借りて片付けるしかありませんねぇ?」 「六波羅に頼めというのか。  あの意地汚い犬どもにそんな話を持ちかけてみろ、嵩にかかって何を要求してくるやら知れたものではない」 「一個大隊より高くつきかねん」 「勝手に噛み合って貰うのが最高ですねぇ。  誘い出す場所を選んで……」 「何処だ」 「こないだ拾った妙な〈情報〉《ネタ》を活用するってのはどうです?」 「…………なるほど。  悪くない」 「事が理想的に運べば一挙両得か。  目障りなものが二つまとめて片付く」 「〈左様〉《さい》で……」 「……いいだろう。その方針で進める。  明日までに計画の詳細を煮詰めておけ」 「諒解しました……」 「雪車町」 「はい」 「失敗は二度で充分だと思わんか?  人の失敗に耐えるのも、だ」 「へっへ……!  あたしは三度でも四度でも平気ですがねぇ。まっ、少佐殿にはそこまで忍耐を期待しちゃおりませんよ……」  雪車町一蔵は人を嫌わない。  己の正義を確信して全く疑わない――狂っているとしか思えないことだが!――あの少佐さえ、例外ではなかった。  愚かしいと嗤い、侮蔑もしても、嫌悪感は覚えない。  雪車町は、人間が好きなのだ。  その日その日を慎ましく送る市民も、市民の生活を搾取して肥える役人も、役人に取り入って悪銭を稼ぐ企業家も、そんな者共を憎んで戦う勇気の持ち主も。  分け隔てなく、雪車町は好いている。  そして、彼らと言葉を交わし、あるいは刃を交え、あるいは利用し、利用され、殴り伏せて泥水を吸わせ、蹴り倒されてドブ川へ捨てられ――  そんな関わり合いをするのがたまらなく好きなのだ。  善であろうと悪であろうと。  敵であろうと味方であろうと。  〈本気で生きる〉《・・・・・・》人間の姿は、雪車町を楽しくさせる。  だから。  もし、雪車町一蔵が誰かを嫌うのなら。  心底から――  誰かを憎むのなら。  それは。 「……へ、へ、へ……」 「へぇッへへへへへへへェ……!」  この世の悪を憎むということ。  それが、父の残した最大のものだった。  父は教えた。  悪とは何か。  略奪、  騙詐、  背信、  奸佞、  一つ一つ、父は教えた。  子供が悩まぬよう平易な、しかし丁寧な言葉で。  だから教えは理解できた。  しかし、わからないことがあった。  なぜ、悪を憎まねばならないのか。  なぜ人の物を奪ってはならないのか?  なぜ人を騙してはならないのか?  なぜ人を裏切ってはならないのか?  なぜ人に媚びへつらってはならないのか?  問われて、父は首を左右に振った。    ――説明することはできない。  私は悪を憎むべき理由を、筋道立てて説明することはできない。  いや。そういうものだとは考えないのだ。  徳川時代に〈細井平洲〉《ほそいへいしゅう》なる儒学者が現れ、本当の信愛とは幼子が母を信ずるように、母が子を愛するように、何それという理由の無いものだと云った。  まさにその通りだと私は思う。  同じ事ではないのか?  悪を憎むのはそれが人として嫌悪されるからであり、他に理由を求めるべきではない。あえて理屈立てをし拘泥すれば、かえって本質から離れる結果を招こう。  何となれば理論によって悪の否定を説明する場合、それを覆す理論が生まれた時、悪は認められるということにもなり得る。 〝必要悪〟という考え方だ。  自分の身を守るためだから――  最初に悪事を働いたのは相手だから――  どうせ大したことにはならないから――  悪を行っても構わない、という思考法。  理屈による悪の否定は理屈による悪の肯定を生む。    それは違う、と私は思うのだ――思いたいのだ。  それでは悪は決して滅びないから。  誰もが悪を否定しながら肯定し、悪を生き延びさせ続ける。世の中とはそうしたもの、と諦観する。  人として正しく在る――それは叶わない願いだと、認める考え方だ。  私は認めたくはない。否、認めてはならないと思うのだ。例え結果は、そうなってしまうとしても……。  私は人として、悪を滅ぼしたいと望む。  そのためには――一切の例外なく。悪を否定しなければならない。  悪を為さねばならない状況は……あるのだろう。  そう思う。これまでの人生で、それなりに色々な人を見てきた。他にどうしようもなく、本当に何の逃げ道もなく、唯一の道として悪を行った人は確かにいた。  だがそれでも、悪は悪なのだ。  否定されるべき行為なのだ。「仕方がない」という言葉で肯定されてはならないのだ。  悪とは。  人としての〈原則〉《・・》に背く行為なのだと、私は思う。  だから、理屈ではない。  頭で知るのではない。肌で知るのだ。  命で知るのだ。  悪の憎むべきを。  …………父のその話は、理解できたとは言いかねた。  今もって尚。そもそも、〈理解〉《・・》を求めるような話ではなかったのだろうけれども。  だが、そう語る父の正しさを信じた。  信じている――今も。  綾弥一条は命にかけて悪を憎む。 (…………)  溜息がこぼれた。  憎むことに対する疲れがそうさせたのではない。  疲労を生むのは無力感だった。  戦う力が無いということ。  悪を憎む意思に揺らぎはない。  父と大叔母から伝えられた、戦うための技もある。  だが〈あの人〉《・・・》が相手とする悪に対して、その二つだけでは余りにも不足だった。  足りない。まったく足りない。  それでも戦いたい、と思う。  戦わせて欲しいと思う。  だが許されなかった。  当然だろう。立場がもしも逆であったら、彼女とて許さない。  無力な者が戦っても犠牲が増えるだけ。  本人は満足かもしれないが、誰も救われはしないし何ら有益な結果を生み出しもしない。関わりを持った人に多大な迷惑を及ぼすことならできるだろうけれど。  一条にもそれはわかっていた。  だから、自己満足のためだけに我意を押し通すことは自制した。  そうして今、思う。  戦う力が欲しいと。  ――あの人の役に立てるようになりたいと。 「綾弥」 「……」 「あーやーね!」 「……はい?」 「はい、じゃない。ぼさっとしてんな。  設問を解いてみろ」 「……どこですか」 「なんだ、聞いてなかったのか!?  一二七ページの三問目だ!」 「……」 「ぼけーっとしやがって。  お前は木瓜の花か!」 「……どうせ夜遊びでもしてて寝不足なんだろう。まったくお前のような奴は将来が心配だな! 絶対ろくな大人にならんぞ、どっかの汚い〈工場〉《こうば》で女工でもやるのが関の山――」 「Kエネルギー第一法則によればP=WHS」 「問題文に『それは九六式戦車一〇台と金属バット八本、五リットルの油に七リットルの牛乳、米三合、塩五升、あと砂糖を小匙三杯加えたら出来た』とあるのでWは五五〇トン」 「Hは『重ねたトランプの一部だけ千切る事が可能』とあることから設問二の解を代入して二一五キロ。テクニカルゴールドモーターにピニオンが一三TならSは四八キロ」 「代入して、五五〇×二一五×四八……  五六七六〇〇〇」 「答え。  破壊ロボのパンチ力は五六七六〇〇〇ktになります」 「…………正解」  義務を果たして席に着く。  そうしてまた、空を眺める。  手の中に、短い鉄の塊を弄びながら。  ……あの滅びてしまった小さな村で、彼女の生命を救った老人が、最後に託して寄越したもの。  牙のような角のような、奇妙な棒。  その金属質の冷たさは一条の意識を澄み渡らせる。 (会いに行こう)  午後の予定を決める。  それはここ暫くの繰り返し。日課にも近い――そうして、実際に会えるとは限らないのだったが。  それでも行こうと思う。  学校の勉学を疎かにする気はなかった。  父に教えられている。知識の選り好みを許される者は、天地万物全ての知識を知りその価値を定めている者だけであるはずだと。  つまり自分が神ではないなら、どんな知識も謙虚に学ばねばならないと。  あの人も言っていた。こちらはもっと簡単に。学校で学ぶことは大切だ、と。  だから学習は一切手を抜いていない。本年度に履修する全科目について予習を済ませ、不明箇所は教師に質問して解決し、教科書の内容は全て把握している。  だが――それ以上のことをしようとは思わない。  今は、ほかに学びたいことがあるから。 (今頃、何してるのかな……。  一人で捜査に行っちゃってるんでなければいいけど……)  早く会いたい。  あの人に会って、学びたい。  少しでも……何かを。  一日も早く、戦えるようになるために。  ――読経のような講義が再開される中。  知らず、冷たい棒を握り締めて。一条は幾度となく反芻した言葉を今また胸に宿していた。 「未決囚〇四八号。  出ろ」 「はい」 「…………で。今日は何をやってる?  棚に足かけて、ぶら下がって」 「腹筋運動です」  ――江ノ島にある幕府直轄の漁業研究所。  その実態は兵器研究施設、しかも秘匿しているだけあって極めて危険性の高い新型兵器の開発が行われている――との密告を受け、調査を開始したのが一月前。  容疑濃厚と判断、機会を見計らって潜入捜査に送り出した調査員は先週、短い連絡を最後に音信を絶った。  ――――「銀色の怪物を見た」と。  また、江ノ島付近の沿岸において不審な失踪事件が多発している事実を確認。近在住民の間でも島の様子を怪しむ声が上がり始めている。  ……事態は予想以上に深刻と〈思〉《おぼ》しい。  六波羅幕府による非人道的兵器実験の存在、  あるいは、未確認連続大量虐殺犯――仮名〈銀星号〉《シルヴァー》の関与が疑われる。迅速な調査が必要と判断される。  しかし現状、大和における調査行動に適した人材は多いと言えず、既に何らかの業務に従事していない者となると皆無である。  そこで――  進駐軍総司令部は大和国内務省警察局に対し、国際平和の精神に基づく協力を要請する。  以上。  横浜から戻った大鳥大尉が署長に文書で渡し、口頭でも伝えた内容は、ほぼそのようなものだった。  暫く、言葉がない。他の人間も同様と見える。書類をめくる署長の指先の音だけが空気の沈殿を乱した。  六波羅の極秘兵器実験。  現今の状況を思えば、それは確かに有り得る話ではあったものの。 「………些か、突拍子もない話だとの感慨を禁じ得ません」 「本当ですね」  〈漸〉《ようよ》う、選んで口にした言葉に、香奈枝嬢はあっさりと同意の頷きを返して寄越した。  一歩を引いた――というよりも観客の口調で、更に続ける。 「『銀色の怪物を見た』って、怪奇小説じゃないんですから。  仮にも本職の調査員が、そんないい加減な報告をするものでしょうか?」 「叙情的に過ぎるとは自分も思います」 「それに、兵器実験。警察局への協力要請。  ……まぁ別個に見れば、これといって不審なことはないにしても」 「ええ」 「二つ合わせると何ともはや。  どうしてそんな〈探る側にとっても機密性の〉《・・・・・・・・・・・・》〈高い〉《・・》調査に外部の協力を頼むのでしょう?」 「適切な人材が不足している、とのご説明でしたが……」 「連盟は戦時中から多数の現地工作員を確保していましてよ? 今の実情について詳しいわけではありませんけど……人手不足というのはどうも、リアリティを感じませんね」  眉をひそめつつ、大尉。  自分の所属する組織への不審を口にして、悪びれる様子もない。  個人的には、大尉のこうした態度は信じて構わないと考えているが……  親王や署長にしてみれば底意を疑わずにいられないのだろう。やや冷たい視線を投げ、沈黙を続けている。 「率直にお伺いしますが、この一件について大尉殿には何か別の説明が与えられていないのですか?」 「それが何も。  急な召喚に何事かと思って横浜へ出向いてみれば、ただその紙束を押し付けられただけ」 「わたくしの上司は郵便っていうシステムを知らないみたいです。困ったこと」 「機密情報の扱いとしては当然ですが。  ま、確かに馬鹿馬鹿しい話でございます」 「……六波羅の兵器研究を探るために警察局へ協力を要請する。  これは前提として幕府と警察局を分断する認識が必要な筈ですが、この点については?」 「舞殿宮殿下と鎌倉署長さまの交誼、そしてお二人が大和の現況を憂いておられることについては既に報告を上げていますから」  これもまたあっさりと大尉は告げた。 「警察局はともかく、鎌倉署は幕府と一線を画する存在だと判断。平和主義の下にGHQとの握手も肯んずると信じ、協力を要請した。  ……と、いうことなのではないでしょうか」 「成程」 「完璧でございますね」  完璧に胡散臭い。  同じ結論を出し、三人揃って視線を虚空に舞わせる。  薄暗い天井は、この島国の平和と秩序を回復するという名目を担って進駐する軍隊への信頼を高めるために、全く何の役にも立たなかった。  不審と疑念ばかりが渦を巻く。 「……宮殿下」 「うん……」 「おそらくGHQは、この八幡宮が景明――固有の戦力を擁している事に気づいたのだと思われます」  大尉の方へちらりと視線を送って、署長は言った。 「GHQがこの先宮殿下をどう扱うつもりにしろ、実戦力を保有していては不都合なのでしょう。  そこで排除に掛かったのではないかと」 「……あるいは。  GHQはより〈直接的〉《・・・》に、景明を厭う理由を持つのかもしれませんが」 「……」  大鳥大尉が八幡宮を留守にしている間を狙い、署長が俺と舞殿宮に明かした一つの推測を思い起こす。  あれが真実であるなら――確かに。親王との関わりがなくても、GHQは俺の排除を望むだろう。 「で、罠を仕掛けてきたっちゅうことか」 「はい。  江ノ島に何が待つにしろ、その目的とする所は景明の捕殺とみて間違いないでしょう」 「如何ですか?  大尉」 「まったく賛成いたします。  わたくしもこの話を聞いた時から、うなじの毛が逆立ちっぱなしで仕方ありませんし。それはもうびんびんに」 「ほら、景明さま。  ご覧下さいましな」 「は」 「はしたないですよ、お嬢さま」 「は、はしたないことやってるんか!?  くはッ、スダレが邪魔でよう見えん!」 「景明さま……  触ってもよろしいんですのよ?」 「では、失礼して」 「……後にしろ。  大尉からも異論がないのであれば、この件は罠と断定して差し支え無し」 「言葉を選んで断るか、あるいは表面上受け入れておいて実質は何もしない……要はサボタージュを決め込むか。  いずれかで宜しかろうと存じます。宮殿下」 「そやねえ。  景明くん、それでええね?」 「いいえ」 「おうっち!?」 「……景明」 「自分は江ノ島へ向かいます。  宮殿下、保釈の密旨をお下しあれ」 「ほしゃくの……みつじ?」 「少々差し障りがありますので、お聞き流し下さい」 「わかりました♪」 「素直さをアピールしてせこく好感度ゲット。  良い感じですよお嬢さま」 「景明……どういうつもりだ。  罠ではないと思うのか?」 「全てが額面通りという可能性も否定はしません」 「本気か」  むしろ正気かと言いたげな口ぶりだった。 「自分には、その点はどちらでも構わないのです。  ただ、銀星号の介在を示唆されている事が気に掛かります」 「それがただの虚言なのか、それとも何らかの事実を下敷きにしているのか……これは罠か否かという観点からは判断不可能です。  どちらにしても双方の可能性が有り得ます」 「現地へ踏み込んで確認する以外に〈途〉《みち》がありません」 「……無謀やと思うえ」 「委細承知」 「……署長……」 「景明。  宮殿下はお前の身を案じておられる」 「勿体なき限り」 「必要としてもおられる。  先刻、GHQは八幡宮が戦力を有することを嫌うと言ったろう。その裏を読め」 「理解しております。  宮殿下よりの数々のご厚情も忘れてはおりません」  礼をとる。 「さり〈乍〉《なが》らこの身は銀星号討滅の為に尽きるもの。  どうかお赦しありたい」 「……」 「…………宮殿下」 「…………。  仕方ないか……?」 「は……。  この者には、まだ……今は」 「……」 「用心するんよ、景明くん。  くれぐれもな……」 「お心遣い痛み入ります」 「……死んだら、あかんえ」 「…………はっ」  奥殿を辞する。  当然のような顔をして、大鳥大尉が同行した。 「自分はこれからすぐに向かいます」 「ええ。  参りましょう」 「一度署長宅には戻った方がよろしいですね。  準備もございますし、綾弥さまが来ておられるやもしれません」 「一度署長宅には戻った方がよろしいですね。  準備もございますし」 「…………」  大鳥香奈枝の後任として横浜の進駐軍総司令部から派遣されて来た新規の八幡宮付将校は、ごく事務的な声で説明を終えると、署長に文書を手渡して退出した。  暫し、沈黙が落ちる。  六波羅の極秘兵器実験。  現今の状況を思えば、それは確かに有り得る話ではあったものの。 「………些か、突拍子もない話だとの感慨を禁じ得ません」 「全くだな」 「あっからさまに胡散臭い話やねぇ……。  幕府の危険な兵器実験。人手不足。現地の警察に協力要請」 「いっこいっこなら何てこともない話やけど。  三つそろうと……素直に受け止めろって方が無理やわ」  確かに。  どうにも演劇の台本を読んでいるような気にさせられてならない。 「……宮殿下」 「うん……」 「おそらくGHQは、私と八幡宮のつながり、そしてそこに景明――固有の戦力が存在することに気づいたのだと思われます」 「大鳥大尉が〈失踪〉《・・》前に報告をしていたのかもしれません」 「……」 「GHQが宮殿下をどう扱うつもりにしろ、実戦力を保有していては不都合なのでしょう。  そこで排除に掛かったのではないかと」 「……あるいは。  GHQはより〈直接的〉《・・・》に、景明を厭う理由を持つのかもしれませんが」  八幡宮に〈駐在将校〉《めつけやく》が欠けている間を狙い、署長が俺と舞殿宮に明かした一つの推測を思い起こす。  あれが真実であるなら――確かに。親王との関わりがなくても、GHQは俺の排除を望むだろう。 「で、罠を仕掛けてきた?」 「はい。江ノ島に何が待つにしろ、その目的とする所は景明の捕殺とみてまず間違いないでしょう。  そういうことであれば、対処は……」 「言葉を選んで断るか、あるいは表面上受け入れておいて実質は何もしない……要はサボタージュを決め込むか。  いずれかで宜しかろうと存じます。宮殿下」 「そやねえ。  景明くん、それでええね?」 「いいえ」 「おうっち!?」 「……景明」 「自分は江ノ島へ向かいます。  宮殿下、保釈の密旨をお下しあれ」 「いやいや、そらあかんやろ……」 「……どういうつもりだ。  お前はこれが罠ではないと思うのか?」 「全てが額面通りという可能性も否定はしません」 「本気か」  むしろ正気かと言いたげな口ぶりだった。 「自分には、その点はどちらでも構わないのです。  ただ、銀星号の介在を示唆されている事が気に掛かります」 「それがただの虚言なのか、それとも何らかの事実を下敷きにしているのか……これは罠か否かという観点からは判断不可能です。  どちらにしても双方の可能性が有り得ます」 「現地へ踏み込んで確認する以外に〈途〉《みち》がありません」 「……無謀やと思うえ」 「委細承知」 「……署長……」 「景明。  宮殿下はお前の身を案じておられる」 「勿体なき限り」 「必要としてもおられる。  先刻、GHQは八幡宮が戦力を有することを嫌うと言ったろう。その裏を読め」 「理解しております。  宮殿下よりの数々のご厚情も忘れてはおりません」  礼をとる。 「さり〈乍〉《なが》らこの身は銀星号討滅の為に尽きるもの。  どうかお赦しありたい」 「……」 「…………宮殿下」 「…………。  仕方ないか……?」 「は……。  この者には、まだ……今は」 「……」 「用心するんよ、景明くん。  くれぐれもな……」 「お心遣い痛み入ります」 「……死んだら、あかんえ」 「…………はっ」 「……して。  何事か? 獅子吼」 「は。  昨日、進駐軍とも繋がりを持つ御雇組の者から報告があり……」 「何でも近々、奴らが江ノ島へ本格的な調査団を送り込むとの事」 「……ほゥ、ほゥ」 「その情報の精度は?」 「横浜に潜伏している厩衆へ連絡して、至急調べさせた。  確かに、そのような動きがあるそうだ」 「へーえ。  ようやく食いついてきたってわけだ?」 「存外、腰の重いやつらだのう。  教えてやってから一月近く経っておるではないか」 「さて……単に動きが鈍いだけか。  それとも餌が旨過ぎて警戒させたか……」 「いずれにせよ……  乗ってきたなら、こちらの対処は決まっている」 「はい、お父様。  〈何もしない〉《・・・・・》ということで、宜しゅうございますのね?」 「うむ。  飢えた獣には餌が必要だ」 「腹がふくれれば〈鼻〉《・》も鈍る。  やつらには、たんまりと食ってもらいたいものでござるなァ? 殿」 「でなきゃ用意した甲斐がないしねぇー。  あれはあれでカネ掛かってんだしさ」 「予算を好き放題に使わせた奴の言う台詞か」 「物々しい研究所で、造ってるもんが単なるハリボテだったらさすがにバレるだろ。本物志向ですよ本物志向。  ……お陰で最高の〈冗談〉《ギャグ》になっちまったけど」 「あれは少しやり過ぎじゃないかって気がしなくもないわねぇ……」 「そのぐらいで良かろう。奴らの興味関心を満たしてやるにはな。  万一にも現段階で〈本命〉《・・》の方へ目を向けられては困る………獅子吼、そちらはどうか」 「お待ちを。  ……〈常闇〉《じょうあん》」 「ハッ――」 「御前に」 「おう、これは柳生の。  多忙であろうに、呼び立ててすまんなァ」 「お心遣い、痛み入ります。  古河中将様」 「して、常闇斎。  篠川の状況は如何に」 「――」 「構わぬ。直答を許す」 「ハッ。現時点では御懸念に及びませぬ。  我が麾下の厩衆による防諜は、充分に機能しております」 「かの計画は幕府の大事、国家の大事。  ……そなたを信頼して構わぬであろうな?」 「六波羅あってのこの常闇。  何条もって、ご期待に背きましょうや」 「宜しい。  下がれ」 「ハッ」 「して、計画の進捗状況は如何であろう?」 「岡部の乱で収集した実戦データを元に最終調整を行っている。  それが完了次第、第一期量産の予定だ」 「急げよ」 「はッ!」 「異人どもも馬鹿ではないからのう。  いつこちらの〈股座〉《またぐら》へ手を伸ばしてくるか。はて、さて……」 「だからこそ用意した江ノ島……  うまく〈効いて〉《・・・》くれることを期待しましょう」  鎌倉市の南西に浮かぶ江ノ島は関東における弁財天信仰の中心地であり、由緒ある観光地だといえる。  古くは鎌倉幕府の昔から参詣客が訪れ、江戸時代にはお伊勢参りと並ぶ庶民の旅の定番であった。  島の独特の風景、情緒は近代になっても愛され続け、交通機関の発展と共に近隣遠方から訪れる人々の数は一層増加した。  その中には多くの著名人も含まれる。  ハプスブルクのフェルディナンド王子、学習院院長時代の乃木希典、等々。十年ほど前には文豪太宰治の心中事件の舞台として大和中に知られたこともあった (これは正しくは島の対岸で起きた事件であったが)。  近年は参詣地、景勝地としてのみならず、別の目的で訪れる人々をも迎え入れている。  それは例えば釣りであり、希少な植物の観察であり、そしてまた―― 「…………」  良く晴れていた。  海の青と空の青とに視野を征服される感覚は決して不快なものではない。  潮の匂う熱い風が肌を焦がす。  全身を絶え間なく伝う汗の玉が、今この時ばかりは何とも云えぬ清々しさに満ちていた。  暑い。 「夏だ……」 「ええ……」 「今年も情熱の季節がやって参りましたな」 「いや、違うだろ!?」 「なんであたしらごくふつーに海水浴してんだよ!?」 「そう言われましても」 「来てみたら、皆様ふつーに真夏を謳歌しておりましたからねぇ」 「だからってなんであたしらまで混ざる!?」 「情報収集の基本は状況に溶け込む事だ。  その場の異分子であってはならない」 「含蓄ある台詞でございます。  常に黒っぽい服と黒っぽいオーラを纏って周囲から浮き上がりまくっている、どこぞのどなたかにも聞かせて差し上げたいもの」 「は。全くです」 「自覚症状あるのかしらこの人……」 「そ、それにしたって!  何も水着まで着なくたって」 「付近の店で販売している衣料品が水着しかなかった。仕方がない。  この海岸を平装で歩き回るのは無謀だ」 「汗みずくになってしまいます」 「脱水症状までの所要時間は約九十分というところでございましょう」 「うう……」  唸る一条。  言いたいことは有り過ぎるほどあるのだが何をどう言ったものやら。そんな様子だ。 「不満か」 「い……いえっ。  不満は無いですけど」 「ただ……その……」 「ご安心なさいまし。  よく似合っていましてよ?」 「そ、そ、そんなこと心配してねー!  してねぇーーーっ!!」 「と言いつつも、先刻より綾弥さまの視線はご自身と湊斗さまの間を行ったり来たり。  まこと目は口程に物申す次第でございます」 「水葬にして欲しいらしいなババァ……」 「魚介類の方々の滋養という最期は勘弁して頂きとうございますねぇ……。  それはさておき湊斗さま」 「は。何か」 「――殿方の義務というものをお忘れでは?」  含みのある視線でこちらの頬を撫でてくる永倉侍従。  …………成程。 「……」 「わくわく、はらはら」  俺は―― 「夏だ……」 「違いますよっ!?」 「なにがどうして、いきなりこうして海水浴なんですかっ!?」 「状況に溶け込むのは情報収集の基本だ」  来てみたら、そこが海水浴場だったのだから仕方がない。 「そういうことではなくてっ!  …………」 「いえ……それもあるんですけど。  …………どうして水着に……」 「この暑さの中、平服で歩くつもりか?」 「……」 「それは無謀だ」 「うう……そうですけど……」 「水着が嫌なのか」 「嫌、っていうか……」 「その」 「主観的意見としては。  お前のその姿は良い」 「……えっ?」 「実に魅力的だ」 「……」 「……なっ、なっ……」 「……」 「……からかわないでください」 「本心だ」 「~~っ!」 「と……とにかく!  話を元に戻しますけどっ」 「うむ」 「目的地は江ノ島なんでしょう?  は、早く行きましょう!」  ……そう。  ここは江ノ島ではない。  江ノ島の対岸、片瀬だった。  ここに留まっていても埒は明かない。早く島へ渡りたいという一条の意思は理解できる。  が。  それでも留まっているからには理由があるのだった。  俺はそのうち、最も直接的なものから口にした。 「渡れない」 「……え?  どうしてですか?」 「ここへ来るまでに調べておいた。  今、江ノ島全域は立ち入り禁止区画に指定されている」 「無論、発令したのは幕府だ。  理由は不明」 「……兵器研究とやらをしてるからですか?」 「可能性はある」 「どうします?」 「公然と渡るのが不可能であるなら、非公然に渡る。それだけの事だ。  その方策を探るのが、ここに留まっている理由の第二」 「第三は情報収集。  本来なら目的地の手前で聞き込みなどと、迂遠なやり方は好まないのだが」 「今回ばかりは別だ」 「……そうですね。  島へ行く前に、せめて〈この状況〉《・・・・》がどういうことなのか多少でも知っておかないと……」 「ああ。  なかなかもって足を踏み入れる気にはなれない」 「夏ですもんね……」 「夏だ……」  季節は夏。  暦は霜月。そろそろ年の瀬も近いこの頃。  夏である筈がなかった。 「異常気象にも程がある」 「しかも江ノ島周辺だけ……。  どうしてこんな露骨におかしい事件が全然ニュースにもなってないんでしょう? 新聞で読んだ覚えがないんですけど……」 「六波羅が絡んでいるとして、だが。  ……報道機関に緘口令を布く程度のことは造作もないのだろう」 「怪しい、ってことですね」 「ああ」  八幡宮で話を聞いた時点では――そしてその後一条に説明する傍ら情報を反芻した時も、六波羅の危険な研究という点については半信半疑、むしろ首を傾げる気持ちの方が強かった位なのだが。  現時点では逆転している。  幕府はあの島で何かを行っているのだ――おそらく。 「では、行動を開始する。  手分けして情報収集。主眼は島内への潜入方法、及びこの異常な熱気について」 「何か質問、提案などは」 「ありません!」  応えつつ、一条は既に動き出していた。  辺りを見回すや、客で賑わう海の家――ではなく、その隣で小船を囲んで暗い顔をしている漁師の一団に目をつける。迅速、かつ的確な行動だった。  そうして、歩き始めようとして。  ふと、一条は振り返った。 「そういえば……湊斗さん」 「何か」 「あの大尉と婆さんはどうしたんです?」  ――――。 「あ……すいません。やっぱりいいです。  そりゃ、色々ありますよね……あんなんでも軍人だったんだし」 「じゃ、行ってきます」 「……ああ」  ――何も、答えられなかった。 「夏だ……」 「ええ……」 「今年も情熱の季節がやって参りましたな」  渚で戯れる男女。  砂浜を駆ける子供。  夏の――  海水浴場の光景だった。 「開放的です……」 「ええ」  香奈枝嬢を見る。  ……というより、目のやり場に困る。  そう思いつつ、結局凝視してしまうような。  そんな姿だった。 「見られてる。見られてましてよ、わたくし。  ……ああっ♪」 「作戦は成功でございますね!  なんだか今とても変態チックで他人のフリをしたくてたまらない我がお嬢さま」 「視線を奪われている事に関しては否定が不可能です。  ……大胆な水着を選ばれましたね」 「持参品です」 「このようなこともありましょうかと」 「ビキニといえば……  フランスで開発されたばかりのものでは」 「良くご存知ですね湊斗さま。  本当に、なぜそんなことに詳しいのか問い詰めたい気持ちで一杯なのでございますが」 「海外で購入されたのですか」 「ええ。  大和ではまだ市販されていないと思います」  そうだろう。  でなければここまで周囲の人間――特に男性――の視線を集めはすまい。  ……いや。  大して変化はないか。  生地の少ない〈前衛的〉《アバンギャルド》な水着姿は、大鳥大尉の見事というほかない〈体型〉《プロポーション》を全くもって完璧に際立たせている。  いっそ過剰なまでに。 「ふふ。如何ですか、景明さま?」 「目の毒です。  非常に……」 「サンオイル、塗ってくださる?」 「喜んで」 「喜んでやるのでございますね、湊斗さま」 「はい」 「迷いもない、真っ直ぐな眼差し……  なにか使いどころを間違っているような気も激しくいたしますが」 「いいえ、それでこそ景明さまですっ。  ささ、どうぞー」 「では失礼して」 «…………»  ――何処からか。  無言、無音の非難を感じる。  いくぶん冷静さを取り戻した。  状況適応は情報収集の基本とはいえ、適応し過ぎか。 「止めておきましょう」 「あら?」 「己の目的を忘れ去りそうです」 「ちぇっ。惜しい」 「ま、それが無難でございましょう。  このまま続けて湊斗さまがエレクチオンな感じになっても我々、困りますし」 「それは自分も深刻に困ります」  無様過ぎて。  思考の方向を変える。  状況整理。 「我々の目的地は江ノ島です」 「そうですね」 「さっさと渡りたいところではございますが」  ……そう。  ここは江ノ島ではない。  江ノ島の対岸、片瀬だった。  ここに留まっていても埒は明かない。早く渡りたいというのは、俺とても全く同感だった。  が。  それでも留まっているからには理由がある。  俺はそのうち、最も直接的なものから口にした。 「渡れないという点が問題です。  幕府が島への渡航を禁じている以上」 「何かがある、と言っているようなものですね。正直、少し意外です」 「六波羅の兵器研究とやらは眉唾物と思っておりましたからねぇ……。  しかしこうなって参りますと油断は禁物」 「して、湊斗さま。  如何なされるおつもりですか?」 「渡航が許可されていないのですから」 「はい」 「無許可で渡るまでの事」 「で、ございましょうとも」  その方策を探るのが、ここ片瀬に留まっている理由の二番目。  三番目は―― 「ですが、その前に情報収集を行いましょう。  島で何事が起きているのか、できれば多少なりと知ってから臨みたいものです」 「確かに……  夏、ですものね?」 「夏ですので」 「夏でございますからなぁ」  季節は夏。  暦は霜月。そろそろ年の瀬も近いこの頃。  夏である筈がなかった。 「異常気象にも程があるというもの」 「しかも江ノ島周辺だけときては……」 「こんな事件が、新聞の一面を飾っていないところをみると……やっぱり、六波羅さんが緘口令を布いてらっしゃると考えるべきなのかしら」 「疑惑濃度更に上昇でございますね」  確かに。  八幡宮で話を聞いた時点では、六波羅の秘匿研究という点については半信半疑、むしろ首を傾げる気持ちの方が強かった位なのだが。  現時点では逆転している。  幕府はあの島で何かを行っているのだ――おそらく。 「ではそろそろ行動を開始しましょう。  手分けして情報収集を。主眼とすべきは島への潜入方法、及びこの異常な熱気について」 「何かご質問、ご提案などは」 「……ひとつ、よろしいでしょうか?」 「はい。大尉殿」 「一条さんはどうなさいましたの?」  ――――。 「……」 「……自分は」 「存じません」 「……苦しげなお顔をなさいますのね?」 「そうでしょうか」 「何が……」 「……」 「あったのでしょう?  ねぇ、ばあや」 「さて……  思春期の少女の事でございます」 「色々と、あったのでは」 「……そうね……」 「…………」 「……では、参ります。  景明さま、また後ほど」 「……は」  一条の水着は学生用のものだ。  店で買う際、本人がそれを選択した。  学校ではないのだ。もっと別なものを選んでみれば良いとも思うが………こんな不器用さも一条らしいと言えばらしい。  それに。 「これはこれで」 「……はい?」 「魅力的な姿だ、一条。  男性として刺激される」 「……」 「……っ……、……!!」 「出やがりましたね天然直球。  お嬢さま、これは窮地でございますよ」 「くぅっ、まさか景明さまが〈学生水着〉《すくみず》フェチだったなんて!  事前調査が足りませんでした……!」 「こうなっては仕方ありません。  さよ、せめて茶々とか入れてふたりの間を妨害しなさい」 「かしこまりました。  湊斗さま」 「は」 「男性が刺激されたとはつまり……  エロいことを考えたということでございましょうか?」 「それなりには」 「~~!」 「駄目ですお嬢さま。  並みの攻撃では切り返されてむしろ逆効果」 「ばあやの役立たずっ」  状況の一部がごく無意味に混迷化していた。  香奈枝嬢を見る。  ……というより、目のやり場に困る。  そう思いつつ、結局凝視してしまうような。  そんな姿だった。 「見られてる。見られてましてよ、わたくし。  ……ああっ♪」 「作戦は成功でございますね!  なんだか今とても変態チックで他人のフリをしたくてたまらない我がお嬢さま」 「視線を奪われている事に関しては否定が不可能です。  ……大胆な水着を選ばれましたね」 「持参品です」 「このようなこともありましょうかと」 「下着じゃねぇかよコレ……。  何考えてんだ。恥ずかしくねーのか!?」 「あらあら、世間知らずのお嬢さん。  これはれっきとした水着ですのよ? つい先頃フランスで開発されたばかりの」 「適当言うな。  こんな破廉恥な水着があるわけねーだろ」 「それが事実だから世の中は油断ができない、一条。  ビキニというものだそうだ」 「さすが湊斗さま。博識でございますね。  むしろなんで知ってんだよと突っ込むべき所のような気もいたしますが」 「…………え?  ほ、ほんとなんですか?」 「俺も実際に目にするのは初めてだが」 「大和ではまだ市販されていないと思います」  そうだろう。  でなければここまで周囲の人間――特に男性――の視線を集めはすまい。  ……いや。  大して変化はないか。  生地の少ない〈前衛的〉《アバンギャルド》な水着姿は、大鳥大尉の見事というほかない〈体型〉《プロポーション》を全くもって完璧に際立たせている。  いっそ過剰なまでに。 「ふふ。如何ですか、景明さま?」 「目の毒です。  非常に……」 「サンオイル、塗ってくださる?」 「喜んで」 「喜んでやるのでございますね、湊斗さま」 「はい」 「迷いもない、真っ直ぐな眼差し……  なにか使いどころを間違っているような気も激しくいたしますが」 「いいえ、それでこそ景明さまですっ。  ささ、どうぞー」 「では失礼して」 「……湊斗さん……」  一条が上目遣いに俺を見ていた。  拗ねている。  多少、冷静になった。  …………周囲状況に適応し過ぎているか。 「止めておきましょう」 「あら?」 「己の目的を忘れ去りそうです」 「ちぇっ。惜しい」 「ま、それが無難でございましょう。  このまま続けて湊斗さまがエレクチオンな感じになっても我々、困りますし」 「それは自分も深刻に困ります」  無様過ぎて。 「ってそっち見るのかよ!?」 「殿方の視線を釘付けにするこの快感……  女としての〈悦〉《よろこ》びは〈幾歳〉《いくつ》になっても変わらぬものでございます」 「待て婆さんいま変な字使わなかったか?  変なっつーか分不相応っつーか立場わきまえてねーっつーか!」 「それは……アロハシャツですね。  明るい柄が良くお似合いです」 「ほほほ、お上手ですね。湊斗さまは」 「本心から言ったまでの事……」 「……信じてしまいますよ?」 「ご随意に」 「やんちゃをなさってはいけません。  お若い方……」 「やんちゃなどと……」 「おぉーい!  ちょっと待ってよそこの二人ー!」 「湊斗さん、正気に戻ってください!  熱射病ですかっ!? 頭沸いたんですかっ!?脳が煮え立ってシチュー状になってたりしません!?」 「していないと思うが」  していたらどうしてくれるというのだろうか。 「俺はただ、侍従殿の服装を賞賛しただけだ」 「とてもそうは聞こえません……」 「記号的に解釈すればそうなんでしょうけど……行間を読むと意味が深すぎます……」 「難しい事を云う」 「湊斗さま……この話の続きはまた後程。  ふたりだけの折に」 「は」 「いや、だからそこ! そこです湊斗さん!  その行間っ!!」 「これで何か妙な伏線が成立して、後で妙な〈場面〉《シーン》が挿入されたりしたら、一体どう責任を取られますの!?  景明さまは軽率ですっ」  そんなことを言われても。 「と……とにかく!  話を元に戻しますけどっ」 「うむ」 「あたしたちの目的地は江ノ島でしょう?  なら、早く行きましょう!」  ……そう。  ここは江ノ島ではない。  江ノ島の対岸、片瀬だった。  ここに留まっていても埒は明かない。早く島へ渡りたいという一条の意思は理解できる。  が。  それでも留まっているからには理由があるのだった。  俺はそのうち、最も直接的なものから口にした。 「渡れない」 「……え?  どうしてですか?」 「ここへ来るまでに調べておいた。  今、江ノ島全域は立ち入り禁止区画に指定されている」 「無論、発令したのは幕府だ。  理由は不明」 「情報通り、兵器研究をしているのでしたら当然の処置ですね。  一概には決め付けられませんけれど……」 「疑惑が強まったのは事実でございます。  ゆめ、ご油断なさいませぬよう」 「じゃあ……どうするんですか?」 「公然と渡るのが不可能であるなら、非公然に渡るまでの事。  その方策を探るのが、ここに留まっている理由の第二」 「第三は情報収集。  本来なら目的地の手前で聞き込みなどと、迂遠なやり方は好まないのだが」 「〈此度〉《こたび》は目的地の異常が既に明らかでございますからね」 「はい」 「……それは、そうです。  島へ行く前に、せめて〈この状況〉《・・・・》がどういうことなのか多少でも知っておかないと……」 「何も知らずに島へ行くのは二の足を踏んでしまいます。  …………夏ですし」 「夏です」 「夏でございます」 「夏だよな……」  季節は夏。  暦は霜月。そろそろ年の瀬も近いこの頃。  夏である筈がなかった。 「異常気象にも程があるというもの」 「しかも江ノ島周辺だけときては……」 「何でこんなあからさまに怪しい事件が全然ニュースになってないんだ? あたし、新聞で読んだ覚えないぞ」 「六波羅さまの〈何やら〉《・・・》が原因なら、報道機関に緘口令を布くくらい何でもないでしょう」 「疑惑濃度更に上昇でございますね」  確かに。  八幡宮で話を聞いた時点では、六波羅の秘匿研究という点については半信半疑、むしろ首を傾げる気持ちの方が強かった位なのだが。  現時点では逆転している。  幕府はあの島で何かを行っているのだ――おそらく。 「ではそろそろ行動を開始しましょう。  手分けして情報収集を。主眼とすべきは島への潜入方法、及びこの異常な熱気について」 「何か質問、提案などある方?」 「ありません!」  応えつつ、一条は既に動き出していた。  辺りを見回すや、客で賑わう海の家――ではなく、その隣で小船を囲んで暗い顔をしている漁師の一団を目指して歩き始める。迅速、かつ的確な行動だった。 「ひとつよろしいかしら」 「はい。大尉」 「そろそろわたくしか一条さんか、どちらか選んで、常に一緒に行動したりとかして関係を深めてゆく頃合なのではないでしょうか。  あら、でも一条さんはもういないから……」 「やにわに何言ってんだてめぇ」  戻ってきた。 「さあ、決断の時ですよ湊斗さま!」 「却下致します。  調査効率の悪化を招く以外に、効果が認められません」 「そこで牽強付会なこじつけをして己の行動を正当化するのが男の甲斐性というものですのに!」 「おめー実は脳味噌が癌なんじゃねえの?」 「綾弥さまっ、口が過ぎますよ!」 「そうですっ。酷いことを」 「お嬢さまが頭を深刻に病んでおられるのは事実でございますが、それはそれとして、今のご発言はわりとけっこう核心を突いていたりするのです!」 「おいおい。待てよ侍従」 「んなわけねーだろ……。  そりゃ一体どんな男だ」 「いやいや綾弥さま。  己に課せられた使命を果たしつつしっかり〈恋人〉《ヒロイン》と結ばれてこそ男児の本懐というものでございまして――」 「景明さまっ、わたくし唐突に芸術的インスピレェションを獲得しました!  題して水着とライフル銃」 「半世紀後くらいにネタの切れた企画屋さんが苦しまぎれに思いつきそうな感じの前衛劇なんですけど、今ここで開始してもよろしいかしら?」 「自分と一切無関係の所でお願いします」  暦は霜月。季節は夏。  頭の季節感も狂っていた。  一時間余りを費やしての調査は、およそ成果というものを得なかった。  江ノ島周辺の異常について、何かを聞かれた人間の反応は二通りに分かれる。一つは地元民と思しき人々。  彼らは一様に口が重い。その話題を迷惑がっているのは明らかだった。理由は想像が易い――幕府の存在。  もう一つは〈人伝〉《ひとづて》に噂を聞きつけて、晩秋の海水浴という珍しい遊びを楽しみに来た人々。彼らの口は軽い。  が、何も知らなかった。憶測を口にする人もいたが、根拠と呼べるものは全く欠いていた。  曰く海底で温泉が湧いた、曰くフェーン現象の一種、曰く六波羅の火力発電計画……等々。  情報とも呼べぬ風説を一ダースばかり仕入れただけで、調査活動は暗礁に乗り上げている。  何かを知っているとすれば、地元民なのだろうが。  おそらく幕府は彼らにまで緘口令を布いてはいない。仮にそうであれば、俺に問われた際の反応にまず怯えが表れて然るべきだが――実際は少々違う。  腫れ物に触れられたような反応なのだった。  要するところ、彼らは関わり合いになりたくないのだろう。六波羅という名、それが意味する暴力に。  今はその凶名を掲げる江ノ島から目を背けたいのだ。  この時代、今の大和にあって、それはほぼ普遍的な事だといえた。  そしてそうと知っているからこそ、彼らの口にわざわざ枷をはめる労を幕府は惜しんだのだろう。  無駄なばかりか、凪の海に荒波を起こす逆効果ともなりかねない。禁じられれば興味が動くのは人間心理。  全く六波羅は、市民というものをよく理解していた。圧制という観点において。  閂が下りたような地元の人々の口をこじ開けるには弁舌の鍵が必要だろうが、己がそんなものを持ち合わせているという幸福な夢想にはとても浸れない。  ……誰か舌に油の利いている地元民はいないものか。 «とりあえず……  この辺りに銀星号の気配はない様よ。御堂» 「島の中についてはわかるか?」 «そこまでは無理ね。  島全体の〈匂い〉《・・》を探るなら、中に踏み込むか……せめて周囲をぐるりと一周しないと» 「だろう、な」  江ノ島は嘗てはその名に従う孤島であり、干潮の際のみ本州との間に道が出来たが、二十年ほど昔に起きた大地震によって地形が変動してからは常時の陸繋島と化している。その気を起こせば渡るのは造作もない。  とは、いえ。 «飛んでみる?» 「〈危険〉《リスク》の大きい選択だ。  現段階では避けたい」  海を隔てた先、小山のような島を眺める。  そこに景勝を乱す見張り櫓だの対空対水上砲塔だのといった無骨な代物は見当たらない。  が、そこが部外者を締め出すほどの六波羅の要所であるのなら、武者による防備が固められていない筈もなかった。歩いてゆくなど論外、船も同様、騎航して接近しても確実に捕捉され、戦闘になる。  事が銀星号に関わるならば強行突破も選択肢に含まれるが――まだ調査もとば口の段階、銀星号の関与に確信が持てていない現状で踏み切るのは暴挙に過ぎた。  まだ決断には早過ぎる。  潜入する方法をまずは探るべきだ。  それにはどうしても、地理と情勢に明るい者の協力が不可欠だが……。 «御堂» 「……ん」  注意を促す〈金打声〉《メタルエコー》にふと我へ返ると、周囲からは人の気配がなくなっていた。  物思いに耽ったまま歩くうち、砂浜から踏み出していたらしい。辺りは岩場の様相になっている。  こんな所にいても仕方がない。  俺は踵を返しかけて――その足を止めた。  人の気配が全く絶えているかと思えば、そうではなかった。岩の陰から、複数の人間の物音がする。  別段、隠れ潜もうという様子でもないのに、妙な程小声で囁き交わしているらしい。  気になって覗いてみると、子供がいた。  五、六人。年の頃はまちまちだが皆十歳以下だろう。容貌のつくりが似通っているところからすると、兄弟なのかもしれない。男子が四人に女子が二人。  服装からして地元民と思しいが、一様に景気の良くない表情だった。特に幼い二人はべそをかいている。  最年長と見て取れる少年は険しい顔で、何かを必死にいじり回していた。 (……模型か)  子供向けの、小さな船の玩具だった。  船形からして、あれは和露戦争の天王山たる大和海海戦で活躍した戦艦――といっても稚拙なものだが。特徴はよく捉えている。百円程度で買える模型だ。  ……いや。もう少し高価かもしれない。  少年の手作業を把握して、俺は認識をやや修正した。  彼は船腹の部分を分解して、中の機械を調べている。  そう、機械。ただの模型ではないのだ。スクリューを動かして実際に航行する船なのだろう。  この手の玩具は少しく昔、〈矢縁〉《やぶち》健吉なる人物が小型の電動〈原動機〉《モーター》の開発に成功するや登場した。  当初は非常に高価だったが、今は廉価モデルなども販売されており、一般家庭の子供でも充分に手が届く。  目の前の子らが手にしているのも、そうした比較的安価のものだった。  とはいえ彼らにとっては、やはり貴重な一品なのであろう。  模型を見守る幼い顔の切羽詰まった様子はその推測を裏付けていた。  作業に没頭する年長の少年の手元へ、穴を開けそうなほど強い視線が集まっている。  俺など全く眼中にない。 「電池が切れたのかな……」 「昨日〈武兄〉《たけに》ぃが買ってきてくれたばっかだよ」 「モーターかなあ……」 「モーターが壊れてても、直せる?」 「……」 「〈和兄〉《かずに》ぃ……どぉ?」 「…………よし。  これで大丈夫」 「……たぶん……」 「……」  不安そうな面持ちの弟妹に囲まれて、少年は岩場の水溜りに船を浮かべた。  そうして、スイッチを入れる。  ぶぉーん、という重低音が響き、水面が波立った。  滑るように船が進み出す。  が、それはいかにも弱々しく、遅く、模型の設計者と購入者の期待に応えるものでない事は明らかだった。  そのまま船の進みは更に弱く遅くなり、  止まった。  ――俺の足元で。 「…………」 「…………」  息を呑む気配が皮膚に触れ、凍りついた視線が肉を刺す。  そろそろ慣れた感触だった――大概、初対面の子供からはこうした反応を受ける。  努めて気にすまいとしつつ、俺は船を拾い上げた。 「あっ」 「……!」  咄嗟に飛び出しかけた最も幼い男の子を、姉らしき娘が抱き止めて抑える。  芯から怯えきった様子の子供達の顔は見るに忍びなかった。急いだ方が良さそうだ。 (一応進んでいたのだから……  駆動系の破損ではない筈だな)  バッテリーボックスを開き、中身を確かめる。  子供の一人が口にしていた通り、新品だった。ならば電池切れの症状でもない。  防水上の問題も無いようだった。  スクリューも欠けておらず、よく回る。 (……モーターか……)  見当をつけて、心に頷く。  矢縁モーターは耐用性に優れているが、無論のこと完璧ではない。長い時間使っていればやがてローター、ブラシ、マグネットなどの部品が損耗する。  その場合は交換すべきだが。 (ローターやブラシではなさそうだ。  おそらく磁石の〈熱だれ〉《・・・》)  モーターは稼働中に高温を発し、一定以上の温度は磁石の性能を損なう。  そういった事が繰り返されると全く磁力が利かなくなるまでに劣化してしまう場合もある。 (なら……)  先に少年がしていたように、船腹を開く。  ギヤやシャフトより、まず目立つのは模型のサイズに比してかなり大きなモーターだった。  円筒形の外殻に開けられた排気口から中を覗く。  それで、何がわかるというわけでもなかったが――  穴の縁に、右手の人差し指を押し当てた。 (村正) «なに?» (〈導源〉《コイル》を回せ  〈能力〉《ちから》を使う) «…………?  諒解»  劔冑と連動し、体内でごく小径の〈陰義〉《シノギ》を練り上げる。鉄を引きつける力――磁力の集積。  その〈流れ〉《エネルギー》を、モーターの中へ注いだ。  ほんの一呼吸分。  壊れた磁石を生き返らせるだけなら、これで足りる。 「……」 「あ、あっ、あのぉ……」  外していた部品を装着し、乾電池も入れ直す。  元の状態へ戻した模型を、俺は再び水面に浮かべた。  甲板上のスイッチをONにする。 「……わぁー!」 「おおーー!?」  歓声が上がる。  一/三五〇スケール電動模型・戦艦三笠は、今こそ本来の〈性能〉《スペック》を発揮していた。  水を切るようにして突き進む。  その姿はまさしく戦艦で、先刻の弱々しさの影すら無い。 「すごいー!」 「元に戻った!」 「はやいはやーい!」  岩場の間の水路のような水溜りを果敢に進む艦船を追って、仲の良い兄弟が駆けてゆく。  今はもう、彼らの意識に俺の存在は無い。先刻までと同じように。 (転んで、怪我をしないといいが)  六つの小さな背中を少しだけ見送ってから、俺もその場を後にした。 「なあっ、ちょっと待ってくれよ」 「……?」  いくらも行かないうち、不意に呼び止められる。  俺は振り返った。  子供が一人――あの兄弟の最年長者よりもう幾つか上と見える少年が、小走りで俺の方へ寄ってきていた。  その顔貌にも、先の六兄弟と共通する要素がある。 「あんた、あのフネ直してくれたんだな。  ありがとう。オレはああいうの全然ダメで、困ってたんだ」 「貴方は……  彼らのお兄さんですか」 「ああ。あいつらの一番上だよ。  さっきの、すこし離れてずっと見てたんだけどさ……ったく、あいつらはバカでしょうがねえ。お礼も言わずに行っちまいやがった」 「模型が直ったのが嬉しかったのでしょう。  ならば重畳、自分も差し出た振舞いをした甲斐があったというもの。それで充分です」 「そうはいかねーよ。  人に親切にしてもらって礼も言わないようなバカのままでっかくなったら、社会に出たとき大恥かいちまう」 「あいつらには後でよく言っとかなくちゃ。  とりあえず……すんませんでした。オレがあいつらの保護者なんで、あいつらの失礼はオレの責任です」 「……諒解致しました。  ですがどうか、本当にお気になさらぬよう願います。そもそもは何の説明もせずにあのような行為を始めた当方の落度」 「彼らが自分に声を掛けられなかったのは、至極当然の事であろうと存じます。  ご家庭内の問題とあれば差し出口は控えますが、どうかその辺りの事情は御酌量下さい」 「……」 「……」 「あんた、凄い喋り方するな」 「……そうでしょうか」 「オレ、ガキだぜ?」 「お若く見受けられます」 「そんなのにそんな丁寧な口利いてどうすんのさ。人に聞かれたら軽く見られちまうよ?」 「他人に敬意を払う事が、自己の価値を低落せしめるという認識を自分は持ちません。  むしろ他者への敬意を知らぬ者こそ己をも貶めているのだと……これは〈養母〉《はは》の言ですが」 「それに。  貴方があの子供達の兄として自分に対して示された態度は、充分に敬意を払い、一個の大人として尊重するに足るものです」 「……」 「自分はそれにお応えしたに過ぎません」 「…………」 「なあ」 「はい」 「迷惑でないなら、でいいんだけど。  名前……聞かせて欲しいな」 「オレ、〈芳養〉《はや》〈武史〉《たけし》」 「湊斗景明と申します。  お見知り置き頂ければ光栄の限り」 「……牡蠣、食わない?」 「……柿ですか?」 「牡蠣」  言って、芳養少年は肩掛けに背負っていたものを前へ持ってきた。  腕の長さほどの袋網。  中には荒い楕円形をした貝が詰まっている。 「こいつ」 「牡蠣ですか……  この辺りで獲れるとは知りませんでした」 「あの辺の岩場に一時間ばかし潜ってるだけでこのくらいは獲れるよ。手間が掛かんねえから、いい副業になる」 「売り物であれば、自分が頂くわけには」 「売り物じゃないよ。こんな小さいのは売れねえもの。市場に卸すなら、瀬戸内とか三陸とかで獲れるようなでっかいのじゃなきゃ。  そんなのここらじゃ滅多にねえけど」 「でもまぁ、こんなのでも食えるからさ。  まめに集めてるとけっこう食い扶持が減る。だから副業」  応えながら少年は貝を取り出して、その口に小刀を当てた。慣れた、器用な手付きで捻り込む。  ぷしっと、小気味の良い音。頑強である筈の牡蠣の殻が容易げに剥離し、クリーム色の中身を覗かせた。  独特の潮臭が鼻腔の感覚を奪う。 「どうぞ。  ここらのは生で食っても平気だから、安心して」 「……頂きます」  短く感謝の辞を述べて、受け取った貝の中身を一口に啜り込む。  まず潮の味――次いで弾力。心地良く柔らかな刺激が頬の裏を満たす。  そうして最後に旨味。  舌の上に、たまらぬ芳醇さが乗った。 「これは……  良いですね」 「物は小さいけど、今がちょうど旬だから。  この味はこの時期じゃないと食えないね」  同じようにして牡蠣を一つ食い、少年は笑った。  大人びた言動とは裏腹の、歳相応の表情。  滅多に見せぬ顔なのではないかと、そう思われた。  模型と戯れていた子供達、その保護者だという言葉を想起する。 「副業、と言われましたが……」 「うん?」 「何か、職に就いておられるのですか」 「どっかに勤めてるのかってこと?」 「はい」 「雇ってくれるとこさえあればね、それでも良かったんだけどね。なかなかね……働けるから使ってくれって言っても取り合ってくれない奴が多いし。ま、法律とかもあるし……」 「オレみたいな子供でもお構いなしってとこは、安いか、ヤバいか、どっちかだからな。  難しいよ。それでもガキ共は食わせてやらなきゃならねえ」 「それは、御苦労されていることでしょう。  一家の長たるの責任の重さは、察するに尚余りあります」  何の慰めにもならぬ台詞を吐く。  咄嗟に、口から洩らしてしまっていた。  彼のような子供に必要であるのは雄弁の口より沈黙の手である筈。  にも拘わらず、芳養少年はへへっ、と笑った。照れ臭げに――嬉しげに見えた。 「だから漁をやって暮らしてる。  ま、これが本業かな」 「乗せてくれる船があるのですか」 「無いよ。けど、親父の使ってた船があるんでさ。ロクでもねー奴だったけど、蒸発する時に船を金に替えていかなかったのは上出来だったな。お陰で干上がらずに済んだ」 「そいつを使って近場を回って、獲れるもんを獲って、市場に運んで金にする。  値は叩かれちまうけど……阿漕って程でもないから、どうにか食うだけは稼げてるよ」 「……そうですか。  しかし船を扱い、漁までするとなると人手が要るように思えます。それを全てお一人でなさっているのですか?」 「まさか。  さっきのあいつらが、そのへんは手伝ってくれてる」 「彼らが」 「力仕事は無理だけど。あいつらみんなちびっこくてはしっこいからな。  うちみたく小さい船だとそいつがけっこう重要だ」 「オレが船を動かしてる間に海の様子を見たり、漁をやる時には道具をそろえといてくれたりとか。  あんなんでもずいぶん役に立つんだぜ?」 「想像ができます」  嘘ではなかった。  この少年を中心にまとまり、小さな漁船の上で機敏に働く子供達の姿は、胸の画板に容易に描ける。  言葉も掟も必要としない、素朴で堅固な信頼のみで結ばれた人々の情景だ。  家族と云う。 「しかし……芳養さん」 「……」 「……?」 「あ、ごめん。  そんな風に呼ばれたことってなかったからびっくりしちまった。大概の大人は餓鬼とか、小僧とか、武坊とか……そんなんだし……」 「御不快でしたなら、改めますが」 「そ、そんなことない。  それでいいよ……湊斗さん」  こほんと小さく、少年は咳払いした。 「で……なに?」 「昨今、この近海では不漁続きと推察します」  誰かにそうと明言されたわけではない。  が、道すがら幾度も見た、波際で遊ぶ人々とは余りに対照的な表情を貼り付けた赤銅色の肌の男達――  何よりもこの、異常極まる暑熱。  そこから必然的に導かれる結論だった。 「ご一家のお暮らしも、なかなか楽にはゆかないのではありませんか」 「ああ、うん……」  曖昧な表情になる芳養少年。  わざわざそんなことを口にしたのは、見た所どうも、〈そうは思えない〉《・・・・・・・》からだった。  思っていたなら、口に出すことはなかったろう。己の偽善的な同情心を満たす以外の意味が見当たらない。  少年は肥えてこそいないものの、不健康なほど痩せこけてもいなかった。先に見た弟妹達もこれに倣う。  ごく健常と思えた。  率直なところ、不思議である。 「不都合とあれば、重ねてお尋ねはしませんが」 「……うーん。  ま、いいか」  何故にか辺りを見回して、誰もいない事を確認し、芳養少年は呟いた。  どこか決まり悪げにも見える笑いを向けてくる。 「今からの話は内緒ってことで。  いい?」 「承りました」  人倫にもとる〈若〉《も》しくは凶悪な犯罪行為に関わる内容でない限りは――などと余計な事を言いかけた口唇を封じて頷く。  筋目を通す事と単なる無礼とを混用したくはない。 「確かにここんとこ景気は悪いね。  江ノ島から来る時期はずれの暖流が、魚をみんな散らしちまうらしい」 「暖流」 「ってえと、言い方が穏やか過ぎるけどな。  島の中で何やって、何を流してんだか知らねえけど……周りの海が〈煮え立ってる〉《・・・・・・》こともある」 「……」  近辺一帯に限られるとはいえ、気象まで変える程の熱だ。さもあろう。  果たしてそれは、何がもたらす現象なのか。  ――銀色の怪物。  胸に掛かる一語を吊り上げる。  〈あれ〉《・・》が何かをしているという可能性はあるだろうか。 「魚がいなけりゃ、漁師の懐は寒くなる道理だな。船を出すだけ損だってんで、近頃じゃ海にも行かないで寝暮らしてる奴も多い。  船を処分して出ていっちまったのもいるな」 「最近、この辺りで人が急にいなくなるって事件がやたら起きてるのは知ってる?」 「耳にしたことはあります」  ――付近の沿岸では不審な失踪事件が多発中。    八幡宮で聞かされた話の一節を思い起こしながらに、頷く。 「あれも色々言われてるけどさ、要は夜逃げしちまっただけなんだと思うよ。  食えないんじゃ仕方ねえ。食える所に行くしかねえからな。もっとも……」 「中にはこの〈夏〉《・》を見物に来る客を当て込んで、浜茶屋を建てちまった奴なんかもいるけど。  特に小長井のおっさんはうまくやってんな。漁に出るよりも稼いでるってもっぱらの噂だ」 「それも知恵です。逞しい限り。  では、貴方もそのように?」 「てわけじゃあ、ない。  ま、こっからが内緒話になるんだが」 「は」 「今は魚が獲れない。  もちろん、魚の値は上がってる」 「だから……  もし一人だけ魚を獲れるなら、今こそ稼ぎ時って寸法だよ。な?」 「……それも、道理ですが。  獲れるのですか?」 「一月くらい前だ。  少ない魚を追い回してるうちに日が暮れて、辺りが見えなくなっちまってさ」 「気がついたら江ノ島の裏の、入り江の一つに踏み込んでた。長磯のあたりだ。  普通ならそんな近付く前におっかねえ武者が飛んできて追い払われちまうんだけどな?」 「どうもあの時間にあの辺を警備してる奴は相当の間抜けらしいや。でなきゃ、暇に飽き飽きして寝ちまってんのか。  犬も来ねえ裏側の警備じゃ無理もねえけど」 「……」  ――長磯。  俺はその地名を胸中に記録した。 「それにそいつの間抜けのお陰で稼げるんだから、文句なんか言えた筋合いじゃねえ」 「……とは?」 「いたんだよ、そこに。魚が。  それも滅多に見ないような大物ばっかがさ」 「思わず躍り上がっちまったね。  でもあの時、ガキどもはびびってた。オレも後になって思い出したら恐くなった」 「異様なくらい、うじゃうじゃと集まってて。  ……犬の死体にたかるウジみてえだったな」  本気で薄気味悪そうに言う。  海で暮らした事のない俺には掴み所のない話だったものの、何ともいえぬ不気味さだけは伝わってきた。 「……何故に、それ程まで」 「わかんねえ。多分、あの島が垂れ流してるのは熱だけじゃないんだろう。  あそこ、幕府の漁業研究所があるんだろ?その研究ってやつの成果なのかもな……」  そう言いながら自分の言葉に納得していないのか、芳養少年は首を捻る。  俺も同様の心境だった。  漁業研究所の、漁業研究の成果――そう考えれば、この上なく筋は通る。が。  ならばどうして、秘匿するのか。  それに、この異様な熱気はどう関わるのか。  頷けない部分は多い。 「……ま、とにかくそんなわけでさ。  オレは穴場を見つけちまったってぇこと」 「成程。  その情報、他の漁師の方々は――」 「おっと、勘違いしないでくれよ湊斗さん。  オレはそんなせこい奴じゃねえ」  少年は少し慌てた口調になって言い募った。 「教えたさ。何人か、口の堅そうな奴には。  でもそいつらは行こうとしねえんだ。幕府が恐くて仕方ねえらしい。平気だって言っても聞きゃあしねえ」 「それで結果的にうちの一家のひとり占めになっちまってるってだけさ」  意地汚い人間だと思われたくはなかったのだろう。口を閉ざした少年の頬は少し紅潮している。  だが俺が案じたのは、そのような事ではなかった。 「……正直なところを申し上げます。  手出しを控える方々の考えに、自分も同意です」 「六波羅を侮ってはなりません。  これまでは運が貴方に味方したのでしょう。しかし、運とはいつまでも続かないものです。尽きるものです。前触れなど何もなく」 「……」 「次がその時かもしれません。  その時が来てから、後悔しても遅いのです」 「……やっぱり、そう思う?」 「はい」 「だよな……。  ほんとのとこ、オレも調子に乗りすぎじゃねえかとは思ってた」  ぼりぼりと頭をかく少年。  どこか、ほっとしたようにも見えた。 「オレひとりならまぁ、それも面白えかとか思っちまうけどさ。  ガキどもも一緒だからな……」 「はい。  貴方がその点に思い至らないはずはないと思っておりました」 「あいつらを危ない目には遭わせたくない。  それでも食い扶持は稼がなくちゃならねえから、考えないようにしてたけど。ぼちぼち潮時かなぁ……」 「食うために死ぬが如きは、愚行と云わねばなりません」 「ああ。  ……そうだな。そろそろ、やめるよ」 「そろそろ、ですか」 「もう少しで、正月を楽に越せるくらいの金が貯まるから。  そしたら当分はおとなしくしとくよ」 「……」  今すぐにやめろと、言い聞かすべきなのは無論の事だった。幸運は有限だが、六波羅の市民に対する冷酷さには際限がないのだ。  少年一家の密猟は間違いなく死線を渡っている。  しかし――  それが生活に関わる事であるなら、無責任な立場の他者が言える事には限度があった。  俺がいくら有難い忠告をしたところで、彼ら一家の生活には何ら寄与しないのだ。  無謀ともいえる冒険だけが彼ら自身を救う。  だから――結局のところ。  俺にできるのはこんな事くらいしかなかった。 「芳養さん。  宜しければ、これをお受け取り下さい」  財布から紙幣を一枚取り、差し出す。  高さにおいても安さにおいても失礼のない程度の額。  この少年であれば当然というべきであったろうが、彼はすぐには受け取らなかった。  眉根をひそめる。 「……これはどういう?」 「実は自分は警察局の者で、江ノ島の異常について調査をしています」  嘘は何もない。  が、信じてもらえるかどうかは疑問があった。今は市民の誰もが警察を幕府の下部機関――それもさして重要ではない――程度に捉えている。 「貴方のお話は実に有益でした。  その御礼と口止め料、そして身分を黙っていたことについてのお詫び。これらすべてとお考え下さい」 「……」  しばらく、少年はぽかんとしていた。  両目を瞬かせ、まじまじとこちらを覗く。  〈何か〉《・・》を疑われているのは明らかだった。  正気か、知性か、人格か、その辺の何かだ。  ……しかし、やがて。  苦笑気味の表情が、そこに宿る。 「あんたもおかしな人だな」 「たまに……いえ。  最近はしばしば言われるような気がします」 「ありがとう」  細くも力強い指が、札を抜き取る。 「受け取っときます。  あいつらにいいもん食わせてやれそうだ」 「どうぞそのように、お使い下さい」 「もう行くのかい?」 「はい。  同行の者を待たせておりますので」 「また会えるかな?」 「……機会があれば」 「そっか」  少年は足元に置いてあった袋網を手に取り、また肩越しに担いだ。  そうして――もう一度、俺の方を見る。 「湊斗さん」 「はい」 「島に行くつもりなんだ?」 「……」  沈黙をして返答に代える。  だが、誤魔化せることでもなかったのか。 「行かない方がいい。  ……今度はオレが忠告するけど」 「……」 「実はさ……元々、もうやめるつもりだったんだ。あそこへ行くのは。  あそこには……何かいるから」 「何か?」 「銀色の何かだよ。  海鳴りみたいな声で唸る、何かがいる」 「――――」 「こないだの夜に、そいつの影を見ちまった。  六波羅は漁業研究なんかしてねえ。きっと全部〈あれ〉《・・》のせいなんだ。熱気も、魚の群れも」 「〈バケモノ〉《・・・・》があの島で何かをやってる。  そのせいなんだ……みんな」 「……化物」  銀色の―――― 「やめなよ、湊斗さん。  お願いだからさ」 「あの島には行かないで。  本当に……」 「……」 「……ええ、はい。  一通りは様子を見てみたんですがねぇ……」 「動きがありません。  慌てて引き上げにかかるなんて気配もないかわり、警備体制を強化する気配もないって按配でして」 「はい……。  ちょいとばかし、あてが外れちまった格好です」 「これじゃあ村正の始末は期待できませんね……ああ、はい。そりゃもう。  わかってます。あたしの責任です……」 「……どうにかしますよ。  なに、高見の見物を決め込もうなんて欲をかかなきゃ、まだ手はありますんで……」 「へ、へ、へ。  ま、そうご心配なく……」 「……」 「そうそううまくはいかねぇか。  へっへぇ……」 「まぁ……  それならそれで、腹を括るだけのことだぁな?」 「……村正ァ……」 「…………」 「D8号からの連絡ですか?」 「ああ。  どうも、事は奴の思い通りに進んでいないようだな」 「所詮は黄色い猿です。  口で言うことの半分も何かができるわけではありません」 「中佐殿も何をお考えなのか……。  あのような奴らに頼らずとも」 「私は、貴官の意見を求めたか?」 「……失礼致しました」 「……」 (雪車町が失敗するなら、それはそれで構わない。それで別に何を失うわけでもない。  だが……) (六波羅の兵器。  赤い武者……) (……大鳥大尉) (邪魔者は早めに始末するに限る。  〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》のためにも) (……雪車町に……  任せておくべきでは、ないな) 「キャノン中佐に連絡。  至急お会いしたいと伝えろ」 「は」 「もう一つ。  資料情報〈整理〉《・・》班に発令」 「〈出撃準備〉《セットアップ》」 「……はっ!」  江ノ島の土を踏んだ時には既に夜も深更を回りかけていた。小船を調達するのに手間取った事、船の扱いに慣れていなかった事、などがその理由だ。  明け方までもう数刻もないだろう。  ひとまず今日のところは、様子見に留めておくほかないようだ。  島を一巡りする余裕はおろか、幕府の研究所を観察する時間もありそうにない。 「手分けしてあたります?」 「やめておきましょう。  効率をいえばその方が望ましいのは確かですが、夜明けまでには撤収せねばならぬ以上、残り時間はせいぜいがあと一、二時間」 「これではどのみちさしたる成果は期待できません。また警邏の武者、存在不確定ながら 〝怪物〟等の危険と遭遇した場合に対処可能な者が自分のみという点も、問題となります」 「左様でございますねぇ……」 「……すみません。  戦えればこういう所で足を引っ張らなくて済むのに」 「心得違いをするな。  戦闘は元より俺の役割だ。お前や大尉殿に期待するのは捜査の面における協力であって、それ以外の何かではない」 「その期待には充分に応えられている。  お前が気に病むことは何もない」 「……はい」 「…………でも、あたしは…………  もっと役に立ちたいです…………」 「もっと……」 「……」  かぼそい呟きは、聞かなかったことにしておく。  その方が良いだろうと、思ったからだ。 「ふふふ聞きましたよ一条さん!」 「駄目だ空気読めてねーよこの人」 「つまりこう仰るのですね!  もっと身体を張って、景明さまにご奉仕がしたいと! まあなんて大胆な」 「誰がそんなエロいこと言ったか!」 「あら? あらあら? エロいだなんてあらそんな。  一体なにがエロかったのかしら。どういう解釈をなさったの? 教えてくださいなっ♪」 「行動を開始します」 「はい」 「参りましょう」 「……最近のわたくし、なんかやたら粗末にされていませんかしら……」 「うるさいですよお嬢さま」  正直なところ、今回の調査には何の進展も期待していなかった。  雰囲気を掴めれば、明日以降の捜査を円滑に進めるのに役立とう。その程度の腹だ。  しかし。  島の異常の、少なくともその一端は、ものの数分で俺たちの前に姿を現していた。 「……」 「……」 「……あの。  湊斗さん」 「どうした」 「何か……変じゃありませんか?」 「とは」 「……どう言えばいいんでしょう」 「…………」 「ビニールハウスの中を歩いてるみたい……な?」 「適切な評だと思う」 「まことに」 「……どういうことですか?」 「動物がいませんの」 「……あっ」 「そうか……」 「元々、野生動物が人間のような鈍い相手の前にそう姿を見せるものではないが。  それにしても、気配さえ全くないとなればこれは異常」 「ビニールハウスとは上手い表現でございましたな。まるで動物という動物が駆除されてしまったかのようで……」 「上陸した辺りは、そのようなことありませんでしたのに。  むしろ獣も虫も豊富にいたかと」 「海にも魚が多く見られました。情報通り。  しかし一方、この辺りはあたかも死の世界」 「植物は普通なのに、なんで……」 「いいえ。  木々の様子も、上陸地点とは異なってきています」 「なんと、お嬢さま?」 「月明りだけでは分かり辛いでしょうけれど。  ……枯れています。進むにつれて少しずつ」 「……入り江の辺りでは?」 「よく生い茂っていましたね。  時節を思えば、おかしなほど……」 「……」  生物の成長が異様に促進された地域と、  反して生命の枯渇した地域。  ――何なのか。  この〈均衡〉《バランス》の無さは、一体。  大鳥大尉の識別は誤っていなかった。  今、目前に広がる光景。  枯渇の根源を求めて至ったものが、これだった。 「……何たる」 「…………」 「江ノ島といえば豊かな自然が売り物でしたのに」 「これでは……  見る影もございませんねぇ……」  枯れ果てている。  何もかも。  コンクリートの隙間にさえ根を張るであろう雑草が、ここでは黄色く惨めに変色している。  虫などは影も形もない。いわんや他の動物をや。  土までもが、枯れていた。  指先で摘み取ったそれがたちまちぼろぼろと崩れ、砂となって地面へ還る。 「……」 「幕府はここで何をやっているのでしょう?」 「ロクなことじゃねえだろ。  奴らのやることにロクなことなんていっこもなかったが、こいつはとびっきりロクでもなさそうだ」 「遺憾ながら全く同感でございます。  実にくだらなく……迷惑な何事かが行われている様子」  後方の呟きを背に聞きながら、少し方向の違う事を考える。  幕府――幕府のみが引き起こした事であるなら良い。いや、良くは無いが……。  問題は―― (どう思う?)  村正に問う。  今は陰に潜んで辺りを窺っている筈だ。 «そうね……。  はっきりしたことは、まだなにも言えないけれど» (ああ) «〈重力異常〉《・・・・》がこれを引き起こしたのだとしても……不思議ではない、かしら。  〈銀星号〉《かかさま》の能力の幅は私にも計り知れない所があるから……» (気配の方はどうだ?) «少なくとも、今のところは» (無しか) «ええ»  無論、まだ島内全域を回ったわけではない。  ほんの一部だ。  村正の言う通り、現段階では何事も明言し得ない。  不吉の足音は――耳に痛いほど聞こえるにせよ。 「大尉殿……」 「はい?」 「この中では最も眼が利く筈。  あそこに……何があるか、おわかりですか」 「あの……開けているあたりですか?」 「はい。  地面に、何か……ありませんか」 「…………」 「あたし、見てきましょうか?」 「少し待て。あそこは視界が良過ぎる。  あまり近寄りたくない」 「たまたま警邏の方が通り掛かりでもしたら一発でございます」 「どうぞお嬢さまにお任せください。  こんな時しか出番のないお人ですし」 「…………」 「……突っ込み無しというのは、いと寂しいものでございますねぇ……」 「あんたら実は主従じゃなくて、主従ネタの漫才コンビなのか?」 「大尉。  如何です?」 「……確かに。  何か……」 「轍のような」 「轍?」 「深い溝があります。  巨大な大八車を曳きでもすれば、あのような跡ができるでしょうか……」 「巨大な……」 「それも、相当に。  あれが何かの目的で掘ったものではなく、本当に何かが動いた痕跡だとすると、とんでもない怪物でしょうね」  そう言って、大尉が口を噤む。  自分自身の言葉に、想起するものがあったに違いなかった。  怪物―― 『銀色の怪物を見た』 「……なんと言いますやら。  クーパー監督の映画の中に紛れ込んでしまったような心地がいたします」 「本当に、そうね」 「……何がいるんだよ。  この島には……」 「…………」  まだ何もわからない。  何者の影も見えない。  銀星号はここにいるのか。  はたまた寄生体は――  六波羅はここで何をしているのか。  兵器とやらは実在するのか?  ――何も分からない。  だが。  〈何か〉《・・》があるということだけは、もはや明らかだった。 「今回は無理をせぬことにする。  これより一時間ほど情報収集を行い、然る後に撤収。次の機会に備える」 「片付けてしまわないんですか?」 「〈何を〉《・・》片付けるべきなのかもわかっていない。  夜明け前までに状況を把握して必要行動を決定し完遂するのはまず不可能」 「夜明け以降も島に踏み留まって調査を続行すれば、幕府側の人間との敵対的接触は必然となる。こちらが地の利を欠く以上、それを避けられるとみるのはあまりに夢想的だ」 「必要とあれば幕府との交戦も止むを得ないが、まだ状況もわからぬ内から鉄火場に踏み込む軽挙は慎まねばならぬ。  諒解したか」 「……はい。  わかりました」 「では行動する」 「はいっ……あ、手分けしなくていいんですか? 時間が少ないなら、そうした方が効率的だと思うんですけど」 「確かにそうだが」  少し考える。  だが俺は結局、首を左右した。 「警邏の武者、存在不確定ながら〝怪物〟等の危険と遭遇した場合、俺がいなくては対処ができない。  最低限、情況が明らかになるまでは不許可」 「……すみません。  あたしが戦えれば、こういう所で足を引っ張らなくて済むのに」 「心得違いをするな。  戦闘は元より俺の役割だ。お前に期待するのは捜査における協力であって、それ以外の何かではない」 「その期待には充分に応えられている。  お前が気に病むことは何もない」 「……はい」 「…………でも、あたしは…………  もっと役に立ちたいです…………」 「もっと……」 「……」  かぼそい呟きは、聞かなかったことにしておく。  その方が良いだろうと、思ったからだ。 「行く」 「はい……」  正直なところ、今回の調査には何の進展も期待していなかった。  雰囲気を掴めれば、明日以降の捜査を円滑に進めるのに役立とう。その程度の腹だ。  しかし。  島の異常の、少なくともその一端は、ものの数分で俺たちの前に姿を現していた。 「……」 「……あの。  湊斗さん」 「どうした」 「何か……変じゃありませんか?」 「とは」 「……どう言えばいいんでしょう」 「…………」 「ビニールハウスの中を歩いてるみたい……な?」 「適切な評だと思う」 「……どういうことですか?」 「動物がいない」 「……あっ」 「そうか……」 「元々、野生動物が人間のような鈍い相手の前にそう姿を見せるものではないが。  それにしても、気配さえ全くないとなればこれは異常」  上陸地点周辺は、むしろ逆だった。  人の気配に驚いて忙しく動き回る小さな物音を幾つも耳にしたし、芳養少年の情報を裏付ける形で、海には多くの魚が見られた。  そこからまだ、何里も歩いたわけではない。  にも拘わらぬ、この変容。 「植物は普通なのに、なんで……」 「わからん。  あるいは植物にも夜闇では見え難い異常が表れているのかもしれない」 「……」  生物の成長が異様に促進された地域と、  反して生命の枯渇した地域。  ――何なのか。  この〈均衡〉《バランス》の無さは、一体。  ……そうして行き着く。  今、目前に広がる光景。  枯渇の根源を求めて至ったものが、これだった。 「……何たる」 「…………」  枯れ果てている。  何もかも。  コンクリートの隙間にさえ根を張るであろう雑草が、ここでは黄色く惨めに変色している。  虫などは影も形もない。いわんや他の動物をや。  土までもが、枯れていた。  指先で摘み取ったそれがたちまちぼろぼろと崩れ、砂となって地面へ還る。 「……」 「湊斗さん」 「ああ……」 「六波羅が何をやっているのかはわかんないですけど。でも何かやってます。  間違いなく」 「〈ロクでもない〉《・・・・・・》何かをやってるんです」 「……」  後方の呻きを背に聞きながら、少し方向の違う事を考える。  幕府――幕府のみが引き起こした事であるなら良い。いや、良くは無いが……。  問題は―― (どう思う?)  村正に問う。  今は陰に潜んで辺りを窺っている筈だ。 «そうね……。  はっきりしたことは、まだなにも言えないけれど» (ああ) «〈重力異常〉《・・・・》がこれを引き起こしたのだとしても……不思議ではない、かしら。  〈銀星号〉《かかさま》の能力の幅は私にも計り知れない所があるから……» (気配の方はどうだ?) «少なくとも、今のところは» (無しか) «ええ»  無論、まだ島内全域を回ったわけではない。  ほんの一部だ。  村正の言う通り、現段階では何事も明言し得ない。  不吉の足音は――耳に痛いほど聞こえるにせよ。 「一条」 「はい」 「あそこに何があるか見えるか。  あの、開けている辺りだ」 「……?」 「地面に……何か、ないか」 「……何でしょう。  ちょっと見てきます」 「待て。あそこは遮蔽物が何もない。  警備兵が通り掛かりでもしたら事だ」 「ここからでは見えないか?」 「……ちょっと。  なんか、地面が〈えぐれている〉《・・・・・・》のはわかるんですけど」 「俺もそこまでしかわからない。  どうも……気になる」 「……」 「俺には何か……  重く巨大なものが落ちた跡に見える」 「……〝怪物〟……」 「ああ」  ――怪物。 『銀色の怪物を見た』  伝奇小説の語り口のような、そもそもの発端。  陳腐な浮説と思えたそれが、不気味な事実の匂いを孕んで迫りつつあるこの現状。  まだ何もわからない。  何者の影も見えない。  銀星号はここにいるのか。  はたまた寄生体は――  六波羅はここで何をしているのか。  兵器とやらは実在するのか?  ――何も分からない。  だが。  〈何か〉《・・》があるということだけは、もはや明らかだった。 「手分けしてあたります?」 「やめておきましょう。  効率をいえばその方が望ましいのは確かですが、夜明けまでには撤収せねばならぬ以上、残り時間はせいぜいがあと一、二時間」 「これではどのみちさしたる成果は期待できません。また警邏の武者、存在不確定ながら 〝怪物〟等の危険と遭遇した場合に対処可能な者が自分のみという点も、問題となります」 「確かにそうですね……。  ああ、景明さまにお守り頂かなくては立ちゆかない、蒲柳の質たるこの身のなんと恨めしいこと」 「プッ」 「…………ばあぁやぁ?  今のは何かしら。咳き込みでもしたの?」 「や、そのようでございます。  このさよめも良い加減、トシでございますからなぁ……」 「うふふ、そう。  身体は大事にしてね、ばあや?」 「はい、ありがとうございます。  ところで湊斗さま」 「はい」 「蒲柳の質とは儚くひ弱という意味でございますよ。  けっして図太いとか、図々しいとか、ふてぶてしいとかいう意味ではございません」 「存じておりますが」 「文脈的にみてなんかおかしいとか思っても納得しておいてくださいませ」 「は」 「パパは勇敢な戦士だった~。  けして逃げない男だった~。  でも致命傷は背中だった~。  なんで、どうして、何があったのパパ~♪」  正直なところ、今回の調査には何の進展も期待していなかった。  雰囲気を掴めれば、明日以降の捜査を円滑に進めるのに役立とう。その程度の腹だ。  しかし。  島の異常の、少なくともその一端は、ものの数分で俺たちの前に姿を現していた。 「……」 「……」 「……」  誰もが口数を少なくしているのは無論、隠密行動を心がけているからだ。が。  たとえピクニックの最中であったとしても、会話が弾んだかどうか。  口に出さずとも、既に誰もが気付いている事は疑いなかった。  この〈無〉《・》の感触。看過するには余りにも、肌に寒い。  生命の気配がなかった。  〈動物がいなかった〉《・・・・・・・・》。  元々、感覚の鋭敏な野生動物はそうそう人間の前に姿を見せたりしないものではあるが。  遠くを駆ける物音も、かすかな息遣いも、侵入者に対する警戒の眼差しさえ――一切ないとは、果たして。  環境が手厚く保護されていた筈の江ノ島にあって、この体たらく。  何事であろうか。 「……上陸した辺りは、このようなことありませんでしたのに。  むしろ獣も虫も豊富にいたかと」 「海にも魚が多く見られました。情報通り。  しかし一方、この辺りはあたかも死の世界」 「植物は〈正常〉《まとも》に見えますが……」 「いいえ。  木々の様子も、上陸地点とは異なってきています」 「なんと、お嬢さま?」 「月明りだけでは分かり辛いでしょうけれど。  ……枯れています。進むにつれて少しずつ」 「……入り江の辺りでは」 「よく生い茂っていましたね。  時節を思えば、おかしなほど……」 「……」  生物の成長が異様に促進された地域と、  反して生命の枯渇した地域。  ――何なのか。  この〈均衡〉《バランス》の無さは、一体。  大鳥大尉の識別は誤っていなかった。  今、目前に広がる光景。  枯渇の根源を求めて至ったものが、これだった。 「……何たる」 「……江ノ島といえば、豊かな自然が売り物でしたのに」 「これでは……  見る影もございませんねぇ……」  枯れ果てている。  何もかも。  コンクリートの隙間にさえ根を張るであろう雑草が、ここでは黄色く惨めに変色している。  虫などは影も形もない。いわんや他の動物をや。  土までもが、枯れていた。  指先で摘み取ったそれがたちまちぼろぼろと崩れ、砂となって地面へ還る。 「……」 「幕府はここで何をやっているのでしょう?」 「さて……  実にくだらない、迷惑な何事かであろうとは、想像がつくのですが」  後方の呟きを背に聞きながら、少し方向の違う事を考える。  幕府――幕府のみが引き起こした事であるなら良い。いや、良くは無いが……。  問題は―― (どう思う?)  村正に問う。  今は陰に潜んで辺りを窺っている筈だ。 «そうね……。  はっきりしたことは、まだなにも言えないけれど» (ああ) «〈重力異常〉《・・・・》がこれを引き起こしたのだとしても……不思議ではない、かしら。  〈銀星号〉《かかさま》の能力の幅は私にも計り知れない所があるから……» (気配の方はどうだ?) «少なくとも、今のところは» (無しか) «ええ»  無論、まだ島内全域を回ったわけではない。  ほんの一部だ。  村正の言う通り、現段階では何事も明言し得ない。  不吉の足音は――耳に痛いほど聞こえるにせよ。 「大尉殿……」 「はい?」 「この中では最も眼が利く筈。  あそこに……何があるか、おわかりですか」 「あの……開けているあたりですか?」 「はい。  地面に、何か……ありませんか」 「…………」 「近寄って確かめたいところですが……  少々、視界が良過ぎますなぁ」 「は。巡回警備の者がいない筈もないことを思うと、迂闊には出られません。  ……如何ですか。大尉」 「……確かに。  何か……」 「轍のような」 「轍?」 「深い溝があります。  巨大な大八車を曳きでもすれば、あのような跡ができるでしょうか……」 「巨大な……」 「それも、相当に。  あれが何かの目的で掘ったものではなく、本当に何かが動いた痕跡だとすると、とんでもない怪物でしょうね」  そう言って、大尉が口を噤む。  自分自身の言葉に、想起するものがあったに違いなかった。  怪物―― 『銀色の怪物を見た』 「……なんと言いますやら。  クーパー監督の映画の中に紛れ込んでしまったような心地がいたします」 「本当に、そうね」 「…………」  まだ何もわからない。  何者の影も見えない。  銀星号はここにいるのか。  はたまた寄生体は――  六波羅はここで何をしているのか。  兵器とやらは実在するのか?  ――何も分からない。  だが。  〈何か〉《・・》があるということだけは、もはや明らかだった。 「……んでぇ?  何があったってー?」 「はい。  廃棄係からの報告なのですが……」 「ネクロかカニバに目覚めたか?  わかった。許可する」 「……いえ。そういったことは特に」 「〈資源再利用〉《リサイクル》精神の足りねー連中だ。  少しは俺を見習えっつーの。で?」 「侵入者を発見、捕縛したとのことです」 「なんだ、〈生〉《ナマ》の方か。  そいつらの身許は? どっかのスパイか?あー……」 「いやいいやめんどくせぇ。  燃料庫に放り込んどけ」 「取り調べはしなくてよろしいのですか?」 「どっちにしろやるこた一緒じゃん?  スパイだろーがただのアホだろーが」 「それはそうですが……」 「じゃあ無駄なことすんな。  こっちだって報告書読むのはかったりーんだよ。つーか俺ー、三行以上の活字を見ると火ぃつけたくなる人だしさー」 「……わかりました。  ではそのように処理しておきます」 「んー、よろしく。  じゃねーよちょっと待てオイ」 「はい?」 「なんで廃棄係が侵入者見つけんだよ。  警備隊は何やってた?」 「……それが。  以前から廃棄用区域の警備は甘く……」 「どぉして?」 「警備の者は皆、あの辺りの巡回を嫌がるのです。  亡霊が出る、とかで」 「……それは、えーっと、何だ。  とてつもなく奥深いギャグか?」 「深過ぎて笑い所がわかんねーぞ……」 「残念ながら本気です……というより、思い込みでしょうがね。  あそこで〈何が〉《・・》廃棄されているのかは彼らも知っていますから」 「アホか。死ね。  警備隊に言っとけ。こんなことがもう一度あったら、おめーらも燃料庫行きだってな」 「……伝えます」 「今日はまぁ、いいや。  隊長だけで」 「処理しとけ」 「…………はい」 「あー、かったりー。うおー。イラつく。  殺すー。犯すー。うるせー。死ぬー」 「なんかやる気出てきた。  仕事すっか。ハニーの様子見るから、バッテリー出しといて。今日は〈一個〉《ワンブロック》でいい」 「はい」  今日の海岸は冷涼だった。  昨日に比べれば、別天地かと思える程に。それでもまだ暦の上の季節に見合うとは言えなかったが、半袖で過ごすことに辛さを覚える程度の肌寒さではある。  この尋常ならざる気温変化に、地元の人々は陰鬱な吐息をつくだけだった。聞けば、やはりこれも頻繁に起こる事象なのだという。  ……江ノ島が〈おかしく〉《・・・・》なってから。 「夜までは待ちですか?」 「そうなるな」  一条と二人、並んで島を眺めやる。  潜入は夜。ならば昼の内に僅かでも情報を求めたいところだが、今日は海水浴客の姿がなく彼ら相手の店も戸を閉めている。聞き込みには不適の状況だった。  時間の空費は惜しいが、ここは仕方がない。  焦らず、待つほかになかった。 「……寂しいですね」 「ああ」  別に一条は心理状態を伝えたわけではない。それはすぐにわかった。  周囲の有様を言っている。  日が天頂を指す前の海岸ならば、漁に精を出す人々で賑わっていて良さそうなものだ。  しかし今、それはない。あるのは海に出ない船と、海を眺めるばかりの漁師が数人と――寂寞たる空気。  これが今の片瀬海岸の、真実の姿なのだろう。  昨日のような喧騒は所詮この地域と何らの関わりも持たない人々によって演出されたものに過ぎない。  明媚の地江ノ島は奪われ、その窓口もまた枯れ果てつつあるのだ。  〈何故〉《なにゆえ》にか。 「……許さねぇ……」  口の中だけでの、一条の呟き。  それはどうしてか、俺の耳まで届いた。  前から、気にしていたからなのかもしれない。  この少女が時折見せる、尖鋭的な敵愾心は。 「……一条は」 「はい?」 「六波羅が、憎いか」  戸惑ったように見えた。  唐突だったせいだろう。  しかしほんの一瞬。  彼女にとって、それは己に問い直すべくもない事柄であったに違いない。 「憎いです。  だって、〈間違ってる〉《・・・・・》じゃないですか」 「……」  否定の仕様もない弾劾。    ――そう。六波羅の圧政は、間違っている。  どのような政府でも瑕瑾を探せばきりがない、  六波羅のような統治者でもいないよりはまし、  現今の世界情勢を思えば軍事政権もやむなし、  ……六波羅とて、弁護の余地はいくらでもある。  が、そんな賢しらな理屈が、この針の如く迷いない弾劾に対して、何の壁になるだろう。  どう言い繕おうが、彼らが間違っているのは事実なのだ――誤りを犯しているのは事実なのだ。  非道という誤りを。  小賢しい弁護はその実、幕府を守るためのものではなく、面と向かって幕府の誤りを非難できない無力感、屈辱感から己を守るためのものである。  そんなものに、この少女は一顧だにくれない。  敵の邪悪からも己の無力からも目を逸らさず、真実を貫徹せんとする。  それは異奇なまでの、〈勁〉《つよ》さといえた。 「お前の力では六波羅を倒せない」 「……はい」 「それでも憎むのか」 「はい。  それは、関係のないことですから」 「……」  ――関係ない。 「無力は悔しいです。だからあたしも戦える力が欲しいです。  でも……たとえこの先ずっと、無力なままでも。あたしは六波羅を憎みます」 「あいつらが間違っている事に変わりはないんですから。  あたしは絶対、六波羅を認めません。否定します。力の有る無しには関わりなく」  ――戦わねばならないから戦う。  その決断に、勝つか負けるかという計算は必要ない。  そんな言葉を思い出した。  いつか誰かが誰かに放った、不遜な言い草。 「そうか、一条」 「……」 「お前は六波羅と戦うか。  力がどれほど及ばなかろうと」 「はい」 「俺もそうだ」 「……?」 「敵の力は確実に俺を凌駕する。  比べる事が馬鹿馬鹿しい程、圧倒的な開きがある」 「だが……戦わねばならない」 「……銀星号、ですか?」 「そうだ」 「正直……信じられません。  湊斗さんよりも……しかもそんな比べ物にならないほど強いなんて」 「事実だ。つまらぬ謙遜は言わん。  過去に幾度か、あれと太刀を交える機会があったが――」 「掠り傷一つ、負わせ得た〈例〉《ためし》はない」 「……」 「それでも俺はあれを制する。  力の不足は必然たる戦いから逃げる言い訳にはならない。戦いが必然であるなら元より逃げ場などはない」 「ただ、敵を打ち砕く力を得るのみだ」 「…………」 「はい」 「一条……」  少女の顔貌を見つめる。  瞳孔の奥に潜む、細い刃の危うさを。 「……」 「お前と俺は似ているのかもしれない。  こんなところだけが」  だからだろうか。  ふと、予言めいた言葉が口をついた。 「お前はいずれ力を手に入れるだろう」 「……」 「その力が……  お前に相応しい、〈正しきもの〉《・・・・・》であることを祈る」 「景明さま、おなかすきません?」 「まだ、さほどには」 「じゃ、もう少ししたら集まってお昼にしましょう。  わたくし、あの江ノ島丼というものを一度食べてみたいんです」 「……サザエの卵綴じがどうして江ノ島なのか、自分としては些か疑問ですが」  海岸線を歩く。  同道するのは香奈枝嬢だけだった。ほかは別行動をとっている。  散歩ではなく、夜に備えた情報収集のつもりだったが、その思惑は達せられそうになかった。  聞き込もうにも人が少ないのだ。閑散としている。この涼気が季節外れの海水浴客を散らせたからだろう。  程々の所で、切り上げるべきと思われた。 「戻りましょうか」 「もう少し、海を見ていきません?」 「戻りながらでも見られます」 「あん。そのナチュラルに女心を踏みにじる朴念仁っぷりがとっても素敵……。  くらくら、くら」 「大丈夫ですか。大尉殿」 「景明さまの魅力がわたくしを惑わすのです。  これは……恋?」 「錯覚です。  気を確かにお持ち下さい」 「こうして景明さまのお側にいるだけで動悸が激しくなりますの……ああっ。わたくしは一体、どうしてしまったのかしら?」 「心臓疾患の一種と考えられます。  医師の診断をお受け下さい」 「違います……!  わたくしの胸に巣食ういばらの園、これはきっと、景明さまの真心からのお言葉があれば……!」 (真心から……) 「……」 「貴方は、錯乱しています」 「わかりました。もうそれでいいです。  じゃあ少し休みましょう」 「はい」  足を止める。  辺りには、誰もいなかった。  都合の良いことであったかもしれない。  彼女が何かを、俺に話したがっているのはわかっていた。  沈黙を友として待つ。  程なく、予期していたものは訪れた。 「景明さま」 「はい、大尉殿」 「また、戦いになりますね」 「……は。  おそらくは」  江ノ島にあるものが、銀星号と関わるにせよそうでないにせよ。  その秘事を知ることは――平和ならざる衝突を意味せずにおかないだろう。  六波羅が隠している何かを暴き立て、かつ平穏裡に脱出しようというのは、少々楽観が過ぎる。  そうできるなら、それに越した事はないが。 「また、人が死にますね」 「……はい」  軽い口調で投げられる、鋭い棘。 「景明さまは……」 「……」 「人を殺すのが、お好きですか?」  その問いには、絶句した。  呼吸すら忘れる。  大鳥大尉はこちらを窺っている。  注意深く――瞳は深く下ろされた瞼が隠していても口元でわかる。〈笑っていない微笑〉《・・・・・・・・》を湛えた口元で。  彼女は覗き込んでいる。  俺の――〈心裏〉《しんり》を。 「……好きでは、ありません」 「お嫌いですか?」 「……はい。  嫌悪します」 「殺人行為はおぞましいものです。  決して――」 「容認できません」  矛盾。  殺人者がそれを口にする、不合理。  その矛盾を、大尉が指摘することはなかった。  ただ、〈嗤〉《わら》った。 「わたくしは……」 「……」 「人を殺すことが好きです」  〈哂〉《わら》った。 「人の生命を〈寇掠〉《こうりゃく》する瞬間……  享楽を覚えずにいられません」  いつしか。  衣の裾から取り出された長銃は、先端を俺へ向けていた。  俺の心臓へ。 「残念。  景明さまとは、趣味が合いませんのね」 「…………」 「嗜好とは人それぞれ。  なれど些か、下らぬご趣味かと」 「そう思われます?」 「はい。  こうも思います」 「何でしょう」 「恥を知れ、と」 「……!」  大鳥大尉は噴き出した。  慌てて口元に手をあて――しかし尚、笑う。  普通の人間なら爆笑というところだ。  彼女の受けてきた教育はそんな振舞いを許さないのだろう。  くつくつ、くつくつと。  笑う。  耳に障った。 「お楽しみ頂けたようで幸い。  諧謔のつもりはなかったのですが」 「ええ……本当に。  今のは楽しませて頂きました」 「お礼に……わたくしも一つ。  楽しい話をいたしましょう」 「……」 「むかしむかし……  ある山奥に、鬼が住んでおりました」 「鬼はそれはそれは強く、猪や熊でさえも鬼にはかないませんでした。  鬼はいつしか山の主と呼ばれ、恐れられるようになりました」 「鬼はやがて、人里へも目を向けます。  人間にも自分の強さを見せ付けてやりたくなったのです」 「鬼は山を下り、麓の村で暴れ回りました。  男を殺し、子供を喰らい、女を犯し……」 「〈大喜び〉《・・・》で、村を荒らし尽くしたそうです」 「……」 「しかし、村を治める領主は勇敢な侍でした。  村を守るため、敢然と鬼に立ち向かったのです」 「鬼は強く、領主は幾度となく敗れ、傷つきました。  それでも領主は諦めずに戦い、遂には山の仙人の助けを得て、鬼を打ち倒したのです」 「皆は喜びました。  しかしやがて、困ったことに気づきました」 「鬼に犯された娘たちのお腹が、三月も経たないうちに膨れてきたのです。  そう。鬼の子供を身籠ってしまったのです」 「このままではまた鬼が生まれてきてしまう。  やむを得ず、領主は〈泣く泣く〉《・・・・》、娘達を集めて焼き殺しました。鬼に汚された魂を清めるために、そうするよう仙人が助言したのです」 「……」 「こうして、村は平和を取り戻しました。  領主は生き神様と崇められ、死後は神社に祀られて本当の神様になったそうです」 「めでたし、めでたし」  大尉が口を閉ざす。  辺りが静かになる。  沈黙。  静寂。  彼女の唇が震えた。  痙攣するように。 「ぷっ」 「……」 「くくっ……あははっ」 「あはははははははは!」 「あぁぁはははははははははははははは!!」 「……さ。  そろそろ参りましょうか」 「景明さま」 「……はい」  首筋に出来た火傷を一度、指先で擦って。  俺は頷いた。  来た道を戻るその途上。  ふと、地元民の囁き合いを耳にした。  ――また人がいなくなった。    今度は、芳養の家の餓鬼どもだ―― 「……ッ!?」 「お待ち下さい!  ここは幕府直轄の施設です! 進駐軍の方であっても無許可での立ち入りは認められておりません!」 「……」 「ちょっ……  だから、待てって――」 「ぐべッッ!?」 「触れるな、劣等!」 「所長!」 「なんだぁこの騒ぎは!?  どいつもこいつもお味噌が腐って手当たり次第にファックし始めたのかぁっ!?」 「俺も入れろ!!」 「違いますっ!  GHQの将校が押し込んできました。研究を開示せよと……!」 「な――にィィィィィ!?」 「……へっへぇ。  こいつぁいい。話がいきなり簡単になっちまった」 「お気の短い少佐殿が、こう動いてくださるんなら……  あたしはやりたいことだけやってりゃいいってことだぁねぇ?」 「へ、へ、へ……!」 「入道様。  江ノ島より連絡です」 「おう。  来たか、来たか……」 «もーしもしもし!?  遊佐中将!?» 「や、や。これは所長殿。  いつもながら元気が良いのう」 「どうだな、研究の方は――」 «それどころじゃねえっすよぉぉぉーーー!!  GHQのファッキンタコどもがなんか群れなしてこっち来てんですけどぉーー!!» «これ一体どういうことぉぉーーーーーー!?» 「ほうほう……」 «俺の研究よこせって! ざけろボケ殺すぞ糞が。俺の大事な大事なハニーにてめーらのフニャチン突っ込む気かよ! 白人はでけぇだけでパウァァが足りねえよ! でしょー!?» «そんなんでハニーがオルガするわけねーだろーがぁ! イかねえよ! 身のほど知れよ白豚野郎! せめて黒人連れて来いっつーの!だから閣下ぁ、そこんとこひとつよろしく!» 「うむ?」 «軍隊連れてこっち来てー! あいつら俺の言うこと全然聞かねーの。脳天どつかねーと駄目だわこれ。しばらくは警備隊で持ち堪えとくから、その間にヘルプ。超ヘルプミーッ» 「ふむ……ま。  そういうわけにも、いくまいなぁ……」 «……へっ?  あんですと?» 「進駐軍と揉め事を起こすわけにはゆかぬよ、所長。  おぬしの苦境は察するが……事には軽重というものがあるでのう?」 «おい。  いや、ちょっと待てよハゲ» 「ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、GHQの要望に従うほかあるまいて。  臥薪嘗胆。石の上にも三年の意気ぞ。所長、ここは我慢の一手で参ろうよ」 «ざけんなおいこら腐れ坊主。  てめームケ過ぎた亀頭みてえなアタマしてやがるくせに、そんなんアリか? 俺の研究取られちまってもいーのかよっ!?» 「惜しい、惜しいのう!  だが仕方あるまいのう」 «あるまくねぇよぉぉぉーーーーーっ!!» 「ふゥ」 「入道様。  お茶でも、お淹れ致しましょうか」 「貰おうかの。  しかし、〈義清〉《よしきよ》……」 「はい?」 「今日は、良い日和だのう」 「……はっ。  気持ちよく晴れておりまする」 「……所長……」 「……切りやがった……。  あの禿公方、俺を切り捨てやがった……」 「…………」 「――貴様が、ここの責任者か」 「…………豚野郎ォ」  夜陰に乗じて江ノ島に上陸する。  昨日と同様、しかし昨日より格段に効率良く。時刻が正子を過ぎた頃には、既に調査の途についていた。  闇の帳をかき分けるようにして歩く。  昨夜の印象があるせいだろう……風景を沈める深い暗黒は尚一層あやしく、陰秘めいて見えた。  知らず、足取りが重く、慎重になる。 「湊斗さま。今宵の方針はどのように?」 「ひとまずは昨夜発見した怪奇な痕跡のある場所へ向かいましょう。  新たな異変が見つかるかもしれません」 「その後、研究所へ」 「真っ直ぐ研究所へ向かった方が良くありませんか? どう考えても、核心はそこですし」 「それはその通りですけれど、どうせ方角は同じ。なら少し寄り道をしていっても無益ではないでしょう。  ……そういうことではないかしら?」 「はい」 「なるほど……  わかりました」 『漁業研究所』は島の中央からやや西へ逸れた辺りに鎮座するという。  少なくとも、幕府発行の地図ではそうなっている。  それが事実と異なる表記であった場合には、自力で所在を探さねばならないだろう。  だからこそ確実に何かの手掛かりが残る場所は優先して押さえておきたかった。どう役立つかわからない。  とはいえ時間は有限にして常に不足する。  寄り道をするのなら急ぐ必要があった。ともすれば慎重の度を超して臆病になりかかる足に喝を入れ、音が立たぬ程度の早足で進む。  そうして程なく、辿り着いた。  地面に深々と爪痕の残る奇異な空き地。枯れ果てた木々も昨日のままだった。 「……どうしますか」 「今日は踏み込みます?」 「はい」  昨日は時間がなかったこともあって危険を冒すのは避けたが、この場からの観察では知れる事にも限りがある。踏み込まねば情報は得られない。  無論、慎重に手順を踏んだ上でなくてはならないが。 「村正」 «ええ……» 「熱源探査を実行。  周囲の生命反応を探せ」 «諒解» «……反応なし。  何もいない……» «本当に何も。  犬猫の一匹すら……» 「そうか……」  今も感じる〈薄寒〉《うそさむ》い〈無の気配〉《・・・・》の実在が、裏付けられた格好だった。  やはりこの辺りには生物がいないのだ。  異常な暑熱そして急激な温度変化を思えば、生態系の損傷はむしろ当然だろう。  だがそれにしても〈死滅〉《・・》は度が過ぎている。  他に、何か。  理由がある筈だ……。 「景明さま?」 「……周囲に人はいないようです。  調査を行いましょう。可及的迅速に――」 «――御堂!!»  張り詰めた金打声が、俺の舌に楔を打つ。  聞くも明らかな警告の絶叫。  平手で同行者に静止を促し、頭上の劔冑を振り仰ぐ。 「村正!?  どうし――」 «高熱源反応ッ!!  何――何なの、これ!» 「村正!?」  高熱源――武者か―― «高〈々〉《・》度熱源反応有り!  来る――――何かっ!!» 「どこだ!?」 «〈地下〉《した》よ!»  ――――地下!?  目前の空地に、四角い〈陥没〉《・・》が出来た――そう見えた。  次の瞬局。  その穴の底から、〈それ〉《・・》は浮揚し、現れた。 「…………か……」 「……怪物……?」 「……あらあら」 「……まあまあ」  まさしく。  怪物と呼ぶほか、ない代物だった。  白金にも近い銀色の肌。  人体を極端に抽象化したかのような造形。  何よりも――  その巨躯。  陸に上がった鯨であった。  総重量は何トンに達するのか、計算さえ働かない。  そんなものが……  〈浮いている〉《・・・・・》。  およそ、現実感を味わい難い光景だった。  思考がまとまらない。何を思い、何を為せば良いのかわからない。  おそらく、俺だけではなかったろうが。 「……むかし西村なんとかさんという人が、あんなものを造ったとか造らないとか……」 「あれはドイツで行方不明になったと聞いておりましたがねぇ……」 「…………」  まともに働こうとしない頭を叱咤する。  すべき事がある筈だ――何かある筈だ。  危険。  ここは見世物小屋の中ではない。  驚愕を楽しむゆとりなどない。  すべき事。  すべき事が―― 「……村正」 «……御堂?» 「あれは、何か……  わかるか?」 «…………» «……劔冑、よ。  ちょっと……風変わりだけど» 「劔冑か……」  あるいはと思ったが。  あれは、劔冑。  ならば。 「〝卵〟の有無は」 «…………無し» «あれは、違う» 「寄生体ではないか。  無論、銀星号でもない」 «ええ» 「では――ここは退くべきだ、な」 «そうね……。  戦う気はありませんって、言ってみる?»  魁偉なる大劔冑は、こちらに視線――視線?――を注いでいる。  こちらを見ている。  はっきりとこちらを見ている。 「…………」  何か、不都合な。  思わしからぬ事態が、生じているような。  繋がらない。  良く把握できない。  迷う――戸惑う。  〈そんな場合でないことだけはわかっているのだが〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「……ッ!!」 「これは……!?」 「熱い……  じゃない、寒い!?」  生温い風が吹きつける。  身体の芯が〈凍えた〉《・・・》。  何かが失われている。  何かが奪われている。  これは――――  これは、攻撃だ! 「村正ァッ!!」 «――――!!»  飛槍のように、蜘蛛の放った鋼糸が宙を駆けた。  銀色の巨甲に突き立つ。  それが何程の損傷を与えたかは知れない。  だが、奇妙な風は止んだ。  肉体の自由が回復する。 「撤退しろ!」  俺は同行者に向かって叫んだ。 「入り江へ――  いや、片瀬まで戻れ!」 「湊斗さんは――」 「行けッ!!」  怒鳴る。  問答の間などない。  立ち竦んだ一条の手を大鳥大尉が引き、無理矢理に駆けさせる。  彼女もまた走り出しながら……一度だけ、こちらへ視線を投げて寄越した。  視線を返す。  今はこれまで。  駆け去る背中を見送るゆとりは許されず、己の背に消えゆく足音のみを聞く。  そうして向き合う。  ――巨像。  蜘蛛の反撃を浴びて怯む色もないその怪影。 «御堂!» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……さて。  始めるぞ」 «ええ……»  戦わねばならない。  少なくとも彼女らが脱出を果たすまでの間。  この相手と――  未だ嘗て〈見〉《まみ》えたこともなく、見えることを想像だにしなかった〈対敵〉《てき》と。 「……ひとまず、昨夜の場所へ向かう」 「変な跡があった所ですね」 「ああ。  その後、研究所だ」 「真っ直ぐそっちへ行った方が早くないですか?」  核心は其処なのだろうし。  そう言いたいのだろう一条の考えは理解できた。  俺にも別段、異論はない。 「どうせ、通り道だ。  大した手間ではないし、何か重要な情報がないとも限らぬ」 「あ、そっか……そうですね。  わかりました」 『漁業研究所』は島の中央からやや西へ逸れた辺りに鎮座するという。  少なくとも、幕府発行の地図ではそうなっている。  それが事実と異なる表記であった場合には、自力で所在を探さねばならないだろう。  だからこそ確実に何かの手掛かりが残る場所は優先して押さえておきたかった。どう役立つかわからない。  とはいえ時間は有限にして常に不足する。  寄り道をするのなら急ぐ必要があった。ともすれば慎重の度を超して臆病になりかかる足に喝を入れ、音が立たぬ程度の早足で進む。  そうして程なく、辿り着いた。  地面に深々と爪痕の残る奇異な空き地。枯れ果てた木々も昨日のままだった。 「……どうします?」 「今日は踏み込む」  昨日は時間がなかったこともあって危険を冒すのは避けたが、この場からの観察では知れる事にも限りがある。踏み込まねば情報は得られない。  無論、慎重に手順を踏んだ上でなくてはならないが。 「村正」 «ええ……» 「熱源探査を実行。  周囲の生命反応を探せ」 «諒解» «……反応なし。  何もいない……» «本当に何も。  犬猫の一匹すら……» 「そうか……」  今も感じる〈薄寒〉《うそさむ》い〈無の気配〉《・・・・》の実在が、裏付けられた格好だった。  やはりこの辺りには生物がいないのだ。  異常な暑熱そして急激な温度変化を思えば、生態系の損傷はむしろ当然だろう。  だがそれにしても〈死滅〉《・・》は度が過ぎている。  他に、何か。  理由がある筈だ……。 「湊斗さん?」 「……周囲に人はいないようだ。  調査を行う。可及的迅速に――」 «――御堂!!»  張り詰めた金打声が、俺の舌に楔を打つ。  聞くも明らかな警告の絶叫。  平手で同行者に静止を促し、頭上の劔冑を振り仰ぐ。 「村正!?  どうし――」 «高熱源反応ッ!!  何――何なの、これ!» 「村正!?」  高熱源――武者か―― «高〈々〉《・》度熱源反応有り!  来る――――何かっ!!» 「どこだ!?」 «〈地下〉《した》よ!»  ――――地下!?  目前の空地に、四角い〈陥没〉《・・》が出来た――そう見えた。  次の瞬局。  その穴の底から、〈それ〉《・・》は浮揚し、現れた。 「…………か……」 「……怪物……?」  まさしく。  怪物と呼ぶほか、ない代物だった。  白金にも近い銀色の肌。  人体を極端に抽象化したかのような造形。  何よりも――  その巨躯。  陸に上がった鯨であった。  総重量は何トンに達するのか、計算さえ働かない。  そんなものが……  〈浮いている〉《・・・・・》。  およそ、現実感を味わい難い光景だった。  思考がまとまらない。何を思い、何を為せば良いのかわからない。  おそらく、俺だけではなかったろうが。 「――――」 「えっ……と」  まともに働こうとしない頭を叱咤する。  すべき事がある筈だ――何かある筈だ。  危険。  ここは見世物小屋の中ではない。  驚愕を楽しむゆとりなどない。  すべき事。  すべき事が―― 「……村正」 «……御堂?» 「あれは、何か……  わかるか?」 «…………» «……劔冑、よ。  ちょっと……風変わりだけど» 「劔冑か……」  あるいはと思ったが。  あれは、劔冑。  ならば。 「〝卵〟の有無は」 «…………無し» «あれは、違う» 「寄生体ではないか。  無論、銀星号でもない」 «ええ» 「では――ここは退くべきだ、な」 «そうね……。  戦う気はありませんって、言ってみる?»  魁偉なる大劔冑は、こちらに視線――視線?――を注いでいる。  こちらを見ている。  はっきりとこちらを見ている。 「…………」  何か、不都合な。  思わしからぬ事態が、生じているような。  繋がらない。  良く把握できない。  迷う――戸惑う。  〈そんな場合でないことだけはわかっているのだが〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「……ッ!!」 「熱い……  じゃない、寒い!?」  生温い風が吹きつける。  身体の芯が〈凍えた〉《・・・》。  何かが失われている。  何かが奪われている。  これは――――  これは、攻撃だ! 「村正ァッ!!」 «――――!!»  飛槍のように、蜘蛛の放った鋼糸が宙を駆けた。  銀色の巨甲に突き立つ。  それが何程の損傷を与えたかは知れない。  だが、奇妙な風は止んだ。  肉体の自由が回復する。 「撤退しろ!」  俺は同行者に向かって叫んだ。 「入り江へ――  いや、片瀬まで戻れ!」 「湊斗さんは――」 「行けッ!!」  怒鳴る。  問答の間などない。  立ち竦む一条を突き飛ばし、来た方角へと追いやる。  視線が重なった――何かを訴えてくる視線。        あたしも、              一緒に――  敢えて黙殺する。  哀しげに唇を噛んで、彼女は身を翻した。  駆け去る背中を見送るゆとりは許されず、己の背に消えゆく足音のみを聞く。  そうして向き合う。  ――巨像。  蜘蛛の反撃を浴びて怯む色もないその怪影。 «御堂!» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……さて。  始めるぞ」 «ええ……»  戦わねばならない。  少なくとも彼女が脱出を果たすまでの間。  この相手と――  未だ嘗て〈見〉《まみ》えたこともなく、見えることを想像だにしなかった〈対敵〉《てき》と。 「湊斗さま。今宵の方針はどのように?」 「ひとまずは昨夜発見した怪奇な痕跡のある場所へ向かいましょう。  新たな異変が見つかるかもしれません」 「その後、研究所へ」 「そうですね。真っ直ぐ研究所へ向かった方が話は早いのでしょうけれど。  方角的に、大した寄り道でもありませんし」 「はい」 『漁業研究所』は島の中央からやや西へ逸れた辺りに鎮座するという。  少なくとも、幕府発行の地図ではそうなっている。  それが事実と異なる表記であった場合には、自力で所在を探さねばならないだろう。  だからこそ確実に何かの手掛かりが残る場所は優先して押さえておきたかった。どう役立つかわからない。  とはいえ時間は有限にして常に不足する。  寄り道をするのなら急ぐ必要があった。ともすれば慎重の度を越して臆病になりかかる足に喝を入れ、音が立たぬ程度の早足で進む。  そうして程なく、辿り着いた。  地面に深々と爪痕の残る奇異な空き地。枯れ果てた木々も昨日のままだった。 「今日は踏み込みます?」 「はい」  昨日は時間がなかったこともあって危険を冒すのは避けたが、この場からの観察では知れる事にも限りがある。踏み込まねば情報は得られない。  無論、慎重に手順を踏んだ上でなくてはならないが。 「村正」 «ええ……» 「熱源探査を実行。  周囲の生命反応を探せ」 «諒解» «……反応なし。  何もいない……» «本当に何も。  犬猫の一匹すら……» 「そうか……」  今も感じる〈薄寒〉《うそさむ》い〈無の気配〉《・・・・》の実在が、裏付けられた格好だった。  やはりこの辺りには生物がいないのだ。  異常な暑熱そして急激な温度変化を思えば、生態系の損傷はむしろ当然だろう。  だがそれにしても〈死滅〉《・・》は度が過ぎている。  他に、何か。  理由がある筈だ……。 「景明さま?」 「……周囲に人はいないようです。  調査を行いましょう。可及的迅速に――」 «――御堂!!»  張り詰めた金打声が、俺の舌に楔を打つ。  聞くも明らかな警告の絶叫。  平手で同行者に静止を促し、頭上の劔冑を振り仰ぐ。 「村正!?  どうし――」 «高熱源反応ッ!!  何――何なの、これ!» 「村正!?」  高熱源――武者か―― «高〈々〉《・》度熱源反応有り!  来る――――何かっ!!» 「どこだ!?」 «〈地下〉《した》よ!»  ――――地下!?  目前の空地に、四角い〈陥没〉《・・》が出来た――そう見えた。  次の瞬局。  その穴の底から、〈それ〉《・・》は浮揚し、現れた。 「………」 「…………〝怪物〟…………」 「……あらあら」 「……まあまあ」  まさしく。  怪物と呼ぶほか、ない代物だった。  白金にも近い銀色の肌。  人体を極端に抽象化したかのような造形。  何よりも――  その巨躯。  陸に上がった鯨であった。  総重量は何トンに達するのか、計算さえ働かない。  そんなものが……  〈浮いている〉《・・・・・》。  およそ、現実感を味わい難い光景だった。  思考がまとまらない。何を思い、何を為せば良いのかわからない。  おそらく、俺だけではなかったろうが。 「……むかし西村なんとかさんという人が、あんなものを造ったとか造らないとか……」 「あれはドイツで行方不明になったと聞いておりましたがねぇ……」 「……」  まともに働こうとしない頭を叱咤する。  すべき事がある筈だ――何かある筈だ。  危険。  ここは見世物小屋の中ではない。  驚愕を楽しむゆとりなどない。  すべき事。  すべき事が―― 「……村正」 «……御堂?» 「あれは、何か……  わかるか?」 «…………» «……劔冑、よ。  ちょっと……風変わりだけど» 「劔冑か……」  あるいはと思ったが。  あれは、劔冑。  ならば。 「〝卵〟の有無は」 «…………無し» «あれは、違う» 「寄生体ではないか。  無論、銀星号でもない」 «ええ» 「では――ここは退くべきだ、な」 «そうね……。  戦う気はありませんって、言ってみる?»  魁偉なる大劔冑は、こちらに視線――視線?――を注いでいる。  こちらを見ている。  はっきりとこちらを見ている。 「…………」  何か、不都合な。  思わしからぬ事態が、生じているような。  繋がらない。  良く把握できない。  迷う――戸惑う。  〈そんな場合でないことだけはわかっているのだが〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「……ッ!!」 「これは……!?」 「……〈吸収〉《ドレイン》!  いけませぬ、お嬢さま!」  生温い風が吹きつける。  身体の芯が〈凍えた〉《・・・》。  何かが失われている。  何かが奪われている。  これは――――  これは、攻撃だ! 「村正ァッ!!」 «――――!!»  飛槍のように、蜘蛛の放った鋼糸が宙を駆けた。  銀色の巨甲に突き立つ。  それが何程の損傷を与えたかは知れない。  だが、奇妙な風は止んだ。  肉体の自由が回復する。 「撤退を!」  俺は同行者に向かって叫んだ。 「入り江へ――  いや、片瀬までお戻り下さい!」 「――」  大鳥大尉は返事をしなかった。  その手間を踏むかわり、即座に飛び退る。  ただ、踵を返す直前。  一差しだけ、視線を投げて寄越した。  視線を返す。  今はこれまで。  駆け去る背中を見送るゆとりは許されず、己の背に消えゆく足音のみを聞く。  そうして向き合う。  ――巨像。  蜘蛛の反撃を浴びて怯む色もないその怪影。 «御堂!» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……さて。  始めるぞ」 «ええ……»  戦わねばならない。  少なくとも彼女らが脱出を果たすまでの間。  この相手と――  未だ嘗て〈見〉《まみ》えたこともなく、見えることを想像だにしなかった〈対敵〉《てき》と。 「……ふむ。  あれがムラマサか」 「この倍率ではよくわからんな……。  もう少し精度の高い〈対地望遠鏡〉《フィールドスコープ》はないのか?」 「…………」 「訊いているのだが?」 「あー、はい、ありませんですよぉー。  うちにある中じゃ、そいつが最新式のやつなんで」 「これが、か。  なるほどな。確かに、類人猿の産物にしては上等だ」 「…………」 「褒めているのだが?」 「あーありがとうごぜぇますだーよー!  お褒めにあずかり恐悦地獄ー!」 「……つまらない冗談だな、所長。  全くセンスを感じない」 「…………」 「〈荒覇吐〉《アラハバキ》から通信です。  所属不明の武者に対する処置を問うてきていますが……」 「撃破せよ」 「おぉーい!  あれはまだ調整段階なんですけどぉーー!」 「最悪、相打ちでも構わん」 「構うよっ!?」 「……あの……?」 「現在、この研究所の指揮権は私が掌握している。そのはずだが……  それとも、何か異論があるか?」 「……いえ」 「……うおー。  殺してぇー。すっげー殺してぇー。とめどない願いからひとつだけ選んでこの野郎殺してぇー……」 「損傷は!?」 «左上腕に軽微!  性能に支障なし»  一般に、銃火器は武者に対してそう有効な兵器とはみられていない。  その機動を捕捉するにもその甲鉄を突破するにも、余りに力不足であるからだ。  しかしそこに、ごく単純な理論が介在を許されたのなら、解答は覆る。  ――一発で当たらないなら十発では? 十発で破れないなら百発では?  集中運用によって、銃火器は武者の脅威と成り得るのだ。  巨怪の体皮から幾重にも突き出す砲門群は、まさにそのためのものだろう。  しかし、それでも―― 「……躱し切れるつもりだったのだが。  闇で間合を見誤ったか?」 «違う。  こちらの動きが普段より鈍いのよ» 「…………。  先程の〈寒気〉《・・》か」 «そう。それ。  あれは体内から熱を吸い取る風だった……対武者用の武装としては恐ろしく有効ね»  武者の超常的能力はすべて〈熱量〉《カロリー》を犠牲とする。  その熱を奪うのは――確かに。敵騎を無力化するにおいて最短の道であるかもしれない。 「あの風には捕まってはならないということだな……」 «ええ。  甲鉄である程度は防げるでしょうけれど、過信は禁物よ» 「承知した」  銃砲の推定射程外を円周状に駆け上がり、敵騎後方上空に出る。  無論、銀の巨体はすぐに姿勢を変えてこちらを向く――が、その動きはいかにも鈍い。  再び後背へ。敵が動く――更にその背後へ。  見えない螺旋階段を駆け下りて、距離を詰める。  遠間に眺めてさえ疑う余地のなかったその巨獣ぶりは、肉薄すればより一層明快だった。  象に挑む蟻。己がそれ以上の何者にも思えない。  だが。  蟻の一噛み、象をも倒す―― 「……とは、いかんものだな。  なかなかに」 «見掛け通りの分厚い甲鉄ね……。  張子の虎なら良かったのだけど»  村正の本来の主武装、野太刀の喪失が今更に惜しまれる。  あの長大な一物はまさしくこのような時の為の武器だった。 「堅牢な甲鉄に鈍い足回り……拠点防衛用というところか?  六波羅も妙な兵器を造ったもの」 「しかし、これで謎はあらかた解けた」 «謎?» 「これだけの大きさの劔冑だ。しかも研究とあってはこれ一つきりということもなかろう。  失敗作も含めて膨大な量の甲鉄を鍛造するために、どれほどの廃材が生まれたか……」 「周辺の海でその処理をしていたとすれば、局地的に気候が変わるほどの温度変化をもたらしたとしても不思議ではない」 «確かにそうね。  昔も廃鋼の始末は鍛冶師の悩みの種だったから……湖に捨てていたらやがて干上がってしまった、なんて伝説もあるくらいよ» 「そして、生態系の破壊はあの風の為だろう。  熱量剥奪兵器の実験に供されたとすれば、島の無残極まる荒廃ぶりも理解がつく。  一部地域の繁栄については不明だが……」 「いずれにしろ、新兵器のために自然環境を犠牲としたのなら、何とも割りに合わぬ取引だという他はないな。自然は有限の資産だが、新兵器は数年も経てば旧式に堕ちる」 «ええ。  ……でも» «必ずしも、〈新〉《・》兵器ではないのかもしれない» 「……とは」 «外装は今の技術で造られたものね。勿論。  けれど中枢は……おそらく、古式のもの» «真打よ。  巨大な…………»  有り得る話と思えた。  大艦巨砲主義が軍内を席巻した嘗ての時代、大型の劔冑という発想も当然のように現れたが、結局は技術的な問題を克服できず放棄されたと聞いている。  それが唐突に成功したと言われるよりは―― 「昔はああいう物があったのか」 «……言い伝えに聞いたことくらいは。鹿島に眠るという〈布都御魂〉《フツノミタマ》とか、〈唐国〉《からくに》の〈倚天屠竜〉《イテントリュウ》とか。  でも何より» «あの風……  私の感覚では、あれは〈陰義〉《しのぎ》よ»  陰義。  古来の法に則り、鍛冶師の命を〈心鉄〉《しんがね》として鍛造されし真打劔冑のみが備えるちから。  それを行使するならば、成程、現代の新式劔冑ではあり得ない。 「しかし、だとすると――」  怪物の分厚い皮膚の下には、  古代の神秘で打ち上げられた重装甲がなお控えるという事であり、 「……斬り破れる見込みは無いな」 «……残念だけど。  鉄量が違い過ぎる»  口惜しげながら、村正も追従した。  今までに加えた剣撃で、敵騎に損害を被った様子はない一方、こちらは腕に骨まで響くほどの衝撃を受けている。村正も、刀身に絶望的な手応えを覚えたのか。  まさに然り、鉄量が違う。  単純にして絶対的なこの差は、容易な事で打ち破りようもない。 «どうするつもり……?» 「許されるなら、撤退すべき局面ではある。  が、」 «許されないというの?  時間稼ぎなら、もうそろそろ良い頃合じゃない?» 「……どうにも気に掛かる。  この怪物が、俺達を待ち構えていたとしか思えない事――」  先刻の遭逢。  偶然にしては、発見され攻撃されるのが早過ぎた。最初からこちらを捕捉していたと考える方が妥当だ。  そして、この期に及んで他に敵兵力が出現しないという事実――俺達の侵入が不測のものであったならば、直ちに警報が発せられ、今頃は警備の兵が雲霞の如く集ってきていて然るべきであろうに。  何故か。 「今回の件、最初から実に臭い話だったが。  どうやらやはり、何者かが何らかの目的で仕掛けた陥穽にまんまと〈嵌〉《は》まったようだ」 «これが罠なら、迂闊な逃走は更なる窮地へ繋がる……  そういうこと?» 「その見込みが強い。  それに――」 「失踪したという彼らの事もある。  江ノ島近隣の行方不明事件は単なる夜逃げだろうとあの少年は言っていたが、よりにもよってその少年一家が消えたとなると……」 「夜逃げなどではなく島の異変の一環とみるべきだ。具体的事情は不明だが。  救助するには迅速に事件を解決する他ない」 «……この島の事件を解決するって事は。  つまり» «あれを撃破するって事になりそうだけど?» 「そうだな。  それをもって、結論とする」  妥当な論を積み重ねた末、無謀な結論に至る。  一般にはこれを指して〈窮余〉《どんづまり》と云う。  が、無論――  〈村正〉《おれたち》にとってそれは〈常の事〉《・・・》に過ぎなかった。 «……諒解。  なら、手は一つきり» «御堂、〈磁装〉《ながれ》を!» 「〈電磁抜刀〉《レールガン》か」 «ええ。  私の〈蒐窮〉《おわり》の太刀でなら、どんな物でも断ち切ってみせる» «あれが今の凡甲だろうと神代の遺産だろうと、どちらでも関係ない。  どちらだろうと同じことよ!»  〈刃〉《・》が立たなかったという屈辱からか、気負う村正の言動を、しかし俺も虚言とは思わない。  蒐窮の太刀――〈電磁抜刀〉《レールガン》。強圧的な磁力反発がもたらす神速の一刀は、確かに前方の鉄壁をも打ち破ろう。  やや消耗した現在の体調で、細心の集中力を必要とする術式制御に挑むのは〈危険〉《リスク》が大きいが――電磁抜刀の制御失敗は磁力と熱量の暴走による自壊を意味する――それは言わば常の事であり、懸念など今更だ。  が。 「却下」 «なぜ!» 「あれは劔冑だ。  〈中に人がいる〉《・・・・・・》」 「〈蒐窮〉《エンディング》を行えば力の加減など利かない。  中の仕手ごと斬り断つ事になる」 «……っ»  せめてあの巨体の何処に仕手が座するのか、それがわかればやりようもあるが。  現段階では、中の人間の生死は運任せとなる。  あれが〝卵〟を植えられた寄生体であるなら――俺は殺す。その是非は問わず、そう決めている。  新たな銀星号の誕生を阻止するには、可及的速やかに破壊し尽くす他はない。それだけが理由だ。  だが、あれは違うのだ。殺す事はできない。  あれはあれで罪があるのかもしれない――おそらく島の環境を破壊し周辺住民を脅かした罪は負うだろう。生かせば今後、更に破壊を為すかもしれない。  しかしだからといって、〈俺が裁く〉《・・・・》などという傲慢が認められよう筈はなかった。  裁きは法の下に行われなくてはならない。俺に許されるのは被疑者を法廷まで連れてゆく事だけだ。  法すらあてにならぬならば――つまりは相手が幕府のような権力(濫用)者ならば――あるいは恣意的な処断を良しとする考えもあるのかもしれない。  だがそれは〈凶徒〉《テロリスト》だ。俺は曲がりなりにも警察だ。  警察は司法の忠実な手足とならねばならない。  一存で罪を計り裁きを下し殺害するなど、あってはならない事である。  ――断じて。  許されない行為である。 «なら、どうするの!?» 「……」  決め手は封じた上で。  この怪物を仕留める。  虫の良過ぎる問いかけに、脳内に居住する〈相談員〉《カウンセラー》が手早く答えを返してくれるという事はありそうにない。  そして、敵がそれまで待ってくれることもありそうにない。 「――?」 «あれは…………  なに?»  鎌首をもたげる蛇に似た動きで、こちらを指す砲門。  それは――むしろ小さく細く。向けられた者を怯ませる威圧力に欠けていた。  が―― «え?  これ――〈金打声〉《きんちょうじょう》――»  〈而〉《しか》して。  この、肌が粟立ち、身震いするまでの〈死気〉《・・》。 「――――退避ッ!!」 «!?» 「……あれは、何かね」 「……」 「所長?  君の記憶能力では覚えきれないようだから改めて通告するが、君には私の質問に答える義務が――」 「竜気砲だよ!  発振砲って言やぁあんたらにもわかるか」 「〈発振砲〉《ヴァイブロカノン》……。  確かにその兵器構想は耳にしたことがある」 「〈劒冑〉《クルス》の〈装甲通信〉《メタルエコー》を応用した兵器だとか?」 「あぁ。  武者の金打声を受けると、体表が小刻みに振動するだろ? その現象を攻撃に利用できないかっつー愉快発想から研究が始まって」 「その結果、極低度の金打声を集束して発振すると標的を瞬間的に加熱、燃焼させることが可能だって判明したわけさーねー。  うちでそいつを実用化したのがあの竜気砲」 「〈竜気〉《ドラゴンブレス》か。なるほどな。  しかし、大したものだ」 「ふン」 「あれは。我が軍では機動兵器の決定力たる搭載武装として研究がなされたが、電力供給と小型化の問題が解決せず頓挫したと聞く。  砲台運用ではコスト的に見合わんしな」 「それを、機動兵器の方を大型化することで解決するとは……素晴らしく大雑把な手法だ。  島国の未開人なればこそだな。我々文明人であれば冗談の種で済ませてしまうところだ」 「ぐぉアーーー!!」 「感激するのは良いが騒がしいのは困るな、所長」 「そう見えんのかよ!?」 「蛮国の独特な風習に基づく感情表現などに興味はない。  ところで所長」 「もーおうち帰りてー……。  部屋に籠もって殺害妄想に耽りてぇー……あっ流れ星……神さまお願い、こいつ殺して殺して殺して……届けボクの一途な願い……」 「あのでかぶつは曲がりなりにも劔冑だろう。だが一体、如何なる方法で鍛造したのだ?  あそこまで巨大なものを……正直なところ、まるで想像がつかない」 「……そいつは俺も知らねぇー。  あれ、兵装を調えたのは俺らだが、〈原型〉《ベース》は違うからな」 「ほう?」 「この島の南西の端に岩屋がある。  富士山の風穴に通じてるだの、〈遊行〉《ゆぎょう》し給う神の道だの、色々と曰くのある洞穴なんだが」 「あれはその奥で発見されたもんだ。  八年前、民俗学の調査団にな……もっとも現地人の間じゃ相当昔から語り伝えられてたらしいけど」 「〈おみうつし〉《・・・・・》、とか言ってたかな。  意味はわかんねえ。島の連中が言うこともまちまちだ」 「……」 「で、そいつを調べてみたところ、数百年か、下手すると千年以上前に造られた――〈武者に〉《・・・》〈着せる劔冑〉《・・・・・》だってことが判明したわけよ。  まあ、みんな驚いたわ」 「劔冑の上に劔冑を重ねる、なんつー発想は前代未聞だったからな。  ともかくそいつは六波羅の管轄に移って、竜騎兵用強化外装の名で研究が始まってー」 「けど結局、製造法はわからんかった。  しゃーねえからこの一騎だけでも運用してみるかってんで、そっちの研究をした結果、あれが出来たと。まぁそーいうわけですよー」 「なるほど。  おおよそ理解した」 「そらよーござんした」 「要するに『何もわからない』という事だな。  内容の無い説明を感謝する。大変に無駄な時間を過ごした気分だ」 「うわーい。  なんか段々楽しくなってきたよ俺ー。人間どこまで殺意を抱けるのか挑戦してる感じー」 「……うむ?  今度は何をやるのだ? あれは」 「ん?  あぁ……」 「拡散竜気砲だな」 「……つゥッ!!」 «さっきのやつと同じね……  損傷は軽微。けれどほぼ全身!»  皮膚という皮膚に〈ひりひり〉《・・・・》と焼け付く感覚を覚える。  今の〈波〉《・》は避けようがなかった。  しかし広範囲に散った分、威力は減殺されていたのだろう。左腕を襲った先の一撃に比べればぬるま湯のようなものだった。  そちらは既に炭化し、指一本とて動かせない。 「……これはどういう兵器なのだ?」 «私にわかるわけないでしょう。  ただ、金打声を利用しているのは確かよ»  〈金打声〉《メタルエコー》を用いた射撃兵器。  ……想像が及ばない。  遂に実らず捨て去られた〈電磁加速砲〉《レールガン》開発の他にも数種目あったという、次世代火砲研究のひとつだろうか。  その中に実用化まで漕ぎ着け得たものがあったのか。 «追い打ちが来る!» 「――ち」  痛む体を押して上空へ逃れる。  ……今の銃火は全て実体弾だった。 「流石に連射は利かないようだな……」 «不幸中の幸いね。  火焙りにされる罪人の顔へ巻く布かもしれないけれど» 「それはどういう例えだ?」 «聞かない方が賢明よ。意気が萎えるから。  それより、どうするの» 「……甲鉄の脆弱な箇所を探して衝くつもりだったが」  堅牢無比なる劔冑と〈雖〉《いえど》も、比較的脆弱な部分というものはある。  人が着る鎧である以上なくすわけにはゆかぬ、関節部がそれにあたる。  動きの自由を確保するため、関節部の装甲は薄く、隙間のあるものにならざるを得ない。  この弱点を狙うのは〈双輪懸〉《ふたわがかり》――武者と武者の一騎打における定石の一つだ。  ……あの怪物は劔冑の常識を相当に踏み外しているが。  それでも何処かしら泣き所はあろう。  しかし―― 「悠長に調べて回れる状勢ではないな。  奴の向こう脛を見つけ出す前に、こちらが〈撃墜〉《おと》される」 «不本意な予測ね。  否定できないのはもっと不本意よ»  あの小さな砲は、ただの一撃で武者を散華せしめるだけの力を秘めている。  そんなもので狙われながらの弱点探しなど、できる話ではない。  速戦即決に如かず。  ――それはわかっている、が。 «……右脚甲鉄に被弾!  深刻な火傷。治癒を開始する――» 「後にしろ。  今、〈速力〉《あし》を落とせばいい的だ」  数百本の針を一度に突き刺されたかのような激痛を噛み潰して、命ずる。  武者が劔冑に供給する熱量は限りあるもの。それを治癒に傾ければ当然、性能は低下するのだ。 「……足には苦痛の感覚がある。  何も感じない左腕に比べれば軽傷という事だろう」 «御堂…… 〝〈蒐窮〉《おわり》〟の執行を!» 「却下」  敵騎の仕手が死ぬかもしれない。 «なら、撤退すべきよ!» 「却下」  あの少年たちが死ぬかもしれない。 «貴方が死ぬ!» 「お前が案ずる事ではない」  片手打ちに斬りつける。  無論、両の腕に渾身の力を加えてさえろくろく傷もつかなかった壁が、それで途端に割り裂けるという事はない。 «策があるの!?»  応える間を惜しみ、更に一撃。  単調に、虚しい攻勢を続行する。  単調に―― «……!»  気づいたか。  ……射撃が次第に散漫になる。  敵手の苛立ちが、そこに見えた。  その苛立ちを刺激するように、なお繰り返す。  反撃はもはや狙撃とは呼べない。  数任せの制圧射撃だ。  金蝿よろしく飛び回るこちらを追うのに疲れてきているのか。  一弾一弾に、これにて仕留めんという集中力がない。  それは圧倒的優勢ゆえのものでもあろう。  己に傷を負わすことのできない蚊蜻蛉を相手にして、必死の闘志が持続せぬのはまず道理。  ――頃や良し。  歪んだ〈螺子〉《ねじ》の軌道で空を駆け、銀の巨体の背後へと回る。  太刀を構えて進突。  敵騎に肉薄し――  ――前面へ回る。 «標的、至近!» 「応――」  戸惑ったように敵影を求めて彷徨う銃砲を尻目に、まさしく正面へ躍り出る。  そこにも一門の銃砲。  ――あの小さな、危険極まる砲門。  敵は俺の意図を即座に察知しただろう。  だがここに至っては既に遅い。  その砲が、こちらの作戦意図を妨げるのなら――  まず、その砲から沈黙させる。  斬る―――― 「――何!?」 «そんな!?»  止められた!?  いや――  〈捕まった〉《・・・・》!? 「……」 「はいはい、聞かれる前に言うよー。  あれは〈封鉄力場〉《AIフィールド》」 「電磁場の作用で敵騎の動きを止めるっつー、防御兼攻撃補助用の武装ですだァー」 「聞いていない」 「あーそーかよぉぉーーー!!」 «これは……磁気!» 「そんなものまで――」  〈磁場発生装置〉《そんなもの》まで装備していたのか!  今、この鉄身を拘束するのは村正にとって親しい力――まさに磁力。  それも強度の電磁気だ。  力任せでは逃れられそうにない。 «――御堂!!» 「!」  正面の砲口がきな臭い唸りを上げる。  ――斬り砕く筈だった凶器が。  敵の殺刃を狙い打つ企図が砕かれた今、この位置、この距離は逆転への道から断頭台へ登る階段に意味を変えている。  即座に離脱しなければ死は必定。  だが、身動きが取れない。  磁波の網が四肢を縛る。  磁波が―― 「〈磁気鍍装〉《エンチャント》!!」  磁力の反発によって拘束を解除、砲門の前から退避する。  間髪の差だった。  黄泉路を匂わす波動に脇腹を舐められながら、全速をもって離脱――離脱。  兎にも角にも距離を稼ぐ。  敵にあのような備えまであったとは、完全に想定外だった。  ひとまず仕切り直す以外に道はない。  勝算も立たないまま戦闘を続行するなど、自分だけ手の内を晒してポーカーをするような〈行為〉《もの》。  ――言うまでもなく、相手にしてみればそれが最も望ましい。 「……ッッ。  一度深入りすると、逃げる時が難儀だな!」 «本当にね。  しかも、稚拙な芸に一杯食わされた屈辱のおまけまで付いてるし。最悪よ!» 「稚拙か」 «あの図体であの程度の磁気でしょう?  話にもならない!» «あんなもの造作なく斬り破ってみせる。  物分かりの悪い仕手が、いらない手加減をやめてくれたらね!»  劔冑の皮肉が意味するところは誤解しようもない。  が、それは禁じ手だ。殺すことはできない――銀星号と関わりを持たぬならば。  攻略の手は他に探す。  あの砲とあの壁、二つの障害を乗り越える手立てを。 「あの磁場に捕まらない方法は無いか」 «……それは難しいでしょうね。  あの磁場の中で同極の磁気を発生させると、外側に弾かれることはいま証明したわけだし……» «速力での突破も見込みがない、となると。  後は……磁場を発生させている力が尽きるのを待つくらいじゃないかしら» 「磁場を発生させている……力?」 «といっても、あれは陰義じゃないから。  熱量は関係ないし……» «……熱量……?»  ――力。  あの磁場を発生させているもの。  それは電力だろう。  おそらく、あの奇砲の動力も。  だが、その電力を何処から獲得しているのか。  巨躯の中に電池を内蔵しているのか。  あるいは何らかの方法で外部から供給を受けているのかもしれないが……  もし電池ならば、使ううちにやがて枯渇するはず。  ――持久戦術がこの際は有効か? «……御堂»  俺と同様に、村正も何かの着想を得ていたらしい。  こちらに合わせたかのような沈黙から抜け出して、考え考えといった調子で切り出してくる。 «気づいたのだけど……  どうも、敵の戦い方はおかしくない?» 「どういう事か」 «最初の、あの風を思い出して。  あれは熱量を奪う陰義……» «さっきも言ったと思うけど、武者相手には極めて有効な攻撃よ。  ……それをどうして、一度きりしか使わずにおくの?» 「……」  言われてみれば、それは不思議。  何も銃弾を〈雨霰〉《あめあられ》とばら撒くことは無いのだ。  順序が違う。まずあの陰義を駆使してこちらの足を止めればいい。  熱量を失わせ、まともに飛べなくしてしまえば後は鴨撃ちだ。  何故、そうしないのか? 「陰義は多大な熱量を消耗するからか……  いや、だがあの巨体を曲がりなりにも騎航させるだけの熱量は保有しているのだ」 «ええ» 「……あの陰義は武者には効かぬという事か?  甲鉄の護りを破るだけの威力を欠くと……」 «そう。  そう考えるでしょう?» «それで、また疑問に突き当たるの。  ……そんな陰義が何の役に立つわけ?» 「……」  まさか非装甲の人間を虐殺するためではないだろう。  あれだけの大身を用意して想定敵が一般人というのは、余りにも御粗末過ぎる。 «どう思う? 御堂» 「…………。  敵の、あの巨体――」 「単純に考えて、通常の劔冑より膨大な熱量を必要とする筈だな?」 «ええ。それはおそらく間違いない。  よほどの名工の鍛造だとしても、桁違いの熱量を仕手から奪ってゆく代物になってしまっているはず……» «そこも、不思議なのだけど――» 「そこに陰義を当てはめる。  ……あれは足りぬ熱量を外部から補うための力なのではないか」 «……!  そういうこと» «あの風は生物の熱を〈奪い取る〉《・・・・》……  攻撃ではなく、補給のための陰義!» 「……だとすれば方策は定まる。  今、奴には補給源がない」 「手近に居るのは劔冑に守られた俺のみ。  島の生命力はほぼ枯渇している」 «持久戦に持ち込めば、熱量欠乏は避けられないということね……!» 「あの砲と磁場も持久戦には適さない。  おそらくは」 «なら――» 「ああ。  ――あの怪物を、引き摺り回す」 「……戦い方を変えたな」 「闘牛から闘牛士になった。  ……力の勝負に見切りをつけたか。判断が早いな。しかし妥当だ」 「もっとも、さっさと逃げ出す以上に妥当な手は無いはずだが……いや、既に自分が罠にはまり逃げ場を失ったと悟っているなら別か。  鼻の利く猿め」 「雪車町が手を焼くのもわからんではないな。  これほど場慣れした者を相手取るのは確かに難業だろうよ。一個大隊などと吹いたのも、あながち空言ではなかったか……」 「つーか結局なんなのさーアレー。  この期に及んで俺ってば、何の説明も受けてねぇんですけどぉ?」 「所長。質問がある」 「聞いてねぇ……聞いてねぇ顔だ……。  こいつマジでひとのことサルかなんかだと思ってますよ?」 「もしかしてアレほんとなんじゃねえかなー。  白人の女は黄色人種なんて人間だと思ってねーから、ペット同然だから、大和人の男がいる所でも平気で着替えたりするっての……」 「うおー!  見てえー!  ペット扱いされてぇー!」 「敵は持久戦に方針を切り替えたようだ。  これはあの兵器に対して有効か?」 「…………はい? 持久戦?  あ、そりゃヤベェわ」 「説明を」 「説明ったって、見ての通りだけどな。  あれデカくて小回りが利かねえから、敵が逃げにかかるとすぐ〈熱量〉《カロリー》がなくなっちまう」 「相手がザコならそうなる前に捕まえられるだろーが……ありゃ無理だぁねぇ。  お手上げですハイ」 「…………」 「想像を絶する欠陥兵器だな……」 「欠陥じゃねぇぇよ!  〈燃料缶〉《バッテリー》交換してやりゃあ済むわ!」 「バッテリー?」 「あのマッシブボデーを〈騎航〉《と》ばすための熱源だよ。  騎体を停止させてそいつを新しいのに入れ替えりゃ、またしばらくは動ける」 「では、それを手配したまえ」 「ところが生憎と、あのバッテリーは調達が難しくってーねー。  在庫が少ねえの。そうそう景気良く使えるかってんだ」 「だが、有るのだな?」 「……あのですねぇ少佐殿ぉー。  ここの研究はまだ終わってねぇんですよぉ。これからも続けなきゃいかんのですよぉー」 「簡単に補充の利かねぇバッテリーをこんなワケのわかんねー殴り合いなんぞで使い潰していいわきゃねぇだろぉー?  なぁオイ。わかれよこの程度の理屈」 「使え」 「……ああぁぁァ!?  ざけろよテメェ大概にしろやカスこちとら我慢に我慢を重ねて付き合ってきたけどなァ俺の虚数空間的に寛大な心にだって限度があ」 「――ッ」 「所長。  試みに問うが……」 「英雄と聖人と愚者だけが己の不死を信じるという。  君はそのうちのどれなのだ?」 「……へ。  アホですか? あんた」 「人生が終わらないなんて絶望、一度だって信じたこたぁねぇよ」 「……しょっ」 「所長!!」 「……その役職は、今から君のものだ」 「新たな所長として、私の指示に従うように」 「…………」  〈上方旋回〉《アップターン》から右下方へ捻り込み、〈横転〉《ロール》しつつ大きく回って距離を稼ぐ。〈反転〉《リバース》――敵騎の捕捉と入れ違いになるタイミングを計りつつ突破、銀に輝く威容の真横を潜り抜けて背後へと出る――〈上昇〉《ピッチアップ》。  耐久限度の間際に達する〈荷重〉《G》が骨格に軋み音を立てさせる。力加減、速力の調整をわずかに誤れば危うい均衡は脆くも崩れ、益体もないカルシウムの塊はその瞬間に粉砕されるとわかっていた。冷汗が背筋を這う。  敵手の技量は凡庸の域ではない。  尻尾を舐めさせていた筈の弾幕がふとした刹那、前方に展開されている。即座に針路転換をすれば微塵のずれもなく更にその前へ――躱せば更に更にその前へ。  その裏まで切り返してようやく虎口を脱した例が既に数度。三途の川の渡し守をからかっているような、そんな心地になっている。  癇癪を起こした死神が今にも襟首を掴みに来そうだ。 「死線で踊る趣味は無いのだが……!」 «まるで今時の刹那的な若者ね!  歌でもうたってみたらどう!?»  無数の火線は時と共に鋭さを増してゆく。  いつしか、そこからは余裕じみたものが消え失せていた。むしろその逆の何かが見受けられる。  焦り、か―― 「こちらの狙いには気付いている様子だな」 «まあ、そうでしょうね。  反撃はしないくせに付かず離れずまわりをうろちょろしてるんだから»  人がましい頭脳があれば、それは気付くだろう。  そして選んだ対応がこの猛攻か。  厚い鎧の中で、怪物の仕手は歯噛みをしているのか。  それとも的外れな戦法に出た敵を嘲笑しているのか。  成か否か。未だ吉凶は占えない。  されば今はただ力を尽くす迄の事。  迷いこそが勝ち目を奪い去る。 「――〈磁気加速〉《リニア・アクセル》!」 «諒解!»  投網のような、全方位を塞ぐ弾雨。  加速機動でその網の、目から目へと潜り渡る。  通常の騎航能力であれば捕捉されただろう。  頭ではなく心臓を凍りつかせた直感に、要らぬ疑いを挟まず従ったことが幸いした。  しかしこれもいつまで続くか。  限界は敵にのみあるわけではない。対手よりも先に〈熱量欠乏〉《フリーズ》に陥る事態はまずなかろうとも、熱量の減衰は騎体性能全般の低下を招く。  村正の機動性能と敵騎の射撃能力とが右開きの不等号で結ばれた瞬間、勝敗は決するのだ。  当方にとって喜ばしからざる形で。 «敵の〈速力〉《あし》が鈍ってきている……» 「確かか」 «元々とんだ鈍亀だから、大した違いはないけどね。  衰えが見えてきたのは間違いない»  ようやくか。  銃撃の激しさは今なお続いているが――あの巨躯は弾倉で埋め尽くされているのか?――それとて土台がふらついているとあっては意味を失おう。  後はこのまま、慎重に対応を続ければ―― «……?» «なに?» 「……!」  何の前触れもなく。  唐突に、銃弾の嵐が消えて失せた。  代わって撃ち出されて来る、  ――あれは、砲弾?  三、四発、続けざまに放たれる大型弾。  その速度は鈍い。  否、速い事は速い。  だが銃砲の弾丸としては、話にもならぬ低速度だ。  〈見てから避ける〉《・・・・・・・》だけの余裕がある。 「……回避」 «ええ……!»  騎体を左へ倒し、旋回して弾道から己を外す。  別段なにかの芸を見せることもなく、弾丸は虚しくも過ぎ去っていった。 「……」 «……» 「妙な弾だった……  あの怪物を縮小して、頭に槍をつけた様な」 «ええ……  …………?» «戻ってきた!?» 「何!?」  弾が、帰ってくる。  折り返して――意思あるもののように――再び俺を狙って。 「なっ――」 「何だ、それは!?」 «避けて――!»  避ける。躱す。  速度は全く変わりない。弾の大きさと形状を見るに当てられれば被害は洒落にもならなかろうが、あれの射線から身を外すのは別段労苦も要らぬ事。  しかし―― «本体から――!» 「ッ!!」  やはり……  これはこうするためのものか! «腰部甲鉄に被弾!  気をつけて、損傷が蓄積している!» 「ぬぅ――」  劔冑の腰部は翼にあたる〈母衣〉《ほろ》を支える重要な部位。  ここが手酷く破壊されたなら墜落は免れない。  一度は遠退いたかに思えた〈死線〉《デッドライン》が再び間近にある。  幾度も肩透かしを食わされた死神がいま俺を見て、ほくそ笑みつつ手招きしていた。 «御堂!  あの弾が更に二発――» 「まだ有るのか!」 «へんてこな砲、私の猿真似みたいな磁場の盾ときて、今度は勝手に追ってくる弾丸……» «なんなのよこのおもしろびっくり箱は!  これ、誰かが冗談で造ったんじゃないの!?» 「俺もそんな気がしている!」  騎航路に枠をはめる自動追尾弾。  そして狙い澄ました銃砲撃。  窮地だった。  あるいは既に、この場は三途か。  ――死の音が聞こえた。 「……ぁぁぁッッ!!」 «――左脚甲鉄に被弾! 直撃!  ほぼ炭化……現状では回復不可能……»  苦痛がない。  その無感覚こそおぞましい。  左腕と全く同じく、左脚は指の先まで一切が動かなかった。闇に浸したかのような冷たさだけがある。  村正の回復力をもってしても、治癒には幾日要するか。  この際は、そんな事を思い煩う日々へ辿り着けるかどうかが問われているが。  左腕右脚左脚と、積み重なった損傷は〈村正〉《おれ》の性能を〈葱〉《ねぎ》のように切り詰めつつある。疑うべくもなく。  ……死地―― 「ちぃっ……」 «まだよ!»  機動力の限界点――  弾雨の洗礼を浴びる。 「……っぅ……!」 «御堂……!  このままだと押し負ける!»  言われるまでもない。  この情勢は、もはや〈詰まれている〉《・・・・・・》。  あらゆる逃げ場は封じられ、既に〈玉〉《ぎょく》は孤立無援。  対局者はあと一手、決めの手を打てばそれで片付く。 «御堂ッ!»  退避――  あの射線から外れる―― 「がはァ!?」 «いけない――!»  退路――――  無し。  死砲の射線は貫通している。  逃避すべき方角は追尾弾が封鎖する。  〈詰み手〉《チェックメイト》。  〈投了〉《ゲームセット》。  最早、これ迄。  俺は死す。  ここで死ねる。  ――――――〈死ねる〉《・・・》。  …………だが。  そんな事を、果たして許せようか。 「真逆。  ――だろう?」 「ああああァァ!!」  〈ちから〉《・・・》を回す。  臍下丹田から五臓六腑を馳せ巡り、脊髄へ落とす。  陽根へ達した所で再び丹田まで掬い上げる。  回す。  根源の力を回し、轟々たる荒乱を呼ぶ。        天破崩稜落煉鬼属        妙法八界死辰雷領 「〈磁装・蒐窮〉《エンチャント・エンディング》!」 «!!» 「〈電磁抜刀〉《レールガン》――〈禍〉《マガツ》!!」  死線を、  脱す―――― «……くっ!  熱量が……!» 「はぁ……ぁぁっ!!」  全身を包もうとする寒気。  振り払う――だが、払えるものではない。 「やむ無し……  着陸する」 «諒解……!»  地表に降りる。……転がる。  両足をまともに動かせぬ〈醜態〉《ざま》では、惨めに這いつくばるほかになかった。  今この機を狙い撃たれれば、もはや逃れる術はない。 「村正! 敵情!」 «…………停止!  敵騎も着陸した模様!» «あちらも熱量の限界に達したのね……»  紙一重、か。  俺は深く……深く、息を吐いた。  だが、のんびりと拾った命を味わっている暇はない。  こうなった上は、回復力の勝負になる。  敵手よりも先に態勢を立て直し、止めを刺す――  さもなくば、次こそは三途の川の向こう岸へと追いやられる始末になろう。 「村正……騎体状況を診査」 «諒解――  あら?»  劔冑が頓狂な応答をする。  それと前後して、背後の地面が鳴った。 「湊斗さん!」 「……一条!?」  現れたのは良く見知った顔。  まだこの辺りにいたのか……! 「だっ、大丈夫ですか!?」 「見ての通り完全に無事だ」 「見ての通りなら全然無事じゃないですっ!」  なら聞くな。  そう一言返すのも今は億劫だった。 「……この場は危険だ。  まだ敵騎を沈黙させるには至っていない。早急に島から退避し、指示を待て」 「そんなの……嫌です!  湊斗さん一人残して……!」 「何を暢気な――」  思わず声を荒げかけ、しかし思い留まる。  ……そうだ。今、この状況は罠の中。  であれば、敵が俺達の使用した船を見逃していると期待するのは甘過ぎる。  伏兵が待っていて当然。そんな所へ、一条一人では送り出せない。 「ではこの場を離れ、適切な地点にて潜伏、待機せよ。  敵騎制圧後、俺も合流する」 「せ……制圧、って言っても。  そんな状態で」 「問題ない」 「……」 「この匂い……  何ですか?」 「匂い?」 「焼けたような匂いがします……  湊斗さんから」  ――〈不覚〉《しまった》。  確かに匂う。  つい、失念していた。 「構うな」 「戦う以前に、動けるんですかっ?」 「問答の暇が惜しい。  既に指示は下した。動け」 「納得できないです!」 「お前の同意は必要ない」 「……っ」 「お前が納得しようとすまいと……  俺は敵騎を撃墜する」 「……」 「……死んじゃいますよっ……!」 「笑えるような事を言うな」  一蹴する。  実際に出たのは、笑いではなく鉄錆臭い唾だったが。 「何処の誰が、こんな所で〈安穏と〉《・・・》死ぬか。  俺は死なんし、〈怪物〉《あれ》は倒す」 「……」 「それは……  正しいからですか?」 「違う。もっと、ずっと下らない話だ。  死を〈許されない〉《・・・・・》なら、敵を潰して生き残るしか道はない」 「ただそれだけの事」 「……」 「……わかりました。  けど、それならあたしも――」 «御堂。  敵騎周辺に動きあり»  突如脳裏を打った村正の声に、視線を転ずる。  着陸中の巨躯――こちらより低地に降りたため視界が通り、状況の把握が可能だった。  車両だ。  大型の輸送車両が一台、〈蹲〉《うずくま》る怪物に近付いてゆく。 「……不味い」 «どういうこと?» 「弾薬の補給、あるいは搭乗する武者の交代を行うものと思われる。  村正、現時点を以ての行動再開は可能か!?」 «……まだ!  現状態で飛び出しても、あそこまでたどり着けるかどうかさえ怪しい» 「……く」  弾薬補充はまだしもだが、体調万全の新たな仕手の獲得を許せば彼我の優劣は絶望的なまでに隔絶する。  それを見過ごす以外にないのか……! 「湊斗さん?  どうしたんですか」 「……大型車両が一台、敵騎に近付いている。  推測するに、おそらくは補給活動のため」 「…………それは」  一条が息を呑む。  専門的な軍事知識を持ち合わせなくとも、その意味は容易に知れたのだろう。  思わず悪態をつきたくなる。  だがそれは取り止めて、俺は思考の〈舳先〉《へさき》を建設的な方向へ向けた。――物は考えようと云う。  敵の武者が交代するならそれは大いに不利ではあるが、同時にこちらが知りたかった敵騎体内の人間存在位置を看破する好機にもなる。  それさえ掴めば、敵騎に対する〈蒐窮〉《レールガン》の行使も可能だ。  熱量が底を突きかけた状態から、どの程度の威力を達成できるかという問題はあるが……  ともあれそこは唯一の勝機。  俺は視覚に意識を集中させた。 「……やはり補給だな。  弾倉を交換している……」 「……んっ……  よく見えないです」 「視界の中央ではなく端で見ろ。  中央は光源へ向ける」 「何ですか? それ」 「〈吉野御流〉《うち》に伝わる暗視法だ」 「……なんか、一媛ばあさんにも聞いたことあるような……?  えぇっと、確か……」 「む――」  怪物から出る人影を確認する。  続いて、新たに登る影。  巨騎の甲鉄に開いた孔の位置を掌握。  脳裏に刻む。  しかし――降りた者も新たに搭乗した者も、遠目に形式までは明らかでないが、六波羅の制式竜甲を身につけた武者だった。  あの怪物は武者を更に強化するための兵装なのか? 「……」 「あの……箱?  あれは何でしょう?」 「箱……?」  一条の示したものに視野の焦点を移す。  箱――いや、籠か。  格子の面で構成された立方体。  それは怪物の腹を割って取り出されたものだった。  重要な部品ではないのだろうか? 無造作と言って良い扱いで空き地に転がされ、それきり見向きもされていない。 「中に……何かがあるな」 「……はい。  何か……積み重なってますね」 「村正。  視覚強化」 «諒解»  焦点が合わされ、視覚情報が鮮明になる。  あの籠は――鉄製。一辺はおよそ三メートル。  中身は―― «!!» 「……」  ――――巨大なる劔冑  よほどの名工が造ったのだとしても  桁違いの熱量を仕手から奪ってゆく代物に           桁違いの熱量を  ……車両からまた、何かが降ろされる。  それも籠。同じ籠。  ただ一つ違う点は。  中身。  籠の中身は、動いている。  籠――  籠ではない。  あれは檻だ。  檻なのだ。  怪物の〈熱源〉《・・》を閉じ込めておくための! 「……あれ……  動いて……る?」 「湊斗さん、あれ……」 「〈人間〉《ひと》だ」 「…………」 「ひと……?」 「子供だ。  餌だ」 「あの怪物を動かすための、燃料だ」 「――――――――」  至近の距離に、鬼気がゆらめいた。  肌を裂くような低温の波長。  それは怒りとか、憎悪とか、殺意とかいう類のものではなかった。  そんなものよりも遥かに純粋で迷いのない意思だ。  それは、例えば。  〈金槌が釘に対して抱くような感情なのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。  ――打ち潰す、と。  一条は、それだけの〈塊〉《カタマリ》になっていた。  だが、その意思は……  あの敵騎にのみ向けられるべきものでは、ない。  捨てられた檻の中の――  枯れた骸。  あれを殺したのは誰だ。  あの怪物か。  本当にそうか。  怪物を引き回し、  熱量を消耗させ、  彼らの命を削り取ったのは誰だ?  俺は立ち上がった。  素晴らしい。憎悪こそは力だ。  こんなにも憎いから立てる。  こんなにも憎いから動ける。  脚の火傷が猛痛を放った。  ……足りない。  身動きする都度、よろう甲鉄が俺の命を吸い、内臓を絞られるが如き苦痛を呼ぶ。  ……足りない。  足りぬ、  足りぬ、  まるで足りぬ。  もっと傷が必要だ。  もっと呪いが必要だ。  奴にはもっと。もっと。              苦しめ。  一歩進むと、膝が折れた。  かくかくと笑っている。  惨めがましい。  まだお前には、動く手足があるくせに。              苦しめ。  一歩進むと、目が眩んだ。  意識が霞み、感覚が曖昧になる。  憐れがましい。  お前はまだ、物を見て音を聞くことができるくせに。             ひとごろし。  それを失くした人々のことを想え。  想え。  それをお前に奪われた人々のことを想え。  想え。  ああ。    湊斗景明。    どうかこの苦悶が未来永劫お前を苛み、    決して解放せぬように。 「湊斗さん」 「どうするつもりですか」 「邪魔だ」 「どうするんです」 「ゆく。  あの怪物を斬り、子供達を助け出す」 「その体では無理です」 「ならその無理を通す」 「……」 「わかりました。  あたしは何をすればいいですか」 「俺ひとりでいい」 「……そうですか。  わかりました」 「何をしている」 「あのバケモノを殴り倒して子供を助けます」 「お前には無理だ」 「その無理を通します」 「…………」 「…………」  一条を睨み据える。殺意に近いものが混ざり込んだかもしれない。  だが、一条は真っ向から視線を打ち返してきた。  殺意の含有は、一条の視線も同じことだった。  ――邪魔をすれば殺すと言っている。  ほんの数瞬。  俺と一条は、互いを怨敵のように見据え合った。 「……。  何があっても、俺はお前を助けない」 「頼みません」 「足手纏いになれば、踏み潰してゆく」 「はい。  そうして下さい」 「勝手にしろ……」  俺は吐き捨てた。 「馬鹿〈奴〉《め》が」 「はい」  簡単な策を立てた。  手が二人分あるのならば、闇雲に突っ掛ける以外にもやりようというものがあるからだ。 「時間を稼げ」 「……時間を」 「敵は無能ではない。もう間もなくこちらの所在は知れる。  だが〈村正〉《おれ》が戦闘態勢を整えるには今暫くの時が要る」 「はい」 「その間、お前が奴の相手をしろ。  やり方は任せる。どうにでもして、あれの注意を引け」  山に等しい巨躯を指差して言う。  〈漫才〉《コント》であれば突っ込みが入る場面だ。  しかし一条は事も無げに首肯した。 「わかりました」 「その間に俺は回復を図り、同時に敵の弱点を探る」 「弱点、ですか。  何か見込みが?」 「ある。  先刻の補給作業中、電池らしき〈部品〉《パーツ》の交換をしている様子がなかった……」 「敵の主兵装が電力式であることはほぼ疑いない。電池が無いのならば、何か別の方法で電気を調達しているのだ。  その方法を見極める」 「それができれば……」 「あれを攻略する筋道が立つ。  今、俺に考え得る内ではこれが最短、最善の方策だ」  口調が誇るというより開き直りのそれになったのは仕方がない。  自分の考えのお粗末さに自分自身で呆れている。  不確定要素ばかりの策だ。  まともな神経を持つ人間なら、到底承服できないだろう。 「諒解です!」 「待て」 「はい?」 「どこへ行く」 「早速……」  この少女は既に狂っているのではないか。  俺はそう思った。 «貴方と同じよ。この〈娘〉《こ》のこういうところ。  本当、良く似てる» 「……。  やり方を任せるとは言ったが、そのままで放り出すとは言っていない」 「最低限の武装くらいはしてゆけ」 「武装?」  彼は戦意に猛っていた――とは言えない。  戦いは任務だ。仕事なのだ。常にそうだ。  彼にとって、己の存在意義を問う情熱的行為などではなく、課せられた役割に過ぎない。  先刻までこの荒覇吐を駆っていた彼の同僚は違った。  戦いを楽しみ、味わう嗜好の持ち主だった。  彼には理解し難い。こんなことの何が楽しいのか?  どれほど堅牢な装甲に守られていても矢弾を浴びる体験は怖気をふるうものだし、逆に標的へ銃弾を打ち込む行為も嫌悪感と無縁では有り得ない。  僚友が深紅色の武者と繰り広げた戦闘を彼は見届けている。滅多にない好敵と諒解もしている。  だがそれとて、生来の戦士ならぬ彼を喜ばせるような事柄ではなかった。  早く〈妻子〉《あいつら》のもとへ帰りたい。  彼が戦場で願うのはそれだけだ。  そんな彼が敵の姿を遂に見出す時、胸中を襲うのは恐怖の寒気と安堵の暖気の入り混じった風である。  肌が粟立つと同時に鼓動は落ち着く。  ……ああ。  嫌な事が、ようやく始まってくれた。  ……これが終われば、家へ帰れる……  〈視界〉《モニター》の端に赤い〈ちらつき〉《・・・・》を認め。  彼は嘆息をひとつ洩らしてから、巨兵を動かす作業に取り掛かった。  この夜、この局面――  湊斗景明と綾弥一条は、こういう男と対峙している。 «……始まったようね» 「ああ……」  巨大かつ奇形の武者が回頭し、地表へ向けて射撃を開始する。  危うい〈時機〉《タイミング》ではあった。  敵影は指呼の距離にあると言っていい。  あと十秒もあれば、敵騎の探査機能はろくに身動きのとれないこちらを発見していた可能性がある。  おそらくはそれを承知して、〈仕掛けた〉《・・・・》のだろう。  あいつは。 「…………」 «悔いているの?» 「……いや。  悔いてはいない」 「一条は危険を理解していた。  その助力が必要でもあった。より確実に敵を倒し、より速やかに囚われた人を救助する為には」 「そう思えば、唯一の選択だったのだ。  この道の他には、自分一人の意地を通して成算の低い作戦を強行し、敵騎の中の人々を余計に苦しめる道しかない」 «ええ……  でも?» 「……悔いてはいないが。  恥じてはいる」 「一条の手を借りざるを得ない状況に陥ったのは、つまり、俺の力が足りないからだ。  恥じねばならない」 «……一人で何もかも背負い込むな。  気の利いた人なら、貴方にそう言うかもね» 「云うか?」 «いいえ。  私たちにとっては、〈そんな話〉《・・・・》ではないもの» 「ああ。そうだ。  そんな話ではない……」 「俺達は、この程度の危難で力不足を訴えていてはならないのだ。  俺達が打ち破るべき〈存在〉《もの》のことを思えば」 «ええ» 「だから恥じる。恥を刻んで記憶する。  こんな〈醜態〉《ざま》では到底、届かぬ」 «ええ……。  私たちには、力が足りない» «……まずは野太刀を取り戻しましょう。  残り三つの〝卵〟を破壊して» 「ああ」  ……だが、それでも足りないのだ。  以前に、完全な武装状態で挑んで、鎧袖一触に敗れ去っているのだから。  あるいは天文学的なまでの、力量の格差。  ……これは、何に起因するのか。  〈銀星号〉《あれ》と〈村正〉《おれ》を比較して……  何が、そんなにも〈欠けている〉《・・・・・》のか―――― «御堂» 「わかっている」  今は、そんな迷妄に耽っていられる時間ではない。  やや離れつつある戦闘状況に注意を傾ける。  看破しなくてはならない。  狙い撃つべき敵の急所を。  一条が稼ぎ出す時間を使って。  ……大体、〈あたり〉《・・・》をつけてはいる。  だが確認するには、もう少し…… «答えてくれなくてもいいけれど……» 「何か」 «あの娘が生還する可能性はあるのかしら» 「……」 「低かろう」 «あの娘が追い詰められたとき……  貴方はどうするの?» 「どうとは」 «助ける?» 「いや。  そんな事をすれば、作戦は頓挫する」 「だから、黙過する」 «……» 「本人にもそう云った。  〈彼女〉《あいつ》は納得した」 «そうね。  ……それでいいのね?» 「それで良いかどうかは、あいつが判断〈した〉《・・》」 「俺はその前提に立って策を講じ、その通りに行動する。それだけだ」 «……そう。  わかった……» 「……っ。  こっ……のぉ!」 「はあっ――」 「くっ……  ふぅ……」  骨に響く。  敵の弾群はいまだ一度たりと肉にまで食い込んでいないが、それでも被害は及ぼしている。  〈これ〉《・・》を貰った時の言葉を思い出す。 「それは村正の〈鋼糸〉《いと》を巻きつけて、擬似的に甲鉄化したものだ」 「劔冑のように身体能力を引き上げることはないが、邪魔になることもない……と思うが。  どうだ」 「……軽いです。  これなら普通に動けます」 「その分、余り頑丈な気もしませんけど……」 「実際、強度は知れている。  武者の太刀など浴びれば一溜まりもないだろう」 「機銃弾程度は防げる筈だが……  それもいつまで保つか」 「早い話が気休めだ。  過信するな」 「……こんなものしかやれない。  最低限と言ったが、最低限ですらなかろう」  こんなものを――  綾弥一条は、欲していたのだ。 「っ、らぁ!!」  戦えている。  湊斗景明の敵と、綾弥一条は戦えている。  鼠のように逃げ回り、急拵えの盾で身を守り。  今の綾弥一条は湊斗景明の力になれている。  これが欲しかったのだ。  最低限であろうがそれ以下であろうが構わない。  彼の力になる。  その〈術〉《すべ》が欲しかったのだ。  それこそが、綾弥一条にとって、  最も望ましき正義の形であったから。 「――は!  来やがれ……」  擬似甲鉄が殺しきれない着弾の衝撃力は、体内深く浸透して、骨格の髄に〈蟠〉《わだかま》る。  時々聞こえる、めちりという音は、何かにひび割れの入る音か。そうであろう。  その音が時を追う毎、弾を浴びる都度、重いものになってゆくのは……次第に装甲が削られ薄くなりつつあるからか。  そうなのだろう。  だが綾弥一条は構わない。  逃げ隠れながら逃げきらず隠れきらず、敵の注意を引き付ける己の役目に没頭する。  ……今の彼女は、甲冑の上からひたすら金槌で殴られ続ける拷問を受けているにも等しい。  およそ、常人に耐え得る難苦の中にいない。  しかし――  耐え抜く。 「――は――」  何故か。 「はっ、は――」  その理由は。    先刻、湊斗景明がふと察したように。 「は、は、はァ――!」         綾弥一条は既に狂っている。 「どこ撃ってる!  あたしはここだ!!」 〝正義〟は人の大道であろう。  しかし、人間本来の精神性とは必ずしも合致〈しない〉《・・・》。 〝正義〟を、単に利己主義の変装としてのみ用いる者は、むしろ健全である。  そんなものを服飾ではなく骨肉とし、本能にも等しく自己の根幹へ刻んだ者こそ、精神の奇形児であろう。  古人曰く。  ――正気にては大業成らず。  また、別の人曰く。  ――狂愚愛すべし。狂夫たれ。  彼らは知っていた。  利己を失った真実の正義というものが、狂気の上にのみ立脚し得るのだと解悟していた。  彼らと綾弥一条は違う。  綾弥一条は、〈知る前に既にそうであった〉《・・・・・・・・・・・・》。  あるいは彼女は、彼らよりも純粋に、  真っ直ぐに狂っている。  誰よりも正しく、狂っている。 「そうだ……  撃って来い……!」 「撃てェ!!」 〝狂〟の正義は三要素によって完成する。  その精神/その道筋/その方法。  精神はある。  綾弥一条自身が、己へ刻んだものがある。  道筋もある。  湊斗景明との出会いがそれを示した。  最後の一つ。  それで完成する。  これまで、辛うじて綾弥一条を正気の世界に、只人の枠に留めていたものが失われ。  〈開始する〉《・・・・》。 (もっとだ)  苦しみの中で戦う充足に浸り。  綾弥一条はその反面、更に望む。 (あたしはもっと戦わないといけない)  敵たる悪と、真っ向から。  より激しく。より苛烈に。 (これだけじゃ足りない。  もっと戦える、何かが欲しい)  そう。  それを手に入れた時にこそ。  綾弥一条は真の意味で、始めることが叶う。  正義を。  狂気を。        ――この世の悪を打ち砕く。 「――見えた」 «……あれ?» 「ああ。  〈電源ケーブル〉《・・・・・・》だ」  その細さ、保護色塗装、怪物の低空騎航とが、村正の視力をしてかくも確認に手間取らせた。  騎体の下部から垂直下に延びるその、線。  あれが電力を供給する経路に違いない。  巨騎がどう移動しても伸縮しないのは不思議であるが――そうか。この辺りの地下に通電盤があり、電線はその上を〈滑っている〉《・・・・・》のだとすれば納得がゆく。  あれを切断すれば良い。  それで戦局は傾く。 «どうするの?» 「まともに襲えばあの障壁で阻止されよう。  だが、幸いにもケーブルのある位置は敵の死角」 「奇襲が可能だ。  まずは背後に回り、」 «――あ――っ» 「――!!」  木々の狭間を逃げ回る敵に弾を撃ち、撃ち――  既に十数分。  敵騎は反撃はおろか騎航さえ試みない。  先の一戦でもはや精根尽き果てていたのだろう。  それでいながら、この粘り。  彼は苛立ち、焦り、嘔吐感さえ催した。           ……ああ。         早く終わってくれ。  心の底から願いつつ、彼は機銃を掃射する。  縦に一条。赤い影はわずかに被弾したのみで逃れた。           俺は帰りたいんだ。  灼けるような嫌悪と焦燥に苛まれながら、敵の逃走方向へ掃射。  命中弾はない。木々のみ打ち払って、森林に縦線を描く。            早く、早く――  ストレスに胃液が逆流する。  苦過ぎるそれを無理に飲み込む。  そうしながら騎体を回し、また掃射。  二本の縦線と垂直に一本、地肌の横線。          嫌だ、嫌だ、嫌だ――  敵騎は見えない。  森林に描かれたコの字形、視界を塞ぐものが何一つない線上に、赤い姿は現れていない。  再び回航して機銃を撃つ。  最後の一線。  前方を塞がれて、慌てて駆け戻る影をちらりと見た。  四角の中へ。  〈四角〉《・・》。  機銃が木々を薙ぎ倒して出来た地肌の〈線〉《ライン》。  それが描く〈四角形〉《スクエア》。  敵はその中にいる。            ……ああ。          ……ようやく……  この巨騎をもって地上の一兵を追う事がいかに困難か理解してから、耐えに耐え、待ちに待っていた機会をようやく掴んで。  彼はぶり返した胃液を足元に吐き散らした。           ……ようやく終わる。  気力を奮い起こして〈陰義〉《アウトロウ》を発動する。  甲鉄で守られし武者には効果の薄い、荒覇吐の陰義。  熱量奪取。  それは――  〈四角〉《スクエア》の中の木々を一瞬にして枯死させた。  もはや身を隠す何物もない空き地のなか。  赤い姿が呆けた様子で、立ち尽くしている。           ……これで、帰れる。  戦闘を嫌悪し、故に戦闘に酔わず。  ままならぬ戦況に焦り苛立ち、しかし思考力は平静に維持する。  彼はそういう男だった。  戦場において彼は常に己の不幸を嘆いたが、彼よりも不幸な者が身近にいることを知ってはいない。  彼の敵がそれだ。  彼こそは敵にとって最悪の〈軍事職能者〉《ウォーリア》だった。 「――――――」 «御堂!?» 「――――」 「やっぱり。景明さま!」 「……大尉!?」 「湊斗さんっ!」 「これは、これは。よくぞご無事で。  ………と申し上げるには少々、無理のあるお姿でございますね」  現れたのは良く見知った顔。  まだこの辺りにいたのか……! 「まぁ、一体どうされたのです!?  このような所で、そのように膝を突いたりなさって……!」 「小銭を落としてしまわれたのですか?」 「この状況見て言うことがそれかてめぇは!」 「これは一大事……!  そのような落ち武者感溢れる落ち武者スタイルをなさっておられますと、土民達の落ち武者狩りに遭ってしまいますよ! 湊斗さま」 「ねえよ! どこの明智光秀だよ!  つーかそんなのよりはるかに切羽詰ってる一大事があるだろどう見ても!」 「……墜落したも同然ですので、〈落ち武者〉《・・・・》という表現は適切であると言えます」 「なるほど!」 「うまいこと言ってる場合でもないですっ!」  確かにそうだ。 「このような所に留まっていては危険です。まだ戦闘は終了しておりません。  お早く、島から退避して下さい」 「そういうわけにも、参りませんでしょう」 「〈何故〉《なにゆえ》」 「のんきに帰ってられませんよっ!  湊斗さん一人残して!」 「と、いうこともございますが。  この状況は明らかに罠」 「容易く逃がして貰えるとも思えませず。  船に戻るのは控えていた次第でございます」  ……成程。  確かに、そうか。  これが仕組まれた罠であるなら、仕掛人が俺たちの用いた船を見逃していると考えるのはいかにも甘い。  周辺に伏兵を配されている可能性が大いに有り得る。 「ではこの場を離れ、適切な地点にて潜伏、待機していて下さい。  敵騎を制圧した後、自分も合流します」 「簡単に仰いますけれど。  ……戦況はおおむね観ておりました」  観ていた?  ……夜間の騎航戦闘を? 「あれを実際に黙らせるのはもう少し難しいことなのではありませんか?」 「……」 「何だよ……  そこまで厄介なのかあれ。いや、そんなの見りゃわかるっちゃわかるけどさ」 「見掛け倒しではありませんでした。  弾を用いない砲、強力な磁場によるものと思しい防壁、追ってくる弾丸――あれは遠隔操作か熱源追跡か……」 「完成度はともかくとして、あの怪獣は最新技術の塊です。  正直なところ、一騎で立ち向かうには無理のある相手ではないかと……」 「……いや、何だよそれ。  弾を使わない砲って何のことだ?」 「わかりません。  でも、弾の代わりに何かを飛ばしていたのは確か」 「景明さま。左腕と右脚、そして左脚をあの砲で撃たれていましたでしょう?  どのような被害をお受けになりました?」 「格別の事は」 「左の手と足がもう動かないのはわかっています」 「……」 「……得心ゆきました。  〈焼かれた〉《・・・・》のでございますね、湊斗さま」 「先程から妙に鼻をくすぐるこの匂いが気になってはいたのです」 「……些か」 「この匂いは骨の髄まで瞬時にして焼き尽くされた時のものと記憶しておりますが……。  確かにこれでは動かせますまい」 「……!!」 「大事はありません。  劔冑の治癒能力をもってすればいずれ回復します」 「けれど、その前にまたあれと戦うおつもりなのでしょう?  勝算があるとお思いですか?」 「一応は」 「それは何割くらいの勝算ですの?」 「おい……」 「十割ほど」 「……」 「自分はあのような玩具に容易く殺される事など許されぬ身です。  現在、肉体的に幾らかの不自由があるようですが」 「関係ありません。  自分はあの敵騎を撃墜します」 「……」 「それは……  正しいからですか?」 「違う。もっと、ずっと下らない話だ。  死を〈許されない〉《・・・・・》なら、敵を潰して生き残るしか道はない」 「ただそれだけの事」 「……」 「……わかりました。  けれど、景明さま」 「そうまであの怪物との戦闘に固執されるのは――」 «御堂。  敵騎周辺に動きあり»  突如脳裏を打った村正の声に、視線を転ずる。  着陸中の巨躯――こちらより低地に降りたため視界が通り、状況の把握が可能だった。  車両だ。  大型の輸送車両が一台、〈蹲〉《うずくま》る怪物に近付いてゆく。 「……不味い」 «どういうこと?» 「弾薬の補給、あるいは搭乗する武者の交代を行うものと思われる。  村正、現時点を以ての行動再開は可能か!?」 «……まだ!  現状態で飛び出しても、あそこまでたどり着けるかどうかさえ怪しい» 「……く」  弾薬補充はまだしもだが、体調万全の新たな仕手の獲得を許せば彼我の優劣は絶望的なまでに隔絶する。  それを見過ごす以外にないのか……! 「湊斗さん?  どうしたんですか」 「……大型車両が一台、敵騎に近付いている。  推測するに、おそらくは補給活動のため」 「それは……  いけませぬな」 「……阻止したくても、間に合いませんわね。  せめてもう少し距離が近ければ……」 「おまえの銃!」 「風を読んでいる時間がありません。  加えて、あの近辺の木々が微妙に邪魔」 「こちらの位置を教えるだけで終わってしまいます」 「くそ……!」 「……」  悪態をつきたい気持は俺も同じだった。  しかし、気を取り直す。  敵の武者が交代するならそれは大いに不利ではあるが、同時にこちらが知りたかった敵騎体内の人間存在位置を看破する好機でもある。  それさえ掴めば、敵騎に対する〈蒐窮〉《レールガン》の行使も可能だ。  熱量が底を突きかけた状態から、どの程度の威力を達成できるかという問題はあるが……  ともあれそこは唯一の勝機。  俺は視覚に意識を集中させた。 「……やはり、補給ですね。  今、荷台から下ろされたのは弾倉でしょう。随分な大きさだこと」 「そいつを撃ったら爆発とかしないか?」 「生憎でございますが。  歩兵銃の一弾ばかりでは、到底」 「……だよなぁ」 「怪物から人が降ります!  頭部の少し下のあたり……」 「……確かに!」  記憶する。  しかし――降りた者も新たに搭乗した者も、遠目に形式までは明らかでないが、六波羅の制式竜甲を身につけた武者だった。  あの怪物は武者を更に強化するための兵装なのか? 「それにしても……  あんた、この暗いのによく見えるよな」 「ウナギとニンジンは欠かしませんから♪」 「なんだそれ?」 「暗視能力を高めるビタミンAの確保でございます。  兵士として当然の心得と申せましょう」 「あと、眼の中心で見ないことがコツです。  中心には明るいものを……今の場合なら月を置いて、見たい所は端を使って見るのです」 「へぇ……」 「やってごらんなさいまし」 「えーと、端を使って……」 「……」 「なんだ? あの箱みたいの」 「……箱……?  といいますか……あれは、籠?」  籠に見えた。  格子の面で構成された立方体。  それは怪物の腹を割って取り出されたものだった。  重要な部品ではないのだろうか? 無造作と言って良い扱いで空き地に転がされ、それきり見向きもされていない。 「中に何かあるようですが……」 「は……  何かが積み重ねられている様子」 「気になりますねぇ……」 「ええ……  何なのかしら。あれも何かの武器なのかも」 「このさよめが思いますに……  歳末大売出し用買い溜め装備ではないかと」 「恐ろしいこと……」 「あたしはおまえらが色々と恐ろしい」 「村正。  視覚強化」 «諒解»  焦点が合わされ、視覚情報が鮮明になる。  あの籠は――鉄製。一辺はおよそ三メートル。  中身は―― «!!» 「……」  ――――巨大なる劔冑  よほどの名工が造ったのだとしても  桁違いの熱量を仕手から奪ってゆく代物に           桁違いの熱量を  ……車両からまた、何かが降ろされる。  それも籠。同じ籠。  ただ一つ違う点は。  中身。  籠の中身は、動いている。  籠――  籠ではない。  あれは檻だ。  檻なのだ。  怪物の〈熱源〉《・・》を閉じ込めておくための! 「…………」 「……お嬢さま?  如何なさいましたか?」 「人間です」 「……………………」 「……何が、だ?」 「あの箱の中身は人間です。  捨てられた方には、〈枯れ果てた〉《・・・・・》骸が」 「いま新たに化物の腹へ収まった方には、  ……泣き喚く子供達が」 「――――――――」 「……は、は!  なるほどなるほど」 「餌でございますか。  あの育ち過ぎた豚を空に飛ばすための!」 「考えてみれば、当たり前の発想ですね。  劔冑は装甲者の熱量を消費して稼動する」 「その熱量が足りないのなら、人間を補ってやればいい。  ……素晴らしい発想ですこと! 卵の立て方にも匹敵する叡智じゃありませんか!」 「あれの製作者は天才でございますな」 「…………。  楽しそうだな? おまえら」 「楽しゅうございますよ?」 「それはもう、とてもとても――」 「愛情が人の心を陶酔させるように」 「憎悪に浸ることもまた、この上ない愉悦であれば」 「この殺意こそは至福でございます」 「この悪意こそは魂の甘露」 「楽しくてたまりませぬ」 「愉しくてたまりません」 「くく」 「ふふ」  捨てられた檻の中の――  枯れた骸。  あれを殺したのは誰だ。  あの怪物か。  本当にそうか。  怪物を引き回し、  熱量を消耗させ、  彼らの命を削り取ったのは誰だ?  俺は立ち上がった。  素晴らしい。憎悪こそは力だ。  こんなにも憎いから立てる。  こんなにも憎いから動ける。  脚の火傷が猛痛を放った。  ……足りない。  身動きする都度、よろう甲鉄が俺の命を吸い、内臓を絞られるが如き苦痛を呼ぶ。  ……足りない。  足りぬ、  足りぬ、  まるで足りぬ。  もっと傷が必要だ。  もっと呪いが必要だ。  奴にはもっと。もっと。              苦しめ。  一歩進むと、膝が折れた。  かくかくと笑っている。  惨めがましい。  まだお前には、動く手足があるくせに。              苦しめ。  一歩進むと、目が眩んだ。  意識が霞み、感覚が曖昧になる。  憐れがましい。  お前はまだ、物を見て音を聞くことができるくせに。             ひとごろし。  それを失くした人々のことを想え。  想え。  それをお前に奪われた人々のことを想え。  想え。  ああ。    湊斗景明。    どうかこの苦悶が未来永劫お前を苛み、    決して解放せぬように。 「湊斗さん」 「どうするつもりですか」 「邪魔だ」 「どうするんです」 「ゆく。  あの怪物を斬り、子供達を助け出す」 「その体では無理です」 「ならその無理を通す」 「……」 「わかりました。  あたしは何をすればいいですか」 「俺ひとりでいい」 「湊斗さん――」 「過信も妄信も個人の趣味でやる分には結構ですけれど。  この場合、どなたがその負債を背負うのでしょうか?」 「湊斗さまだけで済まないことは確かでございますね」 「黙れよ。  おまえらに手を貸して欲しいとは思わない」 「ご案じなく。  相手があんな愉快痛快なシロモノとあれば、こちらもあなたがたと暢気に助け合いなどしながら臨むつもりはありません」 「勝手にやらせて頂きます。  けれど、まぁ………互いに何をどうするかくらいは知っておくと、あれと戦うにも効率が良いでしょうから」 「その程度はしておきましょうか。  今あの怪物に食い潰されている方々の苦痛を、わたくしたちの勝手で引き伸ばしたくはありませんものね?」 「……」 「どうぞ、お好きに」 「ええ♪」 「あたしも好きにさせてもらいます」 「いやはや……何と申しますやら。  ここに至って、表面上チームワークのようなものを偽装していた我々の心が見事にバラバラになりましたな」 「まぁ元々このチーム編成には無理があったのですが」 「そうねぇ。でも仕方ありませんし。  ここはみんなの力を一つにまとめず、てんで勝手に強大な敵へ向かってぶつけることに致しましょう!」 「……勝てる気しねぇよ」 «同感ね……»  作戦はおおよそ、このようなものになった。  一。  景明=村正はひとまず潜伏し待機。  体力を回復する。  二。  その間、香奈枝が敵騎の相手をしつつ電源ケーブルを断つ。 「電源ケーブル……?」 「細い上に迷彩が施されているようでひどく見辛いですけど」  言って、長身の進駐軍士官は指差した。  離陸を開始しようとしている巨兵の下部。 「騎体と直下の地表との間にいつも〈筋〉《・》があります。あの大怪獣に満載されたおもしろ兵器シリーズはおそらく、電力で稼動するものでしょうから……」 「成程。  それは電力を供給する電線だと考えるのが確かに妥当です」  大鳥大尉の視線を追う。  指示を受け、武者の視力を凝らしてみれば――辛うじて線状の影が一筋あるのを見て取ることができた。  意図されたことに違いないが、目視は難を極める。  定石に則り、低空飛行する敵を主に上空から襲っていた先刻の交戦時にはまるで気づかなかった。 「内蔵電池の存在は疑っていましたが……」 「充分な容量を持つ電池を開発できなかったか、それとも特定範囲内での運用という前提におけるメリットデメリットを考慮した結果か……ま、そんなところでございましょう」 「でもよ、木に絡まったりとかしないのか?そんなの」 「あの電線、伸びたり縮んだりはしてません。騎体がどう動いても。  いつも真下に延びたままです」 「おそらく……  あの電線は強靭な鍛鉄繊維で出来ていて、騎体の動きに合わせて地表を切り裂きながら移動しているのでしょう」 「地下で電源が一緒に移動しているとは考えにくいですから、多分この辺りの地下一帯には通電盤のようなものがあって、あの電線はそれと繋がっているのではないかしら?」 「そう考えれば納得ができます。  あの奇妙な〈轍〉《・》のことも」 「ケーブルが走り回った跡というわけでございますね」 「そういうことか……。  じゃあとにかくあれをぶった斬れば、変な大砲とかは使えなくなるわけだな?」 「ええ」 「ですが、大尉。  如何にして電線を断つおつもりか?」  彼女の推測が正しく鍛鉄繊維製であるならば、劔冑の甲鉄に近い材質で出来ているという事。  生半可な方法では傷もつけられまい。  チェーンソーを使っても数分は掛かるだろう。  無論、そんな暢気なやり方が許される状況とも思えない。 「そうですね……。  まぁ、どうにかなりますでしょう」 「ご心配なく♪」 「……作戦の大前提だろ、そこは。  心配するよ!」 「あらあら」  柳に風と笑い流して、大尉は結局ろくに答えを寄越さぬまま、さっさと陣取りに向かってしまった。  三。  一条及び永倉は海岸の灯台へ登り、全般状況を把握、随時景明・香奈枝に連絡する。 「どうやって連絡するんだ?」 「この小型無線機で。  お嬢さまも同じものを持っておられます。有効範囲は狭いですが、この島の中なら充分でございましょう」 「湊斗さまには……  御劒冑と波長を合わせている時間がございませんので」 「はい」 「危急の際には無差別発信を用いましょう。  無論これは全ての武者、無線機に傍受されてしまいますから、機密もへったくれもございません。使用はよほどの時に限りましょう」  当然だ。  些か不便もあろうが、やむを得ない。 「灯台か。  見晴らしは良さそうだけど……夜だからな。どのくらい見えるもんなんだろ」 「さて、怪しいところでございますね。  しかし綾弥さま、そのような懸念は捨てておかれませ」 「なんで?」 「ここに〈暗視鏡〉《ナイトビジョン》がございますから」 「そんなもんがあるならさっき出せよ!?」 「お嬢さまがいらっしゃるときは無用の長物ですので。電池に限りもございますし。  ま、ここは使い時」 「性能は程々といったところでございますが、それなりの距離まで赤外線照射が可能です。  過信は禁物にせよ、使い方を誤らねば役に立ちましょう」 「……まぁ、いいや。  任せた」 「任されましてございます」 「じゃ、湊斗さん。  行ってきます」  そう言って、一条は灯台へ向かった。  永倉侍従がその後についた。  十数秒後、位置は逆になっていた。  一歩あたり一度の割合で一条の進行方向が偏移していくことに、永倉侍従が気付いたからだ。  四。  景明=村正は機を見て進突。  敵騎を制圧する。 「やっぱり。景明さま!」 「……大尉!?」 「これは、これは。よくぞご無事で。  ………と申し上げるには少々、無理のある格好でございますね」  現れたのは良く見知った顔。  まだこの辺りにいたのか……! 「か、景明さま……  そのお姿は……っ」 「落ち武者ごっこですか?」 「そう見えますか」 「はい」 「その通りです」 「嘘を仰らないで!」 「あんた無茶苦茶ですよお嬢さま」 「そんな虚勢を張ってもわかります!  相当に、痛めつけられたご様子……」 「お気になさらず」 「あんたも無茶言いますね」 「それより、このような所に留まっていては危険です。まだ戦闘は終了しておりません。  お早く、島から退避して下さい」 「いま誰よりも危なっかしい方にそんなこと言われたくありませんけど……  それはそれとしておいても、そういうわけには参りませず」 「〈何故〉《なにゆえ》」 「景明さまをお助けするのがわたくしの任務ですもの」 「……」 「付け加えますに。  この状況は明らかに罠……」 「容易く逃がして貰えるとも思えませず。  船に戻るのは控えていた次第でございます」  ……成程。  確かに、そうか。  これが仕組まれた罠であるなら、仕掛人が俺たちの用いた船を見逃していると考えるのはいかにも甘い。  周辺に伏兵を配されている可能性が大いに有り得る。 「ではこの場を離れ、適切な地点にて潜伏、待機していて下さい。  敵騎を制圧した後、自分も合流します」 「簡単に仰いますけれど。  ……戦況はおおむね観ておりました」  観ていた?  ……夜間の騎航戦闘を? 「あれを実際に黙らせるのはもう少し難しいことなのではありませんか?」 「……」 「弾を用いない砲、強力な磁場によるものと思しい防壁、追ってくる弾丸――あれは遠隔操作か熱源追跡か……」 「完成度はともかくとして、あの怪獣は最新技術の塊です。  正直なところ、一騎で立ち向かうには無理のある相手ではないかと……」 「……弾を使わない砲でございますか。  また面妖な」 「弾の代わりに何かを飛ばしていたのは確か」 「景明さま。左腕と右脚、そして左脚をあの砲で撃たれていましたでしょう?  どのような被害をお受けになりました?」 「格別の事は」 「左の手と足がもう動かないのはわかっています」 「……」 「……得心ゆきました。  〈焼かれた〉《・・・・》のでございますね、湊斗さま」 「先程から妙に鼻をくすぐるこの匂いが気になってはいたのです」 「……些か」 「この匂いは骨の髄まで瞬時にして焼き尽くされた時のものと記憶しておりますが……。  確かにこれでは動かせますまい」 「……あらまぁ」 「大事はありません。  劔冑の治癒能力をもってすればいずれ回復します」 「けれど、その前にまたあれと戦うおつもりなのでしょう?  勝算があるとお思いですか?」 「一応は」 「それは何割くらいの勝算ですの?」 「お嬢さま」 「十割ほど」 「……」 「自分はあのような玩具に容易く殺される事など許されぬ身です。  現在、肉体的に幾らかの不自由があるようですが」 「関係ありません。  自分はあの敵騎を撃墜します」 「……」 「……わかりました。  けれど、景明さま」 「そうまであの怪物との戦闘に固執されるのは――」 «御堂。  敵騎周辺に動きあり»  突如脳裏を打った村正の声に、視線を転ずる。  着陸中の巨躯――こちらより低地に降りたため視界が通り、状況の把握が可能だった。  車両だ。  大型の輸送車両が一台、〈蹲〉《うずくま》る怪物に近付いてゆく。 「……不味い」 «どういうこと?» 「弾薬の補給、あるいは搭乗する武者の交代を行うものと思われる。  村正、現時点を以ての行動再開は可能か!?」 «……まだ!  現状態で飛び出しても、あそこまでたどり着けるかどうかさえ怪しい» 「……く」  弾薬補充はまだしもだが、体調万全の新たな仕手の獲得を許せば彼我の優劣は絶望的なまでに隔絶する。  それを見過ごす以外にないのか……! 「湊斗さま? いかがなさいましたか」 「……大型車両が一台、敵騎に近付いております。  推測するに、おそらくは補給活動のため」 「それは……  いけませぬな」 「……阻止したくても、間に合いませんわね。  せめてもう少し距離が近ければ……」 「……」  愚痴を吐きたい気持は俺も同じだった。  しかし、気を取り直す。  敵の武者が交代するならそれは大いに不利ではあるが、同時にこちらが知りたかった敵騎体内の人間存在位置を看破する好機でもある。  それさえ掴めば、敵騎に対する〈蒐窮〉《レールガン》の行使も可能だ。  熱量が底を突きかけた状態から、どの程度の威力を達成できるかという問題はあるが……  ともあれそこは唯一の勝機。  俺は視覚に意識を集中させた。 「……あれは、弾倉を交換しているのか。  まさしく〈倉〉《・》も同然」 「あれだけの数の大小砲を養わねばならないわけでございますから。  それは相当の量になりましょう」 「〈真〉《まこと》に」 「!  あれを!」 「怪物から人が降ります!  頭部の少し下のあたり……」 「……確かに!」  記憶する。  しかし――降りた者も新たに搭乗した者も、遠目に形式までは明らかでないが、六波羅の制式竜甲を身につけた武者だった。  あの怪物は武者を更に強化するための兵装なのか? 「……?  はて」 「何でございましょう……  あの〈箱〉《・》は」 「……箱……?  といいますか……あれは、籠?」 「……籠でしょうか」  籠に見えた。  格子の面で構成された立方体。  それは怪物の腹を割って取り出されたものだった。  重要な部品ではないのだろうか? 無造作と言って良い扱いで空き地に転がされ、それきり見向きもされていない。 「中に何かあるようですが……」 「は……  何かが積み重ねられている様子」 「気になりますねぇ……」 「ええ……  何なのかしら。あれも何かの武器なのかも」 「このさよめが思いますに……  歳末大売出し用買い溜め装備ではないかと」 「恐ろしいこと……」 「村正。  視覚強化」 «諒解»  焦点が合わされ、視覚情報が鮮明になる。  あの籠は――鉄製。一辺はおよそ三メートル。  中身は―― «!!» 「……」  ――――巨大なる劔冑  よほどの名工が造ったのだとしても  桁違いの熱量を仕手から奪ってゆく代物に           桁違いの熱量を  ……車両からまた、何かが降ろされる。  それも籠。同じ籠。  ただ一つ違う点は。  中身。  籠の中身は、動いている。  籠――  籠ではない。  あれは檻だ。  檻なのだ。  怪物の〈熱源〉《・・》を閉じ込めておくための! 「…………」 「……お嬢さま?  如何なさいましたか?」 「人間です」 「……………………」 「何ですと」 「あの箱の中身は人間です。  捨てられた方には、〈枯れ果てた〉《・・・・・》骸が」 「いま新たに化物の腹へ収まった方には、  ……泣き喚く子供達が」 「…………」 「は――は!  なるほど、なるほど!」 「餌でございますか。  あの育ち過ぎた豚を空に飛ばすための!」 「考えてみれば、当たり前の発想ですね。  劔冑は装甲者の熱量を消費して稼動する」 「その熱量が足りないのなら、人間を補ってやればいい。  ……素晴らしい発想ですこと! 卵の立て方にも匹敵する叡智じゃありませんか!」 「あれの製作者は天才でございますな」 「本当に。  ……何だかわたくし、とても楽しくなってまいりました」 「このさよめもでございますよ、お嬢さま」 「ふふ」 「ふふ……」  捨てられた檻の中の――  枯れた骸。  あれを殺したのは誰だ。  あの怪物か。  本当にそうか。  怪物を引き回し、  熱量を消耗させ、  彼らの命を削り取ったのは誰だ?  俺は立ち上がった。  素晴らしい。憎悪こそは力だ。  こんなにも憎いから立てる。  こんなにも憎いから動ける。  脚の火傷が猛痛を放った。  ……足りない。  身動きする都度、よろう甲鉄が俺の命を吸い、内臓を絞られるが如き苦痛を呼ぶ。  ……足りない。  足りぬ、  足りぬ、  まるで足りぬ。  もっと傷が必要だ。  もっと呪いが必要だ。  奴にはもっと。もっと。              苦しめ。  一歩進むと、膝が折れた。  かくかくと笑っている。  惨めがましい。  まだお前には、動く手足があるくせに。              苦しめ。  一歩進むと、目が眩んだ。  意識が霞み、感覚が曖昧になる。  憐れがましい。  お前はまだ、物を見て音を聞くことができるくせに。             ひとごろし。  それを失くした人々のことを想え。  想え。  それをお前に奪われた人々のことを想え。  想え。  ああ。    湊斗景明。    どうかこの苦悶が未来永劫お前を苛み、    決して解放せぬように。 「景明さま?」 「どうされるおつもり?」 「邪魔だ」 「あら、恐い。  でも質問の答えにはなってませんことね?」 「知れた事です。  あの怪物を斬り、子供達を助け出します」 「そのお体でどうやって?」 「どうとでもして」 「ふふふ……」 「笑われるのはご勝手ですが、そこをどいてからにして頂きたい」 「過信も妄信も個人の趣味でやる分には結構ですけれどね、景明さま。  この場合、どなたがその負債を背負うのでしょうか?」 「湊斗さまだけで済まないことは確かでございます」 「…………」 「〈お願いします〉《プリーズ》と、仰ってはいかが?」 「〈お帰りはあちらだ〉《ゴー・ホーム》。  〈軍用犬の牝〉《ミリタリビッチ》」 「ま、つれない。  冗談の通じない御方ですこと」 「いけませんよ、湊斗さま。  もう少し余裕を持って生きられませんと」 「余裕……?」 「ふふふ……  じゃあどうしましょうか、ばあや?」 「こちらはこちらで好きにやるのがよろしかろうと存じます。  前の見えていない〈狂戦士〉《バーサーカー》などと組むより、むしろその方が好都合でございましょう」 「そうねぇ。  けれど、まぁ………互いに何をどうするかくらいは知っておくと、あれと戦うにも効率が良いでしょうから」 「その程度はしておきましょうか。  今あの怪物に食い潰されている方々の苦痛を、わたくしたちの勝手で引き伸ばしたくはありませんものね? 景明さま」 「……」 「どうぞ、お好きに」 「ええ♪」 「いやはや……  何と申しますか、我々の間に芽生えかけていた温かい繋がりとかそういった感じのものがなんか一瞬にして雲散霧消したようですな」 「まぁ元々そんなもの錯覚なのですが」 «…………»  作戦はおおよそ、このようなものになった。  一。  景明=村正はひとまず潜伏し待機。  体力を回復する。  二。  その間、香奈枝が敵騎の相手をしつつ電源ケーブルを断つ。 「電源ケーブル……?」 「細い上に迷彩が施されているようでひどく見辛いですけど」  言って、長身の進駐軍士官は指差した。  離陸を開始しようとしている巨兵の下部。 「騎体と直下の地表との間にいつも〈筋〉《・》があります。あの大怪獣に満載されたおもしろ兵器シリーズはおそらく、電力で稼動するものでしょうから……」 「成程。  それは電力を供給する電線だと考えるのが確かに妥当です」  大鳥大尉の視線を追う。  指示を受け、武者の視力を凝らしてみれば――辛うじて線状の影が一筋あるのを見て取ることができた。  意図されたことに違いないが、目視は難を極める。  定石に則り、低空飛行する敵を主に上空から襲っていた先刻の交戦時にはまるで気づかなかった。 「内蔵電池の存在は疑っていましたが……」 「充分な容量を持つ電池を開発できなかったか、それとも特定範囲内での運用という前提におけるメリットデメリットを考慮した結果か……ま、そんなところでございましょう」 「しかし、そんなものがあるのに行動の自由を阻害された様子がないのは」 「あの電線、伸びたり縮んだりはしてません。騎体がどう動いても。  いつも真下に延びたままです」 「おそらく……  あの電線は強靭な鍛鉄繊維で出来ていて、騎体の動きに合わせて地表を切り裂きながら移動しているのでしょう」 「地下で電源が一緒に移動しているとは考えにくいですから、多分この辺りの地下一帯には通電盤のようなものがあって、あの電線はそれと繋がっているのではないかしら?」 「……そう考えれば納得ができます。  あの奇妙な〈轍〉《・》のことも」 「ケーブルが走り回った跡というわけでございますね」 「ですが、大尉。  確かにその電線を断てば敵の戦力が大幅に減退するとはいうものの」 「問題は手段です。  如何にして断つおつもりか?」  彼女の推測が正しく鍛鉄繊維製であるならば、劔冑の甲鉄に近い材質で出来ているという事。  生半可な方法では傷もつけられまい。  チェーンソーを使っても数分は掛かるだろう。  無論、そんな暢気なやり方が許される状況とも思えない。 「そうですね……。  まぁ、どうにかなりますでしょう」 「ご心配なく♪」 「ご心配なくと言われましても」 「のー・ぷろぶれむ」 「それは、国際社会において最も信用に値しないとされている言葉ではありますまいか」 「まぁまぁ」  柳に風と笑い流して、大尉は結局ろくに答えを寄越さぬまま、さっさと陣取りに向かってしまった。  三。  永倉老は海岸の灯台へ登り、全般状況を把握、随時景明・香奈枝に連絡する。 「連絡の方法は」 「この小型無線機で。  お嬢さまも同じものを持っておられます。有効範囲は狭いですが、この島の中なら充分でございましょう」 「湊斗さまには……  御劒冑と波長を合わせている時間がございませんので」 「はい」 「危急の際には無差別発信を用いましょう。  無論これは全ての武者、無線機に傍受されてしまいますから、機密もへったくれもございません。使用はよほどの時に限りましょう」  当然だ。  些か不便もあろうが、やむを得ない。 「しかし灯台に登っても、この夜闇。  どの程度情勢を把握できるものかは、正直疑わしいかと」 「ご案じなく。  こういう時に役立つアイツ・〈暗視鏡〉《ナイトビジョン》がございますので」 「…………。  もっと早く出して下さい。そういうものは」 「お嬢さまがいらっしゃる間は無用でございますからな。電池に限りもありますし。  では、ご武運を」  そう言って、永倉侍従も去った。  四。  景明=村正は機を見て進突。  敵騎を制圧する。  ……そうして、今。  木々の中に身を伏せ、一切動かず、俺は機を待っている。  こちらに比べれば格段に〈効率的〉《・・・》な方法で熱量を回復した敵騎は、既に行動を再開している。  低空域を鈍重に飛び、〈兜〉《くび》を巡らし。その挙措は獲物を探す肉食恐竜を思わせた。  狙われる側は怯える小動物そのものだ。 「村正。  回復状況は」 «焦らないで。  もうしばらく時間が要る» «左腕と左脚は今はどうにもできないけれど……右脚は動かせる程度にはしてみせる。  それだけでも騎航能力がだいぶ変わるはず» 「……」 «地表で、まわりを障害物に囲まれていれば〈信号探査〉《みみ》で発見される危険はまず無い。  静止して発熱も抑えているから、〈熱源探査〉《はだ》もよほど近付かれるまでは大丈夫» «今は時間の稼ぎ時よ。  それだけこちらが有利になる» 「……承知している。  だが」  こうしている間にも。  あの化物の中では―― «……わかってる。  でも今、あのでかぶつはただ巡航しているだけ。熱量消費も相応でしかない» «だから……焦らないで» 「ああ……」  その通りだ。  いま焦燥に任せて飛び出せば、それこそ誰も救われなくなる。大鳥大尉の言い草ではないが、俺の無謀の代価は無辜の子供達が支払うのだ。  確実な勝機を待たねばならない。  わかっていながら、しかしもどかしい。  今、この瞬間。刻一刻と過ぎ去る時間の中で――  〈食い潰されている〉《・・・・・・・・》命があることは事実なのだ! «……御堂……» 「……」 «鼻血が» 「気にするな」 «熱量が減るでしょう» 「そうか。  気をつける」  ……今のは。 「大尉が始めたようだ」 «みたいね。  全く通じていないけれど»  通じる筈がない。  単発で武者の甲鉄を撃ち抜くなど、最新の高速徹甲弾でもなければ成し得ぬ所業だ。増してあの重装甲。  ライフルが列車砲にまで進化せねば無理だろう。  空中城塞――そう称して何の誇張もない――が鈍い動作で向きを変えてゆく。  銃撃が来た、つまりは大鳥大尉がいる方角へ。無数の凶悪な銃口と共に。  その鼻先へ更に数発、叩き込まれるライフル弾。  ほぼ同一のポイントへ集中させているのは流石だが、しかし零はいくら加えても零でしかない。蚊が刺した程にさえ、巨騎は痛痒を覚えていないように見えた。 «〈電線〉《けーぶる》を狙うんじゃなかったの?» 「適当な地点へ誘い込んで確実に仕留める、というような事を言っていたが」  今はその誘い込みの最中なのだろう。  しかし、絶好の狙撃点に引き込んだところで、銃弾の相対的威力が飛躍的に増すとも考えられない。  弾かれるものはどこで撃ってもまず弾かれる筈だ。  鍛鉄繊維の電源ケーブルは甲鉄に比べればまだしも脆弱だろうが、ライフル狙撃程度で屈するかといえば、それは大いに疑問だった。  加えて、不利な条件は他にもある。  通常の武者に比べればはるかに鈍足とはいえ、あの巨兵も騎航しているのだ。ケーブルはそれに合わせて、同じ速度で飛遊している。  ……そんなものを狙撃できるのか?  大尉の視力がいかに卓抜していようと、それで済む問題ではない。  予知能力でも持ち合わせていなくては不可能な事と思える。  現実と必要条件との隔たりに、あの女性将校はどう整合をつけるつもりなのか。  できもしない事を安請け合いする人間とは思えないが……この状況では信用すべき要素が無さ過ぎた。  あてにせず、こちらで方策を練った方が良いだろう。  村正の太刀でなら、鍛鉄繊維であろうと切れる。  障害となるのは、あの磁気の防壁だ。  あれごと斬り破るには電磁抜刀を用いる以外にない。  しかしその後、敵騎の甲鉄を裂いて〈仕手〉《ユーザー》を引き摺り出すのにも蒐窮の太刀は要る。  多大な熱量を消費する電磁抜刀、その二撃目は果たして、あの重甲を貫徹するだけの威力に達するか―― 「…………」  あてにしてはならないと思いつつ。  胸中に期待が蠢く。  大鳥大尉が宣言を果たし、電線を断ち切ってくれるならば―――― 「現時点ではかの〈巨人〉《ゴリアテ》のほかに敵兵力は確認できませぬ。  しかし存在は確実でございます。発見次第お知らせ致しまするが……」 「機械化歩兵なら格別、練度の高い山岳歩兵でも繰り出されようものなら、暗夜下でこれを発見することはまず叶いますまい。  くれぐれもお気をつけ下さいませ」 «了解です。  ではまた後程» 「他にも敵がいるのは確実、って……  そうなのか?」 「無論でございます。  先刻も補給部隊を見たではありませんか」 「ああいうのとは別に、戦闘部隊もいるってんだろ? 今のは」 「あのような弩級兵器を単独で運用しても、戦果は挙げられませぬ。ああも小回りが利かないのでは……時代遅れの攻城兵器が関の山。  乃木将軍なら重宝したかもしれませんが」 「このような野戦で運用する以上、作戦目的が何処にあるにせよ、痒い所に手を伸ばしてくれる部隊との併用は必須でございましょう。  現に今、敵騎は索敵に難儀しておる様子」 「……それって、そういう部隊がいないってことなんじゃないのか?」 「であれば苦労はございませんが、楽観的に過ぎましょうなぁ。  何らかの理由で投入を控えているとみるのが正しかろうと存じます」 「新兵器の試験を兼ねているのか、もっと他に事情があるのか……  それはさて、まだわかりませぬが」 「さて……  増援がいつ出てくるか」 「〈いつまで出ないか〉《・・・・・・・・》。  勝負の帰趨はその一点で定まりましょうか……」 「何にしても気は抜けないということで」 「周囲を警戒いたしましょう。  右よし左よし後ろよーし」 「なぁんてやってられる場合じゃありませんことよー!」 ■作戦行動  あのでかいのを適当に撃つ。 ■期待戦果  敵装甲表面に深さ約一ミリの陥没を増産し、敵兵の精神にストレスを与え便秘・脱毛等を促す。 ■敵脅威度  最も弱小な銃砲一門の直撃で此方を沈黙させ得る。 ■戦力比  一〇対一  ※(注1) (注1)先の大戦直前、東条英機首相が英国と大和の国力比を試算させたところ、一〇〇対一という回答であったが、これでは戦う前から士気が崩壊するので、一〇対一として発表したという故事に倣っている。 ■行動方針  現実はあまり見ない。 ■行動思想 「世界で一番強い動物はライフルを持った狙撃兵だ」 ■結論  頑張る。 「お粗末過ぎるー!  でも人生に一度や二度くらいシュテファン大聖堂から飛び降りることも必要かしらー!?」 「あァっははははハハハハハハハハ!!」  大鳥香奈枝はこの世の悪を憎悪する。  何か格別の契機があったわけではない。  貴種に生まれついた人間として、それは当然の素養だった。  人を支配すべく血統に命じられた者は、世を正しき方へ導くため、衆の模範となるよう振る舞い、また世を乱す悪を率先して撲滅せねばならない。  かくあればこそ高貴の地位は保証される。  財権を浪費し遊蕩奢侈に耽るばかりの者も、正義の戦争を謳い兵を戦地へ送りながら自らは安全な宮殿に留まる者も、民の畏敬と奉仕を受けるにはあたらない。  世界に吹き荒れた『革命』の嵐が彼らの多くを滅ぼし去ったのは、何の不思議も理不尽もない事だった。  言うなれば家の中に巣食っていた白蟻の群れが駆除されただけの話なのだから。  責務を疎かにし権利のみ貪る貴族など、社会の寄生虫以外の何物でもない。  だから――  釈天御由緒家〈鵬〉《おおとり》氏の血に連なる者として。  〈大鳥右近衛大将従三位当麻真人時継〉《おおとりうこのえのたいしょうじゅさんみたいまのまひとときつぐ》が長女香奈枝は世の悪害を憎み撲滅する。 「……ククッ」  己の使命を貫徹する。  血の責任を全うする。  この世の正義を担い。  世の正理を乱した悪に復讐する。  復讐する。  復讐!  復讐!  嘆きの血にかけて同量の血の〈贖〉《あがな》いを!! 「キ――キキキ」 「……さぁーって、と。  この辺りでよろしいかしら?」 「この音……」 「お嬢さまが〈始める〉《・・・》ようでございます。  なかなかの観物になりましょう。よくご覧になっていてくださいませ」 「……けどよ。  本当にやれるのか?」 「心配ですか? 綾弥さま」 「あたしは銃のこと詳しくないけどさ。  あの飛んでるコードをライフルで撃ち抜くってのが無茶苦茶だってことくらい、想像はつく」 「無茶ではございません。無理でございます。  どのように検討いたしましても」 「おい。婆さん」 「ご案じなきよう。  ……視線さえ通るなら。お嬢さまのボルトは決して標的を逃しませぬゆえ」 「ぼると?」 「始められますか。  お嬢さま……」 「どうぞ、ご存分に〈芸術〉《アート》を描かれませ。  お嬢さまだけの芸術を……」  ――宙空を移動する、保護色の、極細の線を一弾によって撃ち抜く。  それがどれほどの難事が、永倉さよは知っている。  不可能事であると知っている。  だが、もう一つ知っている。  彼女は――主人の事を知っているのだ。  永倉さよは〈大鳥香奈枝〉《・・・・・》を知っている。  誰よりも。あるいは本人よりも深く。 「――ゼノンの空論が事実となるとき。  そこに〈魔法〉《・・》が現れる……」  短い攻防を経て、彼は事態をほぼ把握した。  幕軍・進駐軍、いずれの〈認識信号〉《コード》も発信しないあの深紅色の武者には友軍がいたようだ。  まるでそれが魔法の剣だと言わんばかりに、銃一挺を〈恃〉《たの》んでこの〈荒覇吐〉《アラハバキ》に無謀な挑戦をする何者か。  姿はいまだ確認できずにいるが、武者自身ではないだろう。僚友が乗る荒覇吐と敵武者が戦う様子を彼は終始遠望していたが、あれは旧代の真打劔冑だった。  武装は腰に〈佩〉《は》いた大小のみで、銃砲は持たない。  〈昇降機〉《リフト》の前で遭遇した時、劔冑を装甲して向かってきた男の他にも人影があった――と、彼と交代する際に僚友が告げたことを思い出す。  おそらくは、それだ。  武者が荒覇吐の甲鉄を前に四苦八苦している間は影も見せなかったその仲間が、なぜ今になって現れて、無謀な真似を始めたのか。  推測を立てるにさしたる苦労は要らない。  赤色の敵騎が先の交戦で甚大な被害を蒙ったことは確認している。墜死しても不思議ではない程の。  数度に渡って竜気砲を浴びているのだから、むしろそうならぬ事にこそ首を傾げなくてはならないだろう。  異常な堅固さと云うべきだが、しかしこちらの熱量枯渇と時を合わせて敵騎も急降下して山裾に消えたのは、限界を示すものだったとみてまず間違いない。  補給中に襲撃を受けなかった事からも確実だ。  その後、敵騎はどうしたか……  逃げた、のであれば彼にできる事は何もない。この竜騎兵用強化外装は一歩兵を探し出して踏み潰すようには出来ていない。  だがそれは無いだろうと彼はみていた。  逃げるならば荒覇吐と遭遇した瞬間にそうしていればいい。蛮勇の〈性〉《さが》が邪魔したとしても、竜気砲の洗礼を受けた後ならば尻尾を巻くだろう。  こちらの足の鈍さは敵にも見え透いている。  逃走は容易だと知れていた筈だ。にも拘わらず、彼は交戦を継続した。  そもそも敵は何者で、何を求めて、江ノ島へやって来たのか。  そう。目的が無い筈はない。  突如現れるや研究所を掌握し、彼らに命令を下した進駐軍将校――そのあたりの異変について、職業軍人たる彼はさして興味を抱いていなかった――は無論、知っているのだろう。だがこの際それは重要ではない。  敵は目的の為、この荒覇吐と戦わねばならないのだ。  〈だから〉《・・・》、友軍が現れて豆鉄砲を撃ち始めたのだ。  なぜ?  武者が回復する時間を稼ぐためだ、無論!  なぜ、〈稼ぐ〉《・・》必要がある?  黙って潜伏していられなかった理由は?  敵は〈先制〉《・・》してきた。その銃が一切通用しないと知りながら。  それはなぜか?  ――この荒覇吐と休息中の動けない敵騎が近距離にあったからだ。  至急引き離す必要があったのだ!  ならば。  敵は何処にいる?  狙撃兵はどうでもいい。  武者は何処に潜んでいる?  最初に銃撃を浴びた場所の付近――  そして、そう。銃一挺でこの荒覇吐を相手取ろうとするほどの兵士ならば、常に最善、より最善を求めて行動することができるはず。  時間稼ぎを担う兵士の、この状況における最善とは?  回復を終えた武者が出撃する時のため、武者に有利な態勢を整えておくことだ――荒覇吐が武者に対して弱点を見せるような位置関係に持ち込むことだ!  敵が狙う弱点――先刻のように竜気砲か?  否。それでは正面特攻も同じ事。    ……電源ケーブル!  保護色塗装はされているが、これだけの長時間交戦したのだ。既に見つけられていても不思議ではない。  陽動の兵士は武者が〈其処〉《そこ》を衝きやすいようにこちらを誘う!  敵兵の一見無意味なゲリラ戦術には確かに指向性がある。荒覇吐はある方向に導かれている。  なら。ならば――  以上を勘案せよ!  敵軍の決定力たる武者はいま何処にいる!?  ……恐ろしい事に、若干の誤解を含みながらも彼の推測は的を外していなかった。  出撃回数二五回、幾多の空で〈撃墜王〉《エース》の名を〈恣〉《ほしいまま》にし、〈試験操手〉《テストパイロット》へ栄転した熟練兵ならではの嗅覚であろうか。  いずれにせよ。  彼は〈そちら〉《・・・》へ砲口を向けたのだ。 「――なっ……」 «御堂! 逃げ――»       The paradox of "Tell and apple". 「――――!?」 «……斬った!!»  あの禍々しき砲門が雄叫びを上げる寸前。  蒼闇を裂いた疾光が、電源ケーブルをも薙ぎ払っていた。  香奈枝嬢の〈攻撃〉《アクション》だろう。  何を為したのか、如何なるものだったのかはわからないが――とまれこれは待ちに待った好機! 「〈出撃す〉《で》る」 «諒解!»  体内の熱を背面の合当理に落とし込み、推力に変換せしめて離陸する。  万全とは言い難い加速、反面普段以上に強い〈荷重〉《G》のもたらす失調感――〈体調不良〉《バッドコンディション》の影響は未だ大きい。  しかしそれでも戦うには足る。  村正は言った通りの事を果たしていた。治癒の力が重点的に注がれたのだろう、右脚はやや回復し動かぬ左の分も補って騎航姿勢の保持に働いている。  腕も問題はなかった。左は動かないが、右が健在だ。尋常の武者と尋常の勝負に臨むのであれば不利は否めないが、そんな状況でもない。  ただ電磁の一刀を揮うのみ。片腕だけで事足りる。  敵騎の挙措からは混乱が窺えた。閃光の一射が飛来した方角を向き、おそらくは探査機能を働かせながら、銃砲群の狙いを定めようとしている――馬鹿げていた。もう遅い。今更大尉を仕留めても状況は覆らない。  本来、それがわからぬ兵士でもないのだろう。  あの鉄塊の乗り手は――しかし、ケーブルと諸共に心の緒まで断ち切られていたか。  一瞬前、死の瀬戸際に立たされていた筈の俺が今、駆け抜けるのは敵騎の致命的な隙へ直進する一線。  見えている。先刻確認した、仕手の搭乗位置!  にも拘わらず迎撃はない。  異形の巨人は〈己〉《おの》がアキレス腱を切り裂いた何者かに意識を奪われている。危急の状勢を看過している。  最大の好機。  ここで、決めねば―――― «秋の夜長を待ちかねて菊見がてらに〈廓〉《さと》の露、  濡れてみたさに来てみれば案に相違の愛想尽かし»  ――――!? «花魁、そりゃァあんまり袖なかろうぜぇ!  村正ァァァァァァァッ!!» «お前は……!?» 「……湊斗さん!」 「どうしてっ!」 「……お前は既に役割を果たした。  仕事を終えた」 「である以上、今のお前は警察属員ではなく民間人に過ぎない。  保護する必要がある」  妙な事を言っていると、自分で嗤った。 「そんなっ……  そんなことしたら……!」 「問題はない」  耐えれば良いだけの事。  一撃、耐えれば―― 「…………!!」 «――っ!!»  全身が――沸騰――  意識が―――― 「や、申し訳ありませんが……  〈こんなん〉《・・・・》で終わりにされちゃあ、困るんで……」 「ねェッ!!」  ……!? «なに?  ……止まった?»  ――止まっている。  致命的であった波動が。  手加減?  ……まさか。この期に及んで。  見れば敵騎にも動揺の気配がある。  忙しく回転する〈眉庇〉《カメラ》は、不測の事態の正体を知ろうと躍起になっているようにしか見えない。  しかし、敵騎には何の異常も―― «御堂!  〈電線〉《けーぶる》!» 「……切れている!?」  何故だ?  事故か?  それとも、あるいは―― 「へ、へ、ヘ……!  鉄火場でキョロキョロしてちゃあ、いけませんよ……」 「村正ァァァ!!」 「……お前は!?」  俺は地を蹴った。  木々の間を潜り、迂回。  怪物の背後へ回る進路を取る。  予定通りに。 «……御堂» 「約束したのだ。  見殺しにすると」 「窮地に陥ろうが助けない。見殺しにして、囚われの人々を助け出すと。  俺は約束したのだ!」  綾弥一条と。  あの少女と。  敵騎の死角から死角へ抜ける、最短の距離を駆ける。  決して間に合わない。  俺が電力源を断つ前に。  あの砲は一条を襲う。  その威力は身に染みて知っている。  急造の甲鉄しか持たぬ一条が耐え抜ける可能性は、億に一つも無い。  彼女は死ぬ。  木々の切れ目に束の間、その姿を見た。  死を前にして――なお挫折せぬ少女。  彼女から俺の姿は見えない。  俺と彼女の視線は重ならない。  しかし一条は俺を見ていた。  その〈眸〉《ひとみ》が、俺を信頼していた。  自分を助けになど来ないことを信じていた。  見捨ててくれることを信じていた。  自分の死骸を踏みつけ、踏み台にして、怪物に囚われた人々を救ってくれることを、ただ〈偏〉《ひとえ》に信じていた。 「……っ」  眼を引き離して、駆ける。  せめて最期を見届けてやりたい――そんな無駄さえ彼女の誠心を裏切るものだと知って。  前だけを見据えて進む。  真実を胸に刻みながら進む。  この手が〈また〉《・・》罪なき人を犠牲にした、その真実を。 「――――」 (一条――)  ……!? 「――煙?」 「煙幕弾か?  ……誰が!?」 «わ……わからない。  地表だと〈探査機能〉《みみ》の利きが……» «いえ、それよりも、御堂ッ!» 「――応!」  事情は全く不明にせよ千載一遇の好機!  煙幕が怪物の視界を塞いでいる間に、決着をつけてしまえば――  もはや身を隠す必要もない。  林から飛び出し、目標地点への直線進路を設定する。  あれだ。  あの、一本の細い線――!  斬った――! 「はァい、お見事……  〈籠釣瓶〉《カゴツルベ》は良く斬れる、ってかァ」 「それじゃ、次に参りましょうや。  …………村正ァァッ!!」 「何――――」 「……なんだあっ!?」 「伏兵でございます!  ……いるのはわかっておりましたし、敵方の風向きが怪しくなれば出てくるのもわかってはおりましたが」 「早過ぎる。  怪物はまだ健在!」 「あいつ、あんたの主人を狙ってんじゃないのか!?」 「……今のお嬢さまは無防備も同然。  このままでは……!」 「どうする!?  湊斗さんに連絡して――」 「…………いえ。このさよめが参ります。  綾弥さま、この場はお任せしてよろしゅうございましょうか」 「……はぁ?  いや、あんたが行ってどうするんだよ!?」 「どうにか致しましょう。  ご心配なく。亀の甲より年の功と申しますれば」 「おいおいおい……  ちょっと待」 「それでは」 「て、よ…………」 「………………」 「……なんだ。あの婆さん……  忍者か?」 「……え?  あー……」 「何が……  どうなったんだ?」 「……伏兵……?  てことは……」 「…………」 「なるほど」 「……伏兵!  この頃合で……」 「いかぬ。  これでは、お嬢さまが――!」 «敵騎、〈一九〇度やや下方〉《うまからひのとのしもより》……  反転に移る!» 「応ずる。  村正、余り〈翼甲〉《ほろ》を広げるな。こちらの窮状が知れる。安定性の犠牲は呑む」 «――諒解!» 「……ち!」 «――外した!?» 「太刀を〈巻き払われた〉《・・・・・・》!  巧妙な業を使ってくれる!」  武者と武者の勝負――双輪懸は主に以下の四要素で決すると云われる。  上昇性能、最大速力、加速性能、旋回性能の四つだ。  上昇性能の重大さは論を俟つまい。  戦闘開始時における高度優勢の確保はこの能力如何だ。  最初の激突後は、旋回性能次第となる。  迅速に反転できる騎体ほど高度優位を奪いやすい。  最大速力は、勝負において最も重要な最初の一合の攻撃力を定めるものといえるだろう。  速力に勝るとはつまり、敵より強力な一撃を敵よりも先に打ち放てる事を意味するからだ。  そして加速性能は、二合目以降の速力を左右する。  激突で減殺された速力の回復は、この性能に懸かる。  これら四種の能力を全て完璧に備える騎体など存在しない。  往々にして、一種の能力の追求は別種の能力の削減と不可分であるためだ。  翼甲を拡大すれば旋回性が増し加速性が失われる。  翼甲を分厚く強固にすれば最大速力は高まるが上昇性能は犠牲になる。  一般に、この相関関係からは逃れ得ない。  鍛治師は誰しも、理想より確実に小さい枠組みの中で最善を求め足掻いている。  真打劔冑と真打劔冑の対決であれば、鍛冶師の技量の差による優劣が顕れるにせよ、大概、それは絶対的ではない。総合評価で劣る側とて四要素のいずれかでは勝り、その点を生かして逆転する道は必ずある。  逆転が叶わぬ程の格差が表面化するとすれば、それは真打と数打が闘う場合の事だ。 «……あぁ、もう!  屈辱ね!» «調子が万全だったら、こんな紛い物風情!» 「猛るな。  お前が苛立つ必要はない。現状でもお前の性能は敵騎に優越している」 「俺が、雪車町一蔵に劣っているのだ」  右前腕のかすかな残滓を味わう。  必墜の筈の一撃を、苦もなく〈流された〉《・・・・》感触。  雪車町一蔵は驍勇だった。  あろうことか、騎体性能の劣弱を己の剣腕で埋めている。  彼が駆る九〇式竜騎兵甲は軍史に残る名騎ではあるが、如何せん数打であり、しかも十年前の旧式騎だ。  あらゆる面において、村正との差はどれだけか知れない――それを、無にする程の才。  客観的にみて凡才の枠を超えない俺とは、根本的に〈もの〉《・・》が違うのだ。 «怪我さえなかったら、それだって引っくり返るでしょう!» 「さてどうか。  怪しいものだが」 「何にせよ、現状況下では負け犬の遠吠えに過ぎない」 «ええそうね。  じゃあ、一緒に出家でもする?» 「悪くはないが」  身を翻す。 「せめて一矢報いてからとしよう」 «一矢で済ませるものですか!»  無駄な軽口の応酬は、俺自身の苛立ちを鎮めるためにも必要だった。  意識は一瞬、一瞬毎に、別の所へ飛びそうになっている。  ――あの巨騎。  俺はあれを仕留めなければならないのに。  こうして時を費やせば費やすだけ……  あの中にいる人々が……  足止めされている俺に代わって、怪物の矢面に立たされているだろう者が……! «御堂!»  ……不味い!  下に潜り込まれた!  こちらの構えは常道の上段。  この位置関係では斬り損じる。  対して、敵もまた上段。  条件は逆、絶好の形!  構え直していては出遅れる―― 「……ぬぅ!」 «……けへっ!  いや、存外に器用なお人だ……»  笑いを含んだ金打声が届く。  嘲りとも本気で感心しているとも、どちらとも受け取れる声音だった。 «吉野御流が一芸、霞返し。……誇るほどの技ではない。  同等の技術ならそちらにもあるだろう……» «一刀流の雪車町一蔵» «へっへ……  目利きの方も大したもんで» «これだけ立ち合えば、太刀筋の一つ二つは読み取れる。  増してそれが、大和に冠たる名流であれば» «恐れ入りました……。  しかし……妙なことをなさる» «とは» «今の一刀、〈斬りきれば〉《・・・・・》お手前の勝ちだったじゃぁありませんか?  あたしは今頃海に向かって真っ逆様だ……» «……» «どうして、そうなさらなかったんで?  警察の旦那……» «……そちらこそ。  先刻の振舞いは何の酔狂か» «はァい?» «…………。  あの瞬間、怪物の牙を止めたのは» «雪車町一蔵。お前ではないのか?» «はぁて……  何のことやら……» «……»  やはり、誤解か……?  どうにも腑に落ちないが……。 «ならばその件は置いて今の事を訊こう。  何故、故意に勝負を長引かせる?» «そちらこそ。  何故いたずらに勝負を長引かせる» «この数合。  俺を斬り墜とす機会は一度ならずあった筈だが?» «へ、へ、へ……  いや、なにね» «〈確かめたかった〉《・・・・・・・》んで……» «何をだ» «けぇけけけけけけけけけ!  ひぇっへへへへへへへへへへへへ!!» «……» «そもそも、何故ここにいる。  何故俺を襲う» «六波羅御雇から、研究所の警備部隊に転属したわけではないだろう……。  先日の意趣返しか?» «別に〈それ〉《・・》でも構いませんがねぇ……。  へへ、旦那にはあたしが借りたものを返しに来るような律儀な人間に見えるんですか» «……では。  お前がGHQの手下だからか?» «…………» «GHQの〈統治政策〉《・・・・》を俺が妨害したから――  始末に来た、ということか?» «さぁて。  何のお話やら……» «鈴川令法» «……» «風魔小太郎。  ……幕府の高官でもない彼らが〈真打劔冑〉《わざもの》を所持していたのは、何故だ» «お前の両手が、進駐軍の蔵から劔冑を持ち出し、彼らに受け渡したからではないのか。  雪車町一蔵» «……へっへ。  参りましたね。小太郎の爺さん、くたばる前にだいぶん余計なことを喋ったようだ……» «……何故、GHQがそんな真似を許したか。  それはお前の行動が、GHQの目的に沿うものであったからに他ならない»  GHQの目的――  大和完全占領。  そこに雪車町という男の、一見不可解な行跡を重ねて〈鑑〉《み》る。  そうして、署長は一つの結論に至った。  苦味を覚えるほどわかり易く、説得力を備えた推察。  そのままに、俺は投げ放った。 «〈大和の武者に大和の民を害させる〉《・・・・・・・・・・・・・・・》。  大和がGHQという支配者を受け入れる、その素地をつくるために» «違うか……  売国の徒» «キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!»  その怪笑は――  俺の言葉を確実に肯定していた。 「進駐軍の任務は、言ってしまえば我が国を軍事基地化することだ。  対〈露帝〉《ロシア》戦略の一環としてな」 「そのためには大和の民を味方につける必要がある。武力のみで強引に支配した末、各地で抵抗運動など起こされてはとてものこと、露帝に睨みを利かせるどころではない」 「だからこそ、六波羅の圧政を黙認する。  暴虐なる支配者に、大和の国民から救いを求める声があがり……進駐軍はそれに応えて立ち上がる。理想的な〈台本〉《シナリオ》だ」 「しかし、それだけでは足りない。  六波羅に対する憎悪を煽っても、大和の民がまず頼りにするのは六波羅以外の大和武者かもしれない。進駐軍ではなく」 「その芽を摘むため、劔冑狩りを行って幕軍以外の武者を根絶し――  その劔冑をわざわざ危険人物に提供して、凶行に走らせているのではないか?」 「大和国民の、大和武者に対する信頼を……  完全に、失わせるべく」 «さあれば俺を襲うのも得心ゆく。  別に意図しての事ではなかったが、結果的にGHQの目論見を潰した俺は邪魔者とみられて当然だ……» «あの連中を斬っただけならともかく、ねぇ。  あんたの行動が世間で噂になりかけてるってのが不味いんで……» «あんたが英雄になっちゃあ困るんですよ。  英雄は進駐軍だけでいい……だ、そうでね» «それで〈今回〉《・・》の運びとなったわけで……» «なに……?»  〈言外の意〉《ニュアンス》を聞き咎める。  ただ、こうして襲ってきたことを指しているようには聞こえなかった。 «いや、ね……。  大した工作をしたわけじゃぁありませんよ» «幕府がここで兵器研究をしているって〈情報〉《ネタ》を、いくらか脚色して〈そちら〉《・・・》へ流しただけで。  銀色云々ってのを強調しときゃ、餌になるんじゃないかってね……結果はまぁ、案の定» «……»  俺が銀星号を追っていることは、風魔小太郎と繋がっていたこの男ならば知っていても不思議ではない。  そこに罠を張られたか……。 «島の警備力が俺を殺せば良し。  俺が六波羅の兵器研究を潰しても、それはそれで万々歳» «どちらに転んでも、高みの見物のGHQは濡れ手で粟の丸儲け……  そういう腹か» «へ、へ……» «……ならば何故出てきた?  雪車町一蔵» «俺があの怪物と決着をつけるまで、見物を決め込まなかったのは何故だ» «……»  そう言って、気付く。  ……交渉の余地が、あるという事か? «その方がそちらにとっても都合が良かろう。  この場を退け、雪車町一蔵» «はァい?» «逃げはせぬ。  あの怪物を仕留めた後、お前の相手をすると約束しよう» «あるいは俺の方があの怪物に潰されるかもしれないが……  それでも、お前は何も困るまい»  今、至急に始末しなくてはならぬのはあの巨兵。  GHQの走狗たるこの男とも決着は避けられまいが、それは後でも良い。  利害は一致している。  俺と怪物の戦いを先に回した方が、俺とこの雪車町、どちらにとっても好都合の筈。 «へっ。まァ、そうかもしれませんが……  そちらさんにとっちゃ、別にあたしが先でも構わないんじゃないですかぃ?» «いや。  あの怪物は、胎内に監禁した人々を燃料にして動いている» «彼らを急ぎ、助け出さねばならない» «へ、へ、へ……  大した正義漢ぶりで» «……どう解釈しようと構わない» «いやいや……  そうとしか解釈できませんねェ……» «て、なると……  あたしは悪玉の用心棒ってわけだァ!» «雪車町……!» «へェへェヘッ!  助けに行きたいなら、あたしをどうにかしないといけませんねェ!» «……ッ……»  何故だ。  この男は、何を考えている?  単なる利害だけではないというのか?  俺を襲うのは――  いずれにしても。 «決裂よ!  余計なことは忘れて!» 「く……」  太刀を取り直す。  遺憾ながら、村正の言う通り。  やはり、斬り破る他に道はない! «へぇ、へへ……  旦那に、あたしが殺せますかねぇ……» «退かぬならば……  斬る» «旦那ァ……  あたしは、〈殺せるか〉《・・・・》……てぇ、言ってるんですよ» «……なに?» «今のところ……  旦那の切先には、ちぃとも殺気が乗っちゃおりませんが……?»  ――この男。  確かに、雪車町を殺す気は端から無い。  彼は〝卵〟を抱える寄生体ではないのだ。  殺さねばならぬ、理由がない。  ――そこを、見切られている。 «……無用の殺生は戒めるべき事。  当然の心得だ» «そうですか……。  けど、今はそうも言ってられないんじゃあないですかねぇ?» «殺す気でやらなけりゃ、いつまでもここに釘付けですよ……» «……» «あたしを……  殺しますか?» «他に手が無いならば……  〈万〉《ばん》やむ無し。斬り殺して、押し通る»  できもしないことを云う。  〈実〉《ジツ》はどうあれ表向きは、弱味を隠さねばならない。 «へ、へッ!  それでこそ〝英雄〟ってもんで!»  からかうように言い放ち、雪車町が転進する。  対応してこちらも兜角を返し、正面に入れた敵影を見据える。  ……心胆知れぬ者を相手に、いつまでも時間を掛けてはいられない。  決着をつけねば……!  太刀を体側、騎航中段の位置にとる。  雪車町は右上段の構。  こちらの下側へ斬り抜けるよう動く雪車町の機先を、更に潜り込んで封じる。  封じ、封じられ――競り負ける。  我が下方を奪取する敵騎の軌道。  封じられた――その刹那には、  俺の太刀は中段から下段へ移り、更に走っている。  陣取りの鍔競り合いは騙し。太刀筋を隠蔽する為の煙幕に過ぎない。  こちらの下へ抜けようとする雪車町を、最適の形で下段からの切り上げ太刀が迎え撃つ。  敵の太刀よりも確実に速い。確実に先を制し、肩口へ深々と切り込んで戦闘力を奪う。 «……カカ»  刃先が――  指す――  〈首筋を〉《・・・》。 «――なッ»  あろうことか。  雪車町は上体をわずかに捻り、迫る刃へ首を晒していた。  通常の姿勢であれば、首は兜に守られる。  だがこのように、殊更首筋を曝け出せば――装甲は無きに等しく――太刀を食い止められる筈もなく、  〈死ぬ〉《・・》。  〈殺す〉《・・》。 «カカカカカカカカカカカ!!» «何を――!»  ……辛うじて、間に合った。  寸での所で方向転換に成功した刀の先端が、雪車町の首を掠め過ぎ、虚空へと流れ去る。  無理な動作で捻られた手首は、電撃にも似た激痛を脳髄まで送り届けてきた。  苦悶と共に、声を絞り出す。 «何の、真似だ!?» «駄目だぁーーーっ!!  殺せねぇ殺せねぇ殺せねェーーーーーッ!!»  侮蔑、嘲笑、玩弄の叫びが夜天を割る。 «ヘッヘェ! へ、ヘヘヘヘヘ!  やっぱあんたは英雄の器じゃねえよ!  覚悟が足りねェよ! 駄目だ、駄目だァ!»  嘲りながら遠ざかる雪車町の竜騎兵甲。  後に引く噴煙までもが〈嗤〉《わら》うように渦を巻いた。  ……何故だ。  何故あの男は、確信を持てる。  無意味な賭博に己の一命を投じられる程、世を達観しているようにはとても見えない。  あの男には確信があったのだ……!  俺が、〈軽々〉《けいけい》には人を殺せないという。 «……先刻、口にしていたな。  確かめたと» «俺の何を確かめたと云う。  雪車町一蔵» «いやァ、なに……  あんたがね、くっだらねぇ半端者だって事ですよ» «嫌なんだろぉ?  あたしを殺すのが嫌なんだろぉ……?» «だって、ねぇ……  あたしを殺したら、〈もう一人〉《・・・・》、罪も無い人を殺さにゃならんもの、» «なァ?» 「!?」 «!?»  反射的に繰り出した受け太刀が弾かれ、火花を撒く。  しかし手首に走った衝撃は、心中のそれに比べれば物の数でもなかった。 «な――何故» «何故、お前が〈それ〉《・・》を!» «見たんだよ»  見た――? «あの夜。  あの村。  あの山の一軒家で» «……てめェが蝦夷の子供を二人、泣き喚きながら殺すのをなァ……» «……!!» «なんでてめぇみてえな野郎があんな真似をしたんだか、わけがわかんなかった……  だから調べたんだよ……» «村正、ってぇ劔冑のことをさァ。  そっちの方の文献を集めてる坊さんが知り合いにいたんでねェ…………そしたら» «……» «いっこだけ、てめェに〈符合す〉《ハマ》る伝承が見つかってなぁ……  〈呪い〉《・・》、が……あるんだろォ? その劔冑にはよぅ»            我が〈銘〉《な》は村正         我、鬼に逢うては鬼を斬り         仏に逢うては仏を斬るもの也            我、善に非ず            我、義に従わず            我、正道を〈征〉《ゆ》かず           我、正邪を諸共に断つ            我、一振の〈凶刃〉《ハガネ》也        我との契りを求める者      我と共に凶刃と〈生〉《な》る覚悟ありや            無かりせば去れ           有りせば         己が覚悟を宣誓す〈可〉《べ》し «………………» «南北朝時代の争いが泥沼のどん底になっちまったのは、村正がその呪いを〈広めた〉《・・・》からだって云うじゃねェか……  へ、へ! 大したもんだねぇ»        〈磁気汚染〉《くるわし》:勅令封印/絶対禁戒 «……なぁ、あんた。  なんで山奥にでも篭もっちまわねえんだ» «そんな厄介な呪いを抱えて……  なぁんで世間をうろつき回るんだよ?» «…………» «け、けけっ……  呪われた劔冑を使ってる癖に、やってる事は悪党退治» «悪代官を成敗した後で、  可愛い村娘も殺しちまう» «け、け、ケケケ!  あんた一体、何がしてぇんだよぉ?» «……黙れ……  貴様» «悪党どもとやり合うために、とにかく強い劔冑が欲しかったのかァ?  沢山のひとを救うためなら、少しの犠牲はやむ無し……かぁい?» «いいねェ。そいつは正義の英雄だ。  でも英雄だってんなら、もっと堂々としてなけりゃいけねぇなぁ……» «貴様» «それとも人殺しが好きなだけかぁ?  いいねェ。そいつは悪鬼ってやつだ» «でも悪鬼だったら、もっと嬉しそうに殺さなきゃあなァ……» «黙れと» «ケ、ケ、ケハハハハハハ!!  どっちでもねェ。半端野郎だ! おめぇは半端野郎だよぉ!» «くっっっだらねェェェェェェ!!  ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!» «黙れと言っている!!»  おのれ。  おのれ。  おのれおのれおのれおのれおのれ――――  何も知らぬ輩が。  勝手に踏み込んで来て何を抜かす。  堂々と殺せ、だと?  嬉しそうに殺せ、だと?  それができないなら半端者だと?  己の尺度で物を計り、好き勝手を言ってくれる!  意思の定まらぬ半端者なら……  決して、俺のような真似はすまい。  何からも耳を塞ぎ、目を閉じて、それこそ山奥にでも隠遁するだろう。  ――おのれ。  もしも、それが、〈許されていたなら〉《・・・・・・・・》!  どんなにか良い事だろう!  どんなにか幸福だったろう!  それを――  この男は――  何も知らずに――  何も知らずに――! «雪車町一蔵ォォォォォッ!!» «ひゃ、ひゃ、ヒャァーーーッ!!»  雪車町の太刀を打ち弾き、肩口にまで斬りつける。  浅いが、確かに刃を届かせた。  元々騎体性能が違うのだ。筋力で勝る上に高度優勢も確保している。  片腕しか利かなかろうと、単純に力の勝負となれば負ける道理などない。 «へ、へ、へ!  半端者が、半端者呼ばわりされると一丁前に腹を立てるらしい» «剣筋がちっとはマシになってきたぜェ!  けっ、けぇっけけけけけけけッ!»  こいつ――  まだ囀るか!? 「黙らせてくれる……」 «御堂!»  制止のような金打声は聞き捨てて、太刀を右肩担ぎ、上段へと取り直す。  対して敵影は下段構。  ――陣取りを行わない腹だ。  〈我〉《ワレ》は下位を取り、〈彼〉《カレ》は上位を取ることになり、競合が無い。  一刀流がこの挙に出るのであれば、狙う処は知れている。  ――――一刀流、奥義が一              〝〈切落〉《キリオトシ》〟 «出来ぬと思うか!»  優った。  真っ向から打ち重なった刃と刃、俺の刃先が敵刃を除け、鎖骨の近辺を襲い甲高い響を鳴らす。  骨の一本は奪ったかもしれない。  それだけの手応え。 «けへェッ!?» «覚えたか――雪車町!»  一刀流〝切落〟は敵の一撃に対して全く対称の一撃をもって迎え、これを切り落とし、更に敵の肉体をも断つ技法。  双方が同等の企図をもって打ち合った場合、剣撃の威力と精密さで上回った側が勝利を収める。  今の一合は俺が優越した。  与えた傷は決して浅くない。  これで趨勢が変わった筈!  次の一合で決められるだろう。    ……この男とは、それまでだ。  殺しはしないが動けぬ程に打ち据えて、怪物の相手に向かわねばならない。  そうだ――こんな筋者など。本当は相手取っている場合ではないのだ。  無駄な時間を食わされた……!  返す返すも忌々しい! «――御堂!  敵騎、反転せず!» «何!?»  打ち合い、交差した雪車町はそのままに上空へ駆け上がり――上がり続けている。  騎航戦の定石に従うなら、兜角を巡らせて降下へと移り、次の一合に備えて速度を稼がねばならない。  逃げるつもりか。  いや――戦域を離脱するにしても、下方へ向かって速度を得るのが定法。  ならば高度優勢を奪取するための奇手――まさか。  このような方法で上位を取ったところで意味はない。時間が掛かり過ぎる。高度を得、反転、突撃に入ろうとした時には、全てを終えた敵を目前に迎えるだろう。  ……あるいは。  逃げの姿勢を見せれば、こちらはすぐに怪物の方へ向かうと踏んだか。  そうしてこちらが下降した隙を狙い、上空から襲う。  ――これは、有る。あの男ならばその程度の手管、造作なく用いるだろう。 (乗らぬ)  上昇する雪車町の騎影を追う。  間合を詰めるに労はいらない。重力に逆らい続ける敵騎はもはや大幅に速力を失っている。  それでいながら、尚も昇ってゆく。  あまつさえ、〈兜角〉《ピッチ》を更に引き上げて。  速力という空の戦いにあっては得難い代価を湯尽し、竜騎兵は高度を貪る。  際限なく。止め処なく。飽き足らず。  天頂へ。  届く筈もなき白の円宮を目掛け。  雪車町は何を思うのか。  追尾を受けてなお方針を翻さないのは、ただ諦めの悪さからか。  〈当方〉《こちら》とて速度はみるみる減殺されている。  だが勢力を充分に確保してのち上昇に転じた村正と、太刀打からそのまま上昇に移った竜騎兵との差は厳然。詰まってはいるものの、優劣は明確に有る。  打ち間に捕捉するのは時間の問題。  雪車町が迎撃に転じたとしても、態勢を整える前に斬り伏せられる。  王手を掛けられている事に、彼は気付いている筈だ。  〈然〉《さ》りながら翔天を止めない。  月の狂気に魅入られ、戦いを忘れたのか――  そんな事さえ思う。  戦慄すべきはその低速域制御力だった。  通常であれば〈失速〉《ストール》していてもおかしくない――いや失速しているべき危険域まで速度を落としながら、彼の見えない手綱は騎体をなお完璧に御している。  精強さでは人後に落ちない六波羅の正規兵であっても、この域では〈揚力〉《かぜ》を手放し、錐揉みして落ちてゆくほかに〈術〉《すべ》を持たないだろう。  百万騎を号す六波羅、その幾人がこの男に〈倣〉《なら》えるか。  九〇式竜騎兵甲の〈性能〉《スペック》とは到底思われない。  雪車町一蔵の〈性能〉《ちから》に他ならなかった。  後尾に迫る。  こちらの速力も既に危険域だった。わずかでも気を抜けばその刹那、俺は空から地上へ蹴り落とされるだろう。  間違ってもそんな無様は晒せない。  速度の差はここに至って零に近くなりつつあるも、しかしまだ確在。敵騎はより苛酷な騎航を成し遂げているというに、こちらが先に屈せようか。  あと一歩。  あと一歩で斬れる。  彼我二騎の描く軌道はもはや垂直上昇に近い。  このような騎航は何秒も保たない。  騎体の限度だ。  雪車町が――――  止まる。  遂に、速度を完全に失い。  〈倒れる〉《・・・》。  横倒しに――  落ちる―― «  ケ          ケ   ケケ   ケ        ケケ »  落ちて          〈いない〉《・・・》。  雪車町一蔵は、落ちたのではない。  上昇の極点で、〈方向翼〉《ラダー》を切ったのだ。  くるり、と。  魔術めいて鮮やかに、半瞬の間で騎体の上下が入れ替わる。  雪車町の兜角が、重力方向を――  〈俺を〉《・・》指す。  〈垂直反転〉《ヴァーチカル・リバース》。  上昇速度が無になる刹那の、落下重力の発生を掴み、利用して初めて成し得る所業。         «ケケ»        «カカカカ»  突如、俺は知った。  何の前触れもなく。何の根拠もなく。  ただ、天啓の閃きで、      〈湊斗景明〉《ミナトカゲアキ》の敵とは              〈雪車町一蔵〉《ソリマチイチゾウ》なのだ  時間が動く。  重力というちからが流れる。  今や雪車町には一片の劣勢もない。  姿勢は充分。  速度比は――逆転する。  何故ならば、純粋な重力が――垂直方向の重力が、雪車町に加勢する。  垂直方向の重力。  俺が今、真っ向から敵にしているもの。  寸毫の間に始まりそして終わった、完璧な逆転劇。  観客の心境で、既に益体もない知識を引き出す。  …………あれは。  一刀流の始祖・伊東一刀斎が、師である中条流鐘巻自斎から受け継いだ五つの秘法――  一刀流の最極意。  妙剣/絶妙剣/真剣/独妙剣……  そして。  この――――     «カァァァッカカカカカカカーーーーーッ!!»           〝〈金翅鳥王剣〉《インメルマン・ターン》〟  マックス・インメルマン中尉。  外暦一九一四年から一九一八年にわたって戦われた欧州戦争において、比類なき勇名を鳴り響かせた〈独逸〉《ドイツ》の誇る〈撃墜王〉《エース》の一人である。  その名に〝〈侯〉《フォン》〟の一語が無い事からも明らかな通り、彼は竜騎兵団に属してはいたものの、騎士階級の出身ではなかった。  〈真打劔冑〉《ブラッドクルス》の継承者ではなかったのである。  この時代の撃墜王としては異例と云わねばならない。  外暦一九〇〇年代初頭(国紀二五〇〇年代中盤)はまだ数打劔冑が開発されて間もない頃であり、現在に比べれば性能は著しく低いレベルに留まっていた。  彼が愛騎としたフォッカーE3とてもそうだ。  張線支持を採用した単翼騎――当時代の技術の粋が凝らされた騎体ではあったが、真打劔冑との性能差を埋めるものでは到底ない。  その頃、戦場に華を添えた各国の撃墜王――由緒正しい名門の騎士であり最高の劔冑を継承していた人々――と、一介の騎兵将校インメルマンとの間に、騎体性能の点で巨大な隔絶があったことは確実である。  しかも、彼の配属された北フランス戦線は敵に正規の騎士が多く、対して味方の騎士は大半が対露戦線に派遣されていたためほとんど皆無という、実に苛酷を極める状況下にあった。  味方は彼を含めて新弱の〈竜騎兵〉《ドラグーン》ばかり。  敵方は古強の〈騎士〉《クルセイダー》が居並ぶ。  ……武功を掲げるどころか、生き残るだけでも至難であったに違いない。  その死線にあってインメルマンを撃墜王たらしめたのは、少年期に出会った異国人との体験だった。  徳川時代の幕引き後、大和はやや閉鎖的であった前時代の反動のように西洋文化を多く取り入れ、何それとなく学んだが、軍事編制においてはプロイセン――ドイツに倣う所が非常に多かった。  プロイセン軍こそ欧州最精強と見る向きが強かったためである。  幾度となく軍事交流団が派遣され、貪欲に技術知識を求めた。  そうして、ドイツに渡った男の一人に……  小野派一刀流一六代宗家、〈笹木純蔵〉《ささきじゅんぞう》がいたのだ。  彼はふとした事から知り合ったインメルマン少年に、一刀流剣術を手解きし、その才の尋常ならざるを知るや、奥義の伝授まで行った。……軽々しいというか、気前が良いというか、いささか変人だったようである。  だが彼は帰国の後、国粋の文化を売ったとしてこの行為に批判を浴びると、こう応えて一蹴した。  ――学ぶのみで教えぬ者は、即ち知恵の盗人である。自分はドイツ軍に学び、返礼として少年に教えたのだ。  かくしてインメルマンは一刀流の秘奥を拝受したのだが、教えた笹木にして彼がその秘技を活用できるだろうとまでは考えていなかったに違いない。  一刀流五箇の秘伝は絶えず伝えられてきてこそいたものの、余りの難解さに使い得た者は始祖以来ついになく、技術ではなく単なる知識になり果てていた。  免許皆伝を示す一種の形式に過ぎなかったのである。  だが、北仏戦線の極限状況にあって――  敵の剛強な騎士に追われたマックス・インメルマンは、差し迫る死に抗う渦中で遂に、秘剣の一つを蘇生させるに至ったのだ。  金翅鳥王剣。  垂直騎航からの反転落下攻撃。  自己より圧倒的に優る敵を討つ、起死回生の剣。  以後、インメルマンは常にこの技と共にあり、幾多の騎士を空から墜として敵味方を瞠目させた。  彼と彼の技は同一視され、その名は欧州を席巻し、悪魔的な恐怖と戦神的な畏怖の的となった。  一九一六年に戦死するまで、生涯の撃墜数は一七騎。  全てがフランスの名だたる騎士である。  現在なおその名は語り継がれ、知らぬ者とていない。  最強、無敵、魔剣、神技――彼の死と共に消え失せた、〈戦場〉《そら》の〈幻影〉《まぼろし》を示すものとして、諸国の軍人そして歴史書はその名をいつまでも叫び続ける。 〝インメルマン〈の反転〉《・ターン》〟と。 «みど……っ……いる!?  きっ……ぃを………ない………»  村正の声が遠い。  視界は〈昏〉《くら》い――〈朱〉《あか》い。  どれほどの損傷を受けたのか。  他人事のようにはたらく意識が、現状から類推した。  瀕死。  生きているのが不思議だ。  いや、死につつあるのかもしれないが。  ……〈金翅鳥王剣〉《インメルマン・ターン》。  まさか、あんな亡霊が墓場から這い出してくるとは思わなかった。  インメルマンの後継者は、いないとされている。  彼の剣は彼一人の〈術技〉《アート》に終わったのだ。  〈失速を乗りこなす騎体制御力〉《・・・・・・・・・・・・・》。  そんな代物を、彼以降の誰もが持ち合わせなかったのは、痛恨というより〈自然〉《じねん》というべきだろう。  だというのに。  この男が―― «へ、へ、へ……  ヘェひゃヒャヒャヒャヒャヒャ!!»  雪車町一蔵。  この男がいた、とは。  〈眩〉《くら》む。  俺はまだ、〈騎航して〉《とんで》いるのか。  まだ、一瞬の時間の内なのか……  それとも、実は落ちているのを、自覚できていないだけなのか……  どちらとも、判然としない。  ……ああ。  ひとつわかった。  来る。  来ている。  あの男が、こちらへ―― «み……っ…!  か…避……っ!»  世界が激しく揺れ動く。  それもまた、己の事として感じられない。  痛みがないからだろう。  深々と、肉体の何処かが切り裂かれている筈なのに、神経からの信号がない。  もう、麻痺してしまっているのか。  信号を受け取るべき脳が破損したか……  ……グレイアウト。  空の戦士に死を告げる生理現象だ。  これが発生するということは、熱量の欠乏が致命的なレベルに達しつつあるという事。  今、俺の肉体からは血液と共に熱が根こそぎ排出されていっているのだろう。  視野は朧だが、聴覚はまだ鮮明だ。  声が届く。 «何度でも言ってやるぜ……  てめェはくだらねえ半端野郎だ»  …………。 «なんで、かァ?  てめェは、〈嫌々〉《・・》、やってるじゃあねぇか»  …………。 «あの村で子供を殺した時も……  この間、サーキット場の騒動の後で殺した時もそうだ……» «てめぇは、嫌だ、嫌だって体で言いながら殺してやがった……» «なァ!?» 「が……ぐ……」 «ほんとはこんなことやりたくねえんだって……本音が透けて見えてたぜぇ» «け、けっ!  嫌ならやらなきゃいいだろうがよ……» «〈意地悪爺さん〉《・・・・・・》を殺さなけりゃ、〈正直爺さん〉《・・・・・》も殺さなくて済むんだろぅ?  何もしなきゃいいんだよ、てめえは!»  …………。 «貴様は……知らない……» «あァ……» «何も知らないだけだ» «俺が……やらねば、ならないのだ。  嫌だからやらぬ、で……済む話では、ない…………» «俺が……やらねば……» «……へ» «じゃあどんな話だってんだァ。  てめぇ様が〈そいつ〉《・・・》をやってくださらないと、この世が滅びてしまいますってか» «いいじゃねえか。  てめぇにしか救えねえ、でもてめぇはそれをやりたくねえ……ってんならさァ» «見捨てちまえよ。  笑いながら、なァ» «……そ……»  そのような、事は。 «どっちだっていいんだよ。  救おうと、見捨てようと» «どっちだっていいけどよォ……  てめぇで納得してからやれよ、なァ?»  ……納得。  俺がやらねば……ならない。  銀星号も……寄生体も……〈村正〉《おれ》の力で、止める以外にないのだから……。  だから……殺す。  俺が、殺す。 «納得は……している» «してねえよ。  してたらなんで、泣き喚いた» «……泣いてなどいない»  流す涙などない。  ……あろう筈がない。 «泣いてたさァ。みっともなくな。  ……けへっ!»  兜の裏で本当に唾を吐いたかのような音が、信号化されて伝わってきた。 «人間みんな、やりてぇ事やって生きてらァ。  そりゃそうだ。どんな奴だって、〈自分の事〉《・・・・》〈しかわからねえ〉《・・・・・・・》んだからな» «他人の事なんてよくわからねえ。  だから自分のやりてえようにやる……» «てめぇで考えて、  てめぇで納得した事をやる。  みんなそうやって、〈真面目に〉《・・・・》生きてらァ» «お陰で世の中、面白ぇ……。  今みたく生き難い世情だと、みんな余計に真剣だしなァ» «付き合ってみても、ぶつかってみても……みんな生きることに半端ってもんがねえから、いい。  どいつもこいつも楽しい奴らだァ……» «てめぇだけだよ» «自分で納得もしてねぇ事をやってやがる、〈おちゃらけた〉《・・・・・・》野郎はてめぇだけだ。  間抜けな生き方しやがって……» «興醒めするんだよ!  てめェみてえのがいるとなァ!!» «それで、てめぇが一人でどっかに引っ込んでるってんなら、まあいいさぁ。  てめぇの勝手だよ» «……だがてめぇは殺しやがる……» «嫌々ながら殺しやがる» «あの餓鬼共を……  あの姉妹を、嫌々ながら殺しやがった!!» 「……ッ!!」 «ふざっけんじゃねェェェェェェェェ!!» «〈嫌々ながら〉《・・・・・》で、やった奴自身が納得もしてねえような理由で、殺されちまった方の身になりやがれ!!  あァ――» «馬鹿馬鹿しくてしょうがねえだろうがぁ!!»  ……遠い。  音の世界さえも遠く離れ始めた。  〈劔冑〉《むらまさ》の声は既に届いていない。  だが、対敵の言葉はどうしてか、未だ聞こえている。 «……てめぇは何者だ。  英雄か? 悪鬼か? 凡人か?» «英雄じゃねえなァ……。  英雄だったら、殺す時は堂々と殺すさ……必要な犠牲だって割り切って、真っ向から、相手の目を見て斬り殺すだろうぜ» «てめぇはとてもそんな器じゃねえ……»  …………ああ。  それは、そうだ。  俺は英雄などでは、ない。  俺は―― «じゃあ、悪鬼か»  ――悪鬼。  そう。  俺は、悪鬼。 «違うなァ……?  悪鬼だったら嫌そうに殺したりしねえよ。嬉しそうに、笑って殺すさ……»  …………違う。  それは、違う。  そんな事は、関係ない。  〈悪鬼たる〉《・・・・》とは、そんな事ではない。 «じゃあ、なんだ……  凡人か……?» «そうだよ»  凡人……。  ふつうの、まっとうな、人間。 «てめぇはまともな人間だよ。  親からちゃんとした教育受けて、ちゃんとした道徳とか身に付けたんだろ» «だから、殺すのがそんなに嫌なんだろうが。  違うかよ»  …………。 «英雄でも悪鬼でもねぇし、そんなのに関わり合って生きる人間でもねえ。  普通に市井で暮らしていける器だ……» «てめぇもそれが一番いいんだろう?»  …………。 «そうしてりゃ良かったんだよ。  糞が、いらねぇ無理しやがって……» «汗水垂らして働いて、家族を養って日々を過ごす……  てめぇがそうして、何がいけねえ?» «せっかく〈正当〉《まっとう》に育って〈正常〉《まとも》な人間になったんだからよ……»              違う  血の巡りを感じた。  曇っていた〈視覚〉《レンズ》が一拭き分だけ、鮮明さを取り戻す。  ――それは違う。  それは違うぞ、雪車町一蔵。  力が戻る。  何かが疲弊した心臓に代わって、俺の体内に活力を送り込んでいる。  何か―― «まともな人間の分際で……  殺し殺されの世界に手を出しやがった» «それがてめぇの間違いだァ……»              違う。  普通の人間。  まともな人間。  まっとうな人間。  俺が、  ――〈それ〉《・・》だと? (……は)  酷い諧謔だ。  洒落にしても捻りが利き過ぎている。 (阿呆……が)  雪車町一蔵。  この男は一体、俺の何を見たのか。  まっとうな親を得た。  まっとうな教育を受けた。    ――そこまでは正しい。  だが結論が酷い。  単純計算に過ぎる。  正しい環境からは、正しい人間が生まれる――  もし宇宙にそんな法則があったなら、この世はどれほどわかりやすく過ごしやすいであろうか。  とんだ妄想だ。  良い親を得て――  良い教えを受けて――  挙句に、〈その子がその親を殺したなら〉《・・・・・・・・・・・・・》。  それはまともに育ったと言えるだろうか? (は、は、ははは)  馬鹿げている!  馬鹿げている!  馬鹿馬鹿しいよ、雪車町一蔵!!  視界のなか、月を背にした影が揺らめく。  天へ昇る。  その光景が意味するものは明白だった。  ――魔剣インメルマンターン。 «消えろォ……  消えちまえ» «てめぇが〈真面目に〉《・・・・》やってりゃあ……  あの餓鬼共がわけもわかんねぇで殺される事もなくて済んだんだ» «てめぇの理由とやらは聞かねえよ。だが、言っておいてやる。  てめぇは誰も救っちゃいねえぜ……» «殺しただけだ……  てめぇの勝手でなァ……»  然り。  まさに然り。  理由など関係ない。  あの村の蝦夷の姉妹は――あるいはあの彼女は――あるいはあの彼は――俺が殺した。  俺が殺したのだ。  俺の決断によって。  俺の〈意思〉《・・》を満たすためだけに。  ……わかっているじゃないか、雪車町一蔵。  なのに何故、もう一歩がわからないのだ。  〈それこそが悪鬼の所業だと〉《・・・・・・・・・・・・》。  喜ぼうが悲しもうが関係ない。  己のために人を殺す者は、即ち悪鬼だ。  いや――  理想のためであろうと関わりはない。  英雄と呼ばれる殺戮者もまた悪鬼だ。  人を殺す者は皆、悪鬼だ。 (そうだ)  悪鬼たるか。  悪鬼たらぬか。  両者を区分けする条件はただ一項。  ――人の命を踏みにじる事ができるか否か。  〈唯〉《ただ》それだけ。  唯それだけだ! «消えちまえ……  半端野郎がァァァァァァ!!»  雪車町一蔵。  貴様が俺を半端者と見るなら好きにしろ。  俺が嫌々ながらに殺していると、  殺す俺の眼に涙を見たと、  そう云いたくば云うがいい。  まともな人間と、云わば云え。  だが俺は、    俺は、    俺は、  俺の邪悪を信じる!! «……!?»  それは確かに聞こえた。  降り〈来〉《きた》る敵騎からの、驚愕の気息。  この期に及んで俺が立ち向かうとは、まるで考えていなかったに違いない。  俺自身にしてからが、今どうやって動いているのか全くわからない。  だが動いている。  飛翔している。  一直線に降下する、雪車町一蔵の騎影を仰いで。  直上へ。  迎撃すべきは堕天の魔剣、〈金翅鳥王剣〉《インメルマンターン》。  必殺無比なる死の極技。  落下と登上――  エネルギー比における圧倒的不利を示す図式。  何をもって迎え撃つ。  何をもって――  予測を裏切る事態に接して尚、雪車町の剣に乱れはなかった。  勝利の確信は揺らぎもせぬのだろう。  確かにあれは信ずるに値する技だ。  完成に至った討騎の術、悪夢的な幻想に等しくさえある。  拮抗するならば――  同じ、〈幻想〉《まぼろし》に依るしかない。             ――兜割  それは、名高い夢物語。  生身の人間が、一振りの太刀をもって、鋼鉄の鎧兜を両断するという……  決して起こり得ぬ幻想。  現実から乖離せし妄想。  いかな達人であれ、いかな名刀であれ、兜の頭頂をほんの数寸、斬り割るまでが関の山。通常、兜割とはそれを指して云う。  一刀両断などは夢のまた夢の夢。  もし――  仮に、そんな夢が実現するならば。  その一刀は物理法則を超えている。  ある種の意思のちから、鍛えられ鍛え抜かれそして〈狂った〉《・・・》技術によって成せる業。  もし、それが在るのならば――  在るのならば――  どれほどに強き対手であれ。  どれほどに硬き防壁であれ。  どれほどに重き劣勢であれ。  その一刀を阻むには不足であろう。  その一刀は、何物をも断たずにおかぬであろう――  〈それが〉《・・・》、〈在るのならば〉《・・・・・・》!             「――ガ」            «死ィねェ――»      「ゲェァァァァアアアアアアアアアアア!!」 «……なっ……» «てめぇ……糞……» «てめェはァァァァァァァァッ!!» 「………………」 «……御堂。  ……………御堂!» 「…………」 「……ああ……」 «……今……  貴方、何を……したの?» 「わからん」 «……» 「……わからん……  忘れた……」 «……御堂» 「……それはいい。  島へ戻るぞ、村正」 「怪物を放置し過ぎた。急がねばならぬ。  騎体状況は如何」 «……どうにか動けるというところ。  どうにか、ね» «貴方も私も、とっくに限界よ……。  いつ墜ちても自然の〈理〉《ことわり》、〈金神〉《こんじん》さまに文句を言えた筋合いじゃない» 「ならば即刻に済ませよう。  行くぞ。村正」 «……ええ» 「…………」 〝……この死ぬような間の山節を、死ぬような心地で聞いていたものが、五人づれの客と、それを取巻くここの一座のほかに、まだ一人はあったのであります。〟 〝中庭から向うへ張り出した中二階の一間が、〈間毎〉《まごと》間毎の明るいのと違って、いやに陰気で薄暗い。それもそのはず、こには病気に悩む女、間夫狂いをする女、〟 〝それらを保養と監禁と両方の意味に使用されるところですから、ここで血を吐いて死んだ女があるとか、幽霊が出るとか、そんな噂のしょっちゅう絶えたことのない一間であります。〟 〝間の山節が始まる前に、この一間で墨をすり流して、巻紙をもうかなり長く使って、文を〈認〉《したた》めていた女。〟 〝古市の遊女は、勝山髷に〈裲襠〉《しかけ》というような派手なことをしなかった、素人風の地味な扮装でいたから、女によっては、それのうつりが非常によく、〟 〝白ゆもじの年増に、年下の男が命を打込むまでに恋をしたというような話も往々あることでした。〟 〝ここにいま文を書いている女も、病に悩む女でありましたが、素人風がこうしているとまでに取れないほど、それほど女の人柄をよく見せるのでありました。〟 「…………」 〝朱塗りの角行燈の下で、筆を走らせては、また引止め、そうして時々は泣いている。そこへ前の、〟       〝夕べあしたの鐘の声        〈寂滅為楽〉《じゃくめついらく》と響けども        聞いて驚く人もなし〟 〝書きさしていた筆をハラリと落して、じっと耳を澄ましていると、お玉の弾きなす合の手が綾になって流れ散る。〟       〝花は散りても春は咲く        鳥は古巣へ帰れども        行きて帰らぬ死出の旅〟 「……ふふっ……」 「夕べあしたの鐘の声……  寂滅為楽と響けども……  聞いて驚く人もなし……」 「……夕べあしたの鐘の声……」 「……あらあら、どうしましょう」 「〈間〉《あい》の〈山節〉《やまぶし》が聞こえてきてしまいました。  いっそ死んでしまおうかしら♪」        「……そうは参りませぬ」 「侘しい年金暮らしはまだまだ御免蒙りたく。  お嬢さまには、ご健在でいて頂かなくては困りまする」    「鋼の人形は裸体で、肉色で、化粧されている」  ――――!?  その刹那。  小癪な敵を追い詰め、遂に仕留める筈であった彼は、この日二度目の驚愕のため意図を挫かれなくてはならなかった。  全身を襲う失調感。  身体から何かが〈搾り取られてゆく〉《・・・・・・・・》ような。  ――何が起こった!?  俺は、何をされている!? 「…………」 「ばあや?  〈それ〉《・・》、捨ててから出てきてくださいましね」 「心臓に悪いんですもの」 「…………」 「お待たせいたしました」 「御苦労さま。  お茶をくださる?」 「は」 「どうぞ、お嬢さま」 「ありがとう」 「ふゥ」 「足のお怪我はいかがでございますか」 「ちょっと動かせませんが、大丈夫です。  骨や筋はやられていませんから」 「それはようございました……。  失礼いたします」 「……ばあや?  手当てなら後でも良くてよ」 「まだ終わっていませんし」 「いえ、どうやら〈終幕〉《クローズ》でございます。  遅れに遅れた騎兵隊がようやっといらしてくださったようで」 「あら。  残念、おいしいところだけ持っていかれてしまいましたね」 「それも〈恋人〉《ヒロイン》の役回りでございます。  我々は退避しておくことにいたしましょう」 「あるいは〈追加〉《アンコール》があるかもしれませぬ。  遺憾ながら今の状態で巻き込まれては足手まといになるばかり」 「それはそれでヒロインチックですけれど。  そうね。後は騎士様にお任せしましょうか」 「はい。  騎士殿に……」 「……」 「……」 「〈聞いてた〉《・・・・》?」 「距離がありましたので、断片的にですが。  しかし、要点は確と」 「こんなこともあろうかと、〈端末〉《・・》を忍ばせておいて正解でございましたな。  雪車町どのには感謝せねばなりません」 「ええ。  お陰で、だいぶ見えてきました……」 「〈彼がどうして死んでしまったのか〉《・・・・・・・・・・・・・・・》。  ねぇ? ばあや」 「……は」 「あっ……」  幾度目か。幾十度目か。  殺傷力に満ちる銃弾を受け止めた赤い甲鉄は、遂に〈ほどけた〉《・・・・》。  鋼糸に戻り、瞬く間に錆び、崩れて。  地面に散る。 「……そっか。  御苦労さん」  随分と助けてもらった。  感謝を込めて、一条は呟く。  そして見上げる。  次こそは己を殺すであろう敵を。  まさしく――  物の数ならぬ小敵に溜め込まされた憤懣を、すべてぶち撒ける意思に満ちて、砲口が狙点を定める。  ここまでか。  一条は思った。  悔いはない。  悔しさはある――願わくばもっと戦いたかった。  〈あの人〉《・・・》と共に。  しかしその願いは、一度だけだが叶えられたのだ。  何も為し得ない己に悶々として長い生涯を過ごすのに比べ、短い闘争の末に果てるこの今は、間違いなく幸福に違いないと。  綾弥一条はそう思った。  死を受容し――  そして彼女は拳を握る。  最後まで戦うために。 「……え?」 「おい」  去っていく。  巨兵が――彼女を置き捨てて。  殺すまでもないと、情けを掛けた……いや、そんな様子ではない。  〈慌てている〉《・・・・・》。  甲鉄を軋ませながら、急速に回頭。  そちらへと向かう。  〈そちら〉《・・・》―― 「……あっ」  一条は理解した。  何が起きたのかを知った。  つまり――  自分はまた救われたのだ。  あの人に。 (…………) (また……助けられちゃった) (死んでたはずの命を、助けてもらったってことは……  この命はもう、あの人のものだってことだよ、な……) (うん。  しかも二度だ) (この命はあの人のために使う) (あの人の戦いのために使う。  沢山の人を救う、戦いのために使う) (あの人に救ってもらった命で……  あたしも誰かを救う) (……うん……) 「――って。  呆けてる場合じゃねぇ!」  まだ、終わっていない。  戦いは続いている。  この命で、戦うと誓ったのなら――  今すぐにでもそうしなくては。 「よし」  戦響の方角――島の中央方向だ――を見極めて。  綾弥一条は駆け出した。  戦うために!  そして辿り着く。  ――海岸へ。  完全に逆方向の。  目の前には、島へ来る際の目印にした灯台が。 「なんでだーーー!?」  彼女は天性の方向音痴だった。 «敵騎、捕捉!» 「応!」  馳せ参ず。  余りにも遅きに失し、あるいは、間に合わなかったのではないか――という疑念さえ〈過〉《よ》ぎるも。  今は迷いを抱くべからず。  時に残余があるを信じ、一瞬一毫を惜しんで駆ける。  敵の巨躯は正面に有り。  地表にあって今は不動。  直前、何事があったのか、かの怪鬼は騎航を乱して不時着している。  いま漸う、動き出そうとする気配がある。  何処からも攻撃を受けたようには見えなかったが。  ――そんな思索も後で良し。  ひた進む。  劔冑の探査機能か、あるいは仕手の直感か、  察したらしい巨大な武者は予想以上に素早い動きで、こちらへ主攻正面を転換する。  砲門群が向く――  火を噴き放つ。  委細構わず突き進む。  構うだけの余力もない。  鋼の粒が甲鉄を削り、続く粒が更に削る。  卓抜した射撃技量の成し遂げる集中弾が鉄壁を破り脆弱な肉に到達するまで、あと何秒が要るのであろう。  そんな危惧が刹那ひらめき、  そのまま忘れる。  今は行け。  ただ前へ進め。  記憶したその一点。  偉容を崩し得る唯一の急所。  仕手の搭乗位置。  其処を目掛け。  進む。 «――御堂!» 「参る」 «吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し……» «〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟» 「湊斗さん!  ……湊斗さんっ!」 「おい、大鳥のお嬢!  聞こえねぇのか!?」 「なんだよこれ……  まさか妨害電波ってやつか!?」 「くそぉ……  届けよ!」 「〈来てる〉《・・・》!  〈来やがったんだ〉《・・・・・・・》!」  鉄巨兵は沈黙していた。  一文字形の深い亀裂を晒し、月光の下に輝く屑鉄の山となり果てている。  自由の利かぬ足を酷使して山によじ登り、亀裂からこぼれたような格好で項垂れる六波羅制式の竜騎兵を引き摺り出す。  巨兵の乗り手であった男は、失神していた。  それは無造作に地面へ放り捨てておいて、俺は亀裂の中を覗き込んだ。  幾重にも交差した橋梁の向こう、檻に閉じ込められて――〈蹲〉《うずくま》る〈彼ら〉《・・》の姿を視認する。  誰一人、身動きしない。  身を寄せ合い、固まったまま。  胸骨に沿って、体内を氷塊が滑り落ちた。  声が出ない――彼らの名を呼び、生死を確認するという単純な作業が、恐怖によって阻止されている。 「……村正。  確認しろ」 「熱源探査。  彼らの……状態は」 «…………» «……無事よ。  衰弱が酷いけれど……生きている。すぐに治療を受けさせれば助かるでしょう» «御堂!» 「済まん」  忘却していた疲労、苦痛が〈一刻〉《いちどき》に押し寄せた。  脳が揺れる。目が眩む。  無様な転落の衝撃はそこへ更に拍車をかけた。  どうにかこうにか、振り払って立ち上がる。 «……本当に限界ね。  今の私達なら、この間の〈競技用劔冑〉《れーさーくるす》とやらと殴り合いしても負けられるかも» 「お前がそんな弱音を吐くなら余程だな。  まだ、研究所の方が片付いていないが……」 «まさか?» 「今回はここまでとしておく。  本件は銀星号事件と無関係である事がほぼ確定した。である以上、現状で解決を強行すべき必然性は欠く」 「といってこの島を放置して良いということにはならないが。  今は、彼ら……芳養一家の保護が優先だ」 「彼らの身柄を確保し、仲間と合流、対岸へ帰還する」 «諒解。  驚かさないで»  改めて、鉄屑によじ登ろうと手を掛ける。  あの裂傷から子供達を救助できればいいのだが……難しいようなら手立てを考えなくてはならない。  あるいは俺はこの場を確保して待ち、救援を呼びにやらせるという手も――  ……!? «な……何よ!  今度は……» «まだ何かあるっていうの!?» 「…………そのようだ」  疲れ切った頭が銃弾に鞭打たれて、僅かながら活性化する。    ……そうだ。今回の一件は〈罠〉《・》。  俺の存在を厭うた〈彼ら〉《・・》による罠。  何事もなく終わってくれる筈が、ない。  彼らが今回画策した、〈敵〉《・》と〈敵〉《・》の潰し合いはほぼ理想的な結末を迎えた。六波羅の怪物は倒され、俺は半死半生の態である。  ならば、後は――生き残りに止めを刺すばかり。  上空をゆっくりと旋回する騎影、三。  低空から〈地上〉《こちら》を〈睨〉《ね》め下ろす騎影、同じく三。  制空戦用〈打撃竜騎兵〉《ストライカー》/ST-〇五ワーウルフ。  制陸戦用〈重装竜騎兵〉《グラップラー》/GR-〇三ガルム。  ……国際連盟軍の制式竜騎兵!  空に竜騎兵。地に戦車と機械化歩兵。  ……完全包囲下に置かれたというわけだ。  先頭の戦車の装甲上には、屹立する人影が見える。  軍服を内から押し上げるほど筋肉の発達した長身。  だが〈貌〉《かお》は白く端麗で、体と不釣合いな繊細さがある。  金髪碧眼、見るからに純血の白色人種。携える黄金造りの大剣とも相俟って、半神的なまでの英姿を完成させている。  彼が指揮官であることは誤解のしようもなかった。  夜目を凝らして階級章を確認するまでもなく。――少佐か。その階級は大隊長、あるいは軍内の一部局で要職を務めるクラスの将校を意味している。  感慨というほどのものは視線に込めず、彼は俺を見下ろしてきた。 「……貴官は〈何方〉《どなた》か」 「礼節として応えよう、蛮族の戦士。  断っておくが答礼は要らない」 「私はジョージ・ガーゲット少佐である。  GHQ資料管理課に所属する」  答礼は無用とのことであったので、俺は軽く頷いたのみで名乗りは避けた。  先方がこちらの個人情報に全く無関心そうな事でもある。  疑問点のみを口にした。 「……資料管理課」 「そうだ。  私は資料を管理しに来たのだよ」 「その作業には、〈資料〉《・・》の〈廃棄〉《・・》も含まれる」 「……」  ――そういう事か。  資料管理課という、一聞する限り左遷用部局としか思えないそれの実質を、俺は概ね察した。 「つまりは貴官が雪車町らを使い、大和支配の為の謀略を巡らしていた人物。  そう解釈して誤りないだろうか。特殊工作班の班長殿」 「答える必要を認めない」  傲然と言い捨てる将校。  その即答こそが完全な肯定を意味するものに他ならなかった。 「では事実と仮定して問いを重ねさせて頂く。  戦争に善悪を問う不毛は承知の上。しかし政治には良非があろうと存ずる」 「貴軍が大和を制圧するは軍略の正道と認められても、卑劣な策謀によって民心を得ようとするは恥ずべき非道とのみ思われまいか。  この点、如何に」 「答える必要を認めない」  臆面もなく、ガーゲット少佐は繰り返した。 「……だが、一般的見解として述べるなら。  正道と云い非道と云おうと、それは絶対的な基準を持つものではなく、〈状況次第〉《ケースバイケース》」 「その策謀とやらを非道ととるか否かは見解の相違があるだろう」 「最低限の人倫さえ、絶対的な基準ではない、と?」 「いいや?」  ――一種の驚嘆を禁じ得なかったことに。  少佐はあくまで平然とかぶりを振り、そして続けた。 「人たる道――天に〈坐〉《ま》す我らが父の教えは、絶対的に尊重すべきものである。  しかしそれは、〈君ら〉《・・》と何の関係もないことではないか?」 「言葉を発する珍しい猿よ……」 「…………」  良くわかった。  良く理解した。  こういう人物なのだ。  それが彼の正義なのだ。  全世界を制覇したと言っても良いアングロサクソン族の偉業を、単に政戦略や技術力の問題とはとらえず、〈神に選ばれた特別な民族ゆえの運命〉《マニフェスト・ディスティニー》であると信ずる人。  決して珍しくはなく、また難解な信仰でもない。  だが彼と大和人の価値観を隣接させるには、互いに五百光年ほど歩み寄る必要があるだろう。  残念ながら、それだけのゆとりはなかった。 「……〈当方〉《こちら》も礼節として、確認をさせて頂く」 「貴官には自分に対する戦闘行動を回避する意思は全く、一切合財、完膚なく皆無か。  ジョージ・ガーゲット少佐」 「戦闘などは行わない。  言った筈だ。我々は資料の管理を行う」 「ムラマサ。君と……  猿の身で何故か我々の軍服を纏う、滑稽で不愉快な道化と」  …………大鳥大尉のことか。  成程、この少佐の下では彼女は歓迎されるまい。  何も知らされずに俺への釣針として用いられた後、釣魚ごと始末されるのが、今回の彼女の役割だったというわけだ。  ……俺に言わせれば、随分と甘く見た話だが。  たとえ彼らがここで俺の殲滅に成功したとしても、彼女を捕殺するには至らないだろう。  彼女はGHQの自分に対する愛情を盲信してなどいない。事かくあるも予期していた。  別段動じる事もなく、応変して脱出を果たすに違いない。 「この、両資料を……  我々は廃棄する。それだけだ」 「ムラマサ。  君という資料を、我々は廃棄するだけだ」 「……」  体調は、確認する気も起こらない。  戦う以前に、一歩を踏み出す事が可能かどうか。  怪物の奇砲を浴びた左側の手足は付いているだけといった様子。右の手足とて大差はない。  身体各所に、無傷の箇所はほぼ絶無。 「村正……」 «一応訊くだけ訊くけど、土下座して命乞いをするって選択は無いのね?» 「それが通るなら幸いだったが。  彼は人種差別主義者だ。そもそもこちらを交渉に値する相手と〈看做〉《みな》していない」  ……中世大和人には理解が難しいかもしれない。  そうも思ったが、杞憂に過ぎなかった。  村正のいらえは即答で、明確だった。 «〈人間〉《あなた》達の一部が、〈蝦夷〉《わたし》たちに対して持っているような感覚で、あいつは今こっちを見ているってことね。  なら、話すだけ無駄でしょう» «避け合うか、殺し合うか。  道は二つに一つよ» 「……そうか」  経験者の言葉だった。  頷く以外にない。元より、反対意見は持たなかったが。 「突破する。  行けるか、村正」 «裸で真冬の富士に登れるものなら、きっと» 「そうか。  その程度か」 «その程度よ。  気楽に行きましょう、御堂!»  決して果たすべき〈命〉《めい》がある。  ――〈村正〉《おれたち》には。  ここで斃れる事は許されなかった。  悲愴な最期の予感に酔う間を惜しみ、見苦しく生き延びる道を探らねばならない。  包囲隊形に視線を〈遣〉《や》る。  ……水も洩らさぬ見事な布陣。蟻の這い出る隙間もない。  特に空からの脱出は絶望的だ。  既に制空されている以上、離陸の瞬間に撃ち落とされずに済む可能性は何をどう模索しても見出しかねる。  活路は地上にしかない。  戦車と歩兵が俺を足止めし、その隙を低高度戦闘に特化された〈重装竜騎兵〉《グラップラー》が頭上から襲う――敵方は当然、そう手を踏んで来るだろう。それを頓挫させ得るか。  交戦しつつ戦場を移動、機を計って離脱、この場へ戻り芳養少年一家の身柄を確保、そして仲間と合流し、脱出を果たす。  こちらが踏むべき手順はそのようになる。  ……真冬に裸の富士登頂より、もういくらか難しいようにも思えた。  俺の挙措とその意味に気付いたのだろう。  金髪の偉丈夫が動いた。  ――両手持ちの大剣を、十字形に振るい。  高らかに吠える。 「〈神聖にして侵すべからず〉《セイクロサンクト》!」 «劔冑!» 「やはりか……」  ただの剣ではあるまいと思っていたが。  黄金の鞘が砕けて舞い、甲鉄と化して将校を覆った。  劔冑である。おそらくは〈真打〉《ブラッド》の。  誓言からして銘は竜殺しの剣〝〈聖性守護〉《アスカロン》〟――その〈写し〉《コピー》か。まさか〈真物〉《オリジナル》ということはないだろう。  甲鉄の質感を見るに英国王室製、第七代か第八代。  まず、業物と呼ぶべき出来と思えた。  豪奢な劔冑で身をよろい、将校が前へ進み出る。  配下に指示を下す様子はない。  ……まさか、一騎打ちをしようというのか?    その俺の内心を、聞きつけたわけでもなかろうが。  彼が淡々と呟く。 「害虫駆除は危険を伴い……  しかも不毛な作業だ」 「このような事に、優秀なる我が兵士、我が同胞の命を費やしたくはない。  彼らの力は、ふさわしい戦いにのみ用いられるべきなのだ」  全くの本気の声で、GHQ少佐はそんな事を言った。  周りを囲む兵の間に声なきどよめきが走る。  感激しているようだ。  ……どうやらこれは、〈いい話〉《・・・》らしい。 «……拍手でもする?» 「やめておこう」  太刀を納めねばならないのが面倒だ。  ガーゲット少佐は、部下の反応に気を払う素振りも見せない。  堂々たる足取りで進み――止まる。  俺と立ち合うつもりであれば、まだ距離は遠い。 「……?」 「で、あるならばだ。  最も望ましい結末は、同胞の手を煩わせず、害虫が勝手に死んでくれる事」 「害虫同士で食い合ってくれる事だ。  そうではないかね?」  何故か俺に向かって、少佐は訊いた。  GHQの意図は既に承知している。  江ノ島の罠はその意図に基づいて仕組まれたもの。そしてそれは成功し、今のこの結果がある。  ……だから何だ。何を今更。  事実を確かめ、勝ち誇りたいとでも言うのだろうか。    そうではなかった。 「だから。  〈最後まで〉《・・・・》、食い合ってくれねば困るのだよ」 「――!!」  彼の真意を直感する。  そして即座、飛び出そうとする。  だが両足は俺の意思を裏切った。  傷つき疲れ切った足は、砂利の上で無意味に滑っただけで、一歩も進みはしなかった。  俺の無様をあげつらうかのような華麗さで、GHQの将校が飛躍する。  こちらへ向かって――では、ない。  〈怪物の上へ〉《・・・・・》! 「……ガーゲット少佐ッッ!!」 「このがらくたは良く出来ている」  巨鉄騎の頭部に降り立って、〈騎士〉《クルセイダー》は冷然と呟いた。 「素晴らしい。全く素晴らしい。  君ら劣等の手になる創造物の内、これこそは最上の一品に違いない」 「〈屑を食い潰しながら屑を駆逐する〉《・・・・・・・・・・・・・・・》。  これほど効率の良い清掃道具が他にあろうか?」 「そこから降りろ、ガーゲット少佐!  貴官は――騎士ではないのか!!」 「無論の事。  私は騎士だ」  あくまで――  あくまで、表情を波立たせることなく。  アングロサクソン族の誇りある武人。  ジョージ・ガーゲット少佐は、言い切った。 「この光栄ある〈聖骸〉《クルス》にかけて私は戦う。  神と、祖国と、同胞のために」 「黄色い猿のためではない。  ……それが、そんなにも不思議か?」 「……ッ」 「庇護を求めるなら、騎士ではなく動物愛護団体をあたるがいい。  さらばだムラマサ。君は猛々しく、狡猾で、見るも不快な獣であった」 「やめろ――!」  俺の叫びはただ、虚しかった。  騎士の姿が巨騎の中へ沈む。  ――死せる怪物が蘇る。  轟吼。  鋼の巨躯が起き上がり、凄まじい軋みが夜を揺らす。  そこへ後方から接近した大型車両が、ほとんど一瞬にして簡単な作業を終えた。  ……〈電源ケーブル〉《・・・・・・》の交換だ。  今や巨獣は命と牙を共に取り戻している。  完全な姿で再起する。 «――――»  漂白された思念が、全く同じことになっている俺の意識野に重なる。  何をすべきかわからない。何を思うべきかすらも。  ――顎が開く。  どうすればいい。  どうすれば、いい。  戦うのだ。  ……そう。戦うのだ。  だが。  もう一度、この怪物と戦えば。  彼らは、  もはや、  もはや―― 「――――」  思考は、ただ白いまま。  何の知恵も産み落とさない。  唸りを上げる魔砲――  俺のための葬送曲を、立ち尽くして聴く。  何もできず。  案山子のように、棒立ちで。  俺は無意味な最期を待つ。  凍った心は、その無意味さを悲しむ事さえできない。 「――あ――」 「……あれは」 「――装甲を!  お嬢さま、お早く!」 «あっ……» 「何?」 「――――!!」  瞬時。  誰もが空を見上げた。  ――見よ、と。  何者かの絶対的な命令を聞いたかのように。  そして見る。  その星を。 「……うぅむ。  少しばかり、力が乗り過ぎたようだ」 「江ノ島が〈無くなって〉《・・・・・》しまったぞ」 «……御堂» «あそこだ» 「うん?」 «〈半島〉《・・》になっている» 「おお。  本当だ!」 「綺麗に飛んだものだな。  あれは浮島だったのか」 «違うぞ。多分» 「ともあれ無事で何より。  あのように景観の美しい島をなくしてしまっては惜しいものな!」 «……その意味では、もう、台無しだが»  ……奇妙としか言いようもない話だが。  振動、あるいは衝撃というものは、余り感じることがなかった。  覚えたものは、周囲の全てが一瞬にして消え去ったかのような、凄まじい喪失感――  そしてその一瞬が過ぎた後の、〈しかし何も変わって〉《・・・・・・・・・》〈いない〉《・・・》という、感覚と現実の甚だしい乖離。  最後に。  鎌倉周辺なら何処でも眺められる六波羅の普陀楽城が、さっきより〈近付いている〉《・・・・・・》ということから……  ……『事実』が理解されて…… 「――ひ――」  畏怖のあまり、俺は失禁しかけた。 «………………  あ……あ» «あの……これは……  〈達磨落とし〉《・・・・・》のようなことになったのかしら……?» «……この島が……»  村正の〈金打声〉《こえ》も上擦っている。  自分で言っている事を、自分で理解していない……そう知れる声音。  ――そんな、馬鹿な。    口にせずとも、俺と劔冑の思いは同じだった。  おそらくこれは、〈あれ〉《・・》の固有技能である重力制御によって実現した現象なのだろう、が……  推測が及ぶのはそこまでで、具体的な部分はまるで想像もつかなかった。 «……何だ。  今、何が起きた?»  こちらは理解していないらしい、ガーゲット少佐。  狐に化かされた心地ででもいるのか。ぽかんとした表情が窺える素振りで、ままならぬ巨躯の首を巡らし辺りを見回している。  配下の兵も同様なのであろう。  指揮官の問いに答えられる者はなく、指揮官と同じ事をせずにいられる者もいない。  やがて、少佐の座す巨騎が一点を向いて固まる。  俺と同じ。〈妙に大きな〉《・・・・・》普陀楽城。  ……半秒後に、彼は求めた答えを得ることになるだろう。  彼の部下は、もうあと数秒ほど遅れるだろう。  つまり――  そこには最後の平安があったのだ。  何が来たのかも知らず、何が起きたのかも知らず、怯えず狂わず壊れずにいられる。  貴重な時間。  もはや還らぬ刻。  最後の――最後の。  ――来た。  心を犯す、銀の猛毒。 «……何?  …………〈装甲通信〉《メタルエコー》……?»  吠え声が上がった。  人のものではない。  知性持たぬ、〈獣〉《けだもの》の。  殺意を謳う。  悪意を謳う。  害意を謳う。  そこに不純物は何もない。  人がましい一切がない。  かくも透き通った〈凶〉《まがき》の唄、決して人には歌えぬもの。  だからそれは人ではなかった。  二本足で立ち、皮膚を鉄の毛皮で覆い、器械の牙を持つ獣。  彼らは獣だった。  GHQの特殊部隊は、獣の群れと化していた。 «何を……っ、  何をしている!?» «やめんか!!  やめろ! 仲間だ!» «わからないのか!?  〈そこにいるのは同胞だぞ〉《・・・・・・・・・・・》!!»  彼らは、猛る。  手当たり次第に、暴れ狂う。  ある歩兵は、同僚の群れに機関銃を乱射した。  そして、背後から戦車に踏み潰された。  その戦車は前方の同型機に主砲を向けた。  しかし、弾を撃ち出す前に砲口へ手榴弾を投げ入れられ、轟火を噴いて爆砕した。  狙われていた戦車は終始構う様子なく、空へ砲弾を撒き散らし続けている。  機動性の高い武者にそうそう命中するものではない――が、遂に一発が〈S-一四〉《ワーウルフ》の翼を撃ち抜いた。  天空から一騎が転げ落ち、仲間は彼の悲劇を茫然と眺めやる。  彼らは獣になっていなかった。  金剛の甲鉄で守られた武者達だけが……  この小世界で、丸裸の人間の脆弱さを味わっていた。  虚しい叱咤を繰り返すガーゲット少佐は、その中で最も冷静さを保っていた一人だと言えるだろう。  だからこそ、異色で――獣には〈好餌〉《・・》と見えたのか。  じろり、じろりと、獣らの血走った眼が嘗ての上官を舐める。  申し合わせたように、一様に。 «ッ!?  貴官ら――»  彼は何を言おうとしたのか。  彼が信じていたものの一つ、尊い何かの崩壊に直面して、どんな言葉で防ぎ止めようとしたのか。  あくまでも人としての、彼の気高い試みは、しかし機会さえ与えられなかった。  せめてもの慰めは、どのみち無意味であったという事だ。  何を言おうと変わらない。  何を言おうと、獣には意味を為さないのだから。  変わりようがない。  拳と刃と鉛弾の返答は。  ……乱打を浴びる。  怪物が――ガーゲット少佐が。  先刻彼なりの表現で、貴重な存在であると言明した人々から牙を突き立てられるなか。  その胸には何が去来するのか。  分厚い甲鉄は通常弾など苦もなく跳ね返している。    だが〈無傷〉《・・》ではないのだろう。決して。  巨騎の沈黙の中に、俺は遣り場のない怨嗟を聴いた。  誰にとも、何処へとも、向けられぬ憤懣。  いや―― «…………» «……貴様……か……» 「……!」  〈銀〉《ぎん》。  〈白銀〉《ぎん》。  〈純銀鋼〉《ぎん》。  月の欠片と信じられし〈金属〉《かね》。  魔力有ると畏れられし金属。  狂気導くと忌避されし金属。  それは古代の、素朴な人々の信仰。  近代実証主義という凶暴な剣が、引き裂き絶命させてしまったもの。  無知と蒙昧が見せた幻想と――    しかし、果たして無知蒙昧はどちらであったのか。  〈白銀〉《ぎん》は今ここに在る。  月の美貌を、  魔の武威を、  狂気の光を、  全て備えて。  白銀の武者は此処にいる。  ならばどうして疑えよう。  銀の信仰を捨てられよう。  銀星号!  この光輝が今、此処に在る! «貴様が――  貴様が!» «〝〈銀星号〉《シルヴァー》〟か!!  我が同胞を、壊したのか!!»  GHQ将校であれば当然、銀星号事件の詳細は聞き知っていたのだろう。  その異様なばかりの内容とこの現状を合致させたに違いない。  真実を衝く叫びに、当の銀星号は鷹揚に頷いた。  ――そう。彼女はいつも、誰のどんな言葉でもなおざりにはしない。 「〈肯〉《うむ》。  自ら称した覚えはないが、たしかにおれは〈白銀〉《ぎん》の名で呼ばれる者に他ならぬ」 「同胞とは、彼らのことか。  そうだ。〈いらんものを〉《・・・・・・》、〈消し飛ばした〉《・・・・・・》」 «要らんもの……!?» 「〝倫理〟」 「人が自らの手足に填めた枷。  これを、取り払ってやったのだ」 «何故!!» 「それが、この〈光〉《ヒカル》の道を阻むゆえに。  打破し、破壊し、壊滅させねばならぬ」 «……貴様は……» 「〝倫理〟……  そして倫理に基づいて構成された〝社会〟」 「延いてはつまり〝人の世界〟」 「すべて砕く。  この光の手で打ち滅ぼす」 «貴様は――狂っているのか!» 「否!  おれは理性の命じるところに従っている」 「疑うなら、この光の雄図を聞け!  江ノ島の面積が約十分の四平方キロ」 «……何だと?» 「地球上の陸地総面積約一億五千万平方キロ。  これを割り算すると」 「…………」 「……村正?」 «三億七千五百万» 「そう!  世界は江ノ島三億七千五百万個分」 「つまり計算上、さっきの江ノ島キック三億七千五百万回で世界は光の武力に屈服する!  どうだ。違うか」 «…………» «こ……この……  気狂いめ……!» 「むう。こんな単純な話がなぜわからん。  英国人は数字に弱いのか?」 «人のこと言えんぞ御堂。  それにそういう問題ではないと思う» 「もしかして彼は失われたムー大陸とか信じている人なのか?  まだ地底帝国がある、と?」 «いや。そうでもなく。  非現実的な話を大真面目に語る人間を見た時、大概の人間は彼のような反応をするものだ。御堂» 「……非現実的?  何を馬鹿な」 「〈やるぞ〉《・・・》?  おれは」 「…………」  光。  光。  光。  俺の――――いもうと。  度重なる劇変に疲れ切った〈精神〉《こころ》は、周囲で繰り広げられる〈饗宴〉《サバト》にも揺れ動くことがない。  それでも、想う――そこにいる彼女を。 「光……」 「うん」  思わず口をついた、胸中の名。  すぐさまくるりと、彼女はこちらに顔を向けた。  続く言葉はない。  銀の姿を見つめる。  過去の面影はそこに無かった。  何一つ――  彼女もこちらを見つめていたのか。  暫し黙った後、嬉しげな所作で頷いた。 「苦痛。  煩悶。  懊悩」 「〈而〉《しか》して未だ、折れぬ意思」 「上々だ!  こちらへ近付いてきているぞ、景明」  ――この二年。  彼女が俺に対して意味のある言葉を投げかけたのは、今が初めてではないかと思う。  なのに、わからなかった。  彼女が何を言っているのか。何を言いたいのか。  やはり――  やはり、そうなのだ。  あれは違うのだ。  〈光ではない〉《・・・・・》のだ。  妹は、もう……  失われてしまったのだ。 「どうして……」 「ん?」  俺はこの上ない愚問を発した。 「どうして、狂った」 「おまえまでそんなことを言うのか」  拗ねたような声。  そこに狂気の自覚など露ほどもない。  ……当然だ。〈だからこそ〉《・・・・・》狂っているのだ。  こんな問いには意味がない。わかっている。  それでも未練が、俺に言葉を続けさせた。 「〈呪われた〉《・・・・》からか?  そうなのか?」 「…………」 「狂ってなどいないよ……  景明」 「狂っている。  狂っているではないか!」  俺はGHQの兵士ら――だったもの――を指差した。 「彼らを見ろ!  お前の放つ〈波〉《・》を浴びてああなった!」 「お前が狂っているから、お前と心を重ねた彼らも狂ってしまったのだ!  そうだろう!?」  俺の指を追って、銀の眼差しが地上をさすらう。  ……阿鼻叫喚の巷。  視線がわずかに細まった。  それは、会心の態。 「……〝布武〟……」 「何?」  ……布武? 「しかし、確かに解せないところはある」 「なぜ誰も彼もが知性を失うのか?  なぜ光のようにはいられないのか?」 「それほどに飢えていたのだろうか……  人は常日頃、そこまで〈斗争〉《とうそう》の〈性〉《さが》を抑圧しながら生きているものなのか? 〈光とは違って〉《・・・・・・》」 「だから」  銀星号は、右手の人差し指と親指で輪を作った。  それを一人の兵士に向ける。 「少し弾いただけで」  指を弾く。 「こうなってしまうのか?」  ――その指先から、見えぬ何かが飛ばされたのか。  兵士の身体が跳ね上がった。  常識では考えられない跳躍。  口をつく奇声。  彼は怪物に取り付いた。  搭乗者の少佐が収納されている辺り、分厚い甲鉄の〈凹凸〉《おうとつ》をつかみ、血色の眼光を突き刺す。 «……ケヴェック!» «ケヴェック上等兵!!»  名を呼ばわれて。  その兵士は笑った。  そう見えたのだ。  犬歯を剥き出しにした顔が。  彼は、そのまま、上体を煽り、  反動をつけて、  顔面を甲鉄に投げつけ。  ――噛み付いた。 «……うっ……»  傷もつく筈がない。  それでも齧る。  己の歯を砕き散らしながら。  喜悦じみた吠え声を上げ、歯が立たない甲鉄を齧り続ける。  ――地獄の餓鬼の〈様〉《さま》に似ていた。 «う……» «うあああァァァァァァッ!!»  兵士の身体が粉微塵に砕け散る。  それでも巨騎の斉射は止まない。  兵士のいたあたりに、何かが張り付いている。  ……顎だ。食いついた顎だけが残って、怪物の甲鉄を飾っている。 «アアアアアアアアアアアア!!  貴様ァァァァァァァァァァァァァ!!»  音程を外した憎悪の叫びが、弾幕と共に空を塗る。  既に正気ではなかったのかもしれない。だが狙点は正確だった。銀影を目掛け、無数の針が飛ぶ。 「ふっ――」  銀星号の細い手が、再び〈指打ち〉《・・・》の形をつくった。  そして、消える。  いや――  〈疾〉《はし》る。  到底、眼に留めることなどできない速度で駆け巡る銀星号の指先。  その一閃ごとに鳴る乾いた音。  確認できる事実はそれのみ。  否、あともう一つ。  銃弾は一発たりと、銀星号の甲鉄に着弾していない。  ガーゲット少佐は撃ち続け、狙いは正確であり続けているというのに、だ。 「なんとも不器用な指遣いであることよ!  〈騎士〉《クルセイダー》、乙女の柔肌に触れたいと望むなら、もそっと丁寧にしなくてはならぬ」 「これではどんな娘も〈靡〉《なび》くまい。  平手打ちを食うのが落ちであろうよ!」  銀月の武者が〈爛漫〉《らんまん》に笑う。  ……あれは、何だ。  弾丸を指先で打ち返しているのか。  ……………………。  自分で言っておいて、信じられない。  信じたくはない。  だが目前の光景から類推される真実は他になかった。 «お――  おおおおアアアアア!!»  巨獣が回頭し、一際不穏な砲門が首を伸ばす。  肌の粟立つような唸りが、夜風を乱す。  ……あれを撃つ気か。  弾を使わず、標的を焼き尽くす魔砲。  あれは――銀星号と云えど、躱しようがない――?  その脅威を知ってか知らずか。  銀星号は何やら不興げに、むぅ、と吐息した。 「――慮外者。  乙女に向かって、許しも得ず、そんな無粋な代物を突きつけるとは何事か」 「光に対する狼藉は高いぞ!」  あるいは警告であったのかもしれないそれを、少佐は聞き入れなかった。  聴こえてもいなかったのだろう。  剣呑な唸りが極限に達する。  不可思議なる死の呪術が完成に至る。  銀星号は不動。  未知の脅威に対して、備えは何もなく―― 「ふん……?  何だ。〈そんなもの〉《・・・・・》か」  〈死気〉《シキ》が飛ぶ。  身体の前で両腕を×字に交差して、銀星号がそれを受ける。  そのまま動かず――  数瞬、凍った時が流れて。  ……死んだ?  その一語が脳裏を過ぎった。  そう思ったから、〈ではなく〉《・・・・》。  そう思えなかったから。  否定するために、そう考えたのだ。  事実。 「〈波〉《・》を送って内から壊す。  なるほど。良く出来てはいるが」 「要は〈裏当て〉《・・・》ではないか……  この程度の打法、返すのは造作もない」 「こう――」  ふっと、銀色武者が両腕を開く。  目の覚めるような鋭い動き。  その刹那、怪物の砲が〈溶けた〉《・・・》。  砲だけではない。  周辺の装甲がごっそりと――火にあてられた氷よろしく、曲線的な形で削られている。 「波を返してやれば、ほら、斯様――  未熟な拳を使った腕は、自ら砕けることになる」 「な?」  兜の奥で片目を瞑り、最後の一語は俺に投げる。  ……同意など求められたところで、返す言葉というものがないが。  全く理解の及ばない攻防だった。  あの砲器は結局どんな代物であったのか――そして銀星号は如何にしてそれを破ったのか。  まるでわからない。    つまりは〈これ〉《・・》が俺と〈銀星号〉《あれ》の間にある差か。  想像の翼も届かぬ果ての果て。  別次元の別世界。  そんな処にあの白銀はいるのだ。  天地の隔たりより、更に遠い。  ――――行き着けるのか?  俺は…… 「ガーゲット卿!?」 「くそ、殺してやる――」 「うん? 新手か……。  乱雑に群れを成してとは、また無作法な」 「〈淑女〉《レディ》に〈舞〉《ダンス》を申し込むなら、〈順番待ち〉《・・・・》くらいするものぞ。  しかし良かろう」 「狩猟民族に作法を云々しても始まらぬ!  参れ、光が相手して遣わす!」  ……〈演劇〉《しばい》は、次の場面に移った。  上空を飛遊していた竜騎兵隊が次々と降下し、上官を打ち伏せた敵騎を襲う。  迎え撃つ銀星号。  繰り広げられる戦闘――  ……それが本当に戦闘と呼ぶに値するものであったかは、疑問の余地を有した。  銀星号は見るも明らかに〈戯れている〉《・・・・・》。  〈十字銃火〉《クロスファイア》の間隙を縫い、必殺の剣閃を指であしらい、楽しげに踊る。  そう――踊っている。  文字通りに。  銀星号の駆ける軌道が、常に美しい文様を描くなら、他にどう解釈できるというのか。  俺は呆然と〈見蕩〉《みと》れた。  観客席に、棒立ちになって。 «……!!» «御堂!  いけない――こんな場合じゃない» «〈数が減ってる〉《・・・・・・》……!»  数が減ってる?  数―― «御堂ッ!»  ――!!  その刹那、ようやく意識が醒めた。  銀星号の出現以来、衝撃に麻痺し切っていた脳髄が急速に動き出す。  狂っていた兵士たちの数が〈足りない〉《・・・・》。  それは無論、凄惨な同士討ちの結果でもある。  だがそれを加えても足りない。  この倍はいた筈だ。車両も歩兵も。何処へ消えた?  何処へ…………  まさか。 「〈目の前〉《・・・》の片瀬へ向かったのか!?」 «可能性はある……  あれが〈獣〉《・》で、〈餌〉《・》を求めているとすれば»  本能的に、人の多い場所を目指したとも――  考え得るのか! «止めないと!» 「あ――」  あ、と応答しかけて。  俺の思考が停止する。  狂乱の渦の中で、一際暴れ猛っているもの。  怪物――ガーゲット少佐。  半壊しながらも尚、上空の銀騎を狙い、砲撃を続けている。    ――あの中には、〈彼ら〉《・・》が。  それに、この場の地獄……  心を壊され、仲間と食い合う進駐軍の兵士ら……  彼らを救うには、銀星号を止めるほかなく―― «どうするの!?» 「――――」  どうする。  どうすれば良いかは――わかっている。  〈一時〉《いちどき》に全てを片付けることはできない。  ここにはもはや〈村正〉《おれ》しかいないのだ。  恃むべき味方はこの場にいない。  そもそも今、無事でいるか――いや。その点は信じられる。生き延びる力がある筈だ。だからこそ、この危険な道程へ巻き込む事も〈肯〉《がえ》んじたのだから。  俺は目前の状況と俺のみの力で戦おう。  それには優先順位をつけるしかない。  ……〈優先順位〉《・・・・》!  その烏滸がましさは何とした事であろう。  だが明らかな真実が一つだけあるのだ。  こうしている間にも〈無駄に〉《・・・》死んでゆくという! 「まず怪物を始末する!  次いで狂った兵団!  最後に、最も手間取るであろう銀星号!」 「以上、方針!」 «諒解!»  即座、村正が合当理を吹き鳴らす。  全身を煽る飛躍の衝動。  ……〈出力〉《パワー》が不足している!  これでどこまで動けるか……! 「来るか……  景明」  銀星号がこちらを見ていた。  剣林弾雨の下を悠々と散策しながら。 「待ちきれなくなる頃だと思っていたぞ。  良し――今日はおまえに〈いいもの〉《・・・・》を贈ろう」  言うや、その銀影は包囲網の中央から消え失せた。  忽然と、噴煙も残さず。  魔術を使ったわけではない。  騎航によって脱出したに過ぎない。  だがその加速性、旋回性が異常極まるために、常人の眼には消えたようにしか見えないのだ。  進駐軍の武者は〈狼狽〉《うろた》え、愕然としている。  〈辰気〉《じゅうりょく》を操る銀星号なればこその超常機動。  ――それが、〈襲来〉《く》る!  俺は身構えた。  余りにも〈儚〉《はかな》い抵抗だと知りながらに。  次にあの銀色を見た瞬間、この身体が割れていたとしても、不条理を嘆くには値しないのだ。    しかし、そうはならなかった。  白銀の武者が姿を現したのは、嵐の中心。  巨怪の頭上。  そんな所へ優美に腰掛け、彼女は片手を掲げる。  指の間に、現れる――光明。 «〝卵〟!!» 「何だと!?」  止める間もない。  光の球を握り締め、銀星号がその手を怪物の甲鉄に突き入れる。  力を篭めたとも見えぬのに、肘までが沈んだ。  のたうつ巨獣。  軽やかな笑声を上げて、銀騎がそこから飛び立ってゆく。  憤激を尚更に煽られたか、怪物は鈍足を馳せて追いつけもせぬ敵を追った。砲火を浴びせる。  ろくに視線もやらぬまま、銀星号が躱す。待ち受けていた竜騎兵をもするりと避け、暗空へ舞う―― «御堂!  いけない!» «あの〝卵〟はもう孵化直前!  〈こないだのやつ〉《・・・・・・・》と同じよ! 今すぐに止めないと!» 「ッ!!」  村正の声を理解した刹那、返答の間も俺は惜しんだ。  夜空に輝く銀影を追い、足掻く、半死の巨獣騎。  それを更に追って飛ぶ。  虫の止まるような速度でしかない標的の、その後姿が視界の中で大きさを〈増さない〉《・・・・》。  こちらも同等程度の速度しか出せていないのだ。  それでも近付き、狙いを定める。  太刀を担ぐ。  怪物はこちらに全く注意を払っていなかった。  追いつきさえすれば隙を取るのは容易く、俺は振りかぶった刃を一点へ向けた。  〈翼甲〉《ほろ》。 «ぬおぉっ!!»  怪物の姿勢が致命的に傾斜する。  あやうい均衡の上に成立していた騎航が崩れるや、巨躯は万有引力の手に屈して地上への道を辿った。  半ば埋まるようにして、怪奇な劔冑が座礁する。  もう飛び立てはしないだろう――試させるつもりもない。  俺は〈歪〉《いびつ》なオブジェの上空を襲った。  一秒を惜しむ。一瞬を惜しむ。 «邪魔をするなぁ!!»  騎士が吠えた。  なお残る無数の銃砲が俺を指す。  避けている暇はない。  撃たれている暇もない。  ままならぬ翼で飛ぶことがもどかしい。  俺は自由落下に身を任せた。  太刀を構える。  この一身全てを鏃と成す。  穿つ――――  既に深々と刻まれていた、甲鉄の亀裂を狙った一撃は、完全に貫通し、斬り断って、怪物の身体を二つに割った。  勢い余り、肩甲で地表を打つ。 「……ッ。  仕留めたか!?」  衝撃に暗転しかける意識を引き戻して、見やる。  残骸……すぐ手近に、四角い箱。  檻。  ――その中の子ら。 「芳養さん!」  ………… 「芳養さん!?」 「………………あ……」  かすかに目蓋が上がる。  瞳は曇っていた。俺を見てはいない。だが。 「……湊斗さん……?」 「湊斗さん……  そこに……いるの?」 「はい!」 「……あー……  なんか……安心した……」  生きている。  その周りで、彼の弟妹も弱々しく呻き、身じろぎをしていた。  ……生きている! 助けられた!    脳天から肛門まで突き抜けるような安堵感に、俺は思わず膝をついた。 «御堂ッ!» «まだよ!!» 「何!?」  慌てて顔を上げる。  ――まだ!?  愕然として、俺は怪物を見た。  いや――あれは、死んでいる。  間違いない。この二年の経験から断定できる。  この劔冑は只の鉄屑と化したと。  なら、〝卵〟も共に滅びた筈―― «〈こっちじゃない〉《・・・・・・・》! 〝卵〟を植えられたのは、中の武者の方っ!» 「!!」 「ルゥオオオオオッ!!」  理解と敵意の訪れは同時。  絶叫と斬撃も同瞬だった。  危うくも受け止める。  襲撃者と視線を合わせる。  進駐軍の将校。  美々しい劔冑に身を包んだ騎士。 「ガーゲット少佐!!」 「蛮族どもがぁ!  蛮族どもがぁッ!!」 「よくも、よくも私の同胞を――  こんな異境の僻地で!」 「幾人死んでしまったのだ!?  ああ……」 「母なる大陸のため、〈来〉《きた》る聖戦を共に戦う筈だった彼らが!  ああ! ああああああァ!!」 「……ッ」  逆恨みだと、言い捨てても良かったのだろう。  彼らは無辜の市民としてここにいたのではない。俺を討つため、戦うために、ここへ来ていたのだから。  しかし少佐の怒りは本物だった。  悲しみも。  涙も。  一刀一刀に、憤怒が乗る。  その一閃に、悲痛が宿る。  無機質な鉄面の奥からこぼれる雫は、血の色をして地面に〈滴〉《したた》る。  その全てを、    黙殺して。  心を鎧戸で閉ざし。  一切、何も省みず――  俺は――  ジョージ・ガーゲット少佐を殺した。 「――――」  一条は状況を把握していた。  一条は状況を把握していた。  海岸へ出てしまった以上は仕方なく、せめて情勢を掴もうと灯台へ登り、忙しなく変転する戦いの様相を俯瞰していたからだ。  銀色の武者――銀星号だ――が現れ、村正を取り囲んでいた軍隊――六波羅だか進駐軍だか――は狂った。  あれが精神汚染というやつに違いない。  その一部が無秩序な隊伍を組んで、片瀬方面へ向かっている。  止めなくてはならない。大惨事になる。  だが村正――景明はあの場を離れられない。  他の誰かが行くしかない。  つまり、自分だ!  一条にとって、決断と行動の起点は同座標にある。  躊躇い、逡巡などというエントロピーは皆無だ。  考えることがあるとすればそれは目的を達する為の思索に限られる。    ――どうすれば良いか。  片瀬まで最短距離を抜けては行けない。  それではおそらく〝汚染〟の範囲に巻き込まれる。  可能な限り島の外縁を経由して向かう必要がある。  それで間に合うか。  他に手段は?  ――無し。この点の考察を打ち切る。  辿り着いた後はどうするか。  武装した軍隊をどう止める?  〈このまま〉《・・・・》立ち向かう以外の方法は?  ――無し。この点の考察を打ち切る。  思考終了。  後は可能行動を実施するだけだった。 「……おぉっと……」 「てめぇ。  ……なんでこんなとこにいやがる」  出会ったのは、知っている人間だった。  間違っても友人ではないが。  雪車町一蔵。  幕府御雇野木山組と進駐軍、両方の飯を食っているチンピラヤクザ。  なぜこんな場所にいるのか――    一条の脳裏で幾つかの事実が直結した。彼の負傷。濡れ鼠な姿。経歴。先刻の一幕。 「湊斗さんを襲ったのはてめェか!!」 「へっへ。まァ……  この通りのザマですがねぇ」 「そういや、嬢さんも来てたんでしたね……  あの野郎と一緒に……」 「へ、へ。  よりによってこんな時に鉢合わせしちまうとは、ねぇ……」 「――畜生。今はいい。  どきやがれ。あたしは忙しいんだ」 「おぅや?  さいで……?」 「てめぇの仲間の軍隊が、とち狂って市街地に突っ込もうとしてやがる。  だから止めに行く。どけ」 「……へ、へ、へ!  そいつは大事ですねぇ。いやはや、そんなことになっちまったんですか……」 「これで最後だ。  どけよ」 「……嫌だ、と申しましたら。  嬢さんはどうなさる?」 「てめぇを殺して行く。  雪車町一蔵」 「さぁて……  嬢は、人を殺したことがおありで?」 「ねぇよ」 「へ、へ……!  それで、殺せるんですか……?」 「〈首を折れば死ぬだろ〉《・・・・・・・・・》。  ……違うのか?」 「…………」 「へ、へ、へ!  ヒャァヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!」 「そう――〈そう〉《・・》!  そうでなきゃいけねえ!」 「やっぱりあんたは、あたしが見込んだ通りのお人だ……  綾弥の嬢さん」 「――」 「おぅ……  恐い、恐い……」 「……」 「邪魔はしませんよ……。  けど、どうするおつもりで?」 「相手は軍隊……。  拳ひとつで止められるってもんでもないでしょう……」 「やってみなけりゃ、わからねぇ」 「やらなくてもわかりませんかぃ?」 「あたしにわかってるのはいっこだけだ。  そう言って、何もしないでぐずぐずしてたら、絶対に誰も助けられない」 「…………へへ」 「やってみれば、助けられるかもしれない。  だから行くんだ」 「嬢さん」 「じゃあな」 「〈ちから〉《・・・》がご入用ですかぃ?」 「……」 「相手が軍隊でも蹴散らせるちから……  今、欲しいんじゃァないですか?」 「何を言い出す気だ。  てめぇは」 「この灯台はあたしもキャンプに使ってた所でしてね…………丁度、あるんですよ」 「ここに……  あたしに任されてる〈作戦〉《・・》の為の道具が」 「……?」 「もっとも……えいこら担いできた後に気付いたんですがね、こいつは、〈そんなこと〉《・・・・・》には使えやしない代物でした。  なんせ主を選びますんで……」 「けれど……ねェ。  嬢なら…………」 「……鎧櫃?」 「……」 「どういうつもりだ?」 「このチンピラはね、嬢……  あんたみたいな人間が好きなんで……」 「それだけですよ……」 「あたしはてめぇのようなのが嫌いだ。  虫酸が走って、反吐が出る」 「へへ……!  だからこそ、で……」 「変態かよ」 「どうします……?  あたしはともかく、〈こいつ〉《・・・》は嬢の好みだと思うんですがねぇ……」 「こいつがあれば戦える……  軍隊とも……〈罪もない女子供を殺しちまう〉《・・・・・・・・・・・・・》〈ような呪われた武者〉《・・・・・・・・・》とも……!」 「……ふん。  信じられねぇよ」 「だいたい、てめぇの施しなんぞ――」 「え?」 「……なんだ?  弥源太爺さんの形見が……」         «待ちかねたぞ»         «我が〈御堂〉《あるじ》!        綾弥一条殿!!» 「!?」       «〈御身〉《おんみ》は問われた。      この世に正義は有りや否や――»       «お答え仕る!      〈我らがこの世の正義とならん〉《・・・・・・・・・・・・・》!!» 「な――!」 「へ、へ、へ……!」 「行けェ、嬢……  〈正義〉《・・》をやってこい!!」 「ひぃひひひヒヒヒヒヒヒ……  ヘェアハハハははははははははははは!!」  片瀬海岸――いや元海岸と呼ぶべきか――は混乱の只中にあった。  江ノ島が〈飛んできた〉《・・・・・》とあっては、温かな布団の中で安眠を貪っていられようはずもない。  津波、地震の被害こそ(島一つが激突したにしては)奇妙にもさしたるものではなかったものの……それはかえって〈現実の非現実〉《・・・・・・》ぶりを強調し、人々に理解不能の恐怖を与えずにはおかなかった。  急報を受けて出動した警官隊とて、それと無縁ではいられない。  混乱を鎮めるどころか、自分たちの統率を保つのがやっとという有様だった。 「……!」  あてにならぬ部下をどうにか取りまとめ、彼、菊池明堯――鎌倉警察署長が島と片瀬の接点に到達した時、しかし彼を出迎えたのは、事態の解決に至る手掛かりではなかった。  新たな災厄の前触れだった。  ――重々しくも慌しい機械音。意味を為さない叫声。  戦場経験を有する署長は即座に知る。  軍だ。  それも何らかの理由で統制を失い、完全な暴走状態に陥った小規模の軍部隊。  殺し壊し犯す餓狼の群れ。  小規模といってもその戦力は、片瀬の一帯を焦土と化して余りあるであろう。  その前菜に軽武装の警官隊を蹴散らすことも〈容易〉《たやす》かろう。 「〈あいつ〉《・・・》か……」  その代名詞を、署長は呻いた。    ――〈銀星号〉《あいつ》。  景明を送り込んだ江ノ島で、何がどう推移したのかはわからない。  だがどうやら最後には〈当たり〉《・・・》を引いたようだ。  銀星号は顕現し……  そして、島にいた軍部隊を狂わせたのだろう。  ――今回の件は十中八九、GHQの罠。  署長はそう見ていたが、といって銀星号が現れる事は絶対に無いなどと思い込んではいなかった。  かくあるも考慮の内ではあった。  が、何が起ころうと島の中の事で済む――と、そう踏んでいたのだ。  市民に害が及ぶことはなかろうと。  ……甘かった。  江ノ島と片瀬海岸が隣接するなど、予測できた筈もないが――  そのような狂変が情勢を根底から覆す可能性も有り得るとは、考えておいて然るべきであった。  幾度も景明の報告を聞き、銀星号の尋常ならざるを彼に次ぐほどに知る身であったのだから!  拳が悔恨に震える。しかしもう遅い。  署長は見た。  背後でざわめき。彼の部下らも見たのだろう。  黒々とした、人と車と肉と鉄の渦。  不揃いに吠え、ばらばらに駆け、だが一塊となって突き進む。  あたかも〈祝福の戦車〉《ジャガノート》。  人々を踏み殺して極楽へ送る神の輿のように、殺戮を喜び踊りながら、それは片瀬へ向かって来る。  署長は部下に迎撃隊形を指示した。  その効果の程を理解しながら。  どう足掻こうと、防ぎ止めることはできない。  おそらく、千の死者を九百に減らすくらいが限度。  焼け石に水だ。  しかし液体窒素の備えを怠ったのは彼だった。  浮き足立つ部下を抑えつつ、鎌倉署長は恥を呑み、覚悟を決めた。  己の無能によって千の人間を殺す、その覚悟を。 「銃隊、構え――」  そして開始する。  ほんの一部の住民にこの夜から生きて脱する幸運を与えるための、誰にも認められず誰にも感謝されないであろう、ちっぽけな〈戦争〉《たたかい》を。 「――撃て!!」  ……この夜、片瀬の死者は九二六名であった。 「撃――」  濃藍色の光条が、幾筋――  夜陰を薙ぎ払った。  途端、先頭を突き進んでいた車両が数台、〈沈む〉《・・》。  〈履帯〉《キャタピラ》を、車輪を断ち切られて。  無用の長物と化した兵器に行く手を阻まれ、後続の兵士が怒りの絶叫を上げる。  そこにも、〈藍〉《あお》の閃光は疾った。  兵士の持つ銃が次々と破壊される。  弾倉を、弾帯を正確に打ち抜かれ、人肉を穿つ力を失う。  兵士は吠えた。憤怒を吠えた。  獲物へ突き立てるべき牙を奪われた獣の怒り。  戦車から飛び降りた兵もそれに唱和する。  だが。 「黙れ。  次は殺す」  上天から声が降った、その刹那。  獣の群れは一様に、押し黙った。  人としての知性を喪失し、破壊の欲望に酔うばかりであった彼らが……  理解もできない命令に従う。  それは、何故か。    ――畏れだ。  人食いの虎が聖人の前で〈頭〉《こうべ》を垂れるように。  一角獣が純潔の乙女の膝で眠るように。    〈神威〉《カムイ》は智恵なき獣を屈服せしめる。 「……あ」 「……あれ、は……」  その色。  その〈形状〉《かたち》。  署長には覚えがあった。  八幡宮秘蔵の文書類の中に、見たことがある。  古い絵巻物――  そこに描かれていた姿。 「あれは」  ――天下第一等。  唐国の干将莫耶、吹毛太阿も之に及ばず。  不動の利甲に異ならざる也――       「世に鬼あれば鬼を断つ」       「世に悪あれば悪を断つ」       「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」  ……爆雷の如き、その一閃は。  江ノ島と片瀬を、再び切り離した。  ――殺した―― 「惜しいな」  突如。  空から降り来る何か――  GHQの竜騎兵!  それが次々と、隕石よろしく墜落してくる。  地面に打ち据えられる以前に、彼らの全ては絶命していた。  首を断たれ、あるいは縦割りにされて。 「……〈銀星号〉《ひかる》!」 「あと一手、早ければな。  ……今回の戯れはおれの勝ちだ、景明」  振り仰いだ先。暗天に月を背負い。  果たして銀星号はそこにいた。  透き通った羽根を打ちもせず。  あろうことか、〈滞空〉《・・》している。 「初めてだな……  楽しみだ。さて、どんな姿で〈生まれて〉《・・・・》くるだろう?」 «御堂……»  〈わくわく〉《・・・・》した様子を隠さない銀星号の声と、  反して凍える劔冑の〈装甲通信〉《メタルエコー》。  理解してしまった。  何が起きたのか。  何が〈始まる〉《・・・》のか。 「――!」  凝然と、それを見つめる。  進駐軍将校の骸。  彼は既に息絶えている。  だが。  その胸の、奇怪な脈動は何か。  その甲鉄の、異様な発光は何か。 「――あ――」  〈間に合わなかった〉《・・・・・・・・》!!  それは、裏返った。  〈くるくる〉《・・・・》と、劔冑は自らを内側へ巻き込む。  中の肉体も諸共に。  ……くるくる。  ……ずぶずぶ。  紙細工のように丸められ、  綺麗な綺麗な白銀の球体になる。  そしてまた裏返る。  くるくると、外側へ広がる。  〈手足〉《・・》を伸ばす。  〈首〉《・》を出し。  〈背〉《・》を立てる。  やがて現れるは、元通りの人の形。  しかし身体は一回り小さくなっている。  容姿も全く異なっている。  〈艶〉《つや》やかな黒髪。  幼く愛らしい〈貌〉《かんばせ》。  銀色の甲鉄――  白銀の少女。  ……その娘は。  俺を見て。 「――――」  それはそれは、嬉しそうに――  微笑んだのだった。 「うむ――うむ!  良い娘だ。申し分ない」 「おまえには〝〈灰色の杖〉《グレイワンド》〟の名を与えよう。  さあ……唄え!」 「この母と共に!  猛き〈戦歌〉《いくさうた》を!」 「――あ――  あ、あ……」  ……〈汚染波〉《フェロモン》が、撒き散らされている。  〈二重〉《・・》に。  俺はいい。  竜騎兵は死んでいる。  ガーゲット少佐ももういない。  後は。 「――――」 「あ……」  檻の中で。  芳養少年が。  禽獣と化して、肉親を襲っている。  涎をこぼし、意味のない奇声を上げながら。  千切り。裂き。抉り。  ぶちぶち、びりびりと―― 「オレみたいな子供でもお構いなしってとこは、安いか、ヤバいか、どっちかだからな。  難しいよ。それでもガキ共は食わせてやらなきゃならねえ」  弟たちも、  妹たちも、    同じように、  殴り。  蹴り。  噛み。  潰し。  兄弟の血肉を漁っている。 「やめろ」 「やめるんだ」  虚ろに呟く。  本当に声が出ているのかどうかもわからない。  彼らは続ける。  檻の中で饗宴に浸る。  銀星号が祝福を唄う。  銀の少女が唱和する。  響き渡る〈二部合唱〉《デュエット》。  檻の中の活況はいや増すばかり。  芳養少年は真っ赤になっている。  兄弟達も真っ赤になっている。    みんなみんな血達磨で、もう見分けがつかない。  止めないと。  これを、止めないと。  斬れば良いのだ。  このバケモノを、斬ってしまえば。 「う――っ」  違う。  違う。  似てなんかいない。  何の共通点もない。  これはただの化物。  ただの敵だ。  斬れ。  斬れ―― 「可愛らしいだろう?  景明……」 「おれとおまえの〝卵〟から生まれた娘だ!」  娘。  娘――?  娘――  だと?  そうだ。  確かにこの少女は、〈あいつと同じ〉《・・・・・・》――  そう、想った瞬間。  〈呪い〉《・・》が俺を縛った。  俺は、先刻――  ガーゲット少佐を殺しているから。  刃を打ち込む。  銀色の少女に。  どうしようもなく似ている、その姿に。  ……驚愕を込めて、少女が俺の瞳を覗いた。  刃先を突き入れる。  少女の胸に。  その瞳が、    どうして、と言っていた。       どうして殺すの。     こんなに、こんなに好きなのに。           愛して欲しいのに。             お父さん。 「黙れ」  刃を打つ。  〈想わずにいられぬ〉《・・・・・・・・》、その顔へ。  それでも少女は訴える。  俺に愛を訴える。              好きなの。 「〈煩〉《うるさ》い――」              愛して。 「死ね」            愛してください。 「死ね」             愛して―― 「死ね」 「死ね」 「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」 「く」 「くっ」 「あははははは!  あぁぁはははははははは!」  俺は血溜まりの中に立って頭上を見据えた。  〈後一つ〉《・・・》だ。  銀星号は笑っている。  今こそ魔王の如く哄笑している。 「愉快! 愉快!  見せてもらったぞ、景明!」 「見事な――  何とも素晴らしい愛しっぷりだ!!」 「……銀星号ォォ……」  殺させたな。  俺に〈こんなもの〉《・・・・・》を、殺させたな。  殺させて〈愉〉《たの》しんだな。  〈銀星号〉《ひかる》――違う――    〈銀星号〉《まおう》が!! 「はははははは!  あっははははははははははははは!!」  舞い上がる。  あくまでも優美に――細身の魚が湖水を躍るように。 「逃がすかァァァァァァ!!」  ――違う。  惑わされるな。  これはただの鉄人形。  〈何か〉《・・》に似ているだけの、人形だ。  そんなものでしかない。  俺は太刀を構えた。 「…………」  切先を向ける。  銀の少女は目を〈瞠〉《みは》った。  不思議そうに、きょとんと、小首を傾げる。  ――鉄屑。  冷えゆく胸中に、俺は一言を吐き捨てた。  そうして、太刀を振りかぶる。 「残念だ。  どうやらおまえは気に入って貰えなかったらしい」  俺よりも先に――  銀星号の手刀が、少女の胸を背後から貫いていた。  少女が背後を向く。  ――お母さん、と言ったようだった。 「うん。  〈灰色の杖〉《グレイワンド》。我が〈娘〉《こ》よ……」 「おまえは、〈いらぬ〉《・・・》とさ」  もう片手も、突き込む。 「娘などいらぬ。  いらぬとよ!」 「いらぬでは、仕方ない――  こうしてしまおうか!」  ……そして、引き裂いた。  力任せに。  白銀の少女が〈解〉《ほど》けて散る。  銀色の粒となって、消える。 「……これで良かろう?  景明……」 「……いや」 「もう一人、いるぞ」 「ふっふ……!」  銀星号が地を蹴った。  天へ舞い上がる。 「逃がすか!」  追う。  母衣が軋む。  全身の関節が悲鳴を上げる。  構うものか。  この太刀をあと一度、繰り出す力があれば良い。  一太刀だけ――  あの白銀に!  迅い――  遠い!  だが知ったことか。  その姿が見える限り。  その銀色が見える限り。  追ってやる。  追いついてやる。  その羽根をつかみ――  引き摺り落として――  斬る。  斬る! 「お前もだ!  お前も殺す!」 「お前も殺す!」 「銀星号……  お前を斬る!」 「良いとも。  景明……」  既に、遥か遠いのに。  その声はどうしてか、酷く近くに聴こえた。 「この〈顔貌〉《かお》を見て。  確と見て」 「刃を差し入れてくれると云うならば」  天頂で、銀光が煌いた。 「いつなりと――  その〈剣〉《あい》を受け入れよう」  銀の装甲が失われる。  一瞬――一瞬だけ―― 「――あ――」             『景明』            『約束して』          『――この子を――』 「あ――――あ」  銀の騎影が天空の〈涯〉《はて》へ至る。  もはや届かない――決して。  〈唯独〉《ただひと》りの世界。月の宮。  その座へ女王の気高さで君臨し。  白銀の武者は、一節の〈詩〉《うた》を唄った。 «吉野御流合戦礼法〝〈月片〉《つきかけ》〟が崩し……» «〈天座失墜〉《フォーリンダウン》――――〈小彗星〉《レイディバグ》» «御堂……  野太刀の断片……〈脛巾〉《はばき》よ» 「ああ……」 「…………」 «……御堂» «貴方は……  本当に、〈銀星号〉《あれ》を討てる?» 「……」 「やらねば……  ……ならぬ……」 「……やらねばならないのだ……」  〈戦〉《いくさ》の作法を心得た武者同士の一騎打は、その噴煙が空に〈∞〉《ふたわ》を描き出す。  武者の戦闘が〈双輪懸〉《ふたわがかり》と呼ばれる所以である。  劒冑の性能が拮抗している程――仕手の技量が肉迫している程、双輪は完全で美しい。  しかしどれほど美しく描こうと、その芸術は一瞬のものであり、当人達ですら見届ける事は叶わなかった。 «御堂!  またあの気色悪い〈笑み〉《・・》が来る!» 「性懲りもなく。  ニッカリとは良く言ったものだが」 «呵! 呵!  呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵!!»  奇妙に粘っこい大笑が虚空を渡る。  それが可笑しさの表現でない事は既にわかっていた。  あれは〈呪句〉《コマンド》だ。  空気が震え、ゆらめき――幻像を形作る。 «その手にはもう飽いている!» 「がひっっっ!?」 «種の尽きた〈奇術師〉《マジシャン》は退場の頃合だ。  貴様が手に掛けた人々のもとへ去れ、青江» «……いずれは俺も其処へゆく。  怨讐はその時に承ろう» «ぬっ……か、せェェェェェェェェ!!» «我が〝ニッカリ〟が貴様などに劣るものか!  貴様などにィ!» «村正ァ!!  妖甲の名は貴様より、我が劔冑にこそ相応しいィィィ!!» «……人の趣味はそれぞれだけど。  まさか、〈そんなもの〉《・・・・・》を欲しがられるとはね» «でもくれてはやれない、青江貞次。  それがおまえに負けることを意味するなら» «呵呵呵ァ――» «私は〈生前〉《・・》からおまえのことを良く知ってる。  私たちは同じ時代にいたのだものね» «青江一門の面汚し!  幾人もの仕手を惑わし唆し、女子供ばかりを狙って殺戮させた希代の駄作。おまえなど、〈鋳潰されて仏像にでもなってしまえ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》!!» «――吐いたな、村正!  劔冑に向かってその台詞をォ!!» «許さんンンッ!!» 「……ッッ」 «どぉぅだァ!  死ィッ、ねェェェェェェェェェ!!» 「がっ……はァッッ!?」 «……飽いたと言った»  大きく姿勢を崩し、乱騎航を始める騎影に向かって呟きを送る。  〈快楽殺人者〉《つかいて》と〈殺人嗜好劔冑〉《つるぎ》――惹き合い遂には〈融合〉《・・》した様子の〈両者〉《あおえ》の意識は、それを聴き留めたかどうか。  極上の甲鉄に守られて、いまだ致命打には至っていない。だが戦闘力はほぼ尽きている筈だった。  あと一撃を重ねれば、敵騎――第六の〈寄生体〉《ヘイタイアリ》は活動を停止するだろう。  今回も危ういところではあったが、辛うじて〝卵〟の孵化は防げそうだった。 «何故だァァァァ!!  何故貴様は耐えられるぅぅぅぅ!!» «この青江の見せる地獄がァ! 悪夢がァ!  どうして〈堪〉《こた》えぬのだァァァァァ!?» «地獄か。悪夢か。  そんなものは、貴様に見せてもらうまでもない» «〈自前〉《・・》で見尽くしている。  貴様の見せるただの幻など、生憎だが、俺には不出来な前衛芸術としか思えぬ» «ピカソ氏のゲルニカに学んで表現力を磨け» «ぬぅぅ――»  敵影を〈視界〉《モニター》内に収める。  流暢さとは無縁の動きながら、敵も体勢を取り直していた。  逃走の選択を捨てたのは矜持ゆえか、怒りゆえか。それとも速度差を見越しての計算か。  いずれにしても、こちらのすべきことに変化は無い。 「村正。次で仕留める。  この期に及んで暇を与え、孵化を許しては元も子もない」 «諒解。  見苦しい代物を始末してやりましょう»  降下進撃を開始する。  敵騎も応じて駆け上がって来る。勝負を捨てぬその意気地は見上げたものだが。  高度差。速度差。負傷の度による身体能力差。  全てにおいて、既に勝敗は決している―――― «……悪夢も、地獄も通じぬと云うなら。  これでどうだ» «呵! 呵!  呵ァッ呵呵呵呵呵呵呵呵呵!!»  笑声に乗って、幻が展開する。  この空でもう幾度となく見た光景だ。 «しつこい馬鹿ね!» 「己の〈陰義〉《わざ》に殉ずるか――?」  幻像が徐々に形を取る。  今更何を見せられようと、飽きた観衆としては欠伸を洩らす以外にない―― 「――なっ――」  何故。  なぜ、こんな、ものが。            ……〈統〉《すばる》様。 «ははははははは!  何が見えた!? 何が見えたァ!» «それは貴様の〈安らぎ〉《・・・》だ!!  地獄の冷たさには耐えられようと――その温かさには抗えまい!?» «沈め!  安らぎの夢に沈んでしまえぇぇェェェ!!» «御堂――――!!»  目覚めの場所は、いつも通り。  暗い暗い、牢獄の中だ。  牢獄……  牢獄だ。  手足を縛る、枷は無い。  世界を隔てる鉄格子も、無い。  それでも、ここは牢獄だ。  このおれを封ずる檻だ。  おれはずっとここにいて、  同じ夢を見続ける。  ……今日も始まる。  夢が始まる。  大脳皮質から引き出された記憶が〈再生〉《リピート》される。  ……おれは女に抱かれている。  抱いているのは、母だ。  母と向かい合ってもう一人、男がいる。  ――父だ。  母は父に向かい、一言一言、突き刺すように告げる。 〝あなたは父親ではない〟  母が言う。 〝この子の父親だと思ってはならない〟 〝この子はわたし一人の娘〟 〝この子に父親はいない〟 〝この子はあなたの娘ではない〟  父は黙って聴いている。  父に選択の自由などないことは表情で知れた。  父はただ、決定を伝えられているだけなのだ。  母は繰り返す。 〝この子に父親はいない〟  ――おれに父はいない。 〝あなたはこの子の父親ではない〟  ――このひとは、おれの父親ではない。 〝この子を……愛してはならない〟  おれは――  このひとに愛されない。  ……夢が終わる。  闇へ戻る。  また、すぐに始まるだろう。  ここでの時間はその繰り返しだ。  父を放逐する母。  娘と断絶される父。  出生の直後、おれの両眼が――あるいは耳が、肌が――見届けた光景。  魂に刻まれた根源の記憶。  〈湊斗光〉《ミナトヒカル》の父親が、  母の手で奪い取られた瞬間。  ……これが、おれという〈生命〉《いのち》の原点。  湊斗光の、始まりの記憶だ。 「じゃあ部長。この書類はもう回しちゃって構いませんね?」 「いいよ。よろしく。  おぅーい、湊斗くん!」 「はい」 「納品リストは出来た?」 「それなら、たった今……  これです。確認お願いします」 「はいよ。  どれどれ」 「…………うん、問題なし。  今日はもう上がっていいよ。定時過ぎてるだろ?」 「お心遣い痛み入ります。  では、これで失礼致します」 「はい、お疲れー」 「お疲れさまー。  あ、湊斗先輩。倉庫に取引先からもらった果物の箱があるから少し持っていって下さい。統様と、光ちゃんに」 「有難う。  二人とも喜ぶ」 「田中ぁー。  湊斗くん、オレのぶんはないのかって顔で言ってるぞぉ?」 「言ってません。先輩はそんな意地汚くないですー。  部長とは違いますもん」 「うわ、ひでぇ」 「あ、でもご自分の分もちゃんと持ってって下さいね、先輩。  一杯ありますし、余らせて腐っちゃったらもったいないですから」 「……有難う。  頂いていく」  欲張ったつもりはなかったが、それでも新鮮な果物を詰め込んだ袋は結構な重さになった。  紐が指先に食い込むので、時折左右の手で持ち替えながら歩く。  夕暮れ時だけに、人出は多かった。  家路につく子供や学生、あるいは夕食の買物にゆく母親や娘。北関東の〈鄙〉《ひな》びた田舎町も、この時刻ばかりは賑々しい。  行き会う人間の四人に一人は顔見知りだ。  会釈をし合ってすれ違う。  時折、足を止めて短い世間話をすることもある。  相手は大概、話好きなご近所の奥様方だ。  話の内容がというより口を動かすこと自体が楽しい様子の相手に、頷きながら相槌を返す。こちらとしても別段、苦痛を覚えるような作業ではない。  とはいえ話題の多くは楽しからぬものだった。  興隆三九年、大和――  この時空間が歴史書にどう記されるかなど知る由もないが、実際に生きる人間としては、早々に現在に見切りをつけて未来を想いたくなる時代ではある。  悲劇的な終戦からまだ四年。  その悲劇の最後の一幕を演出した六波羅幕府は支配の礎を固めるため、各地での弾圧暴挙に余念がない。  公の場では決して語られない先年の大事件――大阪虐殺は、それでも人々の心に生々しく焼き付いている。  ……逆らえばこの町もああなっちゃうんだろうねえ。くわばら、くわばら。  そう言って、三丁目の矢部さんは八百屋の方へ歩いていった。  俺も家に向かって歩き出す。  矢部さんの去り際の言葉は、大和全国、何処の誰もが呟いているようなことだろう。  だがこの町の人間が口にするそれは、ほかに比べて緊張感が少しばかり違ったかもしれない。  ……町の〈現況〉《・・》を思えば、無理からぬことだが。  そういえば、町の様子も少し変わった。  ふと辺りを見回して、それに気付く。  幕府は市民の勝手な移住を禁じているが、それでも厳しい暮らしに耐えかねて夜逃げしてしまった人間も少なくない。  ……少し前まで、この通りには犬を飼う家があった。  前を通るたび、何匹もの犬達が吠え立てて、それは喧しいものだった。  今はもう聞こえない。忠実な犬は全て殺され、愛犬家の家主はいつの間にか消えていた。  ……しばらく前まで、そこの公園には子供のための遊具があった。  今はもうない。〈防壁〉《バリケード》の資材にするとやらで持ち去られてしまった。  犬の吠え声と子供の歓声が消えた通り。  たった二つが無くなっただけで、大きく変わってしまったように思う。  ……いや。  違った。 (もう一つ)  無くなったものはもう一つあった。  一番大きなものが。  あいつがいない。 (もし、これが。  去年の光景だったら……)  俺はきっと、  ここで―― 「景明!」 「……」 「光。  わざわざ迎えに来なくてもいいと、言っているだろう」 「うむ。聞いた。  しかし承服した覚えはないな」 「妹が兄を迎えて、何がいけない」 「婦女子はみだりに外出しないものだ。  お前ももう子供ではないだろう」 「それはそれとして、ただいま」 「その考えは古いぞ、景明。  婦人団体から総攻撃ものだ!」 「それはともかく、おかえり」 「一概に決め付けて言っているのではない。  だが、古来から続いた習慣には理由があるものだ。それを吟味もせず、ただ差別の一言で否定する態度は俺には認めかねる」 「成程。それはもっともだ。  しかしその理由とは、男は外で戦い、女は家を守る……という、はるか古代の役割分担に尽きる」 「現代ではもう意味があるまい。  戦わぬ男もいるし、家庭を持たぬ女もいる」 「確かにそうなった。  しかしそれが正しい事だとは、誰にも言い切れないだろう。特に後者だが……」 「佐伯さん。今晩は」 「こんばんは」 「あら、湊斗さんちのご兄妹。  こんばんはぁ」 「相変わらず、仲がいいのねぇ」 「その割りには余り言うことを聞いてくれず、困っていますが」 「うむ。仲はよい。  だからそこで足を止めずに、気を利かせて早く立ち去ってくれまいか。佐伯さん」 「こら、光!」 「ほほほ!  若いっていいわねぇ」 「……恥をかかせるんじゃない」 「ほんの軽口だ。  佐伯さんには通じているさ」 「まったく。  やはりお前には、淑女になるための修行が要るな」 「いらぬいらぬ、そんなもの!  光には必要ない!」 「さっきのおまえの言を借りれば、光は家を守る〈性質〉《たち》ではない。外に出て戦う方だ。  武者修行の方がよほど性に合う」 「またそんなことを言う。  お前は自分を知らんのだ」 「知っているとも」 「たった一つを除いてはな。  光。お前は自分に〈白無垢〉《はなよめいしょう》がどれほど似合うかを知るまい」 「……」 「…………」 「俺は鮮明に脳裏へ思い描けるがな。  それを見られぬと思うと……うむ。やはり残念で仕方がない」 「……ま、まあ……  そうだな……」 「景明が……おれを家に押し込めてくれるというなら。  か、考えないでもない」 「ふむ……」 「……」 「それはお前を実力で凌いで、男の代わりに戦う必要をなくしてみせろということか。  なかなかに難題だな……」 「…………」 「どうした光。  まるで声にならない絶叫を発しているような顔だが」 「えーい! うるさい!  もういいっ!」 「てりゃあ!」 「うおっ!?」 「こ、こら。  首にぶら下がるなっ!」 「断る!」 「歩けないだろうが!」 「歩いてみせろ!  そんなことで光に勝てるか!」 「うぅむ……  この格好でか……」 「そうだ。  買い物にも行くぞ。晩飯の材料が足りないのだ」 「降りろっ!」 「いやだ!  さあ行くぞ景明。まずは豆腐屋だ。続いて八百屋、酒屋、魚屋と回る!」 「町内一周ではないか!  明日には俺は町中の笑い者だっ!」 「はっはぁ! それは大変だ!  そうなっては嫁のなり手もおるまい!」 「よし、絶対にこのまま行くぞ!」 「勘弁しろというのにー!」 「…………」  肌寒い風を感じて、俺は一度身を震わせた。  ……帰ろう。  もう、すぐに暗くなる。  町の中心部を離れて田園地帯に入り、そこも抜けるとやがて林の中の広壮な屋敷が見えてくる。  俺の家――と云うのは些か烏滸がましいか。兎も角俺の暮らす湊斗の家だ。  その大きさは、土地の余っている田舎という立地条件と、近隣界隈に古来から事実上の――時には名実共に――支配者として君臨してきた家系の分家筋であることに由来する。  しかし、由来はあれど意味があるかは疑わしいものだった。  大は小を兼ねるとは云うものの、一家〈三人〉《・・》の住処にこの広さは無駄が多過ぎて、不便なことが少なくない。  いっそアパート暮らしでもした方がよほど楽なのだが……  湊斗家にそんな振る舞いが許される筈もなかった。 「……これは」 「景明か」  通用口をくぐろうとしたところで丁度その人に行き当たり、俺は半瞬ばかり硬直した。  ぎょろりと、気難しげな眼光を俺を〈睨〉《ね》む。  ……いつまでも固まっていて良いような相手ではなかった。  正面を譲って脇へ退き、深々と礼を〈執〉《と》る。 「御本家。  おいでとは存じませず、無礼を致しました」 「よい。  仕事帰りか」 「は」 「少し、統と話をしてきた。  後であいつから聞いておけ」 「はっ」 「……ではな、統。  夜の会合までに、〈儂〉《わし》の言った事をよく考えておくのだぞ」 「あー……うん。はい。  ご足労頂いてどうもでした、本家」 「ふん……」  戸口の方からの声に鼻を鳴らして答え、老人は歩き去っていった。その足取りは歳相応で、やや危うい。  だが送りましょうとは言い出せなかった。その手の気遣いを喜ばぬ人であることは良くわかっている。  あの人はあくまで豪強な王者を演出し続けるつもりなのだろう。年波の寄りを否定して。  車も使わず夜道をゆく背をしばし見送り、それから俺は同じようにしていた人へと向き直った。 「……只今帰りました。  統様」 「はい、お帰り。  今日もご苦労さん」  どことなく眠たげな目元を和ませて、その女性――湊斗家の長、〈湊斗統〉《みなとすばる》――が微笑む。  二十年、見続けてきた笑顔だ……色彩の移り変わりは様々に有るにしても。  今はやや、疲労の色が濃い。  俺を〈労〉《ねぎら》ってくれるのは嬉しいが、自分の身にも配慮して欲しかった。 「……あまり、面白くないお話でしたか」 「んー。そう見えるか。  息子の目は誤魔化せんね」  後ろ頭を掻きながら視線を外し、白い女性は呟いた。  その手が懐を探り、すぐ紙の小箱を取り出す。  無意識に近いような動きで俺もポケットに手をやり、マッチ箱を取り出して手早く火をつけた。  この〈養母〉《はは》のために持っているようなものだ。 「ありがと」  俺の差し出した火に煙草を近付け、一息吸って煙を吐く。  心地良さげだった。 「あー……生き返る。  本家の前じゃ吸えないからねー」 「短い禁煙、お疲れ様です」 「むぅ。可愛くないことを言ったな。  景明も付き合いなさい。一本でいいから」 「はい。  では、一本だけ」 「よしよしいい子だ。  〈亭主〉《あいつ》はわたしがこう言っても頑として受け付けなかったからなー」 「吸ったら病み付きになるのが分かっているから、吸わない……とのことでしたね。  あの人らしい言いようです」  煙草を受け取って口に咥える。  そうして、火を点けようとしたところで――いつの間にか間近にあった養母の顔と目を合わせた。  その目は笑っている。  咥えた煙草の先端が、俺の煙草に接していた。 「……」 「……」  ……この養母は、こうした悪戯を好む。  困り物だった。  養母が離れるのを待って、火のついた煙草から香気を吸い込む。正直、〈味〉《・》はわからない。  だが苦痛という程ではないし、断ると養母が拗ねるので、勧められた時には拒まないようにしていた。  それに、疲労を抜く効果は確かに感じられる。  俺は煙を吐きながら、大きく嘆息した。 「例の連中の件だったんだけどね」 「はい」 「本家はとにかく押せ押せの一点張り。  あんな奴らをのさばらせておいてはこの町の沽券に関わる……とまあ、こうだ」 「町に沽券なんてあんのかねえ?」 「……まさか」 「ん~」 「それを、御本家の前で?」 「言っちゃった。  いや、つい」 「……その場にいなくて良かったと思います」 「まあ、向こうももう慣れてるから。  別に血管切れるほど怒りはしなかったよ」 「雷は落ちたけどね。  耳塞いで寝てたらそれもすぐ収まったし」 「……」  あの、平素に輪を掛けて険しかった目付きはそれが原因か……。 「……それにしても」 「ん?」 「御本家は、本気なのでしょうか。  奴らを実力で排撃するなど」 「さてね。半々じゃない?  町の人間に弱気な姿勢は見せられないってのも半分はあるだろさ」 「では、実際に踏み切ることはありませんか」 「と思うんだけどね。  やるやるって言い張ってるうちに、引っ込みがつかなくなるって可能性もあるなぁ……」 「町のみんなは本家の葛藤までわからないからね。本家の言葉はそのまんま受け止める習慣が身についちまってる。  今はみんな中立か、消極的反対だけど――」 「そのうち御本家の語勢に負ける格好で、賛成を口にし始める可能性が無きにしも〈非〉《あら》ず。  ……ですか」 「そうそう。そうなったら馬鹿馬鹿しいね。  本当は誰も望んでないのに、無謀な〈戦〉《いくさ》を始めなきゃならなくなる」  あー馬鹿馬鹿しい、と繰り返してから、養母は空に向かって嘆息した。  綺麗に輪を描いた煙が一瞬だけ虚空を飾り、すぐに消える。 「……そんな事態は避けたいものです」 「うん。お母さん頑張るよ。  ま、わたしが防波堤になってる間は町の皆が転ぶこともないだろさ。本家が恐いたって、矢面に立たされなけりゃ知らんふりできるし」 「夜に会合があるとか」 「踏ん張りどころだねー。  カミナリがわたし以外のところへ飛び火しないようにうまくやんないと」 「自分に何かできることは無いでしょうか。  統様をお助けするために……」 「その台詞だけで母さんモエルから大丈夫。  ま、とりあえずは力つけとこうか」 「飯にしようよ。  風呂が沸いてるから、汗を流しておいで」 「はい。  ……光の食事は?」 「眠ってるみたいだからね……  起きるのを待とうか」 「無理に起こすのも良くないだろうし」 「はい……  そうですね……」 「…………」 「…………」 「……あー、我が子たちよ。  キミらなんで、箸を持ったままぴくりともせず見つめ合っとんのかね?」 「いえ……」 「別に何でもありません。母上。  どうかお気になさらず」 「すいません。すっごく気になります。  気になって、わたしまでごはん食べられません」 「御迷惑を」 「おまえはどしたの、景明」 「は……  その、光の視線が……先程から」 「…………」 「……一挙手一投足を逃さねぇーって目だな。  血を分けた娘ながら野獣にしか見えん」 「おーい。そこの花も恥らうお年頃な少女ー。  その暗黒闘気は一体なんなんだよ」 「何でもないと言っているでしょう。  構わず、さっさと豚のように食らって牛のように寝て下さい」 「……ますます食えないだろ。  ん? あー……もしかして、そういうことか?」 「統様?」 「いやね。  今日、久しぶりにこの子が料理を手伝って、その――」 「……母上。  食卓での口はお喋りではなく、食事のためにあるものです」 「無駄口は慎まれたが宜しい」 「ひっ、ひぃ……!  かっ、かっ、景明っ、わた、わたしの首っ、ちゃっ、ちゃんと……つ……ついてるっ?」 「はい。無事です。  流石は統様……今の一撃をよくぞ躱されました。往年の〈鋼鉄巫女〉《はがねみこ》は未だ健在のご様子」 「そんな感心してなくていいから息子よ!  もう少しこっちへ寄りなさい。そんでまたあの芝刈機みたいな手刀が飛んできたら母を守るように。何度も避けられるかあんなの!」 「……申し訳ありません。無理です。  自分にはそもそも指先が見えませんでした」 「ひぃぃぃぃ……  なんでこんな恐ろしいナマモノになっちゃったんだこの娘はぁ……」 「母さん、家庭内暴力の恐怖に屈しそうです。  DVってこーいうのか?」 「景明。  二人きりの食卓だからといって、変に気を遣う必要はない。早く食べるといい」 「二人?」 「あれ……わたしハブられてる……」 「二人だ。  もし、〈いもしない〉《・・・・・》三人目がどうしても気になるのなら言え。質量保存の法則を無視してでも、この宇宙から完全に抹消してやろう」 「すみません。もう黙って食べます。  わたしいませんから……母さんここにいませんから……」 「……」 「さあ、景明」 「うむ……」 「…………」 「…………」 「景明。迷い箸は行儀が悪いぞ」 「俺もやりたくてやっているわけではないのだが」 「何か取ろうとするたびに視線の十文字槍が突き刺さるからああなってんだろ……」 「何やら煩い虫ケラがいるな? 潰すか」 「母親に対する言葉じゃない……」 「……」 「あー、景明。  このままだと飯が冷めていく一方だからな。とりあえず、その煮魚から食え」 「煮魚?」 「それ」 「……あ。煮魚でしたか。  形崩れして、原形を留めていないので何か全くわかりませんでした」 「どあー!  今のは矛先違うんじゃないか娘よ!」 「黙れ、母上」 「うわーん! こんな殺伐とした親子関係はいやだー! もう実家に帰るぅー!」 「ここです」 「逃げ場ねぇー!」 「景明」 「う、うむ。  では頂きます」  もぐもぐ。 「……ん?」 「…………」 「おや……うむ。  見てくれは良くないが……この煮魚」 「……」 「旨い。  いつもの味付けとは少し違うが……これはこれで、なかなか」 「そうか!」 「え? ほんとか景明?  無理するなよ。駄目そうだったら戻してもいいぞ。こんなこともあろうかと思ってほら、母さんちゃんと桶をここに」 「……?  統様は何処へ行かれた?」 「手洗いではないか。  気にしてやるな」 「今の、どぼーんという音は……  あたかも豪快に吹っ飛ばされた人間が裏の沢へ落ちたかのような……」 「蛙か何かだろう。  さ、気にせず食え」 「うむ……」 「…………」 「うん。やはり良い味だ。  少し変わっているが、そこがまた面白い」 「そうかそうか……」 「有難う、光」 「……」 「な、なんだ?  唐突に」 「お前が作ったのだろう?」 「……わかるのか?」 「ああ。  統様の〈気配〉《・・》が無かったからな。この皿だけは」 「…………」 「味をみて、違うと確信した」 「だが……食べもせぬうちにそれがわかったのか」 「ああ。  統様の気配の有無は、何となくだがわかる」 「……」 「さて。早いところ食べ終えてしまおう。  このままだと本当に冷める」 「光、お前も」 「ああ……」 「どうした」 「いや、何でもない!  食う!」 「む……うむ。この味か。  この味が景明の好みなのだな?」 「そうだな……五月蝿いことを言えば、もう少し締まった味付けの方が好みだが」 「締まった味付け……難しいことを云う。  詳しく教えてくれ」 「うむ。つまり――」 「ふむふむ――」 「……子供たちよー。  その和やかで幸福な団欒は、母の尊い犠牲の上に成り立ってることを忘れるんじゃないぞー……」 「……んー?  どうかした、景明」 「あ……  いえ」  我に返る。  ふとした拍子に、心が追想へ飛んでいたらしい。  養母と二人きりの、静かな食卓。  〈ここ〉《・・》が現実だ。  これにあと一人を加えただけの――しかし段違いに賑やかな食卓は、既に遠い。  過去の世界にしかないものだった。 「……」 「……」  特に、交わす言葉はない。黙々と食べるだけ。  一年前……この食事風景が始まった頃は、こうではなかった。  俺も養母も、耳に痛い沈黙を嫌い、話題を探してはひっきりなしに舌を動かしていた。  長続きはしなかった。無理に沈黙を遠ざける虚しさに気付くまで、さしたる時間は要らなかったから。  それからは、ずっとこうだ。  頭を卓上へ押し付けるような重い静寂に耐えながら、機械的に料理を口へ運ぶ。  奇妙に落ち着かない気持ちは、養母も同じだろう。  この沈黙は厭わしい。  だが、この沈黙に続いて欲しくもある。  〈二律背反〉《アンビバレンツ》、などといっては言い過ぎかもしれない。  俺も養母も沈黙への嫌悪よりはるかに強い恐れを、沈黙が破られることに対して抱いている。  なぜなら、それは―― 「!!」 「……」  障子が蹴り飛ばされた時に響く、〈聞き慣れた〉《・・・・・》騒音。  それを聞くと同時に、俺は立ち上がり、駆け出していた。 「光……!」 「キッ、カ――――――――――――」  壊れた楽器のような叫びを喉奥からかき鳴らしつつ、のたうち回る身体。  それに飛び付き、押さえ込む。 「光……  駄目だ、暴れるな……!」 「キ――――――――――」  俺の身体の下で、痩せて固い光の身体がもがく。  だが決して、力ずくで押さえ込んではならない。  無理矢理に押さえれば、暴れる光の逃げ道を失ったエネルギーは、すべて己の身体へと帰ってしまう。  今の光の肉体は到底、それに耐えられない。  全身の骨が砕ける。  きっと、安物の陶器よりもあっけなく。 「光、駄目だ、頼む!  落ち着いてくれ……」 「光……  頼む……」  光の答えは意味を成さない奇声だけ。  わかっていることだ。  俺の言葉は、光の心に届かない。  それでも呼びかけはやめられなかった。  神への祈りが届くことを信じるように、妹が聞いてくれることを信じて、声を掛け続ける。 「光……  おとなしくするんだ……」 「……」  黙って入ってきた養母が、俺の傍らへ座る。  遅れた理由は、手に抱えているものを用意していたせいだった。  井戸水で満たした桶。  それで手拭を絞って、養母が光の額へあてる。  暴れ回る光には、それも容易ではなかった。  嫌がってなのか、首を振り回そうとする――致命的な勢いで――それを危うく、俺の両手が柔らかく食い止める。  その隙に、養母は濡れ手拭で娘の顔をさすった。  繰り返すうち……少しずつ、少しずつ。光の狂乱が収まり、小刻みな痙攣へと移行してゆく。  この間、俺と養母は一言も言葉を交わさなかった。  そんな必要もない。この分担作業は既に日課も同然で、身体が覚え込んでいる。  一年前から――  本当に、毎日のように。  神那川という河川があった。  その上流には鉱山と、併設の金属加工工場があった。  それが全ての元凶だった。    ……彼らは未だその事実を認めていないが。近隣の住民はもはや誰もがそう確信している。  ある日、魚を食べた老人が狂った。  狂って、暴れて、車に轢かれて死んだ。  恐ろしいこともあるものだと、皆口々に言い合った。  三日後、魚を食べた一家が狂った。  父は土間で頭を打ち、母は井戸に沈み、五歳の子供は保護されたもののやがて舌を噛んで死んだ。  こんな偶然もあるのかと、皆厄払いの仕草をした。  一ヵ月後。  そこら中で魚を食べた人が狂っていた。  ようやく皆は気付いた。  神那川の魚を食べた者が、狂って暴れて死ぬのだと。  鉱毒病だ。  金属を精錬する過程で生ずる良からぬものが、河川へ流され、魚の口に入り、それを食べた人の胃の腑へ落ちるや、毒の正体を顕して全身を冒す。  不幸にして――その訳を思えば幸運にもと言わねばならないのか?――大和では研究の進んでいなかった恐ろしい病が、この土地に現れたのだ。  辺りの町村は上へ下への大騒ぎになった。  魚貝という魚貝を捨て、こうなった原因に思い至り、集団で工場へ押し掛け、工場は門を閉ざしてマスコミにのみあれやこれやの言い逃れを発表し――  だがそんな騒ぎも俺には遠かった。  真実が明らかになる寸前に、他ならぬ妹が犠牲者の列に加わってしまったからだ。  以来、この日々が続いている。  光は寝たきりになり、毎晩のように発作を起こし、それを宥め、どうにか眠らせ、妹が今日を生き延びたことに感謝し――  それでも翌朝、前の朝よりも皮一枚分衰えた光の顔を見て溜息をつく。  そんな毎日。  医者には診せた。幾人もの医者に。  だが成果といえば、骨の組織が毒素に侵されやがて腐り、その常軌を逸した苦痛が精神を狂乱させるのだろう――という、症状についての推論のみ。  結論は皆、同じ。  ――我が国の医者の手には負えない。  西洋の医者に診せねば駄目だ。ブリテンやハプスブルクの医者ならこの種の病の臨床経験も多い。  ――西洋の医者に…… 「……」  未だ奇声のやまない光の口元を見つめながら、思う。  それができるものならば、と。  いや――  決して、できないことではないのだ。  金と権力。  西洋の高名な医者を、半ば戒厳令下にあるこの大和に招くため必要な……その二つがありさえすれば。  あては、ある。  何度となく、あたってもいる。  だがその結果は……  昨日と何も変わらない今日の光景がそれだった。 「……統様。  寄り合いの時間なのでは」 「あー……うん。  またにしてもらうか……」 「今日でなくちゃいけないわけでもなかろうしね……」 「いえ。この状態になれば、後は自分一人で手が足ります。  統様はどうぞ会合へ」 「ん……」 「あちらとて、急ぎの問題の筈です」 「あー……そうかぁ。  やれやれだ」 「すまないね、景明。  じゃあ頼むよ」 「はい」  手拭を俺に預け、養母が立ち上がり部屋を出てゆく。  遠ざかる足音は、憂鬱げだった。 (統様も、少し痩せられた)  そう思う。  思っても、回復させる手立ての見当たらないことが辛かった。  原因が心労にあるのは明らかなのだから。  俺がこうやって光の暴乱を押さえつけなくとも良くなる日が来るまで、あの人の健康は回復しないだろう。  光の発作は、手足が畳をばたばたと打つ程度にまで落ち着いている。もう少し待てば布団に寝かせられるようになると、経験で知っていた。  しかし、まだ油断はできない。  こんな軽い動きでさえ、光の骨格にとっては充分に危険なのだ。  気を抜かず、穏やかに抱え込むようにして光の痙攣を受け止め続ける。  それは〈柔〉《やわら》の技だった。  幼少時から叩き込まれた技術の一つが、こんな形で役立っていることに……俺は感謝すれば良いのか皮肉がれば良いのか、未だによくわからない。  使わずに済めばそれに越したことはなかった。  だが使えるお陰で妹が生き長らえているのは事実。  この病に、鎮静剤の類は効果が薄い。  効果を上げようと思えば薬を強くせねばならず、副作用も強くなり、短期的にはともかく長期的にみれば逆効果にしかならない。  回復の希望を捨てないなら、光を薬漬けにする選択は考慮の外だった。  ただ一日一日を生き延びさせたいならそれでも良いだろう。だが俺は、光を寝床から起こしたいのだ。  全快は望めなくとも……  もう一度、立って歩けるようにしたい。 (あの御方を説得せねばならん)  改めて思う。  丁度、広間の方から怒声が伝わってきた刹那だった。  〈カミナリ〉《・・・・》が落ちたらしい。  その半分程度の声量で受け答えしているのは養母だろう。他にも列席者は何人といる筈だが、黙っているのか小声でしか喋っていないのか、全く聞えてこない。  激しい応酬は遠く、内容は不分明だ。  しかし養母が矢面に立っているのなら、それはあの人の目論見通りではあるにに違いない。心配する必要はなかった。 「クッ、クク――――――」 「……ッ」  注意を逸らしたのが不味かったのか、それとも単に発作の〈波〉《・》が来たのか。  また少し、光の挙動が怪しくなる。  俺は再び、柔の技の実践に没頭した。  恐ろしい痙攣が治まるまで…………ずっと。  光が眠りについたのは、午前二時だった。  身支度を整え、養母に挨拶。  それから光の部屋を一度覗く。  出勤前に踏む、いつもの手順だった。 「……光」  反応など望めないのは承知で、呟く。  彼女に俺の声が届かないのは発作の時もそうでない時も変わらない。  朝の光の下で見れば、尚更にその姿は無惨だった。  闘病の日々で少しずつ薄くなった肉体は、今は骨と皮ばかりになっている。  色艶を失くした髪は枯れ草のようだ。  歯も、だいぶ抜けてしまった。  濁った両の瞳はただ、天井を眺めている。  うぅぅ、うぅぅという喉からの微かな唸り声がなければ、死者と見違えても不思議のない姿だった。 (……戯け……)  不吉なことを思った己を〈詰〉《なじ》る。  光は確かに生きている。生きているのだ。  その力を信じなくてはならない。  光の、生き続ける力を。 (帰りにあちらへ寄って、またお願いしよう)  脳裏で一日の予定を組む。  そうして、俺は家を出た。  夕方と同じほどに、朝方も人出は多い。  ただ出歩く人間の〈多様さ〉《バリエーション》は夕方ほどではなかった。大半は学生か、俺のように働きに出る男だ。  傍らを、女子学生の一団が小走りに駆け抜けてゆく。  遅刻間際なのだろうか。  その内の幾人かには、見覚えがあった。  名前までは知らない。だが少しばかり、口を利いた記憶がある。  あれは……  いつの事だったか。 「光さまっ!  あの、この手紙を受け取ってくださ」 「〈体位〉《タイ》が曲がっておるわ!!」 「……今のは?」 「知らん。この光を冥府魔道に引き込もうと図る邪教の輩であろう。  あんな誘惑には断じて屈さぬから安心するがいい、景明」 「うむ。  ……なぜ俺が安心するのか良くわからんが」 「あ、光サマと兄君だ。  おはよー」 「お早うございます」 「おはよう。  サマ言うな」 「今の子、新顔だよね。  これで何人目? あんたのせいで白い花の修羅道に堕ちちゃったのは」 「いちいち数えてるか、そんなもの。  あと、おれが原因のような言い方をやめろ」 「原因がどっちかと言えば、それはあんたの方だと思うけどなぁ……」 「納得がいかぬ。  おれの何が悪いというのだ」 「何がってその喋りが……  や、そんな端的な問題じゃないなぁ」 「あんたの全存在が問題」 「どうしようもないじゃないか」 「でも、そうだし。  ねぇ」 「はぁ」 「景明に同意を求めるな!」 「あんたはフェロモンを発してんのよ。  夢見がちな女の子を惹きつけてしまうような……」 「あたしも時々感じるし、それ」 「……」 「距離を置かないように。  大丈夫大丈夫。安心して」 「あたしはお兄さん狙いだから」  ぎゅっ。 「あの」 「お兄さーん。  若い女の子は好きですかー?」 「――」 「なんの!  正確な攻撃は、来るとわかっていれば避けるのも容易いかもしれない!」 「勝ち誇るのは三十秒後まで生き延びてからにしておけ〈罪人〉《アフェンダー》!  景明を誘惑したその身体特に首の下腹部の上の忌々しい物体究極許さぬ!!」 「はっはー!  ここまでおいでってなもんだー!」 「貴様ぁ! 逃すか!  景明、ではここで。いってきます!」 「行ってくるように。  走るのは良いが、車には注意する事」 「諒解!」 「……〈長足術〉《はやがけ》まで使わなくとも。  相手は陸上部か? いい勝負だな……」 「……」  彼女らは俺に気付きもしない。  笑い合いながら、駆け去っていく。  世界が違うのだと、そう思った。  彼女らには彼女らの世界。こちらは、俺と光のいる世界。  その間には壁が立ちはだかっている。  視線は通っても、心はもう通わない。  楽しげな――遠い光景から目を離して、俺は会社へ向かった。  ……しまった。    時計を見て、胸中に不覚を呟く。  〈一瞬前〉《・・・》に見たときより、約二十分進んでいる。  つまりはそれだけの時間、何もせず、意識をどこかへ飛ばしていたということだ。  寝不足が祟っている。  ほんのわずか気を緩めるだけで、俺の精神は〈舫〉《もや》いを外された船よろしく海を漂ってしまうようだ。  部長らが俺の醜態に気付かなかった筈はないだろう。  それでも起こされなかったのは、気を遣われたからに他ならない。  彼らも俺の家庭事情は知っている。  知って、何それとなく配慮をしてくれる。  それは有難かったが、しかし甘えられなかった。  給料を貰っているのだ。その分の仕事をする責任が俺にはある。  この時世、辛いのは何も我が家だけではない。  どの家庭もそれぞれの労苦を抱えている。会社とても同様だ。  自分の所の苦しみだけを押し立てて、よそへ負担を回し付けるが如き真似は、厚顔無恥というべきだった。  自省せねばならない。 「申し訳ありません、部長」 「ん、いや。気にするな。  疲れてるんだろ」 「業務に差し障りがある程ではありません。  今は気が緩んでいました」 「今後は気をつけます」 「うん……」  部長が不安げに頷く。  その不安が俺の仕事の進捗に対してのものなら気も楽だったが、そうでないのは明らかなだけに心は重くならざるを得なかった。  人に気を遣わせるという事は、かくも苦しい。  これは恩知らずな言い草というものかもしれないが。 「先輩、お茶どうぞ」 「……すまない。  頂く」 「そんなに気張らなくても大丈夫ですよー。  今は忙しい時期でもないですし」 「フフフ……  わたしなんて、今日で三日連続遅刻です。記録更新なのですよ」 「……お前はもう少し気張れ。  あと、減給」 「えー!?  そ、そんなぁ……今月は……待ちに待った、劇団☆超感染の新作公演があるのに……!」  くらりとよろめいて、窓枠へ手をつく同僚社員。  思わず苦笑する。  ……結局、何が悪いかと言って、深刻に考え過ぎるのが一番悪いのかもしれない。  俺は頭を軽く振って気を取り直すと、改めて手元の書類に向かった。 「…………」 「どうした田中。ぼーっとして。  そのうち給料がゼロになるぞ、そんなことしてると」 「部長」 「……ん?」 「〈あいつら〉《・・・・》です」 「……」 「……」  かりかりと小気味良い音を立てて踊っていた部長の鉛筆が急停止する。  俺は椅子を引いて、立ち上がった。  窓の外を凝視している同僚の傍へ寄り、視線の行先を追う。  会社の玄関前に、人の一団があった。  それだけならば、商品の搬入作業と見間違えたかもしれない。  だが群れた人々が悉く剣呑な表情をし、それ以上に剣呑な気配の漂う筒状あるいは棒状の道具を手にしているとなれば、断じてそんな筈はなかった。  彼らの道具は、一般的には銃火器や刀剣と呼ばれる。  つまりは武装した一団が、会社の前に出現していた。  その付近には数人の社員の姿が見える。が、対応をしかねている様子だった。  事態の意味がわからないから、ではない。  その逆だろう。彼らが何者で何を求めて来たのかは、わかり過ぎるほど良くわかっている。  彼らは、山賊だ。  その出自について、確かなところは誰も知らない。  だが、推測は容易くできた。  実の話、この手の武装略奪集団は今の大和において珍しい存在だとは言えない。  溢れている、とさえ言えたかもしれない。  六波羅幕府の内外で吹き荒れる権力闘争の嵐は当然、闘争の回数と同じだけの敗者を産み落とした。  彼らは地位を奪われ、政治の舞台から退場する。  だがその退場が現世から黄泉への退場をも意味するかといえば、必ずしもそうではない。  多くの場合その二つはセットだったが、中には粛清の刃を逃れ、再起を期して野に潜るような者もいる。  彼らには彼らなりの信念があったのかもしれない。  だが市民層にとってみれば、彼らが潔い死を選んでくれない事ほど迷惑な話も他になかった。  何故なら彼らは、再起を期す――少なくともそう主張して一族郎党を繋ぎ止める――以上、武器を捨てる筈がなく、武器を手にしている以上、市井に混じってまっとうに日銭を稼ごうなどと考えられる筈もなく、  結果、一日一日を生きるための手段として、武力を背景に市民から物資を奪うという道へ至るからだった。  本人らの主張は兎も角、傍からは盗賊団以外の何とも呼べない集団がこうして誕生する。  幕府の目が届きにくい、余り都市化の進んでいない地方はしばしば彼らの根城とされた。  つまりはこの町も、そうしたケースに当てはまってしまったのだ。  無論、幕府には連絡し、対応も乞うた。  だが、梨の〈礫〉《つぶて》であった。  別にこの手の賊兵に対して幕府が寛容主義を貫いているという事実はない。討伐は行われている。  だが幕府の戦力は有限であり、それは当然、危険度の高い敵に対して優先的に向けられる。  大兵力を有したまま下野した者、人望のあった者、海外勢力と繋がりのある者などが、迅速な討伐の対象となった。  この町に出現した彼らはそうではない。  どちらかといえば小規模な部類だった。  しかし、田舎町を完全に萎縮せしめるだけの戦力は持っている。  六波羅の注意は引かないが、山賊をやるには充分。  ……考えようによっては、最も始末の悪い賊集団に当たってしまったのかもしれなかった。  幕府が比較的安定し、軍が暇を持て余しているような時期であれば、こんな町にも駆除部隊が派遣される可能性はあったろうが。  生憎と、今現在は違う。  堀越公方〈足利守政〉《あしかがもりまさ》が鎮守府将軍岡部頼綱と手を結び、大将領足利護氏打倒の兵を挙げる――  そんな噂が広まり、しかも守政は釈明の努力をしなかったため、鎌倉中央は神経を尖らせていたのである。  篠川、小弓、古河の三公方府、そして鎌倉の中央軍は堀越の挙兵に備えた警戒態勢下にあり、取るに足らない小賊の討伐どころではなかった。  いくら要請を出そうと通る筈がない。  そういう次第で。  町付近の山を占拠した彼ら山賊団は、時期外れの春を謳歌するのだった。 「……とまあ、こんなところだ。  すぐに用意して貰おうか?」 「い、いや……そう言われましても。  それだけの品を持っていかれてしまっては……我が社の経営が立ち行かなく……」 「そーかぁ。  ならどうする? オレらと戦う?」 「戦って今ここで会社潰す?」 「それは……  そんな……しかし」  引き篭もってしまった社長に代わってやむなく応対に出た部長の立場は、全く同情するほかになかった。  銃口をちらつかせる、まともな交渉など望むべくもない相手と辛抱強く対話せねばならないのだから。  交渉が一応、対話の形になっているのは、相手側にこちらを嬲る意図があるためでしかない。  利害調整の意図などは皆無だった。盗賊なのだから、当たり前だが。  とはいえ実のところ、俺はそうまで深刻な――会社が致命的な損害を受けるとまでは――危機感を抱いていなかった。 「せ、先輩……どうなっちゃうんでしょう」 「どうにもならない。  いや、相応の物資は供出せねばなるまいが」 「で、でも、なんかとんでもない要求をされてるみたいですけど……  あぁぁ、このままだと給料どころか失職のピンチに」 「従業員の一斉賃金カットは覚悟しておいた方が良さそうだが、その程度で収まるだろう。  あれはヤクザの手口だ」 「え?」 「彼らは町の経済に寄生している。  経済が破壊されるほどの打撃を町に与えれば、彼ら自身の進退が窮まる理屈だ」 「過大な要求をしているのは、この後で提示する本当の要求を無抵抗に受諾させるための布石に過ぎない。  そろそろ譲歩するだろう」 「そ、そうでしょうか……」 「過去の例からみてもほぼ間違いない。  彼らは無軌道な暴力集団ではなく、理性的に統率された組織だ」  同僚は疑わしげであったが、俺は彼らの中の一角を見ていた。  軽装甲車の脇で、その人物は〈単輪自動車〉《モノバイク》を〈空吹き〉《アイドリング》させている。  南方戦線で兵役に従事していた頃、幾度か目にした機体――騎体だった。  大和陸軍の〈九〇式竜騎兵甲〉《キューマルドラコ》。  劔冑だ。  つまり、バイクに跨るあの女性は武者。  この集団の頭株に違いない。  その貌に張り付いた侮蔑の笑みは他の賊兵らと同様だが、一点違うのは、武力による威嚇行為に酔っていない所だった。  落ち着いて、部下の交渉を眺めている。  それも、頃合良しと見たのだろう。  明らかに合図の意図をもって、一際大きく〈排気〉《エグゾースト》する。 「……ち、貧乏くせえ連中だ。  仕方ねえなあ!」 「じゃあこれと、これだけ用意しろ。今日のところはそこまでにまけといてやるよ。  感謝してくれよな。全然足りないんだぜぇ、こんなんじゃ!」 「は、はい。有難うございます。  すぐに用意しますので……!」  気が変わっては大変と、部長がすぐさま商品倉庫へすっ飛んでいく。  その背を打った山賊たちの会釈無い笑いは、容易く手に乗った部長の浅慮を嘲ったものなのであろう。  実際は、部長は愚かな人間ではない。  俺が同僚に呟いた程度の事は容易に見抜けるだけの知性の所有者だ。  が、武器を持った人間を前にして知力を鈍らせずに済む人間というのは圧倒的に少数派である。  俺とても、彼らの矢面に立たされていたら、賢しく推理を巡らす余裕など無かったに決まっていた。  部長は貧乏籤を引いたとしか言いようがない。  この後、逃げを決め込んでいた社長にも詰られる事になるだろう。  せめてその際には、弁護役を務めたいものだが…… 「……!」  そう思いつつ部長から山賊らへと戻した視線を、俺は慌てて伏せた。  偶然、こちらを見回していた頭目の眼差しと鉢合わせしてしまったからだ。  相対した一瞬の間に、いくつかの印象を覚える。  高慢、底意地の良くなさ、意外に清潔な容貌、力への過信――大半は〈負〉《マイナス》の方向のものだった。  幸い、向こうはこちらの事など気にも留めなかったらしい。  臆病な態度を嗤うように鼻を鳴らしだけして、すぐに注意が離れてゆくのを感じた。  安堵の吐息をつく。  絡まれなくて済んだのは幸いだった。争い事は生来、どうも好きではない。  増してこのような手合いとの争いは。  嘲笑を浴びるだけで済むなら、安いものだ。  部長が手近な人間を集めて物資の運び出しを始めている。  手伝うため、俺もそちらへ向かった。  作業は捗りそうだった。  皆の顔を見ればわかる。彼らを手早く追い払うにはそれが最善だと、俺のみならず誰もがそう悟っていた。  〈皆斗〉《みなと》家は五百年間に渡ってこの土地に君臨してきた氏族だ。  元来は武士であり、一帯を所領としていたが、徳川氏による天下一統と前後して帰農。  しかし大地主として事実上の支配力は保持し続け、現在にまで至っている。  湊斗家はその分家にあたる。  が、概して相続問題の収拾の結果として生じる一般的な分家族とは、やや性格を異にすると言わねばならない。  発祥は五百年前、つまり皆斗本家の登場とほぼ時を同じくする。  そもそも皆斗家は朝廷より勅命を受け、〈あしきもの〉《・・・・・》を封じるためにこの地へやって来た一党であった。  彼らはその具体的手法として、一族を分けて別家を建て、〝〈邪〉《あ》しきもの〟を鎮める祭祀を行わせ、本家がそれを警護及び監視する――という形をとった。  〈即〉《すなわ》ちその別家が、湊斗家である。  このような祭祀に特化された家系は、血統の純潔を重視し、親族婚を重ねる例が少なくない。  湊斗家において、それがまさしく正逆になったのは、役目として鎮守するものが悪害であったからだろう。  湊斗家の当主は代々女性が務め、必ず外の土地から婿を迎えて後裔を残した。  常に他所者の血を加え続けることで、湊斗家を異類の存在とし、抱える厄災もろとも隔離したわけである。  屋敷地が常に里から離れた場所に置かれたことも、理由は等しい。  湊斗家は高い地位を認められながら土地に溶け込むことを許されず、敬して遠ざけられる立場にあった。  ……だがそれも、形骸化して久しい。  伝統的支配層の常として頑迷なまでに保守的である皆斗本家が手配りを怠らず、そのため〈形骸〉《かたち》は維持され続けているものの、町の人々の意識は既に過去と違う。  大半の人は湊斗の家を、ちょっと変わった〈お宮さん〉《・・・・》程度にしか見ていなかった。  でなければ山賊問題に際して、強気な本家への抑止役に養母が持ち上げられることもなかったろう。  それは多分に、姉御肌と呼ぶべき養母の性格のせいでもあったろうが。  何にしろ、本家にしてみれば幾重にも面白からぬ話に違いない。  だから会いに行くにあたり、それなりの覚悟はしていた。 「考えてもみよ。  奴らは正規兵崩れではあろうが、数は百にも届かぬ。町の男どもが集い、不意を襲えば、勝てぬ道理などあろうかよ」 「は……」 「それを統めは人死にが出るの、割りに合わないのと言いおって……  まさしく女の言辞よな。一命を賭してでも守るべき誇りがあることを、知ろうともせぬ」 「……」 「景明!  貴様もそうは思わんか」 「……はっ。  自分如きには、何とも」  ……覚悟はしていたが、実際にこうなってみると、やはり対応に窮するものがある。  俺は嘆息を肺の奥へ隠しつつ、〈眇〉《すがめ》で時計を確認した。実りないまま、来訪より既に一時間が経過している。  話は本題に触れてさえいない。  本家にとっては兎も角、俺にとっての本題には全く。  やにわに用件から切り出すのも無作法な話であるし、それにどうせ避けられぬ話題ならと、こちらから山賊の一件を持ち出してみたのだが。  どうも後悔すべき選択をしたらしい。 「わからぬはずはなかろう!  貴様は御国の為に戦地へ赴いた身ではないか。武功を挙げられなかったのは残念だが、金で兵役を逃れた酒屋の糞餓鬼などとは違う」 「知っておるぞ。統は兵役免除の手続きをしようとしたが、貴様が拒んだのであろう。  その一件を聞いて以来、儂は貴様のことを見込んでいるのだ」 「恐縮です」  ……単に、そこまでの世話は養家に掛けられないと思っただけなのだが。  どうも誤解があるようだ。  狷介で知られるこの人が、一年前に光が倒れて以来度重なっている俺の訪問を、歓迎はせぬまでも門前払いにもしない理由がそこにあると思えば、その誤解を解いてしまうわけにもいかない。〈些〉《いささ》か心苦しかった。 「貴様を養子に取った明堯にも、ふむ、見る目くらいはあったのだろうな。  聞けば、貴様の実の親は義勇兵として大陸へ赴き、壮烈な戦死を遂げたとか」 「はい。  そのように、聞いております」 「南蛮の血筋とはいえ、御国より受けし恩を忘れず、一命を捧げたは天晴れである。  貴様の身体にもその父母と同じ血が流れているのだ」 「……」  これにはどう答えて良いかわからず、目礼だけする。  養父が俺を引き取るに際し、最も反対したのは目の前の保守的老人だと、誰からともなく聞き知っているだけに反応の〈術〉《すべ》がない。  だが本家は自己の強硬論を補強するために、事実を捏造して今更俺の両親を持ち上げたわけではなかった。  この俺に血肉を与えたのは、確かにそういう人々であったらしい。  長崎鳴滝の人である。  つまりはネーデルラント市国の人間であり、厳密な意味では大和人と言えない。  外暦一八〇〇年代初頭、欧州全土を巻き込んだナポレオン戦争の中で、〈蘭王国〉《オランダ》は〈大英連邦〉《ブリテン》に踏み潰され、地上から消滅した。  戦争終結後も、国土回復は成されなかった。  行き場を無くしたオランダ人の窮状は、徳川宰領府もすぐに知るところとなった。  開府以来の長きに渡る国交を鑑み、これを看過するは国家の信義に背くと結論、  当時の国際港でありオランダ人にも馴染み深かった長崎近郊の土地を開放、居住地として提供した。  アジア各地の商館で進退窮まっていたオランダ商人、外交官らが殺到したのは言うまでもない。  その土地はネーデルラント市国と名づけられ、徳川宰領府と大英連邦に非好意的ないくつかの国からのみ、独立国としての扱いを受けた。  爾来、百年。  長崎鳴滝村の小国家は、オランダの亡命政権とでもいうべき発祥時の性格を徐々に変え、大英連邦の支配から脱した欧州人の駆け込み寺のようになっていた。  俺の祖先も〈駆け込んだ〉《・・・・・》口だ。  聞いた話では、祖父の代に〈新大陸〉《ネオ・ブリテン》から渡って来たのだという。  おそらくは、第二次新大陸独立戦争の敗残兵だったのだろう。 〝〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》〟を〈女帝〉《ブリテン》の〈軛〉《くびき》から解放せよ――  今も新大陸で密やかに叫ばれているという合言葉を、祖父も口にしたのではないか。  ……実の親族の事は、どうにも曖昧になる。  俺が生家の姓――大和への帰化を志した家祖が本来の英語姓を和風に〈改変〉《アレンジ》したもの――を冠し、〈改次郎〉《あらたじろう》と名乗っていたのは生後ほんの数年ばかりに過ぎない。  およそ二十年前、〈改〉《アラタ》家の父と母――二人とも大和人の血をも濃く備える〈混血〉《ハイブリッド》であったそうな――は、幼児だった俺を残し、大陸戦線に身を投じて戦死した。  これは長崎鳴滝の人間として珍しい話ではない。  流亡の身を迎え入れてくれた大和の恩に報いる想いが強かったのだろう。欧州からアジアへと支配の網を広げてゆく大英連邦に対する復仇の意欲もあったろう。  長崎鳴滝の成人は男女問わず多くが大和軍に参じた。  また、市国内で結成されたネーデルラント騎士団に加わる者も多かった。  これは四年前――先の大戦末期に九州最前線へ出撃し、連盟軍相手に奮戦、玉砕を遂げている。  軍内で、俺の両親は養父と親交があったらしい。  その縁で、養父は俺を引き取ってくれたのだ。  それから二十年余の歳月を、俺は湊斗家の養子――湊斗景明として生きている。  現在、ネーデルラント市国は公的には存在しない。  国際連盟に国家として認めない旨を宣告されたうえ、連盟軍の厳重な監視下に置かれている。弾圧まで受けているとの報は聞かないが、生活環境は厳しかろう。  そんな中で、親なしの孤児として生きる至難を想像すれば、養父の厚意は俺にとって幾重にも感謝せねばならぬものだった。  養父と共に俺を受け入れてくれた一家にも。  俺は、湊斗の家に恩義がある。   『統……』   『……んー?  どしたの、その子』   『いや、その……  何というかだな……突然で済まないんだが……』   『この子を、うちの養子にしようと思う』   『……あ、そう』   『……じゃあ……』   『昼飯、三人分作らないとな』 「…………」 「――だからだ、景明。  貴様も誇りの為に戦う道を知っていよう」 「……はっ」  名を呼ばれたのが契機となって、些か取り留めなく想念を追っていた思考が引き戻される。  尤も、先方もさほど内容のある話はしていなかったらしい。会話は全く進んでいなかった。 「尊厳を捨てて生きるより、誇りと共に死ぬのが〈大和人〉《やまとびと》というものだ。  それを、あの統めは……」 「……」  〈面〉《おもて》を伏せて、慎重に回答を避けつつ思う。  本家の言うことは、わからぬではない。  だがその理解は同時に、本家に反対する養母の思想への理解をも深めた。    ――誇りは大事であろう。しかし。  そのために死すという意思は、人が自発的に持ってこそ尊ばれるべきで、他者が強要するようなものではない。  ……一言で言えば、養母の意見はそうなろう。  それを言うに言えない養母の苦衷が偲ばれた。  かくも直接的な物言いをすれば、それが本家を激発させる爆薬となり、事を一気に最悪の局面へ追いやりかねない。  俺も口を噤まねばならなかった。  養母への同意を面と向かって告げるわけにはいかず、といって養母への非難に同調もできぬとなれば、それだけが唯一の方策だ。  老人の、語気荒い愚痴はしばらく続いた。 「……とな。あの時も統はそんな事を言うておった。馬鹿者めが!  景明、貴様も養い親に感謝するのは良いが、あまり毒されるでないぞ」 「……」 「きゃつの娘……光は、見所があったがな。  あんなことになったのが、つくづく惜しい」  俺は顔を上げた。  話を本題へ引き込む機会が来たようだ。 「万事が滞りなく運んでおれば、今頃は光が湊斗家の長となっておったに。  全く、何たることか!」 「はい。  本来なら……今年一月に髪上げの儀が執り行われ。光は湊斗家四三代の座を襲っておりました」  現実にならなかった予定を云う。 「御本家の苦衷、お察し致します」 「おぉ。  髪上げの儀と湊斗の相続さえ済めば、儂の片付けねばならぬ大事はあと光の婚礼が残るのみであったわ……」 「貴様も口惜しかろう。  もしこのまま光が二度と立たぬようなことがあれば、貴様の立場も宙に浮くからの」 「……は」  俺の立場。    ――光を生涯に渡って支え、守る。  それが目前の老人によって定められた湊斗における俺の役割であり、光がいなくなれば意味を成さぬ使命であった。 「しかし全ては、この身の不覚から。  自分が注意を怠ったばかりに、このような始末に至りました」 「詫びて済む話ではございませんが……  返す返すも、面目次第なき限り」 「……貴様が謝るには及ばん。  病は天命。人を責めても始まらぬ」  吐き捨てるように、本家が呟く。  天命という事実をぼかした言い様は、鉱毒病事件を起こした工場に一部住民の反対を押し切って開業許可を与えたのが、他ならぬこの老人である為だろう。  声も表情も苦々しい。  あるいは本家は俺の言葉を婉曲な非難と受け取ったのかもしれない。が、こちらにその意図はなかった。  保護者の役割を全うし得なかった俺以上の責任が、この人にあるとは考えていない。  本家が不機嫌の殻に閉じ篭もってしまう前に、俺は話を進めることにした。 「……昨晩にも、発作がありました。  幸い、大事には至らず済みましたが」 「うむ……。  体調は、どうだ。少しは回復しておらんか」 「残念ながら……」 「髪上げの儀は年内に済ませねばならぬ!  さもなくば家法に背く。湊斗の〈巫姫〉《かんなぎ》の継承を規定の年齢において行わざるは、古来より厳に戒められるところだ」 「これに〈違〉《たが》えば御家の命運に陰りが差そう」 「……は。  しかし今は、とてもの事に」 「起き上がれずとも良い。  半日の儀式の間、静かにしておれるなら、後はどうにか――」 「それが叶う状態ではないのです、御本家。  いつ何時、発作に見舞われるとも知れず」 「……ぬぅ……」  苛立たしげに、皺だらけの指が髭を掻き毟る。  〈仕来〉《しきた》りの遵守を至命とするこの老人にしてみれば、皆斗一族の最重要事ともいえる巫姫の継承儀礼を規則通りに行えなかった初の惣領として名を後へ残すなど、到底受け入れられることではなかろう。  攻めるべき隙はそこにある。  俺は心持ち、膝を進めた。 「さればこそ――御本家」 「うむ?」 「欧州では鉱毒病の研究も進んでおり、中でもベルリンのメンゲレ博士は第一人者と聞き及びます。  ……如何でしょう」 「御本家のお力で、博士をお招き頂くわけには参りませんか」 「またその話か」  本家は、露骨に眉をしかめた。 「皆斗の祭儀を司る巫姫の身柄を、他国者の医師などに預けるわけにはゆかぬ。  何度も、そう言うておろうが」 「承っております。  しかし、最早」 「医師ならば手配する!  先日の者は役に立たなんだようだが、次は熊本の大学の――」 「赤池教授ならば、先日書簡を頂きました。  自分の手には負えぬ、と」 「……メンゲレ博士をご紹介くださったのは、かの教授です」 「…………」  黙り込む本家。  その顔は憤懣を持て余して引き歪み、恐ろしいまでの形相となっていた。  これは、危険信号だ。  本家の身近にあって彼を良く知る者は誰しも、この顔を見ると、すぐさま何もかも打ち捨てて引き下がる――そうせねば、自分が憤懣の捌け口とされるからだ。  それはこの土地において社会的生命の喪失さえ時に意味した。  不注意で本家の激発を招いたがため、職を失い路頭に迷った者はかつて一人二人ではない。  だが俺は逃げ出すわけにはいかなかった。  光にはもう、時間がない。  次の発作が命を奪うやもしれないのだ。  あるいはその次の発作かもしれないが。確かなのはそれが永遠に続くはずはなく、しかも永遠よりも無の方にはるかに近いだろうという事だった。  本家の機嫌を窺っているゆとりは無い。  俺はその場に平伏した。 「お願い申し上げます、御本家……」 「……」 「何卒。  光の為、皆斗家の為――お許しを頂きたい」 「何卒!」  遠い異国の名医を呼び寄せるだけの力の持ち主は、この老人を置いて他にはいない。  文字通り、額を畳に擦り付ける。  普段であれば、ここで一喝されて終わりだ。  しかし今日は、沈黙が長く続いた。  家族の情からではないにしても、本家とて光の回復を心底より望んでいるのだ。俺や養母にも劣らぬほど。  光の病状に狂おしいまでの焦りを抱いているのは、全く変わらない。……俺はそう信じた。  信じて待った。 「…………良かろう……」  ややあって。  傷ついた牛にも似た唸りを、老人は搾り出した。 「大和に人なしとあっては、致し方ない。  ベルリンの医者とやらを呼んでくれよう」 「御本家……!」 「だがな、景明!」  喜びの余り思わず跳ね上がった顔を、威圧的な眼光が迎える。  釘を刺すように、本家は告げてきた。 「それも貴様の進言が、信ずるに値するものであれば……の話だ」 「……は……」 「わかるか?  儂は愚にもつかぬ輩の妄言に乗って、湊斗の社の清浄を汚させたりなどせぬ」 「だが、貴様が信ずるに足る男であるならば……意見を聞き、他国の医師に湊斗の敷居を跨がせてもくれよう。  儂は、そう言うておるのだ」 「――はっ。  して、その証は如何にして立てれば宜しいのでしょうか」  要は、〈試す〉《・・》ということか。  伝統の遵守と光の身命、どちらを優先すべきか――本家は逡巡している。  後者と主張する俺の言葉に、どれ程の重みがあるか。  それによって、決しようというのだ。  俺は心身を引き締めて身構えた。 「山賊どもを、片付けよ」 「……はっ?」 「あやつらを始末するのだ」  皆斗の惣領は、繰り返した。 「どのような手段を用いてもかまわぬ。町の男を駆り出しても良い。  景明。貴様の手腕で、あの飢えた野犬どもを儂の膝元から駆逐してみせよ!」 「成し遂げた暁には、貴様を認めてやろうぞ」 「…………」  〈吉野御流合戦礼法〉《よしのおんりゅうかっせんれいほう》は武者の為の武術である。  かつて皆斗本家の歴代当主が武者であった時代には、劒冑と共にこの戦技も一子相伝されたと云う。  が、皆斗家が士籍から離れると、ほぼ同時期にこの武術も捨てられ、以後は湊斗家の男――巫姫の婿又は巫姫たり得ない男児――が継承する慣わしとなった。  武者の術であるから当然、その技法は劒冑を用いての騎航戦闘――武者の華たる空の戦いにおいて完成を見る。  といって、〈それだけ〉《・・・・》ということもない。  吉野御流は基礎段階においては泳法、体術、そして甲冑刀法の三系に大別される。  これらすべてを習得すると、三系の統合に基く劒冑操法を許され、皆伝免許となる。  鍛錬の比重を問えばむしろ劒冑操法が最も少ない。  これは武者〈戦斗術〉《れいほう》の全般に見られる傾向で、珍しい話では全くなかった。吉野御流は広く知られた流派でこそないが、技法の内実はごく〈標準的〉《オーソドックス》なものである。  こうした傾向になる理由は、劒冑を用いた戦闘訓練というものの難しさ――数打劒冑が量産される現在でこそ武者の集団訓練は軍の常識となったが、かつては一家に一領が普通であった――がそれであろう。  武者が武者を手取り足取りに教えるという、理想的な教育形態はごく珍しいものだった。  それはつまり、経験者が未経験者に対して直接的な実践教育を施せないということを意味する。  他の技術であれば、これは致命的な問題ともなったであろう。一隻しかない船の操法を素人に教える――しかもその舟はごく小型で一人しか乗れないとなったら、果たしてどれほどの〈手間隙〉《てまひま》が必要となることか?  しかし武者武芸諸派の過去の記録を紐解くと、そこまでの問題とはされていなかった事がわかる。  無論、教授の失敗が無かったわけではなく。  基礎を完全に習得しながら、劒冑を装甲すると満足に飛ぶこともできず、遂に免許を得られなかった……そういう者もいたらしい。  だがそういった話はごく稀だ。  基礎を充分に身につけた者は、劒冑使用経験者から実践指導を受けられずとも、大概さほどの困苦はなく劒冑の操法を――空で戦う術を心得る。  つまりは基礎課程の完成度がそれだけ高いのである。  体術訓練において基本的な運体を学び、  泳法において平面的ではなく空間的な運動を学び、  甲冑刀法において装甲状態での戦い方を学ぶ。  そしてその統合として、水中での着甲戦闘訓練までこなした者は、劒冑を得て空へ躍り出てもまず戸惑うことがない。  速度差はあるにしても、感覚的にはほぼ同じなのだ。  …………と。    まあ、通念としてそういう事になっている。  無論俺は劒冑を纏った経験など無いので、広く知られているこの武術的常識がどの程度真実に近いのか、また離れているのか、何も語れる立場にない。  生涯そうだろう。  そもそも湊斗家は武者の家系ではないから、劒冑の所持運用を法的に許されない。  実用経験など積むべくもなかった。  吉野御流の継承は基礎三技術を習得後、形式として劒冑使用を想定した秘伝の伝授を行い、完了する。  これで武者の〈武術〉《わざ》を称するなど、あるいは不遜とも言えたろう。……が、そんな事はどうでも良かった。  家伝の合戦礼法が、基礎修練として劒冑を用いない武術も含んでいる――今の俺にとって意味があるのは、そちらの方だ。  〈三貫物〉《一〇キロ》の長木刀を、右肩担ぎの構えから左下方向へ、一息に振り切る。  足の踏み込みは行わない。場を動かずに、振る。  戻して、もう一度。  同じように。斜め袈裟の形で振る。  最も基本的な素振りだ。  〈太刀打〉《タチウチ》における正位、上段構からの斬りつけを想定した鍛錬にあたる。  竹刀を用いた競技剣道、あるいはその〈基盤〉《ベース》となった素肌剣術においては、上段といえば剣を頭上へ大きく振りかぶった構を指すことが多い。  が、武者剣法においてはこの右肩担ぎが上段である。  理由は単純な事で、頭上へ振りかぶると兜が邪魔になるからだ。  腕が兜の角に引っ掛からないよう注意しつつの上段では、到底、武者の甲鉄を打ち破る剣など望めない。  足の踏み込みを行わないのもまた、武者特有の条件を踏まえての事であった。  足の踏み込み……つまりは体重移動を行えば、剣撃の威力は飛躍的に増す。これは、間違いない。  だが、地上での話だ。  空における体重移動の〈力〉《エネルギー》は、〈合当理〉《バレル》の出力と〈母衣〉《ウイング》の精度、そして〈高度優勢〉《ハイ・ポジション》によって成し得る高速騎航から生み出されるもの。足技の出番は無い。  武者が地上において鍛えるべきは、空の打ち合いにおいても活用可能な力――即ち腕力と上半身の〈撥条〉《バネ》であった。  従って、素振りはこの形になる。  吸気と共に振りかぶり、呼気と共に斬り下ろす。  上体の収縮が、これに連動した。振りかぶる際は胸を前方へ突き出すようにして膨らみ、振り下ろす時は胸を背骨へ引き込むようにして縮む。  これはあくまでも空の太刀打を想定した稽古である。  しかし、地上戦において無意味かといえば――必ずしもそうではなかった。  しばしば、素肌剣術の達人は刀を扱うに筋力は不要であると語り、力任せの武者刀法を嘲笑う。  事実、地上の非装甲戦闘に特化された剣術の精妙さは武者の太刀業の比ではなく、  空において剛勇無双を謳われた武者が地上で剣達者の老人と劒冑を使わずに立合ったところ、〈薪雑棒〉《まきざっぽう》一本で叩きのめされた……などという逸話は数多い。  が、それはあくまで、達人の域の話。  今度は踏み込みと共に、一振りする。  腕力、背胸筋力、そこへ体重移動の力が乗る。  木刀の先端が床土に接触する寸前で、手の内の引き締めが運剣を止めた。その手応えで把握する……  今の打撃力ならば、相手が同重量の得物を持ち頑強に受け止めていたとしても、まず押し破れるだろう。  紙一重で見切る、剛力を巧妙に受け流して制す――などは、名人の妙境か素人の夢想でしか起こり得ないようなことだ。言うほどに容易くできる真似ではない。  尋常の敵手との立会いでは、まず無い事態だろう。  武者の剣は概して力任せだが、〈力〉《チカラ》とは、最も単純な〈強さ〉《・・》だ。単純ゆえに理解し易く、使い易い。  素肌剣術の〈技〉《ワザ》は複雑だ。極めれば無敵であろうが、それは難しく、また心身の充実なくして発揮されない。  一種の道具として見て、〈利便性〉《・・・》に差があると言っても良いだろう。  簡単には優劣を比較できない。  それに、素肌剣術ほど複雑巧緻ではなくとも、武者刀法とて数々の〈術技〉《わざ》を有する。  その多くは地上戦への応用が可能なものだ。  〈天翔〉《あまか》ける竜、〈劒冑〉《はね》を失くして〈土竜〉《もぐら》となる――武者を嫌う者がよく口にするかの名句が正しく事実を指したものだとは、俺には思われなかった。  ……単なる身びいきというものかも知れないが。  実際のところ、武者ではない俺が武者刀法を修める意味は少なく、素肌剣術をやっていれば良かったのだろうが、そうと認めてしまうのはなかなかに辛い。  時間を過去へ巻き戻して選択を変えられるわけではないし、仮に変えられるとしても、湊斗の家芸を継ぐのは俺に課せられた責務だったのだからどうにも仕様がない。  吉野御流だけが俺に許された武芸の道なら、それを無意味なものとは思いたくなかった。  心理的健康のために宜しくない。  …………だが。  単なる俺の感情的問題を脇へ除けても、まだ、残るものはある。 〝力任せの剣〟が、一歩〈間違えば〉《・・・・》何処まで至るか――  俺はそれを、知っている。  汗を払って、道場の一角を見やった。  小さな座が設けられ、そこに一領の鎧兜がある。  重厚な鎧は、割れている。  ――〈真っ二つに斬り割られている〉《・・・・・・・・・・・・・》。  一年前からあのままだ。  この一年、余りにも多忙で、鍛冶師に修復を頼んでいる暇もなかった。  ……一年前。  そう、あの時に。 「――――」  後背から見ても、その立ち姿は美しい。  心気は鋭勇と鎮静を、身体は緊張と柔軟とを欠けず備え、一寸一分の隙とて窺えない。 (打ち込むのは無理だな)  心中で、認めておく――今ここから不意に攻め掛かったとしても、苦も無く防がれるであろうと。  光に吉野御流の手解きを始めてまだ数年……しかし、実力は既に俺を凌いでいた。  いや、それは最初からそうか。  そもそも光が吉野御流の修行を希望した時、慣例に反することだとして本家の許諾を得られなかったのだが――すると光は〈勝手に〉《・・・》俺の技を盗み始め、  〈三日後〉《・・・》には俺に立合いを求めて打ち負かした。  俺の凡才もあるが、それにしても異様な資質という他はない。  そうやって事実を先行させる形で強引に本家の承認を得、正式に修練を開始して二年ばかり。  前例の無い速度で、光は奥伝免許の手前まで至っていた。  実のところ、俺が教えた事など皆無に近い。  物陰から三日間、俺の修行風景を眺めただけで俺の技量を超えた光だ。その成長ぶりはまさに一を聞いて十を知るというものだった。  その為か、どうも光に対して師弟という意識が薄い。  出藍の誉、と考えるにも複雑だ。〈鳶〉《とんび》が鷹を生んだというよりも、鷹がたまたま鳶のもとに居候したと表現する方が適切に思える。  誇らしくは感じるのだが、それはどちらかと言えば弟子を導いた師としてではなく、天才の妹を持った兄としての心情だった。  天才の誕生において、己が何を為したとも思えない。  しかし……最後に、この一つだけは、師として教えねばならないだろう。  それは技術ではなく、心法に属する事柄であるが。  光の後姿が霞んだ。  瞬速の踏み込み。  打ち下ろし――  得物は〈蛤刃〉《はまぐりば》の戦場太刀。  据物は鉄の鎧兜。               兜割 「…………うぬ!」 「見事」  率直に感想が零れる。  実際、非の打ち所のない一刀だった。  が――確認するまでもない。鋸を音声化したような響が全てを物語っている。    失敗だ。兜は割れていない。  光のもとに歩み寄り、太刀を改める。  打ち込んだのであろう〈物打処〉《ものうちどころ》が数〈分〉《ぶ》、刃を潰してしまっていた。 「……また折れ飛ぶだろうと思っていたが。  無銘の割りに、名刀だ。実は名のある刀工の作なのかもしれん」 「……そうだな。刀はいい。  光の腕が、足らぬ」  心底から口惜しげに、光が奥歯を噛む。  それでも納刀の手業が乱雑にならぬのは流石だったが、鍔鳴りがやや甲高く響いたのは、憤懣をわずかに抑えかねたせいであったのかもしれない。  髪を伝って汗が数滴、道場の土へ落ちて染みた。  今の一太刀に、余程の体力気力を投じたのだろう。  素振りを千回やるのは体力が要るが、鍛えれば誰にでもできる。  が、千回分の体力を一度で消費し尽くす――それは〈才能〉《センス》のない者にできる行為ではなかった。  光は顔色を失い、呼吸を荒く乱している。  改めて、俺はその才覚の深さに驚嘆した。 「……それが〈仇〉《あだ》か」  思わず呟く。  光に、聞いた様子はなかった。疲労の中で、自己の想念に囚われているらしい。  視線は、忌々しいまでの健在ぶりを見せ付ける鎧に釘付けだ。  兜の頭頂には薄い傷があるが、それで光の心が慰められることもないのだろう。 「……足りぬ……」 「力が、足りぬ」 「……」 「最後の〈試し〉《・・》で、このように手間取り、無様を晒すとは……  おれはこの二年、何を鍛えていたのか」  恥を込めて、光が呻く。  勢いで腹を切りかねない目付きをしていた。 「……どうも、慢心していたようだ。  済まない、景明」 「謝る必要などない。  俺もお前と同じように……いや、それ以上にこの最後の試しには梃子摺った」 「あの時駄目にしてしまった刀が総額で幾らになるのか……〈養父〉《ちち》に聞くのが怖いな」 「……」  冗談のつもりだったが、光は乗ってこなかった。  俯いて、沈思している。……冗談の拙劣さばかりが理由ではないだろう。常の余裕が、今の光には無い。  胸に苦痛を覚えた。  これは流儀の掟にあること、止むを得ない仕儀とはいえ――妹を騙しているようなものだからだ。  この兜割は、吉野御流印可を望む者に課せられる、最後の試練だった。  修練者は厚刃の剛刀を与えられ、それで鎧兜を〈両断〉《・・》するよう求められる。  しかし、これは土台、無理な話なのである。  鎧兜とは、〈斬れないように出来ている〉《・・・・・・・・・・・・》のだから。  過去、多くの名人達人が兜割の神技に挑んだ。  その内の幾人かは成功を遂げている。  だがそれらとて、両断を果たしたわけではない。  例えば最も著名かつ至近の例、榊原鍵吉の天覧兜割では、兜に径三寸余の割傷をつけて成功としている。  本来、兜割とはそうしたものだ。  その程度斬れば充分、中の人間には致命傷となるであろうし、剣聖の域の業を以てしてもそれ以上に深く斬り込むのは不可能。  両断など必要も無く、人間に成せる行為でもない。  ――〈然〉《しか》も。榊原鍵吉らの兜割が通常の具足を用いて試みられたものであったのに対し、吉野御流の奥印可試しでは〈死に劒冑〉《・・・・》……  かつて皆斗家総領が愛騎とした劒冑の骸が使われる。  劒冑としては既に死に、超能を失っているが、その甲鉄の頑強さだけは今も健在である。戦車で踏まれたところで凹みもつかないだろう。  生身の人間の剣撃で斬り割れる筈がなかった。  無理である。  〈無理〉《・・》、なのだ。  この最後の試しは、できもしない事を命じるものなのだ。 「…………」  光を見ているのが辛くなって、縁側へ視線を逸らす。  揚羽蝶が金柑の枝に止まっていた。ふるりふるりと羽根を揺らして――無責任な、などと思うのは人間の勝手であろうが。  兜割の試験は、両断を以て良しとするのでは、ない。  遂に断念し、我が力の限界を認めるを以て、完了とする。  吉野御流が修行の最後において求めるものは、超人の力ではなかった。  むしろ己が超人ではない事、どれほど剣を極めようが只の人に過ぎぬ事を悟るよう求められる。  成功ではなく断念が、合格の条件なのだ。  ――〈剣武〉《ちから》に溺れること〈勿〉《なか》れ。    兜割試しの真意は、この戒を与えるにあった。  …………それが間違っているとは、思わないのだが。 「……ッ……」 「光……」  思い詰めた光の眼差しを見れば、つい口も滑りそうになる。  無論、試しの真実は流儀の掟によって口外を許されない。  柔軟な思考力の持ち主であれば、裏を読んで早々に正解を知ることもあるだろう。  だが、一本気な光にそんな発想は無い。それは良くわかっている。  才ある者ほどこの試しでは〈躓〉《つまず》くのだと、養父も昔、言っていた。  光にとっては最大の難関だろう。皮肉に見れば最後の試練に相応しいと言えなくもない。  剣持つ者に力への戒めは必要不可欠であるとはいえ、こうして試す側に身を置くと、己が途方もなく意地の悪い人間に思えて仕方なくなる。  が――それも終わりが近い筈だ。  光は既に慢心を認め、己の力の限界を知りつつある。  頑固なだけにもうしばらくは掛かるかもしれないが、いずれは必ず流祖が求める謙虚さを身につけるだろう。  俺は自分の妹の器量を信じた。  それは全く、難しくはない事だった。 「余り思い詰めるな」  光の肩を叩き、意図的に軽い声を掛ける。 「物事に行き詰まった時は、一度力を抜いて、視点を変えてみるのもいい。  〈これはこう〉《・・・・・》と、思い込んでしまわぬことだ」 「……うむ……」  婉曲に助言をしたつもりだったが、光の反応はごく鈍かった。きっと意図は伝わっていないだろう。  伝えてしまっては、掟破りなのだが。このジレンマがもどかしくて仕方ない。 「〈養父〉《ちち》の言葉を借りて言えば、刀は硬いのみならず――だ。  硬い刃の下に柔らかい芯を込めて、初めて剛柔兼ね備えた〈折れない〉《・・・・》刀が出来上がる」 「この間、出張のついでに会った折に聞かされた言葉だが。  思えば、あれはお前への伝言だったのかもしれない」 「父か……」 「ああ。  ……光は、まだ会ったことが無かったな」 「………うん」  奇妙に感情のない声で、光が認める。  父という単語に何も思うところがないのか……それとも何を思えば良いのかわからないのか。  どちらであれ、痛ましい事だった。  光の父――養母の夫――俺の養父――は、今現在、湊斗家にはいない。  それは単に座標的な意味においてもそうだし、また法的な意味においてもそうだ。  光が誕生してすぐ、しばしば本家と意見の食い違うことのあった養父は、追い出されるようにして湊斗家から籍を抜いた。  今は旧姓に戻し、鎌倉で公職に就いている。  本家にしてみれば、湊斗巫姫の後継さえ出来たなら、目障りな男をいつまでも身近に置いておく理由はもう無かったのだろう。  あのお人にとって、湊斗の男は種馬でしかない。  だから、光は父に会ったことがなかった。  出生直後に顔を合わせてはいる筈だが、まさか記憶には残っていまい。  俺は養父が家を出た後も時折鎌倉へ出向いて会う事があったが、光にはそんな機会もなかった。  巫姫たる娘がこの土地を離れる事に、本家は決して良い顔をしないためだ。  養父の方でも、ここへ近寄ろうとはしない。  多忙のせいもあろう。……歓迎する人間の事より、歓迎しない人間の事を考えてしまうせいもあろう。  だが―― 「……あの人は、湊斗家へ戻って来ることはもうあるまいが。  吉野御流宗主の立場は捨てておられない。会えば技の手直しをしてくださることもある」 「……?」 「お前が奥印可まで達したなら、宗主を継がせるおつもりだ。先日、そう伺った。  その折には……手紙のやり取りで済ませるような事ではないからな」 「〈養父〉《あのひと》は、この家へ来られるだろう」 「……」  別段、励まそうと思って口にした事ではなかった。そう思っていたなら途中で言葉を止めたろう。  そんな激励は、余計に光を追い込みかねない。  光と養父が一度でも会えれば良い――その思いが、ふと口をついただけだった。  しかし何にしろ、それが光の心を刺激することもなかったらしい。  関心なさげに、視線が外される。 「……景明」 「うん?」 「光は……父に会えるであろうか」 「……ああ」  抑揚の少ない声音から、真意は測りかねた。  曖昧に頷きつつ、内心で首を捻る。  ……兜割試しを果たし、免許に達することが自分にできるか――という意味で問うたのかもしれない。    やや時を置いてそう気付き、俺は言葉を継いだ。 「必ず、会えるだろう」 「そうか……」  淡々とした答え。  光は最後の汗を拭うと、太刀を置き、代わって木刀を手に取った。  素振りをくれ始める。  小気味の良い風割り音が規則正しいリズムで耳朶を打つ。  それは既に、いつも通りの光だった。    一年前、そんな事があった。  どうしてか、この日の事は良く覚えている。  はるかに衝撃的であった筈の、この次――光が再び兜割を試みた日の事は、酷く記憶が曖昧であるのに。  あるいは、記憶とは往々にしてそうしたものなのかもしれないが……  〈あの日〉《・・・》。  光は鉄鎧を斬り割った。  そしてその晩、鉱毒病に倒れた。 「…………」  光にあの〈怪異〉《・・》を成し遂げさせたものが、果たして何であったのか――  今なお、俺にはわからない。  天才。  その一言で納得するほかないのか。  であろう、と思う。  だが。  ……〈不可能〉《・・・》である筈なのだ。  生身の人間が、劒冑の力を借りることもなく、鍛造甲鉄を両断するなどという所業は――決して。  できる事ではない。  いかにあの劒冑が死んでおり、しかも過去にも一度割られたことがあったとはいえ、それは熟練の鍛冶師の手で完璧に修復されていた筈なのだし、      過去にも                   一度、 「……!」  そうだ。  俺は――知っている……  何が……  〈怪異を成し遂げるのか〉《・・・・・・・・・・》。  それ、は―― 「……景明?」 「……あ……」  ――立ち尽くしていたらしい。  声に振り返ってみれば、〈養母〉《はは》が戸口に立ち、案じる様子で俺を見ていた。  何分も呆けてはいなかったと思うが……いや、そうなのかもしれない。  急激な現実感の回復に戸惑う。 「……申し訳ありません。稽古をしていたのですが。  少し、考える事があって……没頭しておりました」 「……そか。  ま、ほどほどにしときなさい」 「はい。  ご心配をお掛けしました」  頭を下げた拍子に、汗で湿った前髪が額に触れる。  ……冷たかった。やはり、結構な時間が経っていたらしい。  両の瞼を閉ざし、その上から軽く手を当てる。  意味は何もないが、平静を取り戻すにはこういった儀式が不可欠だ。 「……しっかし。  本家も、無茶なこと言ったもんだな」 「は……」  既に、本家での〈経緯〉《いきさつ》については報告を済ませている。  養母は――諸手を挙げて喜んだりはしなかった。 「おまえの頼みを体よく蹴ったつもりか……わたしへの当てつけか。単なる〈物の弾み〉《・・・・》か。  何にしろ、まともな考えじゃないな。一人で山賊をどーにかしろ、なんてさ」 「……御本家からは、町の人々に協力を仰いでも良いと言われてはいます」 「おまえがそうしないことくらい、向こうだってわかってるよ。付き合いは長いんだから。  わかってて言ったんだ。あの爺いめ」 「……」  否定の根拠が見つからず、口を噤む。  確かに、町の人を巻き込むつもりはない。山賊は町全体の問題ではあるが、今回の本家との取り決めは俺が個人的な都合で結んだものだ。  他人に危険を分かち合わせるべきではなかった。  成程、あの御老人であれば、俺のそんな心理くらい見通すだろう。 「……しかし、御本家は約束は守ります。  それだけの〈自尊心〉《プライド》は持っておられる方です」 「……そこは信じるけどね。  景明、おまえ本気でやるつもりなの?」 「はい」  ようやく開いた道だ。  光を救うに至る。 「出てってください、ってお願いして、はいそうですか……で済む話じゃないんだよ?」 「何にせよまずは話し合いから試みるつもりではいますが……はい。  おそらくそれでは済まないでしょう」 「死ぬかも」 「可能性としては」 「死ぬと痛いぞ。  いや、試したことないからわからんけどさ」 「では、死なないように注意します」 「怖くないのか?」 「恐ろしいです。  山賊団の直中へ一人で乗り込む……などと考えただけで」  俺は片手を突き出した。 「この通り。  指先が震えます」 「……だったらさ」 「しかし。  光を救う為」  震えは止まった。  その五指を握り込む。 「是非もありません」 「…………。  困った息子だ」 「お許しを」 「もう少し横着な子に育てりゃ良かった」 「精一杯、統様を見習ったつもりでしたが」 「……可愛くない言い草だけは一人前だよ。  ったく、もう」 「わかった。  でも、わたしも一緒に行くからね」 「それはなりません」 「なりませんたって、なるもん。  息子をそんなとこへ一人で行かせられるか」 「昨今は、母親の過保護が社会問題化しています」 「息子を武装略奪集団の中へ一人で送り込む母親がいたらそりゃ虐待っていう社会問題だと思います」 「むしろ息子の非行ではないでしょうか。  ……いえ、そういう問題ではなく」 「御本家からは自分の手腕で事を解決せよと命じられています。  統様のお力は借りられません」 「でも、町の人間を使っていいとも言ってたんだろ。  わたしだって町の人間だ」 「……」 「ふふ、不器用な息子め。  口で母に勝とうなど十年早い――」 「御本家は、町の人間とは言っておりません。  町の〈男〉《・》と言っておりました」 「お諦めください、統様」 「……十秒経ってねぇ……  つーか爺いのあほー! そんなにわたしが嫌いかー!」 「それに……統様。  光を一人残しては行けません」 「……」 「自分の留守の間、光をお守りください。  お願い致します」 「…………。  あー!」 「もー!」 「くそー!  可愛くねえーー!!」  視界が、急に閉ざされた。  ……頭を抱き込まれたのだと、そう気付くまで数秒掛かった。 「ろくでもない息子だ。  母親の言うことを聞きゃあしない」 「申し訳ありません」 「おまえみたいな子供は大嫌いだ」 「〈敬愛〉《あい》しております。  統様」 「ばかったれ。  いいか? 親不孝。いっこだけ、わたしの言う通りにしなさい」 「はい」 「無事に帰って来ること」 「は。  最大限の努力を払います」 「空気読め。  そんな言葉を聞きたがってると思うか」 「……必ず帰ります。  統様」 「よろしい」  抗い難い力を持っていた、養母の腕から解放される。代わりに与えられたのは嘆息だった。  何かを振り払うような間を置いて、養母は再び俺を真っ直ぐに見やってくる。 「いつ行く?」 「明日にでも」 「会社は?」 「既に休暇を申請してあります」  どのみち山賊に持ち去られた商品の補充がつくまでは仕事が回らない。  出勤しても、することがなかった。  それに山賊問題の解決は会社の利益にも寄与する。  事情を話して休暇を求めると、社長は一も二もなく認めたばかりか、有給扱いにまでしてくれた。  ……尤もそれは、期待の顕れというよりも、香典の前払いという面が強い様子ではあったが。  あの時社長の表情にあった希望と諦めの〈鬩〉《せめ》ぎ合いは、一対九で諦め側が優勢と見えた。  無理もない事ではある。 「……策の一つくらいはあるんだろね?」 「別段」 「無いのか息子よ!?」 「まずは会ってから、考えます」 「あぁ……  やっぱすっげー不安……」 「どうか、ご心配なく」 「無茶言うなっつーの。  じゃ……一つだけ助言だ」 「こいつは母親じゃなくて、武の道の先達として。  ……なんて大仰に構えて言うと無闇やたら恥ずかしいけど」 「はっ。  承ります」  居住まいを正して、聴く姿勢をとる。  養母がそのように前置きして話す事には、そうするだけの価値がある筈だった。  彼女も自分の父親から吉野御流を学んでいる。  娘と同じように。光が吉野御流の修行を希望した際、本家が苦々しく思いながらも最終的に黙認したのは、何の事はない、既に養母の前例があったからだった。  しかもその力量は凡庸の域を優に超える。  養母が殊更に手並みを披露することは決してない。が、日常のさりげない立ち居振る舞いから窺える業の程は、天才の光にさえ匹敵するものだ。  その人の助言ならば〈徒〉《あだ》や〈疎〉《おろそ》かにはできない。  拝聴の構えで待つ俺に、養母は告げた。 「殺しちゃいけないよ」 「……」 「誰も。  一人も、殺しちゃあ駄目だ」 「……は」  確かに、無用の殺生は武人として最も恥ずべき事。  言われるまでもなく、避けられる限りは避けたい。  しかし……数と凶暴性で圧倒する山賊団を相手に、不殺を通して立ち向かえるものだろうか?  それは余りに難しいのではないかと思えた。  そんな内心が伝わったのだろう。 「景明。  敵を殺せば、戦いは終わると思う?」 「……」 「それは違うよ。  逆だ」 「敵を殺したら、戦いは〈終わらなくなる〉《・・・・・・・》」 「……は……」  漠然と……  養母の言わんとするところはわからなくはない、が…… 「もしもおまえが死んだら、わたしはおまえを死なせた奴を全員殺す。  一人も許さない。絶対に」 「!」 「…………おまえが誰かを殺したらさ。  その人の身内が、同じように誓うかもしれないんだよ」 「そうなったら、そいつも殺す?  そうしたら今度は、そいつの兄弟かなんかが復讐に来るかもしれないね……」 「…………」 「終わらないだろ?」 「はい……」  養母の言う通り。  俺は己の浅慮を恥じた。  一人でも殺せば、そこには拭い難い怨恨が生まれる。  そうなったが最後、その先は泥沼の潰し合いが待つばかりだろう。  俺一人で始めた事でも、町が巻き込まれずに済む筈はない。  山賊側と町側に多大な死者が出ることになる。  それこそは、万難を排して避けたかった最悪の結末であるのに……  解決どころか、本末転倒も甚だしい。 「だからいいね、景明……  どうするにしろ、誰も死なせないように」 「おまえ自身も含めてだよ」 「…………」 「はい。  統様」  深々と一礼する。  夜の到来を告げる冷たい風が、縁側から吹き込んできていた。  山賊団は郊外の小山に拠点を敷いている。  地形学的に見れば北の険しい山脈系に属する隆起だが、実質としては丘と呼ぶには大きく山岳と呼ぶには小さい程度のもので、やはり小山と呼ぶほかにない。  ここは過去、当然のように町の子供の遊び場だった。  彼らが威嚇射撃と白刃の脅しで根こそぎ追い払われてしまったのは、子供たち以上に山賊団にとってこの山が好物件だったからである。  町を威圧するには充分かつ、出入りに不自由はない。山賊団がこの山を〈約束の地〉《カナーン》だと信じていたとしても、否定の論拠は見つかりそうになかった。  そんなろくでもない約束をする神は御免だが。 「止まれ」 「……」  山の景色を汚染するが如く〈聳〉《そび》えるバリケードの十歩手前で、二門の銃口と共に制止を受ける。  明け透けに山道の真ん中を歩いてきた俺をここまで近づけたのは、おそらく意図を測りかねたのだろう。  胡乱げな眼差しでこちらの身なりを物色している。  俺はおとなしく、両手を上げた。 「……町の奴か?  何しに来た。ここはオレたちの陣地だぜ」 「鬼ごっこがしたいなら公園へ行けよ、〈少年〉《ボーイ》。  ここの鬼はちょっと、おっかないぜぇ?」 「へっへ!  そうだな。オレらが〈触る〉《・・》と、穴が開いちまうからなぁ……!」  これ見よがしに銃身を揺らす、門番の片方。  そしてもう一方の手がベルトの小袋を探る――あれは弾か。何発でも撃てるというアピールか。  俺は、指摘した。 「銃は反則です」 「……」 「……」 「この町でも一時期鬼ごっこの鬼が銀玉鉄砲を使う事が流行りましたが――失礼、始めたのは自分の妹です――それだと単に鬼の一方的虐殺ゲームになるためすぐ廃れました」 「これは全国的な現象ではなかったかと」 「……あー。  そーだっけ……?」 「……そー言えば、なんかローカルルールがあったっけな……オレの地元。  鬼が鉄砲使う場合は、鍋の蓋を盾に使っていいとか……」 「あー、あったあった。  玉が無くなったら鬼の負けとか」 「はい。  そのようにルールが発展してゆくとやがて単なる〈戦争ごっこ〉《サバイバルゲーム》になったので、鬼ごっことは分化したのです」 「そーかー……」 「…………。  いや」 「で、何しに来たんだよお前は」 「貴方がたの首領にお会いしたい」 「〈御館〉《おやかた》に?」 「……なんだァ?  口説きにでも来たのかよ。色男」 「はっはっは。  そいつぁすげぇや!」 「はい」   「「えーー!?」」 「我らが町と貴方がたの今後について願いの筋あり、首領殿を口説かせて頂くべく参上しました。  どうかお取次ぎ願います」 「……あ、あぁ。  そういうこと……」 「……なぁ相棒……。  実はオレたち、からかわれてるのか?」 「…………いや。  ただ単に、あんまり関わり合いになっちゃいけないやつに関わっちまっただけなんだと思う……」 「……そうか……」 「どうする?」 「どうするって……」 「…………」 「……この男を追い払うより、御館に会わせてやった方が早い気がする。なんとなく」 「オレもだ。  ……連れてくか。武器も持ってないみたいだしさ……」  額を寄せてぼそぼそと囁き合っていた二人がこちらへ向き直る。  何故だか妙に疲れたような顔をしていたが――そこに加害の意図は見受けられなかった。  どうやら、通してもらえるらしい。  こう簡単にゆくとは思わなかった。 (意外に親切な人々だ)  これなら、話し合いにも期待が持てる。  俺の見通しはいくらか明るくなった。 「おーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ!!」 「却下よ」 「…………」  そして、そんな希望はあっさりと潰えた。  案内されて踏み込んだ、砦の中――  〈見〉《まみ》えた山賊団の頭領は、俺の話を聞くとひとしきり笑い、ひとしきり笑って、ひとしきり笑った後、一言で切り捨てた。  取り付く島もない。 「略奪をやめろ、ですって? ふん……。  どだい失礼なのよね。アタシ達がいつ略奪なんてしたのかしら?」 「……」 「〈一磨〉《かずま》ぁ?  あなたには覚えがあって?」 「昨日やったじゃん。姉さん」 「あ・れ・は、略奪じゃないの!  大局に基づく軍事行動のため市民の任意で物資を供出させたのよっ!」 「ご、ごめんなさい、姉さん……」 「……では、そういう事でも結構です。  しかし町の〈任意〉《・・》にも限界があります。このままでは……いえ、既に現在、町の生活環境は深刻な打撃を受けている状況です」 「あら、そう」 「……ご寛恕を頂くわけには参りませんか」 「よくってよ?  じゃあ今後は、予定より少し減らしてあげましょう」 「予定とは」 「それは軍機よ」 「…………」  何の意味もない言質だ。  こんな紙屑のような一言を土産に持ち帰ったところで、全く本家を納得させることはできないだろう。 「……失礼ながら。  貴方がた山賊団の目的とはどのようなものなのですか」 「山賊団ではありません!  志士団とお呼びなさい!」 「志士団?」 「我々はより自由な立場から正義を貫くためあえて六波羅の麾下を脱した烈士の集い!  悪を討ち、不正を正し、いつか泰平の世を導くべく戦い抜くことを誓った独立軍団――」 「つまりは志士団なのです!!」 「……はぁ」 「そうなんだ……。  軍費の横領がバレて夜逃げしただけじゃなかったんだね、姉さん!」 「ご、ごめん……」 「どう?  おわかりかしら、湊斗景明とやら」 「わかりました」  色々と。  余計な事まで。  だが、重要な事は一つだけだった。 「略奪をやめる気はない。  そういう事ですか」 「……何を聞いていたのかしら、この男は。略奪なんかしていないというのに。  まったく低能な平民の相手をするのは大変ね! おーっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっ!!」 「…………」  笑いを聞く間に、方策は固まっていた。  元々、腹案の一つとして抱えてはいたものだ。  昨夕、養母と話した時から。  対話で解決できず、〈而〉《しか》して殺し合いに持ち込んではならぬとなれば――  心中、密かに準備を整える。  自分が〈演技〉《・・》に向いているとは夢にも思えなかった。平静を欠いていては、そもそも話にならない。  手順を脳裏で反芻し、そして口火を切る。  首領は丁度こちらに向かい、辛辣な表情のまま言葉を重ねようとしているところだった。 「さあお帰りなさいな!  その辛気臭い顔はもう見飽きたの。さっさと畑に戻って芋でも掘ったら――」 「〈山賊の頭領〉《・・・・・》」  覆い被せるようにして、言い放つ。  語調の変化を感じ取ってだろう。首領の女性が口を止めた。  周囲に居並ぶ山賊たちも息を呑む。  ――空気の組成が変化した。 「あんたに勝負を申し込む」 「……はぁ?  何なの、突然」 「まさか逃げないだろうな?」 「いや。もしもし。  一人で話を進めないでよ」 「あんたは女だが、武人の端くれの筈だ。  元々軍隊にいて、これだけの部下を抱えていたなら勿論そうだろう」 「ちょっと」 「ああ……けれどあんたは世襲で親の身分を継いだくちか。御館とか呼ばれていたしな。  しかし、血筋だけのお飾りってこともあるまい?」 「あの〈竜甲〉《クルス》は伊達ではないんだろう?  昨今は武家に生まれたのに劒冑を駆れず、床の間に飾っておくだけなんて武者もどきも多いらしいが……あんたは違うんだろうな」 「でなければ山賊に身を落としてなお親分のままでいるのは難しいだろう……よほど虚勢の張り方が上手いなら別だが。  ああ、山賊ではないんだったか? 失礼」 「…………」  相手の反応を無視し、言葉の上に言葉を畳み掛ける。  ぼろが出るのを避けるためだったが……結果的にはそれが功を奏したらしい。  首領の眼が〈据〉《す》わっていた。  周囲の山賊は完全に沈黙している。  俺も黙って、首領を見下ろした。  殊更に身長差を意識した視線で――〈且〉《か》つそれが相手にも伝わるよう、露骨に。  ややあって。  首領が口の端を持ち上げた。  笑みだ。 「――それで?」 「だから、勝負だよ」  俺も歪んだ笑みで応えた。  相手ほど巧くやれた自信はなかったが。 「俺が勝ったら、二度と町へ手出しをしないよう部下に命じろ」 「アタシが勝ったら?」 「ん? ああ……  そうだな」  それは、考えてもみなかった。  ――そんな表情を作る。 「俺のことは好きにしてくれていい」 「……ふうん。  そう」 「聞いたわね、おまえ達?」 「聞いたよ、姉さん」 「へへへ……」  山賊らの間に、低い笑いが広がる。  楽しいことになった――どの顔も、そう言っている。 「結構よ。湊斗景明。  その条件で勝負を受けます」 「その者に太刀を!」  指示を受けた山賊の一人が、自分の腰から大振りの刀を抜いた。  にやにやと笑いつつ、こちらへ手渡してくる。  ――田舎の腕自慢がよ。  身の程を教えられたら、どんな顔をするのかね――  目は口ほどに物を言う。  そんな視線のメッセージと一緒に、俺は太刀を受け取った。  特に名刀とは思えないが、悪くもない。  少なくともまめに手入れはされている。  斬るつもりはないのだから、あまり関係はないが。  重心の狂った駄刀でさえなければ充分だった。  俺はその刀を可能な限り素人臭く――そして〈端〉《はな》から相手を軽んじている風で構えた。 「あら、勇ましい!  強敵ね!」 「今更、取り消しは無しにしてもらおう」 「くっ……」 「姉さん、気をつけて!」 「御舎弟、大変だ。  御館がやられたら、あなたが仇討ちするんですぜ!」  わざとらしくも悲壮に盛り上がる山賊団一同。  俺はそれを真に受ける形で、笑ってみせた。 「どうした?  掛かって来い」 「あらぁ、よろしいの?」 「あんたが来てからでいいよ、俺は」 「ふっふ――」  憫笑を息吹と共に流し、首領の女が一歩を踏む。  そのなめらかさ、しなやかさで技量の程は知れた。  強い。    最初からわかっていた通り。  〈俺よりも強い〉《・・・・・・》。    これも五分以上の確率で見込んでいた事だ。  だから侮った。  話し合いで片付かぬなら、頭目との勝負に持ち込んで決着させる――その構想……  最大の問題点は、確実に勝つための方策だった。  六波羅軍の精強は今更論ずるまでもない。  わけても武者、竜騎兵の強さは全世界を見渡しても匹敵するものが稀だろう。だからこそGHQも彼らの降伏を受け入れ、大和統治権という代価を与えたのだ。  この女性はその六波羅の一員として勤め上げてきた。  それも、配下から完璧に近い信望を得るほどに――軍籍を失いながらも部下を手元に置き続けている以上、その点は疑えない。  幕軍において武者が歩兵部隊の指揮官を務める場合、両者の関係は中級武家の家長(あるいは継嗣)とその一族郎党であることが多い。  主従の縁は俄かではなく伝統的なものだ。  が、それでもその長が惰弱無能であったなら、地位を失った途端に見限られて当然である。  伝統は忠義を補強はするかもしれないが、それ単独では何も支えられない。  彼女はまず第一に、六波羅武者を称して恥じぬ実力の持ち主なのだ。その実力で配下を繋ぎ止めている。  こと武勇において他者の後塵を拝するような人間ではないだろう。  まともに戦って勝てる見込みは薄い。  勝つには――油断させるしかない。  ただ勝負を挑んでも駄目だ。  武者たる者が一介の市民に挑戦されたなら、きっと九分の嘲りと共に一分の警戒心を抱くはず。  その一分があっては隙が生まれない。  勝ち目は少ない。  〈だから侮る〉《・・・・・》。  こちらを、相手は所詮女だ――と、見くびっている馬鹿者に見せる。  この芝居が成功すれば……  相手は怒ると共にこちらを侮蔑し、ただ勝つだけではなく圧倒してやろうと考える。  剣が大味になる。  しかもその太刀筋は決して致命的なものではない。  一撃で斬り殺してしまっては、屈辱を味わわせる事ができないからだ。  狙うのはおそらく、手足一本の奪取。    ……そこまで状況を掌中に収められたなら。  例え、技量で優る相手といえども――  打ち破れるのは、道理だった。 「…………」 「……」  前方に突出させておいた、こちらの左小手を狙って伸びた敵手の一撃、  それを後方への重心移動によって回避……  即座に重心を前へ戻し、その威勢を以て一打を送る。  狙いは相手の太刀の鍔元。  許容量を超えた過負荷が敵に太刀を取り落とさせ、  反動のまま翻った俺の切先は対手の喉を指す。  ――決着。  企み通り、一合で済んだ。 「……な……」 「……図ったのね……  おまえ!」  流石。  まぐれだ、なにかの間違いだ――などと思い込んで自尊心を守る前に、真実を求めて把握したか。  こんな芯の太い強者に実力を発揮させないよう努めたのは正解だった。 「それでも約束は約束です。  お守り頂けますね」 「くっ……」  頭目の女性が唇を噛む。  色を失ってゆくそことは裏腹に、頬は紅潮していた。 「……え?  なに?」 「…………姉さんが負けたの?」  今頃結果を理解したらしい頭目の弟が傍らの山賊に尋ねている。  問われた側は答えるべき言葉が無い様子だった。  数十人分の茫然自失と、一人分の激憤に囲まれて。  ……俺は奇妙なほど、勝利の実感というものを味わえずにいた。  ――これで、本当に終わるのだろうか?  今夜の光は安静にしている。  呼吸も幾分か穏やかに聞こえた――比較の話でしかないにせよ。  それでも回復の兆候などは毛筋ほども見えない。  生色は衰退の一途だ。その速度に緩急があり、今日は緩の方へ寄っているというに過ぎない。光が日一日と死に近付いている事実は変わらない。  帰りが遅くなったので、今日のところは本家へ報告するのを控えた。  家へ直帰し、養母へ経過を伝えるに留めた。  養母は俺の無事こそ喜んでくれたものの、山賊砦での一部始終についてはあまり良い顔をしなかった。  最善の形で解決した――とは、考えていないことが窺えた。  俺も同様の思いだった。  そうでなければ、夜分に訪いを入れる非礼を犯してでも本家に寄っていったろう。  ……あの手しか無かったとは、思うのだが。  女首領の表情は詳細に観察するまでもなく、納得という成分を欠いていた。  負けたと思うよりも、もう一度やれば勝つとの思いの方が遥かに深かったことは疑いない。  山賊たちとて納得などしていないだろう。  おそらくは首領以上に。  しかし、あれは明確な取り決めのもと行われた勝負である。  口約束に過ぎないが、それはさして問題ではない。  約束は環視の中で確かに取り交わされたし、決着も明々白々だった。  仮にも武家の出である者が、確かな事実に頬被りを決め込むとは考えにくい。  約束は守られるだろう――守られる筈だ。 「…………」  とにかく明日、本家へ報告に行こう。  俺はそう決めた。  本家が納得するかどうかはわからないが……  説明の仕方次第だ。  山賊とて元は侍、武人の矜持というものがある。  少なくとも露骨に略奪を続けはしないだろう――と、そのように話を持って行けば説き伏せることも可能かもしれない。  詐術を弄するようだが、光の病状が一刻を争う以上、万止むを得ない。  それに、武人の矜持を信ずる念は偽りではなかった。 「……光……」 「――――」  もう少し待て。  もう少し待ってくれれば、必ず……お前を……  ……また、ここにいる。  〈光〉《おれ》を封ずる闇の檻。  形ではなく無をもって閉ざされた牢獄のなか。  おれはいつまでもここにいる。  そうして、同じ夢を見る。  〈原点〉《はじまり》の記憶。  父を奪う母。  母に奪われる父。  父を失う己。  繰り返し。  また、繰り返し。  おれは同じ夢を見続ける。  果てもない暗黒の界で。  それだけが光という存在に許されたこと。  闇は決しておれを逃さない。  ここで朽ちよと、そう命ずる。  動いてはならぬと、そう命ずる。  そう。  光は、ここから動いてはならぬ。  父を奪われた〈光〉《おれ》がこの生命を動かすならば、  それは父を取り戻すためである。  奪われたおれは、  奪い返すためだけに〈生きる〉《うごく》。  だがそれは許されぬのだ。  ――父は母のもの。母は父のもの。  子が母から父を奪うは、〈倫理〉《ひとのみち》が厳に禁ずるところ。  光は、人である。  人の道に背くことはできぬ。  人の道に従うならば、  母から父を取り戻すことは許されぬ。  人の道に背いて父を奪わんとしても、  父は光を認めまい。  だから、光はこの闇の底から動けない。  奪われた者として始まったおれは、  奪い返す道が開かれぬ以上、未来永劫〈原点〉《はじまり》に留まり続けるしか〈在様〉《ありよう》が無い。  ……だから光はここにいる。  いつまでもここにいる。  おそらく、わざわざ狙ったわけではないのだろう。  彼らが俺の行動予定を知っていた筈はないのだ。  偶然、〈かち合った〉《・・・・・》だけなのだと思う。  しかし、彼らが俺の到来に気づいた後も平然と作業を続行したことについては、悪意の所在を避けて説明のしようなどない。  内一名に関しては特に。 「…………」  何を言うでもなく、彼女は艶然と微笑んでこちらを眺めている。  女性的魅力の発露に対して不快感のみ覚えるというのは、初めての体験だった。  幾つかの想念を頭蓋の内側で錯綜させたすえ、一言を吐き捨てる。 「本家まで行く手間が省けた。  有難いことだ」 「んーん? そこの平民。  何か言ったかしらぁ?」 「別に。  貴方には全く関わりないことだ」  そう、全く関係ない。  本家へ報告に行く必要が霧消したことなど。  米屋から大量の穀物を運び出している山賊ら。  彼らの脇をすり抜けて本家まで赴き、「山賊事件は解決しました」などと胸を張ろうものなら、俺は最高の〈道化師〉《ピエロ》になりおおせるだろう。  生憎、そういった就職志望をしたことはない。  滑稽を売りにして生きる道を選べぬ以上、俺はろくでもない現実をろくでもないままに戦うのみだった。 「一応、確認はしておきます。  昨日の約束は覚えておいでか」 「もちろんです。  侍に二言なし。あの約定はきちんと守っていますとも」 「守っている?  では、この有様は何事か」 「くっふっふ。  約束は、町に手出しをしないよう部下達に命令する……でしょう?」 「……」 「でも、あら残念。  アタシが命令しても、この者達を従わせることはもうできないのよ」 「それはどういう?」  ……既に、察しがつかないではなかったが。  得意満面の女に先を促す。 「一磨!」 「はぁい、姉さん」 「……つい今朝がた、我が〈一ヶ尾〉《いちがを》家の家督をこの一磨に譲っちゃいましたの。  今のアタシは隠居の身」 「おわかりかしらぁー?  アタシがやめろと命じても、兵にとっては一磨の命令の方が大事。一磨がやれと言ったらやるしかないのよねぇ」 「へへ……  そういうわけだ、若いの」 「…………」 「御隠居、申し訳ありません!  オレらも背きたくはないんですが、ご当代直々の命令とあっちゃあ、ねえ」 「いいのよー。  采配は家長が一手に握るもの。身内が余計な口出しをして良い結果を生んだ例など過去にありません」 「一磨!  アタシの事は気にしないで、存分におやりなさい!」 「わかったよ、姉さん!」 「で、次はどうすればいいの?」 「ご、ごめん……」 「そぉいうわけなのぉー、湊斗景明。  期待に添えられず御免なさいね!」 「でも、〈約束は〉《・・・》ちゃんと守ったのよ?」 「…………」 「…………」 「……」 「くふっ」 「おーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ」 「ほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっ――」 「昨日のタムラグランプリ聴いた?」 「聴いた聴いた。  ちょっと音の入りが悪かったけど、どうもサンダーボルトっていう新型騎が近々」 「そこ! 緊張感漲る局面でラジオの話とかしない!」 「……だって笑ってる時間長ぇんだもん……」 「待ってる間ヒマなんだよなー。いつも」 「…………」  溜め込んだ息を、大きく吐き出す。  内心の整理には、それで足りた。  ……元々昨日の約束に、万全の信頼など寄せていなかった。  破られるのは、言ってしまえば、予測のうちだ。  それにしても、こうも早く、こうも呆気なくとは、流石に思いもしなかったか。  しかも、このような―― 「小狡い。  器が知れる」 「失礼な。知恵というものよ。  ま、何とでも好きにお言いなさい」 「下種。  下劣。  下郎」 「狭量悪辣卑劣外道佞人奸物畜獣駄六愚昧蒙昧暗迷妄者小人曲物低俗堕落、亡八輩の護摩の灰」 「…………」 「姉さん、頬が震えてるよ。虫歯?」 「い、痛いよ姉さん……」 「ほ、ほっほっ、ほっ。  負け犬の遠吠えは聞き苦しくってよぉー?湊斗景明!」 「何とでも言えと言ったのは貴方だ」 「……それに、負けたのは姉さんだし……」 「すごく痛いよ姉さん!?」 「えーい、お黙り!  いいこと、湊斗!」 「アタシは負けてなどいなくってよ!  小賢しい手妻に揚げ足を取られただけです。ええ、あのような姑息な策謀など! 大丈夫が用いるものではありません」 「にも拘わらず、当然のように勝者ぶるとは。  恥というものをお知りなさいな!」 「さっきは知恵がどうとか言ってたよ姉さん」 「うわぁーん!」 「アタシはいいの! アタシは、ねっ!  おーっほっほっほっほっ――」 「…………」  胸を反らす首領――元首領なのか、名目上は――を前に、もはや思う事は一つきりだった。  これ以上、話しても無駄だ。  つまりはここで時間を費やす意味もない。  俺は道を引き返すために、身を翻した。 「……」 「!!」 「ふん。  やっぱり、多少はできるようね……」 「何の真似だ……!」 「何の?  馬鹿ね、平民」 「仮初めにも武人たる者が、おまえのような下郎を相手に不覚を取らされて、そのままで済ませておけるはずがないでしょう?」 「ならば、腹でも切れ!」 「それもそれ。  けど、これもこれ」 「おまえの首を取った方が手っ取り早いの!  アタシの気持ちも収まるしね!」 「この……!」  面罵してやりたかったが、殺意漲る白い刃に晒されながらではそれもままならない。  当たり前だが、こちらは空手だ。  今は兎にも角にも、逃げの一手だった。  呼吸を測り、機を掴んで大きく飛び下がる。 「お待ちなさい!」 「……っ」  すぐさま走り出す。  足音が追ってくるが――程なく引き離せるだろう。  相手は武装の上、そもそも体格が違う。  駆け合いで負ける要素は何もない。  足音はやがて罵声に変わった。    だが、雑言を吐き捨てたいのはこちらの方だった。あの女首領と、そして昨夜の自分自身に。  ――何が、武人の矜持か!  そんなもの、どこにもありはしない……! 「カッ――――――――!!」 「光……!  落ち着け、落ち着いてくれ……」 「キ――――――――…………  ――――」 「ひ、光……」 「……やめろ……」 「止めてくれ!」 「お前が壊れる!  光!!」 「ク、カ――――――――――――」  灯明を消した道場の中、白刃をするりと抜く。  刃渡り二尺七寸少々、文は直刃。  濃州関物、新々刀と思われる。  無銘。  出征にあたって養父から譲り受けた軍刀を、除隊の後、打刀拵に戻したものだ。  刃味は上々。藁束であれ青竹であれ、容易く斬れる。  ……人の骨肉も。  試した覚えはないが、斬れるだろう。 (最早、仕方ない)  覚悟を固める。  人として、どうにも違和感と畏れを禁じ得ない考えを肺腑の中央に落とし込む。  斬るのだ。  山賊団の首領。  その弟。  他にも〈頭立〉《かしらだ》つ男がいるなら、その者をも。  そうして山賊を将なき烏合の衆とし、離散せしめる。  ……この期に及んで、打つ手は其処に尽きる。  〈養母〉《はは》の戒めを忘れたわけではなかった。  しかし、――無理だ。  あのような者どもを、殺さずして下す方策など無い。  約束を結び、その上で勝負し打ち勝ったすえ、約束を反故にされてしまうのでは、どう仕様があるというのか。  彼らは自分が勝つまで負けを認めないだろう。  そうしても、約束破りのリスクが彼らには何も無い。違背に対して、こちらは実力をもって制裁を加える事ができないのだ。  当たり前である。  もし〈力関係〉《パワーバランス》がそうではなかったなら、そもそもこの町がいいように食い物にされている理由もない。  根本的に彼らの武力が町を圧倒しているという事実がある以上、これを覆さぬ限りはどのような手も虚しかった。  賭け仕合など試みた己が、今は酷く愚かしく思える。  一体何を根拠にして、山賊にまで身を落とした武士――しかも前身ときたら裏切り者の六波羅だ――が、力への驕りよりも士としての矜持に精神の領域を広く与えているなどと思ったのか。  ……余りにも馬鹿馬鹿しい。  約束を守るだけの誇りが、それだけの人がましさが残っていたならば、どうして飢獣の如き略奪で生計を立てようなどと考えるのだ。  最初から、悟っていて然るべきだった。  彼らが拠って立つ暴力を、同じく暴力をもって打ち崩す以外に解決の道はない、と。  だから斬る。  山賊どもの中核を潰して追い散らす。  ……養母の示した道も、誤りだとは決して思わない。  殺さずして勝つ。確かに武とは、本来そうあらねばならぬものだろう。  だが、その理想が通用するのも相手が真っ当な人間であればこそだ。  畜生同然の輩に理は通じない。彼らに通じるのは力の論理のみ。強いか弱いか、それだけだ。  いや、果てしない努力を費やせば、あるいは正しき武の理とて通じるのかもしれないが。  ――そんな時間は無い。  俺には無い。    光には無い!  一刻を争う今、理想を追っている余裕は無いのだ。  だから――養母の命に背く。  許しは乞えない。  義絶状を認め、自室へ残してきた。  ――愚子、畜生を制するに己もまた畜生たらざるを得ず。仇討無用。    簡潔な文面に留めたが、伝えるべきは伝わるだろう。  足音を忍ばせ、庭を通り抜ける。  養母は勘が鋭い。このような時、突如として現れても不思議ではない。しかし今は好機だった。  先程、来客があった。  養母は客間で応対している。その脇も抜けねばならないが、対話の最中であれば、物音を立てぬ限り感付かれる心配はないだろう。  俺は細心の注意を払って、足を進めた。  袋に納めているとはいえ、真剣持参なのだ。もしも養母の目に触れたなら誤魔化しようはない。 (……客は、御本家か)  微風に乗って流れてくる声で察する。  また、山賊問題のことでねじ込みに来たのだろうか。あるいは光の髪上げの儀の件かもしれない。  どちらにせよ養母には胸の痛い話題だろう。  そう思うと案じられたが、この際は奇貨と思うしかなかった。本家を相手にしている最中では、さしもの養母もこちらに気づく余裕はなかろう。  事実、庭をほぼ踏破しても誰何の声はなかった。  安堵と自責に、軽く吐息する。  通用門はもう目と鼻の先だ。  改めて、ゆっくりと一歩を踏み出し――俺は耳朶を鋭く打つ声にその場で足を止めていた。 「冷たい女だ」  吐き捨てるような声音だった。  同時に、嘲るような。 「貴様のことを湊斗のお袋さまなどと呼んでいる連中に、そのやりようを教えてやりたいものだな。  景明に、敵を殺すなと命じただと?」 「……」 「馬鹿を……!  それでは景明が一方的に殺されるのを待つばかりではないか。奴が殺さぬからといって、山賊どもも同じようにする理由はなかろう」 「そりゃそうだね……」 「あの手合いには、こちらも力を見せ付けてやる以外に刃を納めさせる方法などないのだ。  抑止力というものだ。こちらにも貴様らを殺すだけの力があると、教えねばならんのだ」 「奴らに通じるのは言葉でも道理でもない。  力だけだ」 「…………」 「だから、殺す。  ……殺したらそこで全部終わりだよ、本家。戦いがじゃなくて平和がね」 「誰かを殺せば報復に誰かが殺される。その報復に殺せばまた誰かが報復に殺される。  後はその繰り返しだよ。泥沼さ……」 「だからどうした。  先に奴らを殺し尽くしてしまえば良いだけの話だ。こちらの方が数は多い。恐れるには及ばん!」 「殺して、殺されて、それを散々繰り返して。  ……その最後に平穏が戻ったとして、何か意味があるかい?」 「犠牲に見合うほどの意味がさ……」 「平和を勝ち取ったという誇りが残る。  無意味と云うか? 貴様は」 「言わないけどね。  誰も殺さずに平和を守る事ほどの価値じゃない」 「……夢物語だ。馬鹿め。  そんな夢のために、貴様は景明の命を捨てさせようというのだ」 「……」 「まったく、冷酷な女よ。  仮にも母親のする事とも思えぬ。所詮は血の縁のない義理の息子、どうなろうと知った事ではないというわけか」  繰り返される、本家の非難。    それに対する養母の答えこそ、非難に相応しい冷厳さで満ちていた。 「景明に不殺を命じたのは、武人としての事。  厳しいのは当然だね……」 「何?」 「〈戈〉《ほこ》を止めると書いて武の一文字。  それが、楽なもんなわけはないさ」 「景明は敵の命じゃなく、悪意を断つために戦う必要がある。  口で言えば一言でも、やるとなったらどれほど苛酷か……あんたに言われるまでもない」 「諸葛孔明は蛮王の孟獲を屈服させるために七度勝って七度許した。  それだけのことを、景明もしなくちゃならないだろ」 「…………。  正気か、統」 「寝言にでも聞こえるかい、本家?  でもそれくらいしないと心の刃は折れないだろうね……鉄の刃は一度で折れる。けれどそいつは武じゃあない。ただの力だ」 「力は次の〈戦〉《いくさ》を呼ぶばかり。正しい武だけが戦を終わりにできる。  本家。あんたとわたしが景明に命じたのはそういう事だよ」 「死ぬに決まっておるぞ……」 「死は武人の〈運命〉《さだめ》のうち。  〈景明〉《あのこ》にはその覚悟がある……」 「……立派な言い草だ。  武人の鑑だな」  老人がそう思っていないことは、口調で知れた。 「母親としては、何も思うところはないのか。  武道の者として子を死地に投げ捨てて……それきりか」 「そうだねぇ」  どこか眠たげな声。  それは養母の、いつもの声だった。 「母親としては、一緒に死んでやるくらいか」 「…………何だと?」  ――――統様!? 「あの子に言ったんだよ。おまえが死んだら、おまえを死なせた奴を全員殺すってね。  その最後の一人はわたし……当たり前だろ」 「あんたが言うように、あの子を死地へ追いやったのはわたしなんだから。  観客を気取ってるわけにゃいかないね……」 「一蓮托生さ。  わたしの命は景明の道に委ねた。あの子がその道に斃れたらわたしも死ぬ。……その時は本家、光のこと頼むよ」 「……貴様、本気か。  それで良いのか」 「言ったろ。死は武人の運命のうち。  良いも悪いもない」 「戦いに敗れたら、武人は死ぬ。  それだけのことさね」 「統……」 「〈不殺〉《ころさず》って言ってる本人が死んだんじゃ〈格好〉《かっこ》つかないからね。やめときたいもんだけど。  まっ、うちの子はデキるやつだから大丈夫だろー」 「景明を信じて託すと云うのか」 「うん」 「……儂とて奴には信を置くところがある。  でなくば冗談にも山賊退治を命じたりなどせん」 「あぁ。あんたも見るとこは見てくれてるな。  母親としちゃ、嬉しいことだ」 「だが、兵事はなべて運不運ぞ。  例え景明に事を成す力があろうと、うまくゆくとは限らん!」 「わかってるさ」 「ならばなぜ懸けられる……!  息子と自分の命を」  ――何故。  何故、養母は懸けられる?  何故…… 「同じ話の繰り返しになるけどね」 「……」 「〈それしかない〉《・・・・・・》からさ、本家。  そうするしか、山賊との諍いを収める道は無いんだよ……」 「殺し合いが始まったら、後は無限の連鎖だ。いつまでも続く。怨恨に果ては無いからね。  終わらせるには、それがどんなに困難でも、殺さない方法を取り続けるしかない」 「あんたが条件くっつけたせいで、景明には〈時間制限〉《タイムリミット》がついて、余計厄介になっちまったみたいだけどねー……」 「……それは……」 「ただの皮肉だよ。光の状態が差し迫ってるのはあんたのせいじゃない。  むしろ景明と約束してくれたことには礼を言っときたいくらいだ」 「そんなものなくたって、わたしがそろそろ始めるつもりだったからね。山賊問題の解決。  事がこう転んで一緒に光の件も片付けられそうになったのは、ま、いいことだ」 「……」  ――〈それしかない〉《・・・・・・》。  山賊との諍いを収め……  光を救うには……    それしか、ない。  ……そうだ。  何故、気づかなかったのか。  頭の中の何処かで、昂ぶっていたもの――焼けた石にも似た何かが、ふと取り除かれたかの心地だった。  脳漿の澱みが晴れ、意識が澄む。  数瞬前には見失っていた事柄が、今は手に取るようにわかった。  ……敵の頭株を殺して、それでどうなる?  どうなるというのだ。  確かに、山賊団の統制は失われるだろう。  しかし、それからどうなる。  何処かへ逃散する? ……そんな保証はない。それは単なる楽観に過ぎない。  統制がないだけに一段と厄介な集団と化し、今よりも遥かに無思慮にして無差別な略奪を始める事はないなどと、どうして言えようか。  むしろその方が可能性は高いのではないか。  かような事態を未然に防ぐには、どう仕様がある。  ……いっそ頭株だけと云わず、山賊団を全滅させてしまうか。  馬鹿な。  そんな力が、俺のどこにあるだろう。  無責任にも、中途で斃れるに決まっている。  そして、後には大きな災いを――町と山賊団の間に絶滅的な敵意を――残す。  何も解決しない。  誰一人、救われない。  解決するには――    やはり、殺してはならないのだ。  山賊の頭目の命を奪わず、  その悪意だけを奪わねばならない。  容易くはなかろう。  いや至難であろう。本家の言う通り、夢物語というものかもしれない。  しかし、養母は既にその道へ一命を賭している。  自らは動かず、ただ見守る立場でありながら。  当の俺にこそ、その覚悟が無かった。  心構えに甘さがあった。どこかで武の道の峻厳なるを軽く見ていた。  だが、今こそ〈心胆〉《はら》を据えよう。 (統様) (お許しを)  俺は庭土の上に平伏した。  母屋の方角へ頭を下げる。  そして、心中に誓約を刻む。  ――戈を止めると記して武。  この道を全うする。  誰も〈殺〉《あや》めず、事を収める……  養母も光も、失わないために!  その夜は道場で眠った。  この覚悟を、忘れたくなかったのだ。 「景明ーーー!!  なんじゃこりゃーーーーーーー!!」 「……しまった」  そして夜半――養母の絶叫で叩き起こされ、大泣きされたうえ折檻された。  うっかり、絶縁状の処分を忘れていた。  ――早暁。  目を開けた刹那、時刻をそう踏む。  まだ陽も昇らぬこの折に、なぜ目覚めたのか。  昨晩、改めて心奥に秘めた誓いが全身の細胞を高揚させていたのか。  それとも――虫の知らせというものか。  道場の戸を開け、海の色で染まった庭へ下りる。  辺りは静寂に包まれていた。  早朝であれば常の事。  だが今日のそれは、ただ人々の眠りがもたらすものだけでなく、どこかに不穏な――押し殺したような、そんな何かを含んでいる。  ほんの数歩で、その正体は知れた。 「お早うございます」 「……おはよう」  尚も潜み続けるような、悪足掻きはなかった。  足音までも心外そうながら、その影が庭木の裏より進み出る。  だが内心の不本意を、舌打ち一つきりで彼女は吐き捨てた様子だった。  こちらへ注ぐ眼光の下には、既に平静な微笑がある。 「ま、手間が省けたってものね。  おまえの寝床を探して回らなくて済んだのだし」 「そも、この住所をお教えした記憶も無いのですが」 「そんなの、調べればすぐにわかることよ」  確かにそうだ。 「御用の向きは」 「聞かないとわからないの?」 「察しはつきますが、生き死にに関わる事。  万一の誤りもないよう、確認は必要かと」 「生き死にの事なら尚更、いちいち確かめている暇などないでしょうに。  おまえが寝こけていたらそのまま首に斬りつけるつもりだったのだけど? アタシは」 「それなら誤解の余地は元々ありませんが」  夜明け前という時刻をわざわざ選んで襲ってきたのだ。当然そうだろう。  もし昨晩何事もなく就寝していたなら、きっと枕頭まで踏み込まれても気付かなかったに違いない。  仮に気付いたとしても。手足は重く、対峙して戦うことはままならなかったろう。  早朝の眠りは特に深いものだ。古来よりの兵法にも、奇襲に最適の時機とある。 「今だって同じでしょう。  これが見えないわけでもあるまいに」  言って、首領は手にしていた物の一方を、こちらへ投げて寄越した。  右手を伸ばし、宙で受け取る。  太刀だった。  先日の勝負で借り受けたものだ。 「……奇襲する〈肚〉《はら》だった割りに」 「ふん。  おまえと真っ向から勝負して本当の優劣を知らしめられるのなら、元よりそれに越したことはありません」 「ただ、平民ごときを相手にわざわざ勝負の体裁を整えてやる義理など、全くなかったというだけよ」 「そうですか」  屈折したものだが、そう説明されればわからなくもない。 「自分は貴方と対等に勝負する資格を得た。  そんなところでしょうか」 「そう思いたければ思いなさい。  おまえがこうして出てきたのなら、アタシは正面からおまえを斬り捨てる」 「それだけのことよ」 「……」 「おまえは好きにしたらいい。  この前のように、小賢しい策を使ってみなさい。今度はそんなもの、おまえの命諸共にぶった斬って差し上げるけどね……!」 「……一度、あのような術策を用いた以上。  信じて頂けなくとも、それは我が身の不徳ゆえというものですが」  白刃を露わにする首領に応じて、鞘を抜き捨てる。  刃先の手入れは今日も怠りないようだった。  使い物にならないような、細工が施されているのではないか――  と、そんな疑念は湧くこともなかった。罠を仕込むくらいなら、最初から太刀など渡さねば良い話だ。  それに、首領の瞳に満ちる凶々しい戦意には偽りの色が無い。  正面から斬り伏せるとの言は本心だ。 「尋常にお相手仕る」 「言っていなさい」  取り合わず、太刀をゆるりと右肩上へ構える首領。  武者正調、上段の太刀取り。  応じて構える――  その前に、俺は言葉を継いだ。 「首領殿」 「なに?」 「勝負の前に、取り決めを宜しいか」 「……あぁ」  く、と彼女の唇は侮蔑を描いた。 「なぁに? 上手い約束の仕方を思いついたわけ? 今度は首領を辞めたなんて言い訳が通らないような。  それとも誓約書でも書く?」 「いいえ」  首を左右する。 「前回と同じ約束で結構です。  自分が勝利した暁には、町への略奪行為を止めて頂く」 「貴方が勝ったなら、この身をお好きに」  ……殺す気満々の相手に出すには、少しばかり妙な交換条件だが。 「…………」 「何を考えているの。おまえ」 「格別の事は」  ただ、覚悟を定めただけだ。  小細工などに頼らず、この女性から害意というものを取り除くまで戦う――と。 「宜しいか」 「……結構よ。  それが望みなら」 「では」  太刀をとる。  対手と正対称の武者上段。 「吉野御流合戦礼法、湊斗景明。  参る」 「……六波羅〈新陰流〉《しんかげりゅう》。  対等の名乗りなど烏滸がましいけれど、流名だけは〈呉〉《く》れてあげる」  じわりと一歩、首領が間を詰めた。  そこに前回のような傲岸なる余裕は影もない。  実力に裏打ちされた平常心だけがある。  ――やはり、強い。  その感慨を新たにすると共に、俺は峰打ちで戦うという方策を捨てた。  それではとてもこと、勝てなどしない。  刀剣は刃を敵に当てるように出来ている。  それは刃の鋭さに留まる問題ではない。形状、重量バランス、柄糸の巻き方、〈目貫〉《めぬき》の配置……全てがその用途を前提としているのだ。  それを無視しては、剣の性能を大きく損じる。  只でさえ実力差があるのに更なるハンディキャップを背負い込んでは、僅かな勝機がつかむ前から去ってしまうだろう。  太刀は正しく扱い、その上で急所を外すしかない。  さもなくば、寸止めか。  ……〈何〉《いず》れにしろ、峰打ちで勝つのとさして変わらぬ難業とも思えたが。  薄紙一枚分でも勝利へ近付けるのならば、その選択をする責任が俺にはあった。  この背は、自己一身に留まらぬ命運を担っている。  首領はじわり、じわりと、地面を足裏で摺って間合を詰めてきていた。  亀のような歩み――しかしその鈍足こそ脅威である。  姿勢を、重心を、崩さぬままに遅く遅くゆっくりとひた歩むのはまさに至難の業だ。  姿勢の維持は早足の方が遥かに易く済む。  自転車を例に引き出せば自明の事。  歩くよりも遅い速度で自転車を乗りこなすなど、誰にできようか?  首領の遅足は、その離れ業を――重心の完全制御を意味している。  本能的な怯えが、俺の背筋を冷たく這い登った。  ……つまりはこういう事だ。  彼女はこの歩法により、間合が〈斬り間〉《・・・》に達する瞬間を、ずれなく無駄なく完全に掌握し、最高の機に一刀を繰り出す事ができる。  これと拮抗するには、同じ戦機をこちらも掴むしかない。  俺は緊張に強張りかける眼球を辛うじて宥め、適度に弛緩させて視野を安定させた。  足は、その場に留める。  これも一つの選択であった。  敵の歩法に対してこちらも歩法にて応じ、敵の間合掌握を乱し己のみ間合を奪おうと図る――それも一途。  だが放棄した。そこに勝負を挑んではおそらく勝てない。  間合の取り合いとなれば、何よりも実戦経験が物を言う。  高々数年ばかりの兵役と幾度かの仕合の経験のみで、六波羅武者の歴戦ぶりに敵し得るとは些かも思えない。  静止して待てば、間の取り合いについてはアドバンテージを譲ることになるものの、距離の把握においてはこちらの方が容易であり優位となる。微速ながらも敵は動いている以上、この点は揺るがない。  そこに勝機を見出すに如かず。 「――――」 「――――」  朝靄の中には呼気も浮かばず、相対する敵手の呼吸は全く見えてこない。  対してこちらは、相手ほど巧妙に吐息を隠しきれているか……どうか。  呼吸を読まれることは、行動予定表を黒板に記して見せるのとほぼ同義だ。  相手はこちらの対応不可能な機を掴んで攻め寄せて来るだろう。  体を動かすのは筋肉であり、筋肉の出力は呼吸状態に左右される。  通例、〈吸〉《・》よりは〈止〉《・》、止よりは〈呼〉《・》が、より大きな筋力を生み出す。  ゆえに間違っても、空気を肺臓へ吸い込む機を――全身の筋肉が行動力を減らす瞬間を察知されてはならない。  それには、吐息の勢いを可能な限り緩めることだ。  呼気を隠せば吸気も隠れる。  肺は静かに使うに限る…………  いつしか、間合は狭まっていた。  小刀の先で削るように詰められた相関距離、それが一定の値へと接近している。    ――一定の値。  即ち、〈斬るべき間合〉《・・・・・・》だ。 (見えている……)  可能な限りの角度と視点から距離を検討、確認する。  ほぼ、〈糎〉《センチ》単位では把握できていた。  戦機は近い。  それは、俺の機だ。  彼我の得物はほぼ同尺。  しかし体格においては開きがあり、それはそのまま〈有効射程〉《リーチ》の差となる。  俺の射程は対手よりも長い。  その優越分は、つまりこちらが一方的に攻められる間だ。  蜻蛉が止まりそうな速度でその距離へと近付きつつある首領は、あたかも俺がその機会を狙いやすいように配慮しているかの風である。  無論、違う――――いや、そうも言い切れないか。  確かに彼女は配慮しているのかもしれない。  俺に絶好の機会を狙い打たせ――そこを迎撃して、制圧しようと。  射程の優越により一方的に攻められるといっても、それは俺が動き出すまでの話だ。  動きを起こし、体を前へ押し出せば――当然。間合は縮まり、相手にとっても打ち頃になる。  現状は必ずしも、一方的な優位とは言えないだろう。  それでも先に動きを起こせるという点が大きな有利であることは間違いない。  対手はこちらの攻勢を〈一切の遅れ無しに〉《・・・・・・・・》把握できて、それでようやく互角。そして実際はそうはいかぬもの。  動きの立ち遅れはまず避けられず、その遅れの分量だけ刃の競走で不利を背負うのは自明である。  目の前の〈手練〉《てだれ》とて、その理からは逃れられまい。  剣速で挽回される〈可能性〉《おそれ》はあるにせよ……  やはり、こちらにとって悪い勝負ではない。 (…………)  間合に達した。  俺の、間合だ。 「……」  心なしか。  首領の双眸が、険しさを増したようだった。  俺は機を見送った。  変わらず不動のまま、敵が間を詰めてゆくに任せる。  こちらの有効射程、敵の〈射程外〉《アウトレンジ》――我が優越的区間はさして長くもない。すぐに失われるだろう。  それを看過している事実が、首領には心外の様子だ。  ……確かに。  兵法の常道に従うなら、打ち込んでいるべきだった。  思い留まったのは、脳裏の一語が引っ掛かった為だ。 (六波羅新陰流……)  正しくは〈柳生〉《やぎゅう》新陰流六波羅派。  嘗て徳川氏御家流であった大流儀の〈裔〉《すえ》である。徳川時代末期に主家を捨て朝廷勢力へ身を投じ、六波羅の隷下となった柳生某を祖としている。  多くの独特な技法を持ち、もはや柳生流とは言いかねる面もあるものの、幕軍内で隆盛。  分派ながら本家を凌ぐ地位を獲得し、今やその当主は幕閣に席を持つことすらある。  当代宗家は柳生〈常闇斎〉《じょうあんさい》。  不世出の達人と呼ばれ、その腕を買われて足利一族の親衛隊である六波羅〈厩衆〉《うまやしゅう》の頭領を務めているという――いや。その辺りは別にどうでもいい。  柳生新陰流と並んで徳川家の兵法を預かった流儀に、小野派一刀流がある。  これもまた名流だが、特にその奥義は著名だ。  〈切落〉《キリオトシ》。  これはまず、敵手に正面を〈斬らせる〉《・・・・》。  相手が攻撃の挙動を起こし、剣筋を定めるまで待ち――それから我が動きを起こす。  対敵の剣撃と正対称の剣撃を。  そして敵の剣を迎え撃ち、〈斬り落とす〉《・・・・・》。  そのまま、敵の肉体をも断つ……  ただ一刀にて〈受〉《ウケ》と〈攻〉《セメ》を共に行う。  まさしく一刀流の流名を体現するような技だ。  ……その術理を、首領が――新陰流が知らないとは言い切れなかった。  小野柳生両家は同じ主を戴きながら、互いを潜在敵とし、技法の盗み合いなどは日常茶飯事だったという。  そうでなくとも、ある流派の技術が別の名で他流に存在するなど珍しくもない事なのだ。同じ武器の操法を突き詰めているのだから当然とも言えるだろう。  六波羅柳生が切落を伝えていても不思議は何もない。  事実、俺が切落を名のみではなく術理まで知るのはまさにそういう理由からだった。  吉野御流において、この技法は〈打潮〉《ウチシオ》の名称で伝えられている。  首領が俺の攻撃に対して単に剣速での勝負に臨まず、切落をもって応じた場合――勝負は剣筋の見切り合いになる。切落同士の打ち合いは、相手側に見切られた剣が最終的に〈落とされる〉《・・・・・》からだ。  そして、その勝負は俺が不利になる。  こちらから仕掛ける以上、その時点で既に半ば以上、剣筋を定めてしまっている――途中変化は不可能ではないが、その範囲はどうにも狭く、少ない。  こちらの剣をある程度見てから動く敵手との間には、覆し難い優劣が生まれるだろう。  曰く、この剣を極めた者に引き分けはあっても敗北はない――剣聖の至芸と畏怖される所以である。  だから見送った。  首領が切落ないしはそれと同質の術、相手に先制を許しながら後より勝つ迎撃技法を心得ている危険性について、考慮に値せずとは思い切りかねた。  …………もしかすると、俺は唯一の勝機を逃したのかもしれない。  心臓の周辺に〈ざわざわ〉《・・・・》と蠢く迷いを振り捨て、気を新たに間合を測り直す。  俺の優越距離は終わりかけていた。  あと一呼吸後……双方の〈打ち間〉《レンジ》となる。  現在この時点で、俺には三つの選択肢があった。  優越距離で仕掛けるのが一。相互攻撃の距離で仕掛けるのが一。相互攻撃の距離で敵が仕掛けて来るのを待つのが一。  これに対応する形で、相手の側にも選択肢があるということになる。  まず第一の選択。  こちらの優越距離で仕掛けた場合――相手が切落のような技をもって応じるなら、こちらの敗となる。  そうでなければ剣速の差で勝。  第二の選択。  相撃の距離で仕掛け――相手も同様に仕掛けて来たなら優劣は無し。剣速で勝敗は決する。  敵が切落を期して待ち構えたなら敗。  第三の選択。  敵の仕掛けを待ち――望み通りに敵が来たならば勝。 〝打潮〟の剣理を俺の技量で全うできるなら、だが。  敵が来なかったなら、状勢は動かず。  いずれの方途も一長一短。  選択の決め手は、敵の何を最も恐れるかという判断だった。  運剣の速度を最も恐れるとするなら、先にスタートを切れる今こそ仕掛けねばならない。  相互攻撃の間合に入った後では、互角以下の勝負にしかならないのだ。  そうではなく、迎撃技を最大の脅威と設定するなら、第一・第二の選択は無いということになる。  選ぶべきは第三。待ちの姿勢だ。  どちらか。  ……だが、この決断は既に下している。 「……」  俺は待った。  相関距離の変化を見守る。  敵の攻勢を、ひた待つ。  あくまでも、この一瞬間は――だが。  一瞬間。  間合が、  相撃に達する。 「――」 「――」  顕れた結果は、  …………彼我、〈共に静止〉《・・・・》。  この時点で、双方の企図は露出した。  どちらも、相手の攻を引き出しての迎え技を狙っている。  そして、それが互いの知るところとなった上は、    ――千日手だ。  敵が待ち構えている以上、攻め込むことはできない。  敵の攻めを待つしかない。  しかし、こちらが待ち構えていることは敵も知っている。  敵も攻めることはできず、待ち続ける。  〈先に動いた方が負ける〉《・・・・・・・・・・》。  互いに、そう悟り合う。  即ち――  状況は持久戦に陥った。  一瞬。  また一瞬。  対峙を続け、対峙のままに、時間を送る。 (どうする)  この状形でも、選択の余地がないではない。  無芸に対手の翻意を待ち続けるほかにも道はある。  一つは、互いに退く。  このような形勢になった際は、力量を認め合って、勝負を分けるのが節度ある武人の振舞いというものだ。  また一手には、誘いを仕掛ける。  攻撃をかける――と見せかけて、敵の迎え技を引き出し空転させ、しかる後に制するのだ。  どちらもこの状況は打開し得る。  が……選ぶことは、できなかった。  前者は論外だ。  互いにこの勝負に賭すものがある以上、士の美風に背こうとも退くことはできない。  後者もやはり、考慮には値しない。  あっさり〈誘い技〉《フェイント》に乗ってくれるような相手だと見込んでいたのなら、ここまで行き詰まる前にいくらでもやりようはあった。 (……だが)  敵がその手を使うことは、充分に有り得る。  相手が遂に押してきた――からといって、すぐさまござんなれと食いついては、危ういやもしれない。  戦に〈古〉《ふ》りた者はそうした引き出しを必ず持っていると云う。  見極めが肝心だ。  敵の攻勢、その真偽の。  果たして、瞬時に正確な判断を下せるものか。  それは、困難であろう……が。 (見極めれば勝てる)  偽を偽と看破できたなら、誘いに乗った〈ふり〉《・・》をすれば良い。  それで敵が応じてきたところを、狙い定めて制する。  ……応じたと見えたものが、実はそれこそ敵の〈ふり〉《・・》だった、などという事態さえも起こり得るが。  それにしても、こちらから誘い技を仕掛けるよりは待った方が分はありそうだ。  そうして結局。  ――待ち続ける。  待つ。  敵の動きを待つ。  敵も、待つ。  俺の動きを待っている。 (立合いの開始から……今、七呼吸と半)  秒単位ではどれほどだろう。  いや――考えまい。  勝負のさなか、実時間などさしたる意味は持たない。  それよりは呼吸数の把握の方が意味がある。呼吸の状態は体力状況に直結するからだ。  現時点において、問題は全く無い。  持久力には自信のある方だ。おそらく眼前の元軍人にも劣らないだろう。  もし対峙者がその点について、俺の自信を裏返しにした不安を抱いているなら――  いずれ必ず、仕掛けて来る。 (そうだ。  彼女は来る)  確信する。  思えば首領は、俺に優るとの自負をもってこの対戦に臨んでいるのだ。先日の敗北が誤りであると証明しようと。  対して俺は、実力で劣るという事を疑っていない。  俺の方がこの相対を続けるのには何の支障も無い。  が、彼女は違う。このまま五分と五分の対峙を維持する事は、己が実力で優越するというそもそもの戦う動機を否定するに等しく、戦いの意味を失わしめる。  だから攻めざるを得ない。  彼女は自己の力量を証し立てるため、必ず来る。 「――」 (来る……)  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――来た。 「!」 「……」  …………そう来たか!?  彼女は確かに、押し出してきた。  だが――それは俺の予測を全く外すものだった。  首領は足を摺り、じり……と進み出てきた。  ただ、それだけだったのだ。  つまりは再び、間合を詰め始めたのだ。 (いかぬ)  顔から血の気が引いてゆくのを感じ取る。  鏡に映せば幽鬼めいた蒼白貌を拝めるだろう。  敵手の企むところが奈辺か、手に取るようにわかる。  気付くのが余りにも遅過ぎたが。 (俺の間合が〈殺される〉《・・・・》)  そうとしか、解釈のしようはない。  言わずもがな、刀剣には間合というものがある。  それは、刃が届く範囲――では、ない。正確には。  例えば切先だけ届く距離を、間合の内とは通常考えない。  切先だけで斬り込んでも、相手に大した負傷は与えられないからだ。皮肉を裂く程度に留まる。  敵の骨肉まで刀剣が断裁し得る間合とは、切先三寸下より一尺ほどの範囲の刃が相手に触れる距離であると云う。  その該当部分を称して〈物打〉《ものうち》と呼ぶ。  物打の間を越えても、〈下回っても〉《・・・・・》、刀剣の殺傷力は損なわれる。  斬って、斬れなくはない……だが一撃必殺とはゆかないもの。  今は双方、相手を物打の当たる距離に収めている。  が……このまま、首領が間を詰め続けたなら。  相関距離が俺の物打の間よりも縮まる。  そして、その時点では、敵側はなおこちらを物打の範疇に留めている……  そう。  対峙がかく膠着する以前には、ある面で俺の有利を保証した射程距離の優越が、今度は仇となるのだ。  〈最低射程も俺の方が長いのだから〉《・・・・・・・・・・・・・・・》。  やがては、対手のみが一方的に俺を斬り得る間合となる。その意味はつまり俺の敗死だ。  そんな近間からの剣閃を防ぎ止めることがどれほど難儀か、他人の知恵を借りるまでもない。  所謂、〈懐に入られる〉《・・・・・・》という格好だ。  体格に優れる者が劣る者と立ち合う際、最も危惧せねばならぬ事態だ。  近い未来に約束された窮地を回避したく望むなら、そうなる前に決着をつける必要があろう。  だが、その先に待つも死地だ。  仕掛ければ返される。  それは、わかり切っている。  迂闊に動けぬ状況は何も変わっていない。  ただ………こちらに限って、時間制限が設けられただけだ。  動けば死。  待てば死。 (下がる、か……?)  妙手めいたものがふと、脳裏を〈過〉《よ》ぎった。  ……ひとまず後退する。  敵が前進するのと同じ速度で退き、間合を維持する。  そうすれば有利にはならずとも、膠着状態は続けられる…… (駄目だ)  しかし、俺は自分の発想を一蹴した。  後退すればその刹那、俺は〈死に体〉《・・・》となる。  前進して敵に打ち込んでゆく勢力を失う。  それこそ、彼女にすれば勝機だ。迎撃の恐れはなく、また体重が後ろへ流れているとなれば防御も踏ん張りが利かない。斬り崩すのは造作ない。  彼女がその勝機を掴み損ねると信じるのは如何にも甘かろう。  対手、つまり俺の取り得る手立ての一つとして後退を考慮に入れていないとは考えられない。  退けば必ず食い付いてくる。  ……逃げ場、無し。  時間稼ぎの策すらも。  時間はただ喪失に喪失を重ね、  俺の死を意味する刻限へと近付いてゆく。  両の腕に保持される太刀が意味を無くす、その距離が接近する。  ……元より、この敵手を殺すつもりはないのだ。  殺傷力を失う、それ自体は良しとしてもいい。  だが打撃力の減衰が殺傷力以下〈制圧力〉《・・・》以上にうまく収まるかと云うと――  虫の良い期待であろう。  殺傷力が有るとは、骨まで断てるという事だ。  それが無いとは、骨は断てないという事だ。  このまま間合が侵され、そして斬り合いになったとして――しかも速度優り、先にこちらの刃が相手の体に達したとして。  俺の太刀は敵の肩口を数〈糎〉《センチ》は抉るだろう。  しかし敵は止まるまい。  一瞬の百分の一程の時間の後、敵の刃が達し、俺は骨から内臓まで存分に斬り裂かれて果てる。  敗北だ。  ならば、相打ちではなく――  一方的に、一撃を加えられるなら? その一撃では勝負を決められずとも、相手を弱らせ、流れを有利に変えられるのではないか。  打潮――切落の剣理で敵の剣を封じた上で斬れば。  あるいは体捌きを駆使して一撃を躱せば…… (絵空事だ)  脳内実験に失敗し、その案も放棄する。  理想の実現には、俺の能力限界と物理法則の無視がどうにも必要不可欠なようであった。  距離が、近過ぎるのだ。  技を弄するだけの余裕が無い。  そこまで懐に食い付かれてしまっては、最早こちらは闇雲に太刀を振り下ろす以外の選択を失う。  他はせいぜい、黙って斬られるくらいだろう。受け太刀を繰り出すのも、やはり無理だ。間に合うまい。  ……打つ手が無い。  無い。 (……負けたのか)  未だ一合さえ太刀を合わせていない。  だが既に勝負は決した――そうなのかと、思う。  それは、かつて感じた覚えのない絶望だった。  負けてはならぬ勝負である。  妹の命運を背負った勝負である。 「母親としては、一緒に死んでやるくらいか」  ――更に、もう〈御一方〉《おひとかた》の命をも。  そんな戦いに、  ……敗れようとしている。  その想いが心魂の奥底から新たな力を呼び起こしてくれるような事は無かった。  世の中はそこまで俺に都合良く出来てはいなかった。  それが呼んだものは単に深い絶望だった。  そして動揺だった。 (落ち着け……)  自己への叱咤も絶望を前にしては虚しい。  視界が急速に、色を失い始めていた。  〈熱量〉《カロリー》を失った武者が陥るという、〈灰転症状〉《グレイアウト》とは違う。極度の緊張が血流を乱しているだけだ。  だが、意味は似たようなものだった。  ……自壊。  俺は自ら崩れ、敗れようとしている。  自覚しても、抑制が利かない。  意識が惑乱し、散漫になり、現実認識が怪しくなる。 (今は対戦中……  敵は目の前にいる)  自らに言い聞かせる、その声が遠い。  〈俺が何処にいるのか〉《・・・・・・・・・》、わからなくなってくる。  ……まずい。  身体感覚が消える。  自分の身体を見失う。  この動揺が表面化したら終わりだ。  どうしようもない隙となって表れるだろうそれは、敵手にとって待望の瞬間に違いない。  即、斬死……  何の対応もできずに。 (それは、ならぬ)  己一人の都合で死ねぬ身である。  流離してゆく五体の感覚を引き止めようと、足掻く。  それは溺れる者が藁をつかむに似ていただろう。  すべての努力は〈零〉《ゼロ》の積み重ねに過ぎず、何ら有益なものを結実させない。  俺の心身を押し流さんとする悪意のうねりは、慰め程度に弱まることもなく、せせら笑って目的を遂げる。  感覚はまず、下から消失した。  ……足腰が無い。  何処かへ消えてしまった。  いや、そんな筈はない――目を下に向ければ確固と在るだろう。  だがそうしたがる眼球を、まさか好きにさせられるわけはなかった。  敵は、前にいるのだ……!  ふとした弾みにも下を向いてしまいそうになる目線を、必死の思いで正面に固定する。  そうすればしかし、足腰が無いという馬鹿げた疑念を払拭することが叶わないのだった。  今や、〈立っているのが疑わしい〉《・・・・・・・・・・・》。  空に浮いているような心地。  太刀を携え、空に舞う……  それではまるで武者だなと、夢想じみたことを俺は考えた。  武者ならば、両足が本当に無くなってもさして困るまい。  云わば姿勢制御用の〈部品〉《パーツ》に過ぎないのだから。 (羨ましいことだ)  などと〈薄惚〉《うすぼ》けた想念まで浮かんだのは、俺が棺桶に片足を突っ込んでいる証だったのかもしれない。  そんな間にも時は流れ、対敵は接近し、つまり死は肉薄している。  ――やんぬるかな。  辛うじて正気を保っている、心のわずかな一部分。  そこにすがって、俺は覚悟を定めた。  かくなる上は、斬れるうちに斬り込むしかない。  相手は待ち構えている。迎撃で制される恐れは濃い。極めて濃い。勝算は少ない――が、このまま押し込まれるのを待っていては少ないどころか、皆無になる。  仄かな光明に活路を見出すのみだった。  そのために――まず足腰を取り戻す。  頭に血を上らせ、下半身の感覚を喪失した状態では、闇雲に斬りつける事さえままならない。  心の、動揺し続ける部分は〈忘却し〉《・・・》、平静な部分に全意思を乗せる……そして四肢を再確認する。  体を今も支えている筈の、二本の脚を探す。  ……落ち着け。  ここは空ではなく、俺は武者ではない。  だから足は確かにあるのだ。  足の踏み込みには頼らぬのが武者の刀法。  しかしここは地上だ。足技を忘れては充分な一撃は達成し得ない。  足を使って踏み込まねば、  威力も、間合も―――― 「!」  その一瞬。    ……全てが繋がった。  心は現実に復帰した。  感覚は正常に立ち戻った。  腕と、足と、腰と、脊椎、そして一刀の所在を把握する。  視界は眩まず、誤差のない情報を入手する。  俺が復元する。  離散しかけた自分というものが、今再び一点に集束する。  その、半瞬後。  間合は遂に、俺の最低射程を割るところに到達して―― 「――!」  俺の〈斬り間〉《・・・》は。  失われず、維持されていた。  首領にも、それは伝わったろう。  すぐさま斬りつけて来ないことが何よりの証拠だ。  俺はただ重心を移動させたに過ぎない。  足は、そのまま。  両膝の角度を変え、腰をわずかに後方へ――体重を後ろへ。体が流れてしまわぬ程度に、ほんの微妙に。  それで変化は済んだ。  〈踏み込んで斬る〉《・・・・・・・》体勢から、〈その場で斬る〉《・・・・・・》体勢へ。  日頃より親しむ、素振りの型である。  空の斗争に備えた、足遣いを自ら封ずる武者の鍛錬。  通常、地上においては実戦的な意味を持たない太刀振りの形態である。  足場というものがある戦いでは、踏み込みの利益を捨てる愚行をしか意味しない。  あくまで、通常は。  このような状況であれば――敵手に内懐まで食いつかれた格好であれば、その愚は逆転する。  〈斬撃の間合を縮小する〉《・・・・・・・・・・》という効果を生む。  それこそ、万死に一生を掴む道であった。  敵の深い侵入を迎えた、この間合――  踏み込みを捨てた俺にはなお絶好、〈物打処〉《ものうちどころ》が相手を捉える間隔である。  思いついてみれば、至極、単純な事。  だが、斬り付けは踏み込むもの――という固定観念が、その単純なる発想を容易には許してくれなかったのだ。 (危うい……)  断崖に落ちかけた身を指一本で支える。  まさにその心境だった。  ――安堵して、吐息をこぼす暇など無かったが。  死地は脱した。  そして、状況はここに窮まった。  首領はこちらの変形を認めながら、去就に迷いもしない。  変わらず、巧緻の極にある遅足前進を続けている。  この現況。  こちらにとっては、もはや斬るのみの間だ。しかし、まだ迂闊には仕掛けられない。  俺に比せば四肢の短い敵手の側は、いくらか間合の余裕を残している。  これほどの近間でも切落、あるいはそれ以外の応じ技を繰り出し得る。……まだ、待つ必要があった。  反して敵は、対峙初期の俺と似た状況にある。  こちらに応じ技の余地はない。対応策は相打ちのみ。であれば今すぐにも先手を取り、髪一筋分でも早く剣を相手へ届かせるが最上手だ。  しかし――来ない。  間合をじわりと削りながら、俺の呼吸を測るばかりである。  なぜか。  確たるところは、定かではない。  しかし、あるいは……これも己への自負心ゆえか。  紙一重の勝利よりも、俺を威迫し誘い出しての迎撃による完勝をこそ望むのか。  確かに刻一刻と厚みを増す殺気は俺の恐怖心を煽り立てる。  精神の手綱をほんの少しでも緩めればその瞬間にも、喚き立てながら無闇に斬り掛かってしまいそうな程に。  衝動を堪えるには意志力の総動員を必要とした。    ――あとわずか。あとわずか、耐えねばならない。  最後の節目が間もなく訪れる。  間合はこのまま狭まり……  遂に敵手も、ただ斬るばかりの距離に達する。  互いに応じ技を〈凝〉《こ》らす余地、最早なく。  ただただ斬り合い、剣速を競うのみの間合に。  策も術も技も無し。  条件は五分と五分。疑いようもなく互角の勝負。  どちらが、速いか。  どちらが、強いか。  一刀の振り合いにて、それを決する。  最後の節目。  最後の戦機だ。  ……間合は近接。  手を伸ばせば届くほどの距離に、我が敵はいた。  その貌は、  ――湖面の如く。  彼女は山賊だ。  六波羅上がりの、尊敬できぬ経歴を持つ、どう見たところでいけ好かない女だ。  しかし今この瞬間は、純一の武人であって――ただそれきりの存在だった。  〈湊斗景明〉《おれ》という敵に打ち克つ、  ひたむきなちから。 「――――――――」 「――――――――」  朝日が差した。 「では、統様……  こちらが包帯。それに金創薬になります」 「はい、どうも。  さっき買い置きをぜんぶ使い切っちゃったもんでさー。これで助かるよ」 「……は。  しかし、そのぅ……」 「ん~?」 「……よろしいので?」 「いいんだよ」 「……はぁ」 「あー、でも、とりあえず他言無用でねー」 「はい……」 「…………」 「…………」 「……」 「……もし……」 「……――」 「気付かれましたか」 「……」 「動かれない方が宜しい。  傷に障ります」 「……」 「……」 「……この手当ては……」 「はい。  自分が」 「……」 「……」 「……肌を……  …………その……」 「…………失礼」 「何分、処置は急を要していたものですから」 「……」 「……」 「…………」 「……席を外した方が宜しいでしょうか」 「……ずっと、そこに?」 「応急の処置は致しましたが、何分にも医療は専門外。いつどのような容態の変化があるとも知れず。……といって、貴方のご都合を思うと軽々しく医者も呼べず」 「せめて何事かあればすぐに応じられるよう、控えておりました」 「……」 「何か、ご所望はありますか」 「……いえ。別に……」 「そうですか。  では、どうぞそのままお休みください」 「……」 「後程また、様子を見に参ります」 「……はい」 「…………」 「……負けた。  …………負けたのね…………」 「お。  どした? なんかあったか」 「統様。  いえ。今し方、目覚められたもので。自分が傍にいては休むのに障ろうかと」 「そっか。そいつはよかった。  暴れ出したりしてない?」 「落ち着いておられます。  状況を把握していないだけなのかもしれませんが……」 「ま、今は刀振り回そうったって無理だろ。  なんぼ武者でもね」 「劒冑も持参していませんから」 「真打の劒冑は装甲されてなくても主の傷を癒すくらいはできるっつーけど。数打じゃあ無理か。  幸やら不幸やら」 「劒冑の力を使われていたら、そもそも自分では抗すべくもなかったでしょう」 「それを思うとやっぱ幸運だな。  こっちにとっちゃ」 「……なんで向こうさんは武者のくせにわざわざ生身で勝負挑んできたんだ?  よっぽどの変人なのかな」 「いえ。  彼女は単に、根が武人なのです」 「うん?」 「〈虐殺〉《・・》を良しとしません。  剣はあくまで、〈斗争〉《・・》の為に用いるのです」 「……ふーむ。  なんか見えたかね? 息子よ」 「……はい。  見るべきものを、見たように思います」 「あの娘、どうする?」 「動かせるようになり次第、山の陣地へ送り届けましょう。  劒冑があれば回復も早い筈ですから、そうして差し上げるのが最善かと」 「それでいいの?」 「はい」 「うん。  なら、そうすればいいさ」 「お客人。  ……お休みですか?」 「……いえ。  どうぞ……」 「お加減は如何でしょう」 「……悪くありません。  痛みも……さほどには」 「何よりです。  夜にはもう一度、包帯を取り替えます。汗も拭いた方が良いでしょうから」 「……」 「あなたが、また……?」 「はっ……?」 「……」 「い……いえ。  今度は、〈養母〉《はは》がおりますので」 「……そうですか」  何処となく、残念そうな顔に見えた。  ……いや、俺の目がおかしいだけだろうが。 「……その。  食事は、できますか」 「……今は、あまり……」 「無理にとは申しませんが……  夕食は、できれば少しでも。栄養が不足しては治る傷も治りません」 「……はい。  でも……手を使うのも、なかなか」 「そこは、自分が」 「……そうですか」  何処となく、嬉しそうな顔に見えた。  ……いや、俺の目が狂っているだけだろうが。 「…………」 「……」 「貴方は……」 「はい?」 「何も、訊ねようとなさらない」 「……」 「……宜しいのですか?」 「ええ」 「……」 「疑問に思う事は何もありません。  何も……」 「〈私〉《あたくし》は敗れた。  ……理解していますから」 「――」  反射的に、謙遜の言葉が口をつきかける。  〈偶々〉《たまたま》だ――実力では負けていた――もう一度やればどうなるか――などと。  それこそ、勝負というものの意味と価値を愚弄し、対戦者を侮辱する言にほかならない。  寸でのところでそう気付き、口を噤んだのは、自分で自分を褒めてやっても良いことだった。 「……」 「…………」  誤魔化しの余地を求めて、意味もなく柱を眺める。  そうしながら、視界の隅の〈床〉《とこ》を窺う――――彼女は俺を見ていた。  じっ、と。  真っ直ぐな眼差しを、俺に注いでいる。  ……視線の当たる右頬が、奇妙に熱かった。 「……けれど……」 「はい」 「もう少し……取り乱しても良いのでしょうね。本当は……。  自分でも意外……」 「力を尽くして、敗れる…………それが。  こういうものだとは、思いませんでした」  俺を見つめたまま、武者はそんなことを言った。 「……」 「初めてなのです……」 「は……」 「これほどまで、私情のままに闘ったことも……そうして、敗れたことも。  幕軍にいた頃は、終ぞなくて」  軍人は軍命に従うものであり私戦を固く戒める。  軍人が敗れる時は即ち荒野に骸を晒す時である。  ……なるほど、どちらも彼女が経験しているはずはない。 「だから……  あなただけです」 「……私を打ち負かしたひとは……」 「……誠に、光栄です」  どうにかこうにか失礼にならない言葉を掘り出し、小声で呟く。  自分でも驚くほど、そこには実感が篭もった。  今朝の立合いを何度反芻してみても、この腕で勝ちを拾えた事が信じ難い。  どんな〈幸運の小人〉《コロポックル》が俺に味方したのやら。あるいは前世の功徳か。どちらにしろ、心当たりは全くない。  小声の返答を聞いていたのか、いなかったのか……。  彼女は心持ち、布団の裾を口元へ引き上げるようにしながら続けた。 「……それと……その。  私が……肌を許した殿方も……」 「……」 「……………………」  ――何を言えと。    今度こそ、言葉は全く見つからなかった。  ただ本能の指示に従って行動する。 「食事の用意をしてきます」 「あっ……」  撤退。 「……」 「……湊斗……  ………景明………」 「いいかわかってるな景明。  まず重要なのは食事の温度だ。これは必ず熱めにしておくこと。でないとふーふーしてやる理由がなくなって本末転倒だぞ」 「冷ます時にはさりげなく口をつけたりするとポイント高い。  あくまでさりげなくしかし必ず気付かれるようにやれ! いいな。ここ難しいから」 「最終段階! 匙を伸ばして食べさせてやる。  この時は手元を見るな! 相手の目を見ろ。瞳と瞳で見詰め合え。大丈夫だ。こぼしたらこぼしたでまた別の進展パターンがある」 「さあ、やってみろ息子よ!!」 「はい」 「〈養母〉《はは》が失礼しました」 「い、いえ」 「あの……」 「お気になさらず。  空腹の筈なので、すぐ食事をしに去ります」 「はぁ」 「では、どうぞ。  ご安心を。既に適温です」 「……」 「……もしや、猫舌ですか?」 「い、いえっ。  頂きます」  粥を〈掬〉《すく》って差し出した匙を、首領の女性はおずおずと口に含んだ。  ややまごつく風ではあったものの、食べ損じて舌を火傷しているような気色はない。  大丈夫と見て、俺は次の一杯を掬った。 「味にご不満などは」 「いえ……」 「申し訳ありません。  せめてもう少し、彩りがあれば良かったのでしょうが」  麦と米をほぼ半々、そこに卵を一つ落としただけの粥だ。  味覚の面でも滋養の面でも、寂しさは禁じ得ない。 「最近はこの町の食糧事情も思わしくなく。  なかなか――」 「……」  俺の言葉に、彼女は気まずげな様子で押し黙る。  やはりこの貧しさには不満があったのか――などと的外れな事を三秒ばかり考えた後で、俺の鈍い頭脳はようやく気付いた。  ……しまった。  これでは〈当てこすり〉《・・・・・》だ。  食糧不足に一役買っている人間の面前でこんな話をすれば、必然そうなる。  だが、今のは全くの不慮だった。 「……幕府の食糧管理が未だに厳しいもので。  都市部では緩和が始まっているそうですが、地方が恩恵に与るのは今しばらく先でしょう」 「尤も、現状でも終戦直後に比べれば遥かにまし。  あれこれ言うのは贅沢かもしれません」 「…………」  苦しいフォローをしてみたものの、効果が上がっているようには見えなかった。  遠慮することなどない粗末な粥を、首領はいかにも食べ辛そうにしている。  ……仕方ない。  こうなってしまった以上は、開き直るか。  どのみち、話さずにはおかれない事柄なのだ。 「首領殿」 「……はい」 「改めてお願い致します。  町に対する略奪行為を、どうか止めて頂きたい」  頭を下げる。  約束を盾に取る言い方は、あえて避けた。――その必要もない。 「…………」  借用書を突きつける真似に及ばずとも、彼女は自ずと思い出して、それを考慮する。どうしてか今はそう信じられた。であれば、言葉は控えた方が礼節に適う。  事実、首領は沈思する様子だった。  しかし、表情は多分に痛みを孕んでいる。  それはきっと――約束のことを思いながらも、遵守する方向へ考えが進んでいかないからだろう。  それは、そうだ。  山賊団は別に嫌がらせ目的で略奪行為に及んでいたのではない。彼らなりに切羽詰まった事情あっての事だ。はいやめます、とはゆくまい。  盗賊の事情など知ったことかと、そう言ってしまえば終わりではある……が、現実的に解決の方策を得るには、彼らの立場も考慮せずには済ませられない。  俺はしばし考えた後、再び口を開いた。 「今、貴方がたが住まわれている山……」 「……?」 「裏へ回ると、人手を失って放置されている田畑があります。  そこに入られては如何でしょう」 「…………」 「私達を……  この町に迎え入れると……?」 「はい」 「……」 「無論、現段階では自分一人の思案です。  しかし……山賊行為の廃止と、将来的な町への食糧供給が約束されるのなら」 「貴方がたの入植、そして充分な収穫が得られるまでの生活物資供与。  これを町の人々に認めさせることは不可能ではありません」 「及ばずながら、自分が尽力致します。  養母も協力してくれることでしょう」 「お母様……?」 「先程の。  このような言い方は何ですが、町に対して強い影響力を持っています」 「我が湊斗家は平民身分、しかし皆斗本家の祖はこの界隈を治めていた領主です。  そのような背景がありますため」 「……あぁ。  それで……」  納得した風で頷いたのは、影響力云々とは別の事柄に対してのようだった。  首領の左手が無意識らしき動作で傷口を押さえる。 「いくらかの不満は出るにしろ、大勢は平和と実益を求める方向へ傾くと思われます。  貴方が集団をよく統率し、これまで深刻な衝突を起こさなかった事実も有利に働きます」 「……」 「しかしまずは、貴方がたの意思が肝心。  ……どうでしょう。この提案、受け入れて頂くわけには参りませんか」  告げるべきを告げて、口を閉ざす。  瞬きもやめて見つめる先、首領の両瞳の中で〈揺蕩〉《たゆた》う逡巡があった。  功利の面のみ見れば、まず問題なかろう案だ。  町にとっては明快至極。略奪というマイナスが田地の復活でプラスに転ずる、こんな旨い話はない。過去の経緯を水に流すだけの価値がある――おそらくは。  山賊化した浪人集団にとってもそうだ。  今の暮らしがいつまでも続けられると考えるほど、楽天的ではないだろう。いずれ中央が安定すれば幕府も地方の治安に目を配り始める。  最終的には、悪しき賊徒として首を晒される末路が待つばかりだ。  が、武器を捨てて町に溶け込めば、そのような最期は避けられる。  何の問題もない。  ……だから。  もし、それでも提案が受け入れられないなら。 「…………」  その理由は――    首領の表情の移ろいが、言葉に先んじて全てを伝えていた。 「……首領殿……」 「〈私〉《あたくし》たちは武士なのです。  湊斗景明」  その声は、床に臥す前の彼女のものだった。  硬く、強く、冷たい――〈恰〉《あたか》も甲鉄のように。  甲鉄。  ……脆弱な生身を覆い隠す装甲。 「武士なのです」  繰り返される一言は、弁明の響きを持たなかった。  約定に背く恥を確かに呑みながら。  彼女は俺に許しを乞うこともしなかった。  恥知らずの顔を〈作って〉《・・・》いた。    だから、俺は重ねる言葉を失った。  理解する。  彼女は武士だ。  矜持ある武士だ。  そして、将だ。  多くの武士を配下とし。  自分のみならず、彼らの矜持をも守る責務を負った――将なのだ。  彼女が武士を捨てられようか。  否。  彼女が部下に武士を捨てさせられようか。  否。 「…………」 「…………」  冷めてしまった粥を片付け、立ち上がる。  背中に、声は掛からなかった――視線だけが。  後ろ手に障子を閉めて、ふと嘆息する。  風の冷たさが、どうしてか無性に厭わしかった。 「……」 「……我ながら……  なんて恥を知らない……」 「武士……  これが武士というものなら」 「……本当に、くだらない……」 「……そうか。  なかなかうまくはいかないか」 「はい」  朝食の席。  昨夜のやり取りを、俺は養母に報告した。  そのせいか、味が良くわからなかった。  何を食べても妙に苦い。  山賊団との諍いを平和裡に収める……  一朝一夕に片付く事ではなく、地道な努力こそ必要、それは既に理解していた。  だから昨夜の一件にもさまでの衝撃は受けず、俺はあの後すぐに寝入ったのだが。  ……実の所、精神の奥ではそれなりに落胆があったらしい。養母に説明する過程で発見してしまった。  ついつい、首が俯き加減になる。 「焦るんじゃない、景明」  両手を合わせてご馳走様をしながら、養母は小さく笑った。 「こういうことはじっくりと腰を据えてやるもんだ。慌てたってどうにもなんない。  富士山の頂上まで行くにはさ、一合目から順々に登っていくしかないんだよ」 「わかってはいますが……」  しかし、それでも動揺を殺しきれないあたり、まだ〈わかっていない〉《・・・・・・・》部分があるのだろう。  その部分は富士山の頂上へ羽根で飛んでいきたがる。武者でもなければ、落ちるだけだというのに。  急がば、回れ。  俺は自分自身を戒めた。 「で、今日はどうする?」 「取りあえず……朝食を運びがてら首領殿の容態を窺って参ります。  万一にも傷が化膿などしているようなら、医者を呼ぶなりの手を打ちませんと」 「うん、そうか。  ……ところでおまえさ。首領殿首領殿って、あの娘さんのなま――」 「!!」  腹を切ろう。  ……思案は結局、そこに落ち着いた。  ゆっくりと、身体を起こす。  この身は仮にも武者だ。彼から受けた傷は深手ではあったけれども、重要な器官までも損なったわけではない。一日あればそれなりに回復する。  切腹くらいはできるはずだ。  今すぐにも。……やるわけにはいかないが。 (まずは、見つからないように抜け出さないと……)  ここで腹を切っては、全くもって迷惑千万。  畳一枚を台無しにするというだけの話ではなかった。どのような形であれ、自分がここで死ねば、山で待つ一族郎党は町と戦端を開くほかなくなる。  それでは何の為の自裁なのだかわからない。  山に戻り、弟達に事情を説明してからだ。  二度に渡る約定違背の恥辱を負い、せめてもの詫びのために、この腹を切るのは。 (武士と称するなら、ね……)  そうせねばならない。  昨夜、武士として彼の提案を拒んだように。  武士として。  武士とは何か。  ――それは民を武力で支配する存在のことだ。  武力で治め、武力で守り、武力で奪う。  それが武士だ。  間違っても――  民に〈甘えて〉《・・・》生きる者のことではない。  昨夜、彼は言った。  田畑を与えるから、そこで暮らせと。  慈悲を示した。  善意を示した。  だから受け入れられなかった。  民の厚意にすがるのは、武士の道ではなかったから。  略奪を働き、民に忌まれ憎まれ蔑まれる生き方なら受容できる。  それは一つの武士の道だ。最も下等、最も低劣な、しかし武士の形の範疇だ。  山賊に身を落としても、武士ではいられる。  だが――彼の差し伸べた手を握り返したなら、もう武士ではない。  武士ではいられない。 (……だったら。  武士なんて、やめてしまえばいい)  そう思う。  それが一番良いに決まっているのだ。  誰にとっても――この町にとっても、自分と一族にとっても。  けれど、わかっていた。  武士とは、単に一職業を意味するものではない。  〈身魂の形〉《・・・・》だ。  武士として生まれ育った者は、何処までも、武士でしかいられない。  そして―― 「武士は〈暴力の存在〉《あらぶるもの》。  だから……決して、人の情けなど乞うてはならない」  信念を呟く。  ――そう。武士にそんな資格はない。  彼の提案が、何よりも山賊――彼らにとってはそれ以外の何でもない――の前途を案じたすえに出てきたものであることは明白だ。無論それだけではなく、町との利害の摺り合わせもあるにしても。  町の都合のみを考えるなら、ただ出て行けと言えば済む話なのだ。  それがわかっているから、受け入れられなかった。  もし、出て行けとだけ言われたなら――それはそれで無論受け入れられはしないが、思い悩む必要は何もなく済んでいただろう。  一族の頭領として、配下に対する責任を果たすため、厚顔に約束を忘れ去り要求を突っぱねて、恥知らずと憎まれるだけの話だった。  結果は変わらないが、ずっと単純明快だ。  あるいは――  もし彼の要求が、この自分一人の身命に留まるものであったなら。  ……それは悩まず受け入れられたろう。  彼は私に勝ったのだし―― (……そうね)  そこで気付いた。  彼の提案に対する拒絶、その根底にあるもの。  彼は私に勝ったのだ。  だから、彼に何かを奪われるなら納得がいく。  だが、勝利した彼に、敗北した自分が何かを施されたりなどしては―― (まるで塵芥のよう)  それだ。  まず第一にそれが、自分は我慢ならないのだ。  彼の慈悲を受け取ることで……  彼に対して、自分が全く取るにも足らない、卑小な存在になり下がってしまうのが許せないのだ。  〈対等の敗者〉《・・・・・》として、自分こそ彼に与えなくてはならない。  彼の勝利に報いなくてはならない。 (彼にそう言えば……  なら提案を受け入れてくれって、そう言うでしょうけれど)  あの提案で多くを受け取るのはあくまで自分と一族。  次いでこの町だ。……彼ではない。  余りにも虫の良すぎる――私達にとって!――あの提案を諾々と受け入れてしまえば、自分は彼の足元にさえ届かないちっぽけな存在であると認める事になるだろう。  彼が目を向けるにも値しない、記憶に留めるまでもない、つまらぬ代物に成り果てるだろう。 (……それが嫌だから、なんて)  世には迷惑な女もいたものだ。  つい本心からそう思ってしまい、苦笑する。  やはり腹でも切る以外にないようだ。  彼に報いなくては納得がいかず、しかし報いる何物もなく、意固地になっている女など邪魔なだけ。  せめてこんな自分を始末してやることが―― 「……?」  光の発作は日没から深夜にかけて良く起こる。  午前中、特に朝方というのは珍しい。  そしてそのような時は決まって、常にも増して酷い症状を示す。 「申し訳ありません、統様!  足をお願いします!」  妹の、病み衰えた肉体の暴走を遂に抑えかねて、養母に助勢を求める。  返答はない。俺の声より先に養母は行動していた。奇態に屈折してゆく膝を、寸でのところで捕まえる。  安堵して胸を撫で下ろす間もなかった。  その一瞬、俺の注意が逸れた隙をつくように、光の首が持ち上がって―― 「景明!」 「ッ!!」  それは完全に致命的だ!  間一髪、妹の頭を抱き込む事に成功する。  両手で――可能な限り素早く、可能な限り柔らかく――今はきっと健全な人間の小指ほどの強度すらあるまい首を支えて――  その刹那に、枯れ枝を踏み折るかのような乾いた音が――    …………聞こえなかった事を、天に感謝する。  その瞬間が、発作の〈頂点〉《ピーク》だった。  ゆっくりと、少しずつだが……光の狂態が穏やかになってゆく。  俺の心臓の鼓動の鎮静は、ことによるとそれよりも遅かった。 「…………」 「……まー、なんだ。  ギリギリセーフ?」 「結果オーライ。  えらいぞ息子よ」 「……早く……」 「景明?」 「……早く……しないと……」 「……」 「落ち着け。  息子」 「……」 「急いでどうにかなることと、どうにもなんないことがある。  だろ?」 「……はい。  わかっています……」 「首領殿にお願いします。  ……もう一度……何度でも。山賊をやめて頂けるように……」 「それしか……  光を治せる医者を本家に招いてもらうには、それしかない……」 「……ああ。そうしな。  光はわたしが見ておくから」 「はい。  お願いします……」 「…………」  首領の食事が済むまでの間、方策を求めて全脳機能を駆使した。  如何にすれば、彼女の翻意を得られるか。  無数の小細工が思い浮かんだ。  そして、その全てを棄却した。  結局。  採るべき手立ては一つきりだった。 「お願い致します」 「……」  枕の上にある首領より、更に低い所まで頭を下げる。  畳の筋目がよく見えた。 「刀を鍬に持ち替えて暮らすが如きは、武士たる者の選べる道に〈非〉《あら》ず。  それは重々、承りました」 「納得もしております」  昨夜告げられた、短い返答を思い起こす。  反駁の隙など何処にもなかった。  だから、改めて論破しようなどとは思わない。 「しかし。  そこを敢えて――どうか」 「……」 「この町の為」  貴方がたのため、とは言えなかった。  〈ためにはならない〉《・・・・・・・・》と、その事は既に結論を出されてしまっている。 「どうかお願い致します。  山賊をやめて頂きたい」  芸も無く、ただ頼む。  平伏して、願い上げる。  そうするしかなかった。  論を戦わせようにも、結論がもう出ている。  町と彼女らの利害調整は叶わなかった。  彼女らは利害のみで動く存在ではなかったから。  彼女らは武士。  武力に拠って立つもの。  この町で彼女らが武士たらんと欲するなら、確かに、山に陣取って賊でもやるほかにない。  正規軍を逐われた身では、それ以外にどう仕様も。  結論は出ている。  だから、〈頼む〉《・・》。  筋道の通らぬ事をそれでも通したく思うならば。  頼む、願う。それだけが唯一途だ。  節を曲げよと。  武士を捨てよと。 「どうか……」 「……話はそれで終わりですか」  初めて、首領が口を開く。  冷たい言葉だった。  冷たい――言葉だったが。 (……?)  面を伏せたまま、内心で首を傾げる。  首領の言葉は、活字的に解釈すれば冷徹であったが。  しかしその口調は、内容に相応しい冷たさをまるで欠いていた。  何処か責めるような響きはあるが、冷たさとは違う。 「それで終わりなのですか」 「は……」  同じ響きで繰り返される言葉に、戸惑いつつ応じる。  意図がよくわからない。 「……他には、何も……  言うべきことは無いのですか?」 「……」 「……いえ。  何もありません」  俺の答えに、深々とした嘆息。  彼女は――勘違いでなければだが。心から、呆れたようだった。 「……ふふ……」 「……?」 「湊斗景明。  家はただの平民、と言っていましたけど」 「はい」 「嘘つき」 「はっ?」  ……どういう意味か。 「あなたも武士です。  〈だめなところだけ〉《・・・・・・・・》」 「……」 「人の情けにすがるということが、どうしてもできない……  そういう人間を傍から見ると」 「こんなにも……やるせない。  知らなかった。こういうものなのね……」  そんなことを独言めかして呟き、女傑は微笑した。  あたかも、自嘲するように。  ……真意がつかめない。  彼女は――何を言っているのだろう。  何を、知って―― 「武士の〈基〉《もとい》は武力……」 「?」 「その武力で敗れた以上……  私も……私の兵たちも。武士を捨てるのが筋なのかもしれません」 「……首領殿?」 「湊斗景明。  兵の説得は私が請け負います」 「その代わり……  私ども一党の受け入れについて、あなたの確約を頂けますか」 「――――」 「は……はい。  必ずや……自分が、責任を持ちまして」  〈殆〉《ほとん》ど反射的に答えを返しつつ。  頭の中身は事態の進展についてきていなかった。  ――何か、こう。  棚から牡丹餅が落ちてきたようなのだが。  まさか? 「すみません。  私の着物の懐に、〈矢立〉《やたて》と紙があったと思うのですが」 「は……」  言われるまま、彼女の手荷物をまとめてあった場所から要望の物を取り出して届ける。  その紙にすらすらと、彼女は何かを書きつけた。 「どうぞ」 「……」  差し返された紙を受け取る。  そこに書かれた内容は簡潔だった。  俺の提案を受け入れる事。  二度と略奪を行わない事。  そして、〈花押〉《かおう》。  ……まさしく、俺が求めていたものだった。  これこそ俺に、どうしても必要なものだった。  これがあれば――  光を救える!!  ……だが、どうして。  どうして、突然、 「……」 「……」 「……不覚にも、気付きませんでした。  よもや聞かれていたとは」 「何のことかしら」  つん、と。  奇妙に懐かしさを覚える口調で、首領はそっけなく応じた。  誓紙を丁重に、傍らへと置く。  指を揃えて、俺はもう一度、深く礼を執った。 「有難うございます」 「……有難うございます……!」 「礼には及びません。  私は取引に応じただけです」 「……我が一族の帰趨。  どうかよろしくお願いします」 「はい……!」  ………それから二週間余りの日々は、〈疾風〉《はやて》のように過ぎ去った。  本家を説き、  浪人集団の入植に不承不承の許諾を得、  養母と共に、町の人々に説明し、  おおむねは喜ばれ、  山に戻った首領とは会う機会が無かったものの、 〝山賊〟の襲来はぱったりと途絶え、  町はしばらくぶりの平穏を取り戻し、  本家は、俺がそれに貢献した事を認めてくれ、  約束通り、  独逸の医師を招聘するべく手配し、  そして。  数々の器具と人員を伴い、高名な博士が大和の田舎町を訪れ―――― 「どうして、もっと早く呼んで頂けなかったのか」  メンゲレ博士は――正しくはその後ろの通訳が――重苦しい声で慨嘆した。  施すべき医療は全て終わったと、そう告げてきた後のことだった。  光の症状は見るも明らかに改善している。  抜け落ちた頭髪も削げ落ちた肉も戻ってはいないが、しかしこれまで常に付き纏っていた死の影、あの絶望の気配とでも呼ぶべきものが何処かへ失せている。  獣じみた唸り声も、もうその口腔から聞こえてくることはない。  呼吸は至極穏やかなものだ。  ……だが。  瞳だけは、何も変わっていなかった。  暗く。  虚ろで。  何も見ていない瞳。  心の在り処が窺えない〈硝子〉《ガラス》色の双眸。  それは――そのままだった。 「この〈擬似菌性鉱毒病〉《ジーバス・ベー》の恐ろしさのひとつは絶え間ない苦痛にあります。投薬で抑えるにも限度がある。  常軌を逸した激痛は患者の精神を蝕み――」 「治療が遅れれば遅れただけ、深刻な被害を及ぼします。  記憶の混乱そして喪失、人格の変貌、知能の退行、分裂症状……」 「最終的には廃人化」 「…………。  先生……」 「妹は」 「……」 「一年もの時間、重篤な患者がこの国の医療レベルで生き延びてこられたのは驚異的です。  ご家族の献身的な看護に加え、患者本人の心身が強靭であったこともあるでしょう」 「ですから、断定的な事は申し上げません。  奇跡的に回復を遂げる可能性もあります」 「……肉体的には当面、心配はいりません。  体力低下に起因する合併症だけが気掛かりですが、その危険も時間を掛けて肉体を回復させてゆくことで克服が可能でしょう」 「私にできることは、ここまでです」 「…………」  奇跡。  その一語について深く考えた事など無かった。  今日が初めてだ。  そうして、気付いた事がある。  奇跡。何やら耳に心地良いこの単語は、それを必要としない者にとっては言うなれば夏場の冬着――いつか訪れる冬の寒さに耐える力を保証する心強いもので。  必要とする者にとっては、冬になってから箪笥の鍵を失くしたことに気付いて取り出せずにいる無意味な〈編服〉《セーター》のようなものだ。  実は手の届かぬ所にあるのだと知って、唖然とする。  希望の所在を示すものでは決してない。  むしろ、その逆だ。  奇跡が示すものは……  そこに至るまでの、絶望的な距離だ。 「…………」  〈奇跡〉《・・》。  どうすれば、それを手にできるのかがわからない。  自分がどうすればいいのか、わからない。  これまでは違った。メンゲレ博士を呼ぶという明確な目的があった。本家と約束した後はそのための手段、山賊問題の解決が目的になった。  今はその目的がない。  いや、目的はあるが――目的地までの道筋がわからないのだ。  どうすれば……  光の心を取り戻せる?  ……そもそも。  本当に、取り戻せるのか?        ――どうして、もっと早く―― 「……」  胸に〈過〉《よ》ぎった一言は、博士の声の回想か。  それともただの自責か。  ……もっと早く。  もっと早く、博士を招いていたら。  こんな事にはならなかったのではないか。  光が――手遅れになる前に、  間に合っていたのではないか。  ……俺が……  もう少し、努力していたなら! 「よっ」 「!」  唐突に肩を叩かれ、顔を上げる。  ……上げてから気付いた。いつの間にか俺は俯いて、地面を見詰めていた。  そのまま突っ伏す前に俺を引き止めてくれたのは、養母だった。 「どした。  何を暗ぁい顔してる」 「……」  とぼけたような顔と声。  それが作られたものだと一目でわかるだけに、正視するのが辛かった。  見合ったまま話す勇気はなく、視線を元へ戻す。 「……申し訳ありません。  統様」 「なんで謝る? 息子」 「自分の力が足りませんでした。  もう少し自分に能力があれば……もう少し早く博士を呼べた」 「もう少し早く光を治療してやれて……  手遅れにならずに済んだ」 「……」 「申し訳ありません」  他に言葉がなく、そう口にする。  益体もない、無意味な謝罪を。  湊斗家に引き取られ、路傍に果てるべき命を生かされて二十余年。  その恩は形容しようもなく大きい。  それに対して、俺の報いるところの少なさたるや。  大事な家督継承者を救うことさえできなかった。  穀潰しにも程がある。  どうして俺は、もう少し役に立つ生物として生まれてこなかったのか。人間の器量に相応しくないなら、別に家畜でも構わなかった。  無駄飯を食うだけの男に比べれば、その辺りの牛馬の方が何百倍も有意義だろう……。 「…………」 「ばかもの」 「……火花が見えました。統様」 「目が覚めたろ。  あのな、景明」 「……」 「さっき、光が眠ったんだ」 「……?」 「こう……普通に寝息を立ててさ。  気持ち良さそうだった」 「この一年、無かったよな。  あんな安らいだ寝顔は」 「……」 「だからさ……  景明」 「はい……」 「あっさり諦めんな」  養母の叱咤は、拳と違って優しいものだったが。  それこそ、俺の目を覚まさせてくれた。  諦め。  ……そうか。俺は諦めていたのか。  自分の無力に絶望するという事はつまり、  自分にはもう何もできないと、諦めるという事。  馬鹿な。  諦めていい筈がない。  俺の人生なら、諦めるのも投げるのも俺の勝手かもしれない。  しかし、懸かっているものは光の人生。  勝手に投げていいわけがあろうか。  光は……博士をして驚嘆させた程の生命力でもって、この一年を耐え抜いたというのに!  そう思えば、項垂れている暇さえ惜しい。  そんな余裕があるなら―― 「光を助けるんだろ。  わたしと、おまえで」 「はい」 「おまえは光を〈助けてる〉《・・・・》。  おまえのおかげで、とりあえず光の身体は良くなった」 「……」 「礼なんか言わんけどね。  家族なら当たり前だ」 「はい……!」 「最後までやろうや。  いいか、おまえは後戻りしたわけでも転げ落ちたわけでもないんだ」 「前に進んでるんだ。  そいつを信じろ」 「……」 「立ち止まって後ろを見て、あーやっぱり別の道にすりゃ良かった、なんてくよくよしてたってしょうがねえだろ。  それより前だよ、前」 「はい。  立ち止まっている暇などありませんでした」  養母の言葉に、強く頷く。  そう。今すべきは、手探りででも前方へ進むこと。  道の暗さに脅えて立ち竦んでいても、何もどうにもならない!  同様の症例を収集する……そこから回復例を探し、効果のある治療法を探る……やることは幾らでもある。  馬鹿のように庭を眺めている間に、できることから手を付けていくべきだった。  ……己の惰弱さにはほとほと呆れる。 「まったく、手の掛かる子だ」 「……はい。  この歳になってここまで世話をお掛けするとは。不甲斐なさに恥じ入るばかりです」 「恥じろ恥じろ。馬鹿息子め。  でもまー、世話の焼ける子ほど可愛いってねー」  ぐしぐしと俺の頭を乱暴に撫でながら、笑う養母。  ……俺に比して、この方のなんとお強いことか。  長年傍にいながら、この強さを見習えなかったことこそが恥ずかしく、腹立たしい。  せめてこれからは、こんな面倒を掛けぬようにしなくては。 「メンゲレ博士はまだ本家に逗留されているはず。早速明日にもお会いして、光の状態についてより詳しい話を伺って参ります」 「うんうん」 「とりあえず今日のところは、」 「うん」 「どうも限界のようなので落ちます」 「ん?」 「…………」 「あれ?  景明、おまえなんで脳天から血がだくだく出てんの? しかもなんか首の骨格が愉快に歪んでるし」 「まるでマウンテンゴリラにでも殴られたかのよーな……」 「…………」 「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!?  ししししっかりしろ息子よーーー! 母を殺人犯にしてはならぬーーーー!!」  妹を救うと、心も新たに誓い――  しかし、ただその為に邁進する事は許されなかった。  仕事があるから、ではない。  会社への休暇願いは、延長を余儀なくされた。  本家が、髪上げの儀の実施を宣言したからだ。  皆斗家法において、湊斗の〈祀司〉《しし》――即ち〈巫姫〉《かんなぎ》の継承は、次代たるべき女子が一定の年齢に達するをもって行うものとされている。  その年齢より前でも、後でもならない。  継承儀礼――髪上げの儀を目前にして光が病に倒れたことは、本家が老境に入って迎えた最大の痛恨事であったに違いない。当代の、最後の大事が片付こうとしたところで、横槍を差されてしまったのだから。  だが、メンゲレ博士の治療によって光の肉体は快方に向かった。  あれ以来、発作は一度も起こしていない。  髪上げの儀の際、継承者がすべきは定められた儀礼を定められた通りにこなすだけだ。それは複雑にして煩雑だが、別に技術も自己判断も必要ない。  今の光でも、介添人が付けばできる事だった。  本家にしてみれば、この機を逃してなるものか――というところであったのだろう。  博士が帰国するや否やのうちに、もう儀式の日取りまで決めてしまっていた。  俺としては、今しばらくは光を休ませ、体力を取り戻させてからにしたかった。  髪上げの儀は半日にも渡り、体力負担は少なくない。だからこれまでは無理だったのだ。  今とても、まだまだ危うい。  だが、博士の招聘で大恩を〈蒙〉《こうむ》った以上、俺も養母も本家に面と向かって強い事は言えなかった。  心を配って補佐すれば、光の負担も軽くしてやれるだろう……。  そう考え、やむなく妥協して、本家の要望に従った。  そして、今日――――  養母の祝詞奏上はいつ聴いても見事なものだった。  平板な調子の中に得も言われぬ深みがある。  何年にも渡り、何千回何万回と繰り返して、初めて完成する詠唱だ。  奏上中、参列者は面を伏せて待つのが決まりだが、そんなものが無くとも自然と頭は下がったろう。  末席から、床の上を滑らせるようにして視線を投げ、様子を窺う。  非礼だが仕方ない。本来参列の資格を持たないにも拘わらず列席している以上、役目に手は抜けなかった。  本家をはじめ、皆斗諸家の要人らが左右二列に分かれて居並ぶ向こう。  母に付き従う格好で、光がいる。  座椅子に背をもたれさせ、茫としながら祝詞に耳を預けているようだった。……今のところ、異変はない。  この祭殿での本儀礼に先立つ諸儀で既に疲労が蓄積している筈だが、まだ限度を超える程ではないようだ。  あの座椅子は礼法に沿うものである筈もなく、本家の不興を買うこと〈夥〉《おびただ》しかったが、やはり必要な措置ではあった。  寝転がしておいても良いならまた話は変わるが。  この分ならば、最後まで無事に済むだろう。  しかし油断はできない。  本家の神経をこれ以上逆撫でしない為にも、もし何かあった際には迅速に対処できるよう備えておかねばならなかった。  俺は視線を外しつつも、光の様子に意識を集めた。  養母の祝詞が滞りなく終わる。  常の祭事であれば、この後は神饌や玉串を奉るだけだ。  だが今日は違う。  この次には『顔見せ』と通称される、髪上げの儀の肝と言うべき祭礼が入る。  皆斗の歴々が一度退場。  ……やがて戻る。  武家装束に身を固め。  太刀を携え。  彼らは〈武装〉《・・》していた。  あくまで儀礼用のものに過ぎないが。  そして儀式は一度、始まりへと戻る。  再び、御扉――神前の扉を開くのだ。  無論、それは既に開かれている。  祝詞の奏上の前に。祝詞は祭神に捧げるのだから、その前に扉を開かねば意味がない。  だがその際に――つまりは通常の祭儀において開かれる御扉の奥には、もう一枚の、別の御扉があるのだ。  奥御扉と云う。  これはこの髪上げの儀など、特に重要な祭事でしか開かれない。  扉の中に封じられたものは年に一度も外気と交わらないのだ。  分厚い鉄扉はさながら城門である。  骨董品も同然の戦支度が幾つか、それを見てか緊張に震えて細かな金属音を鳴らし立てた。  皆斗一族の枢要たる彼らは皆、知っている。  自らの武装の意味も。鉄の奥御扉の意味も。  作法通り、養母が〈御鑰〉《みかぎ》を用いて門の錠を外す。  重く固い音が、〈何か〉《・・》の開放を告げた。  養母は鑰を戻し、今度は扉を開けるために〈膝進〉《しっしん》。  所定の座に着き、手を掛ける。扉を開き始める。  それに合わせて、列席者(俺を含む)は一斉に前傾。  おおおおぅ――と〈警蹕〉《けいひつ》を合唱する。  左右の扉を開けるため、それを二回。  奥御扉の開扉が完了する。  そうして――その向こう。  皆斗家の最秘は、顕れていた。  一つは〈白銀〉《しろがね》の女王蟻。  一つは〈深紅〉《くれない》の蜘蛛。  いずれも昆虫を象っていながら到底昆虫らしからぬ大きさ。  人と並ぶ程の体躯である。  その身は鋼鉄。  極限の業で鍛え上げられたハガネ。  〈劒冑〉《つるぎ》だ。  それも、現代の戦場の主役たる〈数打〉《カズウチ》物ではない。  鍛冶師が肉体と魂の全てを捧げることで初めて完成する……  〈真打劒冑〉《シンウチ》である。  古来――そして現在に至ってもそうであるように、劒冑の所持は武士階級だけの特権だ。  しかし皆斗氏はその階層の変遷に拘わらず、一貫してこの二領を死蔵し継承してきている。……極秘裏に。  皆斗家は〝〈邪〉《あ》しきもの〟を封ずる勅を〈帝〉《みかど》より戴いてこの地に根を下ろした氏族。  この劒冑こそ、一族万世の使命たる〈それ〉《・・》であった。  その〈銘〉《な》も、由来も、俺の詳しく知るところではない。決して解き放ってはならぬものと伝え聞くのみだ。  だが目にしてみれば瞭然のこと、劒冑に纏わる気配の異妖は常軌を外れ、〈凶〉《まがき》の香りで満ちている。  千言万句もこの一見に如くはなかったろう。  誰が見ても、これは未来永劫封じ置くべきと断ずるに違いない。  曰く、是に触れるを禁ず。  曰く、是を語るを禁ず。    ――皆斗一族、最大の禁忌。  血の跡はおろか埃屑すらない輝ける甲鉄が、美しくも〈怖気〉《おぞけ》を震う……。 「…………」 「……!」  養母のさりげない目配せを受け、光沢に魅入られていた己を引き戻す。  養母は光を支えてどうにか立ち上がらせ、劒冑の前まで〈誘〉《いざな》おうとしているところだった。  たかだか数歩程度の距離、しかし今の光にとっては充分に苛酷な距離だ。何か起こるとすればこの時こそが最も危うい。  呆けている場合ではなかった。  気を取り直し、光の後姿に注意を集中する。  この日に備えて手足を慣らしておいた成果あってか、養母に半ば抱えられるようにしつつ、危なげながらも一歩一歩進むことができていた。  歩行のような体に染み付いた動作は、他人が促してやれば辛うじてやれなくもないらしい。  巫姫が継承者をおぶって運ぶのでは些かならず格好がつかなかろうから、これは全く幸いなことだった。  よたよたと、どうにかこうにか、光が神座の前まで辿り着く。  そのとき祭殿を満たした安堵の息は、おそらく本人を除く他全員のものだった。  今日の最重要事『顔見せ』はこれでほぼ完了である。  湊斗の祭祀を取り仕切る巫姫が代替わりすることを、祭祀の対象たる二領の劒冑に〈確〉《しか》と伝えたと見做される。  皆が一息つくのは自然なことだった。    ――だが、それが〈拙〉《まず》かったのかもしれない。  突然の騒音に、その場の全員が飛び上がった。  あくまで心理的、表情的にということだが。実際にそうするほど自制心を欠いた者はいなかった。  その代わり、視線が一点に集中する。  列席者の一人――愕然としている老人の、その足元。  金物があった。  太刀飾りだ。何かの弾みで、落としてしまったのだ。  本家の、激怒を〈湛〉《たた》えた眼差しが突き刺さる。  泡を食って、その老人は飾りを拾い、懐に収めた。  ――それは、だが、それだけの事。    その時の異変は、ただ一些事に留まらなかった。  俺は〈それ〉《・・》を目撃していた。  ……何故、そうなったのかはわからない。  光が音に反応して、〈そうなった〉《・・・・・》のか。  あるいは光を支えていた養母が驚いて振り返った折に、〈そうなってしまった〉《・・・・・・・・・》のか。  経緯は知れず。  だが、事実として。  光の指先が、白銀色の蟻に引っ掛かっていた。  ――祭儀においても決して触れてはならないと厳戒されている、その劒冑に。 「――――」  まず最初、気付いていたのは俺だけだったらしい。  しかし……俺の凝視が注意を引いたのだろう。 「あ」 「……!!」  養母と本家が俺の視線を追い、それに気付き――  しまったの一語を圧縮したような小声と、声にすらならない悲鳴とが同時に上がった。  即座に、養母が光の手を元の位置に戻す。  他の人々の視線が集まってくる前には、その作業は完了していた。 「…………」 「…………」 「…………」  三者三様。  それぞれの意思を込めて視線を交し合う。  一番強力であったものが本家の破壊光線じみた憤激の眼光だったことは疑いもないが。  一番即実的であったのは養母のそれだった。 『何も見なかったということで』    ………………。  結局のところ、そうする以外に手があるわけではなかった。  本家は歯軋り混じりに、俺は苦笑を含んで、ひとつ吐息する。  触れた瞬間にあの劒冑が巨大化して火を吹き始めたとでもいうなら格別、そんな事態にはなっていないのだから、目くじらを立てても仕方が無い。  今はとにかく祭儀を無事に終えることだ。  ……本家としては、そうとでも言い聞かせて自分を納得させるほかに術もなかったろう。  掟の遵守を何より尊ぶ老総領の胸中を思って、俺は同情した。同情などされても喜ばないだろうが。  せめてこの後は、平穏に儀式を進めて差し上げなくてはなるまい。  そう思って、注意を光へ戻す。  ――その、刹那だった。  〈最後の異変〉《・・・・・》は。 「…………なっ――」 「ぬぉっ!?」 「へ?  …………え?」  …………。 «…………»  何とも不思議なことよ。  まさかこの牢獄の中で、〈誰か〉《・・》と対面しようとは思わなんだ。  客人。  おまえは、何者である。 «……〈冑〉《あれ》は――» «〈村正〉《ムラマサ》と云う。  劒冑で、在る»  ほう……  劒冑か。 «左様»  武器か。 «如何にも。  冑は武の器で在る»  成程。  人を守り、争いを止めるためのちからだな。 «…………»  であろう? «否。  〈然〉《さ》には〈非〉《あら》ず»  ……武のちからではないのか。 «武である»  では? «武とは、戦を止めるものに非ず»  ほう。 «凶法なり。  殺法なり» «武とは、ただ命を奪うちからを云う»  ふむ。  だが、母と兄はそう言っていたぞ。  戈を止めると書いて武の一字。  斗争を治め和を導くが武道である、と。 «……………………。  そう、か» «やはり、既に正しき武は忘れ去られたか。  下らぬ偽善が罷り通っておるか» «〈冑〉《あ》が父の苦闘は報われておらぬか!!»  …………。 «刃を見るがいい……  鏃を見るがいい……» «その鋭さは肉を抉る為のものなり。  臓腑を貫き引き裂く為のものなり» «何故、そこに欺瞞を重ねる?  愚にもつかぬ飾りで覆う?» «守るためのちから!  和をもたらすちから、と!» «何故、偽善をもって真実を隠す!?» «刃を見よ!  唯一の真実は其処に在る!» «この鋭さは――  〈人を殺す〉《・・・・》!!» «武とは〈唯〉《ただ》それ限り!  他には一片たりと無し!»  …………。  うぅむ。  なんとも、わかりやすい話ではあるな。  刀剣は人を傷つけ殺すためのもの。  それはそうだ。そうに決まっている。  実はおれも不思議だったのだ。  なんで〈そんなもん〉《・・・・・》を持って平和を口にせねばならんのかと。 『世界人類が平和でありますように』とか書かれた旗を振りながらだったらわかるが……。  武道とはよくわからぬものだ、まったく。 «……捻じ曲げられたからだ。  真実の武は、単純にして明快なもの»  ふぅむ。  だが、村正とやら。 «何か»  我が母の武は、和を求めると云う。  では、おまえの語る武の果てには何があるのだ? «…………» «武は、ただ荒れ狂うばかりのちから» «殺法なり。凶法なり。  己の刃を善と云い、敵の刃を悪と云うも、世に善悪の定めは単一ならず。故に誰もが己の善なるを信じ、敵の悪なるを憎む» «故に。  武が一殺するならば、一善一悪共に滅ぶ» «故に。  武は善ならず。  武は悪ならず» «〈殺すきり〉《・・・・》の殺法なり» «……殺法の果ては自明である。  強きもののみ生き残り、弱きすべては滅びよう»  その果てには。 «……» «〈社会〉《せかい》は滅び。  文明は潰え。  生命は枯れ果て» «唯一の最強者のみが残るであろう» «……武の行き着く先は、其処である»  ほう……  ほう。  して、その最後の者は何物か。 «さて、な。  神かもしれぬよ»  ――――神か。 «崇める者とて無かろうが。  世界を壊すほどの武の極人、神とでも呼ぶほか〈術〉《すべ》はなかろうて»  そうか。  ……そうか。  …………〈その手があったか〉《・・・・・・・・》。 «……?»  はッ、  はッ!  は――――――――――――――――――――!! «……何を笑う»  喜びを。 «喜び?»  村正よ。  おまえは光に道を示した。  光がゆくべき道を、今、示したぞ!! «……何と?»  おれは父を奪われている。  生まれながらにして、奪われている。  取り戻さねばならぬ。  だが、それは人の〈倫理〉《ほう》が許さぬ。 «……»  父は母のもの。  娘が奪うことはできぬ。  奪われた者であるこの光は、  奪い返すことを許されておらぬ。 «……成程。  それで、この牢獄であったか»  然り。  存在意義を果たせぬ以上、ここに沈んでいるほかになかったのだ。  だが――    武か!  正しき武!  偽りを捨てた真なる武!  その果てに神への登極があるならば……  光の道は閉ざされておらぬ!  神になれば良い!  神になれば人の法は無効!  いや、そも破壊すれば良い。  武が荒れ狂う果てに人の世界を滅ぼすならば、人の法とて滅びる道理。  武か!  武道か!  その道を進んでくれよう。  世界を滅ぼし神の座に〈即〉《つ》こう。  父を取り戻すために!! «…………» «おのれは、狂い者か» «所以は知らねど、父を欲するならば腕ずくで攫えば良いのではないか。  世を滅ぼすとまで吼ゆる意思あらば、躊躇することなどあるまいに»  いや。  それでは、父は手に入らぬ。  父とて人の法に身魂を縛られている。  身体は力で捕らえられようとも、心はままならぬ。  光のものになってはくれぬ。  それでは何の意味もない。  ……だから。  その法を壊す!  そして光は神となり――  〈合法的〉《・・・》に父を奪う!  完璧だ!  さすれば父はこの光を認めてくださろう!  その腕の中に、光が帰ることを許してくださろう! «…………。  云った筈ぞ。武の先にあるは滅びのみ» «おのれが武を求め、武によって至尊の座に〈即〉《つ》こうというのであれば――  その父をも刃にかけねばならぬ道理»  何の。  ならば、父も神にすれば良い。  光に等しい力を持つ神にしてしまえば良い。  さすれば互いに滅ぼさず滅ぼされず、永劫、ともに在ることができよう。 «……» «…………» «……良かろう。  〈凶禍〉《まがつ》の者よ» «ならばその牢獄より出で、〈冑〉《あれ》を手にせよ。  冑はおのれが半身となり、武を示そうぞ»  応!!  牢獄――そう。ここは牢獄だ。  牢獄であったわ。  この牢獄には鍵など無いと思っていた……。  この鉄枷は、おれの望みを許さぬ母の手だ。  この鉄枷は、おれの望みを許さぬ〈社会〉《ひとびと》の手だ。  おまえの存在は許されぬ。  だからそこにいろ、という世界の声だ。  抗えぬものと思っていた。  いや、抗うという考えすら思い浮かばなんだ。  ……違うのだな。  武をもってすれば、この抑圧は覆せるのだな。  おれが〈こいつら〉《・・・・》よりも強ければ、こんな牢獄など、粉微塵に砕け散るのだな!?  世界はおれに屈服し、おれを神として迎えるのだな!  光は――――  父を〈奪〉《と》り戻せるのだなッッ!!  ……風を切る響きが、どうにも冴えない。  腰がいまいち据わらず、刃先に力が乗っていないのだろう。 「…………」  不調もその理由も、俺は自覚していた。  諦めて、木刀を下ろす。  何をしていても、頭は昨日の光景から離れない。  夢だったのではないかと疑って、今朝目覚めてすぐ改めて確認した、あの姿から意識を離せない。  光の肉体は蘇生を遂げていた。  昨日の、あの刹那――――〈一瞬にして〉《・・・・・》。  抜け落ちていた髪も、歯も、  皮ばかりであった肉も、  枯れ枝さながらの骨格も。  全てが瑞々しく再生していた。  ……無論。  そのような事が、常理の範疇で起こるわけがない。  あれを成したのは、常理を超えるちから――  劒冑の力であろう。  真打の劒冑は〈仕手〉《シテ》……使い手の身体能力を飛躍的に向上させる。  その中には回復力も含まれる。  武者は腕を切り落とされても、〈繋いでおけば〉《・・・・・・》やがて元に戻る。  〈生え変わる〉《・・・・・》ことさえあるという。  光の見せた異常回復も、劒冑の作用とみれば納得がいく。    だが有り得ない。  真打劒冑は仕手に装甲されておらずとも、離れ離れになっていても、傷の回復を早める程度の真似はする。  しかしそれは仕手と〈奇〉《く》しき〈縁〉《えにし》で結ばれていればこその事だ。  〈帯刀の儀〉《タテワキ》と呼ばれる武家古伝の儀礼がある。  これは武人と劒冑とが対面して互いの資質を問い、使い手として武器として双方が承認し合う――というものである。  この儀礼を終えて初めて武人と劒冑は合一し、異能の武者として再誕する。  こうして結縁した両者の魂は不離一体、万里の距離にも分かたれることはない。  光に、その帯刀儀礼ができた筈はないのだ。  心の砕けた廃人を、どうして劒冑が主と認めようか。  現に光は〈臥〉《ふ》せったままだ。  身体が回復しても、動き出す様子はない。  劒冑の方も同様だ。  あの後、全員が戸惑いながらも、とにかく祭儀をということで最後まで執り行い、無事にまた御扉の奥へ封じたのだが。その間、ぴくりとも動く事はなかった。  光とあの白銀の劒冑が結縁したとは考えられない。    さりながら、劒冑の力と見るほかない光の超回復。  こんな話は古今東西、どんな武者伝承にもなかろう。  少なくとも俺は聞いた覚えがなかった。  余りにも不可解。  だからだろう。本来なら躍り上がって喜んでも良い筈なのに、とてもそんな気分になれないのは。  養母も同じようなものらしい。  本家や他のお歴々は、わけはわからないがあるいは何か〈良からぬこと〉《・・・・・・》が起きてしまったのかも――そんな不安げな面持ちで、昨日は散会していった。  ……本当に。  あれは、何だったのだろう。  まとわりつく何かを払う思いで最後に一振りくれ、木刀を仕舞う。  光の身体が回復した――それは良い。良い事なのだ。  だが、それに関与したのは劒冑。  しかも、皆斗家が過去現在未来に渡って封ずるべしと定められた〝邪しきもの〟だ。  そこが心に引っ掛かってならない。  わけもなく気が焦り、胸の動悸が慌しくなる。  これは吉事か。  それとも凶事か。  未だ、判然としない。  まるで丁半賭博の、〈賽子〉《さい》を隠す壷を見ているような心地だ。  賭博であれば、結果は必ず示される。  出目が勝ち負けを決める。  これが賭博であるなら……  果たして、どんな出目が――  ふと、軽い足音を背中に聞いて。  〈養母〉《はは》だろうと、俺は何気もなく振り返った。 「――――――――――」  光がいた。  午後の、柔らかな日差しを浴びて。  俺の妹が、そこに佇んでいた。  一年前までは見慣れていて、  この一年で遠くなって、  もう一度見たいと切望しながら、それでも段々と、ぼやけていってしまっていた姿。  光が微笑んでいる。  ――光がそこにいる。 「光……」 「うん」  遠かったはずの、快活な声。 「……光……  お前なのか」 「ああ。〈おれだ〉《・・・》。  景明」  光の声。  妹の言葉。  光が――  そこに立ち、そこで話している。  失ったものが。  失ったはずのものが。  そこにある――! 「光!!」  すべてが吹き飛んだ。  下らぬ懸念も不安も何もかも、この現実の前に弾けて消えた。  駆け寄る。  身体に触れる。  確かな感触を、心の何処かはなお信じない。  抱き締めて、更に深く確かめる。  ……いる。  光はここにいる。  帰ってきたのだ。  俺の妹が帰ってきたのだ! 「ん、景明……  少し痛いぞ」 「あ……あぁ……」  甘く叱られて、俺は力を緩めようとし。  しかし腕は言う事を聞いてくれなかった。  もっと、求める。  感触を求める。  夢ではないと。  これは妄想が見せる幻ではないと。  証拠を欲しがって、更に深く。 「……しょうのないやつだな」  妹は好きにさせてくれた。  代償を求めるように、その指が俺の髪に触れる。  最早――何もかもどうでも良かった。  この感触さえ確かなら、ほかは何がどうでも構わなかった。  何がこれをもたらしたのでもいい。  劒冑であろうと禁忌であろうと。  ただこの奇跡に感謝する。  それが何であれ感謝する! 「……あっ――」 「統様……!」  声が聞こえたのか。  いつしか養母もそこにいて、先刻の俺のように呆然として、光を――娘を見詰めていた。  無理矢理に身体を引き剥がして、光から離れる。  母も俺と同じ心境の筈だ。目前の光景が事実かそれとも幻想か、確かめずにいられないだろう。俺が独占していてはならなかった。  誘われるように、養母が光に近付く。  その瞳は既に潤んでいた。 「ひか――――」 「…………」  そうして。  養母は立ち止まった。 「……?」  募る想いに胸をつかれ……という様子ではない。  養母の表情を見て、俺は驚いた。  〈戸惑っている〉《・・・・・・》。  有り得ない奇跡に我が眼を疑っているのとは、違う。  娘の復活を事実と認めて。  その上で、素直な喜びを妨げられている。  何に?  ……養母が見ているのは光だ。  光の〈貌〉《かお》だ。  光も、母親の方を向いている。  その表情を見せている。 (……え?)  俺はそこに見たものを理解しかねた。  いや――  理解はしたが。  承服はしかねた。  何故だ?  何故?  〈何故〉《・・》、〈悪意を込めて母を見る〉《・・・・・・・・・・》? 「…………」 「…………」  馬鹿な、と。  何度見直してみても、その形は変わらない。  光は〈悪意を笑い〉《・・・・・》、  養母は声もなくそれを受けている。  こんな事はかつてなかった。  病に臥せる前、思春期ゆえのものだろう、光はしばしば母親に対して反抗的な態度をとることもあった。  が――このような目付きをしたためしはない。  ……目覚めたばかりで、なにか混乱でもあるのではないか。  そうとでも思わねば、納得しようもなかった。 「光、」  ともかくも気まずい空気を振り払おうと、俺は光に声を掛け――  途中で、その口を切らされた。  …………物音は、門の方角からだった。 「準備できたか?」 「もうちょっと待て。  〈自走砲〉《ホイ》の整備がまだ終わってない」 「いらねえだろ? そんなの」 「いらねえけど。  ずいぶん長いこと使ってないからな。試し撃ちしといてもいいんじゃねえ?」 「それもそうか。  まぁいいけど、早くしろよな。見つかると面倒だ」 「おう」 「お待ちなさい」 「うぇっ……」 「誰に、何を見られると面倒なの?  おまえ達」 「いや、別に……」 「銃に、車両に……  自走砲ですって?」 「そんなものまで持ち出して、何をしようと言うの?  畑仕事の役には立ちそうもないわね?」 「……」 「おぉい、まだかよお前ら!  早くしないと御館に――げぇっ!」 「……」 「あちゃ……」 「ひぃふぅみ……ぞろぞろと、まぁ。  ますますもって剣呑だこと」 「そろそろ説明を貰おうかしら。  群れをなして、武装して、何処へ何をしに行くつもりだったの?」 「……や……その、ま。  ちょっと、食料の調達にでも」 「ぼちぼち蓄えが少なくなってきたんで……」 「言ったでしょう。  必要な物資は、アタシが町に掛け合って手に入れてきます」 「けれどそれは、田畑の開発をいくらかでも進めてから。  我々が取り決め通りに働かないのに、町が取り決めを守ってくれるわけがないでしょう」 「我々は物乞いではないのです」 「…………」 「…………」 「……うんざり、という顔ね」 「いえ……」 「アタシもうんざりよ。  同じ話をもう何回したのだか」 「でも、おまえ達がまだ理解できないというなら仕方ありません。  いいこと――」 「いいよ。  うんざりだよ、姉さん」 「……一磨」 「一体どうしちゃったのさ、姉さん。  おかしいよ? 最近」 「おかしくなどありません。  アタシはいつも通りよ」 「そう?」 「ええ。  方針を変更しただけ」 「湊斗って男に負けたから?」 「……そうよ」 「なんで?  どうだっていいじゃん、そんなこと」 「……アタシはこの中で一番強い。  そうでしょう」 「うん」 「そのアタシに、あの男は勝った。  そんな男があの町にいた」 「それがどうだっていいと?」 「うん」 「どうして?  あなた、自分なら勝てるつもり?」 「勝てるよ?  だって、〈敵将〉《ねえさん》を殺しもしなけりゃ人質にもしないで逃がしちゃった、大甘の甘ちゃんでしょ? そいつ」 「……」 「多少は腕があったって、ただの馬鹿じゃん。  闇討ちに掛ければ簡単に始末できるよ」 「残るのは、そんな馬鹿を使って僕らをどうにかしようとした町の腑抜け連中だけ。  今まで通り、山賊やっていけるよ」 「…………」 「でしょ? 姉さん」 「……そうかもしれない。  でも、そのことはきっかけに過ぎないの」 「どのみち、山賊稼業を続けていたって先はなかった。  幕府がいつまでも放っておいてくれるわけがないもの」 「いずれ討伐される。  それよりは、町の中に溶け込んで、時機を待った方が賢明よ。そうじゃない?」 「そうかな?  他にもやりようはあると思うけど」 「……言ってごらんなさい」 「大陸に渡るとかさ。  金さえ積めば密航船くらい調達できるよ」 「……その金を、どこから持ってくるの」 「この町でかき集めればいいじゃん?  足りなければ……そーだね。人間も捕まえようよ」 「それで、〈奴隷船〉《・・・》に便乗させてもらえばいい。  今、そういうの結構あるらしいよ? 需要と供給が揃ってるから」 「大陸の都市では働き手が不足してて、国内では貧乏な家が子供を持て余してる。  奴隷商人は繁盛してるみたい。そいつらにさ、〈商品〉《・・》をくれてやればきっと割引価格で」 「……」 「恥をお知りなさい!  おまえは家名に泥を塗るつもりですか!」 「……何さ。  この間までの山賊と別に大して変わんないじゃん」 「……」 「違う?」 「ええ。そうね。  大した違いはないわね」 「程度の問題よ。  でも……その〈程度の差〉《・・・・》は無視できません!」 「卑し過ぎます」 「……」 「……ま、それでも。  土いじりよりはマシかなぁ?」 「おまえ……」 「どっちが性に合うかっていえば……  御舎弟の方ですかねぇ……」 「……口が過ぎるぞ」 「けっ」 「御館の命令に従って、間違いがあったことはねえだろ。  今度もそうすりゃいいじゃねえか」 「間違えてからじゃ、遅ぇんだよ」 「おい……」 「もう結構。  おまえ達と議論する気はありません」 「命令に従いなさい。  解散ッ! 武器を蔵へ戻して、作業に戻れ」 「…………」 「…………」 「……おまえ達。  アタシの言うことが聞けないというの?」 「聞くわけないじゃん。  何言ってんのさ、姉さん」 「一磨?」 「大体、頭領面するのやめてよね。  姉さんはもう、〈隠居〉《・・》なんだからさ」 「ッ!」 「へへ……  そういや、そうでしたね」 「身内は余計な口出しをしないもんだとか、聞いた気がするよなぁー。確か」 「…………」 「……〈御館〉《・・》。  どうぞ、御命令を」 「うん。  じゃ、みんなで町に行こっか」 「もちろん完全武装でね」 「了解!」 「はっはぁーーー!!」 「…………。  何のつもり? 姉さん」 「邪魔だよ。  どいてよ」 「……通しません」 「なんで?」 「部下はアタシが抑えると約束したの。  言葉で無理なら……力ずくでもそうする」 「ちょっと。  本気?」 「冗談で太刀を抜けなんて、アタシは一度でも教えた?」 「……」 「ご、御舎弟。  どうかこの場は、御館の言う通りに……」 「お前らも退けよ!  とにかく、一度武器を置けっ!」 「もういい」 「――尽忠報国」 「御舎弟――!?」 「な、あっ」 「…………!!」 「この劒冑はもう僕のだよ。  そうだよね? 姉さん」 「一磨!!」 「……っ……」 「……」 「……」 「ねえ」 「は――  はいッ!?」 「姉さんてさ。  結構、〈いい値〉《・・・》で売れそうな気がしない?」 「は……」 「……はぁ」 「でも多分姉さん、男を知らないと思うんだよね。  それじゃ価値半減だよ」 「だからさ。  お前たち、教えてやってよ」 「……はっ?」 「えーっと。  ……いいんですかい?」 「いいよ。  っていうか、命令」 「やっちゃって。  溜まってるんでしょ?」 「……そりゃまあ」 「ねぇ……」 「……まっ、御命令とあらば」 「やっちまいますか」 「やっちまおうや。  遠慮なく」 「いやぁ……」 「やめて……もうやめてっ」 「はなして……!」 「だめですよぉー、御館ぁ。  まだ始まったばっかじゃないですか」 「順番待ちがあと何人残ってると思ってるんです?  音を上げるにゃ早過ぎますって」 「くっ……うぅ……  恥知らずども……! こんな、寄ってたかって……」 「仕方ないじゃないですか。右手以外で済ませるのがどんだけぶりだと思ってるんです、オレ達。  女の調達を御館が認めてくれなかったから」 「そうそう。  町には若くていい女も結構いるってんのに、なんで指くわえて眺めてなきゃいけなかったんだか……あー思い出したらまた勃ってきた」 「咥えてくださいよ、御館」 「やっ……近づけないで、そんなもの!  この、下郎!」 「……」 「おいおい、殴ったりするなよ。  せっかくの別嬪が台無しになったら興醒めしちまう」 「いや、そうじゃなくてさ」 「ん?」 「……なんかゾクゾクしてきた」 「……ああ、そう」 「へへへへへ!  じゃあこんなことしちまおっかなぁー!」 「……いやぁっ!  何をするの、アタシの髪で……!」 「綺麗な髪に、我ながら汚いモノをだ、こう擦り付けて……  おお、垢が落ちる落ちる」 「ひっ……」 「あぁ、なんか心の隙間が満たされるよ。  オレの人生、今最高に充実してる……!」 「最低だこの男」 「だが、アリだ」 「アリだな」 「良し、オレも充実するぜ!  ほら御館、髪が嫌なら口を使ってください」 「んっ!?  やっ、んむっ……ぐ、んふっ!」 「歯を立てないでくださいよー。  そんなことしたら歯ぁ全部抜いちまいますからねー」 「……」 「おお……女の口、やっぱ最高。  下の穴よりこっちのが好きだなー、オレ」 「そうかぁ? 変なヤツ。  オレは正統派の、こっちだねっ……と!」 「んんっ!?」 「ひっひっ。どうです御館?  一番奥の奥を、突き上げられる気分は」 「やめて、苦しい……  痛いのっ、っ……やめてったらっ!」 「ああっ!」 「いやぁ、すいませんねえ。  こっちはコレが一番イイんで」 「くぁー、たまらん。  さっきまで処女だったって思うとなおたまらん」 「うぅ……!」 「泣かないでくださいよぉ、御館。  大丈夫、すぐに御館も気持ち良くなりますって」 「だ、誰が、おまえ達なんかに……ああっ!やだ、そんな……激しくしないで!」 「きたきたきた!  波がきたぁーーー!!」 「一気にいくぜ!  御館に〈膣内〉《なか》出し一発!」 「やめてぇっ!  せめて、抜いて……」 「生物学的に断る!  おらっ、子宮口に擦り付けてっ……」 「あぁ……  あーーーーーーっ!!」 「うっ……  ……くぅ……」 「はーーー……  堪能」 「思う存分ぶち撒けやがって。  お前の一発だけでも妊娠は確定だな」 「ははは。  御館を犯して孕ませましたなんて知ったら、うちの死んだオヤジ、どんな反応するかなー」 「うぇっ。萎えるようなこと言うな!  絶対に殺されちまうよ、うちだったら」 「平気だって。  オレら、新しい御館の命令に従ってるだけだもん」 「ああ。この女はもう御館じゃねえ。  けっ……大体なぁ、平民と戦って負けたり、あげくにオレらを百姓にしようとする御館がいてたまるかってんだ」 「……」 「そりゃそうだな。  じゃ、次はオレ行こうっと」 「あー……でも、ガバガバに開いちまってるなぁ。あんまり良くなさそう」 「六人連続でやっちまったからなぁ」 「ま、とりあえず〈挿入〉《い》れるか。  よっと」 「んっ……!」 「……やっぱいまいち。  御館ぁー、もっと締めて下さいよ。気持ちよくないっすよ?」 「くぅっ……!  勝手なこと……言わないで……」 「おまえ達が、何度も、何度も……  アタシの〈膣内〉《なか》に出したから……!」 「そらまーそーなんですが。  どうしたもんかなー」 「これ使いなよ」 「御舎弟?  ……御館の太刀じゃないですか。こんなのどうするんです?」 「柄をその女の尻に突っ込んでやれば?  そうすれば少しはきつくなるでしょ」 「……!?」 「……おお!  さすが御舎弟、じゃなくて御館! そいつはとっても科学的ですねっ!」 「お前は科学を勘違いしてるしバカにしてる。  だが、アリだ」 「アリだな」 「ひっ……!」 「良かったね、姉さん。  まだまだ〈使って〉《・・・》貰えそうだよ」 「かっ……一磨……  やめさせて……!」 「……」 「一磨……!」 「何してんの?  早くやっちゃいなよ」 「へへへ……  お指図とあらば」 「さあ御館、おとなしくしましょうねー。  足を広げて、お尻をこっちに向けてっ、と……あぁ、暴れない暴れない」 「やだ! やだぁ!  離してぇッ! お願い、許して!」 「よしよし。  穴を広げて……うわ、ちぃせぇなぁ」 「本当だ。  御館、こんなちっちゃい肛門で、用を足すときに不自由とかしないんですかぁ?」 「おー、可愛い穴だ。  御館らしいですねぇ」 「やぁっ!  そんなところ、みんなで見ないでぇっ!」 「まぁまぁ。そう言わずに。  オレらみんな、御館みたいに身分の高い女の尻の穴を見るのなんて初めてなんですから」 「それに尻どころじゃないもんもう見せてるでしょう。  さっきは御館の膣に、処女膜も、みんなで観察してあげたじゃないですか」 「そうそう。膜破った後はもう一度広げて、精子が流れ込んでる子宮口をじっくり鑑賞もしたし」 「うっ……うぅ……!」 「さぁーて。では柄を当ててっと。  入るかなー? まぁやってみるか」 「じゃあいきますよー、御館」 「……いや……」 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 「…………」 「おおー。  入るもんだねえ。ちょっと裂けてるけど」 「いよーし! 締まってきた!  御館の中で柄と擦れ合う感覚が……なんかこう、イイ!」 「楽しそうだな。  だがオレは我が道を行くぜ! ほら御館、すっかり口がお留守ですよ。舐めるとかしゃぶるとかしてくださいって」 「オレはどーすっかな。  胸でも使うか。柔らかくていい感じっぽいしー」 「……………………」  ただならぬ物音に、俺は門の方角へ目を向け……  まろび出てきた人影に、我が眼を疑った。 「首領殿!?」 「……」  その人が我が家を訪れたという事が、さまでに不可思議だったのではない。  非現実性は、彼女の姿にあった。  無数の斬傷。  全身に――まさに〈膾〉《なます》切りとしか言いようがない。  肌という肌、肉という肉を切り刻まれている。  こんな凄惨な有様は、戦場でも滅多に顕れなかろう。  ……むしろ、戦いを冒涜するような。  大勢で一人を嬲り物にする如き所業でもなければ、このように無残な姿には―― 「首領殿!  ……お気を確かに!」 「……ぁ……」  ともかくも駆け寄って、ふらついた足取りの首領を抱き止める。  ぼやけた眼差しが、俺を射る……だが焦点は合っていない。  瀕死であった。  かつて南方の戦場で、数多の死を見届けた経験が、要りもしない予見をする――〈もう駄目だ〉《・・・・・》、と。  この眼をした人間は、もう助からない。  ……何故だ。  何があった。どうしてこんな事になった!? 「景明!  とにかくその人を部屋まで上げろっ!」 「は……  はッ!」 「……まってっ……」  養母の一声で我に返り、満身創痍の小さな体を抱え上げようとしたところで、その腕を掴まれる。  首領の視線が今は俺を捉えていた――瞳の色はそのままに。 「……首領殿。  ご無理はなさらず。今すぐ、手当てを――」 「いい……から。  そんな、こと……より……」  けほっ、と彼女が咳き込む。  俺の胸元に、血華が散った。 「……!」 「町の人を……すぐに……  ……急いで……兵たちが……」 「首領殿……?  いや、とにかく今は安静に! 無理をして口を利かれては、傷に」 「攻めて……くる……」 「――!?」  断片的だった首領の言葉は、その一語で結合した。    ……山賊団が攻めて来る!? 「……!」 「…………」 「……ごめんなさい……  部下を……抑えきれませんでした……」 「……約束したのに……」 「首領殿……」  こぼれた涙は、苦痛のそれではなかった。  身体の傷よりも遥かに深い痛哭を伝えていた。 「首領殿」 「ごめんなさい……  約束……守れなかった……」 「あなたとの、約束を……  とうとう……一度も……」 「そのようなことは決して!」  俺は叫んだ。  何を置いても――今は、彼女をこのまま〈逝〉《い》かせてはならないと思った。  あるいは、夢想を抱いたのかもしれない。  彼女が悲痛の中で死のうとしているなら、その悲痛を取り除いてやれば死なずに済む筈だと。 「貴方は約束をお守り下さいました。  町に平穏を与えて下された」 「お陰で、妹に医者を呼ぶ事も叶いました。  今はもう、快復しております……!」 「全ては貴方のご尽力あればこそです!」 「……ぁ……」 「ほんとうに……?」 「はい!  この湊斗景明――心魂に懸けて貴方の存在に感謝致します!」 「感謝しております……!」 「……あ……ぁぁ。  ……よかった……」  首領が微笑む。  表情から悲痛が和らぐ。  だが――遠い。  遠くなる―――― 「首領殿!」 「それなら……いいの……  それなら……」 「良くはありません……!  自分は、貴方に何も報いていない!」 「どうか、お気を強く!  自分を忘恩の徒にしないで頂きたい!」 「……」 「じゃあ……最後に……  一つだけ……」 「最後などと言わず! 一つと言わず!  どのような事でも仰せ付け下さい」 「貴方にはそれだけの恩を受けている……!」 「……いえ……  一つで良いのです……」 「一つだけ……  ……お願い……」 「それは……!?」 「……なまえ……を」 「?」 「あたくし、の……  なまえを……呼んで……」  思わず、絶句した。  ……自分の間抜けさ加減にだ。  恩人だと思い、そう口にしながら。  その名さえ知ってはいなかった。  山上の砦での対面の折に名乗って貰えなかったからではあるが……  それにしても、機会はその後いくらでもあったろうに。  ………俺の馬鹿面を見てだろう、彼女がおかしげに笑う。 「……ふふ……  だって……訊いて下さらないんだもの……」 「……失礼を!  大変遅きに失し、今更恥ずかしいばかりではありますが」 「御婦人。  どうか、お名前をお聞かせ下さい」 「……〈瑞陽〉《みずひ》……と……」 「瑞陽……」 「……はい……」 「瑞陽殿」 「…………」  最後に。  彼女は、それは嬉しそうに。  〈微笑〉《わら》ったのだ。    ――最後に。  ほぅ……と風に溶けゆく微かな息吹、  何かが抜け去ったかのように力を失う身体、  そして微笑。  それが、彼女の〈最期〉《おわり》だった。 「……………………」  これまでの人生で――特に数年の兵役の中で。  身近な人間の死に立ち会う事は幾度かあった。  そうして知った事がある。  誰かが死んだ時、その人に預けていた心も死ぬのだと。  心の一部が死んで、穴が開く。  温かいものが無くなり、代わりに空虚なものが生まれる。  ……瑞陽という人の死で、生じた空虚は、  こうなるまで、思いもしなかった程に――大きく、深かった。  ほんの短い、わずかな期間の接触だったのだ。  俺とこの人とは。  それなのに。  俺は心の、これほどの領域を、この人に預けていたのだ。  失ってから、そうと知る。  ……失ってはならない人を失ったのではないかと、知る。  この人は、俺という人間に必要な存在だったのではないかと―― 「……今更。  何を」  自責を呟く。    ――何を、わかり切った事を。  とにかく、この人をこのままにしてはおけない。  亡骸といえど洗い清めて差し上げなくては――いや、どうもそういう場合ではないようだが、せめて布団には寝かせてやらねば。  一人では手間が掛かってしまう。  俺は養母に手伝いを頼もうと、背後を振り返った。 「……?」  いない。  ……光もいない。  二人とも、何処に――    と、視界の端に、二人の背が映った。  とても病み上がりとは思えぬ早足でどこかへ向かう光と、小走りにその後を追う養母。  行く先は―― 「祭殿?」  ……何故、このような時に? 「光!  ……おい、ちょっと待ちなって」 「何やってんだ…………………………」 「光。  おまえ」 「母上。  そこに立たれては邪魔です」 「……その〈御鑰〉《かぎ》、どうするつもりだ」 「訊くまでもないことを。  こんなもの、使い道は一つきりでしょう」 「孫の手にするなら居間にもうちょっとマシなやつがあるぞ」 「それは母上がお使い下さい」 「……なんでおまえが知ってるんだ。  御鑰の場所と、使い方まで」 「〈光が見ていましたから〉《・・・・・・・・・・》。  あれが見聞きした事は〈光〉《おれ》にも伝わります」 「……?」 「さて? 何度も申し上げるつもりはありませんが。  邪魔です、母上。おどき下さい」 「何をする気だよ」 「〈おれの〉《・・・》劒冑を解放するのです。  どうやら、差し迫った事態のようではありませんか」 「おまえの劒冑……?」 「……」 「……その劒冑で?  何をするって?」 「母上。  わかりきった問いにいちいち答えねばならないこちらの身にもなって頂けますか」 「そりゃすまんこってした。  ものわかりの悪い母に噛み砕いて説明してやってくれ、娘よ。母がボケてしまった時の練習だと思って」 「致し方ありません。  ただ、鏖殺するだけです。町に攻めて来る連中とやらを」 「……」 「単語の意味もご説明しましょうか」 「結構です。  聞くだに胸が悪くなりそうだ」 「それは上々」 「通さない」 「……」 「……殺してどうする? 光。  後には恨みが残るだけだよ」 「残りませぬ」 「……なんでだ」 「一人残らず殺しますゆえ」 「……」 「あの山賊どもにだって親類縁者くらいいるだろうさ。  その中には復讐心に駆られる奴もいるだろ」 「そいつら自身にだって、死ねば悲しむ仲間の一人くらいいるだろ。  恨みは必ず残る」 「残りませぬ」 「……なんでだよ」 「一人残らず殺しますゆえ。  この光より弱き者は〈すべて〉《・・・》」 「…………」 「それは……  武の道じゃないぞ。光」 「武の道にございます」 「何を……」 「ではお聞かせ下さい。  母上はどうなさりたいのです?」 「説得してくるよ」 「そんな状況ではなかったら?」 「……止めるさ。  けど、殺しはしない」 「はははははは……!」 「……」 「そのような事ができるとお思いか?」 「できるさ。  景明も手伝ってくれる」 「……」 「あの子は一度それをやってみせた。  もう一度だって、きっとできる」 「……成程。それで、さっきの女……。  母上は一度、やらせたのですね。景明に、〈そんなこと〉《・・・・・》を」 「ああ」 「だからもう一度やると」 「ああ……」 「戯け」 「……何ぃ……」 「あなたのその下らぬ所業が――  今日の事態を招いたとは思いませぬのか」 「……どういう意味だよ」 「山賊どもとやらは、武を侮った。  真相は〈殺法〉《・・》に過ぎぬ武を、見誤った」 「あなたが偽りの武を見せたからだ、母上。  戦って負けても〈殺されずに済む〉《・・・・・・・》などと彼らに信じさせた」 「…………」 「彼らは武を軽んじた。  甘く見た」 「だから嵩に懸かって攻め寄せて来る。  おわかりになりませぬか、母上」 「……そうだとしても。  連中が戦う気を無くすまで、防ぎ続ければいいこった」 「そいつが武の道だよ」 「違います。  武はそんな〈まだるっこしい〉《・・・・・・・》ものではない」 「強きをもって弱きを滅ぼす。  それが、武にござります」 「教えたはずだぞ光!  戈を止めると書いて武の一文字!」 「否!  戈にて〈止〉《とど》むと書いて武の一文字!」 「……!!」 「刃は生命に止めを呉れるもの!  他に用途は何も無し!」 「だからって、殺してどうなるよ!  誰も得しねえだろ!」 「そんな武道、何の意味があるってんだ……」 「そうでしょうか?  母上の教えてくださった武道こそ、糞の役にも立ちませなんだが……村正が示した武はこうして光を世に送り出してくれましたぞ?」 「……!?  村正が……示した?」 「つまりは……  こうしてここに光の在ることが、我が武の真実たる〈証明〉《あかし》!」 「おまえ……」 「おどきあれ、母上。  これで最後とさせて頂く」 「…………。  おまえ、誰だ?」 「……くふっ」 「娘の顔を見忘れたか。  母上」 「どうだったかな。  わたしがお〈腹〉《なか》痛めて産んだ子は、そりゃー性格面でアレなとこが多過ぎたし正直人間としてこいつどうなのよって感じだったけど」 「おまえほど、化物じみた〈面〉《つら》はしてなかったと思うんだが」 「ふっふ……!」 「……」 「良い眼をしているではないか、母上!」 「来るな。  そのまま下がって、外へ出ろ!」 「嫌と申さば、  ――――如何する!? 湊斗統!!」 「ッ!!」  ――止められる筈だ、と……  統には、確信があった。  娘の力量は知っている。  〈有体〉《ありてい》に言って、妖怪じみた天才だ。  一年前、病に倒れる直前、その技術はもう完成まで間近だった。  が……まだ、付け入る隙は残していた。  あれから一年。光の技は停滞している。  いや、後退しているはずだ――常識的に考えれば。それについてはどうもあまり期待しない方が良さそうだったが。  光の流麗な立ち姿は、これで病み上がりなどと言われてもつまらぬ〈諧謔〉《ギャグ》にしか思えない。  しかし――まだ、抑え切れる。統はそう踏んだ。  〈構〉《かまえ》から窺える技の多様さ、鋭さ、強靭さは統の許容量に収まる。  危うい線ではあっても、紙一枚の差で勝てる。  湊斗統にも己の術技に自負するところがあった。  あと半年――いや三ヶ月も光が修練を重ねていたらわからなかったろうが、現段階ではまだ優ると見た。  ――〈花乱〉《カラン》の裏から、八手で詰み。  脳裏に勝利への図式を思い描く。  推敲。……この計算を崩す要素は無い。  ならば図式を実行する。  統は重心を前へ傾け、仕掛ける気を窺った。    そこで、計算は崩壊した。 「……!?」 「……」  ――呼吸がおかしい。  光の呼吸をつかめない。  呼吸そのものはあるが……何かが違う。  〈戦う人間の呼吸ではない〉《・・・・・・・・・・・》。  ひどく――――希薄な。  希薄なのは呼吸に留まらない。  ……気付けば、〈存在感〉《けはい》そのものが希薄。  目の前に確かに、〈烈〉《はげ》しく在りながら。  しかし〈陽炎〉《かげろう》のようにあやふやで―― (……なんだ?)  それが、  湊斗統の不覚だったのだ。 (こいつ……  本当に、〈ここにいるのか〉《・・・・・・・》?)  〈鉄火〉《たたかい》の場に立ちながら。  そんな現実を離れた疑問に、一瞬でも意識を委ねてしまったことが―― 「!!」 「母上」  気付けば。  統は耳元に、娘の囁きを聞いていた。 「光はあなたを殺しませぬ。  光は何者も〈敵意〉《・・》によっては殺しませぬから」 「何故なら我が道程は〈神座〉《たかみくら》へ至るための〈禊〉《みそぎ》。  武の法だけがあれば良く、敵意悪意が如き穢れは無用」 「……母上にはこの光、憎しみを捨て切れませぬ。  だから殺しませぬ……」 「光……!」 「あなたは」 「愛によってお死にあれ。  母上」          ……鎧袖、一触であった。  ひとまず彼女の骸を居間へ安置してから、俺は二人の後を追った。  のんびりしていて良い時ではない。祭殿の中へ駆け込む。 「統様! 光――」 「……!?」  そんな場合ではないというのに。  祭殿の中の光景を見て、俺は一瞬ならず立ち竦まねばならなかった。  中央に、力なく伏せる養母。  その向こう、禁忌の御扉に取り付いている光。 「――――」  〈看過できない事が多過ぎて〉《・・・・・・・・・・・・》。  思わず硬直する。  ……数瞬。  貴重な時間を無駄に使った後、俺はようやく、優先順位を整理して活動を再開した。 「統様……!」 「……」  駆け寄り、肩を揺り動かす。  返事はない――だが呼吸は確かだった。  負傷の痕跡も見受けられない。  ただ気を失っているだけのようだった。  とりあえず安堵して、次の状況に目を向ける。 「光!」 「ん?」 「……何をしている?」 「見ての通り。  〈錠〉《かぎ》を開けているのだが」 「……どうもコツが要るようだな。これ。  中々難しい」 「……ああ。  そうらしいな」  養母も昔は梃子摺ったとか――いや。  違う。そういう問題ではない。 「待て、光!」 「うん?」 「……む。開いた。  なんだ、力の問題ではなかったのか。要は引っ掛け所の問題だったのだな」 「ありがとう景明。  あやうく蹴り破るところだった。中の物のことを思うと流石にそれはまずかろうにな」 「いや……  いやいやいや! 光! 開けてはならん!」 「何故だ?」 「何故って……何故ではなくてだな。  そこに封じられているのは皆斗家の禁忌。統様の許可なくして開いてはならない」 「だが、今や湊斗の巫姫はこの光だ。  祭祀の権限はすべておれにあるのではないか?」 「……そういえば、そうだが」  なぜ光がそれを知っている?  ……いや、そんな事はさておいて。 「とにかく、今はそれどころではないのだ、光。一体何があったのか教えてくれ。  いや、統様を起こすのが先か――」 「〈それどころ〉《・・・・・》だよ、景明。  今がその時だ」 「何だと?」 「山賊団とやらが町を襲うのだろう」 「……ああ」 「光が迎え撃つ。  ここにある劒冑を使ってな」  ――――!?  あの劒冑を、  ………………使う!? 「駄目だ、光!!」  我知らず、俺は叫ぶほどの声を張り上げていた。 「あれは……  〈あれは駄目だ〉《・・・・・・》! 持ち出してはならない!」 「……ふむ」  そこで初めて、光は俺を振り返った。 「だが、景明。  他に方法があるか?」 「それは……  いや、しかし」 「あれは……まずい。  皆斗の伝承が云うように、邪しきものだ」 「何を言う。劒冑とて所詮は武器だ。  武器は武器、それ以上のものではない」 「武器は善悪など持たぬ。  正と云い邪と云うも、使い手次第で決まる事」 「それは……全くその通りだが……」 「先刻の女。  〈鑑〉《み》たところ、あれは武者だろう?」 「にも拘わらず劒冑を持っていなかった。  つまり、山賊は劒冑を保有し、使ってくるという事ではないのか?」 「……!」  ……確かに。  劒冑は――数打物といえど、誰にでも扱えるという代物ではない。訓練あるいは才能が必要だ。  だが、首領以外にもそういったものを持ち合わせた人間が一人くらいはいるだろう。  少なくとも、あの弟は姉と同じ訓練を受けている筈……。  山賊団の分裂がどのような過程を辿ったのかは知る由もない。  が、かの弟が姉に従ったと断定する根拠はなかった。 「武装集団の相手だけでも生身には余る。  加えて武者までいるならば、こちらも劒冑を用いる他に対処の術はなかろう?」 「……うぬ……」  光の言うことは――おそらく正しい。  おそらく……この状況下では最も現実的なプランだ。  完全武装の歩兵。あるいは更に砲、車両。  そして劒冑。  身体一つでどうやって止められよう。  しかも――俺は養母の教えを思い出していた。  殺してはならない。  殺さずに、武装集団を制止せねばならない。  ……やはり、劒冑は必要だった。  劒冑の力があれば、通常兵器の無力化は難しくない。兵士を殺さずに済ませる事も、おそらくできる。  同じ劒冑に対してはそんな余裕などなかろうが――対等の戦力を示せば交渉に持ち込む事はできそうだ。  現実的である。  それでも、どうしても同意に二の足を踏むのは……    あの劒冑を見ているからだろう。  肌が粟立つまでの禍々しさ。  あんなものを持ち出すことに、懸念は拭えない。  しかし。  ……しかし…… 「……」  光は律儀に俺の答えを待っている。    ……少なくとも。  この逡巡には、百害あって一利なし、か。 「わかった」 「うん?」 「俺がやろう」  まさか、病み上がりの光にはさせられない。  己の掌を見詰める。それが経てきた鍛錬を思う。  吉野御流合戦礼法は武者の業。  やってやれない事はない筈だ……! 「そうか」  それを聞いて、光がにやりと楽しげに笑う。 「それがいい。  劒冑は〈二領〉《ふたつ》あるのだしな」 「!」  そういえば……そうだった。  禁忌の劒冑は、二領あるのだ。 「だが……  待て、光!」 「いや、そろそろ行こう」  やはり律儀に返答しながら、光が扉を引き開ける。  重いはずの扉は、あっけなく回った。  そうして中に――  あの劒冑。  二領の劒冑。  白銀の女王蟻に、深紅の蜘蛛。 「……ッ!」 「……」  走り寄ろうとして、思わずたたらを踏む。  災いの気配、不吉の匂い――劒冑が放つその流気は、改めて見ても只ならぬものがあった。  反して、光は気にした様子もない。  無造作に歩み寄り、その劒冑――白銀の大蟻に片手を〈翳〉《かざ》した。 「待たせたな。  村正」 «…………»  ――むらまさ? 「いざ、共に参らん!  武の大道へ!」  ……呼び掛けに応えたのか。  銀の姿が割れる。  割れ砕け、片鱗となり、  光の周囲に舞い踊る。 「な……!」  この光景が何を意味するのか、知っていた。  何が起こるのか――〈何ゆえに何が起こるのか〉《・・・・・・・・・・・》、俺は脳細胞が宿す知識から判別できた。  ――光は既に、あの劒冑と結縁を果たしている!?  愕然と見守るなか。  白銀の煌きに囲まれて、心地良さげに眼を細めつつ、光はゆるりと優美な仕草で指を流した。  〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》! 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……ッ!?」  光――――!?  ……銀色の閃光が収まった後に。  ようやく視界を回復した俺が見たものは、屋根と壁の一部が吹き飛んだ祭殿の姿だった。  光はいない。見当たらない。  いや――  空に、翔ける銀影。  ……ほんの一瞬で消え去る。  町へと向かったのか。  それに、しても。 「……装甲しただけで……」  ただそれだけで。  ――この惨状だと?  あの劒冑はどれほどの〈異能〉《ちから》を有しているのか。  想像するだに、背筋が震えた。  爆風は浴びたが、俺の身体に傷はない。  養母も同様だ。幸いにも――いや。光が配慮してくれたのだろう。  ……ならば、のんびり呆けている場合ではなかった。  俺も続かねばならない。  光を止め損ねてしまった以上、すぐにも追わねば。  残った一領の劒冑を見やる。  あの暴発の至近距離にありながら、損傷も無ければ倒れてさえいなかった。  その事実は、白銀の蟻に劣らぬ力の存在を否が応にも知らしめる……。 「……」  怯えを噛み殺して、近付く。  深く赤く鋼鉄を輝かす大蜘蛛は、傍で見れば尚の事不吉が匂った。  ……さて、どうしたものか。  帯刀の儀の詳細までは俺も知らない。  とりあえず、触ってでもみるしか―― 「――ッ!?」  ……何だ。  これは……  何だぁッッ!?  これはッッ!?  この――  身の毛もよだつ景色と音響と匂いと気配と肌触りと味と思念と運命は何だぁぁぁぁぁぁぁァァァァッ!!            我が〈銘〉《な》は村正         我、鬼に逢うては鬼を斬り         仏に逢うては仏を斬るもの也            我、善に非ず            我、義に従わず            我、正道を〈征〉《ゆ》かず           我、正邪を諸共に断つ            我、一振の〈凶刃〉《ハガネ》也        我との契りを求める者      我と共に凶刃と〈生〉《な》る覚悟ありや            無かりせば去れ            有りせば―― 「がっ……  はァッッ!!」  辛うじて――  俺は劒冑に張り付いた手を引き剥がすのに成功した。  胃の底から突き上げる嘔吐感に負けて、床を転げる。  吐瀉物を撒き散らす。  声にならぬ声を絶叫する。  ……駄目だ!  駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!  あのようにおぞましい魔物!  とてものこと、俺の手には負えない……!! 「あ……はははは」 「あはははははは……」 「あははははははははははははは!!」  〈一ヶ尾〉《いちがを》〈一磨〉《かずま》は、笑いこけた。  笑う以外に、できる事がなかった。  ワケがわからない。  何がなんだかもうさっぱりわからない。  だからこれはきっと冗談だ。  こんな馬鹿げたオカシなコトは冗談に決まっている。 「ひっ、ひひっ……!  なんだよ! なんだよおまえ!」 「おまえ変だよ! おかしいよ!  なんだよその〈疾さ〉《・・》!!」 「見えないじゃないか!  気が付いたら殴られてるじゃないか、僕!」 「ていうか死に掛けだよ!  死ぬよ!」 「なんでさ!?  僕、武者だよ!? 竜騎兵だよ!?」 「強いんだよ!  強いんだってば!」 「同じ武者にだってそう負けないよ!  なのに! なのになのになのにぃ!」 「なんで……  〈一秒で〉《・・・》こんなやられてるんだぁぁぁぁッ!!」 「……なんなんだおまえ……」 「大体わけわかんない。  なんであいつら、狂うのさ」 「おまえが現れた途端!  僕の部下も!  町の連中も!」 「いきなり滅茶苦茶に殺し合い始めた!  敵も味方もあったもんじゃなかった!」 「どいつもこいつも脳味噌が腐ってた!  みんな最高にハイだったー! 楽しそうにコロシ合ってたね! 僕だけ除け者にして!ずるいよ、恐いじゃん置いてけぼりなんて!」 「止めようとしても誰も返事なんてしてくれないし!  返ってくるの銃弾だけだし!」 「そーやって好き勝手に殺して殺されて殺して殺されて……  もう誰もいないよ! みんな死んでる!」 「なんなのっ!?  一体なんなのさぁっ、これ!!」 「誰か教えてよぉっ!  ねえさぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」 「こいつ――  なんなのぉっっ!?」 「……ふむ。  何なの、か」 「浅薄な問いだな。  思わず、人間だ……などとつまらん答えを返してしまいそうになるじゃないか」 「まぁ、いい。  おれの意味を、存在を問われたのだと解釈しよう」 「おれはこの世に純真の武を〈布〉《し》くもの。  即ち」 「天下布武である」 「……はは。あはは。  なにそれ」 「わけわかんない……」 「む、そうか?」 「わかんない……  もーなにもわかんないよぅ……」 「姉さぁん……  どこいっちゃったのさ……助けてよ……」 「待て待て。  勝手に自分の世界へ閉じ篭もるでない」 「おまえにはやって貰うことがあるのだ。  それを果たしてからにしろ」 「……姉さん……」 「……ひィィィィィィィッ!?」 「とりあえず……  今ここで死にたくないと思うなら、逃げる必要があるぞ。山賊の親玉」 「ひっ……  ひぃぃぃ……」 「ひっ、ひやっ、ひゃひ……  ひゃはっ、ははははははは……」 「あはははははは!  あぁははははははははははははははは!!」 「…………」  ……どれほどの間、苦悶に喘いでいたのか。  気付けば、夕闇が訪れていた。 「……こんな場合では」  ようやく平静を取り戻し、呻く。  貴重な時間を浪費した事は間違いなかった。  すぐにでも動かねばならない。  劒冑は――あの劒冑は駄目だ。  やはりあれは、触れて良いものではなかった。  必ずや、災いを導く。確信がある。断言できる。  ……そんな劒冑を装甲してしまった光の身が案じられる。  どうして、止められなかったのか。  不安はそこに尽きない。  山賊との戦いはどうなったか。数は相手の方が遥かに優勢なのだ。武者となった光にも、容易い対敵では決してないだろう。  考えれば考えるほど、焦燥が募る。  ……とにかく、町へ様子を見に行かねば。  光の安否を確かめるのが急務だ。  半壊した祭殿は、今はどうしようもない。  養母の身柄だけ安全な所へ運んで、それから、  ――それは突如、降ってきた。  九〇式竜騎兵。  六波羅軍の主力騎。  しかし、武者の礼法に則る華麗な着陸とは全く遠い。  まるで……〈蹴球の球〉《サッカーボール》よろしく〈蹴り込まれた〉《・・・・・・》かのような、無様な降着。  そのせいというわけでもないようだが、武者は酷い有様だった。  あちらこちらの甲鉄が砕け、割られ、歪んでいる。 「――――」  硬直した頭脳が、問題を一つ一つ片付けて、結論を導き出してゆく。  ――竜騎兵。  ――光ではない。  ――つまり、山賊。町を襲った一党。  ――敵。  ――俺の味方ではない、武者。 「…………」 「……」  失神でもしていたのか、しばらく蹲ったまま動かなかった凄惨な武者が、ふと〈面頬〉《かお》をこちらへ向けた。  視線が合う。  こちらは、九〇式の兜を拝んだところで、既に理解した以上の事は何もわからない。  だが相手の側では、違ったようだった。 「……お前だ……」 「そうだよ。  お前だよ」 「……?」 「お前が来てからオカシクなった。  なんかヘンになったんだ」 「お前だよ。  お前だよ!」 「お前がいなけりゃ良かったんじゃないの?  そうじゃない? そうだよね!」 「……お前がいなけりゃ……」  ゆら、と武者が起き上がる。  手に、刃毀れした太刀を持って。  その尖端が、俺を指す。 「待っ――」 「お前がいなけりゃ、良かったんだよぉ!  あはははははははは!!」  何をする事もできなかった。  ぽかんと間抜けに口を開けて、意味もなく制止の形で手を突き出していただけだ。  人能を超えた踏み込みと、同じく超人の斬撃。  その勢威は軽く皮膚を掠めただけで、俺の体を吹き飛ばすに足りた。  地面に打ち倒され、砂利を舐める。  それでも幸運だったのだろう。  死なずに済んだのは、竜騎兵が狙いを外したおかげだった。  避けようなどと、思う間すらなかった。 「……なんだよ……  避けるなよ」  だというのに失敗の責任を俺に押し付けて、武者が拗ねた口調で愚痴る。  ゆらりと、兜が揺れて……俺の姿を探し。  見つけて。  再び見合い――今度は一つ、俺も知る事があった。  ……この武者はもう、正気ではない。 「お前が悪いんだよ。  死んでよ」 「……ッ……」  からからに渇いた喉へ、唾を飲む。  乾き過ぎていて、飲み下すのに苦労した。  ……この武者は、俺を殺そうとしている。  ……話も通じそうにない。  殺される。 「ぐっ……う……!」  異様な緊張が肛門から突き上げた。  脳髄が沸騰して泡を立てる。  死。  死。  命の終わり。  どうにもできない恐怖。  逆らいようとてない脅威。  ……逃げたい。  ……死にたくない。 「死んでよ。  ねえ、さっさと死んでよ!」 「ひっ……」  意味不明、我が侭な殺意が恐ろしい。  じりじりと下がる。逃げる――それで全く敵の姿が遠くならないことに絶望しながら、這って退く。  ――その手が。  ふと、冷たい何かに触れた。  劒冑。  自らを村正と称した、あの劒冑だ。  ――劒冑!  そうだ。これがあれば。  これが、あれば……            我が〈銘〉《な》は村正         我、鬼に逢うては鬼を斬り         仏に逢うては仏を斬るもの也            我、善に非ず            我、義に従わず            我、正道を〈征〉《ゆ》かず           我、正邪を諸共に断つ            我、一振の〈凶刃〉《ハガネ》也        我との契りを求める者      我と共に凶刃と〈生〉《な》る覚悟ありや 「ぐぅっ……!」  いや――  いや! これは、駄目だ!  これは使ってはならない。  このおぞましい世界を見れば明白だ。  このおぞましい呪詛を聞けば明白だ。  これは――途轍もなく不吉な何かなのだ。  災いの運命を内包したモノなのだ。  到底、理解はできない。だが、確信は揺らがない。  これは妖甲と呼ばれるモノなのだ。  そう――妖甲。  歴史の知識を紐解けば、村正の名は常にその異称と共にある。  大和史上ほかに例のない程に、長く果てしなく意義もなく続いた泥沼の大乱――南北朝争乱。  嘘か真か、その地獄を演出したのはある鍛冶一門の鍛え上げた劒冑だと云う。  妖甲、勢洲右衛門尉村正。  ……この赤い蜘蛛こそが、それであるならば。 「あはは……  きっとお前を殺せば、姉さんも帰ってくるんだよ」 「ねえ?  だろ?」 「……ッッ」  たとえ――  たとえ。  ここで、殺されるとしても。  この劒冑は――この劒冑だけは―― 「……っ……」 「ぅ……ん」 「!?」  ……それは。  よりにもよって、奴の足元の、すぐ近く。  意識を取り戻したらしい養母が起き上がろうとしている。  奴の――気の触れた竜騎兵の注意を、わざわざ引き寄せるように! 「……」 「あー……くそ。  なんなんだ。二日酔い?」 「おかしーな。酒なんて……」 「統様ッ!!」 「ん? ……景明?」 「お逃げ下さい!  早く! その場をッ!」 「へ――」 「邪魔だよ。  邪魔しないでよ」 「僕はあいつを殺さなきゃいけないんだから……!」  八つ当たり以外の何でもない怒りを向けられ、養母が唖然とする。  唖然と――するほかないだろう。目を覚ましてみればそこに竜騎兵がいて、太刀を振り上げていたなら。  まずい。  いかに養母でも……防げない。  竜騎兵も狙いを外さない。  養母が死ぬ。  統様が死ぬ。  死んでしまう。 「……ッ……」 「く……あぁぁッ!!」         ……我との契りを求める者        我と共に凶刃と〈生〉《な》る覚悟ありや 「ッ……」  覚悟などない。  そんなわけのわからぬ覚悟はない。  だが――  だが、今は――            無かりせば去れ           有りせば         己が覚悟を宣誓す〈可〉《べ》し  養母を救わねばならない。  何をしてでも。何を使ってでも。  決して許せぬ事は、ただ一つきり。  ――統様が失われる事だけだ。 「鬼に逢うては……  鬼を斬る」  そうして、俺は口ずさんだ。  恐ろしい〈詩〉《うた》を。 「仏に逢うては仏を斬る……」  意味も知らぬまま。 「ツルギの理……  ここに、在り……」  ――――誓約したのだ。 「景明……!?」 「え……  あ……あぁぁっ!?」  俺のすべては変貌を遂げた。  外は甲鉄に覆い尽くされ。  内は〈異力〉《チカラ》が駆け巡り。  〈人間〉《ひと》にあらざるモノに成りおおせた――  余りの超越感に意識が恍惚とする。  それでも、すべき事は忘れなかった。  一つきりだ――このチカラは、〈唯一〉《ただひと》つの事さえ成し得ればいい。  統様を救うだけでいい! 「お、お前……それ……  あいつの仲間かぁっ!?」 「あいつの! あいつの!  ひっ、いいいいいいいいィィィィッ!!」  竜騎兵が錯乱して何かを喚き散らしている。  だが、耳には入らない。  意味を持つ事実は一つきりだ。  奴は統様を殺そうとしている……  あれは敵だ!  討つべき敵だ! 「うああああああああああああああ!!」  吼える。  駆ける。  太刀を抜く。  敵を斬り殺す為の全てを行う。 「駄目だッ! 景明!!  〈それ〉《・・》は――――」  横殴りの一撃を叩き込む。  反射的動作で敵騎は太刀を立て、それを受け止めた。  だが――そこまで。  返しの一打はおろか、踏み止まることさえできてはいない。  優劣は明白だ。  俺の方が強い。  この村正の方が、あの竜騎兵よりも圧倒的に強い! 「ああああああああッ!!」  追う。  体勢を崩し切っている竜騎兵に追いすがる。  技など無かった。  すべて忘れた。  力任せに振り上げて、  力任せに叩き切る。  養母を脅かす敵を――  両断する! 「――――」  ……竜騎兵は、最期に悲鳴を上げることもなかった。  劒冑ごと、身体を二つに散らす。  圧倒的な力。  凄まじいまでの暴力。 「おっ……  おおおおおおおおお!!」  異様な達成感が、獣の如き咆哮を上げさせた。  初めてこの手で、人間を殺したという悪寒――それさえも何処かへ忘れ去る。  これが劒冑か。  これが武者か。  素晴らしい力だ。  偉大というほかない。  この力を正しく使えば……  世を変えることすら、きっと不可能ではない。  何という――――武力!! 「……景明……」 「あ……  ……あぁ……」  なぜか泣くような、養母の声。  それを聞いてようやく、意識の半分ばかりが冷静さを取り戻した。  そうだ。  統様は、無事か。  今の一合の、巻き添えを食ってなどは――    そう思いつつ、養母の姿を視界に入れた、その刹那だった。  ……な。  何?  何を。  俺は、何をしようとしている?  太刀を構えて……  〈養母を見て〉《・・・・・》。  何をしようとしているのだ!? «……御堂。  誓約を果たしなさい»  耳を介さず、頭蓋の内側に涼やかな声が響く。  これは――〈金打声〉《きんちょうじょう》、というものか!? 劒冑が通信に用いる音波……  つまり、村正の声!? 「……誓約……?  誓約とは……何のことだ」 «我が〈御堂〉《あるじ》。  貴方は誓った» «善も悪も分け隔てなく、  諸共に断つ» «――〈凶刃〉《ハガネ》になると誓った» 「…………」  それは……  どういう意味だ。  どういう意味なのだ……!? «我ら、村正は……  〈善と悪を共に断つもの〉《・・・・・・・・・・》» «御堂。  貴方は悪と見做して一人を斬った» «だから――貴方は善と見做す一人をも斬らなくてはならない»  …………!? «貴方は一人の敵を斬った。  だから、一人の味方も斬らねばならない» «貴方は憎んで一人を斬った。  だから、愛する一人も斬らねばならない» 「でっ……」  できるかッ!!  そんな事が!!  馬鹿な……!? «……それが村正の法。  貴方が誓った不破の約定» «さあ、御堂。  一つの善を。  一人の味方を。  愛する一人を» «誓いにかけて。  ……殺しなさい» 「い……嫌だッッ!!」  前に進もうとする足を留める。  太刀を振りかぶろうとする腕を止める。  ……全ては虚しかった。  俺を恍惚とさせたあの膨大な力が、今は俺の全身を縛り付けている。  俺の意思を封殺して。  鋼鉄によろわれた俺の身体は、一歩一歩、養母へと向かってゆく。 「やめろっ!  やめてくれ……」 「何故だ!  何故、そんな真似をしなくてはならない!?」 「何故そんなことをさせる!?  応えろ、村正!!」 «…………» «何故、も何もない。  私は〈そういうもの〉《・・・・・・》だから» «私は村正。  その理念で打ち上げられた劒冑» «鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る» «この〈理〉《ことわり》を示すために私は生まれた。  だから、そうする» «……それだけよ»  そんな馬鹿な話があるか。  そんな理不尽な話があるか。  意味もわからず。  養母を、この手で殺めねばならないなどと! 「統様!  離れて下さい……!」 「……」 「早く!  さもないと、自分が……」 「…………」 「自分が……  この手で……貴方を!!」  だから――  だから、早く。  早く、逃げて―――― 「……ま。  そうもいくまいね」 「こいつはわたしの請け負い分だよ、息子。  他のやつには回せないさ……」 「統様……ッッ!?」 「あ……  あぁッ……!?」 「……ふぃー……  やっぱけっこー効くね……」 「統様……  統様ァァッ!?」 「俺は……違う……!  こんな……嘘だ。どうして……俺は!?」 「いいんだ、景明。  わかってる……」 「……やっぱ、言い伝え通りだったんだなぁ。  敵を殺したら、味方も殺す……か」 「悪を殺したら善も殺す。  憎む人間を殺したら愛する人間も殺す……」 「……んー? つまり息子よ、おまえはこの母を誰よりも愛していたのか?  なんだ……照れるじゃないか、まったく」  場違いに笑う、養母の胸を……  刃が貫いている。  俺の刃だ。  俺が――――統様を刺した!! 「あ……そんな……  いやだ……俺は……!」 「泣くな、景明……  涙で送られるなんて性に合わないし」 「統様……!」 「あぁ……もう。  最後まで、世話の焼ける子だ……」  養母が震える指を伸ばして、俺の目元を拭う。  その優しさに心を裂かれる。  何故だ……?  どうして……こんな事に――!? 「おまえが悪いんじゃない。おまえがわたしを殺したんじゃない。  巫姫の役目を果たせなかった……うっかり村正の解放を許しちまった、わたしの責任」 「身から出た錆ってやつ。  おまえが気にするこたぁない……」 「おまえはわたしを助けようとしただけ……。  大体ね、おまえがそうしなきゃ……わたしはさっきの〈武者〉《やつ》に殺されてたさ」 「だから、いいんだよ……」 「……いやだ……  嫌です……統様……!」 「俺は……俺は貴方を守らなきゃ……  助けなきゃいけない……」  俺の生命はそのためにあった。  そのために費やされるべきだった。 「なのに……  なのに!!」 「いっぱい助けてもらったさ……  孝行息子」 「だから……わたしはもういいから。  あいつを頼むよ……」 「統様!!」  養母の身体を抱える。  去ろうとするものに、しがみつく。  ……既に、身体は自由だった。  それは――つまり。俺の全身を支配していた呪縛が、目的を果たしたという事、で―――― «…………» 「い、いやだ……駄目だ。  行かないで下さい」 「統様……  俺は――俺は、貴方を」 「貴方を」 「……光を頼むよ、景明。  〈約束〉《・・》……忘れないで」 「統様!?」 「……統様」  ………… 「……統様……」  応えは無い。  何も、無い。  養母は二度と応えない。  俺が――そうした。  俺が、この手で。  養母を殺した。  殺したのだ。 「あぁっ……」 「――――――――――――」 「ああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアア アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」 «な……  馬鹿なァァァァゥア!?» «有り得なァァァいッ!  安息に抗える者などいなァァァァい!!» «何故だァァァァァァァァ!!  貴様は、どォしてェェェェッ!?» «……貴様が見せた安らぎは……» «俺がこの手で斬ったものだ!  俺がこの手で殺したものだ!!» «安息に眠る権利など……  最早、俺には無い!!» «ぬァッ――!?» «吉野御流合戦礼法〝〈雪颪〉《ナダレ》〟が崩し……» «〈電磁撃刀〉《レールガン》――――〝〈威〉《オドシ》〟» «がッ……ハ……» «ハッ……ハハハァ!  なんと……なんとなァ!» «村正ァ!  やはり貴様こそが悪鬼であったか!» «及ばぬ! この青江にして及ばぬわ!  認めようぞ……貴様こそは、最も呪わしき武者であろうよ!!» «呵呵呵!  呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!!» «……ならば、問いに答えろ。  ニッカリ青江» «光は――  銀星号は何処にいる!» «ハッハ……  白銀の……星……» «何処だ!?» «かの姫は……  …………六波羅の…………» 「…………」 «御堂……  野太刀の、刀身の欠片よ» 「ああ……」 «……あと、残り一つ» 「…………」 «御堂?» 「……」 «……御堂……»  ……二年前。  あの後――――  俺は養母の遺言に操られるように、町へ向かった。  光を探して。  だが、そこで見たものは――  死に絶えた町だった。  誰も彼もが死んでいた。  そこら中で死んでいた。  〈町人〉《まちびと》も。  山賊も。  皆、生きてはいなかった。 「……どうして……」 «…………» 「……光も……まさか。  俺と同じ事を……」 「山賊を殺して……  殺した数だけ、町の人々をも……?」 «山賊というのは、武装した連中のこと?» 「……」 «だとすると、おかしい……。  数が合わない» «それ以外の人の方が、ずっと多い» 「…………」  確かに、そうだった。  山賊と町の人が、同じ数だけ死んでいるなら理屈は合う……だが、山賊よりずっと多かった筈の〈町人〉《まちびと》らが全滅しているというのは。 «……狂ってしまったのかしらね» 「……狂った?」 «ええ» 「光が……町の人を手に掛けてしまった衝撃で、狂って……そのまま……?」 «いえ。  それだけなら、全滅まではしないでしょう» «見て。  死骸の大半は……互いに殺し合ったように見えない?» 「……」  そう見える。  町の人間と山賊が……だけではなく。町の人々同士でも殺し合ったように見える。 「つまり……?」 «……〈二世村正〉《かかさま》には、恐ろしい力があるの。  周囲の人間の心を、汚染する力が» 「……汚染?」 «ええ。  おそらく、貴方の妹は狂い――» «そしてその狂った思念を、二世村正の力で町中に撒き散らした。  だから……こうなった» 「……」 «……昔にも一度、あったことよ。  だから、二世村正は封じられた……» «……〈三世村正〉《わたし》が一緒に封じられたのは……  もしもまた同じ事が起きた時には、私の力で二世村正を止めるため» «御堂» 「……」 «貴方は、二世村正の仕手を追わないとならないのでしょう?» 「……ああ」 「そうだ」  ――光を頼む。  養母は最期に、そう言ったのだから。 «私も二世村正を追わなくてはならない。  ――行きましょう» 「……」 «私の事は、憎んでいい。  けど、今は貴方には私が必要よ。私に貴方が必要なように» 「お前が……?」  こんな……  呪われた劒冑が必要?  養母の死の責任を転嫁するつもりはない。  いみじくも光が言ったように、どんな劒冑も所詮は武器。呪われていようが何だろうが道具に過ぎないのだ。罪は、それを用いた人間に帰する。  この劒冑は災いのものと、百も承知の上で、使ってしまった湊斗景明の他に憎むべき相手はいない。  しかしだからといって……今後もこの劒冑を伴わねばならぬ理由など―― «ええ。  二世村正の汚染能力は、武者には及ばない……けれど〝卵〟を使えば武者を自分の分身にしてしまえる» 「……」 «その力に冒されない劒冑は、この世に〈三世〉《わたし》〈一領〉《ひとつ》きり。  だから……貴方に選ぶ余地は無いの» «……何もかも諦めるなら、別だけれど» 「……」  諦めることが――  できる筈もなかった。 「……六波羅……」 «……» 「そう言っていたな」 «ええ……» 「追うぞ」 «ええ»  あれから、二年。  俺達は光を追い――  光は各地で〈全滅事件〉《・・・・》を起こし。  銀星号と呼ばれるようになり。  時に俺と光は出会い。  時にすれ違い。  光のばら撒く〝卵〟を潰し。 〝卵〟のちょうど〈倍の数の〉《・・・・》人間を殺し。  そうして……  未だ、光は止められずにいる。 「……次こそは必ず。  これ以上……災厄を広げさせてはならない」 «……そうね……»  誓うように呟いて。  俺も劒冑も、その偽善を知っていた。  〈村正〉《おれ》こそが災厄をもたらすのだ。  これから――何処かの、一人の人間に。  一つの悪を殺した罪に懸けて。  一つの善を殺す罪を負う。 「行こう……」 «ええ……»  俺は村正。  〈災禍〉《わざわい》の武者である。  彼は名を〈時田光男〉《ときたみつお》という。  若い、フリーのジャーナリストであった。  巷で噂の〝赤い武者〟に強い興味を持ち、あてにならない風聞と風聞を繋ぎ合わせ、遂に真実の〈一欠片〉《ひとかけら》を造り上げた――つまりは俺に行き着いた。  関東拘置所に入所と出所を繰り返す奇妙な〈科人〉《とがびと》の話。  そして〝赤い武者〟の目撃情報。  前者の出所時期と、後者のうち信憑性の高い幾つか……その一致を彼は掴んだのだ。  彼の動機のうち一つはジャーナリストらしい好奇心であり、もう一つはジャーナリストらしからぬ偏った熱情――圧制者への怒りだった。  あなたは希望なのだと、彼は俺に向かって告げた。  巨大な権力者に挑む一個人がいる。  その事実はきっと、人々の心に勇気という灯を宿す。  それはやがて、圧制を打ち砕く力へ育つ。  〈筆〉《ペン》は剣よりも強いのだ、そう彼は主張した。  それが彼の信念だった。  あなたを報道させてくれと、彼は俺に懇願した。  自分のやり方で、あなたと一緒に戦いたい。そうも言った。  俺の同意を得られないと知ると、彼は自分の覚悟を見せようと思ったのか、俺を襲った殺人鬼――青江だ――について調べ上げ、遂に所在を突き止めるという真似までやって見せた。  代償は腕一本を失う重傷であった。  青江を仕留め、病室を見舞った俺に、彼は微笑んで言った。ペンが剣を一本折った、自分の信念の勝利だ、と。  彼は正しかった。俺が殺人鬼を倒せたのは彼の助力のお陰だった。  そう告げると、彼は照れ臭そうに目を伏せた。  その首を刎ねた。      ペンは折れた。  俺は彼の信念を侮辱した。  ……それは後に元寇と呼ばれる事変であることを、一条は知っている。  彼ははじめ、相模國に住む一介の村鍛冶であった。  鋤、鍬といった農具から馬蹄、又は包丁など、村の穏やかな生活の中で求められる全てを〈拵〉《こしら》えた。  勿論、劒冑などは造らない。  村の生活には無用であるし、そもそも一介の村鍛冶がそんな業を心得ていよう筈もない。  だが刀剣は、少々打った。  時折山から下りてくる野犬の類や、幕府の膝元たる関東では滅多に見ないが皆無でもない流賊などから、村を守るために求められたのだ。  そんな中の一振りがある時、村を治める領主の目に留まった。  粗末だが、名もなき村鍛冶にはふさわしからぬ出来――と、領主は些かの感興を持って彼の事を記憶した。  そのせいだろう。  弘安四年、幕府はかつてない大動員令を発し、主将として執権の弟を派遣する。領主はその直属軍に一族郎党を連れ参じたが、その際、彼に陣中鍛冶を命じた。  その戦のことを、彼は何も知らなかった。  雑用役の下人に交じって働きながら、己が錆を落とした古刀で何物を斬るのか、破損を繕ってやった鎧で何から身を守るのか、何も知らず日々を過ごした。  どうでも良いことだった。  大方またどこぞの豪族が鎌倉様に反旗を翻し、それを討伐にゆくのだろうが、そんなもの、彼にも村にも何の関わりもない。  戦が長引けば自分が陣中に留められる期間も長引くし、村からの徴発も厳しくなるだろう。  だから早く終わって欲しい。そう願うだけだった。  行軍の日々は長く続いた。  やがて海に面し、船を仕立てて更にその向こうの陸まで渡る段になって、彼はようやく自分が大和の果て――九州を目指していることに気付いた。  一体どうして、そんな所へ関東の兵を送らねばならないのか。近辺に所領を持つ御家人らだけで充分ではないか?  彼は下人衆と揃って首を傾げたが、答は出なかった。  勿論、下人風情にいちいち説明をしてくれる気安い武士などいない。  彼らが真相を朧に察し得たのは、再び海岸に達し、そこで海に向かって布陣する大軍勢を見た時だった。  ――敵は、海を渡って来るのだ。  御伽噺に聞くばかりの、唐天竺からやって来るのだ。  陣では現地の庶民が多数働いていて、彼らから話を聞くことができた。 〝敵〟は既に幾つかの島々を襲い、甚大な被害をもたらしているという。  この博多も敵の先遣隊であろう武者団の襲撃を数度に渡って受けており、その都度、迎撃に出た大和武者が少なからず討ち死にしているという。  頼朝公以来常勝を以て鳴る御家人衆が、だ。  敵の武者はとにかく小回りが利き、御家人衆は速度では優りながら運動に付いてゆくことができず、〈上〉《あたま》を押さえられて次々と〈墜〉《お》とされてしまう……。  飯番の老人は恐ろしげに、そう語った。  そんな奴らに、自分の打つ刀などがどれほどの役に立とう?  彼は初めて不安に駆られた。  それは彼を連れてきた領主も同じであったらしい。  わざわざ彼を呼びつけて、決して仕事に手を抜いてはならぬ、取り立ててやった恩を仇で返すでないぞと、苛立たしげに一喝した。  彼は恐懼して承った。  が、実際にやったのは、下人仲間に倣っていつでも逃げられるよう身の回りの物をまとめておく事だった。  迷惑ならともかく恩など受けた覚えはなかったし、仮にあったとしても命を捨てて報いるなど御免だった。  海の向こうの異国を相手取る戦であっても、彼に何の関わりもないという意味では全く同じだ。  命を拾うことだけが大事、村に帰ることだけが大事だった。  戦など、やりたい連中だけでやっていれば良いのだ。  この戦でもし御家人衆が負けたとしても、まさか敵が関東まで攻め上ってくることはなかろうし。  九州一帯は大変なことになるかもしれないが……同情以上の何かをする責任など自分には無い。  彼はそう思っていた。  それに、異国の兵といえど所詮は同じ人間。  周囲では敵の〈蒙古〉《モウコ》なる奴輩は人ならぬ悪鬼の群れで、血を杯に満たして呑み人肉に舌鼓を打つ、などの噂がまことしやかに囁かれていたが――この点、彼の認識は醒めたものだった。  不純を廃して純なるものに鍛え上げる鍛冶を生業とするためであろうか。彼は単純に、敵軍にもこちらと同じように船や劒冑があるらしい、ならそれを使うのも我々と同じような人間だろう――と考えていた。  つまりは万が一、大和の全てが征服されてしまったとしても、それは支配者が幕府から別の誰かに変わるだけの話。  やっぱりどうでも良い事だと、彼は結論した。  そうして迎えた、決戦の日。  水平線を黒い影が埋め尽くした。  押し寄せてくる船、船、船。  その上空を旋回する幾多の武者。  博多に陣取る、西国の兵の総結集と言って良かろう大軍の、更に倍ほどもいようか。  下人仲間の幾人かは早くも逃げ出し、武士らはそれを咎めるのも忘れて戦慄した。  その中で、彼が仲間と共に逃げなかったのは、無論、勇気を振り絞ったからではない。  戦闘が始まってから混乱に紛れて逃げ出した方が、後々無難であろうと小賢しく計算しただけの事だ。  ――しかし。  その卑しい小知が、彼という人間の運命を決した。  威嚇のつもりか、金物を打ち鳴らしつつ、蒙古なる敵軍は博多へ迫る。  大和軍は陣を固め、息を呑んで待ち受け……  やがて。  それまでとは全く別種の慄きに、血の気を失った。  最初に気付いたのは弓衆の幾人か――特に眼の良い人々だった。  突如絶句し、あるいは掠れた呻き声を上げる彼らに、周囲は訝り。しかし程なく、その理由を知った。  誰もが見た。彼も見た。  船の上で繰り広げられている光景を。  女が並んでいた。  大和人の女だった。  皆一様に、四足獣よろしく尻を突き出していた。  全裸だった。  差し出した尻は、異装の男たちに抱え込まれている。  顔形、風体、仲間と交わす野卑な言語、甲高い笑い。どれをとっても大和人ではない。  異人が、大和の女を姦している。  泣き叫ぶ声に、哄笑を返しながら。  ……蒙古に襲われた島では、男は一人残らず殺され、女は〈攫〉《さら》われたそうな……。  敵にまつわる無数の噂の中にはそんなものもあったと、彼は思い出していた。  女たちは逃げもせず、暴行を受け止めている。  船の中では逃げようとてあるまいが。しかし、それだけではなかった。  彼女らは船に繋がれている。  手の甲に穴を開けられ、そこに通された鎖で繋がれている。  それでは逃げられる筈がなかった。  つまりは家畜と同じ扱いを受けているのだから。  女は皆、若い。  花の盛りか、開き頃か、蕾の頃。  小さな娘が何人もの兵に代わる代わる犯されていた。  兵らは、未熟な性器へ無理矢理に突き込む行為だけを楽しんでいるらしい。  最後は巨躯の兵士だった。  彼はどうしても入れる事ができなかったようだ。  周囲の仲間が下品な嘲笑を浴びせる。  兵士は頬を紅潮させると、その腹いせだろう、悶絶する娘の顔面を容赦なく殴りつけ、潰し、船の〈縁〉《へり》から放り捨てた。  鎖で、娘の亡骸が吊り下げられる。  見れば、そんな〈飾り〉《・・》はどの船にもあった。  ある船では、大槍で串刺しにされた女が舷側にぶら下がっていた。  ある船では、女が〈分解〉《・・》され、それぞれ別個に吊るされていた。  ある船では、まだ生きている女が幾人も。  ……その船の飾りは、他と比べても際立った特徴を持つようであった。  女達は、比較的年嵩。  そして必ず、小さな物体を首に括りつけられている。  物体。そう、物体だ。    物体としか呼びようはない。生命を持たないものは。かつては持っていたのだとしても。  女の発する、音程の狂った慟哭の叫びを聴きながら、船の上で兵士達が笑う。  手を打ち、さも楽しげに。  ――――そんな光景が、  幾つも、  幾つも、  見渡す限り――――  それは最早、人間の所業ではなかった。  断じて違った。  〈こんな事をする者は〉《・・・・・・・・・》、〈もう人間ではない〉《・・・・・・・・》。  彼は知った。  世界の真実を一つ知った。  そう悟ったのは彼だけではなかったろう。  下人仲間も皆、同じ思いを抱いた筈だ。  しかし仲間たちは、絶望にへたり込むか、あるいは狂ったように喚きつつ逃げ出すか、どちらかを選んだ。  彼だけが違った。  彼は絶望しなかった。  敵の武者が空襲を開始する。  その支援下、兵士達が小船に乗り移り、浜辺へ殺到する。  彼はその前へ躍り出た。  誰よりも早く。  ろくに喧嘩をした事もない拳に自前の刀を握り締め、  鎧もなく、薄衣一枚きりの姿で。  無数の毒矢が、恐ろしい音とともに爆裂する怪球が飛び交う戦場の〈直中〉《ただなか》を駆け抜ける。  何も考えてはいなかった。  考えるという事は、必要なかった。  その時の――それからの彼は、ただ一つの意思の塊だった。  彼はただの『彼』として歴史に埋もれる運命を捨て、  大和史上に不朽不滅の名を残す道を辿る事になった。  ……彼は生き延びた。  剣の心得もない彼が重傷を負いながらも命を拾ったのは、まず奇跡的というべきだろう。  下人輩に先を行かせてなるものかと奮起して彼の前へ飛び出した者や、また身分に相応しからぬ彼の行動に感銘を受けて守ってやろうとした者が、武士の中に幾人かいたためであるかもしれない。  戦も、大和の勝利であった。  敵勢の猛攻には苦しめられたものの、よく抗戦してこれを支え――そして訪れた〈台風〉《かみかぜ》が、最終的に海上の軍勢を一息で吹き散らしたからだ。  神仏の加護、天罰覿面と、人々は沸き返った。  彼はそれを否定こそしなかったものの、喜びに同調はしなかった。  神仏は〈遅過ぎる〉《・・・・》。  神風とやらが吹いたのは、戦いの趨勢がほぼ決し、蒙古軍が橋頭堡を捨て船へ撤退した後だった。  そんな頼りない力をあてにしてはいられない。  彼はもう、知っているのだ。この世には悪があるという事を。  それは決して、蒙古軍だけに留まらない事も。  蒙古も人であった。ならば悪鬼は人から生まれる。人在る限り、いつでもどこにでも悪鬼は生じ得るのだ。  彼は戦場を駆けた勢いそのままに、一人、傷もまだ癒えぬ身体を抱えて関東へ戻った。  だが、故郷へは足も向けなかった。  彼は鎌倉へ入り、〈新藤五国光〉《しんとうごくにみつ》の門を叩いた。  当時、関東随一と名高かった劒冑鍛冶である。  ――悪を討つは人の力。  人の力の極峰たる劒冑こそ、求めねばならぬ。  そう確信して、彼は入門を懇請した。  これは、論外の所業である。  劒冑を鍛え上げる業は父祖代々、親から子へ伝えてゆくもの。  〈縁〉《えん》も〈所縁〉《ゆかり》も無い他人に教えるようなものではない。  しかも、業の伝授はごく幼少の頃から行われる。  彼のように成年を過ぎてから修行を開始するなど、およそ前例がない。  更に、彼は普通の〈大和人〉《やまとびと》である。  生来の鍛冶師たる蝦夷ではなく。もし業成って劒冑を造り得ても、その出来は決して蝦夷の作に及ばぬであろう。  当代国光、そしてその親族にして弟子である人々の誰もが訴えを一笑に付し、また世に悪鬼在り、これを討つべしと繰り返す男を狂人と見て恐ろしくも思い、門前払いにしようとした。  それを止めたのは、当代国光の叔父にあたる人物である。  ……鍛冶一門の技術継承は、基本的に親と子の間で行われる。  親は子に技術の全てを伝えた後、己の肉体を劒冑に変える。子はそれを見届ける。  しかしこの形態は、万一伝授に失陥があった場合、取り返しのつかなくなる危険を孕んでいる。  改めて教えを乞おうにも、先代は既に冷たい甲鉄であるからだ。  そのような事態に備え、鍛冶師の子息のうち末弟にあたる者は、劒冑に成らず、一門の教育補佐役として生涯を終えるよう求められるのが通例である。  当代国光の叔父が、つまりそれであった。  泡を吹いて喚き散らす男をじっと観察していた叔父は、いよいよ一同が彼を放り出そうとする段になるやそれを制し、奥へと通した。  そして、告げた。  ――おのれはまさしく天命の〈劒冑鍛冶〉《つるぎうち》である。  これまで幾人もの親族を育て上げ、劒冑として送り出してきたが、おのれをそうするのに彼らの誰よりも短い年月しか必要とはせぬであろう――  国光の叔父は慧眼であった。  劒冑鍛錬とは、己の身魂を異なるモノへと変貌せしめる鍛冶の事。  既に自分の魂の形を知り、目指すべき形をも知る彼は、鍛冶師修行における最も困難な過程をはや終えていたに等しく、後は専門の技術しか必要ではなかった。  ……その日より、僅か数年。  相州五郎入道〝〈正宗〉《マサムネ》〟。  彼の理想は、かく実現した。  破邪の劒冑。  蝦夷の手によらぬ、しかし天下無双の大名甲。  誰もが、その劒冑の美しさを認めた。  誰もが、その美が意味する甲鉄の堅牢さを悟った。  大和人の鍛冶師が、これほどの作甲を成し得るとは。  蝦夷鍛冶は自信を打ち砕かれて絶句し、長年蝦夷の風下に立たされてきた大和鍛冶は大きな希望を抱いた。  彼が仕手を得て、望み通りの活躍を果たしたならば、彼の名と姿形は更に知れ渡り、多くの大和鍛冶が彼に続き――遂には蝦夷と大和人の鍛冶技術の優劣を覆しさえしたかもしれない。  そうならなかったのは、皮肉にも、彼正宗が余りに傑出した出来であった為だった。  正宗は打ち上げられて間もなく時の将軍に献上され、やがて帝の上覧に与り、それから後も最高権力者の間を行き来した。  だが、一度たりと装甲される事はなかった。  不可侵性すら感じさせる佇まいを見た歴代の所有者達は、感嘆すると共に畏れを抱き、実用の武具とするよりも神宝として秘めおくことを選んだのである。  悪を討つべくして劒冑となった彼には、全く心外の成り行きであった。  彼は宝物庫の奥へ秘蔵されつつも伝説の名甲として後世に名を遺したが、そんなことには何の意味もない。  彼は自分と志を同じくする仕手に出会い、戦いの旅に出なくてはならなかったのである。  その望みは果たされることなく、時ばかりが過ぎた。  五郎正宗は戦国時代に至って織田信長の手に渡った後、本能寺の変を境に表舞台から消え、その後は密かに人手から人手へと渡り、最後はとある山村で厄災を鎮めるための祭具とされて眠りにつく。  ――この世の悪を討たねばならぬ。  ――我が刃で断ち切らねばならぬ。  意に沿わぬ惰眠の中、彼は聞く者とていない絶叫を発し続けた。    しかし――――そうして数百年。  彼の忍耐は遂に報われる。  彼は解放され、待望の主に巡り会ったのである。 «七百年……  余りにも長い無為の日々であった» «しかし今こそ、〈吾〉《われ》は仕手と共にある。  参ろうぞ、御堂!» «今の世にも蒙古は跋扈しておるに相違ない。  正宗の刃にて、斬り滅ぼさん!»  一条は知っている。  正宗の遭遇した事件が元寇と呼ばれる戦争であると知っている。  それは、善と悪の対決などでは決してない。  政治的、経済的な問題に端を発するありふれた国家間戦争に過ぎない。  ……しかし、だからどうだというのか?  正宗とてもそんな事は知っている。  元寇は彼にとって契機に過ぎなかった。  その戦争で初めて、彼は知った。  この世の悪の存在を知った。  悪の許すべからざるを知った。  ――そうだ。  悪を許してはならない。  悪は、魂に懸けて憎悪せねばならない。 «〈征〉《ゆ》こうぞ、御堂!»  征く。  この世の悪と、戦うために。 「……嘘だ」 「くへ……」 「嘘だ、嘘だ、嘘だ……ッ!  あの人が罪のない人間まで殺して回ってるだと!?」 「てめえよくも、そんないい加減な事を――」 「訊いてみりゃあ、いいんですよ」 「何ぃ?」 「本人に訊けばいいんですよ……嬢。  あいつぁきっと、嘘は言わない……」 「嬢のようなお人に、面と向かって訊かれちまったら……多分、ねぇ。  正直に答えてくれますよ……」 「…………」 「へ、へっ……  ヘェヘヘヘヘヘヘヘヘヘ……!」  死に化粧までは望まぬものの。  せめて、唇を拭っておこう――    そう思ったのにどうしてか、うまくいかなかった。  見れば何のことはない。  右腕は既に、消失していた。 「……まったく、もう」  口元の血を拭えぬまま、更に一筋を加えて。  進駐軍大尉は呟いた。 「これは……ないのではなくて?」  自嘲にもならない愚痴。  怨嗟にもならない苦笑。  〈目的〉《・・》は達した。  しかし、何の意味もなかった――こんな運命が待ち受けていたのでは。  悲劇に徒労というスパイスを効かせれば喜劇になる。  ……笑うしかない。力なく。  何者かが、それに応えたようだった。    ――なに。  そろそろ本腰を入れて〈始める〉《・・・》のでな。一つ景気良くやってみようと思ったのだ。    とはいえ、どうも〈これ〉《・・》は雅趣に欠ける。  これは、ひとまず封じておくか――  それが幻聴でなかったなら、さまでに人を玩弄した物言いもなかったろう。  何故ならそこには、玩弄するという意思さえ〈無い〉《・・》のだ。  春の嵐が桜を吹き散らすように。  ただ、事もなげな振舞いで人間を踏み砕く。  悪神であった。  最後に……ありったけの憎悪を微笑して。  大鳥香奈枝は、絶命した。            〝元帥、薨去〟 〝本日六時、幕府申次衆より、正三位六衛大将領足利護氏殿下の薨去が発表された〟 〝薨去の日時、また死因等について、説明は一切ない。  普陀楽城本丸には護氏殿下の御嫡孫であらせられる四郎邦氏殿下が入られ、政務を代行される予定であるとの伝達があったのみである〟 〝混乱の渦中にある各界では、京都の陰謀、進駐軍の暗躍、岡部の残党による復仇等々、様々な風説が飛び交い、また先日の奉刀参拝以来の八幡宮封鎖との関連も取り沙汰されているが〟 〝どの説も根拠というほどのものはなく、憶測の域を出ていない〟 〝ただ消息筋の情報によれば大将領殿下の健常は全く疑うべくもなかったとのことであり、これが正しいとすると病死とは考えられず、薨去にはやはり人為的な何事かが関与したものとみられる〟 〝また、この発表を受けた進駐軍総司令部では――〟 「…………」  紙の感触からして安っぽい三流大衆紙を卓上に投げ出し、一つ息をつく。  胸中の困惑を全部吐き出したつもりだったが、わだかまりはまるで消えなかった。  ――足利護氏、〈薨去〉《し》す。  六波羅の暴君が果てたのだ。  何物がその命脈を断ったのかは謎であるにしても、その死はもはや明らかな事実。  鎌倉大番の存在さえ無かったなら、市井が祭り騒ぎに満ち溢れてもおかしくはないところだ。  実際、家の中で密かに快哉を叫んでいる人は少なくなかろう。  しかし、仮に幕府の眼が光っていなかったとしても、果たして快哉は家の内から町中へと拡大して時ならぬ祝祭を本当に招き得たであろうか。  そこまで誰もが能天気になれるだろうか?  足利護氏は言うなれば、国家という箱の蓋を押さえつける〈重石〉《おもし》であった。  箱の中のものにしてみれば、重苦しくてかなわない。  が、いざ無くなってみると不安に駆られる。  今や蓋はほんのそよ風で吹き飛んでしまい、冷たい外気がすぐにも襲ってくるのではないかと……薄寒いものを禁じ得ない。  喜ぶに喜べないというのが、多くの市民の心情ではなかろうか。    尤も、俺の内心はまた少し風向きが違う。  ……ごく近い過去の記憶が、脳裏に再現される。  突然の大事変と、それは無関係とは考え難かった。 「やぁ、よう来てくれたね景明くん。  この間はご苦労さん。署長から聞いてるえ。またえらい迷惑掛けてもうたねえ」 「はっ。  身に余る御言葉なれど、先日の件は宮殿下の御忠告を無下にせしこの身が自ら招いた事。どうか御気遣いは無用に願います」 「しかも、肝心なる銀星号はまたしても取り逃がし、未だ跳梁を許している始末。  面目次第もございません」 「ま、そう言わんで。  六波羅の危険な兵器はぶっ壊した、GHQの陰謀の裏も取れた。それで景明くんも無事に帰ってきた」 「なら、良しとしとこうやないか」 「……はっ」  御簾の奥からの宥め声に、一礼を返す。  八幡宮別当、〈舞殿宮春煕親王〉《まいどののみやはるひろしんのう》と対面するのもこれで三度目。やんごとない身分には相応しからぬ気さくな物言いにも、流石に戸惑うことはなくなっていた。  江ノ島の一件から〈早〉《はや》一週間余りが経つ。  負傷と疲労もほぼ癒え――〈青江〉《ニッカリ》の襲来のお陰でやや後退はしたが――宮に対して礼を尽くすに障りはない。  それが懸案だったという事もなかろうが、俺の様子に注意深い視線を注いでいた署長はその目を外すと、親王の御座に向き直った。  伺う風で、一声を掛ける。 「……殿下」 「うん……」 「景明くんな」 「はい」 「今日来てもろたんは、今後の事をちょっと話したくてな。  ……〈近〉《ちこ》う」 「は」  膝行して、心持ち前へ出る。 「もそっと」 「は……」  命じられるまま、更に傍へ。  御簾の脇に控えた署長と、膝を触れ合わさんばかりになる。  何事だろうか。  今後についてということだが……俺に関する限り、これまでと何も変わらない。 〝卵〟は少なくともあと一個――我が村正から奪った力を封じたものが――存在する。  何よりその母体、銀星号が健在である。  この二つを撃破せねばならない。  そうしてようやく、俺は戦いを終え……只の犯罪者として裁かれることが叶う。  あと二騎。  あと二騎――――と、その影で〈もう二人〉《・・・・》。  二人の〈悪〉《てき》と、  二人の〈善〉《みかた》を。  ……俺は、殺さなくてはならない。 「……っ」 「景明?」 「……申し訳ありません。  少し……疲れが」 「疲れが……」 「そらあかん。少し休むとええ。  話は急ぎなんやけど、一分一秒を争うってもんでもないしね」 「な、署長」 「は……」 「いえ。  どうか、お気遣いなきよう」  奥歯を噛んで、両眼を見開く。  有り得ぬ醜態を晒した己を、渾身の悪意で侮蔑する。  ……疲れ?  馬鹿な。そんな〈愉しみ〉《・・・》に浸っていられる身か。  この手で、疲れさえ味わえない境涯へと叩き落した人々に、何と詫びる。  如何なる厚顔さをもって、そんな弱音を口にできたのか。  信じ難くも情けない。  ……だが、つまりはそれだけ、〈がた〉《・・》が来てしまっているという事なのか。  虚勢を張るのも限界という事なのか……      ――――気付けばまた、甘い考えを弄んでいる。 「申し訳ありません。見苦しい振舞いを御目に掛けました。  どうぞ、御話の続きを」 「ええんか……?」  親王の小声には躊躇いがあったが、言った通り急ぎであるからなのだろう。すぐ、思い切るような頷きの気配が続いた。  そして、ずず、と衣擦れの音。  御簾の向こうで、親王もこちらへ近寄ったらしい。 「景明くん」 「はっ」 「わしはな……このまま大和を六波羅の好きにさせておきたくない。  進駐軍、つまるとこ〈大英連邦〉《ブリテン》の属国なんてのもまっぴら御免や思うてる」 「……は」 「本当はもっと穏やかに〈こと〉《・・》を進めたかった」 「……」 「けどどうやら、そうも言うてられん……。  GHQがあんな乱暴な手まで打ってきてるようじゃねえ……」  六波羅の悪政を黙過し、更には雪車町一蔵のような工作員を駆使して「大和武者の暴行」を仕組み。対比的に進駐軍を英雄化する。  確かに、乱暴といえばこれほど乱暴なやり口もない。 「それで、な。  こっちも、ひとつ思い切った手を打とうか……そう考えてるんよ」 「……」 「大和を巡る抗争を将棋に例えるなら、その盤を引っくり返してしまいかねない危険な手だ。正直、懸念は拭えない。  だが……情勢は差し迫っている。おそらく」 「……我々が期待するほどの時間は与えられないだろう。にも拘わらずただ座視するなら、それは大和の未来を〈擲〉《なげう》つことを意味する……。  いや、切り開かねばならん。生存の道は」 「……署長……」  呟きの音量で、呼ぶ。  それは先を促す為だったのか、制止の為だったのか、自分でも判じかねた。  なにやら迂回している署長の言葉が、最終的に何処へ行き着くのか、悟らずに済むほど俺も鈍感ではいられなかった。 「敵の勢力は強大を極める。  対するに、我々は弱小そのものだ」 「だが……戦いようはある」 「常套手段ですか」 「ああ。  〈常套手段〉《・・・・》だ」  〈弱小勢力の常套手段〉《テロリズム》。  警察職にある人間として決して認められぬであろうその行為を、しかし署長は黙示した。 「……そこまで追い詰められていると……」 「〈本当に〉《・・・》追い詰められるまでもう時間がない、という意味だがな」  死刑判決を下されてしまえばそれで最後。執行まで何年あろうともはや死の運命は覆せない、という事か。  ……否定はできなかった。 「標的は……」 「……」 「進駐軍である筈がない。  仮に首尾よく進駐軍の首脳を壊滅させられたとしても、代わりの将校団が国連本部から派遣されてくるだけの事」 「むしろ、進駐軍を慌てさせ、急進的行動に駆り立てる……完全な逆効果。  であれば」  親王も署長も、何も言ってはこない。  しかし、その沈黙――否定しないという事実こそが返答であろう。 「……狙うはもう一方」 「……」 「〈玉〉《ギョク》を?」 「そうなるねえ」 「それで、大和は救われましょうか」 「玉を取ったら勝ちってわけにはいかんけど。現実は将棋と違うしねえ。  ただ、流れは大きう変わるえ」 「……」 「景明。  鎌倉幕府以来の政治的伝統を知っているだろう」 「……権威と権力の分離ですか?」 「そうだ。  鎌倉幕府は大和全土に支配権を樹立するにあたって、旧来の支配者、つまり朝廷を攻め滅ぼすという手法は取らなかった」 「他国ならそうしていて当然だったのだがな。  過去において藤原政権や平氏政権の前例があり、その形を継承することが誰もに望まれたのだろう……」 「だが藤原氏や平氏が朝廷権力と密着したのに対して、源氏は朝廷から距離を取った。  朝廷は京都に据え置いたまま、東の鎌倉に新たな都を造った。政権と朝廷を分離した」 「自らの政権を朝廷に承認させる形式をとる事で、朝廷の権威を保障しつつそれを支配の大義名分に利用し……  その一方、朝廷の政治介入は排したのだ」 「この〈良い所取り〉《・・・・・》の手法は以後も延々と継承されている。  ごく短期の例外的な時代を除いて、現在に至るまで」 「六波羅でさえこの伝統は破れなかった。  権威と権力の二重構造は既に大和に根付いている。これを無理矢理に覆すより、利用した方が遥かに利益は大きいからだ……」 「……」  教科書的な解説である。  だが勿論、歴史教師の真似事をするところに署長の目的があるわけではないだろう。 「……鍵はそこにある。  つまり大和の政権は、支配力を確立するにあたって必ず朝廷の支持を必要とするのだ」 「既に支配を確立〈した〉《・・》政権にとって、朝廷は用の済んだ神輿に過ぎない。  後は他の者に利用されないよう、静かに蔵の中へ納まってくれていればそれでいい」 「だが、これから支配を確立〈する〉《・・》政権は神輿を蔵へ眠らせておくわけにはいかん。  神輿を担ぎ出して練り歩き、その威光で、人々の頭を下げさせなくてはならない」 「……。  もし、その神輿に意思があり、何かしらの欲求もあるならば――」 「そうだ。  神輿に頼りたい者としては、聞く耳持たずともゆくまい?」 「……その為の玉取り……」 「今、六波羅の支配は確固たる。  だが、その支配の頂点を失わせしめたなら……」 「六波羅幕府は足利護氏という傑物の豪腕でまとめられている面が強い。  何者が後継者として立つにしろ、前代ほどの腕力を発揮するには時間が掛かる」 「となれば当然、取りこぼすものも多くあるだろうな」  大将領足利護氏がいなくなれば、六波羅の支配体制には亀裂が入る。  四公方を中心とした派閥が表面化し、対立を始める事になろう。  ――その対立に付け込む。  いずれかの派閥に接近し、舞殿宮の存在が象徴する朝廷権威を利用〈させる〉《・・・》。  そして見返りに政治的発言力を獲得する。  要はそういう展望か……。 「しかし、幕府の動揺をGHQが見過ごすでしょうか」 「見過ごしてはくれんやろう。  けど、最悪の事態にはそうそうならんえ」  六波羅幕府の動揺を好機ととらえ、進駐軍が攻撃を仕掛ける――  それは無いと、親王は請け合った。 「元々、進駐軍は幕府が怖くて手を控えてるわけやないし。  占領した後で国民の反発を買わんように、色々工作して機会を計ってるんやろう?」 「はい」 「てことは、『悪くて強い幕府』のイメージがグラついたら、GHQの作戦は後退する。  弱い幕府を潰してもろても国民に有難がる義理はないからねえ」 「……成程。  GHQが動き出すとすれば、幕府の動揺が収まり再び苛烈な圧政を開始した場合か、」 「もしくは対立が衝突になり、内戦の勃発に至った場合だな。  そうなってはもはや大和国民は進駐軍の力による安定を望むほかなくなるだろう」 「当然、GHQはそのようにすべく策動するでしょう」 「難儀な戦いになるな。  けどま、勝算はある……」 「『悪の六波羅』のイメージを護氏と一緒に捨てさせて、もうすこし緩やかな統治をする幕府に造り替えさせる。  税を下げて、軍も縮小してね」 「新しい幕府を国民が受け入れたら、こっちの勝ちえ。  進駐軍の出る幕は〈無〉《の》うなるわ」 「…………」  言うほど簡単な事だとはとても思えない。  が、親王はそれを承知の上で勝算有りと言っているのだろう。  親王の政治力は未知数だが、少なくとも思考能力は明晰であり、また鎌倉における皇族代表という複雑な役割を大過なくこなしてきた実績もある。  俺ごときが敢えて口にすべき苦言は無かった。  疑問を差し挟むべき点は別にあった。 「……しかし。  足利護氏という玉を取る、そんな詰み筋があるものでしょうか」 「矢倉囲いの敵陣にと金一枚で切り込むようなものか」 「はい」  相手は大和武家の棟梁。  百万騎を号する軍兵の頂点に立つ男なのだ。  三六五日、普陀楽城の天守閣で軍勢に十重二十重と囲まれて過ごしているわけでもなかろうが……。  何処へ行く時でも、厩衆や奉公衆と呼ばれる精鋭の親衛隊が傍らに付くという。  〈生半〉《なまなか》な事で首級を挙げられるとは考えにくい。 「その詰み筋が開くんよ。  近々行われる奉刀参拝は知ってるやろ」 「は……。  源氏の長が八幡宮に参詣し、今年一年間の武運を感謝すると共に来年の武運を祈念するため、太刀を奉納する儀礼であるとか」  衆人環視の中大々的に行われるような類の祭儀ではないので、俺はそれ以上の事を知らないし、無論見たこともない。  それなりに重要な行事なのだろうとは想像がつくが。 「そう。  でな、奉納する刀は二〈口〉《ふり》」 「地上と地下に、一口ずつ」 「……地下?」 「八幡宮の祭殿は二つあるんえ。初めて聞くやろう。  表の祭殿の奥にある裏参道を潜ってくとね、かなーり深いとこにもう一つ」 「こいつは秘中の秘やけど。  よそで言うたらあかんえ」  ……城砦構造か。  社寺は土地の人々にとって心の拠り所。  そのため古くは、兵難のおり城に代わる拠点として働けるよう、防衛設備が整えられる事もあったと云う。  日光東照宮などはその最たる例であろう。  陽明門で名高いかの社は、徳川家が窮地に落ち江戸城退転となった場合に備える最終拠点でもあったのだと、一説に伝えられている。  東照宮が徳川一門の守り神であったように、八幡宮は源氏の氏神。  古今東西の城砦に定番の地下構造を擁していても、驚くべきではないのかもしれない。 「で、な。  地下の祭殿への奉刀は、〈源氏長者〉《もりうじ》と介添えの神官だけで行わなあかん」 「……それは」  余りに都合が良すぎないか。 「八幡太郎義家が〈源氏長者〉《げんじのちょうじゃ》名代として最初の奉刀を執り行って以来の伝統や。  不都合があるいうても、おいそれと変えられるもんやない」 「……」 「言いたい事はわかる。  そんな露骨な好機を、向こうが警戒しないわけがないと云うのだろう」 「それもありますが……」 「無論、警戒はしている。  これまでも大将領は慣例通り単身の奉刀を行っているが、決して無防備ではなかった」 「八幡宮内は元より周辺一帯に直属の武者衆による警備網を敷き、不審なものは犬猫一匹通さぬ厳戒の中で儀式を済ませている。  しかも、大将領自身も劒冑を離さない……」 「儀式の前に当然祭殿の中は徹底調査されるから、予め刺客を潜ませとくのも無理。  どうにかこうにかうまく誤魔化したとしても、武者の護氏を仕留められるのは武者だけ」 「鎌倉に六波羅と敵対する武者なんておらんから、結局のとこどうにもならん。  ……とま、こういうことなんやけど。今のわしらなら、どっちもどうにかなってまう」 「刺客を送り込むのは簡単やね。介添え人を装わせればええ話や。  んで、武者の護氏は……〈同じ武者〉《・・・・》で倒せる。いるはずのない、八幡宮の武者でな」 「…………」 「事が成功裡に終わった後は、地下祭殿から飛び出して一息に市外まで逃散する。  これは不意を打てば可能だろう」 「警備の兵は、大将領の遺体と……  何者かに襲われて気絶し装束を奪われた、〈本物の〉《・・・》介添え人を発見することしかできない」 「残る問題は……  偽の介添え人にどうやって劒冑を隠し持たせるか、そのくらいやねえ」 「……では、その後の事を」 「どのように取り繕おうとも、八幡宮で足利護氏が討たれたなら、その容疑はまず宮殿下に掛かります。  問答無用の報復を受ける恐れもあるかと」  朝廷に弓引くは、大和の者にとって最大の罪の一つ。  そう安易には決断できまいが……しかし六波羅なら、やらぬとは言い切れない。 「そこはまぁ、平気やろ。  六波羅がアリバイを用意してくれるしねえ」 「……?」 「宮殿下から刺客を送られても、六波羅には報復を加える力がある。  しかし、そんな潰し合いをしたところで、幕府が得るものは何もない」 「未然に防げればそれに越した事はないのだ。  ……だから奉刀参拝の間は宮殿下を人質に取る」 「人質?」 「奉刀参拝の当日、わしは普陀楽に置いとかれるんよ。  京都の朝廷が寄越してくる奉幣使の接待っちゅう名目で」 「……八幡宮別当であられる宮殿下と奉幣使が、祭礼に参加しないのですか?」 「そう。  どちらも代理の者を派遣する」 「わしは参拝が終わるまで奉幣使さんと二人、普陀楽城で茶ぁ飲んでないとあかん。  周りを兵隊にびっしり囲まれてな……」 「つまらんことしたらすぐにその首落とす、ってみんな眼で言うてるんえ。  おお、恐ぁ」 「………………。  いや、それは。つまり」 「暗殺などすれば最後、宮殿下の御身が忽ち危うくなるという事では?」  確かに、アリバイ的な効果もあるだろうが……。 「ところが、そうは限らん……。  そこが〈政治〉《まつりごと》の妙なとこやけど」 「大将領護氏が健在な間の宮殿下と、失われた後の宮殿下とでは、意味が異なる。  護氏の失墜は、六波羅の権能の動揺を意味せずにはおかないからだ」 「暗殺に八幡宮側が関与した確固たる証拠でもあれば別だが……  それ無しに宮殿下の粛清など行えば、動揺は致命的なまでに加速するだろう」 「その程度の計算もできぬ者が、護氏亡き後の権力を握る四公方の中にいるとは思えん」  …………つまり。  六波羅は親王の不穏な挙を掣肘するべく人質に取る。が、親王が実際に行動を起こし、成功してしまったら、簡単には始末できなくなる――という事か。 「…………」 「全くもって、妙な話です」 「歯に衣着せんでもええよ。  アホみたいな話やて思うてるやろ?」 「……は……」 「実際、アホな話や。  このアホ臭さに六波羅が気付いてないとも思えんけど」 「結局、驕りがあるってことなんやろなァ。  わしみたいな間抜けにどうかされるわけがないって思うてるから、手の打ちようも甘くなるんや……」 「ほほ」 「……」  だとすれば。  六波羅にその驕りを植えつけたのは――他ならぬ、 「景明?」 「いえ」  ……ふと、底なしの沼を覗き見た心地がした。  首筋の湿りを拭う。  政治の世界の在り様は、俺などの理解を超える。  これ以上、追及するべきではなさそうだった。 「くだくだしぃ話になってもうたなぁ。  ま、いわんとするとこはわかって貰えたと思う」 「……はっ」 「決断の時や」 「……」 「大和の歴史の流れを変えるために……決断する時が来たんや。景明くん。  今しかない……今、動かないとならん」 「…………」 「……景明」 「どやろ……?」  今まで、敢えて考えることを避けてきた問題。  だが最早、直面するしかなかった。  〈誰がそれを実行するのか〉《・・・・・・・・・・・》。  ……わかりきっている。  忌々しいまでに。  首謀者と共謀者以外に、こんな話を打ち明けられる者がいるなら、それは実行犯でしか有り得ない。  そしてこの二人が、権謀術数についての意見をわざわざ俺などに求める筈はなかった。  いま問われているのは俺の意見ではなく。  俺の、意思だ。  ――足利護氏をこの手で殺せるか否か。 「……っ……」  膝の上へ置いた手が、小刻みに震えている。  無様にも。だが、いかに抑えようとしてみても思いのままにならない。  殺人の考えを弄ぶ限り、この震えは止めようが無い。  ……理解は可能だ。  納得もできる。  元帥大将の死は歴史の〈転回点〉《ターニングポイント》になり得るだろう。  親王の舵取りよろしきを得れば、大和の「良き未来」へ繋がりもするだろう。  一方、手をつかねて事態の推移をひた見守るばかりであれば……  GHQが大和の完全占領を成し遂げるか、あるいは六波羅がその駆逐に成功し専制支配を磐石にするか。  どちらにしても、余り心楽しい未来図ではない。  今が機だと云う、親王の考えはわかる。  おそらく――正しい。  大和国の、〈比較的幸福〉《・・・・・》をもって正とするなら、親王がきっと正しい。  そう認めることは、できるのだ。  だが。 (殺すのか……)  銀星号とは何の関係も無いところで。  勝手に〈命の価値を計り〉《・・・・・・・》。  一人の人間を、要らぬ、と決めつけ。  殺し。  ――そして更にもう一人、殺す。 「……」 「……」  返答を急かす様子が無いのは有難かった。  それはおそらく、二人ともが、俺にやらせようとしている事の意味を痛感しているからだろう。  この身は呪われし村正。  敵を斬り、返す刃で友をも斬る。  護氏を斬れば、あと一人誰かを斬らねばならない。  誰か……  俺が今、最も――〈善〉《よ》し、と思う者。  その存在を肯定する者。  それは、  誰か。 「……ッッ」 「景明……」 「お許しを」 「どうか……  この儀ばかりは!」 「……」 「…………」  結局、俺は引き受けることができなかった。  銀星号に〈纏〉《まつ》わる殺戮だけで限界だった。  大和の未来の為に戦い殺すなど、俺の器量を超えていた。  恩ある親王の期待に背くのは心苦しい。だが仕様もない。  幸い、親王も署長も強いて命じようとはしなかった。  念を押して口止めするようなこともなく――そんなのは当たり前だ――無言で頷いたきり、俺が退出するに任せてくれた。  だから、俺の仕業ではない。断じて。わざわざ記憶を反芻して確認するまでもない事だが。  足利護氏を死に至らしめた者は別にいる。  自然死ではなく、刺客の手が存在したなら……    やはりその奥に、舞殿宮の影を疑わずにはおれない。  しかし、誰が俺に代わって刃の役を務め上げたのか。  誰か……いただろうか? 親王の側に、足利護氏を仕留め得るような者が。  心当たりはないが……。 「…………」 (真逆……?) 「ああ……やっと落ち着いたえ。  ほんと、肩凝ったわ」 「お疲れ様で御座いました」 「おまさんもな。  しゃあけど建朝寺か……ここも足利の膝元って意味じゃあんまり変わらんねえ」 「普陀楽城内にいつまでも留め置かれるよりは、まだしも……でしょう」 「そらね……。  まぁ、そんなこたええわ」 「早速本題やけど。  ……どう思う?」 「……」 「香奈枝さんがうまくやってくれたんやろか……?」 「それにしては、あれきり私の元にも連絡が全く無いというのは不審です。  GHQへの探りも入れてみましたが……」 「どうやった?」 「……行方不明。失踪と見做し、大鳥大尉の足取りを追っているようです。  つまりこちらと同じですが……向こうでは、こちらの関与を疑っています」 「……そら、そやろな。  八幡宮付やったわけやし」 「しゃあけど、そうなると……  どういうことやろう?」 「現状では……  大尉も護氏も、〈八幡宮ごと消えた〉《・・・・・・・・》、としか」 「考えられんか」 「はい……」 「まさか、景明くんが……」 「いえ。それはありません。  既に確認を取りました。奉刀参拝の当日、景明は私の役宅から出ておりません」 「……じゃあ。  どういうことやろう?」 「……」 「現状では……  足利護氏が〈八幡宮もろとも消えた〉《・・・・・・・・・・》、という事実以外に」 「何にも言えんか」 「はい……」 「八幡宮が消えたいうんは?」 「相変わらず工事用の〈帷幕〉《カーテン》が張り巡らされており、外からは様子を窺えません。  警備体制も依然として厳しいままです」 「ですが昨晩、どうにか配下の者を忍び込ませるのに成功しました。  ……無かったそうです」 「無かった……」 「はい。  何も……」 「八幡宮が、根こそぎ?」 「は。  近隣の土地も含めて」 「……」 「……」 「何やっちゅうねん……」 「わかりません。  些か、事態が突飛過ぎ……」 「程があるえ。  どんな怪奇現象や」 「……今は、宮殿下。  それよりも今後の事を」 「何はともあれ、大将領は姿を消しました」 「うん……」 「事態の謎は謎として、むろん調査せぬわけには参りませんが……そればかりにかまけていては時勢に乗り遅れます。  今は、当初の予定通りに行動を起こさねば」 「……そやな。  こっちの思い通りには動いてるんや」 「手を打ってかんとあかんな」 「は」 「幕府中枢のガタガタっぷりは予想以上の事になってるえぇ。  頭が一つから四つに増えた途端、何をするにもいちいち揉めるようになったらしうてな」 「わしの〈仮御所〉《けんちょうじ》行きがこんな遅れたのもそのせいや。  いつまでも城内に置いといたって仕方ないのは、あいつらみんなわかってたのにな」 「なるほど……。  邦氏殿下は?」 「若過ぎるわ。一応、近いうちに大将領位を継がはる御方と奉られてはいるけどな。  〈あの四人〉《・・・・》をまとめて言うこと聞かせるのは、なんぼなんでも、荷が重いわ」 「……。  同情したくなります」 「ほんとにな……」 「四公方の中で、誰かが突出する気配は?」 「や、それがねえ。  うまい具合に〈力の均衡〉《パワーバランス》が取れてるんよ」 「まず最年長で政戦両面の実績は抜群の古河公方、遊佐童心やろ。  んで、護氏の息子で邦氏の叔父になる足利宗家出身の小弓公方、今川雷蝶がおって」 「堀越公方、足利茶々丸は経済的に。  篠川公方、大鳥獅子吼は軍事的に、四人の中で最大の力を持ってる……」 「どや?  見事なもんやないか」 「……確かに。  これは護氏の遺産でしょうな」 「ああ。まったくうまいことやってたもんや。  お陰で今、あいつらは苦労してるえ」 「護氏には都合が良かったんやろけどな……四公方の力が拮抗してるってのは。  今、それで都合が良いのはこっちや」 「……既に、目算が?」 「うん。  実はもう、当たりをつけてあってな」 「……お早い」 「ただ、なぁ……。  策の幅を広げるには、やっぱ力が欲しいわ」 「別に軍隊を寄越せとは言わん。  いざっていう時にあてにできる武者が一騎、おるだけでだいぶ話が変わるんやけど……」 「…………」 「景明くん、手伝ってくれんかなぁ」 「……申し訳御座いません。  宮殿下、どうかあの者につきましては」 「銀星号で、いっぱいいっぱいか」 「は……」 「……そやねえ。  景明くんには、そっちに集中してもらお」 「誰か、他に……  おらんわなぁ」 「無いものねだりはみっともないけど……  なんとかならんかな? 署長」 「……」 「ならんわなぁ」 「……一人。  心当たりが、なくもなく」 「え?  ……ほんとに?」 「は。  護氏暗殺のような仕事に使えるとも思えぬ者なので、あの折は敢えて申し上げませなんだが……」 「今後の件に関してなら、話の持ち掛けようであるいは」 「だ、誰や誰や?  勿体ぶらんと、早う!」 「はっ……」 「スーパーサイクロンでどーだ?」 「嫌よ、そんなの。  究極美麗でいいじゃない」 「何ですかその下品の極地。  じゃー、マッスルストロングとか」 「どうもいまいちねぇ。  ……金剛大華輪」 「うわ、ありえねー。  せめてダイアモンドファイヤーにしない?」 「うーん……」 「……童心殿。  これは何の討議だ?」 「いや、何でござろうか……  それがしにもよく」 「んー?  あぁ、新しい名前だよ」 「名前?」 「うん。  今回、なんでか知らんけど〈大将領〉《おじじ》を失ってしまったあてら六波羅であるわけだーが」 「まぁ、それはそれとしておいて。  いい機会だし、新しい方向性を打ち出してみるのもいーんでないかなと」 「……それで?」 「まずは形からってことで名前から。  ……あ、ゴールドサンダー幕府とかどうよ」 「悪くないわね!」 「貴様らの頭が限りなく悪いわ!!」 「まぁまぁ。  いや、ご両所……それも結構でござるが、ひとまず目先の要件から片付けようではござらんか」 「なんかあったっけ?」 「……有り過ぎるわ。  貴様、この状況がわかっているのか?」 「たぶん。  おじじが死んで、幕府崩壊の危機ー」 「あれ?  なんか大変っぽい?」 「うむ。なかなか、大変でござるぞ。  ふわっはっはっはっはっはっはっ」 「今更気付くな!  童心殿も、他人事のように笑っている場合か」 「冗談だっつーの。真に受けんなよ。  で? 雷蝶。あれどーなったのさ。八幡宮事件の調査」 「……進展はないわね。  何もかも闇の中。一体、何があったのやら」 「ふん……まあいい。  殿下が亡くなられたのは最早疑えぬ事実だろう。事態の詳細など、それに比すれば些細な事だ」 「そうさな。  その事実にどう対応するかを今は考えねばならぬて」 「ええ……  まずは盛大な国葬を執り行ないましょう。天下を征されたお父様の葬儀ですもの。朝廷に掛け合って皇族の出席も仰がないと……」 「戯け。  そんな事はどうでも良い」 「どうでもいいわけないでしょ!  お父様の弔いなのよ!?」 「だから?  たかが死体を焼いて埋めるだけの事だろうが。いや……その手間さえいらんではないか」 「死体ねーもんなー」 「こ、こっ、この不敬者!  お父様に忠誠を誓った口で、よくもそんな事を……!」 「俺が忠誠を誓ったのは生ける大将領殿下だ。  死せる殿下ではない」 「そんな何の役にも立たぬ代物に構っていられるか。  今は危急の時だ」 「や、役に立たぬ代物……?  あんた……そこまでっ」 「まぁ、ま。  雷蝶殿……」 「童心様っ! 今のを聞きましたでしょう!?  礼節を知らない〈陪臣〉《またもの》上がりの戯言と、聞き流しておくにも限度があります!」 「お父様がいなくなったのをいい事に、下劣な〈性〉《さが》を剥き出しにして……!  元より性根はそんなものとわかっていたけれど、いざ見せられればやっぱり許せないわ」 「ふん。好きにほざけ。  貴様如きが俺の性をどう測ろうと、興味はない」 「俺は己の為すべきを為すだけだ。  妨げる者は駆逐する。雷蝶、貴様がほざく以上の事をしようというなら、最初に槍玉に上げるべきはそのけばけばしい首になるな」 「……ッッ」 「もっとも……そんな心配はしていないが。  なぁ、〈なぜか〉《・・・》殿下の後継者になれなかった次男坊。貴様にもし度胸の欠片もあったなら、そんな立場に甘んじてはいなかったろうな?」 「雷蝶殿」 「……」 「ここは殿中ゆえ。  鯉口三寸抜かば、即ち謀叛でござる」 「ぐっ……」 「無論、獅子吼殿……  殊更に挑発の言を弄し、かような愚行へと追いやった貴殿も糾問は免れぬぞ」 「……チ」 「双方、お座りあれい。  ……己の立場というものを今一度思い出されては如何かな」 「……」 「……」 「結構でござる。  では評議を続けると致そう」 「やー、なんかおじじの苦労が偲ばれるね。  よくこんな連中をまとめてたもんだ。いなくなって初めてわかる人間の真価」 「突き上げる追悼の思いに胸を塞がれた足利茶々丸は、激情のままカステラを貪り食う事で涙に代えるのであった」 「代えるなよ……」 「……さて。  殿下の葬儀は無論、大事でござる。六波羅一門の面目にも関わることであれば」 「それは否定せぬが――」 「ふん! お黙り、成り上がり者。  流石は童心入道様、こんな輩とは違って物の道理というものを良くわかってらっしゃいます」 「ま、ま。雷蝶殿。  話は最後までお聞き願いたい」 「……確かに葬儀は大事。  しかし、大事の中にも軽重がござる。順序と言い換えてもようござるが」 「順序?」 「お考え頂きたい。  現状で莫大な費用と人員を投じねばならぬ国葬など執り行えば、さて、いかが相成るでござろう」 「遺憾ながら、いま幕府の足元は揺れており申す。……その揺れを、大敵GHQ、そして各地に潜伏する倒幕主義者どもが虎視眈々と窺っておることは疑いもなき事」 「でも、だからといって……!」 「無論、無論。雷蝶殿のご心痛はわかり申す。父君の葬礼を後回しにせねばならぬなど、子として立つ瀬の無い想いでござろう!  しかし真実、殿の御霊安からんを思えば」 「ここはまず、幕府の緩んだ〈箍〉《たが》を締め直し、邦氏公のもと体制を再建してこそ、草葉の陰で殿もご安堵なさるのではあるまいか……。  如何かな」 「……」 「今はとにかく、朝廷を動かし、邦氏公への大将領宣下を急がせては……?  然る後、新たな大将領の名をもって、国葬を執り行えばよろしゅうござろう」 「あい。異議なーし」 「それが当然の筋書きだな。  馬鹿でなければ誰もがそう考えるだろう」 「うぐ……」 「雷蝶殿」 「……い……異存はありません。  確かに……その方が無難でしょうから」 「少し気が急いていたようです。  ……申し訳ありません、童心様」 「いやいや、一刻も早く父を弔いたいと願うは、孝心ある子であればまったく当然のこと。  政略を説いて邪魔立てするそれがしこそ、恥ずかしゅうて身の置き所もござらん」 「いえ……」 「残念だったな秀吉くん。  まっ、大徳寺はまたにしとけよ。信長公も秀勝も逃げやしねーからさ」 「!!  な、何を言っているのかわからないわね」 「……ふっ」 「茶々丸殿」 「へいへー」 「……」 「室町探題の報告によれば、朝廷工作の目処はついておるとの事。おおかた武家伝奏が形ばかり渋っているのでござろう。  金でつついてやればすぐ動くわ」 「邦氏公の大将領襲位は、幕府の健在を誇示する事になる……少なくとも外面の上ではな。  今は何よりそこが肝要だ」 「上辺を取り繕えば中身もその内ついてくるってか。確かにな。  まー八幡宮の親王あたりが邪魔しなけりゃ、うまくいくんじゃねーの?」 「今は建朝寺の親王だ。  ふん……あの高貴な鶏に何ができる? 頭の中で陰謀めいたものを弄んでいるとしても、実行するだけの手腕がなければ何の害も無い」 「……そうね」 「余計な茶々を入れてくるようなら、金ではなく針で尻をつついてやれば良かろうよ。  人を改心させるに経文などいらぬ。〈黄金〉《こがね》と〈鋼鉄〉《はがね》があれば済むものだからのう」 「坊主の台詞じゃねえぞ」 「今更だがな。  で……差し当たっての方針はそれで良いとしてだ」 「我々の身の振りをどうする」 「うむ……」 「いつまでも普陀楽城に雁首揃えているわけにはいかん。  足元が崩れては元も子もない。各々の公方府へ戻り、管区の混乱を平定する必要がある」 「あっちこっちでキナ臭い連中がちょこまかしてるみたいだかんなー。  そろそろどっかで火がつくか?」 「そうなる前に手を打たねばいかんのう。  だがさて、この城に邦氏公をひとり残してゆくわけにもいかぬし……」 「ああ。  そんな真似をすれば、邦氏公の首は三日と経たず倒幕派どもの宴へ供されることになるだろうよ」 「大宰府の〈幸行〉《ユキツラ》でも呼ぶ?」 「馬鹿言わないで頂戴」 「犬さん犬さん、餌をやるからおいでなさい、てか……喜んで来るだろうの」 「軍を率いてな。  関東を舞台に、我々と奴で決戦だ……」 「面白いじゃん?」 「面白さで選ぶなっつーの。  あんな獅子身中の虫の標本みたいなやつを呼ばなくたって、麿たちのうち一人が残れば済むことでしょう」 「ふむう、ご尤もでござる。  して、誰がその任を負うべきですかな?」 「……麿とて〈軍管区〉《おゆみ》の情勢が気にならないと言えば嘘になります。  けれど、麿は邦氏にとっては叔父」 「一番近い肉親です。  他の誰が残るより、麿が残る方が、邦氏を安心させてやれるでしょう」 「……成程、成程。  如何にも、左様でござりましょうなァ」 「そーお?」 「…………」 「……」 「童心様のご賛同が頂けるなら安心です。  では、この件はそのように――」 「立場は?」 「え?」 「立場はどうする。  貴様が一人、邦氏公を抱えてこの城に残るのなら、事実上の後見人だ」 「小弓公方のままでその役を務めるのか?  それとも、何か別の地位を用立てるのか」 「そ、そんなことはどうでもいいじゃない。  今そんなことまで決めなくたって、」 「そーだぞ獅子吼。  あてらがいなくなった後で決めればどんな地位でも思いのままだってーのに。邪魔してやるんじゃねーよ」 「そうか。  それは、思いもしなかった」 「すまんな、雷蝶」 「ぐぬっ……」 「……して、雷蝶殿。  何か腹案はおありでござるかな?」 「……え、ええ。  確かに、邦氏を補佐して政務を見ることになるでしょうから。一応、相応の役職は得ておいた方が良いかもしれませんわね」 「ご尤も。ご尤も。  して?」 「……関東管領の地位を頂ければ。  邦氏を存分に〈援〉《たす》けてやれると、思うのですけれど」 「ほゥ」 「はーん?  そういや、あての父親っぽい男がそんな役やってたよねー。一時期」 「ああ。  関西経略に失策を犯すまでは、堀越守政がその地位にあって幕閣を主導していた……」 「つまるところは執権だ。  ……数年来空席だったその座を、よりにもよって貴様が襲うと?」 「よりにもよって何よ!  麿は足利本家出身、先代大将領の実子にして次代大将領の叔父よ!? 麿の他に誰が関東管領の地位に相応しいって言うの!!」 「誰が相応しいかは知らん。  だが、貴様が相応しくないのは確実だ」 「こっ、こっ、この……!」 「ま、ま、ま。  それがしは、雷蝶殿の関東管領就任、賛同するに決して吝かではありませぬぞ」 「童心様!」 「喜ぶな、戯け。  〈気前良く〉《・・・・》くれてやるとは誰も言っておらんぞ」 「言葉のマジックだね。  さすが天下の婆娑羅公方。そこにしびれるあこがれるー」 「あんたらねぇぇぇぇ!!」 「ふむぅ。  獅子吼殿は反対でござるかな? ご自身が仰られている通り、雷蝶殿の管領就任は〈政事〉《まつりごと》の筋道に沿うものと心得申すが……」 「だから?  なるほどこの天保銭は、額面だけを見れば管領どころか大将領位を継いでもおかしくはない程だが」 「それだけの値打を認めてやっても良いと、貴方こそ本気で思っているのか?  童心殿」 「…………」 「ど、童心様?」 「……して。  茶々丸殿のご存念は如何に」 「条件付きなら認めてもええよー」 「条件、と?」 「関東管領だけじゃ足りない。  雷蝶、幕府のなんばーつーになる気なら、もっとゴージャスな役職につくのだ!」 「もっとゴージャス!?」 (……大体オチが読めたな……) (……大体オチが読めたのう……) 「そうだ雷蝶。  ただの関東管領なんかじゃ、おめーの器にふさわしくない。違うか? いーや違くねぇ。あてはおめーの力を信じてる」 「ちゃ、茶々丸……あんたって子は。  そ、それで、どんな地位ならいいの?」 「関東管領代理補佐心得でどーお?」 「格、下がってんじゃないのッッッ!!」 「……賛成」 「賛成すなッッ!!」 「うむぅ。  その辺りが折衷案でござるかのぉ……」 「ど、童心様まで、そんな」 「いや、冗談でござるよ。雷蝶殿。  まぁそう、お焦り召されるな」 「それがしに異論はござらぬが……どうやらお二方は時期尚早と考えておられる様子。  言われれば成程、それも一理。我ら関東四公方が足並みを揃えて国難にあたる為にも、」 「如何でござるかなァ。  今回はひとまず、見送っては……」 「で、でも、でもっ、童心様!  邦氏の補佐を務めるためには、それなりの地位もあった方が政務を円滑に進められると」 「要するに、だ。  地位で下駄を履かねば後見役が務まらんのなら、そもそも貴様はそんな役割に相応しくないのだ」 「実力が足らんという事なのだからな」 「ふぁいなるあんさー出ました」 「おーだーまーりッッ!!  童心様っ、どうかこんな下賤上がりどもの戯言に耳をお貸しにならず、麿を――」 「戯言にせよ、そうでないにせよ。  四公方の半数を占めるご両所が賛同せぬという事実は、雷蝶殿……重く受け止めぬわけには参りますまい?」 「うっ……」 「ここはどうか、お慎みあれ。  ……して獅子吼殿」 「何かな」 「雷蝶殿が城に残られるのも反対でござるか。  しからば邦氏公を守るお役目、〈何方〉《どなた》が務めればよろしかろう?」 「和尚で良かろう。  俺はこれ以上篠川を放置しておけぬし……茶々丸は論外だ」 「論外だな。アイツはいけねぇよ」 「消去法で、童心殿しかおらん」 「ふむぅ……  茶々丸殿のご意見は如何でござろうか」 「いいんでねー?  古河はそれほどガタついてないみたいだし。もうしばらくあんたが帰らなくたって大丈夫だろ」 「…………」 「これは……困り申したなァ。  ……雷蝶殿?」 「は、はい?」 「お二方のご推挙を受けては無碍にもできませぬが……これではまるでそれがしが雷蝶殿から役目を奪ったかの如き仕儀。  居た堪れぬ心地でござる」 「どうか雷蝶殿のご存念をお聞かせ下されい。  ご不興とあらば――それは無論、当然の事なれば――それがしよりご両名にお詫びして、取り下げて頂く所存にござるが……?」 「……い、いいえ。とんでもない。  童心様なら安心して邦氏をお任せできます。お父様に長く仕え、最も信任の厚かった御方ですし……ホ、ホホホ」 「では、雷蝶殿もお二人に同意と?」 「…………ええ。  童心様、どうぞよろしくお願いします」 「それでは致しかたござらん。身に余る大任なれど、承り申した。  この童心坊主、一命に代えても邦氏殿下をお守り致そう」 「方々は管区に戻られ、諸事を片付けられたのち、再びご登城下されい」 「承知した」 「へいふー」 「…………」 「では、評議はこれまでということで。  宜しいでしょうか」 「左様でござるな。  お疲れでござった、雷蝶殿」 「いえ……  失礼します」 「……ふん。  挨拶をして出て行くだけの自制心は残っていたか。あの男にしては、大したものだ」 「ひでー言い草だなァ。  しっかしあいつも、公方なんかになんないで、一介の侍大将やってりゃ幸福になれたのにねー?」 「…………」 (何よ、もう……!  踏んだり蹴ったりじゃない!) (邦氏が大将領になる前に、お父様の葬儀を麿の手で執り行えば……実権を握る足掛かりになった!  それを……あいつらっ!) (関東管領も駄目なんて!  血筋を鑑みれば何の不思議もないっていうのに……!) (このままじゃ、幕府は童心様のものになる。  そんな……) (…………) (やっぱり……  あの連中と手を組むしかないみたいね……)  朝方から怪しげであった空模様は、昼近くになっていよいよその本性を現していた。  大粒の降雨は庭土を荒らし、日々の入念な手入れの成果を無に帰せしめるべく躍起になっている。  雷鳴も耳に届く。  今はまだ遠いが、少しずつ近付いているようだ。 「…………」  天の喧騒はしかし、どこか空虚で、憂鬱な思索へと沈みたがる意識を引き止める役には立たなかった。  話し相手になってくれる人もいない。  署長は出勤中、〈家宰〉《かさい》の牧村さんは繁忙である。  村正も日課の銀星号捜索に出向いていていない。雨は劒冑の探査機能を妨害するが、銀星号の〈香気〉《けはい》を掴む能力はまた別なので問題ないようだ。  錆びを知らぬ劒冑は雨中の探索行も苦としないのだろう。水滴を弾きながら暗い鎌倉を飛び回る蜘蛛の姿の相棒を思って、俺は羨んだ。  為すべき何事かがあれば、無為に悩まなくても済む。  ……戦ってきた。  戦って、戦って、殺してきた。  銀星号の〝卵〟に冒された武者を幾人となく斃した。  そして同じ数だけ、俺の傍らにいたひとを殺した。  善悪相殺。  俺に課せられたこの〈虐殺法〉《ルール》は、まだ終わりを迎えていない。  まだ、殺さなくてはいけない。  次は誰を殺すのか。  誰を敵とし、誰を味方とし、その両方を斬り伏せるのか。  敵はわからない。銀星号か、それとも最後の〝卵〟預けられた誰かか。  味方は――味方は、わかっている。  彼女だろう。  ひたむきに、正しい道を求めて進もうとする少女。  その姿を、俺は憧憬している。羨望している。  会うたび、見るたびに、その想いは募る。  許されるなら、俺も彼女のように在りたかった。  正しく。  真っ直ぐに。  ひた進む――――  最早、俺には叶わない在り方。  幾多の罪を、過ちを犯した俺は、それに縛られその責任を負う生き方しか選べないから。  綾弥一条を、俺は遠く、貴く想う。    だから、殺すだろう。  次の敵を殺した時。  彼女を――――  灰色の部屋に一人。  ぽつんと座していると、そんな事ばかりを考える。  俺も外に出て、銀星号を探すか。    何の意味もないことを承知で、そう決意しかけた時だった。  ふと、人の気配を覚えて庭へ目をやる。    石像がそこに佇んで、俺を見ていた。 「…………」 「…………」  陰鬱な思索が幻を呼んだのかと、刹那はそう考えた。  ――違う。少女は実在だ。  少女はそこにいて、そこに立ち尽くしている。  物も言わない。  表情もない。  俺にすれば、歓迎すべき来客だ。  しかし、声を掛けるのが躊躇われた。  彼女特有の、苛烈なまでに真っ直ぐ前方へと向けられる眼光が、今は影を潜め、どこか靄のかかったそれに取って代わられている。  その平板な瞳が石仏を思わせた。  無機質なる仏像がその実、彫師の情念の丈をもって打ち上げられているのと同じく、少女の揺れぬ双眸の奥にも波濤があるのは容易に窺える。  だが、その実相が見えない。  初めて目にする一条だった。出会って最初の頃の、俺を露骨に嫌悪していた姿とも違う。  そして彼女もまた、初めて見るかのような目を俺に向けているのだった。  肌寒い。  雨とも季節柄とも関わりなく、何かに凍える。  それは恐れであったのかもしれない。    ――何を? 何を恐れるのか?  氷雨に打たれる少女は音もなく、片腕を突き出した。  それは銃を突きつける挙措に似ていた。  手の中に、紙切れを握っている。 「湊斗さん」  俺が何も言えぬうちに、少女は〈漸〉《ようよ》う口火を切った。  目前の男が何を言おうとしていたとしても、封じて喉奥に蹴り戻すだけの圧力をその声は備えていた。  為す術もなく、息を呑む。  気圧されていることを認めぬわけにはいかなかった。 「あたしと――」  殺意か。  憤怒か。  悲悶か。  今の一条はまさしく刃なのだと、気付く。  激情を鍛え上げて出来た刃だ。  誰かの胸に突き刺すための。  誰かの、 「あたしと」  俺を、  刺すための―――― 「映画を見に行きませんかッッ!!」 「……なかなか前衛的な〈発声映画〉《トーキー》だったな」 「す、すいませんっ。  あんな変なのだとは思わなくて……」  一条と連れ立って、北鎌倉の銀幕へ入り。  天候のせいだろう、閑散としていた館内で二時間程、スイカと長靴を接着剤で煮込んだような内容の映画を鑑賞し。  何とも曖昧な感慨に浸りつつ、遅い昼食をとるため近場の蕎麦屋へ。  今はその卓の一つで向かい合っている。  一条の唐突な誘いにどんな意図があったのか、それはまだ訊いていない。  関心はあったが、訊きそびれた。  何であれ陰鬱な孤独からの救いは有難かったというのも理由ではある。がそれ以上に、やはり今日の一条はどこかおかしく、安直な問いかけを躊躇わせる空気に包まれているのが大きかった。  この時点においてもそうだ。 「お客さん、ご注文は?」 「一条、どうする」 「あ、はい。  えーっと……冷やしたぬきまだやってる?」 「まだも何も、そのような反人類的な代物をうちの店では出してません」 「……いやちょっと待て。  反人類的って何だ」 「はい?」 「何を言っているんだ一条」 「え……え?」 「〈天かすを冷たい汁につけて食う〉《・・・・・・・・・・・・・・》などという行為が人類に許されている筈もないだろう。  アウストラロピテクスまで遡っても断じて有り得ないぞ」 「ええ、まったく。  今日のお連れさんは冗談がお上手で」 「は、自分も意外な一面を見た思いです」 「……えーと……」 「そういえば最近、変な噂を聞きましたよ。  その冷やしたぬきとかいうやつを、本当に作って客に出している店があるとか……」 「まさか。都市伝説でしょう。  いや、〈はったり表現〉《マクガフィン》の一種かもしれません」 「どこかの冗談好きがあたかも実在のもののように語り、聞いた相手も調子を合わせて真に受けてみせる。そのやり取りが面白いので流行した……そんなところではありませんか」 「ですよね? やっぱそうですよねー。  やっ、わかってるんですけどね」 「貴方も冗談がお好きなようだ」 「あっはっはっ」 「…………」 「それで一条。  冗談はさておき、注文をどうする」 「は、はぁ。  じゃあ……普通のたぬきで……」 「そうか。良いところを選んだな。  では、自分も同じものを」 「はい、たぬき二つ!」  威勢の良い声で受けて、店員が厨房へ引っ込む。  初めてこの店の暖簾をくぐったのは十年ばかりも昔になり、彼女とはその頃からの知己だが、あの快活さは当時からのものだ。  あの声を聴くと、旨い物を食いたくなる。 「いいものなんですか?  ここのたぬき」 「ああ。  最初にあれを食べた時は、少なからぬ衝撃を受けた」 「……なんか、想像がつかないです」 「あれはもう十年前。  俺がまだお前のように学生服を着ていた頃だ」  店内を眺めやる。今も昔も、同じ佇まい。  〈其処彼処〉《そこかしこ》から記憶の種を拾い、俺はぽつぽつと言葉を連ねた。 「卒業旅行だった。  仲間と一緒に鎌倉の名所を見て回った」 「五山を参詣し、八幡宮では実朝暗殺ごっこをし……それから丁度昼飯に良い時間だったので手近な蕎麦屋に入った。  それが此処だ」 「実はその旅行で、俺は失敗を犯していた。  手持ちの金が少なかったのだ」 「皆は違った。せっかくの旅行なのだからと、多めに小遣いを持ってきていた。  彼らはあてつけの如く、というかあてつけだったのだが、次々と高い品を注文した」 「今でも覚えている。  〈小長谷〉《こながや》は山かけおろし蕎麦だった。尾崎も同じだ。安藤はたしか、特選蕎麦の大盛りを頼んでいたと思う」 「どれも百円以上の高額メニューだ。  俺の所持金は総額で百円そこそこだった。彼らは勿論それを知っていた」 「わかるか」 「…………わ、わかりません」 (何を訊かれてるのかが……) 「彼らは挑戦していた。  この場で全財産をはたき、プライドを守るだけの度量が、貴様にあるのかと」 「彼らの優越感に満ちた笑みは、俺に一つの決断をさせるに充分だった。  財布の中身は一二五円。それさえ確認すれば、もう迷いなどなかった」 「俺はたぬき蕎麦を注文した。  六〇円だった」 (……無かったんだ。度量……) 「彼らは注文の蕎麦が届くと、実に旨そうに食べ始めた。  たぬき蕎麦を待つ俺に、上辺だけの憐れみの言葉を掛けながらだ」 「敗者を貶める事にかけて彼らは達人だった」 「本当に仲間だったんですか? その人たち」 「しかし、彼らは知らなかったろう。  勝敗がわずかな時間で覆る運命にあったとは」 「その転機は、俺の蕎麦が来た瞬間に訪れた」 「一目でわかった。  すべてが逆転したことは誰の目にも明らかだった」 「店を出た時、小長谷が呟いた。一番安いの頼んだやつが一番旨いもの食いやがった、と。  その横で尾崎は店の場所を必死に覚えようとしていた」 「俺は勝者だった」 「…………。 それで、あのー。結局、どんな蕎麦だったんです?」 「うむ。  そういうものだ」 「はい?」 「あいよ、お待ちー!」 「……凄いですね。  こんなの、初めて食べました」 「そうだろう」  つゆの中で天かすが〈ばちばち〉《・・・・》と弾けて踊っている、そんなたぬき蕎麦は俺もここでしか食べたことがない。  単に弾けさせるだけなら簡単そうに思えるが。  味との兼ね合いが難しいのかもしれない。この店のたぬきは活きの良い天かすと蕎麦との相性が抜群なのだった。  一条も満足そうにしている。  これでいくらかでも口が軽くなれば良いのだが。 「でも、客の入りは良くないですね……」 「ああ」 「こんなに美味しいのに。  雨のせいでしょうか」 「それもあるだろうが……  幕府の食糧増産計画の煽りでしばらく閉店していたからな。最近まで」  さして広くもない店内を見渡す。  まだ昼飯時と云える時刻であるのに、客は二名だけだ。つまり俺達しかいない。 「その間に客が離れてしまったのだろう。  営業再開が知られればまた賑わう」 「そういえば、そうでした。  うちの近所でも最近、閉まってためし屋が再開したり新しく出来たりしてます」 「最大の反幕勢力だった岡部党も制圧され、六波羅の統治は安定に向かっている。  言うなればその恩恵だ」  今後どうなるかは知れたものではないが。  先日の大事変は政情の安定化と真逆の方向へ大きく寄与するだろう――長期的視野に立っての評価はまた別としても。  悲観すればこの店とて、賑わう前にまた閉店という〈帰趨〉《きすう》も有り得る。 「恩恵ですか……」 「……?」 「有難がらなくちゃいけないんでしょうか。  今までさんざん締め付けておいて、それをようやく少し緩めたってだけなのに」  疑問の意は、文法上の形式のみに留まっていた。  発言者の声音も、瞳も、自らの問いへの答えを既に確固と見出している。  ふと、怯みを覚えた。  尖端恐怖症の心理に似ていたかもしれない。 「ふざけた話です」 「……それでも、やらないよりはましだ」 「ええ……」 「食料規制の緩和は喜ばしい事に違いない。  救われた人も多いだろう」 「そう思います。  でも、あたしは〈許しません〉《・・・・・》」 「…………」 「別ですから。  良いことをすれば、そのぶん過去の悪事が帳消しになる、なんて決まりは無いです」 「……そうだな」  その通りだ。 「善は善です。  悪は悪です」 「善は善で認められても、  悪は悪で裁かれるべきです」  その通り。  だから――俺は。  自分を、  決して―――― 「だからあたしは許しません。  たとえ、表では悪と戦っていても」 「裏では自分が悪を為している。  そんな人がもしもいたなら、絶対に」              許さない。 「…………」 「…………」  一条は俺を見ていなかった。  顔を伏せて、卓上の板目に注視を向けている。  ならば、今のは偶然であろうか。  今の……〈一致〉《・・》は。 「一条」 「……そろそろ出ませんか。  もう少し付き合ってください」 「一緒に、行って欲しい所があるんです」  俺を見ぬままに、一条は視線を店外へ滑らせた。  雨はまだ降り続いている。 「円往寺……?」 「はい」  少女が先に立って俺を導いたのは、際立って著名とも広壮とも言い難い、その寺院だった。  古都鎌倉の誇る名刹の一つには違いないのだが。  参拝者はおろか、僧の姿さえ見当たらない。  無人寺ということはなかろう……が、そうであったとしても頷けてしまう程度には寂れた佇まいを呈している。  すぐ近くに鎌倉五山の第一位建朝寺、第二位円覚寺、第四位浄智寺といった錚々たる寺院が立ち並ぶためか。  日頃から人の出入りは少ないように窺えた。 「昔、父様がよく連れてきてくれました」 「菩提寺なのか」 「いえ、違います。  綾弥の家とは何の縁もありません」 「でも父様は毎週のように参拝してたみたいです。もしかしたら毎日かも。  ……きっと、ここが悪を許さない〈仏天〉《かみ》様を祀る寺だから」 「……」  傍らの石碑に目を遣る。  ――〈閻魔王〉《エンマオウ》。  いわゆる閻魔大王。  十王信仰の中核をなす裁断者がこの寺の本尊なのだ。なかなか珍しい事と云える。 「厳格な父君であられるようだ」 「そうですね。  人にも……自分にも」 「一度お会いしたいものだな。  お前を見る限り、尊敬に値する方と思える」 「ありがとうございます。  ……湊斗さんともう何年か早く知り合っていたら、紹介できたかもしれませんけど」 「…………そうか」  一条には家族がいない。  以前、何かの折にちらりとそう聞いていた事を思い出す。  失言が恥ずかしかった。 「あたし、この寺は嫌いなんです」 「……」 「ここへ来る時の父様は決まって、難しい顔をしていたから。  何かを悩んで……悲しんで。怒って」 「楽しそうだったことは一度もありません」  本堂を眺める一条の、独白めいた呟き。  ふと、俺は幻視した。  一人の男の背中。  微動だにせず、本堂奥の閻魔像を見上げている―― 「今ならわかります。  父様は悪と戦う覚悟を決めるために、ここへ来ていたんです」 「だからいつも辛そうな顔をしていた。  ……だからあたしは嫌いでした」 「今も嫌いです。  父様と同じで……あたしにとっても、ここは覚悟を決めるための場所になったから」  少女が振り返る。  俺を見る。  挑むような視線だった。  ……祈るような視線だった。 「湊斗さん」 「一条……」 「……嘘だって、わかってるんです。  あんなの、とんでもない言い掛かりだって……わかってるんです」 「湊斗さんは……  絶対に、信じられる人なんだからっ……!」 「――――」 「でも……ごめんなさい。  なんでか、聞き流せないんです……」 「訊かないと。  確かめないと、安心できないんです」 「一条」  その一瞬。  俺の心理はどう在ったのか。  止めたかったのか。  それとも、別の何かを望んだのか。  不明であった。 「答えてください。  嘘だって、言ってください」 「……」 「あなたが」 「何の罪も無い人を殺しているなんて」 「……なぜ」  それを。  お前が。 「雪車町です。  あのチンピラが言ったんです」 「湊斗さんは、ただの殺人犯だって」 「銀星号や、六波羅と戦っている陰で……  何も悪くない人達を殺しているって……」 「――」 「嘘ですよね」  一途な眼差しが、俺に〈縋〉《すが》る。  喰いつく。  俺を信じて。  信じているから、怯えていた。  崩壊の恐怖に震えていた。 「違うと、言ってください」 「――」 「早く。  早く、して」  違う、嘘だ、と――  そう言えば、一条は信じる。  細かい弁明など必要ない。  それだけで事足りる。  一言だけで、一条は信じてくれる。  ただ――一言。  全ての罪に背を向けて。  その一言を、口にすれば。  口に……  できるなら。 「……」 「…………」 「なんでですか」 「なんで、何も言ってくれないんですか」 「……俺は……」 「湊斗さん!」  知らぬ――と、言え。  何の戯言か――と。  そう言えばいい。  そう言えば、この少女の信頼を失わずに済む。  これまで通りの関係を続けられる。  だから。  言え。  言うのだ。 「殺人者だ」 「――――――――」 「雪車町一蔵は正しい。  俺は、善人も悪人も区別しない」 「関わった者は皆、殺す。  ただの殺人者だ」 「嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」  ……裏切られた少女の叫びは。  雷鳴よりもなお高く、天地の狭間に轟いた。 「新田雄飛を覚えているか?  野木山組に絡まれているところを、お前に救われた少年だ」 「俺が殺した」 「俺とお前が二度目に出会った、あの小さな村を覚えているか?  あそこには蝦夷の老人がいて、彼には二人の孫娘がいた」 「どちらも俺が殺した」 「〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》の皇路操を覚えているか?  彼女は父に忠孝を尽くしただけだった」 「あの娘も、俺が殺した」 「……GHQの大鳥大尉のことを忘れてはいないだろう。  彼女はもう何処にもいない」 「俺が殺したからだ」  俺の言葉は、一条を納得させただろう。  少女の切な願いとは、完全に逆の意味で。  全て、事実の羅列に過ぎないから。  淡白で、簡素で。疑うべき余地などない。  それは真実。  少女が望まなかった真実。  最後の問いを発してしまった綾弥一条が、受け止めねばならない答えだ。 「……どうして……」 「理由か。  そんなものはない」  無い。  殺戮を免罪するに足る理由など、何も。 「強いて言えば、俺がそういう〈もの〉《・・》だからだ。  それだけだ」 「……………………」 「許さない」 「……」 「裏切られた、なんて……思わねぇ。  そうだ。あんたは最初から言ってた」 「正義の味方なんかじゃないって。  ただの人殺しだって」 「ああ」 「あたしが勝手に勘違いしてたわけだ。  勝手に思い込んで……勝手に信じて」 「勝手に憧れてたんだ!  あははははははははハハハハハハハハ!!」  〈逆上して哄笑する〉《・・・・・・・・》。  そんな感情表現も人間には可能なのだと、今初めて知った。 「けど許さない」 「……」 「湊斗景明。  あたしはあんたを許さない」 「あんたを殺す」 「どうやって」  期待のように、その反問は唇から零れた。  だがきっと、一条には挑発と聞こえたろう。 「こうやってだ!  正宗ェェェッッッッ!!」 「!?」  〈藍〉《あお》が飛来する。  深い硬質の輝きを湛えたカタマリ。  三対の脚と長い触角が生えている。  〈天牛虫〉《カミキリムシ》。  〈劒冑〉《つるぎ》であった。  その巨躯と鋼の外骨格が物語る。  雨天の下、暗色の甲鉄はしかし景色の中に沈むこともない。  傲然たる異彩を放っている。  人の眼差しを強奪するまでの光沢は、一つの事実を明確に指摘するものだった。  ――――最上大業物。  勢洲千子村正と同等。  〈あるいは凌ぐ〉《・・・・・・》。 「正宗……だと?」 「天下第一等……  相州五郎入道正宗だと云うのか!?」 «悪鬼に呼ばわれるべき名など無い»  冷厳を窮める、  こちらに対して一片の情誼も持たない〈金打声〉《メタルエコー》が脳髄を刺した。 «吾が名乗る。〈正宗〉《マサムネ》と。  吾が斬る。〈銘〉《な》に懸けて» «邪悪はただ、聴いて散れ。  他には何も許さぬ……» 「何も許さない」 «この世に跡形も残させはせぬ» 「全て、消し去る」 «滅ぼし尽くす» 「邪悪を」 «全て»  それがどれほど有り得なかろうとも、ここに至れば事実を事実と認めるほかはなかった。  濃藍の劒冑はかの正宗であり。  その仕手はこの綾弥一条である。 「何故だ。  いつ」 「そんな事はどうだっていい」  今や少女の声の冷たさは、劒冑にも劣らなかった。 「あたしはあんたを殺せるんだ。  悪鬼、村正」 「……」 「明日だ」 「明日の早朝、ここの裏手にある林へ来い。  劒冑と一緒に」 「殺してやる」 「…………」  そう宣告して、一条は踵を返した。  門に向かい歩んでゆく。  劒冑と共に、大きくもない背中が遠ざかる。  その足が、ふと止まった。  振り返る。  視線が絡む。  雨靄に遮られ、俺に少女の瞳は窺えなかった。  向こうからは――どうだろうか。  一条が右腕を持ち上げる。  人差し指を鋭く立てて。  爪の先端が、俺の〈鳩尾〉《みぞおち》を正確に指した。 「殺してやるッッッ!!」 「……………………」 «……»  ――武者と劒冑は不離一体。  遠く隔てられていようとも。  同じ物を見、同じ声を聞くことが可能である。  故に、彼女も聴いた。  その宣告を。  憎悪を。  殺意を。 «…………» «……御堂……»  俗説に曰く……  大和に冠たる二人の劒冑鍛冶、村正と正宗は同じ師のもとで業を窮めた。  どちらも出色の才を示し、いずれ希代の名物を打ち上げるだろうと嘱望されたが、性質は全く異なった。  村正は人品卑しく、己の業への驕り深く、師に対してさえ時に傲慢な振舞いをした。  また劒冑は殺人の道具としか考えず、少しでも硬く、少しでも強くすることにのみ執心した。  一方正宗は生来の気品があり、人柄は穏やかで、誰が相手でも態度は丁重であった。  また、劒冑とは正しき武の象徴であり、強いのみならず美しさをも備えていなくてはならぬと考えていた。  ある日、師は二人の弟子に刀を打たせた。  そして、彼らが刀を打ち上げると、それを川へ突き立てるよう命じた。  まず、村正が刀を刺した。  そうして待っていると、やがて落葉が流れてきて、刃先に触れた。  あろうことか。  その刹那、ただ立っているだけの刀に当たった葉は、音もなく二つに切り裂かれて、下流へと漂っていった。  見守っていた弟子達は驚嘆し、村正は刀の恐るべき切れ味を誇って反り返った。  師は何も言わず、続いて正宗に試させた。  しばらく待つと、やがて同じように、川面を落葉が流れてきた。  人々は、正宗の刀も村正に匹敵する刃味を見せようかと、固唾を呑んで見守った。  しかし、葉は刀に近付くと、まるで逃げるかの如く向きを変え、傷つかずに漂い去っていった。  それは幾度繰り返しても同じであった。正宗の刀は落葉を一枚たりと斬ることがなかった。  師は告げた。  ――刃とは、斬るべきを自ずと斬り、斬らぬべきは自ずと斬らぬが最上である。  只の落葉を斬った村正は、葉を一枚も斬らなかった正宗の足元にも及ばぬと知るが良い――  その言の通り。  正宗は天下一の名甲と尊ばれ、他方村正は呪われし妖甲と忌み嫌われ、後の世の評価に明暗を分けたのであった。    …………俗説である。  村正と正宗が同一の師を戴いた事実はない。  両者の登場年代には隔たりがある。  これは後世の数寄者が創作した物語に過ぎない。    だが――村正と正宗、両者の真実の一端を伝えていないとは、おそらく言い得ぬであろう。 「か……勘弁してくだされ」 「勘弁してやるからさぁー。  それ寄越せって。その風呂敷包み」 「すっげえ大事そうじゃん。  イイものっぽいね。金か? 食い物か?」 「金がいいよなー。  宝石とかでもいいけど」 「こ、これは家宝の茶碗ですじゃ……  家族を食わせるために、質屋でお金に換えようと……」 「おー、そうかいそうかい。  じゃあ渡しな。オレたちが代わりに行ってきてやるよぉ」 「許してくだされぇ!  この茶碗はわしらの明日なんじゃー!」 「いいから、とっとと――」 「お?  なんだよ、おまえ」 「げぶっ!?」 「……はぁ?  ちょ、おい」 「てっ……  てめェ!!」 「……ひっ!?  ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」 「…………」  何処をどう歩いたのかは覚えていない。  気付けば一条は夜の裏通りに踏み入っていた。  何やら目障りなモノを適当にどかしつつ、進む。  あてはない。用事もない。  だが、〈住処〉《ねぐら》に戻りたい気分ではなかった。  脳漿が煮え立っている。  ――畜生。  思う事はただ一つ。  あの男。  湊斗景明。  最初はつまらない腰抜けだと思って。  その後、劒冑を纏って戦う姿を見て。  信じて。  焦がれて。  今日。  全てが勘違いだったのだと、思い知らされた。  ――なんでだよ。  想念は結局、その一言に凝固した。  輝かしかったのだ。  眩しかったのだ。  そこに一つの光を見たから。  彼は、答えだった。  嘗ては解く糸口すら見えなかった問いへの。  六波羅、銀星号……  抗いようとてない強大な悪に、どう立ち向かうべきなのか?  多くの人々がそうしているように、〈妥協〉《・・》するか――有るものはしょうがないのだ、どうしようもないものはどうしようもないのだ、と。  それとも、あくまで否定するか――否定〈だけ〉《・・》するか。  悪を認めないと口では言いつつ、手の出せない巨悪は放置して、戦える小悪だけを選んで相手取り、満足する。……彼に出会う前の一条がそうだった。  決して満足はしていなかったけれども。  その煩悶に、赤い甲鉄の武者が光をあてた。  ――戦えばいいのだ、と。  許せないなら、戦えばいい。  相手が強過ぎるとか、  どうやっても勝てないとか、  そんなことは関係がない。  彼は、そんなことを考えなかった。  いや、考えてはいた――〈戦うと決めた後で〉《・・・・・・・・》。  戦わねばならないなら、戦うのだ。  勝算などはその次だ。  それで良いのだと、示してくれた。  あの、六波羅の武者にも敢然と挑んだ姿が。  ……だというのに。 (なんでだよ……)  考えは一周して元に戻る。  同じ場所をぐるぐる回っている一条の足と同じように。        湊斗景明はただの殺人者。      善人も悪人も選ばず殺す。  信じられない。  信じたくない。  だが、疑えなかった。  彼の自白は、虚言にしては重過ぎた。  それが事実。    ……わけがわからない。  いっそ、全部投げ出してしまいたかった。  何もかも忘れて。どこか別の街で一から出直したい。  そうしたところで、誰にも責められはしないだろう。  ならば……  それは、できるだろうか。  綾弥一条に。  それは、できる事だろうか。  無理だ。 (あたしは……綾弥〈一導〉《いちどう》の娘だ)  父の〈腐臭〉《・・》を覚えている。  父の〈嗤い〉《・・》を覚えている。  綾弥一条は綾弥一導を知っている。  その娘であることの意味を知っている。  ならば決して、逃れられない。  許されざる悪との戦いから。  正義の追求から。  ――湊斗景明から。  一条の道に光を注いでくれた男との対決から。 「…………」 「……湊斗さん……」 「ッ!?」 「こんなところにいたのか。  随分探したよ」 「あんたは確か……」 「鎌倉警察署の署長だ。菊池という。  君に、話したいことがあって来た」 「……丁度良かった。  あたしも、訊きたいことがあったんです」  一夜明けて、雨は再び降り出していた。  黒灰色の雲にとって鎌倉上空は余程に居心地が良いものらしい。立ち退いたのは夜の間だけで、今はまたどっかりと腰を据えている。  傘の端から滴る水玉が手の甲にも触れ、それが酷く冷たかった。 «御堂。  やらねばならないことは、わかっているでしょう» 「……」 «私たちには使命がある» 「ああ……」  ――銀星号を、止めねばならない。 «その妨げになるなら……  振り払うまでよ» «何物であれ» 「わかっている」 «……御堂……» 「わかっている……」  村正との問答は昨夜半、幾百幾千と繰り返した自問の焼き直しに過ぎなかった。  わかっている――己のすべきはわかっている。  町に、村に、あるいはそれ以外の人の集まりの中に、忽然と現れて殲滅する……〈殺戮天象〉《テンペスト》。銀星号。  現代大和の悪夢。終わらせるのは俺の役目だ。  俺にしかできないのだから。  〈養母〉《はは》に託された願いなのだから。  あれは、俺の妹なのだから。  俺が、やらねばならない。  何を踏み越えてでも。  これまでそうしてきたように。  この二年間、幾つもの生命を鉄靴の下に踏み〈拉〉《しだ》いてきたのと同じように。  これからも。  今日も。  円往寺で待つ、綾弥一条も―― 「湊斗景明。  あたしはあんたを許さない」 「あんたを殺す」 「……ッ」  膝を打つ痛みで、我に帰る。  気付かぬ間に水溜りへ踏み込み、足を滑らせていた。  散った水面が、路上で跪く男の姿を映す。  無様な絵図だった。 «……» 「……」  付近を潜行する劒冑から送られてくる、無言の視線が煩わしい。  それでも黙殺して、立ち上がる。  慣れ親しむ肉体は、〈矢鱈〉《やたら》と重かった。  気を緩めれば膝が笑い出す程に。  体重ではない重みが何処かに懸かっているようでもある。  何処か――頭蓋の中か、心臓の奥か、それ以外か。  〈精神〉《こころ》が負荷を掛けている。  四肢に軋みを上げさせている。  綾弥一条と戦う。  その意思が、重い。  あの少女は許さないと宣言したのだ。  湊斗景明を――彼が犯してきた罪業を。許さないと告げたのだ。  断罪。  〈被告〉《おれ》は、同意する。  その通り――到底、許されざる罪だ。  許されてはならない罪だ。  ならば、どうして……  俺は抗わねばならないのか。  抗うなどという真似が、許されるのか。  否。  許されない筈だ。  この手で剥奪した命を、  この指で咲かせた血華を、  忘れないのならば……  どうして、裁きに抗おう。  受け入れるべきではないのか。  〈断罪〉《さばき》の正当を認めるならば、  刑吏の刃に身を委ねるべきではないのか……  そう。  それが、当然の筈だ。  今までは俺を裁く者が現れなかっただけだ。  見逃されてきただけだ。  今はいる。  天秤と鎌を持つ、判事にして処刑人たる者が訪れている。  ならば―― «……御堂» 「……わかっている」  問答の繰り返し。  俺に、安逸への逃避は許されない。  罪を認め、刑に服し、一命を捧げれば楽になれよう――だが、まだその時ではない。  使命を果たし終えた後でなくては、俺にはそうする資格が無い。  わかっているのだ。  わかっているのだ。  しかし――思う。  それは、罪からの逃避ではないのかと。  やらねばならぬ事があるのは誰も同じだ。  生きとし生けるもの全てが、生きて果たすべき使命を持っている。  しかし誰もが不死ではいられない。  誰もが未練を抱えて死んでゆく。  そう思えば、使命など、死を避けるに値する理由と言えようか。  言えまい。  この世のあらゆる死者のように――俺に殺され不意に未来を奪われた人々のように、  俺もまた無念を抱え、ここでもがき苦しんで死んでゆくべきではないのか。  それこそが正しい帰結ではないのか…… «御堂。  私たちが銀星号を倒さなければ――» 「何度言わせるつもりだ。  〈わかっている〉《・・・・・・》」 «……» 「もう黙っていろ……」  言われるまでもない。  俺が、俺に課せられた使命を投げ出すなら……失われるものは俺一人の生命では済まない。  銀星号は殺し続けるだろう。  人々を狂わせ……〝卵〟を撒き、分身を育てて。  歴史は未曾有の災厄として、その名を記録する。  ……そうさせてはならない。  俺が止めるのだ。  既にして被害は甚大だが、せめてこれ以上は、犠牲者の列を続けさせぬために。  ……だが。  そうするからには、今日――綾弥一条と戦い。  その正当なる断罪を跳ね除け。  打ち倒し、踏み越えて、俺は……行かねば。 「…………」  出口は見えない。  思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。  そして時間は無限ではなかった。  〈巨福呂坂〉《こぶくろざか》を越える。  円往寺はもう、すぐ〈其処〉《そこ》にあった。  林の中の空地――  一条は既に装甲を遂げて、俺を待っていた。  深海の底を、空の果てを想起させる甲鉄。  錯覚であろうか……心なきはずの雨粒が、その色を汚す行為に畏怖し、触れてはならじと避けているように見える。  相州五郎入道正宗。  〈神威〉《カムイ》の二字がこれほど相応しい劒冑も他に無かろう。  あたかも〈閻魔天〉《ヤマ》の〈化身〉《アヴァタラ》。  ここが円往寺の裏でなくとも、そう思えた筈だ。  彼女は許されざる悪を裁くために、そこへ立つのだから。 «……相州正宗!» «おのれが、右衛門尉を称する村正か»  口火を切ったのは、仕手ではなく劒冑だった。  空気を介さぬ金打声が放たれ、互いの甲鉄面を震撼させる。 «クハァァァァァ……  なんと、〈穢〉《けが》らわしき甲鉄であることか» «噂に違わぬ。否、噂にも優る。  肥溜めの底で腐った汚泥よりも醜悪!!» «……御挨拶ね。  名高い先達に敬意を表したかった、こちらの心情も汲んで欲しいものだけれど» «要らぬわ。  呪われし村正……七百年の無為の日々の中、おのれの名を幾度も聞いたぞ» «流血を求める劒冑。  人心を狂わせ無為の争いに駆り立てる邪甲» «その〈甲鉄〉《はだ》に染み付いた血臭を嗅げば……  成程、風聞は全て事実であったと知れる» «……» «畿内の南北に帝が立ち、大和全土が混沌の渦中に争い合ったというあの時代……  もし吾が主を得ておれば、おのれに悪名を立てる暇など与えず、葬ってやれたものを!» «……ッ!!» «そうできなんだのが今にして惜しいわ。  他の劒冑どもは何をしておったか。おのれ如きに跳梁を許すとは、不甲斐ないにも程があろうよ――» «吼えるな、名甲!!» «うぬ……!?» «貴方のような劒冑が世に出ていれば、何だという?  真っ正直で世間知らずの箱入り劒冑が!» «何もできはしなかった!  七百年、安穏と〈宝蔵〉《たからぐら》の中で眠り、何の責任もない傍観者でいられた幸運を、もっと噛み締めることね……» «天下一名物正宗!  確かに貴方の甲鉄は美しい――一滴の血も浴びていないのだもの。新品まっさらの美しさよ!» «……抜かしおったな。  果たすべき使命を持ちながら、何も為せずに眠り続けねばならなかった我が七百年余の苦衷――おのれにはわかるまい!» «わからないでしょうね。  貴方に、あの時代を生きて戦っていた人々の苦しみがわからないように!» «その賢しら口、封じてくれる……!  御堂! いざ、参らん!» 「……」 «……御堂!  こちらも装甲を!» 「……」  蜘蛛の声に打たれて、片手を持ち上げ。  前方に佇む武者の、眼窩を覗く。  濃藍の武者は、劒冑の訴えを聞いているのか……いないのか。  その場に不動のまま、同様の眼差しをこちらへ注いでいる。  何を窺おうというのか。  この四肢に染み付いた罪科を、改めて計ろうとでもするのか。 「湊斗景明」 「……」 「殺人者」 「……」 「呪われた悪鬼」 「……」  一条が陰々と呼ばう。  俺は黙して聴く。  それは単なる事実の羅列。  異論も感想も差し挟む余地はない。 「殺す……ぞ」 「……」 「できないとでも、思ってるのか」 「いいや」 「……」 「お前ならできる。  揺るがぬ信念をもって、悪を裁くことが」 「……なら、どうして黙って立ってる。  殺されてもいいってのか」 「……いいや」 「俺は……死ぬわけには、ゆかぬ」 「……」 «御堂» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」 「……村正。  参る」 「……それだけか」 「それだけ、なのかよ」 「……とは?」 「……ああ、そうかよ。  わかったよ!」 「悪鬼……村正!  てめぇを殺す!!」  一条――正宗が太刀を抜き放つ。  長い。  今は失われている村正の野太刀ほどではないが。  斬馬刀と称しても良いだけの刃渡り、そして身幅がある。 「鎌倉末期の典型だな……」 «ええ。  太刀の長大化が始まった頃の作よ»  鎌倉時代の末から太刀は次第に長く大振りのものが好まれるようになり、その風潮は次の時代まで続く。  戦国期に入って槍・鉄砲による集団戦術が発達すると共に鎮静したが、武者の間ではなお廃れず、  朝倉氏に仕えた豪将真柄十郎左衛門などは七尺三寸にも及ぶ大太刀を駆使していたと云う。  このような風潮が生まれた契機は、諸説あって定かではない。  一説には、その原因を元寇とする。  蒙古武者の強固な甲鉄に手を焼かされた大和武者は、それを打ち破れる剛刀を求めたのだ――と。  そんな大太刀も、扱いこなすだけの力量が無ければ無用の長物と堕す。  状況にも縛られる。  地上、特に障害物の多い場所は適さない。  〈常道〉《セオリー》に則れば、一条は騎航に移る筈だ――が。 「ッ!」 «木を!?»  一条の選択は俺の意表を突いた。  その場で太刀を一振――二振――三振。  膝ほどの高さで切り断たれた木々が倒れ込む。  俺の立つ方角へと……だがそれ自体は何の脅威にもならない。  この一手の核心は別に有る。  ――散り舞う木の葉が、刹那。濃藍色の敵騎を覆い隠した。 (この技は!?)  脳内を駆け巡る警鐘に従って、その場所を捨てる。  飛び下がり――それでも〈つるつる〉《・・・・》と伸び来る鋭鋒が視界の中央から迫った。  腰の太刀を抜きざま、下からすくい上げて打ち弾く。  その時には既に見えていた。  色鮮やかなる相州正宗。  あたかも何かの魔術を駆使したかのように、こちらの目前へ〈転移〉《・・》していた。 «なに――まさか陰義!?» (いや。  〈縮地〉《・・》だ) «え?»  後方へ流れた体重を、足の踏み替えで前方へ向ける。  そして止まらず踏み込み、一刀。  逆袈裟の形に斬りつける。  予測していたのか、一条の太刀が迎え撃つ。  俺の剣勢は殺され――しかし一条の剣も弾かれる。  弾かれて――  〈そのまま旋回〉《・・・・・・》。  頭上でぐるりと取り回した太刀を、一条は叩きつけてきた。  想定通り。  それは先の一合の役割交替。  一条が打ち込み、俺が受け返す。  そして今度はこちらが、弾かれた勢いを利して斬りつける。  同じ打ち込み。  同じ受け。  見物人がいたなら、首を傾げたことだろう。  稽古でもしているのか?――と。    その感想は真実から極めて近い。  同じ技を使う者同士の対決など、実際、稽古のようなものだ。 「……っ。  あんた、まさか」  千日手を打ち切って距離を取り、一条が面甲の奥で呟く。いくらかの驚きを込めて。  その心情はこちらとて同じであった。 「やはり吉野御流か」 「……」 「最初の仕掛けは吉野御流、猿隠れ。  そこから繋げた瞬速の踏み足は、〈膝を抜く〉《・・・・》ことで実現する吉野御流秘伝の縮地法」 「そして切り返しの応酬は、技であり稽古法でもある木霊打ち……」 「……そうか。  あんたも」 「吉野御流合戦礼法。  免許は受けていないが、奥伝には達した」 「吉野御流堂上礼法。  免許も奥伝も知らねぇけど、多分一通りは習った」  ……堂上礼法。  その名には覚えがある。系譜上、吉野御流合戦礼法の源流とされている流派だ。  ここまで技が酷似しているということは、あながち事実無根でもないのだろう。  何らかの、深い縁があるのは間違いなさそうだ。  思えばこれまでにも、一条は俺が修めたものに近い組打術を幾度か披露した。  その折々には、単なる偶然の符合だろうとしか思わなかったのだが。  まさか同系流儀であったとは…… 「劒冑を扱えるのも道理か」 「……お互い、手の内はお見通しってわけだ。  でもそんなの」 「関係あるか――よっ!!」  再び、一条が縮地で迫る。  こちらの懐へ入り――下段の太刀を〈裏返す〉《・・・》。  逆流れ!  後方への退避は間に合わない。  飛ぶ。  上方へ跳躍。  股座に吹き付ける太刀風から逃れる。  合当理に火を入れなくとも、この程度の飛翔は造作ない。  木々の狭間を抜け、円往寺一帯を眼下に見下ろす。 «このまま騎航戦に移るのも一手だけれど?» 「いや――」  劒冑の具申に頷かず、地表へ向けて太刀を構える。  武者の本領は空にあり。その意味で、村正の提案は正しい。  だが今現在、天候は雨だ。  探査機能が著しく制限される。  そんな状況下での騎航戦闘など、もはや戦闘の名に値しない。  博打だ。一条はそれを厭うて、あの大太刀を持ちながら〈母衣〉《つばさ》を畳んでいるのだろう。  俺とても、そんな投機的趣向をもって戦いに臨む事などできなかった。    仮にあったとしても、今は無理だ。 「そんな暇はない」 «――ッ!?»  〈対空砲〉《アンチエアークラフトガン》の一弾に等しかった。  こちらを追って翔躍した正宗の一撃。  翼なくば、武者とて空中の動作は自在ならない。  回避など許されず、真っ向から受け止める。  重い一撃を、村正の剛力は辛うじて支え切った。  鍔迫り合う。足場もない虚空で、腕任せに押し切り合う。 「〈臥竜〉《ガリュウ》で敵を空へ追い込み、〈昇竜〉《ショウリュウ》で仕留める。  ……基本通りの見事な連携だ」 「ほざいてろよ!」  大地の引力が彼我の騎体を引き寄せている。  正宗の片足が俺の足に裏から絡んだ。  そうして押し込む。  足絡みを軸に体勢が変転した。  正宗が上に。村正が下に。  敵騎の太刀は、我が首筋を狙い―― (させては、やれぬ)  吉野御流は〝二虎競落〟の法。  争いに熱中するあまり山から転げ落ち、而して尚も相手の喉笛を食い合う二虎の故事に倣い。空中戦闘において双方の騎体が絡んだならば上位を奪う。  そして墜落、敵を地面との間に挟み圧殺する。  決して容易くはないこの術を、一条は全うしていた。  良き師のもとで学んだのだと知れる。  だが――俺とても。 「……ッ!? この――」 「これが〈返し〉《・・》だ。  知っていたか」  一条がしたように、絡む足を軸にして転回する。  但し――一条が縦方向に回ったのに対し、横方向へ。  位置関係が逆転する。  村正が上。正宗が下へ。  こちらの優位。  しかし、一条の反応も迅速であった。  すぐさま体勢を捻り返し、またもや上位へ。  それを更に返して俺が上位へ。  ――変転、数度。  墜落の瞬間にどちらが〈勝〉《まさ》っていたかはわからない。 「ぐッッ!!」 「つ……!」  どちらも企図を遂げ得なかった。  それだけは明白だった。  浮遊から着陸への急な移行に伴う平衡感覚の混乱が、一瞬一秒でも素早く立ち上がりたがる両足を妨害する。  姿勢回復までは半呼吸――千年のようなその時間。  しかし、長く短い時間を費やしたのは濃藍の敵騎も同様だった。  合わせ鏡の正確さで、揃って起き上がり対峙する。 「かッッッ!!」  間合を読む、呼吸を計る――そんな〈まだるっこしい〉《・・・・・・・》思案はこの少女と無縁のようだった。  衰える気配もない獰猛さを剥き出しにして襲い来る。短い気合は発砲に似ていた。  愚直、剛直なる一直線の突進。  速度が充分ならばそれは大いに脅威であり、そして一条/正宗の足は必要値を五割ばかり超えていた。  ――が。 (正直過ぎる……)  迅雷と呼ぶのが相応の速さで撃尺の距離へ進入し、一条は太刀を担ぎ上げる。  刃、一旋――――  その前に。  俺は剣を投げ捨てながら半歩踏み込み、身を屈めて対手の懐へ入った。 「……っ?」 「〈借りる〉《・・・》ぞ」  お前自身の力を。  右手を敵騎の脇から差し入れ、背に回し。  腰を合わせて右足を払う。  払い腰。 「なぁっっ!?」  ……ごくごく基本的な投げ技は、教本に掲載を申請したいほどの完璧さで決まった。  一回転して背から地面へ落ち、一条の身体が勢いのまま盛大に転がってゆく。  俺は太刀を拾い上げた。 «御堂!»  村正の声が俺を促す。  言われるまでもない。  今が、好機。  勝機。 「……」 「得難い体験をしたな、一条。  空に命を預ける武者にとって、〈投げられる〉《・・・・・》機会など滅多にあるものでもない」 「くぅ……」 「良い〈術技〉《わざ》を身につけているようだが、それのみに依存していては戦術の幅が狭まる。  搦め手もあることを知っておけ」 「例えば今の……  単なる基礎的な柔術に過ぎんが、使い所を間違えなければ有効な一手となる。甲冑剣法だけが武者の技ではない」 「……抜かしやがる」  立ち上がる一条。  天晴れな事に、その手は大太刀を離していなかった。  眼光が怒りの温度で俺を射る。 「追い打ちも掛けねぇで技の解説か。  さっきから、受け一方だしよ」 «……» 「余裕ぶりやがって……  搦め手か。ああ、そうかよ。そっちが好みだってんなら見せてやる……」 「正宗!」  藍色の武者が片腕を突き出す。  槍のように。何も握らぬ腕を。  その手首には……筒型の器具。 「……?」  ……砲門?  いや、まさか。  鎌倉時代の劒冑にそんな兵装があろう筈もない。  だが一条は、その箇所に戦気を注いで、短い一言を発した。 「〈喰〉《くら》え」 «承知» 「がっッ――」 «……!?» 「ぎっ、い、りいいいイイイイイイッッ!!」 「な――」  ――何をしている?  この、〈引き剥がす〉《・・・・・》音は……  何を―――― 「あああ、あ、らぁぁぁアアアアアアッ!!」  筒が、火を吹いた。  射出される――――弾丸。  あれは砲だったのだ。有り得ない砲。  いや。  ……違う。  弾丸には速度がない。威力がない。  まるで〈撥条〉《ばね》仕掛けで飛ばしたかのようだ。  それが砲弾であるとすれば、怠慢の度が過ぎた。 «DAAAAAAAAAAIIII――»  至近距離の砲撃であるにも拘わらず、見切って躱すだけのゆとりがある。  俺は軽く身を捻った。それで事足りた。  弾丸が村正の甲鉄に近付く。しかし届かず。  標的を失い、遠ざかる。 «DAAARAAAAAHHHHHHHH!!»          時間と空間が消失した。  忘我。  幽離。  ……苦痛。  一度何処かへ消え去った俺の世界を再構築したのは、全身を貫く疼痛だった。  鉄の肌に感じる冷たさ。  雨が降っていたことを思い出す。  雨は、正面から注がれている。  意識を飛ばしていた刹那に、倒れていたようだ。 「……っ……」  上体を跳ね起こす。  幾多の負傷が存在を主張し、神経を焼いた。  前方に、佇む敵騎。  昏く輝く騎体は奇妙に揺らいで見えた。視覚が安定していないらしい。 「今のは…………  村正」 「村正」 «――ッ――»  衝撃が、一時的に機能を〈停止〉《シャットダウン》させていたのか。  劒冑の反応は数秒遅れた。 «御堂……» 「損傷状況を報告」 «……全身に無数の鏃……。  針鼠にされた心地よ» «戦闘行動への支障は大» 「鏃?」 «小さな鉄片よ。  其処彼処に突き刺さっている»  …………つまり。  先の砲弾は、〈榴弾〉《ハイエクスプロージブ》の一種であったのか。  着弾衝撃ではなく、炸薬の破裂によって中に仕込んだ鉄片を撒き散らし、敵の殺傷を期する。  ……しかし。 「何故だ……?」 «…………» 「何故そんなものを古式の劒冑が……」 «……てつはう» 「何?」  ……てつほう? «道は誤れど、鍛冶師の端くれか。  過去を学ぶに怠りはなかったと見ゆる» «……正解だったの。  真逆、と思ったけれど» «如何にもこれは〝〈鉄炮〉《てつはう》〟……  正宗〈七機巧〉《ななつのからくり》が一であり» «嘗て、蒙古どもが使いし武器でもある» 「!」  そうか。  名高き竹崎季長の蒙古襲来絵詞。  そこに描かれし怪兵器〝てつはう〟――  〈震天雷〉《シンテンライ》とも呼ばれた黎明の火器。  それならば相州正宗が知っていてもおかしくはない……! «……そんな代物。  よくも造れたものね» 「おそらくは武者の熱量を一種の〈気体爆薬〉《FAE》と成さしめて炸薬に代え、鉄片は甲鉄を割いて用立てたのだろうが……」  確かに、並みの発想ではない。 «ええ。  けれど、そういうことじゃないのよ。御堂» 「……?」 «そう、あの武器は甲鉄を原料にしている。  仕手の肉体と〈一体化〉《・・・》した甲鉄をね» «自分の骨肉を〈引き千切って〉《・・・・・・》敵にぶつける、なんて攻撃手段があっていいと思う?» 「!!」  俺は一条の姿を見直した。  ……荒い息をついている。  足元も覚束ない様子だ。  揺れていると見えたのは、錯覚ではなかった。  一条は苦悶していた。  ……己の骨肉を千切って敵に投擲するが如き攻撃法。  そんな真似をしたならば当然だ。  しかも―― «とんだ欠陥兵器よ» «……» «射程の短さに反して、効果範囲が〈広過ぎる〉《・・・・》。  ……自分で食らってるじゃないの»  村正が指摘する通り。  あの爆裂が正宗にも損傷を与えた事は見るも明らかだった。  無論、直撃されたこちらほどではないが……いや、大した違いは無いかもしれない。  一条の全身にも幾多の鋭い鉄針が食い込んでいる。 «クックック……  クハーッハッハッハッハッハッハッ!!» «〈それ〉《・・》が何だと云う?  邪甲〈輩〉《ばら》!» «……何ですって?» «侮るでないわ。  我が理念を。我が主の信念を!» «〈正宗〉《われら》は〈正義を貫徹する〉《・・・・・・・》。  それのみが肝心。他は瑣末事» «〈己〉《おの》が甲鉄を費やすのは、それこそ最も〈剛〉《つよ》い方法だからだ。  己を巻き添えにするのは、そうするまいと思えば剛さが欠け落ちるからだ» 「そうだ……」 «邪悪を打ち砕く剛さ!  正宗にはそれだけあれば良い。他には何も要らぬ!» 「ああ。  そうだ。正宗」 「……」 «……なんて無茶苦茶な» «見下げるか、村正……。  だがおのれは蒙昧にして知らぬのだ。正義に魂を捧げた者は不屈である事をまだ知らぬ» «これから思い知る!!  DAAAIIAAAAAHHHHH!!» 「……ッッ」  総身の傷など知らぬげな、一条の猪突。  一撃。  対してこちらは、反応がわずか遅れた。  為す術なく受け、衝撃を浴びる。  振動が全身の甲鉄に伝わり、骨格が麻痺する。  そこへ、返しの一打―― 「うぬ……っ」 «御堂!» 「大事なし」  ふらつく足を蹴り放って後退――と見せておき円転、敵騎の側面へ逃れる。  そんな小技が許される程度に、今の被弾の悪影響は留まっていた。流石に筋力が万全ではなかったのか。  一瞬こちらを見失った一条が、再び捉えて舌を打つ。 「ちっ……固ぇ」 «悪名を響かせるだけのものはある甲鉄だ。  忌々しいの……» 「だが、大したことじゃない」 «然り。  斬れぬなら、〈砕けば〉《・・・》良かろうよ» 「だ、なぁッ!!」 «……好き放題言われているわね。  御堂?» 「……」 «私たちがあいつを砕く。  いい?» 「……ああ」  村正の要請に応えて、〈丹田〉《サイクロトロン》を回す。  熱量放出。  迫る一条は一見して、芸の無い猪突猛進。  が、その姿勢は低く、重心もまた下にある。  同じ手は食わぬという事だろう。  それは良い――だがやはり甘い。  こちらの〈引き出し〉《・・・・》を見誤っている。 «〈磁装・正極〉《ながれ・まわる》――» 「――〈磁力加速〉《リニア・アクセル》」  正宗の刀撃を、対称的な一撃で迎え撃つ。  相撃。互いに跳ね返され、しかしそのまま次の一撃へ繋ぐ。  吉野御流、木霊打ち。  双方がこれを用いて戦えば、先刻も実証された通り、その様は稽古じむ。  ――だが。 「――!?」  稽古とはならない。  剣速に格段の差があったなら、そうはならない。  甲鉄の磁気侵食による動作最適化が〈無駄〉《ロス》という〈無駄〉《ロス》を殺し。  関節は存在を忘れるほどに軽く。  太刀はあたかも羽根を得たかのように踊る。    ――吉野御流、木霊打ちの村正崩し。  〈飛燕〉《ツバメ》打ち。 「ぎっ……」  この〈反則〉《・・》には対応の術が無かったろう。  眼前、息の届く間にあった敵影が吹き飛ぶ。  吹き飛ぶ――  そう、斬れてはいない。刃は弾かれていた。  恐ろしいまでに硬い手応え。  村正の堅牢さを〈詰〉《なじ》られる筋合いではなかった。  これほどの甲鉄を断ち切るには…… «御堂、時間を与えないで!  今よ!» 「――――」  結論は一致する。  大刀を、鞘へ。  この機に決着をつけねばならない。  体内でちからを回す。  今一度。しかし比較にならぬほどの力量を。  行き着く処は一つ。  ――――〈蒐窮の太刀〉《オワリノナガレ》。 「くそ……がっ!」 «御堂! 立てェい!»  〈徹〉《とお》らなかったとはいえ、武者の一太刀を浴びながら一条の回復は言語道断の早さだった。  既に膝を立て、剣を取り直している。  あまつさえ――    あれは、何か。  太刀の周囲に陽炎が昇り、近付く雨を霧と散らしている。  …………熱量を太刀に注いでいるのか?  あれも先刻の鉄炮と同様、五郎正宗固有の兵装なのかもしれない。  だが、その〈性能〉《ちから》を誇示する機会はない。  こちらが早い!  何をしようとも遅い。 「〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟」 «……御堂!?» 「ッ……」  ――外し――――た―――― 「ぎっ……」 「いぃ、がっ、」 「ぐぅぅぅるぅああああーーーーーーッッ!!」 «DAAIEDARAAAAAAAHHH!!» «キハーッハッハッハッハッハァーーーッ!!  どうだ……思い知ったか、妖甲よ!» «悪に報いあり!  正義に勝利あり!  世の真理は今ここにあり!»  湊斗景明は木にもたれている。  立ち上がる力を失くしていることは明白だった。  こうも斬られて、動ける筈がない。  傷口は〈じゃりじゃり〉《・・・・・・》と音を鳴らしていた。  焼かれているのだ。  まだ冷めやらぬ炎熱に。  似たような音は、自分の右腕からもする。  太刀を握る手が焼けている。  痛みはなかった。  多分、神経が既に焼き切れたのだろう。  腕と太刀は焼接されて、もう一本の棒だ。  それでも動かせる。  この〈正宗〉《つるぎ》は〈武者〉《おれ》が戦いを望む限り、力をくれる。  真紅色の武者の前へ、歩み寄った。  雨粒を焼いて煙を立てる刀を、喉元に突き付ける。 「殺す……ぞ……」 「……」  返答はない。  聴いていることは、目を見ればわかる。けれど何も返してはこない。  言葉も。〈眸〉《ひとみ》の光すらも。  それがとてつもなく癇に障った。 「できないとでも、思ってるのか」  気のせいか。  この台詞は二度目であるように思う。  だとすると、あたしは何を未練がましく繰り返しているのか。  彼に、それを否定された覚えもないのに。  頭が痛い。  しかし、そんなものより遥かに痛く辛い何かが、胸の奥からせり上がってきている。  良くない。  この光景は良くない。  この男は良くない。  終わらせるべきだ。  罪人の首を〈刎〉《は》ねよう。  この男は人殺し。  六波羅とも銀星号とも関わりのない、何も悪くない人間を幾人も殺したのだ。本人がそう認めた。  あたしはそんな奴を許さない。  正宗という力を手に入れた今、そんな奴を滅ぼす事があたしの役目だ。  正義の味方は何処にもいない。  だから、あたしが正義に味方する。  非凡な力を持つ武者でありながら、その力で弱者を殺すような奴は、あたしの手で倒す。  どんな理由があっても許さない。  許してはならない。  そう、教えられた。  ………………………………誰に? 「……うくっ……」  心臓が、鼓動を一回だけ飛ばした。  息が止まり、肌が震える。  早くしよう。  悪を許さないのなら、もう殺すだけでいい。  すぐに済む。  剣を一突きして終わりだ。 「なんでだよ……」 「……」 「なんで……  何も言わない」  誰かがしつこく、湊斗景明を問い詰めている。  あたしはもう、許さないと決めているのに。  煩わしい……。 「言えよ!」 「……」 「理由があったんだろ!?  どうしようもなかったんだろっ!?」 「あんたはそうするしかなかったんだろぉ!?」 「……呪いだよ」 「呪い……?」 「村正が妖甲と称される所以。  ……善悪相殺の掟。その呪縛」 「悪しきものを一つ斬ったなら、  善きものも一つ斬る」 「景明の意思とは関わりなく」 「……な」 「呪いで最初に殺したのは自分の〈養母〉《はは》だ。  あいつは一番最初に、一番大切な人間を手に掛けた」 「だから引き返せなくなった。  そこから始まった全てを終わらせるための……戦いの道を」 「――――」 「……それでも止めてやるべきだったのかもしれない。  そうだろうな。おそらくは。きっとそうだろう」 「だが……私は景明を戦わせている。  呪いも、何もかも、全て承知の上で」 「他にいないからだ。  銀星号と戦い、その〝卵〟を破壊し、災厄の拡散を防いでくれる武者は……」 「責められるべきは、私だよ」 「…………」 「……」 「……」 「…………」 「こ……のっっ!!」  太刀を手元に引き戻し、体重を掛けて突き出す。  破滅的な高温を宿した切先は、甲鉄を水飴も同然に貫いた。  肉を焦がす。  その下の内臓をも焼き上げる。 「ぐふ……」 「どうだ……」 「…………。  場所が違う」 「……何?」 「そんな所を刺しても……  武者は死なぬ」 「てめ……」  湊斗景明の言う通りだ。  喉元に当てていた刀を、わざわざ引き戻して、胸へ突き入れて……どうする。  そのまま刺せば、それで良かった。  ……今からそうしよう。  すぐに。  許されざる罪人を殺すために。 「ほかにあるだろ……」 「言う事ならほかにあるはずだろ!」 「……」 「無くも……ない」 「言えた筋合いでも……ないが……」 「……」 「……銀星号を……頼む」 「………………」 「な、に?」 「その正宗ならば……あるいは……  止められるかもしれない」 「頼む……」 「違うだろッ!!  そんなこと聞きたいんじゃねぇよ!!」 「……?」 「あんたは悪くないんだろうがっ!  なのに、殺されていいわけねぇだろ!」 「あたしに理由を言えよ!  呪いのせいだったんだって、説明しろよ!」 「………………」 「そうすりゃ……  そうしてくれれば……」 「関係……ない」 「――――」 「罪は……罪。  悪は……悪」 「それを裁こうとする……お前は、正しい。  理由など……関係ない……」 「悪は」 「罪は」 「――――――」 「許しては、ならないのだ」          私を止めてはならない          私を許してはならない              憎め           私の犯した罪を憎め           私という悪を憎め              憎め            怒れ              殺せ 「……やだよぅ……」 「一条……」 「やだよ……父様……  もう、やだよ……」 「死なないで……」 「……父様……  ………湊斗さん………」 「…………」  俺は――――  〈縋〉《すが》りつき、泣きじゃくる一条を、ただ眺めやることしかできなかった。  ――手を貸して欲しいと、一条は俺に告げた。 「……来てくれたか」 「はい」 「…………」 「署長……どういう事です?」 「あたしが話します」 「一条……」 「昨日、頼まれたんです。  大和の平和を取り戻すための戦いに、力を貸して欲しいって」 「あたしは、引き受けることにしました」 「…………」 「湊斗さん。  お願いです」 「あたしを手伝ってください」  少女は――  真っ直ぐに、俺を見詰めてそう言った。 「自分の未熟はわかってます。  だから、湊斗さんに補って欲しいんです」 「しかし、俺は……」  今は一条とて知っている筈だ。  おそらく、署長が話したのだろうが。  戦い、誰かを敵として殺したなら……  味方の誰かをも殺さねばならない。 「湊斗さんはもう、殺さなくていい。  〈それ〉《・・》はあたしがやります」 「六波羅はあたしが殺します。  銀星号もあたしが殺します」 「湊斗さんはあたしに力を貸してくれるだけでいいんです」 「…………」 «御堂。どういう〈意図〉《つもり》か。  この者は、» 「黙ってろ」 «……» 「あたしは正義を貫く。  そのために、湊斗さんの力が要るんだ」 「……一条」  力を貸すだけでいい。  殺さなくてもいい。  ――もう。  罪もなく、敵でもない人間を、この手に掛けなくても済む。  この手で。  殺さずに、済む。 「湊斗さん」 「一緒に……来てください」 「…………」 「わかった。綾弥一条……  お前に従おう」 「……景明」 «…………»  ……〈普陀楽〉《フダラク》城塞。  ふだらくとは、仏教的宇宙観における浄土の一つを云う。  天龍寺派臨済宗を始めとする仏教への帰依が深い、六波羅ならではの名であろう。  しかし、命名にあたっては一悶着があったらしい。 「……そういえば、前から気になってたんですけど」 「ああ」 「ふだらくって、ふつう普陀落とか、普陀洛とかって書きませんか。  仏教関係の本なんかだと……」 「それが問題になった」  空中へ字を書いて問う一条に、頷く。 「城名にあてる漢字としてはあまりに縁起が悪かろう。  落は無論、洛にしても」 「……そりゃそうですね」 「そこで一字変えて、普陀楽城となった。  そのせいかどうかは知らないが、この城は落城は無論、未だ攻め寄せられた経験もない」  竣工から五年も経たぬ歴史の浅さであれば当然と、そう言ってしまえばそれまでの事だが。  見る者に攻撃の意欲を失わせるほどの威容を示している事もまた、事実である。  威容のうちどの程度が実力で、どの程度が虚仮威しであるのか。セヴァストポリかそれとも五稜郭か。  ……政情の行方によってはいずれ、問われることも有り得よう。 (政情、か……)  そこへ一石を投じる結果にはなる。  俺と一条がこの城へ入り、〈役目〉《・・》を果たせば。 「小弓公方、今川雷蝶……。  この男が今、幕府の主導権を握りたがってあくせくしてるんやけど」 「そうは問屋が卸さん。  血筋からいえば四公方の筆頭やけどな……それだけで納得するほど他の三人は甘くない」 「結局、邦氏の後見には長老格の遊佐童心が立てられて、雷蝶は風下にやられてもうた。  そこで……な」 「この雷蝶に力を貸す。  こっちの政治的地位の向上と引き換えにな。六波羅の執権に押し上げてやるんや……」 「朝廷の権威で後光をつけてやったり。  幕府の内側にいたらやりにくい〈仕事〉《・・》を代行してやったりしてな」 「そや。仕事や……。  それを景明くんと一条さんには頼みたい」 「今の雷蝶には童心が目の上の〈瘤〉《こぶ》。  しゃあけど自分で〈ちょっかい〉《・・・・・》かけたらすぐバレてまうわ」 「そこでうちらが手を出す。  遊佐童心の権威が失墜するような事件を、普陀楽城に潜入して引き起こしてやるんよ」 「手引きは雷蝶の配下がしてくれる……」 「具体的なとこは任せるわ。  けど、やり過ぎないように気ぃつけてな。幕府を操るのがこっちの目的なんやから」 「潰してもうたら元も子もない……。  進駐軍っちゅうもう一つの敵がおることも忘れんといてな」 「自分は新任の〈政所公人〉《まんどころくにん》、〈改景秋〉《あらたかげあき》です。  こちらは同じく、〈改一媛〉《あらたいちひめ》」 「担当の方にお取次ぎを願います」 「お待ち下さい。 …………本日着任、〈印旛〉《いんば》代官所より転出の改景秋殿。はっ、承っております」 「どうぞお通り下さい。  只今、政所へ連絡致します」 「有難うございます」  いかにも門衛らしい、堅物の顔貌をした中年武官に会釈して通用門を潜り抜ける。  その先は民間人には無縁の世界、つまり俺にも全く未知の領域だった。  見晴るかせば、山の形状に沿う格好で道が――堀が刻まれ、天然あるいは人工の棚に曲輪が築かれている。  甲州武田流の、典型的な平山竜塞だ。規模が多くの先例とは余りにも違い過ぎるが。 「あそこに行けばいいんでしょうか」 「いや」  最も手近な曲輪を指差して、一条。  俺は〈頭〉《かぶり》を振った。  普陀楽城の内部構造などが公開されている筈もなく、事前調査で得られた情報はごく僅かなものに過ぎない。  しかしそれでも、通例に照らせばある程度まで推察する事は可能だった。 「あれはおそらく下級武官の詰所だ。  政務施設は普通、ずっと奥にある」 「……じゃあ、山登りですか?」  呆れたようなその声は、面倒を嫌がったのではなく、毎朝幕府の役人達が群れを成して登山する光景を想像したためのものだろう。  苦笑して、誤解を訂正する。 「その必要はない。  待っていれば、迎えが来る」 「……迎え?」  ピンと来ない様子の、〈鸚鵡〉《おうむ》返し。  俺は山裾へ向かって延びてゆく大手道を指し示した。 「アスファルトで舗装されている。  ……最新の技術だな。凹凸が少ない」 「そうですね…………あ、そうか」  一条が気付くのと前後して、空虚ながらも重々しい低音が山の斜面を滑り落ちてくる。  〈内燃機関〉《エンジン》の排気音だった。  思ったよりも早い。  あの実直そうな門衛は自分で言った通り、速やかに連絡をしてくれたようだ。 「車かぁ」 「これだけ広い城内だ。  移動手段が徒歩に限られては機能すまい」 「丁寧に舗装された道路もある……。  本丸から大手門まで、ものの十数分もあれば行き着けるのかもしれんな」 「便利なもんですね」 「火急の折、兵員を迅速に展開するのにも役立ちそうだ」  この城へ攻め込む者にとっても同じ事が言えるが。  いや、だからこそのアスファルト舗装なのかもしれなかった。コンクリートではなく。  コンクリート舗装の方が耐久性は高い。  五〇トン超の重戦車の走行にも耐えられるだろう。これがアスファルトだと、路面の損傷は避けられない。  しかしアスファルトは処理が容易である。  敵に使われかねない場合は破壊し、自軍が使う時にまた敷設、という腰の軽い運用も不可能ではない。  ……尤も、それもコストを度外視すればの話だ。  実際にそこまでするものかは未知数だった。 「国産車だな」 「あっ。  そういえば新聞で見たことあります。これ」 「トミタAA型。  国産乗用車の第一号だ」 「この城で使われている車は全て国産ですよ。  値は張りますが、それが公人の嗜みというものですからね」 「全く同意できます。その姿勢なくして国内産業の育成は成し得ません。  ……貴方が、今川中将閣下の?」 「無用心ですよ、湊斗様。ここで迂闊にその名前を口になさいますな。  私は表向き小弓とは何の関係もない一介の役人を装い、〈密偵〉《スパイ》活動をしているのですから」 「とてもそうは見えませんが」 「ふふふ……当然でしょう。  そうでなくては密偵など務まりませんもの」 「湊斗さん。  話が通じてないような気が」 「俺もそう思う」 「さ、どうぞ。  まずは官舎へご案内します」 「この一棟をお使い下さい」 「え?  ここ一軒、全部?」 「少し前まで警備兵の詰所だったものです。  住むには手狭で、少々不自由をお掛けするかもしれませんが」 「充分です。  他の官舎から離れているのがいい」 「ええ。その点を考慮して手配しました。  ここでの会話は誰にも聞かれずに済みます」 「それでも油断はなさいませぬように」 「心得ております。  ところで」 「はい」 「今後、貴方と連絡を取る際にはどのようにしましょう」 「政所で、〈寄人〉《よりゅうど》の岩田を呼び出して下されば結構です。  お二人は私の部下という事になっていますから、人目を憚る必要はありません」 「了解しました」 「他には何か?」 「あ、あのー」 「はい?」 「あたしと湊斗さんがここで一緒に暮らして、その、問題とかないのか?  傍目にかなり怪しいような気が……」 「? 大丈夫ですよ。  お二人は夫婦ということになっていますし」 「……宿舎は外壁や天守ほど頑丈に出来ていませんので、柱へ強烈な頭突き等を加えるのはご遠慮下さい」 「だそうだ、一条」 「で、でで、でも!  夫婦!?」 「知らなかったのか」 「聞いてませんし!」 「偽名の苗字を同じにしただろう」 「そ、それは、兄妹なのかなーと」 「夫婦ということにしておかないと、宿舎を分けられてしまうだろうが。  それでは不便で困る」 「そりゃそうですけど!」 「嫌なのか」 「え……え?」 「俺と夫婦を装うのは嫌か」 「そ、それは……  そんなことは……」 「俺は嫌だ」 「サマーソルトキックもご遠慮下さい」 「だそうだ、一条」 「うっ、うぅ……だって……」 「婚姻とは神前で誓うべきもの。  方便で詐称するのは気が進まん」 「……はぁ」 「だが、その点を置けば。  お前のような見目良い少女と住まいを共にするのは男性として率直に喜ばしい」 「あなた、わざとやってませんか?」 「何の事でしょう」 「わ……うわーーー!!  馬がっ、馬がっ」 「ともかく、我々は早速行動に移ります」 「最初はどのように?」 「情報収集を。  城内の人物と事物を己の耳目で確認します」 「計画立案は、その後に」 「そうですね。それが宜しいでしょう」 「まずは〈標的〉《ターゲット》の実像を知りたいところです。  手配りをして頂けますか」 「そのくらいならすぐに。業務にかこつけて面会できるよう取り計らいましょう。  その間に、入浴を済ませておいて下さい」 「成程……。  身嗜みに〈煩〉《うるさ》い人物ですか」 「ええ。  馬糞臭い少女が公文書を持って来たら怒ると思います」  馬糞臭い少女を風呂に浸からせた後、岩田女史から書類を受け取って普陀楽城本丸へ入る。  書類自体は、どうという事もない定期報告書だった。しかし執政に提出し、捺印を貰う必要がある。  格好の材料だった。あの工作員の仕事はなかなか手早くそつがない。  これで現在の幕府執政――唯一城に残っている公方、遊佐童心に何の不自然もなく会う事が叶う。 「遊佐童心って、どんな奴なんでしょう」 「それを多少なりと知る為に会いに行くのだが」  周囲を確認する。  幸い、人影はない。 (言葉遣いに注意しろ。宿舎とは違う、どこで誰が聞いているかわからん。  六波羅の新米小役人になり切っておけ) (あ、はい。  すみません)  小声で注意してから、話を続ける。 「遊佐〈惟盛〉《これもり》入道童心……関東四公方の最年長であられ、〈前〉《さきの》大将領護氏殿下の懐刀と目されていた御方でもある。  軍政両略の道に明るく」 「その一方、文化芸能も大いに好まれ、多くの芸術家を保護しまた御自ら嗜まれる。  単なる伝統保守よりも新奇な試み、前衛的な挑戦を愛されるその姿勢と……」 「公務においてもしばしば型破りな振舞いを見せることから――人呼んで、〈婆娑羅〉《バサラ》公方。  俺が知っているのはこの程度だ」  一般常識の範疇である。 「あたしもそのくらいです。  六波羅のれんちゅ……方々って、私生活とか、生々しい姿をほとんど新聞や雑誌に見せませんから」 「確かに」  世界各国の王侯貴族と比較しても少ない方だろう。  それはおそらく――大和支配という〈軍事行動〉《・・・・》の最中であるとの認識が彼らの〈裡〉《うち》にあるからだ。  平和時の富貴層の義務として、大衆に〈世間話〉《ゴシップ》の種を提供するよう振舞うのは、全てが終わった後……  大和唯一にして絶対の支配者に成り〈果〉《おお》せた後の事だろう。  多くの血を流した末に。あるいは流し〈ながら〉《・・・》。  ……そうさせぬ為に、俺と一条は此処にいた。 「関東第六区の食糧状況報告を提出に参りました。  遊佐中将閣下にお取次ぎ願います」 「かしこまりました。  お待ち下さい」  小姓と思しき少年が通路の奥へ消える。  待つというほどの時間は経たなかった。  少年が戻り、無言で脇へ下がって通行を促す。  軽く会釈して、俺は進んだ。  背に一条が続く。  十歩ほどで、ごく質朴な書院に行き当たった。  襖の前で着座し、こちらに背中を向けている大柄な人物に対して礼を執る。 「構わぬぞ。  入れ」 「はっ」  余り頭を上げぬよう注意しつつ、敷居を跨ぐ。  無礼をしようが部屋の主には見えまい。が、小姓の目が背後から光っていることは疑いなく、やはり態度は慎まねばならなかった。  死角の一条がどう振舞っているか少し気に掛かる。  ……堂々と胸を張っていたりしなければ良いが。 「宇都宮からの報告か」 「は」 「穀類の不足は深刻かの?」 「……御意。  このままでは、配給制に移行せざるを得なくなる恐れも有りとの事」 「ふむぅ。  岡部の乱が祟っておるな」 「は……。  総じて食糧事情は改善の方向へ向かってはおりますが、北関東の一部は例外と言わねばなりません」 「軍の徴発が苛酷であったからの。  それにあの辺りの町や村をいくつか、反乱に加担した咎で〈鏖殺〉《つぶ》してしもうたのも響いておる……」 「向後を思えば見せしめは必要であったしの、獅子吼殿のやりようを責める気はないが。  農業人口をいきなり千人単位で削られてはなァ。経済が土台から崩れてしまうわ」 「……はっ……」 「さて、さて……。  どうしたものやら」  書類を見もせず、背を向けたまま、遊佐童心入道は悩ましそうに唸る。  それでいて、どこか心ここにあらずの態でもあった――細かい手作業の最中のようだ。 「茶々丸殿に頭を下げねばならんかな。  〈駿豆〉《すんず》の豊かさをちぃと他へ回してくれ、と……」 「……」 「借りを作るのは少々恐ろしい相手だがの」 「左様で、ございましょうか」 「ふっふ……。  おぬし、あの姫御を侮るか?」 「滅相も」  侮る以前に、そもそも一面識もない。 「あれは〈人食い虎〉《・・・・》ぞ?  堀越騒動の顛末を知らぬわけではあるまい……」 「…………」 「足利茶々丸、今川雷蝶、大鳥獅子吼……  みな若く、猛々しく、企み深い、恐ろしき者どもよ」 「裏も表もない正直者はこの童心くらいじゃ。  はぁっはっはっはっはっ!」  とびきりの冗談を口にしたように、四公方の首席は高く笑う。  追従して笑っていいものかどうか、俺は悩み。結局やめた。  恐縮の風で頭を垂れるに留めておく。 「聴かぬ声よの」 「……はっ?」 「政所の者は皆、見知っておるつもりでいたが……  おぬしとは〈今度〉《こたび》が初見よな?」 「……これは。  御挨拶が遅れ、申し訳御座いません」  慌てて詫びる。  些かならず驚かされていた。  今現在の普陀楽城における事実上の主とも言えようこの古河公方が、城の末端、雑用事務に従事する下級文官の一人一人まで把握しているとは……  俄かには信じ難い。  あるいは〈かま〉《・・》を掛けられたのかとも思う。  しかし、確証もなく下手に〈白〉《しら》を切るのは危険だった。 「自分は改景秋と申します。  本日より出仕させて頂いております」 「改、のぅ……。  〈そちらの〉《・・・・》娘御は?」 「は。自分の妻にて、一媛と申します」  ……公方は一度も振り返っておらず、一条は一言も口にしていない筈だが。 「未熟者ゆえ至らぬ点は多々あることと存じますが、どうか御指導御鞭撻の程を」 「ほゥ。  〈夫婦〉《めおと》で出仕とは、感心よの」 「恥ずかしながら、病の父母を養わねばならぬ事情もあり、自分一人の務めでは暮らしが立ちゆかず。こちらへ参ります際に願い出て、妻の任官をお許し頂きました」 「〈何処〉《いずこ》より参った?」 「印旛代官所に務めておりました」 「印旛沼か……」 「はい」 「あの沼は、厄介だのう」 「は……。  二年前の水害では周辺の村々が相当な痛手を受けました」 「五年前にも、大洪水を起こしておる」 「はっ」 「すると……むぅ。  来年、また〈ある〉《・・》ということかな」 「そのように噂する者もおりまする」  見てきたように、つらつらと口にする。  実感をもって聴こえていれば良いが……。 「治水工事を完成させねばならんの。  印旛沼の洪水は、幕府の蔵米に直接響く」 「差し出口では御座いますが……  何卒、お願い申し上げます」 「うむ……」  難しげに首肯して、公方は口を切った。  しばらく、かちゃりかちゃりと何かの小道具を〈弄〉《いじ》る音だけが耳孔を占める。  書類を置いて、退出すべきか……。 「御新造」 「――」 「……」 (お前だ) 「あっ……はい」 「余り口を利かれぬな」 「え……と、まぁ」 「申し訳ありませぬ」  旨くない事態になる前に、俺は予防線を張った。 「この者、骨惜しみせず良く働くのですが、どうも言葉の遣い方を知らぬところがあり。  公方様の前では口を開かぬよう、予め言い聞かせておりました」 「〈女子〉《おなご》に口を閉ざせとは、おぬしも酷よのう。  構わぬ、構わぬ。若いうちは無礼も愛嬌。好きなように喋らせい」 「は……。  お言葉とあれば」  一条に目線で合図を送る。  無言の意は通じた筈だ――その証拠にやはり目線で頷いてきた一条は、少なくとも表面上は、六波羅への敵愾心を押し殺していた。 「普陀楽は如何かな?」 「でっかいですね。  馬鹿みたく」 「……」 「ほゥ、ほゥ。  気に食わんか、この城は」 「いえ。別に。  金の無駄遣いだなって思うだけです」 「はっはっは!  なるほど、率直な物言いをする」 「……面目次第も」 「良い良い。怒ってはおらぬ。  こうも明け透けだと清々しい程よ」 「して、御細君。  何ゆえ金の無駄だと思う?」 「わからないんですか?」 「いちっ……媛」 「うむ。ご教示くだされ」 「簡単な事です。  〈落ちない城なんてどこにも無い〉《・・・・・・・・・・・・・・》。どんなに守りを固めたって、落ちる時は落ちるのが城です」 「そんなものに金を掛けるのは馬鹿げてます」 「ほっ!」 「……」 「改とやら」 「は」 「おぬしの妻は、まことの賢人よの」 「……何と申しましたものか……」  返答のしようがない。 「いや、いちいちもっともな話じゃ。  しかしの……一媛どの」 「何ですか」 「確かにこの城は、貴重な金穀を湯水のように投じて造られておる。  おそらくもっとましな使い道がいくらでもあったことだろうて」 「それでも……無駄では、ないぞ」 「そうでしょうか」  一条が一言で返す。  控えめにみてもそれは返答というより反駁であったし、挑戦的でもあった。 「うむ」 「どんな意味があるんですか」 「わからぬかな」 「……はい」 「それはの」  一度、言葉を切り。  それから、法体の武将は〈厳〉《いかめ》しくも述べた。 「虚仮威しじゃ。  ほれ、でっかい城を建てればみんな〈びびる〉《・・・》ではないか」 「…………」 「……」 「ふぁっはっはっはっはっは!!」  腹を揺らして、遊佐入道は笑った。  ちらりと背後の様子を窺う。  ……あからさまに、憮然としていた。  無理もないが。見られていないのは幸いだ。 「要は、これと同じよ」  相変わらず、こちらには背を寄越したままで。  中将は肩越しに、何かを突き出して見せた。  先刻からずっと弄り回していた物のようだが……。 「茶杓……で、御座いますか」 「いかにも」  竹で出来た小匙。  確かに、茶道具の一つに数えられるそれである。 「銘を〝〈思草〉《オモイグサ》〟と申す。  肥後細川家に代々伝えられていたものでの」 「小堀遠州の作であると云う。  数年前、無理を言って譲ってもろうた」  櫂先の屈曲がやや深い……。  そこからの銘か。 「……見事なお品と」 「であろう」 「……」 「名人、小堀遠江守が手がけ……  比類ない芸道大名、細川家において三百年二十代に渡り丁重に扱われ、磨き上げられてきたこの茶杓」 「得もいわれぬ風格が備わっておるわ。  これほどの品、世にいくつもあるまいて」 「まさに」 「しかし、の。  ……一媛どのはこれをどう見る?」 「小汚い竹の切れっぱし」 「然り!  まったく、みすぼらしい竹よのう。庭先に転がっておれば踏んでしまうわ」 「……」 「普陀楽城も、これと変わらぬ」 「は」 「はぁ?」 「恐ろしき城と思えばそう見えよう。  張り子の虎と思えばそう見えよう」 「どちらも真実。  どちらも正鵠」 「見る者が、決めれば良い。  しからば世の万物に意味はなく、世の万物に意味はあろう……」 「……」 「…………」 「ほれ。〈普陀楽城〉《・・・・》じゃ。  くれてやろう」  こちらを見ず、公方が茶杓をぽいっと放る。  それは正確に、一条の手の上へ落ちた。 「え?」 「……何と?」 「駄賃代わりに、持ってゆけ」 「し、しかし……これは」  所謂一つの、〈値が付けられない〉《・・・・・・・・》品ではないのか。  そんなものを――真逆。  一条も古竹の小匙を握ったまま、どうしたものかと案じている。  別に有難くはないにしても、それは、戸惑いもするだろう。 「どうした?  気に入らぬか」 「そのような事は決して。  しかし、自分の身の程に釣り合うものとは到底思えず」 「そう卑下するでない。  たかが耳掻きを貰った程度で」 「……は?」 「耳……掻き?」 「うむ。  ほれ、わしは頭が大きいからの。耳掻きもそれくらいの大きさがないと用が足りぬ」 「先頃、自分で作ってみた耳掻きじゃ。  世に二つとない珍品であろうよ」 「……」 「はあっはっはっはっはっはっはっは!!」 「…………あっ」 「……こんの糞坊主……!」 「おう、からかいが過ぎたかの。  桑原桑原」 「改、報告書はそこに置いてゆけ。  奥方がわしの禿頭をひっぱたく前に、連れ出してくれい」 「は……  御意に」 「ご苦労であった」 「はっ。  失礼致します」  古河公方は最後までこちらを見なかった。  目の合図で、一条に退出を促す。  からかわれた事への不快さを隠しもしていなかったが。少女は逆らいはせず、むっと押し黙ったまま立ち上がった。  俺もそれに続く。  踵を返す前、畳の上に落ちたそれを一度だけ見た。  無残に折れた竹の小杓。 「…………」 「〈小汚い竹の切れっぱし〉《・・・・・・・・・・》、よ」 「……」 「であろう?」 「……はっ」 「味をみるには目で見るな、と申すわ……」 「…………」 「また杜撰な手を打ってきたものよのぅ。  やぁれ、やれ……」 「義清」 「はっ」 「柳生常闇をこれへ」 「なかなか、一筋縄ではいかぬ仁のようだ」 「ただの腐れ坊主ですよっ。  人を馬鹿にしやがって……!」  一条はまだ、憤懣冷めやらぬ様子だった。  先刻の注意が一応生きているのか、大声を上げてはいないものの、全身から不機嫌の気色が滲む。  ここは本丸から官僚宿舎のある二ノ丸へ通ずる道の一つだが、勾配がきついせいか、他に通行者はない。  さもあろうと期待して選んだのだが、どうやらその判断は報われている。  とはいえ。 「一条。  もう少し、感情を隠せ」 「……はい。  そうしなきゃならないのは、わかってるんですけど」 「ままならないのか」 「どうしても……」  羞恥からか、一条は俯いた。  敵地に潜んで違和なく溶け込む。  確かに、この素直な――素直過ぎる少女には難しかろう。 (短期決戦だな)  最初から抱いていた方針を再確認する。  時間を掛けても自滅に至るだけだ。  それは何も一条一人の責任ではなかった。俺とても潜入工作などという繊細な任務に適した柄ではない。  〈襤褸〉《ぼろ》はすぐに出る。だからその前に〈疾〉《と》く任務を終え、去る。  そうするに如くはない。俺と一条の二人組では。  入念な準備工作を放棄する以上、至極乱暴な作戦になってしまうのは避けられそうにもないが……元よりそれは親王も承知の上だろう。  むしろ〈ある程度の乱暴さ〉《・・・・・・・・》は望んでいる。  驕れる武力集団六波羅の横面を張り飛ばすべくして――それには同盟者今川雷蝶に力を見せ付けるという意味も含まれる――わざわざ二騎の武者を送ったのだ。  いない筈はなかろう、専門の工作員ではなく。  問題はその舞殿宮の希望を、どう具体的なプランへ落とし込むかだが……。 「みな――景秋、さん」 「ん……」  急に名を呼ばわれて、思索から撤退する。  自分の口でした呼び方に惑乱させられた風で一条は頬を赤らめていたが、別にその行為自体が目的ではなかったらしい。  道の先を指し示している。  女性がいた。  若い。美しいようにも見える。  しかしそれは別段、訝しむに値しない。同様の条件に該当する女性はこの王城にいくらもいるだろう。  女の身でわざわざ、こんな険しい道を選んで歩くのは奇異といえば奇異だが……  それも怪しむほどの事ではない。一条とて、何の苦もなく歩んでいる。  にも拘わらず事実として、その女性は注意を引いた。  奇抜な格好をしているという事もない。  ごく、素朴な装束だ……岩田女史のような、役人用の機能的なものとはまた違う種の。  といって、雑用婦の身なりでもない。    結局、そこが引っ掛かるのか。  服装はその人の身分、立場を表すものだ。  が、女性の格好からはそれが見えない。  容貌には気品があり、その点のみ見れば権門の姫とも思える。しかし服装を含めれば明らかに違う。  奥で奉仕する女官にも城内の神社の〈巫〉《かんなぎ》にも役人にも武官にも掃除人にも食堂の飯炊きにも見えない。  この城内は人間の階級と役割が厳格に規定された小社会を構成している。なのにその何処にも該当しない。  浮いているのだった。その姿が――所在無げな態度も含めて。 「もし」  思考の開始から行動まではほんの数秒だった。  しかし迷いはあった。  六波羅の役人としては、不審な女性を見過ごさないべきだろう。だが――実は彼女は不審でも何でもなく、城内の住人なら誰でも知っている、少し特殊な立場の人間なのかもしれない。  であれば無知な対応は命取りになり得る。新任の者だから、で済むとは限らないのだ。    が、結局。俺が〈木札〉《コマ》を張ったのはこちらだった。 「……はい」 「何か、難儀されておいでですか」 「難儀というほどのことでは……」  臆するように、女性が目元を伏せた。  つい、それにつられて。視線を女性の足元へ遣る。  どう検討しても山歩きには適さないであろう薄手の履物は、土で茶色く汚れていた。  ……今のはあまり、正直な発言ではなかったようだ。 「車を呼びましょう。  ここでお待ち頂けますか」 「いえ、本当に……結構です。  ご厚意だけ、頂戴致します」 「しかし〈御御足〉《おみあし》が」 「すぐ、近いのです」  目的地がということだろう。 「……近い……はずなので」 「はず?」  曖昧に濁された言葉尻を、一条が捕まえた。  女性は応えず、目を逸らす。  少し、頬が赤らんでいた。  ……ああ。  成程。 「この城は広過ぎます」 「……ええ。  本当に」 「どちらへ?」 「京極屋敷まで……」 「京極……  侍所所司、京極善門様の御屋敷ですか?」 「はい」  京極家ゆかりの人間か。  しかし、単なる武家の妻女という様相でもないのだが……。 「さて……」  それはそれとして、困った。  屋敷地の当て推量は可能だが、正確なところまではわからない。 「京極屋敷……  あぁ、あれかな?」 「わかるのか」 「はいっ。  さっき――見た時に、そんなのがあったと」  一条が言葉を飛ばしたのは『雷蝶の手下が用意した城の見取り図を』とは言えなかったからだろう。  先刻宿舎でそれを見せられた際に、色々と記憶しておいたようだ。 「では、御婦人。  御案内仕ります」 「……申し訳ありません。  それではお手を煩わせますが、よろしくお願いします」 「……お前の迷子癖を忘れていた俺が浅はかだった」 「ちっ、違うんです!  地球の自転が……プレートテクトニクスがあたしの計算を裏切って……!」 「………………」  迷子の女性と案内役の出会いは、化学変化を起こし、三人の迷子を出現させていた。  〈木乃伊〉《ミイラ》取りが木乃伊になったとも云う。  気付けば空は茜色。  鴉の声が耳に痛い。 「面目ありません、御婦人。  かえって御迷惑をお掛けしてしまいました」 「いえ、そんな」 「大丈夫です!  今度は……今度はっ……」 「地面に棒を立てて、お前は何をする気だ」  末期的だった。  さんざん引き回された女性は腹を立ててこそいないものの、腑に落ちない様子で小首を傾げてはいる。  その意味する向きは大体想像がついた。  先回りして答えておく。 「実は……今日着任したばかりなのです。  城内の地理に、明るいとはいえず」 「そうでしたか……」 「申し遅れました。  自分は〈政所公人〉《まんどころくにん》、改景秋です」 「こちらは同じく一媛」 「岡部桜子です。  挨拶もせず、こちらこそ失礼致しました」 「……岡部?」 「……」  岡部といえば――  先日、会津猪苗代で反乱の兵を起こし。大鳥獅子吼率いる幕軍に敗れ、討ち果たされた……あの。 「〈弾正尹〉《だんじょういん》頼綱公の御息女であらせられましたのか」 「はい」 「これは……  知らなかった事とはいえ、御無礼を」 「……そのようなお気遣いは無用に。  今はただ、賊将の落とし胤というだけの事に過ぎません」  感情なく、岡部の姫が言う。  俺は暫時、続けるべき言葉を持たなかった。一条も絶句している。  その足元に倒れた棒――よりにもよって崖のある西へ向いていた――をさりげなく蹴り飛ばしつつ、胸中の〈断片群〉《パズルピース》に整合をつけてゆく。  ……成程。それでこの、〈浮いた姿〉《・・・・》か。  岡部頼綱。一時は足利護氏に匹敵する権勢を有し、弾正尹――皇族を当てるのが通例であった――の官職まで得た人物。  その、娘。  名家の出自ではあるが、今はその名声を公に認められない。高貴であるが、富貴を失っている。  といって、〈地下〉《じげ》に居場所を得られるわけでもなく。  本人の語る通り、ただ敗将の胤であり、それ以外の何者でも有り得ない。  この城にあって存在が際立つのは当然だった。 「わたくしもほんの一週間ほど前、京極家の預かりとなることが決まり、篠川公方府からこの城へ移されたばかりなのです。  それで、道もまだ良くわからず……」 「……は」  半端な相槌を打って、歩みを再開する。  方角の見当はかなり〈適当〉《アバウト》なものだった。しかし立ち止まっていては空気の停滞に耐えられそうもなかった。  考えた事はさして変わりなかったのだろう。  他の二人も躊躇なく歩き始める。 (同じだな……)  ふと、そんな事を思った。  俺と一条と岡部の姫。侵入者二人と死せる敵将の娘。  どちらにとっても、この荘厳な城は安住の地となり得ない……。  こちらが城に馴染まぬと知って、似たような感興を抱いたのか。  深い孤立に彩られていた姫君の〈貌〉《かお》は、今はわずかに柔らかかった。 「……何か?」 「あ……いえ」  急に声を掛けられ、一条が泡を食う。  何を思ってか桜子姫の横顔を注視していたようだが、〈反応〉《レスポンス》があるとは予想だにしていなかったらしい。 「その、綺麗だなって思って。  なんていうか、さすがお姫さまっていうか」 「……ありがとうございます。  でも、奥御殿にいらっしゃる姫様方の方がずっとお美しいでしょう」  いくらかの羞恥を滲ませて、姫が小さく応える。  確かに、ここから遠くない場所で安逸を貪っているであろう貴婦人達とは、身を包む装いの点で格段の差があるに違いない。  が。  一条は、首を左右した。 「そんな、格好だけのことじゃなくて。  その……本物、って感じが」 「……本物だぞ」  失礼過ぎる。 「そ、そうなんですけど!  そうじゃなくて……その本物っぽさが本物っぽいから」 「落ち着け。  言いたい事はわからんでもないが、言っている事はさっぱりわからん」  最近、俺の周囲にその手の人間が多い気がする。  どういう訳か。  ふと見れば、桜子姫が〈堪〉《たま》りかねたように、くすくすと笑い出していた。  品良く口元を手で隠しているが、声を殺し切れてはいない。 「申し訳ありません……。  けれど、おかしな方々」 「只今の一幕をもって我々の人間像を見定めないで頂けるならば、深く感謝の念を抱くに吝かではありません」 「すごく回りくどいんですけど」 「この娘は変ですが自分は普通です」 「わかりやすい……そして酷い……」 「ふふ。  お二人とも、幕府のほかの方々とはだいぶ違います」 「は。  普陀楽城に来て、まだ一日も経っておりませんから。諸兄のようには馴染んでおらぬのでしょう」 「ええ。  あまり……本物、って感じが致しません」  一条を真似て、姫がおどけた口調で言う。  言われたこちらは笑うどころではなかったが。  めくら射ちに射掛けた矢が的を貫いている。  姫に底意がないのは明らかであるにせよ、全く動揺せずに済ますのは無理だった。  それでもどうにか、驚きは顔の表面へ浮き出る前に沈める。  一条も、しゃっくりに似た声を小さく漏らすだけでこらえたようだ。 「……こちらへ来る前は、田舎で事務仕事をしていたに過ぎぬ者です。  ひょんな縁からこんな所へ栄転してしまいましたが、正直、戸惑うばかりで」 「そうなのですか……。  それは気苦労も多いことでしょう」 「わたくしも……お二人のように働いておられる方々とは比べ物になりませんけれども。  慣れない土地では、色々」 「は……」 「特に道が複雑なのは困ります。  篠川と違って始終監視の目が付いて回らぬのは良いのですが……出歩く度に迷わされるのは、どうにも」  普陀楽に限らず城塞というものは、必要以上に入り組んだ道路構造を有する事が稀でない。  敵軍に城門を突破された際、少しでも侵攻を遅らせ、また兵力を分断する為だ。  無論、地理に明るい者なら最小限の時間で要所間を移動できるようにもなっているが……  在城一週間の桜子姫がそれを知らなくとも不思議はない。 「今日も八幡様にお参りした後、馬場に立ち寄って馬を眺めていこうと思ったのですが。  その途中で、迷ってしまって」 「……はぁ」  俺の記憶が確かなら、その二箇所は直線距離で五〇メートルと離れていない筈だが……。  そして直線同様の道があった筈だが……。 「困りませんか?  どうして、どこの道路も分岐なんて意地の悪いことをするのでしょう」 「それは道路交通局に訊いてみないことには」 「みんな一本道なら迷ったりしませんのに」 「確かに迷いはしないでしょうけれども」  交通の利便性と並立させるには一体どれだけの道路が必要になるやら。 「ですよね!」 「わかって頂けます?」 「すごく。  そう分岐なんてするから悪い。あれが全部悪い。一本道をたくさん作ればいいんだよな。地上で足りなければ地下にトンネル掘って」 「そうですそうです。  橋をいっぱい架けたっていいんですし。空ならいくら使ったって誰も困りませんもの」 「ね、あなたもそう思いませんか?」 「個人的見解を申し上げれば、そんなジャングルジムのような街には住みたくありません」  重度の方向認識障害者二人が意気投合していた。  そして俺は取り残されていた。  結局、通りすがりの人に道順を尋ねた。 「ありがとうございました」 「いえ、お役に立てませず」  京極屋敷の手前。  頭を下げる姫に、こちらも礼を返す。  謙遜になっていないところが我ながら情けない。 「あの」 「はっ」 「……これからも、もしわたくしを見掛けることがありましたら。  どうか気兼ねなく、お声を掛けて下さいな」  その声はやや、躊躇いの響きを帯びていた。  岡部桜子は幕府に弓引き、賊の烙印を押され、滅ぼされた武家の遺族。  六波羅に仕える者にとって、彼女との接近は決して〈利益〉《プラス》とはならないだろう。  従順な小役人を演じねばならぬ俺達にとっても。  ……だが、俺は首肯を返した。傍らの一条と共に。 「勿体なき御言葉。  喜んで、御厚意に甘えさせて頂きます」 「…………」  何も言わなかったが。  孤立無援の女性は去り際に、化粧のうすい唇を少しだけ綻ばせたようだった。  決して温かくはなかろう住まいへと歩いてゆく。    と。 「……あのっ」 「はい?」 「あなたは……どう思ってるんですか」 「……?」 「今の立場を……  六波羅のことを……」 「賊にされて死んだ、父親のことを……」 「……!」  まずい。  不意のことで、止め損ねた。  あまりに無礼である――だが単なる無礼、六波羅の役人の敗者への嘲弄と受け止められるなら、まだいい。  しかし。  一条は感情を隠せない。  誰が見ても明らかだった。少女は勝者の立場で口にしていない。むしろ逆、岡部の姫の側に立って、問い掛けている。  断じて、幕府の役人のすべき事ではなかった。 「あなた方は……」  言われた当の姫に、それが理解できなかったはずもない。双眸が困惑に揺れる。  俺は取り繕う言葉を持ち合わせなかった。仕方ない。鉄面皮を通して、無言のまま行方を見守る。  一条は――流石にまずいことを言ったという自覚はあったのか、眼差しを伏せている。  姫がその姿に何を見て、どう結論したのかはもはやわからない。  再びその唇が開かれた時、零れ出た声に情感の色艶はなかった。  だが決して空虚ではなかった。堅牢な何かがあった。 「わたくしは敗者です。  それ以上の何も語ろうとは思いません」 「……」 「戦って敗れたからには沈黙し、勝者に〈頭〉《こうべ》を垂れるが武家の倣い……。  〈論争〉《くちいくさ》は戦端を開く前にせねばなりません。敗れた後の雄弁は無恥の謗りを受けるもの」 「わたくしは語りません。この口からは何も。岡部の名を辱めぬために。  六波羅のことも……父のことも」 「父が……  何を思って戦ったのかも……!」 「…………」 「……」 「……ごめんなさい……」  深更。  慣れた気配の接近に、〈床〉《とこ》から出て窓辺へ寄る。 「……村正か」 «ええ» 「捕捉されずには済んでいるようだな」 «厳しいけれどね。  ……夜になれば少しは警備も甘くなるかも、って期待してたのに» 「変わるまい」 «むしろ堅くなったくらいよ»  だからこそ、俺も宿舎を出るのは控えた。  夜の調査行動は昼と違い見咎められただけで致命的に怪しまれる。何の益もない。  〈隠形〉《おんぎょう》に優れる村正でさえ梃子摺る監視網を掻い潜り、情報を収集するなど、似非警官には荷が勝ち過ぎる。 「それで……結果はどうだ」 «今のところは、反応なし。  もっとも、まだ全部を回ったわけじゃないけれど» «本丸周辺にはとても近付けないし。  あれは何なのかしらね……表の警備陣だけじゃない。裏にも何か結界がありそう» 「そうか……」  俺が普陀楽へやってきた目的は二つ。  一つは親王の下命。  もう一つは――〈青江〉《ニッカリ》の遺言。            «白銀の星»            «かの姫は»            «六波羅の»  六波羅の――何だと言おうとしたのか。  それは知る術とてない。死人は語ってくれない。  だが銀星号が六波羅に関わり有りとするなら、まず調べるべきはこの普陀楽山塞だ。  幕府の頭脳であり心臓。  その意味で、親王の依頼は渡りに船でもあった。 «御堂の方は?» 「特に気付いた点はない。  お前のように、あれの〈香気〉《けはい》を辿れるわけでもないしな」 «そう?  その娘の世話をするのに忙しくて、そっちまで気がまわらなかったっていうのが本当のところなんじゃないの?»  別に指を指されたわけではないが、その娘というのが誰のことなのかは悩む余地もなかった。  ……村正の音なき声には、どうも棘がある。 「今日一日を振り返れば、否定も難しいが。  目的は忘れていない」 «……なら、いいけれど» 「気に食わんのか」 «何が?  その娘が? それとも、貴方が今していることが?» 「両方だ」 «別に……  貴方の好きにすればいい» «その娘に手を貸すのも、権力争いの道具になるのも。貴方がそう決めたならそれでいい» 「なら、何が気に入らない?」 «…………»  返答はなかった。  気配が離れてゆく。  それは単に物理的な距離が離れているからだとわかっていながら。俺には、村正の隔意を示しているようにも思えてならなかった。  あの日、一条に従うと決めてからずっとこうだ。  村正は俺から遠ざかっている。 «御堂» 「……」 «正宗に気を付けなさい。  あれは貴方を許していない» 「……あぁ」  知っている。  今――この瞬間も。俺を冷たく見据える鋼鉄の眼光を肌に感じている。  俺への……  邪悪への殺意を、失っていない。 «その娘もよ» 「……」  劒冑の気配は完全に去った。  再び、探索を始めるのだろう。  視線を部屋の中へ戻す。  俺の寝床から馬一頭分ほど離れて、綺麗に布団の中へ収まった寝姿がある。 「一条」 「……」  呼び掛けに反応はない。  だが、目覚めているのはわかっていた。  〈呼吸が眠っていない〉《・・・・・・・・・》。俺の声は届いている。 「何故、俺を殺さなかった?」 「……」  応えはない。  月は上天で薄く笑い、草木は風に震えている。  酷く冷え込む夜だった。  一条を先に送り出し、俺は〈暫〉《しばら》く宿舎に留まった。  今日の予定は手分けしての城内見回りだ。  名目は、城内各部署への連絡事務である。  緊急性と機密性は高くないが口頭通達の必要がある連絡は、政所に属する公人が日常的に担う職務の一つ。  つまりふらふら出歩いていようと、不審を買うにはあたらない。  警邏の兵士に見咎められても、適当な書類を見せてそう説明すればすぐ解放されると岩田女史は保証した。  足で情報を稼ぎたいこちらにとって、これほどの好条件も他に無かろう。  情報――そう情報だ。それも文章に変換されたものではない、〈生〉《き》の情報が要る。  すべき行動を策定するにも実行するにも、まず城の現状をもう少し肌で知らぬことには始まらない。  言うなれば遊佐童心に一泡吹かせるのが俺と一条の仕事なのだが、あの大入道をして「うわぁ」と言わしめるのは丸木舟で大洋を横断するより困難そうである。  〈軽々〉《けいけい》には動けなかった。  とはいえやはり、時間を掛けるのも下策だろう。  一晩経っても一条は相変わらず、剣呑な気配を衣のように纏いつけている。  城勤めの緊張で気が立っていると見えなくもないのがせめてもの救いだが。 「あの方には、武官として潜入して頂いた方が良かったかもしれません」 「あるいは」  ここへ来る途中、擦れ違ったのか。  後ろを気にしながら嘆息する岩田女史に、俺は頷きを返した。 「あまり怪しまれないよう、私の方から手は打っておきますが……」 「お願いします。  自分も少し考えておきましょう。……城内に生活雑貨などを取り扱っている店舗はありますか?」 「南三ノ丸に出入りの業者が詰めておりますが」  南三ノ丸。徒歩で行くには少し遠いが、難儀というほどでもない。事のついでに立ち寄っても良い場所だ。  俺は首肯して、話題を転じた。 「昨日、岡部の姫に出会いました」 「……そうですか。  あの方に」 「京極家にお預けの身と伺いましたが、率直な話、現在の立場はどのようなものでしょうか」 「言ってしまえば厄介者です」  率直にと断ったせいだろう。  中年の密偵は歯に衣を着せなかった。 「抱え込んでおいても役には立ちません。  が、野放しにしてしまえば反幕勢力を糾合する旗頭にもなりかねず……」 「成程」  足利護氏の宿敵たり得た唯一の人物、岡部頼綱の娘。  六波羅への刃を心に秘め隠す人々の象徴的統率者としては、最高の人材であるかもしれない。 「そのような動きが姫の周辺に?」 「篠川では見られた模様です。  それもあって、より守りの堅い普陀楽へ」  送られてきたというわけか。  確かに、桜子姫を欲する者がいたとしても、この城までは手を伸ばせなかろう――いや。決め付けるのは早計だ。  現に、ここにこうして反六波羅的な男が侵入を果たしている。  他にもいないとは言い切れまい。  ……となると、あの姫君の末路は見えている。  今ではない。今手を下せば人心を刺激する。一年か二年後、岡部の名が人々の記憶から薄らいだ頃。  密かに――――で、あろう。 「……利用するおつもりですか?」 「まだ、そこまでは」 「〈私ども〉《・・・》にとってはいささか危険な駒です。  もしあの姫を使われる場合には、先立ってご相談頂けると、無用の齟齬を生まずに済みましょう」 「……心得ております」  忠告めいた、それは恫喝だった。  昨日に比べれば多少の余裕を持ち、改めて観察してみれば、城内の空気はいかにも硬い。  行き交う兵士らの皮膚は毛羽立ち、眼球は神経の昂りを示して充血している。  文官、女官達は業務に没頭しつつも、どこか薄寒そうな様子で時折あらぬ方を見やる。  過去の事件として記憶を風化させてしまうにはまだ早過ぎる、大将領護氏暗殺――であろう、八割方――が彼らに心理的な冷雨を浴びせているのは明白だった。  彼らの健康にも悪かろうが、俺にも良い話ではない。  平素より警戒が厳しいこの状況は、俺と一条に課せられた任務を一段と困難にする。  元々そんなつもりはないにしろ、油断を厳に戒める必要があった。いつ何から正体が露顕するか知れない。 「……?」  本丸曲輪の中庭へ差し掛かった時、奇妙な光景が目に入った。  女官が数人と、少年が一人。  少年は歳の頃十一、二と見える。  女官達は身なりからしてそれなりの地位にある事が窺えたが、それでも少年に対して仕える立場であるのは間違いないようだった。  少年の遊びを空虚に褒めそやしながら見守っている。  それだけでも目を引くには足りたろうが、輪を掛けて奇怪な事に、その周囲は竜騎兵が取り囲んでいた。  〈一個中隊〉《カンパニー》による全周警戒――無論、三騎は騎航して空襲と狙撃に備えている。  尋常な光景ではない。  だが、事実を積み重ねて推し量れば、その意味するところは自ずと知れた。 (あれが、足利四郎邦氏……か)  覇王足利護氏の嫡孫。  幼名を時王丸。  今年春に元服するなり、従五位と〈左馬頭〉《さまのかみ》を手始めに朝廷社会を駆け上がり、現在は左近衛大将、〈左馬御監〉《さまのごげん》、権大納言の官職を位階と共に得ている。  皇族を除けば大和で最も高位の少年であろう。  近日中には大将領位を襲い、幕府の頂点に立つ筈だ。  王者の宿命を背負う彼は今、高貴な女達に〈傅〉《かしず》かれ、強剛の武者に守護されながら――〈球〉《ボール》で遊んでいる。  およそ人頭大の、白黒模様の球だった。  ……〈蹴球〉《サッカー》か。  本場欧州とは比べものにならないにせよ、大和でも人気を獲得しつつある球技である。腕の使用を原則として禁じ、足で球を扱う点に特徴がある。  本来は十一人のチーム二つで得点を争う競技だが、勿論いま目の前でそれが繰り広げられているという事はない。  四郎邦氏は一人で球を蹴り上げて遊んでいる。  リフティングと呼ばれる基礎練習だろう。  球を地面に落とさぬよう蹴り続けるものだ……が、足利四郎のそれは世辞にも上手くなかった。  大和で最も蹴球が盛んな東海地方の競技少年であれば二百三百とこなすのも珍しくないところ、彼は大抵数回、良くても十回余りで均衡を失い落としている。  どうもコツをまるで知らないようだ。  運動神経は悪くなさそうである。誰かが適切なアドバイスをすれば伸びるだろう。  しかし球を蹴ろうが落とそうがお上手です、お見事ですとしか言わない女達にそれは期待できまい。  警備の武者らは阿諛すら口にせずにいる。  任務に集中しているのであろうが――どこか冷たいよそよそしさもあった。どこか迷惑げな。  兜に覆われた素顔が覗けるわけではないが、何とはなし察しはついた。  屋内に篭もってくれていれば警護も楽なものを――と言いたいのであろう。 (あれでは楽しくなかろうな)  安化粧にも似た女官達の賞賛でいい気になれるほど少年は愚鈍ではなく、警備隊の冷淡な空気に気付かぬほど鈍感でもないらしい。  あの表情はどちらも理解している。  それでも続けるのは、おそらくこんな些細な遊戯の時間さえ少年にとっては貴重であるから――か。  普段はそれこそ警備兵の望む通り重厚な壁と屋根の中へ押し込められているのか。  立場相応、身分相応、現情勢相応の事ではあるが、成長期の男子にとっては酷な仕打だ。  硬い表情で孤独な遊戯を続ける幼い殿上人の姿は、見るに辛かった。 (全く、幸福とは何処にあるかわからん)  市井の子らが彼より幸福であるとも言えまいけれど。 「あっ……」  ……方向の逸れた球を無理に蹴ろうとして失敗したらしい。  邦氏の靴が足から脱げて、大きく宙を舞っていた。  こちらへ向かって。  ぷっと、誰かの洩らした失笑が聴こえる。  女官の中の誰かのようだ。その笑いが広がることはなかったが、わざわざ〈窘〉《たしな》めようという気配も周囲には起こらなかった。  傷ついたに違いない。  靴を取りに向かおうとした女官達を邪険な手付きで制し、少年は赤くなった顔を俯かせながら、俺の方へと〈けんけん〉《・・・・》でやって来た。  足元から運動靴を拾い上げ、拝跪して待つ。  ……新品も同然の綺麗な靴だった。空々しいまでに。持ち主を象徴しているかのような汚れの無さ。 「ありがとう」  足を突き出して、少年が小声で呟く。  履かせろという事だろう。日常的にそうされているに違いなく、俺に命じるその動作から格別傲慢なものは見て取れなかった。  頭の頂に〈かゆみ〉《・・・》のような感覚を覚える。    竜騎兵が一騎、俺の頭上へ移動したのは見なくともわかった。七・七〈粍〉《ミリ》機銃を向けられている事も。  ほんの僅かにでも剣呑な動作をした途端、俺の全身は蜂の巣にされるのだろう。  いや――蜂の巣の形すら残らないか。ただの〈肉塊〉《ミンチ》だ。 「失礼致します」  こんな場所で豚の餌に変えられても困る。俺は殊更ゆっくりと邦氏の足に靴を履かせ、紐を結んだ。  この少年は紐の結び方も知らぬのだろう……教えられておらぬのだろう。そんな事をふと思う。 「ん……少し、きつい」 「は」  ごく、普通の強さで結んだに過ぎぬのだが。  逡巡する。  言われた通り結び直し、引き下がるのが無難だ――それだけにしておけば、いま上で神経を尖らせている武者が軽い〈引き金〉《トリガー》をうっかり引き込む事もあるまい。  そう思うのだが…… 「しかし、殿下」  迷いにけりを付けぬ内に、口が動いてしまっていた。  途端、上空で――のみならず地上でも、竜騎兵らが警戒の度合いを増す。  この場における俺の身分は政所公人――下級役人。それは服装で明らかである。  単なる儀礼的応答の枠を超えて足利四郎邦氏と言葉を交わすなど、到底許される話ではない。 「結びの緩い靴では上手く蹴れませぬ。  また、お怪我をされる恐れもございます」  少年はびっくりした様子で目を瞬かせている。  小役人にこんな口を利かれた経験など無かろうから当然だ。  いや……誰にもこんな事は言われた覚えがないのか。  あるいは、さもあろう。 「無礼者! この御方をどなたと――」 「良い」  金切り声で〈詰〉《なじ》る女官を、だが少年は制した。  興味を込めた目で俺を見、唇を開く。 「余はときお……いや、四郎邦氏である」 「はッ」 「……やはり承知の上か。  そなたのような者は初めてだ……」 「名は何という?」 「改と申します。殿下」 「では、改……  いま申したことは確かか」 「はっ」 「靴が緩いのがいけなかったのか……」 「他にも、ございます」 「教えてくれ」 「殿下は球をお蹴りになる時、爪先を立てたまま蹴っておられます」 「うん」 「それでは、球がうまく〈捕まり〉《・・・》ませぬ。  そのため、すぐに落としてしまうのです」 「こっ……この下郎!  公人如きの身で殿下のなさりように難癖をつけるとは、僭上にも程があろうぞ!」 「うるさい! 良いと言うておる!」  再度の横槍を、邦氏が一喝で追い払う。  ……女官の怒りは、常識に照らせば至極当然である。それを思うと〈些〉《いささ》か申し訳なかった。 「改、続けよ」 「……は。  蹴る時に足首をお伸ばし下さい。足の甲を平らかにして、そこで蹴るのです」 「足首を伸ばして……?」  首を傾げる足利四郎。  意味はわかるが、〈しっくり〉《・・・・》来ない、といった様子だ。 「殿下、球をお貸し願えますか」 「うむ」  差し出された球を受け取る。  ……通常の規格品だ。妙な高級品だとかえって扱い辛いのではと案じたが、要らぬ懸念だったらしい。  後は、昔とった杵柄が上手く振れるかだが―― 「わぁ……!」  期待した以上に、身体は覚えていた。  インステップでまず四回。  手元へ飛んできた球を膝上で受けて、そのまま三回。インステップに戻し、二回蹴って、三回目に少し強く蹴り上げる。  ヘディングで一回。  インステップへ戻し、今度は背後へ回す。すぐさま左足を軸に一転し、右腿で受け。 「すごいすごい!  茶々姉さまと同じくらいうまい!」  邦氏がはしゃぐ。  口調が歳相応のそれになっていた。  おそらくは――これが本来の姿なのだろう。  公卿、足利嫡流、次代六衛大将領等々、分厚い衣の数々が覆い隠している……。 「それ、僕にもできるか!?」 「はい。  殿下にもすぐにできます」  〈御為〉《おため》ごかしのつもりはなく、答える。  リフティングはコツと練習が全て。この少年くらいの運動神経があれば上達は早かろう。  球を返し、要点を繰り返す。 「足首を伸ばすのです。  膝も曲がっていてはいけません」 「うん」 「……やった!」 「おめでとうございます」  遂に二十回に達して、少年は歓声を上げた。  予想よりも早い進歩に、率直な賛辞を贈る。  実際、邦氏の呑み込みの良さは意外な程だった。  三十分も経たない内に十回は確実に続けられるようになり、今は二十回の壁も越えて、更にその先を目指している。  才能があったのかもしれない。 「すごい……全然違う。  こうやれば良かったのか」 「ありがとう、改!  おまえの教えのお陰だ」 「……勿体なき御言葉にございます」  足利家の嫡子はリフティングに夢中になりながら、それでも声だけ俺へ寄越す。  少しならず驚いたせいで、返礼がやや遅れた。  ……このような身分の少年が、こうも素直に下位の者へ礼を言うとは。  足利四郎邦氏は、どうやら良い気質を持って生まれたらしい。  彼を取り巻く環境が六波羅幕府というものであった事実を鑑みれば、奇跡的とさえ思える。 (この少年がこのまま成長するなら……)  大和国の将来は、そう悲観したものでもないのかもしれない。  そんな事も、俺は考えた。 「改はどうしてそんなに詳しいの?」 「学生の頃、蹴球部に属しておりました故」  事実である。 「ポジションはどこ?」 「〈中央後衛〉《センターバック》です」 「守りの要だね」 「時折、〈前衛〉《フォワード》に起用される事もありました」  背の高さを買われての抜擢だ。  ゴール前へ〈蹴り入れら〉《センタリングさ》れた球を押し込む際、上背があればヘディングを決め手にできる。 「いいな!  僕も前衛をやりたい。〈右翼〉《ライトウィング》がいい」 「松永選手のようにですか」 「そうそう!」 「殿下なら――」  できますと答えかけ、俺は慌てて口を閉ざした。  少年は追及して来なかった――ただ刹那、目の端に寂しさを過ぎらせたように見えた。  賢明な少年だ。  その賢明さが痛ましい。  ……足利四郎邦氏が蹴球選手となり試合場を駆ける事は決してないのだ。  例え、彼に才能があろうとも。  決して許されない。 「……そのまま。  三十回に届きます」 「うん」 「膝が曲がってきています。お気をつけて」  少年の傍らに控え、アドバイスを続ける。  女官達の刺々しい視線も、護衛兵らの呆れたようなそれも、俺はもう気には留めなかった。  逸れかけた球を少年の足先が捕まえ、引き戻す。  太腿で返し、もう一回。 「三十!」 「よしっ――」  少し意気込みが過ぎたようだ。  勢い良く蹴られた球は、弧を描きながら高く踊った。  山形の軌道で落ちてゆく。  地面にぶつかり、ぽん、ぽんと跳ね、転がり――  白い〈腕〉《かいな》が、それを拾い上げた。  ……桜子姫。  前後を数人の男に挟まれ、何処かへ連れて行かれるところであった様子だ。  男達はこちらの――正確には邦氏の存在に気付くと、その場で膝を突いた。  先頭の男は新聞で見た覚えがある。京極善門。幕府侍所の長官であり、岡部の姫の引受手でもある筈だ。 「…………」  球を抱えて、姫は邦氏を見詰めている。  何とも複雑な、曰く言い難い表情をしていた。  六波羅は彼女の仇敵だ。  表に出さぬよう務めているからといって、恨み辛みがすぐさま消えて無くなるというものでもない。  足利四郎邦氏はその仇敵の頂点にある。  幕府に罪があるならば、その罪悪全ての責任保持者であるとも言い得る――岡部の乱当時はまだその座になかったものの。  敵意以外の何かを抱くべき理由は、三千大千世界の果てまで探し求めたところで桜子姫には有るまい。    だが――姫にも分かった筈だ。  今彼女の前に立つ者は、ただ無心に遊んでいた少年に過ぎないのだと。  奇しくも、俺が彼をそうしてしまっていた。  眼差しに刃を秘めて見据えようと、打ち返してくる刃は無い。  無抵抗に貫通するだけなのだ……心まで。  岡部の遺姫に、それができるのか。 「……ふぅ」  軽く両瞼を閉ざし、岡部桜子は一度吐息した。  何かを諦めたように見えた。  そうしてから京極善門に目で断りを入れ、邦氏の方へと歩み寄ってゆく。 「……あ……」 「お上手ですのね」  言葉を失う少年に、姫は微笑んだ。  表裏のない笑みだった。 「〈蹴球〉《さっかー》……ですか?」 「は、はい」 「わたくしは詳しくありませんが……  西洋の蹴鞠のようなものなのでしょうか」 「い……いえ。違います。  今のは練習で」 「本当は、チームを組んで……点を取り合うスポーツです」  素人に理解させるには全く不足な説明をする邦氏。  手間を惜しんでそうしたのではなく、単に語彙不足――多分に〈突発的〉《・・・》な――のせいであろうが。  姫も困ったに違いない。  だが、顔の上では優しく目を細めるに留めた。 「お怪我をなさらないでくださいましね」 「……」 「さ、どうぞ」 「あ……  ありがとう……」  姫が球を差し出す。  おずおずと手を伸ばし、邦氏はそれを受け取った。  亡家の姫と。  覇者たるべき少年の。    指先が――その一瞬、微かに触れ合ったようだった。  桜子姫が一礼して帰ってゆく。  踵を返す挙措の中にさりげなく俺への会釈を混ぜて――何をしてらっしゃるの?と問う風の苦笑に、俺も同じく苦笑を返すしかなかった。  全く、何をやっているのだか。 「……改……」 「は」  声に、すぐ応じたものの。  それきりなかなか、続く言葉は発せられなかった。  少年は遠のく背を見詰めている。  姫が男達の列に戻ると、彼らは立ち上がった。  再び歩き始める。  どうも本丸の一角――遊佐童心以下の閣老が詰める間の方角へと向かっているようだ。  姫に合わせてなのか、足取りは遅い。 「あれが……誰か。知っているか?」 「……は」  邦氏は、彼女の素性を知らぬらしい。  桜子姫の方が邦氏を見知っていたのは明らかだったので、俺はやや意表を突かれた。  しかし考えてみれば、当たり前か。  姫が足利四郎邦氏を見知る機会はいくらもあろうが、邦氏の方は、わざわざ敗軍の遺児を引見でもせぬ限り面識の持ちようがない。知らずとも不思議はなかった。 「あれなるは〈弾正尹従三位〉《だんじょういんじゅさんみ》岡部頼綱が一女、桜子殿にございます」 「!!  岡部の……娘」  衝撃を受けた面持ちで、少年が体を震わせた。  ――彼の六波羅、彼の幕軍が滅ぼし去った一族の、娘。  彼女はこちらに斜め後姿を見せる格好で離れゆく。  沈着な様子ではあった。完璧ではなかったけれども。身ごなしの端々に覗く強張りは、姫の内心そのものに思えた。  岡部頼綱の娘が、幕閣の面々の前へ連行されてゆくのだ。  心楽しい会合が待つ筈もなかった。  おそらくは、岩田女史が俺に伝えた事――桜子奪取を謀る反幕勢力の存在について、査問を行うのだろう。  まさか拷問には掛けられまいが、度を超した尋問になる事は充分に有り得る。  この普陀楽に、彼女の味方はいないのだから。    去りゆく姫は美しかった。  荒野にただ一輪で咲く、孤独な花の美しさがあった。 「…………」  少年は立ち尽くす。  指先を頬へ当てて。  そこに残る温もりを確かめるかの、淡い仕草だった。  心ここにあらぬ〈態〉《てい》となってしまった四郎邦氏の御前から退出し、城内の探査へ戻る。  南方面の曲輪を一巡りし、それから西へ。  西側の外郭には田畑や蔵、工場施設などが多い。  比較的重要度が低く、そのぶん〈長閑〉《のどか》な区域だ。十歩進むたびに巡邏兵の疑り深い目と遭遇するような面倒はない。  それはつまり、俺にとってあまり意味を持たないという事でもある。  早足に進み、より機密性の高い北部へ向かう。時間とは黄銅めいた黄金、浪費など許されない。 (奇縁か……宿縁か)  回顧してそう想う。  足利邦氏と岡部桜子――勝者と敗者。滅ぼした者と滅ぼされた者。憎まれるべき者と憎むべき者。  一人の少年と一人の娘。  全く期せずして、その邂逅に立ち会ってしまった。  両者の住まう世界は俺には遠く、できる事など何もない。だが考えさせられずにはいられない。  どちらも背負うものが重過ぎる。年齢からすれば、苛酷なまでに。  二人の出会いはその難苦を少しでも和らげる結果に繋がるのだろうか。それともその逆となるか。  ――前者であれば良い。  我が立場も忘れ、俺はふとそう願っていた。  花畑を見下ろす峠道で、俺は足を止めた。  女性が数人、賑々しく嬌声を上げながら花を摘んでいる。  農業に従事する下級労働者の作業という趣ではない。それなりに地位ある女官の戯れと見られた。  最初に注意を引かれたのはその光景のためである。  しかし注意を持続させねばならなかったのは、やや離れて彼女らを眺める孤影があったからだった。  他の誰でもない。  あれは、一条だ。  少女は静かな視線をその凡庸な光景に注いでいる。  静けさは、無感動を意味するものとは違ったけれども――一見してそうと知れるほどには関係を蓄積しているのだと不意に理解して、俺は感慨を抱いた。  時間を云えば、まだ然程長くはない筈だが。  長さに見合わぬ多くの機会があった。綾弥一条なる〈人間〉《ヒト》を知る為の。  あれは、奇妙な娘だと思う。  〈つくりもの〉《・・・・・》めいていると、そう感じる。  人形のよう、という印象とはまた違う。  〈器械〉《キカイ》のようだと言い表すのが最も近い。  人形じみた人間は、まず第一に虚ろである。  器の大きさに比してちっぽけな心しか感じられないから、ぽっかりと広い余剰空間が目に付くのだ。  だから人間の抜け殻――人形だと見られる。    一条は違う。  〈余剰空間が無い〉《・・・・・・・》。  正義の一念に固執するあの心は矮小にして狭小だ。  だが、それが〈相応に見える〉《・・・・・・》のである。  少女の肉体は一つの意思、一つの理念、一つの目的を収める為だけのものなのだ。最初から。  それは人間ではない。  それは人形ではない。  それは器械だ。 (あいつは、不幸なのだろうか)  かつて胸に去来しなかったわけではないが、明確に言語化するのは今が初めてだった。  その一問。器械は不幸であるか。  人形は、きっと不幸であろう。  人の形に整えられながら人になれないのだから。  しかし器械はどうか。  器械として作られ器械として機能する器械。  それは不幸であるのか。    俺には答えを出せなかった。  わかる事は一つきりだ。  それが不幸であろうと幸福であろうと、器械は己に与えられた単一機能を果たし続ける。  壊れるまでずっと。 「あっ……湊斗さん」  足音を聞いて振り返った一条が声を上げる。  呼んだのは実名の方だった。注意しておかねばならない――だが今はそんな気になれず、俺は黙って頷き返すに留めた。  どうせ誰も聞いてはいない。  花摘み娘の一団は自分達の会話に夢中だ。 「東側はもう一通り見たのか」 「いえ、まだ途中です」  当たり前のように答える一条。  ……ここは城の西部である。一条に割り当てた調査区域とは全く反対だ。が、俺はこれもいちいち指摘はせずにおいた。  彼女を一人で行かせた時点で予測していた事だ。 「湊斗さんの方はどうですか?」 「それなりに収穫はあった。  詳しくは後で話そう」 「はい」  快活な声だ。  しかし、間近で見ればさなきだに特異な少女の印象は更に明瞭だった。  一条を良く観察する者が一人でもこの城にいれば、〈忽〉《たちま》ちに正体は全て露見するのではないか。  ……そう思いかけたのは流石に偏執的であったろうけれども。視線を戻して、花畑の娘を見る。  〈無憂〉《サン・スーシ》を唄って笑いさざめく彼女らとこの一条。距離はせいぜいが一〇メートル程だ。が――  精神の地平における隔たりは如何ばかりであろう。  傍らを見やれば、一条も俺の視線を追っていた。 「……どう思いますか」 「あの女官達か」 「この光景です」 「平和、且つ幸福」  この空間、この時間だけを切り出すことがもし〈能〉《あた》うなら、その世界はただ二語で描写が足りよう。  他の表現は特に要らない。 「あたしもそう思います」  けっ、という不穏な音が言葉に続く。  少女は文字通り唾棄していた。  路傍で名も知れぬ草が抗議する。  左右に広げた葉を激しく揺らし。それは怒って腕を振り回しているように見えた。 「……観察しないで下さい。  ついやっちゃっただけです」 「余り、役人らしくはないな」 「すいません」 「不愉快か。  平和と幸福は」 「はい。  〈あの〉《・・》平和と幸福は」  噛み締める声音で、少女が応える。  〈眸〉《ひとみ》は〈敵〉《・》を見ていた。 「…………。  羨むのか? あの光景を」  まるで挑発のような問いを、特に工夫も加えず投げ掛けてみる。  他の人間なら意図が伝わらぬところだが、一条なら取り違えもすまい。 「……羨む。  そうですね」 「あれは人に羨まれる暮らしです」  案の定、一条は口調を波立たせることもなく答えてきた。  しかし、そこに怒りはあった――矛先は俺ではないが。 「……」 「ただそれだけなら別にいい。  世間には貧富の差があるってだけの話です。それはそういうものだとしか思いません」 「あたしはプレハーノフじゃありませんから」  半世紀ほど昔、欧州で〈共産主義〉《コミュニズム》なる思想に基づいて国家を創ろうとする運動があった。  資本主義と決別し〈全〉《まった》き平等社会を生み出さんとする理想……それはだが余りに現実から乖離していたため、  救おうと願った貧民層の支持すら得られず、権力者層からは当然の弾圧を受けて、既に滅び去っている。  処刑場の露と散る間際、指導者は名言を遺した――この世に〈十字架〉《クルス》と〈劒冑〉《クルス》さえ無かったなら、と。 「でも、その豊かな人間が〈強盗〉《・・》なら別です。  人の財産を腕ずくでふんだくって恵まれた生活を送る……そんなのは悪に決まってます」 「しかも」  少女は繊弱な指先を、さして変わらぬ年頃であろう花畑の女官へ向けた。  裁判官が罪人を指名するにも似た姿だった。 「あいつらはその悪を知りもしない。  この城の平和と幸福が何を代償にしているのか考えもしないで……浸りきっている」 「不愉快です」  繰り返す一条。  その口調もやはり、判事が判決文を読み上げる〈様〉《さま》に似ていた。  そんな少女を見詰めて思う。  〈何を思うべきなのかと〉《・・・・・・・・・・》、思う。  懊悩は平凡な言葉だけを弾き出した。 「それは何処の国でも同じ事だ。  どんな社会でも」 「資本主義自体が収奪を効率的に行う〈機構〉《システム》に過ぎない」 「ええ」 「強い者が弱い者から搾取するのは、恐らく〈自然な〉《・・・》事ではあるのだ。  自然界の法則そのものがそうである以上」 「あらゆる動物が弱者を捕食している。  そしていちいち食べた相手の事など顧みてはいない……」 「そう考えれば、誰もがあの娘達と同じだ」 「はい。  〈それでも〉《・・・・》奪うことは悪で、悪に無自覚ならそれは恥知らずです」 「違いますか」  一条は真っ直ぐに俺を見上げた。  この少女にしかできない眼差し。  何を思うべきなのか。 「違わない」  俺は答えた。    ――そう。それはその通り。  罪は罪。  悪は悪。  如何なる論理によっても正当化は不可能である。 「お前の言う通りだ。一条」 「はい」  少女が微笑する。  美しい、女の〈貌〉《かお》だった。  一条にもこんな表情ができるのだ――  愛を囁かれた時ではなく、子犬を抱き上げた時でもなく、〈こんな時に〉《・・・・・》。  何を思うべきなのか。    何も思うべきではないのか。  綾弥一条は器械なのだと、それだけ認めて。  今この刹那、俺の胸を途轍もない握力で締め付けた何かの想念は忘れ去るべきなのか。  答えは出せない。  出せないままに、俺は行動した――先刻買い求めたばかりのものを取り出す。 「一条。  お前は一振りの刀だ」 「? はい」  唐突な俺の言い草に一条は小首を傾げ、しかしすぐにまた微笑した。  最高の賞賛を聞いたかのように。  また瞬時、胸腔が圧搾される。 「……だがその印象は時に人を〈慄〉《おのの》かせる。  現状においては望ましくない」 「う……そうですね。  でも、どうしたら」 「刀には目貫がある。縁がある。  それが彩りとなって凶器の色を和らげる」 「お前にも……少し、華を添えてみようか」  俺は紙包みを解いた。 「……これ……」 「〈髪挿〉《かんざし》だ」  見ればわかる事を言う。 「……」 「あの……」 「……これ……  あたしに?」 「ああ」 「…………」 「――――」 「――――――――」 「……気に入らんか?」  血行と心肺機能に重大な異常を起こした風の素振りの後、少女が最終的に硬直するのを見てやや戸惑う。  漆塗りの小さな玉簪。安物ではないと思うが誇れるほどの高級品でもない。  迷った挙句、最も変哲の無い品にしてしまったのだが……  本人に選ばせた方が良かったろうか。考えてみれば、そうしていけなかった理由も別にない。 「ち……違います!  あの、これ……湊斗さんが選んで……?」 「ああ」 「あたしのために……」 「そうなる」 「わ……」 「な、な、なに言えばいいんだろう。  ええとあのあたし男の人にこんなことして貰ったの初めてで」 「あ、あ……ありがとうございます」  礼なのか、ただ俯いたのか、判別に迷う挙措で一条が顔を伏せる。  耳まで赤くなっていた。  ……何やらこちらまで気恥ずかしいが。  とにかく、喜んでは貰えたらしい。 「……」 「あ……」  髪挿を、一条の髪の中へ収める。  おとなしく、彼女はされるままになった。  少し乱れた髪を、指先で整え。  改めて少女を見やる。  そして、すぐに気付いた。 「――――」  少女は上目遣いに、俺の言葉を待っている。  良く似合っていた。  愛らしくもあった――歳相応に。花畑の女官達にも劣らぬ程に。  だが、それは綾弥一条ではなかった。  凡百の、何処にでもいる誰かだった。  あの美しい女はここにいなかった。 「……どうですか?」 「ああ」  俺は微笑んだ。 「良く似合う」 「――!!」  少女がまた、俯いてしまう。  両目まで固く閉ざし。そうやって押し込めなくては心が溢れ出してしまうと、そう言いたげに。  だから――  その一瞬間、俺の双眸に何が現れていたとしても、きっと少女には見られていないだろう。  数日に渡る調査を経て、俺は方針をほぼ定めた。 「じゃあ、足利邦氏を」 「……うむ」  一条の確認に、頷いてみせる。  ……俺の考慮の及ぶ範囲ではそれが最善手だ。 「首を取りますか」 「いや」  慌てて手を振る。  冗談にでも頷こうものなら、その瞬間に飛び出していきかねない。 「それはやり過ぎだ。  舞殿宮殿下の構想を裏切る結果になる」 「はぁ」  そもそも、たった二騎でそんな暴挙が成功する筈もない。  差し違え覚悟でも見込みは無かろう。 「なるたけ派手に襲撃を掛けるだけでいい。  ある程度は警備網も突破し、邦氏の身命をそれなりに脅かす……その辺りが最良だ」 「それでいいんですか?」 「それで充分、遊佐童心の責任は問われる。  宿老筆頭からの転落は免れないだろう」 「その分、今川雷蝶が権勢を伸長させる。  彼と結ぶ宮殿下の政治影響力も強まる……という事だ」 「……なるほど」  言葉ほどは納得してない様子ながら、一条が頷く。  彼女の性質は全く政治事向きではない。消化不良が残るのは仕方のないところだろう。  無益に説明を重ねるのは止めて、俺は話を転じた。 「後は具体的な計画だ。  まず、日時だが……」 「聞けば明日の夕刻、能舞台があるという」 「能……?」 「ああ。遊佐童心の主催でな。  本丸の能楽堂を使うそうだ」 「あのでっかいとこですか」 「しかし外部の客は招かず、あくまで内輪の催しらしい。  となると城内から相当数の人間が招かれるのだろう」 「じゃあ、その隙に?」 「といければ楽だろうが、邦氏が招かれない筈もないな。  無論、能舞台を襲うのは下策だ。六波羅の要人が集う以上、警備は厳重に決まっている」 「……」 「むしろ狙うのは終わった後、警備の人間が気を抜く瞬間――」 「……どうしました?」  突如話をやめた俺に、一条が不思議そうに問う。  片手を伸ばして、その口を塞いだ。 「……!?」 (足音がする。  誰かが近付いている)  相手に読唇術の心得を要求する程度の小声で囁く。 (……あの密偵女じゃないんですか?) (足音は二人分だ) (……) (迂闊に口を利くな)  一条が目で了解を伝えてくるのを見て、手を離す。  とりあえず……様子を窺うか。  そう思って立ち上がると同時だった。 「改!」  中年女性の声。  今川家の〈密偵〉《エージェント》――岩田のものに間違いない。  但し、〈呼び捨て〉《・・・・》。  それは〈予〉《あらかじ》め定めておいたルールだった。  第三者が側にいる時のルール。  一条を残して、玄関へ出る。  そこには予想通りの岩田女史と、それよりは幾らか若い見知らぬ女がいた。  ……いや。  一見して、地位は低くないと知れるこの女官。何処かで遭遇した事はあった、か? 「これは、岩田様……」  こちらも定めていた通りの敬称で迎える。  女史は鷹揚に頷くと、背後の女官に位置を譲った。 「この者が改でございます」 「ふん……」  鼻を鳴らして進み出た女が、妙に険しい眼差しで俺を露骨に値踏みする。  ともかく恐縮の態を装い、俺は頭を下げた。 「そなた、新参の者であったそうじゃのう」 「……は」 「先日の振舞いはその〈所為〉《せい》か。  それにしても……と思うが」 「まあ良い。  岩田、部下は良く教育しておけ」 「はい」  ……思い出した。  足利四郎の側に仕えていた女官の一人だ。  あの折の無礼を根に持ち、所属を調べ上げて叱責を加えに来たというのだろうか。  だとすれば……随分と暇な話だが。 「先日は御無礼致しました。  今後は慎みます故、何とぞ御寛恕の程を」 「ふん……!  邦氏殿下が許すと仰せられたものを、私が許さぬとは言えまいの」  陰湿な口調でそう告げて、女官は顔を背けでもしたようだった。  頭を上げられぬこちらからは見えないが。  何にせよ、これで用事が済んだなら帰るだろう。  そう思い、女官の両足が俺の視界から消え去るのを待つ――だが、それは動かなかった。 「……?」 「改とやら」 「は」 「ついて参れ。  殿下がそなたをお呼びです」 「……はっ?」  良く訳もわからぬまま、俺は足利四郎邦氏が待つという場まで赴いた。  一応、先導の女官に事由を訊ねてはみたのだが。  ただ一言「知らぬ」と実に素っ気なく吐き捨てられ、それきりだった。  本当に知らないのかどうかは不明であったが、追及するわけにもいかず、俺は口を噤むしかなかった。  そうして、奥の一間。  促されるまま、その部屋へと踏み入る。  女官は続かず、背後でぴしゃりと辛辣な音を鳴らして〈襖〉《ふすま》を閉ざした。 「改!  良く来てくれた」 「ははっ」  待ちかねていた様子で、邦氏が満面の笑みを見せる。  それで困惑が晴れるわけでもなかったが、ひとまず俺は平伏して挨拶を述べた。 「殿下におかれては御機嫌麗しく――」 「いや、良い良い。  そんな堅苦しい話でそなたを呼んだのではないのだ」 「は……」  それは確かに、礼式を重んずるならそもそも殿上人が公人風情と対話する事からして有り得まいが。  ……結局、どうした風の吹き回しなのか。  先日の一件でこの少年が俺をいたく気に入ったのだとしても、まさか奥の間にまで呼び入れて蹴球談義をしようというのではあるまいし。  四郎邦氏は挨拶を無用としながら、しかしすぐ用件に入るでもなかった。  言葉に迷う風の沈黙だけを漂わせている。  彼我の立場を思えば、こちらから催促するなど論外。  さて……どうしたものか。 「……実はな……」 「はっ」  十秒が経過した。 「…………」 「……余は……」 「ははっ」  童謡を一曲唄い終える程度の時間が過ぎた。 「…………」 「……花……」 「は」 「女性は……  やはり、花を好むであろうか」  ……………………。 「花……?」 「うん……。  いや、花でなくても良いのだが……」  ようやく始まってみれば、対話はまるで要領を得なかった。  邦氏と俺と花と女性が一体何をどうして繋がるのか、さっぱり不明である。  他に仕方もなく、可能な範囲で回答する。 「通念としては、それに相違ありませぬかと」 「通念……」 「男に置き換えるなら……  男は野球を好んで観る、男は肉類を好んで食す、と云われるのと同じような事であろうと愚考致します」 「うむ……。  だが実際には、野球も肉も好まぬ男は多い」 「御意」 「女性も、花が好きとは限らないかな」 「人によりけりで御座いましょう。  花より団子とも申します」 「花より団子か……」 「はっ」 「団子の方が良いのだろうか……」 「は」 「いや、改、おまえ本当にそう思うか!?  やにわに女性に対して団子を贈るというのは男女間の礼節に適っているのかっ!?」 「いえ、それは、なかなかにアバンギャルドな挑戦となりますが」  いきなり正気へと戻った様子で、口調も素のそれへ戻して言ってくる邦氏に慌ててかぶりを振る。  筋道の見えない会話に対応するのはどうにも厄介だ。 「しかし女性の中には我が妹のように、男性から恋文とともに花を贈られるや一口〈齧〉《かじ》って 『不味い』と怒り、蹴り飛ばして全治三ヶ月の重傷を負わせる者もおり――」 「そんな奇人変人のことは聞いてないよ!  そうじゃなくて……」 「は」 「あの人は……もっとこう……」 「こう……  …………だと思うし」 「は」  俺は何か、〈心眼〉《シックスセンス》でも求められているのだろうか。 「でも、僕の勝手な思い込みかもしれないし……」 「は」 「だから、おまえを呼んだんだよ!  どう思う?」 「は。  その前に、殿下」 「うん」 「不肖この改、今一つ御話が飲み込めませず。  恥を忍んでお願い申し上げますが……どうか御説明を頂けますまいか」 「…………」 「……」 「す、すまない。  悩みが先に立って……事の順序を忘れてた」 「その、桜子どののことだ」 「岡部の」 「うん。  足利と岡部の家とは……色々とあったが」 「すべてはもう、過去のことだ。  水に流したい……いや、これは勝手な言い草かもしれないけど」 「でも、桜子どのがいつまでも肩身のせまい思いをすることはないと思う……」  勝者が敗者に和を求めるのは難しい。  あるいは敗者から求める以上に。  足利四郎の言い方は何とも煮え切らないものだったが、それも真っ当な感性を備えていればこそだろう。  俺は助け舟を出す心地で、頷いた。 「僭越ながら自分も、左様に存じます」 「そうか!  うん……おまえならきっと賛成してくれると思った」  たったあれだけの関わりで、俺はこの少年に見込まれていたらしい。  ……己の真の立場を思い起こし、しくりと胸が痛む。 「して――」 「この間、おまえも桜子どのを見ただろう」 「は」 「あの時の、桜子どのは――」  少年は記憶を呼び起こす風で口を閉ざした。  〈支那そば〉《らーめん》を一杯食べ終わる程度の時間が経過した。 「…………」 「……殿下」 「…………はっ!?」 「ご、ごめん。  どこまで話したっけ?」 「あの時の桜子どのは、までで御座います」  何となくこちらが申し訳ない気分になりつつ説明。 「あ、うん。  あの時……」 「僕には、とても辛そうに見えた……」 「……は」  あの折の姫は少なくとも表面上、平静を保っていた筈だが。  ……やはりこの少年、鈍感ではない。 「…………」 「はっ?」 「な、何でもないっ。  そこで、だ」 「岡部との戦からまだ日も浅い。桜子どのに心痛が多いのは仕方がないが……  少しでも……苦しみを和らげて差し上げる方法はないかと思って」 「成程。  それで、花」 「うん……」  ようやく話の一筋は繋がった。  だが、もう一筋。 「しかし殿下。  〈何故〉《なにゆえ》、そのお悩みを自分などに」 「おまえしか思いつかなかったんだ」 「そのような――」  事はありますまいと続けかけ、俺は舌を引き止めた。  言葉を呑み、先日の情景を想起する。  護衛と従者に囲まれた王者の、孤独な遊び。  ……本当に、いないのかもしれない。こんな相談を持ち掛けられる相手は、この少年の周囲には誰も。 「――御信頼を頂いておりましたとは。  身に余る光栄と存じます」 「そう言ってくれると僕も嬉しい。  それで、どうだろう」 「はっ……」 「良い花を選んで贈れば、桜子どのは喜んでくれるだろうか?  それとも、他のものがいいのか……」 「さて――」  考えを巡らす。  とはいえ当然、俺は桜子姫の物の好みなど知らない。  目前の足利邦氏と同様、ほんの僅かな接触を持ったに過ぎぬ縁だ。何を語り合い、何を理解し合ったのでもない。  だが――それでも幾らかは、わかる事もある。 「改?」 「思いますに……  花ならば花で、宜しゅう御座いましょう」 「どういうことだ?  他の物でもいいというように聞こえるぞ」 「はい」 「……団子とか」 「宜しゅう御座いましょう」 「改。  ちゃんと真剣に考えてる……?」 「無論に御座います」  不安げにこちらの顔を覗いてくる少年王へ、小さく笑みを作って応える。 「他ならぬ邦氏殿下の御下問をどうして〈蔑〉《ないがし》ろに致しましょう」 「でも……」 「殿下」  表情を改めて告げる。 「桜子姫に殿下が御贈りしたきものは、物、それ自体では御座いますまい」 「……?」 「贈り物に事寄せて、姫を〈労〉《いた》わられる殿下の御心をこそ届けたいので御座いましょう」 「う、うん」 「〈然〉《さ》れば、物自体は何でも構わぬと存じます。  殿下の御気持ちを伝えるに足る物であれば良し」 「姫の望まれる品がわかるなら格別、それは今は御本人しかわからぬ以上、肝要なのはその一事に尽きます。  どうか御心のままにお選び下さい」 「……つまらぬ物を寄越されて、桜子どのが嫌がるようなことはないだろうか……?」 「御懸念無用と存じます。  自分如き凡愚に貴き方の御器量など計れるものでは御座いませぬが」 「かの姫君であれば、必ずや……  贈り物と共に、殿下の御厚情をも受け取られることでありましょう」 「……そうか……」 「うん、そうだな!  ありがとう改。何だか迷いが晴れた」 「はッ」  笑顔を寄越す邦氏に、深く頭を垂れる。  己の身を振り返れば些か複雑な心境にもなるが、今はそれは忘れておく。  この優しい少年を助けてやれたのならそれで良い。  何にしてもこれで御役御免なのだし……少しばかり道草をした、そう考えるに留めておくとしよう。 「よし、決めた。  やっぱり花にしておく」 「結構かと……」 「では頼むぞ、改」 「は」  …………。  はて。  俺の用事は、もう済んだのではないのか。 「桜子どののもとへ〈確〉《しか》と届けてくれ」 「…………殿下。  そういったものは、御自身でお渡しになられた方が宜しいかと存じます」 「それはそうなのだろうが……」 「ここで臆されてはなりません」 「いや……」  邦氏は困った顔をしている。  臆したとか、恥ずかしいというのとは違う様子だ。 「殿下?」 「……そうしたいのは山々だけど。  僕が――余がそれをすれば大事になる」 「…………」  確かに。  〈已〉《や》む無しか。  これも乗り掛かった舟だ。 「畏まりました。  使者の任、謹んで承ります」 「やってくれるか!」 「はっ。して、贈り物は……  ひとまず出直して参った方が宜しくありましょうか」 「いや。  実は一つ、もう選んであるんだ……」  俺が四郎邦氏の使者を名乗って岡部桜子への面会を申し入れると、京極家の人間は面食らったようだった。  事を大きくしたくない邦氏の意向も伝え、兎も角も通しては貰ったが、このまま何もなくでは済むまい。  それでも足利邦氏本人がやにわに現れるよりはましであったろうし、まさか忍び込むわけにもいかぬのだから、これは已む無き仕儀というものだが。  邦氏にはそれとない追及の手が向く事になりそうだ。  尤も、彼は承知しているだろう。  その上で、望んだ筈なのだ。  奥まった一室へ通されると、そこでは桜子姫が深く礼をして待っていた。  上座にあたる場所は空けられている。  ……今の俺は曲がりなりにも左近衛大将の名代なのだから、当然の扱いではあった。  が、居心地の悪さは何ともし難い。 「姫」 「……?」  背後の戸が閉められたのを確認した上で、低く呼び掛ける。  きょとんと〈面〉《おもて》を上げる姫と、俺の視線が重なった。  暫時の空白。 「あら……まぁ」 「どうも、御縁があります様子」 「本当に。  でも、これはどういう……?」 「御不審は当然と存じます」  自分で自分を顧みても困惑が拭えない程だ。 「簡単に説明させて頂きますと――」 「とりあえず、お茶でも淹れましょうか。  あっ、どうぞお続け下さい」 「お構いなく。  では」  適当に座って、俺は邦氏との奇縁を手短に説明した。  妙といえば随分と妙な話であった筈だが、あの高貴な少年が蹴球を嗜む様は彼女も目撃していたので理解させるに難は無かった。  話しつつ、視線を流して部屋の様子を観察する。  別に鉄格子で囲われている事はないし、窓が明かり取りの小窓だけなどという事もない。  普通の部屋だった。  ここが彼女の居室ではないにしても、部屋に慣れた様子からして居住空間の一部であるのは確かと思える。となると、姫の環境はそう厳しいものでも無さそうだ。  先日の通り、散歩なども許されているらしい。    ……だがこの緩やかな待遇は、決して彼女の心身の健康を思いやっての事ではないだろう。  六波羅は桜子姫と反幕勢力との接触を警戒している。なればこそこの普陀楽に置いたのだ。  しかし一方で期待もしている筈だ――両者が接触し行動を起こせば、一網打尽だと。  桜子の身辺を手薄にしてもさして問題はない。〈結局〉《・・》〈のところ〉《・・・・》、この城内から脱出するなど不可能だからだ。  必要もない厳戒態勢を捨て、大魚を誘い出す釣り餌としている。全く、六波羅はいちいち狡猾であった。 「そうですか……。  それで、あの時」 「はい。  我ながら、出過ぎた振舞いをしたものです」  彼女自身はその辺りを諒解しているのか――  笑顔を作ってみせても隠せぬ目元の疲れを見れば、聞くまでもなかった。  饗された茶を啜る。  心地良い苦味が今は切ない。 「……ともあれ、その件で殿下の知遇を賜り。  〈今度〉《こたび》こうして、使者の役目を与えられたという次第です」 「使者……」  桜子姫の視線がそちらへ動く。  今初めて気付いたのではないだろう。  携えてきた、一鉢の花。  俺はそれを改めて取り上げ、姫の前へ据えた。 「邦氏殿下より、姫へ」  ふと、口上が途切れる。  下賜の品……と続けるつもりだったのだが。  礼則の上ではそれで正しい。  が、あの少年の真意を伝えていないような気がした。    半瞬迷ったすえ、より単純な言葉に修正する。 「贈り物でございます」 「これを……?  あの方が?」 「はっ」  紫色の花だ。  一見すると〈菫〉《すみれ》に似ているが、葉や茎の形状が違う。  大和ではまだ、余り馴染みのないものかもしれない。  解説を加えようと口を開きかけたところで、桜子姫が小首を傾げて呟いた。 「〈紫羅欄花〉《アラセイトウ》……?」 「御明察」 「写真でしか見たことがありませんでした。  本物はこんな色をしていますのね……」 「赤や白の種もあると聞き及びます」 「そう……」  紫羅欄花。洋名をストック。  南欧原産で、古くは薬用にもされたらしい。  匂いは強い方だろう。  〈噎〉《む》せ返る程ではないが、余り鼻を近づけると酔ってしまいそうだ。 「この花が咲くのは……春先ではありませんでした?」 「はい。  これは城内の職人が育てた早咲きです」 「そんなものが……」 「邦氏殿下の〈御祖母君〉《おおははぎみ》、〈養徳院〉《ようとくいん》様がこの花をいたく好まれているとか」 「……?」  岡部桜子は不思議そうな顔をした。 「殿下が好まれて、育てさせたものではないのですね?」 「は。  姫にお贈りする為、養徳院様に乞うて貰い受けてこられたようです」 「わざわざ、この花を選んで」  紫の花弁を見詰める。  何か、記憶を掘り起こしているふうであった。  俺は黙して待った。  こちらから賢しらに舌を動かす必要はない。 「……確か、紫羅欄花の花言葉は……」 「……」 「永遠の美しさ。愛着。幸福……」 「他に、未来へ進む力、思いやり……  などもございますとか」  花言葉などというものは国によって、文化によって様々だ。  それらが混淆し、現在では大抵の花は複数の異なる意味を持つ。 「……未来へ進む力。  思いやり……」 「……」 「それが、殿下からわたくしへの下さり物」 「はっ……」 「……」 「厚かましいと、お思いになられますか」  不躾であろう一言を、敢えて投げる。  家亡き姫の整った眼が、驚きを示して〈瞠〉《みは》られた――だがそれも数秒の事。  彼女の脳裏には、先日の一条の発言があったのかもしれない。 「ええ」 「至極当然の事と存じます」 「勝者は……頭を下げて和を願い、〈幾許〉《いくばく》かの矜持を失っても、残るものはまだ多く有りましょう。  しかし敗者は……」 「戦った、という矜持以外に何も無いのです。  これを失えば、もう何も残りません」 「理解できます」  本心から、俺は首肯した。  全く、姫の心情には納得のゆかぬ部分がない。 「ならば……」 「殿下もそれは、御承知の上です」 「殿下が?」 「憂慮しておられました。  これは自分の勝手ではないか、と」 「…………」 「それでも殿下は自分を遣わす御決断を下されました。  その御心中を、忖度する事が許されるのであれば――」 「おそらく殿下は、勝者たる足利一門の家長としてではなく。  姫と同じ所に在る者としてこの花をお贈りしたかったのではないかと、愚考致します」 「同じ所……?」 「紫羅欄花の花言葉には、〝同情〟もございます」 「……」 「聞きようによっては耳障りのよろしくない言葉ですが。殿下は〈高座〉《こうざ》から手を差し伸べているのではなく、姫の隣に立っているのだと、どうか御理解頂けませぬか」  突拍子もないと言えば、実に突拍子もない言い草だ。  足利の御曹司と岡部の遺女とでは、わざわざ比べるのも馬鹿馬鹿しいほど立場が違い過ぎる。  だが桜子姫は、少なくとも一言のもとに退けはしなかった。  紫羅欄花に目を落とし、沈思の様子を見せている。  先日の、ほんの擦れ違いのような出会いを思い起こしているのだろうか……。  姫の瞳の中に、少年の上気した頬を見たような気がした。 「……改さん」 「はっ」 「邦氏殿下は、どのような御方でしょうか」 「……自分も、あれこれと語れる程には存じ上げません。先日――姫も居合わされましたあの折と、今日こちらへ参ります前にお会いしたのとが、面識の全てであります故」 「そうですか……」 「ただ。  そればかりの縁故しかない自分を、姫への使者として立てられた」 「……立てねばならなかった。  そういうお立場の方ではございます」 「……」  更に言葉を費やすのは避けた。  事実以外は語りたくなかったからだ。俺は姫を丸め込むために来たのではない。  あの少年の姿と影に、思うところはもっと多くある。  だがそれは、俺の口から姫の耳に吹き込んでも、何の意味もない事だろう。  姫が自ずと知ってこそ真実となる。  そして、それは――遠い道程でもないようだった。 「……寂しい方なのでしょうか」 「玉座は一人で坐すものなれば……  傍らに人がおらぬは、道理かと」 「……思いやり。  同情。  未来へ進む力……」 「孤独で肌寒い道のりなら、せめて〈侶〉《とも》を得て歩もうと……。  そうお望みなのかしら」 「……」  返答は、頭を下げるのみに留めた。  簡単な事ではあるまい。  例え二人がそれを望んでも、周囲が果たして許すかどうか――いや、到底許されまい。  あるいは一人でゆく以上に困難な道ともなり得る。  だが……それでも敢えて、寄り添う事を選ぶなら。  寂しくはない。  一人でいるよりも。少しだけ――肌の寒さは和らぐだろう。 「…………」  岡部の姫は何を想うのか。  やはり、我が家を滅ぼした本人が何を……との念が先に立つのかもしれない。  だとしても、俺に説得の方策はなかった。    しかし。ほんの一度とはいえ、彼女は邦氏に会っている。  あの時。  足利四郎という少年の真像の一端に姫が触れていたならば…… 「改さん。  殿下に、伝言をお願いできますかしら」 「はっ。承ります」  何だか丸きりメッセンジャーになってしまっているが仕方がない。  これで事が喧嘩沙汰であったら最悪だが。 「普陀楽の日々は岩の上で〈寝〉《やす》む心地……」 「――」 「わたくしの身を思いやってくださるのなら。  どうか苔の衣をお貸し下さい、と」  ……………………。  その時、俺はどんな面相になったのか。  そこに鏡など無かったので知る由はない。  姫にくすりと笑われてしまう顔ではあったようだが。  ……苔の衣。粗末な衣という意味だ……が。この場合は………… 「よろしくて?」 「……姫。  殿下はまだ、その、お若く……」 「このくらいはしても、〈罰〉《ばち》は当たりませんでしょう?」 「はぁ……」  何ともはや。  意外に…………この姫君。  悪戯好きだ。  岩の上に旅寝をすればいと寒し            苔の衣を我に貸さなん                ……小野小町が僧遍昭へ 「後撰和歌集にございます」 「――――」  最初、何のことやらわからなかった様子の邦氏へ、俺は端的にその一言だけ告げた。  大和にあって貴族に列する者ならば、歌は基礎教養の範疇。これで充分だろう。  数秒して。 「はうっ」  足利邦氏は卒倒した。  世を背く苔の衣はただ一重        貸さねば疎しいざ二人寝ん                    ……遍昭の返歌 「――とまあ、うまく収まった……ような気がする。  何やらあの少年、別の苦労を背負い込む事になりそうだが」 «そう»  村正の合いの手は素っ気ない。  まるで興味が無さそうだ……実際、無いのだろうが。  劒冑の金打声は常と同様、硬く冷たく響いている。  が、どこかに疲労めいた鈍さがあった。 「そちらはどうだ」 «一通りは見回り完了。  苦労したけどね……蜘蛛の巣みたいな警備網に引っ掛からないように»  他ならぬ蜘蛛がぼやくなら、余程であったのだろう。  流石に六波羅幕府の主城、防備に半端な箇所は無いようだ。 「それで」 «反応なし。  この城に銀星号はいない。〝卵〟もね» 「……そうか」  落胆は禁じ得なかった。 『白銀星は六波羅に』――武者青江の残した手掛かりは初めて銀星号の所在の秘密に近付くものだったのだ。期待するところは大きかった。  だが、壮大なる普陀楽城とて六波羅の全てではない。  四大公方府を始め、幕府組織は各地に散在している。  普陀楽ではないなら、そのいずれか――この判断が収穫と言えば収穫には違いない。    ……兎も角も、俺は自分を納得させた。 「ならば後は、親王殿下の命を果たすだけだ」 «…………»  勝手にしたらいい。  そう言いたげな沈黙を残して、村正は去った。  ……明日だ。  能舞台の後に決行し、全て終わらせよう。 「我々も……?」 「ええ」  岩田女史は、自身やや困惑した様子で頷いた。 「高官の方々だけではなく、政所と問注所に勤務の者は全て参加を許されると……。  日頃の苦労をねぎらいたい、と童心入道様が仰せであるとか」 「参加を、〈許される〉《・・・・》?」 「事実上の命令です」 「やはり」  役人社会はそんなものだろう。 「理由を用意して辞退する事も無理ではありませんが……」 「怪しまれるだけでしょう。  承知しました。支度を整えます」 「構わないな? 一条」 「はい」  予定では、能舞台が開かれる時間は、その後の作戦決行の為の準備にあてるつもりだったのだが……。  仕方もない。それに、準備と言ったところで大した事ができるわけでもないのだ。  元々、成功させる必要のない襲撃作戦である。  退路の見定めだけ済ませておけば充分だった。 「服装はこのままで宜しいのでしょうか」 「まあ、それが無難かと。  童心様は私服でも苦しからずと仰せですが」 「舞台が長時間に渡るようなら、確かに私服の方が楽ではあります」  正式な能、つまり初番目から五番目までのすべての曲種を上演する〈五番立〉《ごばんだて》の場合、一日掛かりの会になる。  やる方もだが観る方も〈大事〉《おおごと》だ。  政務にも差し支えようし、流石にそれはあるまいが……。 「番組はどのような?」 「能二番、合間に狂言一番のようです」 「それなら五時間程度でしょう。  曲にもよりますが」 「五時間……」  一条がうんざりとこぼした。  それだけの時間、一箇所に座り続ける事を想像しただけで既に疲労したようだ。  歩き回るより座っている方が好きな俺にはさして苦でもないが、この活力の塊のような娘には辛かろう。 「私服にしておくか。  いくらかは楽になる」 「あ、いえ。  大丈夫ですっ」 「無理はするな。  そこで体力を消耗されても困る」  本番はその後なのだ。 「平気です。  ……幕府の催しに私服で参加するのって、なんかヤですし」 「……そうか」  俺にだけ届かせた囁きに、諒解して頷く。  ……教条主義的な少女だ。  が、これが綾弥一条であろう。  その頑固さで疲労を耐えられるのなら文句を並べる必要もない。 「して、曲目は?」 「それが、発表されていないのです。  二番目物と四番目物の二番立であるとしか知らされていません」 「修羅物と雑能ですか……。  しかし、曲目を明かさないというのはまた、何故」 「さあ……?  他でもない古河中将様のことです。なにかまた奇抜なことを考えていらっしゃるのかも」  肩をすくめて、岩田女史。  その態度からするに、あの僧形公方の指図する物事が〈常道〉《セオリー》を外れるのは良くある事のようだ。  下級役人まで集めて能舞台を開く行為からしてそうだが。  婆娑羅公方の名は伊達ではないらしい。 「では、お支度を。  開演までそれほど間がありません」 「諒解しました」  政所の公人はまとめて中正面の〈見所〉《けんしょ》へ回された。  柱が邪魔で、能を楽しむには一番都合の悪い席だが、身分を思えば当然だろう。  招待客の主眼である高官達はまだ来場していない。  しかし遊佐童心と思しき大柄な男の姿は既にあった。地位に見合わぬ腰の軽さだが……主催者としての配慮を示しての事か。  それにしてもあの公方、粋な〈直垂〉《ひたたれ》はいつもの事だが、今日はそれに加えて紺の頭巾を被っている。  あれは何の趣向なのやら。 「あ……  姫さま!」 「何?」 「み……景秋さん、あれ」  一条の指差す方角を見やる。  高官らの入場が始まっていた。  その列中に混じり、目立たぬ身なりの若い女性――岡部桜子がいる。  ……なんと。  童心入道はあの姫まで招いていたのか。 「この間より、少し元気そうです」 「うむ……」  心当たりはあったがそれは云わず、頷くのみに留めておく。  俺は姫の姿に目を凝らした。  緑なす髪に、紫の花――  〈紫羅欄花〉《アラセイトウ》が一輪、挿されていた。 「……そうか」 「? なにか?」 「いや」  一通り高官やその妻子らが座に着いた後も、正面の中央、主賓の席はまだ空いたままだった。  誰がそこへ着くのかはわかっている。  程なく。  一際物々しい集団――それは集団の頭たる人物より周りを固める女官や警護兵によるところが大きかった――が現れて、その主賓席へ向かう。  足利四郎邦氏である。  やがて六衛大将領の地位を死せる祖父から受け継ぎ、六波羅の……否、天下の棟梁となるべき少年。  さして心楽しくもなさそうに静々と歩く彼は、ふと、唐突に顔の向きを変えた。  何か、種類の異なる視線を感じ取ったかのように。  一方向を見る。  ……岡部桜子。  少年の眼が驚きに見開かれた。  誰もがそうであろうが、この会でその姿を見るとは思わなかったのだろう。  確認する風で瞼を瞬かせ、改めて見直す。  そして、驚きの表情は抑え難い喜びに変じた。  姫の容姿を彩る、ささやかな装飾を見て取ったのだ。  彼が贈り届けた花――その一輪。  少年の眼差しに、桜子姫が小さく笑みを返す。    人垣を隔てて、見えざる糸が確かに繋がった。 「…………」 「??」  能が始まった。  まず最初は二番目物。修羅物と呼ばれる、武人の霊が主役を張る物語だ。 〝朝長〟や〝敦盛〟など十数種類あるが、今夕ここで演じられるのは――    ……〈山城国〉《やましろのくに》は宇治の里。  諸国遊歴の僧が訪れ、見事な景色に感嘆する。 「――これは」 「どうしました?」    そこへ老人が現れ。  僧に名所旧跡を教えた後、平等院へ連れてゆく。 «此方へおいで候へ。  これこそ平等院にて候へ……»  会場全体にざわめきが広がっている。  大声を出している者など誰もいないが、皆が小声で囁き交し合い、〈恰〉《あたか》も波打ち際の様相だ。  ――よりにもよって。  ――なぜ。  誰もが愕然としている。声に出していない者も表情で疑問を呈している。  涼しい様子で舞台を見続けているのは、主催者の座にある男だけだ。 «げにげに面白き所にて候。  またこれなる芝を見れば» «扇の如く取り残されて候は……  何と申したることにて候ぞ»  呆然たる眼差しを、岡部の姫は舞台から外して客席に〈彷徨〉《さまよ》わす。  それを受けた二人、一方の邦氏は何も応じられず、もう一方の遊佐童心は何も応じず。  桜子姫は何も得ずに、再び舞台を見詰めた。 «昔この所に〈宮戦〉《みやいくさ》のありしに。  〈源三位頼政〉《げんざんみよりまさ》、合戦にうち負け給ひ» «この所に扇を敷き自害し果て給ひぬ» 「頼政……?」 「ああ……」 「頼政って、あれですか。  源頼朝が挙兵する前に以仁王の令旨を受けて平氏と戦ったけど、負けて死んだっていう」 「そうだ。  源三位頼政」 「これは彼を主役とした能だ。  しかし……何故……」 「何かおかしいんですか?」 「考えてもみろ。  〈三位〉《・・》で、〈頼政〉《・・》だ」 「誰を連想する?」 「……!」  ――岡部〈頼綱〉《・・》。  その官職は弾正尹、位階は〈従三位〉《・・・》。  本姓は源氏である。  どちらも時の権力者に刃向かい、敗亡した将だ。  境涯まで良く似ている。 「偶然とは思えん。  古河公方、何を考えて」 «されば名将の古跡なればとて……  扇の形に取り残して……» «今に扇の芝と申し候……»  さざめきは徐々に止んでいった。  この六波羅普陀楽城で演ずるにはあまりに〈相応〉《ふさわ》しからぬ曲目とはいえ、それが宿老遊佐童心の承認の下に行われているならば、誰も文句は差し挟めない。  〈地謡〉《じうたい》の霊妙なる喉が、静粛さを取り戻した能楽堂を満たす……。 «夢の浮世のなかやどの。  夢の浮世のなかやどの» «宇治の橋守としを経て、  老いの波も打ち渡す» «遠方人に物申す、  われ頼政が幽霊と» «名乗りもあへず失せにけり……  名乗りもあへず失せにけり……» (嫌がらせなんじゃないですか?  わざわざ姫さまを呼んで、こんなの聴かせるなんて) (……かもしれんが)  嫌がらせ。仮にも幕閣筆頭のやる事にしては、どうにも〈せこい〉《・・・》気がしてならない。    ……〈小休止〉《なかいり》を挟んで、舞台は続く。    老人は源頼政の霊であった。  彼が去った後、土地の者が現れて、僧に尋ねられるまま頼政の伝説を語る。    僧は頼政を哀れに思い、彼の霊を弔う。  すると、その夜。僧の夢枕に―――― «血は〈琢鹿〉《たくろく》の河となって。  紅波楯を流し、白刃骨を砕く» «世を宇治川の網代の波。  あら〈閻浮〉《えんぶ》恋しや»  この曲この役専用の能面、その名も頼政。  武人の無念を刻んだそれを着け、後半の〈主役〉《シテ》が登場した。  〈脇役〉《ワキ》を従え、舞台を圧し、堂々たる体躯のその役者は悠然と舞い始める。 «不思議やな……  法体の身にて甲胃を帯し御経読めと承るは» «いかさま聞きつる源三位の、  その幽霊にて〈坐〉《ましま》すか» «げにや紅は園生に植えても隠れなし。  名乗らぬ先に頼政と御覧ずるこそ恥しけれ» «ただただ御経読み給へ……» 「見事なものだ」 「………………」  別段、能に一家言あるわけではない。  それでも演者の卓抜した技量はわかる。  舞の一挙一挙に風格がある。  扇を打ち振るう仕草に〈武士〉《もののふ》の気迫が〈漲〉《みなぎ》る。  何より素晴らしいのは喉だ。  ただ上手い声とは明らかに一格違う。  情感だ。  あのシテの台詞には、芸術的なイントネーションと共に生々しい情感がある。  敗滅の定めを受けし武人の哀情が、世にも美しい〈調〉《しらべ》で唄われる……。  この稀有な両立。  まさしく達人の技であろう。  見たところ、金剛座系の〈蔵王〉《ざおう》流か…… «関路の駒の隙もなく。  宮は六度まで御落馬にて煩はせ給ひけり» «これは先の夜、御寝ならざる故なりとて。  平等院にして暫く御座を構へつつ、宇治橋の中の間、引きはなし» «下は河波、上に立つも、共に白旗を〈靡〉《なび》かして寄する敵を待ち居たり» 〝頼政〟後場は、頼政の語る合戦の様相を描くことに主眼を置く曲だ。  悲劇を悲劇たらしめる、主人公の心理描写はあまり多くない。  だが、伝わってくるようだった。  源三位頼政という男が、どうして戦わなくてはならなかったのか――何を思って戦ったのか。  その苦悩。  その悲痛。  演者の一挙手一投足に、一個の人間の全てが宿る。 «さる程に源平の兵、  宇治川の南北の岸に打ちのぞみ» «〈閧〉《とき》の声、〈矢叫〉《やたけび》の音……  波に〈比〉《たぐ》へて〈夥〉《おびたた》し橋の〈行桁〉《ゆきげた》を隔てて戦う»  ……桜子姫が、片手で口元を押さえていた。  シテの姿に、遂に父の姿を見てしまったのか。  娘に語り聞かせるかの声で、〝頼政〟は敵の勇将の戦ぶりを唄い出す。  ……その名は〈田原忠綱〉《たわらただつな》。足利氏の流である。 «田原の又太郎忠綱と名乗って、  宇治川の先陣我なりと» «名乗りもあへず三百余騎……» «〈轡〉《くつばみ》を〈揃〉《そろ》へ河水に、少しも〈躊躇〉《ためら》はず。  群れいる群鳥の羽を並ぶる羽音もかくやと» «白波に……  ざつ、ざつ、と……»  ――〈視〉《み》える。  劒冑という翼を持つ武者の身でありながら、敢えて兵と共に川へ踏み込むを選び、味方を大いに鼓舞する豪胆な男の姿が。  能の舞台は舞台に〈非〉《あら》ず。  一つの世界である。  そう云う者がいる。  能楽師の力量が充分以上であるとき、それは完全に正しい。  いまや舞台は別世界であった。  七六〇年前の宇治川がそこにある。  ――あるいは、つい先月の会津猪苗代が。 «忠綱、兵を下知して曰く……» «水の逆巻く所をば、岩ありと知るべし。  弱き馬をば下手に立てて、強きに水を防がせよ» «流れん武者には〈弓弭〉《ゆはず》を取らせ、  互いに力を合はすべしと» «唯一人の下知によって……  さばかりの大河なれども一騎も流れず此方の岸に»  最後の盾とした要害も破られて。  勢いづく敵軍は味方の陣に怒涛と攻め入る。  次々と殺されてゆく同胞……  その中には何より頼りとした肉親もいる。  老将はもはや一人。 «これまでと思ひて» «これまでと思ひて»  芝の上に、扇を敷き。  鎧を脱ぎ捨てて座り、刀を抜く。  そうして、歌う――  辞世の一句を。 «〈埋木〉《うもれぎ》の花咲く事もなかりしに  身のなる果ては哀れなりけり»  ――花が咲かぬ事はわかっていた。  それでも立ち上がり、こうして果てるほかなかった己を哀れむばかりだ。 「……父上っ……!」 〝頼政〟が去ってゆく。  旅の僧の夢が終わる。  あくまで静かに、舞台は幕を引く……。  父を亡くした娘の低い嗚咽だけが、能楽堂の空気を揺らしていた。  舞台の上では狂言が始まっていた。  演目は『〈無布施経〉《ふせないきょう》』。法要を済ませたはいいものの、決まりのお布施を施主から貰えず困惑する住持の姿が何とも滑稽である。  未だ余韻の冷めやらぬ胸中にその軽妙なやり取りは、まるで食後の茶の一服のように染み渡り、気の〈昂〉《たかぶ》りを宥めてくれる。  能とは良く考えられているものだと、俺は感服した。 「……む?」 「あれ?  ……あの役者」 「〝頼政〟ではないか……」  急な騒声に目をやれば。  あの名演を見せ付けた能楽師が、客席に現れていた。  しかも、役の衣装そのままである。  ……何をしているのか。  不思議がったのは、本人を除く全員であろう。  何事かと、警備の兵が男のもとへ駆けつける。 「……?」  だが、彼らはすぐに引き下がった。 〝頼政〟の無作法を咎めるでもなく、泡を食った様子で。  能役者はあたかもまだ曲の〈最中〉《さなか》にあるかの素振りで、悠々と美しく足を滑らせ進んでゆく。  その向かう先は――岡部の遺姫。  京極家の将士であろう、周囲を固めていた男たちがいきり立って腰を上げたのも一瞬のこと。  〈忽〉《たちま》ち恐縮の〈態〉《てい》で刀の柄へ掛けた利き手を引き剥がす。  遂に止める者もなく、〝頼政〟は桜子の前に立った。  そして衣装を脱ぎ去り、頭巾を取り、面に手をかけ―――― 「――あっ!」 「!!」  ――遊佐童心!?  馬鹿な。  なら、主催者然と座している男は一体……  ……誰だ?  あの異相の男は。  周囲の人間が驚きつつも咎め立てはしていないことから察するに、〈胡乱〉《うろん》な者ではないのだろうが。  俺には見覚えのない男だった。それはつまり、広く知られた幕府高官ではない事を意味する。  何にしても、あの男が頭巾を着けて遊佐童心入道の影武者を務めていたという真相のようだ。 「いやいや……  驚かせてしまったか」 「すまんのぅ、桜子どの。  いかぬ、いかぬとわかってはおるのだが、わしは元来こういう真似が好きでなァ」 「この性根、この歳になってはもう如何ともならぬわえ。  年寄りの戯れと思うて、どうか水に流してくだされい!」 「…………」  姫は呆然とした様子で、返す言葉もない。  邦氏以下の列席者も大同小異だ。  ……誰が思うか。  古河公方ともあろう者が、こっそり能楽一座の中に紛れ込んでシテを張るなどと……! 「……能楽も武家の嗜みとはいえ」 「どこまでふざけてんだ。あの坊主」  一条の声は呟きにしてはやや大き過ぎたが、今ならば誰に聴かれても咎められはしないと思えた。 「……童心入道様……  あなたが……あの〝頼政〟を……」 「うむ」 「そんな……  どうして」 「拙い芸で、頼綱公の〈誉〉《ほまれ》まで汚してしまったかの」 「そ、そのようなことはございません。  ……お見事な舞でした」 「おう、おう!  他ならぬ桜子どのにお褒め頂けるとは、何とうれしや!」  頬を緩ませて、入道公方が手を打ち鳴らす。  その前で、姫は困惑の度をますます深めるばかりだ。  ……そう。確かに、見事な芸であった。  だからこそ腑に落ちないのだ。  技術の高さは、芸能達者で知られた婆娑羅公方の事。今更驚くにも値しない。  だが、あの情感――  滅びゆく者の悲哀を、ああも見事に唄い上げたのは何故なのか。  数多の敵対者を虫けら同然に踏み殺し、顧みてなどこなかった六波羅の大領袖が……何故。 「のう……  桜子どの」 「……」 「聞けば、閣老らの度々の諮問に何も答えられぬとか。  殊に先のいくさに関する話となると、貝のようなだんまりぶり……」 「それは……」 「いや、お気持ちはわかり申すぞ。  敗者は口を閉ざすもの」 「口を開けば己の理がこぼれ出る。  だが戦い敗れた後で理を語って何になろう。負け犬の遠吠えよ、潔からぬことよと笑われ、かえって理を汚すばかりではないか……」 「それでは冥途の同胞に申し訳が立たぬ。  ……であろう? 姫」 「…………」  そうだ。  岡部桜子は、そう言っていた……。  息を呑んで見詰め返す姫からふと顔をそらし。  遊佐童心は一座を見渡した。 「聞いておったか、御一同!  桜子姫が虜囚の身に甘んじ、口を閉ざして生き永らえておられるは、負けを恥じるからでも世を拗ねているからでもない」 「黙して生きることこそが、敗れ死んだ者の名誉を守る道であるからじゃ!  わからぬか? たとえ命冥加な女よと、世の嘲りを買おうとも――」 「それは反面、潔く果てし者どもへの賞賛となる!  恥を忘れたふうに振舞う女の姿を見るたび、人々は岡部の猛き〈武士〉《もののふ》を思い出すであろう!」 「姫は岡部の名を汚さず後世へ残すため、己を捨石とされておる!」 「――――!!」  ……何と。  それは――そこまでは考えが及ばなかった。  それが、桜子姫の真意であったのか。  …………聞けば、納得のゆかぬ点は何もない。  まさしく、かの姫君はその覚悟でもって生きていたのであろう。  胸の奥へ秘め置いて。あの日の、一条の抉るような問いかけにさえ遂に全ては明かすことなく。  それにつけても、畏るべきは遊佐の童心坊。  何と人心の機微に通じていることか。 「あの父にしてこの娘あり!  流石は天下に知られた頼綱公じゃ。子女への薫陶悪しからず。麒麟から〈駑馬〉《どば》は生まれぬもの……」 「我らもかくあらねばならぬ。  良いか!? 皆の衆!!」 「岡部を手本として一族を薫育せい!  武門の盛衰など所詮は時の運。我が六波羅の栄華もいつかは終わりを迎えよう。その折に見苦しき振舞いがあってはならぬ……」 「散るときは花と散ろうぞ!  たとえそれが埋木の、幻の花であってもの……散った後に、〈実〉《み》が〈生〉《な》ることもあろうて!」 「……童心様……」  ――は。  ――ははァ。  筆頭公方の大喝に、異を唱えられる者がいよう筈もない。  皆が一斉に平伏する。俺もそれに倣った。  一条の頭を腕ずくで一緒に押さえ込みつつ。 (…………) (目立つだろう) (すみません)  幕府の御一同はともかく、こちらには頭を下げねばならぬ義理など無いから気持ちはわかる。  俺とて下げたのは格好だけだ。  ……だが。  幾分は、本心からの礼も混じっていただろう。  場には唯一、頭を下げていない人間がいる。  足利四郎邦氏だ。  遊佐童心はそちらへ体を向けた。 「不吉なことを申し上げましたかな。  殿下、お許しあれ」 「いや、謝るには及ばぬ……」  少年の表情は反発の対極にある。  深い感銘に、額まで火照らせていた。 「良くぞ申した、童心坊!  この四郎、闇夜に灯明を得た心地である」 「過分なるお言葉。  冥利に尽き申す」  深々と、古河公方は主君へ礼を返した。  そうして再び、姫に向き戻る。  ……闇夜に灯明。  それはあの年若い王者の、本心の発露であろう。  彼が望んだ、岡部の姫と共に歩ける未来。  ひどく険しいと思えたその道も、傍らに遊佐童心のような理解者が〈侍〉《はべ》るのならば――あるいは、成し得る事なのかもしれない。 「桜子どの……。  お覚悟の程はまことに立派と存ずる。我ら六波羅、決して姫の邪魔立ては致さぬ」 「…………」 「黙して、生き続け……  父君の誇りを守られるが宜しかろう」 「……はい」 「だが、の。  我らは岡部を語りたい……」 「かような傑物がおった、と……  我らとは遂に道を違え、弓引き合う間柄とはなりしも、決して邪念はなく私欲もなく」 「ただ、己の正道を貫かんがため。  勝てぬと知った戦いに敢えて臨み、見事に散って逝った……そんな英雄がおったのだと」 「子々孫々に語り伝えたいのよ……。  今日、この鈍牛めが不出来な舞を見せたのもそのため」 「……」 「桜子どのは、ご存知かな。  わしと頼綱公が肩を並べて、共に戦った事もあったと……」 「えっ?  ……い、いいえ。初耳です」 「あれはもう……三五年も前になろうか。  〈露帝〉《ロシア》相手の〈大戦〉《おおいくさ》のおり」 「わしらはかの乃木将軍の陣中におった。  おう、亡き殿もおられたぞ」 「三人とも、当時は新米の陸軍士官に過ぎなかったがの……」 「……」 「今でも夢に見るわ。  難攻不落の〈旅順〉《リュイシュン》要塞」 「厳寒のなか、〈喇叭〉《ラッパ》を合図に、兵が突撃してゆくたび……  一面の凍土が血肉で煮える」 「積み重なるのは友軍の骸ばかり……  戦果はひとかけらも手にできず、忌々しき城壁には傷もつかぬ」 「竜騎兵の爆撃も効果はなく……  かえって撃墜され、弾薬を地上の味方へとばらまく始末」 「……地獄であったのう。  三人で、その地獄を眺めたわ」 「わしは、泣いた。  武人にあるまじき事だが……命のはかなさ、戦の無情さが胸に染みて、涙が止まらなんだ……」 「十太郎――おう、殿の事だがの。あの頃はそう呼んでおった。  十太郎は、そんなわしを殴った。兵の死に涙するなら、坊主にでもなってしまえと」 「頼綱公は、何も言わなんだ。  黙って眺めておった」 「あの二〇三高地を。  兵が突撃を繰り返し、繰り返しただけ死骸を積み重ねてゆく丘をただ、眺めておった」 「唇を固く噛み締め……  血を滲ませていた。噛み切っておったのだろうな……」 「……」 「だが、その後。  司令部へ戻り、頼綱公が何を上申したか。桜子どの……わかるかな」 「いえ……」 「二〇三高地は観測と砲撃に絶好の場所。  これさえ取れば、隙を見てはこちらの制空権を脅かしに来る籠城軍の頭へ蓋をしてやる事もできる。いくさの流れが変わる」 「故に、今こそあの丘を砲撃するべし――と。  ……敵のみならず、友軍もひしめいておる所にな」 「っ!? そんな」 「乃木将軍はむろん、一言のもとに拒絶した……〈帝〉《みかど》の〈赤子〉《せきし》を我が砲で撃てようか、と。  しかし、頼綱公は引き下がらなかった……思えば剛情の〈質〉《たち》はあの頃からであったわ」 「陛下の赤子を無為に死なせてきたは、今日、これまでの閣下である。  今日これよりは、陛下の赤子に有為の死をお与えあれ……と」 「将軍に向かって言い放ちおったわ。  名族の出とはいえ、一介の将校に過ぎぬ身でな。呆れた胆力よ」 「だがその真情が乃木閣下を動かし、砲撃を決行させ、我が軍勢をして遂に二〇三高地を奪取せしめた。  勝負の趨勢は一夜にして覆った」 「……頼綱公は、まこと……  人の〈活〉《い》かし方、その本当のところを知っている御仁であった……!」 「……」 「頼綱公は、こういう話を姫に聞かせなんだか」 「……はい。  いくさの話は滅多にしてくれませんでした。幼い折には、せがんだこともあったのですが」 「さもあろう。さもあろう。  要塞陥落の手柄は疑いもなく頼綱公のものであったが、御本人は一度たりと誇ることがなかった」 「むしろ、生涯の恥としておった。  味方を撃つがごときを、将軍に勧めた事を」 「悔いては、おらなんだ……。  しかし恥じておった」 「そんな御仁であったよ。  姫の父君は……」 「……父上……」 「わしはの。桜子どの。  そんな頼綱公の事跡の数々を、埋もれさせてしまいとうはない」 「後の世に、あの男の生涯を正しく伝え残したい……。  彼と同じ時代を生きたからには、その責任があると思うのよ」 「……」 「構わぬかな? 桜子どの。  我らが頼綱公を語っても……」 「……は……」 「はい……」  あの姫の身中に、固く冷たくそびえていた〈峻嶺〉《しゅんれい》――  それが今、揺らいだようだった。  ……矜持にかけても自分の口では語れなかった、父の戦い。  それを六波羅が語るという。  いや――古河公方は既に語ってみせた。  百万言よりも雄弁な、舞の一差しで。 「どうぞお好きに……。  童心入道様」 「うむ、そうか。そうか……。  礼を申す。姫」 「いえ……。  ……ただ……」 「うん?」 「聞くのは……〈辛〉《つろ》うございます。  今のように……わたくしの知らなかった父の姿を聞かされると……」 「もう一度……!  父に……会いたく……!」 「おう、おう……!  そうであろうのう」 「済まぬ、泣かせてしもうたな……。  義清!」 「はッ」  姫の涙にうろたえた様子で、遊佐童心はいつからか背後に控えていた小姓を呼ばわる。  遠目にも美貌と知れるその小姓は素早く、急須と碗を主人に手渡した。 「このような時は酒に限る。  桜子どの、一献ゆかれよ」 「……お見苦しいところを……  申し訳ございません」 「父を思い娘が涙するに何の不思議があろう。何の罪があろう。  何も恥じるには及ばぬ。さ、姫」 「はい……」  桜子が受け取った碗に、童心が急須を向ける。  大ぶりの碗になみなみと注がれる酒。  姫がそれを飲み干す。  ……その光景を、能楽堂の全ての者が見ていた。  幕府政治を動かす百官。  その家族。  彼らを統べる足利四郎邦氏。  全員が見た。  何か――象徴的な絵画として。 (……どうしたものかな)  俺は、悩まねばならなかった。  〈どうしたものか〉《・・・・・・・》。  前線の兵士が自己判断で作戦方針を変更するなど、原則的に許されない事だが。  その必要が今、あるのかもしれない。  当初の目論見は――あるいはその放棄は。果たして親王の利益に沿うか……。    決断に迷って、俺は一条を見た。 (……? どうした) (え?) (気分が悪そうだぞ) (あ……はい。  なんか、胃の辺りが〈むずむず〉《・・・・》して) (……変な物を食ったわけでもあるまい?) (そうなんですけど。  なんだろこれ……) (……こういう時って……)  気にはなったが、いつまでも頭を寄せ合い密談していては周囲に不審がられる。  今は公方と姫の一幕に注目していて当たり前なのだ。  俺は体の向きを戻した。 「――――」 「ッ!?」  ……気のせい…………か?  あの奇妙な影武者、今、こちらを見ていた……? 「ゆく川の流れは絶えぬ。  流れた水は二度と戻らぬ」 「過ぎ去りしものはいくら惜しんでも帰ってきてはくれぬ……世のさだめとは申せ〈淋〉《さみ》しいことよ。  だが、面影を偲ぶくらいはできようて」 「それがうつくしきものであれば、川の流れを正しき〈方〉《かた》へ向ける〈標〉《しるべ》ともなろう」 「……はい」 「桜子どの。  これを受け取られるがよい」  言って童心は急須を小姓に返すと、別のものを手に取った。  面だ。先刻まで、自身が被っていたもの。 「これは……」 「この頼政面。  亡き頼綱公を想って、わしが彫った」 「童心様がお手ずから!?」 「うむ。  拙い手の内ではあるが……頼綱公との思い出の〈種々〉《くさぐさ》を彫り込めたつもりじゃ」 「……」 「迷惑であれば、重ねてすすめはせぬが。  姫の手元に置いてくれぬかな」 「は、はい……。  喜んで」 「喜んで……頂戴いたします……」  渡された面に魅入られながら。  上の空で、桜子姫は答えた。  〈慈〉《いつく》しむように、頼政面の頬へ指を這わせる。 「ああ……  本当に……父上のお顔のよう……」 「そう思われるか……」 「はい……」 「それは当然の事ぞ……」 「…………」 「何故ならその面――  頼綱の死骸から剥ぎ取った骨で作ったものだからのう」 「え?」 「――――」 「――――――――」 「…………」 「な……  ……何と……」 「何と仰られました……?」  桜子姫が、尋ねている……。  冬空の下に干しっぱなしにしておいた洗濯物のように、〈がちがち〉《・・・・》と強張った声で。  九割がた空白化した意識の残り一割で、俺はなんと醜いのだろう、と思っていた。  崩れかけの笑顔を無理矢理に支えている姫の相貌が――何とも汚く、醜く見える。  人は、これほど醜い顔にもなれるのか。    反して、対面の僧侶の美しさはどうであろう。  無限の喜び。  尽きる底のない、この世すべてに対する愛情。  それが、満ち満ちている――まさに天上の微笑。  釈尊が舞い降りたかのようであった。 「骨じゃ」 「ほね……」 「おぬしの父君の顔面をな、こう」  古河公方――遊佐の童心入道は、〈剽軽〉《ひょうきん》な手真似をして見せた。 「のこぎりで。  ぎぃこぎぃこ、と……」 「――――」 「上から下まで、切り割ってな。  肉を削いで……」 「それから、鑿を打つ。  こつこつ、こつこつと」 「眉間の皺を刻むのに苦労したのぉ。  舞台に出る折は頭巾に隠れてしまう所だが、そういう所こそ手を抜かず仕上げねば全てが駄目になってしまうでな……」 「あ――あぁ」 「後はいくらか肉付けをし、〈胡粉〉《ごふん》と〈膠〉《にかわ》を塗り重ね、彩色をして……完成じゃ。  いや、なかなか骨であったわい」 「それに比べると、碗の方は楽であったなァ」 「……」 「――――!?」 「こっちは頭蓋の〈皿〉《・》を切り取って、上に漆を塗っただけだからの。  これも削って整えねばならんかと思うていたが、綺麗な形をしていてくれて助かったわ」 「あ――そ」 「それも……父上の……」 「いんや?  こちらは、おぬしの同腹の兄」 「岡部十兵衛の骨ぞ」 「――――――」 「……のう、桜子どの。  先程はこの碗に口をつけて酒を召されたな」 「いかがであった……?  血を分けた兄の、骨髄の味は」 「  、   、    、 」 「かあっっっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはぁッッッ!!」 「さあて」  一〈頻〉《しき》り、笑い――  この能楽堂の中ただ一人、好き放題に笑い〈愉〉《たの》しみ。  その、悪魔的な快笑を少しも乱さぬまま。  力をなくした姫の手を取り、舞台の上へ導き出る。  いつしか狂言師らはみな退いていた。  白い空間に今立つは、姫と仏僧の二人きり。 「〈四番目〉《よばんめ》は雑能と申すも……  真髄は狂女物にあり!」 「いざ!  見事に舞ってくだされい、桜子どの!!」 「ははは、どうした?  ほうれ、父が参ったぞ。そなたの父が参ったぞ」 「もっと良い声を聞かせよ!  そら、こちらはそなたの兄じゃ。もう一度接吻をくれてやれい!」 「それよ!  その声よ!」 「はぁっはっはっはっはっはっはっは!!」 「……坊主……」 「――――」 「湊斗さん?」 (……動くな) (どうして) (良く、見ろ) (〈今動けば〉《・・・・》、〈誰も助けられん〉《・・・・・・・》) (く……ッ!!) 「……ど、童心!  童心坊!!」 「や……やめよ!  そのような――無体な!」 「さあて……」 「……」 「今、何か申されましたかな?  殿下」 「な、なにっ?」 「生憎とそれがし、今は舞の最中でござる。  芸人は親の死に目と聞いても舞台を去ってはならぬが掟」 「御用事は、〈これ〉《・・》が終わった後で承るゆえ。  今はどうか、お許しあれい」 「たわけ!  それをやめよと申しているのだ!!」 「さぁて、さて。  風雅を解さぬ困った若殿じゃ……」 「どうしても、とあらば。  誰ぞに命じてみてはいかがでござる?」 「何だと……」 「この古河公方。  遊佐の童心入道を」 「あの舞台より引きずり下ろせ……と。  御家来衆に命じられよ」 「…………」 「ゆ――  ゆけ!!」 「何をしておる!  余の命令が聞けぬか!」 「童心坊を止めよ!!」 「そ、そなたら……」 「我ら奉公衆は殿下を守護し奉るが務め」 「古河中将様に盾突くは、叶わぬ仕儀にございます」 「……っ」 「だ――誰でもよい!  童心を止めよ!」 「誰ぞ!  童心を止めよっ!!」 「……なぜ誰も答えぬ!  誰か! 誰か――」 「見苦しいわい、〈小童〉《こわっぱ》が!!」 「!?」 「なぜ、誰も〈おのれ〉《・・・》の命令を聞かぬか……?  決まっておる。そんなこともわからんのはおのれだけだわ」 「〈飾り神輿〉《・・・・》が急に喋り出したところで、誰がそれに従おうか!?  鬱陶しいと思うだけよ!」 「神輿なら神輿らしく黙って鎮座しておれい!  かついでやっているこちらの邪魔にならぬようにのう!?」 「偉そうな口は……  誰も〈恃〉《たの》まず、己の手で童心坊めを引き捕えられる力が身についてからにせい!!」 「……あ……  ………あぅ…………」 「……かはッ。要らぬ邪魔が入ったわ。  待たせたのう、桜子どの」 「改めて、参るぞ……」 「――ひっ……」 「いやっ!  何をする!」 「舞には〈華〉《はな》がなくてはの。  姫は良い華をお持ちの様子」 「一つ、皆に見せて〈賜〉《た》もれ」 「放して!  放せ、下郎!」 「くはッ。  良き声なり良き声なり!」  桜子姫の手向かいも虚しい。  それこそ舞のような鮮やかぶりで、白い裸身が露わにされる。 「やっ……!」 「おうおう、そのように恥ずかしがるでない。  秘してこそ花……されどそれを許さぬが人の業」 「散らしてでも引き出してくれよう!」  せめて体を丸めて人目から隠す――だが悪僧はそれさえも許さない。  腕ずくで身を起こさせ、抱え上げる。  暴虐に震える豊かな乳房が、舞台の白光の下に晒された。 「――――」 「――――」  あるまじき仕打ちを受ける姫と。  霊魂を抜かれた態でへたり込む少年の。  視線が、刹那――  絡むこともなく、互いを射抜いた。 「ほっほっ! 良いぞ姫!  実に華麗、実に美麗」 「一糸纏わぬ素裸に、〈紫羅欄花〉《あらせいとう》の花一輪!  これは何とも良い塩梅じゃ!」 「っ……!」  姫は辛うじて自由になる左腕の先を動かすと、髪に挿していた花をむしり取った。  そのまま握り締める。握り潰す。  既に正気ではないのだろう。  拳から汁が〈滴〉《したた》っても、なお潰し続けた。 「花に罪はなかろうに。  酷いことをするものよ」 「やむなし、代わりの花を頂こう。  そうれ! 足を開かれよ!」 「やめろっ!  この……恥知らずが!」 「はっはっはっ!  恥知らずぶりでは、今の姫には敵わぬのぅ」 「ほれ……  嫁入り前の生娘が、衆目に尻の穴まで晒しておる!」 「――――!!」 「いや眼福眼福!  上は大輪、下は小粒」 「どちらも可愛い花ぶりでござるのぉ!」 「うっ……うぅ……!」 「しかし惜しむらくはどちらも蕾。  これではいささか興がない」 「ひとつ、この坊主めが……  咲かして御覧に入れようか!」 「――!」 「や……やめて……」 「ふっふぅ」 「く……ッ!」 「ぬ。ぬ?  これはしたり、これはしたり」 「手強かろうと思うておったが……  存外にするりと入ってゆくな」 「さては姫。  人前で肌を晒すを、愉しんでおられたか?」 「……っ、こ……のっ!」  息も絶え絶えの桜子姫に。  古河公方はにんまりと笑い、心までも犯そうとする。 「はぁっはっは!  それならそうと仰せになれば!」 「わしも気合が乗ったものを……  このようにのぅ!」 「あ――」 「っ……」 「く……ぅッ……!!」 「ようし、咲いた!  見事に咲いたわ!」 「鮮やかな赤が白地に映える……  雅な花にてござ候!!」 「……古河……公方……!」 「遊佐、童心……!!」 「ほう? ほゥ。  何やら音色が変わってきたの」 「ならばこちらも合わせようか。  ……のう、桜子どの。先程、六波羅の口をもって岡部を語る許しを頂いたな?」 「…………」 「姫の口から岡部は語られぬ。  然らば姫は、我ら六波羅を語られませい」 「さぁさ。  言葉が喉に支えるとあらば、一押しくれて差し上げるほどに……!」 「うぐっ……!」 「岡部の姫よ!  六波羅を語れい!」 「――外道ッッ!!」 「いかにも!」 「人非人ッッ!!」 「いかにも!」 「鬼畜! 悪魔!  地獄の底から来た〈奴輩〉《やつばら》!!」 「いかにもッッ!!」  衆の面前で裸にされ、姦されている姫が罵る。  姦する入道は陶然と聴く。  それは、おぞましいまでに〈噛み合った〉《・・・・・》交合だった。 「たまらぬ! たまらぬわえ!  何と官能的な調べであろう!」 「うっかり成仏してしまいそうじゃわ!  姫よ、わしが往生してしまわぬよう、しっかり締めて捕まえておいてくれい!」 「この喜悦は現世限りのもの。  これあると知れば、わしはたとえ極楽からでも戻って来られるからのぅ!」 「それ、参るぞ!」 「く……あぁぁ!!」 「父と兄に良く見てもらえぃ!  仇に子種を注がれる姿……とくとのう!」 「!?  なっ――そんな」 「おう、暴れるでない。  そう喜ぶでない」 「焦らずとも、きちんと孕ませてやるからの。  その後は……〈菊の花〉《・・・》じゃ」 「そちらもなかなか乙なものぞ?  ふわっはっはっはっはっはっはっはっは!!」 「いやぁぁぁーーーーーーーーーーーーっ!!」  午前四時。  最も眠りの深い時刻を見計らい、行動を開始した。  警邏隊と出くわさぬ道順は事前に調査済み。  物見櫓のわずかな死角から死角をつき、夜陰の中を潜行する。  ……正直、懸念はあった。  考え過ぎであろうとは思う――が。  あの能舞台。あの〈見せしめ〉《・・・・》には、果たしてどこまでの意味があったのか。  そしてあの奇態な男の視線……。  思う都度、疑惑は増す。  だがそれでも、延期は論外と考えざるを得なかった。 「――――」  一条を制止するのはもはや、無理だ。  俺が調査に時間を費やせば、その間に単独で行動を起こすだろう。  それでは見殺しになる。  この直進しか知らぬ少女の意に任せて、事が成るとは思えない。  屍の山を築いた挙句、その頂点へ伏せるだろうか。  意味もなく。  そうはさせられなかった。  無意味な死屍累々の結末など迎えさせぬために、俺が同行しているのだ。  行動の延期は諦めたが、一条が望んだ作戦変更――遊佐童心の襲殺――はどうにか説き伏せて断念させた。  成功の見込みが無いと〈諭〉《さと》して。  ……見込み云々とは関係なく、それは止めねばならぬところであろうが。  もし万一にも成功が望めたなら、俺もどこまで本気で一条を制止したか。我ながら不明であった。 「お待ちしておりました」 「遅れましたか」 「時間通りです。  ところで、得物は?」 「こちらに」 「ッ!」 「……失礼を。  こんな近くにいたとは気付かず」 「潜伏させておいたので。  こちらこそ失礼……不意に見せるべきではありませんでした」  隠形を得手とする村正は無論だが、正宗も闇と多少の物陰さえあれば完全に姿を隠せる程度の潜伏性能はどうやら有している。  常人の視覚に捉えられないのは当然であった。  ささやかながらもこれは大きな不覚であったろうか。  もし岩田女史に大声でも上げられていたら、何もしないうちに逃走へ移らねばならないところだった。 (……良くないな)  どうも〈風向き〉《・・・》が悪い気がする。 「この劒冑……真打ですか」 「ええ」  こちらが劒冑を持ち込んでいる事は、打ち合わせの段階で彼女に伝えていた。しかし、それが稀有な古式の品だとは考えてもみなかったようだ。  信じ難いという面持ちで二領の劒冑を眺めている。  この事を最初から教えず、土壇場まで伏せておいたのは、つまり〈演出効果〉《・・・・》を狙ったからである。  〈親王陣営〉《こちら》が持つ武力の程を印象付けておく――それは今川雷蝶との今後の関係において必ず影響しよう。 「……では、参りましょう。  私の次に綾弥様。湊斗様は最後尾をお願いします」 「心得ました」 「どうする気だ。  あんたが手引してくれるとは聞いてるけど」 「奥女中が用いる裏口から本丸へ入ります。  本来なら夜間は錠が下ろされているのですが、今夜は開いたままになるよう手を打っておきました」 「中に入ってしまえば後は難しくありません」 「そうかよ。  ……湊斗さん。装甲はいつ?」 「〈潜入〉《・・》行動から〈襲撃〉《・・》行動に移る直前だ。  まだ早い……」 「装甲した瞬間、少なくとも本丸の警備任務に就いている武者は全騎がこちらの存在に気付き、殺到してくるだろう。  ぎりぎりの機を狙う必要がある」 「諒解です」  地上、それも屋内では武者の〈通常探査能力〉《レーダー》など飾りだが、〈熱源探査〉《ヒートシーカー》は有効である。  その探知範囲は決して広くないものの、同じ建物の中にいて〈未確認騎〉《アンノウン》出現を掴み損ねる事も真逆なかろう。  現在稼働中の竜騎兵は即応して来る筈だ――場合によっては更に広範囲から。  最新の〈陸戦用竜騎兵〉《ウォーカードラグーン》は旧来とは比較にならぬ強力な熱源探査を備えると云う……。 「この作戦は迅速さが命。  目的を充分に達したと判断したら、すぐに撤退してください」 「周辺空域を封鎖されてしまえば終わりです。  何としてでもその前に城外へ脱出を」 「承知しております」 「あんたはどうする?」 「邦氏様を狙った襲撃が行われ、同時に政所の新人が姿を消したとなれば事態は明白。  その新人を紹介した私も追及は免れませんから――」 「あなたがたの案内が済みましたら、その足で脱出します。  ご心配なく」 「別に心配はしてねえ。  ……てめぇの面倒まで見るのは御免だって思っただけだ。六波羅」 「……おや、そうですか」 (村正。周囲状況は) «異常なし。  平穏無事ってわけではないけれどね、勿論» «警備体制はいつも通り厳重よ。  まぁ、内部に詳しい人間の手引があるなら掻い潜れるでしょう……» «そこの〈天牛虫〉《かみきりむし》が足を引っ張らなければ、だけど» «好きに言え、蜘蛛が。  うぬのような無道の輩と違い闇に潜むを不得手とするは、吾にとって何の恥でもない» «……あら、そう。  性能の欠陥に恥辱を覚えないなんて、それでも劒冑? さすが天下一名物ともなると器が違うのね» «……» «……»  ……何やら気が滅入ってきた。 「……この辺りが限界ですね」  廊下を抜け、階段を三度登り。  評議にでも使われるのであろう広間にまで達して、先行の密偵は足を止めた。 「ここから先は警備に隙間が無くなります。  やり過ごすのは難しいでしょう」 「わかりました。  この先の道順は?」 「突き当たりの階段を、この二つ上の階まで登って下さい。  最上階ではありませんからご注意を」 「そこから真っ直ぐに廊下をゆき、三つ目の枝道で曲がり、進んだ先が目的の場所です」 「…………。  微妙に遠い」  つまりはリスクが高い。 「おい密偵。  その部屋は、ここからみてどっちだ?」 「方角ですか?  多分……ほぼ真上になるかと思います」 「湊斗さん。  〈突き破り〉《・・・・》ましょう」 「……」 「……」 「その手があったか」 「ほ、本気ですか?」 「最も合理的です。  最短距離であり、且つ派手な騒ぎを起こすという方針にも沿う」 「……はぁ。  決められたのなら、止めはしませんが」 「後は我々の領分。  貴方はどうぞお戻り下さい」 「わかりました……」 「じゃあ行きましょう、湊斗さん。  ここで装甲して構いませんね?」 「――――」 「湊斗さん?」 「…………」 「……?  おい、いつまで突っ立ってんだあんた」 「さっさと逃げ――」 「一条! 廊下へ戻れ!」 「!?」  遅かった。遅過ぎた。  周囲を取り囲む武者――武者――武者。  異形の竜騎兵の包囲陣。  それは最早、這い出る隙間も無かった。 「なっ――」 «……そんなっ!?  いつの間に!!» 「〈対探査迷彩〉《ステルス》というものが大英連邦の独占物であると――全く前例の無い新技術であると信じていたのですか?  こんな、誰でも欲しがりそうな技術が」 「!」 「とんでもありません。〈我々〉《・・》は古くから――とてもとても古くから、同じ武者の〈探査〉《かんかく》さえ幻惑する力を追求してきましたとも。  この醜い姿を優しい闇に隠すために」 「〈貴方たち〉《・・・・》に優しい死を与えるために」 (この男……!)  あの時の〈怪態〉《けたい》な侍だ。  能舞台で、遊佐童心に成りすましていた…… 「無論、それが大英連邦の現技術ほどの水準にあったとは申しませんが。  動きを抑えれば、劒冑の熱源探査すら騙しおおせる……その程度には達しています」 «…………» «ふむ。  そういえば月山鍛冶の一派がさような隠遁の業を究めていると、師に伺った事があった……» «先に言いなさいよ! 能無し!» (……人の事は言えんぞ。俺達も) «ふん、忘れておったわ。  吾には興味のない事なのでな» «先刻もそう言うたであろうが?» «忘れました。  興味ないから!» 「しかし驚いたのう。  いや、あるいはかくもあらんと思えばこそ、常闇の手まで煩わせて布陣を整えたのだが」 「まさか、本当に劒冑を持つ者であろうとは」 「……坊主!」 「古河公方……」  遊佐童心。彼までもが、いる。  普陀楽城の陰の支配者――とは最早呼べまい。表においても王である事を自ら豪語した、〈大兵〉《たいひょう》の僧。 「何故、と尋ねた方が宜しいか」 「訊いてくれると、こちらは格好がつくのう」 「何故?」 「ふっふぅ!  おぬしらは隠密などに向いておらんということよ」 「……何とも耳に痛い限り」  耳鳴りがしそうなほど。 「ま、おぬしらを責めるのは酷かな。  おぬしらを動かした者の問題が大であろう」 「雷蝶殿にも困ったものじゃて……」  ちらり、と入道が視線を動かす。  まるでそれを待ち侘びていたかのように、立ち尽くしていた岩田女史がぐらりと〈傾〉《かし》いだ。  そのまま無力に……無抵抗に倒れ伏す。  〈項〉《うなじ》から喉まで、〈苦無〉《クナイ》が突き立っていた。  おそらく即死であったろう。 「いま動くというのは、余りに〈正直〉《・・》過ぎよう。  〈謀事〉《はかりごと》には向かぬ御仁じゃ……」 「……」 「おぬしらの裏を読めれば、何をするか読むのも易い。  ま……邦氏殿下を狙うのが妥当よなァ?」 「殿下を襲われ、傷ひとつでも負わされたが最後、幕閣にわしの立場は〈無〉《の》うなる。  〈昨夜〉《ゆうべ》のような〈説教〉《・・》なら獅子吼殿もうるさく言うまいが、事がそうなっては……な」 「……」 「では殿下が狙われるとして、いつ来るか。  そいつはやはり、皆の気が抜けているおり……大きな催しのあった直後ではないかな?」 「とまぁこんなところよ。  いや、偉そうに語った後で何だが、あまり大した種明かしではなかったのう!」  言って、莞爾と笑う童心入道。  俺は内心で諸手を上げた。 (駄目だこれは)  最初から俺の手に負える仕事ではなかったらしい。 「しかし、わからんこともある……」 「……?」 「不思議そうな顔をつくらずとも良いぞ。  何がわからんのかは承知であろう」 「おぬしらは何処の者じゃ?」 「立場上、答えられる質問ではない。  しかしたった今、貴方自らが推測を語られたようだが」 「小弓公方の〈手下〉《てか》と申すか」 「答えられる立場にない」 「違うのう」 「……」 「小弓の〈寄騎〉《よりき》におぬしらのような者はおらん。  その二領の劒冑にも見覚えはない」 「それ以上に……  六波羅に〈頭〉《こうべ》を垂れるような玉ではなかろ?ぬしらは」 「……」 「如何に?」 「答えられる立場にない……」 「で、あろうのぅ。  ならばさて、答えられる立場にしてやらねばならぬが……」 「〈拷問〉《せめどい》を受ける虜囚というものは、如何なる秘密も口にして良いことになっております。  古河中将様」 「おう、おう。  さようであったか!」 (村正) «なに?» (この付近で、最も強力な磁場の在処を探れ) «……? 諒解» 「寡聞にして知らなんだわ。  ふむぅ、悪くない」 「特にそちらの娘御は良いのぅ。  秘密の訊き出し甲斐がある」 「……〈どぶ〉《・・》みたいな目で見るんじゃねえよ。  豚坊主が」 「はあっはっは!  それがたまらん、それがたまらん」 「邪なものへの憤り、正しき憎悪というやつは実に良い。実に美しく実に旨い。  昨夕もしこたま味わったばかりであるが、全く飽きるということはないのぅ!」 「……姫さまのことか!!」 「くふぅ。それよそれ、その怒り。  やれ、惜しいことよな。その怒りに任せて舞台で襲って来てくれておれば、事はもっと早かったんだがの」 「あれも罠かよ……!  いちいちやることが〈ねちっこい〉《・・・・・》なてめぇは」 「いやいや、一石二鳥を狙ってみたまでの事。  おぬしらがおらんでもあれはやっておった。やらずにおこうかい? あんな面白きことをのう!」 «御堂。見つけたけど……» (そこまで糸を射ち飛ばせるか?) «ええ» (良し。やれ) «破壊するの?» (いや。その磁気を〈回せ〉《・・》) «諒解» 「……坊主。  てめぇだけは――――」 「一条」 「え?」 「いいか。  装甲して脱出しろ」 「は……っ?」 「!!」  幾つかの事態がほぼ同時に、しかし段階的に起きた。  まず照明が一斉に、音を立てて破裂した。  辺りが再び闇に閉ざされる。  それだけならば、武者にとって何程のこともない。  一瞬は惑乱しても、すぐに視覚を取り戻す。  だが続いて何かが爆発し、足元が大きく揺らいだとあっては――混乱も一瞬では済まない。 «え? 何?» 「〈発電機〉《・・・》を暴走させたのだ。  お前が」 «はつでんき?»  中世の人間にその単語の意味を説明している余裕は無かった。  おそらくこの〈電磁操手〉《ムラマサ》は科学知識として知らぬだけで、その実質は〈知悉〉《ちしつ》しているだろうけれども。  本丸がたった一基の発電施設に頼っている筈はない。すぐ別電源に切り替わる。  思いのほか爆発は大きく、どこかで崩落の音も聞こえるが、まさかそれで城が倒壊するとも思えない。  奇策で稼ぎ出した時間は決して多くなかった。  それを、有効に使う。  足踏みと呼吸の音で包囲陣の乱れた方角を察知。  そちらへ、一条を押し飛ばす。 「――湊斗さん!?」  先の指示に従ってくれるよう祈るばかりだった。  実際は、祈る間も惜しんだが。 «御堂!» 「行く」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」  床を蹴り放って走り出す。  向かう先は正面――中央突破。  寡兵を以て衆を討つなら大将のみ狙う、その定法に従ったのではない。  敵将、かの僧形公方は既に姿が見えなかった。この混乱のなか誰よりも早く平静を取り戻して動いたのか。  その目的と行方は知れない。推量する時間もない。  だが俺は合当理に火を入れた。騎航に足るほどではなく――柱にぶつかるだけだ――背中を押し出し足を速める程度の出力で。  それでも、夜の城郭内にその排気音はとてつもない騒音として響き渡った。  混乱から回復しつつある兵らの注意が、いま一斉に集中するのを皮膚感覚で知る。  これで良い。  後は一条に迅速な行動力と正確な判断力さえあれば逃走の成功が望める筈だった。  前者は充分に期待できる。  後者はともかくとしても。  ここから先は、自分自身の世話を焼かなくてはならない。  太刀は抜かず、重量級の劒冑に物を言わせて真正面の敵騎を弾き飛ばす。  大した損傷も与えていないだろう。だが道が開けば充分だ。  陣を破ればそこは広間の端。目前には回廊。  一息に飛び出る。  道順など知る由もない。知っていた味方は既に亡い。  だが進む。一方角を決定して。そちらのみ目指す。  外へ出るだけが目的なら、それだけで良い筈だった。  この期に及んで尚も初期の目的に固執する愚はどう考えても生命一個を最低限度の代価としよう。その上、邦氏が今夜本当にここにいるのかも不明とくる。  いや……どこか別所に移されているとみるのがまず妥当だろう。古河公方がそうしておかぬ理由は皆無だ。  この場ではもはや、いかに奮闘しようと自己の安全以外に勝ち取れるものはない―― 「――ッ」  そしてそれも、並みの奮闘では勝ち取れそうにない!  頭上から襲い来る一刀を抜き打ちに撃ち上げ、斬手の騎体ごと押し戻す。  そこに生じた間隙へ、もう一騎。先手を打つ機は無かった。すぐさま来るであろう攻勢に備える。  備えて――――  〈そのまま動かぬ〉《・・・・・・・》敵に呼吸を外される。  半瞬の間。  それは先の一合で押し退けられた敵騎が戻るに充分。 「うぬ!」  危うく一方は受け弾いたが、もう一手は仕様もない。  覚悟を決め、せめて装甲の厚い肩で食らう。  勢力の乗った殺刃をそれでも村正の誇る甲鉄は防ぎ切ったが、そこまでが限度。  衝撃が突き抜け、刹那視界が眩んだ。 (出来る)  口の中に有難くない事実を噛み締める。  両者はいずれも練達の使い手。おそらく柳生新陰流六波羅派の。  二年前に出会い、太刀を交えもしたその流儀の剣客に、彼らの剣は酷似し匹敵する。  加えて〈連携行動〉《コンビネーション》にも巧み。  そこまで事実が揃えば、思うところはあった。 (そうか。これが)  思考は置いて、肉体は動く。  今はその機だった。  こちらに斬り付けた敵騎が追撃の絶好の機を逃し、無意味に動きを止めている。  村正の余りの硬さが彼をして動揺させたのは間違いなかった。  その隙を狙う。 「!?」  ――今度はこちらが呼吸を外した。  動きを止めた騎を狙うと見せ、脇から躍り出たもう一騎を打ち飛ばす。  更に跳ね戻って一歩踏み込む。  連携を破られわずかに動揺したか。残る一騎の反応が砂一粒分だけ遅れた。  貰う。  峰打ちで兜を横殴りに叩く。  手応えは充分――頭蓋骨の中に存在すると思われる精神とやらを弾き出したと確信する。  膝を屈し、板床へ沈む敵手の姿を最後まで観察する必要はなかった。  先に飛ばした一騎もすぐに回復する様子のないことだけ確かめ、再び駆け出す。 (彼らは――)  〈彼ら〉《・・》。  その認識にふと、疑問が生じる。  性別など不明だ。彼らは一声も発しなかったから。  そう、無声だった――現れた時も、打ち掛かる時も、打ち込んだ時も、打ち倒された時も。  その発見は俺の推理を補強した。 (六波羅厩衆!)  幕府というより足利一族に服従し、その身辺を守り、また表にできぬ様々な職務に従事する。  そんな特異な集団があることは知られていた。実態まで知る者は、誰もいなかったが。  推測でしかない。だが否定する材料もない。  無音にして迅速、群れにして一個、闇に沈んで剣を顕す――彼らがそうでないなら、一体何者がその厩衆を務められるというのか。  それは願望に近い想いだった。  こんな集団を幕府は他に幾つも抱えている――などと思えば、心の重さで足が進まなくなる。  せめてこれで打ち止めにして欲しいものだ。  数が多い――だが緊密な連携を取れる距離にない。  そう見切って、俺は選択した。突破。  剣を交えず、間隙を縫って突き進む。  太刀筋はどれも鋭く、〈剛〉《つよ》い。  一刀躱す毎に肌が冷える。  だが切り抜けてしまえばこちらの物。  斬りつけるため一度足を止めた彼らは、走り続けている俺に容易くは追いつけない。 「よし――」  前方から敵影が絶えた。  一気に駆け抜けて、引き離す好機だ。  ここで距離を稼げば―― 「な、」  〈跳躍〉《ジャンプ》してきた……違う。  それで追い越されるとも思えない。  今のは。 (こ――この者ら)  一瞬にして乾き切った上顎を舐める。  音と、匂いと、煙とで知れた。合当理を使ったのだと――つまりは、 (こんな狭い場所で〈母衣〉《つばさ》を扱えるのか!?)  紫電めく刺突剣を危うくも掻い潜り、太刀をすくい上げて一撃を見舞う。  甲鉄を斬り破る威力は欠いた。だが突進を利用された格好で、その敵騎は派手に廊下を転がっていく。  幸い、彼に続いて次々と敵が現れる事はなかった。  鈍った速度を回復させ、滑り易い通路を駆ける。 (何という奴らだ) «……器用な連中ではあるわね»  唾が苦い。  どうも、何もかも甘く見過ぎていたのではないかという気がしてきていた。  こんな者どもを向こうに回して、足利邦氏襲撃(形だけではあるが)を行い、まんまと逃げおおせるなどという真似が……果たして、可能であったのか?  今となっては馬鹿の妄想としか思えない。  身の丈に合わぬ事をした。  そうも考える。  国家の政治に――歴史に介入するなど。  そんな一大事は偉人か英雄に任せておくべきだった。何故、湊斗景明などがしゃしゃり出たのやら。 「――奮!」  出くわした階段を前に、即時の判断。  太刀を薙ぎ払い、倒壊させた。  そして――――下の階へ。  あくまで邦氏を狙い上へ向かった――と、敵が誤解してくれればここで大いに時間を稼げる。  慎重に熱源探査を巡らせている者がいたなら、全て無駄だが。やるだけやって損はなかった。  少なくとも追っ手にこの場面を目撃されてはいない。  俺は一つ息を吸い、脱出に向けてまた駆け出した。 「なかなか、抜け目のない……。  この状況でそれだけ機知が働くとは。私の配下に欲しいほどです」 「!!」 「やれ、やれ……  ちぃと調子に乗り過ぎたかの」 「取り囲んでやれば諦めて投降すると思うたがな。  肝の太い者どもよ」 「ま、後は常闇に任せておくか……」 「〈山戯〉《ざけ》ろ。  てめぇに高みの見物なんざ許すか」 「ほぉゥ?」 「のんきな観客になりたきゃあの世へ行きな。  この世では、あたしが認めねぇ」 「これは、これは。  改の奥方……」 「綾弥一条だ。  苗字と名前は、この順でいい」 「それが本名かね?」 「ああ。だがどっちだっていいだろ。  どっちだろうと、てめぇは死ぬんだ」 「くっくっく……」 「…………」 「逃げ場を求めてここまで行き着いたというわけでは、ないようだのぅ?」 「追ってきたに決まってんだろ」 「このわしをか……」 「その頭はいい目印になった。  暗い中でも良く光るじゃねぇか」 「ふぁっはっは!  さもあろうさもあろう。常日頃からよぅく磨いておるからのう」 「そいつを切り取ったら、この城のてっぺんにくくりつけといてやる。  電灯代わりになって丁度いい」 「ふっふぅ……。  いや、何とも一途な殺意よのぅ」 「それほどにこの童心坊が許せぬか」 「許さねぇ」 「討つか」 「討つ」 「我が身を裂くか」 「裂いて、潰して、粉にしてやる。  臓物を引きずり出して食わせてやる。目玉と〈睾丸〉《きんたま》えぐり取って鴉の餌にくれてやる」 「てめぇが、生きてる間にな」 「それは痛快だのぅ。  しかし、何ゆえに……?」 「何ゆえ?」 「…………」 「この普陀楽には何でもあるな。  金も、宝も、武器も、最新の機械も……」 「だってのに、鏡は一枚も無いらしい」 「ぐふっ」 「……」 「くふ、ふふふふふ……!」 「――しッ」 「っ!?」 «御堂! 劒冑だ!» 「なにィ!?」 「こいつ……」 «〈来〉《らい》派か……?  いや、〈延寿〉《えんじゅ》?» 「いや、恥ずかしい。恥ずかしい。  確かにこの遊佐入道、心に鏡は据え置いておらんなァ」 「いちいち過去を顧みながら生きてはおらんなァ……。  そんな暇もないほど、日々を楽しんでおるからのう」 「…………。  どうしてあんな真似をした?」 「はて?」 「てめぇが、岡部の姫さまにやったことだ」 「ああ、あれか」 「やりたかったんでの」 「…………。  じゃあその前の、能楽は何だ」 「あの〝頼政〟は……。  あれも全部、姫を〈引っ掛ける〉《・・・・・》ためだったってのか」 「いや。あれはあれで、やりたかったのよ。  頼綱公とは敵味方の立場を超えて、長年の友であった。その非業の死を思うと、我が胸に突き上げるものがある……!」 「心のざわめきの赴くまま、舞ってみた。  如何であったかな?」 「…………。  なら」 「その長年の友の骨で能面を作ったってのは、何でだ」 「やりたかったんでの。  〈おもしろかろう〉《・・・・・・・》と思うて」 「…………」 「くっくっく……」 「てめぇは……  やりたいことは、何でもやるのか」 「うむ!」 「許されると思ってんのか?」 「誰が許さぬ?」 「……」 「司法かな?  いや、残念。人の法律は〈権力〉《ちから》で優る相手を罰せられぬように出来ておる」 「では神仏かな? 天の法が許さぬか?  いや、しかし……この童心坊めは事故にも遭わず病にも罹らず、剣林弾雨も潜り抜け、こうして生き続けておるがなァ……」 「さぁて。  誰がわしを許さぬ?」 「あたしだ」 「……ほゥ」 「法律や神仏がどうだろうと知るか。  あたしが、おまえを許さない」 「……一条、と申したな」 「おぬし、誰の命を受けて動いておる?」 「命令なんか、誰からも受けてねえ」 「わしの首を獲ると、どうなるのかの。  金になるか? それとも、地位でも貰えるかな」 「馬鹿が。  てめぇみたいなクズの命に、びた一文でも払おうなんて奴がいるかよ」 「ではおぬしは、本当に……  〈その怒り〉《・・・・》だけなのか」 「義憤一つでわしを殺そうてか」 「そうだよ。  〈それだけだよ〉《・・・・・・》」 「てめぇが許せねぇから殺す。  このあたしと――正宗が」 「他に理由なんか〈無〉《ね》ぇ。  要らねえよ」 「……」 「ふはッ――――」 「……」 「くあっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!  そうか! そうか! 〈そうか〉《・・・》!!」 「純真無垢な娘御と、  正宗――相州五郎入道正宗!?」 「いつか――いつか現れるとは思うておった。  おぬしらの如き者がのう!」 「何ぃ?」 「〈婆娑羅〉《バサラ》の真髄はただ奇を〈衒〉《てら》うに非ず。  こころの求めるままに振舞う――〈不惑〉《まよわず》――〈無恥〉《はじず》――〈無思慮〉《かんがえず》!」 「欲一念を貫いてこそ婆娑羅!  そのような生き様が人に許されるのか!?」 「否……許されてはならぬ。  〈許されては〉《・・・・・》面白くも何ともないわ!」 「否定せよ!  取るに足らぬ有象無象ども、その意思と力を結集して我が道を塞げ!」 「正道の〈英雄〉《・・》を差し向けるがいいわ!!」 「――――」 「苦難を越えずして何の道か。  正道と対決せずして何の婆娑羅か」 「破邪の〈聖甲〉《しょうこう》――五郎正宗!  おぬしが来るのを待っておったぞ!」 「……覚悟はできてるってのか?」 「何を聞いておった。  覚悟なぞあるかい」 「わしはおぬしを踏み潰す。  そうして我が生涯を完成させようぞ」 「何ものもかえりみず、我欲のままに生き、罰も受けず、満ち足りて命を終えた……  世にも〈ふざけた〉《・・・・》男として、のう!」 「させねえよ!!  正宗!!」 «応!!» 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「天に冥府。地に魔道。  踏まえし道は修羅の道」 「いくぞ……  〈自分〉《てめえ》のための念仏を唱えろ、坊主!!」 「はぁっはァ!  そんなもん、とうに忘れてしもうたわ!!」  ――何たる。 「ちぃ――」 「……」  ――何たる事か。  この様を傍で見ている立場であったら、〈演技指導〉《・・・・》をしたかもしれない。  もう少し〈現実感〉《リアリティ》を、とでも。  〈時代活劇〉《サムライアクション》の中にしか有り得ぬ光景だ――    武者と生身で渡り合う剣士など! «……実は貴方たち……  二人で〈ぐる〉《・・》になって、私をからかってたりしない?» 「同じ事を俺も訊こうと思っていたのだが」  他にどう考えろというのか。  全ては夢で、現実の俺はどこかで眠っているのか。今ここの〈現実〉《・・》よりは、まだ有りそうな話に思えた。 「さほどに奇妙な事ではないのです……」  間の抜けたやり取りを聞いていたように――実際はこちらの動揺を読み切ってか。  異装の男が口を挟む。 「ここは狭い。武者の最大の利点である騎航能力が全く活かせません。  翼を奪われた鷹が鼠に手間取るは、むしろ道理というものでしょう」 「……それでも鷹には嘴がある。  鼠の牙と渡り合って互角以下では、やはり不甲斐ないかと思われるが?」 「他にも事情はあります。  私はここで、無理に勝ちを取る必要はない。足止めできればそれでいい」 「しかし貴方は違う。  一刻も早く私を倒さねばならない……こうしている間にも私の部下達が駆けつけて来るかもしれないのだから」 「……」 「〈時間〉《とき》を味方とする者は〈余裕〉《ゆとり》を得、敵とする者は〈焦慮〉《あせり》を得る。  私と貴方。〈体〉《タイ》は貴方が大きく優るでしょう。しかし〈心〉《シン》は私が優位にあります」 「ここまでは五分。  残るは、〈技〉《ギ》……」 (それが、比較にならぬというわけか!?) 「――ぬぅ!」 「御小手一本」  こちらの繰り出す太刀を〈体捌〉《たいさば》きで避け、更に避け。そうして生じた隙を突き、左手首に一撃を〈呉〉《く》れてきた。  関節部である手首は防護が薄い。切り離されることこそなかったが、肉を深く裂かれている。  遂に反撃まで食った事に、衝撃は無論ある。  だがそれ以上に〈堪〉《たま》らぬのは、こちらの剣撃が躱され続けている事だった。彼は刀を使って受け止めてすらいない。  俺は〈受けさせる〉《・・・・・》事さえできていないのだ。  受けさせれば、力で押し切れる。  武者と常人の筋力差は絶対だ。  それは必ずしも難しい事ではない、筈だった。  力量に大きな差でもない限り、そうそう太刀筋を見切って避けるなどという真似はできないからだ。  つまり。 (技量に、それだけの差がある……)  大人と子供。  玄人と素人ほどの。  剣師である養父にさえ、ここまで軽くあしらわれた覚えは無かった。  何者なのか――この男。 「……いえ。やや浅い……  咄嗟に力を抜いて打ちに備えた?」 「……」 「戦慣れした反応、だけでは説明できない。  貴方は知っているようですね。我々六波羅新陰流の剣筋を」 「一度、立ち合ったことがある」 「その者の名は?」 「一ヶ尾瑞陽」 「……あの娘。  道理で……成程」 「あれと剣を交えていたのなら納得もゆく」 「あの方をご存知か……」 「つまらぬ汚職事件に巻き込まれたりしなければ、今頃は私の手元に引き上げていたかもしれない者です。  惜しいことをした……」 「私が〈直〉《じか》に手解きをしたのはほんの数度ですが、確かに〈天稟〉《てんぴん》と呼べるものがありました。  彼女は今?」 「……二年前、己の矜持に殉じられた。  他に語るべき事はない」 「……そうですか……」 「貴方は彼女の師か」 「そう言っても差し支えはないでしょうね。  ……宜しい。これも人の〈縁〉《えにし》」 「あの者に伝え切れなかった〈奥秘〉《おうひ》を、貴方にお教えしましょう。  ――掛かっておいでなさい」 「……?」  言うや、男は初めて〈構〉《かまえ》を取った。  刀を右肩上に担ぐ、武者正調の上段。  それはかえって、隙を生んだように見えた。  無構と違って太刀筋はある程度限定される。動きを読み取ることが可能になっている。  より、単純な力の勝負に近くなったと言ってもいい。  そうなれば、生身の劣勢は明らかだ。  何のつもりか?    しかし、躊躇する時間を俺は持たなかった。  この瞬間にも、後背に敵が現れ得るのだ。  何があろうと――挑むしかない。  俺は対手に倣って太刀を上段に取った。  そして呼吸を――計らない。こんな剣術の化け物のような相手にそんな真似をしても墓穴掘りだ。  何も考えず、  斬り込む。 (――!)  こちらの攻撃に、敵は〈遅れて〉《・・・》動いた。    遅れて――しかし真っ向から挑むようなその軌道。  これは。 (〈切落〉《キリオトシ》か!?)  遅れて剣を起こしながら――  相手の剣を〈切り落とし〉《・・・・・》、体をも断って勝つ技法。  一刀流の秘極として名高い剣。  それを……ここで? (馬鹿な)  俺は構わず振り込む。  手を止める必要はない――この勝負は勝てる。  単純な力において、武者と生身の差は〈絶対〉《・・》だ。  男の剣がいかに精妙を極めようとも、武者の一刀を切り弾いて軌道を変えさせる事など叶わない。  俺に相手を殺す気は無いから、加減はしている。  しかし同じ事だ。  せいぜいが相打ち。  受ける被害は確実に、相手の方が大きい――           「六波羅新陰流」             「〈合撃〉《ガッシ》」 「――――――――」  何も言える事はなく。  ただ、黙って〈それ〉《・・》を見詰める。  俺の左手が廊下に落ちていた。 「ふぉっ――」 「ちっ――」 «ほゥ、ほゥ、ほゥ。  なかなかの手並み» «槍留めの技をよくこなしよる!» 「くそ……  槍ってのは厄介なもんだな」 «うむ。  蒙古どもも使っておった……» «薙刀よりも遠くから突いて来る。  時には投げて来る。  ……これを相手に間合を奪うは至難の業ぞ»  一説によれば、大和の槍は元寇の際に大陸から流入したのが始まりだが、やがて長柄物の筆頭格の地位を薙刀から奪取し戦国時代にかけて隆盛したのだという。  事実なら、つまりはそれだけ有利だったという事だ。  こうして立ち向かってみればその理由は嫌になる程良くわかる。  敵の騎体は足が鈍い。  まだ正宗の騎航に慣熟したとは言えないあたしでも、どうにか〈双輪戦〉《ふたわがかり》の鉄則通りに高度優位を奪い取れる。湊斗さんの村正に比べればまさに鈍亀だ。  この時点で〈激突〉《タチウチ》における優勢は確定している。  高度が速度を生み速度は威力を生む。  しかしそんなもの、 「――だらぁっ!」 「ふっふぅ!」  太刀の間合に入る前に〈突き退けられている〉《・・・・・・・・・》ようでは、何の意味もない! 「畜生。受け止めると体が崩される……  懐に入る暇がねえ!」 «そこが槍の卑劣さよ。  安全な場所から己のみ攻めて、勝ちを盗む»  同感だったものの、それを言ったって仕方がない。 «どうする、御堂»  どうする?  …………………………。 「……へ。  どうもこうも、無ぇ」  〈ぶちやぶる〉《・・・・・》。  それだけだ。 «心得た。〈それ〉《・・》で参ろう。  カッハァーーーーーッ!!» «どうした、どうした!  埒が明かん様子ではないか娘武道!» «もう手詰まりかの?  大見得を切ってそれでは格好というものがつくまいて!» «うるせえ。埒は明ける。  〈あと三手〉《・・・・》だ» «ほーゥ?  ではその三手、見せて頂こう!» 「けっ……」 「ふむぅ?」 「つっ……く」 «これで二手。残り一手。  ふっふっ、ちぃと手数が足りんのではないかな?» «……» «この槍の〈螻蛄首〉《けらくび》は特別強靭に出来ておるでの……。  〈打ち折る〉《・・・・》のは骨であろう» «わしがこのまま打たせ続けてやるとも限らぬしのう。ん?  はぁっはっはっは!» «そうか。  じゃあ、〈やめ〉《・・》だ» «つーかよ、三手も要らなかったし» «ほっ……?» «ぬ!?» 「おら――よっ!」 「どうだ!?」 «敵騎、左肩甲鉄に被撃!  だが大した損傷ではない» «槍留めの連続による腕力の低下が不都合であった。  また、敵騎の甲鉄も中々に優れている» 「亀だけに、ってか。  簡単にはいかねえな」 «まぁ、調子くれてた野郎の目を覚まさせてやれたみたいだから、いいとしておくか» «……確かにの。いいやつを貰ったわい。  やってくれたものよな、娘御» «別に。  槍に勝つなら懐へ入る、なんて常識だろ» «その弱点があるから武者の間で槍は流行らなかったんだろうが?»  高速で空を飛び交う武者の剣術が基本を斬撃とし、刺突に重きを置かないのと同じ理由だ。  点の攻撃は命中率が悪い。線の攻撃の方が当て易い。  槍は遠間から一方的に突けるとはいえ、敵に当てる難度は剣の刺突と同様に――いや、得物が長いだけになお高い。  その難事をしくじれば、あっさり懐に入られるわけだ。至近距離で槍にできることは何もない。  今度は自分の方が一方的に斬られるだけ。 «六回……今の込みなら七回か? 全部的を外さなかったてめぇの腕は大したもんだ。  けどよ。六回も見りゃ、こっちの眼だって慣れるに決まってんだろ» «……» «受けないで避ければ体勢も崩れない。  てめえを、斬れる!» «〈とろとろ〉《・・・・》やり過ぎたんだよ、坊主!  あたしが慣れるまで時間を寄越したてめぇが馬鹿だ» «驕る悪党はそうして自滅するものよ!  クハハハーーーーッ!!» «……いや、本当にのぅ。  返す言葉もないわい» «だがの。わしも大物ぶって手加減していたわけではなくてのう。  ちっと、〈肩慣らし〉《・・・・》をしておったのよ……» «おぬしの一発で目が覚めたことでもある。  そろそろ――参ろうか» «何を……!?» «尾張貫流破門、遊佐童心。  これなる劒冑は〈同田貫正国〉《どうたぬきまさくに》» «我らが槍――いざ、御覧あれい!!» «……?  御堂» «槍に、〈何か〉《・・》を通しよったぞ» 「何か?」 «筒のような» 「……筒?」  頭の中のどこかに引っ掛かる。  筒。  槍。    ……何か。〈つながるもの〉《・・・・・・》があった、気が。 «御堂! 間合ぞ!» 「ッ!」  悩むのは後だ。  今は集中する。  いくらか慣れてきたとは言っても、あの槍の穂先を見切るには相当な神経の集中が要る。  気を散らしながらできるようなことじゃない。  しかも相手はどこからどう見ても曲者中の曲者。  一度見切られたからには必ず一捻り入れてくるはず。  それでも、 «馳走» «来やがれ――»          «〈一を以て之を貫く〉《イチヲモツテコレヲツラヌク》» «――え?»  やつは、確かに〈捻り〉《・・》を入れてきた。  文字通り。そのまんま。  でも、一捻りどころじゃなかった。 「……あれは……」 「…………」 「……………………」 「……義姉上。  お迎えにあがりましたぞ」 「えっ?」 「ぐぅ……っ!」 «背面に被撃!  貫通された――おのれェ!!» «修復を開始する!  御堂、この程度で沮喪するでない!» 「あ、当たり……前だぁっ!」  背中に〈穴が開いた〉《・・・・・》苦痛を噛み殺す。  泣いている暇なんかない。喚いている暇もない。  視野を確保して、崩れかけた騎航体勢を立て直す。  損傷の回復に〈熱量〉《カロリー》を取られている分、〈翼回り〉《あしこし》が重い――それでも力任せに〈兜角〉《ピッチ》を持ち上げて高度を上げる。  墜落したらそれまでだ。  たとえ即死を免れても、勝敗はそこで着く。 «はっはァ!  如何なものかな、貫流の〈刺突〉《つき》は» «なかなかに食い応えがあろう?» «抜かしてろ!»  毒づく。  差し当たって、他に返せるものがない。  貫流。管。槍……。  今更ながらに、思い出していた。 「管槍だ。  畜生め……」 «御堂、それは?» 「普通、槍ってやつは左手を〈口〉《・》にして右手で突くだろ」 «うむ» 「左手で持つ所に管を通して、口の〈すべり〉《・・・》を良くしたのが管槍だ。  普通の槍よりも速く突けるし、修練すれば回転を利かせて捻り込めるようにもなる」 «成程……。  しかしそれにしても先のあれは、〈回り過ぎ〉《・・・・》ではないか?» 「……尾張貫流の管槍はもう一工夫あるんだ。  螻蛄首がやたらと〈しなる〉《・・・》」 「鞭かなんかみたいにな。  そのお陰で、手元の捻りが尖端へ伝わる頃にはあんな大回転になってるって寸法」 «むゥ……»  ――管槍の尾張貫流。  いつだったか、一媛婆さんが話して聞かせてくれた。編み物をしながら……なんで編み物しながら槍の話になったのかはさっぱりだけど。  槍の怖さを知りたいなら貫流と立ち合え。  槍は最初の一突を〈躱〉《かわ》せばいいだけ――なんて〈寝言〉《・・》は一瞬で吹っ飛ばしてくれる、とかなんとか。  確かに婆さんの言う通り。  躱せばいい、それは間違いない――が。どうやってあれを躱す? «さぁて。先程、有難い忠告を頂いたばかりであるし……。  今度は一息に仕留めさせて貰うとしようかのう!» «舐めんな!»  大きな螺旋を描いて、牙のような穂先が飛んで来る。  ――この軌道を見切ろうったって無理だ。  けど、〈しなる〉《・・・》根元を打ち払えば――  ……どうにもならねえのかよ!! «右肩に被撃……!» 「ッ……程度は!?」 «案ずるな!  肉が少し吹っ飛んで関節が砕けただけだ。大事は無い!»  良し。  〈ぶらぶら〉《・・・・》して邪魔で動かない右腕のことは忘れる。  目が眩みそうな激痛も鬱陶しいので無視する。 「、……っ…… 問題無さそうだ」 «うむ。  問題は無いが、あと一撃食らえば墜ちる» 「対抗手段がねえな……」 «情けないことを言うでない。  この正宗の仕手ともあろう者が» 「弱音吐いてんじゃねえ。  考えてるんだ」  ……一媛婆さんは、なんて言ってたっけか。  尾張徳川家〈御留〉《おとめ》流儀。槍術の至芸と目されたがため二百年に渡って一藩内に秘め置かれた貫流の槍先を、太刀によって封じるには。  確か…… 『対抗策?  そうねえ』 『避けて避けられるもんじゃないし。  受けたって弾かれるだけだし』 『無いな。  無理無理』 (無いのかよ!)  記憶の中の無責任な言葉に、記憶の中の自分の声をなぞって返す。  記憶の中の無責任な婆さんは、小馬鹿にする風で肩をすくめながら言ってきた。 『刀じゃどうにもなんないって。  それでもどうしても勝ちたいなら、拳銃かなんか持ってくれば?』 「……けっ。  それしか〈無〉《ね》ぇか!」 «ほゥ。  やるのか、御堂?» 「やっちまえ。  あの糞坊主をこれ以上図に乗らせるよりは何だってマシだ!」 «心得たり» «まだ墜ちぬか。  粘るのう。粘るのう» «その粘りが勝機を呼べば良いがのう?» 「――――」 «くふ、ふふ……  忘れてはおらぬであろうが、ここは六波羅が主城、普陀楽山塞の上空。時間を掛ければ、邪魔者が大挙して闖入して来ぬとも――» «……» «はて。そういえば……解せぬな。  何故いまだ、一騎たりと現れんのか……?»  正面の空飛ぶ豚が何やらごちゃごちゃ言っているのは聞き流しておく。そんなのはどうだっていい。  奥歯から前歯、歯という歯を全力で噛み締める。  一度、息を吐いて。  〈肚〉《はら》を据える。 「正宗」 «応» 「喰え」 «拝領» 「ぐギ……」  体のどこかで鉄の肌と鉄の肉、生の肌と生の肉が、べきべきべりべりと〈剥〉《は》がされていく。  それは〈捏〉《こ》ね合わされ。球形に固められ。  弾丸と化す。 「――ぬぅ?」 「……正宗、七機巧が〈一〉《ひとつ》。  〈飛蛾鉄炮〉《ひがてつほう》・〈弧炎錫〉《こえんしゃく》」 「くれてやる――」 «DAAI・AAARRRRRRR!!» 「……そう来るかぃ!?  だが」 「むん!!」 「ぬはァッッ!?」 「ちぃ……!」 «おのれ、小器用な奴!  弾を槍で打ち落としよったか!»  正宗が口惜しげに唸る。 〝鉄炮〟は避けようが撃ち落とそうが、爆裂四散して無数の鉄針を飛ばす武器だ。防ぎ切ることはできない。  広範囲に散る〈鏃〉《やじり》は敵の分厚い胴体甲鉄は貫けずとも、薄い関節部には突き刺さったはず……。  しかしそれも、長槍の穂先に掛かって遠間で爆裂させられたのでは、果たして何本が届いたか。  下手をすると単に驚かせただけで、実質的な被害はほぼ皆無かもしれない。 「〈自爆兵器〉《・・・・》だってのに。  こっちの〈損害〉《ダメージ》の方がでかいんじゃねえか」 «それは気にするな» 「わかってる」  正宗の甲鉄の隙間に潜り込み、肉皮をえぐっている何本かの鉄針のことは忘れておく。  気にしても仕方がない。傷なんてもの、気にしなければ無いも同じだ。  多分。 «もう一発〈かます〉《・・・》か、御堂?» 「……いや。  ちまちまやってても、埒が明かねえ」 「右腕全部潰せ!」 «……良いのか?» 「どうせ動かないならいらねーだろうが!」 «道理!» «ふほっ。  おぬしも意外に芸達者よの!» «今のは少し〈ひやっと〉《・・・・》したわぃ。  いや、この戦慄こそが勝負の醍醐味というものであろうが!» «しかし、そんな〈のろのろ〉《・・・・》弾では――» «喜べ» «む?» «〈醍醐味〉《・・・》。  大盤振る舞いだ» «残さず綺麗に、全部食え!!» 「ギ――」  骨は潰して硝石に。  肉は挽いて焦がして木炭に。  血は〈熱量〉《カロリー》。一滴の火炎。〈起爆剤〉《プライミング》。 「イィィィィァァァァァアアアアアアア!!」  甲鉄の針を込め、  甲鉄の膜で覆う。  鉄炮・弧炎錫。  あたしの、〈瞋恚〉《いかり》だ。 «のわっ――――!?» «DAAI・ARAAAAAAAAHHH!!» 「……柳生常闇斎」 「……」 「相違なかろうか」 「私は裏方の者。  敵に名乗る習慣は持ちません」 「が……貴方は特別です」  それはつまり、認めるという意味だ。  その名称で呼ばわれる事を。  ――柳生常闇斎。  幕府門外不出の武芸、柳生新陰流六波羅派の現宗主。幕軍剣術師範にして足利一族直衛隊〝厩衆〟の統括者……  つまりは大和第一位の剣客! 「〝切落〟だと思いましたか?」  武界の頂上にいる男は、俺の左手を指差しつつそう言ってきた。  手首から先を失っているその手。 「……」 「一刀流の真髄〝切落〟は相手の剣と対称の一撃をもって勝を取る……  その秘訣は」 「〈遅れて〉《・・・》――相手の剣筋を見切った上で動き。それを〈切り落とす〉《・・・・・》明確な意図をもって迎え、刀と刀の打ち合いを制する点にあります。  求められるのは運剣の精密さ」 「我らの〝合撃〟はこれと似て非なるもの。  相手の剣筋を見極めてから動くところまでは同じ」 「しかしその先は精密さではなく効率を求めます。  〈大きな円〉《・・・・》を描く敵の剣筋の内側に、我が剣は〈小さな円〉《・・・・》を描き――」 「結果的に、相手よりも早く目標に達し。  打ち合わず。〈乗り込んで〉《・・・・・》。  斬る」 「これが新陰流六波羅派の合撃です。  ……同じ新陰流でも解釈の相違があるので、他の派ではまた異なる形で伝わっているようですが」  面倒見の良い教師の顔付きで、彼はそう語る。  出来の悪い生徒は、半分も理解できずにいたが。  立ち上がりの遅れを効率的な運剣でカバー――いや逆転させる、術。  ……わかったのはせいぜいがそこまで。  真似はできないし、打ち破る方法も思いつかない。 «御堂……!»  だが余計な事は骨身に徹してよく理解してしまった。  それは村正も同様だったのか。  この男には勝てない。  現時点、現状況下では――どう仕様もなく。  腹腔に冷たいものが満ちる。  それはおそらく、血と熱量を無為に垂れ流してゆく左手首の切断面のせいばかりではなかった。 «――全力で» (〈否〉《いや》)  〈蒐窮磁装〉《おわりのながれ》――〈電磁抜刀〉《レールガン》の使用をも含めて戦術を検討しろと、村正が云う。  それはこの赤い劒冑にとって屈辱的な進言であったに違いない。  生身の人間を相手に総力を費やすなど!    だが屈辱とは関係なしに、俺は進言を拒んだ。  ――もう、〈村正〉《おれ》は誰も殺さない。  一条と約束したのだ。罪無き善良な人間までも殺す呪いを、眠らせておく為に。  劒冑の能力を完全に駆使すれば、必ず相手を殺してしまう。劒冑は殺人目的に特化された武器なのだから。  抑制せねばならない……一条に従うと決めた、その誓いに懸けて。 «…………»  村正は黙った。  諦観を伝えるような沈黙だった――この勝負への、〈ではなく〉《・・・・》。  別の何かへの諦め。  ……その正体を探るだけの心理的ゆとりは今、俺に与えられていない。 「――さて。  私は一人。刀一振りを提げて貴方の進路に立ち塞がる。手の内はこの〝〈合撃剣〉《がっしけん》〟」 「貴方は武者一騎。仲間はいるが離れている。  時間は無い。ややもすれば私の部下がここへ来る」 「状況、以上。  では――どうされます?」  挑発としか思えないようなことを、とても挑発には聞こえない穏やかな口調で剣士が言ってきた。  黒い機械に覆われてその双眸は見えず、真意もまた窺い知れない。  だが突きつけられた問題は、確かにいま俺が直面すべき現実そのものだった。掛け値もない。  敵は一人。己も一人。しかし敵には近い将来の決定的な増援があり、こちらには無く……。  敵の剣は本邦武術史上に冠たる大流儀、柳生新陰流の秘極に達したもの。  無名の流派を〈漸〉《ようよ》う修めたきりの湊斗景明の剣とでは、同じ剣でも重さが違う。  武者と生身、本来絶対的であるべき戦力差は有って無きが如し。    ――どうすべきか。  この状況を如何なる手段で打開する?   〈 「心法無形通貫十方」 〉《シンポウハカタチナク、ジッポウニツウカンス》 「……」 「貴方は〈殺人刀〉《せつにんとう》に留まる器か?  それとも〈活人刀〉《かつにんとう》に届く器か……?」 「……」  返す言葉はない。  つまりは、返す技もない。  剣の勝敗は既に定まっている。 (そうか)  それが〈答え〉《・・》なのだと、俺は気付いた。  湊斗景明は柳生常闇斎に勝てない。  ――負けた。 「どうだぁ――――!?」 «クハーハハハハハハハァ!!  その一撃が正義の怒り! その一撃が弱者の嘆きと知るがいいィ!» «肥溜めの底で腐った糞尿より汚らしい血を撒き散らして死ねェ!!» 〝鉄炮〟の連鎖爆裂は見るだに凄まじいことになっていた。  ざまぁ、みろ。  旋回しながら爆炎が晴れていく様子を見守る。  この中に野郎の〈原型〉《・・》がもしまだ残っているとしても、無事でいるはずはない!  これが、てめぇのやったことの報いだ……! «ギィィハハハハハところで御堂。  別にどうでも良い事だが今の爆風の余波でなんか右足が吹っ飛んだ» 「そうか」  道理でさっきから右足の膝より下が〈軽い〉《・・》と思った。 «〈速力〉《あし》の鈍りは避けられん。  残存熱量を考えると、航続可能距離は長くなさそうだ» 「早目に離脱しないとまずいってわけか」  もたもたしていれば、普陀楽城の真ん中へ着陸する羽目になりかねない。  ……でも、その前に。 「湊斗さんの無事を確認しないと。  どうだ? 〈村正〉《あっち》はもう脱出したか」 «知らん» 「〈探査〉《サーチ》しろよ」 «どうでも良かろうが。奴らのことなど» 「……良くない」 «何故だ» 「あの人は味方だろ」 «敵であろう。〈偶々〉《たまたま》手を組んだだけの。  奴めがもし〈地上〉《した》で窮しておるなら丁度良い。始末の手間が省けるというものよ» «……む。いや、それはそれで口惜しい話か。  奴らはこの手で斬り捨てたいと、そう云うのだな? 御堂» 「……」 «――それとも、何か。  奴の罪を許したとでも?»  鍛冶師は己を劒冑とする時、肉体だけでなく魂をも鋼鉄に変えるという。  ために真打劒冑は〈精神〉《こころ》を宿すといってもそれはごく平板で、感情の波がほとんどない……らしい。普通は。  正宗は全く違う。人間そのもの、あるいは人間以上に感情的だ。  しかし、今は――まさしく劒冑らしい、冷たく硬い鉄の声を発していた。 「……許しちゃいない。  ただ……罪を償って欲しいって、思ってるんだ」 «罪を償う方法など無い» 「そ……それは、わかってる。  でもあたしにはあの人が必要なんだ」 「幕府と戦うのに、あたしだけじゃ力が足りない。……おまえは否定するんだろうけど。  自分の未熟は自分が一番良く知ってる」 「あたしと一緒にいれば、あの人だってもう正しい人まで殺したりしなくて済むし……」 «御堂。  良いか» «〈悪は悪〉《・・・》なのだ。  〈悪鬼は悪鬼〉《・・・・・》なのだ» «奴らと吾らは決して相容れぬ。  あの男はいずれ御身を裏切る» 「……そんなこと、ない」  あの人はあたしが信じる正しさを理解して、認めてくれた。そう、幾度か……あの人らしい不器用な言葉で。  あの人はあたしと一緒にいてくれる。 «裏切られた時はどうする» 「……」 «そこまで信じてなお裏切られたなら、どうするのだ» 「その時は許さない。  〈必ず殺す〉《・・・・》」 «……» 「…………」 «…………» 「……まだ不満があるのか」 «御堂。  悪とは実に往生際が悪く、しぶといものだ» «そう簡単には殺し切れん» 「どんなにしぶとくたって――」 «来るぞ!!» 「なに!?」 「なっ――  てめェ!!」 «くわっはははははははは!!  いや、いや、〈魂消〉《たまげ》たわいッ!» «極楽浄土へ旅立つところであった!» 「か……亀!?」 «亀だ……»  そんなの有りか!?  というか、どういう構造だ!? «……〈機巧〉《カラクリ》仕込みに凝る鍛冶師は吾だけではなかったらしいな。  あの発想は吾にも無かった» 「ふはぁっ!!」 「……無傷だってのか?  あれ食らっといて!」 «甲羅に閉じ篭もった亀が相手ではな。  鉄炮の鏃も貫けぬ» «うぅむ。  怒りを通り越して呆れも通り越して感心も通過して» «今はただ無性に叩き潰したい!!»  心の底から同感だった。 「このやろ――」 «おおっと。もう手妻の時間はやらぬぞ。  遊びが命取りになること、ようくわかったでな……» «墜とさせて頂こう!» 「正宗!  鉄炮はまだ撃てるか!?」  奴の攻撃のタイミングに合わせて相打ちで叩き込んでやれば―― «いや無理だ。  これ以上甲鉄を消費すると飛べなくなる» 「くそ……!」  太刀で打ち合うしかない。  左片手の―― «破ァーーーッ!!»  相手に――  ならねえ! 「畜生が!!」 «いかぬ! 御堂!» 「正宗!?」 «〈母衣〉《ほろ》を砕かれた!!  ……墜ちる!» 「!?」  〈翼甲〉《つばさ》が――半分がた消し飛んでいる。  不味い!  この状態では、もう騎航は継続不可能だ。  熱量を投じて再生…………間に合うわけがない。  翼甲の残りが辛うじて〈平衡〉《バランス》を維持している。墜落死することは無さそうだ、が。  それは単に、健在な敵騎から嬲り殺しの憂目に遭うというだけの話。  飛べる武者と飛べない武者の戦力比は一対三、〈乃至〉《ないし》一対五。一対一〇とまで言われることもある。  つまるところは勝負にならない。 「それでも……くそ!  やるしかねえか!」 «〈悠長〉《・・》な考えは、それまで生き延びてから弄べ。  御堂!» 「なに――」 «敵騎、〈三二〇度上方〉《いぬいからいのかみ》!  落下攻勢!» «――はッ!  地面まで生かしとく気はないってかぁ!» «もう時間はやらぬ……  そう言うたのう!»  むかつくほど正しい決断をしやがる。  確かに、半墜落中の今こそがこちらは一番無防備だ!  天頂側から最大の速度と最大の勢力を確保して攻め寄せてくる敵騎に対し、こちらは全く何もできない。    いや――何も無いのか!? 本当に! 「正宗!」 «応!» 「あたしらはここまでか?」 «断じて否!» 「あたしはあいつを倒せるか!?」 «正宗は正義を行うにあたり無敵である!!» 「どうすればいい!?」 «吾に命じよ!» 「〈やれ〉《・・》!!」 «承知ィ!!» «御命頂戴!» «てめぇが寄越せ!»  来る。  あたしは刹那、〈横転〉《ロール》した。  まるで背泳ぎするような格好で敵を迎える。 「ム!?」 「正宗七機巧が一」        «隠剣・六本骨爪» 「グハ――ガッ、キ、ヒ」 「なっ……  なんじゃあァ!?」  ……骨が。  屈曲した長い骨が、三対。あたしの胸を突き破って、爪のように伸びて、敵騎を〈噛んでいた〉《・・・・・》。  骨は、骨のままじゃない。  甲鉄で覆われている…… «この正宗に死角なァァァァァシ!  手も足も出ない窮地に陥ることもあろうと予期し――» «肋骨を出せるようにしておいたのだァ!!  クハーハハハハハハハハ!!» 「ぐ……おぉ!?」 «無駄じゃ無駄じゃ無駄じゃ!  この六本骨爪の〈握力〉《・・》は〈北曾〉《えぞ》の羆をも凌ぐ» «そう容易く逃れられるものではないわ!  御堂、今ぞ!» 「が、ふ……ッ!」 «血を吐きながらでも良いから攻撃せよ!  敵は藁人形同然!» «こうして食いついておる限り墜落の心配もない。  叩き斬ってしまえぃ!!»  あ――そうか。  今が…………好機か! 「っ……」 「お……らぁぁっ!!」 「うぬ――」 「ち、この……!」  寸前で、敵騎はまた亀の形になった。  掴まれた状態から無理矢理、手足と首を引っ込めて。  片手振りの一撃は虚しく弾かれる。 「足掻きやがって!」 «何の。  御堂、〈焦がして〉《・・・・》やれぃ!»  それだ。  劒冑の誘導に従って、熱量を太刀へ注ぎ込む。  ――正宗七機巧が一。 「〈朧〉《オボロ》」 «〈焦屍剣〉《ショウシケン》»  超々高温が刀身に宿った。  炎熱は握り手をも焼く。皮膚を焦がし肉を溶かし骨を〈炙〉《あぶ》る。  この腕が炭化して動かなくなる前に済ませなければならない。 「正宗。  甲冑の弱点は、喉と……」 «もう一つ» 「あれか」 «あれだ» 「じゃあ、それだ!」  左腕を振り戻して、  突く。 「ぎッ――――」  全てを焼き溶かす刃は、丸亀武者の〈股ぐら〉《・・・》をいとも簡単に刺し貫いた。 «言ったよなぁ!?  てめぇが生きてる間に、目玉と〈睾丸〉《きんたま》抉ってやるって……» «まずは汚ねェ方からだ!  約束通り! 貰っとく!!» 「げぇぇあがががががががががが!?」 «ギハハハハハハハハハハハハ!!  まるで絞め殺される豚の悲鳴だァ!!»  更に太刀をねじり込む。  豚の叫びは途切れなく続いた。 「ががが」 「がっ」 「ひィ!」 「待ってたぜェ!!」  堪りかねたのか、敵の〈兜〉《あたま》が遂に鎧の中から飛び出す。  あたしは股間に刺した太刀を引き抜いた。  狙いを定める。  今度こそは、一撃必殺の喉! 「死ぃ、ね――」 «KALASUTRA!!»  ……!?  火を――――吐いた!? 「がぁっ……」 «いかん!  逃げられっ――»  腕を片方、頭部を守る位置に〈翳〉《かざ》す。  左腕だ。こちらは更に斬られようと、もう大した問題ではない。 「……」 「自分の敗北です。  柳生の御宗家」 「……貴重な一手を御教授頂きました。  感謝致します」 「では?」 「〈では〉《・・》」 「これにて、退散仕る」  挨拶と同時。  合当理に〈熱〉《ひ》を入れる。  出力は限界の半分程度。  それでも屋内で用いるには強過ぎる――だが構わぬ。  急激な始動。〈排気〉《エグゾースト》。  強引極まる推力確保に、全身の甲鉄が〈戦慄〉《わなな》く。  そうして進む――  進むだけだ。  技は何もない。  太刀を構えもしない。  〈もう負けているのだから〉《・・・・・・・・・・・》、技など必要ない! 「正解!」  文字通り爆発的な推力を得て進発する。  その出端を見事に捉えて、柳生常闇斎の一剣は俺を襲った。  ただの刀に過ぎぬそれはしかし、この異相の男の手にある限り、武者の全身にある関節部から潜り込んで重傷を負わせ得る過不足ない凶器たる。  が――  一撃を以て致命傷を与えようと思うならそれはただ一箇所、首を狙うほかにない。  心臓は無理だ。分厚い甲鉄が計算し尽くされた耐刃構造をとる劒冑の胸部は、武者の刺突でも跳ね除ける。  だから、首。  首さえ守ればいい。  盾にした左腕、その肘関節の隙間を常闇斎の凶刃は精確に〈掴〉《つか》み、侵入し。皮から肉、肉から骨へと存分に切り裂いた。――超人の手並み。  恐怖に血は凍り、感嘆に息は止まる。  だが柳生の長にしてそこまでが限度。  村正の左腕を切り抜けた一刀は勢威を失い、兜角に当たって軽く弾かれる。  委細、構わず。  俺はただ前へ進む。  世界全てを置き去りにするが如き推力に身を任せ、前方へ――――  肩が常闇斎の胸元に接し。そして一瞬のうちに押し飛ばした。  この激突さえ、怪物じみた達人に何の痛痒も与えていないのがわかる――接触の瞬間自ら体を後方へ倒し、衝撃を流している。  しかし、構わない。  倒れたであろう敵手に、俺は目も向けなかった。  駆け抜ける。半ばは〈騎航して〉《とんで》。ただ前へ。  行く手を妨げるものは、最早何も無かった。 「……そう。別に私を屠る必要はない。  貴方の勝利は私を倒すことではなく、この城から脱出を果たすことで得られるのだから」 「必要だったのは私を倒す方法ではなく私を突破する方法……それは武者なら造作もない。  そこに気付いた時点で貴方の勝ち。気付かれた時点で私の負けです」 「〈口車〉《・・》も、乗せられなければそれまでの事。  私もとんだ道化ですね」 「頭領!」 「遅いですよ」 「申し訳ございませぬ!  組頭が倒されたため、連絡が混乱し――」 「外でも何か異変があった様子で……」 「? ……わかりました。  貴方達は侵入者を追いなさい」 「〈あちら〉《・・・》へ向かいました。  逃がしてはなりません!」 「はッ!」 「……何をしているのです?」 「あの……頭領。  ぼく――いえ、自分の熱源探査は、あちらではなく〈こちら〉《・・・》に侵入者らしき反応を捉えているのですが……」 「――――」 「か、か、勘違いでしょぉか?」 「宗虎」 「は……はい。頭領」 「今は伯父と呼びなさい」 「は、はい。伯父上」 「お前は今年の春、討死した兄君に代わって出仕を始めたばかりでしたね?」 「はい」 「わずか半年ばかり。  にも拘わらず、お前が一番落ち着いていて、状況を正しく把握した……」 「行く末が楽しみです」 「お……伯父上……」 「いえ。  楽しみでした」 「お前の〈行く末〉《・・・》がここまでとは。  本当に残念です」 「え――」 「次があるなら、必ず愚鈍な人間にお生まれなさい。  ……〈神〉《でうす》よ。我が罪を赦し給え」 「……」 「彼にはどうやら〈資格〉《・・》がある。  だから、生かすと決めたのですよ……」 「全ての運命。我々の総意思。  ……〝〈緑龍〉《グリューネドラヘ》〟の翼の下に」  ……落ちた! 「こっ……」 「ここは……  どこだ」 «――普陀楽城とやらの外縁。  出城のようだな……» «その上に落ちた»  出城……  そういや――そんなのも見たような。 「篭城戦用の施設だから、普段は使われない……って、湊斗さんが言ってたけど……。  どうだ? 正宗」 «……確かに誰もおらん。  今のところは»  すぐに取り囲まれる心配は無いってことだ。  いや――違う。そんなことはいい。そんなことよりも先に。 「糞坊主は!?」 «――直上!!» «〈RAURAVA〉《叫喚》.〈MAHARAURAVA〉《大叫喚》.  〈TAPANA〉《焦熱》.〈PRATAPANA〉《大焦熱》……» «ぬゥ……!  先の一撃とは比較にならぬ、強大な〈陰義〉《シノギ》を準備しておる!» «奴め、城ごと吾らを焼き払うつもりか。  とうとう全ての余裕をかなぐり捨てたな» 「陰義――」  真打劒冑の中で、更に一握りの名物だけが備え持つ超越的なちから。  もはや武具の形にも囚われず、その発現はまさしく魔法。あるいは神の奇跡と云う。 「野郎、そんなもん隠してたのか……」 «あの劒冑……同田貫と称したか?  若造と侮ったのが不覚であった» 「避けられるか?」 «敵の陰義は広範囲に及ぶと予想される。  ……〈母衣〉《つばさ》が利かぬ現状では、無理だな»  聞くまでもなかった。  そもそも足が一本欠けていて、立てもしないのだ。 「……対抗手段は?」 «一つのみ» 「何だ」 «吾らも陰義を以て迎え撃つ» 「……機巧か?」 «否。  あれらは陰義ではない。正宗が甲鉄の工夫で成し遂げた機能に過ぎん» «我が〈心鉄〉《しんがね》が刻む陰義は別に有る» 「それを使えば勝てるんだな」 «然り!  正宗に敗北は無い» 「良し。  あたしは、どうすればいい」 «うむ。  間もなく、空から地獄の業火が降り注ぎ、吾らを骨の髄まで焼き尽くすであろうが――» 「あぁ」 «何もするな» 「……なに?」 «〈何もするな〉《・・・・・》» 「……」 「それだけか?」 «もう一つ» 「何だ」 «死なないように、気をつけろ» 「……………………」 «御堂が最後まで死なねば――  吾ら正宗の勝ちだ!»  おい。 「……相棒。  この状況で冗談かましてるわけじゃ、ねえだろうな?」 «当たり前だ» 「じゃあ――」 «時間だ。  歯ァ食い縛れ、御堂!!» 「だーーーーー!!  やりゃあいいんだろうが!!」  死ななきゃ勝つ。  そりゃそうだ。  ああ――じゃあ、死なねえよ!  それで勝てなかったらてめぇのせいだぞ正宗! «〈SAMJIVA〉《等活》!! 〈SAMGHATA〉《衆合》!!  〈KALASUTRA〉《黒縄》――»   〈«AVIIIIIIIIIIIIIIIII〉《阿》〈IIIIIIIIIIIIIIIIICI!!〉《鼻》» 「な……」 「なんだ、あれは!?」 «……!?»  ようやく、本丸から脱出を果たして――  しかし俺は、そのまま一息に飛び去ることができなかった。  それを見たのだ。  凄まじいまでの炎に包まれている、城の一角。  あそこには確か……  出城があった筈だが。 「火事?  いや……」  何処がどう、とは言い難い。  だが、〈燃え方〉《・・・》がおかしい。  自然の炎とは、何か違う。 «陰義よ!» 「――確かか」 «〈ちから〉《・・・》の流れを感じる。  間違いない» «あれは武者が呼び起こした炎よ……»  だとすると。  ――――正宗か!?  あるいは、正宗と交戦した幕府方の武者が起こしたものとも考えられるが……  どちらであれ、看過はしかねる。 「村正! 状況を確認する」 «諒解» 「くはっ……」 「はっ。  は、は、は……」 「……」 「我が婆娑羅道……潰えたり。  一身の欲に耽溺し、徳を捨て法を忘れ理を侮り、堕落し果てたこの身魂……遂に断たれたり」 「我は我が道を踏破し得ず。  中途に〈斃〉《たお》る……」 「……無念よのう……」 「……そんなの、当然だ。  おまえは、間違ってたんだから」 「うむ。  うむ……」 「罪は裁かれた。  悪は報いを受けた」 「世に正義はあったのう……」 「…………」 「くふっ」 「くふ、ふふ、ふははは」 「……笑うんじゃねえ」 「ふはっ――  はぁはははははははは!」 「笑うな!  何が可笑しい!」 「む? 楽しいに決まっておるではないか。  正義はあったのだぞ………悪業への報いはあったのだぞ?」 「これほど痛快な話が他にあろうか……」 「……」 「おぬしこそ何故笑わん。  この結末こそは、おぬしが求めていたものであろうが」 「――それは」 「おぬしは正義を掲げ。  姦悪なるこの遊佐童心と戦い」 「勝利し」 「殺したのだ」 「――――」 「誇るがいい。  笑うがいい」 「この敗者を嘲り無慈悲に哄笑するがいい!」 「〈おぬしは完璧に正しく〉《・・・・・・・・・・》、  〈その正しさをもってわしを殺したのだから〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈のう〉《・・》!!」 「――――――――」 「く、く、く……  ふわっはっはっはっはっはっはっは!!」 「……黙れよ……」 「はあっはっはっはっはっはっはっは!!」 「黙れッ!!」 「は、は――――」  完全に焼け落ちた出丸の中心。  可燃物を失って炎が退いた空間に――彼女はいた。 「一条!」 「……」  倒れ伏していた少女を抱き起こす。  様子を一見して……俺は思わず、目を背けた。  酷い――  酷いなどというものではない。  全身がほとんど〈炭化〉《・・》している。  どう見ても、生きているようには見えない。  しかし…… 「一条……」 「一条!!」 「……あ……」 「みなと、さん……」  〈眉庇〉《まびさし》の向こうに、薄目が開く。  弱々しくも残っている、生命力を示して。 「何があった」  一条の指が動く。  痙攣めいて。  何かを指し示す。    …………鉄屑? 「……遊佐、童心と。  戦って」 「何?」 「……殺しました……」 「……」 「あたしが、殺した」  そこまで告げて。  声は、途切れた。  指もまた、力なく落ちる。 「一条!」 «大丈夫。  劒冑が命を繋いでいるから……死ぬことは無さそう» 「……そうか」  必要最低限度の安堵は得て、一つ息をつく。  そうして、傍らへ目をやった。  鉄屑以外の何とも呼べない、それ。  ……古河公方、遊佐童心――これがその最後という事なのか。  良く観察すれば確かに、それは劒冑の残骸だった。  肉も――人の骨肉の断片も混ざっている。 「…………」 «御堂» 「ああ……」  促されて、立ち上がる。  半壊した劒冑に包まれた半死の一条を、無事な右腕で抱え上げて。  ここは敵地。寸秒を惜しんで離脱し、安全な所まで逃れなくてはならない。    だが……俺は貴重な数瞬間を費やして、天を仰いだ。  炎を映し、紅く燃えている空に向かって呟く。  ――――まずい〈事態〉《こと》になった。 「雷蝶様ッッ!!」 「なぁに?  麿のモーニング・ビューティ・タァイムは邪魔しないようにと言っているでしょう」 「一大事でございます!  昨夜、あろうことか倒幕派のテロリストに普陀楽城への侵入を許し――」 「……あぁら。そう。  それは大変ねぇ……」 (フフフ……やったわ!  これで幕府は麿のもの) (礼儀知らずの獅子吼はきっと、相手が童心様でも手加減なしに責め立てる……これほどの大失態なのだから。  茶々丸だって、わざわざ弁護なんかしない) (となれば、童心様はもう麿に擦り寄るしか手立てが無くなる。  麿を四公方の筆頭として立て、関東管領の地位も認めて――ね!) (ウフッ。  ウフフフフフフフフ……) 「――武者をも含む精鋭の敵勢は本丸ほか数拠点を襲撃、甚大な被害を及ぼし……  古河公方遊佐童心様も、敢えない御最期を遂げられましたァーーーーッ!!」 「なぁんですってェェェーーーーーーッッ!?」 「キャノン中佐。  これはどういうことだと思うね?」 「さて……ね。  どこかの誰かが、歴史の時計を早回ししたがってるんでしょうか」 「後世の歴史家は事態の整理にさぞ戸惑う事だろうな。  しかし差し当たって、我々は自分の心配をせねばならない」 「ええ。ウィロー少将。  歴史の観客になる気はありませんからね」 「役者にならねばならないな。歴史を我々にとって居心地のいいものへ変えるためには。  苦痛の歴史は我々と、我々の祖先のものだ。我々の子孫には引き継がせない」 「肯定です。全く肯定です。  少将閣下」 「本国の連中の反応はどうだ?」 「〈どちらの〉《・・・・》本国です?」 「偉大なる女王陛下のお国の方だ。  あの肥え太り過ぎた。糞食らえの」 「諸手を挙げて喜んでいる連中が大半のようですね。これで奪りやすくなった、と。  非戦派の中からも、幕府に統治能力が無いなら強硬手段による占領もやむなしとの声が」 「……お軽い連中だ」 「本当に。  何のために我々が長い時間を掛けて六波羅を悪役に仕立て上げ、軍備の増強も容認してきたのか、ろくろく理解していません」 「……とはいえ、だ。  我々の当初のプランは、もはや瓦解したと言わざるを得ない」 「残念ながら。  六波羅幕府の頽勢はここへ来て決定的です」 「〝〈平和実現装置〉《ザ・ガジェット》〟も無駄になったか」 「あれも惜しいですね。  ようやく使い物になるという所で」 「どう考える? キャノン中佐」 「決断の時かと」 「……」 「現状で動くことがベストだとは、到底言えません……が、ね。  このままワーストの結末を見守るよりは、ベターの成果を獲るべきでしょう」 「うむ……」 「新たにプランを立て直すことも、決して不可能ではないのでしょうが……。  問題は所要時間」 「我らが〈大和進駐軍最高司令官〉《ゼネラル》は生粋無欠の英国騎士にして、ちゃんと〈見える〉《・・・》眼も持っている御方です。困ったことにね。  今の所は〈休暇〉《バカンス》気分なので救われてますが」 「それでもいつ、こちらの策動に気付くとも知れません。  時間を掛ければ掛けるだけ、我々の計画が〈大英連邦〉《ブリテン》側に発覚する危険は高まります」 「なるほど。  ……結論は既に出ているというわけだ」 「〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》のために。閣下」 「ああ。  〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》のために。クライブ」  ――聞いたか。  ――ああ。  ――きっと、噂の赤い武者がやったんだぜ。    護氏の野郎も……  ――銀星号じゃねぇのか……?  ――GHQに消されたのさ。  ――何だっていいや。    ざまぁ見やがれ。  ――さんざん好き勝手したツケが来たんだ……!  ――ああ……。  ――けどよ。  ――ん?  ――これから、どうなるんだ?  ――…………。  ――どうなるんだろうな……。  ――わからねえ……。  ――なんか、ケツがむずむずしてきやがる。  ――この国は……大和は……    どうなっちまうんだ……? 「――――以上です」 「…………」 「…………」  報告を終えて。  俺はしかし、そのまま顔を上げられずにいた。  未だ仔細を確かめていない何らかの経緯によって、出城の一つが焼失するまでの被害を普陀楽に及ぼした――それは別にいい。あの一角に兵士は詰めておらず、被害は主として建造物だ。  派手な騒動を起こすという舞殿宮の目論見にも合致するし、その意味においては俺の企むところであった邦氏襲撃未遂と何ら遜色ない。  俺の計画の失敗に補いをつけたとさえ言い得る。  だがそれはあくまで、事態が〈そこで〉《・・・》済んでいたならの話だ。  理想的な成功はあの場における唯一の死者によって、現実ではなく仮想のカテゴリに沈んでしまった。  遊佐童心。  この一個の死によって、舞殿宮の政略は崩壊する。  幕府の〈力関係〉《パワーバランス》を己に都合の良くなるよう揺り動かすのが親王の希望だった。  その為の〈一押し〉《・・・》が俺と一条に与えられた任務だった。  だが、押し過ぎた。  親王が利用すべき幕府は大将領に続いて宿老までも失い、今や倒れかけている。  完全な〈過剰打撃〉《オーバーキル》。  ……正確なところは一条の報告を待たねばならないが、おそらくあの時――俺が包囲を崩した後、一条は俺の期待通りに逃げてはくれず、遊佐童心を追い。  交戦の末、撃墜したのだろう。  出丸の焼失はその煽りか。  いずれにしろ、一条の手で古河公方が殺害されたという事実は、本人の口からも語られた以上、疑う余地が無い。  能楽堂の一件で一条があの悪僧に殺意を抱いたのは知っていた。だから思い留まるよう言い含めもした。  俺自身に殺意が全く無かったといえば嘘になる。が、それは結局のところ撤回を前提とした殺意だ。  してはならぬ事とわきまえた上で、殺してやりたい――と怒りを〈燻〉《くすぶ》らせていたに過ぎない。  しかしおそらくは、俺のそんな中途半端な心理こそ事態の元凶であったのだ。  一条に対する制止が徹底を欠いた。  内心を伴わない俺の言葉は軽く薄く……遊佐童心と相対した一条を引き止める手綱にはならなかったのだろう。  そうして一条は古河公方を追い、追い詰め、遂には討ち取った。  ……そう、〈真逆〉《まさか》そんな事は有り得まいと思っていたのも、俺の制止が力を欠いた一因であろう。  厚い防備を掻い潜って遊佐童心に迫り、武勇にかけても名高い彼を正面から打ち倒す、など――  そこまでの底力があの少女にあるとは夢だに考えていなかった。全く見誤っていた。  つまるところ、この事態は俺の不覚だ。  俺は目の前の二人のみならず一条本人からも、若く未熟な彼女を補佐し必要なら制御もするよう求められていたというのに、まるでその役を果たせなかった。  一体、何の為に付いて行ったのか。  ひたすら恥じ入るほかに〈術〉《すべ》もなかった。 「……景明くん」 「はっ」  数分かそれ以上も続いた沈黙の後、親王が重たげに唇を開く。  しかしその目的は、俺に対する叱責とは違った。 「怪我の具合は?」 「……は。  切断された左手の完治には今少しの時間が必要ですが、他は大事ありません」  顔を伏せたまま、答える。  床についた左手は、外見上、既に傷跡もない――が、内実はそこまで至っていなかった。神経系も筋肉組織も再生途上にある。現状、左手の握力は子供以下だ。  太刀を握れるようになるのは明日か明後日か。  武者の回復力とて完全に失われた部位を再生させるにはそれなりの日数を要するのだった。 「一条くんは?」 「……回復しつつあります。  しかし動けるようになるのは、今しばらく先かと」  一条の容態を思うと、心中は何とも複雑になる。  見るからに酷烈な重傷への戦慄――少女の死を予感しての恐れ、怯え――回復の事実がもたらす安堵――その事実に対する拭えぬ疑問。  彼女の負傷の度合いは俺の比ではない。  四肢の欠損に加え、まさしく全身が黒焦げだったのだ。  常識的に考えて、致命傷である。  〈常識的な武者〉《・・・・・・》でも、あれは死ぬ。  正宗がいかに名甲中の名甲であり、比類なき甲鉄を誇ろうと、それだけで説明のつく話ではない。  一条自身に、死すら克服する力があったのだと考えねばならない。  一体、綾弥一条とは何者であるのか。  真実、心底から人としての〝正しさ〟を求め、邪悪を憎む魂が、そんな底知れぬ〈剛〉《つよ》さを生むのか――  ならば――あの少女は、            英雄なのだ。  ……俺は突き上げる〈畏〉《おそ》れの感情に打ち震えた。  それは隷属を誓いたくなるほどの畏怖だった。 「そっか。二人とも呼んだのに景明くんしか来ぃひんから、心配してたんやけど。  そんなに酷いとは思わなかったえ」 「は。いえ、重傷は事実ですが。  どれ程の負傷でも致命傷にさえならなければ、武者にとっては掠り傷と同じ。完治まで要する時間の差があるだけです」 「宮殿下におかれては、どうかお心を安んじられますよう」 「そうか……?」  劒冑を駆った経験のない人間が首を傾げるのは無理もないが、そういうものである。ために古くは武者の首級を挙げるという行為――回復不能な致命傷を与えた証明――が戦場の武功の最たるものと見られたのだ。 「来週中にはほぼ快癒すると思われます」 「ならええけど。  無理はあかんえ。医者が必要なら、すぐに言うてくれな?」 「はっ」  何にしても、心遣いには感謝せねばならなかった。  一段と深く頭を下げる。 「では、殿下……」 「ああ、うん」  短い言葉で親王に伺いを立ててから、署長がこちらへ向き直る。  ……本題か。 「大体、想像はついていると思うが」 「はい」 「小弓公方は我々との連絡を断った」  ――ああ。  やはり。 「こちらから色々と働きかけてはいるが……  提携の復旧は望み薄だろうな」 「最早謝って済む話ではございませんが……申し訳ありません。  今川中将が逆上するのは無理からぬ事です」  直接的な意味では、俺と一条の〈暴挙〉《・・》による失地は、親王よりも同盟者の今川雷蝶にとって一層深刻だ。  俺達の行為は彼の拠って立つ足場を突き崩したのだから。  裏切られたと思い、憤怒もするだろう。 「いや。〈逆上〉《いかり》……とは、違うのではないかな。  おそらく彼は怯えたのだ」 「怯えた?」 「〈親王陣営〉《われわれ》は小弓公方に朝廷権威を付与するなど協力し、彼の政権掌握を後押しする。  彼はその見返りに我々の意を汲んだ政治を行う……」 「と、一応は対等の同盟関係を結びながらも、小弓公方はこちらを侮っていた筈だ。  所詮は武者の一騎も擁さぬ奴ら、とな」 「その侮りに付け込んで、村正と正宗の存在をより鮮烈に見せ付けてやるため、お前達の正体を向こうには伏せておいたのだが――」 「コトを起こす段になって、いきなりこっちが武者を繰り出してきたらびっくりするやろ思うてね」 「はい」 「――今となっては、その細工も裏目に出た。  〈親王陣営〉《われわれ》は普陀楽城を破壊し、古河公方を討ち取る、〈その戦略と戦力を隠し持っていた〉《・・・・・・・・・・・・・・・》と今川中将に見られている」 「――――!!」 「つまりこうだな……  我々は最初から小弓公方と手を組む気など無かった。ただ利用するだけのつもりでいた。何故なら我々の目的は〈幕府の滅亡〉《・・・・・》だからだ」 「我々は〈計画通り〉《・・・・》、雷蝶公方を利用して遊佐童心を殺害する事に成功し、幕府の屋台骨を大きく揺るがした。  後は突き倒すだけ……というわけだ」 「……今川中将にとって、今やこちらの戦力は限りなく未知数。  動揺した幕府なら討てるだけの力を持っているのかもしれない――と……」 「〈疑〉《うたぐ》ってるんやろなぁ……。  たぶん、夜も寝られん心地で」  勿論、実際は違う。  舞殿宮の配下にある軍事力は俺と一条の二騎きりだ。衰えたりとはいえ六波羅全軍を相手取るには桁が四つほど足りない。  だが今川雷蝶にそんなことはわからないのだ。  真逆とは思いつつも、建朝寺に結集して倒幕の旗を掲げる大軍勢を、きっと彼は幻視している……。 「……何と申しましたものか……」  相手が怒っているだけなら、譲歩することで関係の修復も図れる。  しかし疑心暗鬼の虜になった人間には、何を言ったところで効果は無いだろう。  どうやら俺が考えていた以上に、状況は悪い。 「いや、景明くんが縮こまる必要はないよ。  これははっきり言うとくけどな」 「……」 「景明くんと一条くんを普陀楽に送り込んだのは、このわしや。  それで起こったことの責任はみんなわしにある」 「そこんとこ、勘違いしたらあかんえ」 「……はっ……」  理屈の上ではそうだ。  人に命令する者は結果に対して全責任を負う。  それは、そういうものだと承知している。  しかし……納得は難しかった。 (俺がもう少し気を利かせていれば)  どうしても、そう考えてしまう。  考えずにはいられない。 「それにま、状況もまだドン詰まりってほどでもないしな。  雷蝶が怯えてるなら怯えてるで、やりようはある。……そやろ、署長?」 「確かにそうです。しかし向こうがこちらの連絡に応えない以上、取りあえずは先方からの〈行動〉《アクション》を待たねばなりません。  考えられるのは二通り」  場を取り成すように明るく言う親王に対して、署長の返答はどこまでも実際的だった。  眉間の深い皺をぴくりとも動かさずに、表情よりも厳しい声をこちらへ向ける。 「我々とは組んだ方が得だと結論し、改めて同盟の継続を申し入れてくるか……それとも。  我々を生かしておけば命取りだと判断して、滅ぼしに来るか」 「…………」 「……」 「まず、そのどちらか」 「署長はどちらだと?」 「わからん。そこまで小弓公方の心理を読み切れない。  どちらも有り得る話だ。両方の場合について対処を考えておく必要がある」 「そやな」 「では、前者の場合――」 「難儀な事になる。  今川中将と協力し、幕府を支配しつつ再建しなくてはならない」 「それも火急に。  この現状を受けてGHQがどう決断しどう動くか、全く不明だ。小弓の動向よりわからない。わからないから、急ぐしかない」 「最悪の事態がもしも明日訪れるのならば、今日中に備えを済ませることでしか対処できないのだ」 「……」 「では……  後者の場合は」 「…………」  小弓公方今川雷蝶が。  舞殿宮春煕親王を、滅ぼすべき敵と定めたなら。 「…………」  その時――何ができるのか。  まったく独力でも動員兵力は四万を下らず、その中には三百騎余りの武者さえ含まれる、六波羅四天王の一柱に対して。 「…………」  ……口を開く者は、誰もいなくなった。  一日目は、疲労の中で寝て過ごした。  二日目は、回想と共に寝て過ごした。  三日目は、歓喜を胸に起き出した。  湊斗さんの家――ではなく。鎌倉署長の役宅は悪くない居心地だった。療養中の身体には特に。  自宅の安アパートで過ごしていたら、火傷の治りはもっと遅かったかもしれない。  ここで休めるよう手配してくれた湊斗さんには感謝しないといけないだろう。  あと一応、家主にも。それと牧村って言ったっけか、無口だけどやたら気の回る使用人の人も。  体を動かすたびあちこちが引きつれて、痛みが走る。それもあまり気にはならない。  庭の植物から送り込まれる空気が心地良いお陰だ。  いや。違うか。 (……やった)  胸に満ちる達成感の前には、痛みなんて海洋深層水みたいなものだった。遠いどこかで存在しているだけ。  ともすれば怪我ごと忘れそうになる。  何やらもうもどかしくて落ち着かない。  手足にあといくらか力が入るなら、その辺を無闇に走り回って発散もできるのに。つい今朝まで寝たきりだった身では部屋の中をぐるぐる歩くのが精一杯だ。  それにも飽きて、仕方ないから座り込む。  でもじっとしていられない。意味もなく手を握ってまた開き、理由もなく足を伸ばしてはまた戻す。  そんな傍目には単なる挙動不審な奴になってしまうほど、心気が昂りに昂っていた。  でも当然だろう。  あたしは、やった。  六波羅四大公方の一人、遊佐童心を倒した。  もうあたしは題目だけ立派で中身のないカカシ野郎じゃない。  正しいことのために戦う――〈戦っている〉《・・・・・》んだと、胸を張って語れる人間になった。  この手で、悪を倒したんだから!  まだ一つだけだけど。でかいやつを一つ。あの坊主はきっと〈現世〉《このよ》にのさばっている限り、岡部の姫さまのような目に遭う人を増やし続けたに違いない。  それをあたしが止めたんだ……    そう考えると嬉しかったし、誇らしかった。  ようやく父の教えに恥じない娘になれたように思う。  父様は言った。悪を憎め、認めるな、決して許してはならないと。  正義とは、人として正しい在り方。人の原則。正道。  邪悪とは、それに背くことを云う。人の逸脱。外道。  悪を滅ぼしてこそ、世は正しく導かれる。  だから命に懸けて否定する。否定して戦う。戦って滅ぼす。  例えその悪にやむなき理由があろうと、見逃してはならない。 〝必要悪〟を認めてはならない。これを許す限り悪は絶対に滅びない。  正義が邪悪に勝利する日は来ない。  悪の犠牲になる人も絶えない。  ――滅ぼすのだ。  悪はすべて。理由を問わず。一切。  わけてもあの遊佐童心のように、悪のため悪を行う奴輩は。  人の世界から追い出して相応の地獄へ突き落とすに如かず、だ。  父様はきっと褒めてくれる。  よくやったって言ってくれる。    あの時――初めて悪をこr  たときのように  興奮し過ぎて、頭に血が昇ったみたいだ。  軽い〈眩暈〉《めまい》。あたしは額を押さえた。  ……少し、熱いような気がする。  もしかすると微熱があるのかもしれない。  ここまで回復しておいて、明日からは風邪で改めて寝込み、なんて御免だ。  後で泣きを見ないためには、用心して休んでおいた方がいい。湊斗さんにも無理は厳禁と言われているし。 (……その前に新聞読もうかな)  寝床へ向けた足をふと止める。  それは良い思いつきだった。  まだあたしは自分のやり遂げたことを、新聞の記事という形では目にしていない。  新聞は毎日読んでいるけど、載っていなかったのだ。  幕府が報道規制をしているのだと湊斗さんは言っていた。さもありなん。  たった二人の敵にカチ込まれて領袖を失ったなんて話、六波羅は封印でもしてしまいたいところだろう。  けれど幕府の統制力は弱まっている。それにこの手の事件は隠して隠し通せるものでもない。  そろそろどこかの新聞がすっぱ抜くかも――とは、今朝のあの人の言。  見回すと、夕刊が抜かりなく戸口の脇に差し入れられている。  まだ日没前、配達員が走り回っているくらいの時間なのに。本当にあの使用人の人はソツがない。  あたしはいそいそと新聞を手に取った。  動悸が急に激しくなり、早鐘を打つ。  記事はもしあったとしても、ただ判明している事実を並べただけのものだろう。  あたしへの賞賛があるわけじゃない。名前すらない。  それはわかっている。そんなこと期待もしていない。  けれどそれは、あたしのした事に対する社会の〈承認〉《・・》なのだ。あたしが正義を実行した事実を事実と認めるものなのだ。  あたしと正宗の存在を認める、社会の宣言なのだ。  言ってしまえば表彰状のようなもの。どんな競技もこれを受け取らなければ優勝したことにならない。  まさしく表彰台に登るような心地で、あたしは新聞を開いた。    そこに、〈事実〉《・・》はあった。       古河公方遊佐童心中将               殺害さる 「…………………………」  一面記事だった。  夕刊の第一頁はその一事件で征服し尽くされている。いや、この分だときっと、中の紙面もこれに関連する記述で一杯だ。  でも、あたしに読めたのは見出しまでだった。  おかしい。  ……なんで、あたしは動揺するんだろう。  この記事はさっきまであたしが胸中で反芻していた事実を文章にしただけ。  鎌倉市民にとっては驚天動地の内容でも、あたしにとっては目新しい発見なんて一つもない。  なのに、なんで。    この指先は〈がくがく〉《・・・・》震えているんだろう。  今更、何を驚くのか。  ここにある事実はとっくに知っていたことだ。  ――あたしは遊佐童心を倒した。              違う。  そう。  ハイエナにも劣る〈腐肉喰らい〉《スカベンジャー》の分際で悠々と天上へ舞いやがったあの野郎を、似合いの地べたへ叩き落としてやったのだ。              違う。  忘れてはいないし、目を背けてもいない。  改めて他人の言葉で知らされたからって、驚く理由は何も、           違う。         〈倒した〉《・・・》んじゃない。         〈落とした〉《・・・・》んじゃない。  何も、         あたしは、         あの人間を、           〈殺した〉《・・・》んだ。             殺したんだ。 「おぬしは正義を掲げ。  奸悪なるこの遊佐童心と戦い」 「勝利し」 「殺したのだ」        古河公方遊佐童心中将殺害さる 「誇るがいい。  笑うがいい」 「この敗者を嘲り無慈悲に哄笑するがいい!」 「〈おぬしは完璧に正しく〉《・・・・・・・・・・》、  〈その正しさをもってわしを殺したのだから〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈のう〉《・・》!!」 「く、く、く……  ふわっはっはっはっはっはっはっは!!」 「…………ッッ!!」  なんで。  なんで。  あたしは何をしてる。  なんで、こんなことになってる?  どうして〈咽〉《むせ》ぶのか。  どうして縁側へ這い出して〈げぇげぇ〉《・・・・》言っているのか。  わけがわからない。  何やってんのあたし。  あたしは何も恥じるようなことはしていない。  正義を貫いて、悪と戦って、勝ったんだ。  恥じるどころか、父様に褒めて貰えるようなことをしたんだ。  その証拠に……父様の声が聴こえる。  よくやったって、褒めてくれている。  ……聴こえる。あの時の言葉。  あの時の――言葉が――――              そうだ。           それでいい。            よくやったな。            一条。 「うっ……あぁ……」 「…………みなと、さん……」 「湊斗さんっ……!」  胸は鉛を詰めたように重かったが、俺は署長宅の門を潜る前に表情からその陰を消そうと努めた。  会う人に気遣いを強いるのは避けたい。  軽く呼吸も整えてから、玄関へ向かう。 「景明様。  お帰りなさいませ」 「……牧村さん。  只今戻りました」 「お疲れ様でございます」 「貴方こそ。  いつもお世話を掛けます」  それにしても、わざわざ出迎えというのは妙なことだった。  家事の一切を受け持つこの人にとり、朝と夕は一日の中で特に忙しい時間帯の筈だ。 「良いところへ戻られました。  お嬢様の様子をお窺い下さい」 「……一条がなにか?」 「確かめたわけではございませんので。  自分からは、何とも」  それだけ言って、署長の忠実な従者は引き下がった。  ……? どういう事だろう。  一条の容態が急変したとかいう話なら、彼女のこと、俺などを待ったりせず早急に打つべき手を打っている筈。  そういう問題とは別の……  何事かが一条にあり、その気配を察して、俺に忠告したというわけだろうか。  兎も角も、俺は一条のもとへ向かった。 「一条……」  一目見れば、異変は明らかだった。  そもそも、俺の声に反応がない。  座して、両手をひとつに固めて、祈るような姿勢で――違う。〈縋〉《すが》りつくかのように、その手へ額を寄せて。少女は、光と音の全てを遮断している様子だった。  溺れかけた人間が唯一の命綱を握り締めるのと全く等しい必死さで、少女が掌中へ収めているのは、〈然程〉《さほど》高価そうでもない〈髪挿〉《かんざし》――  普陀楽で俺が贈った、あの。  何があったのか。  近寄ってもう一度声を掛けるべく、俺が一歩を踏み出すと、その足裏は何かを踏んで軽く滑った。  反射中枢が姿勢を維持させ、同時に眼球を操作して踏んだ物を確認させる。  俺の視覚は新聞を捉えた。そして、その見出しも。  情報が吸収され、脳内に光速の信号が飛び交う。  無数の工程を経て、情報は別の形に整理された。  つまりは、俺は理解した。  一条の心中に何が起こったのかを。 (知ったのか)  己のした事が、殺人である――と。  おそらく少女は今まで、無意識に避けていたのだ。  遊佐童心を討ち果たした行為をただ勝利、ただ正義とだけ考えて。意識はせぬままに〝殺人〟というおぞましき部分を除けていた。  逃避がもしも意図的なものであったのなら、彼女が容易く心を崩されることは無かったろう。  だが彼女はそこまで厚顔ではなかった。逆であった。何事も正面から向き合うを旨とする人間であった。  だから新聞の見出し一行でさえ無視できなかった。  その意味を正しく汲み取り、結果……こうなった。 「一条」  先程よりも少し強く、しかし強過ぎないように抑制して声を掛ける。  今度は反応があった。急激に。はっ、と顔を上げた一条が俺を正視し、確かめるように一度〈瞬〉《まばた》きする。  そうして、飛びついてきた。 「――――」  嗚咽は無かった。涙も無かった。  だが、その衝動と戦っていることは明らかだった。  あと僅か、ほんの少しでも精神が後退すれば、抵抗は潰えるだろう。  少女は泣き始め、止め処なく泣き続けるだろう。  それは綾弥一条という一個人の〈終焉〉《シ》を意味する。  悲しいなら泣けば良い、と人は云う。  確かにそうだ。涙には苦悩を洗い流し、幾らかでも痛みを和らげる偉大な効果がある。  涙を流して、人は再び現実に立ち向かう活力を得る。  だが――殺人という行為に、立ち向かうべき現実は存在しない。全ては過去にしかない。  殺人とは、対象をそこで〈終わり〉《・・・》にしてしまう行いであるからだ。  全てはそこで完結し、後日に修正を加える余地など無い。  ならば、殺人の辛さに耐えかねて流す涙は、己一人を救うものでしかないのだ。  己の罪に、己のみの〈意思〉《さばき》で与える恩赦だ。  ――卑怯。  〈途轍〉《とてつ》もなく卑怯である。  だから俺達は泣くことができない。  泣く時は。  最低の恥知らずに堕する決意のもと、すべてを忘れ去り、あるいは死者の赦しを捏造し――要するに過去を否定して異なる新たな生き方を始める時である。  その時はもう、過去と同じ生き方はできない。否定したのだから。  過去と同じ、殺人をも含めた生き方を続けるならば、懺悔の涙を流してはならない。  綾弥一条が、今後も綾弥一条で在り続けるために、少女は決して泣けないのだ。  ……しかし。それは果たして彼女の幸福を意味するだろうか。  ここで涙を流し、全てから逃避してしまった方が、一条には幸福ではないのか。  そうも思う。いや、どう考えてもそうだろう。  しかしそれを俺が勧めることはできない。  一条が犯した殺人には俺も関与している。そして俺は過去を捨てられない。まだすべき事がある。過去の殺人の継続としての未来を進み、至るべき終着がある。  ……銀星号を討つまでは。  俺は殺人者の道を行かねばならない。  である以上、俺に一条を救う言葉は全く発しようがなかった。  いや、そもそもそんなもの、殺された遊佐童心以外の誰も持ち合わせないのだ。  一条が自分を救いたく思うなら、自力で救いを〈捏造〉《・・》するしかない。  その決断を下す権利は、彼女一人のものだ――少女の人生の全てを〈貶〉《おとし》める権利は。  俺には何もできない。  震える小さな肩を抱く、そんな些細な事だけを唯一の例外として。 「……ちくしょう……」  懸命に湿度を取り払った声が、少女の喉奥から絞り出される。  それは、自分自身への罵倒だった。 「っ……くそぉ……!  なんでだよ……」 「なんで……あたしはこんなに弱いんだ……」 「……」 「あたしは、正義を……  正義をしなきゃいけない……」 「六波羅の山犬どもを、  こ――ころ、さ、ない……と……」 「う……っ……!  なのに……なのに!」 「一条……」  何故だ。  何故――そこまで。  何がお前を縛っているのだ?  問いたかった。だが問えなかった。  今、その一言は最後の引金になりかねない……綾弥一条を瓦解させる、最後の。  俺にその引金を扱う権利はない。 「湊斗さん……教えて……。  あなたは……」 「どうして、そんなに強いんですか……」 「……強くはない」  慰めの意図は欠片もなく、云う。 「嘘……  あなたは、同じように戦って、殺して――呪いまで背負って。それでも、あたしのようにはなってない……」 「湊斗さんは……強いよ」 「強いのではない。  俺は、ただ」  ――〈磨〉《す》り減っただけだ。 「…………」 「それでも……  それが、戦い続ける助けになるなら」 「それは強さなんです。  あたしには……その強さがない……!」 「一条」 「湊斗さんの強さが欲しい」 「奪ってでもっ……!」 「……そんなものは奪えない」  奪う必要もない。  ……だが、一条にとっては違うのか。  どうしても、必要なのか。  戦い続けるための――何かが。  ……それがお前の〈決断〉《・・》なのか。 「なら……  あなたが、奪ってください」 「あたしを」 「……」 「湊斗さんと……  一つに、して」  男性的な本能は、意味を誤解させてくれなかった。  彼女が今、心底、〈それ〉《・・》を求めている事も。 「一条」 「お願いです。  一度だけでいいんです」 「一度だけ……  そうしてくれれば、あたしは」  逡巡する。  求められている事に、ごく単純な喜びはある。昂りもある。  だが、それに身を任せて良いのか。  それは少女を本当の意味で救うのか。  俺にはわからない。    だが、俺は全て彼女自身の決断に委ねると決めたのではなかったか。  その決断を彼女が下したのなら。  俺がすべきは――それを尊重することだけ、か。 「……俺は女性の扱いが下手だ」 「わかります。  なんとなく」 「手荒なやり方しか知らない。  それでも良いか」 「はい……。  それでいいです」 「……その方がいいです」 「わかった。  後悔してくれるな」 「しません……」  一条がまだ男を知らぬ事は問わずともわかった。  〈頤〉《おとがい》を反らさせ、唇を合わせたのは、儀礼的意味よりも少しなりと恐怖を和らげてやる為だった。    が。その行為は俺の方の〈箍〉《たが》を外した。  熱く柔らかな感触に、女性というものを想い出す。  貪られる為にある〈生物〉《イキモノ》、その性に溺れる魅惑が甦る。  遠い日。  初めて女性を組み敷いた時、この身を支配した衝動――抗えぬあの〈波濤〉《はとう》が今また湧き起こり、心臓から手足の末端まで行き渡る。  精神の何処かが獣に変わる。  そう。己の口で告げた通り。  俺は女性の愛しみ方を、〈この〉《・・》一つしか知らないのだ。 「う……んっ!?」  異変を悟ってか、俺の腕の中で一条が震える。  構わず俺は始めた行為をそのまま続けた――つまりは舌を伸ばし、少女の唇を割って押し込んだ。  滑らかな歯から弾力のある歯茎までを舐め上げる。  少女の上唇を舌で巻き込むようにして、その裏側をねぶる。  乙女に対する適切なやりようとは言い難い。  だが衝動はそれを命ずる。  きっと酷く驚いたろうに、しかし一条はなおも従順だった。  逆らわず、逃げもせず、おとなしく身を任せている。  そんな態度が、俺の獣性をますます調子付かせた。  舌は更なる暴行を開始する。  上下の歯の門扉をも割らせ、その向こうへ侵入。  強盗よろしく遠慮も配慮も有りはしない。  上顎から下顎まで舌先で突き回して家捜しし、目ぼしい物は無いと知るや、奥で怯えて縮こまる住人――少女の舌に注意を向け。  唯一の獲物を、勿論見逃す筈はなかった。  舌は舌に掴み掛かる。  絡み付き、押さえつけて、肉を味わう。  それは今の二人の縮図だ。  少女の薄い舌は為す術もなく翻弄され。  〈眸〉《ひとみ》は余りの暴虐に涙を零していた――重なる唇まで流れ落ちてきた雫でそうと知れた。  甘い。  ……暴力がこの甘露を生んだ。  そう知ってしまった。  元より品性など無い獣は一層猛る。  唇を吸う。  肉と肉の狭間に湧く液体を〈啜〉《すす》る。  下劣な音が響いた。  両腕の中に捕えた少女の身体が、かっと〈火照〉《ほて》る――羞恥のためだろう。  それは俺に抑止を命ずる材料とはならない。  容赦なく凌辱は続く。更に吸う。  一条の口腔が乾き切るまで。  否、それでも満たされない。  捕まえていた少女の舌を、俺の口の中まで引き込む。  甘噛みして、動きを封じた。  何をされるのか。  萎縮しきって硬直する身体から、声なき疑問が伝わってくる。  ……何を?  決まっていた。  奪うだけだ。 「――――ッ!」  舌までも吸い込まれて、少女は惑乱した。  何もできぬまま。俺の両腕に囚われたまま、怯え、惑う……そしてその一切を顧みられない。  俺は圧倒的に優越する暴力の行使に夢中だった。  口内に入った己のものではない柔肉を、ひたすらに吸い立てる。〈圧搾〉《あっさく》して唾液を〈絞〉《しぼ》る。  俺の背に回された一条の手が、弱々しい力でそこを撫でた。  あくまで無抵抗なまま、許しを乞うその指先。  無視した。  衝動は止まらない。止まるものか。  仕上げとばかり、一条の舌の裏側――繊細に出来ているその場所を、己が舌先で〈ねとり〉《・・・》とこすり上げる。  それでどうなるか、俺は論理なき本能で察していた。 「んっ……」 「ふぁ……んぅっ!?」  身中を走り抜ける波に、少女は〈戦慄〉《わなな》く。  肌はその刹那、熱病に等しい温度を宿す。  全ては男の手で無理矢理に呼び起こされたもの。  ……達したな。    酷く野卑なものが、俺の胸中でそう呟いた。  性的感覚の頂点に押し上げられた――おそらく一条には、そんな自覚もないだろう。  何の考えもなく性器を弄んでいる内に最初の精通を体験してしまう少年と、今の一条は全く同じだ。  それが快楽であったことすらわかっていない。    触れ合う肌から伝わる少女の混乱の程は、俺の理解の正しさを追認していた。  陰惨な喜びに、心が躍る。 「ん……くっ!?」  奪い尽くしてなお治まらない。  欲望を満たしての歓喜は更なる欲への原動力たる。  俺はまだ一条の唇を解放しない。  もう奪うものはない――それでも。  舌を再び、少女の口腔へ差し込む。  唇を割り裂き、歯を押し上げて開かせる。  道が出来た。  一条の舌はもう隷属している。震えながら俺の望みを読み取り、ぎこちなくその意に沿おうとする。  結構。  出来た通路を一条の舌で維持させ、俺は次の行為に没頭する。……次の行為。  略奪はもう済んだ。  だから、今度は〈くれてやろう〉《・・・・・・》。  口内に溜まった唾液を、一条の口へ注ぐ。 「……!?」  流石にそれは反射的な拒否感が先に立ったのだろう。  小さな舌が動いて、流入を阻止しようとする。  ――そんな真似は許さない。  俺は一条の上腕を右手で掴んだ。  握り締める……血が止まる程の強さで。  反抗を認めない意思をそこに込める。 「っ……」 「んく……ん……」  一条の反応は、親の怒りを前にした〈幼子〉《おさなご》同然だった。  抗いの意思は瞬時に消え、全面的な服従へ変容する。  少女は、飲んだ。  男が下卑た欲求に任せて送り込んだ体液を。  そのまま。喉を鳴らして。  目の端に涙を溜めつつ。けれど健気にも零さぬように気を遣って、寄越されたものの全てを。  一条の体内を、俺の排泄したモノが汚す。    湊斗景明という男の最も卑しい部分が充足し、喜悦の声を上げた。  ようやく、唇を離す。  唾液の名残りが糸を引いて、橋を架けた――それを舌先で舐め取る。 「はぁ……っ」  荒く、大きく息をつく一条。  その瞳はまだ、どこか別の世界を彷徨っていた。  性交渉の経験が無い少女には、既に何もかもが過剰だろう。  だが――だが? だから、何だ。  俺はやっと〈これから〉《・・・・》だ。  ここでやめるなんて冗談にも考えられない。  一条だってそうに決まっている。  服も剥かない内に終わりにされては不本意だろう。  彼女は奪って欲しいと言った。ひとつになりたいと言った。  俺達はまだ〈手をつないだ〉《・・・・・・》程度だ。  こんなものでは全然足りない。  もっとだ。もっと深く。もっと熱く広く鋭く酷く。  もっと奪う。  もっと重なる。  続けよう。  さあ次へ。  俺は少女の、焦点を結ばない視線に撫でられながら、その服へ両手を伸ばした。  既に充分な熱を持った少女の身体は、ほぐしてやる必要も無さそうに思えた。  それでも、肌に触れる。舌を伸ばす。  欲求が今更理性の制御に服したからではない。  単に、抑えが利く範囲で時間を掛けて味わいたいと、俺自身が望んだだけ。そこに相手への配慮など有ろう筈もなく。  首筋に口を付け、汗を吸う。  そのまま皮膚を、肉をも吸い――醜悪な痕跡を残す。 「んっ……あぁ……」  また一つ小さな剥奪を受けて、〈夢現〉《ゆめうつつ》に少女は呻いた。  何をされているのか、その理解すらも曖昧であろう無力さ。何とも女だった。何とも餌食であった。  こんな態度ばかり見せ付けられては、優しくしたくともできはしない。  白い肌に手を這わせる。そう大きくもない胸のふくらみへ辿り着く。  そこを掌に包み込んで、軽く弄ぶ。  桃色の尖端を指の腹で撫でる。  もどかしげに、少女は身体をくねらせた。  煽るような仕草。俺にはそうとしか見えない。  手に力を込める。  前触れもなく。まだ固いその肉を。無慈悲に。 「ひ……」  小さな悲鳴が上がった。当然だろう。  こんな扱われ方を許容できるほど一条の身体はまだ〈こなれて〉《・・・・》いない。  承知の上で、やっている。  その悲痛を求めて、したことだ。  だから続ける。  あくまで乱暴に、少女の乳房を〈捏〉《こ》ね回す。  紙を〈擦〉《こす》るような声が絶え間なく、一条の喉から流れ出た。  苦悶している。  それでいながら、逃げる様子もない。  逃がすつもりもさらさらないが。それを悟って諦めているのかもしれない。  良い事だ。  およそ嗜虐性というものは、無抵抗な相手に対して最大限に発揮される。  つまりは、俺の情熱に油を注いでくれる。  全く、未熟な癖にいい牝だ。  もう片方のふくらみへ口を寄せる。  吸う。  またしても卑猥な痕跡を付ける。  ……一条が哀しげな目で俺を見た。  瞬間的に高揚する。    噛んだ。 「あっ……!」  噛み千切りまではしない。  だが、歯型は付けた。  円を描く点線。赤色の。  呆然と、少女がそれを見詰める。  家畜の焼印さながらだ。  同じものを眺めて、俺はそんな事を思った。  口元が歪む。  今、〈この男〉《・・・》はどんな顔をしているのか。さぞ傑作だろう。鏡が無いのが惜しいほど。  身体を起こす。  少女の力ない両脚を、腕で掴んで割り開かせる。  陰部の様子を窺って、俺は口の歪みを深くした。  引き〈攣〉《つ》るまでに。  そこは湿っていた。  ……あんな扱いを受けておいて。  まさに家畜の少女を侮蔑する。  そんな少女を良しとする己をより一層侮蔑する。  堕落の快感、それは全く、救いようのないほど心地良く二度と立ち上がれぬほど毒素に満ちていた。  こんなものには耽溺するほかない。  自己の性器を少女にあてがう。  既に痛みを覚えるほど、その醜い器官は〈熱〉《いき》り立っていた。  一条が俺を見ている。  問うように。あるいは何かを期待するように。  俺も視線を返した。  別段、何も思わず。  一条の眼差しは絞め殺される寸前の鶏に似ていたし、俺のそれはこれから絞め殺す鶏に向けるものだった。  その結果など決まっている。  何事もなく、鶏は絞められ殺され食われるのだ。 「あ――っ」 「ひ……いっ、あぁ」  予想していた通り、少女の〈秘処〉《そこ》は窮屈だった。  いくらか濡れていようとも、それで男を受け入れられるというものではない。  滑らかに交わるにはそこはまだ固すぎ、狭すぎた。  痛みは一条だけのものではない。俺もそうだった。  皮が摩擦されて張り、焼けるような刺激を生む。  それでも萎えない。  肉柱は屹立したままだ。  委細構わず、更に進める。  木板に〈錐〉《きり》を突き刺すも同然の行為。  固い壁を押し退け、押し広げ、強引に掘削する。  己が通るための道を造る。  その征服はやがて薄い皮膜にぶつかって頓挫した。  弾力をもって迎えるその肉壁。  押し戻されたのはしかし、一瞬の事に過ぎない。  再び進む。より強硬に。  破壊する。 「ぃ…………ッッ!!」  少女の絶叫。  それは咽喉の中で〈蟠〉《わだかま》り、ほんの欠片しか外へは出て来なかったけれど。  処女膜を惨たらしく破られて、もう少女には獣欲の襲来に耐え得る何物もない。  最奥の聖域まで侵略されるに任せるしかない。  無論、俺はそうした。  しない筈がなかった。  奥の奥まで貫き通す。  可能な限り。自分自身を根元まで突き刺すつもりで。  膣孔の全てを凝固した俺の欲求で埋め尽くす。 「はっ……ぁぁ」 「……みなとさん……」  一条の瞳が潤む。  それはただ苦痛を意味するだけのものとは違ったのかもしれないが。  俺はその真意を推し量ることもなかった。  ただ、〈良い声で啼いている〉《・・・・・・・・・》と思っただけだ。  甘ったるくも切ない息づかい。  紅潮して匂う柔肌。  捕食されることだけが存在意義のようなイキモノ。  どうしてこんなモノがいるのか。  こんなモノがいるから狂う。  人間なんて面倒ばかり多い動物など、やっていられなくなる。  ただの獣でいい。  獲物を味わうだけが能の獣でいい。それがいい。  繋がる部分の感覚は際限なく拡大する。  挿入を難儀させた少女の秘肉の狭さは、今となっては愉悦の温床でしかなかった。  膣はその固さによってどこまでも密着してくる。  隙間もなく包み込まれるこの快楽は耐え難い。  このまま時を過ごすだけで射精しそうだった。  だが、そんな〈ゆるい〉《・・・》終わりは御免だ。  俺は差し込んだものを動かし始めた。  そう長く〈保〉《も》たないことはわかっている。  限られた時間で少しでも多くの悦楽を味わうために。  小刻みに、乱雑に、激しく動く。  断続的な苦鳴が少女の口をついた。  よほどに痛むのだろう。まだ破瓜の血も乾かぬ有様であれば当然の事だが。  構いはしない。  一人で楽しむ。  好き放題に貪り、  好き勝手に極限まで達する。  下腹部から突き上げてくる高まり。  一切の抑制は働かなかった。  自己の先端を少女の秘奥へ押し付け、  そこで解き放つ。 「……あぁ……」  出せる限りを出し切って。  ようやく俺は一息をついた。  〈炉〉《ろ》のようだった意識がわずかに鎮静する。  俺は視線を這わせ、一条を観察した。  暴力に踏みにじられた姿をしている。  そうしたのだから、不思議もないが。  今、胎内に広がり浸透してゆくものを感じているのだろう。  眼は大きく見開かれ……しかし靄が掛かって、何も映してはいなかった。  ……いや。  映っているものはある。  それは凌辱されたという自覚。  自分自身を、力で踏み荒らされたという解悟。  絶望的な何か。  破局である何か。  そしてそれに対する自己の〈反応〉《レスポンス》。  一条の視線は俺に向いた。  〈次を待つ〉《・・・・》眼差しだった。 「くっ」  思わず、奇声がこぼれる。  それは笑いだった。  やはりそうか。  やはりそうだったのか。  お前はそういう女だったか、一条。  笑いの衝動は更に込み上げる。  それは侮蔑からではなく。純粋に〈愉〉《たの》しいから。  少女は力でねじ伏せられることの〈味〉《・》を知ったのだ。  自分の肉体がそれを求めていると、認めたのだ。  少女はようやく快楽の何たるかを知った。  きっと足りなかろう。もっと欲しくて〈堪〉《たま》らなかろう。  一条の双眸はまさしくその欲求を宿している。  幼くも妖しい、淫靡なきらめき。  ああ応えてやろう。  欲しいものをくれてやろう。  俺もまだまだ足りていない。  二人で貪り合おうじゃないか。  一条の身体を抱え上げ、後ろ向きにしてやる。  布団の上に這わせ、尻だけ突き上げる格好をさせると、一段と哀れな有様になった。  股の間を、白濁したものが垂れている。  朱の混じったそれは被虐の証左だった。  羞恥に耐えかねてか、少女の手が伸びてくる。  その無惨な場所を隠そうとする。  生意気な。  俺はその腕を捕らえ、ねじり上げた。 「あぅ……」  いとも容易く押さえつけられ、ささやかな抵抗手段も失って、一条は切なげに〈啼〉《な》いた。  為す術もなく、視姦される。  ……流れ落ちる白と赤の混合液には、更に別の液体も混じり始めていた。  すんすんと鼻で泣きながら、少女が俺を流し見る。  熱っぽい瞳。  弱々しい抗議の視線だ。  それに俺が何を返すか、悟っていながらの。  嬉しくなる。  期待には応えてやろう。期待以上のものを。  俺はその、小さな〈窄〉《すぼ》まりに目をつけた。  やはり無防備に晒されている排泄用の器官。  人差し指を一舐め。  そして突き入れる。 「ひゃっ!?」  これは考えていなかったのか。  頓狂な声を上げ、一条が身体を跳ねさせた。  抜こうとしてだろう、腰をうごめかす。  無論、そんな事で逃がしはしない。 「ぃやっ……  そんなところ……!」 「煩い」  空いている方の手で少女の頭を後ろからつかまえ、顔を枕に押し付けてやる。  呼吸を止めては仕方がないので、横へと向かせてはやったが。  そうして、肛門へ入れた指を更に深く。  根元まで差して、中を触る。  隅々まで、探るように。  しかし、目的はこの少女を辱めることだけだ。  枕を濡らして、一条は泣き出している。  酷い恥辱。酷い屈辱だ。  だというのに、その肉は熱を持つ一方。  固いばかりの処女の身体は、いつしか蠱惑的な肢体へ変貌しつつある。  全く堪らない。  散々に一条を悶えさせて楽しんだ後、俺は指を引き抜いた。  そうしてその下の箇所へ、再び屹立を突き込む。  二度目の〈性交〉《つながり》。 「あ――――」  びくり、と一条の背が波打つ。  一度目とは何もかもが違った。  柔らかさが。深さが。温度が。  短い時間で、一条の身体は造り変えられている。  凌辱を受け入れるため。  暴虐を受け入れるため。  俺の暴行にその肉体は応える。  〈艶〉《なまめか》かしく〈蠢〉《うごめ》いて迎え入れる。  卑しい行為と卑しい反応。  完璧な噛み合いだ。  少女の胎内を荒く〈抉〉《えぐ》る。  その一突き毎に感覚は跳ね上がる。  今度は、俺だけではなく。  少女の感覚も対応して、高まってゆくのがわかる。  あくまで粗雑に。  あくまで悪辣に。  交わり、感覚を追求する。  少女を高みへ押し上げる。  全く精緻ではない俺と彼女の交接は、けれど調和において完璧だった。  同時に達する。 「はっ――あ――――」  未知であった境地に至り、一条が忘我する。  再度の射精を体奥に受け止めながら。  余韻は長く尾を引いた。  緩やかに呼吸しつつ、その美味を味わう。  ……足りない。  まだだ。  まだ、欲しい。  充足を知らない獣が吠え立てる。  股間の隆起は衰えることもなく、むしろ密度を増す。  もっと。  もっと、だ。  際限ない俺の欲は顔に表れていただろう。  声にも出ていたかもしれない。  そんな俺を一条が虚ろに見る。  熱を失わないその瞳。  俺を拒むものは見当たらなかった。  ここまでされ、この上まだ暴力を加えられる未来を受容していた。  歯止めが利かなくなった。  元から、そんなものはないが。  一条の顔をこちらへ向かせる。  半開きの唇を吸う。  舌を差し入れ、口腔を舐め回す。  一条の舌がおずおずと伸ばされ、そこに絡んだ。  血が騒ぐ。  脳とかいうものが意味を失う。  俺は三度目の行為を開始した。    ……俺がようやく精根尽き果てて自分を取り戻したのは、五度目を終えた後だった。 「……本当に乱暴でしたね」 「……済まない」  これは湊斗景明の持病であり。  どうしようもなかった。  父親の命を奪ったのだと、一条は言った。 「父様は……  あたしが一番尊敬していた人で」 「あたしが一番最初に……死なせた人でした」 「…………」  寝物語に、一条はそんな事を話した。  返す言葉は見つからない。  綾弥父娘に何があったのか。  ある程度は想像がつくようであり――また、まるで遠いようでもある。 「それは……何故……」 「……何故でしょうね」  はぐらかしている、ようには聴こえない響きだった。  一条は本当にその答えを持っていない。そして答えを求めてもいない。表情を見ればそうと知れる。  おそらく、一条はまだその過去を直視できていないのだろう。  振り返れば疑問の答えはそこにある。そうと知っている。〈だから〉《・・・》、振り返ることができない。  それはきっと、癒えぬ傷跡へ爪を立てることなのだ。    傷の一端を俺に覗かせたのは、……先刻の〈あれ〉《・・》が何がしかの〈正〉《プラス》作用を一条に及ぼしたから、で、あろうか。  興味本位の追及は無益だ。  それに、今の話だけでもわかる事がある。 「湊斗さんも……同じだって、聞きました。  呪いで……お母さんを……」 「署長か……」  そう。  この少女は、俺と同じ。  誰より敬愛した親を殺し、  それで――引き返せなくなった。  親殺しの罪で人生を呪った。  ……今ならわかる。  この少女の精神的〈畸形〉《きけい》。〝正義〟への執着が、何処から来ているのか。  その道が父の血をもって開闢したものであるなら、否定も後戻りもできよう筈がない。  それはあまりにも重く尊い犠牲を、無価値にしてしまうのだから。  俺と同じ。  運命という言葉は逃避めいていて好まない。  だが俺と一条の出会いは、まさにそれなのかもしれなかった。  父殺しと母殺しの邂逅。  ……それが真実、運命とやらであるなら。  最後は何処へ流転するのだろう。 「湊斗さん……」 「ああ」 「あたしは……戦います。  戦い続けます。これからも」 「もう……自分のしたことに怯えたりはしません。  泣きません。震えもしません」 「……湊斗さんがそばにいてくれるなら」 「…………」 「悪を……  人を食い物にするような奴らを……」 「憎んで。  戦って。  ……殺して」 「それで……いいんですよね……?」  一条の声は次第に小さく、やがてかすれて。  最後は寝息の中に溶けて消えた。  ――〈それ〉《・・》でいいのか。  溶けた問いかけを反芻する。  脳漿の中で噛み砕き、慎重に吟味する。  それでいいのか。    ……いいのか?  悪を憎み。  正義を掲げてそれを罰する。  それは――間違ってはいない筈だ。  正しい――筈だ。  正義。  他ならぬこの少女が語るなら信じられる。  彼女は善悪の判断において全く無私だ。  厳正極まる裁きを下す。空恐ろしい程に。  遊佐童心の殺害とて。  不都合があるとすればそれはただ政略的にであって、理非を問うなら一条の正しさは明らかだ。  そう思う。    だが。  本当に。  〈それでいいのか〉《・・・・・・・》?  ……答えは出ない。  いくら考えても、俺はその答えを出せなかった。 「――というわけなのよっ!  わかった!?」 「…………」 「…………」 「……ちょっと。  何で黙るのよ!」 「あー……何だ。その。  つまり、おめーの話を総合すると」 「エクスカリバーは〈EX〉《エクス》カリバーン……?」 「あんたは何を聞いてたッ!?」 「……童心和尚を殺したのは舞殿宮、だと?」 「そ、そう! そうなのよっ!  これは幕府への挑戦よ! 危機よ!」 「麿たちの軍勢を結集して対抗しないと。  いえ、この際、大宰府の足利幸行も呼んで……借りをつくることになるけど仕方ないわ。あと室町探題には朝廷を押さえさせて」 「お茶のおかわりいるー?」 「貰おう」 「聞いてってば!」 「聞いてやる。  だが茶くらい飲ませろ。貴様の妄想夢物語に付き合うのはかなりの骨だ」 「うむ。できればダイジェスト版にしてくれ」 「妄想でも夢でも物語でもないってーの!!  舞殿宮は六波羅を滅ぼすつもりなのよっ!その手始めに童心様を亡き者にしたのっ!」 「いえ……もしかしたらお父様を殺めたのも!  そうよ! そうに違いないわ!」 「これが危機でなくて何なのッ!?」 「被害妄想だ」 「仮想戦記?」 「違うっつーのぉ!  キーーーーーーーーーーッ!!」 「……」 「あのさぁ。  親王がどーやって、そんなことすんのさ?あのおっちゃん、身辺警護の兵隊も自前じゃ持ってないんですけど?」 「だっかっらっ、隠し持ってたのよ!  信じられないけど、そう考えなきゃ説明がつかない」 「間違いなく、武者もいる……。  うぅ、どれほどの戦力を抱えてるのかしら」 「へぇ」 「ほぅ」 「真面目に聞けぇ!!」 「聞いてるよ。  ……どう思う?」 「さて。  〈説明がつかない〉《・・・・・・・》、とのことだが?」 「ああ。  そう言ったな」 「え?」 「なんでそう考えなきゃ説明つかねーんだろ。  それこそ大宰府の反逆とか、GHQの陰謀とか、もっとフツーに有りそうな推測は何ぼでも立てられんのにな?」 「実に不可解な話だ」 「――――!」 「〈舞殿宮がやった〉《・・・・・・・》って部分だけは確信があるみたいに聞こえるぜ? 雷蝶クン」 「あ……いえ、それは……ね。  麿の手の者が、情報をつかんだから」 「ならそこから言やあいいだろーに。  なんで筋道立てて話さないんだ?」 「そ、そうね。麿としたことが。  ちょっと動転していたみたい」 「それにしても大したものだ。  まだ城内の混乱すら収まっていない有様だというのに、既に貴様はそこまで真相に確信を持てるだけの情報を揃えているとは」 「余程に優秀な諜報班を抱えているのだな?」 「え、ええ……」 「知らなかったにゃー。  厩衆より優秀なんでね? 常闇もこれじゃ面目丸潰れだ」 「教えを乞いたがるだろうよ」 「そっ、そんなことは今、どうでも良くて!  舞殿宮への対処を考えましょう!」 「向こうが実力行使で来ている以上、こちらもそうする以外にないわ。  どこからどれだけの兵力が出てくるかわからない。今動かせる限りの軍を建朝寺へ――」 「おめーがやれ」 「……は?」 「小弓軍管区の兵を集めな。  それで親王襲って殺してこい」 「麿……が?  麿の軍だけで?」 「そうだ」 「な、何でよ」 「あー?  親切のつもりなんだけどなぁー?」 「あてらの軍で攻めたら、親王をどーすっかわかんないよ?  殺さないかもしれない。〈ちょっと話を聞い〉《・・・・・・・・》〈たり〉《・・》するかも」 「そうだな。  どうやって普陀楽城襲撃などという暴挙を成し遂げたのか……とか、な」 「!!」 「どーする?」 「ぐっ……  な――何のことかわからないけどわかったわよ」 「麿の手勢で片付けましょう……」 「手早くな。  そう長くは待たねえから」 「一週間だ。  その刻限を過ぎたら――」 「堀越と篠川の両軍は、〈反逆者〉《・・・》の処分を行う」 「――――」 (ど……どうして……) (どうしてこんな事に……) 「やるかね? あいつ」 「やるしかなかろうさ。  馬鹿も馬鹿なりに計算くらいはする。俺と貴様を同時に敵に回して勝てるとは思うまい」 「……馬鹿かぁ。  あいつは馬鹿とは少し違うね。ただ、大き過ぎる服を着たから頭が隠れて前が見えなくなったってだけでね」 「それこそ馬鹿の証明だろうが」 「違うとは言わねーけど」 「貴様は雷蝶を余り嫌わなかったな」 「ん。まーね。  あいつ裏も表も無いしね……正しくは裏と表が筒抜けなんだけど。そういう阿呆は嫌いじゃない」 「だから、後始末もあてがやっとくよ」 「……そうか」 「六波羅も終わりだな」 「終わらせはせん。  俺がいる限り」 「へぇ。まだやる気なんだ、獅子吼。  てことは時王も連れてく?」 「そのつもりだ。  鎌倉は貴様の好きにするがいい」 「そっか。  んじゃー……綺麗にやっちまうか」 「……間違いないんか?  署長」 「……残念ながら。  複数の経路から入手した情報です」 「小弓公方府にて大規模な軍事行動の準備が開始されている、と」 「目的は……」 「公にされてはおりません。  が、現状を鑑みれば……まず……」 「疑いは、ないわな」 「……準備に時間を掛けているのが救いです。  こちらの戦力を読めないせいでしょう」 「何かしらの手を打つ暇が無いわけではありません」 「……て言うても」 「……」 「命運尽きたかなぁ。  わし」 「いえ……京都へお逃れ下さい。  いかに幕府でも禁裏へ兵を押し進めるのは無理です」 「鎌倉からの脱出は、私がすぐに手配を――」 「そうもいかんやろう?  菊池……」 「……宮殿下」 「ここで退いたら、もう再起の目は無いわ。  舞殿宮は死んだも同然や……」 「死んだも同然のくせに、生きてるってのはタチ悪いなぁ。  さんざん謀略事を弄んできた奴が、責任も取らんで」 「しかし」 「わしも恥を知ってる。  おまさんも知ってるはずえ」 「あの戦場でわしらが〈人間〉《ひと》のままでいられたんは、そいつを忘れなかったからやないか。  そやろ……?」 「宮殿下……」 「良い覚悟だ。  では名誉ある死を迎えて頂くことにしよう。舞殿宮春煕親王殿下」 「何っ――」 「誰や!?」 「くっくっく……オレは小弓十傑が一人。  人呼んで天敗星の」 「ギャアアアアアアアアアアアアア!?」 「背中ががら空きだ。  間抜け」 「一条くん!」 「景明……」  一条は太刀を正宗へ戻すと、死骸を邪魔そうに〈退〉《ど》かして室内へ踏み入った。  その後に続いて俺も入る。 「……よう来てくれたねえ」 「危ういところでしたか」 「ああ。  この男、小弓の者だと言っていた……」 「今川雷蝶の放った刺客に間違いない」 「……では……」 「軍事行動を準備中という情報もある。  ……彼は我々を滅ぼすことに決めたようだ」  俺は思わず面を伏せた。  ……最悪の事態になってしまった。  とうとう。  己で招いた事に責任を取る、その覚悟は出来ている。  だが、それが己一人で済まないのは問題だった。  この場の人々について、せめて生命の安全は確保せねばならない……。  俺は気持ちを立て直して、顔を上げた。 「そういう事であれば、猶予は一刻も許されません。  宮殿下、どうか脱出の御支度を。不肖この景明が警護仕ります」 「そう言うてくれるのは、嬉しいけどな」 「……景明。  宮殿下は、ここへ残られる」 「それは!」 「ほれ。わし、こんなんでも帝の一族やろ?  国民の手前、あんましみっともない真似はできなくてなぁ」 「最後の始末くらいきっちりつけんと……」 「署長!」 「私も脱出をお勧めした。  しかし……それが誇りの喪失を意味すると、宮殿下がお考えならば」 「私はその御意思を尊重する。  舞殿宮殿下の〈仕舞〉《しまい》を見届け、殉じよう」 「…………」 「勿論、景明くん達が付き合うこたない。  署長、おまさんもな。もう充分世話焼いてもろたし」 「ええ。色々御世話をさせて頂きました。  この際ですから最後までお付き合いします。どのみち私が見逃されることもないでしょうからね」 「自分も――」  せめて、最低限の責任だけは―― 「あかんえ。  おまさんにはやることがあるやろう?」 「……宮殿下」 「銀星号の件を頼む。  あれを止められるのはお前だけだ。景明」 「署長……」  俯く。  重い無力感に、頭を押し付けられる心地だった。  何もできないのか。  この事態を招いた責任の一端は間違いなく俺にある。  俺のやりよう次第でこの帰結は変えられた。  にも拘わらず、俺はここで何もできないのか。  ただ落ち延びるだけか。  銀星号を〈墜〉《おと》す、その使命の為に。  確かにそれは他の何物にも代えて果たさねばならぬ俺の責務だ。  だが……  それでも、しかし…… 「行きましょう、湊斗さん」 「一条……」 「下総へ。  小弓公方今川雷蝶を殺しに」 「――!?」 「へっ……」 「――――」 「先手を打つんです。  殺される前に殺す」 「そうすればみんな解決します」 「…………」 「そりゃ……まぁ……  けど、なぁ……」 「……仮にそれが成功するとしてもだ。  次は篠川、堀越の両公方が――」 「ならそいつらも殺せばいい」 「一条、」 「どうせ六波羅は滅ぼすんです。  〈奴等は悪ですから〉《・・・・・・・・》」 「あの山犬どもがこの六年間やってきた事を思えば、滅ぼす以外の選択肢なんて最初からなかった。  予定よりもそれが少し早まるってだけです」 「奴等を滅ぼして、この国を正しく立て直しましょう」 「…………。  けど六波羅が〈無〉《の》うなったら、進駐軍の天下になってしまうよ?」 「……そうでした。  あの連中も大和を私物化したいんでしたね。そのために六波羅を野放しにしてた……」 「なら、あいつらもこの国から叩き出します」 「……」 「……そ……  そら、ちょっと、無茶やないか……?」 「できます。  あたしは古河公方を斃した」 「――きっと誰もそんなことができるなんて思ってなかった。  でもあたしはやれた」 「だから、できる。  〈この世の悪を滅ぼせる〉《・・・・・・・・・・》」 「目の前にある悪を……  どうしようもないから、仕方ないからって言って、見逃してやる必要はもう無いんだ」 「あたしと正宗……それに湊斗さんがいれば。  絶対、誰にも負けないから」  凛とした声は、とうとう。  全ての反駁を封殺した。  何も言い返せない。  言うべきことはある。ある筈だ……少女のあまりに無謀な信仰には、何かを。  だが声にならない。  俺は〈気圧〉《けお》されていた。親王と署長も大同小異だろう。  今の一条は昔日の彼女ではない。  つい昨日の、殺人の恐怖に震えていた彼女とも違う。  かつて彼女には意思だけだった。  正義を貫くという意思だけがあった。暴力で弱者を踏みにじる者を許したくないという意思だけがあった。  それは子供の浮薄な夢に過ぎなかった。  一つの事実もなく、そもそも実現するに至る手段も持ち合わせていなかった。  今は違う。  彼女には自信がある。  己が邪悪を滅ぼし得るという確信がある。  力に驕り、法にも囚われぬ巨悪を、  我が刃で断罪するという自負がある。  彼女は遊佐童心を討伐した。  その行為、殺人への恐れも、今や〈意思力〉《ちから》ずくで踏み越えた。  そして少女は生まれ変わった。  〈正義の執行者へ〉《・・・・・・・》。  綾弥一条が望んでいたものへ。  遂に、彼女は届いたのだ……。 「……一条――」 「流石は正宗様。  そのお言葉を聞き、わたくしも迷いが無くなりました」 「なっ……  貴方は!?」 「姫さま!?」  ……岡部の遺児、桜子姫!  普陀楽城に囚われている筈の―― 「あ、桜子さん。  そうそう、この人のこと話すの忘れとった」 「景明くん達とは普陀楽で付き合いがあったそうやね?」 「は……いささか」 「桜子さんはな、あの晩のどさくさに紛れてうまく脱出してきはったんや。  そのあと、この建朝寺にわしを頼って来てくれたんでな。匿ったげてる」 「この寺も幕府の動揺を受けて風向きが変わりつつある部分があるのでな。  これくらいの事は見逃してもらえる」 「何と……。  しかし、よくもあの城から抜け出せたものです」  荒事の嗜みは無かろう姫御前の身で。  俺達の起こした騒ぎに乗じたと云うが、それにしても。 「そのことにつきましては……  まだ、宮殿下にもお話ししておりませんでしたけど」 「うん?」 「童子。おいでなさい」 「はっ、義姉上」 「……こ、このお人は?」 「御尊顔を拝し奉り恐悦の極み。  某は岡部弾正が一子にて、〈黒瀬童子〉《くろのせどうじ》の名を称する者にございます」 「わたくしの、腹違いの弟です」 「何やて!?  け、けど、頼綱さんの息子はみんな殺されはったはずじゃあ……?」 「我が母は身分卑しく、加えて〈科人〉《とがにん》の係累でもありました。  そのため父は、某の存在を公には秘し――」 「一族の者と限られた重臣達にのみ、この者が岡部の血に連なる男子であることを伝えていたのです」 「それで六波羅の誅戮を免れたと……!」 「左様にござる」 「猪苗代で父が大鳥獅子吼に滅ぼされた後は、この〈義弟〉《おとうと》が各地に散った残党を取りまとめておりました。  その一部が、普陀楽にも潜入していて……」 「遊佐童心めが果てたあの夜に行動を起こし、義姉の身柄を奪回したという次第にござる」  ……それでか!  あの夜、天守閣からの脱出に少なからぬ時間を費やしたにも拘わらず、空域が封鎖されていることもなく一条を抱えて逃げ出せたのは――  こちらと同時に事を起こした彼らに撹乱され、軍の管制が失われていたからだと考えれば納得もゆく。  ……知らず知らず、助け合っていたわけだ。 「わたくしどもが首尾よく逃がれられたのは、あの狡猾な公方が足止めされていたからこそのこと……。  正宗様、心より御礼申し上げます」 「まことに。  我らは最後まで見届けること叶いませなんだが、彼奴めを遂には討ち果たされたことも伺っており申す」 「義姉に恥辱を与えたあの破戒僧めを……  よくぞ討ち取って下された。某からも御礼申し上げる」 「あ、ああ……うん」 「……宮殿下?」 「うん。教えたの、わしや。  これこれこういう姿形の武者が遊佐童心と一騎打ちしてたけど心当たりはないか、って訊かれたもんで」 「そら一条くんの正宗やないかって答えたら、桜子さん、それは一媛って名前で普陀楽城にいる人じゃないかって言うて」 「ええ。  何となく、偽名っぽいとは思っていましたから」 「何や知ってるやないか、てな感じで……  結局、全部話してもうたわ」 「……成程」  まぁ、この相手に明かされて困るような話でもないのは確かだが。  岡部の遺児二人を改めて見直す。  桜子姫は以前と変わりない――いや、そんなことはないか。逆境を味わったことによる陰と、それを踏み越えたことによる強さとが今は垣間見える。  黒瀬童子なる人物の方は、全身を覆い尽くす漆黒の軍装のため容貌が判然としない。  が、桜子姫の弟であるならまだ若年だろう。身体の育ち具合からして二十歳前後か。  彼もこちらを観察している。  取りあえず、陰惨な風貌の男には余り好意を抱かなかったらしい。視線は一通り値踏みだけして、すぐに俺から外される。  しかしその隣、ひたむきな眼差しの少女に対しては全く違った。最初から敬意があった。  一条のいっこう武者らしくない矮躯を見て、むしろそれは深まったらしい。  良くぞその小さな体で――と云うような嘆息を洩らして、彼は目礼した。  双眸が一種の崇拝に近い色彩を〈湛〉《たた》えている。 「正宗様」  それは彼の姉も同じだった。 「お願いがございます」 「……何ですか?」 「あなた様の義挙に、どうか我々岡部の一党をお加え下さい。  決して足手纏いにはなりません」 「え?  ……でも……」  確認するように、一条がこちらを見る。  内心の疑問はその視線だけで通じた。  俺も同じ事を思ったからだが。  姫は確か、敗北しながらなお抗うが如きを武門の恥とし、自ら戒めていた筈―― 「はい。  悪足掻きは岡部の家名を汚すばかり………わたくしはそう申しましたし、今もその考えは変わっておりません」 「ですから、岡部の旗は掲げず……  ただ正宗様を仰いで戦いたいのです」 「それは……」 「……生きているからには、責任を投げ捨ててはいられない。そう思い直しました。  許すべからざるものがいるなら、戦わねばならないと」 「六波羅は滅ぼすべきです」  そう言い切った、桜子姫の瞳には――  自身の味わわされた屈辱が映っていた。  しかしそれは、ただ己一人の復讐心を意味していなかった。  もしそうであったなら、遊佐童心の死をもって消えていただろう。  彼女の眼は己の恥辱を通してより広くを見ている。  大和全土の、同じ――あるいはそれ以上の――屈辱を味わったであろう人々を視野に捉えている。  彼らを生んだのは六波羅幕府。  搾取、弾圧、殺戮と、言い訳のできぬ悪政を六年に渡って繰り広げてきた軍事政権。  ――許せない、と。  滅びた名門の姫としてではなくただ一個人として、岡部桜子は言った。  つまりは、綾弥一条と同じように。 「姫さま……」 「……」 「一緒にやりましょう。  六波羅の犬どもを、叩き潰す」 「はい!」 「では、各地の同胞に檄を飛ばしましょうぞ。  岡部の生き残りほか大小の反幕勢力、合わせて千ほどはすぐに集まります」 「武者もいくらかは」 「――いや。お待ちを。  闇雲に事を起こしたところで、成算は」 「……古河公方は、もうおらん。  それで小弓公方もいなくなりよったら……」 「房総の幕軍には〈頭〉《・》が無うなる」 「宮殿下?」 「六波羅は、公方の権力がえろう強い……。  逆に言うと、公方がおらんかったら動かん組織や」 「古河と小弓が潰れた隙を狙えば、千からの兵で房総半島を席巻できるかもしれんな……」 「……千というのはあくまで当座のこと。  房総を奪い、宮殿下を戴いて全国に号令を発すれば」 「忽ちのうちに、万余の軍勢が集いましょう」 「…………」 「では、こういう手順に……  わたくしと童子は同志を結集、鎌倉へ引き込み」 「宮殿下を房総へ御動座申し上げます。  香取が宜しゅうございましょう。あそこの宮司は父が懇意にしておりましたゆえ」 「その間に――  あたしと湊斗さんは、小弓公方今川雷蝶を討つ」 「で、軍事的に孤立した房総半島を分捕る。  ……どや? 署長」 「…………。  随分と荒っぽい話になったものです」 「そやなぁ。  わしらの最初のプランとはえらい違いやね」 「……しかし、もはや仕方ありますまい。  状況は既に〈生きるか死ぬか〉《デッド・オア・アライブ》」 「すべて投げ捨てて死ぬのが嫌なら、生きて戦うのみです」 「そういうことやね」 「懸念すべきは進駐軍の動きですが……  こちらが親王殿下を奉戴していると知れば、国民感情に留意するGHQは直接攻撃をためらうでしょう」 「そこに交渉の余地はあります」 「よしよし。  何とかいけそうやないか?」 「はッ!  必ずや、大義は成就致しまする」  ――おかしい。  何かが、変だ。  いや……俺がおかしいのか。  どうしてか、〈彼ら〉《・・》が遠い。  一つの意思のもとに〈纏〉《まと》まりつつあるこの空間で、俺だけが醒めている。  ……遣り場のない視線が、ふと、それを捉えた。  とうに息を止め、硬直し始めている刺客の骸。  まさに一刀両断。  迷いの片鱗もない太刀筋だ。  一条はもう迷わないのだろう。  迷わずに戦い続ける。  桜子姫、黒瀬童子、署長、親王……彼らも同じだ。  迷わず戦う意思がある。  俺だけが、    迷うのか?  いや――迷う必要などない。  一条の助けがあれば、俺は呪いに縛られずに済むのだし。  現に、遊佐童心を死に至らしめたが、俺はその代償としての死を誰にも求めていない。  善なる人は誰も殺していない。  その事に、俺の精神は深く安堵している。      なら――良いのではないか。  今川雷蝶とて罪悪に満ちた者だ。  例えば六波羅の悪行の筆頭に挙げられる大阪虐殺に際して彼は梅田市街を担当、地域一帯を住民ごと焼き払って数千もの生命を奪ったという。  死すべき者だと一条が云うなら、そうだと頷くより無いだろう。  弁護の言葉も意思も湧かない。  何の問題がある?  このまま一条と、親王らと、共に戦う事に何の懸念があるのか?  戦いの果て、別に理想郷が出来上がるとは思わない。  だが六波羅に支配され続けるよりは、GHQに占領されるよりは、人々にとって暮らしやすい大和を親王なら創ってくれるだろう。  それがいけない事なのか。    真逆。  正義はここにある。  信じるに足る正義がここに存在している。  ならばその為に戦おう。  それで――良いではないか。  いくら戦い、いくら悪を殺しても、  〈俺はもう善を殺さなくて良いのだから〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。 「――――――――――」  おかしい。  おかしい。  おかしい。  おかしい。  よりにもよって――  〈それが納得いかない〉《・・・・・・・・・》とはどういうわけなのだ?  無辜の命を奪いたいとでもいうのか。俺は。馬鹿な。  歓迎こそすれ、厭う理由が何処にある。  わからない。  何が引っ掛かっているのか。  何に心が迷うのか。    何を――――忘れているのか。            ……景明……  何か……あったのではなかったか。  戦いを……戒める言葉が……       敵を殺せば、戦いは終わると思う?     それは違うよ。逆だ。  …………考えがまとまらない。  雑念と雑念がぶつかり合って、頭痛すら感じる。  それを治めようと思う時。  強い、引力を感じるのだ。  心を一方向へ引き付けるもの。  迷いを捨てさせ、強固な意志をつくらせるもの。  ……それを感じているのはきっと、俺だけではない。  〈彼女〉《・・》以外の全員が――彼女に対して感じているのだ。 「名前は如何致しましょう」 「名前?」 「はっ。  倒幕の〈旗幟〉《きし》を鮮明にする以上、やはり軍には相応しき名を冠するべきかと……」 「そうですね。  人集めにも都合が良いですし」 「そやなぁ……」 「いや。  名前なんて、いらない」 「はっ?  ……しかし、正宗殿」 「名前を付ければ名前に縛られる。  名前で中身を計られる」 「名前で誤解されるし名前で侮られる。  だからそんなのはいらない。ただ戦うだけでいい」 「あたし達は名乗らず戦う。  六波羅。進駐軍。悪なる奴ら全てと戦う」 「その正義だけが、みんなに伝わればいい。  その正義を知って、戦う勇気を起こした人たちが来てくれればいい」 「名前は必要ない。  あたしたちは無名の、戦う集団だ」  一条には別段、気負いもない。  しかし、誰もが息を呑んだ。  誰もが彼女に魅入られていた。  その少女は〈預言者〉《カリスマ》だった。  人を導く言葉の持ち主だった。  黒瀬童子が平伏する。  完全に、〈主将〉《あるじ》に対する姿勢を見せて。 「――ならば!  我らはただ、〝正宗の軍〟と人に呼ばれることでありましょう……!」  感極まった声で、彼は少女の決定を賞揚した。 「……」 «そうだ。それでいい、御堂。  その輝ける正義の志に人は集う» «悪〈党〉《・》などと云うが……  群れ集まるのは何も邪悪どもだけの特権ではない» «正義も集い、より強き正義となるのだ!  吾らが光となる限り!» 「ああ……!」 「…………」 «…………» 「すみません」 「はい?」 「……このお寺に、改というご夫婦はおられませんか?」 「夫婦……?  ははは、ここにいるのは仏様にお仕えしている人たちばかりですよ」 「あ……そうですね。  夫婦では、ないかも」 「ふぅむ。  改……あらた……」 「覚えがないですねぇ……」 「……そうですか。  すみません。さっきここへ入っていった人に、見覚えがあるような気がしたので」 「一般参拝の人かな。  そんな時間でもないけど……」 「ああ、貴方もこんな時間に出歩いていてはいけませんよ。物騒なご時勢なんですから。  おうちはどこです?」 「あ……大丈夫です。すぐ近くなので。  もう帰ります。ありがとうございました」 「いえいえ。  お気をつけて」 「……………………」  夜のうちに行動を策定し、夜明けと共に開始した。  計画は酷く杜撰である。    ――潜入できるところまで潜入し、〈然〉《しか》るのち強襲。以上。  作戦と呼ぶようなものではない。  が、実行者が暗殺の専門家に〈非〉《あら》ざる俺と一条、時間制限が詳細不明ながら至近、という条件ではまともな作戦などそもそも立てようもなかった。  時間制限が不明にして至近とはつまり、小弓幕軍が舞殿宮攻撃の準備を終える前に……という意味である。  作戦行動中の軍隊を二騎で襲撃して主将を討ち取るのはどう考えても、いや考えなくても無理だからだ。  今川雷蝶が小弓の公方府に留まっている間しか〈機会〉《チャンス》は無い。……否。それでもどうか、と思う。  公方府は歴とした軍事施設であり、しかも今は大軍が詰める。襲撃の困難は如何程になろう。  だが急な軍の召集は公方府に少なからぬ混乱を生じさせている筈。ならば隙もあるに違いない。    ――そこが唯一、望みを懸けられる点だった。 「…………」  分の悪い勝負だ。  あるいは、作戦としては見事に失敗した普陀楽の時よりも更に。  しかし、不思議と危機感は無かった。  見込みの薄いこの作戦が成功する事を、予知めいた感覚で確信している……わけではないが。そんな精神的麻酔の持ち合わせは生憎と無い。  成功率の低さは認識できている。  にも関わらず切羽詰った焦りは疼かない――無論、作戦の失敗が俺と一条そして親王らにとって何を意味するかを考えれば焦りもするし危機感も覚えるのだが。  今川雷蝶暗殺計画の失敗、その事自体には何の焦りも呼び起こされない。    むしろ――そうなるならその方が良い、と………… 「…………」 「…………」 「真っ昼間から女性に抱き付かれている男というのは、人目にどう映るものなのだろう」 「いい身分ですね。  あたしがそんなやつ見たら、海に蹴り込むと思います」 「それは普通に凍死する。離れてくれ」 「大丈夫です。  今のあたしは見てる方じゃないですから」 「……こう密着されていると、男性的欲求が励起しかねないのだが」 「真っ昼間で、船の上ですよ?」 「だから困っている。  どう始末をつけろというのだ」 「……湊斗さんて。  実は結構、節操なし?」 「無い」 「どうしてそんなに自信満々……」 「自制心に幻想を持っていないだけだが」 「まぁそのへんの事情は知ってますけど……  ……知っちゃいましたけど……」  ごにょごにょ呟きながら、一条は離れた。  不快とは対極の体温が遠くなる。  と思えば、すぐに戻った。  俺の前へ回って、コートの中へ潜り込むようにしてくる。 「もっと酷い」 「そうかも」 「励起したらどうしろと」 「その時はその時で」 「……無責任だぞ」 「へへ」 「寒いか」 「そうですね。  海の上は風も強いし」 「そろそろ冬も近い」 「はい……」  船足は別に荒くもなく、海風の強さも相応だ。  それでも耳が〈ひりひり〉《・・・・》するほどの寒さを覚えるのは、やはり本格的な冬季の到来を目前に控えて気温自体が低下しているせいだろう。  俺はコートの端を伸ばし、一条の頭も抱え込むようにした。 「……」 「……」 「大丈夫ですよ」 「……?」  懐の中の少女は、唐突にそんな事を言った。  覗き込む。  こちらを勇気付けるような微笑と、疑いを知らぬ瞳がそこにあった。 「湊斗さん、すこし不安そうに見えたから。  ……大丈夫です。あたしと湊斗さんが一緒なら」 「…………」 「必ず勝ちます」  ――その〈勝利〉《・・》にこそ俺の不安があるのだ。  とは、口にできなかった。  少女は美しい。  無垢の信念を有し、そのために身魂を捧げた人間というものは、こうまでも輝く。  眩しいと感ずる。  尊いと思う。    やはり、その思いは今でも変わらない。  この少女は俺が手放してしまった〈理想〉《ゆめ》そのものだ。  だというのに、何故――  俺はこの光輝の中に埋没できないのだろう。  何故、踏み〈止〉《とど》まってしまうのか。  〈武力〉《ちから》ある者達が悉く〈欲儘〉《ほしいまま》に振舞い、弱者を虐げ搾取するこの現代大和で、唯一、弱者の側に立って武力を揮い不遜な強者に挑もうとする少女――  そこに正義を認め。服し。一部となる、  ……その一歩手前で。  どうして俺は踏み止まってしまうのか。  何故、こんなにも気に掛かるのだろう。  少女の放つ光の奥にあるもの……  この輝きに〈眩〉《くら》まされてしまっている〈何か〉《・・》。  陰に隠れ、正体の知れないそれが、どうしてこうも引っ掛かるのか。  どうして―――― 「このまま、小弓まで行くんですか?」 「……いや。  できればそうしたいが、そうもゆくまい」 「平時なら小弓港への定期便もあるだろうが、今はおそらく軍用船以外の入港は禁じられている。……仮に便があったとしても、厳しい検問をパスせねば上陸できまい」  署長と繋がっている現地の警察官からの連絡によれば、小弓軍管区は本格的な戦争に備えた事実上の戒厳状態にあるという。  主要な道路は既に封鎖されている、との事だ。  空は無論〈竜騎兵〉《ドラグーン》の警邏隊が飛び回っている。これで海路だけノーマークなどという事は有り得ない。  今川雷蝶は先制攻撃を受ける危険性に配慮して警戒態勢を敷いたのだろう。  ……過剰反応にも程があるが。それは親王側の実情を知る人間だからこそ云える事だ。  小弓公方にしてみれば、当然の措置に違いない。 「房総半島はほぼ全域が小弓軍の管轄にある。港は全て使えないとみた方がいい。  船は浦安で降りる」 「そこから船橋までは〈乗合自動車〉《バス》。その先は徒歩だ。  少しばかり時間は掛かるが、それが一番目立たないし小回りも利く」 「装甲して飛んでいければ楽なんですけど」 「小弓領空へ入った途端に察知される。  公方府へ着く頃には完全包囲下だ」  というより、着けるわけがなかった。  ……〈あいつ〉《・・・》ならばそれでも、蹴散らしてしまうかもしれないが。    小弓へゆく目的の、もう一つを思う。  白銀の星は六波羅の――青江が遺したその一言を俺は忘れていない。  普陀楽城では何の情報も得られなかった。ならば、次にあたるべきは公方府だ。  まずは、小弓……  平穏な航海の末、浦安へ到着した。  予定通りバスに乗って船橋へ。そこから海岸沿いを歩く。  習志野から美浜へ……  丁度房総半島の付け根にある小弓はその先だ。  潮風は冷えるが、日差しのお陰で耐えかねる程でもない。まずまず平穏な道行だった。  しばしば幕軍の車両と行き違うが、特にトラブルという程のことはなくやり過ごせている。  どうやら何事もなく目的地へ着けそうだ。      ……と見込むのは、まだ早計であろうが。 「習志野分隊、〈鬼蜻〉《オニヤンマ》より報告。  目標を捕捉した」 「……〝曽我兄弟〟二名を確認。  他に随行者は無し」 「以降の指示を乞う。 ……諒解した。プランDにて迎撃」 「直ちに作戦を開始する」  やはり小弓まで真っ直ぐ、というのは虫が良過ぎた。  ここまで侵入を許してくれた沿岸の道路は美浜の中ほどで小弓軍の一分隊に封鎖され、その先への通行はもはや叶わない。  小弓公方府まではあと十数キロ。 「……どうしたものかな」  封鎖を見るなり踵を返しては怪しまれかねない。俺と一条はそのまま単なる通行人を装って近付き、当然のように追い払われて、今は進路を逆にしている。  このまま歩き続ければ浦安まで戻ってしまうが。 「少し戻った辺りに喫茶店があったじゃないですか。とりあえずそこ入りません?」 「そうするか」  海水浴客を睨んだ立地で、季節柄閑古鳥が鳴いてはいたが、それでも一応営業している様子だった。  ひとまず腰を落ち着けて対策を練るには格好の場所だ。 「いらっしゃいませー!」  店内の装いは見るからに若者向けの、明るく華やかなものだった。  しかしそれも、肝心の客が皆無では、ただ寒々しいだけである。  店員の快活な声が不似合いなこと甚だしい。 「お二人様ですか?」 「はい」  当の本人、顔の造形よりも表情が魅力的なタイプであろうと思える若い女性店員は、全くそうは思っていないようだったが。  完璧な営業スマイルで俺と一条を席へ導く。  案内されたのは、窓際の一席だった。  眺望が良い。それはこの際何の意味もないが、厨房から離れているのは有難かった。これなら小声で会話すれば聞き取られる心配は要らない。  手入れの良い椅子に腰を下ろす。 「ご注文は?」 「……シナモンティーを」 「それもういっこ」 「シナモンティー二つ。  以上でよろしいですか?」 「とりあえず」 「少々お待ち下さいませー!」  軽やかに足を踊らせて店員が奥へ下がる。  俺はつい、その後姿を見送っていた。 「湊斗さん。  まさかとは思うんですけど」 「おしり見てます……?」 「うむ」 「なぜに」 「〈揺れ具合〉《・・・・》が気になった」 「真剣な顔して言うことじゃないです!」  どうしてか憤然と、一条。  何か気に食わない事があったのか。  があー、と噛み付いて来そうな顔をしている。 「ああいうの好みなんですかっ?」 「好み? ……何の」 「女性の!」 「そうだな。それなりには」 「うう……節操ない……」  泣き言に変わった一条の声を聞き流して、俺は店員が視界から消えるまで見届けた。  そして店内を再確認。他に客も従業員もいない――いや、厨房にはあと何人かいるだろうが。気配もある。  差し当たって近辺には俺と一条のみだった。 「……作戦会議しましょうよ」 「ああ」  向き直る。  何故か一条が落ち込んでいるが気にしない事にする。 「この先どうするかだが。  まず、強行突破はまだ早い」 「…………」 「公方府に着く前にこちらが撃滅される。  陸路をとっても空路をとっても無理だろう」 「……空も駄目ですか?」 「公方府まで数分は要する。  防空隊との〈遭遇〉《エンゲージ》は避けられん。突破できたとしても公方府はその間に完全な迎撃態勢を敷いている」 「対空砲の釣瓶撃ちに遭うな」 「……むぅ」 「もう少し奥深くまで潜入したいところだ」 「六波羅の兵士になりすますとか」 「一手ではある。  だが、難しいな」  敵兵を襲って倒し、装備を奪って潜り込む。  ……フィクションでは定番の策だが。実行するには困難が多い。迅速かつ密やかに襲撃を行えるか、誰にも怪しまれぬほど六波羅の人間になり切れるか、等々。 「前回のように内部の人間の協力があるわけでもない」 「そうですね……」 「他には、そうだな。  道なき道を行くというのも一手ではあるか」 「どういうことです?」 「道路を使わないという意味だ。  山野に潜んで小弓へ接近する」 「……それはそれで難しそうですね」 「難しい」  地理に明るい地元の人間の協力がない限り、これは困難を極めるだろう。  下手をすれば遭難する。  加えて、幕軍に発見されたとき言い訳が利かない。  その時点で強攻策に移らざるを得なくなる。 「時間も掛かりそうです」 「確かに。それも難点だ。  他に良い考えはあるか?」 「……地面の下を潜っていけたら楽なんですけど」 「……」  一応、近辺に潜伏中の劒冑に訊いてみる。 (村正) «なに?» (お前は地蜘蛛か?) «違います» 「……」 (正宗) «〈螺旋錐〉《どりる》というやつを買ってくるがいい。  あの――吾の時代にはなかった素晴らしい器械» «解析して、甲鉄改組で再現できないか試してみよう» (……考えとく)  現実的なプランへ仕上げるには難が多そうだった。  厨房からウェイトレスが戻ってくる。  丁度思案も尽きたところだったので、俺達は黙って待った。 「お待たせしましたー!」  相変わらずの笑顔を振りまきながら、店員がティーカップをテーブル上に並べる。  〈芳〉《かぐわ》しい香りが〈忽〉《たちま》ち広がった。  快活な印象に反して、女性店員の手付きはあくまで礼儀正しく、丁寧だ。  陶磁器にがちゃがちゃと無粋な音を立てさせたりはしない。  だからだろうか。彼女の手は、酷く美しく見えた。    白く――滑らかな手。  俺は自分の手を伸ばし、それを握った。 「あら……」 「み、みっ、湊斗さん!?  破廉恥ですよっ!」  ウェイトレスはきょとんとし、一条は顔を赤くして立ち上がった。  俺は構わず、掌中に収めた女性の手の感触を味わう。  ……柔らかい。 「お客様ったら。  こんな可愛らしいお連れ様がいらっしゃるのに」 「今は貴方が気になるのです」 「みーなーとーさーんー!?」 「そんなことを言って。  もう、悪戯はお止めください」 「自分は本気です」 「なんでっ!?」 「……困ったお客様」 「自分も困っています。  こんな所で、貴方のような人と出会ってしまうとは」 「あたしも今すごい困ってるんですが!?」 「お客様……  どうして?」 「三つあります。  貴方の手、貴方の脚、貴方の瞳」 「身体だけかよ。  いや、問題はそこじゃないけど!」 「誰にでも、そんなこと仰るんでしょう?」 「いいえ。  貴方だけです……」 「なんでいきなり〈人格〉《キャラ》変わってるんですか!?  それとも元々そーいう人だったんですか!?あたし裏切られた!? しかもよりにもよってこんな裏切られ方ーーー!?」 「貴方の手……  白く、綺麗で」 「今は……とても冷たい」 「手の冷たい人は心が温かい、とでも仰るのかしら?」 「俗説に興味はありません。  貴方のこの手は――」 「単に水仕事してきただけだと思います!」 「ええ。  人手が足りないので、皿洗いから飲食物の準備まで手伝わないとならなくて」 「そうなのでしょう。  貴方は接客だけでなく、厨房の仕事もしている」 「だというのに、この手は全く荒れていない。白く、綺麗で、滑らかだ。  そのかわり、指の付け根に薄い〈たこ〉《・・》がある」 「これは剣の鍛錬を積んだ人間特有のもの」 「……え?」 「――――」 「貴方の足取り、腰つき……  仔細に検分させて頂きましたが、あまりに〈落ち着き〉《・・・・》過ぎている」 「いつ襲い掛かられても即応できそうだ。  武術の心得が無い人間には決してできない歩法です」 「――――」 「そして、貴方の瞳……  時期外れの、地元民でもない客に対して、何ら怪しむ様子がない」 「…………」 「実に……不可解な事です。  貴方は俺の興味を引いてやまない」 「湊斗さん。  じゃあ、こいつは……」 「ああ。  結論は一つ」 「たまたま武術の心得があった、最近ここで働き始めたばかりのウェイトレスだ」 「えーーー!?」 「そ、そうです!」 「勿論違う。  今の時節に従業員を新規雇用するなどまず考えられないし、大体、働き始めにしては客慣れし過ぎている」 「くっ……!」  店員は俺の手を振り払って後方へ飛び離れた。  同時に俺は立ち上がる。  ここは既に敵地。  いつ何処から攻撃されるとも知れない。 「……油断した。  ただのえろにーちゃんかと思えば……!」 「へっ、ばーか。  湊斗さんはそんな男じゃねえ!」 「さっきお前が横で何を言っていたか、俺はおおむね記憶している」 「……相手はしてくれなかったのに……」  召喚するまでもなく、二領の劒冑が飛び入ってくる。  〈紅蜘蛛〉《ムラマサ》は天窓を抜けて。〈天牛虫〉《マサムネ》は容赦なくガラスを叩き割り。  いつでも戦闘に移行できる態勢が整った。 「やはり武者か。  童心入道を討ったのは、貴様らだな」 「やはり?  ……成程。そういうことか」 「? どういう?」 「こんな罠を仕掛けられた理由だ。  あの工作員……岩田と言ったか。彼女が俺達の風貌その他の情報を小弓へ伝えていたのだろう」  だから劒冑を見るまでこちらが武者であることには確証を持てなかったのだ。そう推測はできても。  あの工作員は俺と一条が劒冑を所持するという情報だけは報告する暇が無かった筈であるから。 「……些か見通しが甘かったか。  こうなる事は予測していて然るべきだった」 「顔を隠すとか、考えもしませんでしたね」 「……ふっ。  惚けるなよ? 親王の手駒ども」 「何?」 「貴様たちが堂々と小弓へ近付いてきた理由くらいは読めている。  ――陽動だ」 「貴様らが我が軍を引き付けている間に主力で公方府を衝く……そういうことだろう?  単純かつ有効な戦術だ。こちらが引っ掛かっていれば、の話だがな」 「……」 「……」  成程。  相手にすれば、そう考えられるのか。  確かに、わずか二騎で総大将の首を取りに来た、と考えるよりは現実味がある。  彼らがこちらの戦力規模を過大評価しているとなれば尚のこと、そうとしか見られまい。 「その手には乗らん。  軍は動かさんよ。貴様らは我々だけで始末する!」  店の奥から、既に装甲を遂げた竜騎兵が次々と躍り出て来る。  その数――八騎。  いや、一騎が鎧櫃を抱えている。  ウェイトレスの分か? ならば九騎! 「我らは闇の掃除人」 「美しき雷蝶様のため。  御道を清め整える」 「汚れた犬は追い払い」 「邪魔な〈石塊〉《いしくれ》は取り除けようぞ」 「人呼んで小弓十傑。  憚りながら推して参る!」 「十傑……」 「……一人足りなくねーか」 「ここにおらぬ一人は、既に果てた……。  先日、貴様らの手によってな」 「フッ。だが図に乗るなよ。  奴の実力は我々の中で最も下だったのだ」 「我らこそ真の小弓十傑よ。  本物の力を味わわせてやろう!」 「……何だか知らねーけど、わかった。  要はぶっ倒していいってことだな」 「正宗!」 «応!» 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り」 「……村正」 «ええ» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」 「ほう……なかなかの武者ぶりだ。  舞殿宮が先手として送り込んできただけはある……」 「だが所詮二騎。  それで我らに勝てるつもりか?」 「つもりじゃ、悪いかよ」 「……」  一条の自信は完全だ。  俺は、そこまでの勝算を持てなかったにせよ。 (やってやれない勝負ではない)  障害物の多い屋内は寡勢を利する。  それに、何も殲滅戦を挑む必要はない。数騎を戦闘不能にして敵の士気を挫き、その隙をついて脱出する、それで良いのだ。  やり方を間違えなければそう難しくはない筈。 「ふん。  無謀な奴だ。若さゆえと思えば可愛いが」 「我らはその逆よ。  謀計を尽くし、勝算の上になお勝算を積み上げて戦う」 「それが小弓十傑の最強たる所以」 「なに言ってやがる。そいつが失敗したから、こういう格好になったんだろうが。  御託は止めて、さっさと掛かって来な」 「くっくっく……!  失敗? 失敗だと」 「まだ何も失敗してなどいない。  まぁ確かに、貴様らがその茶に口をつけてくれていたら事は手早く片付いたろうが」 「毒か……」 「元々期待はしていなかった。  策は――これからだ」  ぱちん、と女が指を弾く。  合図だったのだろう。端にいた一騎が厨房へ続く扉に手を掛け、開いた。  そして何かを引き摺り出す。  何か――  縄で縛られた――幾つかの――    それは、 「――――」 「てめえら」 「……ふふふ……」  人間だった。三人。  壮年の男性と、同じ頃の女性、そして男児。  三人とも、怯え切った眼差しで自分達以外の全てを見詰めている。  声はない。猿轡を噛まされていた。 「この店の、本来の持ち主だよ」 「……」 「今すぐ、放せ」 「……くくっ。  岩田の報告にあった通りだな」 「無関係の者など、気にしなければそれまでだろうに……。  そうはいかぬ、か? 綾弥一条」 「……放せ、って言ってんだ」 「一条」  肩の上へ手を置く。押し留めるように。  怒りは当然だ。しかし――ここは怒りに任せて行動して良い局面ではない。  慎重に機を窺わねば…… 「男の方は物分りが良いようだな。  ふむ」 「人質もちゃんと己の立場をわきまえている。  そうなると……一人だけか」 「……」 「しかし一人でも馬鹿がいると、話はうまくまとまらん。仕方ないな……。  気は進まんが。なに、人質は三人いるのだ」 「なァ?」 「うむ――」 「!!」  止める暇はなかった。 「――てめ――」 「……」  竜騎兵が、太刀を一薙ぎし……  束縛された子供が全ての動きを止める。  数瞬。  空気が凝固した。  血が――  男児の首筋から血が溢れる。  一筋――  二筋――  三筋――  そこまで。  糸ほどの太さの血流が数条、現れただけだった。  傷は……深くない。 「…………」 「〈人質は三人いる〉《・・・・・・・》。  意味は通じたな?」 「一人くらいはいつでも殺せるということだ」  ぼろぼろと、泣き声も出せない子供の両目から涙の粒がこぼれ落ちた。  両親であろう男女がもがき出す。  子供は放置され、男女は背中を踏みつけられた。  そして〈揃〉《そろ》って、首筋に改めて刃を当てられる。 「理解が得られたところで、話を進めよう。  我々は貴様ら二人の命が欲しい」 「くれ」  酷く横着に、女は言った。  お陰で誤解の余地も無い。  俺と一条で首を〈刎〉《は》ね合えということか。  ……どうする。  考えるまでもなく、受け入れようのない要求だ。  しかし断るに断れない。  拒否を意味する返答をすればその瞬間、少なくとも人質の一人は殺される。  言葉に注意して、交渉するべきだ。  いや……それすら危険だが。交渉の意思表明に対して、最も高い確率で予測される相手の返答は、やはり人質一名の殺害による拒絶だ。  そうしても敵の手元にはなお二人の人質が残る。  脅迫を続けるに不足はない数だ。    三名の人質。何と巧妙な。  受け入れるしかないのだろうか。  二人が死んで三人が助かるなら、悪くない計算ではある。  だが一条は死なせられない。  俺は、最悪……一条に後事を託し、首をくれてやっても良い、が……  ――いや。  それでは、銀星号を―― 「悩んでいるな、湊斗景明」 「……お陰をもって。  実に難問だ」 「そうか? 簡単だろう。  一瞬で我々を全員倒すというのはどうだ」 「……」  くく、ふふ、と竜騎兵らが含み笑う。  無論――そんな真似は不可能だ。  〈電磁撃刀〉《レールガン》をもってしても、確実に仕留められるのはせいぜいが二、三騎。  仮に全員を殺傷範囲に納められても、その時は人質まで巻き込むことになる。  ……どうにもならない。  なりようがない。 「さて。  そろそろ結論を出して貰おうか」 「無言は拒否と見なすから、そのつもりでな」 「……」  それでも、返答のしようはない。  だが沈黙は続けられない。  どうすれば…… 「わかった」 「一条……」 「お前らの言う通りにする」  少女は明言した。  いつものように。曇りない声音で。 「ほう。  思ったより素直じゃないか……」 「では早速やってもらおう」 「ああ。  ……湊斗さん」  一条が俺を見上げる。  俺もその瞳を覗いた。  そこに、悲哀は存在しない。  〈全〉《まった》き信頼だけがある。 「一瞬だけ、あいつらを止めてください」 「――」 「なに……」  一条の真意について、考えるのは止めた。    〈賽は投げられた〉《・・・・・・・》のだと、理解したからだ。  ――一瞬だけ、やつらを止める。    その要求のみ把握し。  実行手段について考察。    ……決定。劒冑へ意思疎通。  腰を沈め、床へ右手をついた。 「〈磁装・正極〉《エンチャント・プラス》――」 «〝ながれ・まわる〟――»  そして、左手も。 「――〈磁装・負極〉《エンチャント・マイナス》」 «――〝ながれ・かえる〟»  正極と負極。  二つの磁流。  それは竜騎兵らの踏む床へ広がり。  足から這い上がり。  全身を包んで。  〈動きを止めた〉《・・・・・・》。 「――!?」 「ごっ――」  自己の内部へ施し、騎体動作を高速化する磁装正極。  自己の外皮へ施し、攻撃を防ぐ障壁を張る磁装負極。  この二術を同時に施された対象は、  磁力的に〈完全な安定〉《・・・・・》を迎えてしまい、一切、身動きがとれなくなる。  こちらの敵対行動に反応して即座に人質の首を薙ぐ筈だった刃は……今、ぴくりとも動かない。  だが――この状態を保てるのは本当に一瞬である。  本来は自己一体のみを対象とし、それでも長時間の維持は難しい術を、これだけ広範囲に広げているのだ。  一呼吸にも満たない一瞬で、この膠着は終わる。      彼女が俺に求めたものは、それで全てだった。  それで充分だったから。  勝利するために。 「正宗七機巧――――」 «無弦・十征矢»  ……飛んだものは、指だ。  正宗の――両手の。  それが強弓より放たれた矢と化して九騎の竜騎兵を貫いた。  九騎全ての急所を穿った。一瞬にして。 「――――――――」 「一瞬で全員倒せばいい。  ……てめぇの言った通りだったな」 「ご無事ですか」  装甲を解いて不運な一家に近付く。  三人とも呆然たる様子だった。  しかし幸い、子供の掠り傷のほかには怪我もない。  縄を解き、猿轡も外す。 「貴方がたは……  いや、これは一体どういう――」  口が自由になるや男性は言い募り、そして言い淀む。  何から尋ねれば良いのか困ったのだろう。  彼の意は理解ができたが、俺も返答には詰まった。  何をどう説明すれば良いものやら。  望むらくは黙って立ち去りたかったが。  何の故もなく巻き込まれてしまった人々に、そんな不義理もできない。納得して貰えるかは別として誠意は尽くすべきだろう。  しかしどうしたものか―― 「すいません。戦争です」 「はっ?」 「六波羅と。あたしたちの。  潰し合い、やってます」  物凄まじく端的な説明を、一条がした。  意味は明快。  誤解の余地は皆無。  納得させる要素は絶無であった。  男性の混乱に拍車が掛かったのは顔色でわかる。 「戦争って。そんな……  確かに軍がやたら動き回ってるけど」 「すぐに始まります。  いえ、もう始まってるんですけど」 「関東で……大和全土で。戦争が、すぐに。  だから、決めた方がいいです。あなた達は。いえ誰も彼も。みんな」 「決める?」 「誰の仲間になって誰と戦うのか。  それとも戦いを避けて逃げるのか」 「でないと、〈こういう事〉《・・・・・》になってしまいます」  一家を戒めていた縄、子供の傷、斃された竜騎兵ら。全てを示して、一条はそう言った。    正しい。  一条は要点しか語っていない。  端的に過ぎ、受け入れるのは困難だ――が。それは全て真実であり、忘れようも誤解のしようもないほど簡明である。  今は納得が得られなくてもいい。  世情の緊張はいずれ彼らに『戦争』の事実を理解させる。そして一条の言葉を思い出すだろう。いま何をすべきなのか、その忠告を受けていたと知るだろう。  ――戦うのか。逃げるのか。  確かにそれは誰もが考えねばならないことだ。何も決断しないままただ巻き込まれて命を失わぬために。  一家の相手は一条に任せることにして、俺は視線を転じた。 「…………」  喫茶店の冷たい床を〈終〉《つい》の寝台とする彼ら。  今川雷蝶に仕えていた九人。  同情の念は、格別ない。  彼らは他者の生命を弄んだ。彼らなりにそうすべき理由があったとしても、それは許されぬ行為である。結果として己の生命を失ったのはむしろ当然だ。  そう思う。  同じ理由で、憐憫の情もない。  一条を責める想いもなかった。  彼らが死に値する罪を犯していたなら、一条は単にその執行を担ったに過ぎないのだと思う。  他に解決方法があったとも考え難い。  武者は手足を断たれても行動を続行できる耐久力と、その手足を再生させる回復力の所有者だ。殺さず戦闘力だけ奪うのは容易ならぬ事である。  一条がもしそうしようと試み、そして失敗していたら、人質は即座に殺されていただろう。  敵の急所を狙って一撃必殺に仕留めた一条の判断は間違っていない。そう断定できる。  つまり、何も悔やむ事はない。  恥じる事もない。  省みて、思い悩むべき何事もない。  そう云える。  云えるのだ。    一条と一家の対話は続いていた。  ……どういうわけか相手は両親のどちらでもなく、男児に代わったらしい。  一家の内で最も順応力が高かったのがその子だった、という事だろうか。 「せんそう?」 「うん」 「なんで?」 「悪い奴らを許せないから」 「ろくはら?」 「そう。よく知ってるな」 「おおさか……」 「……大阪虐殺?」 「みんなしんだ。  すごくやけた」 「それで、こっちきたの」 「…………そうなんだ」 「あいつらと、たたかう?」 「うん」 「なんで?」 「それが正義だって信じるから」 「……せいぎ」 「真っ直ぐ正しく生きること。  悪いやつらを許さないこと」 「こわくない?」 「そうだな。  ちょっとな」 「でも、たたかう?」 「うん」 「なんで?」 「そいつが、勇気」  一条は微笑んで、子供の胸をつついた。 「ここんとこにあるやつ」 「……それがあれば、わるいのと、せいぎで、たたかえる?」 「そう」 「悪いやつらがのさばる世界を……  正しく変えられる」  ……………………………………。  一条は正義を語り。  子供はそれを聞き。  床には死体が転がっている。  何も悔やむ事はなく、  何も恥じる事はなく、  思い悩むべき何事もない。          ……本当にそうか?  一家と別れた後。  小弓御所襲撃の思案は、結局、妥当な結論を見た。 「東から」 「ああ。  〈親王軍〉《てき》は陸路で北から、ないし浦賀水道を渡って南から来ると彼らは想定している」 「それ以外、特に東側の警戒は甘い筈だ。  少なくとも比較的」 「そっちから行けば、懐まで食い込めるってことですね」 「二人だけならば。おそらく」 「心配なのは、時間だけですか」 「そうだな……  東に回ってみて、期待通り防備が甘く対空警戒にも隙があるようなら。騎航して一気に突破してしまおう」 「防空隊は気にしなくていいんですか?」 「低空騎航なら〈信号探査〉《レーダー》に察知されにくい。地上の構造物の中に反応が紛れる。  後は運次第だ」 「わかりました!」  天運なら疑う余地もないと、快活に応える一条から眼を逸らす。  どうしてか、直視し難い。  ともかくも俺と一条は東から小弓を攻める。    ……そろそろ、鎌倉の親王たちも動く頃か。 「……宮殿下……」 「……おう。  ご苦労さんやったねえ。菊池」 「……お先に参ります。  殿下はどうか、ゆるりとお越しあれ」 「うん……」 「…………」 「まさかおまさんが来るとは思わんかったわ。  堀越の」 「雷蝶の方が良かったか?  〈皇子様〉《プリンス》」 「お呼びでないとは残念なり。  でもどっちだってたいしてかわんない気がするけどにゃー?」 「……そやな。  わしは負けた責任とって、死ぬだけや」 「うむ。  よりによって雷蝶と組んで、あげく野郎を操り損ねてるようじゃどーしょーもねえわ」 「……」 「手を急ぎすぎたな、宮様。  敗因はそこだろ」 「返す言葉もないわ。好きに言えばええ。  次はもっとうまくやったるし」 「次ね……」 「ギャグや、ギャグ。  冷たい目で見んな」 「菊池も待ってるし。  さっさと首刎ねてくれんか」 「あんたの忠実な鎌倉署長か。  そのおっちゃんなら、おめーが生き延びて目的遂げるのを望むんでないの?」 「…………。  性格悪いやっちゃなァ」 「そお?」 「わざわざ未練を残させたいんか」 「いーや? 違うよ。  そうしたいなら、そうさせてやろうかって話」 「…………」 「あれ? 躍り上がって喜ばないの?」 「……もうちょっと聞いてからにするわ。  で、その条件は何や」 「なんも?」 「……」 「タダで安全なとこまで送り届けてやるよ。  横浜でいいだろ?」 「GHQ……?」 「そっ。  今のあいつらはおめーに利用価値を見出すよ」 「帝室の〈変種〉《かわりだね》、お調子者で人気者の親王サマ。  国民を味方につけるにゃ格好の材料だ」 「……それも売り込むツテがあればの話やろ。  わし、GHQにはほとんど人脈ないよ」 「案ずるな迷える子羊。  横浜基地前に放り出してそれきり、なんてこたしねーよ。茶々丸さんのアフターケアは万全なのだ」 「ちゃんと仲介者を紹介してやる。  〈緑龍会〉《GDG》っつって、まぁわりと怪しげな連中がいるわけだが。GHQの要人に顔が利く」 「……〈緑龍〉《グリューネドラヘ》……?」 「あとはおめーの手腕次第。でも簡単だろ?  向こうのメリットははっきりしてんだ」 「あんたが大和を代表して進駐軍支持を表明すれば国際連盟の非戦派も黙る。  ジョンブルどもは背中を気にせず〈六波羅〉《あてら》と戦えるって寸法だな」 「大歓迎間違いなし。  三食昼寝にハーレム付きは固いぜ、旦那」 「……そんで。  おまさんはどうなるんや」 「そりゃもちろん、獅子吼と一緒に悪戦苦闘。  もー足掻きに足掻いて足掻きまくる」 「GHQに〈切り札〉《・・・》まで投入させる」 「でも最後は負けるね。  どだい、市民に見捨てられた軍がいつまでも〈保〉《も》つわけねーし……」 「六波羅は滅びてあても死んでおしまい。  大和国は平和になりましたとさ。めでたしめでたし」 「……理想的やね」 「だろ?  じゃ、そういうことでいい?」 「返答か。  そやな。それなら」 「断る。  ここで死ぬわ」 「音声だけではよくわからないと思いますが、あては今ずっこけました」 「なんで解説?」 「いや、そのスダレで見えてないかと思って」 「つか、なんでさ。  文句なしにいい話でないの」 「そやな」 「〈大英連邦〉《ブリテン》の属国になるのはヤってこと?」 「嫌やな。  でも、それが大和のみんなにとって最善の道なら仕方ないとも思うえ」 「じゃ、何が不満よ?」 「取引になってないからや」 「……んー?」 「おまさんは何も得しないやないか。  そう、言うてはった通り。進駐軍はわしを歓迎するやろ。六波羅は追い詰められるやろ。首領株のおまさんは死ぬやろう」 「おまさんは失うだけや。  何も手に入らない」 「うむ。なんて無欲な足利茶々丸。  百年後にはお札になってるかもしれんね」 「で、それがなんかまずいの?」 「まずいわ。えろうまずい。  くれるもんだけくれて何も要求せん奴てのはな、本物の聖人か。でなければ」 「〈最後に何もかも奪っていく〉《・・・・・・・・・・・・》、本物の悪魔や」 「――――――――」 「……茶々丸。  おまさんの望みを聞かせてもらおか」 「本当に何も無いなら、そう言うとええ。  〈そのツラのまま〉《・・・・・・・》言えたら、信じたるわ」 「…………」 「……望みは?」            「〈世界〉《ワールド》           〈終焉〉《エンド》」 「――――!?」 「……あばよ、宮様。  おめー使うのが一番いいと思ったんだけど。しゃあね、別のやりかた考えるわ」 「…………」 「…………」 「…………」 「……おい。ちょっと待て。  そこのおっさん」 「……悪いな……」 「菊池……」 「致命傷なのですが……ね。  当たり所が変に悪かったのか……なかなか息が絶えてくれず……」 「まだ生きています、などと言うのも恥ずかしく……  黙って死を待っていたのですが……」 「まぁ……せっかくの余命なので。  〈悪魔退治〉《・・・・》だけ、しておきました」 「……心臓の真上……ど真ん中か……。  これじゃ虎徹でもどーにもなんねーな……」 「……ひっでぇー。  こんなオチ、ありかぁ……?」 「……」 「…………」  小弓御所の前にいる。 「…………」 「…………」  前に――いるのだった。  東から回り込み、警戒線の間隙を縫って接近、折を見て装甲騎航。低高度を保ちつつ公方府を目指した末、  とうとう何の迎撃も受けることなく。    ……出来過ぎであった。  いかに防備の薄い箇所を狙おうが、数十メートルの低空を飛ぶ騎影は必ず目視確認される。されない筈がない。されれば〈公方府〉《ヘッドクォーターズ》へ連絡が行こうし、行けば防空隊にも指令が下り、その一部は俺達を捕捉するだろう。  そう考えていた。その程度なら短時間の強行突破も不可能ではなかろうと。  それはむしろ、甘い目測であったのかもしれない。  しかし現実は輪を掛けて甘く、砂糖菓子同然だった。  装甲姿がいっそ滑稽なほどの無傷ぶりで、俺と一条は目指した場所へ立っている。  苛酷を窮めると思われた潜入行がここまでたやすく成ってしまった理由はわからない。  ……否。わからな〈かった〉《・・・》。    あまりに容易な進攻の果て、今川雷蝶の居館へ遂に到り、その有様を視野に収めるまでは。  小弓御所は、〈陥〉《お》ちていた。 「……どうして?」 「……」 「まさか、姫さまたちが……?」  岡部残党を中核とする反幕軍に襲われた――    まず、有り得ない話である。一条自身が自分の言葉を全く信じていない風だった。  一に、定めた戦略と異なる。二に、黒瀬童子が集めると云った千ばかりの兵で公方府を落とせる筈がない。三に、余りにも行動が早過ぎる。  四に――――  俺は〈煙塵〉《えんじん》漂う凄惨な館内へ踏み込んだ。  一条も背後に続いてくる。  中は、滅茶苦茶であった。  大軍に奇襲を受け、忽ち奥まで入り込まれたのだとしても――ここまでの醜態には果たしてなろうか。  盲滅法に機関銃を撃ち放ったとしか思えぬ破砕痕。  倒壊した壁と、その手前で砲身を歪めつつ横転している迫撃砲――これは何だ。まさか館内でこんなものを使って砲撃したとでもいうのか。  そして死体。  一面の死と死と死と死。  その全てが六波羅の軍装を纏っている。 「……変です。  こいつら、誰にやられたんでしょう」  …………。 「〈敵〉《・》の死体が全然ない……。  どういうことですか? 六波羅が六波羅を攻めた?」  …………。 「でも、どいつもこいつも死んでるってのは……生きてる奴らはどこへ……」 「いない」 「え?」 「生存者はいない。  誰も彼もが死んでしまった」 「ここに残っているのは死骸と、  ……死神だけだ」  奥を目指して走る。  死骸の上を飛んで。血の飛沫を散らし。 «――――»  村正の精神は真冬の鉄板のように固く冷たい。  そのくせ溶鉱炉から溶け出したばかりの〈鋼滓〉《ノロ》のようにどろどろと熱くもある。  村正を装う俺の精神も相似であろう。  酷冷と灼熱の同居に意識は何処かの〈涯〉《はて》へ飛びそうになっている。  ともすれば現実に先行するその意識を追う心地で、俺は駆けた。  そこは、この城館の主が住まう間であったのだろう。  絢爛なばかりの装飾で満たされていたようだ。    嘗ては。  今は既に、見る影も無い。  砕け、裂かれ、全ては崩壊し去っている。  主人も含めて。 「……こいつ……」 「ああ。  大和GPで見掛けたな……」  俺の背後から覗いて絶句する一条に、頷きを返す。  部屋の中央寄りに転がる、人間――の残滓。断片。  余程の激闘の末にかく果てたのであろうか。  豪奢な劒冑で身を〈鎧〉《よろ》った小弓公方今川雷蝶は、彼の居館が受けた災禍を象徴するように、凄まじき形相を浮かべて〈砕け散っていた〉《・・・・・・・》。 「……どういうことなんですか……」 「どうも、こうも無い」  歯を〈擦〉《こす》って言葉を〈搾〉《しぼ》る。  状況は不分明か。否。その正逆。  状況は明々白々。 「お前も見た筈だぞ一条。  この光景を、一度は目にしている筈だ」 「――あ――」  今川雷蝶は死んだ。  小弓公方府は壊滅した。  しかし、俺達は何もしていない。  彼らの敵であった我々は一切、何も。  だから彼らは敵に滅ぼされたのではない。  戦争は彼らを殺していない。  彼らを殺し滅ぼしたものは何か。  戦争とは全く別の、人の群れを滅ぼし去るものとは何か。  天災だ。  雷雨の渦巻く大嵐。風に乗って広がる大火。沿岸を呑み尽くす大海嘯。山の怒りが周辺全てを地獄に変える大噴火。  それらと同等。  同じように突然で、同じように抗えず、同じように無慈悲。人を殺す。人の営みを滅ぼす。ただそれだけの現象。  人は呼んだ。  殺戮の天象と。  人は呼んだ。  死の雨と。  人は呼んだ。  魔王と。  そして、人は呼んだ。    〈白銀〉《ぎん》の星と。 「いい〈夕焼〉《ゆうやけ》だな、景明。  まるで〈鬼灯〉《ほおずき》の野のようだ……」 「そうは思わないか?」 「――〈銀星号〉《ひかる》!!」 「…………!」  一条は俺の傍らで、凝然と立ち尽くした。    無理もない。  江ノ島で遭遇しているとはいえ、間近で相対するのはこれが最初のはず。  であれば、その瞭然として隠れもない異常さに息を呑まずにはおれぬだろう。  何が違うと云えば、もはや〈世界〉《・・》が違う。  それほどに異質。それほどに不可解。  それほどに異次元の存在。  武者にして、武者を超えていると云わざるを得ないもの。  俺もまた言葉が無かった。  ここ小弓を訪れるにあたり、銀星号の所在に通ずる手掛かりを求めるつもりはあった。  しかしいきなり〈直接〉《じか》に、しかもこのような形で遭遇するとは……全く予測の外。  そろって彫像の真似を強いられているこちらに対し、白銀色の武者は自若としたものだった。  一条――正宗をふと眺めやり、小首を傾げる仕草をした後、再びこちらへ瞳の向きを移す。 「小弓に〈兵〉《つわもの》ども集い、戦気満ちている……と教える者があってな。  興を咲かされて、遊びに来たのだ」 「良き武人どもであった。  猛々しく、退くことを知らず、幾たび打ち払われても同胞の〈屍〉《かばね》を越えてまた押し寄せ」 「最後の一騎まで戦い果てた。  良い〈一刻〉《ひととき》を過ごしたぞ」  ……見れば、周囲には今川雷蝶の他にも数十の――いやそれ以上の。武者、竜騎兵の甲骸が散乱している。  それらは全て手練の技に命脈を断たれていた。ここへ来るまでに見た、兵らの狂乱死の態とは異なる。  つまり一般の兵士は精神汚染で自潰させられ。汚染波に耐えた武者衆は、果敢に銀星号へ挑んだのだろう。  そして全滅した……百余の鉄塊、肉塊と化して。  損耗比、一〇〇対〈〇〉《・》。  血臭生々しい戦場にただ独り君臨する白銀の覇者は、一筋の血も流さず、心地良さげな吐息を洩らしているに過ぎない。 「そこに景明、おまえまで来てくれるとは。  まったく今日の光は退屈という憑物に見放されているな! いつもこうなら良いのだが」 「……光……」  魔物である。  異怪である。化生である。鬼妖である。  人ではない。  湊斗景明の妹、湊斗光は、とうに人ならぬ物である。  それと出会った上は、    ――斃さねばならぬ。  斃すほかにない。  人として人を守ろうと思うのであれば、人ならぬ妹を斬る以外に道はない。  ……既に悟っていた筈だった。  遅くとも、江ノ島での邂逅の折には。  そうだ。  一度は斬る決意をした筈だ。  だが。  それでも……    この今、俺は未練を口にしていた。 「お前は……  もう、戻れないのか?」 「……うん?」 「昔のようには……  あの小さな町で暮らしていた頃のようには」 「…………」 「お前は狂ってしまった。  二年前、俺が止められなかったから。お前は山賊達を敵として殺し、村正の呪いに縛られ、町の人々まで殺して狂った――」 「そうだろう?  だがその狂気……その原点だけは、決してお前の罪ではない。なのに駄目なのか?」 「お前を冒す、その狂気は……  もう如何な手立てを尽くしても、癒せないものなのか!?」 「……」 「うぅむ」  知らず、叫ぶほどの声になった俺の言葉に。  光は額に拳を当てて、困惑の態だった。 「やはりどうも、認識に〈ずれ〉《・・》があるな。  ……江ノ島でも言ったろう? 景明」 「おれは狂ってなどいない。  変わってもいない。昔も今も、〈在るがまま〉《・・・・・》の湊斗光だ」 「そんな筈があるか……!  お前のしている事が、正気の人間にできる事か!」  吐き捨てるように、そう決め付けた後。  俺は一縷の望みに縋って、口を継いだ。 「……だが……狂い切っているとも思えない。  お前には、まだ……人の心が残っていると……!」 「……」 「この二年間にお前は幾つもの町や村を滅ぼした。  だが……お前が本当に狂い、完全に暴走していたなら、この程度では済んでいない」 「……その筈だ。  今頃は、少なくとも大和全国が滅びていなくては理屈に合わない……!」  そう。  銀星号が全き狂人であり、四六時中破壊と殺戮の夢に耽溺していたならば――そうなっていなくてはおかしいのだ。  銀星号はただ大和の空を飛んで回るだけでいい。  それだけで人々の心は汚染され、全土は地獄に堕す。  それが、そうはなっていないということは、つまり銀星号の暴走は抑制されているという事ではないのか。  まだ……人がましい心の名残りが、あるのではないか。  そうではないのか?  そう思いたい。それがたとえ、今更何の意味も持たないとしても――光の為してきた行為がそれで帳消しになるわけではないのだから。  それでも、光に僅かなりと罪を悔い、償おうという意思があるのならば――  俺は………… 「どうなのだ!?  光!!」 「…………。  おまえは困ったやつだな。景明」  光の応答は嘆息だった。  優しげな――  抱擁めく眼差しと声が、俺に注がれる。    どうしてか、背筋が〈ぶるり〉《・・・》と凍えた。 「親の心子知らず、などと云うが……  伝わらないものだ」 「…………」 「おれが関東を一息に〈崩して〉《・・・》しまわないのは、な。……景明。おまえのためだ」 「な……  …………に?」  俺の――――為? 「景明。良いか。  光は狂っておらぬ。……狂う道理がない」 「あの山賊どもを殺し、それで村正の呪いに縛られ、〈町人〉《まちびと》をも殺してしまい、狂った……おまえはそう言ったがな。  根本に誤解がある」 「光は一度たりと、〈敵を殺したことなどない〉《・・・・・・・・・・・》」 「――何を……!?」 「光は多くの者と戦い、勝利し、殺めてきた。  しかし敵意など一度も抱かなかった」 「何故なら、おれは一個の武人として武の法に従ったに過ぎぬ」 「武の法?」  それは――養母の教え―― 「争い、殺す。  ただそれだけの法だ」 「……!?」 「敵意など要らぬ。憎悪も要らぬ。  偏に武の命ずるまま、全てを斃してきた」 「村正の呪戒は、光には意味のないものなのだ。従って、それに束縛されたことなど一度もない。  納得したか?」  それは、要すれば、  ……呪いに縛られるまでもなく、最初から敵も味方も構わず殺し尽くしてきたということなのか!?  二年前の最初から――  山賊も町の人々も、一切、区別などせずに……!! 「光の道は狂気に非ず。  天下布武の大道である」 「万民が武の法に従い、  各々の武を競い合い、  その練磨相克によって至尊の座へ達するが望み」  …………では――まさか。  その望みの顕現が、あの――汚染された人々の狂乱だと……? 「……何故だ。  どうして……そんな、望みを」 「それが〈光の意味〉《・・・・》であるからだ。  武を貫徹し、〈世界と戦い〉《・・・・・》、これを屈従せしめるが光の存在する意義であるからだ」 「――――」  お前は。  お前は、  本当に、そんな―― 「望みを叶えるには世界すべてを光の意思で染め上げねばならぬ……無論それはその通りであるし、いずれそうするつもりだが。  少しずつ進めないと〈おまえが〉《・・・・》困るだろう?」 「おまえは母上から誤った武を教え込まれているからな。すぐにすぐおれの示す武を受け入れられはすまい。無理に叩き込もうとすれば、おまえこそ狂ってしまいかねん」 「……だから……、  〈ゆっくり〉《・・・・》やっているのだ、と……?」 「うむ。  おれが焦って追い詰めたりせねば、おまえは自ずと正しき武を悟るはずだからな」 「そのための、村正だ」 «…………» 「……?」  それは、どういう意味だ……? 「だがさて、そろそろ頃合だと思うのだがな。  どうだ? 景明……」 「武の天下に〈戦う〉《いきる》準備は整ったか?」  期待に弾む声で、銀星号――かつて湊斗景明の妹であったもの――は、そんな事を尋ねてくる。    ……〈そんな事〉《・・・・》を。  冗談諧謔ではなく。  偽悪趣味でも無論なく。  単なるからかいでさえなく。  純に、本心から。    〈あれ〉《・・》には何の迷いもないのだと、俺は知った。  幾多の殺戮劇を為し、  今もその一舞台の上に座し、  あまつさえ、その全てを、敵対し争った末ではなくただ殺す為に殺したのだと言い放ちながら。  迷いさえも抱かないのだ!  せめて狂気だと信じたかった。  恐るべき呪いが妹をかくも狂わせてしまったのだと。  だが、否定された。  光は全く論理的に、それがもし狂気の原点であったのなら決して正視できぬであろう事柄について、そうではないと解説してのけた。  それさえ狂気の為だと決め付けることはできる。  しかし、もう気付いていた――そうすることは単に、俺の逃避心理に過ぎない。  意味のない逃避だ。  それは、刃を鈍らせるだけだから。  妹を斬るべき刃を。  必要なものは、その逆――  真実と正対すること。 「光。  お前は狂っていない」 「うむ。  やっとわかってくれたな」  満足した様子で、目元を和らげる光。  ……余計な事を思い出しかけた。  昔あった、平穏な日々――いや。そんなものはいい。そんなものは、もう。 「光。  ……銀星号」  何故なのだと、叫びたい。  その声が喉をつきかける。  渾身の力で、胃の腑へ落とし込んだ。  駄目だ。そんな迷いは余計だ。この今となっては、もう意味も無いのだから。  ――刃を研ぎ澄ます為に。  俺は一つの断定をする。  それは承認。      それは断絶。  それは、決別。 「お前は邪悪だ。  俺の敵だ」  俺は妹を捨てた。 「……まだ〈遠い〉《・・》らしいな。  そんなことを口にするところからすると」  魂を半分切り捨てての一言に、銀色の悪魔は苦笑で報いた。  やれやれと指を組み――しかし同時に満更でもなさそうな気配を漂わせている。 「まぁ、それはそれで悪くはない。  こちらへ近付く一歩ではある」 「……こちら?」 「我が武の道に、だ。もちろん。  景明。おれを敵と定め戦いを挑むのならば、当然、必要な覚悟は済ませているのだろうな」 「……」  ……覚悟。 「善悪相殺。我ら村正の絶対戒律。  敵を殺さば味方も殺し、憎んで殺さば愛にても殺す」 「光を敵と〈悪〉《にく》むほどに、友と恃む者はいるか?  あるいは……母上の如き者は……」 「……それは、」 「光の一命とその誰かの一命。  おまえにとって全く等価となる」 「二つ共に斬り捨てる覚悟が、  ――――あるのだな? 景明」 「…………」  それは。  それは。    それ、は、 「そんな覚悟はいらない。  湊斗さんには、あたしがいる」 「一条……」 「……む」  ずっと黙っていた少女が、俺を守るように間へ立つ。  光は眉根を寄せた。対話に割り込まれたことが気に入らないらしい。  だが、他人の言葉を邪険に扱わないのが光の持って生まれた性質である。  ともかくも関心の矛先をそちらへ向けた。 「何者である。  置き捨てに景明と二人きりで話し込んでしまった非礼は詫びるが、初見の挨拶もなく話を妨げるもまた不躾であろう」 「……自己紹介でもしろってか。  必要ねえよ。そんなもん」 「なぜだ?  そういった礼節というものは、人と人とが敬意を抱き合い円滑な関係を築く為にとても大切なのだぞ」 「親しき仲であっても礼儀あるべし。  だから、おれも今日はまず時候の挨拶から入った」  …………あの鬼灯云々は時候の挨拶だったのか。 「だろうが何だろうが、てめぇに名乗る名前なんか〈無〉《ね》え。  理由くらいわかるだろ」 「ふむ。  気難しい年頃なのだな」 「違うっ!  あたしゃ反抗期か! てめぇはお袋か!?」 「名前が寿限無(略)だとか……」 「落語でもねえ!」 「……ヒント」 「誰がなぞなぞやってる!?  あたしはなっ、てめぇみてえのを人間とは思わねえって言ってんだ!」 「ふむ?」 「てめぇはただの悪だろ。ただの鬼だろ。  湊斗さんの妹とも思わねえ……」 「殺して、〈無くして〉《・・・・》やる。  てめぇには、そうするだけでいい」 «然り!» 「…………。  なるほど……」  一秒毎に殺意の密度を高めてゆく濃藍の竜騎。  無色の吹雪にも等しかろうそれを浴びせつけられながら、銀星号は得心した風でうっすらと笑ってみせた。 「つまりは、狂犬か」 「――何ぃ!?」 「いや、嘲ってはおらぬ。  その目暗な闘志は光の忌避せざるところ」 「劒冑も良い拵えだ。  村正、銘を〈鑑〉《み》よ。訊けば済む話だが、あの分では教えて貰えそうにない」 «うむ。  ……相州物の古刀……そしてこれ程の甲鉄» «まず、五郎入道正宗――と鑑た» 「如何に?」 «……フン» 「当たりか。  これは良い……」 「天下一名物正宗!  よもやそんな代物が、景明と共におれの前へ現れようとは――」  そこまでは機嫌良く唄い。  しかし不意に、銀星号は沈思する様子を見せた。  定理に合わぬ解答を導いてしまい、計算式を見直す学生のように。    やがてその眼がこちらを――俺を見る。 「……景明。  そこの狂犬はおれに挑むようだが」 「おまえはどうするつもりだ?」 「…………」 「何だ?  二対一じゃ嫌だから一人ずつ来い、とでも言う気か」 「光は〈一対一〉《さし》を好むが、別に押し付けはせぬ。それはどちらでも良い。  しかし……真逆、とは思うが……」 「……?  なに考えてんのか知らねえが」 「こっちはこっちの勝手で〈やる〉《・・》ぞ。  ……湊斗さん。いいですか」 「……ああ」 「大丈夫です。  あいつを殺すのは、あたしですから」 「…………」 「呪いなんて関係ありません。  死ぬのは、あの悪魔一人きりです」 「…………」 「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 「待て」 「今……  何と言った」 「……」 「狂犬、答えよ」 「繰り返させるほどのことかよ。  こんなの、当たり前だろうが」 「……」 「湊斗さんがてめぇを殺したら、呪いでもう一人殺さなきゃならなくなる。  でもあたしの正宗にそんな厄介な決まり事はない」 「だから戦うのは二人。殺すのはあたし一人。  そうすりゃ、死ぬのはてめぇら邪悪だけ」 「あたしと湊斗さんは、二人で一つの正義の剣ってことだ……!」 「…………。  景明」 「おまえもその〈意図〉《つもり》か」  不似合いな、淡々たる声音で銀色の鉄面が問う。  俺は返答を喉に詰まらせた。  無論……俺も同意だ。  一条が口にしたのはまさに当然の理。  村正で敵を殺せば味方をも斬らねばならず。  正宗で殺すなら敵一人で済む。  それでどうして、前者を選ぼうか?  悩むまでもない選択だ。    なのに言葉は詰まり、声にならない。 「……どうなのだ?  おまえもそう期して、その狂犬――正宗を連れていたのか」 «……» 「……」 «……» 「……湊斗さん?」 「あ……  ああ」 「そうだ……」 「……………………」  ……音もなく、温い風が吹いている。 「…………」  胸がざわついた。  それは例えて言うなら平穏な航海のなか。  順風満帆、波は穏やか、空は晴天、憂うべき何物もなく、平安は今ここにあり、しかもいつまでともなく続くことが約束されている――  なのに心臓は早鐘を打ち鳴らし、    海底から鯨が襲来するのを警告しようと躍起なのだ。 「もう言ったぞ。  こっちの勝手で、やるってな」 「正宗」 «応よ!» 「死ね――銀星号!!」 「――――」 「てめぇが殺した人間は数え切れない。  てめぇ一人を斬ったって帳尻は合わない」 「てめぇを裁く正義は遅過ぎたんだ。  今更、補いのつけようもねえ……」 「それでも、これ以上は好き放題にやらせてたまるかよっ!!  あたしと正宗が、ここで、てめぇを止めてやる――!」  ……俺は、気を失ったらしい。  おそらく……一瞬か二瞬のことだったと思う。  その間に世界は変容していた。  まず、俺の全身は萎えている。  まるで力が入らない――地面に落ちた膝は全く持ち上がらない。  一条の姿は何処にも見当たらなかった。  俺の意思に反応した村正が〈探査機能〉《みみ》を働かせる…… いた。東北東に約四キロの地点。  〈四キロ〉《・・・》。  つまりはそれだけの距離を吹き飛ばされたらしい。  ……探査機能がそう伝えている。  不思議なことだった。信号を発信、物体に衝突して戻ってくるそれを受信することで状況掌握を行う通常探査は、地上では物が多過ぎるためまず機能しない。  それが機能する。  実は、不思議でも何でもなかった。地上であっても、それが〈大平原〉《・・・》のど真ん中であれば信号探査は支障なく機能するのだ。それだけの事だ。 「…………」  変わり果てた世界の中で、銀星号だけが不変で〈居〉《い》た。  激変の一瞬、あれが何をしていたにしろ、今はその名残もない。拳を突いたのか蹴りを放ったのか太刀を薙ぎ払ったのか。何も痕跡が無くてはわからない。  あるいは何もしていないのかもしれない。だから何の動きも無いという、当たり前の話なのかもしれない。  あれは、ただ、単に――〈怒っただけ〉《・・・・・》であったのかもしれない。 「……………………」  そうして、変動と不動の世界の只中。  銀星号は今、俺を見据えている。  その瞳は〈嘗〉《かつ》てないほどに冷たい。  それでいて嘗てない灼熱もが〈滾〉《たぎ》る。  沸点の嚇怒と零度の失望。  熱く渦巻き冷たく凍る負の感情。    白銀の魔神は、〈がっかり〉《・・・・》していた。 「下らぬ。  下らぬ。  下らぬ」 「事もあろうに、そんな欺瞞へ逃避するとは……裏目に出るにも程がある。  母の教え――あの戯言さえ、ここまで愚かしくはなかった!」 「あれはあれで通す筋はあった。だが景明、今のおまえの道はそれすらも欠く。  ただの欺瞞だ! 薄っぺらな甘い妄想だけで出来ている!」 「まさか、おまえが……そんなものになってしまうとは!!」  怒りに満ちた言葉は刃となって、俺の胸を抉った。深く。血の味を錯覚するほどに深く痛く。  理由はわからない……何故そんなにも〈堪〉《こた》えるのか。聴かされているのは殺戮魔の自儘な放言に過ぎない。  一条と俺の協力が、無用の犠牲者を失くする――罪なき者の命を欲する村正の呪詛に超克する。  死すのは、誰よりも真摯に人としての正しさを求め誰よりも厳正で在るあの少女が〝悪〟と断じた者のみ。  それがどうして間違いか。  嘲罵されねばならぬ道理がどこにあろう?  ……………………だが。    きっとその〈道理〉《・・》の実在を脳外の何処かで既に悟っているからこそ、俺はこうも無様に動揺している……。 「景明……おまえは何を勘違いしたのだ。  あの小娘と組めば正義だと? どんな理屈でそうなる。一人しか殺さなくて済むからか」 「二人殺すのは悪業だが、一人で済むのなら正義だとでも言うのか?」 「ち……違う……」  強張る顎を半ば無理矢理に動かし、反駁を〈搾〉《しぼ》り出す。  削り屑のような声が出た。 「数の問題ではない。  何の罪もない人を、殺さずにいられる……一条と一緒に戦うなら。だからそうするのだ。当然の理だ」 「ふん。  罪ある人間ならば、殺しても――いや違うか。表現は正確を期そう……」 「罪ある人間ならば、  〈殺させても〉《・・・・・》構わないと。そういうことか」 「……」 「許されざる罪は有る。  死すべき罪人は確かにいる」 「その中には、強大な力を持つが故に、司法にも裁かれぬ者がいる……六波羅や、銀星号、お前のようにだ。  一条はかかる巨悪の処断を己が使命とした」 「それが間違った事だとは……思わない」 「なるほど、そうか」  銀星号は露骨に、侮蔑を〈嗤〉《わら》った。 「確かにそれは〈正しい〉《・・・》行いかもしれないな。  しかしだからといって、それを為した者が正義を名乗れる道理があるか?」 「何……?」 「そんな道理は無かろうよ。  それとも、何か――」 「〈正しい殺人なら罪は無い〉《・・・・・・・・・・・》、とでも?」 「――――――――」  俺は言葉を失った。 「馬鹿なことを言うな。  殺人は殺人。何の違いもない」 「いずれ同等同質の武の発現である。  武力を競い、勝利し、殺した……ただそれだけで、他に解説など要らぬ事象だよ」 「罪の有無?  おれには関心のないことだが、罪とやらを問うなら正当な殺人であろうと不当な殺人であろうと変わるまい」 「生命を破壊し終わりにするという意味では、どちらもまったく同じことなのだからな」  〈滔々〉《とうとう》たる語りには、嘴を入れる隙が無い。  妨げることができない。何故ならわかっていたからだ――銀星号の言は真理を突いていると。  それでも認めるわけにはいかなかった。  認めるということは、つまり……これまで正しいと信じていたことを誤りと認めることであり……それは――あの少女を―――― 「だとしても……  そうであっても」 「死すべき者だけが死ぬならば……  村正は死すべきではない者も殺してしまう。それを避けられるなら――意味が、」  ある、と続けるつもりだった。  それが叶わなかったのは対手の言葉に掻き消されたからか。……それとも自分の言葉を自分で信じていなかったから、か。 「何を言っている。  死すべきは弱き者。生きるべきは強き者だ」 「死すべきではないのに死す者などいない。  おまえの刃に屈したなら、それは武の競いに敗れたという事」 「その者が善であれ悪であれ、死ぬのは理であり、何らの理不尽もない」 「違う……!  死すべきは死をもってしか裁けぬ悪だけだ」 「……そして村正がその悪を裁けば、罪なき者をも共に殺してしまう。  善悪相殺の戒によって……」 「俺はそれが、許せない……」 「景明。  景明」  ……白銀色の武者は失笑している。  もはや怒るのにも疲れたと言いたげに。 「今のおまえはまるで子供だ。  そうか――嗚呼そうか。おまえはとうとう理解できなかったのか」 「〈善悪相殺〉《・・・・》。  村正が課すその四文字の意味を、あくまで誤解したか……」 「……誤解……?」 «…………»  それは――ただの凶呪…… 「呪いなどではない。  善悪相殺は、〈単なる真実〉《・・・・・》だ」 「武というものの、本質だ……。  村正はそれを白日の下に晒したに過ぎぬ」 「……どういう……意味だ」 「今のおまえには、言ってもわかるまい」  酷く突き放した物言い。  銀星号は穿つように天を見上げ、そうしてもう一度、俺に眼光を叩きつけた。 「だがこれだけは教えておこう。  今、〈おまえがしていること〉《・・・・・・・・・・》は何か」 「あの娘と二人合わせて正義?  違うな……」 「戦い、殺しているだけだ。  それは以前と何も変わらない。――決定的に違うのは、」 「違うのは、」  ………………ああ。    わかっている。本当は知っている。  其処だけは全く、言い訳の利かない一点。  そうすれば善き人を殺さずに済むのだからと、思考を停止させて、決して直視せぬよう努めてきた一重事。  湊斗景明の最大の汚点。 「〈殺すのがおまえではない〉《・・・・・・・・・・・》ということだ。  〈おまえの代わりに〉《・・・・・・・・》あの狂犬が殺しているということだ……」 「おまえは殺人を罪だと考えながら、その罪を、正義などという御託のもと、あの小娘に押し付けたのだ!」 「恥を知らぬか、景明!!」 「……あ……」  ――そう。  まさしくその通り。  今の俺は、殺人という罪業を、綾弥一条に押し付けている。  そしてその事に、心の何処かで、卑小な安堵を味わっている……。  救いようもなく、恥知らずな所業。 「今のおまえは下らぬ。  醜い。武の正道からあまりに遠い」 「武に怯え、武を手放した。  あまつさえ他人の武に甘え、勝利を恵んで貰おうとした」 「これでは駄目だ。  どうにもならぬ!」 「失敗だ!  おまえへの教導は失敗した!」 「……銀星号!」 「どうやら甘やかし過ぎたらしい。  おまえを思いやって布武を急がなかったのが裏目に出た」 「まさかこんなことになろうとはな。  ……もはや猶予はせぬ」 「見ておれ、景明!  これより光は満天下に武を布く」 「あらゆる虚飾を捨て去った世界に佇み、  今度こそ真理を悟るが良い!!」  まさしく白銀の流星となって、魔王騎は夕闇を駆け去ってゆく。  俺は追うことができなかった。  立ち上がることも。手を伸ばすことさえ。  砕かれた〈魂〉《こころ》は、糸一筋ほどの活力も四肢へ送らない。  俺はただ銀影を見送った。      そして、世界は崩壊を開始した。 「や、おはようございます」 「おはよう。いい天気ですなあ」 「ええ、本当に――」 「――――」 「――――」 「こら、静かにしなさい!  授業中ですよ!」 「なー、今日はどこで遊ぶ?」 「田島んちでいいじゃん」 「せんせー、トイレいきたいです」 「また田島んち?  ここんとこずっとだぜ?」 「あ、やべっ。教科書忘れた」 「でもあいつんち金持ちだしさ。  おやつ出るじゃん」 「だけどさー」 「せんせー、トイレー」 「ああ、もう……!」 「――――」 「――――」 「――――」 「みかん、みかん……」 「こら、一人でいくつも食べないの。  お父さんのぶんがなくなるでしょ」 「うー」 「はは、いいっていいって。  お父さんもういらないから」 「またそうやって甘やかす。  あなたもたまには厳しく言ってください」 「いや、でもなぁ」 「おかーさんすぐおこるー。  おとーさんおこらないー」 「ほら、こんなこと言われてる」 「ははは、お母さんはすぐ怒るか」 「うん」 「あなたっ!」 「でもお母さんを嫌いになっちゃだめだぞ。  お母さんはな、おまえのことが大切だから怒ってるんだ――」 「――――」 「――――」 「――――」 「畜生……!」  これで幾つめになるのか。  人の営み――の、残骸と成り果てた町を見渡して。一条は地面を蹴った。  この情景を見る度に全く同じ動作、同じ言葉を繰り返している。感情表現法の多様性を追求する心境にはない様子だった。  俺とて同じだが。破壊の痕跡を黙して見るだけだ。  関東は滅びようとしている。  銀星号の宣言に嘘はなかった。  町という町が滅ぼされてゆく。  人という人が死に絶えてゆく。  まだ一昼夜しか経っていない。  銀星号が去った後すぐ一条と合流し、大した怪我も無かったのを幸いに追跡を開始してまだ一日足らず。  関東地方東南部において死者の数が生者を上回るには、それだけの時間で事足りた。  ――これが本来の、手加減ない、銀星号という災厄が有する破壊力。  大和全土が呑み込まれるのは幾日後であろう。  世界の果てまでも呑み尽くされるのはその幾日後であろう。  とても計算する気にはなれなかったのでわからない。  だが、その未来が実現することだけは確実だ。  あれを止められる者が誰もいなければ。 「六波羅は何やってんだ。  進駐軍は……」 「まだ状況把握の最中だろう。  それに、把握したとしても……」 「どちらも矢面には立ちたがるまい。  六波羅と進駐軍は互いに仮想敵だ。銀星号と戦っている隙に背後から襲われる可能性をまず恐れる」 「こんな状況で……」 「むしろこの混乱を機会とし、どちらも互いから片付けようとするかもしれん」 「っ……!」  この場にはいない何者かを絞め殺すように、一条が両手を握った。 「あてにならねえ連中だ。  あてにする気もなかったけど」 「やっぱり、あたし達がやらなきゃ。  湊斗さん」 「……」 «ふん、無論だ。  あのような世に仇為す魔物、正宗が斬らねば誰が斬る» «昨日は不意を打たれて不覚を取ったが……。  二度と醜態は晒さぬぞ。であろう、御堂?» 「当たり前だ!  今度は絶対、ぶった斬ってやる……!」 「…………」  一条の意気は全く萎えていない。  邪悪を憎む心も、正義を貫徹する魂も。  この少女を助け、共に戦い、銀星号を討つ――    ならば、村正の呪いが鎌首を〈擡〉《もた》げることはない。  かつて妹であった〈銀星号〉《てき》、一人を殺すだけで済む。    ……俺ではなく、一条の手を汚して。  味方は殺さなくて済む。  善しと思う人の生命を奪わずに済む。  それは、      本当に、  …………正しいことなのか――――――――?  村正の感覚のみが頼りの追跡行は容易とは言い難い。  加えて標的はこちらよりも機動力で優る。  熱量が底を突くまでの騎航と短い休憩とを繰り返しながら追い続けてはいるが、未だ捕捉できていない。  それでも、次第次第に近付いているという手応えはあった。 «……もうそろそろだと思う» 「そうか」  屋根の上から金打声を送ってくる劒冑に諒解の意を返す。声は低く留めておいた。  傍らで一条が穏やかな寝息を立てている。正宗は見当たらないが、付近にいるだろう。  ここは無人の山寺だった。先刻偶々見つけ、本堂の裏の小屋が休憩に誂え向きだったので拝借したのだ。  人の手が入らなくなって久しいらしい。雨が降れば漏るだろう。それでも野宿よりは上等だ。  いや――休むに良い場所なら、その辺の〈廃村〉《・・》に幾らでもあるとわかってはいたが。  誰もそうしようとは望まなかった。〈噎〉《む》せ返るほどの血臭を嗅ぎながら休憩を行うのは心理的に難しい。  健在な町村はまたそれで、上空から眺めてもわかるほどの混乱を呈しており、着陸すら不可能だった。  こんな山寺でも無ければ、天井を眺めて休む機会は得られなかったろう。  折角の機会、俺も一条に〈倣〉《なら》い少しでも仮眠をとっておくべきであった。ましてこれが最後の休息なら。    しかし俺には、する事があった。  決断をせねばならなかった。  ――おまえは殺人を罪だと考えながら、  その罪を、正義などという御託のもと、あの小娘に押し付けたのだ。 「…………」  己を許すことは不可能だった。  遊佐童心はそもそも殺すつもりがなかった。あの件に関して悔いるなら、まず一条を御し損ねた不覚をだ。  小弓十傑なる輩の掃討は――俺と一条のどちらかがやるべきであった事を一条がやっただけだとも云える。  しかし銀星号を一条に討たせようとした事に関しては全く弁明の仕様もない。  間違いなく湊斗景明の責務であるそれを、俺は厭い、人手に委ねようと図ったのだ。  意識はせずともそういう心理があったことを、俺は知っている。自分で自分に嘘はつけない。  魂に懸けて恥じねばならぬ振舞いであった。この点に限り、銀星号の罵倒は完全に正しい。  己の手で、為さねばならぬのだ。  銀星号を殺すという罪業は。  他の誰に任せて良いものでもない。    ……だが。それはもう一つの殺人をも意味する。  村正の呪戒を背負う俺が敵を殺せば、味方の死骸も一つ転がる。  何の罪もなく、誰かが死ぬ。  既に何度もしてきたことだ。  しかし、〈嘗〉《かつ》てはそうするより他に手立てが無かった。今は違う。一条が、正宗がいる。  一条に殺害を委ねれば、殺すのは一人で済む。    他人の手を借りて殺人行為を為すという途方もない卑劣さを受容するのなら。  ……思考が堂々巡る。  つまりは、俺が恥を忍べば良いのか。  そう思える。  そうでないとも思える。  卑劣である、誤りであると考えるならそれを正すのが当然であるからだ。  その誤りを正すなら、    善悪相殺。 「…………」  不意に、養母の教えを思い出した。  ――殺してはならない。  そう。それなのだ。  俺の思索が袋小路に陥るのは当たり前の事。  敵を殺すという絶対的な誤りを前提としているから、どこをどう進んでも正しい出口へ行き着けないのだ。  殺さねば良いのだ。養母の言葉に従って。  ……それができればそうしている。  今や魔王そのものであるあの銀星号を、殺さぬよう手加減して制圧する――そんな真似は、果たしてどれ程の戦闘能力を条件として成功し得るのか。  あるいは――不屈の熱意をもって説得を試みるか。    一秒毎に群集を殺戮するその後を追いながら。  馬鹿げた話である。  どちらも。 「…………」  そして思考はやがて一方向へ傾斜する。  善悪相殺――その呪いだけは回避する方向へ。  俺にとってはそれが、何よりも重い。  それさえ逃れられるなら……と、思う。  ――呪いなどではない。  善悪相殺は、単なる真実だ。  銀星号の言葉を想起する。  その真意はわからない。  気には、掛かる。  だがわからない……。  いつしか俺は俯いて自分の指を見詰めていた。  陰鬱に延々と思い悩むにはまったく相応の姿だ。  一度頭を振ってから、堂内の片隅へ転がしておいたラジオ受信機を引き寄せる。  通過した廃村で拾ってきたものだ。  少しでも情況を知るためだったが、今はそれよりも気分を転換したかった。  スイッチを入れ、適当に周波数を合わせてみる。  ……場所を思えば至極当然なのだが、〈雑音〉《ノイズ》が酷い。  それでもいくつか、聞き取れる放送はあった。  GHQの放送局。  ――現在の緊急事態に対して軍を出動、関東一帯の治安回復を行うと布告している。  六波羅の軍放送。  ――GHQの布告を主権侵害と見做し、この駆逐も含めて現状事態への対処を行う旨を通達している。  民放。  ――建朝寺が幕府軍に襲撃され、炎上したと伝えている。舞殿宮の消息は不明。 「……………………」  何の気晴らしにもならなかった。  迷妄の種が畑に撒いて水をやった穀物のように増殖しただけだった。  関東は混沌の坩堝。  〈殺戮天象〉《シルヴァー》は拡大の一途。  俺は避け得ぬ対決を目前に控えながら、方途に迷い思い〈煩〉《わずら》う。  ただ無為に、最後の余暇を使い潰す。  ……いつの間にか、眠っていたようだ。    覚醒に差し掛かる意識の中でそう自覚する。  長い時間ではなかったと思うが……わからない。  迂闊にも熟睡し、既に半日経っている、などということはあるまいか。  不安に駆られつつ、俺は目蓋を押し上げた。  …………………………………………………………。  ここは…………  ? ――――? 「……ん?  湊斗くん、どうした」 「……部長!?」  貴方は、二年前―― 「あ、先輩ヒドイ。  いくら起き抜けにはきっつい顔だからってそんな露骨に驚いちゃ可哀想です」 「――」 「……酷いのはお前だ。  単に寝惚けただけだろ、彼は」  寝惚けた?  ……夢を見ていた?  い――いや。  夢というなら、こちらが夢の筈。  これは夢で、  現実は〈あちら〉《・・・》だ。 「…………」  あちら?  あちら――あちら――――  あちら?  ………………………………何の事だ? 「…………。  どうも相当疲れてるみたいだなぁ」 「あ――いえ。  申し訳ありません」 「本当に、寝惚けていたようです……」  ようやくの事、意識と〈現実〉《・・》とが繋がる。  ここは会社だ――俺の勤めている小さな会社。  窓の外はまだ明るい。堂々たる勤務時間中だ。  にも拘わらず俺は寝こけていたらしい。それも随分と深く。  最後にこの光景を見たのが――つまり眠りに落ちた時ということになるが――もう何年も前の事のような、そんな不条理な感覚がある。 「まぁ、仕方ないさ。家の方、色々大変なんだろ?  今日はあまり仕事もないし、もう上がってくれていいぞ」 「いや、しかし」 「暇な時に無理されて、忙しい時に倒れられるとこっちが困る」 「…………」 「先輩、サラリーマンは身体が資本。  体調管理も仕事の内です」 「……そうだな」 「だからわたしの昼寝も仕事の内なのですよ。  フフフいま明かされる衝撃の真実」 「……こんな社員がいても回るんだよ、うちの会社。  だから気にするな」 「はい……」  家路を辿る。  いつもより、少し早い時刻。 「…………」  歩き慣れた道。  住み慣れた町。  静かで穏やかな故郷。  でも――そう。  今は少しばかり問題がある。  軍崩れの山賊団が現れて―――― 「……………………」  郊外の屋敷。  俺の暮らす家。  生家ではない。  けれど、ここには家族がいる。  今は布団から起きられない妹。  そして養母。  俺の、掛け替えのない家族。 「おや?  今日は早いね」 「――――」 「お帰り、景明」 「……はい。  只今帰りました」 「統様」  平穏な日々がここにあった。  それはこれからも続いていく。  きっと続いていく―― 「…………」  ――そう思うのに。  どうしてか、俺はその思いが裏切られるのだと、  既に知っていた。  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  刹那、意識の〈飛躍〉《・・》を感じた。  時間軸が錯乱する。  ここは現在か。それとも過去か。未来か。  いや――――落ち着け!  現実を見ろ!  目の前で繰り広げられている現実を見るのだ!  ぽかんとした様子で地面に座り込んでいる養母。  その傍らで――太刀を振りかざしている竜騎兵。  山賊だ!  山賊の武者が、今、養母を殺害しかけているッ!! 「――――」  助け――助けねば。  ……どうやって!?  武者を止められる力は武者だけだ。  俺は……ただの生身の人間。  止められない――  止められないのか!?  養母が殺されるのを見ているしかないというのか!?  いや…………  力はある!  〈ある筈だ〉《・・・・》!  俺は知っている。  この時、この場に、養母を救う力は存在している。  俺が手を伸ばせば、届くところに――――  ……あった!  そう、これだ!  途方もない力のうねり。  指先が触れた金属から伝わってくる、武威の胎動。  劒冑!  あの竜騎兵と拮抗、いや遥かに凌ぐ力。  これを使えば! 「――――」  ……しかし。  どうしてか、俺は知っているのだ。  これが途轍もなく恐ろしい代物である事を。  そう――この劒冑の呼び掛けに応えたが最後。  湊斗景明の人生は、地獄へ向かう―――― «何をもたもたしている!  我が〈御堂〉《あるじ》よ!» 「……え?」 «誓言を発し、この正宗を纏え!  母の危機であろう!» 「あ……あぁ」  ……正宗?  それが……俺を待っていた劒冑の〈銘〉《な》?  ――そう――だった、か? «急ぐのだ御堂!  誓言を!» 「誓言……」  そうだ。  とにかく……急がねば。  養母を救わねば。 「鬼に逢うては……鬼を斬る……」 「仏に逢うては……仏を……」  ――それは、  善悪相殺の〈呪戒〉《ノロイ》。 「!!」  駄目だ!  この誓約を結んでは、決して―― «ええい、何を血迷っておる!  そんな妄言を誰が教えた!» 「……何?」 «正宗は正義を貫徹する力!  斬るべきは鬼、断つべきは悪!» «滅ぼすべきは邪悪のみ!  それを誓うのだ!»  邪悪……だけ?  …………それで良いのか? «早う!» 「……世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの〈理〉《ことわり》ここに在り……?」 «疑問符は余計だが諒承した!  これより正宗は湊斗景明の刃たらん!» «さぁ、共に悪鬼を討とうぞ!»  俺は装甲を遂げた。  何という――力か。  地上のあらゆる野獣に後塵を拝さしめるであろう、超越的暴力がここに存在する。  しかも――清々しく爽快な力!  これは悪を憎む力だ。  〈強力〉《ごうりき》を振るって力弱き人々を苦しめる、そんな自惚れた奴輩を、更に上回る暴威でもって叩き潰してやるための力なのだ。  まさに正義!  その体現! «如何にも!  ゆけ、御堂!!» 「応!」  悪は今そこにいる。  養母を殺そうとしている山賊の武者!  彼はこちらを見て泡を食っている様子だった。  馬鹿め! 自分だけが力の所有者だと思っていたのだろう!  自分だけが好き放題に暴力で人を害せるのだと信じ込んでいたのだろう!  その傲慢にいま報いをやる。  悪の暴力は必ず正義の鉄槌の前に散るのだ! «DAAAIIAAAAAAAAHHHH!!»  敵は養母に向かって太刀を振り下ろしている。  だが、それが届く前に、  俺が奴を斬り伏せる――――    その――――刹那。  養母が俺を見たのに気付いた。 「――――――――」  斬った――――  斬った!  悪を、斬った!  養母を救った!  正義が勝利した……! «そう、それで良いのだ御堂。  それが正しいのだ» «邪悪を断ち切ること――  それは間違いなく、正義なのだから!» 「……ああ。そうだ。  それだけは真実だ」 「だから――  これで、いい」  俺は全てを理解した。  ……これが夢である事も、既に悟っている。  だが、虚しいとは思わない。  この夢は間もなく醒める。  目覚めてから、何をするべきなのか――    今の俺は、それを知っているのだから。  もう迷いはない。  さぁ、行かねば。  この光の向こうへ。  そこでは、共に戦うべき少女が、  俺と力を合わせ、二人で一つの正義の剣となるべき者が――  綾弥一条が、俺の目覚めを待っている。  養母――  養母は、何を言おうと――       殺しちゃいけないよ。       一人も、殺しちゃあ駄目だ。 「――っ」  そう。  そうだ……  不殺の禁戒。  養母の尊い教え。  ……だが。  この状況!  殺さずに、確実に、養母を救えるのか!?  どうやって!?  ……俺の、峰打ちを受けた竜騎兵は、  意にも介さず、養母を殺す一撃を完遂した。  敵を狙って繰り出した剣撃の軌道を変え、敵の太刀を防ぎ止める――    そこまでの、卓越した剣腕が果たして俺に有るか!?  無かった。 「やめるんだ!」  敵は、やめなかった。  ……斬り殺すしかない!  養母を救うにはそれしかない。  生半可な攻撃は甲鉄で護られた竜騎兵に対して痛痒すら与えられないだろう。  説得する? 論外だ。養母が斬られるまで一時間もあるというなら別だが。  一撃で殺傷する以外に、阻止する方法は無い。 「――――」  決意する。  敵を、殺す。その決断を下す。  養母の教えは―― 『もしもおまえが死んだら、わたしはおまえを死なせた奴を全員殺す。  一人も許さない。絶対に』 『…………おまえが誰かを殺したらさ。  その人の身内が、同じように誓うかもしれないんだよ』  養母は正しい。  その言葉は完全な真実だ。  養母を救うためであろうと何であろうと、俺がいまここでこの敵を殺せば、  きっと何処かで誰かが俺を憎悪する。  許せぬ悪と、俺を憎む。 「……ッッ」  奥歯を噛む。  強く。強く。強く。  いま人命を奪おうとする両腕を、決して止めずに。  何故なら。  ――それでも戦わねばならぬ理由があるから。  理由は、つまり、俺一人の正義。  俺一人の正義を貫いて、敵を悪と決め付けて、殺す。  何処かで誰かが俺を憎む。  その誰かにとって、俺が殺した敵は正義だった――だから俺は悪なのだ。  正義を為して悪と成る。  殺すものは悪であり正義であるから。              善悪            相殺  …………そう。  それが、人を殺すという〈行為〉《こと》。  その真理を心の中心へ据え置いて、  正面から見つめて、  俺は、一個の人間を殺す。  斬った。  殺した。  名も知らぬ山賊の武者を――    ……いや。違った。  殺してみれば、山賊ではなかった。  武者でもなかった。  ……誰だったろう。  〈ここ〉《・・》では、俺はその名を思い出せない。  だが、思い出せずとも〈識〉《し》っている。  彼はどういう人間であったのか。どうして俺に殺されることになったのか。  彼の側には誰がいたか。 「……お父さん!!」  亡骸にすがって、少女が絶叫している。  ああ――彼の娘だ。  名はやはり、脳裏に浮かばない。  だが知っている――彼女が父を慕っていたこと。  泣き腫らした瞳を、少女は俺へ向けた。  そこには新鮮な憎悪が宿っている。  何故殺した、と少女は言った。  俺は理由を答えた。  だからって、と少女は叫んだ。  そうだろう。それは俺一人しか納得させない理由。俺だけの正義だ。  少女は語った。  死んだ男が、彼女にとってどういう人間であったか。どれほど善い人間であったか。どれほど自分を愛してくれたか。  俺の知らなかった、男の正義を語った。  俺が今、命もろとも叩き斬った正義を。  それは確かに一つの正義だった。  その正義に対して、俺こそは邪悪だった。 「許さない!」  少女が宣告する。  俺の邪悪を。  俺の邪悪への不断の憎悪を。 「許さない、許さない、許さない――!!」  少女は正しかった。  その憎悪は全く正当だった。  俺は許されない。  俺は殺したのだから。  正義のため――己の意思を貫くため。  他人の正義を、意思を、命ごと踏み潰したのだから。  そうだ。  そう、なのだ。  それは決して許されざる、悪鬼の所業なのだ。  天頂から一騎が来襲する。  俺のことを、嫌々ながらに殺人する下らぬ男、英雄にも悪鬼にもなれない半端者だと〈詰〉《なじ》っている。  英雄は胸を張って殺す。  悪鬼は笑って殺す。  どちらもできない湊斗景明は普通の人間でいられた、いるべきだったのだと言っている。  ――それは違う。  喜ぼうが悲しもうが関係ない。  己のために人を殺す者は、即ち悪鬼だ。  いや。  理想のためであろうと関わりはない。  英雄と呼ばれる殺戮者もまた悪鬼だ。  人を殺す者は皆、悪鬼だ。 「……そうだよ。  あの時、てめェはそう言ったんだ」  病的なまでに貧相な男が、俺を嘲笑う。    ……そう。  俺は確かに一度、この答えへ行き着いていたのだ。  どうして――――  それを忘れていたのか。  殺人の意味を誤解してしまったのか。  銀星号曰くの、正しい殺人と誤った殺人があるかのように考えていたのか。  つまりは、普遍的な正義と邪悪の存在を無意識下に信じてしまったのか。  …………悪。  それは、わかる。  それが何故、俺の中へ確固と現れたのかはわかっている。  ――――――――――――――――――。    そう。これだ。  この大罪。  湊斗景明の、永劫の罪。  母殺し。  そしてその写しのような、幾度もの殺人。  その人を善いと、正しいと思いながら、殺し続けた。  この悪罪は明晰で、揺るがしようもない。    だから――正義も、この正対として現れたのだ。 『湊斗景明。  あたしはあんたを許さない』 『殺してやる』 『殺してやるッッッ!!』  不動の罪に対する告発。  そして処刑の宣告。  無慈悲にして正当な裁判。  あの時――――    俺の中で綾弥一条は完璧な正義となったのだと、今にしてわかる。  何故なら弁明の余地もない。  情状酌量を〈希〉《こいねが》う隙も皆無だ。  判決文は一言一句の誤りもないものだった。  正義。  俺の悪を断罪する、完璧な正義。  ……今、思い直してみても。  俺の抱いた認識は、そのままに残る。  湊斗景明の養母殺しは完全に悪業だ。  その悪業を許さぬという意思は完全に正義だ。  だが、俺は一つ心得違いをした。  悪も正義も〈それだけ〉《・・・・》だと思い込んだ。  それ以外の正義と悪の可能性を失念した。    例えば……罪人を告発し裁き処刑する、検事/判事/処刑人は――  〈正義の執行者は〉《・・・・・・・》、〈罪と悪を負わないのか〉《・・・・・・・・・・》、という事を。 「あ――」 「あああああ」  俺の迷いが。  躊躇いが。  養母を死なせた。  俺は助けられたのに!  助ける力があったのに!  ただ無意味に力を持ったまま、  養母の、罪もなき死を看過した。  意識が沈む。  絶望の底へ。  …………ああ。  でも、良かった。  今にして気付いた。  これは夢だ。  もう目覚める。  本当の〈現実〉《せかい》へ戻れる。 「…………」  ――もっとも。  その現実でも、俺はやがて絶望へ沈むのだろう。  この夢と同じように。  俺は迷いを抱え、抱えたまま、何もできずに佇むのだろうから。  ……荒れた小屋。  戻ってきたようだ。現実に。  〈現実〉《・・》。  そう。ここが現実で、今までが夢。  …………この山寺の、仏の導きか?    そんなことを思って、すぐ失笑する。  〈真逆〉《まさか》、だった。  夢に示された道は、仏道から遠くかけ離れている。 «……御堂? 起きたの?» 「ああ。  どれくらい眠っていた?」 «ほんの数分だけれど。  多少は疲れが取れた……って事もなさそうね» 「だろうな」  気分は、全く爽快ではない。  晴れやかさとはどこまでも縁遠い。  むしろ手足は重さを増している。  それは今の夢が改めて直面させた、俺の罪の重さだ。  その重さを、しかし――厭わない。  これは俺の背負うべきものなのだと自覚する。  この重さが、俺に教える。  これは湊斗景明が意思を貫徹する為に、重ねてきた罪なのだと。  意思。  他人の命を略奪してでも、果たさねばならぬのだと、決意した目的があった。  それはまだ、遂げていない。  遂げねばならぬ。  一度、人の命を靴底に潰して行く道程へ踏み出した以上は、断じて最後までゆかねばならぬ。  他人の生命を踏みしめてゆく道は、決して引き返せない道。  殺した者を生き返らせてやれないのなら、決して。 「村正。  行くぞ」 «え?  ……まだ寝てるけど、その娘» 「いい」 «御堂……?» 「一条は置いてゆく」  道は既に、分かたれた。    そう理解する。  俺に俺の引き返せぬ道があるように。  一条にも一条の、引き返せぬ道がある。  これからの〈村正〉《おれ》を、一条は決して受け入れられないだろう。  俺が最早、〈正宗〉《いちじょう》を受け入れられないのと同じように。  俺の迷妄が一時、両者の道を〈縒〉《よ》り合わせた。  しかしそれも、今は無い。  道は分かたれている。  俺と一条は、異なる道を行く。 «……それでいいの?» 「…………」 «〈村正〉《わたしたち》が銀星号を殺せば……  御堂、貴方はその後で» 「俺が善いと思う者。  尊いと、思う者」 「綾弥一条をも殺すことになる」 «……ええ» 「恐ろしいな。  〈鈍〉《おぞ》ましいな」 «…………» 「だが。  人を殺すという事は、〈常に〉《・・》こういう事なのだな」  力をこめて、吐き捨てる。 「〈村正〉《おまえ》だけが特別なのではない。  村正は真実を拡張しているに過ぎない。己の使い手をその醜悪さから逃避させない為に」 «――――» 「悪を殺さば、返す刃で善をも断つ。  善悪相殺」 「それは遍く武器、全ての刃が背負う呪いだ。  何故なら一つの命は善と悪を共に宿す」 「誰かの敵は誰かの味方。  誰かの悪は誰かの善。  刃が生命を奪うとき、必ず善と悪は諸共に断たれている」 「例外は無い。  悪だけを斬る武器、悪だけを殺す殺人など無い」  だから、きっと。    ――この世のあらゆる武器が呪われし〈村正〉《ムラマサ》なのだ。 «御堂» 「憎む敵と共に、傍らの友をも殺す……。  それを厭うのなら、そもそも敵を殺してはならない。そうするに足る覚悟が無いという事だから」 「〈村正以外〉《ほか》の武器に持ち替えて殺すなど論外。  〈敵は殺すが味方は失わないなど卑怯なのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。味方を死なせたくないと思うなら、敵も殺すべきではないのだ」 「敵の死も味方の死も等価値。  差をつけてはならない。つけられない……それは利己的な視野狭窄でしかない」 「敵は悪にして善なのだから。  敵の悪だけ、罪だけを見て殺す事は、殺人を為しながらその醜悪さを覆い隠す、卑劣な欺瞞に他ならない」 「この一刀をもって、善と悪を諸共に断つ。  その覚悟をせねばならないのだ。誰が誰を殺すときも――――」  善悪両断。  闘争の真実。  武というものの本質。  分け隔てなく、ただ、〈殺すばかりのちから〉《・・・・・・・・・》。  そう見極めた。    だから――――一条。  俺は二度と、戦い殺す者の正義を信じない。  お前と一緒には、行けないのだ。  俺はお前を、  裏切ることにする。 「行くぞ、村正。  銀星号を討つ」 «……» 「正義でも何でもない。  単なる醜悪な殺人だ」 「それでも……やると決めた。  あれを止めると決めた」 「村正」 «……はい» 「お前の全ての力を俺にくれ」 «捧げます。全ての力を。  私の、〈御堂〉《あるじ》» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの〈理〉《ことわり》――ここに在り!!」  俗説に曰く……  千子村正と五郎正宗は同じ師のもとで業を学んだ。  共に天性の才を示したが、性質は全く逆であった。  あるとき師は二人に刀を打たせ、それを川へ立てた。  村正の刀は漂ってきた木の葉を斬り。  正宗の刀は木の葉を斬らずに逃した。  ――刃は斬るべきを斬り斬らぬべきは斬らぬが最上。  師はそう云い、村正ではなく正宗を賞賛した。  …………だが。    武器、刃というものの本質を正しく〈顕〉《あらわ》していたのは、果たしてどちらであったのだろう。 「………………」 «――――御堂» 「ん……」 「……景明……」 「……」 「今は、おまえに用はない。  〈去〉《い》ね」 「そうはいかぬ」 「……」 「大和は〈銀星号〉《おまえ》という悪夢にもう飽いた。  今宵で……幕を引かせてもらう」 「……ほぅ……」 «――» «――» 「あの狂犬が見当たらぬようだが?」 「残してきた」 「何故だ?」 「同じ事だからだ。  俺の手でお前を倒そうと、彼女の手でそれを為そうと」 「……」 「お前が言った通りだ、銀星号。  善悪相殺は武の宿命」 「如何にしても――逃れようは無い」 「…………ふ」 「ふふふ……ははははははは!」 「……」 「そう……それでいい。  妄念から醒めたようだな、景明!」 「ああ」 「では戯れ合おう。  可愛い景明、この指で慈しみながら〈誘〉《いざな》ってやるぞ……」 「武の極みへ! 高き果てへ!  天下万民を〈鏖〉《みなごろ》し、世界への完全勝利を以て、〈至高〉《かみ》の座へ登らん!!」 「そんなところへは行かぬ。  行かせもせぬ」 「俺の妄念はお前が断った。お前の妄念は俺が断つ。血の色に腐った夢はここで終わりだ。  銀星号――」 「お前はもう天へ昇らない。  今日ここで、俺がお前を地へ墜とす!!」 「吼えたな、景明!  我が道を断つと誓うか!」 「ならば手心は加えまい。  白銀の星と呼ばれし光の〈能力〉《ちから》、その精粋を見せてくれる――」 「冥府へ転げ落ちぬよう、命をしかと掴んでおけ!!」 「……………………」 「……あ……」 「……ん?」 「やべっ。寝過ごした!?  日が暮れてるし!」 「起こしてよ湊斗さんっ!」 「…………」 「あれ?」 「湊斗さん……?」 「……いない?」 「………………」 「村正も……いない」 「…………」 「まさか」 「……そんな。  …………嘘…………」  銀星号という武者を考察する。  その一個人を大災害たらしめるのは精神汚染能力である。……これは、今は関わりない。  その一個人を最強者たらしめるのは重力騎航能力がまず第一である。……こちらが重要だ。  通常、武者は〈合当理〉《がったり》(〈翼筒〉《バレル》)によって推力を、〈母衣〉《ほろ》 (〈翼甲〉《ウイング》)によって揚力を獲得することで、翔飛―――即ち〈騎航〉《ネイル》を実現する。  その速度は人類が有する移動手段の中で最高を極む。  どの車輌どの艦艇どの飛行艦をも圧倒する速度の主たる武者はつまり絶対的な交戦選択権の保持者であり、また肉弾攻撃を主体とするため高速を破壊力に転化しあらゆる兵器に致命的損壊を及ぼすことが可能である。  故もって武者は他の全兵科に優越し、戦場の王たる。  銀星号が武者の中の王者たるのも、同質の理由からだ。  合当理と母衣を使い〈空気〉《かぜ》を操って飛ぶ通常の武者と違い、銀星号は空気に対してあくまで補助的な役割をしか要求しない。  例え空気が無くとも、銀星号は〈翔〉《と》べる。  銀星号がその薄く輝く儚げな翼に託すものは、空気に非ず、〈辰気〉《しんき》――重力、万有引力である。  自然界における最も根本的な〈力〉《エネルギー》の一つ。  銀星号。二世右衛門尉村正はこの力を認識し、把握し、操作する。周囲の物体や自己の騎体から発生するそれを、仕手の〈熱量出力〉《パワー》が許す範囲において増幅し、減殺し、あるいは力の働く方向を変えるのだ。  この原理によって為される重力騎航は通常の騎航と全く異なる次元へ達する。  例えば―― «高度一三〇〇。  ……〈速力〉《あし》を切り崩す覚悟ならもう〈一飛躍〉《ひととび》もできるけど» 「啖呵を切って挑戦した挙句に失速して墜死では、冗談として出来過ぎだな。  ここで無理は要らん」 「敵騎の到達高度は?」 «推定、約――一二〇〇〇» 「……?  誤差はどの程度だ」 «加減一五〇〇くらいよ。おそらく» 「やけに低い」 «……小弓で会った時からだけれど……  〈銀星号〉《かかさま》の翅に、欠けがある» 「欠け?」 «ほんのわずか。何処かの戦いで手負ったのかもしれない。  それが、〈銀星号〉《かかさま》の〈引辰制御〉《のうりょく》を弱めているとしたら――»  今の銀星号は完全な騎航能力を有していないという事か。  そう考えれば、納得ができる。  高度一二〇〇〇。所要時間は一分未満。  こちらの約十倍の上昇力。〈銀星号にしては鈍い〉《・・・・・・・・・》。 「しかしそんな小さな傷なら、すぐに修復ができそうなものだが……」 «精巧な器官だから難しいのかも。  それに、どんな劒冑にだって得手不得手がある» «〈二世〉《かかさま》は機動力にしても攻撃力にしても無敵に近いけれど、甲鉄強度と再生能力はその分犠牲にされている……決して高くない。  完璧ではないのよ、御堂» 「……ああ。  そうか。そうだな」  それが九回裏十点差を追うチームに送られる声援と同程度の意味しか持たないのは承知の上で、頷く。  だから無意味だと、どうして言えよう。諦めという自滅を誘う猛毒に抗うには、そんなものでも有用だ。  十倍の高度差。  武者と武者の一騎打において、その事実がもたらすものは何か――  高度の優越者は地球上の重力作用を味方として勢力の強い突撃を行う。劣後者はその逆、重力を敵に回し勢力を削がれながら迎撃する。  勢力の強弱の程度は角度による。  高度優位者の降下角と劣位者の上昇角は概算において正比例の関係にあると考えられるから、この角度が九〇度から離れるほど勢力強弱の格差は微小になり、近付くほど勢力格差は相乗的に開いてゆくことになる。  そして現在、その角度は〈ほぼ九〇度〉《・・・・・》。  八九度ほどであろうか。水平距離と高度差によって導かれる結果がこれ、だ。  悪くない。  銀星号が完調ならきっと八九・九度だったろう。    焼け石に水、という言葉は忘却する。  ……いずれにしろほぼ九〇度。  敵騎はほぼ垂直に駆け下り、自騎はほぼ垂直を駆け上がる、この形勢は現時点で確定した。  銀星号は重力の支援を最大限度享受し、しかもこれを固有能力によって拡大しつつ、成層圏から来襲する。  運動量=質量×速度。それはどれ程の値となるか。  ……その計算を途中で放棄したのは、最低でも村正を二〇騎まとめて〈瓦割り〉《・・・》にできるエネルギーは有ると判明した時点で嫌気が差したから――ではない。  解を求める意味がそも無いからだった。  エネルギーは、敵騎の甲鉄を打ち割れるだけあれば良く、それ以上は無駄と言い切っても差し支えない。  原形を留めぬまで騎体を粉砕するのも、首筋を数寸裂いて頚動脈を破綻させるのも、価値は同等なのだ。  その点において、重力に逆行するこちらは、必要なエネルギーを独力では獲得し難い。  が、衝突の威力は当然ながら〈相対的〉《・・・》に決する。  銀星号の急降下攻撃に必要充分な衝突力が宿るなら、こちらの〈逆撃〉《カウンター》も同等の衝突力を得られる理屈だ。  敵がこちらを撃破できるように、こちらも敵を撃破し得る。  ……だからといって対等ということにはならないが。  高度差によって有利不利が分かれるのは武者戦闘の常識であり、常識であるからには疑う余地もなかった。  単に鉄の塊がぶつかり合うだけならばどちらが上であろうと同じ事だったろう。  だが実際には、武者は手足を使い、武器を繰り出して、攻撃を行う。  重力の加勢あるいは負荷は、その動作の全てに影響する。必然的に、高度優位者の攻撃は鋭敏に、劣位者の攻撃は鈍重になる。  攻撃の精度において大きな差が顕れるのだ。  高度優位者の攻撃は敵を捕捉し易く、充分な威力の発揮もし易い。つまりは、攻撃を〈しくじりにくい〉《・・・・・・・》。  劣位者はその逆である。  動体視力と反応速度の限界を試すような空の戦いにおいてこれが極めて重要な意味を持つことは、改めて論ずるまでもないだろう。  〈衝突力〉《・・・》は対等でも、〈攻撃力〉《・・・》の差がこうして生ずる。  どちらの側も相手を破壊し得るという意味では同等、しかしその成功率については差が出る。〈相対的運動力〉《エネルギー》の攻撃への有効利用率が違うのだと言ってもいい。  一口にまとめればそう云う事。  また、互いの攻撃が真っ向からぶつかり合う事態ともなれば、話はより単純かつ明快になる。  運動力量に優る側が劣る側を吹き飛ばし、一方的な結果を現出させずにはおかない。  それら優劣の格差が最大まで開く形勢に、今、この現況は在る。  自騎上昇角九〇度。敵騎降下角九〇度。  〈正面相撃〉《ヘッド・オン》して近接、互いに攻撃を繰り出す瞬間――  俺は重力に阻害され動作が鈍くなる分、早い段階で〈見切り〉《・・・》をつけて攻撃せねばならない。  そしてその分、銀星号は余裕をもって攻撃を行える。  より精確に。より強力に。  ……俺と銀星号の勝負は、相互の術技を比較し合う以前の段階で既にそれだけのペナルティが約束されている。  〈術技〉《わざ》――――  この状形、銀星号が用いてくるそれは知れている。  自らの通称にあやかってだろう、小彗星と名付けたあの術技に間違いない。  吉野御流合戦礼法〝〈月片〉《つきかけ》〟、その〈崩し〉《アレンジ》。  過去数度に渡る〈立合〉《たちあい》の全てにおいて銀星号はこれを用い、文字通り俺を一蹴している。 〝月片〟は敵に対して高位を奪った形勢から相撃するに際し、直前で前転の動作を加える事で、打ち下ろしの太刀に威力を乗せると共に相手を幻惑する技である。  銀星号はこれに劒冑の特性を加味し――  超高空から〈降下突撃〉《ダイブ》、重力制御で加速しエネルギーを高めつつ接敵、その刹那に半前転して、最大限度の威力が乗った〈踵落とし〉《ヒールキック》を対手に叩き込む術技とした。  銀星号以外の何者にも為し得ぬ〈我流魔剣〉《パーソナルアート》。  太刀は用いないが、その威力たるや〈壊滅的〉《・・・》である。  身に染みて知っている事だ。  ただ、それほどの勢力を掛ければ、銀星号の脚とて無事には済まぬ筈なのだが―― «常理に沿えばその通りね。  おそらく〈銀星号〉《かかさま》は、甲鉄を一時的に右脚へ集積させているんだと思う» 「…………。  そんな真似が可能なのか?」 «引辰制御の応用で――多分»  ……通常なら、物体の変形に従って質量バランスが変移する。その逆に、〈質量を動かす〉《・・・・・・》ことで甲鉄を変形させているとでもいうのだろうか。  正直な所、理解を超えている。  だが俺の理解が及ぼうと及ぶまいと事実は事実。  銀星号が一撃必墜の武技を苦なく扱いこなすという事実は動かしようもない。  村正の甲鉄をして用を為させぬ恐るべき魔芸。  そこに隙は、    ――考え得る限り無数にあると云えよう。  諸流諸技に例外なく言える事だが、〈術技〉《わざ》というものの〈必殺性〉《・・・》はまず対手にとって未知である事に立脚する。  どれほど高度な術であろうと、その内情を把握していれば対処法を講じられるからだ。  例えば〝月片〟は〈幻惑〉《フェイント》と〈打撃強化〉《インクリース》を共に叶える吉野御流の精髄とも称すべき技法だが、これを全て〈弁〉《わきま》えている者に繰り出したところで只の〈曲芸〉《サーカス》である。  目前でのどかに前転を始める敵を見過ごす法はない。  基礎理念を同じくする銀星号の技とてもそう。  回っている間に動きを見切り、〈下〉《・》へ抜け、抜けざまに斬り捨ててしまえば良い。  確実に勝てる策だ。  そして手の内を〈曝〉《さら》け出している銀星号が、この策を裏切ることは無い。  大きな〈有利〉《リード》。  術技比較の面においては、銀星号の〈手札〉《カード》が最初から露出しているという一点によって、俺の完璧な優勢が確定している。  …………〈然〉《しか》して。    過去の対戦は俺の全敗。  その理由は実に簡明な事だった。  〈絵に描いた餅で腹は満たない〉《・・・・・・・・・・・・・》。  必勝を約する策も実行不可能なのではまるで意味が無い。それだけの話だ。  ――――速過ぎる。    一万を超える高度からの垂直降下を重力制御で更に加速しつつ行う時、その終端速度は理外の法外。  一度目の勝負は、何もできずに撃ち墜とされた。  二度目の勝負では、攻撃の一瞬を見切ってくれようと眼を凝らした。  そうして、何もできずに撃ち墜とされた。  三度目の勝負では、視界内に現れた瞬間に動こうと眼を凝らした。  そうしてやはり、何もできずに撃ち墜とされた。  〈気付けば叩き落されている〉《・・・・・・・・・・・・》。  それが銀星号の〈戦闘速度〉《ファイティングスピード》。  底の割れた相手の技の裏をかき、勝利する――  そんな〈単純〉《シンプル》な勝利方程式が成立しない。敵の技法が見え透いていても、それがいつ実行されるか全くわからないのでは対処の仕様も無い。  戦理において、勝利は俺のものであるべきだろう。  しかし銀星号は身も蓋もない暴力によって戦理ごと俺を粉砕できるのだ。  それは、術技の限界と云うべきか。  技とはとどのつまり、人間を相手にするもの。  天災を想定するものではない。  〈隕石〉《・・》に対抗する役には立たない。  一剣の対応限界を超えたところに敵騎は存在する。    それでも尚、術技をもって破らんと志すならば――  〈自騎〉《おのれ》も限界を超えるに如かず。 「村正……  敵騎が降下を開始したら即座に知らせろ」 «――諒解»  劒冑の〈信号探査〉《レーダー》は最も正確で最も迅速な探知手段だ。  村正はごくごく微小なタイムラグ――発信した信号が戻ってくるまでに必要な――しか要さず、銀星号の攻撃開始を察知するだろう。  過去の対戦では〈視覚〉《め》を〈恃〉《たの》んで敗れた。  〈信号探査〉《みみ》は有効範囲の広さという点で確実に優れる。確実に視覚より早く情報を掴むだろう。  ……だが、それでも間に合わないと悟っている。  おそらくは村正も。  ほんの僅かな、砂粒のようなタイムラグ、それだけの遅れさえも致命的なのだとわかっている。  勝つには――もっと早く知らねばならない。  銀星号が、攻撃を始めるその瞬間に……    否。違う。〈それでも〉《・・・・》間に合わない。  攻撃を始める〈よりも前に〉《・・・・・》。  攻撃が実現するより先に、その開始の機を知らねばならない。そうして初めて対応が可能になる。  〈物理限界速度〉《ヴェロシティ・オブ・ライト》にも迫る突撃を破るのなら。  〈時間〉《とき》を越えるのが唯一の方途だ。  〈先〉《セン》の機、と云う。  吉野御流においては無明の理と称する。  これは〈所謂〉《いわゆる》超能力に類する何かを要求するものでは決してない。  求められるのは小石を積んで巨塔を築くかのような精細かつ入念な観察である。  攻撃の動作を〈見る〉《・・》のではなく。  攻撃の兆候を〈読む〉《・・》のだ。  微妙な視線の移動。あるいは筋肉の緊張。  そういった情報から、敵の攻撃動作が実際に始まるよりも〈先に〉《・・》それを悟る。  その機に押して攻め、敵の出端を打ち伏せるのが先の機を取るという事であり吉野御流は無明の理であるが、銀星号に対してそれは成し得ない。  あの攻撃を発動前に制するのは物理的に不可能だ。  が――発動後の対応はできる。できる筈だ。  先の機を突いて〈後の先〉《ゴノセン》を取る格好になろうか。降下突撃の到来を〈十億分の一秒〉《ナノ・セカンド》でも先に知ることがもしもできたなら、迎撃の剣を〈合わせられる〉《・・・・・・》。  あるいは相討。  しかし、斃せる。 「――――」  敵騎は上空〈遙〉《はる》か彼方。  武者の視覚を研ぎ澄まそうが、芥子粒ほどにもその姿を見ては取れない。  目配りなどわからない。筋肉の動きも。  だが、情報はそれだけではない筈だった。  肌の熱。肉の匂い。心臓の鼓動。  そんな些少な情報が何処かに、必ず有る。  あるいはもっと微細な。  視覚でも聴覚でも嗅覚でも触覚でも掴めず、さりながらその全てに訴えかける、何かが――  〈そこに生命が存在するという波長〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、そんなものが。      有る。  俗に気配と呼ぶのだろうそれは、今、確かに感じられる。  この空の果てに。  それは俺の感覚の鋭敏なるがゆえではない。  逆だった。その気配の、大なるがゆえだった。  余りにも強大な存在の波動。  世界を破壊しつつある魔王がそこに在るという主張。  台風が近付けば風が吹き、噴火が近付けば地鳴りが聴こえるように、その気配は明然。  一個の生命とは桁が違う。一つの天象が備える〈波長〉《けはい》は、誰にも看過を許さない。  余りにも巨大過ぎて、その細かな動きや変化などはまるで読み取れなかった。  ただ、そこに在る、という一事実しかわからない。  だがしかし、それは足掛かりになる。  気配という波を〈梯子〉《はしご》に使い、本来届かぬ感覚の先端を伸ばしてゆく。  視覚――――  聴覚――――  嗅覚――――  俺の形無き三本の指は、何も掴めず虚空で足掻いた。  見えない。聴こえない。匂わない。  駄目だ。  この感覚では駄目だ。  別の。  別の――  敵を知るには呼吸を〈観〉《み》る。  音を聴くんじゃない。  動きを見るんじゃない。  それでわかるのは口先の呼吸だけ。  そんなの、その気になれば誰でも誤魔化せるだろ?  だから、〈肌の呼吸〉《・・・・》を読むんだ。  それだけは絶対に騙せない。  皮膚で嘘をつける奴はいないよ。  自分の肌で、感じ取るんだ。  相手と自分の肌は〈空気〉《かぜ》で繋がっている。  肌の呼吸は肌に伝わる。  それを読み取れ。  呼吸は必ず教えてくれる。  攻めるつもりか守るつもりか。攻めて来るならいつ来るのか。  〈意は呼吸に有り〉《・・・・・・・》。  ……まぁ、こいつがそうかな。  わたしなりの極意ってやつ。  …………呼吸。  その極意を、嘗て実践できたためしはない。  だが、今。この対手ならば。  〈銀星号〉《ひかる》ならば。  ――――呼吸――――  み、  え、  た!  そこにいる。  静かな――眠るような落ち着いた呼吸。  今はまだ、力を溜めているという事。  まだ、襲来の時ではないという事。  わかる。  皮膚感覚で、確かにわかる。  永い距離を越え、俺と銀星号を繋いでいる一筋の糸を確かに掴んだ。  これが知るべき全てを教えてくれる。  これが銀星号の呼吸。  これが銀星号の意。  間違いない。    俺がこれを、取り違える筈はない。  把握できて当然だ。    何故なら以前、俺は何よりも〈これ〉《・・》を気に掛け、  毎日、  見守って―――― 「――っ」  芽生えかけた想念を払う。  ……惑いは、いらない。  決意を今更、揺るがせてはならない。  あれは敵。敵。倒すべき敵。  敵の呼吸、そこにある意を掌握する。  打ち勝つ為。  この感覚に――集中する。  この波長の変化を、待ち受ける。  この波が、〈揺れた〉《・・・》瞬間、  即して応ずれば勝つ。  まだだ。  まだ来ない。  待つ。  必ずある筈の、感覚の揺れを待つ。  来ない。  まだ、変化はない。  まだ、静かだ。  まだ。    だが、そろそろ時は訪れるだろう……。  その一刹那を決して逃すまい。 「……〈天座失墜・小彗星〉《フォーリンダウン・レイディバグ》……」         俺は幸福だったのだと思う。  “Tell me the tales that to me were so dear”            遠い遠い昔。     “Long long ago, long long ago”        必要なすべてを手に入れていた。   “Sing me the songs I delighted to hear”            遠い遠い昔。      “Long long ago, long ago” «―――――――――――――――――!!»  ……………………俺は。    倒された、のか。        母がいて妹がいた。家庭があった。  “Now you are come, all my grief is removed”          信ずるに足る絆があった。  “Let me forget that so long you have rov'd”            愛情が存在した。  “Let me believe that you love as you lov'd”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago” «足りないな……。  それでは足りないぞ、景明» «この光に届かぬ。  ……〈充〉《み》たされぬ» «贅剣を捨てよ。  武を研ぎ上げよ» «余計なものはいらぬ。  一心に光を求めるがいい» «でなくば、届かぬぞ……。  おまえの指はいつまでも、おれに触れてはくれぬ!» «〈ここにあるおれの命を認めてはくれぬ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》!»           あの光景を覚えている。   “Do you remember the path where we met?”             遠い遠い昔。      “Long long ago, long long ago”      何でもない、けれど決して忘れない光景。  “Ah, yes, you told me you ne'er would forget”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago”      ただ家族がいたというだけの、あの光景。  “Then to all others my smile you preferr'd”  ……何故なのか。  どうして、俺は打ち倒されたのか。  わからない。  俺は銀星号の呼吸を掴んでいた。  〈意〉《イ》を……把握していた、と思う。  しかし、何の兆候も感じ取れなかった。  銀星号の攻撃は全く唐突に訪れ、俺を吹き飛ばした。  何故だ。  全てが誤解だったからか。  果てしない距離を隔てて敵騎の呼吸を察知するなど、やはり妄想でしかなかったのか。  それとも……    そうでないとするなら。  銀星号の意を掴むという事に、〈意味が無かった〉《・・・・・・・》からなのか。    あの敵は。あの妹は。あの魔王は。  既にその境地へ至っているのか。  意を用いず剣を〈執〉《と》る、武人の果てなる心境へ。  ――〈無想剣〉《ムソウケン》へ。 「…………」  わからない……。  わかるのは唯一つだけ。    俺のこの手は何も掴めない。その虚しさだけだ。           全てが美しく在った。“Love, when you spoke, gave a charm to each word”           愛がそうさせていた。“Still my heart treasures the praises I heard”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago” 「……………………」 «そうか。  〈それ〉《・・》か» «おまえの手足はどうしても……  そんなものに縛られてしまうのだな» «あのような……虚構に»          尽きることのない優しさ。      “Though by your kindness        my fond hopes were rais'd”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago”  ……意識が浮き沈みを繰り返している。  夢と……〈現〉《うつつ》か。  どちらがどちらか……  曖昧になってゆく。  混濁してゆく。  失われてゆく。  それが敗北と死の来訪なのだと知っている。  だが……だから、何なのか。  俺はこの戦いに全てを〈賭〉《と》した。そのつもりだった。  全ての力。  全ての誓い。  全ての覚悟を。  それでも及ばなかった。  完璧に。完膚なく。  ならば……  どう仕様があるというのか。 「……」  この温かな〈瞑夢〉《さいご》へ沈むほかに…………         語り尽くせぬ幸福があった。“You by more eloquent lips have been prais'd”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago” «虚構だよ» «まやかし、だ» «何故なら〈欠けている〉《・・・・・》……  光の求めるものが無い» «そんなものは捨ててしまえ。景明。  いや……もう、捨てたはずだろう?» «〈その〉《・・》手で。  〈この〉《・・》手で» «おれとおまえの二人で、壊したはずだ……» «おまえが殺し。  おれが殺させた» «母を!!»    この幸福は、どれだけの歳月を経ても失われない。“But by long absence your truth has been tried”       決して変わらない、そう信じていた。  “Still to your accents I listen with pride”    そう信じられるほど――俺は幸福だったのだろう。  “Still to your accents I listen with pride”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago”  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――今。  夢と現の狭間で、聞き逃せぬ何かを聞いた。 «……何……» «何……だと?» «おれが、〈殺させた〉《・・・・》のだ。  おまえに。あの母を» «二年前……  村正を解き放つ前から、おれは既に知っていた» «この劒冑が何を求めるのか。  この刃で殺せばどうなるのか» «敵の命に味方の命で贖いを。  一つの悪に一つの善で贖いを» «憎しみには愛の贖いを。  ――求めるのだと、知っていたのだ» «――――» «だから、おれは山賊の大将をあえて殺さなかった» «生かして、湊斗の屋敷へ追い立てた» «おまえに村正の力を使わせ、殺させる為に。  そして――» «村正の呪戒に縛られたおまえが、母上をも斬り捨てるように»              お前が、 «二人で殺したのだ。おれとおまえで殺したのだ。あの〈怨敵〉《・・》を。  あの空疎な〈世界〉《いえ》を» «あれはもう何処にも無い。虚構に相応しく消えて失せた。遠い過去の幻だ。  そんなものを振り返るな……» «忘れてしまえ。  おまえはこの光だけを真っ直ぐに見据えていれば良い»              お前が、 «おまえが愛した母はいない。もう何処にも。  ……それでも諦められぬというなら、光がおまえの母になってやる……» «だからおまえは〈ここ〉《・・》へ来い。  おまえがゆくべきはここしかない» «この光の〈許〉《もと》だけだ» «おまえを受け入れられる者は光だけなのだ!  景明!!»            お前が――――          けれど、それは既に遠い。       “Long long ago, long ago”             遠い遠い昔。       “Long long ago, long ago”         もう手の届かない、遠い遠い昔。      “Long long ago, long long ago” «光ゥゥゥゥ!!»  世界は二元化した。  有意味と無意味。その二極へ。  意味有るものは天頂の敵影。  意味無きものは他のすべて。  情報が取捨され思考が削摩される。  湊斗景明なるものの人間要素が〈ぼろぼろ〉《・・・・》と崩れゆく音を聴く。  知性は逆走する。  理性は迷走する。  感性は奔走する。 «雄呼――――» «来るか――景明!!»  そうして――    思念は惑乱の対極へと向かう。  極端な単純化。  徹底的な整理。              ――殺す。  目的設定。             ――殺す方法。  手段の追究。  ……手段。  敵騎を撃墜し得る方法の最善なるは如何に。  敵は最速の中の最速を極める銀星号。  超々高空より閃光と成って降り来たる。  入神の域にあるその一撃を上回るには……    術技か。  呼吸を読み間合を測り推定される敵騎の攻撃内容に対して最も有効な対応術策を用意、敵情を入念に把握し変化に応じて修正を加えつつ待機のすえ戦機に至らば最高の勝利可能性を最大の努力で実現する……              ――違う。  そんな〈屁理屈〉《・・・》こそ益体も無い。  既に思い知らされている。無駄だ。  どれほど突き詰めた術も技も、あれには無駄なのだ。  飢えて襲い来た野獣に和平交渉を申し出るに等しい。全くの無為。全くの徒労。全くの空回りだ。  〈ごまかし〉《・・・・》は通用しない。  あれに勝つには、純粋に力でもって上回るしかない。  〈術技〉《アーツ》は要らない。  要るのは〈剛力〉《フォース》だ。              ――速度。  とどのつまりは速度。  速度なのだ。  敵の強さの根源は速度にある。  これあればこそ敵は一方的に襲い、一撃にて墜とし、無傷にて勝利する。  速度だ。  この優越さえ奪えば勝てる。  我が彼より速ければ、我こそが一方的に襲い、一撃にて墜とし、無傷にて勝利できる。  速度!  速度!  その優位を…………強奪するには―――― 「村正ァァァ!!」 «――――»  〈金打声〉《こたえ》を返すだけの余力が、劒冑には既に無い。  だが声は届いている。俺の言葉を聴き、続く命令を待っている。それがわかる。  残された力の全てを以て、仕手の望みに応えるべく、村正は待っている。 「〈磁装・正極〉《エンチャント・プラス》……」 「〈磁気加速〉《リニア・アクセル》!」  甲鉄が磁化を遂げる。  その極性は〈村正〉《OS》の統御の下で常に流動するものだ。同極のそして対極の磁力特性が動作目的に沿って利用される。  騎航においてもそれは有効である。  複雑な運動工程の全てに渡って最適化が施され――かくして速度は跳ね上がる。  垂直上昇という最も不利な条件下にあって、屈さず、速力を増す。    しかし、足りない。  これではまだ劣る。  もう一段。  力を――  速さを積み重ねなくては、敵に勝てない。  力!! 「〈辰気加速〉《グラビティ・アクセル》――!」  力が渦巻く。  それは荒れ狂う激流だ。  辰気――重力。  銀星号の操る〈能力〉《ちから》。  嘗てもこの能力は使ったことがある。  だがあの時よりも、いま呼び出している力は遥かに強い。 〝卵〟を介して銀星号から奪ったもの……  元来が〈村正〉《おれ》の能力ではなく、身に過ぎている。  手綱も無しに悍馬を乗りこなそうとするが如きだ。  チカラは俺を振り落とそうと躍起になる。悶え暴れ、あくまで抗う。 「――ッッ!!」 «――»  それでも、制する。  二人掛かりで。腕ずくで。  首根を掴んで手繰り寄せ、俺の望む進路へ向ける。  ともすれば無軌道に暴れたがる力を速度に変える。  速度。  俺の求めるものはそれだけだ。  それだけだから――是が非でも吐き出させる。  何かの壁を越えた。  俺の周囲から、世界が去ってゆく。  愛想を尽かした様子で。これ以上は付き合っていられない、と吐き捨てて。  俺は唯一人、虚空に投げ出された。    いや――――まだ、いる。  もう一人。  速度の超越によって世界から隔絶した、この虚空に。 «来い» «来い……景明» «あと一歩だ。  あと一歩で……» «おまえは……光に届くぞ――!»  ……あと一歩。  そう、あと一歩。 «如何にする。  あと一枚の差をどう埋める?»  …………。  ……………………。 «既に手は尽くしたか。  そこまでなのか。景明» «ならば――» «今度も、また……  おまえは無念を呑んで地に墜ちようぞ!!»  ――その。  最後の一刹那。  俺の認識は完全に遅れていた。  敵と、〈俺自身を〉《・・・・》、全てが終わってから俯瞰した。  今度こそは完璧に必殺必滅の、〈天座より墜つ小彗星〉《フォーリンダウン・レイディバグ》。  破局の来訪を、俺は感知などしていなかった。それは断定できる。  だが四肢は動いていた。  対応するように、瞬発していた。  理由はわからない。  力を、速度を求めて足掻いたのが、偶々〈かち合った〉《・・・・・》のかもしれない。  そうではなかったのかもしれない。    理由は、わからない。  どうであれ、俺はその時、〈そうした〉《・・・・》のだった。 「やはり――そう来るか」 「裂光の太刀筋……  磁力反発を利して為す神速の抜刀」 「そればかりは光の眼をもってしても〈視〉《み》えぬ。  躱すも防ぐも〈成〉《な》るまいな」 「だが!」 「〈太刀を繰り出すおまえ自身は視えている〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》!  惜しいぞ、景明……至高の剣も鞘から放たれるだけの間が無くば、〈鈍刀〉《なまくら》同等の価値しか持たん!」  ……そうだ。  銀星号の〈眸〉《め》が語った事は、当を得ている。  神速の攻撃手段を持っていようと――  使う前に〈本体〉《・・》が潰されては何の意味もない。  〈騎体〉《おれ》自身が完全に銀星号から〈捕捉〉《ロックオン》されている以上、銀星号は俺が電磁抜刀を繰り出す機を読み取り、それに先んじて勝を制する事ができる。  並みの武人には無理でも、銀星号なら必ずできる。  対してこちらは敵の影も捉えられない。  例え抜刀の余暇を与えられようとも、刃先が敵騎に届く事は無いだろう。  つまりは宝の持ち腐れだ。  何の役にも立たない。  ――――そう。その通りだ。  〈抜刀では意味が無いのだ〉《・・・・・・・・・・・》。  既に理解している。  技では銀星号を倒せない。  力だ。  速度だ。  銀星号に勝るには、速度を積み重ねるのみ。  あと一歩。あと一段の速さを。  ほんの一瞬――その百分の一の時間で構わない。  魔王の眼をも振り切り、こちらを見失わせるだけの速度を。  手に入れるのだ。  そのためだ。  そのために、俺は、〈こうした〉《・・・・》のだ。 「――――――――」  銀星号はその刹那、気付いたのかもしれない。  〈何が来るのか〉《・・・・・・》。  その正確な洞察を、人間の域から逸脱した戦闘感覚によって為したのかもしれない。    いや。  間違いなく、悟ったのだ。  だから。  身を翻し、直ちに打ち放とうとしたのだ。  〈止〉《とど》めの〈蹴撃〉《けり》を。  誰もいない、虚空へ向かって。  その虚空に、俺が来ると知って。  〈鞘〉《・》に全ての力を充填する。  うねり、猛り、反発し合う磁気の嵐。  嵐の最大の、極みの果てをもって――  〈刃〉《・》を撃ち出す。 「景明ィィィィィィィィィィィィィィィ!!」  有り得ない事であったのかもしれないが。  裂空の世界にあって、俺は光の〈叫〉《こえ》を耳で聴いたように思った。  対象に劒冑を指定して送られる〈装甲通信〉《メタルエコー》ではない。  肉声。  それは、光が遂に俺の姿を〈視覚〉《モニター》から〈喪失〉《ロスト》した証。  光は今も見ているだろう。  〈深紅〉《あか》い劒冑の所在を見失ってはいないだろう。  だが、〈俺の姿は〉《・・・・》もう〈視〉《み》えていない。  最後の〈電磁抜刀〉《レールガン》。  劒冑全てを鞘とし、  俺の肉体を刃として放った、  最後の一撃。  俺は〈閃光〉《ひかり》となっていた。  何も見えない。  白い輝きに満ちているようで。黒い闇に閉ざされているようで。  銀星号の姿も見えない。  銀星号が今、俺を見失っているのと同じに。  しかしそれは、俺の不利ではない。  俺にはわかっているのだ。  敵は直上から、俺を目掛けて真っ直ぐに突き進んで来ていると。  だから俺も真っ直ぐに進むだけでいい。  唯一甲鉄を残した、右の拳を固く握って。  天頂へ。  俺の拳は必ず敵騎を捉える。  だが――  俺を見失った銀星号は――例え見失う事態を超常的な感覚で予知し得たとしても―――― 「……!!」 「――――」  そして――――  銀星号の甲鉄はこの交錯の瞬間、打撃点となる脚に集約されており。  その他の箇所は決して頑強ではなく。  〈村正〉《おれ》の甲鉄との激突に耐えるだけの強度を――――持たない――――!!  鉄を割る感触。  肉を抉る感触。  骨を砕く感触。  ……妹を破壊するという行為。  それがもたらす感覚のすべてを、俺は脳髄にしみて味わった。  すべてを。  総身の毛がよだつおぞましさ、そのすべてを余さず。  俺はこのために、こうするために、  戦っていたのだから。  求めてはいなかった。望んではいなかった。  それでも俺は、俺の意思で、この結末を選んだのだから。  だから――    俺は妹の心臓を潰した感触を、この拳に刻むのだ。 «ふ……ふふ……» «楽しかった……» «……また……» «……どこかで……  ……会おう» «…………景明…………» 「…………」  村正を再び装甲し、着陸する。  ……銀星号は、海中に没したようだった。 «……最期を……確認する?» 「いや……」  その必要があるとは思えなかった。  それに、悟るところもあった。  今は麻痺したようになっている自分の心が……  その事実の最終確認を済ませた時には、崩れ去るのだろうと。 «御堂!» 「……大事無い」  銀星号の一打を浴びた衝撃は、字義通り骨の髄まで染み渡っている。  熱量も、枯渇寸前だ。  それでも今、〈頽〉《くずお》れて眠る事は許されなかった。  まだ、倒れてはならなかった。  心も、体も。  二年前からの戦いには終止符が打たれた。  しかし、俺にはあと一つ、為すべき事が残っている。  ――それで……いいんですよね……?  答えられなかった問いがあった。  あれをそのままにはしておけない。  俺は彼女に従い、協力する事を約束した。  俺には彼女のために力を尽くす責任がある。  彼女の求めに応えなくてはならない。  彼女が己の理非を問うたなら、俺はこの身を賭して答えを返さねばならない。  それが……  俺の最後の責務。  背後に現れた気配は、振り返って顔を確かめるまでもなく、激情で総身を〈灼〉《や》いていた。  余程に無理な騎航を重ねてきたのか。息遣いは荒く、心の動悸も聴こえてくるようだった。  彼女はそれを無理に抑え込んだらしい。  息を呑み下し。そうして――しかし、言葉は無い。  ただ万の言葉より雄弁な沈黙が、俺の背を〈焙〉《あぶ》った。    彼女は悟っている。  俺が何を遂げたのか、既に。  ……ならば応えよう。  寝物語の、あの問い掛けに。 「一条」 「邪しきものへの、お前の怒りは正しい。  悪しきものへの、お前の憎悪は正しい」 「お前は正しい」 「だが……  〈お前の戦いは〉《・・・・・・》、決して正しくはない」 「なんですか……それ……」  振り返っても一条の姿は濃藍の甲鉄に覆われ、その表情は窺いようとてない。だが察するのは容易かった。  内面の波立ちを映して〈戦慄〉《わなな》く声音を聴けば充分だ。 「わかんないですよ……」 「……」 「どういうつもりなんですか……?  銀星号を……なんで……」 「俺が倒さねばならなかった」  断定する。  迷いは、無い。 「他の誰でもなく俺が。  銀星号をただの怪物……ただの悪魔としてしか知らない者が倒せば、その戦いは正義となる。正義が邪悪を討った事になる」 「戦いの正義が信じられる。  戦いの真実が忘れられる」  真実。 「……だから、真実を知る者。  あの銀星号も人間だったことを、」  ――誰かに愛されていたのだという事を。 「知る者こそが、倒さねばならなかった。  その行為が負う罪悪の量を見誤らない為に」 「俺にしかできない事だったのだ」 「わからないですよ!  何を言ってるのか……全然……」  一条は声を荒らげた。  その勢いに自分自身が煽られたのか、たたらを踏む。 「なんで……どうして!  湊斗さんが……村正が、敵を殺せば、」 「味方をも殺す。  正しいと思う者を殺す」 「それがわかってて……!」 「常にそうだ。  戦いの結果は」 「……え?」 「戦いはいつも正義と正義の殴り合いだ。  せいぜいが、社会通念上の正当性に近いか遠いかくらいの違いしかない」 「戦う者はみな自分の正義を信じ、敵の悪を信じる。  そうしなくては殺し合えないから」 「……例外は、戦いそのものを指向する人間くらいだろう」 「…………」 「ならば戦いの結果はいつも同じだ。  敗者の正義と勝者の悪が、一つずつ滅ぶ」 「善悪相殺。  村正の呪いそのものだ」  そう。  だから。  俺は太刀を抜き、切先で一条を指した。 「――――」 「誰かと戦い、殺そうとする者は、その意味を正しく知るべきだ。  敵は悪でありながら善でもあり、己はそれを諸共に滅ぼすのだと」 「即ち己の味方、己の正義をも滅ぼす覚悟の無い者が、敵を殺してはならないのだ。  もしも覚悟無くそうするなら、それは度し難い卑怯なのだ」 「況んや……  〈正義を潰しておきながら正義を称する〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》など、論外の極みだ」 「……湊斗さん……」 「……俺はそう承知した上で……  銀星号を斃した」  何を言いたいのかは、伝わった筈だった。  一条は何も応えてこない。  氷のよう〈ではない〉《・・・・》沈黙の中に沈んでいる。  その劒冑の方が、先に応じた。 «御堂……  わかっていような» 「……」 «つまり、奴は御身を裏切ったのだ。  そして吾らの正義を貶めている» 「ぐ……ッ!」 «言うた通りの仕儀となったな。  所詮、悪鬼は悪鬼よ!» 「うッ……あぁぁぁっ!!」  乱雑な突進からの鈍い一撃は、村正の甲鉄に容易く弾かれた。 「……刃筋を立てて〈確〉《しか》と狙え」 「湊斗っ……!」 「お前が俺を斬るなら、それでもいい」 「お前の正義に、俺の答えを返す事が、俺に残された最後の役割だ。  それさえ果たせればいい」 「……」 「俺はお前の正義を認めている。  その俺を斬れ」 「俺をお前の正義だと思って斬れ。  戦いの矛盾と醜さを知れ」 「あなたは……っ」 「俺の云う事は酷か。  おそらくそうだろう」 「だがお前は既に手を血で汚している。  闘争の真実を知る義務からは逃れ得ない!」 「違う!  あなたは間違ってるっ!」 「…………」 「あなたの言う通りなら……  この世に正義なんて無いことになる!」 「……突き詰めればそうだ。  正義というものが唯一絶対の価値観を意味するなら、そんなものは無い」 「有る!  父様が教えてくれた……」 「人を騙してはならない、人から奪ってはならない、人を虐げてはならない!  悪を拒んで正しく生きることが、人としての正義だっ!」 「倫理か。社会正義か。  それは要するに、〈多数決の結果〉《・・・・・・》だ」 「軽んずるつもりはない。  だが、絶対的な真理などではない」 「違う!  ちがう……」 「……」 「お前が正義を信じる事を、俺は止めない。  その想いは尊いと思う」 「正義を信じて、悪と戦う事もだ。  その勇気も尊いと思う」 「…………」 「だがその戦いに正義を名乗るな」 「お前が正義の二字を奉じて戦い、勝利すれば……人々も正義を信じる。悪なる敵と戦い勝利することは正義なのだと信じる。  〈正宗〉《おまえたち》にはそうさせるだけの力がある」 「皆が戦いを賛美し、戦いに身を投じる。  戦いの渦が拡大する」 「殺し合いに過ぎないその本質が忘れられ!  正義の名の下に戦いが連鎖する!」 「わかるか?  お前は混沌たる争乱をもたらす者に――」 「〈銀星号の後釜〉《・・・・・・》になる!!」 「――――」 「だから……  約束しろ」 「正義は胸に秘め、二度と口にしないと約束してくれ。  お前がそれを誓うなら、俺は斬られる」 「一条――」 「いやだ……っ」 「……」 「あたしは……  あたしは」 「悪を滅ぼして、正義を貫徹する!  隠したりなんかしない! それじゃあこの世を正しくできない!」 「父様の願いが果たせない!  あたしは――あたしは」 「綾弥一条だ!  それ以外の誰にもならない!!」 「………………」 「………………」 「そうか。  なら」 「俺も、村正で在り続ける。  戦いの醜悪さを暴き立てる者であることを通す」 「正しいと、尊いと思うお前を、  斬る」 「――――ッッ」 「……裏切った……  あなたは、今度こそ本当に」 「あたしを裏切ったんだ!」 「……行くぞ」  裏切り。否定。  ――それが湊斗景明の、綾弥一条への回答なら。  俺はこの答えを、残り全ての力でお前に返す。 «御堂。注意して。  長くは保たない» 「承知している!」  劒冑が言っているのは〈熱量〉《カロリー》のことだ。  既に銀星号と一戦を交えた後。合当理を稼動させるエネルギーは小匙数杯分ほどの残量もない。  短期決戦の必要があった。 「……ち!」 «真っ向からの〈剛力勝負〉《ちからくらべ》は向こうに有利よ、御堂!» 「そのようだ」  今の打ち合いは四分六分でこちらが打ち負けていた。  危うく、押し切られる事は防いだが。  本来なら村正も力では劣らない。  が、今は条件が悪過ぎる。 «湊斗……さん……っ!» «……» «あなたは――――  …………どうしてっ!» «認めてくれてるんだと、思っていたのに!» «認めている。綾弥一条。  幾度でも繰り返す» «悪を憎み、無くそうと願うお前は正しい。  決して間違っていない» «なのにっ!» «――それでも、戦いには罪が有る。  正義の一語を冠するには値しない» «違うっ……!» «悪を討つことが正義でないなら……  正義は何処にも顕れない!» «ほかにどうしようがある!?  〈非暴力抵抗運動〉《サティヤーグラハ》でもやれって言うんですか……» «六波羅にそんなのが通用するとでも!?» «……» «するわけがない!  戦わなければ何も変わらないっ!» «暴力を振りかざす奴等は、同じ暴力で殴り倒されない限り反省なんかしない!» «その通りだ……»  全く正しい。  一条の言う事は全くの真実だ。 «だから» «それが正義だ!» 「くっ……」 «正義でないなら――何だと!» «何だって言うんですか!» «……» «悪だ。  悪を討つものも、また悪でしかない» «ッ……» «いや……  悪で〈なくてはならない〉《・・・・・・・・》» «あなたは、狂ってるっ!» «まさに狂っている。  だがそれは、戦いそのものが狂った論理の産物だからだ» «善人と云い、悪人と云うも、それは人間の一面に過ぎない。  一面しか持たない人間などいない» «そんな事は誰もが知っている。  ……なのに人は対立者を己の知る一面のみをもって悪人と断定し、争い、殺す» «そうしなくては、殺し合いという絶対的な矛盾を許容できないからだ!  もし欺瞞を捨て、戦いの実相をそのままに受け入れるなら――» «狂うしかない。  善も悪も、敵も味方も、隔てなく殺す悪鬼たるを自ら認める以外にない!» «〈村正〉《おれ》になるしかない!!» «ち――違う……!» «違わぬ!  違うと言うのなら……一条、お前は何故、» «遊佐童心を殺した後で――  己の行為に怯えたのだ!?» «……!» «あの時のお前は、彼を殺害した事実に怯え、震えていた» «それは何故だ。  信ずる正義と、為した悪業との間に、どうにも整合のつけられぬ矛盾を見出したからではないのか!?» «そうじゃない!  あれは……っ» «ただ、初めて人を斬ったから……  耐えられなかっただけ、で――» «耐えられなかったのは何故だ。  遊佐入道を単なる悪と信じ、殺す事が正義と信じていたなら、どうしてそれほど衝撃を受けた» «お前は風邪薬で病原菌を殺すのにも苦痛を覚えるのか? 〝社会の悪〟を殺す事はそれとどう違う?» «――――» «……わかっていた筈だ。何処かで。  お前ほど欺瞞や逃避の似合わぬ者が、真実を見過ごしたとは考えられない» «〈人を悪と断じて殺す事の矛盾〉《・・・・・・・・・・・・・》、  お前は――頭で気付かずとも、体で悟っていたのだ» «だから震えたのだ!» «違う――――!!» «一条ッ!!» «らぁぁぁぁぁァァァッ!!» 「うぬ!!」 «御堂!  これ以上はっ――» 「限度か」 «甲鉄も熱量もね!»  ……ならば。  打つべき手は一つきり、か。 「一手を以て覆す」 «御堂。  ……いい、のね?» 「ああ。  俺はここで、綾弥一条を殺す」  殺す。 「これは非道だ。  これは無道だ。  一片の道理もない」 「〈だがこれが戦いだ〉《・・・・・・・・》。  〈戦いには常に道理などない〉《・・・・・・・・・・・・》。  正義という厚化粧が施されているかいないかの違いしかない」 「遊佐童心を、銀星号を、殺すという事。  綾弥一条を殺すという事」 「どちらも同じ、許されざる行為。  前者のみ許し、後者のみ許さぬというならそれは独善でしか在り得ない」 「その独善を俺が承認し、世が承認するなら。  ――戦いの火種が無数に撒かれる」  それは己の善を通し、他者の善を排除する行為への認可であるから。  悪と信じた者と争い殺す事は正しいのだと、認めるものであるから。 〝悪〟と戦う事は尊い――と。    誰もがそう信ずるとき、戦争は禁忌ではなくなる。  だがそれは違う。  〈戦〉《いくさ》は〈凶事〉《まがごと》にして卑しむべし。  世に災厄を為す者はいる。  世に死すべき罪人はいる。    戦いが〈必要〉《・・》とされる事はある。  だが〈正義〉《・・》である事は決してない。  その戦いが例えただ一人の善とその他全ての人類の善との対決であったとしても、一方の善が一方を暴力で圧殺するならそれは断じて正義を名乗れない。  ただの殺戮。  ただの独善。  ただの悪業である。  戦い殺すは独善の極地にして常に悪業。  忌まれ卑しまれ避けられねばならない。  〈然〉《さ》あらずんば、世に戦いの種は尽きまじ。 「〈村正〉《われら》は装甲悪鬼。  戦の真実を証し立てる者」 «――ええ» 「忌まれ、憎まれ、畏れられねばならぬ者」 «――ええ» 「故に……  〈銀星号〉《あく》を殺した上は〈一条〉《ぜん》をも殺す」 「ともすれば正義などと奉られる戦いを只の殺戮に貶める!」 «ええ»  一条。これが俺の答えなのだ。  お前が求めた、湊斗景明という男の答えだ。  お前の命題、正義の追求に対する回答なのだ。    だから。 「無益無法の〈殺戮〉《たたかい》を行う。  ――綾弥一条を斬り殺す」  お前を殺す。  一切の手加減はなく。  最大の戦力をもって。    お前の命を奪いにゆく。 (――だが)  もしも、一条。  お前の正義が俺の体現する醜い真実さえも超克するものであるのなら。  突き破ってみせろ。  俺を打ち砕き、先へ進んでみせろ。  お前の正義こそが、本当の真実だと云うのなら――  それができる筈だ!! 「――あれは……」 «円往寺で見たな。奴の陰義か。  ……あの折のような幸運は期待できまい» 「……」  あの人は……本当に……  あたしを斬ろうとしている。  殺そうとしている……    そんな。  信じられない。  ……信じたく、ない。 (だめだ……!)  今は考えるな。  何も考えちゃ駄目だ。  考えたら、挫ける。  父様から受け継いだ信念が。  思う事は一つだけでいい。 «〈然〉《しか》らば方途は一つ!  良いな、御堂?» 「……わかった」  あたしは――正義を通す!  正義の戦いを貫徹する! «……!» «御堂» 「ぬ――」 「……応じ技か」 «陰義ね» 「例の鉄炮か?  それとも、太刀に炎熱を通すあの術か」 «いえ。あれはどちらも陰義じゃない。  ただの〈機巧〉《からくり》よ» 「なに……?」  確かに、劒冑の最深奥たる陰義にしては奇妙奇天烈の度が過ぎたが……。 «私達はまだ、〈正宗〉《やつ》の陰義は見ていない» 「…………。  いや」 「おそらく、〈あれ〉《・・》だろう。  こちらの間合に入る前に先制する肚と見た」 «――――»  妥当と言わざるを得ない判断だ。  先制攻撃は常に最も有効な防御でもある。  増して、思い出すだに身震いが起こるあの焼却力。  傷ついた村正を一撃で殲滅し、それで〈終わり〉《・・・》にしてしまう程度、容易い事に違いない。 «なら、御堂» 「無論だ。  ――――〈やらせぬ〉《・・・・》」 「〈磁波装鍍〉《エンチャント》!」 «〈磁装〉《ながれ》・〈正極〉《まわる》» 「なぁっ――」 «うぬ――!?»  正宗の放つ〈勢威〉《パワー》が急速に高まった。  極限まで達した事を直感で悟る。  だが……遅し!  俺は既に抜刀の間合に在る! 「〈磁波鍍装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》」 「吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し……」 「〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟」 「――――――」  俺は……  斬る!! 「あああああああああああああァッ!?」 «ぬうううううううううううううう!!» 「……ちぃッ!」  駄目だ――出力が足りない!  〈斬り切れない〉《・・・・・・》。  並みの劒冑なら、これでも充分に両断できる筈なのだが……。  天下一名物たる甲鉄はやはり堅牢! (しかし勝負は決した……)  この手応え――  〈翼甲〉《つばさ》をほぼ完全に斬り割った!  これではもはや騎航も叶わない。  後は墜落してゆくのみ。  致命打には至らなかったが、勝負はここで―― «御堂、避けてっ!» 「!?」 「……な――」 「何だ、あれは!?」  ……正宗の胸が開いている。  開いて、何かが突き出して……あれは――  骨? «ろ……肋骨!?» 「あれでこちらを〈噛もうと〉《・・・・》したのか」  肋骨を伸張・硬化して牙に変える。    ……そんな攻撃方法があるとは、未だ嘗て想像した事もなかった。  する道理が無いが。  己を巻き込んで爆裂する鉄炮と云い、自分の手をも焼く炎熱の剣と云い……あれは本当に敵を倒す事しか考えていない。  恐ろしい劒冑だ。  ともあれ最後の一手も外し。  正宗は――落ちてゆく。 «……逃がさねぇ……» 「――ッ!?」 «肋骨だけだと思うなよぉぉぉ!!» «ちょっ……» «正宗七機巧が一!  割腹――投擲腸管!!» 「ぎぃぃうぅぁぁぁああああああああッ!!」 「なっ……何だと――!?」  〈投擲腸管〉《スローイングオーガン》ッ!?  当然ながら――いや何をもって当然とすれば良いのか最早わからないが――ただの内臓ではない。  甲鉄化されている。  それはいま強固な力をもって、俺を拘束している! «御堂! 振り解いて!» 「わかっている!  だが……」  そう容易にはいかない。  まずは腕を抜かねば。  片腕でも自由になれば太刀が使える。 «急いで!» 「焦らせるな」  おそらく敵はこの腸を引き込み、俺を手近へ招いて斬りつけてくるのだろうが――この状態で充分な一撃を繰り出せるとは考え難い。いや無理だろう。  ならば慌てふためく必要もない。  留意すべきは陰義だが、それも発動する直前に電磁抜刀で斬り散らした。  術を再び立て直すには時間が掛かる。  火急の危険はない。  まずは落ち着いて、この拘束を―― «違うっ!  敵の陰義は〈もう〉《・・》、〈発動した〉《・・・・》!!» 「――何!?」  それはどういう…… «早く!  このままだとっ――» «御堂ッ!» 「ぐっ……ぎぃ……」 «痛くない苦しくない!  腸なんぞ所詮は消化器、物を食う時以外は無くても困らん!» 「……ッッ」 «行くぞ!» 「あ……あああッ!!」  敵騎、正宗が……  太刀を、鞘に?  何のため――  ――――――――――――!?  これは。  この、力は、 «善因には善果あるべし!  悪因には悪果あるべし!  害なす者は害されるべし!  災いなす者は呪われるべし!»         «因果応報!!        天罰覿面!!» «いけない!!»  〈村正〉《おれ》の、ちから――――――!? «吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し» «〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟ッ!!»  …………  …………………… «御堂»  ………… «寝ている時ではない。  眼を開けて立て» 「……っ……」 「正宗……」 «良し。  状況は弁えていような?» 「…………」 「ああ……」  村正の陰義を受け――  耐えて。その後、正宗の陰義でそれを〈打ち返した〉《・・・・・》。  因果覿面の陰義。  自らに加えられた攻撃を再現して相手へ叩き込む、相州正宗の真骨頂。  つまりあの稲妻そのものの抜刀術を、村正は自分の身に浴びたはずだ……。 「……斃した……のか?」 «いや。  奴めの一刀は本来の威勢を欠いていたようだからな。こちらの返しも力が足らなんだわ» «まったく、腹立たしい!  奴の一撃が腑抜けておらねば、吾の陰義は必殺であったものを!» 「……」  その場合、返す前にこっちが墜とされたんじゃないのか。    ……一瞬だけそう思って、すぐに思い直す。  そんなことはない。  〈正宗〉《あたしたち》は〈絶対に倒れない〉《・・・・・・・》。  倒れないから、つまり必ず敵の切り札を奪い取れる。  この陰義は間違いなく最強の一手だ。  問題は無い。  正宗は倒れないのだから問題など無い。  正義を背負う者は倒れないのだから!    どれほどの傷を受けても、  たとえ――信じた人に裏切られても。 「……くっ」 «外傷は一通り塞いだはずだ。  支障はあるまい?» 「……ねえよ。充分だ」  何となく内臓が足りないような気はするが。  まぁ、今は別にどうでもいい。 「てめぇの方はどうなんだ」 «最低限の修復は済ませておる。  案ずるな» «では参ろうぞ。  悪鬼めも墜としはした……おそらくさほど離れておらぬ何処かにおる筈» «いざ、止めをくれてやらん!» 「……ここはどの辺だ?」 «美浜とか申した辺りだな» 「小弓へ行くのに通ったとこか」  そう言えば、見覚えがある。  習志野から海岸線を下っていったのだ。  ほぼ南東の方角へ…… 「――――」 «奴の所在は…… ぬぅ。やはり地上で〈信号探査〉《みみ》は利かんか» «だが北西とみて良かろう。そちらへ墜ちていったからな。  さぁ、ゆこうか御堂» 「正宗……」 «……む? 如何した» 「あれを見ろ」 «……煙?  そう遠くはないな……» 「ああ。  何だと思う。火事か」 «さて……  …………いや!» «御堂、鋼の音がするぞ» 「鋼?」 «〈軍勢〉《・・》だ。  間違いない» 「……!」 «どうする?» 「行くぞ!」 「………………」 「……やっと追いついた……」 「もう逃がさない」 「花堂大尉!」 「浦安の進駐軍部隊は何処まで来た?」 「既に津田沼を通過した模様です!」 「そうか……潮時だな。  良し、物資の徴発は現時刻を以て終了する」 「後は放火に専念しろ。  どうせ進駐軍に奪われる町だ。何一つ残す必要はない」 「相当数の市民が逃げ遅れると思われますが……」 「構わん!  市民も資源だ。生かしておいては敵に利用されるのみ」 「いずれ〈来〉《きた》る攘夷の聖戦のため、災いの種は少しでも摘んでおかねばなるまい!  全て燃やせ!」 「これは大義である!!」 「はッ!」  ――その様子を、小高い丘の上から見下ろした。 「あいつら……」 «おのれ»  六波羅だ。  その軍装。その紋章。何処をどう見ても六波羅だが何処を見なくてもその〈やりくち〉《・・・・》だけで奴らだとわかる。  物を奪って、  火をかけて、  人を殺戮している! «この正宗の目前でよくも暴れた。  心鉄が煮え滾るわ!» «これを見過ごし、奴らに明日の暁を拝ませてやろうなどとはよもや言うまいな!?  御堂!!» 「訊くんじゃねえ!!」 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの理――」  …………え?  なんだ、これ。  あたし……倒れた?  なんで。    ……脇腹が熱い。  手で触れると、べとりとした感触。  指と指の間に〈纏〉《まと》いつく重い液体。  最近は特に見ることの多い、これ。    今も勢い良く流出している。  出所を探った指先が沈む、その小さな陥没から。  小さく、弾けた肉の穴。  ――――撃たれた? 「邪魔しないで欲しいな。  大鳥中将の命が下ったんだ。……関東中央はひとまずGHQと銀星号の好きにさせる」 「全部隊は可能な限り物資を確保して会津へ撤収。  神州奪回の大戦に備える……とね」 「まぁ、実の所そんなのはどうでもいいんだけれど」 «何者だ!  おのれ、慮外な――» 「…………!?」 «――――!?»  辛うじて頭だけ起こして、見えたのは――大人びた語り口とはまるで釣り合わない年頃の少年だった。  彼は、一人ではない。  小柄な女性を背負っている。  少年ほどではないにしても、やはりまだ若いようだ。  そして、手には拳銃。  ……総じて奇怪だった。  何か、おかしな芸人のように見えた。 「やあ」  涼やかに笑いつつ、そいつが片手を挙げる。  その所作に合わせて、力なく背負われている女性も垂れ下がった腕をぶらんと揺らした。  よほどに弱ってでもいるのか、女性は項垂れたまま顔を起こす様子もない。  けれど、その瞳だけは異様な力をもって、髪の隙間からあたしを見下ろしていた。 「……おまえ……」 「知らないか。  知らないよね」  くつくつと声を立てて微笑む。  少女じみた風貌にその微笑はよく映えた。 「でも私は貴方を知ってる。  会ったのは一度だけ。けど目付きが何だか印象的だったもの。男の方は男の方でむやみやたらに雰囲気が暗かったし」 「それでも入道様が何も言わなかったらすぐに忘れたろうね、きっと。  そうだよ? あの御方は気付いてた。今更言うことでもないんだろうけど」 「貴方たちが敵だって最初から知ってたんだ。  ああ……なのに。あの御方は何事も楽しまないと気が済まないから。手早く始末なされば良かったのに。手管を妙に凝るものだから」 「返り討ちに遭ってしまわれた。  あの日。あの晩……もうひと遊びじゃ、とお出掛けになった入道様はそれきり戻られなかった。どうしてお止めしなかったんだろう」 「違う……それよりも前だ。  どうして私は、貴方と会ったその時に斬り捨ててしまわなかったんだ?」 「貴方。そう〈貴方〉《・・》だ。貴方だろう?  男の方じゃない」 「入道様はどうとも仰せにならなかったけど。でも私にはわかった。入道様のお気に召したのは、〈戯れ心〉《・・・》を起こされたのは、貴方のほうだって……ふふっ!」 「だから、貴方だ。あの月の翳る夜、入道様のお相手を務めたのは貴方に違いない。  入道様は貴方と遊び、戯れが過ぎて冥途へ落ちてしまわれたに違いない」 「そうでしょう……?  そう。そうだ。やっぱりそうだ」 「貴方なんだ。貴方が入道様を殺した。  私は、知ってる……」 «……何だ、此奴。  狂い人か?»  正宗が苦々しげに呻く。  無理もない。少年の発する言葉は流暢だったけれども、内容はどこか支離滅裂だ。  でも、あたしにはわかった。  彼の言う事が通じていた。  彼が誰なのか思い出した。 「おまえ……  あの豚坊主の」 «ぬ?» 「遊佐童心の……小姓か」 「そうだよ!」  思い出したが名は知らない、その少年が破顔する。  嬉しそうだった。 「良かった。すぐにわかってもらえて。  せっかくこうして会いに来たのに、誰だか思い出してもくれないんじゃ、あまりに悲しくて仕方がないもの」 「そう、童心様のお側に控えていた私だよ。  改一媛さん。……本名ではないのだろうけれど」 「……っ……」  名を云おうとしたものの、喉から洩れたのはいがらっぽい咳だけだった。  腹部に感じる熱さから、何か不快なものが口元までせり上がって来つつある。  だが差し当たって、返答にかまけるより優先すべき事がありそうだった。  ……情報がこれだけ揃えば状況も限りなく明白で、むしろ誤解する方が難しい。  遊佐童心の遺臣が訪れて、あたしに銃をぶっ放した。  つまり、その目的は、 «仇討ちにでも来よったか» 「仇討ち?」  嘲る声音で告げる正宗に、少年は鸚鵡返しする。  仇討ち。更にもう一度その言葉を口の中で転がしてから、少年は小鳥めいた仕草で含み笑った。 「そこまで考えてなかったなぁ」 «何をォ……?» 「私はただ、もう一度貴方に会いたくて。  会いたくて会いたくて仕方なかっただけで」 「ほかのことなんて考えられなかった。  だって……それはそうじゃないか?」 「私たちをこんなにしてくれた人だもの!  何を置いても会いたいさ! 顔を見たい!側に寄りたい――」 「話の一つもしたいって、思うに決まってるじゃないかっ!!」 「――ッ……」  あたしの眉間を正確に貫くはずだった弾道は、劒冑の妨害で中途に断たれていた。 「……」 «これが〈話〉《・》か» 「そうだよ。  邪魔はしないでくれないかな」 «……筋違いだ。糞戯けめ。  逆恨みと云っても良いがな» «〈一端〉《いっぱし》に忠臣面などする前に、おのれの主がしてきた所業を顧みてみるがいい» 「……」 «ふん。他の誰よりもおのれが詳しいのではないか? 側に仕えて見てきたのであろう?  吾らも知らぬ奴の浅ましき振舞いの数々をおのれは見届けたのであろうが!» «奴の末路はその報いよ!  〈天網恢々〉《てんもうかいかい》、〈疎〉《そ》にして洩らさず!!» «かの坊主めは形も留めぬ無惨な最期を遂げよったが、それこそ相応の死に様であったのだ! クハーハハハハァーー!  道理をわきまえるがいいわ〈小童〉《こわっぱ》め» «復讐の義など悪党には立つまいぞ!  厚顔無恥も甚だしい!!» 「――――」  ……少年は〈俯〉《うつむ》いている。  正宗の語気に押されたように見えた。  ……肩が震えている。  泣いているように見えた。  ――違う。  そうじゃない。  正宗は気付いているだろうか。  いや。見えていないだろう……倒れているあたしにしかそれは見えていないのだ。  少年は笑っている。  傷ついてもいないし泣いてもいない。  楽しそうに嗤っているのだ。 «――この正宗は神罰の運び手なり。  正しく素早く確実にを合言葉とし、悪人共のお手元へ品質の高い天誅をお届けする〈降伏〉《ごうぶく》の使者!» «罪に死罰を! 悪に死罰を!  〈天道正理〉《てんどうしょうり》ここに在り!» «我が刃は一点の曇りとて無し。  小童め。よくも正義に仇を為したな» «筋違いの憤懣を振りかざし、吾の仕手を傷つけるとは許し難い。  その罪犯の報いを受けよ!» «同じだけの傷をくれてやる!  この正宗は少年法とか知らぬのだ。未成年だからどうした。社会に養われておる身なら尚のこと襟を正して粛然と生きるがいい――» «うぬっ!?» 「っ……!」  何だ?  ……何かを投げつけられた。  拳銃を持つ側とは反対の手に抱えていた包み。  その中身を撒いたらしい。  何か――液状の――  いや、固形物も混じっている。  硬いものと柔らかいもの。  硬い何かの一つは、頬の上に落ちてきていた。  手に取る。  白く、細い。  少し力を込めただけで、ぺしりと砕けた。  脆い。  それには液状物と、柔らかい固形物もまとわりついている。  液体は〈どろどろ〉《・・・・》と、軟体は〈べちょべちょ〉《・・・・・・》としていた。  これは何だろう。  ……きっと、少し考えてみればわかる。  けれどどうしてか、考えたくない。  理解したくない。  これが何かなんて、知りたくない。  だって。  これはどう見ても、   の、  だ。 「ふふふ」 「ふふっ、あはは」 「それはね……」 「私の甥」 「入道様の〈御子〉《おこ》」 「〈この〉《・・》姉さんの」 「残念ながら……  生まれ落ちた時にはもう、そんな姿だったけれど」 「あはははははははははっ!」 「さあ笑って。  笑ってよ!」 「これが貴方の言う、悪党の無惨な最期だ。  相応の末路とやらだ」 「入道様は粉々に斬り刻まれてしまわれた。  〈側女〉《そばめ》だった姉さんは、それを見るや狂してしまった」 「とても耐えられなかったに違いない。  大恩ある入道様――子供のような入道様!困らされてばかりだった入道様、けど心からお慕いしていた入道様が……あんなお姿に!!」 「気が触れた姉さんは、臨月も近かった身で、階段から転げ落ちてしまった。  それで、そうして……これだ!」 「貴方のしたことだ!!」 «――――» 「――――」 「入道様を殺し、私の甥と姉も死なせた。  どうして? ああ、天罰。そう言っていたね……入道様が悪いことをしたからだと」 「でもおかしいな。わからない。  なら姉さんは一体、何をしたんだろう」 「生まれてもいなかった甥は、何をしたんだろう。  なぜ〈貴方に〉《・・・》裁かれてしまったんだろう?」 「生まれる前に殺されなくてはならない理由というのは何だろう……。  わからない。わからないな」 「でも仕方ない。もう終わってしまったんだ。  入道様、姉、甥。私のすべては貴方に奪われてしまった」 「貴方のものだ。  すべて貴方のものなんだ」 「仕方ない。  それが既に事実なら受け入れるとも」 「すべて貴方に差し上げよう!」  そう言って。  少年はあたしの傍らへ屈み込み。  〈肉片〉《・・》を一つ、あたしの口へ突き込んだ。 「……ッッ……!!」  透き通るかに美しい、少年の笑顔。  腐りかけた女性のどす黒い眼差し。  泥じみた肉塊。  あたしは死せる母に見下ろされながら、  生まれることのなかった  に口付けている。  汚穢。  無垢。  究極的に相反すると思われた両者が混淆して在った。  ――ああ。    この味には、覚えがある。  これは罪の味。  〈正義を犯した〉《・・・・・・》罪の味だ。  〈円往寺縁起〉《えんのうじえんぎ》に云う。  閻魔大王は亡者達の罪を裁き相応しい罰を与えるが、日に三度は自らが亡者達に押さえつけられ、溶銅を口から流し込まれる。  灼けた銅は閻魔の喉から臓腑まで焦がし、如何なる亡者にも勝る苦しみをもたらす。  閻魔はこれを罰として甘受せねばならない。  何故なら亡者を処罰し苦しめる事は、閻魔大王の罪に他ならないからである。  綾弥一導という人は、相模〈國庁〉《こくちょう》の役人だった。  國庁は税金を運用し、一國を運営する機関である。  当然、そこに勤務する者は公正でなくてはならない。  彼はそう信じていたから、誰よりも正しく在ろうとした。    いや。事の順序はその逆だったろう。  彼は元来、人としての正しさを追い求めてやまない人間だった。  誰もが他を思いやり、利己心に囚われず、助け合い支え合って生きてゆく――そんな世界を望んでいた。  だから、人として正しくない在り方、  正しい世界を到来させない邪悪を憎んだ。  人を虐げて愉しむ。  人を騙して利する。  人から奪って富む。  ――それら邪悪を身魂に懸けて憎悪した。  正義を愛し、  邪悪を憎む。    いつか正しい世界を創り上げるため。  誰もが子供のうちに喪失する夢。 〝現実〟との戦いに敗退を繰り返す内いつしか色褪せ朽ちてしまう理想を、彼は類稀な熱情でもって、鮮明なまま成人後まで抱き続けた。  そんな誰よりも正しく在ろうと願っていた人は、己の天職として、國庁へ出仕したのに違いない。  其処にこそ自分のような人間は求められているのだと確信して。  実際は、どうだったろうか。  少なくとも、彼の同僚となった人々の見解はだいぶ異なったらしい。  國庁での彼は不可避の前提として常に公正さを第一に置きつつ政務に臨み、また公正の意味を履き違えることもなかった。  公正と数学的均等とは全く違う。  彼は主張した。  現状の税制は、低所得者にとって重過ぎ、高所得者にとって軽過ぎる。前者の税率を下げて、後者を引き上げるべし。  また主張した。  インフラ整備の状況に問題がある。公機関や大企業の利便性ばかりが優先されており、しかも度が過ぎている。人口分布の面からも検討し計画の修正を。  また曰く――      彼は短時日のうちに國庁で独自の立場を築き上げた。  より端的に言えば、孤立した。  理由は明々白々で、彼が公正な人間の巣であるべしと信じた國庁は何故かその実、公正の対極に身を置く人間の溜まり場になっていたからだ。  彼は〈場違い〉《・・・》な異分子と見做され、疎まれた。  味方も全く皆無ではなかったけれど、僅少だった。  彼が真に非凡さを発揮したのはそれからである。  彼は屈しなかった。周囲の圧力にさらされながら、その信念をほんのわずかにも曲げることはなかった。  むしろ強めた。    ――自分の幻想は砕かれた。  だからこそ、前にもまして、正しく在らねばならぬ。  自分を除く百人が誤っているなら、  その百人の分まで正しさを求めねばならない。  血税に養われる公務員として、それは義務だと彼は信じた。  無論、仮に國庁が民営であったとしても彼の姿勢に変わりはなかったろうが。  彼は正道を追求し続けた。  弱者から収奪する法に反対し。  強者の便宜を計り、富のおこぼれに〈与〉《あずか》ることに異議を唱えた。  彼はいかなる努力も惜しまなかった。  そして、報いられるところはあまりに少なかった。  同僚からは愚者とみられ、政治の脚本家でありたい財界人からは邪魔者とされた。  あまつさえ、彼が助けたいと願った市民から笑われ、罵声を浴びせられることもあった。  偽善者。役立たず。夢想家。  彼に付けられた〈渾名〉《あだな》の数々に注釈を付けてまとめれば、それだけで一冊の本が出来たろう。  それでも尚、彼は不屈だった。  役人として。否、ただ人として。正しく在るという命題の追求をやめなかった。  誰にも喜ばれない奉仕の日々。    その果てに彼が与えられた報酬は、彼の信念を嘲弄するかのような矛盾だった。  國庁における彼の数少ない友人のひとりが汚職――公金横領――を行い、その事実が彼の察知するところとなったのだ。  もし、事がただそれだけの説明で足るものであったら、彼は傷つきながらも耐え、信念のまま生き続けたろう。  実際には〈幾許〉《いくばく》かの付記すべき事項がある。  その前年、津波で大被害を受けた小村があった事。  友人が村の復興計画を立案し、予算を申請した事。  承認された予算は申請額の一割に満たなかった事。  村の状況は切迫していた事。  かくして横領された金は、友人の懐には一銭たりと収められていなかった事。    ……等々である。  友人の苦境、苦悩、苦渋の決断に至るまでを、彼は痛切なほど理解した。  友人の立場に自分があったなら、果たして他の選択はあっただろうかとも考えた。  それでもしかし、友人の行動は彼の規範に照らして悪であった。  相模國全体から徴収された税金を、一役人が恣意的に特定地域へ施すのは、決して許されない事だった。  矛盾。  友人は正しかった。  友人は誤っていた。  迷いなく正道を歩み続けていた彼は、その時初めて立ち止まった。  進むべき道を定めあぐねた。  友人の行為を善しとして、横領を黙認するか。  友人の行為を悪しとして、告発し弾劾するか。  彼にとってはどちらも正しく、また誤っていた。  どちらにせよ、彼の正義と完全に整合するものではなかった。  それでも彼は決断せねばならなかった。  その答がどちらであれ、彼は遂に知ったに違いない――全き正義など現実世界では成立しない、と。  おそらくそうすることで、彼は〈人間〉《・・》になり得た。  社会の枠の中に自分自身という部品をはめ込むことがようやく叶ったのだ。  しかし、彼は人間にはならなかった。  どうあっても真っ直ぐには進めない道、右か左へと曲がらねばならない分岐路を、それでも中央突破した。  道を外れて人間を捨てた。  野を駆ける〈狂者〉《ケモノ》となった。  つまり。  彼は己の正義観に基づいて友人を告発し、  その遺志を継いで私費で村を救い、  最後に、友人を裏切った己を邪悪と断じて殺した。  彼は正義を貫き通した。    それは紛れもない狂行だった。  〈綾弥一条〉《あたし》は思い出す。  終わりの日を思い出す。  遠い記憶。封印した光景。  重く固く閉ざされた箱の蓋を今こそ開こう。  ――あの日。  父様は既に、何もかも失っていた。  父様は綾弥の家の財産を投じて村を救ったけれど、自分の名前を一切出さずにそれを行ったから、村の人たちはあくまで父様の友人に救われたのだと信じた。  そして父様を人間として可能な限り憎悪した。  國庁の内外にわずかながらいた父様の味方も、雲散霧消した。もちろん以前から父様を疎んでいた連中は別に代わって手を差し延べたりしなかった。  父様はすぐ役所を逐われた。  一方、綾弥の親族は、いずれ自分らにも分配されるはずだった財産を費消してしまった父様を責め立てた。  父様が無言なのを良いことに残った全てを奪い取り、唾だけ吐き返して去っていった。  父様の一番の友人も、もういなかった。  その人は腐った眼窩に怨念を込めて、父様を見下ろしていた。  片瀬、〈龍口〉《たつのくち》の処刑場。  大戦勝利のための挙国一致を叫んだ直後の横領事件は軍部を激怒させ、それが時代錯誤な行いに走らせたらしい。  父様の友人はここで磔刑にされ、そのまま晒された。  遺骸は既に、手足の形もわからないほど崩れていた。  それでも、顔面が刻む最期の表情は明らかだった。  裏切り者め、と叫んでいた。  父様はその声を聴いている。  正座して、刮目して、怨嗟を受け止めていた。  その手には脇差。  あたしは大刀を持たされていた。 「むん」  何の前触れもなく、父様は脇差の鞘を払い、切先を横腹に突き立てた。  うっと呻いて、あたしの前の大きな背中が屈む。 「ぐむっ」  更に唸りながら、父様は刀を横へ引いた。  じゅりじゅりじゅり、という音が聞こえた。  〈百足〉《むかで》を石で潰すような音だった。  端まで切るだけ切って、父様は刀を捨てた。  そうして、震える手で、ゆっくり――きっと精一杯急いでいたに違いないけれど――傷口から何かを取り出した。 「一条」 「見るのだ」  父様が掲げて見せるそれは、糞便のような形をしていた。  ぐずぐずして、だらしなく垂れて、酷く醜悪だった。 「匂いを、嗅げ」  それこそまさしく糞便同然だった。  真夏の炎天下に放置した生魚より、なお酷い。 「汚かろう」 「臭かろう」 「これが悪だ」 「これが罪だ」 「これが、邪悪というものだ」 「私は邪悪だ」 「ようやくわかった。  〈悪を討つことも悪なのだ〉《・・・・・・・・・・・》」 「正義を〈翳〉《かざ》し、  対立する意見、思想、行為、――人間を」 「悪と断じて、封殺する……。  それは罪なのだ」 「正義を貫いた私は邪悪であった。  ようやく腑に落ちた……」  父様は      晴れ晴れと、笑った。 「我が人生に揺らぎなし。  我が正義に曇りなし」 「たとえ私自身が邪悪であっても、  それを私が許さないなら正義は〈充〉《み》つる」 「一条」  父様の声があたしの背を鞭打つ。    その時、あたしには何もわからなかった。  けれど、父様の血肉を受け継ぐこの肉体は別だった。  すべきことを理解していた。 「これが最後の教えだ」 「お前がどのように生きるのかはわからない。  どのようにも、お前の意思で定めればいい。  だが、私に教えられる限りの全ては教えておく」 「憎め」 「悪を憎め」 「許してはならない」 「あらゆる悪を否定せよ」 「一片の例外もなく――」  腕が勝手に動いていた。  あたしの体をいま動かすのはあたしではなく、父様だった。  父様の教えだった。 「悪を憎め」 「私を憎め」 「私の悪を憎め」 「殺せ」  抜き放たれた白刃が天を指す。  どう考えてもあたしの手には重過ぎたはずのその刀は、けれど〈小揺〉《こゆるぎ》さえしない。  介錯の作法を完遂する。 「人は正しく在らねばならない」 「人としての原則に背くが、悪」 「これを許さぬが、正義」 「一条」 「正義を行え」 「私を」 「殺せ」          あたしは父様の首を〈刎〉《は》ねた。        〈正義〉《つみ》を為した。             父を殺した。  切り落とされた父様の首は、  倒れなかった。  すっくと立って、あたしを見た。  唇が動く。  声を聴いたのは、きっと錯覚に違いない。  けれど、届いたのだ。  最期に、父様が言いたかったことは―― 「正義を為すことは罪悪である」 「これは避けられぬ〈理〉《ことわり》。  潔白にて正義を達する道は無い」 「邪悪の討滅は、正義がその正義たるを捨て去ることによってのみ成される」 「〈善悪相殺〉《・・・・》」 「善と悪は刺し違えて、共に滅ぶもの」 「それでも」 「それでも――――」  あたしには何もわからなかった。  どうしてこのようなことになったのか。  どうして父様はこうなったのか。  どうしてあたしはこんなことをしたのか。    わからなかったから、全部心の奥底に封じ込んだ。  忘れようもないこと――  父様の望み。正義の追求だけを心臓に宿して、それからを生きた。  ……そして十年。  あたしはここへ帰って来ている。  父様の伝えたかったことを、今度こそ受け止める。  答えは全部ここにあった。  最初から全てあったのだ。  全て。  〈原点〉《ここ》に。  ――〝それでも〟    父様は最後に、そう言った。  そう。  それでも、と言ったのだ。              〈それでも〉《・・・・》。  憎悪の声が響いていた。  怨念の声が轟いていた。  それは父様が聞いたものと同じ。 「私が、貴方たちの知らない入道様を知っているだろうって……?  ああ、知っている! 知っているよ!」 「優しい御方だった!  両親を失くして、後を追うばかりだった私と姉さんを助けて下さったのは入道様だ!」 「両親が昔、些細な事件で、入道様を助けたことがあったのを覚えていて下されたから!  たったそれだけのことで、入道様は危険も顧みずに私たちの身柄を引き取ってくれた」 「育ててくれた。  士分に取り立ててさえ下さった」 「いくら感謝したってし足りない。  だのに入道様は、いつも笑って仰るだけだった……わしは婆娑羅者、おのれのやりたいことをやっただけよ、と」 「――優しい御方だった!!  さあ、どうだ!? 満足か? 聞きたかったんだろう?」 「入道様がどんなお人か、知りたかったんだろう!!」 «…………» «……だ……だが……。  あの男は……» 「ああ、そうだね。  入道様は悪いことも色々なされた。ご自分の欲にのみ忠実な御方だったから」 「けれどだからって、私にとっての入道様が変わるわけじゃない」 «…………» 「ふふ……あはははは!  仕方ない! 今更、こんなこと言ったって仕方ないよ!」 「もう死んでしまったんだ。  入道様は……」 「姉さんも」 「生まれるはずだった赤子も!」 «う……うぅ……» «赤子……  ……赤子だと…………» 「殺した。  貴方が殺したんだ」 「〈それ〉《・・》は貴方が殺したんだよ?」 «ち、違う……» 「違わないさ。  どうして否定なんかするんだい……?」 「さっきまであんなに、堂々としていたじゃないか。  ちゃんと胸を張ってよ」 「入道様が悪人だったから!  妊婦の姉さんと胎児ごと、まとめて殺してしまったんだって、言えばいいだろう!」 「それで私も殺してくれれば言う事はない!」 «妊婦……  ……馬鹿な……» «それは……蒙古の所業……!  吾は……あのような惨劇を二度と起こさぬために……» «……ア……» «アガッ……» 「どうしたの、劒冑?  立派な甲鉄にひびが入っているよ……?」 「今にも砕けてしまいそうだ」 «ギッ――ガッ、ゲげゲがが» 「何をしているのさ。  どうして貴方が恥じなくてはならない」 「貴方は正義をしただけなんでしょう?」 「刃には一点の曇りもないのでしょう?」 「そう、その通り!  貴方の藍色の甲鉄はとても美しいね……」 「貴方が殺した胎児の血と相俟って、まるでとりどりの朝顔が咲く花畑のようだ!  とても綺麗だよ!」 «ゴァァァァアアアアアアアアアアアッッ!!» 「うろたえるな、正宗!!」 «……ミ……» «……御堂……!?»  正宗の頭を右手で掴む。  同時に、歯と歯を食い締めた。  そこにある肉片を噛む。  腐敗を味わう。  それはあたし自身の、穢れの味だ。  あたし自身の、腐り果てた臓物だ。 「わかってなきゃいけなかった。  こういうものだって」 「正義は心地良くなんかなくて。  腐敗と汚濁に満ちている」 「この道に光は差さなくて。  ただ暗く澱んだ沼が広がっている」 「……そうなんだ。  それを知らなきゃ、いけなかった」  体を起こす。  膝に力を入れて、立ち上がる。  途方もなく重い。    魂に掛かる〈罪科〉《おもに》があった。 「ははっ。  そうじゃなきゃね」 「貴方は立派な立派な正義の人だ。  私のような悪人の仲間の前で倒れていてはいけない」 「さあ、どうぞ。  私のことも、殺すといい」 「その劒冑で!  惨めな死骸に変えてくれ!」 「…………」 「……?」 «御堂……» 「行こう、正宗」  非道な暴力に晒されている町が眼下にある。  生命財産を理不尽に奪われつつある人々がいる。  〈正宗〉《あたし》には彼らを守って戦う力がある。  だから、行こう。  急がねばならない―― 「ぐっ……」 «御堂!» 「酷いな。  せっかく会いに来たのに、相手もしてくれないって?」 「……悪い。  急いでるんだ」 「づぐ……」 「……ふざけるなよ。  今更……私だけ見逃そうっていうのか?」 「だったら!  何故!」 「入道様を殺したあッ!!」 「姉さんを!  入道様と姉さんの子を!」 「殺したんだぁぁぁぁぁああああああッッ!!」 「……ッ……」 「くっ……くそっ……」 「くそぉ…………」 「……」 「ごめん……」 「…………」 「おまえがあたしを憎むのは当然だと思う。  あたしは……許されないことをしたんだと思う」 「でも。  あたしは、それでも」  それでも。 「自分で自分を許せなくても。  戦うって、決めたから……」  あたしの背を、嗚咽の音が叩いていた。  それはやがて、滝のような慟哭に変わった。  一滴一滴があたしの罪を唄っていた。  肌を突き刺す罰の針だった。 「正宗。  正義の行く先は、ここなんだ」 «…………» 「誰にも認められない。  誰にも喜ばれない」 「誰かを嘆かせて。  誰かに憎まれる」 「……当たりまえ。  だって、あたしのしていることは、正しくなんかないんだから」  あたしは――  自分一人の〈理想〉《ゆめ》を追っているに過ぎないのだから。 «……では……御堂…………» «我が〈御堂〉《あるじ》よ!» «どうか教えてくれ。  〈正宗〉《われ》の理念は虚構であったのか……?» 「……」 «……正義は……» «〈この世に正義は無いのか〉《・・・・・・・・・・・》?» 「いいや」 「〈それでも正義はある〉《・・・・・・・・・》!!」 「狡猾な奴らだ。  自分の町に火をつけていくとはな」 「撤退しますか、隊長?」 「そうもいかんだろうさ。  敵部隊の集結を許さず各個撃破というのが司令部の方針だ」 「あの六波羅どもは見逃せない。  火勢の弱い箇所を狙って突破し捕捉、撃滅する」 「避難中の市民集団との接触は避けられないと思われますが……。  その場合の対応は?」 「威嚇射撃で散らして道を作れ。  それでも埒が明かなければ――強行突破だ」 「……宜しいのですか?  後で問題になるのでは……」 「問題? ああ、問題さ。  民間人に発砲するんだ、問題にならない筈があるか!」 「だがこいつは選択だ。  我々は祖国の栄光のために戦うのか、それともこの国の平穏のために戦うのか?」 「どっちだ?」 「……建前の上では、後者だったような気もしますがね」 「建前。わかってるじゃないか。  そう、そして軍を動かすのは建前ではなく生憎と〈現実〉《・・》の方だ」 「我々は現実的に行動すべきだろう」 「常々思うんですか、自分は職業選択を間違えたようです。  ハリウッドスターになってみんなの夢の中で生きていれば良かった」 「全くだ。なんでそうしなかった?  愚かな君よ、さあ仕事を始めよう」 「武器も持たない市民に向かって雄々しくも銃口を突きつけるとしようじゃないか。  こうすることで戦争は早く終わり、結果的にこの国の平和にも寄与するのだと信じてな」 「諒解」 「……〝神よ我らの慈悲深き女王陛下を守りたまえ〟……」 「……〝我らの気高き女王よ永遠なれ〟……」 「……〝神よ女王を守りたまえ〟……」 「……〝陛下に勝利と幸福と栄光を〟……」 「……〝治世に長久を〟……」 「……〝神よ女王を守りたまえ〟……」 「…………」 「!」 「誰だ!?」 「…………」 (子供か……) 「あっちへ行け」 「…………」 「早く!」 「…………」 (くそっ、言葉がわからないのか。  大和語では……確か……) 「アッチ、イキナサイ。  ハヤク、ニゲナサイ」 「…………」 「……」 「行けっ!」 「ひとごろし!」 「くっ」 (こいつ、石を投げやがった……) 「馬鹿なことをするな!」 「とうさんをかえせっ!  かあさんをかえせっ!」 「かえせよっ!」 「やめろっ!」 「やめろって、この餓鬼――」 「…………」 (え?) (嘘だろ……) (あ、当てるつもりなんかなかった……) (脅かすだけのつもりで) (……手元が狂って……) (…………そんな…………) 「――――」 「……し……主よ……  我らが神は降りたまい……」 「……〝陛下の敵を打ち払い、滅ぼす〟……」 「全ては女王のため。  全ては祖国のためか?」 「……」 「それがお前の正義か」 「……否定しようとは思わない。  お前がその正義を信じて戦うことで、救われる人々は確かにいるだろう」 「だが」 「その影に〈救われなかった〉《・・・・・・・》人々がいるという事実は決して消えない……」 「……!!」 「お前は子供を殺した。  その事実は永遠に存在する」 「…………」 「……YOU ARE GUILTY」 「オアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」 「…………」 «御堂……» 「この辺りは、もう無人のようだ」 «ええ。  あの兵士のお仲間は町の中心部へ向かって進んでいるし……» «住民は……逃げたか、  ……そうでなければ……» 「……」 «いくらかは助けられたのかしら。  私たちがあの連中の一部を足止めしたことで……» 「〈いくらか〉《・・・・》は。  だが」 「……彼らは助けられなかった。  間に合わなかった」 «……そうね……»  足元を見る。  もう動かない男児。  そして少し離れた所に、折り重なって倒れ伏す男女。    皆、見覚えがあった。……小弓へ向かう途上で立ち寄り、争いに巻き込んでしまった、喫茶店の一家だ。  元々この町の住人であったのか、それとも避難して来ていたのか。  いずれにしても彼らはここにいて、その結果として、〈こうなった〉《・・・・・》ようだ。  運が無い。    ……その一言で感情をすべて整理するのは無論、不可能だった。  こぼれ落ちるのは自責の念。  それともう一つ。 「……何故、戦った?」 «…………»  劒冑は応えてこない。  そちらへ向けた問いではなかった。  問うた相手も、しかし応えない。  応える力が既になかった。  男児は動かず、ただ伏している。  彼は人間という生命ではなく死骸という物体なのだから、当然の事だ。  誰も俺に応えない。 「何故」  誰も訊かぬ問いを繰り返す。    何故――逃げなかったのか。  何故、石など投げたのか。  何故、〈戦いを挑んだ〉《・・・・・・》のか。  両親を殺された怒りか。    それはわかる。  しかし、ならばむしろ逃げるべきだった。  今は勝てないとわかっているのだから、逃げ延びて、復讐の機を窺わねばならなかった。それが道理だ。  なのに、何故……  ああも真っ直ぐに挑んでしまったのか。  復讐心だけでは説明がつかない。  ならば……  何が―――― 「こわくない?」 「そうだな。  ちょっとな」 「でも、たたかう?」 「うん」 「なんで?」 「そいつが、勇気」 「――――」  君は、受け止めてしまったのだろうか。  あの一途な魂を。  だから、なのか。 「〈眩〉《まばゆ》い……」 «……» 「一条。  お前の正義は、輝き過ぎている」  それは、魂からの輝きだから。  何の嘘偽りもないから。  お前に抗えるほど強い意思を持たない人々は、  皆、その輝きに――――〈導かれてしまう〉《・・・・・・・》。 「村正。……正宗の所在はわかるか」 «おおよそは。  ……行くの?» 「ああ」 «でも、貴方の体は、もう» 「わかっている」  片手を挙げて、俺は劒冑の〈金打声〉《こえ》を遮った。  ……それだけの動作で、胸筋に入った裂傷から血が洩れた。  この肉体の〈損傷〉《ダメージ》は既に深刻という域を超えている。  正宗が見せたあの法外なる陰義――〈陰義返し〉《リターン・ザ・ピリオド》――の直撃、そしてそれに先立つ戦傷の蓄積は俺の耐え得る限度以上のものをもたらしたのだ。  それでも俺はまだ立っている。  限度を過ぎて、なお立ち続けている。  奇跡ではない。  単に借金取りから逃げ回って返済を先延ばしにしているだけなのだと理解している。  末路は約束されていた。 「いま倒れれば俺は二度と目覚めない。  〈二度と〉《・・・》」 «…………» 「その前に済ませることがある。  あとひとつ」 «御堂――» 「俺は」 「綾弥一条を倒す」 「…………」 «……御堂。  東の方で、この者どもの仲間が別の軍勢と争っておるようだ……» «如何する?» 「……」 «――むっ?» 「正宗殿!  ようやくお会いでき申した」 「……え?」 「町に火の手が上がっているのが見えたので、もしやと思ったのですが……  確かめに来て良かった」 「姫さま……」  ……岡部の桜子姫。その義弟。  背後には更に数人の武人が続いている。 「よくぞご無事で――」 「いや、お待ちあれ義姉上。  今は再会を祝している場合ではござらん」 「正宗殿とこうして出会えた上は、すぐにも去就を定めねば……。  近くには六波羅のみならず進駐軍もおるのですぞ」 「……そうですね。  正宗様、現在の政情はご存知ですか?」 「……いや。たぶん何も知らない。  ずっと銀星号を追っていたから……」 「では手短にご説明します。  わたくしどもは計画通り、鎌倉から舞殿宮殿下をお救いするべく準備を整えたのですが――」 「実行に移す直前、建朝寺炎上の報を受けました」 「――――」 「舞殿宮殿下のご生死は定かならず。  そして奇怪なことに、建朝寺へ襲撃を仕掛けた当の堀越公方足利茶々丸もその日を境に行方を晦ました様子……」 「ともかくもそんな情況ではどう動くもままならず、潜伏して情報収集に努めていたのですが……そうこうするうちに今度は房総半島で銀星号事件がかつてない連続発生を始めて」 「その異変に乗ずる格好で進駐軍が動き出し、六波羅はこれを看過せず、両者は各地で衝突。  ……現今、関東一円は斯様な混沌たる情勢の只中にござる」 「わたくしどもはせめてできる事だけはしておこうと、宮殿下のご無事を信じて探す一方、正宗様たちの行方も追っていたのです。  ……ここでお会いできて良かった」 「まことに。ろくろくあてもない探索でしたからな。  それはさておいて、今は今後の事でござる」 「正宗殿。我らは既に御身を頭領として仰いでおり申す。故にご意思を承りたい。  我らは――香取に集結せし同志一千名は、これより〈何処〉《いずこ》を目指すべきでござろう」 「……今はまさしく五里霧中です。  宮殿下の捜索を続けながら、機を窺うべきでしょうか……?」 「……」  ――そうか。  そんな事になってしまっているのか。  平穏は失われた。  戦乱が始まったのだ。  多くの人間が既に死に果て、これからは更に多くが死に続ける。  それが誰かの故意でもたらされたものであるなら、途方もない悪業だ。  そして事実、それはあたしの意思がもたらしたのだ。 «……だが。  悔いはせず、立ち止まりもせぬ» «そうなのだな? 御堂……»  ああ。  ……そうだ。  あたしは全ての罪を抱えて、この道を進み続ける。 「何も変わらない。  親王さまがいなくなっても、あたしの――あたし達のやることは同じだ」 「……正宗殿」 「では……」 「戦う」 「進駐軍が侵略するなら進駐軍と戦う。  六波羅が町を焼くなら六波羅と戦う」 「大和に仇為す全てが敵だ」 「おお……」 「暴君も侵略者もいらない。誰も傷つけず誰からも奪わない人間だけが残ればいい。  この国をそうするのが、あたし達の目指す処だ」 「あたし達の……正義だ」 「そのお言葉を頂きとうござった!  家も名も失いし我ら岡部の一党……かかる大義の為に命を擲てるのであればこそ、生き永らえた甲斐もありまする!」  黒瀬童子が吼える。  その隣で、桜子姫も頷いた。  彼らはあたしを信頼している。  ……あたしのゆく道についてくる。  彼らはこれから戦うだろう。あたしを信じたが為に。  殺し、殺されるだろう。あたしの正義の為に。  それは――絶対に、正しくなんかない。  例え敵が言語道断の悪であっても、それに戦い殺すという手段で報いる者はまた別の悪でしかないのだと、あたしは知っている。  決して正義たり得ないのだと知っている。  知っていながら――その二文字を掲げて、あたしは彼らを戦場へ〈誘〉《いざな》うのだ。  正しい事であるはずがない。  恐ろしい過ちだ。許されない誤りだ。 «それでも»  それでも――――    そうしてあたし達が戦った果てに。 〝正義〟を掲げて〝悪〟を討ち続ける事ができたなら。  いつか――それは生まれ出ずるのではないか。  この世には正義があるのだと、  悪を許さぬ正義があるのだと、    ――誰もがそう信じた時。  人々は自らの意思で、悪を捨て去るのではないか。  綾弥一条のような者に害されるまでもなく、邪悪と離別できるのではないか。  そうなるなら……    それは、  争わずして人を正しく導く心の法の完成だ。  〈真実の正義だ〉《・・・・・・》。  あたしはそこへゆく。  その場所を、目指す。 「では、直ちに参りましょうぞ!  香取で同胞達が待っておりまする」 「うん。  ……悪いけど、少し待っててくれ」 「その前に、やらないといけないことがあるんだ」 「は。  それは……?」 「……」 「正宗様……  〈あの方〉《・・・》はどうなされたのです?」 「ご一緒ではないのですか……?」  応えずに、あたしは歩き出した。    ――その方角だと知っていた。  正宗が示したのかもしれない。  示されるまでもなく、わかったのかもしれない。  あの人が来る。 「……」  捨てねばならないものがあった。  手に取って、その形を確かめる。  漆塗りの〈玉簪〉《たまかんざし》。  あの人から贈られたもの。  湊斗景明。 「……っ……」  記憶のすべてがそこにある。  止め処なく溢れる想いがそこにある。  それは決して、辛くはなかった。  痛みはあっても、苦くはなかった。  今ならわかる。  あの人も迷っていたのだと。綾弥一条と同じように。きっとそれ以上に。  なのに、あの人はいつも全力で応えてくれた。  あたしが〈詰〉《なじ》っても。頼っても。問い掛けても。  どうして、あの人を恨めるだろう。  振り返ってみれば長くもない、あの人と共に歩んだ日々を、どうして忘却の淵に沈めてしまえるだろう。  今は感謝の念しか湧かないというのに。    けれど、これはこの先へ持って行くことができないものだった。  この髪挿――  この記憶、この想いは、ここへ置いてゆかねばならないものだ。  訣別のために。  あの人が全力であたしに応えてくれたように、  あたしも全力であの人に応えるために。  別れよう。  前へ踏みしめる一歩をためらわせる、この想いと。 「――――――」 「…………ッッ!」  噛み砕いた。  粉々にして、胃の腑に落とした。  捨てられない。忘れられない。  けれど、持ってはいられない。  ――だから、こうするしかなかった。 «御堂……» 「行こう。正宗」  あの人はもう、そこにいる。  そこに佇んで、あたしが来るのを待っている。  戦うために。 「今、そこで子供が死んだ」 「覚えているか。  あの喫茶店にいた男児だ……」 「お前が正義を語って聞かせた彼だ」 「彼は両親の命を奪った進駐軍に、石一つを手にして挑んだ。この世の誰よりも勇敢に。  勇気の意味も知らずに」 「そして……当たり前のように死んだ」 「……………………」 「一条。あと一度だけ言う。  これで最後だ」 「正義を信じて戦う事は止めない。  だが、戦いに正義の二字を〈飾る〉《・・》のは止めろ」 「戦いというものの醜い真相を隠さない為に。  その戦いに次ぐ戦いを引き起こさない為に」 「貴方の言うことは正しい」 「戦いは単なる醜い殺し合いだし、  正義なんて呼べたものじゃない」 「なのに正義と言い張って、他の人たちまで引き連れて戦い続けることは、きっと最低の悪業だ。  決して……許されない。〈それでも〉《・・・・》」 「…………」 「〈綾弥一条〉《あたし》は正義を掲げて戦う!  その二文字のもとに悪を討つ!」 「そうして、行き着く処に――戦いのない、正しい世界があるって信じる」  ――村正という劒冑があった。 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」  深紅の劒冑は、人々を無為に死せしめる〈戦〉《いくさ》を憎んだ。  憎んだ故に、その醜さを暴き立て人々に知らしめることを誓った。  ――正宗という劒冑があった。 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」  濃藍の劒冑は、無辜の人を生餌にする邪悪を憎んだ。  憎んだ故に、あらゆる悪の天敵たる正義をこの世に生み落とさんと誓った。 「「ツルギの理――――ここに在り!!」」  村正という劒冑があった。  正宗という劒冑があった。  共に同じもの――  平和の世を求める劒冑であった。 「……〈深紅〉《あか》と……〈濃藍〉《あお》…………」 「義姉上、あれは……」 「……どうして……」 「………………………………」 「オオオオオオオオオオッ!!」 「るぁぁぁァァァァァァッ!!」  ――――わかっていた。  もう、わかっていたのだ。全て。  対敵は偏に〝〈人間〉《ひと》の〈正義〉《ただしさ》〟を追い駆けている。  年端もゆかぬ子供のように。純粋に。強固に。  真っ直ぐに。  それの何処が、間違いなのだろうか。  何処も。  何処も、間違ってはいない。  そう思う。    そう、〈理解し〉《わかっ》ている。  〈理解し〉《わかっ》ているのだ。 「〈磁気加速〉《リニア・アクセル》!」  対敵は偏に自分を止めたいと願っている。  銀星号の後継者たりかねない自分を。  その危惧は的外れか?  否。そんなことはない。  自分はまさしく正義を騙って戦いを引き起こそうと図っている。  その意味で、無為な争いを幾度ともなく振り撒いた〈彼〉《か》の魔王の次代たる資格は充分だ。  そう思う。    そう、〈理解し〉《わかっ》ている。  〈理解し〉《わかっ》ているのだ。 「朧――焦屍剣!」  綾弥一条の〈悲願〉《ねがい》に共鳴する。  どうしようとてなく、その尊さを認める。  湊斗景明の〈諫止〉《いさめ》に共鳴する。  どうしようとてなく、その重さを認める。 「――――ッ」 「つっ――!!」  ――知っている。  目指す処、求めるものは同じなのだと。  ならば、どうして戦うのか。 «体温低下……危険域!  御堂、これ以上の熱量消耗は――»  激闘に次ぐ激闘で、既にこの体は〈残骸〉《スクラップ》も同然だ。  まともな感覚などとうに失い、石を引き摺るような果てしない疲労ばかりが神経に詰まっている。  苦しい。  辛い。  耐え難い。あと一秒たりと。  もう、眠ってしまっても良いのだと思う。  充分に戦ったのだから。  そうして、ならぬ理由があろうか。  対敵の在り方を認め、尊重さえしているのに。  戦い続けねばならぬ理由が何処にあろう。 「――もう少し」 «…………» 「もう少し、付き合ってくれ。  村正。俺の劒冑」 «……ええ。  わかってる……» «共に行きましょう。  貴方の意思が戦い続ける限り» 「ぐっ……」 «先刻の、鉛玉の傷が開いておる……  御堂、一旦離脱せよ! 傷を塞がねば命に障るぞ!»  応急処置をしたのみの銃創は、既に元通りに――否、元々以上に広がりつつあるようだった。  一秒毎に血液が失われ、生命力が減退しているのを察知する。  激痛。  吐き気。  おぞましいほどの〈現実感〉《リアリティ》を備えた、死の接近。  ここで、逃げ出しても良いのだと思う。  充分に戦ったのだから。  そうして、ならぬ理由があろうか。  対敵の在り方を認め、尊重さえしているのに。  戦い続けねばならぬ理由が何処にあろう。 「腑抜けたこと言ってんじゃねえぞ……  正宗!」 «御堂……» 「そこは血が抜けたくらいで人間死なねぇ、代わりが要るなら小便でも詰めとけって言うところだろうが!?  それがあたしの劒冑だろ……」 「こんな傷くらい気合で耐える!  正宗、いいから戦う力を寄越せ!」 «――――応ッ!!»  求める果ては等しく……  然して、選んだ道は正逆だったのだ。  ――挑むは邪悪。  それこそが、争いを生む源泉であるから。  ――挑むは正義。  それこそが、戦いを生む源泉であるから。 「邪悪・断つべし!!」 「正義・断つべし!!」    ――――その果てに。  少しだけ、〈悲嘆〉《かなしみ》の数を減らした世界があるのなら。  戦う。  互いを宿敵として。  戦う。  互いを同志として。  戦う。  相対する道を駆け抜けて。  戦う。  同一の極点を目指して。  戦う―――― «御堂……!»  劒冑の伝えたいことは、最後まで言葉を聞かずとも知れた。  既に感じ取っていた事だった。  ……徐々に押し込まれている。  次第次第に、力の均衡がこちらの頽勢へ移ろいつつある。  〈村正〉《おれ》の力は衰えていない。  血肉と骨を削り、一年の余命を一秒分の活力に変え、最高潮の戦闘力を維持し続けている。  だが〈正宗〉《てき》は違う。  最高の維持に留まらない。最強の一撃の次には更に一段上の最強打を。その次には更に上の一打を。  一合毎により強く。〈剛〉《つよ》く。〈靭〉《つよ》く。    〈綾弥一条〉《てき》は遂に英雄たるの本領を顕したのかもしれない。  英雄は敗退せず、〈最後には必ず勝つ〉《・・・・・・・・》。  対敵を打ち倒す為の力を、一歩一歩階段を登るにも似た刻苦の積み重ねの末、必ず手に入れるのだ。  このままでは敗れる。    俺は人間として、深い感嘆と共にそう認めた。  このままでは敗れる。    しかし今の俺は戦闘者であり、その意識は現状打開への端緒としてまずそう認めた。  状勢を覆すには。  ――――――――元より、一手。  敵が地道に階段を登るなら、それではどうあっても届かぬ遥かな高みへ至るまで。  針の先端のような其処へ居座り続ける必要はない。渾身の力を費やしてただ一瞬。ただ一撃の刹那のみ。  〈必殺の術技〉《ピリオド》を〈以〉《もっ》て立てば良い。    全身全霊の、電磁抜刀で。 「――――――」  ……駄目だ。  それでは、勝てない。  正宗には秘技を封ずる秘技、  対手の投じた陰義のエネルギーを喰らい込め、方向だけ転じて再び放つ〈異能〉《わざ》がある。  陰義・天罰覿面。  自身に対して〈必殺〉《たいざい》が為された時、即決の裁判を行い、応分の〈必殺〉《しけい》を宣告し、処する。  抗弁は許されず、逃れる術もない、拝して承るのみの〈天罰〉《カミノサバキ》。  既に一度、味わった。  あれで死に至らなかったのは、こちらの一撃がそもそも充分な威力を欠いていたからに過ぎない。  必殺の一刀を放てば必ず己への必殺となって返ってくる。その執行は厳格かつ公正だ。  わずかな〈誤謬〉《ミス》も有り得ないだろう。  電磁抜刀の行使は俺の敗死を約束する。  ……だが使わず、このまま戦い続けても同じだ。  どうするか。  他にどんな手がある。  あの英雄を墜とすために。  極限の一刀をもってしても打ち勝てぬ相手。  如何なる仕様が。  奇跡など求められない。  そんなものが俺の力となる筈がない。  だから思考する。  一秒を百分割、その百分の一を更に千分割し、その砂時計の一粒より小さい塵のような一個の時間ごとに大脳を全周する。  〈攫〉《さら》うのは記憶の一片一片。  争い戦った敵の一人一人。  鈴川令法――井上真改。  長坂右京――八八式竜騎兵。  風魔小太郎――月山従三位。  山賊の首領……  一ヶ尾瑞陽。  鎌倉の筋者……  雪車町一蔵。  …………妹、  湊斗光。  彼らと戦ったその一合。  彼らに加えたその一刀。  彼らが放ったその一撃。  〈村正の戦闘記録〉《レコード・オブ・マイ・バトル》。  その全頁を〈確認〉《チェック》。〈確認〉《チェック》。〈確認〉《チェック》。  噎せ返るほど〈血腥〉《ちなまぐさ》い経験の中から幾百、幾千に及ぶ術策が提議される。  すべてが充分な殺害方法。人の命を略奪する手段として申し分もなく。  しかし正答は有るとすればただ一つ。  この場この敵この一戦の為の剣は必然唯一、従って他の全ては贋物なのだ。  一つを選び出さねばならぬ。  正しきその一剣を。  それは、      やはり、これしか無いのだ! 「〈磁波鍍装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》!!」 「来るかッ――」 «叩き返してくれるわァ!!» «御堂――いいのね!?» 「良いも悪いもない……  この〈方途〉《みち》しか無いのなら、その上をゆく、ただそれだけだ!」  最も下策。  最も愚策。    この最期で、俺はそれを選んだ。  どんな術を仕掛けても無駄なのだ。  どんな罠を仕組んでも無力なのだ。  一条の正義は、そんなものには屈しない。  あれは言うなれば燃え盛る太陽。  小賢しい手出しは、触れられもせず焼き尽くされる自滅の結末だけを保証する。  日輪を滅却せしめる手があるとするならそれは一つ。  同等以上の質量を叩きつける以外に無い。  一条に不屈の正義が有り、  正宗に不破の陰義が有るなら、    その双方をまとめて粉砕するに如かず。  それだけが唯一手! «……諒解!!  〈蒐窮開闢〉《おわりをはじめる》。〈終焉執行〉《しをおこなう》。〈虚無発現〉《そらをあらわす》――――»  この一刀にて斬り断てば――  敵騎に如何なる異能があろうと意味はない。  全ては零に戻り全ては無に帰す。    そして、村正の至極精粋の太刀こそは、ほかの何物よりも完璧にその呪わしき一芸を成し遂げる!! 「吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し」 「〈電磁抜刀〉《レールガン》――――〝〈禍〉《マガツ》〟」 「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――」 «ぬああああああああああああああああ!!»  その一刀に――――    正宗が耐える!!  頭上、あと一寸まで迫る閃光を、  盾に構えた太刀で食い止めていた。  ……その姿はこの世の理を超越している。  光そのものに等しい一閃をどうして受け止め、どうして支え続けていられるのか。  正義とはこれほどのものなのか。      だが。だとしても、  俺は〈正義〉《おまえ》を斬る! 「――――――――ッッ!?」  太刀に乗せるものは、俺自身の全て。  そして、俺が背負う全て。  触れ合い、  争い、  殺してきた人々。  罪。  記憶。  想い。  全てを――――  全てを! 「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 «――――――――――――!!» 「かっ――――」 «おあ――――» 「……終わった……か……」  〈村正〉《おれ》の戦いは……  全て――――――――――――――――――――― 「………………!?」 «な……なに……?  これはっ――――!?»  これは――――    …………………………………………正宗!?  ――――それは。    もう、  最早、 「……一条……」 «……あれはもう……人間じゃない。  劒冑でもない。武者でもない……» «あれは、ただの»  ……お前は……  ここまで、  〈ここまでの意思〉《・・・・・・・》で求めるのか? 「…………終ワラナイ…………」 「終ワル、モノカ」 「正義ハ……勝ツ……」 「正義ガ勝タナケレバ…… コノ世ノ悪ハ、滅ビナァァァァァァイッ!!」 「……!!」 «あ――っ――――»  ――――そうか。  わかったよ、一条。  俺とお前の戦いは……  最早、力の比較ですらないのだな。  生命の。  存在の。  何もかも根こそぎ余さずの。  徹底的な削り合い。  魂と魂を食い合った後、  最後にどちらが、〈ひとかけら〉《・・・・・》を残しているか――  そんな競合、  そんな交合に至るしかないのだな。  そうか。  そうなのか、一条。  ――ならば。  俺も最後まで、お前に応えよう。 「――村正ァァァァァァァァァァ!!」 「……正宗……」  お前の魂が尽きないように、  俺の魂もまだ残っている。  動脈と臓器のいくつかが弾けた肉体は既に秒読み。  しかしまだ魂を現世に繋ぎ止めている。  この、残る全てを賭してお前の意思に報いよう。  俺自身の意思を貫徹しよう。  俺達は問うた。  正義。  邪悪。  その意味を、意義を、真実を問うた。  ――問い続けよう。  最後まで。  湊斗景明と綾弥一条が尽き果てるまで。  その命題、  過去にもきっと数多の人間が――王侯が、僧侶が、騎士が、寡婦が、学者が、詩人が、商人が、農夫が、乞食が――身命を賭したのであろう問いの、  答えを追い求めよう。  ただ真っ直ぐに、選んだこの道を駆け抜けて。  興隆四四年、大和……  それは戦乱血禍が吹き荒れ悪鬼羅刹が跳梁跋扈す、暗黒の世界だ。  足利四郎邦氏を奉戴して六波羅幕府を掌握した大鳥獅子吼と国連進駐軍との間に開かれた戦争は、双方が共に決戦の機を掴みかねるうち、完全な泥沼に陥った。  それはどちらにとっても失望すべき事態だった。  彼らは共に短期決着を最善としていた。  そう望むべき理由があった。  戦局の変化はまず、九州からもたらされる。  大宰府に駐留する六波羅鎮西軍が鎌倉中央に対して反旗を翻し、京都朝廷と結んで西日本を席巻したのだ。  このような事態に備えて設けられた幕府機関である室町探題はしかし、至近に迫った敵と進駐軍の相手に手一杯で動けない遠くの味方とを秤にかけ、あっさり前者を選択した。  かくて大鳥獅子吼の六波羅は二方向に敵を抱える。  状況の劇的な好転に、GHQは祝杯を挙げた。  彼らが杯を床に投げ捨てたのは二週間後である。    鎮西軍の本州進攻は、海を挟んだ大陸の〈軍事均衡〉《パワーバランス》を大きく変化させる要因となった。  大宰府は大陸への備えを主目的として置かれていたのだから、自然と言えば自然の帰結である。  それでも進駐軍幹部の中に、〈露帝〉《ロシア》の〈北曾〉《えぞ》侵略の報を聞いて愕然としない者はなかった。  九州の軍事力減退が最終的には大陸における露帝の支配力強化へ繋がると予期した者はいたかもしれないが、その進展の速さは誰の想像をも超えていたのだ。  ……それには理由があったのだと、後に語られる。  鎮西軍は専ら六波羅のみを相手取り、  他方露帝軍は北曾鎮台を一蹴し本州上陸を果たした後は、進駐軍にまず矛先を向けた。  彼らは敵の選択を迷わなかった。  あらかじめ取り決めでもしていたかのように。  その真偽は六波羅と進駐軍とが大和から駆逐された後、残った二者がどのような関係を持つのかによって明らかになるのだろう。……無論六波羅にせよ進駐軍にせよ、そんな形で真実を知りたいとは思わなかった。  彼らは結局、オーソドックスな手段によって二正面作戦の窮地から脱出を図ることになる。  つまりは一時的な休戦協定を結んだ。  こうして戦乱の泥沼はその面積と質量を拡大する。  今や四軍が入り乱れる戦場となった関東は、銃火の果てる兆しさえ窺えぬ様相を呈していた。  挙句に、この混沌の時代へ要らざる〈華〉《はな》を添える者達までがいたのである。  それは例えば乱を雨として筍のように濫立した群盗野盗の類であり、例えば――〈〝 緑龍会 〟〉《グリューネドラヘ・ゲゼルシャフト》であった。  その目的も実態も不明。犯罪結社なのか宗教団体なのか。ただその名称だけが疫病のように広まっている。  彼らは時にどこかの軍に加担し。時にどこかの村を焼き――〈恰〉《あたか》も混乱を煽るだけが目的のように振舞った。  かの恐るべき八魔女の存在も緑竜会の策謀と密接にに関わっているのだ、……そう噂する人間は多い。  銀星号の再来を自ら称す〝〈星片八剣姫〉《スターダストブレイズ》〟――確かにその無軌道な悪意には共通項を見出せるだろう。  実際に銀星号のそれと酷似した大災厄を引き起こす彼女らの出現は、白銀の魔王の失踪をわずかな慰めとしていた人々にとって絶望の底への一押しであった。  多くの者が抗う気力もなく、その穴へ落ちた。  自殺。暴力。略奪……  自暴自棄になった人々の末路は、おおむねそのうちいずれかである。  そんな荒れ果てる一途の人心を救うものが、しかし全く皆無だったということはない。  六波羅に滅ぼされた岡部党の残存勢力を中核とする、無名の軍勢はその一つだ。  彼らは救国護民の正義を掲げて戦う。  それは大和に存在するどの軍も同じだったが。彼らは事実、戦禍に苛まれる人々の求めに応じて行動した。  その姿に一縷の希望を見出す者もいる。  しかし、彼らはあくまでも小規模な有志集団であり、大和全体の苦境を救うまでの力を備えてはいなかった。  彼らは〝正宗〟なる者が自分達の主であると語るが、その人物に出会ったという人間はいない。  既に理想に殉じた指導者を象徴的に崇めているのであろう――外部からはそう見られている。  ……また、もう一つ。  赤い武者という存在がある。  その噂の発生は古く、数年以上も遡ろう。  六波羅の暴虐な将兵を、あるいは凶悪な犯罪人を、退治してくれる英雄的武者――噂は当初、そのように語っていた。  だがいつしか、その非現実的なほど輝かしい風評に嘔吐感を催す〈尾鰭〉《おひれ》がつくようになった。  赤い武者は生贄を求める、と。  彼は確かに悪しき者を討つ。  しかしその代償に、善良なる者の生命も求めるのだ――と。  興隆四四年、現在。  地獄と化した大和の中で。  その噂は既に疑いもなき事実として、多くの人々に知られている……。  強剛の武者であった男は死んだ。  今は朱色の水溜りに伏せるただの肉に過ぎない。  深紅の武者は手傷も負わず、その前に佇んでいる。  周囲にはもう武者の仲間しかいない。 〝無名軍〟の人々。彼らは少数であり、故に精強でもあった。  一方、果てた武者――この砦の強欲な王でもあった男が略奪した財貨を投じて集めた部下は数こそ揃っていたものの、主に士気の面で精鋭とは言いかねた。  劣勢と悟るや逃げに掛かり、既に影も見えない。  決着はついた。  深紅の武者と〝無名軍〟は勝利し、砦に生血を搾られる心地であった周辺の人々は、一息つくことができるだろう。  凱歌を揚げて良いところである。  しかし、彼らは勝鬨一つ上げなかった。  多くは高揚どころか、顔を冷たく強張らせている。  悲劇は終わったのではなく、これから始まるのだとでも言うように。  ――事実、その通りであった。    忌まわしき供犠の儀式が今から始まるのだ。  兵士らの列を掻き分けて、一人の老爺が進み出る。  彼は砦の主の骸を見ると、その場で膝を突き、号泣した。  涸れ果てるまで涙を流した後、老爺は跪いたまま、深紅の武者を見上げて手を合わせた。  そして――――有難うございます、この命をお取り下さい、と言った。  武者は頷き。  太刀を一薙ぎした。  ……老爺の首が胴体に別れを告げる。  居並んだ人々は、悪徳の武者と同様に転がる皺首を凝然と見据えた。  あるいは見かねて、面を背けた。  彼らは皆、知っている。  老爺は砦の兵に息子を殺され、息子の嫁を奪われ、孫は闇商人を経て大陸に売られたのだと。  復讐心に狂った末、深紅の武者に出会い、自らの命と引き換えに砦の主の死を欲したのだと。  ここへ至る経緯を誰もが知っている。  しかし、この光景に納得する者は皆無であった。  彼らは、老爺がその人生において穏やかな暮らしの他に何も望まなかったことをも知っているのだ。  それがどうして、罪科を列挙しようと思えば海辺で砂を拾うにも等しい始末になるであろう下劣漢などと並んで骸を晒さねばならないのか。  彼らにはどうしても、腑に落ちる話ではなかった。  一人また一人と、〝無名軍〟は武者の傍から離れてゆく。  彼らも武者に作戦を助けられた格好なのだが、その礼を述べてゆく者は一人もいなかった。  唾を吐き捨ててゆく者が数人いた。  殺し屋め、と聞こえよがしに呟く者が一人いた。    そこに留まり、手を差し伸べる者は皆無だった。  生者の遠い足音と、死者の無関心な視線だけが残る。  虚ろな風に吹かれつつ、武者は鋼鉄の肉膚を己から分けた。  人気の失せた砦に、もう少女ではない彼女は立つ。  孤独であった。  彼女から離れて控える劒冑は、その甲鉄以上に冷え冷えとした気配を纏いつけ、主を温めることはない。  これが彼女の選んだ道だった。  ――あの戦いの末。  最後に生き残ったのは、一人と一領。  男と濃藍の劒冑は遠く去り。  少女と深紅の劒冑が地上に留まった。  それは誰の勝利も意味しなかった。  勝者も敗者もいなかった。結論はそこに無かった。  だから、残った者はそれで終わりにはできなかった。  少女は戦う力を失い、劒冑は戦う体を失っていた。  そしてどちらにも、果たすべき使命があった。  両者は必然として、敵であった者の手を取ることになった。  しかし、深紅い劒冑は呪戒ある刃。  少女には本来、受け入れ難い。  それでも選ぶ余地はなく、彼女は懊悩の末に、自ら別の戒律を加えることで劒冑を許容した。  可能な限り殺さない。  殺すほかない者――つまり武者――と戦う時はあらかじめ後に呪戒によって斬る者を定め、その人の承諾を得る。得られねば戦いを断念する。  それはまさに苦肉の策だった。  彼女はしばしば、手加減の度を誤って深手を受けた。また自己犠牲者を得られず、凶賊の横行を目の当たりにしながら放置した。  そのどちらでもない時、彼女は己の古傷を掘り返すことになった。  命に代えて正義の断罪を望んだ人の声に応え、その首を刎ね、酷似する過去の体験を生々しく想起した。  父に死を与えた自分。  〈彼〉《・》に死を与えた自分。  戦い殺す都度、彼女はその過去を直視させられた。  それが彼女の送る日々である。  この在り方は既に彼女の望んだものではない。    彼女の正義は、人々の心に訴える輝きを失っていた。  彼が望んだものとも違う。    彼女は人々に背を向けられながら、それでもその背に正義を訴えていた。  嘗て少女が選んだ在り方。嘗て彼が選んだ在り方。  どちらでもなく、言うなれば中途半端なその折衷。  そんな〈人生〉《みち》を、彼女はゆくしかなかった。    いや……本当はあと一つ、あるはずだ。  進むのをやめ、立ち止まるという選択が。  多くの者が彼女を忌んでいる。  多くの者が彼女の如き存在を望まない。  ならば、もうやめてもいいのではないか。  そう思う。あの戦いの後、そう思ったように。  今この時も、そう思う。 «――やめるの?»  冷たい金打声が、彼女の脳を打った。  そこには彼女への一歩の歩み寄りもない。  絶対の距離を置いて、突き放している。  この劒冑にとり、彼女は正当な〈仕手〉《あるじ》では決してなく、代役に過ぎなかった。彼女にとって劒冑がそうであるのと同様に。  無音の声はただ冷たい。    しかし、彼女はその冷たさが指し示すものを正確に理解していた。  冷たさの半分は劒冑自身へ向けられている。  本来の仕手を失った痛手に折れかけている己の〈心鉄〉《こころ》を指しているのだと、知っていた。  それは自問なのだ。    だが、自答も既にそこにあった。  彼女にはそれもわかる。  彼女の内にもあるものだったから。 「やめない」 «…………» 「やめるもんか」  世には悪が溢れ、悪を討つ正義は求められている。  呪わしき存在と化した彼女に命を捧げてでも、正義の執行を望む人々がいるのだ。そうしてでも討つべき害悪があるのだ。  それに。  それに、何よりも―――― 「やめられないだろ……」 «……そうね»  女と劒冑には、同じ意思がある。  同じ理由がある。  進み続けるべき誓いがある。 「まだ答えは出ていない。  何が争いを生むのか。何が平和を生むのか」 「正義なのか。  悪なのか」 «ええ。  まだ答えは出ていない……»  ――答えを得るまで、歩みを止めずにゆく。  あの戦いで生き残った一人と一領はそうしなくてはならなかった。だから彼女らは共にゆくのだった。  彼女は時々、夢に想うことがある。  もしも、自分が父を殺さなかったら――  もしも、彼が母を殺さなかったら――  それはそれで、彼女は深い悔いを残すことになったに違いない。彼の場合もきっとそうだろう。  あれは為すべきことを為した末の、避けられぬ結果だったのだから。  為すべきを為さないなら、もっと多くのものを失くしたはずだ。  ――それでも。世の枠から外れた生き方に陥ることだけはなかったのではないか。  人々の中に混じって、人々と共に生きられたのではないか。  彼女も、彼も。おそらく互いに出会うこともなく。  それこそが正しい生き方だったのではないか。  自分はやはり――決定的に誤ったのではないか。  真っ直ぐに進んでいるつもりで、いつの間にか道を大きく逸れていたのではないか……。    その想いは、日増しに強まる。  けれど。  挫けかけ、足を止めてしまいそうになるたび、  彼女は背中に、彼の視線を覚えるのだ。  振り返れば彼はそこにいる。  同じように背を向けて、同じように歩き続けながら、肩越しに彼女を見詰めている。  真っ直ぐに。         〝お前を、俺は否定する〟  その視線が云う。         〝俺とお前の道は正逆だ〟  そう告げるのだ。      〈正逆〉《・・》。  確かに正逆だった。いつ振り返っても、彼は彼女の真後ろにいた。  それは、有り得ないことなのだ――もし彼女の道が曲がりくねったものであったなら。  彼女と彼とが、〈一直線上〉《・・・・》を逆向きに進んでいるのでない限り、互いにいつまでも背を向け合い続けることはない。  だから――――彼女は進む力を取り戻す。         〝俺はお前と戦い続ける〟  彼は教える。  彼女が変わらず真っ直ぐに進み続けていることを、尽きぬ戦意によって告げる。  彼女は孤独だった。  〈朋友〉《とも》はいなかった。  しかし、ただ一人の〈対極者〉《てき》がいた。  彼女の全てを理解した上で挑んでくれる者が。  その存在が彼女の足を支えた。 「……負けない」  誓いを新たに、かつての少女は再び歩き始める。  荒れ果てた国土の上を果てしなく。  彼女の求める答えを得るために。  彼の求めた答えを得るために。  彼女と彼と。  正しいのはどちらであったのか。  それとも、どちらも正しくなかったのか。  あるいは、どちらも正しかったのか――――  二人の戦いは、まだ続いている。  その男の人はここで長々と話をしていったけれども、伝わったことはそんなに多くなかった。  まとめればメモ用紙一枚に収まってしまう。  多分それは、その人がそう聞こえるように話をしたからなんだと思う。  話の筋は色々と、でも結びは必ず同じところへ。  何処かで一度会ったような気もするその人が、何を思ってそんな話し方をしたのか、それはわからない。  けれどその人が強調したことは、確かに、わたしにとっても大事なことだったのだ。          彼はいなくなった。        わたしの隣から、永久に。  そう。  そして。          彼を〈なくした〉《・・・・》のは誰か。  その二つの事実。  わたしは、それを知らなくてはならなかった。  呻いて。  悶えて。  拒絶して。  絶望して。  喉を震わせて。  胃液を吐き出して。  何も見えなくなるまで涙を流して。  涙が乾いて網膜がひび割れるまで両目を見開いて。  ――それから、  わたしは〈どうする〉《・・・・》べきなのか、決意するために。  それは、例えば、 「――――」  ……俺には、……そんな事は、…………。 「……景明」 「……」 「あのな。  気休めになるかどうかはともかく、これは言うとくけど」 「罪の意識を持つ必要は無いよ。景明くんはな。  どんな惨いことになっても、命令したのはわしや。責任もわし」 「景明くんは苦しまなくてええ」  それは親王なりの気遣いではあったのだろう。  そしてそれ以上の意味は無かった。何故ならば事の問題はそこではない。誰かに死を強いる――消してしまうという一大事実こそが問題だ。  責任の所在など二次的な案件に過ぎない。  その上でしかも、舞殿宮の言い分は俺には受け入れられないものだった。  組織において行動の責任を命令した人間が負うのは当然だが、命令された者とて、諾否の選択を許されていたならその決断に責任を負わねばならない。  知らぬ顔を決め込めというのは無理な話だ。  俺は間違いなく俺の責任において、決断することになる。  大将領ともう一人、俺の身近の、罪も無かろう人間を殺めるか否かを。  …………どう検討しても、結論は一途を辿った。 「宮殿下――」 「ついでやし、言うとくけどな」 「――はっ……?」  返答を決め、口にしようとしたところで機先を制される。  俺は心理的にややつんのめった。 「責任の話は、今回の件に限ったことやない。  〈これまで〉《・・・・》の景明くんの行動、全部について言えることや」 「景明くんを銀星号の追跡に出すんは、わしが認めたことなんやから」 「……宮殿下……  それは、」  違う。  銀星号追討は、元来が俺の使命。  親王には関わりない。 「だからな。護氏の件と銀星号の件が全部片付いた後、景明くんの罪を問うつもりはない。  拘置所には戻らんでええ」 「おまさんの身は誓って自由にしたる。  のんびり休めるとこも手配するわ」  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。  な、                      に?  何だと?  何と――――言った? 今? 「せやから、どうやろ。  もうしばらくの間、踏ん張って力を貸してくれんかな」 「…………」 「署長」 「私ではなく、宮殿下にお答えしろ」 「〈あんた〉《・・・》に訊きたいのだ。  ……こんな戯言を、何故黙って聞いている」 「ざれ?」 「口を慎め、景明。  御前だぞ」 「……。  まさか、あんたも承知の上だというのか」 「今の話は……」 「……」 「……」 「ああ。  そうだ」 「約束が違う!!」 「景明くん……?」 「静まれ。  ……座れ」 「俺は忘れていない……!  二年前、確かに約束した筈だ」 「全てが終わった暁には、俺を裁判に掛けて処刑すると!」 「…………」 「今更反故にするつもりか……」 「あの時はそう約束せねば、お前は自制心を保てなかったろう」 「く……口先だったというのか!?」 「お前には問うべき罪が存在しない。  宮殿下が仰せられた通りだ」 「こちらに来てからお前が為した事の全ては、私と宮殿下の承認の下に行われている。  罪と責任の所在は疑いもない」 「違う……!」 「違わないさ。  〈だから〉《・・・》、私はお前の行動を許したのだ」 「自分で責任を負えないと思ったなら、お前にやらせはしなかった。  当たり前の事だろう?」 「他人に責任を委ねた覚えはない」 「お前に覚えが無かろうと、世の道理に照らせばそういう事になる。  お前の望み通り法廷へ出ても、判断は同じだ」 「罪と責任の第一は〈やらされた〉《・・・・・》者ではなく、  〈やらせた〉《・・・・》者が負う」 「命じられてなどいない!  それに……もしそうだとしても」 「二年前の――事の発端はどう始末をつけるつもりだ」 「……景明……」 「あの時……俺は殺した。  貴方がたとはまるで関わりのない所でだ」 「忘れてはいないだろうな。  署長――菊池明堯……」 「……」 「〈貴方の妻〉《・・・・》を殺した!!  俺がッ! この手でだ!!」 「……………………」 「事故だ」 「――ッッ!」 「私は、お前が〈妻〉《あれ》を殺したとは考えていない」 「殺したのだ。  どう否定しようと、それが事実だ!」 「私はそうは思わない。  お前がどう言おうと」 「あれは事故だ……景明。  〈犯人〉《・・》は存在しない。不幸にも犠牲となった者がいるだけだ」 「く……っ」 「では……貴方は……  どうあっても……俺を……」 「……」 「ぐ――あぁぁッ!」 「……景明。  護氏暗殺をお前に強いるつもりはない」 「銀星号の件もだ。  もう無理だというなら、私が村正ごと引き受ける」 「……」 「だが宮殿下の御慈悲は受けろ。  お前は充分に働いた……安息を得る資格があるのだ」 「慈悲など要らない!  安息も、赦免も、欺瞞も逃避も、お断りだ……!」 「俺は〈断罪〉《さばき》が欲しいのだ!  俺の犯した罪悪に相応しい報いが!」 「誰でもいい。俺以外の人間なら誰でも。  厳正で無慈悲な誰かが……俺の罪を列挙し、一つ一つ弾劾し、刑を量り執行してくれればそれでいい」 「死刑にしてくれればいい。  それが――――正義だろう!!」 「…………」 「景明くん……。  おまさん、死にたいんか……?」 「いいえ、宮殿下」  御簾の奥からの問いに首を左右する。  死――幾度も目にしてきた、幾度も他人に押し付けてきたそれが自分の身に降りかかる。その想像は何処までも恐ろしくおぞましい。  肌が粟立ち、胃液が〈迫〉《せ》り上がって来るほど。 「自分は死にたくなどありません。  死は何にも勝る恐怖です。……泥にまみれ糞尿を啜ってでも生き延びたいと思うまでに、自分は死を恐れています」  その恐怖をもって、俺は闘争の狭間に数多散らばる死の陥穽から逃れ、命を拾ってきたのだ。  生き汚さは相当だと、自ら認めざるを得ない。 「そやったら――」 「だからこそ自分は死すべきなのです。  舞殿宮殿下」 「死にたいと欲して死ぬのは安楽への逃避に過ぎません。何の処罰でもない。  それは単に自殺であり、贖罪の放棄です」 「自分は何よりも死を忌み嫌いながら、その死を幾人もの他者に強要してきました。  かような者にこそ死罰は与えられねばなりません」 「…………」 「ですから……宮殿下。  どうか自分には正しき処罰を!」  俺は平伏した。 「正義の執行を!  死刑の宣告を下されたなら、自分は必ず、惨めに泣き喚き、慈悲を乞い、この手に掛けてきた人々へ今更の謝罪を叫び」 「絞首台へ昇るまでの時間すべてを費やして苦悶にのたうち回ります。  宮殿下、どうか!」 「湊斗景明にはそのような最期を与えると、舞殿宮春煕親王の御名においてここにお約束頂きたい……!」 「……」 「あかんよ……」 「宮殿下ッ!」 「景明くんが罪の意識を捨てられんのは仕方ない。ま、すっぱり思い切れってほうが無茶かもしれんし。  けどな。だからって死んでどうなるんや」 「死んだって何の償いにもならんのえ……?」 「それは生者の理屈!  そもそも、死者に償う方法など無いのです。彼らはもはや何も言えず、何も欲することができないのです」 「せめて同等の懲罰を施し、〈均等〉《・・》にするしかありません」 「…………」 「言うてることはわからんわけやないけど。  ……やっぱりあかんよ」 「君は死んだらあかん。  わしは納得できひん」 「……署長!」 「死んだ者のことを思うなら、彼らの代わりに生きて何かを為せ。  お前が死ぬことに意味は何も無いが、何かを為せば意味は生じる」 「……ッ!!」  駄目だ。  わかっていない。  この二人は何もわかっていない。  意味がどうこうという問題ではないのだ。  〈況〉《いわん》や償いの問題でもない。  ただ、罪と罰の問題なのだ。  罪にはその重さに相当する罰が与えられて然るべきなのだ。  それが人の世の原理。  人の世の秩序ではないのか。  養母。  新田雄飛。  ふき。ふな……  あの人々を殺した俺が罰せられもしないなら、  〈彼らは何のために正しく生きたのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》!? 「……景明くん……」 「……大将領の件は御辞退申し上げます。  どうかお許しあれ」 「……これにて失礼……」 「…………」 「いい天気ねぇ……」 「また初っ端からカッ飛んでおられますな、お嬢さま」  大鳥主従と合流し、帰路につく。  出がけには無かった雨が天地の狭間を満たしており、俺は八幡宮で傘を借りねばならなかった。  野放図なまでに用意のいい永倉侍従が何処からともなく取り出したので、老若の女性二人組は自前の傘を差している。  香奈枝嬢のそれは、白の無地。  気に入りなのか、手の中で弄んでくるくると回している。  機嫌が良さそうだった。 「あら。固定観念に囚われているのではなくて、ばあや?  雨は嫌なものだなんて、誰が決めたわけでもないでしょう」 「なるほど。左様でございますねぇ。  恵みの雨などとも申しますし」 「そうそう。  ……うふふふふふふふふふふ」 「ど、どうなさったのですお嬢さま!?  突然そのような悪魔的不審性に満ちた人間外の笑い声を洩らされるなど……このさよ、思わず石を投げるところでございましたぞ!」 「うふっ……  雨の恵みは農業だけのものにあらず――」 「男女の恋愛にとっても恵みとなるのです!」 「( ゚д゚)?」 「降り注ぐ雨……  濡れるブラウス……  そして透ける下着ッ!」 「自然現象を利用したさりげなくかつ強力なセックスアピールが殿方のハートをがっつりキャッチするのです!  これぞまさに、天神の鬼謀!!」 「おお……それは確かに恐るべき策略!  流石、このさよめの主人たる方は一味違いまする」 「うっふっふ……」 「しかしながらお嬢さま。  それって実は単なる痴女と紙一重と申しますか、わざとやっている時点で普通に痴女でございますな」 「ふっ……その程度のリスクに臆していては恋の成就など夢のまた夢!  愛という果実を手にするには、蛮勇と呼ばれるほどの勇気こそが肝要なのです!」 「ね、景明さまもそう思われますでしょう?」 「はい」 「やっぱりっ。  じゃあ、わたくしの精一杯の勇気……受け取ってくださいます?」 「はい」 「あぁん、今のを聞いてばあや?  ついにわたくしの想いが通じたのね……!」 「おめでとうございます、お嬢さま!  まぁどう見ても完璧にスルーされてるだけではあるのですが」  上の空に聞く会話は、右から左へ流れ去るばかりだ。  頭の中は既に別のもので占められている。  知らされた、親王と署長の真意。  ――彼らは湊斗景明を裁くつもりがない。  俺の犯した悪は見逃されてしまう。  法に照らされ、相応しい報いを与えられることなく。  全てを知る第三者たる彼らにその意思が無い以上は必然、そうなる。    ……馬鹿な。  そんな――馬鹿な事が。  許されて良いのか。  良い筈はない……。 「……」 「……そういえば、そこはかとなくお元気がありませんわね。景明さま。  どうなさったのかしら」 「はて? 左様でございましょうか。  陰鬱なお顔、近寄るだけで株価が下がってしまいそうな不景気な気配……いつも通りの湊斗さまに見えまするが」 「でも普段の景明さまなら、わたくしがこれだけ〈誘い〉《モーション》をかければ『グダグダうるせぇんだよ牝犬がァ、どうせ俺のコレが欲しいんだろおぉ!?』とか叫んで襲ってくると思わない?」 「仰られてみれば、そんな気もいたします」 「八幡宮で何かおありになったのかも」 「何かとは」 「殿方をこうも消沈させてしまうことなのですから……」 「は」 「……不能?」 「お待ちを」 「ちんちん勃たなくなったのかしら……」 「待てっつってんだろお嬢さま」 「この御歳で腎虚なんて……。  どうしましょうさよ、『勃たない景明さまも好きです!』って言って差し上げたいけどかえって傷つけてしまうかしら?」 「つーかそれがどうして八幡宮で判明するのでありましょうや」 「……………………」 「ぽっ……」 「あんたもう人間として駄目でございますね。  お嬢さま」 「……」  雨の音もどこか遠い。  そのくせ濡れた革靴の感触は生々しく、鬱陶しくてならなかった。  皮膚を刺す冷気が、〈癇〉《かん》に障る……。 「あっ……景明さま。  少しお待ちになって」 「――は」  〈一拍〉《ワンテンポ》遅れて呼び掛けに気付き、足を止める。  さっきまで右隣にあったはずの白い傘は、いつしか消え失せていた。  八幡宮と署長宅の丁度中間、源氏山の麓付近。  山へと繋がる道を眺めつつ、大鳥大尉は俺から数歩ばかり後方に佇んでいる。 「何か?」 「銭洗弁財天さまへ行くには、こちらの道でよろしいの?」 「――――」  銭洗弁天。    胸の奥を、何かがちくりと刺した。  考えまい。  今は――考えるべきではない。 「……はい。  この道を真っ直ぐ行けば、十分ほどで」 「少しお参りしてきても構いませんかしら。  わたくし、まだ行ったことがなくて」 「鎌倉に来てからこちら何かと慌しく、観光をしているゆとりもございませんでしたからねぇ……。  江ノ島くらいでございますか?」 「あれも観光というには少々せわしなかったような」 「わかりました。  御案内しましょう」 「いえいえそんな。真っ直ぐなのでしょう?ならわたくし一人で大丈夫です。  すぐに戻りますから、ここでお待ち下さいまし」 「さよ、景明さまをお願いね」 「は。お任せ下さいませ」  やや早口に会話をまとめると、香奈枝嬢はさっさと路地へ入っていってしまった。  呼び止める間もない。  白い傘を見送って、ふと息をつく。  正直、安堵する部分もあった。  今は何をするのも億劫だ。  銭洗弁天までは標高にして何十メートルもないが、それでも今の自分には荷が重い。  彼女の帰りを雨の下に立ち尽くして待つ方がずっと楽だった。むしろそれなら望むところだった。  何も思わず、何も考えずにいられる。  永倉侍従は黙して佇立し、ろくに気配さえ感じさせない。こちらの心境を読み、気を遣ったのかもしれなかった。それはそれで心苦しかったが――今はそんなことも考えたくはない。  ……しかし、なぜ大鳥大尉は侍従を残したのだろう。  一緒に連れて行けば良さそうなものだが。  そういえば源氏山へ向かう間際、二人で無言の視線を交し合ったように見えたが――あれは――    ……やめよう。  物を考えると、今は酷く疲れる……。 「…………」  程なく戻ってきた香奈枝嬢を迎え、また歩き出す。  そろそろ夕暮れが近かった――この天気では辺りの暗さの微妙な移ろいのほかにそうと知らしめる何物も無かったけれども。  香奈枝嬢の容貌は先刻より影を濃くしている。  ……それはあながち夜の気配ばかりが理由でもないようだった。 「何かございましたか、お嬢さま」 「……いえ。  大したことではないのだけど」 「少し、嫌な話を聞いてしまって……」 「弁天さまで?」 「ええ。宮司さんが丁度いらっしゃったから、神社の御由緒などをお伺いしたの。  そうしたら――」 「実はこの神社は海底の都市で眠る蛸っぽい姿の神様を祀っているのです、とでも言われましたかな」 「それはすごく嫌だけどそうではなくて。  ……入り口が洞窟になっている面白いお社だったから、子供たちにはいい遊び場なのでしょうねって言ったのよ」 「そうしたら宮司さんが暗い顔をなさって。  少し前までは元気な四人組が良く来ていたが、今はもういない……と」 「は……?」 「……四人そろって、不幸な目に遭われてしまったのですって。  一人はこのあたりの竹林で失踪して、それきり」  ――――!? 「一人は残酷な事件に巻き込まれて、両眼を失くしてしまって。  一人は同じ事件で手足を……」 「何と」 「最後の一人は……  自分の家の中で、誰かに殺されてしまったのですって」 「首を――綺麗に刎ねられていたそうよ」 「〈惨〉《むご》い話でございますねぇ……」 「本当に。  どこの悪魔がそんなことをしたのかしら」 「明るくて、とても良い子供たちだったそうなのに……」 「首を……  斬ってしまうなんて、ねぇ」 「まこと……人非人の所業でございます」 「許せない……」 「許せませぬな……」 「けれど犯人は捕まっていないみたい。  罰を受けてはいないのよ」 「のうのうと、どこかで生きているのですか……」 「ええ。  罪もない子供を殺して、自分は生きている」 「何と浅ましい」 「今もどこかで、自分だけが不幸という顔をして、雨の中を歩いているのよ。  もう雨に濡れることも叶わない子供たちのことは忘れて……」 「この世は不条理なものでございます」 「本当にそうね。  子供は死んで、子供を殺した悪魔は生きる」 「どうして逆ではないのかしら」 「どうして逆ではないのでしょう」 「ねぇ、景明さま」 「〈どうして〉《・・・・》?」 「……湊斗さま?」 「どうされましたの?  しっかりなさって!」 「あ――――あぁ――――」  どうして。  どうして。  どうして俺だけが生きているのだ。  殺して殺して殺して殺して、何人もの人を雨もない世界へ追いやったくせに、どうして俺だけは今も雨を浴びて歩くことを許されているのだ。  おかしい。  理不尽だ。  不条理だ。  許されない。  俺は罰せられなければならない。  ――だというのに、許されようとしている。  俺の罪を知る者が、俺の罪を鳴らそうとしない。  許し……あまつさえ功績と称え……安息を与えようなどと云う。  どうして。    どうして――そんな理不尽が通る! 「あ――あ」 「ああぁぁぁぁぁ……!!」 「…………」  大鳥香奈枝は男を見下ろした。  水溜りに膝を屈し、声だけの嘔吐を続けるその男を。  冷たく――――    否。  温かく。  優しく。  包み込むように、熱く。  ……大鳥香奈枝は微笑んで、男の背を見つめている。  彼を指して、殊更に不満の多い男であったとは言えないだろう。  ある日突然紅茶を飲む自由を奪われたなら憤慨したであろうが、紅茶ではなく珈琲なら我慢もしたろうし、年下の妻が密通したと聞けば剣を抜くとしても、彼女が美形俳優を戴く劇場へ足繁く通う位なら許容できた。  人並み程度の寛容さは備えた男だったと言って良い。  彼の周囲の人間はやや異なる意見を示したかもしれないが、それは必然的な見解の相違というものだ。  少なくとも彼自身は、日々の些細なあれこれについていちいち不満を述べ立てたいなどと思ってはいない。  伝統ある〈英国騎士〉《ジェントリ》としての自負というものがある。  だがその自負は寛容を心掛ける事と同時に、不当な弾圧に対しては手袋を投げつける事をも命じていた。  度の過ぎた寛容の精神は単に卑屈であって、騎士の名誉とは決してそぐわないからだ。  敬してやまぬ父親が彼の過ちに怒り、鉄拳を振るうなら涙と共に受け入れよう。  愛してやまぬ妻が彼の長い不在を嘆き、平手打ちを見舞うなら抱擁で応えよう。  しかし彼の財産を略奪した盗賊に帰りのタクシー代まで世話してやる〈謂〉《いわ》れがあろうか?  あるはずはない。盗賊の背中に贈るべきはナイフの一投、それに尽きる。  だから彼は、自分の正しさを全く疑わなかった。 「急げ! もたもたするな」 「……巡回はしばらく来ませんよ。  十五分ごとに基地をひと回りする決まりになっちゃいますが、あいつらの時計は秒針が四周しないと分針が進まない仕組みですから」 「そこの海に落として錆びつかせちまったんでしょうね。きっと」 「下らんお喋りはいい!  横浜にいた頃の部下を思い出して苛々する」 「さっさと済ませてくれ……。  潮風が身に染みる。部屋に戻って毛布でもかぶりたい」 「そりゃ、俺達だって同じですがね」 「……本当にやっちまっていいんですか?  バレたら軍籍剥奪程度じゃ済まねえだろ、これ」 「ふん。ばれるものか。  巡回が一時間に一度しか来ないと言ったのはお前達だぞ」 「六波羅の間者から単なる愉快犯まで、入る気になれば誰でも入れるということだろうが?  内部の人間が殊更に疑われたりはしない」 「まぁ……ねぇ?」 「こうやって爆薬仕掛けてる現場を押さえられなければ、ね……」 「だから急げと言っている」 「へい、へい」 「今更ナシにもできませんから、やりますが。  ……どうも割りに合わねぇ気がしてきたな」 「〈首都〉《ロンドン》の郊外に牧場を一つ買える程度の報酬では不足か?」 「不足ってこともないですが」 「脛に傷を持ったまま軍隊で生きていくことを考えますとね」 「軍に格別の愛着があるわけでもあるまい?折を見て退役してしまえ。  私もそうする」 「こんな異国で鄙びた海を見続ける毎日などもう御免だ。もう充分だ。もう勘弁してくれ。  金は手に入れたんだ。後は一日も早く本国へ戻って妻と平穏に暮らす以外に望みもない」 「ああ、だから私はそうするともさ。  そうして何が悪いというのだ? 〈司令部〉《ヨコハマ》の腐れ野郎ども!」 「……無論、貴官がただそうするだけなら、別に不満は無いんだがね。  我々、腐れ野郎どもとしても」 「…………あーあ」 「……まぁ、ねぇ?  こんなことになるんじゃないかとは……ね」 「――――――――」 「コブデン中佐。  前々から、貴官には忠告が必要だと思ってはいた」 「正々堂々たることは騎士の美徳であって、夜盗の美徳ではない、と。  ……犯罪やろうってのにろくろく隠蔽工作もしないんだからな。どういう神経なんだ?」 「クライブ・キャノン……」 「まっ、貴官の騎士道精神のお陰でこうして水際阻止が間に合ったんだから、文句言えた筋合いじゃないがね。  ついでだ、投降も潔く頼む」 「貴官の希望はおおむね叶えられるだろう。  本国へは帰れる。奥方との対面もできる。静かに平穏に過ごすことも」 「ただ、口を利くことと体を動かすことと金を使うことはもうできなくなるかもしれないが」 「……………………」  彼は自分の正しさを確信していた。  だから――突きつけられた現実を受け入れるには、長い時間が必要だった。  〈日向守異聞〉《ひゅうがのかみいぶん》          第四七回 〈信貴山〉《しぎさん》落城 〝――ついに織田が手勢は大手門を打ち破り、怒涛となつて城内へ雪崩れ込む。  一気呵成と押し寄せる人馬に〈右衛門佐〉《うえもんのすけ》少しも怯まず立ちはだかるも、多勢に無勢、ここに窮まり〟 〝三人四人と突き伏せて、なお次なる敵を求めて〈頭〉《こうべ》を巡らす右衛門佐、恐れたじろぐ織田の兵陣からひとり駆け出でた〈惟任日向〉《これとうひゅうが》が家来佐々木某に槍を打ち折られ〟 〝太刀抜く間もあればこそ、今なりと次々槍さす雑兵輩、腹に肩にと矛先を受け、松永が嫡子の命運尽くる。  佐々木某その首落とし、右衛門佐〈久通〉《ひさみち》かくして果てたり。享年三五、辞世は無しと伝えらる〟 〝右衛門佐斃ると知るや、篭城方は足並み乱れ、旗幟を変えて槍先転ずる者、鎧兜を脱ぎ捨てて遁走する者後を絶たず、攻城方が二の丸三の丸に火を放てば意気地ある者も観念し、自ら害してせめて骸を敵に渡さず〟 〝やんぬるかな松永弾正忠、この始末を本丸上頂より見下ろして、最期の時来るを悟りけり。  雲霞の如き眼下の軍勢、総大将は憎みても憎き信長が嫡男〈秋田城介〉《あきたじょうのすけ》、その馬印を見取つて歯を打ち鳴らし〟 〝敗亡はよし、死すもよし、なれど一矢も報いずには済ませまいと、弾正茶釜を抱え上げ、織田の者どもの目にさらす。  秋田城介思わず立ち、傍らの羽柴筑前も泡を食う〟 〝這いつくばりたる蜘蛛にも似たその異形の茶釜こそ、織田内府かねて所望の大名物。  謀叛二度に渡る松永を、これと引き換えに赦免すとまで内府をして言わしめたる〟 〝慌てふためき制止の声を張り上げる秋田城介、弾正応じず高らかに嘲り笑うと、〈末期〉《まつご》の一句を詠じたり〟   〝――だるぶし、あどぅら、うる、ばあくる――〟 〝その一句が付け火となりしか。  途方もなき爆発が城郭を揺るがし、辺りを噴煙の下に埋め尽くす〟 〝織田の一同声もなく、一部始終を眺めたり〟 〝次第に晴れゆく煙雲、代わって現れしは巨大な異形。  這い蜘蛛にも似たるその見目は、正しくかの茶釜に相違なく〟 〝しかし身の丈は山の如く膨れ上がり、まさしく天を突かんばかり。  茶釜の上に仁王立つは言わずと知れた松永弾正忠、諸手を上げて息を吸うなり、大音声にて宣告す〟 〝我が魔導書『〈叡梵大師経論〉《えいぼんだいしきょうろん》』に招かれし〈鬼械神〉《でうす・まきな》――〈古天明平蜘蛛〉《さいくらのーしゅ》ッ!!  秋田城介信忠よ、いざ御相手仕らん!〟 〝織田秋田城介、羽柴筑前、惟任日向もまた愕然として松永が叫びに耳を奪わる。  日向守の懐中には〈伴天連〉《ばてれん》より預かりし『〈死霊秘法〉《ねくろのみこん》』が在りしも、日向、未だその意味を知らず――――〟             〝つづく〟 「…………」  末尾の連載小説まで読み終えてしまえば、もう新聞で時間を潰すことはできなかった。  畳んで卓の上に置き、やり場もない視線を庭へ流す。  色褪せている――と見えるのは庭の草木の責任ではないだろう。  晴れていても曇っていても、暖かろうと寒かろうとそう見えるなら、それは見る側に問題があるのだ。  精神の働きが鈍っていれば、眼球は浜菊も〈山茶花〉《さざんか》も差異なく映す。  そんな状態が、ここ暫く続いていた。  あの雨の日から。  時間はただ、無為に過ぎている。  村正の銀星号探索が成果を上げないためでもある。あの日以来、八幡宮から呼び出しがないためでもある。  だがそれならそれで、時間の使い方はある筈だった。  何も連日、庭木に向かって不当な非難を投げ続けていなくとも良い。  ほとんど役には立たぬにしても、村正の探索行動を手伝うとか。  銀星号との対決に備え、日課の鍛錬の量を増やしてみるとか。  やるべき事はいくつもあるのだ。    しかし俺はそのどれもせず、無為に日々を過ごしている。  肉体には何の異常もない。  動こうとしないのは精神だった。  何か――〈撥条〉《ばね》が切れてしまったような。  そんな心境に落ちている。  これでは〈不味〉《まず》い、とは思う。  果たすべき使命は忘れていない。俺は銀星号を倒さねばならないのだ。  撥条が切れたなどと言って心を弛緩させている場合ではない。  今この瞬間にも立ち上がり、戦いに備えて何事かをするべきだ。  そう思う。  だが、自らの〈裡〉《うち》へ投げ掛ける声は応える何物もなく、〈木霊〉《こだま》を残して消えてゆくばかりだった。  そんな状態が、ただ自分自身の弱さに起因するものだ、と。  そこまでわかっていても、どうにもならない。  ……重症だ。    まるで他人事のように、俺は吐き捨てた。 「景明様」 「……何か」  音どころか気配もろくに無く、牧村家宰が現れる。  家事一切を一手に担うこの人物は、その労働量とは相反して存在感の希薄なところがあった。  お陰で今のような心境でも対話するに倦怠感を覚えなくて済む。  俺が向き直ると、彼女は必要最低限度の言葉だけで用向きを伝えた。 「お電話です」 「自分に?」 『〈YEAH〉《いえー》!!』 「…………」 『あっ、いま受話器を置こうとなさいましたでしょ!?』 「いいえ。  頭を抱えてわけのわからぬことを喚きつつ走り出そうとしただけです」 『そう?  ならいいのですけど』  あっけらかんとした様子の香奈枝嬢の声から、先日の一件を引き摺るような何かは感じられない。  それでも俺は、虚心には聞けなかった。  連鎖的に記憶が蘇り、煩悶の種がまた芽吹きそうになる。  どうにかそれを抑え込むと、代わりに石のような疲労感が両肩に〈圧〉《の》し掛かった。 「……先日は見苦しい姿を御目にかけました。  申し訳ありません」 『いえいえ、あの折はこちらこそ無神経で。  あれから、大事はございませんの?』 「御陰をもちまして」  皮肉に聞こえないよう注意して答える。  あの日から今日まで大鳥主従は署長宅に用意された部屋を空け、俺と顔を合わせてはいなかった。それが俺の心理にとってプラスであった事は否めない。  こうして電話を介して話すだけでも辛いのだ。  正直なところ、もうあと数日は対面を避けたかった。  だが大尉の用件次第では、そういうわけにもいかぬだろう……。 「それで、如何されましたか。  わざわざ電話などお使いになるからには、緊急の御用事と拝察しますが」 『ええ……』  やや、言葉尻を濁す大鳥大尉。  逡巡の様子は、音声の信号化を経ても消えず残って伝わってきていた。  電話はその利便性を認められながらも、まだ一般への普及が進んでいるとは言えない機器だ。  設置コストは高くつき、利用料金もまた同様である。  経済的に困窮しているようには見えない大鳥大尉にとってそれが重要な問題たるとは考えられなかったが、電話を使って連絡を取ってきたのは今が初めてだった。  彼女は大概、用があれば口頭で伝えてくる。  今回そうしないからには、理由がある筈だ。 『景明さま……』 「はい」 『いまから申し上げることを、よくお聞きになって』 「は」  言われるまま受話器に頭を寄せ、耳を澄ませる。 『問題のカギは〝自動感応型センターデフを搭載した騎体として三代目にあたるニチモーの〈四翼駆動騎〉《4WD》〟なのです』 「……鍵?」  デフ? 『この答えは四文字。  その一文字目が最後の解答枠で……〝ド〟 〝ツ〟〝グ〟〝ブ〟と組み合わせて一単語になるはずなのですけれど』 『あ、お題は〝マイナー名騎・〈日輪モービル〉《ニチモー》と〈有限製騎〉《ユーゲン》の〈競技用劒冑〉《レーサークルス》〟です』 「…………」 「大尉」 『はい』 「あたかもクロスワードパズルの答えを訊かれているかのような心地がしております」 『何を仰いますの?』 「申し訳ない。やはり疲れているようです。  して、只今の御質問の意味は?」 『もう、景明さまったら。わたくしをおからかいになって』 「そのようなつもりは、露ほども」 『もちろん、クロスワードパズルの答えをお訊ねしていますのよ』 「……………………」 『あっ、今度こそ受話器を置こうとなさいましたでしょ!?』 「はい」 『ひどいっ!  日刊〈ヤマトスポーツ〉《ヤマスポ》を読んでいて偶々発見してしまったこのパズルに、わたくしがどれほどの時を費やしているとお思いですのっ!?』 「せいぜい小一時間ほどかと」 『さよっ!』 『〈不正解〉《ブー》。  お嬢さまは昨日一六時より不眠不休で挑み続けておられます』 『食事中もです。  入浴中もです。  〈トイレ〉《かわや》にも持ち込んで考えておられます。  正直、いい加減にしろと思っております』 『聞きまして、景明さまっ!』 「進駐軍の大尉とは何をする人なのですか」  深刻に疑問であった。 『それはさておき。  景明さま、今すぐに建朝寺へいらした方がよろしくてよ』 「……建朝寺?」 『ええ』 「自分とは何の〈所縁〉《ゆかり》も有りませんが……」  〈巨福山〉《こふくさん》建朝寺は、鎌倉五山と総称される名刹群の第一位。鎌倉幕府五代執権北条時頼による創建以来の、長い歴史を有する禅寺である。  宗派は臨済宗。  鎌倉を代表する寺院の一つであるから足を運んだ事くらいは無論あるが、言ってみればそれだけの関わりしか無い。  今すぐ行くべき理由というのは想像がつかなかった。  建朝寺で何があるにしろ、自分とは遠い事柄の筈だ。 『もう、しっかりなさって。  ここしばらくの騒がしい情勢をご存知ありませんの?』 「新聞には目を通しているので、一通りの事なら」  もっとも、意味を充分に理解しているかについては自信がなかった。働きの鈍った頭に詰め込まれた知識はそれきりただ死蔵されているだけであったから。  そろそろ発酵していてもおかしくはない。 『大和国民の尊敬と信頼を一身に集めておられた?大将領殿下がお隠れになったでしょう』 「は……」  イントネーションが一部不可思議だった大尉の言葉に首肯する。  その事実が報道されたのは、確か八幡宮奉刀参拝の一日二日あとのことだった。  ……が、だからといって足利護氏の急死と親王との間に関連が無いとは言えない。    今更ながらに、俺はそう思い至っていた。  親王が俺に代わる刺客を用立てて決行したのかもしれないのだ。奉刀参拝の最中に大将領が討たれたとしても、そのような事実を不用意に公表はできまいから、間を置いて単に『急死』と伝えた報道と矛盾はしない。  自分の眼で確認したわけではないが、如何なる理由でか奉刀参拝以来八幡宮が厳重に封鎖されているとも聞く。  ……疑惑を深める材料としては充分だ。  とはいえ可能性の一つとして有り得るというだけだが。親王の傍に都合良く暗殺者となる人間が存在していたとは、どうにも想像が難しい。  と……そこまで考えて、俺は自分の沈黙に気付いた。 「失礼。無論、存じております。  幕府の動揺は相当なものだとか」 『幕府だけではなくてよ、景明さま。  GHQもです』 『そちらの事件はご存知ない?』  事件? 「……横須賀軍港の進駐軍基地で過失による事故があり、高級将校の一人が責めを負って辞職した――という話なら耳にしていますが」  とはいえ、これは無関係だろう。  それ以外となると……特に無かったように思うが。 『ええ、それ。その件です』 「……はて?  大将領の薨去と横須賀の事故が繋がるのでしょうか」 『〈事故なら〉《・・・・》、繋がりはしませんけれどもね?』 「…………」  事故ではない――と?  だとすれば。    ……何だというのか。依然、香奈枝嬢の話は帰結が見えない。 「大尉殿。お話の筋が不明確です。  つまるところ、自分が建朝寺へ向かうべき理由とは何事でありましょう」 『あら、結論をお急ぎになる?  愛し合う者同士、もう少しゆったりと会話を楽しみません?』 「愛が有るのなら、それも良かろうとは存じます」 『またそんなつれない。  景明さまはいつもそう、わたくしの気持ちなんてちっともわかってくださらないのよっ』 「それなりに察してはいるつもりなのですが」  その所以は知らず、貴方が俺に対して抱く悪意の程は。 『もういいですっ。  では要件だけお伝えしますから』 「はい」 『建朝寺には舞殿宮殿下がいらっしゃいます。  署長さんもたぶんご一緒』 「宮殿下が……?」  何故――と反問しかけ、流石に気付いた。  頭の鈍さもここまで来たかと、我が事ながら呆れ返るほかはない。  八幡宮が封鎖されたのなら、親王の御座所は別地へ移されていて当然だ。  そしてそれが建朝寺、ということなのだろう。  鎌倉五山の第一位であれば、やんごとなき皇子が身を置いても不相応なことはない。 「わかりました。御教示有難うございます。  近々、御機嫌伺いに参上することに致しましょう」 『……本当にどうなさったの?』  くすくすという笑いが、大尉の声に続く。  電話の相手を底無しの間抜けと踏み、楽しんでいる様子に取れた。  何もかも知った上で――  俺がそんな〈状態〉《ざま》に落ちた理由をも熟知した上で。    その笑声は、そう聴こえた。 『今すぐ、と申しましたでしょ。  明日ではもう間に合わなくてよ、景明さま』 「……とは、如何なる」 『これから、建朝寺が襲われます』 「――――」 「何と?」  襲われる? 『狙いはもちろん宮殿下。  逃げ場もなし。あの御方はお命を奪われることになりますかしら』 『誰もお護りしないのなら……  ねえ? 景明さま』 「何故です!?  何処の何者が、何条もって宮殿下を――」 『さあ?』 「大尉殿!」 『結論を急がせたのは景明さまでしょ?  わたくしは懇切丁寧にお話しするつもりでしたのに』 「ッッ……」 『仕様のない方だこと。  では一言だけ』 『人を呪わば穴二つ』 「――何です?」 『策謀は呪いと同じ。  打ち方を誤れば、己に返ってくるものなのです』 「……つまり――」 『はい、ここまで。  今は行動あるのみでしてよ、景明さま』 「お待ちを!」 『お急ぎなさいましね?』  電話は一方的に切られた。  無意味な信号しか流さなくなった受話器を忌々しく見詰めた後、母機へ戻す。  ……どういう事なのだ。  親王が襲われる? 策を誤ったために?  大将領を黄泉へ送ったのはやはり親王の手で、それが六波羅に発覚し、報復が行われるという事なのか?  あるいは、そんな単純な話ではなく――  いや。  裏事情への憶測など巡らせている場合ではない。  大尉の話が全て事実なら、最後の忠告も正しかろう。  今は行動あるのみだ。 「――村正ッ!!」 「聴こえているか!?  今すぐに戻れ!!」 「着きましてございます」 「ご苦労さま。  ……初めて見るけれど、立派なお寺ねえ」 「まことに。  こればかりは、大和でしか味わえぬ妙趣でございますなぁ」 「漢や〈交趾〉《コーチ》はまた違うものね。  ……傷をつけたらもったいないかしら」 「確か、中には国宝もございますし……。  なるたけ建物に危害が及ばぬよう、注意されると宜しいかと」 「そうね。  なるたけ」 「すぐに向かわれますので?  それとも、しばらくお待ちに?」 「……待ちましょう。  まとめて片付けてしまいたいもの」 「さようでございますか。  では、お茶の用意をいたしましょう」 「お願いね」 「……あの御仁は、おいでになりましょうかねぇ」 「知らん顔はできないと思うけど。  何と言っても景明さまですし」 「おわかりになると?」 「もちろん。  もうずっと、あの方のことばかり考えてるんだから」 「今日これからのことだって、幾度も想像してみたのよ?  因果を含めて剣を向けた時、あの方はどうなさるのかしら……って」 「どうなさいますかな? あの御方は……」 「きっと無念の想いで一杯でしょうね……。  なぜってあの方にはすべてが不本意なことだったに違いないもの」 「罪なんて犯したくなかった。  だのに、報いを受けさせられる」 「……理不尽よね」 「哀れなものでございますな」 「けれど仕方ない。  〈わたくしが〉《・・・・・》許さないのだもの」 「はい」 「どんな理由があっても許さない。  〈彼〉《・》を殺したことは許さない」 「そうしなければ百万人が犠牲になっていたとしても許さない。  救われた百万人が景明さまに味方するなら、諸共に叩いて潰す」 「誰が決めたの……?  彼の一つの命より、百万人の命の方が重いだなんて」 「誰でございましょうねぇ……」 「彼が自分でそう決めたのなら、いい。  けれどそうじゃなかった。彼は自分の意思で死んだわけじゃない。〈殺された〉《・・・・》のよ」 「他人に命の値打ちを決められて、殺された。  だからわたくしは許さない」 「湊斗景明を許さないの」 「御意……」 「わたくしがあの方の立場にあればまったく同じことをしたとしても、ね」 「同じことを」 「ええ。  景明さまもきっとそうなさったように……何も教えず、力ずくで命を奪うでしょう」 「やむなき犠牲と、説いて聞かせはなさいませんか」 「虫のいい話だとは思わなくて?  それってつまり、今からあなたを殺すけれどこれには理由のあることだから納得してね、って頼むのと同じじゃない」 「殺された人は、殺されておきながら誰かを恨むこともできなくなる。  〈殺した人は〉《・・・・・》、〈殺しておきながら〉《・・・・・・・・》誰にも恨まれなくて済んでしまう」 「……そんなことがあっていいと思う?」 「なるほど……」 「だからわたくしね、景明さまには感謝しているのよ。  だって、〈恨める〉《・・・》もの」 「あの方が我意一つで彼を殺してくれたから、こんなにも復讐心を〈滾〉《たぎ》らせられる。  こんなにも殺意を燃え立たせられる」 「彼が自分の意思で犠牲になっていたなら、きっとどうしていいかわからなかった。  気持ちのやり場が見つからなかった……」 「そうならなかったのは景明さまのおかげ。  でしょう? ばあや」 「…………」 「だから……優しく殺して差し上げないとね。  痛みは感じさせずに。一撃で心臓を貫いて。眠るように逝って頂きましょう」 「あの方の無念を、一顧だにしないで。  慈悲なんて無しに。憎悪だけぶつけて」 「力任せに命を奪い取る。  あの方の、ありったけの未練を浴びせつけられながら、それを踏みにじって殺す」 「そして――わたくしは恨まれるの。  いつの日にかこの心臓も、わたくしがそうしたように、復讐の切先で貫かれる」 「それでよろしいのでございますね」 「それ〈が〉《・》いいのよ」 「……」 「それが復讐なのだもの。  いつまでも果てしなく続く、殺意と憎悪の円環……」 「別の言葉で何と言うかわかる? さよ」 「〈 法と正義 〉《ロウ・アンド・ジャスティス》」 「そう。  やられた分はやり返す。やった分はやり返される。人類普遍の一大律法」 「近年の倫理やら道徳やらは必ずしもそれを正義と認めぬようでございますが。  ま、倫理道徳など心の化粧。所詮は上っ面のことでございます」 「ええ。  心の真実はいつだって変わらない」 「変わりませぬ」 「貴顕たるもの、普遍の正義を体現して生きなくてはね」 「はい」 「お茶は?」 「ただいま」 「いい香り」 「お嬢さま」 「なあに?」 「楽しゅうございますか」 「ええ、とても」 「そのお愉しみは大切なものを失った哀しみと表裏一体でございます」 「そうね。  ……こういうのは何ていうのかしら?」 「〈業〉《カルマ》と云うのですよ。  人面獣心のお嬢さま」 «一体、何事よ!» 「後で説明する!」  幸いにも近所におり、待つほどのこともなく戻ってきた村正を迎えるや、取るものも取りあえず装甲。  合当理に爆裂寸前の急稼動を〈強〉《し》い、まだ明るい空へ躍り上がる。  甲鉄のあちこちが〈荷重〉《G》を受けて軋んだ。 «危ないってば!» 「すぐに済む。〈堪〉《こら》えろ」  速度の急上昇に合わせて不吉な音は更に募る。〈堪〉《たま》りかねてか劒冑が苦情とも警告とも取れる叫びを発した。  しかし、構っている場合ではない。  署長宅から建朝寺までは、徒歩であればそれなりの距離でも、劒冑を馳せればまさに目と鼻の先だ。  ほとんど一瞬にして着く。  多少無理な騎航をしても、深刻な損傷にはならないだろう。  その結論を村正は共有しない様子だった。……目的地さえ聞かされていないのだから当然ではあるが。 «またぞろ〈装甲騎手〉《れーさー》の真似事をしようってんでないなら、速度を落とすのが賢明よ!  私はともかく、貴方の体の方がもたない» 「……」  声は発さず、全て承知済という意だけを送る。  言葉にする手間を惜しんだのは気が急くためばかりではなかった。  村正の指摘は正しい。  既にグレイアウトの兆候を感じ取っている。血行が乱れているのだ。気を抜けばその刹那にも視界は色を失い、そして暗転するだろう。  そうなれば後は墜落の結末のみが待つ。  精神の表面を氷のように固く張り、闇へ〈融〉《と》けてゆく衝動に抗わねばならなかった。  それは俺の力という力を根こそぎ必要とする行為であったに違いない。  しかしなお尽きた底から〈搾〉《しぼ》り〈滓〉《かす》のような余力を掻き集め、わずかな速度上昇に充てる。 «――御堂!»  もう益体も無い声に構ってはいられない。  一切耳を貸さず、総力投入の騎航を続ける。  〈磁気加速〉《リニア・アクセル》を用いるべきか――そんな一思案も脳裏を過ぎる。だが俺は採らなかった。  今となっては陰義を発動している手間が惜しい。  それにもう、八幡宮まで〈幾許〉《いくばく》もない筈だ。 «御堂ッッ!!  〈四五度上方〉《うしとらのかみ》!!» 「――――何?」  俺の反応は余りにも鈍過ぎた。 «切り刻むほど愛・地球爆!!» 「がっ――」 「お……アアアアアアアアアアアア!!」 «みっ……御堂――!?»  不味い。  地表に―――― 「う…………ぬぅ!」  ……辛うじて。  目前まで迫った奈落の〈顎〉《あぎと》を脱し、再び優しき空の〈腕〉《かいな》に抱かれる。  〈額突〉《ぬかず》いて祈りたくなるほどの安堵感。    ――に、しかし浸っている場合ではなかった。 «肝が冷えたったら!» 「あるまいが、そんなもの。  それより、損傷程度を言え」  聞くまでもなく背の激痛で察せられたものの。  荒い呼吸を一つ〈吐〉《つ》くたびに、酷く疼く。 «背面甲鉄が大破……。  でも幸いね。合当理はほぼ無傷よ» 「不幸中の、か。  ……それで、今のは敵襲か?」  間抜けな問いを間抜けと知りつつ間抜けに発する。  直前までまるで別の事に意識を傾注していたせいもあり、あの刹那の認識は曖昧だった。  何か金打声を聴いたような気もするが……その記憶も不確かだ。  砲弾と言われればそう思えるし、落石だったと言われても否定する根拠がない。……それは何処の〈浮遊島〉《ラピュータ》から落ちてきたのだとは問うが。  そんな俺に対して、劒冑の答えは明晰だった。 «敵よ。決まってるでしょう。  〈二五五度上方〉《かのえのかみ》!»  言われるまま、騎首を巡らし。  ……その〈威容〉《すがた》は隠れもせず、そこに在った。  悪魔であった。  あるいは、西洋の〈竜〉《ドラゴン》を擬人化したようにも見える。  それは途轍もなく暴力的で、悪意的で、怨念じみた破壊の欲求に満ち溢れていた。  体躯の程は〈村正〉《こちら》の一・五倍、いや、二倍近い。  江ノ島の巨獣を別格とすれば、俺がかつて出会った中で間違いなく最大級の怪物である。  それが爬虫類の皮膜を思わせる〈母衣〉《つばさ》を広げ、悠々と空を舞っているのは、果たして如何なる因果が招いた悪夢か。  衝動的に、頬を〈抓〉《つね》って引き千切りたくなった。  そうして血が出なければ目も醒めるだろう。 «傷が増えるだけだから止めておきなさい。  残念ながら、現実の存在よ» 「わかっている。江ノ島の体験は貴重だったな。  〈認識信号〉《コード》は発しているか?」 «いいえ» 「〈所属不明騎〉《アンノウン》か……」  運悪く六波羅の防空隊に捕捉された可能性も一応は考慮してみたのだが――所属を示さぬなら違うだろう。  元より、あのように奇態な劒冑を六波羅が制式採用したなどという噂は小耳に挟んだ覚えも無いのだが。  そうなると、襲われた理由は…… 「まさか、〝卵〟を殖えられた寄生体――」 «その気配もなし。  〈銀星号〉《かかさま》とは無関係よ»  最後にあと一つ残っている筈の〝卵〟でもないと、村正が云う。  と、なると。  …………………………………………。 「何処の何者だ」 «私に訊いたって……。  その答えは本人しか知らないでしょう» 「だろうな……」 «尋ねてみる?  まともに会話ができる相手なのかどうかはかなり微妙なところだけど»  とはいえ、そうするほかに手立てもない。  こちらに襲撃される覚えがない以上、単なる誤解である可能性も高いのだ。  ……単なる誤解で脊椎が曲がるほど殴られたのでは余りにもやるせないが。  それでもこのまま続けるよりはましだろう。 «我が前方の不明騎に告ぐ。  当方に攻撃の意思無し» «貴騎の所属、及び目的を問う»  …………。  返信はない。 「人に名を訊くならまず自分から名乗れ、ということだろうか」 «どうかしら……。  そうだとすると、向こうはこちらが誰かも知らず襲ってきたことにならない?» 「そういう特殊な性癖の持ち主だという可能性もある」 «ないし。  というか、そんな奴は墜としましょうよ»  同意せぬでもなかったがそれは置き、俺は不明騎との交信を続けようと試みた。  といってまさか、正直に「こちらも所属不明騎です」と告げるわけにはいかない。 «当方は――国際統和共栄連盟大和進駐軍の所属である。  極秘任務中であるため認識信号を所持していない» «……» «繰り返す。当方は進駐軍所属である。  貴騎の所属、及び目的は如何» «……………………» 「……?」  何だ?  これは…………返信か?  全速力で走り終えた直後の人間のような――というよりは末期の喘息患者のようなと形容した方が近い、病的に乱れた息遣い。  それは単なる呼吸音で、言語ではなかった。  だが、意思を伝えていないかといえば違う。  その吐息はむしろ単純な一意思の塊だった。  つまり、俺に対する――――害意の。 «来るっ!» 「ちィ!!」  そして、答えはそれだけという事か!  兎にも角にも抜刀する。  何者であろうと、ただ無抵抗に斬られてやるわけにはいかない。  俺にもやるべき事があるのだ。  特に、今は―― (……そうだ)  急な襲撃に失念させられていた事を思い出す。  そう、こんな所でわけもわからず争っている場合ではなかったのだ。  一刻も早く離脱して――    ――いや……まさか、これは大鳥大尉が伝えてきた親王の危地と関わりのある事なのか!?  まさかではない。むしろ、そう考える方が自然だ。  だとすると……迂闊に逃げ出すわけにはいかない。追いすがって来るであろうし、そうなれば親王の傍へわざわざ敵を連れてゆく羽目になってしまう。  それでは救援どころか足引っ張りだ。  離脱するにしても、敵騎の戦闘能力を剥奪してからにする必要がある。 「村正、方針決定。  敵騎を死なぬ程度に叩いた後、離脱する!」 «諒解!»  〈高度優勢〉《ハイ・ポジション》は敵騎が占めている。  こちらは気流を遡上して迎撃せねばならない。形勢の不利は火を見るよりも明らかだ。  敵の武装は大振りにして凶悪な形状の戦斧。  その一撃に外見相応の騎体重量と落下勢力が加わるのなら、まさしく脅威となるだろう。  さて、この一合。  どう応ずるべきか?  俺は太刀を上段にとった。  敵もまた、無造作な肩担ぎの上段。  ならば相手の〈下〉《・》に潜った側が打ち合いを制する。 «あなたの頭をジューサーでミキシんぐー!!»  気の触れたような叫びと共に押し寄せる敵騎は異様なまでの勢威に溢れていたものの、攻撃の動作自体は杜撰だった。まともな武術のそれではない。  掻い潜るのは造作もなかった。  敵騎の腹下に入りつつ、太刀を振り下ろす。 「ぐ――」 «硬い……っ!»  強固な手応えに俺は奥歯を噛み、村正は忌々しげに甲鉄を震わせた。  敵の重厚な姿はどうやら見掛け倒しではないらしい。少々の剣撃は通用しないようだ。  しかしとにかくこの一合は制した。  このままこちらの流れへ持っていければ、そう手間取ることもなく―― 「なっ……何ぃ!?」  ――腰に一撃を受けた!    それほど重い攻撃ではない。損傷程度も僅少だろう。  だが、何故だ!?  斧の攻撃軌道からは確かに逃れた筈。  だが――だが、攻撃を受けたのは間違いなく敵騎と交差する瞬間、しかも敵のいる〈上〉《・》からだった。  疑う余地なく、敵の繰り出した攻撃なのだ。  しかし! 「村正! 今のは何だ!?」 «わ――わからない!  斧は避けていた……と、思うけれど……»  鉄の心を持つ村正も動揺を禁じ得ずにいる。  それほど得体の知れない攻撃だったのだ。  一体、何だと云うのか。  隠し武器か、それとも特異な体術か……?  素性も目的も知れない敵だ。  慎重にしてし過ぎるという事はないだろう。  勝負を急ぎたい気持ちはあったが、俺は一旦それを抑え込んだ。  太刀を上段に構える。  そのまま進み――激突の瞬間、俺は深く沈む進路を取った。  敵騎の攻撃範囲を脱する。 «股ぐらから手を突っ込んでぇ背骨を抜いてあげるのねぇぇぇぇぇっ!!»  ……〈掠〉《かす》りもしない。  敵は単純に、斧を打ち下ろしてきただけだった。  その一撃も力任せで、精緻な技とは縁遠い。  別に後悔はしていないが……少々、この恐ろしげな見掛けの敵を警戒し過ぎたか。  などと考えた瞬間だった。 「……!?  何だ?」 「攻撃を受けたのか?」 «……そ、そうみたい。  損傷は無いけど» «どうやって……!?»  今のは敵の攻撃だった。  〈つつかれた〉《・・・・・》方向を思えば、それは間違いない。  だが手段が不明だった。  斧の一撃は完全に躱していた筈……。  何なのか。  隠し武器か、それとも何らかの体術か。  ……いずれにしろ、慎重な対応を選んだのは誤りではなかったらしい。  反転し、再び敵影に対峙する。  改めて見ても全くの異形である。どこか宗教的でもあった――無論善性を示すものではなく、多くの宗教が否定する悪性、その純粋な発露としてだ。  あのような騎体を駆るのは何者なのだろう。  〈金打声〉《こえ》からは女性と思えるが、音程を外している上妙にエコーが掛かっているため断定はできない。余り正気でない事だけはどうやら確かなようだが。  謎めくその敵騎もこちらと同様の機動をとっている。    ……が、反転するために描いた弧は明らかにこちらより大きい。  つまり旋回性能は村正より格段に劣るようだ。  高度優勢はまだ敵のものだが、このまま勝負が続くならいずれ逆転できるだろう。  武者の太刀打において、村正のように小回りの利く騎体は先手先手を取り、相手が態勢を整える前に勝負へ引き込んでしまえるのが強みだ。  その利点は活用しなくては損である、が。  二合目をどう応じよう。  敵騎は変わらず、憎しみを〈捏〉《こ》ね固めたような戦斧を構えてまっしぐらに突き進んでくる――  今度は様子を見よう。  俺は太刀を振りかぶり、迎え撃つ――    と見せるだけしておき、打ち合う刹那に大きく進路を変えた。  真っ正直な一撃を躱し、  そして、 「……見えたか!?」 «駄目!  けれど一つ。あれは〈射撃〉《・・》じゃない» «間違いなく、何かの〈打撃〉《・・》よ» 「…………」  よもや、〈足脚〉《あし》を器用に使って蹴りを入れてきているわけではあるまいが……。  もう一度、様子を見よう。  そしてできるなら、謎の攻撃手段の正体を突き止めたい。  俺はさっきと同じように敵騎へ向かい、斬り合いの間に入る瞬間、方向を転じようと試みた。 «濃厚でクリーミィな味なのぉー!» 「――ッ!?」  ……俺は自分の失策を呪った。  対敵は俺の回避行動を捕捉し、追って攻撃を加えてきたのだ。  そうされて、不思議がるべきでもない。  同じ行動を二度続けてやれば、見切られて当たり前だ……! «左肩部に被撃……  損害、中破!» 「……くっ」  とにかく、態勢を立て直さねば……。  敵の構えは素人じみた上段だ。  対して、俺は――  あくまでも武者正調の上段を貫く。  この構えからの一撃こそ最大の打撃力を有する。故に正調、常道なのだ。  敵の奇手を恐れて、常道を曲げるべきではない。  この一撃で勝負を決すれば済む話だ。  甲鉄の隙間を狙い、一刀を叩き込む! «ハインリッヒは物分りが良かったり» «……そんな!?»  太刀打の間合に踏み込む瞬間……  合当理に火を入れ、更に加速した!?  無茶な真似を! 「おのれ!」  ……どうにかこちらが位置は制した!  敵騎の下へ入り、剣撃を叩き込む。  が――  利いてはいない! 敵騎の甲鉄の最も分厚い箇所に当たり、弾かれただけだ。  敵騎は全くの無傷。  と、いうことは―――― 「がはッッ!?」  食らった……  正体不明の一撃!  今度は狙い澄まされた、充分な加撃だった。  損傷は軽くない……! «御堂!» 「心配はいい……。  それより出所を見たか!?」 «いいえ……。  でも今のでわかった。あれは〈射撃〉《・・》じゃない» «何らかの〈打撃〉《・・》よ»  確かにそうだ。  攻撃を受けた感触で、俺にもわかる。  だが、どのようにして?  よもや足を器用に使って蹴りを入れてきているわけでもあるまいが……。  俺は下段に移った。  太刀を体側、刃を下に向けてとり、斬り上げてゆく構えだ。  武者剣術の正調たる上段と比べれば、太刀筋にやや勢力を欠くことは否めない。  一刀で敵騎の甲鉄を斬り割るのは難しかろう。  しかし俺には若干、思うところがあった。  上段の敵騎は当然、こちらの腹へ抜けながら戦斧を打ち下ろしてくる。  下段のこちらは敵騎の背へ抜けつつ、斬り上げねばならない。  このような太刀打の場合、勝敗優劣は見切りの早さと剣速で決する。  先に打ち間を把握し、先に打ち込んだ側が勝つ―― «ラトビアからの移民ですかー?» 「――何を!?」  打ち合いの間へ入る直前に急加速!?  馬鹿な!  ……完全に出遅れた。  だが辛うじて、敵騎を狙う筈だった太刀で斧を受け弾くのは間に合った。  斧の分厚い刃は標的を外し、空を薙いでゆく。    そして―― «……来ない?» 「来なかった……な」  あの不可解な一撃は、俺を襲わなかった。  それ以上の攻撃を浴びることなく敵騎と行き違い、離れる。  ……つまりあの怪しい〈何か〉《・・》は、自騎の背面方向には繰り出しにくい性質のものなのか。  どうもその可能性が高いようだ。  他に、あの見るからに貪欲な敵騎が攻撃を手控える理由というのも無さそうに思える。  未だ実態を掴めていない以上、安易な断定は危険だが……。 «……御堂!?» 「くぁ……っ」  しまった。  無理な騎航で体調を乱していたところに……攻撃を貰い過ぎた……!!  落ち――――る……………… «……ふふふ……  あーはっはっはっはっはっはっはっ!» «見ていてくれた?  ねえ、――――»  じわりじわりと、砂が水を吸うように、胸中へ焦りが広がってゆくのを感じる。  このままでは……例え最終的に勝利を収められたとしても、取り返しのつかない結果になる。  正体不明の敵を倒したところで、それだけでは俺にとって何の意味も持たない。建朝寺へ向かい、親王と署長を救出するのが目的なのだ。  相対する敵騎はその目的の単なる障害に過ぎない。  一秒半秒でも早く突破する必要がある。    だというのに二合を経て、俺はまだ手傷らしい手傷も相手に負わせていなかった。  いっそ――もうこのような得体の知れぬ武者相手の戦場など放り捨てて、建朝寺へ向かうべきか。  そんな考えが浮かぶ。存外、捨てたものではないと思えた。  先に懸念したように、親王の前へ敵を誘引する結果となるかもしれない。  だが今はとにかく、親王たちの無事の確認を最優先するべきではないのか?  ……どうする。  ……いや、安直な選択はすまい。  親王らの置かれる状況がわからないとはつまり、今現在は全く安全である可能性も有るという事だ。  そこにわざわざあんな危険な代物を引き連れて参上するなど、平地に波を起こすの極地というものだろう。  香奈枝嬢が言った通りの危地にあるのだとしても、敵に追われつつ駆けつけるのではやはり救援にも何にもなるまい。  当初の方針を変えず、まずこの敵を制するべきだ。  と――結論して。    また焦りが募る。  そう、まずあの武者をどうにかせねば。  できるだけ……できるだけ早く。  急がねば、何もかも手遅れになる……! «…………?  御堂» «〈敵騎〉《むこう》が……» 「ん?」  ……何だ?  腹部の甲鉄を開いて…………  何かを突き出した。  棒状の――――?  俺は視覚を強化してみた。 «あれは……» 「……砲だ」  砲門である。  戦車砲に良く似ていた。いや、そのものに見えた。  敵はどういう〈意図〉《つもり》だろうか。  通常の火砲、しかも連発の利かないものなど、武者に対しておよそ戦果を挙げ得る兵器ではない。  武者の機動力があれば回避するのはさして難事でもないし、直撃を受けても甲鉄強度で威力をほぼ殺せるからだ。  牽制が〈精々〉《せいぜい》。それも連射可能という前提で。  あの砲はどう見ても単発である。また、特に変哲もない。  江ノ島の巨大兵器が搭載していたような、奇々怪々の性能を誇る魔砲だとは思われなかった。  だとすると……何故。  敵はあたかも〈決め球〉《・・・》のように、この局面で取り出してきたのか。  何か――あったろうか。  通常の砲で、武者に打撃を与える方法が…… 「…………」 「――虚仮威しだ!」 «そうなの?» 「ああ、気にする必要はない。  このまま進め!」 «――諒解。  御堂、貴方を信じる!» 「……次は信じないでくれ……」 «……そうする……»  ――――あれは〈不味〉《まず》い! 「村正、退避ッ!」 «え?  ど――どっちに!?»  急激な荷重が全身を襲う。  しかし構ってなどいられない。  避けきれるか――――? 「ずああああっ!!」  左足を……〈抉られた〉《・・・・》!  肉をごっそりと奪われたのがわかる。  思わず寒気が走るほどの喪失感。  だが、危ういところで直撃だけは避けた……。 「上だ!  敵の背面方向を取る!」 「構造的にそちらへは撃てない筈だ!」 «諒解!»  〈兜角〉《ピッチ》を引き上げ、上へ――上へ。  敵が砲口を向けようのない、その背面へ。  村正は機動性能の全てを駆使して俺の要望に応える。  だが――わかる。敵もまた兜角を上げて、俺を射界に収めようと追ってきている。  逃れられるか――――!? «な、なんかすごいの来た……!  でも、外れたっ!» 「良し……!」  ……どうにか虎口を逃れたか。  危ういところだった。  方向を……一八〇度変える!  この際、敵に背中を向けようが尻を向けようが気にしてはいられない。  とにかく一目散に―― «……御堂。  敵の真ん前でこんなことしてたら、いい的なんじゃぁ……» 「ああ。  たった今、俺もそう思った」 「村正。方針変更。  戦域を離脱する」 «……諒解»  俺が急ぐ理由をまだ知らない村正は不平感を〈滲〉《にじ》ませていたが、それでも反論はせず従った。  敵への戦意より、その不気味さへの忌避感が優ったのかもしれない。 「追ってくるか?」 «……ええ。  しかもかなり速い» «このままだとすぐに追いつかれる……  どうするの?» 「方針の変更はない。  撤退を続行する」 «あの怪物に尻を〈齧〉《かじ》らせるつもりなの?» 「……尻傷は武者の恥辱か」  逃げようとして後ろから襲われる以外に、そんな傷を武者が負う状況はまず有り得ないためだ。  尻の傷は最大の不名誉の刻印であり、切腹をもって〈雪〉《そそ》ぐべき恥とさえされている。  だが今回、その心配は要るまい。  敵の速度は相当らしいが、それでも斧が届くところまで近付かれる前に目的地へ着ける。  ……などと考えている間に。  建朝寺が見え «……で、結局……  今のはいったい何だったの?» 「高速徹甲弾だ」 «こーそくてっこーだん?»  〈対竜騎兵用高速徹甲弾〉《ADHVAP》。  タングステン製の弾芯を軽合金の外殻で包む二重の構造によって、高い貫通力を得る砲弾である。  着弾の瞬間に柔らかい外殻が潰れ、鋭い弾芯が突出して甲鉄を貫く仕組みになっている。  対竜騎兵用のものは重量を極めて軽くされている為初速が非常に高く、近距離では武者の反射神経を以てしても回避が難しい。  距離が開くと、弾速は大きく落ちるのだが。  軍事識者の間では最も実用的に完成された対竜騎兵用火器だと評価されている。  惜しむらくは――世界中の武者にとっては幸いにも――材料のタングステンが貴重なため量産ができない。  もし量産が可能だったなら……将来的にそうなったなら、戦場の様相は大きく変わるに違いなかった。  それほどの兵器だ。  こんなものまで撃ち放ってきたとなれば、物好きな武者が物好きにも襲ってきたなどという可能性は最早万が一にも有り得ない。  敵は歴とした組織に属する者である。  それも高い技術力と経済力を兼ね備える――つまりは大規模な。    六波羅か。GHQか。  どちらであるにしても、親王を見舞うという危難に関わるものとみて間違いはなかろう。  俺が援護に向かう事を見越して、足止めに放たれたのか。  となれば尚更、ここで猶予は許されない。    だがそう思う反面、俺の焦燥は幾分か治まっていた。  今の一弾が脳天へ氷水を浴びせる効果をもたらしてくれたのか。  精神に冷静さが戻っている。  この一戦を、ふと顧みられる程度には。 「……どうも……奇妙だ。  いや元より、見るからに奇妙なのだが」 「何処がどう、というのではなく……  あの武者の戦い方は〈おかしい〉《・・・・》気がする」  敵の挙措から匂う、妙な素人臭さのためか。  それもあろう――とは思う。  だが、その一言では片付け切れないような。  別の要素が、まだ…… «それはきっと――  熱量のことね» 「何?」  問いを向けはしたものの、俺は返答など期待していなかった。  しかし村正にとっては呼び水だったらしい。  自分自身最確認するように、推測を話し出す。 «おかしいのよ。どう考えてみても。  私の見立て違いでないなら――あの武者は〈全速力で突っ込んできて〉《・・・・・・・・・・・》、〈そのまま〉《・・・・》、〈全力で〉《・・・》〈殴ってくる〉《・・・・・》» «熱量が十あるとして、それを合当理の稼動と筋力増強に五ずつ分配して〈いない〉《・・・》の。  どちらも十なの。……そんなこと、絶対に有り得ないのに» 「……」  村正の言う事を理解するのに、若干の時間を要した。  通常、武者は太刀打に臨む時、間合に入る寸前までは合当理(つまりは騎航力)に熱量を費やし、間合に入ったら即座、甲鉄(身体強化)に熱量を注ぐ。  この絶妙な見切りも武者の技量の一つである。  村正の表現を借りれば、斬り合うまでは合当理に十、斬り合う時は合当理の分を零にして、筋力強化に十の熱量を注ぐという事だ。  これは太刀打における鉄則であり、まず例外はない。  見切りの手間を厭って騎航と甲鉄に五ずつ分配したまま漫然と戦うような武者は、決して太刀打の勝利を得られないからだ。  無論、有利不利を無視し、できるできないを問うのなら――そうした熱量の使い方は、〈できる〉《・・・》。やろうと思えば誰にでも。  だが村正の云う敵の奇妙さは、そういう事ではない。  どちらも十。  合当理稼動も身体強化も全力で――全速力のままに最大筋力を駆使して襲い来る。  敵騎の異様な〈勢威〉《パワー》はそこに起因するものだったのか。    しかし、有り得ない。  分量でいえば、十の力を持つ者も八の力を持つ者もいる。個人差はまちまちだ。  通常の人間の倍の熱量を有する武者とて、この世の何処かにはいるだろう。  だが比率でいえば、どんな者も〈十割〉《・・》の力しか有していないのだ。平均値の二十割の力を持つ人間がいたとしても、それは本人にとっては十割である。  それはそういうものだ。当然、そうなのだ。  その常識を覆している。  〈二〇〇%の力を使う〉《・・・・・・・・・》という反則を、対峙する敵騎は犯している。  少なくとも村正はそう云う。    ……………………。 「奇矯な言動と兼ね合わせれば、何か薬物を用いているとも考えられるが」 «そうね。  熱量そのものも何だか異常だし……それは有りそう» «でも――»  それだけではやはり、説明がつかないか。 «知ってるぜーー!  おまえの好きな物は母親と死体だあーー!!»  だが、謎の答えを出す暇はなく。  悪魔の騎体はまたしても、颶風を友とし襲い来る。 「…………」 「…………」 「ごちそうさま」 「〈往〉《ゆ》かれますか?」 「ええ。  時間が無限にあるわけではないもの」 「そろそろ夕暮れ刻でございますね……」 「……もう、なんて〈男〉《ひと》なのかしら。  わたくしの誘いを袖にして」 「あちら様にはあちら様の都合がおありなのでしょう」 「わたくしの都合を優先して頂戴」 「遺憾ながら、この世の中はお嬢さまを中心にして回ってはおらぬようで」 「そうなの? なんてこと。  ならわたくしが真ん中に来るように世界を造り替えておかないとね」 「それは次の日曜にでも」 「ええ。  今は仕事を片付けましょう」 「……〈贋弓聖〉《バロウズ》もご一緒に?」 「せっかく許可が下りたんだもの。  弦楽器はずっと弾かずに仕舞っておくと、品質が損なわれてしまうのよ?」 「では、良き音色を心待ちにしております」 「ばあやも、外の〈始末〉《フォロー》はお願いね」 「はっ」 「そこの女、止まれ!」 「現在、建朝寺は幕府の管理下にある。  一般客の参拝は認められない」 「退去せよ!」 「参拝客ではございませんの。  通してくださいましな」 「何……?  寺の関係者か?」 「ならば証明証を見せろ」 「証明証?」 「駐屯隊長が発行したものだ。  本当に関係者なら、持っているはずだぞ」 「ああ……はい、はい。  これでよろしいのかしら?」 「ん……?」 「なっ――」 「あが……」 「万国共通の通行許可証。  確かに、お渡ししましてよ?」 「き……貴様」 「御免あそばせ」 「……ろ――」 「六波羅武士を……舐めるな!」 「あら……」 「すぐに仲間が来る……竜騎兵も……。  自分の愚かな行為を……後悔すると、いい……」 「根性がおありなのね。  胸を撃ち抜かれてなお、呼子を吹くなんて」 「素敵でしてよ」 「――銃声に警笛?  敵襲か!!」 「出会え、出会えーーーっ!!  何者かが門を破ったぞ!!」 「あら、あら、あら。  何だか大変な大騒ぎに」 「どうしましょうどうしましょう」 「――あの女か!?」 「銃を所持しております!」 「よし、分隊横列!  〈撃〉《て》ぇーーーーーっ!!」 「どうしましょう?  こうしましょう♪」 「……何ぃ!?」 「えっ?  ……この距離で全弾外れ……!?」 「ば、馬鹿者ども! ちゃんと狙わんか!  弾倉交換急げぇっ!!」 「残念ながらスリーアウトでチェンジです。  ここからはわたくしの手番」 「――はい、コールド勝ち」 「そこの女!  侵入者とは貴様かッ!?」 「いえその方ならあっちへ行きました。  わたくしは見ての通りただの尼さんです」 「ご、伍長殿……女の背後を!  第三分隊が殲滅されております!!」 「あら本当みなさんお倒れになって。  昼寝でもしていらっしゃるのかしら?」 「殺せぇっ!!」 「少しくらい話を聞いてくださいません?」 「貴様が地面に這いつくばった後でな!」 「――――!?」 「……そう。  わたくしと同じ趣味なのね、伍長さん」 「なんっ……だとォ!?」 「わたくしも相手を這いつくばらせて話すのは大好きです。  丁度……こんなふうに」 「き、貴様……  弾を……避け……っ!?」 「ふふふっ」 「さぁーて。  なんかわたくし一人で勝手に盛り上がってまいりましてよーっ」 「笑っても笑っても笑ってもわたくしだけ。  周りで皆さん死体になっていて、何も答えてくださらない」 「……なんだかとても惨めなわたくし。  まるで世界の全てに置き去りにされたよう」 「ふふふ――あははははっ」 「……楽しそうで結構だな。  だが、そこまでにして頂こうか」 「♪」 「冗談みたいな絵面だな……」 「悪夢と言い直せ。  こんな御婦人お一人様に、ここまで侵入を許しただと?」 「ちと、怠慢が過ぎましたかね。  親王殿下の貴き御命なんて、僕らがお守りする筋合いじゃないわけで」 「だが、むざむざ侵入者の手に掛けさせては我らの恥だ……」 「そうした責任意識はとても大切でしてよ。  責任の無さは誇りの無さ。男の魅力もありませんもの」 「いいこと言いますね、この姉さん」 「まったくだ。  場所が場所なら、口説きに掛かるところだが……」 「この見るも無惨な鉄火場ではなァ」 「お気に召さなくて?  〈地獄の炎の戦士の皆さん〉《ヘル・ファイヤー・ソルジャーズ》」 「趣味っちゃあ、趣味だがね」 「よくぞまぁ……殺しも殺したり。  そして得物は、年季の入ったその銃一丁?」 「ええ。  気に入りですの」 「でも、銃の手応えはあまり好きではないのですけれどね。  人を殺す時は、やっぱり素手が一番です」 「こう――両手で……  〈縊〉《くび》り殺すのが、一番」 「…………」 「今、縮みませんでした?」 「縮んだよ……」 「……〈ご令嬢〉《レディ》。  人殺しがお好みで?」 「はい♪」 「それはもう……  何よりも!」 「……殺されるのは?」 「あぁ、忘れておりました。  それはきっと、殺すよりも素敵でしょうね」 「想像するだけでときめきます」 「良かった。安心したよ。  職務上、俺は殺されるわけにはいかないが、殺してやることなら何とかできそうなのでね」 「――聞いての通りだ。  ネジが一本どころじゃなく緩んじまってるこの牝犬様に、きついのを一発見舞って差し上げろ」 「諒解」 「何だか殺しちまうにはちょっと惜しい〈女性〉《ひと》ですけどねえ?」 「お前の趣味を疑うぜ……」 「あらあら。  みなさんおそろいで、わたくしを悦ばせてくださるとおっしゃる?」 「けれど死の愉しみは一度きり。  わたくしとしても相手は選ばせて頂かないと困ります」 「俺たちでは不満だと?」 「いささか役不足というものでしょう」 「あ、今のは謙譲の表現でしてよ。  文法ミスではなくってよ!」 「ふん。  お前のような女に殺された兵卒どもにも、不満はあったろうよ」 「失礼なっ。  こんな〈超絶美女〉《イケイケギャル》をつかまえて」 「だが奴らは不満を呑んだ。  ああそうさ。そういうものだ。結局この世の中、力のある者が自分の好みを押し付けるようにできている」 「これから俺がお前にそうしてやるようにだ。  文句はなかろう?」 「……そう。  結構でしてよ?」 「たしかに、力の強い者には刃向かえませんものね。それはとても納得のゆく〈正義〉《ルール》。  そう……それが〈六波羅〉《あなたがた》のルール」 「だからわたくし、あなたがたの相手をする時は同じルールを自分に課していましたの。  六波羅への敬意を表して。これまでずっと……ええ、もちろん今もそう致しましょう」 「……? 楽器?」 「……何の真似だ?」 「最後に一曲。  そのくらい、許してくださるでしょう?」 「…………」 「これでお別れなんですもの」 「自分への〈鎮魂曲〉《レクイエム》にしちゃ、妙な選曲だな」 「……満足したか?」 「ええ。  とても満足――」 「――だから。  あなたがたも、満足させて差し上げる」 「…………何だと!?」 「つ――劒冑!?」 「言い忘れていましたけど。  この〝〈贋弓聖〉《バロウズ》〟の〈装甲楽曲〉《コンセクレーションテーマ》は、わたくしの敵――つまりあなたがたのための〈鎮魂曲〉《レクイエム》」 「どうやらお好みではなかったかしら?  けれど、わたくしの方が強いもの。力ずくで好みを押し付けてしまいましょう」 「よろしくて?」 「斬れェッ!!」 「……やはり素人だな」 «十中八九、そうでしょうね»  数合を打ち合っての結論として、俺は呟いた。  村正もほぼ同意のようだ。  その妖気とも呼ぶべき気迫、熱量配分の異常に起因する暴風の如き突進、いずれも尋常ならざる猛威ではあったが。一歩後退して冷静に窺えば、それらを統御する武術はごくごく拙いものだった。  斧の扱いは力任せに上から下へ叩きつける他に何も知らぬらしい。  比較すれば騎航術は幾分ましだったが、それも武者として一人前とは到底言い難い域に留まる。  総じて見て、素人なのだ。 «あなたにはママが必要なのねぇーーー!!»  風を巻いて立ち向かってくる鬼相の敵騎。  その姿と向き合うのは既に数度目にして、しかし尚たじろぎの念を禁じ得ないのは事実だが。  得物とする戦斧の捌きようにはやはり何らの工夫も見えない。  右肩上へ一撃必断の力を蓄えて構えはすれど、そこに〈術技〉《わざ》と称すべきものは皆無だった。  あの不可解な奇襲にしても、正体を見抜くところ迄は至っていないものの、上側――つまり己の背面方向へは行使できないらしい事を掴んでいる。  攻撃を受けたのは敵の下側、腹へ潜った時だけだ。  欠陥を見切ってしまえば、霧中の技とて最早恐れるには及ばない。  太刀打で勝を制するのは容易であった。  俺は――  間合に踏み込む刹那、母衣を打って〈速力〉《あし》をわずかに鈍らせ、対手の機を外す。  そして、  ……岩を叩くに似る、硬く重い手応え。  しかし着実に損傷を積み重ねてはいる。  このまま続けてゆけば―― «……またっ!» 「不覚……ッ」  ……何を寝惚けていたのだ、俺は!  下へ潜れば食らうと、わかっていながら!  〈これ〉《・・》が有るのを忘れていた!  出所知れぬ、敵の奇手……!  間合に入るその直前、俺は合当理に半瞬だけ過剰な熱量を通した。  速力の段階が一段跳ね上がる。ほんの寸秒、太刀打の間への到達が早まる。  結果、敵騎の斧がまだ動きさえせぬ内に村正の太刀は目標を捉えていた。  敵手のお株を奪う小技だが、こちらとて熱量分配に細心の意を凝らせばこの程度の芸は可能! 「……ちぃ」  しかし手応えはやはり硬い。  下段からの斬り上げでは破れないか!?  いや、それでも中の人間に衝撃は伝わっている筈。  幾度も重ねれば効いてくるだろう。そして敵を殺すわけにはいかない〈村正〉《こちら》にしてみれば、微弱なダメージを重ねてゆく戦法はむしろ安全策だとも云い得る。  それに―― «上には来ない……» 「と、見ていいようだ」  敵騎の〝見えざる手〟は〈下〉《・》に潜ってきた相手だけを狙うものとどうやら断定できる――か。  であればその意味でも、上へ斬り抜ける下段の攻めが安全無難という事になる。  ……兎も角も趨勢は定まったと云えるだろう。  重装甲を恃んで執拗に食い下がる敵騎を〈降〉《くだ》すのは骨だが、こちらが焦って隙を見せでもしない限り、まず負ける要素はない。  〈尤〉《もっと》も、それはそれで充分に難儀ではある。  焦るべき理由がこちらにはあった――目の前の敵とおそらく同じ旗を仰ぐのであろう誰かが建朝寺の舞殿宮を今まさに襲っているかもしれないのだ。  そう思えば、腹の下に焦燥の火が〈ちりちり〉《・・・・》と〈燻〉《くすぶ》る。  つまるところ最大の敵は自分自身の〈精神〉《こころ》に他ならなかった。  冷静さの維持が何より肝要だ……。  手を急いで打ち負かされては元も子もないのだから。  弧を描いて回り、再び敵影を正面視界に収める。    ――――良し。〈旋回性〉《こし》の鈍い敵騎は進撃態勢の再興が遅れている様子だ。  今の内に押し出し、優位を確保するに如かず!  母衣の制御を誤りでもしたのか、敵はこちらが指呼の距離まで迫ってようやく転回を終えた。  今更突撃を仕掛けようが、ろくに勢威など得られるわけはない。  今が――好機!  損傷を与えやすい部位を狙って打つだけの余裕すらある。  俺は太刀を取り直し、  ――――――――――――――指、が。 «……御堂?» «な、何やってるの!?  ちょっと、遊んでる場合じゃ――» 「ゆぃ――あ――うを……」  〈指が動かない〉《・・・・・・》、    ……と告げる筈だった俺の応えは、珍妙な呻き声にしかならなかった。  舌もだ。  舌――そして唇も動かない。  〈麻痺〉《・・》している。  指が、舌が、唇が。 (これは――まさか)  全身の皮膚が粟立った。  考えたくもない可能性が脳裏に閃き、そして、それを否定するような分析は一切出て来ない。 «御堂!?» «え?  ……まさかっ»  異常を察した村正の〈探査〉《サーチ》が、俺の体内を駆け巡った。  その結論はどうやら俺のおぞましい仮説を裏付けるものでしかなかったらしい。  敵騎は目前。  重兵器を振り上げるその騎体に、充分な突撃衝力は宿らず――しかし、今の〈村正〉《おれ》に比べれば…… «噛まれた腕は切らないと駄目なのー!  いえもう手遅れだから首を斬ろーーーお!!» 「きぃ……」 (きさっ――まァ!!) (仮にも、武者の身で――)  殺意を湛えて煌く斧の刃。  その光沢は……単に金属のそれではなく。  そこに塗布された―――― (毒を使うのかぁッッ!?) «ひゃぁっほーーーう!!»  対敵の、悪魔的なる外形は……  人倫、武道など心得ぬまさに悪魔の本性を、隠しもせず露骨に〈曝〉《さら》け出したものであったのだ。  今更ながらに、俺は刃を交える相手の何者なるかを骨髄に沁みて思い知った。  何もかも、既に遅過ぎた。 «御堂ッ!!  いけないっ――»  毒刃が、  俺に――――  ……そのような卑劣な武器など!  満身の力をもって受け止め、刃先を届かせねば良いだけの事―― 「……ッ!?」  しまった!  指が痙攣して――力が、全く――――! «あはははははははははははっ!  やった! あいつを殺したよっ!» «だから――だから……  ……ねえ…………» «……よろこんで……くれ、る……?»  今は――避けるしかない! 「ぅぁ――――!」 «……躱したっ!»  比喩ではなく紙一重。  いや、〈薄〉《・》紙一重だったが。  毒斧は〈標的〉《おれ》を捉え損ね、敵騎もろとも離れていった。 «御堂、平気!?» 「すつっ――」 (……少なくとも、今はな)  劒冑の問いに声を〈紡〉《つむ》ぎ出して返すのは諦め、思念に指向を持たせて送信する。  発生通話と違い主旨が正確に汲み取られない場合もままあるが、今は贅沢を言っていられない。  舌唇の痙攣は更に悪化し、殊更口を利こうとしなくても気を緩めるだけで狂声を発しそうな〈塩梅〉《あんばい》だった。 (自由の利かない場所が次第に広がっているような気がする……。  首や足腰まで動かなくなった時には、危うかろうな) «そんなことになったら――»  墜ちるのみである。  武者の騎航は背中の合当理を吹かすだけで成立するものではないのだ。 «……くっ。  手立てもあろうに、毒とはね!» «心の底から、呆れる話よ!  前例を探そうとしたら、蒙古襲来絵詞まで遡っちゃうんじゃないの?» (俺も、他には聞いた覚えがない。  毒飼いを働く武者など)  蒙古襲来――〈所謂〉《いわゆる》元寇の折、緒戦において蒙古側の武者は大和武者を圧倒したが、その理由は蒙古の騎体が運動性に優れていた事、〈編隊戦術〉《フォーメーション》に長けていた事等の他に、毒の使用を躊躇わなかった事もあったと云う。  わずかな掠り傷を重傷、遂には致命傷へ至らしめる毒はさぞ有効な兵器であったことだろう。  ……しかし、世界軍史を紐解いて総覧しても、その使用例は決して多くないのが実情だった。  未開民族の間で狩猟に用いられた例なら無数にある。だが仮にも文明国家の軍隊が使用した例となると、元帝国以外は殆どが遥か遠き古代史の範疇だ。  増して武者の使用例となると絶無である。  それは毒という物が、〈何時〉《いつ》の時代〈何処〉《どこ》の国家の武者にも必ず存在した特有の――戦場の王者としての――美意識に、真っ向から刃向かうこと〈甚〉《はなは》だしかったからであろう。  武者は衆に優れた力を持ち、故に衆の模範とならねばならなかった。  その武者がどうして、毒物など用いて姑息に勝利を盗んだりできようものか?  そうした意識は武者の〈矜持〉《プライド》であり、良き伝統である筈だった。    それを――かの敵騎は持ち合わせていないと〈思〉《おぼ》しい。 (〈詰〉《なじ》ったところで埒も明かんがな……) «そうね。それは奴を地べたへ這わせてからにしましょう。  今は……その、毒のことだけど» (何かわかるか) «毒の正体について? なら皆目。  誇りに懸けてもそんな知識は学ばなかったもの» (だろうな。  だが、俺の身体の何処にどう毒が作用しているのかならわかる筈) (何処だ?)  俺とて詳しくはないが、雑学程度には嗜んでいる。一口に毒物と言っても種類は様々だ。  しかし症状からして臓器に作用する実質毒や、接触した組織を破壊する腐食毒は考慮から外せるだろう。  そうなると後は血を破壊して身体機能を奪う血液毒か、神経を冒して麻痺させる神経毒か……  そのどちらなのかがわかれば、毒名の特定もできるかもしれない。 «神経よ。  もちろん傷口から血管を通して広がってるんだけど、おかしくなってるのは神経のほう» «あと筋肉も……»  神経毒。  そして体の末端から異常が顕れるこの症状。  うろ覚えの知識の中に、合致するものは―― (……テトロドトキシン) «てと?» (いや、要するに……河豚の毒だ)  〈河豚毒〉《テトロドトキシン》。  今から三十年ばかり昔、大和の田原某という博士が初めて抽出に成功してその名を付けた。  それが世界に先駆けて大和人の手で成されたのは、偶然ではなく必然というものだろう。  河豚は大和人には古くから馴染みの深い食材だ。  〈死と背中合わせの美味〉《・・・・・・・・・・》として。 «つ――つまり» (このまま放置すれば、すぐに死ぬな) «解毒しないと!» (お前の〈機能〉《ちから》でできるか?) «……多分。  全行動を停止して、数分掛ければだけど»  今すぐには実行不可能、という事である。  現状を最大限楽観的に捉えても、そんな余裕が得られるとは考え難い。  テトロドトキシンはいまだ人工合成の成功例が無い物質だ。敵はおそらく実際に河豚から抽出し、通常は経口摂取されるそれを戦闘に適するよう加工した上で使用しているのだろう。  そこまでするような相手が―― (〝〈小休止〉《タイム》〟の申請に耳を傾けてくれるとも思えん) «減らず口叩いてる場合なの?» (症状の進行を遅らせる事はできるか?) «……それくらいなら。  でも、大して長くはもたないと思う» (急いでけりをつけろ、と) «ええ»  時間制限が設定されたという事だ。  いや、それは元々あったようなものだが。  タイムオーバーのペナルティは〈舞殿宮〉《たにん》の身命に危険が及ぶ可能性から、自分自身の確実な死へと変わった。    ……話がわかり易くなって、有難い事だ。  定まったかに思われた勝負の趨勢はあっさりと覆り、俺は窮地に立たされ、敵は見るからに勢いづいている。  体躯が一回り大きくなったようにも見えた。  それは俺の心理的後退が見せた幻覚に過ぎなかったのかもしれない。  しかし、突撃の速度と勢威の増大は目前に差し迫る現実だった。 «き――ぐェックァァァァルァァァァァァ!!»  敵の狂声は遂に言葉の体裁さえ失っている。  極度の興奮のためか、それ以外の理由によるものか、それはわからないし知った事でもない。  対処すべきは敵騎の刃だけだ。  重厚にして毒をも含むそれを如何に凌ごう。  今はひとまず攻めよりも守りに専心せねばならない。  無論、〈守るために攻める〉《・・・・・・・・》という発想も有ろうが……。  いずれにせよ手立ては大別して二種だ。  〈太刀業〉《おもてわざ》か、それとも――〈裏業〉《うらわざ》か。  物心つく前からこの身に仕込み、鍛え続けてきた、吉野御流の術技……。  死線において一命を託すは、これ以外にない。  一つの武術流派は、それが辿った歴史の全てを――数多の修行者が道場と戦場で獲得してきた成果の全てを内包し、その上に成立している。  膨大な知識の中にはこの窮地を抜ける策も必ず有る。  ――その一手を選び出し。  俺はまず、力の入らぬ手で太刀を構えた。  そして……  ……手の握力の無さを無視して繰り出された一剣はいとも容易く弾かれ、そのまま何処かへ飛んで行った。  戦斧は速度を緩めさえしなかった。  俺の仕掛けた〈牽制〉《フェイント》は――    病的なまでの闘志を有する敵に、全く意に介されもしなかった。  そして……  太刀打の間合。  俺は上へも下へも逃れず、直進を続ける。  そして〈騎体〉《からだ》と平行に構えた太刀の切先を――敵騎の〈眉庇〉《カメラ》めがけて突き出す! «――!?»  この一突が首尾良く目標を捉え決勝打になるなどと、そんな安い期待は抱いていない。  高速で駆ける武者に点攻撃を当てるだけでも困難であるのに、標的を目へ限定しては達人の手にすら余る。  だが、構わなかった。  吉野御流合戦礼法〝〈禽楽〉《とりのがく》〟の企図はあくまで心理的効果にある。  どれほど猛り狂った者でも、たとえ猛獣そのものであっても、突然に目を狙われては怯まずにいられない。  誰もが持つ本能的弱点を攻めて威勢を奪う――それこそがこの技の狙うところだ。  ほんの一寸でも敵の腰が引けたなら、そこに活路を見出せる! 「ぐっ――」 «左肩甲鉄に直撃!  でも……破られてはいない!» «一瞬気を散らしたわね、あいつ……!»  ……良し。  どうにか、凌ぎ切った……。  尋常の仕業ではこの窮地、どうしようとてどうともなるまい。  尋常ならざる業をもって立ち向かうほかにない。  俺は〈臍下丹田〉《せいかたんでん》を中心に気息を練り、裡なる力を集め始めた。    さて――この力をどう操るか。 «〈磁装〉《ながれ》・〈正極〉《まわる》!»  全身の運動機能が磁気効果によって最適化される。  この陰義を維持している間は、武者の常識を超える機動が不可能ではない。  これで、切り抜ける! «胸部甲鉄に被撃!» (避け切れなかったか!?)  だが――致命傷ではない! «〈磁装〉《ながれ》・〈負極〉《かえる》!»  反発磁力を利した障壁が敵騎の戦斧をあらぬ方角へ押し流す。  無論の事、〈村正〉《おれ》は全くの〈無傷〉《ノーダメージ》だ。  もしも敵にいくらかでもまともな理性が残っているなら、狐につままれたような顔をせずにはいられない局面だったろう。  それを確かめられないのは残念だったが…… «凌げたわね» (ああ)  ひとまずはこれで良し。  出し惜しみをしている場合ではないだろう。  最大の一撃をもって、直ちに終わらせる! «〈磁装〉《ながれ》・〈蒐窮〉《おわる》――»  鞘に戻した太刀を中心に、必殺必滅の力が荒れ狂う。  これを解き放てば、全てが終わる………… (――待て)  いや。まずい。  そんなことをすれば。  そんなことをしてしまえば。  〈殺してしまう〉《・・・・・・》。  〈電磁抜刀〉《レールガン》は〈問答無用〉《・・・・》の一撃だ。  手加減など仕様はなく、徹頭徹尾生命魂魄を破壊し尽くす。  そうなれば。  俺は誰とも知れぬこの敵を殺し。  更に村正の戒律に懸けてもう一人をも―― (馬鹿な!)  手が止まる。力が霧散する。    ――――そして俺の命運は潰えた。 «キ――キッ» «クエーッフェッフェッフェッ!  クエェェェ――» «フェッ……ヒィ……ハ…………»  ここから仕切り直しだ。  状況はまだ何も好転していない、が……一撃を耐え切ったことで流れを変える糸口だけは掴めた。  この糸口を手放してしまわぬよう、次は―― «あっ……御堂!?» 「……つぅ……」  いかぬ。  やはり……毒に冒された体での陰義の行使には無理があったのか!?  いかぬ。  思ったよりも……今の一撃が効いている!?  皮膚の毛穴から活力が抜け出てゆくような感覚。  心臓を絞られているようでもある脱力感。  ……まずい。  この感覚に満たされてしまえば、きっと終わりだ。  何処までも沈んでゆき、二度と戻らぬに違いない。    ……まだだ。  まだ……〈それ〉《・・》は許されない!  俺は役目を果たし終えず、罰せられてもいないのだ!  折れかける意識に〈接木〉《つぎき》をして、現実世界に踏み留まらせる。  それだけの事に残る〈活力〉《エネルギー》のあらかたを費やしたが、泣き言を並べるにはまだ早かった。  敵はすぐにも襲い来る!  反撃は望むべくもなくとも、せめて防ぎ切る体勢は整えなくては……  ………………?  いない? (村正。  ……敵は何処だ) «………………» «あ……  あそこ» «ぎ――――ぃ» «きハッ、ア――アアア…………»  届く〈装甲通信〉《メタルエコー》だけは、なお俺への闘志を唄っていた。  凝縮された殺戮欲の渦は、言語の形を喪失していてさえ誤解の余地がない。  しかし、その騎体は落ちてゆく。  俺を睨み、手を伸ばし、足掻くような仕草すら見せながら――全ては虚しく。重力に引き下ろされてゆく。  悪魔の姿の竜騎兵に、目立った損傷はない。  〈翼甲〉《ウイング》も〈気筒〉《バレル》も無事だ。  なのに……何故? «やっぱり薬か何かを使っていたんでしょうね» (村正?) «熱量が急激に低下している。  単に消耗したのとは違う。無理矢理に引き上げていたものを〈取り返された〉《・・・・・・》って感じ» «……自滅したのよ。  要するに» (…………)  小さく、遠くなる敵影を見送る。  〈墜落〉《・・》ではなく、辛うじて〈滑空〉《・・》だが――かなりの速度だ。あのまま着陸すれば相当な被害を〈蒙〉《こうむ》るだろう。  分厚い甲鉄に守られ、死ぬ事はないとしても……  重傷は避けられまい。  …………自滅の結末。 (中にいたのはどんな人間だったのか……) «さあ……ねぇ»  心中に消化不良を残しつつ、俺は身を翻した。  とにかく――障害は除かれたのだ。  建朝寺へ急ごう。  思わぬ異変に時間を蕩尽してしまった。香奈枝嬢の電話から、既にどれだけ経ったか。  何事が起きているにせよ、手遅れでなければ良いのだが……。  親王と署長が……無事であれば……。 「ぐぁ――」 「はっ……」 「ちィ!」 「…………」 「待て!」 「貴官の姓名と――」 「大和語で結構でしてよ、署長さん」 「…………」 「貴方か……大鳥大尉」 「はい。  本日はお日柄も良く」 「……コブデン氏が失敗したと聞いた時点で、何らかの制裁は避けられまいと覚悟していたが。  よりによって貴方が送られて来るとは」 「いや……当然か。  私がGHQの参謀でもそうする」 「ええ。  わたくしがGHQの味方なら、忠誠を確かめる試金石になる。敵なら、敵同士ぶつからせて食い合わせることになる」 「しかもわたくしは大和人。  わたくしが親王を襲っても傍目には進駐軍の関与が窺えないし、仮に知られても大した問題にはならない……」 「実際に血を流し合ったのは結局、どちらも大和人なんですもの。  GHQは宮殿下に報復を加えながら、大和の人々の感情を刺激しなくて済んでしまう」 「わたくしの上司は本当に合理的でしてよ」 「……〈参謀第二部〉《G2》。  クライブ・キャノン中佐?」 「あら、ご明察」 「私が張り合うには、少々……無理がきつい相手だったようだ」 「ですかしら?  あなたがたが焦って自沈の道を選びさえしなければ、まずまず互角の勝負ができていたと思いましてよ」 「……」 「策を弄し過ぎたのではなくて?  足利護氏の急な死は確かに、進駐軍の大和政策を巧遅から拙速へと振り向ける危険性を持っていましたけど――」 「掌を返すように一瞬で変わると思っていたなら、あなたがたは警戒が過ぎました。  GHQのように図体の大きい組織が、そう俊敏に動けるものではありません」 「方針を翻すとしても、それは会議と密談を繰り返して内部の意見調整を済ませた後……。  あなたがたが対策を講じる余地は十二分にありましたのよ?」 「…………成程」 「そうか。そういうことか。  つまり我々は……疑心暗鬼の陥穽に〈嵌〉《はま》ったのか」 「……疑心?」 「貴方に対する。  大鳥大尉」 「……」 「足利護氏を殺したのは我々ではない」 「景明に拒絶され、〈貴方にも〉《・・・・》断られ……我々はやむなくプランを放棄した。  暗殺実行者を用意できなかったからだ」 「しかし、大将領は死んだ」 「…………」 「我々は――――GHQが手を下したのだと判断した」 「……あぁ……」 「そうだ。大鳥大尉……我々から大将領暗殺の計画を聞いた貴方がGHQへ報告したのだと、そう思った。そしてGHQはそれを利用すべく策したに違いないと」 「自らの手で護氏を始末しておき、その上で〈舞殿宮〉《われわれ》の計画を幕府に密告する……。  計画は実在したのだし、大尉という証人もいるのだから信じさせるのは容易い」 「幕府の手で宮殿下を攻め滅ぼさせ、しかる後、その行為を非難して進駐軍が幕府を潰す。  大和の国民は進駐軍を正義の執行者と認め、支配を受け入れる……」 「そういう筋書きをGHQは書いたのだろうと……我々は考えたのだ」 「……それで。  とにもかくにも進駐軍の出足を止めようと、コブデン中佐を買収して横須賀軍港を爆破させるなんて乱暴な手を……」 「ああ。  一刻の猶予も許されない――と、宮殿下も私も思い込んでいた」 「……空回りだったのだな。  大尉、先程の貴方の話を追えば……護氏を殺したのは〈GHQ〉《あなたがた》でもない」 「ええ。  あの事件は司令部にも寝耳に水」 「わたくし、お二人から暗殺の話を持ちかけられたこと、誰にも洩らしませんでしたから。  利用してどうの、なんてキャノン中佐にもできる道理はなかったんです」 「…………」 「お断りする時、申しましたでしょう。  〈計画の趣旨には賛同できます〉《・・・・・・・・・・・・・》けど、私的な事情で少し立て込んでいるので今回はご協力致しかねます――って」 「あの言葉を額面通りに受け取って下さればよろしかったのに」 「……そうだな。  それをできなかったのが、私の器量だ」 「美人の言葉を疑ってはいけない。  この世の鉄則でしてよ」 「来世があれば気を付けよう。  …………しかし」 「では……誰だ。  あの奉刀参拝の日、誰が八幡宮を襲ったのだ?」 「我々を踊らせたのは誰だ?  いや……そもそも〈踊らせる意図〉《・・・・・・》があったのか?」 「………………」 「……詮無いことか。今更。  理由はどうあれ、私は策に敗れた」 「結果として、意味もなく進駐軍に敵対する愚を犯した」 「ええ。  もちろん、右の頬をはたかれたら左の頬を〈殴り返す〉《・・・・》のが彼らのマナーです」 「そうやって世界の支配権を握ってきた人種ですから」 「承知している。  逃げるつもりはないし、温情を乞うつもりもない」 「……菊池署長。  わたくしは〈首謀者〉《・・・》への制裁を命じられていますの」 「あなたは――」 「私が首謀者だ」 「……」 「進駐軍にとってもその方が好都合だろう。  大和の皇族に危害を加えるのはやはり〈危険〉《リスク》が大きいはずだ」 「宮殿下を唆す者がいた……という事にしておいた方がいい。  いわゆる君側の奸だよ」 「……あながち間違いでもない。  確かに私は、宮殿下の御側に控えながら、正しく補佐し奉る責務を果たせなかったのだからな」 「……」 「あなたがたがわたくしを信頼できなかったのは、わたくしの不徳も一因。  その分のお詫びはせねばなりません……」 「ご希望に沿いましょう。  菊池署長」 「心から感謝する。  大鳥大尉」 「……づ……ぁ……」  目的地に着いた時には、最早視界も定まらなかった。  体内に入り込んだ毒素が領土を着実に広げている。  村正の抑止効果も限界なのだろう。  全身麻痺に至るまでもう間が無さそうだった。 «御堂、ここで休止を!  毒を抜かないとっ――» (そんな暇はない。  見ろ) «……あっ»  門前に転がっている、それ。  ――六波羅兵の死骸。  遅かった。やはり時間を食い過ぎた。  事態は既に切羽詰っているのだ! (宮殿下はおそらく奥の院だろう。  急ぐぞ) «でっ、でも……»  村正の逡巡を無視して走り出す。  棒のようになった足ではろくに速度が出なかったが、それでも一歩に次ぐ一歩を急ぐ。  道を示すように、兵士の骸が点々と在る。  パン屑なら童話の一景色であろうが、屍臭濃い肉だ。典型的な地獄絵図でしかない。  悪しき予感に苛まれつつ、駆ける。 «武者が!» 「――ッ」  屍肉に〈誘〉《いざな》われて進んだ先に、鋼の骸が待っていた。  六波羅正規の竜騎兵、四騎。  いずれも……一撃で屠られている。  間違いなく、手練の武者の仕業だ。  つまり。  この寺院を襲ったのは、地上の最強軍事力――最大限度の危険であり、  それは既に、  防備の全てを突破して―――― 「―――――――――――――――――――」 «……あ……»  俺はその光景を見た。  毒にくすむ視界で、しかし確かに見てしまった。  拒絶する。  振り払う。  嫌だ、とかぶりを振る。 『次郎君。  君を私の息子として迎えようと思う』 (嘘だ)  有り得ない。  こんな事は、あってはならない。  ……やめてくれ。 『私の息子としての名を贈ろう』 『これまでの名を捨てろというのではない。  新たにもう一つ、別の名を――』 (明堯様)  否定する。  否定する。  否定する。  否定――――しているのに!  どうしてこの光景は消えてなくならない!? 『湊斗景明。  ……気に入ってくれるか?』  舌を神経毒に縛られた俺は……  最後に、〈養父〉《ちち》の名を呼ぶことすらできなかった。 「…………」  その武者――いや、明らかに西洋の品と知れる劒冑で身を包んだ〈騎士〉《クルセイダー》は、俺に一瞥をくれ。  用は無いとばかりに踵を返そうとした。 (――待てェ)  逃がすか……  逃がすものか。  貴様が一歩踏み出すことも許さない。  貴様が一息吸うことも許さない。  貴様が一秒生存することも許さない。  ――殺してやる。 「……ッッ……」  肉体が俺の意思を裏切る。  力尽きたと言い張り、動こうとしない。  糞。  こいつはなんて役に立たないのだ。  奴を捕まえて引き倒し、馬乗りになって顔面を殴り潰す程度のことがどうしてできない!?  やれっ!  やれえっ!! (お――おおおおおお!!)  全ての意地は虚しく、意識は拡散してゆく。  防ぎ止める〈術〉《すべ》はなかった。  最後の体力で、両眼を〈瞠〉《みは》る。  敵騎の姿を網膜に焼き付ける。  ――〈輝彩甲鉄〉《オリハルコン》の〈弓騎士〉《サジタリウス》。  俺は誓った。  愛に等しい真情で、胸に刻んだ。  復讐を。  この騎士の心臓を抉り出し、養父を殺した罪の〈贖〉《あがな》いとする事を。 「ではこれより何となく裁判を開始する!」 「被告人、前へ」 「はい」 「検事!」 「ういッス」 「まず、罪状の告発を」 「えーと被告湊斗景明は、とりあえずおれを殺しました」 「それから年端もいかない蝦夷の二子を殺しました」 「でもって〈装甲騎手〉《アーマーレーサー》の皇路操を殺しました」 「でもって学生の綾弥一条を殺しました」 「んでフリーの記者の時田光男を殺しました」 「んで学生の綾弥一条を殺しました」 「それと――」 「多いよ! いつまで続くんだよ!」 「じゃあ中略して、あと一つだけ」 「あいつは自分の母親も殺しました。  以上」 「はいご苦労さん」 「では、弁護人!」 「はい」 「弁護できるならしてみるがよい」 「仕方なかったんです」 「ハァ?  仕方なかったァァァァァァ!?」 「そうです。仕方なかったのです」 「じゃー仕方ないな。  情状酌量の余地を認める」 「無罪!!」 「異議有りッ!!」 「えー」 「弁護人に質問します!  仕方なかったってのは、いったいどう仕方なかったんですかっ」 「被告人は幼い頃に両親を無くし(中略)」 「愛情に飢えていた被告人は甘えようとしてうっかり殺してしまっただけであり(中略)」 「死体を押入れに隠したのは精霊に生き返らせて貰おうという彼の善意の顕れであって (中略)」 「……以上の理由により、被告人に被害者への殺意は無かったと断定できるのであります」 「ZA・KE・ROOOOOOOO!!」 「うーん、何という弁護……。  突っ込み所が多過ぎてどこから突っ込んだもんだかわからねえ」 「これって一種のノーガード戦法か?  うかつに突っ込むとカウンター食いそうだ」 「納得して頂けましたか」 「したような気もする。  じゃ、閉廷すっか」 「騙されないでください判事!」 「えー」 「何かご不満でも」 「あらいでかっ!」 「だって聞いてたろー今のー。  仕方なかったんだよー。殺意は無かったんだよー。ならゴメンネ☆って謝ってもらえばもうそれでいーだらぁー?」 「良くねえよっ!  仕方なかろうが殺意が無かろうが、それで殺された方が納得いくわけねーだろ!!」 「法律は死人の為に有るんじゃないしィ?  生きてる人の為に有るんだしィ?」 「流石は判事。至言であります」 「おめーら……自分の言ってることが社会にどういう影響を与えるかとか……ちょっとは考えろよ。頼むから……」 「そんなこと言われてもにゃー?」 「これが仕事なので」 「ぐあーーーー!!  悪い意味で職業意識が発達し過ぎた世界はほんと駄目だーーーーーーー!!」 「うーむ。ワガママな検事だなぁ」 「しかたねー。妥協案を考えてやろう」 「どんな?」 「景明ちゃんは悪くにゃいから死刑になんかできねぇけどぉー。  代わりにそこの弁護人を殺して良い」  ――――待て。 「私ですか」 「うん」 「まあ、被告人さえ救えば私の仕事は果たされるので構いませんが」 「検事は?」 「うーん……  どっちかってーと今は被告人より弁護人の方がムカつくしなァ」 「大人になることも必要だよ?」 「そーですね。  じゃ、それでいいです」  待て。  待ってくれ。 「ん?  どーかしたんかね被告人。口ぱくぱくして」 「なんか言いたいことでも?」  あるに決まっている!  何故――俺の罪で俺が罰せられず、他の人間が殺されねばならないのだッ!!  俺を罰すればいい……!  俺の罪に言い逃れの余地など無いことは、誰よりも俺が知っている!  この首には絞首紐が相応だ――いや、必要だ!  だから、俺を…… 「なんも聞こえんね」 「特に意見は無いようです」  ………………ッ!?  口が――動かない!  毒だ。毒で――麻痺している―― 「では刑を執行する」 「エクスキューショナー、カモーン!」  待て!  待っ―――――― 「〈やっちまえ〉《ごー・とぅー・へーる》♪」 「――――――――――――――――――」  何故だッッッッッッッ!!  何故……この俺が生きることを許され……  生きるべき人が死んでゆくのだ!?  この世に正義は無いのか。  こんな事はもうやめてくれ。  どうすれば終わる? どうすれば〈これきり〉《・・・・》になる?  俺が自分で自分を殺すしかないのか。  安楽な、逃避としての死しか、俺には許されないのか。  罰は? 苦痛は? 鉄槌は?  罰!!  これほどの罪を犯した俺に、どうして断罪たる死が与えられないのだ。  汚辱に満ちた刑死をもって報いてくれないのだ。  それが…………この世界だというのか!?  ならば〈世界〉《ここ》には何の希望も無い!  正しき人間が非業に斃れ――その死を〈齎〉《もたら》した悪鬼に罰はなく――〈然〉《しか》らば正しき人間の正しき生き様は全くの無価値に帰す!!  そんな事を認めて〈堪〉《たま》るか。  彼らには価値が有った――大いなる価値があった!  それを俺が無道にも奪ったのだ。  だから、頼む。  誰か……誰でもいい。  俺を、  この俺を――――誰か―――― 「……………………」 「……ここは……何処だ……?」 「……以上か?」 「はい」 「…………。  舞殿宮を取り逃がした……か」 「ご期待に沿えず、申し訳ありません。  処分は謹んでお受けいたします」 「――――」 「…………」 「どうかお嬢さま、いえ大鳥大尉をお責めにならないでくださいませ。中佐殿。  すべてはこの老いぼれが至らなんだための不始末……」 「ええ。実はそーなんです」 「というのは真っ赤な嘘だっぴょー。  中佐殿、小官は上官の命令に従っただけであります。責任の所在をお間違えなきよう」 「あなたそれでもわたくしの従者!?」 「言えた義理じゃねえだろ腐れミカン」 「……まあいいさ。  どうしても抹殺しておく必要があったってわけじゃない」 「ひとまず表舞台から退散させられたんなら、それで充分だ。  しばらくの間は余計なちょっかいもやめておとなしくしているだろう」 「……その間に〈決着〉《カタ》はつく。  すべて」 「…………」 「ご苦労だった。  下がって休んでくれ」 「貴官の次の配置は追って伝える」 「……はい。  失礼いたします」 「……ふん……」 「逃げたにしろ、逃がしたにしろ、消えた奴のことはどうでもいい。  死んだ奴も」 「だが……  捕虜、か」 「湊斗景明。  ……ふむ。さて……ねぇ?」  目覚めたそこは、未知の場所だった。  白く、清潔感のある部屋だ。  広くはない。せいぜい六畳だろう。だが物が少ないせいか、やけに空漠として見える。  存在感を有する物体は、たった今まで我が身を横たえていた質素な〈寝台〉《ベッド》くらいしかない。  後は椅子が一つと、小物が数点。  見直せば、壁に窓すら無かった。  息苦しさを覚えるのは間違いなくそのせいだろう。通風孔はあるが、身体的にはともかく心理的には全く必要充分でない。  鉛を詰めたように重い頭蓋は、考えを巡らせる前にまずここから出る事を要求していた。    部屋の一隅に扉を見つけ、そちらに歩く。  ほんの数歩を進むために、幾度かよろめいた。  どういうわけか、手足の感覚が鈍い。  他人の体を糸で操っている心地になりながら、どうにか辿り着く。  〈把手〉《ノブ》を掴んで、回して引いた。 「……」  押してみる。 「…………うむ」  さて。  状況が新たに一つ判明した。  扉は開かない。  鍵が掛けられている。無論、外側から。  把手を舐めるように見回してみようが、鍵穴もなければボタンも引き金もない。  開ける事は不可能だった。  つまり監禁されている。  ……いや。  決め付けるのは早計か。  ここは単に病院の病室であり、鍵が掛かっているのは関係者以外の立ち入りを禁ずる為なのかもしれない。  患者の症状によっては、内側から開けられない部屋に収容する必要もあるだろう。  で、あれば――とりあえず、すべきは一つだ。  起床した事実を外へ伝えよう。 「失礼。  何方か、おられませんか」 「もし――」 「静かにしろッ!」 「…………承知」  監禁されているのは間違いないようだ。  それにしても、今の声。  聞き間違えようのない外国語――英語だった。  英語を話す人間が、俺の身柄をこの一室に封じようとしている。    ……つまり。 (俺は進駐軍に拘束されているのか)  そういう事になりそうだった。  理由に心当たりがない…………などと口にしたなら健忘症の謗りを受けるだろう。  江ノ島でGHQの将校らと敵対した記憶は、風化させてしまうには流石にまだ時が足りなかった。  あの折は銀星号の登場によって何もかも混沌の内に幕を引いてしまったが、それでGHQが俺の事は放置しようと変心したとは思えない。  次の手を仕掛けて来るのは、むしろ当然とも言えた。  しかし、それにしても突然である。  何の脈絡もなくこんな始末になった事の説明としては充分でない。  いや……脈絡?    脈絡。  俺は建朝寺へ親王らを救いにゆこうとして……  そうだ……建朝寺への攻撃。  要するに、あれは――――進駐軍の……?  では、あれも―― 「――――」  ……割れるような頭痛に、脳が〈疼〉《うず》いた。  考えをひとまず止める。  今は、別の――    そういえば、村正はどうしたのか。  この室内にいないのは間違いない。  見ればわかる事だし、見なくともわかる事だった。武者を劒冑と共に閉じ込めるなど、余りにも馬鹿げている。 (村正?)  …………………………… 「村正」  ……………………………………………………………  声に出して呼んでみても、金打声の返答はなかった。  聴こえていないのか、聴こえていても答えられないのか……。  これは稀有な事態だ。  無論、良からぬ意味で。  縁を結んだ仕手と劒冑は二人で一騎の武者となる。  一個体になるとも言えるのであり、そうあるからには両者が引き離される事など〈有り得ない〉《・・・・・》。  互いが見えないほど距離を隔てていても、隣にいるのと同様に通話できるのだ。    それが今はできない。  最も妥当な可能性は、会話する能力を失ったというそれだ。  つまり、完全に破壊された。  死者に口無し。  一概に生物とは定義し難い劒冑とて、その格言から逃れられはしない。 「…………」  ――それ以外には、〈通信遮断装置〉《アイソレーションボックス》に密封されている可能性くらいしか思い当たらないが。  GHQが邪魔者として始末しようとした〈村正〉《おれ》の為にそこまでの手間を掛けるものかどうか、大いに疑問だ。  ただ……〈猛毒〉《テトロドトキシン》に冒されたこの肉体が生存している。  村正が回復させたのだとすれば、少なくともそれが終了するまでは健在だったという事になる……。  いずれにしろ、今は事実を確認できる状態にない。  動きが起こるのを待つしかないだろう。  自由を奪われ、その自由を取り戻す方法もない以上、それが唯一の選択だ。  ……そんな事を選択などと呼びたくはないが。    俺はせめてもの最善を尽くすべく、ベッドに戻っていまだ疲れが濃く残る身体を横たえた。 「やっほー景明さまー♪  快適な囚人ライフを過ごしておられますかしらぁー?」 「ギャーーーーーーーーーーーーーーーー!!」 「大尉殿……」 「これはこれは湊斗さま。  天井からご出現とは……さすが一筋縄ではゆかぬ御方でございますなァ。ホッホッホッ」 「いや、何やってんだよアンタ」 「は。休んでいようと思ったのですが……  どうにも落ち着かず。つい、普段の拘置所生活のように体を動かしてしまっていました」 「普段の?」 「お気になさらず」 「気になりますわやーーーっ!  あな貴方は体を動かしたくなると天井からぶら下がるんですかっ。普段からっ!?」 「血行が活発になるせいか、健康に良いようです」 「んなこたァ訊いてません!」 「足と腹筋の鍛錬にもなるのですが」 「地球人と会話している気がしない!!」 「落ち着かれませお嬢さまっ!  たとえ天井から人間が垂れ下がってきても取り乱してはならないと、お父様が口をすっぱくして仰っておられたのをお忘れですか!」 「忘れる以前にそんなピンポイントな教育は受けてませんっ!」 「大尉殿、何かありま――」 「何じゃァーーーーーーーーーーーーーー!?」 「……?  扉の外におられた方ですか?」 「先刻はお騒がせしました」 「いえ、今も騒がせておりますよ……  ていうかそろそろ降りろよ。怪奇蝙蝠男」 「すーはぁー、すーはぁー」 「要らぬ心労を掛けてしまったようで……  申し訳ありません」 「いえ……。  かなりのハートブレイクショットではありましたけど」 「なんか豪快に負けましたなお嬢さま。  人間衝撃力勝負とかそんなものに」 「そうねー。ペナルティエリアの反則でPK貰ってさあ一点と思った所に〈三塁手〉《サード》の隠し球、ランナーアウト、試合終了。採点の結果二対一で判定負けって感じではあったかしら」 「次からはお嬢さまも量子論に基づいて壁をすり抜けつつ登場するくらいの芸をなさらなくてはいけませんな」 「生き難い世の中ね……」  進駐軍大尉大鳥香奈枝。彼女の侍従永倉さよ。  待つ、という程のこともなく現れた来訪者は、その二名だった。  ここがGHQの施設であるのなら、二人がいることには何の不審もない。  が――〈何のために〉《・・・・・》やって来たのか、それは現状では全く謎の彼方だった。  とにかく、事を一から順に訊いてみるほかにない。 「大尉殿」 「はい?」 「まず、自分から質問をしても宜しいか」 「どうぞ」  快諾を得て、短く思考を巡らす。  最優先事項は…… 「舞殿宮殿下は如何されましたか?」 「建朝寺からは無事に脱出されたようです。  御遺体は見つかりませんでしたし……」 「今頃はどこかに潜伏して様子を窺っておられるのではないかしら」 「……そうですか」  軽く息をつく。  何にせよ、それは吉報だった。  親王の身は依然、安全とは程遠いのだろうが……  あの政治的生存術に長けた御人の事だ。危地を切り抜けて生き延びたからには、生き延び続けられる方法を必ず探り出すだろう。  この件に関しては、最早俺が心配したところでどうにもなるまい。  となれば次は、俺自身の事だ。 「自分はどうしてここに……  いえ。まず、ここは何処でしょうか」 「横浜です」  返答は端的で、やや婉曲で、しかしやはり自明瞭然だった。  横浜。    ――――進駐軍総司令部。  GHQの本部施設に、俺はいるようだ。 「では……  何故自分は、その横浜に?」 「建朝寺で……倒れていたと思うのですが」 「ええ。  それをさよが拾って、車でここまでお連れしたのです。ね?」 「は」 「それは――」 「…………」 「お手数を掛けまして」 「いえいえ」  果たして礼を言う筋合いなのかどうか。  少し迷った末、一応は言っておく。  内心を読んだのか、老女の〈答〉《いらえ》は肩をすくめるような響きだった。 (……そうか……)  一度質問を切り、情報を整理する。  親王と敵対し、建朝寺を襲ったのはGHQで……  内部にいた香奈枝嬢はその情報を掴み、俺に教えた……?  襲撃が行われた時、彼女らも付近にいて……  気絶した俺を発見。回収して、横浜基地へ運送した……と、いう事なのか。 「村正……  自分の劒冑は?」 「無論、一緒にお連れしました。  今は別室でお休みでございますよ」 「残念ながら、会わせて差し上げるわけには参りませんが」 「……とは。  何故でしょうか」 「会わせられない、とは」  明答続きの流れがここで途切れて、ぽっかりと間が空いた。  香奈枝嬢の表情は、失言を突かれて返答に詰まった人間のそれではない。  この間を楽しみ、味わっている、そんな顔だった。  実際、返答の必要はない。  彼女は既に明らかにしてみせたのだ。俺と彼女の、立場関係を。  劒冑との接触が許されないのは何故か。    ――武装させてはならないからだ。  彼女がどうして俺の武装を危惧するのか。    ――彼女と俺とが敵対しているからだ。  つまり。  如何なる事情によってか、親王とGHQの間に対立が生じ。  そしてその時、彼女はGHQの立場で行動した。  彼女のこれまでの言動、また江ノ島で俺もろともに抹殺されかかっていた事を思えば、その理由は単純な所属問題に帰すものでもないのだろうが……  いずれにせよそうなった。  必然、親王の恩を蒙る俺とも対立する。  これと彼女が建朝寺襲撃を予報したこととは、矛盾するようで必ずしもそうでない。まとめて一掃する為にそうしただけなのかもしれないからだ。  全て説明がつく。  あとわからないのは……親王とGHQの対立の理由と。  もう一つ。  〈なぜ俺がいま生きているのか〉《・・・・・・・・・・・・・》。  生かされているのか。  殺されず、横浜に拘禁されているのか。 「大鳥大尉殿」 「はい♪」 「現在、自分が生存を許されている理由は何でしょうか」 「心臓が動いているからではありませんの?」  微笑むGHQ大尉。  その微笑が嘲笑と呼ばれる類のものである事は明白だった――彼女は全く、隠そうともしていない。  驚くべき事でもなかったので、構わず続ける。 「停止させる事は容易かった筈です」 「そうかしら?」 「自分のこめかみに銃口を押し当て、引き金に掛けた指へ百グラム程の力を与えるだけで」  ほんの一時間前まで意識を手放していたのだ。  もっとずっと雑な殺し方でも、俺には抵抗する〈術〉《すべ》はなかった。  くつくつ、と小鼓に似た小気味良い〈鳴〉《なり》。  咽喉の奥だけで、香奈枝嬢は笑声を立てていた。 「そうですね……」 「…………」 「けれどわたくしにも、色々都合というものがありますの」 「宜しければお聞かせ願いたい」 「よろしくってよ?」  笑み。 「まず一つには、景明さまを生かして連れて来てほしいと頼まれていたこと」 「……?  頼まれた?」 「GHQの中の人間に、ですか?」 「ええ」 「……何方でしょう」  まるで心当たりがなかった。  進駐軍内には助命の手配りをしてくれるような朋友はおろか、単なる知人すらいない。大鳥主従を除いて。  ついでに言えば、道端で持病の発作に苦しんでいた見知らぬ英国人を助けた覚えもない。  安否を気遣われる理由など、想像の範疇外である。 「ウォルフ教授と呼ばれている方です。  〈天然資源局〉《NRS》で顧問をしていらっしゃる……ご存知ありません?」 「いえ……」  記憶の端にも引っ掛からない名だ。  ウォルフ――〈狼〉《ウォルフ》? 〈独逸〉《ドイツ》語……? 「お知り合いではないんですの?  ……あの方、どうして景明さまの身を気遣われたのかしら」 「学者という人種はいささか常人の理解からはみ出した部分を往々にしてお持ちですので。  ま、湊斗さまに関する報告の中に何か教授の興味を刺激する部分でもあったのでは?」 「なのかしらね?  性的興味とかでなければ良いのですけど」 「それは自分も死に物狂いで困ります」 「いずれ教授とは面会の場が設けられるはずですから、真実はそのとき〈直〉《じか》にお確かめなさいまし。  ……それはそれとして……」 「理由はもう一つ。  こちらがわたくしの個人的事情」 「……は」  笑み。      それを見る。  それが形作るものを見る。  単一の意。  単一の情。  単一の―――― (あぁ)  心に深く、深く頷く。  これまでは疑惑でしかなかったものを、確信の域へ押し上げる。 (俺はこの人に〈悪〉《にく》まれている)              悪意。 「景明さま。  あなたを易々と死なせたくはなかったから」        あたかも山陰の湧水のように。      冷たく豊かで、透き通る悪意。  四時を知らせる鐘の音を聴いて、俺は初めて室内に時計があることに気付いた。  西洋式の座敷牢以外の何でもないと思われるこの小部屋には不釣合いな、まずまず立派な柱時計だ。  こんな所にそんなものを設置した人間の意図を想う。  窓が無く昼夜の区別もつかない部屋には時計くらい良い物を置くべきだという配慮か。室全体の貧相さを際立たせて収容者を追い詰める謀略か。  処刑までの残り時間を正確に教えてしっかり覚悟を決めさせようという悪意〈滴〉《したた》る親切か。  それとも単に余り物をここへ回しただけか。 「……早朝なのか夕方なのか、お悩み?」 「それも、些か」 「早朝です。  景明さまがお目覚めになったと聞いてすぐに来てしまいましたけれど……考えてみれば非常識でしたね」 「このさよめが迂闊でございました。  湊斗さま、無礼をお許しくださいませ」 「謝罪など御無用に。  すぐに来て頂けたことは有難く思っております」  ろくろく事情がわからぬまま放置されずに済んだのだから。  しかし、早朝四時……。  建朝寺境内で倒れてから丸一日は経っているような気がしていたが、その実まだ半日にも満たなかったのか。  いや、一日半が過ぎているのかもしれないが。  ……体の重さを踏まえれば、そちらの方が可能性はありそうだ。 「大尉殿」 「はい、景明さま」 「初めてお会いしたのは、あの村……  今はもう存在しない、あの小さな村の」 「ええ……。  あの山の上」 「あれからまだ然程の時は流れておりません。  つい昨日の事とも思える程」 「でも、その間に色々とありました。  悪代官を相手に立ち回ったり、〈装甲競技〉《アーマーレース》を巡る陰謀に介入したり、江ノ島に潜り込んででっかい変なのと戦ったり……」 「はい」 「どれ一つとっても四百字詰原稿用紙三百枚くらいなら埋められそうな事件でございましたなァ」  色々あった。本当に多事多端であった。  それは全くその通りだ。 「しかし、大尉……。  自分にはわからないのです」 「〈気付けば〉《・・・・》、貴方は自分に悪意を抱いておられた」 「…………」 「自分は短い交際の中で〈何時〉《いつ》、如何なる理由により貴方の悪意を得たのでしょう。  考えてみても、その謎は解けないのです」 「いえ……  そもそも、理由はあるのでしょうか?」  人が人を嫌悪するのに、いちいち理由というほどの理由など必要ではない。  虫が好かない。肌が合わない。〈ただ何となく〉《・・・・・・》。それで充分、人間は他者に悪意を向けられる。  自分が人に好かれやすい〈性質〉《たち》だなどとは酒席の冗談にも言えない事だ。  俺への悪意に何の理由もなかったからとて、不思議がるには値すまい。が―― 「理由ならありましてよ……」 「……」 「とてもわかりやすくて。  とても単純な、理由」 「それを自分が知らないのは、やはり途轍もない失態なのでしょうか」  何か……恐るべき無自覚を俺が犯しているのなら、謝らなくてはならないだろう。  謝って済む事なのかどうかは別として。  しかし香奈枝嬢は機嫌を損じた様子もなく、優美に首を振ってみせた。 「いいえ、どうかお気になさらないで。  景明さまが理解しておられないのはとても自然なことなのです」 「お聞かせ願えるでしょうか」 「もちろん」  長髪の令嬢は笑みを広げた。  その含有成分――悪意ごと。 「そうするためにお助けしたのですもの。  是非にも聞いて頂きます……」 「少々、長い話になってしまいますけど」 「お構いなく。  幸い、今の自分は暇を持て余す身です」  真顔で言う。  ……ぷっと軽く吹き出してから、大鳥香奈枝大尉は話し始めた。  大鳥氏は武家の名門としてつとに知られる。  発祥は平安期以前へ遡り、長く宮中の武者を統括、ないしそれに準ずる立場にあった。〈所謂〉《いわゆる》釈天御由緒家のうち、現代まで血脈を伝えた唯一の家である。  武者集団にして近衛軍筆頭としての六衛府が形成されて後はその総領たる六衛大将領を多く輩出し、のみならず一時期は完全に一族内で世襲さえしていた。  家格の点では現在の覇者足利氏も及ばない。  栄枯盛衰が〈理〉《ことわり》であるこの世にあって、なぜ大鳥氏は千年にも渡って地位と実力を保持し得たのか。  理由は権門にありがちな内部抗争を奇跡的な結束によって未然に防ぎ続けてきたところに求められよう。  家を二つに割って争うような致命的決裂を味わわず、大鳥家は歴史を重ねてきたのだった。  しかし、その良き伝統は近年になって遂に断たれている。  興隆三〇年。後に大戦前夜と呼ばれる時代のこと。  大和は表面上の平穏こそ保っていたが、水面下では大陸の利権を巡って欧州諸国との緊張を日毎に高め、人々は戦争の気配を察して高揚と肌寒さを覚えていた。  時の大鳥当主は極右思想の信奉者であり、欧州側への譲歩を拒み開戦に備えて軍拡を推し進めるべく日夜活動していた。  その影響力は大きく、国は彼の望む方角へ舵を切る。  が、彼と意見を異にしていた弟――香奈枝の父――はそんな情勢を憂えた末、決断。  兄に対して〈下剋上〉《クーデター》を起こし、権力を奪取する。  当主は幽閉され、間もなく世を去った。暗殺の噂が囁かれたのは無論である――真偽は置いて。  彼には幼い嫡男があったが、これはクーデターの際に直臣の手で救出され、何処かへ逃げおおせている。  兄を逐って当主の座に着いた弟は大陸経略を融和の路線に切り替えるべく活動し始めるも、内外の厳しい反発に〈端〉《はな》から苦闘を強いられることになった。  特に内側、大鳥一門の抵抗が激しく……  結果として一族団結の伝統を踏みにじった弟を心情的にどうにも受け入れ難かったのか。前当主の方針に危惧を抱いていた者は少なくなかったにも拘わらず、彼らはこぞって〈反抗〉《レジスト》と〈怠慢〉《サボタージュ》の徒と化した。  内部の反発を宥めつつ外部の敵に対処せねばならなかった新当主の政治活動は遅滞し、成果を挙げない。  それでも彼は断念しなかったが、勿論運命はとうに彼の背後まで忍び寄り、指差して笑っていたのである。  当時の大鳥家には、元々他家から入った養子でありしかも若年でありながら、才覚によって分家の一つを任されるまでになった人物がいた。  名を〈獅子吼〉《ししく》。前当主に心酔していた男でもある。  彼は簒奪を断固として許容せず、再びのクーデターによって家を正さんと決意していた。  が、他所者上がりの分家当主である彼が当主の座を奪っては、誤りに誤りを重ねる結果にしかならない。  物事の筋道に固執する獅子吼はクーデターの旗頭として、正しく当主の座を継ぐべき者――即ち前当主の嫡子を戴こうと望み、その行方を探し求めた。  しかし〈杳〉《よう》として知れぬまま、時ばかりが移ろい……  その間にも大陸情勢は緊張を増し、にも拘わらず新当主は軍を率いて立つ気概を示すこともなく、獅子吼からすれば愚考でしかない融和の模索に傾倒している。  ここに至って彼は遂に決意する。  直属の兵を率いて当主を急襲、殺害し、後釜としてその次女花枝を据えた。  父を殺された上に〈傀儡〉《かいらい》とされた花枝が本意であった筈もないが、獅子吼にしても苦渋の選択だったろう。  彼にとって花枝はあくまで中継ぎであり、真の当主は花枝の従兄弟にあたる人物であった。  獅子吼は一門を掌握し実権者となるやすぐその力をもって正統当主たる男児の探索を再開しようとしたが、  実際はそんな暇も無く、〝大戦〟が勃発する。    ……彼がようやく望む人物の所在を突き止めたのは大戦終結から実に六年後、〈興隆四一年〉《ことし》のことである。  それにやや先んじて、国外から諜報の網を投げ掛けていた香奈枝もその人物を見つけ出していた。  彼女は獅子吼のクーデターのおり丁度欧州に留学中であったため、帰る家を失くした格好だったのだが、  欧州諸国を転々としつつも大和の状況に気を配り、特に大鳥家に関わる情報の収集は怠らなかった。  その甲斐あって従兄弟の行方を掴み、また獅子吼も程なく彼を発見するであろうことを知ると、  香奈枝は取得していた〈二重帝国〉《ハプスブルク》の軍籍を用いて国連大和進駐軍に配属。GHQ将校として帰国する。    それが――この年の初秋。 「……ご帰国は、父の〈仇討〉《あだうち》のため?」 「……そうですね。  その気も無いと言えば嘘になりますけれど」 「獅子吼への復讐しかやることが無いなら、この国へ戻ることはなかったでしょう」 「……」 「大和に帰ってきた理由は二つあるのです」 「一つは……〈貴顕〉《ノーブル》の血統に連なる者としての責務を果たすため。  我々は民衆を守る代価として彼らから糧を得ていたのですから」 「大和がかつてない危難の中にある時、遠い国から暢気に眺めているわけには参りません。  わたくしには〈国民〉《くにたみ》を救うために為すべきを為す義務があります」 「まさに、まさに」  俺も無言で頷きを返した。  そういうものだ――本来の、正しい貴族階級とは。古代における誕生から時を経るにつれ、次第に義務は忘れ去られ権利ばかりが強められてしまったが。  大鳥家が長く続いたのは、代々の人間がこの香奈枝嬢のように貴種の本分を忘れぬよう心懸けたせいでもあるのだろうか……。 「……そして、もう一つ。  家族を守るため」 「妹君……ですか」 「ええ。  花枝――わたくしの最後の肉親です」 「お嬢さまとは七つ違いであらせられますな」  結構、離れている。  成程……だから余計に心配なのか。 「まぁ実際のところ、あの子のことはわりとついでというか、かなりどーでもよろしいのですけど」 「は?」 「左様でございますねぇ。  お嬢さまのご留学前の時点で、姉妹喧嘩の勝敗は五分五分に迫っていたと記憶しておりますし」 「取っ組み合いで勝っても最後に落とし穴にはまっているのはわたくしだったりするのよねぇ……」 「悪辣な策謀に長けた、末恐ろしい姫さまでございました」 「そうそう。  わたくしとはもう似ても似つかぬ」 「悪虐な暴力に長けたお嬢さまとは嫌になるほど血の繋がりを感じさせましたなァ。  一体何の呪いであのお優しい旦那様と奥方様からこんな地獄チック姉妹が生まれたやら」 「実は橋の下から拾われてきたのでしょうか」 「ねえばあや、前から訊きたかったのだけど、あなた主従関係っていうものを何だと思っていて?」 「……」  どんな妹御なのだか。 「要するにでございますね。  現在は傀儡当主に甘んじているとしても、いつまでもそのままでいるとは到底思えないような御方でありまして」 「はァ」 「誰かの助けなどなくとも、あと数年の時間があれば獅子吼を排除して名実そろった当主になるでしょうね。……さっき仇討の為なら帰らなかったと言ったのはそういうことです」 「わたくしが出しゃばるより妹に任せておいた方がずっとスマートに、まわりへの迷惑も最小限で片付くんですもの。  それがわかっていては何もできません」 「獅子吼殿にもその方が辛いでしょうなァ。  花枝さまは真の残虐さを備えた御方、あっさり殺すよりも生かしておいて延々と苦しめ続ける方法を採られるに違いありませぬゆえ」 「……」 「そういう妹なんです。  ……だから、わたくしが守りたかったのはあの子よりも……もう一人のほう」 「わたくしと花枝の従兄弟。  獅子吼が血眼で求めた大鳥本家正統の嫡子。  ……そちらなのです」 「……?  しかし」  話を聞く限り、その伯父の嫡男というのは香奈枝ら姉妹の政敵にあたるのではないか。  それを……守る? 「政治的事情だけが人間関係の全てではございませんよ、湊斗さま」 「……は」 「親同士の関係は複雑でしたけれど、子供はまた別だったということです。  わたくしも花枝も、従兄弟のことはとても好きでした」 「あの小さな男の子を抱っこすると、何だか幸せな心地になれて……。  花枝もそうだったから、今日はどっちが彼を抱くのかでまた喧嘩になって」 「花枝は許嫁として。わたくしは将来の義姉として……。  あの子を〈腕〉《かいな》に入れる権利は自分にあるんだと言い張って、譲らなかったものです」 「……そうでしたか」  子供にとっては政敵である前にまず親類。  成程、であれば敵意など無いだろう。 「では、守りたかったというのは」 「彼は大鳥一門の遠縁にあたる家庭で平穏に暮らしていました。何も知らず。  どう考えても……大鳥の当主なんかに祭り上げられるよりそのままの方が幸せでした」 「それでも、彼自身が当主たろうと望むならいい。けれど獅子吼はきっと彼の自発的意思などに拘泥しない。拒まれれば腕ずくで奪う。  わたくしはその時、彼を救うつもりでした」 「彼の幸福を守るため。  花枝が用済みの道具として処分されるのを防ぐため。  ……わたくしはそうしようと思っていた」 「なのに……  何もできなかった」 「――――」  唐突に現れた艶やかなる朱の〈彩〉《いろ》に――  目を奪われる。  大鳥香奈枝の、良く整った口唇の端から、血が一筋滴っていた。  唇の内側か、頬の裏か……どこかを噛み切ったようだった。  悲痛というものを、彼女はいま舐めている。 「何故……」 「何故?」 「何故、ですと?」 「…………」 「景明さま。  よろしくて……」 「その男の子は」 「わたくしたちが愛していたその子は、ね」 「名を」 「雄飛、というのです」 「おい! そこの――〈暗々〉《くらぐら》とした悪党ッ!」 「……すいません。巧く言葉になんないです。  でもおれはリツを探すために何かしたいし、そうするべきだとも思うんです」 「信じるよ。  この世には村正っていう名の、正義の味方がいるってことを」 「彼は死んでしまった。  ええ……死んでしまったのです」 「わたくしにも、花枝にも……獅子吼にも、まったく関係のないところで。  唐突に――死んでしまいました」 「それは誰よりも景明さまがご存知でしょう?  ねえ……?」 「――――」 「知らぬはずはありませぬな……。  〈村正〉《・・》殿」 「まことに失礼ながら、色々調べさせて頂きました。  何より……江ノ島で、貴方さまと雪車町殿のお話を不作法にも〈盗み聴いて〉《・・・・・》しまいまして」 「悪人を斬るたび善人をも斬らねば収まらぬとは、難儀な劒冑をお使いでございますな」 「――――――――」 「そんな劒冑でも使わなくてはならなかったのですね。  銀星号――あの魔物がもたらす〈禍〉《わざわい》を止めるために」 「……何ということなのでしょう。  お察し致します、景明さま」 「銀星号の〝卵〟を受けた者は斬らねばならない。斬るほかにない。  放っておけば第二の銀星号になってしまうのだから……どうにも、斬るしかありません」 「けれど、斬れば……  もう一人、何の罪もない人を斬らなくてはならなくなる」 「それでも無数の人々の命には替えられない。  だから、あなたは……斬った。無辜の人を」 「さぞお辛かったことでしょう。  お苦しかったことでしょう……」  呆然とするばかりの俺に、差し伸べられる白い指先。  それは俺の頬へ触れ、ついと撫でた。  官能的なほどに優しく。 「けれど許しません」 「……」 「あなたは雄飛を殺した……。  あの子の命を力ずくで奪った」 「それが本当に、どうしようもなく、止むを得ない選択であったとしても。  あなたに救われた大和の一億の人間全てがあなたの免罪を認めたとしても」 「あなたが強いた、一つの嘆きに懸けて。  わたくしはあなたを許しません」  恋情を囁くように熱っぽい、その眼差しに射竦められる。    膝が震えていた。失禁の兆候すら覚えた。  何という殺意か。  何という悪意か。  この人は、〈命と魂の全てを懸けて俺に復讐する〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》気でいる。  絶対に許されない。  〈絶対に殺される〉《・・・・・・・》。  今、この瞬間にも。  恐ろしい。  〈嘗〉《かつ》てこれほどの恐怖を味わった事はなかった。  いや――きっとこれまでは恐怖など知らなかった。  〈これが〉《・・・》恐怖だったのだ。  逃げ出したい。  喚き立てたい。  人の憐れみを乞える行為なら、どんなことでもしたくてたまらない。  許してくれと泣き叫びたい。  ……許してくれるだろうか。  恥も外聞も捨て、どんな真似でもして、弁明を言い立て謝罪を繰り返し贖罪を約束すれば……もしかしたら……  この〈女性〉《ひと》とて……許すのでは…… 「あ――貴方は……」 「はい」 「俺を……自分を――  こ――こ、」 「おや、どうされましたか湊斗さま?  先ほどは平然と、なぜ自分を殺さなかった、簡単に殺せた筈だ、などと仰られていましたのに」 「お声が震えておりますよ。  ……化けの皮でもはがれましたかな?」 「……く……」  侍従の露骨な挑発の言辞も、心身を縛る恐怖を跳ね除ける役には立たなかった。  返答もできず、ただ息を呑む。  震える舌をどうにか宥めて、俺は香奈枝嬢への言葉を続けた。 「こ――殺すのですか」 「……」 「貴方は……もうご存知だ。  村正のこと――銀星号のこと……」 「自分がどうして彼を殺したのか……」 「それら全てを理解して……  それでも貴方は、自分を」 「……自分を……」 「許しません。  殺します」 「……」 「じ……自分が……  泣いて慈悲を乞い……」 「残りの命の全てを贖罪の為に費やすと誓い……」 「貴方の足元に伏して願っても……」 「…………」 「おやおや」 「……そ……それでも。  それでも、貴方は」 「貴方は」 「ええ。  景明さま……」 「決して許しません」 「――――――――――――――――――」  駄目だ。  何をしても、無駄だ。  許されない。  殺される。  湊斗景明は――――〈断罪さ〉《さばか》れるのだ。 「……不本意でしょうね。  けれど雄飛だって不本意な最期を受け入れたんですもの。景明さまも我慢してくださらないと」 「当然でございますな」 「安心なさって。  今すぐにとは申しません。銀星号の一件が片付くまでは待って差し上げます。これまで通り協力も致しましょう」 「あれはわたくしとしても知らぬふりのできない問題。  解決するには景明さまのお力が要ります」 「ですから……〈それが済み次第〉《・・・・・・・》。  よろしくって?」 「…………」 「もちろん、抵抗せずに死ねなんて無慈悲なことは申しません。あの劒冑で戦われませ。  遠慮は無用です。実は景明さまももう御覧なのですけれど、わたくしも劒冑を――」 「――――――――」 「――――――――」  両膝を床へ突く。  白い手を押し戴く。  冷たく美しい掌に、俺の眼窩から零れた雫が載る。  もう、涙を堪えることはできなかった。 「……ありが……とう…………」 「…………え?」 「貴方の存在に感謝します。  貴方が〈いてくれた〉《・・・・・》ことに感謝します」 「感謝を……」 「…………」  復讐すると云う。  新田雄飛の非業の死に懸けて、俺を殺すと云う。  湊斗景明を決して許さず、  殺してくれると云う。  ――――ああ。  完璧だ。  完璧なる断罪者だ。  湊斗景明の為の死だ。  相応しい処刑だ。  この人が俺を殺してくれる。  ――新田雄飛の無念を晴らす為に!!  望み得る限り、最高至上の結末。  それは突然に天から降ってきた。  恵みのように。  この世に正義はあった。  邪悪を許さぬ裁きは実在した。  もう、これ以上……何も望むものはない。 「大鳥香奈枝。  貴方に全て捧げます」 「この湊斗景明の全てを差し出します」 「何もかも、貴方に従いましょう。  生も死も、全て貴方の命ずるままに」 「いつなりと――  この首に、〈断罪〉《さばき》の刃を」 「………………………………………………」  憂うべき何も、今は無い。  責務を果たそう。銀星号を倒そう。  そうして、村正の呪戒に縛られた俺が更にあと一人誰かを殺そうとしても…………大丈夫。  その前に俺は殺される。  ――この美しい〈女性〉《ひと》が俺を殺してくれる。 「…………」  大鳥香奈枝にはわからなかった。  錯乱して、喚き出すかもしれないとは思った。  逆上して、襲ってくるかもしれないとは思った。  泣いて命乞いをするかもしれないとは思った。  覚悟を決め、全て諦めて〈項垂〉《うなだ》れるかもしれないとは思った。  しかし、〈これ〉《・・》だけは考えなかった。    ――――感謝。  わからない。  大鳥香奈枝には、湊斗景明がわからなかった。 「はて……ここでもないか……」 「何処へ行ってしまったやら。  世話の掛かる〝〈少女〉《リトルガール》〟だ」 「捕まえたらパンツ脱がせて陰毛抜くか……」 「抜くな抜くな。  誰のことか知らんけど」 「おやおや。 〝〈少女〉《リトルガール》〟を探していて別の〈少女〉《リトルガール》に出会ってしまったよ」 「君はいつもいつも神出鬼没だね。  パンツ脱ぐ?」 「脱がん」 「これだ……人間というやつはどいつも。  自分だけが正しいと信じ、あらゆる他人は愚かだと信じ、神を疑い、真理を嘲笑う……そしてパンツを脱がないのだ。何故だ!?」 「いや。だからさ。  そんなに脱がせたけりゃ自分の脱がせよ」 「むさい男がパンツ脱いで何が楽しい。  馬鹿じゃないのか君は?」 「うわー変なとこだけ正気だなおめー。  ぶっちゃけ三回くらい殺したくなったけどまぁいいや今は」 「知らせに来たんだよ。 〝姫〟は五日後に目覚める」 「……ほう」 「確かかね」 「あての眼に狂いは、せいぜい一八〇度しかない」 「では大丈夫だな」 「……こいつ人のボケはスルーなんだぜ……。  自分は人にさんざん突っ込ませてるくせによ……」 「誰が君の性器に陰茎を挿入したと?」 「んなこた言ってねぇよ!」 「ぐあー、うっかり何の捻りもないつまらん突っ込み入れちまったーーー!!」 「うるさいぞ。馬鹿か君は」 「……あて、苛められてる……?  苛められてるよね?」 「で、〝姫〟はその時刻に合わせて普陀楽城に運び込まれるのかな?」 「あぁ。  その辺の手筈はもう整ってる」 「やり直しは困難なのだ。  間違いは犯してほしくない」 「確かに?」 「確かに」 「パンツは?」 「穿かせとく」 「脱がせ!」 「嫌だ!」 「少女の無垢な下半身が見たい!」 「うるせえ!!」 「……そこに誰かいるのか!」 「――――」 「ああ、失敬。  少々スターライトポエムタイムを楽しんでいたのだよ。君の仕事の邪魔だったかな?」 「あっ……も、申し訳ありません!  教授でしたか」 「いやいやいや。  気にせず任務に戻ってくれたまえ」 「はっ!」 「ああ、君」 「はい?」 「パンツ脱いだ少女を持ってないか?  ちょっと手持ちを切らしていてね」 「い、いえ……生憎と。  失礼します」 「……ふー」 「君の愚かしい失態でプチピンチであった。  気をつけたまえよ?」 「怒る気もしねぇー」 「にしてもおめー英語が達者だよな。大和語もだけどさ。  ほんとに〈独逸〉《ドイツ》人か?」 「独逸は故郷には違いないがね、そこで暮らした時間より世界を旅して回っていた時間の方が長い。  母国など有って無いようなものだ」 「強いて言えばパンツ脱いだ少女が住まう国こそ我が母国――」 「おめーの居場所地球上にないからな」 「ま、現在の国際情勢と僕の専門を鑑みれば英語と大和語に熟達するのはシンプルな論理的帰結でしかないよ」 「そか」 「しかし君の能力も便利なものだね。  突然現れるのも咄嗟に隠れるのも自在じゃないか」 「それ僕も修行とかすれば何とかなるかな?」 「さぁ? なるんじゃねえの?  とりあえず腕立て伏せ一万回からやってみ」 「本当だな! やるぞ!?  それで身につかなかったらパンツ脱がす!!」 「うわーごめんなさい! 嘘つきました!  あんたやるったら本当にやりそうだし抵抗するのも無理っぽいから勘弁してください!」 「ちっ、仕方ない。  今回は視姦だけで許してやろう」 「うっうっ、嫌だよう。  粘っこい視線が絡みついて気持ち悪いよう」 「ムフー、堪能した。  で、計画に問題はないわけだね?」 「それはむしろこっちが訊きてーとこ。  〈落とす〉《・・・》用意はちゃんとできてんのか?」 「心配いらない。  キャノン中佐は動かせる。つまりウィロー少将も動かせるし、GHQも動かせるということだ」 「入れ子構造の組織って素敵だねー」 「偉大なる友、キャノン君に幸あれ。  彼のためなら僕がパンツ脱いでもいいな」 「やっぱ脱ぐの!?」 「……冗談くらい理解してくれないものかね。  これだから大和人は無粋だというのだよ」 「……ごめんなさい国民の皆さん……。  こんな変態にバカにされてしまいました」 「〝〈平和実現装置〉《ザ・ガジェット》〟は定められた時刻に合わせて送り出す。  あれと〝姫〟との邂逅が我々の求めた道を遂に切り開くだろう」 「……ああ」 「〈黄金の夜明け〉《ゴールデン・ドーン》のために。  同志茶々丸」 「黄金の夜明けのために。  同志ウォルフ」  暇であった。 「…………」  兵士に連行され、この部屋を訪れてから既に三十分。  部屋の主はおらず、兵士もすぐに退出してしまったから、不平を聞かせる相手もいない。  大鳥大尉から名前は聞かされていた、ウォルフ教授なる人物が俺を呼んだとの話だったが……。  呼んだだけで会いもせずほったらかし、というのはどんな意図なのだろう。  部屋の中はいかにも雑然としている。  古書の山があるかと思えば、その上にはアフリカの工芸品と〈思〉《おぼ》しき木彫りの仮面が置かれ、対岸を見ると〈装甲競技〉《アーマーレース》の専門誌が何冊も転がり。  壁には少女〈騎手〉《レーサー》皇路操の等身大ポスター――タムラ甲業の宣伝用――が貼られてあった。  添え書きのようなものもあった。妙に達筆な書体で、 〝装甲騎手はパンツはかない。美しい〟  意味不明である。  教授と呼ばれるからには学徒なのだろうが、分野がまるで窺い知れなかった。  何と言われても納得できるし、また何処か納得できないような気もする。 「…………」  いずれにしろ、そんな空間に長々と放置された俺は退屈の虫を順調に培養中であった。  育て過ぎてそろそろ暴れ出しそうだ。  これが自分の部屋であれば時間の潰しようはあるし、何もなくとも寝ていれば良いのだから退屈さなどそうそう覚えない。  が、他人の部屋ではできる事とできない事がある。  時間を潰すには格好と思われる物が色々と見当たるだけに、尚更退屈感が刺激される。  当然の礼儀作法として、勝手に手をつけるわけにはいかないのが辛かった。  …………しかし。  そもそも他人の部屋に一人というこの状況からして変なのだ。  この部屋の主は私物を客に勝手に触られても気にしない……というより、触られても気にならないような物しかここには置いていないのではないか。  でなければ、不在の部屋に俺を入れはしないだろう。  単に気が回らないだけという可能性もあるが……      もうじき一時間。 「……」 「失礼……」  若干の後ろめたさを覚えつつ、俺は一番手近な所にあった紙の束を取り上げた。  どうやら、何かの論文のようだ。  最初の一枚に題が記されている。    ――――『〈劒冑夢想論〉《ファンタジー・オブ・クルス》』  劔冑とは何か。それは人の肉と金属を重ね合わせて造られる鎧であり、生命体と金属物の双方の特性を備える。即ち劔冑は人間に似た知性を持ち、生体らしく破損を再生し、独自に活動することも不可能ではない。且つ、この物体は紛れもなく金属であり、基本的には他者に使用されない限り動くことはなく、適切な保存環境に置かれていれば死亡・腐敗などの変質を遂げることもない。  そして。言うまでもあるまいが、着用する戦士に魔神の力を与える。それが劔冑である。  ただの鉄の鎧と劔冑、如何なる未知の物質が両者を天と地に隔絶するのか、我々の科学的認識力は未だ大きく不足しており、真実の島へ至れるだけの航行能力を欠く。先人と我々の労力が果たしていつ報われるものなのか、現時点では何一つ確たる言を述べ得ない。百年後の最高学府で現在より飛躍的に進歩した技術知識を持つ教授達が我々と全く同じようにひたすら頭を抱えているかもしれないし、あるいは、マケドニアの片田舎で無名の天才が書き上げた従来の劔冑研究を根底から覆す論文が来月号のニュー・サイエンス誌上に華々しく登場するかもしれない。だがいずれであれ、我々現代を生きる探求者にできることはただ一つだ。いつか訪れるゴール・インの瞬間を信じて、脳細胞に鞭を加えるだけである。 「……?」  この論文は完全なものではないようだ。  いくらかの欠落があるのだろう、〈頁〉《ページ》をめくると急に内容が飛んでいた。  我々は過去、金属を調べ、人体を探って、劔冑の謎を解く決定的な何かを求めてきた。だが、一つ、重要な構成要素を軽視してこなかっただろうか。婉曲な言い方はやめよう――劔冑を造る第三の物質、水について、我々は充分な研究を施してきたであろうか?  周知の通り、劔冑の製作過程において、鍛冶師らが最も重視し、神聖視すらし、儀式化のカーテンに長く隠されてきた、単なる鎧が超科学的な異物へ変貌する一瞬は、焼き入れの作業である。高温で打ち上げられた鎧と共に、鍛冶師が入水する工程。濛々と立ち込める蒸気が晴れた後には、鍛冶師の姿はなく、作業前と寸分違わぬ鎧だけが残る。だがその時には、鎧は既に鎧ではなく、恐るべき劔冑になりおおせているのだ。後は細かな調整作業が残るに過ぎない。  これまで我々は、この工程における水の役割を、単なる触媒と決め付けてきた。主体は鍛冶師と鎧であり、水は両者を接合する釘でしかないと。だが、もしそうではなかったなら? 鍛冶師もしくは鎧の方がむしろ触媒であり、水が主体の一つであったなら?  私としてはこの発想に基づき、早速本論に入りたい。だがそれでは、読者は私を無責任な吹聴者としか見られないだろう。生憎、私は政治家にも宗教家にも志を抱いていないのだ。逸る気持ちを抑え、まずはこの点についての根拠を説明するところから始めようと思う。                      (欠落)  図Aはユーラシア大陸東部の地下に存在する、かつて古代地球においてプレートの移動が太平洋の一部を地中に引き込むことでできた広大な地下水庫とその分派を、世界地図と重ねたものである。これはハウスホーファー教授を通して手に入れた資料で、世界最先端と呼ぶに値する地質学が作成した。技術的限界による誤差は想定しなくてはならないが、内容の八割以上は信頼に足るとみて良いと思われる。 (付記。ハウスホーファー教授によると、この地下水分布はおそらく正しいが、地質学上の常識に照らして不可思議と言わざるを得ない点が非常に多く、何らかの異常――例えば重力の――を考慮しないことには説明が不可能なのだそうである)  図Bは地域における劔冑の誕生時期を色分けで示した世界地図。図Cは劔冑の生産量をやはり色分けで現した世界地図である。  私が着目した一致に、諸氏も気付いて頂けるだろうか。そう、地下水庫に近いほど劔冑の誕生時期も早いのである。生産量についてはそうと言えない部分もあるが、地下水庫からの分派が全くない土地においては劔冑の生産も皆無であるという点は決して無視し得ないだろう。  だからどうしたのか、と諸氏は思われるかもしれない。劔冑の製造に水が必要である以上、水の分布と劔冑の生産状況が一致するのには何の不思議もない、と。だがご存知のはずだ。地球上の水はなにも全てが一つの水源を共有しているわけではないということを。  つまり、劔冑の焼き入れに使われる水は大陸東部の地下水庫を経由するものでなくてはならないのである。この水庫からの供給のない地域、つまり南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア等においては、劔冑の製造が過去も現在も行われていない(過去については異論もあることを付記する)。  その理由は従来、鉄の質もしくは人種の違いに原因を求められており、水という観点は持たれなかった。水の性質が劔冑の鍛造において意味を有することは古くから知られていたが、必ずしも最重要の事項とは考えられていなかった。それは奇異と呼ぶに値しないことである。劔冑の焼き入れに使い得る水とそれ以外の水との間に、何らかの成分上の差異が見受けられるわけではないのだから。だが、劔冑をただの金属としか識別できない我々の科学が、その点においても同じ誤解をしているとしても、何の不思議があるだろう?  故に、私は仮説を立てた。――ユーラシア大陸東部の地下水庫、ここにこそ、劔冑の謎に迫る鍵がある。                      (欠落)  私は劔冑を生物の一種(亜種?)であると判断する。独立した知性と行動力を限定的ながら所持すること、着用者の熱量を吸収して能力を発動する性質は新陳代謝とみることが可能であることなどがその理由だ。しかし無論、反駁は多いだろう。知性にせよ行動力にせよ劔冑のそれはあくまで着用者を主とする従的なものである。その性質はむしろ機械に近い、等々。私もそういった意見を否定はしない。劔冑は確かに機械的でもあるからだ。だが、そう主張する人々が結論として述べること――「劔冑は断じて生物ではない。なぜなら繁殖を、自己増殖をしないではないか」――その点が完全に覆されるとしたならば、どうだろうか?  劔冑は繁殖を行わない。それは事実だ。だがその理由を、生物ではないからだと決め付けて良いものだろうか。ある可能性を忘却してはいまいか? つまり、劔冑自体は繁殖によって誕生した生物であるが、子孫として不完全であり、完全でないが為に繁殖能力を持たないという可能性を。豹と獅子の合の子、レオポンのように。この場合、劔冑を生む繁殖とは無論、鍛冶師による鍛造ということになる。 (他者の手を借りるならばそれは生物の定義の一つたる自己増殖とは呼べない、と思われる方も多いだろうが、その点についての論議は控えさせて頂く。劔冑を生物と定義することは本論においてあくまで便法であり、核心ではない)  ここで、前段を思い起こして頂こう。劔冑が生物的繁殖による子孫であるとして、一体何の子孫なのだ?  金属? いや、金属は生物ではない。  人間? いや、人間は別の、より完全な増殖方法を有している。  では……? そう、水だ。正確に言おう。水に含まれる未知の何かの繁殖こそが、劔冑の鍛造なのではないか。  東アジアの地中深く、静謐な地下水庫から、その何かはやってくる。何年、何十年、何百年とかけて。長い旅の果て、遂に行き着くのは山奥の洞窟、その更に奥の小さな泉だ。そこは鍛冶師の仕事場になっている。鍛冶師は鉱石を焼き、打ち、一領の鎧を造り上げる。鉄に加工を許すのはとてつもない高温だけだ。空気を焙る火の甲鉄、しかし鍛冶師は一つ一つ身につける。肌を焼く。肉を焼く。それでもこの一時のために生きてきた鍛冶師は己の打った甲鉄にも劣らぬ固い意志で激痛に耐え抜き、全ての準備を終えて、神聖なる泉に己を沈めるのだ。灼熱の鉄と冷涼な水が接触し、激しい反応を起こす。洞窟は蒸気で満たされるだろう。そしてその中で、泉にたゆたう「何か」は鎧と、鍛冶師と交わり、一つになり――劔冑が誕生する。  これを繁殖と呼ぶならば、菌類の一種に類似していると言える。冬虫夏草、胞子を虫に寄生させ、それを苗床にして芽吹くあのユニークな茸のことを思い出して欲しい。虫から茸への異様な変貌は、鎧と鍛冶師から劔冑が生まれる驚異とある種共通するものがないだろうか?  冬虫夏草の神秘の鍵は胞子だ。胞子の寄生によって有り得ない変身が引き起こされる。では、劔冑鍛造において胞子に該当するものは何だろう? 論を俟たない。「何か」である。  ……鍛冶用水が含む「何か」とは、地下水庫に存在する「茸」が散布している「胞子」なのではないか。つまるところ、私はそう推論して  ふと、前触れもなく視線を感じて俺は顔を上げた。  部屋を見渡す――誰もいない。  論文を読み始める前と変わらぬ様相だ。    ……錯覚だったか。  再び、論文に目を落とす。  何処まで読んでいただろう。俺は文を追おうとし、  不意にその、走り書きを発見した。  ページの片隅に……本文とは違う乱雑な字体。  同一人の手によるものではあるようだが。  言語も違う。本文は英語と大和語が入り乱れているが、その走り書きは――〈独語〉《ジャーマン》だった。  一息に書き切ったらしき一文。    Mein……Machthabar……  Kristallnacht…… 「……〈大法首〉《マハト・ハーバー》?  ……〈水晶の〉《クリスタル》……〈夜〉《ナハト》……?」  過去、妹の病の治療法を躍起に求めていた時、医術の先進国である独逸の言語は幾らか〈齧〉《かじ》ったことがあった。  当てにならない記憶を引っくり返して底までさらい、どうにかこうにか意味の通るように訳してみる。  その一文はおそらく、こう書かれていた。    『我が大法首よ、水晶の夜に何があったのだ?』 「…………?」  大法首――先の〝大戦〟で敗滅した〈統合独逸連邦〉《ダス・ドゥリッテ・ライヒ》の指導者が自ら称した尊号。  そして……水晶の夜。  意味は通っても、理解は追いつかない。    思索に没頭していた俺は、何気なく視線を動かして〈その存在〉《・・・・》に気付いた時、思わず呻き声を上げかけた。  少女だった。  一体、いつからそこにいたのだろう。  ほんの数十秒前、室内を見回した際にはいなかった筈だが――いやどうか。〈見ていながら見過ごしていた〉《・・・・・・・・・・・・・》ことも有り得る。  そんな馬鹿げた可能性も検討せねばならないほど、その少女には『主張』というものがなかった。  ここにいるという主張。一個人であるという主張。それが無い。  人間らしき気配をろくに放散していないのだ。  血が通い心臓が脈動しているにしては、あまりにも無機質的に過ぎる。 「……貴方は?」  ……反応〈皆無〉《ゼロ》。  返答は元より、他の手段で訴えてくることもない。 (彫像?)  突拍子もない思いつきを弄ぶ。  しかし、その考えすら一蹴はしかねた。少女の静粛さ、動作の無さは常軌を逸している。  俺はそろそろと指を伸ばし、少女の頬に触れてみた。    柔らかい。  温かい。  体温のある肌だ。  やはり、ちゃんと生きている人間ではあるらしい。  声は無意味でも接触は刺激になるのか、少女は眼を瞬かせた。  そのまま、俺をじっと見上げてくる。  いつまでも。  微動だにせず、ずっと。 「…………」  ――どうしてか。  ある少女の面影が、そこに重なった。 (何故……?)  理由のわからない幻視に困惑する。  俺もまた、黙って少女を見詰め続けるしかなかった。 「ところでパンツの現在進行形はパンチングで良いのか?」 「いえ、そもそもそれはどんな動詞ですか」  振り返る。  長身の男がそこにいた。  豊かな髭と、〈ぎょろぎょろ〉《・・・・・・》動く双眸がやたらと注意を引く。  彫像じみた少女に比べると、男はまさに人間だった。  年齢は不詳。一見では初老と思えるが、意外に若いのではないかと思える節もある。流石に三十代ということはあるまいが。  彼は、俺を――あっさり〈看過〉《スルー》すると、傍らの少女を見やって破顔した。 「なんだ、ここにいたのか〝〈少女〉《リトルガール》〟!  まぁ人生は大概こんなものだな。青い鳥はいつだって自宅にいる。失くした財布は机の引き出しに収まっている。そんなものだ」 「さっ、部屋に戻りなさい。  もう子供は休む時間だよ。〈小用〉《トイレ》を済ませて、歯を磨いて、〈寝間着〉《パジャマ》を着て、パンツは脱いで、ベッドに入りたまえ。特に最後は大事だぞ」 「……」  男の声にも少女が反応することはなかったが、手を引かれて促されると従順に歩き出し、奥の扉の向こうへと消えていった。  それを見送って、髭の男は向き直る。 「僕にはかねてから不思議でならないことがある」 「何でしょう」 「何故、人はパンツを穿く?」 「それは哲学に属する問題ですか」 「そう言っても差し支えない。  君は疑問に思ったことはないかね? 人は生まれつきパンツを穿いていたわけではない」 「にも拘わらず誰もがパンツを穿く。  まるで天命の如くに――だ」 「しかしその一方で、誰もがパンツを脱ぐではないか!  パンツを穿いたまま性交する者がいるか?パンツを穿いたまま排便する者がいるか?」 「稀には」 「それは背徳行為としてだろう!」 「特殊な嗜好である事は認めます」 「正常な人間はパンツを脱ぐのだ。  ならば何故、最初から脱いでおかない?」 「穿かなければ良いではないか!」 「……成程。  主旨は理解しました」 「そうか。  君は僕に賛同してくれるのだね」 「いいえ」 「何!?」 「パンツは穿いておくべきでしょう」 「何故だ!」 「今度は自分からお訊ねしますが」 「うむ」 「いい歳の男がパンツ穿かずに歩いていたら嬉しいですか」 「君は僕を侮辱する気か?」 「お答え下さい」 「右手に三八口径、左手にパンツを持って、すぐに穿けと命令するよ」 「成程。  では……そうして男にパンツを穿かせるのは楽しいですか」 「最悪だな」 「逆に、女性のパンツを脱がせるのは?」 「人生の喜びだ」 「そういう事です」 「ん?」 「誰もがパンツを脱いでいる世界で醜いものにパンツを穿かせて回るのと、誰もがパンツを穿いた世界で美しい人のパンツを脱がせて回るのと、どちらがより優れた人生か」 「答えは明々白々でしょう」 「――――――――」 「おおお!!」  男は吼えた。  両腕を突き上げ、天上を振り仰ぐ。 「素ゥン晴らしいィィィィィ!!  完璧だ!  なんてこった!」 「長年の謎が遂に氷解した!  こんなにも簡単に!  ああ、ハレールーヤー!」 「ハレェェェルゥゥゥヤァァァァァァ!!」 「僕は馬鹿か?」 「かなりの高確率で」  言えた義理ではないにしても。  途中から会話に脳髄がついてこなくなったので脊椎反射で答えていたが、一体いまの何処が哲学であったのやら。 「しかしね。  ……それでもやはり、人はパンツを脱がなくてはならんのさ」 「は……?」 「性器を隠すのは羞恥心の証。  羞恥心は知恵の源泉だ」 「この小賢しい知恵というやつが我々を神の〈坐〉《ま》す〈涯〉《はて》から遠ざける……」 「これがある限り人は神に許されない。  いくら神を求めても……届かない」 「……神を目指す者は裸であるべきだ……」 「何もかも捨て去って……祈る。  さすれば……神は〈昇り来たる〉《・・・・・》……」 「………………?」  男はやにわな動作で歩き出した。  机の向こうに回り、古びた椅子へ腰を下ろす。  そして片手を差し出し、俺にも椅子を勧めた。 「湊斗景明君だね」 「はい。  貴方は――」 「ウォルフだ。  皆には〈ウォルフ教授〉《プロフェッサー・ウォルフ》と呼ばれている」  やはり。  この人物が……俺の助命を大鳥大尉に頼んだという。 「大学で教鞭を執られているのですか」 「確かにそんな時代もあったが。  今は違うよ」 「けれど司令部の要請に応じて大和語の講義なんかをしているのでね、〈横浜〉《ここ》では。  それでみんな教授と呼んでくれるのだろう」 「先程から感銘を受けておりましたが、実に流暢な大和語です。  貴方への敬意は正当なものでしょう」 「ありがとう」 「だがね、僕が大和語の扱いに慣れているのは別に奇跡ではなく、ごくごく当然の事だよ」 「と言われると?」 「簡単な話さ。  何しろ大和といえばパンツの国」 「……いえ」  事実無根である。 「違った。  何しろ大和といえばパンツはかない国」 「まぁ……」  昔は一応。 「違った。  何しろ大和といえば劒冑の国」 「……」  脈絡が無さ過ぎると思うのは俺の気の迷いか。  しかし――劒冑?  では、この人は……劒冑の研究者か。  そうなると分野は機械工学、流体力学、考古学。  いや、あるいは…… 「フォルクローアだよ」 「フォルクローア……?」  こちらの内面の思いを読み取ったかのように放たれた一語を受け止め、反芻する。  それは独語の音階を有していた。  フォルクローア……フォークロア。  ……〈民俗学〉《フォークロア》。    独語を英語へ変換、そして大和語へ再変換する。  民俗学。  その単語を噛み締めた後、俺はもう一度部屋の中を見回してみた。 「……成程」  先刻、中途まで読んだ奇妙な論文も彼自身が著したものに違いない。 「大和を無視して、人類文化における劒冑の意味を解き明かそうなんてお笑い種だろう?」 「外国の方にそう言って頂けるのは、大和人として喜ばしい事です」 「ああ、君達は誇るべき文化を持っているよ。  この狭い島国の中で、良くぞこうまで独自の技術を発展させたものだ」 「その点において、君達は全欧州国家を合わせたより優秀であったかもしれない」 「恐縮です。  しかし我々は産業革命という大偉業を成し遂げる事も、その流れから劒冑の量産技術を開拓する事も、独力では果たせませんでした」 「ふむ。では一長一短としておこうか。  だがね、僕個人はあくまで大和の優秀性を評価する」 「いや、期待していると言った方がいいな」 「……それは?」 「僕の望みを〈君達〉《・・》が叶えてくれるのではないかという……期待だよ」  気のせいか。  その『君達』は、これまでと響きが若干異なるようだった。 「…………」 「さて、用件を済ませてしまおうかな」 「用件?」 「君を呼び出した用件だよ、もちろん」  ……そうか。  進駐軍の顧問教授は、用もなく人と会っていられるほど暇ではないだろう。当たり前である。  呼ばれたからには、何か俺に対して求めるところがある筈なのだ。 「……現在、自分は捕虜としてまずまず妥当な扱いを受けていると考えております。  そのため、積極的に敵対する意図は有しておりません」 「教授のご要望が自分あるいは自分の関係者に著しい不利益をもたらすものでない限り、可能な範囲で善処を致しましょう」 「うん。  まぁ、そんな大袈裟な話じゃない」 「簡単な用事でね。すぐに済む」 「……は」 「君は健康か?」 「……」 「はい。  おおむね身体機能に支障は有りません」 「明日の朝になってみたらうっかりポックリ逝っていたりしないかね?」 「……まず、大丈夫かと」 「なら良い。用事は済んだ。  もう自室に戻ってくれて構わないよ」 「君をここまで連れて来た兵士が外で待っている」 「……」 「用件とは、これだけなのですか」 「うん」 「……」 「貴方は大鳥大尉にも、自分を殺さず連れてくるよう願われたとか。  何故……自分の身命を気遣われるのです?」 「宜しければ、お教え頂きたい」 「既に教えたよ」 「……」 「君達には期待している……  さっきそう言っただろう?」 「…………」 「――君の未来に〈緑龍〉《グリューネドラヘ》の羽音が響かんことを」  部屋を去ろうとした刹那、そんな言葉が背を打った。    ……何処かの土地の言い回しか?  幽閉生活というものはおおむね単調と孤独と閉塞の三重奏に支配される。  これは何処の世界のどんな時代でもまず変わらない真理であろう。  この状態がいつまでも続くとは思えないのだが……。  俺がこうしてGHQの基地内に囚われている事には、香奈枝嬢の私的事情とは別にGHQの事情がなくてはおかしい。無意味に虜囚を取る軍はない。  その事情が、俺を愛玩動物よろしく檻に入れて餌を与え続けること自体を目的としているとは考えられなかった。  必ず何らかのアプローチはしてくるだろう。  しかし――それがなかなか訪れない。  そんな日々において、単調さを崩してくれる要素の到来は何であれ歓迎すべきものだった。 「……ご一緒に散歩でもいかが?」 「喜んでお供します。  大尉殿」 「……」  アングロ・サクソン族は他国に進出すると、そこに〈自国〉《・・》を形成する――しばしばそう評される。  それは華僑が中華街を造るのとは異なる。  商業目的で他国に移住した彼ら華僑が築造する街は、拠点であると同時に故郷の写し――安息の地であるが、そこまでのものに過ぎない。  拠点であり故郷である中華街は発展の限界を持つ。  自分達の生活に必要充分な環境が完成すれば、それから更に規模を拡大していく事はない。  アングロサクソンの都市は拡大する。  際限なく。  軍事的に占領した国では現地の文化文明を破壊または強奪しつつ自国の文化文明に沿って都市化する。  交易関係を結んだ国へは、自国の文化文明を積極的に輸出し、やがて都市の様相を自国化する。  彼らは真の意味における征服者だ。  アングロサクソン族の宗主国家といえる〈大英連邦〉《グレート・ブリテン》は政治的に世界の過半を制しているが、文化的な版図はきっと更に広かろう。  無論、大和にとっても他人事などではない。  国内の産業と文化を保護するため諸外国との交易に制限を掛けていた徳川政体が遂に打倒されて以来百年。今や市街には〈自動車〉《モーターカー》が行き交い、都市間は〈鉄道〉《レールロード》が繋ぐ。  そうした変化に危惧を抱き、警鐘を鳴らす人間も、 『売国論』を著した〈石馬左近将監〉《いしまさこんのしょうげん》など少なからずいる。  しかし、より多くの人々が変化を受け入れ、歓迎し、一面において自国侵略の一助をなしているのだった。  そしてそうなるからには、相応の理由が存在した。  アングロサクソン族は合理主義に基づく発明に長け、その文化の利便性は多くの方面で他文化の追随を許さない。彼らが造る物は速く、〈巨〉《おおき》く、強い。  だからこそ求められ、普及する。    最も身も蓋も味も素っ気もない意味において彼らは他に優越する種族なのである。  優秀なる彼らは優秀な科学文明を持ち、その文明を僻地へもたらす正義を信じ、正義ゆえに躊躇わない。  アングロサクソン帝国の覇業が成るのは必然と云うべきであろう。 「見事な軍事拠点です。  おそらく、普陀楽城よりも総合的な機能においては優るのではありますまいか」 「ええ……」 「大和古来の軍学に基づく築城ではどう工夫してもここまで効率的な構造にはなりません。  どうしたところで各所に細かい無駄が表れます」 「六波羅が総力で当たっても、果たしてこの基地を攻め落とせるかどうか。疑問です。  とにかくまず横須賀と分断しないことには……」 「そうですね……」 「……」  世間話のつもりで話を振ってみたが、どうも香奈枝嬢の反応はいつになく鈍い。  生返事を寄越してくるばかりだった。  捕虜でありながら遠慮もなく周囲を検分し批評する態度が呆れを買ったのかとも思ったが、違うようだ。  顔色を窺うに、そもそも話がまともに聞かれているかどうかからして疑わしい。 「大尉殿」 「……」 「もしや、御身体の具合でも……」 「……え?」 「あ、はい。わたくしもそう思いましてよ」 「やはり。ならば御自愛下さい。  確かに無聊をかこつ自分には有難いお誘いでしたが、大尉殿にそのような無理までして頂くには及びません」 「え?」 「すぐに戻りましょう。  念のため、軍医に――」 「まぁまぁ湊斗さま。  そう慌てなくとも、大丈夫でございますよ」 「しかし」 「お嬢さま?  湊斗さまはお嬢さまが心ここにあらぬ態でおられたのをご心配なさったのです」 「それでおからだの不調を問われたのですが……何か、健康に思わしからぬところでも?」 「……あっ」 「いえ、申し訳ありません、景明さま。  わたくし、この通りピンピンしておりましてよ」 「本当ですか」 「ええっ、もー、どこもかしこもビンビンで困っちゃいます。  景明さま、ご覧になりたいの……?」 「いやんっ、こんなところで!」 「何を見せる気なんでしょーねこの痴女は」 「……そうですか。なら宜しいのです。  安堵致しました」 「大尉殿、貴方は自分にとっても掛け替えのない〈御人〉《おひと》です。  どうか御身体は大切にして下さい」 「え……ええ」 「…………」 「健康はともかく。  何だか妙に調子が出ないご様子ですねぇ、お嬢さま」 「そ、そんなことはなくってよ?  わたくしはいつも通り」 「あまりそうは見えませぬが……」 「気のせいです!」 「しかし現在の時刻は三時、風向きは北北西、大気中の電波濃度は六三%でございますよ?  普段のお嬢さまなら直ちに怪鳥の如き奇声を上げマイムマイムを踊り出されるはず……」 「ええわかってますちょっとお待ちなさい。  時刻よーし風向きよーし電波よーし」 「クケーーーーーーーーーーーーーッッ!!」 (……変だ……) (……変だ……)  何があったのか不明だが、今日の大鳥大尉は色々と性能が低下気味らしい。  まるで一週間徹夜して原稿を書き上げた直後の小説家のようだ。  心配ではあるものの、心配してもどうにもならない気配が濃厚である。 「まぁそのうち回復なさいましょう」 「は」 「それはさておき湊斗さま。  ウォルフ教授に会われたとか?」 「はい。  部屋に招かれ、短時間ですが面談を」 「どのようなお話をされましたかな。  むろん、差し障りのない範囲でお答え頂ければ結構でございますよ」 「……そうですね。  とりあえず……印象が強かったのは」 「パンツという単語が会話中にやたらと出てきたことでしょうか」 「…………」 「聞く方に差し障りのあるお話だったようで」 「失礼」 「いえ、あの教授はいつもそんなんですから。  一体どんな歪んだ生い立ちを過ごされたのかは存じませんが、とにかくパンツに異様な執着心を抱かれているらしく」 「口を開けばパンツパンツと――」 「侍従殿。  誤解なさらぬよう」 「は?」 「――あの方はパンツに執着しているのではありません。  パンツを脱がすことに執着しているのです」  力を込めて、拳を握る。 「これは全く、意味も意義も異なる事です。  混同されてはいけません」 「はァ」 「例えるなら美濃部達吉先生を逆賊呼ばわりするようなもの」 「何を仰りたいのかさっぱりわかりませんが、多分その例えは適切ではないですぞ。  ……しかし、湊斗さまも何だか調子がおかしゅうございますね。お嬢さまとは別方向に」 「そうでしょうか。  ……そうかもしれません」  空を見上げてみる。  青い。  良く晴れた、澄んだ空だ。  そんなつまらない事を想う。    だが――こんなつまらない事を、俺は久しく忘れていたのではないか。 「…………」  演習場らしき広場がある。  ふと、俺は足を止めていた。  十人余りの人の群れが見える。  しかし皆、これから演習という様子ではない。  多くは無表情であった。  うち一人は、表情が消えていた。  両者は似ているようで違う。  一名は表情というものが欠落してしまったのであり、他の人々は意図的に表情を隠しているのだ。  表情の消えた一名は、両腕を拘束されていた。  それを、解かれた……と思えば、今度は杭に全身を縛り付けられていく。 「――――」  流石にその時点で、俺にも事態は察せられた。  縛られ、目隠しまでされた男だけ残し、他の人間が周囲に散る。  場の代表らしき将校が、低い声で何事かを述べた。  〈長銃〉《ライフル》を構えた兵士が数人、立ち並ぶ。  筒先は無論、杭の男だ。  将校が号令を掛ける。  男は死亡した。 「………………」 「コブデン中佐です」 「大尉……」  同じように足を止めて、同じように眺めていたのだろう。今の処刑の様子を。  演習場に瞳を向けたまま、大鳥大尉が呟いた。 「罪状は収賄、通謀……  そして反乱」 「反乱?」 「横須賀の事故のことは覚えておられます?」 「ああ……はい」  あの日の電話で、香奈枝嬢が触れた事件のことか。 「確か、事故というのは表向きの発表に過ぎないと……  つまり」 「ええ。それが反乱でしたの。  今は亡きコブデン中佐の起こした」 「……いえ。  正確には、舞殿宮殿下が起こさせた」 「……何と?」  親王が起こさせた?  横須賀軍港の反乱事件を? 「――大尉殿。  それは一体、どういう」 「お知りになりたい?」 「はい」 「この件については、もう何もかも終わってしまったことですのよ?」 「……それでも、願わくば」 「…………」 「わかりました。  お話ししましょう……」 「では……こういう事なのですか。  情勢の急変に焦った宮殿下と署長が不祥事で横須賀に左遷されていた進駐軍将校を買収、軍港の破壊を企み――」 「それに失敗。  事態は露見し、建朝寺へGHQの制裁措置を招くに至ったと……」 「ええ。そんなところです。  ……信じられませんか?」 「…………。  いえ。残念ながら」 「信ぜざるを、得ないようです」 「……」  全ての辻褄が合う。  どうして、進駐軍と親王陣営が急に対立する格好となったのか――不可解だった部分が、全て解消されてしまった。  疑いたくとも疑う要素がない。 「…………」  ――何たることか。  胸中に湧いた慨嘆は、親王らの短慮を責めるものではなかった。  あの元来は思慮深いはずの人々をしてそんな暴挙に追いやった世情の転変こそ、嘆くべきだった。  しかし……そうなると。    建朝寺襲撃事件は、言ってしまうなら親王らの自業自得なのか。  つまり――      ――――あれも。  〈養父〉《ちち》は……  己の策謀に、己の命で始末をつけたのか。  それが、養父の死の意味なのか……。 「……」  そう考えてみて、納得のいかぬことはない。  理屈の上では――全く、納得するほかにない。  だが。  理屈を超えて…………どうしても。  込み上げる感情が、  抑え難いものが、                     …………有る。  あの〈騎士〉《クルセイダー》。  劒冑の特徴的な造形は、別の記憶を刺激する。  昔、学校で読んだ西洋史の資料集。  その中に掲載されていた写真の一枚。  〈永世中立国〉《シュヴィーツ》の至宝――〝弓聖〟ウィリアム・テル。  中世欧州史を彩る偉大な英雄が愛用し、彼の死後はその名を冠して秘蔵された、名甲中の名甲である。  伝説に曰く、左腕の〈石弓〉《クロスボウ》から放たれる矢は必中必殺の魔弾。息子の頭上の林檎すら的確に射抜いたと云う。  あの騎士の劒冑はその聖宝に瓜二つだ。    しかし――違う。  別物。  無論、一国の国宝が容易く持ち出される筈がないという判断もある。  だがその点に思いを致さずとも、俺の眼はあの劒冑を真物とは〈鑑〉《み》なかった。  あれは〈贋作〉《がんさく》。  紛い物だ。  造形こそ、見事なまでに盗み取ってはいる。きっと甲鉄の強度も真物におさおさ劣るまい。  しかし〝弓聖〟には欠片も無いものが、その表面に滲んで現れていた。  鍛冶師の虚栄心。  強烈な、けれども捻じ曲がった自負。  名高い英雄の劒冑を騙って名声を盗むような真似をしておきながら、その劒冑よりも自分の造った品の方が実際は優れているのだと思い込む……  そんな卑小な、屈折した人間像が透けているのだ。  あの劒冑は決して見る人に感嘆の吐息をつかせる事はない。  眉をひそめさせ、不快げな唸りを上げさせるだけだろう。  そんな劒冑で――――養父は殺された。 「…………」  香奈枝嬢が言った通りだ。  事件はもう終わっている。……政治的には、全て。  しかし。  俺の中では―――― 「……そういえば。  景明さま?」 「は。  何でしょうか、大尉殿」 「あの日は、わたくしの電話から随分と時間が経った後で参られたようですけれど……  何かございましたの?」 「……はい。  結果として、大尉のご忠告を無にしてしまいました」  本当に忠告のつもりであったのかどうかは兎も角、心情的にそう言っておく。  実際、忠告として生かす事もできた筈であった。  〈妨害者〉《・・・》さえ現れなければ。  俺がその対処に手間取らなければ。 「……大尉殿」 「はい?」 「…………悪魔じみた姿の、巨大な武者……に、心当たりはありませんか」 「悪魔じみた?」 「はい。  他にはなかなか、形容の術がありません」 「……さあ……?  進駐軍内の騎士の方々は、もちろん色々な〈形〉《なり》の劒冑をお持ちですけど」 「悪魔っぽい、というのは……  あまり正規軍に属する騎士の趣味ではなさそうですし」 「……確かに」  そんなものを使いたがる変人が仮にいたとしても、周囲が喜ばないだろう。  軍という組織で、規律を乱す振舞いは許されない。  そうなると……あれはGHQとは別口?    いや、それにしては〈時機〉《タイミング》が合い過ぎている。 「……」 「そんな悪趣味ソルジャーとどこぞで出くわされたのですか? 湊斗さまは」 「はい。  あの時、建朝寺へ向かう途上で」 「…………ほぉ?」 「…………?」 「襲われ、不覚を取りました」  苦い味を噛み、唾に混ぜて吐き捨てる。 「あの武者を手早く退けていれば……  〈養父〉《ちち》を救えたかもしれない」 「――――」 「え?」 「……父?」 「はい。  建朝寺で、署長が殺害されたことはご存知ありませんか」 「え、あ……はい。  いえ、知っていますけれど……」 「……鎌倉署長の菊池明堯殿ですな。  あの方の御遺体は確認しております」 「……そうですか」 「あれが自分の養父です。  多大な恩を受けました」 「――――――――」 「しかし……姓が違うようですが?」 「事情あって、湊斗家からは籍を抜いていたのです。  それ以降、婿入りする前の旧姓を……菊池の姓を養父は称していました」 「……左様で」 「自分が大尉のご忠告を生かし、すぐに駆けつけていれば……守れたかもしれません。  あの騎士の放った矢から……養父を……」 「……あの騎士……」  あの弓騎士。    あれは――あれは間違いなく進駐軍の騎士だ。  香奈枝嬢に、奴の素性を尋ねるべきだ!  こちらは知っているに違いない!    ……その考えは雷光のように閃いて、消えた。  知ってどうする。  探し出し、襲い、復讐するのか。  そんなことをすれば――大鳥大尉の立場はどうなる。  自分の連れてきた捕虜が脱走し、しかも自分の提供した情報によって騎士――〈真打劒冑〉《ブラッドクルス》の所有者ならまず間違いなく伝統的貴族階級だ――を斬ったとなれば。  ……大和出身の異端者を弁護する者はいないだろう。  迷惑で済む話ではない。  できる筈がなかった。  ――何もできない。  養父の仇に、俺は何もすることができない。 「……ッッ!!  あの……騎士……!!」 「…………」 「……〝〈黄金の夜明け〉《ゴールデン・ドーン》〟……  それが作戦名か?」 「はい」 「ふむ……」 「気に食わないかね? ウィロー少将。  僕なりに良い名を考えてみたのだが……」 「いえ。そんなことはありませんよ、〈教授〉《プロフェッサー》。  悪しき過去を断ち、輝かしき未来へと繋ぐ一大作戦に相応しい名です」 「そうだろう。そうだろうとも。  黄金の夜明け。この言葉を口にするたび、未来の光景が目に浮かぶようではないか」 「ええ、そうですね」 「――パンツはいてない少女の下半身がッ!!」 「ええ、そうですね。  それで……クライブ?」 「11月30日、六波羅幕府の本拠地であるところの普陀楽城に勅使を迎え、足利護氏の嫡孫邦氏への大将領宣下が行われます。  朝廷工作がようやく実ったようで」 「式典には当然、幕閣の要人ほぼ全員が参列します。  四公方、評定衆、政所執事、侍所所司……少なくともこの辺りはまず間違いなく」 「頭は潰せるということだな。  だが、それでは目的の半分だ。〈宣伝効果〉《インパクト》が足りない。残りの半分についてどう見込んでいるんだ、クライブ?」 「満足な成果を、閣下。  式典に合わせて幕軍の主力も普陀楽に集結しつつあります」 「目的は式典の警護の他に……  大和国民及び我々に対する威圧。加えて軍全体の士気向上」 「要するに六波羅は、護氏の急死で失った物全てを宣下式典で取り戻す気でいます。  連中も連中なりに良く考えてますね」 「そうだな。〈何事もなければ〉《・・・・・・・》、六波羅の目算はおおむね成就しただろうからな。  しかし申し訳ないが、彼らの入念な準備は全部我々の〈式典〉《パーティー》のために使わせてもらおう」 「幕府首脳と軍主力が普陀楽に集まる。  我々は彼らを〈一撃〉《・・》によって〈一掃〉《・・》し、この国への支配権を確立する。未来はそう決まったと考えて良いのだな? クライブ・キャノン」 「機会は与えられました。間違いなく。  後は努力次第ですよ」 「宜しい。不断の努力は〈西部開拓時代〉《ワイルド・ウェスト》から、いやそのずっと昔から我々の最も得意とするところだ。  成功は約束されている」 「もちろん。これは天命というものだよ少将。  我々が失敗すれば世界はやがて〈大英連邦〉《ブリテン》の手に落ちるだろう……だがそんなことは有り得ないのだ」 「何故なら全人類を従える権利は唯一、神の手にのみ帰する。いかに〈英国女王陛下〉《クィーン》が海賊の首領まで遡る貴い血脈を誇っておられようと、その権利を犯せるものではない」 「仰る通り。  〈大英帝国〉《エンパイア》は既に充分肥え太った。肥え太り過ぎた。もういい加減、屠殺場に搬送されて〈解体〉《・・》されても良い頃合です」 「うん、うん、まったくだ」 「……」 「……ふむ? 何かね、キャノン中佐。  僕の顔にパンツでもついているかな」 「まあ、毛編みのパンツなら」 「それは髭だよ」 「失礼ながら少しばかり意外でしてね。  教授が我々の理想にそうも共鳴して下さるとは」 「ふむ……意外かな?  確かに僕ら〈独逸人〉《ゲルマン》は、〈英帝〉《ブリテン》の支配下に置かれる屈辱の歴史の長さにおいて君ら〈新大陸人〉《アメリカン》の足元にも及ばない。まだほんの数年ばかり」 「だがそれだけに、生々しい怒りというものがあってね……」 「……」 「クライブ」 「ええ、わかっています。  教授、疑うような発言をお許し下さい」 「いやいや。  君の慎重さは美質だよ」 「しかし、僕は既に誠意を示してきたのではないかな? オデッサ機関を通じて、英国軍に囚われ酷使されている我が同胞――世界に誇る〈独逸技術者〉《ドイチェス・テヒニカー》と連絡を取り、」 「数々の最新兵器、わけても〝〈装置〉《ガジェット》〟が大和へ運び込まれるよう仕向けた。  ま、運用試験の適地について少々事実とは違う報告をさせただけのことだがね……」 「この程度の助力では不足だったかな」 「そんなことは決してありません。  ウォルフ教授、あなたは私にとって最大の恩人の一人ですとも」 「そう言ってもらえると安心できるよ、〈友人〉《フロイント》。  ならば君達が悲願を果たした暁には、我が祖国への支援を期待しても良いのだろうね?」 「恩と友誼にかけて、必ずや。  我が故郷の未来を磐石なものとするためにも、教授の祖国との協調は必要不可欠です」 「そうだろう、キャノン中佐?」 「全くその通りです、閣下」 「うむ、うむ。  11月29日は大英連邦の終焉の始まりであり、我ら両国の友好の始まりでもあるわけだな」 「……ええ」 「29日?」 「〝黄金の夜明け〟作戦の決行は宣下式典の前日を予定しています」 「当日を避けた理由は?」 「大和国民の微妙な心理に配慮した結果です。  ……教授?」 「うん、提案した僕から説明しよう。  大和の人々はむろん六波羅を嫌ってやまぬわけであるが」 「それはそれとして盛大な式典が行われれば、鎌倉市中は〈お祭り騒ぎ〉《フェスティバル》になるし、その気分は各地にも伝播する。  なんとなく〈おめでたい〉《・・・・・》気分になるわけだ」 「ふむ……?」 「そこへ我々が水をかければ――それも北極海直送の氷水をぶっかけたりすれば、わかるだろう少将?  大和国民は我々に怒りを抱くかもしれない」 「巨悪の粉砕をもって国民の支持を勝ち取る目論見は潰え、作戦の全てが無意味どころか逆効果になってしまう恐れがあるのだよ」 「教授からそうご意見を頂き、作戦を一日、前倒しにしました。  幾つか無理は生じてしまいますが、まぁ、許容範囲の内側です」 「……なるほど。  いや、教授の言われることは尤もです」 「中佐、標的はそれまでに普陀楽城へ集結を終えているのだな?」 「そうですね。ほぼ」 「なら問題はない。  その予定に従って進めてくれ」 「了解です。閣下」 「では、僕はそろそろ失礼させて頂こう。  パンツ禁断症状が出始めたようなのでね」 「また後ほど」 「はい。  お疲れ様です、教授」 「…………」 「彼を疑うのか、クライブ?」 「信用は置けませんね。全く」 「ふむ……  私は必ずしもそうとは思わないが……」 「同じ境遇というだけで同情し過ぎですよ、あなたは。  故郷の同胞の中にさえ、大英連邦に仲間を売る裏切り者が幾人もいたことをお忘れなく」 「いや……〈我々すら〉《・・・・》。  始末に負えない同胞、大局を理解せず暴発ばかりしたがる過激分子どもを〈新大陸総督〉《ガバナー・ゼネラル》に売って、信用を得てきたではありませんか?」 「……彼が同じことをする、と?」 「いえ、流石にその点は徹底的に洗いました。  大英連邦との接点は見当たりませんでしたよ」 「ただ、不可解な部分も多いのです。  できれば作戦前にそこのところをはっきりさせたかったんですがね……」 「……まぁ、いいさ。  大英連邦の間者ではないというだけでも、最低限の安心はできる」 「今はそれで満足しよう。  いつだって万全は望めないものだし、それを理由に好機を逃すのは愚かしいことだ」 「……ええ」 「ところでクライブ」 「何ですか」 「パンツ禁断症状って何だ……?」 「そいつを調べろってご命令だけはお断りしますよ、閣下」  いずれあるべきと思っていた〈出来事〉《イベント》はその日、やや唐突に訪れた。 「クライブ・キャノン中佐だ。  進駐軍総司令部参謀第二部に属している」 「湊斗景明です」  前触れ無しに突然、しかし礼儀正しくノックはしてから現れたその男。  俺よりも十歳、あるいはもう少し上の年頃か。  アングロサクソンとして典型的な容姿を備えている。  が、江ノ島で相対したガーゲット少佐に比べれば顔立ちはずっと凡庸で、印象に残る何物も無い。  内面の鋭さといったものも、特に窺えなかった。    何処にいても〈群衆〉《モブ》に溶ける、そんな男だ。  儀礼的な握手が済むと、その中佐は自然な無遠慮さで椅子に座った。  俺もそれに倣い、ベッドの上へ腰を下ろす。  随行の兵士は銃口を天井へ向けたまま、男の背後に佇立した。 「何か、不自由していることはないかな?」 「……不自由?」 「ああ。要望と言い換えてもいいが。  あるだろう? 食事はパンより〈米飯〉《ライス》にしてくれとか、〈大和式絨毯〉《タタミ》が欲しいとか、〈富士山〉《フジヤマ》が見たいとか、〈芸者さん〉《ゲイシャ・ガール》を呼べとか――」 「……そうですね。  一つ、切実な不自由を抱えてはいます」 「遠慮なくどうぞ」 「生まれた国が他国軍の進駐を受け、しかも自分の身柄はその軍に囚われているのです。  食事にも芸者にも格別不満はありませんが、この不自由からは願わくば解放されたいもの」 「――」 「驚いたな」  少しぽかんとした後で、クライブ・キャノン中佐はにやりと口元を歪ませた。 「君はそんな、率直な物言いを好むのか?  報告から受けていた印象といささか違うな」 「時と場合によります。  虜囚という環境は婉曲な性質を養うに適切であるとは言えません、中佐殿」 「ふぅん……?」 「自制心を育むにも。  誰かに諧謔を口にする機会は今の自分には得難いもので、なかなか抑えが利きません」 「――――」  中佐は、今度は完全に絶句した。  それから無理矢理に微笑もうとして失敗し、滑稽に引き攣った形相となり、自分でも気付いたのか片手でその顔を覆い隠した。  ……やがて指の間から含み笑いが洩れた。  本当の笑いだった。 「……そうだ。言ってたな、あの〈娼婦〉《マタ・ハリ》。  かなりの努力を払って精密に観察するなら、やたらと愉快な〈男〉《ひと》でもあります、とか……」 「……?」 「結構だ。  いや、大いに結構だよ。俺に出来る範囲で取り計らおうじゃないか」 「自由か……与えよう。  差し当たっては君一人分。だがゆくゆくは君の故国の分も」 「〈湊斗君〉《ミスタ・ミナト》?」 「……」  どうやら、話は本題へ入るようだ。  俺は心持ち背筋を正した。 「君は八幡宮の〈親王〉《プリンス》に従っていたと、報告を受けているが……?」 「はい。  私的に雇用され、〈代行者〉《エージェント》のような事をしていました」  この中佐が大鳥大尉から、あるいは別の経路から、どこまでの情報を仕入れているのか。俺には知りようもない。  真実ではなく嘘でもない、無難な回答が必須だった。 「なかなかの活躍ぶりだったらしい」 「恐縮です」  〈活躍〉《・・》というのが何を指すのか――その活躍を受けてGHQが俺に対しどんな〈対応〉《リアクション》を取ったか、全て承知の上で〈空惚〉《そらとぼ》ける。  構わず、キャノン中佐は切り込んできた。 「その能力を、今後は我々のもとで生かしていく気はないか?  君の最も建設的な可能性はそうすることで開かれると、信じているんだが……」 「……建設的」 「舞殿宮はもういない」 「……」 「〈空手形〉《ブラフ》で取引するつもりは無いよ。他でもない君の努力……あるいは別の理由によって、舞殿宮は死を免れた。  その点は認めておこう」 「だが当面、謀略ごっこを楽しむ余裕はないはずだし、必然、君を有効に運用もできない。  殿下が政治的行動力を取り戻す頃には……生憎、もう介入の余地は無くなっている」 「今現在、情勢は激動の渦中にあるんだ。  後世の人間の目にはきっと明らかだろうな。当事者たる我々、今を生きる人間にはむしろ捉え難いが……」 「君はどうかな。明日は今日の〈複写〉《コピー》だと思うか? 平穏な日々が積み重なってゆくと?  今日、京浜新聞の一面は動物園から脱走したカバの話だった。明日はパンダの出産か?」 「舞殿宮殿下の復権とその後の活躍を信じて、半年か一年、雌伏の日々を送ってみるか?」 「…………」 「そこまでの楽観視は……  残念ながら、自分には不可能のようです」 「だろうね」 「それなら話も進めやすい。  故国の運命を憂うなら、湊斗君、GHQに協力するべきだよ」 「我々は六波羅の悪政から大和を解放すると約束できる……」 「…………」  少し逡巡してから、俺は決断した。  伏せられた〈手札〉《カード》の一枚をこちらの手で切る。 「一度は抹殺するべく謀った相手を、今度は味方に引き入れようと?」 「状況の変化だよ」  進駐軍中佐は、特に悪びれる風でもなかった。 「江ノ島の一件か……  最終的に〈銀星号〉《モンスター》の出現で滅茶苦茶な結末を迎えてしまったようだが」 「確かに、俺はあの島へ派兵した。  六波羅の兵器開発と君、両方をひとまとめに処分しようとした部下の提案を容れてね」 「……ジョージ・ガーゲット少佐?」 「ああ。  あの時点において、彼の意見は妥当だった」 「君は俺にとって、得体の知れない敵性分子でしかなかったからだ。  迅速な抹殺が必要だと考えたし、今も別に判断を誤ったとは思っていない」 「……」 「しかし……現在、君は我々の基地の内部にいる。未確認の敵性存在ではなくなった。  そして、我々に対する病的なまでの敵意の所有者でないことは態度から明らかだ」 「実際、こうやって理性的に会話することもできる……。  それがわかれば、こちらにもまた別の考え方が生まれる」 「そういうことさ」  気安い言い草に、しばし黙る。  ……納得せざるを得ないようだった。  元々、彼の手の翻しように深刻な憎悪を抱いていたわけではない。反応を見たかっただけの事だ。  その意味では、〈食えない〉《・・・・》男だという事実がわかったに過ぎなかったが。  気分を切り替えて、攻め口を転じてみる。 「成程。中佐殿、貴方の立場からすれば尤もなことです。  納得できます……自分に対する措置に関しては」 「……というと。  他に何か、納得できないことが?」 「些か。  そもそもの、貴方がたが自分を敵視するに至った所以です」 「……」 「貴方がたは、〝悪しき大和武者〟を故意に作り出し……人々の信望を進駐軍に集中させようと企てておられた」 「……」 「この非道と言わざるを得ない措置について、中佐殿のお考えは如何に」  今度は――    彼は一切、言質を与えようとしなかった。  否定はしないが肯定もしない。  曖昧な沈黙が流れる。  ……だが俺は、中佐が怒ってはいない一方で、別に窮してもいないことを何とはなしに察していた。  これはただ、会話の〈呼吸〉《・・》を計っているだけの沈黙だ。  彼は返答をとっくに定めている……。 「中佐殿」 「……そう思うのなら。  君はやはり、我々に協力するべきだな?」 「いま君が言ったような方法より、はるかに〈穏健〉《スマート》な手段を俺は考えているよ。  それには君の惜しみない協力が必要となる」 「…………。  わかりました。伺いましょう」 「クライブ・キャノン中佐。  貴方は自分に何を求めておられるのです?」 「六波羅と戦って欲しい。  あの赤い劒冑を纏い――」 「〈我々と肩を並べて〉《・・・・・・・・》」 「…………」 「それはつまり」 「ああそうだ。  〈英雄〉《ヒーロー》になって貰いたいんだ、君に」 「――――」  思わず口の端が強張ったのを、彼は見逃さなかったろう。  隠したかったが、隠し切れなかった。 「……不本意かな?」 「……感激の余り貴方の両手を握ろうとしていないことは、御覧の通りです」 「残念だ。念入りに洗っておいたんだが。  一応、話を最後までさせて貰ってもいいかな」 「構いませんが、伺わずとも察しはつきます」  やや投げやりに云う。 「大和国民を〈代表して〉《・・・・》、自分はGHQに協力するわけですか」 「まぁ……そんなところだ」  若干決まり悪げに、キャノン中佐が苦笑する。  要するに、ここでも手を翻そうと言うのだ。  大和武者の評判を下げるのではなく。  大和武者を持ち上げる。但し――彼をGHQに取り込んだ上で。  進駐軍と共闘し、六波羅を相手に英雄的活躍をする武者。  ……そんな存在が誕生すれば、世論の向かう方向は決まったようなものだろう。  単に進駐軍が六波羅を撃破するよりも遥かに、大和の人心に及ぼす影響は強いに違いない。  結局、進駐軍は外からの侵入者である。偏見は抜き難い。が、両者の架け橋となる者が現れたなら――  思わず嘆息が零れた。  ……本当にどこまでもアングロサクソンという生物は合理主義精神の徒だ。目的を充足する為の最適解を見つけ出す才能にかけて卓抜している。  程々にしてくれと言いたくなる〈迄〉《まで》に。 「……」 「無理に大喜びしろとは言わないさ。  だが、君にも志があるだろう? 舞殿宮の手元で働いていたのなら」 「志、ですか。  何に対しての?」 「世界では? 〝〈大英の平和〉《パックス・ブリタニカ》〟の完成は人類史から戦争なる病害を撲滅し、一段階上の社会を生み出すだろう。この高潔なる事業にこそ身を捧ぐべし」 「大き過ぎます。  加えて言うなら、夢想的過ぎます」 「同感だ。言ってて歯が浮いた。  大和一国に絞ろうか」 「大和の将来」 「ああ。  このまま六波羅幕府に春を楽しませておくのが最善だとは、まさか思うまい?」 「GHQ――大英連邦に春を楽しませるのが最善だと、そう信じろと?」 「ふん。比較の問題だな?  どちらが大和国民にとっても暖かいか」 「悩むほどの難題でもないと思うけどね」 「さて……。  他国人の銃口にひれ伏すよりは、まだ自国人の剣に、と考える向きもあるでしょう」 「実益よりも自尊心、か?  それは美しいのかもしれないが、賢明とは言いかねるな」 「賢明。  独立国家の誇りを捨て、〈女王陛下〉《クィーン》の施しを受ける身に甘んじる事が、賢明な選択というものですか?」 「――――」 「君の言うことは……まぁ、理解できる」 「が、得てして大衆とは君のように考えないものだ。  誇りある苦痛より隷従しての安楽を望む」 「そうした人々に対する理解も……必要だと、俺は思うがね……」 「…………」 「諒解しました。それは良しとしましょう。  実際、大英連邦に支配された各国の状況を見れば、六波羅の統治よりも市民に対しての配慮が深いことは明らかです」 「その上で申し上げますが。  自分も、負け馬に乗るのは御免蒙りたい」 「ふむ?」 「今のところ、中佐殿が提示された未来図は〈絵に描いた餅〉《パイ・イン・ザ・スカイ》に過ぎないという事です。  これまでのお話だけでは、とても命を賭す真似などできません」  俺はあえて、打算的な態度を示した。 「六波羅に対する勝算はお有りか。  肝心なその点をお訊ねしたい」 「……進駐軍の現有戦力は、既に関東地方における六波羅の全戦力を上回っている。  その事実だけでは足りないか?」 「更にフィリピンからの増援も加わる」 「〈その通り〉《イエス》」 「戦力差は成程、大きいでしょう。  しかし勝敗がそれのみで決するというものでもない」 「何と言っても、大和は貴方がたにとっては異郷の地だ」 「地の利で劣ることは認めよう……。  だがそれだけの理由で戦力差は覆り、幕府が我々に勝利し得ると、君は考えるのか?」 「真逆」 「では?」 「貴方がたは開戦するに際し、絶対的な条件を一つ設定する筈だと思うのです、中佐殿。  即ち〈短期決戦〉《・・・・》」 「……」 「連盟軍を運営する各国……つまり金を出す人々は、戦争の長期化を何より厭うでしょう。  大戦に続いてまた年単位の戦争を、しかもこんな極東の地で行えば、出費は莫大になる」 「下手をすれば国がいくつか〈倒産〉《・・》します。  盟主たる大英連邦さえ傾きかねない」 「……確かにね。  我々の戦力は充分でも、戦力を稼動させるための財力は……潤沢とはなかなか言い辛い状況にある」 「そう、だから我々は短期決戦を目指す。  そして……実現するだろう」 「六波羅が地の利を盾に取り、勝つよりも〈負けない〉《・・・・》戦いに徹したとしても?」 「彼らの性質的に、なかなかその決断は下せないと思うが?」 「祖国を裏切り、貴方がたの軍門にひとまず屈する恥辱にも耐えた六波羅です。  必要とあらばどんな手段も躊躇いますまい」 「……なるほど」 「自分が六波羅の将帥であれば、貴方がたの攻勢を支える一方で横須賀に兵を回します。  横須賀は進駐軍にとって補給の要……」 「ここを潰されれば、貴方がたの行動限界は更に早まります。……物資は現地調達するにも限度がある。  動ける間に普陀楽を陥とすのはまず、無理」 「だからといって横須賀の防備を堅くすれば、決戦の兵力が不足する。  やはり短時日の内に幕府軍を駆逐するなど夢物語になってしまう」 「……この上もし、フィリピンからの援軍が海上で幕府艦隊に要撃されるようなことでもあれば――」 「…………」 「貴方がたは大和占領どころか、生き延びる方法をまず考えなくてはならない境遇に陥る。  総じて……進駐軍はそう楽観できる状況にはないと、自分には思えるのです」 「如何か。中佐殿」 「ふむ。  まぁ……認めるさ」 「……」 「全般状況を鑑みるに、まずまず妥当な分析だ。仮にいま、戦争の火蓋を切って落とせば、君の言うように事態が推移する可能性は高い。  我々が短期間で勝利を掴むのは困難だ」 「その薄い勝算を濃くするために自分が求められているのなら、中佐殿……お眼鏡違いも甚だしいと答えるほかありませんが」  〈作られた〉《・・・・》英雄になるのでさえ荷が重いのに、〈本物の〉《・・・》英雄などが務まる筈もない。  ……英雄。ただ一騎で戦場に立ち、六波羅軍を駆逐してゆけば良いのだろうか。  それは俺ではなく銀星号にでも依頼して貰いたい。 「そんな無茶は言わない。  極端な話、君は我々と一緒に戦線へ立ってくれるだけでいいんだ」 「戦力としては何ら期待していない。  ……君ほどの勇者にこう言っては、侮辱としか聞こえないかな? だとしたら謝ろう」 「無用です。  しかし、であれば貴方がたは独力で六波羅を撃破せねばならない」 「するさ」  勝利は困難と言ったばかりの口で、キャノン中佐は事もなげに断定した。 「我々は勝利する。ごく短期間のうちに。  損害は軽微であり、戦果は莫大だろう」 「……何の根拠もなく、そのお言葉を信じろと?」 「根拠ね。  そうだな……もっともだ」 「なら君は、根拠を得てから決断すればいい。  ……六波羅が事実上壊滅した後で、改めて君を勧誘することにしよう」 「君の協力はそれからでも構わないんだ」 「…………?」 「しかし……  その時になっても尚、君が決断を下せないようなら――」 「君は我々にとって必要な人間ではなくなる」 「…………」 「良き未来は努力を積み上げた山の上に。  破局の結末は怠惰が沈澱する沼の底に」 「必ずしもそうではないかもしれない。だが、そう信じておくべきだ……人として生を全うするつもりがあるならね。  違うか? 湊斗景明」 (…………) (ちと、面の皮が薄かったかな……) 「キャノン中佐」 「ん? 何だ」 「D8号が面会を求めておりますが」 「……そういや先送りにしちまってたな。  後に取っといて楽しい客でもないし、手の空いてるうちに済ますか」 「俺の部屋に寄越してくれ」 「はっ」 「お邪魔致します……」 「よう。  相変わらず顔色が悪いな」 「こいつは生まれつきなんで……。  どうか気になさんないで下さいまし」 「済まなかったな。  だいぶ無駄足を運ばせたようだ」 「へ、へ、へ……!  中佐殿はお忙しい身。仕方ありません」 「今日も用件だけで失礼させて頂きます」 「そうか?  軽く一杯、付き合って貰おうかと思ったんだがな」 「お気持ちだけで……」 「残念だ」 「嫌いな酒に無理して付き合って頂いちゃあ、へへ、申し訳なくて足も向けられません……」 「……」 「俺、そんなことお前に言ったか?」 「へ、へ……いえね。  中佐のような御方はみんな、酒なんてくだらないものは飲まねえんで……」 「他にもっと、心地良く酔えるものをお持ちなんですから……ねェ? 仕事とか……理想とか、ねェ?  そいつがあるうちは酒なんて要りませんよ」 「本当の酒の味ってのがわかるようになるのは、人生を投げた後です……」 「含蓄深いな」 「滅相も……」 「お前は?」 「酒ですか」 「ああ」 「大好きですね……」 「ご愁傷様だな。  俺は酒好きにならないよう気をつけよう」 「そうなさって下さい……」 「報告を聞こうか」 「……はい。  結果から言えば……仕損じました」 「返り討ちに?」 「いえ……  熱量限界で墜ちたんで」 「騎体は大破しちまいましたが、〈部品〉《パーツ》をあらかた回収したんで修復できます。  〈中身〉《・・》の方は……ほとんど〈廃物〉《スクラップ》ですが」 「一部はまだ使えます。  替えも有りますしね……」 「……ふん。  お前が江ノ島から拾ってきた〈資料〉《データ》に刺激を受けて開発部の趣味人が造っちまった、あの 〝〈喰い散らかす氷海鴨〉《GUTS EIDER》〟」 「期待しちゃいなかったが、どうだ。  少しは戦果を上げたのか?」 「……そうですねぇ……。  まぁ、健闘したと思いますよ……」 「相手を考えればね。  〈複合竜騎兵〉《ユナイテッド・ドラグーン》って〈構想〉《やつ》……案外と目があるのかもしれません」 「ほぉ?」 「もう一度、野郎にぶつけてみて、その結果次第……ですがね。  うまいこといって、〈撃墜〉《おと》しちまうようなら……」 「暇人の手慰みが一転、正規の研究に化けるかもってわけだ。  そいつは面白い。興味深い」 「作戦を続行してくれ、雪車町。  詳細は任せる」 「……へっ。  構わないんで……?」 「構わないが?」 「……」 「ですが、中佐殿。  ちぃっと困ったことに、標的が姿を晦ましちまいまして……」 「村正――湊斗景明がか」 「えぇ」 「そいつを俺に愚痴られてもな。  人探しならお前の方が得意だろ?」 「湊斗が関東の何処に潜もうと、お前の網にすぐ引っ掛かるはずじゃないか?」 「そうなんですがねェ……」 「関東にいないって?」 「かもしれません……。  でなきゃ……あたしなんぞの力が及ぶわけもないとこへ匿われてるか……」 「普陀楽とか……公方府とか……。  ……〈横浜基地〉《ここ》とか」 「ふ……ん?  馬鹿馬鹿しい、と笑い捨てたいが」 「お前の言うことだからな。  基地の中を探してみるか?」 「……」 「許可証くらい出してやる。  大した手間じゃない」 「……いえ、いえ……。  言ってみただけですよ……」 「こんなとこにいるわきゃ、ありません……」 「そう言うなら、いいが」 「…………」 「他には?」 「格別……」 「では任務を続行しろ。  湊斗景明を殺せ」 「彼の存在はGHQの不利益だ」 「……えぇ」 「支援が必要になったら言え。相談に応じる。  ただ、ここ暫くは多忙が続くもんでね……すぐにとはいかないかもしれない」 「それは承知しておいてくれ、雪車町」 「……わかりました……」  夜。  俺は再び、大鳥大尉に外へ連れ出された。 「……そうですか。  あの方は景明さまにそんなお話を……」 「はい」  いつも大尉から付かず離れずの永倉侍従がやや距離を取り、それとなく周囲を警戒し始めた時点で、どのような会話が望まれているのかは察せられた。  如何にしてか、あの中佐の訪問を知ったに違いない。  尋ねられる前に俺から口火を切り、対談のすべてを話した。  大尉からも情報の提供があった。 「……資料管理課課長。実態は諜報総監。  そして貴方の上司……あのキャノン中佐が」 「ええ。  GHQの大和経略において、実権を掌握していると言っても過言ではない方です」 「それはつまり、彼の語った内容は一中佐の見解に留まるものではなく……GHQ全体の思想でもあると?」 「虚実はともかく。  あの方の言葉にはそれだけの重みがあると考えた方がよろしいでしょうね」 「……虚実。  大尉殿、キャノン中佐の自分に対する依頼の件は、果たして額面通りに受け取ったものでしょうか?」 「そうですね……それに関しては。  呆れ返るほど効果的な作戦ですし、」 「〈わたくしにも〉《・・・・・・》似たようなプランが用意されていますから。  また別に思案があるとしても、景明さまの協力が欲しいというのは嘘ではないでしょう」 「……成程」 〝大鳥〟の名の活用か。  大和の既存権力層を排除した後、香奈枝嬢を後釜に据えようという画策があるわけだ――キャノン中佐の脳内に。  実行されれば、彼女は傀儡君主となる。  妹と同じ配役を、より広い舞台で演じさせられる。 「大尉殿。  貴方は承服しておられるのですか?」 「自分に関するプランを?」 「はい」 「一概に否定はしません」 「……。  余り、大尉の御気性にそぐう提案とも思えませんが」 「先日、申し上げましたでしょ。  わたくしが大和へ帰国したのは、第一に民を守る〈責務〉《つとめ》を果たすため――」 「国際連盟、要するに大英連邦ということになりますけれど、その征服を受け入れるのが大和にとって最良なら……わたくしもそれに従い、求められる役割を果たすまでです」 「否やはありません。  わたくし個人の好みなど、考慮の要もないことです」 「……は」  俺は貴人への略礼を〈執〉《と》った。 「景明さまはいかがですの?」 「……考えては、みました」 「キャノン中佐の示す〈未来〉《みち》が最善であるのか……まさにその一点を。  本当に、それが最も良い可能性であるのか」 「ご結論は?」 「一時的な平和は訪れるでしょう」 「進駐軍が六波羅を駆逐し、大和の統治権を握ったなら、施政の多くの点で改善が期待できます……大英連邦が大和に限って〈紳士道〉《ジェントルマンシップ》を放棄しない限りは」 「大和は大英を宗主国と仰ぎ――スカンジナビアやバルト三国、〈蒙古〉《モンゴル》のように、〈露帝国〉《ロシア》を封ずる壁の一枚となります。  〈対露封鎖網〉《ケイジ・オブ・ベアーズ》が遂に完成します……」 「しかしそうなった時、露帝は黙って両手を上げるでしょうか?」 「……」 「南下政策は彼らの生命線です。  その切断をただ看過するとは思えません」 「彼らが封鎖網の実力突破を図った時……  まず狙われるのは」 「――占領から間もない大和?」 「支配体制が確立する前なら付け入る間隙はある、おそらくそう考える者がいるでしょう。  で、あれば――大和の春も長くは続かない」 「〈女帝軍〉《ロイヤルナイツ》と〈露帝軍〉《コサック》による激戦の巷となります」 「もちろん、そんな〈事態〉《こと》は大英連邦も望みません。外交で決着をつけようとするでしょう。  幾らかは露帝の要求にも応じ、代償に連盟への参加を求める、その辺りで。……けれど」 「目論見通りにゆくとは限らない」 「はい。  過去の歴史が証明するように……」 「だからキャノン中佐の依頼は拒む――と?」 「……そうなります」  それのみが理由ではなかったが。  ……GHQに与するという事は、〈あの騎士〉《・・・・》を戦友と呼ぶという事でもある。  私的な感情問題に過ぎない。軽くはないが。香奈枝嬢に告げるような事ではなかった。    告げるべき事は他にある。一件。 「……いや。  これも微妙なところか」 「?」 「実はもう一つ、別の危惧が」 「何ですかしら」 「論理的考察ではなく、ほとんど単なる憶測になってしまうのですが」 「構いませんことよ?」 「……キャノン中佐は……  本当に、大英連邦に対して忠実な軍人なのでしょうか?」 「――――」 「我ながら、これは下衆の勘繰りも同然。  お恥ずかしい」 「……けれど、そう勘繰った根拠はお有りになる……?」 「根拠と呼べる程のものは。  ただ……」 「彼との対話において、自分も正直の徒ではありませんでしたが、それ以上に中佐の方が深く本心を隠しておられたと思うのです。  しかし、一度」 「賢明。  独立国家の誇りを捨て、〈女王陛下〉《クィーン》の施しを受ける身に甘んじる事が、賢明な選択というものですか?」 「――――」 「君の言うことは……まぁ、理解できる」 「が、得てして大衆とは君のように考えないものだ。  誇りある苦痛より隷従しての安楽を望む」 「そうした人々に対する理解も……必要だと、俺は思うがね……」 「あの一瞬だけ、キャノン中佐は〈素の感情〉《・・・・》を覗かせた……。  自分にはそう思えるのです」 「……〈女王支配〉《クイーンズルール》への反発を?」 「わかりません。  本当に憶測なのです」 「――――――――」 「……やっぱり、こちらからの対処も考えてみるべきかしら……?  いえ……伯爵を動かすには、もう遅い…………」 「大尉殿?」 「ごめんなさい。何でもありませんの。  それで……もし景明さまの推測が当たっていたとすると、どうなります?」 「彼が万一にも女王への叛意を有しているとすれば、大和占領を積極的に推し進めるのもその為ということになります。  この国に拠って大英連邦に牙を剥く――」 「やはり大和は戦場となるでしょう。  この場合、単に大英連邦と露帝が争う場合よりも情勢は混迷し、人々は更に苛酷な境遇に置かれるかもしれません」 「……あるいは六波羅時代を懐かしむ声さえ上がる程の」 「もとの濁りの田沼恋しき?  勘弁して頂きたいものですね」 「完全に同意します」 「つまり景明さまの見るところ、わたくしの上司に付き従う先はどう転ぶにしろ必ずしも明るくないと。  でも――」 「なら景明さまには、独自の展望がお有り?  より確実に、大和の平和を約束するような」  その追及は辛辣だった。  確実に大和の平和を約束する道。  そう――そんなものが簡単に見つかれば、誰も苦労はしなかったのだ。舞殿宮も、養父も。  人よりも広い視野と深い思慮を備えていたであろうあの両人でさえ、世情の混沌の深まりに敗れ、遂には道を見失って転落した。  一国の将来を占うはそれほどの難事。  試すまでもなく、湊斗景明の器量には余る。    だが―― 「展望はありません。  ただ、〈こだわり〉《・・・・》なら一つ」 「こだわり?」 「現世界情勢を思えば大和の平和を保つのは難しい。軍事的緊張と無縁ではいられません。  しかし、いずれ戦争を避け得ないとしても――」 「それはこの国の人間がこの国の舵取りをした結果であるべきだと考えるのです。  大鳥大尉」 「…………」 「他国の都合で振り回された挙句にそうなるのでは余りにもやるせない。  第一、開戦が他国の都合であるなら終戦も他国の都合となってしまうのが道理」 「途方もない損害が払われたすえ、大和には何も益するところがない……最悪、この国はそんな歴史を刻んでしまうことも有り得ます。  どうにも、それは受け入れ難い」 「大和の浮沈はせめて大和の意思で決めたい。  こだわりとはそういう事です」 「…………。  ……では……」 「景明さまの、その〈こだわり〉《・・・・》のためには――  今、六波羅軍が壊滅するような事があってはならない」 「そうですね?」 「……はい」  確かに。  善悪の云々は兎も角、現大和においては幕府軍だけが唯一最大の、大和固有の軍事力だ。  諸外国の介入を掣肘し、大和国民の自主独立を守る役目は、彼らにしか果たせない。  これを失えば大和は他国人の〈闘技場〉《コロセウム》と化すまで。 「キャノン中佐との対話が戦略論に及んだ時、彼も言っていました。六波羅を短時日の内に撃滅することは可能だと。  しかし考えられません」 「進駐軍と幕府軍――両軍の陣容を比較して、六波羅が絶対的に劣弱であるなどとは……。  大尉殿、本当にそのような作戦構想が実在するのですか?」 「実在します」 「……」 「わたくしも詳細は掴んでいません。  厳重な情報規制が掛けられ、上層部の他は実行部隊にしか知らされていないようです」 「ようやく探り出せたのは、作戦の決行日と……そのために用意された一つの兵器」 「……それは?」 「〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》」         外暦一九四〇年       国紀二六〇〇年/興隆四一年            一一月二九日            午前六時二二分 「快眠。  快便。  快脱パン」 「僕は二度とパンツを穿いてこの部屋に戻ることはない。  ……そうあって欲しいものだ」 「閣下!  作戦参加将校、全員集合致しました」 「ご苦労。  ……では、キャノン中佐」 「はい」 「これより―― 〝〈黄金の夜明け〉《ゴールデン・ドーン》〟作戦の最終確認を行う!」  ………………………………            午前七時〇〇分  朝食。  規定時刻きっかりに守衛の兵士から差し入れられたそれには、あらかじめ聞いていた通りの方法で通信が仕込まれていた。  大和ではまだ流通していない紙製の牛乳容器を食用ナイフで切開すると、内側に貼られた耐水紙がすぐに見つかる。  水分を払ってから広げ、文章に目を通した。 『ああ、景明さま! 愛を誓ったわたくしたち二人はもう、一人だけでは生きていられない。  二億年前のように静かな世界で一緒に暮らせるなら、もう言葉なんて何もいらないのに』 「…………」 (……〝全て、予定通り〟……)  ――敵の作戦も、敵に応ずる我々も。    暗号を脳内で正しい内容に変換、そして紙を裏返し、 〝万事諒解〟を意味する暗号を書き記す。 (『あの話は無かったことにしよう』……と)  紙を元に戻す。  後は数分待って、トレイごと外に出せばいい。  ……さて。  予定通りなら、あと四五分。            午前七時三〇分 「…………」 「うるせえ」 「うるせえ!  うるせえっ!!」 「今日こそおめーの望み通りにしてやる。  だから……もう〈耳元〉《・・》で騒ぐな!」 「あてを眠らせろッ!!」            午前七時四〇分 「クライブ。  ……武運を」 「俺の運より、女王陛下の運の尽きを祈ってくれませんかね。  その方が効き目は有りそうだ」 「祈るよ。 〝〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》〟二億の同胞と共にな」 『……船が離陸するようでございます』 『ええ。  ここからが勝負……』 『おそらく、全ては二十分間の内。  八時前後にはもう幕が閉じている計算』 『は。  勝つにせよ、敗れるにせよ……ですな』 『勝つにせよ、敗れるにせよ。  ……どちらでも結果に大した差はなさそうだけど』 『せっかくですもの。  やるなら勝たないとね』 『こだわり、と仰せでしたか。  あの御方は』 『そう。こだわり。  些細で、つまらなくて、実質的でないこと』 『けど……  そのこだわりを捨てて、国家なんてものにどんな意義が残るのかしら?』 『ま……絶無でしょうなァ』 『そういうことよねー』 『しかしお嬢さま』 『なぁに?』 『酸素ボンベ抱えてヘリウムいっぱいの気嚢に潜む以外に手立ては無かったのですかな。  互いの背中に字を書くしか意思疎通の方法が無いってめちゃくちゃ不便ですぞ』 『外壁にへばりつく方が良かった?』            午前七時四五分  出帆から五分。    ――――時間だ。 (村正) «……御堂?»  数日ぶりの〈金打声〉《こえ》を聴く。  大鳥大尉は打ち合わせ通りに行動している――そういう事だ。 (すぐに動ける状態にあるか) «ええ。もう閉じ込められてはいないから。  それで? つい〈先刻〉《さっき》まで私を忌々しい箱に押し込めてくれていたあの女を、噛み殺してやる必要はないって話だけれど?» (大尉から事の説明を受けたのか) «聞いたのはそこまでよ。  後は貴方に訊けって» (良し。  ここまで来られるな?)  金打声の感覚から、村正との距離はおよそ三百〈米〉《メートル》。  兵士の目を掻い潜って踏破するにはやや長い間だが、隠形の技を心得た〈赤蜘蛛〉《ムラマサ》ならば―― «当たり前よ!  ここ数日間の〈鮒鮨〉《ふなずし》扱いで溜まりに溜まったこの鬱屈、いま晴らさないでいつ晴らすかってぇの!» 「…………」  いや、まあ。  この際もうそれでも構わないのだが。 「じ、地獄からの使者ーーーーー!?」 «親愛なる隣人よ!» «ふぅ。  せいせいした» 「……それは良かったと言っておくが」  重ねて無駄口を叩く余裕はなかった。  この部屋に向かって殺到する、数十人規模の足音を既に耳孔は捉えている。  脱走を試みて失敗した捕虜の運命なるものについて無知でいるためには、寸暇を惜しんで動くしかない。 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」  一丈四方の密室を脱し、〈虚空〉《そら》へ抜ける。  閉塞から無限への急激な転移。  解放を肌に味わい、置き捨てた牢獄を眼下にして、合当理に給熱――速力を引き上げる。  基地警備の竜騎兵がどれほど勤勉な〈質〉《たち》であっても、〈内側〉《・・》からの強襲突破に対する反応は遅れる筈だった。  無用の足踏みをしなければ振り切れるだろう。 «……それで御堂。  結局、何がどうなったの?» 「ああ――」  俺は要点を〈掻〉《か》い〈摘〉《つま》んで劒冑に伝達した。  これから為すべき事の確認も兼ね、俺自身、記憶を反芻しながら。 「一一月二九日午前七時四五分……  ここ横浜基地から〈飛行艦〉《エアシップ》が一隻、訓練航行の名目で出撃します」 「この予定は既に幕府へ通達がされていますから、迎撃されることはありません。  もちろん、万一の空襲に備えて警戒態勢は布かれるでしょうが……」 「飛行艦の型は?」 「ヴィッカース・メイフライ〈四式C型〉《マークフォー・シー》。  飛行艦の中では快速ですが、そのぶん小型です」 「……収容可能な竜騎兵はせいぜい二十騎。  その程度の戦力では例え普陀楽への奇襲を成功させても、損害らしい損害など与えられない」 「これは自明の理です。  六波羅の警戒は形ばかりになるでしょう」 「ええ。おそらくは。  当日、普陀楽には翌日に大将領宣下式典を控えて幕閣首脳が参集しているはずですから、やや警戒も強まるとは思いますけれど――」 「あくまで形式の域は出ないでしょうね。  訓練飛行を装って要人暗殺〈/〉《オア》拉致コース、なんて子供騙しにもほどがありますし」 「同感です」  たかだか二十騎ばかりがそんな雑な手法で仕掛けて成功する筈はない。  仮に防空隊が襲撃者を素通しにしたとしても、地上の要人らにはそれぞれの警護団が付いているのだ。  故に――  二九日当日、六波羅は飛行艦が現れるや否や即座に強襲して撃墜するという極めて無法かつ〈適切〉《・・》な対処を行うことは決してないだろう。  危険空域まで踏み入る敵艦を、欠伸交じりに彼らは見過ごす……。 「横浜から普陀楽城までは約二〇キロ。  ヴィッカース級の巡航速度で……三〇分もあれば到達できる計算です」 「しかし……それは直進した場合です、大尉。  六波羅の注意を最大限減らす為、飛行艦は迂回路を取るのではありますまいか?」 「それが、そうもいかないらしくて。  問題の爆弾の安全性に関しては、キャノン中佐も完全な信頼は持てずにいるご様子なのです」 「作戦所要時間は短縮したいお考え」 「……成程。  ではそうする一方、爆撃に竜騎兵ではなく、わざわざ足の鈍い飛行艦を用いるのも」 「同じ理由ですね……。  なるたけ安定した環境で爆弾を運用したい、と」 「無意味な所で暴発させて、鎌倉市民に特大の花火をプレゼントしても仕方ありません。  普陀楽城と数十万の軍兵を一撃で〈滅却〉《・・》するために用意された爆弾なんですから」 「――――」 「まだ、信じられませんか?」 「なかなか……俄かには」 「……〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》……。  人間大の重量規模で、TNT火薬一万トン相当の爆破力?」 「冗談にしか聞こえませんねー」 「はい」  全く笑わずに俺は頷いた。  笑い飛ばせるものなら笑い飛ばしたかったのだが。  香奈枝嬢もそれは同じだろう。 「一体どういう原理でそんなトンデモ兵器が実現したのかまでは調べがつきませんでした。  ただ、昨日今日の発明ではなく……かなり長期に渡って研究がされていたようで」 「そもそもの発端は、かのウォルフ氏による爆弾の素材となる物質の発見なのだとか」 「……彼が」 「インド北西部の〈〝死者の丘陵〟遺跡〉《マウンド・オブ・ザ・デッド》で発掘したそうです。  その、〈冥府鉱〉《プルートニアノア》と名付けた重金属を」 「……」 「まっ、謂れはともかく。  徹頭徹尾ただひたすらに迷惑千万きわまるシロモノが大和に持ち込まれてしまっていることは事実です」 「それとも景明さま。  暇を持て余したわたくしが景明さまをからかって笑うために一芝居打っているとお考えになる?」 「…………」 「それはそれで、ごくスムーズに納得が可能なのですが」  過去の言動を振り返るに。 「……狼少年の悲哀……」 「置いておきましょう。  して大尉殿、具体的な爆撃手順については掴んでおいでですか」 「推測交じりになりますが」 「お願いします」 「想定されている爆弾の破壊規模から考えて、飛行艦が実際の投下まで行うとは思えません」 「低高度で投下すれば爆発に巻き込まれます。  といって高高度からの投下では命中精度に信頼を置けません」 「確かに……」 「最終的にはやはり〈竜騎兵〉《ドラグーン》を頼ることになるでしょう。  それも足の速い――かつ、普陀楽の防空隊に〈捕捉されない〉《・・・・・・》能力を備えた騎体……」 「では、噂の」 「ST-〇九――〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》が初の実戦投入、という運びになるのではありませんかしら。  軍事史的にいろいろと意義の大きな作戦になって、結構ですこと」 「完成していたのですか?  しかも、大和進駐軍に配備されていると?」 「ええ、景明さま。これは確実な情報です。  最終運用評価試験まで終えたST-〇九の〈部隊〉《・・》が、〈横浜基地〉《ここ》には待機していましてよ?」 「……」 「それもこれもキャノン中佐の手腕……  と申し上げたら、尻尾をお巻きになる?」 「巻けるものなら巻きたいとは切に思います」  大尉から聞いた話によれば、親王と養父はキャノン中佐を向こうに回しての対局に〈指し負けた〉《・・・・・》とも言えるらしい。  それもしかし、むべなるかな。  湊斗景明が挑むには荷の勝ち過ぎる相手のようだ。  勝機が有るとすれば……彼はおそらくこちらの事をさして気に掛けていない、その油断を狙うくらいか。  情けない話ではある。 「来世は尻尾のある動物に生まれましょう」 「可愛がって差し上げましてよ。  飛行艦は爆発の影響を受けないぎりぎりの所まで近付いて、反転」 「その直前、〈射出口〉《カタパルト》から爆装したST-〇九が出撃。  俊足に物を言わせて立ちどころに普陀楽城上空へ到達」 「〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》を投下、そのまま速度を維持して危険空域から離脱。  爆弾は――地面に落ちるまでは待たない」 「空中の適切な位置で爆発。  普陀楽城は外周部分だけ残して消滅。勿論、邦氏殿下の大将領宣下式典のために集まっていた将兵も完全鏖殺」 「六波羅は事実上滅亡。  大和は主権国家の具体的根拠である軍事力を喪失して、大英連邦の従属国に成り下がります」 「………………」 「阻止するには」 「まず、景明さまのお考えをどうぞ」 「今直ちに行動を起こし、問題の爆弾を奪取、解体もしくは回収不可能な場所へ投棄」 「非現実的です。  鍛造雷弾の保管場所は見当が付いていますが、警備が厳しく、こちらの戦力で突破できるとは考えられません」 「運搬手段、〈飛行艦〉《ヴィッカース》を破壊」 「飛行艦なら他にもありましてよ。  ……全部叩き壊して回ります?」 「六波羅へ作戦を密告」 「やって損はないかもしれませんが、向こうが話を鵜呑みにして必要な防御措置をとるという保証はまったくありませんね」 「……キャノン中佐の暗殺――いや、拘束」 「無意味です。  作戦立案は中佐の独創であっても、実行は誰にだってできますもの。別の将校が代理で指揮を執るだけです」 「…………」 「他にはいかが?」 「既に大尉殿の肚はお決まりの様子」 「はい、実は。  ちょっと意地悪でしたかしら」 「水際阻止――と?」 「秘密作戦の性質上、動員兵力はごく小規模に留めざるを得ない……。  小型の飛行艦が一隻、それに搭乗する兵員が数十人、これで全てのはずです」 「さよを含めても総勢三人のわたくしたちが勝利するには、この小部隊が空で孤立無援になる作戦行動中を狙うしかありません」 「道理」 「わたくしとさよはあらかじめ飛行艦に潜り込んでおくことにしましょう。  景明さまは鎌倉へ航行する船を途上で襲い、突入してくださいませ」 「劒冑は使えるように取り計らっておきます」 「成程……。  内と外から挟撃し、撹乱する」 「ええ。そうして爆弾を奪って解体するか、相模湾へ投棄というあたりで。  うかつに投棄もできない程どちくしょうな代物だった場合には……仕方ありませんから」 「二人で絶海の無人島にでも行って、そこで爆発させてしまいましょうか♪  若い命はあえなく散り、けれど二人の愛は永遠に。天空を貫く火柱は悲恋の〈記念碑〉《モニュメント》――」 「諒解です」 「……はい?」 「貴方がそれを望まれるなら、自分に異存はありません。  御供致します」 「…………」 「大尉殿?」 「い、いえ。  ……こほ」 「まぁ、そこまでせずとも済むでしょう。  幕府を一発で掃討できるような機会は限られます。宣下式典が終わるまで爆弾を確保していられれば、ひとまず危機は去るかと」 「は……」            午前七時四九分 «……あれ!?» 「そうだ。  見つけた……!」  横浜から飛び立って約三分。  空を泳ぐ巨大なヘリウム風船を肉眼で確認する。  この早さは飛行艦が目的地へ直進するという事前の推測のみに起因しない。  飛行艦は風を無視しては飛べない器械だ。風向次第では針路を大きく逸らす事態も起こり得た。  実際、船は予定針路をやや南へ外れている。  さりながら捜索に時間を浪費しなかったのは、かくあるを読んで永倉老が発信機を用意した事こそ大きい。  船内に潜入済みの大鳥主従が発する信号を横浜出立から間もなくして受信し、後はそれを辿って追う事ができたのだった。  予測と村正の〈探査〉《レーダー》のみではもっと時間を食ったろう。  三分での捕捉は〈最善〉《ベスト》といえる。  この折角の成果を無駄にしないため、突入も手早く済ませてしまいたいが――  飛行艦の急所は〈上〉《・》である。  膨張した気嚢のため、そちらから接近されると肉視ができない。  信号探査で〈飛行体〉《こちら》の存在を察知してはいるだろうが、それが敵騎なのか、それとも大型の鳥類なのか、はたまた単なる誤認なのかは容易に判断がつかない筈だ。 «……でっかい» 「軍用飛行船としては小さなものだ」  ヴィッカース四式の全長はおよそ一四〇メートル。  世界一周で名高いグラーフ・ツェペリンなどに比べれば、全く大人の前の子供に過ぎない。  それでも〈竜騎兵〉《こちら》から見ればまさに空中楼閣なのだが。 «どうしてこんな城みたいなものが空に浮くのよ……» 「原理は単純だ。  空気より軽い気体があの袋に詰まっている」 «……はぁ。  何なのかしら……城は飛ぶし、城を一発で吹き飛ばす〈火具〉《かぐ》はあるっていうし» «時代の差が身に沁みて、なんか切なくて嫌なんだけど» 「老け込むのは後にしろ。  上から回り込み……操縦室を直撃する」 「操舵手の身柄を押さえ、針路を変えさせる事ができれば時間稼ぎになる筈だ」  そうなれば爆弾も探しやすい。 «諒解» 「一応確認するが、周辺に敵騎は無いな?」 «――無し。  この空域にいるのは私達と、下の空飛ぶ船だけよ»  瞬時に信号探査を終え、村正が言う。    その舌の根が乾くどころか、まだ金打声の余韻が俺の頭蓋の内側を揺らしている間に。 «えっ……  えぇぇぇ!?» «そんなっ……ちょっと……  ほんとに老けて、〈痴呆〉《ぼ》けたの私!?» 「――いや」  戦慄の槍に貫かれながら、劒冑の自責を差し止める。  痴呆症に冒されているとすれば、それは俺だった。  大鳥大尉は俺に教えていたのだ――  隠形竜騎兵の『部隊』が既に存在すると!  この作戦に使われるのはそのうち一騎だけ、爆弾の投下に利用されるだけで、飛行艦の〈見えざる護衛騎〉《・・・・・・・》として用いられることなどない――  そんな約束をいつ、誰が、俺にしたのか!?  間を抜かすにも程がある……! 「あれはいつぞやの乱破の同類だ」 «乱破?  ……あの月山従三位!?» 「信号反射を最小限に抑える甲鉄構造を持つ。  加えて、飛行艦の影に潜むようにして騎航していたのだろう」  そうすれば信号探査も目視確認も回避できる。  熱源探査でなら〈捕捉〉《キャッチ》できたかもしれないが……俺がそこまで知恵を回せなかった。  その知恵があればここまで近付かれるまでに気付き、突入方法を再考する選択もあったろうに。  今となっては後の祭り。  肝心な時にこう失態を晒すとは! «どうするの!?» 「く――」  こちらに迫る騎影二つ。  身ごなしを観察すれば、仕手の力量と騎体性能の程は明らかだった。  どちらも極めて高度。  当然だ――前者はキャノン中佐が信任して極秘作戦の一翼を担わせた人材、後者は国際連盟軍の最新鋭騎ST-〇九なのだから。  〈空の悪魔〉《ウイングドデーモン》と呼ばれるに相応しい者ども。  とてもの事、こんな状況下で戦っていられる相手ではない。 「……船内に突入する!」 «ど――何処から?» 「〈その辺〉《・・・》からだ!」  操縦室を狙うゆとりなど最早ない。  あの二騎を躱し――兎にも角にも船の内側へ入ってしまうまで。  それが果たせれば、最低でも大鳥大尉を助ける陽動にはなる! 「後は臨機応変!」 «それ、行き当たりばったりって意味!?» 「肯定!」            午前七時五〇分  求める。            「…………」  我は求める。            「…………」  我は制覇を求める。            「…………」  我は布武を求める。            「…………」  我は登極を求める。            「…………」  我は――――  天下に布武を為し、天座へ至らんと欲す。            「然り……」  我は覇道。  我は王道。  我は武道。  我は天道。            「然らば?」  我は。  我は、  我は……  我は――――           「ただ一個の武」        「悠遠なる天へ挑む一匹の蟻」             「名を」             「覇王!!」 「童心様!  獅子吼はいったい何をしているのです!?」 「さぁて。それがしにもわかり申さぬ。  質問の使者を送っても、梨の礫……」 「我らが出向かねば、埒が明かぬやも」 「勝手に軍を動かして……  まさか――謀叛を!?」 「それにしても妙でござろう。  不穏の挙動を露骨に晒しながら、さて、何を置いても制すべき我らに矛先の伸びる気配は依然なし」 「この不手際は合点がゆかぬ。  以前、大鳥家において獅子吼殿が成し遂げた謀叛は電光石火、まことに鮮やかな始末であったと聞き及んでござるぞ」 「……なら……  あの戯け者、どういうつもりで」 「さぁて……」 「まったく、馬鹿は茶々丸だけで充分だってのに!  そういえばあいつも何やってんのよ!」 「今日はお姿を見ませぬな。  雷蝶殿は……?」 「見ておりません。  こんなややこしい状況の時に、どこで油を売ってるんだか」 「……ふぅむ」 「誰か!」 「はッ!」 「四郎の――邦氏殿下の安否を確かめに行かせた連中はまだ戻らないの!?  もう随分経つじゃない!」 「はっ、は……いまだ……」 「おまえも行って来なさいっ!」 「ははッ!」 「ああもう、どいつもこいつも……!」 「…………」 「……古傷が……痛んできよったなァ……」 「?  童心様、なにか?」 「雷蝶殿。  我らの手元に残っている兵に、戦闘配置を命ずるべきと存ずる」 「えっ?  で……でも。別に敵が攻め入ってきているわけでは」 「攻められてからでは遅うござる。  ……遅うござるぞ、雷蝶殿」 「…………」 「直ちに武者どもを空へ上げ、防空陣を張らせるべし。  命令は――不審な航空騎あらばこれを退去せしむ事」 「退去の勧告に従わずば、これを撃墜すべき事。たとえそれが……  幕軍であろうと、進駐軍であろうと」 「そ、それは――あまりな暴挙!」 「暴挙でござる。  暴挙には暴挙をもってしか抗えぬ」 「戸を蹴破って押し込んできた強盗に、説法をくれてやって何となろうや?  白刃の一閃にて切り伏せてから、骸に念仏を聴かせてやるべきでござろうよ」 「其奴が本当に強盗であったならそれで良し。  無実であったとしても構いはせぬ。強盗であったことにしてしまえば良い――」 「法理を執るは常に力有る者ゆえ。  〈勝てば〉《・・・》どうとでもなりましょうぞ!」 「…………。  ……童心様……」 「もう、ここは〈戦場〉《いくさば》と……  そうお考えなのですね?」 「何者が仕掛けた如何なる戦なのかは、まだわかり申さぬが」 「承知致しました。  ならば麿も今より戦と心得ましょう」 「侍大将を呼び集めます!」 「お急ぎ下され」 「は――」 「も、もっ――申し上げます!!」 「何事!」 「あ――あ……ッ」 「どうしたの!?  早く報告なさい!」 「……ぎっ……  ――――ぎ――――」 「銀星号がッッ!!  こ――この御城に!! 突如ッ!!」 「――――――」 「な……  何ですって……!?」  調理設備が見事に整理され、配置されている。  ……〈台所〉《キッチン》だ。  飛行艦は航続距離の長さが強みであるため、長期に渡る作戦に用いられることも多い。  こうした設備もしばしば必要になるのだろう。 「――――」  咄嗟に身構え、天井を見上げる。    ……気のせいか?  今確かに、物音と気配を感じたのだが。  しかし考えてみれば、天井裏に敵兵が潜むというのも妙な話だ。  場所柄、鼠が走っただけなのかもしれない。  ……引っ掛かりは覚えるものの、ぐずぐず逡巡して時間を浪費するよりは、行動した方が良さそうである。  さて、ここで俺のとるべき行動は――  新鮮ながある。 「何だかおなかが空いてしまいますね」 「そういえば、忙しさにかまけて朝食を忘れておりましたなァ。  このさよとしたことが」 「では、軽く何か作りましょうか」 「あら、景明さまは料理がおできになるの?」 「簡単なものであれば」 「男の手料理とは魅力的でございます。  お嬢さま、お言葉に甘えては?」 「そうねぇ」 「出来ました。  です」 「わぁ、おいしそう」 「なかなかのお手並み……。  感服仕りました、湊斗さま」 「恐縮です」 「そんな餌でこのわたくしがモグモグモグ」 「がっつり釣られておりますよ、お嬢さま」 「あら、不思議な食感」 「桃や洋梨のような歯触りで、柔らかく弾力がありますな。  良く噛むとシャリシャリ潰れて、強い香りが……」 「ほう、赤身のはずのダチョウ肉に霜降りが」 「なんて素晴らしいお肉!  景明さま、この脂肪はいったい……?」 「食べ終わってからお教えします」 「きゃわーーーーー!!」 「みみっみっ湊斗さまー! 石の笛、石の笛はいずこにっ!?」 「ありません」  俺達は和やかに食卓を囲んだ。 「――ところで。  今、黄金よりも貴重な筈の時間が生活排水よろしく無駄に流れ去っているという事実をいかがいたしましょうや」 「どうしようもありませんね」 「…………」 「こうなる前に止めて下さい!」 「……本当にやるとは思わなくて」 「……なんか突っ込んだら負けのような気がいたしまして」  …………。      痛恨の不覚であった。  ……食欲はそそられるが、状況をわきまえよう。    俺は冷蔵庫を閉めた。  ……暖かい。  俺は少しの間そこで暖を取り、晩秋早朝の肌寒さにかじかんだ指をほぐしてから、消火した。  ……ちょっと待て。  俺は今、見るからに安全性の低い古びたガスボンベを携帯していなかったか……?  寸でのところで、俺はボンベを天井に放り投げた。  お陰で火傷はない。  但し、天井には穴が開いた。  そしてその穴から、何かが降ってきた。  その何かはあたかも煤けた人間のような様相をしており、数は二つだった。  大鳥大尉と永倉侍従に良く似ていた。  当人だった。 「ふ、ふ、ふ……。  景明さま、ごきげんよう」 「ほっほっほっ。  いやー何とも熱烈な歓迎でございますなー湊斗さま」 「このさよ、貴方さまのことを少々甘く見ていたのやもしれませぬ。  まさかこういう、うちのお嬢さまに通じる酷烈なギャグセンスをお持ちであったとは」 「…………」 「〈何故〉《なにゆえ》に?」 「うふふ……  気嚢の内側に潜んで待っていたところに、景明さまの襲撃と思しき轟音が聞こえたのでわたくしたちも動き始めたのですが……」 「潜入に使用した経路が施錠されてしまっておりましてなァ。  どうにか船体の天井裏までは降りて、さてこれから如何にと悩んでいましたところ……」 「突然、足元で爆発が起きて」 「ほう」 「有難いことに天井板に大穴が開き、嬉しいことに三メートルも落下して床に激突しつつ脱出を果たせ、感動的なことにそこには湊斗さまと火のついたコンロと異様なガス臭が!」 「人生最大級のスーパーハッピータイムよね!  まるで仏滅と〈悪魔祝祭〉《ワルプルギス》が一緒に来たみたい」 「そうですか。  お役に立てたようで何よりです」 「ええ、本当に♪」  微妙に焦げた大鳥大尉が頷いた。 「ほっほっほっ。  よきかなよきかな」  微妙に焦げた永倉侍従が笑った。  ……さて。  物理的波動と化しつつある殺意の渦が俺の足を縛るせいで非常に歩き辛いのだが、今は急いで場所を移るべきだろう。  爆音を聞きつけた敵兵がここに殺到して来ないとも限らない。  何はともあれ合流を果たせたからには、大鳥主従の技能を恃んで改めて探索を行うべきでもある。  新たな発見があるかもしれない。  とりあえず、今この場で射殺されなければの話ではあるが。 「もう、景明さまったらー♪  愛の炎でわたくしを焦がしてくださるのも結構ですけれど、今はほかにやることがあるのではなくって?」 「そうですよ湊斗さま。  それほど焼身自殺に興味がおありなら後でガソリンでも火炎瓶でもご用意致しますゆえ、ひとまず爆弾探しに専念してくださいませ」 「……はい」  俺はよろめきながら立ち上がった。  大鳥主従の言う通りにした方が良いだろう。確かに火遊びなどしている場合ではない。  何より、冷蔵庫で殴られ続けては命に関わる。  劒冑の防御力とて絶対ではないのだ。  俺は〈擂粉木〉《すりこぎ》――西洋ではパステルというのか?――を手に取った。  おそらく調味料でも作るためのものだろうが、さて。これが何かの役に立つのかどうか。  一応、俺は持っておくことにした。  邪魔になったら捨ててしまえばいい。  移動しよう。  船首方向と船尾方向に、それぞれ扉がある。 「時だ」 「来たれ――――我が神よ!!」  飛行艦侵入から再開しますか?  攻略のヒントを見ますか? ☆ヒント1  スタート地点に戻るのは危険なのでやめましょう。  良くて時間の無駄、悪くすればそこでデッドエンドです。 ☆ヒント2  大鳥主従に常識は通用しません。  合流するには非常識な愚行が必要かも。 ☆ヒント3  巧妙に隠された物は、偶然の助けがあってこそ発見できます。たまたま近くで起きた乱闘が部屋を激しく揺らしたせいで、隠し場所があらわになる……とか。  テーブルを囲んで、椅子が幾つか並べられている。  食堂か、談話室といった趣だが……  そんな事より、部屋の隅の男に注意を向けねばならなかった。  着崩した軍服は連盟軍のもの――ここが敵地であるからにはいない筈のない存在、敵兵と遭遇したのだ!  即座に身構え、敵意の具象化に備える。 「――――」 「……?」  男は銃を抜きもしなければ、仲間を呼ぶ様子もない。  そもそも、俺をまともに認識しているとも見えない。  〈有体〉《ありてい》に言えば、酔っ払っていた。 「……失礼?」  意を決して声を掛けてみても、酔漢の様相はまるで変わらなかった。  安酒の瓶を呷り、があがあと何事かを喚いている。  早口の上に〈呂律〉《ろれつ》が回っていないため、俺の英語能力では半分も理解できない。  罵詈雑言と、何かを持って来いという要求とが入り乱れているようなのだが……?  ひとまず、捨て置く以外にどうしようもなかった。  何故キャノン中佐の極秘作戦にこんな人物が同行しているのか気には掛かったが、今は戦闘せずに済んだ幸運のみを認めておくことにする。  見渡すと、船首方向の壁に扉があった。  そちらへ行くか、それとも通路へ戻るかだが。  相変わらず、酔った男が騒いでいる。  何か訴えているらしいが、俺には〈珍糞漢糞〉《ちんぷんかんぷん》だ。  試しに何かを渡してみるか?  相変わらず、酔った男が騒いでいる。  何かを訴えているが、俺にはまるで意味が取れない。  しかし―― 「……はあ」 「大尉殿、彼は何を?」 「それが。  ……この方は、飛行艦の本来の〈艦長〉《キャプテン》なのだそうです」  艦長?  そんな人物がどうして、かくも重要な作戦中に〈艦橋〉《ブリッジ》を離れてこんな場所で酔い潰れているのか……? 「キャノン中佐が作戦のために船だけを接収しようとしたのに抵抗して、強引に乗艦したものの、結局作戦には加えてもらえず。  仕方なく、ここで管を巻いているようです」 「……は。成程」 「キャノン中佐も酷な真似をなさる。  飛行艦の艦長が船を愛すること、海の同業者にも劣りますまいに」 「ほんとね」 「中佐にしてみれば、機密保持の為の当然の措置なのでしょうが。  しかし……すると彼が何やら要求しているのは」 「お酒です。  こんな水臭い〈麦酒〉《エール》もどきで酔えるか、本土の〈蒸留酒〉《ジン》を持って来い……とのお言葉」 「……」 「そう申されましてもねぇ」  どうしようもない。  こちらにそんな持ち合わせがある筈もなかった。  彼がキャノン中佐とこの作戦に不満を抱いているのなら協力者に引き込む目もありそうなのだが……この様子では無理だろう。  香奈枝嬢が英語で話し掛けても、聞く様子がない。  移動しよう。  船首方向の扉を開けるか、右側の扉から廊下へ戻るかだ。  飛行艦の本来の艦長が、独り鯨飲しつつ騒ぎ立てている。  酒が欲しいようだが……。  先刻、士官室で入手したジンがある。  持っていても仕方ないので、俺は彼に渡してみた。  瓶を一目見て中身がわかったのだろう。彼は歓喜の声を上げて飛びつくと、栓を抜いて一息に〈呷〉《あお》った。  ……度数の高いアルコールが〈忽〉《たちま》ち消えて無くなる。  酒が尽きると同時、彼は横転した。  そのまま、いかにも心地良さそうな〈鼾〉《いびき》を立て始める。 「…………」 「一日一善?」 「そんなところでございましょうか。  しかし我々、この状況でえらい余裕ですな」  本当に。    ……艦長は幸福な夢を手に入れたが、俺達の状況は特に好転していないように思えた。  移動しよう。  船首方向の扉を開けるか、右側の扉から廊下へ戻るかだ。  完全に泥酔した艦長が気持ち良く眠っている。  ……彼は俺達に感謝しているかもしれないが、その感謝を形にできる状態ではなかった。  ――いや。待て。  そう決め込むのは早計だ。  彼はこの船の艦長。  ならば、もしかすると……  俺は彼の衣服を探ってみた。 「……景明さま。  もしかしてと思ってはいましたけれど……本当にそっち系のご趣味でしたの?」 「ハードコアでございますな。  しかしお嬢さま、どうやらそれはついでの事で、主の目的は別にお有りのようですよ」 「……あっ。なるほど」  傍らの二人も理解したらしい。  ……いや、まだ微妙に危険な誤解を維持している気もするが。それは考えないことにする。  そうして、程なく。 「……有りました」  見つけ出したものを掲げる。    ――――小さな鍵。  大きさは、展望室で大鳥大尉が見つけた扉の鍵穴に丁度合う。  本当にこの鍵で正しいのかは試してみるまでわからないが……見込みは有りそうだ。 「〈良いお仕事〉《グッジョブ》♪」 「お手柄でございますな湊斗さま。  ご褒美に、そのまま続けてどうぞ」 「何をですか」  移動しよう。  船首方向の扉を開けるか、右側の扉から廊下へ戻るかだ。  ……違ったらしい。  投げ捨てられた。 「用無しでしたか」  彼はそれをひったくるようにしてもぎ取ると、一口含んで、すぐにぺっぺっと吐き出した。  俺を睨みつけ、何やらがなり立てている。……怒らせてしまったらしい。  俺が渡したものを彼は不思議そうに見詰め、やがて頭を押し込んだ。  口からガスが噴き出し、彼の顔面を直撃する。 「…………」  ……これで良かったのだろうか?  時間の無駄だ。  もう移動しよう。  さて、船首方向の扉を開けてみるか。  それとも右の扉を通って廊下へ戻るか……。  ここは廊下の終端だ。  船尾方向には遮るものもなく進めるが、船首方向へ行くなら大きな扉を引き開けねばならない。  扉は右側にもある。  さて……?  細長い廊下の中央付近にいる。  周囲にGHQの軍装は見当たらないが、人の気配は近く、多い。いつ襲われても不思議ではない。  行動を急ごう。  船首方向へ進むか、船尾方向へ行くか、それとも右の扉を開けるかだ。  どうする?  細く長い空間に足音が反響している……。  自分のものではない。この船の何処かを兵士が駆け巡っているのだ。おそらくは不逞な侵入者を求めて。  ここは船尾に近い辺りのようだ。  廊下は船首方向へ伸びている。逆方向には扉がある。左右にも扉があり、そのうち右の扉は俺が飛び込んだ倉庫へ通じている筈である。  さて、どうしよう。逡巡の暇はないが。  力を込め、扉を開けようとし――  危ういところで、俺は思い留まった。  扉の向こうに、〈人熱〉《ひといきれ》を感じ取る。  脳裏に船体構造を思い描く――この先にあるのは、おそらく〈船室〉《キャビン》!  俺が突入したのは、どうやら船体の後部ブロックのようだ。  操縦室や航海室といった枢要部は、推測するに船室を挟んだ向こう岸――船体前部にある。  つまりこの船室を突破せねば重要拠点は押さえられない。  だが無謀だ。一騎ならぬ武者との対決を覚悟せねばならない。  必要とあればそれも止むを得ないが、まずは後部の捜索を完遂するべきだろう。  俺は足音を殺して扉から離れた。  ――――しまった。    致命的失策に気付き、〈臍〉《ほぞ》を噛んだ時には、もう何もかも手遅れだった。  扉の向こうは――兵員が待機する船室。    彼らが俺を友軍兵士と思い、笑顔で迎える可能性はあるだろうか?  一秒後には答えがわかる。  そして俺の命運も定まる。  ……もはや俺に成し得る事は一つしかない。  この運命において最善を尽くし、大鳥大尉に望みを託す、それだけだ。  敵意に満ちた数多の眼光と相対しながら。  俺は最後の覚悟を固めた。 「……物好きなお方で」 「ヘラクレスの選択というものでしょ?  景明さまらしいと言えばらしいやり方だし、いいじゃない」  大鳥家の主従はいともあっさり、覚悟を決めたようだった。    ……責められない事が、酷く辛い。  この上は、せめてこの二人を逃がし、後事を任せるしかないだろう。  俺はここに死ぬまで踏み留まり、彼女らが目的達成に必要とする時間を稼ぎ出すのだ。  最早そうするほかなかった。  士官室のようだ。  狭いが、狭いなりに〈品〉《ひん》は悪くない。  しかし、人の体温がまるで無かった。部屋はモデルハウスのように精彩を欠き、調度はどれも冷たい。  この部屋の主はたまたま座を外しているのではなく、そもそも作戦に参加していないのだろう。  目に付くものと言えば、机とベッド……  そして風景画を収めた額。ふらふら揺れているのは艦の移動のためなのだろうが、そもそも安定が悪そうだ。何かの拍子で簡単に落ちてしまうに違いない。  怪しいもの、爆弾らしきものは見当たらなかった。  別の場所の探索に向かった方が良いだろう。  士官室のようだ。  人影はない。不審な箇所も―― 「……あら?  景明さま、あれを」 「……?」  変哲もない風景画を収めた〈額〉《がく》が、床に転がっていた。  部屋は全体として整理整頓が行き届いており、額も最初からそうであったとは思えない。  何らかの原因で落ちたのだろう。  元の配置は――あそこか? 「隠し棚ですかな」 「そのようです」  壁の一角に、四角く〈刳〉《く》り〈貫〉《ぬ》かれた収納スペース。額を掛ける鉤はその上にあった。  つまり額は本来、そこで棚を隠蔽する役目を果たしていたということか。  俺は隠し棚に歩み寄り、中の物を取り出してみた。    ……酒瓶だ。  ラベルの文字は英語。  〈倫敦塔衛兵隊〉《ヨーメンウォーダーズ》のものらしき衣装を纏った兵士の図柄も描かれている。 「イングリッシュ・ジンですね」 「まぁまぁ悪くない品でございます。  されど湊斗さま、お飲みになるなら何かで割られた方がよろしいですぞ」 「飲みません」  飲まないが……  一応、貰っていくことにするか。 「はて?  ……この扉の向こうは空気の流れが何やら妙でございますな」 「それはおそらく、自分が突入する際に斬り開けた穴のためでしょう」 「ここから景明さまが?  でしたら、こんな所でうろうろしていては危険なのではありませんこと?」 「……全くもってその通りです」  あの二騎の護衛が戻ってきていても不思議ではないのだ。艦内の者もここを破られたことは知っていよう。    何をしているのか。こんな時に寝惚けてどうする。  俺は扉を開くのをやめ、引き返した。  ここは俺が飛び込んだ倉庫だ。      ……戻ってきてしまった。  不味い。  こんな所にいては、  …………こうなるのだ。  背後にも足音。  数は多く、そして徐々に大きくなっている。  つまり逃げ道も塞がれた。 「……これ迄……」  観念した。  ここで圧倒的な敵兵と切り結び、そして果てる。  それをせめてもの援護とし、後は間違っても俺ほどの迂闊者ではないだろう香奈枝嬢に望みを掛けるしかない。  ……もう少しは役に立ちたかったが。  もはや言うまい。  俺は無念を呑み、太刀を抜き放った。  ここも倉庫だ。  最初の場所と比べると、机や〈台車〉《カート》など〈嵩張〉《かさば》るものが多い。  隠れ場所とするには格好かもしれないが、とりあえず今の俺には無用だ。  次の行動に移ろう。  船尾方向の扉をくぐれば、最初の倉庫へ戻ることになる。  それが嫌なら、船首に向かって左側にある扉を通るしかない。  扉を開けようとした俺を、永倉侍従がそっと制した。 (お待ちを) (……何か?)  囁き声に、同等の声量で応える。 (中に誰かおりまする。  ……武装した兵士ですな……) (何かを探している様子) (……隠れている人間がいないか?) (まぁ左様かと) (どうしましょうね?) (わざわざ衝突することもありません。  ここは後に回し、別の場所を調べましょう) (――とも参りませぬようで) (侍従殿?) (来ますぞ)  来る?    ――捜査を終え、部屋から出ようとしているのか!  今から隠れても間に合うまい。  先手を打って部屋に飛び込み、制圧するしかない。  騒ぐ余裕を与え、仲間を呼び寄せられては面倒な事になる。  一撃で無力化しなくてはならないが―― 「――」 「――」  皆が同じ結論に達していることは〈視線通話〉《アイコンタクト》で知れた。  後は、誰が実行するかだ。戸口の広さは二人以上が同時に飛び込むのを許しそうにない。  決めよう。  突入するのは…… (湊斗さま) (……まさか、また?) (はい。  先刻の者が目覚めたのか、それとも新たに別の兵が来たのかはわかりませぬが……) (…………) (どうなさいますの?)  扉の向こうから、足音がこちらへ近付いてくる――やはり隠れる暇は無さそうだ。  とすれば、制圧あるのみだが。  さて、今度は誰が?  ……部屋は先刻見た時と何も変わらない。  床に倒れ伏した兵士もそのままだ。  俺達は廊下へ戻った。  ……そういえば、台所から持ち出したこの〈擂粉木〉《すりこぎ》。  人を適度な威力で叩き伏せるのに向いていそうだが……? 「うっ――」  ……うまく片付いた。  こめかみを打ち抜かれた兵士は倒れ伏し、目を白く剥いている。  だが綺麗に決まっただけに傷もなく、目覚めるのは早いだろう。  俺は急いで倉庫を見回った。大鳥主従も室内に入り、俺に〈倣〉《なら》う。  ……何も無いようだった。 「ぐふォォォォォォッッ!!」 「……しまった」  力の程度を壮大に間違えた。  というより――武者である俺がこんな役目を買った時点で間違っていた。  何かうまく手加減のできる道具でも持っていれば別だったのだろうが。 『生かさず殺さず』の曖昧な力加減で放った拳は結果として兵士を派手に吹き飛ばし、壁へ叩き付けていた。  慌てて容態を確かめる。    ……幸い、重傷を負ってはいなかった。  当分は意識を取り戻せないだろうが、このまま放置しておいても死にはすまい。  ほっと、安堵の息をつく。 「容赦なっしんぐ……  でもそこにしびれるあこがれる」 「流石は湊斗さま。  獅子は兎を狩るにも全力、の心得でございますな!」  心から褒めているような口調で、老若の女性は俺を遺憾なく罵倒してくれた。  まぁ、こういう際は下手に慰められるよりそうして貰えた方が助かる。  俺達は室内を手早く見回り、不審な物が何もないのを確かめた上でその部屋から出た。 「おご――――」  …………見事。  大鳥大尉の銃床による一打は完璧な正確さで兵士の顎を捉え、その意識を天上世界へ吹き飛ばしていた。  数十秒間は目覚めまい。  俺達は手分けして室内を捜索し、最小限度の時間で不審物がないことを確かめると、その部屋を出た。 「――――――」  兵士は苦悶の声も洩らさなかった。  それは果たして、どんな体術だったのか。  俺の目には首筋を撫でたようにしか見えなかったのに、兵士はくたくたと崩れ落ち、腰を抜かしたような姿で意識を手放している。 「お急ぎを。すぐに目覚めますぞ」 「……承知」  戦慄を押し隠し、大尉達と手分けして倉庫内を検分する。    特におかしなものはなかった。            午前七時五二分  通常、飛行艦への着艦は専用の〈進入口〉《エントランス》を介して行う。  壁を破っての突入など自殺行為も良い所であったが――これが悪運というものか、辛くも成功した。  しかしここでもたもたしていれば、振り払った二騎の護衛が戻って来る。彼らの腕なら、俺の開けた穴を狙っての着艦も可能だろう。  今のうちに奥へ踏み込まなくてはならない。  異変を察して駆けつけてきた艦内の兵員と挟み撃ちにされるようなことになれば、俺の進退もここまでだ。  それはそれで大鳥大尉への支援にはなろうが。爆弾の始末という主目的を任せきりにするのはやはり下策。  敵を引き付けつつ俺も爆弾を探す方が、より有効な用兵である。    さて――  ここは倉庫のようだ。掃除用具やら灯油の缶やらが見当たるが、爆弾の類は無い。  惨状を呈しているのは元からのことではなく、俺が壁を破った時に生じた気流の仕業だろう。  出入口は船首方向に一つ、そして船首に向かって左の方角にも一つある。    どちらから出るべきか?  食料庫……というより、厨房用の倉庫だろうか。  果実が詰められた木箱、料理酒が並ぶ戸棚、一纏めに紐で括られた食器、雑多な道具類で一杯の袋などが目を引く。  無論、爆弾らしき物体はないが……    どうする。何か貰っていくか?  俺は洋梨を一つ手に取った。  良く熟していて旨そうだ。生憎、試食している暇はないが。  俺は料理酒を一瓶貰っていくことにした。  隣のキッチンを使って料理をする際には役に立つだろう。  俺は携帯用のガスボンベを見つけ、拾い上げた。  ……随分と古そうだ。持ち歩くうちにガス漏れして、気付いた時には中毒症状、などということにならなければ良いが。  この部屋に出入口は一つきりだ。  俺は台所へ引き返した。  船体最後尾の展望室だ。  雄大な眺望が楽しめる。……といってもこれは軍用船、遊覧船と違って全周ガラス張りにはできないからいくらかの制限はあった。  目につくものといえば景色だけで、不審な物体などは何もない。  出入口も一つだけだ。  俺は通路に引き返した。 「……?」  立ち去ろうとした時――    不意に大鳥大尉が足を止めた。  眉根を寄せ、床の一点を見詰めている。 「如何なさいましたか」 「……」  答えず、香奈枝嬢は歩き出した。  注視していた地点の手前で立ち止まり、そこにしゃがみ込む。  俺は彼女の後を追い、その向かいに回った。  永倉侍従は心得たもので、戸口の脇に張り付いて外を警戒している。 「景明さま、これを」 「…………」  彼女の爪が指し示す辺りに目を凝らす。    何か――わずかな〈窪〉《くぼ》みがあった。  爪の先を使い、大尉はその部分を軽く引っ掻く。 「――これは」 「鍵穴……」  ――だった。  大尉が指先で剥ぎ取った薄板に隠されていたのだ。 「しかし、何の為の」 「扉かと」 「扉?」 「御覧下さいまし。  床のこの辺りの……五〇センチ四方」 「ぴったりと合わさってはいますが。  良く見てみると、〈筋〉《・》がありません?」  …………本当だ。 「では、大尉殿」 「この下には〈何か〉《・・》があって。  そしてそれは、こんな方法で隠さなくてはならないもの――ということになりますね」 「…………」 「…………」 「斬り破って――  は、危険が大き過ぎますか」 「そうですね。万一のことを考えますと。  急がば回れの戒めに従って、ひとまず鍵を探してみましょう」 「諒解です」  ……しかし、何処に?  いや、床に隠し扉はあるが。  まず鍵を手に入れなければ、その奥にある物を確かめることはできない。  鍵を探すのだ。  いや――床に隠し扉がある。  そして、船長から拝借した鍵もある。  俺は何へともなく祈る心地で、それを小さな鍵穴に差し込んだ。  もし、違う鍵であったなら……おそらくこれまでだ。別の鍵を探している時間などない。 「……」 「……」  回す。  ――――回った!  床板を引き上げる。  それは簡単に外れて、下層へ通じる階段を俺達の前に〈曝〉《さら》け出した。 「大尉殿」 「ええ……」  言葉少なに、意を交し合う。    ――この期に及んで、躊躇いはしない。  まず俺が階段を踏んだ。  続いて大鳥大尉。最後に老侍従が影よろしく付く。  足音を殺し、下層へ………………          「キャノン中佐!」 「どうだった?」 「後部ブロックの倉庫です。  敵騎はそこから壁を破り、船内に侵入した模様!」 「やっぱ侵入されてたか。  ……どこのどなた様だい? あと一歩ってところで」 「やはり、六波羅の者では」 「一騎だけでか?  ……絶対に有り得ない話じゃあないが」 (それより、可能性があるとすれば、  ――〈あっち〉《・・・》かねぇ……?) 「中佐、ご指示を!」 「……」 「後部ブロックに増援を回しますか?」 「――いや」 「今は投下準備を急げ。  艦内兵力はその防衛に集中」 「侵入者の制圧はそっちのカタがついてからでいい。  俺が直接向かう」 「了解!」 「……今のは……」  遠い――しかし、〈深い〉《・・》爆鳴。  おそらくは、途轍もなく大規模の。  ……まさか。 「真逆」 「ああ。そのまさか、だ。  ――村正君」  ……愕然と忘我していた俺は、    我が身を襲う一瞬の変転に対して、何の抵抗も為し得なかった。  首筋へ潜り込む鋭利な――鋭利に過ぎる何か。  眩む視界。  〈気付けば殺されていた〉《・・・・・・・・・・》。  消え沈みゆく意識の中、覚えのある声を遠く聴く。 「やっちまってからこんなこと言うのはただの偽善だってわかってるんだがな……。  まぁ、今さら偽善者であることを否定したって仕方ない。言わせてもらおう」 「すまない、大和人。  ……そしてさようなら、湊斗景明。せめて安らかな夢をな」 「ございましたな」 「……これが……?」 「ええ。  横浜基地の中で一度、遠目に見ました……おそらく間違いはないかと」  仏寺の鐘に似た〈外形〉《フォルム》。  〈丈〉《たけ》は俺の背を上回る。  見る限りは無骨な、単なる金属の塊だ。  しかし禍々しい。寒々しい。正体を聞かされている故の先入観もあろうが……それにつけても厭わしい。  これが、    ――――〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》。  不意に背後で、幾つもの靴底が床を乱打した。  はっとして振り返る。  十人弱の、武装した進駐軍兵士……  彼らを率いて頭に立ち、竜騎兵もいる。  逃げ場はない。完全に不利な状形だ。  敵勢がこのまま布陣し、押し込んでくれば、こちらは火力の差で制圧される他にない。  甲鉄で身を守れる俺はともかくとして、大鳥大尉と永倉侍従が生き延びるのは難しかろう。    だが、そんな帰結を黙って待つ大尉ではなかった。  現れた彼らが何をするよりも早く、銃口を定める。  爆弾の巨躯へ向けて。  兵士達が静止する。  ……顔に戸惑いが見えた。 「そうそう。  そのまま動かずにいてくださいな」 「……何の真似だ? 招かれざる大和人!」 「これが何か、キャノン中佐から聞いていらっしゃらないの?」 「……」 「あら……でもそうか。警備隊にこんな機密まで教えておく必要はありませんものね。  けれど、危険物だってことくらいはご存知でしょう?」 「……それは聞いている」 「危険も危険。  これは今から普陀楽城に落として、みんな根こそぎ消し飛ばしてしまう予定の新型爆弾です」 「何だと!?」 「だから動かないでくださいまし。  どなたかが一歩でも動いたら――ずきゅんといってぼっかーん」 「我々全員、空の塵でございます。  ヒンデンブルク号以来の大惨事として歴史には記されましょうな」 「出鱈目を……!」 「真っ赤な嘘と、断定できる根拠はお有り?」 「……く」 「これは純然たる忠告として申し上げますが、キャノン中佐にお伺いを立てられてはいかがでしょう」 「……その必要はない!  それが本当に貴様らの言う通りの爆弾だとしても、銃弾の一発程度で起爆するようには見えんぞ!」 「あらほんとう。  そういうわけですから、景明さま」 「は」 「いざとなったらこの爆弾、叩き斬ってくださいませ」 「――御意」 「何ぃ!?」 「親切なお人ですなー。  大丈夫だと思ったならすぐ行動してしまえばよろしいものを、わざわざこちらにご助言くださるとは」 「先程の忠告の返礼でございますかな。  英国紳士の名に恥じぬ見事な振舞いと申せましょうぞ」 「ぐ……ぐぬっ……!」  笑顔でからかう老女に、歯軋りする竜騎兵。  ……キャノン中佐は船の防備を任せる人材に、機転ではなく愚直さを求めたらしい。それはそれで正しい判断なのだろうが、今はこちらに利していた。  この単純な気質の将校が相手なら、大鳥主従はあと百年でも鼻先であしらっていられるに違いない。    そう思いながらも、俺は楽観を自制した。  この状況を見誤ってはならない。  あくまでも追い詰められているのは我々。死の淵に立っているのはこちら側なのだ。  あとほんの少し早く、爆弾を発見できていたら――それが悔やまれる。  こう追い込まれた格好では、解体も投棄もしようがない。……決着をつけられない。手詰まりだ。  想いは同じか、不敵な優越感を見せ付けて敵集団の足を止めている大鳥主従もその実、侮りや油断は毛筋ほどもなかった。  表情ではなく手足の細かな所作で、それがわかる。 (景明さま?) (はい) (このまま時間を稼ぎましょう。  そうですね……一〇分ばかり) (それから爆弾の安全な返還と引き換えに、わたくしたちの解放を要求するということでいかが?) (一〇分で宜しいのですか) (それだけあれば、船はどうしたって普陀楽上空を行き過ぎてしまいますもの。  落としたくても、もう落とせません) (しかし飛行艦は〈空中停止〉《ホバリング》が可能です。  それに、行き過ぎてしまってもまた戻ってくれば済む話では――) (六波羅も馬鹿ではなくってよ、景明さま。  普陀楽上空で進駐軍の飛行艦がいつまでもうろうろしていたら流石に怪しむでしょうし) (そんなリスクを無視して作戦を強行できるキャノン中佐とも思えません) (成程。道理です) (では、一〇分間……) (ええ。  一〇分、この形を引き伸ばせればわたくしたちの勝ち) (……これが実は爆弾と見せかけてこの船を守る〈船首像〉《フィギュアヘッド》・超神ウパニチャッダー様でしたとかいうミラクルアンラッキーなオチが待ち構えていなければだけど) (大丈夫ですよ、お嬢さま。  星占いによると今月の魚座生まれは幸運に恵まれるそうでございますから) (ほんと?) (は。但し、恋愛運は未来永劫最低を極めるとのこと) (なんでよっ!?) (彼らが制圧に踏み切った場合は如何なさいますか、大尉殿) (その時はさっきお願いした通りになさってくださいな) (本当に斬れと?) (運が有れば爆発もせず、爆弾が機能を失うだけで済みます) (…………) (魚座の運勢に賭けますか) (運つたなく、爆発させてしまっても――  この際、構いませんでしょ) (正規の手順による爆発ではありませんから、威力も相当に目減りするはずです。  加えてここは高空) (おそらく、地上に被害は及びません)  地上には。      ……飛行艦の中にいる者に、逃げ場はない。  大鳥香奈枝とその従者も。  ここは空の只中。二人を逃がし、命を助けることは不可能だ。 (…………) (つまらないことを考えてらっしゃる?) (……船の何処かに、〈落下傘〉《パラシュート》の備えくらいはあると思われます。  大尉殿、この場は自分にお任せ頂き――) (そんなものを探している暇があると思われますの?) (しかし……) (しかしは無し) (……されど大尉殿。  此度の試みはそもそも、自分の進言が原因です。始末はこの身一つで負うのが筋) (大和の将来の在り方について、思うところを聞かせてくださったのは景明さま。  それを聞いて、こうすることを決めたのはわたくし) (景明さまが言われるような筋なんてございません) (……しかし) (しかしは禁止) (…………。  それで……宜しいのですか) (良い悪いの話ではありませんの。  わたくしは〈大鳥〉《・・》) (この国のためにすべきことをする。それはわたくしの義務なのです。  血が命ずる定めです) (……)  もはや返す文句はなかった。  これ以上、翻心を求めるのは侮辱。  尊ぼう。  彼女が有する、血の誇りを。 (景明さまこそ。  わたくしに付き合わなくてはならない義理などなし、お逃げになっても結構ですのよ) (冗談は糸目だけにして頂きたい) (――――) (……プッ) (笑われた!!) (失礼。  しかし大鳥大尉、自分の身命は既に貴方の掌中へお預けしております) (大尉がこの空に散られるのならば、自分も従うまでの事) (……景明さまには景明さまの使命がお有りでしょうに。  銀星号のことをお忘れになったの?) (全く、忘れておりません。  ですので大尉、この場は是が非でも無事に切り抜けて頂きたい) (大尉殿が生き延びて下されば、自分もあれの追跡を続けられます) (…………) (まっ、そういうことですかなァ。  なるたけ死なないように頑張るといたしましょう、お嬢さま) (え、ええ。そうね) 「――という次第で内緒話タイムは終了いたしました。  こっそり背後に回ろうとなさるのはおやめになった方がよろしいですよ」 「うっ……」 「そうか。  あと三秒あれば、どうにかなったんだが」 「!!」 「ちゅ――中佐!」  その男は、〈上から〉《・・・》降ってきた。  ――天井から。  いつの間に、どうやって、そんな所へ現れたのか。  彼の味方さえ絶句している。全く関知の外だったのだろう。  平然と構えているのは永倉老だけだ。 「――――」 「ご苦労さん。  後は俺が引き受ける」 「……はッ!」 「さぁて。  ……大鳥大尉に永倉軍属、そして湊斗景明か」 「……」 「どうやってここへ? なんて聞くだけ馬鹿らしいな。  どうして、なんてのは尚更か」 「あら。決め付けはよろしくありませんことよ、キャノン中佐。  人生は意外性の連続ですもの♪」  嘆息混じりの呟きに、軽口で応える大鳥大尉。  ……いや、軽口ではない。これは時間稼ぎの手管。  相手を対話に引き込んで、時間を使わせる〈肚〉《はら》なのだ。    しかし――後方に退いた素朴な将校とは違う。このキャノン中佐に、そのやり方が通じるか……? 「ふん? まぁそうだな。  じゃあ意外性に期待してみるか」 「お三方、ご来船の目的は?」 「朝の散歩に。  たまには空でというのも一興かと思い立ちまして」 「それは健康的なことだ。  しかし、大して面白くもなかったろう?」 「これから面白くする予定ではありませんの?  中佐」 「どういうことかな」 「花火大会をなさるんでしょう?  風の噂で耳にしましてよ」 「……〈風の噂〉《・・・》、か。  ヘイジョージ、天国から見てるか? お前さんが江ノ島でくたばっちまって以来、うちの課の情報管理はこんなザマだよ」 「……」 「花火ね。  確かにでかいやつを一つ、打ち〈落とす〉《・・・》予定だが」 「見たいなら事前に申し込んで欲しかったな。  せっかくの客だ、こっちだって最高の席を用意して差し上げたいが……急に来られちゃそうもいかない」 「客人に礼を欠くのは紳士の恥ってものだ」 「非礼はこちら。どうかお気になさらず。  それにわたくしどもは、見物に参ったわけではありませんし」 「ほう?  他に何か目的が?」  驚くキャノン。  あえて確認するまでもなく、その驚きは顔の表面における筋肉運動であるに過ぎなかった。 「ええ。  実は、花火に水を掛けてしまおうかなーと思いまして」 「このように」  香奈枝嬢が片手で、いつでも爆弾を斬り割れる位置にいる俺を示す。  返答は、大仰なゼスチャーと大袈裟な悲鳴だった。 「おいおい。勘弁してくれ!  そんなことをされたら、折角の花火が使えなくなってしまうじゃないか!」 「そうしたいんだと申し上げたら?」 「なんてこった。  君は理解者だと信じていたんだがな……」 「そうですね。少なくとも完全な反対はしておりませんでした。  けれど、考えが変わってしまいましたの」 「どんな風にだい?」 「〈帰れ英国紳士〉《ジョンブル・ゴー・ホーム》☆」 「……〈攘夷主義〉《エクスクリュージョニズム》なんて流行らないぞ」 「来るだけなら歓迎もできますけれどね。  土足で踏み込んだ挙句に表札まで書き換えるつもりのお客さんには、笑顔を向けるのも限度がございましてよ」 「しかしそれはあなた一人の決意ではないな、〈貴婦人〉《レディ》?  誰かに〈唆〉《そそのか》されたんだろう」 「そこの彼かな?  君の笑顔を俺から奪った憎い奴は」 「ご明察。でも唆したなんて人聞きの悪い。  わたくしと景明さまは真実の愛で結ばれておりますのよ!」 「騙される女はいつも同じことを言う」 「そうですねぇ」 「確かに」 「うん」 「なんでこんなところでそろって同意!?」 「貴婦人、君の要望はでき得る限り聞き入れよう。俺は狭量な男ではないつもりだ。  こちらへ戻ってくる気はないか?」 「未練でしてよ、中佐。  女の気持ちは移ろいはしても、過去に戻りはしないものなのです」 「それが殿方との違い」 「なんてことだ。  もう取り返しはつかないのか!」 「許し難い男だな、湊斗景明。  決闘を申し込むしかなさそうだ」 「さて、白手袋はどこへやったか……」 「…………」  金髪男性のおどけた挑発の視線を、俺は沈黙のまま見詰め返した。  言うべき――言葉がない。  それは既に、香奈枝嬢も同様だった。  永倉侍従も。  全員、異常に気付いていた。    ――何故だ?  〈何故〉《・・》? 「……チ。  引っ張れるのはここまでか」 「だが、まあ――充分だろう。  君らにここから脱出するだけの力があったとしても……今からではどうにもならない」  進駐軍中佐が肩をすくめる。    何故。  何故、彼はこちらに時間を〈稼がせる〉《・・・・》?  何も……疑念を示さずに。  爆弾を投下させたくないこちらにとって時間を稼ぐ事が勝利条件ならば、爆弾を投下したい彼の勝利条件は時間を切り詰める事。  即刻に爆弾を取り戻さねばならない筈だ。  だというのに。      ……この矛盾を解く鍵は、勝利条件の逆転にある。  時間を稼ぐ必要があったのは、こちらではなかった。  〈彼だった〉《・・・・》。そういう事だ。  つまり。 「……さよ……」 「魚座は運勢昇り調子とあったのですが……  は。そういえば山羊座は運気絶滅でございました!」 「まさか?」 「……自分です……」  現状理解も、既に遅い。  時間は過ぎ去ってしまった。  挽回の〈機会〉《チャンス》は――――無い。 「君らはいい所に目をつけた。  だが……ほんの少し、辿り着くのが遅かったな」  キャノン中佐が小さく笑う。  それは傲慢な勝利宣言ではなかった。  言葉通りの、敗者へ向ける慰めがそこにあった。 「それは〈鍛造雷弾〉《ザ・ガジェット》の保管器だ。  もう空っぽの」 「中身は既に船を出た」 「君達は……  〈間に合わなかった〉《・・・・・・・・》んだ」            午前八時二分 「――――」 «……御堂?  如何した» 「〈天〉《そら》より来たる」 「……〈破壊〉《ちから》の〈果〉《たまり》」 «――!?» 「うぬ!!」 «かッ» «く――あああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA» 「この光を!」 「この〈銀星号〉《ひかる》を――」 「凌辱するかッッッ!!」 「うおっ……!」 「くそ、こんな辺りにまで爆風が来るのか!  技術者どもめ、いい加減な仕事しやがって……!!」 「――――」 「ウォルフ教授! 危険です!  何かにつかまってください!!」 「……そんな……」 「爆発……してしまった……」 「…………ああ…………」 「神よ……  神よ…………」 「あなたは……遠い…………」 「あ……あぁぁ……」 「な、何なんだよ!  何だってんだよぉ、あれは!!」 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」 「し……城がねえ……  普陀楽城が〈無〉《ね》えぞ……」 「かっ――閣下! 大鳥中将ッ!  こっこっこれは如何なる………これは如何なる……!?」 「……………………」 (永倉の翁がやにわに連絡を寄越してきた時は、まさか……と思ったが) (……やってくれたな。  この大和の大地に――白豚めら!!) 「し……獅子吼!  説明をせよ!」 「……邦氏殿下」 「そなたは余を〈攫〉《さら》い、城より連れ出した。  そして――この仕儀!」 「あれもそなたの仕業なのか!?  普陀楽を……幕府を滅ぼさんとしてか!!」 「〈真〉《まこと》、そのような疑念をお持ちならば。  殿下、今この場にて、我が首を刎ねられよ」 「…………」 「ならば……これは……」 「進駐軍どもの仕掛けし事にございます」 「何だと!?」 「〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》と申す新型兵器の由。  奴等はこれにて六波羅を一掃し、この国を奪わんと企てたのでありましょう」 「――――」 「で、では……最早。  ……我らは……」 「しかし、奴等は仕損じました」 「なに?」 「我ら六波羅の主。  足利四郎邦氏殿下はここに〈御座〉《おは》します」 「殿下の将、獅子吼はこれに在ります。  六波羅百万騎が最精鋭、奉公衆並びに厩衆も付き従っております」 「更に我が麾下、篠川軍が健在でございます。  ――六波羅は滅びておりませぬ!」 「……」 「殿下!  この獅子吼、必ずや御身を戴き、捲土重来致しまする」 「故に、どうか!  一時の恥辱を耐え忍び、我がもとに御身を預けられませ!」 「……そなたの領国へ落ちよと申すのだな」 「はッ!」 「今は――会津へ!」  今年の会津は冬の訪れが遅い。  暦の上では既に冬季である。  しかし、例年通りならば霜月の中頃には降り始める雪が、師走に入ってもまだ一度たりと草木を白く染めていない。珍しいことだと、家主は語っていた。  不運なのかもしれない。そう思う。  北国の景色は、やはり白雪の彩りを得て映えるものであろうから。  屋敷内の庭園も名族大鳥家の〈連枝〉《れんし》たるを示す見事なものではあったものの、何処か画竜点睛を欠く趣きは否めない。  雪雲は、会津の〈國境〉《くにざかい》で足踏みしている。  天の風向のためか海の潮流のためか。  それとも地を這う人の発する血生臭い〈熱〉《いきれ》のためか。  白からぬ冬は、気温の下がり方も緩やかだ。  生地は南、育ちとて北ではないこの身体も、凍えて〈炬燵〉《こたつ》に入ったまま動けなくなるのはまだしばらく先の話であろうと思える。  その間に、      ――――何を為さんか。  それは、俺一人の了見で決すべき事ではなかった。 「御客人」 「昼餉は済まされましたのかな」 「これは永倉翁。  昼なら先程、充分に」 「あの柿の〈浸物〉《ひたしもの》は絶品でした。  どうか厨房の〈方〉《かた》に感謝をお伝え下さい」 「ふほっ。伝えましょうぞ。  今年は〈身不知〉《みしらず》柿の出来が良うございましてのう。板前も腕の振るい甲斐があるようです」  機嫌良くそう言って、老人は白い歯を見せた。  まさに好々爺という風情である。  軍隊に追われる者を平然と匿う豪胆さは、その何処からも窺えない。  万一にも敵に回したなら、厄介では済まぬ〈仁〉《じん》に違いなかった。 「あれが名高い献上柿。  帝の御相伴に与れるとは光栄の至りです」 「気に入って頂けたなら、晩にはまた趣向を変えて出してくれるよう言っておきましょうかの。  して御客人」 「どちらに参られますのかな。  もしや香奈枝様のお部屋へ?」 「は。そのつもりでした。  差し支えなくば、見舞いをお許し願いたく」 「……そうだの。もうよろしかろう。  しかし、少々時間をつぶしてからになさりませい」 「香奈枝様はまだ、昼餉を終えられておらぬと思いますでの」 「そうですか。……確かに。  では、お勧めの通りに致します」 「何度も追い払った挙句にまた待ちぼうけを食わせて、申し訳ございませぬ」 「とんでもない。  相手に迷惑を掛ける見舞いなど見舞いではありません。いちいちご忠告を下されたこと、有難く思っております」 「いやいやいや。  そのように言われては恐縮……」 「御庭を歩かせて頂くことにしましょう。  食事を急ぎ過ぎたのか、いささか胃の心地が悪いので、腹ごなしも兼ねて」 「……むふぅ。  そういえば、随分とお早い」 「ご家風ですかな?」 「……いえ。別段。  普段はこのような事はなく……今とて殊更迅速な完食を心掛けたわけではないのですが」 「では無意識に。  戦場の心得が顕れましたのかな?」 「…………」 「そうかもしれません」 「いつ何時、敵に襲われるか知れぬとあらば、食事にのんびり時間を掛けるなど自殺行為も同然ですからのう。  箸が早まるのは当たり前」 「しかし、ご案じ召されるな。  当家が進駐軍の奴輩に取り巻かれるような事は……当面、まずございますまいからの」 「翁、それは」 「先刻、物見が戻って参りましてな。  國境の要路は、獅子吼めの手勢で蟻の這い出る隙間もなく固められているとの事」 「大軍を起こさねば、突破は叶いますまいて」 「…………」 「無論のこと、そうした事態は遠からず〈出来〉《しゅったい》致しましょうがの。  今しばらくは、ご懸念に及ばず」 「は」  永倉老人の言葉は否応なく、俺にこれまでの経過を振り返らせた。  そうだ――いずれ、進駐軍はこの会津へ雪崩込んで来る。  そんな情勢になってしまっているのだ。  俺と大鳥主従は、〝〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》〟による進駐軍の幕府壊滅計画を阻止すべく、飛行艦に侵入し――  そして失敗した。  試み虚しく、鍛造雷弾は投下された。    だが、作戦主任のキャノン中佐にとっても、目論見通りであったのはそこまでの事に過ぎなかったらしい。  爆風は、飛行艦をも激しく煽った。  計画の上では船の安全を充分に確保していたに違いないから、何処かで計算外の要素が絡んだのだろう。爆弾の誤作動か――はたまた別の要因か。  甚大な損傷を蒙った飛行艦は不時着を余儀なくされ、俺達はその隙に脱出を果たすことができた。  といってそれきり放置してくれるようなGHQではなく、キャノン中佐ではない。  命〈辛々〉《からがら》の脱出の後には、進駐軍から放たれた追手との熾烈な抗争が待っていた。  昼夜も人目も顧みぬ襲撃、襲撃、襲撃。  逃走を重ねる中、大鳥獅子吼の軍勢が如何なる理由によってか――〈人伝〉《ひとづて》に雷弾の事を通報しておいたのだと香奈枝嬢から後で聞かされた――爆弾の被害を免れ、会津篠川に帰還すると知り、進路をそちらへ向け。  國境を越えてようやく、篠川軍に憚って足の緩んだ追手を振り切り。  そうして、〈此処〉《ここ》――さよ侍従の実家、永倉家に辿り着いたのだ。  ……結果として。  俺が忌避した、大和の自立を失わしめる事態は実現していない。  爆弾は落ちた。  しかし四大公方の一角たる大鳥獅子吼が死なず……しかも彼は護氏亡き後の足利一族総領、四郎邦氏をも救い出している。これは既に公表された事実だ。  六波羅は滅びていない。篠川公方府は管区軍と共に健在であり、進駐軍に対峙する構えを見せている。  真偽はまだ不明だが、普陀楽城の生き残りは他にも存在し、その多くが会津へ参集しつつあるとも云う。  それが事実なら、鍛造雷弾はキャノン中佐らが意図した程の実効を示さなかったのだろう。  従って、大和国民の心理へ与えた影響は相当のものであったには違いないが、これもまだ決定的ではない。  六波羅に対して遂に攻撃を行い、大打撃を与えたについては賞賛の声も少なくないものの、その進駐軍を幕府に代わる支配者として受け入れる土壌までが出来上がっているとは到底言えなかった。  仮に今、GHQがそんな宣言を発すれば反発の声は忽ち大和全土を渦巻くだろう。  そうなっては何もかも元の木阿弥だ。  だから。  進駐軍が――キャノン中佐があくまでも大和支配に固執するならば、鍛造雷弾投下では挙げられなかった戦果を補うしかない。  可及的速やかに軍を進め、会津に居を移した六波羅を討ち滅ぼす。  そうするしかない。  時間が滞りなく流れてゆく限りにおいて、最早確定しているのだ。  この会津國が戦火に蹂躙されるという未来は。 「どなたでございましょう?」 「失礼。湊斗です。  大尉殿をお見舞い致したく参上しました」 「おお……これは!  良いところへ!」 「どうぞお入りくださいまし。  お嬢さま、湊斗さまが参られましたよ!」 「……?」  部屋の中では、大鳥大尉が臥せっていた。  その頬は青白く、およそ生気を示す色彩がない。 「大尉殿」 「ああ……景明さま……。  来てくださったのね……」 「ようございましたなお嬢さま……。  きっと一途な想いが天に通じたのでございましょう」 「ええ……良かった……。  最期に……こうして、お会いできて」 「何をそのように、お気の弱いことを」 「こちらに座っても構いませんか」 「どうぞ、どうぞ。  座布団をお出ししましょう」 「お気遣いなく」 「ふふ……自分の体のことですもの、自分が一番わかってましてよ……。  景明さまだって、本当はおわかりでしょう……?」 「は……」 「おいたわしや、お嬢さま……」 「茶請けはテンプラ饅頭でよろしいですか、湊斗さま……」 「……天麩羅?」 「わたくしの命が尽きるまで……  もう、幾許もありません…………」 「お戯れを」 「伝統ある会津名物でございます」 「……冒険心旺盛な菓子屋のチャレンジング新商品ではなく?」 「会津松平家の初代、正之公まで遡る歴史がございます」 「冗談でこんなこと、言えるとお思い……?」 「冗談では……ないのですか?」 「冗談のような真実でございまして……」 「あの庭木をご覧になって、景明さま」 「木?  ……あの落葉樹が、何か?」 「葉が一枚、残っていますでしょう……?」 「はい」 「三百年以上も昔に信州で考案され、高遠の領主であった正之公の会津移封と共にこの地へ伝えられたとか――」 「……あの最後の葉が落ちた時……  きっと、わたくしも死ぬのです……」 「――なので、信州にも全く同じ菓子が伝統料理として伝わっているのです!」 「まさか――そのようなことが」 「世の中はまこと、油断ならぬものでございます」 「信じて頂けないのは当然ですけれど……  でも……わたくしにはわかる……」 「あの弱々しい一枚の葉は……  わたくしの……命そのもの…………」 「……あっ」 「――――」 「…………」 「ああ……今にも落ちてしまいそう……」 「しまいそうというか今」 「さ、湊斗さま。お召し上がりくださいませ」 「では頂きます」 「……うぅむ。  何とも、独特な風味」 「ほっほっほ。  ご無理をなさらず、お茶を使って下さって結構でございますよ。濃いめに淹れておきましたから」 「……いえ……  慎重に味わってみると、案外」 「ああ、景明さま……!  お別れの時が来てしまったのですね……」 「最後のお願いを……聞いてください……」 「今、電光の如き速さで庭を飛び出して葉を元通りにしてまた駆け戻って来られませんでしたか? 大尉殿」 「ふふ……夢のようなことを仰らないで……」 「湊斗さま、最早今のお嬢さまはそのような励ましの言葉さえ辛いのでございます、饅頭のお代わりはこちらでございます、ああ神は何ゆえお嬢さまにこのような仕打ちを……!」 「頂きます。  舌が慣れてくると、なかなか旨い……」 「どうか――景明さま……!  あの饅頭……いえあの葉が落ちてしまう前に、わたくしの願いを……!」 「…………」 「あぁっ――もう今にも!  わたくしの命がっ……!」 「命がっ!」 「全然、落ちそうにないのですが」 「戻す時、カゼイン接着剤で貼っつけておられましたからな。  台風でも来ない限りはあのままでございましょう」 「景明さま……どうかこんなわたくしを憐れんでくださいまし……」 「憐れむなどと」 「愛してくださらなくてもいいの……  ほんのわずかな……お情けだけで……」 「……それとも……景明さまのお胸の裡には。  愛情が……おありですの?」 「愛情」 「わたくしを……愛してくださるお気持ちが……」 「有りません」 「げばふッッ!!」 「あ。  落ちましたな、葉っぱ」 「お茶をもう一杯頂いても宜しいでしょうか」 「どうぞ」 「……む、少し濃過ぎましたか」 「いえ、構いません」 「――――――――」 「はっ!?」 「ああ……景明さま!  この憐れな女の、最後の願いを……どうか……!」 「そこまで巻き戻るのですな」 「自分に何か、大尉殿の為にして差し上げられる事があるのでしょうか」 「あります……  景明さまにしか……できないこと……」 「それは、どのような」 「……どうか、聞いてもお笑いにならないでね……」 「決して」 「今際の際とはいえ、女の身で……  こんなことを殿方にお頼みするはしたなさは……ああっ、身が縮みます」 「お嬢さま――勇気を!」 「ええ!  ……景明さま!」 「はい」 「む、テンプラ饅頭があと二個だけあまっておりますな。  湊斗さま、よろしかったら食べてしまってくださいませ」 「有難うございます」 「わたくしの命があるうちに……!  あの饅頭が落ちる前に……!」 「もう落ちてますよお嬢さま」 「いえ、落ちていません」 「お願いです……!」 「おや? 先ほど確かに」 「落ちたのは」 「どうか、最後に、景明さまの手で――」 「饅頭が――」 「葉です」 「この十銭玉三枚、縦に積み重ねて下さい」 「畏まりました」 「出来たーーーーーーーーーーーーー!?」 「すげェーーーーーーーーーーーーッ!!」 「この技は修行しましたから」 「なんでっ!?」 「妹が得意だったので、つい張り合ってしまいました」 「おかしいですよご兄妹!?」 「ちなみに妹は十枚いけます」 「超人だ!! 勝てる気がしない!!」 「とりあえず、落ち着きましょうお嬢さま。  お茶をどうぞ」 「葉っぱも一個あまっております」 「ええ……頂こうかしら……」 「お元気そうで安心しました」  タオルで顔を拭いている香奈枝嬢を眺めつつ、率直な感想を口にする。  〈化粧〉《メイク》を落とせば、その下の肌は健全な血の通う色を示していた。  布団に寝ている必要も、既にない様子だ。 「……少々、お元気に過ぎる気もしますが」 「ですかしら?」 「銃弾を受けて、幾日も経たぬお体とは思えません」 「当たり所が良かったのでしょうねえ……」  さよ侍従は席を外している。  二人になると漠たる感を否めない室内は丸きり客間の様相であり、病室らしさは片鱗も見て取れなかった。  薬臭すら嗅げない。  それはつまり、遅くとも昨日の晩頃には香奈枝嬢に対する治療行為の必要が消失していた事を意味しようか。  ……まず、驚くべき回復力だった。 「元々急所を外していたのは存じていましたが、それにしても」 「生まれ故郷に戻ったから、かもしれません。  べつにそれほど郷愁を覚えていたわけではないのですけれど。戻ってみると、やっぱり水や空気が体に合うのは感じます」 「ごはんもおいしいですし」 「成程。  確かに、そういった事は大きいでしょう」 「明日にはもう元通り動けると思います」 「何よりですが、ご無理はなさらぬよう。  ……ともあれ安堵しました」 「面会謝絶と伺った折は肝を冷やしましたが」 「あれは病み姿をお見せして無用のお気遣いをさせてはと、わたくしの方からお願いしてそう計らってもらったのですけど……。  うまく伝わらなかったみたいで」 「いたずらに心配をお掛けしてしまいました。  申し訳もありません、景明さま」 「……いえ。大尉。  謝罪など、全く無用の事です」 「そもそも大尉殿の御怪我は自分の不覚から。こちらこそ幾重にもお詫びせねばなるまいと思っておりました。  しかし」 「……」 「しかし――」 「大尉、侍従殿」 「首尾は如何で?」 「遺漏なく。  敵の移動手段は全て破壊しました。増援の到着は大幅に遅延する筈です」 「では、今のうちに那須から白河へ抜けてしまいましょう」 「この辺りの安全は?」 「確保したとは、生憎ながら。  早々に移動した方がよろしゅうございます」 「諒解」 「――――」 「大尉殿?」 「伏せてっ!」 「ぐッ……!!」 「な――」 「がふッッ!?」 「……っ……」 「お嬢さま!!」 「大尉殿。  あのような事をなされては困ります」 「……お困りに、なる?」 「はい」 「…………」 「御命を無価値に扱われてはなりません。  今後はどうか、ご自重を願います」 「……無価値」 「はい」 「……わたくしの振舞いは……  価値のないこと?」 「ありません」 「…………」 「ご自重を」 「……逆、だったら……」 「は」 「立場が逆だったら、景明さまはどうなさいました?  わたくしを、お見捨てになった?」 「いいえ」 「……」 「我が力の及ぶ限り、大尉殿をお救いすべく働いたかと」 「――――」 「……?」  どうも、食い違っていた。  理解の不充足からくる惑いが大尉の顔貌にある。  彼女を見る俺も、同じ表情をしていると思われた。 「……それは、  理に合わないのではなくて?」 「お言葉ですが、全くの合理と心得ます」 「……」 「どうして」 「ご承知の通り、自分は大尉殿の御手で裁かれるべき者です。  自分が大尉殿をお救いするならば筋は通ります」 「しかし逆では通る筋が有りません」 「それは……」 「……」 「けれど……」 「は」 「わたくしは聖人でも、神の御使いでもなくてよ、景明さま」 「存じております」 「軍人として働き、多くの命を奪いました」 「左様でありましょう」 「軍以外の場所でも。  殺めた人の数は、景明さまよりも多いかもしれません」 「あるいは」 「……そんなわたくしが、景明さまに比べて上等だなんてことがありますかしら?」 「上等下等はともかく。  大尉もまた、罪業深き方とお見受けします」 「ええ」 「いずれ、罪の報いを受けられましょう。  ――既に御覚悟の通り」 「……」 「しかしそれは、自分などを庇ってのことであってはなりません。  決して」 「なぜ?」 「大尉殿は……  己の手で冥府へ落とした人々が、今ここに立ち現れたとして」 「彼らの顔を正面から見返す事ができますか」 「ええ」  事も無げに、香奈枝嬢は即答した。  首肯して、問いを重ねる。 「無力な老人を殺した事はお有りですか」 「いいえ」 「〈幼気〉《いたいけ》な子供を殺した事は」 「……いえ」 「身体に障害を負い、歩くもままならぬ者を殺した事は」 「…………」 「有りますまい。  しかし」 「自分は、全て経験が有ります」  傲然と、俺は告げた。  大鳥大尉と湊斗景明の間に在る隔絶を。 「ですから――  宜しいか。大尉」 「貴方は武人として相応の死をお迎え下さい。  自分は卑劣漢として相応の死を遂げます」 「間違っても、今後は自分などの為に御命を危うくされませぬよう。  このこと確と、お願い致します」 「………………」  控えめに疲労を訴えた香奈枝嬢の前から遠慮して、自分の部屋へ帰途を辿る。 「…………?」  ――どうしてか。  後ろ髪を撫でる〈弦楽器〉《コントラバス》の音色は、以前に聴いた時と調子を〈異〉《こと》にしているようだった。  楽器を象るその劒冑は、銘をウィリアム・バロウズと云う。    ――〝贋作弓聖〟  英雄願望が殊更強く、自己の才に溺れるところ深く、しかし臆病さも人一倍であった鍛冶師が、名にし負う神甲〝弓聖〟ウィリアム・テルを模して鍛え、あわよくば真物に取って代わらんと望みを懸けた一品である。  伝説の大名甲を騙っての初陣――劒冑として新生を遂げた彼はその初の一矢において、運つたなくも馬脚を露す羽目になった。  彼が選んだ〈仕手〉《クルセイダー》は彼の〝能力〟を扱いこなせず、  伝説をなぞり、人の頭頂に置いた林檎を射抜く筈が、矢は空しく標的から外れ――喉笛を貫いたのである。    射殺されたのは、鍛冶師の妻であった。  以来識者の間で侮蔑と嘲笑の的となり、最も愚劣にして呪わしき贋物という、望みとは対極の評価を与えられた彼バロウズは――しかし奇遇から得た二人目の仕手、大鳥香奈枝の期待に背いたことはかつてない。  戦場でも。楽堂でも。  〈贋作〉《バロウズ》は常に彼女の欲する音色を奏で、望むまま曲を創り上げた。  〈凶〉《まが》き道具に凶き心根は良く適応したのであろう。  それが――――今は。  幾度その弦を爪弾こうと、楽器は奏者の意に沿おうとしない。  音階が崩れる。  音調が変ずる。  〈蚯蚓〉《みみず》のようにのたくった迷走の曲が出来上がる。  大鳥香奈枝は苛立ちを増す。  変調。  彼女は気付いている。  それは、道具の〈科〉《とが》ではない。  道具を使う指だ。  指を動かす神経だ。  神経を統べる脳髄だ。  変調しているのは道具ではなく、大鳥香奈枝なのだ。  先刻の短い対話が胸中を巡る。  あれは〈怪態〉《けたい》な会話だった。  自分自身と話をし、その自分の言う事に首を傾げ、問いを重ねた……    香奈枝には、その様に思えてならない。  湊斗景明が言った事は、本来なら大鳥香奈枝の言うべき事であり、実際に言ってもいる事なのだ。  彼が困惑したのは無理もない。  ――湊斗景明は、大鳥香奈枝の手で殺す。  それが彼女の〈法〉《ルール》の命ずるところ。  正しい帰結、有るべき結末だ。  罪は裁かれ、  復讐は完了し、  善と悪は等価となり、  世界の秩序は保たれる。  だというのに。  ……どうして、彼を庇ったりしてしまったのか。  この手で彼を殺すためだった――にしても、あれは本末転倒だ。  弾丸は急所を逸れ、香奈枝は命を拾った。が、単に結果として、である。  幸運があと一ミリグラムほど不足していたら、彼女は今頃地上の存在ではなくなっていただろう。  復讐者が仇敵の命を自らの命で〈購〉《あがな》ったことになる。  戯けるにも、程があった。  ――――なぜ?  自問する。  大鳥香奈枝は流血を好み殺人を好む。  貴種たる誇り、正義への志向と共存して、その嗜好はあった。  だから彼女は戦場へ立つ。  貴族たる自分、正道を行く自分、殺人鬼たる自分を揺らがせず全て充たすために。  わけても復讐は最良の戦場だ。  奪われた嘆きにかけて奪い返す――この正義に疑いを挟む余地はない。  彼女は過去、幾つもの復讐を代行した。  法の担い手、貴族としての責務を全うした。    その過程に〈快楽〉《けらく》した。  そして今、香奈枝は祖国へ帰還し、遂に自分自身の復讐を行おうとしている。  ……ここに至って、なぜ迷いが生じるのか。  彼の父親を殺したからか――そうも思う。  しかし、それは彼にその事実を伝えてやれば整理のつくことだ。  彼が事実を知って怒り、香奈枝に挑んで来るのならそれで良い。  戦い、勝敗を決しよう。  どちらが勝つか、どちらが復讐を遂げるかは神のみぞ知るところとなる。  それで良い。一向に構わない。  ……だが。  もしも、彼がその事実を知ってさえ、香奈枝の憎悪に対抗する憎悪を自身の内に育てられなかったなら。  全ては己の撒いた災いと決め込み――    あのように、  あのように、――あくまでも振舞うのなら。      大鳥香奈枝は、復讐を遂げられるだろうか。  いや。  遂げねばならない。  復讐は法である。  法は正しく執行されねばならないのだ。  奪った罪は、奪い返される事によって、償われなくてはならないのだ。  大鳥香奈枝は自らに告げる。  貴種の血が負う使命を。正義の道の尊さを。殺人に〈耽〉《ふけ》る喜びを。  そうして再び、弦に指先をかける。  音を奏で曲を紡ぐ。  耳に、慣れ親しんだ響きが甦る。  復讐する。  復讐する。  復讐し、  復讐して……       それで、              ……何になるのか。  生涯初めての疑問に、香奈枝の指は弦の上から滑り落ちた。 「…………」  老いた侍従は、知っている。  憎悪の情が強い人間ほど、愛する情も深いのだと、知っている。  仕える主人もまた、その例外ではないことを――    永倉さよは、知っているのだった。 「…………」 「…………」 「…………」 「冷えてきたな……」 「もう師走ですからね」 「巡回の奴らが羨ましいよ。  動いていた方が、いくらか楽だ」 「三班と役目を代わってもらうか?  あいつら、川沿いの道を一時間に二往復はしてるが」 「……そいつは勘弁」 「あと三十分で交代だ。我慢しろ。  それにしても、仁藤のやつ、遅いな」 「用足しに行くって、あいつまさか詰所まで戻ったんじゃあ?  ……ついでに火に当たってるとか」 「後で詰所の連中に聞こう。  もしそうなら沢の常駐警備に回してやる」 「多分、長引いてるだけだと思いますけど。  あのひと、ストレスがすぐ胃に来るタイプですから」 「そういやそうだな。  あいつにはきついか、今は」 「進駐軍と戦争だからね……」 「……」 「班長。  〈英国紳士〉《ジョンブル》ども、本当に来ますかね?」 「来るさ……。  普陀楽城があいつらに〈どうされちまった〉《・・・・・・・・》か、知ってるだろ」 「聞いてますけど。  ……実感湧きませんよ」 「鎌倉から撤退してきた連中が口をそろえて言ってるんだぞ? 城が吹っ飛んだって。  どいつもこいつも夢でも見てるってか……俺だってそう思えるもんなら思いたいが」 「邦氏様までこの会津にお移りあそばしてるってのに、全部何かの冗談でしたで済ませるのは無理だろ。  ……戦争だよ。もう始まったんだ」 「……、……」 「〈会津〉《ここ》で合戦になるんでしょうか」 「どうかな。  大鳥中将のご気性からすると……こっちが先手を打って、横浜に押し出すって線も有りそうだが」 「その方がいいですね」 「そうか?」 「会津で〈戦〉《いくさ》は嫌ですよ。  僕、ここの生まれですから」 「そりゃ俺もだ。班長だって。  うちの軍は大半がそうだろ」 「ああ……。  確かにそうだな。生まれ故郷で戦争なんてやりたいもんじゃない」 「それでも、攻め込まれたら戦うしかないが」 「……」 「……さみぃ」 「川沿いでもいいから、歩きたくなってきた」 「辛抱しとけ。  もう少しで――」 「……?」 「班長?」 「今なにか、変な音がしなかったか?」 「…………。  したか?」 「いや……わからない」 「あの辺で、固い物が木にぶつかったみたいな音が……  気のせいかな」 「……いや、念のためだ。  お前達、二人で行って確認して来い」 「了解」 「……誰もいないね」 「いない……よな?」 「班長ー。  特に怪しい所はありません」 「班長?」 「……あれ?  どうしたんだろ」 「なあ、班長どこ行った?」 「……おい」 「何だ?  ……二人して僕をからかおうってわけじゃないよね……」 「おーい」 「――――――」 「…………」 「へ、へ、へ。  少しばかり、お邪魔いたします……」  大鳥獅子吼を殺すと、彼女は言った。  〈枇杷〉《びわ》の花を愛でながら。  〈野点〉《のだて》の席上。  塗壁に堰き止められて冬風は届かず、太陽は中天にあってぽかぽかと暖かい光を投じ、永倉邸の庭は季節外れの風流を許容し得る環境にある。  質朴無骨な備前焼の茶碗を、俺は両手で受け取った。  掌に熱さを覚えるほど高温の茶が、器の底に溜まっている。 「……これは。  お気遣い下さいましたか」 「お好みに沿えばよろしいのですけれど」 「実に。  この肌合いは自分の嗜好そのものです」  俺の茶の作法は学生時代に茶道部で習い覚えたものだが、その頃最も頻繁に使用したのもこの簡雅な茶碗だった。 「良かった。  でも、どうしてその茶碗が景明さまの趣味に合わせたものだとお気付きに?」 「大尉殿のご趣味であれば、京焼か、絵唐津ではないかと思いましたので」 「残念。  それは外れです」 「……む。  ならば、志野?」 「嫌いではありませんけれども」 「わたくしの好みなら、楽焼です。  わけても〈黒楽〉《くろらく》が」 「……それはまた〈禁欲的〉《ストイック》な」  偏見ながら、あまり女性らしい趣味とは思われない。 「そうでしょうか。  ……わたくしにはむしろ、世俗性の極致と見られます」 「あの漆黒が」 「ええ。  まるでこの世の万物が溶け込んだよう」  黒色を排他の結実と見れば禁欲。  しかし濫飲の結実と見れば俗悪。    ……成程。見方の違いか。  俺は掌中の茶碗に視線を落とした。  黒に近い褐色の陶器が、適度に泡立てられた抹茶を包んでいる。  その景色はどちらかと言うなら、香奈枝嬢の見解を肯定するものと思えた。 「……大尉殿。  銀星号の事は、間違いないのですか」 「はい。どうやら。  銀星号は確かに出現していたようです」 「爆弾が落とされたあの時、普陀楽城に」 「……そして……」 「爆弾はどうしたわけか――まぁ新兵器なんてそんなものかもしれませんが――城塞全体を破砕はできず、半壊させる程度に留まった。  それでも爆心地は〈砂漠化〉《・・・》したそうですけど」 「銀星号は、丁度」 「その――爆心地に?」 「……断定はできません。  ただ、普陀楽城の生存者は相当数いたにも拘わらず、爆発後に銀星号の姿や痕跡を目撃したと言う者は皆無なのです」 「――――」  では。  銀星号は……    あいつは、 「死んだ、のでしょうか」 「わかりません……」 「……」 「奇妙な噂もあります」 「とは?」 「不審な一団が爆心地から何か――〈光るもの〉《・・・・》を掘り出し、それを携えて会津へ向かう落ち武者の列に加わった、とか」 「…………」  茶を啜り、喉から胃に落とす。  腹の内側がかっと熱くなった。  ……苦い。  ……甘い。  飲み口を指先で拭う。 「普陀楽城を脱出し、会津へ入った幕府軍はどの程度の規模なのでしょう」 「それも、正確には。  けれど少なくとも万単位」 「篠川軍を加えて、獅子吼に進駐軍との一戦を決意させるだけの戦力規模に達しているのは間違いありません」 「……大鳥中将〈が〉《・》進駐軍に挑むと?  GHQの方で会津侵攻を企むのは理解できますが」  何しろ、そうして六波羅完全打倒を達成しない限り 『圧制からの解放者』という支配根拠が手に入らない。 「篠川公方にすれば、ここはまず手段を尽くして和平の道を探る局面なのでは。  最終的な決裂は避けられずとも、幾らかの時間稼ぎになるなら、それはそれで充分な利」 「彼は軍の再編に要する時間を千金に代えてでも欲する筈です」 「ええ、普通なら。  けれど〈あの男〉《・・・》は違います」 「今朝、邦氏殿下と大鳥家現当主――花枝の婚約予定が発表されました」 「……」 「もちろん、これは獅子吼が六波羅の全権を掌握するための段取りです。  御台所の一門であれば、幕府を宰領しても何の不思議もありませんから」 「こんな性急な手段で権力基盤を固めるのは、性急に権力を行使する意図があるため……  と、お考えになりませんか?」 「即ちそれは、進駐軍との決戦以外にないと。  ……成程」 「会津に引き篭もっていても道は開けない。  乾坤一擲、一戦にて命運を占うべし」 「まぁ、そんなところでしょう」 「しかしそれならそれで、優先して済ませるべき問題が数多くあるのでは?  自分を大樹家の外戚に据えるのが第一とは、得心がいきません」 「そんなものは言ってしまえば形式です。  篠川軍団を隷下に置く大鳥獅子吼にとって、さほど重視する必要のある事柄ではない筈」 「その形式に拘泥するのが獅子吼なのです」 「……」 「形式、筋道、道理。  それがあの男のすべて」 「骨の髄からの形式主義者」 「……いや、しかし大尉。  そんな男が」  〈あの〉《・・》六波羅の中で重きをなせるものなのか?  実力主義の席巻する組織にあれば、形式主義者など早々に追い落とされるのではないか……? 「彼の非凡なところは形式に実質を必ず追随させる点にあります。  形式と実質の間に差を生じさせません」 「婚約が執り行われるのはわずか三日後。  獅子吼はそれから権力を握るのではなく、その時〈には〉《・・》全権限を握っています」 「六波羅全軍は統制を取り戻し、即時行動を開始するでしょう。  ……三日後。婚約式が終わった瞬間にも」 「……真逆……」  軍事常識、いや政治常識にも完全に背いている。  未曾有の事態に瓦解寸前まで混乱した筈の幕府組織を、あと三日の内に体制上は復旧させる――などと。 「それが獅子吼です」 「…………」 「だから。  ――その前に手を打ちます」 「獅子吼個人の戦争に大和の運命を委ねはしません。  あの男を暗殺します」  その一言に、どこか奇妙な響きを俺は聴いた。  大和の国民に対する責任感。父親を殺害した男への復讐心。そこまではわかる。  だが、それ〈以外〉《・・》の〈雑音〉《ノイズ》。 「足利護氏は既に亡く、古河、小弓、堀越の公方もおそらく今は普陀楽の土。  そして獅子吼をも失えば、六波羅はもはや崩壊を避けられません」 「指導者たれる実力の持ち主が、もういない」 「ええ」 「しかし大尉、それは結局、GHQを利するだけなのではありますまいか」 「統率を失った会津に、進駐軍が攻め寄せて来る?」 「はい。  ――――いや。そうか」 「攻める意味がない……」 「そうなりますでしょ?  獅子吼を失った六波羅は勝手に滅びてゆく。進駐軍の手はあえて必要ありません」 「無用の戦争をしても、大和国民からの信頼が得られる道理はなし」 「GHQは大和支配の戦略を一から見直さねばならなくなる。  ……とはいえそれも、大和の固有軍事力が失われた状況ならさして困難もないでしょう」 「ですね。  けれどそこは、〈生き延びて頂いた方〉《・・・・・・・・・》に手腕を期待しても良いのではないかしら?」 「頭を失った六波羅軍を手中に収める、程度のことは。それも出来ず引き篭もってるだけなんて、あんまりにも甲斐性なしですもの。  ねぇ?」 「……御本人にも言い分があろうと思われますが」 「訊いておきましょうか」  その人物がいま何処でどうしているのか、承知している口ぶりだった。 「景明さまは、いかが?」 「……は」 「どのように思われます?」  このプランを、という意味だろう。無論。    ――篠川公方大鳥獅子吼を殺害し、六波羅を自壊へ導き、GHQの企図を挫く。  作戦効果は認められる。  暗殺に成功すれば、六波羅と進駐軍の決戦は未発に終わる見込みが濃い。  幕府の再興とGHQの支配、多くの大和国民にとって望ましからざる未来は二つ共に遠ざかる。  後々のことはともかく、ひとまずのところは。  有効だ。認めざるを得ない。      しかし、これは、〈暴力主義〉《テロリズム》である。  言論の力に対する挑戦である。  既に為した、飛行艦襲撃と同じ事と言えばそうだ。  が、あれはあくまで爆弾という無機物を標的にした行動だった。  今度は人間。  政治目的の為に、一個人の生命を奪う。  その目的がいかに正しかろうと、免罪符の役は果たさない。  大鳥獅子吼とて、正しいと信じた行いをしている事に変わりはなかろうからだ。  暴力による政治主張を、肯んずるか否か。 (……それが頷けるものならば)  足利護氏暗殺の依頼も、断るべきではなかったのだろう。 「ご遠慮なく、率直なところを仰って頂いて構いませんのよ?」 「いえ、言葉を選んでいたのではありません。  ……ただ、要は同じ事だと」 「同じ?」 「多数の人間を守る為と称して、一人の人間に死を強いる。  一身の判断で為す人命の〈計量〉《・・》」 「自分には馴染みの深い行いです。  それと同じ事を幾度となく繰り返してきました」 「……村正の〈呪戒〉《のろい》」 「はい。  何も差異は有りません」 「いずれも等しく〈暴力主義〉《テロリズム》」 「そうですね。  確かに、全く違いのないこと……」 「では、景明さまのご決断は?  わたくしに、お手を貸してくださる?」 「……はっ」  今まで抱え通しだった備前焼を、膝前へ置く。  ざらついた肌の、心地良い手触りには名残惜しさを覚えた。  日が天頂の座をそろそろ退こうとしている。  冬の野点も、この辺りが潮時だろう。 「大尉殿をお止めすることはできません。  しかし、自分は御助勢を致しかねます」 「わかりました」  驚いた風も見せず、香奈枝嬢が頷く。  むしろ、ほっとした様子だった。 「良かった。  もし協力すると言われてしまったら、どうお断りすればいいのか困りましたもの」 「やはり貴方は、これを大鳥獅子吼との個人的な戦争とお考えか」 「ええ。  そう、これはわたくしとあの男との〈喧嘩〉《・・》でしかありません。国のため、民のためと言葉を飾っても……結局はそういうことなのです」 「景明さまはこちらにお留まりください。  永倉のお爺さまには、わたくしから言っておきます」 「いいえ」 「?」 「お許しあれば、自分も同行させて頂きたく存じます」 「……わたくしに?  けれど、」 「はい。御協力もお邪魔も致しません。  自分は自分の都合の為に、篠川の公方府へ参るまでの事です」 「ご都合というのは」 「銀星号の生死が定かではありません」 「……」 「先程のお話によれば、普陀楽の爆心地から何かが運び出されたとか。  その何かが銀星号、〈乃至〉《ないし》は銀星号に関わる物でないと、現状では断定が不可能です」 「では、それを確かめるために?」 「はい。  この目で検分して、全く無関係の物であるなら良し」 「また――もしそれが、銀星号の遺体ででもあるなら。  自分には、」  遺体。死骸。  銀星号の骸。  光の、    ……………………。 「確認する義務があります」 「……了解いたしました。  ご一緒に参りましょう」 「ご造作を」 「旅は道連れ。世は何とやら。  師走の会津も、連れ立って行けば肌寒さが和らぎます」 「きっと」  壁を乗り越えた風が、一陣。  庭の暖気が押し流されて、じわと冷気が身に沁みる。  もう間もなく、雪も降り始めるのだろう。 「復讐は虚しい、なんて物の本に云うけれど。  あなたはどう思う……と」 「ほぅ」 「ぽろりと、そんなことを申されましてねぇ」 「どう答えた?」 「茶を噴き出して、顔面にぶっ掛けてしまいました」 「……酷いなお前……」 「いやいや。  まさか、あのお嬢さまの口からそんな言葉を聞こうとは」 「夢にも思わなんだか。  ……そうよなァ」 「香奈枝様は、少しお変わりになられたか」 「と、見えますか」 「十年経つ。何も変わっていなければその方がおかしいのだろう、が……  あのお人は、〈変わらぬ人間〉《・・・・・・》だと思っておったからな」 「えぇ」 「変わらぬものを、変えてしまうものが、何かあったか」 「さて。  あったのやもしれません」 「あの、若いのか?」 「屈折した御仁ですよ」 「そうよな。  ……およそ人を幸福にできるような男ではなさそうだが」 「香奈枝様と、何か噛み合うものがあったか。  それとも、逆か」 「さぁて」 「男で変わるなら、香奈枝様も凡百の〈女性〉《にょしょう》であられたということかな。  何より、結構なことだが……」 「変わりませぬよ」 「ふむ」 「〈根〉《・》は……  三つ子の魂百まで」 「変わるのは上辺だけ。  大本はそのまま……発端から結尾まで。誰も彼もが」 「香奈枝様も始めから、根はなにも変わっておらぬ……か。  ならば、いずれが?」 「香奈枝様の根は、〈どちら〉《・・・》だな?」 「さぁて」 「…………」 「どちらでございましょう……」  出立の朝。    これが最後の旅になるという、予感があった。  この旅で大鳥大尉が企図を遂げ、俺が銀星号の件に決着をつけたならば、その後、すべき事はただ一つとなる。  彼女が誓った〈復讐〉《せいぎ》の遂行、それだけだ。  湊斗景明の恐怖。  湊斗景明の待望。    湊斗景明の正しい終結。 「…………」  肩には途方もない疲労を、胸には深い安堵を覚える。  長かった――そう思う。だが兎も角も終わるのだ。あと一息で。やっと。  〈罪人〉《おのれ》は報いを受けて、正しく〈果つ〉《おわる》事が叶う。 「……景明さま?」 「いえ。  ふと、感慨を新たにしておりました」 「貴方に出会えて良かったと」 「…………」 「お忘れ物などはございませんな」 「はい。  では行って参ります」 「どうぞお気をつけて。  さよ、香奈枝様のことを頼むぞ」 「お任せくださいませ。お兄ちゃん」 「ヤメロ」 「翁。造作をお掛け致しました」 「何程のことはしておりませぬよ。  御客人も、壮健であられい」 「来年、また柿を食いに来られたらよろしかろう」 「……はっ」 「永倉のお爺さま」 「はい?」 「わたくしはきっと、大鳥の家を滅ぼすことになるでしょう」 「お心のままに、滅ぼされませい」 「……」 「古き良き大鳥……美しき〈家風〉《ながれ》は既に断たれました」 「まことに畏れながら、その端緒は御先代様……香奈枝様のお父君がつけられたのでございます」 「ええ……」 「お志はともかく、手段を誤られた。  ために大鳥の翼は乱れ、獅子吼の如き者の台頭を許し、ご自身その手に掛かられ――」 「そして獅子吼めに握られた今の大鳥家中は、もはや嘗ての面影もなし……。  〈権力〉《ちから》に隷従する走狗の群れ、単なる軍閥でございます」 「大鳥、地に墜ちて餓畜となりぬ。  今や世に百害こそあれ一利を報いず」 「……」 「滅ぼしてしまわれませい。  家を継ぎ守り伝えるが裔子の務めなら、家が堕落し果てた時に引導を渡すのもまた裔子の務め」 「香奈枝様。あなたは何かを傷つけ、害し、ぶち壊す以外に何の才腕も持たぬ御方。  そんな御方が当代にお生まれになったことには、やはり意味があったのでございます」 「どうか〈欲儘〉《ほしいまま》に振舞われませ。  腐り果てた大鳥が倒れた後には、花枝様が新たな大鳥を築かれましょう」 「…………」 「はい」 「ご武運をお祈りしておりますぞ」 「お爺さまもお達者でね」 「ではお嬢さま、そろそろ参りましょうか」 「ええ」 「して、篠川へは如何なる方法で?  現状を鑑みるに、一工夫必要と思われますが」 「いろいろ考えてはみたのですけれどもねぇ。  考えに考えて考えあぐねた挙句、一周してスタート地点に戻りまして」 「結局、一番芸の無い方法に落ち着きました」 「と云われますと」 「鉄道でございます」  過去、鉄道を利用する機会は少なかった。  育った土地は文字通りの片田舎で駅も線路もなく、長じて徴兵を受け軍役に就いた折には汽車に乗ることもあったが、それとてせいぜい数度ばかり。  復員して郷里に戻り、就職してからほんの二、三度。  六波羅が政権掌握後に民間人の鉄道利用を規制していなければ、もう少し回数は増えていたろう。  ……会社では俺を外勤向きと評価する人などおらず、〈私〉《し》で旅行する趣味もなかったから、高は知れているが。  そんな次第で、俺は片手で数えて足りる程度にしか鉄道の旅の経験がない。  この速さも、内装も、窓の外を流れる風景も、まだ慣れず、斬新な印象の残るものだった。 「落ち着かぬご様子で」 「恥ずかしながら、少々」 「しばらくの辛抱でございますよ」 「不快を感じてはおりません。お気遣いなきよう。  ……侍従殿は、泰然としていらっしゃる」 「皺の数は経験の数でございまして。  特にお嬢さまと欧州で暮らしていた頃は、日常的に利用しておりましたからねぇ」 「あちらでは電動の列車も普及しているとか」 「左様でございますね。市街地の短距離路線では既にそちらが主流でしょうか。  都市間鉄道はまだまだ蒸気機関車が多数を占めておりますが……」 「一部では電気機関車などというものも使われているようでございます」 「? それは、電動列車と何か違うのですか」 「湊斗さまが仰られているのは、個々の車両が動力を持つ方式のものでございましょう。  それとは別に、電動の機関車が他の列車を牽引する方式のものもあるのでして」 「ああ……成程。  要は従来の蒸気機関車を電動にしただけのものですか」 「その通りなのですが湊斗さま、そういったことをうかうかと口外されませぬように。  一部の〈鉄道愛好家〉《マニア》の耳に入ったが最後」 「推定四二時間ほどの時間をかけて両方式の発祥の経緯に始まり機構の詳細、その細かな相違点、そして運用の実態から未来の展望に至るまでを徹底的に講義されかねません」 「? は……」  何のことやら。  車窓が映し出す動画はのどかな田園から、深い山野の情景へと徐々に移り変わっている。  しばしば、橋上を走って河川を越えることもあった。  日差しを照り返して燦然と煌く〈川面〉《かわも》は、子供が見たなら大いにはしゃいだのかもしれない。  〈人気〉《ひとけ》のない客車の中で、俺はそんなことを思った。 「……それにしても。  あっさりと乗車できたものですね」 「会津の外へ向かう列車は開戦前に逃げ出したい富裕層でごった返しているそうですが。  今、逆に会津中心部へ行きたがる民間人はよほどの物好き」 「席は取り放題でございます。  ま、欧州に比べて馬鹿馬鹿しいほど高額な運賃を支払えるなら、ではありますけれども」 「はっ。それはそれとして、自分が気にしていたのは別の事です。  現在の会津は戒厳令下も同然なれば、」 「列車は悉く軍に徴発されているか……あるいはそこまでいかず民間の利用に充てる余地を残していたとしても、乗車にあたって厳重な審査を行うのではないか、と」  その場合、果たして乗車を許されたかどうか。  叩けば埃は際限なく出てくる身体だ。  大鳥主従とて、それは同じだろう。  いや……更に危険か。 「そこは賭けではありましたな。  確かに、獅子吼殿がそういった措置を命じていても不思議ではございませなんだ」 「されど〈彼〉《か》の男の企図は十中八九、急戦。  必要以上に列車を確保しておく意味も、敵の間者の侵入を極度に警戒する意味も、余り無いと申せます」 「そして獅子吼殿は無駄を好かぬご性根……。  賭けとはいえ、そう分は悪くなかったのでございますよ」 「……成程」  そんな些事に割く労力があるなら、他により有効な使い道がいくらでもあるということか。  その通りかもしれない。 「そして乗車にさえ成功してしまえば、これが最も高速かつ効率的な移動手段……と」 「座って待っていれば着きますから。  懸念すべきは、車内でトラブルが発生した時に逃げるのが難しいことくらいでしょうか」 「そのような危険性が?」 「必ずしも、皆無とは。  車両は別ですが、篠川軍の一個中隊が我々の相客でございます」 「……それは。  顔を合わせると、些か厄介な事になる恐れも」 「なきにしもあらずで。  ……とは申せ、あれは予備役からの召集兵」 「任務はどうやら兵站、士気も装備も相応でしかない様子。  油断は禁物にせよ、さほど案ずるには及びますまいて」  ほっほっと笑う老侍従に、俺も頷きを返した。  そして、口を噤む。  不意に沈黙の帳が広がった。  〈鉄輪〉《ホイル》が〈条鉄〉《レール》の上を転がり駆けてゆく、規則的な重い響きに耳を委ねる。  知らず知らず、視線は乗車以来一度も口を開いていない女性の上へ流れた。 「…………」  大鳥大尉は風景を眺めている。  否――正確には違う。  心ここに在らぬ〈態〉《てい》だった。  眼差しは景色に向けられてはいるものの、その角度は固定されて動かず、地形の移り変わりにも〈殆〉《ほとん》ど反応しない。  外ではなく内面を見ているのか。  彼女の細い双眸は、今。だとすると、そこには何が映っているのだろう。  大鳥香奈枝という女性の、如何なる心情が――    柄にもなくそんな詮索めいた欲求を起こしたのは、沈思する彼女に心を惹かれたからかもしれない。  普段の大尉と異なり、どうしてか、今の彼女は通俗的な意味において女性と見えた。  儚く、危うい。〈繊〉《そび》やかで、淡い。  〈嘗〉《かつ》て見た、〈弦楽器〉《コントラバス》を奏でる彼女に似ている。  似ているが――やはり違う。あの時の彼女には確かな意思があり、それが音色を導き〈楽〉《がく》に仕上げていた。しかし今、彼女の〈貌〉《かお》はその意思をどこか、欠いている。  家路を見失った迷い子のようでもあった。    寄る辺ない異境にただ独り、ぽつねんと佇む。 「……景明さま」 「…………はっ」  その名指しに、俺の〈応答〉《いらえ》は暫時、遅れた。  不意であったせいもある。だがそれ以上に、彼女の声は呼ばわりというよりも独白に近かった。  相変わらず、彼女の〈表情〉《せかい》は外界から断たれている。  ……続く言葉は、会話の間と云うにはやや長過ぎる時間を置いて〈零〉《こぼ》された。 「……このまま。  何処かに行ってしまいましょうか」  道を失った迷子が、諦めて当て〈所〉《ど》もなくとぼとぼと歩き出すような――    そんな一言を、大鳥大尉は口にした。  何処か。  それはきっと、〈真っ直ぐではない〉《・・・・・・・・》何処か……という意味だろう。  篠川公方府へ殴り込み、大鳥獅子吼を討つなどと、馬鹿げた――だろう、客観的にはどう見ても――企てを捨てて。  別の何処かへ。  目的もなく。強いて決めるなら、戦火を逃れる為に。  いま巷間に溢れている、そんな人々の群れに混ざる。  何者でもない、一個の人間として。  身の程をわきまえ、己の分際に従い……  もはや大鳥香奈枝でも湊斗景明でもなく。  貴顕の矜持も銀星号封殺の責務もなく。    自ら欲して無名の者となり、世に埋没する。  ――そうしたい、と。  大鳥大尉は、言ったのだろうか。 「大尉、」 「冗談でしてよ」 「…………」  いつしか。  彼女は首を傾け、俺に視線を向けていた。  何処かを彷徨っていた心は、現世に戻ってきている。  大鳥香奈枝として。 「冗談です……」  繰り返される言葉に、どうしてか、頷き一つを返すのが躊躇われた。    胸腔の中心が、奇妙に痛む。 「……当てのない旅というのも、案外面白いものかもしれません」  痛みの意味を考えることは禁じて。  俺はただの言葉遊びとして応じた。  そうしなければならないという思いが、強迫観念のように在った。 「風の向くまま気の向くまま、東へ西へと。  おそらく退屈せずに日々を過ごせます」 「良いものですねぇ。  特にこれからの季節、みちのく温泉ツアーなどするには最高でございましょう」  それまでの経過は何も聞いていなかった風で、さよ侍従が話に乗る。  大鳥大尉は微笑んで、小さく首を頷かせた。 「……そうね。  じゃあ……行きましょうか」 「いつか」 「はい」 「ええ、いずれ」  全員一致で、約束する。  全員、その〈いつか〉《・・・》など来ないことを知っていた。  ありふれた、その場限りの口約束。  世間の〈其処彼処〉《そこかしこ》で無数に交わされ、そしてそのまま忘れ去られて二度と思い出されない。  そんな軽い会話だ。      そんな軽い会話が、今はどうしても辛い。  大鳥大尉の〈瑕〉《きず》なき微笑を見るのが辛かった。  逃げるように、視線を車窓へ流す。  変わりつつも相変わらずの風景が視界を占めた。  そして――その手前に。〈硝子〉《ガラス》が映す、一つの影。  男。 「……ッ!?」  即座に立ち上がり、背後を振り返る。  車両の連結口からほんの一瞬、覗いたと思えた姿は既に何処にも見当たらない。  しかし。  今――確かに。 「湊斗さま?」  きょとんとした目で見上げられる。  俺よりも注意力は高いであろうこの老侍従が何も気付かなかったというのなら、いま見たと思えたものは単なる錯覚である可能性が高い。  だが――    俺はその男に、〈見覚え〉《・・・》があったのだ。 「……すぐに戻ります」 「どちらへ?  動かれると危のうございますよ」 「重々承知!」  つい先刻、聞かされたばかりの話はまだ耳に残っている。  だがそれでも、確かめないわけにはいかなかった。  俺は制止を振り切って駆け出した。  〈屋上〉《・・》の村正に、俺を追うよう命じておく――必要になるかもしれない。  列車という構造物は、隠れ潜む場所として用いるには致命的に横幅が足りない。  真っ直ぐ追えば捕捉できる筈だ。  あれが、見間違いでないなら。    見間違いなら――誰にも会うまい。  会わないだろう。 「…………ケヘッ」  男はいた。  酷くぞんざいで、だが奇妙に熱っぽい――そう、己を含めた世の何もかもを下らぬものと〈看做〉《みな》し嘲りつつそこに耽溺する、この男独特の風情を露わにしながら。  男は俺の前にいた。 「雪車町一蔵!!」 「け、け、け……!  奇遇でござんすねェ、湊斗の旦那」 「会津には雪見旅との洒落込みで……?  でしたらご愁傷様だァ、今年の会津は〈通人〉《つうじん》狙い、〈白粉〉《おしろい》塗る気はないらしい」 「真っ赤な〈紅〉《べに》だけ唇に引いて、〈粋〉《いき》を示そうって魂胆でねェ……  へ、へッ! 憎いもんじゃありませんか」  御託を宣いながら、その挙措は猫のそれさながらであり、進退自在の業の程は疑いもない。  追いすがるべき両足に、俺は一時停止を命じるほかなかった。  距離、およそ〈三、四間〉《六メートル》。 「何故ここにいる」 「洒落者が自分だけだとお思いで?」 「置け」 「へぇ、ヘヘ……!  別に訊くほどのことでも、ありゃあせんでしょう……」 「あたしが何者で、あんたが何者か、綺麗に忘れちまったってェんならともかく……ねぇ」 「――――」  この男は……そうだ。GHQの雇われ工作員。  そして俺は、GHQの目論見を数度に渡って妨害し、また大鳥大尉と協力して鍛造雷弾の投下を妨害すべく試みもした、今や彼らにとって明確な敵性存在。  成程、わざわざ口を費やして訊くまでもなかったか。 「つまりは猟犬」 「へっ……」 「〈GHQ参謀〉《クライブ・キャノン》がお前を選んだ。そういう事か。  大和人のお前なら、会津内への侵入にさえ成功すれば、後は篠川軍の存在もさして気にせずに行動できる……」 「だがそれにしても、現状で確かな身元保証もなしに越境するような真似が可能とは思えないが。  六波羅御雇の名は余程に信用があるのか?」 「なわきゃ、ねえでしょう……。  今はそんなもん、厄除けのまじないほどの御利益もありゃしませんよ」 「ま、全周封鎖なんて大仰に言おうが、別に城壁を建てて並べてるわけじゃあない、兵士が銃持って巡回してるだけですから……ねェ。  穴くらい探せば見つかります……」 「無ければ無いで、〈開ければ〉《・・・・》いいだけの事で」 「…………。  お前の飼い主はそれを許したのか」 「無関係の者に危害を加えるなとは、言わなかったのか?」 「言いましたさァ……。  可能な限り、ってぇ注釈付きで」 「可能でなけりゃ、仕方ありません……」 「……」 「けッ、へぇっ!  キャノン中佐はわかっておいでですよ……そういう命令の仕方をすれば必ず死人が出るってことくらい」 「知ってて、わかっててやってるんだ……。  だから、あの男は、やっちまった後で悔いたり嘆いたりなんかしねえよ」 「〈てめぇとは違う〉《・・・・・・・》」 「……………………」 「そこまでして……  彼は、俺を」 「俺と大鳥大尉を抹殺したいのか。  随分と執念深い」  いや。  執念の問題ではない……か?  あの人物の事だ。  俺達が、というより大鳥大尉が自分ひとりの安全を図って〈逼塞〉《ひっそく》するような性分ではないことまで読み切り、その上で決断を下したのかもしれない。  会津において香奈枝嬢が企むであろう、反GHQ的行動――それは実在する――を阻止するためにこそ。  この顔色の悪い男は、送り込まれたのではないのか。 「……標的は、俺よりもむしろ大鳥大尉か?  雪車町一蔵」 「いくらか血の巡りが良くなってきたようで。  へ、へェ……こいつはおめでたい」 「そうか。  ならば、ここは通さん」  挑発的な軽口には付き合わず。膝の力を抜き、腰をわずかに沈める。  敵の攻撃手段を予測し、それに備える。  雪車町が持つのは杖――仕込み一振りだけだ。  劒冑は無い。なら、素手で取り押さえることも難事ではあれ無理ではない筈。  ……いざとなれば村正に手伝わせるまでだ。  この相手に騎士道を気取ったところで、自己満足にすらなりはしない。 「さぁて……へへェ。  別に、通せとも言いませんがね……」 「……?」 「あのご令嬢を先に仕留めたいってのは……ま、〈進駐軍〉《あちらさん》の都合。  〈こっち〉《・・・》にゃこっちの都合ってもんがあって」 「どっちが重いかってなると……ねェ?」 「――――」           〝半端野郎……〟 「お前は……」 「ケ」 「けっ、ケケ、ヘヘヘヘヘ」             〝消えろ〟            〝消えちまえ〟 「雪車町!!」 「湊斗ォ!!」 「……ッ!?」  紫電の一刀を寸分の差で避け。  次なる一撃に備えて構え――  そうして、既に後方へ引き下がっている対手の姿を見た。    ……逃げる、のか? 「ヒヒ、ハハァ!!  今日のところは、〈尻〉《けつ》をくれてやるぜ」 「てめぇには、もっと〈いい相手〉《・・・・》が待ってるんでなァ!!」 「……何!?」 「最高の奴さぁ!!  てめぇのその、益体もねぇ命を分捕るのに、あれッくらい相応しい奴は他にいねぇ!!」 「おとなしくして、そこで待ってなァッ!!」 「雪車町ッ!!」  声は、痩せた筋者の足を留める役に立たなかった。  距離が開く。〈狭隘〉《きょうあい》な通路を黒い姿は巧妙に走り抜けてゆく。  俺はその背を追った。  曰く言い難い、しかしどうにも不吉な予感が心臓の中に巣食っていた。  雪車町は人並みを凌ぐ俊足だ。  容色からして不健全に違いなかろう彼の心肺機能が何故あの速度を許すのか、〈俄〉《にわ》かには理解し難い。  差を詰めるのは困難だった。  引き離されこそしないが――このままでは不味い。  おそらくこの先には篠川公方府の軍兵を乗せた車両がある。  その中に入られては、追うに追えなくなる。  永倉侍従が言った、士気の低い後方要員という話が本当なら、彼らと俺をかち合わせるところに雪車町の意図があるとも思えないが。  そんな事態になれば面倒であるのは間違いない。  今のうちに捕まえるべきだ――が…… 「……?」 「……へ……」  病的な顔が、こちらに向き直っている。  足も止まっていた。  連結器を越え、一つ前の車両に乗り移ったところで。  雪車町は逃走をやめ、俺を見ている。  胸の〈戦慄〉《ざわめき》が酷くなった。 (いかぬ)  止めろ。  止めるのだ。  ――何を?    否。そんな事はどうでもいい。  とにかく、〈それ〉《・・》を、止めるのだ。  今すぐ! 「けっ――」 「けッ、ケェーーーーーッ!!」 「……何だ!?」  何をした。  雪車町は――何か、レバーのような物を動かした。  それで一度、重い金属音がして……  しかし、何も変わらない。  何も………………ッ!? 「雪車町!!」 「ヒハハハァーーーーーーーッッ!!」  奇態な笑声が、遠くなる。  いや、声だけではなく。  その姿も。  俺は下がってなどいない。前に進んでいる。なのに雪車町は遠ざかる。  列車が離れていた。  雪車町の乗る車両と、俺の乗る車両とが。 (連結器を外した!?)  ようやくに現状事態を把握し。  そして俺の困惑は更に深まった。  こんな事をする意図が計り知れない。  俺と大鳥主従が乗った車両は機関車から切り離され、徐々に速度を落としている――だから、何なのか。  不都合には違いないが、全く致命的な窮地とは言えない。  何故……こんな、子供の悪戯のような真似を?  今がまさに急勾配の坂道を登っている最中で、後方からは別の機関車が迫っているような時でもあったのなら、この列車は滑落したすえ凄惨な衝突事故を起こしたことであろうが。そんな状況ではないのだ。  列車はのどかな平地を走り抜け、再び橋に差し掛かろうとするところだった。  先行する雪車町らの車両は、こちらを捨てたせいか速度を増し、既に橋の半ばまで達している。  ……橋は安全だ。  この状況を仕組んだ当の本人が、今それを証明している。  まさか……自分の列車が渡り終えた後で、橋を破壊しようとでも云うのだろうか。  それには相当量の爆弾、あるいは砲門が必要となる筈だが、そんなものは影も形も見えない。  わからなかった。  ……わからぬままに、俺は忍び寄る破滅の足音だけを聞いている。  先行車が橋を渡り終えた。  入れ違いに、〈後続〉《こちら》が橋へ近付く。  何も起こらない。  雪車町は何もしない。  ただ軽く、腕を上げて。  空に―――― 「――――!?」  あれは……  あの時の怪物騎!!  万に一つも、別物の空似ということは有り得ない。  あの日、建朝寺に向かう途上で、俺を阻んだ〈不明騎〉《アンノウン》――特徴的などという一言では表しきれないその異形。  千年経とうと、忘れる筈がなかった。    何故、ここに。  何の、ために。  あれはやはり、進駐軍の戦力であったのか!?  それが今、雪車町一蔵と結託して――何を!? «〈悪霊退散神父蹴ッ〉《エクソシズム・ファーザーズ・キィィィック》!!» 「な――」  橋が……  橋が破壊された!  そういう事かッ!!  この列車はまさに、橋へ踏み入る直前。  その橋が消えた……あるのは形もなき虚空。  虚空の下には河。    ――この列車は、そこに沈む。  俺と、大鳥主従を乗せたまま。 「村正ァッッ!!」  判断は瞬時に下した。  飛び降りる――助かるのは俺のみ、却下。まず大鳥大尉に危険を知らせ――そんな余裕無し、却下。  停める。  停めるしかない。前に回って……  〈この列車を〉《・・・・・》、〈腕ずくで押し留めるしかない〉《・・・・・・・・・・・》! «それ、無茶ーーーーーーーっ!!»  惰性で走り続けているに過ぎない車両は、しかし、まだ充分に高速だ。  加えるに、鉄製の巨箱であるその重さ。  途方もない〈運動量〉《モーメンタム》が俺に襲い掛かる。    無理だ――――無理だ!  とてもこんなものは支えられない。  〈轢〉《ひ》き潰されぬようこらえるのが〈漸々〉《やっと》。  〈つっかえぼう〉《・・・・・・》の形になっている四肢がわずかにでも体勢を崩せば、その刹那、俺の肉体は車輪の下に消え失せるだろう。  村正の甲鉄も、一命を繋ぎ止める役には立つまい。  微弱な抵抗を受けて〈条鉄〉《レール》との間に摩擦を生じ、鋼の車輪が耳障りな音をかき鳴らす。  俺にはそれが、餌を目の前にした肉食獣の歯軋りとしか聞こえなかった。  幾度味わっても慣れることがない死の恐怖に、ともすれば手足の力を失ってしまいそうになる。  総身の意気を奮い起こして耐えた――負けてはならない。負けたら終わりだ。  俺も、中の二人も。    立ち向かう。腕を張り脚を張り。あまりにも膨大な質量を筋力のみで押し返す。  だが両足は際限なく滑る。  足裏は焼肉の鉄板さながらの高熱を発していた。  踏み留まれない。  列車は停まらない。停められない。  橋は――橋があった場所は何処だ。  あとどれだけの余裕がある。  列車が落ちるまで、あとどれだけ、 «御堂、後ろぉっ!!» 「――――ッッッ!!」  ぞわりと、〈項〉《うなじ》の毛が逆立つ。  〈空白〉《・・》の気配。  落ちる。  落ちる。  駄目だ。  そんな事は許せない。  彼女を死なせてはならない。           〝許しません。          殺します〟          〝決して許しません〟  俺は、    あの〈女性〉《ひと》を失ってはならないのだあッッッ!! 「…………」 「柿沢さん?」 「えぇ、雪車町です……」 「はァい。こちらからも見えましたよ。  見事に、どぼんっ、と落ちましたねぇ……へ、へ。お疲れ様でございます」 「ま、〈GHQ〉《スポンサー》への義理はこれで果たせたってもんでしょう……」 「……終わり?  いえ、いえ、まさか」 「そいつはまだですよ……。  ヘッ、ヘヘヘヘ」 「……これからが、〈あたしらの〉《・・・・・》本番です。  お気をつけて」 「――と。言ってるそばから、か。  けっ、けっ。けケケ。野郎ォ」 「〈来ますよ〉《・・・・》」 «……これからって言ってたー?» «…………» «予想外の退院かな?» 「貴ィッ様ァァァァァァーーーーーッッ!!」 «みっ……御堂!  落ち着いてっ! 冷静になって!» «〈母衣〉《ほろ》が割れるっ……!  ね、お願いだから――ねぇったら!» «……御堂ーーーっ!!» «毒薬と思ったら動物用興奮剤でしたー?» «黙れ喋るなァ!!»  〈煩〉《うるさ》い。  〈鬱陶〉《うっとう》しい。  わずらわしい。  あれの声を聞く一秒が憎い。  あれの姿を見る一秒が憎い。  あれを〈存在させておく〉《・・・・・・・》一秒が憎い。  よくも。  おのれ。  何という事を。  貴様は。  おのれ。  おのれ。  おのれ。  おのれ。  それだけは、してはならぬ事を。  ああ。  あああああアアアアアアア。  貴様は――――  墜ちろ。 «駄目――»  消えろ。 «御堂、聞いて!»  ばらばらになって、散って失せろぉ!! «あ――――くぅっ!»  敵騎が〈玩具〉《おもちゃ》のような武器を振りかざしている。  何だそれは。  馬鹿か。  そんな機能美の対極の最果てにある代物を掲げて、〈一端〉《いっぱし》の武者を気取るのか。  〈愚〉《おろ》か愚か愚か愚か。  醜い。  〈穢〉《きたな》い。  馬鹿げた武器を構える双腕も同様に愚劣。  およそ一切の武の〈術技〉《わざ》らしきものが無い。  あれは力で振り上げて力で打ち下ろすだけの〈構〉《かまえ》だ。  子供のちゃんばら遊びだ。  〈木樵〉《きこり》と云えば木樵に失礼だ。  棒の扱いを覚えた猿、そんなところだ。  無能。  貴様は空に踊る資格など持たない。  地の底に沈んで虫に食われていればいい。  何故そうしない。  そうさせてやる。  俺が貴様を地虫の餌にする。  見ろ。  馬鹿め。  素人の手から得物を奪うなど容易い。  攻撃の〈受形〉《うけかた》にも、色々とある。  威力を受け流す法、威力を吸収する法、威力を発揮させない法。  そして威力を叩き返す法。  攻撃者の両手に支えかねるほどの衝撃を伝えてやる受形というものが、剣術には有るのだ。  貴様は知らなかったろう。  こんな初歩の技法さえ。  貴様は戦場と遊技場を混同した蒙昧だ。  貴様は〈こんなところ〉《・・・・・・》へ、ただ遊びに来たのだ。  そして遊びで、    ――――殺したのだ!! «オアアアアアアアアアッッ!!»  体内の熱量を絞り込む。  収束。凝縮。加速。増長。  熱は電気を生み、電気が磁気を帯びる。  右衛門尉村正、蒐窮の一刀。  稲妻たる白刃は、金剛石と紙屑に同じ価値しか認めない。  既に武器も手放した、見てくればかりの〈木偶〉《でく》の坊が、万に一度でも防げようか。  否。 「邪魔をするな、村正!」 «待ちなさい!  本気なのっ!?» 「何が冗談に見える!」 «殺すつもり!?» 「〈つもり〉《・・・》で、何が不都合かッッ!!」  ……甲鉄から伝わる〈金打声〉《こえ》が、急に調子を変える。  平板に。冷徹に。  まさしく金属の〈音響〉《こえ》に。 «そう。  それが貴方の決断なら、私は止めない» «でも、わかってるんでしょうね?  私たちは〈村正〉《・・》» «敵だけを殺すことは許されない» 「――――――――」              善悪            相殺          一人の敵を殺したなら        一人の〈朋〉《とも》をも殺すべし «…………» 「…………く……」 「ぐォ……ッ!」 «……落ち着いて……» «まだあの二人が死んだのかどうかもわからない。うまく助かっているかもしれない。  どう考えたって簡単に三途の川を渡りそうな連中じゃないもの。……でしょう?» 「……」 «だから……捨て鉢にならないで。  ただの〈感情〉《・・》で誰かを殺したりしたくないのなら。せめて〈決断〉《・・》で為したいのなら» «今は、必要なことだけをするべきよ» 「…………」 «御堂» 「……致命的部位は避ける。  敵騎を無力化、然るのち大鳥大尉らの救助に向かう」 «諒解»  忌まわしき敵影を正面に捉える。  湧き上がる憤怒を胃の底で殺す。  今は想うな。  算盤を弾け。  冷たい計算だけをしろ。  撃墜する必要はない。  無力化で良い。  無駄な労力を支払うべきではない。  この後のためにも。  彼女を救出するのに、どれだけの作業が必要となるのか、わからないのだから……    あるいは、彼女の死を確かめるために、 「……ッッ」  想うな。  想うな。  今はただ斬ればいい。  武器もなく逃げる術もない、目の前の据物を、最低限度の威力で斬って最低限度の損傷を与えるのだ。 「しあッッ!!」 «――――え?» 「何だと……!?」  敵騎が、砕け散り――  その後を、剣光が薙いだ。  己の認識を反芻する。  ……〈順番〉《・・》を間違えてはいない。  敵騎は――俺が斬る前に砕けた。 「馬鹿な」  錯覚ならば、その自己否定で収まったろう。  しかし世界は何も変化しない。  敵騎は砕け、いなくなった。  もう何処にもいない。    何処に、も―― «な……御堂!  敵騎襲来ッ!!» 「何処だ!」 «どっ……何処ってっ……  〈あちこち〉《・・・・》から!!» 「――は?」  村正は人がましい心を濃く残しているところがあり、そのせいか稀に劒冑らしからぬ動揺を示す。  しかし、それにしてもこれは極め付けだった。  ……あちこち、とは何だ。 「言葉を返すぞ。落ち着け、村正。  俺は敵が何処から来るのかを訊いている」 «だ、だから!  上と下と後ろと……» 「おい」  一騎しかいない敵が、どうして、 «敵勢、〈四騎〉《・・》!!  来るっ!!» 「何ぃ!?」 「――――――」  脳髄は麻痺し、思考を止めた。  しかし、それでも別の何処かが稼動して、俺の意識野にいくつかの映像を投影した。  〈その答え〉《・・・・》を示そうと躍起だった。 «おかしいのよ。どう考えてみても。  私の見立て違いでないなら――あの武者は〈全速力で突っ込んできて〉《・・・・・・・・・・・》、〈そのまま〉《・・・・》、〈全力で〉《・・・》〈殴ってくる〉《・・・・・》» «熱量が十あるとして、それを合当理の稼動と筋力増強に五ずつ分配して〈いない〉《・・・》の。  どちらも十なの。……そんなこと、絶対に有り得ないのに»  熱量配分の異常  出所不明の打撃  攻撃を受ける前に壊れ――              ――――――〈分離〉《・・》? 「あ――――」 「ぐっ……がぁっ!?」  あれは、  そうなのか。あれは、  あれの正体は―― «ヘェェェッッド!!» «ボォォォディィ!!» «ラァァァイッッ!!» «レェェェェェフ!!» «〈合体だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〉《ガッタイダァァァァァァァァァァァ》!!»  四騎が集い。  一騎と成る。  そう。  〈四騎一体〉《・・・・》。  それが――この悪魔の正体なのだ! «何なのよ、それーーーーー!!» «骸骨アイランドで見つけた新種ですかもー»  答えになっていない妄言を返し、復元した怪物騎が迫り来る。  その手には――何処に隠し持っていたのか。新たな凶器があった。  〈連鎖刃〉《チェーン》が高速で回転し、身の毛もよだつ音を轟かせている…………。 「へ……へッ! クヘッヘヘヘ」 「いいね。いいねェェ。  その調子だァ……」 「その調子で――」 「村正どのを墜とせというのは、少々、注文が過ぎるかと」 「!!」 「動かれませぬよう。  脊椎を割ってしまいます」 「……お付きの婆さま……。  ご無事でしたかァ」 「この老体に寒中水泳はきつうございました。  さっきから震えが止まりませぬ」 「手元もいつ狂ってしまうやら……。  不穏な所作は厳に慎んでくださいませ」 「……けへ……」 「ヒェッッ!!」 「…………」 「密着の形から、身を沈めて抜き打ち。  ……躱せるかと思ったのですが」 「歳は食いたくないもので。  皮一枚、取られましたな」 「……げばッッ」 「ぐっ……ひ……」 「……犬死をなさる。  キャノン中佐に命懸けの忠義を捧げていたわけでもありますまい」 「お空の上の、愉快痛快ビックリマシンも。  面白い騎体である事は認めますが、惜しむらくは中身――」 「あの大半は単なる素人でございましょう?  薬物投与で反応速度と運動能力を引き上げられただけの俄か武者……違いますかな」 「…………」 「村正どのの敵とはなり得ませぬ」 「……へ、へ。  そう……」 「そうでしょう……ねェ」 「……?」 「野郎の勝つところ……  ……見てやりたかったぜぇ……」 「ヒヘ……ヘヘ……。  ヒェッヘヘヘヘヘヘヘヘ」 「へ……………………………………」 「…………」  太陽は西の空にあった。  もうじき山の〈端〉《は》へ沈み、夕暮れが訪れるだろう。  その前に決着をつけたいものだと、切に願った。  〈あんな代物〉《・・・・・》と昏い世界で対峙したくない、それだけでも理由としては足りる。 «敵騎至近!» 「つぁ――――」  だが、より切実な事情もあった。  現在の俺の身体状況を鑑みるに、この尋常ならざる〈勢威〉《パワー》を誇る敵と長時間に渡って鎬を削り合うのは……全くの無謀!  〈熱量〉《カロリー》が不足している! «死体とかはいい! 歯ブラシの色を言え!» 「……糞!  避け損ねたか!?」 «左肩甲鉄破損!!  何でよ、直撃でもないのにっ!»  手足が重い。鉛を詰められたようだ。  実際に詰まっているのは、自業自得という四文字であろうが。  逆上に任せて粗雑な猛攻を仕掛けた〈債務〉《ツケ》だ。  〈呼吸〉《ブレス》、〈燃焼〉《バーン》、〈血流〉《ブラッド》――武者として軽視すべからざる〈身体機能〉《3B》が全て狂ってしまっていた。  俺の戦闘能力は大幅に低下した状態にある。    対して、敵は前と同様、〈全速突進+全力攻撃〉《フルスピード・アンド・フルスイング》。  前と違うのはその武装だ。  〈回転鋸刀〉《チェーンソー》――それは本来叩き付けて使うような道具ではない筈だが、戦闘用に改良を加えられているせいなのか、そんな扱いでも充分に性能を発揮している。  最も重厚な肩部甲鉄を薄紙も同然に切り裂かれては、その見た目に安直な〈舞台装置〉《ステージセット》を嘲笑ってやる事もできなかった。 「何という裁断力だ」 «掠めて〈これ〉《・・》だと……  直撃した場合のことは、考えない方が心の健康に良さそうね» 「毒の斧を捨てさせたのは失敗だった。結果論だが……。  どれほど嫌らしくとも、あちらの方がまだしも対処は容易だった気がする」 «かもね……»  ……要するに。  我が状態は最悪で、敵は以前にも増して危険。  もう一撃たりと貰えない。  一撃で間違いなく、俺は戦闘継続能力を奪われる。  自ら招いたこの窮地は、自らの才知で脱する以外になかった。  この一合、そして次の一合が、おそらく俺の生死を分かつ山場となる。  ――戦術を組み立てよう。  今、〈勘〉《カン》任せの戦いをすれば命を落とす。  息を切らしたこの身体が、剛力の怪物を相手にして、如何にせば敗北を免れ得るか。  慎重に考慮して決めねばならない。  勝負に出るか、凌いで態勢を立て直すか、それとも。    ……いずれにせよ、一度決めたなら、もう修正する余裕は無いであろう。  誤りに気付いた時には死んでいるに違いない。  だから――今この一瞬に、よくよく考え抜いて決めなくては。  俺はまず、確認すべき事柄を脳裏にまとめた。  順々、手短に村正へと問う。 「陰義の使用は可能か?」 «今は自殺行為ね。比喩ではなくて» 「敵騎がまた〈分離〉《・・》して攻撃をかけてくる事はあると思うか?」 «どうかしら。  各個の騎体性能は大きく低下していたようだし……あれは奇襲か緊急回避のための〈機巧〉《からくり》で、何度も使っては来ないと思うけれど» 「……列車が落ちた地点はまだ近いか?」 «戦闘で移動したから、少し離れてる。  方角はほぼ真北よ»  良し。  最低限、訊くべきことは訊いた。これ以上の質問を重ねるゆとりも無い。  作戦手順を決定しよう。  まず、最初の一合は……  どう攻める?  どう防ぐ?  ではその次だ。  基本方針は……  どう戦う?  どう攻める?  どう防ぐ?  方角は?  ……決まった。  もう後戻りは利かない。  定めた道を突っ走るしかない! «接着剤でくっつけてねーーー!!»  敵騎が相変わらずの単調な大振り、しかし破壊力と速度は有り余っている一撃をもって襲う。  俺はそれに、 「しゃあッッ!!」  ――対手を凌ぐ暴威で応ず!  紙一重。  俺は敵騎の撃閃を掻い潜り、我が一刀を叩き込んだ。  手応え、充分……! «あと一撃、同じ箇所に打てれば!» 「戦闘能力を奪えそうだな」  あれが四騎合体であろうと、攻撃力の中核はやはり豪腕を備えた胴体部と見られる。  そこが脱落しては、残った三騎で交戦を継続するというわけにもゆくまい! 「うぬ!」  今は欲張るべきではない。  敵の攻勢を弱める程度の加撃で充分だ。  あえて必勝の気迫は乗せず、一刀する――  ……だが。  この種の剛力一芸の輩に対しては、斯様の中途半端な対応こそが、最悪の一手たるのではなかったか……。  結果は相打ちであった。    だが末路は違った――敵騎は蚊に刺された程の痛痒も見せず、俺は深傷から血と熱と命を取り〈零〉《こぼ》す。  俺の最後の幸運は、墜落の恐怖を味わう以前に絶命できたことである。  太刀を〈櫓形〉《ヤグラ》に構え、受け止める!  大兵剛力の鉄槌撃も、この堅守は打ち崩せまい―― «ちょっ!  相手の武器がどんな代物か忘れたの!?» 「思い出した」 «遅いんだけどっ!?»  剣で応じはしなかった。  今は攻めるべき機ではない。  敵の振り下ろしに捉えられる前に――〈越える〉《・・・》!  俺は兜角を引き上げ、瞬間的に加速した。 「――良し」 «綺麗に避けられた……  でも、危ないところだったかも»  技術こそ欠くが、敵騎の怪力と得物の凶悪さはその不足分を埋めて余りある。  こちらの技術に綻びがあれば一巻の終わりであったろう……。  一合を切り抜け、敵騎と互い違いに駆け別れる。    そして高度と速度を確保し直してから、相手と再び〈太刀打〉《タチウチ》に臨むのが武者の戦作法だ。  作法に則り、敵影を〈視界〉《モニター》へ戻す。  当然だ……大鳥大尉の生死を定かならぬものとしてくれた相手に、どうして背中を向けられるか!  あの不快極まる姿を叩き落とすまで、太刀は納められない。  俺は燻り続ける怒りと共に、進撃した。  打ち合う毎に増すばかりの〈威迫〉《プレッシャー》を纏い、〈有翼鬼兵〉《ガーゴイル》が攻め寄せる。  俺は―― 「しゃあッッ!!」  ――対手を凌ぐ暴威で応ず!  紙一重。  俺は敵騎の撃閃を掻い潜り、我が一刀を叩き込んだ。  手応え、充分……! «あと一撃、同じ箇所に打てれば!» 「戦闘能力を奪えそうだな」  あれが四騎合体であろうと、攻撃力の中核はやはり豪腕を備えた胴体部と見られる。  そこが脱落しては、残った三騎で交戦を継続するというわけにもゆくまい!  良し――このまま一気に押し込むべし!  もう一度!  先の一合と同じ箇所へ、強打を叩き込む! 「食らえ――」  …………何?  こ――――これは! (しまった)  俺は血の気を失った。    ……字義通りに。  体調が万全ではないと、わかっていながら!  全力の攻撃など続ければどうなるか、自明のことであったのに!  ここへきて…………熱量枯渇!  意識が急速に散漫となる。  指先の感覚が失われる。  いや、動かねば。  動いて、兎も角も敵騎の、  剣で応じはしなかった。  今は攻めるべき機ではない。  敵の振り下ろしに捉えられる前に――〈越える〉《・・・》!  俺は兜角を引き上げ、瞬間的に加速した。 「――良し」 «綺麗に避けられた……  でも、危ないところだったかも»  技術こそ欠くが、敵騎の怪力と得物の凶悪さはその不足分を埋めて余りある。  こちらの技術に綻びがあれば一巻の終わりであったろう……。  慎重に、精妙に戦い続けねばなるまい。  そうするうち、隙も見えてくる筈だ。  無理押しはせず、好機を待とう。  現状の最善手を繰り返す。  今は回避に徹するのだ。  拙攻は命取りになる。  ……だが。  戦場においては、無芸に同じ逃げ手を重ねることもまた、命取りではないのか……?  その作法を、この場は捨てる。  三六計逃げるに如かず、だ。  我強くして敵弱き時は争い、我弱くして敵強き時は争わず――これもまた兵法。  俺は兜角を下げ、退避に掛かった。 「……ぬう!?」  しまった。  先の一合――少ない体力を更に削って攻撃を掛けたせいか!  合当理に注ぐべき熱量が足りない。  速度がまるで上がらない。  これでは、離脱は不可能だ! «御堂、後ろから――» 「止むを得まい。  村正、反転!」 「交戦を継続――」  ……交戦を継続、しようとしたのだが。  どうしてか、俺にその機会は与えられなかった。  未来永劫。  針路は南へ。  列車事故の現場が北にある。だから南なのだ。  どうせ敵騎は追い縋って来る。  なら南へ向かっておけば、大鳥主従から引き離す事になり、一石二鳥というもの。  〈翼甲〉《ウィング》で風を切り、虚空を疾駆する。  村正の〈機動性能〉《あしこし》に問題はない。敵騎との間に距離を確保することは、どうにかできそうだ。  これでひとまず、攻撃される心配はない。  後は、このまま逃げ切れるかどうかだが…… 「……くっ」 «ちょっと御堂。  これじゃ危険よ» 「違う。  こうしなくては危険なのだ」 «? …………あっ。  そうね。忘れてた» «あのぶっといやつ!» 「敵騎は高速徹甲弾を隠し持っている。  ただ逃げては、あれの良い的だ」 「背後から撃ち抜かれ、その一発で沈む」 「だが――」 «こうして太陽に向かって〈騎航〉《と》べば、照準を合わせにくい。  ……なるほどね» 「このまま逃げられそうか?」 «待って» «敵騎、後方五五〇。  ……なかなか、簡単にはいかないみたいね» 「速いな……」 «向こうは熱量が単純計算で四人分だもの。  騎体重量を差し引いてもお釣りがくるんでしょ» «どうするの?  上や側面に回られたら、太陽も関係ないし……»  振り切れなかったか。  しかし、それは予測の範疇。 「こちらの体調は回復したな?」 «ええ。  熱管理、血流状況、共にさっきよりも改善してる» «戦闘続行に支障無しよ»  不調の原因は、熱量の消耗よりも身体機能の齟齬が大きかった。  前者は充分な休息を取らねば回復しないが、後者は乱れた心身を鎮静させるのみで復旧し得る。  短い戦闘離脱時間を使い、俺はそれに成功していた。 「ならば反転、応戦する」 «諒解!  今度こそ、決着をつけてやりましょう» «……ねえ» 「――――」 «思うんだけど……何か忘れてない?»  確かに。  何か……引っ掛かる。  今の状態は――――本当に、安全か? 「――!」  しかし。  俺は己の企図を己の意思で挫くほかなかった。  あれは……! 「いかぬ。  あれは不味い!」 «どうするの!?»  退避。  この場は退避が最善、いや唯一途。  身を翻す―― 「……なっ」 「……あ……」  〈速力〉《あし》が伸びない。  〈旋回〉《こし》が利かない。  先の一合で……不調の身体に鞭打って強攻を仕掛けたから――か!  この、肝心なところで…………熱量がッ!!  まさか、これは敵の策か。  俺が消耗したところを狙い撃つために、今まで切札を温存していたのか!?  不覚!!  戦闘の最初から再挑戦しますか?  対敵はやはり、どうにも素人であった。  武者の生命線である熱量の運用について、余りにも配慮がない。  終始、〈全開〉《フルスロットル》。  絵に描いたような猪突猛進ぶりは、無論、油断すべからざる暴威ではある。  が、こちらがそれに慣れてしまえば、ただの見切り易く〈捌〉《さば》き易い単調な突撃でしかなかった。  態勢を立て直した〈村正〉《おれ》は、敵騎の猛進に付き合う愚を戒め、勢いを受け流し、凌ぎ切る戦いに徹した。  その戦術の効果が顕れるまで、大して長い時間ではなかったろう。  四倍の熱量とて、無分別に放出すれば〈忽〉《たちま》ち尽く。  累代の財産がたった一人の浪費家に使い潰されるのと同じ事だ。  そうして、敵騎の〈破産〉《・・》は今や目前。    勝負はついていた。 «……結局は、前回の筋書きをなぞったのね» 「ああ」  劒冑の呟く通り。  急激に〈速力〉《あし》を鈍らせてゆく敵騎の様は、以前の対決における最後のそれとまるで変わりないものだった。  まともな戦闘機動は既に不可能だろう。  後は墜落の運命を待つばかりだ。 «どうする?»  指示を催促する声に、しばし黙する。  もはや、墜とすのは容易い――〈母衣〉《つばさ》に一刀、くれてやれば片が付く。  大鳥大尉の身を危うくしてくれた礼と思えば、そうするに何の躊躇いを覚えるでもない。  あの重装甲だ。多少荒っぽい降着をしても死にまではしないだろう。  この先、更に三度目の襲撃を行わせぬ為にも、それなりの損害を与えておく事は上策と思える。    だがそこまで考えても、気は乗らなかった。  ……勝負はついている。  何もせずとも、敵騎はこの〈戦場〉《そら》から脱落するのだ。なのに重ねて、相手を殺害してしまいかねない危険な追撃を掛ける意味があろうか。  再襲撃の恐れにしたところで、そう過剰に警戒するべきとは思われない。  敵戦力の程は把握している。既に脅威ではなかった。奇襲にさえ注意しておけば、難なくあしらえよう。  それに何より、今は一分一秒でも早くこの場を切り上げたい。  大鳥主従の安否確認こそが最優先課題なのだ。  格別の必要もなく追い討ちを掛け、敵騎の足掻きに付き合わされてこのうえ時間を費やすのは、いかにも愚行と思えた。  …………結論する。  俺は〈装甲通信〉《メタルエコー》の波長を敵騎に合わせた。 «交戦中の敵騎に告ぐ。  直ちに戦闘空域より離脱せよ» «当方は貴騎の熱量状況を看破している。  これ以上の戦闘継続は不可能と断定する» «…………» «当方に貴騎を撃墜する意思はない。  貴騎の所属及び目的を当方はほぼ推察しているが、勘案の上で早急に殲滅する必要なしと判断した» «貴騎が撤退するならば、追撃は一切行わず、当方も離脱する事を誓約する» «…………»  ……返答はない。 «繰り返す。  この空域より撤退せよ» «あくまで交戦継続を望むものならば、当方も応戦せざるを得ない。  既に理解されているものと信じるが、貴騎の戦力で当方を撃破する事は不可能である» «――――» «貴騎は戦闘技術において劣弱である。  その技量をもって怪奇な騎体を操り、ここまで交戦を継続した胆力は賞賛するが、引き時を見誤っては豪胆も無駄となろう» «当方の打倒を願うなら、まずは良き師範について武者の業を琢磨されるべし。  その為にも、今回は撤退しておく事が最善であると忠告する» «決断されよ»  返答はない。  返答は―――― «ゲッ……ゲヘヘヘヘヘヘ» «ヒェフェフェフェ……» «ヒャッヒャッヒャッヒャッ――» «アハハハ!  フフ、ハハハハハハハハハハ!»  ……返答は、ない。  返答と呼べるものは。 «御堂» 「……ッ」  決意を促す風の小声に、口の端を噛みながら太刀の柄を握り締める。  対手はやはり狂しているのか。筋道立てた会話など望むべくもなかったのか。  しかし、どうするというのだ。  敵騎にはもはや、着陸に必要な最低限度の熱量しか無いというのに。  何もできはしない筈――    だが悪意だけは増している。  黒い〈陽炎〉《かげろう》が網膜に映りそうな程。  ここに至って、敵騎の悪意は留まるところを知らなかった。 «知ってるって……» «オレ達の目的を» «でも、〈殺されない〉《・・・・・》んだ» «ヒェッ、ヒヒヒヒヒ» «オレ達に、逃げろとさ» «出直して、修行して来いって» «ギヒヒヒヒヒヒヒヒ!» 「………………」 «でも、勝てない» «勝てないね» «勝てねぇ» «クヒ……» «どうしようか» «どうする?» «ギッ……ギッギッ» «どうするって。  決まってるよ。ねぇ?» «うん» «そうだな» «グググギギ» «勝てなくたっていい» «殺せばいいんだ» «殺せばいい» «ギッ……グッ……» «殺そう» «殺そう» «殺そう» «ギファァァァァァァァァァァ!!» «御堂、あれ!» 「無駄な真似を!」  対竜騎兵用高速徹甲弾。  だが……あのような大砲、足腰もろくに定まらない状態で撃ってそうそう当たるものではない。  加えてこちらに、動かぬ的となって待っていてやる義理はなかった。  〈翼甲〉《つばさ》を打ち、回避機動に入る。  ……もう趨勢が覆らぬ事は悟っていように。  何故こうも、諦めを知らぬのか!  だがそれでも、これが最後の一手だろう。  この一弾さえ凌げば、あの怪物とて打つ手を失う筈。  この一弾、を―― «ぱーてぃ» «いーず» «おぉぉぉぉばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!» 「何――」 «ここで!?»  敵騎が――――分離する!  四騎に分かれ、〈撃ち出される〉《・・・・・・》。  それはつまり、 「特攻だと!?」  最後の熱量を費やして! 「くっ……!」  〈両脚〉《・・》の突撃を正面から受ける。  躱せる間合ではなかった。  肩と胸甲に被撃。  深刻なまでの損傷ではない――しかし刹那、動きを止められた。  不味い。  これが、敵の狙い……! «避けてッ!!»  どちらに?  上だ!  あの砲の死角である上へ―― «躱し……たっ!»  紙一重。  現世と黄泉の境界線を、〈こちら側〉《・・・・》へ転がり込む。  危なかった。  だが、これで敵の手は尽き、 「な」  まだ――――!?  ……駄目だ!  打撃が響いて動きが足りない!  砲門が追ってくる――――ッッ!? «……御堂!» «御堂、気を確かに持って!» 「…………」 「……あ……  ああ」  ……落ちている?  落ちているのか、俺は? «御堂!» 「――おおっ!!」 «危ない……» 「俺は気絶していたのか?」 «ほんの一、二秒ね。  敵の〈頭〉《・》の突撃を食らって» 「敵は……」 «終わりよ»  ……そう。  終わりだった。  悪魔を模す騎体は、ばらばらのまま、地を目指して墜落してゆく。  ……墜落、だった。降下ではない。  熱量を全て使い果たしたのだ。  〈合当理〉《バレル》も、〈翼甲〉《ウイング》も、こうなっては只の鉄に過ぎない。  彼らは単純な物理法則に支配され、落ちてゆく。  彼らは自身を救えない。俺も、救うことはできない。ここからどう手を伸ばそうと届かない。 「……この高さでは……」 «助からない» 「…………」 «あえて言うけれど、あれは全くの自滅よ。  貴方が気に病む必要はない» «……行きましょ。  することがあるんでしょう?» 「ああ」  頷きつつも、俺はその空を離れられなかった。    どうにも。どうしても、引っ掛かる。  彼らは――何だったのか。  解けない謎を胸に宿して、四騎の最期を見守る。  その一騎に、視線を注ぐ。  合体騎の頭部であったそれ。  最後の突撃のためか、甲鉄のあちこちに亀裂が出来ていた。 «許さない»  脳を打つ金打声。  これは――あの一騎から届いている。 «許さない» «絶対に許さないから»  甲鉄が割れる。  〈中のもの〉《・・・・》が現れる。 「――あ――」  あれ、は。  あれは――あの少女は、 「ああ……!?」  彼女は、  君は―――― 「来栖野……小夏!!」  記憶は曖昧だ。  自分自身が、もう良くわからない。  くるすのこなつ――という自分の名前であるはずの言葉に、何の意味があるのかと思う。  〈自分〉《・・》とは何だったか。  この、所々が欠けた、不出来なぬいぐるみのような身体のことだろうか。  それとも、重く澱んで、腐って、傷んで〈饐〉《す》えている、この〈精神〉《こころ》のことだろうか。  たぶん、その両方が自分なのだと思う。  なら自分は、あの病室で生まれたのだ。  白くて清潔だけれど、ひどく乾いていて冷たい部屋。  自分は、あそこから始まっている。  体も心も動かなかった。  何もできなかったし、何をすればいいのかもわからなかった。  何も思わなかったし、何を思えばいいのかもわからなかった。  何もわからなくて。  けれど、自分のすべてが〈終わってしまった〉《・・・・・・・・》ことだけはわかっていて。  だから動かない、動けないまま、そうしているしかなかった。 「――――」 「――――」  そんな自分の傍らに、二人の〈人間〉《ひと》がいた。  両親、という人たちだ。  その二人は力任せに作ったような笑顔で、良く意味のわからないことを繰り返していた。  元気を出して、とか。  生きていてくれただけでも良かった、とか。  ……元気を出すって、どういうことだろう。  ……生きているって、どういうことだろう。    わからない自分は、二人を見返すだけだった。  でもそのうち、二人は違うことを言ったのだ。  ――雄飛くんも無事で良かった。    と。  ゆうひ。  雄飛。  その言葉も、やっぱり曖昧で濁ってしまう。  けれど、どうしてか、その名前を思うと心に新しい何かが芽生えてきた。  それは、この動かない自分を動かそうとする、力に溢れた言葉だった。       〝おれたちは何も失くしてない〟      〝てめえの絶望に他人を巻き込むな!     おれたちはそんなに弱くねえッ!!〟  〈わたし〉《・・・》は初めて、口を動かした。    ――ゆうひに、あえる?  自分でも、なぜ口にしたのかわからない問いかけ。  二人はそれを聞くと驚き、すぐにとても嬉しそうな顔になって、会えるよと口々に答えた。  雄飛に会える。  その想いは、曖昧なままに、わたしの目的となった。  雄飛に会う。会えば、きっと何か変わる。  ……終わったものがもう一度始まる。  相変わらず、わたしは動けなかった。  けど動けずにいることに、目的が加わると、それは一つの〈行為〉《・・》になった。  待つ、という行為。    そして行為は自分というものに〈意味〉《・・》を生じさせた。  雄飛に会える時を待つ。    待っていると思えば辛くない――そう考えてみて、わたしは初めて自分がこれまで〈辛かったのだ〉《・・・・・・》と知った。  辛かったけれど、もう辛くない。  安堵のなか、わたしは待った。  待った。      ……………………………………………………けれど。  彼は、来なかった。  ある時、慌しい声に呼び出されて、両親は病室から出て行った。  ……最初に静寂が。  続いて苦悶の声が。  最後に、切れ切れの叫びが壁を越えて伝わってきた。   〝どうして〟               〝雄飛くんまでが〟  〝そんな、そんな馬鹿なこと〟            〝どうして!〟  ……………………  それきり両親は、わたしの側に寄り添うのをやめた。  時折現れて、差し入れの品を置いていってくれたりはしたけれど、決して長く留まらなかった。  早口で何かを言って、早足で去っていった。  わたしを恐れていた。  わたしが口を開いて、何か問い掛けることを恐れていた。  わたしも恐れていた。  両親に、〈何か〉《・・》を問うのが恐ろしかった。  だからわたしは、二人を引き止めなかった。  わたしは何かを待つものから、  何かを恐れ続けるものになった。  一転して、それは辛い時間だった。  動けないまま、わたしはただ辛い。  ずっとずっと、辛い。  ……いつからだろう。  その人が、わたしの病室に現れるようになったのは。  最初は、両親ではない人なのだから、医者という人の一人なのだろうと思った。  でも、その人と医者という人は全然違った。  いつか、どこかで会っているような気もした。  その人は、始めはただわたしを見ているだけだったと思う。  わたしを眺めて。気付くと、いなくなっていた。  それから――あれは何度目の来訪だったのか。  その人はいつものようにわたしを眺め。ふいに喋り出した。 〝知ってますか。  雄飛さんは亡くなられましたよ〟  と。  ……〈亡くなった〉《・・・・・》。  良く、わからない言葉だった。  だからわたしは何も答えなかった。その人は帰っていった。  けれど、しばらくするとまたやって来た。  そして言った。 〝雄飛さんは死にました〟  と。  何のことだかわからない。わからないわからない。  わたしは答えない。その人は帰る。  すぐにまた来た。 〝雄飛さんはもういませんよ〟  わからないわからないわからないわからない。  その人は帰る。  来た。 〝雄飛さんは来ません〟 〝いくら待っても、来ないんですよ〟  嘘だ!!  わたしは答えた。  そんなことはないと否定した。  その人は去った。 〝雄飛さんは殺されたんです〟  そんなの嘘だ。  知らない知らない。  わたしが言うと、その人は紙切れを一枚差し出した。            『死亡証明書』  意味のわからない記号が並んでいる。             『新田雄飛』  意味のわからない記号が並んでいる。 〝死んだんですよ……〟  知らない。  知らない。  そんなの嘘だ。  だってお父さんとお母さんが言ってた。  雄飛に会えるって言ってた。  雄飛は無事だったんだ!  雄飛は鈴川先生に殺されてなんていない! 〝はい。そうです。  鈴川じゃァ、ありません……〟  殺人犯は鈴川先生だった。  鈴川先生に殺されなかったなら、他の誰にも殺されたりなんかしない! 〝それが、いるんで。  鈴川なんぞより、ずぅっと、〈質〉《タチ》の良くねぇ野郎が〟  そんなのいない。  そんなの知らない。  雄飛には関係ない。 〝こいつを……〟  その人は、別の紙をわたしに見せた。  また、記号だ。わけのわからない記号。    『関東拘置所』『未決囚〇四八号』『罪状一覧』      『新田雄飛』『殺害容疑』『犯行自供』  見せないで。  こんなのわからない。知らない。   『未決囚〇四八号』   『湊斗景明』           『新田雄飛殺害』  わからない!  わからないんだってばっ!     『未決囚〇四八号』『湊斗景明』     『罪状』『新田雄飛』『殺害』  嫌だ。  知らないそんなの、嘘だ! 〝雄飛さんは〟 〝湊斗景明に、殺されたんですよ〟  嘘!  嘘!!  嘘っ!!       『未決囚〇四八号』『湊斗景明』     『罪状』『新田雄飛』『殺害』  嫌だ。  もう来ないで。  その紙を見せないで。  わからないから!  わからないけどわかるから! わかるから嫌なの!       『未決囚〇四八号』『湊斗景明』     『罪状』『新田雄飛』『殺害』  嫌だ!  見せないでよ!  その――疑うことのできない、冷たい記号が嫌っ!  その紙はあれと同じ。お父さんが時々家にも持って来る、仕事関係の書類と同じ。  漫画じゃない、小説じゃない、でたらめじゃない。  本当のことしか書いてない、冷たい紙。  法的文書とか呼ばれるもの……    そんなの見たくない!       『未決囚〇四八号』『湊斗景明』     『罪状』『新田雄飛』『殺害』  嘘!  嘘なのに、なんで本当が書いてあるのっ!  嘘なのになんで本当なの!?  そんなもの見せないでよっ!! 〝はァい……。  ま、こんなのは確かにどうでもいいんで〟 〝こんな紙切れ一枚有ろうが無かろうが、ねぇ?  事実は、事実……なんですからねぇ〟  嘘。 〝おわかりのはずです……〟 〝あたしみてぇな人間が、本当のところしか言わないなんざ、滅多にあるこっちゃねぇんですから……さァ。  へ、へ、へ〟 〝どうしたって……〈わかっちまう〉《・・・・・・》はずですよ〟  嘘。 〝いいですか〟 〝新田雄飛さんは殺されたんです〟 〝湊斗景明に殺されたんですよ……〟  嘘!  嘘………… 〝新田雄飛さんは殺されたんです〟 〝湊斗景明に殺されたんです〟  …………。 〝湊斗景明に殺されたんです〟  ……………………。 〝新田雄飛は湊斗景明に殺されたんですよ……〟 〝さァ……〟 〝どうしましょうか……ねェ……?〟  来ない。  雄飛は来ない。  雄飛が来てくれない。  どうして。  ずっと、一緒にいたのに。  いつも、いつも、一緒にいてくれたのに。  わたしが辛い時には、必ずそばにいてくれた。  最後には必ず助けてくれた。  どうして、今は来てくれないの。  一緒にいようよ。  会いたいよ。  雄飛といつまでも一緒にいたい。  本当は、ずっと昔から、そう思ってた。  だから……  どうして。  どうして来てくれないの。 〝殺されたんです〟 〝新田雄飛は殺されたんです〟 〝新田雄飛は湊斗景明に殺されたんです〟  ……湊斗景明?  ……湊斗景明……  湊斗景明、  湊斗景明ッ!! 〝へ、へ、へ……〟 〝んじゃァ……参りましょうか〟 〝〈お仲間〉《・・・》が待ってます……〟 «湊斗景明ッッッ!!»  憎悪の絶叫が俺の脳髄を貫通する。  怨念の槍。  復讐の〈鏃〉《やじり》。 «許さないっ!» «許さないぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!»  弾劾。  断罪。  彼女は知っているのだ。  俺が何をしたのか、彼女の大切な人に何をしたのか、知っているのだ。  あれは新田雄飛殺害の罪科を鳴らす、来栖野小夏の裁断宣告。  絶対無欠の正義表明。 「うっ――」 「ああああああアアアアアアアアアア!!」  だ――――駄目だ。  駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。  絶対に、絶対に駄目だッ!  彼女を死なせてはならない!!  死なせることは許されないっ!! «御堂!  もう無理よっ!» «やめて、このままだと――»  煩い!!  助ける。  助ける。  助ける。  助ける。  地表が近い。だからどうした。  このままゆけば俺も激突する。だからどうした。  無罪の少女に手を伸ばす。  ――――届かない!  こっちに!  こっちに寄ってくれっ!  少しでいい。ほんの少し。  俺の方へ、身体を寄せて―― «死ぬなァッッ!!» «死ねぇぇッッ!!» 「……くっ……」 「ぅぐ……」  足に力が入らない。折れているようだ。  肉という肉、皮膚という皮膚が熱い。あらゆる箇所を打撲したのだろう。  頭蓋の内側では割れ鐘が響いているし、内臓は全てねじれ返っている。  〈村正〉《つるぎ》の被害も同程度と〈思〉《おぼ》しい。応答が絶えていた。一時的な機能停止にでも陥っているのか。  だが相当の高速で地面に激突した事を思えば、これでも軽傷で済んだ方だと思わねばならなかった。  ……そんなことはどうだっていい。 (どこだ……)  そう遠くない所に落ちた筈だ。  最後まで俺を見据え……憎み……責めながら。彼女は――  確か、この辺りに、 「――――っ、あ――――」  来栖野小夏はそこにいた……      〈有った〉《・・・》。  残骸と呼ばれるべき姿で転がっていた。  鉄。肉。骨。肉。血。鉄……    少女はそこに、雑多に、散乱している。  しかしその中に、生命だけは存在しなかった。 「あ――う」  それ以外のものは、全てある。  肉体も、鉄の鎧も、ばらばらに壊れて存在している。  心も。  来栖野小夏の悪意は死して尚そこにあった。  視神経を尾のように引いた眼球が一つ、土の上から俺を見上げていた。            〝許さない〟           〝絶対に許さない〟  そう繰り返していた。 (何故?)  〈この現実〉《・・・・》は何だ。  どうして、来栖野小夏が俺を襲うのだ。  鎌倉を離れて会津にいる俺の前に現れ、劒冑を駆り、復讐の刃先を差しつけてきたのだ?  かつて鈴川令法の犠牲となり、重い障害を背負った彼女が、全てを独力でできた筈はない。  誰が協力を――――いや。そうだ。  雪車町。    あの男しか。あの〈筋者〉《すじもの》しかいない。  俺の殺害を企むあの男が、来栖野小夏を引き入れたのか。真実を教え、復讐を煽り、劒冑を与えたのか。  そうだ……あの男は言っていた。  俺を殺すのに、〈いい相手〉《・・・・》が待っていると。  相応しい奴が……と。 (……真逆)  あの異形騎は四騎にして一であった。  では――――他の三人も…………  折れた足で地面を蹴る。  転びながら走る。  胴体にあたる騎体が、そう遠くない所に落ちていた。  近付き、すがり、割れた甲鉄を引き剥がす。 「……ぁ……」 「貴方は」  柿沢信次郎。    原形を留めていた死顔は、俺にその姓名を思い起こさせた。  柿沢氏は〈常陸〉《ひたち》の名門武家。  六波羅に従って暴政搾取に加担する当主と、それを良しとしない信次郎の兄とが、家中を二分して争っていた……  そしてその両者を俺が斬った。  当主は〝卵〟に冒された武者であったから。信次郎の兄は――村正の〈誓約〉《のろい》が求める贄に選ばれて。  およそ半年前の事である。    ……彼、柿沢信次郎は、頑固だが善良な兄を、深く敬慕していた。 「あ、ああ」  ……右足を成した騎体があった。  甲鉄の下から現れた死人の顔は、俺が以前に殺した、ある人物と酷似していた。  ごく近い血縁者なのだろう。……実子かもしれない。 「うあ、あああああ」  左足の騎体。  死体の顔に覚えはなかった。  だが、死体が大切そうに身につけていた写真には、俺の記憶にある姿が写っていた。俺の手で殺した人間だった。  恋人だったのだろうか。 「ぐぅ――うぅぅぅぉぉ」  四人が死んでいる。  俺を憎む理由のあった四人が死んでいる。  正義の下に俺を罰す権利を持っていた四人が死んでいる。  四人の正当な復讐者が死んでいる。  そして俺は生きている。  ……彼らに殺されるべき俺が、俺を殺すべき彼らを殺し返して、生き延びている。  不当にも。非道にも。悪逆にも理不尽にも。  湊斗景明だけが生きている。 「――――――――」 「ぎィアアアアアアアアアアアアアアアア!!」  死んだッ!  殺したッ!  俺が殺した!  俺が死なせた!  彼らに何の罪があったのだ。  罪があったのは俺なのに。  彼らは正しく復讐を果たそうとしていた――  そうだ。ただそれだけだった。  それの何が悪い?  それの何が間違っている?  俺が殺される事が正しかったのだ。  事実は正逆!!  湊斗景明はまたも殺した。  いや遂に、何の理由もなしに人を殺した。  彼らは〝卵〟に冒された者ではなかった。  俺は村正の呪戒に縛られてはいなかった。  彼らが死すべき理由は何処にもなかった。  なのに死なせた。  殺した。殺した……  柿沢信次郎は、兄の仇を討ちたかったに違いない。  来栖野小夏は、新田雄飛の無念を晴らしたかったに違いない。  正しい!  正義だ!  彼らには湊斗景明を殺す天理があった。  だが俺は殺させなかった。  己の罪もわきまえず、裁きの剣に抗った。  あまつさえ、彼らを死なせた!  殺した!! 「ゲ――ゲベッ、ェァァァ」  嘔吐する。  胃の内容物を〈悉〉《ことごと》く、吐き散らした。  それでも止まらない。  止まらないから胃液を吐く。血を吐く。  それでも止まらない。  自己嫌悪は止まらない。  湊斗景明に対する嫌悪が――    否。そんな柔らかい言葉では足りない。  憎悪だ。  自己憎悪。 (許せない)  湊斗景明を許せない。  存在する事実を許容できない。  こんな男はいてはならない。  こんな邪悪を認めてはならない。  その存在が正義への凌辱。  湊斗景明は、  〈断罪さ〉《さばか》れねばならない男なのだ。 「……大尉……」 「大鳥大尉ぃぃぃ!!」  嗚咽しながら、俺はその名を呼んだ。  俺にとって〈法の女神〉《フーリエ》にも等しい女性を呼んだ。  あの人だ。  あの人しかいない。  湊斗景明を許さないと誓った。  湊斗景明を殺すと誓った。  あの人だけが、湊斗景明の罪業を〈贖〉《あがな》える。  あの人だけが――  湊斗景明に、正義の実在を示してくれる。  悪の勝利を許さず滅ぼし、  善の死を無価値から救う。  ああ。  大尉。  大鳥香奈枝。  貴方、だけが―――― 「――――――――――――――――」 「邦氏殿下。花枝様。  間もなく刻限でございます」 「……」 「……」 「どうぞ、お支度を」 「うむ……」 「……」 「いや、だが……  獅子吼よ」 「殿下。  この度の婚約の意義は、既に幾度もご説明致しました通り」 「鎌倉奪還の為、避けられぬ〈階〉《きざはし》でございます」 「それは……わかっている。  わかっているが、」 「おわかりならば、従われませ。  殿下は六波羅の――大和の命運を担うべく生まれつかれた御方」 「されば己一個の意思などお捨てあれ。  何事を決めるにも、偏に国家の利害のみを考慮されれば宜しゅうございます」 「――――」 「し、獅子吼殿。お言葉が過ぎましょうぞ!」 「……〈過ぎる〉《・・・》?  何が過ぎている」 「俺は現実をお話ししているだけだ、〈局〉《つぼね》。  それとも貴様は、俺の言葉に嘘偽りが少しでもあったと云うのか」 「そ……そうは申しませぬが――」 「そうは申さぬ?  では俺の言葉が正しいと知りつつ、それを曲げて殿下に伝えさせようとしたのか」 「君側の奸」 「なっ」 「殿下の御側に侍る資格なし。  除けろ」 「はッ」 「で、殿下ぁ!」 「ま――待て!」 「殿下」 「……っ!」 「繰り返し申し上げます。  現実をご説明致します」 「〈足利邦氏〉《・・・・》など、何の価値もない。  価値があるのは〈源氏長者〉《げんじのちょうじゃ》であり、竜軍元帥であり、〈正三位六衛大将領〉《しょうさんみりくえたいしょうりょう》」 「……宜しいか。  これより後は何事をなさるにも、この理をわきまえられませ」 「………………」 「殿下。  御命令を」 「……支度をして参る。  しばし待て」 「はッ!」 「……」 「花枝様も、お願い致します」 「……」 「何か?」 「〈狗畜〉《いぬ》」 「――――」 「お言葉、承りました。  ではお支度を」 「蒙昧」 「……」 「お気が済まれましたら、どうか控えの間へ。  係りの者が花枝様をお待ちしております」 「うんこ」 「……………………」 「お前の言葉なんてうんこにしか聞こえんわ。  うんこうんこうんこうんこうんこうんこ」 「――〈食わせ者め〉《ライアー》」 「……ぐっ……」 「貴方様のその、下劣な品性だけは遂に叩き直して差し上げられなかった。  〈僭上者〉《せんじょうもの》の血は争えぬということか。貴方の姉君もそうであられた」 「〈こんな代物〉《・・・・・》を大君の后に擬さねばならんとは……大鳥千年の恥に他ならぬ。  全てはこの獅子吼の力が足りなかった故」 「どうかお許しあれ、花枝様」 「くっ……ぁ」 「事が成った暁には……  今度こそ、念入りに調教を施し――多少は人がましくして差し上げましょう程に」 「……っの……!  はな、せっ……変態!」 「……」 「ッ!」 「……ぺっ。  狗畜野郎は血も不味い。最低だ」 「狗畜すら、無闇に人を噛みはせぬものを。  貴方様の性根はよくよく捻じ曲がっているらしい」 「だが見限りはせぬ。  雄飛様を戴く望みが潰えた以上、大鳥家の主は貴方しかいないのだ」 「……」 「いずれは邦氏殿下との間に生まれし御子を貰い受けるとしても、〈繋ぎ〉《・・》が要る……。  せめてそのくらいは務まるよう矯正させて頂く故、覚悟しておかれよ」 「覚悟ならお前がしとけや!  いつまでもその首、胴体にくっついてると思うなよ」 「……」 「……」 「花枝様をお連れしろ」 「は――はッ!」 「では御館様、こちらへ……」 「……」 「な……何だぁ!?」 「……爆発……?」 「――――」 「榴弾砲……だと?」 「…………」 「……ッッ!!」  正門はほとんど一瞬の内に突破した。  門衛はやにわの〈砲撃〉《・・》に両目を瞬かせつつ口を開ける以外、何もできなかったようだ。  それを指して惰弱、無警戒と〈謗〉《そし》るのは酷だろう。 「一気に抜けますよ、お嬢さま!」 「おーらいっ!」  篠川の大鳥本家邸宅は実に広大であり、正門から奥屋敷まで数キロの道のりはあるに違いない。  しかし、この分ではそれこそあっという間だろう。  道筋を迷わない点に不思議はなかった。俺にとっては未知の地でも、大鳥主従にすればここは〈我が家〉《ホーム》。  構造を把握していて当然だ。  当然で済まないのはこの速度である。  時速一〇〇キロ――あるいは一五〇キロに迫ろうか。  これだけの速度を出しながら然程の揺れもないのは、見事というより、もはや異様と評するべきだった。  〈往年の名車〉《プリンス・ヘンリー》はまさしく風のように地を滑る。  道々の警備隊も高貴なる暴走車を眺め送るばかり。  たまに、状況判断の早い隊が行く手に展開しても、 「そこの車両、停まれ!」 「停まらねば撃つ――って聞けよぉ!!」 「スワヒリ語でお言いなさい!」 「気が違う人に言葉は無駄でございますぞ、警備の方々!」  ……手本のような〈電撃戦〉《ブリッツクリーク》の前には無益であった。  蜘蛛の子を散らしてへたり込む警備兵らの姿を背後に見送り、少なからぬ同情を覚えつつ呟く。 「これは無い」 「有り得ませんな」 「ほんとね」 「…………」 「全員そう思っていて、何故こんな正面突破作戦になったのでしょうか」 「成り行きかと」 「作戦を考えているあいだに、篠川へ着いてしまったからかしら?」 「だからと言って、そのまま突っ込む理由は何処にも無かったのでは……」 「まったくその通りでございますな。  湊斗さま、そういう叡智はもう少し早めに披露してくださいませんと」 「そうねぇ。  もう、困った御方っ」 「………………今後は留意しておきます」  何をどう留意すれば良いのやらまるでわからないが。 「ま、結果的には図に当たりましたかと。  篠川でもたもたしていればたちまち公方府の諜報網に引っ掛かり、先手を打たれたやもしれませぬし――」 「婚約の儀と軍の再編を同時に進める無理が、さしもの獅子吼殿をしても本邸の警備に粗を生じさせてしまった模様でございます。  でなくば、こうも容易くは参りますまい」 「……は。ところで。  その、先程から景気良く乱発しているそれは一体」 「英軍横流しの〈擲弾筒〉《ヘビーフィスト》でございますよ」  言いながら、さよ侍従は運転の傍ら器用にその兵器を準備して、撃ち放った。  前方に布陣しかけていた警備兵の一団が泡を食って散開する。 「年代物ですが、なかなか侮れぬもので」 「どうやってそんな物を」 「さて? さよも詳しいところは存じませぬ。  この車と共々、手配してくださった〈永倉家〉《いえ》の〈義兄〉《あに》に訊いてみませんことには……」 「不思議よねー。  こんなの何処で売ってるのかしら?」 「…………」  永倉家というのも、一筋縄ではいかない家のようだ。  世評に大鳥家の〈黒幕〉《・・》などと囁かれるのも、あながち根も葉もなき事とは言えないらしい。  ……さよ侍従のこれまでの行状を思うなら、こんな感慨は今更なのかもしれないが。 「そろそろ奥屋敷でございます。  皆様、ご用意を!」 「ええ!」 「承知」  正門を突き抜けて以来幾つとなくやり過ごしてきた建物と比べても、一際広壮な屋敷の前で老侍従の操る車は急停止した。  タイヤが悲鳴を上げ、焦げ臭い匂いが鼻腔をつく。 「では――」 「また後ほど」 「どうかご無事で」  交わす言葉は、ごく短く。  ここからの手筈だけはあらかじめ定めてあった。  俺は銀星号ないしその関係物を探す。  香奈枝嬢は大鳥獅子吼を狙う。さよ侍従は玄関前に踏み留まり、屋敷内外の敵戦力を分断する。  中途での合流、相互支援は考えない。  次に会うのは各々が目的を遂げ、この屋敷から脱出する時。  つまり、為すべき事はごく〈単純〉《シンプル》だ。  確認をとる必要もない。  俺は荷台にいた村正と共に、車上から躍り出た。 「景明さま」 「はっ――?」  無い筈の制止に振り返り。  その刹那、時間が停止した。  ――――――――。  体温が近い。  彼女の、肌の匂い、髪の香りが近い。  触れている。  ただ一点で。柔らかく。そっと――淡雪めく感触のそれ。  唇を、合わされている。  愚鈍な頭脳がそう気付くのに、数秒を要した。  何の技巧もない。  皮膚と皮膚を接触させているだけ。  子供がするような接吻だった。  ひどく不器用で。  けれど無心に。  ひた真っ直ぐな求めの行為を、受け入れる。  どうしてか、抵抗力というものが俺の〈裡〉《うち》から失われていた。  ……意味もわからないまま。  俺は大尉と、愛情の行為を模倣する。 「――確かめてきますから」  唇を触れさせた、その距離で。  彼女はそんな言葉を囁いたようだった。  確かめる。    ――――何を?  問う間は与えられなかった。  接してきた時と同じ、飛鳥の素早さで大尉は身体を翻すと、手にライフルとバスケースを携えて屋敷の中へ躍り込んでゆく。  ……それを呆然と見送ったのは一瞬。  既に戦闘状況は開始されている。こんな所で佇んでいても貴重な時間を下水に流すばかりだった。  猶予はならない。  俺は劒冑を呼んだ。 「村正!」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」 「…………」 «…………» 「……村正。  なんか、今、すごく痛かったのだが」 «気のせいでしょ» 「何者かッ!  ここは釈天御由緒家、〈当麻真人〉《たいまのまひと》大鳥の邸宅である!」 「無法の侵略を迎えるに剣林弾雨を以てするほか一切の礼はなきものと心得よ!  神妙に投降するならば良し、さあらずんば幽明〈境〉《さかい》を〈異〉《こと》にせん!!」 「あらあら。  流石は腐っても大鳥家、なかなかのご口上」 「普通なら『死ねやおらー』で済ますところですのにね?」 「止まれ!  それ以上の武装進入は容認しない!」 「従わずば射殺する!!」 「…………」 「名乗れ」 「名乗れと言われて、名乗れましょうか……」 「名乗れ!」 「――――」 「今日は祝賀の日だ……だからといって血を厭う忍耐がいつまでも続くと思われては困る。  女、従え!」 「断る」 「……貴様……!」 「下僕に詰問されて名乗る主が何処にいるか。  吠える前に分際を知れ」 「……何?」 「何だと……」 「わけのわからんことを!  鳥羽様、取り合う必要はありません」 「とにかく武装を解除させましょう。  女、銃を捨てろ! 他にも武装があるならそれもだ!」 「……武装……?」 「――――」 「なっ……おい……」 「これを……どうして欲しいと?」 「……う、うろたえるな!  虚仮威しに過ぎん」 「武器がどれだけあろうと一人は一人だ!」 「わ――わかってる。  その武装を全て捨てろ、女!!」 「…………」 「う……」 「この――あくまで従わぬ気か!」 「鳥羽様、宜しいな!?  総員、その女を――」 「い、いや!  待て、待っ――」 「バロウズ。〝〈調弦〉《チューニング》〟〈開始〉《スタート》」 「……ぉ……」 「『その女を』?」 「そ、その女を……  うっ、う――」 「撃」 「銃口を向けてから呼吸を置くな、鈍骨!!」 「あ……あぃっ……」 「…………」 「通る」 「……あ、貴方は……  貴方様は……あ、あ、かっ、」 「香奈枝様ッッ!?」 「……」 「な――何ゆえに……」 「何ゆえ……?」 「…………」 「わからないのか。  〈大鳥香奈枝が帰還した〉《・・・・・・・・・・》。その理由がわからないのか」 「本当にわからないのか。  それとも、恐ろしくて、わからないふりをしたいだけか」 「――ひ――」 「〈回答一〉《アンサーワン》、〈復讐〉《リベンジ》!!」 「〈回答二〉《アンサーツー》、〈殺戮〉《スローター》!!」 「〈回答三〉《アンサースリー》、〈復讐〉《リベンジ》!!  〈回答四〉《アンサーフォー》、〈復讐〉《リベンジ》!!  〈回答五〉《アンサーファイブ》、〈復讐〉《リベンジ》!!」 「〈以下同様〉《アンド・ソウ・オン》!!」 「ひっ……ひぃぁぁぁァァァァァァァァ!?」 「……館内に突入を許した、だと?」 「邦氏殿下もおられるのだぞ!!」 「めっ、面目次第もございません!」 「襲撃者の戦力は」 「車一台で攻め入ってきたとの報告ですので……せいぜい数人かと思われます」 「たかが数人を止められなかったのか。  この屋敷へ突き進む車を、貴様らは赤信号の横断歩道に立っているような心地で、ただ見送っていたと言うのか?」 「はっ……し、しかし……  閣下もご承知であられます通り、今現在、ここ本邸の〈防備〉《そなえ》は万全とは言い難く……」 「……ちっ」 「…………」 (何者だ?  國境を突破した進駐軍の工作部隊か) (いや……GHQの手先がどうして、こんな馬鹿げた襲撃をする?  あの豚どもならもう少し利口に立ち回る) (これは……〈理に合わない〉《・・・・・・》。  つまり、物の道理などとうに振り捨てた輩の仕業だ) (単純愚劣な暴力。  思慮も分別もなく……ただこうしたいからこうするのだと言わんばかりのやり方) (これは……誰だ?) 「かかっ、かっ、閣下ァ!  中将閣下ッ!!」 「騒がしい!  花枝様の御前だ!」 「も、申し訳……  いえ、その花枝様のっ」 「花枝様の!!」 「……?」 「見苦しいぞ、鳥羽!  貴様ほどの男がその醜態はどうした!」 「亡霊でも見たか」 「ぼ、亡霊……亡霊、そうです。  あの獣。あの魔物。あのおぞましい、あの狂人がッ」 「大和から放逐されて、もうとっくに野垂れ死んだと思っていたのに……!  どっ、どっ、どうして、今更」 「……」 「ちっ――中将閣下!?」 「……多少は正気が戻ったか?  なら聞け。俺は今、役立たずの戯言に付き合いたい気分ではない」 「簡潔に報告しろ。  何があった?」 「――あ、姉君です」 「何?」 「花枝様の御姉君!  香奈枝様が、お帰りになられました!!」 「――――」 「…………………………」 「……う、嘘?」 「お帰りになったのです!  我々を殺しに戻って来られたのです!」 「我々は皆殺しにされるのですッ!  も、もう駄目です。我々は餌にされます!あの〈蟻地獄〉《アリジゴク》のような女が満足する為の餌にィ――」 「…………」 「か、閣下!?」 「騒ぐな。  花枝様の御前である」 「で、でで、ですが。  香奈枝様が戻られたと――」 「あの……〈あの〉《・・》香奈枝様が……  非常に、その、途轍もなく危険なのでは!?」 「……何度言わせる気だ?」 「――――」 「別に何程の事でもない。  襲撃者の正体がわかったというだけだ」 「は……はッ」 「迎撃に出る」 「……閣下が御自ら!?」 「鳥羽さえこの始末ではな。俺が指揮を執らねばどうにもなるまい。  貴様らは花枝様を奥へお移ししろ」 「それと、表の武者どもを館内に呼び戻しておけ」 「りょ、了解いたしましたッ!」 「…………」  屋敷の内部では急激に混乱が広がっている。  香奈枝嬢は随分と派手にやっているようだ。  隠れもない深紅の甲鉄の〈村正〉《おれ》に対して、大鳥家の兵は組織的な迎撃をする様子がない。  情報がまともに伝わっていないのだろう。  遭遇するのは数人以下の兵、それも大概は向こうが驚いている間に太刀も合わせず突破できた。  中にはこちらを家中の武者と思ったのか、一瞥だけして慌しく走り去ってしまった者すらいる。  高度な訓練を受けた親衛兵なら、まず犯さないような大失態だ。  つまりはそれ程に、弑逆された前当主の娘の来寇という事態が深い衝撃を及ぼしているのだろう。 «それにしてもって思うけれどね。  〈音波〉《なみ》を拾ってみれば、誰も彼もが其処彼処で香奈枝香奈枝香奈枝香奈枝――» «ここまで動揺しなくてもいいんじゃない?  それとも、この家の士卒はよっぽど主筋への忠誠心が厚いのかしら» 「違う。  そういう事ではない」  俺は断言した。 「彼らは単に恐ろしいのだ。  大鳥香奈枝が恐ろしくて堪らないのだ」 «……まるであの連中の心が読めるみたいな言い草ね?» 「読める」  造作もない。  自分自身の心を覗いてみれば済む話だ。  論理を超えた畏怖。  俺と彼らは彼女にとって同じ立場にある。  俺があの日、〈GHQ〉《ヨコハマ》の一室で、大鳥香奈枝の殺意を理解したように。彼らも――何らかの体験で――同じものを知るのなら、抱く想念とて等しくなろう道理だ。  〈大鳥香奈枝に復讐される〉《・・・・・・・・・・・》。  あの殺意に狙われるという、この――――心地。 「それより、方角は」 «こっちで間違いない。  ……本当に良くわかる» «これほど濃密な〈香気〉《けはい》は初めて。  一体、何があったわけ……?» 「…………」  村正は、篠川に入った時点で断定していた。  〈あそこ〉《・・・》に銀星号がいる、と。  正確に、大鳥家本邸の方角そして距離を示した。    このような事はかつて無い。  銀星号の香気は漠然としたものだと、村正は常々、俺に告げていた。  目視すれば特定できるが、それまでは大まかな方向程度、それも少し距離が開けばわからなくなる――と。  だがその香気が、今回は異常らしい。  村正は極めて明確に所在を掴んでいる様子だ。 «……どうも、下のようね» 「下?」 «地下よ。  そう深くはない……多分、このすぐ下の階» «……どうする?  方角はこちらで間違ってないけれど、階段が無かったら困るでしょうね» «床を斬り破る?» 「銀星号が如何なる状態にあるのかわからん。  危険を誘発するような真似は避けたい所だが……」 「あひぃぃぃぃぃぃぃっ!!  香奈枝様ッ、お許しをぉぉぉぉぉ!!」 「……」 「ちがっ、違うんです違います香奈枝様!  我々は獅子吼様の御命令に従っただけで、お父様に対する叛意など微塵もっ」 「……」 「くフ」 「なッ」 「う――」 「…………あ……」 「――――――――」 「――まっ、待った!  香奈枝様、そこまで!」 「……」 「お見忘れではございますまい! こちらにおわすは御妹君、花枝様であらせられます!  ……巻き添えにしても良いとお思いか!?」 「……」 「銃をっ――銃を下ろされませ!」 「なぜ?」 「……はっ?」 「なぜ、銃を下ろす必要がある?」 「な、なぜって……  …………当たっちゃうよ?」 「……」 「ばか」 「え?」 「……」 「そ、そんな……」 「……」 「……」 「〈久しぶりね愛する妹〉《ろんたいむのーしー、まいしすたー》。  〈元気だったかしら〉《はうあーゆ》――」 「…………」 「……あのぅ……。  どうしてわたくし、血を分けた妹と感動の再会を果たした瞬間にヒモですっ転ばされてあまつさえ頭を踏まれてるのかしら……?」 「弾が耳の横かすめた。  火傷した。髪の毛も少しちぎれた。なんか文句あるか、どちくしょう」 「ごめんなさい。  次はもう少し正確に狙います」 「なんで捻り込むの!? 踵を!」 「今、『正確に』と『狙います』のあいだになんか聞こえた」 「空耳ではなくって?」 「そうじゃないことは神さまが知ってる」 「ううっ、妹に信じてもらえない。悲しい」 「その嘘泣きで不信度五〇%アップだよ」 「それはともかくそろそろ足どけてくださらない?  何を隠そうこのわたくし、床板に顔を擦り付けるのってあまり好きではなくて」 「その前に訊くことがある」 「後じゃだめなの?」 「だめ。  返答次第ではこのまま首を折るから」 「…………」 「なに?」 「雄飛くんを殺したのはあんたか」 「――――」 「それ、本気で訊いてる?」 「………………ごめん。  言ってみただけ」 「ふぅ。  ひどい妹、髪にほこりがついちゃった」 「雄飛くんが死んだことは知ってるんだ」 「ええ」 「犯人は?」 「……」 「知ってるらしい」 「そのことは、任せて頂けません?」 「一人で片付けるつもり?」 「…………ええ」 「わたしは彼の許嫁」 「それでも」 「…………。  後で説明くらいはしてくれる?」 「そうね……」 「……」 「あいまいな言葉でお茶を濁しやがった」 「ごめんなさい」 「…………」 「それで、何しに帰ってきたの」 「愛しの妹の窮地に華麗な参上をするために」 「……華麗な参上が目的なんだ」 「ちゃんとついでに助けて差し上げましてよ」 「どういう風の吹きまわし?」 「不思議?」 「不思議だよ。  これまでは余計な手出ししないで、ほっといてくれたでしょうが」 「それが一番いいと思ってましたから。  あなたがどんな風に〈あの男〉《・・・》を始末するのか、興味もありましたし」 「なら、どうして今さら来たの」 「情勢を見て」 「情勢?  ――――あぁ。そういうこと」 「獅子吼を殺して、進駐軍との開戦を避けるつもりなのね」 「ご明察」 「確かに有効な手だけど。  ……そういうつもりなら、わたしに任せておいて」 「獅子吼はあと三年生かす」 「あの〈異人の孫〉《クォーター》を生かしておくと、要らない人死がざくざく増えましてよ?」 「でも三年後には、ぜんぶ取り戻せる」 「全部?」 「大鳥。  幕府。  関東。  大和」 「大陸」 「…………」 「疑う?」 「疑えたら、おねえちゃんこんなにビクビクしなくて済むんだけど」 「今日は帰って。  さっき獅子吼が外の武者を呼び戻していたから、うまく行き違いになるように」 「そっちは大丈夫。  さよに玄関を守らせてあるから。わたくしが獅子吼を殺すまで、誰も通れません」 「……話、ちゃんと聞いてた?  獅子吼の始末は、わたしに任せろっての」 「質問」 「なに?」 「邦氏殿下と結婚させられてもいいの?」 「――――」 「……殿下は、悪い子じゃない」 「それ、交際の申し出を断る時の定番台詞」 「うるさいな。  もともと、大鳥のような家に生まれついて、好きな相手と結婚できる方がおかしいんだ」 「政略結婚は貴族の義務ですものねー」 「そうだよ……」 「でも一度、夢を見てしまいました」 「夢?」 「政略だけど。親の決めたことだけど。  それでも妹の結婚は、好きな人と結ばれる、幸福なものになる……」 「そんな夢」 「…………」 「人間、手に入れたと思ったものを失った時が、一番貪欲になるのよねぇ」 「……どうしろってのさ」 「妥協しないで、いつか政略的にもオッケーかつ愛のある結婚をしてくださらない?」 「無茶言いやがる」 「あなたの奸佞邪智をもってすればそんなの簡単よ」 「保証されてる気にならんわ」 「さー、妹の未来の恋路のために。  邪魔する男を、馬に代わって蹴り殺してきましょうか」 「……あんたは、それでいいの?」 「なにが?」 「だって。  獅子吼は、あんたの――」 「ええ。  〈だから〉《・・・》」 「わたくしの手で決着をつけたい。  ごめんなさいね、花枝。ほんとうの理由はこっち」 「あの男を、あなたに譲りたくないの」 「…………」 「大義名分が出来なければ、我慢するつもりでいたのだけれど。  出来ちゃったのよね、〈名分〉《これ》が」 「あの男をいま殺しておく事は、大和の多くの人々の命を救う事になる。  そして、あの男をいま殺せるのはわたくしだけ。あなたにはできない」 「……姉さん」 「だから、あなたに任せるのはやめ。  いいこと花枝?」 「姉さんの〈楽しみ〉《・・・》を邪魔してはだめよ」 「…………。  これがほかの人間の台詞だったら、へたな気遣いするなって言うとこだけど」 「なんも言えない。  この姉は〈本気〉《・・》だ。ただ単に」 「YES」 「『精神状態が普通ではない人』という意味の単語をわたしが今あんたに向かって言ったと思いなさい」 「あなたに言われるとへこむ単語ねー……」 「父さんの仇討ちまで独り占めする気?」 「妹のものは姉のもの。  姉のものは姉のもの」 「…………」 「獅子吼はついさっき、あんたを迎え撃ちに出ていった。  たぶん、ホールに向かったんだと思う」 「あら……そちらから来ましたのに。  どこで入れ違いになったのかしら」 「よっぽど縁が無いみたいね、あの男とは」 「本当に縁が無ければ幸いだったがな。  ……生憎と、とっくに出会っている」 「!?」 「獅子吼!?  ……姉さん!」 「ぐ……!」 「三分と五〇秒前から背後に〈従〉《つ》いていたわ。  気付かなかったのか間抜けめ……」 「貴様の邪眼は相変わらず、見るべきものに限って見えんらしいな。  大義も信義も、いっかな宿さん。そのくせ余計なものはよく映す……」 「愚にもつかぬ下衆の眼だ!  卑しくも大鳥の家系に連なる者が、何ゆえ王者の眼を持たん!」 「……っ。  王者の……眼?」 「それがあれば……イモリも顔負けの動きで〈壁から〉《・・・》襲ってくる変態に捕まらなくて済んだのかしら?  重宝だこと……ッ」 「抜かせ。  貴様に一手で届く間合を計っただけの事だ」 「武人の作法を守るべき時でも相手でもなかろうしな……!」 「あら……なら。  どうして、さっさと殺してしまわないのか、しら……?」 「俺とて一刻も早く貴様を冥途につかせたい。  が――」 「この口が、聞き捨てならぬ事をほざいた」 「……さぁ……?」 「言っておくが、貴様の仇討ごっこの事ではない。  俺の命を狙う? ああ、好きなだけ狙うがいい……」 「大鳥嫡流の血を〈享〉《う》けながら、己一身の復讐しか眼に入らぬ、その狭量を恥じぬかぎりはいつまでもな!  そんな小人に俺が首をやると思うか!!」 「…………」 「花枝様のお言葉も、気にしてはおらん……。  大和のために俺を利用した挙句切り捨てる肚がおありと聞いて、むしろ安堵したほどだ」 「そのくらいの雄図あってこそ、この獅子吼が仮初めにも頭を下げるに足る」 「……」 「鼻先の物事しか見られぬ貴様より、よほど優れた眼をお持ちだ!  貴様を捨てて花枝様を残した先代は、その点に限ってのみ評価できる」 「先々代に叛いた罪を帳消しにするには到底足らんがな……」 「……、……っく。  なら……何を……?」 「その前の話だ。  ……貴様、鎌倉で雄飛様が殺害された件について何か知っているのか?」 「…………」 「俺は貴様の仕業だと思っていた。  妹の地位を守るために正当な後継者を殺す……貴様の浅知恵ならやりかねん」 「今でもその疑いは解いていない。が……  ひとまずは貴様の話に耳を傾けてやろう」 「……」 「言え、香奈枝。  貴様は何を知っているのだ」 「訊ねる相手が……違いまして、よ?  そんなこと、警察にでも」 「鎌倉市警か。奴らは事件の公表すらしていない。捜査のための措置という話だが……。  不可解だな。どうも臭い」 「いずれ締め上げてみるつもりでいた。  ……しかし、それもいま貴様を吐かせれば省ける手間なのだろう?」 「誤魔化すな、女狐」 「くふ……ッ」 「雄飛様を殺したのは誰だ」 「……それを、  聞いて……どうなさるおつもり?」 「知れた事。  何処に隠れていようが見つけ出し、俺の手で首を刎ねる」 「ふ……ふふ……!」 「何を笑うか」 「それじゃあ……だめ。  お教えできません、ね……」 「――香奈枝」 「閣下!?」 「こ……これは」 「……遅いわ。  貴様ら、侵入者を放って、今まで何処で何をしていた」 「は、その――  いささか、連絡が錯綜しており」 「香奈枝様の他にも、撹乱を行っている者がいるようで――」 「……まぁいい。  どうせ、もう片が付く」 「二人残して、余の者は花枝様に随身せよ。  この下らぬ騒動が収まるのを、奥で静かに待たれるとの思し召しだ」 「はっ」 「御館様、お供仕ります」 「……」 「姉さん」 「またね♪」 「……どあほう」 「さて――」 「……」 「また、だと?  俺がいつまで貴様を生かしておいてやると思うのだ」 「それとも、洗いざらい白状して俺の慈悲を乞う覚悟ができたという事か?」 「そんなふうに、聴こえたなら――」 「耳鼻科は間に合っている」 「いえ……  脳内外科に」 「…………」 「おい。  そこの貴様」 「はッ」 「鋏を持ってこい。  あと丈夫な紐と、釘。それに金槌だ」 「……?  畏まりました。直ちに」 「――――」  村正の指示に従い、その十字路を真っ直ぐ駆け抜けようとして――  刹那。視界の端を〈過〉《よ》ぎった光景に、俺は慌てて足を止めた。 「大尉殿!?」  廊下の先。  兵士が二人と――馬乗りになって誰かを組み伏せている少壮の男。  捕らわれの身は女性のそれ。  ……紛れもなく大鳥大尉!  こちらの声が届いたのだろう。  上の男が、一瞥を寄越してきた。 「あれは貴様の仲間か、香奈枝」 「……」 「チ」  短い舌打ち。  その半瞬に、男は状況を即断した様子だった。――俺は劒冑を装甲した武者。男は軽武装。彼に従う兵士も通常装備。――戦力優越は完全に〈当方〉《こちら》。  〈蝗虫〉《ばった》の挙動で男が香奈枝嬢から跳び離れる。  そのまま俺とは逆方向に、廊下を駆け去っていった。 「……ッッ!」  軽く咳き込みながら起き上がるや、大鳥大尉も彼を追って走り出した。  男の速度は相当だが、大尉の足もたった今まで首を絞め上げられていた人間のそれではない。 「大尉――」  呼びかけは黙殺された。  一顧だにせず、大尉は背を向ける。  逃走する男しか、眼中にはないようだ。 (まさか?)  男の身なりを思い起こす。  ……歴とした上将の装い。若さに見合うとは言えぬ……ではあれが、 「!」 「ぎは!」 「げほッ!」  大鳥大尉の背中に銃口を合わせようとした、二人の兵士を殴り倒す。  重傷を負わせぬよう加減はした……が、数時間ほどは起き上がれまい。 (あれが大鳥獅子吼なのか)  二人の容態を確認しつつ、胸中に呟く。  篠川公方大鳥獅子吼――想像していた以上に若く、想像していた以上に圭角の鋭い相貌であった。  あれが香奈枝嬢の、父親の仇。 «追うの?» 「……いや」  両者は既に俺の視野から失せている。  まだ見えていたとしても、決断は変わらなかった。  大尉が俺の呼ばわりに反応しなかった、その理由がわかっている。  ――そう、決めていた事だ。俺と大尉の目的は違う。互いに助け合いはしない。  今は結果的に俺が大尉を救ったのかもしれないが、それは単に偶然の仕様だ。  協力したわけではない。しかし、更にここから追うとなると、話は変わる。  俺は自分の責務を投げ捨てて、  彼女の戦いを妨げる事になる。 「行くぞ。  〈村正〉《おれ》の目的は銀星号だ」 «――ええ»  身体の向きを転じて、再び走り出す。  足音は冷たく、豪奢な通路に〈反響〉《こだま》した。 「……くそォ!  あの畜生、うまく車を盾にしやがる」 「しかも婆ァの癖にやたら速いわしつこいわ正確だわ……手に負えんな!  別班の準備はまだか!?」 「まだです!  合図はありません」 「せめてあの〈車〉《かべ》さえなければ……  隊長、小銃じゃあ埒が明きません。〈自走砲〉《ホイ》を持ってきて一気に、」 「とっくにやってるよ。婆さんが館を後ろに背負ってなければな!  流れ弾が壁を破ってお偉いさんに命中でもしたら、我々全員打ち首獄門だ」 「それって多分このまま足止め食わされてても同じっすよ!  獅子吼様の御気性を考えると!」 「……」 「ちィ……  要は一発当てりゃあいいんだ。一発!」 「年甲斐もねぇクソババァがッ――」 「馬鹿、うかつに頭出すな!」 「がッッ!?」 「……くっ」 「隊長!」 「何だ!?」 「合図です」 「――――」 「……良し。支援する。  敵の注意をこっちに引き付けるんだ」 「俺に合わせて、全員で一斉に――」 「げっ!?  たっ隊長! 婆ァが!」 「今度は何だよ!?」 「…………」 「て、擲弾筒……!  まだ隠し持ってやがったのかァ!!」 「最後の一発でございます。  では皆様方、ご機嫌よう」 「さて。  これでしばらくは〈休憩時間〉《インターミッション》」 「――と?」 「伏兵……なるほど。  本命はこちらでございましたか」 「不気味なくらい素早い婆さんだ。  なんで今のを躱す?」 「反復横跳びが日課でございますゆえ」 「……しかし、銃は手放しちまったな。  上着の下に拳銃を隠し持ってるってこともなさそうだ」 「ここまでにしとこうぜ?」 「と、申されますと」 「難しいことはなんも言ってねえだろ。  両手を頭の後ろで組んで、そこに伏せな」 「は」 「これでよろしいので」 「……やれって言っといて何だけど。  やたら素直だなおい」 「昔から真っ直ぐで良い子だと言われておりました」 「どう思う?」 「一五〇パーセント罠」 「うん。俺もそう思う。  このまま斬っとくか」 「賛成」 「敬老精神が足りませんぞキック!」 「だはッ!?」 「――〈黒人蹴技術〉《カポエイラ》ッ?」 「いえ、ただの猿真似でございます!」 「ばばあ……!」 「どうあっても殺すか殺されるかを続けたいらしいな」 「そのようなことはございませんよ?  この歳になると、〈戯れ〉《・・》でいちいち人を殺すのも億劫で……」 「ですからどうかご安心を。  〈ほどほど〉《・・・・》のところで、済ませて差し上げましょう」 「とりあえず――その口を閉じろ!」 「シィッッ!!」 「――かッ、は」 「………………」 「スタンディングオベーションをなさりたいなら、ご遠慮なくどうぞ」 「こんなの有りか?」 「自分の眼で見たものが真実でございます。  ま、見えない所にも色々と真実は転がっておりますけどねぇ」 「どう報告すりゃいいんだ……。  ばーさん一人にどつき回されて負けましたなんて言って、獅子吼様が許すわけねー……」 «安心しろ。中将閣下は道理を曲げぬ御方。  〈相手が永倉さよだった〉《・・・・・・・・・・》と言えばそれで納得して下さろう» 「……!」 「ど――〈竜騎兵隊〉《ドラグーンズ》!!」 「……次から次へと困ったものですねぇ。  この婆に時代活劇の主人公でも張らせたいのでございましょうか……」 「のどかに静かに余生を過ごすのだけが望みの老体に、あまり無理をさせないでくださいませぬかなァ」 「お戯れを。  永倉流骨法術の冴え、まるで衰えたように見えませなんだぞ」 「十年前、散々道場の床に叩きつけられた頃のことを思い出しました」 「……おや。  どうも声に聞き覚えがあると思えば」 「昔、可愛がって差し上げた〈お子様〉《・・・》ではございませんか」 「……ええ。小官だけではありません。  今ここにいる者の半分は、かつてあなたに自尊心をへし折られた経験の持ち主ですよ」 「――――」 「――――」 「これはこれはお懐かしい。  ちょっとした同窓会のようではございませんか」 「久闊を叙し、皆で昔語でもいたしましょう。  いやはや、人間老いると、こういう集まりが一番の楽しみになるものでございましてな」 「……折角のお申し出なれど。  先に職責を果たさねばなりませぬゆえ」 「まぁまぁそう言わず。  こんな場合に備えて、そこの車に酒肴の品も積んでございます」 「…………」 「高遠、付き合うな。  この方は時間を与えれば与えるほど、何を仕込んでくるかわからん」 「老獪さで張り合える相手ではない。  何も考えずに斬る、それだけに徹するべきだ」 「わかっている。  香奈枝様と一緒に海外追放された、永倉の鬼子母神……どれほど〈始末に負えない〉《・・・・・・・》かなど、今さら教えてもらうまでもない」 「うむ」 「……いえ。  ちょっとお待ちを。今のストップ」 「はっきり申し上げておきますが、海外追放されたのは香奈枝様だけであって、このさよはあくまで自分の意思で同行したのですよ?  まとめて捨てられたわけではございません」 「そこのところを決してお間違えなきよう」 「…………」 「…………」 「二百パーセント信じられねーって目ですな。  師の言葉を疑う者は何事も上達しませんぞ」 「〈常静子〉《じょうせいし》いわく、〈聊〉《いささ》かも師言を信ぜざる者はとてもその奥を究むる人に〈非〉《あら》ずと――」 「――〈然〉《しか》れども師、〈無手〉《からて》にて〈金剛〉《つるぎ》に勝利すと云はんに、〈是〉《これ》を信ぜん人は、是も〈亦〉《また》その奥に至る人に非ず」 「……都合の悪い部分は引用しないように」 「高遠」 「ああ」 「恩師に刃を向けるは無道なれど……これも主命。  いや、武の道においてはこれこそが師への報恩と心得る――」 「いえそれ有り得ませんからな。  びみょーにもっともらしく聞こえてしまうあたりが曲者ですがやっぱりそれって単なる恩知らずですからな常識的に考えて」 「一対多の数の差など、あなたは気にも留めますまいが……  たとえ〈奥境〉《おうきょう》の達人と云えど、覆せぬ優劣がある」 「劒冑無くして劒冑には勝てない!」 「御覚悟!!」 「――ふぅ。  相変わらず、〈駄目な子〉《・・・・》たちでございます」 「いったい何を見ているのか。  劒冑なら……とうに装甲しておりましょう」 「――〈楽翁陣〉《らくおうじん》!」 「お召しの儀は」 「まず現状だ。  邦氏殿下のご身辺はどうなっている?」 「近習の武者三騎が固めておる様子」 「三騎……心許ない。  ならばそちらには俺が〈銘伏〉《なぶせ》を連れて向かう」 「陣の一組を裏へ回して、脱出の手筈も整えさせておけ。  状勢の回復が思わしからぬようであれば、殿下にはひとまず屋敷からご避難頂く」 「小勢に追われて主君を動かすと仰せか。  恥辱でござるな」 「大望成った後、我が腹を捌いて詫びるべき事柄がまた一つ増えるというだけの話だ。  殿下の御身には代えられん」 「御意。  して、我らは?」 「俺の後を香奈枝が追っている。  殺せ」 「――」 「尋常の兵どもでは当てにならん。  あやつらは香奈枝の三字を耳にするだけで腰が砕ける……」 「廃嫡姫への畏怖は十年の時を経ても拭われなかったらしい」 「さもあろうかと」 「貴様らはよもや醜態を見せまいな?」 「あの姫を恐るるは我らとて同じ。  されど我らは元より捨石の者」 「惜しむべき何物もござらねば、差し違えに挑んで討ち果たし申そう」 「良し。行け!」 「はッ」 「銘伏よ!!」 「ふ」 「ふふ」 「ふふふ――」 「――――」 「そうして隠れて、やり過ごすつもりだったのかしら……?  楽翁陣の壱から〈陸〉《ろく》」 「隠れるつもりも、やり過ごすつもりもござらん。これは我らの〈戦形〉《かまえ》――」 「香奈枝様を討ち取るための陣にござる。  恐れながら、あなた様は既に我らの〈両翼〉《かこい》の中。勝負は決し申した」 「……そういう言葉は戦う前に言ったらいけませんのに。  不幸を招いてしまいましてよ?」 「二人ないし三人は果てるでござろう。  しかし残りの者があなた様の首を頂戴致しまする」 「大した自信。いえ、大した忠誠というべきなのかしら。  そうまでして獅子吼に盲従するなんて」 「黄昏の少将も草葉の陰でお喜びでしょうね。  世のため人のため、寛政の御改革を闇から支えんとした創立の志は、どこに捨ててしまわれましたの?」 「それは大いなる誤解と申すもの……。  元より、我らに志などござらぬ」 「我らは人にして人にあらず。道具たるべく定められた者ども。  主の意のままに放られる、捨石にござる」 「…………」 「志など無用。主の選り好みも致さぬ。  我ら楽翁陣は我らを欲する主の手に取られ、使われるのみ――」 「なれば御免!!」 「――そう」 「なら――」 「石のように死んでしまえ!!」 「……な……」 「……なんと……」 「…………」 「クフ、フフフ」 「フフッ――――」 «御堂、この辺り!  この――下!» 「そうか」  その場に停止する。  しかし、足元にあるのは床だけだ。  都合良く地下への入口が備えられていたりはしない。  周囲にも見当たらなかった。 「〈香気〉《けはい》の様子は」 «とにかく異常よ。相変わらず。ほかに言いようが見つからない。  ……〈銀星号〉《かかさま》は一体、何をしてるのかしら» 「やはり強行突破は危険か。  そうなると――」  急がば回るべしの〈箴言〉《しんげん》に従うしかないのだが。  望むらくは無駄を最小限にしたい。  大鳥大尉に館の構造の詳細を訊いておけば良かったのだが、これは後の祭りというものだ。  さて、手当たり次第に探し回る以外に、何か方法はあるだろうか。もう少しましな手立ては―― 「うおっ!?」 「――」  脇の廊下から飛び出してきた兵士が、俺を認めるやぎょっとして立ち〈竦〉《すく》む。  刹那、俺は考えるより先に動いていた。  兵士に飛び掛かり、押さえ付ける。 「――ひ――」 「……」  顔を見れば、まだ若い。  瞳の揺れに恐怖を察して、俺はその時初めて、自分の行動が何を目的とするのか〈考えついた〉《・・・・・》。  己の安直な発想にうんざりとしながら、仕方もなく続ける。 「当方には貴方を殺害する用意がある」 「……ッ」 「しかし、解放する用意もある。  貴方が当方の要求に沿うならば、後者の側を実行に移すであろう」 「…………」 「この館に地下室は存在するか?」 「あ……ある」 「そこへ行く方法は?」 「……そこの角を曲がって……  突き当たりのT字路を左に折れれば、階段が――」 「感謝する」  頚動脈を約十秒間圧迫し、彼の意識を失わせてから立ち上がる。  通路の真ん中に転がしておいては踏まれるかもしれないので、壁際へ寄せておいた。 «なかなかの暴漢ぶりね» 「放っておけ」 «そこの角を曲がって真っ直ぐ?» 「そして左折。  行くぞ」  少なくとも兵士の話が完全な〈出鱈目〉《でたらめ》でない事はすぐに確認できた。  角を曲がった奥には確かにT字路が見える。  が。  その前に一つ、問題があった。 「…………」 「…………」 「貴方に用はないのだが……」 「俺の言う事だ!」  頬を歪めて吐き捨てる。  その男――大鳥獅子吼。  真っ向からぶつかる形の再会であった。    彼の後ろには武者が三騎。そして、一見して貴種と知れる少年。 「中将閣下、ここは我らにお任せを」 「殿下の御身を、どうか――」 「〈戯口〉《ざれぐち》を叩くな。逆だ。  貴様ら近習が殿下の御側を離れてどうする」 「行け。  脱出の手筈は既に整えさせてある」 「しかし――」 「繰り返させるな!」  一喝に、少年とその護衛らしき武者三騎は文字通り飛び上がった。  声の圧力に押し流されてか、泡を食いつつ俺の脇を駆け抜けてゆく。  その間、俺は身動きが取れなかった。  彼らを止める必要がそも俺に無かったのは無論だが、仮にあったとしても、正面から放たれる殺気の束縛を振り切って動く事は不可能であったろう。  四人の足音が後方かなたに消える。 「……〝殿下〟……  では、あれが足利四郎邦氏」 「いま初めて知ったような口を利くのだな。  本当にそうなら、間抜けな〈凶徒〉《テロリスト》もいたものだ」 「…………。  当方には暴力行為によって達すべき政治的主張など無い」 「香奈枝に雇われただけの傭兵という事か?  だからどうした。それで俺が貴様に手心を加えるとでも思うか」  若い将帥は鼻で嗤った。  ……どうも対話は無益のようだ。  彼にしてみれば〈襲撃者〉《こちら》の言う事など何一つまともに取り合うに値すまい。  彼にも四郎邦氏にも無関心だと告げても信じないだろう。――腹を〈括〉《くく》るしかないのか? しかし―― 「生憎だが、捕虜を取っている暇などない。  その首を刎ねて仕舞だ」 «……!?  劒冑――いつの間に!» 「……篠川公方大鳥獅子吼中将!  この道を通して頂けるなら、当方はあえて争いを望むものではない!」 「それは逃げ口上のつもりか? 馬鹿め!  押し込んできた者を無傷で帰して何の公方か!」 「先刻は丸腰だったから譲ったまで。  二度は許さん。貴様の目的が殿下であろうと花枝様であろうと果たさせん。俺の前から去りたくば、〈屍〉《かばね》になって黄泉路をゆけ!」 「……ッッ」 «御堂……» (止むを得ん)  こうなっては問答を続けるだけ時間の無駄。  俺は心胆を据え直し、武者として勝負に応ずるべく構えた。 「篠川中将ともあろう者が、己を一介の武者となし〈太刀打〉《たちうち》される存念とは。  匹夫の勇と申し上げたいが致し方なし」 「一身上の都合により不法侵入させて頂いた湊斗景明、不本意ながらお相手仕る。  当方の劒冑は右衛門尉村正――」 「貴騎の〈銘〉《な》や如何に!?」 「〈兇器〉《まがきもの》に〈銘〉《な》など無用!!」  〈相〉《あい》上段の図となった。  互いに、斬り下ろしの圏内へ敵影を置く。  大鳥獅子吼の上段はやや刃先が高い。  太刀を寝かせ気味のこちらに比して、刃尺を明らかにする不利を負う一方、斬撃の到達時間は短縮される。  斯様な構を使うからには、獰猛にすぐさま打ち込んで来る肚かと思いきや、    ――来ない。  沈静である。  野原にぽつり、孤独に佇む枯れ木の風情をもって、大鳥獅子吼は〈止〉《し》している。 (激情と鋭気のみの男に思われたが)  俺は対手への評価を修正する必要に迫られた。  敵を呑んで掛かる意気に満ちて剛剣を扱う、戦場の〈猛将〉《バンガード》ではなく――むしろ〈剣術使い〉《ソードマスター》の心技を備えていると見られる。  それが彼本来の〈剣質〉《スタイル》なのかどうかは置き、今この場の争闘において適性である事は認めねばならなかった。  地上、しかも〈狭隘〉《きょうあい》な屋内である。  天空を翔ける翼はおろか、金剛力も充分には発揮し難い。力と速度を〈恃〉《たの》む武者刀法が特に苦手とする局面であった。  このような場では精妙な術技こそが物を言う。  敵騎がそれを甲鉄の下に蓄えて俺を待っているならば、間違っても迂闊な進退はできなかった。  無思慮に斬り込みなどした途端、切り返しの一太刀を食って血反吐を吐く。  〈我方〉《こちら》の打つ出端を制するか――打ち込ませておいて受け流し、体勢の崩れたところを存分に斬り下げるか。  いずれにせよ、勝負はその一合で終わるだろう。  こちらも術を仕込んで臨まねばならない。 (――うむ)  胸中に、意を決す。  俺は重心を前へ進めた。  膝頭が数センチ、相手へ近寄る。    攻勢が高まる。意気が刃に乗る。  打つ。 「……ィッ」 「――――」 (乗らぬか……)  敵手は不動であった。  俺の放った攻気を、柳に風と流し去っている。  つまりは〈騙されなかった〉《・・・・・・・》という事。  今、敵騎が俺の露骨な攻勢を勝機と取り、先んじて打ち倒してくれようと襲い来たならば、満を持しての〈返しの技〉《カウンター》で一刀のもとに敵の戦闘力を剥奪できた。  また、こちらに打ち込ませてから切り返す腹積もりであったとしても、案に相違して待てど暮らせど打ち掛かって来ないこちらの様子に、動揺を生じせしめる事ができた筈だった。  〈然〉《さ》りながら敵騎は全くの無反応。  姿勢は揺らがず、剣気も粛然と保たれている。  〈誘いの術〉《フェイント》を完全に看破されたのだ。 (不味いな)  技の失敗のみではなく、それが敵に与えた影響まで慮って、俺は密やかな舌打ちを禁じ得なかった。  今ので、敵は察した筈だ……こちらにも術を用いる用意があるという事実を。  益々慎重になり、技は深く巧妙なるを期すだろう。  難敵が余計に難敵と化す。  下手に仕掛けず、〈凝〉《じつ》と構え続け、敵手の焦燥を待つべきだったか……?    そう思っても、今となっては詮ない。  挫けている場合ではなかった。  敵は慎重に動くであろうが、それは時間を掛けるという事と必ずしも〈同義〉《イコール》ではないのだ。  策を決すれば、この刹那にも仕掛けて来る。  心気を迷妄させていては対応できない。小さな失敗などさっさと忘れるべきだった。  敵は来る――――  来るだろう。  今の音なき攻防で勝負の天秤がやや己の側に傾いたと見たなら、その機を捨て去る筈はない。  天秤が再び平衡に戻るまで――俺が心身を立て直し再び術策を講ずるまで、待ってやる義理などないのだ。  敵は来る。  が、それが如何なる形を取るか…… 「――――」  獅子吼の剣が揺れ、動いた。  反射的に迎え撃ち――飛び出し――そうになる五体を、危ういところで繋ぎ止める。  敵のこの挙措には、殺意が乗っていない。  誘いだ。俺が仕掛けたのと同じ。  釣られれば、斬られる。  自制――自制。重ねての自制。  体勢の崩壊を、俺は辛くも防いだ。  構を保って、敵刃の動向を見守る。  ……〈怪態〉《けたい》にも、敵は誘いの手を見破られながら動きを止めなかった。  ゆぅるりと、刃先を流してゆく。 (これは誘い……〈のみ〉《・・》ではない?)  刃が流れ――  〈寝る〉《・・》。 (う――ぬぅ!)  その一瞬、俺は動揺に震えぬため、意志力の総動員を必要とした。  獅子吼がした事は、上段の太刀を前へ倒す――単にそれだけである。  尖端が対手、つまり俺へ向くよう。  敵騎の太刀の鍔元、尖端、そして俺の目が、〈一直線〉《・・・》で結ばれる。    ――この現実が、俺に何をもたらしているか。 (く……!)  目が〈眩〉《くら》む。  距離感というものが、恐ろしいほど曖昧になる。  世界が……いま突き付けられている、剣先の一点を残して消失してしまったように感じる。 (おのれ)  大鳥獅子吼――妖剣を使うか!?  如何ともし難い。  〈尖端〉《・・》を見て平静を失うのは動物の本能だ。  ましてこのように、〈立合〉《タチアイ》の最中――全身の神経感覚を過敏にしている時であれば、その圧迫感たるや途轍もない。  舌の表裏が〈忽〉《たちま》ち干上がり、唇が〈戦慄〉《わなな》いた。 「…………」  敵手の冷えた双眸が、俺の動静を窺っている。  待っているのだ――俺の自壊を。  このまま心身を消耗し、足腰を萎えさせるか。  あるいは破れかぶれに攻め掛かるか。    どちらに陥るにせよ、俺の勝ち目はない。  この状態で、あくまでも平常心を保てるだけの精神力が、俺にあるのなら別だ、が―― 「……ッ……」  どうしようもなく注視する。  感覚が一点に集中する。  その他の全てが消える。  敵の姿が見えなくなる。  ……駄目だッ! 「……」  己の心を支え切れない。  崩壊への傾斜を徐々に滑り落ちているのがわかる。  あといくらも持たないだろう。  十秒……数秒か。自ら崩れ、敵の刃を受けるまで。  …………決するべきか?  あくまで待つのか。  一か八か、打って出るか。  それとも、退避の道を探るか。  決断を――下すべきか――――  来る!?  どちらを!?  やんぬるかな!  かくなる上は、相討つのみ。  運が有れば生き延び、かつ敵に一打を加えられよう! 「!?」  手応えが――             ……無い?  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――不覚。  騙された。  敵手は……太刀先を〈つい〉《・・》と、差し伸ばしてきただけだった。身体の位置はそのままに。  敵が突き掛かってきたのだと思い込んで繰り出した俺の太刀は、むなしくも虚空を泳いでいる。  敵騎の胸甲を舐めたきり、何の損傷も与えていない。  そして。  狙うは太刀!  今は危地を凌ぐ事が最優先だ。  敵本体に刃を加えるのは、それからで良い。  喉元を穿ってくるこの切先を、まずは打ち払う――  〈過〉《あやま》たず。  俺の一撃は敵の太刀を叩き伏せ、弾き飛ばした。  白刃が廊下を転がってゆく。 「――」  ……馬鹿な。  〈容易過ぎる〉《・・・・・》。  どうしてこんなにもあっさりと、敵は太刀を手放して、  ……疑念の答えを、俺は得られなかった。  その前に、首を〈断頭台〉《ギロチン》にかけられていたから。  焦るな!  これもおそらく、誘いの一手。  慌てて打ち込んでは罠に〈嵌〉《は》まる。  落ち着け――落ち着いて、慎重に機を窺い、 「……っ……ッ……」 「――――」  妖剣に囚われたままでは、何をしようと敵の手の内。  この切先から逃れるのが先決だ。  しかし、どちらへ?  上だ!  敵の切先を外し――そのまま上空より襲う! 「……な」 「……ぁ……」  ……苦痛の時間は、長くなかった。  飛来した〈矢〉《・》に喉仏を撃ち抜かれ――床へ落ちた俺が息絶えるまで、おそらくはほんの数秒であったろう。  逃げ場はただ一つ。    〈下〉《・》だ!!  側面に回るべし。  そして切先が追ってくる前に、踏み込んで斬ってしまえば勝てる!  切先を――外す!  このまま止まらず、一息に、 「逃げられた」 「――つもりか?」 「――――」  何故?  何故、             獅子吼は、     いつの間に、      右手で、                   脇差を…… 「何ッ――!?」  ここだ。  ここが唯一、完璧な安全地帯!  獅子吼の構から、下向きに〈刺突〉《つき》を繰り出すのは無理がある。  斬り下ろすならば好餌だが――しかし、それは成し得ないのだ。  眩惑の沼に落とされゆく〈最中〉《さなか》、俺の眼は辛うじて、獅子吼の右手の行方を追っていた。  それは密かに、太刀から外され……腰の脇差を引き抜こうとしていた……!  上へ飛ぼうと左右へ身を振ろうと、おそらく獅子吼は脇差の投擲によって俺を仕留めたであろう。  見事な妖剣、見事な〈王手〉《チェック》だ。  が、唯一。下方にのみ退路を残した。  しゃがみ込んだ俺に向かって脇差を投げても、兜に当たるだけだ。いかに巧妙な手業があろうと、喉元の間隙を穿つ事はできない。〈射線〉《・・》が通らないのだから。  斬り下ろそうにも、獅子吼の長刀は今、左手一本で保持されている。  片手斬りでは到底、甲鉄を打ち破るなど叶わない。  形勢の優劣は――――今、転じた! 「ちぃ!!」  獅子吼が脇差を捨てる。  太刀を両手に取り直し、上から襲う一撃――  しかし、俺の方が早い!! 「〈鋼の人形は〉《THE》」 「〈裸体で〉《IRON》  肉色で」 「〈化粧されている〉《MAIDEN》」 「おぉっ……!?」 「何だ!?」 「……むかし、むかし……。  〈森のかなたの国〉《トランシルバニア》にひとりの美しい貴婦人がおられましてな」 「貴婦人は、無慈悲な老いによって己の美貌が失われることを、ひどく恐れていたそうにございます。  それを見かねたドゥルコなる鍛冶師が――」 「貴婦人への崇敬、賛嘆、狂恋、想いの全てを込めて一領の劒冑を打ち上げました。  ……その劒冑こそ」 「ガ――」 「ギャヒィィィィィィィ!?」 「これなる〝〈吸血装甲〉《バートリィ》〟でございます」 「ゴア――ア、ウゥ」 「ゲグッ、ヒッ、ア――」 「………………」 「う……嘘、だろ?  竜騎兵隊が……全滅?」 「たった一人に……」 「あら。  そういえば……貴方が残っていましたね?兵士さん」 「ひィ!?」 「ふふ、ご心配なく。  今日はもう〈満腹〉《・・》です」 「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 「この〈手袋〉《バートリィ》は貴婦人のための劒冑。  武骨無粋の〈全身装甲〉《フルプレート》にするわけにはいかず、このような仕立てになっています」 「当然ながら、劒冑としての能力はほぼ皆無。  騎航はできず、体機能の強化もしてくれず、防御力さえろくろく有りません」 「けれどただひとつ、〈陰義〉《アウトロウ》の性能だけは卓抜するものがありまして。  相手が武者であろうとお構いなく、甲鉄の護りも突破して、〈吸血する〉《・・・・》――」 「生命力を剥奪し、〈仕手〉《ユーザー》のものとする。  その結果、まぁ、このようになってしまうわけなのです」 「あぁ私ったら、年甲斐もない姿をお見せして、あぁ本当にもうお恥ずかしい……」 「――――」 「……は……はわわぁ……」 「…………。  お若い方には、きっと刺激が強過ぎたのでしょうねぇ。悪いことをしてしまいました」 「ま、それはさておいて。  ……〈玄関前〉《こちら》は片付いたようですね」 「あとは、お嬢さま――  どうかご存分に、おやりなさいませ」 「ぐっ……く!」  ――手応えあった。  低い姿勢から薙ぎ払った太刀は、敵騎の膝上辺りをとらえ、食い付き……  浅からぬ裂傷を甲鉄に刻んでいる。  片脚を断つまでには至らなかったが、骨に響く程の打撃は与えた筈だ。  その負傷は確実に敵騎の運動を阻害するだろう。  踏み込みにも差し支えるとなれば、延いては剣撃の威力をも低下させずにおくまい。    大きな優勢を、俺は獲得した。 «今よ。  御堂、あと一手――» (……いや)  優劣は定かだ。  対手にも、それがわからぬとは思えない。  大鳥獅子吼は感情的と見えて、戦闘においては常に冷徹を本分とするようである。  なら――今、改めて対話に臨めば、血気を抑えての決断を期待できるのではなかろうか……?  試すだけは試してみたかった。  避けられる争いは避けておきたい。 「大鳥中将に申し上げる!」 「……」 「繰り返しになるが、当方は争いを求めない。  また閣下、邦氏殿下、大鳥家御当主、このいずれの方に対しても害為す意思を持たない」 「当方は一身上の都合によって大鳥邸の床を汚したのみ。私用を済ませ次第、直ちに退散するとお約束する。  ……どうか、そこを通されたし!」 「……、……」  篠川公方は答えなかった。  いや……答えられなかったのか。  表情は鉄面で覗けぬにせよ、苦悶の様相は均整さを失った立ち姿から見て取れる。  痛みを噛み殺す歯軋りまで、耳に聴こえてくるようだった。 「中将!」 「くっ……」  右へ、左へ――震える足に引き摺られて、獅子吼の身体が揺れ動く。  それは彼の内心の動揺を示しているとも思えた。  隙だらけの格好に、あえて打ち込みを控える。  だが勿論、刃先に威圧を込めて太刀を構えておくのは忘れない。  こちらが隙を見せれば、この気鋭の将の事、負傷を押してでも斬り掛かって来るに相違なかった。  耐えかねたか、彼は遂に膝を落とした。  固い床に甲鉄を重ね、高い音を鳴らす。  項垂れるかのように身を〈屈〉《かが》め。  大鳥獅子吼は――太刀を構えた。 「ぬ――」 「…………」  切先を後方に向けた、脇構えに取っている。  座位から一歩を踏み出し、横一文字に切り払う体勢だ――が。  そうか。  反撃の用意と同時に、足の負傷の回復をも試みる肚か。  こうして足を休ませておけば、傷の治癒も早くなる。  しかも、その回復状況を俺の観察眼から隠蔽できる。立っていれば姿勢の変化で察せられるが、足を使わず座っていては看破のしようがない。  窮地にあってこの機転、賞賛に値する。  ……だが。その機転が意味を持つかどうかは、俺の判断に依存する事だ。  〈太刀合〉《たちあわせ》の最中に休戦提案など、たしかに武人としてあるまじき惰弱な振舞いであったかもしれないが、といって敵の回復を黙って許すとまで〈見縊〉《みくび》られては困る。  そこまで甘くはないつもりだ。 「大鳥中将。言葉はこれで最後だ。  次は太刀にて仕る」 「……」 「道を開けられよ。  ――無言は拒絶と承るが、如何に」 「……ゃ、」 「……?」 「止む……無し」 「……中将」 「止む……無き、ゆえ。  ……こう……」 「させて貰う!」  ――――何!?  彼は……足を蹴り上げた。  膝を突き、畳んでいた足を。  そんな蹴りは、俺に届かない。  届いたところで、痛痒も覚えまい。    ――何だ? 何の意味が…… 「ッ!?」  ……食らった!?  何を!?  ……これは。  大鳥獅子吼の、〈捨てた脇差〉《・・・・・》!! 「しっ――」 「下郎がァ!!」  後方への退避は間に合わなかった。  跳ね上がるようにして放たれた獅子吼の浴びせ斬りを、肩口に叩きつけられる。  撃衝が体内を走り、五臓六腑を引っ掻き回した。 「ぐふ……!」  深傷を負う足で支えられた一撃とは信じ難い。  重過ぎる。  確実な手応えがあったのだが……  実質以上の負傷を装われたのか? あのよろめいて膝を屈した折から欺瞞されていたのか。  あれは脇差の位置までさりげなく移動し、足の下に隠し込むための〈挙止〉《きょし》だったのか! «半端なところで手を緩めるから!» (返す言葉は無いが、黙っておけ!)  村正の叱責に反駁だけしておく。  痛覚の激しい主張を誤魔化すのに、いくらかは役に立った。  奥歯を擦りつつ、敵手との間合を計り直す。  やや遠い。  改めて太刀を上段にとる大鳥獅子吼の姿から、足の傷の影響を見出す事はできない。  決して〈絶無〉《ゼロ》ではなかろう……が、もはや推察するのは不可能であった。  この男に対して、安直な予断は命取りだ。  今、まさに身をもって思い知った。 「底無しの戯けめが……  戦場の心得すらまともに知らぬか!?」 「貴様など、太刀の錆にするのも業腹だが、生かして帰すのはなお許せん。  大和の未来を占う大礼にその愚劣さで踏み込んだ罪、血という血を撒き捨てて償え!!」  激する大鳥獅子吼は、劒冑を身に〈装甲〉《よろ》う前と、外見以外何が違うわけでもない。  篠川公方。六波羅中将。幕府最後の大将帥である。  篠川軍十万を一手に率い、かの〈岡部弾正尹頼綱〉《おかべだんじょういんよりつな》さえ打ち破った天下の〈驍将〉《ぎょうしょう》――――  だが。  俺は……そこに、今や大きな〈ずれ〉《・・》を感じ取らずにはいられなかった。 「大鳥中将」 「重ねての問答は無用!  これ以上、俺に要らぬ刻を――」 「貴方は、正道の武人ではない……な」  俺の言葉が、即答で報われることはなかった。  といって、降りた沈黙の帳が黙殺の顕れということもなかった。  この静寂は、〈俄〉《にわ》かに立ち込めた想念――否、〈怨念〉《・・》に満ちている。  今の一言は大鳥獅子吼の心中に届き、何処かを貫通したようであった。 「眩惑の妖剣。  重傷の偽装。  そして、脇差を足で操る手妻」 「一つ限りなら、非常の備えとしての裏技かと得心もゆく。  が……三手」 「中将、貴方は――」 「〈妄〉《みだ》りに舌を動かすなよ。  湊斗とやら……」 「…………」 「……そうだ。  俺は元来……〈そういうもの〉《・・・・・・》だった」 「己の境遇に、何の不満もなかった。  大鳥の先々代――〈時治〉《ときはる》様の御為、どのような汚泥でもこの身に受ける覚悟があった」 「だが、愚かな先代が全てを壊した!  奴の〈所為〉《せい》で俺は本来の役目を失い、ばかりか先々代の御遺志を遂げるため不遜にもあの御方の〈身代わり〉《・・・・》を務めるほかなくなった!!」 「貴様などにはわかるまい。  影に潜むべき己が表に現れ――あまつさえ忠誠を誓った主君の職掌を侵す、この恥辱!この自虐! この自涜!」 「…………」 「嗤うがいい! そうだ。その通りだ。  賢しくも貴様が看破した通り、篠川中将と奉られるこの身は――――かくの如き〈影人〉《かげびと》に過ぎんのだ!!」 «え――っ» 「……隠身!?」  陰義か!  裏技の数々に加え……劒冑までも斯様の性質とは!ここに至って、疑念の余地は一片もない。  大鳥獅子吼は――〈暗殺者〉《アサッシン》かッ!! «消え……た?» (……いや。  よく、〈視〉《み》ろ)  空間と物体の境目に断層がある。  両眼を凝らせば、〈儚〉《はかな》くもその薄線を知覚できた。  殆ど、〈錯覚〉《まぼろし》と見紛うばかりだが……。 (光を透過させているのではなく、甲鉄の色を周囲に溶け込ませているのだ。  一種の擬態……保護色だな) «……なるほどね。  月山三騎組よりはまし、かしら?» (さて。どうか)  あれは〈詐術〉《トリック》であった。  種を見破れば、打ち崩すのにさまでの難はなかった。  だが、これは間違いなく一騎で成し遂げし陰義の業。  風魔党三騎の合力技ほど法外な効果を誇らぬ代わり、術を無効化する鍵の存在などは期待できそうにない。 (〈無銘劒冑〉《ネームレス》のようだが……。  厄介な力を使ってくれるな) «……私の〈信号探査〉《みみ》と〈熱源探査〉《はだ》には反応有り。  こちらには何の影響も及ぼせないみたい» «けれど……»  武者の本領たる空戦であったなら、村正が逐一送信してくれる敵騎の位置情報は大きな助けとなったろう。  が。この至近距離の白兵戦では、全く無用の長物であった。  頼れるのは俺自身が備え持つ五感だけだ。  敵騎の輪郭が――やや、大きくなった?  近寄ってきているのか。  いや。真実そうか? 見誤りではないのか? 「……く」  腹の底に酷く寒いものを覚え、一度だけ震える。  沈静して見直せば、敵手は半歩、近付いてきたようだと知れた。  それ自体はいい。まだ間合のゆとりはある。震えたのは、別の理解のためだった。  〈咄嗟に判別がつかない〉《・・・・・・・・・・》。  対手が接近してきても、即時、それを知る事ができない。錯覚か否か、検分する手間を要する。  ……どう考えても、これは致命的であった。  敵の挙動に対する即応が不可能なのである。  篠川公方が斬り間に踏み入ってきても、俺は察知し得ない。そのまま彼が斬りつけてきても、反撃どころか防備さえ整えられない。……そうなる。  これで勝てる道理がなかった。 (ならば、いっそ――)  こちらから踏み込み、斬るか。  今この瞬間は敵手の位置、相関距離をおおむね把握している。見当違いの場所を斬る心配はいらない。  ……やるなら今だ。  敵が動いてからでは、あるいはもう遅い。  やるならば今。 「――――」  しかし。  俺は決意を定めかねた。  戦機も得ずに攻め込んだところで〈迎え技〉《カウンター》の餌食。  ならば〈偽攻〉《フェイント》との二段構えで仕掛けるか? それとて目はない。既に一度試し、釣り損じている……。  駄目だ。  先手を取っても、勝てない。 (……だが)  待っても、同じ。  色彩なき敵騎の攻勢に対する俺の反応は決して迅速ならず、対処の技も遅延する。  ただ虚しく斬られるだろう。 「……」  ――押せど死。引けど死――    今や在り処の知れぬ敵手の眼窩が、そう語り伝えているかに思えた。  また、敵影が揺らめいた。  近付いたのか。それとも左右に身を移したのか――  眼球に命じてその識別をさせる、前に。      俺は決断を一つ下し、行動した。  姿勢の均衡を崩さぬよう留意しつつ半歩後退。  剣を、鞘へ戻す。  一呼。  一吸。 (〈磁装〉《エンチャント》――〈蒐窮〉《エンディング》) «ながれ・つどう!»  俺の意に、劒冑は反問せず応じた。 「…………!」  〈蒐窮〉《おわり》の太刀……称して〈電磁抜刀〉《レールガン》。  名称通りの構造を持つこの一技は、磁気を利用した加速により音速以上の域に達し、あらゆる防御を無為のものとする。  何者も見切り得ず、何物も耐え得ない。  〈必殺〉《・・》の術である。  殺せぬ相手に用いるべき剣ではない。が、幸いにも今は地上戦――高々速で行き交う空戦と違い、胸や頭といった致命的箇所を避けて打ち込む事が可能だ。  重傷を負わせる始末とはなるが、それも武者ならば治癒させられるだろう。    問題は…… 「……」 「……」  根本的に、状況は〈何も〉《・・》変わっていないという点だ。  我が電磁抜刀に無敵の二字を冠せられるとしても、それは『互角の条件で剣速比べをしたら必ず勝つ』という程度の意味に過ぎない。  互角の条件、要は同じ〈開始線〉《スタートライン》に立つ前提で必勝。  現況がそうかと問えば、無論違った。  対手は今、間合の変化を俺に優先して察知する権利を所有している。  敵の前進によってあるいは俺の突出によって、互いの距離が〈一足一刀〉《クロスレンジ》まで至った時、敵側のみがその事実を直ちに知るのだ。  敵像の看取に時間を要するこちらは確実に遅れる。  この格差があっては、神速の抜刀も鞘の中で眠りにつくほかない。  剣技を繰り出す暇に恵まれず、俺は斬死するだろう。  ……従って。  大鳥獅子吼に対する勝利は、この根本的劣勢を取り除かずして実現しない。  〈五分〉《イーブン》の対決において必勝手である電磁抜刀を生かすため、まず条件を五分に持ち込む手筈が必要なのだ。    如何にすべきか。  つまり――  如何にして敵騎の〈位置情報〉《・・・・》を掴むか。これに尽きる。  俺の知覚、感覚を、どう活用すれば必要情報を得られるのだろう?  視覚か。  ……敵影をかくもあやふやな像でしか捉えられない我が眼を、これ以上どう酷使のしようがあるのだろう。  では聴覚……これとてどこまで当てになるか。  圧倒的な優位にも拘わらず敵が一息に押して来ないのは、足音を殺すために決まっている。音こそ逆転の糸口たると彼はわきまえ、強く警戒しているのだ。  ならば、呼吸でも読んでみるか。  ……呼吸は進退を如実に語る。だがこの男に限っては、呼吸すら偽装しかねない。闇討奇襲の手管に長け過ぎている。 「…………」  〈潮合〉《しおあい》が窮まるのを、肌に感じる。  そろそろ――刻か。  迷いが有ろうと無かろうと、決断せねばならない。  考えあぐねて立ち続けるという選択は単なる自殺だ。生きて目的を達したく思うなら、ほかの選択が必須である。  では決しよう。  この局面……  頼るべきはどの感覚か?  ……何処を見る?  敵に気取られぬよう、そっと視線を下へ落とす。  そこには――俺の求めるものがあった。  影!!  床面に描かれた、黒い人物像。  廊下の電灯が映し出すそれを足元まで辿ってゆけば、対敵の立つ位置は赤裸々であった。  獅子吼は気付いていない。  初歩的な失態、とは思わなかった。  本来、有り得ない事なのだから――夜闇の懐で刃を振るう暗殺者が、地面に影を落とすなど。  本分に背いて光明の下へ出てしまったがための欠陥。  彼はこれまで、その点に気付く機会を持たなかったのだろう。  俺が得た唯一最大の〈奇貨〉《ラック》であった。 「――――」 「――――」  それを活かし切る。  間合の接触――――  その瞬機に、  斬る!! «……御堂!» «御堂、ねえ» 「う……む」  身体に〈圧〉《の》し掛かっていたものを押し退けながらに、立つ。  見れば、壁か何かの残骸だった。  周囲の様相の変化を確認する。  ……どうやら俺は、壁を幾枚か突き破りつつ結構な距離を吹き飛ばされたらしい。 「相打ちだったか……」 «ええ。  こっちも重いのを一つ貰った»  背骨が〈きりきり〉《・・・・》と痛むのはその所為だろう。  骨格が歪むほどの打撃だったようだ。 «抜刀を一瞬早く打ち込めたのが幸いね。  それでいくらか威力を殺せたんでしょう» 「敵騎は?」 «この近くには反応なし。  あちらも豪快に飛んでいったみたいだけど» «探す?» 「真逆」  即答して首を左右する。  あんな難敵との戦いを、わざわざ求める嗜好は無い。  今のうちに離脱する一手だった。 「村正。  先刻の位置と現在位置、双方を確認しろ。階段への道筋を調べ直す」 «そんなことをしなくても大丈夫。  ……後ろを見て» 「ん?」  言われるまま、振り返る。  ……地下へ延びる階段が、そこにあった。  ……何を聴く?  そうだ――第六感!  特殊な天性の才を持つ者が、あるいは神域に至った武人が備えるという――〈超感覚〉《シックス・センス》。  これに覚醒する以外に活路はない。  俺は精神を集中し、脳内の未知の領域を開拓しようと試みた。 «……無理だから……»  階段は思いのほか長かった。  しかし傾斜は緩く、時として平面の通路にもなった。  歩いた時間の長さの割りに、さほど深くは下りていない筈だ。  地上の邸宅の範囲から外れたかといえばそんな事もなく、単に〈ぐるぐる〉《・・・・》回されているだけだと村正は云う。  ……設計意図が良くわからない。  とまれ数分もして、俺はようやく部屋らしき場所へ到着した。 「…………」  室内には光源がなかった。  電灯くらい用意されていそうなものだが、この暗さではスイッチの所在を調べるのも難事だろう。  とりあえず、俺は見渡してみた。 «……御堂» 「……ああ……」  〈いる〉《・・》。  闇の中、何が見て取れたというのでもない。  だがわかる。知る――皮膚の感覚で単純なる事実を理解する。  銀星号はここにいる。  ……短慮な行動は慎まねばならない。  銀星号がこの付近に在るのなら、つまりここは猛虎の〈狩り場〉《・・・》だ。  いつ何時、研ぎ澄まされた爪が襲ってきても不思議ではなかった。  心を鎮めて、室内へ一歩踏み込む。  用心の上に用心を重ねて、探索しなくては…… 「平気だよ。  そんな心配しなくても」 「!」  やおら、部屋の奥から声が投げられると同時。  白光が炸裂した。  ……ただの明かりだ。光量も大したことはない。  だが闇に慣れた眼は急激な変化に対応しかね、暫時視力を失った。  徐々に回復する。  地下室の様子が――明らかになる。 「――――」 «――――»  何だ?  これは。             〈捩〉《ネジ》れている。  こんなものは知らない。  こんなものは在り得ない。             〈狂〉《クル》っている。  こんなものは〈現実界〉《このよ》に存在しない。             奇怪、              奇怪。  存在してはならない。             奇塊、              奇械。  存在を許されない物体。  存在すべきではない物体なのだ。            奇異なカタマリ。          異奇なセイメイ。  何なのか。  これは――――何なのか。 「……ま、〈前衛芸術〉《アバン・ガード》ってとこ?  アホみたいな〈手間隙〉《コスト》かけて何の意味もねぇものつくっちまったって思えば、ほんとそうだしねー」  〈ソレ〉《・・》をぐるりと回り込み、少女が一人、姿を見せる。  どうしてか、気安い様子であった。  何処かで会っていただろうか。 「バベルの塔だ!」 「神を目指した夢の、成れの果てだ!」 「ここにはもう何もない。  終わっちまったんだから、何もない」 「神は来たらず。  世はなべて事もなし」 「……何が足りなかったのかなー。  勇気かな。友情かな」 「やっぱ愛かな。  考えてみればこの世界のあらゆる問題って愛があるとわりかし適当に解決するよねー」 「お兄さん。  やっぱあんたをほっとくんじゃなかった」 「捕まえとかなきゃいけなかった。  ……なんでそうしなかったかなぁ。そうしとけば楽しく過ごせもしたのになぁ」 「ねー?」  あははと、少女が両手を広げて笑う。  その声は室内ではなく、彼女の体内の空洞に反響しているように、俺には聴こえた。  骨も腑も心臓もない、空洞の少女。 「……あての愚痴だけ聞かせてちゃ悪いか。  さ。本命の方へどうぞ」 「……?」 「愛を語るなりお別れするなり。  お好きに」 「…………?」 「あ。  まだ気付いてなかったかな」 「それとも全力で現実から戦略的撤退?」 「……」 「お兄さん。  だめだよ、ちゃんと見て」 「最後なんだから……」 «御堂» 「これは、  〈このひとは〉《・・・・・》」             見つめて            いる。 「――――」            知っている。          知っている、瞳。 「――――あ」            〈微笑〉《わら》っている。          うれしそうだ。 「――――あ、あ」           俺に会えたことが         うれしいのだろう。 「――――――――――」         〈微笑〉《わら》っている。       微笑って、俺の名を、そっと。 「――――――――――――――――――」              かげ            あき 「あああああああああああああああああああああああぃぃぃぃイイイイイイイイイッッ!?」 «……かっ» «かかさま» «母様» 「あ……うううああああえあああああああ」 「ヒッ、カ――カカ、カ」 「ひかる」 「光!」 「光――光! 光!!」 「……届かなかったんだ」 「あの力――地上最大の破壊力を食い尽くすには、完全な〝飢餓虚空〟が必要だった。  けどそこまで届かなかった」 「なんか足りなかったんだ。  やっぱ愛かな。愛なんだろーなぁ。うん」 「……………………」 「さってっと。  じゃ、おしまいにしようか」 「お兄さんは早いとこ逃げて。  なんとなくで言うけど、まだこの世にやり残したことがあるんでない?」 「――――――」 「ここにいると巻き添え食うからさ。  おい、村正」 «……えっ?» 「しっかりしとけよ。  文字どーりの〈鋼鉄〉《はがね》の心で、仕手が平静じゃない時に支えてやるのも劒冑の仕事だろ?」 「外へ引っ張っていってやれ」 «…………。  あ、貴方はどうするの?» 「ほっとけよ、かびくせぇ骨董品が。  こっちの始末はこっちでつける」 «――――» «貴方» 「やかましい。  とっとと行け」 「正国!」 「おめーも主人のいなくなった世の中に興味無さそうだよな。  一緒に行くか?」 «…………» 「その力……  八大地獄の炎が、最後に欲しい」 「世界の全てとはいかなかったけど。  だったらせめて、〈自分〉《あて》くらいは、灰も塵も残さず消し去りたいから」 「やっちまえ、同田貫!!」 «……陰義!?» «いけない――御堂!» 「……………………」 «正気でいられないのはわかる。  忘れろなんて無茶は言わない» «でも、今は動いて!  苦しむのも狂うのもあと!» 「――――」 «逃げるのよ!» 「火だッ!!  ち、地下から――」 「香奈枝様がなされたのか!?」 「家ごと焼き尽くしてしまうおつもりだ……」 「駄目だ、消火できない!  退避しろォ!!」 「中将閣下はいかがされたのだ!?」 「外縁警備の竜騎兵隊はどうした!  なぜ救援に来ない!」 「……これが天罰ってやつか……」 「も、もう嫌だ!  俺はごめんだ。俺はもう逃げるっ!!」 「おい待て! 勝手に持ち場を離れるな!」 「ひ、火の手がこっちに――!」 「お……御館様……  如何いたしましょう……」 「た、退避した方が宜しいのでは?」 「…………」 「……閣下!!」 「そ、そのお怪我は!?」 「構うな」 「し……しかし。  早急に手当てをなさいませぬと、」 「構うな」 「…………」 「花枝様――」 「終わりの日だよ。  獅子吼」 「………………」 「お前が必死こいて支えた大鳥は今日で最後。  〈これで〉《・・・》おしまい」 「だから採点してあげる。  ――大鳥獅子吼。お前の忠義と誠心、献身と苦闘は、ぜんぶ無駄だった」 「お前の名は単なる反逆者、単なる圧制者、単なる虐殺者として歴史に残る」 「――――――――」 「……そうして欲しいなら、わたしがここでお前を殺してやる。  それとも、お前がわたしを殺す?」 「最後くらい、希望を聞いてやったっていい」 「……されば。  いずれも」 「花枝様の御慈悲、いまだ、この身には過ぎたる栄誉と心得まする」 「……」 「まだ終わってはおらぬ。  〈まだ〉《・・》――」 「邦氏殿下は脱出なされたな?」 「は……はッ!  先程、確かに。楽翁陣の者が知らせて参りました」 「御館様にご避難頂く手筈も整っているとのことです。  車と護衛の者の用意が、裏手に」 「……そうか。  ならば良し」 「花枝様、お聞きの通り。  心苦しき次第ながら、ご足労をお掛け致します」 「……獅子吼」 「終わりではございませぬ。  大鳥の――大和の未来は決して、潰えなど致しませぬ」 「この獅子吼ある限り!!」 「……………………」  大鳥本邸は燃えていた。  何をどうして、今ここにいるのかはわからない。  だが気付くと、俺はこうして両膝をつき、紅蓮の炎に呑まれてゆく館を遠く眺めていた。  無数の火の粉が天へ舞い上がっている。  空をも焼き焦がそうとするかのように。 «……御堂……  〈香気〉《けはい》が…………消えた» «いま…………» 「……………………」  心は鉄になっていた。  揺れもせず、震えもせず、硬く在る。  それでも。  その一つだけは、解悟した。 (終わった)  ――――終わったのだ。 「……おお!  中将閣下!」 「御館様も……良くぞご無事で!  よもや参られないのではと、案じておりましたぞ!」 「……」 「これより指揮所を移す。  二騎は車に搭乗、花枝様をお守り致せ」 「他の者は騎航し、敵襲に備えよ。  地上空中を問わず、不審な影あらば即座に攻撃――俺の指示を待つ必要はない」 「承知か?」 「はッッ!」 「任務諒解。  直ちに布陣致します」 「御館様、お車へ――」 「……?」 「……楽の音?  なぜ、かような時に……」 「何処から――」 「ッ!!」 「――――」 「か――は――っ」 「……………………」 「……姉さん?」 「……貴様かァ……」 「香奈枝ぇぇぇェェェェェッ!!」 「――――――――」 「俺を殺すのか。  あくまでも! 復讐のために!」 「貴様は俺を殺すのか!」 「…………」 「俺は国家の命運を背負っている……。  貴様はどうだ」 「復讐以外に何がある!?  何もあるまいが!」 「小義をもって大義を滅ぼそうと云うのか!  許されん――」 「貴様一人の、くだらぬ復讐心に……  くだらぬ復讐劇に、俺の身命は捧げんぞ!!」 「それでも」 「頂戴します」 「如何なる義をもってだ!!」 「義なんて、別に。  ただ」 「あなたは、復讐をくだらないと云う」 「……本当に?」 「くだらぬわ!  大義と引き換えにする価値など、あろう筈がない!」 「そう。  なら」 「その〈くだらなさ〉《・・・・・》を、わたくしに教えなさい。  あなたの命で」 「――貴様はァ!!」  大鳥香奈枝は男を見下ろす。  憤怒に猛るその男を。  香奈枝にはわかる。  彼は疑っていない――  自分の正しさを、真実、疑っていない。 「貴様は同じだ!  あの逆徒! 何処ぞの牝猫と交わって貴様を生ませた、あの恥知らずと何も変わらん!」 「あやつもそうだった……  目先の小事ばかりに心を囚われ、遂に大局というものを見なかった」 「民を死なせぬためと言って戦を避けた。  だが、その決断が国家の将来を闇に閉ざし、いずれ戦に十倍する苦しみを人々に与えるという事が、どうしてわからんのだ!?」 「一介の市民であれば優しさと称される特質が、王者の心に備わる時、それは惰弱と謗られる悪徳に他ならない……  貴様の父はそんな道理さえ知らなかった!」 「…………」  それは――違う。  〈大鳥時継〉《ちち》は知っていた。  常に悩んでいた。  自分の決断は、誤りではないのかと。  最終的にはなお一層の〈艱難〉《かんなん》を臣民に強いる事になりはすまいかと。  己が信じ、選んだ道を、必死で駆け抜けながら――  父はいつも、自分の正しさを疑い、悩んでいた。  ……それをこの男は知らない。  己の正しさを疑わぬこの男は、父の悩みを何も知らない。  なぜ!  香奈枝は知っている。  遠く海外にいたけれども、父の苦衷はいつも、手に取るように理解できていた。  なのに彼は知らない。  父の身近にいながら!  この男が父の悩みを察し、胸襟を開いて意見していたなら、大鳥家は立て直されただろう。  彼にはそれだけの才があり、父にはそれだけの度量があった。  しかし彼はそうしなかった。  彼が父に与えたのは、決別の刃だけだった。 「救いようのない愚物!  嗤うほかにない無能!」 「挙句に貴様のような狂犬を世に放った!  貴様の父こそ俺の人生を呪った張本人――」 「否、貴様の父は大和の命運を呪った!  あの男は生まれてくるべきではなかった」 「生まれ落ちるならせめて、一匹の虫ケラであれば良かったものを!!」  そうして今、彼は否定する――  父の存在の全てを。  自己の正しさを確信する彼が。  その正しさに懸けて、父を屑と断定する。  父は――どう思うか。  あんなにも深く悩み苦しんでいた父が、この男の、全くの無理解からくる罵倒を聞いたなら。  どう思うか。 「……………………」             許さない 「…………」         大鳥時継は       大鳥獅子吼を 許しはしない 「……獅子吼……」 「ああ、仕方もなかろうよ。  〈天〉《かみ》の不手際に文句をつけても始まらん」 「俺の手で始末をつければ良い事だ……。  親子二代、俺が面倒をみてくれよう」 「貴様の父親は寝床を襲って殺してやった。  何も知らず、何も気付かず――あの阿呆は芋虫同然の、相応しい惨めな死に方をした!」 「――――――」 「貴様もそこで、羽虫のように死ぬがいい!」 「獅子吼ッッ!!」 「戯け――  射線は見切った!」 「悪しき血脈をここで断つ!  父のもとへ行け、香奈枝――――」       〈The paradox of "Tell and apple"〉《弓聖の一矢 リンゴに届かず》. 「――――――――」 「――――」  そして  男は  虫のように  死んだ。 「……………………」 「……あ……」 「……しし、く……」 〝香奈枝様は花がお好きとか〟 〝宜しければ、これを……〟 〝お好みに合えば良いのですが。  僕――自分には、花の良し悪しなどとんとわかりませず〟 〝……はい。  昨夕、承りました〟 〝白河の分家を継ぐ一件が正式に決まった事……併せて大鳥〈新〉《あらた》の名を獅子吼と改める事。  そして……婚約の事も……〟 〝気持ち……ですか?  自分の……〟 〝今回の件が我が主たる時治様と、香奈枝様の御父上であられる時継様――とかく諍いの多いこのお二人の仲を取り持つため、永倉老に仕組まれたものである事は存じております〟 〝香奈枝様について、口さがない使用人達が良からぬ噂を囁いている事も知っております〟 〝しかし……関係ありません〟 〝自分は、ずっと以前から……  香奈枝様のことを〟 〝お美しい御方とのみ、想ってまいりました〟 〝……香奈枝様……〟 〝もし――  自分ごとき、素性あやしき他所者の伴侶になっても良いと、あなたが思し召すのなら〟 〝この新、いえ獅子吼は――必ずや大鳥の姓を冠するに相応しき〈武人〉《もののふ》となり……  決して香奈枝様に、自分との婚約を、誤りであったと嘆かせは致しませぬ!〟 「あ…………」 「あ、あぁ……」  どれくらいの間、灰燼に帰してゆく館を眺めていただろうか。  ……いつからか、傍らに人の気配があった。 「…………」 「…………」 「そろそろ、ここを離れた方が宜しいですよ。  異変を察した軍がやってくる頃合かと……」 「…………」 「……」 「……如何されました?」 「……」 「……」 「……妹を……」 「はい」 「妹を、亡くしました」  どうしてか。  俺は見も知らぬ女性に、そう告げていた。  懺悔のように。 「――――」 「そうですか……」 「はい」 「……なぜ……」 「……?」 「なぜ……  助けられなかったのでしょう」 「…………」 「なぜ……自分は」  光を、死なせてしまったのか。  ……わかり切ったことだ。  助けられなかったのは、助ける方法が〈無かった〉《・・・・》からだ。  二年前――あるいはそれより以前にか――俺の〈運命〉《ほし》は定まり、果たすべき〈使命〉《みち》も決していた。  これはとうに、定まっていた結末。  わかっているのだ。    だからきっと、俺の愚にもつかぬ自問は、その〈運命〉《ほし》をこそ問うているのだ。 「なぜ」 「……お辛いのですね」 「辛い?」  突拍子もない言葉に、俺は首を傾げた。  重く鈍い思考をどう巡らせてみても、どうしてそのような事を言われたのか理解できない。  俺が辛い?  ……そんな筈はなかった。  湊斗景明は傷ついていないのだから。  傷つき、生命を奪われるのは、常に俺以外の人間だ。  俺が我意を通した為に、戦い斬られた人々。  ただ善良であり、ただ俺の近くにいたが為に、斬られた人々。  辛かったのは彼らだ。  湊斗景明は辛くなどない。 「辛くはありません」 「辛くなど」 「…………」 「湊斗さま」 「はい」 「心を潰してはいけません」 「……?」 「心を潰してしまえば、お嬢さまの前に立つ資格を失います。  貴方は家畜のような死を迎える」 「……なぜでしょうね。  そうさせてはならないという気がします」 「…………」 「微力ながら……。  私が、お助けいたしましょう」  温もりの訪れは唐突だった。  柔らかく、何かが触れている。  口元に。  初めて会う――筈の――女性が、俺に口唇を重ねている。 「――――」  脈絡もない行為。  前提もない接触。  なのにどうしてか、俺の身体感覚は、拒絶の反応を示さなかった。  赤子の素直さで、受け入れている。  女性の〈腕〉《かいな》が、俺の背と、〈項〉《うなじ》に回された。  指先で、そこを撫ぜる。  あやすような仕草。  〈蕩〉《とろ》かすような手櫛。  髪の一筋一筋が、宥められ、〈解〉《ほぐ》される。  繊細で巧緻な慰撫。  その最中にも、女性の艶唇は押し付けられたままだ。  そこがふと開いて。現れる別のなにか。  舌先が、俺の唇を割った。  歯を舐め、歯茎にまで触れる。 「……っ……」  そこまでした後でようやく、女性は口を離した。  熱く吐息する。  そして俺の両眼を覗いた。  俺の視界にも、彼女の瞳が映る。  冷たく冴えたそこに、情欲の火はない。  不思議だった。ならば何故、彼女の呼吸は、愛撫は、こんなにも熱いのか。  今――俺を〈暖めて〉《・・・》いるものは、何なのか。 「……?」  頬を伝う感触に、俺は驚いた。  どうしてだろう――  この涙は、心の何処から零れたのか。  理由がわからない。  理由など無い筈の、涙。 「お任せを……」  氷の結晶に似た瞳のまま、女性は呟いて顔を寄せた。  そうして――視界を塞ぐ。  彼女の唇は、俺の〈目蓋〉《まぶた》を封じていた。  また、柔らかく。包むように。  奪うように。  女性は俺の涙を吸った。  ――知っているのだろうか。    そう思う。  俺が涙する理由を。  この女性は。  知っているからこそ、止められるのか。  ……そうなのだろう。  この世には、女性だけの知恵というものが、きっと有るのだ。  愚昧な男にはわからぬものが。  俺は無知のままに、女性へ身を委ねた。  彼女は唇にしたのと同じように、舌を使う。  目蓋の中に溜まった涙まで、彼女は〈掬〉《すく》った。  そうして片方が済むと、もう一方の眼にも同じ行為を加える。  女性が俺の涙を吸い取る。  その涙の根源ごと。 「…………」 「貴方は――」  どうして?  何故?  不定形の疑問を吐き出そうとして、その口を閉ざされる。  彼女の指先が、俺の言葉を禁じた。 「何も言わなくてよろしいのです……」 「…………」 「心が動かないのでしょう?  なら……どうかお静かに」 「今この時だけ、貴方に仕えましょう。  私の手で……貴方の胸に鼓動を取り戻して差し上げる……」  女性は、俺の両脚の間に頭を沈ませた。  そこの衣服を解き、内にあったものを解放する。  白い指が触れると、その醜い部分は激しく反応した。  血が通い、隆起する。  生命的、というほかない〈様〉《さま》だった。  それは女性の求めるものであったのか。口元を微笑の形にして、彼女は行為を促進する。  緩やかな手つきで肉の塊を握り締め、軽く〈摩〉《さす》る。  わずかに力を加えて、揉むようにもする。  女性の手に対して、俺の尖端は従順だった。  一秒毎に体積を増し、その変化に逆行などない。  意識が否応もなく、ただ一ヶ所の感覚に集中させられてゆくのを俺は自覚した。  そこだけが過敏になり、他の全てが鈍磨する。  女性は俺のそんな内面を見抜いたのかもしれない。  やおら顔を近付けると、舌先を繰り出して肉の棒に触れさせた。  それまでとは異なる、鋭い刺激。  俺の背筋がびくりと跳ねた。  暴力的な。  しかし決して抗うものを呼び起こしはしない交接。  舌は尖端から〈くびれ〉《・・・》、そして裏側へ、薄く唾液の跡を残しながら這う。  その行程が俺にもたらす快楽は、長く尾を引いた。  甘たるい戦慄に、皮膚の毛が逆立つ。  肺腑が収縮し、呼吸が早まる。  素直な反応に気を良くしたものか、それとも予定に従ってのことか、やがて女性は行為の速度を高めた。  朱色の肉はあたかも独立した生物のような活発さで動いて、棒立ちの肉塊を〈嬲〉《なぶ》る。  亀頭の割れ目に入り込み、押し広げ。  そうしてから蠢動し、〈擽〉《くすぐ》って。  それでも不足とばかり、唇をそこへ寄せる。  押し当てて、吸う。  歯を立てもする。  軽く、肉に跡をつけない程度に。  そうしながら、舌も休めない。  裏筋を弾き、傘を突き。  いつしか手も、愛撫を再開していた。  肉茎の根元を指で擦り上げ、掌は陰嚢を包む。  男性の扱いを知る女性の、巧緻な奉仕。 「――――」  それを享受しながら、自分自身を顧みる。  不思議だった。  ここまでの性的刺激に対し、ただ一方的にされるに甘んじている、そんな己が信じ難い。  湊斗景明の〈性癖〉《・・》を思えば、有り得ざることではないのか……。  とうの昔に、非理性的な衝動に支配されていて然るべきではないのか。  本来ならば。  どうしてか、女性の行為は俺をしてそうさせない。  それは何か――別のものを、呼び起こしているようだった。  全身に血液が巡る。  神経という神経が覚醒する。  〈蘇生する〉《・・・・》。  生きながらに死んでいたものが戻る。 「そのまま……」 「そのまま、お目覚めを」 「……目覚め……」 「〈心魂〉《こころ》を起こすのです」 「心が朽ちれば、体は枯れる……。  けれど体を活かして心を支えることもまた、できるのです」 「貴方はそうしなくてはなりません。  お嬢さまのために――」 「貴方自身のために」 「…………」 「さ。  参られませ……」  女性が、自分自身の最奥へ俺を〈誘〉《いざな》う。  導かれるまま、俺の屹立した肉がそこへ侵入する。  熱く潤う肉襞が、俺の男性部分を抱擁した。  逃さず――全て。  烈しい感覚に脳漿が灼ける。  優しい接触に魂魄が震える。  ……女性の囁いたことの意味は、必ずしも俺に理解されたわけではなかった。  彼女は見知らぬ誰かであり、その言は謎掛けめいている。  それでも、従うべきだと信ずる。  理解せず、従うべきだと欲する。  そうすることが正しいのであり必要なのだと、  湊斗景明は知性ならぬ何かで〈識〉《し》っている。  この女性は俺を救う。  誤った結末から俺を救い上げる。  正しき結末へ俺を連れて行ってくれる。  ――そう。その一事。  その一事だけが、かくも確か。  かくも疑いなく、俺は信じている。  信じて身を任せ、また応えている。  血の〈滾〉《たぎ》りのまま、女性を貫く。 「……湊斗さま」  声は熱く、〈眸〉《ひとみ》は怜悧に、女性が俺の行為に報いる。  ――その時ふと、俺は悟った。  これは情欲の行為ではない。  しかし愛情の行為ではあった。  彼女は愛していた。  俺、ではなく――けれども俺を含む何か。  俺を取り巻く一つの流れ。    ――――〈運命〉《ほし》。  そこには俺がおり、  俺ではない誰かがいる。  不変の運命。  俺と誰かが定めのままに紡ぐもの。  彼女はそれを愛している。  どうしてか、どうしようもなく――愛してしまっている。 「……愚かしい。  貴方も。お嬢さまも」 「……」 「けれど……。  〈幾百歳〉《いくももとせ》の時を生きて」 「魔女と呼ばれた私に、愛することができたのは……  結局――その、愚かしいものだけでした」  囁きは、かすれて。  遠い。  〈奇〉《く》しき愛を込めて、女性が俺に口付ける。  その愛にすがって、俺が口唇を吸い返す。  彼女が導く。  俺は信ずる。  これはただ、それだけの行為。  所以も知れぬ愛の行為。  ……気付けば、俺は独りだった。  女性の姿は何処にもない。  消えてしまった。  触れ合った肌に、温もりの余韻だけを残して。  他には何も――  ……いや。  あと、一つだけ。 「景明さま!  まだこんな所においででしたのね」 「……大尉殿。  ご無事で」 「もう。確かめに来て幸いでした。  急いで退散しましょう。篠川軍に捕まると面倒なことになってしまいましてよ」 「は。  要らぬ世話をお掛けしました」 「では、直ちに」 「…………」 「大尉?  何か」 「いえ……  その分ですと、ここに銀星号はいなかったのですね」 「おりました」 「……えっ?  いましたの?」 「はい」 「それで……どうなりました?」 「終わりました。  全て……」 「全て」 「…………」 「大尉殿?」 「い、いえ。  ……その、景明さま」 「こんなことを言っては無神経だと思いますけれど。  それにしては、あまり――」 「おや、なんとお二方!  まだ逃げておられなかったのですか?」 「この近辺はそろそろ危のうございます。  のんびりなさるなら場所をお選びくださいませ」 「……侍従殿。  御主従共にお怪我もなく、何よりです」 「湊斗さまこそ。  いやいや、皆さま悪運が強くて結構なことでございますなぁ」 「この運を無駄にせぬためにも急がねば。  ささ、お嬢さま」 「え、ええ」 「湊斗さま、脱出口はこちらでございます。  はぐれたりなさいませぬよう」 「お気遣い有難うございます。  侍従殿」 「いえいえ。  ………………」 「何か?」 「いえいえいえいえ」 「……ぽっ……」 「…………」 (……ま……ましゃか……)  篠川公方大鳥獅子吼の遭難から一週間。  それは激動の日々ではなかった。むしろ、それ以前に比べれば停滞とさえ云える時間であった。  会津において、戦端は開かれなかったのである。  六波羅は地位と実力を兼ね備える領袖をすべて失い、遂に時勢の一方の主役たり得なくなった。  進駐軍は行動の意義を無くし、力は有りながら静観する以外にない立場へ追いやられた。  人々は打ち続く事変にいい加減頭を麻痺させつつ、それでも声高に噂し合った。    何者が、六波羅の最後の命脈を絶ったのか――  初め、多くの者はGHQの刺客に違いないと語った。  それから次第に、大鳥本邸の生き残りからの伝聞という但し書き付きで、別の噂が広まっていった。――獅子吼に殺された大鳥先代の長女が復讐を遂げた、と。  二つの見解はやがて縒り合わされ、進駐軍が大鳥の姫を〈援〉《たす》けて獅子吼を討たせたという形に落ち着いた。  それは断片的な真実と真実に近いものを含みつつ、無論、結論としては誤っている。  大鳥獅子吼に、何となれば護衛を派遣したく思う程存命していて欲しかったのは他ならぬ進駐軍である。  六波羅との決戦を欲する彼らにとって、幕軍を取りまとめる最後の大将帥は必要不可欠の人材だった。  獅子吼とてその点を見切っていたからこそ、身辺の防備に戦力を割かずにいられたのである。  全ては彼らの計算の枠外で行われた事だった。  しかしながらこの噂は、状況の推移如何では、進駐軍に利する見込みもあったろう。  つまり仇討ち話が美談として巷間に浸透するなら、GHQは影の立役者となり、声望を得られる。  彼らが大和の支配実権を握っても良しとする土壌があるいは形成されるかもしれなかった。  GHQ――キャノン中佐の静観には、ただ手を〈拱〉《こまね》くばかりでなく、それを待つ意味もあったに違いない。  どのみち大和に統治者は必要なのだ。  混乱に次ぐ混乱の中、その統治者が外部勢力の進駐軍であってはならないとする意識は、人々の脳裏から既に失われつつあった。  しかしそこに、新たな〈因子〉《ファクター》が参入する。    京都朝廷である。  あらかじめこうなる事を可能性として予期していたかのような手際の良さで、皇族とその勢力は動いた。  まず近畿における六波羅の出先機関である室町探題と談合、相互協力の約束を取り付け、  これを背景に九州の大宰府、北方の鎮守府とも交渉を開始。  その一方、普陀楽城崩壊で宙に浮いていた足利邦氏への大将領宣下は、正式に〈延期〉《・・》を決定する。  若年の邦氏に現状下の重責を負わせ得ず、彼が成人するまで代行の者を置いて地位を守らせる――と発表。  誰がその代行を務めるのかについては、まだ明確にされていない。表向きのところは。  ……おそらく皇族の人間が。  それも関東一帯の情勢に詳しく、その知識と智謀によって今回の朝廷の政治行動を陰から指導もしたのであろう〈皇家の誰か〉《・・・・・》が、その任に就くのではないか。  中央でも、法制上は大和の正当な政府でありながら実権を奪われ形骸化していた、二官八省の再建に着手。  首相つまり左大臣は五摂家から選ばれる模様である。また、貴族院・衆議院両議会の閉鎖も解かれるようだ。  こうした朝廷の活性化は、人々に〈首都政府〉《キョウト》の存在を思い出させ、仄かな期待と信頼をも芽生えさせている。  頭立つ者を失った六波羅残党もその例外とはならなかった。元来が、六衛府は朝廷直属の機関なのだ。  旧に復し、朝廷の指揮を仰ぐに、表立って抵抗感を示す者はごく少なく……  室町探題の働きかけもあり、関東の残存幕府勢力は大半が京都の方角を向いて整列しようとしていた。  大和を六波羅以前の時代へ〈還〉《かえ》し、平和と安定を〈独力〉《・・》で取り戻す、そんな潮流が今確かに生まれている。  ……当然それは進駐軍の望むところではなく、望まないからには妨害を試みてくるであろう。  だが、進駐軍にとって都合の良い〝悪役〟はもはや失われてしまった。  彼らは遠からず、自ら悪役となり侵略者となるか、それとも一定の妥協をするか、決断を迫られるだろう。  大和の国土に、戦乱の嵐は再び吹き荒れるのか。  大和の自立は、果たして守られるのか。    …………その答えを、〈湊斗景明〉《おれ》が知ることはない。  山荘に吹き込む夜風は柔らかい。  清涼で〈嫋〉《たお》やか――肌を撫でられているうち、美しい女性に浄められているような心地をも覚える。  俺は息を深く吸い、そして吐き出した。 「…………」  ――本当に終わったのだ。    そう思う。  銀星号は去った。  六波羅は潰えた。  大和の政情は未だ到底、予断など許さない。  幾多の事件、数多の困苦がこの先に待ち、例え平和を回復することが叶うとしても、そこへ至るまでには小なり大なりの犠牲が払われるに違いない。  だが最早、湊斗景明の役割はなかった。  大和の未来に必要とされるのは、より正しく、より賢明な人々である筈だった。  俺はもう、いなくても良い。  いや――いるべきではない。  殺人の大罪を繰り返した者がのさばっていて、世間に良い影響を与えるわけがないのだ。  罪人をして社会に益させようと思えば、その方法はただ一つしかない。  厳刑に処し、綱紀を粛とす。  それだけだ。他の方途は有り得ない。  だから俺は、全てが片付いた暁には、正式な法廷において裁いて欲しかった。  死刑の宣告を下し、この首を吊るしてくれれば満足だった。  そうしてもらえたなら、俺は死の恐怖に泣き喚いて、人々の侮蔑と失笑を買う惨めな最期を遂げられたろう。  しかし、署長も親王も、俺の望みを理解しなかった。  そして署長は既に亡く、舞殿宮は今さら改めて俺の陳情を聞いていられるような状況にない。  俺の罪を裁く者がいない――それは俺にとって最悪を極める絶望だった。  しかし、俺は救われた。  大鳥大尉がいてくれた。  彼女は俺の罪を知り、俺を裁く。  湊斗景明に正しき末路を迎えさせてくれる。  彼女は社会の法の執行者ではないかもしれない。  だがより深い、より根源的な法の体現者だ。  基本倫理。  人間原理。  奪うべからず。  奪う者は奪い返されるべし。  〈第一復讐法〉《ロウ・アンド・ジャスティス》。  大鳥香奈枝は新田雄飛の無念を背負う。  少年を殺めた湊斗景明に、その手で裁きを下す。  殺した者を殺し返す。  公平なる法執行。疑えぬ正義。  復讐。  湊斗景明に、これほど相応しい最期はない。  まさしく正義が悪を断つのだ。  かくあってこそ、罪科なくして命を奪われた人々の〈瞋恚〉《しんい》も晴れよう。  彼らは正しく生きていたにも拘わらず、理不尽な悪によって死を遂げた――  その悪が報いを受けないなら、彼らの正しさの価値は否定されてしまう。  そんな事があってはならない。  悪は報いを受け、奪ったのと同じだけのものを奪われるべきだ。  そうなっても死んだ人々は生き返らないが、〈帳尻〉《・・》は合わされる。善だけが損失を蒙ることはなくなる。  正義は悪の対抗者として、存在を確かにする。  それで良い。それでこそ世界には秩序が成り立ち、人の心には夢と希望が宿るのだから。  正義は在る。    そう信じられる事が、こんなにも嬉しい。  俺は正義に殺される。    その正しき結末が、こんなにも恐ろしい。  大鳥大尉。    歓喜と恐怖をもたらす彼女こそ、湊斗景明の希望であった。  大鳥香奈枝の存在に感謝する。  俺は感謝する。 「景明さま、よろしくて?」 「貴方に対して閉ざす扉など有りません。  大尉殿……」 「それに、折も良かった。  こちらから伺おうと思案していたところでした」  何の用か――とは訊かずに、大尉が戸を開けて部屋の中まで踏み入ってくる。  不思議にも思わず、俺は迎えた。  突き詰めて、俺と彼女の間に用件など一つきり。  わざわざ確かめ合うまでもない。  ……あるいは今、ここで、か。    であろうとも、俺の拒むところではなかった。  こちらへ目をやろうとし。大尉がふと、首を傾げる。  視線は開け放しの小窓に縫い止められていた。 「……お寒くありませんの?」 「然程には。  新鮮な空気の心地良さの方が勝ります」 「そうですね……自然は本当に素晴らしい所ですから、ここは。  他には何もありませんけれど」 「無い方が良いのです。  何があっても、景観を損なうでしょう」  云いながら、俺は窓を閉めた。  俺には快いばかりの風も、香奈枝嬢には毒かもしれない。女性は概して冷えに弱いものだ。 「永倉翁は良い場所に別荘を建てられた。  一週間屋根をお借りした者として、御趣味の程に賞賛の言葉は惜しめません」 「嗜好が似通ってらっしゃるのかしら。  永倉のお爺さまも、この山荘はお気に入りで……」 「毎年、春と秋には一週間ほど、ここで過ごされます。  ……でもこれから当分の間は、その習慣もお預けでしょうねー」 「御多忙なのですか」  ここ会津國は篠川中将によって大軍の集結地とされ、しかも彼の退場によってその軍が分解してしまった為、今はあたかも洗濯籠の中身のごとき様相を呈している。  その煽りで、あの老翁にも危難が及んだのだろうか。 「表向きは、これまでと何も変わらず、悠々自適に暮らしてらっしゃいます。  けれどばあやが言うには、どうも裏で忙しなく動いているらしいとのことで」 「は……」 「多分、大鳥家に――花枝の周辺に介入しているのでしょう。  あのお爺さま、昔からわたくしより妹の方にご執心でしたから」 「大鳥家を立て直そうと奔走している花枝の、支えになってくれているんだと思います。  きっと、あの子には気付かれないようにしながら」 「……」 「もう結構な御歳なんですもの。  好き好んで苦労を買い込まなくたっていいでしょうにね……」  ふぅ、と呆れを込めて嘆息する大尉。  その吐気の裏に潜む感情を、俺は誤解しなかった。  素知らぬふりで、会話を受ける。 「好きでする苦労ならお辛くはありますまい。  無理をなさらないか、それだけが懸念です」 「体の限界は得てして唐突に訪れるものですから」 「ええ……。  その辺りに気を配れる人間が、お爺さまの身辺にいると良いのですけど」 「誰か、とは言わず。  大尉殿がなされれば宜しいと存じます」 「え?」 「大尉殿とて、妹君の力となりたい気持ちにお変わりはない筈。  永倉翁のもとで、共に働かれては如何か」 「さすればあの御老人も、肩に掛かる重みを減らせましょう」 「…………」 「差し出口ながら。  そうすることが最善であろうと、自分には思われます」 「……わたくしは単なる〈硝煙嗜好者〉《パウダーマニア》。  今あの子やお爺さまの傍へ行っても、無駄飯食いの場所ふさぎになるだけでしてよ?」 「そのような事は決してありません」  俺は断定した。 「買いかぶりはなさらないで、景明さま」 「いえ大尉。  自分は知っています」 「覚えています……」  知っている。覚えている。  大鳥大尉との出会いから、今に至る全て。  あの小村に巡察官として現れた大尉は、幕府の代官を敵に回し、村を救おうとした。  自分の属する進駐軍が、非干渉を望んでいると百も承知の上で。  舞殿宮と署長から俺への協力、つまり銀星号事件の解決を依頼されても従容と受けた。  俺は世間に知られていない銀星号の真の恐ろしさを説明して翻心させようとしたが、果たせなかった。  そして足利護氏の急死に端を発する激動の中――  大尉は進駐軍の籍を捨て、鍛造雷弾の投下を阻止すべく飛行艦を襲い、会津において大乱が必至の情勢となるやこれを回避するため大鳥獅子吼に挑んだ。  いずれも大尉個人にとって全く実益とならず、〈且〉《か》つ危険極まりない行為である。  だがしかし、彼女は常に果断であった。  人々を守る盾となる事に、躊躇いがなかった。 「大尉殿、貴方は正真の貴族であられます。  〈民草を導く〉《・・・・・》という傲慢なる統治に、正当な資格をもって臨むことのできる御方です」 「貴方の存在が大鳥家、延いては会津の人々の暮らしに益しない道理がありません。  疑うべくもない事です」 「…………」 「大尉殿。  貴方はこんな所で足踏みしているべきではない――」  俺は自分が訣別の言葉を発しようとしているのだと悟った。  しかし、中断する気は起きなかった。  云うべき時が来たのだと思った。 「湊斗景明の始末をなさって下さい。  そして一刻も早く、貴方の力が必要とされている場所へお戻りを」  返事はなかった。  大尉の視線は俺を逸れ、窓の外へ向いている。  透き通った横顔が、俺の前に晒されていた。  綺麗だと想う。  今更ながら率直に、そう。  冷たく澄んだ秀貌は色彩がなく、感情を窺わせない。  だが無ではないのだ――氷原の下に大地が眠るのと同じく。  やがて彼女は呟いた。  ほとんど、唇を動かさぬままに。 「……そんな生き方も、考えはしました」 「けれど」 「……けれど……」  呟きにもならぬ小声を切り、大尉がゆるりとこちらへ振り返る。  閉ざされた目蓋の向こうから、針のような眼光が俺を刺した。  紛れもない殺意を浴びて、硬直する。  四肢は震えすら封じられた。  そうして俺を縫い止めておいて、大尉は繊手を差し伸べてくる。  酷く……青白い。血の気を失っているかのようだ。  指が首筋に触れる。  冷たい。  俺は死を直感した。  大尉がもう一方の手をも伸ばす。  俺はただ凍って、最期を待った。 「――――――――」 「――――」  そうして、訪れた衝撃は……  俺の予期していたものと、些かならず異なっていた。  大鳥大尉が、俺を組み伏せている。  奇怪にも、暴力の感触は全く覚えなかった。  何か〈柔術〉《やわら》でも使われたのか。まるで俺は自分の意思でそうしたかのように、音すら立てず身体を寝かせていた――いつの間にか。  気付けば俺の上には彼女の体重があった。 「大尉……」 「……」  問いの意図が伝わらなかった筈はないだろう。  だが、大尉は応じなかった。  わずかに震える指先で、俺の襟元をくつろげる。  ボタンを外し、肌を外気に触れさせようとする。 「何を――」 「明日」  明確な言葉で問い直そうとした俺の機先を、彼女の短い一言が制した。  今日の翌日を示す、ただそれだけの言葉。  明日、――――    しかしその一語は後に続く言葉の列を明示していて、それこそは俺にとって決して誤解し得ないものだった。  明日。 「ですから……それまで……  あなたはわたくしのものです」 「景明さま」  諒承を求める声ではない。決定を告げる声だった。  命令であった。  彼女は俺を支配していた。 「……っ……」  渇いた喉で、承服を伝えようとして。  声にならず、小さく喘ぐ。  だがどのみち、俺の返答などどうでも構わなかったのだろう。  支配を既に前提とするなら、相手の反応は顧慮する価値を持たない。  大鳥大尉は俺の生殺与奪を握る手で、今は服を剥ぎ取っている。  耳に聴こえ肌にも届く彼女の呼吸は、初めて男の体に触れる処女も同然の緊張を俺に伝えていた。  何故このような事をするのかと、考える。  そうする傍ら、理由など推し量ったところで仕方のない事なのかもしれないと、思う。  彼女が俺を掌握する。  その一事があるだけなのだと思う。  服の前は開かれ、生の肉膚を外気に晒した。  硬い視線が上から注がれる。  身体には、傷痕が多い。  劒冑は仕手の治癒回復能力を促進して大概の傷なら短時間の内に跡形もなくしてしまうが、それでも深手となるとしばしば快癒後にも薄く痕跡を残す。  そうしたものが幾つとなく、俺の体表にはあった。 「…………」 「……そう……〈凝〉《じっ》と見られるのは……  あまり……」 「羞恥を」 「は……」 「なぜ?  醜いと、思っておいでですの?」  大尉が小指で、胸に走る痕跡の一つをなぞる。 「この……傷が」 「ええ」 「傷痕は、いうなれば生きた証。  恥じるものでも、醜いものでもなくてよ、景明さま」 「尋常に生きた方であれば……大尉。  仰られる通りです」 「……」 「傷痕が生きた証なら……  湊斗景明の傷が示すものは」  先に大尉が触れた傷を、己の指で再び差す。  その傷の由縁を、俺は思った。  傷をもたらした戦いの中で――戦いの後で、奪った生命のことを思った。 「まさに醜行」 「……」 「恥じるほか〈術〉《すべ》がありません」  目を伏せて告げる。    肯定も否定も、声としては返されなかった。  しかし、凝視は〈止〉《や》まない。  大尉の注意の焦点があくまでも俺の皮膚上に据えられているとわかる。  むず痒さを覚えた。  細い眼差しは実際に糸と化して、俺の肌を這う――そんな錯覚が湧く。  身体を〈捩〉《よじ》ろうにも、押さえ込まれていてはままならない。  羞恥に脳漿を熱くしつつ、耐える一途だった。 「――っ!?」  突如、錯覚と思われていた感覚が実質を獲得する。  それも数倍する濃厚さで。  半瞬、認識が惑乱して事実を見失う。  しかし視界内の変化を確認さえすれば、起きた事は明白だった。  香奈枝嬢が、口をつけている。  俺の傷痕に。 「んっ……」 「大尉、」  制止のための声は、だが後が続かない。  言葉を探す逡巡に、出口を見つけられなかった。  この状態で……何を言えば良いのか。  何を言おうと、行為の前には無力と思えるのに。  俺の木偶ぶりなど視野にも入れず黙過して、大尉は〈己〉《おの》が所業に〈耽〉《ふけ》る。  弾力ある唇を〈撓〉《たわ》ませ、その中で舌をも〈蠢〉《うごめ》かす。  濡れた触感。 「くっ」  意思に依らずして喉が収縮し、空気を押し出した。  急な刺激は電流の作用にも等しい。  それを、彼女は継続する。  一箇所に留まらず。範囲を伸ばし、広げて。  丹念に。  大鳥大尉が口唇で、俺の傷痕を認知する。 (そうか)  不意に悟る。  彼女を制止できない理由。  彼女が俺に関知しない理由。  ――大鳥大尉がいま相対しているのは、俺であって俺ではない。  俺の傷。  俺の軌跡。  俺の争闘。  俺の罪。  ――彼女はそれを、味わっている。  拒絶し得ないのは道理だった。  それこそは俺が彼女に捧げ、裁きを〈希〉《こいねが》うもの。  甘受せねばならない。  審理と思って。 「……この」 「……」 「一つ、一つに……  涙の味がします」 「……嘆きの味が……」 「……それは」 「至極、当然かと」 「…………」  俺に殺された人の、無念の涙。  非業にして死を遂げねばならぬ、運命への嘆き。  俺の傷に染み付いていて当然のものだ。 「わかってない……」 「……?」 「景明さまは間違ってる。  それでは、〈一人足りない〉《・・・・・・》のに」 「どうして……おわかりにならないの?」 「…………」  わからぬと云うなら確かに、大尉の言うことは俺の理解の範疇から脱していた。  俺が何を間違えていると云うのか。  何が――足りないと云うのか。  涙が? 嘆きが?  〈誰の分〉《・・・》が数え足りないと、彼女は云うのか。 「…………」  大尉の双眸はいつしか、俺を直視している。  俺の瞳孔を覗き、そこに解悟の火が灯るのを待っているのか――  そうであったのかもしれない。  だが同時に、大尉が俺に送る眼差しの中にはすでに諦念が込められていた。  通じ合わないのだと、知っていた。 「……」  そして俺が応えられたのは、期待ではなく諦めの方だった。  彼女が想定していた通りに、ただ無理解の内面を眼に映す。  失望の溜息を、大尉は洩らすこともなかった。  〈面〉《おもて》を伏せ、表情を隠したに過ぎない。  しかしその挙措は、何らかの決意をも伴っていたのだろう。  そうでなければ、次の行動へ繋がる筈はなかった。  流れのままと云って云えなくはなかったに違いない。  が、急激と云うのならやはり急激であった。  少なくとも俺の五感にとってはそうだった。 「……っ……」  先刻、上をはだけた折と比べても尚ぎこちない動きで、大尉が俺の下衣に手をつける。  帯を解き、脱がす。  そうやって露出させたものに、触れる。  眼が眩んだ。  やにわに勃興し、激しく主張を始めた性感のためだ。  普段は深く重く眠っている〈もの〉《・・》が、耳元で鐘を打ち鳴らされたかの勢いで覚醒しようとする。  それを抑えるには、心臓を噛み切るまでの意志力が必要だった。  この衝動はまずい。  ……己が己ではいられなくなる。  俺のそんな苦悶を、大尉がどう受け止めていたのかはわからない。  理解したのか誤解したのか。  どちらにしろ、彼女は行為を中断するという選択に至らなかった。  白かった頬を朱に染めながら、暴挙を続ける。  壊れ物を扱う仕草で指を這わせる。  恐る恐るに、男性器である肉塊を自分の方向へ振り向かせる。  人間と対面するように、そこを見る。  こくっと喉を鳴らす音が聞こえた。 「――――」  俺はもはや言葉も出ない。  胸中の衝動を鎮めるだけで手一杯だった。  大鳥大尉に性的器官を凝視されている。  ……今の俺に、その視線は毒以外の何でもない。  観察していたとも躊躇っていたとも受け取れる間を置いて、大尉はしずしずと手を動かし始める。  愛撫と呼ぶには稚拙であったろうが、そんな醒めた評価を下す余裕など俺は持たなかった。  香奈枝嬢がこんな〈行為〉《こと》をする、その事実認識だけで俺の受ける刺激は飽和寸前に達していた。  ともすれば意識を呑まれそうになる。  彼女の吐息。触れる指。視線。  主人の意思など構いなしに、俺のその部分は与えられる全ての刺激を貪った。  あまつさえ、更に求める――  そう見えたに違いない。血液の流入と共に痙攣し、膨張するその姿は。 「……あの、景明さま……」 「――」 「口で……すれば、よろしいのですよね?」  よろしくはない。  それが声にならなかったのは、性衝動を抑えるのに躍起だったからなのか、それともその衝動に既に負けていたからなのか、自分でも判別がし難かった。  理性が欠損し、現実が遠退きつつある。  俺の否定を受けなかった大尉は、言った事を実行に移した。……こんな時まで果断だった。  相当に、当惑しながらではあったけれども。  舌をつける。  肉茎が、悦びを表して跳ねた。  驚いて、大尉が頭ごと舌を引っ込める。  間。 「…………」  その刹那。  俺は草食動物の心地になった。  〈捕食されるもの〉《・・・・・・・・》に自分を擬した。    これといった理由はなく、しかしはっきりと読めてしまったのだ。大尉の心理の動きが。  〈何かスイッチが入った〉《・・・・・・・・・・》。  言葉にするなら『これもしかして面白い?』という感じの。  危険な。 「……」 「んく……」  この種の予感は決して裏切られない。  大尉はそれまでのおどおどした様子が嘘であったかのような大胆さで、男性器の先頭を咥え込んだ。  敏感なその部分が、ぬめった感触と生温かさに包まれる。  〈男性〉《おす》の肉体において最も素直であるそこは、無論、相応の反応を速やかに示した。  体積を増し、隆起する。  大尉の意図に従って。  忠実に。  それが彼女の心情を更に煽ったことは疑いない。  目元の紅潮の意味をおそらくは羞恥から愉悦に変えながら、その口が前へ進む。  深く深く咥える。  肉棒の半ば以上を、口腔内に収めるほど。  尖端が、上顎の粘膜に触れた。  妖しい触感。  背徳的なものを覚えて、俺は性器のみならず全身を震わせた。    ――不浄の器官で、彼女のそんな場所を犯している。 「んふっ……」 「――――」 「景明さま……  気持ちいいのでしょ?」 「………………」  無言で通す。  ……無益だとわかってはいたが。  大尉は小さく唇の端を笑ませて、また口淫に戻った。  咥え直し――舌も使う。  尖端を丸めて、男性器の頭をつつく。  そこから下って、傘の部分をほじくる。  ……彼女は〈こつ〉《・・》を掴んでしまったらしい。  海綿体は際限なく充血した。  俺は息を荒げ、身体を戦慄かせる事しかできない。  そうして反応を返せば返すほど、大尉は性戯に拍車をかけた。  口の動きが巧妙さを増す。  舌が肉茎の裏筋に押し当てられ、かと思えば、そこから広がって絡み付いた。  そのまま〈擦〉《こす》る。  俺の赤黒く醜い部分に、唾液をすり込む。  ……野生動物の〈縄張り主張〉《マーキング》を真似ているのか。  きっと、大尉の匂いは濃厚に移されているのだろう。  想像するだけで、血が逆流するようだった。 「ふふ……」 「……く……」 「そんな表情もなさいますのね」 「……別段、不感症ではありませんので」  蠱惑の声に、嘘ではないが言い訳としては不出来も極まる言葉で応じる。  何処かへ消え入りたい心境だった。  無論、逃げ場はない。  あったとしても、彼女が俺を解放する気にならない限り無意味であったろう。 「……これだけ濡らしておけば……」 「……?」 「……平気、かしら?」 「大尉?」  何とはなし、決定的な意味を含んでいると思われた呟きに問いを返そうとして――  思い切った様子で自らの服へ手を掛ける彼女のその行動に、俺は吐きかけた言葉を呑んでしまった。  露わにされてゆく柔肌が、俺の思考を飛ばす。  息を呑んだまま、見詰めるしかなかった。 「――――」 「えい」 「……ッ!?」  最初の感覚は、苦痛だった。  狭隘な場所へ、無理矢理に〈押し詰められる〉《・・・・・・・》痛み――  感度の高い部分だけに、痛覚も過剰な刺激を受ける。  俺は苦悶を声にしかけて、危うく奥歯で噛み殺した。  痛撃は――しかし数瞬。  潮のように引いてゆく。  代わって押し寄せたのは正反対の感覚だった。  熱く柔く甘いそれ。  苦痛が引潮なら、快楽は波濤だ。  男根から進入して瞬く間に俺の全神経を席巻する。  肉の棒を包む肉の〈洞〉《ほら》……  ぴたりと絡み付くその感触には、何をもってしても抗い難い。  更に奥へと誘っている。  更に貪れと誘っている。    従う以外、何ができる――牡という生き物に。 「……っ、くぅ……」 「……?」  焼き尽くされかけた思念は、その声でわずかに鎮静した。  彼女の呻き――苦しみの。  性器と性器の繋がる箇所に粘度の高い液体の存在を、俺は察知した。  そして、そこへ目を向ける。  深い赤色をした液体。 「……大尉」 「っ……」  問わぬ問いを解したのだろう。  痛みの渦中にある香奈枝嬢が、無理に笑う。 「操を……立てておりましたから」 「……何方に?」 「婚約者に……」 「彼が〈いなくなる〉《・・・・・》までは……  他の殿方に身は任せない、と……」 「――――」 「婚約者とは……真逆、」  会話が許されたのはそこまでだった。  まだ苦痛は引いていないだろうに、大尉が自分の体を動かそうとする。  腰を持ち上げ、己に突き立ったものをずるりと抜く。  破瓜の血を纏ったそれは紅味を増して、一層凶悪な様相だった。 「は――っ」 「ん……」  呼吸を少し整えて……  彼女はまた、腰を沈める。  肉質の凶器を胎内に埋める。  深く深く。  俺の尖端は、彼女の奥底にまで届いた。    不可思議な一体感と充実感。  一秒毎に体温が上がり、わけても脳は沸騰せんばかりになる。  香奈枝嬢はそんな所作を繰り返した。  それは所詮、男を初めて知る処女のやりように過ぎない。  技巧としては工夫を欠き、単調だ。  だが関係はなかった。  この締め付け、この〈ぬめり〉《・・・》、この熱の前には瑣末事。  俺の性感は引き上げられる。  急速に。  そして最早、それを抑制する意思の障壁も存在しなかった。 「景明さま……っ」 「……はぁっ……」 「あ――ふ……」  俺の感覚を頂点まで導いた事を理解して。  大尉の身体が力を失う。  〈頽〉《くずお》れ、寝台の上に両手を突く。    ……俺は逆に身を起こして、彼女の背を見下ろした。               違う。 (違う――な)  勃然と胸の中へ湧き上がった一語を、俺は自ら肯定した。  〈これ〉《・・》は違う。  眼下にある女性の背。  高揚し、火照ってはいたが――しかし。 (足りるまい)  俺は大鳥大尉の肩へ手をかけた。  力を込めて、こちらを向かせる。 「え……」  まだ余韻の中なのか――頭が現実に追随していない様子で彼女が見上げてくる。  〈容貌〉《かんばせ》の中にあるのは衝撃、羞恥、それに〈達成感〉《・・・》。  そうと見て取って、俺は口元を知らず、歪めた。    違う、ともう一度胸中に繰り返す。  彼女の望むところが何であったのか。  それを俺は知らない。  湊斗景明を少しでも深く理解したかったのかもしれない。  あるいは明確な意図などなく、ただ衝動的に求めただけであったのかもしれない。  だが〈何〉《いず》れにしろ、彼女は望みを遂げてはいないのだ。  処女の悲しさで、気付けずにいるが。  教えてやらねばならない。  〈こんなもの〉《・・・・・》は性交渉ではないと。  本当の性交渉というのは、  もっと――  もっと、遥かに、救いようのないものなのだと。  彼女は俺に性を求めた。  ならば、本質のところまで知る義務がある。  だから教える。    ――俺が欲しいならくれてやろう、大鳥香奈枝。 「あっ、景明さま……!?」 「そんな、お待ちに……」 「大抵の男は待てと言われて待ちなどしないものなのです、大尉。  覚えておかれると宜しい」  背後から襲う格好で、女性としては長身のその体を捕える。  俺に比べれば一回り以上は小さい。抱え込むのに、何の困難もなかった。  腕を前へやって、胸乳を手に収める。 「あっ……わたくし、まだ、その」 「準備が出来ていないとでも?  ご心配なく」 「そんな事はしなくて良いのです」  豊かに実った乳房を弄ぶ。  柔らかい――が、こんな事をされる経験がないせいだろう、中にはまだ固さが残っていた。  それが苦痛を呼んだに違いない。 「ッ……!」  俺の腕から抜け出そうと、大尉が抗う。  相当に強い力だ。  しかしこちらは体格で優る上、男性と女性の根本的な筋質の差もある。  対処は造作もない。  俺はしばらく好きに暴れさせてやったあとで、その首根を掴むと、一息に寝台の上へ押し付けた。  ばふ、と大尉が顔を布団に沈める。  そのまま手を離さない。  彼女の全身の抵抗を、苦もなく片手で封殺する。  こうすれば、彼女にもわかる筈だ。  逆らえないという事が。  苦しげな動きで、大尉が顔を横向かせ、俺を見上げてくる。  別に今更表情は作らず、そのままの顔で俺は視線に応えた。  彼女が息を呑む。  相貌に怯えの色が濃く〈刷〉《は》かれた。  抵抗の力が、急に弱まる。 「そう。  それで宜しい」 「……」 「逆らわずに受け止めるだけでいい。  お分かりか」 「……」  俺は再び、乳に手を伸ばした。  さっき以上の力を、指先に込める。 「あぅっ!」 「返事はどうされました?」 「は――、はい」 「結構」  目尻に涙を浮かべながら屈従の返答を発する彼女に満足して、俺は髪を撫ぜてやった。  すんっ、と鼻を鳴らして応えてくる。  この間にも、胸に当てた手は離さない。  俺は別に力を緩めはせず、淫靡な肉を蹂躙し続けた。  痛みを訴える彼女の喘ぎが耳朶に幾度も触れる。  そのたび、俺の感興は高まった。――先刻の交わりとはまるで違う。  こうでなくてはいけない。 「う――くっ」 「可愛げな声を上げられる」 「っ……」 「どうかそのまま。  とても魅力的です」  気の昂ぶりに従って、俺は大尉の汗が浮いた首筋へ口を寄せた。  唇を押し当てて、吸う。 「はうっ……」 「こうされるのはお好きか。  なら、もっとして差し上げる」 「い、いや……  おやめください」 「痕が残ってしまいます……」 「ええ。  卑猥な痕跡が……」 「処女の身で男を犯すような貴方には相応かと存じます」 「ッ……!」 「獣が裸で歩いていたからといっておかしいと思う者はおりますまい。  淫乱の〈性〉《さが》を持つ女性が接吻の痕跡を残していても、やはりおかしい事は何もないかと」 「堂々と、人目に触れさせては如何か」  心を嬲る俺の言葉に、大尉は声もなく〈俯〉《うつむ》く。  羞恥のあまり、耳までもが赤く染まっていた。  彼女の首筋から背、腕……  欲求を覚えた箇所全てに、俺は口付ける。  音を立てて吸い、深く痕跡を刻む。  それは桜の花弁を模す〈刺青〉《タトゥー》のようだった。  大鳥大尉はもう何も言えず、嗜虐行為を加えられるがままになっている。  従順に身体を差し出して、抵抗もしない。  それはそれで愉快ではあったが、すぐに飽きが来るとわかっていた。    ……頃合か。  もう少し時間を掛けて愉しんだ方が良いのだが。  いや――これも一興だろう。  そう思い決めて、俺は行為を次の段に移した。  彼女には何の前触れも与えない。  彼女にとっては全く唐突に――  女性器を肉刀で貫く。  釣り上げられた魚よろしく、大尉の身体が跳ねて、踊った。  衝撃が急過ぎ、強過ぎて、悲鳴も上げられなかったらしい。  そこはまだきつく、力任せに押し込まねば俺の肉茎を侵入させなかった。  めりめりと、音を立てているような気さえする。  だがそれでも、前回の接合に比べればずっと容易い。  大尉の陰肉が〈蕩〉《とろ》けて、固さを失いつつある為だろう。  そうさせたのは、香奈枝嬢の深奥から滲み出す秘液に違いなかった。    彼女の雌性は、ちゃんと目覚めている。  こんな扱いを受けて、肉体は悦んでいる。  快楽を貪ろうとしている。  賞賛すべき貪欲さだった。 「大尉……」 「あ……くっ、うぅ……」 「お、お願いです、景明さま……。  少しだけ……少しでいいですから、優しく」 「わかっています」  俺は鷹揚に頷いた。  言下に拒絶すべき理由などない。  彼女の〈欲求〉《・・》はわかっているのだ。  望み通りにしてやろう。いくらでもしてやろう。 「先程、操を守っていたと仰られた……」 「……?」 「その相手が誰かなど訊きますまい。  しかし大尉殿……自分が思うに、操というものは相手が死んだ後も守り続けるべき」 「そうしてこその貞女」 「それは……」 「忘れてしまうつもりでおられたのか。  自分を求めて、こうして――」 「この湊斗景明を胸に宿して。  貴方の心にあるその男の残滓までも、捨て去ってしまおうと」 「……」 「くっ――」  抑え切れず、笑いを零す。  彼女がその相手と、いわゆる恋愛の関係を結んでいなかった事は直感的に察せられる。  結んでいたらそれこそ極め付けに面白かったのだが、無いものねだりをしても仕方ない。  これはこれで充分に楽しめるのだ。 「大尉。  無情なことをなさるべきではありません」 「……か、景明さま?」 「忘れるなどと。  覚えておられれば宜しい」 「仮初めにも婚約の契りを交わした相手。  今は亡くとも、面影を偲びながら」 「こうして――自分に犯されては如何か」  言い募りながら、大尉の〈膣内〉《なか》を深く抉る。  その刹那、彼女は俺の言わんとするところを悟ったに違いない。  でなければなぜ急に、その秘肉が激しく俺の欲塊を締め付け出したのか。 「妙に小器用な心の整理などなさるまい。  不貞を愉しまれれば宜しい」 「い……言わないで……!」 「貴方は俺を求めた。  それはきっと、婚約者が生きていても変わらなかった」 「生きていたなら、貴方はその目の前で俺を咥え込み、尻を振ったのでしょう?  貴方はそうして、悦ぶ気質をお持ちだ」 「う……嘘! 嘘っ!」  涙声で、大尉が否定する。  だが一瞬毎に昂ぶってゆく肉体は誤魔化しようなどなかった。  直接の性感と、言葉による間接的な刺激で、彼女は未知の領域へ押し上げられている。  秘所は青果の固さをもはや失い、熟したそれに変貌しつつあった。  愉しい。  何とも快い。  大鳥香奈枝の純朴な女体を絶頂へ追いやりながら。  俺はこの夜の長い楽しみを予感して、独り、口腔に含み笑った。  ――そうして、およそ二時間余り。 「…………」 「……けだもの……」 「…………。  何と言い訳したものかわかりませんが」 「その、一種の病気で……。  女性とこう、過剰に接触してしまうと……どうも抑制の効かなくなるところが」 「けだものけだものけだものっ」 「…………」  ……延々と続く非難を、聞き続けるしかなかった。 「……でも、良かった」 「……?」 「景明さまの〈こんなところ〉《・・・・・・》、知っている人は他にいないのでしょう?」 「それは……まぁ」  何人もいるようでは困る。  人生が立ち行かない。 「ふふっ。  そんな内緒の部分まで、見せていただけて良かった……」 「……最後に……」 「……」  ――――最後。  夜が明け……  朝になって。 「……殿方より先に目覚めて、こっそり抜け出しておくのが女の嗜みというものですのに」 「申し訳ありません。  比較的、朝には強い方で」 「寝顔見られた……」  大鳥大尉に恨み言をこぼされて。  笑いを〈堪〉《こら》えつつ、部屋から送り出して。  永倉侍従が調えた朝食の席に集い。  非の打ち所のない食事を、主従と普段通りの会話を交わしつつ楽しみ。  そして別れた。 「湊斗さま、午前中はいかがなさいます?」 「少し、森を散策しようかと」 「それはよろしゅうございますなァ」 「本当ね。お天気もいいし。  景明さま、後でわたくしもご一緒して構いません?」 「勿論です。  では、お先に」  ――約束をして。  冬の森は独特の景観を持つ。  夏のように激しくも涼やかではない。  春のように清々しく伸びやかではない。  秋のように静閑でいながら暖かではない。  ならそれに代わる美質が冬の森にあるかと言えば、なかなかに難しい話となるだろう。  冬季の森林の独自性は特徴の存在よりもむしろその欠落によって成立する。  色彩が無い。  温度が無い。  生気が無い。  発展が無い。  冬の森とは欠けたるもの、不具の姿であり、これを賛美する者は古来けして多くはなかった。    だが、皆無でもなかった。  冬の森は〈片端〉《かたわ》に非ず、裸像――  実相、真相であると。  虚飾を剥いだ後に残りし真性の美観、  これこそは完全であると。  要はこの欠落、この虚無にこそ美しさを見出すべきなのだと。    そう云う人々もいた。  今、この森を歩く俺も心情をそちらへ寄せている。  湊斗景明の死地としては、出来過ぎと思えた。 「…………」  そんな心情のせいだろうか。  胸中はあたかも森と同化したかのように、不思議と波立つところがなかった。  死に対する恐怖は、無論の事ある。  大鳥香奈枝の殺意の指先が遂にこの喉へ掛かる――そう知っていて、恐ろしからぬ筈がない。  死を達観する境地など、信仰を極めた聖人でもなく武道を極めた達人でもない俺には縁遠いものだ。  恐怖心は胸に満ち満ちている。  しかしその恐怖は〈凝〉《こご》り、心臓の外へ滲み出してくる事がない。  だから手足は震えず、脳もまた錯乱しなかった。  ……俺は分不相応に静かな心地で、告死者の来訪を待っている……。 «――――»  姿は見せず。  けれども無言の気配はずっと、俺の傍についていた。  無言だが……  きっと、何かを言いたいのだろう。  俺に向かって投げる言葉を抱えつつ、しかし本当に投げたものなのか、逡巡に踏ん切りをつけられないのだろう。  そうして黙り続けている……。  響かぬ金打声の中に心裡を読んで、俺は申し訳なさと感謝の念とを共に覚えた。  ……村正に対してこんな心情を抱いたのは、初めての事であったかもしれない。  劒冑の無言は有難かったが、俺の方には伝えるべき事があった。  姿を消していても所在は知れる。その方角へ正面を向けて、云う。 「村正」 «……なに?» 「世話になった」 «…………»  森を歩く。  そろそろ、小一時間ほどにもなろう。  太陽の高さを見るに、早朝という刻限は終わろうとしている。  時間の約束はしていなかった。    ……だが、もう程なくではないか。  そんな気がした。 «御堂……» 「陽が翳ってきたな」  快晴で明けた空は今、足早く広がる雲に蝕まれつつある。  山の天気はまさしく変わりやすかった。  どうやら、一雨来るようだ。 «御堂!» 「ッ!!」  二度目の呼び掛けを受けて、ようやく――    俺は村正の声が埒もない雑談のためではなく、注意を促すためのものだと気付いた。  それも、〈特定の危険〉《・・・・・》に対する。 「――〈敵性未確認騎〉《ボギー》か!?」 «方角、〈一五度上方〉《みずのとのかみ》!  距離九五〇、速度五七〇単位――» «この反応は……南蛮物?» 「……進駐軍だと!?」  一つの情報が一つの理解を生み、理解は次の理解を産み落とす。  今ここに進駐軍の武者が現れるというなら、それは。  〈裏切り者〉《・・・・》を討つために―――― «……あの騎体» 「……あれは」 「貴様は」 「貴様は――あの時のッッ!!」             『王杉事件』  興隆二四年九月、〈王杉栄〉《おうすぎさかえ》とその家族が陸軍将兵の手で拉致・殺害された事件を云う。  極右勢力の台頭から六波羅政権へ至る、興隆二十~三十年代の潮流を象徴する一事例とみられている。  王杉栄は軍人の家庭に生まれ、初めは自身もその道を志して陸軍幼年学校に入学するが、複数件の問題を起こし放校。以後はそれまでの生育環境を完全に否定するような人生を歩んでゆく。  彼は江戸で多くの思想家達と出会い、反帝国主義と非戦論に共鳴する。それは軍隊という世界から拒絶された事への反動であったと云えばそうであろう。  が、彼は反動からの惰性的行動者には留まらない。  文壇で、あるいは路上で、王杉栄は新たな価値観に基づいて精力的に活動し、多くの人々に影響を与えた。  正の意味においても負の意味においても、である。  文才ある彼の論説は人の心を揺り動かす力に溢れ、また彼の奔放な人格と生活は人の目を惹きつけてやまなかった。ダーウィンの名著を『種の起源』と題して翻訳出版する傍ら、愛人に刺されるのが王杉であった。  彼は権威否定のすえ〈無政府主義〉《アナキズム》へ行き着き、これに傾倒する。  そうして王杉派とでも呼ぶべき思想勢力を生み出したが、一方では極右派の激しい憎悪を買ってもいた。  帝国主義を信奉する人々にとっては単なる非戦論や自由主義すら充分に目障りなのである。  無政府主義に至っては完全な敵であり、障害であり、排除する以外の対処など考えられなかった。  興隆二四年九月一日。  関東大震災が発生する。  相模湾北西沖を震源として起きた地震と続く火災は関東南部を壊滅せしめ、死者だけでも一〇万を数える甚大な被害を生じさせた。  まさしく未曾有の大災害であった。  混乱の中、この機に乗じて当時大和に多数いた大陸からの出稼ぎ労働者や反体制主義者らが暴動を起こすという噂が人々の間に流布した。  これは無論、埒もない風説に過ぎなかった。  が、不幸にして、パニック状態の人々は虚偽を識別する能力を欠いていた。  噂は信じられ、ヒステリックなリンチ事件が多発し、多くの犠牲者が出た。  その中で、一部軍人らの行動は幾らか冷静であった。  彼らは「やられる前にやる」軍事原則に則る積極的意思で(あるいは更に積極的に、〈噂の真偽はともかく〉《・・・・・・・・・》この機会に始末してしまえと)敵を見定めて決起した。  震災から数日後、江戸〈葛飾〉《かつしか》にて一〇名前後の活動家が捕えられ、虐殺される。亀戸事件の名で今に伝わる惨劇である。  そして九月一六日。  王杉栄、その妻、七歳の長男、六歳の次男の四名が、被災した王杉の妹を見舞った帰路、行方不明となる。  一家は横浜の妹宅は出たが、江戸の自宅には戻らなかったのである。  一週間後、発表された事実は以下の通りであった。    〈予〉《かね》て王杉の存在を疎ましく思っていた某陸軍大尉とその同志が一家の身柄を拉致――  四名を殺害。  直後、大尉以下の将兵は自決した。                         以上。  ……現在、大多数の人々は、政府機関発行の公文書が記載する『王杉事件』の概要に疑念を抱いていない。  一部の限られた範囲の人間だけが、公記録は虚偽を含んでいる事、真実がやや欠けている事を知っていた。 「――――」  永倉さよは、清掃の手をふと休めた。  床に、小さな黒ずみがある。  古い血痕のような。  あの事件の後、汚れた床板は全て剥がされ、新しいものに張り替えられたはずだった。    なのに――見落としがあったのだろうか。  事件はもう、二十年近くも昔の事である。  全く無関係なただの汚れと考える方が自然だ。  しかし、老侍従には連想されてならなかった。  その痕跡から――――あの日の光景が。 『おばあさま……ふしぎなの。  とてもふしぎなのよ』 『このひとたち、銃の弾をよけなかったの』 『あんなの、〈ちゃんと見れば〉《・・・・・・・》かんたんによけられるのにね……』 『そうでしょう?』 『ねえ、おばあさま――』 『どうしてこのひとたちは……  わたくしみたいに、時間を止めてしまわなかったのかしら?』  肌が泡立つ。  指先は震え、雑巾を取り落とした。  あの記憶。  この恐怖は、いつ掘り返しても鮮烈なままであった。  いっかな磨耗しなかった。  おそらく――永倉さよがいつか生涯を閉じる時まで、色褪せないのであろう。 「…………」  急速に灰色で塗り込められてゆく外の風景を見て。  そこで開かれる戦闘の幕が、主人の敗北という形で閉じられる事は決して無いのだと、侍従は心中深くに確信していた。  ――――もし、そんな結末が有り得るとするなら。    それはさよの主人が自らの意思で敗北を選ぶ時のみであろう。 「……貴様……」  猛禽の風情で〈樹末〉《こずえ》に降り立ち、昏く輝く騎体は俺を見下ろしている。  見下ろしている――見〈下〉《くだ》している。  ただ一方的に生命を略奪すべく来たのだと。  言わば狩猟を楽しみに来たのだと。    傲岸なる意思を隠しもせず、俺を眺めやっている。  無意識に手が動き、胸元を鷲掴みにする。  ……忘れようとて忘れられぬ。  〈養父〉《ちち》を殺した〈騎士〉《クルセイダー》!!  報仇の念が胸に猛った。  血の脈動と共に衝動が全身を駆け、目的を唯一事に定めて走り出そうとする。  そうしてならぬ理由が、何処にあろう。  そんなものは何処にも―― (……!)  煮える脳漿の一部が、一瞬で冷めた。  まさか……この騎士も、〈あれ〉《・・》の仲間という事はないか?  湊斗景明に対する正当な憎悪を持つのでは……    だとすれば、俺にこの騎士を憎む資格はない。  しかし、俺の感性の部分はその推測に必ずしも同意しなかった。  ……あの怪物騎と目前の騎士とは、どうも異なる。  悪意と殺意に取り巻かれているのは同じだ、が。  あの怪物のそれが復讐に狂った末の、本来は善意であり愛情であったものの裏返しだったのに比べ、  この騎士のそれは、悪しき意味で〈純粋〉《・・》であった。  歪みも狂いもない。強いて云うなら根幹から歪んで狂っている。間違いの結果ではなく正しい在様として、悪意と殺意に満たされている……。  そう思えてならないのだった。  だが、根拠は何もない。  養父を殺された恨みで俺の眼が曇っているだけとも考えられる。    ……確認の必要があった。 「……〈騎士〉《クルセイダー》。  どうやら問答無用の様子だが、そこを曲げて一件問わせて頂きたい」 「……」 「貴方は湊斗景明に復讐を誓う者か。  俺に近親を殺され、その怨恨に懸けて俺の命を狙う者か?」 「…………」 「ならばこちらには、刃を受ける用意がある。  同様の所以により俺を処断せんとする方が既に一名控えておられるため、そちらと相談して頂く事にはなるが……」 「如何に?」  返答は、    声も惜しんでの嘲笑だった。  言葉なく、口の歪みも甲鉄の下に封じ、  騎士は視線と空気のみで嘲り、笑ってみせた。  ――何を、下らぬ……。    そう告げていた。 「貴様……  やはり」 「…………」  そして騎士は、〈石弓〉《クロスボウ》を向ける。  俺ではなく――  東。  山荘のある方角へ。  無言の意思表示は、今度も明快だった。    ――お前が〈ぐずる〉《・・・》なら、先にあちらから済ませる。 「やはり、大鳥大尉を狙って来た追手か!」 「……」 「させん!!」  瞬時、死を静かに待つ心境は跡形なく消えて失せた。  代わって、〈滾〉《たぎ》る激情が渦を巻く。 「村正。  あと一度だけ……付き合ってくれ」 「あと一つだけ、やらねばならぬ事が出来た」 «御堂» 「頼む」  大鳥大尉を殺させはしない。  彼女以外の人間に、〈俺を〉《・・》殺させもしない。  この騎士と戦う。  この――  養父を殺した騎士と!  戦う!! 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り!」 «……頭を押さえられた!» 「高度優勢は先方か。  あの甲鉄が備える独特の光彩、やはり伊達ではなかったらしい」 «〈解析〉《わか》るの?» 「あれは〈輝彩甲鉄〉《オリハルコン》だ」  西洋鍛鉄術に極上の三種有り。  〈聖銀甲鉄〉《ミスリル》、〈玉宝甲鉄〉《アダマンタイト》、〈輝彩甲鉄〉《オリハルコン》と云う。  聖銀甲鉄は聖別の〈鋼金〉《はがね》にして、魔を祓う力を持つとされる。  玉宝甲鉄は堅牢無比、巨象はおろか城に踏まれようとも形を変えぬと伝説に謳われる。  そして輝彩甲鉄は―― 「劒冑が羽衣に思えるほどの軽量なのだとか。  その為、〈立ち上がり〉《・・・・・》が異常に鋭い」 «緒戦の〈上位置〉《うわて》は約束されたようなものってわけね。  ……なかなかやるじゃない» «けど、重量が軽いことには短所もある!» 「ああ」  負けん気を起こす村正に首肯しておく。  皆まで聞かず、言わんとするところは察せられた。  突進力をそのまま打撃力に転化する武者にとって、体重の軽さは剣撃の威力の軽さでもある。  敵騎の〈長剣〉《ロングソード》が一撃必殺を成すのは難しかろう。  高所から攻め下りてくる対手を迎え撃たねばならぬこの形勢、必ずしも俺の決定的な不利ではない。  ……尤も。  それも、敵が格闘戦で勝負する限りにおいての話だ。  飛び道具には騎体重量の多寡など関わりない。  敵騎が長剣ではなくあの大型の〈石弓〉《クロスボウ》を用いてくるのなら、軽量の不利は何も無かった。  武者弓は並みの銃砲火器など比較にもならぬ威力を持つ。太刀の一撃に優りこそすれ劣りはしない。  弓にも長弓、短弓ほか各種あるが、わけても石弓の破壊力は特筆すべきものがあると伝え聞く。  大和では発達しなかった武装であるが、武者の剛力に機械の補助を加えて初めて巻上げが可能となる強弦からの〈回転矢〉《ボルト》は、分厚い胸部甲鉄すら容易に貫通するという。  高威力の反面、連射が利かないため、敵騎も濫用はせず使い所を選んでくるものと考えられるが……。  あの武器への対処を第一に考えるなら、空戦の誘いに応じるべきではなかったろう。  遮蔽物のない空中よりも、地上で山林に潜んで戦う方がこちらにとっての都合は良かった。    〈別の都合〉《・・・・》がなかったら、そうしていたところだ。  地上に留まるこちらに対して、敵が戦意を持続させてくれれば良いが、あっさり気を変えて大鳥大尉の方へ向かう可能性もある。……そうなった場合、出足で遅れるこちらが追いつける見込みはない。  それでは困るのだ。  敵騎の変心に備えるなら、こちらは戦術的な不利を承知の上で空に上がり、機動力を確保しておくほかに選ぶ道が無かった。  あの騎士がまず俺から狙ってきたのは、こうやって大鳥大尉を一種の足枷として利用する意図あっての事なのかもしれない。  ひとまず、対敵は石弓の使用を控える肚のようだ。  長剣を抜き、〈降撃〉《ダイブ》して来る。  外してしまえば後がない兵器だけに、やはり決定的な局面まで出し惜しむつもりなのであろう。  剣でこちらを弱らせ、動きを止めてから――か。  ならば、その企図を挫いてくれる。 「剣の勝負で優り、追い詰めて、あの石弓を撃たせる」 «それを防いで仕留める。  ……諒解!» «飛び道具に頼る武者なんて所詮、邪道よ。  そこのところを教えてあげないとね!»  敵騎は右手に長剣、左手に石弓を構えているが――  あれは盾でもあるのか?  盾も石弓と同様、大和の武の世界では軽んじられてきたものだ。  どう使ってくるのか、俺には今ひとつ操法の見当が付けられなかった。  西洋剣術との対戦経験は少ない。  江ノ島において、ジョージ・ガーゲット少佐と剣を交えてはいるが――彼の得物は両手持ちの大剣であり、大和の武者刀法とそう大きく異なる部分はなかった。  剣と盾を同時に操る術は未知の領域だ。    つまり、憶測を巡らせても仕方がない。  敵の手の内が読めない時は下手に策を弄したりせず、正攻法で押すのが堅実である。  盾で防ぎ、剣で斬ってくるのはわかっているのだ。ならばこちらは一刀で敵の攻守を打ち砕けば済む話。  太刀を上段にとる。  〈兜角〉《ピッチ》を下げて敵騎の腹へ入りつつ、斬り下ろす――  ――それに反応し、対手が盾を掲げたと見えた刹那。    俺は太刀を下段に回し、兜角を引き上げ、敵騎の背へ抜けながら斬り上げの一刀を放った。 「!!」 「……ぬぅ!」  敵手の対応は明敏を極めた。  堅牢な甲鉄盾に、俺の太刀はがちりと食い止められている――  こちらの〈偽攻〉《フェイント》を見切ったのだ。  しかし、流石に防ぐのみで手一杯だったらしい。  長剣が俺に振り下ろされる様子はなく、 «胸部甲鉄に損傷!  危ない……一発で破られかけたっ» 「〈刺突〉《つき》か!!」  幾つかの理解を一言に込めて吐き出す。  斬撃が線で甲鉄を断つのに対し、刺突は点で甲鉄を貫く。  一点に集約される〈力〉《エネルギー》の程は斬撃の比ではなく、ただ一撃で甲鉄を突破する事も不可能としない。  対手のような軽量の騎体においてすら。    しかし一方、〈点〉《・》攻撃である刺突は余程の手練を〈以〉《もつ》てしても容易には高速騎航する武者を捕捉できない。  大和の武者刀法が、一部流派を除いて刺突の有効性を高く評価しないのはその為であるが……。  その欠点を、敵の剣術は盾との組み合わせによって克服していた。  即ち相手の攻撃に対する防御を盾に任せる事で、剣は標的が懐に入るまで待機させておける。  必中の間合になったところで、刺突を繰り出す事ができるのだ。  同じ事を太刀しか持たない武者がやれば、待ち構えている間に斬られて終わるか、良くて相討ちだろう。  まさしくこれは、盾と長剣という武装における最も効率的な運用法の一つであるに違いなかった。 「こういうものか……」 «感心するのはいいけど。  やられっぱなしは御免よ» 「無論だ。  そんなつもりは毛頭ない」  この一戦は、断じて譲れぬ勝負。  大鳥大尉のもとに、この危険な刺客を送り出すわけにはいかないのだ。  彼女は湊斗景明にとって、他の誰にも代えられない存在。  守り抜かねばならぬ。  俺を正しく殺す〈女性〉《ひと》なのだから。 (そう――か?)  風を切り、冬空を駆けながら。  脳裏にふと自問が過ぎる。  誰かを守る為に戦う。  俺は本当に、そのような真摯な想いに〈拠〉《よ》って戦っているのだろうか。  いや――そんな想いを抱いて戦って、良いのだろうか?  何かを守ろうとして戦った事は、過去にもあった。  そうしてしかし、守り通せたものが一つでもあったろうか?  養母は守れなかった。  江ノ島でも、芳養少年と兄弟達を守れなかった。  湊斗景明の剣に何かを守る力などあるのだろうか。  無い、だろう。  もし有るのなら……  どうして、つい先日にも、養父をみすみす死なせてしまったのか。  ――――そうだ。  湊斗景明の剣は、誰かを守る為の剣に〈非〉《あら》ず。  誰かを殺す為の剣。  俺自身の志向など、どうでも良い。  〈事実として〉《・・・・・》、そうであったのだ。  ならば――今も。  必勝を期すなら、そうすべきではないのか。  殺すのだ。  ただ、殺すのだ。  理由は充分。  あれは養父の仇。  思い出せ……。  目の前で明堯様を失う、あの悪夢の瞬間、俺は約束した筈ではなかったか。  〈自分〉《おのれ》と、〈仇敵〉《かれ》と、運命とに。  必ず殺す、と。  復讐すると。 «……御堂?» 「――――」  太刀打の間合に臨む。  敵騎はやはり、盾で防ぎ剣で突く〈構〉《フォーム》だ。  攻守の均衡が取れた優良の戦形。  容易には崩し難い。  だがそれなら、死力を奮って崩せば良いのだ。  武者刀法の正調、右上段に太刀をとる。  そうして進突。  最終距離に入る一瞬、構を切り替える。  下段へ回し、敵騎の背面へ抜けつつの斬り上げ。 「――――」  刹那、敵は警戒の気配を漲らせた。  当然だろう……こちらは一度破られた手管を再び、そのままに用いようとしているのだ。  凡夫ならば油断するところでも、見るからに修羅場ずれしたこの対手にとっては正逆の局面に他なるまい。  下方へ回した盾の防御は堅固かつ柔軟、力押しにも変幻の術にも対応する様子を見せている。  ――しかし、無意味だ。 「……?」  敵の警戒の中に、困惑の波紋が広がる。  ……この刹那。如何なる衝撃も、その盾を襲ってはいない。  俺は斬り上げの一閃を、放つ――と見せるに留めた。  斬り込まず、太刀を左片手に持ち替えだけしておく。  右腕が空く。  ……敵騎は逡巡を抱いたとしても、動作に反映させなかった。  迷いなき鋭さで、長剣の刺突を繰り出してくる。  狙いは恐ろしいほどに正確。  先の一合で抉った箇所を再び刺し、今度こそ貫通を期す――が、今回はこちらに〈盾〉《・》が控えている。  左手の太刀で防御。  そうして、  俺は〈右腕〉《・・》を振り込んだ。 「!!」  吉野御流合戦礼法。  当身の七段目、〈夢枕〉《ユメマクラ》。  敵騎と交差する瞬間、鉤状に曲げた腕を相手の顔面に引っ掛け――  彼我の運動エネルギーを以て、敵騎の頚骨を潰す術。  〈極〉《き》まれば最後。  決して醒めない夢の底へ、沈みゆく。 「――チ」  完全に意表を突いたつもりだったが……  敵手の即応力は卓抜するものがある。  文字通り間髪の差で、首を沈み込ませ、俺の右腕をやり過ごしていた。  兜を擦る所まで迫ったらしい。腕の内側に、僅かな衝撃の余韻が残っている。  あと一歩。  いや半歩の所で、捉え損ねた。 「……ッ、……ッッ」  気のせいか。  ……耳孔を打つものがある。  裂空の界域に、低い笑声が渡っている。  侮蔑ではない。玩弄でもない。  それは、喜悦の、 「次は仕留める……」 «……御堂» 「敵情」 «…………。  〈一七〇度上方〉《ひのえからうまのかみ》、距離六二〇» «反転――» «!! あれは» 「……む」 «御堂、敵騎が!»  指摘されるまでもなく見えていたし、意味も知れていた。  しかし、その〈意図〉《・・》は簡明ではなかった。  対敵の戦形が変貌している。  剣を納め――構えるは〈石弓〉《クロスボウ》。  鋭利な〈鏃〉《やじり》が俺に狙点を合わせつつある。  〈弓箭兵〉《アーチャー》にとって、それは全く不思議がるに及ばない、正調の行為であると云えばその通りだ。    が――おかしいのは〈時機〉《タイミング》。  早過ぎる。  こちらはまだ、損傷らしい損傷を受けていない。  熱量の消耗にしても軽微なところだ。  つまり、〈速力〉《あし》は損なわれていない。  健在なる機動性能をもって、最大限度の回避能力を発揮し得る。  その事実は敵にもわかっている筈だ。  なのに何故、いま撃つのか。  敵騎の弓は速射性に秀でた狩猟弓などではない。  対極の、殺傷力を高めて連射性能を犠牲にした、弦の巻上げが必要となる石弓である。  濃密な短時間の内に終結する武者の戦闘において、これを射撃する機会は如何にしても限られるだろう。  おそらく一度きり。二度目は果たして有るか無きか。  であれば、必中必殺の勝機まで温存して当たり前。  余程の愚劣者でもわかる道理だ。  その道理に、敵は背こうとしている。  何故? (焦った、とでもいうのか)  あれしきの事で。  敗死の予感に怯え、動揺し、なりふり構わず勝負を決めにきた――と?  ……とてもの事に、そんな小胆とは思えない。 (なら?)  どうして。      …………いや。  俺は思考の泥沼から自分自身を引き抜いた。  射撃に備え、速力の確保を開始する。  敵の意図するところが奈辺にあれ、こちらにとってこれは好機だ。  相手の切札を浪費させるチャンス。  掴み損ねてはなるまい。  この一矢を回避すれば、趨勢は大きく傾く。  敵騎が再び剣に持ち替え、構え直すその間に、満を持して襲う事ができる。  その状況に至ったなら、勝ちは決まったようなものだ。  GHQの刺客はここで墜ちる。  養父の仇はここで潰える。  香奈枝嬢のもとに辿り着くことなく。 「――――」  瞬きを禁じて、俺は敵影を見据えた。  充満しゆく殺意が解き放たれる、その一刹那を計り知る為に。  輝彩甲鉄の騎士もまた、俺を見詰めていた。  俺の心臓か、喉笛か、あるいは脳髄を……〈一箭〉《いっせん》にて穿つ為に。 「――――」 〝〈贋弓聖〉《バロウズ》〟は敵の姿を完全に捕捉していた。  完全に――完璧に。  狙いは、外さない。  絶対に、外すまい。  村正を――  湊斗景明を、殺す。 「……っ!」  大鳥香奈枝という人は、ごくごく尋常に生を〈享〉《う》けたはずである。  少なくとも、彼女自身が〈人伝〉《ひとづて》に聞く限りではそうだ。  屍女の胎内から産み落とされたわけでもなければ、妊娠三ヶ月で母の腹を食い破って出てきたのでもないらしい。また、母の妊娠と前後して父が黒魔術の儀式に耽溺していたという事実も、別段無いようだ。  愛情があり、性交があり、精子と卵子の結合があり、十ヶ月の熟成があって生まれてきただけなのだろう。  平々凡々、何の変哲もなく、二〇億だか三〇億だかいる他の人類種と全く同じ手順を踏んで生誕したのだ。  大鳥香奈枝。  彼女は人間として正しく生まれた。  にも拘わらず、彼女は人間として正常ではなかった。  大鳥香奈枝の心身には、ほんの少し――何処か一部だけ、異常な機能が備わっていた。  その事実を最初に知ったのは本人ではない。  父親であった。  彼は子供の教育に熱心な人物だった。  親としての責務に忠実であったとも言える。  権門の一員として多忙を極める立場にありながらも、娘を使用人の手に委ねてしまうことはなく、でき得る限り時間を作って多くの事柄を自ら教えた。  だから、娘の〈偏向〉《・・》を知らずには済ませられなかった。  ある日、彼は幼い娘の小さな手の中で、〈蟷螂〉《かまきり》の首が引き千切られる光景を目にした。  足元には〈紋白蝶〉《もんしろちょう》の死骸もあった――こちらは蟷螂に食い殺されたと〈思〉《おぼ》しかったが。  父は眉をひそめながらも、その時は無言で去った。  幼児期特有の残忍さを頭ごなしに叱責しても逆効果、それより根気良く生命倫理を教え込んでゆく事で自ずから間違いに気付かせるべきだと考えたためだった。  彼は良い父であった。  別のある日、彼は娘が〈燕〉《つばめ》を捕まえて〈縊〉《くび》る光景に遭遇した。  燕は餌を集めていたところだったのだろう、何匹もの昆虫を口から吐き出していた。  父はその時も、声をかけずに去った。  内心では、命の尊さを教えるのに適切な童話が何か無かったろうかと考えていた。  彼は良い父であった。  またある日、彼は娘が鋏の尖端で大柄な〈烏〉《からす》の息の根を止めている光景に出会って愕然とした。  娘は父の視線に気付くと、この烏は燕の巣を壊したのですと言った。確かに残骸が散らばっていた。  父は少し迷ってから、よく烏なんて捕まえられたな、と感心する素振りで言ってその場を離れた。  害獣の烏を駆除したこと自体は咎められない、叱責するのは別の時にした方がいいと考えたからだった。  彼は良い父であった。  そしてある日、彼は使用人の悲鳴を聞いて駆けつけ、そこに血まみれの娘の姿を見出して絶句した。  娘は左手に包丁を持ち、右手で野良犬の死体を引き摺っていた。  この犬は子猫を食い殺したのです、と語りながら、少女は足元をふらつかせていた。  血は、野犬のものばかりではない様子だった。  父は内心の動転を必死に抑えつつ、医者を呼ばせ、娘には体を洗いに行くよう命じた。  娘は野犬を裏庭に埋めた後で父の言葉に従った。  その日の夜、父はとうとう、どうしておまえはそのようなことをするのだと娘に問い〈質〉《ただ》した。  娘は、許せないのですと答えた。  何が許せないのかと父は訊いた。  悪業が許せないのだと娘は答えた。  我欲のため、他者の命を奪い取る悪業が。  その〈様〉《さま》を見るたび、奪われる側に心が寄る。  強者の暴虐に屈する、その無念と悲憤に同調する。  だから殺した。  そう娘は言った。  蟷螂を、燕を、烏を、野犬を――  蝶に、虫に、燕に、子猫に代わって殺した。  そう言った。  父は、それは自然の摂理なのだと告げた。  どんな動物も、他の生物を犠牲にして生きている。  我々とて、日々、牛や豚を食べているではないか。  父はそう諭した。  娘は頷いた。  ――ええ。  だからわたくしたちも罰せられるべきです。  淀みなく、そう答えた。  父は言葉を失った。  娘は続けた。  ――弱肉強食が自然の摂理なら。  その自然の摂理というものが、自分には許せない。  それは正義ではないから。  仕方なかろうと。必然であろうと。  それは決して、正しい行いではないから。  ……娘は父の教育を真摯に受け止めていた。  世に正義を示し、人々の心に堕落させぬよう努めること、それはたしかに彼が教えた〈貴顕〉《ノーブル》の義務そのものだった。  邪悪は憎み、否定せねばならない――    教えに忠実であり過ぎる娘を、どう遇すれば良いのか彼にはわからなかった。  娘の性根が〈歪んでいる〉《・・・・・》のはわかる。  しかし、何も〈間違ってはいない〉《・・・・・・・・》のだ。  辛うじて口に出せたのは、理屈で通せないなら恐怖心に訴えようという稚拙な言葉に過ぎなかった。    ――あの犬にもきっと家族がいただろう。  おまえは猫の仇討をしたつもりで、犬の仇になったのかもしれない。  いずれ犬の群れがおまえを殺しに来るかもしれないぞ――  娘は答えた。    ――〈それが〉《・・・》正義です。  わたくしは、犬に食い殺されましょう。  その返答に強がりの成分が幾らかでも混じっていたのなら、父は多少の安堵を胸に抱き得ただろう。  真っ直ぐ過ぎて危うい部分はあっても、本質的にはごく正常な人間なのだと信じられたに違いない。  しかしあろうことか、娘は美しく〈微笑〉《わら》ってその一言を吐いたのだった。  恍惚と。夢見るように。  それ以上なにも言えず、父は娘を部屋に帰した。  そして長い間、悩むことになった。  悩みが報われることは遂になかった。  彼は良い父であった。      しかし、娘があまりにも劣悪に過ぎた。  彼女は実のところ、理解していたのである。  自分の歪みを。父親の困惑を。どうすれば父を悩ませずに済むかまで。  理解していて、黙殺した。  己の欲求を優先した。  報復嗜好。  復讐志向。  彼女はそれが正しいからしたのではない。  それが〈愉〉《たの》しいからしたのだ。  復讐を正しい――正義とする考えは、倫理観に基く殺害行為への禁忌を〈解禁〉《・・》するものでしかなかった。  ……その意味において、彼女に対する父親の教育は無益どころか有害ですらあったのかもしれない。  幸いというべきか、父は生涯、その点まで思い至ることはなかった。  危惧したよりもはるかに娘の〈性〉《さが》が悪質であるということを、理解せずに済んだ。  彼は良い父であり、善良な人間であった。  善良であるが故に、〈生来の悪魔〉《・・・・・》という個性について深く考察するには足りないものが多過ぎた。  善良な男は娘を理解できず、良い父は暴力と権力とで娘の矯激な行動を掣肘する決断が下せなかった。  娘は歪みを無事に抱えたまま成長し、  興隆二四年九月を迎える。  関東大震災の混乱に乗じて大鳥閥に属する陸軍大尉と一党は無政府主義者王杉栄の身柄を拉致したものの、密告を受けた警察が迅速に初動したため、駐屯基地に戻ることができなくなっていた。  当時軍と警察は対立関係にあり、裏交渉などは望むべくもない。  やむなく、陸軍大尉と麾下将兵は大鳥家の影響力が強い会津へ逃亡する。  彼らが王杉一家と共に永倉家所有の山荘に籠もったという連絡を受け、大鳥本家では対応が協議された。  意見は大別して二派であった。  陸軍大尉らを擁護すべしとする当主。  警察に引き渡すべしとする当主の弟――香奈枝の父。  議論は紛糾した。  怒鳴り合いと掴み合いがそれぞれ両手の指の数ほど発生し――最終的に、「無かったことにする」方向で決着した。  王杉一家は秘密裏に海外へ亡命させる。  陸軍大尉一党の行動は震災の混乱に煽られての職務放棄として処理、原隊復帰のうえ罰則に従わせる。  無難な収拾ではあった。  しかし結論が出た頃には、もう全て終わっていたのだった。  事件があった丁度その折、白河の永倉家に滞在していた香奈枝は、ふとした思い付きで山荘に向かい――  そこで瀕死の男児と出会う。  たどたどしく、彼は語った。  父、母、兄と一緒に、ここへ連れて来られたこと。連れて来た大人たちは父に何かを要求し、父がそれを拒んだこと。激しい言い合いになったこと。  それから――    子供は、そこまでしか話すことができなかった。  しかし、それで充分だった。  大鳥香奈枝に必要なことは、全て伝えていた。  銃を提げた兵士が、山荘の玄関から飛び出してきて、何事かを叫んだ。  香奈枝は動かなくなった子供をそこに寝かせ、立ち上がった。  そして開始した。  自身の魂に備わった〈志向性〉《オリエンテーション》を解き放った。  ……香奈枝の不在と行先に気付いた永倉さよが山荘へ駆け付けた時、そこにはもう死骸しかなかった。  死骸の繚乱と――――一匹の悪魔しか。  さよ、そして永倉家当主の機転によって即座に隠蔽が行われ、陸軍大尉らは王杉一家を殺害したのち自裁したものとして処理されたが――どだい、他殺死体はどうしたところで他殺死体である。  死体の始末にあたった大鳥家の家士までも騙し切るのは不可能だった。  香奈枝の〈戦傷〉《・・》を治療した医者に、それが単なる事故による負傷だと信じ込ませることも。  王杉事件の真相はそれを悟った彼らの口から〈膾炙〉《かいしゃ》し、やがて大鳥家内における公然の秘密となる。    秘密は一つの禁戒を生んだ。  ――〈忌姫〉《いみひめ》、忌姫、忌姫ぞ。  触れてはならぬ香奈枝様、寄ってはならぬ香奈枝様。声をかけてはなりませぬ。顔を見られてはなりませぬ。けっしてけっして、姫君の憤りを買ってはなりませぬ。  理解及ばぬまま娘を見守っていた父も、この事件を迎えてとうとう、理解及ばぬままに絶望した。  実の娘への愛を断念した。  事件から数年後、香奈枝は留学の名目で海外へ放逐されることになる。  同行者は永倉さよ、ただ一人であった。  ……大鳥香奈枝は、自分を捨て去った父親に恨みを抱いてはいない。  むしろ全く、その逆だった。  父が〈歪〉《いびつ》な性根の娘を、それでも必死に愛そうとしてくれたことを知っている。  父の深い愛情には感謝するしかなく、愛情に応えられない自分の〈性〉《さが》がただただ申し訳なかった。  彼女は歪み切っていたが、自らの歪みについて正確な理解を持っていた。  忌み嫌われるのは仕方ない。外道の享楽を貪る以上、当然の報いなのだと納得していた。  人に好かれ愛されるよりも、己の欲求に耽溺したい――そんな者は嫌悪されて然るべき。  彼女は父から学んだ倫理観に照らして正しく結論し、正答を得たからにはもはや疑問など持たなかった。  そうして香奈枝は放逐後も何一つ変わらず、〈欧州〉《ヨーロッパ》で生きてゆく。  一箇所に長く留まることはなかった。不可解な殺戮劇を足跡がわりに残しつつ、彼女は諸国を転々とした。  〈視殺す王〉《バロール》。  〈復讐の女神〉《フーリエ》。  〈夜に忍び寄るもの〉《ナイト・ストーカー》。  …………曖昧模糊な伝説を霧のように広めながら。  大鳥香奈枝は忌まわしき悪魔として在り、そう在る己に一切の疑いを抱かず、欧州の人間社会に闊歩する。  そして十余年の歳月を経て、祖国大和へ帰還の途につく。  悪魔は悪魔のまま故郷の土を踏んだ。    しかしそこで初めて、悪魔は自己の根幹を揺るがす疑問に直面させられたのだった。  ――――あの刹那。    大鳥香奈枝の心の中で、歯車が一つ狂ったのだ。  忌み嫌われるべき己が、  〈歓〉《よろこ》ばれ、尊ばれ、感謝された、あの刹那に。  彼女は過去、無数の憎悪を砕いてきた。  無数の不遜、無数の憤激も砕いてきた。  無数の悔悟、無数の哀願をも砕いてきた。    しかし、感謝に刃を突き立てたことだけはなかった。  湊斗景明は新田雄飛の命を奪った。  その罪に疑いの余地はない。他の数々の罪も同様に。  が、香奈枝は、彼に罪はあっても誤りはないことを認めていた。  彼の立場で、そうする他にどんなやりようがあったというのか?  だから香奈枝は、復讐の宣告に対して彼が恐怖の色を見せた時、当然次には抵抗の意思が顕れると予測していたし、それで正しいとも思っていた。  香奈枝の宣告は暴虐であり、ならば抗うべきなのだ。  過ちを犯していない者に、処刑を受容せねばならぬ理由はない。  香奈枝は湊斗景明の抵抗を受けて立ち、生死を争うつもりだった。  だが予測は裏切られた。  彼は死に怯えながら、死をもたらす香奈枝を拝して迎えた。  理解不能であった。  香奈枝のように、己を対象としたそれさえ承認する復讐志向を有しているのではない。  彼は正常な感性を備えた常人だった。  常人なら、自分への復讐など拒むものである。  まして復讐のもとになる罪が〈拠所〉《よんどころ》ない選択の結果であったのなら、悲憤と無念を抑えかねて当然だろう。  だというのに。    ……後になって思えば、そんな謎に拘泥するべきではなかった。  おかしな男だと思い捨て、殺してしまえば良かった。  どうせ大鳥香奈枝は人間の出来損ない。そんな代物が人の心理なるものを推し量ってみたところで、無益の極致でしかないのだから。  なのにどうしてか、〈拘〉《こだわ》った。  湊斗景明という名の迷路にはまり込んだ。  彼のことで胸を悩ませた。  彼は罪に疲れ果て、早く楽になりたいだけなのかとも考えた。  しかし、そんなはずはなかった。もしそうなら彼は自殺していただろう。  彼は心底、香奈枝の復讐を歓迎していた。  他者からの報復、処罰という形でもたらされる死を渇望していた。  その想いは死に対する正常な生物的恐怖と並立していた。  倫理的に考えて並立し得ない両者が、どういうわけかしているのだ。  ――と。  その鑑定がそもそも間違っているのだと、香奈枝が気付いたのはしばらく経ってからのことだ。 「御命を無価値に扱われてはなりません。  今後はどうか、ご自重を願います」 「……無価値」 「はい」 「……わたくしの振舞いは……  価値のないこと?」 「ありません」 「…………」  あの時に悟った。  違ったのだ。  死への渇望と死への恐怖が並立しているのではない。  片方が〈計算に入っていない〉《・・・・・・・・・》のだ。  湊斗景明は、己に人権を認めていない。  自己の生存権を棄却している。  自己の正当性を主張する権利を棄却している。  だから、死に対する恐怖も顧慮しない。  生きたいと訴える本能を黙殺して、〈法〉《ルール》に沿う死罰を歓待する。  つまり。  それほどに、彼は自分を憎悪している。  どうしてそうなったのかはわからない。  村正として重ねてきた凄惨な罪の数々がそうさせたのか。それだけでなく、あるいは更に根の深いところに――自己の全てを否定させるものが何かあるのか。  いずれにしても、彼は自身について保護する価値を見出さない。  香奈枝が復讐の一刃を繰り出す時、何の抵抗もせず、甘んじてそれを受けるだろう。           ……納得できない。  彼女は遂に、その想いを抱いた。  大鳥香奈枝は、自分の行いが善行などと呼ぶに値しないことを知っている。  彼女の復讐には常に理があった――しかし同時に、狙われる罪人の側にも一つ二つの理はあった。  彼らは復讐されるに足る罪を犯していたが、単なる欲や衝動だけでそれをした者はむしろ少ない。  大概は彼らなりの正義や必然があってそうしたのだ。  だから香奈枝は復讐を決行する時、寝込みを襲ったり背後から不意に矢を射込んだりしたことはない。  罪人に抵抗を許し、彼ら自身の正義にかけて戦うのを許し、その上で真っ向から粉砕してきた。  〈断罪〉《せいぎ》と〈弁明〉《せいぎ》、五分と五分で争う〈法廷〉《ころしあい》。  そうあってこそ、復讐は正しい。  湊斗景明にも理はある。  彼は彼に為せる範囲で最善を尽くしたという一理が、〈確〉《しか》とある。  短い間ではあったが、香奈枝はその姿を傍らで見てきたのだ。  彼は確かに努力し、力を尽くした。  その苦闘に、    ――――誰も、報いない。  彼自身が己の理を主張せず、  香奈枝は相反する理で彼を否定しかしないなら、    彼の尽力を認める者は何処にもいないのだ。  湊斗景明の苦闘は誰にも受け止められることなく、  無価値なものとして廃棄されてしまう。            納得できない。  それは怒りにも似た想いだった。          このまま殺したくはない。  苛立ちのようでもあった。           彼を殺したくない。  そして悔しさ。            殺したくない。  悲しさ――          なら、        ……殺さなければいいのに。  ――自己否定。  なぜ殺す。  殺したくないならなぜ殺す。  復讐のため?  それにどの程度の価値がある。  復讐は唯一の正義などではない、  世に数多ある正義のひとつに過ぎないと、とうの昔から知っているのに。  どうしてそれに固執する?  どうしてそれに固執した?  ……愉しいから。  ……〈そうしたい〉《・・・・・》から。  しかし〈香奈枝〉《おまえ》は今、  〈そうしたくない〉《・・・・・・・》と思ってしまったではないか。  違う。違う。  そうではない。  湊斗景明への復讐はこれまでとは別。  大鳥香奈枝自身の復讐だ。  新田雄飛――  守りたかった子。幸福になって欲しかった子。 「あの」 「はい」 「少しお伺いしたいことが……  あ、すいません。おれこのへんに住んでる学生で新田雄飛って言います」 「はい」 「雄飛さん」  あの少年の未来を、湊斗景明は破壊した。  憎い。憎い。理が有ろうと無かろうと、彼が苦しんでいようといまいと、その罪は憎い。  罪を清算させずにはいられない。  …………清算。  清算?  復讐を遂げれば――  少年が〈還〉《かえ》ってくる、とでも?  ……大鳥香奈枝が生まれて初めて得た、自己否定という地獄。  崩壊は、一度始まれば止め〈処〉《ど》なかった。  なぜ復讐するのか?  なぜ復讐せねばならないのか?  自分は本当に復讐がしたいのか?  本当にそうか?     『おまえは憎しみが強いだけなのだろうか。    それとも、余りに愛情が深いのだろうか』  遠い日の言葉が甦る。  娘を海外へ送り出す最後、父が呟いた一言。  思えば、あれが永訣の辞だった。  ……香奈枝はずっと、父は自分を理解し得なかったのだと思っていた。  だが、果たして本当にそうか。  ある面においては、香奈枝自身よりも深く、香奈枝の本質に迫っていたのではないか。    まさか。まさか。まさかまさかまさか。  いや――――      あるいは。  自分は、  魂を〈病〉《や》んでいたのではなく、  ただ、  途方もなく、  〈遅かった〉《・・・・》だけなのか。    復讐は虚しい、何も生み出さない、単に不毛で無益な行為なのだという単純な真実に気付くのが――――  オレステイア。    父の仇討のために母を殺したオレステスは、苦悶のすえ精神を廃らせる。  モンテ・クリスト伯。    復讐を成就して得られたものは、復讐の名のもとに重ねた罪科への懊悩。  ハムレット。    王子の復讐は自分と仇敵のみならず、関わった者を悉く犠牲とし、後に何も残さなかった。  ……過去、幾人もの人心に通じた〈創作者〉《オーサー》が、復讐の虚無性を物語に託して謳い上げた。  彼らは〈叡哲〉《えいてつ》であり、正しかった――そうなのか。  そんなことはない。  復讐とは……              そうなのだ。              復讐とは……  復讐とは。  復讐とは。  復讐とは。          ……復讐とは、何なのか?  〈鬩〉《せめ》ぎ合う肯定と否定が、同一の疑問に行き着く。  いま価値を問われる復讐なるモノ、その真相は如何。  意義を知るには意味を知らねば始まらない。  復讐とは何か。      ――――知らねばならない。  湊斗景明を殺すべきなのか。                  (殺したくない)  新田雄飛の死への報復を果たすべきなのか。                   (果たしたい)  どうすることが正しいのか……  どうすることが〈大鳥香奈枝の正しさ〉《・・・・・・・・・》なのか。  その答えを得るために。  ――復讐の意味を、理解せねばならない。  香奈枝にはもう一つ、自分自身の復讐があった。  父を殺害した大鳥獅子吼への復讐。  大鳥本邸を襲い、獅子吼を討つ決断を下したのは、彼の存在が大和の害になると判断されたからである。  それは嘘ではない……が、順序の前後を云うなら、その判断は〈後〉《・》だった。  香奈枝はまず自分の都合で獅子吼への復讐を望んだのだ。  しかし彼は国家の命運に関わる人物であり、生死は一国の浮沈に直結する。  香奈枝が父親から受け継いだ帝王学は、個人的欲求のみで国家を揺るがすなど決して認めない。  ために香奈枝は獅子吼を殺す〈大義名分〉《・・・・》を探し、情勢緊迫の折柄、難なくそれを得たのだった。  個人的欲求――  復讐の真実を知りたいという欲への許しを。  父の仇を討てば、真実が得られるはず。  香奈枝はそう思い、獅子吼への復讐を実行した。  そして――――――――    彼女は知った。  望み通りのものを得た。  完全に、正しく、理解した。  復讐とは何か。      …………真実を、知った。 (殺せない)  そう思う。  湊斗景明はあまりに愚かだ。  あまりにも救いがない。  彼はたった一つ、認めればいいのだ。    自分は不運だった、と!  湊斗景明の人生は血にまみれている。  しかし、それが彼の責任だと言えようか?  彼は運命に罪を強いられたに過ぎない。 (殺してたまるもんか)  悔しくて腹立たしくて、涙をこぼしてそう思う。  今、自分が正体を明かせば、彼はすぐ戦闘を止めるに違いないのだ。  死ぬのは怖いくせに、その恐怖を無視して、劒冑を解き生命を差し出す。  香奈枝が彼の父を殺したことすらも、自分の責任と思い決めてしまうに違いない。    ふざけている!  自分は悪くないと、叫べばいいのだ!  自分は精一杯やったと、言い張ればいいのだ!  誰も聞かなくたっていいではないか。  本当に頑張ったのだから。血を吐いて戦い続けたのだから。その自分の苦闘を、せめて自分自身が認めてやらなくてどうするのか。  どうして己の全てを無価値などと決め付けるのか! (殺してなんてやらない!)  殺せば彼の愚想を認めることになる。  湊斗景明を無価値と認め、ごみくずとして葬り去ることになる。  駄目だ。  この男にそんな最期は与えてやれない。  そんな最期は許せない。  納得できない。  してたまるものか。  こんな男は生かしておいて、誰よりも幸福にしてしまうべきなのだ!  半生の苦しみに見合うだけの喜びを、これでもかと押し付けてやればいい!  そして何十年と過ぎて天寿を全うする直前、とうに過去の事など忘れていた彼に意地悪く囁いてやるのだ――『あなたは昔、殺されたがっていたのよね?』と。  彼は赤面するだろう。  ああ……  そうしてやれたら、どんなに胸が〈空〉《す》くか。  そうしたい。  そうすれば、いい。 (殺せない……)  殺したくない。  生かしたい。          大鳥香奈枝は、        湊斗景明の死を望まない。  ……悪魔は、遂に、  自らの殺意を否定した。  ――――来る!! (躱した!)  射撃瞬間の察知に成功。  射線から――〈自騎〉《おのれ》を外す!  これで、勝てる、                        その一瞬。  音速の風の中に、〈唱〉《とな》われる〈呪句〉《ノロイ》を聴いた。    ウィリアム・テルの矢は決して林檎に届かない。     The paradox of "Tell and apple".  ……それは多くの哲学者を苦悩させた〈背理〉《パラドックス》。  広く知られるアキレスと亀の背理に近しいもの。  テルと林檎の背理。  テルの弓から放たれた矢は林檎まで到達しない――何故なら矢はまず弓と林檎の中間点Aに到達する必要がある。  A点に到達するため、まずはA点と弓の中間点Bに到達しなくてはならない。  B点に到達するには、まずB点と弓の中間点Cまで到達せねばならない……  このように、通過すべき中間点は無限に設定される。  従って、無限の点を通過せねばならない矢は決して目標まで到達し得ない。  現実の事象に背く理論。    この名詭弁の巧妙さは、我々の世界が〈観測〉《・・》によって成立するという点を無視しているところにある。  〈無限〉《・・》の中間点を観測し、矢がその一点一点を通過してゆく〈無限〉《・・》の瞬間をも観測する者がいるならば、その者にとって背理は真実となるだろう。  だがそんな観測者はこの世界に存在しない。  する筈がないのだ―――― 「ゲェェァァァーーハハハハハハハハハハハ!!」 「…………!!」  矢が、               ――――曲がった?  敵騎、失墜――  己が射撃の成果を見定める前に、〝〈贋弓聖〉《バロウズ》〟は追撃態勢へ移っていた。  外さないことはわかっていた。  知っていたのだ。 〝〈背理の一射〉《パラドックス・シューティング》〟こそはバロウズの〈心鉄〉《しんがね》に宿った〈陰義〉《しのぎ》の〈術技〉《わざ》である。  これは最初、目標地点を定めて放たれ、  設定された通りに射線上を疾走する。  ここまでは通常の道理であり、標的とされた対象は射線を見切って回避することが可能である。  ――だが。 〝背理の一射〟を実行したバロウズの〈仕手〉《ユーザー》は、射線の中間点において、〈再射撃〉《・・・》の機会を与えられる。  目標地点を設定し直し、射線を修正できるのだ。  この物理的違法行為は新たに設定された射線の中間点においても許される。  標的の回避機動に対応して、射線を変じてゆく一矢。  故にこれは必中必殺の魔弾。    …………という、つまり空論である。  それは空論に過ぎなかった。  自明のことだ。この異能を有効に利用するには、超音速で駆ける矢が射線の中間点に達する寸機を〈見極め〉《・・・》、〈認識せねばならない〉《・・・・・・・・・》のである。  一秒の万分の一もなかろう時間に空間の一点を正確に知覚し、かつ同時に、標的の位置も見定める――  人間業の範疇は優に超えていた。  人間より遥かに効率的な知覚認識が可能である劒冑の〈統御機能〉《OS》をもって補佐しても、全く足りない。  ……この半端な無用の陰義は、バロウズが原作たる〈弓聖〉《テル》を模倣しようとしてし損ねた結果である。  弓聖の陰義は『射手の視線を〈矢が〉《・・》追う』というもの。  かかる神芸など写し取るべくもなかったバロウズは、可能な範囲で効果の再現に努め――結果として全くの理屈倒れに終わったのだった。  〈真弓聖〉《テル》の神技は史実のもの、比して〈贋弓聖〉《バロウズ》の魔弾は虚構に過ぎない。    しかし。  もしもここに、  人間を超えた知覚の持ち主がいるのなら。  〈時間を止める〉《・・・・・・》ほどの動体視力と、それに追随し得る認識能力とを先天的に兼ね備えた者がバロウズの仕手であるのなら……  魔弾の〈空想〉《ファンタジー》は実体化する。  背理の矢が正理と化す。 「GEEEEEEELLAAAAAAAA!!」  ……代償は少なくない。  陰義の行使による熱量消耗、知覚の酷使による激痛、いずれも深刻だ。  特に後者は酷い。  眼窩から溢れて頬を濡らす血は、きっと脳の裂け目から〈滴〉《したた》っているのだと思う。  普段なら、この一矢を放った後はまともに動くことさえままならなくなる。    だが――今は違う。  動かぬ四肢を、〈衝〉《つ》き動かすものがある。  刺突を狙い定めるほどの余裕はない。  ただ振りかざして、叩きつける。  刃が正しく当たっていたかどうか。  馬鹿のように、剣を〈平〉《ひら》にして殴っていたのかもしれなかった。  それでもいい。  何だって構わない。  〈仇敵〉《てき》を傷つけられるなら何でも。  これは復讐だ。    〈復讐なのだ〉《・・・・・》。  復讐とは何か――  大鳥香奈枝は、既に知っている。  それは、 「貴様の父親は寝床を襲って殺してやった。  何も知らず、何も気付かず――あの阿呆は芋虫同然の、相応しい惨めな死に方をした!」 「――――――」 「貴様もそこで、羽虫のように死ぬがいい!」 「獅子吼ッッ!!」  あの刹那、知った。  〈父を宿した〉《・・・・・》瞬間に理解した。          復讐は死者のものである。  賢人は云う――復讐は何も生まないと。    その通りであろう。  だから、どうした?  何かを生むの生まないので価値を計るのは所詮、命ある者の道理に過ぎない。  忘れまいぞ。〈罪の被害者は死している〉《・・・・・・・・・・・》のだ。  死せる者に報いる道が、生ける者の理で見出せようか?  否である。否、である。  死者への贖いは死者のみの理に依るが正当。  そう、贖い……  死という負債を埋める道は二つある。  一つは、死者を生き返らせる事。  これは可能か? 否。  一つは、殺した者を殺し返す事。  これは可能か? 可!!  かくして道は決する。  〈帳尻を合わせるために〉《・・・・・・・・・・》!  被害者の〈死〉《マイナス》を補うことが不可能なら、  加害者の〈生〉《プラス》を奪うことで均衡を取るしかない。  それが死者の理、  死者の願いである。  復讐である。  生者の都合など、そこには絡まない。  純正の復讐においてはそのようなもの、全く顧みられはしない。  復讐は死者のもの!  大鳥香奈枝はただ、復讐者に貸し与えられる一個の肉体であるに過ぎなかった。  復讐の真実を理解した彼女は、そう在らねばならなかった。  復讐の法を知り死者の無念を知るならば、その法に従うが正である。従わぬは悪である。  大鳥香奈枝は誇りの命ずるまま正義を執り行う。  復讐のための〈木偶〉《でく》に身を〈窶〉《やつ》す。  自我を無視して復讐する。  木偶の彼女が復讐を喜ぼうと悲しもうと愉しもうと厭おうと、そんな想いに価値は無い。  そう……価値など無いのだ。  邪魔になるかならぬかの違いがあるだけだ。 「――――」  だから。  大鳥香奈枝が湊斗景明を殺したくないと思うなら。 〝復讐者〟は――――  大鳥香奈枝の心ごと、湊斗景明を殺すだけだ!! 「AIIIYYYYYYYYYYYYY!!」  ……狂笑が聴こえる。  歪み切った、壊れ切った悦びを唄う声が。  忌まわしい響き。  あの騎士は養父を殺した後にも、こんな声で嗤ったのだろうか。  侮蔑して。  喜悦して。 «御堂っ!  〈一三五度上方〉《たつみのかみ》から――» 「ぐっ……!」  気力を奮い、せめて攻撃への備えを取ろうと試みる。  身体は重くはない――むしろ〈無い〉《・・》。胸から下が消え失せたかのようだ。  あるいは、事実そうなのか。  腹部を貫通した〈回転矢〉《ボルト》が、臓腑の全てをもぎ取っていったのか。  だからこんなにも、  何もかも……  意識がふと遠ざかり、    また浮上する。  今の一撃は兜を襲っていた。  頭骨を砕かれずに済んだのは僥倖だろう。 (……いや)  単なる幸運ではない、か?    ……敵騎の攻撃は、どうも〈軽い〉《・・》。  騎体重量の軽さが打撃力にも影響するであろう事は最初からわかっていたが、それにしても弱過ぎる気がする。  素人の棒振り芸も同然だ。  遊んでいるのか。  簡単には始末せず、嬲り物にする肚で―― (違う……な)  直観で否定する。  あの騎士に、そんな〈不純物〉《・・・》は無い。  あの殺意は純粋だ。  〈直向〉《ひたむき》に俺の死を求め、その過程において歓喜する。  純粋、純一の殺害意思。  殺すと決めたならば迷いなき、その、  ――――全く不意に。    脳裏で、何かが重なり合った。  敵騎の〈心象〉《イメージ》と、  もう一つ、全く別の――別である〈筈の〉《・・》心象が、 «み――御堂!!» 「……村正?」 «余計なことは考えないで» 「いや――」  頭部へ受けた打撃の影響か。  村正の急な声で現実に引き戻された俺は、一瞬前の思考を忘却していた。  ……しかし、今。  掴みかけた何かは、俺にとって大切なことであった――ような。 «〈それ〉《・・》は余計だからっ!  忘れて、今は戦いのことを考えて……» «来る!» 「!!」  ……刃先から、急所を庇う動作だけは間に合った。  右篭手に深い衝撃を浴び、骨髄までが震撼する。  醜態。  村正の言う通りだ。雑念に囚われてさえいなければ、もう少しはましな受けができたものを!  俺は自分を恥じつつ、騎航姿勢の回復を図った。  ……しかし今の一撃も、甲鉄を破られあるいは両断までされていても不思議ではないところだ。  それが衝撃だけで済んでいる。  理由は、つまり。 「敵騎も消耗している……?」 «……そのようね。  陰義の負担が大きかったんでしょう»  推測を、劒冑が補足した。  確かに。射撃の軌道を捻じ曲げるなどという魔法は相応の代償なくして成立するまい。  あれ一度きりで、続けて使って来ないのは、石弓の準備時間の他にその理由もあったのか。  と、すると。 「反撃するなら……まだしも今のうちということか。  あちらがもしも消耗状態から回復したなら、戦力差は覆せなくなる」 «どころか、あの陰義がもう一度来るかも» 「……く」  口腔に充満する、鉄錆の味を飲み下す。  言うことを聞かない身体に、精神力の鞭を打つ。  敵騎は迫っている。  軽い打撃とて、幾度も積み重なれば重く響く。もうこれ以上もらうわけにはいかない。  太刀を構え、攻勢に応じる――  敵騎はこちらの構えに反応を見せなかった。  技も術もなく、まっしぐらに襲来する。  既に勝負は決したという確信の発露か。    ならば、間違っていたと思い知らせてやる……!  接触の瞬刹。  太刀取りを変える。  上段から〈八相〉《はっそう》。  刺突を期す構。  敵の剣も盾も、こちらの変化に対応する気配はない。  したとしても、もう遅い!  対手のお株を奪う一刀で、形勢を振り戻す!  敵騎が無芸に直進して来ているのが幸いだ。  今なら当てるのは難しくない。  決定打まで狙う欲を出さねば尚更容易。  とにかく一打を加えて、反抗の契機にする―――― 「……!」  繰り出した太刀の〈鋩子〉《ぼうし》は……  何物も捉えず、虚空を泳いだ。 (見切られた――)  いや。  違う。 (見られていた……)  〈全てを〉《・・・》。  最初から、ずっと。  髪の毛一筋の〈たなびき〉《・・・・》に至るまで。 (捕まっていた)  悟る。    俺は、最初から、囚われていたのだ。  全てを掌握されていたのだ。  この〈瞳〉《め》に。  再び意識が落ちかける。  浮上して……また沈む。 (まずい……)  村正が呼びかけているように思う。  だが遠い。聴こえない。  沈む。  ……意識を飛ばしている内に、貴重な数秒間ないし十数秒間が過ぎ去ったようだ。  敵騎の猛追が、はや至近の距離にある。  だというのに――意識はまた、更に深い奥底へ潜り込もうとする。  これまで幾度となく無理を強いられた、その債権を行使でもしているのか。全身が眠りを求めていた。 (駄目だ)  もう一度沈んだら、次の目覚めはない。  目覚めの機会を与えられない。  そのまま終わる。    ……だから、沈んではならないのに、  駄目だ!  この闇に己を埋めてはならない。  〈起〉《た》ち上がり――戦わねば……              何故。 (……何故?)  そんな自問が浮かんでくる。  意識の拡散は、何か大切な事を見失わせてしまったのか。  戦う理由が……  ふと気付けば、俺の掌中になかった。 (いかぬ)  〈根拠〉《・・》を失くしては立ち直れない。  思い出せ!  理由は……何だった?  俺は今、何のために戦っていた!?  ……守る。  そうだ。  俺は守りたいのだ。  俺の罪を正しく理解してくれた、  そして正しい罰を約束してくれたあの〈女性〉《ひと》を。  何物にも代えて守りたいのだ!  意識の靄を〈気力〉《ちから》ずくで払い除ける。  上天を睨み、敵影を捕捉する。  戦え。  起って……戦え!  掛け替えなきひと。  ――大鳥大尉を、守るために! 「お、おお」 「おアアアアアアアアアアア!!」      ……だが、湊斗景明よ。    お前は既に自覚したのではなかったか?            己の宿星を。    湊斗景明は〈嘗〉《かつ》て一度たりと大切な人を守れなかった、  誰かを守る力など持たない男なのだという、真実を。 「――――」 「……う」 「っあ――――あァ!!」  殺すのだ。  あの騎士を、殺すのだ。  憎め。  憎め、憎め、憎め憎め憎め。  あれは怨敵。  養父の仇。  許せない。  許すまい。  憎み、憎んで殺す。  憎悪に〈執〉《しゅう》して殺害する。  殺す。  その一念。  他には何も必要ではない。  湊斗景明にはそれだけで良いのだ。  殺害に徹する――――    人殺しの術しか知らぬ湊斗景明が大鳥香奈枝を救うのなら、そうする以外に道はない!! 「――――ッ!?」  大鳥香奈枝は知らない。  〈その力〉《・・・》を知らない。  ただ一つ、悟った。    これは――――〈致死現象〉《フェイタル・フェノメノン》。 「吉野御流合戦礼法……〝迅雷〟が崩し」  〈呪詛〉《のろい》の〈詩〉《うた》を〈唱謡〉《しょうよう》する。  それは鍵だ。生命略奪行為の封印を解き放つ鍵。  殺す。  敵を、殺す。  〈倫理〉《ひとのみち》は見限って捨てた。  もう要らない。もう邪魔だ。それはもう余計な物でしかない。  村正の戒律も、今や恐れるに値しない。  あの騎士を斬った後で大鳥大尉に刃を向ける始末となろうが、別に構わない。  彼女は必ず、俺を返り討ってくれるから。  ……揺るぎない信頼がある。  大鳥香奈枝の復讐と殺意は絶対の信を置くに足りる。  彼女は正真の〈君主〉《ロード》。  法の執行者だ。罪人を赦しはしない。決して。  俺は彼女を信じる。  信じて――――この仇敵を殺す!! 「〈電磁抜刀〉《レールガン》」 「〈禍〉《マガツ》」  命を、  呪う。 「村正!」 «――あ――っ» 「敵情は……どうだ!?」 «……まだっ!  墜ちてない、飛んでる――» «交戦能力残存の様子!» 「…………」  何という畏ろしき眼か。  電磁抜刀の光迅すらも〈視〉《み》たのか。  そして、致命傷だけは防いだと……。 «けれど被害は甚大。  あのままなら、もう放っておいても» 「墜ちる、か?  ……馬鹿な」 「そんな相手ではない」 «え?» 「あの敵騎は俺を殺すまで、自騎の〈墜落〉《はいぼく》など〈認めない〉《・・・・》」  いや。  それも違う。 「例え墜落がもはや不可避であろうと……  最期の瞬間まで、俺を狙うぞ」 «……» 「だから――」  今、為すべきは。  ……追撃あるのみ! «御堂!» 「ぐっ……おぉ!」 「ふふっ……あはは……」 「はははハハハハハハハッ!!」  復讐の化身は笑う。  楽しくて仕方なくて笑い転げる。  内臓に達するほどの〈深傷〉《ふかで》を受け。  全身が砂の塊と化したような喪失感に襲われながら、愉快痛快に哄笑する。  ――想いが通じた。    〈悪魔〉《おとめ》はそう思う。  復讐と復讐。  憎悪と憎悪。  殺意と殺意。  澄んだ一念で今、彼と自分は結ばれている。  この空には復讐だけがある。  何という美しさ。  何という爽快さ。  世界は今こそ完成した。  卑小に矮小に閉じて満ちた。  もう何も要らない。  これだけでいい。  世界は復讐の法が統べる!! 「ハッ――ハァァ!!」  折れかけの〈翼甲〉《つばさ》を引き起こして騎航する。  敵騎もまた、再起しようとしていた。  その前に討ち取れるか。    いや、間に合わずとも構わない。  後でも先でも、〈殺せればいい〉《・・・・・・》! 「電磁抜刀は可能か?」 «もう無理よ!  熱量が足りない……» 「ならば加速は?」 «……短時間なら。  けれど、» 「良し」  おそらくは警告が続いたのだろう村正の言葉を中途で遮る。  必要な事は、聞いた。  後は実行するのみだ!  深紅の騎影を迎え撃つべく、騎航を再起して――  彼女は気付いた。  余力が無い。  騎航だけで底を突いている。  攻撃に割ける力が、もはや無かった。 「…………」  これで、終わりか。  自分の負けか。  そう思う。  それで良いとも思う。  仕方ない。  力尽きたのだから……。  大鳥香奈枝は敗退し、湊斗景明は生き残る。 (それでもいい)  そう思う。  では、決めよう。  どうするべきか。  大鳥香奈枝はこの最期、何を為すべきなのか?  この時この場に百万人の大鳥香奈枝がいようとも、  下す決断に違いはない。  〈気筒〉《バレル》への熱量供給停止。  〈翼甲〉《ウイング》の制御放棄。  余剰熱量を確保。 「――弓聖の一矢、林檎に届かず」            殺すのだ。          〈もちろん〉《・・・・》殺すのだ。  大鳥香奈枝は復讐者。  死者の癒されぬ怨念を背負って立つもの。  最後に一握りの〈熱量〉《ちから》が残されているのなら、  その用途が保身などであるはずはなく、  ただ殺すために使うのだ。  ただ殺すために!!  一度は回復しかけた敵騎の〈騎航〉《ネイリング》が、また失われ。  その様子を確認し――俺は戦慄した。  狙っている。  合当理の出力すら切って熱量をかき集め。  〈墜落しながら〉《・・・・・・》、あの恐怖の一射を再び放とうとしている。  まさに狂気の沙汰。  しかし、何を驚くべきであろう。  この凶敵にして、当然の仕儀! 「〈磁気加速〉《リニア・アクセル》――」 「〈辰気加速〉《グラビティ・アクセル》!」  即断して、こちらも陰義を〈繰〉《く》る。  操るは磁力と重力。  武者の常識を超えた高々速度に到達する。  最高級の〈競技用劒冑〉《レーサークルス》にさえ後塵を拝せしめる速さ。  この世の何者も追い付くことはできないだろう。      しかし。 (振り切れて――いない!)  敵騎の眼はこの世ならぬものなのか。  わかる。感じる……〈捕捉〉《ロック》されていると皮膚が叫ぶ。  もし俺が後方に逃れようとしていたなら、為す〈術〉《すべ》もなく背を打ち抜かれていたに違いない。  しかし、敵に向かっていたからとて術はあろうか。  捕捉されている以上、先制されるのも確実なのだ。  そして敵のあの射法は標的を〈絶対に〉《・・・》外さない。  あれは、錯覚ではなかった――決して。  射手の元から飛び立った矢が、途中で針路を変じて、俺を貫いたのだ。  〈自動追尾〉《ホーミング》なのか、〈遠隔制御〉《リモートコントロール》なのかは定かでない。  俺の勘は後者だと告げているが、根拠は無かった。  確かな事実は、回避の方法が〈無い〉《・・》という事。  術式がどちらであれ高速騎航によって相手側の捕捉限界を超える方法で破れる筈だ、が……  陰義を重ね掛けし、最高速度にまで達してなお振り切れないのでは、諦めるしかない。  その他の回避手段を模索しようにも、如何せん情報が足りなかった。  敵手の術技を一度見たのみで完全に見切るような才は生憎、俺と無縁である。  従って――――  敵騎は必ず先制射撃する。  その射撃は必ず命中する。    ……以上二項を前提として対処せねばならない。  矢が撃ち放たれるまで、おそらくあと一呼吸有るか無きか。  その極少時間で無理難題に挑む。  思い浮かぶ手立ては一つきりだった。    ――矢払いの術。  飛来する矢を、一剣にて切り落とす。  入神、極頂の業である。……生身の者にとっては。  腕に覚えある武者ならば、弓矢はおろか銃弾ですら太刀一閃にて打ち払うをさしたる難事とはすまい。  だが武者であっても、同じ武者の弓から放たれる矢は大いなる脅威と〈看做〉《みな》さねばならなかった。  弾速において〈長銃〉《ライフル》を凌ぐ武者弓箭の前では、劒冑で強化された反射神経さえ無意味と〈堕〉《だ》すのだ。  切り払うのは至難の上の最難事。      ……その最難事を俺は成し遂げねばならない。  それを成さねばこの太刀が敵騎に届かない。  あの敵を殺せない。  〈回転矢〉《ボルト》がもう一度、この身体に食い込んだなら、俺は失墜するだろう。  先刻の一弾で既に肉体は限界への〈秒読み〉《カウントダウン》を開始しているのだ。  矢を払えなければそこで敗北は決する。    如何にして、成すか?  動体視力と反応速度そして運動能力の卓抜をもって、できる業でないことは明白だ。  三種のどれ一つとして常人の枠を出ない湊斗景明には到底、不可能だ。  技術をもって挑むのが唯一の可能性だろう。  しかし俺の学んだ吉野御流は、現況において有効となる矢払いの術を伝えていなかった。  だから――  唯今、即座に、〈ここで業を工夫する〉《・・・・・・・・・》。  無謀の一択。  法外の企図だ。  成功率はごく僅かであろう。  その蜘蛛の糸のような可能性を掴み取らねば、あの〈弓騎士〉《サジタリウス》の殺害は許されない。  ――――来る。    俺の肌の粟立ちが、敵の殺意の肉迫が、残り時間をあと一秒弱と告げている。  多角的視点から方法を検討しているゆとりはない。 〝選択〟が必要だ。  〈どの方向で〉《・・・・・》考えるか。  それを選ぼう。 「――――」  選ぶのだ。考えるのは方向を選んだ後だ。  正しい方向を知るために考えてはならない。それは今、時間の浪費しか意味しない。敗北以外の結末を呼ばない。 〝選択〟をせよ。  湊斗景明には膨大な戦闘経験の蓄積がある。  その中におそらく一つは、正答への手掛かりとなるものが含まれている筈だ。  それを選べ。  そしてもう一つ。  現状況下における要点が何であるか、それも選択によって決定せよ。  選んだ要点に基いて戦闘記録を参照、検討し、敵の射法に対抗し得る〈戦技〉《アート》を完成させることになる。  では選ぼう。  俺の過去から一つを選んで引き出そう。  それは――――  そして要点は、  ……むぅ。  なるほど、厄介な状況だ。  過去の対戦にヒントを求めるのは有効だろう。だが問題は、その方法が〈お前に実行でき〉《・・・・・・・》〈る〉《・》ものでなければ意味がないという点だ。  姿隠しの術を持たないお前が、姿隠しの術でお前を苦しめた敵のことを参考にしても、この場合はまるで徒労……そう思わないか。  どうだ?  選択肢が限られてきただろう?  苦戦しているな。  おれとしても助言が難しい。  一般論くらいしか言えそうにないが……  まぁ、一応聞いてゆけ。  最強の武器を持つ者は、往々にして、それが命取りとなるものだ。  その武器に頼り切りであったばかりに、失った途端、何もできなくなってしまったり。  あるいは……最強の武器を敵に〈逆用〉《・・》されてしまったり、な。  良くある話だろう?  …………むぅ。  なんだか自分の言葉が耳に痛いな。  真っ直ぐに――  敵影を正面へ置いて疾駆する。  太刀はひたりと、前方へ。    敵騎の矢を迎える我もまた一筋の矢と化す。  鋭き尖鋒を備えた刺貫の一器。  この技は大鳥獅子吼から学び取った。  眩惑の剣――尖端で相手の視界焦点を刺し、精神と感覚の平衡を失わしめる妖術。  ……無論、俺とてわかっている。  あの技は至近距離の白兵戦であったからこそ効果を上げたのだ。  遠距離から音速で接敵しまた遠く離れる、空の武者戦にあって、相手の〈戦形〉《かまえ》を詳細に観察できる機会など〈太刀打間合〉《クロスレンジ》へ入るほんの一刹那しかない。  妖剣の働く余地は無かった。  しかしここに、常識外の要素が加われば話は変わる。  常識外の――あの眼が。  そう。  敵はこの遠距離で、精確にこちらの動静を掌握している……。  〈見えてしまっているのだ〉《・・・・・・・・・・・》。  恐るべき凶瞳には、この剣が。  ならば? 「…………っ!?」  眩惑効果は一瞬も二瞬も〈保〉《も》たないだろう。  しかし今、それは永遠と等しい。  敵は感覚の回復を待たずに撃つ。  待っていては俺に接敵され、先制の機を失う以上、そうする以外に無いのだ。  眩惑されながら、如何にして狙点を定めるか?    ……方法は唯一つだ。  そう。  剣先しか見えないなら、〈その剣先を狙って撃つ〉《・・・・・・・・・・》。  そこに〈対手〉《おれ》はいるのだから、それで良い。  正確に狙われた俺は、無謀にもそれを切り払おうとするのでなければ、回避しなくてはならない。  前者は考慮から外して良いだろう。  俺が回避動作をとったなら――俺の剣先の呪縛から解き放たれたなら。敵騎はあの陰義の威力を遺憾なく発揮する事ができる。  射撃は屈曲し、有り得ない角度から俺を射抜く。  それで〈結末〉《ジ・エンド》だ。  だから敵の決断は正しい。  全く間違っていない。    間違いは、その前の段階において存在した。  敵は俺に作戦を考える一秒間など与えず、さっさと撃っておくべきだったのだ。  照準など適当でいい。どうせ陰義で修正が利くのだから。発射時点の照準が外れていても問題はなかった。  しかし、射手のプライドがそんな雑な射撃を許さなかったのか……。  敵は照準を合わせるため、僅かな時間を費やした。  誤りは其処。  ただ一つの失敗が、弓騎士を殺す。 「――――あ――――」  回避、しない。  切り払いもしない。  迫り来る矢に対して、一切の〈反応〉《リアクション》を起こさない。  何故なら俺は信じている。  魔弾の射手を信じている。  絶対に外さない、と。  太刀の尖端の一点さえ。  避ける必要も防ぐ必要もない。  真っ直ぐに進み続けるだけでいい。  敵は必ず、俺の剣に当ててくれる!  太刀が〈拗〉《ねじ》けて、折れて、砕けた。  右腕までも吹き飛んだ。  しかしまだ命は残っている。  削り〈滓〉《かす》ほどだが、動く力が残されている。  足りる。  その一滴の力に全て託そう。  進むのだ。  あと一歩。その先のあと一歩を。  左手で脇差を抜く。  最後の武器。  敵もまた剣を抜いていた。  斬ったのか。  斬られたのか。  ……それはもう、わからなかった。  森の道を歩く。  身体はとてもとても重い。  あれやこれや欠けてしまったのに、どうしてか普段より重かった。  それでも歩く。  歩かなくてはいけないのだ。 «……御堂……» 「村正……」 «ごめんなさい。  私は……ここまで、みたい……» 「ああ……」  忠実でいてくれた〈相棒〉《とも》は、先にゆくようだ。  そちらへ首を傾けて、見送ってやる余力すらない。  一息を搾り出して、最後に伝えるべき事を伝えるのが精一杯だった。 「ありがとう」 «…………»  独りきり。  森の道を歩く。  辛かった。  身体は重く、意識は薄く、辺りはいつしか酷く寒い。  苦しい。  命が尽きかけているからだ。  止まりそうな心臓を無理に動かして、生き続けようとしているから苦しいのだ。  馬鹿なことをやめれば、きっと苦痛はすぐに終わる。  けれどまだ、俺は死んではならないのだ。  彼女のもとへ帰りつくまでは。  ……気付くと、倒れ伏していた。  脚の力が尽きたらしい。  もう動かない。 (駄目だ)  立ち上がらなくては。  まだ死んではならない。  まだ、ここでは、死にたくない。 (きっと……誰もが)  そう思ったのだ。  俺が殺してきた人々は。俺に殺されるその瞬間。  死にたくない。  まだ死にたくないと、叫んだのだ。  俺はその悲痛な願いを踏みにじった。 (だから)  〈だから〉《・・・》。  俺は、ここで死んではならないのだ。  無い力を奮って、身体を起こす。  歯を食い縛って、隻腕を立てる。  立たねば。  生きねば。  あと少し。  彼女のもとにゆくまで。  大鳥香奈枝のもとへ。  彼女は復讐者。  湊斗景明の罪を裁くもの。  湊斗景明に正しい死を与えてくれる人。  俺の命は彼女の刃に捧げられなくてはならない。  彼女は、俺に殺された人の無念にかけて、俺の命を奪うのだから。  悪に対する善の怒りを示してくれるから。  この世に正義はある。  悪に対する報いは、必ずある。  そう信じる。  信じたい。  だからこの命は彼女の手で。 (……あぁ)  いる。  そこに、いる。  来てくれた。  大鳥香奈枝。 (大尉)  希望を伝える。  ――裁きを。断罪を。  声が出たかどうか、わからない。  だが不安は抱かなかった。  彼女は純正の復讐執行者。  だから、大丈夫。  信じている。  大鳥香奈枝という人の、おそらく複雑であったのだろう人格について、俺の理解は必ずしも深くなかった。  きっと知らないことは数多ある。  もしかしたら彼女は、人倫に全く反するおぞましき性質の所有者であったのかもしれない。  人面獣心の〈化生〉《けしょう》であったのかもしれない。  そう思わせる片鱗は、顧みれば確かにあった。      ……だが、そんなことはどうでも構わなかったのだ。  どうでも構わなかったから、気にも留めなかった。  彼女は湊斗景明の罪に復讐を約束してくれた。  固く。  無慈悲に。  決して、〈赦〉《ゆる》しはしないと。  それが全てだった。  俺にはそれだけで良かった。  だから云える。  人の世界に迷い込んだ悪魔であったのかもしれないこの〈女性〉《ひと》は、  湊斗景明にとって、天の使いと何一つ違うところがなかったと。  大鳥香奈枝。  貴方に感謝を。  全身全霊の感謝を。  温かい何かが、首に触れる。    これが……刃か――――  生命の最後の片鱗が、溶けて消えた。  求める死は遂に、俺に与えられた。  断罪の死。 (……なのに)  最後に一つ。  俺の魂は、小さな不満を残した。  苦しくない。  痛くもない。  ただ柔らかくて、優しかった。  だからそれが、不服だった。    ……湊斗景明に与えられる死は、もっと苛酷なものでなくてはならないのに。  息絶えた彼の顔を見下ろす。  ……満足そうで。けれど少しだけ、不満そうだった。  どこか子供っぽい寝顔。  彼らしくない表情に、笑いがこぼれる。  声を立てることは、もうできなかったけれど。 (ばかなひと)  とうとう最後まで、自分自身を〈庇〉《かば》わなかった。  逃げれば良かったのだ。  俺はこんなところで死ななくても良いのだと、そう気付くべきだったのだ。  なのに彼は踏み留まって、戦った。  おそらくは、香奈枝を守ろうという想いもあって。  彼は自分を殺すと誓った女のために戦った。  他でもない、守ろうとしたその女と。  そして死んだ。  まったく愚かしい。  救いようもなく、どうしようもなく愚かしい。 (けれど)  より愚かしいのは、どちらだったのだろう。  香奈枝を守ろうとして香奈枝と戦った彼と。  真実を隠し、彼をしてそうさせ、我が身を殺させた香奈枝と。  まぁ。  ……同じようなものか。  救えぬ愚か者同士が殺し合った。  そしてめでたく、どちらも死んだ。  これはきっと、それだけのことだ。  死にゆくことに、怖れはなかった。  不平もなかった。  生きるとは、死ぬということ。  死ぬとは、生きるということ。  意味は同じ。  言葉が違うだけ。  人生をゼロから発したものと見るか、ゼロへ向かうものと見るか、ただそれだけの違い。  だから死を求めることと、生を求めることとの間に、本質の差は何も無いのだ。  そんな言葉遊び程度の違いに拘泥しても仕方ない。  〈自己〉《おのれ》として正しく生きて、正しく死ぬなら、それで良い。  そしてこの最期は間違いなく、大鳥香奈枝にとって正しい帰結。  湊斗景明の最期もそう。  〈直向〉《ひたむき》に生きた。  直向に死んだ。  大鳥香奈枝として。  湊斗景明として。  そう思う。 (ねぇ)  もう応えない彼に、語りかける。  わたくしたち、愚かだったけれど。  本当に、愚かだったけれど。  こうするしかなかったものね。  ほかの道は選べなかったものね。  ふたり出会って、一緒に死んで――  こうして出来た、道化芝居。  こんなにも愚劣で、こんなにも滑稽なのに、観客は誰もいない。  わたくしたちはふたりきり。 (だから、ね)  この物語はわたくしとあなただけのもの。  ふたりきりで笑いましょう。  道化たちを指差して。その愚かしい生き様を。  〈拘置所〉《すまい》への道を、ぽつぽつと歩く。  義侠心溢れるジャーナリストを殺めた行為は両肩に重かった。  罪――何処かへ捨てることも、誰かに預けることも、決して叶わない荷。  生き続ける限りそれは積み重ねられ続ける。だからこそ人は正しく生きて少しでも荷を減らすのだ。  が、この俺はあたかも精神の剛力を誇示するが如く、殺人という最大の罪を次から次へと抱え込んでいる。  〈銀星号〉《いもうと》を止める、その自己一身の欲求のためだけに。  ……俺は愚かなのだろう。  おそらく、最も〈質〉《たち》の悪い意味で愚かなのだ。  嘲笑うにも値しない。  唾棄する以外に仕様もない、愚物。    そうと自覚してなお続ける、救いの無さ。 «……御堂» 「…………」 «繰り返し、言ってきたことだけれどね。  貴方は何も考えなくていい» «私に使われていればいい。心を止めて。  止められないなら……私を憎めばいい» «……自分を憎むのはやめて……» 「俺の答えも、繰り返し言ってきた」 «……» 「〈劒冑〉《おまえ》は道具だ。  使われるものに過ぎない」 「使われるだけの道具は罪など背負えない。  使う人間が罪を背負う」 「憎悪に値するのは〈人間〉《おれ》のみだ。  分際を知れ、道具」 «…………»  同様の対話を幾度交わしたろう。  二年前のあの時、村正と結縁してから。  今のように村正が言い出すこともあれば、俺の側が口火を切ることもあった。  〈然〉《しか》して結末は毎回変わらず。二人共に黙り込んで、互いに譲らないまま話を終える。  俺が譲らないのは、それが譲れない部分だからだ。  村正にとっても、同じなのだろう。  だから対話はいつも不毛に、相互の拒絶で終結するほかない。    これまでは、そうだった。 「だが」 «……えっ?» 「――――」  不意に口をついて出た、逆接の一語。  そして続けるべき言葉は――しかし、俺の意識野に存在していなかった。  元通りに口を噤んで、歩く。  村正も、夜陰に潜んで〈従〉《つ》いてくる。  が、劒冑の沈黙は、物問いたげな成分を含んでいた。  それはそうだ。やにわに〈約束事〉《パターン》を崩されれば、疑問も湧くだろう。  俺自身さえ不思議だった。  魔が差したかのような一刹那、俺は何を思い、何と言い募ろうとしたのか。 〝だが〟      その言葉の後に、何を。  既に手放してしまったそれは、もう俺の精神の沼の底だ。見えないし、手に取ることもできない。  やがては完全に溶けて、消えてしまうだろう。  そうなって、何が不味いということも無かろうに。  俺はどうしてか、脳裏で〈糸〉《・》を〈手繰〉《たぐ》っていた。  沼の底の何かと繋がっている糸を。  ……言うなれば、その糸は情景だった。  但し、俺自身に根差すものとは違う。  青江の幻覚世界に囚われている〈最中〉《さなか》、意識野を通り抜けていった光陰。  あれもやはり、青江の陰義で引き出されたものだったのだろう。俺の心ではない処から。  俺の夢、俺の過去に符合しない異質なそれを、俺は見た瞬間に忘却してしまったらしい。    ……どういう次第でか、〈今の〉《・・》俺は取り戻している。  確かに見たことを、一度忘れ去ったことをも自覚し、そして内容を思い出している。  断片的にだが。  心裡の鏡面へ映し出せる。  それを――――    村正の、記憶を。  天と地で、争いが繰り広げられていた。  血で血を洗う――屍山を築くという表現がまさしく相応しい。  地上では、射手が矢を射かけ、敵陣に間隙を穿つや、騎馬の将帥率いる兵の群れが長物を連ねて押し進む。  天空では、互いを好敵と見定めた武者同士が名乗り合い、雲を裂き風に乗って、激しく太刀を打ち交わす。  戦争の光景だ。  中世……そう呼ばれる時代の。  詳細に観察すれば、より正確な区分も可能だった。  劒冑の形状、武者の戦闘形式、歩兵の武器装束――それらはこの戦争が源平合戦でも戦国大名の抗争でもないことを如実に語っている。  何よりも、戦場に散見する旗……  赤地に金で日輪を描いた豪奢な錦織。  それが、〈どちらの陣営にも存在する〉《・・・・・・・・・・・・》。  そんな事態、そんな戦争が起きた時代は、大和史上にも稀であった。 「〈御父〉《おと》」  傍らの声に、俺の首が独りでにそちらへ向く。  小柄な蝦夷の女性だった。  その顔を隣から見上げる――見上げている。つまり俺の背は彼女よりも低かった。  彼女が声を投じたのは俺にではない。  前方に立つ、男の背へ向けていた。 「流れが、見えたか」 「〈吾〉《あ》が方の負けであろう」 「そうさな。  ……佐々木めがまたしても得意の寝返りを打ちおった」  忌々しげな男の声。  それを聞いて、俺も気付いた。  一隊が鉾の向きを逆さにし、先刻までの仲間に攻め掛かっている……。 「どうにもならぬ」 「〈飽間〉《あきま》様も、支え切れぬようだ」 「……」 「あの方の赤心忠義も、佐々木の裏切り根性には敵わぬか」 「左様なことはない!」 「現に敗れている……」 「一時の事だ。  うてらが奉ずる吉野の主上こそ正当の帝、いま京に御座すは尊き血筋ではあれど僭帝に過ぎぬ」 「最後には正しき者が勝つ。  世は、そう出来ている」 「……」 「信じられぬか」 「信じられぬ」 「信じねばならぬ」 「〈吾〉《あれ》が信ずるは、天上天下に御父のみよ」 「……」 「御父に教えられた鍛冶の技を信じている。  御父が〈これから〉《・・・・》見つけ出す、劒冑の極みも信じようぞ」 「そうして、御父の跡を継ぐ。  それだけが、吾の天命と思うている」 「……そうか」 「帰ろう、御父。  戦は終わりだ」 「うむ……」 「おわり?」  不意に、〈俺は〉《・・》声を発した。  俺のものではない声で。  我が身から生じる異質な声を聴く……    それはしかし、良く慣れ親しんだ感覚だった。  装甲する都度、これと同じ体験をしている。  ただ今の声は、いつもと比べると、〈些〉《いささ》か幼かった。 「かかさま。いくさ、おわったの?  もう、やらない?」 「……」 「……」  ニュアンスの齟齬は、部外者である俺の耳にも明白だった。  幼い声の主――俺の良く知る者――は、二人の会話を誤解している。  女性の方が、小さく首を振った。 「まだだ。  まだ、続く」 「いつまで?」 「わからぬ」 「……いくさは、いつからしてるの?」 「なれの生まれる前から、ずっとだ」 「あてのうまれるまえ?」 「そうだ」 「かかさまは?  かかさまのうまれたころは?」 「いくさ、なかった?」 「……あった」 「じじさまは?」 「……」 「じじさまのうまれたころは?  いくさ、なかった?」 「……」 「あったよ」  その戦嵐は、百年に渡って大和全土を吹き荒れたと伝えられている。  南北朝争乱。    俺の劒冑――村正が、生きていた世界。 「御父。  飽間様がお越しだ」 「おう」  〈鄙〉《ひな》びた蝦夷村の素朴な屋敷。  そこに現れたのは、堂々たる風情の武人だった。  一郡一軍を預かる将領に違いない。  一介の蝦夷とは天と地ほどの身分差がある……筈だが、家主は立ち上がりもせず、挨拶らしき挨拶もしなかった。  武人に、それを不快がる気色はない。  ……そういう間柄なのか。 「無事で、何よりだ」 「見ていたか」 「うむ」 「佐々木も大した奴よ。  裏切る時と場所を決して間違えん」 「吉野山の方々は位階くらい気前良くくれてやるべきだった。  奴の訴えを聞き流していたばかりに、このざまだ」 「欲得ずくの輩など要るまい。  どうせ寝返る男なら、最初から敵に回しておいた方がましだ」 「……あれはあれで筋は通しているがな。  領地を求め官位を求め、北から南南から北へと忙しく立ち回るのも、一族を守るためだ」 「本末転倒であろう。  将ならば、大義を守護するために一族の力を用いるべき」 「一族を守るために大義を捨てて、何の武人か」 「うむ……」 「飽間様は、たとえ一族郎党悉く死に絶える始末となろうが、北朝方へ鞍替えなどなさるまい」 「当然だ」 「この伊勢國は神宮の膝元。  民が帝を崇め、逆賊を憎む気持ちは、どの國よりも強い」 「断じて偽帝に頭は下げられぬ」 「うむ」 「勝たねばならぬ……」 「そのためには、だ。  村正。ぬしの力が要る」 「……」 「口にはされぬが、帝は待ちかねておられるようだ。  楠木殿もな」 「うむ……」 「勢州桑名、千子村の〈鍛冶長〉《かじおさ》は、五郎正宗の再来ならん……。  その風評が帝のお耳に届き、劒冑鍛造の勅が下って――早三年」 「まだ出来ぬか」 「まだだ」 「ぬしの劒冑を楠木殿が身に纏い、南朝全軍を率いて押し出せば、北朝など一夜のうちに滅び去ろう」 「大和の民の待ち望む平穏がようやく訪れるであろう……」 「うても、そうあらねばならぬと思うておる。  だからこそ、軽々しく鍛造に踏み切れぬ」 「やり直しは利かんからの……」 「まだ工夫がつかぬか」 「というよりも、方向よな」 「方向?」 「飽間様は、至高の劒冑とは如何なるものだと思われる?」 「力が強く、甲鉄は硬く、翼は鋭く速く――」 「出来るとお思いか?」 「……いや」 「どれほど力量ある鍛冶師でも、万能の劒冑は打てぬ。  何かを選び、何かを捨てねばならぬ」 「その選択が、定まらぬのか」 「うむ」 「何が最善、何が至高か……か?」 「至高の劒冑とはな、飽間様。  〈役目を遂げる劒冑〉《・・・・・・・・》に他ならぬ」 「如何なる者の助けとなり、  如何なる者を討ち滅ぼすのか、  ……まずそれを見定めねば、何も始まらぬ」 「味方は南朝、敵は北朝であろう?」 「より深く。より細かくだ。  役目が明確であればあるほど、劒冑の性能を特化できる」 「……成程のぅ」 「〈機能〉《はたらき》を定めるにはまず目的を定める必要がある。要はそういうことだ」 「それで〈戦場〉《いくさば》巡りか」 「うむ」 「結論は出せそうか?」 「まだ、掛かるな。  まだ……倒すべき敵の姿が見えぬ」 「佐々木如きでは不足だしの」 「そうか……。  わかった。ぬしの存念はそれとなく楠木殿にお伝えしておく」 「帝のお耳にも入ろう。  お二方とも納得される筈だ」 「済まぬ」 「なに。ぬしとわしの仲だ。  水臭い言葉などいらぬ」 「ぬしは心ゆくまで工夫を続けろ。  その間は、わしが賊軍どもから吉野を守り通してみせる」 「……頼む」 「…………」 「どうした、御父。  大層機嫌が悪いようだが」 「…………」 「〈御母〉《かか》?」 「京の都が奪われたそうです」 「……何!?  先月、楠木様が攻め落とし、帝は八年ぶりの帰京を果たされたばかりではないか!」 「洛中守護を拝命せし赤松の軍勢は何をしていたのだ」 「その赤松が、寝返ったのです」 「……何と」 「北朝に売りよったのよ!  都と、帝をな」 「帝が北朝の手に!?」 「……」 「では……南朝は、これから」 「吉野の〈皇子〉《みこ》が即位されると、飽間様は言うておられた」 「……」 「みやこのおはなし?」 「……」 「ととさまは?  ととさま、みやこでしょ?」 「……」 「……御父」 「……〈婿殿〉《あやつ》が……  御番鍛冶の端に加えられる栄に浴しながら、帝を捨てて逃げると思うか」 「…………」 「かかさま。  ねえ、ととさまは?」 「……………………」 「ばばさま……  ととさまは?」 「…………」 「……じじさま……?」 「…………」 「この村も、久方ぶりだ」 「うむ……」 「飽間様、ようこそいらっしゃいました」 「おう! 見違えたわ。  蝦夷はまったく、瞬きの間に大きくなるな」 「どちらが村正の娘で、どちらが孫だったか、うっかりしていると間違えそうじゃ」 「……それは言い過ぎだ。  こやつはまだまだ子供」 「鍛冶の技も、ようやく基礎が出来てきたかどうかというところだ」 「でも、背は〈母様〉《かかさま》より少し高い」 「む」 「ふふ……」 「長いこと、各地を転戦していたそうだが」 「うむ。  甲斐あって、赤松めの裏切りからの頽勢をようやく半分ばかりは挽回できたわ」 「虜囚の身で世を去らねばならなかった先帝の御無念、いささかは晴らせたかのう。  ぬしの婿殿の無念もな……」 「……」 「……」 「……して、そちらの御仁は?」 「おう。  この方は鞍馬山の学僧での」 「浦夢と申します。  どうか、よしなに」 「……」 「非常に深い学識をお持ちでな。  長らく南朝の、陰の相談役のようなことをして下さっていた」 「ほう……」 「わしも幾度となく世話になったものよ。  先日も相談事を持ち掛けたのだが、その折にふと、ぬしのことを話してみたところ――」 「至高の劒冑を求めておいでと伺いました。  それはとても、とても興味深い命題です」 「是非、私に協力させてください」 「――と、こう言われる」 「協力?  ……鍛冶の心得でもお有りか」 「いいえ。鍛冶の技は知りません。  しかし私、広い、とても広い世界を巡ってきました」 「色々な学問を知っています。  劒冑もたくさん、見てきました」 「……ふむ」 「どうだ。  その分ではまだ劒冑の工夫がついておらんのだろう?」 「物の試しに、浦夢殿の知恵を拝借してみても損はあるまい」 「まぁ……  そう言われるなら、あえて断る理由もないがな」 「見ての通り貧しい村、京の暮らしに慣れた方にはさぞ不自由が多かろうと存ずるが……。  それでも宜しいか」 「構いません。  ありがとうございます。村正どの」 「どうか、よろしく」 「……」 「村正どのは、計算が得意ですか」 「……異な事を。  計算が不得手で、劒冑鍛冶など務まろうか」 「ではお答えください。  六十二万五千五百九十二に七万八千四百二十一を加え、十五万六千五十九を引き、それから三倍すると、いくつになります?」 「…………待たれい。  今、〈算木〉《さんぎ》を――」 「ふふふ。  算木を使っても、答えを出すのには時間が少し掛かるでしょう」 「少しな」 「これを使ってみてください」 「……これは?  何かの記号に見えるが」 「天竺の数字です」 「数字? これが?」 「はい。  これが一、これが二、これが三……となります」 「ふむ……。  では、この丸い記号は十か」 「いいえ、違います。  それは〈ぜろ〉《・・》です」 「ぜろ?」 「無い、ということを示します。  空白を表す数字が〈〇〉《ぜろ》です」 「? ……?」 「無いものを、どうして数字で表さねばならない?」 「……」 「あぁ――!?」 「どうした」 「いや、どうしたではない、御父!  これは途轍もない発見だぞ!!」 「何?」 「浦夢殿、この数字で十を表すと……  もしやこうなるのか?」 「はい。〈1〉《いち》と〈〇〉《ぜろ》を並べます。  縦ではなく、横に並べるのが正しいやり方ですが」 「御父、見ろ。  この数字を使って、さっきの計算をすると――」 「百六十四万三千八百六十二。  瞬く間だ……」 「――――」 「どうですか。  天竺の数字を使うと、計算がしやすくなるでしょう」 「十、百、千といった数字を無くし……  一から九、これに〈〇〉《ぜろ》を加えた十個の数字で、あらゆる数を表す……」 「ただこれだけの工夫で、計算の手間がかくも減るのか!」 「実はこの数字と計算法は、もっと古くから大和に伝わっていたのです。  少し形は変えてはいましたが……」 「けれど、ほとんどの人は価値を理解できませんでした。  理解できた人は独占して、隠してしまいました」 「だから広まっていないのです」 「むぅ……」 「せっかく海を越えて伝わったのに埋もれてしまった知識、他にもたくさんあります。  もちろん、まったく未知の知識も」 「浦夢殿は、それをご存知なのか」 「はい」 「……教えてくれ!  いや、お願いする。教えて頂きたい」 「どうか!」 「頭を下げないでください。  教えます。私はそのために来たのです」 「村正どのに、私の知識をすべて差し上げるために……」 「村正どの。  あなたが至高の劒冑を求めるなら、三つの〈源気〉《チカラ》について知らなくてはなりません」 「三つのちから?」 「この宇宙の根源的なちからです。  私はこれを、磁気、辰気、創気と呼びます」 「…………」 「磁気というのは、磁石の?」 「はい。  磁石が引き合い、反発し合うちからのことです」 「あと二つはわかりますか?」 「いや」 「辰気とは、あらゆる物体に備わるものです。  他の物体を引き寄せるちからです」 「……?」 「今、私は石を拾いました。  手を離すと、この通り」 「石は地面に落ちます」 「……」 「これが辰気です」 「? ……?」 「…………」 「つまり――物が落ちるのは、大地の辰気が引き寄せているからだ……と?」 「そうです。  あなたはいつも理解がお早い」 「……」 「……では、創気とは?」 「基素を結び合わせ、物体を造り上げているちからのことです」 「基素?」 「物体をひたすら細かく細かく砕いていった時、最後に残るもの――もうこれ以上は砕けないものを基素と呼びます」 「万物の素材です。  これを多種多様に組み合わせて、草花や、鉱物や、昆虫や、〈私たち〉《・・・》を生み出すちからが創気です」 「それは……神仏の〈御業〉《みわざ》のことか?」 「そう言っても構いません」 「……創気。  それに磁気……辰気……?」 「無理に理解しようとしないでください。  焦ること、急ぐことは、頭脳の働きを妨げます」 「学問に近道はありません。  ゆっくり、学んでいきましょう」 「前からお尋ねしたかったのだが……」 「はい?」 「浦夢殿は、何ゆえ劒冑に興味を持たれる?」 「不思議ですか」 「森羅万象を窮めた御方がどうして武具などにこだわられるのか……  今ひとつ得心がゆかぬ」 「褒めてくださること、光栄です。  けれど、私はまだ何も知りません」 「まさか」 「いいえ。本当に何も知らないのです。  私が本当に知りたいことは、まだ遥か遠くにあります」 「浦夢殿の知識をもってしても、遥か遠い?」 「海に落とした一粒の砂金を探している心地です」 「……想像もつかぬ」 「〈神の愛〉《あがぺ》」 「?」 「何処にあるかわかりません。  どんな形をしているのかも……」 「しかし私は信じているのです。  劒冑は人間に与えられし翼。天へ至るただ一つの方法……なら、」 「これを極めた先に、求めるものはあると」 「…………」 「村正どの。あなたに巡り合ったのは天命でした。  私はあなたに会うために、この東の果ての国までやって来たのです」 「どうか私を導いてください。  ……黄金の夜明けへ!」 「御父、もういかぬ!  敵兵の数は百や二百ではない」 「このままでは皆殺しぞ!」 「……おのれ……」 「母様、怪我……!」 「構うでない。  流れ矢が掠めただけだ」 「母より自分の心配をせよ。  焼けて崩れた家の下敷きにでもなろうものなら、助からぬぞ」 「う、うん……」 「御父、とにかく今は〈退〉《ひ》こう。  裏里まで逃れれば、奴らも追って来られぬ」 「……」 「御父!」 「……何故だ。  北朝の軍がここまで攻め入って来るなど、有り得んことだ!」 「こんな筈では……」 「長島を越えない限り、北朝はここまで来れない……ですか?」 「浦夢殿……」 「では、長島は落ちたのでしょう」 「馬鹿な!  今、長島を預かるのは他ならぬ飽間様ぞ」 「あの方なら、たとえ万の大軍を敵としても数日は持ち堪える筈……」 「戦えば、そうでしょう。  けれど、戦わなければ、どうですか?」 「な、何!?」 「飽間どのが北朝の軍勢を素通しにしたなら……」 「戯けたことを申すな!!」 「……」 「確かに当世、武人といえばどいつも達磨よ。  〈北朝〉《あっち》へ転がり〈南朝〉《こっち》へ転がり、風向き次第で旗幟を変えよる」 「だが飽間様は違うっ!  あの方は、」 「……あの方だけは……」 「村正どの……」 「……御父。  今は考えまい」 「今は逃げねばならぬ。  忘れたか。御父は大和一の劒冑を打てと、先の帝より勅を賜った身」 「ここで命を危うくしてはならぬ!」 「爺様」 「……くっ」 「……生き残りはこればかりか」 「母様。  ……婆様が、いない」 「…………」 「いないの……」 「いないのなら、おらぬのであろうよ」 「……そんな」 「……」 「……っ……」 「泣くのなら、何処かに隠れて一人で泣け。  ここではやめよ」 「御父の前では」 「……………………」 「……爺様……」 「…………何故だ…………」 「何故、あの方が……  飽間様が……裏切りなど!」 「間違いではないのか……?」 「……長島から逃れてきた者がそう言うのだ。  事実であろうよ」 「…………おお」 「何たる……  …………何たるっッ!!」 「……」 「……浦夢殿……」 「はい……」 「うては見誤ったのであろうか……  あの方を……」 「飽間どのは、とても良い方でした。  吉野には私をあやしげな呪い師だといって忌み嫌う人も多かったのですが、飽間どのはいつも私をかばってくれました」 「……なら……何故……」 「……」 「良い人に、不義を強いる……。  そういう時代があります」 「今がそうです。  今は悪しき世なのです」 「……」 「御父。  いま戻った」 「うむ……」 「吉野の方々には、時間を掛けねば良い物は出来んの一点張りで通しておいた。  しかし皆、かなり立腹していたぞ」 「……」 「無理はない。  劒冑造りの勅命を受けてより、既に十余年が経つ……」 「流石に我慢の限度であろう。  村正は〈肉体〉《にく》を捨てることに臆しておるのか、とまで言われた」 「身を鉄に変え劒冑と成るは蝦夷として生を受けし者の本望、これを厭うなど有り得ぬ事と、説き伏せてはきたが……」 「……」 「御父。なぜ鍛造せぬ」 「まだ工夫がつかぬと言うのか?  しかし、もはや浦夢殿も――」 「はい。  私の知る限りの知識、村正どのにお授けしました」 「こう申されている。  この上、何を求めようというのだ?」 「見えぬ」 「……?」 「見えんのだ……。  至高の劒冑の姿が、依然見えぬ」 「いや。  前よりも、わからぬようになってしもうた」 「なぜ」 「何の為の劒冑か……」 「何を信じて打てば良いのか、わからぬ」 「……正しき帝のため、逆賊を討つ劒冑を、御大将楠木様に捧げる。  それではいかぬのか」 「その楠木様が寝返ったら、如何する」 「何を馬鹿な……。  楠木は六代に渡って南朝へ忠義を尽くしてきた御家ではないか」 「天地が逆さに返ろうと、帝を裏切るなど」 「うてもそう思っておる」 「ならば」 「しかし同じほど信じていた飽間様が、今は北の偽帝に〈頭〉《こうべ》を垂れておる……」 「…………」 「わからぬ」 「うてには……もうわからぬ!」 「…………」 「襲撃だと……  馬鹿な!」 「この裏里の在り処は吉野にも教えておらぬ。  飽間様も知らぬ」 「何処からも漏れていない筈だ……。  なのに、どうして敵が!」 「……御父……」 「何故……」 「あれを、見よ」 「あの……陣頭の武者を……」 「――――」 「わかるであろう、御父」 「〈吾〉《あれ》らの目には〈鑑〉《み》える。  鑑えてしまうわ……」 「あの劒冑が如何なる物か。  如何なる〈由来〉《・・》を持つか」 「おお……!」 「し、信じぬ……  信じたくは……ない!」 「……嘘……」 「妻よ!  なれまでもが裏切ったのか!!」 「敵の手に落ち、屈従して生き延び……  あまつさえ、我が身を劒冑に鍛えて捧げたのかっ!!」 「……」 「な……何たる世か……  この世には……もはや何一つ……」 「何一つ……信じるに値するものがない!  忠義も……血族の絆さえ……!」 「……」 「お……  おおおおおおおおおおっ!!」 「お……御父!?」 「駄目です!」 「ぐっ……づ……」 「う、浦夢殿?」 「いのち……捨てては、いけません。  あなたには……すること、あります!」 「い、いかぬ……手当てを!」 「大丈夫。  私、この程度の傷では、死にません」 「そういう身体なのです……」 「御父! 浦夢殿!」 「爺様!」 「うてはいい。  浦夢殿の怪我を――」 「村正どの。  あなたは二人を連れて、逃げてください」 「ここは、私が何とかします」 「何を言われる!」 「武者に勝つことはできませんが……  時間を稼ぐくらいなら、何とかなります」 「さ、早く――」 「早く!」 「……」 「御父!」 「で、できぬ……」 「うては……卑怯者になりとうない!」 「村正どの――」 「――――」 「く――」 「……あ……っ」 「何……?」 「これは……武者の矢!?  何処から――」 「……」 「……御父。  あれだ」 「…………」 「あの劒冑は……」 「ああ。  ……飽間様だ、な」 「……婆様……」 「……」 「……」 「……心鉄の軸を一矢で射抜くか。  性根は腐り果てても、腕は昔のままのようだな。飽間様」 「ああ」 「あなたはこの武者の後詰として来たのではないのか?」 「そうだ」 「……寝返りか」 「情勢がまた変わったのでな。  佐々木が丹波の〈國衆〉《くにしゅう》を連れて吉野に転んだ……今後、畿内では南朝が盛り返す」 「こやつの首を手土産に、南朝へ帰参を願うことにした」 「恥じぬか、飽間!」 「……」 「なれの忠義はそんなにも安いのか!  そこまで……下らぬ男だったのかっ!!」 「……忠義か」 「あの時までは、わしも己を忠臣だと信じておった。  武運つたなく敗れ死すことはあろうとも、敵に屈して生き長らえはすまい、とな……」 「だがあの時……北朝の大軍が長島に迫り。  囲まれたが最後、一門全滅は避けられぬと悟った刹那」 「ふっと、霜が溶けるように、忠義なるものの値打ちがわからなくなってしもうた……。  我が身と一族をそのために〈擲〉《なげう》って、本当に良いのか……と」 「……済まぬな。  わしの忠義とはその程度……紛い物でしかなかったようだ」 「……」 「裏切り者め……  裏切り者め……」 「裏切り者めがぁっ!!」 「……」 「わしのことは良い。  だが村正、妻君のことは憎んでやるな」 「仕方がなかったのだ……」 「何が無いと云う!  敵の手中に落ちたなら、自害して果てろとまではあえて言うまい――だが一本の節義は通して当然!」 「劒冑を鍛えて献上する者がおろうか!?  こやつなど……もはや妻でもなければ一族とも思わぬわ!!」 「……村正。  ぬしの妻はな」 「北朝に囚われた後、別の蝦夷と〈娶〉《めあ》わされ、子を産まされたのだ」 「――――」 「そして、その子を盾に取られた。  子の命が惜しくば、劒冑を打て……とな」 「目の前の子か、遠くの家族か……。  悩んだすえ、ぬしの妻は我が身を鉄としたのだ」 「……恨むまいぞ……」 「………………」 「村正どの……」 「……浦夢殿か。  傷に障る、もう休まれよ」 「私は平気です。  村正どのこそ、お体を大事に」 「お酒の飲み過ぎ、体の毒です」 「…………」 「北朝が、憎いですか」 「憎い……」 「何という……卑劣な……!  外道め……賊どもめ」 「許せぬ……!」 「けれど、南朝も同じです」 「な、何を!?」 「同じくらい汚いこと、たくさんしてます。  いえ、もっと卑怯なことも……」 「馬鹿なっ!」 「本当です。  私、南朝の陰の働きに関わること多かったので、良く知っています」 「陰謀の犠牲になった人、とても多いです。  そのほとんどは、何の罪もない、無力な民たちでした」 「…………」 「まさか……有り得ぬ。  楠木様たちが、そのような真似をなさる筈が……」 「吉野の方々、悪い人ではありません。  皆、立派な方たちです」 「けれど、前にも言いました。  今は時代が悪いのです」 「善き人々が、悪しき事をする世なのです」 「…………」 「では、うてはどうすれば良いのだ……」 「……」 「誰が味方なのかわからぬ。  誰が敵なのかもわからぬ」 「何が正しいのかわからぬ。  何が誤りなのかもわからぬ」 「何を信じれば良いのかわからぬ……!」 「村正どの……」 「うては……  何のために……劒冑を打つのだ……」 「……」 「悪しき世を正すため……  そうではないですか?」 「その道筋がわからんのだ!  南朝の大義さえ信じられぬとあっては……」 「村正どの。  今からする話を、よく聞いてください」 「あなたにお教えしなくてはならないこと、実はあと一つ残っていました。  それを、これからお話しします」 「……?」 「私の本当の名前……  〈にこやふらめう〉《・・・・・・・》、云います」 「にこ……?」 「呼びにくいでしょう。浦夢で構いません。  私の生まれた国とこの大和は、言葉が全く違うのです」 「遠く遠く、離れていますから」 「……浦夢殿は、天竺のお人だったのか?」 「いいえ。  天竺の、更にずっと向こうです」 「西方浄土より参られたと……?」 「そうですね……西の果ての国です。  けれど、浄土ではありません」 「私の生まれた国、戦争ばかりでした。  今の大和と同じです」 「だから私は、平和な楽園を求めて、旅に出ました」 「……」 「でもそんな国、何処にもありませんでした。  どの国も短い平和と長い争いを繰り返していました」 「私は平和な世界を探して彷徨うより、世界を平和にする方法を求めるべきだと、考えるようになりました。  そうして……あなたに出会ったのです」 「……うては一介の鍛冶師。  しかも今は、道を見失っている」 「浦夢殿の力にはなれぬ」 「いいえ。  そんなあなたでなくてはいけません」 「劒冑こそ神の子……。  奇跡の欠片を宿す聖別の者です」 「最も貴き劒冑の生誕が、人の原罪を〈雪〉《そそ》ぐ。  神は万民を赦し、地を楽園にするでしょう」 「そう……。  正しき心を持つ鍛冶師が、真理を求めて鎚を振るう時、苦しみの時代は終わりを告げるに違いないのです!」 「……?  済まぬが、わからぬ……」 「うてには……真理など……」 「それをお教えします。  村正どの、どうか聞いてください」 「そして私の〈理想〉《ゆめ》を叶えてください……」 「…………」 「遠い昔……  〈ぐらえきあ〉《・・・・・》に、〈えんぺどくれす〉《・・・・・・・》という賢者がいました」 「宇宙の〈理〉《ことわり》を解いた人物です。  人間の歴史上、真の叡智の持ち主と呼べるのは彼一人しかいません」 「宇宙の……?  それは以前にお伺いした、あの話のことであろうか」 「この世には磁気、辰気、創気の三つの〈源気〉《ちから》があるという――」 「それは、えんぺどくれすの考えを私なりに進めてみたものです。  〈物理〉《・・》には近付いているはずですが……〈真理〉《・・》からは離れてしまいました」 「……?」 「彼はこう言いました。  世界は四種の元素と二種の力で構成されている……」 「〝地〟〝陽〟〝海〟〝空〟の四つが〝愛〟の力で結びつき、また〝争い〟の力で別れることによって、世の万象が顕れる。  そう説いたのです」 「例えば人間は、四種類の元素がほぼ均等に 〝愛〟で結ばれることから生まれます。  そして〝愛〟よりも強い〝争い〟の力――怪我や病気――に襲われると死にます」 「ふむ……」 「この理論で、世のあらゆる物事が説明できます」 「ならば浦夢殿、正義とはいかなるものか?  また、邪悪とは?」 「正義と邪悪。  善と悪ですか」 「うむ。  是非とも教えて頂きたい」 「……ありません」 「何?」 「そんなものは、存在しないのです」 「な、無いはずはなかろう!」 「……そうですね。  実質は何もありませんが、単なる物の見方としてなら、あるとも言えます」 「見方?」 「村正どの。  今、私はここに一つの世界を作りました」 「〈ふらすこ〉《・・・・》に塩と水を入れてかき混ぜ、蓋をしました。  この閉じた世界には、塩水と空気しかありません」 「……」 「これを、下から火で熱すると」 「〝争い〟の力が働きます。  結ばれていた塩と水が別れ、水は水蒸気となって空気と混ざり、塩は結晶に戻ります」 「うむ……」 「さて。  善と悪は、何処にあったでしょうか……」 「……」 「我々の世界に置き換えて、考えてみてください」 「……塩と水を引き離した〝争い〟の力……  火が、悪なのであろうか?」 「そうですね。  人のつながり、絆は尊いものです。これを引き離すのは罪悪だといえるでしょう……」 「塩と水を塩水にしていた〝愛〟が正義で、引き離した火が邪悪か……」 「しかし村正どの。  よく見てください」 「塩と水は別れましたが、新たに水と空気が混ざり合い、〈靄〉《もや》が生まれています」 「……むぅ?」 「水と空気の間に〝愛〟が働いたのです。  ということは……火は善でもあったのです」 「…………」 「今度はこの世界を冷やしてみましょうか」 「靄を冷やすと……  水は水滴となって落ちます」 「水滴は塩を溶かし、再び塩水になります」 「……」 「塩水を生んだのですから、冷やしたのは善の行いですね。  しかし靄を分解してしまったので、悪でもあります」 「ぬ……むぅ」 「村正どの。わかりましたか」 「善と悪は――」 「……〈裏表〉《・・》でしかない、と?」 「そうです。  ある行いを、特定の視点から見た時に善と呼び、逆方向から見た時は悪と呼ぶ」 「それだけのことに過ぎないのです」 「…………」 「しかし人々は、この善悪をさも重大なものであるかのように扱っています。  無意識に――あるいは意識的に」 「何故……?」 「自分の利益になる〝愛〟を肯定し、自分の損失になる〝争い〟を否定するためです」 「……」 「この独善こそ、人の心を縛る悪魔の呪い」 「村正どの……もうおわかりでしょう。  どうして平和は永く続かないのか?  どうして戦争は繰り返されるのか?」 「それは――  水は水だけの愛を、空気は空気だけの愛を、塩は塩だけの愛を求めるからです!」 「――――」 「村正どの……」 「ならば」 「世界を正すには」 「〝独善〟を滅ぼすのです!」 「えんぺどくれすの見つけた真理を、人々に知らしめてください」 「彼らを呪いから解き放つのです!  自分だけの愛に囚われて争い合う呪いから」 「そんな奇跡を成し得るものは……劒冑しかありません。  あなたが、神の劒冑を造るのです!」 「…………。  できようか……?」 「この村正に……そこまでの大業が……」 「できます!」 「あなたには技があります。  知識は、私が教えました」 「そして力は、ここに――」 「これは?  〈水晶〉《すいそう》……いや違う……!?」 「……わ、わからぬ!  馬鹿なっ、蝦夷の知らぬ鉱物など!!」 「知らないのは当然です。  これはおそらく、地上に一つきりしかないもの……」 「〈聖骸断片〉《らぴす・さぎー》。  神の血肉です」 「……神……!?  いや、わかる! 確かにこれは――途方もなきものだ!!」 「はい。  この石は人を不死にするほどの力を持っています」 「このように……」 「う、浦夢殿……  その体は!?」 「……」 「この石と……同じ?」 「ええ。  この石を手に入れてから、私は歳を取らず……そして体は次第に、このように変わっていきました」 「全身が変わる前に、あなたに会えて……  全てを伝えることができて、良かった」 「私は……  神より授かった使命を、果たせたようです」 「浦夢殿!」 「……長く……  あまりにも長く、生きました……」 「ようやく眠れます……」 「いかぬ!  これか――この石を」 「いけません。  それはあなたが使うのです」 「至高の劒冑を造るために」 「し、しかし」 「お願いします。  あなたに全て……託します」 「人を独善から解き放つのです」 「一人の愛ではなく、全員の愛を……  争いを起こさず、万物を分け隔てなく結びつける、普遍の愛を求める道へ――いざなうのです!」 「神の――愛を……!  この世界に、どうか!!」 「う、浦夢殿……」 「浦夢殿ぉぉぉっっ!!」 「聞けい。  我が娘よ。我が孫よ」 「これより村正鍛冶の〈法〉《みち》を告げる」 「うむ」 「はい」 「劒冑とは武の器。  戦のためのもの」 「ゆえにまず、戦を〈鑑〉《み》る。  戦とは如何なるものなのか――」 「……」 「善の働きに非ず!  正義の顕れに非ず!」 「戦とは〈我〉《ワレ》の〈愛〉《のぞみ》を求めて〈彼〉《カレ》の愛を壊す〈行為〉《おこない》。  武とはその暴力」 「独善なり!  これこそが悪!!」 「――――」 「……では?」 「我ら村正は戦を滅ぼす。  戦の悪を人々に知らしめ、戦を人の世から去らしめる!」 「武にただ加担するのではなく、  武を制するための劒冑を打つ!!」 「それが御父の行き着いた答なのだな」 「そうだ」 「ならば、信ずる!  〈吾〉《あれ》は御父の定めた道に従い、後を継ごうぞ」 「吾の後は、こやつが継ぐ!」 「は……はい!」 「御父は心置きなく、鍛造に掛かるが良い」 「うむ。  だが、うてだけではない。なれも鍛えよ」 「む、それは?  劒冑を二領、献上するということか?」 「そうだ。但し一方にではない。  南朝と北朝に、一領ずつ」 「両陣の武を共に抑えねば、乱は治められぬ」 「道理だ」 「否やはあるまいな?」 「無論!  御父の理想を体現する劒冑と成ることこそ、吾が宿望であった」 「後顧の憂いもない。  こやつには既に、全ての技を伝えてある」 「……」 「明日より早速、鍛造に掛かろうぞ」 「御父の望みが、劒冑をもって人の心中の刃を砕くにあると知ったからには……  その望み、必ずや吾が果たす!」 「うむ……!」  矢の如く〈俺〉《・》の前を過ぎていった光陰は――  ここから急に、精彩を失う。  〈三世〉《おれの》村正は、これ以降の事変の殆どを自分の眼では見なかったのだろう。  幾つかの短い映像と伝聞で得たらしき情報とがひとまとめに、俺の認識上を滑ってゆく。  遂に完成した始祖村正そして二世村正、この二領の劒冑は性能において頂点へ達していたのは無論だが、加えて異常な特質を備えてもいた。  それは千子村正だけのものであり、二つあった。  一つは〝善悪相殺〟の戒律である。  対敵を一人殺したなら味方も一人。悪しき者を一人殺したなら善き者も一人。憎む者を一人殺したなら、愛する者もまた一人、殺さねばならない。  村正と結縁した武者はこの掟を背負う。  己の善のみ盲信し、敵の善は悪と看做して排除する、その〝独善〟を力で押し通すことを、村正という劒冑は許さないのだ。  衆に卓抜する村正の〈暴威〉《ちから》で望みを遂げようとすれば、己の手でその望みを打ち砕く結末に至る。  村正武者は最強にして、誰よりも武力の行使を自重する人物にならざるを得ないであろう。  もう一つは〝精神同調〟の〈能〉《わざ》である。  村正は『波』を放散し、周囲の人間の精神に仕手のそれを重ねることができるのだ。  仕手の精神に浸透した善悪相殺の戒律も写される。  一軍全体を、村正の思想に沿う集団へと変貌せしめられるのである。  武者ならば甲鉄の防護力をもって『波』の力に抵抗するも可能だが……  村正はこの能力の変形として『卵』を生成する事で、遂には武者の精神をも逃さぬのだった。 『卵』は劒冑に移植されると内部で生育、やがて孵化し、劒冑を『波』の〈中継点〉《・・・》に造り替える。  新たに発散される『波』の影響を第一に受けるのは、最も近くにいる者、つまりその劒冑の仕手である……。  村正の仕手に利己心あらば、この〝精神同調〟能力を味方の軍に対して使おうとは思わないであろう。  敵軍に対して用い、戦意を奪おうとする筈である。  しかし、だからこそ始祖村正は劒冑を二領用意して、対立する両陣営に与えたのだ。  双方の村正武者が敵に対して〝精神同調〟を行使し合えば、一方だけが優勢になるような事態は起きない。  戦場は〈遍〉《あまね》く〝善悪相殺〟の戒律に支配される。  完璧――そう言って良かった。  始祖村正が劒冑に懸けた理想は、これ以上はないという形で結実した。  この劒冑は必ずや世に平和をもたらす。  長きに渡り続いた南北朝の乱を、穏健に終息させる。  始祖村正はそう信じた。  〈二世村正〉《むすめ》も信じ、〈三世村正〉《まご》も疑わなかった。  …………が。    事実はそうならなかったことを、後世に生きる俺は知っている。  南北朝の時代は――  その最後に未曾有の殲滅戦争を巻き起こし、わずか一年で当時の全人口の一割とも二割以上とも云われる死者を出して、閉幕へ至るのだ。  災厄の劒冑。  三代で絶えた妖甲の一門、千子右衛門尉村正の〈銘〉《な》を歴史に刻んで。  そこは雅やかで、されど落ち着いた佇まいだった。  何処かの御殿の、内庭……そんな風情だ。  その場で、俺――村正は平伏している。  前方の〈段階〉《きざはし》には誰かが立ち、こちらを見下ろしている様子であった。  人は、それきり。  辺りに気配はあるが、遠ざけられているようだ。 「そなたが村正の孫……三代目か」 「は……っ、はい。  へ、陛下に置かれましては――」 「良い。今は公衆の前でも朝議の場でもない。  慣れぬ言葉遣いは無用にいたせ」 「は、はい……」  ……陛下。  では、この御方は帝か。おそらく南朝の。 「既に聞いておろうが……」 「……」 「村正、そなたの家門は――これを断絶する。  一切の継承は許さぬ」 「劒冑鍛冶右衛門尉村正は、そなたをもって終えよ」 「…………。  承知して、おります」 「我が一門の犯したる罪……招きたる災いの程を思えば……  祖先に遡り、一族係累鏖殺の憂目に遭おうとも恨み言は申せませぬところ」 「陛下の御慈悲に……感謝いたします……」 「……うむ……」  家門断絶。  中世の価値観においてその一事がどれほどの重みを持つのか。現代人には知る由もないことだ。  ただ、村正の両手の震えと……  白砂の上へしたたり落ちる雫から、推し量るしかなかった。  全ては罪のため。招いた災いのため。    〈災い〉《・・》。  村正の心にその実相が映り、俺の心にも写る。  俺は知った。  南北朝時代最後の惨劇――そこに秘められた真実を。  ――――たった一つの事故が何もかも狂わせた。  始祖村正を贈られた北朝軍の主将は、当時、堅牢な権力基盤を有しているとは言い難い状況にあった。  支配者というよりも、諸将の利害調整役という立場に近かった。  政治の才に優れた実弟の力を借りて、〈漸〉《ようよ》う軍をまとめていたのである。  些細な情勢の変化、利害関係の変動から敵意を買い、昨日までの部下に盾突かれることも一切ではなかった。  それは彼が村正を手に入れてまだ程ない頃のことである。  出陣前の慌しさに紛れて刺客が主将の側まで近付き、不意に襲い掛かった。  戦慣れした主将は反射的に抜刀し、刺客を斬り――  殺してしまったのだ。  村正の戒律が持つ拘束力は絶対である。  敵を殺した彼は自分の意思によらずして刃の向きを返し、傍らに立つ味方を斬り伏せた。  公私両面で彼を支えてくれていた、最愛の弟を。  ……その日から、北朝軍は狂気の集団と化した。  発狂した主将が〝精神同調〟の波を無差別に放散し、全軍に〈己〉《おの》が狂気を蔓延させたのである。  狂将率いる狂兵の群れを迎えて――  二世村正を持つ南朝方の主将は、狂気の『波』から味方を守るため、先んじて全軍を自分の精神影響下へ置くよりほかに手立てがなくなった。  かくして前例のない地獄的な闘争が地上に発現する。  一方は、手当たり次第何もかも破壊し殺し尽くさんとする魔獣の群れ。  一方は、敵兵を一人殺す都度、肩並べて戦う友をも一人ずつ殺してゆく悲愴の軍団。  末世の相そのものであった。  この世において人間の生命は秋の田の稲穂のように、無造作に刈り取られ、三途の川の向こうへ流された。  どれほどの人が死に、どれほどの村が滅んだか……  正確に知る者など誰もいない。知ろうとする意欲を持つ者もいなかったろう。  乱の最中、人々はただ生き延びるために必死であり、乱が果てた後は、世間の惨状にただ呆然とするばかりであった。  神懸かりの力を〈揮〉《ふる》った始祖村正と北朝主将に南朝の将とその麾下十三騎が挑み、遂にこれを討ち果たして乱の源を断った時――曰く「いまや大和では人よりも、死肉を食らう犬猫の方が栄えている」……。  ある法師の嘆弁である。 「村正よ……」 「……」 「そなたら一門に悪心がなかったことは良くわかっている。  乱世を収めたかったのであろう……」 「元を糺せば、民の苦難も顧みず戦を続けた朕の罪こそ重い……。  もそっと早く、北朝と和しておれば、このような仕儀とはならなんだ」 「…………」 「いずれ朕の罪は天の罰するところとなろう」 「が……それでも村正よ、朕は〈社稷〉《しゃしょく》を預かる者として、国土に災禍をもたらしたそなたらを許すわけにはゆかぬ。  わけてもそなたの祖父と母は……」 「始祖村正は粉々に砕かれ、既に跡形もない。  楠木の二世村正は深く傷ついたが……まだ滅びておらぬ……」 「これを……このままにはしておけぬ」 「……!」 「近いうちに砕き、鋳潰す……。  さよう心得よ」 「……お、お待ちを……  陛下!」 「……」 「どうか……その儀ばかりは!」 「二世村正を潰すなと云うか」 「蝦夷にとり、劒冑となるは本望。  〈戦場〉《いくさば》にて斃され、土に朽ちるもまた本望」 「さ、されど……  ひとたび劒冑となりながら、戦なき場所で鉄屑に戻され棄てられるは――蝦夷として、鍛冶師として、死にも堕獄にも勝る痛哭!」 「……そうか。  そうであったのう……」 「だが戦で葬るには、今一度、あの恐ろしき劒冑を誰かに〈装甲さ〉《まとわ》せねばならぬ……。  さようなことを、朕が許せると思うてか」 「…………」 「武の器は戦場にて朽ちねばならぬもの……  それが叶わぬならいっそ封印され、永劫の眠りにつき、忘れ去られるを望むものにございます」 「どうか、陛下……!  この首を献じて、お願い申し上げます」 「……」 「先ほど、陛下はお認め下さいました……。  祖父と母に悪心は無かったと。乱世に幕を引きたかっただけなのだと」 「その通りなのです!  我が〈祖〉《おや》が、何を誤っていたとしても、その願いだけは……正しかった筈なのです……!」 「〈二世〉《はは》が劒冑として最も卑しき最期を遂げれば……その〈理念〉《ねがい》までも汚されてしまいます!」 「…………」 「土に埋めて頂いても構いません。  海に沈めて頂いても構いません」 「ですがどうか、鋳潰しだけはお許しを……」 「……」 「土に埋めても、掘り返されるやもしれぬ。  海に沈めても、引き上げられるやもしれぬ」 「そうして、村正の劒冑が大和に還り……  再び、地上を地獄に変えるやもしれぬ」 「……っ」 「村正よ。  首を献ずるとの言葉に、嘘はあるまいな」 「は――はい!」 「御寛恕を賜れるのであれば、いつなりと」 「宜しい。  ならば三世村正、そなたに命ずる」 「劒冑を打て」 「……!?」 「そなたの母に比肩する劒冑となるのだ」 「そして、母と共にいずこかの山陰で眠れ。  願わくば永劫」 「だが……そなたを共に封ずる理由は、ほかでもない。  わかるであろうな」 「……」 「将来、何者かが封印を破り、二世村正を手にした時。  そなたもまた、〈仕手〉《あるじ》を求めよ」 「そして母を監視するのだ。  そなたの祖父が願った通り、世に和を導く力として用いられるなら良い。だがもし当世と同様、災いの武者となり果てし時は――」 「そなたが二世村正を討たねばならぬ」 「…………」 「それができぬと申すなら、やはり二世村正は潰すほかにない」 「答えよ、三世。  そなたは母を討つことができるか……?」 「で――できます!  必ずや、御諚の通りにいたします!」 「良かろう」 「ならば、繰り返し言い置くぞ。  劒冑となったそなたが武人と結縁するは、母が解き放たれた時のみ」 「その時が訪れるまでは、何者とも帯刀の儀を執り行ってはならぬ」 「はい」 「今ひとつ。  祖父の秘法をもって劒冑となれば、そなたもあの忌むべき〈能〉《わざ》を備えるのであろう」 「人の心を侵す〝波〟を操るのであろう」 「……はっ……」 「朕はあれこそが、そなたの祖父の、唯一の過ちであったと……そう思えてならぬ」 「そなたの祖父は急ぎ過ぎたのだ。  願いは正しくとも……人心を強引に従えるやりようは、余りに性急であった」 「ゆえに……ああなった……」 「…………」 「村正よ。命じておく。 〝波〟の使用は、朕の名をもって禁ずる」 「如何なる理由があろうとも、この禁を破りし時は、そなたはもはや朕の臣ではない。  朝敵、逆賊である」 「……!!」 「良いな。  この儀、しかと命じたぞ!」 「はっ……!」 「……うむ……」 「祈っておるぞ、千子右衛門尉村正。  そなたと母が、二度と目覚めぬよう……」 「長き刻の果て、解き放たれることがあっても……その時こそは、そなたの祖父の願いを叶えるために使われるよう」 「そなたと母が相争うことなどなきよう……  天地神明に祈っておく」 「…………」  ……そうして、村正の〈過去〉《ゆめ》は終わる。  村正は劒冑と成り――  母と共に、一人の武士に託され、山奥の地にて封じられる。  白銀の女王蟻と深紅の蜘蛛。  二領の劒冑は長い長い刻を、眠りの裡に過ごした。  ――――――――あの日まで。  おかしな話かもしれないが、市内の署長宅で過ごすより拘置所の一室にいる方が俺は落ち着く。  殺人犯が一般市民の中に紛れているという状況にはやはり違和感を拭い去れないからだ。  罪人は隔離されていてこそ自然である。  大鳥主従が公用で暫く署長宅を空けるとの事だったので、この機に俺も牢獄へ戻る事にした。  一条には、少し留守にするとだけ伝えてある。  銀星号の痕跡が見つかり次第また市中に戻らねばならないが、それまでは囚人の日々を過ごせるだろう。  心に波風立たぬ時間を得られるという事だ。  そしてそれは無論、惰眠を貪るために求めたものではない。  ――如何にして〈墜〉《お》とすべきか。  銀星号は人の世に災いなす魔王。  暴勇にして狂気の武者、しかも狂気を唄い衆に広め無益な惨死へ駆り立ててゆく。  決して、俺の手で倒さねばならぬ。  ……二年前、何の不幸でそうなってしまったにせよ、もはや光を正気に戻せるとは思えなかった。試す時間もない。あれは呼吸するように人命を散らすのだから。  倒さねばならない、が――問題はその現実的手法。  天地隔絶の戦力差を、如何様にして覆したものか。  武界の通論に云う。  武者の戦力は仕手の技量、劒冑の性能、両者の連携、この三項の総合で決する――と。  第一。俺と光の技量差は動かし難い。  天性の才能の差なのだ。諦めるつもりも鍛錬を怠るつもりもないが、一朝一夕に埋められる質の差でないという事実は正しく認めておく必要があるだろう。  第二。劒冑の性能に大きな差はない。  これは俺の実感である。二世村正の〈引辰制御〉《グラビトンコントロール》は脅威と呼ぶほかない能力だが、三世村正の〈磁流制御〉《マグネトンコントロール》もそれに匹敵し得るだけのものだ。  第三。 「…………」  仕手と劒冑の〈連携〉《・・》。    ……穴はやはり、この点にあるのか。  ここ最近、あの老人の言葉を頻繁に思い起こすのは、無意識の部分がその事実を示唆しようとしていたからなのか……。 「しかし、それだけ装甲を重ねているにしては……御堂、なれはあまり劔冑のことを信頼しておらぬようだな?」 「昨日からなれとあの赤い劔冑を見ておると、どうも……な。  どこか、うまく噛み合っておらぬ気がするのだ」 「劔冑は道具……それは、事実。  しかし〈魂〉《こころ》を持つ道具であることを忘れてはならんのではないか?」 (弥源太老)  あの時は、貴重な忠告を突っ〈撥〉《ぱ》ねたのだった。  心が有ろうが無かろうが道具は道具、使い手の意思のみで――全てを使い手の責任において扱いきるべきものだ、と。  今とてその存念が何か変化したわけではない。  劒冑を使う責任、使った結果に対する責任は仕手が一人で担うもので、誰とも分かち合えないし、分かち合ってはならない。そう思う。  だが…… (俺は村正の事をまるで知らなかった)  善悪相殺。  あの奇妙な戒律の意味。  知らなかったのは、村正が語ろうとしなかったからでもある。  しかし、俺の側で積極的に知ろうとする意思を持たなかった事も理由である。  ただ、呪わしい劒冑なのだと思っていた。  そう決めつけ、忌むことで――俺はきっとひそかな慰めとしていたのだろう。  俺の罪も、光の罪も……  何もかも、この妖甲に祟られた〈所為〉《せい》なのだと。  だが青江貞次との戦闘が、秘められた真実を教えてくれた。  村正の戒律は、世と人への悪意から付加されたものではない――  むしろ乱世を正さんとする思いからだった。  それが、完全に裏目に出……南北朝の時代をこの上なく凄惨な形で閉じさせる事になった。  あの災厄の再現が今、銀星号によって為されている。      だから、なのだ。 (……村正)  だから村正は劒冑の身でありながら、〈仕手〉《おれ》に責任を委ねず、自分の責任において戦おうとしていたのだ。  一族の罪を、自分の手で〈贖〉《あがな》おうと。  そうして俺達は互いに背を向け合った。  互いを見ないままに、突き詰めれば自分の意思と力のみで戦おうとしていた。  ……銀星号に勝てる道理がない。  責任意識のためであろうと、心の逃げ場を作るためであろうと、互いに認め合わない仕手と劒冑が武者としてまともに働けるかと問えば、答えは否だ。  何故なら両者の関係はまず相互承認から始まる。  互いに資質を問い、認め合う事で、〈縁〉《えにし》が結ばれ武者となる。  これを古来、〈帯刀〉《たてわき》の儀と云う。  俺と村正は二年前、極めて切迫した状況下で略式に済ませたきりだった。  あの後、改めて正式な儀礼を行ってなどいない。俺が望まなかったし、村正も欲する様子は見せなかった。  つまり俺と村正は、実は武者として話にならぬ欠陥の持ち主なのだ。  それをこれまでは、問題にもならぬ事、鍛錬で補いがつく程度の事だと思い捨ててきた。  だが……もはや考えを改めるべき時か。  本当に銀星号を倒すつもりがあるのならば。  一人と一領、ではなく、〈一騎〉《・・》たらんとす。  ……そしてそれは、これまでのような、俺の意思に村正を屈従させようというやり方では果たされまい。 「……」 「戻ったか」 «ええ»  やおら、天井に影が這う。  赤い蜘蛛が逆しまに、俺の頭上へ現れていた。  潜伏潜行を得手とする劒冑の到来は、いつもこう、唐突だ。 «鎌倉市中を一通り、銀星号の〈香気〉《けはい》を探って回ってみたけど» 「どうだった」 «何だか微妙ね……。  かすかにあるような、錯覚のような» «もしかしたら、いま何処かから近付きつつあるのかもしれない……。  後で、もう一度見回ってみる» 「……そうか」 「…………」 «?  ……なに?» 「いや」  深紅の甲鉄には所々、泥やら砂やらが跳ねていた。  人目を避けて駆け回ったための汚れだろう。  半生物である劒冑は、異物の付着や侵入に対処する除去機能を備えている。  このように汚れていても、別に掃除などする必要はない。  が。 (武人ならば)  正調の武人ならば、我が武装の手入れを怠るものだろうか。  否、常に入念な整備を心掛けて当然であろう。  常在戦場。敵はいつ現れるとも知れないのだ。  襲われてから、刀の錆を捨て置いた不心得に地団駄踏んでも遅い。  今まで考えもしなかったが……  やはり、そういうものであろう。 「村正。降りて来い」 «?» «どうしたのよ?» 「……」 «……えっ?» «ちょっと――»  丁度、手近に布巾があった。  右手でそれを取り、左手で村正を引き寄せる。  汚れは、横腹が一番酷いようだった。  まずその周辺から拭っていく。 «……» «………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………» «きゃーーーーーーーーーー!!» 「……何だ」 «何だじゃないでしょっ!  どっ、どっ、どこ触ってるの!!» 「お前の〈甲鉄〉《はだ》を……」 «いやーー!  好きものっ、へんたい!» 「……」  俺は蜘蛛の体を触ることで性的に発情する人間だと思われているのだろうか……。  それは確かに非常な変態であるが。 «はなしてよー!» 「落ち着け」 «ちょっ、そんなことされたら……  およめいけなくなるっ» «だっ、だめっ! そこだめ!  おなかさわらないでっ» «あーん、かかさまー!» 「落ち着けというに!  異常な性癖に目覚めそうだ!」 «だーれーかーー!!» 「〇四八号、何を騒いでいる!?  開けるぞ!」 「――――」 「…………」 「…………」 「何だ?  その珍妙なポーズは」 「単なる〈妄想遊戯〉《イメージ・プレイ》です、看守殿」 「……どんな」 「人間大の蜘蛛と愉しむ性的交渉」 「…………………………………………」 「……そ……そうか……。  邪魔をした……」 「……何か?」 「あ、あのな……どうしても辛い時には相談しろよ?  大した力にはなれないと思うが、話くらいは聞いてやれるし……」 「ご厚情、痛み入ります」 「うん……」 «や、やっぱりいやらしいことする気だったのね!» 「お前まで真に受けるな。  他の弁明が咄嗟に思いつかなかっただけだ」 «本当かしら。  じゃあ、どういうつもりだったのよ?» 「お前があちらこちら汚れているから拭いてやろうと思った」 «…………» «あ……そう……»  落ち着いた村正を抱え直して、再び拭きにかかる。  暴れたせいで、汚れが少し広がったように見えた。 «……けどそんなこと、これまで一度だってしなかったじゃないの» 「無用の事だと思っていたからな」 «ええ。  放っておいても、勝手に落ちるもの» 「だが、考えを変えた。  いや……変えようと思っている」 «?  どういうこと?» 「武者としての姿勢を……変えるべきなのではないかと。  そう考えている……」 「銀星号を破るために」 «……» 「今のままでは、俺達は勝てない」 «…………» 「これは現実だ」 «……かもしれない» 「心甲一致と云う」  古来、武者が目指すべきとされている境地を示す語だ。意味の詳細は受け手次第で千変するが、つまりは仕手の指示から劒冑の反応が起こるまでの〈余白〉《タイムラグ》を最小化するのが目的という点では共通する。  〈能〉《あた》うなら〈零〉《ゼロ》に。  未だ嘗てその極峰まで至った者はいない、とされている。だが俺は知っていた――かの敵騎こそは極峰の至近距離にいるのだと。 「銀星号は成し得ているようだ。  如何なる理由でか……」 «…………» 「あれに比べれば、俺達の即応性は余りにも大きく劣る。  だから、いつも……〈気付いた瞬間には〉《・・・・・・・・》墜とされている」 「この劣勢を挽回しない限り、幾度戦っても結果は変わるまい」 «言われなくても。  その問題なら、前から検討してた» «制御系統の整備で改善が図れるはずなの。  あと、関節部の――» 「お前だけの努力で、解決することではないだろう」 «……それは» 「心甲一致は、仕手と劒冑の課題だ」 「両者の〈間合〉《・・》がどう在るかという評価だ……。  遠ければ適わず、近ければ適う」 «……» 「だから」 「お前が余計な自我を立てず、道具に徹すれば良い。  後は俺が、お前を扱い切る」 «――――» «逆でしょう。  貴方が私の、手足に徹すればいいのよ»  ――そうだ。  こう、言い合ってきた。  これまではずっと。  そうして……銀星号に敗退を続けた。  ここまでにしなくてはならない。  銀星号を、あの災厄を一刻も早く止める事が至上の命題なのだから。 「村正」 «……何度繰り返しても同じよ。  この会話は» «貴方が退けないなら、私だって同じ――» 「ああ。  だから、俺の方から折れることにする」 «え?» 「頼む」  俺は、我が劒冑に頭を下げた。 「お前が銀星号との戦いを、決して人任せにできないのはわかった。  もう二度と、道具になれとは言わん」 「村正。俺はお前の意思を認める」 «……御堂» 「お前にも認めて欲しいのだ。  俺もこの戦いを人手に預けることはできん。光は俺が止めなくてはならない……」 「頼む、村正。  俺の意思を認めてくれ」 «…………» 「それだけが望みだ」  それだけで、何かは変わる筈だった。  罪と責任を分かち合うのではなく。  むしろその逆――分かち合えない、譲れないという事を、相互に認め合う。  俺は俺の意思と責任において戦い、罪を負う。  村正も村正の意思と責任において戦う。  互いの意思を侵さず、尊重する。  より早く、そうしているべきだったのだ。  互いに相手をねじ伏せようと不毛な努力を重ねる間に。 «……意味のないことよ» 「ある、と思う。  おそらくは必要な事なのだ」 「俺とお前が共に戦うために」 «こ……これまでだって一緒に戦ってきたでしょう» 「いや、単に〈並んで〉《・・・》戦っていただけだ。  これまでは」 「俺はお前を認めていなかったし、お前とてそうだった。  その問題を有耶無耶にしたまま、騙し騙し、装甲してきたのだ」 「倒すべき敵が共通であったから、それでもどうにか武者の格好はついた……。  しかし、銀星号に勝つ事は叶わずにいる」 «…………» 「勝たねばならない」 「勝つためだ、村正。  俺のことをどう思おうが構わん。あくまで手足と思いたいならそれでもいい……だが、その手足にも譲れぬ意思があると認めてくれ」 「頼む」  繰り返し、願う。  ……〈金打声〉《メタルエコー》は戸惑う風の沈黙のみを、しばし伝えてきた。  やはりこれは、遅過ぎた、虫の良い話というものか。  武者ならば半身とも恃むべき劒冑をろくろく顧みなかった二年間の無為が、今更ながらに悔やまれる。 «……どうして急に、そんなことを言うの» 「知ったからだ」 «え……» 「青江の陰義は俺の昔を〈幻夢〉《ゆめ》に見せたが……  その幻夢に、お前の過去も混ざっていた」 «!!» 「済まないことをしたと思う。  勝手に人の心底を覗くが如きは、俺としても本意ではない」 「しかし、お前の戦う理由……  譲れぬ理由が、それでわかった」 «……» 「お前たち村正一門が妖甲などではなかったことも」  善悪相殺。  呪いと見えてその実、和平への真摯な願いであった戒律。  それが養母の命を奪ったと思えば恨みも湧く。  が、やはり筋違いの怨恨であった。村正が恐ろしい何かを背負っていると感付きつつ、深く思慮せず解き放ってしまったのは、誰でもない俺なのだから。  そうして、この世には突き詰めて善も悪もないのだという信念について思いを致せば――必ずしも完全な同意はできない。  そこまで思い切れない部分がある。  しかし理解は及んだ。  南北朝というまさしく泥沼の抗争期においてはその究極論をもって挑むほかに、戦乱を治める希望が全く見出せなかったのだろう。  あの情景を見た今ならば、善悪相殺の四文字に託された想いの深さが知れる。    その想いが招いた、凄惨な末路への無念も。 「村正……俺がお前でも、自分の手で決着をつけようと望んだだろう。  そう思う」 「だから俺はお前の意思を認める」 «――――» 「お前も認めてはくれないか。  俺の、」 «駄目よ» 「……村正」 «私の考えは変わらない» 「考えを変えよとは云わぬ。  ただ、認めて欲しいのだ」 «認めない……» 「…………」 「だが村正。  俺達は勝たねばなるまい」 「〈剛〉《つよ》くならねばなるまい」 «ええ。  心甲一致は私も必要だと思う» «だから貴方は、私の意志に従うべきよ。  自分の意思を眠らせて» 「……それはできん」  俺に課せられた責務は、人に委ねられないものだ。  村正の負う責務もまた、そうであるように。 «そう。  でもね» «貴方の希望なんて、もう関係ない» 「何……?」 «これだけはしたくなかった» «けれどもう仕方ない。  貴方がそんなことまで言い出すのなら……仕方ない» 「……ッ!?」 «御堂。私はね……  一つだけ、〈二世〉《かかさま》にも〈始祖〉《じじさま》にもできないことができる» «それは私が、二世村正を制するという特定目的のもとで鍛造されたからこそ可能なこと。  目的遂行のためならば――» «〈己の仕手に対しても力を揮える〉《・・・・・・・・・・・・・・》» 「村正……」 「お前は、真逆」 «私の過去を見たなら、知っているでしょう。  私にもこの〈能〉《わざ》はあるの» «人の心を侵すことは、私にだってできる!!»               〈精神汚染 〉《メンタル・ペスティリエンス》 「……止せ!」 «…………» 「それは、帝に禁じられたのだろうが!?」  そう。あの過去夢で、精神干渉の力は勅命をもって厳に封じられていた。  中世の人間が帝室を重んじること、現代人の比ではないだろう。あの命令は絶対のものだった……筈だが。  果たして村正は――少なくとも表面上――何ら動揺を示さなかった。 «遠い……昔のことよ» 「……」 «……あの時代から色褪せずに残っているのは、私の甲鉄と使命だけ。  邪魔になった貴方の意思を潰すくらいの事、造作もないのよ» 「く……!?」 «そう。  簡単なことなのよ……!»         〝従いなさい〟  我がものならぬ思念が、心中に芽生える。  これは……村正の?  精神汚染とはこういうものか。  これは――まずい。抗う術がない。         〝従いなさい〟  この波は〈内側〉《・・》から俺を食い荒らそうとする。  どうにも排除する方法がない!       〝貴方の心はいらない〟       〝私には……必要ない〟         〝だから……〟     〝……だから…………消す…………〟 「――――――――」 「……あぁ……」  俺は――              〈俺だ〉《・・》。  湊斗景明だ。他の何者でもない。  ……自我を保っている。  だが、何故?  あの力に屈服を余儀なくされたと思ったのだが……。 «……っ……» «どうして……私は!» 「村正……」 «もう……もういいっ!  貴方なんていらない!» «貴方がいなくたって――» 「何処へ行く!」 «何処でもいいでしょう。  もう、貴方とはこれきり» «私は別の仕手を探す……» 「何だと?」 «さようなら»  瞬時にして消え去る劒冑。  一切の痕跡を残さず――あたかも最初から存在しなかったかのように。  足音さえ、俺の耳には届かなかった。 「――――」 (追わねば)  全ての理屈を抜きにして、俺はそう結論した。  今、村正と離れたままでいてはいけない。〈とにかく〉《・・・・》追わなくてはならない!  追わねば、俺はきっと生涯悔いる。  だが……  どうしたものか。  拘置囚の身に自由はない。  署長に連絡し、釈放の手続きを踏んで貰うにも時間が掛かる。  最短でも数時間必要だ。  …………間に合うか!?  屋根から屋根。  梢から梢へと跳ね渡る。  当ては何もない。  ただ、立ち止まっていたくなかった。  日没にはまだ間のある時間帯だ。こんな乱雑な移動をしていては人目につくだろう。    しかし――どうでもいい。  今はこのまま馳せ回り、身にまといつく何かを振り払いたい。  ……その何かは外皮ではなく内面に張り付いたもので、いくら駆けようが剥がれはしないと悟っていたが。 (認められる――わけが、ない)  俺の意思を認めてくれ、と。  自分の意思で戦い、責任を負うことを認めて欲しいと……それだけを望んだ〈仕手〉《あるじ》に、完全な拒絶を返した。  彼は私の意志を認めると言ってくれたのに。  あの錆びた錠前のような頑固者が。なのに。    けれどどうしても、それは認められないのだ。  〈青江〉《ニッカリ》との交戦中、彼が私の過去を見たように、私も昔日の彼を見ていた。  だから知っている。  彼は本来、小さな町で穏やかに暮らす人間であったことを。  その生活を奪ったのが、私と先代――二領の村正だということを。  村正の存在さえなかったなら、彼は平穏な日々を命尽きるまで続けられたのだ。  ……五百年前、私が愚かなことを願わなければ! (母様を、見捨てるべきだった。  見捨てなくてはいけなかった)  帝の御意に服し、破壊させておけば良かったのだ。  それがどれほど屈辱的で、無念で、蝦夷の劒冑鍛冶として受け入れ難い仕儀であろうとも。  肉親の情など、川に流して。  鍛冶師の矜持など、犬に食わせて。    何となればこの手で、〈二世〉《はは》を潰すべきだったのだ! (それができなかったばかりに!) 〝銀星号〟は出現した。  南北朝の昔の悪夢が、この興隆という時代において〈黄泉帰〉《よみがえ》ってしまった。  これは、私の決断一つで防げたことなのだ。  生前の私の柔弱な心が、この災いを――無数の死を招いた。  銀星号との戦いはつまり、私の過ちに対する決着にほかならない。  それを己のものとして背負うと言う〈景明〉《かれ》の意思など、どうして認められよう。  妖甲千子村正一門の愚行に巻き込まれただけの彼が、苛酷な闘争に苦しみ魂までも傷つくことを、どうして! (認められるわけないじゃない……)  私の犯した過ちはほかにもある。  善悪相殺。あの戒律。  あの呪い――認めよう、理想はどうあれ事実は呪いでしかない!――を、なぜ受け継いでしまったのか。  せめてあれさえなかったなら、景明の手で殺させる人間の数は〈半分〉《・・》で済んだ。  苦しみもいくらか和らいだろう。  自分は始祖や二世とは違う。二世が災厄の運び手となった時、これを制圧するためだけに誕生した劒冑だ。  祖父の理想を実現する鍵であったあの戒律は、私にとって不要のものだった。  それでも継いだのは――そうするしかなかったから。  善悪相殺の掟は、村正という劒冑の付録ではない。  〈心鉄〉《しんがね》に根差すもの、つまり根本理念だ。  これを取り除くなら、鍛造行程を〈すべて〉《・・・》見直さなくてはならない。  祖父と母、そして祖母と父。一門の探究の総決算であるそれを、独力で一から立て直さねばならないのだ。  できる話ではなかった。  仮にできたとしても、そうして造られる劒冑は並の出来で、二世村正の力には抵抗し得ない――〝卵〟に汚染される――であろう。  それでは役目を果たせない。  千子村正流の鍛造法で劒冑となり、善悪相殺の戒律を継ぐのは避けられないことだった。    それは……事実だ、が。  しかしそのことを抜きにしても、私の心には、戒律を受け継ぎたい気持ちが確かにあった。  戒律を、一門の理想を継ぎたかった。  祖父達が悩み苦しみ抜いた末に見つけ出した理想が、無為に散ってゆくのを、許せない思いがあった。 〝独善〟の撲滅、争いなき世界への希望を、後の世に伝えても良いだろうと――私はそう思っていたのだ。  ……無責任な情念。  ……どこまでも自侭な考え。  どのみち選択の余地がなかった件ではある。  けれどその裏に、そんな甘い願いがあったことを、私は記憶している。  だから許せない。  呪いに縛られ、好意や敬意を抱いていた人々に刃で報いてゆく彼の苦悶――その心の断末魔に触れるたび、こうなる可能性からあえて目を背けて安い夢に浸った過去の自分自身が、どうしても許せない。 (だから……せめて)  認めてはなるまいと思うのだ。  この戦い、この殺戮が、彼の意思のもとで行われているなどとは、決して。  これは私一人の〈戦〉《いくさ》……  私の意志で招いた、私の罪だ。 「――――ッ!!」  ……〈香気〉《けはい》!  銀星号か、その〝卵〟を受けた寄生体か。二世村正の力を宿したものが近くにいる。  強い――濃い。  故意に発散しているのかと思えるほど、いま感じる気配は濃密だ。  急ぐ必要があるのかもしれない。 «みど――» (…………)  頭の向きを翻し、牢獄の〈景明〉《かれ》のもとへ戻りかけて。  ……最早そうするべきではないのだと、思い出した。  これ以上、彼と一緒には戦えない。  彼の意思を認めることはできず、支配し隷従させることもできなかったのだから、もう…………無理だ。  行くなら、一人で行かねばならない。  ……いや。 (一人でいい)  思えば、自分一人の戦いに他人を巻き込むという事がそもそも大きな誤りなのだ。  いくら劒冑には仕手が必須であろうと。  その程度の常識、村正の業をもってすれば覆せる。  覆す――覆してみせる。 磁場展開収束形成特定指向特定解除反復展開反復展開指向修正収束形成骨格擬装修正修正修正修正収束形成神経擬装修正全面削除神経擬装修正修正修正指向修正筋肉擬装修正修正総括整理確認違法騎化工程編成完了 (私は――独りで戦える!)              起動 「…………」 「……おお。  早いなっ!」 «――――» 「呼び立てたようですまない、景明。  いや、事実呼んだのだが」 「どうしたわけか、今日という日は起き抜けからおまえの顔が見たくて、矢も盾もたまらなくなってしまってな。  まったく乙女心というのはままならぬ」 「おまえも罪なやつ。  しかし、こうして早速招きに応じてくれたのは有難い――」 「――――」 «……………………» 「誰だ、貴様」 «……あら。  騙し通せなかった?» 「見縊るでない。  外面に変わりがなかろうと、景明とほかの誰かを取り違えるようなおれか!」 「音が違う!」 「匂いが違う!」 「何となく風情が違う!」 「そして、〈臍〉《へそ》の下にぐっとくるものがない!」 «ぐっ?» 「蜘蛛、そやつは何処の馬の骨だ!?  どういう了見で景明を置いてきた!?」 «答える義理はないと思うけれど» 「……まさか」 «…………» 「景明は風邪でも引いたのか!?  それで代理か!?」 「なら看病に行くぞ!!」 «行くのか!?  ……いや待て、落ち着け御堂» «あれはどうも、〈空〉《から》のようだ» 「む?」 «――――» 「……何だ、あれは……。  中身は〈すかすか〉《・・・・》なのか」 «装甲されたように見せかけているだけだな。  さて……何の〈意図〉《つもり》やら» 「伝言に来ただけなら、蜘蛛の〈形〉《なり》で良かろうしな。ふむ……」 «……詮索は結構よ» 「なら〈直〉《じか》に訊くが。  おまえは結局、何しに来た?」 «戦うために決まっているでしょう……!» 「……景明は?」 «仕手なんて、いなくてもいい。  私の力で、貴方を――〈二世〉《かかさま》を討つ!» 「…………」 「……村正……」 «誠に遺憾だが、あれはどうも本気らしい» 「…………」 «何よ……» 「何、ではないわ。  呆れるほかにどうしろと云う」 「そんな〈態〉《ざま》でおれの相手をするだと?」 «自惚れた言い草ね» 「鏡を見て言うがいい」 «……» 「村正よ。  おまえの娘はとんだ駄作だな」 «返す言葉がないのは残念だ» «何ですって……!?» 「どうしてやろうか」 «馬鹿者の相手で御堂を煩わせとうはない。  〈冑〉《あれ》に任せて貰えぬか» 「許す。  ゆけ」 «応» «甘く見て!» «それはこの母に言わせておけ。  ……そんな〈ごまかし〉《・・・・》で、如何にせば冑らに勝てると思うのだ» «やってみなければわからない» «明々白々。  その擬装がどれほど無様なものか、ひと目見れば窺い知れる……» «どうせ人型を取るなら、〈ここまで〉《・・・・》やらねば何の意味とてあるまいに» «……え?» «辰気収斂» «……なッ――» «に……〈肉体変成〉《・・・・》!?  そんな、どうやって!» 「〈そこ〉《・・》から一歩進めれば成せる事なのだがな。  その一歩さえ届かないとは、我が娘ながら救いが無い」 「ここで砕いてやるのが情けというものか?」 «くっ……!» «そ、そんな芸……無意味よ!  劒冑の戦力はこの〈騎形〉《かたち》が最も高い» «戦えば私が勝つ!» 「さて?」 «この――» 「ふん……」 «――っ――» 「……蝿でも追っているのか?」 «ちょこまかとっ!» 「まだ気付かぬか……。  ほとほと血巡りの悪い娘だ」 「冑が素早いのではない。  なれが――」 «ッ!» «くはっ!?» 「あまりに〈とろくさい〉《・・・・・》だけだ。  そんな動きでは蝿はおろか、牛も捕まえられん」 «……勝ち誇らないで!  まだよ!» 「流石にそろそろ理解できような?」 «…………» 「おのれの、その……  〈ぎくしゃく〉《・・・・・》とした醜態が」 «どうして……» 「どうもこうもない」 「〈武者形〉《むしゃなり》は確かに至強の姿。  しかしそれも、仕手と共にあればのことだ」 「中身の無い鎧が何だという?  張子の虎に過ぎまいが……」 «……» 「太刀の〈術技〉《わざ》もなく。  熱量の供給もなく」 「無駄に膨れた〈騎体〉《からだ》を持て余すだけ。  重いわ、鈍いわ、良いこと無し」 「そんな虚仮威しに比べれば――」 «……っ!?» 「この方がはるかに効率的。  そういうことだ!」 «がっ……» 「この形なら心鉄の熱量だけで充分に戦える」 «!!» 「〈落ちよ〉《・・・》」 «……は……» «かっ……つッ……!» 「…………」 「駄作。  なれは〈御父〉《おと》の名を辱める気か?」 «……そっ……» «そんなこと……母様には言わせない!» 「……」 «私が駄作なら、母様はなんなの!» 「何か不服があるのか。  この母に」 «あるに決まってるでしょう!?  なんで――どうして、» «〈また〉《・・》災いを振り撒いているの!!» 「それを冑に訊いてどうする。  劒冑は仕手に従うもの――知りたくば、上で退屈げにしている〈御堂〉《あるじ》に問うがいい」 «そうじゃない!  狂人の考えなんかどうでもいい» «その〈前〉《・》の話よ!  母様はどうして、あんな人間を〈仕手〉《あるじ》にしたの!» 「…………」 «〈始祖〉《じじさま》の失敗で学ばなかったの!?  私たち村正は武人の独善を戒める為の劒冑――けれどたった一つの間違いで災いの化身になりおおせる» «だから……母様はもう誰とも結縁するべきじゃなかった!  するにしても、よほど慎重に選ばなくちゃいけなかった» «意志の弱い人が村正を帯びて武者になれば、善悪相殺の掟に耐えられず、狂うこともある……それがわかっていたんだから!  なのにどうしてまた、そんな人間を選んで» «むざと狂わせたの!  五百年前と同じように狂気を広めて、殺戮を煽る羽目になっているのはなんでよ!?» 「……」 「そうか。  ……どうもいくつか、誤解があるようだな」 «誤解……?» 「まず。  〈冑〉《あ》が仕手は、狂っておらぬ」 「いや……狂っているのやもしれぬが。  いずれにせよ、あの者は元々〈ああ〉《・・》だった」 «……!?» 「冑はあの者の人格を承知した上で、仕手と認め、縁を結んだ……」 «ど、どうして!» 「三世……  なれは封印より放たれてから、大和の歴史を学んだか?」 «……» 「驚くべきこと……信じ難いことだが……  あの南北朝の争乱、冑ら村正がもたらした絶滅的な殺し合いの上に築かれた平和の時代は、」 「百年と保たれなかったらしい」 «…………戦国時代?» 「そう呼ばれているな。  南北朝にも劣らぬ混沌の大乱世が、ほんの数十年を隔てて再び訪れたようだ……」 「これをどう考える?」 «…………» 「足りなかった」 「〈足りなかった〉《・・・・・・》のだ!!」 「あれほどの戦!  あれほどの殺戮!  あれほどの大地獄をもってしても!」 「諸人に戦の醜さ、愚劣さ、その独善を知らしめるには、全く足りなかったのだ!!  武とは常に善悪相殺、戦には正義なし――村正が示した真理は瞬く間に忘れ去られた!!」 「人々は飽きもせずまた独善の渦に浸り切り、戦い、殺し……南北朝の時代よりも長い時を、無為の争乱に費やしたのだ!!」 «か……母様……» 「人の愚かさを甘く見ていたわ」 「冑ら劒冑は魂を甲鉄に打ち込める、ゆえに不変の理念を持つが……  肉の脳髄は真理を刻んでも、刻むそばから忘れてゆくようだ」 «だから……だから?  〈もう一度やる〉《・・・・・・》って言うの!?» 「そうだ」 «本末転倒じゃないの!  そんなこと、爺様だって望まない!» «爺様はあくまで、善悪相殺の戒めを人々に広めて、争いを〈未然に〉《・・・》治めようとしただけで――» 「なれは考えが浅い」 «…………» 「先程、口にしたな。〈始祖の失敗〉《・・・・・》がどうのと。  ……それも誤解だ」 「御父は失敗など一つもしておらぬ」 «!?  ……な、何を!» 「御父は端から〈表〉《・》と〈裏〉《・》を考えていた」 「表。仕手が尋常な人物であり、善悪相殺の理を解して、世に広めるならばそれで良し。  そして裏。仕手が戒律に縛られてなお見境なく、殺しに殺しを重ねるなら、それも良し」 「その有様を見た人々は、武の罪悪を自ずと悟るであろうからだ」 «……!!» 「御父の思慮の深さがわかったか」 「仕手が如何なる人物であろうと……  冑ら村正は、世に戦と武の真相を告示する宿願を果たせるのよ!」 «……で、でも!  それでも〝銀星号〟はやり過ぎでしょう!?» «母様の仕手は強さにしても凶暴さにしても法外に過ぎる!  放っておいたらどこまで人間を殺し尽くすか――» 「一向に構わぬ」 「人間とは度し難い〈存在〉《もの》。  南北朝の〈災禍〉《わざわい》からさえ何も学ばなんだ」 「一度絶滅に瀕するところまでゆかねば大悟を得られまい!  いや……もはやこの際、絶滅しても良しとしよう」 「人が滅びれば争いも無くなる。  御父の望みが果たされるわ!!」 «―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――» 「狂っている、とでも云いたいか」 «……狂ってるでしょう……» 「なれが道理をわからぬだけだ。  人の業深さを甘く見ているのよ」 «…………» 「ふん」 「理を知らず。  世を知らず。  人を知らず。  己も知らず……」 「仕手をよそへ置いて先走った挙句、かように這い〈蹲〉《つくば》って泣き言を〈囀〉《さえず》るのみとは、な。  これが……三世村正、〈冑〉《あ》が娘か」 «母様……» 「戯けめ。  〈冑〉《あ》が〈胎〉《はら》がなれのような駄作を産み落としたとあっては、御父に顔向けできぬ」 「なれ如きは……  〈鋳潰されて〉《・・・・・》、〈仏像にでもなるがいい〉《・・・・・・・・・・》」 «!!» «か――母様ァ……!» 「ふん、立ったか」 「ま……立たねばなるまいな?  これを言われて、相手を捨て置くようでは、劒冑の一分が守れん」 「自ら屑鉄と認めるに等しい……」 «……» 「されど、口惜しきかな。  娘よ……」 「なれは、屑鉄だ」 «黙れェ!!» 「磁気引斥を利する抜刀術……  なれの〈仕手が〉《・・・》完成させた至芸だな」 「できるつもりでいるのか?」 «斬る……!» 「……く」 「参れ」 «ッ、ぁぁぁあああああ!!» «……ッッ!?» 「知恵なき者は白日のもと闇を歩く!  なれのことだ!!」 «……ぁっ……グ……» «……ぅ……» 「熱量が尽き果て、再生も利くまい。  ……身に過ぎた〈武技〉《わざ》を使うからだ」 「〈才〉《サイ》なく〈心〉《シン》なく刀刃を弄んだ愚物!  相応の惨めさで果てるがいい!」 «…………» 「最後の情けだ。  引導はこの母が渡してくれる」 「逝けい」 「――待て。村正」 「御堂?  止めてくれるな。身内の恥は雪ぎたい」 「うむ。その気持ちはわかるが……  仕方あるまい」 「座興はここまでと、〈あちら〉《・・・》が言うのだ」 「…………」 「待ち人か……折良く。  知恵なきこやつにも、いくばくかの天運はあったと見ゆる」 「景明」 「……光……」 「……どうするのだ? 御堂」 「今日はもう良い。  顔を見たら、気が済んだ」 「景明も、劒冑がその〈態〉《ざま》では遊べまいしな」 「承知」 「景明。  おまえに伝えておくぞ」 「……」 「おれは八幡宮へゆく」 「……!?」 「少し、面白い趣向を考えついてな」 「我が父に我が覇道を捧げる……。  そのために相応しい時と場を選んだ」 「……父に……?」 「近いうちだ。  待っているがいい!」 「…………」  銀星号は去り、俺は視線を地上へ戻した。  ……瀕死の劒冑が〈蹲〉《うずくま》っている。  村正は、見るも無残な姿と化していた。  歪み、〈捩〉《ねじ》れ、曲がり――山峰から転落した上に落石の雨を浴びればかくもなろうか。  深紅の甲鉄が、今は血塗れの肉膚と目に映る。 「村正」 «……来ないで……» 「……」 «帰って……  …………お願いだから……» 「お前を置いてか」 «そうよ……» 「駄目だ」 «……もう私は……貴方の劒冑じゃない» 「俺にはお前が要る」 «〈二世村正〉《かかさま》を止めたいなら……ほかの劒冑を探して……» 「お前でなくては勝てない」 «なんでよ……  精神干渉の〝波〟に侵されないから?» 「……」 «……っ……» «そんなの……関係ない» «ほかの劒冑の方がましよ!  私よりはずっと!» «今のこの姿を見ればわかるでしょう!?  私がどんなに酷い代物かっ!» 「……」 «〈能力〉《ちから》は足りない!  仕手の言うことは聞かない!» «正しい判断もできない!  のぼせた頭で勝てるはずない相手に挑んで、地べたに這いつくばらされてる!» 「……」 «そのうえ――善悪相殺なんて余計な呪いのおまけ付き!  私が何の役に立つのよ!» «……要らないでしょう……» 「村正……」 «……別の劒冑を探して……» «私のことは……放っておいて……  ……ここに捨てていってくれれば、勝手に朽ちるから…………»  傷んだ甲鉄が小刻みに震撼している。  りり、りり、と。鈴虫に似た〈音〉《ね》がその上へ重なった。    ……泣いているのか。 (別の劒冑)  それは一度ならず、考えた事ではある。  そしていつも、断念してきたのだった。  並の劒冑では〝卵〟に食われてしまうのだから仕方がない。銀星号と戦うには、この呪わしい劒冑を使い続ける以外にない――と。  そう諦めて、村正を使ってきたのだ。    〈諦めて〉《・・・》。  望んだのでは、決してなく。 「…………」 «……行って……»  村正。  劒冑にしては感情的で、しばしば〈昂〉《たかぶ》り、動揺する。  自我も強く、時として指示に逆らい、〈ごね〉《・・》たりする。    先刻は、俺に対して力を〈揮〉《ふる》おうとまでしかけた。  そして善悪相殺の戒律。  この劒冑は必ず、戦いを〈無益〉《・・》なものにしてしまう。  ……それが村正。  二年間、〈道行〉《みちゆき》を共にしてきた、  俺の劒冑だ。 「ああ。  …………やはり」 «……» 「お前でなくては駄目だ」 «……なんでよぅ……» 「お前と出会ってから、幾度もの戦いを経た。  俺が生き延びてこられたのは、お前の助けがあったからだ」 「お前が助けてくれたから、〝卵〟の孵化も阻止してこられた。  俺の力だけではどうにもできなかった……」 「今更だが……それを認める。  これからも力を貸して欲しい」 «…………» «私がしたことは……助けだけじゃない» 「……」 «忘れてはいないでしょう» «私は貴方に、罪もない人を殺させてきた!  最初は貴方の母親――その後にも» 「……ああ」 «何人も殺させた!  もう嫌でしょう!?» «耐えられないでしょう!  だから、私を捨てればいいのよ!» «私がいなければ、そんなことしなくて済むんだから!  銀星号に勝てる劒冑なら、きっと何処かにある……» «貴方はそれを探せばいいの……» 「そんなものは無い。  ……仮にあったとしても」 「俺が望むのはお前だ、村正」 «…………» «どうして» 「善悪相殺か」 「お前と共にある限り、俺はこれからも、敵を一人倒す都度に味方も一人斬ることになるだろう」 «そうよ……» 「死すべからざる誰かを殺す」 «そうよ» 「だがな。  ……それなら俺の〈敵〉《・》となった人間は、死すべき者だと言えるのか?」 «……» 「俺は〈養母〉《はは》を殺した」 「新田雄飛を殺した」 「蝦夷の姉妹、ふきとふなを殺した」 「……いずれも許されない罪だ。  しかし、なら」 「鈴川令法を殺したことは?  長坂右京を殺したことは?  風魔小太郎を殺したことは?」 「皇路卓を殺したことは?  ジョージ・ガーゲットを殺したことは?」 「それは許されることなのか……?」 «……» 「許されない」 「彼らは俺からすれば悪人だった。  しかし、彼らにも彼らなりの善があった」 「〈善悪相殺〉《・・・・》。  ……成程、人を殺すという事は、善と悪を諸共に断つという事だ。ようやく理解できた……」 「村正。  お前は正しい」 «…………» 「殺人はなべて悪鬼の所業」 「例外など無い。  あらゆる殺人に正義は無い」 「戦いに正義は無い」 «……御堂……» 「村正。お前がそれを教えてくれた」 「お前ではなく、他の劒冑と結縁して、この二年を戦っていたら……  俺は今頃、自分のことを英雄とでも思っていたかもしれん」 「世の人々を救うために悪と戦いこれを討つ、正義の武者だとな。  そうして、銀星号を倒した暁には、六波羅をも打倒しようなどと考えていたか……」 「想像するだに〈怖気〉《おぞけ》の走る話だ。  独善の化粧でしかない正義に酔い、争乱を引き起こすなど……」 «…………» 「村正。  俺に正義は無い」 「その真実を決して忘れたくない。  だからお前が必要だ」 「お前を捨てて別の劒冑を取れば……  〈善人は殺さず悪人は殺す〉《・・・・・・・・・・・》という独善の道を、俺は選ぶことになる」 「世には死んで良い人間と死んではならない人間とがいて、自分にはその区別をする権利があるのだと認めることになる……」 «……» 「俺は厚顔無恥な英雄になどなりたくはない。  世間の人々がそんな俺を見て、正義の戦いがあると信じ、後に続こうとする――などと、馬鹿げた始末になるのは尚のこと御免だ」 「それこそ〈災禍〉《わざわい》というものだ」 «御堂» 「俺はお前を選ぶ」 「善悪相殺の戒律を選ぶ」 「お前も、俺を選んではくれないか」 «……» «本当に……いいの……?» 「俺には、お前でなくてはならないのだ」 «御堂……  ……でも……» «〈二世村正〉《かかさま》を生かしたのは……私。  銀星号をこの時代に呼び込んだのは私……だから» 「自分独りで戦わなくてはならない、か?」 «……» 「俺にもそっくり同じ思いがあった。  いや、今でもある……が」 「認めよう、村正。  俺もお前も独りでは弱い」 「互いが必要だ。  俺達はふたりで一騎とならねば、戦えないのだ」 「一緒に……戦ってくれ」 «……御堂……»  右手の親指に歯を立て、腹を浅く食い破る。  血が溢れ始めたそれを、俺は劒冑へ向けた。  ――この指は、太刀を扱うに欠かせぬ指。 «……ぁ……»  おずおずと、劒冑が〈肢〉《あし》を差し伸ばして応える。  触れる。  血が甲鉄を染める。  水晶の鐘を打つような〈楽〉《がく》が、一度。  俺と村正の間を渡った。  これが――――    最も簡素で、最も古い、武者正調の〈帯刀儀礼〉《タテワキノギ》。  ここに〈縁〉《えにし》は結ばれ……  俺と村正は初めて、一騎の武者と〈成〉《な》った。  久方ぶりに〈罷〉《まか》り出た、親王の御前。  俺は何をもさて置いて低頭し、深く謝した。 「舞殿宮殿下。  ……先日は多大な迷惑をお掛け致しました。伏してお詫び申し上げます」 「……」 「日頃の御厚恩に報いるどころか、仇で返す仕儀となったこと……  全く、面目次第もございません」 「ま、ま、景明くん……。  大の男がそんな縮こまったらあかんえ」  御簾の奥で発せられる声に叱責の調子はまるでなく、むしろ宥める風であったが。  己の所業を思えば、なら良かったと安堵もできない。俺は容易に頭を上げられなかった。 「日頃世話になってるのはこっちなんやから。  たまには迷惑のひとつも掛けてくれた方が安心できるくらいやわ」 「なあ、署長」 「恐縮です」 「ま、景明くんが〈脱獄した〉《・・・・》て聞いた時は茶ァ吹いたけどなぁ……」 「……」  あくまで気楽な様子の親王に、言葉も返せない。 「それが劒冑のためやったっちゅうんやから、見上げたもんやねぇ。  武者の鑑やないか……」 「なあ署長」 「恐縮です」 「……」 「……菊池ぃ……。  おまさんまでそんな調子やと、景明くんも頭上げられんやろう」 「は。  しかし、今回は私の管理不行届で――」 「あぁ、もうええもうええ。  ……この二人は手に負えんわ」 「何事も無う済んだわけやし、この話はもうこれまで。  ええね、二人とも」 「……はッ」 「……」  ぱんぱん、と手を打って言う八幡宮別当親王。  俺と署長は期せずして同時に、一〈揖〉《ゆう》した。 「……あぁ、けど、景明くん」 「はっ」 「〈拘置所〉《あそこ》の看守さんには、一言挨拶しとくとええよ。  あの人がむやみに騒がんでくれたお陰で、ことを大きくしなくて済んだんやから」 「……そうでしたか」  それは確かに、礼をせねばならなかった。  まったく俺という男は、多くの人間の手を煩わせながら生きている。  今更の自覚というものだろうが……。 「さて。  んじゃ、本題に入ろか」 「……?」 「今日お前をここへ呼んだのは、叱責のためではないのだ。  別に用件がある」 「銀星号の件ですか」  あれが八幡宮来襲を予告した事は、既に伝えている。  適当な口実を設けて親王には――当然署長にも――遷居して頂くべきだと進言もしておいたが。  その話か。 「いや、違う。  そちらも火急だが……今日話したいことは別だ」 「は……」 「ええね、景明くん?  今からの話はよそで言うたらあかんえ……」 「なんて、きみには念を押さなくても平気やろうけどな」 「しかし宮殿下、事が事ですので。  ……景明」 「はっ。  〈如何様〉《いかよう》なお話であれ、決して他言しないとお約束致します」 「うんうん。  景明くんみたいな人がそう言うてくれると、本当に安心できるわー」  ほほほと笑う親王。  だが、その笑いの中にも緊張の成分がある。  余程の話のようだ。  ……政治向き、であろうか。やはり。  しかし、そんな話をわざわざ俺にするとは……? 「近々、八幡宮で奉刀参拝の儀式が行われるのは知っているな」 「はい。  準備は滞りなく進んでいると聞いています」 「……その祭礼の場で――」  牧村さんに挨拶して、署長宅の門をくぐる。  常の事ながら、玄関は勤勉かつ優秀なる〈家宰〉《かさい》の手で万全に清められていた。  自分用にあてがわれている一室へ入り、腰を下ろすや、俺はすぐ八幡宮から持参した紙を広げた。  そうして、黙考を開始する。 「………………」 «またしばらくはこっちの家なのね» 「村正か……  ああ、そうなる」 «宮様に、何か仕事でも頼まれた?» 「そんなところだ」 «ふぅん» 「…………。  どう説明したものかな」 «……無理に話してくれなくてもいいのよ。  事情を知ろうと知るまいと、私のやることは変わらない» «貴方が必要とする力をすべて用意する。  それだけだから» 「そうか……。  だが、やはり話しておこう」 「お前の知恵も借りたい」 «悩むようなこと?» 「なかなか」 «……何を頼まれたの?» 「うむ……」 「回りくどく言えば」 «わざわざ» 「武家の棟梁にとって鶴岡八幡宮は鬼門の地、そう語られるようにしろと。  ……〈二度〉《・・》となれば、声価も不朽だろうな」 «……………………» «……それって»  〈源氏長者〉《げんじのちょうじゃ》が八幡宮に〈詣〉《もう》でて武運隆盛を祈る年例行事、奉刀参拝。  これを、襲い、  正三位六衛大将領、  元帥〈竜軍〉《ろくはら》大将、  大和の覇者、  足利護氏を――――討つ。 「……そして」 「大きく動揺するであろう幕府を朝廷権威で補強してやり――反面、朝廷の発言力を増す。  この公武合体による新体制で官民の対立を緩和、治政に安定をもたらし」 「GHQの介入する隙を無くしてゆく……」 「まとめると、そういうことやねぇ」 「……」  雄略と呼ぶべきだろう。  徒手空拳に等しい身で強大な軍事政権に挑み、その体質を改めさせようというのであるから。  成就する見込みの程は知れない。  が、何もせず情況を見守れば、進駐軍は時節が到来次第六波羅の排除に乗り出し――これを遂げて大和を完全な占領下に置くか。  それとも六波羅が勝利を得て大和唯一の支配権者となりおおせるか。  この国はどちらかの結末を迎えるだろう。……苛烈な交戦の後に。  いや、可能性はもう一つある。  両者の相克に決着がつかず、延々と戦争が続く――という最悪の展開も起こり得る。  喜ばしからざる運命を拒否し、〈比較的〉《・・・》にでも良好な未来を手に入れたいと望むなら、やはり行動は必要だ。  親王と署長、この二人の構想は、暴挙といえば暴挙であったが至当といえば至当に違いなかった。 「どやろ」  暗殺を実行できる者は、俺しかいない。  足利護氏は戦歴余る武者。銃一丁で倒せるような男ではない。同じ武者だけがその首級を狙える。  〈春煕〉《はるひろ》親王は大仰に頭を下げたりしなかった。  大和のため国民のためと、くどく言い重ねることも。  説明は全てした。  後は自分自身の判断で決めろ――そういうことか。 「…………」  親王の企図こそ大和を救う。  そう信じるのに、苦労は要らなかった。  容易な計画ではなかろう。齟齬もあろうし見落としもあろう。きっと困難は多い――が、この人ならばと思わせるものが、親王には確かにあった。  署長という補佐役もいるのだ。  何より俺の頭では親王のそれに優る計画を思いつかないのだから、価値を否定できる筋合いではなかった。    親王が間違っているとは、どの角度からも言えない。  ……ならばできるか。  足利護氏を襲い、命を奪えるか。 (大和のために)  多くの善き人々を救うために、  一人の悪しき者を殺す。  …………それは、      俺が既に幾度も、幾度も、繰り返してきた所業だ。  〈銀星号〉《わざわい》の拡大を阻止すべく、 〝卵〟に寄生された武者を幾人となく斬り殺した。  一悪を断ち多善を残す。  まるで同じだ。  何処にも違いなど無い。  どちらも、    ――――独善に過ぎない。  国のため。人のため……  そんな聞こえの良い〈外面〉《かわ》を一枚剥けば、そこに真実の姿が覗く。  親王の動機が実は私利私欲だとか、間の抜けた事を言うつもりはない。  しかし、対立者を暴力で挫くという道を選ぶのなら、動機がどうあれそれはやはり独善の行いなのだ。  我の善のため、  彼の善を悪と称して葬る。    〈一剣一殺是善悪相殺〉《いっけんいっさつこれぜんあくそうさい》。  俺の返答は定まった。 「行きましょう。  奉刀参拝の日、足利護氏の前へ」 「……やってくれるんか?」  むしろ意外そうな、親王の声だった。  顔色こそ変えていないが、脇の署長も内心は同じと見える。  俺はかぶりを振った。 「今はお約束致しかねます」 「……何?」 「本人と〈見〉《まみ》えてから決します。  斬るか、斬らぬか」 「足利護氏は殺さねばならない男なのか。  この目で、見て……決めたく思います」 「…………」 「…………」 「却って御迷惑とあれば無論、強いて望みは致しません。  ここで聞いた事はすべて忘れ、直ちに立ち去りましょう」 「如何か――」 「ええよ」 「宮殿下……」 「計画を打ち明ける段階で、景明くんを信頼するちゅうことは決めてたんや。  ならとことん信じ切ろうやないか」 「景明くんの判断を信じて、任せるわ」 「……御高配痛み入ります」 「斬ったらあかん、思うたらそれでええ。  その時は、後で景明くんの考えをわしらに聞かせてくれな」 「はっ」  ……過分なまでの信頼を抱かれている。  有難くも、両肩に重かった。  しかも俺は、この信頼に刃で応えなくてはならない。 「もう一つ、お断りしておかねばならぬ事があります」 「うん?」 「我が劒冑……  村正の〈掟〉《ルール》はご存知であられる筈」  敵を斬らば友も斬らん。 「…………」 「舞殿宮殿下。  もしも自分が、足利護氏を斬った暁には」 「貴方の御命をも頂かねばなりません」  それが〈村正〉《おれ》の掟。  善悪相殺の律法。 「宜しいか」 「承知したえ」 「……」 「このアホが大将領と差し違えるわけやな。  ……大儲けやないか」 「わしの代わりなら、何処にでもおるわ」 「宮殿下……」  嘘の響きは聞き取れなかった。  ……それはもしかすると、俺の耳が騙されただけで、親王はいま内心で用が済んだら俺を始末しようと決意しているのかもしれない。  どちらが真実か。    どちらであっても、舞殿宮春煕親王という人物は、心底からの敬意を払うに値する。 「景明」 「はい」  厳しい声に視線を動かす。  この人が口を開くことは予測していた。  何を言うのかも。 「その時は私を斬れ」 「菊池」 「いいな」  御簾の方を振り返らず、俺だけを見据えて、署長は〈重石〉《おもし》のような声で告げた。  不動の意思がそこにあった。  ――善悪相殺。  足利護氏を斬るなら、この人も斬らねばならない。 「署長……」 「明堯様」  何年ぶりにか、〈養父〉《ちち》の名を呼ぶ。  応えはなかった。  ……殺せない。  殺せるわけがない。  大恩あるこの人を、どうして我が手で斬れよう。 (だが)  そう思う一方、足利護氏は構わず斬れるのか。  同じ人間である。  善あり悪あり功あり罪ある、同じ〈只人〉《ただびと》である。  単に俺の立つ位置からは署長の善ばかりが、護氏の悪ばかりが目立つというだけに過ぎない。  異なる位置に立つ者には、異なる見方があるだろう。  なのに一方のみ悪として斬り、もう一方を善として生かすのは、    ――独善である。  村正は言った。  独善こそ争いの根源。殺し合いを正当化し、際限もなく続けさせる元凶――と。  そう。  それは、その通りなのだ。 「景明」 「諒解しました」 「……」 「大将領を斬った、その時は……  貴方を」  斬る。  この養父を斬る。  斬らねばならぬ。  ……斬れぬのなら、  足利護氏もまた、斬ってはならないのだ。 「という次第だ」 «……本当に斬るかどうかはともかく。  その用意はする、っていうこと?» 「そうなる」  我が決定ながら、はっきりせぬ話だ。  きっぱり断った方が良かったのかもしれない。  が―― «…………» 「どうかしたか」  蜘蛛の沈黙は、物問いたげだった。  水を向けてみる。  躊躇うような間を数秒はさんで、金打声が伝わってきた。 «……ね、御堂。  そんな話を断れなかったのは» «この間の……  私の» 「いや」 «……» 「脱獄の件は無関係だ。  それよりも……銀星号の予告が」        ――――おれは八幡宮へゆく。 「お前も聞いていただろう」 «ええ……» 「まさか周囲が幕兵で固められる奉刀参拝を狙って現れるとは思えないが……  念のためだ」 「八幡宮に詰めていれば、万一の時に素早く対応できる。  宮殿下の依頼を半端に受けたのは、言ってしまえばその〈ついで〉《・・・》だ」  厳戒警備の中へ潜り込む時点で危険は極まっている。  そのうえ暗殺の狙いが加わっても、これ以上危うくはなりようがない。  ……計算と呼ぶには乱暴な、丼勘定だが。 «…………» 「ともかく。  やるやらぬは置いて、策は立てておく必要がある」 「当日、八幡宮にどう潜り込み、元帥にどう近付くか……。  知恵を貸せ。俺の思案には余る部分もある」 «……う、うん»  広げていた紙を、村正の方へ向ける。  そうしなくては見えないということもあるまいが、鉄の蜘蛛は天井から降りて近寄ってきた。  その紙に、親切な表題などはない。  しかし、それが何であるかは一目で知れた筈だ。 «八幡宮の地図?» 「ああ。  宮殿下の直筆だ」 «……なんか、おかしくない?»  そう言うのは、舞殿宮の作画能力に対する疑問ではないだろう。  地図は素人図面には違いないが、そこそこの正確さで描かれている。  その地図と一般に公開されている境内図とでは幾つか大きく異なる部分があり、村正が指摘しているのはそちらだった。 «これは本殿よね?» 「そうだ」  大階段を登った上にある社。  〈上宮〉《じょうぐう》と呼ばれる。 «その奥にある……これは何?» 「隠された裏参道だそうだ。  ぐるりと回って、〈地下〉《・・》へ向かう」 «……その先の広間は?» 「〈下宮〉《げぐう》だ」 «下宮はこっちでしょう?» 「それは〈若宮〉《わかみや》。  若宮も下宮と呼ばれるが、本当はこちらを指すらしい」  上宮の真下の、〈地下空間〉《・・・・》を指差して言う。  そんなものが存在するなどと、俺もつい先刻聞いて知ったばかりだ。  限られた祭事の折にしか開かれない施設で、公には秘されている、との話であった。 「奉刀参拝の手順だが……  参拝そのものは、大将領と十人余りの側近だけで行われる」 「普陀楽から八幡宮までは相当数の兵を引き連れて来るが、彼らは祭祀に関与しない。  〈徒士〉《かち》衆は敷地の外、武者衆は境内や上空で警備につく」 «……» 「大将領と側近は上宮へ向かう。  そこで太刀を奉納、祭儀を執り行う」 「ここまで襲撃の隙はない」 «大銀杏の陰に隠れてってわけにはいかないのね» 「実朝公の時は本人も随員も非武装であったから、公暁はそれで成功したがな。  護氏が連れる側近のうち少なくとも半数は武者だと云う」  不意を襲っても彼らに防がれるだろう。  そうこうする間に周辺から警備の者が集まってきて、取り囲まれ、終わりだ。 「しかし、この後。  護氏は供奉の者と別れ、地下へ向かう」 «……» 「秘密の下宮にも太刀を奉納するためだ。  同行を許されるのは、祭祀を行う神官数名だけ」 «護衛はなし?  ……また随分と、おあつらえ向きね» 「これが古くからの慣例で、変更はできないらしい」  〈達〉《たっ》て望めば変えられなくもないのだろうが、それでは臆病者の〈謗〉《そし》りを受ける。  身内の信望を失い、四公方の誰かに地位を奪われるような事態になりかねない。  六波羅元帥がそんな運命を良しとするとは考えられなかった。 「暗殺の機会があるとすれば、この下宮参拝の時だけだ」 «でしょうね……» 「問題は」  ここから先の具体案。  事前に下宮へ潜んで待つのは難しい。  参拝儀式に先立って境内全域の検査が行われ、危険要素はこの段階で徹底的に洗い出される。それが完了すれば警備網が敷かれ、以後の潜入は不可能となる。  儀式中の強行突入などは論外だ。 「……やはり手は一つか」 «神官になりすまして、大将領と一緒に下宮へ降りる?» 「ああ」  そして暗殺を遂げた場合には、すぐさま八幡宮から脱出。これに手管は要らず、騎航での強行突破で良い。  外からの敵襲に備えた警備網は内からの奇襲に即応しかねるだろう。捕まる危険はごく低い筈だった。 «そうね。  ……問題はなさそうだけど» «何を悩んでるの?» 「お前をどうするかだ」  護氏は武者。  もしも挑むことになるなら、劒冑がなくては勝負にならない。  のだが…… 「持ち込む方法が思いつかん」 «……私だけ、あらかじめ潜伏しておくってのは駄目なの?» 「事前検査には武者も加わるそうだ。  如何にお前が隠形に優れていても、武者の〈信号探査〉《みみ》や〈熱源探査〉《はだ》まで騙すのは無理だろう」 «…………。  検査が済んだ後で潜り込もうとしても……同じことよね?» 「警備隊に武者がいない筈はないからな……」 «祭具の中に紛れ込むとか» 「無理だろう。  鏡や玉と一緒に蜘蛛の彫像があったら普通気付く。奇天烈過ぎる。文化的に有り得ん」 «……私、貴方の家で五百年ばかり、鏡や玉と一緒に御神体やってたんですけど» 「…………そうだったな」  振り返れば、奇天烈に過ぎる祭祀であった。  つまるところ、考えはここで渦を巻く。  俺一人の潜入なら神官を装えば済む話だが、村正を連れてとなるともう一工夫が要る――しかし良い案が浮かばない。  いっそ神官ではなく警備の武者になりすまして……    無駄か。警備兵が任務を放り出して下宮へ向かったりすれば、その時点で騒ぎになる。  そもそもなりかわる困難が神官の比ではない。  六波羅百万騎と称される大軍団の中でも武者はごく限られた特権階級、『無名の者』などいない。誰かが消え、代わりに別の者が増えていれば、必ず露見する。  入念な準備の上で潜入するなら、見込みもあろうが。  ……そんな事をしている時間は無い。 «…………» 「どうも手立ては無さそうだ。  暗殺は断念するか」 「俺が単身で潜入するだけしよう。  それならさして難しいことはない」 «危険よ。ばれた時どうするの。  それに、襲う気もないのに潜り込んだって意味がないじゃない» 「その通りだが、約束した手前、何もせずでは宮殿下に対して義理が立たん」 «待って。  要は、私も神官のふりをすればいいわけよね?» 「無茶を言うな」  蜘蛛の御神体以上に、蜘蛛の神官は有り得ない。 «御堂はあの時、見なかったの?» 「何をだ」 «…………。  そうね……» «母様は、〈一歩進めれば〉《・・・・・・》できると言っていた。  ……試してみましょうか» 「……?」 「村正?」 «今は見ていて。  ……あの時の……母様の術式は……» «おそらく……» 「何を――」 «昔の姿に戻ってみる» 「……〈昔の〉《・・》!?」  それはどういう意味だ。  まさか。 «これで――» 「………………………………………………」 «――で» «できた» «できちゃった……» 「……村正……」 「お――お前なのか……」 «……ええ。御堂。  私よ» «〈蝦夷〉《ひと》として生きていた頃の私よ!» 「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そうか」 「非常に……  その、個性的……だな?」 «…………» «あれ……?  私、ものすごく間違えてる……?» 「……然らば、舞殿宮殿下。  これより太刀奉納の儀のため八幡宮へ赴きますゆえ」 「普陀楽の留守と奉幣使九条殿の饗応、何卒宜しくお頼み申します」 「あぁ、うん。  そっちも宜しゅうにな、〈六府〉《りくふ》」 「はっ。  国家百年の繁栄を祈願して参りましょう」 「そらええことやなァ」 「憚りながらこの六府、神州大和の大黒柱を自ら任じてござれば……  国家のためのいかなる務めであろうと怠るつもりは毛頭ございませぬ」 「……あぁ、ようわかってる。  六府の赤心忠義は、ようくわかってますえ」 「畏れ入ります」 「されば早速、これより宮殿下の御前を拝借して、我が務めの一つを果たしましょうぞ。  楽しからぬ仕儀なれど、是非もなし」 「……なんやて?」 「雷蝶」 「はい、お父様」 「み……宮殿下……」 「金子!?  おまさんがどうしてここに……」 「これはどういうことや、六府!」 「……左様……。  宮殿下は何もご存知ありますまい」 「この者、宮殿下のお側近くに仕える用人でありながら、逆賊岡部の残党どもと結び……  あろうことか、宮殿下を謀反の企みに引き入れようとまで図っていた不逞の輩!」 「――――」 「……」 「宮殿下には晴天の霹靂でございましょう。  しかし、これは既に物証もあがり、事実を疑う余地は無し――」 「ご心中、お察し申し上げます」 「……」 「あらぁ?  舞殿宮殿下、あまり驚いておられませんのねぇ」 「もしかして、とっくにご存知でいらっしゃった……とか?」 「い、いや……」 「戯けたことを申すな、雷蝶。  舞殿宮殿下ともあろう御方が、逆賊をそれと承知で側へ置いておかれる筈がない」 「……左様でございますな?  宮殿下」 「…………」 「ウフ、フフフッ……」 「宮殿下は無関係だ! 何もご存知ない!  私は宮殿下に倒幕のご意思がお有りか否か探っていたが、何の成果もなく、このような始末となった……!」 「無念だが、舞殿宮殿下は風聞通りの昼行灯、潔白であられる!  さっさと私の首を――」 「お黙りなさいな」 「ぐぁっっ」 「金子!」 「宮殿下。如何に」 「もしも、宮殿下がこの者の本性をご存知であられたのなら……  かような者をどうして側へ留め置かれたのか、仔細をお尋ねせぬわけには参りませぬ」 「この護氏には大和を守る責務がありまするゆえ」 「……」 「何もご存じなかったのなら……話は簡単に済みましょうな。  して、如何に」 「……」 「知らんえ」 「……」 「……」 「なんも知らんかったわ、わし。  金子がそんな悪党やったなんて……」 「人を巻き込まんといてくれんかなぁ。  心臓に悪いったらないわ」 「……フフ……」 「……では、宮殿下。  この者の処分は当方に一任して頂いて構いませぬな」 「あぁ、……かまへん。  どうとでもしてや」 「承りました。  雷蝶、連れてゆけ」 「はい」 「……逆賊の末路は常にあのようなもの。  世の正義が守られてあるは喜ばしきことにございます」 「……そやな」 「岡部の死に損ねも近々一網打尽に捕らまえ、あやつめの後を追わせましょう。  どうか安んじてお待ちあれ」 「……」 「この六府、宮殿下が愚劣なる大逆の企てに関わりなしと知り、心より安堵致しました。  宮殿下は物の道理を良くわきまえた御方、元より疑ってなどおりませなんだが――」 「どうか今後とも、御身を正しく保たれますよう」 「わかってるよ……」 「お陰をもちまして、心置きなく奉刀の儀を執り行えまする。  では……これにて」 「……」 「宮殿下」 「何やね」 「沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理を表す。  驕り高ぶる者の世も、春の夜の夢に等しい」 「――とでも念じて、気長に待たれるが宜しかろうと存ずる。  六波羅は狭量にあらず、頭の中で夢を楽しまれている分には咎め立ても致しませぬゆえ」 「…………」 「クククク……  カハハハハハハハハハハハッ!!」 「……」 「……ッ……」 「護氏は普陀楽を出た。  もうじきここへ着く」 「諒解」 「用意はいいのか?」 「本物の神官と入れ替わる手筈は万端整っています。  実行に二分と掛かりません」 「そうか。  ……狙うのはやはり〈下宮〉《げぐう》だな?」 「はい」 「大将領の手の者が既に潜んでいる、などということは万一にもないのか……それだけが懸念だ」 「その点は再三確かめました。  今、村正が最後の確認を――」 「大丈夫よ、御堂。  下宮には誰もいない」 「どう見ても隠れ潜むには不都合な場所だし、間違いはないでしょう」 「…………」 「…………」 「景明」 「はい」 「どういう事だ」 「どういう事なのでしょうか」 「他人事のように言ってどうする……」 「自分も途方もなく戸惑っているのです。  御容赦下さい」 「……そうか」 「何よ?」 「…………」 「…………」 「……?」  ――――何故、こうなる。  鎧だったのだ。  蜘蛛だったのだ。  ある日突然、妙齢の女性に化ける道理がない。  恩返しに来た鶴でもあるまいに。 (どうしろと)  どうしたらいいものやら。  この姿を見るのもこれで幾度目かだが、未だにわからない。  わからな過ぎる。  とどのつまり自分が何を悩んでいるのかすら、良くわからない。  とにかくこの現状が俺の頭脳では消化不可能なのだ。  せめて村正が〈鋼鉄〉《はがね》のままであれば、納得のしようもあるのだが……。 「……」 「どうしたの?」 「きゃっ!」 「……」 「ぁん、やめっ、だめだってばっ!  くすぐったいからっ。悪戯しないの」 「……柔らかい……」 「恥ずかしいこと言わないでよ」 「どうしてそこで両手両膝を床につくの」 「動揺するな景明」 「無理です」  穴を掘りたい。  そこに収まって、ひたすら膝を抱えて座っていたい。  そんな心地だった。 「そろそろ行列が若宮大路へ入る頃合だ。  準備せねば間に合うまい」 「はい……。  署長は?」 「少し離れて様子を見ておく。  万一の場合に備えねばならん」 「それは?」 「……景明。  斬る斬らぬの判断はお前に委ねるが」 「中途半端な真似だけはしてくれるな。  私の言う意味がわかるか?」 「わかります」  親王と署長にとって最も望ましくない事態とは、俺が護氏を殺さないと決断することではない。  一旦は殺すと決めて襲いながら、途中で迷い、挙句取り逃がしてしまうことだ。  これはまさしく最悪である。  大将領暗殺に成功して幕府が大きな動揺をきたせばこそ、たとえ黒幕だと感付かれても親王は生存の道を得られるのだ。  暗殺は試みたが護氏は無事でした、では間違いなく親王の霊魂が〈幽世〉《かくりよ》へ旅立つ。  ……その最悪の事態が迫った時、署長は親王に急を知らせて逃亡させるつもりなのだろう。  成功の見込みは薄いが、やらぬよりは余程いい。    無論、俺はその手配りで安心してはならないわけだが。 「……斬ると、決意した時は……  必ずや」 「頼むぞ。  では、私は行く」 「既に警備体制が敷かれています。  お気をつけて」 「お前こそな」 「こちらも始めるか」 「ええ」 「……」 「御堂……大丈夫。  貴方は貴方の思うようにして」 「私は必ず、貴方の求める剣になる。  盾になって……守ってみせる」               orz 「だから、どうして挫折するの!」 「いや……別に……」 「やほーぅ」 「茶々丸……  こんな所でどうした」 「お祭り見物」 「……そなたは東都守護の月番であろう。  もしもこの鎌倉を襲う外敵ありし時、矢面に立って防ぐのはそなたの役目なのだぞ」 「おろそかにするでない。  和田館へ戻れ」 「まぁまぁ、おじじ。固いこと言うな。  そんなんだと便秘になるよ?」 「ちょっと眺めてすぐ帰るからさ」 「しかしだな……」 「守護番は退屈なんだよー。  やることねぇし。館に詰めて定時報告聞くだけだしさ。ただひたすらにそれだけだしさ」 「やってらんねぇー。  せめてほんとにどっかの敵軍が攻めてきてくれりゃいいけどさぁ。来ねえし。いやここは発想の転換で。いっそあてが敵になるとか」 「いいのかーおじじー?  このままだと大和史上最もくだらない理由で反乱が起きるよー? 止めるなら今のうちだぞー?」 「……茶々丸。  そなたも若年とは申せ公方職を務める身であろう」 「もう少し自覚を持て」 「フッ……おじじこそ。  現実を正しく見詰めるべきだな」 「所詮茶々丸だぞオイ。  いったい何を期待してるんだ、ん?」 「…………」 「ほんとすぐ帰るって」 「わかった。  まったく……別に見て面白いものでもあるまいに」 「そりゃ、あてだってそう思うんだけどね。  うちの御局様がお望みなんだから仕方ない」 「局?  ……ああ、〈長庚〉《ゆうつづ》とかいう女か」 「春先に堀越で見かけた時は、随分と病篤い様子であったが。  鎌倉まで出て来られるなら、いくらか快復はしたようだな」 「そうでもない。  だもんで、たってのお願いとなるとむげにできなくてねー」 「今日は医師同伴でお出まし。  ほれ、あっちの車」 「……ふむ。  あの者にはとかくの噂があるが……」 「あての母親なんじゃないかってアレ?」 「そなたの世話焼きぶりを見ると、あるいは真実かと思えるな」 「あてのおふくろがどーなって、〈いまどこに〉《・・・・・》〈いるか〉《・・・》、他の連中はともかくとしてあんたはちゃんと知ってるだろーに」 「ああ。戯れ口だ」 「あてが長庚局の面倒見るのは……  まぁ、あれだ、その」 「惚れた弱みとか、そんなもん」 「…………」 「どした?」 「……いずれそなたと四郎を娶わせることも考えの内に入れていたのだが……  ……しかし……まさか」 「そなた、妙な趣味ではあるまいな……?」 「……おい、六衛大将領。  大真面目な顔で何言ってる」 「あぁ、うむ。  ……済まん。今のは忘れよ」 「髭面親父に同性愛疑惑を掛けられたなんて、頼まれても記憶に残さんわ」 「あてはちんちんとかちゃんと好きだ!  見たことないけど!」 「叫ぶな!」 (……好きなのか……) (……見たことないのか……) 「ん?  なんか下郎どもの忠誠心が急に上がってる気配?」 (来た) (ええ……) (大将領は騎乗のまま乗り込んできたか。  神官が制止しているようだが……聞き入れられまい) (不敬な参拝もあったものね。  ところで……あの馬) (劒冑だな?) (間違いなく) (しかも格が高い……) (鎌倉初期……  いえ、平安朝まで遡るかも) (挑む時は覚悟した方が良さそうだ) (不足のない相手ではあるでしょうね) (……良し。行くぞ) (ええ) 「…………」 (もう少し倍率のいい双眼鏡を用意するべきだったな。  まあいい……大まかな様子はわかる) 「……」 (上宮の儀式が終わるようだ。  いよいよか……) 「……」 「!」 「…………」 (気のせい……か?) (今、人の気配が……) 「その方らが今年の介添か」 「はッ」 「…………」 「畏れながら殿下に申し上げます。  これより先の立ち入りは大将領殿下〈御一人〉《ごいちにん》のみ許される〈仕来〉《しきたり》でありますれば――」 「御供の方々は、こちらにてお待ち願いたく存じます」 「心得ておる。  例年の事だ」 「さ、〈案内〉《あない》せい」 「ははっ」  裏参道は螺旋を描き、下へ潜ってゆく。  道幅はさして広いとはいえず、高さも同様だった。  大将領とその騎馬、神官を装う俺と村正、動くものはこれだけであるのにやたらと〈姦〉《かしま》しいのは、この〈狭隘〉《きょうあい》な空間で足音が反響するためである。  もしもこの中で数十人からの人間が一斉に駆け回りでもしたなら、相当耳に悪いことになりそうだ。 「…………」 「……」  村正がさりげなく投げてくる視線を、頬に感じる。  待っているのだろう。  俺の決断を。 (強い)  六波羅総帥を初めて肉眼視しての感想は、ただその一言に尽きた。  この男は強いのだ。  肉体的に。精神的に。〈ありとあらゆる意味で〉《・・・・・・・・・・》。  太い背が強さの厚みを物語っている。  善性……  あるいは義性といったものは、見受けられない。  その強さは傲岸である。  おそらく、ごくごく単純な〈欲望〉《・・》に支えられているのだろう。  支配欲の権化か。  しかし、それをもって彼に大和の統治者たるの資格無しとは言えない。  清く正しく道義に生きる者が上に立てば国は治まる――と信じ込むほど俺も夢見がちではなかった。  理想のみあって力足らぬ王は、むしろ国を乱す。  東西の歴史を紐解けば、その種の前例は枚挙に暇がない。  足利護氏は力に満ち溢れている。  この背は大和全土全国民の命運も、重しとはしないだろう。  如何に彼が強欲極まる暴君であろうと――  その両腕の抱え込む大和が、〈結果的に〉《・・・・》守られるのであれば。  果たして彼は、統治者として是か、非か。 「…………」  六波羅体制下において、それ以前より、国民の負担が大きく増しているのは確かな事実だ。  反体制派に対する弾圧も、以前とは比較にならぬ程露骨であり厳格である。  が。  よって六波羅の統治は悪政だ――と決め付けるのは一概視が過ぎよう。  情勢というものも併せて評価せねばならない。  六年前、六波羅は途方もない裏切りを行い、国家を売り、大戦に幕を引いた。そして大和の政権を得た。  だがもし、六波羅が裏切らず、連盟軍と本土決戦を繰り広げていたら? 国土は焦土と化さなかったか?  六波羅幕府は手本のような軍国主義を敷いており、国民一人一人の権利は全く軽視されている。  だがこの軍国主義体制がなかったら? 大陸情勢の混迷が大和にも波及する可能性はなかったろうか?  世界的に見て調和の時代とは言い難いこの六年間を、六波羅は曲がりなりにも平穏に――少なくとも他国と交戦することだけはなく――乗り切っているのだ。  過去の体制で同じことができたかはわからない。  百年後の歴史家は、六波羅の統治を「最善の手法」として評価するのかもしれなかった。 (……そんな教科書を読みたくはないが……)  六波羅幕府の暴虐を目の当たりしている現代大和人の多くは、俺と感想を同じくするだろう。  しかし後世の視点に立てば、つまり客観視に徹すれば、そのような評価もきっと下せるのだ。  今、足利護氏を抹殺し。  六波羅体制に終止符を打つ――それが大和にとって破滅への一途でないとは、誰にも言い得ない。 (…………) (……どうする?)  斬るか。  斬らぬか。  足利護氏は、取り除くべき災いの種か。  銀星号と同列のものか。  通路は不意に終わり、広々とした空間が現れた。  奥には、地上のそれと良く似た祭殿。  下宮である。  ……ここまで来てしまった。  もはや決断せねばならない。 「神々は、〈地底界〉《ネノクニ》に住まう。  そんな神話もあるそうだ」 「――――?」  やおら、大将領が口を開いた。  独言ではないのなら、俺達に向けた言葉となろう。 「金色の神は地の底に眠り……  いつか招きの時が来たならば、我らの世へ現れると」 「蝦夷どもの信仰であったかな」 「…………」 「どう思う」 「……はっ?」 「地の底に神在りとする信仰よ。  かような祭殿がわざわざ地下に建てられてあるを見れば……荒唐無稽な伝承もあながち笑い捨てにしたものではないやもしれぬ」 「そう思わぬか」 「はっ。  御意にございます」 「ふっふふ……」 「……?」 「貴様はこの社の神官ではないか。  素人考えを諾々と〈容〉《い》れ、一言も申さずでは、立場に関わろう」 「……畏れ入ります」 「意見あらば、言うてみよ」 「…………では。  お許しを得まして」 「うむ」 「一説によりますれば、八幡神の原本は渡来の神であり……  従って、新しき国を求める人々の守護神という性格が存在するとか」 「ほう……」 「その八幡信仰が、かような形で表現された……とも考えられますかと」 「地下という異空間に造られた下宮は、八幡神がもたらす新世界を象徴するもの。  そういう事か」 「御意」 「流石に本職。  良く存じておるのう」 「御前にて浅学をひけらかし、汗顔の至りでございます」  こんな事もあろうかと、八幡宮に関連する一通りの知識を仕込んでおいた甲斐があった。  一夜漬け学習も馬鹿にならないものだ。  一瞬、肝の冷える場面であったが……  どうにか凌いだ、か? 「抜かったな」 「――――」 「口答えめいた真似をするべきではなかった。  本物の神官であれば、予がいかに水を向けようとただ縮こまるばかりで一言も無かっただろうよ」 「……ご無礼を――」 「それよりも致命的な失敗は、ここへ降りるまでの歩き方……  距離の取り方であろうな」 「神官如きが、予の〈斬り間〉《・・・》を把握して自然と外すなどという振舞いをいたす筈がないわ」 「!!」  ……しまった!  身に染み付いた癖が出ていたのか!?  何たる甘さか。  暗殺の是非に気を囚われて、そんな危険は考慮すらしなかった。 「舞殿宮の下にも貴様のような武人がいたか」 「……」 「刺客の任を受けたは忠義からか?  それとも褒賞に釣られたか?」 「……」 「今更だんまりを決め込んでも遅かろう。  何か囀ってみよ」 「……ならば。  六衛大将領殿下にお尋ねする」 「ほゥ?  刺客が、予に問いを投げるか」 「王将たる者には、相手が何人であろうとも答えねばならぬ問いが一つきりある」 「云うが良い」 「貴方は如何なる王者か」 「――――」 「この大和を如何にされる存念か。  〈国民〉《くにたみ》を如何にされる存念か」 「貴方は如何なる王なのか。  ……御答を賜りたい」 「ふっ、ふ」 「……」 「生憎であったな、刺客。  予はその問いに答を持たぬ」 「何と?」 「予は〈偏〉《ひとえ》に覇者」 「全てを奪い、征服し、従える……。  それが足利護氏よ」 「…………」 「では貴方は……〈統べる〉《・・・》だけが目的だというのか。  治めることに関心はないと?」 「皆無、とは云わぬが。  征服を進める手段よの……所詮」  逆転している。  この男は治政を行うために支配を望むのではない。  支配を完成する手段として政治を行うのだ……! 「ならば貴方の目的は既に達成されているということか」 「ふん……世迷言を云う。  予が満足している筈はなかろう」 「今の大和には、六波羅の旗を仰がぬ奴輩が白昼堂々と闊歩しておるではないか」 「……進駐軍?」 「奴らを駆逐せぬ限り、予の覇業は成らぬ」 「いずれ戦端を開くと……」 「いずれ、などと気の長いことは云わぬ。  すぐにもだ」 「これ以上、予の庭で白豚どもを肥え太らせておくものか。  海の向こうの畜舎へ送り返してくれる」 「勝算が立ちますまい」 「予は勝つ」 「……」 「六年前とは違う。あの時は如何にしようと勝つ目が無かった。  だから恭順の道を選んだ」 「しかし今の六波羅は昔日のそれではない。  今度は勝てる……国土は荒れ、民の半分は犠牲となるやもしれんが、必ず勝つ!」 「……馬鹿な」 「ふん……?」 「民の半分?  そこまでの犠牲を払っての勝利など、何の意味もない!」 「例え進駐軍を撤退せしめても、大和は自ら崩壊する……」 「で、あろうのぅ」 「……!?」 「構わぬ」 「何も残らぬ勝利をあえて欲する――と?」 「残るとも。  予が大和を制覇したという事実はな」 「…………」 「その後の事に興味は無い」 「大将領……  貴方は……それだけのために」 「さて。  下らぬ時を過ごしたな」 「冥途の土産を、ちと弾み過ぎたか。  まあ良いわ……ついでにもう一つ、栄誉をくれてやろう」 「〈鬚切〉《ヒゲキリ》!」 「!!」 「源氏の至宝を雑兵の血で汚すは心苦しいが。  予の首を狙った糞度胸に免じて、水も溜まらぬ刃味というものを味わわせてやるわ」 「帰命頂礼八幡大菩薩!  我、〈御器〉《みうつわ》と罷り成る!!」 「御堂!」  ……逃げ道はない。  俺個人にはともかく、舞殿宮には。  既にこちらの正体は割れているのだ。  大将領を生かして帰せば、親王は罪を問われ、無為の死を遂げるだろう。  最早これまで。  覚悟を決めるしかない!  足利護氏を……斬る!!    そして―――― 「その時は私を斬れ」 「いいな」 「――――村正ァッ!!」 「そちらは蝦夷の女であったか……。  うまく装束で隠していたな」 「しかし、姿を見せたところで何ができる?」 「決まってるでしょ」 「その大名物――  鬚切の劒冑と、太刀打するのよ」 「……」 「……」 「……ちょっと、御堂。  あちらはともかく、どうして貴方までなに言ってるんだこの女みたいな顔するの!」 「す、済まん。  お前のその格好を見ていると、未だにピンと来ないものが――」 「わけのわからないこと言ってないで。  さっ、〈装甲ノ構〉《カマエ》を!」 「な……何ィ!?」 「劒冑だと!?  貴様――――武者かッ!!」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り!」 「………………」 «なに?» 「いや……」  奇妙な安堵を得て、苦笑する。  装甲してみてわかった。    ……村正は別に何も変わっていない。  俺の劒冑だ。  見てくれに惑わされて悩む必要などなかったのだ。 「――行くぞ!」 «諒解!» 「むっ――」 「……ぬぅ!」  噛み合った初太刀と初太刀。  それは宙空に火花を散らし、互いの腕に撃衝を走らせた。  重い。  ……だが、ほぼ互角か。  こちらが喉奥で唸るのと同時、大将領も忌々しげな鼻息を洩らしていた。 「見掛け倒しではないようだな……」 「殿下にお褒め頂けるとは光栄の極み」 「若造が。  何処の産か知らんが、腕相応に眼も養っておけというのだ」 「さすれば舞殿宮如きの飼い犬で一生を棒に振ることもなかったろうよ」 「生憎、眼力を養っていれば尚のこと、貴方のもとで禄を食む道は選べなかったであろうと存ずる」 「抜かすわ!」  怒声を発し、踏み込んでくる敵騎。  その挙措、太刀取りは六波羅新陰流のそれ――但し自己流の〈崩れ〉《・・》が随所に見られる。  この将帥が戦に〈古〉《ふ》りている証であろう。  〈齢〉《よわい》六十に迫る筈だが、鈍さはまるで窺えない。  敵騎の鋭鋒を迎えるに、頼れるのは〈刀法〉《たちわざ》のみだった。  半球に近い形状の地下空間は、学校がひとつ収まるほどの広さと高さを備えるが、それでも武者が〈騎航術〉《はやがけ》の粋を競う場としては全く足りない。  壁面に激突する醜態を望まないなら、地面に足裏をつけて戦う一択である。 「ふッ……」 「!!」 「チ――」  〈曲技〉《くせわざ》を!  上段から斬り下ろすと見せかけて変化、手元へ引き込んだ太刀を一直線に突き出してきた。  俺の反応が後僅かにでも遅れていたら、喉仏を貫かれていただろう。  対手はやはり、相当に場慣れしている。 (……しかし)  良く〈体捌〉《たいさば》きが間に合ったものだと、俺は刹那、他人事のように感心した。  従来の己であれば避けられなかったろうと思う。  今日は動きが軽い。  甲鉄が〈肌に合う〉《・・・・》。  微妙な違和感さえも今はなく、本当に肉体と同一化してしまったように感じている。  正当の〈帯刀〉《たてわき》を行った成果か。  これが真の意味で武者になるという事か! «想像通り、敵の劒冑は大した物よ。  けれど、想像以上ってことはない» «〈村正〉《わたしたち》なら勝てる!» 「〈肯〉《うむ》!」 「端武者がッ!!」 「推参!!」  剣の軌道が交差し、刃金と刃金は弾き合う。    が――これは俺の想定の内! 「む!?」  弾かれた太刀をそのまま、頭上でぐるりと取り回し。  ……対称の形で再び襲う!  吉野御流合戦礼法、〈木霊〉《こだま》打ち。 「きッ……貴様ァ!!」  肩口に刀痕を深々と刻まれ、六波羅元帥が短く憤怒を叫ぶ。  首筋を狙って打ち込んだのだが……  咄嗟に身を捻って最も甲鉄が厚い箇所で受けるとは、流石。 «でもあの肩、もう一太刀加えれば破れる» 「……させてはくれまいがな」  太刀を取り直して呟く。  自分自身の油断を戒めるためでもあった。  敵騎は怒りに双眸を〈滾〉《たぎ》らせながら、しかしやや遠間になった距離を保っている。  戦闘方針を猛進から慎重へと大きく切り替えた様子だ。  勢い任せの〈猪突〉《チャージ》は最早するまい。  こちらも対応して意識を改めておかないと、思わぬ不覚を取る羽目になりそうである。  どう出るか。  見るに、対手は俺の出方を待つ構えだ――が、気質を思えばただ待ち続けということはなかろう。  待つ一方で、攻め手を探っているに違いない。  そして俺は俺で、手堅く地道な戦術に徹してばかりはいられない事情があった。  戦闘の長期化は危険なのだ。  いつまでも大将領が戻らなければ、地上で待機する幕府の士卒は異常事態の発生を悟る。  武者を一隊、送り込んでくるだろう。  そうなっては俺の命運も窮まる。 「……っ」  胸の震えを、呼気にして押し出した。  焦ってはならない……。  相手は練達の武者だ。  一度の不覚が文字通り命取りになる。  まずは、誘いの術を掛けてみるか。  それで釣れれば良し、釣れなくとも―― «え!?»  心臓が一回、鼓動を飛ばした。  前触れもなしの轟音。  合当理だ。  敵騎が――合当理に火を入れている。 (真逆)  ……〈騎航する〉《とぶ》つもりか!?  この限られた空間で! 「思い出してきたわ……」 「……?」 「〈戦場〉《いくさば》の風。  噎せ返るような屍臭」 「反吐を催す――――あの匂い」  ――――飛び立った、 (無茶を)  焦りに負けたのか。  これは、どう計っても自殺行為……  敵騎の姿が消えるのと、ほとんど同瞬に襲ってきた一刀を危うく打ち返す。  正確に首根を狙っていたその太刀筋に、皮膚が総毛立った。  しかし、この先は――  敵騎は壁に突入して、己の墓穴を掘るしかない筈、 「何だとォ!?」  有り得ぬ光景が顕現した。  猛スピードで壁に突き進んだ敵騎が、刹那、騎体を反転させ。  〈対面効果〉《グランド・エフェクト》も利用し、勢力を絶妙に殺す……  そして両脚で壁を蹴り。  再び、俺目掛けて襲い来る!! «冗談でしょぉっ!?»  完全に意表を突かれては、躱しきるのも無理だった。  胸甲に刃先を浴びる。  寸前で上体を反らし、〈浅傷〉《あさで》に留めるのが精々の限度。  反撃などしている暇はなかった。  ……夢だと思いたいところだが、夢ではない。  異常も異常、無道法外の騎体運動を、敵は実現している! 「〈縦回転〉《クルビット》ができるような騎体かっ!?」 「貴様が〈洟〉《はな》を垂らしていた頃の、大陸の戦で……石窟寺院に立て篭もって敵の軍勢を迎え撃ったことがあった」 「これはその折に編み出した〈技術〉《わざ》よ。  若造がッ、どう背伸びしても届くまい!」 「あ、あの大将軍……  実は〈〝赤い悪魔〟戦団〉《リヒトホーフェン・サーカス》の出身ではなかろうな」 «余裕っぽいこと言ってる場合かな»  全く違う。  片や騎航、片や徒行では、速力に差がつき過ぎる。  後者唯一の利点であり、本来ならこの空間において大きく意味をなす筈の〈小回り〉《アジリティ》は、敵手の常軌を逸した曲芸技でほぼ無効化されてしまった。  このままでは何もできずに斬り刻まれる。  これで三度。  ……どうにか決定打は避けているが、運にせよ技量にせよいつまでも続くまい。  敵騎の運動が速過ぎ、奇想天外過ぎて、対応の手が完全に遅れてしまう。  反撃、迎撃が実行できないのだ。  一方的に攻め立てられるばかりでは、つまり敗北が時間の問題である。 (どう……する?)  無理矢理にでも手を出すか?  しかし、それが致命的な隙を生めばそこまでとなる勝負。  ならこちらも騎航して――それこそ最悪の下策だ。  俺にあんな芸当はできない。今日が初騎航の騎士のように〈蝶々泳ぎ〉《バタフライ・ネイル》をするのが関の山。  宙に浮く分、今より状況が悪化する。  敵騎は墜落を避けるため、攻撃の際は必ず水平騎航で来るが、俺が地面から離れればその制約も必要なくなるからだ。  どちらの選択も分が悪過ぎる。  だが――しかし……。 «……御堂!» 「村正?」 「往生際の良からぬ奴。  潔く首を差し出せば、綺麗に刎ねてやろうものを!」 「……」 「寸刻みの方が好みなら、そうしてくれるわ」 「――――」 (何?) (生身――  劒冑を捨てた?) (馬鹿な。  何を企む) (どうする) (一度〈騎航〉《あし》を止めるか) (――いや) (それが狙いか!) (奇策でこちらを地上に戻し、勝負を仕切り直そうと) (乗るかッ!!) 「そんな浅知恵に――」 「乗ったな。大将領」 「!?」 「な――――ッ」 «〈蜘蛛の巣〉《・・・・》へようこそ。  ……一瞬の躊躇さえ無ければ、貴方の勝ちだったのにね!»  〈村正〉《くも》の糸に、甲鉄を切り裂くまでの強度はない。  しかし絡め取った敵騎の母衣に損傷を与え、地表へ引き〈摺〉《ず》り落とすには充分であった。  最高速力で疾駆していたわけではない。被害程度も再起不能には遠いだろうが、性能を大きく失った状態にあることは確実。  村正発案の一策は成功した。  この機を捉える。  再び装甲。  驚くべき〈強靭さ〉《タフネス》で早くも立ち上がろうとしている敵に向かい、跳躍する。 「御免!」 「ぬぅ!!」  手応え――は、土!  地面に身を投げ出して、対手は太刀先を躱していた。  百万軍の大将にあるまじき姿と嗤うより、ただただその執念に戦慄する。  一撃は必殺だった――しかし足利護氏の生存と勝利への渇望が殺意を上回った。そうとしか思われない。  何たる男か。  怯えに近いものさえ感じつつ、足は止めない。  転がって逃げる敵騎を追い、その立ち上がる出端に一刀を加える。  再び、縦――と見せて横へ〈薙〉《な》ぐ。 「くッ!!」  胸甲を割り裂く刃先。  細かい金属粒が無数、〈仄〉《ほの》かに〈煌〉《きらめ》いて虚空を彩る。  だが……浅い!  敵騎は咄嗟に飛び下がっていた。  避け切れぬと悟った瞬間、利き足で地面を蹴って。  ……どこまでも!  距離が空く。  敵騎が太刀を構え直す。 (取り逃がしたか)  仕留めの機は失われた。  深入りは既に危険――〈逆撃〉《カウンター》で報いられる。  決着をつけてしまいたかったが、仕方ない。 «大丈夫。風向きは変わってる。  こっちの追い風よ» 「つんのめって転ぶのだけ気をつけておけということだな」  こちらとて手傷は負っているが、今は敵騎の損害の方が激しい。  油断さえしなければ、力で押し込んでいける。  前方、左右に足を進め、打ち込む間合を計る。  しかし敵も〈然〉《さ》る者、いちいち巧妙に間を外す。  戦闘経験では先方に分が有るせいか、埒が明かない。 「…………」 「…………」  ここまで来て、〈時間切れ〉《タイムアウト》――敵側の来援という結末は願い下げだった。  一撃受けるのを覚悟して、一気に攻め出るべきか。数秒、脳裏で考えを弄ぶ。  ……計算上、俺にとって悪い勝負とは言えない。  が、 (村正。  あの劒冑の〈底〉《・》をどの程度と見積もる?) «私とほぼ互角の甲鉄。反則物の〈機動性〉《あしまわり》。  ……これでおしまい、って考えるのは虫が良過ぎるんじゃないかしら» (まだ、有るか) «鬚切といえば、神代とまでは言わないにしても上古の作……誰がどんな技術で鍛えたのかも知られていない古代遺産よ。  何が飛び出してくるやら» «最低限、陰義のことは考えておくべきね。  知りたかったのはそこでしょう?» (ああ)  〈陰義〉《アウトロウ》。  武者戦の計算外要素……計算を根底から覆し得る力。  追い込まれた敵騎が〈恃〉《たの》むとすれば、まずこれだろう。  おそらく今は、実行の機を窺っているのだ。  勝負を決めようと踏み込んだ途端、待ち構えていたそれに迎え撃たれる可能性もある。 «いっそこちらから仕掛ける?»  村正が言うのは、同様の手段で先手を打て、ということだ。  ――こちらが先に、陰義で仕掛ける。  しかし相手の手の内によっては、それこそが悪手となる恐れもある。  水と火ではないが、陰義によって陰義を封ずるなどという形にはまってしまえば最期だ。  敵の手を読めれば良いのだが……    鬚切か。  いつからか、源氏の長たるを証す宝として重んじられてきた名劒冑。  盗賊退治に鬼退治、あるいは獣のように吠えたなど、様々な逸話を持つ。  それらを慎重に考察すれば、陰義の正体に当たりをつけることも不可能ではないのだろう。  が、俺の脳内の限られた知識を今の限られた時間で検討してみても、思い当たる何かは無かった。  刃味の鋭さが特筆されているのは確かなのだが……  どの劒冑の伝説も同じだと言ってしまえばそれまでである。  互いに摺り足で位置を移す。  しかし、距離は全く〈狭〉《せば》まらない。  焦りは禁物だが……  いつまでも猶予を置くべきではなかった。 (良し)  決意する。 「!」  こちらが抜刀の構に移行したのを見て、敵の注意が鋭さを増す。  剣呑なものを感じ取ったに違いない。  ――仕掛ける。  但し、半端は抜きで。  対手の掌中が読めないなら、様子見の一手とゆくのが常道だろうが……むしろ今、それは危険と判断した。  全力死力の一刀で臨む。  村正、〈蒐窮〉《おわり》の太刀――〈電磁抜刀〉《レールガン》。  生半可な術策など打ち砕ける。  この一刀ならば勝負を託せる。 「……」 「……」  調息し、時を計る。  闇雲な進出は応じ技の餌食。仕掛けるならば相手の出端か、逆に居付いて死に体となった瞬間か。  必ずどちらかの〈機会〉《チャンス》は来る。  どちらだ―――― 「……ッ!」  合当理!?  ――また、だと? «あれをもう一度やる気なの!?» (無理だ!)  敵騎の〈翼甲〉《つばさ》は傷つき、ほぼ死んでいる。  合当理が健在でも飛べる筈がない。  何を考えて!? 「しゃッッ!!」 「……なっ」  背を向け――             逃げる? 「ぐ」 «あ――――っ!?» 「愚劣!!」  〈自分に〉《・・・》叫んで、俺は跳んだ。 「青いわ、小僧!  戦場に囚われ、戦局を見なかったのう!」  嘲笑が耳を打つ。  俺は吐息一つも返せなかった。 (いつの間に――)  いつの間に。  いつの間に。  〈敵騎は出口を背負っていたのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》!?  鬚切が裏参道へ飛び込む。  わずか、しかし確実に遅れて、俺が続く。  逃げ道は封じていた――最初の段階では。  敵の曲芸戦術を封じ、追い詰めに掛かった時点でも、唯一の出入口は俺の背後にあった筈だった。  それが――いつ!    ……あの間合の取り合いの最中か!?  いかにも最後の反撃を企てているように見せかけながら、その実、退路の確保に動いていたのか!! (戦局……!)  その通りだった。  戦闘に没頭し、俺はそれを失念していた。  相手を迅速に仕留める必要があったのは俺だけ。  敵はこの地下空間から生きて逃れさえすれば、勝利条件を満たせるのだ!  それを忘れるとは。  いや……むしろ忘れなかった大将領が凄まじいのか。  名も知れぬ者に襲われ、命を危うくしている状況で、かくも冷静さを保つとは。  これが青二才と古強者の差か。 «……地上に出るっ!»  歯軋りするかのような、村正の〈金打声〉《こえ》。  間に合わない。  足利護氏を外に出してしまう。  地上では精鋭武者の一団が主君を出迎える。  その守りを破って討つのは……不可能。  そうなればどうなる。  俺の事はいい。  だが、親王は!?  ――〈養父〉《ちち》は!? 「く……おおっ!!」 「な」 「何だ……これは……」 「――――」  〈屍〉《シ》が溢れていた。  兵士。  武者。  侍臣。  神官。  地上にいた幕府の人々。八幡宮の人々が。  分け隔てなく、この上もなく平等に、死という同一の運命を享受して在る。  生命、存在せず。  静かになだらかに、平穏な世界が現出していた。  ここは氷原だ。  極北の荒野だ。  始まりと終わりが共存する。  不動不変の〈三次元〉《とじたせかい》。 «……御堂»  乾き切った声で、劒冑が俺に注意を促した。  視界のほぼ中央。  ――貴人を運ぶ〈牛車〉《ぎっしゃ》が、鎮座している。  滑稽なほど場違いな代物。  それを示して、村正が〈何を告げたい〉《・・・・・・》のか、既に痛いほど悟っていた。  この光景を見たその刹那に、もうわかっていたのだ。 「……」  〈簀垂〉《すだれ》が揺れる。  最初に、白い指先が――  続いて艶やかなる容姿が。    その奥から現れた。 「そなたは……長庚局」 「ここで何をしている。何があった。  ……そなたの主人はどうした!?」 「若宮堂の舞の袖。  〈静〉《しず》の〈苧環〉《おだまき》繰り返し」 「返せし人を偲びつつ。  ……と」 「すっかり〈闘戦〉《まい》も果ててからやって来るとは、無粋の謗りを免れまいぞ。  こちらとしても甲斐がない」 「せっかく、よき〈兵〉《もの》を相手に心楽しく舞えたというのに。  しかし……元より芸とは一輪の花、人目に触れず儚く散るも定めの内というものか」 「うむ。花は惜しまず、また咲かせば良い。  今度はおまえを〈対手〉《とも》として、前にもまさる華やかな舞を演じてくれよう」 「嫌とは言うまいな……景明!」  大将領には目もくれず。  その〈顔貌〉《かんばせ》は真っ直ぐ、俺に向けられた。  光。  ……二年ぶりになる。  生身の姿を、こんなにも近く見るのは。  その時間、その年頃を思えば意外なほど、光の姿形は記憶の中のそれと違いが少なかった。  俺に一種の失調感を覚えさせるほどであった。  何故こんなにも変わりがないのか。  何故こんなにも昔日のままなのか。  光の〈運命〉《ほし》は、凄烈なまでの変貌を遂げているというのに! 「ひか――」 「応えぬかッ!」  俺の小声は、別方向の怒声にかき消された。  ん?という顔で光がそちらへ視線を向ける。  黙殺された格好の大将領であった。 「何か。  急ぎの用件でないなら、家族の対話に割り込まないで頂きたい」 「……き、  貴様はこの状況が見えておらんのか!?」  俺の言葉を遮られたことが不興らしい光と、困惑を激昂に繋げつつある六波羅元帥。  両者の世界は悲しいほど隔絶していた。  断崖絶壁の上と下。    だが――上の光には護氏とそれを取り巻くすべてが見えるが、下の護氏には漠たる空しか見えないのだ。  大将領は〈いま必要なこと〉《・・・・・・・》を理解していない。 「長庚とやら!  この有様の中にいて、何も見ておらぬことはあるまい」 「予の問いに答えよ!  これはいかなる仕儀か!?」 「長庚というのはな、世を忍ぶ仮の名だ。  夕暮れの星という意味らしい。人に付けて貰ったものだが、まぁまぁ気に入っている」  まず俺の方を見て、光は懇切にそう解説した。  それから大将領へ向き直る。 「おれがやった」 「何をだ!?」 「むぅ。  会話になっているようでなっていない」  何故かわざわざこちらに向かって光は呟いた。 「この者らを斬ったのは誰か、問うたのではないのか?  それがおれだと言っている」 「……正気か? 貴様」 「やにわにその言い草は失敬であろう」 「……当然の言葉だ」  彼は知らないのだから。  まだ気付いていないのだから。 「おまえに言われると傷つく……」 「予を愚弄する気かッ!」 「困った。難儀な男だ」 «どちらかと言うなら、向こうが正しい気もするのだが» 「なぜだ?」 「貴様がやった、だと……?  夢物語も大概にしろ。貴様の何処にそんな力があると抜かすか!」 「それは無論――」 「…………。  さっきから、おれ一人だけ口が忙しいぞ」 «人の相手をいちいち、〈まめ〉《・・》にするからだ。  些事は適当にいなしておけ» 「むぅ。しかし無礼は好かん。  するのもされるのも」 「貴様、長庚――」 「……仕方もないな」 「先に〈そっち〉《・・・》から済ませることにしよう。  六衛大将領、足利護氏卿」 「なにィ……?」 「おまえに会いに来た用向はほかでもない。  この光が、覇を問うためだ!」  ゆるりと伸ばされる腕。  微笑む口元。  紡がれる誓句。 「鬼に逢うては鬼を斬る」 「仏に逢うては仏を斬る」 「……白銀の劒冑……?」 「貴様――よもや、」 「ツルギの理」 「ここに在り!!」 「――銀星号、だと!?」 「貴様があの殺戮魔……?  では」 「……では、  貴様を擁していたのは、」 「大将領!  そこらへんの細かいことは後に回せ!」 「おまえは今、己の〈基〉《もとい》を光に問われている」 「何……?」 「足利護氏。  天下に武を布かんとする者。光と同じ道を求める者」 「覇道の先達に対し、おれは礼節を示そう。  その影を拝して教えを乞おう」 「覇とは如何に!」 「――――」 「答えられぬ道理は無かろう」 「……はっ。  予とあろう者が、日に二度も下民に〈大道〉《みち》を問われるとはな!」 「覇を知りたいか、銀色の〈化物〉《ケモノ》!」 「うむ!」 「ならば知れ!  ……奪い取ることだ!!」 「光!?」 「予は天下が欲しい。  だから、奪うのよ」 「このようにしてな!  貴様の首など要らぬが、予の道に立ち塞がるのであれば刈り取るほかにあるまいて」 «…………» 「鬚切の秘太刀は獲物の滓も残さぬ」 「幽鬼よろしく闇夜に潜んで血を啜っている分には見逃してもくれようが……  予の前にぬけぬけと姿を見せるとは、増上慢にも程があろうぞ! 戯けめ!!」         「なるほど。そうか」 「……ッ!?」    「覇とは、即ち強奪。   異論の余地は欠片もない。至当である」        「この光も全く賛同する!」 「――――」    「おまえはひたすらに大和が欲しいのだな。   自分自身の存在に懸けて求めるか!」     「そこまで、この国を欲してやまぬと」 「……ふん。  別に大和でなくとも構わぬ」          「……?」 「たまたま大和に生まれたから、大和に覇を唱えるだけの話よ。  別の国でも構いはせなんだ」 「予の覇業を打ち立てられる場でさえあれば――」          「ちょっと待て」 「……何処に隠れた……?  姿を見せよ、凶賊!!」   「それでは、愛が無いだろうがッッ!!」 「おォッ!?」 「なっ……くぅ!!」 「おのれ……がっかりさせてくれおって!  真面目に聞いていたこっちが馬鹿を見たではないか!」 「おまえの騙る覇は覇にあらず!」 「む……無傷だと!?  馬鹿なッ!」 「貴様、何者――」 「人の話はちゃんと聞け!!」 「ごはァ!?」 「覇とは強奪。  そこまでは正しい」 「だが、奪うとは何だ?  ――欲し、求めるから奪うのであろう!」 「求めるとは?  ――愛しているから求めるのだ!」 「愛し、欲し、奪う!  それが覇道!!」 「足利護氏!  おまえは最初の一歩から間違っている!!」 「がふッ……!?」 「最初に愛が無ければ欲ではなく覇でもない!  虚栄に過ぎん!」 「おまえはッ!  単に!『天下を取る、かっこいい俺様』に陶酔したいだけではないかぁ!!」  鬚切は――  大将領足利護氏は、そうして〈何処かへ飛んでいった〉《・・・・・・・・・・》。 「………………」 «………………» 「ふんっ。  下らぬ手間を費やした」  不機嫌に吐き捨てる銀星号。  両腕を組み、さも忌々しげな様子だ。  意に染まぬ問答をした――その程度の余韻しか窺えない。  〈戦い〉《・・》の名残りを示すものなど、まるで無かった。  実力の程は先刻思い知らされている、鬚切――上代の大名物と練達の仕手から成る強剛の武者を打倒しておきながら。  息一つ乱れていない。  銀星号。  この魔物、  この〈銀星号〉《ひかる》を、俺は倒さねば。    ……凍り固まる脳漿で、最低限の状況判断をする。  しかし、勝てるのか。  余りにも桁が違い過ぎるこの怪物に、勝てるか。  俺の力で―― «……御堂» 「――――」  ふと、寄り添うような温もりを肌に覚えた。  不思議に頼もしい感触。  俺は独りではない。  ……そうだ。そうだった。  やれる。  俺は――俺達は戦える! 「光!」 「つまらん事で待たせてしまったな」 「劒冑共々、今日は調子が良いと見える。  何よりのことだ」 「さぁ、愉しもう景明!  奪い合い求め合い、互いを味わい尽くすとしよう!」  先程の憂さなどはや忘れた様子で、嬉々と云う光。  闘争を睦み合いのように語って求めるその姿は――既に遠い。  余りに遠い。 「お前は……何が望みだ?」 「……む。  今度はおまえが光に覇を問うか」 「良かろう!」 「……」 「天の下に、あまねく武の法を布く。  ……天下布武!」 「武の……法?」 「争う、と云う事。  殺す、と云う事」 「ただそれきりの法だ」 「それは」  違う。  統様が――養母が教えた道は、 「今更寝惚けたことは言うまいな、景明?  いい加減、お前も〈村正を理解した〉《・・・・・・・》はずだぞ」 「……!」 「……わかっている、か。  良し、それでこそだ」 「ならば話もしやすい。  光はこの武をもって世を照らす」 「人が人のまま、ささやかにまとまって身を寄せ合う時代はここで〈ぶった切る〉《・・・・・》。  誰もが欲するままに生き、戦い、殺す――そんな時代を導こう!」 「――時代?」 「時代など来ない。  それでは滅びがあるだけだ」  人間の。世界の。  意味もない終わりが。 「そうだ!」 「っ……!?」 「人が滅び去り……  最後に勝ち残ったものは〈天〉《かみ》と名乗る資格を得る!」 「ここに光の覇道がある」 「馬鹿な!」 「む。どこかおかしかったか?  ……いや、そんなことはないはずだ」 「論理的に考えて、神と称し得る方法はこれしかない!  〈人類全員と戦って勝つ〉《・・・・・・・・・・》!!」 「――――」 「そのためには、まず全人類を戦いの舞台へ上げねばならないが……  村正の〈汚染波〉《うた》で光の〈心格〉《こころ》を人々に移し与えられるのはもっけの幸いであった」 「刃を見れば逃げ惑うばかりの脆弱な人々を追い立てて背後から斬るなど、卑怯卑劣。  欲するまま戦う猛き獣と成さしめ、対等に争ってこそ、勝利が意味を持つ」 「おれは〈公正〉《・・》な闘争のはて頂点に立とう。  そうして神に至れば――光の〈目的〉《ゆめ》も叶う」 「……目的?」  その先に、まだ何かあるのか……? 「それは、さっきも言ったろう?  こういう言葉は幾度も口にせぬものだ」 「…………」 「……愛……?」 「胸に炎あればこそ……  肉体は鍛えられ、戦う〈鋼鉄〉《はがね》となる」 「殺し合わせることが……人間というものに対するお前の愛情だとでも言うのか」 「まさか。  ……いや、そうであれば良かったのだろうが」 「惜しむらく、光の心は人間すべてを愛せるほど雄大ではなかった。  この想いは、ただ〈一個人〉《・・・》へ向けられるものに過ぎない」 「…………。  景明、乙女にこんな話をさせるな。いくら家族のおまえでも、胸の内まで入られては、こう……むずがゆいものがある」 「……」  ――駄目だ。  理解できない。  何もかも繋がらない。  俺の意識野で光の人物像が線を結ばない。  〈夢幻〉《ゆめまぼろし》と会話をしているかのようだ。 「狂っている……」 「そんなことはないぞ」 「狂っている!  壊れている!」 「お前は……二年前……  山賊団と町の人々を諸共に殺し尽くしてしまった時に、狂った!」  ――村正の戒律に縛られて。 「俺の妹は……  光は、あの時に死んだのだ」 「お前は一匹の魔物に過ぎない。  ……斬る……」 「…………」 「狂ってはいない」 「聞かぬ」 「いや聞け。  光は〈最初から〉《・・・・》すべて知っていた」 「村正が如何なる劒冑であるか」 「……ッ!?」 «…………» 「承知の上で、我が物としたのだ」 「そしておまえにも与えた……」 「おまえの手で、母上を殺させるために!」 「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 「ふフ」 「……何と……」 「何と言った、光ッッ!!」 「……く……」 「愚弄……しおって……!」 「このままでは済まさぬ……  痴れ者どもが……すぐにも、普陀楽の兵を呼び……切り刻んでくれる……!」 「おのれ……!」 「まぁまぁおじじ。そんな下向いてうじうじやってないでさー。  ちょっと顔を空に向けてみ? 滅多に見られないもん拝めるから」 「……茶々丸!!」 「村正〈対〉《バーサス》村正、夢の頂上決戦。  もう始まってるよー」 「うーん、やっぱ〈御姫〉《おひめ》の優勢は固いか……。  けど御姫もわざわざ地雷踏んでるからな。ひょっとすると番狂わせもある……か?」 「貴様……  やはり、貴様が……」 「ん?」 「貴様が銀星号の飼い主だったのか!」 「そりゃ違うけど。  身柄を預かってたって意味なら、ま、そーかな?」 「何故だッ!?  何故、貴様が予に弓引く!」 「何の不服があった!?」 「んにゃ別にィ。  おじじも六波羅もあては好きだよ?」 「ならば、これは如何なる仕儀か!」 「あのような怪物を操り、予の首を狙うとは……。  親殺しの重罪人に過ぎぬ貴様を引き立ててやったのが誰か、忘れたとは言うまいな!」 「その節はお世話になりまして。  いやほんと、恩に着てるんだけどね」 「ぬけぬけと言いおる……  だが、貴様が何を企むにしろ、そううまくゆくか」 「童心坊にせよ、獅子吼にせよ、容易く貴様の風下につく者どもではないぞ!」 「あんたの〈雷蝶〉《ムスコ》も入れてやれよ。一応。  ……まっ、それはおじじの言う通りだ」 「おじじが今ここで死んでも、あてには何のメリットもないやね。  つーか面倒な手間が増えるだけなんだよな……」 「……何だと?  ならば貴様、なぜ予を狙う!」 「あてはなんもしてないっしょ。  やったのは御姫だよ」 「姫?」 「〈銀星号〉《ギンセーゴー》」 「…………。  では……貴様はどうする気なのだ」 「この期に及んで、予に手出しするつもりはないと言うのか」 「…………あー。うん。  そうもいかんかな、やっぱし」 「ここまでやっちまった以上はね。  きちんと片付けとかないと、全部御破算になっちまう」 「……」 「御姫も世話を焼かせてくれるよ」 「……どういう事だ。  貴様の方があの魔物に従っていると、そう聞こえるぞ」 「確かな耳してんね」 「巫山戯るでない!  貴様は竜軍中将、堀越公方たる身であろうが!」 「万騎を指揮する貴様がどうして、あのような愚かしい賊に従う!?」 「……愚か、かぁ。  うん。愚かだよな」 「〈恋心〉《・・》ひとつで、世界を敵に回すか普通。  乙女にもほどがあるだろ」 「……?」 「でも、そんなんだから惚れちゃった。  何もしない賢者よりなんかするバカの方が好きなんだ、あて」 「しかも御姫はバカの桁が違うしね。  バカの一念で江ノ島蹴り飛ばすってレベルのバカ。人類史上前例がありません」 「ぞっこん惚れずにいられるかってーの。  それに何より、御姫があのまま突き進んでくれると、あての願いも叶いそうだ」 「願い……?」 「神だよ」 「神に現れて欲しいんだ。あては」 「…………。  よもや貴様が、そんな妄念に取り憑かれていたとはな」 「あのな。あてには切実な問題なんですよ?  いつもいつも耳元で喧しいし、〈神の野郎〉《・・・・》」 「もう良い。  全ては予の不覚とわかった……」 「貴様のような蒙昧を買っていたのが誤りであった。  足利一族の血を半分受けても、残り半分に卑しき蝦夷の血が混ざればこうなるのだな!」 「――――」 「配下も連れず、丸腰で現れおって。  予を手負いと侮ったか」 「馬鹿め!  貴様一人の始末に手間など掛けぬわ!」 「……はてさて。おかしいな。  あんたは〈知ってる〉《・・・・》と見込んでたんだけど」 「買いかぶりだったんかね。  そんな台詞が出てくるようじゃ、あての事、何にも知らんてことだよな……?」 「それとも、知りはしたけど信じなかった?」 「何が言いたい」 「あては〈半人半蝦夷〉《ハーフドワーフ》じゃないよ、おじじ」 「ふん……。  今更、薄汚れた出生を隠してどうする?」 「あらま。  こりゃ、だめだ」 「死ねィ!!」 「――――なァッ!?」 「あばよ、おじじ」 「……あんたさ。  あての実の父親に比べたら、よっぽど親父らしくしてくれたよ」 「がッ……はァ……」 「盛者必衰の理、ってか。  おじじも例外にはなれんかったね……」 「……はッ。  我が運命……呪ったは、我が言葉かよ!!」 「…………」 「……お?  〈上空〉《あっち》もちょうど幕間かな」 «やっ――――た!?» 「…………!」  手応えはあった。  銀星号の必勝手、〈垂直降下からの蹴撃〉《フォーリンダウン・レイディバグ》――  これに肉体を射出する〈電磁抜刀〉《レールガン》で応じ、遂に〈勝〉《まさ》った。  薄紙一枚の差。  だが確かに、俺が一撃を打ち込んだ。  これまで一度たりと届かなかった銀影に。  重力波の余震が散り、空に平穏が戻ってくる。  見渡す範囲に敵影は無い。  銀星号の姿は何処にも無い。  …………終わった、      のか。  俺は、とうとう、    やった、  やって、しまったのか?  やっては、ならない、ことを――――         光を頼むよ、景明。       あの、約束……忘れないで。 「……っ……」 «御堂、上ぇっ!!»  ――――――な、    何?  攻撃?  何処から?    ……誰が? 「見事」 「見事……!  魅せてくれたな、景明!!」 「おまえがここまで達しているとは、よもや思わなかった……。  おれの非礼な見識を詫びる!」  健在。  健在、だ。  死力の剣だった。渾身の〈術技〉《わざ》だった。    それでも――ここまで。全く、 「無駄、なのか!?」 「何を云う。  無駄どころか、〈快い〉《・・》一撃であった」 「見よ」  銀星号が己の胸を指す。  甲鉄の表面に、一筋だけ――浅い亀裂が生じていた。  ……馬鹿な。  あの手応えで、たかだかこの程度の損傷!? 「初めてだ……!  光の〈辰気障壁〉《たて》が破られ、〈甲鉄〉《はだ》に傷を負わされたのは!」 「この感覚――」 「疼く!  〈騒〉《ざわ》めく!  震えが走る!」 「あぁ……これが〈創痕〉《きず》か!  これが戦いか」 「これが交わりというものかッ!!」  喜悦を叫ぶ銀星号。  小さな傷に……有るか無きかの裂傷に、慈しむ仕草で手を押し当てて。 «た、た、〈辰気障壁〉《たて》って……  そんなの張ったまま戦ってたって言うの!?これまでずっと!» 「…………」  村正の悲鳴は、俺の心境を丸々代弁していた。  光の言う〈辰気障壁〉《たて》とは、〈村正〉《おれたち》の用いる磁気障壁――負極の磁装と同等のものだろう。  それが使えること自体は、何ら驚くに値しない。  しかし。  常に障壁を張り巡らせながら戦っていた、となると――  村正の磁気障壁は多大な熱量を必要とする。  従って障壁の展開中は、騎航その他の機能に割ける余力が極めて少なくなる。  ために通常、磁気障壁は敵騎の攻撃を浴びる一瞬を見切ってその間のみ展開することになる。  もしもこれを常時張れば、敵手がどう不意を打ってきても対応できる代わり、騎体性能が激減する。  総じて戦闘能力は低下する――どころではなく騎航すらまともに行えなくなるだろう。  〈つまり〉《・・・》。 「銀星号はこれまで……  性能をろくろく発揮していなかったということか……?」 «冗談きっつい»  〈惚〉《とぼ》けたような〈金打声〉《こえ》の中に、決壊寸前の絶望を感じ取ったのは、俺の感性の錯覚ではないだろう。  悪夢だ。  悪夢にも程がある……!! 「ようやくここまで来てくれたな景明。  光の立つ処へ!」 「おまえ相手に、〈辰気障壁〉《こんなもの》はもはや無粋。  これよりは素肌にて迎えよう!」  辰気の壁を――解いた!? 「正真正銘の〈銀星号〉《ムラマサ・ヒカル》!  つまらん出し惜しみはもう無しだ!」 「味わえ!  楽しめ!  ゆくぞ、景明!!」 「く――ッ!?」  ……心を折るな!  戦う前に負けるなど、武人の端くれにも有るまじき恥。  銀星号は防壁を捨てた!  いま一撃を加えれば、今度こそ墜とせる!  一度やり遂げた事だ。  もう一度やれない道理はない 「…………」 「――あ――?」  〈飛んでいる〉《・・・・・》。  まるで吹き飛ばされたかのように、宙を泳いでいる。  ……何故だ?  俺は攻撃など――受けては―― 「……」  何だ、これは。  何が起きている?  何故、俺は跳ね飛ばされている?  何 「…………」  何だというのだ。  何だ――――これは? «こ……こんな。  こんなの» 「村正……」 「俺達は、攻撃されている……のか?」 «…………»  何処だ。  銀星号は、何処に、 「――――」  銀星号は居た。    〈静止して居た〉《・・・・・・》。  ……飛行体は、移動し続けなければ落下する。  そんな掟が、空の世界にはあった筈である。  この掟を越えられるのは一部の昆虫と鳥類、そして高度な性能を備えた飛行艦のみ。  それらにしても多大な〈労力〉《コスト》を支払い、ごく短時間に限って可能とするのだ。  こんな――事も無げに。  そこにガラス張りの床があるのだと言わんばかりに。    悠然と〈立つ〉《・・》、など。 「ふ」  俺の凝視を感じ取ってか、銀色の不条理が微笑の波を向けてくる。  と思うと。  伸びやかに片腕を差し上げ――  〈舞踏劇〉《バレエ》『くるみ割り人形』  第二幕『チョコレートの精』    ……帝劇舞踏団、興隆三三年北陸公演版。  不世出の傑作と斯界に名高いその一場面を。  〈本物〉《オリジナル》と見紛う躍動感で、鮮麗に踊って見せた。  虚空の舞台を踏みしめて。 「……は……」  ここが〈夢の中〉《おかしのくに》だというのなら、さっさと現実へ戻してもらいたかった。 「これぞ真の〈引辰制御〉《グラビトンコントロール》」 「真の〈飛行〉《・・》というものだ。  騎航とは少々、わけが違うぞ」 「……」  武者の騎航は、欧州言語圏において一般にネイルと呼称される。  その語源はラテン語の〝〈泳ぐ〉《ナーレ》〟だ。  ……確かに、銀星号のそれはもはや〈騎航〉《ネイル》と呼ぶには相応しくないだろう。  少々どころではなく。 「この舞の相手ができるか――景明!」  何も見えない。  何も理解できない。  ……そんな話があるか。  かつても、銀星号の攻撃速度は俺にとってまさしく圧倒的であった。  しかし、反応はできなくとも、攻撃の瞬間に〈それ〉《・・》と察するくらいの事は可能だったのだ。  攻撃された事を、理解はできた。    ……それが今はできない。  いつ、何処から、どう打たれたのか。  〈後で〉《・・》振り返ってみても全くわからないのだ。  ――――――――そんな事がッッ!! 「……」  ――同じ場所に立った。  光は先刻、そんな事を俺に言ったと思う。  大嘘だ。  全く、同じ所になどいない。  〈世界が違う〉《・・・・・》。 「ぐ……」  見えない。  〈視覚〉《め》は何の役にも立たない。  残像すら網膜に映らない。 (目に……頼るな)  役に立たぬなら、切り捨てるべきだ。  邪魔になる。  他の感覚を。  聴覚?  いや。  嗅覚?  いや。 (〈感〉《・》ではない。  〈勘〉《・》でもない)  〈観〉《カン》。  感覚を越えたところに有るという認識。  光を見て知る、音を聴いて知る――のように婉曲な〈過程〉《プロセス》を置かず、〈戦闘自体〉《・・・・》を観取し対応する。  単なる強者、単なる巧者という枠から飛び抜けて、  達人、名人と称揚される域をも凌ぎ、    剣聖と呼ばれるに至った武人だけが備えるもの。  ……俺にある筈はない。  だが。  そんなものでも無くては、勝負にならない! (……養父は) (師は、何と言った?)  観。  それは、如何にして得るべきか。            ――捨てよ。 (明堯様)  吉野御流の秘伝にそうあると、あの方は言った。  ――捨てるべし。  〈見る〉《・・》を。  〈聴く〉《・・》を。  〈感ずる〉《・・・》を。  〈考える〉《・・・》を。  世界と断絶する。  世界を捨て去る。  〈無想〉《ムソウ》。  全てを失えば、  何物にも囚われる事なし。  その境地。 (捨てる……)  俺にできるのか。  全てを捨て、心魂を〈虚界〉《ソラ》へ投げ出す事が――    ――おまえの手で、母上を殺させるために―― 「……くッ!!」  何故だ。 「光!」  何故なのだ。 「光ッッ!!」 「ふ……ふふ」 「そうだ、景明。  おれの名を呼べ!」 「叫べ!  囁け!  唄え!」 「おれを!」 「光ゥ!!」 「ハァハハハハハッ!!」 「今日のおまえはいつにも増して悩ましい。  官能の抑えが利かなくなる」 「見せてやろう……」 「おまえの想いに応えてやろう。  この光の極限を見せてやろう」 「辰気収斂!!」 «――――!?» «いけない!  御堂、逃げてっ!!»  逃げられるものか。  俺は……  俺は、あいつを、 「……っっ!?」  何だ?  黒い――渦?  あれは何だ。  ……何が始まろうとしている!?  歪む。  周囲が歪んでゆく。  あたかも〈陽炎〉《かげろう》に取り巻かれたかのよう。  しかし、屈曲しているのは〈可視電磁波〉《ひかり》ではない。  空間そのものだ。 「――――これは……!?」  〈村正〉《おれ》が、見える。  複数……  それらは姿形は同一だが、動きは一様でなかった。  少しずつ〈ずれ〉《・・》がある。    時間のずれが。 «世界が……歪められているの。  ……多分……» 「何が起きている……?」  我知らず呟いた問いに、やはり呆然と村正が答えた。  …………いや。  今、順序が逆になってはいなかったか?  〈村正が答えてから俺が訊ねた〉《・・・・・・・・・・・・・》ような……。  しかも答えは、〈隣の〉《・・》村正からだったような。  何なのだこれは。  時間と空間が剥離しつつあるとでも言うのか!? 「さぁ」 「開幕だ」  混沌の中心で。  世界を屈服させる暴力の所有者が。    終末の〈喇叭〉《ラッパ》を高らかに吹く〈熾天使〉《ガブリエル》のように。  一節の詩を唄った。    「〈飢餓虚空〉《ブラックホール》――」         「――〈魔王星〉《フェアリーズ》」 「お……おぁぁぁァァァ!?」 «御堂!!»  ――――引き込まれる!!  まずい。  これは間違いなく、捕まれば最後。 「村正! 合当理!  全力で離脱する!!」 «りょっ――諒解!»  ……離脱できない!? «なんでっ!?» 「――――」  この、途方もない牽引力。    理解する。  ……無駄だ。  これは、無駄だ。  何をしても仕方がない。  どう仕様があるというのだ。  〈空間ごと〉《・・・・》引き込まれている今。  どんな方法で抗える!? «の――呑まれる……»  渦に引き込まれているのは俺だけではなかった。  地上の、多くのもの――  建物が。土砂が。木々が。  あれは何だ。……死骸か?  根こそぎ〈浚〉《さら》われ、呑まれてゆく。  渦の中心に行き着く前に、圧搾され、原形を失いながら。 «これが……〈辰気の地獄〉《・・・・・》……» 「――くッ!」 «……御堂っ!?» 「斬るぞ」 «ど――何処を?» 「〈ここ〉《・・》をだ!」 「抜け出せないのなら、斬り破るのみ!」 «……諒解!»  ここが例え地獄でも。  光条が一筋差し込めば、脱出の〈手蔓〉《てづる》になる! 「〈電磁抜刀〉《レールガン》――〈禍〉《マガツ》!!」 «――え――»  〈消滅した〉《・・・・》。  この暗黒世界全てを、中枢の銀星号を――両断する覚悟で放った閃光の一太刀が――――    闇に軌跡を引くことすら叶わず、消える。  俺の右手の内には、今や何も無い。  必殺の〈術技〉《わざ》はその〈武器〉《うつわ》ごと、闇に食われたのだ。 「……おぉ……」  〈光条〉《ひかり》さえ。  光条さえも、この闇から逃れられないのか!! 「どうだ景明……  この力」 「光の〈武〉《ちから》は」  もはや為す術はなかった。  地獄の中心へ引き摺られながら、何処よりとも知れない声を聴く。 「おれはこの武を更に極める。  更に高みへゆくぞ」 「そして〈天〉《かみ》の座へ登る……」 「……神……」 「景明……忘れたか?  おまえが光に、〈神なるもの〉《・・・・・》を教えてくれたのだ」 「人が母に叛いて父を奪えば、人の法に背く。しかし神には神の法があり、これを赦す。  ――故におれは万人を打倒する。至強の武を証明する。人を超え神を称する」 「神となれば我が望みは〈正当化〉《・・・》されよう。  人の世を壊せば人の法に囚われる父は解放されよう……」 「妨げる何物もなく、光は父に向き合える!  母に奪われた父を、取り戻せる!」 「これが光の〈覇道〉《みち》だ!!」 「――あ――」  父。  光の、〈奪われた父〉《・・・・・》。 『明堯……  貴様は実に、儂を失望させるために現れたかのような男であった』 『…………』 『牧村とか言ったか。あのような何処の〈地下〉《じげ》とも知れぬ下らん女に身を賭けおって……!  貴様は己と立場と役目を心得ておらなんだか!』 『…………』 『儂が鬼畜の所業を為すは、貴様の不始末に補いをつけるため。  全ては身から出た錆と思え!』 『……何もかも仰せの通り』 『されど、御本家!』 『黙れ! 賢しらに口を利くな!  貴様などの言葉に今さら〈鐚〉《びた》一文の価値でも有ると思うか!』 『屑めが!!』 『――――』 『景明! ここへ参れ!』 『…………』 『貴様には何の恨みもない。かような真似を命じるのが心苦しくもある。  だが今となっては、この愚か者に拾われた運命を嘆いてもらうよりないわ』 『…………』 『貴様が事の決着をつけよ』 『この能無し――明堯と湊斗家との縁を、  貴様の手で断ち切るのだ』 『…………』 『……あ……明堯様……』 『…………』 『……許せ。景明』 (……明堯様……) (……統様……) (……光……お前は…………)  ――そうして。  俺の意識は、暗黒に溶けた。 「素晴らしい!  素ゥゥゥゥン晴らしいィィィィィィィ!!」 「例えて言うなら、ある晴れた昼下がり市場へ続く道を点々と落ちているパンツを拾いながら歩いていた僕は無垢な下半身を惜しげもなく晒している美しい少女と出会い恋に落ち」 「ゆくゆくは大企業の社長にしてやるという父の誘いを断って二泊三日の湯煙殺人ツアーに出港してみたもののそこはパンツをはく者とはかない者が死闘する運命の決戦場――」 「それほどまでに素晴らしい!!」 「どういう例えなのでしょうか」 「例えようもない、というフィーリング路線で理解してくれれば結構だ。  〈常闇斎〉《ジョウアンサイ》――」 「おっと、バルトロメオと呼ぶべきかな」 「どちらでも。  ……しかし、洗礼名で呼ばれる機会は私にとって貴重なものではあります」 「ならバルトロメオ。  君もここは踊り上がってパンツを脱いでも良い場面だよ」 「つまり、あれがそうなのですね」 「オッペンハイマー君が予見した〝〈星の崩壊〉《コラプス》〟……まぁ、あくまで擬似的なものではあるが。  我々の求めていた現象に間違いない」 「ようやくこの目で見ることができた」 「しかしウォルフ教授……  あれはどうやら、収まってゆくように見えます」 「本当だ。  今日のところは気が済んだらしいね」 「これでは何も起きません」 「ああそうとも。  〈こんなもの〉《・・・・・》では全く足りないよ」 「だから我々が、あれを完成まで導くんだ」 「〈超〉《・》重力の渦に」 「そう!  この地球上に、暗黒の渦を創造する!」 「そのための六波羅。  そのためのGHQ。  そのための銀星号」 「そのための〈緑龍会〉《われわれ》」 「はい」 「黒き渦が現れる時、道は開く……」 「我々は神に出会うのだ」 「……〈かくあれかし〉《アメン》」 「あれが銀星号……」 「あれが……光……?」 「……あいつの産んだ……娘、か……」 「……………………」 「……〈天地〉《あめつち》初めてひらけし時、〈高天原〉《たかまのはら》に成りませる神の名は、〈天之御中主神〉《あめのみなかぬしのかみ》。  次に〈高御産巣日神〉《たかみむすひのかみ》。次に〈神産巣日神〉《かみむすひのかみ》」 「この三柱の神はみな〈獨神〉《ひとりがみ》と成りまして身を隠したまいき」 「……」 「次に国〈稚〉《わか》く浮きし油の如くして、〈久羅下那〉《くらげな》〈州多陀用弊流時〉《すただよへるとき》、〈葦牙〉《あしかび》の如く萌え〈騰〉《あが》る物に因りて成れる神の名は〈宇摩志阿斯訶備比古遅神〉《うましあしかびひこぢのかみ》。  次に〈天之常立神〉《あめのとこたちのかみ》」 「この二柱の神もまた、獨神と成りまして、身を隠したまひき」 「……すぅ……」 「光」 「あぅ」 「ちゃんと聞きなさい」 「努力をがんばるにやぶさかではないけど」 「お前はいずれ統様の後を継いで湊斗の巫姫になるんだ。  記紀くらいは修めておかないと、後で恥をかいてしまうぞ」 「あきた……」 「飽きるくらい学ばなくては身につかない」 「大和の神話ばっかりだし」 「当たり前だろう」 「たまには違う話もしてほしい」 「国語や算数なら、俺に習うよりも、学校できちんと先生に教えてもらった方がいい」 「あいつらの話はきらいだ。  勝手にしゃべってるだけで、こっちが聞いてるかどうかもおかまいなしじゃないか」 「景明の声は聞いてるうちに気持ちよくなるから寝るけど、あいつらの声はきらいだから聞くまえに寝る」 「……それでお前は成績が良くないのか」 「あぅ」 「先生をあいつらと呼ぶな。  一人で大勢の相手をするから大変なんだ。  感謝の気持ちを持って授業を受けなさい」 「……それと、俺の講義は子守唄ではない」 「あぅ……」 「続けるぞ」 「べつのはなしー」 「……」 「どんな話がいいんだ」 「んー」 「違う神さまの話は?」 「大和以外の?」 「うん」 「神話というものは、どこの国でもそんなに変わらないぞ。  神様の名前が違うだけだ」 「……とまで言っては言い過ぎか……」 「たとえば?」 「ギリシアの神話だと……  原初には〈混沌〉《カオス》があり、そこから〈大地〉《ガイア》、〈冥府〉《タルタロス》、〈愛〉《エロス》、そして〈闇〉《エレボス》と〈夜〉《ニュクス》が生まれ、闇と夜から〈光〉《アイテル》と〈昼〉《ヘメラ》が生まれた」 「〈大地〉《ガイア》は〈天空〉《ウラノス》と〈海洋〉《ポントス》を生んだ」 「おぉー……」 「ほら、似たようなものだろう」 「ぜんぜん違うよ」 「……む?  まぁ、解釈によるかな……」 「つづきー」 「……〈天空〉《ウラノス》は世界を支配し、〈大地〉《ガイア》を妻として、〈百手巨人〉《ヘカトンケイル》と〈独眼巨人〉《キュクロプス》を生んだ。  しかし天空はこの巨人たちを嫌い、〈冥府〉《タルタロス》へ捨ててしまった」 「ひどい」 「その後、〈天空〉《ウラノス》と〈大地〉《ガイア》は十二柱の〈巨神〉《ティターン》を生んだが……  大地は巨人に対する天空の仕打ちを恨んで、巨神に父を打倒せよと命じる」 「十二柱の末弟、〈農耕〉《クロノス》がこれを果たした。  しかし彼は父と同じ罪を犯し、同じように息子の手で倒されることになる」 「この息子が〈主神〉《ゼウス》。  彼を王として、神々は全盛期を迎えるのだ」 「おもしろい」 「そうか?」 「つづき!」 「だめ。ここまでだ。  古事記の勉強に戻るぞ」 「つづきー」 「……また今度」 「むぅ」 「ふくれてもだめだ」 「じゃあしつもん」 「なんだ?」 「〈うらのす〉《・・・・》と〈がいあ〉《・・・》がけっこんして、子供をつくったんだよね?」 「うん」 「でも、うらのすはがいあが生んだの?」 「……そうだな」 「親子でけっこん?」 「そうなる」 「だめなんじゃないの?」 「人間はな」 「神さまはいいの?」 「神様には神様のルールがあるんだろう」 「ふぅん」 「さぁ、勉強に戻るぞ」 「はぁい……」 「人が母に叛いて父を奪えば、人の法に背く。しかし神には神の法があり、これを赦す。  ――故におれは万人を打倒する。至強の武を証明する。人を超え神を称する」 「神となれば我が望みは〈正当化〉《・・・》されよう。  人の世を壊せば人の法に囚われる父は解放されよう……」 「妨げる何物もなく、光は父に向き合える!  母に奪われた父を、取り戻せる!」  父。  父親……  〈父を取り戻す〉《・・・・・・》。  お前はそう言うのか。  それがお前の望みなのか。  光。  ……そうだ。事実……  お前の父は〈無きもの〉《・・・・》とされている。  父は人の道に背き、  〈故〉《ゆえ》に父たり得ず、父たる事を捨てた。  それは必ずしも父の本意ではなかった。  しかしこの世の法が、父の父たる事を認めなかった。  結局、父は法に従った。  だから決して、父として光の前に現れる事はない。  言うなれば光の父は、社会秩序に奪われた。  光が父を欲して世界の破壊者たるのなら――確かにそれは狂気ではなく、道理なのかもしれない。 (明堯様)  俺にとって養父である人の苦悩を思う。  あの人はあれから、どんな想いを胸に宿して生きてきたのだろう。  後悔か……諦観か。  そして今、光の望みを知ったなら、何を思うだろう。  父を取り戻すという望みのために〝銀星号〟となり、母を排除し世界を壊し、人を越えて、神たらんとする――暴挙の極致へ至ったのだと知ったなら。  何を思うか。 (いや)  俺こそ、何を思うべきか。  あの頃、俺は責任の意味を理解できる年齢に達していなかった。  だがそれは弁明にならない。最終的に光の父を抹消し――今日の事態を導いたのは、俺の決断であるから。  何を思うべきか。  何をするべきか。 (俺は……)  何を――――? 「……………………」  ここは、    ………………何処だ? 「やっ」 「……?」 「おはよ、お兄さん」 「お早うございます」 「今日もいいお天気ですよ」 「そうですか。  洗濯物が良く乾くでしょう」 「いいこった」 「はい」 「…………」 「…………」 「朝もはよからじっと見詰め合う男と女」 「何処かで、お会いしたことがありましたでしょうか」 「ご記憶にない?」 「面目次第もなく」 「寝床を共にするほどの仲なのに」 「でありますから、先程より脳味噌を沸騰させる思いで思考を巡らせているのですが」 「覚えてない」 「いえ。  そこはかとなく――記憶に触れるものは」 「あるかな?」 「……」 「……」 「朝もはよからちゅーでもしてしまいそうなほど見詰め合う男と女」 「誤解です。  そもそもここは何処で、自分は何故ここにいるのでしょうか」 「それも覚えてない?」 「…………」  ――俺はあの黒い渦に巻き込まれ……    いや。違う、か。  そうなる直前で意識を失ったのだ。  あれに呑み込まれて無事で済むとは思えない。今頃は細胞一個すら残存していないだろう――という事はその前に、銀星号は術を解いたのか。  それから……  それから? 「……意識を失う前に何処で何をしていたかは記憶しています」 「けど、それがここにつながらない」 「はい」 「そりゃ仕方ないかな」 「何故でしょう」 「気絶して倒れてたお兄さんを、あてが勝手にここまで連れてきたから」 「…………」 「つまり……  貴方は〈八幡宮〉《あそこ》にいたのですか」 「うん」 「……〈あの時の八幡宮〉《・・・・・・・》に?」 「大変だったよー」 「もうちょっとであの黒いのに巻き込まれるとこだった……。  怖いの怖くないのって……」 「なんかあれ、風呂の栓を抜いた時にさ、水と一緒に吸い込まれていく抜け毛の気持ちがわかるよね」 「……………………………………確かに」 「あれはトラウマもんだ」 「上でお兄さん達が盛り上がってる最中、下ではあても地味に大ピンチだったわけですよ。  えーえー、誰も見ていないところで必死に頑張りましたともさ!」 「思い出したら悲しくなってきた。  切ねぇ……」 「……御迷惑をお掛け致しました」 「いえいえ。  そのあとお兄さんと村正を抱えて、誰かに見つからない内にすたこら退散してきたけど」 「ま、それはそんなに苦労しなかった。  その前の排水溝脱出ゲームに比べればねー」 「……」  室内に視線を巡らせる。  ……いた。  枕もとのすぐ近くに、赤い蜘蛛が〈蹲〉《うずくま》っている。  身動きもせず。  俺の意識にも反応を示さず。 「――――」  肝が氷結したのは、一瞬の間の事に過ぎなかった。  仕手と劒冑の〈結縁〉《リンク》が教える。  ――休眠中だ。  深い損傷を負ったため、再生以外の全機能を封じて回復に努めているのだろう。  それはそれで無論のこと由々しき事態だが、とりあえず最悪の状態ではない。  俺はほっと息をついた。 「……ふーん?」 「劒冑のこと、心配なんだね」 「相棒ですから」 「むぅ」 「何か?」 「お兄さんのそういう言葉を聞くと、すこしばかりささくれ立つあての〈胸〉《ココロ》」 「……何故でしょう」 「個人的な都合による感情であります。  唐変木め」 「……?」 「さーて。  それでお兄さん。あてが何者でここが何処だか、そろそろ見えてきたかな?」 「……」 「貴方は村正の〈銘〉《な》を口にした」 「しましたね」 「なら貴方は、自分に関わる人間か。  さもなくば」 「銀星号に関わる人間という事になります。  ……乃至は、その両方に」 「二領しか残ってないもんな。  千子右衛門尉村正の真作は」 「……」 「そして貴方は、あの時、八幡宮にいた」 「はい」 「奉刀参拝の――  部外者は立ち入りできない、重大な祭事の最中であった八幡宮に」 「そうですね」 「……以前から、訝しんでいた事があります。  行方不明者として全国に手配が回っているのに、なぜ〈光〉《あれ》の消息は全く知れないのか」 「二年もの間。  これは、〈光〉《あれ》が誰か有力な人物に保護されている証左なのではないか……と」 「ごもっとも」 「……部屋の様相から類推するに……  ここは相当の構えを誇る御屋敷の中」 「それほどでも。  あ、これ謙遜だからね。お兄さんの推測は当たってますよ」 「…………」 「〈どうぞ〉《ぷりーず》」 「貴方は、幕閣の方ですね」 「堀越公方足利茶々丸。  はじめまして、って言っておかないといけないかな」 「お兄さん」 「――――――――」 「……」 「…………」 「おなか空いてる?」 「……その様子です」 「じゃ、まずは朝飯にするかぁー」  〈伊豆國〉《いずのくに》、堀越御所。    庭に面した一間で、朝食の卓と向き合っている。  伊豆半島は山海の幸に恵まれていると聞くが、この品目の多さを見るに、疑念を差し入れる余地は欠片も無さそうであった。  気負いのない自然な膳立てにしてこの彩りは凄い。  空腹であり、毒飼を危ぶんでいるわけでもないのに――寝顔を晒した後でそんな警戒は馬鹿馬鹿しい――箸の付け所に迷ってしまう。  皿の豊富さにこちらが気負けして、目移りするのだ。 「だからさ、あてとしては言いたいわけよ。  鯨獲るな鯨獲るなって最近にわかに喧しい白人ども、そもそも鯨の数を激減させたのはてめーらじゃねえかってな」 「〈大和〉《あてら》の捕鯨は生態系まで破壊してねぇ。  大量に獲れるほど船も捕鯨技術も発達してなかったし、一頭獲れば村が半年遊べるってくらい有効に活用してたし」 「そもそも狭い島国の中のこったから需要がそんなになかった。  需要があったのは――世界中の海で獲りに獲ってそれでも足りなかったのは、」 「光源にするんで鯨油が幾らでも必要だったてめーらだろうがぁ!  〈片脚船長〉《エイハブ》どもの乱獲が鯨を滅ぼしかけてんだよっ!!」 「…………」  同意も反論も難しい話題であった。  前代大和でも鯨油を光源、また農薬としても用いる需要があり、相当数が獲られた。今世紀に入ってからは南氷洋へ進出し乱獲に加担もしている。  乱獲史の長さで欧州に及ばないのは確かだが……。  とりあえず、鯨の佃煮に箸を伸ばす。  旨かった。 「それが何だオイ。  光源需要がなくなった途端、エコロジーに目覚めやがって」 「絶滅の危機だから保護しましょうだー?  それが自分らの責任を認めて反省するって態度ならまぁ、聞く耳もあるけどさ」 「あいつら反省なんてカケラもしてねーじゃねえかっ!  てめーの過去は棚に上げて、今のあてらの捕鯨だけ問題にしてぎゃーすか非難しやがる」 「NA・ME・N・NA!!」 「…………」  しかしそれは感情的な部分に過ぎない。  肝要の問題は鯨を絶滅から救うことであり、それは確かに実行されなくてはならないだろう……。  内心でそう呟きつつ、鯨の叩きに箸を伸ばす。  旨かった。 「近頃は連中、鯨は頭のいい動物だから殺すのは野蛮だなんて妙なことまで言ってんな。  アホか。じゃあその鯨の知能を解析して、コミュニケーション取ってこう言ってみろ」 「私はあなたの味方ですってな。  賭けてもいいけど、クジラ君はツッコミの衝動を抑えられないと思うぜ」 「……確かに、妙な主張ではあります。  知能が高いから殺すなというのは」 「牛や豚は馬鹿だから食ってもいいけど鯨は賢いからだめだってんだからな。  何言ってんのかわかんねー」 「文化の違いから来る思想の違いというものでしょうか」 「突き詰めると、人種差別思想が起因かな。  〈白人〉《あいつら》的には、優秀な生物はそうでない生物よりも上等って考えは、侵略の歴史を支えてきた馴染み深い正義なんだろ」 「……成程」  鯨の〈揚物〉《あげもの》に箸を伸ばしつつ、軽く頷く。  そればかりとは思われないにせよ、一面の真実ではあるかもしれない。揚物は旨かった。 「ふん、馬鹿くせぇってーの。  あては差別なんかしないもんね。牛も豚も鯨も平等に食う」 「イルカだって食うぞ。  それで思い出したけど一部の大和人がまた腹立つんだよなー。捕鯨は賛成なのにイルカ食うって聞くと『えー』とか言いやがんの」 「イルカ食って悪いかオラ!  つーか鯨はいいけどイルカはだめとか言い出したら捕鯨反対派と同レベルだろーが!」 「あてが思うに、奴らは反対派が送り込んだ工作員だな」 「……感情として、イルカ食を受け入れ難いのは理解できます」 「捕鯨反対だって感情問題やん。  結局のところ、自分とは違う他人の文化をどう受け止めるかって話だ」 「気に食わないからって文句つけるか?  自分とこへ押し売りに来たってんならともかく、よそでやってる分には構わずにおくのが大人の態度ってもんだろ」 「他文化の尊重。  それは全く同意できます」 「でしょーっ?」  うんうんと頷く堀越公方。    ……さて。前置きの雑談を切るには、いい頃合か。  俺は箸を置いた。  居住まいを正す。 「あれ、もういいの?」 「は。充分に頂きました。  ……本題へ入りたく思うのですが、宜しいでしょうか」 「? なに?」  〈惚〉《とぼ》けるかの足利茶々丸を、俺は正面から見据えた。  そうして息を吐き――吸い。  心胆を定めて問う。 「銀星号は、今――ここにいるのですね?」 「今? いないよ」  本題は、四秒で済んだ。  聞けば、奉刀参拝は既に三日前の事であるらしい。  だいぶん長く眠ってしまっていたようだ。  そのつもりで自分の身体を点検すれば、成程確かに、寝過ぎた時特有の痛みが随所にある。 「お茶どうぞー」 「……有難うございます」  足利茶々丸六波羅中将と二人、縁側に並んで煎茶を〈啜〉《すす》る。  香りも風味も良い。伊豆は茶の名産地にも近い事を、俺は思い出した。 「今日は雲が張っててだめだな」 「?」 「あっちの空。  富士山がよく見えない」 「……あぁ。  この北向きの庭は、富士を楽しむ仕立てでしたか」 「そっ」 「この辺りからだと、富士山の〈どてっぱら〉《・・・・・》に開いたでっかい穴がちゃんと見えて面白いんだよ」 「そうですか……」 「して、閣下」 「あて?」 「はい」 「そんな他人行儀な呼び方しなくても」 「他人です」 「クール……」 「お伺いしますが。  何ゆえ、自分を伊豆まで連れてこられたのです?」 「鎌倉にいたら面倒なことになるからね。  あて、〈東都〉《かまくら》防衛警備の月番だったもんでさ」 「八幡宮の事件はあての不手際だって言えばそう言えるわけで。  雷蝶あたりから責任追及される前に、先手打って本拠地に〈自主謹慎し〉《ひきこもっ》たのよ」 「……八幡宮の事件……」 「足利護氏死す。  一代の覇王も最期はあっけないもんだ」 「それは――確かに?」 「〈表〉《そと》向きには隠されてるし、内向きにもまだ失踪って扱いで捜索中だけどね。  八幡宮と護衛団ごといなくなって、三日間経っても手掛かりすら無いんだ」 「〈死亡〉《おなくなり》は確定だよ。  普陀楽じゃ後継者を立てる準備に入ってる」 「……」  銀星号の打撃で吹き飛ばされ――それで死んだにしても生きていたにしても、大将領の体は最終的にあの黒い渦へ呑まれて消えたのであろう。  あれきり姿を現さないなら、そういう事になる。  結果的に舞殿宮の企図は達せられた。  ただ……俺が報告に戻れなかったため、状況を把握するのにさぞ苦労するに違いない。  それが親王の安全に災いしなければ良いのだが……。 「死亡を知っているのは、普陀楽の首脳だけですか」 「どーだろ?  GHQの動きがなんか怪しいし、倒幕派もちょろちょろし始めてるしな……」 「実はもうかなり漏れてるのかもしれんね。  ま、こういうのは隠そうとして隠し切れるもんでもないし」 「ええ。  ……それはともかく」 「先ほど閣下にお尋ねしたかったのは、自分の身柄をわざわざ回収された件についてです」 「あそこにほったらかしといたらまずいやん。  お兄さん、事件の主犯に仕立て上げられて処刑よ?」  ……冤罪とも言い切れないが。 「しかしそれは、自分の都合に過ぎません」 「あての都合でもあるんだなァ」 「……どういう事でしょうか?」 「お茶うめぇー」 「……」 「では閣下の御都合に照らした場合、自分の身は今後どのように扱われるのでしょう」  差し当たっては軟禁か?  こちらとしては鎌倉に戻り、八幡宮で起きたことの一切を親王と署長に報告したい。  堀越公方がそれを認めないなら、強行突破するしかないが……。  ここは公方府、歴とした軍事基地だ。  容易ではないだろう。少なくとも村正が回復しなくては話にもならない。  強行策より、〈搦〉《から》め手を用いるべきか……。 「特に考えてないけど。  お兄さん次第」 「……?」 「自分の好きにして構わないと?」 「もちろん。  あては男を縛って食い物にするタイプではなく、陰から尽くすタイプなのです」 「邪魔はしないけど必要なことは何でもしてくれる女。当然処女。でも床上手だったり。  ……うわーなんて都合がいいんでしょう」 「色男は得だねーこのー」 「…………。  鎌倉に戻ろうかと考えているのですが」 「そりゃさみしぃ……。  あてはまだしばらく戻れないしなー」 「でもお兄さんがそうしたいなら仕方ないね。  列車の手配しようか? 船でちんたら行くよりいいでしょ」 「…………」  わからない。  この将軍は――この少女は俺に何を望んでいるのか。  敵なのか。味方なのか。  親しげな、懐っこい子犬のような様子からは敵意も裏表も感じられない。が――彼女は銀星号の擁護者であると自ら認めている。  それは事実なのか。  事実なら何故、そんな事をするのか。  足利茶々丸の目的は何なのか。  ……謎が多過ぎる。  多過ぎて、何からどう聞けば良いのかすら悩む。  思いつく端から訊いても良いが――その答えとて、どこまで信用したものなのか……。 「おや?」 「……何か?」 「しばらくは現れないと思ってたんだけどな。  お兄さんが起きたせいかな?」 「?」 「良かったね。  待ち人来たれり」 「落ち着いた場所で向き合うのって久しぶりなんじゃない?」 「――――」  ――――光。  光だ。  光が、いた。 「人が人のまま、ささやかにまとまって身を寄せ合う時代はここで〈ぶった切る〉《・・・・・》。  誰もが欲するままに生き、戦い、殺す――そんな時代を導こう!」  光。 「神となれば我が望みは〈正当化〉《・・・》されよう。  人の世を壊せば人の法に囚われる父は解放されよう……」 「妨げる何物もなく、光は父に向き合える!  母に奪われた父を、取り戻せる!」 「これが光の〈覇道〉《みち》だ!!」  光…… 「村正が如何なる劒冑であるか」 「承知の上で、我が物としたのだ」 「そしておまえにも与えた……」 「おまえの手で、母上を殺させるために!」 「光ッッ!!」  ……我に返った時。  俺は背中を床につけて、天井と空を仰いでいた。 「……景明……」 「そう熱烈に求められるのはな、悪い気分ではないというか、光としても本望なのだがな。  TCOはわきまえてくれ」 「……〈資産保有費用〉《TCO》……?」 「御姫、〈時と場所と場合〉《TPO》です」 「――TPOはわきまえるように。  まだ朝方、ここは縁側、光は起き抜けだ」 「そして、親しき仲にも礼儀あり。  まずは朝の挨拶からだ」 「おはよう、景明」 「…………お早う」 「おはよー、御姫」 「うむおはよう。  今日は青空が見えるな。いい気分だ」 「野球でもしたくなる天気だね」 「悪くない」 「昼からやろうか?  ヒマしてる武者集めてさ」 「良かろう。  新たな魔球を試したかったところだ」 「お兄さんもどう?  〈全身装甲野球〉《フルアーマーベースボール》」 「……フルアーマー?」 「普通にやるとゲームにならないんだよね。御姫の投げる球誰も打てないし。〈捕手〉《キャッチャー》は一球ごとに病院送りだし。打席に立てば〈投手返し〉《ピッチャーライナー》でそのまま〈投手ごと〉《・・・・》場外〈本塁打〉《ホームラン》とかになるし」 「選手全員劒冑着用の武者にして、〈銀星号〉《おひめ》は重力操るのとかナシにすると、どうにかこうにか勝負になるんだよ。  野球っつーにはだいぶ〈宇宙的〉《アストロ》な感じだけど」 「…………」 「なかなかエキサイティングで面白い競技だ」 「エキサイトし過ぎて、試合の終わる頃には選手の半分くらいが両足で立ってないしねー。  お兄さん、どうよ。興味あるでしょ」 「欠片もありません」 「残念。  ま、劒冑が復旧中だししょうがないか」 「お兄さん、野球好きそうなんだけどな」 「当たりだ。  ふふふ、景明はかなりの巧者だぞ」 「地元ではバントの魔王と呼ばれていた」 「ツケメン大王みたいな王座っすね」 「何を言う。  あとグラブトスは神業、ライン際の打球をフェアかファールか見極める判断にかけても達人級との評判を専らにしていたんだぞ」 「……微妙な才能に満ち溢れてる人だな」  頭上で行き交う会話を記号的に受け止めつつ、立ち上がる。  激情は去っていた。  平静でいられるわけでもなかったが。 「光……」 「何だ?」  名を呼べば、光は屈託のない声を返してくる。  隔絶。  何気ない態度こそ、何より違和感を覚えさせられてならない。  何故、そんなにも自然の〈態〉《てい》でいられるのか。  この二年間の出来事は、光にとって何だったのか。  互いに全身を劒冑で覆って相対していた時でさえも感じずに済まされなかった心理の隔絶は、素肌で向き合ってみれば尚一層赤裸々だった。  光は二年前と同じ目で俺を見ている。  俺との関係は何も変わっていないと、そう言うかのように。    そんな筈はない――何もかも変わった。  変わらないと信じるなら、その妄信こそ狂気だ。  光はやはり狂っている。  そう思う。  〈思いたい〉《・・・・》。  狂ったからこそ殺戮の銀星号と化したのだと、そう思いたい。  そう思えば、後は光の悲運を嘆いて戦うだけで済む。  だが。  もしも……狂っていないのなら。  本人が言った通り、全て〈正気〉《・・》でしたことなら。  どうなる?  あの殺戮、  あの災厄が、    狂気ゆえではなく――  希望ゆえに引き起こされたものであったのなら。  光はただ、この二年を〈一途〉《いちず》に生きていただけであるなら。  ……それは、可能な事なのだろうか?  〈狂〉《・》ではなく、  〈憎〉《・》でもなく、    願いを追い求める〈理〉《・》によって諸人を殺戮する――  世界を〈毀〉《こわ》す。  ……そんな事が可能なのか。  もしも可能であったなら――               ……俺は、どうするべきなのだ。  養母の死も、  関東に撒き散らされた災厄も、    光の、父を求める想いゆえであったのなら―――― 「景明?」 「いや……」  頭の芯から襲ってきた、軽い眩暈を振り払う。  嘔吐感は力任せに飲み下した。  ……迷妄するまい。  余計な事だ。余計な。  俺は律儀にこちらを待っていたらしい光へ向き直り、ひとまず最も気に掛かる事柄だけを訊いてみた。 「お前は……ずっとここに……  堀越公方のもとにいたのか?」 「そうだな。  故郷を離れてからこれまで、おおむねこの館を足場にしている」 「何故だ」 「なぜ?  ……ふむ。訊かれてみれば、格別の理由はない」 「故郷を出た後、〈真っ直ぐ〉《・・・・》進んでいたらここへ行き着いたというだけの話だな。  別にほかの場所へ移っても構わない――」 「御姫ーっ!」 「……」 「――構わないのだが、嫌がるやつがいる。  これが理由といえば理由か」 「引き止められているから……?  それだけなのか」 「人から好意を向けられるのは嬉しいものだ。無闇にはねつけるのも気が引ける。  光の目的の障害になるなら別だが、そうでなければ意に沿ってやっても構わん」 「それに伊豆は水も食も空気も良いしな。  居心地はなかなかだ」 「姫ありがとーっ」 「…………」  光の言葉に嘘の気配はない。  元より、嘘をつける人間でもない。  光は格別の理由なく、堀越公方のもとにいるのか。    だが……公方の〈側〉《がわ》では? 「閣下」 「うに」 「貴方は如何なる所以から、光の滞在を望まれるのですか」  常識的に考えれば、厄介事――どころの話ではない。  気分次第で平和な町を〈忽〉《たちま》ち戦場に変える客人など、誰が歓迎するだろう。  戦うか逃げるか、さもなくば隠れて去るのを待つか。いずれかを選ぶのが正しい対応というものだ。  天災に遭いながら生き延びた幸運を〈無碍〉《むげ》にする如く、頼み込んで引き止めるとは――筋が通らない。  ……だからこそ、光は誰かに匿われているのかもしれないと思いつつ、その推測に現実感を覚えられずにいたのだが……。 「恩人なんだよね」 「恩人……?」 「そうなのか」 「……」 「……忘れられてるよ……。  うっかり殺されかかってたあての前に颯爽と現れてくれた御姫の勇姿、総天然色でマイメモリーに保存してあるのに……!」 「そういえば死に掛かっていたな」 「うむ、思い出した!  見たところ戦えそうにないし、どうしてか〈汚染波〉《うた》の影響を受けないし、なんだか珍妙な生き物に思えたので殺すのをやめたんだった」 「そんな理由かよ」 「いやまー、御姫にあてを助ける気なんてなかったのは最初から知ってたけどね。  結果的にそーなったってだけで」 「でも御姫が来てくれたおかげであてが救われたのは事実だし、なら恩に着るのは当然てもんでしょう」  ……足利茶々丸もやはり、嘘を言っているようには見えない。  光と違い、虚言詭弁は常套手段であろう政治権力者の事、上辺の印象を鵜呑みにはできないが……。  おそらく、恩を受けたというのは真実。  しかし、それのみとは考えられない。  何か別に理由があって、光を留めている。  そうみるのが妥当だ。  咄嗟に思い付く理由は二つ。  一つは、光を支配――制御する方法を心得ており、自分の意のままに動かせるから。  ……しかしこれは深く検討するまでもなく〈的外れ〉《ナンセンス》である。  己の意思の矛先を他人に委ねる光ではない。 〝銀星号〟なら尚更だ。実力をもってにせよ、口舌をもってにせよ、他者が彼女を操るなど全く不可能な事だろう。  そもそも、いま目の当たりにしている両者の関係はとてもそんな風には見えない。  足利茶々丸は光に過度の干渉をせず、なればこそ、光もこの館を過ごしやすいと感じているようだ。  では?    ……もう一つの理由か?  〈支配制御などするまでもなく〉《・・・・・・・・・・・・・》、光の存在が堀越公方の利益に適うから。    ――――なのか? 「……敢えてお尋ねします。  閣下が光を手元に留めておかれるのには、何か目的とするところがお有りなのではございませんか」 「うん」 「……」 「あるよ?」 「あると聞いているな」 「……それはどのような目的でしょう」 「まだ内緒」 「内緒だと聞いている」 「…………」 「お前はそれでいいのか」  光に訊く。 「構うまい。  光が野望を抱いて生きるように、他の者にも望みがあるのは当然のこと」 「望みのため、光を利用したくばするがいい。  それがおれの関知せぬ所で終始するのならどうでも構わぬことであるし、おれの妨げになるのなら戦って勝敗を決するまでのことだ」  唖然とするほかない、割り切りの良さだった。 「御姫と話してると、小さなことでいちいち悩んでる自分が馬鹿に思えてこない?  あてはしょっちゅう」 「……は」  仕方もなく、頷く。  だが……やはり俺は気に掛かった。  堀越公方の目的とは何なのか? 制御不能の殺戮者にどのような実益価値があるというのか?  想像もつかない……。 「御姫、朝ごはんどうする?」 「貰う」 「〈厨房〉《まかない》に言えばくれると思うよ」 「今日の当番は誰だ?」 「〈三千場〉《みちば》のおっちゃん」 「あの職人か。なら期待できるな。  行ってこよう」  伸びやかな挙措で、光は廊下を歩いていった。  その背を見送る。 「で」  視界へ割って入るように、足利茶々丸。  少女の瞳は些か、意地の悪い色を含んでいた。 「お兄さん、これからどうするの?  鎌倉に帰る……?」 「…………」 「……帰るわけにはいかないでしょうね」 「ああ」  日が落ちて、夜の帳が下りた頃、村正は回復した。  現状を噛み砕いて説明する。  一通り聞いて劒冑が出した結論は、俺のそれと同じだった。 「銀星号がいると知っては、〈堀越〉《ここ》を離れられない」 「いつ〈汚染波〉《なみ》を撒き始めるかって思うと……  目を離すのは怖いし」 「これまでがそうだったと言えばそうなのだが――」  毎朝、小刻みに震える指で新聞の頁をめくっていた。  そこに銀星号の三文字がないか――また何処かの町で人々が無為に殺し尽くされたのではないかと怯えながら。 「ともかくも、所在を突き止めたのだ。  その利を捨てる法はない」 「そばにいればそれだけ、いざ事が起きた時に素早く対応できるものね」 「そうだ。  …………問題は――」 「その後?」 「その後だ。  〈対応〉《・・》ができても、〈対処〉《・・》ができなければ何の意味もない」 「……そうね……」  〈あの〉《・・》銀星号を、どう食い止めるか。  これまでも人外魔境であった銀星号の力量は、今となっては天外不測、幾何級数じみている。  自分があれと同等の領域に立つなど、全くの戯言、夢物語としか思えない。  実に情けない話ではあるが。      ……しかし…… 「村正……どう思う」 「…………」 「果たして武者とは、あそこまで強くなれるものなのか?」 「ちょっと信じられないっていうのが、本当のところ」 「光には天性の才能がある。  体術は勿論、騎体の運用、熱量の保有量、陰義を操る感覚――およそ全ての面において完璧以上と言っていい」 「だが、それでも――」 「あそこまでは……ね。  なかなか、ならないと思うのだけれど」 「何かあるのかしら。  単なる天才に留まらないものが……」 「…………」 「爆才とか?」 「それ、意味わかんない」 「じゃあ白菜」 「綺麗さっぱり、面白くないんですけど」 「俺もそう思う」 「なら言わないでよ……」 「俺は何も言っていない」 「え?」 「……」 「はぅあ!」 「ふゥ」 「何処から生えてくるのよ!」 「やにわに失礼なやっちゃな」 「大丈夫だ、村正。  味方ではないがとりあえず敵でもない」 「適切な表現だ。  お兄さん、こんばんはーっ」 「今晩は、閣下」 「いい夜ですね」 「月が見えます」 「平然と応対しないでよっ!  驚いてる私がおかしいみたいじゃない!」 「そうか。済まん」 「八つ当たりかっこわりぃ」 「貴方が変てこな現れかたをしなければいい話でしょ!」 「あての家だっつーの。  どっからどう現れようがあての自由」  それとて限度があるだろうとは、俺にしても思うのだが。  ……何故、〈下〉《・》から? 「何よ。貴方この家の子?  親の躾が知れるとか言おうかしら」 「いねーし」 「村正。この方が家主だ」 「はぁ?  だってここ、将軍様のお屋敷なんでしょ?」 「ああ。だから……  堀越公方、足利茶々丸竜軍中将閣下であられる」 「知って驚け見て驚け。  わかったらとっととひれ伏して、額を畳にこすりつけろや下民」 「あらぁーそうでしたの。  貴方が公方。貴方が中将様」 「――何それ。ウケ狙い人事?」 「あ。マジ殺意湧いたわ今」 「素直な感想だけど。文句ある?」 「これがほかの奴に言われたんならどうとも思わねーけどさぁ。  なんでだろね。この竹アーマーに言われると洒落にならんくらい腹立つなー」 「だだだ誰が竹あーまーか!!」 「素直な評価だよ。文句あっか」 「貴方、覚悟できてるんでしょうね」 「あー? 表出るかぁー?」 「出てやろうじゃないの!」 「落ち着け。村正」 「いやっ」  嫌がられた。 「わ、ひでー。  仕手の言うことを聞きやがらねぇ」 「いいのよ。  御堂はこんなことで怒らないもの」 「私を信じてくれてるから。  ……ね?」 「ああ」  俺は即答した。  本心である。  本心であるが、それはそれとして、村正の流し目の中には只ならぬ殺気が含まれており、首を横に振れば必ずろくでもない運命に見舞われるという予感が俺を〈苛〉《さいな》んだこともまた事実であった。 「…………」 「信頼関係。羨ましい?」 「血管切れそうだよ。  お兄さんの肚の太さに甘えやがって」 「甘えと信愛の区別がつかないのね。  お子様ね」 「お兄さん、こんな〈依存症〉《キノコ》女と組んでちゃあいけない。  あんたにゃもっと気の利く相棒が必要だよ」 「こいつは来月の粗大ゴミの日に出しちまいましょう。  いい劒冑、紹介するからさ」 「――――」 「折角ですが」 「是非とも頼むよ、俺の茶々丸……。  前々からそうしたくてそうしたくて仕方がなかったんだ」 「おっけー、任せといて!」 「捏造するな!」 「やだなー、真実の代弁ッスよ」 「その首、本気で斬り飛ばしたくなってきてるんだけど?」 「ハ。  安い〈威嚇〉《はったり》かます奴ほど何もできやしねー」 「本当に〈殺〉《や》る気なら言う前にやってるもんな」 「いいこと言うじゃない。  そうね。それは正しいって認めてあげる」 「じゃあもう、前置きは無しにしましょうか」 「……」 「……」 「ちびっこのくせに!」 「蜘蛛を食うとチョコレートの味がするってのは本当かどうか試してやんよ!」 「二人とも」 「にゃにっ?」 「何よっ」 「……何故、出会った瞬間から即座にそんなにも仲が悪い?」  似たような構図だった、某学生と某進駐軍大尉より酷い気が。 「こいつとは運命的にだめなの」 「絶対にわかり合えないって、一目で悟った」 「そうそう」 「どうしようもない感じよね」  そんなところだけ合意されても困る。 「しかし閣下……  一つお尋ねしたいのですが」 「すりーさいず、好きな体位、好きなぷれい、何でも教えてあげるけど、このお邪魔グモを追っ払うまで待っててくれない?」 「できればそちらを中止して。  閣下、貴方は何故、この村正の正体に最初から気付いておられたのです?」 「……あ」  言われて村正も思い至ったらしい。  そう。茶々丸中将は何の説明も受けないうちから、蝦夷にしか見えない村正を劒冑として扱っていた。  知らずに看破できる事ではないと思うのだが……。 「あー、それ?  錆び腐った鉄屑の匂いがしたから」 「嘘言うなっ!」 「床は軋んで抜けそうになってるしさ」 「そんなに重くない!」 「あと波長が劒冑っぽい」 「……波長?」 「……?」 「そういうあれこれが積み重なって、こいつはお兄さんの村正だなってのがキュピーンと来たわけですよ。  頭のこのへんに」 「ま、特殊なセンスがあるんだと思っていてくれれば結構っす」  自分の額を指差しながら、にまにま笑う足利茶々丸。  どうもはぐらかされている気がするが……追及しても徒労に終わりそうだ。  取っ組み合いを中断させられただけでも良しとしておこう。 「そうそう。  あてからも一つ訊いておきたいんだけど」 「何でしょうか」 「まだ返事を貰ってなかった。  お兄さん、結局どうするかい?」 「〈これから〉《・・・・》」 「…………」 「頼めた筋合いではありませんが……  宜しければ、滞在のお許しを願います」 「そう言うと思ったー。  もちろん、許すよ」 「筋合いだって充分あるしね。  遠慮は何にもしなくていいから」 「お心遣い、感謝致します。中将閣下」 「御堂」 「何だ?」 「提案。  どっかそのへんで野宿しましょう」 「……」 「おめーさまが一人で行く分には全く構いませんがぁ?」 「こんな怪しげな館に御堂だけ残して行けるもんですか」 「一人で行け」 「いやよ」 「お兄さんはここに留まるっつったろ」 「私が頼めば聞いてくれるもの。  ……たぶん」 「お兄さん?」 「……」 「村正が達て望むのであれば」  銀星号の側に留まる事が重要なのだ。  家の中だろうと外だろうと、その意味では同じ。  野営の苦も別にない。兵役に就いていた頃の体験で慣れている。  村正の希望を言下に拒絶する理由は無かった。 「ほらっ」 「お兄さん……  劒冑を甘やかし過ぎです」 「駄作がますます劣化しちまうよ?」 「いえ。問題有りません」 「そーかなー」 「甘やかそうがどうしようが、村正が〈自己〉《おのれ》の役割を忘れる事はありませんから。  必要な時に必要な働きを必ずする」 「それは疑いなく信じられます。  それで、自分には充分です」 「…………」 「自分が村正の信頼を裏切らない限り、村正の性能が劣化する事など有り得ません」 「そして御堂が私を裏切ることなんて有り得ないから、私は常に完全な性能を発揮できる。  ……どう? こういうものなのよ」 「互いを認める仕手と劒冑っていうのはねっ。  以前はともかく、今の私達はちゃんと帯刀の儀も済ませて結縁してるの。お子様が何を言ったって、壊される間柄じゃないんだから」 「わかった?」 「天井のシミ、なんかこないだよりも増えてねえかなー」 「聞きなさいよ!  いい話してたんだから!」 「ただの惚気だろ。  つかおめー、本気でお兄さん外に引っ張り出すつもりか?」 「銅鐸は〈緑青〉《ろくしょう》が悪化するだけで済むけどよ、人間は風邪引いたりとかするんだぜ」 「わかってます。冗談に決まってるでしょ。  あと銅鐸って誰のことか」 「良いのか?」 「私がここにいたくないのも、御堂を置いておきたくないのも本当だけど。  わざわざ野宿するのもばかみたいだし」 「それに御堂、一度口にしたことを翻すのは嫌なんでしょ?」 「……そうだな」  お願いしますと頼んでおきながら、承諾をもらった後でやっぱり結構ですと突き放すのは、どうにも相手を馬鹿にしている。  やりたい事ではない。 「気を遣わせたか」 「大袈裟よ」 「では、中将閣下。  改めて、御世話になります」 「なんか気に食わない紆余曲折があったけど、結論がそうなったならまあいいか。  我が家だと思ってくつろいでね、お兄さん」 「は」 「くつろぐから、出て行ってくれない?  貴方邪魔よ」 「……礼節の水準に差が有り過ぎじゃねえかこの主従……」 「つか、おめーこそ出てけよ!  ここはお兄さんの部屋だっつーの」 「私達は一緒で構わないけど。  ねぇ?」 「まぁ」 「男女同衾なんて不埒な真似、あての館では許しません。  おめーにもちゃんと部屋やるから、そっちいけ」 「そう?」 「誰かー」 「はッ。  お呼びでございましょうか」 「そこの姉ちゃん、物置に連れてってやって」 「はッ」 「ちょっと」 「ほら、行けよ。  その人がいい部屋に案内してくれるから」 「今はっきり、物置って言ったでしょうが!」 「ち……いらねーこと聞いてやがる」 「とことん決着つけないとだめなのかしら」 「上等だオラ。  おとなしく物置に片付いてりゃいいもんを、スクラップ工場の方が趣味だってんならそうしてやる」 「やってみなさいよ!」  消えた筈の炎が再燃する。  それは魂の激突であった。  熱く燃える力と力のぶつかり合いであった。    どう考えても近所迷惑であった。 「…………」 「お客様。  お茶など、ご用意致しましょうか」 「……夜も遅いので。  お気持ちだけ頂きます」 「畏まりました。  では、ごゆるりとお過ごし下さいませ」  無茶を言うなと返したかったがやめておいた。  養父母の教育の賜物である。 「……あら?」 「村正!?」 «――――» 「回復したてで無茶するからだ。  〈自動休眠〉《オートダウン》しやがったな」 「…………」 「分析がお早い」  仕手の俺ですら、状態の把握に数秒は掛かった。  思わず動揺したせいでもあるが……。  何の縁もない劒冑の異変をほとんど一瞬で理解する――些細な事のようで、中々に尋常な話ではない。  普通、そんな真似ができるのは鍛冶師だけだろう。 「ちょっとしたコツを知ってるからね。  ま、こいつは大丈夫。心配いらん。明日の朝には復旧するよ」 「は……」 「予定通り物置へうっちゃっておけばOK」 「うっちゃっておくわけにはいかないのですが」 「じゃあそのへんに。  さー、お兄さん」 「…………」 「寝ましょ」 「〈寝〉《やす》むのには、同意しますが」 「うん」 「……」 「にゃー」 「……閣下。  ご自分のお部屋へ」 「ここで寝る」 「先程、男女同衾は許さないと確かに」 「記憶にございませんなァー」 「それは政治家答弁というもの」 「政治家っす」 「……そうですね」 「初めてってわけでもなし」 「今朝の事ですか」 「うん」 「あれは、自分が目覚める頃合を見計らって付いていたのでは――」 「なくて、毎晩ひっついて寝てました。  お兄さんをここに連れてきてからずっと」 「風紀上、宜しくありません」 「嬉しいくせに」 「はい」 「あ、嬉しい?」 「健全な成人男性のつもりですので、女性との接触は欲求に適います」 「素直なオスめ。  うりうり」 「閣下。  問題が発生します」 「眠れるんだ」 「はい?」 「お兄さんと一緒にいると。  少しだけ……だけど」 「なんでかな。  ほかの音が遠くなって、お兄さんの音だけが聴こえる」 「お兄さんの音は、あてを苛まない……」  ……何の話だ? 「ともあれ閣下、その、望ましからぬ可能性を未然に摘み取るため必要な配慮を」 「家賃おくれ」 「……家賃ですか」 「金よこせなんて言わないから。  こうさせてくれるだけでいいからさ」 「……だめ?」  内面そして外面がどうであるにしろ、足利茶々丸は一人の少女に違いなかった。    その懇願を、敢えて拒む。  ――だけの意志力が、俺にはどうやら不足していた。 「……湊斗景明の自制心に御期待下さい」 「かっこいいぜお兄さん。  でも、別に自制しなくたっていいからね」 「ご冗談を」 「御姫に見つかったら怒られるかなあ。  まっ、大丈夫か」 「さっき起きたばっかりだし」 「?」  ……聞き間違いか? 「お兄さん、御姫にバラしちゃだめだよ。  これは内緒で」 「話しません。  どうしてか、即座に撲殺されるような予感がします」 「鋭いね」 「……最初からそんな〈危険〉《リスク》を冒さずに済めば、それに越したことはなかったのですが」 「聞こえんなァ。聞こえんねェ。  さーっ、寝よ寝よ」 「…………」  小さな皮肉は、蚊が刺す程度の痛痒も与えなかったらしい。  既に諦めた事なので、構わないのだが。 「お兄さん」 「はい」 「眠い?」 「まだ身体に疲労が残っているようなので、それなりには。  目蓋に重さを感じる程ではありません」 「そか。  じゃ、一つお願い」 「どのような」 「何でもいいから、お話してくれると嬉しいな」 「……話、ですか。  しかし、眠る妨げになるのでは」 「んー、あては逆なの。  耳元で話し掛けられてると、雑音があまり気にならなくなるから」 「その声自体が不愉快だったら意味ないけどね。  お兄さんは、大丈夫」 「…………。  わかりました。その程度の事なら」 「感謝」 「……では……  学生時代、自分が所属していた山岳部での出来事を――――」  ……快適な目覚めではなかった。  頭蓋の奥に鈍い頭痛が〈蟠〉《わだかま》っている。  どうも良くない夢を見たらしい。  記憶は何も残っていないが、悪夢であるなら、覚えていなくて幸いというものだろう。  足利茶々丸は、既にいない。  村正は蜘蛛の姿で傍らにいる。  声を掛けようとした時、戸口が開いた。 「お早うございます」 「……お早うございます」 「お食事の用意が出来ておりますが、いかがなさいますか」 「……頂きます」 「畏まりました。  少々、お待ち下さいませ」 「中将閣下はどちらに?」 「先程お食事を済まされ、執務室に入られております。  御用がお有りでしたら、お取次ぎ致しますが……」 「いえ……結構です」  朝食の後、庭へ出た。  軽く身体を動かす。  予想していた事ではあったが、四肢の感覚は鈍く、やや重い。 「なまっているな」 「病み上がりだもの」  庭石に腰掛けた村正が、宥めるように言う。  焦るな、という事だろう。  銀星号はここにいる――いつ戦闘の必要が生じるとも知れないと思えば、胸はざわつく。  だが焦りに任せて無理な運動をしたところで、意味もなく怪我をする〈落ち〉《・・》がつくだけだ。  俺は気の逸りを抑えて、大きくゆっくりと体操した。  村正の視線が安堵したものに変わる。 (銀星号)  努めて冷静さを保ちながら――  俺は脳裏から追いやることのできない、唯一最大の敵対者について考えた。  正真の〈引辰制御〉《グラビトンコントロール》。  その発現は、事前の反応どころか〈事後〉《・・》の理解さえも覚束ない〈戦闘速度〉《ファイティングスピード》……  そしてあの、何もかも呑み尽くさんとする黒い渦。  俺と村正の〈能力〉《ちから》で、あの脅威に対抗する事は可能であろうか? (否)  不可能だ。  客観的視点に立って断定する――断定するほかない。  あれは武者の枠を既に超えた業。  同様に枠を超えられぬなら、対抗の術などある道理がなかった。  そう思う。    諦観などは抱かずに、それを動かし難い事実として認める。 「〈対抗〉《・・》の方法が無いというだけだ」 「…………」  知らず呟きが口をついたが、傍らの村正は反問せず黙っている。  俺の内心は理解されているようだ。  銀星号の攻撃に、対抗するのは不可能。    ――――なら、先制してしまえばいい。  〈先〉《・》んじて〈制〉《・》す。  それは無論、後先を考えず襲い掛かり、そしてひたすら攻め続ける……という意味ではなかった。  そんな猪武者など、冷静な猟師の狙い澄ました一撃で容易に〈斃〉《たお》されてしまう。  正しく〈機〉《・》を選び、先制するのだ。  庭木の梢に、鳥が止まっていた。  〈椋鳥〉《むくどり》だろうか。一羽きりで、鳴きもせず羽を休めている。  俺はそちらに向いて〈構〉《かまえ》をとった。 (無明)  吉野御流の理を、胸中に落とし込む。  武道一般には『〈先〉《セン》を取る』という表現で語られる事が多い。  勝機勝法を意味する言葉としては〈後の先〉《ゴノセン》が著名だが、これはそれに対応するものだ。  〈後の先〉《ゴノセン》が敵に先手を打たせ、これを防いで勝を取る理念であるのに対し、  〈先〉《セン》は敵が先手を打とうとする瞬間を制して勝利する。  攻撃を仕掛けに出る瞬間とは、無防備なものである。  誰しも攻撃を行う時にはまず攻撃の〈意思〉《・・》を起こさねばならず、攻撃の意思を起こせば防御への意識が散るからである。  〈先〉《セン》の機を確実に捉えられたなら、勝利は約束されたも同然だ。    しかし、それが容易ならぬのは当然であった。  〈先〉《セン》の勝機の訪れは、目に見えてわかるものではない。  あくまでも敵の内面、心の中の動きなのだから。  しかも、時間的に極めて短い。  攻撃を掛けると決めてから実際に殴るまで、三秒も必要とする人間はいないだろう。精々が一秒。練達の武人なら一瞬未満に抑えて当たり前である。  視覚で認識できない変化を、極少の時間で察知し、そして敵よりも早く動かねばならない。  気の遠くなる難業と云うべきであった。  吉野御流はこの難業を、無明の理と称して修練者に求める。    ――〈闇夜〉《ヤミヨ》ニ〈在〉《アリ》テ〈道〉《ミチ》ヲ〈拓〉《ヒラ》ク。  そしてこの理は、突き詰めた果て、更に上位の理へ至るものとする。    ――〈無想〉《ムソウ》。  それは最早、〈先〉《セン》の機を狙ってどうの、〈後の先〉《ゴノセン》を取るためにどうの、という領域を超えた世界である。  想が無しの語義通り、まずそうした考えを持たない。  意思を起こして体を動かす、そんな過程がそもそも迂遠なのである。  敵が攻めて来るという事実が発生する。  その事実を我が意識が捉え、先制しようと決める。  その意思に従い、肉体が太刀を振り下ろす。  …………遅い。  敵の攻撃の事実が発生したなら、即座、肉体が反応すれば良いのだ。  間に意思を差し挟む必要など何もない。  無用な〈時間差〉《タイムラグ》である意思を省くべし。    無想の理。  ……理と呼ぶに値せぬ、〈理不尽〉《・・・》である。  人間は意志と知性に〈依〉《よ》って立つ生物であり、これを放棄して行動できる筈がなかった。  植物とは違うのだ。  しかし吉野御流は――数多ある大和の武芸諸流派は、たゆまぬ鍛錬の果てにその境地へ至れると理想する。  要点は、吉野御流合戦礼法の教示の場合、大別して二項目である。  一つは、技という技、術という術、理という理を、肉体へ〈悉〉《ことごと》く叩き込む事。  血と肉と骨が記憶するまで武を修練する。  あらゆる戦闘状況に対して、いちいち考えを巡らさなくとも肉体が適切に対応する、その素地を作るのだ。    ……困難には違いないが、これは努力次第で成せる。  本当の至難はもう一つの要項。 (捨てよ……か)  養父の教えを思い起こす。  その厳しい声音と共に。  世界には無数の事物がある。  心に触れる物々、心に懸ける事々、心を寄せる人々。  それら全てを捨てる。  無価値、と断定する。  世に価値有るものが皆無であれば、心を動かす要因も無い。  一切の思考を雑念として、切り捨てることができる。  世界の放棄が無想へ通ずる。  そうして感覚を超えた感覚を得る。  意識を収める脳髄と至近の距離にあり、密接に絡む、眼や耳や鼻ではなく――純に武を極めた肉体そのもの、肉体を覆う皮膚の感覚のみによって戦況を理解する。  さすれば余計な思考を挟まず、敵の〈意〉《イ》に我が肉体は即応するであろう。  言うは易い。  行うは難い。  過去、幾人の武人がこれを果たし、剣聖の名を得たのか。  この俺がそんな望みを抱くのは、思い上がりも甚だしいのではないか。  いや。  やるのだ。  やらねば銀星号には勝てない。  対抗不可能な術技の使い手は先制して倒すしかなく、銀星号を先制するには無想の理を我がものとするしかない。  銀星号が攻撃行動を起こした瞬間に俺の肉体が反応する、それでようやく、いいところ五分の勝負。  余計な意思が介在していては絶対に後れを取る。  無想。 「――――」  試してみよう。  あの椋鳥が……  梢から飛び立つ、その瞬間を、  意思によらず……  肌で悟り、  捕獲する。 「…………」 「…………」 「閣下。  お客様が参られました」 「え? 誰?」 「〈古河の〉《・・・》」 「――あぁ。  なんだ、もう来たのかよ」 「通して」 「はッ」 「よぉ。托鉢か?」 「インシュ・アッラー!」 「何でだよ!!」 「ふっふぅ。  久しゅうござるな、茶々丸殿」 「久しいってほど経ってねぇ。  あと、そろそろカサ取れよ」 「おぅ……これは御無礼仕った」 「ほふぅ」 「土鍋登場」 「茶壷くらいの風格はござらんかのう」 「あと十年よく磨くんだな。  で、何の用さ? 古河の公方の童心坊主」 「元より承知しておいででござろう?」 「いやぁさっぱりですね」 「お人が悪い。  わかり申した、ではそれがしから……」 「頃合でござる。  普陀楽に、お戻りくだされぃ」 「あては鎌倉防衛の役目を怠って大将領殿下の御身を危うくさせた抜け作ですよ。  謹慎を解くには、まだちっと早くね?」 「謹慎もなにも……そのような沙汰、幕府は下しておりますまい。  あくまで茶々丸殿が自発的になされた事」 「どのみち無罪放免とはいかねぇだろ。  手間を省いただけのつもりでいるけど?」 「いやいやいや。  確かに、失態と申さば失態ではござろうが……」 「奉刀参拝の折、八幡宮にて何が起きたのか、事件の概要さえ掴めぬうちに罰を云々しても仕方がござらん」 「まだ全然?」 「皆目。  〈大将領〉《との》が八幡宮ごと消え去った――疑いの余地なき事実が有るばかりでござる」 「ふーん」 「茶々丸殿の責任が問われるにしても、事の次第が明らかにされた後の話。  今は幕閣の動揺を引き締めるため、御貴殿の力が必要でござる」 「用が済んだら罪状を決めて処分するってか」 「はっはっはっ」 「あっはっはっ」 「全然面白くねえぞオイ」 「冗談でござる。  どだい、有りもせぬ罪を問うなど馬鹿げた話……」 「あてに罪が無いって?」 「むろん」 「殿は武人であられた。  そして武人が何者かに害されたのであれば、それは本人の不覚というものであって他人の失敗ではござらん」 「……」 「まったく、殿も醜態を晒してくれたわ。  天下を制そうと、最期が骸の在処も知れずときては、竜頭蛇尾の生涯であろうに」 「薄情だな」 「……ふむぅ」 「何さ?」 「いやいや。  少々驚いたのでござる」 「そこで御貴殿がお怒りになられるとは、夢だに思わなかったものでしてのう」 「……別に怒っちゃいねぇ」 「おや。  これはそれがしの見立て違いか。申しわけござらん」 「謝らなくてもいいけど。  で、話はそんだけ?」 「普陀楽に、登城して頂けますかな」 「獅子吼と雷蝶はそんなに手に負えねえか?」 「有体に申せば」 「どっちも別に馬鹿じゃねえだろ。  バカだけど」 「物の道理はわきまえておられるが。  ご両所とも、対立する相手とは真っ向からぶつかる以外の選択をできぬ気性でござってのう」 「いささか持て余しており申す」 「良く言うぜ。  おじじがいた頃も、六波羅の手綱を実質のところで握っていたのはあんただ……」 「今更御せないなんてこたねえだろ。  頭の上の重石が取れて、やりやすくなったくらいだろうが?」 「おぅ、それは買いかぶりと申すもの……。  童心坊主ごときにそんな器量はござらん!」 「獅子吼殿と雷蝶殿の間を取り持つのに四苦八苦するばかり、殿の失踪から案件は溜まる一方でござるのにろくろく手も付けられず。  これでは幕府は、瓦解を待つのみ――」 「天下万民のためでござる!  茶々丸殿、どうか力をお貸しくだされ!」 「要は獅子吼と雷蝶がいちいちうるさい〈宿老〉《あんた》を敵視しはじめる前に、緩衝材としてうってつけの奴を呼び戻しておきたいってんだな?」 「お茶はまだでござるかのう」 「出さねえよ。  ったく、ムシのいい爺いだ」 「茶々丸殿……この通り、お頼み申す。  御貴殿にしても、伊豆に引き篭もっていたところで面白いことは何もござるまい」 「そんなことないもんねーだ」 「鎌倉防衛の責任については、自ら謹慎する態度を見せられた、それだけで充分でござる。  以後一切、誰にも追及はさせぬこと、この遊佐童心がお約束いたす」 「お求めとあらば、一筆残しましょうぞ」 「…………」 「一つ、借りということで……  いかがでござろうか?」 「あんたに貸してもなぁ」 「犬馬の労を厭いませぬぞ。  それがし、家臣のつもりで茶々丸殿のために働きましょう」 「いらねえよ……こんなあからさまに腹黒い家臣……。  どこの斎藤道三だよ……」 「その申されようは心外でござる。  ならば、それがしの誠意をご覧あれ」 「……何する気だ?」 「足を舐めさせて頂こうかと」 「金取るぞてめぇ!!」 「うむぅ。難儀な御方よのう」 「もうこいつ殺しちゃおうかな……」 「……ん?」 「いかがなされた」 「童心坊。  あんた、変なの連れてきてねーか?」 「はて?」 「あての方には、〈こんな〉《・・・》剣呑な奴に付け狙われる覚えなんてないんだけどな。  今のとこ」 「……ほッ」 「これは、掛かってきよったかな」 「何だ?」 「いや先日、普陀楽で〈遊び〉《・・》ましてのう。  岡部の姫を肴に少々」 「……あー。報告は聞いてるよ。  能舞台にかこつけて、なんか愉快なことをやったんだって?」 「お聞き及びでござったか。  いや、お恥ずかしい」 「たまには本気で恥じろよエロ坊主。  〈邦氏〉《ときおう》も相当、いじめたらしいじゃねえか」 「教育のつもりでござるがのう」 「嘘こけ」 「くふ、ふっふぅ……。  この悪趣味はそれがしの〈業〉《ごう》、どうしようもござらぬわ」 「で……コレか」 「鼠は出て来るのをただ待つより、餌で釣り出して捕まえる方が上策でござってな。  岡部の残党どもにしてみれば今は隠忍自重の時、しかしそれを許しては我らには不都合」 「最初から挑発が目的だったっての?」 「はっはっはっ!  やってしもうた後で、そういうことにしておけば獅子吼殿への弁明も立つと思ったまででござる」 「救えねぇー。  それで、どうする?」 「茶々丸殿のお手を煩わせるべき筋合いではござらんな。  のう……天井裏の御仁よ?」 「それがしが相手でなくば、おぬしとて張り合いがあるまい!」 「……」 「逃げたな」 「手応えはあったが……  なかなかにしぶとい奴」 「もっとも、この館から抜け出ることは叶うまい」 「変な面倒持ち込みやがって」 「申し訳ござらん。  これで、借り二つでござるな」 「あてはまだ鎌倉に戻るなんて言ってねーぞ」 「茶々丸殿……」 「もうちょっと待ってろ」 「むぅ?」 「近いうちに戻る。  時機を見てな」 「時機とは」 「そりゃこっちの話だ。  ま、二ヶ月も三ヶ月も待てなんて言わねえから安心しろ」 「……わかり申した。  普陀楽にてお待ちいたす」 「あぁ」 「では、それがしは御免仕る」 「帰れ帰れ。  塩まいちゃる」 「茶々丸殿」 「まだなんかあんのか?」 「将たる者、破滅に魅入られてはなるまいぞ」 「……」 「わからぬ。  何がそこまで、茶々丸殿を絶望させているのか……」 「わかるのは、その瞳に破滅が巣食っているということのみ。  深く……深く」 「……これがいずれ、何をもたらすのか……」 「そこなお坊さん」 「うむ……」 「一つ相談があります」 「それがしでお役に立てるなら、何なりと」 「やにわに電波系だか遠回しな宗教勧誘だかものすごく遠回しな口説き文句だかさっぱりわからんことをのたまい始めた奴がいるんだけど、こいつどうしたらいいですか」 「ふわっはっは!  それは石でも投げて追い払うしかあるまいのう!」 「失礼」 「…………」 「糞坊主が」 「あては絶望なんかしてねえ。  疲れてるだけだ……」 「……何やら騒がしくなってきたな」 「そうね……。  何かあったのかしら」  敷地内の何処かで、多数の人間が走り回って何かを追っているような気配がある。  足音、そして声。  戦闘とまではゆかぬにしても、不穏な様子だ。 「銀星号……ではないな?」 「ええ」  村正の返答に迷いはない。  あれが現れたのなら事態は一目瞭然、既に周辺一帯は混沌の渦中にある筈であった。  差し当たって、わざわざ首を突っ込みにゆく必要はないだろう。  俺は鍛錬を続けることにした。 (無想)  元より、一朝一夕に成る事だとは思っていない。  才有る武人が一生涯を修行に費やして、それでなお辿り着けるかどうかは天運を恃まねばならない境地だ。  湊斗景明が、この年齢で手掛かりのひとつなりとも掴めていたなら、望外の幸というものだろう。  しかし俺は手掛かりどころか全てを手にせねばならない立場なのだ。  それが必要なのだから、獲得しなくてはならないのだ。  そう思うと……  二時間試してもまるで手応えというものを感じられないこの現状に、暗澹たる気分を催さずにはいられなかった。 (焦るな……)  焦りは何の益にもならない。  無論、諦めも。  もう一度やってみよう。  今度は――あの木の葉がいい。  そよ風に揺られ、今にも落ちそうに見える。  耳目を使わず、あの葉が落ちる一瞬を察知し、地面へ落ちる前に手で捕まえるのだ。  ――今か!?  取った!! 「…………」 「ごめん……  声掛けようか、迷ったんだけど……」 「…………」 「うわぁ」 「おぬし、感情表現が苦手か?」 「失礼致しました。  鍛錬中にて、全く気付かず」 「や、や。謝るには及ぶまい。  悪戯心を起こし、黙って近付いたこちらの非に決まっておるからのう」  からからと笑う、巨躯の僧侶。  ……誰だろうか? どうもこの堀越御所の人間には見えないが。 「しかし、鍛錬とな?」 「口幅ったい申しようでありました」 「か、どうかは聞いてみるまでわからぬ。  お若い方、いかなる鍛錬をしておられたのかな?」 「は……」  他人に話すような事柄ではない。  増して何の成果も挙げていないとなれば尚更、口外するのは恥ずかしい。  とはいえ、所以もなしに胸倉を掴み上げてしまった負い目がある……。    俺は仕方なく、僧の興味深そうな視線に応えた。 「いわゆる無想という理念を、体得できないものかと」 「ほゥ……。  無想」 「目に頼らず、そこの葉が落ちる瞬間を悟れないか、試していたのです」  梢の葉はまだ風に揺れていた。 「それは、〈生半〉《なまなか》な修行では成し得まい」 「如何にも……」 「高みを目指して己を鍛えるのは良きことであろうがの。  おぬし、武人として大成するが望みか?」 「…………いえ」  間を挟んだのは、回答に悩んだからではなく、回答が自分でも不思議であったからだった。  そう。俺はいま剣聖になろうとして足掻いているが、剣聖の境地そのものには深い関心を持っていない。  考えてみれば、変な話だ。 「ただ、必要なので」 「うむ?  無想を体得することが、必要?」 「……はい。  自分には、倒さねばならぬ敵がいるのです」 「自分より遥かに勝る力を持った敵が……」 「ほゥ……」 「……」 「その者と戦って勝つために、無想の境地を目指している、と……?」 「はい」 「……なるほどのう」 「〈御坊〉《ごぼう》。  宜しければ、御助言を下さいませんか」 「助言か……」 「自分如き凡才には、まさに雲を掴む心地」 「ふっふぅ」 「……」 「ふわっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」 「ちょっと貴方!」 「はっはっはっはっはっはっはっ――」 「こんのっ……  坊さんのくせに、ひとの悩み聞いて笑うってどういう了見よっ!」 「事と次第によっては一発かますからね!」 「村正。怒るな」 「だって!」 「傍から見れば滑稽なのは間違いない」  自分でも変だと思ったばかりである。 「そんなことないもの。  だいたい、人が真剣にやってるのを茶化すってのがおかしいでしょ!」 「いや、全く全く……  蝦夷の姫御の言う通り」 「これは拙僧が悪かった。  この通り、お許しくだされ」 「…………」 「頭をお上げ下さい。  助言を求めたのはこちらの勝手、御坊が気に病まれる事は何もありません」 「いやいやいや」 「謝るなら、笠くらい取りなさいってのよ」 「村正」 「いちいちごもっとも。  しかし、取るに取れぬ事情がござって」 「このことも含めて、どうかご勘弁くだされ」 「ふんっ……」 「代わりと云うては何だが。  お若い方、助言をさせて頂こう」 「……は。  承ります」 「先ほど笑うたのは、おぬしの修行がおかしかったわけではなくての。  おぬしの心得違いがおかしかったのよ」 「心得違い……」 「うむ」 「何よ、それ」 「そも……  無想とは、何であろうかな?」 「……」 「一切の執着を捨て去り、何も欲さず、何も求めず……  心を〈空〉《くう》として、世界と同化することであるかと」 「空は〈全〉《ゼン》に通ず。  全てを得んと欲する者、全てを捨つるべし」 「は」 「色即是空、空即是色。  世に万物あれど、執着すべき物はなし……」 「……」 「わからぬかな?」 「……はっ?」 「おぬしは誰かと戦うために、無想を求めるのであろう?」 「はい」 「執着しておるではないか」 「――――」 「勝ちに執着するがため……  執着を捨てねば至れぬ境地を求める」 「これは道理が通るまい」 「……………………」 「勝ちにこだわる間は、決して無想に届かぬ。  無想に届いた時は、勝ちなどどうでも良くなっておる」 「いや、まこと残念だが――  敵に勝つため無想を求めるというおぬしの修行、これは全く、何の、意味もないっ!」 「ふわっはっはっはっはっはっはっはっは!!」  再び大笑する僧侶。  先の謝罪など忘れたと言わんばかりの態度であったが、俺はやはり、腹を立てることができなかった。 (何と、まあ――)  笑われるのも仕方ない。  初歩的と云うか何と云うか。  実に下らぬ、愚かな過ちを犯していたものだ。  自分で自分を指差して笑いたいくらいの心地だった。 「……でもむかつく」 「仕方ない」 「一発殴らせて」 「やめておけ。  この方が忠告して下さらなかったら、俺はいつまで的外れな修行をしていたかわからん」  むしろ礼を言うべきであろう。  そう気付いた俺は、いまだ腹を震わせている僧侶に一礼した。 「貴重な御助言を賜りました。  御坊、有難うございます」 「いや、いや……  ……ふむ……」 「さて、わしとしたことが。  相手がこう率直だと、ただ笑ったままでは帰れぬ心地だのう……」 「いいから行きなさいよ、もう。  つぎ笑ったら、本当に手か足が出ますからね」 「剣呑剣呑。  では、手短に済ませよう」 「お若い方、おぬしが求めるべきは無想ではない。  無我であろうの」 「無我」 「うむ」 「……」 「意味はおわかりか?」 「字義を追えば……  〈自己〉《おのれ》の全てを無にすること、かと」 「さよう。  無想が外の〈宇宙〉《せかい》を無とする理念であれば、無我は内の〈宇宙〉《おのれ》を無とする理念」 「これもまた、〈全〉《ゼン》に通ずる法であろう」 「しかし、御坊」 「うむ」 「これもやはり、自分には意味がないのでは……」  〈銀星号〉《てき》を倒すという望みは、紛れもなく自己の意思から来るものである。  我を消せば、その望みもまた消える道理。 「さて、どうであろうかな」 「……」 「敵に勝ちたいと云うたのう。  それは、全くの私欲からかな?」 「はい」  私事、私欲である。 「本当に、私欲のみか?」 「は……」 「……詳しい話はしないけど、色々と厄介な相手だから。  倒した方が世の中のためではあるでしょうね」 「村正――」 「もちろん、だから私達は正義だなんて烏滸がましいことを言う気はないけれど」 「いやいや。  ここは、その烏滸がましさが肝要よ」 「お若いの。おぬしはその敵との戦いがまず第一に私事であるがゆえに、世のためなどと称するのを恥じるのであろうが……  それもまた心得違い」 「……とは?」 「無我に至らば、私事も私欲も既に無い」 「有るのは世の大義のみ。  その敵を討てと欲する、世の意志のみ」 「――――」 「おぬしの戦いに、一片でも大義があるなら。  迷うことはない。無我の境地を求めよ」 「おぬしの意思が消え去ろうとも……  世の意志がおぬしを衝き動かし、敵を討つであろう」 「…………」 「…………」 「ふっ、ふっふぅ。  やれ、柄でもないことをほざいたものよ」 「おぬしがさような大義の武人となった暁に、まず斬られるはこの破戒坊主であろうにの。  墓穴を掘るとは、このこと」 「お若い方、そのような者になってくれるでないぞ!  わしは大いに困るからのう!」 「はぁっはっはっはっはっはっはっはっ!!」 「…………」  〈無我〉《ムガ》。  ……無我、か。  朝と違い、昼食の席には堀越公方の姿があった。  年齢相応の健啖ぶりで、選り好みせず箸を動かしている。  光はいない。 「先刻、何か騒動があった様子ですが」 「あー、あれ?  大したこっちゃないよ。ただのこそ泥」 「なんか逃がしちまったみたいだけどね。  まぁ、どうだっていい」 「……そのこそ泥って。  やたらとでっかい坊さんじゃないでしょうね?」 「? ……違うけど。  なんだ、あいつに会ったのか?」 「ちょっとね。  あれ、貴方のお友達?」 「そう言われると、喧嘩売ってんのかてめえと返したくなる。  そんな間柄です」 「気が合いそうなのに。  性格の悪い者同士で」 「本気で喧嘩売ってんなてめえ」 「食事中に騒ぐならあっち行って頂戴。  鬱陶しいから」 「この足軽具足、誰の家で飯食ってるつもりなんでしょうね……」 「それで、あいつなんか言ってた?」 「別に。  癇に障る大笑いを聞かされただけよ」  そう答えて村正が眉をひそめる一方、俺はひそかに安堵していた。  実はあの僧が騒動の原因なのではという一抹の懸念をずっと拭えずにいたが、杞憂だったらしい。  俺は堀越公方府に属す人間ではなく、彼が敵意ある侵入者であったとしても捕まえる義務はないのだが。  居候している立場、彼に有意義な助言を受けた事実などを考え併せると、心中は複雑なものになったろう。  助言。      ――――無我。 「…………」 「お兄さん、〈鰆〉《さわら》きらい?」 「――は。  いえ、そのような事はありません」 「そう?  箸で挟んだまま固まってるから、よっぽど嫌なのかと」 「いい〈寒鰆〉《かんざわら》ね」 「今朝とれた直送品だ。  味わって食いやがれ」 「もちろん。  ふぅ、御飯が進む……」 「お代わり貰える?」 「あ、はい」 「どうぞ」 「ありがとう」 「じゃ、ねぇーーーーーーーーーーっ!!  なんであてがおめーのごはんよそってやらなきゃいけねえんだぁぁぁあああああああ!!」 「うるさいやつねー。  はいはい、じゃあもう頼みません」 「御堂、お代わりいる?」 「そうだな……貰おう」 「はい」 「済まん」 「ふふ……」 「どうした?」 「ううん。  こういうのもいいなって、ちょっと思っただけ」 「そうか……」 「地獄のように腹が立ちます!!」 「何なのよ貴方。  頼めば怒るし頼まなくても怒るし」 「わがままいっぱい過ぎない?」 「違うわー! あての怒りは正しい怒りじゃ!  ねえ、わかってよ! お願いだからわかってよっ!」 「わかんないし」 「えーんえーん」 「この子どっか行かないかしら」 「おめーのさすがは劒冑と言わざるを得ない冷血ぶりには茶々丸さんもたじたじですよ。  つーか……あまりにもナチュラルな態度に騙されて今の今まで気付かなかったが……」 「なに?」 「おめー、劒冑だろ!!  なんで飯食ってんだよ!?」 「――――」  ……気付かなかった。  今の今まで。俺も。 「いいじゃない、食べたって。  せっかく肉体化してるんだから」 「激しく無駄な気がするんだが」 「そうでもないのよ?  こうやって摂取した栄養素は、熱量に変換して私の心鉄にいくらか蓄えておけるし」 「そうなのか」 「もちろん、本物の肉体に比べたら変換効率はあまり良くないけどね」 「具体的にはどんなもん?」 「米俵ひとつで、普通の人間が小皿一杯分の御飯から得られる程度の熱量」 「謝れ! お百姓さんに謝れ!  そして二度と食うな!!」 「何よ。残したって無駄になるだけでしょう。  もったいないじゃない」 「裏庭へ捨ててダンゴムシのエサにした方がまだしも宇宙船地球号的には有意義ですよ!!」 「いやよね。こういう屁理屈を並べて意味もなく人を傷つけるやつって」 「あては間違ってねぇーーー!  絶対に間違ってねえーーーーーー!!」 「つーかあて、さっきから何度叫んでるんだ畜生ーーーーーー!!」 「……」  内心、堀越公方に同意せぬでもなかったが。  言うと後難がありそうだったので黙っておく。  それに実際問題として、多少でも熱量の蓄積が増すなら、銀星号との力量差を埋める役に立つ。  例え薄紙一枚分であろうと、近付く努力を怠るべきではなかった。  特に今は。  〈仕手〉《おれ》の努力が薄紙一枚分の成果すら挙げているとは言い難い状況なのであるから。 「…………」  無我。    無我の境地か……。 「御堂?」 「……ああ」 「なんかまた固まってたね。  さっきから、どしたの?」 「少々考え事がありまして」 「……あのいんちき坊主に言われたこと?」 「からかわれた節があるのも事実だが……  やはりあれは、忠告であり助言であったのだと思う」 「…………」 「置いてけぼりです……」 「ごめんなさい」 「そうね、御堂がそう思うなら……」 「謝るだけかよ!  説明してくれないのかよ!」 「貴方には関係ないもの」 「家主権限で、仲間外れ禁止を命ずる。  いじめかっこわるい」 「というわけでお兄さん、何があったの?」 「……は」  真意が不明とはいえ、堀越公方は銀星号の支援者である。  その彼女に銀星号と戦う方法について相談するなどナンセンスの極みだろう。  しかし、今はどんなに低い可能性でも逃したくない心境だ。  それに他人に説明することで考えが整理されるかもしれない。  ……結局、俺は午前中の出来事を彼女に話した。 「英雄になれってことだね」  聞き終えて、足利茶々丸はあっけらかんと言った。 「……英雄」 「うん」 「はげぼーず、珍しくいいこと言ったもんだ。  そりゃ確かに、お兄さんに必要な助言だよ」  納得の様子で、繰り返し頷いている。  ……こちらは反比例して、不信の念が強まっていた。  無我。  自我を消して一切の雑念を去らしめ、感覚を超えた〈観〉《カン》を獲得――その上で世の意志、大義に従って戦えば良いのだとあの僧侶は言った。  何が正しく何が誤りかを直観的に判断する〝〈良知〉《りょうち》〟が人間の根底には備わっている、だから迷わずそれに従えば良く、個人的な利害損得などの雑念に囚われて悩んではならない――とする陽明学の教えにも通ずる。  成程、英雄だ。  我を捨て世のため戦う者、それは英雄に違いない。 「納得いかなそうな顔やね」 「いえ、反対です。  御賢察の通り、無我とは英雄の道……」 「無想と同様、自分には縁遠いものと理解しました」  この大量殺人犯が世の英雄たらんとする――冗談にしても出来と趣味が悪過ぎる。  銀星号と戦う方法は、他に考えなくてはなるまい。 「そんなはずはないっしょ」 「……と言われると?」 「お兄さんはこれまでだって散々やってきた。  〈英雄〉《・・》」 「世間で噂になってるの、知らないの? 〝赤い武者〟――けっこう有名だよ」 「……それは、聞いた事がありますが」  俺の二年間の行状について堀越公方は詳しいらしい――その事は別に今更意外とも何とも思わなかった。  銀星号を手元で養っていたのだから、熟知していて当然だ。  半瞬、意識を占めたのは、一人のジャーナリストの事だった。時田光男。  志を持って俺に近付いた男。彼も赤い武者という名を口にした。そして俺の手で斬られた。 「自分の引き起こした事件の表層的な部分が一人歩きして生まれた風聞に過ぎません。  まるで実質のない呼称です」 「火のない所に煙は立たんからねェ。  英雄呼ばわりされるからには、される理由があるんだと思うよ」 「心外です」 「不愉快?」 「はい」  正直に答えた。  俺に対する英雄呼ばわりは、俺に殺された人々への嘲弄である。 「でもお兄さんは、不愉快だからってだけで人の言葉をはねつけたりしないっしょ?  そこに甘えて話を続けるあてなのであった」 「……」 「律義者が横着者に勝てない理由を、目の前で見せられてる気分ね……」 「閣下。無論、お言葉は真摯に聞かせて頂きます。  しかし受け入れるかどうかは、また別の事」 「理に適ってない話なら聞かんよ、ってことでしょ?」 「要は」 「理なんて単純明快。  三段論法で話そうか?」 「己のためではなく世のために戦うのが英雄。  戦いたくないお兄さんが戦ってきたのは世の中のため。  従ってお兄さんは英雄である」 「以上」 「――――」 「どっか間違ってる?」 「……違います。  自分の戦いは、あくまで自分の都合で」 「お兄さんは戦いたかった?」  ようやく気付いた。  食卓の空気を乾かさないための雑談、そんな様子はとうに消し飛んでいる。  堀越公方足利茶々丸の両眼が、異様な情熱を込めて俺を束縛していた。 「〈やりたくてやってたの〉《・・・・・・・・・・》?  罪もない連中を殺したり、妹と戦ったり」 「それは……そういう問題では、」  言葉遊びだと、理解している。  彼女は故意に言葉を入れ替えているのだ。  俺の戦いは、殺人は、俺個人の都合で行われたものだった。そこに疑いの余地はなく、世間だの何だのに責任転嫁する余地もない――彼女は都合という言葉を好き嫌いに置き換えて、俺を揺さぶっているだけだ。  だから……聞く耳を持つ必要はない。 「お兄さんは……  本当はそんなこと、したくなかった」 「……」 «あの餓鬼共を……  あの姉妹を、嫌々ながら殺しやがった!!» 「したくないけど、やったんだ。  それが世の中のためだから」 「そうしないと、たくさんの人間が死ぬから」 「……違う」  それは事実だ。  それは事実だが、違うのだ。  〈だからといって〉《・・・・・・・》、〈俺が英雄などと呼ばれては〉《・・・・・・・・・・・・》、〈なら〉《・・》〈ないのだ〉《・・・・》。 「御堂……」 「ね、お兄さん。  こいつは徹頭徹尾、単純明快な話なのさ」 「お兄さんはややこしく考え過ぎてる。  それじゃいつまで経っても、〈銀星号〉《おひめ》に勝てないよ」 「……」  茶々丸の声は優しい。  頭ごなしに押さえつける圧力も、臓腑を抉る鋭さもない。  いたわるような優しさだけがある。     ――――悪魔の囁きなのだと、直感した。 「お兄さんはこれまで、いやなのを我慢して戦ってきた。多くの人を救ってきた。  英雄の資格は充分だね」 「でも御姫には勝てずにいる。  何でだろう……?」 「〈英雄は魔王に勝つ〉《・・・・・・・・》と決まってる。  世界がそう望むから、必ずそうなる」 「なのにお兄さんは勝てない」 「……それは、お兄さんが英雄になりきれていないからだよ」 「…………」  英雄に、なりきる? 「お兄さんは戦いたくない」 「本当は、御姫と戦いたくない。  殺したくない」 「心の底でそう思ってる」 「――――――――――――――――――」 「だから勝てない。  これは、あたりまえ」 「殺したくないなんて思ってたら勝てるわけないよ。技量がどーの性能がどーの、なんて以前の問題だって。  お兄さんは、まずその迷いを捨てないと」 「……無我……」 「そう」 「自我を捨てて……  個人の情を捨てて」 「御姫を、世界の敵とだけ思う。  殺さなくてはならない、魔王だと認める」 「英雄になるんだ。  ならなきゃいけない」 「それはお兄さんの役目だ。  そうでしょ……?」 「…………」 「何故」 「……?」 「貴方は銀星号の味方ではないのか?  何故……そんな話をする?」 「御姫のことは大好きだけど。  味方、っていうのは違うな」 「御姫に味方なんているわけない。  味方がいたら敵もいるってことになる。で、村正の戒律は敵味方を必ずどちらも殺させる」 「あてが御姫の味方なら、とっくに死んでなきゃおかしいよ。  御姫は本当に、敵意なんて無しに人を殺してるんだ……」 「それはもうわかってるでしょ?」 「……」 「あてが味方するとすれば、むしろお兄さん」 「自分に?」 「うん」 「……善悪相殺の戒律があるのは、こっちも同じなんだけど」 「構わない」 「お兄さんが望んでくれるなら」 「英雄になって、魔王と戦うなら」 「いいよ。  一緒にいこう……」  足利茶々丸が、俺の耳元へ唇を寄せる。  そうして囁く。  冷めゆく一方の食卓とは対照的に。  熱っぽく―――― 「あてとお兄さんとで……  御姫を殺そう」 「……………………」 「…………」  何ということもなく、ひとり嘆息する。  こんな行為も肉体化していればこそだが、別にその有難味を噛み締めたくてしたのではなかった。  景明はいない。庭で鍛錬を再開している。  彼に何を言われたわけでもないが、一人になりたい気配が察せられて、少し距離を置いたのだ。  昼食の席での事について、考えたいのだろう。  私にしてみれば、あれは益体もない話だった。  あのいけ好かない坊主も、更に輪をかけて気に食わないこの館の主も、景明を惑わせたいばかりにあれやこれや吹き込んだとしか思えなくて腹が立つ。  けれど、だから悩むのなんてやめてしまえとは、彼に対して言うべきではなかった。  劒冑の領分を越えるからだ。  道を定めるのは仕手の役目。  定めた道を進む力となるのが劒冑の役目だ。  仕手に対して劒冑の立場から意見を示すだけならばともかく、それ以上に踏み込んだ指示などすべきではない。  それは、仕手を信頼していないという事になる。  過去を改め、いま懸命に私を信頼しようとしてくれている彼の気持ちを裏切る事になる。    そんな事ができるものか。  そう思ったから、何も告げず景明のそばを離れた。 「…………」  再び吐息。  一人の時間は、私にも必要だったのだろう。  こうして単身になってみると、〈心鉄〉《こころ》の底で〈揺蕩〉《たゆた》っていた不安が急にはっきりと形になってくる。  景明が隣にいる間は見ぬふりをしていられたのに。  ああ、なんて有難い。 (でも……そうね)  どのみち、考えなければならなかった事なのだ。  皮肉ではなく本当に、この機会には感謝するべきなのだろう。  銀星号――二世村正との戦いについて。  景明が仕手として勝算を模索しているように、私も劒冑として検討している。  着目せざるを得ないのはやはり、敵の〝心甲一致〟ぶりだった。  銀星号はまさしく武者の理想の体現だ。  仕手と劒冑の間に全く齟齬が無い。あの異常極まる戦闘速度と威力行使は、まずその点に立脚しているとみて間違いなかった。  あの二者は既に互いを同一視しているのではないかとすら思える。  おそらく事実、それに近いものがあるのだろう。  比較して――私達はどうか。 「……」  あの日以来……  景明のことを考える時間が増えた。  以前に比べれば、装甲時の〈一体感〉《・・・》はずっと強い。  その変化は性能にも反映されている。    しかし―― (御堂) (私を必要だって、言ってくれた)  ふと気付けば、あの日の言葉を思い出している。  そこにある、抗い難い熱に浸っている。  しかし―― (これが……邪魔、なの?)  仕手を、〈他者として意識している自分〉《・・・・・・・・・・・・・》。  この意識が完全な一体化を……  心甲一致の完成を妨げているのだろうか?  劒冑と成ってより五百年。ただ闇に沈んで過ごした。  二年前に解放され――しかし、孤独は何も変わらなかった。  それが先日、遂に本当の意味で〈仕手〉《あるじ》を得た。  今の私は彼に求められてここに在る。  もはや孤独ではない。  本来、自分は永遠に眠っていることを望まれた存在であり、目覚めて活動している現状こそ望ましからぬ災厄を意味しているのだと、痛切に知っていても……  抑えられない喜びがある。  景明が差し伸べてくれた手を握り返し、決して放すまいと思う。    ……この想いが、邪魔?  銀星号は、仕手と劒冑とでいちいち相手を気遣ったり思いやったりしているようには到底見えない。  むしろ一種の無視に近い――自分自身をいちいち気にしたりしないという類の。  私達も、そうならなくてはいけないのか。 (それは……) 「…………」  三度目の嘆息。  一人でいる限り、幾度となく繰り返す事になりそうだった。  刀は程良い重量だった。  武者や騎卒が用いるのに適した太刀ではない。  徒士専用の〈打刀〉《うちがたな》である。太刀に比べると反りが浅く、尺も短く、取り回しの癖が少々違うが、基本的に扱い易く出来ているので問題は無さそうだ。  空手よりは得物があった方が鍛錬になるかと考え、堀越公方に頼んで貸し出して貰った物である。 「…………」  剣を右肩上へ担ぐようにする、武者上段の構。  そうして、敵影を〈想定〉《イメージ》する。  銀星号。  ……否。  〈光〉《・》。 (そう思わねばならない……)  銀星号という通り名で考える事すら、無意識の逃げなのだろう。  足利茶々丸の指摘が正しいならば。  俺が心の底では、光を殺したくないと望んでいるのならば。 (斬る)  剣を構え、光の姿を幻視し、決する。  光を斬る。  斬らねばならないから、斬る。  他の考えは持たない。  それらは全て雑念だ。  妹であるとか……  統様の娘であるとか……  俺の手で守るよう、定められたものであるとか……  雑念だ。  捨てる。 (斬る)  斬る―― 「…………」 「…………」 「対手は、おれか」 「わかるのか……」 「それだけ想われていればな」  小さく微笑して、光は裸足のまま庭へ降りてきた。  ……〈本物〉《・・》である。  いつから近くにいたのだろうか。 「幻を相手に稽古しても、興が無かろう」 「……」 「さ。来い」  光は軽く、両足を開く程度に構えた。  片手を上げて、差し招く。  隙が無いかと言えば、その姿は隙ばかりである。  〈何時〉《いつ》でも何処からでも打ち込めると思える。  練達者に特有の、自然体と見えて実はその内に千変万化の業を蓄えているがゆえの凄み――といったものも、無い。  本当にただ立っているとしか見えなかった。  にも関わらず、踏み込めないのなら―― (俺の心の弱さ)  なのか。  斬りたくないと思っているから、斬り込めないのか。  今、手にしているのは本物の鋼。本物の刃だ。  生身の肉体など、青菜のように斬り裂ける。  殺せる。  俺は、光を殺せるのだ。  妨げが有るとすれば、  俺自身の、弱い心のみなのだ。 (それを……消す)  脆弱な精神を去らしめる。  無我。  殺意だけを残す。  光の生存を望まない、世の人々の総意に従う。  雑念の全てを消し去って、掴め。  最良の機を。  対敵の呼吸を掴み、〈意〉《イ》を掴み、死を掴む。  対敵の命運を掌中にする。  それは風を捕まえるにも等しい。  しかし、できる筈だ。  無我の奥境に達すれば……  見えざるものも〈確〉《しか》と見えよう。  ――このように。  感覚が徐々に変化する……  これが、〈観〉《カン》に近付いているという事か。  眼と耳ばかりに頼っていた認識界が、曖昧で不確かなものと成り果ててゆく。  しかし、理解はむしろ明瞭である。  庭園の構造を、〈嘗〉《かつ》てなく詳細に把握する。  その中に己の位置を正しく知る。  敵の位置もまた同様。  〈観〉《カン》の世界に、光の真像が浮き彫りになる…… 「――――ッ!?」  消えた。  〈観〉《カン》の世界から、光が消失した。  何処にもいない。  ……いや。認識できなくなったのだ。  そんな馬鹿な事が。  俺の〈観〉《カン》が未熟で、定まっていないからか?  違う――未熟の是非はともかくとして、それが原因ではない。  俺は今、五〇メートルばかり離れた場所で松の木に登り仕事に勤しんでいる庭師の挙措を知覚できている。  その真偽は後で確かめるまでわからないことだが。そんな遠くの動きが濃密に掌握できているのに……  いる……辛うじて、それは掴める。  だが余りにもあやふやだ。  呼吸が薄い。  〈意〉《イ》が薄い。  存在が希薄に過ぎる。 (どういう事だ)  遂にほんの片鱗だけ掴むことのできた〈観〉《カン》の世界が、芽生えた疑問によって虚しくも崩壊してゆく。  防ぐ手立てはなかった。 (〈おまえはここにいるのか〉《・・・・・・・・・・・》) (光……  おまえは本当に、そこにいるのか?)  そんな問いに、答は何処からも与えられない。  明々白々、光はそこにいるのだから。  わかり切った事実を問う愚劣漢など、世界は相手にしてくれない。  放り出して、嘲笑するだけなのだ。  気付けば。  俺は足腰の力を失い、空を仰ぎ、それでも背を地面に触れさせてはいなかった。  その不思議を、三秒間費やして解消する。  ……俺は支えられていた。  支えていたのは光だった。 「健気なやつめ」 「……光……」 「そんなにもおれに追いつきたいか」 「その愚直な執念はいとおしい。  八幡宮で〈あれ〉《・・》を見せてやった甲斐もある」 「……」 「お前には……わかっているのか?  俺が何をしていたか……」 「一口にいえば、明鏡止水。  雑念を捨て去り、光をより深く近しく感じ取ろうとしたのであろう」 「……」 「ふっ……ふふ」 「わかるさ。  おまえの心の動きをつかむくらい、姫椿の咲き頃を読むよりもたやすい」  光は左手の人差し指で、植え込みの〈蕾〉《つぼみ》を示した。 「あと二日だな」 「……俺には、おまえがわからなかった」 「焦るでない」  繊細な造形の指が戻り、俺の頬へ触れる。  そこに付いていた土埃を、丁寧な仕草で拭った。 「光はここにいる……。  おまえを置いて、逃げたりはしない」 「おまえが来るのを待っている」 「…………」  斬るべき――斬ろうと思った相手から、慰めめいた言葉を掛けられる。  何か、何処かで決定的に踏み違えているこの状況下、俺の心は屈辱に沈むより、ただ混迷した。 (これは何だ) (〈これは何だ〉《・・・・・》)  混迷する。  その中から浮上するのは、単純な核心。  それだけは間違いのない、一つの結論。 (俺は――お前を殺さなくてはならない)  手を伸ばす。  穏やかに見詰めてくる光、その喉首へ。 (すぐに。  今、この瞬間に)  光。  お前が待つと言っても、俺は待てない。  待つわけにはいかないのだ。  時間を与えれば、お前は何をする?  また、銀星号になるのだろう……。  膨大な災禍を引き起こすのだろう。  膨大な不幸を撒き散らすのだろう。  膨大な死者を産み落とすのだろう。  だから殺す。  今、すぐに。  その喉を捕まえ。  一息に、握り潰して。 「…………」 「……」 「……っ……」 「苦しむか。景明……」 「……」 「光は業深い。  おまえの苦しみを甘露のように感じている」 「だが……  やはり、そんなおまえを見るのは辛いと……そう感じる部分もある」  幾多の血を、幾多の断末魔を浴びた指が、俺の頬を愛撫する。  冷たいのか、温かいのか――俺にはわからなかった。  わかりたくなかったのかもしれない。 「……良かろう……」 「景明。  おまえの苦しみを拭ってやる」 「!」  その影は瞬時に現れた。  白銀の女王蟻――二世村正。  仕手の声なき指示を受けたのか。 「光がわからないと言ったな……」 「――――」 「わかるようにしてやろう。  おまえの雑念、力ずくで払ってくれる」 「それは……っ!?」  ――――〝卵〟!? 「〝波〟の結晶だ。  これだけあれば、おまえにも効くだろう」  波。  精神汚染の波。  銀星号が撒く、心を冒す疫病――  ……俺を、あのようにするというのか!? 「おまえの雑念とは、とどのつまり外界全て」 「いずれ光が破壊するものだが……  それまで待てぬなら、そんなものを感じぬ心になれ」 「これはおまえの心から欲求以外のすべてを駆逐する。  おまえの望みが光なら、光の事だけを考えられるようになるだろう」 「止せ!!」 「案ずるな。一時のことだ。  おまえの心にこのようなやり方で干渉するのは、光としても本意ではない」 「おまえを悩ませ苦しめる世界に終末が来た後で、元に戻そう。  その時の訪れを、静かな心で待っているがいい」  光の腕を振り払う――  取り落とした刀を求める―― 〝波〟の結晶から遠ざかる。逃げる――  死力を尽くして、その全てを試みた。  どれ一つとして、ままならなかった。  光は俺を放さず、刀は何処にあるとも知れず、結晶は近付いている。    逃げられない。  最後の抵抗を、俺は視線に込めた。  魂の奥底まで憎悪の鉱脈を掘り尽くし、成果を叩きつける。  光も視線を返してきた。  ただ、優しいだけだった。  その優しさに絶望した。 «御堂!» 「……村正!?」  聞き慣れた声に引き止められ、飛ばしかけた意識を繋ぐ。  村正がいる――俺の村正が。  そう。  村正の〝卵〟による汚染は、唯一、同じ村正の力でのみ防ぐことができる。  俺の危地を悟り、駆けつけてくれたのか……! 「……」 「景明の村正……  邪魔立てする気か?」 «むしろ邪魔をしない理由があったら教えて欲しいんだけど!» 「私の仕手から離れなさい!」 «……ほう?» 「…………」  女王蟻は、村正の肉体化を見て興じたような〈金打声〉《こえ》を響かせ。  そして光は、そっと俺から両手を離し、体の向きを変えた。  今まで見た覚えのない表情がそこに覗いている。  いや――――  一度、あった。  これに近いものが。  あの時。  光が病床から起き上がり、母親と向き合った時に。 「……景明を導く役には立ってくれたが」 「……」 「もう要らぬ」 「砕けて散って、壊れてしまえ」 「く……っ!」  村正が身構える。  仕手に装甲されていない状態でも、劒冑の戦闘能力は生身の人間を遥かに凌ぐ。  一対一の勝負で負ける事などまず有り得ない。  が――  こと光に限っては、そんな常識が通用する余地こそない! 「止めろ、光!」 「……景明」 「村正を潰せば――  俺はお前を許せなくなる!」  考え無しに、口をついた言葉だった。  光が目を〈瞠〉《みは》る。  ――失敗した。    直感は、その瞬間に訪れた。  俺は言うべき言葉を完全に誤ったのだ。  光の顔が凍っている。  傷付いていた。  視線が振り戻され、村正を見据える。  その瞳はもはや俺からは見えなかったが――村正が反射的に一歩退いた事で想像できた。  光は破壊衝動の化身となっている。 (止めねば)  肉体を駆り立てる。  だが指一本すら動かない。  抱えられている間に何かを仕掛けられていたのか。それとも全神経が殺意に萎縮しているのか。  動かない。  しかし、動かねば―― 「――――」 「……っ……」 «御堂» «良いのか?»  ……救いの手は。  全く予測だにしなかった方角から来た。  白銀の二世村正。  宙に舞う女王蟻が、看過しえぬ響きを持った金打声で、仕手の手足に歯止めを掛けている。 「……」 「良いのかとは、どういう意味だ。  村正」 «わからぬか?  そうよな……これはなれには馴染まぬもの» 「早く言え。  おまえこそわからないのか。おれの臓腑が今、どれほど煮えているか」 «わかるから止めた。  御堂、それよ» 「何……?」 «なれは今、敵意を抱いているぞ» 「――――!!」  ……そうか。  村正の誓約、善悪相殺。  過去、銀星号がそれに囚われずにいたのは敵意など無く殺戮を展開していたから。  敵意をもって殺したなら、光とて、その戒律からは逃れられない。 «ここで〈三世〉《それ》を壊せば……  引き換えに失うものが何か» «御堂、なれには自明であろう» 「……うぬ……!」  光は天頂を見上げた。  そこにある――〈待つ〉《・・》、何者かに許しを乞うように。  それはしかし、与えられなかったのだろう。  無念に満ちて、拳が固く握られる。  ……足音荒く、光は去っていった。  何とも稀有なことに。  白銀の劒冑も、無言で消えた。  こちらは現れた時と同様、音も何も無く。  村正と二人、庭に残される。 「……御堂」 「大丈夫?  なんか変なことされてない?」 「……ああ。  お前が来てくれたお陰で、助かった」  そう声にして、今の無事を噛み締める。  本当に危険だった。  汚染波の結晶を受けていたら……  俺は今頃、この両手で、何をしていたのか。  冷気が全身を貫く。  氷を剥き出しの皮膚に当てたところで、こうはならないだろう。  余りにも恐ろしくおぞましい想像であった。 「有難う」 「……いいのよ」 「お前も無事で良かった」 「ええ……」 「…………。  今日のところは、母様に感謝しないといけないのかしら……」 「……どうだろうな……」  互いに複雑な心境のまま、呟きを交わし合う。  日差しは決して北風に一方的な敗北を喫してはいなかったが、その温かさを感じる余裕を取り戻すには、まだしばらく掛かりそうだった。 「やっほー、御姫。  今日もいたんだね」 「〈天座失墜小彗星・簡略版〉《フォーリンダウンレイディバグ・コンパクト》!!」 「八つ当たりが痛過ぎる!?」 「くっ……  憤懣やるかたない!」 「朝は腐れ坊主のセクハラ、昼はヘボ劒冑のいじめときて、とどめにいま挨拶しただけでボコられてしまったあてもどこに怒りをぶつけりゃいいんだかもうさっぱりわかりません」 「わざとらしく素知らぬ顔をするからだ。  おまえはどうせ全て聴こえていたのだろうに」 「んー、まぁ一応ね」 「景明め……  たやすくよその女に気を許して……」 「おれが敵意を抱かねばならぬ一個人など、父を奪った張本人たる母だけと思っていたが。  よもやこんな始末になろうとはな」 「へー……  あれを〈女〉《・》だって素直に認めるんだ、御姫は」 「? 当然だろう。  あれが女以外の何だ」 「劒冑だよ?」 「人間の女、蝦夷の女、劒冑の女。  女は、女だ」 「ごもっとも。  それで、どうすんの?」 「どうもこうもない」 「覇を遂げれば光の望みは全て叶う。  それまで苛立ちの種を一つ抱え込むだけだ」 「最終的に、奪われたもの全てを取り戻せるのなら……途中経過には拘泥するまい」 「そっか」 「ふん……」 「ならさ」 「む?」 「それ、あてにくれない?」 「それ?  ……ああ、〈結晶〉《これ》か」 「作ったはいいが無駄になった。  欲しいのか?」 「うん。  もしかしたら、使うチャンスがあるかも」  夜。  まだ早い内に、俺はあてがわれた部屋へ引き取った。 「今日は少しばかり疲労した」 「あれこれとあったしね」  そう言う村正も、心なしか気怠げだ。  別荘地で療養しているのではない。敵地の真ん中にいると考える方がむしろ事実に近いだろう。  そう思えば、この程度の気苦労はまだしも軽いものなのかもしれないが――どう思おうと目蓋は下がる。  理論武装で疲労を克服できるほど俺は器用に出来ていないようだ。 「休んだ方がいいんじゃない?  また変なのが来る前に」 「そうしよう」  変なのというのが特定の誰かを指しているのか、不特定の多数を指しているのか、追及する気は全く起きなかった。  部屋へ入る。  そして即座、違和感に足を止めた。 「どうしたの?」 「…………」  不審に思うべき点は何も無い。  調度の配置は朝と同じ。掃除をされた形跡はあるが、それは無論それだけの事である。  部屋を空けている間に誰かがやってくれたのだろう。  不審な点は無い。  記憶と変わらぬ部屋の様相。  俺と村正が立てるのみの物音。  ほのかに漂う草花の香り。 「草花の香り」 「……?  そこの花瓶に生けてある花でしょう?」 「それもある」 「も?」 「あと一種。  これは、軍にいた頃に嗅いだものだ」 「同じ隊の、会津出身の上等兵が良く使っていた……自家製の薬。  植物から作る、血止めの膏薬」 「その匂いだ」 「……」 「村正。  熱源探査」 「……諒解」 「!!  そこの棚の裏っ!」 「ちぃ!!」  如何にしてそんな狭い空間に身を潜めていたのか。  村正が叫び、俺が跳躍するのとほぼ同瞬、そこから大きな影が飛び出した。  全身を黒装束で包んだ人物だ。  顔面もほぼ隠しているが、身ごなしから若くそして鍛錬を積んだ男だと窺い知れる。 「……〈公方府〉《ここ》の人間ではない、か?」 「……」 「まぁ、それはわざわざ確認しなくてもいいでしょうね。  状況的に」 「そうだろうか」 「え?」 「掃除夫の方が念入りな仕事の最中だったという万一の可能性は」 「無理よ。  この格好で掃除夫ってどういう衝撃の展開なの」 「埃対策」 「無理よ!」 「嬲るか、下郎どもが……!」 「怒ってるじゃないの」 「何故だろう。  掃除夫に間違われたからといって、怒りを覚える必要はないと思うのだが」 「そういう問題じゃないし。  ていうか御堂、貴方まさか本気で掃除夫だと思ってたわけ?」 「無茶を言うな。どう見ても単に不審人物だ。  村正、冗談は時と場合を選べ」 「……」 「……」  どうしてか、俺は孤立してしまった気がした。  正面と背後から同質同量の怒りが迫っているように感じられてならない。  とりあえず、正面に意識を集中する。  一見して断定できるのは、重武装ではないという事だ。銃砲も大剣も黒衣の下には潜ませてあるまい。体の線から自明である。  といって、危険性が些かでも揺らぐ事はないが。  室内である点に思慮を致せば、隠し持てる程の小型兵装の方が有用であり、つまり俺にとっては脅威。  男に充分な業と殺意があれば、軌跡も見せぬ一閃で俺の首を〈掻〉《か》くだろう。  そしてそのどちらかでも不足していると判断すべき根拠は、今のところ皆無である。  男はどう見ても武人。  それが、侵入者として〈公方府〉《ここ》にいるなら―― 「この期に及んで命冥加は願わん。  望み通り、死に華一つ咲かせてくれるわ」 「だが、冥土の土産は高くつくぞ!」 「無益です」 「無益なものか。  貴様ら〈六波羅〉《やまいぬ》を幾匹かでも道連れにすれば、それだけ世の民が過ごしやすくなる!」 「繰り返しますが無益です。  貴方の敵が六波羅なら、ここで戦う意味は全く存在しません」 「……何?」 「動かれぬよう。  せっかく塞いだ傷口が開きます」 「察するところ相当の深傷。  顔色を見るに血液の喪失量も甚だしい……出血が再び始まれば生命を脅かすことは確実です」 「騒ぎとなり、人を集めてしまうのも不都合でしょう。  どうか進退は慎重に」 「…………」 「貴様は何者だ」 「…………」 「答える気は無いか……」 「いえ。  失礼、返答を探すのに少々迷いました」 「自分は湊斗景明と申します。  故あって堀越公方のもとに身を置いている……居候のようなものです」 「……居候?」 「としか、言いようのない立場です」 「……本当にそうね……」 「六波羅にも堀越公方にも仕えてはおらぬ、と?」 「寝食の恩義はあります。  しかし、主従の間柄ではありません」 「……」 「俺をどうする気だ」 「貴方は今日の午前中、ここで何かの騒動を起こし、追われていた人物ですね」 「……」 「外へ逃げたと見せ掛けて内部に潜み、深夜を待っていた……?」 「……」 「成程。  屋敷を脱しても堀越の軍管区。闇雲に逃走するよりその方が確実か」  実のところは、捕縛に熱意のなかった足利茶々丸の様子からして、格別の細工を弄さずとも逃げる見込みはあったのだろうが。  そんな揚げ足取りをわざわざ口にする必要はない。 「公方府などへ忍び込んで、その目的が単に物盗りという事はないでしょう。  貴方は何の為に参られたのですか?」 「……」 「物盗りだ」 「そうですか」  正直な答が返ってくるとは、最初から思っていない。  十中八九、倒幕派の志士であろう。  ……どうするべきか。  敵対するのは全く無益である。既に自分の口で言明した通り。  といって、加勢する筋ではない。  中立の選択は――この状況に用意されていなかった。  部屋に留めるなら味方、追い出すなら敵対であろう。事実上の。  寝食の義理を思えば、明白な非友好的意図を持って侵入した者に幾らかでも手を貸すのは気が引ける。  しかし現状況、俺が手を貸さねば彼の進退が窮まるのは確実であり、その結果彼が死ぬのも確実である。  彼は幕府に敵意を持ち、この堀越の将兵とも干戈を交えたのだろうが、非戦闘員にまで刃を振るったわけではない。  そんな形跡は全く無かった。  彼を死地へ蹴り出す気にはとてもなれない。  だが、彼を匿った結果――機会を得た彼が逃亡する代わり公方府に対する破壊行動へ踏み切るような事が、万一にでもあったなら。  そこで生じる被害に、俺の責任なしとは言えまい。 「……」 「……」  思いのほか、長考してしまっていた。  二者二様の眼差しが、俺の言葉を待っている。  しかし結論は出た。    ――つまるところ、〈そうさせない〉《・・・・・・》ことで、双方への筋を通す以外にないか。 「動けますか?」 「……ああ」 「村正。  お前が先導してくれ」 「わかった。  先行して安全を確保、〈金打声〉《れんらく》を送ればいいのね」  相棒に説明は要らなかった。  俺の意図を汲んで、村正が素早く部屋を出てゆく。 「……どうするつもりだ」 「しばらくお待ち下さい」 「…………」  脱出は容易だった。  このような折、劒冑の探査機能は実に有用である。 「夜とはいえ、誰もが寝静まるにはまだ早い時間です。  気をつけてお行き下さい」 「……うむ……」 「では」 「…………待たれよ」 「はい」 「失礼だが、今一度名を聞かせて頂けまいか」 「湊斗景明です。  こちらは村正」 「……」 「某は……〈黒瀬〉《くろのせ》と呼ばれている」 「黒瀬……」 「仔細あって、実の姓名は名乗れぬ。  許されたい」 「察しております」 「世話になった。  この恩義は胸に刻んでおく」 「御免」  一礼を残して、彼は駆け去った。  音もなく、黒い姿が夜闇に溶け込んでゆく。 「……」 「……今日は本当に疲れる日ね」 「全くだな」 「だから早く寝なさいって言ったのよ」 「その暇もなかっただろう……」  そんな事を言い合いながら、部屋に戻り。  俺は早々に床へ就いた。  意識が沈むまで、数分と掛からなかった。  …………  …………………… 「――――」  ここは何処だ。 「ここは貴方の夢の中」 「…………」 「何方でしょうか」 「私は貴方の劒冑……  村正の精です」 「嘘だ!!」 「むぅ。色々と間違えたようだ」 「御姫、何やってんの?  こんな屋根の上なんかで」 「茶々丸か。  いや、なに……一度景明の女性嗜好や恋愛観を詳しく調べてみようと思ってな」 「あちらの村正に悟られない程度の弱い辰気で夢を操り、探り出そうと試みているのだが」 「なんかもう何でもアリですねその力」 「なかなかうまくいかん。  思った以上に多面的な制御と調整が要る」 「向こうに〈村正〉《じゃまもの》がいなければ簡単なのだが。  どうしたものかな……」 「あんたもご苦労っすね」 «慣れた» 「む。そうだ。  丁度いい」 「茶々丸、おまえが手伝え」 「あてが?」 「…………」  ここは何処だ。  ――――――通学路。  通学路?  ……そうだ。  俺は学校へ行く途中だった。 「よし、今度はうまくいっている」 「にしても、学生ネタなんすね。  じゃあここからは王道で?」 「無論!」  急ごう。  今日は寝過ごしたせいで、時間の余裕があまりない。 「大変、大変!  遅刻しちゃうー!」 「……」  前方。  曲がり角。  足音。  至近距離―――― 「……ふぅ」  さて、学校へ行こう……。 「何事もなくすれ違ってしまいましたが」 「ふっ……当然だ。  景明の技量をもってすればあの程度の突進、目を瞑っていてもかわせるはず」 「そういう問題だったのこれ?」 「いや主旨とはだいぶ違うな。何の調査にもなってないし。  次へ行くぞ!」 「ういー」  良し。  危ういところだったが、遅刻はせずに済んだ。  周りにも幾人か、同じように安堵の息をついている学生がいる。 「こらぁ、お前は遅刻だ!  こっちへ来い!」 「そ、そんなぁ!  先生、許してー!」 「だぁめぇだぁー。  けけけっ、残念だったなぁ? 今日まで無遅刻皆勤だったのになぁー?」 「成績の悪いお前が唯一の取柄まで無くしちまったら、就職も進学もできないってのに!  はぁーはははははは!!」 「あーん!  そんなのやだよぉー!」 「あーあ……可哀想に」 「遅刻ったって二秒か三秒だろ?  見逃してやればいいのにさ」 「そう思うならお前、弁護してやれよ」 「やだよ!  あの陰険教師に目を付けられたら終わりだぜ……」 「…………」  ――さて。  教室へ急ごうか。 「何のドラマも発生しませんね」 「なるほど……  そういうことか」 「御姫?」 「遅刻は遅刻、やはり遅刻した者が悪い。  表面的な印象だけで教師を悪と見なすのは間違っている」 「遅刻したのに正しい処罰を受けず、不当に助けられてしまえば、その経験は必ず女学生の人生に良からぬ影を落とすだろう。  景明はそこまで考えたのだな……」 「さすが、凡俗とは一味違う。  温情と甘やかしの間に明確な区分線を引くことのできる男よ」 「おおぉぉぉ。  ではあたかも見捨てられたかに思えたあの女子学生、実はお兄さんの決断で人生を救われていたわけですね!」 「その通り!」 「いい話ですなー」 「いい話だとも」 「で、あてらの本題はどこ行きましたか」 「どっか行ってしまったな。  仕方ない、別の角度からまたやってみよう」 「あら。  お早う、湊斗くん」 「これは学生会長。  お早うございます」 「こんな時間に鞄を持って歩いてるってことは、また遅刻ぎりぎり?  相変わらず、だらしのない人なのね」 「返す言葉もございません」 「遅刻は多い、成績は下から数えた方が早い。  一度きりの学生生活をそんな風に腑抜けて過ごして、恥ずかしいとは思わないのかしら」 「切に思います」 「私、あなたみたいにだらだらと生きている人って嫌いなのよ」 「当然かと」 「下級生の模範になるよう、もっとしっかりした生活を心掛けなさい」 「はっ!」 「なぁに?  文句でもあるの?」 「全くありません」 「ドラマになんねえっすよ」 「どうやら、厳しい性格の年上女と景明とは相性が悪いようだな」 「見方によっては最高なんでしょうけどね。  反目し合う間柄からふとしたきっかけで急接近とか、そういう恋愛劇が芽生える余地はまるで皆無っすね」 「今度は逆方向から当たってみるか……」 「あー、景明ちゃんだぁ~。  おはよーっ」 「お早うございます」 「さむいねぇ」 「冬ですから」 「雪、ふらないかなぁ?」 「そろそろかと」 「雪ってきれいだよね~」 「はい」 「ふわふわのクリームみたい」 「は」 「あ!  もしかしたら、本当にクリームなのかも!」 「は?」 「神様が食べてるケーキのかけらなのかもっ。  それがぽろぽろ落ちてきてるんだよ!」 「……………………」 「きっとそうだよ~。  神様だって、甘いお菓子が大好きなはずだしぃ」 「でもたくさんこぼしちゃうなんて、神様は食べるのへたなのかなぁ?」 「君は何を言っているんだ」 「それとも、まだ子供なのかな?  神様のお母さんに怒られてるのかもね~?あははっ」 「景明ちゃんはどう思う?」 「どう思うと言われても」 「雪、はやくふらないかな~。  ね、ふったらいっしょに食べてみようよ!おいしいかもっ!」 「――――――――」  俺は座ったばかりの席から立ち上がった。  級友の手を握り、優しく引く。 「? 景明ちゃん、どうしたのぉ?」 「いいんだ。  君はもう、何も考えなくていい」 「きっとこれまで辛いことも多かったろう。  だが君は、何も恥じなくて良いのだ」 「病気は君の罪ではないのだから」 「びょーき?」 「さあ行こう」  涙が零れ落ちる前に、俺は歩き出した。  まずは養護教諭のもとへ行き、彼女の今後について相談しなくては……。 「違うドラマが始まってしまったな」 「狙った方向性は何となくわかるんスけどね。  ちょっと極端過ぎたのが敗因ですかね」 「うぅむ。  ならば、こうだ!」  悲しむべき事件はあったが、常と同じく時間は進み、昼休みとなった。  級友達が三々五々、昼食をとるため動き始める。  俺は弁当を持ってきていないので、食堂へ向かうか、売店で買うかしなければならない。    今日はどうするか……。 「ねえ、湊斗君」 「はい」  呼ばれて振り返ると、一人の女子学生が奇妙に所在なげな様子で佇んでいた。  学内では知らぬ者のいない、財閥令嬢にして理事長の娘、文化祭のミス・コンテスト優勝者である。  その手には何故か、弁当箱を二つ抱えていた。 「何か」 「お昼は……これから?」 「そうです」 「お弁当じゃないのよ、ね?  湊斗君は」 「はい。  食堂か売店です」 「そ、そう。  良かった……」 「はい?」 「コホン」 「あ、あのね……  よ、よ、良かったら、これ食べない?」 「……?  その弁当を?」 「う、うん……。  あっ、違うのよ!? そうじゃなくて!」 「何がですか」 「これはね、本当は部活の友達に作ってきたんだけどっ!  そっ、その子が、今日は休んじゃってっ」 「捨てるのももったいないし……  そしたらたまたま湊斗君がいたから、もし良ければ食べてもらおうかなって」 「それだけなの!」 「成程。  事情は諒解致しました」 「……食べてくれる?」 「有難く頂きます」 「そ、そう。  じゃあ……どうぞ」 「あっ、でも勘違いしないでよねっ!  別にあなたのためにつくったんじゃないんだから!」 「……? はい。  それは無論」 「ほ……本当なんだからね!  本当に……違うんだから……」 「わかりました」  何故か何度も念を押して、彼女は離れていった。  余程、俺のためにつくったとは思われたくなかったらしい。  嫌われているのだろうか?  それでも弁当を渡す相手に、持参の昼食がないようだからと俺を選んでくれたのなら、実に出来た人物だと言わざるを得ない。  学内の人望が高いのも頷ける。  弁当箱を開いてみると、メッセージカードが入っていた。  内容はほんの一言。            『好きです』 「…………」  成程。  俺は全てを理解した。  これは本来、彼女の想い人へ贈られるはずだった物なのだ。  勘違いするなと何度も念を押されたのは当然である。  万事諒解した俺は、その手紙が自分宛てであるなどという勘違いを決してしなかった。  大切な弁当を俺などにくれた彼女の心遣いに対して感謝だけしておく。  弁当の中身は、明らかに手作りであり、そして俺の好物ばかりだった。  まるで彼女が俺のために好みを調べて用意したかのようにも思える。  勿論、単なる偶然だ。  俺は勘違いしなかった。  決してしなかった。 「しろよっ!  いやむしろ正しい理解を!!」 「くぅぅぅ! だめだ!  あらゆる〈攻性恋愛行為〉《ロマンス・アクション》が景明という男には通用しない!」 「かくなる上は発想の転換だ!  景明の方から行動を起こさせてやる!」 「御姫、それはッ!?」 「どこかミステリアス。  なぜか守ってあげたくなる」 「何もしないのに何かを感じる……  言わば恋愛戦におけるノーガード戦法!」 「無口っ娘ですね!?」 「食らえ、景明ッッ!!」  午後。  唐突にも転校生がやって来て、俺の隣の席へ座った。 「……」 「……」 「…………」 「…………」 「…………………………………………………」 「…………………………………………………」 「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」 「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」 「何も起きねぇーーーーーーーーーーっ!!」 「実は予想していたが、全く予想の通りとはかえって恐れ入ったぞ景明!!」 「なんかもう勝てる気しないっす。  御姫、次はどうするの?」 「うむ……  景明に行動の自由を与え過ぎたことが誤りだったのかもしれん」 「つーと?」  放課後になった。 「ねえ景明くん、一緒に帰らない?」 「一緒に?」 「うん。  昔みたいに……」  そう。  彼女は俺の幼馴染で、以前は隣の家に住んでいた。  あの頃はよく一緒に登校したものだ。  取り留めもない話を、毎日飽きもせずに繰り返しながら……。  俺を見詰める彼女の瞳には、何か、訴えるような色がある。    どうしようか。 「ここで割り込み!」 「割り込み?」 「選択肢挿入!」 「選択肢ッ!?」  今は、彼女の家と俺の家とはさして近くもない。  有体に言って、一緒に下校する意味は無さそうだが……? 「よし!!」 「ちょっ……  あんた一体どこまで超人なの!?」 「やったぁ!  景明くんと一緒に帰れるっ」 「…………」  自分で決断したことなのに、騙されたように思えてならない。  不可思議だ。  ともかく受諾してしまった以上は、一緒にゆかねばならないだろう……。 「貴方の家は右でしたね」 「うんっ」 「自分は左です。  では、さようなら」  俺達は別れた。 「無意味じゃないっすか!!」 「おぉのれぇぇい!  景明、よもやここまでの男とはッッ」 「こうなったらもう手当たり次第だ!!」 「おーー!!」 (…………) (思えば遠くへ来たものよなァ) 「……………………………………」 «……どうしたの?  ちゃんと寝ないと、明日が大変よ» 「駄目だ。  今夜はもう寝れば寝るほど疲れる気がする」 «?»  鶴の一声であった。 「今日は遊びに行くから支度してね」 「……は」 「遊び?」  それから数時間後。  俺達は、駿河國〈小鹿〉《おしか》の〈田村甲業〉《タムラ》直営サーキット場にいた。 「御堂、平気?」 「……ああ」  乗り慣れていない自動車での旅に、少々酔った。  便所に駆け込みたくなる程ではないが、視界はやや安定感を欠いている。  〈揺れ〉《・・》が治まるまでしばらく掛かりそうだ。 「寝不足が響いているな」 「ありゃ……お兄さんもか」 「も?」 「御姫も。  昨日、夜更かししてたせいじゃないかなー。今朝は引っ込んだまんまで、出てくる様子がなかったから、置いてきちゃった」 「……そうですか」  部屋に閉じ篭もって朝寝を貪っているという事か?  あれは規則正しい生活リズムを持っていたはずだが……今は違うのかもしれない。  ともあれそういう事なら、俺のいない間に銀星号となって暴れ出す恐れは無さそうだ。  引っ張られるまま勢いでここまで来たものの、すぐに戻るべきではないのかと考えていたのだが。  〈遊び〉《・・》というのもどこまで本気かわからない――これは堀越公方の全てについて言えるが。  ひとまず、彼女の意向に沿った方が良いだろう。 「場所借りて、少し休む?」 「大丈夫です。  それより閣下……どうしてここへ?」 「そうよ。  なんで車の屋根に張り付いて、沿道の人に今日一日の話題を提供しながらこんな所まで来なくちゃいけなかったのよ?」 「そりゃ呼んでねえのに無理矢理くっついてきたおめーさまだけですが。  ……お兄さん、今日が何日だか忘れた?」 「今日……?」 「今年最後のイベント。  タムラチャレンジカップの日だよ」  そういえば。  多事多端の渦中、すっかり忘れ去っていたが、成程今日はその当日だ。  タムラチャレンジカップとは、田村甲業ほか数社が主催する毎年恒例の――と言っても数年の歴史に過ぎないが――〈装甲競技〉《アーマーレース》大会である。  規模としてはそう大きくもない。  が、参加する各社のワークスチームは来年の勝負を見据えた騎体を送り込んでくるため、〈愛好家〉《ファン》の注目度は非常に高かった。  座席を取るため四苦八苦した経験が俺にもある。 「装甲競技の好きなお兄さんにとっては外せないイベントかなって思ったんだけど」 「まぁ、確かに。  ……よく自分の趣味をご存知ですね」 「なぜかなー。  不思議不思議」 「それにしたって、唐突じゃない?  今日になって急に」 「あてにも都合があんのさ。  ……ほんとはもうしばらく伊豆でのんびりしてるつもりだったんだけど」 「そうもいかなくなってきたもんでね。  遊べる間に、遊んでおくことにしたの」 「…………」  幕閣首脳、堀越公方の事である。  政治的な事情だろう――考えてみればこんな人物が地元で〈寛〉《くつろ》いでいる状況こそ奇妙なのだ。  八幡宮事件の責任を取って謹慎中という話だったが、それも鵜呑みにできたものではない。  おそらく、全ては駆け引き。その駆け引きの成果が顕れて、〈中央〉《かまくら》へ戻る必要が生じたのではなかろうか。 「お」 「閣下?」 「あっちあっち。  騎体が出てきたよ」 「ありゃ翔京かな?」 「そうですね。  見るからにアプティマ系列」 「……そのもの過ぎる気がしますが」 「工夫の跡が見えんね。  まさか来年の国内戦をあれで行こうってんじゃあるまいに」 「アプティマは名作ですが……  流石に時代遅れかと」 「出し惜しみかな?  ファンサービスってのがわかってねえ連中だなぁ……」 「あぷてまって、鎌倉の時にもいたやつ?」 「そうだ」 「あれとは違うみたいだけど」 「どこが?」 「合当理と一緒にくっついてる変なの」 「〈補助推進器〉《アフターバーナー》?  ……あ、ほんとだ」 「〈中心配置〉《ミッドシップ》になっていますね。  これは……騎体バランスに変化がありそうです」 「地味に面白いことやってきたな。  前言撤回」 「駆動方式もベルトかもしれません」 「有り得るね。  そんな改造、前にもやってたし」 「やはりミッドシップとベルト駆動が今後の主流になっていくのでしょうか」 「あてはチェーン駆動の方が好きだけどねー。  伸びても詰めればいいしさ。ベルトだと、伸びたらそれっきりやん?」 「……?」 「テンション調整機構を実装した騎体も間もなく現れると聞いていますが。  しかし自分も、ベルトよりチェーンの方が好みです」 「ロマンがわかるねお兄さん」 「はい」 「普通に考えて、ゴムより金属だよな」 「当然です」 「チェーンドライブ同盟結成」 「いえ。  一番愛しているのはシャフト駆動です」 「このタムラっ子がぁ!!」 「申し訳ありません」 「? ……?」 「て、言ってるそばからタムラ来たね。  ありゃ何だろ?」 「……新作のようです。  全く見覚えがありません」 「んー……  でもあれ、なんかに似てない?」 「…………」 「メインフレームが……  あのアベンジに近いような」 「……言われてみれば」 「あの突飛な騎体構想を引き継いだのかよ。  侮れねぇなータムラも」 「足回りは丸々変わっています」 「ねえ……」 「見た感じ、〈柔〉《やわ》そうな〈足〉《サス》だね」 「耐衝撃性は良さそうですが……  あれではコーナーリングに問題が生じるのでは?」 「その辺を今日、テストする気なのかな」 「成程」 「……ねえ、御堂……」 「むッ!?  閣下、あちらを!」 「ん? って、あれトミイやん。  新規参入の賑やかしチームなんか別にどうだって――」 「何ィーーーッ!?  ユーツ鋼ダブルデッキフレームにセンターデフ、ベルト駆動だとぉーーー!?」 「しかもあれはトルクスプリッター!」 「完全装備かっ!  あの会社のどこにそんな開発能力があったんだ!? あて、接着剤のいらない模型を作るだけが能かと思ってたよ!!」 「これは完全に予想外です」 「…………おぉーい…………」 「騎体名は――〝〈侵害者〉《インフリンジャー》〟?  今回の台風の目かもしれません」 「〈騎手〉《レーサー》次第でどこまで行くかわからんね。  面白くなってきたぞー」 「はい、実に」 「おっ。〈青焼金属〉《AYM》の連中も来てる。  なんか久々に見るけど」 「あれも新作でしょうか。  一見、翔京アプティマに良く似ていますが……」 「海外でテストしてたってやつじゃないかな」 「あれ?  そういやヨコタンはどーした?」 「姿が見えませんね。  不参加でしょうか」 「いやあ、来るって聞いてたよ?  スーパーハウンドの最新型を投入するとか何とか」 「最新型?  それは真逆、以前に告知のあった――――」 「そうそう、あの――――」  すっかり拗ねてサーキット場の裏に蜘蛛の巣を張り始めた村正を〈宥〉《なだ》めすかし、どうにか機嫌を取って客席へ連れて戻ると、レースは丁度開始したところだった。  爆響を奏でて装甲騎手たちが駆け出している。 「どうです?」 「翔京がいいスタート切ってんね。  ほかはいまいち」  気のなさそうな返事だった。  足利茶々丸は、細めた眼差しをコースの上へ注いでいる。  しかし、見詰める――という程には熱中していない様子であった。  退屈している風ともまた違うのだが……。 「何か、ありましたか」 「んー?」 「余り関心のないご様子」 「や、そんなこともないけどね。  楽しい勝負になってるし」 「ただ今日は、レースを観るより空気に浸るつもりで来たから」 「空気に?」 「……この?」  村正が妙な顔つきになるのも不思議はなかった。  装甲競技の空気は独特である。  無数の観衆、その歓声、熱気、コース上からは〈翼筒〉《バレル》の響き――  一言で言えば〈喧〉《やかま》しい。  レースに熱中していればこそ騒音も不愉快ではなくむしろ興奮を煽る媚薬となるが、レースを除けてその空気だけ味わっても苛立たしいばかりではあるまいか。 「静かでいい」 「…………」 「びみょーな表情になった」 「正直、コメントに困っています」 「貴方の冗談が面白くないのよ。将軍様」 「冗談は言ってない」 「じゃあ何?」 「詭弁」 「……」 「……詭弁?」 「静かって、どういうことかな」 「……」 「音がしないことでしょ?」 「だよな。  でも、〈本当に何の音もしない〉《・・・・・・・・・・》なんてことが有り得るか?」 「それは――」  ――無い、か。  人間の可聴域かそうでないかの違いがあるだけで、音は常に発生している。 「なら、静かってのはどういうことだろ」 「余計な音が聴こえない……  聞きたくもないことを聞かなくて済むのが静かってことなんじゃない?」 「……」 「だから、今はとても静か」 「レースの音とお兄さんの声しか聴こえないもの」 「……私は?」 「存在自体に無関心ですが」 「それはありがとうございます」 「成程。  そういう意味で、静かと……」 「御堂、そこは納得しなくていいのよ」 「そうそう。  詭弁なんだからさ」  言って、足利茶々丸は笑った。 「詭弁だよ」 「……?」 「……詭弁でしかねえ……」  予選が終了した。  鮮やかなカラーリングの〈競技用劒冑〉《レーサークルス》がピットへ帰還してゆく。  次のレースが始まるまで、暫時の間があるようだ。 「昨日の話だけどさ」 「昨日の?」 「英雄と魔王のおはなし」 「……は」 「どう?  英雄、やってみる気になった?」  横目でこちらを窺いながら、足利茶々丸が問う。  俺は二四時間前の一幕を思い出し、陰鬱に吐息した。 「既にやってみました」 「? やった?」 「はい。昨日、閣下のお話を伺った後。  光に会い、〝無我〟を以て挑んでみましたが」  あの時、俺が無我の遥境の一端に触れたことは確かだと思う。  認識観の拡大が自覚されていた――ほんの一刹那にしても。  しかし、その結果たるや。 「かえって、これまで以上に光の〈態〉《タイ》を見失う始末。  至近距離に立っているというわかり切った事実さえ疑い始めるほど……」 「我ながら、無様を晒しました」 「……ふぅん?」 「無我が英雄の往路であるなら、やはり自分には相応しくないのでしょう。  何やら、無我という世界に拒絶されたような心地がしています」 「それとも単に、全く違うものを無我の観と思い込んでいるのか……。  いずれにしろ、諦めるほかないようです」  結論して、胸中に一種の安堵があった事は否めない。  堀越公方には呆れられるか――と俺は思ったのだが、実際の彼女の反応は違っていた。 「そうかな?  もしかしたら、逆かもしれないよ」 「……逆、とは?」 「お兄さんは、御姫の姿を見失ったわけじゃなくて……  〈ようやく実像に触れた〉《・・・・・・・・・・》のかも」 「――――」  実像?  あの、有とも無ともつかぬぼやけた〈認識〉《イメージ》が?  ……意味がわからない。 「意味不明よ」  それまで黙っていた村正が代わりに言った。 「そうか?」 「……余計な口出しはすまいと思ってたけど。  いい加減なことを吹き込んで御堂を惑わすのはやめて頂戴」 「人にお願いする時は、頭を下げてプリーズって言うのが最近の流行なんだぞ」 「あらそう。それは教えてくれてどうも。  じゃあついでにもう一つ教えて」 「鼻持ちならない小娘に言うことを聞かせる時はどうしたらいいの?」 「はてさて。そんなやついましたっけ。  愛らしい花のようなお嬢さんなら心当たりもあるんだが」 「別に今ここで使うとは言ってないでしょう。  使うけど」 「村正」 「……御堂もっ。  人の話を聞くのはいいことよ。でも、相手は選ぶべきだと思う」 「この中将様が銀星号の仲間だって事を忘れないで」 「……」 「――ごめん。  やっぱり、今のなし」 「本当に余計な口出しだった」 「いや」  村正の、もどかしい内心は良くわかった。  堀越公方が俺の味方である筈はない。だというのに彼女の話でいちいち悩んだり迷ったりする俺を見れば、不安になるのも当然だろう。  俺とても、そのおかしさに無自覚ではなかった。  ただ……足利茶々丸の話は奇妙に聞き逃せない何かが常にあって、どうにも耳に残るのだ。 「うん。余計ってことはないな。  捻りも工夫もないけど、まぁ妥当な忠告だ」 「……」 「でも間違いはいただけないね。  あては御姫の味方じゃないって、言ったろ」 「……それも込みで、全く信用できないって思ってるのよ。私は」 「あてのバストサイズが九五センチだってのと同じくらい確かな事実なのに……」 「それ、絶対に嘘でしょっ!?」 「……敵味方のことはともかく。  閣下、先程の御意見は村正のみならず自分にも意味不明です」 「光が実は蜃気楼か何かだというなら意味も通りますが」 「蜃気楼」  堀越公方は味わうように、その一語を反復した。 「蜃気楼ねぇ……」 「…………」  少女は俺を見ていない。  次のレースに備えるため会場スタッフが走り回る、サーキットの方へ顔を向けている。  それでもわかった。  足利茶々丸は笑っている。  皮肉にではなく。嘲るようでもなく。  ただ、〈出来の良い諧謔〉《・・・・・・・》を聞いたおかしさを。  ……喉の奥でくつくつと、笑っている。  俺は問い質さねばならなかった。  何を知っているのか、と。  今問えば、彼女は真実を口にするかもしれない。    どうしてか、そう思う。  問うべきなのだ。    ……どうしてか、それができない。  どうして?  いや、疑問など無い。  真実を得られるとわかっていて、問いを口にしないのは、〈真実が欲しくないから〉《・・・・・・・・・・》に決まっている。  俺は直観しているのだ。  それを聞き、それを知れば、〈最後〉《おわり》なのだと。 「お兄さんはやっぱり凄い。  やっぱり……英雄の素質がある」 「無我の修行、続けるべきだよ。  お兄さんは必ず英雄になれる」 「〈魔王〉《おひめ》に勝てる」 「……貴方は……」 「くふっ……ふふふ……」 「……」 「いいところなのにね。  邪魔が入っちゃった」 「……?」  邪魔?  サーキットを見る。  ……別に劇的な変化はない。レースの再開にはまだ時間が掛かりそうだ。 「別口の英雄どもが来やがった」 「閣下?」 「お兄さんにはわからない?  ちょっと遠いか……」 「じゃあ」  不意に、少女は手を差し伸べた。  俺の胸に押し当てる。 「? 何してるの」 「おめーは黙ってな。  そこのハエでも捕まえて食ってろ」 「貴方ね――」 「村正、少し待て」 「御堂?」  ……何だ、これは。  少しずつ来る、この――      音? 「……閣下……  これは何です?」 「テロリストの御一行だな。  まっ、大して珍しいこっちゃない」 「やっぱ人目につくとこへ来る時は変装とかしないとだめかぁー」  俺の疑問への答ではない、しかし重大な事を彼女はあっさりと言い捨てた。  犬に吠えつかれた程度の様相である。  俺は今の怪奇現象について聞きたかったのだが……    頭蓋骨に直接響くようにして伝わったそれが実際の会話であったのなら、そんな場合ではない――のか? 「結局、何なの?」 「…………。  〈暴力的政治主張〉《テロ》の対象にされるようだ」 「……いつ、どこで、誰が?」 「これから、ここで、我々が」 「……一大事?」 「一大事だと思う」  村正と二人、余り知性的ではない会話をする。  情報の入手方法にせよ、情報の内容自体にせよ、俺からすれば現実味を欠くこと甚だしいのだから仕方がない。  又聞きの村正にとっては尚更だろう。 「黙って待ってるのも芸がないしね。  止めに行きますか」 「はぁ」 「お兄さん、手伝ってくれる?」 「成り行き上、そうした方が良さそうなので」  やや消極的に同意する。  積極的になれない理由は、まず自分の立場。加えて未だに思考が現状に対して半歩ほど遅れているためである。  しかし、俺は努力して意識を切り替えた。  六波羅が悪だとしても、それに対するテロ行為が善となる道理はない。  同じ悪行であろう。  事前に防ぎ止められるのなら、その方が望ましいに決まっている。  いま聴いたものが単なる幻覚で、空回りに終わるとしても……それはそれで別に構うまい。 「閣下、場所はわかりますか?」 「うん。  こっちー」  先導する足利茶々丸を追い、客席の中を移動する。  消化不良を絵に描いた表情ながら、村正も続いた。  前をゆく少女の足取りには、緊張もなければ迷いもない。  ……やはり不思議だ。  彼女は一体、如何なる能力を備えているのだろう。  遠方の会話を聴き取り、その地点も正確に把握する――らしい――技能。  単に人より聴覚が鋭いだけとは思えないのだが。 「……あ」 「?」 「向こうのが早かったみたい」 「閣下?」 「おい、三代目」 「……何よ」 「これはほんとに忠告だから聞けよ。  〈お兄さんを守れ〉《・・・・・・・》」 「――――」 「はっ、ははは……」 「良し!  粉微塵だ!」 「堀越公方を殺した!  天誅だ! 天誅を下したぞ!!」 「…………貴様ら」 「ッ!?」 「貴様らァ!!」  粉塵を払って踏み込み、手近な一人を殴り倒す。  無責任なほど呆気なく、その男は倒れた。 「ちっ、護衛……  死ななかったか」 「六波羅はよくよく悪運の――」  つまらない御託を最後まで聞いてやるべき事情など、この銀河系にあるとは思えなかったので、俺は探しもしなかった。  顎を打ち抜き、先に倒れた仲間の後を追わせる。  まだいる筈だ……! «御堂、怪我はない!?» 「――――」  視界を塞ぐ劒冑を除ける。  安否を気遣われている事も、俺がいま両足で立っていられるのは彼女のお陰である事もわかっていたが、俺の心を占めるのはそれへの感謝ではなかった。  怒りと憎悪だった。  死んでいる。  近くにいた観客――  何の罪もない、幕府とも関わりない、ただ装甲競技を観戦するために訪れていた市民達が――  幾人も、無言の骸となり果てている。  負傷者はその数倍……  苦悶の声、嘆きの声、誰にともなく〈説明〉《・・》を求める声の渦は、徐々に徐々に広がりつつあった。 「……どういうつもりだ……」 「これは何の真似だ!!  答えてみせろッ!!」 「はッ。  何の……だと?」 「盗人猛々しいな、六波羅!  天の裁きを受ける心当たりが、無いとでも言う気か!」 「そんな事は訊いていない」  俺が六波羅の人間だと思われている事も、今はどうでも良い。 「なぜ無関係の人間を巻き込んだ」 「ん……?」 「天の裁きなどと云うからには、世のため、人のために立ち上がったのだろう!  それでどうして……こんな方法になる!?」  辺りに立ち込める臭気。  これは――競技用劒冑の補助推進器に使われる燃料の匂いだ。  この者どもはパドックか何処かから盗み出したそれで即席の燃料爆弾を作り、点火したのだろう。  ……そんな事をすれば被害は俺達だけに留まらず、周囲にも及ぶと、やる前にわからなかった筈はない! 「本末転倒だ……!」 「ふん……。  よりにもよって六波羅に、人道がましい事を説かれる筋合いはないが」 「我らは既に修羅!  大義を果たすため、この身魂を鬼に堕とす覚悟ならとうに済ませている!」  胸中で、自制心が〈ごそり〉《・・・》と減った。  ソレを殺したくて、〈堪〉《たま》らなくなった。 「少々の犠牲を顧みていては、巨悪を倒せん」 「……少々、だと!」 「そうだ。  今日の十人の死は、明日の百人を救うため」 「貴様らを打倒して大和を救うための犠牲となるに、不服を唱える者などおらん!  いや……それが不服な者は貴様らの同類だ。巻き添えに殺して、差し障りは無い!」  その男は、いとも簡単に、他人の命の価値を決めた。  ――わかった。  俺が怒り憎む、根底の理由。  こいつは何処かの誰かにそっくりだ。  〈鏡を覗けばそこにいる男〉《・・・・・・・・・・・》と、やっている事がまるで同じだ。  だから許せないのだ。 「……御託はもういい。聞きたくもない。  投降しろ」 「司法に預け、相応の刑を受けてもらう」 「貴様らの法など!  天命に従う我らを縛れるものか」 「我々は天命のまま戦い続けるのみだ。  いつの日か、六波羅を打ち砕くまでな!」 「天命……?  このやり口が、天命か!!」 「そうとも。  これこそ天の命ずる戦いだ!」 「我らの導き手、大いなる神将がそう教えている!」 「神将……?」 「〈銀星号〉《おひめ》のこったよ」  瞬間、脊椎に鉄針でも打ち込まれたかのように身を強張らせて、二人の男が〈頽〉《くずお》れる。    心持ち〈煤〉《すす》けた堀越公方が、その後方に立っていた。  やはりと言うべきか、無事だったようだ。  何とはなし、俺は彼女が爆死を遂げてなどいない事に最初から確信があった――どうやって死地を逃れたのか、その方法はまるで想像がつかないのだが。 「こいつら流星団だな」 「流星……団?」 「聞いたことない?」 「寡聞にして」 「ま、派手な活動を始めたのは最近だからね。  新聞で大きく扱われたこともないし、知らなくて普通かな」 「新興の倒幕派テロリスト集団ですか?」 「半分正解。  というか、正解の半分」 「残り半分は」 「こいつら、一種の宗教団体なんだよね」  ……宗教? 「何らかの宗教的見地から幕府政治に反対を訴えている、とでも?」 「というよりも、反幕を宗教にしちまったっつーか……〈なっちまった〉《・・・・・・》みたい。  最初はまぁまぁ普通に倒幕活動してたのが、とある英雄に心酔するようになってね」 「次第にその英雄を神様扱い。  英雄のやることは何でも肯定して、自分らもその真似をし始めて……めでたく現在ではブラックリスト上位の過激派集団ですよ」 「…………」 「自称、流星団。  一方的に崇め奉ってる御本尊は、もちろん――今をときめく大殺戮者」 「人中魔王の銀星号ね」  敢えて訊かなかった問いに、足利茶々丸は親切にも回答してくれた。 「……馬鹿馬鹿しい」 「そお?」 「倒幕主義と銀星号に何の繋がりが――」 「そらま、あてら六波羅軍を単純な力勝負でぶっ潰せる唯一のおかたですから。  倒幕派としちゃあ、そこにしびれて憧れずにはいられないんでない?」 「銀星号は幕府と敵対しているわけではない。  無差別に殺し回っているだけなのに……!」 「それがこの連中の視点だと『少々の犠牲に構わず巨悪を追い詰め討ち滅ぼす、英雄的な戦い』ってことになるみたいやね」 「……ッ……」  それを〈真似〉《・・》した結果が――これ。  市民の巻き添えも厭わぬ爆破テロか。  馬鹿げている。  最悪の冗談だ。 (こんな奴らを……)  産み落としてしまっているのか。  銀星号の名、その存在は。 「お兄さん」 「……」 「御姫を倒す?」 「…………」 「はい。  倒さなくてはなりません」  災厄の根源を断つのだ。  一刻も早く――  二度と再びこんな愚行を繰り返させないために! 「……そっか。  じゃあ、試してみよう」 「試す、と?」 「お兄さんに機会をあげる」 「御姫を殺す機会をあげる」 「――――」 «……何ですって?» 「できるかな?  お兄さんに……」 「〝英雄〟に徹して――肉親を殺すことが」 「…………………………」  負傷者の応急処置と病院への搬送、犯行集団の警察機関への引き渡しなどの手配を終えて堀越へ戻ると、晩秋の陽は既に落ちていた。  薄暗い門を三人、会話もなく〈潜〉《くぐ》る。  足利茶々丸は、光を殺す機会を与えると言った。  ……どういう事なのか。  堀越公方に何らかの異能があるのはどうやら事実だ。  そして無論、数万の兵力を意のままに動かす権力も所有している。  だがそのすべてを駆使して銀星号に挑もうと、討ち果たす事は叶うまい。  そう思う。  なのに、    ……心臓が激しい動悸を訴える。  不吉な予感に肌がぷつぷつ粟立つ。  〈足利茶々丸は嘘を言っていない〉《・・・・・・・・・・・・・・》。  その確信に、俺は恐怖する。  彼女の言葉が嘘でないなら、俺は望み通り奪えるという事なのだ。    光の命を。  待ち望んだ瞬間が近い。  …………だから恐れている。 「閣下。  事前に教えておいて頂きたいのですが……」 「ん?」 「光を、どうやって……殺すと?  寝込みを襲うつもりですか?」  今日は部屋に引き篭もっているとのことだったが、それも朝方の話だ。  もうとっくに起きているだろう。  いや、まだ寝ていても同じだ。  そんな単純な方法で殺せる相手とは到底思えない。  だから中止するべきだ。  中止した方がいい……。 「違うよ」 「……」 「それじゃ殺せない。  逆だよ」 「逆?」 「うん」 「……?」 「例によって、わけわからない」 「すぐにわかる」 「一目でわかるさ」 「…………」             引き返せ。          引き返せ、湊斗景明。         この先はお前の行き止まり。       一歩たりとも進めなくなる。 「――――」 「……御堂」 「どうしたの? お兄さん」 「…………」 「行くよ?」 「…………はい」  その戸を、足利茶々丸は引き開けた。  中は暗い。  夜の海のように、茫漠と無が広がっている。  しかしやがて目が慣れるにつれて、そこは俺にあてがわれた部屋と〈殆〉《ほとん》ど変わりない一室だと知れた。  そう多くない調度品。上質の畳が敷き詰められた床。  ――中央には、〈白い何か〉《・・・・》。  既視感。         俺はこの光景を知っている。 「……光?」 「眠っているのか?」 「いいや、起きてる……」 「目覚めているよ」  かちり、と音がして。  全てが電灯の光明に照らし出された。 「――――――――――――――――――」  知っている。  知らぬ筈がない。  かつて来る日も来る日も見守り続けた光景。  快復を夢見て、明日はこの光景が失われている事を望んだ。  破局を恐れて、明日もこの光景が保たれている事を望んだ。  二律背反の情景。  一年の間、見続けた。  この姿を。  〈鉱毒病に冒されて〉《・・・・・・・・》、〈身体と精神を病んだ光を〉《・・・・・・・・・・・》! 「こ……これって」 「これって」 「おめーは知らないんだっけ?  湊斗光の病気」 「し、知ってる……青江の術の中で見て……  知ってるけど!」 「どういうことよ!?  これが湊斗光なら、〈二世〉《かかさま》を装甲して銀星号になっているのは誰なの!!」 「誰っしょね?」 「はぐらかさないで!」 「はぐらかしちゃいねえ。単なる意地悪だ。  けど、おめーもわかり切ったこと訊くなよ」 「ここに湊斗光がいるんだから、この湊斗光が装甲して銀星号やってるに決まってんだろ」 「どうやってよ!  できるわけないでしょう!?」 「こんな、植物状態の重病人が……装甲して戦うなんて!」  そうだ。  できるわけがない。  こんなのは嘘だ。  明らかにおかしい。間違っている。  だから嘘なのだ。  こんな事は全部嘘だったのだ。  ――何処から?  何処から何処までが嘘だ? 「どう聞いてもデタラメな話だよなー。  でも、ここに嘘はなんにもない」 「真実、この湊斗光が銀星号だ」 「だからっ……どうやって!  そんなことができるっていうのよ!」 「眠る」  預言者は一言で、正解を語り尽くした。 「……眠る、って」 「この湊斗光が眠ると〝銀星号〟が出てくる」 「何よ……それ」 「…………」 「二重人格……?」  一つの肉体に二つの自我が宿る。  そんな精神的変調が存在すると、耳にした事はあるが―― 「いや、違う。  銀星号は〈人格〉《・・》じゃない」 「実験して調べてみた」 「実験?」 「あては最初、〈この状態〉《・・・・》を見ても、御姫って変な寝方するんだなーとしか思わなかったよ。  湊斗光が鉱毒病で廃人になってるなんて、初めは知らなかったしね」 「……」 「でもその内、段々と妙に思えてきたからさ。  物は試しで脳波を調べてみたの」 「この状態と、立って動いてる時と」 「脳波……?」 「てきとーにわかりやすく言えば、頭の血の巡り具合だ。  わりと最近の学問だけど、お兄さんは多分知ってるよ」 「いや……おめーら村正こそ誰よりも詳しく知ってるはずだ。  知らないわけねえ。知らなかったら、どうして人の精神を書き換えられる?」 「…………」 「その脳波を調べてみたら、さ。  結果は逆だったんだ」 「逆……」 「〈この状態の湊斗光は覚醒していて〉《・・・・・・・・・・・・・・・》、  〈活動する銀星号は常に眠っていた〉《・・・・・・・・・・・・・・・》」 「――――――――」 「夢なんだよ」 「〝銀星号〟は湊斗光の見ている夢」 「既に破壊された人格が、砕け散った意識の底で見続けている夢だ」 「……夢……?」 「そう」 「そんな――ふざけた話が」 「心当たり、何もないか?」 「あるわけないでしょう……」 「お兄さんは?」 「…………」 「……御堂?」  あの時。  ――――昨日、光に挑んだあの時。  俺は確かにこう思った。  〈存在が希薄過ぎる〉《・・・・・・・・》。  〈光は本当にここにいるのか〉《・・・・・・・・・・・・》、と。  足利茶々丸の語る事は、その馬鹿げた直観に対する合理の一解説だ。    夢。  夢ならば――符合する。  〈存在しながら不在〉《・・・・・・・・》であった、あの光に。  それ以前から感じていた、現実性の欠落……  奇妙な隔絶感にも、説明がつく。 「あるっしょ?  言ってたもんね……御姫が目の前にいるのに、その実在を疑ったって」 「……しかし……  やはり……有り得ません」 「〈あれ〉《・・》を全て、眠りの中で行っていたなど!」 「言うなりゃ、天然の無想――夢想剣だ。  御姫が無敵なのも道理だぁね」 「どだい、人間ってのは無駄が多く出来てる。  その無駄を全部取っ払って、自分に必要なものだけを残したのがあの〈銀星号〉《ゆめ》だっていうなら、誰も勝てるはずがない」 「有り得ません」 「そんな都合のいい〈奇跡〉《・・》があってたまるか、って?」 「…………」 「安心してよ。  これは奇跡なんて素敵なもんじゃない」 「呪いに過ぎない。  代償が支払われている」 「……どういう意味ですか」 「お兄さん、この容態を見てどう?  二年前と比べて」 「……………………」 「衰えている……?」 「うん。  活動中は理不尽なパワフルぶりに騙されるけど、こうして寝てると明らかでしょ?」 「中身はもっと酷いよ。  最新最高の医療技術をかたっぱしから注ぎ込んで、どうにかこうにか命を繋いでるけど……あといくらも〈保〉《も》たない」 「それは」  何から来る衰退なのか。  二年前、光の鉱毒病は治療されている。  時すでに遅くはあったが……更なる症状悪化は阻止できたはず。  衰えの理由は別になくてはならない。    ――つまり、 「抑制のない夢の世界に根差しているからこそ、銀星号は人外境の力を揮える……。  けどその分の負債は、現実の湊斗光の肉体からきっちり取り立てられてるってわけ」 「こうして……」 「…………」 「あての見るところ、あと二回かな。  銀星号として動けるのは」 「二回……」 「多分ね」 「その後は――」 「無いよ」 「……」 「そこで終わり。  銀星号も……湊斗光も」  終わり。  この世から、消える。  いなくなる。  死ぬ。 「…………」 「さて。  どうしよう、お兄さん?」 「……どう、とは?」 「あては約束を守ったよ。  御姫を殺すチャンスをあげた」 「…………」 「今ならそこらの子供でもやれる。  首に手をかけて、軽く捻ればおしまいだ」 「さ、どうぞ」 「……………………」 「馬鹿な」  できるわけがない。  〈これは光だ〉《・・・・・》。  俺の家族――俺の守りたかった、救いたかったものだ。  殺す?  冗談だろう。  逆だ。すべきは逆だ!  手を尽くして、この衰え果てた光を助けるのが俺の役目―― 「あと二回。  でもその二回で、どれだけの人間が死ぬのかな?」 「――――――――――――――――――」 「〝銀星号〟は湊斗光がごく深い熟睡状態に陥ったとき発生する現象だ。  出現を未然に阻止する方法はない」 「現れたものを、力で止めるのも無理。  ……今しかない」 「お兄さん。  犠牲者を出したくないなら、いま殺すしかないよ」 「…………」 「…………………………」 「……御堂……」 「少し……席を外して。  私が、」  片手を突き出して、その先の言葉を止める。  聞きたくなかった。  聞けば、頭蓋が割り裂けそうだった。 「すっこんでろよ。  言っとくが、おめーにはやらせねえ」 「あてが機会をあげるのはお兄さんだけだ」 「……村正……」 「…………」 「そっ。  すべてはお兄さん一人の決断」 「お兄さんの意思でやらなくちゃいけない。  湊斗光を……殺害する……」 「……っ……」 「できない?」 「…………」  湊斗光。  銀星号となり、殺戮を為すもの。  湊斗光。  俺の、守りたかったもの。 「お兄さん……  あてと坊主が言ったことを思い出して」 「……?」 「無我。  湊斗景明が湊斗光の死を望まないなら……湊斗景明を捨てるんだ」 「英雄になるんだ。  世界の意思は〈銀星号〉《まおう》の死を望んでいる」 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 「お兄さん」 「〈自己〉《おのれ》を、捨てて」  世界に死を撒く銀星号を滅ぼすために。  俺は――――  これより先の事は語るまい。  語らなくとも、わかる筈だ。  結末だけを伝えよう。    この〈物語〉《ゲーム》は〈英雄〉《きみ》ではなく、足利茶々丸の勝利で幕を閉じた。  光を殺すのだ。  殺さなくては、ならないのだ。  湊斗景明の心が邪魔だというなら、その心を潰してでも。  生かしておけば、光はまた銀星号となり……  数多の人命を奪うのだから。 (殺さなくてはならない)  だが、  何故、  光が死ななくてはならないのだ!! 「こ、こら。  首にぶら下がるなっ!」 「断る!」 「歩けないだろうが!」 「歩いてみせろ!  そんなことで光に勝てるか!」 「景明。  二人きりの食卓だからといって、変に気を使う必要はない。早く食べるといい」 「二人?」 「あれ……わたしハブられてる……」 「二人だ。  もし、〈いもしない〉《・・・・・》三人目がどうしても気になるのなら言え。質量保存の法則を無視してでも、この宇宙から完全に抹消してやろう」 「すみません。もう黙って食べます。  わたしいませんから……母さんここにいませんから……」 「……」 「……景明」 「うん?」 「光は……父に会えるであろうか」 「……ああ」  光が何をした?  〈この光〉《・・・》が何をしたというのだ。  光の時間は三年前から停止している。  田舎町に住まう一人の少女であった頃から、一歩も進んでいないのだ。  その後の事象に光の意思は介在していない。  殺戮者銀星号は、夢であった。  現実の世界を荒らしはしても、本人にとっては何処までも夢の中の出来事に過ぎない。  どうして罪を問えるだろう。  如何なる法が夢の中での行いに罪を科すだろう。  罪は無い。  湊斗光には一切の罪が無い。 (それでも)  殺さねばならないのだ、と。  俺の心ではなく、俺の過去が告げていた。  光と同じように、何の罪も無かった人がいた。  その人の命を、俺は奪った。  より多くの人々の命が失われる前にと、殺したのだ。  状況、条件は、この今も全く同等。  光を殺さねば、より多くの命が失われる。  だから、やらなくてはならない。  新田雄飛に恥じぬために。  ふきとふなの姉妹に恥じぬために。  殺そう。  湊斗光の生命をこの手で絶とう。  無我。  湊斗景明を放棄する。  英雄に徹する。  殺す。  殺す。  殺す。 「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」  できない。  できない!!  できるわけがない!! 「……御堂」 「お兄さん……」  断罪の声が響いている。  俺の矛盾を、〈利己心〉《エゴイズム》を、暴き立てる声が。             〝卑怯者〟  許してくれ。          〝他人なら殺せるのに〟  許して下さい。        〝自分の家族は殺せないなんて〟  無理なのです。  どうしても、無理なのです。            〝無理……?〟  無理です。       〝その首をへし折るだけなのに?〟  できません。         〝おれの首は斬ったのに?〟  あああああああああああああああああ……             〝殺せ〟             〝殺して〟            〝殺してよ〟            〝同じように〟       〝おれたちを殺した時と同じように〟  許して。            〝許さない〟  お願いだから許して下さい。           〝許せるもんか〟  許――             〝殺せ〟             〝殺して〟             〝さあ〟             〝早く!!〟 「うく――」 「くァァァァァァァァァァァ!!」 「御堂!?」 「待って……行かないで!!」  声が追ってくる。  逃げないと。  捕まったら終わりだ。  殺されてしまう。  光が殺されてしまう。  駄目だ駄目だ駄目だ。  殺させるものか。  光は俺が守る。  こうして――  俺の腕の中に入れておけば誰も殺せない。  誰にも殺させない。  光は守る。  俺が守らねばならないのだから。  声はいつまでも追ってくる。 〝殺せ〟         〝殺せ〟       〝殺せ〟            〝殺せ〟   〝殺せ〟  声はいつまでも追ってくる。  恐ろしい怒りと呪いに満ちて、俺の背中を脅かす。  逃げるのだ。  あの声が追ってこない所まで。  ──そんな場所が、何処にも無いというのなら。  未来永劫、逃げ続けるのだ……  光を抱いて。  ……俺は木々の中、座り込んでいた。  腕の中には光がいて、寝息を立てている。  座っていた――というのは、違うかもしれない。  単に動けなくなっただけとも思えた。  足の筋肉は完全に張り、立ち上がる事さえままなりそうにない。  どれほどの距離を駆け巡ったのか。あちらこちら傷だらけで、出血も酷かった。  意識は飛んでいる。  光を抱えて堀越御所を飛び出してから――いま呆然と周囲を見回しているこの瞬間まで。記憶は全き空白で、何も残っていなかった。  まさか丸一日以上走り続けていたとは考えられないから、まだ同じ夜の内であろう。  おそらく、あれから数時間程……いや、実はもっと短いのかもしれない。  ほとんど勘でしかないが、辺りの風土も伊豆のもの、堀越のそれとそう違いはないと思える。 「…………」  ――これから、どうすれば良いのか。  それは、あらゆる意味において愚劣な問いであるに違いなかった。  今更問うまでもなく、今更問うことではなく、今更問うても仕方がない。  問いの答は自明である。  俺がやらねばならない事は、わかり切っている。  だから、俺は思考を打ち切った。  その答はいらない――欲しくない。  知りたくない。  本当は既に知っているとしても……知らないふりができる間はさせて欲しい。  俺は光の身体を抱え直し、顔を伏せた。  静かな寝息が、頬に触れる。  少し眠ろう。  考えるべき事は、目覚めてからでいい。  今は眠って、最後の幻想に浸りたい。  こうして……いつまでも。いつまでも、光を守るという……。 「……………………」 「……ッ!?」  頬に触れる――――  〈寝息〉《・・》!?  光の相貌を確認する。  ……眠っていた。  いつから?  いや、そんな事はどうでもいい。  ……足利茶々丸は何と言っていたか。  銀星号は、光の夢。  深い眠りに陥ると現れる―― 「いい風だ」 「草の香り。  土の香り。  闇の香り……」 「振り仰げば、木々の狭間に隠れ月。  〈深更〉《よふけ》の山とは風雅なものだな!」 「景明、おまえにしては気が利いている」  微笑んで、光はそう言った。  山の夜風を味わうように、両腕を広げながら。  光。    ……〈銀星号〉《ひかる》。  湊斗光の見る夢だという銀星号。  月明かりを浴びて佇むその姿は、確かに夢幻めいている。  しかし、そこに虚ろなものや薄弱なものはない。  有るのは力だ。溢れんばかりの力!  これが夢の存在だと?  かくも力に満ちたものが?  俺の方こそおかしな夢を見ていたのではないか。  いつの間にか入り込んでいたこの山で、狐狸の類に〈誑〉《たぶら》かされて……。  その方が――今は余程、納得できる。 「……光……」 「何だ?」 「お前は――」 「…………」 「どうした。  何を遠慮する間柄でもあるまい」 「家族ではないか」 「…………」 「どんなことでも構わぬから、言ってくれ。  おまえの声を聞きたい」 「……」 「おまえは……光の夢なのか?」  口にしてみたことで、決着がついた。  極めつけの戯言だ。  どう見ても夢とは思えないものにお前は夢かと問うのも。夢と思うものにお前は夢かと問うのも。  どちらにしろ、脳神経系が断裂している者の所業であろう。  やはり、おかしいのは俺なのだ……。  光にしてみれば、意味がわかるまい。  眉根を寄せた怪訝そうな顔で、問い返してくる―― 「そうだ」 「――――」 「おれは、湊斗光の夢に過ぎぬ」 「……お前は……」 「自分で、」 「知っている」 「己が〈泡沫〉《うたかた》のものであることを知っている」  悲嘆は込めず。諦観もなく。  ただ自然に、〈銀星号〉《ひかる》はそう認めた。 「…………」  理解できない。  自身が夢――虚構である、などという自覚を持って存在できるものなのか?  虚構は崩壊を宿命とする。  虚構たるを自覚して、なお存在するなど、矛盾ではないのか。 「不思議か?」 「……」 「おれにとって、悩むべきことは何もない」 「夢とは、望みだ。  いや……そうとも言い切れないのだろうが。湊斗光に限って言えば、夢とはまさしく希望の結晶にほかならぬ」 「……希望……」  光は左手を伸ばした。  月華の下、それは白銀に輝く。 「おれは湊斗光の夢であることを喜ぶ。  それはおれが最も純粋な湊斗光であることを意味するからだ」  開かれた手が、胸元に触れる。 「おれは湊斗光の夢であることを誇る。  それはおれが最も強固な湊斗光であることを意味するからだ」  手が握り締められ、拳をつくる。 「おれは湊斗光の夢であることを誓う。  それはおれが、湊斗光の、いつか叶う理想であることを意味するからだ!」  拳から、人差し指だけが剣のように立つ。 「…………」 「おれは迷わず、おれとして在る……。  この道を踏みしめ、〈直向〉《ひたむき》に進むことが――おれにはできる!」 「光……」 「行かねばならぬ」  言うと。  光は、俺に背を向けた。 「……行く……?」 「うむ。  光の夢として、光の希望を叶えるために」 「天下布武を果たさねばならぬ」 「――――!!」  それは。  その意味するところは……つまり、 「止せ!」 「…………」 「もう……殺すな!  お前自身の命取りにもなる!!」 「お前の身体は――」 「限界が近い、か?」 「……!」 「あるいは、かもしれぬ」 「だが止めぬ」 「光!」 「おれは望みのために歩き続ける。  ほかの〈在様〉《ありよう》を知らぬ!」 「おれは、光の夢なのだ」 「…………」 「限界があるなら、限界に挑もう。  そうして必ずや、望みを遂げる!」  望み。  光の――――希望。 「父、を……」 「うむ」 「奪われた父を、取り戻す」 「……」 「お前の父は……  ……奪われてなどいない……」 「……」 「明堯様は、お前を拒みはしない!  会いに行けば、いつでも迎えて下さる……」 「会うことが望みではない」 「父親と、名乗ってくれることだ。  光を娘と、認めてくれることだ」 「それも――」 「叶う、か?」 「…………」 「おまえの言う通りだ。おれは父にいつでも会える。会って、父と呼ぶこともできよう。  だが一度もしたことはない」 「拒絶されるのが恐ろしい」 「……」 「どう思う。景明」 「光の望みは叶うか。  父は心から、真実の言葉で――おれを娘と認めてくれるだろうか……?」 『貴様が事の決着をつけよ』 『この能無し――明堯と湊斗家との縁を、  貴様の手で断ち切るのだ』 『……許せ。景明』 『去れ、明堯。  今後二度と、湊斗を名乗ることも、儂の前に現れることも許さぬ』 『……景明……』 『湊斗の家を……  光のことを、頼む』 「……光を頼むよ、景明。  約束……忘れないで」 「…………」 「…………」 「…………………………」 「そうだろう。  わかっている」 「我が父は〈奪われている〉《・・・・・・》のだ!!」 「光と父との絆は断たれている!!」 「己を産み落とした愛の根源から、光は断ち切られている!!」 「だから取り戻すのだ!  我が父を封じる牢獄――この強大なる世界に挑み、打ち砕いて!!」 「……〈二世村正〉《ムラマサ》!?」 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り!」  白銀の騎影が生誕する。  魔王――銀星号。  それは軽く、〈頤〉《おとがい》をそらした。      ここから飛び立ち、世界を滅ぼしにゆくために。 「待て!  待ってくれ……」 「……」 「父親さえ得られるなら、お前は破壊と殺戮をやめるのか!?」  なら。  なら――俺は。  何に背約しようとも、この俺の決断で、            約束―――― 「――ッ――」 「景明」 「光の求めは――  父がおれを血子と認め、愛情の実在を認め、その口で名を呼んでくれることなのだ」 「世界の代わりの人身御供として、父を差し出して寄越されても意味がない。  それでは……父の愛は世界に奪われたままだろう?」 「…………」 「ゆえに世界は壊す」 「全ての人間を殺し、あらゆる価値を滅ぼし、この地上に光と父だけを残す!!  その時こそ父の愛は疑いもない――〈他には〉《・・・》〈何も無いのだからな〉《・・・・・・・・・》!!」 「光、」 「景明。  我が家族――我が兄」  その一刹那。  光は凄まじいまでの戦気に満ちて、俺を見据えた。 「〈兄〉《おまえ》こそは光の最後の敵。  覇道の最後に越えねばならぬもの」 「もう、わかっているな……?  おれがおまえに望むのは、最後の時に、光の前へただ独りで立つことだ」 「…………」 「奪う。  必ず、奪うぞ」 「母!  世界!  我が兄!」 「阻むもの全てを破り――  おれは必ず奪う!!」  視線はまさに槍と化して貫通する。  俺の胸の中央から……魂の中核まで。 「誰にも止められぬ。  止めさせはせぬ」 「この願いは――誰にも!!」  白い軌跡が天へ〈迅〉《はし》る。  ――それは確かに留め得ないものだった。  止められぬ〈速度〉《スピード》。  止められぬ〈威力〉《パワー》。  不可侵の意思。  それが、天空へ昇る。 「……ぁ……」  行ってしまった。  起きてはならぬ事が起こる。  始まってはならぬものが始まる。 「あ、あぁ」  俺は……  後を追い、ふらつく足取りで走り出した。 「……ああ……」  〈夥〉《おびただ》しい死があった。  幾多の命がただ無為に、引き裂かれ、意味を失って散っていた。  ――誰が招いた?  ――誰がこの災厄を起こした?  銀星号?  ……違う。 「…………」 「貴方を追っていたら……  銀星号の〈香気〉《けはい》がして」 「まさかと思って来てみたんだけど……」 「……」 「ごめんなさい……。  来るのが……遅かった……」  いつの間にか村正が傍らに立ち、詫びていた。  だが、何を詫びるのだろう。  村正がこの地獄の原因か?  違う。 「俺が……」 「……御堂」 「……俺の誤断が……」  防げた筈の災いを、防がせなかった。  これは阻止できたのだ!  俺が光を、殺していれば!  俺にはそれが可能だった。  なのにしなかった。  だからこうなった!! 「…………殺す」 「……」 「殺す……  光を……」 「……ッッ……」 「あ――アアアア」 「できない。  ……お兄さんには、できないな」 「っ!?」 「しょっ――と」 「っ……貴方!」  堀越公方――足利茶々丸。  完全な奇襲で村正を組み伏せ、そこにいる。  しかし、目は膝下の村正を見ていない。  真っ直ぐ俺に注がれていた。 「お兄さんはどうしようもなく湊斗光を愛してる。  まるで……呪いのように」 「…………」 「お兄さんは御姫を殺せない。  そうなると……あてが用意できる運命は、もう一つの方になるな」 「何をする気!?」 「これ」  掌の中に――  白く、輝く、 「……!」 〝卵〟!?  何故、それが堀越公方の手に。  真逆……これは、光が俺に使おうとしていたものか。  汚染波の結晶だと言っていた、あの―― 「チャンス到来、だね」 「さ……させるかぁ!!」 「うるせえ。  いいとこで……邪魔すんなっ!!」 「なっ……!?」 「仕手がいなけりゃ五分と五分。  じゃねえな……あての方が一枚上だ」 「貴方、まさか」 「〈まさか〉《・・・》」 「さぁて……  お兄さん?」 「心の準備はそろそろOK?」 「――――」 「みっ……御堂!  〈呼んで〉《・・・》!」 「装甲して!!  私を――――」  動きを封じられた俺の劒冑が叫ぶ。  そうだ。  このままでは危うい。  装甲し、甲鉄の守護で〈卵〉《あれ》の力を防ぐのだ! 「鬼に――」 「湊斗光の命を救う方法がある」 「な」 「なに……?」 「助けたいんでしょ?  魔王でも殺人鬼でも、湊斗光に生きていて欲しいんでしょ?」 「あれはあと一月も保たずに衰弱死する。  でも、その前に助ける方法はある……」 「――――」 「駄目よ!  聞いちゃ駄目っ!」 「どんな理由があったって……貴方の〈心魂〉《こころ》を捨てていいわけが――」 「黙れってぇの!!」 「あぐぅっ!」 「村正!」 「〈お兄さん〉《・・・・》」  その瞬間、あらゆる音が奪われた。  静寂――深海の底に沈むかの。  足利茶々丸の声だけが唯一、神託めいて響く。 «湊斗光を救いたい。  ……それがお兄さんの、偽りない本心だ» «よね?» 「――――――――」  それは、  それは……  ――――確かに、否定できない、俺の―――― 「駄目ぇ!!」 「……貰ったよ。  その、〈心魂〉《ココロ》!!」 「……お……」 「おア……」 「御堂!!」 「〈卵〉《それ》は人の魂を素直にする」 「さぁ――お兄さん!」 「あなたの望みは!?」 「おおオオオオオオオオオオオアアアア!!」  望み。  俺の……望み?  そんなものは――――――――決まっている。 「……御堂ーーーーーーーっっ!!」                    『〈劒冑夢想論〉《ファンタジー・オブ・クルス》』  劔冑とは何か。それは人の肉と金属を重ね合わせて造られる鎧であり、生命体と金属物の双方の特性を備える。即ち劔冑は人間に似た知性を持ち、生体らしく破損を再生し、独自に活動することも不可能ではない。且つ、この物体は紛れもなく金属であり、基本的には他者に使用されない限り動くことはなく、適切な保存環境に置かれていれば死亡・腐敗などの変質を遂げることもない。  そして。言うまでもあるまいが、着用する戦士に魔神の力を与える。それが劔冑である。  ただの鉄の鎧と劔冑、如何なる未知の物質が両者を天と地に隔絶するのか、我々の科学的認識力は未だ大きく不足しており、真実の島へ至れるだけの航行能力を欠く。先人と我々の労力が果たしていつ報われるものなのか、現時点では何一つ確たる言を述べ得ない。百年後の最高学府で現在より飛躍的に進歩した技術知識を持つ教授達が我々と全く同じようにひたすら頭を抱えているかもしれないし、あるいは、マケドニアの片田舎で無名の天才が書き上げた従来の劔冑研究を根底から覆す論文が来月号のニュー・サイエンス誌上に華々しく登場するかもしれない。だがいずれであれ、我々現代を生きる探求者にできることはただ一つだ。いつか訪れるゴール・インの瞬間を信じて、脳細胞に鞭を加えるだけである。 ・・・・・・  我々は過去、金属を調べ、人体を探って、劔冑の謎を解く決定的な何かを求めてきた。だが、一つ、重要な構成要素を軽視してこなかっただろうか。婉曲な言い方はやめよう――劔冑を造る第三の物質、水について、我々は充分な研究を施してきたであろうか?  周知の通り、劔冑の製作過程において、鍛冶師らが最も重視し、神聖視すらし、儀式化のカーテンに長く隠されてきた、単なる鎧が超科学的な異物へ変貌する一瞬は、焼き入れの作業である。高温で打ち上げられた鎧と共に、鍛冶師が入水する工程。濛々と立ち込める蒸気が晴れた後には、鍛冶師の姿はなく、作業前と寸分違わぬ鎧だけが残る。だがその時には、鎧は既に鎧ではなく、恐るべき劔冑になりおおせているのだ。後は細かな調整作業が残るに過ぎない。  これまで我々は、この工程における水の役割を、単なる触媒と決め付けてきた。主体は鍛冶師と鎧であり、水は両者を接合する釘でしかないと。だが、もしそうではなかったなら? 鍛冶師もしくは鎧の方がむしろ触媒であり、水が主体の一つであったなら?  私としてはこの発想に基づき、早速本論に入りたい。だがそれでは、読者は私を無責任な吹聴者としか見られないだろう。生憎、私は政治家にも宗教家にも志を抱いていないのだ。逸る気持ちを抑え、まずはこの点についての根拠を説明するところから始めようと思う。 ・・・・・・  図Aはユーラシア大陸東部の地下に存在する、かつて古代地球においてプレートの移動が太平洋の一部を地中に引き込むことでできた広大な地下水庫とその分派を、世界地図と重ねたものである。これはハウスホーファー教授を通して手に入れた資料で、世界最先端と呼ぶに値する地質学が作成した。技術的限界による誤差は想定しなくてはならないが、内容の八割以上は信頼に足るとみて良いと思われる。 (付記。ハウスホーファー教授によると、この地下水分布はおそらく正しいが、地質学上の常識に照らして不可思議と言わざるを得ない点が非常に多く、何らかの異常――例えば重力の――を考慮しないことには説明が不可能なのだそうである)  図Bは地域における劔冑の誕生時期を色分けで示した世界地図。図Cは劔冑の生産量をやはり色分けで現した世界地図である。  私が着目した一致に、諸氏も気付いて頂けるだろうか。そう、地下水庫に近いほど劔冑の誕生時期も早いのである。生産量についてはそうと言えない部分もあるが、地下水庫からの分派が全くない土地においては劔冑の生産も皆無であるという点は決して無視し得ないだろう。  だからどうしたのか、と諸氏は思われるかもしれない。劔冑の製造に水が必要である以上、水の分布と劔冑の生産状況が一致するのには何の不思議もない、と。だがご存知のはずだ。地球上の水はなにも全てが一つの水源を共有しているわけではないということを。  つまり、劔冑の焼き入れに使われる水は大陸東部の地下水庫を経由するものでなくてはならないのである。この水庫からの供給のない地域、つまり南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア等においては、劔冑の製造が過去も現在も行われていない(過去については異論もあることを付記する)。  その理由は従来、鉄の質もしくは人種の違いに原因を求められており、水という観点は持たれなかった。水の性質が劔冑の鍛造において意味を有することは古くから知られていたが、必ずしも最重要の事項とは考えられていなかった。それは奇異と呼ぶに値しないことである。劔冑の焼き入れに使い得る水とそれ以外の水との間に、何らかの成分上の差異が見受けられるわけではないのだから。だが、劔冑をただの金属としか識別できない我々の科学が、その点においても同じ誤解をしているとしても、何の不思議があるだろう?  故に、私は仮説を立てた。――ユーラシア大陸東部の地下水庫、ここにこそ、劔冑の謎に迫る鍵がある。 ・・・・・・  私は劔冑を生物の一種(亜種?)であると判断する。独立した知性と行動力を限定的ながら所持すること、着用者の熱量を吸収して能力を発動する性質は新陳代謝とみることが可能であることなどがその理由だ。しかし無論、反駁は多いだろう。知性にせよ行動力にせよ劔冑のそれはあくまで着用者を主とする従的なものである。その性質はむしろ機械に近い、等々。私もそういった意見を否定はしない。劔冑は確かに機械的でもあるからだ。だが、そう主張する人々が結論として述べること――「劔冑は断じて生物ではない。なぜなら繁殖を、自己増殖をしないではないか」――その点が完全に覆されるとしたならば、どうだろうか?  劔冑は繁殖を行わない。それは事実だ。だがその理由を、生物ではないからだと決め付けて良いものだろうか。ある可能性を忘却してはいまいか? つまり、劔冑自体は繁殖によって誕生した生物であるが、子孫として不完全であり、完全でないが為に繁殖能力を持たないという可能性を。豹と獅子の合の子、レオポンのように。この場合、劔冑を生む繁殖とは無論、鍛冶師による鍛造ということになる。 (他者の手を借りるならばそれは生物の定義の一つたる自己増殖とは呼べない、と思われる方も多いだろうが、その点についての論議は控えさせて頂く。劔冑を生物と定義することは本論においてあくまで便法であり、核心ではない)  ここで、前段を思い起こして頂こう。劔冑が生物的繁殖による子孫であるとして、一体何の子孫なのだ?  金属? いや、金属は生物ではない。  人間? いや、人間は別の、より完全な増殖方法を有している。  では……? そう、水だ。正確に言おう。水に含まれる未知の何かの繁殖こそが、劔冑の鍛造なのではないか。  東アジアの地中深く、静謐な地下水庫から、その何かはやってくる。何年、何十年、何百年とかけて。長い旅の果て、遂に行き着くのは山奥の洞窟、その更に奥の小さな泉だ。そこは鍛冶師の仕事場になっている。鍛冶師は鉱石を焼き、打ち、一領の鎧を造り上げる。鉄に加工を許すのはとてつもない高温だけだ。空気を焙る火の甲鉄、しかし鍛冶師は一つ一つ身につける。肌を焼く。肉を焼く。それでもこの一時のために生きてきた鍛冶師は己の打った甲鉄にも劣らぬ固い意志で激痛に耐え抜き、全ての準備を終えて、神聖なる泉に己を沈めるのだ。灼熱の鉄と冷涼な水が接触し、激しい反応を起こす。洞窟は蒸気で満たされるだろう。そしてその中で、泉にたゆたう「何か」は鎧と、鍛冶師と交わり、一つになり――劔冑が誕生する。  これを繁殖と呼ぶならば、菌類の一種に類似していると言える。冬虫夏草、胞子を虫に寄生させ、それを苗床にして芽吹くあのユニークな茸のことを思い出して欲しい。虫から茸への異様な変貌は、鎧と鍛冶師から劔冑が生まれる驚異とある種共通するものがないだろうか?  冬虫夏草の神秘の鍵は胞子だ。胞子の寄生によって有り得ない変身が引き起こされる。では、劔冑鍛造において胞子に該当するものは何だろう? 論を俟たない。「何か」である。  ……鍛冶用水が含む「何か」とは、地下水庫に存在する「茸」が散布している「胞子」なのではないか。つまるところ、私はそう推論しているのだ。 ・・・・・・  地下水庫に最も近い国の一つ、大和の鍛冶師たちの間では、古来より「〈金神〉《こんじん》」と呼ばれる神への信仰が盛んである。この神は鍛冶に適した土地と時節を知るとされ、その叡智は神官の卜占という形で表される。占術の内容は実に興味深いものだが、これに関しては別記に譲ろう。  この神はまた「外より来たる神」であるとも伝えられ、その意味を大和の宗教学は客人神、つまり渡来の神を指すと考えている。だが、果たしてそうであろうか。前説の通り、大和が劔冑鍛冶の原点とも言えるのであるなら、鍛冶と密着した信仰もまた大和が原点でなくてはならない。上古の時代において、信仰と技術は切り離せるものではなかったはずだ。彼らにとって宗教儀礼は技術の中の必須の一部だったのだから。ならば「外より来たる神」とは、何を意味するのだろう?  金神信仰は仏教が伝来するとこれと習合し、護法魔王尊という新たな姿を獲得した。天台宗の一派にあたる鞍馬宝教がこの魔王尊を本尊とする。総本山である鞍馬山香雲寺は、大和最古の鍛冶集落でもあり、仏教伝来以前から近畿の要地として栄えていた。そして記録によれば香雲寺は、鞍馬山の仏教導入の際に、以前からあった金神の大社を改装して造られたものであるらしい。これらの経緯を勘案せば、鞍馬宝教の原型には金神信仰の最も古い形があると考えられよう。  香雲寺縁起が伝える魔王尊の姿は、極めて特異なものである。異様と言い換えてもいい。即ち、魔王尊とは650万年前(弥勒菩薩といい、仏教は莫大な数が好きなようである)に金星から飛来した、「人にあらざる素質」で構成された身体を持つ存在だというのだ。年齢は16歳のまま永遠に不変――これは信仰の中核を担った〈蝦夷〉《ドワーフ》のイメージが仮託されたのかもしれないが。毘沙門天・千手観世音と併せて尊天と呼ばれ、毘沙門天が太陽と光、千手観世音が月と心を象徴するのに対し、魔王尊は大地と力を示すのだという。  金星から飛来した人ならざるもの!  前章において、私はヤーヴェ教の聖典にある神とはつまり巨大隕石ではないかと記した。鍛冶信仰の源流を辿って得た成果はその考察を補強した。いやそれのみならず、新たな要素を加えた。ただの隕石ではない。魔王尊の伝承は明らかに、生物的な何かの到来を示している。永遠に不変、とは金属を象徴するイメージだ。生命と金属。まさしく劔冑そのものではないか。  宗教説話が何らかの事実に基づくものとするならば、はるかな昔、宇宙から飛来した何物かが存在した可能性が示される。それは劔冑に酷似しており、そして劔冑よりも遥かに完成度の高い生物性と金属性の融合を果たした何かだ。――金属生命体。そう呼ぶべき「神」は実在し、今なお、我々の暮らす大地の下に眠っているのだろうか? ・・・・・・  私は神の姿を夢想する。それはある時は光り輝くヒトに似た何かであり、またある時はただ巨大な鉱石だ。金属生命体という仮想は現時点においてあまりにも私の手から遠すぎ、明確なイメージを抱くことすら許してはくれない。せめてその実在に確信を持てたなら、知性に方向性が与えられ、真相へ近づくことがかなうだろうに。  問題の地下水庫へ赴き、疑いようもない形で神の実在あるいは非実在を確認する手段がないことは、そのような時代に生まれたことはまさしく痛恨だ。しかし私は諦めていない。確証は無理でも、傍証を得るのは可能だと信じている。  それはいつか、史上最高の劔冑と巡り合った瞬間に判明するだろう。私は劔冑が繁殖しない理由を不完全ゆえだと述べた。逆に言えば、完全な劔冑は繁殖能力を持つはずなのだ。地下に眠る神の性質を受け継ぎ、 「胞子」を用い、「寄生」して増殖を行うのだ――私の推論が正しく、その劔冑が完全であるなら!  完全な劔冑の誕生を、未来に期待することはできない。劔冑の技術は進歩しているが、それは劔冑の本質に近づく方向ではなく、むしろ遠ざかっているとしか思えないからだ。最新の数打劔冑は確かに素晴らしい生産性を備えている。だが個々の能力は、古来の製法で打ち上げられた真打劔冑に及びもつかない。数打劔冑は云わば変種に過ぎないのだ。  神の嫡子、最高峰の劔冑は過去の遺産の中にのみ探し求め得る。私は世界中を旅しなくてはならない。まずは大漢帝国を回ろう。名高い〈七星〉《チーシン》の劔冑を外国人が見ることは可能だろうか? その次はエジプトへ行こう。ツタンクアメンの黄金の劔冑をもしこの手にとって調べられるなら、呪いの一つや二つは甘受しようとも! そしてそう、あの極東の島国へも、必ずや足を運ばねばなるまい……。  旅路は長く果てしない。だが私は目的地へ辿り着くか、あるいは天へ召されるまで、歩みを止めないだろう。私は探求者であり、探求者以外のものになろうとしたことは一度としてなく、これからもないのだ。                Wolfram von Sievers 「……お兄さん。  そろそろ着くよ?」  言われて、俺は掌中の書面から目を離した。  車の窓越しに景色を眺める。  併走する警護車両、流れ去ってゆく街路――そしてその向こうに〈聳〉《そび》える、不動の偉容。  確かに、もう近い。  ……これ程の距離で目にするのは、思えば初めての事であった。  六波羅幕府の中核点――――普陀楽城塞。 「呼ばれて!!」 「飛び出て!!」 「来てやったってのに誰も出迎えに来ねえ。  寒いんだよ、てめーら」 「呼んでいない」 「右に同じ」 「いやいやいやいや。  あまりに突然のご登城であったゆえ……前もってお知らせ下さっていればこんな無礼は致さなかったのでござるが」 「ともかく、よくぞお戻り下された。  この童心坊、百人力を得た心地でござる」 「百人分の足手まといの間違いでしょうに」 「百人分で済めば良いが」 「二百人分は覚悟しといた方がいいな」 「そうね、オホホホホホ!」 「じゃァないでしょ!?  端から役に立つ気がないのかあんたは!!」 「話を合わせてやったのに怒るし……。  相変わらずこの子は難しい子ですね」 「まぁまぁ、まぁ。  久々に四公方が顔をそろえたのでござる」 「今日のところは、再会を祝いましょうぞ」 「宜しかろう。  これも政治というものだ」 「〈目出度〉《めでた》い」 「そうね」 「こいつら実は、人の上に立つ器量とか全然無いんじゃなかろうか」 「まぁまぁ。  …………やれやれ」 「して、茶々丸殿。  お伺いしたいのでござるが」 「うん?」 「あぁ。俺も訊きたかった。  ……誰だ? そいつは」 「…………」 「そぅそぅ。紹介しないとね。  今度新しくあての副官になった、湊斗景明中佐」 「――湊斗であります。  宜しくお見知り置きの程を」 「……ほゥ……」 「……中佐?」 「よろしくねー」 「いや、待て。  湊斗……? そんな佐官がいたか?」 「俺の記憶には無いぞ」 「当然だな」 「元の部署は?」 「ねえよそんなの。  昨日まで民間人だったし」 「…………。  それがどうして、今日から中佐なのだ!?」 「そこはそれ。あれだ」 「どれだ」 「捏造。軍歴とか。色々」 「堂々と言う事か!」 「仕方ねぇだろー、予科に通わせるとこから始めてたら手元で使えるようになるまで何年掛かるかわからんし。  この時期にンな悠長なことやってられっか」 「だからって、そんないい加減な話はないでしょうよ!  まったくあんたは、いつもいつも――」 「ってつい言っちゃったけど、考えてみたらあんた、そういう無茶な人事ってあまりやらなかったわよね?」 「無茶やってまで使いたいほどの人間に巡り合わなかったかんね。  出会えば、別」 「ふん……言うな?  これがそれほどの男か?」 「どうなのだ、湊斗とやら。  飼い主は貴様の事を随分と買っているようだが……?」 「……………………」 「……」 「黙殺か。  良い度胸だな」 「その舐めた態度がどんな結果を招くのか、わからぬわけではなかろうに。  大したものだ……度胸だけはな」 「お褒めに〈与〉《あずか》り光栄であります、閣下」 「――――」 「しかし小官は答えようのない問いに答える手間を省いたに過ぎません」 「……何が言いたい?」 「この湊斗の〈有為無為〉《ゆういむい》は働きによって明らかとなる事。  口舌での証明は致しかねます」 「仮に為し得たとしても、四公方たる方々に御納得頂けるとは思えません。  それゆえ、返答を遠慮致しました」 「……ふん。  つまり貴様は、俺にこう言うわけか」 「知恵の足りない質問をするな、と」 「御賢察、感服仕りました。  大鳥中将閣下」 「…………」 「…………」 「――――――――――――」 「悪くない」 「……」 「悪くないではないか……この男」 「だろ?」 「ああ」 「悪くない」 「…………」 「迷わず抜いたな……。  顔色も変えん」 「殿中の掟を知らんのか?」 「存じております」 「知った上で、〈知った事か〉《・・・・・》と言いたいわけか。  ……くっ。くっくっくっくっく」 「獅子吼殿……」 「見逃して頂こう。  この男は仕掛けられて防いだだけ」 「俺は〈戯れた〉《・・・》だけだ。  誰ぞが能会にかこつけて開いた乱痴気劇と変わらん」 「……むう。  そう言われては、返す言葉もござらんなァ」 「悪くない。  湊斗、景明……だったな? 中佐」 「はっ。  御記憶有難くあります、閣下」 「ふん。生意気な。悪くない。  いちいち癪に障る……忌々しい男だ」 「くっくっくっく……」 「……恐いわよ。  あんたも何気に趣味嗜好が変よね」 「貴様にだけは言われたくない言葉だ。  しかし茶々丸よ、こんな男を何処の山から拾ってきた?」 「倒幕さんちのお山から」 「おいおい」 「ほぅ。  この男、元は叛徒か」 「容易く節を曲げるようには見えんが。  どうやって口説いた?」 「いやなに。  元々、彼には倒幕も佐幕もなくてね。ただ結果的に幕府と敵対することが多かったってだけでね」 「彼と〈幕府〉《こっち》の利害の擦り合わせをして、味方に引き入れました」 「利害、か。  何か個人的な目論見があると?」 「まあね。  でも秘密」 「信用できるのか」 「あてと同じくらいかな?」 「そうか」 「そうか、じゃないっての!  こいつと同じじゃまるで信用できんわっ!」 「全くだな。  が……構うまい」 「信用などできんのはどうせ誰も彼も同じだ。  ……ふん? そうなると、今のも愚かしい質問だったということになるのか?」 「どうだ、湊斗中佐」 「御自覚の通りで宜しいかと存じます。閣下」 「くっくっく……!」 「茶々丸、この男を俺に寄越せ。  代わりに一個大隊回してやる」 「だーめっ」 「ちょ、ちょっと獅子吼!  あんたは認めるわけ!?」 「よりにもよって逆賊上がりの男を登用するなんてふざけた真似を……!」 「ああ」 「童心様!」 「むう」 「まぁ……宜しいのではござらんかな?」 「そんなっ!」 「いやいや、雷蝶殿の懸念はごもっとも。  されどこれは堀越軍の事、茶々丸殿が全て承知した上での差配とあらば、我らがああだこうだと云う筋合いではござらぬ」 「それは……そうですけれど、」 「加えて申さば。  こちらの御仁、それがしもいささか存じてござる」 「なかなかに面白き男。  あの折とはどうも印象が異なるが……そこも含めて興味深い」 「……?」 「如何でござるかな、雷蝶殿。  ここはそれがしが頭を下げ申そう」 「何と言っても茶々丸殿が戻られためでたき日。ひとつ、どうか」 「…………。  童心様がそう仰るのであれば……」 「でも、いいこと? 湊斗とやら!  麿はおまえのような男を信用したわけではなくってよ!」 「はッ。  寛大な御心に感謝致します」 「華麗にして優美なる小弓中将閣下」 「――――――――。  あら」 「美しさを理解する目は備えているようね。  フフッ……まぁ、そんな当たり前のことを言われたって嬉しくも何ともないけれどっ」 「あまり狭量なのも美しくないかしら。  そうね、一応のところは認めてあげることにするわ。湊斗中佐!」 「有難くあります」 「……単純な」 「ある意味うらやましいやっちゃ」 「ホーホホホホッ!!」 「……ふむ、ふむぅ」 「うまくやったね、お兄さん」 「何が」 「さっきの。  うまいこと雷蝶のツボ突いておだて上げるなんて、なかなかの曲者でありますなー」 「ああ……あれか」 「あれなら単に本心だ」 「ふーん」 「…………」 「……え?」  普陀楽城の奥まった一角。  ここが、堀越公方足利茶々丸の居住区らしい。 「まっ、とにかくこれで挨拶は済んだし。  今日はもうなんにもないな」 「のんびりしましょ。  明日からはなんやらかんやら忙しいしねー」 「…………」  ふーやれやれなどと年寄りくさい嘆息を洩らしつつ、茶々丸が腰を下ろそうとする。    その首根を、俺は背後から掴んだ。  手近にあった卓の上へ引き据える。 「ふえ?」 「…………」 「にゃーーーー!?  何ですかこの急展開ーーー!!」 「ちょっ、たんまっ、たんまたんまっ」 「騒ぐな」  じたばたもがく小柄な体を押さえながら命じる。  もう一方の、服を〈剥〉《は》ぐ手も休めない。  これはなかなか器用な芸の筈だが、茶々丸からそれを賞賛する言葉はなかった。 「なな何するのーーー!?」 「……わからんか?」 「わからんっていうか、わかるのが怖いっていうかっ」 「犯す」 「わー! やっぱりかー!  こういうことはちゃんと手順を踏んでからにして欲しいと強く抗議します!」 「女の子には心の準備とか必要です!」 「すればいい」 「現在進行形で犯されながらでは無理かと!」 「…………」 「会話のスルーパス禁止ーー!  せめて説明してよー! いったい何ゆえにあては今こうして大人の階段を三段飛ばしで駆け上がってしまっているのでしょう!?」 「説明?」  その一単語を反復する。  手は止めなかったが。 「説明なら、お前がしろ。茶々丸」 「な、なんの?」 「こんな御仕着を寄越し――」  軍服の堅苦しさを感じつつ、言い募る。 「普陀楽へ連れて来た挙句に、副官だと?  何の茶番だ」 「それはその……」 「俺がいつお前の手下になった」 「そ、それは形だけだってば。  ちゃんとした地位についててもらった方がお兄さんも動きやすいかと思って」 「余計な世話だ」  剥き出しにした乳房を、俺は片手で握った。 「ひゃぅ!」 「いいか……茶々丸。  念を押しておく」 「俺はお前に協力などしない」 「う……うん」 「お前が俺に協力するのだ」 「光を救うために」 「うん……」 「それができないと云うなら――」  俺は、首根を掴む手に力を掛けた。  〈明確な〉《・・・》力を。 「お前を生かしておく必要もない」 「の、のーっ!  それやります! 死力を尽くして全力で!」 「ていうかそれがあての目的っす!!」 「わかっている。  お前が事の順序を履き違えていなければ、それでいい」 「俺は光のためにしか動かん。  堀越公方、お前に手を貸すのは、それが光の身に益する限りにおいてだ」 「ハイ……」 「副官か。  面倒な事を」 「何かにつけ、さっきの〈あの連中〉《・・・・》と面を突き合わせなくてはならんわけか。  どいつもこいつも、一癖二癖どころか……むしろ癖しかないような将軍ども」 「あはは、ほんとだねー」 「お前が筆頭だ」 「あうち……」 「想像するだに疲れる。  登校拒否児の心情がわかるな」 「で、でもでも。  勝手にやっちゃったのはごめんなさいなのですが」 「やっぱりそれなりの立場にいてくれた方が、色々やりやすいと思いますのです。  あてとしても、お兄さんに普陀楽を任せて外で動けるようになるし……」 「ふん」 「というわけなんで……あの……  許していただけると、嬉しいなー、なんて思ったりとか……」 「……まぁいい。  既成事実はどうにもならん」 「この際、副官の地位とやらをせいぜい活用するまでだ」 「わーい!  そんな前向きなお兄さんが大好きさー!」 「この埋め合わせは必ずするからね!」 「そうか。  なら、そのままおとなしくしていろ」 「はーい!」 「…………」 「……?……」 「えっ!?  ひょっとして、危機的状況は全く変わってない!?」 「おとなしくしていろと言ったぞ」 「はぅあーーー!  あのそのですからその、こういうことにはラブでロマンなプロセスというものがっ」 「要らん」 「うっ、うー……  じゃあ…………せめて」 「お兄さん……あてのこと、好き?」 「別に」 「血も涙もねぇ!!」 「欲望だけかー!  そんなに可愛いあてを犯したいのかー!」 「それも別に。大して」 「全否定かよ!!」 「えぅー。  じゃあなんで、こんなことすんのー」 「身体に教え込んでやろうと思っただけだ。  お前の、立場をな」 「立場?」 「お前は俺の道具だ。  それだけのものだと思っておけ」 「……」 「……ぁ……」 「……?」 「あ、あの。  今の、もう一度。わんすもあ」 「もあ?」 「もう一度、言って」 「……お前は俺の道具だ。  茶々丸」 「…………」 「はぅ」 「?」  何やら様子がおかしくなった。  ……まぁ、構う事でもないのだが。 「……」 「何だ」 「……あの、どうすれば……」 「どう?」 「こ、こういうコトをするとき」 「作法といいますか、決まりといいますか」 「……」  俺は指先で、茶々丸の髪を一房つまみ、軽く弄んだ。 「……っ」 「もう足掻かんのか」 「おとなしくしろって、お兄さんが」 「言葉の綾だ。  別に逆らっても構わん。ねじ伏せて言う事を聞かせるだけだからな」 「……きちく……」 「従順ならそれでもいいが。  で……何も知らんだと?」 「……」 「〈稚魚〉《おぼこ》か」 「……っ……」  眼下の少女の頬に、さっと朱が昇った。 「人の寝床に入り込むような真似をしていた割りに」 「……」 「あの時も、俺が本当に手を出していたら、どうしていいかわからなかったという事か?」 「……羞恥プレイ禁止ぃ……」 「そうか、茶々丸。  お前は男を知らない癖に、あんな事をしていたのか」 「……」 「存外に可愛い奴だ」 「……ぅ~……」  陰に笑いを絡めてそう言うと、茶々丸は目を閉じた。  余程に恥ずかしいのか、〈項〉《うなじ》までが赤味を帯びている。 「自分で慰めた事くらいはあるのだろう?」 「……」 「無いのか?」 「……」  俺は、片手で茶々丸の尻を張った。 「あぅっ!」 「答えろ」 「な、無い……」 「……」 「本当にか」 「ぅ……」  べそをかきながらに、頷く。  嘘ではないらしい。 「…………。  ここに」  指先で、局部をつついてやる。  小さな背が跳ねた。 「ひゃっ」 「突っ込んでやるつもりなんだがな」 「……そ、それくらいはわかるよ……」 「濡れていないと、やりにくい。  ……やりようが無いわけでもないが」  戸棚に酒の用意があるのを見て、呟く。  真っ当な方法としては、手業で官能を呼び起こしてやるべきなのだろうが。    面倒だ。 「濡らせ」  自慰も知らないと言った娘に、俺はそう命じた。 「……えっと……」 「どう……?」 「どうとでも、だ。  方法は問わん」 「濡れていないとお前を〈使いにくい〉《・・・・・》。  使いやすいようになればそれでいい」 「……」 「う……うん。  わかった……やってみる……」 「……?」  無理難題を言いつけたつもりだったのだが。  案に相違して、茶々丸は拒まなかった。  どうするのやら。 「……はぁ……」 「……んっ……」 「…………」 「命じておいて、何だが」 「何をしている?」 「……お兄さんが……使いやすいように……してるの」 「お兄さんが、濡れてた方がいいって望むのなら……そうなる……」 「だって……あては……  ……お兄さんの……」 「ふっ……くぅ……!」 「…………」 「……?……」  眺めているうち、茶々丸の呼吸は徐々に荒く、肌は汗ばみ始める。  体温が上昇している様子に見えた。  手を当ててみると、実際に熱い。    ――これは? 「……ッ……」 「ぁ……っ……  ……こ……」 「これで……いい?」 「……」  その場所に触れてみる。  ……熱く、潤みを含んでいた。 「どんな芸だ……?」 「芸なんてひどい……。  お兄さんの要望に応えただけ……」 「確かにそうだが」  水道の蛇口を捻って水を出すのとは話が違うのだ。  濡れろと言われたから濡れるというものでもないだろう。 「……ね……  使って……くれるんだよね……?」 「……」 「お兄さんが……あてを。  思うままに」  切なげな視線が俺を射る。    どうしてか、〈ざわり〉《・・・》とした衝動が背筋を走った。  ――そうだ。  俺はこいつを犯すために、こうしている。 「足を開け」 「……あい……」 「それでいい。  そうしていろ」  足利茶々丸を掌握したい。  その衝動が、男性器官を屹立させる。  処女への配慮は省いた。  そんなものは要らない。  露出させた器官をあてがう。  挿入する。  貫く。 「……ぁ――ッッッ……」  少女の身体が弓なりに反る。  形にならない慟哭が、震える口元からこぼれているようだった。 「入っているぞ……。  わかるか?」 「……っ……ん……」 「狭いな。  ここが一番奥か」 「わかるか……茶々丸」 「っ……?」  痛みのせいか衝撃のためか、言葉を発する余裕すら無いらしい。  潤んだ眼差しだけが俺に向けられる。 「奪っているぞ……」 「お前は俺のものにされている」 「――――ッッ!!」 「……ぁ……」 「は……っ……」 「……」 (達した?)  真逆、と思う。  初めて男を受け入れる処女が。こうも容易く。  しかし、この反応は―― 「…………」 「許せん〈女〉《やつ》だな」 「ぇ……ぁ……」 「俺がお前の中に――」  下腹部を撫でてやる。 「ぶち撒けてやる前に。  先に果てるとは」 「……はて……?」 「ぁ……あて…………今……」  前後不覚の様子で、朦朧と〈譫言〉《うわごと》を呟く。  少女の心はまだ、現実から一歩遅れた辺りを漂っているらしい。  無知性的な瞳が俺の顔を映していた。 「お兄さん……」 「……くっ」  笑う。  思った以上に――  期待した以上にずっと、この娘は――  〈教育〉《・・》し甲斐がありそうだ。 「教えてやる。  色々とな」 「まずは……罰からだ」 「……?……」  適当に済ませる気は、もうなくなった。  じっくりと――念入りに、やる。  夜は長い。  時間を掛けて、困ることは何もない。 「はぅっ……」 「わっ、噛まないで、そんなとこ……!」 「ちょっ――そんな、何処に指――」 「……ひぃ……」 「いうこときく、ききますから――」 「…………あーー!」 「…………」 「……」 「……………………」 「……」 「……あのー……」 「何だ」 「こういう時には……  何かこう、言葉があってもいいんじゃないかなぁと思ったりとか……」 「言葉」 「良かったとか悪かったとか。  好きだとか愛してるとか、もう離さないよとか」 「ああ……」 「…………」 「そうだな。  用は済んだから、出て行け」 「あんた本気で天魔鬼神かよっ!!」 「つーかここ、あての部屋なんですが!」 「だからどうした。  お前は俺を追い出したいのか」 「い、いいええぇ?  そんなつもりは決して全く」 「当然だ」 「出て行くのが嫌ならいても構わんが……  その辺の隅でおとなしくしていろ。目障りにならないようにな」 「……ハイ……」 「なんだろね……。  最近、あての扱いがえらく酷い気がしますよ……」 「そうなのか?」 「ついさっき、あての初めてを奪ったあげくそれはもう念入りにいたぶってくれやがったケダモノサディストからそんな他人事な感想は聞きたくないですー!!」 「あれなら別に酷くない。  喜んでいただろうが?」 「うっうっうっ。この言い草。  あんまりだ。女の敵だ」  めそめそ泣き始めるのを黙殺して、俺は仮眠を取るために横たわった。  声など右から左へ聞き流せば良く、子守唄ほどにも気にはならない。  適度な疲労感が、俺を熟睡させてくれそうだった。 「……でもさー」 「……」 「お兄さん、あんまし変わってないよね。  理性的だし」  いじけるのはすぐに飽きたらしく、茶々丸は俺の側へ寄ってくると、そう妙な事を言った。    ……理性的? 「今、けだもの呼ばわりされたばかりだが」 「そりゃしますとも。  しないでか」 「けど他の人間に比べるとねェ。  これまで御姫に汚染されたひとはみんな、〈ああなってた〉《・・・・・・》わけだし」 「……」 「確かにな」  彼らはまさに野獣であった。  食らう、殺す、犯す――原始的な欲求の虜となって暴れ狂うだけのものに〈窮〉《きわ》まった。  比較すれば、俺は物を考える事ができ、口を利く事もできる。  稀有な例と言わなくてはならないのかもしれない。 「他に俺のような奴はいなかったのか」 「うん」 「今更の疑問だが、奇妙な話だな。  何故、俺はああならなかったのか……」 「お前にはわかるか?」 「そだねー……」 「詩的に言えば、御姫を『守る』ことがお兄さんの望みだったからかな。  狂犬になっちゃったら守れないっしょ」 「……」 「散文的に言えば?」 「劒冑の〈防護〉《まもり》。  装甲してなくても武者と劒冑は繋がってるからね。いくらか〈汚染波〉《なみ》の威力が減殺されたんでない?」 「……」  いずれも説得力らしきものはある。  どちらが正しいのか。両方ともか。あるいは、全く異なる別の事由か。  まぁ―― 「どうでも構わんが」 「そうだね。  大事なのはひとつだけ」 「お兄さんが最高の状態にあるってことだ」 「……ああ」  茶々丸の結論は正しい。  今の俺は万全であり、それだけが意味のある事実だ。  湊斗景明は湊斗光を守る為に特化されている。  不純物は体外へ排泄された。  清々しさを覚える程、いま俺の内面には迷いというものが無い。〈嘗〉《かつ》てそんなものがあったことすら、良く思い出せなくなりつつある。  唯ひとつの望みを遂げる為なら、俺は如何なる所業でも成し得るだろう。  心に波風を立てる事さえなく。 「だから、心配事もいっこだけあるんだよね」 「何だ?」 「お兄さんを元に戻す可能性のあるやつ。  堀越に残してきた、あれ」 「あぁ……」  〈村正〉《あいつ》か。 「壊しちまった方が後腐れはないし、心情的にも是非そうしたいとこなんだけどねー。  壊すのはいつでもやれるしな……」 「…………」 「ま、今後の情勢によってはあれがまた入用になる場面も有り得るからね。  そのへんを検討した後で決めましょう」 「あいつが自力で逃げ出すのはまず無理だし。  助けに来る仲間なんかもいないでしょ?」 「いるまい」  この時代には、知己と呼べる者すらろくに。  唯一同じ過去を共有する〈二世村正〉《ははおや》は最大の敵だ。 「加えて言えば、あれが俺の前にやって来たとしても、俺を元に戻すのは不可能だ」 「……うん。  それなら問題なんて何もない」 「あてとお兄さんは目的を果たせるよ」  目的。 「……光を――」  このままではもう、衰弱死を避けられないあいつを、 「〈神に〉《・・》。  人を超えた存在に生まれ変わらせる」 「本人が望む通り」 「…………」 「相変わらず、与太話にしか聞こえねーって顔ですね」 「与太話にしか聞こえん」 「あの論文読んでも?」 「余計に疑わしくなったくらいだ。  〈この地面の下に神がいる〉《・・・・・・・・・・・》、だと?」 「信じろと言う方がどうかしている」 「はっはっはー。ごもっとも。  だいたい、タイトルからして『劒冑〈夢想〉《・・》論』だしね。書いた当時は筆者自身が内容をろくすっぽ信じてなかったって代物だ」 「……」 「でも……今は違う。  地の底深くに眠るものの実在は確信されている」 「神を推論するあいつと、神を感受するあてが出会ったから」 「……?」 「実在を認めたなら……  後は引っ張り出すだけ」 「神は来るよ。お兄さん」 「…………」 「与太話だな」 「そこいらの新興宗教だってもう少しましな勧誘するよねー。  これじゃ信者は集まらんわー」 「……だが、乗ってやる。  その愚にもつかん夢物語だけが光を生かす希望なら」 「つまりは光の存命がもはや空想でしか有り得ないというのなら――  現実を叩き壊して空想を後釜に据えてやる」 「この世の何が邪魔をしようともだ」 「――――」  そうだ。  そうする――のだ。  それだけが俺の存在する意義。  湊斗光を愛し、命と魂をそのために尽くす、それが湊斗景明の果たすべき責務である事に疑いは無い!! 「……んっ……」 「――――」 「えへー」 「いきなり何だ」 「忠誠の〈接吻〉《ちゅー》」 「……」 「お兄さんはあての主だ。  お兄さんが世界と戦うなら、あては世界に向かって揮われる〈刃〉《ちから》になる」 「剣にも、盾にも、銃にもなって、お兄さんを助けるよ」 「茶々丸」 「だから……一緒に行こうね。  お兄さん」 「世界の終わりまで」 「……ああ……」  閉ざされた空間に有るのは暗闇だけで、それはいつまでも闇のまま、何の変化の兆しもなかった。  きっとここでは、時間が動いていないのだろう。  何もかも、ずっと同じ。  同一の瞬間の繰り返し。  闇は闇のまま。  手足の枷は不動のまま。  そして〈心鉄〉《こころ》は腐敗して、延々と腐敗し続けている。 「…………」  ――守れなかった。  〈景明〉《あるじ》はいない。  足利茶々丸と共に私をこの地下牢へ封じ込めると、何処かへ去っていった。  その仕打ちを責められないのは無論だった。  景明を変貌させたのは、彼を守るべき劒冑の力不足だったのだから。  私に充分な性能があれば、こんな事にはならなくて済んだ。  手足を縛る拘束具は、高精度の鍛鉄製。  甲鉄と同じ材質のそれは力で引き千切るなど不可能、加えてどんな工夫によるものか熱量の流動を妨害するため、能力の行使も形態の変化も叶わなかった。  飽きられた人形のようにこうして項垂れているほか、私にできることは何もない。    ……それは、自業自得と諦めもつけられた。  能無しには相応しい処遇と自嘲すらできる。  だが、 (……御堂……!)  彼のことだけは、諦めようがなかった。  力になると誓ったのに。  彼の信頼に応えることを、彼にも自分自身にも約束したのに。  私が最も必要であった瞬間に、私は無為無能だったのだ。  そうして仕手の心魂を奪われた。  その貴重なものは銀星号の隷下に落ち、大きく歪められてしまっている。  それを指して〈素直〉《・・》などと言ったのは、忌々しい足利某だが。  確かに、嘘ではない――あれは景明の一部分を誇張してはいても、全く別の何かに変えてはいないだろう。  けれど、削ぎ落とされたものがある。  不要として、捨てられてしまったものがある。  彼の葛藤。  湊斗光を助けたいと〈欲する〉《・・・》一方、それは許されないと〈律する〉《・・・》彼の煩悶は、彼自身が答を出す前に消し飛ばされてしまった。  ある意味、それで彼は楽になったろう。  他人事のように言えた話ではない――嘗ては私こそが彼に要らぬ苦悩を放棄するよう要求し、精神汚染をもって強制しようとさえもしたのだ。  しかし彼は拒み、別の形を望んだ。  〈仕手〉《かれ》と〈劒冑〉《わたし》、どちらかがどちらかに隷従するのではなく――互いの意思を尊重して共闘しようと、求めてくれたのだ。  忘れていない。  私の余命があと幾星霜あろうと、決して忘れないだろう。  だから諦められない。  自分の失態が許せない。  彼の意思がこんな形で奪われてしまったことを認められない。  ……行かなくては。  景明のもとへ。  私は行かなくてはならない!! 「…………」  思いの丈を心に叫び、そして現実の鎖に屈服する。  こんなことをもう幾度繰り返したのだろう。  何も変わらない。  闇は揺らぎもせず、私を冷徹に封じ込めている。  ただ虚しい絶叫を繰り返す〈心鉄〉《こころ》だけがその度に自ら傷つき、徐々に腐ってゆく。  以前、湊斗の家で永く眠っていたときとは違う。  私はもう、あの頃のように静止してはいられない。  私には〈仕手〉《あるじ》がいるのだ。  だからもう、独りではいられないのだ。  ――会いたい。 「…………」  腐る。  腐る。  〈腐敗〉《じめつ》は情けも容赦もなく進行する。  必ずしも速くはない……だが同じことだ。  この闇から脱する手がない以上、腐敗はいずれ私を朽ち果てさせる。  意味のない、錆の集まりにする。  ……しかし。  それを厭う権利が、果たして私にあるのか。  この村正なる劒冑は既に、為す術もなく仕手の窮地を見送り、  己が無意味な、益体もない駄作である事を証明してしまっているのに。 「……っ……」  腐る。  闇は変わらず。  私の腐敗だけが進んでゆく。 「…………」 「……事の仔細はわからぬが。  どうやら、先日の借りを返せそうだな?」 「――――」 「……貴方……?」  評定の間には、六波羅幕府を主導する四将軍が参集していた。  それぞれ数人の幕僚を左右と背後に控えさせている。  〈古河〉《こが》公方、遊佐童心中将。  〈小弓〉《おゆみ》公方、今川雷蝶中将。  〈篠川〉《ささがわ》公方、大鳥獅子吼中将。  〈堀越〉《ほりごえ》公方、足利茶々丸中将。  四者が掌握する権能は強大極まるものだ。  進駐軍を唯一の例外として、彼らを掣肘できる勢力は大和の大地の上に存在しない。  四人が合意すれば、都市一つを滅却し去る事も可能である。  嘗て実際に行ったように。  しかし、彼らが歩調を合わせて規模と意義の大きな行動に出るためには、四者間の齟齬を解消ないし調整する手順が必須となる。  ……それが今、開始されようとしていた。 「最優先事項は、邦氏殿下を大将領の地位に就ける事。  各々方、まずこの点はよろしいか?」 「ええ」 「異論はない。  頭領不在のままでは、将兵の士気も綱紀も低下する一方だ」 「〈護氏〉《おじじ》の死亡発表からこっち、弛みっぱなしだからなー。  死因も何も説明なし、死んだとしか教えられないんじゃ、動揺して当然だろって話だが」 「正しく伝えた方が良かったかしらね」 「暗殺されたと思われるが詳しい状況は全く不明、死体すら発見できていない、と?  それこそ混乱の火種になろうよ」 「で、ござるのう」 「…………」  謎めいた事件として扱われている大将領護氏失踪の真相を、俺は勿論承知していたが、口にはしなかった。  俺を含め、各公方の幕僚団はこの場に居並んでこそいるものの発言する権利は持っていない。  仮にあったとしても言うわけがないが。 「動揺を収める方法は一つ。  邦氏殿下を戴いて新たな体制を発足させ、旧体制の全てを過去に追いやるのだ」 「奉刀参拝の事件など……  いやそもそも、足利護氏という男自体いなかったことにしてしまえ」 「で、できるわけないでしょう!?  そんなことっ!!」 「……馬鹿が。騒ぐな。  過去の歴史を変えられんのはわかっている」 「俺が言っているのは、それくらいの意識で今後に臨めという、気構えの話だ」 「わかってるから言ってんのよっ!  全部無かったことにしろ!? あんた、天下を平定したお父様の業績を何だと思って――」 「雷蝶殿。雷蝶殿。  ここはどうか、抑えてくだされ」 「我慢できることとできないことがあります!  いくら童心様のお言葉でも、」 「お気持ちごもっとも。  わかります。わかりますぞぅ」 「されど獅子吼殿のご意見も、いささか暴言とは申せ一理あり……今は昔日の栄光に酔う時ではなく、明日の栄光が我らのものであることを万民に示さねばならぬ時でござるゆえ」 「それはそうですけれど……」 「護氏公を〈腫れ物扱い〉《・・・・・》にするのは一時のこと。  邦氏殿下の六衛大将領襲位が無事に行われ、幕府の支配が再び確かなものとなったあとで、改めて故人の栄誉を称えましょうぞ」 「その折には盛大な葬儀も執り行わねば」 「…………」 「兎にも角にも、まずは幕府体制の再建……。  雷蝶殿ほどの御方であれば、ことの道理がおわかりにならぬはずはござるまい」 「……はい」 「御了承、かたじけなく存ずる。  いやいや安堵いたした。まずは我ら四人が結束せねば、幕府を立て直すなど夢のまた夢でござるからのう!」 「はっはっはっはっはっ」 「…………」 「坊主必死だな」 「ああ。必死だな」 「入道様、頑張って」 「ふっふぅ。さぁて。  では何事もなかったかのように仕切り直すといたそう」 「邦氏殿下に大将領の位を襲って頂くには、むろん朝廷の許しが必要でござる。  そのための工作を、いま京都で室町探題が進めているのでござるが……」 「何か支障でも?」 「公家衆の態度が、どうもこう……  暖簾に腕押し、糠に釘のようでしてなァ」 「今は帝が気鬱だの、吉日を選んでだのと、言を左右にするばかり。  具体的な言質を与えぬつもりらしいというのが、室町よりの報告でござる」 「ふん。  まぁ……予想されたことではないか?」 「こっちが混乱の早期収拾を望むってんなら、〈あっち〉《・・・》は逆のことを望むに決まってるしな。  できるだけ今の状態を長引かせて、動揺を拡大させたいんだろ」 「そっから先の〈展望〉《ビジョン》がどの程度あるんだかは知らんけど」 「各地の倒幕派と結び、一斉蜂起でもさせるつもりか……。  あるいは、進駐軍の介入に期待しておるのか」 「〈その結果〉《・・・・》、大和がどうなるかまでは考えずにか。  無責任な策謀家どもならやりかねんな……」 「一つ、梃入れをしてはどうだ?  和尚」 「いかようにでござろう?」 「俺が一軍を率いて上洛する」 「待たんかい!」 「ガソリンの海に火のついた〈燐棒〉《マッチ》を投げ込むよーなもんだなー」 「――ために篠川で準備を始めた。  と、情報を流せばいい」 「脅しでござるか」 「見切られたらどうする?」 「その時は本当に上洛するまでだ。  逆賊岡部頼綱追討の報告だの何だの、適当に名目を見繕ってな」 「あんたそんなことして、平穏無事に済むと思ってんの?」 「平穏には済むまい。  だがこのまま、公家衆に六波羅を侮らせておくよりはましだ」 「むゥ……」 「案ずるには及ばん。  〈鉄漿〉《おはぐろ》どもの底など知れている」 「裏で絵図面を描いている奴らは別としても、大半の公家が見ているのは目先の利害だけ。  室町探題に渋って見せているのも、値上げ交渉くらいの考えでしかなかろうよ」 「この機に少しでも待遇を良くさせたいのだ。  脅しを掛ける一方、旨そうな餌をちらつかせてやれば、たちまちこちらに靡いてくる」 「飴と鞭ってわけ?  古典的ね」 「まっ、いいんでない? 古典的な手で。  あの連中、頭の中身が千年前から変わってないしな」 「……なるほど。  異論はござらんかな?」 「…………」 「では、この件は獅子吼殿にお任せいたそう」 「承知」 「これでうまくいけばいいけれど」 「うまくいったらいったで、次の問題だな」 「……進駐軍か」 「〈国連本部〉《ジュネーヴ》の諜報班から報告があったわね。  GHQのロビー活動が実を結びそうだって」 「反乱鎮圧の様相が殊更に残虐性を誇張して伝えられている、とのことでござったな。  事実無根にはあらず、苦情を言えた筋合いでもないが」 「国連決議が出るのも近いかね」 「対大和再宣戦――いや。  対〈六波羅〉《・・・》宣戦布告か」 「来るなら来ればいい……」 「もはやいつ戦端が開かれてもおかしくないということでござるのう。  ……むしろ、〈先代〉《との》が亡くなられた隙をすぐさま衝いてこなかったのが不思議なほど」 「政治の都合やら軍備の都合やらがあったんだろ?  あと、〈六波羅〉《こっち》が絶頂の時に叩き潰してこそってのもあるだろうしな」 「その方が民衆の受けはいいわね」 「侮られたものだ」 「とすれば、開戦の狼煙が上がるのは、邦氏殿下が大将領となられ幕府体制に再建の目処がついた時」 「ほぼ同時……でしょうね。  演出効果を狙うならそれが最高ですから」 「だろうな。  そのつもりで我らも備えておく必要がある」 「もしも向こうが動かなかったら……その時は好機だ。  こちらから仕掛けて、一気に〈進駐軍本部〉《ヨコハマ》を落とす!」 「……うむ……」 「六年間の屈辱、一朝で晴らしてくれるわ」 「そう言うからには、順調なんでしょうね?  あれの準備」 「当然だ。  貴様などに心配される謂れはない」 「あぁ……〈一七連隊〉《とらのこ》ね。  今のうちに一度見ておきたいな、あれ」 「獅子吼、このあと篠川に戻るんだろ?  あても一緒に行くよ」 「無用だ。  貴様に心配される謂れもない」 「あるよー。アリアリ。  あのプランに金と人員を一番出してるのはあてなのでーす」 「世の中で一番エラいのは〈金を出す人〉《スポンサー》。  これ常識。これ真理」 「…………。  軍務はどうする」 「有能な副官に一任」 「……貴様か」 「は」  やにわに話を振られるも、動揺は見せず応答する。  何もかも不意だった前回と違い、今度はあらかじめこのような事も想定していた。 「確かに、茶々丸よりは余程あてになりそうだが……」 「そーだろーそーだろー」 「皮肉を理解しなさいよ」 「しかし何にしても抜擢されたばかりの新任。  茶々丸殿抜きで仕事をさせるのは、流石にまだ荷が重いのではござらんかな」 「大丈夫だよね、中佐?」 「閣下の御期待に沿うべく奮励努力致します」 「…………」 「…………」 「む、イマイチな反応。  もっと説得力のある言葉でアピールした方がいいっぽいよ」 「わかりました」 「〈堀越公方〉《このかた》がいるとむしろ仕事の邪魔です」 「わーいすごい説得力だー!」 「旅に出ます。捜さないでください」 「捜さないわ」 「くっくっく……!  そうか。それならいい」 「期待しているぞ、湊斗中佐」 「はッ」 「……では、議題を移すといたそう。  倒幕派の動きについて報告があり申す」 「最近、岡部残党らしき一派が――」  評議は二時間余りを費やして終了した。  長い廊下を、次の執務地に向かって歩く。  茶々丸の背後に付くのは俺だけだ。他の幕僚はめいめい指示を与えられ、既に去っている。 「……評議の場ではああ言ったが。  実際、俺に公方職の代行が務まるかどうかは知らんぞ」 「平気っしょ。お兄さん、適性ありそうだし。  あてもなるたけ早めに戻ってくるしさ」 「篠川へ何をしに行く?」  何やらを見物に行くような話だったが。  額面通りには受け取れない。 「今、獅子吼の下で編成が進んでる六波羅の決戦兵力に……  ちょっと〈手〉《・》を加えてこようと思って」 「ほう」 「つまりね――」 「待て」 「あい?」 「誰か来る」 「ん?  …………ああ」 「あいつなら気にしなくても平気。  〈こっち側〉《・・・・》だから」 「……何?」  その異貌の男は、完璧な礼節と共に現れた。  両足を屈し、〈頭〉《こうべ》を深く垂れる。 「堀越中将様。  御帰城、お慶び申し上げます」 「ういっさ。  また世話んなるわ」 「はは」 「……」 「あ、紹介しないとね。  こいつは柳生常闇斎」 「聞いたことある?」  無い筈がなかった。  この大和で武に携わるなら、避けて通れぬ名だ。  剣を手にする者ならば、聞かずには済ませられない名だ。 「六波羅新陰流宗主」 「そうそう。  あと、厩衆の事実上の〈首領〉《ボス》」  厩衆。一口に言えば足利家の親衛隊である。  六波羅幕府は全体的にその傾向があるが、わけても厩衆は私兵的性格が濃いと一般にみられている。  数々の裏工作に従事してきたともいう。  その指揮官であれば――制度上の地位は高くなくとも、隠然たる影響力は相当に強いものがあると考えるべきだ。  ひとまずこの普陀楽に身を置くと決めた以上、無視して良い人物ではないだろう。    そう思って口を開きかけたが、相手の方が早かった。 「柳生常闇でございます。  湊斗景明様」 「お会いする機会を心待ちにしておりました」 「……自分を?」 「は。  いささか存じ上げております」 「お兄さんは局地的に有名人だからねー」 「……」  何処の局地だ?  どうも――陰を含んだ、胡散臭いものを感じるが。 「ほかの連中も紹介しとかないと」 「でしたらば、閣下。  丁度良い折でございます」 「本日の集会に、湊斗様もお連れ下さいませ」 「本日?」 「はっ。  それをお伝えに参りました」 「本日夜、紅砂の回廊にて――とのこと」 「慌しい話やなー。  けどま、確かに好都合か」 「お兄さん、そういうわけだから、今晩少し付き合ってくれる?」 「何処へだ」 「近場。  くだらない趣味人どもの集まりがあるの」 「行かん」 「御姫に関わる話」 「……」 「一度は会わせておきたい奴がいるんだよね。  向こうも会いたがってたし」 「必要な事か」 「うん。多分」 「なら仕方あるまい」  光に関わる必要事では、選択の余地がなかった。 「やった。  じゃあ先に伝えといてよ、常闇。お兄さん連れてくって」 「畏まりました。  では、私はこれで……」 「次の方がお待ちの様子」 「およ?」  柳生常闇が〈静々〉《しずしず》去るのと入れ違いに、今度は将校が一人、茶々丸の前にやって来た。  見覚えは全く無い。  が、軍章は堀越公方府の所属を示している。  茶々丸の配下のようだ。 「閣下!」 「どした?  こんなツルツルした廊下で走ると転ぶよ」 「それが、急報でして。  堀越館からの」 「急?  ……内容は?」 「こちらに」  通信文らしきものを、将校は上官に差し出した。  受け取り、開いて、茶々丸がさっと目を通す。 「…………」 「……………………」 「……?」 「わかった。  行ってよし」 「はッ」 「……何があった?」 「…………」 「村正が……逃げた……」 「…………」 「野郎」  陽が落ちた後、茶々丸は俺を城外へ連れ出した。  自ら車を運転して、市中を抜け、湾岸方面へ向かう。  やがて停車した場所は、鎌倉近郊でそれなりに名を知られている高級ホテルの駐車場だった。  今は俺も茶々丸も私服だが、場所柄、かえって軍服の方が違和感はなかったかもしれない。  勿論、一目で地位姓名を特定されかねない軍装――特に茶々丸――を避けたのには理由があるのだろうが。    人気のない裏口から中へ入り、〈昇降機〉《エレベータ》に乗り込む。  昇降機は――最上階へ。 「パンツ!!」 「ゲバッチョ!?」 「……こいつは……」 「茶々丸」 「会わせたい人間というのは、まさか、〈これ〉《・・》ではないだろうな」 「え、えーっと……そのぉ……」 「……もしそうなら、悲しむべき事だ……」 「俺ではなく、お前にとってだが」 「待って待って待ってーーー!!  ノーモア制裁!! ノーモアリンチ!!」 「違うんスよ! こいつアホですけど!  アホなだけではないんです!!」 「ほう……?」 「第一印象はおよそ考え得る限り最悪だったと思いますが、どうかそれは忘れて下さい!」 「いいだろう」 「ではこの男、阿呆でないなら何なのだ。  率直に言ってみろ」 「変態」 「そうか」  俺は茶々丸の背後から首に両腕を巻きつけ、下顎を固定した。  頸骨外しの型が整う。 「ギャーーーーーーー!!  正直に答え過ぎたーーー!!」 「何やってるのかね君は。  現れるなり生命の危機に陥ったりして」 「おめー、誰のせいだと思ってんだよ!?」 「愚かな君が愚かなことをしたのだろ?」 「その通りだ」 「フゥ、やっぱりね。  彼女は僕にとって良き友人なのだが、しばしば正当な理由もなく他人を責めるのが欠点だな」 「パンツも脱がないし……」 「それは直してやった方が良いだろう。  パンツはともかく」 「友人としての義務だと思っているよ。  温かく見守りつつ、忠告を重ねるつもりだ」 「ふむ。正しい対応だと思う」 「友人に恵まれて良かったな、茶々丸」 「本当だね、茶々丸君」 「うっ……うっうっ……ぐすんぐすん」 「君、なんでマジ泣きしてるの?」 「心の底から泣きたかったからだよ!!  ちくしょー、最近なんだか世の中があてに優しくねぇーーーッ!!」 「やれやれ……。  世話の焼けるパンツ脱がない少女だ」 「同意する。  ところで、パンツの変態男」 「何かな?」 「これからここで、何の集まりがあるのだ?」  茶々丸を適当に捨てながら、男に訊いてみる。  結局、詳しい事を聞き出す前にここへ来てしまった。 「真逆パンツの着脱と健康の関連性について討論する集会ではあるまいと信じるが――」 「ふーむ。  当たらずとも、遠からず……かな」 「…………」 「嘘です! 当たってないし近くもないっ!  だからそんな殺意に満ちた目付きでこっち見ないで下さいお願いします!!」 「君はパンツを脱ぐ時に右足を最初に抜くかそれとも左足を先に抜くかで議論する人々がいたら、滑稽だと思うかね?」 「思う」 「十字を切る時にどういう順序で切るべきかキリスト教徒同士で激しく言い争っていたら、やはり滑稽だと思うかね?」 「……」 「滑稽なのだよ」 「有りもしない価値を……  有るものとして扱い、尊び、その正当性を賭けて他人と争いさえする」 「滑稽だ」 「……しかしだね。  これこそ知的活動ではないか?」 「知性以外の何を使えばこんなことができる……?」 「真実に従うことは誰にでもできる……知性なき野の獣にも。  だが虚構に真実と同等の価値を与えてひれ伏すようなことが、獣にできるだろうか?」 「それは宗教論か」 「そうとも」 「宗教が人間を愚民にすると言った者もいるが、全くの誤解だ。  宗教こそ、極めて高度な知的活動の産物に他ならない」 「宗教は人類史上、最も人間らしい発明とも言えるのだよ」 「成程。  知的遊戯としての宗教……か」 「滑稽だな」 「実にね」 「だが、そう考えれば悪くない」 「だろう?」 「フン……」 「ハッハッハッ」 「……なんであんたら会話が通じてんの?」 「では、ここで行われるのは宗教論争か何かか?」 「そうだね。論争ではないな。  結論は既に出ている……」 「結論に基づく行動についての相談だ」 「結論とは?」 「神を冒涜する」 「尊き虚構、不可侵の希望として存在した神なるものを……地上に引っ張り出す。  〈化け物のように〉《・・・・・・・》実在させてしまうのだ」 「同志湊斗景明。  挨拶が遅れてしまったが……僕は今日君に出会えたことを生涯の喜びとするよ」 「…………。  まだ、名を聞いていなかったな」 「ウォルフ」 「ウォルフ……?」  〈ウォルフ〉《WOLF》。  その名前はごく最近、何処かで目に―――― 「教授と呼んでくれても構わない。  ……おや、バルトロメオじゃないか」 「良い夜でございます。  ウォルフ教授」 「湊斗様も、良くぞお越し下さいました」 「……バルトロメオ?」 「洗礼名ですよ」  〈洗礼名〉《クリスチャンネーム》?  六波羅は〈基督〉《キリスト》教を事実上の禁教扱いにしていたはずだが……? 「君が来たということは、そろそろ時間かな」 「はい。  皆様、もう間もなく参られます」 「そうかそうか。  それで……そちらの御婦人は?」  今日の昼に面識を得たばかりの柳生常闇斎――その背後を見やって、今知り合ったばかりのウォルフ教授が問う。  同じ事は俺も気に掛かっていた。  二十歳かそこらと見える女性だ。  整った容貌をしている……が、印象は陰鬱だった。  瞳が〈昏〉《くら》い。 「…………」  心ここにあらずの〈態〉《てい》である。  俺にも教授にも、関心を払う様子が無かった。 「今回より新規に参加される方です。  湊斗様と同じく」 「ほォ。  では今日は二名もの新たな仲間を迎え入れられるわけか」 「輝かしい日だな!」 「……」 「あ、常闇。来たか。  良かった。ちと話があるんだ」 「何でございましょう? 堀越中将様」 「やっ、昼におめーと会ったすぐ後にさ。  堀越から連絡が来て――」  常闇斎に近寄り、茶々丸が二言三言囁く。  それを黙って聞き終え。  やや間を置いて、柳生の男は頷いた。 「……左様でございますか。  確かに、放置するのは危険かもしれません」 「あては明日から篠川へ行かなきゃなんねえ。  それで、頼みたいんだが……」 「お任せ下さいませ。  信頼の置ける者を選び、調査に向かわせましょう」 「助かるわ」 「何程のことでもありません」  常闇斎が薄く微笑んだ時だった。  ――照明が落ちる。  暗闇ではない、だが薄闇に閉ざされた空間に、複数の人間が音もなく踏み入ってくる気配があった。  数人……十人、いやもっと多い。  彼らは並ぶことも、陣形を取ることもなく、勝手に思い思いの場所へ身を置いた様子だ。  しかし、意図してかどうか――俺そして付近の数人を取り囲むように広がっていた。 「集まったようだね」 「さて……今夜は新しい仲間が二人もいる。  まず、我々の紹介から始めたいと思うが、異論はないかな?」  互いの顔も見えない空間に、手を打つ音だけが響き渡る。  賛同の意思を表明したのだろう。 「宜しい。  では……〈我々を〉《・・・》語ろう」 「今、ここに集った人間は何もかも不揃いだ。  例えば、僕は妄想狂のレッテルを貼られた学徒」 「彼女は生まれながらの異能者」 「隠れ切支丹」 「そして――」  教授はぐるりと腕を回し、室内の各所を示す。 「大陸経済界の黒幕。  新興宗教の大幹部。  処刑されたはずの連続殺人犯。  その名を知らぬ者はいない銀幕スター」 「退役軍人、道化師、大地主、多重人格者、財閥のトップ、物理学者、神父、高級娼婦、禅宗の破門僧、株で大儲けしたものの使い道がない青年、天才料理人、占星術師――」 「バラバラだ。全くバラバラだ。  人種や国籍さえ統一されていない」 「一体、これは何の集団だ?  全人類からクジか何かで選ばれて集まっただけか?」 「…………」 「違うね……。  我々を結集したのは願いだ」 「ただ一つの欲求のため、我々は集った」 「それは何だ」 「神」 「神だよ!」 「神……そう神だ」 「そんなものがいるなら是非とも見たいね」 「もう神くらいしか興味はない……」 「神が必要です。  罪深き私を完膚なく否定するために」 「人間を愛するのも憎むのも育てるのも殺すのも嬲るのも、何もかも飽きた!  人ならぬものに会いたい。神を見たい!」 「いやぁギャグとして最高だと思うんだよね。 『神様は本当にいたんです!』っての」 「カァーーカカッ!!  神なんていねえ! いたら殺す!」 「神様ならきっと、わたしを愛してくれる」 「神を……」 「神を――」 「神を!」 「…………」 「どうよお兄さん。  世にもくだらねー屑どもばっかだろ?」 「こいつら、もう人間じゃ満足できないんだ。  神なんてもんにすがらないと人生やってけねえ」 「そのためなら何だってする気でいる」 「……何でも?」 「今ここにいる連中には、目的のほかにもういっこ共通項があってね。  〈金と人間を動かせる〉《・・・・・・・・・》っていう」 「こいつらはその力で裏からサポートする。  あてとお兄さんがこれからやることを――」 「〈銀星号〉《おひめ》を神にする計画を」 「…………」 「この会は元々、生きるのに飽きたやつらが集まって手慰みの魔術やら錬金術やらに耽る、オカルト結社でしかなかった。  でも、今は少し違う……」 「いくつかの出来事があった」 「まず、僕が神の実在を推論したこと。  ……けれどこの時は、僕自身が論文の正否について自信を欠いていた」 「僕は自分の論文に、〈夢想論〉《・・・》と題さなくてはならなかった。  だが、しかし――」 「そのウォルフの論文を、あてが読んだ」 「〈既に神の存在を感受していた〉《・・・・・・・・・・・・・》あてが」 「感受……?」 「あてには聴こえるんだ。  声が……」 「あてはヒトとして生まれなかったから。  ヒトには聴こえない声が聴こえる」 「地の底で〈ぎゃあぎゃあ〉《・・・・・・》騒いでる奴の声がね」 「…………」  何を言っているのだ、という俺の内心は闇でも誤魔化せないほど表情に出たのだろう。    茶々丸がにやりと笑ったようだった――凄絶に。 「聴いてみるかい、お兄さん?」 「味わってみるかい、〈足利茶々丸の世界〉《・・・・・・・・》を!」 「これさあ!!」 「……ッッッ……!?」  何だ――これは。  声?  音なのか、これは?  脳髄を金槌で念入りに打ち砕いたうえ石臼にかけてすり潰しペースト状になったところを焙り焼きにするようなこの衝撃、感触――――これが音声!?  〈誰の〉《・・》!? 「……おお……」 「神よ!」 「何という雄々しさ……畏ろしさ」 「ケッ、ケケ……  毎度毎度、吐き気がする声だぁ……」 「おぞましい!」 「熱い……なんて熱いの……!」 「ああ……我が神……!」  ……神……?  違う。  〈これ〉《・・》はそんなものではない。  これは、ただの―― 「そうだよ、お兄さん」  茶々丸が、俺にだけ届く声で囁いた。 「これは〈ただの力〉《・・・・》だ。  神なんて大層なもんじゃねえ。知性なんてあるもんか」 「こいつは力の塊で、それ以外に何もありゃしない。  途方もなく強大で……ただ強大なだけで、何もできやしないんだ」 「何の意味もない。  虫ケラにも劣る」 「だからこいつは欲しいんだ。  自分に意味を与える〈仕手〉《ユーザー》が」 「…………」 「だからずっと、四六時中、休みなしに吼え猛っていやがる。  ……人の迷惑も考えずにね……!」  最後の呟きは――  憤怒と憎悪、そして絶望のカクテルだった。 「神を追い求める探求者であった僕。  神の声を伝える預言者であった彼女」 「僕らは巡り合った」 「彼女と会い、僕は自分の推論に根拠を得た。  僕と会って、彼女は自分が感覚したものを理解した」 「今や神の座標は特定されている。  〈大和帝国相模玉縄〉《・・・・・・・・》、〈普陀楽城から地球中心〉《・・・・・・・・・・》〈方向へ一一五キロ〉《・・・・・・・・》!!」 「そこに神はいる。  そして、そこへ到る道を開く方法もある!」 「銀星号!  至上の劒冑、最も〈祖〉《おや》に近き子が、今という時代には存在するのだ!」 「条件はここまで整っている!!  ならば、我々は何をすべきだ!?」 「諸君!」 「呼べ!!」 「神を呼べ!!」 「この地上に神を呼び出せ!!」 「識るために!!」 「暴くために!!」 「崇めるために!!」 「罵るために!!」 「嗤うために!!」 「憎むために!!」 「呼べッ!!」 「神をッ!!」 「――――――――」 「新たなる友よ。  我々は歓迎する。心より歓迎する」 「黄金の夜明けを求める同志!」 「ようこそ――」         「〈〝緑龍会〟〉《グリューネドラヘ・ゲゼルシャフト》へ」 「…………こんなところかしら」  奉刀参拝の日、八幡宮で起きた出来事。  その後、連れて行かれた伊豆堀越でのこと。  景明と引き離され、閉じ込められ、そして救い出されて〈建朝寺〉《ここ》へ来るまでのこと――  話すべきと思えたことは全て話した。  相手は、  景明に『署長』と呼ばれていた男、菊池明堯。  昔は湊斗家に身を置いていたため〝村正〟についても良く知る、景明を別とするなら私にとってこの時代では最も馴染みのある人物のひとり。  〈舞殿宮春煕親王〉《まいどののみやはるひろしんのう》殿下。  今上の帝の弟君だという。会うのは今日が初めてだけれど、景明と私の銀星号追跡を署長と二人で陰日向に〈援〉《たす》けてくれていたらしい。  そして一応の面識はある、大鳥香奈枝とその侍従。  大和人だけれど外国の軍隊に所属して大和にいるという、何だか良くわからない二人。〈GHQ〉《じーえいちきゅー》とか進駐軍とか言っていたか……。  こちらも景明に付きまとっていたから知っている、一条綾弥……もとい、〈綾弥〉《あやね》一条。  どんな理由からか、奇妙に複雑なものを込めた目でずっと私を見ている……。  最後に、〈黒瀬童子〉《くろのせどうじ》と称する武人。  どうも六波羅幕府に敵対する一勢力の頭目のような立場らしい。茶々丸の館に忍び込んで窮したところを景明と私に救われ、再びやって来て今度は私を救った。  彼だけは銀星号について何も知らなかったらしく、私の話を聞いてだいぶん困惑した様子を見せている。  覆面の中で押し黙り、情報を咀嚼するふうだった。 「……驚いたなあ……」 「何から驚いたらええのかわからんくらいの心地やねえ。  なぁ、署長」 「……はい」 「この姉ちゃんが村正の劒冑ってのは、ま、署長から聞いてたからええとしといて。  ……ほんとはちっとも良くないけどなぁ」 「景明くんが銀星号の力で洗脳されて、幕府側に寝返ってるやて?」 「…………」 「されど聞く限り、茶々丸殿と六波羅とは、必ずしも同一視できぬようでございますな」 「そうですね。  幕府ではなく堀越公方が銀星号と繋がっていて、今は景明さまをも取り込んでいる……と考えるべきでしょう」 「いったい何を企んでんだよ、そいつは」 「さぁて……。  銀星号と連携して何やら大事を起こそうという肚のようですが」 「単純に幕府内の権力争いに利用しようとか、進駐軍との戦争に役立てようとか、そういう次元の話ではなさそうです。  もっと……異質な」 「確かに。  四公方のほか三人――遊佐童心、今川雷蝶、大鳥獅子吼らとて独自の野心には事欠かないでしょうが、」 「彼らのそれはまず六波羅という土台に拠るもので、だからこそ外敵に対しては結束して当たることもできます。  しかし、足利茶々丸は――」 「そこんとこが、なんか違う感じやなァ」 「はい」 「…………」 「…………」 「…………」  申し合わせたように、皆が沈黙した。  誰も疑問の答を出せなかったのだろう。  足利茶々丸と銀星号の繋がりを教えた私にしてからが、茶々丸の目的にさっぱり見当を付けられないのだから仕方ない。  本当に――何を望んでいるのか。 「ああ、すまんなぁ、村正の姉ちゃん。  こっちで勝手に盛り上がってて」 「いえ……」 「どちらかというと、皆で盛り下がっていたのですがねぇ」 「聞いてばっかで、こっちから何にも話しとらんかったわ。  ええとな、こっちはこっちで色々とあって――」  宮様は署長と一緒に、奉刀参拝から今までのことをかいつまんで説明してくれた。  八幡宮が銀星号によって〈消えて〉《・・・》しまったので、宮様の居はこの建朝寺に移されたこと……。  建朝寺は幕府を牛耳る足利一門と縁深いが、それでいて朝廷に心を寄せる僧も実は密かに多いため、宮様を中心とする一派は以前より活発な行動がとれるようになったこと……。  その成果の一つが、幕府に反逆して滅ぼされた岡部一族の残党との接触であり、彼らをまとめているのがここにいる黒瀬童子であること……。 「それで童子から堀越御所で妙な男に助けられたって話を聞いてなぁ……名前は湊斗景明やっていうやないか。  もうひっくり返るかと思うたえ」 「いないいない言うて探してた景明くんが、まさかそんなとこにいるなんてなァ。  慌てて童子にお願いして、もう一度詳しい様子を調べに行ってもろたんよ」 「……そうですか」  それで幽閉されていた私を発見した、ということのようだ。    ……正直、その辺りの経緯にはさほど関心なかった。  関心があるとすれば――この先のことで。 「さて。  情報を整理したところで、今後の話です」 「そやな。  景明くんを助け出したげんと」 「いえ、宮殿下。  そのようなことは後回しで良いでしょう」  景明の養父と聞いているその男は、言い切った。 「後回しって、菊池ぃ」 「……まぁ……利用されているということは差し当たって命を奪われる危険はないということでもありますけれど」 「何にどう利用されるのかにもよりますなァ」 「堀越公方の目論見も気掛かりですが、幕府全体の動きも忘れてはなりません。  今はこちらの方が差し迫っています」 「幕府が朝廷に働き掛けている、足利邦氏への大将領宣下……。  これが成功した時、おそらく大和の情勢は決定的な節目を迎えます」 「……ええ。  その時機に合わせて、GHQが軍事行動を企画しているのはほぼ疑いありません」 「決定力となる新兵器が用意されている模様でございます」 「六波羅と進駐軍。  我々としてはどちらの勝利も望ましくない」 「無論、両者の戦争が決着せず、いたずらに国土と国民を疲弊させてゆくのも」 「……今は両者を争わせるべきではない。  従って、足利四郎への大将領宣下を妨害しなくてはならぬ、ということか」 「そうです」 「京都と連絡を取り合って、何とかかんとか引き伸ばしてもろうてるけどなァ……。  いつまで続けられるかはわからんねえ」 「長くはもたないでしょう。  今のうちに幕閣内への工作を進め――」 「…………」  話は政治のことに移ってしまった。  わかっている……この人達にとってはそれこそ重要なのだ。  納得できるし、愚かだとも薄情だとも思わない。    けれど。  けれど、私は―― 「…………」  普陀楽における堀越公方の代行は、実際、さほどの困難もなく務まっていた。  覚悟していたほどではない、という意味だが。  それには幾つかの理由がある。  特に大きいのは、茶々丸が用意した〈補佐集団〉《サポートチーム》の存在だろう。  出自不明の俄か中佐に、彼らは淡々と、しかし一応忠実に仕えてくれる。  ……奇妙といえば、これほど奇妙な話もない。面従腹背の姿勢になって当然のところだ。  あるいは、これは堀越公方府の性格なのか。  茶々丸のような人間のもとで幕僚を務めるためには、上司の時として異常な指示に対しても〈考えず〉《・・・》服従する、そんな習性を身に付ける必要があったのかもしれない。  それとも単に、茶々丸が出がけに釘を刺していったのか。  どちらにしても彼らの俺への〈忠勤〉《・・》が長続きするとは思えないが、その点に関して俺は気に病まなかった。  堀越公方の代行は勿論、副官も中佐も一時の方便に過ぎないのである。  軍内における良好な人間関係の構築を目指して努力するなど、無駄であった。  彼らとは必要な間だけうまくやれればそれで良い。  日々持ち込まれる幾多の案件について、俺は彼らに意見を求め、彼らは求めに応じて発言する。  熟練した軍官僚である彼らの判断に、間違いはまず無かった。  俺の仕事は半分がた、彼らとの対話である。  残りは署名と捺印だ。  単調で独創性の欠片もない執務姿勢だが、将帥とはそれでも務まる事を俺は知っていた。  むしろ個性を発揮したがる将帥の方が、非常事態の折ならともかく、平時には煙たがられる事も。  徴兵されて軍にいた頃の一時期、司令部付当番兵を務めた。そのとき仕えた相手が無個性型の将軍だった。  彼の振舞いを間近でつぶさに見たが、自分で知恵を出すより他人の知恵を聞く方がずっと多かったと思う。  しかしそれで、彼は軍政の名人と呼ばれていた。彼ほど占領地を上手に治めた者はいなかった。  彼はやがて転任し、代わって秀才型の将軍が来たが、その新体制は程なく地元民の反乱を招いた。  秀才ゆえ幕僚の意見を聞こうとせず、自分の考えで全て断行した結果だった。  将軍としてどちらの姿勢が正しかったか、少なくとも結果論の範囲では疑問の余地がない。  だから俺は今、あの樋口という名の将軍を模倣する。  ある意味で、これは皮肉であり意趣返しだ――樋口将軍は六年前、六波羅の反逆劇に対して抵抗したすえ処刑されているのだから。 「こちらの件は、このまま処理してしまって構わないでしょうか」 「任せる」 「はっ」 「物資の明細は何処だ?」 「これです」 「…………。  材木が発注数に達していないな」 「はい。  一部が城門の補修に回されたため、その分不足しています」 「大至急、調達させますか?」 「調達はしておくべきだが……無理押しする必要はない。  元々この発注数は、俺の見るところ、相当多めに見積もられている」 「……確かに」 「設営する会場の規模を考えても、現時点の数量で充分に賄える筈だ。  今はいい。別件が生じた時に併せて不足分を追加発注しておけ」 「はっ。  ではそのように」  城内では現在、宣下式典の準備が進められている。  篠川公方の威圧策の効果あってか、京都情勢が好転し、足利邦氏への大将領宣下が秒読み段階に入ったのを受けての事だ。  式典会場の設営は、堀越公方府の担当となった。  これは小さな幸運と呼べたろう。会社員時代、俺はこの手の仕事なら飽きるほどこなしてきている。  蓄えた〈技術知識〉《ノウハウ》を活用する場には事欠かなかった。  俺がそれなりに公方代行らしい面をしていられるのには、この幸運もある。  今日は特に、設営関係の案件が多かった。  一つ一つ吟味し、助言を受けながら処理してゆく。 「…………」 「何だ」  注視に気付き、俺は書類から顔を上げた。  隣の将校――補佐集団の中で俺の秘書官的な役割を担う彼は、やや躊躇ったらしい。  だが少し間を置いた後で口を開いた。 「失礼しました。  中佐殿は先日まで民間におられたと聞いていますが、その割りに軍務が板に付いていると不意に思ったもので」 「物真似の才能があったらしい」 「……真似?」 「職業軍人はこれが初めてだが、徴兵されて軍にいた事はある。  その一時期、将軍の当番兵を務めて、仕事ぶりを側で眺めた」  先刻胸中に思った事を、声に出して繰り返す。 「……なるほど。  門前の小僧、何とやらですか」 「そんなところだ」  ……意外に遠慮のない事を言う。  俺は流すような返答をしつつも、彼の表情を窺った。  冷たい中に、何処か不分明な色彩がある。 「まだ何か言いたいらしいが」 「…………」 「あなたが何者か、私は知らない。  だが……」 「あなたは茶々丸様の近くにいる」 「……?」 「我々とは違う。  あの方を理解できず……恐れるしかできず……盲従するしかできない我々とは」 「……あなたは茶々丸様に望まれている……」 「あなたが……  我々にはできないことをしてくれるのなら」 「どのような形であろうと……  茶々丸様の救いになってくれるのなら……」 「それは……喜ばしいことです」 「…………」 「……申し訳ありません。  益体もないことを口にしました」 「業務に戻ります」 「ああ……」  再び、書類に目を向ける。  内容を確認…………問題なし。  一枚めくり、次の書類へ。  視線を落としたまま、俺は呟いた。 「……お前は、不器用な男か?」 「……何故か、あなたにそれを言われるのは許せないような気がします」  書類確認。  署名捺印。  書類確認、隣の将校に質問。  署名、次―― 「副官殿ッ!」 「馬鹿者、場所柄をわきまえんか!」 「はっ、失礼――」 「いやいい。  どうした。〈異変〉《トラブル》か?」 「はい、少々」 「……つまり、資材が消えたということか」 「はッ」  困惑した様子の作業員、警備兵らに囲まれながら、報告を受ける。  事態は、表面上に限れば単純明快であった。  資材置き場から、資材の一部が消えている。  無論、然るべき場所に運ばれて使用された――わけではない。  既に確認した。資材は、使用された形跡が無いのに消失してしまっている。    〈正しからぬ〉《・・・・・》手順で持ち出された事は明白だった。 「無くなった物は金属部品……  それと機械部品か」 「はい。  材木や食料品などは無事です」 「……持ち出しやすく、換金しやすい物だけが消えた?」 「そうとも言えます。  ただ金額的には大したものではありません」  物盗りにしては狙う物がやや奇妙……か?  彼の言う通り、無くなった物資は高額で取引される類のものでもない。  金銭目的ならより貴重な物が他にある。  とはいえ、決め付けられはしない……犯人が盗んで売却するリスクと実入りとを秤にかけ、手頃なところで妥協する選択をした可能性もある。 (事件の究明もだが……)  物資の補填も手配しなくてはならないだろう。  そちらの方が面倒になるかもしれなかった。  消失した資材は、式典会場の設営に絶対必須のものだ。他の何かで使い回しも利かない。  しかも、金額的な問題は無いのだが、発注から納品までの時間はそれなりに掛かる。  工期の延長を避けようと思えば、相当な工夫が要るだろう。    これは些か、厄介な事態になった――――?  …………。  工期の延長?  そこが……目的か?  と、すると―― 「不審な者が出入りしていた、というようなことは?」 「近辺で作業に当たっていた者は、特に見ていないようです。  倉庫の管理担当を呼びますか?」 「そうだな。  ……中佐殿?」 「……」 「こんな所に泥棒か?」 「変なもん盗んでいきやがったな。  こっちは困るけどよ……金目当てなら他にあるんじゃねえのか?」 「泥棒じゃないのかもしれねえ」 「じゃあ何だ?」 「……邦氏さまを大将領にしたくない連中が、式典を邪魔しようとしてるのかも……」 「……有りそうな話だな」 「おいおい。  倒幕派の奴らが城内まで入り込んでるってのか――」 「倉庫の管理担当を逮捕しろ」  俺は周囲の人間にも聴こえる声で言った。 「……は?  中佐殿、何と?」 「これは軍内部の犯行だ。  消えた物資は闇市場に横流しされている」 「先刻、その報告があった。  とぼけた顔をするな――〈貴官も聞いていた〉《・・・・・・・・》〈だろう〉《・・・》」 「――――」 「はッ!  そうでありました」 「普陀楽に納品された筈の資材が裏の市場に流れていると……。  確かに、ここの管理担当が横領したのだとすれば事の辻褄は合います」 「倒幕派の工作員如きがこの普陀楽城に潜入できるとは思えんし、そのうえ盗品を抱えて脱出するなど夢にも有り得ん。  なら答は一つきりだ」 「すぐに身柄を拘束させます。  ……厳罰に処さねばなりませんな、中佐殿」 「当然だ。  このような時に軍の結束を掻き乱す輩には相応の報いをくれてやらねばならん」 「はっ。仰せの通りであります!」 「直ちに処置を。  ……おい、聞いていたな?」 「は……はっ?」 「横領犯を逮捕するのだ!  この倉庫の管理担当だ!」 「いいか、弁明など聞く必要はない。  有無を言わせず武装解除し、牢に放り込め」 「尋問は後刻、こちらでする。  さあ、行け!」 「りっ――了解!」 「お前達もだ。  作業に戻れ!」 「……」 「……」  一通りの処置を済ませた後、俺は幕閣首脳に事態を伝えた。  古河公方遊佐童心、小弓公方今川雷蝶、そして一時帰城中であった篠川公方大鳥獅子吼が俺の報告を聞く。 「ふん……そうか。  事情はわかった」 「うまく処理したではないか」 「うむ……」 「はっ。  有難うございます」 「……そう?  資材が消えて、別の所では横流しの報告があったからって、二つを結びつけるのは短絡的過ぎない?」 「貴様の口から短絡的などという言葉が出ると、何やら曰く言い難い違和感があるな……」 「どうしてよッ!?」 「横流しの報告とやらはでっち上げであろう」 「え?」 「違うかな、湊斗中佐」 「御賢察の通りであります」 「……どういうこと?」 「中佐、説明してやれ」 「はっ。  事件の真相は、おそらく反幕府勢力による妨害工作であると思われます」 「会場設営の必需品を奪取するにより、工事を――延いては式典を遅らせようという意図でしょう。  小細工ですが、効果は有ります」 「奪われた資材は、既に城内で処分されたとみるのが妥当かと……。  換金目的の窃盗でないなら、危険を冒して外へ持ち出す意味がありませんから」 「……?  じゃあ何? 横領の容疑で逮捕された倉庫の管理担当は完全な冤罪で、」 「あんたは最初からそれを承知で牢屋送りにしたっていうの?」 「はい」 「……………………」 「ああ……なるほど!  そういうことなのね」 「ようやく理解したか。  そうだ、真相を真相のまま発表してしまうのは容易い」 「だが倒幕派が城内に潜み工作を行っているなどという事実が知られれば……八幡宮事件の余韻も醒めやらぬ今、将兵を決定的に動揺させるきっかけとなりかねん」 「横領事件ということにしておけばその心配はない。  むしろ厳正な処分を下すことで綱紀の引き締めを図れる……と」 「いや、咄嗟によく考えたものだのう。  おぬし、腹芸も達者ではないか」 「恐れ入ります」 「フフン、まあまあね。  あんたみたいな男が茶々丸の下についてるってのも、何だか不思議な気がするけど」 「全くだな。  詮索はせんが、一体どんな出会いをしたのやら……」 「…………」 「して、湊斗中佐。  この後の処理はどうするつもりかの?」 「逮捕した倉庫管理担当は、因果を含めた上で城外の適当な部署へ配転。  表向きは、処刑と発表しておくのが宜しいでしょう」 「うむ……」 「そして無論、工作員の洗い出しも極秘裏にかつ迅速に行うべきです」 「だのぉ」 「そちらは麿が引き受けましょう」 「資材の補填は?」 「既に業者と連絡をつけてあります。  多少の無理は生じますが、工期は遅らせずに済むものと」 「結構。  大いに結構だ、湊斗中佐」 「貴様はどうも、俺を失望させないな」 「過分なお言葉です」 「いやいや、わしも同じ気持ちよ。  これは何か褒美を取らせねばなるまいのう」 「褒美?」 「義清!」 「はい!」  古河公方が呼び入れたのは、ほぼ常時その側に控えている小姓だった。  忠実な小犬のように素早く現れ、主の脇に畏まる。 「……?」 「御用でしょうか」 「うむ。  この御仁を労わってやってくれい」 「はっ」  一礼して、彼がこちらに向き直る。  そして、言った。 「中佐殿。  入れるのと入れられるのと、どっちがいいですか?」 「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………結構だ」 「手とか口とか、足とかでも」 「結構だ」  報告を終え、退出する。  今日のうちに片付けなければならない案件は、まだ残っていた。  急ぎ足に、仕事場へ向かう。 「湊斗中佐」 「大鳥中将閣下。  ……報告内容に問題がありましたでしょうか」 「いや、違う」 「食事は済ませたか?」 「いえ、まだ」 「ならば付き合え」  篠川公方、竜軍中将との会食――  と言っても大袈裟な事は何もなく、他に同席する者は皆無、場所は城内の士官用食堂であった。  〈素気〉《そっけ》もなければ洒落気もないが、この人物らしいと言えば実にらしい。 「……閣下は、すぐ篠川へお戻りに?」 「ああ。  今夜の内には〈発〉《た》つ」 「ここで手を抜いて京都の公家衆にまたぞろ反抗心をもたげられては、何もかも水の泡だ。  進駐軍との開戦に向けた準備も調えておかねばならんしな」 「……そのような多忙のところ、小官などのためにお時間を頂き、感謝の言葉もございません」  皮肉の響きが顕れないよう、注意しつつ言上する。    その開戦準備とやらは今頃、茶々丸の手で歪められている筈だった――〈こちら〉《・・・》の目的に沿うように。  詳細は知らないが、その変化が六波羅の利益に寄与する事は有り得ないだろう。 「食事の相手に呼んだだけのことだ。  気にするな」  大鳥獅子吼中将は、冷たく言い捨てた。  しかし、声調の中に敵意や嫌悪感といった類のものは感じ取れない。 「そもそも、俺の方で貴様に用事があったのだしな」 「は。  どのような御用件でありましょうか」 「一言で済む」 「は……」 「単刀直入に言えばな」  箸を置き、手巾で口元を拭い――  ぎろりと俺の顔を見やって、中将は告げた。 「茶々丸を切らんか」 「……」 「閣下……?」 「聞き間違いか――などとつまらん定型句を言うなよ」 「先回りされては口にもできませんが……  只今の御言葉は正確なところ、どのような意味でしょうか」 「ふん。  どう解釈されようが構わんのだがな……」 「奴の首を実際にぶった斬ってもいいぞ。  後の面倒は俺がみてやる」 「御冗談を」  洒落にならない。  ここは食堂、個室ではないのだ――誰が何処で耳をそばだてているやら、知れたものではない。 「今日の仕事ぶりを見るに、貴様なら公方職くらい務まりそうだ。  茶々丸を弑して後釜に座っても、格別問題は無かろうよ」 「俺も似たようなことをやっている。茶々丸にしてからが、親を殺して地位を奪ったのだ。  貴様が同じことをしたからといって、今更誰が文句など言うか」 「……閣下。  少々、お戯れが過ぎます」 「ふん……そうか?  まあ、いい」 「なら言葉の意味を変えてやろう。  切れと言ったのは、見切れということだ」 「見切れ?」 「茶々丸を捨てて俺の下につけ。  厚遇は約束する」 「…………」 「連隊をやろう。  勿論、大佐に昇進させた上でな」 「どうだ。  男として世に生まれ落ちたからには、一個連隊率いて戦場を駆け巡ってこそ本懐というものであろうが?」 「それは……否定いたしかねますが」  子供の頃、そんな生き様を望んだこともある。  まさしく男子全てがそうであるように。 「しかしこの歳になれば、嫌でも分際を知るものです。  自分に連隊指揮官の重職が務まるとは思えません」 「過度の謙遜は貴様らしくないぞ」 「身贔屓を省いた自己評価であります」 「大嘘を抜かせ。  でなければ……案外、貴様は自分を知らんのだ」 「つまらんな。  湊斗、俺を失望させるつもりか?」 「残念であります。  大鳥閣下の御期待に応えかねたのであれば、只今の有難いお話も無かったことにするしかございますまい」 「……ち。  この鉄面皮が!」  大鳥獅子吼は、口の端を引き曲げた。  さも愉快げに。 「それほど茶々丸がいいのか?」 「市井の身から引き上げて頂いた恩を感じております」 「心にもないことを言うな。  露骨に歯が浮いているわ」 「これは不覚……」 「いちいち人を食った奴だ。  ふん、忌々しい」 「茶々丸、あの阿修羅じみた小娘と比べても、俺がそう劣るとは思えんがな……。  貴様の目で見ると差があるのか」 「いえ、そのようなことは決して」 「では何故だ。  茶々丸にこだわる理由は何だ?」 「…………」 「そうか。言っていたな……。  利害の一致がどうのこうのと」 「何か都合あって茶々丸のもとを離れられんというわけか」 「……解釈は御自由に」 「その都合とやらを、俺が引き受けてやると言ったら?」 「大鳥閣下……。  自分と致しましては、閣下ほどの方が小官如きにかくも固執されることこそ、不思議でなりません」 「その辺りの御本心について、お尋ねしても宜しいでしょうか?」 「何だ。話を逸らす気か?  ふん……まぁ、今日は見逃しておこう」 「深追いは用兵の禁則だからな」 「……」 「貴様を誘うのは貴様の才を買っているからだ。が……  他にも理由がないことはない、な」 「それは、どのような」 「…………」 「……?」 「貴様の面を見ていると、どうも弟のことを思い出す。  妙な話だ。俺はあいつの顔などもう覚えていないというのに」 「弟御がおられたのですか?」  聞いた事もない話である。  大体、大鳥獅子吼は大鳥家に生まれついた人間ではなく、外から養子に入っていた筈――そうか。養子に入る前、実家に弟がいたという事か。 「幼い頃に別れたきりだ。今どこで何をしているのか……生きているのかすらわからん。  生きていれば、貴様と同じ年頃のはずだ」 「……」 「それだけだ。  ふん、我ながら気の迷いだな。貴様くらいの歳の男など、いくらでもいように」 「だが貴様だけが……妙に懐かしい」 「閣下……」 「ふん。下らん。馬鹿馬鹿しい。  これでは妄想狂だな。ああ、下らん。ふん……俺も先は長くなさそうだ。馬鹿め」 「貴様を側に置いて、俺は同じ血肉で出来た弟と一緒に生き、一緒に戦う、そんな心地を味わいたいらしい。  下らん……下らんな!」 「俺としたことが!」 「…………」  天井を見上げて自嘲する大鳥中将に、俺は暫し言葉が無かった。  壁の掛け時計の音だけを空虚に聴く。  いつしか、食堂からは人気が失せていた。  空気がやや肌寒い。 「……どの軍にいようと、同じ六波羅。  閣下と自分とが肩を並べて戦うことに違いはないかと」 「このような言い様が許されるのであれば、ですが」 「ふん。  口先だな……」 「貴様が戦う理由は、六波羅への忠義などではなかろう」 「…………。  大鳥閣下を以て忠臣の鑑とするのであれば、成程、返す言葉もございません」 「閣下はまさに、六波羅の正義を体現される御方ゆえ」 「ほう。  そう見えるか?」 「違いましょうや」 「違いはせんな。  違いはせんが」 「……?」 「正義。  忠義」 「しかし、所詮は私心だ。  俺がやりたくてやっているに過ぎんからな」 「そう考えれば……ふん、同じか。  貴様が脳裏で何を企もうと、詰れた筋合いではないわ」 「同じ私心。  同じ私利私欲よ」 「……」 「誰にもひとつくらいは無条件で信じられる価値があっていい。  いくつもあったら単なる馬鹿か聖人だがな」 「家族だの、親友だの。  今の俺にはどちらも無いが……国家がある」 「この大和という国だけは信じられる。  守り通すため、身命を擲てる」 「…………」 「貴様にも何か、あるのだろう?」 「……はい。閣下」 「あります」 「ならば俺達は同類だ。  同胞ではないのだとしてもな……」 「…………」 「……ふん。下らん。  俺は随分と、らしくないことを話していたようだ」 「下らん。愚かしいな。我ながら」 「閣下……」 「時間を取らせたな。  俺はもう行く」  立ち上がって、敬礼する暇もなかった。  竜軍中将の姿が視界から消え、食堂からも去る。  俺は取り残され、暫し呆然と、前方の空席を眺めていた。    …………私心。  無条件で、信じられる価値。 「…………」  普陀楽城内、堀越公方居住区の奥。  この一室はそこにある。  ただ一人の人間ために用意された一間だ。 「……光……」  部屋の主は両眼を開き、俺を見ている。  しかしその瞳は虚ろで――意思の輝きが無い。  光はもはや、深い眠りに落ちた時しか、心身の自由を取り戻せないのだ。    夢の中でしか生きられないのだ。  そしてその寿命すら、もう長くはない。 「……」  堀越からここへ運び込まれたのは、茶々丸が篠川へ向かう前日だった。  以来俺は必ず、日に一度はこの室を訪れている。  無条件で信じられる価値。    それは今、ここにある。 「光」  誓うように、もう一度呟く。  守るべき価値。  俺の全て。  愛するもの。  最後に残った、一人きりの家族。  ――そうだ。  このためだけに、俺は戦う。  どんな事でも成し遂げてみせる。  地の底の神とやらを引きずり出し、光に与える事が必要ならば――――俺はそうする。  しなくてはならない。  それがどれほどの災厄をもたらそうとも!! 「村正」  呼び止められ……一拍置いて、私は振り返った。  勿体をつけたのでも、何かに気を取られていたのでもない。  単にぼんやりとしていただけだ。 「……なに?」 「訊きたいことがある」  一条という娘だった。  他に誰の姿もない廊下を、自然体の歩みで向かってくる。  ……実のところ、彼女からのこうした接触を予期しないでもなかった。  彼女の顔の皮膚は、内心を完全に隠せるほど厚くはないようだったから。  私への猜疑心が透けて見えていた。 「雪車町一蔵ってやつを知ってるか」 「……ええ」 「そいつと、あと署長さんがあたしに教えてくれた。  ――村正の劒冑は呪われていて、敵を一人斬ると味方も一人斬らないとならなくなる」 「だから湊斗さんはこれまで、悪党だけじゃなくて、何の罪もない人を幾人も殺してきたんだって」 「――――」 「答えろ。  それは本当のことか」 「…………」 「ええ」 「…………」 「本当よ」  それは前触れもなく現れた。  否、あったのか――空気を焼く少女の憤怒が、その甲鉄を呼んだというのなら。  巨大な、鋼の〈天牛虫〉《かみきりむし》。 「貴方……劒冑を持っていたの?」 「……ッ……」 「嘘だ……  あの人が、そんなことするわけがっ!」 「……」 「本当なのかよ!  湊斗さんは、おまえを使って……本当に、子供まで殺したのか!!」 「……事実よ。  でも、誤解しないで」 「御堂が……湊斗景明が殺したんじゃない。  私が殺したの」 「彼は私に利用されただけ、で――」 「――――」 「……?  何だよ。続きはどうした」 「………………」  違う。  そうじゃない。  そうでは――なかった。  あの日の誓い。  私たちは互いを認め合った。  互いの意思を。  だからもう、否定してはならない。  彼の意思を。その承認が、彼の罪をも認めるものだとしても。  村正の殺戮は彼の罪だ。      そして勿論、私の罪だ。  〈私たちの〉《・・・・》罪だ。  私たちの意志で為した、私たちの罪なのだ。  憐憫の情と自己の罪悪感に囚われて、彼の罪だけを否定してはならない。  そんなことを彼は望まなかった。  認めよう。  彼の意思と責任を認めよう。  己の意思と責任を認めるように。  私たちは二つで一騎の武者なのだから。 「おい」 「訂正していい?」 「あぁ?」 「私たちが殺した。  私と御堂、二人の意思で」 「…………」 「何だそりゃ……責任逃れのつもりか?」 「いいえ。  貴方が村正の罪と責任を問うのなら、私は応える用意がある」 「ここで〈戦〉《や》ってもいいってんだな」 「貴方がそう望むのは貴方の自由」 「なに?」 「私は逃げるけど」 「応えるんじゃねえのかよ」 「これが応えよ。  私は貴方に手向かいしない」 「でも……いま死ぬわけにはいかないから。  逃げるの」 「勝手言いやがって。  てめぇは相手の都合なんて考えずに何人も殺してきたんだろ……」 「虫が良すぎるって思わねぇのか」 「……思う。  だから貴方は、私を殺していい」 「仕手なしの劒冑と完全な武者なら、勝負は見えてる。  けど……私は足掻くから」 「成功の見込みがほとんどなくても、逃げて生き延びるために足掻く。  ええ、そうね……私たちに殺された人間が、死ぬ前にそうしたようにね」 「…………」 「なんで、今は死ねない?」 「することがあるから」 「どんな」 「湊斗景明の意思を取り戻す」 「……」  そう。  彼の意思を認めるのなら――  今の状態を許してはならない。  今こそ彼の意思は本当に奪われている。  心の形を変えられている。  彼自身の意思決定によらず、外からの干渉で。  取り戻すのだ。  彼の意思の自由を。  彼の劒冑、彼の半身たるを誓った私が。 「――」 「――」  後方に飛び下がる機を窺う。  戦うのではなく逃走に徹するなら、蜘蛛の形の方が有利かもしれない。  しかし変形にはわずかな時間が要る。  今それをすれば、致命的な隙に―― 「……?」 「……てめぇの言う通りなら……」 「てめぇと湊斗さんの、二人の意思で重ねた罪だってんなら、片方だけ裁いても仕方ない」 「……綾弥一条」 「〈仕手〉《あるじ》を取り戻してくればいい」 「その後で――決着をつけてやる」 「…………」 「たっだいまー!」 「…………」  会津より帰還した篠川堀越両公方を迎え、再び首脳会議が開かれた。    情勢は、前回の会議の折より進展している。 「……これで邦氏殿下への大将領宣下は確定。  まずは、めでたい!」 「後は勅使を迎えて式典を執り行うだけですわね」 「その日取りも決まったのだな?」 「いかにも」 「六波羅完全復活やね。  いや、むしろ〈改良型〉《マークツー》」 「と同時に、進駐軍との決戦が始まる」 「いきなり危うし。〈新生六波羅〉《ネオロクハラ》」 「危うくはない。  今度はこちらが勝つ」 「勝たねば――なるまいなァ」 「…………」  ――横浜。 「GHQの学術顧問?」 「そうだよ。  何だ、聞いていなかったのか」 「茶々丸、君も気が利かないなぁ。  これだからパンツ脱がない少女は……」 「パンツ関係ねえ。  あと、おめー学術顧問ったってろくに仕事なんかしてねえだろ」  ウォルフ教授に会うと聞いて、連れて来られたのは進駐軍基地だった。  理由は――そういう事であったらしい。  つまり六波羅における緑龍会の代表者が茶々丸なら、GHQにおけるそれがウォルフ教授だというわけか。 「で……  宣下式典の日取りが決まり」 「銀星号が目覚めるのは、その前日?  間違いないのかね」 「確実」 「どうしてわかる?」 「あての〈特殊能力〉《スペシャルパワー》。  人や物の内部構造や状態を〈感知〉《・・》できます」 「時間を掛けて診断すれば、精度はほとんど一〇〇%」 「……何故、そんな能力が」 「乙女のヒミツ☆」 「恥ずかしいやつだな……君は……」 「うわ、おめーに言われるとなんかほんとに恥ずかしいよ!  言うんじゃなかった!」 「しかし困ったな。  一日ずれているのか」 「贅沢言うなよ。こんなもん、本当なら丁度良く合うわけないんだから。  京都の〈同志〉《なかま》が頑張って、どーにかこーにかこっちの要求に近付けてくれたんだ」 「宣下式典と〈銀星号〉《おひめ》の覚醒、ずれが一日だけで済んだのは上出来だろ」 「確かにね。  まぁ、一日早いくらいなら、どうにかなるかな?」 「キャノン中佐は式典の当日、ないし翌日の作戦決行を考えているみたいだが……何とか言いくるめよう。  うまい理由を探してね」 「頑張れよ」 「あっさり言ってくれるな君は。  キャノン中佐を口先で誤魔化すのが、どのくらい大変だと思ってるんだ」 「知らねー」 「ムカ。怒った。  パンツ脱げ!」 「脱がねーよ」 「湊斗君!」 「脱げ。茶々丸」 「えっ……えーーー!?」 「……?」 「おや、〝〈少女〉《リトルガール》〟……  またこんなところをうろうろして」 「後でじっくりパンツ脱がさねばならんな」 「脱がせ脱がせ。  あて以外ならもう好きにしてくれ」 「……ってちょっと待て。  爆弾の管理はしっかりしとけよ! なんで勝手にふらふらしてんだ!」 「彼女単独なら全く無害だからね。  心配はいらないよ」 「爆弾?」 「これ」 「――――」 「何だと?」 「説明するよ。  そのつもりもあったから、今日ここに来てもらったんだ」 「こいつは進駐軍の最高機密。  ――〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》」 「普陀楽城を〈一掃〉《・・》する破壊力を備えた、新型爆弾だよ」 「……………………」 「正しくはその半分だがね。  彼女は信管に近いものだ」 「火薬にあたる金属は別にある……」 「…………」 「信じられない、お兄さん?」 「俺の脳の消化力を過大評価するな」 「でも、これがヒトじゃないのは見てわかるでしょ?」 「……ああ」  やむなく認めて、首肯する。 〝少女〟の眼はまさしく〈硝子〉《ガラス》玉のようだった。  確かに――これは、違う。  純粋な意味での人では……  生物ではない。 「半分はヒト……〈白蝦夷〉《ユーデア》だけど。  残り半分は、一種の器械なんだ」 「彼女が〈冥府鉱〉《プルートニアノア》の崩壊現象を導く。  そして……何もかも破壊する」 「鍛造雷弾。  人類史上最大最強の破壊行使力だよ」 「…………。  それを、どうすると?」 「宣下式典の前日。  GHQのキャノン中佐率いる奇襲部隊が、普陀楽上空を襲う」 「〈鍛造雷弾〉《こいつ》を落とす。  式典に備えて結集してる六波羅の軍戦力を一撃で抹殺して、大和の支配権を握るために」 「でも、本当の目的は――  〈緑龍会〉《こっち》の目的は、そんなことじゃない」 「……」 「鍛造雷弾と銀星号を、出会わせるのだ」 「破壊と破壊を結びつけるのだよ」 「……何!?」 「そんな事をすれば、」  爆弾で普陀楽城と六波羅全軍が消し飛ばされるのは、別に構わない。鎌倉市ごと焦土と化そうが問題はない。  が……それでは、光までも―――― 「お兄さん。  正直に言うね」 「こいつは、賭けだ。  お兄さんがいま危惧した通り、御姫が吹っ飛んで終わりって可能性もある」 「……むしろ……そうなる見込みの方が強いのかもしれない」 「茶々丸――」 「でも何もしなければ、湊斗光は確実に死ぬ」 「…………」 「唯一の可能性なんだ」 「鍛造雷弾と銀星号。  極限と極限を掛け合わせて一一五キロの壁を越える」 「神への道を切り開く」 「…………できるのか?」 「本当に、それはできる事なのか?」 「可能性はある」 「湊斗光が神に至る可能性。  我々が神に出会う可能性」 「可能性はある!!」 「…………」 「僕は挑むよ。  茶々丸もだ」 「君はどうする?  やめるかね?」 「湊斗光の生命を、諦めるかね?」 「――――」 「諦められる……わけが、あるか」  ここに選択など存在しない。  それがどれほど曖昧で、蜘蛛の糸にも劣る可能性であろうとも。  それだけが光を救い得る道であるのなら。  全てを賭け、全てを犠牲にして、掴み取るまでだ。  決意はついた。  けれど、助けられた義理というものがある。  無断で出て行くわけにはいかなかった。 「普陀楽城へ行く……やて?」 「はい」 「無謀ぞ!  我らも幾度となくあの城に間者を放ってはいるが、首尾良く忍び込める者は十人のうち二人もおらぬ」 「しかも今は宣下に備えてか、常にも増して警備が堅い。  例え隠形の技に秀でた劒冑であろうと、堀を越える間もなく捕まるのは目に見えている」 「幕府の内部に協力者がいて、手引きをしてくれるなら話は別だが……  その用意はまだ出来ていない」 「今は無理だ、村正」 「…………」  予想はしていたが、誰も賛同しなかった。  反対していないのは黙りこくっている綾弥一条と、そもそもこの場にいない人間だけだ。  大鳥香奈枝とその侍従の姿は寺から消えている。  何やらの裏工作をするため、今は〈夷国〉《いこく》に飛んでいるそうだ。国連本部でどうとかという説明だったけれど、私には良くわからない。 「景明くんを助けたいのはわかるけどな。  わしかて同じ気持ちやし……」 「しゃあけど、闇雲に突っ走ったらあかんえ。  こういう時こそ、冷静にならんと」 「わかっています。  でも……」 「時間がない。  機会が来るのを待っていたら、取り返しのつかないことになる」 「……そう思うんです」 「…………」  半分は勘だった。  けれど、根拠もある。  湊斗光の寿命は残り僅かだと、足利茶々丸は言っていた。  あの言葉に嘘はない――劒冑の眼で診ても同じ結論を出せた。  なら……  湊斗光を生かしたい今の景明と、銀星号を利用して何かの望みを遂げたい茶々丸にとっても、時間は残り少ないということになる。  悠長な計画を立てているとは思えない。  何をするつもりでいるにしろ、短時日のうちに決着をつける気だろう。  そして、その決着がついてしまったなら。  きっと――もう何もかも、〈どうにもならない〉《・・・・・・・・》。 「だから、行かないと」 「…………」 「…………」 「お世話になったのに、勝手を言ってごめんなさい。  でも……私は劒冑だから」 「〈仕手〉《あるじ》のもとへ行きます」  言って、私は立ち上がった。  外へ向かいながら、考える――潜入の手立ては何も思いつかない。  あの城の警備の堅さは、銀星号の探索がてら近付くことが何度かあったので良く知っている。  正攻法ではまず無理だ。何か、策を…… 「村正、待て」 「……」 「宮殿下……宜しいですか?」 「せやな。  なんか、これで踏ん切りがついたわ」 「確かに」 「……?」 「村正、行くなら我々と協力しろ。  その方が見込みがある」 「――えっ?」 「いえ、でも。それは」 「誤解するな。  我々には我々の事情があるのだ」 「ほんとのとこ言うと……こっちものんびり待ってるわけにはいかなくてなぁ。  一か八かの勝負をやらなァあかんとこまで追い込まれてるんよ」 「妨害工作の甲斐なく、足利邦氏への大将領宣下は確定してしまった。  既に式典の日時まで決まっている」 「宣下式典の実施は六波羅体制の復活と同義であり、それは進駐軍との決戦開始と同義だ。  我々が避けたかった、最悪の事態が迫っている」 「香奈枝さんが国連方面で今動いてくれてるけど、間に合うかわからん。  こっちでも手を打たんとならんかったんよ」 「無理矢理にでも、式典を中止ないし延期にできるような手を。  ……そういうわけだ、村正」 「…………」 「加えて言えば、某には個人的な事情もある。  義姉が普陀楽城に囚われているのだ」 「幾度も救出を計画したが、果たせなかった。  今度こそ助け出したい」 「桜子さんか。  そやな……」 「具体的な計画ですが――」 「どうもこうもねえ。  どんだけ作戦こね回したって、無謀なもんは無謀だろ」 「忍び込める所までは忍び込んで、バレたら後は暴れ回る。  式典なんてやりたくてもやれないくらい、荒らし尽くしてやりゃあいい」 「それで勝ちだ」 「……」 「……」 「そうだな」 「そうなんか!?」 「まともな作戦計画を立てられるほどの材料がありません。  なら考えるだけ時間の無駄でしょう」 「然り然り。  某は一条殿に賛同いたす」 「……おまさんら、露骨に体育会系やねー」 「では、おおまかにまとめよう。  普陀楽へ潜入するのは綾弥、黒瀬殿、村正」 「潜入後、綾弥は城内を破壊。  黒瀬殿は桜子姫を救出。  村正は景明を探す。  私は退路を用意するために動こう」 「宜しいか?」 「ああ」 「うむ」 「……ええ」 「………………………………」 「会場設営は予定通りに済むようだの、湊斗中佐」 「はっ。  トラブルのため、若干の予算超過を生じさせてしまいましたが……」 「その程度は構わん。  良くやった」 「有難うございます。閣下」 「フフフ。あても鼻が高いっすよ」 「何もしてないくせに……」 「まあまあ、良いではござらんか」 「堀越中将様」 「ん?  どした、常闇」 「少々お耳を」 「御依頼の件のことです」 「……わかったか?」 「はい。  とんだ〈おまけ〉《・・・》も付いてきました」 「へぇ?」 「では、式典の際の分担を決めましょう」 「部隊配置を詰めるのが先だろう」 「む……」 「いーやっ。  どっちも後回しだ」 「茶々丸?」 「建朝寺を攻めるぞ」 「……何と?」 「舞殿宮を!?」 「気でも違った――」 「わけではなさそうだな? 茶々丸」 「連中、少数精鋭で普陀楽にカチ込む気だ。  宣下式典をやめさせるために」 「要はテロだな」 「…………」 「――――」 「……ほう」 「……」  ――そうか。  あの親王、ここで動くか。  しかし俺を失った今、誰を手駒に使うつもりだ……? 「そ――そんな馬鹿なこと」 「いや。  有り得ん話ではないな」 「ちょっ、あんたまで」 「舞殿宮の一派にも情勢を見る目くらいあるだろう」 「……左様でござるな。  宣下式典の決行は六波羅と進駐軍の開戦を意味すること、わからぬ道理はない」 「と、なれば……あの庶民派の宮様が阻止に動いてくるとしても不思議はござらんのう」 「ど、童心様。でも――」 「対処は?」 「奴らが来るのを待ち構えてやってもいいが……いや。それでは事が大きくなりかねんな」 「宣下式典を控えてる時期にそりゃ避けたいだろ」 「然り。  できるなら極秘の内に片付けてしまいとうござる」 「あの、」 「コトを逆にしちまえ。  倒幕勢力が舞殿宮を拉致って利用しようとしてるって情報を掴んだから、警備する――って名目で建朝寺を囲む」 「で、不穏分子はひっそりと全員始末。  宮様はそのまま監禁だ」 「ふん。悪くない」 「それがしも異存ござらん。  問題は、誰を派遣するか……」 「相手が皇族となると、慎重な人選が要るな。  間違いは許されん」 「けどのんびり選んでる時間なんてねえぞ。  向こうはすぐにも動きそうな気配だ」 「我らのうち誰かが行くしかござらんな」 「俺が行こう」 「はんたーい」 「……俺では不足だとでも言うのか」 「不足はないけど。  もっと向いてるやつがいるから、そいつにやらせとこうぜ」 「誰だ」 「こいつ」 「――は?」 「麿?」 「おまえ」 「何でよっ!?  ……ていうか、あんたら全員ちょっと待ちなさいよ!!」 「話を進めるのが早過ぎるでしょっ!  それよりまず先に、情報の真偽を確かめてから――」 「阿呆。  貴様の頭には砂糖でも詰まっているのか?」 「何ですってぇ!?」 「いやいや。  そうそう、そうだった」 「雷蝶の言う通り。  最初にやらなきゃいけないことがあったよな」 「……ふむ?  茶々丸殿、それはいったい?」 「ちーむわーく」 「何だ、それは」 「知らねえの?  友情、団結、そして勝利。勝つための手順ってもんがあるんだよ、世の中には」 「まずあてらの結束を固めましょう」 「そんなこたどーでもいいのよっ!  麿が言ってるのは、」 「確認しまーす。  この中に、舞殿宮とこっそりつながってるやつはいないよね?」 「朝廷権威を背景にして幕府の主導権を握れ、なんて甘い誘惑に乗っちゃったよーなバカは」 「――――――――」 「……ふん。  それは確かに、確認しておく必要があるな」 「……で、ござるのう」 「宣誓。  あては絶対に違いまーす」 「俺もだ。  大鳥家先々代当主、時治様の名に懸けて」 「それがしもやましいところはござらん。  御仏に誓いましょうぞ」 「うわ、信用おけねえ。  まぁいいや」 「で、雷蝶。おめーは?」 「え?」 「あ、その」 「どうした。  さっさと答えんか」 「あらぬ疑いを招いてしまいますぞ、雷蝶殿」 「えっ、ええ。  も――もちろん、麿もそんなことしていなくってよ!」 「そーだろーそーだろぉー。  なんせおめーは今は亡き大将領護氏の息子だもんな」 「んで次の大将領、四郎邦氏の叔父だ。  そんなやつが幕府を売るような真似、するわけがねーなー!」 「とっ、当然ね!」 「はっはっはっ。  いやぁそれがし、安心いたした」 「これで我らの結束も完璧でござる」 「違いない。  実に喜ばしいことだ」 「嬉しいぞ、雷蝶」 「そ、そうぉ?  おほ、ホホホホ……」 「じゃ、行こうか。  建朝寺」 「え」 「舞殿宮を押さえるんだよ。  嫌、なんて言わねえだろ?」 「六波羅にとっての禍根を絶つためだ。  忠勇烈将、今川雷蝶くんとしちゃあ、勇み立って行くところだよなー?」 「くっくっく……  忠勇烈将!」 「そ、そそ、そうねえぇ。  で――でも」 「やっぱり麿は……その……もう少し慎重に考えて動いた方がいいと思うのよ!  相手は帝の弟よ? 誤って殺しちゃったりしたら大変なことになるし、」 「大丈夫。  あても一緒に行って、そのへん気を配っておくからさ」 「それに……そう、ことの真相が露見したら大変よ!?  大将領宣下が取りやめなんてことにも」 「あーのーなー」 「その心配は無用です。  今川中将閣下」  俺は口を挟んだ。  理由は一つ。  面白そうだったからである。 「何よっ!  ぽっと出の中佐風情が、公方同士の論議に割り込んでいいと思ってるの!?」 「意見くらい構うまい。  雷蝶、そううるさがるな」 「身分に差はあれど、同じ忠臣ではないか。  ……くっ。くっくっ」 「……っ」 「湊斗中佐、言ってみろ」 「はっ。  万一、舞殿宮への弾圧が発覚した場合――あるいは手違いで舞殿宮を殺害してしまった場合は、」 「そこまでするに足る正当性があったことを発表すれば宜しいかと考えます」 「正当性とな?」 「舞殿宮春煕親王は、大将領足利護氏公暗殺事件の主犯であります」 「――――」 「自分が証人として立ちましょう」 「……どういうことだ。  貴様、倒幕派に与していたとは聞いたが、舞殿宮の配下だったのか?」 「それで舞殿宮のもとで企まれた、足利護氏暗殺にも関与したと?」 「自分が一時期、舞殿宮に服属していたのは事実です。  しかし、暗殺計画は存在しませんでした」  俺は真実と嘘を両方告げた。 「無かった?」 「はい。  ですが、〈あった事にします〉《・・・・・・・・》」 「自分が鎌倉警察署の署長を通じて舞殿宮と繋がっていた事については、物証も用意でき、誰もを納得させられます。  その自分が暗殺計画を証言するのです」 「舞殿宮一派が何を言おうと、人々は苦しい弁明としか受け止めないでしょう」 「……むゥ……」 「そうか……。  良し。いいぞ。悪くない」 「それはいい〈保険〉《・・》だ」 「……だね」 「聞いたよな、雷蝶?  もう心配はなんにもいらねーぞ」 「あ、う……」 「何を慌てる?」 「あ、慌ててなんか!」 「くっくっく……!」 「あ、あんた……さっきから人を馬鹿にして。  笑いたくても笑えない身体にするわよっ!?」 「ほゥ。  笑ってはいかんのか……」 「せっかく……人が笑い事で済ませてやろうとしているものをな。  何だ、要らぬ気遣いか?」 「――――」 「そうか、俺はもう笑わなくていいのか。  なら、奸賊は〈まとめて〉《・・・・》片付けてしまうか」 「それこそ禍根を絶つというものだ……」 「ふーん。  あては、まぁ……構わないけどね?」 「さぁーて。  それがしも、反対するほどの理由はない、かのう……?」 「ど……童心様……?」 「雷蝶殿次第でござるよ。  この童心坊はいつでも、雷蝶殿のお考えを尊重いたしますぞ」 「くっ……くっくっ……!」 「…………」 「…………」 「……っ……」 「け……  建朝寺へ――行きましょう……」 「OK、OK。  そう言ってくれると思ってたぜ、雷蝶」 「さー、楽しいハイキングだー♪」 「よろしくお願いいたす」 「雷蝶の〈保護者〉《・・・》をしっかりな、茶々丸」 「あーい」 「…………」 「何か必要なものはあるか?  可能な限り用意するが……」 「私は、平気」 「あたしもいい」 «クァァーーーキキィ!  正義の魂はとうの昔に完全装備! ほかに何が要るというのだァ!?» 「某も手持ちの武装で充分。  仲間を呼び集める暇が無かったのは心残りだが……」 「潜入という点を考えれば、それも一長一短でしょう」 「うむ」  これから、普陀楽城へ行く。  彼らは彼らの目的を果たすために。  私は――景明に会い、彼の意思を取り戻すために。  おそらく、今の彼には拒まれるだろうけれど。  それでも……。 「三人とも、目的は別だが。  いずれも舞殿宮殿下が望んでおられることには変わりない」 「宮殿下は宜しく頼むと云っておられた」 「勿体なきお言葉」 「頼まれなくてもやるさ」 «正義は命令されてするものにあらず!  しかし賛同するのは当然の事!» 「…………」 「私からも言おう。  ……村正」 「えっ?」 「息子を、頼む」 「…………」 「はい……」 「…………」 「時が惜しい。  さ、そろそろ参るとしよう」 「ああ」 「何処へだ?」 「ぬう!?」 「……ッ……」 「――――」  包囲……されている。  六波羅の軍勢に。  その、――陣頭には、 「…………」 「……あ……」 「月見の宴を張るにはいい夜だけど。  わざわざ普陀楽まで来なくてもいいだろ」 「ここでやろうぜ」 「堀越公方!」 「宮様はどこだい。  中か?」 「……中将、如何なる存念か!  この建朝寺を舞殿宮殿下の御座所と知って軍兵で囲むなど、許されぬ狼藉!」 「即刻、撤収して頂きたい!」 「言えた義理かよ、鎌倉署長。  おめーこそなんでここにいるんだって話だ」 「…………」 「もうバレてんだから無理すんな。  雷蝶が吐いたんだよ、舞殿宮と組んで幕府を乗っ取るつもりだったって」 「な――」 「あれ? 違ったっけ?」 「ここに兵を出した理由は表向き、舞殿宮が倒幕派に狙われているから警護する……と、いうことであったかと」 「あー、そうそう。  ごめんな雷蝶、うっかり間違えちったー」 「うぐぐ……」 「つーわけだから署長。  宮様のことはなんも心配しなくていいぞぅ」 「あては宮様を守りに来たんだ。  おめーら、倒幕派の手からなァ!」 「……ッッ……」  景明の養父は、音が出るほど歯を噛み締めた。  深刻な敗北感を滲ませながら――押し寄せる絶望に必死で抗いながら。  黒瀬童子もそう。  綾弥一条は――憎悪と戦気を一呼吸毎に高めている。 「寺の周囲を封鎖しろ。  犬猫一匹、外に出すなよ」 「はッ」 「さて、あてらはこいつら片付けっか。  やるよな、雷蝶?」 「……わかってるわよ……」 「おーおーおー。  唇噛んで、顔白くして、指先がなんか震えてて、呼吸はやたらと不安定……」 「見るからに絶好調だな」 「やかましいわーーー!!」  兵を周囲に散らして、茶々丸が前へ出てくる。  隣の異様な巨躯の男も……そして、景明も。  戦いになる。  状況はこちらが不利――――  いや。  私にとっては……むしろ逆。  予定とは全く違うけれど、ともかくも景明に会えたのだ。  なら、今は好機。  私の力で景明を元に戻せば、この状況も変えられる! 「――なんて。  やらせると思うか?」 「村正ァ」 「茶々丸……!」 「おめーをお兄さんに近付けてたまるか。  あてが相手してやるよ」 「結構よ!  どいて!」 「やだ。  ……ったく、後で役に立つ可能性もあるかと思って生かしといてやれば、いらねー面倒かけてくれやがって」 「おめー、今日はぜってぇ潰すからな」 「……っ!」 「雷蝶、おめーはそこの劒冑連れてる娘さんをよろしく。  あと警察署長が動いたらそっちもついでに頼むわ」 「お兄さんは、その黒いのお願い」 「良かろう」 「…………」 「一条殿、気をつけられい!  そやつは小弓公方、今川雷蝶――」 「図体のでかいカマ野郎、だろ。  へっ……話が早くなった」 「四公方のひとりが倒されたら、パーティーなんてやってる場合じゃねえよな?」 「……それは、おまえが麿を倒すという意味なのかしら?」 「てめぇの解釈なんざ知るか。  喧嘩売られてるって思うなら思えばいいし、九九を暗唱してるように聞こえるってんならそう思ってりゃいい」 「あたしのやることは変わらねえ。  行くぞ、正宗!」 «応よ!» 「世に鬼あれば鬼を断つ。  世に悪あれば悪を断つ」 「ツルギの理ここに在り!」 「念仏でも聖書でもコーランでも、好きなの唱えな、ケバ公方!!」 「…………」 「今の麿はね……  おまえのような小生意気な小娘が、ほかの何よりも憎たらしくて仕方ないのよ」 「間の悪さを呪いなさいな。  ……膝丸」 「帰命頂礼八幡大菩薩!  我、〈御剣〉《みつるぎ》と罷り成る!!」 「一条殿!」 「人の身を案じている場合でもあるまい?」 「ッ……」 「奇縁だな。  〈黒瀬〉《くろのせ》……だったか。このような局面でまた会うとは」 「生憎だが、今度は何処へも逃がしてやれん」 「……湊斗、景明。  恩義ある者に刃を向けたくはないが……」 「怪しげな術に心を奪われているとあっては致し方ない。  我が剣で、正道に立ち戻らせてくれよう」 「……く」 「参る!」  黒ずくめの男は太刀を抜くや、それを下段にとった。  いや、下段よりも更に低い――地面に触れるか否かの所まで剣先を下げている。  そしてそのまま、摺り足で、俺へと詰め寄る。  早い。 (成程)  ――〈地摺〉《じす》りの〈青眼〉《せいがん》、か。  古流剣術の技法である。  これを仕掛ける者は、太刀を極めて低い位置にとり、素早く相手との間合を詰める……。  そうして不意に迫られた側は、下方からの刃の圧迫に押され、かつ敵の無防備に空けられた頭部に引かれ、上段から打ち込んでゆく――  が、無論そうなれば勝負は決着。  足腰の浮いた切り込みが届くよりも先に、下段から跳ね上がった切先で喉元もしくは鳩尾を刺し貫かれて果てる事になる。  合理的な計算に基づく、有用な実戦技術だ。  しかし。 (状況判断を誤ったな)  剣技、武技というものを有効に活用するためには、適した状況においてその技を用いる配慮が必要である。  万能の技は無い。〈普〉《あまね》く全ての技にはそれを用いるに向いた状況、向かない状況がある。  地摺り青眼の場合、成功要件は主に二つであった。  一つ。仕掛ける者が仕掛けられる者より、心理的に優位である事。  この技は相手の動揺を誘って軽挙に走らせる点が肝。平静な思考力を維持している相手に使うべきではない。  二つ。仕掛けられる者が地摺り青眼の術技について詳しくなく、対処法を心得ていない事。  これはあらゆる技に対して云える成功要件であるが。  敵――黒瀬は、この二件をどちらも欠いている状況で仕掛けた。  失策である。 「!!」  黒覆面の狭間にある双眸が、びくりと揺らいだ。  今、彼の握る太刀と俺の肉体とは至近距離にある。  俺が腰を低く落とし、身を〈屈〉《かが》めたからだ。  鋭利な刃先が、すぐ近い。  危険――否。  〈近過ぎる〉《・・・・》。  この距離から突こうが斬ろうが、俺に対する決定打にはならない。殺傷力を確保するには相応の運動距離が要るのだ。  致命箇所たる咽喉は、この位置関係であると、顎が邪魔になって狙えない。  眼は、狙うには小さい上、致命傷となる保証もない。脳まで貫きたくとも刃が眼窩骨に引っ掛かって止まる。  かくなれば、敵の選択は一手だ。  太刀を振りかぶり――上から斬り下ろす―― 「うぬっ!」  ――がら空きになった黒瀬の足を、俺の一刀が薙ぎ払った。 「くっ……!」 「無手の組打って条件なら、あてと互角以上にやれるやつなんて六波羅全軍探しても片手の指より多くはいねえ。  おめーが相手じゃ役不足だ」 「正直アクビが出そうです。  ふぁー」 「……このぉ!」 「はッ――」 「潰れちまいな!」 「づ……っ!」 「ち。  しぶてぇ」 「駄作のくせに、耐久力だけはありやがるな」 「……返しなさい……」 「あぁ?」 「私の〈御堂〉《あるじ》を返して!!」 「嫌だね!!」 「手放してたまるか!  ようやく出会えた主だ」 「あてを道具にして、使ってくれる男だ。  半端にヒトでいることが苦痛なあてには、絶対に必要なんだよ!!」 「そんなの知らない――」 「ああ知らねえだろ!  ヒトの精神ってやつにとって、二十四時間一秒の休みもなく地の底のあの野郎の絶叫を聴かされ続けることが、どれほどの重圧か!!」 「知らねえさ、誰も……。  だから同情しろなんて言わねえよ。あては勝手に、力ずくで、〈奪われたもんを奪い返す〉《・・・・・・・・・・・》だけだ!!」 「ぐっ……ぁぁ!!」 「つぁぁぁぁらァァァァァ!!」 「は――!  偉そうなこと言っといて、手も出せねえのか!?」 「…………」 「てめぇらは結局そうだ。糞っ垂れな権力で他人をこき使うだけが芸だ。  自分一人じゃ何もできやしねえ」 「下らねえよ! 死ね!  正宗ッ!!」 «七機巧が一……  朧――焦屍剣!!» 「……へっ……」 «クッ、クフフフ――» 「……なにぃ!?」 «む、無傷だとォォォ!?» 「……ふぅ。  おまえの言い草ではないけれど……本当に下らないわね……」 「もういいわ」 「――――」 「散りなさい」 「虫ケラァァァァァァァァァァ!!」 「……驚いたな。少々」  一条が劒冑を持ち、しかも中々に使いこなしていた事にもだが――  それ以上に、小弓公方今川雷蝶の強さ。  武辺の人物と聞いてはいた。  しかし、何分にも足利家の御曹司。轟く武名の半分は宣伝目的で演出されたものであろうと、高を〈括〉《くく》っていたのだが。  どうもあの公方、武人としての評価に〈掛け値〉《・・・》は全く無かったようだ。  六波羅正規兵と比べても遜色ない動きを示している一条に相対しながら、まるで寄せ付けていない。  俺が見るに、八幡宮で戦った〈護氏〉《ちちおや》を凌駕する。  〈性質〉《タイプ》は全く違うにせよ、光に迫る力量の持ち主ではないのか……? 「何処を見ている!」 「……」 「まだ抵抗するつもりか?  おとなしくしていた方が、楽に死ねるだけ得だと思うが」 「寝言を……!  何処の腑抜けが、戦いを投げるか」 「背後には舞殿宮殿下がおられるというのに……この程度の傷で!」  黒瀬が立ち上がる。  用意良く脚甲を付けていたことは、刃先の手応えでわかっている。  が、それで防げるというものでもない。  一撃浴びた被害は骨まで及んでいるだろう。  それで立つのだから、大した意志力であった。 「戦いたいなら、相手をしよう。  だが、その傷では結果は見えているな……」 「……」 「…………」 「……どうした。なぜ出し惜しむ?  そんな場合ではなかろう」 「迷っていては命を取り落とすぞ」 「貴公……気付いて、」 「戦うなら、〈隠し玉〉《・・・》を出せ。  でなくば、こちらも相手のし甲斐がない」 「正気か」 「生死の際で物惜しみをする男よりは正常な頭をしているつもりだ」 「…………」 「これは亡き父の形見……  いつか岡部の旗を再び掲げ、堂々と倒幕の兵を挙げる時までは決して使うまいと誓っていたが」 「止む無し!」 「やはり劒冑か」 「貴公には恩がある。  殺しはせん」 「が――腕一本は諦めて貰おう」 「……ククク」 「――――」 「なに余裕かましてんだおめー。  余所見してられる状況かって……」 「――――なぁッ!?」  茶々丸も、それを見た。  予想外だったのだろう。愕然と絶句している。  景明と黒瀬童子の対峙。  それだけなら状況は従前と同じだ。  違うのは、黒瀬童子が〈装甲〉《・・》していること。    彼は武者だったのだ。 「――――――――」  茶々丸の焦りは、手に取るようにわかった。  周囲を見れば、黄金の劒冑の巨漢武者は一条を完全に圧倒しているものの、景明らとの距離はやや離れていてすぐ助けに入れる状態にはない。  寺の包囲に散らした兵も、呼び戻すには時間が要る。  誰も支援に来なければ……両者の戦闘は瞬き一つの間に終わるだろう。  武者と生身の人間。勝負にならない。  誰も間に割って入らなければ。    今、割り込める者は―― 「てめ――どけよ!!」 「お断りね。  さっき立場が逆だった時、貴方も私の邪魔をしたでしょう」 「こ、この……  つーかお兄さんが殺されたらてめーだって困るだろうが!!」 「黒瀬童子に命まで取る気はない。  怪我は負うにしても……あとで私が治してあげればいいことだもの」 「景明との決着がついたら、黒瀬童子に次は貴方の相手をしてもらう。  その間に私は景明の精神を元通りにして、傷も治す」 「詰みよ、茶々丸!!」 「ざッッけんなァ!!」  向こうで、茶々丸が何やら泡を食っていた。  忽然と現れた武者に俺が制圧され、そしてその隙に村正の力で精神状態を以前のそれへ戻される――あれの目には現状況がそんな窮地に見えているらしい。  無用の懸念であった。  そも、村正に俺の心を操る事はできない。  銀星号の汚染波による心理的影響は、村正が同等の精神干渉能力を揮えば取り除ける――理屈上はそうだ。  だが実際のところ、村正の力で銀星号の力を上回るのは不可能であろう。仕手もいない今は尚更。  それに、銀星号の精神汚染は露骨に破壊的である。  何かを粉々に破壊する事と、破壊された後の断片を繋ぎ合わせて元に戻す事とは全く違う――明らかに、後者の方が難度は高い。  〈嘗〉《かつ》て一度も、村正は銀星号に精神汚染された人間を救い得なかった。  無理なのだ。できない事なのだ。  尤も、如何なる理由でか俺の汚染深度は浅いようであるから、村正の干渉力でもあるいは元に戻し得るのかもしれない。  しかし――それでもやはり、無理だ。  あの時も、村正はできなかった。  拘置所で、俺が村正に融和を求めたあの時。村正は拒絶し、精神干渉の能力を以て俺を道具にすると宣告した――しかし実行できなかった。  禁じられているからだ。  何より重い〈勅〉《ことば》で。 「村正よ。命じておく。 〝波〟の使用は、朕の名をもって禁ずる」 「如何なる理由があろうとも、この禁を破りし時は、そなたはもはや朕の臣ではない。  朝敵、逆賊である」  中世的価値観を有する人間にとって、やはり君主の命令は絶対のものなのだろう。  勅令禁戒下に置かれている精神干渉能力を、村正は決して使用できない――結局のところ。  だから俺の心が元に戻される危険など案ずる必要はなかった。  村正にできるのは戻そうと試みるところまで。その先には進めない。  いや――――    試みるのも、無理か。  それにはまず、俺が彼に倒されなくてはならないのだから。  ――黒瀬。  風格ある、良き劒冑を装甲している。〈技量〉《うで》も一流と呼んで差し支えない。  屈強、精強、至強なる武者。戦場の王……  生身の兵では決して勝てぬ相手。  つまり、俺は必ず負ける。  この世の道理がそう言っている。  なのに。      俺はどうして、負けるわけがないと、嗤うのだろう。 (ク……)  太刀を上段に構える――武者式の肩に担ぐ上段ではない。天頂を貫くような大上段。  〈唯々〉《ただただ》威力だけを欲す、単純なる太刀取り。  武者を相手に、何の意味があろう。  どれほど速く剣を繰り出そうが、神速で駆ける武者を捉える事など叶わない。  どれほど強く剣を繰り出そうが、戦車の正面装甲にも勝る武者の甲鉄を打ち破る事など叶わない。  一笑に付すべき夢物語だ。 (ククク)  例えば兜割。  一刀一撃を以てして、鋼の兜を〈両断〉《・・》する――  無理。  無理。  無理。  そんな事はできない。  絶対にできはしない。  人間の成し得る技ではない。  無理だ!!  不可能だ!!  言語道断だ!! (ハッ――ハハハハハハハハハ) 「――――」 「……あ……?」 「な――馬鹿な!?」 「あ――あ、」 「有り得ぬ……」 「クッ……  クク、クハハハハハハハハハ!!」 「ハァーハハハハハハハハッ!!」  肘の上で切り断たれた右腕……  俺から奪うと宣言したものを自らが失い、黒瀬なる武者は血と共に沈んだ。  可笑しい。  黒瀬が、ではない。己が可笑しい。  無想だ無我だと思い悩んでいた過去の〈景明〉《おれ》が滑稽でならない。    ああ――こんなにも簡単な事だった。  雑念を消し去り、一剣に身魂すべてを投ずるなど、かくも容易い!  かくも容易い工程によって、〈魔剣〉《・・》は実現する!  これだけで良かった。  ああそうだ、〈これ〉《・・》だけで良かったのだ。  光への愛情一つを残し、他の全てを忘れるだけで!! 「――――――――」 「は……はへ?」 「……今の……まさか……」 「江ノ島の……あの時の?」 「……何よ、あの化け物……」 「茶々丸、あんた何を連れて来たのよ……!」  周囲の状況を確認する。  ……ほぼ、決着はつきつつあるようだ。 「茶々丸、ぼんやりしているな。  村正の相手をするなら、真面目にやれ」 「あ……うん……」 「何だその目は?」 「今更、何を怯える?  何を驚く……」 「俺は〈湊斗光の師〉《・・・・・》だぞ」 「そ――そうだ……ね。  あは、はははは……」  丸きり小動物の目でこちらを見上げてくる茶々丸にそれ以上構わず、俺は黒瀬へ近付いた。  武者の回復は早い。  立ち直る前に〈止〉《とど》めを刺しておく必要がある……。 「……署長」 「…………」  彼は、俺の前に立ち塞がった。  太刀を手にしている――劒冑を装甲する時、黒瀬が投げ出したものだ。  剣の本来の所有者にも、力量がおさおさ劣らぬ事は、足取り一つ見ればわかる。  否、見る間でもなく。湊斗光の師が湊斗景明であるなら、更にその師たる者は彼なのだ。  菊池明堯。  ――人生の一時期のみ、湊斗明堯と名乗った。  俺の養父。  湊斗統の夫。  そして、  湊斗光の、〈父たり得なかった父〉《・・・・・・・・・》。 「二度目だな」 「……?」 「お前の――その剣」 「ああ……そうか。  貴方は一度、見ていたな」 「あの時」 「…………」 「あの時、お前を壊したのは私だ。  その過ちは今更、どうしようもない……が」 「今度は……壊れゆくままにしておきたくはない」 「……」 「村正の精神干渉を受けろ、景明。  元に戻れ」 「元に……?」 「……」 「それがどういう意味なのか、わかっていて言っているのか?  署長……」 「菊池明堯!」 「……景明……」 「誰が光を愛するのだ!?」 「俺があいつを捨ててしまったら!  もう統様はいない……」 「そして貴方は!  とうの昔に、光を捨てている!」 「――――」 「ああ、それが悪いとは言わない。  貴方に光への愛情を期待するのは、無理な相談というものだろう」 「責めはしない。  見捨てて、何処へでも去ればいい」 「だが……俺の邪魔をするな!!」  打ち付けた太刀は、同等の質量で阻まれた。  鋼と鋼が食い合い、微量の鉄粉を空に撒く。  二振りの剣を×字にした体勢で、俺と彼は凝固した。    吉野御流合戦礼法――〈這虫〉《はいむし》の形。  敵が剛力で押して来たならば、引き外して敵の体を泳がせ、その隙を斬る。  敵が後方へ退こうとしたならば、一息に押し出して押し倒し、押し斬る。足絡みの併用が効果的だ。  対手の進退を瞬時に見極め、即応して勝つ法。  俺は――そして当然彼も、この術技を心得ている。 「俺は光を捨てない」 「……」 「俺だけは光を愛する!  妨げる者は許さん!」 「誰であっても!!」 「……景明」 「それは……愛情ではない……」 「――――」 「呪いだ。  お前は、自分で自分を呪っている」 「黙れェ!!」 「!!」 「……っ?」  突如の轟音に、俺と署長は揃って飛び離れた。    何だ――異変か?  ……竜騎兵だ。  六波羅正規の。  今の音は着陸音だったらしい。  余程に急いで〈騎航して〉《とんで》きたのか、合当理が荒々しく煙を吹いている。  しかし、何故?  増援? そんなものが必要な局面ではないが……。 「閣下ぁっ!  小弓中将閣下!! 堀越中将閣下!!」 「や、ンなでっかい声で呼ばなくてもここにいるって。  ちっと落ち着け。深呼吸しろ」 「何かあったの?」 「至急、普陀楽へお戻り下さい!」 「進駐軍がッ――  横須賀艦隊が、相模湾の警戒線を突破して来ました!!」 「――――は?」 「な」 「なにぃぃぃぃぃィィィ!?」 「……どういうことだ?  キャノン中佐!」 「…………」 「〈鍛造雷弾〉《フォージド・ボム》の本体は〈大和〉《このくに》に届いたのだな?」 「ええ、ウィロー少将。  到着したのは間違いありません」 「ならどうして、我々の手に渡らない?」 「拒否されているからです……」 「誰に!」 「輸送艦の艦長に。  許可があるまで引渡しはしかねる、と」 「運んできておいて、今更引渡しの許可だと?  それは何の冗談だ!」 「ええ……」 「はるばる来てやったのだから〈小遣い〉《チップ》をくれ、などという話ではないのだろうね?  当然」 「そんな話なら良かったのですが、教授。  向こうにはまともに対話する様子もありません」 「連盟本部の許可を待て、の一点張りで」 「…………」 「鍛造雷弾の使用は既に決まったことだ。  なのに今更、許可云々と言い出すのなら」 「輸送中に、何か横槍が入ったとしか考えられないね」 「……そうなります」 「連盟本部の人権派が急に発言力を増しでもしたのか……。  それともロシア投下を望む連中の突き上げか?」 「あるいは……〈ばれた〉《・・・》のか」 「……」 「我々の真意が」 「我々は――大和進駐軍は大和の征服支配を完了するが、その成果を〈偉大なる女王陛下〉《エンプレス・オブ・ブリテン》に差し上げるつもりは〈ない〉《・・》、と……  連盟本部に知られた?」 「考えたくもない可能性だがね」 「……本当に考えたくありませんな」 「現時点では憶測ですよ、閣下」 「わかっている……」 「対応を考えましょう」 「今は待つしかあるまい。  ジュネーヴの同志が連絡をくれるはずだ。何が起きたのかを確認してから――」 「それでは、遅いのではないかな」 「……ウォルフ教授?」 「我々は鍛造雷弾投下の意義について本部に幾度も説明し、納得させてきた。そのはずだ。  間もなく訪れる絶好の機会に投下すれば、まさしく一朝にして一国を得られると……」 「なのに、この期に及んで〈待った〉《ストップ》が掛かるというのはどう考えても尋常な事態ではない。  余程の異変が連盟本部で起きていると判断するべきだ」 「鍛造雷弾の運用に留まる問題ではなく……  対大和政策そのものが連盟本部で根本から見直されているのかもしれない」 「六波羅幕府の存立を許容し、あるいは別の新政府を立てさせて、大和の主権を承認する方向に……」 「……まさか!  我々に相談もなく――」 「反対するのがわかっている相手にいちいち意見を聞くかい、ウィロー少将?  いや君ならそうするかもしれないが。本部の連中にそこまでの実直さを期待するかね?」 「…………」 「何もせず、待っていれば……  訪れるのは情報ではなく、連盟本部からの一方的な通達だよ」 「一切の武力行使を禁ずる、という」 「……キャノン?」 「……必ずそうなると決まったわけではありません。  ただ、可能性はあります」 「その可能性が当たってしまった場合、もう我々には何もできないな。  十年か二十年か、それとも半世紀か、次の機会を待たねばならなくなる」 「……」 「ウォルフ教授。  少将閣下の不安を煽るのはやめて頂きたいのですが」 「失礼。  だが、これは忠告なのだよ」 「キャノン中佐、君が述べた通り、すべてが――入念に準備した計画のすべてがぶち壊しになってしまう危険は現実的に存在するのだ。  しかも決して低くはない可能性だ」 「いや、むしろ……高い。  僕はこの時点で鍛造雷弾の使用が差し止められたという事実に非常な危険を感じ取らずにはいられないよ」 「…………」 「賭けるかね? 同志よ……」 「我々は運命と戦おうとしていた。  しかし〈戦う〉《・・》のはもうやめて、〈賭ける〉《・・・》ことにするのかな?」 「今、状況の変化をぼんやり待つというのはそういうことだよ」 「……」 「教授。つまり……どうしろと?」 「戦いを始めよう」 「六波羅を攻撃するのだ」 「……教授、我々には独断で開戦する権限がありません」 「そこは有事法制に従おう。  六波羅軍から攻撃を受けたので応戦を開始する――〈ということに〉《・・・・・・》しておけばいい」 「偽装工作ですか?  それも時間が必要ですよ」 「面倒なことはしなくていい。  誰に対して偽装するのだ?」 「連盟本部から派遣されてくる調査団か?  君達は大和占領を成し遂げた後で、そんなものを受け入れてやるつもりかね?」 「即座に次の行動を起こすのではなかったか?  〈新大陸〉《ネオ・ブリテン》の同胞と共に」 「…………」 「電撃作戦で六波羅を殲滅するまでの間だけ誤魔化せればいいのだ。  口先で充分だよ」 「しかし、鍛造雷弾は今――」 「通常戦力があるだろう?  雷弾抜きでも、GHQの保有する軍事力は六波羅を上回る」 「そうですが……キャノン?」 「……確かに、鍛造雷弾投下に失敗した場合のための〈補完計画〉《サブプラン》は用意されています。  そちらの最終訓練を明日行う予定でした」 「なら丁度いいな。  訓練ではなく、〈本番〉《・・》にしてしまおう」 「それは、相当の無理が生じます。  結果としてこちらの損害が大きく――」 「いえ、〈勝てない〉《・・・・》可能性すらあります。  負けるとまでは言わずとも。こちらが企図する、敵軍主力の早期撃滅を果たせない恐れがあります」 「苦戦する、と?」 「ええ」 「そうだな……」 「好都合ではないか」 「……何ですと?」 「戦況が不利になったら、それを口実に鍛造雷弾の使用許可を求めれば良いのだ。  連盟本部も大規模な増援を派遣するより、お手軽な方を望むだろう」 「……教授。  少し、無謀が過ぎませんか?」 「いや……いや!  そう決め付けたものでもないぞ、キャノン中佐」 「閣下?」 「我々の独断で開始するにせよ……  一度戦端が開かれてしまえば、それは連盟――国際統和共栄連盟の戦争になる」 「世界の守護者たる女王陛下の名を背負った聖戦になるのだ。  敗北は許されない」 「不利な情勢での講和なども有り得ない。  我々のやりかたに対して疑念があってもだ。〈とにかくまずは勝ってから〉《・・・・・・・・・・・・》、連盟の高官どもならそう考える」 「その通りだとも、ウィロー少将。  それに問題は体面のことだけではない」 「対ロシア政策の面から見ても、連盟が敗北して大和から叩き出されるような結末は絶対に受け入れられないはずだ。  違うかね?」 「はい、教授。間違いありません。  そうだ……とにかく戦争を始めてしまえば、連盟としては勝つしかなくなる」 「必要に応じて鍛造雷弾も使える!  我々が六波羅に敗れることはない!」 「…………」 「我々の独走は戦後の追及を免れないだろう。  が、これも教授の言われる通り――そんなことを恐れる必要はない」 「我々が女王陛下に対して忠実な騎士として振舞うのは、大和征服を終えるその瞬間までのことに過ぎないのだからな!」 「うむうむ。  何も問題はなさそうじゃないか?」 「はい。  どうだ、キャノン?」 「…………。  進駐軍の指揮権については? 最高司令官はここにいる三人の誰でもなく、現在休暇中の元帥殿ですが」 「ことが済むまで、そのまま休暇を楽しんでいてもらおう。  帰還手段をこちらで用意しなければ、関東に戻りたくても戻って来られまい」 「一週間やそこらは時間を稼げますね。  その間は、私が事実上の最高司令官代行」 「各軍団長は私より階級こそ上ですが、問題なく動かせます」 「…………」 「後は、行動開始のタイミングだな。  最終訓練用の準備が出来ているとはいえ、流石に明日の決行は無理があるか……?」 「一日遅らせて、準備を徹底した方がいいか」 「いや――」 「やるならすぐです、閣下」 「キャノン?」 「宣下式典のために六波羅の戦力の大部分が普陀楽へ集結するのを待ち、鍛造雷弾で一掃するのが本来のプランでした。  が……当面、雷弾を使えないなら」 「むしろ戦力が集中しない内に叩くべきです。  小弓、古河、篠川、堀越の四公方府そして普陀楽城とを分断し、各個に撃破する……」 「プランC3だな?」 「はい」 「補給物資は」 「初動を支えるだけの量は既に各部隊が保有しています。  その後は――横浜・横須賀との補給ラインを作戦通りに構築できれば」 「……良し!」 「そのプランでいこう。  構わないな、キャノン?」 「…………。  ええ、ウィロー少将」 「やりましょう」 「うむ。戦いを始めよう!  我々の勝利のために!」 「はい、ウォルフ教授。  我々の勝利のために!」 「…………」 (〈我々〉《・・》、か) (同じ意味ならいいんだがね……) 「ふぁ……あ」 「……眠いっての。  くそ……当直だって知ってたら昨日完徹で打ったりしなかったのに……」 「坂口が急に休むから……くそ……  ぁ……ねむ」 「こういう時は……どうするんだっけ」 「……」 「あがれ銀翼国民の、  熱誠いまや天をつく――」 「……」 「続き……何だっけ……?」 「……あー……駄目だ」 「離陸颯爽あざやかに、  駆ける我らが愛国騎」 「ぐへッッ!  ちゅっ――中尉殿!」 「申し訳ありませんっ!」 「謝らなくていい。  寝る〈前〉《・》だったからな」 「俺があと三秒ほど遅れて来ていたらわからなかったが」 「は……はッ」 「お前は陸軍上がりか?」 「は――  ずっと海軍であります」 「その、兄が陸軍でしたので……」 「そうか。  うちと同じか」 「……中尉殿も?」 「ああ。  弟がな……」 「まぁ、今は皆まとめて六波羅だが」 「……はっ」 「ふん、懐かしい〈詩〉《うた》を聞いたせいで昔を思い出した」 「いや……昔といっても、まだ六年か。  大戦が終わって、六波羅幕府が天下の主となってから……まだ」 「…………」 「居眠りは、やはりやめておけ」 「はッ!」 「時代がそろそろ動くようだ。  平穏は……〈また〉《・・》終わるらしい」 「この〈相模湾〉《うみ》も……」 「それは……  つまり、進駐軍と?」 「…………」 「少し〈騎航して〉《とんで》くる」 「何か不審が?」 「いや。  ただ妙に……背筋が寒くてな」 「金探に何か反応はあるか?」 「いえ、何も」 「そうか……」 「なら多分、自分の言葉に自分が煽られたのだろう。我ながら情けない。  ……すぐに戻る」 「はッ」 「中尉殿、お気をつけて――」 「……」 「ちゅ、中尉殿?」 「……え?」 「血?」 「……そんな、どうして急に……?」 「……」 「――――――――」 「し――進駐軍の〈竜騎兵〉《ドラグーン》……」 「う、嘘だろ?  金探には何の反応もなかったぞ!?」 「なんで――」 「良い夢を」 «攻撃騎から艦隊司令部へ» «任務完了» «攻撃騎から艦隊司令部へ» «任務完了……»  もはや舞殿宮どころではなく、俺と茶々丸は建朝寺の包囲を解いて普陀楽へ馳せ戻った。  小弓公方も別途帰還している筈である。  途上、異貌の男に出会った。  俺達の帰りを待ち構えていたようだ。 「――以上が、ウォルフ教授からの連絡です」 「…………」 「そーゆーわけかよ……。  くそ。面倒なことになった!」 「どこの誰様が余計な邪魔入れやがったんだ」 「鍛造雷弾が使えない、となると――」 「あてらの目論見はぶっ潰れるね。  六波羅は困らないし、進駐軍だってまともな勝負で勝てるならあえて雷弾を使わなくてもいいだろうけど、〈あてらは〉《・・・・》困るね」 「あれが鍵ですから。  夜明けを導くための……」 「ならばどうする?」 「ウォルフのお膳立てに従うしかないよ。  抗戦する」 「連盟本部が鍛造雷弾の使用を決断する状況を作り上げる」 「進駐軍の攻勢を凌ぎ切り、膠着状態に持ち込むということですね」 「今日は……一一月三〇日か」 「御姫が目覚めるのは一二月四日だ」 「あと四日ですか。  丁度良いといえば、丁度良い長さ……」 「それだけの時間を掛けても普陀楽を陥とせないとなれば、決戦力の投入を決意させるには充分でしょう」 「だな。  そこんところのタイミングをうまく合わすのはウォルフの仕事だ」 「あてらは四日間、普陀楽を守り切る」 「ええ……」 「…………。  できるか? それが」  国際連盟大和進駐軍――その実態は大英連邦軍。  つまりは世界最強、最新装備の軍事力。  六年前……  六波羅は戦わずして敗北を認め、その軍門に下っている。 「やるしかないよ。  ……やるしかないさ、お兄さん」 「…………」 「そうだな。  やるしかない」  他に道が無いのなら。  唯一つの道を、ひた駆けるのみである。  評議の間に、古河、小弓、堀越の公方が集う。  が……一人、篠川公方の姿がない。 「獅子吼はどうした?」 「もう会津へ飛んだわ」 「篠川からの援軍が、どれだけ早く普陀楽へ着くか……。  そこが勝敗の分かれ目となるゆえ」 「そっか」 「しかし、やられ申したな。  邦氏殿下への大将領宣下によって六波羅が再起を果たした時こそ、進駐軍は戦う意味と勝つ意味とを得るのだと思い決めておった」 「よもや、その前に仕掛けて来ようとは……」 「ええ。  綺麗に裏をかいてくれたわ、〈GHQ〉《やつら》!」 「確かに軍事的には兵力が分散している内に叩く方が有利……しかし〈六波羅〉《われら》を対等の相手などと思っておらぬ奴らのこと、必ずや政治的都合の方を優先すると踏んでおったのだが」 「何か裏事情があるのかもしれませんわね」 「……それをいま勘繰ったって仕方ねえだろ。  事情はともかく、敵さんはもう〈相模湾〉《そこ》まで来てるんだ」 「宣下式典に参列したくて来たようには見えねえし、だったら丁重にお帰り願うしかねえ。  方法を考えようぜ。やつらに相模湾で寒中水泳大会始めてもらうためのさ」 「で……ござるなァ」 「童心様、敵の動きは?」 「進駐軍横須賀艦隊と思われる艦群は、相模湾内防線を突破後、〈小坪〉《こつぼ》軍港を急襲。  小坪に駐留する我が方の主力艦隊に損害を与え――」 「小坪側が反撃態勢を整えると、それを見計らっていたように撤収。  現在は飯島崎と大崎の間に封鎖線を張り、小坪の残存艦隊を港に押し込めており申す」 「……押し込めてるだけ?」 「さよう」 「はァ?  何がしたいんだあいつら」 「小坪の艦隊が動けなくなったらそりゃ痛いけど。  向こうが封鎖以外なにもしないんだったら、艦隊を動かす必要がそもそもねえぞ」 「むろん、他方面での行動を妨害させぬために封じておるのでござろうが……」 「まさか、あいつらの狙いは鎌倉ではないというの?  他の都市を襲うつもり?」 「んなアホな」 「鎌倉を占領し、普陀楽を陥とし、六波羅を壊滅に追い込む。  GHQが遂に動いたからには、他の目的は考えられぬ」 「しかし――」 「ならどうしてさっさと小坪港を叩き潰して上陸してこねえのかって話だな。  ……小坪攻撃は陽動か?」 「本隊は……  横浜基地から陸路、朝比奈峠を越えて攻め寄せてくる?」 「勿論そちらからも来るでしょうけれど……。  そのルートは大兵力を素早く展開するには不都合です」 「本命は別かと」 「……で、ござるな。  と――――なると……」 「ここかの」  遊佐童心の太い指が、地図上の〈線〉《・》をなぞった。 「……湘南海岸?」 「おいおいおい。  そんなとこから一体どーやって大軍を上陸させるっつーのさ。ばっかでー」 「と言いたいのは山々ですが、なんかそんな時にお役立ちの兵器がありましたね?」 「いかにも。  揚陸艦……大英連邦では先の大戦の頃より使われており申す」 「あまり有効ではなかったと聞いていますが」 「失敗を糧に改良したのではござらんかな。  かの侵略国家にとっては、大いに研究する価値のある兵器でござれば」 「防御設備の整った港への攻撃は多大な犠牲を覚悟せねばならぬ。  しかし、手薄な海岸から上陸できれば損害はずっと少なくなる」 「……実際、手薄だよな。  材木座、由比ヶ浜、七里ヶ浜」 「がら空きってほどじゃねえけど、完璧とはとても言えん」 「大規模な上陸作戦に対する防備はまったく不十分ね。  GHQもそれくらいは知っているでしょう」 「…………」 「てことは……来るな」 「ええ」 「海岸に増援を出すか?」 「無益でござる。  奇襲された今、すぐ動かせる充分な規模の兵力というのがそもそもござらぬし」 「仮に兵力を海岸線へ展開するのに成功したとしても、我らには大規模上陸作戦に対する迎撃の〈専門知識〉《ノウハウ》が不足しており申す」 「砂浜でまごついてる間に潰されるってか。  そこまで悲観的にならなくてもいいと思うけどな」 「向こうは間違いなく充分な訓練をこなしてきているわ。  〈失敗の数〉《・・・・》で勝敗が決まるとしたら、こちらの分が悪いわよ」 「……そりゃ違いない」 「湾岸防衛は諦めるしかござらん」 「御無礼。  ……小坪港の封鎖を破る方法は検討しないのですか?」  黙っていられず、俺は訊いてみた。  どうもこの首脳達は、最初からその選択を放棄している様子である。  俺としては納得しかねた。  何も小坪港の残存艦隊に乾坤一擲の勝負を挑めとは言わない――近場の別艦隊に来援させ、内外から攻めれば良いのだ。  真逆、相模湾近海の幕府艦隊が全て小坪に集結していたという事はないだろう。  そうして小坪が解放されれば、進駐軍の上陸作戦は途端に危うくなる。 「動かせる艦隊があればそうするんだけどね」 「……無いのですか?」 「艦隊ならあるさ。  近場では江ノ島の高速艦隊とか」 「ならそれを――」  …………………………………………。  〈江ノ島〉《・・・》? 「ちょっと前に〈わけわからんアクシデント〉《・・・・・・・・・・・・》で壊滅しちゃっててねー。江ノ島の艦隊。  復旧がまだ済んでないんだわ」 「だもんで救援に行かせるのは無理なの」 「…………そうですか」 「他にも艦隊はあるけどね。  横浜・横須賀艦隊に対抗できそうな規模となると……房総半島南部の駐留艦隊が筆頭かな」 「そちらは?」 「動かすのはとても簡単。  でも」 「……それを動かして消耗させてしまったら、太平洋方面が丸きり無防備になるでしょう」 「つーこと」  そうか。  進駐軍――連盟軍の戦力は、横浜・横須賀両基地にあるだけで全てではない。  南洋から、あるいは大陸から、来援は幾らでも押し寄せてくる可能性がある。  それに備えるための艦隊を、相模湾に引き込む事はできない……。 「基本方針はこの普陀楽で敵を迎え撃つ、ということでよろしゅうござるかな」 「はい」 「消去法の選択だけどな」 「では、我が方の戦力配置を確認いたそう。  まず――」  古河公方主導の談義を耳で聴きつつ。  俺は普陀楽の軍事力に関する知識を反芻した。  第一は普陀楽城衆。  普陀楽城主直轄の軍団だ。現在は足利四郎邦氏隷下となる……が、彼はまだ一軍の指揮に耐える年齢ではないため、宿老遊佐童心が実務を代行している。  第二は古河領衆。  古河公方府の軍兵から一部を割いて普陀楽城に駐留させているものである。指揮は当然古河公方遊佐童心、又はその代理の者が執る。  第三は小弓領衆。  小弓公方府よりの派遣軍である。他の公方府よりも比較的早く普陀楽城へ兵力を送れる環境にあるため、規模も他の派遣軍よりやや大きい。  第四、堀越領衆。  堀越公方府の派遣軍であり、指揮権は茶々丸が持つ。堀越の富裕な財政を反映してか兵站の面で優れ、しばしば他部隊にやっかまれる――今はどうでもいいが。  第五は篠川領衆。  大鳥獅子吼の指揮下、六波羅最精鋭と謳われる会津篠川軍団より分かれて普陀楽に詰める将兵である。  この五つの軍集団が普陀楽の常駐戦力を構成する。  これは六波羅の中央軍であり、関東地方に存在する軍事力として最大のものだ。  が――それでも、独力ではGHQに拮抗しかねる。  互角に戦うには地方軍の来援を得なくてはならない。  つまりは古河、小弓、篠川、堀越。  この関東四公方からの援軍が必要である……。 「古河への指令は先刻出しており申す。  とは、いえ」 「まず無駄でござろうの」 「麿の小弓にも伝えていますけれど……  ええ。期待はできませんわね」 「古河と小弓は位置が悪いからな。  GHQの参謀にまともな頭があれば、手は打ってる」 「小弓なんて今頃はもう小坪港と似たようなことになってんじゃねーの?」 「まぁ……そうでしょうね」 「残るは堀越と篠川でござるが」 「〈堀越軍〉《あてのとこ》にもあんまし期待すんな。  万単位の兵力をすぐさま鎌倉まで寄越せるような環境じゃねえんだよ、今」 「普通に考えて、〈進駐軍〉《あっち》に東海道を塞がれる方が早い」 「……なんかやたらと岡部の反乱が祟るわね」 「そればっかが理由じゃないけどな」 「となると、やはり」 「頼みになるのは獅子吼だけってこった」 「…………そうね」  大鳥獅子吼の篠川公方府軍。  普陀楽の中央軍に次ぐ規模と実力を有する、最大の地方軍である。  これが普陀楽に到着すれば、六波羅とGHQの戦力比は五分に大きく近付くだろう。    しかし、それには条件が一つあった。 「獅子吼が会津にたどり着いて、それから軍をまとめて……こっちへ引っ返してくるのに何日掛かるかだ」 「…………」 「どう考えても、三日じゃ無理だよなァ」 「それに……  古河公方府がいつまで健在でいるか」  そう。  古河公方府を押さえるため、進駐軍の一部がそちらへ向かっているのはまず間違いない。  古河が陥ちれば、篠川軍は鎌倉への道を失う。  普陀楽は孤立する。  ……その時点で、敗北はほぼ確定するだろう。 «〈天台山〉《てんだいさん》監視塔より防空本部!  未確認飛行物体接近!» «退去勧告には反応なし。  適切な対処を乞う!» «波長から物体は飛行艦と推定される。  防空本部、対処を乞う!» «隊長、二時の方向です!» «……あれか» «――〝〈空の要塞〉《ガレーキープ》〟!!» «こ、これが世界最大の飛行艦か……» «GHQめ。本気だな。  本気で六波羅を潰しに来やがった» «どうしますか、隊長!?» «敵騎はあれだけか?» «はッ、一隻のみです。  付近に他の反応はありません» «……もっとも、あいつの腹に竜騎兵の群れが詰まっていないとは思えませんが» «まともに戦うのは無謀だな。  しかし、あんなものを普陀楽城に近づけるわけにはいかん» «一撃離脱の繰り返しで足を止めるぞ。  増援が来るまで何としても粘れ!» «了解!» «――――何ッッ!?» «こっ……こいつら、何処から!?» «こいつ――糞、あれかッッ» «〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》!!» 「全方面、予定の配置を完了しました。  現時点での損害は〈皆無〉《ゼロ》です」 「良し……」 「夜明けと共に攻撃開始だ。  市街地を巻き込まないよう、前線の将兵に注意を徹底しておけ」 「我々が悪者になっては何の意味もないからな」 「わかっています」 «こちら小弓公方府!  現在、内湾を制圧した進駐軍艦隊により、砲撃を受けている……!» «出撃は不可能!» «こちら古河公方府。  進駐軍は当方の防空網を突破、公方府上空へ侵入し爆撃を開始している» «現在、航空優勢は敵軍に有り。  敵は空爆によって公方府の防衛能力を剥奪したのち、接近中の陸上戦力をもって攻撃を行う模様である» «当方、普陀楽へ支援の兵を派遣し得る状況にあらず!» 「〈防御点〉《バンカー》、砲台、ほぼ沈黙しました。  水際障害物も所要範囲の駆逐は完了!」 「よろしい。〈戦車揚陸艦〉《LST》を出せ。  〈竜騎兵〉《ドラグーン》は降下させろ。残存ポイントの制圧だ」 「はっ」 「上陸を開始する!!」 «金沢街道、朝比奈峠関門!  現在、進駐軍による攻撃を受けている!» «至急来援を乞う!» «至急 「おーおー。  派手にやりやがる」 「屈辱ね……。  こんなにもあっさりと、普陀楽の空を押さえられるなんて!」 「〈隠形竜騎兵〉《しんへいき》の特性を生かした奇襲で防空網を突破してきたみたいだからな、連中。  どっしょもねえわ」 「〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》か。  存在はむろん知っておったが……」 「これだけの、まとまった数を進駐軍が用意していたというのはちと予想外でしたのう」 「ええ――」 「――ああ、もう!  それにしてもこちらの竜騎兵は不甲斐ないったらないわね!」 「いつまで〈大型飛行艦〉《あんなもの》を頭の上に居座らせておく気なのよッ!」 「仕方ねえだろ。  最初から上を取られてる状況での勝負じゃ、どうしたってこっちが不利だ」 「おまけにあの〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》、いるのがわかっててもうっかりしてると見逃しちまうくらい〈探査機能〉《レーダー》への反応が悪いらしいかんな」 「それにしたって……  ああ、じれったい!」 「麿が出るわ!!」 「ってさ。  どうする、童心坊?」 「……さようでござるな。  こちらもようやく態勢が整ったところ」 「我らが先頭に立ち、兵を動かすといたそう。  よろしゅうござるか?」 「あいよ」 「勿論です!」 「敵は七里ヶ浜及び由比ヶ浜を強襲。  空爆と艦砲射撃によって砲台を沈黙させた後、揚陸艦を押し立てて上陸を実行した模様でござる」 「短時間の戦闘でこちらの湾岸防衛は壊滅」 「七里ヶ浜より上陸せし軍集団は藤沢街道を北上。  由比ヶ浜より上陸の部隊は若宮大路を抜け、鎌倉街道へ出て普陀楽を目指すようでござる」 「……若宮大路を抜けてくるのか?  鎌倉の市街地中央突破じゃねーか」 「奴ら、市民に憎まれても大和を分捕るってとこまで開き直ったのかよ」 「いやいや、さにあらず。  進駐軍はまず竜騎兵を先行させて若宮大路を確保」 「その間に本隊を進め、一気に大路を〈埋めて〉《・・・》しまった様子。  となれば、兵や装甲車でぎっしりの大路に好んで近付く市民もおらず……」 「結果的に市民の被害は出ており申さぬ。  先行した竜騎兵による市民への外出自粛の呼び掛けと通行止めの措置も功を奏したのでござろう」 「……ムカつくくらい手際のいいやっちゃな」 「二つの軍集団は間もなく普陀楽外縁に来襲。  そしてこれとは別にもう一つの軍集団が、先刻朝比奈峠を突破……金沢街道より鎌倉を襲うつもりらしゅうござる」 「こいつは後詰だな。  鎌倉の占領と補給線の確保のための軍だろ」 「そうね。  とりあえず、これは考えなくていいわ」 「問題は、すぐに来る二つ」 「大船口と藤沢口か」 「うむ。  さて、如何いたそうか……」 「童心様は本丸にお留まり下さい。  普陀楽城衆を指揮して防空をお願いします」 「麿は小弓領衆を率いて大船方面へ向かいましょう」 「なら、あてと堀越領衆は藤沢口か。  古河と篠川の領衆は予備」 「ええ。  童心様、いかが?」 「……よろしゅうござる。  御二方、お頼みいたしますぞ」 「難儀な役目でござるが」 「お任せ下さい。  お父様の築かれた城を夷狄の手に渡したりするものですか!」 「ふふーん」 「……何よ?」 「いや。  なんか雷蝶さん、生き生きしてきたなーと思って」 「おめーやっぱり、こっちのが向いてんじゃねえの?  セージだのインボーだのより、単純明快なわっかりやすいセンソーの方がさ」 「……………………」 「そうね。  そうかもしれないわ」 「ふっふぅ……」 「よしよし。  あても張り切るとしよっかね」 「方針はこんな感じでいいのか?  獅子吼が戻るまで城を支える。で、援軍が来たら反攻――」 「攻城軍を蹴散らして横浜を討つ」 「……いいんじゃない?  そうしてしまえば、こちらの勝ちよ」 「で、ござるの。  その方針でよろしかろうと存ずる」 「あぁ」 (……ま、そこまでやる必要はないんだけど)  俺にだけ聴こえる声で、茶々丸は続けた。 (相手が相手だ。  そこまでやる気で戦って、やっとこ〈対等〉《まとも》な勝負になるかどうかってとこだと思うよ) (……そうだな)  国際連盟大和進駐軍。  まず兵力で六波羅に勝り、竜騎兵を除くほぼ全ての兵科において装備面でも優越する――  大敵である。 «鎌倉市民の皆様。  我々進駐軍は、皆様に危害を加える意図は一切ありません» «我々はあなた方を解放します» «六波羅幕府は、国際統和共栄連盟の承認を受けた正当な政府ではありません。  軍事力を背景にあなた方を支配し苦しめている、不当な収奪集団です» «我々大和進駐軍は六波羅を排除し、あなた方の正当な権利を回復します……» «市民の皆様、巡回中の兵士の指示に従って下さい。  外出を控え、自宅、勤務地、最寄の店舗等で待機して下さい» «外出されますと、戦闘に巻き込まれる恐れがあります。  外出は控えて下さい» «市民の皆様のご協力を頂ければ、進駐軍は鎌倉市の安全を間違いなく確保いたします。  六波羅との戦闘は普陀楽城の周辺のみで、ごく短期間の内に終結するでしょう» «皆様、しばらくのご辛抱をお願いします。  市民の皆様、ご協力をお願いします» «食料等、生活必需品が不足している場合は、巡回の兵士にお申し付け下さい。  必要分を配給いたします……» 「あれは海岸から上がって来た軍集団とは別ですね」 「横浜から、陸路で直接来た連中かな?」 「おそらく」 「数は少ないようやけど。  装備も軽そうな感じやね」 「市民の動揺を鎮めるための宣撫班だけ先に寄越したのでしょう。  後から本隊が来るのでは」 「鎌倉は占領されるか……」 「大した手際ですよ。  余程に綿密な計画を立て、何処かで訓練も積んでいたに違いありません」 「市民との衝突は巧妙に避けられているようです」 「そうか。ま、それは何よりや。  けど……」 「えらいことになったねえ」 「全くです。  お陰で救われもしましたが……」 「喜んでもいられんなァ」 「はい」 「署の方はええんか?」 「先程、使いをやりました。  進駐軍の指示に従うよう」 「何か厄介な協力を求められた場合は、私の不在を盾にしてうまく返事を引き延ばせとも言ってあります」 「そらええな」 「…………」 「菊池ぃ」 「はい」 「始まってもうたね……」 「……ええ。残念ながら」 「開戦だけは避けたかったんやけど」 「今はもう、仕方ありません。  状況は状況として受け入れましょう」 「その上で、最善を尽くすのみです」 「そやな。  昔、戦場でもそうしとったもんな」 「はい」 「連中、わしんとこにも来るかな」 「来るでしょう。  向こうの要望を予測し、対応を考えておかなくてはなりません」 「うん……。  ところで」 「黒瀬童子と、一条さんはどうしてる?」 「奥で治療を受けています。  二人とも武者ですから、そう時間は掛けず回復するでしょう」 「そか、ならええ。  で」 「はい?」 「……村正の姉ちゃんは?」 「…………」  迷ったが、結局は人型で行動することに決めた。  蜘蛛の姿の方が隠形術には優れる。  しかし武者の感覚まで騙し切れるものではないし、そうして発見された場合、今の情勢下では問答無用で撃墜されてしまいかねない。  甲鉄造りの蜘蛛が自分は民間人だと言い張っても、耳を貸す者はいないだろう。 (御堂は……)  普陀楽の城へ戻ったはずだった。  何やらこの鎌倉を――この関東を? この大和を?――包む状況が劇的な変化に晒されているらしい。  建朝寺を囲んだ幕府の一団は、潮が引くように去り、去るに際して寺の面々を捕らえる手間さえ惜しんだ。  助かったといえば、助かったのだが。    ……私としては何も解決していない。  景明を追わなくてはならなかった。  追い――彼の劒冑として、すべきことをせねばならない。  大通りを避け、路地の狭間から狭間へ移る。  今、鎌倉を埋め尽くしつつある集団――進駐軍とか呼ばれている、大和人ではなく蝦夷でもない異国人の軍勢――は、どうやら民衆を家に閉じ込めておきたいらしい。繰り返される放送がそう告げている。  見つかると、面白くないことになりそうだった。  この蝦夷の姿ならいきなり攻撃されることもないだろうが、さりとて見逃してもらえるとも思えない。  拘束されるのは避けられまいし、そうなっては困る。  隙を見て抜け出すにしても、歴とした軍隊が相手では余りに危険が大き過ぎる。  細心の注意を払って見つからないよう心掛けるに、〈如〉《し》くはなかった。 (これは……〈小袋谷川〉《こぶくろやがわ》ね)  道路の傍らにさほど広くもない川が流れているのを見て、脳裏の地図と突き合わせる。  この町中は幾度も駆け巡ったから、そう迷うこともなかった。  普陀楽城の外周を覆う、〈柏尾川〉《かしおがわ》の支流だ。  ここにこれがあるということは……もう近い。  足に鞭を入れて、走る。 「……ッッ」  そして、私は立ち〈竦〉《すく》んだ。  普陀楽城――  それはもう目前。そこに見えている。目と鼻の先だ。  物理の上での距離はほんのわずか。  けれど。  〈現実〉《・・》の上での距離は、果てしなかった。  銃を構えた歩兵の隊列。  筒先を揃えて火を吹く砲門群。  突進の機を待ち構える鉄の車両。  それらに向けて放たれる、城壁からの射撃、砲撃。  噴煙たなびく先の空を見れば、両陣の武者が自在に舞い、剣を交えては打ち離れ、離れてはまた打ち交え。  鉄火の響きと輝きを儚く散らし、命を一つまた一つと、その繚乱の渦へ沈めてゆく。  柏尾川の〈面〉《おも》は早くも、〈朱〉《あけ》の〈彩〉《いろ》を加えられつつあった。 「……〈戦争〉《いくさ》……」  始まっている。  異国の大軍と、  景明のいる、六波羅幕府の軍勢との戦争が。  ――もう、始まってしまっていた。  藤沢方面に押し寄せた攻城軍は、〈定石〉《セオリー》に対してごく忠実であった。  まず遠距離砲撃と竜騎兵による空爆とで攻め立て、防御火力を弱らせたところで機甲部隊を前へ出す。  しかしこちらも、大和戦史上随一を豪語して憚らぬ普陀楽城塞である。  爆撃の合間に態勢を回復するや、砲塁から十字砲火を浴びせ掛け、敵の前進を押し戻す。  一進一退の攻防が、時につれて激しさを増しながら続いていた。 「……堀越領衆はいい働きをするな」 「そう見える?」 「実戦から六年以上離れていた軍とは思えん」 「あー、それは当たり前かな。  大戦終わってから六年、ヒマしてたやつらばっかじゃないしね」 「……そうか。  反乱が幾度もあったのだから、鎮圧の経験もあって当然か」 「それもだけど。  どっちかってーと、その逆」 「逆……?」 「先代の堀越公方に刃向かって投獄されたり放逐されたりしてた連中が、尉官クラスには多いんだ。  あてが先代ぶっ殺した後で駆り集めたから」 「連中にしてみれば、大軍相手の絶望的戦闘なんて、今が初めてじゃないってわけ」 「…………成程」  そんな修羅場上がりどもが中尉大尉の立場で最前線の指揮を担っているのなら、兵に動揺の気配があまり見受けられないのも頷ける。  下級指揮官の性質は兵に色濃く反映するものだ。 「ただ――良くやってはいるが」  俺は身分差を無視した口調で話を続けた。  周囲には無論ほかの幕僚もいるが、どうせ戦場からの交響曲で良く聴こえまいし、聴こえたとしてもこの状況で追及する余裕はない。気にすることもなかった。 「〈上空〉《うえ》の様子がまずい」 「うん……」 「このままでは、いずれこちらの航空戦力が壊滅する」 「全くその通りなんだけどさ」  とっくに考えていた事なのだろう。  茶々丸は悩ましげに、こめかみを掻いた。 「現状、打開策が無いのよね」 「全く、か?」 「〈あれ〉《・・》がいる限りどーにもならんわ」  言って茶々丸が指差したのは、頭上遥かに鎮座する飛行艦だった。  単なる飛行船、単なる軍用飛行艦ではない。  世界最大の飛翔する船である。  ガレーキープ級重飛行艦。  その巨躯に比例して爆弾積載量も最大、竜騎兵母艦としての機能もまた同様を誇る。  まさしく空飛ぶ要塞だ。 「あれが基地の役目を果たすから、敵さんの竜騎兵は高度優勢を確保したまんま何度でも攻めて来られる。  こっちはいくら撃退してもきりがない」 「戦力を集中して〈城攻め〉《・・・》をやろうとすれば、あの〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》が出てきて引っ掻き回すしな」 「…………」 「本当に手詰まりだな」 「手詰まりっす。  立ち上がりの遅れはほんと致命的ですよー、現代戦だと」 「航空戦の〈損害比〉《キルレシオ》は一対四くらいか?」 「もっと酷いかも」 「…………。  打開策とは言い難いが」 「あい?」 「こちらの竜騎兵を全て下ろしてはどうだ?」 「……分の悪い勝負はやめて航空戦力を保全する?  そら、一つの選択だけど」 「それやると、ここの防衛線を維持できなくなるよ」 「空の〈でかぶつ〉《・・・・》が竜騎兵母艦としてだけではなく、爆撃艦としても働き始めると?」 「うん。  こっちが竜騎兵を下げたら、やらない理由がないっしょ」  強襲爆撃という戦術がある。  護衛竜騎兵に身辺を守らせながら飛行艦が低空まで降下、敵陣に対して高精度の爆撃を行うというものだ。  成功すれば戦果は大きいが、敵の竜騎兵による攻撃や地上からの対空射撃を食らって飛行艦が沈められる危険もまた大きい。  行う側にも決断の要る戦法である。  こちらが竜騎兵を下げれば、敵が強襲爆撃を行うに当たっての危険を減らしてやる事になるだろう。  茶々丸の懸念は理解できた。 「尤もだ。  が、今回に限って言えば〈理由〉《・・》はある」 「……え? どんな?」 「忘れたか。  〈進駐軍〉《やつら》の目的は何だ?」 「戦力で優るにも関わらずさっさと開戦せず、六年もの時間を費やしたのは何故だ?」 「――――」 「あ」  堀越公方は、平手で自分の額を打った。 「……いけね。  頭が戦争バカになってたや」 「そうだ。  奴らは戦争に勝った後の事を考えている」 「市民を敵に回さず、彼らの支持のもと統治するためにはどうすれば良いのかをだ」 「……普陀楽の中心部ならともかく、外縁部への爆撃は被害が周辺地域にも及ぶ危険性が高いな。  味方の軍は下げりゃいいだけの話だが」 「土地をどかすわけにゃいかねえ。  で、この藤沢口は普陀楽の外縁でも比較的市街地に近い」 「住民は既に避難させているだろうが……  逃げ遅れもいるだろうし、まだ避難していない地区まで飛び火する事もあろうし、例え無人でも市街地を破壊するのは心象が悪い」 「戦後の統治に支障をきたす」 「となれば、やらねえわな。  少なくとも〈自分〉《てめー》らが圧倒的に有利で、そこまでせんでも勝てるって思ってるうちは」 「ああ。  大体、空の戦闘の優劣がこれだけはっきりしているのだ。強襲爆撃をやる気があれば、とっくにやっている」 「ごもっとも。  ……ちっ、判断が遅れちまった」 「この遅れで何人無駄に死んだかな」 「…………」 「貴重な戦力だ。今からでも大事にせんとね。  ありがと、お兄さん」 「ああ……」  茶々丸は幕僚を呼び寄せ、手短に指示を下した。  命じられた側は初め驚いたものの、すぐ呑み込んだらしく、指示を実行に移すため慌しく散ってゆく。  通信兵の叫びと駆け回る伝令兵の足音とで、周囲の喧騒は俄かに厚みを増した。 「ただ何にしろ、竜騎兵を引き上げちまうと、こっちはだいぶ苦しくなるね。  飛行艦での爆撃は無くても、〈爆装竜騎兵〉《ファイアードラコ》は大挙しておいでなさるだろうし」 「航空戦力を保持しておく方が重要だろう」 「そいつは間違いない。  あと気をつけておかなきゃならんのは……降下襲撃か」 「〈制陸戦用竜騎兵〉《グラップラー》?」 「うん。高射砲であの降下猟兵どもの侵入を阻止できるとは思えんから。  下ろした竜騎兵に応戦の用意をさせておく必要があるな」 「それも不利な勝負だが……  損害比一対四より酷くなる事はあるまい」 「こっちの土俵でこっちの得意な喧嘩になるからね。  多少の不利はどーってことない」  俺と茶々丸が話す間にも、戦況は進展してゆく。  銃火が交わされ、刀剣が打ち合わされ――  人が死ぬ。  ひたすらに死んでゆく。  際限もなく死んでゆく。  生命の価値は塵芥であった。  誰がそれに対して否定の叫びを上げようと、事実、塵となり芥となって失われてゆく生命の前には無力であった。  ここは戦場。  戦場という世界なのだ。 «風向きが少し変わったわね?» «堀越軍の竜騎兵隊が地上へ降りたようです。  航空戦を諦めたのでしょうか?» «……なるほど。  それはそれで悪くない判断よ» «でも麿には麿のやり方があるわ!  わかっているわね? おまえ達» «はァッ!!  誰よりも強く誰よりも美しい雷蝶様!!» «御供いたします!!» 「ううむ……  圧倒的だな、我が軍は!」 「こうも一方的な戦争では手柄の立てようがない。  我が愛艦を頼もしくも疎ましい〈浮遊城塞〉《ガレーキープ》の引き立て役で終わらせたくないものだが……」 「艦長、もう少し高度を上げた方がよろしいかと。  竜騎兵の交戦圏に近過ぎます」 「近いから、何だと言うのだ。  六波羅の竜騎兵が我が軍の布陣を突破してここまで来られるわけでもなかろう」 「この形勢だ」 「いえ……  一部、激しい抵抗を見せている敵騎集団もあります」 「……ほう?  それは面白い」 「面構えを見てやろう。  前進する!」 「艦長!」 「ほ――本当に来やがったァ!」 「先頭の騎士……  あれは〈真打劒冑〉《ブラッドクルス》か」 「おい情担、識別してみろ」 「そんなことより艦長、後退を――」 「出ました。  ……えぇっ!?」 「どうした?」 「いっ、今川雷蝶中将です!  間違いありません」 「あれは六波羅四将軍の一人!!」 「――――」 「ほーぉぉ……?」 「艦長、後退――」 「将軍の身で最前線に立つだと?  勇敢と言ってやりたいが……愚将だな」 「いや、感謝せねばならんか!  願ってもない手柄が舞い込んで来たぞ!」 「危険です!  今川雷蝶といえば、六波羅最強の武人!!」 「最強だろうが無敵だろうが、一騎の力など高が知れているのだよ。  護衛は……ふん、ほんの数騎か」 「副長、怯える前に計算してみたらどうだ?  敵は何騎で、我が艦内には何騎の竜騎兵が搭乗していて、戦えば勝つのはどちらか?」 「しかし……」 「艦載竜騎兵に命令!  全騎出撃だ!」 「大功を逃すな!!」 «――かぎりあれば、  吹かねど花は散るものを» «心みじかき……春の山風» 「――な」 「なん、だ……とォ?」 「く、来る……  艦長、来ますよ!」 「…………」 「おいっ!  クソ、どうにかしろよっ、あんた!」 「あんたがバカだからこんなことに――」 「日暮れか。  流石に一日では陥ちんな……」 「六波羅は強兵ですよ。  それにこちらの態勢も完璧ではありませんでしたしね」 「今日のところは、小弓を沈めただけで良しとしておくべきでしょう」 「ああ」 「現状を確認します」 「〈第一軍団〉《オーサムクイン》は鎌倉市に進駐」 「〈第二軍団〉《ハイオワサ》は藤沢方面より普陀楽城を攻撃中。  〈第三軍団〉《タイエンダネギア》は大船方面より普陀楽城を攻撃中」 「〈第四軍団〉《ワウンスナコック》は小弓公方府を制圧。  〈第五軍団〉《サカ・ガェア》は古河公方府を攻撃中」 「艦隊は相模湾をほぼ制圧、幕府艦隊を牽制しつつ物資の輸送を行っています」 「うむ……」 「〈第二、第三軍団〉《ハイオワサ、タイエンダネギア》に攻撃中止を命じて宜しいですか、閣下?  夜が訪れる前に兵を退かせ、夜営の準備を整える必要があります」 「艦隊に収容できる限りはしたいですから、その意味でも急いだ方が良いですね。  日が落ちてからでは事故の危険が増します」 「……夜間も攻撃を続行する選択はないか?  中佐」 「それは多くの意味で危険です。  夜戦を支障なく行えるほど我が軍の兵士は地理を把握していないのが一つ、大和軍人は伝統的に夜戦を得意としているのが一つ」 「誤って市街地を攻撃してしまう恐れもあるのが一つ」 「……そうだな」 「わかったよ、キャノン。  焦らないことにしよう」 「まだ始まったばかりですからね」 「だが、敵が夜襲してくる可能性もある。  警戒は徹底させておいてくれ」 「はい」 「ただ……ウィロー少将。  古河方面は別ですよ」 「ああ。  わかっているとも」 「古河は六波羅の生命線……。  裏を返せば、我々の勝負所だ」 「古河を奪えば普陀楽を孤立させられます」 「夜間戦闘用装備はあちらへ優先的に回しているんだな?」 「勿論です。  それでも相当の被害を覚悟しなくてはなりませんが……」 「最終的な帳尻は合うさ。  古河で支払う犠牲には大いに意味がある」 「ええ」 「〈第四軍団〉《ワウンスナコック》も古河の応援に向かわせてくれ」 「了解です、閣下」  ひとまずのところ、普陀楽城は健在であった。  進駐軍は日没に合わせて攻撃を停止し、海岸方面へ撤収していった。  堀越領衆の幕僚団からは追撃の意見具申もあったが、おそらく一種の〈景気付け〉《・・・・》のようなもので、本当は誰もそんな事ができるなどと考えてはいなかったろう。  藤沢口守備隊の死傷率は一割を超えている。  深刻な被害と言わざるを得なかった。 「……?  どったの、お兄さん」 「いや……」  ふと足を止める。  茶々丸が訝しげに問うてきた。  俺は外の慌しい動きに目を引かれていた。  担架で運ばれる負傷者。  搬送手段を待っていられなかったのか、僚友に背負われて医療所へ向かう片足の無い兵士。  担架で運ばれる〈動かないもの〉《・・・・・・》。  道端に放置されている、やはりもう動かない何か。誰もが気付かず、あるいは誰もが気付きながら、彼はそこに捨て置かれている……。 「死んでいるな」  わかり切った事実を、俺は口にした。 「死臭がする。  あちらこちらから」 「城の空気が死に澱んできた。  馴染みの空気だ」 「吐き気がする……」 「そうだね」  茶々丸は〈微笑〉《わら》った。  少女らしく微笑んで、俺の耳元に囁いた。 「けど、こんなものじゃない。  まだまだ死ぬ」 「死に続ける」 「……最後には、〈みんな〉《・・・》」 「…………」 「小弓御所は陥ちた様子でござる。  先刻、急報があり申した」 「……そうですか」 「童心様、申し訳ございません。  小弓を預かる公方としてお詫びいたします」 「いやいや、頭などお下げになるな。  小弓の件は致し方なき事。雷蝶殿は普陀楽で奮闘しておられたのだからのう」 「進駐軍に先手を打たれたら小弓はあっさり陥ちるって、最初からわかってたじゃねえか。  攻めるにはいいけど守るにはてんで不向きだからな、あそこ」 「さようさよう。  雷蝶殿、気に病まれてはなりませぬぞ。今は目の前の敵に集中せねば」 「……ええ……」 「童心坊主、獅子吼からの連絡はあった?」 「ござらぬ。  敵の信号妨害が特に北東方面は厳しいようでござっての」 「そーかぁ……。  まぁいいや。どうせまだ篠川領に入ったかどうかってところだろうしな」 「あと二日……  いや三日は耐えねばなりますまい」 「三日と見ても、厳しいところだな。  二重の意味で」 「三日で獅子吼が援軍に来られるか。  あと三日、普陀楽を守り抜けるか」 「……ということ?」 「うん」 「そうね……」 「大船口の小弓、藤沢口の堀越、両御領衆の状況は如何でござる?」 「あまり明るくはありません」 「うちも。  今日一日でガリガリ削られましたよ」 「予備隊を一部回してくれない?  でないと明日はもう保たねえわ」 「承知いたした。  後程、取り計らいましょうぞ」 「…………。  陸の上は退いたが、空からの爆撃は夜通しやるつもりらしいな」 「闇の中の盲撃ちでも、城の中心部を狙って落とせば何処かには当たるからのう。  直接の戦果はさほど期待できずとも、我らの眠りを妨げるだけで充分に意味はあり申す」 「迷惑な話だ。  ちっとは手ぇ抜けよ」 「向こうに聴こえるように言ったら?」 「お願いしろってか。  それでオッケーもらえるようなら最初から戦争なんてやってねえよ、あてら」 「ふっふぅ……まったくまったく。  それよりはましな思案がひとつござるが、お聞き頂けますかな」 「何でしょう?」 「や、なに。  やられっ放しでいるのもつまらなかろうと、それだけのことでござるよ」 「…………そりゃ上等だ。  でも、どの兵を動かす?」 「〈堀越領衆〉《こっち》にはそんな余裕ねーぞ。  予備隊か?」 「いやいや。  予備隊は慎重に使わねばなりますまい」 「もっと適した者どもがおり申す」 「……あぁ。そうか。  いたな」 「――――」  茶々丸が背後の俺を――いや、俺の更に後方を流し見る。  俺も予感するものがあって、同時にそちらへ視線を投げていた。  ……音もなく、風も揺らさず。  その男はいつからか、そこに控えていたようだ。 「頼めるかな、常闇斎?」 「無論の事でございます。  しからば、直ちに」 「交代かい?」 「ああ。お疲れ」 「本当に疲れたよ。  やっと眠れるのか」 「大和人に夜襲してくる元気があるわけないのにな……昼間あれだけ叩いてやったんだ。  今頃は逃げる支度でもしてるに決まってる。歩哨なんて本当はいなくたって平気なんだ」 「それでも夜営地に見張りを立てないなんて考えられないさ」 「わかってるよ。  じゃあ、後はよろしくな」 「うん。  ゆっくり休め」 「……おい」 「だからってそんな所で寝るなよ」 「――――」 「しょうがない奴だな。  そんなに疲れてたのか……」 「おい、起きろって。  ………………………………」 「え?  何だ、これ」 「喉に……〈短刀〉《ナイフ》?」 「――――――」 「だっ……誰――」 「六波羅厩衆」 「〈火〉《ヒ》」 「〈肯〉《ウム》」 「頭領、見えました。  敵の夜営地と思われる辺りに火の手が」 「結構です。  曲射砲に伝えなさい」 「あの火を撃てと」 「はッ!」 「これで幾らかの意趣返しにはなるでしょう」 「……時間は……  さて、どの程度稼げるか……」 「入道様!  敵が再び攻撃を開始したとのことです!」 「ふ、ふっ、ふぅ。  夜明けと共に来るかと思っておれば、随分〈ゆっくり〉《・・・・》だのう……?」 「昨夜の薬が効いたかな。  何でもやってみるものよ」 「……あのぅ。  こんな質問を、どうかお許し下さい」 「六波羅は、勝ちますか?」 「……うむ……。  そなたやそなたの姉のためにも、勝たねばなるまいのう」 「入道様」 「閣下!  遊佐中将閣下!」 「あっ、無礼者!」 「御容赦!  古河よりの急報なれば!」 「古河よりの……最終連絡であります!!」 「――――」 「……何ですって?」 「はっはー。  どうも昨日の勢いがねえな、〈女王騎士団〉《クィーンズアーミー》」 「お兄さんもそう思わない?」 「確かに。  厩衆の攪乱は進駐軍の夜間空爆におさおさ劣らぬ成果を上げたようだ」 「しかもこっちが最初から腹を決めてたのに比べて、あっちは寝耳に水だったろーからね。  いや、寝耳に火か?」 「今日の喧嘩はこっちに分がありそうだ」 「ああ」  今日は一二月一日。  光が目覚める一二月四日まで、この普陀楽城を守り通さなくてはならない。  彼我の戦力差を考えればそれは至難だ。  しかし、この調子で戦場の時間が過ぎてゆくなら、案外と簡単に事は済んでしまうかもしれない。  四日まで戦い、当座の物資をすべて使い尽くしてもなお六波羅を滅ぼせないなら、進駐軍は最後の武器に頼る以外の選択を失うだろう。  茶々丸、ウォルフ――緑龍会の望む通りに。 「……?  敵の前線が下がってる?」 「見るからに士気が低いからな。  もう少しましな部隊に替えるのではないか」 「見切りが早いな。  ま、向こうは兵力余ってるしねー」 「今のうちにこちらも負傷者の搬送や補給を済ませるべきだろう」 「うい」 «テス、テス、テス» «……六波羅のみなさん» «六波羅のみなさん»  銃声が途絶えた戦場に、代わって響き渡ったのは、進駐軍側から放たれる拡声器を介した呼びかけだった。  声は大和人ではないが、大和語を上手く操っている。 「……何だぁ?」 「降伏勧告でもする気か」 「あー。定番だね。  でも時機を外してるよな」 「てめーらがもっと元気な時にやりゃいいのに」 「同感だな」  果たして拡声器の告げる内容は予想に違わなかった。  降伏を勧める声が、堀越領衆の頭上に被さる。  だが、露骨な反応を見せる兵はいない。  嘲笑い、かえって勢いづく者が大半だった。 «六波羅のみなさん。  武器を捨てて、降伏しなさい» «私達はあなた達を許します。  罪人扱いはしません» 「そりゃありがたいこって」 «降伏しなさい。  六波羅のみなさん» «戦い続けても、あなた達は負けます。  降伏しなければ、死んでしまいます» 「そーかよ……」 «勝つのは、私達です。  今日の朝、古河の城は、私達のものになりました» «あなた達に援軍はありません。  あなた達は、勝てません» 「――――何だと……?」 「……ッッ……」 «古河の城は、落ちました» «篠川の軍隊は、もうここに来られません。  古河にいる私達の仲間が通しません» «あなた達に援軍は来ないのです» «降伏しなさい» 「いかん……」 「くそ!  おいっ!」 「はッ!」 「各隊に伝令を走らせろ!  通信じゃねえ、伝令だ!」 「古河は健在。来援は間近。  敵の虚報に踊らされるな」 「――って、触れて回れ!!」 「了解!」 「…………」 「……」 (……実際のところ、どう思っている?)  俺は付近に誰もいないのを確認してから、茶々丸の耳元に囁いた。 (本当に進駐軍の捏造だと思うか?) (そうならいいとは、本気で思ってるけど。  ……判断はお兄さんと同じかな) (進駐軍が損害無視で古河を夜通し攻撃していたとすれば、今朝陥落ってのは、おかしな話じゃない) (妥当なところか……) (うん。  多分、古河は……本当に陥ちた……)  古河の失陥。    それは、篠川からの援軍が道を閉ざされた事を意味する。  つまり、普陀楽城は完全に孤立し……  六波羅の敗北が至近に迫った事を意味するのだ。 「…………」 「諦めねえ」 「諦めねえぞ。畜生」  運命そのものを射殺す視線で、茶々丸が前方を睨む。  降伏を促す声は、既に聴こえない。  いま轟き渡るのは喊声だった。  別人のように意気を回復した攻城軍が、怒濤と化し、再び押し寄せて来ようとしている……。 「……進駐軍が、古河を奪った?」 「は」 「確かなん?」 「こちらに入っているのは噂だけです。  確実な裏付けはありません」 「ただ、状況証拠と呼べるものなら」 「それはどんな?」 「朝方は篭城側の優勢だったのが、逆転しています」 「……」 「進駐軍は意気軒昂。  対して幕府軍は消沈しているようです」 「そうか……」 「何らかの大きな変化があったのは間違いないところかと」 「……菊池ぃ」 「はい」 「決着……ついてもうたかな?」 「……」 「宮殿下におかれては、進駐軍との交渉方法を考えられたが宜しいかと存じます」 「……うん……」 「捕虜の移送を急げ!  物資の確認もだ!」 「篠川軍の来襲に備えねばならん!」 «地上は慌しいな» «将軍様は生真面目でいらっしゃる。  休む間も惜しんで防衛態勢を整えるつもりのようだ» «付き合わされる方はたまらん» «篠川の指揮官にまともな頭があれば、今頃は白旗の準備を始めているだろう。  攻めてくる気力などあるものか» «全くだな……» «むっ?» «〈未確認騎〉《アンノウン》発見。  ……敵騎だな» «おいおい。予想がさっそく外れたぞ。  篠川の指揮官は狂人か?» «いや、あれは偵察騎だろう。  数も少ない……» «古河の状況を確かめに来たんだ» «なるほど。諦めの悪い奴らだ。  ……隊長、どうします?» «帰してやりましょう。  現実を教えるのはいいプレゼントです» «違いない» «うむ……  だが、融通の利かない将軍に怠慢を責められても敵わん» «ならやっちまいますか。  位置はこっちの優勢です» «そうだな……よし。  一騎だけ残す» «他は狩れ» «了解» «はは……兎狩りだ!» «先行小隊より〈摩天蛟〉《マテンコウ》。  進駐軍の竜騎兵を発見した。指示を乞う» «――――» «了解» «一騎たりとも帰さない» 「何?  警邏の竜騎兵小隊が一つ、音信途絶だと?全騎か?」 「……敵の大軍に襲われて連絡を寄越す間もなく全滅した、はずはないな。  もしそうなら他の警邏隊が動静をつかんでいないのは不自然だ」 「くっ、ということは単なる職務怠慢か!  少し勝つとすぐだらけおって、これだから馬鹿は度し難い……!」  普陀楽城にはやはり近付けなかった。  城を攻めている軍勢の隙間を縫うことからして容易ではない。  城壁を、中の兵に気付かれず越えるのは更に難しい。  夜陰に乗じて忍び込むのも無理だった。  平時ならいざ知らず今は戦時、夜襲を警戒しているため昼間よりも厄介なほど。  有体に言って、手も足も出ない。 (……なんて、弱音を吐いてる場合じゃないのに)  昔、祖父と母とに連れられていくつもの戦場を見て回ったことがある。  だから、何となく情勢は察せられた。  この城は落ちようとしている。  落城の混乱に紛れ込めば、侵入は果たせるだろう。  ……侵入だけなら、簡単に違いない。  しかし、その渦中で一人の人間を探すのは、きっと不可能だ。  荒れ狂う海に落とした針を拾いにゆくのと同じことになる。  城が落ちる前に手立てを考えなくてはならないのだ。  城内に入り、景明と会う手立てを。 「おい、蝦夷の姉ちゃん。  オレと一緒に遊ぼうぜ!」 「ハハハハハ」  外出禁止の指示は緩められている。  自宅への帰宅は許可。何か特別な用事があって外出したい者は巡回の兵士に事情を話して証明書をもらうこと。……という放送が、先刻あった。  彼らが勝ちつつあることと無関係ではあるまい。  ともかくもそのお陰で、町の中での行動はしやすくなっている。 (浮ついてる感じね)  たった今すれ違った兵士の印象を思う。  彼らの使う言語はさっぱりわからないが、顔と口調で大体の意味は察せられた。  勝利を目前にして、気が大きくなっているのだろう。  構ってはいられない。  どうにかして、城へ近付ける所を探さないと――    私は鎌倉の町を走り続けた。  裏通りの小さな十字路を駆け抜けようとして……  足を止める。  左手の方向に、歩行者の後姿が見えていた。  それだけならば、気に留めなかったろう。  格好に変哲はない。普通の町民、普通の男性だ――が、挙措が少々奇態だった。  酩酊しているように、足元がふらふらと覚束ない。右に揺れ左に揺れ、〈爪突〉《つまづ》いたりもする。  ……普段なら本当に酔っ払いだと思い、それきりで思い捨てるところだ。  けれど今は町が軍兵の支配下にある最中。  民衆は〈微酔〉《ほろよい》機嫌で千鳥足に通りを歩けるような立場にはない。  とすると……あれは、一体? (……ちょっと)  声を掛けるべきか迷ううちに、別のものが視界内へ現れていた。    車だ。  この時代の裕福な人々が所有し、町の中や、町と町の間での移動に使うものとは少し違う。  あれは本来、町の中では見ないもの。  軍用の車だ。  屋根の無い型で、異国人の兵士が二人乗っている。  ……通りは狭い。  そこへあの大きな車が入ってきては、歩行者は壁に張り付くようにしなければ避けられないだろう。  といってそれは別に、困難なことでもないはずだが。    よたよたと歩く男は、その容易な行為すらしかねると見えた。  正面から車が接近して来ているのには気付いているらしいが、動作は変わらず鈍い。  やはり酔っているのか。身体が思うままにならない様子だ。  あれでは、車と当たって―――― 「ああ、もう!」  酔漢の世話など焼いている場合ではないのに! 「……あ……」 「あ、じゃないでしょう。  まともに動けもしないなら、こんな状況で出歩いたりしないで」 「家の中でおとなしくしていなさい。  車に轢かれるのが趣味だっていうなら別だけどね」 「車に……?  あぁ、やっぱり僕、轢かれそうになってたのかぁ」 「ありがとうございます。  お姉さん……で、いいんですよね?」 「……?」  違和感を覚えて、私は抱え込む格好になっている彼の顔を覗き込んだ。    そして、何も考えられなくなった。 「――――――――」 「あれ……失敗したかな? おかしいな。  お姉さんは女性向け万能コールサインなのに。年齢的にややアウトな人に使っても問題無いどころかプラス効果という魔法の言葉」 「もしかして壮絶な急展開かなぁ。超人的に女性の声色がうまい男の人ってオチですか?  うーん、できればそういう辛い真実は秘密にしておいて貰えると、心の健康にいいなぁ」 「……稲城、忠保……」 「あ。僕の知り合いの方でしたか?  すいません、ちょっと今〈こんな〉《・・・》なんで……」 「声だけだと良くわからないんです。  ええと、どちら様でしょう?」  私の腕からふらりと離れ、彼はこちらへ向き直った。  といっても、方向はややずれていたが。  無理もない。  目が見えないのだから当然だろう。  彼は目蓋の上に厚く包帯を巻いている。  例えそれが無くとも、彼は視覚を得られないことを、私は知っている。  〈稲城忠保〉《いなぎただやす》。    かつて〝卵〟寄生体〈真改〉《シンカイ》の事件に友人たちと一緒に巻き込まれ、深傷を負った学生だ。  あれからまだ、記憶が風化するほどの歳月は過ぎていない。  見間違いでは、決してなかった。 「お姉さん?」 「……え、あ……  ううん、ごめんなさい」 「私の方が一方的に少し知ってるだけなの。  貴方は知らないと思う。口を利くのもこれが初めてだから」 「そうなんですか。  すいません、その節は大変ご迷惑をおかけしまして」 「……その節?  迷惑?」 「え、これっていつものパターンですよね?  僕は別として雄飛とか小夏とかリツとかがそれぞれ独創性あるハッチャケをして知らず知らず周りの人に大迷惑を掛けてたっていう」 「…………いつもそうなの?」 「やぁ、僕も困ってるんですよね。  初対面の人にいきなり窓ガラスを弁償しろとか対人恐怖症になった飼犬に謝れとか言われるのが普通の生活ってどうもスリリングで」 「ふ、ふぅん」 「……そうそう。  そうだった……」 「ほんのこの間まで、そういう生活してたんだよね……僕ら……」 「…………」 「お姉さんは、窓ガラスコースですか?」 「いえ……大丈夫。  迷惑なんて何も掛けられていないから」 「わぁ、それは有史以来まれなことですね」 「そこまで言わなくても」 「じゃあお礼だけしっかり言えばいいんだ。  こういうのって何だか嬉しいなぁ」 「本当にありがとうございました、お姉さん。  もし助けてもらえなかったら、きっと今頃僕は死んでいて――」 「多分すごく困っていたと思います」 「そ、そうね。  死ぬのはやっぱり困るんじゃないかしら」 「でも大したことをしたわけじゃないし。  お礼なんていいから……」 「ありがとうとごめんなさいはちゃんと言うようにしたいんです。  友達がそういうやつでしたから」 「今は……ちょっと色々あって、もういないんですけど」 「……」 「いないんだけど……だからかえって、なのかな。  あいつが僕に教えてくれたことは、大切にしないと」 「うん。やっぱり死んだら困ってた。  僕はあいつから受け取ったものを、なにも活かせないまま終わることになるじゃないか」 「死ねないよ……」 「…………」 「すいません。  わけのわからないこと言って」 「その、友達っていうのは」 「もう」 「……」 「……ええ。そうです。  危なっかしいやつだなぁとは前から思ってたんですけど、この間何かの拍子にうっかり死んじゃったみたいで」 「今頃やっぱり困ってるんじゃないでしょうか」 「…………」 「でもなんでか、思うんですよ。  あいつは、〈僕らの代わりに死んだ〉《・・・・・・・・・・》」 「死ぬのはきっと、僕でも小夏でも良かった。  けれどあいつが選ばれて。それはきっと、あいつの何かが悪かったからじゃない」 「その逆で……  あいつが僕らの中で一番正しくて強かったから、身代わりになって死んでしまったんだ」  それはどのような直感なのだろう。  平凡な風貌の学生は、知りようもないはずの真実を口にしていた。  確かにそうだった。  この彼でも、小夏という娘でも構わなかった。  けれど新田雄飛を選んで殺したのだ。  私は。 「だから……こんなところで車に轢かれたりしなくて本当に良かった。  そんなことで死んでたら、きっとあいつにすごく怒られる」 「僕はあいつの代わりにやらなきゃいけない。  あいつがするはずだったことを」 「小夏を守らないと」 「僕は……  きっと、あいつを――雄飛を犠牲にして、生きているんだから……」  違う。  彼を犠牲にしたのは、貴方じゃない。  私だ。 「お姉さんには何度お礼を言っても言い足りません」 「……いいの」 「いいのよ。  お礼なんて、本当に」 「僕の家まで足を運んで貰えませんか?  こんな時ですから盛大にとはいかないかもですけど、それなりのおもてなしはできると思います」 「気を遣わないで。  家にはちゃんと送ってあげるけど……」 「……いえ。待って。  貴方、どうして出歩いてるの? 目が見えないのに、しかもこんな時なのに」 「いやぁ。それがですね。  昨日、早起きしてリハビリのために近所を散歩していたら、いきなり空の上が騒がしくなって。なんか戦争が始まっちゃって」 「すぐ家に帰ろうとしたんですけど、慌てていたせいか丸っきり違う方向へ行っちゃったみたいで……。  そうこうするうちに外出禁止の命令が出て」 「仕方なく近くの家に勝手に入らせて貰ったんですが、誰もいなくて。  あれはお寺だったのかなぁ……」 「丸一日くらいでしょうか? そこにいたんですけど、空腹に耐えられなくなっちゃって。  帰宅は許可って放送もあったし、頑張って家に帰ろうとしたんですが」 「やっぱり道がわからなくてうろうろしてるうちに、危うく車に撥ねられそうになってたみたいです。  はっはっは、大笑いですね」 「……大笑いではないと思うけれど」 「あっ、そうか。  おもてなしをしようにも、僕を家に連れて帰ってもらわないと始まらないんだ」 「そういうわけでお姉さん、もしもお急ぎでなかったらどうかお願いします。  うーん……お礼をするために面倒を掛けるなんて本末転倒にもほどがあるなぁ……」 「はっはっは、大笑いですね」 「…………そうね」  何だか屈服する心地で私は認めた。  この饅頭を口に詰め込まれるかのような、どうにもどうしようもない感覚は一体何なのだろうか。 「とりあえず、家の場所を教えて。  番地とかを言われても良くわからないから、何か目印になるものを」 「目印ですか。  そうだなぁ」  背中の方からまた、車の音がした。  ……こんな狭い道ばかりを狙って通ることもないだろうに。  彼の話をいったん止め、腕を引いて道の脇へ寄る。 「!!」 「わっ、とっ、とっ」 「……」 「びっくりしましたね。今の、車が急に速度を上げたんじゃないですか?  急いでたのかな」 「……さあ。どうかしら」 「それで、僕の家なんですけど。  湾岸に近い辺りで――」  私は聞いていなかった。  前方を見据える。  いま行き過ぎていった車が、幾らかの距離を置いて停止している。  軍用の車。  先刻見たものと、全く同じ。  兵士が二人、乗っているのも同じ。  その姿形も、おそらく。  彼らがそろってこちらを向いた。  煙草を咥えた口で、にやにやと笑いながら。 (あいつら) 「若宮大路を、」 「ちょっと黙って!」 「……………………」 「狭い裏通りだと思ってたんですけど、実はここ、大通りの真ん中だったりします?」 「私の目には、熊が二頭肩を組んで歩けるかどうかって広さにしか見えないけど」 「それにしては車が多いですねぇ」 「ええ。なんでかね」  後進で脇を走り抜けていった車は、またほど近い所に止まっている。  そこが目的地、というわけでないことは明白だった。  ……理解は難しくない。  あんなのは何処にだっている。  弱いものを見れば虐げずにはいられない人間など、ありふれた存在だ。  昔からいるし、今もいるし、〈そこ〉《・・》にもいるという、それだけのこと。  いま鎌倉を支配している軍勢は、兵士の行動秩序を良く引き締めている印象があったが――やはり何事も完璧にとはいかないものなのか。  勝利が迫っているとなれば尚更。 (あんなの、相手するまでもない)  逃げるのは簡単だ。  あえて劒冑の能力など使わなくとも、車幅より狭い小道を探して入り込めばそれで済む。  変に目立って要らぬ注意を引いてしまうこともなく、無難にこの下らない一件から離れられるだろう。    一人だけならば。  稲城忠保をここへ置き捨てていけるのなら、それでいい。 「……くっ!」 「…………」  今度は壁際すれすれを走ってきた。  寸前まで引き付けてから反対側へ跳び、かろうじて避けたが……次は通用しないだろう。  車を操る兵士は、興の乗った表情をしている。  楽しく遊ぶ子供のそれだ。  あの様子では、とにかく一度当てるまでは止めまい。  彼らに殺意は無かった。    彼らは、〈そこまで考えていない〉《・・・・・・・・・・》。  大きくて重い車に衝突されれば人間など簡単に死ぬ――そんな〈難しい〉《・・・》計算は彼らには無理だ。  彼らは必ず、やった後で理解する。  そうかこうすると死んでしまうのか、と思う。  そしてすぐに忘れる。    だからまた同じことをする。  あの二人はそういう種の人間だ。  例え言語の違いが無くとも、私は彼らと意志の疎通などできなかったろう。 「お姉さん」 「今ちょっと忙しくて……。  家の場所は後で聞くから」 「いえ、もう結構です。  何となく思い出しました。僕の家、ここらへんの近くにあるんですよ」  目の見えない学生が、いい加減なことを言っていた。 「送って頂かなくても平気です。  それと、お礼の話ですけど……良く考えてみたら今は家の中が取り込み中で」 「そう」 「申し訳ありません。  次の機会にさせてください」 「家はどこなの?」 「本当にすぐ近くです。  なので、お姉さん……もういいですから、どうぞ行ってください」 「そう。  ……そんなに近くなら」 「大袈裟なお礼はいらないけど、お茶の一杯くらい頂いていってもいいかもね。  その程度なら、取り込んでいても邪魔にはならないでしょう?」 「…………」  車を見据える。  わかる――今度は、車と壁とでこちらを挟み潰そうという気だ。  逃げ場はない。  彼には、何処にも。  私だけなら話は簡単だ。  さっさと尻に帆をかけて逃走すれば済む。  けれど。 (御堂なら)  胸中に、一つの確信を抱く。 (稲城忠保を死なせない) 「僕はあいつの代わりにやらなきゃいけない。  あいつがするはずだったことを」 「小夏を守らないと」 「僕は……  きっと、あいつを――雄飛を犠牲にして、生きているんだから……」 (絶対に――死なせてはならないと思う!)  ならばここは湊斗景明の戦場だ。  例え本人がいなくても。  私は彼の力となり、戦う義務がある! 「稲城忠保」 「お姉さん……」 「空を飛んだことはある?」 「え?」 「こんな感じよ」  突進する車の進路から……  自身ともう一人の人間とを、〈消失〉《・・》させる。  その瞬間の、車に乗る兵士らの顔つきは〈見物〉《みもの》だった。  両目を丸くし、口をぽかんと空けて――通常の人間なら絶対に有り得ない跳躍力で頭上を越えてゆく、私と盲目の学生の姿を見守る。  そしてそのまま、彼らは壁に衝突した。 「……あ、あのー……」 「お姉さん、今なにか、すごいことしませんでした?」 「さあ?」 「本当に飛んだんですか?」 「だとしたら、不思議ね」  片目をつぶる。  見てもらえないのは残念だと思いながら。  彼の片腕をつかんで、進むよう促す。 「とにかくここから離れましょ。  貴方の家、海の方って言っていたっけ?」 「ええと……はい。でも――」  ……そう簡単には済んでくれないか。  向こうも戦争が仕事の兵士だということを失念していた。  二人は破損した車から降りて、私を睨んでいる。  銃口を突きつけ。憤激のあまり額まで赤く染め。  あれは、子供の怒りだ。  猫を苛めて遊んでいて、その猫に顔を引っ掻かれた子供の怒り。  自分より下等で脆弱だと信じていた相手に反撃され傷付けられたことを、激しく怒っているのだ。  迷いなく、恥じらいもない、真っ直ぐな憤り。  その怒りが誤りだなどと、諭してやるつもりは全く無かった。 (正しいと信じていればいい)  私が彼らに教えてやるのは、〈正しいのに勝てない〉《・・・・・・・・・》という屈辱だ。 「お姉さ――」 「伏せて!」  彼は盲目とも思えない素早さで、私の指示に従った。  ……そうだ。稲城忠保には判断力の確かなところがあった。  過去のわずかな観察の記憶を反芻する。    その直後、衝撃に襲われた。 「く……ぅっ!!」  腹部、肩、右胸。  三箇所を飛弾で抉られる。  異物の侵食は、深い嫌悪感を催した。  足元が揺らぎ、たたらを踏む。  けれど、それだけだった。  銃を撃ち放った二人の兵士は絶句している。  やはり、子供のような表情だった――岩に叩きつけても死なずに抗ってくる猫を見た子供の。  この擬似肉体は銃弾を防ぎ止めるほど強固ではない。  だが、本物の肉体ほど脆弱でもなかった。あの程度の小玉なら〈心鉄〉《しんがね》を直撃されない限りは何発だって耐えられる。  ……だからといって、もうやらせはしない。  恐慌一歩手前の様子で再び銃の狙点を合わせる彼らに、私は片手を差し伸べた。  肉体変成を部分解除――甲鉄に復元する。  飛ばした鋼糸で二人の両足を絡め取り、引き込んで転倒させる。  なるたけ痛みを感じるように、起き上がる気を失うように捻りを掛けながら。  ついでに、銃もへし折っておく。 「……ふん」 「あの……お姉さん……」 「なに?」 「逃げた方がいいです……」 「もう平気よ」  倒れ、呻いている二人を指差す。  彼に見えないのはわかっていたが。 「そうじゃなくて」 「?」 「まずい……多分、この音……」 「音?」  私の間抜けな反問に――  彼よりも、現実の方が先に答えてくれた。 (……馬鹿ね。私は)  どうしてもっと早く気付かなかったのか。  こんなものが近付いていたのなら。  いや、事前にこの危険を考慮するべきだった。  兵士に銃を撃たせてはならなかったのだ。発砲音が彼らの仲間を――〈始末に負えない仲間〉《・・・・・・・・・》を呼び寄せるということは、多少考えればわかることだったのだから。  一騎は私の背後に。  二騎は正面に降り立った。 (〈数打武者〉《まがいもの》ども)  鍛冶師の命魂が宿らぬ偽の劒冑に囲まれても、畏怖などまるで覚えない。  ただ、脅威は脅威に違いなかった。  一対一なら食い下がりようもあるが、三対一では手に余る。  正面のうち一騎が、倒れた兵士から話を聞いていた。  兵士はこちらを指差しつつ、早口の異国語で何やらまくし立てている……。 「お姉さん……逃げて。  殺されます」 「貴方、あいつらの言葉がわかるの?」 「少しなら。  お姉さん、進駐軍の兵士をやっつけたんですね? そいつが訴えています。反抗だとか、武装しているとか、危険だとか」 「…………」 「訴えている相手は、〈騎士〉《クルセイダー》……武者なんじゃないですか?」 「ええ」 「逃げてください!  僕は……たぶん、捕まってもどうにかなりますから!」 「どうなるの?  自分は何も知りません、ただ道を歩いてただけなんですって言えば、あいつらは笑って貴方を帰してくれる?」 「…………」 「この状況で、それはなさそうね。  なら、貴方を置いてはいけない」 「まだお礼をしてもらってないもの」 「……で、でも。  どうするんですか?」 「どうにでもする。  どうにでもして、貴方を助ける!」  私は思案した。  彼を連れて、武者三騎から逃げおおせる――これは無理だ。  しかし、発想を転換してみればどうか?  逃げ切れなくてもいい。策を弄して一時的に距離を稼ぎ……その隙に彼を何処かへ隠して、私が敵を引き付ける。  うまくいけば、少なくとも彼は助かるだろう。 (この線ね)  あとは策だ。  ほんの短い時間でいい、彼らを引き離す手立ては、何か―― 「お姉さん」 「一人で逃げろって話は、もう聞かないからね」 「…………。  質問させてください」 「一つだけ」 「? なに?」 「あなたは、雄飛を殺した人ですか?」  刹那。  私は周囲の状況を忘れた。 「――――え?」 「……」 「……あ……」 「そうなんですか?」 「…………」 「……ええ……」  私は認めた。  同じ人間に同じ質問をされたなら、湊斗景明も必ずそうしたように。  否定してはならなかった。  認めなくてはならなかった。 「ああ……やっぱり」 「なぜ、そう思ったの?」 「閃き、かなぁ。  このお姉さんはどうして僕を必死になって救おうとするんだろうって考えてたら」 「急にこう、キュピーンと。  脳細胞の未知の部分とかそんなものが覚醒した感じで」 「…………」 「やぁ、でも色々と衝撃的ですね。  雄飛を殺した人と、こんな風に会うなんて」 「貴方は……  私を、憎まないの?」  愚かしいことを、私は訊いた。  何の迷いもなく、彼が答える。 「憎みます」 「――――」 「雄飛は大事な、大事な友人でした。  彼をあなたが奪ったのなら、僕はあなたを他の何よりも憎みます」  私は死に瀕していることを悟った。  周囲の数打武者と戦うまでもなく。  劒冑は不死。  しかし、〈心鉄〉《こころ》が朽ちれば滅する。  稲城忠保は、私を殺す力を持っていた。  ……それでも私は問いを重ねる。  自らを滅ぼす問いを。 「私を、許さない?」 「許しません」  死ぬ。 「あなたがどれだけ謝っても。  どんな償いをしても、許しません」  死ぬ……。 「雄飛を奪ったあなたを、僕は一生憎みます。  一生、許しません」  死。  これは自殺ではない。  私にはすべきことがある。死など望んではいない。  望まない――それでも、死へ向かって私は進む。  これは唯一の道だったから。  逃げてはならない道だったから。 「貴方は」 「私に、復讐する?」  最後の問いを云う。  ……これで終わりだ。  私の〈心鉄〉《いのち》は朽ちる。  この問いの答で…… 「いいえ」 「――――――――」 「ど……どうして?」 「意味をなくしたくないから」 「意味……?」 「雄飛が死んだことの意味です」  新田雄飛の、  死んだ……意味? 「……あったんでしょう?  お姉さんのようなひとが、雄飛を殺したのなら」 「それは」  ある。あった。 〝卵〟が孵化し、銀星号が増殖するという最悪の事態を防ぐために、彼は――  ……違う。  そのために死んだのはあくまで真改、鈴川令法だ。  新田雄飛を殺したものは、村正の〈誓約〉《のろい》。    ――善悪相殺の一理。 「その意味がどんなものかは聞きません。  今は……聞きたくないです」 「雄飛の命と引き換えにされたなにかのことなんて、僕は知りたくない」 「……」 「でもお姉さんは……その意味を大事にして、守ってください。  〈せめて〉《・・・》」 「あなたはそのために、雄飛を犠牲にしたんですから」  三方を囲む武者には欠片も感じなかった畏れを、私はいま覚えていた。  盲目の学生は単なる復讐心より遥かに厳酷なものを私に向けたのだ。  安易な赦しでは決してない。  意味を守れと、彼は言った。  新田雄飛の、死の意味を。  それはつまり、新田雄飛の死を永劫背負ってゆけということ。  ……当然だ。  当然至極の、天理に沿う、〈重科〉《おもきとが》だった。  人を殺した者は、  その死を生涯背負って生きねばならない。 「稲城忠保」 「それだけが……願いです」 「…………」  不意の轟音で我に返る。  ……存在を忘れかけていた武者たちが、動いていた。  こちらに向かって――ではない。  三騎とも、飛び立っている。  一方向へ向かって――挙動から察するに――何やら随分と焦りながら。 「……なに?」  三騎の数打武者だけではなかった。  二人組の兵士も、もうこちらなど眼中にない様子で走り出している。 「急な連絡が入ったみたいです。  良く聴こえませんでしたけど……」 「なんか、援軍がどうとか」 「援軍?」 「閣下!  まもなく鎌倉上空です!」 「普陀楽は健在か!?」 「健在であります!  劣勢ながら、なお抗戦中!」 「……良し!」 「ばっ、馬鹿な!  篠川の援軍が来ただとぉ!?」 「どうやってだ!  古河は我々が既に押さえた……」 「いや、そもそも早過ぎる!  開戦からまだ一日半しか経っていないではないかっ!!」 「ウィロー少将、落ち着いて下さい。  篠川の全軍が押し寄せてきたわけではありません」 「何だと?」 「来たのは飛行艦が一隻だけです。  我が軍のガレーキープ級にも匹敵する大型ですが……一隻は一隻」 「搭載兵力も高は知れています」 「ふむ……」 「大鳥獅子吼は古河の陥落を見越して、少数精鋭による来援を選んだのでしょう。  占領直後なら古河の防空も甘い……突破は困難であっても不可能ではありません」 「敵ながら果断な将軍ですね」 「……だが。  所詮は一隻、だな?」 「そうです。  大勢は覆りませんよ」 「普陀楽上空の航空戦力を一部動かし、迎撃させましょう。  六波羅の心臓を止めるのが少し遅れますが、それだけのことです」 「それだけのことでも、忌々しいがな。  あと一歩で終わるというところに邪魔とは……」 「閣下」 「わかっているよ、クライブ。  任せる。あの援軍を叩き潰し、普陀楽城の士気を完全に砕いてやってくれ」 「了解」 「敵騎多数、前方に展開!  本艦に向かって来ます!」 「礼儀のなっている奴らだ。  わざわざ出迎えに来たか」 「宜しい。返礼する。  第一七強襲竜騎兵連隊――」 「総員装甲ッ!!」 «敵大型飛行艦、艦載騎を射出した。  数は――大隊規模、いやそれ以上!» «見たことのない騎体だ。  新型か?» «ロゴがあるな……〝〈00〉《ダブルオー》〟?» «ゼロかもしれん。  大和の竜騎兵は開発年を名称に加えるからな» «大和古来の紀元で云うと今年は2600年……なるほど、最新型の名称だ。  こいつは面白い» «フフ、そうだな。  辺境の小国の新型騎がどの程度のものか、見せて頂こう» «よし……。  先手を打って、頭を押さえつけてやれ!» «――キャメロン?» «キャメロン中尉!?» «シャイルズ、何があった!  キャメロンはどうした!?» «わ、わからない。  いきなり炎上したんだ……〈翼筒〉《バレル》の故障かも» «いや、それにしたって今のは――» «シャイルズ!?» «ど……どうなってるんだ!?» «――――攻撃だっっ!!» «攻撃!?» «敵の新型が、妙な砲でこっちを狙ってる!  多分あれだ!» «散れっ!  このままでは鴨撃ちだぞ!!» «そ、そんなはずがあるか。  竜騎兵を一発で墜とす狙撃兵器なんてまだ» «散れェーーーーーーーッッ!!» «遅いわ……馬鹿めら» «連中、随分と好き勝手やってくれたらしい。  普陀楽城がぼろぼろだぜ……» «逃がしてやる気にはなれんな» «当然だ» «目障りなんだよ!  人んちの空に――いつまでもでかい面して居座ってんじゃねえッッ!!»  〈空模様〉《・・・》が劇的な変化を遂げつつあった。  攻城軍の強勢を留め得ず、もはや城内へ突入されるかと思えた時、北東の空に一隻の飛行艦が現れ……  迎撃に出た進駐軍の竜騎兵隊をほとんど一瞬にして薙ぎ払い、普陀楽上空へ進出する。  その異様な圧力に、進駐軍側の飛行艦団は押され、後退してゆく。  〈要塞級〉《ガレーキープ》さえ反攻しようとはしない。ひとまず様子を見るつもりか、竜騎兵に守られながら艦首を返した。 「は……ははっ。  来やがった、〈獅子吼〉《あいつ》」 「飛行艦一隻で。  無茶しやがるぜ」 「あの船は……」 「〈摩天蛟〉《まてんこう》。  篠川で開発された、六波羅が所有する唯一の大型飛行艦だよ」 「ガレーキープにだって引けは取らねえ」  確かに見事な船だ。  遠目にも、ただ単に巨大なだけではないその設計の秀抜さが知れる。  おそらく現世界最強の飛行艦の一つだろう。 (だが、それ以上に――)  艦載騎の戦闘力が異常極まっていた。  先程の空戦。  ……上空のことであるから詳細はわからない。だがあれは、〈狙撃〉《・・》だった。  摩天蛟の艦載騎は遠距離からの射撃によって敵騎を撃墜していた。  あの搭載火器は――次世代〈対武者用射撃兵器〉《ADSA》として最も有望と一般に認知されている〈高速徹甲弾〉《HVAP》ではない。  それにしては精度と威力が高過ぎる。  もっと別のものだ。もっと新しい、もっと恐るべきもの……。 (あれは) 「〈発振砲〉《ヴァイブロカノン》。  騎体は零零式竜騎兵」  俺の内心を読み取ってか、茶々丸が説明を足した。  そしてもう一言。 「英雄の時代に終わりを告げるもの」 「終わりを?」 「そう」 「戦場は、英雄たちの聖域だった。  敵騎と剣を交え、鎬を削り、力と技の粋をぶつけあった末に相手を打ち倒す勇者だけが、勝利をつかみ取れた」 「でも、これからは違う……」  茶々丸の指が天空を差す。  そこでは再び戦闘が繰り広げられていた。  いや、果たして戦闘と呼んで良いものか。  進駐軍の〈殿軍〉《しんがり》に残った竜騎兵隊に食いつく篠川軍の零零式は、敵騎をまるで寄せ付けず、はるか遠方からただただ一方的に撃ち、墜としてゆく。  戦闘というより、あれでは狩猟だ。  更に正確さを期すなら、遊猟だ。 「力も技も勇気もいらない。  敵の顔も見えないような遠くから、狙って撃つだけでいい」 「……英雄の出番は無くなった。  これからの戦場に英雄がのこのこ出てきても、雑兵の〈好餌〉《えさ》になるだけだ」 「零零式が――  〈真打〉《リアル》を凌駕する〈数打〉《ダミー》が、とうとう生まれてしまったから」  無惨な光景であった。  剣を抜き、槍を構え、勇壮にも突進する大英帝国の騎士たちは――わずか一太刀を報いる事さえ叶わない。  嘲笑じみた狙撃を浴び、いとも容易く打ち倒され、虚しくも死に絶えてゆく。  その一瞬、俺は窮地を救ってくれた友軍ではなく、敵である彼らの側に同調した。  時の流れに置き捨てられた者の悲哀を共有した。 「時代が変わるのか」 「連盟軍でも高速徹甲弾の改良が進んでる。  もうじき実戦配備されるよ」 「遠く離れてぱかぱか撃ち合うだけが戦争の全てになるんだ。  戦場から〈剣戟舞踏〉《ブレイドアーツ》は消えてゆく」 「…………」 「そんな時代には神話なんて成立しない」 「英雄がいなけりゃ魔王もいないさ。  神様だってきっと這い出してくる隙がない」 「だから今のうちにやるんだ、お兄さん」 「神を呼ぶ……か」 「古き時代の終わりに。  〈最後の神話〉《・・・・・》を創り出す」 「まっ、駆け込みセーフってとこかな……」  城の外でも、進駐軍が撤退を開始していた。  彼らのこれまでの攻勢は航空優越、つまり空爆支援に支えられていた部分が大きい。  それが失われた今、作戦を再考するのは当然だろう。  どうやら、時間を稼げそうだった。  俺達が必要とする、〈銀星号〉《ひかる》が目覚めるまでの時間を。 「…………」 「……」 (振り出しに戻る、か) (手詰まりになったわけじゃないが。  ……どうも嫌な風向きだな) (できれば今日で決着をつけたかった……) 「戦車が突っ込んでくるぞ!!」 「止めろ、止めろぉっ!!」 「我が味方、不甲斐なし!  おのれらどけい!!」 「大尉!?」 「我が敵、他愛なし!  鎧袖一触にも耐えぬとは情けなや!」 「我こそは小弓の朝比奈平八郎、かの朝比奈弥太郎より数えて三十代の後裔なり!  天下分け目のこの戦、死に場所と心得たるぞ!」 「良き敵、参られい!  討ち取って功名遂げてみよ!!」 「おォ――――」 «出てきたぞ!  〈例の新型〉《ゼロ・ドラコ》だ!» «動け! 動き回れ!  狙いをつけさせるな!» «あの砲は連射が利かないらしい。  無駄撃ちさせて、その隙に距離を詰めればやれる!» «阿呆が。  お前らの考えそうなことくらい、先刻承知なんだよ» «その程度の機動で逃げられるか!  こっちがどれだけ訓練したと思ってる!» «一騎も近付けやしねえぞ……» «――――!?» «いかん、下だ!!» «あァ……!?» «畜生、〈隠形竜騎兵〉《ステルスドラコ》か!  いつの間にこんな近くまで!» «後退しろ!  あれと格闘戦は分が悪い!» 「……膠着状態になり申したなァ」 「制空権はある程度挽回できたが、数の差で向こうの優位は動いてねえ。  地上も同じ」 「海上もね。  こちらに加わったのは、あくまで竜騎兵の一個連隊だけだから」 「ふん。  俺が篠川の全軍を連れて来援していたら、とでも言いたいか?」 「……そうは言わないわよ。  それじゃ、間に合わなかったでしょうし」 「さよう、さよう。  獅子吼殿はまこと良い時に来て下された」 「急場を凌げたのは獅子吼殿のおかげ。  ご功労を無にせぬためにも、今後の手立てを思案せねばなりますまい」 「鎌倉の形勢を動かすなら、外から突くのが道理というものだがな……。  茶々丸、堀越軍はどうしている」 「箱根で足止め食らってるよ」 「室町探題に命じて畿内の兵を出させる手もあるけど……」 「あれは京都に睨みを利かせるのが関の山でござろう。  戦力としてはあてになり申さぬ」 「じゃあ〈鎮西探題〉《ダザイフ》か?」 「問題が三つあるな。  遠い、大陸方面の備え、将帥が〈足利幸行〉《ヤツ》」 「……動かせないわねぇ」 「GHQの思案も気になるところでござる。  奴らとて戦況の膠着は望まぬはず」 「古河にいる軍団をこっちへ呼ぶかな?」 「有り得ない話じゃないわ」 「だがその時はこちらも篠川の本軍を動かし、古河を奪還して奴らの後方を扼せばいい。  そのくらいのことならできる奴を会津には残してきている」 「進駐軍の兵力とて無尽蔵ではない。  古河を確保しつつ鎌倉に増援を送るような芸当は難しかろうよ」 「さようでござるな……」 「そうなったら、こちらにとっては好都合ね」 「いえてるいえてる」 「――けど。  もちろん、GHQが打ってくる手はそんなこっちゃない」  評議の後、茶々丸は言った。 「あいつらは切り札を持ってるんだから。  楽に勝てる目が無くなった今、そのことで頭が一杯だろーさ」 「だが茶々丸。  今日が……一二月三日」 「光の目覚めは四日、つまり明日だと言っていたな?  間に合うのか」 「間に合わせる。  間に合わなけりゃ、みんな〈おじゃん〉《・・・・》だ」 「そんな〈結末〉《オチ》にしてたまるもんかい。  あてのためにもお兄さんのためにも御姫のためにも、ね」 「……」 「明日、進駐軍は鍛造雷弾を使う。  ウォルフがそうさせるはずだ……」 「この夜の間に」 「我々のすべきことは一つだよ。  そうではないかね?」 「ウィロー少将。  キャノン中佐……」 「ええ、教授。  わかっていますとも」 「…………」 「鍛造雷弾使用の申請をもう一度、〈国連本部〉《ジュネーヴ》へ出しましょう」 「あまりしつこいのも逆効果では?」 「こちらが黙っておとなしくしていたからといって、気を利かせてくれるような連中ではない」 「まったく、少将の言う通りだよ。  肉食獣に博愛精神を期待する方がまだしも見込みはあると思うね」 「彼らは年老いた牛に似ている。何度も鞭で打たねば働こうとしない。  ……いや、違うな。鞭で動く間はまだましだった」 「どういうことです?」 「僕は彼らにほとほと愛想を尽かしているということだよ、中佐。  この期に及んで鍛造雷弾の使用許可を出し渋るとは、状況を見る目が無いとしか思えん」 「わかっているのかな、彼らは?  大和進駐軍は大和の完全支配を目的として設けられた軍組織だった――その目的が成就するか水泡に帰すか、今がまさに瀬戸際だと」 「理解しておりますまい!  本当にあてにならない連中ですよ」 「……」 (俺達の立場で、言えた義理じゃないだろうなぁ……) 「何か言ったか、中佐?」 「いえ、別に」 「ウィロー少将。  我々は、決断するべきなのかもしれないよ」 「教授、それは」 「いいかね。  鍛造雷弾は、決戦兵器は存在するのだ……」 「我々の手が届く所に。  ただ使用の許可が与えられていないだけで」 「……ええ」 「奪ってしまってはどうかな?」 「……」 「ウォルフ教授。  ここ最近のあなたはどうも、扇動家じみていますね」 「そちらがご本性ですか?」 「さて、僕は何も変わっていないつもりだが。  真実を探求し、真実を告示する……ただの学徒だよ」 「その真実は誰が保証するのです?  神ですか。それともあなたご自身が?」 「…………」 「クライブ、止せ!  教授は忠告と助言を下さっただけだ」 「……」 「それに……言われることは正しい。  この際、強硬手段も視野に入れよう」 「本気ですか」 「我々は圧倒的な――驚異的な戦果をもって大和国民を畏服させ、反抗心を奪い、完全な支配下に置かなくてはならないのだ。  ……その機はもう既に失われつつある……」 「我々は六波羅如きとほぼ〈互角〉《・・》の戦いを演じ、その一部始終を大和国民に見られてしまった」 「……」 「極めてまずい。  猶予している場合ではない!」 「一刻も早く、我が軍の実力を知らしめねばならん!」 「しかし、閣下……」 「ウォルフ教授。  先日あなたが仰った通り、いささか乱暴な手段でもためらう必要はない」 「我々は大和を占領したのちすぐ、新大陸の同胞と共に蜂起するのですからね」 「うむ。そうだ。  傲岸なる女王の時代に、終止符を打つべくしてね」 「その折には、教授のかつてのお仲間も」 「〈統合独逸〉《ライヒ》の同胞だね?  もちろん、陰日向に君達を支援するさ」 「そうなれば……きっと世界各地で反女王の火の手が上がる。  時代が変わりますよ、教授!」 「ああ変わる。変わるとも。  古き世界は葬られ、新たな世界が降誕するだろう!」 「…………」 (駄目だな。  もう俺より教授の方を信頼してるらしい) (教授がやたら少将に近付いてると気付いた時に、手を打っておくべきだった。  後悔先に立たずってやつか。この国の諺で言うところの……) (…………) (〈見切り〉《・・・》を……考えなきゃいかんか) (あんたとは最後まで一緒にやっていけると思ってたんだけどな、ウィロー少将……) 「決意したなら、行動を急ぐべきだ。友よ」 「ええ。早い方がいい……。  キャノン中佐、手配を頼む」 「……」 「閣下!」 「……? どうした。  呼ぶまで近付くなと言っておいただろう」 「そ、それが……  至急、ウィロー少将に会いたいという方が」 「こんな時間に?  前線からの報告か?」 「敵がまた夜襲でも仕掛けてきたのか」 「違います。  我が軍の者ではなく、その――」 「何だ、来客か?  随分と非常識だな……」 「誰か知らんが、しばらく待たせておけ」 「し、しかし」 「……部下を困らせてはいけませんことよ、ウィロー少将。  上位命令には逆らえない。それが組織人の宿命なんですもの」 「……」 「…………」 「……キャノン中佐。  彼女らは」 「ええ。  大鳥香奈枝大尉と、永倉さよ軍属です」 「大尉に軍属。  しかも頭に〈元〉《・》が付くな?」 「はい」 「……何が上位命令だと?」 「…………」 「あら。階級、取り上げられてましたの?  せっかくご厚遇頂いたのに」 「……確かに俺は君を厚遇した、元大尉。  大きな期待を寄せていた……」 「しかし、君は期待に背いた。  無断で軍を離れ――つまりは脱走した」 「……ぶっちゃけて訊くがな。  今更、どの面下げて戻って来たんだ?」 「お怒りはごもっとも。  本当にご迷惑をおかけしてしまって」 「せめてものお詫びに、これをどうぞ。  旅先で買い求めた銘菓でございます」 「…………」 「……何なんだ、一体」 「心ばかりの土産物でございますが」 「そんなことは訊いとらん!  お前らは何をしに来たのかと――」 「いや、いい! 付き合っていられるか!  中佐、さっさとこの二人を逮捕して、私の前から追い払ってくれ。処分は任せる」 「…………」 「キャノン!」 「……〈鉄鍋型〉《マーミット》……チョコレート……」 「〈ジュネーヴの名物〉《・・・・・・・・》、か……」 「……何?」 「やってくれたな。  大鳥香奈枝」 「…………」 「全て、君か」 「鍛造雷弾が使えなかったのも……」 「はい」 「……愚痴だが、言わずにはいられないな。  江ノ島でジョージを失ったのが痛かった。彼のサポートがあれば、俺はもう少し周りに目を配れた」 「君の失踪に関する調査を人任せにすることはなかった……」 「そうでしょうね。  本当にこの世の中、何が災いして何が幸いするかわからないものです」 「……ああ。本当に」 「中佐?  ど、どういうことだ?」 「どういうことなんだっ!?」 「…………」 「理解する努力をしてから訊きたまえ。  人の話に良く耳を傾けるのは君の美点だが、時として頼り過ぎるきらいがある」 「長所も度を越せば欠点なのだよ」 「――――」 「あ、あなたは」 「なぜ……どうして……」 「まずは名乗ろう」 「いえいえ伯爵。  皆さん、知己の方々ばかりですから」 「だが、名乗ろう!」 「はぁ」 「ルービィ・サシュアントだ」 「はい。  では――」 「もう一度名乗ろう」 「ルゥゥゥビィィィィ・サシュアントだ」 「そして最後にもう一回!」 「ルゥゥゥゥゥゥゥッッビィィィィィィィ・サッッシュアァァァァァァァァンンンンン!!」 「トだ」 「…………」 「お嬢さま、どうかご自重を。  右手の形がツッコミチョップ寸前でございますぞ」 「こほん。  ……よろしいでしょうか、伯爵?」 「うむ。  始めてくれたまえ」 「そういうわけで、GHQのお三方。  こちらは国際連盟事務局次長、ルービィ・サシュアント卿――」 「国連本部の全権代理として、ただいま大和に着任なさいました」 「……全権、代理……!?」 「はい。  ……意味の説明は不要ですね? 少将閣下」 「ふ――ふざけるな!  そんなものを突然寄越されてたまるか!」 「そう申されましても。  納得いかないなら、伯爵にお願いなさっては?」 「お願い?」 「サシュアント卿、女王陛下の信任状をいまお持ちでしょう?」 「もちろんだ。  確認したいのかね、ウィロー少将?」 「…………」 「し、しかし。不自然ではありませんか。  現地の我々に何の話も通さず、不意に全権代理など!」 「軍の指揮が乱れます!」 「正論でございますなァ」 「ほんとねー」 「……当面は、横浜にてお待ち頂きたい!  我々の方で国連本部に確認し、その上で」 「そうはいかないのだよ。ウィロー少将」 「な、何故です」 「わからないかね?」 「……」 「わからないのかね……?」 「……」 「わッッからなぁぁいのかァァァァァァァ!!」 「ね?」 「――――」 「わかってくれたまえよ。  〈新大陸人〉《アメリカン》」 「私は必ずしも君達を憎んではいないのだ。  できることなら……騒がず、争わず、静かに全てを終わらせたい」 「察してくれたまえ……」 「……………………」 「わ、わかりません。  あなたの仰ることは謎めいている」 「私にはさっぱりだ!」 「…………」 「横浜にてお待ち下さい!  我々は女王陛下より与えられた使命を遂行します」 「あと三日、いえ二日で充分!  六波羅幕府を滅ぼし、この国を女王陛下の保護下に収めましょう!」 「もう良いのだ」 「もう良いのだよ、ウィロー」 「……ッ……」 「どうして彼女が――  大鳥大尉が私と一緒にいると思うのだね?」 「……何ですと?」 「…………」 「彼女は私の依頼を受けて〈内偵〉《・・》を進めていたのだ」 「そのために、GHQにいたのだよ。  最初からね」 「――――――――」 「…………」 「無論、彼女だけではない……」 「他にも数人の配下を各所に派遣した。  そして彼らが拾い集めた細かな情報を――その小さな断片を私は整理し、結合した」 「丁度ジグソーパズルを組むように。  出来上がった絵を見て……私は結論せざるを得なかった」 「君達は、〈新大陸独立派〉《アメリカン・ドリーマー》だと」 「……あ……  …………ぉ…………」 「ウィロー。  過去、四度に渡り君の同志は新大陸を大英連邦から独立させるための戦争を起こした」 「その悉くが失敗した。  それは、天命なのだと――神が女王の支配を良しとしているのだと、君達が学んでくれれば良かったのだが」 「君達は、より低いレベルで理解したのだね。  負けたのは力が足りなかったから……劒冑が足りなかったから……」 「〈新大陸に劒冑の生産地が存在しないからだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。  ……君達はそう考えた」 「……」 「だから大和を欲した。  世界でも屈指の劒冑生産国を……」 「君達はこの国を、女王陛下に献上するふりをして掠め取るつもりだった。  そして……蜂起。〈第五次〉《・・・》新大陸独立戦争を」 「……愚かな野望だ……」 「しかし……同情はする。  君達は確かに苦しみ、追い詰められていたのだろうから」 「我らが女王の深き愛も、あの広大な大陸を満たすには不足していたのかもしれない……」 「……」 「だがね、ウィロー。  それでも反逆は許されないのだよ」 「こ……ここまで来て」 「ここまで来て……!」 「……」 「認め――られるかぁッッ!!」 「閣下!?」 「……ウィロー……。  君が最後に縋るのは女王の慈悲ではなく、そのちっぽけな拳銃なのか?」 「それが君の選択なのか?」 「黙れ……女王の犬め!  我々の苦痛が貴様などにわかるものか」 「苦痛とは、こういうものだ!!  味わってみろッ!!」 「なッ――」 「すまないね、大鳥大尉」 「いえ、サシュアント卿。  では……よろしいですか?」 「いや。私がやろう。  彼は私の友人なんだ」 「例え彼がそう思っていなかったとしても」 「……」 「さらばだ。  友よ」 「……サシュアントォ!!」 「……」 「……」 「――――」 「……キャノン……」 「クライブ……」 「閣下……」 「た……頼む……  我々の……悲願を…………」 「新大陸の……我が同胞に……  自由と、誇りと……平安を……」 「取り戻してくれ……!」 「閣下」 「ウィロー!!」 「……〈偉大なる故郷〉《アウァ・アメリカ》のために……」 「……頼む……  相棒……クライブ…………」 「…………」 「……心中はお察しいたします。  ですが、キャノン中佐。身柄を拘束させて頂かねばなりませぬ」 「お持ちの銃を――失礼」 「……」 「ウォルフ教授。  申し訳ないのですけれど、あなたもです」 「複数の重大な嫌疑が掛かっていますの」 「ほう……」 「身に覚えがおありでしょう?」 「まあね。  いつかはこんな日が来ると思っていたよ」 「……」 「この強権的パンツ絶対主義者どもめ!!  どうあってもパンツ脱ぐのを許さんと言うのだな!?」 「ちゃうわッッ!!」 「お嬢さま自重!  劒冑でツッコミ入れたら死にますから!」 「何、違うだと!?  では君は今パンツを脱いでいるのか!」 「見せてみろッ!!」 「変態やめてから出直してくださいまし!!」 「ぼ――僕に死ねと言うのか!?」 「死ぬのかよ。  あと変態の自覚あるのかよ」 「いえ、もーいいですからお嬢さま。  こういう面倒な人はさっさと連行いたしましょう」 「そーね……」 「ぬぅぅぅぅぅ!  これで終わったと思うなよ!」 「僕は必ず帰ってくる!  そして全人類のパンツを脱がすであろう!!」 「これほどイヤな野望って人類史上にかつて存在しましたかな」 「たぶんなかったと思うから、国連理事会に掛け合って世界人類反逆罪とか創設して頂きましょう」 「それならきっと百回くらい処刑できますぞ。  ……まぁ変態は得てしてゴキブリチックな生命力を誇るものなので、まだ足りないかもしれませんが」 「僕は諦めない。  諦めないからなぁ」 「しばらくは雌伏の時だ!  待っていてくれたまえ、キャノン中佐!」 「絶望するんじゃないぞ!!」 「…………」  最後の朝が訪れた。  何度も足を運び、見慣れてしまった部屋だ。  しかし、これで見納めになる。  金輪際、ここへ来ることはあるまい。  今日という日がどのような形で終わるとしても。  光は眠っている――  否。起きている。  今は本来の、正真の光だ。  朽ちかけた肉体と、肉体よりも一歩早く崩壊してしまった精神とを持つ――俺の最後の家族。  彼女はやがて眠る。  心を深く沈め、夢の底に落ち、もうひとりの自分を顕現させる。  銀星号。  最も強き湊斗光。  最も純粋な湊斗光。  湊斗光の、〈願望〉《ねがい》の結晶。 (願望)  ――――俺の願望は、光の命を繋ぐ事。  どのような形でもどのような手段によってでもいい。  死なせたくない。  何がどうであれ、死なせたくなかった。  この世界に生かしてやりたかった。  何を犠牲にするとしても。 (神、か……)  地の底から〝神〟を引き出し、光と結び付ける。  未だに半信半疑だ。  いや、一信九疑くらいだろう。  しかしそんな一縷の可能性しか光の死の運命を覆し得ないなら、俺は躊躇いなく全てを賭ける。  俺自身の全てを。世界の全てを。  誰がそれを拒み、誰がそれを否定しようとも。  力ずくで奪い取り、賭け皿に載せてやる。  必要な〈賭札〉《チップ》を揃え、神の召喚という〈回転盤〉《ルーレット》を回す。  許される事ではないであろう。  我欲のために他者の命運を略奪する……人間の仕業ではないであろう。  人間であれば、できなかったであろう。 (人間ではない)  今の俺は一剣に過ぎぬもの。  唯一つの使命を持ち、  それを妨げる不純物を一切持たない。  人ではなく、剣であるのだ。  幸いにも。  今日為す事が、如何に非道であろうと……  俺は迷わなくていい。  嘆かなくていい。  悲しまなくていい。  迷いも嘆きも悲しみも、既に削ぎ落とされている。  あの〝卵〟、二世村正の汚染波がそうしてくれた。  俺は剣。  魔剣だ。  湊斗光を愛し守るという〈銘〉《な》の―― 「それは……愛情ではない……」 「――――呪いだ――――」  一瞬の眩暈を振り払う。  雑念?  いや、気のせいだ。  今の俺に不純物は無いのだから。 (行こう……)  始めよう。  この一本道を進むとしよう。  迷いなく。 「中佐殿!  こちらにおいででしたか……」 「間もなく軍議が始まります」 「そうか。  ……先に行っていてくれ」 「どちらへ?」 「厨房に寄る」 「……厨房?」 「なんか……  今日は妙だな」 「何がだ」 「進駐軍の連中。  やけに攻め手が中途半端じゃない?」 「…………」 「言われてみればな」 「でしょ」 「しかしそれは、事が思惑通りに進んでいるからではないのか」  周囲を確認したのち、茶々丸の耳元に云う。 「後で決戦兵器を使う気でいれば、強攻して無駄な犠牲を出そうとは思うまい」 「そうなんだけどね……。  どうも引っ掛かるなァ」 「ウォルフからの連絡もまだ来ないし……」 「…………」 「うまく片付いたなら、一報寄越すはずなんだけど」 「柳生常闇を経由してか?」 「うん」 「はい。  只今、お届けにあがりました」 「…………」 「…………」 「何か?」 「心臓に悪いな」 「心臓に悪いよ」 「これは、御無礼」  例によって音も気配もなく現れたその男は、慇懃に一礼した。  そして先刻の俺と同様、辺りに警戒の視線を配ってから再び話し出す。 「鎌倉の進駐軍臨時司令部にいる同志の一人から、たったいま通報がありました」 「……?」 「……ウォルフだろ?」 「違います。  緑龍会のメンバーではありますが」 「なんでよ。  連絡の窓口をいくつも作ると混乱するから、ウォルフが一括で引き受けるって約束だったろーに」 「ウォルフ教授は現在、拘禁されています」 「……はァ!?  何やってんだあのパンツ親父!」 「ま、まさかとは思うが――」 「強制猥褻罪か?」 「こんな時にッッ!!」 「いえ、もう少し事態は深刻かと。  キャノン中佐も教授と同じく、行動の自由を奪われた状態にあるようです」 「……んだと……」 「……」  キャノン中佐?  聞いた覚えのある名だ。  確か――鍛造雷弾投下作戦を行う予定のGHQ将校。    それが、拘禁された? 「ウィロー少将は?」 「わかりません。  既に抹殺された可能性もあります」 「何があった」 「昨夜未明……いえ、正確には今日ですが。  国連事務局次長ルービィ・サシュアント伯が密かに入国、鎌倉市内の野戦司令部を訪れ、何らかの処断を行った模様です」 「以降、ウィロー少将は所在不明。  キャノン中佐とウォルフ教授は個別に監禁」 「軍の統帥権は、国連全権代理及び大英連邦女王の信任大使として、サシュアント伯爵が事実上掌握しつつあるようです」 「…………」 「……茶々丸、どういう事だ?」 「バレた……」 「GHQの対大和政策を仕切ってたキャノン中佐は新大陸独立派だったんだ、お兄さん。  独立のために大和が欲しくて、大和を奪るために鍛造雷弾を使おうとしてた」 「〈緑龍会〉《あてら》は、つーかウォルフ教授は、独立派に協力しつつ利用する腹だったんだけど……」 「…………。  この土壇場で、キャノン中佐とその一党の正体が国連に露見した?」 「としか、考えられない」 「はい」  成程。  進駐軍のような強大な軍政組織に緑龍会などという怪しげな集団が干渉できたのは、相応の付け入る隙があったからか。  〈新大陸〉《ネオブリテン》独立派――〈夢見る人々〉《アメリカンドリーマーズ》。大英連邦の表の大敵がロシア帝国なら、潜在的な大敵は彼らだと云える。  大規模な一斉蜂起は過去に四度。中小規模の反乱は幾度あったか、数え切れない。  進駐軍の中心派閥がその独立派で、密かに大英連邦を敵視していたのなら、ウォルフ教授のような底意のある協力者を受け入れたのも納得はいく。  役立つ味方はいくらでも欲しい心境であったろう。  上手く〈寄生〉《・・》したものだ。  しかしそれも、宿主が枯死しかけている今となっては―― 「…………」 「……くっそー……」 「なんで陰謀ってやつはこううまくいかないんだ!?」 「陰謀だからだろうよ」 「このままだと鍛造雷弾は落ちねえ。  国連から来た奴は大和をどうにかするよりGHQの整理を先にしたいはずだからな……」 「…………」 「茶々丸。  キャノン中佐とやらは、〈できる〉《・・・》男か?」 「え?」 「身柄を自由にしてやりさえすれば、今ここからでも失地を取り返せるか?」 「ん……それは……そうだね。  あいつはタフだし、頭も切れる」 「指揮権を奪回して作戦を続行するくらいのことはやれるかな。  全権代理って奴もまだおおっぴらに中佐を反逆者扱いはしていないっぽいし……」 「ええ、そういう話です。  しかし湊斗様……ならどうすると仰せられますか?」 「その男を救えば何とかなるなら、救うまで」 「これから行ってくる」 「お兄さんが!?」 「他に誰がいる」 「いや、でも……  だめだよ、危ないよ」 「戦場で云う台詞とも思えんが」 「程度ってもんがあるし。  こないだみたいに危険なのはやだからね!」 「この間?  建朝寺の時の話か」 「あれはあてのミスだったけど。  まさかあのまっくろ太郎が武者とは思わなかったから……あー、あんなのにお兄さんをけしかけたあの時の自分をどつき倒したい!」 「いま思い出しても食欲が減退するわ!」 「……一蹴しただろうが」 「結果はそうだけどさ。  進駐軍の司令部にいる竜騎兵は一騎や二騎じゃないんだよ、絶対」 「どうにかする」 「どうにかするでどうにかなったら六年前の戦争でうちの国負けてません!」 「何だそれは。  お前はそこまで俺を信用できんのか」 「そ、そうじゃないよ。  そうじゃないけど……」 「…………」 「が、ガンくれてもこれはだめ!  こここここ怖くなんかないしね!」 「ぷいっ」 「まぁいい。  お前が許そうが許すまいが知らん」 「行ってくる」 「いーやーじゃー!!」 「帯を掴むな」 「堀越中将様。  その、そろそろ人目が」 「だめったらだめったらだめーーー!!  どうしてもっていうなら――」 「何だ」 「あても一緒に行く!」 「馬鹿かお前は」 「あんたにゃ負けるわ!」 「将軍が陣を離れてどうする」 「お兄さんだって副官でしょ!」 「辞めれば済む事だな」 「あてを捨てる気!?」 「そういう話ではないが、そういう話だったとしても、別に躊躇う理由はないと思う」 「わーん、この人ひどい!」 「湊斗様。  堀越中将様」  茶々丸を引きずったまま再び歩き出そうとした刹那、おかしさを堪えているような声が横から割って入った。  異貌の男が口元を押さえつつ、こちらを見ている。 「今度はお前か」 「うー」 「ここはどうか、私めにお任せを」 「……常闇?」 「実は元々、そのつもりでおりました」 「お前とて暇を持て余す身ではなかろう」 「私の職務など、代理の務まる者は幾らでもおります」 「それは俺も同じだ。  俺の方が面倒もない」 「しかし適材適所と申しましょう。  貴方様は潜入工作の専門家ではあられない」 「……」 「この常闇は足利家の裏方、柳生一門の長。  敵の陣中に潜り込むなど、日常茶飯のことでございます」 「常闇……頼める?」 「緑龍会のため。  我が信仰のため」 「必ずやご期待に沿いましょう」 「うん……」 「……」 「湊斗様。  いみじくも堀越中将様が申された通り――企み事とはなかなか思うように運ばぬもの」 「更にこの上、予期せぬ事態があるやもしれませぬ。  貴方様は堀越中将様の傍らへお残りになり、異変に備えて下さりませ」 「常闇、伏してお願い申し上げます」 「……わかった」 「柳生常闇斎」 「はい」 「俺はお前が生きようが死のうが構わん」 「……」 「だが、つまらん死に方はするなよ」 「それは……どうも許せん気がする……」 「――――」 「畏まりました。  ですが、ご案じなく……」 「行く先には、私の運命が待ち受けている。  そのような予感がいたします」 「運命?」 「はい」 「おそらく――こちらに残られる湊斗様にも」 「…………」 「……これは。  予言者じみたことを申し上げました」 「つまらぬ話でお耳汚しを」 「常闇……」 「行って参ります」  陰なる男は現れた時のように一礼して――  陰のように消えた。 「……」 「お兄さん、なんであんなこと言ったの?」 「……何かな。  予感とやらが、俺にもあった」 「どんな?」 「あの男と、もう会うことはない」 「…………」 「GHQ内部の様子は」 「どうだねッッッ!?」 「…………」 「どうだね?」 「ええと、その、はい。  やはり動揺が広がっています」 「ウィロー少将とキャノン中佐が全く唐突に姿を消し、代わって伯爵が指揮の代行を宣言されたわけですから。  混乱はやむなきことでございましょう」 「説明もしておりませんしねぇ」 「ふむ。無理からぬ。  だが、〈説明〉《・・》は起爆剤も同然だよ」 「新大陸独立派がGHQの中にどの程度浸透しているのか……それを確かめるまでは危険過ぎる」 「ええ、確かに」 「現状において、彼らは不安と不審に苛まれながらも暴発までは至るまい」 「左様でございますな。  まだ……しばらくの間は」 「〈進駐軍総司令官〉《ゼネラル》とは連絡がついたのだね?」 「はい。  帰還手段の手配も済んでおります」 「遅くとも明後日には戻られましょう」 「では、私が無理をしてGHQの整理に手をつける必要はないな。  本来の責任者に務めを果たしてもらおう」 「私はそれまでこの状態を維持する」 「その方針でよろしいかと存じます。  けれど、六波羅軍との戦闘はいかがなさいますか?」 「……」 「無目的に戦争を続け、無意味な死者を増産するのは……あまり喜ばしくないお話です」 「人の死が無意味であることなど有り得ないよ、大鳥大尉。  私はそう信じている」 「……」 「だが……そうだな。  多くの者が望ましからぬ死を遂げることにはなるだろう」 「止められるものなら、止めた方が良い」 「はい」 「方法があるかな。  戦争というものは、一方だけの都合で開始できるが、終了する時には両者の合意が必要とされる」 「……一番簡単な手は。  合意の必要な相手を完全に抹殺してしまうことです」 「…………」 「鍛造雷弾……。  お使いになりますか? サシュアント伯爵」 「簡単な解決法だな。  とても。とても」 「ええ」 「やめておこう」 「……」 「私は条件によって戦争を許容する。  しかしいかなる条件によっても大量虐殺は許容できない」 「戦争がつまりは大量虐殺と同じ結果を生むものであっても?」 「そうだ」 「良き戦争と悪しき戦争の区別などない。  だが平和の前提である戦争と、次の戦争の前提でしかない戦争、その違いはある」 「鍛造雷弾による未曾有の大虐殺でこの戦争の幕を下ろすのなら――大和の人々は自失し、屈服し……  五十年後に再び立ち上がるだろう」 「そして千年間、憎悪に燃えるだろう」 「…………」 「我々は国際統和共栄連盟」 「全世界に憎悪と争乱の種ではなく、平和と繁栄の種を撒かねばならない」 「はい。  ……〈女王陛下の平和〉《・・・・・・・》と、〈女王陛下の繁栄〉《・・・・・・・》を」 「たとえこの大和が未開の後進国であろうと、住むのが劣等人種であろうと例外にはしない。  むしろ、だからこそだ……我々の優越する文明をもって正しく導くべきだ」 「これは使命なのだよ」 「……」 「そうではないかね?」 「はい、伯爵。  仰る通りです」 (……でも大和国民にアンケートを取ったら、 『誰も頼んでねーだろ』って回答が九割以上を占めると思います) (ツッコミ自重。  こういうお人だと、最初からわかっていたではありませんか) (国連本部ではマシな方ですぞ) (わかってましてよ。  論法はともかく、結論は好都合ですし……) 「…………」 「きゃおっ!?」 「鍛造雷弾は使えない。  それで簡単に勝利を得られるとしても」 「いや……だからこそでもある。  GHQ内の洗浄が済むまでは、勝利しても〈誰の〉《・・》勝利になるやら知れたものではないからね」 「え、ええ」 「良い収拾の方法はあるだろうか」 「やはり、撤兵するしかありませんでしょう」 「こちらから攻撃したのだから、こちらから退くのは道理とも言える。  しかしただ退けば六波羅軍の追撃を受けるだろう」 「横浜にまで攻め込まれかねませんな」 「それは望ましくない結末だ」 「撤退は、後方から少しずつ。  平行して停戦交渉を進めましょう」 「見込みがあるかね?  単なる痛み分けでは困る……相応の条件をつけ、進駐軍の優位を示した上で和睦せねばならない」 「さもなくば女王の御名に傷がつく」 「やり方次第です。  朝廷を利用しては如何でしょう」 「京都朝廷……大和の名目上の君主か。  確かに、和平の仲介者としては最適だな」 「鎌倉にいる舞殿宮殿下なら、窓口になって下さると思います」 「よろしい。任せよう。  すぐに動いてくれたまえ」 「わかりました」 「良い報告を待っている」 「……サシュアント卿」 「何かね?」 「どうか身辺にはご注意を。  護衛の兵を離されませぬように」 「ああ……わかっている。  ここは〈敵地〉《・・》だと、心得ているよ」 「本当は一個師団引き連れて来たかった程だ。  六波羅に阻まれるにしろ独立派に阻まれるにしろ、それでは大和に踏み込めないだろうから断念したがね」 「は……」 「安心したまえ。  迂闊に出歩くような真似はしない」 「そのようにお願いいたします」 「お嬢さま、我々もできるだけ手早く用件を済ませて戻りましょう」 「ええ、そうね」 「……撤退?」 「撤退の準備……?」 「ああ。  しとけってさ」 「まだ普陀楽は陥としてないんだろ?」 「そのはずだ」 「なのになんで、撤退なんだ?」 「わからん」 「…………」 「まあ、終わるなら、いいだろ」 「……そうだな。  まあ、終わるなら、いいか」 (……?)  朝からどこかおかしかった空気は、昼に差し掛かると決定的だった。  昨日までとは明らかに異なる。  肌を刺す剣呑な戦気が、薄い。  街で見かける兵士達の表情は興奮と緊張から、困惑と安堵のそれに移り変わりつつある。  そして前線。  攻勢がこれまでと比較して小規模かつ散発的だった。  城側への牽制としては充分だろう。  しかし、それ以上のものではない。 (……退却するの……?)  そのための用意をしているとしか思えなかった。  何があったのだろう。  情況が互角に近くなっていたとはいえ、まだ攻城側の優勢だったはずなのだが。  後方で補給を断たれでもしたのだろうか。  ……それにしては焦っている様子があまりない。  どうも不可解だった。 (けれど)  好機だ。  今なら――戦闘が沈静化しつつある今なら。    あの城の中に入れる。  景明のもとへ行ける! 「どうやった、署長?」 「間違いありません。  進駐軍は撤退に向けて準備しています」 「なら、さっきの香奈枝さんの話は」 「はい。  信じてよろしいかと」 「……はぁ……。  えらいことやねぇ」 「大和を本当に欲しがってたんは、大英連邦やのうて、新大陸の独立派……?」 「聞けば納得できる話ですが。  ……確かに意外でした」 「ほんまにね……」 「大鳥大尉も大した方です」 「お? なんや、珍しいこと言うなぁ。  さては惚れたか?」 「ご冗談を。  そんな気は起こしたくとも起こせぬ身の上です」 「宮殿下はご存知でしょう」 「あ……そやったね。  すまん。うっかりしてたえ」 「いえ。  ……とにかく、これで全て終わります」 「終わりにできます」 「そうやねえ。  この戦争」 「とにかく、終わるわ……」 「……………………」 「……?」 「やぁ、キャノン君。  元気かね」 「ちゃんと希望を捨てずにいただろうな?」 「ウォルフ教授!?」 「良かった。少なくとも生きてはいる。  あっさり首でも括ってないか、不安で仕方なかったよ」 「……まあ、椅子に縛られたまま首を吊れるほど器用じゃないので。  しかし、どうやってここに?」 「仲間に助けてもらった」 「仲間?」 「彼だよ」 「……」 「バルトロメオ、彼を自由にしてくれ」 「はい。  中佐殿、失礼致します」 「……教授。  彼は大和人では?」 「ああそうだ。大和人で、僕の友人だよ。  今はそんなことどうだっていいだろう?」 「さ、中佐。再開するんだ」 「何をです」 「寝惚けてるんじゃない。  僕らの勝負を、だ。もちろん」 「……今更。  もう全ては終わっていますよ」 「今の私は処刑を待つ反逆者です。  ここから脱出したところで、せいぜい逮捕を待つ逃亡者にしかなれません」 「情けないことを言うな。  君はウィロー少将から夢を託されたんじゃないのか」 「……」 「君は表向き、まだ反逆者ではない」 「……何ですと?」 「ルービィ・サシュアントはGHQ内に潜む独立派の全貌を把握していないんだ。  だから事件の公表によって彼らが暴走する可能性を恐れている」 「そうだね、バルトロメオ?」 「はい」 「…………」 「わかるだろう、中佐」 「サシュアント伯爵さえいなくなれば、ここからでもまだ何とかなる!」 「……」 「何か、武器はありませんか?」 「見張りの兵士が持っていた銃ならあります。  どうぞ、中佐殿」 「〈歩兵銃〉《ガーランド》はいい。  拳銃だけ借りよう」 「はっ」 「よし、よし!  では行こうか、キャノン中佐」 「……ええ」 「……止まれ!  ここはサシュアント伯爵閣下の――」 「なっ、キャノン中佐!?」 「……」 「さ――御二方」 「うん、ありがとう」 「……凄まじいな。  武装した兵士を二人、一呼吸か」 「些細な手妻でございます」 「頼もしい友だろう?  さぁて――」 「大鳥大尉か?  お帰り――だがもう少し静かに入ってきてくれたまえ」 「いま読書中なのでね……」 「そうか。〈女狐〉《マタ・ハリ》は留守ですか。  そいつは助かる」 「――――」 「クライブ・キャノン……」 「ええ。  ルービィ・サシュアント」 「……」 「……」 「報復かね?」 「……」 「女王の代行者。  世界平和維持組織の代表者たるこの私を」 「君はただの報復で殺すのかねッッ!?」 「いいえ。  単に、あなたがいては邪魔なんですよ」 「……その顔芸に付き合いたくもありませんしね」 「良くやった中佐。  だが本番はこれからだ」 「GHQを再び掌握、兵を動かして鍛造雷弾を奪い、普陀楽城へ投下するのだよ!」 「そこまで短絡的にはやれません。  まず、地上の我が軍を城周辺から撤退させなくては……」 「それはすぐに済みましょう。  進駐軍は既に撤退の準備を始めている様子ですから」 「何だって?」 「――――いや、そうか。  サシュアントの奴、全て仕切り直すつもりでいたんだな」 「お陰でこっちは助かるというわけだ。  しかし中佐、のんびりはしていられん」 「進駐軍の撤退に付け込んで六波羅が城から出撃でもしようものなら……雷弾で一掃とはゆかなくなる。  急ごうじゃないか!」 「……ええ、教授――」 「……これは」 「遅うございましたか!」 「大鳥大尉か……」 「ふむ」 「一度は見事にしてやられた。  二度は決してやらせたくないな……」 「……」 「一つ聞いておこう。  ちゃんとパンツは脱いでいるかね?」 「はいてます」 「危険人物め!!  バルトロメオーーー!!」 「――――」 「――――」 「何と。  このようなところで……奇遇にも程がありますなァ」 「……永倉……」 「ばあや?」 「お嬢さま、お下がりください。  決して前へ出てはなりませぬ」 「……」 「いけません!  〈贋作弓聖〉《バロウズ》に手をつけては!」 「装甲する前に斬り殺されますぞ!!」 「――――」 「やはり劒冑でしたか」 「忠告は……正しい。  しかし万一の成功も有り得た。その可能性に賭けさせるべきだったのでは?」 「……」 「装甲しようとすまいと、私は大鳥香奈枝を殺すのですから」 「分の悪い賭けに主人の命は張れませぬよ。  もう少しましな勝負にいたします」 「ほう?」 「常闇斎どの。  貴方がお嬢さまを殺そうとするなら、この老婆は主人を見捨てますぞ」 「……」 「何と?」 「守れぬものを守ろうとあがいても詮方ございませんからな。  貴方がお嬢さまを狙った時、さよはそちらのウォルフ教授を打ち殺します」 「えっ、僕?」 「……!」 「もしくはキャノン中佐を。  ま、どっちでもよろしい」 「さて。  いかがなさる?」 「…………」 「…………」 「……フフ……」 「お嬢さま。  お逃げくださいませ」 「さよ」 「お早く。  この男の力量がわからぬお嬢さまではありますまい」 「……」 「小便臭い小娘の出る幕ではございません。  早く!」 「さよ!」 「…………」 「従者の一番大事な役目は知ってる!?  主人の葬式をして、素敵な墓碑銘を読んで、遺産の整理をすることよ!」 「ちゃんとやってもらいますからね!!」 「……無茶をおっしゃる。  この老婆にあと何年生きろというおつもりなのやら」 「生きるでしょう、貴方は。  何年でも、何十年でも、何百年でも」 「この世が続く限りは。  そうでしょう? 〈血浴の貴婦人〉《レディ・ザ・ブラッディ》」 「……」 「貴方は変わっておられない。  三十年前から……何も」 「お美しい」 「――――」 「小四郎どのは、随分と変わられましたな」 「ええ……」 「……」 「なぜ、このような所に貴方がおられるのか……お伺いしてもよろしいか?」 「信仰のため」 「他には、何もありません」 「……」 「……」 「変わられた……」 「はい。  私は、多くのものを失いました」 「貴方と共にあり……  共に戦っていた頃の私とは、違います」 「…………」 「誰も恨めません。  私は己の意志で捨ててきたのです……」 「信仰、ただ一つを残して。  信仰を守り……高めるために、他の全てを犠牲にした」 「ただ……神の存在を、より近くに感じる為に……」 「…………。  神しか、貴方の魂を救えないのでしょうか」 「はい」 「このさよには救えませんでしたからな……」 「……」 「ああ……しかし。  そうだ。私はまだ一つ、捨てていない」 「貴方をまだ、捨てていない」 「貴方のことを……忘れたことはなかった」 「……小四郎……」 「予感は正しかった」 「私の運命はここにある」 「私は……貴方を捨てなければ。  ……神を迎えるために……」 「…………」 「遠い」 「……?」 「遠うございます、小四郎どの。  三十年前、貴方と共に見た笠置の欠け月」 「もう……思い出せませぬ」 「……ええ。  遠い」 「もう……遠い……」 「……」 「……」 「ここは通せませぬ」 「通らせて頂きます。  貴方の主人は放置するには危険過ぎる」 「柳生小四郎!!」 「貴方を倒さねば――  私は神に会う資格を得られない!!」 「ハァッ……フッ……ッッ」 「ウゥ……ク、ォォオオオ」 «おい、篠川の!  どうした、様子が変だぞ!?» «調子が悪いならひとまず下がってろ。  お前らは俺達の頼みの綱なんだ» «いや……平気だ。  調子……調子は、すごくいい» «最高だ……» «クッ、クク……ああそうだ。  いくらでもいくらでもいくらでも戦えるゥゥ» «お、おい……» 「申し上げます!  閣下宛に、奇怪な通信文が――」 「読んでみ」 「はッ。  ――くしきそら、まよいのかがみ、くもいのさくらはひらかねど、わだつみのおもてにいりびさす」 「以上であります」 「――――」 「わかった。  下がれ」 「はッ」 「……」 「お兄さん……」 「今のは?」 「連絡だよ。緑龍会の。  緊急用の暗号」 「キャノン中佐がGHQに復帰、行動を再開したってさ」 「……そうか」 「うまくいったみたいだ」 「ああ」 「……よーし……」 「〈時間〉《・・》も、丁度だ!」 「…………」 〝光〟は立ち上がった。  それだけで、全身の骨格が軋みを上げた。  ぺき、ぽき、という音が体内から響く。  数ヶ所で小さな骨が折れているようだった。 〝光〟にとって、それはもう慣れた事。  この肉体は壊れかけている。  いや――本当は、とうに壊れている。  それでも動かし続けてきた。 〝光〟はまだ、夢を遂げていないから。 「……?」  見覚えのない部屋から出るため、重い足を戸口の方へ向けようとし。 〝光〟はふと、それに気付いた。  枕元に――小机くらいの大きさと形をした何か。  上から布をかけられている。  取ってみた。 「……食事」  飯、味噌汁、焼魚に漬物。  ごく素朴な膳だ。  時間が経っているからだろう、冷めてもいる。  それでも美味そうだった。 「食べていいのかな……」 〝光〟は躊躇した。  もし他人の食事を横取りするようなことになっては後味が悪い。  後味以前に、卑しい行為は慎むべきである。  ……だが。 〝光〟はここに寝かされていて、食事は同じ部屋の中に用意されていたのだ。普通に考えて、食事は部屋の住人のものであろう。  おそらくそうだ。  九割五分、間違いない。 「うむ。  四捨五入すれば〈十割〉《かんぺき》だ」 〝光〟は結論した。  膳の前に正座する。 「頂きます」  味噌汁に箸をつけてから、飯を口へ運ぶ。 「…………」 「……?」  ――この味。 〝光〟には覚えがあった。  これは郷里の風景に通ずる味。  舌の感触が、誰かの顔を思い出させる。 「景明」  そう。  彼は時々、母に代わって食事を作ってくれることがあった。  いかにも彼らしく、捻りや工夫は何も無いが、丁寧で丹精な味。  ……妙に好きで、時々せがんで食べさせて貰うこともあった。  あの味だ。 「……おまえが作っておいてくれたのか」  わざわざ。  今日この時、〝光〟が起き上がるのを見越して。 「――――」 「……………………」 「……」 「御馳走様!」 「村正!!」 «……今日はやけに元気が良いな» 「うむ!  今日の光は〈愛〉《きあい》に満ちている!」 「過去最強だ!」  空も良い。空気も良い。  これは〈戦〉《いくさ》の気配だと、〝光〟は悟った。  既に始まっているのだ。  命と命、魂と魂の争剋が――  無数の〈戦士〉《ひと》から唯一の〈覇者〉《かみ》を選び出す、武の祭典が! 「遅れはとらぬ!  天下に武を布くのはこの光の〈宿星〉《さだめ》!」 「行くぞ、村正!」 «応!» 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り!!」  ――――ああ。  今日はきっと、良い夢になる。 「……来たよ」  茶々丸に促されるまでもなく、俺は気付いていた。  天頂めがけて駆け上がる白銀の星。 「……光……」 「――――――――」 「――――――――」 «何だ?  地上の様子がおかしい!» «……この唄のせいか!?» «――――» «――――» «め、滅茶苦茶だ……無差別に殺し合ってる。  〈進駐軍〉《てき》も〈六波羅〉《みかた》も入り乱れて……» «おい、ひとまず撤収しよう!  これは明らかに異常事態だぞ!!» «上の指示を仰がねば――» «…………» «……ぎ……〈白銀〉《ぎん》色の騎体……?» «お前ら、まさか» «ゲハッ――» «……ォォォ……» «ァ――ィィ» 「……〈零零式〉《しんがた》が……!?」  上空の異変に、俺は目を〈瞠〉《みは》った。  変貌してゆく。  深緑色の騎体が――白銀の光輝を放つそれへ。  同じようなものを、同じような変異を見た事がある。  一度だけ。江ノ島で。 「お兄さんには馴染み深いよね。  もちろん、〝卵〟だよ」 「茶々丸……」 「御姫が一つ一つ配って回ったわけじゃない。  こないだ篠川へ行った時、あてがあいつらの甲鉄にちょっと細工しといたんだ」 「〈振動数〉《・・・》が少し変わるように。  普通の甲鉄は汚染波を解消して無効にするけど、零零式の甲鉄は逆に強化して〝卵〟を植えられたのと同じ効果にするってわけ」 「……何故そんな細工を」 「鍛造雷弾投下の時、城内が混乱してた方がやりやすいだろうって思ったから。  もう当初の予定とは丸っきり違った展開になっちゃってるけど――」 「無意味じゃないな。これで防空網は壊滅だ。ウォルフとキャノン中佐へのいい〈補助〉《アシスト》になる。  何でも手は打っとくもんだねー」 「……」 「防空の指揮は、大鳥中将だったな」 「……うん」  俺の確認に、一拍の間を置いて茶々丸が頷く。    そして――小さな声で。呟いたようだった。 「あばよ、獅子吼」 「…………」 (そうか) (これは……貴様か。茶々丸) «かっ、閣下……  零零式が――全て! 〈白銀〉《ぎん》色にっ!» «暴走しています!!» «陣が……このままでは……  閣下、如何なさいますか!?» 「……」 «何なんだこれは……  なんでこんなことに……» «新型だからか?  〈演算装置〉《CPU》に何かとんでもない欠陥が――» «違う。  裏切られただけだ» «はっ?» (裏切られただけだ。  ……これまで俺がそうしてきたように) (〈俺の番〉《・・・》が来た。  それだけだ) (裏切りと謀殺を重ねてきた俺が、最後には裏切られて滅ぶ。  まぁ……そんなものだろうさ) (例え俺の信念に曇りが無かったとしても) (俺は正義を押し通して邪魔者を蹴散らした。  ならば、別の正義が俺を邪魔者とみなして蹴散らすのも道理よ) (結局は力の多寡で決まること) (俺がこれまで勝って来られたのは、正義があったからではなく、相手より強かったからに過ぎん……) (相手の方が強ければ……  俺が裏切られ、蹴散らされ、敗れる) (ふん。それが茶々丸とはな。  性根の曲がり具合で負けたという辺りか) (湊斗を口説き損ねるわけだ) (…………) (命運尽きた、か) «閣下!» 「……」 «もはやこれまで!  撤退のご下命を!» «撤退?» «何処へ退くというのだ» «この空域は危険です!  とにかく、離脱を……» «地上には我が主、四郎邦氏殿下がおられる。  我が民、鎌倉の市民達もいる» «その両方を打ち捨ててか» «……し、しかし……» «閣下、撤退せねば全滅の――» «〈狼狽〉《うろた》えるな!!  貴様らは腑抜けかッ!!» «勝ち戦しかできんのか!?  たかだか戦局が絶望的になった程度で腰を砕いてどうする!!» «会津武士の名に恥じるがいい!!» «――――» «わかっていたはずだぞ。  この一戦こそ大和の浮沈を占う天王山» «六年前とは違う――次の機会は無い!  ここで戦い抜き、勝たなくてはならん» «何があろうとだ!» «閣下……» «思い出せ。  岡部弾正、あの忌々しい叛賊を……» «我らに囲まれ進退窮まった時、奴は降伏し命乞いをしたか? 家臣を捨てて逃げたか?  そんな可愛気があの愚劣な老将にあったか» «ここで我らが無様を晒せば、いずれ地獄で会った折に、奴の嘲笑を買う始末となろうよ。  ……貴様らの矜持は、そんな屈辱に甘んじられる程度のものか?» «……» «…………» «陣形を組み直せ» «まず暴走中の零零式を駆逐する!  進駐軍はその後だ!» «掛かれ!!» «――はッ!» «了解!!» 「……ふん……」 「命運尽きたか。  だから、どうした」 「俺は最後までやる……」 「諦めはせん。後悔もせん。  そんなことは死んだ後でやっても間に合う」 「生きている間は、戦い戦い戦い勝つ――  それだけだ!!」 「童心様!」 「雷蝶殿……」 「何が起きたのです!?  この混乱は――いったい……」 「城内にかの銀星号が現れたのでござる。  殺戮を繰り広げるのみならず、如何なる力でか兵どもを狂乱させておる様子……」 「そ、そんな――どこから!?」 「武者衆が立ち向かっておるものの……歯が立たぬようでござるな。  城内の指揮系統は崩壊し、既に軍の体裁を失っていると申さねばなりますまい」 「また上空では銀星号出現に呼応したごとく、零零式が暴走状態に陥ったとのこと。  航空戦力も壊滅を目前としており申す」 「……し、獅子吼はどうしたのですか!?」 「…………」 「既に、音信は絶えてござる」 「――――――――」 「なんてこと……」 「雷蝶殿」 「は、はい」 「邦氏殿下を、お頼みいたしますぞ」 「……え?」 「ど、どういうことでしょう?」 「なぁに。  それがし、これからちと〈空〉《うえ》へ出向いて」 「希代の怪物、銀星号に、一槍馳走して参るゆえ……」 「――――」 「そ、それはいけません!  あまりに危のうございます!」 「といって、好きにさせておくわけにも参りますまい」 「ここは普陀楽城……我ら六波羅の首城。  捨てて逃げる選択はござらぬ」 「――なら、麿が参ります!  失礼ながら、銀星号などという化物に挑むのであれば、童心様より麿の方が適任かと」 「雷蝶殿の武勇は、この老いぼれた坊主風情の及ぶところではござらぬな。  それは承知してござる……が」 「ゆえにこそ、雷蝶殿には邦氏殿下のお側に残って頂かなくてはならぬ」 「…………」 「何より、それがしが戦いたいのでござる」 「え?」 「天上天下にただ独りで立ち。  暴勇暴乱、我ら六波羅さえ羽虫同然に打ち払う――銀星号!」 「口惜しゅうござる。口惜しゅうござるわ。  さような者をのさばらせておいて、さぁて、何が天下の覇者であろう」 「ふっ。ふっ、ふぅっふっふぅ……!  これを恐れて逃げ隠れするばかりなら――我が婆娑羅ぶりもせせこましいものよ!!」 「童心様……」 「しからば御免。  なに、一汗流してすぐに戻って参るゆえ」 「雷蝶殿、宜しければ酒の用意をしておいてくださりませい。  白銀の魔王とやらの〈首級〉《しるし》を肴に、一献酌み交わしましょうぞ!」 「はぁっはっはっはっはっはっはっはッ!!」 「…………」 「こんなっ……!」  私は絶句と歯噛みと呻吟を全て同時にやった。  芸の練習ではない。自然にそうなったのだ。  攻城軍が撤退を始めたことで、ようやく城内へ入る機会を得られたはずだった。  いや、一度は実際に踏み入った。  けれど、すぐに押し出された。    狂躁の巷と化し剣林弾雨が縦横無尽に飛び交う城内で踏み止まるのは不可能だったから。 (どうして、こんな)  目前で起きていることが何なのか、それはわかっている。当の暴徒と化した彼らより理解している。  銀星号が現れ、精神汚染を開始したのだ。それ以外に考えられない。  しかし、どうして伊豆堀越にいたはずの湊斗光――銀星号が普陀楽城に現れるのか。  足利茶々丸が連れてきたのか。  だとすると、茶々丸の目的は何なのか。  この城に破壊と殺戮の化身を解き放って、何の意味があるのか―― 「お呼びじゃないったら!」  銃口を向けてきた狂兵に間一髪、先制して糸を放つ。  全身を絡め取り、地面の上へ引き倒した。  獣じみた無念の唸りを上げて、兵士がのたうち回る。 (こんなことやってる場合じゃない)  真意はいまだ知れないにしろ、これが茶々丸の企図したことならば、きっともう〈最後の段階〉《・・・・・》なのだ。  何かが始まり、終わろうとしている。  取り返しのつかない事態になる。  御堂を取り戻せなくなる。 (……ここまで来て!)  焦りが突き上げた。  それでも、いくら首を巡らそうと、探査機能を働かせようと、突破口は見つからない。  周囲は混乱し、混迷し、混沌とし過ぎている。  進むどころか、後退を続けなければ私自身がその中に呑み込まれて揉み潰されるだろう。  どうしたら…… 「あっ――」  しまった。    気付けば、暴徒の一群に接近を許していた。  逃げるには近過ぎ、遅過ぎる。  実力で立ち向かうには数が多過ぎる。  彼らの銃が一斉に火を噴けば、いかにこの身が劒冑でも…… (間に合う!?)  無数の糸を前方に発する。  これで壁を作るだけの間があれば助かる――しかし――――無理か!       «〈贋作弓聖〉《バロウズ》――〈分散射撃〉《ディスパーション・ショット》» 「……えっ?」  蜂の巣にされた――そう思った、その瞬間。  幾筋もの矢が飛来して、兵士達の武器を――腕ごと――刺し貫いた。  矢の勢力は相当のものだ。  兵士の群れは更に吹き飛ばされ、転がってゆく。 「〈村正〉《くも》のお姫さま、ご無事?」 「貴方……大鳥香奈枝!?」  現れた武者の劒冑に覚えはなかった。  けれど、声が記憶に触れる。  一時期行動を共にすることもあった、彼女だ。 「……そう。あの大きな楽器!  何か妙だとは思っていたのよ」 「はい正解。  詳しくご説明差し上げたいところですけれど」 「そんな状況ではないかしら」 「……そうね。残念ながら。  でもお礼は言っておくから」 「ありがとう」 「いえいえ。  ほんの気紛れです」 「……ええ。本当に気紛れ。  考えてみたら、助ける義理はありませんのにね……何やってるのかしら、わたくし」 「……?」  確かに、私と彼女は格別に親しくしていた間柄ではない。  しかし、彼女の呟きはそういう意味ではないような気がした。 「まぁいいけど。  それで貴方、こんな所にどうしているの?」 「もちろん城の中に用事があるのです。  でも――」 「私と同じ?  ……中に用事があるのに、この辺りでうろうろしている理由も」 「ええ、多分」  身近の危険は彼女の手で払われたが、状況は相変わらずだ。  人型の肉食獣が駆け回る世界は、正気の者が近寄るのを許さない。 「けれど、貴方は武者でしょう。  飛んでいけば済む話じゃない」 「……ご存じないの?  空がどうなっているか、ご覧になったら?」  空?    促されて、私は上を見上げてみた。 「――――」  声を失う。  無数の星が輝いていた。  白銀の――手足と翼と刃を持つ星。  狂気の唄を高らかに歌いながら、天を踊り。  挑み掛かってくる武者を……あるいは逃げ延びようとする武者を、暴力的な性能差で撃ち墜としてゆく。  それは、かの銀星号ではない。  別のものだ。  けれども、あらゆる意味で酷似していた。 「ふ……複製!?  そんな、あんなにたくさん!」 「以前、景明さまが教えて下さいました。  銀星号は〝卵〟を用いて増殖すると……」 「やはり、あれがそうなのですね?」  返す言葉もなく、私は首を頷かせだけした。    これも……茶々丸の? 「あんなものが陣取っていては、とても空に上がれません。  一騎や二騎なら躱せますけど、あれでは数が多過ぎますもの」 「……そ、そうね……」 「といって、地上もこの有様。  劒冑のあなたも武者のわたくしも、並んで立ち往生するしかないわけです」  納得した。  納得はしたが、何ら建設的な成果を得られなかった。  同じように困っている人間を発見しただけだ。  同情し合うくらいのことしかできない。  そして私には、おそらく彼女にも、そんな暇は無い。 「……でも……」 「何?」 「あなた一人なら、何とか城内へ送り込めるかもしれない。  わたくしが力を貸せば……」 「え?  ……それ本当?」 「……」  大鳥香奈枝はしばし沈思する風だった。 「……そう、ね……  考えてみたら、わたくしでは難しいし……」 「城の内部へ入れたとしても、この状況では武装を解けない。けれど西洋の劒冑を纏ったまま邦氏殿下に近付けるとも思えない。  ……これは無理」 「なら――」  細い瞳がこちらへ向けられる。 「あなたの目的は、景明さまに会うこと?」 「……そうよ」 「でしたら、あのかたに伝言をお願いします。  ――進駐軍は決戦兵器鍛造雷弾を使用する」 「これが普陀楽に投下された時、城の人間は全滅するでしょう。  いえ、もしかしたら鎌倉市街にまで被害が及ぶかもしれない」 「……はぁ!?」 「いいから。今は疑わず信じて、景明さまにそのまま伝えてください。  ――この作戦を未然に防ぐ方法は、〈六波羅〉《・・・》〈幕府を消滅させる〉《・・・・・・・・》ことだけ」 「敵がいなければ爆弾投下はできませんから。  鍵は足利四郎邦氏」 「伝言は以上です。  よろしくて?」 「え、ええ」 「本当はわたくしがやるつもりだったのですけど……どうも見込みが無さそうなので。  あなたと景明さまにお願いします」 「わたくしは万一に備えて鎌倉の人々を避難させましょう。  舞殿宮殿下や署長さんとも協力して、少しでも被害を減らします」 「わかった。  けど、どうやって私を城内に送るの?」 「さっきの糸を出してくださいまし」 「?」 「それを、この矢に」  大鳥香奈枝は自騎の主兵装と〈思〉《おぼ》しき石弓を示した。  太い矢が装填されている。 「絡めればいいの?」 「ええ」 「……」 「あっ……そういうこと!」  私は合点した。  ――そんなやり方があったなんて。  余りに大雑把で乱暴だが、不平は言っていられない。 「よろしい?」 「ええ!」  彼女の騎体が射撃体勢をとる。  私は体の力を抜いて、訪れる一瞬に備えた。  ……本来、劒冑は劒冑単独では騎航できない。  鳥や蝶の独立形態を持つなら別だが。通常、劒冑は仕手と合一して武者となり、初めて空へ舞い上がる力を手に入れる。  だから今の私は飛べない。    〈裏技〉《・・》でも使わない限りは!  引き絞られた弦が解き放たれる。  矢は風を裂き、虚空を疾駆した。  糸で結ばれた私を連れて。  並みの矢にこんな芸当はできない。  しかし武者の剛弓から撃ち出される矢なら――  精神汚染がもたらす地獄絵図の上を越えてゆく。  それは広範囲だったものの、この勢いがあれば楽に渡り切れるだろう。  城壁をも越えて。  城の中へ、文字通り飛び込む…… 「……っ!!」  突然だった。  上方から一騎――銀星号の複製!  この速度でも捕捉された!?  ……まずい。  劒冑としての反射的計算が告げている。  私の進路と敵騎の降下軌道は交差する――つまりは攻撃を浴びる。  避けられない。  避けようがない!    ウィリアム・テルの矢は決して林檎に届かない。     The paradox of "Tell and apple". 「――――え……?」  〈物理法則〉《このよのことわり》が歪曲する。  矢は、〈屈折〉《・・》し。  白銀の騎体には空白を貫かせ、そのまま置き去って嘲笑う。  ……避けられないはずの死地を、如何なる理由でか私は回避した。    そうして遂に、普陀楽城へ降り立った。 「……やると言ったことはきっちりやり遂げないとね。  ばあやに鼻で笑われてしまうもの」  地獄か。  煉獄か。  あるいは単に人間世界の縮図か。  見る者によって呼び名も変わるだろう。  だがこの情景の本質は純粋単一で、貼り付けられた〈記号〉《な》がどうであれ不変である。  人が争い合う。  人が殺し合う。  人が殺す。  人が死ぬ。  終焉。  破局。 「〈旧き時代よ〉《OLD WORLD》!  〈黄金の結末よ〉《GOLD END》!」 「〈悲嘆せよ〉《SAD》!〈 赤き血と死の沃土!」  〉《RED BLOOD AND DEAD GROUND》 「〈歓喜せよ〉《GLAD》!  〈父よ、子よ、神よ〉《DAD,CHILD,GOD》!」  滅びの中で、滅びを〈言祝〉《ことほ》ぎ。  更なる滅びの到来を予期し、願って、茶々丸が〈詩〉《うた》う。  未開の地の敬虔な蛮族の〈巫〉《かんなぎ》が破壊の神を祀るように。  大都市の教会で年老いた司教が絶望と憎悪を込めて唯一神への聖句を捧げるように。  足利茶々丸は、この破局を肯定する。  己の一個の魂がこの無数の死を欲し受け入れるのだと豪語する。  その〈形容〉《かたち》はまさに紅蓮。  赤く昏く燃え盛る〈夕闇の陽炎〉《ダスクフレア》。  ――悪魔が実在するとすれば。  それは今、俺の前に立っているのだろう。 「終わるのか」 「終わるよ」  悪魔は微笑む。  小さく。柔らかく。 「何もかも」 「古いもの、不完全なものは全て終わる」 「次は神の時代だ」 「完成された世界だ」 「……静寂の世界だよ」  俺と茶々丸は終わりを見守る。  白銀の流星群は天界を席巻し、もはや他の星を――幕府や進駐軍の武者を――殲滅しつつある。  凄惨極まる闘争劇は、地上から眺める限り、世にも美しい黄昏の星々の舞踏会だった。  そこに際立って麗しく輝くのは、最も速く猛き一星。 「〈世界最強力〉《リミット・オブ・パワー》……」 「あと一つの〈最強力〉《パワー》も、もうすぐ訪れる」 「それで――」 「神を地上から隔てる壁……  一一五キロの地殻を突破する」 「神が、来る」 「…………」 「……どうかしたの? お兄さん」 「いや」 「俺達は俺達の都合で神とやらを呼ぶ。  だが、その神は何を思って地上へ来るのか……」 「そんな事を考えた」 「……さぁね。  どうだろうね」 「いわゆる一つのお約束かな」 「全人類の罪を贖うためかもしれないね」 「だったら、  そんなやつに、私は出てきて欲しくない!!」 「のぁっ!?」 「……!!」  これは――――〈鋼糸〉《いと》。  こんなものを使えるのは……  俺の知る限り、一個体しかいない。 「てめ……村正ァ!!」 「御堂を奪われた時は、貴方が私に〈こうして〉《・・・・》くれたのよね? 茶々丸。  あの時の仕返しだと思って頂戴!」 「なめんな駄作!  こんな網、すぐに抜けるわ!」 「今日という今日という今日はぜぇってぇにぶっ潰してやるッッ!!」 「いつまでも捕えておけるなんて思ってないけど。しばらくは掛かるでしょう?  それで充分」 「私の用はすぐに済むから」 「くっ、くそ……  お兄さん、逃げて!!」  蜘蛛の糸に絡め取られ、身動きの取れない茶々丸が叫ぶ。  声と瞳が焦りに満ちていた。 「そいつに近付いちゃだめだ!  そいつは、お兄さんを」 「ふん。  ……杞憂だ」  言い捨てて、前へ踏み出す。  村正と――俺の劒冑と対峙した。 「……御堂……」 「何をしに来た?」 「貴方を取り戻すために」 「要らぬ世話だ」 「……」 「消えていろ。  劒冑なら、仕手の指令に従え」 「……駄目よ」 「何故だ?」 「私の仕手は湊斗景明、唯一人。  〈貴方じゃない〉《・・・・・・》」 「……ふん。  俺は湊斗景明ではないと?」 「湊斗景明なら――」  村正は手を振って、混沌と死の情景を指し示した。 「あれを前に、ただ眺めていたりしない。  防ぎ止めるために戦おうとする」 「例え無駄でも、何かをしようとする!」 「……」 「神様だか何だかを待っている暇があったら、必ずそうしたはずよ」 「違いない。  嘗ての湊斗景明ならそうだろう」 「だが、それがどうした?」 「……貴方の目的は何なの」 「知れた事を訊くな」 「……」 「光を、救う」 「どうやって?」 「聴いていたのだろうが?  地底に埋まっているらしい神とかいう代物を引っ張り出して、だ」 「……それ、素面でする話?」 「酔っ払いの戯言だな。確かに」 「俺も大して信じてはいないし、興味もない。  ただ――もはや人の手の及ばぬ光の容態も、人知を超えた何物かが実在するなら、その力で癒せるかもしれない」 「俺の関心はそこにのみある」 「…………。  もしも、そのふざけた望みが成就して」 「湊斗光が〈神のような化物〉《・・・・・・・》になったとしたら。  貴方はどうするつもり?」 「どう……?」 「湊斗光は、あの銀星号なのよ!?  本当に世界が滅びるかもしれない」 「ああ。  そうだな」 「俺は構わん」 「……っ!」 「光さえ生きてくれるならいい」 「……………………」 「〈明快過ぎる〉《・・・・・》……」 「?」 「悩みも、迷いもしない。  いえ、決断すらしていない」 「選択が……何もない」 「何を言いたい?」 「やっぱり貴方は湊斗景明じゃない。  そう言いたいのよ」 「愚かなことを。  〈俺こそ〉《・・・》湊斗景明だ」 「嘘偽りのない、〈真物〉《ほんもの》の」 「…………ええ。きっと。  それもきっと、間違いじゃない」 「けれど」 「認めないというのか?  好きにすればいい……」 「俺が俺であるために、お前の承認など必要ではない」 「御堂……」 「さて?  俺はお前を拒絶したが」 「これからどうするのだ?」 「…………」 「対話で解決しなければ実力行使と、相場は決まっている」 「だが、お前には何もできまい」 「……それは……」 「お前には〈能力〉《ちから》がある」 「勢洲村正一門固有の秘術〝精神干渉〟。  お前もその技を備えている」 「しかし――」             勅令封印           絶対禁戒 「お前には使えまい!」 「……」 「あの時――  拘置所の中でもお前はできなかった」 「俺を支配しようとして、失敗した。  難儀なものだな、勅命とは!」 「帝の託宣はそれほど重いか。  そうだろうよ……お陰で俺は助かる」 「……」 「去れ。何もできないお前がここにいる意味はない。  そこの茶々丸は、脱出すれば本当にお前を潰すぞ……」 「今のうちに逃げて、何処かで眠りにつけ。  五百年そうしていたように」 「…………」 「……違う……」 「……?」 「私が貴方を支配できなかったのは……  勅命に縛られていたからじゃない」 「あの時も言ったでしょう。  もう、遠い昔のことだって」 「何だと……」 「……帝の〈勅〉《ことば》が重いのは確か。  目的のため人の心まで侵そうとした〈始祖〉《じじさま》と〈二世〉《かかさま》の驕りを戒める気持ちもある……」 「でもそれだけなら、振り切れた。  できなかった理由は――私があの時貴方を支配しなかったのは、」 「貴方の意思を奪いたくなかったからよ!!」 「――――」  俺の、              ……意思? 「だから今、私は貴方に〈能力〉《ちから》を使う!」 「今の貴方に意志はない。  湊斗光を救おうという望みがあるだけ」 「それは確かに、誰に植え付けられたのでもない貴方自身のものなんでしょう。  でも、〈それだけ〉《・・・・》が貴方じゃない!」 「貴方は奪われている」 「――俺は……」 「私はそれを取り戻す」 「私は――貴方の〈護り〉《ツルギ》だから!」 (――くッ――)  いかぬ。  〈俺が崩される〉《・・・・・・》。  光を守るだけの俺でいられなくなる。  ……抗え!  精神を不動に保てば、この干渉も跳ね除けられる筈! 〝御堂。  私は……貴方に何も強制しない〟 (……!?)  違う。  以前のこれは、精神を内側から食い荒らそうとする破壊であった。  だが、今は―― 〝私は貴方から奪われたものを取り戻すだけ〟 〝〈銀星号〉《かかさま》の力で封じられたものを、全て……  解き放つ!〟 (お……オァ……) 〝思い出して〟 〝貴方は湊斗光をとても大切に思っていた。  今だけじゃない。ずっと昔から〟 〝それでもかつて貴方は彼女と、  銀星号と戦っていた〟 〝……どうして?〟 (…………) 〝他にも大切なものがあったから。  そうじゃないの……?〟 (違う……!) 〝…………〟 (光は、俺に残された最後の家族だ!  他に大切なものなど無い!) 〝……そうね……〟 〝貴方の家族はもう湊斗光しかいない。  湊斗統を私が奪ってしまったから〟 (……) 〝貴方にとって……  この世は縁もゆかりもない他人ばかり〟 〝でも〟 〝貴方は、その見知らぬ他人が……  名も知らない何処かの誰かが――〟 〝自分と同じように、  理不尽な力で大切な人を奪われてゆくのが〟 〝どうしても許せなかったのではないの!?〟 〝だから湊斗光とさえ戦ったのではないの!?〟 (ぐ……あ……) 〝思い出して、御堂。  私の――私達の罪を〟 〝私達は幾人も、幾人も殺してきた〟 〝それは決して赦されないこと。  弁明の余地なんて少しも無い〟 〝けれど、〈理由〉《・・》はあった……〟 〝暴力で幾多の命を奪ってきた私達は、他の人にそれを伝えて慈悲を乞うことはできないけれど。  自分自身には云える……〟 〝私は、善悪相殺という勝手な掟のため。  貴方は――銀星号を増殖させないため〟 〝より多くの人を死なせないために。  貴方は殺した〟 (…………) 〝御堂。  貴方が今、世界の滅びを肯定するなら〟 〝貴方に殺された人々の死は無意味になる〟 〝彼らは何の理由も必要も無く死んだことになる!  ……それでいいの!?〟 (――――――――) «良くはない、かな?» «けどお兄さんにはもっと大事なものがある。  湊斗光への愛情の方が価値は上なんだ» «そうでしょ?» (……!?) 〝茶々丸!?  どうして……貴方が!〟 «甘く見んな。  精神干渉なんて離れ業は無理でも、〈信号〉《こえ》を送るくらいならできる……» «お兄さん、迷わないで。  湊斗光が大切なら守り通せばいい» «それで世界が犠牲になるから何だってんだ。  世界のためって理由がついたら、何もかも諦めなきゃいけないのか?» «〈世界が他の何かを犠牲にするのは許される〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、  けど〈他の何かが世界を犠牲にするのは絶対〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈許されない〉《・・・・・》ってのか!?» «……ハ。  寝言は寝て抜かせって言いたいね!!» (…………) «こんなもんただの力勝負だ。  世界が他の色々を犠牲にできるのは、世界の方が強いからってだけだろ» «なんせ人類の総体だかんね。  でも、全人類より〈こっち〉《・・・》の方が強かったらこっちの望みが通るって寸法だ» «良い悪いの話じゃない。  どっちが強いか、ただそれだけ» (茶々丸……) «お兄さん。諦めちゃだめだ!» «御姫には世界と戦ってでも遂げたい望みがある。あてにもあるよ。  お兄さんにもある……» «だから、御姫とあてとお兄さん対全世界で勝負だ。  勝ち目なんかどうだっていい» «諦めたくないなら戦うしかないんだ!!» (…………) 〝御堂。  ……私は何も強制しない〟 〝ただ貴方の意思で選んで欲しい〟 (村正……) 〝私、稲城忠保に会ったの。  ……覚えている?〟 〝あの元気な三人組の一人よ……〟 〝彼はとても聡い。  私が新田雄飛の命を奪ったと悟って、こう言った〟 〝彼の死を無意味にしないで欲しいと〟 (…………) 〝……私から伝えられることは、これで全て〟 〝あとは……選んで。  御堂〟 «お兄さん» (……………………) 〝最後の問いよ……〟 〝貴方は湊斗光への愛情のためなら、  他の全てを無価値にして、捨てられるの?〟 (捨てられる) 〝――――〟 (容易いことだ。  得ることの――守ることの至難に比べれば、捨てるなど!) (それで光を守れるなら、俺はそうする) 〝御堂……!〟 (光の他にも大切なものが何かあるだろうと、そう言ったな。  その通りかもしれん) (だが俺は捨てる) (お前もだ……村正!!  俺の内から、消えて去れ!!) 「……あぁ……」 「……」  〈結縁〉《えにし》は断たれた。  膝を折り、項垂れる〈人形〉《ひとがた》の劒冑はもはや俺とは何の関わりもない。    一瞥だけして、背を向ける。 「お兄さん……」 「いつまでそんな糸で遊んでいる?」 「や、これがなかなかしつこくて。  あてもハエ取り紙に捕まったハエごっこをいつまでもやってたいわけじゃないんですが」 「……じっとしていろ」 「あい」  腰の太刀を抜き、一振りくれる。  既に効力を弱めていた鋼糸は、あっけなく散った。 「これで良かろう。  さっさと立て」 「お兄さーん!」 「……何故、くっつく」 「愛情表現。  お兄さんなら絶対、あてを選んでくれると思ってました!」 「フッ……何を隠そうあては信じていた。  普段の冷血な態度は最後のどんでん返しのための伏線に違いないと。ツンツンした後はデレデレするに違いないって!」 「…………。  何だかわからんが」 「別にお前を選んだわけではないぞ」 「同じことなの。  あてはそれでいいんだ……」 「お兄さーん♪」 「……」  しばらく離れそうになかった。  煩わしいが、引き剥がすのも面倒なので仕方ない。 「行くぞ」 「うん」 「……ああ、そうだ」 「あれはどうする」  動かない劒冑を親指で差す。 「潰すとか言っていたが」 「そうだね。  ……どうでもいいや」 「今度こそ本当に、あいつにはもう何もできないしね」 「…………」 「……だろうな」 「ほっとこほっとこ。  どっちかっていえば生かしといてやる方がいい気味だ」 「行こうよ、お兄さん」 「ああ」  城内の混沌は深まっている。  無数の生命を消費しながら。  上空でも、既に白銀色以外の星は探すのに苦労するほどしか見当たらなかった。 「後は鍛造雷弾を待つだけか?」 「うん。  もうあてらの目的を妨げる要因は無いしね」 「常闇斎の予感は外れたか。  まぁ、何も無いならそれでいい」 「――――あっ」 「どうした?」 「……流石に剣豪、いい勘してるな。  あてらにしかやれないことが一つ、出来たみたいだよ、お兄さん」 「あれ見て」  示された方向に目をやる。  天頂近く、〈白銀の王者〉《ぎんせいごう》が悠然と舞っていた。  それに挑むつもりか。近付く武者が一騎。 「何者だ」 「ど腐れ坊主。  古河公方遊佐童心さ」 「劒冑は同田貫正国。名物だよ」 「ほう」 「酔狂の虫を起こしやがったな。  ……あの婆娑羅者が」 「どーしたもんかな」 「危惧せねばならぬ程の男か?」  問うまでもなく、遊佐童心の勇名は聞き知っている。  足利一門の連枝であるが、単に名門の一員で終わることなくその重鎮となったのは、槍一筋で立てた戦場の武功によるところが大きい。  おそらく六波羅全体でも上位の実力を持つだろう。    だが、相手取ろうとしているのは銀星号だ。 「童心坊だけなら問題ない。  百回やって百回御姫が勝つよ」 「でも……ほら」  茶々丸の指が、やや動く。  引かれて視線をずらした先には、天守閣があった。  その〈張り出し〉《テラス》に、遠目にも異様なほどの巨躯を誇る男が立ち、俺達と同じように銀星号と古河公方の対峙を見詰めている。  あれは――小弓公方。 「今川雷蝶!」 「うん。  あいつは別だ。あいつはヤベェ」 「さしもの御姫も万一ってことが有り得る」 「しかも遊佐童心まで加わっては、危険は倍か」 「それだけじゃない。  もし戦ってる最中に鍛造雷弾が来たら――」 「どうなる」 「御姫は対応できないかもしれない……。  〈みんな〉《・・・》吹っ飛ばされて終わりってことに」 「――――」 「片付けるぞ」 「どっちを?」 「銀星号に加勢して遊佐童心を狙えば、今川雷蝶に参戦を促す結果になるな。  奴を銀星号に近付けるのは避けた方が良いのだろう?」 「うん。  あて、大概のことは計算に入れてるつもりだけど、あいつのパワーだけは計算不可能」 「幸い、ひとまずは静観する気らしいな。  今の内が好機だ」 「天守閣に登り、俺達が今川雷蝶を倒す」 「…………」 「怖いなら残っていろ」 「へっへー」 「……?」 「あいつの〈実力〉《うで》って洒落にもなんないから、まともにやったら勝ち目無かったんだよね。  ――――さっきまでは」 「今は違うのか」 「勝てる」 「あてとお兄さんなら、絶対に」 「百回やって何回だ?」 「百二十回は勝てるね」 「良し。  信じてやる」 「行くぞ!」 「いえっさー!」 「……駄目。  やはり童心様では及ばない」 「麿が行くしかないわ!」 「行かせねえよ。  ここまで来てぶち壊しにさせるか」 「……茶々丸!?」 「あんた、今までどこで何を――」 「長話は止そうぜ。  もう終演時間が迫ってんだ」 「用件だけ片付けさせろ」 「――――――」 「言ってごらんなさい」 「雷蝶。  おめーを殺しに来た」 「そう」 「……あんただったわけね。  全てを仕組んでいたのは」 「ハッハッハッ、ようやくわかったようだね。  キミタチはずっとワタシの掌の上で踊っていたのだよ!」 「その割りには予定外の事態に右往左往する姿ばかりが俺の印象に残っているが……」 「仕方ないやん!  一時間半で完結する映画とは違うんだから、そうそう何もかも黒幕の思う通りスムーズに進みやしませんよっ!」 「がっかりだな」 「……もっとがんばります」 「ふんっ。  あんた達二人きりで、麿に挑もうというの」 「行き過ぎた無謀は可愛いわね」 「手加減でもしてくれるって?」 「まさか。  逆よ」 「――粉微塵にしてあげる!!  膝丸!!」 「帰命頂礼八幡大菩薩!  我、御剣と罷り成る!!」 「湊斗とやら。  おまえは腕に相当の自信があるようだけど」 「この間の雑兵と麿を一緒にしないことね!  我が膝丸の甲鉄……斬れるものなら斬って見せなさい!」 「――ふん。  中将閣下の思し召しとあっては、従うほかあるまいな」 「そうだね。  でもお兄さん、やるのはちゃんと武装してからにしよう」 「何?」 「お兄さんの〈武器〉《えもの》は、その太刀じゃない」 「ここにある」 「…………」 「わかるでしょ? わかるはずだよ。  もう〈縁〉《えにし》は結ばれている……」 「〈ここ〉《・・》だ。  お兄さんの武装はここにある!」 「――――」 「……何だか知らないけど。  世迷言を並べるしかすることがないなら、まとめて潰すわよ?」 「呼んで!  お兄さん」 「〈銘〉《な》を!!」  心の中央。  そこに一つの語句が思い浮かぶ。  俺はそれを舌に乗せ、唱えた。 「――――――――――〈虎徹〉《コテツ》」 「…………なッ――」 「獅子には肉を。狗には骨を。  龍には無垢なる魂を」 「今宵の虎徹は――血に飢えている」 「……茶々丸。  あんたは、一体」 «さぁー、戦いだ!» «〈虎徹〉《あてら》の初陣だよ!  お兄さん――御堂!!» 「……ああ」 «敵騎は六波羅筆頭今川雷蝶» «相手に取って不足はないけど余剰もねぇ!  あてらが勝つに決まってる!» «御堂、行ったれーーー!!» 「応!!」  抜刀し、突き進む。  黄金の敵騎に。  武者、長曽弥虎徹としての初陣に。  湊斗景明の、最後の戦いに向かって。 「いやーめっちゃ苦戦しましたね」 「……そうだな」  茶々丸と二人、瓦礫の山の上に腰掛けている。  ほんの少し過去まで、この場所は普陀楽城天守閣と呼ばれていた。  今は面影もない。そうしたのは俺達ではなく、あの敵将の剛力だった。 「勝率、百回に一回程度だったのではないか」 「冷静に考えてそんなもんですね」 「…………。  お前の言う事は二度と信じないようにしておく」 「わ、わんもあちゃんす!」  夕闇が世界を覆っている。  銀色の星が幾つも、蛍のように舞っていた。  しかし、最も強い輝きを放つ筈の者はそこにいない。  既に鍛造雷弾は落とされ、銀星号はそれと共に姿を消している。    光がどうなったのか、俺にはわからなかった。 「…………」 「戻ってくるよ」  俺の不安を察してか、茶々丸が言った。 「御姫は必ず神に至る。  神を奪って帰ってくる」 「だってお兄さんがここにいるんだから」 「……」  二度と信じないと言った矢先だ。  俺は何も答えなかった。  胸の内でだけ、頷いておいた。  黙って時を過ごす。  破局という瞬間が穏やかに流れてゆく。  世界はこれから終わるのだろう。  しかし辺りは、既に終わりを迎えたかのように……ただ静かであった。  音はなく、光と闇だけが移ろっている。 「あのね」 「……」 「お兄さんに教えてない秘密が、まだひとつだけあるんだ」 「言ってみろ」 「うん。  実はさ」 「一目惚れだったんだ」 「……」 「最初に声を聴いた〈瞬間〉《とき》から好きでした。  ……知ってた?」 「……」 「……」 「そうか」 「うん」  世界が終わってゆく。  やがて神は、降り立つだろう。  この静かなる光陰の海に。  捨てられる。      …………と。  そう言えたら、この魂はどれほど安らぐだろう。  光を守るため。光を救うため。  そのためだけに生きられる。  俺の魂の平安はそこにある。  ただ一言、  ただ一言を言い切るだけで、それは手に入るのだ。  ――――だが。  俺は覚えている。  この両腕の罪を覚えている。  血の匂いを覚えている。  最後の吐息を覚えている。  瞳が空虚に、輝きを失ってゆく様を覚えている。  数多の死を覚えている。  ……何故、俺は彼らを殺したのか。    その理由――  殺した彼らに、彼らの残された近親者に、釈明する言葉としてのそれは最初から無い。  俺は己一個の意思決定で殺したのだから、その理由に意味はなく、憎悪と断罪を免れる道は絶無である。  殺害理由は、俺自身にのみ意味を持つ。  ……俺は。    より多くの人を死なせないため、彼らを殺した。  銀星号の災厄を増殖させまい、と。 〝卵〟を享けた武者と、村正の特質が必然として求むもう一人の人間を、〈犠牲〉《サクリファイス》に選んで首を刎ねた。  俺がもし、今になって銀星号の存在を許容するなら――彼らは一体何のために命を奪われたのか。  彼らはおそらくその主観において、全く無価値な死を遂げねばならなかった。  それを強いた俺すらも、彼らの死の価値を否定するのなら。  彼らは、  彼らの死は、―――――――― (できない) (それは、できない)  許されるとか許されないとか。  罪深いとかそうでないとか。    そんな域を越えて。  それはできない事なのだ。 (俺は彼らを〈犠牲〉《・・》にしたのだから)  彼らの命の価値を計り。  別の何かがそれよりも重いと断定し。  無慈悲な刃をもって刈り取った。      だから、言わねばならないのだ。  〈お前達はより多くの人間を救う為に死んだのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、と。    彼らの死の意味を、死の裁定者であった俺は、傲岸不遜に叫び続けなくてはならないのだ!!  忘れてはならない――  捨て去ってはならない!!  意識を外界へ復帰させて、最初に味わったのは酷い失調感だった。  時間と空間が断線したとでも言えばいいのか。現実空間を現実空間として認識できない。  銀星号の精神汚染が解かれたからだろう。  脳髄の中身が急速に整理整頓され、元の形に復してゆく過程は、言うなれば錯乱を強要されているようなものだった。 「ぐっ……あ……ッッ!」 「御堂、大丈夫!?」 「……ッッ……」 「落ち着いて。  焦らなくていいの……」  村正が俺の体を支え、額に手を押し当ててくる。  元々そうなのか、それとも何か操作したのか。手はひどく冷たかった。  ……有難い。  この冷たさは助かる。  もし温かだったら、心地良かったろう。  力を失くし、微睡み、やがて眠りに落ちてしまったかもしれない。  だが冷たい手は俺に力を与えてくれた。  両足で立つための力を。  ……そうか。  この冷たさは鋼の冷たさ。  力、それそのものの温度なのだ。 「平気?」 「ああ。  もう立てる……」 「村正」 「なに?」 「俺は……戻ってこられたのだな?」 「……ええ」 「貴方は戻ってきてくれた。  御堂……」  両足で地を踏みしめる。  確かな〈湊斗景明〉《おのれ》として、立脚する。  それが力強いとも、爽快だとも思わない。  ただ、正しく在るという事実を実感した。 「村正。有難う」 「……」 「また、お前に助けられた」 「……私は……」 「貴方を、助けたの?」 「……?」 「苦しめているだけじゃないかって、思う」 「ああ。確かに……  さっきまでは、酷く楽な心地だった」 「今はまた、重い」 「……そうなるのはわかってた。  でも、私は劒冑だから」 「心が鉄で出来てるから……きっと冷酷なんでしょうね」 「感謝する」 「……御堂?」 「お前のお陰で、俺は正しく俺でいられる。  お前が冷たい劒冑で良かった」 「――――」 「な、なによ……それ……」 「?」 「そんなこと言われたら……私」 「……私……」 「どうしていいか、わからなくなるっ……!」 「村正……?」 「ごめんなさい」 「私、本当は……  貴方に選ばせたくなんてなかった」 「戻ってきて欲しかったからっ……!」 「…………」 「離れ離れでいたくなかった。  本当はそれだけ……」 「責めてくれればいいのに」 「私は、貴方が苦しむのを承知で……  貴方を――私のところに、連れ戻したんだから……」 「……っ……」 「ごめんなさい……っ!」 「……何故謝る……」 「お前は正しい事をしてくれた。  間違いなく」 「感謝している」 「……言わないで……」 「言わないでよぉ……!」 「…………」  俺は――    ……待つしかなかった。  俺にはわからない罪悪感と悔悟の念で泣きじゃくる村正を、ただ黙って支える。  そうして村正の、揺らがぬ鉄で出来ている筈の内面に吹き荒れる嵐が去るのを、知恵も無く待ち続けた。  ……周囲状況を再認識する。  ここは普陀楽城。  今は――銀星号の力で引き起こされた混乱の渦中にある。  殺し、  殺し、  殺し、  殺す。  絶望的な闘争空間。  ――止めなくては、ならない。 「…………そうだ。  伝えないと」 「? 何をだ」 「大鳥香奈枝から、貴方に伝言があるの」 「……大尉殿から?」  その名を聞くのも久々だった。  大鳥大尉……綾弥一条………… 「何だか眉唾な話なんだけど。  ……そのまま言うからね」 「ああ」 「進駐軍は決戦兵器鍛造雷弾を使う。  その兵器はこの城塞を全滅させる……とか何とか」 「――――」 「御堂にはわかる?  私には正直さっぱりなんだけど」  首を傾げる村正に、しかし俺は返答するどころではなかった。    そうだ……鍛造雷弾!  この普陀楽城を一掃する威力を有する最終兵器。  進駐軍の勝利のため――否。緑龍会の目的のために、間もなく投下される……。  そんな法外な兵器が本当にあるのか、実在を疑う気持ちもあった。  しかし、全く別のルートから――あの大鳥大尉から同じ情報がもたらされたとなると…… 「実在する」 「……御堂?」 「その兵器は本当に存在するのだ、村正。  そして、もうすぐここに落とされる……」 「…………」 「させてはならん」  今、最優先事項はそれだ。  最も近く最も大規模な破滅はそれだ。  だが、どうやって防ぐ?  爆弾の投下は、飛行艦か竜騎兵が行うのだろう。  それを――迎撃する?  …………無理だ。  爆弾の威力が桁違いなら、投下を行う飛行体は相当の高度を取ると考えられる。  迎え撃つならその空域へ行き着かねばならない。  しかし今、低空域には銀星号の複製集団が陣取っている。  力任せの突破などできる話ではなかった。  仮に迂回するなり隙を突くなりの方法で抜けられたとしても、その次は投下の護衛隊と交戦し撃退しなくてはならない。  まさか護衛がいないという事はないだろう。  駄目だ。  賭けるには成算が低過ぎる。  他の方法を考えなくてはならない。  だがどんな方法がある?  力で止められないなら、交渉か?  進駐軍司令部に押し掛けて指揮官に直談判?    ……現状の解決策としては夢想的過ぎる。  他に、他に何か手は―― 「御堂、伝言にはあと少し続きがあるの」 「実はこれも、何だか意味がよくわからないんだけど……」 「言ってくれ」  藁にすがる思いで、先を促す。 「この作戦を防ぐには……  六波羅幕府を消滅させるしかない」 「……?」 「それはどういう意味だ?」 「わからないってば。  あと……」 「鍵は足利四郎邦氏、ですって」 「…………」  足利四郎邦氏――護氏の嫡孫。六波羅の総大将。  あの少年を鍵にして、六波羅を消す……?  大尉は何を考えていたのだろう。  確かに進駐軍は城それ自体より住まう六波羅を潰したいのだから、六波羅が無くなれば爆弾を落とす必要も無くなる理屈だが。  裏に潜む緑龍会の意図に六波羅の有無は関係ないにせよ、彼らは進駐軍を支配しているのではなく巧妙に誘導しているに過ぎない以上、進駐軍側の都合を無視はできまい。――幕府が消えれば計画は頓挫する。  しかし、幕府などというものをそう簡単に生んだり消したりできる筈もない。    大尉の伝言は端的過ぎて、真意が見えなかった。  おそらく、現代情勢に疎い村正に一から十まで説明する手間を惜しんで要点のみ伝えさせたのだろうが。  その配慮も今は恨めしい。  ――――いや。待て。    〈足利四郎邦氏が鍵〉《・・・・・・・・》?  総大将である彼を暗殺しろと?  いや違う……違う。そうではない。  彼は六波羅を背負って立つには余りに若く、現在は実権を有していない。  彼がいなくなっても六波羅は滅びない。  だから、殺すのではない。  彼は、〈生かす〉《・・・》。  彼の存在は六波羅の実機能面において重要ではなく、消え去っても幕府の致命傷とはならないだろう。  だが、彼は幕府を滅ぼす事はできるのだ。 「村正、行くぞ」 「どこへ?」 「天守閣。  足利邦氏殿下のもとへ」 「彼を説得し、大政奉還を宣言させる」  〈政権返上〉《・・・・》。  国家統治機構としての六波羅の終焉を表明するよう願う。  足利邦氏は名目上の幕府元首に過ぎない。  だが名目上でも首長であるからには、その名のもと公的宣言がなされれば、重大な意義を持つだろう……少なくとも、実権を握る者に否定されるまでの間は。  進駐軍は六波羅を不当な政府と断定し、この排除を名分として兵を動かした。  だから――彼らの言う通りにしてやるのだ。先手を打って、六波羅自身の行動で。  そうなっては進駐軍は戦闘続行する理由を〈失〉《な》くす。  黙殺するのは勿論、可能だ。  だがその場合、正義の戦争という看板の喪失、大和国民の心象への悪影響、国際社会の批判等々、失う物が多過ぎる。  それは進駐軍を動かす者――大英連邦であれ新大陸独立派であれ――にとって受け入れ難いはずだ。  戦争利益を全て失いかねない。  この方法なら、鍛造雷弾投下を止められる!  足利邦氏の口で六波羅体制の終結を宣言させれば! 「…………。  で、できるの? そんなこと」 「やってみなくてはわからん。  考えた中では、これが一番成功する望みがありそうだ」  宣言の実施は……軍の広域回線を使えば済む。  隠蔽工作など不可能な広範囲に宣言を伝えられる。  難点は、やはり説得か。  ここしばらくを普陀楽城で暮らしたが、俺の身分は所詮一介の竜軍中佐、殿上人たる足利邦氏に会う機会など無かった。  当然、言葉を交わした事もない。  ……つまり。  俺は初対面の貴人の所へ押し掛けて、無茶な要求を通さなくてはならないわけだ。 「やらねばならん。  ……自信の有無を問われると困るが」 「……私も努力するから。  どこまで役に立てるかわからないけど」 「頼む」 「頼まなくていいって。  その〈不器用〉《ぶきっちょ》がそんな場面で役に立つかい」  横手からの声に、振り向く。  ようやく糸の戒めを振り払い、彼女が立ち上がっていた。 「茶々丸!」 「やってくれた。  おめー、本当にやってくれやがったな」 「……村正……」 「――――」  足利茶々丸の声は、怨念という心理を純粋に信号化したようなものだった。  それを真正面から吹き付けられ、村正が硬直する。 「堀越で……始末しとくべきだった……!」 「いや、八幡宮で潰しとくんだった!」 「ドジ踏んだよ。  おかげでこのザマだ」 「……」 「はは……嗤える」 「世話ねえや。  余裕かましたあげく、奪われてんだもんな」 「……っ……」 「面白過ぎるんだよ、てめェ!!」 「……貴方が先に奪ったんでしょう!」 「そーだよ。  あてが先におめーから奪った」 「……その時に全部奪っときゃ良かったんだ。  おめーの命なんてカスみてぇなもん、興味のカケラもねえってんでほっといたばっかりに……これだ」 「くそ、後悔なんて趣味じゃねえ!  今からでもやってやる――」  飢えた鴉も逃げ出すほどの凶気を込めて、茶々丸が手を伸ばす。  俺は反射的に、村正を庇うべく間へ割って入った。  だが。  その俺の前で、茶々丸が不意によろめく。  頭を抱えながら、膝を屈した。 「ぢぃ……ッッ……!」 「……?」 「畜生……頭痛が……  ……最近は軽かったのに……」 「急に元に戻ると……糞がっ……  ……響きやがる……!」  頭痛……?    余程の苦しみなのか。額を押さえる指はともすれば肉を引き裂きそうだ。 「……茶々丸……?」 「…………」 「……あ……」 「……まだ、名前で呼んでくれるんだ……」 「お兄さん」  ゆらりと。  小さく笑って、茶々丸が再び立った。 「良かった。  中将閣下ー、に戻っちゃわなくて」 「…………。  茶々丸、もうやめろ」 「お前が何を求めているのか、それは知らん。  だが犠牲とするものが大き過ぎる事だけはわかっている」 「……」 「道義などは説かん。……頼む。  やめて欲しい」 「……お兄さんのそういう、変に素直なとこ、嫌いになれないんだよねー……」 「でも、聞けない。  やめられないんだ。お兄さんのお願いでも」 「茶々丸!」 「だから邦氏の所にも行かせてあげられない」 「お兄さんの考えはいいとこ突いてるよ。  確かに邦氏を利用すれば、今からでも鍛造雷弾の投下を阻止できる……」 「説得も、案外難しくないんじゃないかな。  今の〈邦氏〉《ときおう》はちょっと情緒が不安定だからね。幕府を潰してって頼まれたら、あっさりその気になっちまいそうだ」 「……まさか童心坊主の悪趣味がこんなとこで祟るとはなァ……」 「…………」 「何故、わざわざ教えた?」  希望を持たせるような事を。  俺は自信を欠いていたのだから、そのままにして、迷わせておけば良さそうなものだ。  茶々丸が俺に対立するなら、そうして当然だろう。 「理由は三つ」 「一つ、一応の備えはしてある。  二つ、お兄さんはあてが止める」 「三つ。……あてはとことん、お兄さんには甘いみたいだ。  惚れた弱味ってやつかな」 「……」 「色男さんめ」 「茶々丸。  もう一度――」 「だめ。  ……困らせないで」 「お兄さんには〈選択〉《・・》の余地があったみたいだけど。  あてには無いんだから」 「……」 「御堂、行きましょう」 「村正」 「無理に戦う必要もない。  装甲して、飛んでいけば済むことよ」 「上の〈複製〉《あれ》が危険だけど……  短い距離なら何とかなると思う」  妥当な提案だった。  天守閣まで騎航で行き着けなくても良い。茶々丸を振り切るだけで良いのだ。  妨害者がいなければ、後は走って目的地まで行ける。 「無能が」 「……何よ」 「おめーの言うことに従ったら、お兄さんはあっさりあてに撃墜されてる。  仕手を死なせる劒冑が無能でなくてなんだってんだ?」 「……ふん。  貴方が〈飛べる〉《・・・》可能性は計算の内よ」 「……?」 「でも所詮、武者とは騎航性能が比較にならないもの。  注意は要るけど、問題にすることもない」 「それがおめーの計算か。  採点してやる。……まぁ一〇点だな」 「ちなみに一億点満点だぞ」 「この……っ」 「怒るな、村正。  俺もお前の意見に問題点はないと判断している」 「お兄さんがわからないのは仕方ないさ。  でも〈劒冑〉《そいつ》がいまだに気付いてないってのは、どんなもんかねー?」 「何が言いたいのよ」 「いい加減わかれってのさ。  あてが〈何なのか〉《・・・・》」 「そんなのわかってる」 「ほー? 言ってみ」 「貴方は劒冑でしょう。  茶々丸」 「…………」 「……何?」 「劒冑なのよ、御堂。  この足利茶々丸はね!」 「貴方が精神汚染された時……私が茶々丸の〈能力〉《ちから》で押さえ込まれたのを覚えている?  あの時に、もしかしてって思ったの」 「その気になって精査してみれば、やっぱり何かおかしい。〈肉体が肉体らしくない〉《・・・・・・・・・・》。  私と同じように」 「…………」 「そう、私と同じ。  ヒトの形態を持つ劒冑なのよ、茶々丸は」  堀越公方足利茶々丸が、劒冑?  馬鹿な。有り得る話ではない。  …………だが。    茶々丸が幾度か見せた、奇怪な能力――――  あれは断じて常人の備えるものではなく。  つまりは――劒冑の……? 「あっはっはー」 「……」 「とことん目の利かねェ駄鍛冶だな!!  自信満々で外しやがる」 「あては劒冑じゃない」 「……嘘よ」 「生憎と本当だ。  ……劒冑になれていたら良かったけどな」 「ただの人だって言うの?  そうじゃないのは、もう明らかよ」 「私の目を誤魔化せると思わないで」 「誤魔化しちゃいねえ。  おめーが勝手に間違えてるだけだ」 「〈心鉄を持つ人間〉《・・・・・・・》がいるわけないでしょう!」 「あほが。  おめーの頭ん中にゃ、劒冑と人しかいねえのかよ!!」 「――――えっ?」  突如、奇怪な音が鳴り響いた。  鉄骨を力任せに押し曲げるかの――  音に乗り、茶々丸の肌が変化を始める。  白い肉皮が別の何かへ。  鈍い光沢を放つ硬質のものへ。 「甲鉄……!?」  劒冑を呼び寄せた様子は全くなかった。  そも眼前の変化は、武者の装甲とみるには余りにも異質である。  皮膚が甲鉄に〈覆われてゆく〉《・・・・・・》のではない。  皮膚が甲鉄に〈変わってゆく〉《・・・・・・》のだ。  村正の蜘蛛から蝦夷への変形を、逆回しに再現したならきっとこのようになるだろう。    ……やはり、茶々丸は劒冑だったのか!? 「……ぐ……」 「ア……ガァァ……」 「……!?」  違う。  村正とは決定的に違う点が一つある。  村正の人型変形――肉体変成は、劒冑としての機能の応用発現だ。  術式を開発するまでは四苦八苦していたが、完成後は何の支障もなく操っている。  だが茶々丸は苦しんでいた。  今、生き地獄の苦痛に苛まれていることが傍目にも明らかであった。  ……血も流れ出している。  手足から、腹部から、首筋から。  村正の――劒冑の変形であれば、こんな事はない。  何なのだ。  この光景は!?  生身の娘が鉄の人形へ変わってゆく。  悶え苦しみ、血を流し、啜り泣いて。  これは何だ。  まるで気の狂った科学者の手で〈改造〉《・・》されているかのようではないか!? 「ク……クク……」 「…………茶々丸……」 「貴方は、何なの」 「あてはヒトとして生まれたツルギ」 「ツルギとして造られたヒト」 「どちらでもあって、どちらでもない」 「中途半端な合いの子だ」 「……」 「……茶々丸、お前は――」 「蛆には腐肉を。蠅には糞を。  百舌には蛙の串刺しを」 「今宵の虎徹は――血に飢えている」 「……!!」  武者形態――――!? 「お兄さん……あてはね……  ――――――――――〈生体甲冑〉《リビング・アーマー》なんだ」  人でもなく。劒冑でもなく。  〈生ける鎧〉《・・・・》。  そんな〈存在〉《もの》が生まれ得るのか?  どうして茶々丸はそんな存在になったのだ!? 「あての父親は堀越公方足利守政。  母親は蝦夷の劒冑鍛冶……長曽弥入道虎徹の銘を受け継ぐ二八代目、〈興永〉《おきなが》」 「本当ならあては人間か蝦夷か、でなけりゃ半蝦夷に生まれつくはずだった」  六波羅の公安警察である鎌倉大番が睨みを利かせているため、声高に語られることはない。  しかし、それは有名な話だった。  堀越公方足利茶々丸の血の半分は蝦夷のもの。  すなわち〈彼〉《か》の将帥は〈半蝦夷〉《ハーフドワーフ》である――と。 「……だが。  そうはならなかった……?」 「残念なことに」 「……残念なことに……」 「何故――」 「いいの?  お兄さん」 「あての身の上話なんか聞いてて。  急ぎの用事があるんじゃない?」 「……」 「御堂」 「ああ……」  確かに、そんな場合ではない。  当の茶々丸に忠告されるのもおかしな話だが。  今は鍛造雷弾の投下を阻止せねば! 「茶々丸。  通しては――くれないのだな」 「うん……」 「…………」 「村正」 「ええ」  〈装甲ノ構〉《ソウコウノカマエ》――  仕手と劒冑が武者と成る、その必須の〈過程〉《プロセス》。 (八幡宮の事件以来か)  どうしてか懐かしい。  あれから何ヶ月と経ったわけでもないのに。  この行為に良い記憶が伴うことは稀だった。  闘争、苦痛、そして殺害――付き纏うのはその三つばかりだ。  それでも。 (これは、嫌いではない) «……そうね。私も»  四肢を伸ばし、全身の筋肉は軽く張る。  周囲に踊る〈甲鉄〉《はがね》を我が身として受け入れるために。  不完全な二から完全な一となるために。  誓約の詞を唄う。 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」 「……へっへ。  あては御姫と違って、愛情表現でぶん殴っちゃうようなビョーキは抱えてないけど」 「やっぱり武人の端くれ、こうして武者姿のお兄さんを前にすると手合わせしたくなってはくるね。  中身はともかく外側はやたら忌々しいしな」 «……望むところよ。  高い代償を払わせてあげる» 「ハ。夜郎自大な屑鉄がァ!」  武者として見れば、その容姿は特異であった。  まず、太刀を携えていない。  それに代わる刀剣槍棒の類もない。  有るのは長い爪だった。  両手の甲から伸びる三本の鋭鋒が、薄暮の光を照り返して橙色に染まっている。  あたかも〈虎の前肢〉《タイガークロー》。  至近距離なら刀剣より有効な武装だろう。  ……格闘戦に特化した〈型〉《タイプ》か。  これに対する定法は、敵騎の間合に入らない――  つまり太刀の間合で勝負を決める事。  距離の有利を生かして一方的に攻めて勝つ。  それが最上だ。  最上だが…………    俺は左手で、自騎の腰を探ってみた。  そこにある筈の太刀が、今は無い。  脇差があるきりだ。  覚悟していた事である。落胆はしなかった。  ただ、厳しい現実を思う。  脇差の刀身は短く、これを用いるなら近距離の間合に踏み込まざるを得ない。  敵騎の得意な戦場を選ぶしかなくなる。  村正の主武器であった長大な野太刀、それに代わるものだった三尺余の太刀、いずれかでもあればそんな羽目にならず済んだのだが。  今となっては無い物ねだりだ。  どちらも銀星号に奪われてしまった。  前者は砕かれて〝卵〟の素材にされ。後者は重力の渦に呑み込まれて消え。  今や武装はこの脇差しか残されていない。 (分は……悪いな)  茶々丸の三本爪に気を払いながら思う。  数の問題ではなかった。  先方は〈性能〉《スペック》にせよ〈技術〉《スキル》にせよ密着戦に適したものを有しているとみて間違いないだろう。  反して〈此方〉《こちら》はまず俺が脇差の扱いに太刀ほど慣れておらず、騎体も小型武器の運用を目的としていない。  村正は劒冑として〈正統派〉《オーソドックス》であり、重量のある刀剣を空中又は地上で扱うという想定のもと性能設定がなされている。  至近距離戦闘では本来の性能を発揮できないのだ。  不利な要因は他にもある。  村正の武装が見えていない筈はない。にも関わらず茶々丸は動かず、様子を窺っている。  警戒心からそうしているのでない事は明らかだ。  現状、茶々丸はあえて攻め出る必要がない。  茶々丸の目的は俺をこの場に足止めしておくだけで達せられるのである。  その理を返せば俺の勝利条件になる。  俺は必ずしも茶々丸を倒す必要はないが、とにかく一秒でも早く突破して天守閣へ向かわねばならない。  このまま時間が過ぎ去れば、鎬を削るまでもなく、茶々丸の勝利と俺の敗北が決する。    鍛造雷弾の投下によって。  従って俺は戦術的に不利な上、戦略的理由から持久策を選べないのだった。  不得手を承知で至近戦闘の領域へ自ら攻め込まねばならない。  戦う前から半分負けていると言っても過言ではないだろう。 (だが……)  不利なら不利なりに〈やりよう〉《・・・・》のあるのが、武芸武術というものだ。  俺は右手で脇差を抜き、先端を対手へ向けて腰溜めに構えた。  同時、左手と左足は軽く前へ出して、半身の体勢となる。  吉野御流合戦礼法小太刀術、逆脇の構。    吉野御流の小太刀は得物を前へ出し主として防御に用いるが正形だが、この構はその逆をゆく。  〈空〉《から》の左手を捨て身の防御とし、敵にこれを斬らせて右手の小太刀で突き殺す。  一撃勝負、肉を斬らせて骨を断つの型である。 「なるほどねェ……」  茶々丸は俺の変化に応じて、ほぼ同じような姿勢をとった。  右足を引き、左前半身になる。  刺突に対して体の正面を広げて立ち向かうのは危険、半身となって的の面積を減らすべきである。茶々丸の判断は正しい。  ……だが正しいだけに、それは俺の予測通りだった。 「しッ――」  短く息を放ちつつ、前方へ踏み出す。  合わせて左手も大きく伸ばす。  軽く握り込んでいた拳を全開に広げ、相手の顔面を覆うようにしながら。    ――――〈木ノ葉隠れ〉《コノハガクレ》 「!!」  視界を塞がれた茶々丸が一瞬の十分の一ほどの時間、思案する――肌に伝わる呼吸でわかる。  俺の小太刀が右から出るか下からゆくか、それとも正面からか、この刹那は判断材料が無い。  一瞬を待てば見切れるが、その一瞬を待てば避けるのは無理となる。    ――茶々丸は結局、無難な決断をした。  左手の爪で前面に盾を作り、かつ後方に退避する。  こうしておけば、〈逆撃〉《カウンター》の手は失うが、俺の小太刀がどの角度から襲おうと防ぎ切れる。軽く刺される事はあっても致命傷とはなり得ない。  ……但し。  俺が素直に突いていればの話だ。 (あと半歩!)  相手の後退に合わせて――想定通りなのだから苦はない――足の踏み出しを延長する。  茶々丸を逃さず間合に捉え続ける。  小太刀は、  刺突の軌道を変化。  斜め上から叩きつける、斬撃へと変える。  狙いは首筋。  木ノ葉隠れでまず裏をかき、刺突から斬撃への切り替えで裏の裏。  余程の練達者でなくば、読み切るのは難しかろう。 「――――」  しかし足利茶々丸は……  恐ろしい事に、その練達者である。  その齢でどれ程の実戦経験を積んでそうなったのか。  俺の攻撃変化に動揺すら見せない。あくまで平静なまま適切な対処を続行している。  刺突への盾に動かしてしまったのは片手だけ。  もう一方の鉄爪で、狙われた首を防御する。  ……完璧だった。 (完璧に)  〈俺の〉《・・》狙い通りだ。  裏の裏の、もう一つ裏。  防御のためにかざされた爪を目掛けて、俺は小太刀を打ち下ろす。  茶々丸を無用に傷付ける意図はなかった。  そうしたくない理由は幾つもあるが、最たるものは、〈関わりを持ち過ぎた〉《・・・・・・・・・》という事だ……それが精神汚染を受けている間の話であっても、記憶は拭えない。  無力化するのみで充分なのだ。  だから、武器である爪を狙う。  俺が首を狙っていて爪に防がれたのなら、弾かれるだけで終わりだろう。  だが、最初から〈打突標点〉《ヒッティングポイント》をそこに現れる爪に据えていたのなら――力ずくで叩き折れる! 「…………」 「……あ。  〈やっぱり〉《・・・・》ね」 「そうすると思ったよ。  お兄さん、優しいから」 「――ッッ!?」  折れて、……いない?  俺の小太刀が、茶々丸の鉄爪――    爪と爪の間に絡め取られている。  接着されたように、〈びく〉《・・》とも動かない。 (十手術……!?)  読み切られた。  こちらが。  裏の裏の裏を狙い、更にその裏をゆかれた! 「〈雷虎〉《ライガー》流〈刀剣破壊〉《ソードブレイカー》。  いま開眼していま命名!!」  茶々丸が捕獲した小太刀に体重を掛ける。  刀身から不穏な悲鳴が聴こえてきた。 «ちょっ――» (不味い)  折るどころか、こちらの武器が折られる!  瞬時の判断で、俺は柄から手を離した。  負荷の一方を失い、小太刀が明後日の方角へ飛んでゆく。  武器を奪われた事には変わりないが、後で取り戻す機会があるだけこの方がましだ。    が……これも茶々丸の想定内だったのだろう。  体勢を崩す事なく、間を取る事もなく即座、茶々丸が低い姿勢から一歩踏み込む。  右手を掌打の形にしながら――俺の〈水月〉《みぞおち》を狙い。  打ち抜く。 「がひっ……!」  効いた。  衝撃は甲鉄を貫通し、しかし背中までは突き抜けてくれず、体内に残留して内臓を七転八倒させる。  地獄の苦悶。  そして腹部打撃の特徴として、頭部打撃と違い意識を奪うという事がない……意識はむしろ鮮明になり、苦痛をより明瞭により強烈にする。  たまらず、俺は体を〈くの字〉《・・・》に折り曲げた。    茶々丸の攻め手は更に続く。  打ち込んだ掌を支点に運動。  硬直状態にある俺の背後へ回りつつ、腋下から両手を差し込み、首の後ろで〈固定〉《ロック》……  肩と首の自由が全く利かなくなる。 (巧い)  流水よりも滑らかな〈連携技〉《コンボ》。  茶々丸が体術に熟達しているのは知っていたつもりだったが、ここまでとは思わなかった。  当事者の立場も忘れ、感嘆する。    その半瞬後には呼吸困難に陥り、そんな余裕もなくなった。 「かは……ッ」  ――――〈羽交絞め〉《フル・ネルソン》!?  単純と言えば単純な首関節技。  しかし、〈極〉《き》まれば凶悪な事この上ない。  腕はまるで動かず、反撃はおろか脱出の役にも立たなかった。  首は……顎が喉に埋まりそうなほど、前へ押し曲げられている。  茶々丸の腕力は猛獣のそれさながら。やはり組打に適した騎体性能であるためなのか。  窒息死を待つまでもなく、頚骨をへし折られそうであった。 「おとなしくしててね。  殺したくないって思ってるのは、お兄さんだけじゃないんだ」 「……暴れたらだめ。  ほんと折れるよ?」 «くっ……屈辱……!»  村正が歯軋りじみた金打声を上げる。  感じているのは心理的な苦しみばかりではあるまい。甲鉄にもかなりの負荷が掛かっている筈だ。  茶々丸にその気が無いのなら、この状態が俺と劒冑の死に直結する事はあるまいが……。  敗北には直結する。  動けないのでは、鍛造雷弾の阻止ができない。 「予定とはちょっと違うけど。  このまま待とうか、お兄さん」 「サブミッションを極められながら神の出現と世界の終わりを迎えるってのも、なかなか乙なもんでしょ?」 «そんなのを乙だとか洒落だとかいう文化は大和六十六州に存在しません絶対にっ!!» 「おめーにゃ訊いてねー。  お兄さんは満更でもないって様子で黙って頷いてるだろ?」 «息ができないだけよっ!!»  村正が俺の意見を代弁してくれるのは有難かったが、この情勢を覆す契機にはなりそうもなかった。  軽口を叩き油断しているようでいて、茶々丸の筋力は少しの緩みも見せない。  力でも技でも脱出は無理だ。  この形勢から抜けるには、それを超えた〈術〉《・》が要る。 「――――」 «――――»  俺と村正の思考は全く一致した。  言語を交わさず、そうと理解する。  呼吸を調整。  この状態で、それは楽な事ではなかったが……心肺を制御し、熱量の一点集積を達成する。  その熱量を村正が確保。  変換。 「お?」 「……〈磁気鍍装〉《エンチャント》!」  何かを察したか、茶々丸が身じろぎする。  だがもう遅い――〈擦〉《かす》れ声の〈呪句〉《コマンド》によって術は完成、発動した。  本来は防御に用いる陰義の応用。  自騎と敵騎に磁気を付与――相互に反発するよう。  反発力は瞬間的ながら激しい。  単なる力や技だけでは無理でも、この理外の加勢を利用すれば…… 「無茶しない無茶しない。  一歩間違えたら自爆だよ、それ」 「何……!?」 «――どうしてっ!?»  磁気が……消された?  いや、相殺されたのか!?  反発を目的とした磁力が、吸着を目的とした磁力に上書きされて――無効化した……?  いや、馬鹿な!  何故茶々丸にそんな真似ができる! «……嘘よ。  だって、この力は» 「あぁそうだ。  おめーの力だよ、村正」 「沽券に関わるから、あんまり使いたくないんだけどなぁー」 «どうして貴方が!?» 「にっひっひ。  あては風魔の〈化狼〉《ばけおおかみ》や殺人〈嗜好〉《マニア》の青江なんかとは一味二味違うってーことですよーだ」 «…………え?» 「さぁお兄さん、もう手は尽きたかな。  危ない真似はこれっきりにしてねー」  心持ち、茶々丸の締め上げてくる力が増す。  気道は更に狭まり、呼吸状態が悪化した。  これでは最早、陰義は練れない。 (……どうする……!?)  余計な疑問は追いやり、考えるべき事のみを考える。  しかし、答は出せなかった。  打つ手無し。  〈羽交絞め〉《フル・ネルソン》の解除法も存在すると聞いた事はある。  だが俺は詳細を知らないし、今からその道の達人に教えを乞いに行くわけにもいかない。  外すのは無理だ。    無理だ、と――諦めるしかないのか?  諦めて良いのか?  脱出できなければ、鍛造雷弾はやがて落ちるだろう。  それで神なるモノが現れるかどうかはわからないが、間違いなく膨大な数の死者は出る。  下手をすれば、過去の銀星号事件の被害者が〈端数〉《・・》に思える程の―― (それでは)  何の為に。  何の為に、俺は精神汚染を脱したのか?  何の為に、村正は俺を精神汚染から救ったのか?  無為。  幾多の人を犠牲にしてきた俺が、  その犠牲の意味を守る道から半ばで脱落する―― (……村正!) «何か手立て?» (ああ。  左腕の甲鉄を外せ) «……え?» (部分除装だ。  できるだろう?) «できるけど……  でも、そんな事をしたら» (〈脱出できる〉《・・・・・》。  要点は、そこだけだ) «…………» (今はそれだけでいい) «……わかった»  更なる異議は呈さず、劒冑が首肯の意思を寄越す。  当然だ――村正は〈道理〉《・・》のわからぬ奴ではない。  俺はその一瞬に備えた。  力を抜き、気は強く張る。  意識を失うような事になっては笑えない。 「……?」 «御堂!» 「〈肯〉《うむ》――」  村正が左腕甲鉄を解除する。  次の瞬間、俺の左肩は鈍い音を立てて〈外れた〉《・・・》。  ……何の不思議もない事である。  敵騎の剛腕で押し込まれていたその関節から、急に甲鉄の支えが失われ脆弱な生の肉体のみとなれば――ひとたまりもなく折れて当たり前。  痛覚を電撃が駆け抜ける。  思考の全てが吹き飛びそうになった。 「ふえっ!?」  流石に茶々丸も驚いたらしい。  唖然たる吐息が首筋に触れる。  好機だった。  左腕が折れたために、羽交絞めは緩んでいる。脱出するなら今しかない。  岩石を噛み砕くように奥歯を打ち合わせ、瞬間的に苦痛を忘却――  俺は力任せに茶々丸を振り解き、その場から跳んで離れた。  自由を取り戻す。  だがその代償の激痛は、再び脳髄を焼いた。 「……っっ……!」 «待って!»  村正が左腕の甲鉄を復元、同時に肩の治癒を始める。  肉体の方は簡単に復元できない。この戦闘の最中は左腕を動かせないだろう。  しかし痛みは和らぎつつあった。 「……仕切り直しだ」 «ええ» 「いや、『ええ』じゃねーだろーがぁ!」  我に返ったらしい茶々丸が、激昂の様子で荒い声を上げる。  険しい視線がこちらへ向けられていた。  対象は俺ではないようだ。 「てめぇ村正……  仕手の体を壊してどうする!? 命令されたってやらねえだろ普通!」 「それでも劒冑か!!」 «劒冑よ»  村正は糸屑程度の怯みも見せなかった。 «私は御堂の〈保護者〉《・・・》じゃない。  戦って勝つための相棒なの» «勝つために守るし、勝つためなら傷付けることだってある» 「邪道だろ」 「いや、正道だ」  足元のものを拾い上げながら、口を挟む。  ……どうやら跳んだ位置が良かったようだ。  脇差である。  手放してしまった唯一の武装を、俺は取り戻した。 「俺の劒冑はそれで正しい」 「……お兄さんも難儀なお人やね。  どうしてそんなのを認めちまうかなぁ」 「切ない気分ですよ」 「そう言われても返しようがないが。  仕手と劒冑の縁が結ばれるからには、相応の理由があったという事なのだろうよ」 「……はは。  その逆をいえば、〈結ばれなかった〉《・・・・・・・》ことにも理由はあるってことか」  低く笑いながら。  悔しげに、茶々丸は唇を噛んだ。 「どうしたもんかな。  劒冑はイカレてるし、お兄さんは頑固者」 「これじゃその気がなくたって命の取り合いになっちまうねぇ……」 「……それを厭うなら道を開けてくれ」  無益を承知で頼む。  返答はやはり、首を左右に振る動作だけだった。 「仕方ないな。  〈こいつ〉《・・・》で眠ってもらおう」 「む……」 «御堂、敵騎の熱量が変動してる!  これは――» 「陰義か!?」 «おそらく!»  発動前に制するには――遅いか?  距離はやや遠く、一歩では届かない。  待ち受けるしかないようだ。  術を見極め、その上で防ぐ。  武者の秘中の秘技たる陰義は法外不測、どんな現象でも起こり得る――しかしどんな現象が起きても対処せねばならない。  鬼が出るか蛇が出るか。俺は心胆を据えた。 「そう警戒しなくていいよ。  大した術じゃないんだ……」 「単に感覚を共有するだけ」 「……感覚を……?」 「お兄さんは覚えがあるはずだよ。  もう何度かやって見せてる」 「ただし」 「今回は〈加減なし〉《・・・・》」 「足利茶々丸の世界をそのまま捧げる」 「――――」 「行くよ……」         「〈咆哮の城塞〉《キャッスル・オブ・ハウリング》」  …………何だ?  何か――  奥深くから、〈ひたひた〉《・・・・》と。迫り、押し寄せてくる、これ。  ……人の声。  無数に、幾重にも聴こえてくる。  いや……姿も?  無数の人々の影……。  これは聴覚?  それとも視覚?  ――――〈信号〉《・・》? 「あがッ――」  情報!  情報だ!  〈氾濫する情報〉《・・・・・・》!  余りにも多過ぎる。  多大な音が、多大な光が、その全てが明確な意味を持って俺のもとへ殺到してくる!  こんなもの……俺の脳は許容できない!! 「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」  溢れ返る、  溢れ返る、    情報。情報。情報。情報。情報。  これが――茶々丸の世界――――? «……これは……» «人の感覚と、劒冑の感覚が……  〈混線〉《・・》している?» 「そうさ」  輪唱、群像の中、足利茶々丸という一個体も喋っていた。 「これがヒトで在り劒冑で在るあての宿業。  ヒトの感覚に基づいて、劒冑の感覚機能が情報を収集し、肉の脳に叩き込む」 「結果がこの〈情報洪水〉《・・・・》。  ……お兄さん? もう溺死しちゃってないだろうね?」 「――――」 「まだあるんだよ。  ヒトと劒冑の複合感覚は、ヒトにも劒冑にも感じ取れないものまでつかみ取る……」 「その最たるものが」 「こいつだ」 «   » «             »  これは  そうだ       緑龍会の集会の場で、聴かされた  あの声  違う  違う   違う     違う   違う      違う違う   違う違う違う違う違う違う  あんなものそよ風だった  これは  桁が    次元が  あ               アア                       これが            本当の                         神  …………黒。  暗い。  冷たい。 (何だ……?)  散り散りになった意識の断片が集まり。  百億年ほどの時を掛けて、自分が地面に突っ伏しているという事実を認識した。  両腕を突いて、体を持ち上げる。  ……意識を失っていた時間は、どうやら思っていたよりは幾らか短かったらしい。  周辺の光景が未知の文明のそれに置き換わっているようなことはなく、相変わらずの普陀楽城である。  茶々丸もそのままの姿で、立っていた。  驚きを込めて、俺を見詰めている。 「……予想以上にタフだねー、お兄さん。  今ので潰れないとは思わなかった」 「……………………」  言い返そうとして、言葉が出ない。  まだ何か、うまく〈繋がっていない〉《・・・・・・・》様子だった。  ……村正も同じか。  〈統御機能〉《OS》が完全に崩壊しかねない程の衝撃を受けたらしい。  幸いにもそうはならず、復旧に向かっているが……。  これが騎航中の事でなかったのも幸いだった。  もしそうであったら、墜落は免れなかったろう。 「茶々丸」  ようやく、言葉が出る。 「お前は……〈緑龍会〉《おまえたち》は……  あれを地上に引き出そうというのか」 「あの――」  神?  魔神?  金属塊?  自然現象?  どう表現すれば良いのかわからない。  ただ――  あれは巨大であった。  あれは強大であった。  あれは膨大であった。  あれは遠大であった。  あれは動力であった。  あれは活力であった。  あれは暴力であった。  あれは威力であった。  途方もない途轍もない力、力、力、ただ力。  ただ〈大きな力〉《・・・・》であった。 「あんなものを!」 「うん。  あのカタマリを引っ張り出す」 「……そうしないとあいつは黙らねえ……」 「――――」  駄目だ。  それは、駄目だ。    〈世界が滅ぶ〉《・・・・・》。  本当に滅ぼされる。  あんなものが地上に現れ、活動したなら! «……御堂……» 「回復したか」 «ええ。  ……さっきの、あれが» 「神とやらだ」 «与太話じゃないのね……» 「今からでも与太話にして欲しいがな」  俺も村正も、〈感知〉《・・》してしまった。  地下に潜むあの存在。あの脅威を。  あれを知って――どうして一笑に付する事ができるだろう。 «あんなものを自由にするわけにはいかない» 「罰当たりなこと言うんじゃねーよ。  ありゃ、〈おめーらの〉《・・・・・》神様だろうが」 «…………» «こ、金神さま?» 「ウォルフの推論が当たってればだけどな。  あれが劒冑の起源」 「天界から火を盗んだプロメテウス。  太陽を削り取るヴィシュヴァカルマン。  天帝に挑んで敗れ、地に埋められた〈蚩尤〉《しゆう》。  〈宇宙〉《そら》よりの〈客人〉《まれびと》、金神魔王尊」 「遠い昔に天から落ちてきた、鍛冶の祖神だ」  記憶に触れる。  あの――劒冑夢想論と題された論文か。 «……そうだとしても。  崇めはしたって、この〈現世〉《うつしよ》に連れて来ようなんて考えるもんですか» 「神がそれを望んでいてもか?」 «〈祟り神〉《・・・》の言いなりになったって誰も幸せにならないでしょうが!  お供えをして、鎮まって下さいってお願いすればいいのよ!» 「都合のいい話だなオイ。  ま、信仰もヒトが発明したもんなんだからヒトに都合良く出来てるのは当たり前だ」 「神が〈実在〉《・・》さえしなけりゃ、それで通ったんだがな」 «…………» 「アレにはお祈りを聴く耳もなけりゃ供物を食う口もない。  鎮める方法なんて一つきり……」 「望む通りにしてやるしかねえんだよ」 「茶々丸……」  そうしなければ。  お前は、〈あれ〉《・・》から解放されない……? «……また!!» 「お兄さんがいくらしぶとくても、その劒冑がどこまで鈍感でも、もう一度あれを聴けば落ちるだろ。  だから、そうする」 「下手に抗わない方が多分楽だよ、お兄さん」 「く……!」  兎も角も――ここで倒されてはならない。  失われるものが余りにも多く大きく重過ぎる。  瞬時の判断で、俺は脇差を鞘に納めた。  そして体内の熱量を掻き集める。 «御堂!?» 「〈電磁擲刀〉《レールガン》!  やれるな、村正!?」 «――――諒解!»  未だ足腰が立たず、斬り掛かる事のできない現状では、これが唯一の方途だった。  電磁刀術の第三法。鞘に納めた脇差を、磁気反発を利用して〈射出〉《・・》する。  何者であれ回避は不可能。  いや一度だけ、超常の速度まで到達した騎体に回避された経験があるが――あの真似を茶々丸が成し得るとは思えない。通常は反応すら無理だ。  狙うは足元。  直撃させねば致命傷になる事はない。しかし着弾の衝撃波は甲鉄の守護をもってしても完全には防ぎ切れないであろう。  それなりの〈損傷〉《ダメージ》は受けるはず。  その隙にこの場を突破し、天守閣へ向かうのだ。 「……そう来るかぁ……」 「…………」  今、勝敗を定めるのは術を組み立てる早さだ。  先に完成させた者が勝つ。  俺が熱量を作り村正がそれを磁力に変換、その磁力を俺が扱い村正がその補助をする――工程は最上最速を極めなくてはならない。  だが精緻さも重要だ。  多大な〈力量〉《エネルギー》を生じさせ運用するこの術式、制御法をしくじれば血管破裂程度では済まない。  巧遅ではなく拙速でもなく、巧かつ速を突き詰める。  左腕の動きがままならないのはやはり負担だった。  言わば〈砲身〉《・・》である鞘をうまく支えられない……抜刀そして投擲を確実にこなせるか、若干の不安がある。  それでもやらねばならない、が、 «――» 「――」  礼を述べる手間は省いた。  今は無用の事だ。  左手の不安は、これでほぼ無い。  掌と鞘が磁力で接合されている――握力不足の補いになる。  後は陰義を完成させるのみ! 「――――」 「――――」  俺の方が、    早い――――――か!! 「〈電磁擲刀〉《レールガン》――」 「〈呪〉《カシリ》」  ……術は完全な形で行使された。  敵騎の陰義は襲って来ない。  つまりは――企図を遂げた。 「……ぬっ!?」  茶々丸がいない。  まさか、直撃した……?  いや、だとしても破片も残さず消え失せるのは妙だ。  茶々丸が立っていた地点には、電磁擲刀の着弾跡であろう、いびつな〈擂鉢〉《すりばち》状の穴が出来ているのみ。  他には何もない。  ……何処に行った? «あそこ!» 「!」  村正の示した方角へ兜を向ける。  そこに――いた。着弾の瞬間に跳躍したのだろうか、大きく距離を置いて立っている。  ……どういう意図であろう。  陰義の勝負をやめ、直前に退避した。  それはわかる。わかるが。  何の益がある?  確かにこちらは電磁擲刀を無駄撃ちした格好だ。  とはいえ茶々丸も術を完成寸前まで練り上げていた。そこから陰義を放棄しても、既に消費した熱量を取り戻せるものではない。  つまり消耗はお互い様。  戦力比は全く変移していない。  茶々丸の行動は本当に無意味……  としか思えない、が………………? 「あての勝ちかな」 「……」 「悪知恵勝負じゃ分が悪かったね、お兄さん。  こちとら堀越公方足利茶々丸」 「〈裏技〉《・・》はお手の物ですよ。  ……じゃっ」  言い捨てて、茶々丸は駆け去ろうとする。  踵を返し、俺に背を向けて。  逃げる……? 「――――」 「――ちッ――」  違う!!  図られた。  完璧に騙された。  茶々丸は無理を押してまで俺と決戦する必要はない。  時間が過ぎ去り、鍛造雷弾を積んだ船が普陀楽上空へ現れればそれで勝利を得られる――  そこまでは俺も承知していた。  だから一か八かの陰義勝負を避けた事にも実は納得ができなくはなかった……無難に時間を稼げればそれで良かったのだと。余りに消極的だとは思うものの。  だが違った。  もう一つある事に気付かなかった。  茶々丸は俺を倒す事と時間を稼ぐ事の他にもう一つ、〈勝ち筋〉《・・・》を持っている! 「殺す気だ」 «……え? 誰を?» 「足利邦氏をだ!  彼が死ねば、鍛造雷弾投下を阻止する方法は無くなる!」 «……あ……!»  茶々丸の行く手には天守閣。  間違いない。  追わねば! 「ッ……!?」  足が崩れる。  力が――入らない。  茶々丸の陰義の余韻がまだ残っているのか。  それに加えて、電磁擲刀による熱量の消耗が響いている……!?  これが狙いだったのか!!  全ては茶々丸の計算の内か!! 「くっ……おおお!!」 「吉野御流合戦礼法――」 「〈剔抉〉《テッケツ》!」 「〈花櫛〉《ハナグシ》!」 「〈酸漿〉《カガチ》!」 「〈釈掌〉《シャクショウ》!」 「……良い! 流石は名にし負う六波羅衆。  いずれも見事な武者ぶりぞ!」 「だが惜しいかな、光に一太刀浴びせるには至らぬ……。  怯むまじ。奮うべし! 我こそはと思わん〈武士〉《もののふ》、光の前へ出て来られい!!」 «こ、こんなことが……  あっていいのかァァァァァァァァ!!» «これだけの数で掛かって、傷の一つもつけられんとは……» «……銀星号……!!» «だが。  囲い込み、足は止めた――予定通りに» «うむ» «母艦は?» «準備完了!» «よし、散れッ!!» 「……む?」 «墜ちろ、化物!!» «……命中!!» «仕留めたかっ!» «摩天蛟の主砲を浴びて形を保っていられるものはこの世に存在しない。  それが白銀の魔王、銀星号でもだ!!» 「ふむ。  その論、誤ってはいない」 「もしも光がその兵器に全く無知であったら、この身は砕かれていたやもしれぬ。  それほどの威力はあった」 «――――» «か、  片手で……受け止めた?» 「光は江ノ島で同じ物を賞味しているのでな。  あれが波を飛ばす兵器であることも、波を打ち消すにはどのような〈体術〉《わざ》が適するのかも心得ている……」 「光に打撃を届かせた武略は一流であった。  しかしあと一つ、運が不足していたか」 «……どうしろってんだ……» «南無八幡大菩薩!!  〈こんなもん〉《・・・・・》、どうしたらいいっ!?» 「ふっ!」 「〈天座失墜・小彗星〉《フォーリンダウン・レイディバグ》!!」 «摩天蛟ぉぉぉぉぉぉぉっっ!?» «あ、あぁ……母艦が……» «六波羅の希望が……沈む…………» «……嘘だろ……?» «かぁさま» «かぁさま» 「この華を見て疼くか?  我が子ら――最も強猛なる八騎よ」 「戦いを欲するのか。  生命と生命の覇権争奪を」 «かぁさま!» «かぁさま!» 「ならば〈征〉《ゆ》け!!」 «……八幡大菩薩……  これが……六波羅の定めなのか……» «力で時代を制覇した我々が――  更に上回る力で、虫けらのように» 「…………」 «御堂» 「何か」 «大物が近付いておる。  なかなかの劒冑。おそらく仕手も凡俗ではあるまい» 「……ほう?」 「六波羅古河公方にして大和竜軍中将を拝命する遊佐童心入道。  白銀の流星現ると聞き及び、年甲斐もなくしゃしゃり出て参った」 「名高き古河中将どのか!  これはこの光、不覚にも見誤った」 「おぅ、何者と思われたか?」 「老体と見えて敏速なる騎航。  かの黄漢升に違いあるまいと見定めたのだが――」 「はぁっはっはっはっ!  これはしたり、これはしたり」 「よもや銀星号殿に世辞を言って頂けるとは思わなんだ!」 「光は世辞を好まぬ。  円滑な人間関係の構築のため必要な場合もあろうが、今がそうだとは思っていないぞ」 「申されまい申されまい。  この生臭坊主、人から褒められることには不慣れでござるゆえ、恥ずかしゅうて図体の置き所がなくなり申す」 「されば重ねては言うまいが。  して古河中将どの、御用の向きは?」 「うむ……  まずは問答を一つ願おうかの」 「人の姿をした災いと呼ばれ、まさに大災禍を天地に振り撒いておられる銀星号殿。  貴殿の望みは奈辺にありや?」 「その問いならば答えは易い」 「天下布武!!」 「おぉ……。  武を以て天下の主となるが望みでござるか」 「然り」 「正しき武の法を天下に布く。  その法に則り、万人と武を競い、頂へ至るが光の望むところ」 「正しき武の法とは?」 「殺法。  死法。  凶法。  祝法」 「〈対手〉《あいて》を求め、戦い、勝ち、殺す。  対手を求め、戦い、破れ、死す」 「而して競い合い、最強の一者を決する!」 「……うぅむ」 「正しい」 「ぐぅの音も出ぬわ。  それこそ武の、武器の、武人の――正統にして真実であることを誰がどうして否定できようか」 「武は殺し合いの為にあり、〈しからば〉《・・・・》、殺し合わねばならぬ。  正しく純一に武を追えば、その簡素にして明瞭なる真理へ行き着くほか無い!」 「まさに」 「武が正しく在れば、世は争乱に満つるべし。  世に和平を布くのであれば、武は全て滅ぶべし」 「いやァ、はっきりしておるのう!  偽善も虚飾も屁理屈も、何もござらん!」 「この童心坊、感服いたした」 「ならば、如何される?  古河中将どの」 「武は今ここに〈二つ〉《・・》、存在する……」 「うむ。  ……正しき法に従うしかござらんのう」 「気の進まぬげな口上は耳に可笑しい。  元よりそのつもりであられたろうに」 「ふっふぅ……」 「来ませい!  いざ、尋常に勝負!」 (さぁて) (どうもこの姫、予想以上) (悪徳大師童心坊も、ようやく年貢の納め時、か……) 「しかァし!」 「納め時に踏み倒してこそ、婆娑羅者の面目躍如というものよ!  やってくれねばなるまいて!」 「間もなく鎌倉です!」 「そうか……。  投下の用意は出来ているな?」 「はっ、問題ありません。  当該騎体は既に爆装を終えて射出口で待機しています」 「ならいい」 「…………。  キャノン中佐」 「何だ?」 「我々の目的は、達成されるのでしょうか」 「……」 「ああ。  やるさ、ガーゲット中尉」 「大和を奪り、女王と戦い、故郷を解放する。  あの広大な大陸で待つ同胞達のために」 「……」 「そして今は亡き同胞達のために。  ウィロー少将……それにガーゲット少佐」 「君の兄の勇敢な死に応えなくてはな、中尉」 「……はい」 「……ん?  何だあれは」 「中佐殿、何か?」 「地上の様子が変だ。  あれは……友軍か?」 「まだ撤退していないのか!?」 「…………」 「中尉、地上と連絡を取れ。  至急だ!」 「はッ」 「中佐殿……」 「どうだ」 「普陀楽城周辺は混乱しています。  ……あの〈銀星号〉《シルヴァー》が出現したらしく」 「何だと!?」 「その影響で、我が軍の撤退は完了しておりません。  銀星号が原因と思われる狂乱状態の渦中に巻き込まれています」 「…………」 「何を迷うのだね?  キャノン中佐」 「教授……」 「さ、鍛造雷弾を投下する時だ。  発令したまえ」 「……スラップスティックコメディをやる気はありませんよ」 「僕にもないね」 「味方の頭の上に爆弾を落とせと?」 「必要な犠牲だ」 「必要と言い切るには、議論が足りていないと思いますが」 「そうかな?  試してみようか」 「いま鍛造雷弾を使えば六波羅を撃滅できる。  大和の民は我々に畏服し、我々は大英連邦に挑む足場を獲得する」 「今が好機。  次の機会はいつやって来るかわからない」 「――さて。  論議の余地があるかな?」 「…………」 「中佐、するべき事はわかっているはずだよ。  無駄な時間を費やすのは止そうじゃないか」 「私はあなたと違って凡人なんです。  そう簡単には真実とそうでないものを割り切れませんよ」 「普段なら悩むのもいい。納得のゆく結論が出るまで考え抜くのもいい。  しかし今は決断の時なのだ」 「軍人ならわかるだろう」 「……生憎、戦場で味方を爆撃してでも目的達成に固執するべきなのかという問題に取り組むのはこれが初めてでして」 「地上に我々の味方などいない。  あれは連盟軍。大英連邦の手先だよ。そうではないか?」 「その中に、〈同胞〉《・・》もいるんですよ」 「必要な犠牲だ!  わからないのか、君ほどの男が!」 「…………」 「つまり無垢な少女のパンツを脱がすことは至上の悦楽だが、しかし、その悦楽を味わうためにはまず苦渋を飲んでパンツをはかせなくてはならない! そういうことなのだ!!」 「ますますわからなくなりましたが」 「うぅぬ、手を焼かせる男だな!  中佐、君はウィロー少将の最期をもう忘れ去ってしまったのか!?」 「……」 「彼の遺言を忘れたのか!  君に頼むと、そう言っただろう!」 「彼の悲願を踏みにじるつもりかね!?」 「ウォルフ教授」 「さあ、君のなすべきことは一つだけだ!  直ちに命令を下すのだよ!」 「……」 「……」 「素敵なライターだね。  でも、僕は煙草をやらないんだ」 「それは健康的でよろしい。  是非そのまま、健康的な態度をとり続けて下さい」 「この素敵なライターは使い方をひとつ間違えるだけで、大変に不健康な結果を招いてしまうので……」 「…………」 「どうしても……  そう、〈どうしても〉《・・・・・》」 「鍛造雷弾を落として欲しいと仰るのなら、まずはその真意を明かして頂きましょう。  それが筋道というものではありませんか?」 「何を今更、君は言うのかな。  すべては大英連邦の傲慢なる支配に拒絶の鉄槌を加えるため――」 「教授」 「あと一度だけ、同じ質問をします。  返答が変わらなかった場合……残念ですが、不健康なお体になって頂きますので。どうか慎重にお答え下さい」 「…………」 「あなたは鍛造雷弾の使用にこだわってきた。  そう、勝利ではない。戦果ではない。政治的意義ではない……ただ雷弾を普陀楽に投下するというその行為にのみ執心していた」 「そのために我々に近付いた」 「キャノン君……どうも誤解が」 「ウォルフ教授。  覚えてらっしゃいますか……」 「開戦前の、横浜での会話を」 「……?」 「いえ、〈勝てない〉《・・・・》可能性すらあります。  負けるとまでは言わずとも。こちらが企図する、敵軍主力の早期撃滅を果たせない恐れがあります」 「苦戦する、と?」 「ええ」 「そうだな……」 「好都合ではないか」 「……何ですと?」 「戦況が不利になったら、それを口実に鍛造雷弾の使用許可を求めれば良いのだ。  連盟本部も大規模な増援を派遣するより、お手軽な方を望むだろう」 「……教授。  少し、無謀が過ぎませんか?」 「いや……いや!  そう決め付けたものでもないぞ、キャノン中佐」 「あなたはあの時――  〈好都合〉《・・・》だと言ったんです」 「……何が好都合なんでしょうね?  通常兵力による関東侵攻を選択した我々にとって、最良の結末とは、作戦が順調に運び最低限の損害で普陀楽を陥とす事です」 「苦戦に陥り、鍛造雷弾を使わねばならない状況にまで追い込まれる事が、好都合であるはずがありませんよ」 「――――――――」 「好都合なのは〈あなた個人〉《・・・・・》だ。  そうなんでしょう、教授?」 「どんな理由でか鍛造雷弾を絶対に使わなくてはならないあなたにとっては、我々の苦戦こそ望ましい。  そうなるよう、努力もなさいましたか?」 「六波羅に情報を流すとか……」 「…………」 「答えて頂きましょう。  ウォルフ教授、あなたの目的は何です?」 「…………」 「…………」 「最後の審判を仰ぐためですよ。  キャノン中佐」 「……ガーゲット中尉……」 「迂闊な真似はなさらないでください。  小官のライターも不健康な代物です」 「君はウォルフ教授の仲間なのか」 「ええ」 「真実を求める同志、といったところかな」 「……それは違いますよ。  小官は――俺はもう、単に疲れたんです」 「疲れたんですよ、キャノン中佐」 「中尉……」 「大和を占領して、どうなるんです。  次は大英連邦相手に果てしない戦争をやるんでしょう」 「いつ終わるかわからない。  勝てるかどうかもわからない、戦争」 「もう……うんざりなんですよ……」 「…………」 「だから、故郷の解放を諦めるのか?」 「代償は金か、それとも別の何かか、それは知らないが。  この怪しげな髭男に誇りと仲間を売り渡し、のどかに余生を過ごすと?」 「…………」 「あのジョージの弟だ。もう少し気概はあるとみていたんだがな……。  まさか女王に本心から屈服しても構わないと思っているとはね」 「見縊らないで欲しい。  女王に頭を下げたりはしません」 「だが戦うのはやめて、どこか南の島にでも逃げたりはするのか?」 「いいえ。  戦いますとも」 「大英連邦に裁きは与えますとも」 「それは素晴らしい。何百年後にだい?」 「今日のうちに」 「…………」 「……」 「最後の審判とか言ったな」 「ええ」 「最近の若者のジョークには疎くてね。  おじさんにもわかるように説明してもらえないか」 「構いませんがまず、鍛造雷弾の投下を。  ご明察の通り、我々はそれを求めているのです」 「自分でやったらどうだ?  見たところ上官の頭に銃を押し付ける遊びで忙しいようだが、実は俺も学術顧問を相手に同じ遊びの最中でね」 「中佐……!」 「神を呼ぶのだよ」 「…………教授?  何と言われました?」 「神を呼ぶのだ。  我々の世界に」 「神の前ではあらゆる虚偽が剥ぎ取られる。  人類はその罪を、業を……すべての真実をさらけ出し、正にせよ負にせよ、価値を定められることになるだろう」 「…………。  私の知っている神様というやつは怠け者で、なかなか人間の前には姿を見せて下さらないはずなんですがね」 「うむ。神はこの数千年、地底の寝室で寝てばかりだ。〈高鼾〉《たかいびき》でね。  神を大いなる父として崇め奉りたい我々にとって、あまり理想的なお姿とはいえない」 「そろそろシャキッとして頂こうと思うのだ。  まずは寝床から叩き起こし、外に出て日光を浴びてもらわねば」 「…………」 「誤解だといいのですが」 「うむ?」 「あなたはもしかして、〈実在する〉《・・・・》神を地上へ降ろすと言いたいのですか?」 「ああ、そうだ」 「……………………」 「そのために鍛造雷弾という特大の鐘を打ち鳴らすのだよ」 「申し訳ありませんが、教授。  全く理解できません」 「人知の理解を超える所にも真実はある。  そういうことだ」 「神秘主義者の常套句ですな」 「その一言で思考停止するべきではない。  君は考え、そして認めた方がいい」 「はぁ。地底の神とやらを?」 「うん。  君はずっと見過ごしていたガーゲット中尉の背信を、今ようやく事実として認めているだろう?」 「それと同じことさ」 「…………」 「君は僕の知る中で最も明敏な人物の一人だ。  ああ、ハイドリヒ君を思い出すよ……」 「しかし完璧な知性の所有者ではない。  かの〈親衛隊〉《SS》大将ラインハルト・ハイドリヒもやはり完璧ではなく、テロに斃れたように」 「何が仰りたいので?」 「君が気付いていない真実についてさ。  ……ガーゲット中尉だけだと思うかね?」 「――――」 「君はGHQの各部署へ新大陸独立派の仲間を密かに送り込み、権限を掌握しただろう?  同じことを僕がやっていたとしたら不思議かな?」 「何ですと……」 「もちろん簡単ではなかったがね。  しかし中尉の兄――ジョージ・ガーゲット少佐の死後は、さしもの君も足元への注意がそれまでよりおろそかになった」 「その隙に〈僕の仲間〉《・・・・》が潜り込んだ。  君の組織の中に」 「…………」 「決して多数ではないが……  必要な時に必要な働きができる程度の数はいる」 「〈この船の中にも〉《・・・・・・・》」 「今この時、必要な間だけ、船の機能を奪い取れる程度の数は……」 「…………………………」 「さて。  キャノン中佐」 「僕はこれから、質問と要求をする。  〈是〉《イエス》か〈否〉《ノー》で答えてもらおう」 「……どうぞ」 「君は多くの、大切なことを見落とした」 「〈是〉《イエス》」 「君は完璧ではなかった」 「〈是〉《イエス》」 「君は敗北した」 「……〈是〉《イエス》……」 「では、我々に協力してくれるかな?」 「〈否〉《ノー》」 「…………」 「教授、私は敗者です。  そしてあなた方は勝者ではない」 「何故かな?」 「単なる一般論ですよ」 「神に祈る者、神を敬う者、神を知らぬ者、神を罵る者が勝者になった例はある。  しかし、神に〈縋る〉《・・》者は常に敗者だ」 「……っ……」 「そうか……」 「ウォルフ教授。  私からも最後に一つ、構いませんか」 「これまでずっと言いたくてたまらなかったことがあって……」 「何だい?」 「この狂人が」 「〈是〉《ヤー》」  生まれてから最初の三年は幸福だった。  皮肉に見れば、後の不幸の伏線だったのだが。  関東辺境の山村。  そこで暮らす名無しの子。  養い手はいたが、その老夫婦と子の間に血縁は全く無かった。  老夫婦は聖人君子ではなく、普通の人間で、つまり人並み程度の親切心は持ち合わせていた。  何の理由でか預かった無縁の子を、隣の家の子供にそうするのと同じ程度には可愛がった。  名無しの子は侘しい山村で、静かに貧しく穏やかに暮らした。  幸福だった。  その三年間だけは。  生まれて四年目、家を強盗が襲った。  二人組の強盗はまず老夫婦を殺し、次に名無しの子を捕まえて刃を押し当てた。  名無しの子の幸福は溶けて消えた。  代わりにいくつもの不幸が襲った。  養い親を殺されてしまったこと。  自分もまた殺されそうになったこと。    そして、〈殺してもらえなかった〉《・・・・・・・・・・》こと。  眠っていた本性を目覚めさせ、生き延びてしまったこと。  急激な変貌を遂げた〈世界〉《・・》に苛まれながら、名無しの子は強盗を殺した。  根拠のない力で二人の腕を千切り取り、背骨をへし折り、首をねじ切った。  名無しの子は死ななかった。  村は、悲劇の中で唯一生き延びた子を哀れむことはなかった。  むしろ不気味がり、恐れ、追い出そうと考えた。  名無しの子は抗わなかった。  村人に追い立てられる前に、進んで村を出た。  出て行けと、村の誰かが子に告げたのではない。  面と向かって言われなくとも、村中でそう囁かれているという事実を、名無しの子は知ることができたのだった。  名無しの子は町へ向かわず、山野奥深くへ潜んだ。  子は、人が恐ろしかった。  人がいれば、人の声が聴こえてくる。  耳を塞いでも。怒涛のように押し寄せてくる。  人里から離れれば、人の声は少しだけ遠くなる。  けれど。  ひとつの声だけは、何処に逃げても、小さくなってくれなかった。  地の底から響いてくる声。  名無しの子は眠れなくなった。  何日も何ヶ月も、覚醒したまま過ごした。  どうしてか、死ぬことはなかった。  だけど辛かった。  生まれて最初の三年間、静かに幸福に暮らしていた頃のことを子は覚えている。  眠りの安らぎを覚えている。  それをもう得られないことが、辛い。  いつまでもいつまでも辛かった。  名無しの子は眠れず、死ぬこともなかったから。  時が流れ。  名無しの子は、子を長いこと探していたのだという人々に出会い、再び人里へ連れて来られた。  大きな館の中で、洗い清められ、煌びやかな着物を与えられた。  そして、優しい目をした立派な男がやってきた。  彼は名無しの子を抱き締めて、言った。  自分が父親であると。  蝦夷の女との間に名無しの子を生ませたが、母親はすぐに死に、子はわけあって手放さねばならなかった。  山村の老いた夫婦の家に預けておき、いつか時期が来たら引き取るつもりだった。  しかし老夫婦の家は盗賊に襲われ、子は行方知れず。  心配した、探したのだぞと、父親なる男は落涙しながら子に告げた。  ――だが娘よ、もう離しはしない。  これからは親子一緒に暮らそう――  ――まずは、名を――  名無しの子は、茶々の名を与えられて、名無しの子ではなくなった。    堀越足利家の一粒種、茶々姫さま。  豪壮な館。  綺麗な服。  美味しい食事。  何人もの家臣。  けれど。  名無しではない茶々姫さまは、山野に隠れていた頃と同じように、やっぱり幸福ではなかった。  だって、聴こえていたのだから。 『殿!  まさか本当にあの半蝦夷を後継ぎになさるおつもりですか?』 『愚かなことを訊くな。  あれは繋ぎだ、繋ぎに過ぎん』 『跡継ぎが流行り病で死んでしもうたからな……このままでは我が家は廃絶する。  畜生同然でも我が子は我が子、手元に置く必要があったのだ』 『そこまで焦らずとも……』 『戯け! あの忌々しい護氏めが虎視眈々とわしの隙を窺っておること、忘れたと申すか。  堀越家に子が絶えたのは奴にすれば格好の攻撃材料よ』 『次男坊あたりを養子に押し込んできかねん』 『はっ、確かに――』 『ふん……そんな理由でもなくば、わしとてあんな妙な餓鬼を引き取るものか。  あれは出生からしておかしいのだ』 『気まぐれで手をつけた虎徹の女門主が孕みよったので、面倒が生じる前に我が身を鍛造して〈劒冑に成れ〉《・・・・・》と命じたのだがな。  どうしたわけか、出来たのは赤子』 『蝦夷どもはそれを、二八代目虎徹入道興永だと――劒冑だと言い張って寄越してきたが。  全く気味の悪い話よ』 『それで、辺境の村に追いやられたので』 『事情も話さず押し付けてきたのだ、粗略にされてすぐに死ぬだろうと思っておった。  それが三年経って念のために調べてみれば、何の悪運かしぶとく生き延びておる』 『鬱陶しくなって刺客を放ったのだが……  これが仕損じてな』 『何と』 『あの餓鬼、生まれが生まれだけに妖しい力でもあるのかもしれん。  くっ、わしの種からそんな魔物が出来たかと思うと心地が悪くてたまらぬわ!』 『しかし殿……それは今にして思えば幸いでございましたな。  殺し損ねたからこそ、御家を救う役に立てられるわけで』 『うむ……。  だが、あくまで繋ぎ』 『次の子が生まれたら、あれは今度こそ始末せねば』 『ははっ』  ……聴こえていた。  何もかも聴こえていたのだ。  歳月が過ぎ去り。  六波羅が大和を制し、堀越家は堀越公方となって。    茶々姫の父は、待望の子を得た。  その夜、祝宴が張られる中、一人遠ざけられていた茶々姫は突如襲われ館の外へ連れ出された。  以前の強盗――を装った刺客――と違い今度のそれは屈強の武者で、茶々姫の力も及ばなかった。  ……元々、抵抗する意欲も無かったのだけれど。  茶々姫は自分の運命をとっくに知っていて、諦めていたから。  人気のない深夜の川原で、砂利の上に引き倒され、首に刃を当てられる。  あの時と同じだと、茶々姫は思った。  あの時に殺されていれば良かった。  おとなしく死んでいれば、何も苦しまなくて済んだ。  そう思った。  ――でも、これでおしまい。  おしまいの、      はずだった。 『……ふむ。  まぁ、人には色々な事情があるのだろうが』 『夜闇の中、劒冑持つ者が無抵抗の女を殺しかけている図というのはどうにも興を欠くな。  武者よ、そんな無粋な遊びはやめておれの相手を一差し務めてみてはどうか?』  天から降りてきた白銀のひと。  月のかけらが生命を得たかのような。  ――姫だ。  茶々姫はそう直感した。  その名を押し付けられただけの自分とは違う、本当に貴いひと。  白銀の武者の方でも、茶々姫を見定めたようだった。  そして一言。 『なんだ、負け犬か』  …………。 『つまらん眼をしている。  どうせさっさと死にたいとか考えているのだろう』 『死んでも楽にはならんのに。  死は〈停止〉《・・》だぞ? 絶望して死ぬ者は、絶望に沈み続けるのだ。いつまでも』  …………。 『おまえのようなやつにこそ、武の法を叩き込んでやりたいが……。  どういうわけか〈汚染波〉《なみ》が効かぬらしいな』 『こんな負け犬を殺しては光の武の穢れ。  といって放置してゆくのも、満天下を制覇せんとする者の行動ではない』 『……むぅ。どうしよう。  この負け犬、始末に困る』  …………。 『やんぬるかな。これも何かの縁。  負け犬の娘よ、お姉さんが人生相談の相手をしてやろう』  ……相談? 『うん。さあ言え。言ってみろ。  おまえはどうしてそんなにもどうしようもなくみっともなく恥ずかしげもなくヘタレているのだ』  …………そんなに酷い? 『来年度の全世界挫折選手権に出場するため特訓中なのかと思えるくらいにはな』  …………。  ……辛い……から。 『何が?』  ……声が――  人の声が鳴り止まない。  地の底の獣の雄叫びは耳をつんざく。  いつも、いつも、響いている。  だから……辛い。安らげない。 『すまない。  綺麗さっぱり、全然わからん』 『だがそれは耳栓とかで何とかならないものなのか?』  ……無理……。 『医者でもだめか?  耳鼻科とか、あと考え無しに人に勧めると侮辱と受け止められてしまうことが多いので注意が必要な病院とか』  ……うん……。 『なるほど厄介だな。  しかしそれなら、元を断てば良いだろう?』  ……元を? 『何か知らぬが、おまえの耳元で騒いでいるやつらがいるわけだ。  そいつらを全員抹殺すれば静かになる理屈ではないか?』  …………無理だよ。 『なぜ』  ……一人二人じゃ済まないもの。  この伊豆に住む人をみんな殺さないと、声は消えてなくならない。  ……それでも足りないかも。  大和に住む人をみんな殺さないと静かにならないのかも。  ……それでも足りないのかな……。  世界中の人をみんな殺さないと、この声はなくならないのかな……。 『そうか』 『なら、殺したらいい』  ……………………。 『ん? どうした。  おれは何か変なことを言ったか?』  ……すごく。 『どうして。  世界中の人を殺さないとおまえは楽になれないのだろう?』 『なら殺す。  単純な話だ。三段論法ですらない』  …………その中には、あなたも含むと思うんだけど。 『そうか。決戦だな』  …………。 『しかし奇遇。  実は、おれもおまえと同じだ』 『世界全てと戦い、打ち倒さねばならぬ』  ……なぜ。 『愛を得るため。  この光は人を超え、神の座に至らなくてはならぬ』 『そのために全人類と戦って勝つ』  ……綺麗さっぱり全然わからない。 『おまえ、実は執念深いだろう』  …………。  ……どうして、戦えるの。 『どうして?』  ……戦えるわけ、ない。  世界全てとなんて……。 『……ふん……』 『逆におれが訊こう。  どうして世界とは戦えない?』  ……だって。 『だって?』  ……世界だもの。 『負け犬め』  …………。 『なぜ諦める?  相手が世界だから? 全ての人類だから?』 『それがどうした。  そちらが全世界全人類なら、おれは一個の湊斗光だ!』 『対等の勝負を挑んでいけない理由があるか』 『戦う前から降伏して、望みを諦めなくてはならない理由があるか!!』  …………。 『一つだけ教えてやろう。  とても簡単なことだ』  …………。 『〈戦うことは誰にでもできる〉《・・・・・・・・・・・・》!』 『敵がどれほど強く大きくともだ。  勝ち負けや優劣は知らぬ。ただ戦うことは必ずできる』 『その意思があれば!』  ……………………。 『この理屈がわからんなら、おまえは骨の髄から負け犬だ。  手の施しようもないな』 『だが……本当にわからんか?』  ……戦うことは誰にでもできる。  敵がどれほど強大でも。  戦いを挑むことは、できる。  ……その意思があれば。  〈その意思があれば〉《・・・・・・・・》!! 「ほ、堀越中将閣下!?  お待ち下さい、これより先は――」 「げ……げべッ」 「…………」 (この……上か……) 「――茶々丸?」 「雷蝶……」 「こんな所で何やってるの。  軍は?」 「……それどころじゃねえだろ。  チャーハン作ってる最中の中華鍋みたいになってんだぜ、城の中も外も」 「ええ……。  銀星号が現れたんですってね」 「〈邦氏〉《ときおう》の身が心配だ。  様子を見に行くから、そこ通せよ」 「そうなの?  わかったわ」 「茶々丸」 「何だよ」 「あなた、劒冑を持っていたの?」 「……ああ。  まぁまぁ悪くねえだろ?」 「そうね。素敵よ。  三本爪なんて珍しいじゃない」 「ありがとよ。  じゃーな」 「ねえ茶々丸」 「……急いでんだってば」 「麿の劒冑はどう?」 「膝丸か? ご立派だよ。  〈護氏〉《おじじ》の鬚切と並ぶ源氏の至宝って呼ばれるだけのことはあるな」 「ウフフ、ありがとう」 「もういいか」 「ねえ、茶々丸?」 「…………」 「あなたは知っていたかしら。  お父様の鬚切と麿の膝丸は〈対〉《つい》の品――」 「〈片方が傷を負うと〉《・・・・・・・・》、〈もう片方は同じ場所に〉《・・・・・・・・・・》〈痣が現れるのよ〉《・・・・・・・》」 「…………………………」 「あの日」 「あの忌まわしい奉刀参拝の日」 「膝丸の胸に、現れたの」 「この……三本爪の傷痕がね!!」 「……はは……」 「茶々丸」 「あは、ははははは」 「茶々丸ゥ!!」 「ッしゃァァァァァァ!!」 「こんなもので」 「この今川雷蝶を」 「倒せると思うかァ!!」 「……か……」 「かは……ッッ……」 「……フン……」 「四郎の所に行くと言っていたわね」 「…………」 「謀叛人!  お父様の次は四郎ということ?」 「……」 「させるものですか。  おまえはここで死になさい!」 「……へっ……」 「へへ……」 「何がおかしいの」 「……時王のやつ……  〈まだ〉《・・》……無事、かな……?」 「……!?」 「ほんとは、あてが行くまでもない……  もう……〈終わってる〉《・・・・・》はずだ……」 「へ……へっ。  力じゃ、勝負にもならねえけどよ……雷蝶。性根の悪さは……やっぱ……あての勝ち、だ」 「おまえ、何を――」 「あは……」 「縁結び……かな?」 (…………) (戦いの音が、ずっと途絶えない……) (まだ遠い。  けれど、近付いている) (これは……破滅の響き) (…………) (……滅びるのか……) (六波羅が) (お爺さまの創った六波羅が) (…………) (いや) (滅びるべきなんだ) (六波羅は……〈悪しきもの〉《・・・・・》だ……) (……この、僕も……) (…………) (滅びれば……いい) 「何だ、お前は!?  誰の許しを得てここへ来た!!」 「……?」 「――――」 「……あ……」 「ええい、下がれ下がれ!  逆賊の娘風情が、殿下の御前を汚しおって」 「下がらぬとあらば斬って捨てるぞ!!」 「待てっ!  構わぬ、お通しせよ」 「し、しかし、殿下」 「余が良いと言っている。  それにお前は異を唱えるのか?」 「…………」 「皆、下がれ!  余が呼ぶまでは戻るでない」 「……はッ」 「……」 「桜子どの……」 「……」 「桜子どの、その、今日は――」 「……」 「……」 (何を……) (何を言えばいいんだ) (何を言えるんだ) (この人に対して) (僕は、あの時……  何もできなかったのに) 「岡部の姫よ!  六波羅を語れい!」 「――外道ッッ!!」 「いかにも!」 「人非人ッッ!!」 「いかにも!」 「鬼畜! 悪魔!  地獄の底から来た〈奴輩〉《やつばら》!!」 「いかにもッッ!!」 (……何も言えない……) (言えるわけが、ない) 「…………」 「…………」 「――――!!」 「足利邦氏ッッ!!」 「……っ……」 「……」 「くっ、ぅ……」 (…………あぁ…………) (これで) (これで、いい) (これで……いいんだ……) 「まだよ!」 「……?」 「悪鬼の棟梁!  あなたにはすることがあるでしょう!」 「――――」 (悪鬼の……棟梁……) (そうか) (僕はもう、六波羅の長として――  悪鬼の王としてしか、この人の心のなかにいられないんだ) (なら) (ちゃんと) (僕は、悪鬼の王を) 「――」 「――」 「…………」 「…………」 「……お上手ですのね……」 「……ぁ……」 「……さくら……こ……」 「…………」 「…………」 「…………四郎…………」 「雷蝶様!  雷蝶様ぁーーー!!」 「……どうしたの」 「か、鎌倉上空に……  進駐軍の〈重飛行艦〉《ガレーキープ》が再び現れました!!」 「〈重飛行艦〉《ガレーキープ》が!?  間違いないの?」 「はッ!」 「今更……何をするつもりで」 «――御堂! あれ!!» 「!!」  気付いたのは、劒冑の指摘とほぼ同時だった。  廊下に倒れ伏している、小さな――――  それ。 「茶々丸!?」 「……やっ。  早いね、お兄さん」 「もうちょっと掛かるかと思ったんだけど」  茶々丸は負傷している。  軽傷ではない。重傷という表現も厳密には当てはまらない。  傷の深さ、大きさ、出血の量……  それらを勘案して、脳の醒めた部分が告げている。  これは致命傷だ。  武者の回復力をもってしても生命の流出を留められない、傷。 「どういうことだ……」 「最後の最後で、ヘマやっちまいました」 「誰にやられた!」 「雷蝶……」 「……小弓公方に!?」 「邦氏を殺しに行くところだってのがバレて。  やー、きつい一発もらいました」  おかしそうに笑う。  血の気の失せた唇を震わせて。 「ほんと……バカみてー。  いらんことして、地雷踏んで」 「想定外のアクシデントが多かったから……念には念を、のつもりだったんだけど。  裏目に出たなー」 「あて、本当は陰謀ってのにとことん向いてなかったのかもねぇ……」 「…………向いていなかったのだ」  腕の中で進む一個の生命の薄弱化を、どうしようもなく感じ取りながら。  考えず、想うままに呟く。 「きっと他にもやり方はあった。  あった筈だ」 「……あったのかな」 「例えば……  お兄さんに、一緒にいて欲しいって思ったなら――」  茶々丸が片手を伸ばす。  もどかしくなる程、それは遅い。 「力ずくで洗脳なんかしなくても。  こうして」  俺の指を、〈柔〉《やわ》く掴む。  一差し指、一本だけ。 「一緒にいて、って……  お願いすれば良かったのかな」 「そうしたら……聞いてくれた?」 「――――――」 「あは」 「でも」  茶々丸の手が離れる。 「あては……  力ずくで奪う方を、もう選んじゃったから」 「失敗したからって……今更、お願いなんかしないもんね……」 「……茶々丸……」 「来るよ」 「?」 「そら」  茶々丸が窓の向こうを示す。  俺は振り仰いだ――自分が〈間に合わなかった〉《・・・・・・・・》ことを直感的に悟りながら。  輝く小さな球体が、落ちる。  天頂から真っ直ぐに。白銀の騎体を目指して。 「――――」 «良き敵であったな。  同田貫正国か……歴史に名を残しただけのことはある» 「――――」 «御堂?  どうした、先程から上ばかり気に掛けて» «……ふむ。何かちょろちょろしておるな。  あれが気に障るのか?» 「――――」 「辰気収斂!!」 «……御堂!? 何をする!» 「備えろ、村正!  何だか知らんが」 「何だか知らんが!」 「恐ろしく忌まわしいものがやって来る!!」 «何ぃ!?» «…………» «な、何だ――〈あれ〉《・・》は!?» 「考えるな!  考えてもわからん!」 「最大の〈武力〉《ちから》で抑え込む!!」 «……承知!!» 「〈飢餓虚空〉《ブラックホール》――〈魔王星〉《フェアリーズ》!!」 「……あの渦は!」 «八幡宮で見せた――»  輝く球体に襲われた銀星号が、  あの黒い渦を創り出す……! «…………» 「…………」 «何と……» «この辰気の渦で、呑み込めぬものが!?» 「ぐぅ……ッッ」 (……これは)  無知性。  無知能。  無思慮。  知的活動が存在しない。  野生動物程度にも――昆虫程度にも――〝思考〟を行わない生命個体。  空疎。    ……空疎?  違う。  満ちている――満ち満ちている。  〈心〉《ココロ》がある。  知性の枠を〈嵌〉《は》められていない、原初的な心。  清純。  無垢。  透徹。  その豊かな心に触れる。  悪意。  悪意!  悪意!!  キライとか、ニクイとか。  コロシタイとか、コワシタイとか。  ウラメシイとかネタマシイとかメザワリダカライナクナレとか――――  そう言語化される以前の、  知性なき、    悪意。  白雉の悪意。  無にして全。  空疎かつ充溢。  あえて名付けるならば、               〈闇〉《ヤミ》。  〈無尽の暗黒〉《スラッシュ・ダーク》。  〈無罪の邪悪〉《スラッシュ・ダーク》。  〈善性の拒絶〉《スラッシュ・ダーク》。  〈悪意の宇宙〉《スラッシュ・ダーク》。  この前で何が意味を持つだろう。  命?  愛?  絆?  好き、という気持ち?             それが、           何なの? 「あ――か――」 «げっ、ぎッ、がががガガガガガガ» 「渦が……〈割れる〉《・・・》!?」 «そんな……  〈銀星号〉《かかさま》のあの術が破られるっていうの!?» 「…………」 「だ……駄目か!?  駄目なのかっっっ!?」  命は〈死〉《シ》に……  愛は〈刻〉《トキ》に……  絆は〈嘘〉《ウソ》に……  絶対的に敗北する。  愛は強いのかもしれない。  とてもとても強いのかもしれない。  けれど〈闇〉《ヤミ》は常に愛よりも一段階だけ強い。  だから必ず闇が勝つ。  最後には悪なるものが勝利を収めてしまうのだ。  必ず。 「――い――い――ア――――」 «〈銀星号〉《かかさま》が……負ける……» 「――――」 「神よ!」 「――お、――」 「乙女の一念、舐めるでないわ!!」  無駄……  無駄なのよ……  逆らっても無駄なのよ……  良きものは必ず滅びて、  悪しきものになるのだから。 「〈それがどうした〉《・・・・・・・》」 「愛は儚いかもしれぬ。  弱いものかもしれぬ。  移ろいやすいのかもしれぬ。  形のない夢なのかもしれぬ」 「だが、構わぬ!  光は永遠の愛など求めない」 「一瞬でいい」 「一瞬の真実さえ得られるなら――  この命には確かな意味があった!!」  ―――――――――――…………………… 「〈闇〉《ヤミ》よ。  貴様は〈最後に必ず勝つ〉《・・・・・・・》のだな?」 「ならば貴様の存在こそが、  かつて〈光〉《ヒカリ》が存在したことを証明する!!」  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――………………………………………。 「去れ、邪悪!!  貴様などお呼びではない。この世の果てでいつまでも、出番を待っているがいいッッ!!」 「……………………」 «……消え――» 「消えた?」 「…………………………」 「きょ、教授? 消えてしまいましたが。  鍛造雷弾も、銀星号も」 「違うよ」 「えっ?」 「消えていない。  〈極小の黒点〉《・・・・・》になった」 「限界以上に高められた重力によって、自ら崩壊したのだ……」 「…………」 「し、失敗したということ……ですか?」 「いいや」 「成功だ」 「重力の渦である黒点は、  〈地球中心方向へ向かって落下する〉《・・・・・・・・・・・・・・・》!!」 「……地上から光が……」 「……? これ……水……?」 「……おお……」 「……ひっ!?」 「きょっ、教授ぅ!  腕が――腕が腕が腕が」 「がっ、ガラスみたいに……  あぁぁ、足も!?」 「……素晴らしい……」 「この光……  神の命を宿した水……」 「劒冑の元素だ」 「……おお……  何もかもが水晶のように……」 「……〈金属の水晶〉《・・・・・》!」 「劒冑鍛造という過程を経ずに……  濃密な〈光水〉《みず》を浴びれば……このように……純粋に〈神の一部〉《・・・・》となるのだ」 「万物を結びつける〈神の愛〉《アガペ》!」 「やはり、そうか……」 「これが〈水晶の夜〉《クリスタルナハト》の真実だったのだ」 「英邁なる〈大法首〉《アドルフ》……  あれを神の啓示とみたあなたは正しかった」 「あなたを信じた僕は正しかった」 「僕の夢想、  神の推定は正しかった」 「見える」 「僕には見えるぞ、神!」 「宇宙の果てから訪れた金属の生命」 「あなたを理解したのはこの僕だ」 「あなたを導いたのはこの僕だ」 「あなたを冒したのはこの僕だ」 「このウォルフラム・フォン・ジーバスが、  地球に革世をもたらした!!」 「おお――――」 「新たなる世界よ!」 「新たなる時代よ!」 「黄金の夜明けよ!」 「ズィィィィク・ハァァァィィィイイイル!!」 «……何が起きてるの……» 「……〈光柱〉《はしら》が……幾つも……」 「…………」 «――御堂! 〈南方〉《あっち》!» 「相模湾か!?」  相模湾――  いやもっと先、太平洋上か。  一際長大な光柱が吹き上がっている。  高い。雲の上、更にその先へ。  まるで何かを天の〈涯〉《はて》まで押し上げるかのよう。 「……届いた……」 「何……?」 「届いたんだ。  御姫は……神の座に」 「…………」 «…………» «あ……あぁ» 「村正?」 «そ、空に……» 「……………………………………」 「た……太陽……?」  太陽が――――〈もう一つ〉《・・・・》。 「……夜明けだ……」 「……黄金の夜明けだよ……」  瀕死の茶々丸は良く〈保〉《も》ったが、元より致命傷を癒す〈術〉《すべ》など無い。  緩慢に死へ近付き……今、死に至ろうとしていた。  空を見たいという望みを容れて、外へ連れ出す。  今の普陀楽城内に人気は少ない。揉め事に出くわす不安はなかった。  茶々丸を松の根元に座らせて、俺も隣へ腰を下ろし、二人で空を見上げる。  村正は俺達から一歩離れて佇んでいた。  怪奇な天体は今日もそこにある。  人々の間では第二の太陽という呼称が定着していた。  それは外観のみに由来するもので、その実態に太陽との共通項はほぼ無い――引力を無視した運動をする、強い光を放つが熱は発していないらしい、等々。  自然的あるいは人為的に発生した一種の幻像という推測が、今は専門家の間で主流を占めていると聞く。  真偽を確かめるための本格的調査も各国で計画されている――が、現情勢下で実行は難しいだろう。 「あれは本当に光なのか」 「……うん」  衰えた声音で、しかし迷わず、茶々丸は認めた。 「あれは御姫で……地底の牢獄から解き放たれた神だよ。  どっちが食ってどっちが食われたんだかは、よくわからないけど」 「……」 「声が変わったんだ」 「声が?」 「聴かせたでしょ。あの糞っ垂れな神サマの雄叫び。  あれが……柔らかくなった」 「今は子守唄みたいに聴こえる。  ……これ、御姫の声だよ。きっと」 「…………」 「お兄さんには、聴こえない?」 「……いや」 「聴こえるような気がする」  空に第二太陽が現れて以来、ずっと吹き続けているこの風。  耳孔の中に反響する〈谺〉《こだま》は、どうしてか――どうにも銀星号の唄を思い出させる。  人を闘争の衝動に駆り立てる、あの恐ろしい唄を。 「この声は世界を包んでる。  みんなが……気付かずに、御姫の唄を聴いてる……」 「……だからか」 「だから、なのか」 「……」  茶々丸は答えない。  眼だけで、頷きを返してきた。  あの『神』の解放から、何週間何ヶ月と経ったわけではない。しかしこのごく短い間に世界各地で起きた激変は、過去の歴史の数年分、あるいは数十年分にも相当するだろう。  まず中近東では、長らく大英連邦に服属を余儀なくされてきた〈回教〉《イスラム》諸国家が蜂起した。  過去にもあった事である……だが何の前触れもなく、また国家間の連携もない突発的決起は異常であった。  やはり大英連邦の保護下にある大漢帝国では、宮廷内のクーデターと地方軍閥の反乱、更に民衆の暴動が一斉に勃発している。  皇帝は既に大英本国へ亡命したらしい。  イベリア半島でも反大英の狼煙が上がった。  盟主はフランシスコ・フランコ・バァモンデ将軍。軍人として名声高い彼に率いられた〈国土解放〉《レコンキスタ》軍は精強であり、戦況は大英側のやや劣勢で推移している。  またイタリア半島では〈統帥〉《ドゥーチェ》ムッソリーニが再起。  彼は先の大戦で死んだはずであり、その正体は限りなく怪しいと言うほかない――それでも多くの人間が彼の旗の下に結集し、祖国奪回の気炎を高めている。  まるで戦争をやる契機になるなら本物でも偽者でも構わないと考えているかのように……。  激変は大英連邦の本国すら例外としなかった。  厳格な階級社会の中で抑圧されてきた労働者階層が各地で暴発。資産家を襲うに留まらず、首都の王宮にまで押し寄せる騒ぎとなっている。  そんな大英連邦の混乱を見てなのかそうでないのか。  〈露帝〉《ロシア》の西方諸侯軍がポーランドへ侵攻を開始し、  アフリカ南部のトランスヴァール公国は、大英連邦とのダイヤモンド鉱山を巡る争いに決着をつけるためアフリカ総督府に宣戦……  オーストラリア総督府と、南洋先住民族の最後の砦であるアオテアロア同盟の間でも戦火が噴いた。  更に、大英連邦と直接関わらない地域――  南米大陸の二雄、ブラジルとアルゼンチンが開戦。  統一されていたインドネシア諸島が分裂。  タイとビルマの両王国は宿命的な抗争を再び始め。  ――――要するに。    地球上にあった戦争の火種が、連動してなのか独自になのか、〈全て〉《・・》発火して周囲を焦がしているのだった。  大和も例外ではない。  六波羅と進駐軍の戦いは惰性的に続き、これに各地の反幕勢力が介入し、更に幕府と進駐軍のそれぞれで内部分裂が生じ――争乱は混迷し拡大する一方である。  この全世界的激動は、一部の有識者が主張するような大英連邦を筆頭とする専制支配に対する現代人類の総合的拒絶意思の表れなどではなく、  ただ単に……〈一個の意思が望んだ結果〉《・・・・・・・・・・・》なのか。 「銀星号の精神汚染が世界全土を狂わせつつあるというのか」 「範囲が広いせいで汚染の進行は遅いみたいだけどね。  あと一週間くらいかな……」 「全人類が戦うだけの〈狂獣〉《けもの》になるまで」 「……」 「それは、人間世界が滅ぶという事だ」 「甲鉄で守られるから武者は残るよ。  とりあえず」 「本当に〈とりあえず〉《・・・・・》の事に過ぎないだろう。  武者のみで社会を維持できる道理がない」 「そうだね……」 「社会が崩壊して、死に絶えてゆくか。  それより先にみんな硝子の像になるか……どっちかだ」  硝子の像。    ……そう。それもある。  かの天体は、不定期に地上へ雨を降り注ぐ。  雨――その表現は正しいのかどうか。  〈液体のような光線〉《・・・・・・・・》。そんな奇妙な放出物である。  世界の各地を、これが襲った。  そしてそこにいた生物を――時には生物以外のものも変質させた。  硝子か水晶のように透明であり、しかし金属質でもある、奇妙な物質へ。  調査は進んでいない。その物質に触れた者は高確率で同様の変質を遂げるため、調べが困難なのだ。  そうして変質したものの生死さえ、現在はまだ判明していなかった。  ただ〝彫像〟となったものは生物的活動を停止する。  それは明らかな事実である。 「あれはやはり……死んでいるのか」 「〈金神〉《かみ》の仲間になり損なったっていうのか、なり切っちゃったっていうのか。  実際どっちなんだかはあてにもよくわからないけど」 「ま、生物としては死んだも同然だろうね」 「……あの〈光雨〉《あめ》も、やがて――」 「地球全土を覆う……。  やっぱり大して時間は掛からないと思うよ」 「…………」 「……世界が、滅びる……」 「このままなら、ね」  答案に赤丸を付けるような気安さと迷いの無さで、死に瀕した公方は終末予言を肯定した。  それはしかし、当然の事ではあろう。  この破滅を主導したのは他ならぬ、彼女なのだから。 「それで、どうする」 「うん?」 「お前達……緑龍会は。  念願叶って、神を呼び出した」 「それで、これからどうするつもりだ」 「さぁねぇ。  たぶん誰も、この先のことなんて考えちゃいなかったろうし」 「みんなこれで気が済んで、自殺でもしてるかも。  それとも今更後悔して、慌てふためいてるかな……どうもそっちのが多そうだ」 「……お前達は――」 「言ったでしょ。下らない屑の集まりだって。  その程度だよ、あいつらは……」 「あても、ね」 「…………」 「どうすれば止められる?」 「……世界の滅びを?」 「ああ」 「あれを壊すしかないだろうね」  指差すような声で――実際はもうその腕が動く事はなかった――茶々丸が天を示す。  それは単純な結論だった。あの天体が元凶ならば、あれを取り除く事で問題は解決するだろう。  しかし、方法が無い。 「……とても行き着けん」 「どう見ても成層圏越えてるもんねぇ。  武者の騎航で届く高さじゃない」 「コロンビヤード砲で撃ち出してもらうしかなさそうだ」 「月面まで行く気はない」  それ以前に〈空想科学小説〉《サイエンス・フィクション》の手法を試す気はない。 「……待ってればいいよ」 「待つ?」 「あれは――  御姫は必ず降りてくる」 「もうすぐ。  求めるものを、手に入れるために」 「…………」  降りてくる?  あの、天体が……? 「お兄さんは、待っていればいい」 「自分自身を整えて……」 「体調の事か」  茶々丸の双眼が俺を捉えた。  その――空洞化しつつある瞳。 「いい?  これはあてからお兄さんへの、最後の忠告」 「お兄さんは湊斗景明である限り、御姫には決して勝てない。  御姫は、湊斗光なんだから」 「……」 「お兄さんは無名の英雄になって。  世界を守ることだけが目的の……〈個〉《・》の無い。公の大義に従う武力行使者に」 「本当の英雄になるんだ」 「……俺は……」 「資格の有無なんていい。  それしかないんだよ。お兄さん」 「御姫を倒して、世界を救える方法は、それだけ」 「……」 「……いい?  お兄さん、間違えないで」 「これは足利茶々丸の」 「お兄さんへの。  この世界への」 「最後の――――呪いだ」 「…………?」 「……」 「……ふぅ……」 「茶々丸?」 「疲れちゃった」 「……そうか」 「はぁ。  世界……滅びるところ見たかったな」 「誰の声も聴こえない、静かな世界で眠りたかった」 「…………」 「まっ……いいか」 「うぜェ神畜生の声は御姫の唄になったし。  お兄さんの声は優しいし」 「他の声は……もう遠いし」 「茶々丸」 「うん。  これで、いいや」 「これで……眠れる……」 「……」 「お兄さん」 「……ん」 「さよなら」 「…………ああ」 「さようなら」  そうして。  堀越公方足利茶々丸は、帰らぬ者となった。 「御堂」 「……」 「茶々丸は……」 「今、逝った」 「……そう」 「…………」 「……これ……」 「野太刀の……断片?」  そうだ。  村正の主兵装である長尺の野太刀を復元するために、この破片を集めていたのだった。  ……ここのところ事が多くて、すっかり忘れていた。 「最後の〝卵〟は茶々丸が持っていたのか」 「……」 「断片はこれで全部だな?」 「ええ。  これで野太刀を再生させられる」 「なら、すぐに頼む。  脇差のみで戦いに臨むのは心許ない」 「……そうね。わかった」  戦いという一語が示すものを、説明せずとも村正は理解した様子だった。  手渡しで破片を預けて、少し離れる。  脳裏に、去った者の遺した言葉が〈過〉《よ》ぎった。  ――湊斗景明は湊斗光を倒せない。  しかし。  世界を守る英雄は、世界を壊す魔王を殺せる。 (茶々丸……)  人であって人ではなく、道具であって道具ではない、〈生体甲冑〉《リビングアーマー》として生を受け――そんな世界に滅びの鍵を差し込んだ者の事を想う。  憎しみの感情を掻き立てるのは難しかった。  憎むには関わり過ぎ、知り過ぎてしまった。 (お前は……最後、何を思って)  あんな事を――伝えたのか………… 「…………」 「…………」  奇妙に、驚きはなかった。  突然の遭遇でありながら。  何処かで悟っていたのかもしれない。  この人と会わずに、最後の決着を迎えることはできないと。 「大鳥大尉に聞いてな」 「……そうですか」 「鎌倉の様子は?」 「酷い」  市内の治安を預かる責任者は、一言で答えた。  そこに全ての事実があった。  六波羅と進駐軍の戦争、そしてその後の混乱――  それが今、鎌倉を〈どうしているか〉《・・・・・・・》。  本当なら、この場所を訪れて俺と話すだけの時間も惜しいだろう。    それでも彼は、来た。 「明堯様」 「……」 「建朝寺では……御迷惑を」 「いい。  私にお前を責める理由はない」 「どのような意味でも」 「……」 「景明」 「はい」 「……あれは、〈銀星号〉《ひかる》なのか?」  天の異常を指して、彼は問うた。 「…………」 「済まんな。  話を少し、立ち聞きする格好になった」 「いえ。  ……そうです」 「あれは光――銀星号。  今、世界を混乱に陥れているものです」 「……経緯が想像もつかんな」 「ご説明しましょうか。  大半、荒唐無稽な話になってしまいますが……」 「そうだな。いずれ頼む。  今は余り時間が無い」 「は」 「……」 「……」  時間が無いと言いながら、立ち続ける。  養父は、待っている様子だった。  言葉を。  俺が伝えるべき事――彼が聞くべき事を。 「…………」 「……光は……  あいつは」 「父親を求めています」 「……そうか……」 「あるいはと……思わないではなかった」 「…………」 「それが全ての根か」 「はい」 「全ての」 「…………」 「済まなかった、景明」 「……?」 「やはり、お前に任せるべきではなかった」 「……私が決着をつけねばならなかった……」 「……明堯様」 「せめてこの先は私が戦おう。  私にはその義務がある」 「お前はもう、これ以上――」 「いいえ」 「……景明」 「心得違いをなさらぬよう」  告げる。  腹の底から氷の塊を取り出して、ぶつけるように。 「貴方の出る幕こそ、もう何処にも無い」 「…………」 「貴方は光を捨てた」 「……ああ」 「私は捨てた。  光だけではない。統も、湊斗の家も」 「そしてお前に全て押し付けた」 「……そうだったな……」 「はい」 「光との決着は、自分がつけます」 「貴方はどうか……  〈菊池明堯〉《・・・・》として、為すべき事を」 「…………」 「わかった……」 「お願いします。  ……もうお行き下さい」 「ああ。  …………景明」 「はい」 「済まない」  重い言葉。  十数年の蓄積を吐き出す謝罪。    どう答えるべきかはわかっている。  この短い対話、  しなくてはならなかった会話の最後に、    俺が何を告げねばならないか。  その一言を告げるのは辛かった。  それでも。 「謝られる筋合いですらありません」 「…………そうか……」 「……」 「では……な」  背を向けて、養父は立ち去っていった。  急に老境を迎えたかのような、足取りの重さ。  その後姿に、俺は一度だけ深く礼した。  瞑目して、胸中に理解を落とす。    ――あの人は。  湊斗明堯という人は。  今こそ、本当に去っていったのだと。 「…………」  重い荷を背負ったようでもあり。  逆に、何かを振り切ったようでもあり。    ただ――これで正しいのだ、と。  そう思った。 「……」 「……っ……」 「ぁ……これ……っ!?」 「村正?」  異常の発生は明らかだった。  苦悶の声を聞き咎めて振り返った途端、村正が体を折り、蜘蛛の形に戻る――  切羽詰まった、あたかも〈緊急回避〉《・・・・》の様相で。 「何があった!」 «こ――この……» «……ッ»  内側から噴き出すような光を、村正は放射した。  どう見ても本人の意図したものではない、この――白銀色の光輝。  白銀色の…… «こ、これ……  〈銀星号〉《かかさま》の力が» «……強過ぎる……!» 「!!」  寄生体を倒して野太刀の断片を取り戻す都度、村正は断片に付随していた銀星号の能力をも僅かずつ獲得した。  それが全て揃った事で――何かの異変を? «っ……こんな、こと……!»  村正の赤い甲鉄が……  変色する。  少しずつ、白銀に。 「まさか――」 〝卵〟を植えられたのと同じ状態になっているのか!?  村正が……銀星号の複製に……? «甘かったっ……!  こんな罠があるなんて……» «私は〝卵〟には侵されない、けど……  〈内側で完成〉《・・・・・》したものは……どうしようも、ない……!» 「村正……!」  そうか――村正が取り込んだ銀星号の力は、〝卵〟の断片でもあったのだ!  それがいま完成し、孵化しようとしている……。  意図的に仕掛けられた罠なのか偶然の所為なのかはわからないが。  ……虫の良い話は無いと、警戒しておくべきだった!  村正一人の不注意ではない。  俺もこんな可能性はまるで考えもしなかった。 「排除できないのか!?」 «く……» «やってる……けど……っ!»  思うように運ばないのだろう。  内臓疾患の病巣を〈自力で〉《・・・》切除するのが至難である事と同じだ。  他人の手を借りねばどうにもなるまい。  しかし、ここにいる唯一の他者である俺はどうにかできるような専門技術を持ち合わせていなかった。  それでも―― «だめっ!  近付かないで、御堂!» «貴方まで汚染される!» 「……ぬぅ」  邪魔になるだけか!  村正は力という力を振り絞って、自らを侵食しようとするものに抗っている。  傍目にも、その勝負は分が悪い。  しかし、俺は何もできない。  劒冑の苦闘を、手を〈拱〉《こまね》いて眺めているだけだ。  今の俺なら〈案山子〉《かかし》でも代役が務まる。 «……く、ぁあ……!» 「村正!」 «ぅ……»  言葉を返す余裕も失いつつあるのか。  村正は心配するなと言う様子で手を振るものの、喉からは苦しげな呻きしか洩れてこない。  このままでは――不味い。  何か、俺にできる事をしなくてはならない!  だが、何が?  何ができる?    何をして、村正を助けられる?  俺は仕手で、村正は劒冑だ。  仕手が傷付いた時は劒冑の能力で癒せるが、劒冑の損傷を仕手の技能で治す事はできない。 (理不尽な)  これまで思いもしなかった事を、俺は胸中に叫んだ。  この無能は許せない。劒冑を纏って武者にならねば何もできない、仕手のこの無能は……!  ――――――――――――いや。      そうだ。できる事はある。  仕手ならば。  仕手として。  できる事は今、確かにあった。 「村正」 «っっ……» 「装甲する」 «……!?  だ、だめ!» «今、そんなことしたら――»  俺も汚染の危険に晒される。  そんな事は、わかっている。  だが。 「俺が精神汚染された時、お前はどうした。  劒冑として、俺を助けに来ただろうが」 「それと同じ事をするだけだ」 «で――でも……» 「今度は俺がお前に力を貸す!  村正……忘れるな」 「俺とお前は武者だ。  二人で一騎の!」 «……!»  戦いは常に、二人揃って臨むもの。  別々である限り仕手も劒冑も不完全で弱い――二者が合一してようやく、強力な敵とも戦える武者になるのだから。  汚染の〝卵〟が相手の戦いでも意味はある。  活力源たる熱量を俺から供給できるし、何より〝卵〟の侵食に一人ではなく二人分の意志力で立ち向かえるようになる。 «ばかなこと考えて……!» 「言えた義理か」 «どうなっても知らないからね!» 「承知!」 「――ぐっ――」  強い。  この力は、強い。  こんなものに、村正は今まで一人で耐えたのか。  こんなものに、俺一人の増援が加わっただけで打ち勝てるのか……? (いや)  弱気は無用。  勝たねばならぬのだから、勝つまでの事。  村正を――無論この俺自身も、銀星号の複製になどしてはならない。  この精神の戦場は断じて退けぬ。負けられぬ。  しかし……    押し流される。  意思という意思が吹き飛ばされる。  嵐の中に立つ蝋燭の心地。  消える。  消される。  …………だが。  確かに――感じる。  この暴風、強大な威圧には、発生源が存在する。  それが〝卵〟か。  排除すれば、俺と村正の精神は守られる。  そちらへ、手を伸ばして―― «……っぁ……!!» 「づぐっ……」  ちっぽけな二つの意思を押し潰さんと、重圧が襲う。  負けられぬ。  だが、強い。  強い。  しかし、負けられぬ!  手を伸ばす。  ……どこだ。  発生源を掴み、砕いてしまえば、終わる。  発生源!  この暴威の核!  俺が砕かれる前に、  それを探し出して、壊せ、ば――――  静かな部屋の中に入った。  何を見る?  生気のない部屋だ。  床に伏して、虚ろな瞳を見開いている。  意識はあるようだが、意思を匂わすものはなかった。  少女は黙っている。  何を訊く?  返答は無い。  ……だがあなたは思い出した。  この少女は湊斗光。  あなたの義理の妹――大切な家族だ。  返答は無い。  ……ただ一度だけ、少女はあなたを見直すように、瞬きをした。  返答は無い。  ……しかしあなたは、自分の目的がこの病床の少女に深く関わる事を直感した。  何処へ行く?  湊斗景明の目的を果たそう。  あなたは、この少女を――  そう、守るのだ。  この少女を、何者からも。  永遠に。  殺す。  そう。  あなたは湊斗光を殺さなくてはいけない。  世界を守るために。 「…………」  目的は完全に判明した。  後は実行するだけだ。  殺そう。  首を絞めてもいいし、胸を叩き割ってもいいし、腹を踏み潰してもいいし、水に沈めてもいいし、ガスを吸わせてもいいし火を着けてもいい。  相手は無力な病人。  どんなやり方でも容易に殺害できる。  さあ、どうぞ。 「――――――――」 「ああああああああああっ!!」  ……あなたは逃走した。  あなたは湊斗光を殺さなくてはならない。  しかし、湊斗景明は湊斗光を殺せない。  だから同行者の力を借りよう。    同行者に、何をしてもらう?  誰を? 「何故、儂がそんなことをせねばならん!」 「守るって……何から?」 «任せて!  私には貴方を守る力がある!» «これで何が来ても大丈夫!»  そうかな? 「光を守る? 当然だ!  こやつの命は誰にも奪わせんぞ!」 「景明、貴様も力を貸すのだ」 「……はっ」 「もちろん。  血を分けた娘だ、守り通してみせる」 「おまえも手伝ってくれるだろ? 景明」 「……はい、統様」 «えっ?  ……私がこの娘を守るの?» «何か違うような……»  誰を? 「景明……気でも違ったか?」 「まっ、待て、息子よ!  悩みがあるならいくらでも聞いてやるから、脈絡もなしにいきなりそんな衝撃サスペンスドラマを始めるんじゃない!」 «……え……?» «どうして?  こんな――違う……!» 「…………」 「違いは……しない」  ――――そう。 「これでいい……  これで……正しいのだ。村正……」 «御堂!?»  そう。    これが正しい方法。  湊斗光を殺すなら、湊斗景明は最大の妨害者となる。  湊斗景明は湊斗光を守るべく定められたものだから。  なればこそ最初に、これを殺す。 「景明、貴様……」 「逆心を起こしたか!!」  老人は短刀を抜き、あなたの胸を突き刺した。 「うーん……ごめんよ、景明。  かーさんそのギャグちょっとわからない」 «ええ。わかってる。  これが私達の、やらなくてはならないこと» «待ってて。すぐに終わらせるから……» «……御堂!?» 「――――」  あなたは村正の爪を受け止めた。  ……当然の事。  湊斗景明が湊斗光を殺させるはずがない。 「やれ……村正!  もう光を守る者はいない」 «で、でも……  私はっ――貴方がいないと!» 「何が足りない?  手足か。心臓か。熱量か」 「それならここにある。  邪魔な心を殺した後に残る俺の骸は、全てお前のものだ……」 「使え!」 «……でも!  貴方の、心は――» 「〈そこ〉《・・》にある」 「俺の心のうち、価値あるものは、銀星号と戦う意思だけだ。  その意思はお前が持っている!」 「なら――それでいい!」  完全無欠。  〈能力〉《ちから》があり、  〈技術〉《わざ》があり、  〈闘志〉《いし》があり、  無用の情は削除された。  無敵の武者は今ここに在る。 «……これが……» «これが、貴方と共に戦うということなの!?  御堂!» 「そうだ」 「いつかお前が言った通り……  お前は俺の保護者ではない」 「共闘する者だ。そうだろうが!  俺を守ろうとするな。俺を救おうとするな。俺を〈使い潰して〉《・・・・・》、勝利しろ!!」 «……私の役目は、貴方の庇護じゃない» «私の、役目は» 「行け、村正!  目的を果たせ!」 「〈それ〉《・・》が〝卵〟だ!!」 «――――諒解ッ!!»  ……そう。  これが湊斗光――銀星号打倒の方程式。  〈我〉《ガ》を殺し、〈無〉《ム》となって敵を討つ。  無我の理念。  英雄は無我なれば魔王を殺し世界を救う。  忘れないで。  〈意味〉《・・》を良く考えてね。    御堂。  ……一度くらい、いいでしょ?  本当は、こう呼ばせて欲しかったんだ。  もう一度挑戦しますか?  町外れに来た。  何を見る?  草深い中、ぽつんと家屋が一軒だけある。  女性が一人、穏やかな眼差しをあなたに注いでいる。  あなたより年上だろうが、若々しさを失っていない。少し不思議な印象だ。 「おや?  何か困っている様子だな、息子よ」 「そろそろ昼飯にする?」 「どうした?  迷子みたいな顔をして」  何を訊く? 「わたしはおまえの母親だよ。  忘れたなんて言ったら泣くぞ」 「わたしの息子。  手は掛かるけど、まぁ自慢の種かな」 「光を支えてやってくれるか?」 「……約束を守ってくれればいいさ」  何処へ行く? 「我が娘ながら、反抗的だわ手は早いわで、困ったもんだ。  でもおまえがこの通りの性格だしね。兄妹セットで考えればいいバランスかな」  あなたは女性と別れた。  あなたは女性に同行を願った。 「いいけど。  どこへ行くんだ?」  女性は同行を承知した。  祭殿に入った。  何を見る?  清浄な空間だ。  鉄で出来た、大きな蜘蛛の像だ。  金属の眼であなたを見詰めている。 «私は村正。  貴方の……劒冑» «私は……村正。  千子右衛門尉の銘を継ぐ最後の劒冑……» «……私は……  何か、しないといけないことが……»  何を訊く? «私?  私……私は……» «…………» «貴方は、私の、  ………………?» «……戦うこと……?» «そう、私も……貴方と一緒に……» «貴方の目的?  ……ごめんなさい。わからない» «……目的……  そう、私にも目的があったはず……»  何処へ行く? «……光?» «それは……〈二世〉《かかさま》の……»  あなたは蜘蛛と別れた。  あなたは蜘蛛に同行を願った。 «ええ。  一緒に戦いましょう»  蜘蛛は同行を承知した。  …………。  ……………………………………………………………。  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。 「…………」  〈あなたは〉《・・・・》立ち尽くしている。  周囲に広がるのは、見覚えのある風景……  しかし、ここは何処だったろう? 「…………」  そういえば、何かを探していた気がする。  何かを……  何を? 「…………」  そもそも、〈あなた〉《・・・》は何だ?  辺りの景色に覚えがあると思い、何かを探していると思う、この人格は何者だろう? 「…………」  とにかく歩こう。  何処に何があるのか、あなたは何となく、わかっている。  それに……時間を潰していてはいけないのだ。  あなたは根拠もなく信じている。急がなければならない――急いで何かを見つけ出さなくてはならない、と。  そうしなくては〈負ける〉《・・・》。  ……急ごう。  何かわからぬ目的を至急、遂げよう。  何処へ行く?  あなたは必要最低限のものを取り戻した。  ……そうだろう?  あなたの名は―― 「湊斗景明」  あなたの目的は―― 「……湊斗光を……」  湊斗光を? 「…………」  …………。  移動しよう。  何処へ行く?  あなたは湊斗光を殺さなくてはならない。 「…………」  しかし殺せなかった。 「…………」  仕方ない。  協力者を求めよう。  あなた一人では目的を果たせなくても、誰かに力を貸してもらえばできるかもしれない。  手伝ってくれる人を探そう。 「…………」  何処へ行く? 「…………」  〈白銀の空〉《・・・・》が少しずつ落ちてくる……。  あなたは言い知れぬ危険を感じた。  急いだ方が良さそうだ。  ……銀色の空は、もう手を伸ばせば届きそうな高さにまで迫っている。  まずい。  行動を急ごう。  ……時間切れだ。  あなたは白銀の光に呑み込まれた。  町を見下ろす小山の上だ。  何を見る?  ちょっとした陣地に仕立てられている。  軍人の身なりをした女性がいる。  正規軍ではないのか、服装はやや乱れていた。 「どうしたの?」 「久しぶりね」  何を訊く? 「わたくし?  ……誰かさんには、ずーっと首領首領って呼ばれていたかしら」  ……あなたは額を軽く殴られた。  小気味良い衝撃だった。 「湊斗景明、よっ。  思い出した? おばかさん」 「あなたはきっと、何をしても後悔するのでしょうね。  けれど、何もしなくたって後悔はするのよ」 「決断できなかったっていう後悔は、きっと一番辛いんじゃないかしら……」 「あなたの目的?  それは〈あなたとして〉《・・・・・・》正しく生きることよ」 「決まってるでしょうに」  何処へ行く? 「あなたは湊斗家に養子入りした人間で、光って娘の方が血統を継ぐ本当の子供なの?  なら……もしかしてあなた達、〈許婚〉《いいなずけ》?」  あなたは軍装の女に同行を願った。 「……何を言っているの」 「あなたの相棒は、私ではなくてよ」  諭すようにそう言うと、女はあなたの両肩をつかみ、くるりと半回転させた。  そして、  力強く、背を叩く。 「……今の私は残像に過ぎないけれど。  本物の私がここにいたとしても、やっぱり同じことをするでしょうね」 「過去に逃げてはだめ。  どんなに辛くても――未来を見て、現実を歩きなさい」 「湊斗景明。  あなたは私に勝った男でしょう?」 「……〈一ヶ尾瑞陽〉《いちがをみずひ》……」 「いってらっしゃい」  そして女は、両手で優しく、あなたの背中を押した。  ……あなたは振り返らず、山から去った。  広壮な屋敷の中だ。  何を見る?  年代を感じさせる建物だ。  土地の権力者として長く根を張ってきた家なのではなかろうか。  気難しげな老人だ。  険しい目付きであなたを睨んでいる。 「また貴様か。  今度は何だ?」 「儂の前で腑抜けた面をするな」 「何をぼさっとしておる!」  何を訊く? 「儂は皆斗一族の長だ」 「貴様はあの明堯めが何処やらで拾ってきて湊斗の家に入れた身無し子だ。  養育の恩を忘れず、せいぜい我が一族の為に尽くすがいい」 「光を守れ。  貴様はその為に生き、その為に死ぬのだ」 「貴様は湊斗の家を守れば良い。  その塵芥のような命に代えてもだ!」  何処へ行く? 「湊斗の血統を継ぐ唯一の子……。  死なせてはならぬ。死なせてはならぬぞ!」  あなたは老人と別れた。  あなたは老人に同行を願った。 「ふん……良かろう」  老人は同行を承知した。 「…………」 «…………»  ――戻ってきた。    いや、元より俺達の体は最初から一歩たりと動いていないのだろうが。  ともかく、無事だ。  俺は俺の自我を保っているし、村正の甲鉄も白銀色が抜けている。  そして…… «御堂、これ!» 「……ああ」  長大な刀身を有する太刀が、そこにあった。  野太刀だ。  長らく失われていた、村正の野太刀! 「ようやく取り戻せたな」 «ええ!» «……? でも、何か変……?» 「変?」 «これ、前と少し違ってない?»  言われてみれば、形状が変わっている気もする。  何処がどう、と断定できる程の明確な違いではないのだが。 «何かしら。  〈銀星号〉《かかさま》の力が混じったせい……?» «ううん、他にも何か――» 「…………」 「そうか」  俺は野太刀を手に取った。  湾月形の刀身に視線を這わせてみる。  素朴な数珠状の刃紋はどうしてか、誰かの〈貌〉《かお》を想起させた。 「弱体化したわけではないだろう?」 «それは……うん。  むしろ、逆なんだけど» 「ならいい。  余り気にするな」 «……御堂がそう言うなら» 「それより、銘を付けよう。  生まれ変わったようなものだからな」 «銘を……?  何か考えがあるの?» 「ああ。  お前が構わなければ――」  胸中に湧く一語。  それをそのまま、舌に乗せる。 「虎徹、と」  予言された通りであった。 〝第二の太陽〟の怪影は、天空の何処にも無い。  黎明に落下を始め、今は地球上へ降り立っている。  それと同時に、強烈な光の放射は収まった。  しかし朧々と輝きは保ち、消滅してはいないことを、そして己の所在を、地上の住人に対して明らかにしている。 「富士……」 「丁度、山頂のようだ」  仮初めにも大和に生を受けた者であれば、誰がその雄姿を見誤ろうか。  万世不変の〈八洲〉《やしま》鎮守――霊峰〈富嶽〉《ふがく》の頂に、〝神〟の新たな座はあった。  王冠を戴くかのように荘厳である。  噴火の予兆を示すかのように不吉でもある。 「村正」 「御堂……」 「行こう」 「ええ」  対話は、それきりで済んだ。  何を確かめ合う必要もない。  今更、そんな手間は踏まなくていい。  長く、共に戦ってきたのだ。  その共有した過去だけで足りる。  今この時に何を思い、何を為すのか、互いの全ては知れている。        ――――最後まで戦うのみ。  俺は、光を止める。  村正は、二世村正を止める。    俺達は、銀星号を倒す。  あの〝神〟がそれならば、〝神〟を滅ぼす。 「鬼に逢うては鬼を斬る。  仏に逢うては仏を斬る」 「ツルギの理ここに在り」  ……〈村正〉《おれたち》は、征く。  終わらせるために。  暁闇の中、富士山頂を指して翔駆する。  季節は既に冬であった。  刺すような寒気が甲鉄越しにも感じられる。  空気の密度が薄い高空に比べれば、地上はまだしも暖かいだろうか…… 「――――!!」  ちらと下を見やったその一刹那、俺の心臓は鼓動を止めた。  あれは何処の村落であろうか。  薄暗がりに半ば沈みつつ、人々が〈蠢〉《うごめ》いている。  末世の様相だ。  叫喚。  蹂躙。  血煙。  鉄火。  六波羅と進駐軍の戦闘が波及したのか。  それとも〝神〟の降下により付近の精神汚染濃度が増して、あの恐るべき狂態へ陥ろうとしているのか。  どちらとも知れない。  惨劇が起きている、その一事実のみが確かだった。  暴動の渦中、何の偶然か、ぽっかりと空いた隙間がある。  そこに、子供が一人いた。  子供はこの瞬間を、奇跡的に生き延びている。  だが次の瞬間には、死に見舞われるだろう。  次の次の瞬間には、原形を保っていないだろう。  子供は空を見上げた。  その表情に一筋、輝くような喜びが差した。  俺の姿を認めたのだ。  天を駆ける騎影に、救いの手を見たのだ。  子供は正しい。  俺はあの子供を助ける事ができる。  急着陸し、子供が生きているうちに拾い上げるのは造作もない。  俺の決断一つだ。  子供を救い、  混乱に巻き込まれ、  災いの根源を断つ、この千載一遇の好機を逃す――  その決断さえ下せるなら、助けられる。 「…………」  見捨てた。  あの子供は救わないと、俺は自らの意思で決断した。  無論、それは殺害と同義であった。  一瞬の奇跡が終わる。  凶暴な鉄が小さな獲物に襲い掛かる。  子供の絶望を、俺は確かに見た。  子供の怨嗟を、俺は確かに聴いた。  切り刻まれ、引き千切られ、踏みにじられる子供の惨死を、俺は確かな事実として受け止めた。  また一つ、殺害の罪を積んで……  俺は一路、最後の戦場へ向かう。 «御堂! 敵騎よ!!» 「何? ……数は」 «数――――百以上!» 「連隊規模だと!?」  村正が敵騎と断定するからには、攻撃態勢を隠しもしていないのだろう。  問答無用の好戦性。そしてこの数。この場所。  思い当たるのは……    〈あれ〉《・・》か!? «複製!!» 「あの〝神〟が呼んだのか!?」  それとも〈本物〉《オリジナル》の気配に引かれ、勝手に集まって来たのか。  篠川軍の新鋭部隊が丸々変じて出現した、銀星号の複製集団。  世界最強かつ最悪の〈竜騎兵連隊〉《ドラコレジメント》!!  富士を目前にしてこんな奴らに阻まれるとは、思いもしなかった。 「相手をしている暇は無いが――」 «向こうは相手して欲しくて仕方ないみたいよ!»  あの複製は本物以上に厄介なのかもしれない。  汚染波の中継点となる性質はこの際考慮から外せるとしても、親譲りの高い機動性……  そして零零式から受け継いだ対竜騎兵用狙撃兵器。  この組み合わせはどう控えめに考えても脅威である。  加えて一個連隊分の頭数だ。  敵集団の進撃は乱雑で、およそ戦術らしきものなど見受けられない。  しかし数に物を言わせた面制圧は付け入る隙が無く、逃れる余地も無い。  あの敵が「優勢を確保して降伏を促す」ような文明的行動をとれるとも思えなかった。  射程距離に入り次第、一斉に発砲するのみだろう。  どう対処する?  それはつまり、一射一射が致命的である分厚い弾幕に包み込まれるという事なのだが―― 「……村正」 «ええ» 「〈振り切る〉《・・・・》ぞ」 «諒解!»  射線計算に基づく回避行動は、最終的に俺を下方向へ直進させた。  速度が急速に上昇し、地表が接近する。  騎航術の定石に従うなら、〈兜角〉《ピッチ》を引き上げて上昇に移らなくてはならない。    しかし、そんな暢気な真似をしていては捕まる! «招き集わせ〈手繰〉《たぐ》る――» 「〈引辰制御〉《グラビトンコントロール》!!」 「良し……!  扱い切れるな、〈重力飛行〉《・・・・》!」 «銀星号にも引けを取らない程度にはね!»  野太刀を取り戻した事で、村正の諸性能は飛躍的に増している。  特にこれまでは小技の一つでしかなかった引辰制御能力の成長が著しい。  以前は騎体の加速に用いるのが関の山だったが、今ならば様々な応用が利く。  銀星号の株を奪う重力飛行はその一端だ。 「これならば……  この群れが相手でも負けはしない」 «勿論!»  敵群の数的暴力に、常識外の速力をもって対抗する。  幾度繰り返そうが、窮地に追い詰められる状況とはならない。  むしろこちらが新たな機動に慣熟するにつれ、少しずつ余裕すら生まれつつあった。  しかし――    負けはしないにしても、どう打ち破ったものか。  勝つとなると、やはりこの数の差は軽視し難い。  一騎一騎墜としていてはいつ終わるか。  いや、途中で力尽きる。  包囲を破って富士山頂へ到達する……のは、難しくとも不可能ではないだろう。  が、それは〝神〟と複製連隊による挟撃という死地を自ら招く愚策だ。  何らかの方法で連隊を富士山から引き離す。    ……方針としては、これが最善と思われる。  問題はその具体的手法。  どうすれば敵集団を俺の希望通りに動かせるか―― «御堂!» 「上か」  危険を示唆され、考えを打ち切る。  頭上に敵数騎が陣取ったようだ。  もっとも、危ぶむには及ばない。  重力飛行の術を掌握した〈村正〉《おれ》にとって、〈高度優勢〉《・・・・》という武者戦の一大原則はほぼ有名無実。  どうとでも対処できる。 「――何?」  速い……!? «気をつけて!  こいつら、他のとは〈桁〉《・》が違う!!» 「ぢっ……」 «背面に被弾、損傷軽微!»  当てられた!?  現在の村正の機動性能は武者の常識を完全に超えた所にある。  そこにこちらの油断があった事は否めないが、それにしても追随できる敵騎の速度は異常だ。  これは……一体?  その数、八騎。  白銀の甲鉄を輝かせながら虚空に踊り、  毒素の思念を撒き散らす。  銀星号の複製体である。  それは間違いない。それは、間違いないのだが。 «ただの複製じゃない……。  この八騎は〈銀星号〉《おや》に匹敵する力を持ってる» 「何故だ?」 «多分、何か特別な造られかたをしたのよ。  私の力を混ぜた〝卵〟に寄生された武者は、以前の寄生体より強かったでしょう?» «それと同じように……»  あの八騎の誕生にあたっては、銀星号から何らかの特別な細工が施されたという事か。    ……厄介な! «あそぶ?» «おどる?» «おかす?» «ころす?» «それとも、しぬ?» 「……っ」  この動き。  この――〈術技〉《わざ》!  吉野御流合戦礼法。    ……光の使うそれに、酷似している。  こんなものまで受け継いでいるのか!? 「お前達は――」 «わたし?» «わたし?» «わたしは、ねぇ» «〈〝炎の骨〟〉《ファイヤーボーン》!» «〈〝星の角〟〉《スターホーン》!» «〈〝猫の爪〟〉《キャッツクロー》!» «〈〝尾を噛むもの〟〉《テイルバイター》!» «〈〝肉を剥ぐもの〟〉《スカルペル》!» «〈〝死を唄うもの〟〉《シンギング・デス》!» «〈〝嵐を導くもの〟〉《ストームブリンガー》!» «〈〝ここが境界線〟〉《ディス・イズ・ジ・エンド》!» 「――――」  その一瞬、察するものがあった。  ……こいつらは複製ではない。  〈欠片〉《カケラ》だ。  〈銀星号〉《ひかる》が自分自身を千切って生み出し、名を与えた〈存在〉《もの》なのだ。  だからこそ〈原物〉《オリジナル》に近い。  同じほど強く、鋭く、〈迅〉《はや》い! «敵騎群、〈二一〇度〉《ひつじ》!!» 「ちィ――」  ……精鋭八騎を前面に、後方からは支援砲撃。  意図的な連携とも思えないが、戦術上の理に適っている。  戦術において優ればこそ、寡兵が大軍を打ち負かす事も有り得るのだ。  互角程度の作戦行動をしていては、数の差が即座に趨勢となって表れる。  取り込められ、揉み潰されるだろう。      責務を果たし終えることなく。  戦うべき相手のもとへ、辿り着くことさえなく。 (そんな最期は)  そんな無責任な終わりは……  誰よりも俺が、俺に対して許さない!!  突破する。  このまま、あの山頂へ―――― «御堂、後ろからっ!!» 「……っっァァアアアア!!」 «――――え?»  背後まで肉薄していた敵騎が、    ……撃墜された?  誰に? «今の射撃…………覚えがある» 「村正?」 «大鳥香奈枝よ» 「大尉だと?」 «ええ。あそこ!»  空の一角に、〈弓騎士〉《サジタリウス》の姿があった。  甲鉄は〈輝彩甲鉄〉《オリハルコン》か。  複製達とは明らかに違う輝きを誇示しつつ、〈翼筒〉《バレル》の排気音を鳴り響かせている。 «お久しぶり、景明さま» «大鳥大尉!  ……本当に貴方でしたか» «こんな美女がこの世に二人といるとお思いですの?» «顔、見えないから» «大尉が〈武者〉《クルセイダー》であられたとは露知らず……。  何故、劒冑をお持ちなのです?» «それは――» «は» «乙女のヒミツです» «そうですか» «……流された……» «それよりも貴方、どうしてこんなところにいるの?  偶然にしてはあんまり出来過ぎよ»  言えている。  とてもの事、たまたま通りがかったのだという説明で納得できるような場所ではない。 «お二人だって気紛れでここにいらっしゃるわけではないでしょう?» «……理由は同じってこと?» «お空の太陽がふたつに増えた途端、世界がおかしくなり始めた。  まともな頭と多少の余裕さえあれば、そこに因果関係があることくらい想像できます»  そうか。  それで香奈枝嬢も、太陽が降りた先――富士山頂を目指して……。 «あの方も同じではありませんかしら» «あの方?» «ほら、あちらの。  一条綾弥さん» «綾弥一条だっっっ!!» «……一条!?»  別方角からこちらへ狙点を定めていた複製騎の群が、墜ちてゆく。  ただ一騎に猛襲され、薙ぎ払われ、掃討されて。  濃藍色の、一目で古き名物と知れる劒冑。    あれは――そうだ。俺はあれを、一度見ている。  汚染されている最中の事であったが、記憶は消えていない。  建朝寺で一条が装甲し、あの武者形になってみせた。  彼女までここへ来たのか。 «あら、わたくしとしたことがうっかりミス。  ごめんなさいね、綾弥ちゃん» «なんで名字にちゃん付けするんだよ!?» «貴方……私達を助けるの?»  村正の声には驚きがあった。  一条がここに来た事よりも、助勢した事が腑に落ちないらしい。 «……勘違いするなよ。  そんなつもり、さらさら〈無〉《ね》え» «どういうこと?» «へっ。  一言で言ってやろうか――» «貴様を倒すのはこのオレだ!!» «は?» «違うよっ!!  いや、大体そうだけど!!» «一条……?» «……湊斗さん。  あなたには訊きたいこと、確かめたいことがあるんです» «だからまだ、死んでもらっては困ります。  ……こう言えば、あたしの言いたいこと、もうわかるんじゃないですか?» «…………» «湊斗さん――» «貴様を倒すのはこのオレだ!!» «しつこい!! 黙れ!! 恥ずかしいっ!!» «一条» «……ですから、後で» «…………» «熱血展開も結構ですが。  そろそろ、差し迫ってる現実に向き合いませんこと?» «わかってら。  あと、熱血してたのはてめぇ一人だからな» «ふえた?» «ふえた?» «ふたつ、ふえた» «みっつになった» «さんばい!» «さんばい、あそべる!»  当然であろうが、敵群に怯む様子など無かった。  陣列も何もなく、一直線に突き進んでくる。  ここまで到達するのはすぐだろう。 «どうしたものでしょうね。  あのぴかぴか眩しい団体さんはやる気満々» «でもこちらとしては、一刻も早く富士山へ辿り着きたい……» «まぁな。  どう見たって本命はあっちだ» «策があるの?» «事を割り切れば、方針は二つの内どちらかです。  戦力を集中するか、分けるか» «どっちがいい» «妥当な道を取るなら、集中でしょうね。  わたくし達の力を合わせてこの大軍を撃破、しかるのち富士山の上のお日様モドキも粉砕する» «世界は平和を取り戻し、わたくし達は伝説となり、肩を組んで笑いながら美しい朝日をいつまでも眺める――» «……いつまでも?» «そのうちフェードアウトして『完』の文字が出ますからそれまでで結構です» «出ねえよ。  ……まぁ、そう言われると簡単そうに聞こえるけど» «実は無理だろ» «無理があるな……» «無理だと思う» «えっ、なぜ!?  この方針なら、勝敗はこちら三騎の団結力次第――鋼の友情と絆を誇るわたくし達には打って付けの作戦ですのにっ!» «……ふぅ。強引な冗談は疲れます» «聞く方もな» «というわけで、江ノ島でほぼ実情が露呈しているわたくし達の結束に勝負を託すなんてちゃんちゃらおかしいっていうかへそで茶が沸きますから、ここは現実的に考えましょう» «戦力を分ける……  役割分担ですか» «ええ»  分担の内容は確かめる程のこともない。  二手に分かれ、一方はここで複製連隊を足止めし、残り一方は富士山頂の〈玉〉《ぎょく》を討つ。  それ以外に考えようは無かった。  思案の余地は、誰がどの役を担当するかの点にある。 «わかったら、お行きなさいませ。  景明さま» «……大尉?» «わたくしも一条さんも、物を見る目と状況を判断する頭は持ってましてよ。  富士山頂で待つものと戦うに相応しいのは誰なのか、そのくらいはわかります» «ねぇ?» «……ちっ» «…………» «ここに銀星号の複製が群れをなしているということは、山頂のあれはその親玉……  景明さまが長いこと追ってこられた相手» «違いまして?»  その通りだ。  〈あれ〉《・・》と戦う責務は誰にも委ねられるものではない。  しかし今、それを認めるという事は――  二人をこの敵群の只中へ置き去るという事であり。 «湊斗さん。  気が進まないなら、あたしが代わります» «……» «……御堂、どちらでも同じよ» «いえ、多分山頂のあれと戦わせる方が――»  わかっている。  同じ脅威でも、脅威の程と質がほぼ把握できている複製連隊より、全く未知の〝神〟の方が危険は大きいであろう。  そう思う。  また、綾弥一条と大鳥香奈枝大尉、この二人にしてみれば今さら俺などに保護者よろしく身を案じられるなど笑止であろう。  実際、烏滸がましい事に違いない。  そうも思う。  ……だが。  理屈では納得できても、理屈を超えた部分では――  この二人を、見捨てる、という事実が…… «――――» «行きます» «はい» «お早く»  味も素っ気もない一言だけの挨拶を最後に、俺達は互いから視線を外した。  三者三様、戦場に向き合う。  綾弥一条。大鳥香奈枝。  ……俺は二人をこの場に残す。  複製連隊との戦力差は、どう考えても絶望的だ。  二人が生き残る確率は、零に近いだろう。  それを承知の上で、行く。  二人を見捨てる。  ……迷うべきではない。  俺は既に見捨てているのだ。  幾人も。幾人も。  先刻も、一人の子供を見捨てて死なせた。  その決断が必要なのだと信じて。  ――〈だから〉《・・・》。  今も、見捨てる。  見捨てなければ。 「――――――――」  行く。  残す言葉は何も無い。  謝罪も感謝も、俺の口から価値ある言葉として吐き出す事はできないのだと、痛切に知っていた。 «……面倒な方ですこと» «あれが湊斗さんだ» «もう少し気楽に生きればよろしいのにね» «……かもな» «いっちゃう、いっちゃう» «にがさない!» «おいかける!» «つかまえる!» «うるせえ。  相手は、あたしだ» «一騎も通さねえよ!!» «……じゃま?» «じゃまっ!» «どうしよう» «どうする?» «こうする?» «うん» «そうしよう» «やきこがす!» «つらぬく!» «ひきさく!» «ちぎる!» «はぎとる!» «ねむれ!» «ふきとべ!» «私が決める。私が定める。  生と死を分かち狭間に立つ» «〈ここが境界線だ〉《ディス・イズ・ジ・エンド》!!» «……今更ですけど。  もしかしたらこの八騎、ヤバいんじゃないかなーとか思ってましてよ» «特に最後のやつな。  なんかあいつ、江ノ島で見た銀星号と同じか……下手するとそれ以上って気がする» «どうしましょうね» «どうもこうもあるか。  上等だ» «あたしと正宗で〈食って〉《・・・》やる» «まあ素敵。  恐怖とか感じられない心の病気のひとってこんなにも頼もしいものなんですのね!» «言ってろよ。  怖いなら帰れ» «いいえ。  わたくし、恐怖のあまり失禁しそうになりながら戦うのってわりと趣味ですから» «……てめぇが病気だろ!»  後方で、激闘が開始されたようだった。  空気が震え、その振動は〈甲鉄〉《てつ》と化した俺の皮膚にも伝わってくる。  絡み付く何かを振り切るようにして、空を駆けた。  山頂へ到達する。  上方へ回り込み、俺は〈その〉《・・》全貌を視野に収めた。 «……水晶の森……?»  村正の呟きは、それほど的外れでもなかった。  半透明の柱が複雑に入り組んで形成されているこの立体――確かに森と言われれば森に思える。  地面に根を生やしておらず、宙に浮いている時点で、植生としての森林では決して有り得ないが。  俺は帆船模型を思い出していた。完成する前、骨格が剥き出しの模型は眼下の景観にどこか類似する。  しかし、それは形状のみを評価した場合の話だ。  少々の時間を投じて観察を進めれば、思うところはまた変わる。  ……それは〈稼動〉《・・》していた。  洞穴の奥で獣が歯軋りするのを聴くに似た、奇怪な重響。鉄鋸で大理石を切るかのようでもある。  そんな音に同調して、〝森〟は変動する。  一本の枝が二本に分岐する。  その一方が別の枝に連結する。  繋がった枝の表面を〈瘤〉《こぶ》状のものが走ってゆく。  別の所では枝が縮退している。  散開していた幾筋もの枝が末端から順々に引き込まれてゆき、一本の枝へ戻る――と思えばまた別の形へ伸張を開始する。  その様は俺に巨大な機械、そして工場を連想させた。      …………銀星号らしき姿は、何処にも発見できない。 「あれが〝神〟か……」 «……ええ……» «…………» 「……? 村正、どうした」  肯定の返答にやや複雑なものを感じて、俺は問うた。 «……あれは〈本当に〉《・・・》神なのかもしれない» «私達の» 「……金神だと思うのか?  あれを」  鍛冶神として蝦夷を中心に広く信仰されているその名を云う。 «うん。  信じたくなかったけど。茶々丸の言ってたことだし……» «でもこの目で見て、わかるのよ。  あれはきっと……〈原点〉《・・》» «〈劒冑〉《わたしたち》の。  〈鍛冶師〉《わたしたち》の……»  茶々丸が――  否、ウォルフ教授が述べた推論。  遠い昔、金属の生命が地球に飛来した。  それは地底深くに〈埋〉《うず》まり、地下水を介して己の要素を地上へ送り届け、人の技術と結び付いて劒冑という継嗣を誕生させた……。  彼の論説が、この〝神〟の略史として正しいものであったのなら―― «あれの、ほんの小さな――砂の一粒よりも小さなひとかけらが、〈心鉄〉《しんがね》を生む» «劒冑の〈異能〉《ちから》の根源になる» 「……それはつまり、こういう意味か。  あれは〈無数の劒冑の集合体に等しい〉《・・・・・・・・・・・・・》」 「即ち幾千倍、幾万倍の――」 «幾億……幾兆……?  いえ、とても計算なんて無理» «とにかく劒冑と同質の力を、劒冑とは比較にもならない規模で保有しているということよ» 「…………。  計算上、対抗は可能か?」 «こんな時のために昔の人が遺してくれた諺があるんだけど、言っていい?» 「ああ」 «触らぬ神に祟りなし» 「……本当にそうだな」  洒落になっていなかった。 「しかし。  ……汚染波の発信源はあれなのだろう?」 «肯定» 「あれを破壊せねば汚染波は止められないのだろう?」 «肯定» 「……選択の余地は無いな?」 «肯定!» 「ならば行く。  元より、祟られて困る身でもない!」 «諒解!  一つ派手に罰当たりな真似をしましょう!»  ……しかし。  かの〝金神〟は動いているものの、それはこちらに対して何か行動を起こしたという様子ではない。  あれは俺を認識していないのだろうか。  いやそもそも、外界を認識して適切な行動を選択し実行するような機能が備わっているのだろうか?  単にエネルギーの塊に過ぎないのなら、恐れる必要はない。  この規模を考えるに破壊は相当な手間だが、根気と慎重さがあれば無難にやり遂げられるだろう。 「まずは全容を確認する。  村正、右手から回れ」 «諒解» 「あガッ――」 «――――――――»  これは……幾度か茶々丸に聴かされた……    あの、〈金神〉《かみ》の声か!  不味い。  以前にも増して――この、生の音声は強烈なものが―――― «御堂、しっかり!» 「……村正?」  別の世界へ飛びかけていた意識を急激に引き戻され、俺はわずかに混乱した。  金神の声が……遠退いている? 「何をした?」 «音波を拡散させただけよ。  茶々丸の術と違って指向性が強くなかったから、何とかできた» «……多分だけど……  今のは単なる〈反応〉《・・》なんじゃない?» 「反応?」 «急に何か嬉しいことがあったら歓声を上げるし、いきなり冷たい水をかけられたら悲鳴を上げるでしょ。  それと同じで……»  金神は〈つい〉《・・》騒いでしまっただけだ、と?  何に反応して?    ……俺達の接近にか?  という事は?    ……俺達の存在が認識されたという事か?  するとどうなる?    ……どうなる?  それは当の〝神〟のみぞ知るところ―― «――――――――――に» «逃げてぇッッッ!!» 「――――――」 「…………」 «…………»  何かを言いたいのだが、口が動かない。  不思議に思って自分の身体状況を確認してみると、俺は上下の顎を大きく乖離させた格好で固まっていた。  手動で一度口を閉ざしてから、改めて発言する。 「村正」 «……なに?» 「これは個人的な推測に過ぎないのだが――」  考えつつ、慎重に意見を伝える。 「今のビームがもしも直撃していたら、俺の健康に著しい悪影響を及ぼしたのでは?」 «及ぼすに決まってるでしょっ!!  あんなの食らったら、小指の爪のさきっぽだって残るもんですかっ!!»  何故か村正は怒った。 «あれは辰気の激流……河みたいなものよ。  呑まれたら最後。粉々になって、その粉も磨り潰されて、跡形も無くなる» 「こちらの操る辰気、あるいは磁気によって防御できるか?」 «焼け石に水〈滴〉《・》程度ならね»  予想通りの答えが返る。  何がなんでもあれは騎体運動で回避しなくてはならないという事か。    しかし……辰気。重力。  〈引辰制御〉《グラビトンコントロール》……? 「あれは〈銀星号の技能〉《・・・・・・》か?」 «……そうね。  辰気を操るのは〈二世〉《かかさま》の固有能力» 「やはりあの〝神〟は銀星号だという事か」 «汚染波も出ているんだし、あそこにいるのは間違いないと思うけれど。  ……でもさっきの声に、〈二世〉《かかさま》の気配は匂わなかった……» «貴方はどう?» 「……そうだな。  俺も光の声だとは思わなかった」  というより、言語思考を行っていると思えなかった。  あの発声の基底に知性があるとしても、極めて低度で原始的なものだろう。  そう思うのは言語思考を当然とする人間の傲慢さに過ぎないのかもしれないが。  とりあえず、人間ないし人間に類似する頭脳はあの 〝神〟の内側に実在していないと思える。 «……取り込まれたのかしら。  〈捕食〉《・・》されて、〈消化〉《・・》されて» «技能だけ、利用されている……?» 「――――」 「仮に……そうだとしても。  俺達のやるべき事は変わらん」 «……ええ。そうね» 「……こちらを攻撃対象として認識しているのは間違いないようだ」 «みたい。  敵意があるのか、食欲のためなのか、単に鬱陶しがってるだけなのかは知らないけど»  いずれにしろ、少なくともこちらがこの場を離脱しない限り、重力波の攻撃は止むまい。  そして無論、今更逃げられる筈はなかった。  ……回避はさして難事でもない。  発射前の準備動作が視認できる形で現れるし、狙いも甘い。高度な運動予測などはせず〈適当に〉《・・・》撃っているようだ。  注意していれば簡単に見切れる。  だがその威力たるや、察する限り凄まじい。  観客がいたなら臆病と謗られそうなほど充分な余裕をもって避けているというのに、空間を越えて伝わる〈余震〉《・・》には俺の全身を揺さぶるだけの激しさがあった。  あれを受けたらどうなるのか。  おそらく、村正が先だって言った事が全く正しいのだろう。  これは成功率九割の賭博なのかもしれないが、一割が的中してしまった時のリスクが甚大に過ぎる。  迅速に、可及的手早く、決着をつけるべきだ。  ……良し。  狙い過たず――この的の大きさで過つわけがないが――野太刀の一打は金神を捉えた。  枝が数本、砕けて散る。   〝神〟の苦鳴を、確かに聴いた。  効いている! «御堂、退避して!» 「む!?」 「……っっ。  村正、今のは何だ?」 «狙いもつけず、全身から辰気の波を放ったのよ……こんな芸もあるのね。  範囲を絞らない分、威力は散ったみたいだけれど» «至近距離で浴びたら、あれでも危険かも» 「深追いは禁物という事だな」  〈一撃離脱戦法〉《ヒット・アンド・アウェイ》が必須か。 「しかしどうやら、まるで歯が立たない相手というわけでもないらしい」 «ええ。  金神は確かに私達の崇める神様だし、その信仰はあれが〈基〉《もとい》なのかもしれないけど、それでも〈あれ自体は〉《・・・・・》あくまで単なるでっかい生物» «絶対者でも超越者でもない。  蹴って殴って叩き壊せる代物よ!»  その通りだ! 「村正、一つ試す!  〈運剣に辰気を重ねろ〉《・・・・・・・・・》!」 «――諒解!» 「どうだっ!?」 «手応えは充分!»  重力加速を施した斬撃……  武者を十騎まとめて裁断できる程の威力はあった筈だが!?  果たして〝神〟の偉容は傷付いていた。  水晶の森の一部が、悪質な林業者に乱伐されたかの様相を呈している。  相当の痛手を与えたと思えた。  現に〝神〟の悲鳴は長く尾を引き、もし村正が抑制してくれていなかったら俺は両耳を押さえてのたうち回っていたことだろう。 «でも……再生してる» 「予測の範疇だ。  神に非ずとも神のような力の主、この程度の事はやらない方がおかしい」 «どうするつもり?» 「一撃で殺し切る。  そうしてやれば再生などできまい。単純な理屈だ」 «……〈やる〉《・・》わけね?» 「ああ」  電磁抜刀。  太刀を使ってのそれではない。  取り戻した野太刀を用いて為す〈蒐窮一刀〉《オワリノタチ》。  一度も〈揮〉《ふる》った事はないが、わかる。  相手が〝神〟であろうと必ず、滅ぼせる筈だ。 「村正、準備を――」 «――――これ、» 「ぬ……?」  〈視界がぶれる〉《・・・・・・》……?  何だ。  何の予兆だ。  ……ふと。  耳元に、誰かの囁きを聴いたように思った。             死ぬぞ、と。 「なッ――」  一瞬前。  ほんの刹那の過去、我が騎体の存在した小丘陵が。  〈圧壊〉《・・》している。  見る影もなく潰れ果てている。 「何をされた!?」 «く――  空間そのものを、曲げて» «潰した……»  空間歪曲!?  重力的な干渉でそんな現象を引き起こせるのか?    ……いや。そうか。  できる。  銀星号が〝辰気の渦〟を発動させた時、その余りの強重力のために、空間歪曲現象が発生していた……! «あんなの、抵抗しようがない!» 「重力波の攻撃と同じく、逃げに徹するのが唯一の対処法か」  もっとも〈空間歪曲〉《・・・・》が相手では、それもどこまで有効なのか。  逃げたつもりで逃げられていない、そんな事にすらなり得るのではないか……? «御堂、またっ!» 「――――」  どうする?  ……〝神〟はこちらを捕捉して空間歪曲を行使している。  視界内に留まる限り、危機は去らない。  ならば、こちらの姿を見失わせるべきだ!  向こうにはまともな知能が無い。再発見には時間を要する筈……!  良し。  うまく、適当な岩陰へ潜り込めだ。  念のため、音も殺す。    ……これで〝神〟の認識から俺は〈消失〉《ロスト》しただろう。  距離上、ここは敵からそう遠くない。  隙を見て飛び出し、電磁抜刀を撃ち――  それで、終わりだ! «……御堂。思うんだけど……» «あれが視覚とか聴覚とか、そういう普通の感覚機能でこっちを捉えているとは限らないんじゃないの……?» 「…………」  ――そういえば。  あれには眼のような器官も耳のような器官も見当たらなかった……か……?  …………  ……暗い。  ここは何処だ?  俺はどうなった……?  …………意識が重い…………  何も見えない。  体は全く動かない。  ……………………。  おそらく…… 〝神〟の空間歪曲が……  遮蔽物にした岩と俺とを〈一緒くたに〉《・・・・・》してしまい……  ……その結果……  ……俺は、今……  …………いしのなかにいる…………  あの〝神〟の力が強大を極めていても、空間歪曲の効果範囲には自ずと限度が存在する筈だ。  もし違うのなら、先の一撃も避け切れなかったろう。  従って、やはり最も確実な対処は離脱。  少しでも速く――少しでも遠くへ! 「来ない……な?」 «……うん……» «距離が遠いと使えないのかしら» 「かもしれん。  しかし……あれは手強いな」 「迂闊に近寄れんぞ」 «効果範囲が見えないってのは厄介ね。  〈探査機能〉《みみ》を働かせれば把握できる可能性もあるけど、そんなことやってる暇なんてないでしょうし» «あと……もう一つ» 「何だ」 «もしかするとあれ、防御にも使えるんじゃないの?» 「…………。  攻撃を曲げる――あるいは自分自身を空間歪曲で瞬間的に移動させてか?」 「……有り得ないと言い切るのは無理だな」  そんな天地法外な防御措置を取られては、電磁抜刀といえど必勝を期し難い。  そして、〈試し撃ち〉《・・・・》をやれるような熱量はない。  野太刀の電磁抜刀を使えるのはおそらく一度きり。  二度目の機会を得るのは難しいだろう。そして他に、あの〝神〟に致命傷を与える攻撃方法というのも考えつかない。  つまり……  空間歪曲による防御を想定し、その無効化の算段をつけた上で、決戦力の行使に臨むべし。  結論としてはそうなる。  そうなるが…… 「……ん?」 «なに?» 「…………?  いや」  今……? «え?» 「あ……」 「……何だ!?」  距離を大きく取っていたのに――  何故、〈勝手に〉《・・・》近付いている!? «空間歪曲よ!» «あっちとこっちの間にある空間を、端から〈潰して〉《・・・》いってるのっ!» 「……不条理にも程があるぞ!!」  神に言っても仕方のない事を、俺は思わず叫んだ。  とにかく、離脱し―― «御堂!!» 「見ればわかる!!」  退避、退避退避退避―――― «か、紙一重ね……!» 「……く。  あの金神、さっぱり知的ではないが芸達者だな!」  今のも標的を近くに寄せたいという、本能的な欲求からしたに過ぎない事なのだろう。おそらくは。  だが欲求を満たす手段が全くもって非常識だ。  あれに手足でも付いていれば、まずそれを使ったのかもしれないが……。 «とにかくもう、動き回るしかない。  重力波も空間歪曲もこちらに目標を定めて使っているのは確かなんだから、まず位置を掴まれなければ未然に防げる理屈よ» 「同意だ」  問題は、それが延命策であって打開策では全くないという事だが。  今はどうにも仕方ない。  攻略法を練る時間が要る。  まずそれを稼ぎ出そう。 «ああもう、また!» 「向こうの力は無尽蔵のようだからな……」  逃げの一手! 「……うむ!?」  逃げられない!?  真逆、広範囲への空間歪曲か?  そんな事も可能なのか。  ならば、打つ手は―― «これ……違う!» 「何?  なら、今度は何だ!」 «これは……» «きっと――時間がっ!» 「じ……」  時間ッッ!?  空間が重複する。  己の視界の中に己の姿を見る。  過去か――未来か―― «時間歪曲……» 「どうなる!?」 «ごめんなさいわからない!» «わからないけどっ、多分――»  閃光、閃光、閃光。  数限りない閃光。  現れて去り、現れてはまた去る。  輝く雨を浴びているかのようだ。  ……いや。  あるいは、逆なのか?  俺が光の群れの中を駆けているのか? 「……村正。可能な範囲でいい。  現在状況を解説してくれ」 «……えぇと……»  俺の当然かつ無体な要望を受け、村正は教授の代理で急遽ロンドン王立科学協会の面々を迎えて論文発表する事が決まった一学生風に逡巡した後、やがてぽつぽつと語り出した。 «今、私達は時間的に移動させられている。  ……それは間違いないと思う» «ただ、私達の意識に混乱が生じていないということは、私達の〈内的時間〉《・・・・》は正常に保たれているということ。  内的時間と外的時間が乖離してるのね……» «この宇宙における私と貴方の時間的座標が、通常の規則から逸脱した変移をしている。  ……って表現で正しいのかしら……» 「……」  この時点で俺の理解度は七割五分であった。  ……強引に解釈を進め、単純化を行う。 「要するに。  俺達は〈四次元的に吹っ飛ばされた〉《・・・・・・・・・・・・》という事なのか?」 «……おおむね、そうなんだと思う» 「途轍もない過去あるいは未来へ放逐されると……」  絶望的に呟く。  ……それは困る。大いに。本来の世界、本来の時間にやり残した事がある。  帰らなくてはならない。  だが、どうやって…… «いえ。  それはどうか、わからない» 「何故だ?」 «私の認識力が状況を正しく理解できているなら、だけど……  私達は時間軸上を直線的に移動していない» «過去と未来を行ったり来たりしてる。  移動の幅もそんなに大きくはなさそう……当てずっぽうだけど、多分せいぜい数百年の範囲内なんじゃないかしら» 「…………。  つまり俺達は今、数百年前から数百年後の富士山上空に、時間的座標を激しく変動させながら存在している?」  噛み砕いてみる。  当初思った程には酷くない状況、か?  とりあえず、パンゲア大陸の上やら未知の知的生物が未知の文明を繁栄させている世界やらへ現れる羽目にはならなくて済むようだ。  ……だからといって喜べはしないが。  数百年の範囲に留まる時間移動でも、俺達にとって致命的に不都合である事には変わりない。 «富士山上空、以外はその通りよ。  ……真実がじゃなくて、あくまで私の推測がそうだってだけだけど» 「……? どういう意味だ。  俺達が富士山上空にいるとは限らないと?」  時間的に移動しているだけなのに? «時間移動が空間移動を伴わないという保障はないし、仮に私達の空間座標が固定されたままだとしても、やっぱり相対的には移動が生じている可能性がある» «世界の方が動いたら同じだもの» 「……成程」  確かにそうだ。  地球は自転し、また太陽の周囲を公転もしている。  幸い、体調に異変がないことから考えて宇宙空間に放り出されたりはしていないようだが……。 「村正?」 «なに?» 「……〈減速〉《・・》していないか?」  周囲を見ながら云う。  光の流れ去る速度が、次第に緩まりつつあるように感じられた。  そのせいだろう、俺の頭脳にも、見えているものの意味が理解されてくる。  ……光の群れの疾走としか認識できなかったこれは、その実、流れゆく無数の〈光景〉《・・》なのだ。  俺は確かに時空間を移動している。 «そうね。  金神が私達に与えた時間的運動力が、少しずつ消耗して零に近付いてるのよ» «もうすぐ止まる……» 「俺達にできるのは祈る事だけか?  〈金神〉《あれ》以外の神に」  なるたけ俺達本来の時空間に近いところで止まってくれと。 «…………。  これも当てにならない推測なんだけど» «たぶん私達の状況は、それほどまでに悲観したものでもなさそう» 「……そうか?」  絶望ないし絶望の半歩手前に思えるが。 «整理してみましょうか……» «私達は本来の時間的位置から、金神の力で弾き飛ばされた» «私達に働く外部からの力がそれしか無いのなら、延々といつまでも同じ速度で時間軸上を移動し続けるだけよ» «……でも事実はそうなっていない» «私達を運ぶ力は徐々に弱まってる。  何か別の力も働いていて、金神からの時間移動力を減殺していると考えられる» «それが» «私達を本来の、正しい時間的位置へ、引き戻そうとする力。  言うなれば時間の〈修正力〉《・・・》――» «……なんだと、思う» 「…………。  すると、最終的には?」 «修正力は私達を正しい位置へ戻すまで働き続ける、はずだから……  金神から新たに力が加えられてきたりしなければ、» «私達は本来の時間へ戻れる――と思う»  ……つまり。  俺達は地上から大砲で空に向かって射出された砲弾だが、砲弾には地球の引力が働くため――  結局は地上へ帰ってくる。    ……そういう事になるのか? 「なら確かに……悲観する必要はないな」 «ええ。  この推測が正しいならね»  正しくあってもらわねば困る。  自力での時間移動など為し得ない俺達は、他に希望の託し処を持たない。 «ただ……» 「ん?」 «今はあっさり時空間を移動できているけど。  このまま移動力が弱まっていくと……最後にはいくつかの時空間に〈捕まる〉《・・・》と思う» 「捕まる?」 «一時的に別の時空間の住人になるわけ» 「……それは、なかなか〈大事〉《おおごと》の気がする」  いわゆる時間旅行か? «何もなければ、すぐに修正力がその世界の拘束力を上回って、私達はまた本来の時空間へ向かって移動できるはずよ» «〈何もなければ〉《・・・・・・》ね» 「……何事かがあったら、その限りではないと?」 «ええ。  仮にも住人になるわけだから。何かの拍子でその時空に固定されて、脱出できなくなる危険性はある» 「それを避けるには?」 «何もしないのが一番よ。  その世界の事象に一切関わらないでおいて、修正力が働くまで待つの» 「わかった」 «でも、これも絶対ではないから注意して。  何もしないで待っていたせいで、その世界の事象に絡んでしまうってことも有り得るし»  ――例えばそう、捕まった時空間というのが銃撃戦の真っ只中であったとする。  そこで突っ立っていれば当然、銃弾に撃ち抜かれて、世界との関わりが生じる。  村正の示唆はそういう意味であろう。    ……いやその場合は、既に世界との関わりがどうのこうのという事態ではないようにも思えるが。 「基本的には何もせず。  但し臨機応変の気構えは捨てず」 「それで良いか?」 «多分ね!»  一蓮托生の劒冑は、何とも頼もしい言葉で保障してくれた。 «……ここ……?»  ……何処だ?  富士山上空ではない。どう見ようが間違いなく。  それどころか、どうも大和国内ですらなさそうだ。  石造りの床、壁面、天井。  純和風建築とは全く趣を異にしている。  西洋式の、おそらくは城のような建物の中だ。  だからといって勿論、ここが西洋の何処かだと決め付けられるものではないが……。  この建物には年月を経た風格がある。  見れば見るほど、欧州の伝統的貴族階級が住まう城以外の何物とも思えなくなってきた。  …………場違いだ。 「村正、いつまで待っていればいい?」 «慌てないで。すぐよ。  私達をこの世界から引っ張り出そうとする力はちゃんと働いてる» «幸い面倒な事は何もないみたいだし、このまま静かに――» 「誰かそこにいるの?」 「…………」 «…………»  水を差すような呼吸で、その声は投げられてきた。  通路の向こう、暗がりの奥からだ。  女性の声――そして異国の言語。  英語とは違う。しかし、英語と起源を共有する欧州の言葉。  意味は全くわからなかったが、この状況だ。  大体の想像はつく。  ……本来は軽いに違いない足音は、石造建築の中で幾重にも反響した。    俺達のいる方へ、真っ直ぐ近付いてくる。 «御堂……どうする?» 「……」  この世界の事象に関わってはならない。  関わらないためには、何もしないのが最善だ。  が……何もしないことで関わってしまう場合もある……。  今は?  今はどうするべきだ?  足音が一つ響く都度……  俺の全身の体毛は逆立ち、ここは〈銃撃戦の真っ只中〉《・・・・・・・・》だと訴えているが――――!? 「……あら。  これは良いお客様」 「教皇庁は本当に根気があるのね。  討伐に差し向けた騎士は皆ことごとく帰らなかったというのに――また新たな騎士を」 「見たところ、今度は東洋の御方かしら?  ……ふふ。愉しませて頂けそうね……」 「――――」  ……実を言えば。  この時点で俺はもう気付いていた。  間違えた、  失敗したのだ、と。  沈黙する村正に、〈質〉《ただ》す必要もない。  俺を本来の正しい時空間へ引き戻す力は、既に断ち切られた……。  声の主が俺を認めた時に。  その、人ならぬ〈魔獣〉《バジリコク》の眼差しが、  獲物として、俺を見定めた瞬間に。  ……俺と村正はこれから、想像を絶する艱難辛苦に身を浸さなくてはなるまい。  時間移動の方法を解明し、正しい時空間へ戻る――どれ程の探究が求められるのか、思うだけで目が眩む。  そして。  その果てしない苦難の道へ踏み出すためには。    まず――生き延びなくてはならない。  死闘を。  優美な肢体。優雅な風貌。甲鉄で装った武者を前にして恐れ気なく舌を舐めずる――この名も知れぬ鮮血の匂いに満ちた妖しき貴婦人の魔手から逃れなければ、  絶望すら始まらないのだ! 「さぁ開演しましょう、東方の騎士様。  チェイテ城の長い夜を!」 「夜明けのない永遠の夜を!  狂おしくあでやかに過ごしましょう……!」  〈踵〉《きびす》を返して走り出す。  恐怖があった。  この世界に捕まる事への恐怖ではない。  〈ソレ〉《・・》への恐怖だ。  ……含み笑うような息使いが背に聴こえた。  何か――迫ってくる。  するする、するすると……細い何かが、俺を捕まえようと追ってきている。  振り返ってはならない。  振り返れば捕まる。  逃げるのだ。  会ってはならないものから逃げるのだ。  しかし、いつまで逃げれば良いのか……!? «御堂!» 「来たか!」  時間移動の力――――  風が吹き〈荒〉《すさ》ぶ。  密集して襲う雨の圧力は、砂嵐も同然だ。  鉄の〈騎体〉《からだ》が木の葉のように、右へ左へ、見えざる手の命ずるまま激しく危うく踊り狂う。  背景を彩るつもりか、轟く雷鳴―― 「今度は暴風雨の真ん中か!」 «一応断っておくけど、私が行先を選んでるわけじゃないからねーっ!»  言っても詮無い苦情と、言うまでもない弁明を応酬する俺と村正。  無論のこと心理的余裕の表れではなく、どちらかといえばその反対であった。  ……もう少しましな時空間へ飛ばしてくれ。  それが無理なら、せめてさっさと次の時空間へ連れ出して欲しい。  届け先のない要望を胸中で弄り回す以外、何もする事がなかった。  戦場の王たる武者も、自然現象にはまるで無力だ。  早く修正力が働いてくれないものか。 «御堂!  ねえ、あれ見て!» 「下?」  目をやる。  そうして初めて気付いたが、下にあるのは陸地ではなく海だった。  空に負けず荒れ狂っている海面を、さほど大きくもない船が漂っている。    船…………船?  船には違いない。  だが、あのような形状の船は見たことがない。  俺の知るどんな船舶より、洗練された――先進的な構造をしている。    ……ここは、未来か!?  先刻の古城は現在ないし過去と思えたが。  あの船から推し量るに、この時空間は俺の時代よりやや――数年か数十年か――時間の進んでいる世界と思しい。  真実そうなら、何よりの事だ。  人類世界が〝神〟に滅ぼされなかったという証左になる――が、本当に未来なのかは知れたものではないし、〈有り得ない未来〉《・・・・・・・》に飛ぶ事もあるかもしれない。  現状は既に俺の理解を脱しているのだ。 «あの船……沈みそうね?» 「そうだな……今にも」  優れた船なのだろうが、今は笹船と変わらない。  波の暴虐にただ弄ばれている。  助ける、という選択は脳内から排除した。  それは確実に、この世界への深い関与となるだろう。  手を出すべきではない。  この時空間の事はこの時空間の人間の預かりだと、思い捨てるしかない……。  だが、別の観点からの考えもあった。  暴風雨の中に留まること自体、この世界との関わりだと言えばそうだ。  待っている間に姿勢制御を失い、墜落する可能性もある。  あの船の中に入れば、ひとまず雨風は凌げるだろう。  あるいはそれが、最もこの時空間の事象と関わりを持たなくて済む方法か……?  さて、どうする。 «船の横腹に、何か見えない?» 「あの文字列か?  船の名前だと思うが……」  ――――と。 「時間か」 «みたいね。  ……次はもう少し落ち着いた場所だといいんだけど» «〈縁〉《へり》に蟹文字が書いてある……» 「船名らしいな」 「……ANDREA……GAIL……?」  俺がその名を、読み上げた刹那だった。 «――――え!?» 「消えた!?」  消えてしまった。  船はもはや、海上の何処にも見えない。  一瞬にして波に呑まれてしまったのか?  いや、それにしても…… 「村正、何が起こったかわかるか?」 «…………» «今……  時間歪曲が、そこで» 「……何……」 «あの船は……  〈私達の代わりに〉《・・・・・・・》、連れて行かれた» «だから、私達はもう――»  ……………………。  何を思えば良いのかわからなかった。  己の軽挙を悔やめば良いのか。  これから数奇な運命を辿るだろう船とその乗組員について思いを馳せれば良いのか。  いずれにせよ。  元の世界へ戻る手蔓を失った俺には、考え悩む時間だけなら充分にあった……。 「……」 «……»  もはや心情吐露の語彙も尽きた。  燃えている。  辺り一面、轟々と燃え盛っている。  これは……野火の只中か。  天井は無く、足元は土砂。少なくとも屋内ではないらしい。火種となっているのは草葉と木々。  ――いや。他にも。 «何よ……これ» «何処の地獄よ?» 「……ディーテの都だろうか」  かの〝〈神曲〉《コンメディア》〟に謳われる火炎地獄。    ここでその名を出す事は、およそ洒落心などに無縁の人間であっても――つまり俺でも、容易であった。  ただ素直に視覚情報を評価すれば、そう思える。  焼けているのは人だった。  数え切れない人、人、人。  人種も性別もわからない。皆とうに焼け焦げて炭化している。しかし原形は留めていて、間違いなく人間だとわかる。  生命あるものの形だった。その残骸だった。  火炎と死屍の中、ぽつんと佇む。  甲鉄に覆われた俺は、後ろめたさを覚える頑強さで火の猛威に耐えていられた。  ……この光景は何なのだろう。  単なる火災と、不幸な犠牲者なのか?  そう見ればそう見える。だが疑念を抱けば、それは際限なく広がってゆく。  どうしてこんな所で、このように集まって焼死しているのか。  逃げ散れば良いだろうに。  それとも、逃げられなかったのだろうか。  ――何故? «この人達……蝦夷……» 「……わかるのか」 «うん……何となく。  多分、みんな、私の同族……» «……でも、少し違う……?»  少し違う?  蝦夷と……?  西洋の蝦夷種族――〈白蝦夷〉《ユーデア》、か?    そう思って足元を見れば、植生が大和らしくない。欧州のそれに近かった。  白蝦夷。欧州。大量死。  ……何かが繋がりそうなのだが……。 「!!」  思索が急停止を余儀なくされる。  視界の端、炎がゆらめいた向こうに――今一瞬だけ、人影が見えた。  つまり、〈立っていた〉《・・・・・》。  ……まだ生きている! «待って、御堂!» 「何だ!?」  この切羽詰っている時に、何を―― «状況を忘れないで!  ここは私達の世界じゃないのよ!» 「――――」 «この世界に深く関わったら、元の時空間に戻れなくなる。  それでもいいの?»  ……そう、そうだった。  修正力が働くまで、周囲との干渉を避けて待たなくてはならない。  火の中で静かに待つのは難しいが、劒冑の守りさえあれば可能だ。  下手に動いてはならない。  増してや、この世界の住人を救うなど〈以〉《もつ》ての〈外〉《ほか》だ。 「……く」  足を止めて、人影のあった方向を見やる。  炎がまた大きく揺れ、その姿を俺に晒した。  小さな体。抜けるように白い肌。長い耳――  読みは当たっていたらしい。少なくともその唯一の生存者は白蝦夷の特徴を備えていた。  〈彼女〉《・・》はこちらに気付いていないようだ。  自失の態で、己を包み込もうとする炎の渦に視線を注いでいる。  ――彼女。 「あれは……」  女性だと気付くと同時、脳裏に閃くものがあった。  知っている。俺は一度、会った事がある。  横浜基地で。  ウォルフ教授と茶々丸が俺に紹介した――鍛造雷弾。  空洞のようだった少女。  何故ここに?  ……いや、違う。  いま自身の心に問うべきは、そんな緊急性のない謎ではない。  助けなくて良いのか。  本当に見捨てて良いのか。  結局のところ、俺は彼女について何も知らない。  本当に鍛造雷弾の一部であったのか、それすら確信はない。  見捨てて良いと思える根拠は全くない。  確かな事は、いま目に見えている事実のみだ。  白蝦夷の少女が、炎に巻かれて死のうとしている。  助けなくて良いのか。  助ければ、俺は元の時空間へ戻れなくなる。  あの世界で〝神〟を止められる者はいなくなり――結果、どれほどのものが失われるだろうか。  だが考えてみよ。  一個の世界と、一個の命。  前者が重いなどと、誰が決めたのだ?  今そこで危機に瀕している命を救って何が悪い。  いや、それこそ真に尊い行いではないのか……?  どうする? «御堂!»  村正の声も、もはや俺の心には届かなかった。  迷わない。俺は彼女を救う。  あの儚い生命を救うのだ。  武者の足にはほんの数歩の距離。  一息に駆け抜けて、その体を抱え上げる。  微弱な息遣いが、頬に触れた。  少女の双眸が、俺を認める。  俺も彼女の顔を見下ろした。  ……ああ。  俺は深く、深く安堵した。  決断は正しかった――誰が何を言おうが断じて正しかったのだ。  助けて良かった。  失ったものは計り知れない。  しかし、得たものがここにある。  見よ。  この少女を。  空洞のようだと感じた、嘗ての自分の気が知れない。  確かに少女の瞳は虚ろだろう。表情は常に一様で、変化に乏しいだろう。  だがその奥を見よ。  豊穣なる心を覗け。  空虚と思えたのはそれが何の欠けもなく、隅々まで満ち満ちていたからだ。  〇と一〇〇の類似性に惑わされたに過ぎない。  少女は無ではなく全であった。  豊かな心でもって、彼女は俺を祝福している。  それで良い。その決断で正しいと。  こんなにも嬉しそうに――――  〈魔〉《・》が差したとでも云うべきか。  不意に群雲の如く湧いて胸中を満たしたその考えを、俺は慌てて振り払った。  ならぬ。  この世界の事象に干渉を許されるのは、この世界の存在のみ。  俺は部外者であり、稀有な機会を得て覗き見ているに過ぎない。  手を出す資格などない。  俺の決断そして行動によって変えられるものがあるとすれば、それは俺自身の世界の事象だけなのだ……。 «……焦らせないでよ» 「済まん。  どうも熱にあてられたらしい」  もう少女の姿は見なかった。  見ればまた何を思うかわからない。  修正力の働きに意識を集中させ、身を任せる。    ……そろそろ元の時空間に戻らないだろうか?  静かであった。  小波の打ち寄せる音のほかに、耳を煩わせるものは何もない。  いつかの夜、どこかの浜辺。  妖しい気配も、逆巻く風も、炎の猛りも、ここにはなかった。穏やかな世界だった。 「……まだか。  しかし、一息つけるな」 «そうね。  それに時間はともかくとして、ここは大和みたいだし»  村正の見解に、首肯する。  これは大和の海だ。おそらく太平洋側。  空を見れば、星空の様相もその仮定を裏付ける。  慣れ親しんだ星座が見え、月も―― 「……………………」 «? どうしたの?» 「月が」 «月?» 「……割れている」 «は?  ……ちょっと、突拍子もないこと言わないでよ» «落ち着きなさい。  月は満ち欠けするけど、割れたりなんて» «にゃがーーーーーー!?»  割れていた。  何度見ても。錯覚と決め込んで見直しても。  地球の至宝、美しき衛星は完全に割れて砕けていた。  満月……なのだろう。本当なら。  それが、床に落とした皿の如き惨状を呈している。  ……月の誕生についての一説を思い出した。  地球周辺に漂っていた物質が引力の影響で集積し、やがて月を形成したのだと云う―― «ちょっ、なっ、ながにゃんでつつつつき» 「落ち着け」  錯乱して異界の言語を喋り始めた村正を遮る。 「ここが数万年……どころではないか……  数億年以上昔の地球上という可能性はあるか?」 «え?  えーっと……» «だいたい数百年の枠の中で動いていたはずだし、それはないと思うけど……。  周りも、そんな風には見えないし»  同意できる。  月が生まれたのは、確か――地球とほぼ同時と聞く。そうなると数億年前ですらない、数十億年前だ。  とてもではないが、ここがそんな太古の地球上とは思えない。    すると……どういう事なのか。  ここが月の生成過程にあたる時代ではないなら。  ……未来?  将来、月は何らかの理由で割れるのか?  人類の月面開発が未曾有の大失敗を犯すのだろうか。  あるいは異星人との決戦場に――? «…………» 「…………」 «あっ» 「……む?」  村正は混乱が尾を引き、俺は頭がSF方向へ進んでいたせいだろう、それに気付くのが遅れた。    人がいる。  足跡を点々と残しつつ、歩いてゆく影。  俺から見えるのは後姿であり、暗くもあって、良く判然としないが――どうやら女性か。  彼女は離れていこうとしていた。  しかし、何かを感じたのだろう。  不意にこちらへ、振り返る。  まずい――と思ったが、どうにもできなかった。  幾許かの距離を置いて対面する。  ……知らない女性だ。  俺は彼女に出会った事はない。  それは断定を下せる。が……何か、記憶を刺激するものがあった。  全貌には覚えがないのに、部分部分が引っ掛かる。  例えば、あの双眸―― 「…………」  忽然と現れた武者――だろう、彼女にすれば――を見て、そこには動揺の片鱗も湧かなかった。  この景色のようにただ静かで、  ほんの小さく波立っている。  遠い過去を見る眼差しだった。  あるいは、己の心を見詰める眼。  彼女は何も言わず、俺も、何一つ口にできなかった。  数秒だけ止まったその足取りが、再び前方へ向かう。  歩き去ってゆく。    真っ直ぐに。  彼女はもう止まる事も、振り返る事もなかった。 「……」 «御堂» 「ああ」  時空間の歪みが生じている。  ここからも無事、抜け出せるようだ。 «今の、誰?» 「知らない」 «……本当?» 「なぜ疑う」 «……まぁいいけど。  それより、気をつけて» «多分、これで元に――»  富士山上空――  元の世界。元の時間だ!  眼下には金神。  集束させた重力の波動を、今こちらへ撃ち出そうとしている。 「……そうか。  元の時空間へ戻るということは、すぐさまあの〝神〟との戦闘が再開されるということだったな」 «だから気をつけてって――»  感慨に浸る暇も貰えない。  身を翻し〈母衣〉《はね》を打ち、空を転がるようにして重力波の迸る壊滅領域から脱出する。  余裕の欠片の塵滓もなかったが、危うく直撃だけは逃れた。 «……言ったでしょうに» 「ああ。しかし……  重力波に空間歪曲、極めつけの時間歪曲」 「そろそろ種切れにならないのか?」 «種はともかく、弾数ならまだまだ尽きないみたいよ!»  ……確かに。 〝神〟はこちらが辟易する精力ぶりで、時空間を歪め、破壊の波動を撃ち放ってくる。  消耗の様子などまるでない。    だが―― 「幾つかわかった。  あれは同時に二つの事はできない」 「そして、立て続けに行動する事もできない」 «ええ»  能力行使は必ず一種ずつ、また一度行使すると次の行使まで時間間隔が空く。  限定範囲の空間歪曲のみなら短い間隔で連打も可能のようだが、重力波などはそうもいかないらしい。 «力の総量は無限に近い程あっても、それを無制限に扱えるわけではないんでしょうね» 「〈物怪〉《もっけ》の幸いだ。  せめてその程度の条件が付かなくては勝算も立たん」  そして一つでも有利な条件があるなら、作戦の立案に難は無い。 «狙い所は、辰気の激流を使ってきた直後?» 「ああ。  その隙をついて一撃を加え、離脱する」  こちらの動きに遅滞があれば、重力波の全周囲放射で吹き飛ばされるだろう。  まとめれば一言で済んでしまう事だが、容易い行為とは言えない。  だが、油断さえしなければ…… «……苛立ってる» 「攻撃が成果を上げない事に加え、〈ちくちく〉《・・・・》刺して回られるのが気に食わないか。  それでいい」 「〝神〟が怒りに任せ、更に大規模な攻撃を仕掛けてきた時がこちらの勝機だ」 «大きな攻撃を行えば大きな隙が生じる……»  そう。  野太刀〝虎徹〟の電磁抜刀を打ち込む機が来る。 «けれどこれ、蛇がいるってわかってる藪をつつくようなものよね» 「違いないな」  それで蛇に噛まれて死ぬ結果にでもなろうものなら俺達はまさしく愚者の標本だ。教訓とするため後世に伝え残したい程の。  そして、その末路を辿る可能性は決して低くない。  現状でもぎりぎりの線を渡っているのだから。 「せめて、己の愚かさを後悔はできるように努力するか」 «諒解。  後悔は生き延びた人だけの贅沢だものね!»  身の毛もよだつ重力の波濤から逃れ、  懐に入る!  こうして、着実に一撃一撃を積み重ねて―― «……え? ……今の» «御堂、待って!  いけない!» «何か変、罠かもっ――» 「ッッ!?」  罠?  この、まともな思考装置を備えているとも思えない 〝神〟が――?  重力波を……連続で!? «避けてっ、御堂!» 「くッ――」  何故、急に! 「……今までは手加減していた、とでも言うのか!」 «違う!  一発の威力を抑えて、連射ができるようにしてきたのっ!» 「威力を――?」  ……そうか。思い返してみれば頷ける。  今の二発は前の重力波に比べて小規模だった。  しかし、そんな小知恵が何処から…… «まだ来るっ!» 「――ひとまず離脱するぞ!」  これでは到底、近接攻撃の範囲へ踏み込めない。  防戦一方、機動力の限界と撃墜死を待つばかりだ。  一旦退き、戦闘態勢を再建する必要がある。 «諒解っ――» «――ってっ――» «だめ!  後ろにっ――――» 「……ッ!?」  空間歪曲!!    ――俺達の、〈退避した先〉《・・・・・》に!  偶然か!?  それとも、そうではないのか?  罠を張り、誘い込んだという事なのか!?  あの〝神〟が…… 「ちィ……!」  危うい。  どうにか右脚甲鉄に軽い被害を受ける程度で済んだ、が。  ――――更にもう一段!! «御堂ぉっ!» 「――――」  機動力限界。  回避不可能。  無限の空の雪隠詰め。  全てを終わりにする、  終わらせてしまう力が迫る。  来る。 「ぬがァ!!」  ……咄嗟の思い付きは、おそらく膨大な量の幸運に助けられて成功した。  重力増幅を施した野太刀の一閃で、押し寄せた重力波動を打ち払う――  寸毫の差で惨めな空振りとなったろうが、その差は生じなかった。  ろくに狙いを合わせる間もなかった事を思うにつけ、全く奇跡としか表現しようがない。 «……何だか新しい宗教を開けそうな気分よ» 「後でやれ。幾らでも応援してやる。  だがその前に」 「――どういう事だ?」 «…………»  即答は元より期待していなかった。  村正とて全能ではない。俺と同様。理に合わぬ事態と直面すれば、言葉を失って当然だろう。  ……外観に変化は無いようだ。  あの〝神〟の行動は当初、知的と云うに遠かった。  玩具を振り回す子供、そう評価を下して差し支えはない。  しかし。  今、〝神〟がとった行動――  無意味なほどの破壊力があった重力波を絞り、単発から必要充分な威力による連射へ切り替え。  俺が撤退すれば、退避点に空間歪曲を仕掛け。  更に、詰み手となる重力波一射。  偶然にしては、芸術の域まで出来過ぎている。  あれは戦術的行動であった。  過去数秒間の出来事をどう反芻しどう考察しようが、極めて〈人間臭い〉《・・・・》思考の介在なしには説明がつかない。 「何故、急に変化した……?」 «その疑問、納得のいく回答が一つだけ思いつくんだけど、聞く?» 「妙に嫌な予感がするが聞こう」 «神だから» 「納得はできるが解決策になっていない!」 «そうよね……» 〝――ふん。  そう奥深い謎があるわけではないのだがな〟 «……» 「……」 «今、何か聴こえた?» 「聴こえた、というより。  感じた……?」  声なき声。  今のは……思念?  金神から送られてくる―― 〝この神は低能だが、不思議にも、〈どうもうまくいか〉《・・・・・・・・》〈ない〉《・・》理由が自分の低能さにある事は悟れたらしい。  補うものを求め……以前に取り込んでいた〈漂着物〉《おれ》がその素質を備えていると感付き、〟 〝そこへ息吹を吹き込んで、活性化させた。  ……この身を黄泉帰らせ、頭に据えたのよ!〟 「――――」  覚えがある。  色も形もない思念に覚えというのも妙なものだが、しかし事実、この意思の波は俺の記憶を刺激する。  ……知っている。  俺は思念の主を知っている。嘗て出会っている。  何処かで―― 〝ちィ……  この不恰好な〈形〉《なり》では声を出すのも億劫でたまらん〟 〝姿を変えるぞ〟  地震と落雷が同時発生したならさもあろうかという轟音を響かせ、〝神〟の体が変容する。  水晶の森のようであった形が、全く別の構造を持つものへ。  頭がある。  腕がある。  脚がある。 «人間?» 「……いや」  装甲がある。  〈母衣〉《つばさ》がある。  佩刀がある。 「竜騎兵」  それは武者だった。  確かに見覚えのある姿だった。  〈あの男〉《・・・》だった。 「長坂右京!!」 «はッ! ようやく気付きおったか……  血の巡りの悪い若造め!!» «……あの代官っ!?»  短く叫んだきり、村正は絶句した。  無理もない。現実を疑う思いは俺とて同じだ。  何故、長坂右京がここで現れるのか。  彼と金神の間に何の接点がある? いやそれ以前の問題だ――死んだ筈の男がどうして! «おお……良い心地よ!  感じるわ。滾るわ。これが命、これが力か» «俺は〈現世〉《うつしよ》に戻ってきたのだな!  お山の〈金神〉《かみ》の力を持って……» «愉快よ! これほど愉快な話もないわ!  かァはははははははははッッ!!»  この手で確かに死の淵へ堕とした男が、いま眼前に立って大笑する。  しかもその姿たるや、雲を〈衝〉《つ》く巨人。  悪しき夢でなくて何であろう。  だがこれは決して、暖かい寝床で〈微睡〉《まどろ》みの内に見る幻影などではなかった。 「村正……有り得る事か?  重力操作による死者の蘇生というのは」 «有り得ない!  死んだものが生き返るなんて、絶対にないことよ!»  悲鳴のような声音で村正は言い切った。  それから、小声で言い添える。 «……でも。  擬似的なことなら……できるのかも……» «死骸を基礎にして、その生前に近い存在を造り上げることなら……» 「それがあれか?」  としても、やはり疑問は残る。  その死骸がどうして〝神〟のもとにあったのか?  ……そう言えば、長坂右京を斬るおり諸共に崩したあの山には、祟り神の伝承があったが―― «匂う。  匂うぞ……» «一媛が近くにおる!  そうか……俺を迎えに来たか» «であろう。お前は神に嫁ぐと言った女。  即ちお前を娶るのは、この俺に他ならぬ!» «今こそ!!» 「うぉっ……!」  〈巨〉《おお》きな竜騎兵が一歩、足を進める。  ただそれだけの事で大富嶽は震撼し、空気までもが〈戦慄〉《わなな》いた。  あれは山頂を離れ、何処かへ向かう気でいるらしい。 «……御堂!»  劒冑の金打声が危険を告げる。  危険――そう、これは危険!  俺は異常事態への疑問を頭の隅に追いやり、思考の切り替えを己に強要した。  あんなものが人里へ降りて、無事に済む筈もない。  空想旅行記の〈巨人〉《ガリバー》とは違う。〝神〟の力に酔う風のあの男に〈小人〉《・・》の世界への配慮を期待するのは、希望的観測が過ぎている。  加えてあれは形こそ変われど〝神〟、全世界に蔓延してゆく汚染波の源なのだ。    俺のやるべき事は一つだった。 「長坂!!」 «まだいたか羽虫。  貴様など、別にどうでも良いわ» «尻尾を巻いて遠吠えしておれ!» 「そうしたいのは山々だが、立場上、飛んで火に入らねばならぬらしい!」  狙うは首元。  人体急所があの巨兵に適用されるとも考え難いが、無策よりはまし―― «ごぉァ!?» 「ぬぅ」  ――同じ事か!    木刀で岩を叩くにも似る強硬な手応えを味わわされ、俺は歯噛みした。  先刻と違い、全く傷を負わせた感触がない。  竜騎兵姿は単なる長坂の伊達かと思えば――実際に体表は武者甲鉄と同等、いや凌駕する硬度を獲得している!? «痒い真似をォ!!»  虫を払う仕草で振られた腕から、騎体を転じて逃れ去る。  吹き寄せる太い風は、敵の桁違いの重量を物語っていた。  一寸法師の心細さが今なら良くわかる。 «面憎い若造め!  今日もまた俺の邪魔をするかッ!» 「一身上の都合により」 «相変わらずの言い草も忌々しいわ。  良し……相手してくれるぞ» «考えてみれば、貴様への借りを置き捨てておくのも業腹だ。  一媛のもとへ赴くのは遺恨を晴らしてからでも遅くなかろうよ……!»  鳴動する山のような武者が凍れる大河のような太刀を構える。  憤怒し魔を断たんとす〈不動明王〉《アチャラ・ナータ》――まさにそれそのものであった。  脅威、などという言葉では足りない。  胃液の形をした恐怖が喉元まで〈迫〉《せ》り上がってくる。  全身全霊の力でそれを腹へ押し戻し、俺は呟いた。 「良し。好機だ」 «……ものすごく努力してその一言を言ったのがわかるから、褒めてあげたいんだけれど、その前に私も同じくらい頑張って今の言葉に頷かないといけないのね» 「いや別にいい。  俺の意図が通じてさえいるなら」  そこは確かめるまでもなかった。  軽口の金打声を飛ばしながらも、村正は既に機能の準備を整えつつある。 〝神〟は戦闘能力を飛躍的に増強した。  間違いなく――如何なる〈所以〉《ゆえん》によってか長坂右京を頭脳に得た一事で。  既にあれは重力操作を放漫に駆使する〈怪獣〉《モンスター》ではない。  その膨大を極める〈力量〉《エネルギー》を、老練なる武人の制御下に置かれ、しかも彼が最も操りやすい〈竜騎兵型〉《かたち》へと変貌すらしている――〈魔神〉《サターン》なのだ。  皆無であった戦術構想は狡猾な進化を、  粗雑であった力量使用は劇的な効率化を、    遂げているとみて疑いない。  戦力比較は今や単純化されている。  最初は力量で〝神〟が、戦術で俺が完全優位だった。  長坂を頭脳とした時点で戦術は互角に近くなったが、それでもまだ慣れぬ異形を操る不利は〝神〟側に存在したと思われる。  今はどうか。    ……長坂右京と湊斗景明の戦闘技量を互角とするのなら、後は力量における天地の隔絶のみがある!  巨と小の絶対的格差。  それだけだ。それしかない。  〈而〉《しか》して、今は好機なのだ。  何故なら〈剣と〉《・・》〈剣〉《・》の勝負になる。  人間相手、武人相手の計算が通用する。  体重、力量の不利は余りにも大きい。  だが、それはあくまで戦闘条件の一つだ。  体格差があるならば、その差を覆す技法を用意するまでの事だ。  技法、それは必ず存在する。  そのための武術、そのための剣術なのだから。  魔神の〈構〉《かまえ》に、そこへ捧げられた剣理を観る。    ……以前と同様、この長坂という老兵は、激情家でありながら戦いの場には欠片もそれを持ち込まない。  金神の力に酔い、俺を屑虫と侮り、しかしその剣先は無思慮な突進の愚を冒す気色もなかった。  一心一刀、必殺の勝機を沈静に窺っている。 (六波羅新陰流……〈活人刀〉《カツニントウ》の〈奥理〉《おうり》)  見て取って、俺は胸腑に呟いた。  他流儀だが、六波羅新陰流とは奇妙に関わりを持つ事が多く、多少の知識を持っている。  魔神の剣形は如何にも堅牢なもの。  だが詳細に目を凝らせば、糸筋程度の隙が見える。  それこそが〈陥穽〉《わな》。  完璧に防御を固めれば、対敵は考えを巡らせたすえ、思いもよらぬ手管を用いる事もあろう。  そうさせぬため、あえて攻め入る穴をつくる。  我が想定の範囲内で敵を踊らせ、力と技と機を無為に費えさせるのだ。さすれば勝利はいとも容易い。    ――敵を〈活〉《い》かして斃す、これぞ活人刀。  長坂が得た〝神〟の力は剣理を補強するだろう。  受け誤って敵刃を浴びようと〈堪〉《こた》える体躯ではない。そして返す太刀は掠める程度で充分、敵を虐殺する。  必勝の術式。      ――対するに、俺は、 «……クク……»  魔神長坂は会心の笑みを浮かべたようであった。  俺の企図を汲んだのであろう。  ――敵の剣理に、乗る。  差し出された餌を喰らう。  毒仕込みのそれを貪ろう。  先手を取り、故意に作られた隙へ攻め入ろう。  深遠精緻なる剣理に、単純粗雑の剣理で挑む。    ――先手必勝。先に攻め先に斃して勝を取れ。  即ち〈殺人刀〉《セツニントウ》。  魔神の嘲りは当然であった。 (しかし長坂右京)  油断こそ無いにしても、やはりお前は知るまい。  殺害権は俺にも有るという事実を。  例え御身が神であろうが。  丹田を軸に血の時計を回す。  加速し収拾し編成する。  熱量を偏移。  必要箇所に必要量を。  我が体内に機関を造れ。  湊斗景明と三世右衛門尉村正の最大規模・極限値・絶対量・完全武力の破壊行使のために。 «〈蒐窮開闢〉《おわりをはじめる》» «〈終焉執行〉《しをおこなう》» «〈虚無発現〉《そらをあらわす》» «――――――――»  ちり、と警戒の気配が俺の脳髄を刺した。  悟るだろう。  今となれば悟るだろう長坂右京。  〈村正〉《おれ》が何をしているか。  どうする。  止めてみせるか。  神なる力で、この一剣を止めるか。  基本となる術式は、電磁抜刀の一、〈禍〉《マガツ》の型と変わりない。  〈劒冑〉《むらまさ》は鞘と刀身の間に強激な磁力反発を生じさせ、〈仕手〉《おれ》はその激流を操って抜刀斬撃と成す。  異なるのは式ではなく量。  規模――速度――威力の。  武力の容器として太刀が一〇〇であったとすれば、野太刀〝虎徹〟は一〇〇〇〇に届く。 «ちぇらぁぁぁァァァァァァァ!!»  土壇場、魔神は遂に正しい決断を下した。  活人刀の剣理を振り捨て、闇雲に太刀を落とす――  恐ろしい。  何という〈兵〉《つわもの》か、長坂右京。  この一幕は俺にとっても不測だが、長坂にとっては尚の事だろう。突如として再生させられ、わけのわからぬ〈巫山戯〉《ふざけ》た〈神威〉《ちから》を与えられ……  だが最後まで武人としての己を見失わなかったとは。 (危うかった)  俺は卑屈にも安堵する。  長坂の正しい決断が、正しい機よりほんの少しだけ遅れてくれた事に。  今ならば、  俺の方が、  速い。 「吉野御流合戦礼法〝迅雷〟が崩し」 「〈電磁抜刀〉《レールガン》」 「〈穿〉《ウガチ》」 «ぎぃぃおおおおオオオオオオオオオオオ!?»  砕け散る。  野太刀が〈疾〉《はし》った軌道――  そこには虚空が現れた。  虚空は領域を広げ、  無をもって有を侵食し、    〈血魂骨肉〉《セイメイ》を食い破った。  神であろうと。  魔神であろうと。  構造核芯を〈刳〉《く》り〈貫〉《ぬ》かれたならば、後は崩壊を遂げるのみ。 「…………」 «……終わりね……»  結末を見届ける。  鍛冶の神であったもの。  長坂右京であったもの。    そして、――であったもの。  その果てを見送る。 «お――――が、ぐ» «ぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!»  崩壊が――         ――逆転した!? «……復元するつもり!?» 「馬鹿な!」 «二度までも!  二度までもォォォォォ!!» «貴様などにィィィィ、この俺がァァァァ!!»  何という〝神〟の力。  何という長坂の執念。  絶対浄滅の渦中にあって尚も足掻き、乗り切ろうとしている……!    させてはならない。  あと一撃を打ち込めば、確実に滅びるだろう。  足掻く〝神〟もそれを悟っているのか。  暴走も厭わず力を渦巻かせ、混沌の大坩堝の中心となり〈吼〉《ほ》え〈哮〉《たけ》る。 «オオオオオアアアアアアアアアアア!!» «良き立合であった。  お陰で〈寝覚め〉《・・・》が至極いい» 「――――――――――――――」  ……聴いた。  今、  確かに、  声を、 «だが往生際の悪さは頂けぬ。  折角の武名を自ら汚してはなるまいぞ» «花は桜木人は武士!  散り様までも華々しくあれ!!» «――何――?» «あ、お、げいいいいいいいいイイイイ!?» «生と死の選択を  己に課す命題として  自ら問う――――» «されば嘲笑の歓喜する渦に  喜劇の幕よ、いざ上がれ!!» 「光!!」 「答は用意したか、景明!?  ここは〈終〉《つい》に世界の果て――」 「道化の詭弁と悪魔の仮面が、おまえの影を踏んでいる!!」  世界の終熄を誰が疑おう。  この光景に至って、誰が。  美しい形を失った富士が、濁血のような溶岩を噴き流している。  それは生命を許さぬ、存続を許さぬ、創造を許さぬ、破滅以外を許さぬ虚界。  誰がここで生きるのだ。  誰がここで生きるのだ? 「勝者のみ」 「唯一人の勝者のみが、〈涯〉《はて》に立つ」 「その者をこそ〈上〉《カミ》と呼ぼう。  人に許されざるを自ら許す、超越の権能者と――」 「…………」  覚悟していた邂逅だった。  出会いを期し、為すべき事も決めていた。  光。  我が妹。    ――自らの夢に沈んだ、湊斗光。  会えば殺すと、決めていた。  ……決めていたのだから。  今、すぐに、 「光」 「うむ」  呟きさえ聞き流さず、光が応じる。  頷いて。微笑を含めて。  燃える地上から熱気流が吹く中、その様子は穏やかですらある。    しかし、俺は。俺のすべきは、 「お前……なのか?」 「何だ、その禅問答は」  くつくつ、と笑う。 「いや、わからんではない。何やら吹っ飛ばされかけたり地底に埋没したりそこで変なのに出くわしたり、色々とあったからな。  心配をかけたか……?」 「……」 「案ずるな。  結局なんだったんだか我が事ながら未だにさっぱりよくわからんが、光は光。他の何者でもない」 「見ての通り、健在だ!」 「……そうか」  ――違う。  こんな会話は要らない。  俺は、 「神と言ったな……」 「あぁ」 「お前は、この世の神になりたいのか」 「〈神になりたいか〉《・・・・・・・》?  ……ふむ、それは考えたこともない」 「だが、〈ならなくてはならぬ〉《・・・・・・・・・》と知っている。  ならねば、光の望みが叶わぬ」 「これはおまえと〈二世〉《ムラマサ》が教えてくれた道」 「…………。  だがお前は、既に神も同然だろう」 「……うん?」  ――違う。  こう、逃げ場を探すように言辞を弄するのではなく、 「見ればわかる……。  あの〝神〟は砕けて散ったが、〈神威〉《ちから》は失われていない」 「おまえの中にある」 「……?」 «御堂、〈これ〉《・・》のことであろう» 「ああ……これか!」 «なかなか、大したものではある» 「肝臓が十個くらい増えた感じだな」 「……それで、もう充分だろう。  お前は神と名乗れるだけの力を持っている」 「このうえ更に、何を望む」 「ふふ。  わかり切ったことをあえて訊く……そこがおまえの不思議なところだ」 「……」 「いや――そも、光は未だ神の座に値せず」 「気付けば手に入れていたこの謎の力。  なるほど、確かに強大だ……」 「しかし、力さえあれば神たるのか?  では恐竜は神か。海嘯は神か。八〇センチ重列車砲は神か――」 「頷けまい?」 「……」 「力は、力に過ぎぬ。  因であって果ではない」 「過去、幾人もの覇王が神を自称した。  それは彼らに力があったからか。否。力をもって国々を切り従えたからこそ、王は己に神性宿るを信じたのだ。臣民もまた」 「……なら、お前は」  あくまで。 「光は歴史への敬意のもと、その示す道筋に従おう。  いかに大きな武力を持とうが、成果を世に顕すまでは決して僭称すまい!」 「そして過ちの轍も踏むまい!」 「かつての覇王は皆、中途で堕落した。  世界人類悉くを征服する前に満足し、力に溺れ、不完全な神となった」 「ゆえに打倒された……」 「おれは、そうはならぬ。  覇道の終端までを踏破する」 「湊斗光は三〇億人類全てと勝負し屈服させ、その事実をもって神座へ至ろう!」 「お前は、どうしても、  その妄念を捨てられないのか!?」 「捨てられぬ!  いかにも妄念、いかにも愚念、されどこの一念が光の命脈!」 「まずは舞台を整えよう。  今、光に宿るこの戯けた力……天下万民と分かち合うにも充分だ!」 「――――何を!?」 「光は一身の願いから全人類の敗死を求む。  ならば〈諸人〉《もろびと》は光の意思に抗い拒絶するための能を持たなくてはなるまい――でなくては〈不公正〉《・・・》!」 「ゆえに授ける!  武の一法! 殺伐争奪の力と心を!」 「天下布武ッッ!!  今ここに、湊斗光が発令した!!」  銀の右手が天を指し、閃光を撃ち出した。  あたかも〈逆上〉《さかのぼ》る稲妻。  暗空に銃創を思わせる孔が開く。    ――その周囲で、大気がうねった。  渦を巻く。  雲が引き裂かれて散った。  〈朝凪〉《あさなぎ》の海に似た空は〈時化〉《しけ》の海へ模様を変えた。  中央の〈目〉《・》を軸に荒れ狂う旋風……  まるで台風のようだ――が、 「村正、あれは――」 «……汚染波の塊よ!  途轍もない濃度の……» «あんなのを浴びたらきっと、甲鉄でも防げない!»  ――武者をも逃さない精神汚染!    あの嵐が、それをもたらす……? «しかも……それだけじゃ、ない……?» 「そうとも、蜘蛛。  これは〈武の嵐〉《・・・》だ」 「白銀の雨風を地上に注いで回り……  人々に武の力と魂を与え、この光と同等の武人に仕上げる」 「――な……ッ!?」 「これで人類は心身共に完全武装!!  この中で勝ち抜いてこそ、神たる武人!!」  それは、  まさか、  つまり――  あの惨劇の拡大再生産か!?  人々を無為の殺戮闘争へ駆り立てる――  〈銀星号と同等の力〉《・・・・・・・・》を与えた上で。  そういう事なのか?  それは――どれほどの破壊破滅を成し遂げる!?  光の佇まいには迷妄も諧謔も、どちらの色彩も存在しない。  全人類を滅ぼすと云い、それに先立って全人類を己と同じ最強者にすると云い、そして実行に移しながら。  己の行為への疑念が一切無い。    ――嵐が創られる。  一つではない。  二つ、三つと、次々に生成されてゆく。 「〈露帝〉《ロシア》!」 「〈大漢〉《カン》!」 「欧州!  中東!」 「新大陸!  暗黒大陸!」 「大和!」  ……銀星号の号令一下。  嵐たちは忠実な部将のように、示された方角へ突き進んでゆく。  闇と風を蹴散らして。 「……村正……」 «……» 「あれが全世界を汚染するのに、どの程度の時間が必要かわかるか」 «多分……一時間とは» 「およそ四五分だろう」  親切な注釈が、実行者から入った。 「……」 「止める方法は?」 «元を断つ» «あの嵐は独立してない。  発生源と繋がったままだから――»  根源を、  銀星号を滅ぼせば、汚染の嵐も散る。 「…………」  殺さなくてはならない。    ――とうにわかりきっていた事は、更に差し迫った現実と化して俺の前に据えられている。  光を、殺さなくてはならない。  すぐに。すぐに。  迷う間にも。  逡巡する間にも。  太刀を抜き、今すぐに。 「――――」 「何を望む……光!」 「そこまでの事を為し、何を!!」 「良い。幾度でも答えてやる。  おまえが問いを重ねるなら、光も同じだけ変わらぬ決意を叫ぼう」 「父を!!」 「……ッ……」 「光の望みは唯一つ!  〈我が父を返せ〉《・・・・・・》!!」  湊斗光の〈深層〉《ゆめ》である存在は、湊斗光の〈悲願〉《ゆめ》を叫んだ。 「おれをこの世に生み落とした根源を――  父の愛を確かめたい!」 「そのために光は母を滅ぼし、世界を滅ぼす。父を奪い束縛する全てを滅ぼす。  そのために光は神となる。〈人倫〉《ひとのみち》に許されぬ父の奪回を神権によって成し遂げる」  それはあたかも――  海に落とした一粒の真珠を探すという難題に、業火をもって海を焼き溶かすと解くかのよう。 「何故、と問うか?  何故、かくも求めるのかと」 「それが〈奪われているから〉《・・・・・・・・》だッッ!!」         〝この子に父親はいない〟        〝この子はあなたの娘ではない〟       〝この子を……愛してはならない〟 「おれは覚えている。  母が父に告げた強奪の言葉を、その瞬間を、魂に懸けて記憶している」 「だから取り戻さずにはいられないッ!!」  脳ではない。それは命の渇望。    心臓を盗まれた人間が取り返さずにいられるものかと、そう云っていた。  断じて〈堪〉《こら》えられぬ衝動が有るのだと。 「…………」 「……父は……」 「お前の、父は」 『景明! ここへ参れ!』 『貴様には何の恨みもない。かような真似を命じるのが心苦しくもある。  だが今となっては、この愚か者に拾われた運命を嘆いてもらうよりないわ』 『貴様が事の決着をつけよ』 「……いないのだ。  この世の、何処にも」 「お前の父は、父たる事を捨てた。  捨てるよう命じられ……従った」 「…………」 「知っているのだろう」 「知っている」 「だから、諦めていた……。  〈表の〉《・・》湊斗光は」 「……」 「しかしその陰で、おれを育てた。  それでも父に愛されたいという希望を……」 「おれという、一つの夢を」  悲痛にではなく。  誇るように。    それは己の虚構を語った。 「……お前は……」 「人の世に押し隠された父なら……  人の世を引っくり返してやれば、出てくるやもしれんだろう?」 「ふふ……」 「…………」  光はおかしそうに笑う。  俺は何も返せなかった。  笑いが尽きるまで、ただ石の沈黙を守る。 「……」 「……」 「景明よ……」 「光」  小指で触れてくるような呼ばわりに、上から被せる。 「なら、お前は……  父親が戻り、お前を娘と認めさえすれば、それで満足するのか?」 「世界の破壊を、思い留まるか?」 「……その問いも、以前に答えたな」 「光が欲しいのは生贄の肉ではない。  真実の心」 「父は社会と秩序を重んじ、それゆえに光を娘と認めて下さらなかった。  だからこそ、現世界を守るためとあらば光の願いを聞くやもしれぬ」 「しかし、それでは駄目なのだ!  真実が無い。形ばかりの偽物に過ぎない。そんなものは欲しくもない!」 「真実を得るには……  父が尊ぶもの。我が母統を、今の人間社会を、全て滅ぼし尽くした上で問うのみ」 「〈これでも〉《・・・・》光を愛してくれるか、と!  九割が憎しみでも構わない。九割九分でも。残りの一分、ほんの少しだけ……一欠片だけ、肉親の愛情を示してくれるなら、」 「それでいい」 「…………」 「それでおれは満ち足りる」  その光景を思い描いたのか。  ほぅ――と。  光は、夢見るような吐息をこぼした。 (――――)  糸の存在を想う。  絡まり合った糸の束。  複雑過ぎて、何処がどうしてこうなったのか、最早まるでわからない。  これを解きほぐすなら、時間を掛けて取り組むのが正しいやり方だろう。    だが、その時間が無ければ――  手段は一つだ。  鋏を使って切るしかない。  結び目を断ち切って、糸を解放するしかない。    この絡まりを解くには、もうそれしか。 「そうか」 「……景明?」 「ならば、光」 「お前に父など与えない」 「ここで……死ね」  熱波の渦を、冷気が押し退ける。  それは冬の気象の生んだものではなかった。  一個人の心気が発しているものだった。 「それが答か、景明」 「……」 「わかっていた。  そう、おまえはあくまでも母上の味方……おれではなく」 「母こそはおれの敵であった」 「母の遺志に従うなら、  〈義兄〉《あに》景明、おまえも光の敵!」 「……その通りだ」 「斃す」 「母に従うその生命魂魄、奪い尽くす」 「母のものは何もかも、この光が奪う!」 「…………」 「そして世界を打倒する」 「全て終わった後で……  この身に宿る力を使い、我が父のみを生き返らせよう」 「阻めるものなら阻むがいい!!」  銀星号――湊斗光の殺意。  それは遂に、俺へ向けられた。  ……勝負は一撃。    そう、見て取る。  言わずもがな、銀星号は〈村正〉《おれ》を一打で撃破可能だ。  そして逆も然り。銀星号は既に大巨躯の〝神〟ではなく、剣の一薙で裁断される〈規模〉《サイズ》に過ぎない。  一撃、当てた方が勝つ。  戦闘状況は、地上戦ではないが、地上戦に近い。  互いに重力制御で浮遊したこの格好、肉声の対話ができるこの間合を、始点としたためだ。  今から騎航に移るのは、敵前で背を見せて逃げるも同然。  致命的な隙となる。  動いてはならない。  動く時は、攻める時。  必倒の一打を対敵に放つ時。  銀星号は左手を前に送り、右手を引いて構えている。    吉野御流合戦礼法、無手構の一つ――〈槐〉《えんじゅ》。  やや我流の崩れ有り。  左手で防御又は〈仕掛け〉《フェイント》を行い、敵の攻め手を無効化して、右手にて打ち勝つ。それが槐の構の本意である。  しかし、この使い手はそこに囚われまい。  おそらく……  八幡宮上空で戦った時と同じように。  小細工は弄さず、ただ速度のみを恃みに襲う。  本来、戦術とも呼べない猪突猛進。  だが〈認識不可能〉《・・・・・》という域まで達するあの〈戦闘速度〉《ファイティングスピード》があれば――如何なる巧緻の戦術よりもなお恐ろしい。  そうして、拳――それとも蹴りか。  どちらでも良いのだろう。あの力と技量にいま怒りと殺意が加わるなら、どちらであろうが確実に、俺を甲鉄ごと四散させられる。  ……光は、ともすれば風に溶けゆくかとさえ思える自然の〈態〉《タイ》で居た。  その中にあって唯一、双眸だけが紅蓮に尖り、進撃の機を窺っている……。  対して。  俺は、野太刀を右肩上に構える。  武者正調、上段の太刀取り。  単純と見えて千変万化の幅を持つが、その帰結するところはやはり単一である――間合に入った敵を斬る。  それだけだ。  細工を仕込むのも可能だが、相手を思えば、やらぬ方がましなくらいであろう。  無駄、で済むならむしろ僥倖。千金より貴重な時間を食い潰し、敗北を決定付ける要因となり得る。  やがて訪れる交錯の間、〈ただ斬る〉《・・・・》以上の何かをする余裕など無いと見るべきだ。  銀星号が間合に踏み込む瞬間を捉えて斬る。    ……俺が行使する術技は、これのみとするが正しい。  〈此方〉《こちら》には間合の利がある。  無手の敵に対し、野太刀を扱う俺は攻撃範囲の点で大きく優っている。  敵が動くのを待った上で先制する事ができるのだ。  ――但し。    間合に入る瞬間を、〈確〉《しか》と掴めるのならばである。  銀星号の速度に振り切られてしまうことなく。  ここが勝敗を分ける最重要点。  俺はその機を〈もの〉《・・》にできるか? 嘗て一度たりとも成功していない大難業を、今こそ果たせるのか……?  銀星号の呼吸は何処までも鎮静である。  〈恰〉《あたか》も眠れる者の如し――  否、眠れる者そのもの。  あれは夢である。  夢なれば、心気の静謐なるは神仙の域に届く。    ――正真の夢想剣。  この機先を、如何にして掴み制するか。  成功と勝利の条件は三つだ。  一つ。  敵は〈銀星号〉《・・・》である事を忘れない。  一つ。  敵は〈湊斗光〉《・・・》である事を忘れる。 (――――)  一つ。  心境は無我に置く。  精神汚染されていたあの時……  俺は普段なら決して成し得ぬ剣を〈揮〉《ふる》った。  劒冑の力に依らず、甲鉄を断ち割る暴挙を果たした。  あの剣は心の在様に由来するものだった。  精神汚染に強いられた一徹の心。無我ではなくその対極であったが、雑念をすべて排除した点においては無我にも等しい心境――  そこから生まれ出でた一剣。    ……そう。あれよりも前、ずっと昔に――〈同じ剣〉《・・・》を使った時も、やはりそうした心境にあった。  無我ないし近似の心位へ至れば、俺はあそこまでの技を使える。  銀星号を斃す事も、できる。  あの心境へ至れば……  あの心境へ。  思い出せ。  あの狭く小さく固く病んだ心理。  思い出せ。  無我の理。  我を、殺す。  あらゆる雑念を、殺す。  ……無我。 「さよう。  無想が外の〈宇宙〉《せかい》を無とする理念であれば、無我は内の〈宇宙〉《おのれ》を無とする理念」 「これもまた、〈全〉《ゼン》に通ずる法であろう」 「無我に至らば、私事も私欲も既に無い」 「有るのは世の大義のみ。  その敵を討てと欲する、世の意志のみ」 「おぬしの意思が消え去ろうとも……  世の意志がおぬしを衝き動かし、敵を討つであろう」  無我。  我を、殺す。  あらゆる雑念を、  湊斗光の兄としての思いを、  殺す。 「――――」  殺す。  敵が攻め来る時、  その機を捉えて、斬る。  ……初太刀は、躱される可能性もある。  その時は、  その機をも捉える。  敵が躱した刹那を見切り、  敵が躱した方向を見切り、  返しの一撃を送って、斬る。  ――〈燕返し〉《ツバメガエシ》。 「景明よ」 「……」 「一つ、問わせろ」 「死せる者の魂は、何処へゆくか……?」 「…………」 「死んだ者に行先などない」 「……だが……  もし、あるとすれば」 「あるとせば?」 「地の底へ落ちて、眠るのだろう」 「そうか」 「おれは、天へ昇って輝くと思う」  見切った――――  白銀の軌跡、  神速の突進を遂に捉えた。  感覚ならぬ観格を以て、遂に悟った。  斬る、  などと、思う間も置かず、  俺の肉体は応じている。  野太刀を打ち下ろし、  敵騎を両断、灼熱の地へ落とさんと。  斬って……  空を裂く。  最善を成し遂げた我が一剣が、  〈血汐〉《ちしお》を得ず。  何となれば――  白銀、畏るべし。  最善を極めてなお届かず。  必殺の筈の一剣を、              ――――躱してのけた!  だが。  俺は、知っている。  敵が躱した事、  〈上へ〉《・・》逃れた事を、知っている。  敵の攻撃がまだ届かぬ今この間に、悟っている。  つまり。  俺は、逃していない。  〈捉えている〉《・・・・・》。  白銀、我が〈観〉《カン》の内にあり。  剣は返る。  軌道を反転し、上方へ。  そこにある影を、  斬る、  その機先を、制された。 「――」 「――」  接吻を交わす程の間で、見合う。  薄紙一枚を針で貫く――それだけの時刻。  視線と視線を交わす。  勝負は決した。  戦機を極めに極め。  最速の剣、最短の剣を為し。  遂に及ばぬ。  この速度。  遂に超えられぬ。  あと一瞬の千分の一、時間があれば良かった。  それだけあれば、敵が襲う前に斬れた。  だがその寸暇を、この白銀は与えなかった。  間合は既に懐。  長尺の野太刀では斬りとうても斬れぬ距離。  敵の拳打は決して外さぬ必殺の距離。  かくなれば趨勢、もはや覆らぬ。  勝敗は決した。  ――決したのだ。  ならば、  〈俺は〉《・・》、〈何をしているのか〉《・・・・・・・・》。  右手が、動いている。  おかしい。  この手は、野太刀の柄にあった筈。  何故、離れているのだ。  何をしようというのだ。  右手は、我が腰へ向かう。  そこにある何かを、掴み取ろうとする。  そこにある、  脇差を。 (そう、か)  これは。  俺が鍛錬し、肉体に染み込ませた術技の一つ。  吉野御流合戦礼法、    ――――〈比翼〉《ヒヨク》。  太刀を斬り下ろしたその刹那、  右手を太刀より離し、脇差を抜き斬り上げる。  太刀を見切って懐へ飛び入った敵に報いる術法。  俺は、それを使っているのだ。  意図せずに。  何故?  何故、こんな事ができている? (勝利の条件) (〈敵が銀星号である事を忘れない〉《・・・・・・・・・・・・・・》)  そう。  俺は覚えていた。  敵は銀星号なのだと。  勝算に勝算を積み重ねて、それでも裏切られる相手なのだと。  何よりも、体が記憶していた。  幾度となく煮え湯を飲まされたこの肉が、骨が。  だから。  今度こそは、と。  最悪の最悪の最悪を予測して、それに応じるための〈動作〉《わざ》を用意した。  吉野御流、比翼。  ……俺は、  銀星号よりも、  ――――――――――――〈迅〉《はや》く、  脇差を抜いて……  斬った。  理解に努める。  ――この瞬刹――  我が肉体は必勝の術を成し、  敵の打撃に先んじて、  斬った。  そして、  この、何も響かぬ右腕。  虚空を斬っている。  虚空、だけを。  理解に努める。  ……何が、起きた? «――――»  村正が叫ぶ。  脳へ送られる信号。  言語のように迂遠ではない情報伝達。  それは云っていた。               空間             歪曲 (――――)  空間歪曲。  そう。  あの〝神〟が使って見せた能力。  重力により空間を屈折せしむ。  銀星号の技能に〝神〟の力を合わせて成された芸。  それを、〝神〟の力を引き継いだ銀星号に成し得ぬ道理はない……。  故に使った。  極小規模の歪曲を、  極小時間で生じさせ、  不可避であった刃を、退けた。  そして。 「天へ」 「昇れ」 「〈逆転・江ノ島大蹴撃〉《リバース・エノシマインパクト》!!」  …………  ………………………………………………  体が……熱い。  燃えるようだ。  皮膚という皮膚が焼け爛れている。  息も苦しい……。  ここは何処なのか。  俺は何処にいるのか。  俺は……地獄に堕ちたのか……?  闇だ。  黒く、昏い。  やはり地獄か。  だが、それにしては不純だ……。  小さな輝きが幾つも見える。  完全な暗黒ではなかった。  ……ここは、何処だ? «……御堂» (……村正か?)  喉が詰まり、声は出せない。  それでも思念は伝わった。 «ええ。  身体はどう? 応急の処置はしてみたけど» (痛むが……  全く動かせない程ではない)  筋肉の動きを確認する。  完全に断裂している箇所は無い――そして痛まずに動かせる箇所も無い。  特に胸の周辺は酷かった。  胸骨が割れているらしい。 «蹴りを受ける直前に磁気の壁を張ったんだけど……それでも防ぎ切れなかった» (……そうか)  しかし磁気障壁の反発効果があったればこそ、この程度の負傷で済んでいるのだろう。  砕け散っていても不思議はなかったのだ。あの一蹴にはそれだけの威力があった。 «それでね、御堂» (うむ?) «……蹴りと磁気反発、あと直前の空間歪曲も変な感じに作用して、なんか結構遠くまで飛ばされたみたいなのよね» (どの辺りだ) «うーん……あれを見てくれる?» (あれ?)  脳裏に響く金打声が示す方向へ視線をやる。 «私達の世界があんな風に見える辺り»  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。  飛ばされ過ぎだ。 (……宇宙かよ……) «これってさりげなく人類史上の偉大な一歩だったりするんじゃないかしら»  その一歩を自ら踏み出したのなら感慨も湧こうが。  蹴り飛ばされての事では、何とも感想の述べようがない。  しかし青い。  しかし遠い。 (あの方向へ〈落ちて〉《・・・》いかない……という事はつまり、俺は地球の引力圏外へ脱出したのか?  どんな速度で飛ばされたのだ) «完全に脱出したわけでもないみたいよ。  まだ少し、地球からの辰気を感じるもの»  では衛星軌道の近辺か?    それにしても相当な速度でなければ到達できない筈――そうか、それで全身の火傷か。  速度の代償、大気との摩擦の結果がこれなら納得はいく。  ……いやむしろ、ここは燃え尽きなかった事にこそ疑問を抱かねばならないのかもしれないが。  磁気障壁、甲鉄の強度、全てを考慮に入れても蹴りの威力と大気の摩擦熱に耐えられたのはまったく僥倖と言いようがない。  それとも〝虎徹〟による性能強化が働いたか……。 (しかし宇宙は真空ないし真空に近い筈だが。  なぜ俺は窒息せずにいられる?) «合当理の熱量変換を応用して酸素を作って供給してるの。  ……空の果てには空気が無いなんて知らなかったから、ちょっと慌てたけど» (成程)  声は出せなくとも、酸素欠乏の懸念は無用なのか。  水もない場所で溺死しなくて済むのなら何にしても有難い。 «ただ、あまり長くは続かないから。  承知しておいて» (力尽きる前に、大気圏内へ帰還する方策を考えろというわけだな?) «ええ» «――いえ。  その前に一悶着ありそう» (…………)  そうか。  地上へ戻るには、決着をつけねばならないと。  ――――否。 (こうなれば、あえて帰還の手立てを考える必要もない) «……そうね»  飛来する白銀の彗星。  あれを打倒する――その一事が全て! «ふふふ……  まだまだ健勝そうだな景明!» «地球を回る、物言わぬ赤い衛星にしてやれなんだとは残念無念!» «……それは生憎だったな» «然らば稀有な体験を楽しめよう。  天界の居心地はどんなものだ?» «おまえはそこで何を思う?  青い故郷を見て帰りたいと思うか――それとも深遠の星々を見て更に先へ、果てまでも旅してみたいと思うか!» «……どちらも違うな。  ここで俺が思う事は、一つだけだ» «云え!» «銀星号。  最早お前を地上へ帰したくはない»  人々の住まう世界には。 «――良くぞ言ったり。  ならば景明、力ずくで光を〈留〉《とど》めてみせよ!!»  猛気を〈滾〉《たぎ》らせ、星の輝きを放つ騎体が迫り来る。  凄まじいまでの〈速度〉《スピード》。空恐ろしいまでの〈勢威〉《パワー》。  あのままに俺を襲い、一撃をもって砕くのであろう。  ――今度こそ斃される。  迎撃の方法はなく、防御の方法もない。  あらゆる意味で、対抗の方法がない。  五分の勝負であった先刻さえ、遂に競り負けた。  今度は五分ではない。俺と村正は大きく損傷し戦闘能力を減じている一方、銀星号は全くの無傷。  これでどうすれば立ち向かえるのか。  どうすれば勝てるのか。  そんな魔法か奇跡のような方法があるのか?  無い。    ――――――――――――――――――否。  有る。  魔法でもなければ奇跡でもないが。  勝つ方法はある。  たった一つ。  ――そう。  湊斗景明が湊斗光を殺す方法は一つだけ。  この戦いに臨む前、それを知った。  知っていたのに、最後の決断を欠いた。  今なら間に合う。  まだ。  まだ俺は戦える。  だから今、やらなくてはならない。  ――――やろう。  たった一つの方法を行おう。 (村正) «待って。  交戦圏に入るまでの時間で、何とか回復を進めてみる» «上手くいけば、いくらかましな状態に――» (それはいい。  そんな事をしても勝てはしない) (勝つ為の手は一つだ……) «……? なに?»  押し寄せる獰猛な戦気を味わい、肌が粟立つ。  もう敵は近い。もう時間がない。 (村正。  今、すぐに) (俺を精神汚染しろ) «――――――――――――え?» (精神支配だ。  〈劒冑〉《おまえ》の精神で〈仕手〉《おれ》の精神を潰し、同化して取り込め) (……いつか拘置所でやろうとしたようにだ) «な――なっっ、なんで!?» (野太刀を再生させた時の事を思い出せ。  あれが答えだ)  奇怪な心象世界の中で得た解答。  ――湊斗景明は湊斗光を殺せない。  ――だから。  最初に湊斗景明を、殺す。 (俺がいる限り、銀星号には……  光には勝てない) (どうしようとも) «そんなこと……» (いや事実だ。  さっきもそうだった) (確実に斬れる筈だったあの瞬間、俺の意識に光の面影が過ぎった……。  あれさえ無ければ、空間歪曲の発動に先んじて刃が届いていたかもしれない) «…………» (俺自身が最大の敗因だ) (だから俺を殺せ) (俺の意思を潰せ) «……む、無理よ» «仕手の心をなくしてしまったら、戦いようがないもの» (普通の武者ならそうなる。  だが村正、お前は使命あって生まれた劒冑) (その使命は俺の使命と今や同一のもの。  俺の心が消えようと、お前の使命が残っていれば同じ事だ) (戦える) «……で……でも» «でも、私は» (村正!) «私は……貴方の意志を守りたくて、» (急げ!) «できないっ!  だって、私――!» (忘れるな村正。  俺達は、屍を踏んで歩いてきた) (ここに至るため、幾多の命を踏み砕いた) (……俺を汚染から救い出してくれたあの時。  お前自身が、俺に言った事だ) «――――» (他人に〈支払わせてきた〉《・・・・・・・》犠牲、そのすべてを無駄とするか否か、今が瀬戸際だ。  迷う必要はない……迷う事など許されない) «御堂……» (やれ) (これは俺の責務だ) (これはお前の責務だ) «……» (村正) (俺の意思を奪え!!) «……っ……ぁぁあああ!!»  血と肉と何かで出来ていた心が、  打ち上げられ。鍛え上げられ。  漆黒の鋼に変わってゆく。  固く。  硬く。  強く。  〈靭〉《つよ》く。  揺れ動かぬ、鉄の塊に。  ……これで良い。  これで正真の無我境へ至る。  全ての愚念は消え、残るは唯一義。  本来それとは誰よりも縁遠い湊斗景明が、  自己の抹殺という儀礼を経て、    英雄たるものに曲がり成る。  〈自己〉《おのれ》を再開する。  自己の固有名称を認識する。   «三世継承千子右衛門尉村正»  完了。  自己の内容を認識する。   «戦闘能力一件有り»  確認。  自己の内容を認識する。   «存在目的一件有り»  確認。   «勅命拝受/六合四海守護  朝敵二世右衛門尉村正討伐、天下平らかにす〈可〉《べ》し事»  諒解。  自己の内容を認識する。   «以上二件限り»  完了。  自己存在を総括して認識する。   «朝敵追討執行用戦闘能力» «六合塵清四海波静維持防衛力»  完了。  自己状況を認識する。   «朝敵一騎、交戦圏内にて行動中»  確認。  状況認識に基づき待機状態を終了。   «朝敵追討執行用戦闘能力/三世千子右衛門尉村正は状況を勅命該当と認め、戦闘を開始する»  〈私〉《おれ》は敵影を確認した。  距離、至近。  極めて高速度で当方へ進攻しつつある。  接触までの所要時間は推定〇・二秒。  回避は可能であるが得策と云えず。  続く状況における行動選択の幅を失い、敗北不可避となる恐れが濃厚。  迎撃を至当と認む。  使用可能武装は野太刀及び脇差。    いずれも用いず。  敵騎の機動性能を考慮するに武器使用が必然とする各種制限は攻撃成功確率を極めて低い程度へ落とす。  従って不適切。  無手にて応ずるべし。 «――うぬッ!?»  敵騎の蹴打に対して踏み込み、掌にて一打を加える。  威力は軽微。損傷は全く与えていない。  だがこれで良し。  この一手は敵の攻めを封じ、次へ繋ぐためのもの。 «がッ――ふッ、く»  手応え有り。  敵騎は機動力及び攻撃力において卓抜すると〈雖〉《いえど》も、甲鉄の強度においては当方を凌駕せず。  肉弾攻撃にて損害を及ぼす事が可能である。  現行戦術を続行。 «かッはァ!!» «……やってくれたな景明ィ!  今の体術、光としたことが不意をつかれた» «こんな技、こんな速さを隠し持っていたか。  出し惜しみとは人の悪い奴!» «――――» «ここからが本気と云うなら、光もその気で報いねばなるまい。  仕切り直しだ!» «すべてを出せ! すべてを見せろ!  おれもすべてをもって応えてやる――»  敵騎より信号が送られている。    あらゆる反応の必要無し。 «――――» «――はッ!!» «ッッッしゃァ!!» «――ッッ» «……ちぃ! 重いわ!»  防ぎながらなお押し飛ばされ、敵騎が嬉しげに〈曰〉《のたま》う。  体内まで伝わる衝撃が多少はあった筈だが、〈堪〉《こた》えた気色はない。  更に鋭気を高めて再び襲う。  分析し推定する。    下段蹴りから入って右拳――左肘――  予測通り。  凌いで凌ぎ、連打の切れ目に我が反撃を差し込む。  当たらず。  敵騎の回避性能が当方の攻撃速度に優る。  攻撃継続限界。敵の反撃。    分析推定する。左右の拳打から上段蹴り――逆足の蹴り――右肘――左右左の拳――下段蹴り――  一手、読み誤った。  軽い打撃を浴び、姿勢が崩れる。  そこへ、 «吉野御流合戦礼法» «〈逆髪〉《サカガミ》!»  体を捻り、下の死角から襲う踵蹴り―― «っっ……!»  直撃。  深刻な損傷。  だが致命打には達せず。  戦闘続行は可能。  追撃の一打を躱し、敵騎の内懐へ踏み込む。  至近の間から、左手を相手の背に回すと同時、右の拳を鳩尾に打ち込む――  吉野御流合戦礼法、〈鉄床〉《カナジキ》。 «景明ぃ……!» «――――»  〈私〉《おれ》が進む。前方へ。  敵が進む。前方へ。  その必然として激突する。  形勢はほぼ互角。  敵騎に決定的打撃を与えられない。  しかし、敵騎も〈私〉《おれ》に決定打を与えられない。  ――そう、互角。  三世千子右衛門尉村正/朝敵追討執行用戦闘能力は、遂に二世千子右衛門尉村正/銀星号と同等の領域まで至っている。 «シィィィィァア――» «〈瘴熱疾走・火隕星〉《ブレイジング・ストリーム》!!» «――――!!» «…………» «…………» «おかしい……» «解せぬ。  どうにも、解せぬ» «良い勝負をしているのだ。  かつて無かったほど――» «光に追随する力と技。  見事というほかはない» «……なのに……» «なぜ、響かぬ?  なぜ、心が躍らぬ?» «光のこの、醒めた胸は何だ?» «景明と、これほどの戦いを演じているのだ。  震え、昂ぶり、酔いしれて当然のはずが» «どうしてこんなにも虚しい?  まるで……案山子か何かと殴り合っているかのように……» «…………» «……ふん……?  流石は御堂、相変わらずの鋭さよ» «どうやらその勘、正鵠を得ておるぞ» «村正……?» «なれの兄はあそこにはおらぬ» «何?» «いや、馬鹿な。  いつぞやのようにおまえの娘が景明抜きで武者のふりをしているというのか? そんなはずは――» «あの時とは違う。  あれは正しく合一を果たした武者には違いない» «ふむ……考えようによっては、これも心甲一致か……» «どういう事だ!?» «湊斗景明の心は今、劒冑に食われているということよ。  意思を呑まれ、肉体を支配されている» «精神干渉の力でな» «――――――――» «な……何だと……!» «奴の動きの良さも頷ける。  肉体の脳を劒冑の統制下に置いて、思考と反応の無駄を極限まで削ぎ落とした結果か» «いや違う! そんなことはない!  ……あってはならぬ……!» «景明、そこにいるなら応えろ!  おまえは、まさか、劒冑の傀儡になってはいまい!?» «――――»  強い信号が着信している。    反応の必要を認めず。  攻撃態勢の再起完了。  戦闘を続行する。  敵騎は回避を失敗した。  正確には、回避を行わなかった。  〈私〉《おれ》の一撃を浴び、大きく吹き飛ぶ。  ――相当の損傷を与えたと推測。 «御堂!» «…………» «か――感じぬ» «景明の心が見当たらぬ» «本当にいないのか» «……本当に……» «おれの景明を奪ったのかッッ!!  蜘蛛の村正ァ!!»  強い――強烈極まる怒声の信号。    反応の必要は無いが、甲鉄が震撼した。 «許さん。  認めん» «おまえなどに……景明を!!» «あの娘一人でできる決断とも思えん。  おそらく仕手の同意を得て……いや、それとも最初から仕手の指示で――» «云うな» «……» «それこそ有り得ん。  景明が……己の意思で劒冑にすべてを奪わせるなど……» «おれは先刻、言った。  景明に――奪い尽くす、と» «おれが奪うのだ» «景明を奪い、己がものとするのはおれだ!» «この光だけの権利だ!!» «――――» «返してもらうぞ……蜘蛛!  何をどうしても、何がどうあってもな!»  反応の必要を認めず。 «忌々しい» «――――» «忌々しいのだァ!  我が物顔に景明の手足を操りおって!» «胃が煮える……。  〈腸〉《はらわた》が〈捩子〉《ねじ》くれる» «触れるのも触れられるのも、虫唾が走って堪らぬ» «もう良い» «おまえは〈擂り潰す〉《・・・・》。  豆のように挽いてやる» «塵となって、この暗い海に溶けてゆけ!!» «――――»  危険を察知する。  この震動。  この波動。    全てが、最大の脅威の発生を訴えている。  対処方法を検討。  緊急退避――間に合わない。  先制強襲――間に合うか? «〈蒐窮開闢〉《おわりをはじめる》» «〈終焉執行〉《しをおこなう》» «〈虚無発現〉《そらをあらわす》» «――――»  届かない。  阻止、ならず。  破局は顕現す。  開始してはならぬ事象が開始する。 «〈飢餓虚空〉《ブラックホール》――――〈魔王星〉《フェアリーズ》!!»  暗い〈宇宙〉《そら》よりもなお深い闇。  黒の渦。  それは白銀の武者の中に胎児の如く現れ、  嬰児の如く生まれて泣き声を上げた。  風もない空間が〈戦慄〉《わなな》き、〈喚〉《おめ》く。  渦は成長する。  何を吸ってか。  何を喰らってか。  際限もなく膨れ、膨れてゆく。  渦は渦。  闇は闇。  変質せず、規模だけ〈拡〉《ひろ》げて。  何を喰らっているのか。  〈空〉《クウ》か。〈気〉《キ》か。それとも〈己〉《オノレ》か。  渦は渦。  闇は闇。  何を喰らおうと、そこには何も生じない。  無。  無のままに膨張だけを遂げる。  何もかも喰らいながら、  変わらぬ飢えを哭き続ける。  飢餓の虚空。  騎体行動の自由が失われている。  ここは既に辰気現象の効力範囲。  見えざる縄の数々が、手足と云わず首と云わず絡み付く。  騎航――不可。  我が引辰制御機動はこの現象下においてほぼ無効。  敵騎の操る辰気に制圧される。  辰気量を計測。      ――――不明。  〈〇〉《ゼロ》であり〈∞〉《ムゲン》。  計測不可。計測不可。  極強度の牽引力が〈私〉《おれ》を捕捉し引き込んでいる。  その事実のみ明らか。  近付いてゆく。  渦の中心へ。  辰気の荒れ狂う源へ。  分析する。    ――あの中心へ行き着くまで、〈私〉《おれ》が形態を維持していられる確率は絶無。  その前に必ず、完全破壊の結果を迎える。 «来い» «丸呑みにして、噛み砕いてやる» «灰よりも細かく、ばらばらに――» «そうしておまえと景明とを選り分け、  おまえの屑だけ捨ててやる» «西瓜の種を吐き出すようにな!»  現状を打破せねば破壊される。  それは承認できない事である。  我が存在目的の遂行が不可能となる。  我が存在目的は完遂以外の結果を容認しない。  結論。  万手万策を投じて状況を打開すべし。  手段検討。    我が実装機能の内に、この辰気現象〝飢餓虚空〟と拮抗し得るものは有るか。  ――――有る。  唯一。  野太刀による電磁抜刀。  この一剣が有る。  嘗て、太刀を用いる電磁抜刀・〈禍〉《マガツ》は飢餓虚空の前に敗れ去った。  だが、この〝虎徹〟での電磁抜刀ならば――  問題点検討。    一点有り。  辰気の影響による機能制限。  騎体の自由が利かねば、電磁抜刀は行使できない。  自明の事である。  ……自由の回復は、理論上、瞬間的には可能だ。  一つ難関を乗り越える必要があるものの。  自由を取り戻した瞬間に引辰制御を働かせ、強度の引力圏から離脱する事はできる。  但し無論、そのままではすぐにまた捕まるし、逃げ回りながら電磁抜刀を使用するのも無理な話である。  できなくはないかもしれないが最大出力に達しない。  それでは意味がない。  何処か、避難場所はないか。  ほんの数秒で良い。  電磁抜刀の術式を練り上げるまでの間、あの黒い渦の牽引から〈私〉《おれ》を守ってくれるような場所は。  具体的には――例えば強い重力体。  渦の引き込む辰気に対抗して我が騎体を繋ぎ止めるだけの辰気を持つ……  そんな都合の良いものが――  …………ある。  あれなら使える。  何とも〈誂〉《あつら》え向きだ。  計画は成立した。  この引力圏を脱し、  あの場所へ移動し、  電磁抜刀を行使して飢餓虚空を破る。  まずは、    ――――第一段階。  おそらくはこれが最大の難問。 «……ほゥ……» «――――» «挑むか、〈冑〉《あ》が不肖の娘» «辰気の調和――  五階層方陣の解明に»  敵騎は当方の意図を察したらしい。  当然か。これはあちらの専門分野。  そう――五階層方陣。  我が身を捕う重力を一時的にでも無効化し、勝機を掴むために、決して避けて通れぬ道。  それは一つの数学的命題。 «見事果たせば、〈冑〉《あ》が〝辰気の地獄〟からの脱出もなろう。  だが、できるか……?» «渦がなれを砕くまで、幾らも無いぞ。  このわずかばかりの時間で、辰気一二五種の配列を見出すと?» «…………» «ふふ。面白い!  やり遂げてみせよ、三世右衛門尉!»  目的は飢餓虚空の重力圏からの脱出。  必要な手順は、辰気の調和である。  荒れ狂う辰気――重力を安定へ導くにより、脱出の機会を作る。    我が引辰制御をもって、これを成さねばならない。  引辰制御は、辰気を1番から125番までの125種に分類して操ることが骨子である。  この分類は辰気の強さに準拠し、強さの程度は番号に比例する。  つまり辰気1が最も弱く、辰気125が最も強い。  辰気10は辰気2の五倍にあたり、辰気27と辰気56を合わせれば辰気83と同位の強さになる。  この辰気125種は、全て同時に操ることが可能である。  例えば、自己を中心とする空間を立方体と想定し、  これを五単位分割し、  計125個の小さな立方体の集積と考え、  この125個の立方体空間に125種の辰気を一種ずつ配分することは可能である。  但しこうするだけでは無論、辰気の調和つまり重力の安定化は得られない。  辰気の調和とは、辰気の強さの均衡を意味する。  従って、この立方体空間に辰気の安定をもたらすのならば――  あらゆる直線と、  あらゆる対角線が、  同等の強さを持つように辰気125種を配分しなくてはならない。  ……つまりは。  これが現在、〈私〉《おれ》に提示されている問題なのだ。  では解法を始めよう。  この問題を解くには高度な計算が必要となる。  時間は少ない。肉体の頭脳では不可能である。劒冑の計算機能をもってしてもまだ不足であろう。  だが、その不足を肉体の脳が補えるなら――  あらゆる直線、あらゆる対角線の数字合計が等しくなるように、残りの数字を空マスへ当てはめて下さい。  数字にカーソルを合わせてクリックした後、マスにカーソルを合わせてクリックすると、選択した数字が選択したマスに納まります。  尚、数字の合計は315です。  すべての直線と対角線が、5個の数字を合計すると315になるように、当てはめていって下さい。 «……何ぃ!?» «我が〈魔王星〉《フェアリーズ》を――蒸発させた!?» «あの謎を解いたのか……!?» «なれにそれ程の才が――いや» «仕手の思考力をも利用したればこそか» «そこまでの事ができる程、仕手との一致を成したのか……!»  第一段階、拘束状態の解除――完了。  第二段階、辰気圏よりの一時脱出――完了。  第三段階―― «おのれ! 逃がさぬ!!» «違うな……» «――――――――» «やはりなれはそこまでの娘よ!»  再挑戦しますか?  難易度を下げますか? 「やっほー。  いつでもどこでもあなたの味方、ダンガンライガーでーす」 「いや、今は〈野太刀〉《ブレード》ライガー!  それともここはムラマサライガーと名乗るべきなのか!?」 「どっちでもいいですね。  さっさとやることやれよというテレパシーがちゃんと受信できるあては空気読める子」 「西暦2003年に解明されたばかりの問題を何故か1940年相当の世界で解かされている、この理不尽にもう流す涙もない皆様方。  微力ながらあてがお手伝いいたしましょう」 「……いや本当、なぁんでこんな変なことになってんだろね?  ブラックホールから脱出するなら、屁でもこいときゃいいだろーにさー……」  放たれる辰気の奔流。  先端が目前に迫った。  渦の中心付近に比べればずっと弱い。  それでも捕まれば騎体運動を大きく阻害されるのは避けられず、そうなれば続く流れを防ぐ事も叶わず、再び虜囚に逆戻りするだろう。  そんな始末は受け入れかねる。  では逃げるか。  否。  逃げる必要はない。  この程度の辰気なら、〈城壁〉《・・》が防いでくれる。 «――――!?»  〈私〉《おれ》がするべき事は一つ。  逃げ込んだこの要塞とて長くは保たない。  与えられた時間はわずか。無駄な行為をしていればすぐに尽きよう。  騎体の全機能を解放する。  肉体の全能力を動員する。 «おお……!?»  辰気の第二波、第三波が押し寄せる。  だが、まだ届かない。まだ守りの力はある。  黒き渦の牽引力を、白き月の重力が打ち払い、〈私〉《おれ》を支えてくれている。  この短い時間。  ごく微量の騎体運用機会。  これを全て、勝利の為の一手に使い尽くす。 «〈電磁抜刀〉《レールガン》――» «〈穿〉《ウガチ》!!»  出力限界に到達。  月面を〈探査〉《サーチ》、小高い丘を選んで着陸する。  確かに、斬った。    飢餓虚空――虚無の術式に光迅の刃を入れ、両断し、構成を崩壊へ導いた。  辰気現象は霧散しただろう。  あるいは、銀星号の騎体もろとも。  中核のみが刃先から逃れたとは考えられない。  少なくとも、相当の打撃は受けた筈だ。  これで勝負は決する。  光速の一剣の前には、何者も―― «――屈する、と思うか?» «いや……おまえは忘れているだけだ。  かつて一度だけ、その速度を超えたものがあったことを» «――ッ!?» «邪魔だ、月ッッ!!»  鬼気を感じて飛翔すると同時、白い大地が砕けた。  仮にも一個の星たるものが割れ、崩れてゆく向こう――騎影が一つ、こちらに突き進んでくる。  月を――――叩き割った〉!?  不味い。  まだ騎体は戦える状態にない。  敵騎がその状態にあるというのも信じ難いが……  今は兎も角も離脱し、時間を稼がねば。 «逃がすものかよ» «――翼を!  願いに打ち克つための翼を!» «〈逆襲の青洸〉《アベンジ・ザ・ブルー》ッッ!!» «――――»  この速度。  この機動――これは―― «光は記憶に焼き付けていたぞ。  この速さ……この煌きを» «そして〈己〉《おの》がものとした!»  これで――――電磁抜刀の直撃を防いだのか!?  無論、無傷では済んでいない。  眼前に現れた銀星号の姿は、満身創痍どころか瓦解寸前と呼ぶのが相応しいものだ。  この状態でどうしてあれ程の機動を成し遂げられたのか。  しかも――まだ、飢餓虚空の術式を維持している!!  理解できない。  この力は何だ。  〈私〉《おれ》にはわからない。    ――この敵を、ここまで戦わせるものは何だ!? «おれは唯、一つの夢» «湊斗光の、願いのかたまり» «夢は破れぬ……» «破れてはならぬ!!»  ――――渦。  闇が広がり、  そして、  〈私〉《おれ》は全てを呑み尽くされた。  …………  ……俺は……  どうなった……?  ここは……何処だ?  …………。  ……何か……  ……足りない。  何か、俺から引き剥がされたものがある。  何かが欠けている……。  何が……? «何も» «何も欠けてなどおらぬ»  …………。 «景明……おまえの求めるものは、全てここにあるはずだ。  違うか……?»  …………。  ……光……。 «もう戦いは終わった。  ゆるりと、安らげ»  終わった……?  しかし、俺は…… «景明、何を不満に思う?»  ……足りない。  何か……大切なものが、俺から奪われている……。 «それは逆だぞ。  おまえは奪われて〈いた〉《・・》のだ» «だが、光が取り戻した。  もう何も欠けていないはずだ»  …………。 «なぜ、足りないなどと思う?» «寒いのか?»  ……いや。  ……暖かい……。 «そうだろう。  おまえは光の〈胎内〉《なか》にいる» «光に守られている»  …………。 «安らぐだろう?»  ……ああ……。 «なら、そのまま眠ってしまえ。  光は構わぬ» «他ならぬおまえだ。  〈胎〉《はら》に入れても痛くはない»  …………。  俺は……  ……お前を……  倒さなくてはならない……。 «どうしてだ?»  お前は……多くの人間を殺した……。 «そうだな» «だからおまえは、おれを拒むのか?»  …………。  ……………………。 «とは、云うまい。  そうとも。おまえは既に知っている……» «武の本質を学んでいる。  それはただ命を殺めるものであり、そこに正道邪道の別もない» «あまねく武は善悪相殺の呪いを負う。  ならば武人が同じ武人を正義と見做し邪悪と見做し、己を認めて他を拒むは、至極おかしな仕儀と云わねばなるまい» «武人はいずれも同じ、その刃先に善と悪を分け隔てなく散らす者なのだから»  …………。 «武を非難できるのは、身に寸鉄帯びず道を説く聖人か、単に恥を知らぬ偽善者のみだ。  おまえはどちらでもなかろう?»  …………。 «おまえに、おれを拒む理由は無いのだ» «安心していい。  憂いなく、光を求めよ»  ……求める……  俺が……求めるのは……  ……塵が漂っている。  粉々に砕かれた、何かの残滓……。  指を伸ばす。  一つ一つ拾い……繋いでゆく……。 «…………» «なぜ、そんなものを欲しがる?» «そんな冷たい鉄の塊を»  ……冷たい……。  確かに、これは酷く冷たい。  触れるだけで、凍てつくような……。 «そんなものはおまえに相応しくない» «それがおまえにとって何だというのだ?»  …………。 «おまえが選ぶのは光だ» «おまえを守り、安息を与える……この光を求めればいい»  …………。 «…………» «良い。  景明、おまえの迷いを払ってやろう» «光が問う»  ……問う……? «正直に答えることだ。偽りはおまえの立つ礎を崩し、弱めてしまうからな。  もっとも――偽らず答えても、おれの中に収まる結末は変わらんが……»  …………。 «まず一つ。  統亡き今、おまえの安息は光のもとにしかない――そうだろう?»  ――――。  俺の……安息…… «うむ……»  …………。 «ふふ、嘘だ。  おまえの〈形容〉《かたち》が揺らいでいるぞ……»  …………。 «次いで一つ。  おまえはおれの所業を〈詰〉《なじ》るか?»  俺は……  お前の殺戮を―― «嘘だな?  さっき、おまえも理解したはずだ――武人は同じ武人を非難できはしないと»  …………。 «そうだろう»  …………。 «更に一つ。  その冷たい鉄の塊は、おまえを何があろうとも守り通してくれるか……?»  ……守る?  これが……俺を……? «違うな。  おまえも知っている。それは目的のためにおまえを守る一方、目的のためにおまえを傷つけることもある……»  …………。 «そう。  それは敵を討つために在るものであって、おまえを守るために在るものではない»  …………。 «もう一つ。  そやつはおまえに、安らぎよりも苦しみを多くもたらした……そうだな?»  ……安らぎ。  ……苦しみ……。 «であろう»  …………。 «嘘だな。  その鉄と共に歩んだおまえの日々は、苦痛に満ちていた……»  …………。 «――では、最後に一つ。  おまえが求めるものは?» «……なぜだ……?» «なぜ、光を求めない?  なぜ……その蜘蛛を求める?» «なぜだ、景明!?»  …………。  俺はお前を拒絶する。 «なぜ――»  俺とお前は、共に罪で穢れきった武人。  罪の重さで言えば同様だろう。  だがそれでも、俺とお前は違う。  同じ世界には住めない。 «なぜだ!!»  お前は、夢だ。  夢だから、己を完全に肯定する。  殺戮を重ね、宿願に向けて突き進む己に、  一切の疑問を抱かない。  お前はお前自身を認め、受け入れている。      だが俺は違う。 «――――»  俺は己を否定する。  お前のように、自分の正しさを信じる事はできない。  俺は現実だから。  夢であるお前のように、前だけを見てはいられない。  俺の戦いに救われた人がいて、その人が前に立って喜んでいたとしても、  俺は横と後方に倒れる、犠牲になった人々の屍をも一緒に眺めずには済ませられないだろう。  こうするしかないと思い、一つの道を進んできた。  それでも決して、俺は自分の道を認めない。  正しいとは思わない。  〈お前とは違う〉《・・・・・・》。 «景明――»  お前は夢。俺は現実。  夢と現実が混じり合う事はない。  俺が共に歩む者を選ぶとすれば、同じ現実だ。  俺と同じ血の道を歩みながら、  俺と同じように、決して己を許さない者だ。  だから。 「だから」 「俺はお前を呼ぶ」  塵とされたものを掻き集める。  集め、繋ぎ、再現する。  自分自身を構築し――  その上に、あるべき鉄の〈皮膚〉《はだ》を。 「村正!!」 «景明ぃっっ!!» «そうだ。  それでいい» «ようやくわかってくれたな……景明»  ……そう。  これでいい。  こうして光を受け入れさえすれば、俺はもう悩む事も苦しむ事もないのだ……。  〈私〉《おれ》は世界へ帰還した。  無とされた〈私〉《おれ》が有へ復元した事により、  無の事象であった黒き渦は存在を論理的に否定され、崩壊へと至る。  裂けて散りゆく漆黒――  それは星の死に見えた。 «……見事……» «もはや言うことはない。  〈冑〉《あ》が娘……三世右衛門尉村正よ» «――――» «なれは己と仕手の能を駆使して五階層方陣を解き明かし、辰気の調和を導いた» «なれの仕手は、なれを過信せず誤解せず、正しい理解と信頼を置き、その〈結縁〉《きずな》をもって 〝辰気の地獄〟を覆した» «……見事な心甲一致よ……» «――――» «――母様» «だが心せよ» «〈冑〉《あれ》は敗れ、もはや眠るのみだが……  〈冑〉《あ》が仕手はまだ敗れておらぬ» «!» «ぐぁぁぁぁァァァァァァ!!»  それは既に、白銀の流星と呼ばれた姿ではない。  翼は裂け、  甲鉄は〈罅〉《ひび》割れ、  右腕に至っては喪失している。  全能総力を傾注した極技が破られる――その意味を、克明に物語る姿だった。    敵に向けるべき威力が、己に降り掛かるのだ。  劒冑がほぼ機能を止めるのは当然。  むしろ完全停止させまいと支え、自らをも立ち上がらせる仕手の死力こそ信じ難い。 «蜘蛛の村正ッッ!!» «――――» «奪うのか……» «おまえが奪うのか!» «かつては母が、父を奪った» «今度は――おまえが景明を!»  武者ではない。もう武者ではないのだ。  壊れかけの体で立つ白銀のもの、あれは――  憤怒。  怨念。  狂執。  悲嘆。  絶望。  哀訴。  唯一つの願いに起因する激情の波濤。  それであった。  それが――押し寄せる。 «返せェッッ!!»  残る左手から撃ち出された波動を、咄嗟に野太刀で受け止める。    これは……重力衝撃波?  ――違う。  これは精神干渉の辰気。  その力が余りに強烈過ぎるため、〈余波で〉《・・・》破壊振動が生じている! «――――ッ!!»  力ずくで、〈私〉《おれ》の合一を解くつもりか。  だが無謀。  どう考察しても、こちらの抵抗が破られるより敵の限界の方が早い。 «景明はおまえを望んだ……。  おまえもなのか、蜘蛛!» «景明を喰らい、己の内側に溶かし込むのがおまえの望みか!» «――――»  野太刀を盾とし、干渉波の侵略を阻止する。  耐え、耐え凌ぐ。  おそらくは、あと数秒。  それだけ持ち堪えれば、敵は力尽きるはず。 «景明を消すのか!» «――――» «光の手の届かぬ処へ、奪い去るために» «喰らい込めて!  消してしまう、と!!» «――…………»  〈私〉《おれ》は―――― «おまえの中に溶け切ってしまえば、景明は二度と戻らない……» «未来永劫、光のもとに来ない!» «そんなことを――許せるかぁ!!»  消える。  湊斗景明が消失する。  ――だから、何か?  そんな事は、  〈私〉《おれ》にとって、何の問題ともならない。    〈私〉《わたし》にとって、それは――――  〈私〉《おれ》――  〈私〉《わたし》――  ……私は……  手を差し伸べてくれた、あの人に――  応えて。  力になって。  どんなことでも、支えになって。  ――最後には、  幸せになって欲しい、と、 «景明を返せぇぇぇッッ!!»  だから、  私は、  〈景明〉《あのひと》に、  消えて欲しくなんて、  ない――――  重力の激流に呑まれながら自覚する。  俺、だ。  湊斗景明が戻っている。  ……いけない。  俺ではこの戦いに勝てないのだ。  己を殺し切り、  世界を守るためにだけ戦える、    無我の英雄でなければ―― 「……虎徹……!」  破壊の辰気流に晒され続けたからだろう。  野太刀が砕け、無数の破片となって散る。  視界に広がる〈鈍色〉《にびいろ》の雫。    それは――俺に、何かを、 「!!」 「いい?  これはあてからお兄さんへの、最後の忠告」 「お兄さんは湊斗景明である限り、御姫には決して勝てない。  御姫は、湊斗光なんだから」 「お兄さんは無名の英雄になって。  世界を守ることだけが目的の……〈個〉《・》の無い。公の大義に従う武力行使者に」 「本当の英雄になるんだ」 「御姫を倒して、世界を救える方法は、それだけ」 「……いい?  お兄さん、間違えないで」 「これは足利茶々丸の」 「お兄さんへの。  この世界への」 「最後の――――呪いだ」  俺が落とされたのは、〈海原〉《うなばら》の只中だった。  沈み――浮き上がる。  そこまで生命が持続した事は、奇跡だった。  身体のあらゆる箇所が壊れている。  まともに動く部位は一つも無い。  血は止め処なく流れて海水を汚す。 «……ご……  ごめんなさい……御堂……» «私が……貴方を……  ……〈望んだ〉《・・・》ばかりに……» 「……いや……」  虫の息の金打声に、己の耳でも聞き取れないほどの声を返す。 「これで……いい。  ……〈これで〉《・・・》……」 «…………» 「後は……任せろ……」  返答はなかった。  俺の劒冑は、もうそうするだけの力を失っていた。  心甲一致を破られ。  俺の肉体は砕かれ。  村正も、既に瀕死。  もはや戦う事はできない。  だが、      …………これでいい。 (あいつは) (本当に、陰謀に向いていなかった)  これは呪いだ――などと。  言うべきではなかったのだ。  世界を壊したかったのなら。 (茶々丸め)  あれは忠告だった。  あの一言が無ければ、俺はきっと、最後まで気付かなかった。  無我を実現し。  純粋に世界を守るべく戦う〈英雄〉《もの》となり。  そして。  世界を殺戮せんとしたであろう。  何故ならば、  ――――村正の掟は善悪相殺。  何かを守るために敵を殺せば、  守ろうとしたものをも失う宿命。  魔王を討った英雄は、  新たな魔王と化して世界を襲う。  英雄になっては、いけなかったのだ。  無我で敵を討ってはならない。  自我で敵を討たねばならない。 (…………)  己を振り返れば、苦い嘲笑で唇が歪む。  ……そも何をとち狂い、世界を守って戦おうなどと身に過ぎた念を抱いたのやら。  それが俺の分際に相応かどうか――物を考える頭があればわかりそうなものだ。  選び得る道は元より一つきりだった。  無我ではない。  英雄ではない。  俺はあくまでも、  湊斗景明として、  湊斗光を、殺すのだ。  そう。  湊斗光の、唯一の家族として。 «……景明……» «どうして、村正を望んだ……?» «どうして、おれではない……?» «どうして、  光はいつも奪われる!!» «なぜ光の求めるものは、光の手に残らないのだ!!» «なぜだ?  なぜだ!  なぜだ!!»  朝焼けの空の果てで、叫ぶものがいる。  痛ましかった。  ただ、哀れだった。  あれは世界を破壊せんとするもの。  それでも思う。  救いたい。  守りたい。  世界ではなく。  あの空で孤独に震えている、一人の少女を。  俺は守りたい。  例え世界を敵に回そうと。  どんな犠牲を払う事になろうと。  守りたい。  殺せない。  俺は決して光を殺せない。  湊斗光を守る事が、湊斗景明の命。  ――であり。  湊斗光を殺す事が、湊斗景明の〈責〉《つとめ》。  ――である。  この矛盾。  この矛盾を超えて、俺は光を殺さなくてはならない。  ……従って。    矛盾を覆す唯一つの〈魔剣論理〉《システムオブアート》が導かれる。 『この怪我は――』 『従軍していた看護婦を、砲撃から守ろうとして仕損じたのだ。  いや、看護婦は助けられたが……自分の身にまで気が回らなかった』 『御本家の怒りも当然……』 『これで私は、役目を果たせなくなった』 『こんなことを年端もいかぬお前に頼むのは心苦しい』 『…………だが――――』 『逆らうことは許さん』 『取り押さえろ!  そのまま連れてゆけ』 『……ふん。  ああ、これでは役に立つまい』 『薬を打ち込んでやるしかなかろうな』 『……その方が、こやつも救われよう』     『ゲッ、ゲヘ……カハッ』     『カ――カカカカ』     『カァァァカカカカカカカカカカカカカカカ    カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ    カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ    カカカカカカカカカカカカカカカカカカカ!!』   «おまえはおれのものにはならないのか» «おれを望んではくれないのか!» «どうしても――手に入らないのか!» «なら» «なら、せめて» «おまえは誰にも渡すまい……» «辰気――――収斂!!»  海面が波打つ。  風のせいか。  いや――  揺れているのは海ではない。  この地球。  揺り動かすのは天空よりの〈波動〉《ちから》。  そこに集う膨大な〈辰気〉《じゅうりょく》が、  地球を震わせている。  ――――滅す。  あの空より襲い来る神武の一撃は、  俺を踏み砕き、地球の中心までも貫き穿つ。  あの力ならば、必ずそうなる。  ……止めなくてはならない。  あれを殺して、止めなくては。  だが―― (悪く……ない)  この最期に及んで、そう思う。  光は悪くない。  誰が何と言おうと、絶対に。  あれはただ、一途な夢なのだ。  では誰が悪かったのか。  あの時に始まり、今ここに終わる運命。  ――これは誰の罪だったのか。  皆斗本家か。  湊斗明堯か。  湊斗統か。  いや、  違う。 «来るか、景明» «この光を敵と憎み、殺すか» «ならば心せよ。  我らの誓約は善悪相殺――» «光を殺せば、  おまえはその蜘蛛をも殺す定め» «それでも良いなら来るがいい!!» «〈天座失墜〉《フォーリンダウン》――――〈小彗星〉《レイディバグ》!!»  魔剣の話をしよう。    魔剣とは理論的に構築され、論理的に行使されねばならない。  資格が無いと告げられた。  誰もを不幸にするだけだと。  その言葉に、頷いた。  自分の愚かさ、そして無力を知っていた。  だから屈した。  決断をした。  …………しかし。  やはりあれは、間違った決断ではなかったか。  資格が無いなら、  資格を得ようと奮うべきではなかったか。  不幸にしてしまうなら、  幸福も生むよう、努めるべきではなかったか。  何故その決断ができなかったのか。  血の責務を放棄してしまったのか。  ――――――罪はここにある。  ――――――敵はそこにいる。  そう。  ここにいる。 〝あなたは父親ではない〟 〝父親にはなれない〟 〝この子を愛してはならない〟 〝あなたは――〟 〝父ではなく、兄として。  この子を守ってあげて〟 〝約束して……〟  敵は一人。  ただ独り。  悪しき運命を切り開いた者が、ここにいる。  だから。  裁くべきはただ、この男のみ。  心底、敵として。  心底、憎悪して。  その心臓を刺し通す。  完璧な致死傷を及ぼす。  湊斗景明は湊斗景明を殺害する。  ――――故に。    絶対の〈戒律〉《ルール》が、発動した。 「――――――――――――!?」  肉体の力は既に尽き、  霊魂は〈偏〉《ひとえ》に愛を想う。  その両者を支配して、  一つの呪いが飛翔する。        「この……〈一刀〉《けん》は……」       「…………そう、か……」          「…………」          「……は……」        「はっ……ははは!」          「善悪、相殺」         「そうだ。この掟が」        「愛の実在を証明する」       「……ふっ……ふふ…………」         「やはり、あった」        「ここに……あった」         「愛は、あった!」        「ならば――良し!」      「光は……望みを叶えた……!」        「この手に取り戻した」           「絆を」         「……良い……」     「……良い夢で……あった…………」       「……光……」       「――――ひかる――――!!」 「知事!」 「どうした。  その様子だと、なにやら素晴らしい吉報のようだが?」 「……残念ながら」 「わかっている。言ってみただけだ。  私がこの〈陸奥國〉《むつのくに》の知事を拝命してから一年、吉報なんて聞いたためしがない」 「それで?」 「〈大間崎〉《おおまざき》からの緊急報告です」 「〈北曾〉《えぞ》の情勢についてか?」 「はい」 「〈露帝〉《ロシア》軍に動きがあったんだな?」 「はい……」 「待ってくれ」 「…………良し、心の準備は出来た。  北曾の鎮台兵が一斉に全滅したと聞かされても大丈夫だ」 「本当ですか?」 「……いや。君の気配り如何によるかな。  あまり棘のない、柔らかい言葉で、小鳥を撫でるように伝えてくれれば……私も衝動的にピストル自殺しなくて済むと思う」 「弾を抜いておいて下さい」 「わかった。もういい。人間、諦めが肝心だ。  緊急報告というのをそのまま伝えてくれ」 「はっ」 「函館に多数の艦艇が入港しているそうです。  戦艦ガングート、戦艦インペラトリッツァ他、少なくとも一〇隻以上の軍艦が碇を下ろしている模様――とのこと」 「……そうか。  露帝が北曾を完全占領〈した〉《・・》という報告ではなく、いよいよ〈する〉《・・》という連絡か。つまり」 「なら、現実逃避する余裕くらいは有りそうだな」 「いえ、知事。  それが……」 「?」 「函館には陸軍も集結しつつあるらしく」 「……あんな所に今、露帝の陸軍が?  なぜだ」 「おそらく陸海軍の共同作戦を行うためではないかと」 「それはわかるが、何処を相手にだ。  そんな大規模な合同作戦をやって陥とさなくちゃいけないような大和軍の拠点が、いま北曾にあるか?」 「無いと思われます。  ……北曾には」 「…………」 「…………」 「〈陸奥〉《こっち》か!?」 「理論的に考えて」 「……」 「……」 「ピストル……」 「知事」  大和北方領の枢要地、〈北曾〉《えぞ》。  その現情勢は実に混沌としている。  大和国内の動乱に乗じて渡海侵攻を果たした露帝軍、これに対して劣勢に立たされつつも抗戦を続ける北曾駐留軍――更に決起した先住民族、本州の戦争に敗れ逃亡してきた軍閥残党らが入り乱れ。  勢力図は日毎に変動し、精確な把握は誰にも不可能という状況にまで陥っている。  ただ〈渡島〉《おしま》半島を制圧し、本国との補給線を確立した露帝軍の優越は誰の目にも瞭然であった。  時間の長短はさて置き、やがて露帝は北曾の支配を完了し、本州侵攻に取り掛かるだろうと見られていた。    だが―――― 「知事、鎮守府からの返報です」 「やっとか……  何と言ってきた?」 「露帝軍の企図は北曾を占領して本州侵攻の足場とするにあり、従って今回の行動は津軽海峡における航行の安全を目的とした示威と思われる」 「動揺する〈勿〉《なか》れ、詳細を確認したのち必要に応じて援兵を送る。  ――以上です」 「…………」 「冗談としては面白いが、それがもしも本気だったら困るな」 「困りますね」 「本当のところは、何と言ってきたんだ?」 「繰り返しになりますが」 「……」 「要するに、ただの威嚇だから気にしないでおけ、と」 「……っ……!  馬鹿か? 馬鹿なのかあの連中は?」 「露帝は北曾を征服してから本州に来る――教えて頂くまでもない! こっちだってそのつもりでいた!  しかし、今はもう違う!」 「奴らは考えを変えた……!  なかばゲリラ化した北曾の大和軍に構っていても仕方ない――東北を奪えば北曾の兵も孤立して立ち枯れになると見切ったんだよ!」 「ええ……」 「示威なわけないだろうが。  あいつらが北曾に攻めてきてからこれまで、威嚇なんて可愛い真似を一度でもしたか!?」 「これ見よがしに軍事行動の準備だけして、実際には行動しなかった、なんてことあったか!?」 「全く……」 「必要に応じて援兵!?  それは敵軍がこの陸奥に攻め込んできたらってことか? じゃあ援軍が来るまで我々はどうしてればいいんだ?」 「さあ……」 「……鎮守府の連中は、もう、何だ……  全員そろって脳に炎症でも起こしたのか?」 「ありそうな話です」 「…………。  もう一度鎮守府に繋いでくれ」 「私が直接、将軍と話す」 「はい」  鎮守府は北大和の防衛を目的とする軍組織である。  陸奥、陸中、陸前、羽後、羽前、そして北曾の六州を管轄下に置く。  まさしく露帝の極東軍を仮想敵として用意された軍であるから、その侵攻をすぐさま撃退とはゆかずとも、戦線を支えられるだけの戦力は当然のこと有している。  鎮守府は支え――中央の援軍を待ち、反攻して勝つ。  それが鎮守府の基本構想である。  そして今回、構想は全くの画餅であった。  大和軍は敗走を続け、北曾の失陥は今や不可避。  かく至ったのには無論、当初の予想を超える露帝の執拗さもあるが。それのみではなかった。  鎮守府に二つの目と二本の腕があるならば、北方へ向けられるのはその半分――あるいはそれ以下――でしかないのだった。 「駄目だ……」 「……」 「話になりゃしない。  必要と判断されたら兵を送る、の繰り返しだ」 「援軍は今、必要なんですが……」 「鎮守府はわかっていない。  ……いや……わかっている、本当は!」 「しかしあいつらには中央の覇権争いの方が重要なんだ。  関八州を分捕るために、北方六州を捨てる気でいる……」 「そんな」 「馬鹿な、って言えたら幸せだ。  鎮守府と露帝は既に密約を結んでいて北曾と東北の移譲で折り合いがついてる、なんてことは絶対に有り得ないって信じたいもんだ」 「…………」 「露帝軍は海峡を渡って来る。  鎮守府は動かない」 「私の権限で使える戦力らしきものは警官隊くらいだ。  上陸を阻止する方法は……ない……」 「知事……ならいっそ……  攻められる前に、降伏しますか」 「……」 「鎮守府が関東の抗争に介入し、北曾の旗色が悪くなり始めた時点で、津軽地方の諸市は露帝に保護を求める動きを起こしています。  それに陸奥國全体が乗る形で――」 「悪くない。  無抵抗で露帝の軍門に下れば、少なくとも戦争被害は受けなくて済む理屈だ」 「はい」 「市街地を略奪され、抵抗した市民が何人か、何十人か、何百人か殺される。  それでも無駄に戦って惨敗するよりはまし」 「……はい」 「で、だ。  それからどうなる?」 「――――」 「露帝は封建制度の維持に固執している国だ。  皇帝と貴族はそうするだけが生き延びる道だと思っているし……それはあながち間違いでもない」 「だから彼らは領土を広げ、占領地を農地にして、住民を農奴にする。  大和でもそう。既に北曾では始まっている」 「いずれこの陸奥も。我々も。  銃に怯えながら畑を耕すことになる。いや炭鉱を掘るのかもしれないし工場で人間機械になるのかもしれないが……」 「抵抗しても、降伏しても、そうなる運命は変わらんよ。  結果は同じということだ」 「…………」 「我々の生活は徳川時代まで逆戻りする。  いや……それ以下だな」 「……何か、方法はないのでしょうか」 「あれば是非とも知りたい。  私自身については諦めもつく……だが家族がいるし、家族のことを除けてもこの陸奥は私の生まれ故郷だ」 「諦めをつけるには重い。  少しばかり重過ぎる」 「……」 「君も同じだったな」 「はい。  ここは故郷で……家族もいます」 「どうしようもないからと、投げ出せるものではありません」 「だがどうしようもないな……。  住民全員でどこかへ避難できるわけもなし」 「そもそもこの陸奥が、〈北曾〉《きた》と〈関東〉《みなみ》から疎開してきた人々で一杯ですからね……」 「東西の海しか逃げ場はないか。  神様に祈って、海を真っ二つに割って貰うか?」 「それで約束の地へ行き着けるなら」 「前世紀から延々と戦乱が続きっ放しの大陸へ渡るのが関の山か。  神仏の救いを夢見ることさえできない状況とはな」 「不信心のつけでしょう。きっと」 「……」 「…………」 「……知事?」 「不信心者は不信心者なりに、頼れるものはある……か……」 「?」 「必要なのは軍事力だ。  侵略を妨げるだけの」 「そうですが……」 「戦力になるなら、この際悪魔でも構わない」 「…………」 「知事、それは」 「かの傭兵帝国は、特定の条件さえ呑むなら、どんな依頼でも決して拒まないそうだ。  どれほどの大国、どれほどの大軍でも敵に回すと」 「聞いたことはあります。  しかし、その条件というのが――」 「ああ」 「さっき、拳銃使わなくて良かったな。  この命にもっと有効な使い道があった」 「……知事」 「そんな顔をするな。愁嘆場じみてきてこそばゆくなる。  別に高潔な自己犠牲の精神に駆られているわけじゃない……単に責任を全うするだけだ」 「給料分の仕事をすると言った方がいいか。  陸奥を守るのが私の役目だからそうする、それだけの話だ」 「…………」 「私は〝武帝〟に行く。  後のことを頼む」 「……はい……」  傭兵帝国。聖堂騎士団。軍隊派遣会社……  通称〝武帝〟。  その集団は北曾西南、渡島半島から西へ海を隔てて五〇キロ程の、松前大島を根城とする。  海産物の豊富な環境であるが、彼らは漁業に関心を示すことがなかった。  彼らの生業は戦争である。  近隣を切り従え、領土を広げようとするのではない。  そうした侵略を望む者に、又はその侵略を防ごうとする者に、雇われて戦うのだ。  彼らは理非を問わない。国家を問わず民族を問わず宗教も主義主張も一切問わない。  契約条件が満たされるか否か。雇用の諾否を決するのはその一事のみである。  条件はやや、特殊なものであったが。  金銭面から見る限り、彼らが雇用者へ提供する戦力は値に対して全く破格と云えたろう。 〝武帝〟の戦闘力の中心は、〈真打劒冑〉《ブラッドクルス》を有する武者が担う。  高速徹甲弾、発振砲等、対竜騎兵用狙撃兵器の発達に伴って数打劒冑と真打劒冑の力関係は劇的な逆転を遂げた。  最新の兵器は、真打の古い〈統御機能〉《OS》では扱えない。  白兵戦を表芸とする真打武者にとって、栄光は過去のものとなった。  数打劒冑を雑器、安物、紛い物と、嗤っていられた時代は永遠に過ぎ去ったのだ。  それでも彼らの多くは騎士階級、つまり前線で戦うよりも指揮統率を任務とする者であったから、軍隊に居場所を全く失ったわけではない。  最強の実戦力とは見做されなくなっただけである。  しかし、最強戦力たる自負こそは彼らの軍指揮権に、延いては階級意識に正当性を与える根拠であったため、数打武者の台頭に耐えられず、逃げるように軍籍から離れた者は少なくなかった。  そんな〈逸〉《はぐ》れ武者を〝武帝〟は受け入れ……  そして、彼らに〈自己認識〉《アイデンティティ》を取り戻させた。  正面戦闘の優位を数打に譲ろうと、真打武者は未だ強猛な存在には違いない。  彼らの多くは高い性能、熟練の技術、豊富な経験を兼ね備える。  一騎で重戦車の隊列を相手取り、砲兵陣地を砕くも困難としない。  いや最新の竜騎兵さえ、状況と戦術を選んで格闘戦に持ち込めば互角以上に戦える――むしろ圧倒できる。  運用の仕方を誤らねば、多大な戦果を挙げ得るのだ。    つまり〝武帝〟はそうして、両者の要望に応えた。誇りを求める武者と、力を求める依頼者の。  俄かに出現した孤島の傭兵団が短時日で名を成した所以はここにある。  広く知られてゆくにつれ、〝武帝〟への依頼は数を増やした――その陰惨な契約条件にも関わらず。  大和で、大陸で、あるいは更に遠方で。彼らは頼まれるまま数多の戦闘に加わり、勝利と死を積み重ねた。  大和や露帝がこの剣呑な不法占拠者を松前大島から追い出そうと兵を繰り出すこともあったが……  その試みは毎回、あたかも〈重力の働きが狂ったかの〉《・・・・・・・・・・・》〈ような〉《・・・》異様な嵐に阻まれ、頓挫している。  海上交通を妨げる意図が見えないこともあり、昨今は両国も〝武帝〟の存在を消極的に承認しつつあった。  非公式には――時として積極的に利用することさえも。  かくして傭兵帝国は極東に立つ。  混沌窮まる情勢の渦中を縦横無尽に駆け巡り、戦い、殺し――そうする中で更に武威を高め、存在感を高め、名の持つ圧力を高めながら。  頼り縋る者を日毎に増やしながら。  忌み嫌う者をも、同じ速さで増やしながら。 「ようこそ、知事殿。  歓迎します」 「こんな所ですが、どうか堅苦しくなさらず」 「は……どうも」 「本当ならまずはテラスの方にご案内して、お茶を差し上げるべきなんでしょうけど。  お察しするに、話を急いだ方があなたには親切のようだ」 「確かに……。  今は玉露とアールグレイの区別もつきそうにない」 「ここへ来られる方は大半そうですよ。  お茶を一杯楽しむ間に国が滅びると信じている」 「……」 「申し遅れましたが、私はオーリガ。 〝武帝〟の渉外担当です」 「代表して話をさせて頂くことになりますが、構いませんか」 「それは勿論。  決定権も、貴方が?」 「いえ。私は話をするだけ。  決定は、あちらの」          「…………」 「……あの方は?」 「〝武帝〟」 「この名は私達の総称ですが、もし誰か一人が担うとするなら、それはあの人になります。 〝武帝〟が最も小さかった時、既に〝武帝〟であった人なので」 「……?  要は、貴方がたの社長ですか?」 「社長! いいな、社長。  ええ、そう考えてもらって問題ありません」 「利益追求にまるで興味を示してくれない、困った社長ですけどね」          「…………」 「おっと。  〈社長〉《・・》は無駄口を好まれない」 「あなたもお急ぎだ。  早速、本題に入りましょう」 「ええ。  ……単刀直入に言えば、貴方がたの〈武力〉《ちから》をお借りしたい」 「〈露帝〉《ロシア》軍の攻撃を防ぐために、ですね」 「ご存知でしたか」 「〈当社の業務〉《・・・・・》は質の良い情報を常に確保しておかねば成り立ちません。  地球の裏側の政変も一時間以内に報告されますし、隣近所の動静ならもっと早い」 「……説明せずに済むのは助かります。  仰る通り、函館の露帝軍が」 「明朝、あなたの陸奥へ渡海侵攻を仕掛ける」 「……〈明朝〉《・・》!?」 「おや。それはご存知なかったんですか。  まいったな、情報はタダ売りするもんじゃないんだけど……まぁ仕方ない。今回限りのサービスってことで」 「明日の朝ですよ。露帝軍の予定表に、陸奥へピクニックって書いてあるのは。  てっきりあなたもそれを知ったから慌ててここへ来られたんだと思ってました」 「……いや……  猶予が許されないのはわかっていましたが、まさか……明朝とは」 「間違いないのですか?」 「波と風の状況が良くなかったら順延されるかもしれませんね」 「…………」 「気が変わって〈神風〉《カミカゼ》を祈るつもりになられたのなら、良い神社をご紹介しますが」 「結構です。神風では何も解決しないということは、先の大戦で充分に学びましたから。  やはり貴方がたにお願いしたい」 「まだ間に合うなら、ですが……」 「間に合わないとしたら?」 「神社を。  何なら身投げに向いた断崖絶壁とか、二度と出てこられない樹海とかでも」 「大丈夫。ご心配なく。  この場で契約が結ばれれば、充分間に合います」 「〝武帝〟の戦力は機動性と即応性において人語に落ちません。  しかも今回は距離が近い……これは何より幸いでしたね」 「少し言葉を足して下さい。  不幸中の、と」 「不幸な時こそ小さな幸運が必要だって思いませんか?  平穏の中の幸運は大抵気付かれもしないし、その程度の価値です」 「それで、ご依頼は。  必要な規模の戦力を必要な期間だけ、津軽海峡の防衛隊として雇用なさりたい?」 「は……あ、いや。  こちらとしては防衛ではなく、先制攻撃をお願いしたいのです」 「先制攻撃」 「露帝軍が函館から動く前に。  損害を与え……撤退させて頂きたい」 「なるほど」 「私達の要求する雇用料金は、ほとんど必要経費程度。  それでも安くはない額だし、継続的に雇うとなれば大金になる」 「今の陸奥に、その余裕はありませんか」 「……身も蓋もない」 「失礼」 「しかしその通りです。  経済は混乱する一方、出費は嵩む一方なので」 「私の一存で動かせる金では……」 「短期間の雇用しかできない。  なら守るより、攻撃を」 「正しいお考えです」 「……」 「攻撃に優る防御はありませんしね。  函館で戦えば陸奥に被害が及ぶ心配はないというのも大きい」 「私達の性質にもその方が適している」 「では?」 「問題ありません。  当方としては、何も」 「おお……」 「後は。  ……〈あなた〉《・・・》次第です」 「――――」 「〝武帝〟の契約が如何なるものかは?」 「……耳にしています。  噂を、色々と」 「理由を含めて、詳しいご説明をするべきでしょうね」 「理由ですか……  それは遠慮させて下さい」 「ご興味ない?」 「というより、聞かない方が良さそうなので。  多分、酷く心地の悪い話でしょうから」 「余計なことは聞かず、自分の責任を果たすことだけ考えて死にたいのです」 「わかりました。  なら控えましょう」 「ところで、今のお言葉は契約条件の承服を意味するものと考えてよろしいのですか?」 「……ええ。  身の回りの整理はすべて済ませてきました。ここから生きて帰るつもりはありません」 「煮るなり焼くなり、如何様にも。  ……いえ、なるたけ楽な方法を選んで頂きたくはありますが」 「結構です。  それで?」 「……? それで?」 「…………」 「他にも何か必要なのですか。  払えるものは払います……」 「陸奥が守られるのであれば……何でも」 「そうですか」 「では最後に確認しましょう。  知事殿、あなたは〈武力〉《ちから》を求めますか?」 「はい……  是非とも」 「〝武帝〟!」      「――――――――――――」 「……」 「承認が下りました」 「直ちに部隊を編成、函館へ向かわせます。  露帝軍の司令部を壊滅させ、主だった艦船も航行不能に」 「今夜一杯で全て片付くでしょう」 「……っ……」 「肩の荷が下りたというお顔をしてます」 「そうですね。  重いやつを下ろしました」 「感謝します……」 「そんなものは要りません。  これは契約なんですから」 「ただ……」 「は」 「あなたが大きな誤解をしていなければ良いのですが」 「誤解?」 「…………」 「〈蔵部帯刀〉《くらべたてわき》!」 「はッ!」 「今回は君の隊に任せる」 「有難く」 「〝武帝〟の掟を言え」 「善悪相殺!」 「ならばどうする?」 「殺めた敵兵の数を勘定し」 「同じ数だけ、陸奥の民衆も殺して参る」 「よろしい」 「……!?」 「但し、〈一名〉《・・》減らしておくこと」 「はッ」 「行け」 「御免!」 「……まっ、待て!」 「何か?」 「陸奥の民衆も殺す、と聞こえたぞ!?」 「そう言いましたので」 「私だけではないのか!?」 「依頼人の御命は必ず頂きます。  が……今回の場合、それだけではどうにもなりませんね」 「今時の軍は将軍が一人死んだ程度で止まるものでもないですし。  相当量の殺戮が必要……となるとあなたの命だけでは〈勘定が合わない〉《・・・・・・・》」 「ですので、不足分はあなたの味方から。  守ろうとしたものから頂きます」 「……敵と味方を同じ数、殺すのか」 「ええ、そうです」 「――――――」 「やはり多少の誤解があったようですね。  けど、後悔はなさらなくていいんですよ」 「あなたは何も間違ったことをしていない」 「〝武帝〟が介入しなければ、陸奥の人々がただ一方的に殺されるだけだった。  露帝の正義のもと、ただただ一方的に」 「しかし私達が動くからにはそうはさせない。  必ず、両方に均等な死を与えます」 「正義が勝利することのないように」 「…………なぜ」 「……」 「なぜ、そんなことをする?」 「理由は聞きたくないと、先程」 「なぜだ!?」 「…………。  〈なぜ〉《・・》」 「なぜ、敵も味方も殺してしまうのか?  なぜ、善しも悪しきも殺してしまうのか?」 「お答えしましょう」 「…………」 「あなたが求めた〈武力〉《ちから》とは、  ……そういうものだから」 「……御堂……」 「…………」 「風邪を引いてしまうから……  ね、もう帰りましょう……?」 「……………………」  争乱は野に満つ。  天文学者を一人残らず絶句させた怪星は既に無い。  しかし星の唄に導かれた戦火までもが陽炎のように消え失せてくれることはなく――国内にも国外にも、吶喊の響きが渦巻いていた。  人は人を殺し、人に殺される。  人は死んで死骸となり、その背に次の死骸を積む。  天は燃え、風は猛り、地は腐りゆく。 「…………」  俺は生きていた。  確かに自分で自分を殺したのに。  闇に沈んで二度と浮かび上がらぬ筈の意識は、どうしてか目覚めを迎え、全てが終わった世界を眺めたのだった。  光が最後の力で俺を癒したのかもしれないと、村正は言った。  証拠は無い。だが俺も、ほかに思い当たるところはなかった。  だとすれば、光はなぜ俺を生かしたのだろう。    そう考えるようになったのは最近のことで、最後の戦いの後しばらくは、疑問など思い浮かばなかった。  これはこれで悪くなかろうとだけ思っていた。  俺には約束があったのだ。舞殿宮そして養父との間に――全てが終わった時、湊斗景明の罪状を告発して処刑するという。  俺の重ねてきた悪行に、法と正義の裁きを下し。  命を散らされた人々の怒りと嘆きに報いる。    その約束だった。  しかし、それは守られなかった。  俺の所業の全てを知る二人、告発者たるべき彼らは、俺を絞首台へ送る責務について黙殺を貫いた。  何を言っても、今は休めと繰り返すだけだった。  やがて繁忙を理由に、面会も許されなくなった。  そうして俺は死なずにいる。  今日も建朝寺の門を叩き、若い僧にやんわりと追い返され、真っ直ぐ帰る気にはなれず当て〈処〉《ど》もなく鎌倉の町を彷徨い歩きながら。  疼きのような思いを抱える。  何故、俺は生きているのか。  生き永らえたこの身を浸すのは悔恨だけだ。  光を殺した事。  守るべきであったもの、  何に代えても救わなくてはならなかったものを、    俺の手が破壊した。  ……悔いる。  何か手立てがあったのではないか、と。  ああする以外になかった、と思えば――  やはり悔いる。  殺すなら、何故もっと早くに殺さなかったのか。  決断と行動が遅れたばかりに、災禍の規模と被害者の数は途方もないものになった。  今なお、残り火が世界を焼いている。  二年前、光をすぐに殺せていたなら、こんな事にはならなかった。  ……悔いる。 「今度は何処だって!?」 「六地蔵だ!  米屋に難民の集団が押し込んだらしい」 「くそ、あっちでもこっちでも……!」  命の使い道を考える。  悔恨がもたらすものは何もない。  そうする暇を惜しんで、俺はより有意義な何らかの行動をしなくてはならない筈だった。  過ちを悔いるなら、  せめて償うために、何事かを為さねばならない。  俺は、俺と光に起因する現世界の混乱を収めるため、働くべきなのだ。  それが当然であろう。当然の責任であろう。  …………しかし。  俺に、何ができるのか。  この俺がどうやって、世界各地の大小様々の争いを止められるのか。  争う双方を検分し、より善き側に肩入れし、悪しき側を攻め滅ぼすのか?  ……馬鹿な。  俺の善悪判断に、何程の意味がある。  価値基準は様々で、善悪の判断も諸人それぞれだというのに。  武は所詮、善悪相殺。  誰もが己の善を信じて他者の善を滅ぼしているのだ。  そうと知って、なお偽善の戦いを為す――    できる事ではない。  偽善はもう飽食した。  第一、偽善の勝利は次の争いの温床にしかならない。  ならばどうするか。  争いの間に立って、平和を訴えるか。  理想的だ。  きっと、これが正しい。  だが、〈俺にできるか〉《・・・・・・》となれば話は変わる。  善行を為すにも資格が要る。  これまで散々人と争い、殺してきた者が、争うのを止めろと叫んだところで、そこに説得力が宿るだろうか。  誰が耳を貸すだろうか。  無理だ。  土台、人を馬鹿にしている。  ……なら。  俺はどうすればいい。  どうしようもないのか。 「……………………」  そう。  〈どうしようもない〉《・・・・・・・・》。  俺にできる事は破壊と殺戮だけで、平和をもたらす〈術〉《すべ》などなかった。    だから、俺は――  幾多の命を奪い、世に災いを振り撒いておきながら。  裁かれもせず、撒いた災いを摘む事もできず、ただ漫然と生き延び生き続ける。  そうするしかない。  ……そうするだけの、この余命。 「抵抗するな!  おとなしく、奪った物を返せ!」 「うるせえ!  こっちだって好きでやってんじゃねえっ!!」 「死にたくなけりゃどいてろ兵隊!」 「貴様らァ――!!」 「あ、く……」 「あぁぁ――ぐぁぁぁァァ!!」  俺は生きている……。  何故、生きているのだ。  何の為に、俺は生きるのだ。  ……何の為に!!  景明は今日も朝から家を空けていた。  きっと夜が更けるまで戻らないだろう。  今頃はまた、目的もない町の巡り歩きで時間と体力を磨り減らしているに違いない。  己の命の無意味さを噛み締めるような、あの作業で。 「…………」  畳の上へ落とすように、一つ息をつく。  思いのほか、大きく深くなった。  誰にも咎められはしなかったけれども。  それは大声で喚き散らしたとしても同じだったろう。景明がいない時、家に残るのは私一人だ。  この家は景明の父のものだというが、ここで彼の姿を見たことは一度もない。  牧村という使用人がいたが――彼女もここしばらくは他出している。  あの存在感の薄い人をいつから見なくなったのか。  ……思い出そうとして、できなかった。簡単なことのはずなのに。  銀星号との戦いが終わって以来、〈心鉄〉《こころ》はどこか鈍い。  おそらく――そこに刻まれた使命、存在理由が失われたからだ。  過去五百年。そしてこの二年間。  出会いと訣別と戦いと死と。    今は何もかも、遠い出来事のようだった。  劒冑としての死が近付き、あらゆる働きが衰えつつあるのか。 (……けれど)  それは心鉄の一部分を除いてのこと。  ちっとも遠くならないものがある。  劒冑として鈍磨するのに反比例して、肉体を持っていた頃の感性がどこかで目覚めて、その部分が一つのものを近く強く想っている。  景明。  ……私の〈仕手〉《つかいて》。  彼は存在理由を失えば死に向かう劒冑とは違う。  例え生きる理由を失っても、心臓は動き血液は巡り、何も変わらず生き続けなくてはならない。  慙愧と悔恨に身中を灼かれながら。 「……」  こんな結末を望んではいなかった。  生き残ってくれたのは嬉しい。けれど苦しむために生き延びて欲しかったのではなかった。  衝動的に自殺する様子が見えないだけ、良かったと思うべきなのだろうか。  しかし彼がそうしないのは、自分自身に逃避を許さないからなのだ。  何もかも投げ捨てて楽になるという道を選べない。  死んでしまわれては困る。  でも、このままでは――――同じだ。  懊悩を溜め込み、逃す方法を知らなければ、いずれ内側から腐蝕する。  体が死ぬか心が死ぬかの違いでしかない。 (どうにかしないと……)  強く想う。  〈村正〉《わたし》はもはや無用。眠っても朽ち果ててもいい。  けれど、彼をこのままにしてはおけなかった。  砂に水を撒いているようなものだなと、自分で思う。  酒瓶を傾けて、杯に注ぐ。  杯を口元に運び、流し込む。  味も香りもわからない。  ただ腹の底にどろりとしたものが溜まってゆくのを感じるだけだ。  その反復。 「…………」  愚劣な事をしている。  旨くもないのに、どうして飲み続けるのか。  酔って気が晴れるわけでもない。  心地良い眠気が訪れてくれるわけでさえない。  胸は一向に温まらず、眠気はいつまでも遠い。  まるで無駄な酒だ。  何の為なのかわからない。  俺自身と良く似ている。 「……」 「……」  隣からの視線に気付いてはいたが、俺は目を合わせなかった。  酒を注ぎ、杯を運ぶ作業に没頭する。  元々、好きな方ではない。  しかし昔は、多少の味わいなら理解できた。  〈養母〉《はは》が酒も煙草も好む人で、俺も仕込まれた所為だ。  煙草の方はさっぱりだったが、酒は飲めば飲むほど正味に通ずると言われる通り、幾らかは教育の成果も上がった。  あの頃の感覚を、今はもう思い出せない。  酷く、不味い。  味がしないという事はこんなにも不快なのかと驚く。  飲む。  毒の味は、毒の記憶を釣り出した。  一口毎に、脳裏で閃くものがある。  人の顔。  死者の顔だ。  この手に掛けて殺した人間。  紛れもない大量殺戮の罪。  決して許されぬ。  裁かれねばならぬ。    ……しかし、俺は裁かれない。  ならば生きて何をする。  死者に報いる何事かを為すのか。    ……何もできない。  一体、何なのだ。  湊斗景明とは何なのだ。  こんな人間がいて良いのか。  飲む。  酒は腐蝕剤のようだった。  五臓六腑を蝕む音が聴こえる。  飲む。  じくじくと。  飲む。  じくじくと、〈沁〉《し》みる。  飲む―― 「…………」  ふと気付けば、酒が止まっていた。  杯が動かない。  腕を押さえられている。 「そのくらいにして」 「村正……」 「今日はもう休んで……」  懇願めいた声。  俺を気遣っているのは、目だけ見てもわかった。  ……何故だ。  俺を気遣う必要が、何処にある。  どうしてそんな事をする。 「……うん……」  俺が杯から手を離すのを見て、安堵するように息をつく。  その腕を、俺は掴み返した。 「えっ?」 「酒を止せというなら……」  実のところ、わかっていた。  俺を救うものがあるとすれば酒などではなく。  いま触れている〈これ〉《・・》なのだと。  俺が〈縋〉《すが》れる、唯一のもの。 「お前が、代われ」 「……きゃっ!」 「み、御堂……?」 「……」  組み敷いた体は、〈劒冑〉《てつ》の癖にやけに熱い。  酒で体温が下がっているせいで、そう感じるのかもしれなかったが。  そして柔らかい。  何か、野兎を思わせるものがある。 (何をしている)  自問。  この期に及んで、する事ではなかった。  俺は村正を犯そうとしているのだ。  誰の目にもそう見える。  村正も、よもや誤解はしていないだろう。  もう、誤魔化しようもない。  だから続ける。  首筋に口を近付け、舌を押し当てた。 「……ぅっ……」  一舐め、味わう。  それだけの行為に、村正の体は過剰な反応を見せた。  びくりと波打つ。  ……しかし、そこまで。  振り払う様子も、突き〈退〉《の》ける様子もない。  瞳には薄く涙の膜が張り始めていたが。  抵抗はしなかった。  こうなると思っていた。  村正――  この人ならぬ女は、俺を拒まない。  許してくれるだろう。  そういう打算が、最初からあった。 (卑しい……)  己に、そう思う。  だが、では何か。  今までは卑しくなかったとでも云うのか。  卑しかった。誰よりも。  ただ上面を取り繕っていただけだ。  もういい。  もうそんな、無駄な事は止めだ。  卑しい者は卑しく振舞うのが相応。  沈め。  沈んでしまえ。  村正は許してくれる。  こんな俺でも―― 「……」 「……」 「んぅっ……!」  何かに誘われて、唇を吸う。  頭ごと抱え込み、舌も唾液も構わず。  触れ合う点から、村正の動転は直に伝わってきた。  しかし逃げない。為すがままだ。  これでいい。  このまま、何処までも。  衣服を脱がし―― 「…………」  躊躇う理由など無いのだ。  耽溺してしまえばいい。  誰も咎めない。  誰も。  俺自身さえ目を瞑れば、きっと誰も。 「……っ……」 「く、おぁァァァ!!」 「……御堂!?」 「待って――」 「御堂っ!!」  駄目だ。  俺はもう駄目だ。  最低、最悪だ。  俺が俺に耐えられない。  俺は俺である事が苦痛でならない。  別の何かに。  犬でも猫でも。  蛙でも蟻でもいい。  どんなものでもいいから変わりたい。  どんなものでも湊斗景明よりは上等だ。  願わくば、石がいい。  ああ。  石になりたい。  罪には罰を。  法を犯した者には、法の裁きを。  ……法は、何をしている? 「すいませーん。  手相の勉強をしてるんですけどー」 「お手を拝見してもよろしいですかぁ?」  俺はここにいる。  殺人の罪を重ねた、裁かれるべき男がここにいる。  法はどうした。  なぜ裁かない。  なぜ、この首を刎ねないのだ。  罪人を死罰に処すのは誤りであり、生かして償いをさせてこそ正しい処罰だと言う人間がいる。  ……その理屈もわからないではない。  だがそれは、罪人が償いの方法を持っていなくては成り立たぬ理屈だ。 「うわぁ、素晴らしい手相ですねっ!  あなたのような人には初めて会いました」 「むっ、でもこれは……  近い未来に波乱が見えます。あなたは人生の分岐点に差し掛かっているようです」  俺が、どうやって償える?  この手で殺した人に、今更どう償うのだ。  俺の責任無しとは夢だに言えぬ現世界各地の戦乱で死んでいった人々に、どう償えるのだ。  いや、償う以前の話だろう。  俺は由縁浅からぬ世界中の戦禍をただ座視している。大和の、大陸の、欧州の――血風血河を止め。せめてこれ以上人を死なせぬように働く事すらも、できない。  俺は今現在も人を殺し、殺し続けているに等しい。  何百人、何千人と。 「あなたは何かお悩みですね? そうですか、そうでしょう。  実は今、すぐ近くでぼくの先生が講演会を開いているんですよ」 「あなたも参加されれば悩みが解決するかもしれません。ええ、きっと解決します。  参加料はたったの五百円ですから……さっ、行きましょう!」  ……だから。どうして。  俺は断罪されない?  何故、生きている……?  間違いだ。  これは間違いなのだ。  誰かの。何かの。 「今の世には災いが満ちている!  戦争はいつまでも続き、犠牲者はひたすら増えてゆく」 「遂に天までもが狂い始めた。  やがて大きな災害が起こるだろう」 「どうしてこのようなことになったのか!?」  災いの全ては俺が導いた。  俺だ。俺だ。俺だ。  だから俺を〈どうにか〉《・・・・》してくれ。  俺がこうしてのうのうとしているのはおかしいんだ。間違っているんだ……。 「これは貴方がた一人一人に責任がある。  他人のせいにしてはいけない」 「貴方が今日の災いを招いてしまったのだ!」  そうだそうだ。  全くその通りだ。誰が否定などするものか。疑問を挟む余地もありはしないのだ。  認める。だから教えてくれ。  俺はどうしたらいいのだ。 「貴方がたの犯した間違いを教えよう。  思い出して頂きたい。貴方がたは誰がこの国の主だと思っている?」 「そう、〈帝〉《みかど》だ。  しかし、貴方がたの崇める今上の帝は偽物なのだ!」 「五百年前、南北朝の争いで南朝方が勝利し、今に至る皇統の元となっている。  だがあの時、正統の朝廷は北朝であった!」 「正しい皇統が消え、誤った皇統が立てられ……神州大和は穢れてしまった。  その穢れが今、数多の災いとなって我々を襲っているのだ!」 「貴方がたは大和国民として正しい道へ立ち戻らねばならない!  誤った道を捨てなくてはならない!」  正しい道。  誤った道。  俺の選んだ道が誤りで。  今からでも正しい道を選び直せるというなら、是非そうしたい。  だが。  ……何が正しく、何が誤っていたのだろう。  振り返れば、何もかも誤りだったと思える。  しかしその一つ一つは、既に選ぶ余地なく決定付けられていたのではないか――それ以前の誤りによって。  なら、根源はどこだ。  どこまで遡れば、俺はやり直しが利くのだ? 「正しい帝を崇めるのだ!  それは誰あろう、私である!」 「この私、倉澤こそ、北朝の末裔……  倉澤正統帝なのであぁぁァる!!」 「貴方がたは京都の偽帝を廃し、代わりに私を奉戴しなくてはならないっ!  北朝を復興するのだ!」 「さすれば私は大和に泰平を与えよう!  〈稜威〉《いつ》によって成し遂げるであろうっ!」 「何故なら朕は正しい帝……  〈現人神〉《あらひとのかみ》なのだっっ!!」 「朕は神なのだァァァァ!!  ひれ伏せ、我が臣民よォォォォ!!」  神。  神が平和をもたらすのか。  ……神?  神とは、〈あの〉《・・》神か。  あれは古代の予言に云う最後の救い手だか何だかで、地上の救済を果たすために現れたものだったのだろうか。  世の中の全てが正されて、俺の殺人も無かった事になって、誰もが幸福を取り戻せたのか?  とすれば何か。  俺の最大の誤りとは、あれを破壊した事か。  なんて事だ。  だったら、だったら…… 「神……」 「おお! 我が民よ!  そなたが最初に、正しき道へ立ち返った!」 「北朝の帝位を奪還するため共に戦おう!」 「神よ」 「さあ、他の者も何をしている!  彼に続き、我が手を取るのだ!」 「偽りの帝を崇め続ける者は救われんぞ!」 「神」 「お前が、世界を救うために来たのなら」 「うおっ!?」 「なんで俺ごときに殺された!?  神が……なんでだ!」 「ちょ、あんた、右翼の人……!?」 「救うならちゃんと救えっ!  俺など踏み潰せば良かったろうが……」 「貴様が〈真面目に〉《・・・・》やっていればァ!!」 「まっ、待って! 殺さないで!  やめます、北朝正統帝やっぱりやめます!退位して法皇に――」 「ああああああああッ!!」  突き上げる憤懣ごと、神を放り捨てる。  うぎゃあああ、と悲鳴を上げながらそれは一目散に走り去っていった。  ……どうしようもない。  もう神は死んだ。  間違いを全て帳消しにしてくれるような都合の良い存在は何処にもいない。  どうにもならない。  もはや何もかも、どうにもならないのだ。  何故、生きているのだろう。  何故、歩いているのだろう。  ここは何処なのだろう。  わからない。  何だか、わからない事ばかりだ。  いつの間にか脳味噌が抜け落ちたらしい。  拾いに行こうか……。  いや、いい。  どうせ大して役に立たないものだ。  放っておけ。  余計なものなんて無い方が軽くていい。  そうに決まってる。  ところで、ここは何処だ?  見覚えがあるような無いような。  人がいる。  訊いてみるか。 「失礼。  脳味噌を探してるんですが知りませんか?」 「お前ら、なんでこんな時間にうろうろしてやがるんだ? ああァ!?  やっぱり怪しい奴らだ……」 「橋を壊しただけじゃ足りないのか。  今度は何をやるつもりだった!?」 「違う!  俺達も、怪しい奴がいないか見回ってたんだよ」 「橋を壊した奴が出て来たら、捕まえようと思って……」 「はっ。捕まるわけねえだろ。  犯人が犯人を捜してるんじゃなァ!」 「だから、本当に違うんだ!  俺達はやってない!」 「白々しい。  お前らでなけりゃ誰がやるんだよ!」  ……むう。  何か立て込んでいるようだ。  人は十人近くもいるが、言い合うのに忙しくて誰も俺の話を聞いてくれない。  これはいかん。  手相によればここは人生の分岐点なのだ。  是が非でも彼らに話を聞いて脳味噌を捨てるか神に払った五百円を取り戻すか決めなくてはならない。  全ては北朝復興のため……。 「道をお尋ねします。  神か、脳味噌か、涅槃か地獄へ」 「ああ、自分でも結構です。  あれです。自分探し」 「は?」 「何だよあんた……  うわっ、酒臭え!」 「何故でしょう。  誰も酔ってはいないようですが」 「……おい。誰だよ、こんな酔っ払い連れて来たのは」 「知らねえって。  勝手に寄って来たんだろ?」 「なぁ、あんた。  悪いけど今、取り込み中でさ」 「そうです。取り込んでいるのです。  自分がなぜ生きているのかわかりません」 「何方かご存知ではないでしょうか?  願わくばご教示を賜りたく」 「やけに丁寧な酔っ払いだな……」 「あー、こんなのはどうでもいい!  とにかくお前ら! 橋のことを忘れる気はねえからな」 「だから、俺達は――」 「橋とは何ですか」 「いや……ほら。そこの川に落ちてるだろ。  壊されて、渡れないんだよ」 「成程。これはいけません。  しかし自分が思うに――端を渡れないならフォークかスプーンを渡れば良いのではないかと」 「……」 「相手するなよ……」 「あの橋はな、俺達の生活に必要だったんだ」 「このままで済ませてたまるか。  弁償しやがれ!」 「弁償って……そんな」 「できないってんなら――」 「フォークを」 「フォーク?」 「お前ら全員、追い出すまでだ!」 「フォークで」 「フォークで!?」 「誰と話してんだよ!  っていうか、邪魔だからあっち行ってろ、酔っ払い!!」 「……?」 「お前だよ! きょろきょろすんなっ!」 「自分は酔っていませんが」 「どう見ても酔ってるよ!」 「何と。  自分は酔っていたのですか……」 「ではもう少し、酔っ払いらしく振舞った方が良いですね」 「充分だっっ!!」 「おい、構うなって」 「わかってる。  ……いいか。もう一度言っとく」 「はい」 「お前にじゃねえよっ!」 「だからさ……」 「わかってるっ!  いいか難民ども! 弁償するか出て行くかどっちかだ!」 「……勝手ばっか言いやがって!  俺達はやってないって言ってるだろう!」 「知るか!  どのみち、お前らは邪魔なんだよ!」 「何だとぉ!?」 「争わないで下さい」 「もういいからお前はどっか行け!」 「いいえ。  争ってはいけません」 「悪いのは自分ですから」 「はぁ?」 「貴方がたが責め合うべきではない。  俺を責めればいい……」 「災いを生んだのは俺だ。  俺が悪い。俺を責めろ。俺を罰しろ」 「……」 「……」 「そうしてくれ。  どうされてもいい。殺してくれて構わない」 「だから」 「……だからァ……」  夜空が広がっている。  月だ。  割れた、月だ。  ……どうしてあんな事に。  そうだ。  光が、蹴り割ってしまったのだった。  まったくお茶目なやつだ。 「ははっ」 「はは、ははは」  可笑しい。  月が割れているのだ。可笑しくて仕方ない。  地面の上で、転がって笑う。  腹が痛い。笑い過ぎて痛い。  ああ……可笑しい。  でも。  なぁ、光?  どうしてお前は……  俺の事も、あんな風に叩き割ってくれなかったんだ。  どうして、俺を連れて行かなかった?  どうして………… 「……おい。  こいつ、どうする?」 「どうするって……知るかよ」 「…………」 「…………」 「……くそ。  何だか馬鹿馬鹿しくなっちまった」 「俺もだ。  ……今日は引き上げようぜ」 「ああ……」  ……目覚めの瞬間、脳裏を占めた事柄は二つ。  見覚えのない場所だという事と、頭が重いという事だった。  どちらにも理由の心当たりがない。 (何が……あった?)  見知らぬ家。掛け布団一枚で寝ている。脳神経系は前衛音楽の研究に余念がない。喉が渇いた。〈怠〉《だる》い。  ……何がどうして、こうなったのか。  現在に繋がる過去を思い出せない。  何処か深くに埋まってしまったようだ。掘り起こすべきなのだろうが……今はそれも億劫。  俺は頭痛に屈服する心地で、脱力した。  手足を伸ばす。 「おきた?」 「……はい」 「へいき?」 「……そうですね。  水を一杯、頂けると助かります」 「おみず?」 「わかった」 (……………………誰だ?)  天井は、問いに答えてくれなかった。  脳細胞は現状、〈煤〉《すす》け気味の天井板より役に立たないこと確実なので問う意味もない。  会った事のない子供だ――と思うが。 「はい」 「有難うございます」  起き上がり、ブリキのコップに入れて差し出された水を受け取る。  季節のせいだろう、酷く冷たい。  一口に飲み干すと、金属臭混じりの水道水は世辞にも美味とは言えなかったが、それでも心地良く胃の腑の底へ染み渡った。  大きく息をつく。  その途端、腹が鳴った。  ……脳より先に胃袋が活性化したらしい。 「ごはん?」 「あー……いえ。  そこまで厚かましくは……」 「……?」 「おなか、すいてない?」 「…………。  は、その、少々」  子供相手に虚勢を張る愚を悟り、情けなく認める。  腹具合から察するに、昨晩ないしそれより前から、何も食べていないようだ。  呼吸の度に無様な音が響く。 「まってて」  子供は奥の流しの方へ消え、そしてすぐ戻ってきた。 「これ」 「……は。どうも」  渡されたのは、薩摩芋だった。  小振りのそれが一つ。  感触は冷たいが、一応火は通してある。  ……食事と呼ぶには簡素だが、無論のこと文句など言う筋合いではないし、それにこれなら遠慮する必要も無さそうだ。  有難く、厚意に甘えておく事にする。 「頂きます」 「うん」  頬張る。  冷えた芋はしかし充分に甘く、旨かった。  一分と掛けず腹に収める。  子供は始終、そんな俺を見守っていた。 「……御馳走様でした」 「おそまつさま」 「…………」 「あの、ところで」  不意に、不吉な予感が背筋を這い上がった。  そうさせたのは窓の向こうの太陽か。今、時間は朝――朝食には頃合か多少早いかという辺り。  しかし、食事をしたのは俺だけであった。 「貴方は、食べないのですか?」 「うん」 「あげちゃった」 「……」 「……」 「…………」 「…………?」 「…………………………………………」 「どうしたの?」 「大変、申し訳ありません」  脳内世界で一万五千回ほど自分自身を殴打した後で、俺は手をついて頭を下げた。  ん? と子供が首を傾げる。 「この償いはすぐに致します」 「つぐない?」 「貴方の食事を横取りしてしまったので……」 「? ……?」 「おじさん、こまってた」 「わたしより」 「だから、あげたの」 「……そ、そうですか」  尚のこと顔を上げられなくなり、往生する。  釈迦仏を食べた虎も後でこんな心地になったのではないかと思った。  ショック効果か、頭の中もようやく覚醒してくる。  状況の理解が少しずつ進む。  ……小さな家だ。  何人も住めそうにはないが、この子一人だけという事は無いだろう。家具の揃いからして両親はいる筈である。  しかし、人の気配は無かった。  姿が見えないのは勿論だが、小なりとはいえ一家族が暮らしていれば必ず感じられるであろう〈温度〉《・・》も無い。  良く目を凝らせば、所々埃っぽくもある。    ……はて? 「? どうかした?」 「いえ。失礼しました」  考えを切る。  下世話がましく家庭事情の詮索などするより、自分を振り返るのが先だろう。  昨夜は……そう。  深酒し、村正相手に取り乱した振舞いをし、挙句に飛び出して町を徘徊したのだ。  運動したせいで酒が回り、泥酔した――今になって自覚する。  駅前で妙な説教を聞かされ、そこでも狼藉に及んだ。そして、それから……  そう、何やら言い争う人々に遭遇したのだ。  俺はその間に入り、 「…………」  入って――  どうしたのだったか。  そこから先の記憶は無かった。 「……あの。  自分がどうしてこの家にいるのか、教えて頂けないでしょうか」  馬鹿丸出しの質問をする。  しかし、他に方法が無い。 「えっと」 「きのう、おじさんが」 「はい」  自分はまだ二十代です、などと余計な口は挟まずに相槌だけ打つ。 「けんかをとめてて」 「そのあとで、ねちゃったから」 「つれてきたの」 「…………」 「成程」  きっかり五秒間を費やして、俺は理解した。  つまり、この子供は昨晩の一幕を何処か近くで見ていたのだ。それで酔い潰れた俺を親切にも家まで運び込んでくれた。  ……いや。それだと少しおかしいか。  この子の力で俺の体重を持ち上げられた筈がない。運んだのは家族、おそらく両親だろう。  となれば、そちらにも礼を述べねばなるまい。 「御両親はどちらに?」 「おとうさんとおかあさん?」 「ええ」 「いない……」 「御仕事でしょうか」 「ううん」 「いないの」 「…………」  今度も五秒、必要だった。  一家族分の調度が揃った家。しかし温度は低く。埃。  ……そうか。  この子の両親はいないのか。今は、もう。 「おとうさんは、〈へいたい〉《・・・・》にいったの」 「すぐにかえってくるっていってた」 「でも、てがみがきて」 「おかあさんがないて。  おとうさんは、もうかえってこないって」 「…………」 「それから……  おかあさんもいなくなっちゃった」 「……どちらへ行かれたのですか?」 「しらない……」 「………………」  濃い目の茶を飲みたくなった。  望むべくもないそれの代わりに、舌の裏から湧いた唾を飲み下しておく。  ……苦い。  だがその儀式のお陰でどうにか、沈降しかけた心を前へ引き戻せた。 「お暮らしはどのように――  いえ。食べ物はどうされています?」 「やおやさん」 「おてつだいすると、ごはんくれる」 「それと、はいきゅう」  ……配給か。  そういえば、食糧配給制度が部分的に復活していた。情勢が改善しなければ、いずれまた全面的にそうなると見込まれている。  大多数の人にとって不幸であろうその変化は、この孤児にはわずかな恵みとなったわけだ――変化の原因たる戦争で父親を失ったらしい事を考え合わせれば、全く皮肉でしかないが。  おそらくは先刻の芋がその配給品だったのだろう。  返す返すも、俺が食べて良い物ではなかった。 「申し遅れましたが、自分は湊斗景明という者です。  貴方には大変、お世話になりました」 「なまえ?」 「はい」 「かげあき?」 「そうです。  宜しければ、貴方の名前もお聞かせ下さい」 「うん」 「ひかり」 「――――」 「え?」 「ひかり……」  その子供は繰り返して。  俺の手の甲にたどたどしく、一字を書いた。  〈光〉《ひかり》。    ……その一文字を。 「…………」 「……へん?」 「い……いえ!」 「良いお名前だと思います。  自分に子供がいれば、同じ名前を付けたでしょう」 「きっと……」 「そう」 「よかった」  〈微笑〉《わら》ったのだろうか。  ずっと横一文字だった口元が、初めて少し違う形になった。  息が苦しい。  今の、完全な奇襲に俺の心臓は跳ね上がり、鎮めるのに必死の力を掛けねばならなかった。  ……これが奇縁というものか。 「かぜ?」 「いえ……大丈夫です……」 「その、」  話の種を探す。  落ち着くまで時間が必要だ。 「ああ……そう。  喧嘩はどうなりましたか」 「きのうの?」 「はい」  言ってから気付いたが、確かにこれは気に掛かる事だった。  記憶はどうも判然としないが……相当に剣呑な空気ではなかったろうか?  こんな時世だ。誰もが殺気立っている。  あのまま殴り合いにまで進んだとすると――怪我人の一人二人程度では済まない展開になった、とも―― 「へいきだった」 「……平気?」 「うん」 「だいじょうぶだった」 「…………」 「その、つまり。  誰も怪我はしなかった?」 「うん」 「そうですか」  それは良かった。  何よりの事だ。  仔細はさっぱりだが……何にせよ、暴力の〈鬩〉《せめ》ぎ合いにならなくて済んだのならそれに越した事はない。  増してや、こんな子供の傍で。 「しかし……どうして」 「おじさん」 「はい?」 「おじさんが、とめたの」 「…………自分が?」 「そう」 「……………………」 「それは……どのように?」 「えっと」 「…………」 「ふぉーく……?」 「フォーク?」 「うん。  おはしと、ふぉーく」 「? ……?」  意味不明である。  しかし…… (そう、か)  兎も角も、俺は争う人々を収めたらしい。 (……そうか……)  俺は――  〈争いを止められた〉《・・・・・・・・》のだ。  この俺にも、そんな事ができたのだ。 「…………」 「かげあき」 「はっ?」 「うれしそう」 「……そ、そうですか」  頬に手をやる。  何か、血の気を取り戻したような熱さがあった。  自分で気付く前に見透かされた事が気恥ずかしい。 「失礼。何でもありません。  ついでに、その後の事ですが」 「どうやって自分をここまで運んで下さったのでしょう?」  誤魔化しがてら、投げ置きにしていた疑問を問う。 「貴方だけでは難しいと思うのですが」 「うん」 「がんばったけど、うごかなくて」 「こまってたら……  おねえちゃんがきてくれたの」 「お姉ちゃん?  両親の他に、ご家族が?」 「ううん。  しらないひと」  ……この子が俺を運ぼうと難儀しているところに、女性が通り掛かって手伝った? 「その方は今どちらに?」 「えっと」 「そこ」 「そこ?」  指差す方向へ、振り返る。  小さな家の小さな玄関口――  いつからそこにいたのだろうか。  村正が腕を組み、俺を眺めていた。  外に出た。  見るところ、ここは鎌倉市の中心部からやや外れた辺りのようだ。  余り舗装の行き届いていない道に沿って、小振りの家々が〈軒〉《のき》を並べている。 「…………」 「…………」  ……気詰まりだ。  まだ一言も、言葉を交わしていない。  村正としては、含むところがあるのだろう。当たり前だ。  俺としては、昨晩の醜態を思い起こすにつけ、口が重くなるばかりだった。当たり前だが。  どうしたものだろう。  平謝りに謝るしかないのはわかっているのだが……。 「ねえ」 「……?」 「少し……元気になった?」 「…………」 「ああ。  かもしれん……」 「そう……」 「……」 「……」 「村正」 「なに?」 「……昨日の事だが」 「――――」 「え、ええ」 「……あぁ、その……」 「済まなかった」 「……」 「謝って済む事でもないが……」 「……いいのよ、別に。  気にしないで」 「そうもいくまい」 「……私は……」 「わ、私はね。  貴方が望むのであれば、」 「ともかく、約束する。  馬鹿な振舞いはあれきりだ」 「…………え?」 「あんな真似はもう二度としない」  そうだ。あんな失態を繰り返してはならない。  胸に刻むよう、強く断言する。 「…………」 「そ……そぅぉ……」 「絶対にだ」 「ふ、ふぅん?」 「天地に誓おう」 「うふふふふふふふふふふふふふ」 「……村正?」 「なぁに?」 「やはり……怒っているか?」 「ど、どうして?」 「いや、何となく……」 「私の、どこが、怒ってるのかしら?  こんなに、とっても、笑顔でしょう?」 「そ、そうだな」  仁王像の口周辺だけ恵比寿様と取り替えたような、素晴らしい笑顔ではある。 「き……気のせいだったか?」 「そ、そぉよ。  気のせいよぅ?」 「なら……良いのだが……」 「ふっ、ふふふ。  御堂ったら、変なこと言って」 「あ、ああ……済まん」 「ふふ、ふふふふふふふふふふ」  ここは何処だ。  北極海か。  温暖湿潤気候の国とも思えないこの寒気は一体どこから吹いてきているのだ?  これも異常気象だろうか。 「……はぁ。もぉ」 「いいから帰りましょ、御堂。  別に用事はないんでしょう?」 「あぁ……いや」 「少し、やってみたい事がある」 「?」  まずは小さな恩人のために食事を調達。  それから――  ……ここか。 「橋?」 「の、名残りだな」  幅は然程でもないが、深さがありそうな川のほとり。  そこに立って、事実を確認する。  粗末ながら有用な木橋が、嘗てここに架かっていたのだろう。  今は何の役にも立たない木組が両岸に残るばかりだが。  昨晩、言い合いの中に分け入った時……詳細は思い出せないが、確かに橋という単語を何度も聴いた。  橋を壊したとか、どうとか。  これの事に違いない。  この橋が原因で、昨夜の人々は敵意も露わに争っていた様子だった。 「……ん?  おい、あれ昨日の酔っ払いじゃねえか」 「本当だ。  今日は朝から女連れかよ」  声に振り返ると、付近の住民と〈思〉《おぼ》しい二人の男性がいた。  仕事に向かうところなのだろう、作業着姿である。  こちらに覚えは無いが、あちらは俺を見知っているようだ。    ……という事は、あの言い争いの中にいた人間か?  俺は村正をそこへ残して、二人に歩み寄った。 「お早うございます。  昨晩は御迷惑をお掛けしました」 「……今日は素面らしいな」 「そうか?  昨日も口ぶりだけはまともだったぞ、この兄ちゃん」 「いえ、どうか御安心を。  あのような無礼はもう致しません」  と言っても、何をしたのか未だに思い出せていないのだが。 「実は少々、お尋ねしたいのですが。  お時間を頂いても宜しいでしょうか」 「あんた誰だよ?」 「失礼しました。  自分は鎌倉警察署長の下で働く、湊斗景明という者です」  久しく口にしていなかった自己紹介をする。 「警官か?」 「その一種とお考え下さい。  今は……非番のようなものですが」 「警官ならさ、あいつらどうにかしてくれよ」 「あいつら?」 「難民どもさ!」  唾棄するに似た声音で、彼は鋭く言った。 「……」 「北から西から、ぞろぞろ鎌倉に来やがって。  他に行く所ねえのかよ」 「関東じゃ、鎌倉が一番マシみたいだからな」 「来るのは仕方ねえにしても……  元から住んでた俺らに迷惑掛けるなってのさ!」 「ああ」 「食い物は減るし、水は汚れるしよ。  臭いったらねえし……病気まで持ち込んだ奴もいるらしいじゃねえか」 「噂は聞くな。  どっかで赤痢が広がり出したとか」 「…………」 「くそっ。  ろくでもねえ!」  男性の一方は、声がかなり大きい。  洗濯中の主婦や、置き抜けの青年など、周辺の住民から視線を集めつつあった。  しかしその中に、非難の色は薄い。  賛同の意思を寄せるものが大半だった。  人口の急増で生活環境が悪化したため、旧来の住民はみな強い不満を抱いている……そういう事か。  公的機関に余力があれば適切な措置も期待できるが、今は望むべくもない。  これは中々、厄介な問題のようだ。 「ところで、この橋ですが」 「あぁ……  そいつも、奴らのせいさ」 「街中へ行くのに使う橋だってのに。  これを壊されちまったせいで、あっち側に仕事場のある奴はみんな、ずっと下流の別の橋を渡っていかなきゃならなくなった」 「すげえ遠回りなんだぜ?」 「馬鹿馬鹿しいよな……」 「難民の人々がこれを壊したのですか?」 「風や増水で壊れたようには見えないだろ?」 「確かに。  しかし、難民の犯行という証拠は?」 「証拠は……ねえさ。  けどよ、他に誰がやるってんだ」 「あいつら、俺達がちょくちょく苦情を言いに行くのが嫌で、橋を壊したに決まってる。  難民どもが住んでるのも川向こうだからな」 「あいつら全員が、橋さえ無ければ文句言われないなんて考える馬鹿だとは思わねえけど。  古い橋だったからな。そういう馬鹿が一人でもいれば、簡単に落とせるんだ」 「…………」 「お巡り、どうにかしてくれよ」 「そうですね。  事態を確かめ、善処したく思います」 「善処ね。  お役人の善処はアテにならないからなぁ」 「やっぱり、〈筋〉《・》の連中に頼むか?」 「この辺りの見回りを請け負ってくれるって話か」 「それだけじゃねえ。  難民どもの追い出しも、相談に乗るってさ」 「でもよ、みかじめ料を聞いただろ?  どうやって毎月、それだけの金を出すんだ」 「そこがな……。  あいつら、こっちの足元を見てやがるから」  二人は俺に興味を無くしたらしく、深刻げに談義しながら行ってしまった。  下流の橋というのへ向かうのだろう。  入れ替わりに、村正が近寄ってくる。 「……やってみたいことっていうのは、この橋の建て直し?」 「少し違うな」 「じゃあ何を?」 「差し当たっては――」  もう一方の当事者の所へ、話を聞きに行くとしよう。  難民――つまり戦災からの庇護を求めて鎌倉へ流入した人々の多くは、火除地とされていた空地や公園に住居を構えている。  当然だが、その環境は良いものではない。  〈掘っ立て小屋〉《バラック》ならむしろ上等。大半はテントないしテントとも呼べないような代物だった。  病気を流行らせたという噂が立つのも、仕方のない面はある。  ……さて、どうしたものか。  二人の男を追うようにして下流の橋――確かに遠く不便だった――を渡り、難民居住地へ来てはみたが。  そこらの人を適当に捕まえて話を聞く、という空気ではない。  人はいるのだろうが、姿を見せてくれなかった。  息を潜めてこちらを窺う気配である。  どうも酷く警戒されているようだ。  旧来住民との間柄が良くなく、衝突も発生している現状では無理からぬ態度だが……といって、このまま見合っていても埒は明かない。  こちらから呼び掛けてみるか?  この空気ではかえって警戒を深めさせる結果になりかねないが、しかし―― 「あれ……あんた」 「……?」  家屋の陰から若い男が一人、顔を覗かせた。  俺を見た後、記憶を探るように一度首を傾げ、再びこちらへ目をやる。 「ゆうべの酔っ払いじゃないか」 「…………」 「……貴方、昨日の夜は随分と面白いことになってたみたいね」  先刻と全く同じ声の掛けられ方に、背後からやけに痛い視線と言葉が突き刺さっていたが、気付かぬ風を取り繕っておく。  ともあれ、これは奇貨だった。 「その節はお騒がせしました」 「いや……いいよ。  あんたのお陰で助かった気もするしさ」 「それで、なんでこんな所に来たんだ?」 「少々、お伺いしたい事があり――」  言いかけて、逡巡する。  話を聞くには聞くなりの立場を示さねばならないが……彼に対して警官という名乗りは有効だろうか?  おそらく単純に好意では迎えられまい。  とはいえ、警察を自称しないのであれば俺の立場は昨日の酔漢のままである。まともに相手をして貰えるとは思えなかった。  ……止む無し。 「失礼、自分は警察に属している者です」 「……警察!?」  案の定だった。  若い男の表情が露骨に引き攣り、周囲の押し殺した気配も〈ざわり〉《・・・》と波立つ。  法制上、正規の鎌倉市民とは言えない彼らにとって、警察は保護者ではないのだ。  むしろ逆だろう――その点の危惧を拭うため、俺はすぐ言葉を継いだ。 「御安心下さい。  立ち退きの勧告に来たのではありません」 「……」 「貴方がたの状況を調査するために参ったのです。  宜しければ、お話を伺いたいのですが」 「……聞いてどうする?」 「詳しい事を知るまでは、何とも」 「結局は追い出しに掛かるんじゃないか?」 「否定はできません」  巧言を弄んでも自分の胸が苦しくなるだけだ。  俺は正直なところを答えた。  実際、軍あるいは警察がそうした短絡的措置で難民問題の解決を図る事は充分に有り得る。 「……」 「……しかし、自分はそうならぬ方が良いと考えています。  自分の力量は高が知れていますが……それでも何かできる事はあるかもしれません」 「御協力を頂けないでしょうか」 「…………。  まぁ、話くらいなら」 「別にそれで俺達の生活がこれ以上悪くなるわけじゃないしな……」 「有難うございます」  消極的な同意だったが、ともかく俺は頭を下げた。 「貴方がたは、どちらから?」 「そりゃ、色々だよ。  俺は駿河だけど、他にも遠江とか尾張とか」 「でも大半は東海地方だな。  もっと遠くから来た奴もいることはいるが、多くはない」 「……成程」  つまりこの難民キャンプは、近畿東海で展開される今川雷蝶と足利〈幸行〉《ゆきつら》の抗争に逐われた人々の集まりか。  六波羅の主権を競う激闘で住処を奪われ、鎌倉まで逃げ延びてきたというわけだ。  彼らにはもはや帰る所も行く所も無いだろう。 「当面、鎌倉で暮らす事を御希望なのですね」 「他にどうしようもないからな……」 「何か不自由されている事は?」 「不自由?  家と、食い物と、働き口が足りないくらいだよ」  肩をすくめて、答える男。  訊く必要も無くもがなの事ではあった。  要するに、正規の市民の間でも広がっている問題が彼らにはより深刻な問題として存在するという事だ。  ……この解決は俺の能力の及ぶところではなかった。将来的な行政に期待するほかない。  俺にできるのは、もっと小さな事だろう。 「旧来の住民との間にトラブルがあるという話も聞いていますが」 「ああ……俺達は歓迎されてないからな。  あれこれと揉め事は起きてるよ」 「実を言えば、〈住民側〉《あいつら》の気持ちはわかる。  自分の町にいきなり薄汚い格好した連中が大勢なだれ込んできたら、誰だって嫌な気分になるだろうさ」 「……」 「けど俺達は他に行き場が無くてここに来たんだ。  出ていけと言われても、そうですかと頷けやしない」 「ええ」 「どうにか……受け入れて欲しいんだが」 「何やら、関係を決定的に悪化させる事件があったとか」 「橋のことだな?」 「はい」 「あいつらは俺達が壊したって言ってる。  でも、やるわけがない……」 「ここの誰にそんな元気があるってんだ」 「……」 「しかも何の得にもならないじゃないか。  馬鹿げてるよ」 「では、貴方は何者の犯行だと思われます?」 「さあなぁ。  どこかの悪たれの悪戯じゃないのか?」 「でなければ……考えたくはないが……  住民側が俺達を追い出す口実作りに自分で壊した、なんてことも――」 「……」 「……ふぅ。  俺も馬鹿なこと言ってるな」 「でも、有り得ないとは思えないんだ。  向こうが俺達を疑うのもわかるよ……要は今の俺と同じ気持ちなんだろう」 「……そうですね。おそらく」 「やれやれ、だ」  視線を逸らして、彼は苦笑した。  疲れ切った笑みだった。  昼。  再び〈光〉《ひかり》の家へ食料を持参し、ついでに自分の食事も済ませる。  大した物ではなかったが、朝と同様、家主は素直に喜んでくれた様子であった。  嬉しく思う一方、これまでどんな食生活だったのか不安にもなる。 「……要するに。  昔からの住人と新しく入ってきた人達との間を取り持って、和解させたいの?」 「まぁ、そうだ。  このまま互いに不満と不信の念を募らせていけば、やがて破滅的な結果になりかねない」 「それを防ぐ」 「難しいと思うけど」 「簡単ではなかろうな」  人間関係の決裂は一瞬で済むが、和解は百年の時を掛けてなお成就しない場合がある。 「しかし、俺でも和解の切欠を作るくらいの事はできるかもしれない……」 「……」 「やるだけはやってみる」  どんな形であったにせよ、一度は争いを止められたのだ。  なら、今度もできる――できると信じたい。  俺のような者が生かされるなら、生かされる意味が欲しい。  何かを成し遂げたい。 「…………」 「そう。  それで……どうする気なの?」 「話し合いだけで片付く問題ではないだろう。  まず行動が必要だ」 「難民側に行動を起こして貰う」 「橋を……?」 「はい」  再度訪れた俺を、先刻の男性はまたかという表情をしながらも迎えてくれた。  幾らか警戒が薄れたのか、他にも数人がその後ろに姿を現している。  俺の言葉を聞いて、彼らは一様に虚を衝かれた様子だった。 「橋を建て直す、って」 「そうです。  材木や道具は自分に少々ツテがあるので、そちらから調達します」 「金銭面の心配は要りません」 「……と言われてもな」 「なんで俺達がそんなことしなきゃいけない?  あの橋を壊したのは俺達じゃないんだ!」 「はい」  半分以上は勘だが、その点には同意できた。  おそらく橋を壊したのは全く別の人間だろう。 「贖罪として再建するのではありません」 「じゃあ、何のために」 「誠意です」 「……誠意?」 「はい。  この町の厄介者になるのではなく、住民となって貢献する意欲を示すべきと考えます」 「…………」 「それこそ、なんでだ!  俺達は戦に逐われてようやくここまで辿り着いただけなんだぞ!?」 「何も悪いことはしてねえ。  なのになんで、この上そんな苦労を背負い込まないとならないんだ……!」 「……お気持ちは理解できます。  しかし、貴方がたが流入した事で、現在のところ旧来の住民の生活環境が悪化しているのも事実なのです」 「……」 「貴方がたに罪は無い。  住民側もそれは同じ」 「双方が自分は悪くないと意地を張り合っている限り、問題は解決しません。  譲歩し合う必要があります」 「そして――」 「先に譲歩するのは、俺達か」 「……はい」 「……ッ……なんで……」 「腐るなよ。  それは仕方ない。俺達は後から来たんだ」 「受け入れて貰うために努力が必要ってのは、当然と言えば当然の話だ」 「……」 「このまま住民に睨まれ続ければ……いずれ俺達は追い出される。  そうなったら、野垂れ死にするしかない」 「けれど、うまく住民側と和解できれば――」 「その事実は行政や警察の判断にも強く影響するでしょう。  受け入れ、保護する方向へ方針が傾く一因となります」  鎌倉署長は公人として必ずしも甘い温情家ではない。  が、難民対策を決めるに当たって、もし『住民との良好な関係』という一事実があるのなら、決して軽視はしない筈だった。 「……あの橋を建て直せば、住民側は俺達を認めるのか?」 「確約は致しかねます」 「あてにならねえ……」 「申し訳ありません。  自分にお約束できるのは、認められるよう働き掛ける事だけです」 「……」 「橋造りは俺達だけで?」 「はい。  自分はお手伝いしますが……外部に人手を求めるべきではないでしょう」 「業者を頼むには金が掛かりますし、それに他人の手で建て直しても意味がありません」 「確かにそうだな」 「おい……やるつもりなのか?」 「……ああ。  どうせ体は空いてるんだ」 「お前だって、日雇い仕事が週に一度あるか無いかだろう」 「…………」 「やっても無駄かもしれないが……やらなくたって無駄に時間を過ごすだけなんだ。  だったら、いくらかは見込みのありそうな方を試してみてもいい」 「……」 「かもな……」 「やって頂けますか」 「ああ。俺は乗るよ。  若い連中にも声を掛けてみる」 「ただ、そんなには集まらないと思う……。  あまり期待しないでくれ」 「結構です。  宜しくお願いします」 「うまくいったようね」 「ひとまずはな」 「けれど、こんな小川でも橋を架けるのってわりあい大変なんじゃない?」 「俺もそう思う。  大工の経験者がいれば良いのだが……」 「私は手伝ってもいいの?」 「……いや。  それは無しだ」 「やっぱり」  村正は大工ではないが、劒冑の異能を行使できる。  橋の再建に役立つ事は間違いないだろう。    しかし、作業仲間にどう説明したものか。  一介の警官が劒冑を持つ筈はない。  強引に言い繕えば不審を買い、折角まとまった話も水泡に帰す恐れがある。 「お前には別件を頼みたい」 「なに?」  資材の調達は滞りなく済んだ。  その翌日、早速作業を開始する。  集まった人員は総勢六人。  本当はもう少し手が欲しいところだったが、贅沢を言っても仕方ない。  まずは現場の検分から始める。 「やはり……深い」 「真ん中辺りは腰まで沈みそうだな」 「もっと深い場所もあるかもしれません」  川に入ってみてほんの数分で、ここが子供の遊び場にされていない理由は察しがついた。  危険過ぎるのだ。  深い上に川底はぬかるみ、しかも流れは速い。  重要な橋というわりに即席の浮橋を仕立てて代用にする様子がないのも、この川並なら当然だった。 「楽じゃないのはわかってたが……」 「何方か、橋を建てた経験のある方はおられますか?」 「……いや……」 「……それは中々いないだろう。  一応確かめるが、あんたは?」 「未経験です。  建築業に関わった事はありますが……橋というのは」 「いきなり前途多難じゃねえか……」 「……まっ、川幅は大したことないんだ。  素人でも何とかならないことはないだろう」 「はい。  時間は掛かるかもしれませんが」 「……」 「まずはやってみるさ。な?」 「……わかったよ。  文句ばっか言ってても始まらないしな」 「……?  おい、今日は何やってんだよお巡り。川に浸かったりして」 「また酔っ払ってんのか?」 「いえ。  橋を建て直すため、調査をしているところです」 「橋を建て直す?  あんたが?」 「そいつら使ってか」 「…………」 「はッ。そりゃあいい。  警察も結構やってくれるじゃねえか」 「橋を壊した奴らに罪を認めさせて、償いをさせてるってわけだ」 「何だと!?」 「止せよ……」 「それは違います。  この方々と橋の破壊とは関係ありません」 「また、自分に命令されて働いているのでもありません。  単に善意から橋の再建を思い立ってくれただけです」 「善意ね……。  どうだかね」 「…………」 「まぁいいさ。  てめぇで壊したもんをてめぇで直すってんなら邪魔することもねえ」 「せいぜい頑張ってやりな」 「……っ……」 「……」  二人連れは去っていった。  しかし彼らが契機となったのか、周辺の住民達から視線が集まり始めている。  温かくはない。冷淡と言っていい。  さもあろう――一度抱かれた悪感情は、そう簡単に覆らないものだ。  ひとまず気にせずにおくしかない。  後でそれとなく皆に言っておこう。 「…………」 「……ふん……」  数日は瞬く間に過ぎたが、過ぎた時間に見合うほど作業は進んでいなかった。  有体に言えば、遅々としている。  素人集団のやる事であるから仕方ない。  それでも、基部は〈漸〉《ようよ》う出来上がりつつあった。 「やっぱり〈橋桁〉《はしげた》は要るか」 「土台の上に板を渡して終わりってわけにもいかないだろ」 「は。安全性に問題があります」 「なら、真ん中に〈脚〉《・》も造るか?」 「それは……さて……」  川幅を見るに、不要とも思える。  しかし、あった方が安定感は高まりそうだ。  資材にはまだゆとりがある。 「造るだけ造ってみても良いかと」 「そうだな。  邪魔にはならないだろうし」 「〈橋台〉《きょうだい》が出来たらやるか」 「ええ」 「…………」 「あー……おい……」 「? は、何でしょう」  小声で呼ばれたように思えて振り返ると、果たしてそこには老人が一人いた。  難民の服装ではない。煙管を咥えてこちらを眺めている。  煙が立っていないところを見ると、中身は空っぽのようだ。 「…………」 「……御老人?」 「……いや……」 「何でもねえ。余計なこった」 「……?」  ……少し、降り始めたようだ。    壁が薄いからか、小雨の音がよく響く。  橋の再建を始めてよりこのかた、俺は〈光〉《ひかり》の家で厄介になっている。  外れとはいえ鎌倉市内。署長宅から通うに不都合は無いのだが――理由あってこうしていた。  家主への返礼は食料ほか生活必需品である。  今の時勢そして子供の一人暮らしという事情を思うに、現金よりこの方が良かろうと考えたのだ。 「…………」  一度、一緒に暮らさないかと持ち掛けてみた。  その返答は迷いなく。  ここで母の帰りを待つからと、光は首を横に振った。    以来、その話はしていない。  前触れもなく姿を消したという母親が戻る見込みは皆無に近い――そう思う。  死んでいれば当然、生きていてもだ。  しかし、そこまで口にして光を説き伏せるべきとは思われなかった。それは全く彼女にとって良い事ではないと思えた。  だから俺は口を噤んだ。  彼女は独りきりに見える。  だが家族は〈まだいる〉《・・・・》のだ――彼女がそう信じる限り。俺の独断でそれを取り上げて良い筈はない。  俺にできる親切とは、他人同士の距離を踏み越える事ではなく守る事であった。彼女の聖域を侵さぬよう。  その距離から今、光は俺に不分明な眼差しを注いでいる。 「……? 何か?」 「かげあきは……」 「どうして、がんばるの?」 「――――」  言葉足らずの問い掛けは、それでも意味明瞭だった。  問われているのは、難民を語らって橋の建て直しを試みる俺の振舞いだ。  彼女は一部始終を見ていたのか。  それとも見るまでもなく、大人にはない不可思議な感性で俺が〈頑張っている〉《・・・・・・》事を悟ったのか。 「どうして?」 「……は。それは……  みんなに仲良くして欲しいからです」 「なかよく?」 「はい」 「どうして?」  繰り返しの疑問。  俺は脳裏で言葉を選んだ。  ……適切かどうかわからないが…… 「和を以て貴しとす」 「わお?」 「和を以て」 「わをもって」 「貴しとす」 「とぉとしとす」 「はい」 「……なぁに?」 「昔の偉い人が言った言葉です。  仲良くする事を大切にしなさい――」 「争ってばかりいては何もできない。  争わず、助け合えば、どんな事でもできるから……と」 「どんなことでも?」 「はい。  食べる物を育てたり、家を建てたり」 「どうぶつえんは?」 「できます」 「えいがかんは?」 「できます」 「すごい……」 「はい。  ですが――」 「仲良くせず、争っていると、そうした物は作れないばかりか、壊してしまうこともあります」 「だめ……」 「はい」 「あらそわないで、なかよくするには、どうしたらいいの?」 「…………」 「貴方が以前、して下さったように」 「?」 「貴方は自分の食べ物を人に与えました。  自分よりも困っているから、と」 「……簡単なようで難しい事です。  自分に余裕がある時、他人に優しくできる人は多くいる――しかし自分が苦しい時にもそうできる人は少ない」 「自分が苦しいと、人は自分だけを守り、時には他人から奪って自分を救おうとさえする。  ……貴方はそうではなかった」 「…………」 「とても立派な事です」 「……そう……」  褒められる事に慣れていないのか。  光ははにかんで、俯いた。  頬に朱が差して、桃のようになっている。 「…………。  誰もが自分の事より他人の事を思いやれば、争いなど起きません」 「それは……とても良い事です」 「……うん」 「そうなると、いいね」 「…………」  あっさりしたものであった。  昨日の夕、不恰好ながらもどうにか仕上がっていた橋の土台は、一夜明けた今、〈海狸〉《ビーバー》の巣に変貌している。  見事なまでの倒壊ぶりだった。これを見て、ここに橋を建てる構想があったと思う者はいまい。  倒壊の所以は一見して明らかだ。  雨による増水に耐えられなかったのだろう。 「…………」 「…………」  橋造りの仲間は、黙って惨状を眺め下ろしている。  声を出す気力もない様子だった。  俺もほぼ同様だ。  石地蔵となって立ち並ぶ背後を、近隣に住む人々が行き交う。  時折、聞こえよがしな嘲笑が届いた。  ……見立てが甘かった。  最大の失敗は、基礎となる杭の浅さだろう。  川底の軟弱さを考慮して深くまで打ち込んだつもりだったが、まだ足りなかったのだ。  他にも思い当たる節はある。  その多くは、作業中から既に気付きつつもおそらく大丈夫だろうと皆で楽観し、見過ごしにしてしまった事柄だ。  もっと慎重に工事をするべきだった……。 「まずは問題点を整理しましょう」 「……」 「その上で設計からやり直し――」 「……」 「…………」  誰も返答しない。  俺の言葉に応えるのは、彼らが呼吸と共に吐き出す濃い徒労感だけだった。  無理もない話だ。  報われず、無駄に終わる事も覚悟の上での作業ではあったが、本当に全く無駄になったのを見て落胆せずにいられるものではないだろう。  俺としても励ます方法が思いつかない。  ……とりあえず、残骸の回収を始めておくとしよう。  俺は川へ踏み込み、前衛芸術化している材木に手を掛けた。 「あぁー……ったく」 「見てられねえ」 「……?」  不意の声は、昨日の老人だった。  今日も格好だけ煙管を咥えつつ、こちらへずかずかと歩いてくる。 「おい」 「はい」 「おめぇら、全員〈素人〉《トーシロ》だな」 「は……  誰も橋を建てた経験は有りません」 「大工やってた奴すらいねえだろう」 「お察しの通りです」 「それでよく橋を造ろうなんて考えたな。  口の利けねえ奴が漫才やるようなもんだ」 「……そこまで困難な事ですか」 「おれは隠居してるが、昔は大工だ。  橋を造ったことも何度かある」 「動かない地面の上に建てる家より、流れる川と付き合わなきゃいけねえ橋は余計に面倒だったさ」 「……成程」  そういうものかもしれない。  素人だけでやろうとしたのがそもそも無理だったという事か……。 「御老人」 「ん?」 「元大工で、しかも橋造りの経験者でもあられる貴方の力をお貸し願えませんか」 「…………」 「助言して下さるだけで良いのです。  どうか――」 「その気がなけりゃ、声掛けたりしねえよ」 「では」 「そっちのおめぇら!」 「……?」 「え?」 「今からおれの言う通りに動け。  まず、そのガラクタを片付けるんだ」 「……」 「……」 「ぼさっとしてんじゃねえ!  橋を造るんだろうが!」 「あ……」 「お、おう……」 「では、土台はこのようにするとして……  脚は?」 「この川幅でそんなの要らねえよ。  ゴミを引っ掛けるだけ、無い方がマシだ」 「そのぶん〈橋台〉《きょうだい》をしっかり作っとけ」 「は、諒解しました」 「……?  〈粂〉《くめ》の爺さんじゃねえか。何やってんだ」 「そいつらを手伝ってるのか?」 「まぁな。  おめぇら、今日は休みか」 「そうだけど……」 「なら手を貸せ」 「はァ?  おいおい、なんで俺達がそんなこと」 「ぐだぐだ抜かすな。  どうせここの橋は無いと困るんだろうが」 「そりゃ……そうだが」 「こいつらに任せてたらいつまで待ってても出来ねえぞ」 「…………」 「さっさと着替えてきな。  あと、他にも暇な奴がいたら連れて来い」 「……どうする?」 「どうもこうも。  …………仕方ねえだろう」 「まったく、爺さんには敵わねえ」 (……何とも……)  予想せぬ光景だった。  旧来の住民と新参の難民が、共に立ち働いている。  一つのものを造るため――協力して。  彼らは和解してはいない。  言葉を交わす事はなく、笑顔を向け合う事もない。  時折交差する視線は冷たく、相手への不信感を隠し切れていない。  それでも。    ――重い材木を担ぎ出す時。  ――川底へ杭を打ち込む時。  一人では手に余る作業を、別の一人が手伝い、その両者が住民同士でも難民同士でもない事がある。 (これならば)  時間は掛かるだろう。  障害は多いだろう。  だが、いずれ―――― 「これも現場に運んだ方がいいんじゃないか」 「そうだな……」 「ん?」 「なんだ、あんたか」 「こないだの話かい?  悪いけどさ、あんたらには頼まないことに決まったよ。払う金がないもんでね」        「――――――――       ――――――――」 「……はぁ?」 「何?  何だって……?」 「橋の広さは、人間一人が通れる程度で良いのでしょうか」 「もう少しあった方がいいな。  二人がすれ違えるくらいに……そうすりゃ荷車も通れる」 「それは確かに便利です。  しかし、資材が足りないかもしれません」 「心配すんな。  いざとなりゃあ、おれが昔の仕事場に掛け合ってやるよ」 「……御造作を掛けます」 「へッ」 「……」 「……」 「……あのとっぽい兄ちゃんが……?」 「まさか……なぁ?」         «――――御堂» 「村正?」  夜半。  不意の金打声に跳ね起きる。  意識は既に覚醒していた。  ――これあるを期して、橋の現場から程近い光の家を宿に借りたのだ。  〈火見櫓〉《ひのみやぐら》にいる筈の村正が、続けて通信を送ってくる。 «貴方の予測、的中みたいよ。  工事の場所で〈ごそごそ〉《・・・・》やり始めた» 「わかった。  すぐに行く」  身支度に掛ける時間は必要なかった。  元々、動ける格好だ。 「……んぅ……?」 「人数はわかるか?」 «四人よ» 「そのくらいなら抑えられるな……。  良し、そこにある半鐘を鳴らせ」 «いいの?» 「ああ。  真相を皆に知らしめる必要がある」 «諒解» 「なんだぁ!? 火事か!?」 「げっ、冗談じゃねえ!!」  突然の火事ほど恐ろしいものはない。  半鐘の警報が響くや付近一帯の眠りは〈忽〉《たちま》ち覚まされ、人々は往来へ飛び出した。  ――そして、当然。  それを目の当たりにする結果となった。  完成が見えてきた出来かけの橋……  その周囲に蠢く四人の男。  彼らの手にある道具。  鋸、鉈、手斧……。  逃げ場を失い、呆然とする顔。 「あんたら……」 「…………」 「この地域の治安維持に雇われたがっていた、〈筋〉《・》の方々ですか?」 「そ、そうだ」  これで決まった。  真相は、〈良くある事〉《・・・・・》だった。 「倫理的に問題のある〈売り込み〉《セールス》です」 「…………」 「治安回復を必要とさせるために、まず治安を悪化させる。  合理的発想と、言えなくはありませんが」 「どういうことだよ」 「橋を壊したのはこの方々です。  今もまた、同じ事を……」 「旧来の住民と難民との間を裂くために」 「な……何だと!?」 「……ッ……」 「全てはこの地域の住民を資金源として取り込むためだったのでしょうが……こうなってはもはや叶わぬ事です。  お諦め下さい」 「何も言わず、そのままお帰りを。  そうして今後一切の手出しを控えて頂けるなら、住民の方々も難民の方々もあえて貴方がたの責任を問おうとはなさらぬでしょう」 「そのように自分からも説得します」 「要らん世話じゃァ」 「六波羅御雇の看板で食えた時代じゃねえ。  稼ぎ場所を作らんことにゃあ、首も回らんでのォ」 「引けって言われて引けるかい!」 「無意味な意地です」 「やっかぁしいわ!  余計な邪魔しくさって――」 「こうなりゃ力ずくで〈縄張り〉《シマ》にしたらァ!!」  四人の頭株と思われる男は佩刀の白鞘を払った。  その両脇で、鋸を手にしていた男は短刀に持ち替え、鉈と手斧の男はその刃先をこちらへ向ける。  周囲で悲鳴が上がり、人の輪が一歩後退した。    ……荒事は何としても避けたかったが――この状況、言っている場合ではないか。 「村正、虎徹を寄越せ!」 «諒解!»  場慣れした筋者四人を相手に丸腰では少々分が悪い。  といって劒冑は大袈裟、太刀一本が適当なところだ。  流石と言うべきか、四人は俺の手の中に突如太刀が現れるのを見て、仰天したとしてもそれで隙を作りはしなかった。  二人が前に出て、残り二人は左右に回る。  四対一の形勢。  ひとまず距離を取り、囲まれるのを防ぐ――それが正手であろう。  しかし今回、時間を掛けるべきではなかった。  彼らが周囲の人々に刃を向ける事になっては大事だ。  住民も難民も、絶対に傷付けさせてはならない。  従って退かぬ。  前へ出る。  正面右、鉈を持った男へ―― 「――――」  行く、と見せて瞬時、向きを変え。  右脇から食い付こうと飛び出しかけていた手斧男を迎え撃つ。  峰打ちの一刀は〈過〉《あやま》たず、男の鎖骨を陥没させた。  悲鳴の代わりに多量の空気を吐き出して、まず一人が地面に倒れる。 「……ガキァ!!」  激昂の声。  そちらに視線を向けた刹那、額の中央に危機を知らせる電流が走った。  凄まじい一撃が襲い来る。  確実に俺の肉体を二つ割りにできる程の――  危うく、防ぎの太刀は間に合った。  真っ向から受け止めては押し負ける。斜めに逸らし、受け流す。  殺刃が耳の横を滑ってゆく。  髪が数本巻き込まれ、引き千切られた。 「……ッ!」  手首を返す。  頭上で太刀を旋回させ――男の腋下を下方から抉るように。  一撃。 「げほァ!?」  重傷を負わせぬよう加減はした。  それでも急所を打ち抜く痛撃である。殴り殴られが日常茶飯の筋者であろうと耐えられる道理はない。  のたうち回る男は泡を吹いていた。  もはや戦う力はあるまい。  これで首領格も脱落。  残るは、二人――――  吐息し、汗を拭う。  短いが激しい戦闘は、俺の体力精神力を大きく消耗させた。  辛うじて、怪我はない。  四人の筋者は全て地に伏しているが、こちらも命に関わるような傷は誰も負っていない。  ……まぁ、上々の結果だろう。  戦わずに済めばそれに越した事はなかったのだが。 「村正……他に仲間はいないな?」 «大丈夫よ»  返答を受けて、体の力を抜く。  兎も角もこれで一件落着だ。  すぐにすぐ住民と難民が肩を組んで笑い合えるとは思わないが、少なくとも関係の好転には繋がるだろう。  対立の根が一つ、取り除かれたのだから。 「……?」  ふと、奇妙な静寂に気付いた。  俺を見守る、周囲の――  何とも言いようがない、そんな気配。    ……そうか。刃物など、用が済んでもひけらかしておくものではない。  軍人でも犯罪者でもない正常の市民にとって、刀剣の光は脅威的だろう。  俺は村正に命じ、虎徹を回収させた。 「消えた……!?」 「お、おい。  まさか――あの話……」  ……しまった。  焦ってやり方を間違えた。  今のは常人の視覚だと、太刀が消失したようにしか見えない。  わざわざ混乱を煽ってどうする。  誤魔化さねば――何とか適当に、 「……あんた……」  しかし。  意を決した一人が口を開くのは、俺が弁明法を思いつくより早かった。 「あんた」 「今までに何人も殺してきた、殺人鬼の武者だって聞いたんだけど……  ほ――ほっ、本当なのか!?」 「……え?」 「誰でも構わず……  女でも子供でも殺してきたって」 「聞いたん……だけど……」 「――――――――」  誰が。  誰が、教えたのだ。  その――――真実を。 「な……何を言い出すんだよ、いきなり!」 「い、いや。  俺だって信じちゃいなかったけど」 「今の見たろ!  ヤクザをあっさり片付けるし、刀は出たり消えたりするし!」 「あんな真似、武者にしかできねえよ!」 「それは……そうだが……」 「まっ、待てって!  このお巡りさんがもし、武者だとしてもだ……まさか殺人鬼ってことはないだろう!」 「なぁっ!?」 「…………」 「…………」 「お、おい。  なんで黙ってるんだよ」 「なんか言ってくれよ」 「…………」  言う?  何を……言えるのだろう。  自分は殺人鬼ではない、と?  そんな……嘘を? 「…………」 「あんた……まさか」 「まさか、本当に」 「…………」  ――瞬間。    空気が沸騰した。  筋者が刃物を抜いた時の比ではなく。  ひぃ――と掠れ声の呻きを口々に洩らしつつ、火の上から飛び退くように、人々は俺を遠巻きにした。  少しでも俺から離れようとし、後ろが〈閊〉《つか》えてそれが果たせないと、互いに邪魔にし合って罵り合う。 「どっ、どけよてめぇ!」 「うるせえ、押すな!」 「何だと!?  そもそもてめぇらがあの変な男を引っ張り込んだんだろうが!」 「知らねえよっ!」 「俺達相手にけしかけるつもりだったのか!?」 「知らねえってんだろ!  お前らこそ、俺達を殺させるつもりで――」  争っている。  折角まとまるかと思えた人々が。  争っている。  俺が原因で。  争っている……。  押し合い、掻き毟り合い、殴り合って―― 「止めろ」 「止めろぉっっ!!」 「……あ……」  人々が凝固する。  一様に、俺を見詰めて。  どの瞳にも恐怖がある。  限りない恐れの念。  血塗れの殺人鬼に対する、当然の感情。  恐怖。  恐怖。  恐怖。  恐怖。 「うっ……」 「うぁぁぁぁアアアアアアアアア!!」 「…………」  ……また、飲んでいる。  味のしない酒を。愚かしくも。  やはり、無理だった。  争いを収めるなど無理だった。  和平を築き上げるなど無理だった。  俺にそんな事ができる筈はなかった。  ……最初からわかっていた事だ。  ふと、夢を見た。  その夢が醒めた。  それだけの話だ。  後に残ったのは現実。    ――俺には、何もできない。 「…………」  思えば滑稽。  人殺しが、自分の過去に目を瞑り――  争うな、共存せよと、聞いた風な事を云う。  どの口でそんな御託を吐けたやら。  しかし天は見逃さなかった。  虚飾を剥ぎ、真実を示した。  いんちき聖者になり損ねた男は道化として退場した。  嗤える。 「御堂……」 「…………」 「貴方はよくやったと思う。  恥じることは何もない」  ……恥。  何をどうして、恥じずにいられるだろう。  この俺が。  幾つもの――幾つもの――貴い命を奪った。  その中には統様と光、守るべきだった家族すらいる。    人としての恥だ。  全世界に災厄を撒き散らした。  阻止する機会はあったのに――果たせなかった。    人としての恥だ。  そして。 「恥はある。  何よりも恥じるべきは――」 「…………」 「犯した罪に……  何一つ、報いていない事」  法に照らして裁かれる事もなく。  償い、補いになるような何かを為す事もなく。  何もせず何もできず。  のうのうと生存する。 「それが恥だ」 「…………」 「……何故生きている……」 「何故生きているのだ、俺は……」 「…………」 「……………………」 「何故……」 「……俺は……」 「くっ……」 「この、」 「そんな資格もないのに……」 「……生きて……」 「…………」 「――え――」 「ええい!!」  変転は突然過ぎ、急激過ぎた。  脳の性能が追い付かず、情報処理が滞る。  ……何をされた?  糸――〈鋼糸〉《いと》?  村正……? 「あっ、ああああ、もう!」 「頭来た!」 「おい」 「貴方って人はーー!  どうしてそうそこまでどうしようもなくて、どうにもならなくて、どうにもしようがないのよっ!!」 「ど、どう?  いや、それよりこの拘束を……」 「くぁーーーっ!!」 「落ち着け、村正。  ……落ち着いて下さい」 「いやっ」  嫌がられた。 「生きてたっていいじゃない!  何もできなくたってっ」 「なんで貴方は、その程度にすら自分を許せないのよ!」 「俺は……」 「ミミズだってオケラだってアメンボだって、呼吸したり泥食べたり体液吸ったりする以外特に何もしてないけど堂々生きてるでしょ!  だから貴方も生きてていいのよ!」 「いや。待て」 「今いい話してるんだから黙って聞いてっ!」 「とてもそうは思えないのだが」 「生きている意味がないって思うなら、逆に考えなさい!  こうして生きているだけで意味があるんだ、って!」 「お天道様は意味のないことなんてしないの。  貴方が今、そうして生きているってことは、〈それでいい〉《・・・・・》のよ!」 「……それは……」 「なによっ」  詭弁だ。  現状を無条件に肯定する事で過去をも不問に付そうという―― 「……俺は罪を犯している。  これは完璧な事実だ」 「だから、俺は……  罪に対する責任を果たさなくてはならない……」 「えーえー、わかりますわかります。  自分のしたこと全部に、きっちりちゃんと責任を取れる人がいたらそれは立派でしょうとも!」 「でも貴方がそうなれるかどうかは別よ!」 「……」 「貴方は自分をどれほど凄いと思ってるの!?  人並み外れて優れた傑物だって思ってる!?」 「そうでは……」 「この世の中、責任の重さに耐えられなくて逃げたり忘れたりしながら生きてる人は一杯いる! 貴方の理屈だと、そういう人達は皆生きる価値なんか無いってわけ!?」 「いや……」 「そうよ!  そんなの、単に普通の人間よ!」 「世の中は普通の人間が集まって出来てる。  貴方は自分が、その中の一人に過ぎないんだって認められないの!?」 「…………」 「……だが……」  確かに責任を果たせず〈擲〉《なげう》つ者は多いかもしれない。  しかし俺の負う責任は、そうした人々とは比較にもならないもの――大量殺人の罪だ。  それを忘れて生きる、など。  そんな浅ましく、卑しい真似は…… 「――――」 「あぁ、そう。わかった。  思い知らせてあげないと駄目なのね」 「何?」 「とぉ!」 「……おい――」  再び鋼糸が閃き、肌の上を鋭い感覚が這った。  寒々としたものを覚え――それは持続する。  服を剥ぎ取られていたのだから、当然だった。 「これで……こう……」 「待て。いいから待て」  その足で、何をする気だ。 「ここを……こっ、こうしてやれば……  反応しない男はいないって、母様が昔」 「……あの蟻の人……」  さりげなく何を教えているのか。  男性部分に触れられ、冷たい感覚が背筋を走る。  びくりと〈戦慄〉《わなな》く体を制御するのは不可能だった。 「わっ、わっ……動いた」 「……おっかないなら触るな」 「べっ、別に?  ふ――ふふんっ、だらしない姿ねっ」 「こんなことされて、ここを、ここここんな風にしちゃうなんては、はず、はずかちゃっ」 「噛み噛みで何を言ってるんだお前は」  実は酔っているのは俺ではなくこいつではないのか。 「いっ、いいのよ!  とにかく、思い知らせてあげるんだから!」 「何を」 「貴方なんか全然たいした人間じゃないってことをよっ。  卑しい生き方はできないって思ってるなら、卑しい人間にしてあげる」 「私の嬲りものになって、無様な姿を――  ひゃわ!? なんかびくっとしてるびくっとしてるこれっ!!」 「…………」 「…………」 「ふっ。無様ね、御堂!」 「どう見てもお前の方が余りにも必死だ」 「そんなこと言っていられるのも今の間よ!  お……男の人の体はこういうのに耐えられないようにできてるんでしょっ」 「こうすれば、すぐ――」  素潜りの最中、酸素不足に陥った時のような顔で、村正が息遣いを乱しながら行為を再開する。  俺の男性器を掌握する指が、拙くも動いた。  手管とはまるで無縁。  しかし偶然か本能的なものか、力加減は絶妙だった。  粘膜に程良い加減の刺激を受け、結果、血がそこへ流れ込む。 「きゃー!?  なんで大きくなるのっ!」 「そんな無責任な事を言われても困る」 「こっ、こういうものなの!?」 「まぁ……こういうものだが。  どうなると思っていたんだ」 「……」 「…………」 「予定通りよ!」 (必死過ぎる……) 「わ……まだ、むくむくって」 「……」 「ふっ、ふふふ!  ほ、ほーら、元気なものじゃないっ」 「何がほらなのかはともかく、酸欠一歩手前のお前より健康そうなのは確かだ」 「こ……こういうことよ。  貴方がどんなに否定したって、疑問をぶつけたって、卑しんだって――」 「生きてるものは生きてるんだから!  それに意味が無いなんて言わせない!」 「…………」 「卑しいと思うなら、卑しいなりに生きればいいでしょ!」 「……村正」 「塵芥だと思えばいい。  罪も責任も、自分には背負う力なんて無いんだって認めればいい」 「私が――貴方を〈貶〉《おとし》めてあげるから」  村正の衣服が〈解〉《ほど》けた。  〈射干玉〉《ぬばたま》を溶いたような肌が露わになる。  そんな無防備な姿になって、村正は俺の上に〈跨〉《またが》ろうとした。 「止せ……」 「…………」  反射的に制止するも、返答はない。  肉と肉が、わずかに触れ合う。  そこで――そのまま。  接触の密度を微妙に変化させるのみで、それ以上の進展はしなかった。 「……ッ……」  微妙な交渉が性感を煽る。  俺のその部分は反応を示し――村正もそうだった。  どちらの発とも知れない粘液が、間隙に糸を引く。  しかしそれは、性の技巧としてされている行為ではなかった。  単に村正は――おそらく未知への恐れから――躊躇して、こうしているに過ぎない。 「もういいだろう……止めておけ」 「な、なによっ。  嫌なの?」 「嫌ではないが、これは――」 「一度、私のこと押し倒したくせに」 「う……」 「あ、あんなことして――  途中で放り出して!」 「あーもう、思い出したらまた腹立ってきたじゃないの!」 「あの時は……」 「うるさいだまれ!  こっ――こうしたかったんでしょ……」  思い切ったのか。  村正の体から力が抜け、体重が落ちてきた。  肉の尖塔が秘洞にめり込み、引っ掛かり――  突き破る。 「くっ……」 「……うぅー……」 「馬鹿……」  呟く。  結合部から〈滴〉《したた》る、朱色の液体が見えた。  村正の肉体変成は、劒冑になる以前の姿を再現するものだと云っていた。  往時の村正に性交渉の経験が無かったなら――当然、こういう事になるだろう。 「馬鹿じゃないっ。  馬鹿は、貴方っ」 「そんな無理をしてどうする」 「無理なんかしてない……っ」 「こ――こういう事が気持ちいいんでしょう。  構わないから、その凶暴なので好きなようにしたらいいのよっ」 「そう言われてもだな」  村正は余りに無知だ。  痛みを〈堪〉《こら》えて動こうとしているが……それは性的な快感をもたらすものには程遠い。  元々、湿りの少ないところへ無理矢理挿入したのだ。  過剰な摩擦による痛みは、俺も共有するものだった。  このままでいれば、いずれ俺の男性部分は力を失い、村正がどう頑張って行為を続けようとしても続けられなくなるだろう。  無論、それでいい……のだ、が………… 「つっ……くぅ……」 「…………」 「あぅ……」 「…………」 「村正」 「え……?」 「そう乱暴に動かなくていい。  力を抜いて、速度を緩めろ」 「軽く柔らかく、擦るように」 「こ……こう……?」  言われるまま、村正が動きを変える。  拙い事に変わりはなかったが、それで苦痛はかなり和らいだ。  女性の側に経験が少ない時は、とにかく双方が力を抑えないと、快楽を得るどころではなくなる。 「それと、息は止めない方がいい。  軽く浅く、呼吸を続けておけ」 「う、うん……」  苦痛に耐えようとすると自然、息は止まるが、息が止まると体の力も抜けなくなる。  だからこのような場合は余計に痛みが増す。  多少の余裕が出てきたのを見て、俺は繋がる部分に片手を伸ばした。  淫核を探り当て、触れる。 「あ――っ」  村正の体が跳ねた。  自分で触れた事もなかったのか。  未知の刺激は苦痛に近いかもしれないが、それでも破瓜の痛みを散らす役には立つだろう。  俺は爪を引っ掛けないように注意しつつ、ごく軽く愛撫した。  きゅい、と村正の膣が締まる。 「うっ、ん……!」 「嫌か……?」 「嫌じゃないっ……  嫌じゃない、けど……!」 「っ……私のことは、いいから。  貴方が――っ」 「……そうか」  思い出す。  村正が、こんな事をした理由。  応える方法は、こうあるべきではなかった。  両腕で、村正の腰の動きを止めさせる。  入れ替わりに、俺自身を動かす。  鋼糸は既に拘束力の殆どを失っていた。  妨げにはならない。  小刻みに、抉るように突き込む。  自分の享楽だけを求めて。 「はッ――んっ、くぅ」  身を裂かれる苦しさに村正が涙する。  瞳が潤んで、雫がこぼれた。  俺の口元へ落ちる、それすら甘露と受け取る。  昂ぶる。  凌辱の高揚。  己の欲を抑えて、相手の快楽を引き上げてやりなどしない。  ただただ、突き上げる欲望のみを追う。  その卑しい行為に没頭し切る。  限界へ。  極限まで。 「あ……あぅ」  黒いもの。  〈汚穢〉《きたな》いもので、胸を満たす。  嗜虐の喜び。  ――そう。  そうだった。  何を迷っていたのか。  何を悩んでいたのか。  俺はこういうモノを味わえる男だった。  下卑た悦楽を知る人間だった。  突き上げる。  健気な女が泣く。  俺の唇が笑う。  楽しい。  嬉しい。  心地良い。  ああ。  貫く。 「御堂――――っ」  絶頂に達する。  肉体と精神のそれを同時に極めて。  完璧な喜悦。  俺はその瞬間、確かに、生きる意味を得ていた。  ……そうして。  村正と共に虚脱の中で横たわり。    俺は正しく絶望した。  生きる価値無し、資格無しと思いながら、恥知らずに快楽を貪り耽溺できる――  この、自分自身というもの。  絶望する。    ……何とも。これは何とも卑しい。  そして。  受け入れてしまえば、それはそれだけの事に過ぎなかった。  違和感は何も無い。  この己とは、そういうものだったのだと思う。 「村正」 「……ん……」 「お前は、滅茶苦茶だ」  耳を引っ張る。  上の空ながらも不満げに、村正が喉で唸った。  全く……こんな励まし方は聞いた事もない。  不器用にも程がある。  だが。      ――――初めて。  愛しいと、そう思った。  この不器用さが。  人ならぬ伴侶の一途さが。 「村正……」 「…………」 「一緒にいてくれるか」 「……………………」 「…………うん…………」  安らぎを得ていた。  光を殺して以来――いや養母を殺して以来、絶えて久しかったそれ。  腕の中の体温を貴重に思う。  嘗て己は、村正に、鉄の冷たさを求めた筈だった。  翻って今は、同じ相手に、肉の温もりを求めようとしている。  ……つくづく、駄目だな。    そう嗤う。  眠気が訪れた。  優しい泥濘の中へ沈む。  二年ぶりに、俺は熟睡した。  朝の日差しを浴びて目覚めると、既に村正は傍らにいなかった。  代わりに、〈俎板〉《まないた》を打つ小気味良い音が聴こえていた。 「……朝食を作っているのか?」 「ええ。  少し待っていて」  〈憑物〉《つきもの》が落ちた心地、と云うのだろうか。  心身の軽さは、我が事ながら戸惑う程だった。  生きている。  ただ、そう感じる。  そこに付加価値は何も無い。  小さく。  重からず。  何者でもあり、何者でもなく。  ただ生きている。  ……とどのつまり。  自分は傲慢だったのかと、思う。  等身大の自分自身を、今ようやく認めているのか。  そう思う。  ――天道。  昨夜聞いた一語を思い出す。 「…………」  人の罪業が、天、そして天を映す〈俗世〉《ちじょう》の衆知の裁量するところであるなら、俺自身、俺個人でそれを云々する事こそ不遜。  ――――か。  おそらく……そうなのであろう。  いずれこの身は裁かれる。  報いの日は来ると信じる。    ――信じて、  生きる。 (そういう事か)  そういう事なのであろう。  台所からの軽快な調べに耳を委ねながら。  俺は幸福――とは、異なる。しかし平穏な、静謐なもので内面が満たされているのを感じた。  夏の湖水に浸かる心地で、緩やかな時を過ごす……。  そうして。  一時間が経過した。 「…………」 「まだ……か?」 「も、もうちょっと」 「そうか。  いや、別に急かしたのではないから」  …………。  そう言えば、何処かで何かの折に聞いた事がある。  劒冑鍛冶の家門に生まれ、〈銘〉《な》の継承者と見做された者は、ごく幼少の頃からその後の生涯ほぼ全てを鍛冶技術の修行に費やすため――  他の諸事を学ぶゆとりは皆無に等しく。  日常生活の雑事は門弟、下人らに任せ切りになる。    …………と。 「……」  以上を踏まえて考えてみる。  村正は果たして、〈料理をした事があるのだろうか〉《・・・・・・・・・・・・・・》? 「……音が……」 「もう少し。もう少しね」 「あ、ああ」 「…………」  この家の台所に斧やハンマーの用意は無かった筈だが……。 「もう少し!」 「……ガトリングガン……?」  いや削岩機か……? «すぐ! すぐだから!» 「ああ……」 「…………」  今、八本の〈節足〉《あし》に鍋と包丁とおたまとその他諸々を持った馴染み深いでっかい蜘蛛が視界を〈過〉《よ》ぎったように思えたが……無論、錯覚であろう。  俺の知る限り、料理には二本の腕で足りる筈である。  ……………………。  ようやく終わったか……。 «……〈蒐窮開闢〉《おわりをはじめる》。〈終焉執行〉《しをおこなう》。〈虚無発現〉《そらをあらわす》……» 「何故だァァァ!?」  ……結局俺が手伝い、朝食というより少し早い昼食になった。 「ち、違うのよ。  これでも料理くらいできるんだから!」 「ただ……ほら、道具や食材が昔と違うし。  それでよ! それでちょっと戸惑っただけなの!」 「……そうか」  包丁も俎板も鍋も、米も味噌も〈鯵〉《あじ》の干物も、五百年前から存在していると思うのだが。  言わずにおき、俺は頷いた。  実際そんな理由でも無ければ、厨房半壊という結末は納得が難しい。 「明日はちゃんとやるからっ」 「いや自重してくれ」  あれ以上の惨状にしては、牧村さんが戻られたとき心停止を起こしかねない。 「でも」 「俺は朝飯を抜いても平気な方だ」 「それ、健康に良くないのよ」 「……出刃包丁で電磁抜刀しようとする劒冑を止めるのも余り健康的な体験ではなかったんだが」 「むぅ……」  不平そうに口を尖らせる村正。  その脇を、数人の子供達が駆けていった。  日曜の昼前。空は抜けるような晴天。  散歩には絶好の日和といえる。  特に目的もなく村正を誘って外へ出たが、ただ歩くだけでも充分に心地良さを楽しめそうだ。 「……いい陽気ね」 「いつもこうなら、冬も悪くない」 「寒いのは嫌いなの?」 「まあそうだな。人並みに」 「寒さよりは、暑さの方が苦手だが……」 「私は寒い方が嫌いだったかしら。  今は〈劒冑〉《こんな》だから、どちらも平気だけど」 「冬の寒さは着込んで暖房を利かせれば耐えられるが、夏の暑さは裸になっても耐え難い……などと云うがな。  お前の時代には、そんな言葉は無かったか」 「無いけど……  わかる気はする」 「でもねぇ」 「ん?」 「寒いからって火を使ってばかりいると……費えが嵩むのよ。もう本当に。  だから冬は、食い扶持が減るのを覚悟して温もるか、その逆かになるわけ」 「お陰で冬にはいい思い出が無いのよね」 「あぁ……成程」  時代背景の違いがこんなところでも。  現代も冬場の光熱費は主婦の悩みの種だが、燃料が未発達かつ高価だった昔は尚一層難儀な問題であって当然である。 「その点、夏の暑さはどうにもならないぶん最初から諦めがつくし」 「逆の発想だな」 「まぁ……でも」 「うむ」 「春と秋の方がいいに決まってるけど」 「全くだ」 「海の向こうのどこかには、常春の国もあるんでしょう?」 「ああ」 「そんな所に住めたら幸せね」 「そうだな。  少し……寂しい気もするが」 「……そっか。  四季の風情の移り変わりも楽しめないってことだものね」 「夏の夜も冬景色も、失うとなれば惜しい」 「つまり諦めが肝心で、贅沢を言い始めると切りがないってことかしら」 「さて?  いずれ科学の進歩で、好みの季節を自由に選べるようになるかもしれん」 「そうなればどんな要求でも叶う。  人類の叡智の勝利だ」 「そうね」 「うむ」 「…………」 「…………」 「それ……実は勝ったつもりで負けてない?」 「やはりそう思うか」 「風情が無いような……」 「風情は無いな……」  他愛もない会話。  話すために口を動かすというより、口を動かすために話すかのような。    そうして、歩く。  あても無く。  意義を持たない時間。  しかし、無価値とは思わなかった。  こうしていたいと思った。 「ね、御堂」 「ん……?」 「あれ、何かしら」 「公園か?  ……人が集まっているな」 「行ってみるか」 「うん」  ベンチと子供用遊具が幾つかあるきりの、本来なら寒々しい公園である。  しかし今日ばかりは様相を違えていた。  地面に茣蓙、絨毯、ビニールシートが敷かれ、列を成している。  その上には多種多様の品々と、それを商う人々。 「市?」 「古物市だな」  それなり以上の規模の街なら、適当な広場を使って折々に開かれる自由市場だ。  鎌倉でも、別段珍しい催しではない。  だが最近の頻度の高さには、やはり時勢が絡むのであろう。  鎌倉に逃げ込んだ戦災難民が、当座の生活費を得るために持ち合わせの品々を売る。  あるいは身一つで逃げてきた難民が、少ない所持金で安値の品々を買い求める。  双方の要求を満たす取引場が求められ、用意される。  この市も、人出の多くはどちらかを目的とする難民と〈思〉《おぼ》しかった。  もっとも、どちらにも属さない市民の売り手買い手とて散見する。  俺は戸惑い気味に辺りを見回す村正を促して、その一つに近寄った。 「はぁい、いらっしゃーい!  お手に取ってどーぞ!」  見た目は小柄だが威勢はいい、若い女性店主の声に迎えられ、敷物の前に腰を落とす。  扱う品は――彫刻、茶碗、壺、貴金属の細工物……。  古物ではなく、骨董と呼ばねば失礼にあたりそうなものばかりだ。  素人に〈捌〉《さば》ける品とも思えない。おそらくここは本職の骨董商の出店なのだろう。 「ふむ……」 「……御堂、こういうの好きでしょう」 「わかるか」 「何となく」 「なんかそういうオーラが出てるっすよ」  何故か店主にも同意された。 「……良い物を置いていますね」 「あ、わかる? わかる?  かーっ、嬉しくなるね、〈ネギしょったカモ〉《ちがいのわかるおきゃくさま》に巡り合えると!」 「さぁ、どんどん見て下さいなっ!」 「……今なにか、変じゃなかった?  変っていうか不穏っていうか」 「そうか?」  店主に勧められるまま、目についた品を一つ取る。  天目茶碗――華やかな〈彩〉《いろ》だが……。 「流石だねお客さん。そいつはいいものだよ。  裏千家の宗匠も絶賛した、丸山雅永の孔雀天目だ」 「ほう……これが」 「もちろん〈贋作確定〉《しんさくほしょう》。  箱もあるし、蓋の裏にはちゃんと裏千家の宗匠直筆間違い〈だらけ〉《なし!》の箱書も」 「……やっぱり何か……」 「お値段は?」 「本当なら万って話になるんですけどねえ。  最近は景気が悪いし、お客さんは目の高いお人だしねえ……」 「三千円でどうかな?」 「それはお安い」  本物であればの話だが。    後半は胸中に封印して、茶碗を元の位置に戻す。  その隣には、味わい深い色をした壺があった。 「こちらは……」 「信楽焼ですよ。  へへへー、こいつも滅多にない逸品でねえ」 「いいでしょ? この〈桧垣文〉《ひがきもん》」 「なかなか」 「〈釉〉《ゆう》はないけど、そこがまた味だ」 「確かに……」 「手触りも素晴らしい。  どうぞどうぞ、お客さん」  店主に手を掴まれ、壺まで持っていかれる。 「むっ……」 「どーですか?」 「良い肌です」 「なんかこう、官能的で……背筋にゾクゾクくるでしょう?」 「はい」 「あぁー……。  お客さんとこうしているだけで、あたしもだんだんとおかしな気分に……」 「骨董屋さん……」 「何の話をしてるのよっ!!」 「壺だが」 「壺ですよ?」 「……そ、そう……」 「で、どうですお客さん」  店主は俺の手を握ったまま、その甲に、つつつっと指を這わせてきた。 「ちょいとお高くつきますが、ご損はさせませんよ?」 「いかほど?」 「お客さんの色男ぶりに負けに負けて……」  撫でるような動きで、指先が数字を描く。 「…………」 「こんなもんで」 「それは骨董屋さん、手が出ない」 「やぁー困ったなー。  こいつは江戸か、ひょっとするとそれ以前ってぇ代物でねえ。これ以上安くはできないんだなぁー」 「ええい、でも仕方ない。  商売にならなくなるけど、お客さんのため……これでどうだ!?」 「さて……」 「……そろそろ手、離したらどうかしら……」 「後生ですよーお客さぁん。  あたしにも暮らしがあるんですからさー」 「ここは気持ち良くこのお値段で折り合いをつけましょう」 「しかしこれは悩ましい」 「そう言わずそう言わず。  お買い上げ頂けたら……あたしお客さんのお宅までちゃんとお届けしますよ?」 「ちょっとした〈サービス〉《・・・・》もできるかも」  何やら含みを持たせて、店主は言った。  何故か体を寄せてくる。 「……………………」 「み・ど・う」 「村正?」 「その壺、欲しいの?」 「まぁ、悪くないとは思っている」 「じゃあ、十分の一に値切って」 「……いきなりか?」 「おぉーいおいおいおい!  姉さん、ちょっと耳が長いからって調子に乗ってもらっちゃ困るねえ!!」  俺の手を振り払い、店主は伝法調で啖呵を切った。  小柄なのに見下ろすような目で、村正を〈睨〉《ね》めつける。 「うちの品物にケチつけようってのかなっ?それとも買い叩こうってのかなっ?  どっちにしたってそいつをやっちゃあもう大事なお客さんじゃあないなあ!!」 「どっちでもありません。  正しい値段をつけてあげただけよ」 「いいのかいそんなこと言っちまって!?」 「ふん」 「かーっ、北極の熊でおもしれえ!  こうなりゃとことん勝負だ、耳がクルクル回る姉さんよう!!」 「回るかっ!」 「じゃあひとつ教えて頂きましょう!  この年代物の信楽壺と今のふざけた値踏み、どういう理屈で引っ付き合わせるのか!」 「理屈ってほどの話でもないけど」 「逃げ口上は聞けないなあ!」 「……年代物じゃないでしょ。これ」 「――――」 「ど、どっ、どういうことかなっ!?  こいつは間違いなく江戸の昔の――」 「御堂、江戸っていつ?」 「百年ほど前に終わった時代だ」 「はったり利かせ過ぎね。  実際はその半分も無いじゃないの」 「姉さん、適当吹かしちゃあいけない――」 「二二年と四ヶ月」 「……はっ?」 「二二年と四ヶ月よ。この壺が出来てから。  貴方、これの由来を知ってるなら計算してみなさいな」 「ぴったり合ってるはずだから」 「……………………」 「そこまでわかるのか」 「私を何だと思ってるの」 「骨董に目が利くとは考えた事もなかった」 「それはそうだけどね。  でも土や鉱物から出来たものなら、その〈歳〉《・》くらい一目でわかるってば」 「……あぁーくそう……これだから蝦夷って連中は……。  商売がやり辛くってしょうがない……」 「もういいよぅ……その値段で持ってけ……」  すっかり〈萎〉《しお》れた店主は引き下がり、膝を抱えて座り始めた。  ……何だか少々哀れだ。 「どうする?」 「やめておこう。  なら村正……ここにある品の中で一番古い物はどれだ?」 「うーん……  そこの小さくて丸いやつ」 「この茶入か」  隅で埃を被っていた、文琳形のそれを取り上げる。 「ふ、ふふ……ピンポイントなのさぁ……。  そいつは安っぽく見せといて、玄人が掘り出し物ゲットォーッと大喜びの所に値を吹っ掛けてガッカリさせる罠なんだけどね……」 「貴方、とことん性根が曲がってない?」 「耳でカスタネット打てるねーさんにはもう逆らいませんよ……適正価格でどーぞぉ……。  でもそれ以上の勉強はどうかご勘弁……」  指先で埃を拭えば成程、色艶は名品と呼べるだけのものだった。  本象牙の蓋も良い。  蓋を取って中を覗くと、そこにも埃が積もっていた。  払うため、息を吹き込む。 「……けほっ」 「何してるの」 「思ったより酷かった……」  顔に飛んだ埃を手で拭う。 「待ちなさい。  いま拭いてあげるから……」 「ほら、こっち向く」 「うむ……」 「貴方ってたまに子供っぽいことするのよね」 「そうか?」 「そうよっ。  もう」 「耳にまで飛んでる」 「……指を入れられるとくすぐったいんだが」 「我慢する」 「逆もか?」 「もちろん。  はい、向き変えて」 「ん……」 「……あの……お客さん……。  なんか商売の邪魔っていうか……見てると独り身の寂しさが身に〈堪〉《こた》えるっていうか……」 「うっうっ……なんか涙出てきた。  いちゃつくならあっち行けよう……」  幾つかの店を覗いた後、ベンチに腰を下ろす。  人込みの中を泳いで回ったせいで、それなりに足は疲れていた。 「ふう」 「付き合わせたな」 「私も楽しかったし。  けど回ったのって、似たような店ばかりね」 「ああ。  あのような店……つまり骨董屋だが」 「大人になったらあれをやろうと、子供の頃、夢見ていた」 「そうなの」 「昔の話だが……。  幼心に描いた夢は、まだ胸に残っている」  空の果てを見詰め。  儚い何かを掴むように、俺は拳を握った。 「薄暗い店の中で日がな一日、黴臭い空気を吸いながら、万暦の壺を磨き続ける……。  そう。そんな暮らしが憧れだった」 「……ふ、ふぅん……」 「叶わなかったがな」 「それはわからないでしょ?」 「……?」 「今からやっても、いいじゃない」 「…………」 「そうか。  ……そうだな……」 「うん」 「……お前は?」 「え?」 「何か、無かったのか。  子供の頃の夢は」 「…………。  私は、生まれが生まれだったから」 「蝦夷の鍛冶師の家に生まれついた者は劒冑に成る以外の将来なんて考えないものよ」 「そうか……」  どのみち、人が選べる道は一つきりだ。  しかしそれでも……最初から選択肢を与えられないというのは、寂しい事のように思える。 「まぁ……  全く、ってわけじゃないかな」 「あるのか?」 「ほんのちょっと、いいなぁって思ったことならね。  小さかった頃に……」 「宮中の女官は毎日綺麗な衣装を着てるって聞いて。  私もなりたいって、つい言っちゃったことがある」 「……母様に聞かれて、こっぴどく怒られたけどね……」 「宮中の女官か」  単純な連想で〈十二単〉《じゅうにひとえ》を思い浮かべる。  実態はどうだか知れないが――その小さかった頃の村正が憧れたものは、やはりああいった、〈煌〉《きら》びやかな装束だろう。 「……ふむ」 「なに?」 「いや。  ……できれば、と思ったんだが」 「その夢を叶えてやるのはどうも難しそうだ」  一瞬目をぱちくりとさせてから、村正は吹き出した。 「いいのよ。馬鹿ね。  何も知らない小さな頃に、ちょっと憧れただけなんだから」 「たとえ女官になれる〈伝〉《つて》があったとしたって、私は劒冑になる事を選んでた」 「……」 「劒冑になったから、貴方に会えた」 「それは偶然の巡り合わせだったのかもしれないけれど……。  二月前のあの時、貴方は」 「私のことを――  必要だって、言ってくれたでしょう?」  大切なものを拾い上げるように。  村正はそう言って、小さく笑った。 「……」 「だから、いいの」 「色々なことがあってここまで来た……その過去全部を肯定するなんてできない。間違いは数え切れないくらいある。  でも、劒冑になったことだけは」 「今は……そうして良かったって、思える」 「……村正……」  動悸が急に激しくなったような気がした。  体の其処彼処に妙な熱さを感じる。  この心地は何なのか。  とにかく落ち着こうと、俺は村正から目を逸らした。 「どうしたの?」 「いや」 「ちょっと変」 「そんな事はない」 「なに考えてるの?」 「別段」 「ふぅん?」 「……何だ?」 「精神干渉して読んでみようかなって」 「止めろ」 「冗談よ。  そんなことしなくても、教えてくれるものね?」 「……う……」 「…………」 「誤魔化そうとしてる」 「あー……そう。  さっきの話だ」 「さっきの?」 「宮中の女官」 「あれはもういいってば」 「お前を朝廷に送り込むのは無理な話だが。  ……それに近い事を、疑似体験させる程度なら、できるかもしれない」 「? どういうこと?」 「少し考えがある」 「…………で」 「これが、『近い事』?」 「解釈次第では」 「誤解とか曲解とかいうのよね……それってきっと……」  駅前地区にあるホテルの一室。  衣装提供は一階の貸衣装屋――パーティ等で需要が見込まれるため、ホテル内にその種の店舗があるのは珍しい事でもない。  豊富な品揃えのうち、仮装パーティ用に分類される一着が俺の要望を満たした。 「完璧だ」 「これ、何なのか訊いていいかしら?  ……どっちかっていうと私の方であんまり訊きたくないんだけど……」 「貴人に仕える女性が着る服には違いないぞ。  西洋の、だが」 「本当かな……」 「いや、良い。  いや、素晴らしい」 「褒めてくれるのは嬉しいんだけどね。  ……なんか今の貴方、駄目な病気っぽい」 「病気は病気だが、おそらく地球上の男性の過半数が患っている病気だから、気にしないでくれ」 「何なんだか。  で、私はこの格好でどうしたらいいわけ?」 「そうだな……。  お茶を貰おうか」 「道具は?」 「テーブルの上の、それだ」 「これ……?  ふぅん。海を越えるとお茶の道具もこんな風になるのね」 「所変われば、だからな」 「ちょっと待ってて」 「わっ、わっ……  ごめん、こういうの使ったことないから!」 「こぼしちゃった、拭かないとっ」 「……ッ……」 「なんで感動してるの!?」 「いや。いやいや。  俺としたことが……些か取り乱した」 「危うく魂を根こそぎ持っていかれるところだった」 「どこへよ……」 「構わずに続けてくれ。  何度失敗してもいい」 「しませんっ。  すぐ淹れ直すから、待ってて」 「…………」 「……?」 「…………」 「……ねえ」 「何だ」 「視線が気になる」 「何故だろう」 「ほのかに邪念を感じるっていうか」 「はて」 「……いやらしいこと、考えてない?」 「うむ。考えている」 「否定してよっ!  逃げ場が無くなるじゃないの!」 「だから肯定した」 「だ、だめだからね。  こんな所で」 「しかしその服を持ち出すわけにはいかないのでな」 「…………」 「…………」 「……………………」 「……………………」  はぁぁぁぁ。    村正が深々と嘆息した。  仕方なさそうに、こちらを見やってくる。 「……もぅ。  どうして欲しいの?」 「説明しよう。  何、簡単な事だ」 「……へんたい。ふらちもの」 「失敬な」  敬えというのが無理な構図ではあるが。  村正を〈跪〉《ひざまず》かせ、膝の間に入れている。  既に隆起したものと直面する格好だ。 「こんなもの突きつけて……もー」 「恨むなら己の服装を恨んでくれ」 「着せたの、貴方でしょ!」 「俺も惑わされている犠牲者に過ぎん」 「わけわからないし……」 「村正。手を貸せ」 「手?」 「利き手」 「はい」 「……握らされた……」 「落ち込まないように」 「これ……〈擦〉《こす》るの?」 「うむ。軽くでいい」 「こう……?」  細い指が、言葉通りの動作をする。  愛戯と云うにはたどたどしい。  快感と呼べるほど明確な形を成さないむず痒いものが、神経を這い上がってきた。  焦らされているような感覚。  だが不快感とは遠い。 「こんなことさせて楽しむなんて」 「昨晩、似たような事をお前の方からされた気もするが……」 「あ、あれはあれ!  これはこれよっ!」 「あれほど大胆かつ強引な真似ができたお前なら、この程度は大丈夫だ」 「……うぅー……」 「もう少し強くしてくれてもいい」 「……こう?」 「ああ……」 「…………。  だんだん恐い感じになってきた」 「生理現象だ」 「これじゃなくて。  貴方が。目付きとか」 「……すまん。  〈それ〉《・・》は本当に病気だ」 「正気な内に謝っておく」 「でもやめないのね……」 「次は口を使ってくれ」 「あまつさえ要求が進んでる……」 「村正」 「はい。……わがまま」  〈躊躇〉《ためら》いがちに、村正が粘膜へ舌をつける。  ほんの少し、触れる程度。  指とは違うぬめった感触。  今度の刺激は性感そのものだった。  舌が接触の面積を広げる。  感覚が増長する。  悦びを訴えて、醜悪な肉の塊が脈打った。 「……いいの?」 「とても」 「私はすごく恥ずかしいんだけど」 「だからこそ。だからこそだ」 「……男って生き物は……」  そう言いながらも、村正は続けてくれる。  先端へ舌を這わせ、口の部分をつつくようにする。  それが良いと知っての行為ではなかったのだろうが、効果は著しかった。  疼きを覚え、我知らず下唇を舐める。 「良し。そのまま……」 「……?」 「口の中に入れてくれ」 「…………」  目で責めてくる村正に、気付かぬふりを装う。  首根を押さえて軽く促した。  人でなし、と言いたげな瞳のまま、村正は許容する。  肉筒が口唇の狭間へ割って入った。  醜いものと綺麗なものとが交わるその様は、見るにつけ蠱惑的。  〈疚〉《やま》しさを伴った嬉しさが込み上げる。  これはまずい。  これは――いい。  抑えが利かなくなってくる。  村正にこんな事をさせていると思うと、暗色の喜悦はいや増す。  困惑しながらも、村正は奉仕を続けていた。  口の中のものを持て余しつつ、不器用に舌を蠢かせ、触れ合わせる。  快感が募る。  徐々に、徐々に高まる。  だがもどかしい。  抑えが利かない。  俺は自ら動いた。  女の頬に手を添えて、出し入れする。  苦しかったのか、村正が眉をしかめた。  それでも吐き出そうとはしない。  その我慢に付け入って、享楽を貪る。  頬の内側に擦りつけ、更には喉まで犯した。  〈堪〉《たま》らなくなる。  こんな下劣な行為は、  ――――余りにも良い。  限界だ。 「村正」 「……?」 「こっちを向いていろ」  肉根を引き出す。  鼻先へ据える。  そうして、村正が理解するよりも先に、欲望を迸らせた。 「きゃ……!」  反射的に逃げようとするのを押さえつけ。  横を向く事さえ許さず、正面から浴びせる。  鼻梁から目元、額。  前髪も。  よくもこれ程、と自分で思う量。  小さな顔の上に白濁の液を撒く。  動けなくされた村正は、暴行を甘んじて受けている。  〈目蓋〉《まぶた》を震わせる事しかできない。  最後の一滴まで、俺は出し切った。 「んっ……くぅ……」 「いい姿だ」 「…………。  終わった……?」 「いや」 「え?」 「だって……」  だっても何もない。  俺の欲求はまだ尽きていなかった。  男根は固さを保っている。 「これからだ」 「な、何が?」 「すぐにわかる」 「あの、御堂……。  もう目付きが恐いのを通り越して赤裸々に危険なんだけど」 「病気だと言ったろう」  体内に在る、愉楽を追求する何かが俺を動かす。  村正の体を転がし、腰を抱え上げた。  尻を差し出す卑猥な格好が出来上がる。  後は裾を〈捲〉《まく》って下着をずらせばいい。  だが性急さは無用だ……時間はある。  まずは〈視〉《み》て味わおう。 「……あぅ……」 「さぁて」  楽しむか。 「実家に帰ります」 「……何処だ?」  夕日の下の帰り道。  連れ合いの者は、当然というべきか拗ねていた。 「うっ、うぅ……。  あんなことして、あんなことして、あろうことかあんなことまでして!」 「有意義な時間だった」 「反省の色がないっ!」 「感謝はしているつもりだが」 「……あんなこと、またやらせる気じゃないでしょうね?」 「…………」 「知っているか、村正。  朝焼けは雨の、夕焼けは晴れの兆しとよく言われるが、一応の根拠はあって――」 「話をそらすなっ」  叱られながら、街路をゆく。  路上の人影は既に〈疎〉《まば》ら、閑散としつつある……が、それでも昼の賑わいを偲ばせる余熱が何処かに残っているようだった。  寂寥と見えないのはそのせいだろう。      ――と。 「……?」 「いいこと、そもそも男女間の契りっていうのは――」 「……何かしら?」 「わからん」  交差点の路傍に十人ばかり、人が参集している。  互いに顔を見合わせて言い交わす様子は、世間話のそれと異なり、どうも余り穏やかではない。  近付いてみると、中に一人二人、呼吸を乱して膝を突いている者もいるのがわかった。  まるで獣に追われて逃げ出してきたかの風情だ。 「どうかしたのですか」 「ん、ああ……。  また〈紛争〉《ドンパチ》があったらしくてね」 「それも相当激しいやつが。  巻き込まれそうになって、ようやく逃げてきたんだってさ。この人達」 「……そうですか」  もはや日常の事だが。  また、関東の何処かで銃火が……。  せめて早期に沈静してくれるよう祈るほかない。 「場所は何処でしょう。  やはり房総半島の――」 「いや、違うよ。  〈ここ〉《・・》さ」 「……〈鎌倉〉《ここ》!?」 「ああ。  〈北鎌倉〉《キタカマ》の方の……どこって言ったっけ」 「建朝寺だよ。  宮様がいらっしゃる」 「そうそう、その辺りだってさ」  八幡宮の再建はまだ着手もされていない状態だ。  舞殿宮は相変わらず建朝寺に寄寓する身である。  その付近で紛争?  ならば当然、朝廷に敵意を持つ勢力――進駐軍内の強硬派、六波羅の一部過激派、等々――による舞殿宮襲撃である確率が高い。  親王の身が危険だ。  いやそれに留まらない――あの近辺には住民も多いのだ。現にこうして避難者がいる。  甚大な被害が出るだろう。      ――止めねば。 「村正!」  何処か近くで身を隠せる場所を探し、装甲しよう。  武者の足なら建朝寺は目先の距離。  間に合う。  駆けつけて、惨劇を未然に、 「――――」 「……ぁ……」  深い双眸が、沸き立つ思考を一瞬にして鎮めた。  ……俺は、どうしようというのだ。  争乱の巷に飛び込んで和平を訴えるのか。  それは俺には無理なのだと、もう思い知ったのに。  争いを止めるなら、武力を用いるしかない。  先日、やくざ者四人を相手取った際のように手心を加えてはいられないだろう――おそらく武装した軍が相手なのだ。必然、命の奪い合いになる。  殺すのか。敵を。  善を守って悪を討つ偽善にまた浸るのか。  そして偽善を帳消しにする為、更に殺すのか。  味方をも。  ……できない。  できる筈がない。 「御堂」 「…………」 「帰ろうか……」 「……」  集まりから離れる。  村正も、黙って並んだ。  夕闇の下、家へ続く道を歩く。  ぽつぽつと。  ……そうして。  何という事もない、平凡な日曜は終わった。  一つ寝床の中、温かなものと共に〈臥〉《ふ》す。 「…………」 「…………」 「……ね、御堂」 「ん……」 「どこか、遠くに行かない?」 「……」 「どこか……静かなところ」 「……そうだな……」 「そうしようか」 「うん」  眠る。  沈むように。忘れるように。 「…………」  その言葉の空疎さは、口に出す前から知っていた。  静かな場所なんてない。  争いのない土地なんて、何処にも。  ありもしないものを求めるなら――  それは逃げて、ただ逃げ続けるだけの旅路になるのだろう。  しかし、例えそうなったとしても、    ――この人はもう、戦うべきではない。  戦いを忘れて生きるべきだ。 「……っ……」  その確信。  その確信は、一つの苦悶を呼ぶ。  湊斗景明という人に、戦いを忘れさせない決定的な要因があるとすれば、それは何か。  武器だ。  劒冑だ。  ここにいる〈村正〉《わたし》だ。  私と一緒にいる限り、彼は戦いを、過去の記憶を、決して忘れ去れないだろう。  ――昼間の会話。  劒冑になる以外の道を望まなかったし、後悔もしていないと言った。  それは本当のこと。  けれど、今は…… (変われるものなら)  別の何かになりたい。  劒冑ではない、別の。  鉄でもなく刃でもないものに。  ……いま傍らにいる人を。  憂いなく抱擁できるものに。  朝。  心持ち早く起床して、支度を整えた。 「衣類はこの程度でいいな」 「そうね。  あ、そこにこれも入れておいて」 「……何だ?」 「お弁当。  さっき作ったの」 「物置を引っくり返していたのではなかったのか、あの音……」  持ち出す物は大して多くない。  二時間足らずで荷造りは済んだ。  出発。  鎌倉駅に着くと、丁度列車が入るところだった。  しかし、それに乗るのは難しそうだ。  乗車待ちの客がいつになく多い。  昨日の変事の作用だろうか。  遂に鎌倉も安全ではなくなったと悟って脱出しようとしているのだとすれば、この人出も納得できる。  海賊の横行する海を船で行くより、軍に一応は保護される陸の鉄道を使いたがるのは当然の事だ。  無論、この安全の格差は高くつくのだが。  いま眼前で停止する車両は、俺達より前の客を飲み込むだけで精一杯と見える。  次の列車を待たねばならないようだ。 「急ぐ旅でもないしな」 「ええ」  ……そう。  急ぐ事は何もない。  俺はもう、急がなくて良いのだ。  この二年間、まさしく矢のように日々を過ごした。  ともすれば息をつく間もない程、己を馳せに馳せた。  そうして今がある。  もう走る事はない日々。  平安に満たされているかと云えば、否だ。  幸福に満たされているかと云えば、否だ。  当然の事。  俺は偉業を成し遂げた末に休息を得た英傑ではないのだから。  罪を犯し、  今はその罪から逃げているに過ぎない。  承知していた。  これがただの、逃避だという事は。  安楽を得る資格が、あろう筈もない。  過去という不変のものに、苛まれずにいられる筈がない。  だが。    ……急いで逃げなくてもいい。  自分の速さで、歩いて良いのだ。  今の俺は。 「村正は、汽車に乗るのは初めてか」 「そうね。ちゃんと乗るのは」 「……ああ。  鉄道を使う時は、貨物扱いにしていたな」 「済まん」 「何よ、今更」  多くのものを失った。  その代わりに何を得たのでもない。  強いて云えばこの時間。  罪から、過去から、緩慢に逃げてゆく今。  これが全てだった。  しかし、他の何が相応しいだろうか。  湊斗景明の二年間の結果として、何が。  これで良い。  これ以上の何かでは、俺は持て余す。  この道程をゆこう。 「列車の窓から見る景色はいいものだ」 「そうなの?」 「流れてゆく風景が……何と言うかな。  奇妙に幻想的に映る」 「世界を外から眺めているような……」 「ふぅん……?」 「まぁ、乗ってみればわかる」 「うん。  楽しみ……」  全ての車両が満車になったようだ。  俺達の他にもあぶれた客はいて、構内の其処彼処で嘆息したり時計片手に時刻表を確かめたりしている。  その間を、発車前の最終確認であろう、駅員が走り抜けてゆく。  次の列車はいつ来る?  一時間後か、もっと後か。  構いはしない。  俺は急がずにゆく。  何かを追う旅は、もう終わったのだから。  村正を見る。  村正も、俺を見返した。  理由もなく、微笑んでくれた。  汽笛が鳴り響く。  発車の合図だ。  それは一つの終わりと、一つの始まりを告げていた。 「――えっ――――」 「…………村正?」  突き抜ける鉄枝。  村正の胸の中央から――  刃先。  ……刃?  何者の? 「いよぅ」 「へ、へ……。  相変わらず、しけた面してやがる……」 「……いや……違うなァ?」 「相変わらず、じゃねェ」 「ここ最近の腐りっぷりは……  前にも増して、見るに耐えなかったぜェ!」 「湊斗さんよぉ!!」  顧みて……  湊斗景明の敵とは、誰であったろう。  鈴川令法か。  長坂右京か。  風魔小太郎か。  皇路卓か。皇路操か。  ジョージ・ガーゲットか。  一ヶ尾一磨か。  足利護氏か。  足利茶々丸か。 〝神〟か。  湊斗光か。  彼らは湊斗景明と敵対した。  生命を、あるいは他の何かをも賭して争った。  しかし、彼らの湊斗景明に対する敵意は純一のものであったろうか?  湊斗景明を邪魔に思い、排斥しようとした者がいる。  湊斗景明を、戯れ程度に相手した者がいる。  湊斗景明など、徹頭徹尾眼中に無かった者がいる。  湊斗景明を、愛した者がいる。  彼らにとって、真に挑むべき敵とは別に在った。  湊斗景明は対敵であっても怨敵ではなかった。  では?  では、誰が。  湊斗景明を憎悪し得たのは誰か?  湊斗景明が憎悪し得るのは誰か? «何度でも言ってやるぜ……  てめェはくだらねえ半端野郎だ» «なんで、かァ?  てめェは、〈嫌々〉《・・》、やってるじゃあねぇか» «あの餓鬼共を……  あの姉妹を、嫌々ながら殺しやがった!!» «ふざっけんじゃねェェェェェェェェ!!» «〈嫌々ながら〉《・・・・・》で、やった奴自身が納得もしてねえような理由で、殺されちまった方の身になりやがれ!!  あァ――» «馬鹿馬鹿しくてしょうがねえだろうがぁ!!» «……黙れ……  貴様» «黙れと» «黙れと言っている!!»  嘗て〈金翅鳥王剣〉《インメルマン・ターン》と共に訪れた天啓。  あの時に約束された未来はいま現実となる。  突き詰めて――    湊斗景明の敵とは、雪車町一蔵がいるに過ぎない。 「……お前は――――」 「ケ、ケッ……ケェーーーーッ!!」  雪車町一蔵が村正を抱えて跳ぶ。  向かう先は……既に動き出している列車。  窓枠を手掛かりにして張り付く。  構う事なく、列車は走る。  轟音と共に、加速しながら。  俺の前から消える。 「――――」  全てが一瞬の間に終始した。  列車は止まらない。  駅員は誰も、今の寸劇を目に入れなかったようだ。  構内の客も――いやほんの数人、気付いたと思しき者もいるが。  しかし彼らはぽかんとした様子で、去りゆく列車の後尾を眺めるばかりだ。  俺と同じ。 「…………」 「ッ!!」  いや。  同じように、立ち尽くしていてどうする!  村正が刺され――拉致されたのだ!  荷物を放り捨てて走り出す。  前方が見えなかった。人にぶつかる。罵声と怒声を浴びる。  白い闇の中、駆け抜けて。  ホームの端へ。  そこから線路に躍る。 「おいっ!!」  走る。  枕木に足を取られて、姿勢が崩れた。  為す術なく横転する。    ……何を、邪魔な!  立ち上がる。  再び走る。  追う。  列車は既に遥か先だ。  雪車町と村正を乗せて、遠く。速く。  行かせてはならない。  追う。  速く、速く―― 「待て、貴様ァ!」 「ぐっ……」  不意に足が進まなくなり、同時に呼吸が止まった。  強い力で襟首を掴まれたのだ。  何を……!? 「民間人の線路内立ち入りは禁止だ!  神妙にしろ!」 「放せ!!」 「何ぃ!?」 「構っている暇は無いっ――」  そんな場合かと云うのだ。  行かねば。行かねば!  無理矢理に地を蹴り、走り出す。 「舐めるな!」  ――果たせない。  力ずくで、引き倒された。  地面の上に顔を埋め、土を舐める。  嘔吐を催す味がした。  不条理の味だった。    ……何故! 今は危急の時だと云うのに!  どうして、こんな勝手な暴力で邪魔をされる!?  理不尽だ。  理不尽だ。  理不尽な――身勝手な真似をするな! 「さあ、来い!  しばらく不味い飯を食わせてやる!」 「五月蝿い、どけぇっ!!」 「ぐっ……この!」  ようやくの事で、振り払う。  立ち上がり、走る。  駅員も後を追ってくる。    だが俺よりも足が遅いのか、それとも持久力が無いのか、気配は次第に遠ざかっていった。  ……時間を浪費した!  列車はもう影も形も見えない。  どうする。  どうする。  どうすれば追い付ける?  あの列車は次の駅で止まり、雪車町はそこで降りるだろう。  しかしこのまま走っていては、次の駅までどれだけ掛かるか……その間に村正がどうなるか。  いや、落ち着け。  このような時こそ武者の能力が生かせる。  汽車の一区間程度、翼の一打ち。  すぐに劒冑を…… 「村正!」 「村正――」  ………………。 「……くッ!!」  馬鹿が。  何を血迷っている――だから今はその劒冑、村正が奪われているのだ!  村正を助けるのに村正の力を頼れる筈がない。  馬鹿。何を錯乱して。愚劣な。  しかし……応答が無いというのは、如何なる事だ。  仕手と劒冑の縁は不断のもの。どれほど距離が遠かろうと、繋がりを失う事などない。  考えられるとすれば……  応答もしかねる程、深刻な損傷を受けているか。  あるいは、  その域を通り越して、  村正は……既に………… 「……!!」  胸中に湧いた、不吉の影を払い捨てる。  有り得ない。あってはならない事だ。  とにかく追おう。  自前の足では駄目だ。劒冑も使えない。何か別の。  別の――何か…… 「良し……!」  思い付いて、俺は線路から飛び出した。  大通りに直面する。  そこで、俺は周囲を見回した。  この辺りならある筈だ。  何処に……何処に……?  あった。  〈大型乗合自動車〉《バス》の停留所。  見つけたそこへ、全力で走る。  バスは……今、向こうから来るところだ!  折が良かった。  路線も間違いない。  これに乗れば、鉄道に次ぐ速度で隣駅まで行ける。  俺が停留所に着くと同時、バスが止まった。  乗車口が開く。  しかし――乗れない。  人が多い。  遅々と乗り込んでゆく客の列が壁になって、バスに近付けない。    この――こちらは急ぎだ! 「失礼!」 「きゃっ……何!?」 「おい、押すな!」 「急用で――」 「ちゃんと並びなさいよ!」  いちいち相手してはいられない。  人を掻き分け、押し退けて、前へ。  もう少し。 「この野郎!!」  やにわに視界が回り、路上に両手を突く。    ……突き飛ばされた!?  無様な格好で見上げると、人々が俺を嘲笑していた。  何だありゃ――みっともなぁい――ざまぁ見ろ馬鹿、と。  何を……この連中は!  俺が必死だとわからないのか。  大事な人の安否が懸かっている。  一秒を争っている――わからないのか! 「くっ……!」  膝に力を入れて立つ。  乗車口に駆け寄る。  あと一歩。  ――俺の目前で、扉は閉ざされた。 「車掌!」 「…………」  俺の声に、ハンドルを握る初老の男性は、鼻で嗤い返しただけだった。  そっぽを向いて、アクセルを踏み込む。  バスが走り出した。  窓の向こうでまだ数人、俺を指差して笑っている。 「あ……あぁ」  行ってしまった。  次のバスを待たねばならない。  あと何分か……何十分か。  このような時なのに!  どうしてこんな事になる……?  不条理ではないか。  余りに無情ではないか。  こんな事が許されるのか。  こんな事が……! 「そうしてください。  あては難しいことはわかりませんけど……こんな大怪我をしている人が出ていくなんて、そんなの駄目です」 「んーっ?  ねーや、にーやはどうしたの?」 「にーや、おうちに帰りたいんだって」 「えーっ、そんなのやだ!  もっといてほしい……」 「そうよねっ。  ほら、お武家様。ふなもこう言ってます」 「う……ごめんなさい。  でも二人とも、昨日からここに詰めっきりでしょ? 朝御飯、食べてないんじゃないかと思って」 「つくった!  もってきた!」 「お武家様……その、ご迷惑でしたか?」 「くえ!」  無用に長い時間を費やして、ようやく隣駅まで来る。    ……村正が〈攫〉《さら》われてから、どれだけ経ったろう。  考える時間も惜しく、考えたくもなく。  脇目を振らず、駅の中へ飛び込む。  当然だったが、列車はとうにいない。  人は幾人もいる――だが雪車町の姿は無い。村正も。  何処だ。  ここから、何処に行った!? 「誰か――!」 「……?」 「ここで蝦夷の女性を見ませんでしたか!?」 「…………」 「杖を持ったやくざ者は……!?」 「…………」  皆、通り過ぎてゆく。  何を騒ぎ立てているのだ、と言いたげな一瞥だけを残して。  誰も見ていないのか!?  いや、誰か……一人くらいは! 「髪の長い蝦夷の女か……病人じみた顔色の筋者です!  誰か見ていませんかっ!?」 「…………」 「…………」 「……あぁ……。  げっそりしたチンピラ風の奴なら、さっき見たけど」  無言の群集の中、たった一人。  呟くのが聴こえた。  いた……! 「なんかでかい箱を担いでたな」 「何処です!?  何処へ行きました!?」 「えーっと……」 「……」 「駅を出て……  どっちだったかなぁ」 「思い出して下さい!  ……思い出せっ!」 「早く!!」 「……おいおい。なんだそりゃ。  人に物を訊く態度じゃねえぞ」 「そんな事はいい!  何処だ! 二人は……村正はっ!」  村正。  その名を口にして、深い喪失を覚える。  あいつが傍にいない。  片時も離れなかった存在が、今はいない。  いて欲しいのに。 (村正)  大きな大きな欠落。  失った今、ひしと想う。  確かな愛情を。  愛している。  求めている。  俺にはあいつが要る―― 「ちっ。  何だこいつは……」 「口の利き方覚えて、出直しな!  あばよ!」 「待っ……!」  気に食わなげに舌打ちして、男が身を翻す。  足音荒く、歩き去っていこうとする。  何故だ。  何故、わかってくれない。  大切な時なのに!  愛する人を救えるか、その瀬戸際なのに!  どうして理解してくれないのだ!? 「どうして……  どうしてこんなことになる」 「やっと……勝利を手にしたのに。  やっと、世界に挑戦できるのに」 「みっ、湊斗さん……あなたは僕を応援してくれていたんでしょう!  僕の無念を知っているでしょう!」 「僕は……僕は、ようやくあの挫折からここまで還ってきたんだ!  どれほどの苦労だったか! あなたなら、わかってくれるはずです!」 「見逃してください……!  お願いします……お願い……」 「待ってくれっ!  頼む……頼むから!」  男を引き止めようと、手を伸ばす。  届かない。すり抜ける。  男は去る。  待て。  待って、待ってくれ……!  二人が何処へ行ったのか、手掛かりをくれ!  でないと―― 「!!」  駆け出そうとして。  ふと、それが目に留まった。  駅内の伝言板。    その片隅。  雪車町、の署名と――  短い文章。  ……俺宛の、連絡だった。  雪車町一蔵。そういう名だった。  青白い風貌のその男を、奇妙な箱に押し込められた格好から見上げる。  岩の上に腰掛けて、男は表情なく物思う様子だった。  こちらには視線も、言葉も投げない。 «…………»  損傷は、致命的なものとはならず済んだ。  すぐ本来の〈蜘蛛形〉《すがた》に戻ったのが功を奏したのだろう、再生が迅速に進み、今はもう半ば快復している。  もっとも機能停止に陥っている間に拘束され、今も動けないのだから、やはり致命的な状態と考えるべきなのかもしれない。  男が破壊する気になれば、それまでだ。  しかし……どういうつもりなのか。  こちらから口を利いてやる義理はなく、意地のように黙っていたが。向こうも口を開かないのでは事情がまるで理解できない。  仕方もなかった。  男に向かって、〈金打声〉《きんちょうじょう》を送る――この箱が如何なる仕組みでか信号を妨害するため、景明との連絡は取れないのだが、この至近距離なら届くだろう。 «ねえ、貴方» 「……はァい。  花摘みですか……?」 「申し訳ありゃァせんが、そいつは我慢してくんなさい」 «……違います。  そんなのするわけないでしょう、劒冑が» 「へ、へ、ヘェ……!  そうでしたかね。失礼しました」 「なんせ、〈いけてる〉《・・・・》お姿の方が頭に残ってるもんでしてねェ。  村正の姐さん……」 «――――»  ……そういえば、この男。  私が蝦夷から蜘蛛の形に戻った時、全く動じる様子がなかった。  つまり最初から私を劒冑の村正と知って襲ってきた……? «貴方の前に蝦夷の姿で出たことはなかったと思うけれど……» 「前にいましたさァ。  姐さんからは後ろでしたが、ねェ」 «…………。  それ、〈尾行し〉《つけ》てたってことよね» 「へッ、へへ……!  まぁ、ここ一週間ばかり」 「奉刀参拝からの〈ごたごた〉《・・・・》のせいであんたと野郎を長いこと見失っちまってましたが……  ようやく探し出せたもんで」 «……» 「驚きましたねェ。野郎のそばに蝦夷のいい女がついてると思えば、そいつが村正、村正って呼ばれてる。  まさかこんな芸達者な劒冑があるたァ……」 «何を考えているの?» 「はァい?」 «江ノ島で負けたのにも懲りず私達を探して、付け回して、私を襲って攫って……。  貴方は何が望みなの» 「…………」 «……復讐?  ふきと、ふなの» 「……?  誰ですか、そりゃあ」 «蝦夷の姉妹よ。  あの村にいた――»  江ノ島で太刀打したおり、確かにこの男は彼女らのことを口にしていたはず……。 「あぁ……。  そんな名前でしたかァ」 «……?» 「復讐……。  へ、へ、復讐ねえ?」 「どんな復讐ですかねえ。  獲物をかっさらわれたんで、その仕返し、ってことになりますかねえ!」 «獲物?» 「はい。  どう見てもちんぴらって〈風体〉《なり》の男を拾って、家に上げちまうお人好しの姉妹です……絵に描いたような〈カモ〉《・・》ってやつで」 「食い放題、〈毟〉《むし》り放題でさァ。  どうしてやろうかって夢を膨らませていたところにあんたらが現れて、ぜぇんぶ御破算にされちまいましたがねェ……!」 «……何よそれ。  そんなの、復讐なんて言える筋でもないでしょう!» 「仰る通りで……」 «ふざけているの?» 「いぃえぇ……」 «…………。  理由らしい理由が無いのなら、御堂を――景明を苦しめるのはやめて» «何をする気か知らないけれど、貴方があの人に悪意を抱いているのはわかる» 「……」 «貴方は何も知らない。  あの人はもう充分に苦しんだ……今も苦しんでいる» «村正の〈銘〉《な》が背負う罪を貴方が問いたいなら、私になさい。  御堂には手出ししないで……» «私はもう……あの人を解放したい……» 「…………。  ご説の通り、あたしはあんたと野郎が何をしてきたかなんて詳しくは知りません……」 「知ったこっちゃないんでねェ。  あたしにとって大事なのは、いっこだけで」 «なに……?» 「どんなことがあったにしろ、正味のところ、野郎は〈ちぃとも〉《・・・・》変わっちゃいねえってことですよ……」 「あいつは……あの時のまんまだァ」 «……あの時……?» 「姐さん、あんたも見ていたはずです。  あの山で、蝦夷の餓鬼を殺した時――」 「野郎は……泣いてやがった」 «――――» 「そいつがね……」 「そいつが……どうしても、ねェ……」 «……貴方は……» 「へ、へ。  さぁて」  急に、男は口調を変えた。  爬虫類じみた笑みを広げて、見下ろしてくる。 「村正の姐さん。  あんたは、あの野郎を解放したいんですか」 «……ええ» 「そうですかァ。  だったら、話は簡単だァ……」 «えっ?» 「あんたが、〈いなく〉《・・・》なりゃあいい。  そうでしょう」 «――――» 「ねェ?」  言って。  男は無造作に仕込みの刃を抜き放ち――  振り下ろした。  伝言に示された場所に向かい。  走る。走る。走る。  時間は経った――経ち過ぎた。  村正を奪われてから、何時間になるだろう。  陽は傾き、空は赤らみ始めている。  無事だ。まだ無事、その筈だ。  雪車町の目的が何であろうと、村正を殺す必要など無い筈だ。  だから無事でいる。  そう信じる。  例え未だ村正との通信が途絶したままでも。  幾ら呼び掛けてもいっかな反応が無くとも。  生きていてくれる。  きっと。絶対に。必ず。  だから急がなくてはならない。  一秒でも早く。村正のもとへ。助け出すために。  走る――――  そこはただの荒地だった。  草が〈苞々〉《ぼうぼう》に生え、大小の〈石塊〉《いしころ》も無数に転がっている。  そんな中で枯れ木のように、雪車町一蔵はいた。  岩に預けていた腰を持ち上げ、俺の方へ数歩、歩み寄る。  そこで止まった。 「よう」 「……」  ……村正の姿は見当たらない。  人質に取り、何かを要求するのではないかと思ったが。どういうつもりだろう。  連れていては即座に奪回される恐れもあると踏んで、別の所へ隠しているのか……?  冷静に。  冷静にならねば。  まずは安否を確かめよう。 「村正は何処だ」 「江ノ島以来……だなァ?  こうやって、不細工な〈面〉《つら》を突きつけ合うのは……」 「け、け……!  まあ俺の方は、その貧乏神も寄り付かねえような面、陰から拝ませてもらってたがよぅ」 「村正は何処だ!」 「け、け、けェ……!」  死体漁りの鴉が笑うに酷似した声。    落ち着け……落ち着け!  切札は向こうの手にある。  焦ってはならない。 「ご執心じゃねェか。  たかが劒冑に……何をそんな、入れ込んでやがるんだァ?」 「お前に説明する必要はない。  村正を返せ」 「こっちも惚気なんか聞く義理も〈無〉《ね》ぇなァ。  さて、返せ……返せとくらァ」 「へへ、どう返そうかねえ?」 「…………。  お前は、俺に報復したいのだろうが」 「どんな要求でも聞いてやる」 「ふへっ、へへェ……!  そいつはありがてえ。何でもしてくださるってかァ」 「へッ、へッ……馬鹿くせえや。  てめェなんぞに何ができる? てめェに何の値打ちがあるってんだァ?」 「けけ……けけけ!」 「……っ。  なら、目的は何だ!」 「お前はどうするつもりだ!?」 「どうするも……こうするも。  ひェッ、ヘヘ」 「もうやるこたァ、やっちまったさ」 「何が言いたい」 「脳味噌あるだろう?  使ってみたらどうだ?」 「くけっ、ケケ……!」 「答えろ!  村正は、何処だ!!」 「ヒヒ……」 「いねぇよ」 「……何?」 「いねぇ」 「もう、何処にも、いねぇ」  雪車町が繰り返す単純な言葉。  その意味が理解できない。  いない?  〈もういない〉《・・・・・》……? 「何を言っている」 「クヒ、ヒヒ……!  どうやら脳味噌、腐り切って溶けちまったらしいや」 「こんなこともわからねえたァなァ」 「…………」 「わかってるだろうが」 「殺した。  もう殺したって、言ってんだよ」              殺した。  その一語を、誤解するのは不可能だった。  殺した。  この男が。  殺した。  村正を。  〈村正を殺した〉《・・・・・・》。 「……嘘を言うな」 「ヒヒッ、ふヘ……」 「嘘だ。お前は嘘を」 「クヒヒヒヒヒヒヒ」 「嘘を、」  雪車町が上着の裏から何かを取り出し、投げた。  人の手より一回り大きい程度のもの。  赤い。  鮮血を思わせる真紅。  鈍い輝き。  金属の光沢。  甲鉄。  村正の甲鉄。  その、――――断片。 「村正」 「村正!」 「村正ァ!!」  その〈銘〉《な》を呼ぶ。  劒冑と仕手は不離一体。  遠く隔てられていても呼び声は必ず届く。  届けば、応えてくれる。  応えが来る―― 「…………」 「ひ……ひひ……」 「……………………」  俺の足元に投げ捨てられた甲鉄は、そのまま。  屑のように転がっている。  屑のように。  そこらの石と同じ、何の生命も宿らぬもののように。  赤い甲鉄。  それは今、ただの残骸で、 「オアアアアアアアアアアアアアア!!」  血という血が〈爆〉《は》ぜた。  草の上を飛ぶ。飛んで駆ける。  その男を狙って疾走する。  雪車町の手が仕込み杖に伸びた。  遅い――俺の方が早い。  指呼の間へ飛び込む。  右拳を振りかぶり。  殴る。  痩せぎすの体が吹き飛んだ。  杖が落ちる。  追う。  大股に一歩を踏み込んで。  もう一度。 「けェッ!!」  その出鼻に、叩き込まれた。  雪車町の拳が俺の頬を抉り、視界が火花の渦と化す。  構わない。  膝にまで響く打撃を無視して、返しの一撃。  数歩、たたらを踏み。  それでも雪車町は倒れなかった。  俺の両肩を掴んで、信じ難い剛力で引き込み、腹に膝頭を突き入れてくる。  大量の苦汁が喉を越え、口腔に湧き出す。  吐く。  更に雪車町は、俺の背へ肘を打った。  連続して。鋭い衝撃に背骨が歪む。 「ぐァァァァ!!」  吼えた。  前屈した体勢のまま、死力を尽くす。  強引な投げ。  無理矢理に、雪車町の体を地面へ倒す。  俺も諸共に引き倒された。  組み合ったまま、殴り合う。  殴る。  殴られる。  雪車町一蔵は俺を憎悪していた。  俺は雪車町一蔵を憎悪していた。  殴る。  憎い。  この男が憎い。  理由は何処かに吹き飛んでいた。  憎い。  ただ憎い。  殴る。  殴る。  殴る。  殴る。  いつしか、殴っているのは俺だけだった。  雪車町は動かない。  俺に殴られ、殴られながら笑っている。 「へっ……へへ」 「いい、面だ」 「それでいい」 「わっかりやすいぜぇ……」 「俺が憎くて、殺したいんだろう?」 「てめぇは今……俺を殺したくて、殺そうとしてる」 「それでいいんだァ……」 「今までは、そうじゃなかった」 「てめぇは嫌々、殺してた……」 「いつも、そうだったんだろう?」 「みっともなかったぜぇ……」 「人を、殺しておいて……  本当はこんなことしたくなかったんだって言いたくて、泣く」 「じゃあ、やるなってんだァ……。  てめぇに殺された奴はみんな、そう言うぜ」 「呪いの〈村正〉《つるぎ》を抱えてどっかに引き篭もってりゃあ良かった……」 「それを、てめぇはしゃしゃり出てきて……  世界のためだか、より多くの人を救うためだか、〈誰も頼んでねえ〉《・・・・・・・》使命を勝手に背負って、本当は殺したくないくせに殺して……泣いた」 「くだらねえ」 「勝手に殺しておいて、自分を憐れみやがるたァ……」 「胸糞悪い」 「反吐が、出るぜ」 「今はいい」 「いい面だ」 「憎んで憎んで、殺したくて殺したくて堪らなくて殺す面だァ」 「みんなそうやって、殺しゃあ良かった」 「……あの蝦夷の餓鬼共もなァ!」  五月蝿い。  黙れ。  貴様の声など聞きたくない。  殴る。  黙らせたくて、殴る。  止まらない。  雪車町は笑い続ける。 「殺せ」 「殺せェ……」 「その面で、殺してみせろォ!」  殺す。  石を、掴んだ。  硬く、尖った石だ。  これなら殺せる。  額に叩き付ければ、一撃だ。  殺す。  俺は、  石を振りかぶって、  打ち下ろした。  硬いものが砕けて、  柔らかいものが潰れる音。  血と、それ以外の何かが噴き出す。 「ひけっ……ケケ……!」  雪車町は尚、笑っている。  だが――明らか。  その頭蓋は割れ、生命の器は壊れた。  俺はこの男を殺害した。 「ヒ……ヒヒ」  致命傷を負いながら。  雪車町一蔵は俺の下から這い出し、進む。  自分が腰掛けていた岩へ。  ――その、裏へ。 「……ヒッ……」  何かを、引き出す。  箱。  大きな箱だ。  例えば、  劒冑が収まる程度の。 「…………」  瀕死者の指が留め金を外し、蓋を開ける。  そこで力尽きたようだった。  最後に俺を見て。  祝福するように、嘲笑を寄越して。  雪車町一蔵は息絶えた。 「…………」  死骸から目を離す。  箱を見る。    ――〈通信遮断装置〉《アイソレーションボックス》?  箱の中。  ……赤い、鉄が。 「……あぁ……」  歓喜が突き上げる。  その鉄。蜘蛛は。  俺の見詰める中、姿を変えた。 「村正!!」  安堵する余り、俺はへたり込んだ。  嘘だったのだ。  雪車町は村正を殺していなかった。  通信が途絶していたのは遮断装置のため。  良かった。  喜びに満たされながら、俺は杖を拾う。筋者が得物としていた仕込み杖を。 「……村正?」 「…………」  おかしい。  村正はどうして、そんな目で俺を見るのだ?  そんな――別れを告げるような目で。  そして、俺は何をしている?  何故、仕込みを抜く?  白刃を構えて、どうしようというのだ?  わけのわからない事が起きている。  わけのわからぬものが、俺の手足を操っている。  ――これは、あの時と同じ。  憎悪による殺害の末路。  愛情による殺害の代価。  善悪相殺の掟。  雪車町一蔵を殺した俺は、  村正をも殺す。 「なッ……あァァ!?」 「……」 「村正……逃げろっ!!」 「……」  必死の叫びに、応えたのは首の動き。  左右に、小さく。  村正はその場を動かない。  俺は歩み寄る。  仕込み刀を手に、一歩一歩。  ――嫌だ。  ――やめろ。  俺の肉体は俺の拒絶を黙殺する。  一つの戒律に服従する。  近寄る。  両腕が、白刃を夕陽に〈翳〉《かざ》す。 「むら、まさ……!」 「いいの」 「これで……いいのよ」  殺す。  憎悪に対する、愛情の生贄を支払う。 「何故」 「何故だァ!!」 「……御堂……」 「最後に、お願い……」 「これで……自分を許して」 「貴方はこれで全部、失ったんだから……」 「最後に残っていた、大切なものまで。  ……ね。そのくらいの自負は私に持たせてくれるでしょう……?」 「…………」 「だから」 「もう……自分を責めないで」 「許してあげて」 「……お願い……」 「村正」  繋ぎ止めようと、体を抱える。  その唇がもう一度。  声にならない声で。  ――お願い、と。  そうして。  腕の中で、砕けて散った。  夕日を浴びて煌き、それもすぐに消える。  独り、俺は立ち尽くす。  解放されていた。  自由があった。  もう俺には何も無かった。  俺を縛る全てが無かった。  使命も。  〈呪戒〉《のろい》も。  憎悪も。  愛も。  憎い。  憎いから、殺す。  これは復讐だ。  村正はこの男に殺された。  殺されたから、殺し返す。  当然の法だ。  だから、殺す。  だから、  だから、    だが、  俺は、  その当然の復讐を、誰かに許した事があるだろうか?  何人も、何人も殺してきた。  その死を深く悲しんだ人の数は、幾倍になるだろう。  どれ程の人が、殺害者への復讐を望んでいるだろう。  だがその中の誰一人、宿願を遂げてはいない。  俺がこうして生きているのだから。  自分への復讐を許さない俺が、自分の復讐で誰かを殺せるのか。 (殺したい)  深く思う。  村正を奪った男が、余りにも憎い。  だが――村正を殺したのは、〈この男だけ〉《・・・・・》なのか。  雪車町のした事はある意味、復讐だ。  俺の殺人を憎み、俺への報復を望んだ。  俺が契機だ。  俺がこの男に、村正を殺させた。 (殺す)  そうして尚、思う。  この男を殺したい。  この男の手で村正が殺されたのだから!  殺す。  殺せる。  事の理非など知らぬ。  俺は元より、血に〈浸〉《つ》かった殺人鬼。  女子供老人に至るまで殺してきたのだ。  今更、こんな世間の場所塞ぎのようなちんぴらを、殺せない筈があろうか。  殺せる。  迷いなく殺せる。  これまでやってきたように。  殺せる。  だが。    過去、俺が人を殺したのは――  災いを封じたかったから。  目の前の一人を殺すことで、大勢の人の死が未然に防がれると信じたから。  ――だから殺した。  新田雄飛も、ふきとふなも。  皇路卓も、ガーゲット少佐も。    光も。  だから殺したのだ。 (そうだ) (そうだった)  その原点――  己が選んだ道を思い出す。  〈人を殺して平和を求める〉《・・・・・・・・・・・》。  そんな道に、俺は立っていたのだ。  今は、どうか。  この男を殺して、誰が救われるだろう。  誰も救われない。  俺の復讐心が満たされるだけ。  ……それでも殺せるか。  俺は、  俺の憎しみを晴らし、  俺自身を救うためだけに、  人の命を奪えるか。  奪えるのか。 「…………」 「……く……」 「…………」 「…………」  石を手放して、立ち上がる。  俺が離れても、雪車町は倒れたまま、こちらを見ていた。  踵を返す。 「待ちな……」 「……」 「なんで、〈殺〉《や》らねえ」 「殺せない」 「俺が、憎くねえのかよ」 「憎い」  心魂からの憎悪を呟く。 「だったら、なんでだ?」 「……復讐だけでは、殺せない」 「…………」 「俺は……  憎しみで、人を殺す事はできない……」 「……そうかぃ……」 「なら、これからどうするんだ?」 「…………」  これから。  俺は、どうするのか。  復讐を拒絶して、  湊斗景明は何をするのか。 「逃げるつもりだったろう。  駅で、俺が邪魔しなけりゃア」 「……」 「逃げるか?  自分のやったこと全部、置き捨てて……」  一切、全てを忘れて。  独り、何処かへ。  それとも――――  疲労していた。  最後の支えを失い、俺が感じるものはもうそれだけだった。 「ああ……」 「……」 「何処かへ……行く。  もう何とも、関わらなくて済むような所へ」 「……へぇ」  重い足を引いて歩く。  何処かの逃げ場へ。  願わくば、何も無い場所へ。  背後から声。  ――引き止める響きでは、なかった。 「いいぜ……」 「逃がしてやらァ」  立ち上がる気配。  そして、  刃音。  冷えた草地に倒れ伏す。  ……ああ。  遠くなる。何もかも。  望んだ通りに。 「湊斗……」 「てめぇは最後まで、つまらねえ奴だったよ」  侮蔑の声。  それを聴いて思う。  ――真逆。  夢だに考えもしなかった。  この男が、こんな……優しい人間だったとは。  体はどこまでも重い。  手足には鉛が詰まり、頭上には石があるかのようだ。  だが今、〈衝〉《つ》き動かす力はその重さに勝る。 「思い出した事がある」 「……」 「お前は言ったな。  〈妖甲〉《むらまさ》を抱えて引っ込んでいれば良かったと」 「そうだ。俺はそうしようと思えばできた。  だがしなかった」 「人を殺してでも人を救いたかったからだ」 「…………」  人を殺し、その骸の上に平和を築く。  それが俺の選び取った道。  俺はその道の、まだ半ばにいる。  二年前の事件に起因する災いは今なお世界に残り。  無数の対立、無数の争乱の中、無数の人々が死んでいる。  〈まだ〉《・・》、〈終わっていない〉《・・・・・・・》。  俺の使命――違う。  俺の〈目的〉《・・》はまだ、果たされていない。 「それで……?」 「続ける」 「この世の争いを全て治める」 「……正気で言ってんのか」 「違うかもしれんな」 「てめぇがどうやって、そんな事を〈仕遂〉《しと》げる?  花でも配って、戦争はやめなさいと言って回るのか」 「真逆」  この俺がそんな行為をしても無益だ。  血臭剥がれぬ人殺しに人々を説く力は無い。  それはきっと――  何処かで別の誰かがやる。  誰かが、無垢な祈りを捧げてくれる。  俺には俺のやり方。  もっと劣った方法がある。 「なら?」 「知れた事」 「〈最小限度の殺戮で戦争を撲滅する〉《・・・・・・・・・・・・・・・》」 「…………」 「おかしいか」 「……いや。  おかしくは、ねえな」 「おかしくはねえが」 「……」 「てめぇはそれを、また……  〈嫌々〉《・・》、〈泣きながら〉《・・・・・》、やるのか?」  肩越しに視線を投げる。  雪車町は冷たく、俺を眺めていた。  ……嫌々?    やりたくもないのに、やるという事か。  何を言うかと思えば。 「雪車町。  勘違いは、迷惑だ」 「……あァ?」 「俺は〈最初から〉《・・・・》、嫌がってなどいない」 「嫌なら、やらん。  やりたいから、やったのだ」 「……当たり前の事だろうが?  本当にやりたくない事をやる人間が何処にいる?」 「……」  そう。  当然の事。  だが――  その当然を自覚し、認めるのに、長く掛かったようにも思う。 「これからもだ。  俺はやりたいからやる」 「殺したいから殺す」 「……だったら。  てめぇはあの時、どうして泣いた?」 「泣いてなどいない。  だが、もし、泣いたように見えたなら……」 「……」 「きっと、笑っていたのだろうよ。  涙が零れるほど、愉しくて」  雪車町は暫時、沈黙したようだった。  やがて――少しずつ。  陰々と。  クヒ、ヒヒヒヒ、と……  〈蟇蛙〉《ひきがえる》が歌うかの笑声。 「……ヘッ……」 「…………」 「てめぇがやるのは、悪鬼の所業だぜ」 「知っている」 「やり遂げられんのかァ?  坊ちゃん育ちのてめぇによぅ」 「ああ」 「俺は……俺の邪悪を信じる」  我が目的の為、既に幾多の命を奪った。  その事実に懸けて信仰する。  邪悪。  魂の底に〈溜〉《たま》る、闇黒を。 「けっ……そうかよ」 「じゃあ、勝手にしやがれ」 「……」 「そいつと一緒にな」 「そいつ?」 「返してやらァ」  雪車町は億劫げに起き上がると、最初に座っていた岩へ近寄った。  その陰から、何かを取り出す。  箱だった。    これは……〈通信遮断装置〉《アイソレーションボックス》か?  留め金が外され、蓋が開かれる。  中身は―― 「……村正……」 «…………»  赤い相棒がそこにいた。  健在である事は一目でわかった。  ……そうか。  通信遮断装置の中に封じられていたから、呼び掛けにも応答が無かったのか。  そして、あの筋者がこんな仕掛けを使って殺したと偽った意図は、おそらく―― 「雪車町」 「何でぇ?」 「行くのか」  ふらつく足取りで離れてゆく、その背に声を掛ける。  一度だけ振り返り。雪車町一蔵は唾を吐いた。  憎々しげに笑って、言う。 「今日のところは、これで勘弁してやらァ」  夕暮れ。  影が長く尾を引いていた。  村正が蝦夷の〈形態〉《すがた》をとり、立つ。  惑いを秘めた眼で、俺を見上げた。  全て聞いていたのだろう。 「……御堂。  あの男は貴方に自分を殺させて、それから私も殺させようとした」 「善悪相殺の誓約を利用して」 「らしいな」 「……私はそれでも構わなかった……」 「私さえいなくなれば、貴方は戦いを忘れて生きられるって思ったから」 「…………」 「本当に……戦うの?」 「戦い続けるの?」 「貴方は本当に、それでいいの?」 「ああ」  頷く。  最早、躊躇はなく。 「俺は……  この世の武を支配する」 「頂点に立つ。  そして求められるまま、誰にでも力を貸す」 「勝利したい者は俺の力を欲するだろう。  だが、代償は支払わせる」 「その者自身。  その者の大切な誰か」 「守るべきもの。  善。正義」 「それを、敵を殺す代償に奪う」 「…………」 「善悪相殺。  この武を世に布く」 「誰もが、それこそ闘争の真実なのだと知り、認め……  忌み嫌うようになるまで」 「地上から戦いが絶えるまで」 「……御堂……」 「村正。  お前はどうする」 「一緒に行ってくれるか」 「――――――――――――――――」 「私は……」 「雄飛が死んだことの意味です」 「その意味がどんなものかは聞きません。  今は……聞きたくないです」 「雄飛の命と引き換えにされたなにかのことなんて、僕は知りたくない」 「でもお姉さんは……その意味を大事にして、守ってください。  〈せめて〉《・・・》」 「あなたはそのために、雄飛を犠牲にしたんですから」 「私は、善悪相殺の誓いを心鉄に刻む村正。  何よりも、貴方を〈仕手〉《あるじ》とする劒冑だから」 「貴方が力を求めるなら、応えるまで」 「……村正……」  手を差し伸べる。  掴む。  はっきりとした力が返ってくる。  握り合う、その手に誓う。  ――最後に。    いつか、目的が果たされた時……  俺達の代償を捧げよう。  最も大切なもの――  互いを。 「おや……おいででしたか」 「ええ」 「…………」 「ほっほっほっ」 「……まぁ、ご覧の通りの始末でさァ。  あんた方はこれからどうなさるんで?」 「そうですね……。  ひとまず、見守ってみましょうか」 「どこまでやれるか。  復讐なら、いつでもできますしね」 「左様でございますなァ」 「綾弥の嬢さんは?」 「…………」 「……へ、へ。  やっぱり、お行きなさるか……」 「人のことより、あなたはどうされますの?」 「あたしゃ、帰りますよ。  あいつはもう……どこにでもいる悪党だァ」 「相手しちゃあいられません……。  組に戻って、仕事をします。幕府が崩れてからこっち、食う分稼ぐのも大変でしてねェ」 「そう。  せいぜい、お励みなさいまし」 「へ、へ、へェ……!  では……」  三者は別れた。  雪車町一蔵は去り、  大鳥香奈枝は待ち、  綾弥一条は、行く。  風が一陣、流れた。  そこに紛れる猛気が、肌を炙る。  俺は振り返った。  良く知る少女が立っている。  濃藍の劒冑を従えて、夕闇の下。  今、俺へ向ける顔にあるものは――  怒り。  嘆き。  そして決意。 「…………」  一語も交わさず、避けられぬ戦いの到来を感じ取り。  俺の口が苦く歪んで――ふと、気付く。  違う。  こうでは、ないな。  戦いに臨む悪鬼の〈貌〉《かお》は、こうではない。  俺は今から、俺自身が求めた闘争へ身を投じるのだ。  〈苦〉《にが》る理由が何処にあろうか。  表情は、こうだ。  こう――  現れた敵対者が装甲を遂げる。  俺も追う。  誓いの言葉を唱え。  その〈銘〉《な》を呼び。  我が肉体を鉄とする―――― 「おい、てめぇら作業はどうしたんだよ!?」 「……はァ?」 「橋だよ、さっさと完成させろ!」 「知るか!  お前らで勝手にやれ!」 「何ぃ!?」 「だめっ」 「……あ?」 「〈光坊〉《ひかりぼう》?」 「けんか、だめ」 「わを……」 「わをもって」 「……えっと……」 「……?」 「…………?」 「うん」  今宵は朧月夜。  流れ雲が月光を完全に遮ったその一瞬、俺は彼女を殺した。  背後から忍び、            忍び寄り、  音もなく、            優しく。  ただ一閃で、脊椎を断ち割った。  〈頽〉《くずお》れながらに、彼女が振り返る。  開きつつある瞳孔に意思の光が灯る。  その意思が、理解の輝きに変わる前に、  彼女が、裏切りの味を心魂で噛み締める前に、  殺した。  斬って、  斬って、  斬って、  殺した。  斬って、  斬って、  斬って、  斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、―――― «御堂» 「――――」 «もう、死んでいるから» 「――――――――」 「あ、あ、  あアァァァァァァァーーーーーーーーッ!!」  俺は綾弥一条を殺した。  大鳥香奈枝を殺す。  ……殺した。  動悸が激しい。  殺した事によるものとは違う――殺害感触は心臓に活力など与えない。むしろ氷結させ、俺はその冷たさに〈慄〉《ふる》えるだけだ。  鼓動が早められているのは殺意に接したためだった。  己の命を脅かす意思。そしてその実象化。  上空、後背からの襲撃の瞬間。  彼女は単身、誰にも頼らず凶気を察し、抜き撃ちに一弾を放ってみせたのだ。  まるで、事ある時を予知していたかのように。  長銃には〈予〉《あらかじ》め弾丸を装填して。  襲撃者の、覚えがあろう姿を見ても動じることなく。  今は斃され。  命を喪失している彼女の相貌に、やはり疑念を示すものはない。  あるのは諦念。  戦い、敗北したことを知った表情。    兵士の顔だった。 (ああ――)  悟った。  ――彼女は俺を信じていなかった。  俺の欺瞞を見破り、  真実を見てくれていた。  なのに、なぜ……  殺されてしまったのだろう。  なぜ、〈殺すことを許した〉《・・・・・・・・》のだろう。  彼女は俺を殺し得た筈。  できた筈だ。俺を信じていなかったのなら!  なぜ――    ――まさか、  〈信じたかった〉《・・・・・・》とでもいうのだろうか。  ……わからない。  もはや大鳥香奈枝は俺の疑問に答えない。  俺はただ彼女の骸を見下ろし、  失ってはならぬ〈女〉《ひと》を失った事実に恐怖するばかりだ。  殺した。  殺した。  幾人も幾人も殺した。  銀星号を追い、〝卵〟に冒された者を追い――  果てもなく続く狩りの日々。  幾人もの敵を殺した。  同じ数の〈朋〉《とも》を殺した。  気付けば俺の傍には誰もいなかった。  それでも敵を殺した。  だから、もう〈御仕舞〉《おしまい》だった。  ……何処とも知れぬ、路上に降り立つ。  辺りは暗く、人影もない。  一つ息をついて、俺は村正を解装した。  全身を覆う甲鉄が剥離し、深紅色の蜘蛛を形造る。  そうして向き合う。  月〈灯明〉《あかり》の差す静寂の地平、己の半身とも〈恃〉《たの》んだ鉄騎と対峙する。 «……そう»  説明は何もない。  だが俺の蜘蛛は察した。  俺がふと考える事があったように、蜘蛛も思う事があったのだ。  このような時がいずれ、来るのではないかと。 «もう貴方には、私しか残っていないのね。  私に、貴方しか残っていないように» 「ああ」  頷く―― 「俺達は、失い過ぎた」 «……ええ»  頷き合う。  事実を、受け入れる。  ――順番が来たのだ。  俺達の、番が。 «なら、二つに一つよ。  貴方が私を殺すか。  私が貴方を殺すか»  手の中に、慣れた重さ。  太刀が転送されていた。  村正の口元には牙。  太刀と、牙。最後の選択。  ――答えは出ている。  それでも村正は俺に選択を与えた。  それは誠意か――慈悲か――温情か。肉体を鋼鉄に打ち上げた彼女には、およそ似つかわしくない何か。  その甘さに縋り付きたいと、思う。  命を拾いたいと、思う。  死の恐怖――    だが俺は知っている。  この恐怖に敗れるというのが如何なる事か。  己の命を拾い、代わりに何が喪われるのか。  今の俺は知っている。  あの日、村正と出会った時に知ったのだ。 「答えは出ている」 «…………»  銀星号の振り撒く破壊を食い止める為に。  俺と村正、より必要なのはいずれであるか。  答えは、出ている―― «私、は» 「お前の意思など問うていない、劔冑。  俺は〈仕手〉《つかいて》として命ずるだけだ」 «――御堂»  〈俺達〉《・・》は知っている。  為すべき事を知っている。  重ねた罪の意味を知っている。 「責務を果たせ。  村正」 «御堂»  恐怖はある。悔いもある。  残してゆくものの事を思う。  だがこれは、俺の為した行為の結果。  力不足がこの最期を決定付けたのなら、元より、俺に逃れるべき道など無いのだ。  逃れてはならなかった。 「〈銀星号〉《ひかる》の事を頼む」 «……誓って、必ず。  私の〈御堂〉《あるじ》»