「まあ何か飲めよ。どれがいい?」  備え付けのバーカウンターに回った男は、慣れた様子でボトルを並べながらそう言った。 「つっても場所がら、偏ったもんしかねえけどよ。さすがにマジモンは置いてねえが、肥料に牛の血使ったっつうワインならあるぜ」  ムードは大事だろ?と剽げる男に、女は微苦笑を浮かべて頷いた。 「ええ、確かに大事ですね。でもあまり酔いすぎると仕事にならないので、一杯だけ。  キッス・インザ・ダークは作れますか?」  その名を聞いて、男はにやりと口元を歪めた。そこから異様に発達した犬歯が覗く。 「ああ、十八番だ。いい趣味してるぜ。俺もそれにしておこう。  〈闇の賜物〉《キッス・インザ・ダーク》……今夜の話にゃ相応しい」 「あんた、マロイだったか? すぐ持ってくから、気にせずそのへんに座ってろよ」 「ディナで構いません、ミスタ・エーレンブルグ」 「じゃあ、こっちもヴィルヘルムで構わねえよ。なんならベイでもいいんだが……いや、やっぱりやめとこう。  理屈は説明できねえが、俺をそう呼んで生きてる真っ当な人間はいないんでな。呪いでもこもってんのか、とにかくまあそういうことだ。ヴィルヘルムでいい」 「俺の話を聞き終えたら、きっとそこらへんのことも分かるだろう。レコーダーの容量は大丈夫かい? 結構長くなると思うぜ」 「そこは心配要りません。しかし、その……」  喋りながらも手際よくカクテルを作っていく男の様に、ディナ・マロイという女は軽く当惑しているようだった。  そして、相手にもそれは伝わる。 「似合わねえか? 思ったより俗っぽくて、イメージと違うって?」 「……すみません。率直に言えば、確かに。  あなたのような人は、もっと何か違うのかと思っていました」 「お陰で眉唾くさくなってきたと」 「そうは言いませんが……なぜ私のインタビューを受ける気になってくれたのでしょう?」 「そりゃ決まってんだろう」  出来あがったカクテルを二人分のグラスに注ぎつつ、ヴィルヘルム・エーレンブルグは実にさらりと返答した。 「あんたがいい女だからだよ」 「誤解しないでほしいんだが、俺は普段から何処にも隠れちゃいないんだぜ。好きなように生きてるし、好きなように動く。だから気に入った女を見つけりゃあ、お近づきにだってなりてえさ。  まあ実際、ここ最近は気分が浮かれ気味だっていうのも認めるが」  言ってカウンターを出ると、歩み寄ってきてカクテルを手渡す。ディナは少しの間視線を泳がせてから、それをおずおずと受け取った。 「なんだか、あまりにあっさりとあなたに会えたので、逆に戸惑っているんです。普段から逃げも隠れもしていないと、それは確かにそうなのでしょうが、あなたには、その……」 「ああ、餓鬼どものことか」 「ええ。こう申し上げてはなんですが、狂信者がいるでしょう。ここのようなヴァンパイア・バーであなたの名前を出せば、まず生きては帰れない。  という都市伝説が生まれるほど、ヴィルヘルム・エーレンブルグの名は〈怪物園〉《ボルヘス・ハウス》に集う若者たちにとってのカリスマです」 「あなたが実在するならなおのこと、一筋縄ではいかないだろうと思っていました」 「けど、あんたは正面から突っ込んできた」 「他に手もありませんでしたし。可笑しいですか?」 「ああ、可笑しいね。度胸がある。だからいい女だと言ったんだよ」  呵々と歯を剥き、ヴィルヘルムは宙を仰いだ。彼の根城――その一つであるブルックリンのヴァンパイア・バーは今や貸切となっており、最奥の個室で語らっている二人の他は完全な無人である。 「加えて言えば運もいい。運は大事だぜ、俺はそれがねえからな。持ってる奴が好きなんだよ。  〈怪物園〉《ボルヘス・ハウス》なんざここらにゃ掃いて捨てるほどあるし、俺は他にもふらふら渡り歩いてる。普通はタイミングも合わねえだろう」 「ですね。そこは本当に幸運でした」 「つまりお導きっていうやつだな。あんたと俺は縁がある」 「そういうわけで、餓鬼どもは追っ払ったし邪魔は一切入らねえ。今夜は俺たち二人だけだ。  朝が来るまで、あんたの仕事ってやつに付き合ってやるよ。さっきも言ったが……」 「話を聞けば、私の疑問もすべて解ける?」 「おおよ。そもそもインタビューってのはそのためのもんだろう?」 「俺が俗っぽいのも、呪いのことも、なんで浮かれてんのかも……  順を追って、全部、全部な。知ってもらおうじゃねえか。知りてえんだろう、ディナ」 「ええ……そうね、教えてちょうだい。ヴィルヘルム」  まるで厳かな儀式のように乾杯すると、二人は闇の賜物を喉に流した。口調も親しげなものに変え、ディナは持ち込んだボイスレコーダーのスイッチを入れる。  そのまま向かい合ってソファに座し、促す彼女にヴィルヘルムは語り始めた。 「俺が生まれたのは1917年……だったと思うが、細かいところは分かんねえ。忘れちまったと言うよりは、確かめる術がねえんだな。  ド底辺の生まれなもんでよ。きっと戸籍なんかは存在しねえし、それが特別おかしいと思われるような時代でも国でもなかった。  ま、とにかくこんな〈姿〉《ナリ》だが、もう結構なジジイだっていうのは確かだぜ」  話の内容は、のっけから正気を疑うようなものだった。もしもそれが本当なら、彼は一世紀近く生きていることになる。  だが現実のヴィルヘルムは、どう見ても二十代としか思えない。よって常識的に考えればただの狂言になるのだが、そう笑い飛ばせない独特の雰囲気を持っていた。  その一つは、これもまた見た目だろう。異常なほどに白い肌。あらゆる色素が抜け落ちた髪。サングラスの奥で瞬く、妖しいまでに赤い瞳。  薄暗い照明の下、それは月のように浮かび上がって見えた。  〈怪物園〉《ボルヘス・ハウス》と呼ばれるフリークス・バーには、一種の人体改造と言っていい奇抜なスタイルを愛好する輩が集うものだし、彼らにとっては肌の脱色や着色など初歩の初歩だ。中には手足を切り落としている者さえ珍しくない。  しかし、ヴィルヘルムにはそういった紛い物特有の歪さがなかった。こう言ってよければ、先天的な〈異形〉《フリークス》。  〈白皮症〉《アルビノ》と呼ばれる遺伝子疾患。それであろうと思われる。 「生まれはドイツ……なのでしょう?」 「ああ。ドイツのハノーファーだぜ。当時は国内の何処でも同じだったろうが、ありゃあ一言、クソ溜めだったな」 「記者なんざやってるんだ。学校で歴史のお勉強はしてるだろう。要は敗戦国の必然ってやつさ。くだらねえ話だよ」  当たり前の貧困。当たり前の治安崩壊。嘯くヴィルヘルムに陰りは欠片も見当たらず、むしろ薄ら笑ってさえいる。  第一次大戦の終結。すなわち生国だというドイツの敗北に前後して生まれた彼は、人間の一番汚い部分を日常的に見て育ったのだと主張していた。  その真偽をディナは殊更追求せず、ただ聞き手として頷きだけを返している。  実際、いきなり腰を折るわけにもいかないだろう。ヴィルヘルムが単なる誇大妄想の主だとしても、インタビュアーの仕事はそれを正すことではない。  が、続く言葉はさすがに反応せざるを得なかった。 「俺の母親は姉だった」 「え……?」  咄嗟に意味が分からない。理屈が通っておらず狂っている。それとも生物的な本能として、脳が理解を拒んだのか。  そんなディナを、ヴィルヘルムはにやにやしながら見つめて言った。 「知らなかったか。載ってるとこにゃあ載ってる情報なんだがな。勉強不足だぜ、ディナ」 「戦場の吸血鬼。第二次大戦からこっち、世界中の紛争地帯に現れる白い〈貌〉《かお》のSS将校。彷徨えるハーケンクロイツ、その名はヴィルヘルム・エーレンブルグ。  我ながら口に出すのも恥ずかしくなってくる呼ばれようだが、おまえさんはそれを取材に来たんじゃねえのかよ」 「あ、その……ごめんなさい。確かにそう、勉強不足ね」  からかい気味に投げられる言葉へ、ディナは慌てて頭を振った。謝罪しながら、改めて先の言葉を咀嚼するようにそっと呟く。 「母親が、姉……つまり、それは」 「だな。これも記者ならよく聞く話じゃねえのかい? 聞き慣れてても、やっぱり気持ち悪いもんは気持ち悪いか?」 「いえ、そんな。そこについてあなたに非はない。だからあなたをそんな風には、まったく」 「そうかい。俺は未だに、てめえの血ってやつが気色悪くて敵わねえがな」  へらりと言いつつ、己が出生を語り続けるヴィルヘルム。それは確かによく聞く話なのかもしれないが、同時に誰もが眉をひそめるようなものだった。 「こんなの誰でもそうだろうが、産まれる前の記憶なんざ当然ねえ。だから俺が、いつ誰に種付けされたのかなんて分かんねえんだよ。  そこは母のみぞ知るって言いたいとこだが、きっとお袋も分かんなかったと思うぜ、娼婦だったしな。  そういうわけで、血筋は状況から推察するしかないわけだが、たぶん間違いねえだろう。俺の一番古い記憶は四・五歳の頃、夜に箱から出て家ん中を歩いてたら見ちまったんだよ。親父と姉貴が、まあ随分と励んでんのを」 「箱……?」 「ああ、何の変哲もねえただの箱だ。きっとそれが俺の寝床で、避難場所だったんだろうよ」 「分かるよな? 俺は日光が大嫌いってことくらい」  ディナは無言で頷いた。アルビノはメラニンの生合成に異常を来たす疾患のため、日光――特に紫外線への抵抗力が極めて弱い。  そんな幼児が、しかも間違いなく最悪の栄養状態であったろう有様で、昼日中を歩き回ったら死に直結する。  だから幼いヴィルヘルムは、日が落ちるまで箱の中に隠れ潜むのが常だったのだろう。そして夜になれば這い出してくる。  まるで吸血鬼の生活だ。まともな人間のものではない。 「親父は戦争で片足もがれて、軍からも放り出された負け犬でな。  他にやることもねえもんだから酒飲んでるか、てめえの娘と盛ってるか、そこらへんに糞垂れ流しながら俺を殴るか……そんな印象しか残ってねえな。そんな生きモンだったんだろ、ありゃ。  それでお袋は、つーか姉貴は、ああ面倒くせえな。ヘルガでいいや、そういう名前だったんだけどよ」 「そのヘルガも、あなたを殴った?」 「いいや、むしろ優しかったぜ。ヴィル、ヴィル、わたしの大事なヴィルヘルムってよ。あの甘ったるい、てめえの世界に酔っ払った感じの声はよく覚えてる。 馬鹿な女さ」  おそらくは、唯一自分を愛してくれたのだろう相手さえも彼は端的に切り捨てた。  嘲弄するように。その血が己に混じっていることを恥だとでもいうように。 「頭が弱いから、いつもどいつからも食い物にされる。にも関わらず状況を分かってねえ。客観視っつう能力が、根本から抜けてる類の奴だったな。  とにかくそんなこんなでよ、俺はなんとも愉快な家族に囲まれて育ったわけだが、言ったように昼間は自由に動けねえ。  とはいえ夜は夜でヘルガと親父がお遊び中だ。見てて面白いもんでもなかったし、腹も減っていたからよ。俺がやってたのはもっぱら狩りだ」 「最初は虫。次に鼠。慣れてくりゃあたまには小鳥も捕まえられたし、食って飢えを満たしてた。  そんなある日、ふと分かったのさ。ああ俺は、こういう生き物なんだってよ」  それが己のアイデンティティ。今も自任しているヴィルヘルム・エーレンブルグの在り方なのだと言い切った。 「〈吸血鬼〉《ヴァンパイア》……?」 「そうさ。なあ、これはちょっとした奇跡で真理だと思わねえか? だってよ、少し考えてみてくれよ。当時の俺がそんなモンを知ってるわけがねえだろう。  教育なんてこれっぽっちも受けちゃいねえし、家には絵本の一つもねえ。ブラム・ストーカーの怪物にインスピレーションなんか授かるはずもねえんだよ。  だから当然、〈眷族〉《パクリ》なんかじゃ有り得ねえ。俺は〈真祖〉《オリジン》、自力でそこに至った本物なのさ」  日光を忌み嫌い、夜間のみ活動し、他生物を狩猟して血を啜るモノ。  吸血鬼という概念を知らないまま、自分はそういう人外存在であると認識したのが真実なら、なるほど彼は本物に違いない。  少なくとも、何かの影響を受けてその皮を被ったわけではないのだから。 「ま、後になってちゃんと調べたからこそ、今こんなことを言えてる事実があるんだがよ。それでも大事なのは最初の瞬間、俺が誰に教わるでもなく真理に辿り着いたっていう点だ」 「そこから先は速かったぜ。何せ自覚するってのは力になる。  狩りはどんどん上達したし、俺自身も強くなった。野犬の群れに囲まれても、逆に食い殺してやれるくらいにな。  しかしだ」  そこで、ふっと彼は失笑した。自嘲気味に肩を揺らして付け加える。 「困ったことに、そんな獲物じゃ満足できなくなっちまった。しょうがねえ話だろう? 成長すれば求める質も量も上がる」 「もう犬猫なんかじゃ足りねえんだよ。もっと熱い血が欲しかったんだ」 「それで、あなたは……」 「ああ、人にいったぜ。自然なステップアップっていうやつだ。  最初は赤ん坊だったかな。攫ってきたよ」  そして食った。飲み干した。何ら悪びれもせず彼は言う。 「その後もしばらく色々やってた。喧嘩売ったり、買ったりよ。  丁度その頃だ、庭に埋めてた骨の山がヘルガに全部バレたのは」  そこには悪戯を見咎められたというほどの気持ちもない。  まさか、あの間抜け女に気付かれるとは意外だったと、ヴィルヘルムはそんな感想しか述べなかった。 「でだ、またしても俺はふと思ったんだよ。なんでこんなのが親なんだって」 「近親相姦がどうのこうの、社会倫理がなんだのと、そういう価値観は知らなかったし今も言うほど気にしちゃいねえ。だが、俺は違うモノで、こいつらはなんか気持ち悪いモンだっていう認識はあったんだ。  平たく言やあ、ずっとムカついてたんだろうな。親子、血の繋がりってのは感覚的に分かってたから、俺がこいつらに作られたんだと思うと気が狂いそうになったよ」  だったらどうする? 答えは一つだろうと言って彼は続けた。 「殺したぜ。俺の始まりをぶち壊さねえと、俺は本当の意味で生まれたことにならねえ。  つまりこれは、なんて言ったらいいのかな」 「生まれがあなたを縛るから、その始まりを清算しようと思ったのね?」 「そう、それだ。きっとそういう理屈だよ」  ヴィルヘルム・エーレンブルグは吸血鬼である。しかし父母は、畜生じみた人間である。  彼の視点で言わせれば、鳶が不死鳥を生んだのだから不自然すぎて許せない。  これは自己のアイデンティティを揺るがす大問題で、ゆえに壊す。  その繋がりを消滅させねば、己が消えてしまうから。 「我が〈呪縛〉《はじまり》よ、灰になれ」  異常性を孕んだ思考と、それを躊躇なく実行に移す行動力。少なくとも彼の中では、万事必然の流れとして成立するのだ。  なるほど、怪物と言っていいだろう。狂っているのは間違いない。 「そう考えりゃあ、俺が本当の意味で自分を確信したのはヘルガを殺したときなのかもな。まあどちらにせよ、自力で真理に辿り着いたってことに変わりはねえ」 「〈殺〉《バラ》すときに犯してやったが、あれにしたって俺が生まれた肉壷をぶち壊したかったからだしよ。すげえ興奮したしイキまくったぜ、まさに新生の快感ってやつだ。  いや悪ぃ。女の前で嬉々と話すことじゃなかったな。短くこう認識してくれ。  ヘルガは俺の最初の女で、なんともいい具合だったってよ。カハハッ」  性別に関係なく、吐き気しか催さないことを爽快に言い放つ。ディナはよく耐えていると褒められるべきだろう。 「幾つか質問していいかしら。父親は?」 「殺したぜ。ついでにな」 「ヘルガはあなたを諌めようとしたのかしら?」 「分かんねえなあ。呼びつけられるなりぶち殺したからよ。  ただ、あいつは俺にお説教なんてするような奴じゃなかったぜ。案外と……」 「あなたに殺されたことを喜んでいる?」 「かもしれねえな。愛する息子が本懐を果たすための礎になれたんだからよ」 「じゃあ、その出来事はあなたにとって大きな意味を持っているのね」 「そうだな。未だにあんとき以上の達成感に包まれたことはねえ」 「だけど、あなたは最初にこう言ったじゃない。今でも自分の血が気持ち悪いと。 親を殺して、生まれの呪縛から解き放たれたはずのあなたが、なぜそんなことを言うのかしら。  新生したんでしょう? 本当の自分を掴んだ吸血鬼として」  そう問うディナに、ヴィルヘルムはやれやれと肩をすくめて。 「せっかちだな。そこはこれから話してやるよ」  本題は今より始まると、芝居がかった調子で言葉を継いだ。 「ヘルガを殺して以降しばらく、そんときのことはまるで語るに値しねえ。当時は幸福絶頂だったが、いま思い返せばアホらしい。単なる井戸の蛙だったぜ」 「だから一気に十年くらい時間を飛ばすぞ。あれは1939年、確か暮れの出来事だったな。  ハイドリヒ卿との出会い。黒円卓の連中……あの時代、俺ら十三人が何を思って何をやり、何を目指すに至ったのか。  そして、これからどうするのか。  あくまで俺が見てきたことしか言えねえから、全体は不明だし勘違いだってあるかもしれねえ。しかし、嘘だけは言わねえよ」 「キッス・インザ・ダーク」  闇の賜物。  自らの胸を指差し、意味深に吸血鬼は含み笑った。 「さっき飲んだカクテルだが、俺の魂にはそれと同じ名前のモンが宿ってるのさ。ロマンチックな話だろう?」  そうして夜を愛おしむように語り始める。  彼の回顧録。カズィクル・ベイと呼ばれた男の、血と争乱に満ちた人生を。  そうして俺たちはハイドリヒ卿と出会い、あの人の爪牙になった。  時期も事情もそれぞれ微妙に違ったが、共通しているのは皆が皆、黄金に魅せられたっていうことだよ。  いや、壊されたって言うほうが正しいか。この世にああいう存在がいる。そう認識することでどいつも世界観が引っ繰り返ったのさ。  それが良いか悪いか、祝福とするか呪いとするかは個人ごと勝手にすりゃいい。ザミエルあたりなら祝福じゃなきゃ何なんだとキレるだろうが、俺はあいつほど石頭じゃねえ。捉え方の自由くらいは認めている。  たとえば、あいつにとって尊いものはすなわち火で、ハイドリヒ卿をそう定義しているだろう。だが、俺にとってあの人は闇だ。金色の闇。  どっちも崇めているのは同じだがよ、概念付けの結果としちゃあ真逆に近いもんだろう。そんな風に、人それぞれの敬い方があっていいと思う。  単に怖くて、びびりまくってるから従ってるんでも構わねえ。畏怖も畏敬も憧憬も、言い方が違うだけで似たようなもんだから。  大事なのは、あの人が遥か遠いところに存在し、俺たちとは一線どころかすべてを画していると弁えること。  自分はラインハルト・ハイドリヒより強いだの、あの人の覇道を頓挫させることが出来るだの、そういう気の狂った思い違いをしてなきゃあ、後は何でもいいんだよ。  俺はあの人の爪牙だからな、黄金に楯突く奴は許さねえ。たとえそれが、どんなにチンケなもんだろうと潰すし、殺すし、叩き壊す。  そのうえで、あの人の世界をすべて受け入れる。いや、この言い方は不敬だな。黄金の示す覇道に、俺の存在は反していねえと信じてる。  ヴィルヘルム・エーレンブルグが捧げる忠はそういう形だ。正統派だろ? これでも騎士の名誉は大事にするんだ。  似合わねえとあんたは思ってるかもしれねえが、何が何でもてめえが一番じゃなきゃ許せないほど餓鬼じゃねえんだ。もちろんそりゃあ、自分より強い相手には逆らわないって意味じゃないぜ。  そいつのことが気に食わなけりゃあ、たとえどれほどの格上だろうと俺は膝なんか屈さねえよ。彼我の力量差を見切る力は大事だが、それでみんな片付けるなら機械と同じだ。生きてるとさえ表現できねえ。  ああ、この言い方じゃさっきの主張と食い違うか。ハイドリヒ卿に楯突く奴は許さねえっていうスタンスとよ。  そいつらにしたところで、黄金が気に食わないと思うからこそ刃向かうんだろうし、相応の矜持も覚悟もあるんだろう。そこを丸ごと否定はしない。  だからきっと、これは単純な話なんだ。俺はハイドリヒ卿に惚れてるっていうだけのこと。  不遜な物言いになっちまうし、ホモ臭ぇ誤解もされたかねえが、平たく言やあ好感が持てるから従ってるだけだ。  騎士の名誉もだいぶ俗になっちまったが、これは大事なことだと思うぜ。暗君に辟易しながら従うなんて、それこそ最悪の無様だろう。担ぐ相手は自分で選ぶし、そうするべきだ。  と、長くなっちまったがそんなわけで、俺は黒円卓の四位になった。  聖遺物、人器融合、エイヴィヒカイト……信じる信じないは勝手だが、以降今まで、俺が一切歳を取ってないのはそういうことだよ。他人の魂を奪ってるから、老いも病も撥ね退けてる。  吸血鬼の在り方としちゃ、これもまた正統派だろ? 実際は魔術の御業ってことらしいが、まあそこらへんはどうでもいい。深く考えたくねえんだよ。  なぜなら、カール・クラフト=メルクリウス。これは奴に授けられたもんだから。  俺がこの世で“上”だと認めたのはハイドリヒ卿一人だけだが、計り知れねえのはメルクリウスだ。何より気持ち悪く、気に食わない相手だったと言っていい。  きっとそこは、どいつも同じなんじゃねえのかな。嫌ってる理由自体は、それぞれ違うかもしれねえがよ。  俺に限ればたった一つ。〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈が〉《 、》〈弱〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈だ〉《 、》。  矛盾する? 意味が分からない? オーケー、じゃあ簡単に説明しよう。  たとえば、老いぼれて病に冒され、くたばりかけの生き物がいたとする。身体はろくに動かねえし、頭もおかしくなってるから勘も思考も鈍りまくりだ。本能だって、もうまともには機能してねえ。  そんな生き物は、問答無用で“弱い”だろう。自然淘汰されるのを待つばかりの、害にすらなってねえ老醜だと言っていい。  だがよ、それがライオンなら? 熊なら? 虎なら? いいや、恐竜だったらどう思う?  たとえどれだけ弱っていようが、Tレックスは圧倒的だ。蟻の力でどうこう出来るタマじゃねえ。  数億匹も集まればいけるんじゃねえかって? まあそりゃそうかもしんねえが、そういう突っ込みはやめてくれよ。こちとらたいして学もねえんだ、そんなぽんぽん、ベストな例えなんか出せねえよ。  とにかく、俺がメルクリウスに感じた印象はそれに近く、もっとタチが悪かった。  本当に、あれはいったい何だったのか……もしかしたら、恐竜よりもでかかったのか? そこは未だもって分からねえがよ。  ただ、こいつは弱い。死に掛けてるし衰えてる。きっと、全盛期の一割にさえ及んでいないというのは感じた。  にも関わらず、圧倒的に計り知れないモノだと感じる。蟻の視点じゃ理解できない〈化け物〉《なにか》のように……そいつが昼行灯を気取ってるんだ。  私はしがない魔術師で、何の力もないから何もしないピエロでございますってよ。  まったく不愉快どころの話じゃないぜ。つい殺せるんじゃねえかと思っちまう一瞬。だが錯覚だったと気付く一瞬。この二つが、野郎の前に立つと延々繰り返されるんだ。  あれはそういう、終わらねえ堂々巡りを周りにばら撒く何かだった。  お陰で自分がアホに見える。そう指摘され続けてる気分になる。  踊れ踊れ。私の掌でくるくる回り続けろと。  だから心底気に食わねえ。ハイドリヒ卿に唯一欠点があるとすれば、あんなもんと仲が良いっていうことだ。  俺の究極的理想を言うとな、あの人がいつかメルクリウスを斃すことだ。その聖戦に、俺が爪牙として加わることだ。  そんな未来が来るか来ないか、分からねえが夢見てる。大戦当時はそこまで明確に考えちゃいなかったが、近いことは思ってたはずだぜ。  黒円卓の騎士として、俺はあの頃からそうだった。  実戦を繰り返し、魂を蓄え続け、ハイドリヒ卿の暗殺事件を経て、いよいよ盛大に何かが動き始める予兆を感じていた時分……  あれは、1944年の晩夏だったな。最後のマキナが円卓に加わる、ほんの少し前のこと。  ワルシャワ蜂起戦。ヘルガとは違う意味で、初めての相手になった女のことを話そうと思う。  そいつとの出会いから、終いまでをな。 「――おおぉぉォッらああァッ!」 ぶち壊し、捩じり切り、ズタズタにして搾り取る。 そうした果てに吸い殺す。 俺の戦い方にスタイルってやつがあるとすればそういうもんだ。力任せに蹂躙するし、陵辱する。 それが下品で外道なノリだっていうのは承知だぜ。この頃になりゃあ、さすがに一般論くらい知ってたさ。 けど、だから何だっていうんだよ。確かに俺は凡百って概念を馬鹿にしてるが、必死にそこから外れようと頑張ってるわけでもねえ。 見方を変えれば、俺のスタイルも一種テンプレだろうしな。悪ぶるのを格好いいとか、クソ餓鬼の背伸びみたいな真似をしたことは一度もねえよ。 単にこれは得手不得手の問題で、好きか嫌いかの問題だ。俺にはこういう暴れ方がしっくりくるし、他は出来ねえ。夜中に犬猫を狩ってた頃、自然と身に着けたもんだから染み付いてる。 好きこそ物の上手なれって言葉があるだろ? あれは真理だろうし逆も然りだ。 自分にとって、一番上手くやれる方法だから好きになるし楽しくもなる。 「ひひっ、カハハ――あはははははははッ!」 「おらもっと来いやァ、全然効かねえんだよボンクラどもォ!」 「そんなもんでこの俺を、カズィクル・ベイ様をどうにか出来るとでも思ってんのかァッ!」 容赦しねえし、したこともねえ。俺の本質は奪う者だ。 吸血鬼は狩人で、略奪するのは当たり前なんだから飢えの命じるままに飲み干すだけ。 「〈Briah〉《創造》――」 そういうわけでこのときも、俺は容赦なくやってやったぜ。 敵も味方も関係ねえ。そもそも俺に、ただの人間を気遣ってやる理由がねえ。 てめえら全員、俺の餌だ。このワルシャワごと薔薇の夜に沈みやがれと、爆笑しながらぶちかましたよ。 「Ros〈enkavalier Schwarz〉《死森の薔薇騎士》wald」 創造位階はルールの創造。己が身を焦がす渇望の具現。 誰だって、強く願ってる理想みたいなもんがあるだろう。もしくは、自分だけの掟とかな。 創造位階は、それを絶対のルールとした己の世界を創る技だ。渇望の向き先が内か外かで、求道と覇道の違いはあるがよ。 共通して、長年の夢が叶ったような状態になれる。なんせそれが、限定的だが世界法則になっちまうんだ。自分の世界じゃ自分が神だよ。 「枯れろ枯れろォ、落ちて砕けて干乾びろォ!」 じゃあ、俺が願う俺の世界はどんなもんかって? 簡単だよ。永遠に明けない夜だ。 日の光は要らねえ。ならば夜こそ我が世界。 吸血鬼にとっての理想といえばそれしかないだろ。さすがに永遠なんて概念を体現するのは不可能だが、半径五百メートルくらいは問答無用で夜に変えるし、捕らえた獲物は俺が解くか死ぬかしねえ限り逃げられねえ。 燃費だって悪くないぜ。空間ごと世界を変えるのは覇道型で、干渉規模がでかいぶん維持の時間も短いんだが、薔薇の夜は少々特殊だ。 俺の創造に呑まれた奴は、ただそこにいるだけで生命力を搾り取られる。つまりこっちは、吸ってる限り強化され続けるっていうことだ。 燃料さえ尽きなければいつまでもってわけじゃねえけどな。それでも覇道の創造としちゃあ、かなり使い勝手が良いんだよ。これはたぶん、求道の性質も多少混じってるせいだろう。 薔薇の夜がある間、俺は芯から吸血鬼だ。ああ、伝承上のヴァンピーそのものになるんだよ。 客観的な事実として、俺が人から生まれた人の子だってことくらい分かってる。自分が本物の真祖だって誇りはいつだって揺らがねえけど、その自負を物理的に実現するのさ。 それが求道。己自身を一つの異世界に変える技。黒円卓の中でも、この二つが混じってる奴はおそらく他に存在しない。 だから、俺の世界は強力だ。凶悪だろうし美しい。融合型の常として、気合い入れすぎると思考が乱雑になるんだが、別にデメリットってほどでもねえ。 このときも、俺はハイになった状態で夜の素晴らしさを噛み締めてたな。そうしていると、副産物みたいなものもある。 「ヴィル、ヴィル、わたしの愛しいヴィルヘルム……」 たまにだが、それは聞こえてくるんだよ。意識の深奥から流れてくる声。 ヘルガだ。あいつの存在を身近に感じる。 「今夜もお腹いっぱい食べたのね。嬉しいわ……あなたが満足してくれるなら、わたしなんだってしちゃう」 「昔はいつも、ひもじい思いをさせてごめんね。あなたが何を欲しがってるのか、なかなか気付いてあげることが出来なくて」 「だけど今ならよく分かる。あなたに愛され、奪われて、一つになって理解したのよ」 「それはとっても幸せなこと。これから先も与えてあげるし、一緒にいるわ。だから教えて」 「ねえヴィル、わたしは美味しかった?」 「はッ、馬鹿が」 相も変わらず、頭が素敵な具合にわいてやがる。そうとも、これが俺の姉貴でお袋だ。生きてる頃からこんな感じの奴だったぜ。 「お呼びじゃねえんだよ腐れ淫売。すっ込んでろや、またぶち殺すぞ」 「まあ、まあまあ! なんて優しい子なのあなたは。そんなにわたしのことを大事に思ってくれるのね」 「ありがとうヴィルヘルム。お〈姉〉《かあ》さん、世界一の幸せ者よ」 ヘルガと会話は成立しねえ。客観視が出来ない奴だって言ったよな。 それはこんな感じで、何があっても自分のお花畑しか見ちゃいねえっていうことなんだ。 さながら、薔薇の花園か。この女は、永遠にそこのお姫様で庭師なのさ。 「まったく、死んでからも鬱陶しい」 なんて毒づいちゃいたけどよ。正直言えば、このヘルガとずれたやり取りするのも嫌いじゃなかった。なぜならこいつはトロフィーみたいなもんで、殺した当時の快感を反芻する役に立つ。 吸血鬼は、喰らった獲物を内に取り込むもんだろう? 俺が自分の真実を確信した最初の一人がこのヘルガで、だから記念すべき勲章なんだよ。 多少うざいのは確かだが、俺の中で血塗れになりながら悶えてる様は悪くねえ。 世界が血と怨念に包まれたとき。そして俺の調子が極めて良いとき。ヘルガの声が聞こえてくるのはそういうときで、自分が充実した吸血鬼だと実感する瞬間だ。 それを味わえる点については、メルクリウスに感謝してやってもいい。貰った力を有り難がるって意味じゃなく、これが俺だけの仕様なんだと誇ることが出来るからだ。 さっきも言ったろ? 創造位階には渇望が必要なんだ。つまり、元になってる術が同じでも、どんな形になるかは個人ごとに違うんだよ。 たとえば、拳銃もらって調子付いてる奴はただの馬鹿だ。拳銃は誰が持っても拳銃だし、それで強くなったとしても手柄は拳銃のもんじゃねえか。持ち手と何ら必然的な繫がりがねえ。 その点、俺らが貰ったのはエイヴィヒカイトっていう溶鉱炉と、聖遺物っていう鉄なのさ。ぶち込んでからどんな風に仕上げるかはこっちの自由。 俺じゃねえと薔薇の夜は創れねえし、俺だからこそ薔薇の夜が生まれたんだ。なあ、これは結構な違いだと思うだろ? 「食べたくなったらまた呼んでね。いつでもあなたの傍にいる」 「愛してるわヴィルヘルム。愛してる。愛してる。世界中の何よりも……」 「あなたをアイしてルのよおおぉぉォォ―――、きゃははははははハハハ!」 そんなこんなで、俺はこの日にワルシャワをぶっ潰した。言った通り敵も味方も関係なく、諸共呑み込み吸ってやったよ。 ヘルガの声が遠くになっていったのは、薔薇の夜が晴れかけている証だった。そこには二つの意味がある。 一つ。創造の範囲内にいる人間が全滅したっていうことだ。吸い上げるべき対象がなくなったから、これ以上〈燃料〉《たましい》使って異世界を展開する必要がない。 そして二つ目。これはこのとき初めて気付いたんだが…… 「どうやら、ここらで満杯かよ」 俺という器に溜め込める魂の許容量。その限界を自覚したんだ。 正確に量ることは出来ねえが、おそらく七・八千人ぶんってとこじゃねえかな。当時の俺はそれだけの魂を所有していて、それ以上は蓄えられねえ。 溜めようとしたらどうなるかって? 推論だが、たぶん風船と同じだよ。 聖遺物なり肉体なりが砕け散る。そして、どっちだろうと俺たち的にはジ・エンドだ。 ちょいと超過するだけでいきなりそこまで破滅的にはならねえだろうが、何にしろリスキーだし賢くねえ。だから俺の本能が、もうやめとけってセーブしたのさ。 しかし、感情的には腹が立ったぜ。 「クソが、萎える落ちつけやがって」 周囲は根こそぎ吸ってやったが、それでも戦場全体で考えれば獲物はまだまだ存在するんだ。せっかくの爆釣どきだっていうのによ、〈魚篭〉《びく》が満杯だからもう獲れねえし、獲っても捨てるしかなくなってる。 こんなの誰でも苛々するだろ。しかもそれが、自分の器による結果と言われたらムカつくじゃねえか。 ここがおまえにとって才能の限界。そう笑われてるみたいでよ。だから…… 「いや、まだだ」 「これはあくまで、現段階の限界だ。俺はまだまだ強くなる」 壁にぶち当たったが、終わりじゃない。技なり、心なり、聖遺物とのより深い結びつきなり……高めるべきものは色々あるだろ。 相応の条件を揃えられれば、この先壁は越えられる。そう信じたし、今でもそうだ。陳腐な言葉かもしれねえが、自分で認めない限り限界なんかねえんだよ。 「クソ、見てろよ。クソッタレが……!」 とはいえ、まあ、このときこれ以上無理だってのも事実なわけで、易々腹の虫は治まらねえわな。だから憂さ晴らしをしようと思った。 せっかくの魂を捨てることになったとしても、目に付く奴は片っ端から殺してやろう。もともと殺生に対する禁忌感なんて、欠片ほども俺にはないんだ。 血は吸えなくても、単にぶち撒けるのだって嫌いじゃねえ。それで溜飲を下げられるなら御の字だろう。 そう思って、俺は瓦礫だらけのワルシャワを歩きだしたよ。出会った奴は老若男女ぶっ殺しながら、血を浴びることで少しずつ冷静になっていったから考えることも出来た。 まず当たり前だが、この状態が永遠に続くわけじゃねえ。俺らにとって魂は燃料だから、力を使えば消費される。 仮にパンチ一発撃ったとしても、それが常識の枠を超えた魔術的な技である以上、規模に比例して燃料タンクには空きが出来る。 だからこのときも、少しずつだが満杯状態は解消されていたわけだ。しかしさっきも言った通り、俺は燃費がいいほうなんで一気にがばっと入れ替えは出来ねえ。 今後、余計なストレスを避けるためには、上手い具合に飢えを維持する必要があると思った。それはそれでストレスだが、満腹で動けなくなるよりそっちのほうがクールだろう。 豚は醜い。当然だよな。獣の爪牙として、ハングリーを心がけるほうが理に適ってる。 もちろん、腹減りすぎた状態は論外だぜ。そんなの自殺行為だし、ダイエットで拒食症になったんじゃ堪らねえ。 腹八分目っていうのはあくまで比喩だが、俺にとってベストなラインを模索する必要性を感じたよ。そして、他の奴らはどうしてるのかと考えた。 このとき、だいたい二・三年は顔をあわせてなかったからな。俺がそうであるように、どいつもばらばらと色んな戦場に散ってたよ。 これからすぐ後、そんな俺たちが再び召集されるわけなんだが、もちろん当時の俺が知る由もねえ。けど、多少なり予感はあったな。 時が来るまで好きに暴れて、各々魂を蓄えろ――それがハイドリヒ卿に言われたことだから全員そうしているだろうし、俺が満腹になった以上は他の奴らも近い状態にあるはずだ。 現段階で、魂の許容量が俺より多い奴、少ない奴。個人差はあっても、相応に意識し始めてる頃合だろう。ゆえにおそらく、再会は近い。 そしてそのとき、なんだおまえはその程度かと思われたら癪だろう。特にハイドリヒ卿から失望だけはされたくねえ。 許容限界――なんとも腹の立つ事実だが、こればっかりは仕方のないことだった。少なくとも、一朝一夕じゃあどうにもならん問題だろう。 だったら、他に何かしらのカードが要る。単純な魂の多寡では量れない、寡兵であろうと上手く運用する戦術なり陣形なり、要は高度な理に俺が達していると見せ付ける必要があったんだ。 最低でも、その何たるかを看破した上で目指している。漠然としたもんじゃなく、パラダイムシフトを具体的に思い描けているということ。 餓鬼じみた功名心や対抗心と言われたらそれまでだが、大事な類の幼稚さだろう。この感情が分からない奴は、つまんねえ人生を送ると思うぜ。 「何か、上手い案は何かねえのか。あるはずだろう、考えろ」 「喧嘩は必ずしも数じゃねえ。現に俺は一人だった頃も、群れてる奴らに負けなかった。そうだよ、慣れてるはずじゃねえか」 「大軍で押し潰すよりは、そっちのほうが俺らしい。だったら簡単な話だろう。簡単なら答えは簡単に見つけなきゃいけねえんだよ」 歩きながら、殺しながら、ぶつぶつ呻いていたが答えは出ず、再び癇癪が爆発しかけた。 「ああァ、だコラ――邪魔くせえんだよォ!」 そのとき、傍らの建物がぶっ壊れてな。訳もなくムカついたんで、落ちてくる瓦礫を力任せにぶん殴ったよ。 バスくらいの大きさはあったろうが、言うまでもなくそんなもんは屁でもねえ。木っ端微塵にして何十メートルも吹っ飛ばし、お陰でえらくさっぱりしちまった倒壊跡に、そいつはいたんだ。 「……ぁ」 最初の印象は、鳥。 鶴とかそういう、翼のでかさに反してあまり重さを感じない系統のやつがいるだろう。まずそいつを連想したな。 次いで、これは写真や絵画じゃねえのかと。 事実このとき、俺はあいつが羽を持ってるように見えたんだ。そんな女は、絵の中くらいにしかいないだろう。 「その、あなたは……」 「あァ、うるせえな。俺のことはどうだっていいんだよ」 しかし、すぐ現実に引き戻された。喋る以上は絵でも鳥でもねえわけだし、人間なら見つけ次第に全員殺すと決めてたんで殺そうとしたよ。 だけどな。 「助けてくれたんですね。ありがとうございます」 「……はあ?」 俺がてめえを助けただって? いったい何処をどう解釈すればそうなるのか、さっぱり分からなかったから考えた。 そうすりゃ思い浮かぶのはさっきの瓦礫だ。この女は倒壊する建物に潰される寸前だったらしく、俺がそいつをぶっ飛ばさなきゃあ確かに死んでいたんだろう。 その点から、俺が女を助けたとするのは一応正しい。まったく意図しちゃいなかったし、このときだって殺す気なんだが、向こうの主観としちゃあ間違ってないんだ。 そう理解して、俺は盛大にうんざりする。何せありがとうなんて言われたのは、ヘルガを除けば初だったからな。そしてヘルガと同じように、勘違いしてやがるのも鬱陶しい。 「俺は別に、おまえなんか助けちゃいねえよ。だいたい、おかしいとは思わねえのか」 俺に礼を言う以上、こいつは俺が先の瓦礫をぶっ飛ばしたと理解している。そしてそれは、当たり前だが人間業じゃねえわけで…… 「俺のことが怖くねえのか」 「だって、あなたはSSでしょう?」 きょとんと、周りの状況を考えればアホじゃねえのかと思うほど素の調子で、女は俺を見つめていた。 「ドイツ軍です。そして私、ドイツ人です」 「味方です」 「…………」 「仲間です」 「…………」 「だから大丈夫です」 「いや何がだよッ」 俺に愛国心なんてもんはなく、ドイツ人だからって関係ねえ。事実ここに至るまで、自分と同じ軍服着てる奴らを殺しまくってきたんだよ。 女だから? 非戦闘員だから? それもまったく意味を成さねえ。とは思うものの、これまたあっちの主観じゃ知る由もないことだ。 「最初にびっくりしたのは確かですが、軍の方なら我々が知らないような力をお持ちだったりするんでしょう。我々を守ってくださるために」 「だったら怖がるなんてこと、罰が当たっちゃいますよ。なのでもう一度あなたに感謝を……お陰で私は救われました」 「……ああ、いい。もういい。分かったからおまえ喋んな」 論で立場を分からせるのは不可能だし、そもそも俺はそういうことが得意じゃねえ。 なら行動しかないだろう。調子狂ってアホらしくなっちまったが、ともあれ初志は貫徹する必要がある。 つまり殺して分からせよう。そう思い、改めてやろうとしたときだった。 「ところであなた、私と同じなんですね」 「……あん?」 またしても、意味の分からない言葉。いや、今度は本当に不明な言葉だ。 一度ならず二度までも出鼻を挫かれたのは初めてで、怒るよりも当惑する俺を他所に、女は嬉しげな笑顔を浮かべる。 そうしてよく見ろと言うように、自分と俺を交互に指差しつつ言ったんだ。 「彼の肌は雪のように白く、また薔薇の花のように赤く、髪は羊毛のように白く、目は美しく透き通っていた」 「聖書はお読みになりませんか? 私たちは、共にノアの子なのですよ」 「こっちの意味でもお仲間の人とは、さすがに初めて会いました」 「あ……」 それで、ようやく理解した。そうだよ、確かにその通り。 白い肌。白い髪。色の抜けたその瞳。 すべて日の光を嫌い、夜にしか生きられないモノの証だった。少なくとも、俺に近い業を持った奴なのは否定しようがねえ。 ある種の啓示めいたものが、電流のごとく全身を走り抜ける。 「同じ、同じか……」 「はい。きっとこれは、主のお導きなのでしょう。お名前をお聞かせください。私はクラウディア」 「俺は……ヴィルヘルム」 そして、同時に確信したんだ。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈使〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。 「ヴィルヘルム・エーレンブルグだ――ああ、おまえの恩人様だよ」 だったら役に立ってもらおう。こいつにはその義務があるし、俺にはその権利がある。 「ついてこい。ここから出るぞ」 炎上するワルシャワで、伸ばした俺の手を疑いもせずに取る間抜け。 それがこのトボケた女、クラウディアとの出会いだったよ。 クラウディア・イェルザレム――あいつは尼僧で、まあ要するに抹香臭い尼さんだった。 〈服装〉《なり》や言動から普通は即座に分かって然るべきだが、他のインパクトが強すぎて初見じゃ気付くのが遅れちまったよ。 どうして尼さんが他国の、しかも戦場なんかにいたんだと思うかもしれねえが、別におかしなことじゃない。 殺し合いをやってるだけが戦争じゃあないからな。それがメインなのは確かだが、だからこそつつがなくドンパチ出来るようにしなきゃならん。 つまり怪我人の世話や、食い物に関わる衛生管理。そしてそういうもんは、基本として荒くれ野郎どもの手に負える類じゃねえ。気分的にも、ヒゲ面の筋肉馬鹿から介護されるのは嬉しくないだろ。 だからそこは女の仕事だ。しかし並の女じゃあ、三日と待たずに裸足で逃げ出すのもまた事実。 ならどんな女が望ましい? 愚問だわな。白衣の天使って言葉があるように、地獄でもがいてる連中を救うのは聖職者サマの領分だ。 クラウディアは、そういう立場の奴だった。好んでそんな仕事に従事するなど、俺に言わせりゃ沙汰の外だが、一般的には筋の通る話だろう? ワルシャワ駐屯軍の看護団所属。それがあいつの肩書きで、以降は俺と一緒にいたよ。 正確には、ほとんど無理矢理連れてった。ワルシャワの推移については、勝手に資料でも調べてくれ。当時、小競り合いはまだ続いていたからクラウディアの仕事もあったはずだが、そんなもんは関係ねえ。 何せ、こっちに召集が掛かったからな。ハイドリヒ卿が戻って来いと言う以上、あんな所に留まっている理由はねえ。実際、慣れない軍隊生活も飽きていたわけだしよ。 俺はクラウディアを連れて行った。前述の通り無理矢理だったが、さほど嫌がられもしなかったぜ。何せ恩人様の言うことなんだ。 そして、俺があいつに固執したのは単純明快。〈喰〉《 、》〈ら〉《 、》〈う〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈だ〉《 、》。 壁を突破するブレイクスルー。パラダイムシフトを求めてるって言ったよな。あいつはそのための生贄なのさ。 溜め込める魂には個人ごとの限界がある。ワルシャワで俺は自分の器を自覚して、これを超えるのは当面無理だと分かっていた。 しかし、だからって何もしないわけにはいかねえだろう。これもまた言った通り、俺以上のキャパシティを持つ奴がいても引けを取らないために。 ハイドリヒ卿から失望されないために。 喧嘩は数じゃねえ。これを負け惜しみにしないよう、具体的な案が要る。 それがあいつさ。クラウディアだ。至極簡単に言っちまえば、俺は質を重視することにしたんだよ。 考えてみれば、まったく難しいことじゃない。人間には個人差があり、容姿や能力に格差が存在するもんだ。 なら、魂の面にも差はあって然るべきだろ。ただの油を何万ガロンも積むよりは、たとえ少量でもジェット燃料を持ってる奴のほうが強い。 爆発力、使用効率、密度、精度。求めているのはそういうもんだ。 薔薇の夜を展開するのに、百の雑魂を消費して百の威力を出すのが基本だとする。だが、単一魂の僅か数パーセントそこらの消費で、千の威力を出せるとしたら最高じゃねえか。 ああもちろん、高品質な魂はそれに比例してキャパを食うことだろう。だったら結局、器の容量がすべてだって? いいや違うね、必ずしもそうじゃないと考える。 適応力。馴染み易さ。俺が使う場合に限り、劇的なほど化ける魂。 つまり俺だけが〈上〉《 、》〈手〉《 、》〈く〉《 、》〈折〉《 、》〈り〉《 、》〈畳〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈魂〉《 、》か、俺にとってのみ至高へ変わる魂だ。予想できるのはこの二パターンで、どっちだろうと結果的には変わらねえ。 そこらへんは、人間関係だって同じだろ。俺が言う台詞じゃねえが、一般に身内と他人じゃ重さが違う。命の価値は等価じゃねえ。 だからクラウディアはそういうもんだ。先に挙げた二つのパターン、その両方。 極めて俺と相性のいい魂だと定義した。 理由? 勘だよ。なんて言ったら呆れる奴は多いだろうが、大事なことだぜ。俺は自分の嗅覚を信じてる。 まあ、あえて理屈をつけるとするなら、同じアルビノだというシンパシー。 そして、もう一つあるんだが…… これについては少しばかり複雑なんで、ぼちぼち語っていくとしようか。 「………ッ」 ワルシャワの一件から早二ヶ月。俺はパーダーボルンって田舎にいた。 後々爆撃される町なんで相応に慌しい空気もあったが、別にたいした問題じゃない。大事なのは、当時そこがハイドリヒ卿のお膝元だったことでな。 適当な空き家を占拠して眠ってた俺は、その日も普段通りに目を覚ましたよ。 もちろん、言うまでもなく夜だったがね。 「っ、ああぁ~、だりぃ……」 「おいクラウディア、てめえおいコラ、何処にいる」 で、そこにはあいつも一緒に暮らしていた。〈塒〉《ねぐら》選びは俺の完全な独断だったが、そこらへんを斟酌してやるつもりはねえ。 こっちの都合にあっちが合わすのは当然で、実際文句どころか喜んでたよ。尼さん的には嬉しい町だとかなんだとか。 そのせいか、逆に俺のほうが辟易していることもあったんだ。 「はいぃ、はいはい。なんでしょうか、呼びました?」 「……てめえ、まーたほっつき歩いてやがったのかよ」 それがこれだ。この馬鹿、てめえの身も弁えず、昼日中にうろつき回るのを好みやがる。 お陰で始終、火傷だらけみたいな有り様だ。夜はその治療で包帯まみれになるのが常だし、にも関わらずこれっぽっちも慎みやがらん。もはやイカレてるとしか思えねえわな。 だいたいよぉ、このときみたいに貧相な半裸姿を見せられる俺の身にもなれっていうんだ。 「あのですね。ちょうどいいから少し手伝ってくださいよ。このへんに、こう、素敵な感じに包帯を巻くのがなんとも一人じゃ大変で」 「聞けよ、人の話を」 「いや、もちろん聞いていますし言いたいことも分かっていますよ? だけどそれはそれとして、今は人助けを優先しましょう」 「男の方なら女性全般に優しくし、その愛を受けて我々女性もまた一段と」 「うるせえ、やなこったっつってんだろ。だいたいてめえ、男だ女だ言うんだったら少しは恥じらいを持ちやがれ。なんだその様ァ、ぶち殺すぞ」 「まあ! そういう気配りも出来る方だったのですね。驚きました、意外です」 「そして今、感動しました。あなたなりに私を案じてくださったのですね」 「言い方は、少々紳士じゃありませんでしたけど」 「だから、てめえはなあ……」 こいつもまた、結構な率で会話がまともに成立しねえ。そこはヘルガと同類で、実に面倒くさい感じの馬鹿だ。 「はいはい、分かってます。仰ることはごもっとも」 「ですが、こういうときに取り乱すのは程度問題なのですよ。私とて、この状況に何も感じないわけではありません」 「男性に肌を見られれば恥ずかしいし、狼狽えます。しかし、そこで縮こまったら治療が覚束ないでしょう。はしたないとするか否かは、時と場合によるのです」 「なので、一刻も早くなんとかしましょう。あなたにとってもそのほうがいいのでしょうし、さあ恥ずかしがらずに手伝ってください」 「俺は恥ずかしがってんじゃねえよ。呆れてんだよ」 「だいたい、取り込み中なら諸肌脱いだままやって来んなよ」 「あなたが呼んだから来たんじゃないですか」 「阿呆、それこそ時と場合の問題だろうが! 返事だけすりゃあいいことで、ああぁ、このクソ!」 文句言ってる間も、目の前でもぞもぞやられるのが鬱陶しいことこの上ない。 別に降参したってわけじゃねえが、これ以上引っ張るとぶん殴っちまいそうだった。 「おら貸せ。こんなもんでもたもたしやがって下手糞が」 「あた、痛たたた……すみません、あの、もっと優しく」 「ナマ言ってんじゃねえよ、自業自得なことだろうが」 俺だって、餓鬼の頃はこの手の火傷をしょっちゅうしてきた。黒円卓の一人になってからはほぼ克服したも同然だが、それでも当時のことを忘れちまったわけじゃない。 似合わねえと言われそうだが、包帯の扱いには慣れてんだよ。ずっと、自分の怪我は自分でどうにかしてきたんだからな。 あまり愉快な記憶じゃねえけどよ。 「ふふ、うふふ……」 だっていうのに、俺が苦虫噛み潰してる横でクラウディアは笑ってやがる。 「何が可笑しい」 「いえ別に、誤解しないで。あなたをからかっているわけじゃありません」 「ただ、その、やっぱり私は薄いのだなと」 「そしてあなたは眩しいなと」 「同じノアの子だというのに。強いですね、ヴィルヘルムは」 「…………」 「どうしたらあなたのようになれるんでしょうか、コツとかあります?」 「簡単なことだろ」 努めてぶっきらぼうに言いつつも、俺は湧き上がる興奮を意識して続ける。 「叫べ。自分の感情を解放すんだよ。限界なんかあると思うな」 「出来るってよ、信じて一気にぶちかませ」 俺はずっと、こいつがそうする瞬間を待っていた。 「なるほど、つまり私は我慢しすぎと言うんですね? 分かりました、やってみましょう」 「私はいま恥ずかしい。恥ずかしい。ええ、恥ずかしいったら恥ずかしい」 なぜなら、そのときこそこいつのことを―― 「すー、はー」 「おっはよー、ベイー。遊びに来たよーん」 「おはようってあなた、そんな時間じゃないでしょう。いくらあいつが夜型でも、言葉は正しく使うべきです」 「それでベイ、あなたクラウディアに悪さしてたら許しませんよ……て」 「あ……」 「――げッ!」 「んなァッ!?」 「きゃあああああああああっ!」 いや、すまん。しょうもねえこと思い出したわ。この辺の内容は飛ばしてくれ。 「な、な、なななな何してやがるんですかこの腐れ外道は! そっ首叩き落しやるからそこに直れェ!」 「いやーん、ベイが、ベイが汚れていくー!」 「ばッ、こら、勘違いしてんじゃねえよこれはだなァ―――」 「きゃあああああっ、きゃああああああ、きゃああああああああああっ!」 「やかましい! キンキン喚くな、この馬鹿女!」 「え? だって、あなたが力いっぱい叫んだほうがいいって言うから」 「うわぁおぅ、鬼畜ぅー!」 「ふ、ふふ、ふふふふふ……」 「もぉぉう許さん、断固許さん! 表出ろやァ!」 「あああァ、上等だコラやってやんよォ!」 とにかくだな、あの家には他の奴らもちらほら顔見せに来てたんだよ。 別に俺らは仲良しなんかじゃなかったし、今もそうだが、クラウディアに興味を持ってる奴は多かったからな。 でだ。 「まあ、事情はだいたい把握しました。誤解で先走ったことは謝罪しましょう」 「しかしですね。やはり私は、あなた方の関係を良しとすることが出来ません。到底許し難いです」 「別にてめえから許可もらおうなんて、こっちはハナから思っちゃいねえよ」 「お呼びじゃねえから、さっさと帰れ。そしてもう二度と来んな」 「は、笑わせないでください。他人の家を不法占拠している分際で、偉そうに家主気取りとはちゃんちゃらおかしい限りです」 「ああぁん?」 「なんですか、私が間違ったことを言いましたか」 「まあまあ、そんな尖ってないで二人とも。目の前でバチバチされたら、せっかくのご飯が不味くなっちゃうじゃない」 「ねえクラウディア。このザウアークラフトお代わりちょうだい。大盛りで」 「はい、いくらでも。お好きなだけ召しあがれ」 「…………」 「…………」 「……あの、私もお代わり」 「てめえのぶんはもうねえよ」 「だから、あなたにそんな権限はないんですー」 「だとコラ」 「もーう、ほんとに仲悪いわねあんた達。いい加減うんざりするって言ってるでしょー」 「そうですね。お行儀が悪いですよ二人とも」 「これ以上揉めるようだと、お皿を取り上げてしまいますが、どうします?」 「ちッ」 「ふんっ」 なんてな。俺がクラウディアを囲ってる理由については、当然こいつらも知っていた。 先の召集は、黒円卓最後の席である七位を決めるための祭りで、結果マキナが選ばれた後に雁首そろえたから、そこで全員にクラウディアのことを話したんだよ。 それについて、マレウスは純粋な興味を覚えたらしい。何せ、質的に強力な魂を見繕うって発想を最初に掲げたのは俺だったからな。正確にはハイドリヒ卿が例外だが、そこらへんは後で話そう。 とにかく、マレウスはクラウディアを観察している。こいつの性格上、場合によっては横から掻っ攫う気もあるんだろうが、そんなことを許す気はねえ。互いにある程度の牽制をしている状態だ。 そしてもう一人のヴァルキュリアは……いや、あの頃は本名で呼んでたから、ここでもそう言っとこう。ベアトリスは…… 「なんですか」 「なんでもねえよ」 なんとも笑っちまう話だが、義憤に燃えてやがったな。〈死神〉《ヴァルキュリア》なんて皮肉られた癖しやがってよ。 当時の奴は、まだ死神を冠するに至ってねえ。そう俺は判断したから、ベアトリスって呼んでたんだ。 本人的には魔名で呼ばれたほうがムカつくだろうし、嫌がらせをしてもよかったんだが…… 「腹減ってるからって俺に当たるな」 馬鹿が、ほとんど〈殺〉《く》ってねえんだもんよ。器はスカスカで、もっと溜め込めるだろうにやってねえ。そんな奴を、さすがに死神とは呼べんだろう。 ちなみに、例の許容限界。この段階で俺より明確に上だと分かったのは、意味不明なメルクリウスを除外して三人いる。 まず、当たり前だがハイドリヒ卿。あの人は桁が外れてるからここで比較するのもおこがましいし、完全な別格だと思ってくれ。 残りはマキナとシュライバーだ。特に後者は腹立たしいが、そこはもうしょうがねえ。質で凌駕するしかない。 あえて他も挙げるなら、いまいち読めないのはザミエルだったな。あいつも言ってみりゃあスカスカだったが、ベアトリスみたいに半端をやってたわけじゃねえ。 もしかすると口に出さなかっただけで、俺と同じ方針だった可能性もある。 ま、だからってあいつがクラウディアを欲しがることはなかったがよ。 「あのですね、私が怒ってるのはそんな低次元のことじゃありません」 「あなたの身を案じているんですクラウディア。もっと自分を大事にしなさい」 「うーん、毎度毎度の展開ねえ」 「おまえ、いつも同じこと言って飽きねえのかよ」 「飽きません。というか、そもそもそういう問題じゃありません」 呆れ返るマレウスに、面倒くせえとしか思わない俺。 そして、微苦笑しているクラウディア。 すでに何度も見ている光景だろうに、ベアトリスはアホな律儀を貫くんだ。 おめでたい、と言ってもいいがな。 「分かっていますか、こいつはあなたを殺す気ですよ。そんな男と同棲だなんて、正気の沙汰じゃないでしょう」 「まして聖職者が自殺行為を……教義に反するし、女性としても駄目駄目です」 「そうは言いますけど、困りましたね」 まったく困ってるように見えなかったのは、きっと俺だけじゃないだろう。 こと、おめでたさに関してなら、クラウディアも相当な筋金入りだ。 「私は彼に命を救われた身ですから、恩を返さないといけません。たとえ、死ぬことになったとしても」 「命には命で報いる。そういうものじゃないでしょうか」 「だから、絶対そんなのは偶然です。たまたまです。不可抗力です! こいつが人助けをするなんて、地球が滅びても有り得ません!」 「おいおい、ひでえ言われようだな」 「いやでも、実際そうなんじゃない?」 「それに彼は、約束をしてくれましたし」 「半分しかない私の片側を見つけてくれると」 「また、その話ですか……」 「はい、結局はその話です」 さすがのベアトリスも、嫌そうな顔で頬を歪めた。この話ではクラウディアを突き崩せないと理解しているんだろう。 「そんなものは、ただの錯覚です。あなたは半分なんかじゃない」 「そう言ってくださるのは嬉しいですが、あなたの強さが証明しているんですよ、ベアトリスさん」 私は薄い。半分しかない。それが俺に、クラウディアの魂を得難いものだと確信させた一番の理由だった。 こいつは俺と同じで夜に特化した奴だから、逆に言うと昼の世界を持ってない。 つまり、〈普〉《 、》〈通〉《 、》〈の〉《 、》〈半〉《 、》〈分〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 「私には、あなた方がとても眩しく感じられます。熱くて、強くて、輝いて見えます」 「それはきっと、私にない世界を持っているからなのでしょう。単純に考えても、倍は違う」 「だからそんな風になりたいと思うし、そのためなら命も懸けます。半分のまま、何もせずに生きて死ぬよりはそうしたい」 「憧れなんです。私は光の世界にどうしても触れたいんですよ」 そういうわけで、クラウディアは自分の持ってるすべてのものが人の半分以下だと思っている。 卑下や自虐と言うよりは、外への憧憬からくる過大評価だ。日の光に祝福された常人どもは、〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈に〉《 、》〈違〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。 しかし実際、ベアトリスが言った通りそんなもんは錯覚だ。喜怒哀楽一つとってもクラウディアが不足してるとは思えないし、周りの平均がそれを倍近く上回ってるなんてこともない。 にも関わらず、こいつはそのことを頑として認めない。ああ、絶対に認めないだろうよ。光の恩恵が有っても無くても、実はたいした違いがないなんて。 俺もまた認めちゃいねえ。闇の恩恵を得た己が、吸血鬼だと自負するように。 だからこそ、〈そ〉《 、》〈そ〉《 、》〈る〉《 、》のさ。 「あんた、なかなかやるじゃない。意外に女を騙くらかすのが上手かったのね」 「別に騙したつもりはねえが、見る目はあるだろ。そういうことだ」 自己を半分だと信じているクラウディア。ゆえに、欠けたものを得たと認識すれば劇的に化ける。 言ってしまえば、こいつは自分の限界がまだまだこんなもんじゃないと思いたいんだ。 かなり屈折しちゃいるが、そこは俺と似てるだろ? 相性が良く、化ける可能性を多分に秘め、挙句に恩義まで抱いてやがる。 命は命で報いるのが筋? なあおい、こんなお誂え向きの魂が他にあるかよ。笑っちまう話じゃねえか。 「死にたいでも、死にたくないでも、ぶち殺してやるでも構わねえ。俺と一緒にいれば、いずれ必ずどれかを爆発させてやるよ。おまえの半分しかない心を、“人並に”膨れあがらせてやる」 「光とやらが届く領域まで、導いてやろうじゃねえか」 そして、その瞬間に殺してやる。 喰ってやる。吸い尽くしてやる。 「おまえは俺のもんだ、クラウディア。俺が拾った命なんだから俺に捧げろ」 「はい。あなたのことは信頼してます」 「怖い気持ちはありますが、これもまた半分ですから……」 「生涯に人並の何かを得られるのなら、たとえ最後の瞬間でも構いません」 「……ついていけない。おかしいですよ、誰も彼も」 ベアトリスは嘆いていたが、この時代におかしくない奴なんて世界にいたか? いやしねえよ。何処にも、一人も、欠片だってな。 「死の恐怖さえもが半分ね。ふーん、なるほど。そう思いたいわけだ」 ああ、そう思いたいんだから思わせればいい。それは可能性となり、やがて変革の呼び水となる。 自分が認めさえしない限り、限界なんかねえんだよ。 俺は勝利を信じていたし、今だって信じてるぜ。 ずっと、ずっと、未来永劫かつ絶対にな。 そんな感じで、当時の俺たちは日々過ごしていた。 意外に暇な生活をしてたんだなって? 正解だ。基本、どいつも好きにやってたよ。 もちろん、単にぶらぶらしてない奴らもいたぜ。たとえばマキナは誰とも馴れ合わなかったし、自主か強制かは知らないが城から一切出てこなかった。 クリストフもこの頃は見かけなくなってたし、バビロンやザミエルは何か書類仕事をやってたな。あの二人は軍組織の立場が相応にでかいから、俺らみたいにさっさとバックレるのが難しかったんだと思う。 ああ、そうだよ。ここに至っての俺たちは、厳密なところ軍人じゃなかった。死んだとされてる奴は多かったし、他も客観的に見れば逃亡兵の扱いだろう。いわゆる社会的な肩書きってやつは消滅している。 俺はもともと、軍に帰属意識なんてないからどうでもいいことだったがよ。 それでも、自分はSSだと思ってたぜ。あくまで、ハイドリヒ卿の親衛隊。 聖槍十三騎士団、黒円卓の第四位。俺にとって大事なのはその肩書きと、真祖であるという誇りだけ。 だから俺を動かすのはハイドリヒ卿の命令と、俺が俺であるために必要なものを掴むときだ。 その二つが降りる、あるいは訪れる機会を待った雌伏のとき。 あれは、そういうある日のことだったな。 「しかし珍しいですね。あなたが私の買い物に付き合ってくれるなんて……いったいどういう風の吹き回しなんでしょう」 「聞き分けのない馬鹿の御守りだ。まったく俺の本意じゃねえ」 言ったように、この頃はやるべきことがほぼなかった。マキナの参加で黒円卓が完成し、いよいよどでかい祭りが近づいてるのは感じていたが、そのためには色々準備も必要だろう。 それが終わるまでの待機状態。何かトラブルが起きるか、俺に出来ることをハイドリヒ卿に求められるかしない限り、やることがないんだよ。 お陰で暇を持て余していたのは事実だが、こんな暇潰しは御免被りたいと心から思ったぜ。 「なあおいシュピーネ、わりと真剣に頼むんだけどよ。この手の買出しは今後おまえがやってくんねえか? 相応に礼はするぜ」 「確かに、中尉の仰りたいことは分かりますし、出来れば私もそうしてあげたいところですが……」 横を歩いていたシュピーネが苦笑しつつ、クラウディアに目を向け言った。 「残念ながら、美しい女性の頼みを無碍にしたくもありませんからねえ。ご容赦ください」 「まあ、シュピーネさんったら、お上手ですこと。うふふふ」 「はっはっは、いやいやこれは、まったくもってベイ中尉が羨ましい」 「アホか。てめえらそろって死ね」 なんとも腹立たしく、やってらんねえ。 買い物が大事だってのは、そりゃ分かるぜ。種々の日用品にしてもそうだが、何より食い物の問題がある。 クラウディアはもちろんのこと、俺だって人間的な食事は必要なんだ。絶食しても早々弱りはしないだろうが、そのぶん魂の消費が激しくなる。 それは無駄遣いでしかないんだから、よほどの特殊状況でもない限り当たり前にメシは食うさ。いずれクラウディアを取り込むため、器に相応の空きを作っておく必要はあったものの、さすがにこんな消費の仕方は馬鹿馬鹿しいにもほどがある。 とはいえ、この状況もアホらしさでは大差ねえが。 「俺が言いたいのはなァ、どうしてわざわざギラギラしたクソ太陽の下で買い物せにゃならんのかっつうことだよ。冗談じゃねえ!」 「つらいですか? 日傘を差します?」 「俺はてめえに言ってんだよ!」 叫ぶと頭がくらくらしたぜ。わざわざ見上げる気も起きねえが、空は天の誰かをぶち殺してやりたいほどの快晴で、比喩じゃなく全身が焦げやがる。 常識外れの回復力と耐久力を得た俺だからこそ耐えているが、クラウディアには地獄の釜も同然だろう。事実、表情だけはにこにこしてるが汗の量からして尋常じゃねえ。 「そのままぽっくり逝かれちゃ敵わねえんだよ。だからこうして、やりたくもねえ無駄消費しながら馬鹿の御守りをやってんだろうが!」 「いいですねえ。ベイ中尉は、まさにクラウディアの騎士であると」 「んんむ、なにやら私、感動を覚えてしまいます」 「だから、あのなあ……」 「ごめんなさい。あなたが怒るのはもっともですけど、こればっかりは譲れなくて……」 「一番幸せな時間なんです。慣れてもいますから無理はしませんし、本当にきつくなったら言いますから、どうか」 茹であがった顔――と言えば照れてるみたいな表現だがそうじゃなく、マジに焼かれているクラウディアは瞳を潤ませつつ祈るように懇願してくる。 本人にとっては悲壮で切実なのかもしれないが、俺からすればタチの悪いギャグだったぜ。証拠にまったく笑えねえ。 「悪いがシュピーネ。店じゃあなるべく、ごたつかないようにやってくれ」 「可能な限り迅速にな。おまえ、そのためにいんだからよ」 「了解しました。努力しましょう」 だから俺はクラウディアを〈無視〉《シカト》して、シュピーネにそう言った。こいつはこういうときに使えるんだよ。 ごく当然の話だが、戦時の市場が真っ当に機能しているはずもない。ほとんど闇市みたいなノリだったし、そういうところで満足な買い物をするには色々必要なものがある。 コネ、身分、賢しらさ、がめつさ。どいつもボろうとしてくるんだから、脅したり〈賺〉《すか》したりしながら交渉が出来なければならない。 単に金や物々交換のネタを持ってるだけじゃあ駄目なんだよ。むしろ金しかない世間知らずが一番のカモだ。 「俺は欲しけりゃ強奪するクチだが、後々考えると面倒だ。そういうわけで上手いこと頼むぜ」 「え、あの、どういうことです? お買い物なら私だけでも出来ますけど」 「クラウディア、あなたは今でも充分に魅力的な女性ですが、ベイ中尉の伴侶になるならもういくらか強かにならねばなりません」 「薔薇に棘があるように、女性も毒がなければ完全とは言えませんよ。己が魔性を意識し、かつ磨きなさい」 「魔性、ですか。言葉としてなら分かりますが」 「そうですねえ。たとえばマレウスやバビロンなどが中々いいお手本になるのではと」 「おい、くだらねえこと言ってねえでさっさと行けよ」 「あとクラウディア。おまえは今まで、買い物に出るたび巻き上げられたのを覚えてねえのか」 「それは、ですが仕方ないでしょう。こういうときは物価が高くなるものですし、お店の方も家族を養わなければならないのですから」 「そう、仕方ない。資本主義の摂理ですね。ゆえに彼らは、より多く儲けようと試みる」 「物価が上がれば上がったなりの適正価格があるというのに。それすら超えて値を釣り上げようとしてはいけません。自分だけが美味しい思いを出来ればよいと……やれやれ、まったく浅ましい行いです」 「確かに、しかしそんなことが……」 「おや、ご存じない? あなたは今まで、散々その手口に嵌ったというのに」 「え……?」 「はっはっは。ゆえにここは、私の出番なのです。まあお任せください」 「これでも以前は、〈収容所〉《ゲットー》の官吏をやっていましたからねえ。その立場はもう捨てましたが、当時の勘は鈍ってませんよ」 「小ずるい輩を締め上げるのは得意技です。ふふふふふ……」 「そういうことだ。ここはあいつにやらせとけ」 ついでに言えば、俺たちに当座の金を工面してくれたのはシュピーネだ。ハイドリヒ卿にそんな頼み事は出来なかったし、メルクリウスにはもっとしたくねえ。 だから頼れるのはこいつしかいなかった。この場にしても、適正どころかタダ同然に値切り倒して、今までのマイナスを取り返してこいと言っている。 こういう世間的な知恵に一番長けてるのは奴だから、今でも結構な人数がシュピーネの世話になってるんだぜ。 「では行って参ります。そういうことですから、お二人はそのへんを散歩でもしてきたらいかがです?」 「あん?」 「いいんですか?」 「はい。役目を果たせば私などはお邪魔虫。必要な物は買い込んでおきますから、どうぞあなた方はご自由に」 「ああ、何せ良い天気ですからねえ」 などと言いながら、俺にとってはクソでしかない陽気の中を歩き去っていくシュピーネだった。 その背を見送り、溜息しか出てこねえ。 「何がお散歩だ、ボケ。だったら俺はもう帰るぜ」 「おら、行くぞクラウディア」 と、踵を返そうとしたのだが。 「あの、ちょっと待ってくださいっ」 意外にも強い力で袖を掴まれ、思わず俺は仰け反ってしまう。 「えっと、ですね。そういうことなら是非とも私、行きたいところがあるんですけど」 「あのなぁ……」 「分かってます。分かってるからお願いしてます。どうか、どうかっ」 「ああ、主のお慈悲をっ」 「拝むな。祈るな。縋りつくな」 「あと、誰が主だ」 本当に、いちいち抹香臭いが押しだけは強い奴。 これ以上、用もないのに歩き回るなんて大概だが、こういう女であるからこそ、俺にとって役に立つのもまた事実だ。 しかし、実際問題きついぜこりゃあ。この日差しはかなり洒落になってねえ。 と思ったんだが。 「やっぱり、あなた的には耐えられないほどつらいですか?」 「どうしても無理だと言うなら、私も諦めますけれど」 「やはり、あなたの健康が第一ですものね」 「あぁん?」 それは、まるで、俺が、おまえより、弱いみたいな。 「言うに事欠いて、健康だぁコラ」 自殺志願すれすれ毎日みたいな奇特人種が、よくほざいたよ本当に。 「俺は平気に決まってんだろ、上等だ行ってやらァ!」 「まあ嬉しい。じゃあ行きましょう、こっちこっち!」 「ば、ちょ――引っ張んなオイ!」 てよ。 正直、なんか乗せられてるような気がせんでもなかった。 「うふふ、どうです。ほっとしました? ここなら日は入りませんよ」 そして、クラウディアに連れて行かれたのは教会だった。よくよく考えりゃあ実に尼さんらしい選択だし、どんな地獄巡りをやらされるのかと構えていたから拍子抜けする。 「ま、〈吸血鬼〉《おれ》にとっちゃあ〈地獄〉《それ》に近いのかもしれねえけどな」 「うん? 何か言いました?」 「何でもねえよ。とにかく、おまえが来たかったのはここなんだな?」 「はい。この町の聖堂は歴史もあって有名なんですよ。前に言いませんでしたっけ?」 「記憶にねえなあ」 俺にとってはどうでもよすぎる話だから聞き流していたんだろう。それにクラウディアは少しだけ拗ねてみせる。 「聖堂だけじゃなく、町全体が宗教都市として有名なんです。だから、あなたが私をここに連れてきてくれたのは嬉しかったし、お礼を言ったじゃないですか」 「そもそもこの町は千年以上前、カール大帝が神聖ローマ帝国を興したとされる由緒正しい土地でしてね」 「ああ、うるせえうるせえ。俺は歴史のお勉強なんぞに興味ねえんだよ。一人で勝手に盛り上がるな」 ぶっきらぼうに言い放ちつつ、しかし俺はなるほどなと思っていた。 いわゆる聖地というやつだからこそ、住人の民度も相応に高いはずだとクラウディアは信じていたんだろう。そのせいで無様にボられまくったと。 まあ、単にこいつが間抜けなだけかもしれねえけどな。他人への過大評価が、服着て歩いてるような奴なんだし。 「もう、そうやってすぐ馬鹿にしますけど、過去を学ぶことで得られるものは多いんですよ」 「へいへい、そうかよ。だがそのわりに、この有り難い場所はガラガラじゃねえか。人っ子一人いやしねえ」 「むぅ、確かにそれはそうですね。今まではいつも多くの人で溢れていたから、私も中々入れなかったんですが」 言って、不思議そうに聖堂内を見回すクラウディア。人っ子一人いないというのは本当で、俺たち以外は完全な無人だ。 「神父が夜逃げでもしやがったのかね」 「そういうわけでもないのでしょうけど、私が所属していた教区じゃないし分かりませんね」 「しかし、事情はともかく、誰もいないのなら私がやるしかないでしょう。皆さんのぶんまで祈ります」 「分かった分かった。勝手にしてくれ」 俺の嫌味もろくに通じず、逆にやる気を出しやがるから辟易した。 こうなりゃ好きにやらせとくほうが無難だなと思ったので、俺は適当な椅子に腰を下ろし、事が終わるのを待つことにする。 クラウディアは十字架の前で跪き、無言で祈りとやらを捧げていたよ。 「……あのですね」 だが、それもほんの僅か。たぶん十秒もしねえうちに沈黙は破られた。 「ヴィルヘルムは神の存在を信じていますか?」 「はぁん?」 しかも、そんな益体もないこと。訊く相手を盛大に間違ってるとしか思えない。 「藪から棒に、なんだそりゃあ。信じてるわけがねえだろう」 「ですか。ならばそれは、いったいどうして?」 「簡単なことだ。そんなもんがもしもいるなら、戦争なんか起きるはずねえ。俺みたいなもんが生まれるはずねえ」 「てめえらの言う神って奴は、愛とやらに溢れてるんだろう。すべてを創り、導く全能の主なんだろう」 「だったらなんで、世界はこんなことになっている? 理屈がまったく通らないぜ。餓鬼でも分かる矛盾点だ」 「なるほど。よく聞く類の主張ですね」 だけどこいつは、優しくあやすような態度を取るので癪に障った。こっちはもともと、他人から偉そうにされるのが嫌いだしよ。 「てめえ、何が言いたいんだ」 「いえ……ただ、神とはそういうものですよ。聖書の中でも、かなりの人々を死なせています」 「つまりこんなことになっているのが、神の創り給うた世界なのです」 「はッ、だったらただのクソ野郎じゃねえか」 サドで、屑で、サイコなイカレてる変態だ。俺が言う筋でもガラでもないのは承知してるが、所業と信徒のイメージが乖離しているのは確かだろう。 ゆえにおまえら狂ってる。そう言ってやったんだがよ。 「人を死なせることがクソ野郎、ですか。だったらあなたの奉ずるラインハルト・ハイドリヒ様はどうなのでしょう」 「まだお会いしていませんから、実際のところは分かりません。だけどあなた方のお話を聞く限り、彼も〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈か〉《 、》?」 「すべてを愛し、ゆえに壊す。あなたが言うところの、実に堂々たるクソ野郎ですね」 「てめえ……!」 キレかけ、同時に腰を上げかけ――だが一番激怒したのは、咄嗟に反論できない自分自身にだと気がついた。 クラウディアはそんな俺を制すように、すみませんと言って首を振る。 「意地の悪い言い方になりましたが、あなた方に文句をつけたいわけではありません。その目的も、具体的には知りませんし」 「だけど、目指しているものは漠然と理解できます。それは私も、他の人々もきっと同じ」 「善き処に行きたい。そうなのでしょう?」 善き処。ヴァルハラ、天国、祝福、幸せ…… 俺たちの魂は、皆そこへ辿り着くことを願っている。 個人ごと、それぞれの価値観によって形に違いがあろうとも、概念としては同じであるとクラウディアは言っていた。 「その場所で、我々を待っていてくださるのが父なる神」 「私はそう思っています。そして、だからこそ我々は、そこへ至れるように道を選び、歩まねばならない」 「あなたがラインハルト・ハイドリヒ様を敬するように、私も私の〈光〉《かみ》を敬い歩むのです」 「ですから――」 そこで一旦言葉を区切り、背中しか見えないが笑っているのが分かる調子で、こいつは話に結びをつけた。 「もう少し、あなたは信心深くならないといけませんよ」 「ちッ……」 結局、やりたかったのは説法かよ。言われなくても俺はハイドリヒ卿を信じているし、その点については並の宗教家なんぞ目じゃねえと自負している。 「てめえ、今は皆々様のために祈るんじゃなかったのかよ。あっさり個人的なもんにすり替えやがって、いい面の皮だぜ」 「挙句に神様の前でぺらぺらとよ。あんまりよく知らねえが、そういうのは不敬なんじゃねえのかい?」 「まあ、言われてみればそうですね。だけど、あなたのためだけに説いたことではありませんよ」 「上手く説明できませんが、ここでは言葉に出して喋ったほうが天に通じやすいように感じたので」 「は、なんだそりゃあ。意味分かんねえんだよ、バーカ」 と、小馬鹿にしてやったときだった。 「いやいや、そう侮ってはいけない。事実私としても、非常に興味深い話だったと感じている」 「なるほど、君がクラウディア。ベイの言っていた少女なのだね」 「――ッ、てめえ!」 瞬間、俺は弾かれたように振り返る。 そこには、揺らめく水銀の影法師が立っていた。 「あなたは……」 同じく振り向き、呆然とした呟きを漏らすクラウディア。ああ、無理もねえし気持ちは分かる。俺とてまったく慣れねえんだからよ。 〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。意味が分からねえんだよ、輪郭さえもが水銀のごとく定まらねえ。こうして目の前に存在してるが、刹那も待たずに容姿を認識できなくなる。 まるで巨大すぎるから、衆愚ごときにゃ全容が掴めないとでも言うように。 蟻を見下ろす死に掛けの化け物。それがこいつだ。 黒円卓の副首領――カール・クラフト=メルクリウス。 「いったい、何しに来やがった」 「これはまた、ご挨拶だな。おまえが退屈しているだろうと、私は良い話を持って来たつもりなのだが」 「何だと……?」 つまり、要は召集か。いきなり脈絡もなく現れやがったので驚いたが、実のところそう珍しいもんでもねえ。 そこまでたいした頻度じゃないが、こいつの神出鬼没ぶりは定番だ。何処からともなくふらっと現れ、ムカつくことを言って去りやがる。 俺の考えを察したのか、メルクリウスはくくっと笑って――あくまでそう感じるだけだが――頷いた。 「そう、今夜だ。他の者らも呼んでいる」 「ああ、それからそちらのお嬢さん。君も彼と一緒に来るがいい。私は心から歓迎するよ」 「え……ですが、それは」 「おいてめえ、何を勝手なこと言ってやがる」 形容不明な、たとえようもなく嫌な予感がそのときした。ほぼ反射で、俺はクラウディアを隠すように立ち塞がる。 「こいつは城に連れてかねえよ。そもそも関係ねえだろうがッ」 「ほぉ、関係ない。関係ない?」 「関係ないかどうかを決めるのはおまえではない。無論彼女でも、私でも」 「黄金がお召しだ、ベイ。この事実を前に、否も応もあるまいよ」 「……ッ」 それは本当のことなのか? 数瞬迷ったが、答えは出ない。 ただ、こうなったからには突っぱねることなど出来ないと分かっていた。 「結構、結構。おまえもだいぶ物分りがよくなったようで、非常に助かる」 「それではまた。待っているよ、カズィクル・ベイとその姫君よ」 そうして、ゆらゆらと奇怪な影を纏いながらメルクリウスは去っていった。 残された俺たちは、いいや俺は苛立ちに歯噛みする。 「クソが、うぜえ状況作りやがって」 クラウディアのこともそうだが、それとは別にどうしても腹の立つことがあるんだよ。 「カズィクル・ベイだと?」 俺の魔名。そして名付けたのはメルクリウス。 吸血鬼の王を意味するそれは気に入ってる。何よりも相応しく、これしかないと思ってもいる。 だが、その名をあいつに呼ばれるのだけは心の底から許せなかった。言い難い、おぞましいほどの拒否感があった。 名付けの際に言われたことが、脳をぐちゃぐちゃに掻き回すんだよ。 「違う。俺は、何も奪われてねえ」 「逆なんだよ、奪う者だ……!」 「ヴィルヘルム……」 見上げてくるクラウディアには意味不明な癇癪だろうが、俺だって分かりたくねえ。 認められないし許せない。これはそういう呪いなんだ。 城の名はヴェヴェルスブルグ。 SS長官、ヒムラーの野郎が購入した古城で、もとはお偉いさんたちが趣味で使ってるチンケなオカルトクラブの社交場だったらしい。 ゆえにもちろん、俺たちはそんなもんに加わってねえ。だがハイドリヒ卿とメルクリウスは例外で、当時からいたんだよ。 そして、完全に乗っ取った。本物の神秘と本物の魔道。ファッションじゃねえ真なる超常を体現し、黒円卓を創りあげた。 それがどういうことだが分かるかい? もはやこのとき、城は〈普通〉《うつつ》のもんじゃなくなってたっつう意味だよ。 俺がパーダーボルンに居たのは、かつてのヴェヴェルスブルグが近所にあったからなんだが、実際のところ関係ねえ。 世界法則から切り離された空間は距離と座標の概念を破壊する。つまり資格のない奴は百年頑張っても入るどころか近づくことさえ出来ねえし、逆に招かれれば世界中の何処からだろうと入れるんだ。 実際に試した奴はいないがよ、まず間違いないことだと俺は思うぜ。そう確信できるほど、あれは度外れた代物だった。 なぜなら、前にも言っただろ。この現実に別の世界を創りあげるということが、何を意味しているのかな。 そうだよ、城はハイドリヒ卿の創造だった。そしてこれも前に言ったが、創造を維持できる時間は長くねえ。 外への干渉規模が少ない求道型でも、せいぜい数時間が限度だろう。覇道型に至っては、数分から数十分。燃費が良いと言った薔薇の夜にしたところで、この枠から大きく外れているわけじゃない。 それほどまでに創造の維持は難しいんだ。一個人による渇望で世界なんてものを捻じ曲げるのが、どれだけ難儀なことかは分かるだろ? ゆえにハイドリヒ卿の城は格が違った。紛れもない覇道の創造でありながら、この時点で二ヶ月近く存在していたんだよ。しかも、一向に薄れる兆候が見えやしねえ。 それが具体的に何を意味しているかは当時まだ分からなかったが、俺たちの中であの人が絶大なものだったという事実の説明には充分だろう。 カリスマってのはああいうもんで、一度浴びたらどういう形であれ染められちまう。何があっても影響下からは逃げられねえ。 そう思ってたし、信じてた。ああ、だからこそ―― 「は……そんな、嘘でしょう?」 あの日、城で聞かされたことに俺は心底驚愕したよ。ほぼ呆気に取られたと言っていい。 玉座にあるハイドリヒ卿は変わらず破格の存在で、その威光を前にしているからこそ理解できない。 それは召集された他の連中も、まったく同じ気持ちだったことだろう。 「クリストフが、消えちまった……?」 「然り。残念ながら真実だよ中尉。ヴァレリアン・トリファ神父は逐電した」 「…………」 「あの馬鹿、いったい何考えてんのよ」 当たり前だが、同志の裏切りに傷ついたなんて感性は俺たちにない。太陽が西から昇ったのを見たような、有り得ない出来事に当惑していただけだ。 ハイドリヒ卿に背を向けるという事実の重さは何度も言った通りだが、他にも信じられない要素はあったからな。 「しかし先の仰りよう、もしや彼の行方は、まだ誰にも掴めていない?」 「重ねて、然りだ。まったく不徳のいたすところだな」 「馬鹿な……!」 百歩譲って、逃げただけならまだ分かる。だが、たとえ一時的でも逃げおおせたということのほうが驚きだった。ハイドリヒ卿がそれを許してしまうなど、俺にとっては天地が引っ繰り返ったにも相当する。 しかし玉座の黄金は自嘲の笑みを浮かべるばかりで、「してやられた」とでも言うかのようだ。これはどういう悪夢だと皆が思ったし、場に細波めいた動揺が広がっていく。 「卿ら、私を何だと思っている? 別に全知全能などではないのだぞ」 「見えぬことはあるし、違えることも当然ある。忠とは盲目的になることではあるまい」 「あの神父は、かつて私の肉体と同調した聖餐杯の資格者だ。すなわち、私に化けられる者だと言っていい」 「少なくとも、その実績を持っている。ゆえに見逃してしまったのだよ。自分のことほど分からぬものだと、昔からよく言うだろう。あれはどうやら真理だな」 「つまり――」 そこで口を開いたのはザミエルだった。この出来事に一番思うところがあるだろう奴なんだが、声からまったく感情は窺えない。 「彼はそれを見切ったうえで利用したと?」 「いいや、おそらく無自覚だろうよ。自分のことが分かっておらぬのはあちらも同じだ」 「ではこの後、クリストフの行き先を突き止めるのは……」 「ああ、容易だ。その気になれば匂いで分かる」 匂い。つまりそういうことなのだろう。 クリストフは、かつてハイドリヒ卿が暗殺されたという体裁を取ったとき、その肉体に同調した経歴がある。だから意識無意識に関わらず、あいつからは黄金と同じ匂いがしているんだ。 俺にはまったくそんなもの嗅ぎ取れねえが、当のハイドリヒ卿が言う以上はそうなのだろうし理屈としても筋は通る。 実際、狩人の世界なんかじゃ常識的なことだろう。獲物に警戒されないため、同じ匂いを全身に塗りたくって行動する。そして生じる隙を衝く。 ハイドリヒ卿がクリストフの出奔を見逃してしまったのはそういうことで、個人的感情を抜きにすれば神父の手並みを讃えてもいい。だが、それが無自覚だったと言うなら今じゃ完全な逆効果だ。 あいつはハイドリヒ卿の匂いを撒き散らしながら潜伏していることに気付いていない。こうなれば、逆に見つけてくれと言っているようなものだろう。 そう思って、俺は事態のあっけない収束を予感していたんだが…… 「とはいえ、追わん。しばらく好きにさせてやるし、卿らもそう了解しろ」 「は、え……?」 「彼をこのまま見逃すと?」 「そう、しばらくはな」 てっきり即時の追跡命令が下ると思っていた俺たちは、予想外の展開に唖然とした。どいつもすでに軍籍を剥奪された身の上だが、それでも戦時の逃亡が死に値する罪なのは知っている。 クリストフは死ななければならない。これは示しで、絶対の規律だ。温情など掛けていい次元ではないし、そもそもハイドリヒ卿はそんな人じゃねえ。 「言ったであろう。あの神父もまた、自分のことを分かっておらぬと」 「それを気付かせるための時間が必要なのだよ。心配せずとも、そう長くは掛からん」 「じきに、すぐにだ。彼の処遇はそのときに……ゆえ卿らは、それまで余計な真似をせぬように」 「神父の渇望が熟れて落ちる瞬間を待つ。よいな」 「――はッ」 不可解だったが、そう言われたからには否応もない。俺たちはそろって頷き、当面クリストフを追うなという命に従った。 神父の渇望が熟れるまで、勝手なことをする奴が出ないよう釘を刺す。ハイドリヒ卿の真意はともかく、それが今回の召集における趣旨なのだろうと考えた。 しかし―― 「まあ、解せぬ者も多かろうが、いま黄金閣下は一度たりともクリストフという名を使わなかった。その事実を、各々吟味すればよい」 「前置きはここまで。本日、諸君らを召した理由は別にある」 それまで黙ったまま薄ら笑っていたメルクリウスが、ハイドリヒ卿の横に立ってそんなことを言い出した。俺たちは一斉に顔をあげる。 それはもちろん、こいつの言うことなんぞ碌なモンじゃねえという経験からくる警戒だった。 本題はクリストフ云々じゃないと言うなら、いったい何があるんだと。 「諸君らは、カチンの森を知っているかな?」 「カチン……?」 「左様、それぞれの戦場でも噂になっていたことだと思うが」 生憎、まったく覚えがない。だが他の奴らは違ったようで、一応の頷きを返している。しかも嫌そうな顔をしてるのが一人や二人じゃなかった。 「例の虐殺事件ですね。ポーランド人の捕虜たちが、帰国の途中で何万人も行方を絶ったという」 「そしてカチンの森から死体がざくざく。なんか〈ドイツ〉《わたしたち》の側がやったことになってるんでしょ、あれ」 「別に虐殺自体はどうでもいいけど、身に覚えのないことで文句言われるのは気に食わないわね。いやまあ実際、こっちがやったのかもしれないけれど」 「状況的には、ソ連の仕業としか思えないと聞きましたが」 「その通り。しかし、あちらも易々と認めはしない。戦時に馬鹿馬鹿しい話だが、人道上の建前というものがあるのでね」 「誰しも己の側に大義があるという理屈を通したがる。ゆえにゲッベルス卿がプロパガンダをしているのだが、ここ数年はどちらがやったやらぬの水掛け論だな」 「私としても事の真相が気に掛かってはいるものの、この場に限って言えば関係ない。問題は別にある」 つまり、それをどうにかしろということか。話の流れを理解した俺たちに、メルクリウスは短く告げた。 「カチンの森で怪異が続発しているとのことだ。これを駆逐してもらおう」 「なぜ、とはもはや言うまい?」 問いに、俺たちは無言の肯定を返していた。この手の命を受けることは初めてじゃない。 「消え行く神秘の断末魔だ。カール曰く、前座の締め括りとしては申し分ないらしい」 「我々が成すべきことを成すために、排除すべきものを排除せよ」 〈了解〉《ヤヴォール》――そろって全員が頷いた。そうだよ、これは必要なことで、大まか二つの意味がある。 訓練と予防攻撃。神秘とやらの領域に足を踏み入れている俺たちは、同種と戦うことで己の力に理解と進化を促せる。 そしてそれは、近く始まるであろう本番を前に邪魔な奴らを消すという意味にも繋がるんだ。なぜなら俺たちを止められる者がいるとすれば、同じく神秘の領域にある存在。 障害になるかもしれない輩をあらかじめ潰しておく。大事の前には当然であり、異を差し挟む余地はない。 ではさて、誰が行くかなんだが…… 「バビロン、卿だ。誂え向きであろう。期待している」 「はい、承りました。必ずや」 やはりか、妥当な人選だと俺は思った。怪異の正体は聞いてないし不明だが、現場が死体だらけの森だというなら適任は自ずとそうなる。 が、頭で分かっちゃいても感情の面は別だった。これが前座の締め括りなら尚のこと、待ってるだけじゃあつまらねえ。 そもそも、わざわざ召集かけて雁首そろえた事実がある以上、全員とは言わないまでも何人か投入する気があったんじゃないのか? 「ふふ、ふふふふ……」 そう期待しつつ顔をあげた俺に向け、メルクリウスは笑っていた。あの全容が知れない、胸糞の悪くなる佇まいで。 「暇でしょうがないかな、ベイ」 「ならば結構。おまえもカチンへ行くがよい。命じられたのは先の通りバビロンゆえ、同行するなら彼女の指揮下に入ってもらうが」 「他の者らも、行きたければ志願せよ。バビロンが許す限りこれを認める」 「我々こそが最後、かつ最強の神秘であると自負し、その気概を黄金に示したいと言うなら止めはせぬ」 「ということで、よろしいかな?」 「ああ、構わん。最後の腕試しだ、存分にやるがいい」 「特にベイ、卿にとっては意味あるものとなるだろうよ」 「はッ――」 応え、武者震いが身を走った。正直このとき、クラウディアを不本意ながら城に連れて来たことや、その意図なんかは綺麗さっぱり忘れちまったよ。 ハイドリヒ卿の求めに応じて牙を揮う。それが俺にとって、今も変わらず最大の名誉であり生きる目的なんだからな。 「で、おまえはカチンに行かねえのかよ?」 「ああ。クリストフのことでいつ命が下るやもしれぬし、そもそもブレンナーの指揮下に入るなど冗談ではない」 「最後の神秘か……確かにそそる謳い文句だったが、〈副首領〉《クラフト》の口上に踊るのも御免被る」 「なるほど。まあ気持ちは分からんでもねえとだけ言っておこうか」 その後、謁見を終えた俺はザミエルとそんなことを話していたよ。城中の一室に放り込んでおいたクラウディアのことは言った通り忘れちまってたし、気分はカチンにのみ向いていた。 エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ――こいつとの出会いは最悪の部類だったが、もはやお互い気にもしてねえ。仲が良いわけじゃなかったが、黒円卓の中で一番馬が合う奴を挙げろと言われれば迷わず選べる。そんな相手だ。 ハイドリヒ卿に芯から魅せられ、忠を誓っている者同士。加え、〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈面〉《 、》でもそうだ。 「時によ、この城またでかくなった気がしねえか?」 「同感だ。そして事実だな。気のせいではない」 「ハイドリヒ卿のもとには戦場の死者が集まってくる。この城はその塊だ、ゆえに今このときも増え続けているよ」 「もはやどれだけの数なのか見当もつかん。後年、この戦で死んだ者の数が弾き出されれば、ある程度の予想を立てることも出来るだろうがな」 「今は到底数え切れんよ。そして算出できん以上、無限とすら言っていい」 「いいや実際、ハイドリヒ卿の器は無限なのかもしれん。そうであっても不思議はなかろう」 「確かにな」 あの人には許容限界など存在しない。俺もそう思っていたから頷いた。 二ヶ月にも渡り展開し続けている創造は、それだけ膨大な魂により支えられている。しかもザミエルが言った通り、増え続けているんだ。 各地の戦場から供給される死者の生産量――おかしな言い方だが、そのスピードが消費の速度を上回っているから増えている。と普通は考えるところだろうが、俺は違うと思っていた。 おそらく、いいや間違いなく、城を維持する〈燃料〉《たましい》はまだ一人ぶんたりとも減ってねえ。 喩えるなら、度外れた規模の組体操だ。全員に負担を散らせているから個人あたりのつらさはそうでもなく、脱落者は未だゼロ。 軍事的に言うのなら、陣形の完成度が並じゃないということだ。芸術的に統率された集団が、文字通り城の礎となっている。 常識外れの効率で、それを実現するのは魔的とすら言える指揮官の才能だろう。そして人を使うのが上手ければ、ただの雑兵を勇者に変えることも出来る。 戦意を昂揚させ、鼓舞し、導く。そんな力だ。つまりハイドリヒ卿は、所有しているすべての魂を英霊の域に格上げして、質の変化を起こしてるんだ。 分かるか、おい。俺が見出したブレイクスルーを、あの人はとうに実践していたんだよ。 しかも量まで備えてな。まったく恐れ入る話じゃねえか。 「愛しているから。彼はすべてを愛しているから、すべてを呑み込み、また壊す。まさにヴァルハラを成すエインフェリアの軍勢だ」 「私はその列に加わりたい。貴様はどうだ、ベイ」 問われるまでもない。俺は即座に返答した。 「マキナが生まれるところを見ちまったからな。この城の、いいやハイドリヒ卿の一部になれば不死身になれる。よく知らねえが、それをエインフェリアっていうんだろう?」 「そうだ。貴様、教育と言われるものは何も受けていないだろうに、勘だけはいいのだな。そういうところは評価する」 「改めて訊くが、怖くはないのだな?」 「当たり前だろ。こんな名誉が何処にある。おまえは違うって言うのかよ」 「いいや、違わん。私もまったくの同感だ」 先に言った、〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》ってのはそういうことだ。黒円卓で俺とザミエルの二人だけは、ハイドリヒ卿の祝福がどういうものかをしっかり弁え、そのうえで求めていた。 マキナも理解はしていただろうが、あいつはそれを忌避している。だが敵対はしてねえし、筋も通してるんで殊更文句をつけるつもりもねえ。 馬鹿な野郎だと思っちゃいるが、あいつの死に様はあいつのもんだ。尊重してやろうって気持ちはある。 クリストフはきっとびびって逃げたんだろうし、シュライバーは頭がまともに働かねえから理解もクソもねえだろう。 他はまあ、なんか自分のいいように解釈してるんじゃねえのかな。よく言うだろ、のめり込みすぎると視野を狭める。あるいは、黄金の光が眩しすぎて目が潰れたか。 ハイドリヒ卿の本質を分かっちゃいねえ。愛ってやつが与えることだとでも思ってんなら、大間抜けもいいところだ。てめえらは欲しい欲しいと言ってるくせによ。 不死身にしろ、死者蘇生にしろ、縋りついて叶えたなら逃がしてなんかくれねえよ。そのままグラズヘイムに取り込まれ、ハイドリヒ卿の一部になるだけ。 どうも女ってのは、てめえに甘い考え方をしがちだからな。マレウスやバビロンあたりは危ねえんじゃねえかと思ってる。まあ律儀に教えてやるつもりもねえんだが、自力で気付くことが出来ればいいと思っちゃいるぜ。 俺やザミエルみたいな境地によ、それで至れれば問題ねえだろ。 「しかし、そうなるといまいち分かんねえのはベアトリスだな。あいつは馬鹿だが、一応あんなでも兵隊だ。気付かないはずもねえ」 「そして、気付いたならぎゃーぎゃー言ってくるのがあの潔癖お嬢様だろう。なのにその手の話は一切しねえ」 「正直言うと、俺は少しばかり不気味だぜ」 「…………」 沈黙は、ザミエルも同様に解せない気持ちを持っていたからだろう。しかしそんなの、俺らがどれだけ頭を捻ろうが出てこない答えでもある。 「いずれ分かるさ。あるいは直接、私から奴へ問うことになるかもしれん」 「もともと、キルヒアイゼンの世話を焼くのが私の仕事みたいなものだからな」 「おお、だったらそのことはおまえに任すぜ。だがあっちはあっちで、少佐の世話を焼くのが私の仕事ですとか思ってそうな話だな」 「抜かせ。貴様の知ったことではないわ」 実際、このときから半世紀以上経った後にベアトリスの目的ってやつは割れるんだが、それは別の話だからどうでもいい。ここじゃあ関係のないことだ。 「貴様は貴様で任を果たせよ。カチンに行くのは勝手だが、せいぜい無様を晒さんようにな」 「それと世話云々の話になれば、貴様にもうるさい小娘がついているだろう」 「あの尼僧を今回どうする。連れて行く気か?」 「あ? そりゃあおまえ、当たり前だろ」 言われてようやく、俺はクラウディアのことを思い出した。あいつはカチンに連れて行く。 なぜって? 俺がいない間に死なれちゃあ困るからだよ。戦時だし、迂闊な奴だし、このザミエルなんかに面倒見てくれとは言えねえからな。 そして何より、修羅場を経験させればあいつが化ける可能性もある。カチンの怪異とやらがどんなもんかは知らなかったが、真っ当な神経じゃあ耐えられない状況になるはずだろう。 だから心が焼き切れ、爆発し、その瞬間にクラウディアは覚醒する。そんな展開を、俺は望んでいたんだよ。 「言っちまえば、あいつは戦闘糧食みたいなもんだ」 「なるほど、では餞別だ。これを貴様に渡しておこう」 「はん? なんだよいきなり」 そのときザミエルが寄越したのは、何かの書類が入ってると思しき封筒だった。 「残務の処理をしているときに、偶然だが見つけてな。余計な世話かもしれんが、目を通しておけ」 「貴様が欲していることのためには、必要な物だと考える」 「…………」 まったく意味が分からなかったが、そう言うなら断る理由も特にない。俺は黙ってその書類を受け取った。 「あっ、こんな所にいたんですねヴィルヘルム。探しましたよ」 「――、てめ、大人しく待ってろっつったろうが。なに勝手にふらふらほっつき歩いてやがる」 「いや、だって、それはその……」 「ではな」 そして偶然にも馬鹿を見つけちまったから、場は有耶無耶のまま終わったんだ。 書類の中身についてもそうだが、何よりも―― 「いったい、何処で何してやがったんだよ」 「うふふ、そこは内緒です」 このとき、突っ込んで訊けばよかったよ。 ハイドリヒ卿がクラウディアを召していると、さすがにそのことは覚えてたから引き合わせたぜ? 通り一遍のやり取りだけで拍子抜けはしたものの、別にメルクリウスが適当なことを言っていたわけでもなかった。 しかし、カチンの怪異という、俺に言わせりゃ目先のテーマパークに目が行って、色々と抜けていたのは否めない。 もっと吟味すべきことはあったんじゃねえのかと、いま改めてそう思うぜ。 しかしな、そこまで思い至らなくてもしょうがない状況になってたんだよ。別に言い訳してるわけじゃねえが。 まあ、なんだ。つまり要は騒がしくてよ。 「わー、見てくださいあれ。戦車です戦車、戦車いっぱい並んでます!」 「そうですね、実に勇壮な光景です。戦争そのものは忌むべきことで、無いほうがいいに決まってるんですが、だからといってそこに関わるすべてを否定するのは間違っている」 「特に兵士一人一人の気持ちについては。敵であろうと味方であろうと、彼らはそれぞれ大事なものを胸に抱いてそこにいます」 「国家の未来、友人や恋人、そして家族の安寧を願う心は、決して貶められるべきではない。時代の狂気、などと後年言われたくはありませんし、まして可哀想な犠牲者みたいに上目線の同情をされたくはないですよ」 「だってそれじゃあ、この時代に生きたすべての人々は、自分で何も選べない馬鹿と言われているようなものじゃないですか」 有り難いアホのご高説を賜りながら、感慨深そうに頷いているクラウディア。俺はといえば、ここまでうんざりし通しだったよ。 「おいこら、クソチビ馬鹿女」 「てめえはなんでここにいんだよ」 カチンに向かう列車の中、すでに何度も訊いたことを言っていた。何度も訊いたんだから返答なんか分かってるし、それで状況が変化するはずもないと知っちゃいたが、気前よく達観できるほど寛大にはなれねえ。 ムカついて、イラついてんだから仕方ねえだろ。文句は無限に出てくるもんだ。 「なんです、またそれですか。いつまでもグチグチと鬱陶しい男ですね」 「そもそもあなたに私の行動を云々する権利はありません。リザさんがいいって言ったんだからいいんですよーだ、ふん」 「そのバビロンは今いねえじゃねえかよ。この場の指揮系統はかなり曖昧な状態だぜ。つーか出鱈目か」 「いくらなんでも、こんなよぉ……」 「ふっふっふ、今は私が指揮官なのです」 と鼻を鳴らしてクラウディアが胸を張る。マジにこいつぶち殺してやろうかと思ったぜ。 「だから二人とも、仲良くしないと駄目ですよ。命令です」 「やなこった」 正規の指揮官であり、階級的にも一番上のバビロンはここにいない。俺らが着くまでに情報収集その他の準備を整えると言い、単独カチンへ先行していた。 普通、そういうのは下っ端の仕事なんだが、見た目の怪しさや威圧感がもっとも薄いのはあいつなんだから異を挟むことは出来なかった。 真面目な話、リザ・ブレンナーという女は、本性を知ってる俺たちから見ても貞淑なご婦人としか思えない雰囲気を持っている。 なのでそこについては別にいい。もとからソ連領であるうえに、面倒な議論の対象になってるカチンで、軍人風を吹かしながら目立つのは賢くないって理屈くらい分かってたさ。適材適所の道理ってやつだろう。 しかし代わりに、アホ丸出しなこっちの状況はどうなんだよと。 「ベイ、子供じみた癇癪は見苦しいですよ。あなたがそんなだから、こういうことになってるんでしょう」 「リザさんも、あれで意地の悪い人ですからね。私としても不本意ですが、あなたに首輪を嵌めるならクラウディアが適任なのもまた事実」 「だいたい、本を正せばこの子を連れてきたのが悪いんじゃないですか。ただの自業自得ですよ」 「うるせえな。それを言うなら、てめえがしゃしゃってきたから俺ァ苛々してんだよ」 「そういやさっきもなんか言ってやがったな。時代の狂気? それぞれの思いと選択だぁ? なら俺らが決めた関係にごちゃごちゃ横から抜かすんじゃねえよ。てめえに筋も通せねえのか」 「それとこれとは話がまったく違います。あなたみたいなクソ男の毒牙に掛かろうとしている女性のことを、私は見過ごしたり出来ません」 「断固、絶対に阻止しますよ。ええ、騎士たる意地と誇りに懸けて」 「おいクラウディア、おまえ指揮官ならこのタワケ野郎をクビにしろよ。今すぐ消えろと言ってやれ」 「馬鹿ですか、あなたこそ消えてください。それからクラウディアも、いい加減に目を覚まして。こいつの屑っぷりはもう分かっているでしょう」 「いやあ、これは参りましたねえ」 「そんなのこっちの台詞ですよっ」 「俺の台詞だボケナスこら」 なんてな。クラウディアのカチン行きを知ったベアトリスが、息巻いて同行を志願した結果にこの様だ。なんとも鬱陶しくて堪らねえ。 そうじゃなくても、戦地を掠めることは一度や二度じゃない道行きだ。いきなり爆撃や機銃掃射を受ける可能性も相応に高い。 もちろん俺やベアトリスにとってそんなもんは脅威じゃねえが、一番やばい立場の奴がのほほんとしてやがるから逆にこっちがぴりぴりしちまう。 つまり、機嫌よく呑気な旅とは到底なり得ない状況だったわけだ。 「まあまあ、落ち着いてください二人とも。あまりいがみ合ってばかりだと、今後の段取りに支障が出るかもしれないじゃないですか」 「そろそろ列車移動も限界だから、次で車に乗り換えると聞きましたよ? それは激戦地にどんどん近づくことでもあるんですから」 「……ええ、はい。確かにそうですね。ここから先は鉄道も破壊されていると聞きますし、仮に通っていても堂々と行くべき所ではありません」 「リザさんが手配を済ませているはずですから、そのお世話になりつつ上手にやっていく必要がありますね」 と苦笑するベアトリスだったが、重いものが声に混じったのを聞き咎めて俺は内心せせら笑う。 いわゆる独ソ戦というやつの趨勢はこの時点で完全に赤のほうへ傾いており、客観的に挽回はまず不可能。いずれベルリンまで押し込まれるのは目に見えていた。 国なんてもんに何の恩恵も受けていない俺からすれば、むしろザマァ見ろなんだが、遣る瀬無い悔しさのようなものを滲ませているベアトリスは違うらしい。そのへん、実に滑稽だと思える。 そんなこいつを元気付けようとでも思っているのか、クラウディアは明るい調子で話しだした。 「リザさんですか。あの人はなんていうか、本当に出来る女性なんですね。マタハリみたいでカッコいいです」 「マタハリ? ああ、確か前の大戦で活躍した女性スパイでしたっけ。よく知っていましたね」 「はい。実は結構、活劇物の本や映画が好きなんです。神に仕える身ではしたないと、よく怒られましたけど」 「ここまでも、こう、実にスパイ的なシーンが幾つもあって、不謹慎ですがドキドキしました」 「ワルシャワから帰るときとは、あまりに違っていたもので」 「おまえがさっきからニヤついてたのはそのせいかよ、アホらしい」 どうでもいい話題だったが、あまりに呆れたんで思わずぼやいた。戦時の交通網が軍事優先になるのは当然で、この列車もそういうもんだから気軽に使えるわけじゃない。 民間人にしてもそうだが、むしろ軍人こそ不自由だ。何らかの作戦行動以外で、勝手にあっちへ行ったりこっちへ行ったり出来るはずもないだろう。 よって常識的な話、正規の手段で俺らが長距離移動するのは不可能だった。要所ごとにある〈誰何〉《すいか》の嵐は避けられねえし、クラウディアが言った通りワルシャワから帰るときは派手に悶着を起こしている。 しかし今回、そこはバビロンの手配で切り抜けられた。詳しいところは興味もないから知らねえが、俺らは重大任務を受けたご一行ということになってるらしい。 実際、まったくの嘘でもないしな。命令の出所が総統閣下様ではなく、ハイドリヒ卿というだけで。 「まあ何でもいいが、くだらねえボロは出すなよ。カチンまではまだ遠い」 「歩いてくのは、さすがに面倒くせえからよ」 「ええ、分かってます。ただ、そのカチンについてなんですが」 「具体的に、現地では何が起こっているんでしょう?」 「さてね。俺にとっちゃあ何でもいい」 「それともおまえ、尼さんよろしく祈りで俺らを助けようとか思ってんのかよ」 「虐殺されたっつう、可哀想な連中の恨みを浄化してさしあげるのか? は、笑わせんなよ」 「ベイ、あなたはほんと、つくづくいい加減にしなさい。自分から彼女を引っ張り込んだくせに、なんですかその言い草は」 そろそろ喧々囂々も疲れたのか、溜息まじりのベアトリス。だが俺としては思ったことを言っただけなんで、いちいち諌められる覚えはない。 「ごめんなさいクラウディア。気を悪くしましたか?」 「いえ、もう慣れましたし。彼が言っていることも分かります」 「仮にも兵士の目から見れば、現実の人死にを前に祈るしかしない者は疎ましいでしょう。それはそれで不実だと、私も思っていますから」 「カチンの犠牲者たちを弔いたいという気持ちは、もちろん持っていますけどね。今はともかく、あなた方の迷惑にならないよう努めたい」 「だから色々聞きたいのですが、そもそも怪異とは何なのですか?」 「どうも聞く限り、こういうことは初めてじゃないのでしょう?」 「ああ、それは、その……」 言いたくないのか、説明できないのか、ベアトリスは言葉を濁していたんで俺が横からざっくり答えた。 「魔術師狩りだよ」 「魔術師?」 「おお、少なくともこれまではそうだったな」 怪異とは要するにおかしなことで、通常有り得ない現象を指す。 そしてそんなもんが起こってるなら、普通じゃない何かがいるっていうことだ。 「つっても、生の魔術師様と殺り合ったわけじゃねえ。そういう連中は、この百年くらいでほぼ絶滅しちまったらしいからな」 「知ってる範囲で生き残ってるのは、マレウスとメルクリウス……同列に語るべきもんじゃねえだろうが、そんくらいだ」 「あとは、英国のクロウリーですかね。本物と呼んでいいのは、他に殆どいないと聞いています」 最初は渋っていたくせに、今度はベアトリスが横から入ってきやがった。どうも、俺に好き勝手喋らせるのが気に食わないらしい。 「ちょうど産業革命あたりからです。工業の発達と反比例して、古い神秘は消えていったということですよ」 「なるほど。なんとなく分かります。最近は信心深くない人も増えていますし、成り手が少なくなったということですね?」 「まあ、飛行機で空を飛べる世の中に夢は見にくいということでしょうか。私の印象だと、魔術師は時代に逆行していますから」 「なんでも古いほうがいいと思ってるような老害だわな」 電話や電報の一本で済むことを、わざわざ手間と体力かけて仰々しくやりたがる。マッチ使えばいいものを、やれ自然界のエレメンタルがどうたらこうたらと面倒くせえ。 基本、魔術師や魔術師かぶれってのはそういうもんだ。マレウスはだいぶ柔軟なほうだろうが、それでも例外というほどじゃない。 「別に珍しい話じゃねえだろう。そこらの堅気でも年寄りほど機械音痴だ。あれは覚えられないんじゃなく、覚える気がねえんだよ。古き良き世界ってやつが好きなのさ」 「そして、そういうもんはだいたいが錯覚だ」 懐古主義。あるいは憧古主義とでも言うべきか。昔のほうが今より素晴らしいと考えること。 そりゃあそんな場合もあるだろうと一般の奴らは言うかもしれんし、ロストテクノロジーの存在も否定はしねえが、魔術師どもの過去礼賛は限度をぶっ千切ったところがある。 「連中の頭ん中じゃあ、古代人は不思議な力で現代真っ青の大戦争でもしてたことになってんだろ。アホかっつんだわ、チンケな石くれ積み上げてたような原始人の分際でよ」 「もしそんな力があったんなら、なんでピラミッドが空中要塞じゃねえんだよって話だぜ」 この現代までそれが残ってない以上、仮に昔はあったとしても負けて消えたということだ。そして負けた野郎が優れているなんて理屈は有り得ねえ。 「だから俺の考えだと――」 「ベイ、さっきから話が逸れまくってます。クラウディアはそういうことを聞きたいんじゃありません」 「とにかくですね、現存している魔術師は極々僅かなんですよ。高位の者なら延命の手段も有しているそうですが、それでも限界はありますからね」 「以前マレウスから聞きましたが、最初の百年を突破できる者からして非常に稀有……らしいです」 「百年? だったら結局、普通の人と寿命は変わらないんですね」 「あいつは二百年くらい生きてるって聞いたがよ」 「そうなんですか?」 「一応、聞いた限りは。だけどただの見栄っ張りかもしれませんし、話半分と思ってください」 「私が言いたいのは、これまで見てきた怪異も、カチンにあるという怪異も、正体は魔術師そのものじゃなく、言わば残滓」 「ベイが言うところの、空飛ぶピラミッドですよ」 「はい?」 とクラウディアは小首を傾げたが、そこは仕方ねえだろう。ここまで俺とベアトリスの話では、互いに理屈が噛み合ってない。 「空飛ぶピラミッドはない。と先ほどヴィルヘルムは言っていましたが」 「そのへん説明しようとしたときに、こいつが潰しやがったんだよ。まったく邪魔ばっかりしやがるアホだ」 「私はあなたの偏った考え方をクラウディアに刷り込みたくないだけです」 「だとコラ」 「なんですか、やりますか」 「もう、いい加減にしてください二人とも。喧嘩しながら説明されたら、論理が滅茶苦茶になるのは当たり前でしょう」 「なのでここはヴィルヘルム、あなたにお願いします。言いかけたことがあるなら最後まで言ってください」 「なんか、そう言われると面倒くさくなってくんな」 「ベイ……」 「お ね が い し ま す」 などと、女二人が圧力をかけてきやがる。別に屈したわけじゃねえが、抵抗し続けるのもそれはそれで面倒な話だろう。 「分かった分かった。そんならぱぱっと説明すんぞ」 「魔術師なんて連中は基本的に古いもん好きの老害だが、タチ悪ぃのは思想と実情が食い違ってるっつうことだ」 「と言うと?」 「だから、〈魔術〉《そっち》の世界も実は日進月歩なんだよ。千年前の魔術師より、今の魔術師のほうが強ぇ」 「現実に、古代のエジプトでピラミッドは飛んでない。当たり前だわな。けど〈魔術師〉《れんちゅう》はそのことを認めねえんだよ」 「飛んだはず。飛んだに違いねえ。なぜなら飛行機だって飛んでるし、昔はもっと素晴らしくないとおかしいから」 「そして次にこう思う。だったら自分も飛ばしたい――てな」 「分かるだろ? 文明が進歩すりゃあ、それに応じて神秘の程度も変わるのさ」 これが大昔なら、たとえば上手く火を点けられるだけでも優秀な魔術師だろう。病気を治す技術があれば、チンケな集落の神にだってなれるはずだ。 しかし現代じゃあ、もちろんその程度が何だっていう話だよ。ゆえに昔を讃える老害どもは、常に〈現実〉《いま》を超えたがる。 「崇高で洗練されて、神秘の力に満ち満ちていたはずの過去が、こんな機械文明に負けるはずねえ。自分はその意志を継いでいる誇り高い魔術師様で、先人の偉大さを証明する義務がある」 「てよ、もはや病気だぜ」 「だから日進月歩?」 「そういうことだ」 魔術師どもの絶滅は、文明の進歩に追いつけなくなったからだと考えている。昔はピンキリ、有象無象の存在も許されたが、時代と共に凄腕しか残れなくなったんだろうと。 「当たり前に、科学と同じで、新しいほうが強いんだよ。何せ超えなきゃいけねえハードルが違うからな」 その典型がメルクリウスだ。あいつの業は魔術と言っていいのかも分からんもので、機械と融合してすらいる。 戦車や戦闘機が横行し、空を飛ぶわ一撃で何百人も粉々にするわ、そんな戦場が当たり前になった時代で、なお上回ってくる神秘の具現。 メルクリウスを褒めるつもりはねえんだが、野郎は本物だという事実を否定するほど馬鹿じゃない。その体現として、俺たちがいるんだからな。 「まあ、だいたい同感ですが、今のはあくまで私たちの考えです。しょせんは門外漢にすぎませんし、本当のところどうなのかは分かりません」 「ただこの理屈で言うと、カチンの怪異は比較的新しい魔術師の仕業ですね」 「現代でも不思議と認識されるほどのものだから?」 「そういうことです。この百年ほどが激動だったと言ったでしょう? おそらくは、その前後くらいに遺されたものじゃないのかと」 「原理はまだ不明ですが、虐殺でスイッチが入ったんだと思いますよ」 「それを排除するのが私たちの仕事です」 「つーわけだ。納得したか?」 問いに、クラウディアはしばし間を置いてから頷いた。 「はい。流れは理解しましたし、あなた方の考えにも同感です」 「昔を崇めるのも大事ですが、そうやって過去を敬いながら歴史を見ないというのは矛盾ですからね。人が積み上げてきたものを認めずに、最高点はもう過ぎ去ったなんておかしいですよ」 「ええ、私もそう思います。しかも聞いた話によると、魔術師の多くは弟子を取っていたというから、もう滅茶苦茶ですよ」 「あなただって積み上げることに執心してるじゃないですかと。やってることは未来を見据えた進化なのに、考えてることは昔、昔、古いほど凄いぞ最高」 「なんていうんですかね。率直なところ、頭がどうかしていますね」 「ぷっ、あはは」 そこで、いきなりクラウディアが笑い出したから俺たちは驚いた。何事だよと目を向ければ、可笑しそうに目元を拭いつつ言ってくる。 「二人とも、ほんとに魔術師が大嫌いなんですね」 「いつもは喧嘩ばかりしているのに、こういうときだけ悪口のノリがそっくりですよ」 「ぐっ……」 「ぬっ……」 「実は仲がいいんですか?」 「――違ぇよ!」「――違います!」 魔術師というより、俺らはメルクリウスが嫌いなんだよ。そこについてだけは、ハイドリヒ卿を除く全員が共有している感情だ。 なので別に仲がいいとか、そういう次元の話じゃねえ。実に不名誉な評価を正そうと二人でクラウディアに色々言ったが、はいはいそうですねと笑いながら流されるだけだった。 そして、そんなこんなしてる間に列車は止まり―― 「あ、着いたみたいですよ。じゃあ次の任務に出発進行っ」 バビロン、てめえ早く合流してくれよ。 代理指揮官サマの御守りもそろそろ限界だと、連れて来たのは俺なんだが真剣に思ったもんだわ。 その後、列車を降りた俺たちは何台も車を乗り換えつつカチンへ向かった。 いくらバビロンの手配があっても最短距離を進むのはさすがに無理で、相応に時間も掛かったと記憶している。だいたい、二日そこらだったか。 ああ、もちろん強行軍だぜ。運転は交代してたが、ホテルでゆっくりなんかしてねえし野宿も車中泊もしちゃいねえ。 俺は早く着きたかったし、ベアトリスは女子の寝姿を見せるのが倫理的にどうたらこうたらと言ってたからな。こういう場合、むしろ女をしっかり休ませてやるのが騎士道なんじゃねえかと思ったがよ。 当のクラウディアがそこに文句をつけなかったから、休憩無しのまま突っ走った。日中、あいつは死ぬじゃねえかって顔色だったが、相も変わらずにこにこしててよ。 馬鹿というか、阿呆というか、太陽が好きで好きでしょうがない奴だったな。光を浴びても焼かれちまうだけのくせに。 半分だから、欠けているから、自分にない世界をどうしても感じたかったんだろう。あるいは、信じていたのかもしれない。 あいつにとっての祝福ってやつを。そこに辿り着けるよう、歩いているんだという自負を。 たとえ選択と結果がどれだけの馬鹿野郎でも、その気持ちを嘲るのはやめようと思った。まあ、後になっての話だけどよ。 とにかく二日ほどの時間を掛けて、俺たちはバビロンと合流した。あれはスモレンスクとかいう町からそう遠くない所にある、名もない池のほとりだったな。 時刻的には、日が暮れて少し経ったくらいのことだ。 「ようこそ――て言うのも変だけど、待ってたわよ三人とも。ここまで困ったことはなかったかしら?」 「有りまくりだぜ。おまえの指揮能力に俺は疑いを禁じ得ねえ」 「せめて代理の指揮官くらい、しっかり適性見極めてから任命しろっつう話だ」 「またそのことですか。あなたはほんと、見かけによらずしつこいですね」 「そうですよ、私頑張ったじゃないですか」 「頑張った? ああ頑張ったよな意味もなく。誰も歩哨に色仕掛けかましてこいなんざ言ってねえのに、指揮官サマが積極的であーあー助かったぜほんとにクソが!」 「だ、だって、そこはマタハリのように」 「うるせえな、俺ァそんなババア知らねえしどうでもいいんだよボケ!」 「ううぅ、確かにあれは、結果的に失敗しましたけども……」 「結果的だあ? 一ミリでも成功すると思ってたおまえに俺は戦慄するわ」 「その貧相な胸で、ケツで、釣られる男がいるわけねえだろ間抜け!」 「ひ、ひどいです。いくら私でも、そうばっさり言われると傷つきます」 「そうですよ。ちょっと今のは言いすぎです」 「なんだかよく分からないけど、つまりベイはヤキモチを妬いてるの?」 「誰がだよ、おまえも頭わいてんのかコラ!」 そんな風にキレまくったが、女三人相手に理屈はなかなか通じねえ。道中、クラウディアがやらかしたことは他にも多々あるんだが、全部挙げてたら夜が明けると思ったんで強引に話を切った。 「それで、こっちの状況はどうなってんだよ」 「うわ、自分から文句言い出したくせに途中で逃げましたよこいつ」 「はぁん、誰が逃げたって?」 「はいはい、静かにしましょう。命令です」 「てめえはてめえで、いつまで指揮権持ってるつもりだ。このボンクラ!」 「ふふふ、とりあえず楽しい道行きではあったようね。よかったわ」 とまあ、くだらねえことは置いとこう。ここでの本題は別にある。 苦笑していたバビロンも、ようやく正規の指揮官らしく咳払いで場を治めた。 「それじゃあ漫談はここまでにして、切り替えるわよ。まずはそうね、軽いおさらいからしておきましょうか」 「このあたりは、一年前までドイツ軍の占領下にあったんだけど、今は残念ながら取り返されている。だからあまり大騒ぎしないように」 「何なら今すぐ、もう一度奪ってもいいと思ってるかもしれないけど、私たちが今回しなきゃいけないことはそれじゃないから。分かってるわよね?」 「おお、別にそんなもん興味ねえし」 「自国を奪還するならまだしも、侵略は好みじゃありませんから大丈夫です」 「ええ、私も同感。だけど一時、侵略したのは確かだし、それに対する抵抗も合わさって主権が曖昧になったときもある」 「その頃に虐殺が?」 「というのがソ連側の主張ね。お陰でどっちがやったのかよく分からなくなっている」 「そのへんの真相はいずれ明らかになることを願ってるけど、副首領閣下殿も言ってた通り今は棚上げ。とうに赤十字も撤退してるし、後に残ったのは謎めいた死体の山よ」 「見つかってるだけでも、約五千体」 「五千……しかも氷山の一角ですか」 「その四・五倍は埋まってるんじゃないかとさえ言われてるわね。あなたなら、これをもったいないとでも思うかしら、ベイ」 「だな。命の無駄遣いはいただけねえよ」 ソ連野郎が殺したポーランド人なら、そいつらはハイドリヒ卿の城にもいけない。誰が何処からどう見ても、完全な犬死にだろう。実際もったいねえ話だよ。 「でだ、ここにどんな怪異が起こってるんだ? ベタに幽霊でも出るのかよ」 「近いけど、違うわね。もっと単純に生々しいわよ」 「死体が森の中を歩き回っている」 「へえ……」 さらっとバビロンは口にしたが、そのせいで逆に現実感が強調された。頭にストレートなイメージが像を結ぶ。 謎の虐殺があったカチンの森。その中を夜な夜な蠢く死人どもの群れ。いいねえ、なかなか俺好みだと思ったよ。 「副首領閣下が言い出した以上、愚問でしょうが、それは本当なんですか?」 「少なくとも、犠牲者は出てるわね。だから危ない何かがいるのは間違いない」 「動物の仕業じゃないんでしょうか? 熊とか、狼とか」 あるいは死体と見紛うほどの敗残兵か。そういう真っ当な解釈を、バビロンは纏めて言下に否定した。 「死に方が普通じゃないのよ。人でも獣でもあんなことは出来ない」 「みんな干乾びてたわ。まるでミイラみたいにね」 「ミイラ……?」 呟き、俺を見てくるベアトリス。それは当然の反応かもしれないが、微妙に腹が立つ流れだった。 「生憎と、俺はこんな所に知り合いなんざ持っちゃいねえよ。だいたい、相手が魔術師なら珍しくもないことだろうが」 「そうね。〈魔術師〉《かれら》は何かを成すとき、石油や電気とは違う種類のエネルギーを求める。もっと古い自然科学的な概念の、一言でいえば生命力」 「水や大地や火や風や、そういうものに宿る〈魔力〉《マナ》だったかしら? 星の血液みたいなものね」 「だから生物の血や魂を利用するのも珍しくない」 「もっとも、人に限っては使い勝手が良くないとされているみたいだけど」 「正確には、使いたくても使えねえ――だろ?」 専門的な話になるんであまり詳しくは言えねえが、人間から魔術用の燃料を搾り出すのは賢明じゃないらしい。 ショボいからって意味じゃなく、制御が困難でリスクがでかいせいだと聞いている。 何て言うかな、人間ってのは俗で業が深いんだとよ。目先の欲で自然をぶち壊すような存在だから、上手く利用すれば地水火風のあれこれなんぞは目じゃねえ高品質の燃料なんだが、それは自殺行為になるとかなんとか。 事実今でも、環境の汚染だ破壊だ言われてるだろ? 自然を凌駕する人間の真価ってやつを引きずり出すには、それを具現化させないといけない。つまり、自ら破滅へ向かう力の行使だ。 「自分の魂を使えば当たり前に衰弱死の危険が高いし、かといって〈他人〉《ひと》の魂だと我のぶつかり合いが起きて正気を保てなくなりかねない」 「あるいはもっと漠然とした、運命的な意味だとしても……」 「エゴ、欲望、そういうものが人間の一番強い力だから、そのまま使えば自滅しちゃうっていう理屈ね。そこについての議論はともかく、魔術の教義じゃそうなっている」 「なので人間の生命力を使うときは、謙虚にいかないといけないらしいわ。偉大な自然に比べれば、私なんか取るに足らない存在ですと、芯から思い込んで騙すみたいな」 「自分にしろ、他人にしろ、要は希釈ね。原液のままじゃ危なすぎだし、薄めたら持ち味を削いでしまうから弱すぎる」 「結果、どっちにしろ使えない。人間を魔術の燃料にするのは賢くないってことになる」 「普通はね」 見れば、ベアトリスがあからさまに嫌そうな顔をしていた。それは自分が普通じゃないと言われたようなものだからだろう。 なぜなら、俺たちこそ人魂を燃料にしている存在だからだ。そしてもちろん、黒円卓に謙虚な奴など一人もいねえ。 どいつもエゴの塊で、欲望の塊だ。そこはベアトリスも例外じゃあるまい。 よってバビロンの言に倣うなら、俺たちは自滅に突き進んでいる狂信者の群れということになる。 極めて愚かで凶悪な、人間という怪物そのもの。真祖の身としちゃ反論したい点もあるが、大方外れちゃいないと言えるだろう。 「カチンの魔術師は、そういう普通じゃない手合いだと?」 「何にしろ、外法使いなのは確実でしょうね。もしかしたら副首領閣下殿に匹敵するのかもしれない……て言うのは、さすがにちょっと大袈裟かしら?」 「あんなのが何人もいるなんて、私は考えたくありませんが……」 「言われてみれば、ハイドリヒ卿も仰っていましたね。前座の締め括りとしては申し分ない」 「かなり珍しいですよ。あの人がそういうことを言うなんて」 「だから、甘くないのは確かなんでしょう」 自滅を恐れない狂人が、自滅した後も呪いをばら撒き続けている。分析すればそういう答えに辿り着き、だいぶイカレた野郎なのは間違いない話だった。 「まあ私たちが自滅するかどうかはともかく、なんだか意味深な構図になってるわね。未来との邂逅、みたいな」 「これから先、やっていくためにも、ここで見るべきものはあるでしょう」 言って、バビロンは踵を返した。いよいよ怪異と直面するため、俺たちも後に続く。 そのとき。 「あのー、ちょっといいですか?」 「ん、なあに?」 空気をわざとぶっ壊しに掛かってるとしか思えねえ、間延び気味の声に俺らは振り向く。 そこには、妙にもじもじした様子のクラウディアがいて…… 「私、おトイレ行きたいんですけど」 「…………」 絶句だぜ。さすがの俺も、素で言葉を失ったわ。 「ぷっ、く――あはははっ」 「参ったな。これはなんとも、頼もしい……重大任務よ、お願いしていいかしらベアトリス」 「はいはい、了解いたしました。ほらクラウディア、あっちでお花を摘みましょうね」 「す、すみません。緊張すると、こう、生理的にですね」 「いいからとっとと行けやコラァ!」 ようやく搾り出せた怒声を制するように、バビロンが俺の肩へ手を置き言った。 「ところでベイ、私の中であなたへの好感度がだいぶ上がり始めてるわ。どうしましょう」 「知るかンなもん!」 「そうなんですか。じゃあリザさんは、これが三度目の怪異になるんですね」 「ええ。他はだいたい一人に一つずつだったから、経験豊富なほうになるわね。自慢できることじゃないんだけど」 「それはどうしてですか? 要は歴戦ということなんでしょう?」 「何度も経験すべきじゃないことっていうのもあるからね」 クラウディアの問いをやんわりとはぐらかしながら、バビロンは曖昧な笑みを浮かべていた。 すでに俺たちは、森の外縁部に入っている。よって動く死体とやらにいつ遭遇するか分からなかったし、無駄話をしている場合じゃないのもあるだろうが、本音は違うと分かっていた。 きっと喋りたくないんだろう。これまでどういう怪異と向き合ったのか、そこについては言いたくないんだと考える。 事実ここまで、俺とベアトリスもさんざっぱら質問されたが答えてねえんだからよ。 「やめとけクラウディア。俺らで懲りたろ、訊いても無駄だ」 「〈バビロン〉《そいつ》は業が深ぇ女だからな。三度も経験するってのはそういうことだよ」 端的に纏めちまうと、メルクリウスに駆逐しろと言われた怪異は俺らにとって皮肉めいたものばかりだった。 このカチンにしてもそうだが、要するにおまえはこういう馬鹿野郎ですと指摘されるようなノリなんだよ。だからそんなもん、誰だって嬉々と話したくはねえだろう。 「ま、〈カチン〉《ここ》でのことを踏まえつつ、好きに想像してりゃいい。分かったな?」 「むぅ、なんだか釈然としませんが、了解しました」 「あなたが珍しく他者への気遣いを示しているんですから、それを尊重することにします」 そんなんじゃねえよと思ったが、いちいち言い返すのも面倒くせえ。俺は鷹揚に手を振りつつ受け流した。 「ごめんなさいねクラウディア。あなたもここに立ち合っている以上、知りたいことは多いでしょうに」 「けど、改めて意外と言うか、なんだか積極的なのね」 「今もそうだし、ベイに怖じないところもそう。もっと言えば、看護団の出だというのも凄いわね。度胸があると表現するのは簡単だけど、怖くないの?」 「いやあ怖いですよ? でも私は結構鈍いですから」 「半分だもんな」 「はい、そういうことで――」 「違います」 と、先頭に立っていたベアトリスが振り返ってぴしゃりと言った。 「戦争を始めとする危機的状況において、ただ恐れ慄くだけが人間じゃありません。大半は、怖がると同時に楽しみます」 「だから修羅場を恐れて嫌うだけの人間は、純粋にそれを楽しめる者と同じくらい稀有なんだと知ってください」 「ええ、本当に、滅多と見られるものじゃないんですから。そんなわけで、あなたはすごく普通ですよクラウディア」 「肝試しは楽しいですもんねっ」 「ああ、はあ……」 一気に捲くし立てられ、クラウディアはぽかんとしていた。こいつの考えにベアトリスが異を唱えるのはもはや定番になっていたが、段々余裕がなくなってきたなと突っ込み入れてやりたくなったよ。 しかし、まあいいさ。このときの主張は俺も同感だったからな。 死ぬかもしれない状況ってのは興奮するし、楽しいんだ。祭りは危険なほど盛り上がる。 この感覚を全否定する奴こそ嘘臭いだろ。マジもんの変態じゃねえかと俺は思うぜ。 「なるほど、兵士として含蓄のある意見をありがとう。確かにそうかもしれないわね」 「それで、何か異常の兆候は見つかったかしら?」 「いえ、その、特には……」 この中で一番機動力があるから列の先頭を任されていたベアトリスだったが、問いにバツ悪げな顔で首を振る。 「何もおかしなところは見当たらないし、感じませんね。こう言っては何ですが、すごく普通の森ですよ」 「まあしかし、毎夜のように何千もの死体が動き回っているなんてことだったら、とっくにこの一帯は戦争より大事になっていたでしょうけど」 「要は周期があるんだろう。違うかバビロン」 「怪異が起きやすい日とそうじゃない日があるってことですか?」 「そうね」 頷き、バビロンは視線と指を空に向けた。 「私が調べた限りにおいては、おそらくあれ」 「どうも、月齢と関係があるみたいよ」 そこには、煌々と夜を照らす満月が存在していた。言うまでもなく、それは神秘の象徴的な天体だ。 「傾向として、月が満ちるにつれ目撃情報が増えている。その点今夜はこれだから、確率的にはかなり高くなるはずなんだけど」 「出ねえじゃねえか」 「条件がもう一つあるからね。そっちについてはまだ成立していないから、しばらくの間待ってみましょう」 「なんだそりゃ、煮え切らねえなあ。知ってることがあるならさっさと言えよ」 しかしバビロンは、意味深に含み笑うだけで何も言わない。悪い癖だぜ。 こいつだけじゃなく、他にもマレウスやクリストフ、そして何よりメルクリウスがそうなんだが、インテリな連中は話をもったいぶるところがある。 思慮深く、知識を重んじているからそれを出し惜しむと言うか、効果的に開陳するタイミングを拘ると言うか、とにかく面倒くせえ連中だ。 自分がやられたら文句言いやがるくせによ。自己中だとは思わねえのかね。 「ベイ、何を考えているのかはだいたい分かるし、同感ですが、あなたが言うことじゃありませんよ」 「だから口には出してねえだろ」 「顔に書いてるんですよ。ねえクラウディア」 「はい。それはもうありありと」 「ち、うるせえなあ。どいつもこいつも」 「とにかく、今はただ待つこと。気長にいきましょう」 「単に月齢だけの問題なら待てばいい話だけど、もう一つの条件は運も相応に絡んでくる」 「だから下手に教えて癇癪起こされても困るし」 「一応、今夜のうちに可能性があるとだけ言っておくから、あまりカリカリしないように」 「分かった?」 言われ、渋々俺は頷いた。餓鬼を窘めるような言い方に腹は立ったが、こういう女にキレ返すのは難しい。この場の上官でもあることだしな。 「じゃあ、しばらく待機ということでいいですか? それとも進むだけは進みますか?」 「そこは進んでおきましょう。いざ事が起こったとき、森の深部にいたほうが色々と手っ取り早い」 「なのでもう少し歩くけど、大丈夫かしらクラウディア?」 「平気です。皆さんの邪魔にならないよう気をつけますから、どうぞ出来るだけ普段どおりに」 「まあ、いよいよきつくなったらベイにおぶってもらいなさい」 「なんで俺が。やんねえよ」 「冷たいわね。そこはあなたの責任でしょうに」 「そのときは私がやります。こいつの背中に女子を預けるなんて、危なすぎる話でしょう」 「は、ごもっともだが大きなお世話だ」 クラウディアをおぶった状態じゃ形成は出来ないし、薔薇の夜は論外だ。効果範囲にいる奴は敵も味方も関係なくなる。 バビロンやベアトリスを慮る気持ちはまったくねえが、そこにクラウディアを巻き込むのは本意じゃなかった。それこそ、ものの数秒で吸い殺しかねない。 このときは、まだそうするべきじゃないと思っていた。 「とはいえ、ここでこいつが化けりゃあ別だがな」 「ちょっと、いま何か言いましたか?」 「なんでもねえよ。おら、てめえはさっさと先陣切れ」 そういうわけで、俺たち四人は森の奥へと進んで行った。すると段々霧も濃くなり、空気に死臭が混じりだす。 途中、派手に地面を掘り返した跡を見るのも一度や二度じゃなくなってきた。すでに回収されて空だったが、そこには大量の死体が埋まっていたんだろう。 皆の顔が強張っていく。ここはやはり死者の森で、俺たちの足元には未だ発見されない屍が無数にあるんだ。その現実を悟るには充分すぎる環境で、肝試しにしても洒落じゃすまねえ雰囲気が徐々に演出され始める。 粘るような悲憤。無念の慟哭。それが一帯に満ちているのを俺は感じた。 「ここだろ」 「ええ、間違いないわね」 不自然に開けたカチンの深部。とある丘の手前で俺たちは立ち止まった。 肝心の動く死体こそまだ出てこないが、この場所こそ虐殺の現場だったと確信できる。 「ぷんぷん匂うぜ。なるほど、こりゃあ万じゃきかねえ。随分派手にやりやがったみたいだな」 「と言うより、まるで流れ作業ね。ここまできたら、屠殺に近いわ」 「なるほど、確かに違いねえ」 人の魂を糧にする俺たちだからこその感覚で、この地に起こった出来事を大体だが読み解ける。異常に淀んだ死の空気がそれを教えてくれるんだ。 几帳面に、律儀なほど整然と、隊列組んで端から順に殺して埋める。死体の上に重ねて、重ねて、まるで人間のドミノ倒しだ。 虐殺と言うより屠殺であり、意味的にはもはや投棄。 捕虜どもを国元まで届けてやるのが面倒だから、もうこのへんで捨てちまおう。そんな意図すら感じるし、実際そう外れちゃいないだろう。 まったく呆れる話だぜ。資源は有効に使えっていうんだ。 「ま、そういう意味じゃあ〈ドイツ〉《うちら》の収容所も大概だがな。熱がねえ殺しなんざつまんねえよ」 「逆に言うと、人間らしい感情を絡めたままここまで殺すことは出来ないのかもね」 「仕事だから。命令だから。その一言で麻痺する人種は大勢見てきた。彼らは普段、優秀と言われ、人格者とさえされる者が多いのよ」 「おまえやザミエルみたいにか? 他人事みたいに言うんじゃねえよ。てめえらだって血塗れだろうが」 「俺は自分のために、自分が殺したいから殺す。言い訳はしねえし逃げもしねえ。それこそ、ハイドリヒ卿がやってるように――」 「二人とも、いい加減にしてください。クラウディアの前ですよ」 耐えかねるというように、そこでベアトリスが割って入った。 「殺人の意味や定義についてそれぞれ見解はあるでしょうし、私も自分がやってきたことを誤魔化すつもりはありませんが、せめて民間人の前じゃ格好くらいつけましょう」 「それが欺瞞でも、偽善的でも、軍人ならばそうするべきです」 「なぜなら我々は、国と民を守るためにいるんですから」 「守る、ねえ」 そこからして俺とこいつはまったく相容れないんだが、もはや水と油すぎるんで言い返すのも馬鹿らしい。 「まあなんでもいいが、それよりおまえは気付いてるか?」 「何をです?」 訝しげに目を細めるベアトリスに、俺は軽く辺りを見回してから言った。 「時期にばらつきがある。血の匂いが一定じゃねえ」 「……、それは」 言われ、ようやく気付いたらしい。そのへんは得意分野の違いなんでこいつがショボいというわけじゃないんだが、それでも俺に遅れを取るのは屈辱だったようだ。 「え、あの、つまりどういうことですか?」 「別に。これといってたいしたことでもねえよ。ただ、ここで死んだのは、可哀想なポーランド野郎だけじゃねえみたいだぜ」 「カチンの虐殺は四・五年近く前のことだし、実際それくらい古い血臭が大半だ。けど、他に新しいのもあるんだよ」 「それは、つまり怪異の犠牲者ということですか? 確か最初に、リザさんもそんなようなことを言っていた気が……」 「にしても、少し数が多すぎます。こんな不吉で、気味が悪い森の中心部に、わざわざ周辺の住民が大挙してやって来るわけがない」 「ベイほど正確には量れませんが、たぶん百は超えてますよ」 「百って……」 「しかもこりゃあ、〈素人〉《カタギ》じゃねえな。戦闘の跡がある」 「となりゃあ一個中隊……いや、新しい中でも微妙にずれがあるから三個か四個の小隊か? 馬鹿が、戦力の逐次投入をしやがったな」 「最初に偵察隊を送り込んだが全滅して、次にそこそこの規模を送り込んだがまた全滅。それでいよいよマジになったが、これまた全滅。そんなとこだろ、アホ丸出しだぜ」 鼻で笑って、俺は傍らのバビロンに目を向けた。 「よぉ、こりゃどういうこった? 俺らの他にも、組織だってカチンに来てる連中がいんのかよ?」 「そうね。クラウディアの手前、黙っておいたほうがいいと思ったから言わなかったんだけど」 それにこいつは、一つ溜息を吐いてから答えた。 「東方正教会と、それから〈教皇庁〉《ヴァチカン》。そこの部隊が、何度か投入されたみたいよ」 「え、教会って……なんですかそれは?」 と、そっち側の人間であるクラウディアが驚くのも間抜けな話だが、実際無理もないことだろう。 一般の、しかもこいつみたいなおめでたい信徒に、組織というものは裏の顔を見せない。 「クラウディア、あなたも看護団の一員として軍事に関わっていたでしょう。これはそこから、もう少し延長した話なんですよ」 「どんな組織でも、維持していくには綺麗事だけじゃすまされない面があります。だから力が必要になるのは分かりますね?」 「政治力、経済力、そして武力」 「武力……」 「ええ、権力とはそういうものね。まして教会は、ある意味で世界最強の組織でしょう。信徒の数、歴史の深さ、共に並じゃないからね。当然闇も深くなる」 「つまり簡単に言うとだな。てめえが愛する神の家は、教義に都合の悪い連中をぶちのめす殺し屋どもを飼ってるってことなんだよ。何もおかしな話じゃねえだろう」 「俺はよく知らねえが、これまで十字軍だ異端審問だと、さんざっぱら殺ってきたらしいじゃねえか。それは今でも続いてんのさ」 「そもそも、おまえ自身も言ってただろうが。神とはそういうものだってよ」 「ベイ、だからあなたは……」 「まあ、驚いたでしょうけどそういうことよ。カチンの怪異は死者の蘇りと言うには歪だけど、それでもキリストの特権を侵しているから第一級の異端よね。教会としては、抹殺せずにいられない」 「そのわりには、ベイも言うとおり甘い見積もりだったみたいだけど。そこらへんはやっぱり時代なのかしらね」 「副首領閣下殿が言ったように、最後で最強の神秘は私たち……なのかどうかは、ともかくとして」 何にせよ、どうでもいいことだ。教会の連中がこの件に絡んでいるからといって、俺たちの障害には成り得ない。事実、それは奴らの全滅という形で証明されている。 しょせんここでは過ぎた話。世間知らずなクラウディアに、一つ真実を教えてやったというだけのこと。 「あの、やっぱり傷つきましたか? だったらごめんなさい。別に私は、あなたや信徒の方々を蔑みたいわけじゃなく……」 「いえ、気になさらないでください。確かにびっくりしましたけど、皆さんの仰るとおりだと思いますし」 「教会の実態がどうであろうと、それで祈りが曇るわけではないと私は……」 言いかけて、不意にクラウディアは言葉を切ると、空を見上げた。 「なんだ、どうしたよ?」 「いえ、ただ雨が」 「あ、本当だ。降ってきましたね」 見ればいつの間にか分厚い雲に月も覆われ、ぽつぽつと降り始めている。そしてそれは、いくらもしないうちに土砂降りの豪雨へ変わった。 「わ、わわ、ちょっと、これは大変です」 「……参りましたね。私たちはいいとしても、こんな所で降られたらクラウディアが風邪を引く」 「ベイ、彼女を何処か、雨宿りの出来るところに」 「くそ、鬱陶しいなあ。いきなりバシャバシャ降りやがって」 「きゃあっ」 愚痴に重なるような稲光。轟く雷鳴にクラウディアがすくみ上がる。 だが、そんな状況を無視したまま。 「来るわね」 底が抜けたような空を見上げて、バビロンはぽつりとそんなこと呟いていた。 そして一転、語気を荒げて俺たちに告げる。 「二人とも、即時臨戦態勢を取りなさい。これが第二の条件よ」 「は、それは……」 「つまり、雨が?」 「ええ――地中の“何か”に、雨を通じて死者の無念が届くんでしょう。怪異が起きるのは満月期」 「そして、こんな雨の夜。出てくるわよ!」 そのとき、下から突き上げるように地面が跳ねたのを俺は感じた。そして同時に、傍の大木へ稲妻が落ちる。 「なッ、クラウディア!」 ばりばりと落雷に引き裂かれ、根こそぎ倒れる大木に引かれる形で緩くなった地盤も崩れた。土砂の波にクラウディアが声もなく呑み込まれていく。 「……馬鹿が」 トロくせえ女だと腹の中で罵ったが、追う気もなければ助ける気も起きない。都合上、そうするべきだと分かっちゃいたが、そんな気分にゃなれねえんだよ。 なぜって? 前にも言ったよな。融合型は思考が乱雑になるんだよ。 術を喚起し、戦意を纏い、己の渇望を自覚すればするほどに。 「ヴィル、ヴィル、わたしの愛しいヴィルヘルム……」 俺の中に流れる〈闇の賜物〉《キッス・インザ・ダーク》――薔薇の魔性がすべてを吸い殺せと言っているんだ。 「あなたをアイしてるのよオォ――わたし以外の女はいらないでしょうォォ!」 「ほざけや淫売、てめえもしょせん俺の餌だ」 あのとき同様、ズタズタになるまで抱いてやるからありったけの血を寄越せ。ここに形を成し、具現しろ。 「〈Yetzirah〉《形成》――」 「うふふ、ひひひひ……きゃはハハハハハハハハハハハ―――!」 狂った女の金切り声にも似た音を立て、俺の牙たる血の茨が現れた。さながら発芽するかのように、全身から無数の杭が生えてくる。 これが俺だ。黒円卓の第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイ。ヴラド・ツェペシュの血と融合した、地上唯一の吸血鬼。 そして当然、ここでこの状態に入ったのは伊達や酔狂なんかじゃねえ。そうするに足る現実が目の前にあるからで、すなわちカチンの怪異が発生している。 豪雨に泥濘化した足場が波打ち、こちらも発芽を思わせる光景が具現していた。ちょいと想像すりゃ分かるだろうが、地面から生えてくる手っていうのは花に似ている。 それが一面、見渡す限りの大地を埋め尽くし群生していた。グロテスクで悪趣味だが、咲き乱れると表現して構わねえ状況だろう。 加えてもちろん、この花はこれだけじゃ終わらねえ。 腕が、肩が、そして頭が、胴体が――ぼこぼこと沸き立つように次から次へと現れやがる。半ば白骨化し、全身の穴という穴から泥と蟲を滴らせながら立ち上がっていく屍たち。 「不細工どもが」 べたべたの定番すぎて、もはや哀れみすら覚えたぜ。同じ死者の軍勢でも、ハイドリヒ卿の帝国とはあらゆる意味で比較にならねえ。 これが俺らの未来だとでも言いたいなら、侮辱するにも程がある。 「てめえら、ヴァルハラに行けると思うな」 ここで残らず、屑のように粉砕してやる。永遠に何処へも辿り着けない間抜けとして、枯れ落ち死骸を晒すがいい。 「ぶち壊してやるよォ!」 咆哮と同時に、俺は泥水を蹴り上げ怪異の中へと踊り込んだ。一番手前にいた死者の頭を、拳の一発で粉々にする。 そこには何の手応えもねえ。スカスカの枯れ木を砕いたようなもんだった。事実、こいつらの中に奪うべきものは何もねえと瞬時のうちに悟ったよ。 吸い取りたい魂はなく、血の一滴も存在しねえ。それが俺には許せなかった。 たかが死体に生ある何かを期待するほうが馬鹿なんだが、そういう理屈を許容できる精神状態じゃなかったんでな。衝きあがる暴力への衝動が、ただ物足りねえと叫ぶんだよ。 だからこのとき、事態を正確に見ていたのは無論のこと俺じゃなかった。 すぐ傍らを擦過して、真横に走る蒼い稲妻。自然のものじゃ有り得ねえ雷神の鉄槌が、纏めて数十の死者をボロ屑に変える。 「なるほど、単体の脅威度はさほどのものじゃありませんね。動きは遅く、思考もしない」 「力は強いのかもしれませんが、この程度なら……」 言いつつ、身を捻って繰り出す後ろ回し蹴りの一閃。華奢な見た目を完全に裏切る轟風が巻き起こり、背後から掴み掛かろうとしていた死者をやはり纏めて吹き飛ばした。 「まず我々が遅れを取ることなど有り得ない。不満ですか、ベイ?」 「ああ、こんなカスども、どれだけ潰そうが単なる魂の無駄遣いだ」 「そうですね。でも、素の格闘でどうにかできるほど甘いわけじゃないですよ。最低でも形成はしないといけない」 「あなた流に言えば、吸うほどの何かを持っている相手じゃないのは確かですが、それでもまったくの空かと言うと、そうでもない」 「死者を操る神秘の力が働いているのは確かです。だからこちらも同種の理をもって砕かねば、彼らは八つ裂きにしても止まらないでしょう」 つまり、要はそういうことだ。こちらの燃料に変換できるほどの濃さじゃないが、動く死体という怪異である以上、当たり前に裏の技が使われている。 目には目を。歯には歯を。そして神秘には神秘を――常識だ。 真っ当な攻撃をいくらぶつけたところで、この死体どもは死んじゃくれない。たとえ爪や歯の一欠片になったところで、蟲のように這いずりながら迫るだろうし、復活する。 爆弾でも叩き落して灰にしちまえば別だろうが、生憎そんなもんは用意してねえ。だから必然、こっちは何の足しにもならない消耗戦をする羽目になる。 土砂降りの森。視界を埋め尽くす屍の群れ。見る限り無尽蔵にすら感じるそれは、情報から推察する限り二万近くいるだろう。補給不可能な状態で、ぶっ放しながら突き進むのは危険と感じる。 この場を上手く切り抜けるなら、求められるのは省エネだが…… 「うぜえ、なんだこの面倒くせえ状況は。手加減なんざ出来る性分じゃねえんだよ!」 怒号して、俺は群がる死体を片っ端から砕いていく。木偶同然のポンコツどもだが、相応規模の魔術行使で潰さねえと意味がない。 そして、その相応に留めるってやつが俺には無理な相談だった。気性的にも特性的にも、火を入れたら爆発するのがヴィルヘルム・エーレンブルグの道だろう。 「ええ、だからあなたはそれでいいですよ。もともと出来るとも思えませんし、ここでは派手にやるのが正解です」 「あァ? なんだそりゃ、どういうこった!」 並び立ち、こちらも劣らず大火力の稲妻を放ちながら言うベアトリス。普段の馬鹿女っぷりが嘘のような冷めた目で、淡々と説明する。 「彼らが生ある者を襲うのは、それを奪いたいからです」 「血を、命を、魂を、持っていないから取り込みたい。動機は少々違っても、要はあなたの同類ですよ」 「だから群がってくるんです。あなたも私も、今は一人の人間が持ち得ない量の命を持っている」 「彼らからすれば、とても魅力的なかがり火のように見えるでしょう」 「ゆえに――」 雷電を纏った剣が閃く。内部の魔術残滓ごと、死者を炭化させる斬撃が縦横に軌跡を描いた。 「ここで我々が引き付ければ、それだけクラウディアの安全度はあがります」 「……はぁん?」 何を言っているのか咄嗟に理解できなかったし、そもそも言われるまで忘れていた。つまりこの馬鹿、クラウディアが襲われないよう、囮役をやろうというのか。 察するまで、たぶん五・六秒は掛かったぜ。 「なんですか、文句でも?」 そりゃあるに決まってるだろ。ベアトリスの言うことは、何ら局面の打開に繋がらない。 この死人どもは虚ろであり、ゆえに大量の魂を持つ俺たちを狙っている。 派手に燃料を消費して、命の炎ってやつを爆発させれば、きっとクラウディアなど目に入らなくなるだろうからそうするべきだと言っているんだ。 それで? そうなった後、いったいどうする? 魂の凄まじい無駄消費という、こっちの状況は何一つとして変わらない。 むしろ、悪化の一途というやつだろう。 「馬鹿かてめえは。話にならねえ」 そもそも当の本人が、黒円卓で一番魂を蓄えていない身のくせに。 「そんな真似すりゃ、おまえは早晩ガス欠だろうが。自殺志願者かよ、この間抜けが」 「ですか。しかし、ならばなんです? 私は生き方を変えられないし、変える気もない」 「それはあなたも同様に――」 言って、惜しむことなく再び稲妻を走らせた。死者と共に砕け散る雨粒が蒸気と化し、静電気を撒き散らしながら拡散していく。 「よってどのみち、こうするしかないでしょう。あなたは加減が出来ないし、私はする気がない」 「なのに文句を言うとは、怖いんですか? こんな程度の危機を前に、死神がちらついてしまうとでも?」 「それがあなたの器ですか、ヴィルヘルム・エーレンブルグ中尉殿」 「―――――」 別に挑発したわけじゃねえんだろう。ぶち殺したくなるくらい生真面目なアホだからこそ、ベアトリス・キルヒアイゼン中尉殿は〈戦乙女〉《ヴァルキュリア》と呼ばれたんだ。 「私の器はこんな所で終わらない。そう信じている」 「たとえ自ら水銀に染まっても、人であることを忘れないと誓っているから」 そういうところは気に入ってたぜ。掛け値なしに、吸い殺したいと思った女の一人だ。 結局、叶わねえことだったがよ。まあ、そこはいい。 「面白ぇ……抜かすじゃねえかよ、クソチビが」 「俺の器だァ? 舐めんじゃねえよ、てめえごときは格が違う」 「ならば、それを見せてください」 「おおよ、目ン玉かっぽじって見さらせやァッ!」 そこから先は共に全力全開だ。あくまで形成のままだったが、その範囲ではまったく加減なんかしちゃいねえ。 俺は出来る性分じゃねえし、ベアトリスにはする気がねえ。だからどのみちこうするしかないと、確かにその通りなんだろう。 紫電が、杭が、カチンの森を切り裂き走る。蛆のごとく湧いてくる屍どもを、俺らは競うように駆逐していく。 もちろん、数なんかは数えちゃいねえ。もはやそういう次元じゃねえんだよ。個人で万を相手にする戦なんぞに、経過を気にする感性が入り込む余地はないんだ。 このとき俺の頭にあったことを強いて言うなら、マキナのことを思い出してた。あいつもあのときこんな風に、個人で万の敵へと身を投じていたからな。 しかも、相手はこんな木偶じゃねえ。いわゆるエインフェリアというやつで、残らず戦場の英雄だ。 それと戦い、最後の一人にまで残ったマキナ。あいつの武勇に俺は敬意を表するし、だからこそ負けたくねえとも考える。 だったら、なあ、ここで無様を晒すなんて、許されるわけがねえだろう。 「よく頑張ったわ、二人とも。お陰でこっちの準備は完了した」 ということで、気合い入れてた身としちゃあ、少し腰砕けな落ちだったがよ。 「――〈Yetzirah〉《形成》――」 「〈Pallida mors〉《青褪めた死面》」 美味しいところは、指揮官様が全部持ってっちまったのさ。 「なッ――」 「こりゃあ……」 俺もベアトリスも、目の前に集中しすぎて失念していた。カチンの怪異を制すにあたり、もっとも適しているのは誰で、そいつの技がどんなもんかということを。 何せハイドリヒ卿から直々のご使命だ。改めて振り返るまでもなく、当然の結果というやつだろう。 「さあ、これで楽になったでしょう。あとは残敵を掃討しなさい」 未だ視界を埋め尽くしている死者の群れ。その半分近くが、同時に動きを止めていたんだ。 まるで、奇怪な樹木のように。見ようによっちゃあ、こっちのほうが不気味と言える光景だったぜ。 「凄い……指揮権を奪ったんですか?」 「まあ、そういうことね。少し時間は掛かったけれど」 「これでもう、多勢に無勢というわけじゃない」 黒円卓の十一位、リザ・ブレンナーは死体を抱きしめ、そして操る。魔術的にはネクロマンシーというやつで、カチンの怪異とまったく同じ系統だ。 ゆえに、死体は道具であり武器である。だったら後は、単純な影響力。誰が主人かを叩き込む豪腕の勝負だろう。 「一度に動かせる数では負けるけど、支配の強さはこちらのほうが上みたいね。だから彼らはもう、私のもの」 「早々に終わらせて、それを供養ということにしましょうか」 同時にバビロンの兵と化した屍どもが一斉に向きを変えた。俺たちの友軍として、他の死者へと襲い掛かる。 これで数の不利は緩和され、乱戦状況も正された。なぜならバビロンが支配した連中は、ランダムで選ばれたわけじゃない。 当たり前に距離の近さを優先して、ゆえに戦線の整頓が成されている。つまり自陣と敵陣が綺麗に分かれたということだ。 よって、俺とベアトリスが敵味方を間違える可能性は甚だ低い。陣形ってのは命令の伝達速度をあげることが目的だが、こんな風に同士討ちを避けるという理由も当然ある。 加えてしっかり相手を観察すれば、動力となってる神秘の種類から区別するのは容易だった。結果、手加減なしに暴れながらも無駄な消費を抑えることが可能となる。 「〈Ah! Ich habe deinen Mund geküsst, Jochanaan.〉《愛しい人よ 私はあなたに口づけをしました》 〈Ah! Ich habe ihn geküsst, deinen Mund,〉《そう 口づけをしたのです》 〈es war ein bitterer Geschmack auf deinen Lippen.〉《とても苦い味がするものなのね》」 「〈Hat es nach Blut geschmeckt?〉《これは血の味》 〈Nein? Doch es schmeckte vielleicht nach Liebe.〉《いいえ もしかしたら恋の味ではないかしら》」 〈青褪めた死面〉《パッリダ・モルス》――バビロンの聖遺物は来歴が相当にえげつねえ。いわゆる〈屍衣〉《シュラウド》で、〈死面〉《デスマスク》。聖骸布なんて皮肉効かした呼び名もあったが、実体は餓鬼の人皮で仕上げた工芸品だ。 そして何より特筆すべきは、バビロン自身がそれを作ったということだ。俺やベアトリスはもちろん、ハイドリヒ卿にしたところで、聖遺物は遺産管理局を通じて既存の物を入手している。 しかし黒円卓にはこいつのように、自ら武装を作り上げた奴も存在するんだ。いいや、ここでは育てたと言うべきか。 大戦の中、殺して殺して殺しまくり、その業と呪いをもって愛用の品を超常の域に押し上げた奴ら。 マキナ然り、ザミエル然り、シュライバー然り。そしてバビロン、こいつもそうだ。 歴史の浅さは否めねえが、だから弱いという理屈はない。言ったと思うが、魔術の世界でも最新式は当たり前に強いんだよ。 短期間で生まれたということは、それだけ高密度であることを意味している。餓鬼を殺す女は昔から掃いて捨てるほど存在するが、リザ・ブレンナーほど殺った女は稀だろう。しかも愛し、慈しんだ結果というから間違いなくイカレてるわな。 しょせん俺にとっちゃあ他人事だから、そこにまつわる諸々についてはよく知らねえし興味もねえが―― 「〈Ah! Jochanaan, Jochanaan, du warst schön.〉《ああ ヨカナーン ヨカナーン あなたばかりが美しい》」 確かなことはただ一つ。女の愛ってやつはタチの悪い呪縛になること。俺もそこは身に染みてるし、否定できる奴はいねえだろうさ。 死せる愛児の〈皮〉《ドレス》を纏い、死体を操るその姿はさながら黒い聖女だった。 背徳の〈毒婦〉《バビロン》。罪深き〈聖母〉《マリア》。第三帝国の狂気を象徴する女の姿がそこにある。 より強く〈骸操〉《むくろぐ》りを行うなら、聖遺物を仮面化させて直に被せる方法を採るようだが、ここでは数を優先していた。ゆえに〈骸装〉《がいそう》は舞台役者のごとくリザ・ブレンナーを飾り立てる。 それはまるで死のオペラ。地脈を通じて走る魔力が、蜘蛛の巣のごとくカチンの怪異を絡め取る。 頭を撫でて、抱きしめて――いい子ね坊や、私に従いなさいと命じている。 「おっかねえなあ、男殺しが」 今、バビロンが喚起しているのは母の記憶、揺り篭の安らぎ。男にとっては致命的な毒であり、いくら虚ろな死体といえども拭い去れるものじゃない。 と言うより、虚ろだからこそ逆らえねえのか。 「―――、……!」 潔癖症なベアトリスは複雑な顔をしていたが、文字通り万軍の援護を得たことは確かな事実だ。それを否定するほど馬鹿じゃねえ。 こいつの上官であるザミエルはバビロンと犬猿だが、ここでその代理喧嘩をやらかしてもしょうがねえ話だろう。 ならばやれることは単純明快。 「ベイ、さっさと終わらせますよ」 「あァ、偉そうに言うんじゃねえよ。てめえこそ息があがってんじゃねえのかあ?」 「誰が――有り得ませんね、見てなさい!」 早々にこの状況を終わらせるため、獅子奮迅するだけだった。 そして…… 「どうやら、一応の片はついたようね」 ようやく動くものがいなくなった森を見回し、やれやれと呟くバビロン。形成を解き、操っていた死体どもをただの骸に返してから時計を取り出す。 「だいたい三時間と少しか……まあ、中々の手際だったと言うべきでしょうね。大丈夫?」 「……ええ、お陰で助かりました。感謝します」 「それはこちらの台詞でしょう。もともとこの件は、私がやるべきことだったんだし」 「だから二人とも、ありがとう。助かったわ」 すでに雨は上がり、森は静寂に包まれていた。そこら中に死体が散らばっている点を除けば、真っ当な状態に戻ったと言える。 「それじゃあ、後はクラウディアだな。あの馬鹿は俺が捜しておくからよ。おまえらはもう、帰っていいぜ」 「いえ、ここまできたら最後まで付き合います。私としても、彼女のことが気になっていますし」 「すでに何回も言いましたが、あなたにクラウディアを任せるのは反対ですから」 「またそれかよ。おまえはほんとしつけえなあ。そんなんじゃあ男どもに嫌われるぜ」 「結構です。間違ったことを言っているつもりはありませんし、それに文句をつけるような男性ならこちらからお断りですよ」 「だいたいあなたは、クラウディアがはぐれたときに何の気遣いも示さなかった身で、今さら何を言ってるんですか。まったく説得力がありませんよ」 とまあ、鬱陶しいが正論ではある。俺はクラウディアをある意味大事にしてるつもりだったが、目先のことに熱中するとすぐに忘れちまうのも事実だった。 それは性分で、どうにも出来ねえ。長期的な目線でものを見るのが苦手なんだよ。いずれ食うと決めた相手を時が来るまで守るというのは必然だが、根が刹那的なんでボロも出やすい。 「そうね。女の目線から言わせてもらうと、ベイに足りないのは危機感かな」 「クラウディアはいい子だし、あなたに恩義を感じているから逃げもしない。その事実に胡坐をかいているんでしょう」 「要するに、自分がフラれるわけないと思ってる」 「あぁ~、そうですね。その通りです。たまにいますよね、こういう男。いったいどこからその自信が湧いてくるのか、甚だ理解に苦しみます」 「どんなにぞんざいな扱いをしても、あいつはずっと俺のことを好きに違いないとか思ってるんでしょ。頭パーですかあなたは」 「…………」 そういう次元の話をしてるんじゃねえんだが、危機感云々についてはそうかもしれないと思ったぜ。 あいつは俺のものであるということ。それは決定事項で、揺るぎない現実と思っているから頭に失敗が過ぎらない。 ヘルガを殺したときの達成感。あれから始まったヴィルヘルム・エーレンブルグの人生は、思うがままに進んできたから挫折の経験なんかなかったしよ。 ハイドリヒ卿にはやられたが、あれは祝福だったと思っている。だから本当の屈辱を知らねえし、メルクリウスの言うことなんぞは戯言で…… 俺は負けないし、泥など舐めない。漠然と、そう信じていたんだよ。 「あまり余裕に構えていると、ある日ぽんと捨てられちゃうわよ。もしくは、別の誰かに取られたりとか」 「そこらへん、少し考えたほうがいいかもね」 「……うるせえなあ。で、結局おまえらもついてくんのか?」 「ええ。クラウディアのこともそうだけど、まだやるべきことはあるからね」 「あん、なんだそりゃ?」 問うと、バビロンは呆れたように、決まってるでしょうと肩をすくめた。 「まだ怪異の元を絶っていない。それをどうにかしない限り、何度でも同じことは起きるわよ」 「いっそのこと、ここで全部火葬でも出来れば別だけどね」 そうして、周りを見てみろと俺たちに促してくる。確かにそれは、言われてみればその通りだった。 「ああ、なるほど。しょせん〈死体〉《これ》は、触媒にすぎないということですか」 「カチンに屍の山がある以上、切りがないわけですね」 死体に宿り、動かしている魔術を俺たちはぶち壊して無力化した。しかし新たな動力の供給が成されれば、これはまた復活する。 問題の源は、あくまでも魔術師だ。その骸なり根城なり、とにかく異常を垂れ流している元を叩かなければ意味がない。 怪異を駆逐しろと言われた以上、その真に迫らないまま帰るなんて有り得ない話だった。 「そういうこと。だから任務はまだ途中」 「クラウディアのことは心配だけど、優先するならこちらでしょう。あの子を連れたまま、虎穴に入るわけにもいかないからね」 と言うバビロンに、俺は深く息を吐きつつ頷いた。 「分かったよ。それで、おまえに当てはあるのか?」 「一応ね。カチンの怪異は雨と満月の日に起きると言ったでしょう」 「ここで見るべきは、前者」 つまり雨。そこから察せとバビロンは言う。俺が首を捻っていると、ベアトリスが得心したように頷いた。 「分かりました。下ですね?」 「ええ。これも言ったと思うけど、きっと原因は地中にある」 「もとからあった危ないものの上に死体を埋めてしまったから、雨によって〈径〉《みち》が出来てしまうのよ。簡単な理屈ね」 水は高きから低きへ流れる。それは血もまた、同様に。 カチンの虐殺は、地の底で枯れていた古い神秘に潤いを与えてしまったというわけだ。 「そうかい、おおまか理解した。しかし、だったらどうすんだ。今から穴でも掘るのかよ?」 「最悪、それも考えてるけど、まずは周辺を見て回りましょう。ちょうどここは丘の上だし、下りれば何かあるかもしれない」 「たとえば、洞窟とか?」 「そんなものね。じゃあ方針も決まったところで、行きましょうか」 促すバビロンに続く形で、俺たちは死体だらけの丘を下りると周辺の探索に移った。 そして、それはごく簡単に見つかったんだ。 「ここ……みたいね」 ベアトリスが予想した通り、斜面に口を開けている洞窟がそこにあった。 変哲もねえと言えばそれまでだが、他に目ぼしいものはない。まずはここから調べてみるのが筋だったし、他にも理由は存在した。 「これ、クラウディアのですよね」 洞窟の入り口付近に、あいつの頭巾が落ちていたんだ。そこから推察する限り、極めて単純な答えが見えてくる。 「俺らが死体と遊んでる間、ここに避難してたわけか。ま、あいつにしちゃあ上出来だな」 「またあなたは、そんな適当に……さっきリザさんも言ったでしょう。虎穴かもしれないんですよ」 「どうかしらね……」 顎に手をやり、穴の奥を見つめるバビロン。そのまま慎重深く感想を漏らす。 「特に嫌な気配は感じないし、本当にただの洞窟なのかもしれない。だったらあの子は無事でしょうけど」 「ただの人間には反応しないだけってこともある。いずにせよ、入ってみないと分からないわね」 「つまり、こうか? 俺らみたいなもんが入った瞬間、中の状況が一気に変わる可能性もある」 「だからここで、あまりクラウディアに意識を割くなと?」 「そうね。気になるでしょうけど、呼びかけたりはしないように」 「念を入れて悪いこともないでしょう。“中のもの”がクラウディアに気付いてないなら、あえて気付かせる必要もないということ」 警戒しすぎとも思ったが、理屈の筋は通っている。何にでも言えることだが、センサーってのは脅威を察知するためのものだ。 ならば仮にも魔術師の城が、ただの女子供を脅威と認識するはずもない。よってクラウディアは網に掛かっていないとすれば、そのままにしたほうがいいだろう。 本音を言やあ、あいつは多少なりとも怖がらせたほうが、俺にとって都合も良くなるんだがな。 「分かった。それじゃあさっさと入ろうぜ」 「俺らにゃ牙を剥いてくるかもしれねえが、別にびびってなんかいねえだろう」 「当たり前です」 「了解。だけど油断はしないようにね」 そうして、俺たち三人は洞窟の中へと入っていた。入り口こそ狭かったが、すぐに横も縦も幅が広がる。 緩い勾配で下へ下へと……二分も進んだ頃にゃあ、十人は並んで歩けるような空間になっていた。 「驚きですね……これは想像以上に、広くて深い」 「ここまで一本道だから迷うことはありませんが、それでも尋常じゃない感じですよ」 「同感ね。それに気付いてる? たぶんこの洞窟、螺旋状になってるわよ」 道が常にカーブしているのは俺もまた感じていた。加えて下り坂でもあるんだから、構造は螺旋ということになる。 「だったらいったい何なんだよ?」 「あのですね、分からないんですか? つまりこの洞窟は、立体的な意味を持つということですよ」 「これで特定の区画ごとに仕掛けが施されていたら、一種の陣を描くのかもしれません」 「たとえば、俯瞰で見ると〈五芒星〉《ペンタグラム》や〈六芒星〉《ヘキサグラム》に……まあ、有り得ることよね」 「つっても、別に何もねえじゃねえか」 軽く辺りを見回して、俺は呟く。ここまでまったく異常なしだ。 誰も明かりになるものは持っちゃいないが、それでも洞窟内の状況は鮮明に見ることが出来た。俺たちの視力は並の暗闇など問題にしない。 そう、並の闇ならだったんだが…… 「早計よ、ベイ。もう少しで最初の円を一回りする」 「何かあるとすれば、そろそろだと思うから」 気をつけろと言われた、まさにその瞬間だった。 「―――――」 踏み出した足が空を切る。驚愕はしたものの、落下の感覚がないことから落とし穴じゃないと瞬時に悟った。 しかし足の裏に大地の感触はまるでなく、さらに言うなら〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 繰り返すが、俺の視力は普通じゃねえんだ。そこらの暗視スコープなんぞ問題にもならない域で闇を見通せる自負がある。 にも関わらず、まさしく一寸先はなんとやらだ。先の一歩を踏んだ瞬間、宇宙にでも放り出されたのかと真剣に思ったぜ。 「へぇ……こりゃまた、やるじゃねえか」 だからこそ、俺はこの状況を嬉しく思った。先手を取られたのは癪だったが、歯応えのある相手なのは間違いない。 バビロンやベアトリスともばらけちまったのを理解する。姿が見えないのはもちろんだが、連中の気配をこれっぽちも感じ取れねえ。 本当はすぐ近くにいたのかもしれないが、この闇はそれほど深い。視力だけじゃなく、他の感覚も遮断する密度と質量を持っていた。 「で、いったいどうしてくれるんだ?」 一種の罠が発動した以上、続く剣呑な諸々もあるだろう。それを期待してしばらく待ったが、そこには闇と静寂があるばかり…… 「不精な野郎め、来いってか」 言ったように足裏の感触はないから歩くと表現するのもおかしいが、とにかく進むことにした。 他の奴ならいざ知らず、俺は闇に怯える感性など持っちゃいない。だから躊躇などするはずもなく、ひたすら状況を動かすことのみ考えていた。 早く気の利いた出し物を見せてくれ。退屈させるな。期待している。 思うことはただそれだけ。飢えにも似た心を抱いて俺は進み…… やってきたのは、少々予想外と言えるものだった。 「……また、失敗した」 暗闇の中、響いてきたのはそんな声。慙愧に沈み、悲憤に塗れた女の嘆きが俺の鼓膜を震わせた。 「どうして、なんで上手くいかない。これだけのことをしてきて、今さら駄目だったじゃすまされないのに……」 「結果を出さなければ、すべてが無駄になってしまうだけじゃないの!」 それが誰の声かは分かっていた。見知った奴のものだったし、ついさっきまで会話していた相手でもある。 だがしかし、当人が喋っているんじゃないと感じた。何せ脈絡がなさ過ぎるし、場の状況にもそぐわねえ。 「……つっても、ただのマヤカシってわけじゃねえな」 これはこれで、一種本物。 リザ・ブレンナーという女の真実であると俺は察して、同時に―― 「だから、立ち止まるわけにいかない」 瞬間、視界は一気に開けた。 「もう一度、最初から考えてみよう」 「間違ったのは何処か。どの段階で私は要らぬ手を加えたのか……」 「いいえ違う。〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》」 無菌室を思わせる殺風景な部屋の中、神経質に頬を痙攣させながら女は呻くように呟いていた。難関を前に追い詰められている者特有の、焦りと苛立ちが浮き出た恐怖の相は、お世辞にも褒められたもんじゃねえ。 風呂も食事も、睡眠さえもきっとろくに取ってない。髪は油染み、服はよれよれで、頬はげっそりとこけている。それでいながら、クマに覆われた両目だけは熾火のように燃えていた。 最悪の戦場で、発狂寸前に陥っている兵士たちにも通じる雰囲気。事実そこは、戦場に匹敵する死と不条理が溢れていた。 「ほぉ……こりゃまた、やるもんだ」 「話には聞いてたが、なるほど……こいつは確かに〈退廃の国〉《バビロン》か」 女を中心にして、餓鬼の死体が部屋中に転がっている。一目で分かる外傷を負った者は皆無だったが、それが逆に不気味さを際立たせていた。 全員、男とも女とも見分けがつかない。それは十にも満たない幼児だからという点もあったが、真っ当な育てられ方をしていなかったというのがきっと一番の理由だろう。 環境が歪なら、成長も歪になるのは当然のことだ。狼に育てられた餓鬼が自分は狼だと信じるように、この死体どもは一般に言う人間らしい生活をしていなかったのだろうと推察できる。 俺が言うのも何だがな。一種神聖なグロテスクさを感じたよ。性別を超越した雰囲気を纏いつつ死んでいる餓鬼どもは、喩えて言うなら天使だった。 人間が使わない〈識域〉《チャンネル》をこじ開けられて、人間には感知できない音や色を見聞きし、歌う。そんな存在になるべく育てられた連中は、てめえの力に耐えられず壊れちまったということだ。 進化、優生学、第三帝国の次世代を担う太陽の子供たち。超人の創造。 リザ・ブレンナーという女が目指していたのはそういうもので、しかし結果はこの通り。 天使は祝福のラッパを吹き鳴らさない。生命の泉と名付けられた女の城は、正反対に餓鬼の屍を積み上げていくだけとなった。 「つうことだろうが……」 さて、だからどうした? この場で、こんなものが俺の前に広がっている意味と理屈はどこにある? 知ってる奴の性交現場を目撃したような可笑しさとアホらしさを覚えはしたが、出し物の趣旨が掴めねえ。 だが訝る俺を無視するように、目の前の芝居は続いていく。 「〈超能力者〉《サイキック》を生むという方針そのものは間違ってない。危うい思想ではあるけれど、今さら綺麗事が罷り通る世界じゃないのよ」 「博愛と平等を謳ったところで戦争は終わらないから。終わらせるには圧倒的な力。それを生み出す戦意の鼓舞」 「何処もかしこも、自分たちが世界一優秀な民族だと言っている。そう、言っているだけだから戦況は混沌とするのよ。自負は形にしないと意味がない」 「我々の子供たちこそ、新たな世界を担う進化した人類の魁だと……内外に見せ付けるには、少しくらい頭や見た目がいいというだけじゃ足りない」 「既存人類には出来ないことが出来る。その枠を超えた存在だと認めさせる。そのためには〈超能力者〉《サイキック》……問答無用で一目瞭然」 人間は奇跡にひれ伏し、畏怖して敬う。空を飛べる奴が国単位でいれば、誰もそんな連中には逆らわねえだろう。 俺らにとってのハイドリヒ卿がそうであるように。宗教だって似たようなもんだ。死んでも生き返ったり、未来を預言したりする奴がいたから、みんなそいつに従ったんだよ。 ゆえにバビロンの理屈もまあ分かる。男は戦場で血を流し、女は子を産み育てるべきという奴の信念に照らすなら、女の究極的仕事は進化した“次”の創造。 超能力者の量産が可能になれば、なるほど第三帝国は神に選ばれた栄光の大地ということになるだろう。 短絡的と人は言うかもしれねえが、事が大きく複雑になればなるほど、そういうシンプルな一撃が力を持つ。世界大戦なんて弩級の修羅場を制すなら、ある種馬鹿馬鹿しいほどの明快さが要ると俺は思うぜ。 実際、核爆弾なんていうもんが生まれちまったくらいだしよ。当時の感覚で言えば、荒唐無稽さじゃあ超能力者と大差ないぜ。 「だから、ここまで私は間違っていない。〈超能力者〉《サイキック》を生む方法も、九割がた確立している」 「ただ、問題は……」 言って、バビロンは周囲を見回す。そこらに転がる夥しい〈天使〉《ガキ》どもの屍。 「それに耐えられる子がいないということ。汎用性がまったくない」 「じゃあ、もっと基準を下げるべき? ううん、それは本末転倒というものでしょう。むしろ今は、とことんまで性能を突き詰めた原種を生むことに注力したほうがいい」 「ここで妥協をしないことが、続くすべての底上げに繋がるはずだし……最初の成功がなければ次もないから」 「この子たちの犠牲を無駄にはしない。してはいけない。そのためには、やはり……」 指を噛み、膝を震わせ、蒼白になりながら女が考えていることは何なのか。俺は直感で理解した。 知識として知ってることもあったからな。至極当たり前の論法だよ。 「優生学……天才の子は天才で、超人の子は超人」 軍のエリートやら良家の子女やら、そういう連中を掛け合わせて生まれた餓鬼どもじゃあ、超人の器としてまだ弱い。 ならば、答えは一つだろう。 「私が産むしか……ないわけね」 黄金の爪牙。黒円卓の騎士。その座にいるリザ・ブレンナーこそ、超人の母に相応しい。 言った通り当たり前で、筋から言えば真っ先にそれをやるべきだと普通は思うはずだろう。 そして実際、こいつは何度もそれを試したと聞いている。 「だけど、どうしたら私に子供が……」 「誰と、どんなに、どれほどしても、お腹に命が宿らない。最大の欠陥は、つまるところ私の資質?」 「これほどたくさんの子供を殺し、愛もなく男性と繋がってきた私じゃあ、母になる資格はないというの?」 「でも、だったら、本当にどうしようも……」 それは種さえバラ撒けば、理論上百人だって同時に餓鬼を作れる男には分からない焦りであり、恐怖なんだろう。 痩せた畑に実はならねえ。種が腐ってる場合もあるだろうが、問題としちゃあやはり女のほうが切実だろうぜ。この状況に限って言えば、母体がおかしいから孕めねえとしか思えないんだからな。 不妊症。目的のために、まず至高の原種を産もうと目論むバビロンは、そこで完全に躓いていた。自身も言っていたように、始まりの成功がなければ続きが起きるはずもない。 「どうすれば、どうしたら……」 「子供が欲しい。この手に抱きたい。ああどうか私に、母となれる資格を」 「それさえ叶えば、なんだって……」 目指す理想がなんであれ、他人の餓鬼を殺しまくった奴が言う台詞じゃねえわな。しかしそんな皮肉はともかくとして、女が狂気に落ちる典型例ではあったんだろう。 だからこそ、とでも言うべきか。 「悪魔に魂を売っても構わない」 「よかろう。ならば御身の真実を教える」 半ば予想していた声が聞こえた瞬間、視界がノイズの嵐に潰された。 「あなたは、いつから……」 その中で、だが伝わってくるのは驚愕した女の気配。そして、水銀のように重く流動し、とぐろを巻いていく魔術師の〈祝福〉《ノロイ》。 「御身は誕生を夢見ながら死を抱いている。死体を抱くことでしか愛を感じることが出来ぬ女だ。サロメのように」 「接吻は断頭に。化粧は骸に。飾り立てるならば〈屍衣〉《シュラウド》に……愛し合うなら墓所を〈褥〉《しとね》にするが相応。生きた男をどれだけ抱いても、御身の〈子宮〉《はら》は受け入れぬ」 「超人を望むなら、常人の営みなど捨てるが道理だ。それでこそ、〈太陽の御子〉《ゾーネンキント》は生まれ出でる」 「つまり……」 こいつが、やれと言っていることは…… 「そう、近々、極上の死体が生まれる予定だ。機は逃されるなよ、大淫婦殿。何度も試せることではない」 「ああ、ヨカナーン。ヨカナーン。死したおまえこそが美しいと、謳いながら交わればよい」 「ふふふ、ははははは、はははははははははははは――――」 「―――――」 そうして、再び闇が落ちた。鉈で叩き切ったような静寂の中、俺は低く溜息を吐く。 「それで? 結局なんなんだよ」 趣旨は相変わらず掴めねえ。今のがバビロンの記憶であり、あいつが俺の知ってるあいつになった原因だろうというのは分かったが、それが現状の何に繋がる? くだらねえとまでは言わないが、特に面白くもない見世物だ。こっちは痛くも痒くもねえ。 そしてそれは、当のバビロンにしても同感だろう。今のを奴も見せられたとして、古傷をほじり返されたような不快さは覚えたかもしれないが、そんなことで潰されるほど柔な女じゃねえんだよ。 悪魔に魂を売ると言った奴が、てめえの暗部を叩きつけられたからといって気後れするはずもない。 そう思い、そして俺は…… 「ああ、待てよ」 「暗部、暗部か……なるほどつまり」 これが何を意味しているのか察すと同時に、次の“闇”が幕を開けた。 「〈War es so schmählich,〉《私が犯した罪は》――」 「〈ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot.〉《心からの信頼において あなたの命に反したこと》」 剣を拝むように掲げ持ち、懺悔の祈りを捧げる女の姿が視界に広がる。 先のバビロンに続き、これはベアトリスが持つ魂の闇だった。 「〈Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid,〉《私は愚かで あなたのお役に立てなかった》」 「〈Auf dein Gebot entbrenne ein Feuer;〉《だからあなたの炎で包んでほしい》」 この女が水銀の薫陶を受け、黒円卓の騎士となった瞬間の記憶。そしてそのとき、こいつの胸に渦巻いていた後悔、動機。 すべてが、映像となり俺の前に流れていく。 「貴様、何を笑っている?」 そこは粗末な野戦病院の一角だった。椅子に座ったベアトリスを、全身包帯に覆われた女がベッドに横たわったまま、火のような目で睨んでいる。 ザミエル……間違いない。これはあいつが、例の火傷を負ったときのことなのか。 1942年。つまり当時から言えば二年前、ハイドリヒ卿が暗殺されたという報が流れた日の出来事。 もちろんそんなものは誤報であり、俺は信じちゃいなかったが、まったく動揺しなかったと言えば嘘になる。 こいつらも、そこは同じだったようで…… 「あのとき私は、本当に笑みを浮かべていたのだろうか。今でもそれは分からない」 「ハイドリヒ卿の死という報を受けた少佐は、戦場で彼女らしからぬ失態を演じた果てに再起不能の身となった。命だけは取りとめたが、軍人としての未来を完全に絶たれたのだ。いいや、それだけではない」 「半身を覆う重度の火傷は、エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグという人物を女性としても殺している。見た目の痛ましさはもちろんのこと、上官が失ったものを思えば笑っていられるはずがない」 「だけど、なぜか……ああ、だからこそ」 「嬉しいか、キルヒアイゼン」 「嬉しい。そうだ、私はこのときほっとしたのだ」 「これで自分たちは救われると。あるべき日常に帰れると」 「戦況は最悪で、祖国は滅びるかもしれなくて、家族も友人も我々自身も、死ぬか不具者になるしかないだろうと思いながらも、助かったと安堵したのだ」 「なぜならそれは、人としての結末だから。どれだけ不幸なものであろうと、私が理解できる世界の形を外れてないから」 黄金の死という報を前にして、絶望するザミエルとは真逆の思いに囚われたこと。 その事実に対する後悔が、以降のこいつを形作ったのだと理解する。 「ハイドリヒ卿は、死んだのですね」 引きつった声で、泣いているのか笑っているのか分からないまま呟かれた声。 そして次の瞬間に、ザミエルは傍の花瓶をベアトリスの頭に叩き付けた。 「出て行け……貴様の顔など見たくない」 「少佐……」 「出て行け――今すぐ! 殺すぞ、二度とその面を私に見せるなッ!」 怒号して、しかしそのまま崩れ落ちて、獣のように息を荒げながらザミエルは呻いている。 溶けかけた爪が剥げるほどにシーツを掻き毟っている上官の姿を見つめ、ベアトリスは立ち上がった。 「新しい花瓶を持ってきます」 何度殴られようが花を飾るし傍にいると。それがこの場で自分に出来るすべてであり、やらねばならないことなのだと。 こいつの胸にある思いはそんなもので、もはや吹っ切れていたのだろう。 あくまでも、こいつが信じたがってる世界観においてはだが。 「戦争はまだ終わらない。人死にも止まらない。おそらく祖国が敗北するまで、いいやきっとその後も、悲劇は連鎖し続けるだろう」 「だけど私と少佐に限っては、もう戦いを終えたのだ」 「黄金の光に呑まれ、人でないものへと変わる恐怖……もっとも危惧していた未来を避けることが出来たのだから、後はただ軍人として当たり前に進めばいい。その運命を受け入れればいい」 「何も難しくない。簡単なこと」 「そう思って、愚かにも信じ込んでしまったこと」 「それが私にとって――最大の後悔」 懺悔は確かにその通り。そこがこいつの、どうしようもない浅はかさだった。 ベアトリスが上官のもとを離れた一瞬の間に、入れ替わりで現れたのは死んだはずの黄金だったという事実。 驚愕し、次いで歓喜に涙するザミエルを、ハイドリヒ卿は抱き上げ、告げた。 「隠すな。恥じる必要など何もない。今の卿こそが美しい」 「私と共に来い、少佐。一度死んだ身なのはお互いだろう」 「はい、はい……何処までも!」 よって結局のところ、間抜けはベアトリスだったということだ。こいつは現実に耐えられず、てめえにとって都合のいい幻想を信じ込むことでそこに逃げた。 ハイドリヒ卿が死ぬなんて、あるはずもねえっていうのに。 チンケな自分の世界を守るため、現実から目を背けたのは軍人として失格だろう。そこは痛感しているらしい。 仮にベアトリスが、このときずっとザミエルの傍にいたとしても、それで何が変わっていたとも思えねえが。 「失敗を犯したのは確かだから」 「私が愚かだったのは事実だから」 「悔いが、悔いが残るのだ。取り戻したいと切に願う」 「然り、その〈渇望〉《おもい》こそ御身の真実」 そして再び、被さってくるノイズの嵐と魔術師の〈祝福〉《ノロイ》。 「御身は輝く魂を追い、死を量産する。英霊をヴァルハラへ招く死神であり、グラズヘイムの尖兵たるに相応しき者」 「その業を祝福し、魔名を送ろうヴァルキュリア――戦場を駆ける雷光のごとき戦乙女よ」 その中で、だが違う違うとベアトリスは歯を食いしばり。 「私は、道を照らす光になりたい」 どれだけ深く水銀の海を潜ろうとも、自分は人であることを見失わないと、剣を抱きながら誓っていた。 「……なるほどな」 映像は消え去り、目の前には暗黒があるだけだったが、しかし状況は最初から何も変わっていなかったのだと理解する。 ここは終始一貫して闇のままだ。心の、魂の、人間が持つ暗い部分。その概念が具現化されているのだろう。 そう考えれば、なかなかよく出来た防衛の手段と言える。侵入者は、己が持つ心の闇になんらかの決着をつけない限り、おそらくここから出られない。 回りくどくて好みじゃねえが、極めて厄介なのは確かだろう。何せ闇のない奴など存在しねえ。 それに決着をつければいいとは言ったものの、具体的にどうするべきかはまったくの不明だった。仮に自己の暗部を吹き飛ばす術があったとして、それを成した俺は本当に俺なのかという疑問がある。 先のバビロンやベアトリスにしても、あれはあれで奴らの芯に関わる重要なものだ。抜き取ったら背骨を失くしたも同然で、立つことさえ出来ないだろう。 ならば、いったいどうやってこの闇を払えばいいのか。 「面倒くせえな。哲学じみてきやがった」 魔術師らしいと言えばらしい関門。マレウスでも連れてりゃあ何かの足しになったのかもしれねえが、ここは自力でどうにかしなきゃならんだろう。 そのためには、前提として言うまでもなく。 「おら次だ。さっさと来いよ」 俺の闇ってやつが何なのか、見せてもらわねえと始まらない話だった。 「あらやだ。そんなの簡単なことよ」 そうして現れたのは、紅の薔薇園に佇む女。 血の噴水を満身に浴びながら、にこやかにこちらを見つめる壊れた笑みには覚えがある。 赤く瞬く瞳の奥で、絶えず掻き混ぜられている異様な情念に舌打ちした。 「チッ……」 辟易する。これは無駄に神経を削られる覚悟が要るなと思いつつ、俺はぶっきらぼうに呟いた。 「ヘルガかよ」 「ええそうよ。こうして面と向かうのは久しぶりね。嬉しいわヴィルへルム」 「あのときあなたに愛されて以来、もうどれくらい経ったのかしら。でも昨日のことのように覚えてるわ」 「ちゃんと毎日ご飯を食べてる? 風邪なんか引いてない? 私に会えなくて寂しかった? ねえ、ねえねえ、また昔みたいに抱きしめてよぉ」 「うるせえ、黙れ」 気狂い女の幻影と埒の明かない会話を続ける趣味はねえ。俺は指を立てて短く言った。 「決まりは一つだ。質問するから、てめえは馬鹿みたいに答えろ」 「訊いてもねえことを勝手にペラ回しやがったら……」 「殺しちゃうって? じゃあそうしてもらおうかなあ。だってわたしは――」 言下に切って捨てるように、無言でヘルガの顔面をぶん殴った。水風船が破裂したような音を立て、女の輪郭が四散する。 「うふ、うふふふ……そうよ、それそれ。あなたのそういうところがわたしは大好き」 「ヴィル、ヴィル、わたしの愛しいわたしの息子。めちゃめちゃにして、わたしを愛して」 「…………」 飛び散ったどろどろの血溜りから、ヘルガは再び形を持って立ち上がった。どうやらこいつ、粉々にしても消えないらしい。 予想はしてたから驚きこそしなかったが、さすがにうんざりする気持ちはあったぜ。端的に、うざったいことこの上ねえ。 「おまえが俺の闇っていうことでいいのか?」 「ええ、もちろん。そうよ、そうに決まってるじゃない。他に何があるっていうの」 「あなたにとって、一番拭えない記憶はわたしでしょう?」 「一番深い、血の絆」 アメーバのように蠢動しながら、濁った血塗れの瞳を三日月に歪める。吊りあがった口元からは、赤い牙が覗いていた。 「とっくに死んだ奴が抜かしてんじゃねえよ」 「血の繋がりなら、てめえをぶち殺したときに清算してるわ」 「あらそう? でもそれなら、どうしてわたしはあなたの中にいるのかしら」 「愛しいヴィル。吸血鬼になりたいヴィル。わたしから産まれたっていう現実が許せないのね」 「だから壊した」 「我が始まりよ、灰になれって」 ああそうだ。俺は生まれの呪縛を断ち切った。そう確信してるし、自負してる。 不死鳥の親が、泥くせえ鴉なんかでいいわけもねえだろう。その間違いは正さなきゃならなかったし、ぶち壊すことで俺は生まれ変わったはずなんだよ。 「なのに、ふふ、うふふふふ……未だにわたしとあなたは繋がっている」 「切れないのよ。家族なんだし、当たり前じゃない。あなたは今でも、わたしを愛した日の記憶を抱いている」 「忘れたくないんだよねええ。だからわたしも忘れない。あなたが覚えてるから消えたりしない」 「もっと、もっと、激しく、長く、永遠に……わたしを壊して、抱いて、吸い続けたいとあなたが願っている限り」 「ずっと一緒よヴィルヘルム。それがわたしとあなたを繋ぐ闇の賜物」 「うるせえ」 「照れないで、素直になってよ。また〈お母さん〉《ムッター》の血が吸いたいんでしょう、甘えん坊さん」 「黙れと言ったぞ」 再びぶち込んだ拳で弾け、血煙と化しながらもヘルガの声が木霊する。 「きゃはは、あはははははは―――愛してるわヴィルヘルム。わたしを求めて、わたしを見てよ。わたしがいればいいじゃない」 「だって、どうせあなたは、わたし以外に……」 何だと言うのか。嘲りながらも慈しむように、ヘルガは呪いの言葉をねじ込んできた。 「手に入るものなんか、何もないわよ」 「――消えろォ!」 怒号した、その瞬間に。 「ヴィルヘルム……?」 「――――――」 いきなり津波のような音を立て、闇のすべてが弾け飛んだ。 「なッ……」 いや、正確には〈逃〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。 「鼠……それに蝙蝠だと?」 万じゃきかねえ、夥しい数の小動物。暗がりに生きるそれらが、雪崩をうって退却していく。 つまり、さっきまで闇を形作っていたのはコレだったのか。乱舞する下等生物の群れに生理的嫌悪感を覚えたが、状況的にそんなものは二の次以下だ。 「なぜだ……?」 いったいどうして、こいつらは逃げていく? 俺は何もしちゃいねえ。 ヘルガとの問答に、闇を払う何かがあったはずもない。消えろとは確かに言ったが、それで消えてくれるなら誰も困りなどしないだろう。 「気に入らねえぞ。舐めやがって」 分かっているのは、開けつつある状況が自分の力で成されたものじゃないということ。それが俺にとっては屈辱であり、結果よしと思えるような性分じゃなかった。 ゆえに動かず、考える。こんな落ちに助けられずとも、自分は突破できたと確信できるように。 「俺がヘルガを忘れてねえだと?」 「それが未だに縛られてる証だと?」 忘れてないのかと言われれば、そりゃあ確かに忘れてねえよ。今でもそうだが、当時はたかだか十五・六年前のこと。そんな都合よく消せるほど便利な記憶力は持っちゃいねえ。 覚えてるから愛してるなんてのは暴論だ。それを言うなら誰だって、昔の女や男のことは記憶しているもんだろう。未練なんぞなくたって、覚えてるもんは覚えてる。 「じゃあなんだ? 特別視している面があるとでも?」 「笑わせんなよ、否定はしねえが種類が違う」 俺にとって、ヘルガは初めての女だから印象が強い。そこは確かにその通りだが、単に記念品というだけのものだ。前も言ったが、トロフィーにすぎねえ。 そんな程度の扱いに、愛だ絆だと色めき立つほうがイカレている。脳が哀れな奴の理屈であり、くそ馬鹿馬鹿しい戯言だろう。 よって聞くに値しない。あのまま続いたところで論破は容易かったと結論し、 「てめえは俺の唯一無二なんかじゃねえ。思い上がんじゃねえぞ間抜け」 「今後〈薔薇園〉《そこ》に、いくらでも〈勲章〉《くび》を並べてやろうじゃねえか。見てやがれ」 宣言するように吼えたと同時、ようやく完全に視界が晴れた。 するとそこには。 「……、っ………、ぅぅ……」 クラウディア。 「……てめえ、こんなところにいたのかよ」 洞窟の、おそらく最奥。玄室めいた部屋の中で、クラウディアが倒れていた。どうやら気絶しているらしく、呑気な馬鹿面を晒している。 俺が面倒なあれこれに対処していた間、こいつは寝てやがったのかと思ったら気が抜けたし、微妙に腹も立ってきた。 「おい、おいこら。起きろ阿呆」 足先で小突きながら促したが、うんうん言うだけでなかなか目を覚ましやがらん。なので、もっと乱暴に蹴り転がしてやろうかと思ったとき。 「あん、こりゃあ確か……」 俺の懐から、一つの封筒が落ちてきた。 それはカチンへ発つ前、ザミエルから受け取ったもの。すっかり存在を忘れていたが、蝙蝠の大群に呑まれたことで服が乱れきっていたらしい。このときになってこぼれ出てきた。 そのまま捨てちまおうかとも考えたが、こうして目にすると今さらながら気になってくる。 「……ち、何なんだよ結局」 だから俺は、ぼやきながらも封筒を拾い上げて口を切った。中の書類を開き、目を通してみれば…… 「…………」 「…………」 「……なんだと?」 そこには、目を疑う内容が記されていたんだよ。 そして驚愕は、それだけに留まらない。 「誰だおまえは」 「―――――」 背後。それこそ息が掛かるほどの近距離から、そいつの声は聞こえてきた。のみならず、鋭利な刃と思しき物を俺の背に突きつけている。 「……こりゃあまた、随分なご挨拶だな。人に名前を尋ねるときは、まずてめえから名乗るもんだと知らねえのかよ」 「だから? 芸のない返答だな。つまらんぞおまえ」 「ほぉ……言うじゃねえかこの野郎」 軽口で返してやったが、心はそこまで穏やかじゃねえ。なぜなら、まったく存在に気付けなかった。 ある種の油断をしていたのは認めてもいい。そこに付け込まれたのも確かだろう。だが、単に隠れていた奴を見落としたのならともかく、敵意を持った相手の接近に反応できなかったのは初めてだ。 加えて、何が一番おかしいかというと…… 「おら、どうしたよ? やるならさっさと殺ってみろ」 この状況に、俺が馬鹿正直なかたちで付き合ったということ。 背後を取られた? ああそれで? 刃物を持ってる? だからどうした? 俺はヴィルヘルム・エーレンブルグ。黄金の爪牙で、黒円卓の騎士だ。ナイフどころか、機関銃をこの距離でぶち込まれたって死にやしねえ。 いいや、引き金すら引かせねえよ。俺がちょいとその気になれば、振り向きもせず後ろの野郎を串刺しに出来る。 にも関わらず、それをしない。いいや、正確には出来なかった。 やればまずいことになると、直感的に俺は悟って…… 「……そうか、黒円卓。なるほどな」 形容できない、妙な違和感を覚えたと同時、謎の男は溜息まじりにそんなことを呟いていた。 「相も変わらず悪趣味な。まったく理解に苦しむよ」 「おまえ、水銀に言われてここに来たのだな。吸血鬼」 「……てめえ」 なぜ、こいつは俺のことを知っている? それどころか、メルクリウスの野郎まで。 「悪いが、面倒ごとは御免被る。おまえの骸で、奴にはこちらの意志を察してもらおう」 「期待は出来んが、他に手も見当たらんことだし……」 「おまえも、そのほうが幸せだろう」 「………ッ」 背に戦慄が走った、瞬間だった。 「う、ぅぅ~~~ん」 「――――――」 男の殺気が僅かに揺らぐ。俺は即座に振り返り、渾身の裏拳を放っていた。 「―――チィッ」 完全に捉えたと思ったが、しかし手応えは霧を殴ったように曖昧だった。目の前には黒い外套が視界を覆いながら舞っている。 なんだこいつは? いったいどういう了見だ? ここまで虚仮にされたのは初めてで、しかもその実体が分からねえ。 俺のプライドをぶち壊すに足る展開を前にして、だがここで雪辱の機会は訪れず…… 「あ……ヴィルヘルム。助けに来てくれたんですか?」 「ベイ、それにクラウディア!」 俄かに騒がしくなった小部屋の中、明らかにタイミングを逸してしまった。歯噛みする俺の前で、男は失笑しながら外套を羽織り直す。 「あなたは、いったい……?」 「ルートヴィヒ」 こいつはそう、慇懃無礼に嘯いて。 「ルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツ。〈教皇庁〉《ヴァチカン》の工作員だよ。つまりおまえたちと同じような立場だな」 「話の続きは外へ出てからにさせてもらうぞ。ここは滅入る」 「そちらのお嬢さんも心配だろう。……ああ、立てるかな」 「は、はい。ありがとう、ございます」 騎士のように恭しく、膝をついてクラウディアに手を伸ばしていた。 「なるほど。つまりあなたはあなたで、カチンの怪異を調べにきたと?」 「ああ。だが残念ながら、私以外は全滅だ。恥を晒すようでみっともないがね、事実なのだから仕方ない」 その後、洞窟を出た俺たちはルートヴィヒと名乗る男を囲んで詰問していた。 いや、それは正確じゃねえか。このとき男に不信感を持っていたのは俺だけで、他の連中はさほどの警戒をしていなかった。 なぜなら教会の連中がカチンに来ていたのは事実であり、男はそこの法衣を纏っている。さらに言えば、当時のドイツと〈教皇庁〉《ヴァチカン》は同盟者という間柄だ。 俺ら自身、もはや所属は国家じゃねえが、少なくとも現状において男はこちらの敵じゃないと、バビロンたちは了解しているようだった。 そんなもん、まったく当てにならねえと俺は思っていたけどよ。そこらへんを突っ込めば、洞窟で野郎に不覚を取ったことまで話さなけりゃあならないから胸糞悪い。 そういうわけで、俺は無言のまま顔をしかめ、成り行きを見守るだけに留めていた。 「疑うのなら教会に身元の照会を要請しても構わない。身分証も渡しておこう」 「ええ、受け取っておくしそうさせてもらう。だけどこの場じゃあ、どのみち精査も出来ないことね。だからご足労だけど、私たちについてきてもらうわ」 「こちらも子供の使いじゃないからね。私たちの上にあなたのことを報告する義務があるの」 「了解。やむを得んな。この件について、優勢なのはそちらのほうだ。仲間を全滅させた身で大きな態度は取れない」 「私の上司には、そちらの上から話を通してもらうとしよう」 「ありがとう。物分りがよくて助かるわ」 などと、とんとん拍子に進んでいく。この野郎を黙って帰すわけにゃいかないってのは同感だが、弛緩したやり取りに思わず舌打ちしちまったぜ。 「まあ、問題ないと分かればすぐに帰れるはずですし、そのように計らいますから心配しないでください」 「ともあれ、ひとまず落着ということでいいんですかね?」 「状況を見る限りは、ね」 自嘲気味に言いながら、頷くバビロン。 例の洞窟に巣食っていたモノに対し、俺は何もやっていない。そこはこいつらも同じだったようで、だが現状は怪異の霧消を表していた。 「この一帯に、もう何も感じない。神秘の痕跡は、綺麗に無しよ」 「これを喜んでいいのかは分からないけど」 「洞窟の闇が晴れた原因は何だったのか。さっぱり不明ですからね」 「あなたは何か心当たりがありますか、ルートヴィヒ?」 「生憎と、まったくだな。私に言えることは、唐突に視界が開けたら目の前にその男がいたというだけだ」 「うーん、なんとも謎が残りますねえ。強引にでも理屈をつけるなら、我々全員を取り込んだことで許容量を超えたとか?」 「しょせん、言っても古い魔術の残滓ですし、その程度の強度だったということなんでしょうか」 例の小部屋には棺があり、その中には風化した、何百年も昔のものとしか思えない骸があった。そしてそれは、外気に触れるや塵になるまで崩れていった。 よって、ベアトリスの仮説がもっとも理に適っているだろうとは俺も思う。 「でも、やっぱり締まりませんねえ。こんな報告したら、少佐にどやされそうですよ」 「そうね。そこは私としても困ったことだわ」 「釈然としないものは残るけど、愚痴っていてもしょうがないから今はこれで良しとしましょう」 「ですね。クラウディアも、大事ないようでよかったですよ」 「あ、はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」 「それで、その……」 ここまで大人しくしていたクラウディアが、話を振られたとたんにもじもじやりだす。その視線の先には、陰気な面を晒している野郎がいて…… 「なにか?」 「いえ、ただ……あなたに一つ、お願いがありまして」 「ルートヴィヒさん、ルイって呼んでもいいでしょうか?」 「はぁん?」 また唐突に、こいつはワケの分からんことを言いやがる。 そりゃあ確かに、ルートヴィヒならルイズなりルッツなり、親しい間じゃそういう呼び方をするのが一般的だが、今はそんなことを言ってるときじゃねえだろう。 全員から困惑の視線を向けられ、クラウディアはわたわたと手を振りながら弁解するように話し始めた。 「つ、つまりですね。あなたは私と同じ所属なわけですし、他人行儀なのもどうかなと思う次第で、これからご一緒するならなおさらに、緊張した間柄なのも皆さん疲れてしまうというか」 「もっとこう、気楽にですね。ベアトリスさんも仰いましたが、心配は要らないと思いますので、安心していただくためにも、まずはその……」 「私はそれほど陰鬱そうに見えたかな?」 「は、はい、失礼ながら。いえもちろん、察して余りあるお立場だとは思いますけど」 仲間を残らずぶち殺されたという奴に対し、それは無神経扱いされても仕方ない言い分だろう。そんなことを説いて聞かせるガラじゃねえし、こいつも分かっているんだろうが、しかし言葉を引っ込める気はないらしい。 「亡くなった方々の代わりにはなれませんが、我々の出会いを前向きに捉えてほしいとも思うので」 「私をあなたの新たな友人にしていただけたらと……あの、すみません。やっぱりこれは、図々しい願いでしょうか?」 「……いや」 短い間に奇妙なほどの何かを含ませ、男は首を横に振った。 「お気遣い、感謝する。君は清く、優しい人だなクラウディア」 「確かに同志を失ったのは痛恨だが、それもお導きだったのだろう。是非、彼らに祈ってほしい」 「聖女に慰撫されたのなら、よもや二度と迷うようなこともあるまい」 「せ、聖女って! そんな大袈裟、畏れ多いです」 まったくだ。こいつはいいとこ、ただの馬鹿ってやつだろう。俺は呆れ返ってものも言えん。 「何にせよだ。祈ってはくれるのだろう?」 「は、はい。そこはもちろん、言われるまでもなく」 「それで、あの……」 「ああ、好きに呼んでくれたまえ。ここで君と出会えた幸運を胸に刻み、私も祈ろう」 「では私も、あなたと出会えた幸運に感謝を、ルイ」 「そして、このカチンに眠る数多の魂が、善き処へ行けるように」 そして二人は手を合わせると、厳かに呟いた。 「――エイメン」 「……………」 「……………」 「……………」 「……なんだよ?」 「いえ、誰かさんの屑っぷりが浮き彫りになるなあと、しみじみ」 「だから言ったじゃないですか。余裕こいてるとこういうことになるんですよ。もともとあなた、これっぽっちも魅力なんかないんですし」 「ま、お陰で私は少し安心しましたけどね。いやー、よかったよかった」 「けッ、ほざいてろボケ。ワケ分かねえ」 意味不明な煽りにイラついて、俺はさっさと踵を返した。とにかく片がついた以上、こんなしみったれた場所に留まってる必要はない。 「ふ、負け犬が惨めに去っていきますよ。ざまあ見ろってなもんです」 「まあまあ、それくらいにしておきなさい。気持ちは少し、分かるけどね」 「ベイも、気がすんだら最初の場所に戻ってくるのよ。迷子になんかならないようにね」 「うるせえな、餓鬼か俺は!」 吼えて、俺は思い切り石ころを蹴り上げたもんだったよ。 瞬間。 闇に独特の破裂音が轟いて、同時に俺の頭が後方へ弾かれた。衝撃で二・三歩後退したものの、だからどうだってわけじゃねえ。 多少驚いたし痛かった。そんな程度のものであり、事の真相も理解している。 「面白ぇ……」 つまり銃撃。咄嗟に歯で噛み止めた弾丸を吐き捨てつつ、至極当たり前の展開だと思ったぜ。 ここは敵地で、一筋縄じゃいかない事情も絡んでる注目の場所だ。いくら深い森の中でも、あれだけ騒げばそりゃ普通にこうなるだろう。 ゾンビが怖いから関知しないなんて戯言を軍の上が許すはずもなく、上がやれと言えば火の中にも飛び込むのが兵隊だ。 ゆえにここでもう一戦。今度は生身の人間相手に始める必要が発生した。憂さ晴らしにはちょうどよく、昂ぶる戦意を俺は解き放とうとしたんだが…… 「…………」 どうしてか、このときになって余計なことを思い出した。つまるところ、それはベアトリスの戯言に他ならない。 危機感が足りないだの、ぞんざいに扱いすぎだのいう諸々で、せっかく火が点きかけた心に水が差される。 結果、ほんの数瞬だが初動が遅れた。どっちつかずの半端な状況を生んでしまい、その停滞は無様な隙以外の何物でもなく―― 続く銃撃の嵐に俺は何の行動も起こせなかった。もちろん、だからといってこの身がどうなるもんでもない。たとえ蜂の巣にされようが傷一つ負うはずもなく、ゆえに問題はそこじゃねえんだ。 「――クラウディア!」 あいつへの流れ弾を防げない。固まった状態で弾幕を浴びれば誰に被害が及ぶかは言うまでもなく、その未来は俺にとって断固避けねばならないものだったのに失敗した。 そう、失敗したんだよ。 「怪我はないかね、クラウディア」 「あ、はい……お陰さまで……」 その場の誰よりも先んじて、クラウディアを庇ったのはこいつだった。呆けるノロマ女を抱きかかえ、銃撃の射線からルートヴィヒは逃れ出ている。 そうしてまたも恭しく、まるで宝玉でも扱うかのように野郎はクラウディアを木陰に降ろした。 「君はここに隠れていたまえ。心配は要らない、大丈夫だ」 「いいね、大人しくしているんだよ。目を閉じていればすぐに終わる」 呟き、返事も待たずにルートヴィヒは駆け出していた。どうやらあいつ、この場を一人で制圧するつもりらしい。 「野郎……!」 何を格好つけてやがる。無性にイラついた俺は唾を吐き、即座に続こうとしたところで肩を背後から掴まれた。 「待ちなさい、ベイ。ここは彼にやらせましょう」 「あァん?」 意味が分からず食って掛かる俺だったが、バビロンはまるで動じずただ指に力を込める。 そして窘めるように言ってきた。 「お手並み拝見よ、分かるでしょう」 「彼がどこまでやれるのか、それ次第で今後の対応も変わってくる。自分から買って出た以上、まさか私たちの援護を期待してるわけでもないでしょう」 「死んだら死んだで、構わない話よ。ハイドリヒ卿のもとに連れて行くほどの男じゃない」 「……ッ」 まったくの理屈であり、返すべき言葉を見つけられない。そもそも、野郎の腕前に興味があるのは俺も同じだ。 感情的には無視して暴れたい気持ちだったが、やはり感情的な問題でそれを通すことも出来なかった。要するに、ええ格好しいの張り合いみたいでみっともないと思ったんだよ。 だから俺は、歯噛みしながらもバビロンに従った。ベアトリスも同様で、不満はあるようだが特に反抗の意を示さない。 「決まりね。じゃあそういうことで、見せてもらいましょう」 「ヴァチカンの裏部隊がどれほどのものか」 ルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツという男の程度を確認する。そう了解して、俺たちは状況を見届けることにした。 眼前では、すでに開かれた戦線が展開を始めている。 まずは一人、鮮やかと言っていい手並みでルートヴィヒは敵兵を倒していた。拾い上げた小石を投じるという原始的な手段だったが、それだけに簡単な作業ではない。 抜群のコントロールと肩の強さ、そして度胸がなければ不可能だ。苦し紛れの一発が偶然決まったというならまだしも、狙ってやれる奴は滅多にいない芸当だろう。 その後の立ち回りも流れるようで無駄がない。木を盾にしながらじぐざぐに走って距離を詰め、丸腰のまま敵の集団へ肉薄していく。 どうやら十人そこらの分隊でしかないようで、練度もたいしたことはないようだった。それが証拠に一人、また一人とルートヴィヒに倒されて、傍目にも士気が呆気なく崩壊していく。 ゆえに肩透かし、不甲斐ないとしか言えないレベルの連中だった。それでも常識的に考えれば、武装した十人相手に遅れを取らないルートヴィヒが凄腕ということになるんだろうが、こっちは端的に面白くない。 別に野郎が無様に散るのを期待していたわけじゃないが、どうにも釈然としねえんだよ。 「やるわね、彼」 「ええ、高度に訓練された動きです。経歴の真偽はともかく、この道のエリートなのは間違いないかと」 「少なくとも、慣れているのは確かなようね」 奴について、俺の不審はそこにあった。ルートヴィヒの立ち回りは綺麗すぎるしマトモすぎる。 つまり、よく出来た兵隊という〈像〉《キャラ》をそのままなぞっているような感じなんだよ。ベアトリス曰く高度に訓練された雰囲気で、その枠を少したりとも違えない。 言ってしまえば教科書的で、だからこそ妙に全体が演技臭い。俺にはそう見えていたが、言い掛かりと言われれば反論も難しい。 魔術的な何かを行使するわけでもなく、だからとって凡才でもない。優秀は優秀だが、本当にそれで終わりかよという物足りなさが拭えないんだ。俺の一発を事も無げにいなした奴が、常識枠に収まるような存在なのかと…… 思ったんだが、言ったように敵がショボすぎるんでどうにもならない。仮にルートヴィヒが化けの皮を被っていても、剥がせるほどの展開を期待できるものじゃなかった。 結果、何とも煮え切らない俺の気持ちとは裏腹に、状況だけは淡々と進行していき…… 「凄いです、ルイ。あっという間に勝っちゃいました」 「お褒めに預かり光栄だ。まあ、敵が弱すぎたお陰だがね」 「ともあれ、君が無事でよかったよクラウディア」 ものの十分としないうちに、こいつはすべての敵を片付けていた。傍らのバビロンとベアトリスも、その手際を賞賛する。 「お見事、実に鮮やかだったわね。私たちの出る幕はなかったみたい」 「いや、リザさん。ちょっと流石に、それは白々しいですよ」 「分かっているさ。私の手並みを確かめようとしたんだろう? そちらからすれば当然の選択だ。別に怒るようなことでもない」 「それで、どうかな。結果は合格ということでいいのだろうか」 問いに、バビロンは苦笑しつつ頷いた。 「ええ、伊達じゃないのは理解できたわ。頼もしい男性と知り合えて心強いわよルートヴィヒ」 「だからお礼とお詫びは後々するとして、今は早急に移動しましょう。ここにいつまでも留まるわけにはいかない」 「ああ、そうですね。愚図愚図してたら次の敵がやって来るかもしれません。さっさと離れたほうがいいですよ」 「了解した。では行こう。君も大丈夫だね、クラウディア」 「はい。改めて、さっきはありがとうございました」 「ルイは紳士なんですね。私、ちょっと感動しちゃったと言いますか――」 「待てよ」 茶番じみた場の空気にいい加減耐えられず、そこで俺は割って入った。 紳士だの何だのとクラウディアが言ってる理由は簡単で、俺から見ればアホ丸出しとしか思えない状況があったんだよ。 それが何なのかは、至極簡単。 「てめえ、なんでこの雑魚どもを殺さねえ」 ルートヴィヒは、先の敵兵を一人たりとも殺めていない。俺たちの足元には、ふん縛られて呻いている連中が転がってたんだ。 そんなの、有り得ないことだろう。敵地で交戦した敵を生かしておく理由なんか何処にある。 「愚図愚図してたら第二波が来る。ああ確かにそうだよな。だったら尚のこと、こいつらは始末しとかなきゃいけねえだろう」 「顔を見られたし会話も聞かれた。そんな連中を放置してたら、追っ手が増えるだけだろうが」 「ベイ……」 何か言いたげにバビロンが袖を引いてくるが振り払う。俺は一つも間違ったことを言っちゃいねえ。 こんな雑魚が千人掛かってこようが屁でもないが、クラウディアは別だろう。このカチンでさんざっぱら聞かされた女どもの小言に倣うなら、採るべき道は始末の一択しかないはずだ。 ゆえに俺は転がってる雑魚を見下ろし、一人の頭を無造作に踏み潰した。 熟れた果物が潰れたような音を立て、血と脳漿が辺りに飛び散る。実に小気味良い感触で、心からせいせいしたよ。 「――――――」 「……貴様」 「なんだ、文句あんのか馬鹿野郎」 てめえもヴァチカンの殺し屋なら、妙な格好をつけるんじゃねえ。俺はルートヴィヒを睨みつつ、もう一人の頭を容赦なく踏み潰す。 「ベイ、ちょっといい加減にしなさい!」 「うるせえ、黙ってろボンクラ」 なんで文句を言われなきゃならねえんだ。どいつも理解に苦しむぜ。 またもう一人の頭を潰しつつ、俺はむしろ足元の雑魚連中にこそ親近感を覚えていたよ。 なぜならこいつらは恐慌し、涙を流しながら必死にもがいているからだ。死にたくないと慟哭し、その気持ちを全身で表現しているからだ。 それは素直で、真っ当で、理に適ってる人間らしい行動だろう。生と死に対する極めて普通の反応で、理解できるからこそ一片の疑念もなく安心できる。 少なくとも、目の前に立っている誰よりも可愛らしい連中だよ。ああ、本当にそう思うぜ。 「だから死ね」 一人、そしてさらに一人、次々に止めを刺していく中で、笑いが込み上げてきたから爆笑した。周りでごちゃごちゃ言ってる奴もいたみたいが、まったく耳に入らねえ。 ついに最後の一人となって、失禁しながら喚いている雑魚の顔がどんな女よりも魅力的だ。ぐちゃぐちゃに潰してやったらもっと魅力的に違いない。 だからそうしてやるべく、俺は足を持ち上げて―― 「いい加減にしなさいと、言ってるでしょうッ!」 踏み潰そうとしたときに、横合いから頬を殴り飛ばされていた。 「てめえ、いきなり何しやがるッ」 倒れこそしなかったものの、バランスの悪いところを打たれたので大きく俺はよろめいた。結果として、当然だが狙いは外したし殺せていない。最後の雑魚は泡を噴いて気絶していた。 「私、言いましたよね。たとえ偽善でも、民間人の前じゃあ格好くらいつけろって」 「あなたは、クラウディアの前で何をやってるんですか!?」 「……はぁん?」 見れば、その〈民間人〉《クラウディア》は絶句したまま固まっている。間近で起こった出来事を前に、声もなくしているという風情だった。 「見下げ果てた奴だな。道理も何もあったものではない」 「狂犬め、頭が悪いのも大概にしておけよ」 「ベイ、時と場合を考えなさい。それくらいの気遣いは示してやってもよかったんじゃないの?」 吠え掛かろうとした俺を制すように、小声でバビロンが耳打ちしてきた。つまりこれはそういうことかよ。 こいつらにしたところで、雑魚どもを生かして返すつもりはなかった。しかしクラウディアの前では目の毒だからと、軍事的な偽善ってやつを通すつもりだったらしい。 だがそれを理解しない俺のせいで台無しになった。要約すればそんな状況。 馬鹿馬鹿しい。茶番を潰そうとして、さらなる茶番を起こしてしまったというわけだ。 「平気、て訊くのもおかしいけど、大丈夫かしらクラウディア?」 「あ、はい……その、確かにびっくりはしましたけど」 「ヴィルヘルムの言ってることも間違いではないのでしょうし、結局のところ、私が足手まといだからいけないわけで……」 「君が気に病む必要は何もない。私の考えが甘かっただけだ」 「まさかこれほどの無分別がいるとは思わなかったのでな」 その取り澄ました顔を今すぐぶん殴ってやりたかったが、キレ気味のベアトリスが腕を掴んでいるからそれも出来ない。無理矢理振り解いて暴れることも不可能じゃなかったが、そこまでするほどの事情もなかった。 この場では、きっと何をやっても裏目に出る。諸々外してしまったのが事実である以上、通すべき我は存在しない。 「クソが……」 だから俺はそう呻いて、離せとベアトリスに短く言う。自由を取り戻してから全員を見回すと、再び舌打ちして踵を返した。 「馬鹿……今度はさすがに笑えませんよ」 「ベイ、さっきも言ったけど、最初の場所に戻ってくるのよ」 「ああ、分かってる」 クラウディアの前で殺しを見せたことは別に後悔しちゃいねえし、間違いだったとも思っちゃいねえ。 だが、無意味だったとは思っていたぜ。 なぜなら俺の目的を果たすため、あいつを怖がらせるというのはきっと不毛だ。何の効果も得られないだろうと考えるようになったんだよ。 そこらへんの理由についてはすぐ分かるさ。話してやる。 あいつは俺にとって、理解できない気持ち悪い存在なんだということをな。 そうして―― 「くそが、誰もいねえじゃねえか」 しばらく森中を歩き回り、最初の場所である池のほとりに戻ってきたらこれだった。先の流れを考えれば置いていかれたわけじゃないだろうが、バビロンはともかくベアトリスならやりかねん。 それならそれで勝手にしやがれという話だが、何にしろ腹の立つ状況ではある。せっかく抑えたムカつきが、再び起きてきやがった。 「どいつもこいつも……」 まったくもって馬鹿馬鹿しい。自分の癇症は理解しているつもりだったが、このときは少しばかりそれを持て余し気味だった。 なぜかって? さあなぜだろうな。ただ嫉妬だの、屈辱だの、そういう類じゃなかったぜ。 なぜならその手のやつは瞬間的に火がつく反面、長続きしないもんだ。要は舐められたことに対する憤りで、自尊心を満足させらなかったというだけのこと。 自分が描いている自分より、軽い扱いをされたから気に食わない。だったら思い知らせてやればいい話で、そこを考えればむしろ楽しくなってくるのが俺なんだよ。 だから、このときの怒りはそうじゃなかった。時間を置けば快感に変化するようなものじゃなく、逆にどこまでも深く蝕むような―― 「じゃん、お待たせしました。クラウディアちゃんですよ」 理解できないものに対する、恐怖にも似た苛立ち。 それは俺にとって、もっとも厄介な感情だった。 「あ、あれ? なんでしょうかその反応。もしかして私、滑っちゃいました?」 「これでも一応、恥ずかしいのを我慢しつつ頑張ってみたつもりなんですよ」 木の陰から現れて、そんなことを言い出すこいつに俺は深々と溜息を吐いた。 さっきのことを鑑みれば、普通の神経してる奴は俺の傍に近づかない。にも関わらずこの野郎、何を考えてるのか知らねえがよ。 「おまえが滑ってんのはいつものことだろうが」 「くだらねえことに頭を回してる暇があったら……」 「なんでしょう?」 きょとんとするクラウディアに、俺の溜息はなお深くなる。もっとも、今度のは諦めに近かったが。 「なんでもねえよ。他の奴らはどうした?」 「ああ、それはですね。リザさんが帰りの足を調達しに行きまして、皆さん今はそちらのほうに」 「で、おまえだけが残ったってか。よくベアトリスが認めたもんだな」 「まあ、確かに色々言われましたが、あなたと二人になりたかったので」 なぜだ?と目で問う俺に、クラウディアは微笑みつつ柔かな声で言った。 「あなたが寂しそうだったから」 「怒っていましたよね。そしてそれは、もしかすると私のせいじゃないのかと」 「は、なんでまたそう思う?」 「うーん、それは実際、心当たりがありすぎるところなので難しいんですが」 言いつつ、指折り数えながらクラウディアは心当たりとやらを挙げていく。 「毎度役に立たない奴だと思っているとか?」 「んなこた承知だ」 「むしろ面倒ごとばかり増やしやがるとか?」 「今さらだな」 「そもそも聖職者が気に入らないとか?」 そこはその通りなので言うこともなく。 「だからルイのことも気に入らない?」 ぴくりと、自分の眉が動いてしまったのを自覚した。それを見咎め、クラウディアは一転妙な顔になる。 軽く焦っているというか、困ってるような、びびってるような。 にも拘らず、どこか弾んでいるような。 「ほ、ほっほぉ~う。なるほど、なるほどそうなのですか」 「ベアトリスさんに言われたときはそんな馬鹿なと思いましたが、これはなんとも、参りましたね」 「何がだよ」 「ですから、私と彼が仲良くしてるとごにょごにょ、みたいな」 「つ、つまりですね。あなたはその、私をそういう目で見ていると? まさか、いやいやそんな、有り得ないでしょう。何を言ってるんですか駄目ったら駄目です!」 「ああ、なんて罪深い人なんですかあなたはっ」 「はあ……」 罪と呼ばれるものなら一通りやってきた身ではある。よって俺が罪深いのは確かだろうし、そこについて説教されるのも有りとしよう。 が、こいつが思ってるようなことでは断じてないと……さっきも言ったように思うんだが、いや、実のところどうなんだろうな。 ただこのときは、馬鹿がふざけんなと言ってやったよ。 「のぼせあがんじゃねえぞ、阿呆。確かにてめえと野郎にゃムカついてるが、そんなしょうもない理由なわけあるか」 「しょうもないって、それはちょっと……さすがに酷い言い草じゃないでしょうか」 「俺にはその手の心がねえんだ」 一刀両断するように、俺はそう言い切っていた。 「おまえに言わせりゃ、俺だって半分だからな。持っちゃいねえのさ。愛だの、恋だの、そういうもんは」 「ヴィルヘルム……」 「とにかく、つまんねえ勘繰りをしてんじゃねえよ」 吐き捨て、なぜだか目を逸らし、忌々しい気持ちが膨れあがってくるのを押し殺す。 そんなこちらの様子を眺め、クラウディアはどういう解釈をしたのか知らねえが、また予想外なことを言い出した。 「それなら、私があなたにその心を贈りましょう」 「はァん?」 咄嗟に意味が理解できず、思わず顔をあげた俺の前で馬鹿は淡く笑っていた。 まるで、ずっと探していた答えを見つけたように。 月光に銀の髪を透かしながら、冴える白い肌は微かだが上気して見える。 薔薇のようだと、このとき俺はそう思った。 「私たちは共にノアの子。半分しかない者同士……ならば互いに、与え合うことで昇華できるはずでしょう」 「あなたは私に光を教え、私はあなたに恋を教える。その尊さ、素晴らしさを十全に」 「ね、これで釣り合いが取れると思いません?」 「……つまり、そりゃあなんだ」 こいつが俺を? 惚れさせる? 鼻で笑っちまう話だったし、実際その通りにしてやったよ。 「おかしいですか? 私では不足だと?」 「つうか……おまえさっきは罪深いだの言ってただろうが」 「ええ、ですが想われるぶんには有りかなとも考えました。結局のところ、私が応えなければいいだけなので」 「この野郎……」 微かに弄うような口振りで、また随分と調子に乗ったことを言うから逆に毒気を抜かれちまったよ。 「だから、あなたの初恋になるというのも素敵だなと思いましたよ。そういう恩の返し方も、あっていいんじゃないでしょうか」 「実際、あなたはまだなのでしょう?」 「…………」 「ヴィルヘルム?」 ああ、ちくしょう。俺は頭をがしがしやりながら言い捨てるしか出来なかった。 「うるせえな。確かにそこは否定しねえよ」 そして同時に、自己の欠陥も自覚していた。クラウディアの言うことが、そこにぴたりと嵌るように感じている。 何百と奪ってきた。何千と殺してきた。しかしだからといって、俺はそれらをモノにしてきたと言えるのだろうか。 たとえばここで、クラウディアを犯すことは簡単だ。あらゆる面で造作もなく行える。 しかし、そこに愛はない。ハイドリヒ卿が有するような、破壊にかける美学がない。 俺はあの人の爪牙を名乗りながら、ただ目に付くものを壊してきただけ。邪魔なものを砕いてきただけ。 それは不細工な、情とも呼べない、単なる畜生の食事であり排泄だった。 ならば俺は、俺なりの愛とやらを理解しない限り、本質的には何も手に入れられないんじゃないのかと。 思い、どこかでヘルガが笑っているような気がしたよ。確かにこれまで、俺が断固殺すと誓って実行したのはあいつだけ。 〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と思ったのはヘルガだけ。 だったら俺は、あいつのことを愛していたのか? その答えを知るためにも、俺はクラウディアを殺さねばならない。 母親の血で我が身を新生させたあの夜以降、魂と断末魔に価値を見出した初めての相手がこいつだから。 俺を生まれ変わらせたのがヘルガなら、吸血鬼として〈愛〉《キバ》にかける最初の一人がクラウディアだ。 ゆえにこの女を咲き誇らせ、枯れ落として奪い去る。改めて、その意味と必要性を確信したよ。 そう。したからこそ…… 「おまえの初恋はねえのかよ?」 俺は気持ち悪く、腹が立って堪らなかったんだ。メルクリウスと同様に、こいつは理解を絶したところがあったから。 ザミエルから受け取ったあの書類が、それを明らかにしていたから。 「残念ながら、ありませんね。だってそれは罪深いこと」 「死ぬからか?」 「………、」 詰まる喉。震える肩。それは一瞬だけ発露した驚きと焦りの相。 だが結局、こいつの瞳に恐怖だけは一貫して宿らなかった。 「人はいつか死ぬものですよ」 笑顔。涙の一滴すら流さねえ。 「だがおまえは、他の奴よりだいぶ早ぇはずだろう」 目を見て、俺はそう告げる。 クラウディア・イェルザレムは、放っておいても一月もたない。 あの書類はこいつのカルテで、そう診断されていたんだよ。 「……困った。これはどうしましょう。人が悪いですね、気付いてたんですか」 だというのにクラウディアは、悪戯を見咎められた程度の反応しか示さない。 余命が僅かであることを肯定しつつ、負の一切を感じさせない透明感を保っていた。 「ご指摘の通り、私は長くありません。だけど、ねえヴィルヘルム」 「あなたが集めているという魂は、本当に消費されるだけなんでしょうか」 「使えば消えて、無くなるだけ。そんなことはないはずだと、私は思っているんですよ」 「何が言いたい?」 「つまり」 間を置いてから月を見上げるクラウディア。尊いものを仰ぐようなその仕草は、まるでそこにこいつの求めている地平を見出してるかのようだった。 「誰かに愛された魂は、その幸福を〈道標〉《しるべ》にして、彼らが思う善き処へ導かれるはずだろうと」 たとえ魔術の燃料として使われようとも、愛を得た魂は消えたりしないとクラウディアは信じている。 「でもあなたに恋をしてしまったら、私は旅立てなくなってしまうのかもしれません」 「未練が残り、欲が残る。そして〈私〉《ヒト》じゃない何かに変わってしまいそうな気がして……」 ヘルガのように。 こいつがそれを知る由もなかったが、俺の中で血塗れになりながら愛して愛してとのた打ち回る存在にはなりたくないと言っていた。 「それはとても罪深いこと」 「あなたを苦しめる呪いになること」 「だから嫌です」 恋をするのはあなたのほうで、私はその喜びのみを抱けばいいとクラウディアはおどけてみせた。 俺を救ったという事実で自分も救われると。 「そういうわけで、変な対抗心は燃やさないでくださいね。私は、あなたに欠けたものを与えることが出来れば、それでいいんです」 「どのみち長くないこの命……使い切るまでに、どうか人並の価値があったのだと教えてください」 そう結びをつけるクラウディアに、迷いは見えない。 しかし俺は、あくまで死ぬこと前提にものを言うこいつのことが分からなかったし、許せなかった。 どうして死を克服したいと願わねえのか。そのために足掻かねえのか。 俺はそうしてるし、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》になるんだよ。 ハイドリヒ卿のヴァルハラで、不死不滅の〈真祖〉《バラ》になるんだ。 「しかしまあ、なんというか、少し色気のない会話でしたね。私もそうですが、減点ですよヴィルヘルム」 「ここはたとえば、女性の些細な変化に気付いてみたり」 「うるせえよ」 だから俺は、このとき強く、切実に思ったよ。 こいつに言わせるべき台詞は死にたくないというただ一択で、そのための方法も一つしかない。 俺の目的を果たすためには、それを実践するしかないと。 「……癌?」  そこまで話を聞き終えてから、ディナはそう尋ねていた。ヴィルヘルムは彼女の対面に座したまま、苦笑しつつ頷いている。 「ああ、考えてみりゃ当たり前のことだった。日の光が毒になるような身のくせに、あいつは日中歩き回っていたからな。しかもきっと餓鬼の頃から」 「医学にゃ詳しくねえけどよ、あの時点で生きてるのがむしろ不思議だって話も頷けたぜ。転移っつうのか? もとは皮膚だが、そこから筋肉、骨、内臓に……広がりすぎてるからどうにも出来ねえ。  いわゆる匙を投げられた状態だ。曲がりなりにも歩いて、話して、飯食えてたのが奇跡みたいなもんだったんだろう」 「外見上、分かるような点はなかったの?」 「ねえな。さすがに鼻でも落ちてりゃ別だったろうが、そういう分かり易い記号は見当たらなかった。いいや、隠していたのかもな」 「基本、露出の少ねえ格好だったし、顔以外の見えてるところは包帯巻いてた。その取り替えには何度か付き合わされることもあったが、やばい部分は見せないようにしてたんだろう。  あいつは女で、尼さんだからな。多少こそこそしててもおかしいなんて思わねえ。 ま、それでも俺が鈍感だったのは確かだがよ」  ソファに深く背を預け、ヴィルヘルムは過去の己を笑っている。もっとも、早期に気付いていたところで何も変わらなかったはずだろう。  どうにもならないのではなく、どうもしないのだ。この男は。  ディナもそこは理解している。したうえで、インタビュアーとしての問いを投げた。 「癌、ね。だけどあなた達には、それを取り除ける技術があったんじゃないかしら?  魔術の力をもってすれば、不治の病といえども関係ない。そうじゃないの?」 「確かにな。けど、たとえばそこのレコーダーだが、あんたは一人で一から作れるか?」 「技術を使うことと、授けることは違うぜ。黒円卓の神秘を握ってるのはあくまでもメルクリウスで、あいつの手がなけりゃあ魔術の薫陶もクソもねえ。  かといって俺らの中に、他人を癒してやれるような力を持ってる奴はいなかった。ヒーリングとか、あるだろう? あんなの無理な相談だぜ」 「そういう渇望の持ち主でもない限り?」 「だな。向いてねえんだよ、どいつもこいつも」  戦時に力を求めた軍人や破綻者の群れが黒円卓だ。ならばその魂が、総じて破壊のベクトルになっているのは至極当然のことだろう。 「でも、ルサルカ・シュヴェーゲリンは独自の魔術を修めているはずだったわよね。だったら彼女に、クラウディアを救うことは出来なかったのかしら?  末期癌を克服するほどの神秘は、魔女の手に余ったということ?」 「は、あんたそれ、本人の前で言ってやれよ。きっときーきー喚きやがるだろうから見てみてえ。  あいつはそういう、小物っぽいところがあってな。仮にやれたとしても、ただじゃあ動かねえんだよ」 「見返りにクラウディアの所有権を要求したり?」 「ああ。きっとオモチャにしやがるだろう」 「だからあなたにその気はなく、カール・クラフトに頭を下げるつもりもない」 「そしてもともと、俺はクラウディアを助けてやろうなんて思っちゃいねえ」  結局、そういうことだった。  少女が生を渇望し、死にたくないと叫んだ瞬間に殺してやると、吸血鬼は決めたのだから。 「迫るタイムリミットは諸刃の剣ね。クラウディアの心を揺さぶる効果の代わりに、あなたもチャンスが少なく、失敗できない。  ギャンブル的と言ったら不謹慎になるけれど、勝算はあったのかしら?」 「勝算? ふん、勝算ねえ」 「あなたが賢しく手を尽くすタイプじゃないことくらい分かってるけど」  聞く限り、単純な修羅場や暴力でクラウディアに死の恐怖を喚起させるのは困難だと思えるし、当時のヴィルヘルムもその方針は改めたらしい。  なぜなら彼女は、幼少期からそういうものと向き合ってきたはずだから。  正攻法では埒が明かない。 「私なりにクラウディアを分析していいかしら。きっと彼女はとても自由で、幸せに貪欲な人なのね。  アルビノに生まれても、月の光だけじゃ足りなかった。暖かそうだから、輝いているから、そこが楽しそうだと感じたから太陽の下にも出て行った。  彼女が言う、善き処という光を求めて。  焼かれる痛みも恐怖もあったでしょうけど、クラウディアには幸せのほうが大きかったから気にしなかった。思うに、例の半分云々いうのはきっと」 「それのせい。だろうな。俺も後になってだが、そうじゃねえかと思ったぜ」  苦痛を快感が塗り潰し、恐れを歓喜が麻痺させる。程度や状況に差異はあっても、そのこと自体は珍しくない心理だと言えるだろう。  だがクラウディアは極端すぎた。幸せに貪欲な彼女は、日光により蝕まれていく身体の痛み、迫る死の恐怖すら超えて喜びに没頭したのだ。 「でも彼女は馬鹿じゃない。狂っているわけでもないし、自分が何をやっているのかくらい分かっている。  だからこう思ったんでしょうね。こんなことをしているのに、あまり怖くない私はどこかがおかしいのかな」 「やっぱりノアの子だから半分で、色々足りてないのかもしれないと。  確かに普通じゃないとは言えるでしょうけど、本質は不足じゃなくて、逆に過剰。 彼女はそこを見誤った」  ゆえにヴィルヘルムは、クラウディアの魂が強力な輝きを発していると見定めたのだ。当時は直感によるところが多かったとしても、その目利きは外していない。  光に憧れる過剰なまでの渇望は、しかし彼女の認識だと半分のみ。よって条件がそろえばさらに上へと跳ね上がる。 「興味深いわ。出来れば会ってみたかったくらい。  分析、もう少しあるけど続けていい?」  ヴィルヘルムは肩を竦めながら目で促し、ディナはありがとうと言ってからキッス・インザ・ダークの残りを干す。  そうして喉を湿らせた後、再び彼女は話し始めた。 「おそらく、あなたと出会った前後のクラウディアは、少しネガティブになっていたんだと思う。  戦争や、失礼――あなたのような危険人物に関わっても良しとしたのは、人並の恐怖を感じたかったからなんでしょう。  寿命が尽きかけているのを自覚して、焦りがあったのかもしれないわね。もう時間が無いから、たとえそれが絶望でも半分じゃないものが欲しい。  生涯に人並の何かを得られるなら、死の瞬間でも構いません――だったかしら? この時期における彼女なら、あなたにとっても都合がよかった」 「けど、彼女の真実はそこにない。クラウディア・イェルザレムという女の子は、光を求めていたんだから」  与えられるよりは与えたい。落ちるよりは昇りたい。  そして、泣くくらいなら笑いたい。 「同じノアの子、半分しかないあなたに恋を教える。素敵な選択ね、俄然そのほうがらしいと思う」 「強く、激しく、恐ろしいヴィルヘルム・エーレンブルグ。出会った当初のあなたは、クラウディアにとって一種の理想だったのかもしれない。  この人は自分にないものを持っているから、その糧になることで答えを得られそうな気がしていた。  でも、それは本当に? 自分から彼にしてあげられることはないのだろうか。それをせずに、私は善き処へいけるのだろうか。  と、思っていたときに天啓が降りる」  自分もまた半分だと。愛を持っていないと言ったヴィルヘルムに、クラウディアは光を見たのだ。  ディナは微笑しながら問いかける。 「失言だったと後悔した?」 「いいや。ミスったのは事実だろうが、嘘を言ったわけじゃねえからな。  あれはあれで、成るべくして成った展開だと思ってる」  クラウディアはヴィルヘルムの初恋となり、彼の欠落を埋めることで彼女もまた満たされる。  生涯最後に、最高の充足感を得て昇華したノアの子は眠るのだ。 「あのときあいつが夢見た筋書きは、ムカつくことによく出来てたよ。頑張りゃどうにかなるもんでもねえし、そもそもあまり頑張りたくない気にさせられる。  ハイドリヒ卿の爪牙として、破壊の愛は体現したい。それは必要なことだと分かっちゃいたが、どうにもこう、俗すぎるうえに生々しくてな」 「恋は努力してするものじゃないからね」 「そういうことだ。何にしろ、俺流のアレンジ、解釈は必要だと思ったよ」 「それに言ったと思うが、気に食わなかったからな。喜びのかたちは人それぞれ――なんて言葉で流すほど、俺は達観しちゃいねえんだよ。  これがたとえばマキナのように、死こそを求めてるんならごちゃごちゃ言わねえ。アホな野郎だと思いはするが、要はベクトルが違うだけだ。陰ながら祈るくらいはしてやるよ。  けどあいつは、クラウディアは死にたがってるわけじゃねえんだ。他に気が向いてるから二の次以下だが、出来れば死にたくないと思ってる」  そう、〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》。  その適当さがヴィルヘルムは許せないと言っていた。 「優先順位だ。生きるも死ぬも、すべての意志はそこに向かわないと生き物じゃねえ。夢が叶えば死んでもいいなんて抜かす奴はごまんといるが、実際に死ねる奴がいるわけねえし、いちゃいけねえんだよ。  俺はそう考えている。だからクラウディアをせいせいと死なせはしないと誓ったのさ」  死にたくないと言わせてみせる。もっと生きたいと泣かせてみせる。そしてそのとき殺してみせる。 「そんなあいつに咲かせられたら……ああ、俺は愛せるかもしれないと。  先の勝算云々だが、客観的には分が悪いと自覚してたよ。だが、やれると確信もしてた」 「どうやって?」  問いに、ヴィルヘルムは再び自嘲の笑みを浮かべて。 「言っただろ。そう急くなって」 「話はむしろここからだ。カチンの件を境にして、俺らの関係性ってやつが動き始める。 だからか、よく分かんねえこともチラホラあったな。具体的には、夢とかよ」 「夢? それはどういう……」 「まあ、ともかく続きを始めよう。だがその前に、やっぱり酒が足りなくなったんじゃねえのか、ディナ」 「そうね、よければもう一杯。ううん、今度は私に作らせて」 「へえ、そりゃまたどうも。じゃあ頼もうか」  席を立ち、カウンターに向かうディナへ、ヴィルヘルムは陽気な口笛を吹いて応えた。  一瞬にも満たない刹那、私は茫漠としたまどろみの中に夢を見る。  そこにはなんの安息もなく、喜ぶべきことなど何もない。不快であるという想いすら、とうの昔に壊死している。  なぜなら私は、すべてを既に知っているから。  この刹那を永劫に等しく繰り返し、さらに永劫を超えて続くだろうと理解するため、ただひたすらに飽いて飽いて、新鮮味の欠片も感じられぬ今を倦んでいるのだ。  私にとって、森羅万象は水銀の流動である。  益体もなく、同じ処を同じ形に回り続ける無限の回帰。そこに新たな変化を期待して、思いつく限りの選択を試してきたがやはり何も変わらない。既知は何処までも不変のまま、私の足掻きを嘲り続ける。  未知なる事象、知らぬ展開、私が経験していない刹那はもはや存在せぬのか。  深い諦観と絶望と、狂気に侵されたまま凝り固まって繰り返す私の宇宙は閉塞している。ならばいっそ壊してほしいと願いながらも、我が既知感の流出は目下誰にも止められない。  この水銀で編まれた法則は蛇のごとく不死であり、業腹にもすべての頂点に座しているから敵に値するモノが不在なのだ。  ゆえに同格の、対等の、新たな覇者となり得る資格を持つ者に出会いたい。  そして私を終わらせてほしい。その果てに救いとなる未知をくれ。  切に、切に、狂おしく切実に私はそう祈っている。  〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈叶〉《 、》〈わ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ね〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と。  繰り返し、繰り返し、繰り返して繰り返して繰り返して――望んだ終焉を夢見ながら彷徨うのだ。  これはそんな私の、無様な日常。  未だ救いの一端すら見出せず、さりとて足掻きも止められず。  眼前のすべてに試行をしながら、既知感を重ね続けていたある日。  その客人は、影のように私のもとへ訪れ、問うたのだ。 「なるほど。それが御身の用件か。私に答えを求めていると」 「そうだ、しかし期待はしていない。どうせおまえは答えられん。  これは単に、私の日常なのだ魔術師よ。目覚め、食事をし、排泄し、眠りまた繰り返す自然の現象にすぎない」 「ほう、生理ではなく?」 「然り、自然だ。先のたとえは単なる慣用句としての意味しか持たない。実のところ、私は食事も、排泄も、睡眠さえも必要としないのだから」 「近く感じる概念を知り、真似事を試みたことも過去にある。たとえば血を吸い、下等生物を吐き、土に眠る〈影這う者〉《ナハツェーラー》。早すぎた埋葬。動く屍というような。  それらしく振舞うことは出来るものの、総じて空虚な経験だった。被りたいと思う皮ではないし、事実被れん。  私は私の纏うべき衣を知らない」 「だから答えを求めているのか。お気持ち、重々察しよう。さぞかし狂おしくあったろうな」 「期待はしていないと言われたが、いやいやそれは違うだろう。御身は強く欲しているはず。  世に名だたる哲人、賢人、芸術の大家もいれば軍事の天才や聖人指定された者さえいる。果ては魔術師などという胡乱な山師の類まで。  我こそ知の巨星なりと世に謳い、また謳われた者たちへ御身は問い続けてきたのだろう。それが救いを求める巡礼の旅でなく、なんだというのか。  ああ、その遍歴は知っているとも。御身の記録は、確実なところで千年もの昔から残っている」 「当代一の知者とされる者を訪れ、問いかけていく永遠の放浪者。彼は答えられぬ者に死を与え、また終わらぬ彷徨を続けるという。  そして今、私の前にやって来たのか。なんと奇遇なこともある。  告白すれば実は私も、〈放浪者〉《アハスヴェール》の類なのだよ。  どちらが元かは不明だがね。御身の伝説に私が乗ったのかもしれないし、逆かもしれない。まあ、いくらか混在しているのは確かだろうが」 「それで? だからどうしたという。おまえの言葉が真実だとして、何も状況は変わらない。私の自然も変わらない。  おまえは結局答えられず、私は死を与えるだろう。そして再び彷徨い歩く。  問いかけ、問いかけ、問いかけ続け、得られず、得られず、殺し続ける。もはや、ああそうかとも思わない。どうやら、それが私の習性らしい。  そうした毛色の現象なのだと、私は私を定義している」 「だが、それを何と呼ぶのか分からぬと? ならばこちらからも一つ訊こうか。なぜに御身は死を与える?  問うことと、死なせること。並べて一つにせねばならぬ理由が見えない。  原初の記憶は失望か? 御身は自身が死ねぬから、死を持つ者たちが妬ましいのか?」 「違うな。私にそういった感性はない」 「ただ、そうせねばならぬと思っただけ。  これは死すべき事象であると確信しただけ。  よって私も例外ではない。おまえは私を不死者のごとく評したが、的外れだと言っておこう。彼らと同じ轍を踏めば、この身も等しく滅ぶのみ。  魔術師よ、知を持つ者よ。万象は水銀の流動に過ぎず、すべてが既知であるとおまえは言ったな。  であればその証を見せるがいい。おまえが彷徨の果てに、私の求める答えを得ているのなら。  既に知っているというなら」 「問おう。私はいったい、何なのだ?」 「それは至極簡単なこと」  よく似ている。ゆえに分かる。彼は私と〈中〉《 、》〈々〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》。  ああ確かに、そういえばこういう手合いも昔はいたなと今さらになって思い出し、ならば責任というものがあるので果たさねばならなかった。 「自然、自然と自ら言っていただろう。  近く感じるものを知り、その真似事をしたが空虚だったと言っただろう。  答えはそこに。何も難しくないものだ。  親は子の服を着れない。自覚されよ、順序が逆になっている」  そしてさあ、試させてくれ愛し子よ。  おまえは真実を前にして、私の救いとなる未知を描いてくれるのか?  そのための演者になれる器なのか?  私の舞台に主役となる者は未だ居らず、おまえがそうなのか見てみたい。  切に切に、お願いだから助けてくれと、焦がれ謳いあげるがごとくに告げた結果は…… 「御身は闇。  あまねく夜の御子を生んだ、暗闇の父だメトシェラよ」  ああ、なんと滑稽なりし我が身かな。  驚愕に強張る彼の顔は、やはり既に知っているものだったのだ。  つまらない。つまらない。私の宇宙は、依然として永劫の水銀に回帰するまま終われない。  誰か、この既知感を壊してくれ。  私の彷徨に幕を引く、奇跡の演者は何処にいるのだ。 白昼夢。明晰夢。色付き音付き匂い付き。 ふとしたときにそれは現れ、別に求めてもいない諸々を見せられる。 カチンの件よりこっち、俺は頻繁にそういうものを体験していた。 よってこれも、その手のやつに分類される。 「あーあ、本当に馬鹿な女ね。しなしなカマトトぶっちゃってさあ」 「ねえヴィル、あなたもそう思うでしょう? まったく、呆れてうんざりしちゃうわよねえ?」 「同感だが、てめえと愚痴に花を咲かせるつもりはねえよ」 血塗れの薔薇園。俺にとっての心象風景とも言える赤い世界で、ヘルガはぼやき続けていた。 その内容は言うまでもない。こいつはクラウディアを嘲笑し、嫌悪しながら蔑んでいる。相容れない存在として、汚らわしいと言わんばかりだ。 「毒吐きてえなら一人で勝手にやってろよ。いちいち俺を巻き込むな」 「どうせてめえは、俺が目の前にいようがいまいが――」 「だってあの女、つくづくどうしようもないじゃない。酔いすぎだし浸りすぎだし、そもそも自分勝手だし」 「愛されるのは祝福で、愛することは罪深い? 寝言いってるんじゃないわよ、気持ち悪い。そういうのはね、一般に卑怯者って言われるのよ」 「だってそうでしょ。要するに、あいつは自分一人だけ、綺麗な顔して逝きたいだけ。汚れるつもりも苦しむつもりも、醜いところを見せる気もない」 「覚悟がない。ないのよ、ない。血を流す気がないくせに、欲しいものは取ろうとする。傷を刻み付けるだけ刻み付けて、さっさと逃げるつもりでいる」 「呪いがどうこう言うのなら、それこそ呪いという話でしょうよ。そんなあいつがわたしのヴィルを……ああ許せない殺したい。でもあんな奴は欲しくない」 「邪魔ね。ええ、邪魔なのよ。薔薇になんかしてやるものか。消えろ消えろ、わたしたちの前から消えてしまえええええ!」 「だからてめえは……」 会話がまともに通じない奴と二人で、何をしろというんだよ。クラウディアに対するヘルガの不満は、怨念の域に達している。 内容的には頷ける点も多々あったが、聞いてて面白いものでもない。むしろ危機感を覚えさせる。 こいつがクラウディアを取り込むことに拒絶を示しているという事実は、俺にとって不利益を生じさせかねない問題だと考えた。 「ねえヴィルぅぅ、あなたも同じ気持ちよねええ?」 ゆえにここは仕方ない。ガラじゃねえし不本意だが、目の前のヒステリーを宥めすかす必要があった。 「おまえ、あいつを薔薇にしてやらねえと言ってたな。つまり、ここに咲いてるもんが俺の奪ってきた魂なのか?」 「うん? ああ、その通りよ。そしてわたしは、〈薔薇〉《みんな》のお世話をするのが仕事なの」 「〈鮮血〉《おみず》をあげたり、話しかけたり、綺麗に見栄えを整えたり。とっても大変なんだからあ。あなたに喜んでもらいたくてわたしはいつも――」 「ああ、そりゃどうも。感謝してやるから話の続きだ」 どうにか話題を逸らすことには成功したので、また延々と始まらないうちにこっちから振っていく。実際、訊けるものなら聞いておきたいこともあった。 「〈薔薇の魂〉《こいつら》は何処に行く? つまりその、俺に使われた後のことだ」 「消費してるのは間違いねえし、魂の増減も知覚してる。だが、目で見たわけじゃねえから具体性がないんだよ」 「俺が使った薔薇は枯れるのか? おまえはそれを捨ててるのか? だとしたら、いったい何処に?」 魂の行き先について、クラウディアが言っていたことを俺は知りたいと思っていた。 別にセンチな理由じゃねえし、知ってどうなるもんでねえ。だが、それまで考えもしなかったことなので気になった。 というだけなんだが…… 「知らなーい。特に興味もないし、どうでもいいことなんじゃないの?」 「あなたがわたしを求めるとき、ここでこの子たちを食べてるけど、お腹の中が何処に通じてるかなんて分からないわよ」 「それがそんなに気になるなら、もう一度裂いてみる? ほら、昔やったみたいばっくりと」 言って、胸を突き出してくるヘルガに、俺は溜息を漏らしていた。 「……いい。面倒くせえよ、さっさと仕舞え」 「だがなるほどな。腹の中までは知らねえか」 これが真っ当な生き物なら、食ったもんは糞になって排泄され、土になってまた回る。そういうサイクルが成立するが、ここで通用する理屈じゃねえ。 どだい魂なんてあやふやなもの、確と分かるような答えを求めるほうが間違っているんだろう。 「消えるのか、去っていくのか、それとも別のもんに変わるのか……」 「あるいは、帰るだけなのか」 ただ、分からないということは、どれも有り得るということだ。そして、ならば言えることは一つだろう。 「これは罪深いっていうやつだな」 抹香臭い話は好きじゃない。しかし神という奴がいたとして、そいつが魂の行き先を決めているなら、俺たちはその流れを塞き止めている。 食い切った後は知らないが、少なくとも〈内界〉《ここ》に溜めている間は他の何処にも行かせない。 だったらこれは、見方を変えると神になるための手段じゃないのか? 既存の法とは異なる形の、俺たち個々が求める世界、信じる死後、すなわちそれは善き処……その概念を小規模ながら具現している。 ゆえに極めれば、新たな法として旧神の理を駆逐できるのではないのかと…… 思い、俺は可笑しくなり―― 「くはっ、はは、ははははは……」 馬鹿馬鹿しいと感じながらも、有り得るという気持ちが湧いてきたから笑っちまったよ。何せ段取ったのはメルクリウスで、実践してるのはハイドリヒ卿だ。どれだけ話がでかくなろうと不思議じゃない。 「活動、形成、創造か。なるほど確かに、並べてみればそれ臭ぇ」 「だったら俺らは、一人一人が小さな神か? ああ、それならおまえの言うこともあながち外れちゃいないわけだクラウディア」 神はそれぞれの内に在り、目指す光の先にいる。あいつは誰に教わるでもなく、俺たちに通じる哲学を持っていたというわけだ。 「ねえヴィル、何が面白いの?」 「気にすんな。おまえにゃ関係ねえ話だよ」 そして同時に、あいつが見落としている事実もある。渇望には求道と覇道があるということ。 俺やハイドリヒ卿のような覇道の性は、他の光を呑み込みながら膨れあがる。 戦争と同じだ。綺麗事を言ってるだけじゃあ喰われるんだよ。 「だからクラウディア、おまえは俺のものなんだ」 逃がさない。絶対に奪ってやると、嘯き俺は笑い続けた。 ヘルガが不機嫌そうに何か言っていたが、今となってはどうでもいい。 覇道ならば、ねじ伏せながら進むだけ。 こいつの意思もあいつの意思も、俺が考慮してやる必要はどこにもねえんだ。 「ベイ、ベイ……」 と、思っていたときに横から呼ばれているのを自覚する。 それに引かれて、俺の意識は薔薇の園から浮上した。 「ベイ、聞いていますか? 何をぼうっとしてるんです」 「……うるせえなあ。耳元でぎゃんぎゃん喚くなよ、腐れチビ」 「てめえみたいなアホと違って、俺には色々とあるんだよ」 「なんですって、どの口がそんなことを言うんですかっ」 食い掛かってくるベアトリスを制するように、横からバビロンが割って入った。 「二人とも、それくらいにしておきなさい。じゃれていい場所じゃないわよ」 「ルートヴィヒ、そういうことだからあなたも気を付けてちょうだいね。ここからは、あまり私たちの心臓を鍛えないでくれると有り難い」 「何もへつらえと言ってるわけではないけれど」 「まあ、君らの立場を考えたうえで善処しよう」 他人事めいた男の態度に俺は舌打ちし、ベアトリスは困ったような顔をして、バビロンは嘆息した。 「じゃあ、行きましょうか」 そうしたそれぞれの思いはともかく、目の前の扉が開かれる。 カチンから戻った俺たちは、結果の報告をするべく御前に参じたのだった。 「なるほど、それが顛末か。ご苦労バビロン、ヴァルキュリア、そしてベイ。皆、大事無いようで何よりだ」 「今は各々、旅の疲れを癒すがいい」 「ありがたきお言葉、恐悦にございます」 玉座の前に跪き、事の一部始終を伝えた俺たちはハイドリヒ卿の労いを受けていた。周囲にはマレウス、ザミエル、シュピーネ、マキナ……他の全員もそろっている。 いや、正確には未だクリストフが不在だったが、城はカチンに発つ前とまったく同じ様相で俺たちを迎えていた。 「とはいえ、卿には不満がありそうだが、ベイ?」 「率直に、物足りないところでもあったかね?」 「ええ……そりゃまあ、実際は。いまいち締まらねえ話だったわけで」 「すっきりってわけには、いかないですね」 確固とした何かを誇れるわけじゃないというのに、得意面をするほど間抜けじゃない。 だから俺は、問いに正直な答えを返した。ハイドリヒ卿に労われるのは有り難いが、すんなりと喜べもしない。 「釈然としねえし、どうにもバツが悪いですね。分かり易い落ちがついたわけじゃあないもんで」 「ならば卿は、カチンにおいて何も得るものがなかったと?」 「いや、別にそういうわけじゃあ」 クラウディアのことについて一種の進展はあったものの、それは俺の個人的事情であって任務と直接的な関係はない。 そんなことを報告するわけにもいかないので言い詰まっていたら、ハイドリヒ卿は笑いだした。 「よい、よい。卿に恐縮は似合わんぞ中尉。そもそも、戦果ならば充分に持ち帰っている」 「なあ、ルートヴィヒと言ったかな」 「―――――」 そのとき、俺たちの間で共通した緊張が走った。ハイドリヒ卿の声音に普段と違う何かが混ざったのを、皆が感じ取ったからだろう。 愉悦、興味、そうしたものに分類される感情なのは分かったが、この人の心は巨大すぎて逆に見えなくなるところがある。 軽く笑いかけられただけであっても、常人からすれば津波や雪崩と変わらない。呑み込まれて自我が消し飛ぶ奴すらいるだろう、まさに百獣の威風だった。 よって、それを受けた男は恐慌するか自失するか、そんなところだろうと思ったのだが…… 「如何にも。私はルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツ。そしておまえがラインハルト・ハイドリヒだな」 「―――ッ、てめえ!」 俺が、ザミエルが、シュライバーが、殺気も露に腰を浮かした。 この野郎、よりによって“おまえ”呼ばわりだと? その暴挙と言うにも足りない態度に、信じられないという顔をしているのは他の奴らも同様だった。いや、例外はメルクリウスとハイドリヒ卿と、そして当のルートヴィヒ本人のみ。 奴は面倒くさそうな顔で俺たちを見回すと、失笑しながら言葉を継いだ。 「雁首そろえて、いちいち色めき立つなよ鬱陶しい。私は彼の部下ではない」 「国軍を預かる大将閣下にならば礼を払うのも吝かではないが、とうにその立場を捨てているのだろう。公的には死んだとされている御仁のはずだ」 「ゆえに彼も、彼に従うおまえたちも、今は単なる一個人とその私兵にすぎん。ならばこの辺りの扱いが妥当であろうよ。違うかな?」 「その通り」 激発寸前の俺たちを、ハイドリヒ卿の一言が制していた。 「彼の言い分は何も間違っていないものだ。今の私はただの個人で、ゆえに部下でもない者から敬われる筋もない」 「彼と私は対等だ。話を続けたい、卿らは控えよ」 言われ、ならば俺たちは黙るしかなく、呻きながらも再び膝をついていた。 ルートヴィヒの態度についてはカチンから体験しており、だから事前にバビロンは窘めたのだが、まさかここでもやりやがるとは思わなかった。 何だかんだ、ハイドリヒ卿の前に立てば粋がっていられるはずもない。そんな風に思っていたが、甘かったということなのか。 これは俺たちの失態。忸怩たる思いを抱きながら歯噛みする横で、ルートヴィヒは変わらず慇懃無礼に笑っていた。 「で、私は何を話せばよいのかな?」 「カチンにおける事の次第は先にそちらも聞いた通り。私がここにいるのは、彼らの顔を最低限立てようと思ったからにすぎない」 「ドイツとヴァチカン、同盟関係の筋として、私の身元が確かなものと判明するまでは付き合うべきだと考えたのだが……」 「さて、実際は正規の作戦行動でもなく、一個人の私兵運用にすぎぬと分かった以上、ここに拘束される覚えはないな」 「確かに。では早々に帰りたいと?」 「いつ帰るか。どのようにして帰るか。そもそも帰るか帰らぬか。そこを決めるのは私の自由ということだ」 「卿は教皇庁に報告せねばならぬ義務があろう」 「それをそちらに強いられる謂れはないと言っている」 「なるほどな」 鷹揚に頷いてハイドリヒ卿が促すと、傍らのザミエルが前に出た。こいつもルートヴィヒについては相当腹に据えかねているのだろうが、表面上は完全に怒気を抑え込んでいる。 「卿のことは三日前に電報を受けていた。よって身元の調査はもう終わっているよ。そうだなザミエル?」 「は、ルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツなる人物は、教皇庁の一員として確かに存在しています。もっとも、席を置いているのは裏側の部署になりますが」 「つまり公的にいない者として扱われているのはお互い様というわけだ。ゆえにこのまま雲隠れすれば、薄暗い世界から脱け出せるやもしれないと。まあ、それはよい」 「こちらとしても、卿の古巣に報告せねばならん義理はないのでな。自由でありたいなら、好きにすればよかろう。言ったように拘束はしない」 「だが卿は、どのみちここを離れるつもりなどないのだろう?」 「ほう、なぜそう思う」 面白がるように目を細めて言うルートヴィヒ。ハイドリヒ卿は即答した。 「卿は最初から気付いていたはずだ」 「先の同盟云々、筋目云々は建前だろう。我々が正規の部隊でないと知りつつ、律儀にもついてきたのは卿がそうしたかったからだ」 「その目的までは知らんがね。とはいえ望んでここに在るなら、多少の融通は利かせてくれんか」 「どのような?」 ハイドリヒ卿の言ってることに、こいつは否定の意を返さない。つまり認めたということだ。 そして俺も、その点については疑いを持ってない。奴は出会い頭にこちらの素性を看破していたのだから。 「……メルクリウスか」 視界の端に魔術師の影を収め、小さく俺は呟いていた。ルートヴィヒは水銀を知っていて、ならば逆もまた然り。ハイドリヒ卿が奴の建前を見破ったのは、そこからきた流れだろう。 「なに、たいしたことでもない。卿の目から見て、カチンの怪異はどうであったかを聞かせてほしい」 「部下の報告では満足できんということか?」 「別にそんなことは言っていない。ただ、一人だけ何も話さんというのは不公平だろう」 「私の部下に嫌々ながら連行されたというならともかく、そうでないなら構わんはずだ。要は愛想の問題だよ」 「私は卿を歓迎している。ゆえに客人と語らいたいと思うのだが、これは罪深いのかね、ルートヴィヒ」 「願わくば友好的でありたいものだよ」 上段から注がれる黄金の求めを前に、奴は少しの間瞑目し…… 「……了解した。理屈は確かにその通りだな」 降参だよと言わんばかりに肩を竦めて、頷いた。こいつは何処で、誰を相手にそういう態度を取っているのか。改めて神経を疑いたくなる振る舞いだったが、ともあれハイドリヒ卿の問いに答えていく。 俺たちにとっては意味不明のまま終わったカチンの怪異が、この男の目にはどう映っていたのかを。 「カチンの虐殺自体については、おまえたちのほうが詳しいだろうから省かせてもらう。要はあの地に大量の血がばら撒かれ、それに相応した屍の山が築かれていたということだ」 「結果、眠っていた古い神秘の目を覚ますことになる。流れた血河は大地に染み込み、ソレの寝所へ到達したのだ」 「結ばれた“下と上”の繋がりは、以降、月が満ちる夜に雨が降ることで駆動するようになったのだろう。カチンの犠牲者たちは動く死者となり、新たな死者を求めて彷徨い歩く。そうした術式に組み込まれたのだ」 「ふむ、ここまではバビロンたちとまったく同じ見解だな」 「ではルートヴィヒ、卿はその術式とやらをどう捉える?」 「有り体に、何が目的だったと思うね?」 「単なる栄養補給だろう」 「つまりカチンの怪異とは吸血鬼だ」 他に何があるのだと、当たり前のようにルートヴィヒはそう言った。 「ほう、吸血鬼。吸血鬼か」 ハイドリヒ卿を始め、それとない皆の視線が俺の方へ向けられている。なんとも微妙な心地だったが、特に言うべきこともない。 カチンの怪異は、確かに伝承上の吸血鬼が揮う業と相似していたのだから。 「卿は吸血鬼の存在を信じているのか?」 「空想上の怪物的なという意味なら否だ。巨大な蝙蝠の化け物だの、神を呪って罰せられた騎士だのと、お目出度い浪漫を口にするつもりは毛頭ない」 「だがそうした概念がある以上、真似る者は出るのだよ。血を吸って死者を使役し、ねずみ算式に膨れあがりながら飽食するというような……それはもう吸血鬼としか言えんだろう」 「とかくこの世にはそういった、二次的に発生する“もどき”が多い」 失笑。それは明らかに、俺へ向けたものだった。 「控えろベイ。言ったはずだぞ、私は彼と話がしたい」 「己と相容れぬ意見こそ、むしろ傾聴するべきだ。それに卿が〈偽者〉《もどき》なら、私もまたそうであろうよ」 「血と魂の違いはあるがね。彼の理屈に則れば、この身も吸血鬼めいているのは否定できん」 楽しげに肩を揺らし、ハイドリヒ卿は含み笑う。ルートヴィヒがどこまで俺たちのことを理解しているかは不明だったが、依然まったく動じていないことだけは確かだった。 「それで、続きを聞きたいな。カチンの吸血鬼はなぜ忽然と消えたのか」 「目的は栄養補給だと卿は言った。であれば、最終的に復活を目指していたはずだろう」 「しかしそれは果たされなかった。地下の玄室には塵と化していく骸があったと。そうだなバビロン、ヴァルキュリア」 「はい。この目で確認しました」 「私たちは、特に何をしたというわけでもなかったのですが」 「そう、ゆえに奇妙だ。ベイに言わせれば、分かり難い落ちとなっている。そこについて、卿はいったいどう思うね」 皆の視線が集中する中、ルートヴィヒは軽く俯いてから溜息をつき。 「私も知らん」 「だが、強いて何か言えというなら仮説らしきものは立てられる」 顔をあげ、目を向けた先には、ゆらゆらと薄ら笑っているメルクリウスが立っていた。 両者の視線が交わったように見えたのは一瞬。再びハイドリヒ卿に目を移して、ルートヴィヒは短く告げる。 「光でも見たのではないか」 「古来、吸血鬼を祓うものといえばそれだろう。私でも、おまえの部下でもなく、あのときあの場には光が存在したということだ」 「じゃあ、つまり……」 「クラウディアだって言いてえのか!?」 思わず声を荒げていた。そんなことは有り得ない。 あいつはただのド素人だ。どんな奇跡が起こったところで、魔術的に張られた闇を切り裂けるはずもないだろう。 ゆえにいい加減なことを抜かすなと吼えたんだが、野郎は面倒そうに首を振るばかりで取り合わない。 それどころか、哀れみめいた目すら向けつつ言ってくる。 「おまえに彼女の何が分かるつもりなのだ。光の何たるかも分からんおまえごときが」 「しょせん、単なる対義語でしかないのだろう。ああ、だから永遠に明けない〈夜〉《ヤミ》を望んでいるのか……浅い男だ」 「――てめえェッ!」 今度こそぶち切れた。爆ぜる火薬のように立ち上がった俺と同時に、やはり爆発したのは笑い声。 「ふはは、はははははははは――――」 メルクリウス。 身をよじり、腹を抱えて、あいつが笑い狂っていた。その様子に言い難い嫌悪と、そして寒気を覚え、動けなくなったのはきっと俺だけじゃないだろう。 ルートヴィヒも、あるいはハイドリヒ卿までも、全員が水銀の魔術師を凝視したまま沈黙している。 その中で、ひとしきり笑い続けた後にあいつは…… 「結構、結構。清らかな乙女の祈りが闇を祓うと……そちらこそ、実に浪漫溢れることで素晴らしいよ、喝采しよう」 「存外と、真理はそういうものであろうしな。私も賛成するに躊躇いはない」 「男なら、誰しも女神に抱かれて眠りたいと願うものなあ……くふふふふ」 「はははは、はははははははははは―――!」 「………ッ」 再び木霊する笑い声。弾けながらも豪快という印象からは程遠く、魂にへばりついてくるような重さと粘性を孕んでいた。 内に潜む感情の密度と深度が普通じゃない。いったい何が嵌ったのかは知らないが、メルクリウスは素の反応を見せている。 だからもしかして、これはこいつの渇望に関わるものなのではと……思い、ゆえに耐え切れず。 「カールよ」 吐き気すら催し始めていたときに、ハイドリヒ卿がすべてを断ち切っていた。 「そのくらいにしておけ。気味が悪くて敵わん」 言いながら、呆れたように手を振る仕草で、ようやく場の空気が戻ってきた。それまで呼吸も忘れていたのか、安堵にも似た全員の吐息が流れる。 「ああ、これは失礼。不調法をお詫びしよう。しかし、もうよいのではないのかな」 「これ以上は、皆の心身がもたぬというもの。聞けることは聞けたのだし、有意義な会合だったと締めるべき頃合でしょう」 「確かにな。卿に言われては形無しだが、私としても興味深い点はあったよ」 頷き、俺たちを見回してから、ハイドリヒ卿はメルクリウスが言う通りに場を締めた。 「ご苦労、大義であった。卿らは下がって休むがよい」 「来たるべき時に向け、今は各々、待つのが戦だと心得よ」 「――はッ」 そう言われたからには否応もない。俺たちはそろって頷き、個々の感情は別にしつつも命の通りに引き下がる。 半ば強引な形だったが、ともかく報告は終わったのだ。カチンの怪異については、これで決着を見たことになる。 と、思っているのか思いたいのか、もしくは思いたくなかったのか。 当時は判然としないまま、しかし後ろ髪を引かれるような気持ちは拭えず…… 「おまえは何も変わらんのだな、水銀よ」 去り際、俺が見たのは未だその場に残って何事か言っていたルートヴィヒ。 「そちらはそちらで、随分と変わったようだなメトシェラよ」 それに応じるメルクリウス。 玉座にあるハイドリヒ卿は、ただ黄金の笑みを湛えて奇怪な二人を見下ろしていた。 「はあ、なんか胃の痛くなる会だったわね。あんた、妙なのを連れて来んじゃないわよ」 「同感ですね。ただでさえ細い私の神経を、磨り減らすような真似はやめていただきたいものですよ、中尉」 「うるせえな、俺に文句言ってんじゃねえよ。こっちこそいい迷惑だわ」 その後、ひとまず帰途についた俺たちは、城門へ向かう長い廊下を歩いていた。 顔ぶれについてはまったく意味も事情もねえ。こっちはさっさと一人になりたかったのに、こいつらがいちいち絡んできたというだけだ。 気持ちは分かると、言ってやりたいところじゃあるがな。 「正直、後が怖いですねえ。嫌な予感しかしてきませんよ」 「ハイドリヒ卿にあれだけの口を叩く者が存在するとは……ザミエル卿はともかくとして、シュライバー卿は何をするか分からない」 「そしてあなたもね、ベイ。いつも堪え性がないんだから、こっちはつまんないいざこざに巻き込まれちゃ堪んないっての」 「ええ、まったくマレウスの言う通り。こうなればいっそのこと、ハイドリヒ卿御自身が誅されるか、さもなくば早々に帰ってほしいところです」 「いったい何を思って針のむしろに居座りたがるのかは知りませんがね」 「単に度外れて豪胆な御仁なのか……」 むしろイカレてる言うべきだろう。思い出すだに忌々しさが込み上げてくる。 「あいつを調べたのはおまえか、シュピーネ」 「そうですが、何か気になるところでも? 彼の身元は確かに裏が取れています。生年月日から家族の有無、学歴はもちろん、これまで従事したヴァチカンの闇仕事に至るまで」 「ご希望ならばここで開陳しても構いませんが?」 「いや、細かいことはどうでもいい。ただおまえの印象を教えてくれ」 「ふぅむ、ならば端的に纏めましょうか」 そう言って、シュピーネは顎を摩りつつ話し始めた。 「率直に申し上げれば、極めて優秀な方ですね。そのまま表街道を進んでいれば枢機卿でも目指していたのかもしれませんが、そこは時代というやつでしょう」 「力ある者に求められるのは、武器を執る道だった」 「へえ、だったらそれが、あいつにとって人生初の挫折だったわけかしら?」 「どうでしょうねえ。教会には戦場の英雄めいた聖人もいますから、何も法衣を纏って教化を促すだけが信仰ではない」 「もとよりローマは戦いの宗教だ。よって上辺の綺麗事に身を置くよりは、そちらの方が本道であると思っていたように見受けられますよ」 「経歴から推察する限りはね。嫌々と腐りながらやっていたとは到底思えぬ活躍ぶりで、むしろ情熱を感じましたよ」 「ゆえに、どうも噛み合わない。あれが果たして、信仰に燃える情熱家の姿なのかと」 「あの冷笑然とした厭世ぶりには、一種虚無的なものすら感じます」 確かに、それはその通りだ。そもそも教会に忠誠を誓ってるなら、さっさと帰りたがるはずだろう。 「とはいえ、人の心は難しい。マレウスの言に倣うなら、カチンの一件は彼にとって初の挫折だったと言えなくもない」 「同胞をすべて失ったわけですからね。傷つき、捨て鉢となっているだけなのかもしれません」 「そう考えれば、ハイドリヒ卿に物怖じしなかったことの理屈も立つ。言ってしまえば死人ですから」 「どうとでもなっちゃえー、て気分みたいな? ま、そんな風に見えないこともなかったわね」 「とにかく、それがおまえの考えってわけだ」 部分的に頷けるが、全肯定は出来かねる。奴の人物像は、返って不明瞭になるばかりだ。 ならばもっと、単純な考え方をしたほうがいいだろう。俺は矛先を転じてみることにした。 「マレウス、おまえから見てあいつはどうだ」 「つまり、魔術師の目って意味だが」 強いのか、弱いのか。もっと言えば、俺たちとやれるほどのものなのか。そこはずっと気になっていた点でもある。 只者ではないのだろうし、事実カチンでは不覚を取った。しかし具体的な脅威のほどは分からない。 だったら喧嘩を売れば早い話で、普段ならそうするとこだが、あいつに関してはどうもタイミングがずれ気味のままここまできている。 そんな苛立ちが顔に出たのか、マレウスは宥めるような調子で答えた。 「あなたのほうが強いわよ。だってあいつ、あまり色が分からないし」 「と、言うと?」 「うーん、つまりね。生命力みたいなものの話よ。生き物なら当然みんな持ってるし、町や自然の中にもある」 「近頃じゃオーラなんて言うのかしら。あんた達だって、なんとなくなら感じるでしょ? こいつはやばいとか、この場所は気持ち悪いとか、逆に自分と合ってるとか」 「それの感じ方は人それぞれなんだけど、わたしに限って言えば色なのよね。目に見えるから濃淡とか、勢いとか、そういうので判断してる」 「そりゃ初耳だ」 しかし、言われりゃなるほどと思う。マレウスは色で見ているということだったが、俺は匂いや味だった。人や物事を美味そう不味そうで判断していることが多い。 「興味深いですね。ちなみに私は何色なのですか?」 「シュピーネはあまり一貫してないわねえ。紫っぽいグラデーションで、体調や気分次第の振り幅がある感じ。でも、それってわりと一般的よ」 「ただ、普通の人は橙とか黄色とか、もっと暖かい系なんだけど」 「つまりあんたは、基本的にまとも人だけど嫌な奴っ」 指を突きつけ、偉そうに告げるマレウスだった。 「はあ、まあ、否定は出来ないところですね。しかしその口振りだと、色味の変化が乏しい方は異常者ということになりませんか?」 「ざっくり言えばそうなんだけど、あんたらこれ、吹聴するんじゃないわよ。陰口言ってるみたいで面倒臭くなりそうだから」 「分かった分かった。で?」 「身近なところにいる完全な単一色なら、マキナとザミエルとシュライバーね。これは言わなくても分かるでしょ、真っ黒と真っ赤と真っ白け」 「しかも轟々とかびゅうびゅうとか、そんな感じの擬音が付きそうな色使い。あいつら頭おかしいわよ」 みたいどころか、すでに陰口でしかなくなっていたが、気にせずマレウスは続けていく。 「ヴァルキュリアは緑っぽくて、バビロンは紺とか群青。それからベイも赤っぽいわね」 「だけどあんたの赤は、ザミエルと違って黒も混ざってる感じ。向こうが火なら、さしずめ血の色」 「じゃあおまえは?」 「うん? ピンクだよ」 絶対嘘だ。俺とシュピーネはそう思ったが、もう面倒なので突っ込まない。 「そんな感じで、わたしはみんなを見てるんだけど、例のルートヴィヒについて言うなら」 本題はそこにある。こいつの見立てじゃあいつはどんな色なのか。何でもよく分からないとのことだったが、具体的には? 「灰色、なのよねえ。霧っぽいって言うか、闇っぽいって言うか」 「闇なら黒だろ」 「それは一概に言えないでしょ。闇の本質は見えないことなんだから」 「極端な話、眩しすぎて視界が利かない状態は光の闇と言えるんじゃないかしら」 「ふむ、そう言われれば仰る通り」 俺には屁理屈じみて聞こえたが、ともかくマレウスが言いたいことは、ルートヴィヒが闇のような男だっていう点にある。そこだけは理解した。 「そんなわけで、全体的によく分からない。霧の向こうにもっと濃い色がある可能性もなくはないけど、強さみたいなものは感じないのよ。危ない雰囲気も特にないし」 「だからシュピーネも言ったように、やる気がなくなっちゃってるだけかもしれない。そう考えれば、灰色って如何にもそれっぽいでしょう?」 「軟弱と言うか、無気力と言うかさ」 「煙に巻くという表現もありますがね」 つまり、煙幕を張っている。では何のためにと考えて、ド定番の諺が頭に浮かんだから顔をしかめた。 「どうやら、ベイ中尉は彼の戦闘力が気になって仕方ないようですね。しかし杞憂だと思いますよ」 「私に言わせれば、能ある鷹は何とやら……などというのは戯言にすぎない。程度の低い話です」 「あ、それわたしも賛成。だってそもそも、爪を隠さないと獲物が取れなくなってる状況自体が、半分負けみたいなものじゃない」 「本当に能がある奴は、むしろ爪を剥き出しにするし、その威力を見せ付けることで周りに立場ってものを分からせるのよ。そうすりゃ獲物は、勝手に献上されてくる」 「特に国と国なんてそのままじゃない。弱そうにしてたら四方八方からフルボッコにされちゃうわよ。だから力は見せないといけないし、そうすることで可能な交渉も増えてくる」 「道理ですね。事実ハイドリヒ卿はそのようにしておられる」 「爪を隠し、隙を見つけて一撃必殺……などというのは、いいとこ初回だけしか通じない。それを人生訓のごとく語る手合いは、愚かと言うよりないですよ」 つまり、爪を隠す行為ってのは極めて刹那的だと言いたいわけだ。一度やったら以降は意味を成さないものであり、長期的なスパンで通用する策じゃない。 「下手に目立つと足を引っ張られるし、面倒を押し付けられるっていうのも真理だけどね。でもそれが嫌なら、一生こじんまりしてなきゃいけなくなるでしょう」 「だから、そういう奴らは爪を隠してるんじゃなく、自分には爪があると思い込みたいだけの能無しよ。ずっと底辺にいればいい」 「爪を見せて、引っ張られて、だけど蹴散らし踏み潰してやるって自負がないなら、隠してる意味なんか全然ないわ」 「要は、奇襲に対する反撃を封じ込められるか否か。大事なのはそこであり、それが出来るか出来ないかでしょう」 出来ないなら、そいつはハナから爪など持たない雑魚であり、出来るなら、やはりハナからやっておけよという話だ。 「まあ、最初の一撃で、何か決定的な戦果を求めているという場合もありますがね。しかしそれなら、件のルートヴィヒはどうなのでしょう」 「中尉、あなたは彼が、我々全員の反撃を凌ぎ切れるほどだと思いますか?」 「爪を隠して隙をつき、黒円卓に痛打を与えることが出来たとします。しかしその後、ハイドリヒ卿や副首領閣下までをも敵に回して、逃げおおせることが出来るとでも?」 「まさか」 さすがにそれは有り得ない。そして最初の痛打とやらが、ハイドリヒ卿やメルクリウスに届くなんてことは尚有り得ない。 「つまりそういうことよ、ベイ。あいつが煙幕を張ってるなら、それは能無しの証明ね。出来もしないことを、出来るように思いたいだけのカッコつけ」 「そして煙幕じゃないのなら、最初にわたしたちが言った通り、単なる自棄っぱちというだけの奴よ」 「せいぜい、あんたに嫌味を言うのが関の山っていう程度のね」 「うるせえなあ。最後の一言は余計だてめえ」 まだ釈然としないものは残っていたが、これ以上議論を続けても仕方ない。不快な奴の話はここらで切ろうと考えた。 「そんなことより、これは興味本位で訊くんだがよ」 「おまえが今まで見た中で、一番やばいと感じた色は何なんだ?」 「決まってるでしょう、金と銀よ」 問いにマレウスは即答した。そしてその意味するところは、即座に俺もシュピーネも理解した。 「これについては、あまり深く訊かないでね。まず言いたくないし、ちゃんと見れてる自信もないから」 「さしずめ、先にあなたが言った光の闇というやつですか」 「そうね。だからこの二つを例外にした場合……」 と、マレウスは俺の顔を見上げてきた。まるでこちらの思考を通じ、その先にあるものを仰いでいるような眼差しで…… 「クラウディアも、なかなか凄いわ。あの子は真っ青」 「どこまでも、まるで抜けるような空の色。今にも天使が降りてきそうで、正直言うと怖くさえある」 「天使だと、馬鹿言いやがれ」 あまりにもアホな喩えにうんざりしながら、〈塒〉《ねぐら》に帰りついた俺は目の前の椅子を蹴り上げた。 同時にしまったという気持ちが湧いてきて、その事実にまた腹を立てる。 時刻は深夜。つまりクラウディアは寝付いていて、あいつを起こすかもしれないと考えたことに俺はムカついていたわけだ。 そんなもん、気にするようなことじゃねえというのに。 あいつが寝ていようが何だろうが、どうして俺が気を使ってやらなきゃならない。仮に文句を言われようが、うるせえ黙れと言えばすむ話だ。 「光、光、真っ青だと? ――はッ」 つくづく、本当に馬鹿な野郎だ。そこまで昼というものに拘泥する神経が分からない。 餓鬼の無いものねだりでも、いくらか道理を弁えているはずだろう。死と引き換えに追いかけるようなもんじゃないし、そもそも死と釣り合う幸福などない。 それが俺の持論であり、信念に等しいものだったから、無性にまた苛々してきた。とにかく吐き出さなければ我慢できない。 「くそが、なんで俺がこんなことを……ああちくしょう!」 馬鹿の分際で俺を怒らせた責任を取ってもらう。そう考えて、クラウディアの寝所に通じる扉を蹴り開けた。そうして思いつく限りの罵倒を浴びせようと思ったんだが…… 「……………」 この野郎、あれだけ騒いだのに気持ちよさそうな顔で寝てやがる。そのあまりに間の抜けた様を見て、一気に苛立ちが失せちまった。 「アホくさ……白けるんだよ。てめえはいつも」 こういうとき、噛み合わないと言うか。すかされると言うか。 脱力した俺は、深く嘆息しながら傍の椅子に腰掛けた。依然、クラウディアは眠っている。 「てめえよぉ、やっぱだいぶおかしいぜ」 変人には耐性があったはずだし、イカレた女はヘルガで充分知っている。しかしこいつは、それらと違う方向に飛んでいるから対処がいつも後手後手だ。 「何でこう、危機感もなく寝れるかねえ」 「俺のことを紳士だなんて思ってるわけじゃねえだろう」 いつも怒鳴りつけているし、小突いたことも蹴り上げたことも一度や二度じゃないはずだ。加えて、殺すと何度も言っている。 もしかして、その“何度も”ってやつがいけなかったか? 早い話、重みがなくなって嘘臭くなり、舐められたか? その可能性は多分にある。なら、洒落じゃねえと思い知らせるにはどうするべきか。 単純に怖がらせることでこいつを煽るという初期の方針は、言った通りもう捨てていた。しかし、だからといって、まったく恐れられないというのも面白くない。 「だったら、やることは一つだわな」 これはこれで、新しい方針からも大きく外れているわけじゃない。呟き、俺はクラウディアのシーツに手をかけようとして…… 「いやらしいのは駄目です」 不意に目を開いたこいつが、そんなことを言いやがった。 「……てめえ、狸寝入りしてたのかよ」 「そりゃあ、だって、あんなに騒いだら私じゃなくても起きますよ」 「じゃあなんで寝た振りしてた」 「あなたが何か、面白いことを言うかもしれないと思ったから」 「たとえばそう、愛してるとか」 「死ね」 「はうっ」 わりと遠慮なく頭をはたいた。聞くだけで背筋が寒くなるような言葉を使うな。 「痛いです。どうして殴るんですか、照れてるんですか」 「なんでだよ」 「だってさっき、あなたはその……」 「ああ、なんだ。やってほしいのかおまえ」 「馬鹿言わないでください。愛のない行為は駄目です」 顔を真っ赤にしながら、ぷんぷんと怒りやがる。 「いくら私でも、それくらいは分かるんですからね。もちろん、心のこもってない言葉も駄目です」 「適当に私を納得させて、さっさと片付けようと思ってるのかもしれませんが、騙されませんからね。手抜きしちゃ駄目ですよヴィルヘルム」 「まあ、あなたが力ずくでもするというなら抵抗しても無意味でしょうけど」 そこで妙に勝ち誇ったような目をしつつ、クラウディアは鼻を鳴らした。 「おまえみたいな貧相な奴に、釣られる男がいるわけねえだろ――でしたっけ? あの言葉を撤回してもらうことになりますよ」 「実はっ、俺はっ、クラウディアにいつもむらむらしていたのだああ――と、あなたは認めることになるのです」 「出来ますか? 出来るのならばそれはそれで、あなたの本気と解釈しないこともなく――むぎゃっ」 また遠慮なくはたいてやった。どうやらこいつ、ここにきても盛大な勘違いをしているらしい。 確かに今、俺はクラウディアを犯そうとした。しかしそれは、こいつの初恋お飯事に付き合おうとしたからじゃない。プライドの問題であり、主導権の問題でもある。 しかしもう、くだらなすぎてひたすら萎えたよ。テンションが狂うと駄目になるのは、男の悲しい生理だな。 「てめえはほんとに、尼さんのくせして俗すぎんだよ。何がむらむらだ、言ってて悲しくならねえのか」 「なりませんねえ。後からちょっと恥ずかしくはなりますけど」 「それにヴィルヘルム、俗であることはいけませんか?」 不思議そうに、そしてどこか労わるように、クラウディアは呟いた。 こいつがこの状況で、ずっと上体すら起こさないのは別に不精しているからじゃない。 起きようにも起きられないんだ。カチンへの往復という長旅が、元から少ない体力を限界近くまで奪ったらしい。以来、ずっと床に伏している。 それはもしかしたら、二度と立ち上がれないのではと思えるほどに。 クラウディアは死が近い。にも関わらず、にこにこと笑っているところは変わらなかった。 「ちゃんと聞いたことはありませんが、たぶんあなたの願いは長く生きることなのでしょう? 当たり前的な意味ではなく、百年、二百年、千年先まで」 「あなたはメトシェラになりたいと願っている。違いますか?」 「メト……? なんだそりゃあ」 知らない単語を使われたので聞き返した。するとクラウディアは苦笑しつつ説明する。 「メトシェラはノアの祖先。聖書で一番長く生きたとされる方です」 「転じてその名は、長命の代名詞となりました。つまり、神懸かった域で存在する不滅の人……そんな風に捉えてください」 「あなたの望みはそれでしょう?」 「……………」 問いに、俺は即答しなかった。どうしてかは、今に至るも分からない。 だがもしかして、何か後ろめたい気持ちでもあったのかと……馬鹿な、違うそんなこと。 「なんで、おまえはそう思う?」 「私に対して、いつもあなたは怒っているから」 「人がどういうときに怒りを覚えるか、そう種類豊富なものではないでしょう。否定されたり、軽んじられたり、もしくは理解できなかったり」 「あなたにとって、私は全部該当しているんじゃないのかなと……考えてみたら、そうなりました」 当たりでしょう、と言うクラウディアに、俺は何も返さない。しかし構わずに続けていく。 「あなたが欲しくて欲しくて堪らないものを、私は軽く扱っている」 「それは侮辱で、理解できず、だからあなたは怒っていると……」 「気付いて、申し訳なく思いましたが、今はそのことについて謝罪をしたいわけじゃありません」 「どうせおまえは、そうそう変わんねえからな」 「ですね。だから今後も、怒られながらいくのでしょうけど」 「メトシェラになりたいヴィルヘルムは、私よりもずっと生きていくはずです。だったらそのままでいてください」 「俗であること、素晴らしいじゃないですか」 つまらないことに怒り、喜び、ときには嘆く。その感性を大事にするべきだと言われたよ。 「私が命を粗末にしているなら、あなたは心を粗末にしていませんか?」 「超然と、揺るぎなく、何が起きても動じず、騒がず、世の中すべてを俯瞰しながら、悟って冷たく笑うような……あなたにそういうのは似合わない」 「それは心が死んでいる人の生き方です」 ハイドリヒ卿にメルクリウス、真っ先にあの二人のことが頭に浮かんだ。 俺はあんな風になりたいと思っていたわけじゃないが、それでも一種、超越者の典型として捉えていたことは否定できない。 だから仮に、百年後の俺がそういう人種になっていたとしても、何ら危機感は持たなかったはずだろう。 このときクラウディアに言われるまで、俗を保つという拘りは知らなかったし持ってなかった。そこは認める。 心を粗末にしてるというのも、あながち外れちゃいない指摘だった。 「私が言っても説得力はないでしょうけど、長生きの秘訣だと思いますよ」 「いくら身体が元気でも、気持ちが疲れてしまったらどうにもならない」 「飽きたとか、つまらないとか、どうでもいいとか、そんな風に思いながら生きていくのは悲しいです。きっと耐えられる人なんかいないでしょうから」 「確かにな」 応え、素直に頷いた。 俺が知る誰よりも喜びに貪欲で、その昇華を求めながら生きてきた女の言葉。否定できるはずもない。 「そんなことしか思えなくなったとしたら、俺は自分で自分を殺したくなるだろうよ」 結果的にクラウディアは死に向かっているものの、こいつは人生に倦んでいるわけじゃない。過剰なまでに〈幸福〉《ひかり》を欲したからこそ焼かれているんだ。 それも一種、原因は逆だが死にたがりの病。 「気に食わねえ。ああ、気に食わねえよ」 だから死にたくないと言わせたい。こいつの馬鹿さ加減を潰したい。 そう考えているこの俺が、同じ病気に罹る生き方をするわけにはいかねえだろう。 「自死衝動……か」 ゆえに俺たちはその概念をそう名付け、今に至るも戒めている。 たとえ肉体が不滅になろうと、心と魂はそうじゃない。一般には逆みたいなことを言われてるが、何事も裏側の真理ってやつがあるもんだ。 死にたがりの病に冒されないよう、心の瑞々しさを保つこと。そのためにも、俗なノリを無くさないようにするのは大事なんだと思ったよ。 「珍しくそこそこためになる説法だったぜ。褒めてやるから、さっさと寝ろ」 「もう、あなたのせいで目が覚めたのに、何なんですかその言い草は」 「ただでさえずっと横になってるんだし、眠るにも限界があるんですよ。カーテンも閉まってるから、外だって見えないし」 「今は開けたところで闇しか見えねえよ。そんで日中は論外だ。無駄に命縮める片棒担ぐ理由がねえ」 「文句があるなら、さっさと歩けるくらいには回復しやがれ」 「はーい」 現状、こいつの不調について真相を知っているのは俺とザミエルの二人だけだ。もとから吹聴するつもりもなかったが、クラウディアも黙っていてくれと言うんで他の連中には話してない。 そうやって隠し通すのも、時間の問題だと思ったがな。ベアトリス辺りが騒ぎ出すのは容易に想像できたので、可能な限り秘しておきたいことだった。 「あの、ヴィルヘルム?」 「なんだよ、子守唄なら歌わねえぞ」 「いえ、そういうのではなく」 何だというのか。見ればクラウディアは、楽しげな様子で含み笑いを浮かべていた。 「さっきですね、ちょっと面白い夢を見たんです」 「夢だあ?」 また益体もないこと。呆れ返ってものも言えない。 しかしこいつは、依然として笑みを崩さず…… 「夢の中でも私は眠っていたんですが、窓をコンコンって叩く音がしたんです」 「それから、開けてくれ。開けてくれ。お見舞いに来たよ。入れてくれって、何度も何度も」 「最初はびっくりしたんですけど、なんだかとっても優しい声で、聞いてるうちに私も調子が良くなってきたものだから」 「入れたのかよ」 「はい、そこの窓を開けて……そしたら、ねえ、いったいお客様は誰だったと思います?」 流れ的に俺じゃなかろうと思ったし、そもそもそんなメルヘン趣味に俺を出しやがるのは許し難い。 だから知ったことかという態度で首を振ったら、この野郎は―― 「ルイでしたー! 面白いでしょ?」 「どこがだボケェ!」 瞬間的に沸点まで達した俺は怒号して、クラウディアを放置したまま踵を返すと部屋を出た。 扉を力一杯閉める間際、窓に掛かったカーテンがゆらゆらと風に揺れていたのを覚えている。  その言葉を聞いた瞬間、私の中で稲光にも似た啓示が走った。 「闇、だと?」 「左様、御身は闇だメトシェラよ。そして無論、これは例え話でもない。事実をありのままに言っている。  陰鬱な人物や非道徳な輩を指して、彼は闇のようであるとか、心に闇を抱えているとか、そういった意味ではないのだよ。だいたいからして、闇と悪性を同義語のように語ること自体が間違っている」 「慣用句としては優秀なので、私も時には使うがね。だが御身の前では侮辱になるというものだろう。事実、闇を厭わしき概念とは思っておるまい?」  そんなことは当たり前だ。闇とはただの現象であり、そこには良いも悪いもない。  人間がたまたま昼行性であり、夜行性の捕食者に怯えて過ごした原始の記憶を有しているから、未だに恐怖しているだけ。要は受け取り手の問題だろう。  夜に駆ける生物からしてみれば、闇は福音に他ならないはずなのだから。 「しかしならば、なぜ私は人の姿をしているのだ。この身が真に闇だと言うなら、そもそも形さえ持たないはず。  おまえの答えに感じるものがあるというのは認めよう。だがあまりにも現実味がなさすぎる。まるで霞を掴むがごとき話だ」  闇の〈人形〉《ひとがた》。荒唐無稽にもほどがある。  俄かに首肯しかねると告げる私を前に、魔術師は大仰な仕草で嘆きを表現してみせた。 「自然の擬人化は理解し難い概念かね? 何も珍しいものではないだろう。  少なくとも、御身が人類の限界を超えた長命であることだけは間違いない。であれば、覚えているはずだ。文明の黎明期、世界がどのようなものだったかを。 有り体に、当時は神秘が溢れていた」  言われ、思い出し、私は頷く。もはや遠い記憶だが、あれを夢の類と断じられるほど色褪せてはいなかった。 「巨石が宙を飛び、天空に浮遊する宮殿があっただろう」 「戦は魔術の応酬であり、大陸を沈没させる津波が起こったのを覚えている」 「人語を話す獣がおり、また草木と意思を交換する人間も珍しくない」 「そうだ、私は覚えている。彼の日、あらゆる神秘は日常の光景だった」 「ゆえに――」  水銀の男は含み笑う。そっと私に、指を突きつけて滴るように。 「当時は神々の時代だった。いや正確には、神の眷族と言うべきか。  稲妻が、暴風が、大地が、そして火が水が――それぞれ神として擬人化され、信仰されていたはずだ。御身はその時代に生まれた一柱にすぎない。  闇の神聖視、何も破綻した道理ではないだろう。人は恐ろしきものにも傅いて敬いを示す。  原始からある、暗闇という概念に対する畏敬の念。それが御身を生んだのだよ。ああ、私は覚えている。否、〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》」  私の真実を寿ぐように、そして自身の何かを呪うように、男は詠嘆を吐息を漏らした。  同時に世界が、いいや男が変わって見える。つい先ほどまで、私は彼を水銀の流動体としか捉えていなかったはずなのだが、今はその容姿がくっきりと。 「……、っ……」  覚えが、ある。違う知らない、だがしかし――  深い諦観と絶望と、狂気に侵されたまま固まっている〈瑪瑙〉《めのう》のような独特の瞳が私を見ていた。 「どうされた、闇の王よ。まるで蛇に睨まれた何とやらという風情だが。  安堵なされよ。私は御身を丸呑みにしようなどと思っていない」 「黙れ、口を噤むがいい」  私の根源にとぐろを巻いたもののように、魔術師の弄言は不快であったから取り合わない。  今は話を――提示された答えの具体性を詰めていくべきだと考える。 「訊いてもおらぬことを囀る舌は二度と使うな。私の問いにのみ、おまえは答えよ」 「過日、世界は神秘に満ち、神々の時代であったという点は否定しない。だがならば、なぜ今はこのようになっている?  城は飛ばず、魔術は廃れ、かつての真実は幻想の類とされ始めているではないか。改めて見回すにこれは退化だ。物質的には豊かとなりつつあるかもしれんが、霊的には後退している。  少なくとも、おまえを除く現代の魔術師たちは脆弱だ。空を飛ぶということにすら、生涯費やしても届かぬ者が多いのだろう。その程度、昔はただの子供ですらやっていたはずだというのに」  ああ、覚えている。そうだ、そういう時代に私は生まれ、いつしか一人となって夜を彷徨い…… 「彼らは何処へ行ったのだ。なぜこの世界は先細りを起こしている」  真理を追究する言葉の刃に、魔術師は極めて明快な答えを返した。 「大元が死に掛けているからだろう。  つまり寿命だよ。これも摂理だ」 「寿命、だと?」 「然り。永遠に拡大していく理など存在しない」  よって時と共に先細るのは至極当たり前のことだろうと、男は何らの感慨もなく言い切っていた。 「最初に眷族という言葉を使っただろう。すなわち、過日溢れていた数多の神秘は、まだ大元が若々しかった時分による力の余波、副産物にすぎん。  難しく考える必要は何もない。老人よりは青年のほうが強く健やかで美しく、発散する命の波動が周囲を鮮やかに彩っていくもの」 「黎明期、〈宇宙〉《セカイ》は神の〈業〉《アイ》に満ちていたのだ。ゆえに過剰とも言える神性の流出が、親に近い者らを生じさせたというだけのこと」  それがおまえだと、今さらになって誕生を祝福する父のように。 「当時、魔術の行使がごく簡単で、今を遥かに凌駕する出力を発揮できたのも同じ理屈だ。要するに、ああ、別に他意はないと断っておきたいのだが……」 「母体が壮健であればあるほど、寄生虫もまた元気が良いか」  この男が使いそうな喩えを先回りして口にした。つまりかつての超常的繁栄は、〈世界〉《カミ》が若者であったからにすぎないというのだろう。  魔道の始祖にして、頂点を極めた〈存在〉《なにか》がすべての中心に座している。  ゆえに森羅万象は“彼”が描いた祈りの〈属性〉《いろ》に染まっており、だからこそ余波は神秘という名の概念になった。頷ける話だろう。  光あれ――その一言により天地を創造せしめた存在ならば、たとえ事業の後に残った滓のごときものであろうと、人には強大な力となる。  よって、それを手にした者らは無邪気なままに願ったのだ。  父なる者がやったように、光あれ、光あれ、光あれ、光あれと――  結果、魔術は凄まじい効果を発揮し、空飛ぶ宮殿や幻想の獣、擬人化された自然すらをも発生させた。  稲妻の戦神、大地の母神、風神、水神、火神や、そして闇といった…… 「私はそうした存在なのだな」 「まあ、大元の影響を強く受けるという点は確かだろう。宿主が弱れば等しく弱り、消えていく」 「原初に溢れていた神秘はほぼ使い切られ、かといって新しく余剰が生まれるほど大元も元気ではない。  いずれ尽きる定めだよ。世界は死に向かっていると、気付いている者がどれだけいるかは知らんがね」 「ならば、私も長くはないのか」  これまで多くの者に問い、答えられぬなら死すべしと断じてきたのはそういう理屈なのだろう。私はどこかで、己の真実を自覚していたのかもしれない。  死へ向かっていることに気付きもせず、〈闇〉《わたし》の何たるかも分からぬ者は虚無に等しい。ならば生きている理由はあるまいと。 「そうなるな。しかし御身は、他の者らが消えても残り続けてきた。今現在、もっとも年経た存在なのは確かだろう。  ゆえにメトシェラ、この〈法則〉《セカイ》における最長老だよ。  誇られるがいい、誰にでも掴める称号ではない」  不思議と心のこもった賛辞を前に、私は自嘲の笑みを禁じ得ない。確かに長く生きてきたが、それで何を成したわけでもないのだから。 「どうして私一人が残ったのか、どうして他の者らのごとく消えなかったのか……」  残る疑問はその一つ。自問に等しい呟きだったが、魔術師はやはり明快に答えてくれた。 「御身が一番、〈神〉《おや》と似ていたからではないのかな」 「つまり諦めが悪いのだろう。この世界も同様に、老いさらばえながらなんともしぶとい。  それはきっと、叶えたい望みがあるからではと考える」 「望み……願いか」  言われてみればそうかもしれない。事実私はつい先ほど、何も成していない自分の生を嗤ったのだから。  そして、求める何かがあるからこそ、己に死を適用することはしなかった。  我が身の内は虚無に非ずと、自負する心があった証明に他ならない。 「これからは、その何かを探す旅に生きられるがよいだろう。私もまたそうしている」 「では、おまえも同じく?」  私に答えを与え、道を示し、かつて栄えた神話の時代を知る男。  彼も古い存在なのは間違いなく、だから聞いておきたかった。  この水銀が求めるものは何なのかと。 「然り。だが私も、己の真なる渇望が分からない。それを探している最中だ。  ゆえにまた会おう、メトシェラよ。我らは共に諦めが悪い者同士」  再会は必然であると、すべてが既知であるかのごとく謳う男は、テオフラストゥス・ホーエンハイム。 「この枯渇していく世界でも、その気になればかつての威を揮える神の眷族。最後の神秘だ」  きっと次に会ったとき、名は変わっているに違いない。  であれば私も、彼に倣ってそうした手管を覚えておこうと考えた。 「我が身はメトシェラ」  自己の本質を知った今、時代に合わせた装束として仮名をいくら増やそうとも真理は揺るがず、闇である。 「ヴィルヘルム、ヴィルヘルム……」 「ねえ、起きてください。朝ですよ」 名を呼ばれ、肩を揺すられ、頬に当たるクソ鬱陶しい光を感じて、俺は朝になったことを自覚した。 しかし、かといって起きなきゃならない理由はない。俺は朝が嫌いだし、そもそも勤め人なんかじゃねえ。 常識的な理屈に照らして、一日の始まりを型通りに迎える必要はこれっぽっちも見当たらなかった。 「ああ、くそ……うるせえなあ」 そういうわけで、引き続き俺は寝る。だから大人しく黙ってやがれと呟いて、そのとき―― 「ヴィルヘルム!」 「―――ッ、てめえ!」 明らかにおかしな状況だと気付いた俺は、跳ねるように飛び起きていた。 「きゃっ、ちょ……何なんですか、いきなりもう」 「驚いちゃうじゃないですか。いたたたた……」 目の前には、尻餅をついたまま恨めしげな目でこちらを見てくるクラウディア。これはいったいどういうことだ? 「おまえ、なんで普通にしてんだよ」 「え、私がどうかしましたか?」 「だから――、その、分かんだろ。馬鹿かてめえは!」 つい昨夜まで、ベッドから一歩も出られらなかった奴が何をしている。確かにこいつは自分の体調すら顧みない間抜けだが、気持ちはどうあれ起きることが物理的に不可能だったはずだ。 にも関わらず、さらっとした顔で俺の部屋までやってくるわ目を覚まさせるわ、挙句の果てにこの野郎、メシの準備までしてやがるな。匂いで分かるんだよ、信じられねえ。 あまりのことに口をぱくぱくさせる俺を見て、クラウディアはようやく得心したらしく、尻を払いながら立ち上がった。 「身体のことなら、心配なんか要りませんよ。見ての通り元気ですから」 「自分でもよく分からないところはありますけど、なんだか私、びっくりしちゃうほど絶好調なんです」 と、偉そうに胸を張って誇りやがる。その様子から虚勢めいたものは見当たらなかった。 「マジかよ、有り得ねえ……」 意味不明すぎて、逆に気持ちが悪くなってきた。こいつの身に何が起こったというんだろう。まさか奇跡なんて落ちもあるまい。 ああそうですかと流すには、あまりに特異な状況だった。この場で可能な限り、真相を究明しなくてはならない。 「え、あの、何ですか? わわわっ」 「うるせえ。ちょっとおまえ黙ってろ」 手を伸ばし、俺はクラウディアの首に触れた。医者じゃねえから詳しく調べるのは不可能だが、血の流れからおおよそを察することなら出来る。 結果、正常。脈拍におかしなところは感じられない。強いて言うなら、多少貧血に近い症状はあるようだったが、危険な状態という程でもない。 だから昨夜までの有り様を鑑みれば、なるほど絶好調と自ら言うのも頷けるが、しかし…… (気のせいか……?) どこか俺は、この日のこいつに言い難い違和感を覚えていた。その正体が分からない。 そして、分からないまま―― 「優しいんですね、ヴィルヘルム」 「は、なっ――、はあァ?」 いきなり見当違いのことを抜かしやがるもんだから、反射で俺は手を離しちまった。そんなこちらを、クラウディアは楽しそうに見つめている。 「あなたにそういう労わりはあまり期待していなかったんで驚きましたが、やっぱり嬉しいものですね。改めて、お気遣いありがとうございます」 「でも本当に平気ですから、そんなに心配しないでください。ほら、見ての通り大丈夫っ」 言いつつ、小さくガッツポーズ。そのお目出度い頭を小突き回してやりたくなったが、どうにか寸前で堪えきった。 「……何が優しさだ。気色悪いこと言ってんじゃねえよ」 別にそんな理由じゃねえと一から説明したところで、こいつはまったく理解しないことだろう。良いように解釈するのが目に見えていた。 ゆえに徒労。言うだけ無駄。とにかく状況は不可解だったが、本当に問題ないならこのまま対応していくしかない。 そう思い、深く溜息を吐いたときだった。 「じゃあそういうことで、ヴィルヘルムはあっちに座って待っててください。朝食の準備をしてたんですが、ジャガイモが足りないんで今からひとっ走り買ってきます」 「ちょっと待てやァ!」 言うに事欠いて、イモだこのアホ。 「んなもんどうだっていいんだよ。何がひとっ走りだ、いい加減にしやがれ!」 「そ、そんな……ジャガイモがないドイツ料理なんて何をどうすればいいんですか。それじゃあ礼儀正しいヴィルヘルムみたいで、気持ち悪いことになっちゃいますよっ」 「喧嘩売ってんのかこの野郎ッ!」 吼えたが、クラウディアは頑として譲らない。苛々が限界に達した俺は、ぶん殴るような勢いで踵を返した。 「分かった、俺が買ってきてやる。てめえは大人しく、ここでメシ作ってろ」 「わ、本当ですか? ありがとうございます」 「やっぱり今日のヴィルヘルムは優しいですね。何かいいことありました?」 てめえがもう少しでいいから物分りよくなってくれりゃあ、現状それに勝る幸福はない。 切実にそう思いつつ胸中で吐き捨てた後、俺は目眩がするような陽気の中をジャガイモ買うために出て行ったよ。 まったく、厄日も甚だしい。 そして厄日というやつは、つまらんことが立て続けに起きるクソッタレな日を意味する。 つまり嫌なことが重なるわけで、この日の災難はまだ終わってなどいなかった。 「これはこれは、なんとも興味深い絵面だな。まさかこんな状況に出くわすとは、さすがに予想していなかったぞ」 「天下のヴィルヘルム・エーレンブルグ中尉殿が、ジャガイモを持って市場めぐりとは驚きだよ。午後から雪でも降りかねん」 ありったけのジャガイモを買い込んで速やかに帰ろうとしていた矢先、知った顔に会ってしまった。無様すぎるから誰にも見られたくなかったというのに、その程度さえ叶えられない。 まだこいつ一人だけならともかく、うざったいのが他にもいやがるから最悪だったぜ。 「う、嘘でしょ。なんですかこの、有り得ないくらい気色悪い状況は」 「うーん、恐ろしいほど似合わないわねえ。逆に犯罪的とすら思うわよ」 両手にジャガイモを抱えたまま女三人に囲まれた俺はすべてを放り出して逃げたくなったが、もちろんそんなわけにもいかない。 かといって、凄みを利かせられる立場でもまったくなかった。粋がったところでギャグにしかならないのは明白で、だから俺は舌打ちをするだけに留める。 「うるせえな、ほっとけよ。そりゃ俺だって買い物くらいするわ」 「だいたいおまえらこそ、朝っぱらから何してやがる」 俺の状況が奇異なのは確かだが、それを言うならこいつらだっていい勝負だ。メンツ的に珍しい組み合わせなんだよ。 なぜならバビロンとザミエルは徹底的に犬猿だ。こいつらのどっちかとベアトリスの二人組ならカチンがそうだったようによくあるんだが、三人そろうというのは滅多に起きることじゃない。 「知らねえ間に仲直りでもしたのかよ」 「馬鹿を言うな。私はこの女と仲違いなどしていないし、ゆえに直る余地などハナからない」 「単純な話、最初から相手にしていないだけだ。そもそも今、どうしてこいつがここにいるのかまったくもって理解できん」 「それはこっちの台詞なんだけどね。私はベアトリスから食事の誘いを受けただけで、あなたに会うつもりなんか全然なかったのよエレオノーレ」 「そうか。ならとっとと帰れよ。止めはせん」 「あなたがね」 「もう、いい加減にしてくださいよ二人ともっ」 いい加減にするのはむしろおまえだろうと思ったが、余計なことは言わないでおく。つまりこれは、ベアトリスがつまらんお節介を発揮したというわけか。 知る限りいつも板挟みになってる奴だし、二人の仲を取り持とうとしたんだろうがそりゃあ無理だぜ。 バビロンとザミエルの確執はそんなに甘いもんじゃねえ。深い事情までは知らないが、だからこそこいつらの間にある溝のでかさを感覚的に理解できる。世の中、どう足掻こうがどうにもならねえ関係ってのはあるんだよ。 「まあ何でもいいわ。勝手によろしくやってくれ」 「ちょっと待ちなさい。他人事みたいな顔して、どうすりゃいいんですかこの状況」 知らんわそんなもん。俺にとっちゃあ間違いなく他人事だし、てめえで始めたことならケツまで責任取りやがれよ。 「行かせてやりなさいベアトリス。彼はクラウディアの世話で忙しいんだろうから」 「へ……ああなるほど、そういうことなんですね。だからそんなにジャガイモ持って……うわー、改めて驚きです」 「意外に甲斐甲斐しい男だな」 「…………」 こういうことを言われたくないから、さっさと俺は帰りたかったんだよ。しかし、もはやそれも遅い。 「誤解すんな。別にあんな野郎はどうだっていいし、俺はこれっぽっちも急いじゃいねえよ」 「暇で暇でしょうがねえから、おまえらのアホ話に付き合ってやろうじゃねえか。有り難く思えやこのボケ」 自分の性格にうんざりすることなんか滅多にないが、例外を設けるとしたらこんなときだ。流れ的に、こういう対応しか俺は出来ねえ。 「ベイ……あなたが馬鹿なのはよーく分かりましたから、これ以上馬鹿を晒さなくてもいいんですよ?」 「カチンで散々減点を稼いだんだから、これ以上マイナスを重ねないでもいいでしょうに」 「せっかく似合いもしないプラスをやろうとしてるんだから、無理しないで帰ったら?」 うるせえなあ。 こいつら、窘めてるつもりなんだろうが、俺には煽ってるようにしか聞こえねえんだよ。 「まあ、本人がいいと言うのだから構わんだろう。貴様らも、他人の問題にいちいち口を挟むなよ」 「そんなこと言われましても、こいつがあまりにもダメ男なんだからしょうがないじゃないですか」 「それに前から不思議だったんですけど、少佐ってなんだかベイに甘くないですか?」 「別にそういうつもりはない。ただ、一定の評価をしているだけだ」 「こいつはこいつで物の分かった男だろう。少なくとも、貴様らよりはマシな部分を持っている」 「あなたの偏った価値基準で判断されたくもないんだけど、確かに殊更お節介を焼く義理もないわね」 「そういうことだ。ベイの女問題がどうなろうと私の知ったことではない」 「ともあれ、こちらの話に付き合ってくれると言うならちょうどよかった。貴様にも訊きたいことがある」 「なんだよ?」 微妙に苛つく流れだったが、話題の矛先が変わったんならそれでいい。ぶっきらぼうに俺が問うと、ザミエルは気を静めるようにタバコを咥えて、火を点けると一口吸う。 そして紫煙を吐き出しながら話し始めた。 「ルートヴィヒと言ったろう。あの男についてだ」 「今日はもともと、この馬鹿娘から奴のことを訊くつもりだった。それがどういうわけだか要らん奴を連れて来おって」 「カチン絡みの諸々はリザさんが責任者なんだから当然じゃないですか」 「黙れキルヒアイゼン。ともかく私の話はそれだよベイ。期せずしてだが、現場の人間がそろったのだから聞かせてもらおう」 「貴様から見て、あの男はどうだ?」 それはつい先日、俺がマレウスやシュピーネに尋ねたこととまったく同じものであり、つまりこいつも野郎が気に食わないというわけだ。 気持ちは分かるし、当然の反応だろう。ハイドリヒ卿にあれだけ調子付いた口を利くなど、俺らの感覚からすれば死に値する。 「本音を言えば今すぐ殺したいくらいだがな。ハイドリヒ卿が奴を客人扱いしている以上はそうもいかん」 「だから今のところは、いざというときのために分析か。おまえらしいわ」 「貴様は違うのか?」 「どうかね。少なくともおまえほど生真面目じゃねえが……」 ザミエルがルートヴィヒへの殺意を抑えているのは筋目の問題。俺にもそういう感覚がないではないが、たぶん理由は他にある。 上手く言葉には出来なかったが、野郎に喧嘩を売るなら見極めねばならんものがあるように思ってたんだよ。 「で、聞きたいのはあいつの強さか?」 それはそういうことじゃないんだが、手っ取り早く話題に乗せるならそこかと思ったので言ってみた。しかしザミエルは、違うと首を横に振る。 「その手のことは関係ない。あれが強かろうと弱かろうと、何が変わるわけでもないだろう」 「勝てるからやる。負けるからやらぬという次元で戦争は考えん。ハイドリヒ卿の命あらば、誰であろうと討つのみだ」 「ゆえにどうでもよいのだよ。仮に私が負けて滅びるなら、しょせんその程度だったという話だろう。最初から修羅の覇道に付き合える器ではない」 不滅のエインフェリアを目指すなら、それが当然の心がけだとザミエルは言っていた。 「……ま、確かにそりゃそうだな」 ハイドリヒ卿が俺らに合わせて相手を選んでくれるはずもないのだから、あの人が壊すと決めたものは壊すのみだ。そこにあるのはただ戦争の現実で、弱い奴から脱落していくという真理だけ。 だったらこいつの言う通り、敵の強さなんぞを気にすること自体がもはや女々しい。正論すぎて、思わず自嘲しちまったよ。 「悪ぃな、つまんねえこと言っちまったよ。それで、ならいったい何なんだ?」 「おまえはあいつの何を知りたい?」 改めて問う俺に、ザミエルはバビロンとベアトリスにも目を向けてから短く言った。 「動機だよ。いや、目的と言えばいいかな」 「それって……」 「つまり、彼が何のためにいるのかってこと?」 「そうだ、あれが本当にヴァチカンの者かどうかは関係ない。調べた限りは疑いようもないらしいが、その真偽はもはや意味を成さんだろう」 「なぜあの男は、わざわざ貴様らについてきたのだ」 「ハイドリヒ卿も言っておられたろう。奴にとって、同盟の筋云々は建前だ」 そして、俺らに無理矢理連行されたわけでもない。あいつが逃げようとすればそりゃ阻止しただろうが、実際問題はそこじゃないんだ。 「確かに、嫌々ながらってわけじゃなさそうだったからな」 ルートヴィヒには俺らと行動を共にする理由があり、目的があるんだ。ならばそれが何なのかというのは不明のままで、だからザミエルは気にしている。 たぶん、俺も。 あいつに喧嘩を売る前に、見極めなきゃいけないのはきっとそこなんだと思ったぜ。 「心当たりはないのか貴様ら。これを明確にしておかんと、初動で遅れを取りかねんぞ。不意打ちを食らうことになる」 俺はシュピーネの台詞を思い出してた。爪を隠す鷹なんてものは何度も通じる手じゃないが、逆に言うと初撃で大戦果を狙うなら有りだということ。 もちろん、後の反撃にまで対処するのがセットだが、こっちの立場からしたら報復しても最初に受けた痛手が消えるわけではない。 「つまり、こうか? あいつの狙いが俺の首だったとした場合、それを取られた後で野郎の首を取り返しても負けみてえなもんだと」 「そうだな。向こうは目的を果たしたのだから、少なくとも勝ったとは言えんだろう。痛み分けと表現するのさえ苦しい」 「最初の不意打ちで黒円卓が崩壊することは有り得んとしても、爪牙の一・二本なら折れるのかもしれんぞ。そしてそうなれば、それは無駄な消耗だ。ハイドリヒ卿への不忠になる」 「ゆえにやり返せば問題ないとするのは怠慢だし、報復を恐れてあの男が何もせんと決め付けるのは楽観だな。実際に出来る出来ないはともかく、本人は逃げられるつもりでいるのかもしれんだろう」 「結果どんな状況が起きようと、我々は完膚なきまでに勝たねばならない」 だから無様を晒さないよう、気をつけろとこいつは言っているわけだ。そのためにもルートヴィヒの目的を把握しておく必要がある。 つまるところ常在戦場。あいつが強かろうと弱かろうと、賢かろうと馬鹿だろうと関係なく、隙を見せるのは戦士に非ず。ハイドリヒ卿の格を落とすことになるのだと。 「理屈だな。俺も気になっちゃあいるんだが、いまいち読めねえんだよ」 あの野郎が何を考えているのか分からない。基本的に陰鬱な奴だから、気合いや情熱みたいなものを感じたことがないんだよ。 なので首を捻っていたら、ベアトリスがアホなことを言いだした。 「もしかしたら、単にベイが嫌いで邪魔をしたいだけだったり」 「だって彼、クラウディアには優しいじゃないですか。つまりこれは、三角関係ってやつなのですよっ」 俺とザミエルの拳が、同時に馬鹿の頭へ叩き落とされた。 「あっ、たぁ――ちょっと、いきなり何するんですかっ」 「気色悪いこと抜かすんじゃねえよ。ぶち殺すぞこのクソチビが」 「まったくだ。貴様の頭にはそれしかないのか」 「失礼ですね。これでもちゃんと考えてるつもりなんですよ」 ちゃんと考えてその様なら、いよいよおまえは脳の病気だ。俺とザミエルはそう言下に切り捨てたんだが、横からバビロンが笑いながら割って入る。 「そんなにおかしなことかしら。私もそうじゃないかと考えてたわよ」 「あらゆる状況を想定しろと言うのなら、それも立派な動機として成り立つじゃないエレオノーレ」 「そうです。そしてその場合、初撃で受ける痛手というのはこいつが振られる未来に他なりません。私としてはむしろ喜ばしい出来事です」 「あ、もちろんクラウディアにしてもそうでしょうけどね。あなたと一緒にいてもいいことなんか何もないんですからっ」 「この野郎……」 マジにいい加減キレそうで、だから思わず要らんことを言ってしまった。 「勝手に決めんな。あいつはアホだから不満なんか持ってねえし、今だってへらへらしながらメシ作ってるわ」 「え?」 「そうなの?」 と、そろって目を丸くする。しまったと思ったときにはもう遅い。 「まさかベイ、あなた病人に鞭打ってるわけじゃないでしょうねっ?」 「ば、ちが――、あいつが勝手にやってるだけだ」 「ということは、元気になったの?」 訊かれ、俺は渋々頷く。あいつの回復は確かに謎だが、事実なんだからしょうがない。 「うわ、本当ですか。だったら快気祝いをしましょうよ。ほらほら、何なら今すぐにでも――」 「だから、ちょっ、うぜえんだよこのアホ!」 などと、俺が持ってるジャガイモを奪おうとしてくるベアトリスに抵抗してたら、ザミエルがそれを制した。 「やめろキルヒアイゼン、何にせよ相手は病み上がりなのだろう。いま騒がしくするのは迷惑にしかならん」 「う、確かにそりゃあそうですけども……」 「あなたにしては、随分と真っ当な気遣いじゃない」 「別に。私は道理の通らんことが嫌いなだけだ。何かと姦しい貴様らもな」 言うとタバコを揉み消して、俺のほうへ目を向ける。 そして何かを探るようにこいつは言った。 「ベイ、あの尼僧が復調したというのは本当なのだな?」 「ああ……ワケ分かんねえが、嘘じゃねえよ」 「ほう、なるほど。なるほどな」 クラウディアの身体について、こいつは真実を知っている。だから驚きは俺と同等にあったはずだが、妙に納得している風にも見えた。 「ならば結構。貴様は貴様の事情を通せばいいさ。せいぜい戸締りには気を付けろよ」 「私が言ったことを忘れずにな。完膚なきまでに勝てるよう、努力するのが我らの務めだ」 そのまま身を翻すと、ザミエルは呆気に取られる俺たちを置いて雑踏の中に消えていった。 「……なんです、あれ」 「さあ? 昔から、ああやって勝手に納得するようなところはあったけど」 「彼女なりに、答えは見つかったということかしらね」 つまりルートヴィヒの目的。それをザミエルは察したのか。だが、いったい? 「まあ何にせよ、クラウディアが元気になったのならよかったじゃない。引き止めて悪かったわねベイ」 「彼女、大事にしてあげないと駄目よ」 「そうです。あの子を泣かせたら、私は絶対許しませんからね」 「あと、あなたの毒牙に掛かるのも断固阻止してやるんですから」 大概しつこい野郎だったが、もはや言い返す気も起きねえ。俺はぞんざいに手を振って、連中と別れてから帰路についた。 謎に包まれたクラウディアの復調について、ザミエルは何を感じたというのだろう。俺はそれを見落としてるのか? そんな言いようのない不安感が、クソッタレな太陽の光と共に圧し掛かってくる朝だった。 そして、そんな厄日はこの日だけのことじゃなかった。 「ほらヴィルヘルム、今日もいい天気ですよ」 次の日も、その次の日も、クラウディアは弱るどころか、逆にどんどん回復していく。 「ねえヴィルヘルム、また教会に行きましょう。もう少しあなたに信心深くなってほしいって、私は言いましたよね。覚えてます?」 「だから一緒に、さあ、愚図ってないで」 最初から妙なところで押しが強く、前向きな奴なのは知っていたが、この頃のクラウディアは俺が引いてしまうほどに明るかった。 末期の癌に冒されてるとは到底思えないバイタリティで、俺を右から左へと振り回す。 「美味しいですか? じゃあ今度、他の皆さんにもご馳走しましょうね。食事は大勢でとったほうが楽しいですから」 「て、ああぁ、すぐそうやって嫌そうな顔をする」 しかし、それを健やかだと思うことは出来なかった。日に日に活力を取り戻していくクラウディアは、どうしてだか酷く薄くて、透けるような印象を与えてくる。 加え、上手く言葉にすることは出来なかったが…… 「ヴィルヘルム……ねえ、聞いてますかヴィルヘルム」 あいつを動かしているのが、あいつではないような。 目に見えない部分で、何かがおかしくなり始めている。そう感じながらも、確信は持てないまま…… 「私は今、幸せです」 「怖いくらいに、夢のように」 「ふふ、うふふふふふ……」 「幸せなんです、ヴィルヘルム」 「キャハハハハハハハハハハハハハ―――!」 幸福そうに夢の話をするクラウディアとは裏腹に、俺は悪夢ばかりを連日見ていた。 「死ね。死ね。馬鹿が、うふふふふふ……」 血に塗れた薔薇の園で、呪いの言葉を吐き続けながら笑うヘルガ。こちらから掛ける言葉には、何の反応も示さない。 もとからまともに意思疎通が出来ない奴ではあったものの、ここまでの断絶は記憶にない。しかし、完全な無視かと言えばそうでもなかった。 「Haenschen klein ging allein in die weite Welt hinein. Stock und Hut steht ihm gut, ist ganz wohlgemut,」 「Aber Mutter weinet sehr, hat ja nun kein Haenschen mehr.」 「Wuensch dir Glueck, sagt ihr Blick, Kehr nur bald zurueck.」 子守唄でも歌っているつもりなのか。俺にとってはいい思い出じゃない童謡を口ずさみつつ、こちらを明確に意識していることだけは確かだった。 完全な吸血鬼の目で、甘ったるい腐臭を放つ熱帯の花のように。 「愛してるわヴィルヘルム」 「わたしはあなただけのもので、あなたはわたしだけのもの」 死が二人を別つまで。いいや、共に死を超えた者になりましょうと、鮮血の微笑を蕩けさせながら俺を見ていた。 そんな日々。 クラウディアが謎の復調を遂げた朝から、すでに四日が経っていた。 「おら、帰ったぞ馬鹿野郎」 例のごとくメシに妙な拘りを見せるアホのせいで――この日はトマトだったが――パシる羽目になった俺は、乱暴に扉を開けると家に入った。 するとクラウディアがぱたぱたと駆けてきて、別に訊いてもないのに献立の詳細を語り始める。 それが普段の流れだったが、このときは違ったんだ。 「お帰りなさいヴィルヘルム。今日はお客様が来てるんですよ」 「……客?」 まったく身に覚えがない。俺は嫌な胸騒ぎを覚えつつ、無言でクラウディアを押しのけると中へ進み…… 「お邪魔している。中々いい住まいだな」 「てめえ……!」 ルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツ。 なぜか野郎が、すまし顔を晒してそこに居たんだ。 「さて、どうした。そんな所に突っ立っていられると居心地が悪い。まずは掛けたらどうだね」 「黙れよ。てめえは何しに来た」 腹の中に渦巻く不快の念を、そのまま搾り出すように詰問した。しかしこいつは、それを鼻で笑いつつ受け流す。 「なぜも何も、ご相伴にあずかるためと言う他ないだろう。せっかく招待されたのだ。断るほうが非礼にあたる」 「なあおい。どうして私はおまえに噛み付かれなければならんのだ。率直に、心外だぞ」 「招待だとッ?」 予想外の返答に鸚鵡返し、首だけ俺は振り向いた。そこには驚いた顔でこちらを見つめるクラウディアがいる。 「あ、その……はい。私が、招待……しました」 おそらく、と意味不明な煮えない答え。なんだそれは、はっきりしやがれ。 「彼女を脅すなよヴィルヘルム。そんな剣幕ではまともに話も出来んだろう」 「クラウディア。どうやら彼は事の因果をはっきりさせておきたいらしい。ゆえに恐れず答えてくれ」 「いま私は、なぜここにいるのかな?」 「それは……」 数秒の間を置き、後にクラウディアはきっぱりと言った。 「私がお招きしたからです」 「どうぞお越しくださいと言ってくれたよな?」 「はい、確かに」 「戸を開け、迎え入れてくれたよな?」 「その通りです。間違いなく」 「というわけだ。納得したかね?」 だから何の不都合があると、ルートヴィヒは俺を見てくる。しかし馬鹿な、いつの間にという疑問が払拭できない。 クラウディアは、こいつと連絡を取る手段なんかなかったはずだ。そもそも俺だって、ルートヴィヒの居所なんか知りやしねえ。 まさか城に逗留していたわけもあるまいし、そうじゃないならこのパーダーボルンも含めた近辺の町、その何処かになる。 ここまでの四日間、俺はクラウディアを一度も表に出していない。あくまで関知している限りだが、目を盗んでこっそり外出したときにたまたまルートヴィヒに会ったとでも? 有り得ない。低すぎる確率だろう。だったら真相はどこにある? 「カチンからの帰路、その途中に決めたことだよ。まったくおまえは、ほとほと猜疑心の強い男だな」 「そんなことでは面倒な事態も多かろう。生き難くはならないか?」 目下最大の面倒事である男が、こちらの思考を読んだように言ってくる。俺は歯噛みし、獣のように呻きを漏らした。 「私、出過ぎた真似をしてしまったんでしょうか」 「あなたに断りもなく、勝手なことをしてしまい……」 「おいおい。それでは私が、まるで邪魔者みたいではないか。いい加減、この不毛な議論に落としどころを見つけてくれ」 「そもそも彼は、別にここの家主ではないだろう。ならばその意向が最優先されねばならんという理屈はない」 「片方のみの了解で、問題なしとする道理も確かにないがな。しかしそれでも、権利的には半々だろう」 「よってクラウディアが許した以上、おまえが拒絶したところで私を去らせることは出来ない。どうしても気に食わんと言うのなら、むしろそちらが引いたらどうだ?」 「私はそういうことでも構わんぞ。というか、そのほうが有り難い」 「いつ爆ぜるやもしれぬ凶暴な男と食卓を囲めるほど肝が太くはないのでな」 そこまでだった。俺は意図して息を吐き、たいしてありもしない理性を総動員しながら呟く。 「メシだ、クラウディア。並べてくれ」 「は、はいっ。分かりました」 あからさまにほっとした風のクラウディアに、苦笑しつつも残念だと言わんばかりのルートヴィヒ。 論の正否などクソ喰らえだが、ここで切れても良いことなど何もないのは分かっていた。 そして…… 「ご馳走になった。素晴らしい腕前だなクラウディア。久しぶりに暖かい、人間らしい食事をした気がするよ」 出された料理を食いきって、食後の談笑が始まった。俺は一貫してほとんど喋らず、とても和やかとは言えない空気が流れていたはずなんだが、ルートヴィヒは気にもしない。 そしてクラウディアも、途中で慣れたか諦めたのか、居心地悪そうにしている素振りはなかった。 つまり、俺だけが放置されたまま浮いている状況になっていたと言えるだろう。 「師は母君かね? よければ教えてもらいたいな」 「あ、いえ。私は物心つく前に修道院へ預けられたので、親のことはよく知らないんです」 「だけど、そうですね。親代わりの方々には事欠きませんでしたから、師は誰かと言われればそこで私を育ててくれた尼僧の皆様」 「あと、これは料理のことじゃないんですが……すみません、笑わないでくださいね」 「誓おう。何かな?」 促され、クラウディアはしばらく俯いたまま照れていたが、やがてぽつりと囁くようにそれを言った。 「フローレンス・ナイチンゲール女史。彼女が私の憧れというか、その……」 「心の師というわけか。……なるほど、確かに言われてみれば頷けるところがある」 「ほんとですかっ?」 「ああ、無鉄砲なところなどがな」 「うう、なんだか馬鹿にされてる感じがします」 俺には何のことだかさっぱり分からん。だが察するに、昔の偉い尼さんか何かであり、そいつもだいぶイカレた人種だったんだろうというのは理解した。 「看護団に加わっていたと聞くが、それもその影響かな? 君なりのクリミア戦争を見出していたわけだ」 「一応、そういうことになりますかね。逆に迷惑をかけることのほうが多かったように思いますし、今はそこを離れているので偉そうには言えませんが」 「ふむ。ではなぜ君は所属を離れ、野に下ったのだろう」 そんなもん、俺が連れ去ったからに決まってるだろ。訊くまでもなく明白で、馬鹿馬鹿しい問いだと思ったが、クラウディアは予想に反する答えを返した。 「恐怖した心では、なんと小さなことしか出来ないのだろう」 「あん?」 意味不明で、思わず首を傾げてしまった。しかしルートヴィヒは違ったらしい。 「女史の有名な言葉だな。それが関係あるのかね?」 「はい。ナイチンゲールは恐れに駆られた人の無力さを指摘しています。でも当時の私は、逆に恐怖を求めているようなところがありました」 「なぜなら、あまり怖いと感じることが出来なかったので」 「曰く半分だから? 君はよくそう言っていたと聞いているが」 「その通りです。でも私のそんなところは、きっとナイチンゲールの仰ったこととは違う」 胸に手をやり、その奥にある何かを探るようにしながらクラウディアは言葉を継いだ。 「彼女は恐怖に負けない愛や、信念……つまり勇気を説いたんだと思います。怖くても逃げたくても、真っ直ぐ光に向かって立てる強さ」 「大事なのはそれだから、もともと恐怖感が薄いだけの人間にナイチンゲールの意志は体現できない」 「ゆえに、まずは恐怖を知ろうと考えた。半分ではなく十全に」 「そういうことです。なので、その……」 少しバツ悪げな顔をして、ちらりとこちらのほうを見る。俺や黒円卓に関わるほうが、戦争よりも余程怖そうに思えたからということだった。 「なるほど……まあ、愚かしいと言いたいところだが筋だけは通っているな」 「すみません……」 「別に謝る必要はないよ。それで結局、どうだったのかね?」 恐怖は体験できたのか? 問いにクラウディアは、自嘲めいたはにかみを浮かべていた。 「あまり向いてなかったようで、今は方針を変えました」 「私はやっぱり、明るいものが好きなので。それが必要だと分かっていても、後ろ向きな努力は出来ない性格みたいです」 「つまりあくまで光を目指すと? 影が足りないなら足りないなりに、その不足を補って余りある輝きを得るために」 「そうなりますね。大それているでしょうか?」 「いいや」 短く、だが万感の思いを滲ませて、ルートヴィヒは首を振った。 「君はそれでいいし、そうでなくてはならない。私が思っていた通りの女性だよ、クラウディア」 「闇なくして光は完全足り得ない。確かに真理なのだろうが、そのために自己の純潔を損なわせる必要もないだろう」 「君があくまで光のごとく在りたいなら、闇なる者が傍にいればいい話だ。そしてまた、逆も真なり」 「闇のごとく在る者も、〈光〉《きみ》が傍にいることで救われるのだよ」 詠嘆し、刻み付けるかのように十字を切って、ルートヴィヒは祈りを捧げる。そこに虚飾の欠片もなかったことが、逆に反吐を催す不快感となり俺を襲った。 もういい加減、耐えられねえ。 「君こそ聖女だ。まさしく天使のようだよ、クラウディア」 「ま、ちょ……だからそんな、大袈裟に言われてもですねえ。困るというか、照れるというか」 「それよりさっき、ルイは言っていたじゃないですか。人間らしい食事は久しぶりとか」 「私の料理程度でそこまで言うとか、なんだか心配になっちゃいますよ。いったい今まで、どんな生活をしてたんですか?」 「別に。色も味もないようなつまらんものだよ。ただ、世界中の様々な地へ足を運び、様々なものを見てきたな」 「だから中には……ああ、気に入っている景色もあった。極圏に広がる白い夜」 「あれこそまさに、地上で唯一光と闇が同居する場所。私が願う、私の理想だ」 「白夜……」 呟き、そしてクラウディアは感に堪えぬと目を輝かせて―― 「いいですね、私もいつか見てみたい」 「だってほら、ああいう大自然を前にしたとき、自分の悩みなんかちっぽけなものなんだって思えるじゃないですか」 「それも救いで、だから私は――」 「うるせえ」 そこで、ついに俺はぶち壊した。このクソくだらねえ場を終わらせるため、テーブルに踵を叩きつけて馬鹿野郎どもを黙らせる。 声こそ静かなものだったが、内心は限界以上に沸騰していた。驚いた顔のクラウディアと、汚らわしいものでも見るようなルートヴィヒ。二人を俺は睨みつけ、抉るように言ってやる。 「大自然が素晴らしいだと? それに比べりゃ自分はちっぽけなもんだから、悩みもさっぱり晴れていくだと? 頭わいてんのかくそったれが、そんなわきゃあねえだろう」 「山だの海だのがどうだろうが、いいや宇宙がなんだろうが、俺らにゃ一ミリだって関係ねえ。何も現実は変わらねえ」 「綺麗なお星サマでも眺めてりゃあ、減った腹が膨れんのか? 空から金でも落ちてくんのか? 敵が都合よく消えんのかよ、ブチ殺してくれるってのか」 「そんなことはねえ。だったら意味もまったくねえ。現実逃避にさえなっちゃいねえぞ。自然ごときに何の価値があるっていうんだ」 「ごとき、だと?」 こちらも一転、陰惨な眼差しで睨んでくるルートヴィヒ。その様子に多少溜飲も下がったので、せせら笑うように挑発する。 「おお、なんだよ文句あるってのか」 「おまえはあれか? このご時勢に環境の保護でも目指してる阿呆かよ」 「そのようなことは言っていない。だがおまえ、自分が踏みしめているものをいったい何だと心得ている」 「どれだけ人が粋がろうと、世界が死ねばおまえたちもまた死ぬのだぞ」 「はッ――」 いよいよもって、こいつは付ける薬がない。的外れもいいところだ。 「何を勘違いしてやがる。世界がぶっ壊れようと生き続けるのが人間だろ」 緑は枯れ、水は干上がり、毒塗れの大地と化そうが生き残る。地球の死体を貪り喰らい、それさえ無くなれば他所の星へ行くんだよ。 その業深さ、破壊の覇道こそがすなわち人間。いいや、俺が目指す〈不死不滅〉《メトシェラ》だ。 世界ごときと心中なんざ、笑わせる。 「大自然サマには勝てねえなんて、クソみたいな陶酔はチンケな魔術師にでもやらせとけ。進化する俺たちは、カビの生えた臭ぇ概念なんか求めてねえし認めてねえし、だいたいからして信じちゃいねえ」 「そんなもんは、現実の中で雑魚い奴らが弄んでる妄想だ。基本性能がカスだから、夢さえもがショボいんだよ」 自ら神となるような、その発想にさえ至らない。 「つまりおまえら、要するにくだらねえぜ」 「よく分かった」 言って、ルートヴィヒは立ち上がった。クラウディアに向き直り、俺を無視したまま一礼する。 「今日は本当にありがとう。また後日、私と会ってくれるかね?」 「あ、その……はい。それは構いませんけど」 「ではそのように。遠くない未来、白き夜を共に見よう」 そうして踵を返し、去っていく。俺もまた、無言のまま奴に続いた。 「え、あの――ちょっと、ヴィルヘルム」 背後で騒いでるクラウディアを黙殺し、玄関口に着いたところでルートヴィヒの横に並ぶ。 「面貸せ、まさか逃げねえだろうな」 「当たり前だ」 こいつの目的が何なのか。 どうやらベアトリスのアホが言ってたこともあながち外れじゃなかったらしい。 そこに当たりがついた以上、もはや迷いは存在しないし、やるべきことも決まっている。 ああ、これこそ自然ってやつだと思ったぜ。 「おまえが私に何をしたがっているかは承知のうえだが……」 それから家を出て、二人連れ立ち会話もなく歩いた後に、辿り着いた教会でルートヴィヒは振り返った。 「その前に、幾つか問うので答えてもらおう。こちらも付き合ってやるというのだ、まさか拒みはしないだろう」 「ふん、いいぜ言ってみろよ」 大方、内容も分かっている。どういうことだか知らないが、こいつはクラウディアにご執心のようだったから。 「おまえは彼女を殺すつもりでいるのだな」 「ああ、それが?」 「その魂を奪うつもりか」 「よく知ってるな。メルクリウスに聞いたのかよ」 一般的には絵空事な概念でも、伊達にヴァチカンの狗じゃねえ。その程度のことは当たり前に読んでいるし驚かない。 曲がりなりにもカチンの怪異を生き残り、ハイドリヒ卿に謁見さえした男だ。今さら頓珍漢な問答が起きるはずもないだろう。 「つーかおまえ、いつ何処であの野郎と知り合ったんだ? 最初からそういう口振りだったじゃねえか」 「ヴァチカン経由で、〈黒円卓〉《おれら》の情報を聞いてただけっつう感じでもなかったぜ。そこらへんはどうなんだよ」 「別に……何のこともない話だ。私はこの世界に長く関わっているというだけにすぎん」 「そしてそれは、彼にも言えることだろう。互いに古い者同士、ならば知己となり得る機会も増える」 なるほど、確かにそりゃそうだ。こいつと俺にさほどの年齢差があるようにも見えなかったが、そこはあまり問題じゃない。 餓鬼の頃から裏道歩いてる奴は珍しくないし、何ならマレウスのような年齢不詳の輩もいる。 そもそもメルクリウスという男自体、本当は何者なんだか分からない奴なんだ。過去に何をやらかしていようが、少しも驚くに値しない。 「では続けるぞ。おまえは彼女の望みを知っているな? 先の会話でもあった通り、クラウディアは人生の充実を求めている」 「言葉にすれば在り来たりだが、決して甘い道ではない。想いが、熱が、ひたむきさが違う。たとえ同じ立場で同じことを求めても、彼女の真似が出来る者などまずいないと言えるはずだ」 「そうかもな。あそこまでの阿呆がぽんぽんしゃしゃってきても困る」 「どいつもこいつもああだったら、人類絶滅しちまうぜ。ありゃあ死にたがりの病ってやつだ」 「そこについてだけは同意しよう。だが結果論だ。クラウディアは死を望んでいるわけではない」 「だが死んでも構わねえとは思ってる」 「そうだ、望みが果たせたなら」 「どのみち、放っといても死んじまう身だからな」 言うと、ルートヴィヒは悼むように目を閉じた。その反応で理解する。 どうやらこいつ、クラウディアの寿命についても気が付いていたらしい。 やがて目を明け、正面から俺を見据え、挑むがごとく言ってきた。 「ゆえにこそ、死なせはせぬと思わんのか」 「クラウディアは死に瀕しているが、死を希求などしていない。ああその通りだ。ならば彼女の輝きを、ここで潰えさせねばならん道理が何処にある」 「〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そう、可能であるなら生かすべきだ。そうすることで更に、上へ、天の果てまで――クラウディアの光は増していくはず」 「あれは一瞬、刹那の煌きで終わらせるべき魂ではない。奇跡なのだ。煌々と燃え続ける無謬の祝福でなければならん。おまえはそう思わんのか」 「思わねえな」 即答。一瞬の迷いもなく俺は言った。 「俺があいつに思うことは、死にたいわけでもねえくせに死のうとしてる気持ち悪さと、ムカつきだけだよ」 「〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》? ボケめ、それが俺は許せねえんだ。足掻かねえことにキレてんだよ」 「だから俺は、あいつに死にたくないと言わせてやる。みっともなく醜態を晒させて、どろどろに這いずらせながら狂ったように叫ばせてやる」 「何を引き換えにしても生きたいと――俺はその瞬間が見たくて見たくて、ああ見たくて堪んねえのさ」 「ではなぜ、その後に殺そうとする」 「おまえとて、彼女に生を渇望してほしいと願っている点は同じだろう」 「アホくせえこと言うんじゃねえよ」 またしても、俺は即答で返してやった。 「あいつは、〈あ〉《 、》〈あ〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈光〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》」 「つまり消える瞬間の蝋燭だ。期限付きゆえの爆発なんだよ。下手にだらだらと長引かせたら、むしろあいつは劣化する」 「次もあるだのと日和られて、加減されちゃあ堪んねえ」 そんなことになっちまったら、俺はずっとクラウディアの最高点に立ち会うことが出来ないだろう。そんなのは御免被る。 「度し難い。不死を望む男がよくも言った」 「おお、その点は自覚してるぜ。だからこそ得難い魂だと思ってるのさ」 メトシェラとなるこの俺に、消える蝋燭の強さは体現できない。よってそれこそ、不死なる者の弱点だと言えるだろう。 しかしクラウディアを取り込むことで、その欠落は埋められる。刹那の燃焼にすべてを懸けた魂が、俺を更なる高みへと導くはずだ。 クラウディアは死なねばならない。 「俺のために死ぬんだよ。あいつは俺のものなんだからな」 断言し、宣言する。おまえはお呼びじゃないんだよと突きつける。 言われたルートヴィヒは、しかし冷たい気配を滲ませ…… 「では問おう。おまえはいったい何をもって、彼女に死にたくないと言わせるつもりか」 「そんなもんは一つしか思いつかねえ」 恐怖でクラウディアを動かすことは不可能だ。それを原因に働く力は小さく、弱く、たいした結果を出せないと……自ら言っていた通り。 ならば何か――単純明快。 「あいつを俺に惚れさせるんだよ」 「ベタな理屈で、何も難しくない心理だろう。要は未練を生めばいい」 あいつが俺を欲して、欲して、狂おしく泣き叫んだときに殺してやる。 「そんなクラウディアなら俺は愛せる」 「あいつは生涯最後に救いを得て、最高に輝きながら死ねばいいんだ」 共に初恋を捧げること。それこそが望む結果だ。 俺は破壊の愛を体現するために恋を知りたい。しかしそのためには、生に執着したクラウディアじゃないと嫌なんだよ。ヘルガの言に倣うなら、汚いところを見せてくれなきゃ勃たねえんだ。 そうして可愛くなったあいつを殺せば、クラウディアも望むものを手に入れられる。俺に恋を教えた満足と、自分の恋が叶った喜び。それを抱いて輝くことが出来るはずだ。 もちろん、万事上手くいくという保証は無い。あいつはヘルガのようになるのを嫌っていたから、抵抗するだろうし結果が歪んでしまう可能性も存在する。 クラウディアは昇華どころか鬼に堕ちるかもしれないし、俺は望んだほどの輝きを得られないかもしれない。 しかし、これが絶対に譲れない分水嶺だ。 〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈に〉《 、》〈惚〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》、〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈が〉《 、》〈俺〉《 、》〈に〉《 、》〈惚〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈き〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「色恋は勝負みたいなもんだとよく言うだろう。つまりそういうことなのさ」 「〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈主〉《 、》〈導〉《 、》〈権〉《 、》〈を〉《 、》〈取〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈き〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 覇道の性とはそういうもんだ。こっちの都合を貫き通す。 「よく分かった」 言いたいことを言った俺に、ルートヴィヒは頷いた。 主義は完全に水と油の俺たちだったが、お互いにクラウディアを完成させたがっているところは変わらねえ。 あいつを輝かせる男は誰になるのか。その方法は? 正答は? どちらが正しく、どちらが強く、どちらが権利を獲得するのか。要はその争奪戦だ。 「しかしそれなら……」 一歩、こいつはじわりと前に出て―― 「相手がおまえでなければならない理由は、何処にもない」 「ま、そうなるわな」 当たり前だし予想の範疇。ゆえに続きも理解の延長。 「それじゃあ景気よくいこうか、おいィ!」 踏み込んだ俺は拳を振り上げ、溢れる衝動のままに叩き落した。 まずは一手、カチンのときと同じ攻撃で同じ威力。これをもってあの日の再開としてやろう。 無論、以前は躱されたものである。だからこそ後に連続させる数十手先まで瞬時に描き、段々技の精度を上げてやろうと決めていた。 さあ、このいけ好かないヴァチカン野郎、いったいどこまでついてこれると思って、俺は―― 「ぐぅ―――」 予想を裏切り、最初の一発がまともに命中。かつては難なく凌いだ拳に直撃され、ルートヴィヒは礼拝堂の椅子を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいった。 「……は?」 おい待て――ふざけてんのか、なんだそれは。喧嘩はまだ、始まってもいないだろう。 「てめえ……」 困惑と、次いで怒りが込みあがってきたそのときだった。 「何をしてるんですか、あなた達!」 「―――――」 開け放たれた扉の向こう、息を弾ませながら険しい顔でこちらを睨むクラウディアが立っていた。 「気になったから来てみれば、ここを何処だと思ってるんですか。それにヴィルヘルム、あなたは無抵抗の人に、そんなこと……」 こいつは何を言ってやがる。いきなり呼ばれてもないのにやって来て、つまらん茶々を入れるんじゃねえ。 そう思ったが、クラウディアは無言で駆けてくると俺の横を素通りし、意味不明な手抜きをかました道化の前で膝をついた。 その肩に手を伸ばして助け起こし、心から案じているといった顔で語りかける。 「ああ、ルイ、ルイ……大丈夫ですか、ひどい怪我……」 「いったい何があったんです。どうしてあなたがこんな目に……」 どうしても何も、俺らは喧嘩をやろうとしたんだよ。互いにムカついて、邪魔臭い相手だから、分かり易く肉体言語の行使をしただけ。男の嗜みっていうやつだ。 女に理解してもらうつもりはねえが、せめて口を挟むなよ。萎えるだろうが、そういうのは。 「気にするな、私は平気だ。君こそあまり、無理をしてはいけない」 「まさかここまで走ってきたのか? つらかったろうに……お願いだから、もっと自分を大事にしたまえ」 「私のことはいいんです。それよりあなたが……」 「ああ、だが嬉しかったよ。ありがとう」 「アホくさ」 これは何の茶番だよ。付き合いきれないと思った俺は、踵を返して歩き始めた。 「待ちなさいヴィルヘルム、ちゃんとルイに謝って!」 なんじゃそりゃ。 背中に刺さるクラウディアの涙声が、豚の鳴き声程度にしか思えない。 いいや、糧となる以外に余計なことをしないぶん、豚のほうがマシだろう。 「何処に行くんですか――ねえ、ヴィルヘルム!」 「知らん。死ぬまで好きにやってろよ」 本当に白けるし理解できない。実は狂ってるんじゃないのか、こいつら。 なんてな。今になって思い返せば未熟だったが、当時は本当に若かったんだから仕方ない。 ハイドリヒ卿と出会って五年。黒円卓の騎士となり、人を超える力を得て五年。たったその程度のキャリアなんだよ。年齢的にも二十代だ。 自分で自分の弁護をするつもりもねえが、まだ成熟には早すぎたのさ。有り余る力と若さと感情に、上手く付き合うことが苦手だった。 もちろん、俺が基本的に雑な性格だってことまで改めるつもりはないぜ。何度も言うが、俗は大事だ。超然と悟るような生き方はガラじゃないし、求めていない。 たとえ今、あのときと同じ状況に直面しても、抱く思いは変わらなかったと言いきれる。労りとか自重とか、いわゆる大人の対応なんざ糞喰らえだよ。そういう話をしてんじゃねえ。 いつも衝動を全開で回し、思うがままにぶっ放す。それが俺のスタイルで、だからこそ不発なんて起こしたくはねえというだけ。 然るべきとき、然るべき方向へ、本能を爆発させて外さないこと。 つまり、磨くべきは嗅覚なんだ。ごく簡単に言っちまえば、何があってもすっきり出来るような立ち回りを身に付けたい。理性じゃなく直感で、その道筋を嗅ぎ分けられる男になりたいと思ってる。 ああいう空振り。不完全燃焼をしなくてもすむように。 正直言うと未だに試行錯誤なんだが、その哲学を意識し始めたのがこのときだった。 今後無限に続くだろう、メトシェラとしての人生。楽しくやっていくためには、それが必要なんだと思ったのさ。 だから。 そう、だからよ…… 「機嫌悪いねえ、ベイ。何かつらいことでもあったのかい?」 「よければ相談に乗ってやろうか? 一人で悩んでても、きっと永遠に解決しないよ」 「だって君、あったま悪いんだからさあ――うははははっ」 「うるせえ。いいからてめえは黙ってろ」 俺はこいつと一緒にいた。頭の悪さについてはとやかく言われたくない相手だが、先の哲学に一番近い奴だろうと思っている。 城の廊下を歩いている俺の横で、犬のようにはしゃぎ回っているシュライバー。喜色満面の様子からも、ストレスと無縁なことが容易に分かる。 いつもにこにこと、誰にだって馴れ馴れしく、まさに尻尾を振ってるという表現がぴたりと嵌る野郎だが、こいつに好んで近づきたがる奴は一人としていなかった。 理由は明白。シュライバーは確かに犬の類だが、見た目通りの子犬なんかじゃないということ。喩えるなら、猛毒を持つ頭の狂った狼だ。 暴狂、暴嵐、凶獣、そして殺人鬼――このくそったれを彩る悪名は数多あり、シュライバーほど人を殺した奴は黒円卓にも存在しない。いいや、歴史上いないんじゃねえかとさえ思っている。 直接的にっていう意味でだぜ? ハイドリヒ卿のような指導者の類はカウント外だし、あとは爆弾やガス室のスイッチ押しただけって奴も含めない。 あくまで実地に、対象と向き合い、その断末魔を聞きながら物理的に血を浴びたという意味での殺人だ。そういう条件で計るなら、シュライバーは飛び抜けている。よって保有している魂も完全に桁が違った。 暴力への欲求、衝動。食い溜め出来る許容限界……共に半端じゃねえんだよ。つまるところ、信じられない大飯食らいだから常に飢え、ゆえに獲物の数も膨れあがっている。 それは俺にとって不愉快な事実だったが、認めないわけにもいかないだろう。強いて粗を探すなら、こいつはまったく〈美食家〉《グルメ》じゃねえこと。味に頓着がねえ悪食だから、何をどれだけ食ってもシュライバーにとってはジャンクフードだ。 言わば質より量の体現者。数は多いが、持ってるもんはカスばかり。 そこらへんが俺と相容れないわけなんだが、言ったように気楽な奴で、いつも良い空気を吸ってやがる。だからストレス解消の相手として選んだんだよ。 「しかしまあ、分かり易く見つかってくれたことだけは褒めてやる」 「そうかい。じゃあ、何か御礼をしてくれるのかな」 基本、一つ所に留まらない奴だったが、こいつの通った後には屍の山が生まれる。まるでヘンゼルとグレーテルだ。 なのでそれを追っていけば、捕まえるのは簡単なんだよ。まともな神経を維持できてればの話だがな。 「ふん……あれだけ下品に喰い散らかしたくせしやがって、このボケが」 たったこの数日間でも、城の近辺でシュライバーが起こした殺人は千以上。 老若男女の区別なく、下手な爆撃よりも出鱈目だ。正気の沙汰じゃねえだろう。 「だが、礼ね。おまえにそんなもんをやる気はねえが、そっちで勝手に気持ちよくなるぶんには止めねえよ」 「せいぜいはしゃげや、犬っころ」 「いいね、だったらそうさせてもらおうか」 理性じゃなく直感で、意味など分からなくても本能が血の匂いを嗅ぎ分ける。 まさにその通りな明快さを見せるシュライバーは、何の疑問も持たない様子で俺と共に“そこ”へ至った。 押し開けた扉の先に広がるのは闘技場。用途が限定されている場所であり、ゆえに普段からほとんど寄り付く奴もいなかったが、ここが閑散としている理由はそれだけじゃない。 「よぉマキナ、悪いが少し場所借りるぜ」 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン――こいつが常駐しているからに他ならなかった。シュライバーとは違う意味で、この男に近づきたがる奴もいない。 「別にいいだろ? それともなんだ、ショバ代でも寄越せってのか」 「生憎と金なんざ持っちゃいねえが、おまえに払えるもんがないわけでもねえ」 「君もまざりなよマキナ。きっとそのほうが面白い」 「…………」 〈凝〉《じ》っと静かに、無言のまま俺とシュライバーを見据えるマキナ。その目は死んだ魚のようで、一切の光を発さない。 マレウスはルートヴィヒを闇のようだと言っていたが、俺に言わせりゃこいつこそ闇だ。極端なまでに陰鬱で、死ぬことばかり考えてやがる。 そしてだからこそ、多くの奴がマキナと絡みたがらない。こいつの拒絶だけが原因じゃないんだよ。 単純に忌まわしく、より直接的に言えば怖いんだ。不死になりたい俺たちにとって、真逆の概念であるこの男は理屈無用の忌避感を煽る。 触れれば死ぬと――そんな風に思わせる奴で、事実それは誤解じゃねえ。 敵に回せば厄介なことこの上なく……ああ、つまり分かるだろ? 「ヴァルハラの先輩として遊んでくれや。――なあ」 にこやかに笑いながら、俺は傍らのシュライバーに向けて裏拳を放っていた。しかしそれは空を切る。 同時に、延髄へ走った鉈のような衝撃。 「そうそう。二人でベイの相談に乗ってあげようじゃないか」 「僕ら、仲間で仲良しだもんねえ」 こっちの攻撃を躱し様、シュライバーは俺をマキナに向けて蹴り飛ばし、それを無口野郎が木っ端でも扱うかのように払い飛ばした。結果、一人でピンボールの気分を体験しながら壁に激突。 「クソども……やりやがったな。俺だけ馬鹿みたいじゃねえか」 「えぇー、そんなことはないだろう。今のはむしろ、美味しいんじゃないかと思うよ。ねえマキナ」 「……是非もないな」 瓦礫を振るい落としながら立つ俺に、嬉々と隻眼を殺意に染めていくシュライバー。そしてマキナは戦車のように、旋回する砲身を思わせる挙措で静かに視線を巡らせていた。 いきなり一本取られたことに腹は立ったが、すぐにそんなことはどうでもよくなる。打てば響く連中が目の前にいて、しかもどんなに無茶をやらかそうが許されるんだ。 全力で振り回しても壊れない玩具を前に、俺の精神は昂揚する。もう空振りや不完全燃焼は沢山なんだよ。本能が求めるままに突っ走ってぶっ飛びたい。 「手抜きは無しだ」 理想も、人生も三者三様。だが踏み出す一歩は奇しくもまったくの同時だった。 「――行くぜえええええェェッ!」 交錯し、激突する三つの肉弾。チャチな牽制など誰もしないし、それが通用する次元でもねえ。お世辞にも人好きするとは言えない俺たちだったが、喧嘩に関しちゃどいつも空気を読むんだよ。ゆえに暗黙の了解を弁えてる。 俺の拳がマキナの顔面に叩き込まれ、シュライバーの膝が俺の脇腹を抉っていた。ならば残る組み合わせも明白だと思うだろうが、ここが少々普通と違う。 唸りを上げるマキナの拳がシュライバーに向け放たれたが、この殺人鬼野郎は食らわない。紙一重で回避する。 だったらこれは、シュライバーの一人勝ちになる構図かって? いいや、そういうわけじゃねえんだよ。 「うっ、おおおぉぉォ――!?」 マキナの攻撃は重さが違う。威力が違う。速度の面じゃあこの場で一番劣っているが、そこを補って余りある一発の持ち主だ。 さながら重戦車による重火砲。現に俺は、直接狙われたわけでもないのに体表の皮を剥ぎ取られるような心地だった。目の前をミサイルが通り過ぎたんじゃねえのかとさえ思っちまう。 空振りしようが、そこに巻き起こる拳圧だけでもはや兵器だ。その直撃を受けたシュライバーがどうなるかなんて、言うまでもだろう。 見た目も華奢なチビ餓鬼だ。下手に踏ん張ったら粉々になっちまうぜ。 だから結果、この激突で吹っ飛んだのはシュライバーだった。風の鉄槌に強打され、血煙を飛ばしながら弾かれる。 俺もアバラを五・六本ブチ折られたが、体勢そのものは維持していた。獲物を追撃するべくシュライバーに向かったマキナを、さっきの礼だと言わんばかりに背後から蹴り上げる。 「―――ッ、硬ぇ。なに食ってやがんだこの野郎」 吐き捨てた罵声は心底本音だ。最初に殴ったときもそうだったが、マキナの身体はまさしく鋼鉄の塊なんだよ。 それは比喩じゃねえってことを説明すると長くなるから置いとこう。ともかく硬かろうが何だろうが俺は思い切り蹴ったわけで、シュライバーを追うマキナは加速を得たことになる。 もっとも、それで上手い具合に一人脱落――なんてことは有り得ねえ。 一瞬早く壁に到達したシュライバーは即座に切り返し、跳躍して宙に逃れた。遅れてマキナがそこに達する。 同時に、闘技場を震撼させる大音響が轟いた。奴の拳がどれだけ危険か、如実に表している光景だろう。まるで隕石でも落ちたような破壊の嵐が巻き起こる。 よって再び発生するのは、規格外の衝撃波だ。空中にある軽量の犬っころは、その影響から逃げられねえ。姿勢の制御を失って、木の葉のように翻弄される。 「――おらァッ!」 まさに鴨打ち。狙いやすい獲物ってやつだ。瞬時に形成した俺は、茨の杭を百単位でシュライバーにぶっ放す。 命中を確信した瞬間だったが、しかしあにはからんや―― 速すぎて、何発撃ったか分からねえほどの銃声が連続した。こちらの予想を完全に上回る結果だったが、事の因果だけは一目瞭然。すなわち奴は、俺の杭を銃撃で叩き落したことになる。 「〈Yetzirah〉《形成》――」 続けて虚空に響いたのは、音声化された殺意の凝縮だった。シュライバーの足回りに、腐った血臭を撒き散らしながら二輪の獣が出現する。 それは戦場で、何万もの人間を轢き殺しまくった軍用バイク。言葉で聞けば滑稽に感じるかもしれないが、直に見て笑える奴なんかいねえだろう。 アレは阿鼻叫喚で飽食した呪い塗れの代物なんだ。イカレた主人に付き合わされて、意志すら持つに至った怪物なんだよ。単なる鉄フレームのカラクリ細工なんかじゃねえ。 戦慄に値するし、褒め称えてやってもいい。人間ってのはここまで同種を殺せるんだと、まさにその体現かつ証明だろう。 「面白ぇ……」 ともあれこれで、俺に続きシュライバーも形成に入ったわけだ。マキナはもとより〈形成〉《そう》だから、全員が同じ土俵に乗っている。 だったら、さあ――第二ラウンドはどんな幕開けで魅せるんだ? 思い、期待を抱いた一瞬後に、シュライバーの瞳が俺から外れた。 「イイイィィ、ヤッハアアアアァァッ――!」 そして一気に方向転換。空中でアクセルターンし、未だ粉塵立ち込める帳に向けて切り裂くように急降下する。 そこにいるのは、言うまでもなくマキナであり…… 「あァン?」 スカされた俺は、初め意味を判じかねた。しかしすぐに理解する。 「……なるほど。まあそれも有りか」 三人とも形成位階に入った状態。これを第二ラウンドで、かつ最終ラウンドにするつもりだ。つまり第三ラウンドを起こさせない。 もっと言えば、マキナに創造を使わせないつもりだ。シュライバーは本能でその選択をしたということ。 己の利点である速度を最大に活用し、矢継ぎ早に攻めることで機会を奪う。結果的にシュライバーも創造を使えないが、それでもマキナを封じるべきだと判断したに違いない。 頭のぶっ壊れてる野郎だが、こと戦いに関してだけは常に正答を引きやがる。敵に全力を出させないよう立ち回るのも、逆に言えば全力だ。舐めてねえからこそマジになってる。 「だったら、ふん……しょうがねえわな」 シュライバーに誤算があるとすれば、俺を後回しにしたことだ。創造を封じ合っている連中と違い、こっちは好きにそれを使える。 敵の得意を潰すのが全力なら、敵の失敗に付け込むのも全力だ。ここで俺が薔薇の夜をぶちかまそうが、誰に文句を言われる覚えもない。 しかし、だがよ…… 「くく、はははははは……」 いけねえ、いけねえ。やっぱりノリは大事だよなあ。せっかく土俵が整ってるんだ、ブチ壊すのは野暮ってもんだろ。 俺がこんな風に考えること、シュライバーは読んでいたのかもしれねえな。そうだろう? そうだと言えよ。 まさか俺が空気読まない真似をしても、怖くねえなんてそんなこと…… 「違うよな? おら、てめえらいつまで勝手にイチャついてやがる」 「俺もまぜろや―――寂しいだろうがよおォッ!」 腹から爆笑して吼えながら、俺は鋼と凶獣がぶつかり合う嵐の中に飛び込んでいった。 「相談に乗ってくれんじゃなかったのか? 乗ってくれよ――最近ムカつくことばかりでよ、イラついちまってキレそうなんだよ!」 「なあマキナ、てめえ女いたことあるか? それも忘れちまったんかよコラ、なんか言えコルァ!」 「なんで僕に訊かないんだよ!」 先に人を無視したのはそっちのくせに、横からシュライバーがキレやがる。まったく面倒くせえ馬鹿野郎だ。 「てめえにンなもんいるわきゃねえだろ。訊くだけ無駄ってもんだこのカス!」 「はああああ、言ったな。僕は結構モテるんだぞ!」 「黙れ貴様ら、鬱陶しい」 言っとくが、別にふざけてるわけじゃねえぞ。じゃれてるのは認めるが、俺らにとってはそれと変わらねえ次元で殺し合いが成立するというだけだ。 殴り、殴られ、また殴り返し、くそったれのシュライバーだけはひょいひょい躱し続けるものの、断じて楽だとは言わせねえ。一発でも命中すれば木っ端微塵にしてやると、俺もマキナも意気を込めつつ殴っている。 「つまり君は振られたのか。うわあああ可哀想だねえ、チューしてやろうか」 「そんなもん、さっさと殺しちゃえばよかったのにさ。そうすりゃ君のものになってただろう」 「ぐずぐず半端なことをやってるから、他の奴に攫われるんだよ。単なる自業自得じゃないか」 「やかましい、てめえみたいな悪食野郎の理屈で俺を語るな!」 美味い飯を食いたければ、ドレスコードなり何なりある。つまり相応の手間をかける必要があるんだよ。そうしてこそ際立つ味は、確実に存在するんだ。 無造作に食い散らかすのも嫌いじゃねえが、両方こなしてこその通だろう。偏ったやり方じゃあ、偏った結果しかついてこねえ。 「てめえなら分かんだろ。なあ、マキナよォ!」 得難い瞬間、至高の獲物、その果てに約束された勝利と栄光――最終的に求める地平は完全な真逆だが、拘りあってこその達成感だ。 マキナの真実をすべて知ってるわけじゃねえものの、こいつがこいつなりの美学に殉じているのは間違いない。だったら俺の理屈も理解できるはずだろう。 「結局ないものねだりなんだ。てめえに足りないものを欲してんだよ」 「完全なものになるために――!」 メトシェラに、不滅の男に。無限に続く修羅道を、嬉々と笑って行くために。 そのためには進化を続けなくてはならない。長命からくる怠惰に慣れれば、魂が膿み腐って死にたがりの病に冒される。 だからこそ、限りある命ゆえの爆発を取り込みたい。俗であり続けるために、愚かの極地と言えるような輝きを顕現させて、喰らいたいんだよ。 「けど、いちいち難儀で、ムカつくんだよなァ!」 杭が生えた拳を握り込み、渾身の力でマキナ胸に叩き込んだ。この無愛想な鋼鉄野郎の、〈心〉《ハート》に訴えかけるように。 「当たり前だ。てめえに無いもんだから、取ろうとすれば拒絶反応が起きやがる。有り体に一筋縄じゃいかねえんだよ。面倒くさくて堪んねえ!」 「ガラじゃねえとか、アホくせえとか、思うことばっかりじゃねえか。おまえはそのへん、どう折り合いつけてんのか答えろよ」 「なあ、言えっつってんだろ! いつまでも〈無視〉《シカト》ぶっこいてんじゃねえェ!」 瞬間、俺の鳩尾にマキナの拳が突き刺さった。衝撃が背中まで貫通し、全身がバラバラになったような感覚を味わう。 これまでのものとは質が違う、こいつの渇望に近い域の一発だった。物理的な破壊力のみならず、概念的に叩きつけられる“死”の濃度が上がっている。 「がッ、ぐは……!」 ゆえに俺は血反吐をはき、魂を砕かれる激痛に悶絶した。ああ、本当に洒落じゃすまねえ一発だったよ。随分喧嘩はしてきたが、あれほど効かされたのは間違いなく初めてで…… その痛みと重さが、すべての答えだと告げているかのようだった。 「ぬるいな」 事実、それを裏付けるようにマキナは言うんだ。 「難儀で、ガラじゃなく、面倒臭く馬鹿らしいだと? そう思うのは、単におまえの覚悟が足りていないというだけのことだ。腹の底では、求めているものの価値に疑いを持っている」 「ここまでする必要があるのかと、そんな疑問があるからこそ不満も湧いてくるのだろう。まさかおまえ、“してやっている”などと思っているんじゃあるまいな」 この俺様が、ここまでやっているんだから、ごちゃごちゃ言わねえで望むようになれ―― そんな気持ちがあるからこその苛立ちだろうと指摘され……まあ、確かにそれは図星だったよ。 「ならば俺から言えることはたった一つだ。思いあがるな」 「おまえは口でどう言おうが、芯の部分で自己の欠落を認めていない」 「それが本当に、何をおいても手に入れるべき半身だと分かっているなら、過程がどれほどの苦行であろうが迷いなど持つはずも無し」 「多少上手くいかなったくらいで面倒などと……笑わせるなよ。そんな程度で分かったような顔をされるのは不愉快だな」 「俺は一片、一度たりとも、俺が求める至高の刹那を疑ったことなどない」 「その価値を、他の誰よりも信じている」 ゆえにこの拳があると、再び振り被り、放たれた一撃を俺は寸前で回避した。 「つまり――」 そしてその動線上に割り込んできたシュライバーが、俺の脊椎を蹴り上げる。 「よく分かんないけど、君はダメ男ってことだなベイ」 「いいじゃないか。世の中そういう需要もあるんじゃないの? 君には似合ってるような気がするよ」 「それで釣れる女の質は、たかが知れてると思うけどね」 「かッ――」 口々、好きに勝手なことを。 相談に乗れとは確かに言ったが、虚仮にしていいとは言っちゃいねえぞ。怒気を爆発させて俺は吼えた。 「余計なお世話だ、俺は俺のままで行くんだよォォッ!」 「ならば、おまえの迷いが晴れることは永劫ない」 再び叩き込まれるマキナの拳。意識どころかすべての自己が飛びかけたが、意地で留まる。砕かれねえ。 なんのこれしき。それがどうした。如何にデウス・エクス・マキナであろうと、形成位階の一発ごときで幕を引かれるほど俺の〈人生〉《ものがたり》は安くねえ。 「てめえらの説教は、一応覚えといてやる」 「だが、他人に言われてああそうですかと宗旨替えするような奴は俺じゃねえ。ヴィルヘルム・エーレンブルグの生き方じゃねえ」 「欲しいもんを得るために、てめえを捨てるようじゃあ本末転倒ってもんだろうがァッ!」 だから俺は、いちいちキレながらでも進むんだよ。この俺様がしてやってるんだから寄越しやがれと偉そうに。勘違いだ間違ってると、誰に言われようとも己を曲げずに。 謙虚なヴィルヘルム・エーレンブルグ? 何の冗談だよ笑えねえ。 「そんなもん、あいつに言わせりゃジャガイモのねえ料理みたいなもんだろうがァッ!」 何があっても、どんな状況でもすっきりしたい。それが俺の、求める人生の哲学だが―― 「なるほど、確かに一理ある」 「結局、一番メンドくさいのは君だったって話だな」 以上の理由でままならねえ。ままならねえからこそ求めてる。 俺はシュライバーのような味覚音痴じゃねえから奴ほど気楽にやれねえし、マキナのような禁欲趣味でもねえから一途にもなれねえんだ。 それを半端と言うなら言えばいい。しかし負け犬とは言わせねえ。 その自負を、今は強く感じたいと思うがために―― 「だからてめえら、もうちょい俺に付き合えやあァァッ!」 ぶっ飛ばしてくれ。燃えさせてくれ。細かいことはどうでもいい。 俺が俺であるための、確固とした熱を感じたい。 修羅の殿堂であるヴァルハラで、俺たちは飽くことなく戦い続けた。 この先十年二十年、百年千年が経とうとも、揺るがぬ魂を得るために。 これは必要で、神聖な儀式なんだと信じている。 そうだよ。俺はこういうことを無限にやりたいと思っているんだ。 イカレてる? だからなんだよ。今さらすぎる話だろうが。 「───おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」 ……………… …………… ………… 「いい天気。今日も綺麗な青空です」  目覚めたら、まず窓を開けて深呼吸。日の光と香りを胸いっぱいに吸い込んで、一日の始まりに感謝と希望の祈りを捧げる。  それが私にとって、物心つく前から欠かしたことのない習慣だった。ついでに言えば、その後に怒られるところまでがお約束。  何をやっているのクラウディア。またそんなことをして。いい加減に弁えなさいと言ったでしょう。  育った修道院で、姉や母代わりの皆さんから毎日のようにお小言をいただいていた。彼女たちにしてみれば、私はとんでもない問題児だったことだろう。  もともと清貧をもって鳴る女の園が裕福であるはずもなく、さらに時代が時代だった。  敗戦で大量に生じた寡婦や孤児たちの行き場は少なく、その僅かな受け皿として機能していた修道院は何処も彼処も満杯状態。有り体に、余裕なんかはまったくない。  〈修道院〉《ここ》で尼僧として生きるなら、子供であろうと戦力にならなければいけないのだ。働かざる者食うべからずは基本であり、手間を増やすだけのお転婆なんかは迷惑以外の何ものでもない。  まして、障害を持っているならなおのこと。単なる怪我人や病人ならば回復もするだろうが、私の場合は治らない。生まれつきの体質として、紛れもない不自由が存在している。 「でも最近は調子がいいですし、そろそろ慣れてきたんじゃないのかなって思うんです。  もう昔みたいに、すぐ寝込んだりはしないですよ。本当ですって。いやだなあ、嘘なんか言いませんったら」  直射日光を一定時間浴びただけで体調を崩す。過去には失明しかけたことさえあり、そんな者を抱えていたら院の皆さんは気が休まる暇もないだろう。  任せられる仕事が少ないというだけならまだしも、その問題児は自重を全然しないのだから。 「そういうわけで、大丈夫。さあ、今日もはりきって働きましょう」  私は光の下で駆け回ることが好きだった。痛くてつらくもあったけど、それよりもこの充実感を素晴らしいと思い、優先した。  院の皆さんには感謝してもしきれない。彼女たちはそんな私の我が侭を何だかんだで認めてくれたし、許してもくれたのだから。  効率のみで考えるなら、私のような者は窓のない部屋にでも放り込んでしまえばいい。  そこから出さず、看護という名目で死ぬまで監禁すればよかったのだ。  そうしておけば私は長く生きられるし、院の皆さんも心労が減る。双方にとっての最善とは、客観的にそれだろう。  だけど、そうはならなかった。窓や家具の配置に最低限の配慮はあったが、基本的に私の行動は何ら束縛されていない。立って歩くことさえ出来れば、いつでも光を浴びられる。  あるいは、馬鹿に付ける薬は無いと呆れられただけかもしれないが、それでも感謝するよりないだろう。皆さんは、私から昼を奪わないでくれたのだ。  クラウディア・イェルザレムは夜の子供。アルビノであり、日の光にとても弱い。  私が許容できる世界は他の人たちの半分しかないと分かっていたが、だからといって諦めたくはなかったのだ。  昼に生きられる人たちから、おまえは違うのでこっちに来るなと言われていたら、私は拗ねた性格になっていたことだろう。  彼らを憎み、光を呪っていたかもしれない。  だけどそうはならなかった。ならなかったから、私は感謝をしているのだ。  言っても聞かない馬鹿だから、さっさと死んでもらうために放任した――などと穿った風には考えない。  どうしておまえはそんなにも、我が身を省みずに光、光と言うのだね?  これまで多くの人から何度となく訊かれたことに、私は大抵こう答える。 「理由が必要なのでしょうか?  人として、ごく当たり前の欲求ではないでしょうか」  それは本音で、真実だったが、同時に矛盾した答えだというのも分かっていた。実際、これだけで納得する人はほとんどいない。  なぜなら私の言い分は本能に関わる話で、そこを理由にするなら命を削ってまで通すべきものなど生物には存在しない。  少なくとも一般的にはそうだろうし、そもそも信仰の世界において自死は禁忌だ。私は壊れた、罪深い者ということになってしまう。  だから考え、見つめ直した。私を焦がすこの〈渇望〉《イノリ》は、いったい何処から来たのだろう。  馬鹿者扱いされることは事実だからしょうがないが、卑屈に自嘲したくはない。自分の願いが誇れるものだと信じたいから、理想の〈在処〉《ありか》を明確にしたいと思ったのだ。  そうして思うに、始まりはやはり本能。幼い子供は特に暗がりを恐れるものだし、私も当たり前に明るい方へと心惹かれた。  しかし、そこから先が少々おかしい。自分で言うのも何だけど、私の好き嫌いと現実の問題は別なのだ。  要はアレルギーと一緒だろう。いくらパンが好きな子供であろうと、小麦の摂取が命に関わるなら普通は食べない。にも関わらず、どうして私は我慢も妥協もしなかったのか。  幼児特有の頑なさはあっただろうし、他のみんなが羨ましかったというのもあるだろう。だけどそれを、分別のつく歳になっても貫いてきたのはいったいどうして?  私を育て、我が侭を許してくれた院の皆さんに微力でも恩返しをしたかったから?  大丈夫だというところを見てもらい、一人前に扱ってほしいと思ったから?  もちろんその気持ちも真実で、偽りない私の本音。  だけど芯に関わる動機はきっと他にあるんだと分かっていた。  それはいつか、もう思い出せない遠い記憶だが忘れていない。私の魂には、当時の情景が今も消えることなく焼きついている。 「ああ……綺麗」  蒼く、白く、果てもなく……何処までも抜けるような空の下、羽ばたいていく鳥たちの姿に胸が震えた。  その翼は澄み渡り、とても自由な尊い在り方に思えたのだ。 「天使みたい……」  漠然とした、しかし確かな憧れとして紡いだそれこそ私の理想。  私が描き、私が目指す想いの〈真実〉《まこと》は翼のかたちをしているのだ。  あの〈蒼穹〉《そら》が何より似合う、天使のようになりたいと思ったから。 「私はここに集いたる人々の前で、厳かに神に誓わん」 「我が生涯を清く過ごし、我が〈任務〉《つとめ》を忠実に尽くさんことを。  私はすべての毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれを勧めざるべし。  私は我が力の限り、〈任務〉《つとめ》の水準を高くせんと努むべし。  我が〈任務〉《つとめ》にあたりて、私が知り得たる人々の私事すべて、私は人に洩らさざるべし。  私は心より医師を助け、我が手に託されたる人々の幸に身を捧げん」  祈り、刻み付けたその誓詞こそが私の誇りで、私の願い。  皆が愛し、皆が求め、皆が奉じる〈太陽〉《いのち》の使徒になろうと誓ったのだ。  たとえ私にとって〈光〉《それ》が死に繋がろうとも、心に翼を描きたい。  〈蒼穹〉《そら》に祝福される者でありたい。  だから身体がどうなろうと、蝕まれているなんて思わなかった。これは毒じゃないし害でもないし、まして悪しきものであるはずがないのだと……信じているから誓詞に反しているつもりもない。  証拠に、私は幸せだもの。痛みを超えて恐怖を忘れ、胸が喜びに満たされるもの。  誰かのために、あなたのために、苦しむすべての人々のために、私は光に輝く道を行きたい。  翼となって、〈理想〉《そら》の彼方へ。  蒼く、白く、果てもなく、世界の先の先までも。  羽ばたきたいと願うからこそ、天使がしろしめす〈光〉《アイ》に抱かれて真なる燃焼を感じたいのだ。  そこに自分の生涯を記す意義があるのだと信じている。  なぜならば。  そう、天使たる者の定義とは…… 「ヴィルヘルム……」  あなたを想い、私はまた夢を見る。  私以外で初めて出会った、もう一人のノア。夜の子供。  あなたに理想を見ているから、私は運命を感じていた。  夢を見る。見続けている。  上手く説明は出来ないけど、ただ確信する思いがあるのだ。  あなたはきっと、いつか奇跡になる人なのだと。 「善き処へ行きたい……ねえ、そうでしょう」  それは比翼の天使みたいに。  私にとってのあなたのように、あなたにとっての翼になりたいと思うからこそ、私は光を礼賛するのだ。 「……ッ」 そうして俺は、気が付けば大の字に倒れていた。全身傷だらけの有様で、まともに身体が動かねえ。 どうやら生きてることだけは確かなようだが、あの後いったいどうなったのか。そこらへんの記憶は完全に吹っ飛んでいる。 しかしそれを、俺は不本意だと思わなかった。何もかも忘れるくらいに白熱したせいだろう。たとえ頭じゃ覚えてなくても身体は別で、傷の痛みや疲労がその証明となっていた。 勝敗だの何だのは、ひとまずのところどうでもいい。この日、俺が求めたのは魂の燃焼で、他のことはいいんだよ。思うがままに全開燃えたという点さえ明確なら、後は取るに足らない些事だった。 どうせ今後、連中と白黒つける機会は何度だってある。だからそっちは後に回せばいい話で、今は目的を果たせたことに満足しよう。 そう思って、だがそのときに。 「お目覚めかな、ベイ」 「―――――」 心地よい昂揚の残滓に水を差す男の声が、一気に俺を現実へと引き戻した。痛みも忘れて、上体を跳ね起こす。 「がっ、っ……てめえ」 「おやおや無理をするなよ。かなり酷い有様なのだぞ、こちらまで痛くなる」 「城で死ぬのはおまえにとって本望かもしれんがね。まだ準備が整いきっておらんのだ。つまり端的に言うと、犬死になりかねない」 「マキナのごとくなれるかどうか分からんし、なれたとしても不安定だ。しょせん今は、黄金閣下の創造で存在できているにすぎん」 「解除すれば消えてしまうし、不死と言うには甘いだろう。そもそも大元である黄金殿からして、まだそういうものになっていない」 「依然、ラインハルト・ハイドリヒは人なのだ。不敬を承知で言わせてもらえば、死んでしまうし殺せてしまう。そしてそうなったとき、彼の〈軍団〉《レギオン》も引き摺られる」 「おまえの求める不滅とは、そのように儚いものではないだろう」 「……黙れよ」 どうにか口を開いて舌を動かし、だらだらと長い話を断ち切った。ハイドリヒ卿が死ぬだのと、有り得ない仮定の話は聞いちゃいねえし、他の小難しい諸々もどうだっていい。 「てめえには心の底からうんざりする。消えろよ、関わってくるんじゃねえ」 いちいち、ろくなことがねえんだよ。この野郎と会話して、得られるものは呪いくらいだ。 「俺はてめえに言われたような負け犬じゃねえ。奪う者なんだ、欲しいもんは手に入れるんだよ」 おまえは何も得られない。望んだ相手こそ取り逃がす――それが過去、カズィクル・ベイの名と共にこいつから受けた呪いだった。 気に食わないし有り得ないし、認めてなんかいやしねえ。言いがかりとすら思ってたんだよ、このときは…… 「頑なだな。しかしまあ、信じる信じないはそちらの自由か」 「自身を奪う者だと定義するのは、飢えている己を自覚しているからだろうに」 「ベイ、一つ教えてやろう。奪う者とは、奪われ続ける者なのだよ。足りないからこそ欲しくなるのだ」 「満足している者ならば、そもそも外に手を伸ばさん」 言って、滴るような笑みを浮かべる。それは嘲笑なのか憫笑なのか、俄かに判別できないものだった。 「覇道の性だな。広義的にはおまえの他にも言えることだよ、黄金閣下とて例外ではない」 「ゆえ、皆がその業を突破できるように私は手を尽くしている。ならばこそ、まずは自身で認めることだ。でなくば話が始まらん」 「件の少女と何があったかは知らんがね。彼女を奪いたいと思っているなら、今のおまえは感心せんぞ」 「意中の女性を三日も放置していいことなど何もない」 「は……おい、ちょっと待て!」 聞き捨てならない一言に、俺は目をむき問い返した。 「三日だと?」 「左様、気付いていなかったのか? 〈闘技場〉《ここ》でおまえたちがじゃれ始めてから、すでに三日経っている」 「没頭すると周りが見えなくなるのは悪い癖だな。つい半日ほど前、黄金閣下に止められるまでひたすら遊び続けていたわけだ。まあそれはそれで、グラズヘイムに適性がある証と讃えてやらんでもないが……」 こいつは放っておくといつまでも喋りかねない。俺は軋む身体を無視して立ち上がり、歩き始めた。 意中の女云々の戯言はともかくとして、確かにあの馬鹿を三日も放置したのはいただけない。早急に戻る必要がある。 「結構、結構。女性には真摯であれよ。いつ何が起こるか分からん」 「黄金閣下はついにクリストフを追うと決めたようで、そのためにマキナとシュライバーを召したわけだが、それも予定通りに行くとは限らんからな」 「ああまったく、未来はいつも闇の中だよ。ふはは、はははははは」 誰に語ってるつもりなのか、もはや蛇足でしかないことをべらべらと垂れ流しているメルクリウスだが、黙れと言う気にもならない。 ただ、妙な胸騒ぎがする。この三日という断絶に、クラウディアが謎の復調を遂げてからの四日を足せば一週間だ。 キリのいい数字というものには意味がある。特にそれが、暦に関わるものなら尚更に。 迷信と笑ってやりたいところだが、事実俺は、言葉に出来ない危機感を覚えている。 とにかく早く、帰ってクラウディアに会わねばならない。 そう思って、背後の不快な笑い声を引き千切るように走ったよ。 だが、目的地が近づくにつれ俺の足は重くなった。 負傷の程度がどうこうという意味じゃねえ。確かに三日も馬鹿やった結果は相当なもんで、簡単に癒えるレベルじゃなかったが、それとは別の理由があったんだ。 つまり我ながら締まらねえ話、クラウディアに会って何をするべきか掴めなくなっていた。変わりなく無事であったならいいんだが、だったらその後にどうするんだと。 派手に暴れたお陰で忘れていた忌々しい記憶が戻ってくる。最後に会ったとき、あいつは俺に怒っていたが、それに対する謝罪をしなけりゃならんのか? 馬鹿な、俺は何も悪いことなどしちゃいない。あれは完全に向こうの誤解で、くだらねえ猿芝居に引っかかったまま文句を言ってきたクラウディアが悪い。 よって、誰かが謝らなきゃならんというなら、一も二もなくあいつのほうだろ。しかし、そのへんの筋を理解させるためには、事の説明をしなくちゃならねえ。 そうなると、それはそれでなんだか癪だ。弁解しているようで腹が立つ。 だったら何も関係ないような顔をするべきかと考えたが、三日も家を空けた手前、その態度は空回るだろう。逆に意識しているのが見え見えで、みっともないことこの上ない。 「ああ、くそ……」 これはどうにも、最善手が見つからない状況だった。そもそもこんなことを悩んでる時点で、ドツボというやつだろう。くだらねえ問題だったが、くだらないだけに解決手段があやふやだ。 「もう知るか。なるようになれ」 だから俺は、諸々ぶん投げることにした。どうなるかは分からんが、出たとこ勝負でいいだろう。 そう思い、帰り着いた家の扉を乱暴に開けて―― 「おら帰ったぞ。いるか馬鹿野郎」 喧嘩でも売るかのような剣幕で吼えた俺に、一拍置いて返ってきたのは驚きの声だった。 「ちょ、な……いったいどうしたんですかヴィルヘルム」 「……あぁん?」 なんだこいつ、普段どおりにしてるじゃねえか。その事実に拍子抜けし、呆れの含有率が高い安堵を覚えた俺だったが、クラウディアは大袈裟に口を押さえて、目を白黒させている。 てめえこそ、いったい何事だよと思ったもんだが…… 「あなた、その怪我……」 「ん、ああ……なんだこれか」 つまり、そういうことだった。事態を察した俺は手を振って、たいしたこっちゃねえとアピールする。 「気にすんな。どうってことねえよ、こんなもん」 「そんなわけないでしょう。何を言ってるんですかあなたは、もうっ!」 「ほらこっち。早く来てください、服も脱いで」 「いや、だから、ほっとけって俺はおまえ――」 「いいから、話は後で聞きます。今はとにかく治療、返事はっ?」 「っ、コラ、引っ張んなてめえ! 痛ぇんだよ!」 ほっときゃ治るとか、おまえの治療に意味なんかねえとか、色々言ったがクラウディアは聞き入れない。 これも血が騒ぐってやつなんだろうか、とにかく強引なまでの押しを発揮して、看護するんだと息巻いている。 仕舞いにゃ抵抗するのが馬鹿らしくなっちまったよ。こういうときは、好きにやらせとくのが一番いい。 だから俺は、ぶつぶつ言いながらも大人しく従って…… 「まったく……何をやってるんでしょうね、あなたって人は」 結果的に、延々とこいつの小言を聞く羽目になっちまった。床に座って背を向けている俺に対し、救急箱片手のクラウディアは口と手を動かし続けている。 「子供じゃないんですから、ちょっと決まりが悪くなったくらいで家出なんかしないでくださいよ。しかも帰って来たら来たで、こんなこと……」 「この三日間、いったい何をしてたんですか? どう見てもこれ、普通の怪我じゃありませんよ。銃創まで……」 「まさか、戦場に行っていたとでも言うんですか?」 「……そうだな、そんなに外れちゃいねえよ」 詳しく説明しても理解は出来まい。そして実際、この三日間で体験したのは並の戦場を超える修羅場だ。 そこで受けた傷の数々。徐々に癒え始めているとはいえ、クラウディアが驚くのも無理はない有様だろう。 「呆れます。憂さ晴らしに戦争をする人が何処にいますか」 「あなたがだいぶ、色々と駄目な人なのは知っているつもりでしたが……ここまでとはさすがに思いませんでした」 「ほんとにもう、お説教する気にさえなりません」 「してんじゃねえかよ」 おまえに駄目云々は言われたくねえ。そんなこちらの気持ちが伝わったのか、クラウディアは自嘲するような苦笑を漏らした。 「あなたが帰ってきたら、謝ろうと思っていたんですけどね」 「すんなりそうさせてくれないのが歯がゆいです。思い通りにならない人って、腹立ちますね」 またしても、こっちの台詞だと言いたくなることを呟いて、きつめに包帯を締めてきた。俺はそれに呻きを漏らす。 「は、なんだよ。謝りたいだあ?」 「ええ……三日前のことは、自分でも一方的だと思いましたし」 「言い訳になっちゃいますが、あのときの私はおかしかった。今思えばの話ですけど、あまりにも短絡的で」 「療婦たる者、如何なるときも公正さを失ってはならないと叩き込まれてきたんですよ。だというのに、なんというか……」 「私はルイの肩を持ちすぎですね。それがあなたにとって面白くないというのは分かります」 その名に反応した俺を遮るように、クラウディアは慌てて続けた。 「あ、もちろん、変な意味で言ってるんじゃないですよ。ただ当たり前の心理として、あなたは不公平に感じることが多かっただろうし、そのへんを慮れなかった私は……」 「公正じゃなかったってか」 「はい。すみませんでした」 うなだれる気配が背に伝わり、俺は居心地悪くなる。謝るならこいつのほうだと思っちゃいたし、それが叶ったわけなんだが、どういうわけかちっともすっきりしやがらねえ。 「あの野郎は、その後どうした?」 「気になります?」 だから適当に話を先へと進めたんだが、質問に質問で返すなよ。しかもなんだおまえ、よく分からん期待に満ちたようなその声は。 ここで何か言ったら負けたような気がするんで、俺は答えず無言の怒気を放射する。クラウディアはしばらくの間粘っていたが、やがて残念そうに溜息を吐いた。 「彼はすぐに帰りましたよ。別にその後、私と何があったというわけでもありません」 「そんなことまで訊いちゃいねえよ」 「訊いてほしかったんですけどね」 抗議するように、また包帯をきつく締める。今度は呻かず、耐えて言った。 「あの野郎、あれはおまえに惚れてるぜ」 「何がいいのか知らねえが、とにかくそこは間違いねえ。だったらよお……」 おまえにとって、目的が果たされたことになるんじゃねえのかと。 誰かの恋になれたのなら、それが俺であろうとあいつであろうとクラウディアには変わらない。 そうじゃねえのかと、思って俺は訊いていた。 「満足、出来たんじゃねえのかよ?」 「知りません」 だというのに、クラウディアは答えない。拗ねたような態度さえ示す。 「なんであなたは、そんなことを言うんですかね。ちょっと理解に苦しみます」 「ここで私がそうですねって返したら、あなたはどうするつもりなんですか?」 「それは、あなたにとって望ましい展開ですか?」 また質問に質問だ。俺はうんざりしながらもさっきと同じく怒気で返すが、今度のクラウディアは中々折れない。 どころか、こっちに負けない怒りの念すら飛ばしてくる。妙な膠着状態になっちまった。 「何をてめえは……」 くだらねえことを、と思ったぜ。 こいつがルートヴィヒの恋で満足するなら、それはそれで一向に構わねえ。あいつに惚れて生に執着するようになるところまでがワンセットだが、そうなってくれりゃあこっちのやることは変わらねえんだよ。 聖女よろしく死を受け入れてるマグロ女なんか好みじゃねえ。〈未通女〉《おぼこ》じゃなくすのが俺かあいつかという違いはあるが、結果的に同じことだ。 やってることがロミオとジュリエットじゃなく、横から全部をぶっ壊していく間男じみたもんになっちまうが、そのほうが俺らしいとさえ感じられる。 そう思って、だから問題ねえよと俺は言うつもりだったのに…… 「いや、気に食わねえな」 気持ちをまったく裏切るかたちで、口が勝手に動いていた。 「おまえは俺のもんだ、クラウディア」 それはこれまで何度も口にした台詞だったが、これまでとは違う何かが宿っており―― 「俺が拾った命なんだから俺に捧げろ」 「身も、心も、魂もだ――〈俺〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》」 そいつが紡ぎ出した〈戯言〉《ほんね》であることだけは間違いなかった。 「―――――」 静かに息を呑む気配。背に触れていたクラウディアの指が閉じられ、微かだが震えている。 心臓の音がうるさい。俺のものか、クラウディアのものか、その判別すら不可能だった。 喉が渇く。ひどく暑い。なのに汗は一滴も出ねえ。 未だかつて経験したことがない諸々の異常はもちろん不快で、この状況をどうにか出来るなら千金を叩いても惜しくはないと思える反面、いつまでも味わっていたいような。 矛盾した、支離滅裂な感情に自分の狂気すら疑った。 「……、……っ、……ぁ」 その中で、やけにはっきり聞こえるクラウディアの吐息は湿り気を帯び、それがゆっくりと背に近づいてきた結果…… 「ッ………」 ぞろりと、俺の傷口を濡れた舌が舐めあげていた。 こいつ、何を―― 「――――ぁ」 小さな悲鳴。弾かれたようにクラウディアが飛び離れる。振り向いた俺の前で、こいつは初めて見せる恐怖の相を浮かべていた。 「わた、し……私は、何を……」 したのかと? 明白だ。こいつ自身、誰より分かっているに違いない。 口元にこびりついているのは俺の血で、その味はまだ舌に残っているはずなんだから。 「私、ごめんなさい――ごめんなさい!」 罪深さを悔いるように、口を拭ったクラウディアは身を翻した。俺の手をすり抜けて家から飛び出し、夜の町へと駆けて行く。 「おい待て、なんだてめえ――何なんだよ!?」 我ながら、語彙の貧弱さが嫌になったぜ。もうちょっと意味のあることは言えねえのかと思ったが、どのみちここで言葉は役に立たねえ。 まったく理解できない状況だったが、そういう局面じゃないことだけは確かだった。真実を掴みたいなら、行動で示すしかない。 「クソがァッ、笑えねえんだよ!」 怒号し、上着を羽織った俺は、クラウディアを追うために家を出た。 今さらおまえが、吸血鬼の真似事だと? いったい何の冗談か、とっ捕まえた後に説明してもらおうじゃねえか。 そう思って駆け始めたが、すでにあいつの姿は見えない。 馬鹿な――たかが女の、しかも病人の脚力でどういうことだと、疑問は膨れあがるばかりだった。 町にはただ、粘ったような闇の帳だけが下りている。 俺はそれに、嘲笑われてる気がしたんだ。 「ようこそメトシェラ。やはりこうしてまた会えたな」  その人物はそう言って、歓待の意を私に示す。  いいや、正確に言うと私じゃない。〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈宿〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》にと言うべきで、私は彼の記憶を垣間見ているにすぎないのだ。 「ああ、二百年と少しぶりか水銀よ。今はカリオストロというのだったな」 「どうも宮中で派手に遊んだそうではないか。あのサンジェルマンというのもおまえだろう。以前の〈パラケルスス〉《ホーエンハイム》もそうだったが、無駄に目立つのが好きらしい。  年甲斐もなく、俗世を掻き回したがる癖でもあるのか? まあお陰で、私はおまえを探すのに苦労しなかったわけなのだが」  クラウディア・イェルザレムとしての私ではなく、彼の目線で彼の記憶を辿る夢。  とてもとても、気が遠くなるような長い年月、世界中を彷徨う夢。  それを私は、この一週間に見続けていた。今だってそう。 「癖かと言われれば確かにそうだな。説明すると長くなるが、私はあらゆる局面において物事を試さずにおれないのだよ。  御身との関係もその一環だ。私の投じた一石により、そちらの選択が未知なる景色を描いてくれればよいと願う。  ゆえに、さあメトシェラよ。私を探していたという、理由を聞かせてもらいたい」  彼は自分がどういう存在なのかを教えられ、世界が終わるまでその彷徨が続くと理解して、それがもうすぐ訪れるのだと知ってしまった。  だから、求めるものは生の意味。自分の一生は斯くの如しと、誇れる手応えを欲している。得られる充実を願っている。  私と似ている、そう思うのだ。 「理由? 極めて簡単なことだ。私は私が欲する夢の形を見出した。  おまえのもとを訪れたのはその報告と、若干の協力を願うためだ水銀よ。長く長く生きてきたが、私は魔術らしき魔術に疎いのでな。 大それたものは必要ないのだ。些細な取り回しに関する知識だけを賜りたい」 「ほう、つまり御身は、私に教えを請いに来たと。何のために?」  彼が求めるものは別にあり、魔術を覚えることは手段にすぎない。つまり逆に言うならば、願いを叶えるために魔術が必須ということだった。  じゃあいったい、それは何? 彼はどんな救いを欲しているの?  〈返答〉《いらえ》は、とても簡潔な一言で紡がれた。 「伴侶だよ。私は〈番〉《つがい》を求めている。  すなわち対の存在が欲しいのだ。このまま終わりのときまでたった一人、何とも交われずに去っていくのは耐えられない」 「私は彼の、彼女のために在ったのだと、確信することで救われたいし救いたいのだ。  闇は単体である限り意味を成さず、虚無にすぎない。光があってこそ、闇は闇として成立できる」 「そして、逆もまた真なりと」 「その通りだ。私は光の御子を求め、欲し、それと添い遂げることで生涯に意義を得る」 「この身は久遠の永きに渡り、ただ一人の闇だった。よって私の番となるのは、月のごとき儚い光では有り得ない。  清冽で、清浄で、命の賛歌を眩く体現する無窮の太陽。闇を知り、私を赦し、されど絶対的に昇華する輝きの魂たる者。それこそ我が伴侶に相応しい」  だからその存在を探していると、彼は誓うがごとくに謳いあげた。祈りを捧げる聖者のように。 「であれば御身、私に探索を手伝ってほしいのか?」 「いいや、そうした必要は求めていない。言っただろう、光と闇を繋ぐ因果は強固で深く、自然摂理の相関だと。  ゆえに私が自覚を持って動く以上、自然に引き合い出会うはずだ。そこに疑いは持っていない。  私がおまえに求めるものは、伴侶を延命させる手段である」  その答えを聞いたとき、私の息は詰まってしまった。  ああ、もしかしてこの人は……  彼の言っている光とは…… 「なぜなら、私の願いは伴侶と出会うことではない。伴侶と終わりの日まで添い遂げることだ。  世界はもうすぐ死ぬという。それは実際にそうなのだろう。だが、我々の尺度で語る長短に、人の時間感覚を当て嵌めるのは正しくあるまい。  あと少し、もう僅か……そう言ってから千年保つことすら当たり前に予想できる。事実、先の会談から早二百年を経ているのだから。  人間ならば、三度は死んでいる計算だろう」 「確かに」 「御身の願い、理解した。魔術を知りたいのはそのためか。  メトシェラ殿は存在それ自体が神秘の塊と言ってよいゆえ、むしろ基礎を知らんのだな。鳥が空を飛ぶための手段と努力を解せぬのと同じ。  己がごく自然に長命であるからこそ、短命に生まれついた者がどのようにして延命するのか、分からんと」 「そういうことだ。して、如何に?」  答えは――気になったけど、しかし私は聞きたくなくて。  それを聞いたら、もう戻れなくなるような気がしていて。  私に起こった異常の真相は、きっとそこにあるのだと直感していた。 「私から教授することは何もない。御身は知っているはずだ。  初めて会ったときのことをお忘れか。あのとき、こう言っていただろう。  近く感じる概念を知り、真似事を試みたことも過去にあると。  もう一度、それをやればよいのだよ」  たとえば血を吸い、下等生物を吐き、土に眠る〈影這う者〉《ナハツェーラー》。早すぎた埋葬。動く屍というような。  ああ、それはそれは……つまりその意味するところは…… 「私に再び、紛い物の皮を被れとおまえは言うのか」 「老いては子に従えとも言うだろう。闇の神性たる御身を基に生まれた二次創作のごとき幻想だが、そう馬鹿にしたものでもない。  彼らはメトシェラの子供なのだよ。そしてだからこそ、私などから生兵法を授かるよりは無理もないはず。  不快であろうし、窮屈でもあろうがね。しかし、それが一番マシだ」 「……………」 「何も最後まで被る必要は何処にもあるまい。伴侶たる者を〈変〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》、すでに用無し。よく出来た子だったと、労いの一つでもかけた後に脱ぎ捨てればよいだろう」  渇く、渇く。彼らの会話で喉が渇く。  無性に飲み干したいものが頭に浮かび、どうにかなってしまいそう。  首が熱く脈打っているのを感じていた。そこにすべての答えがある。  私は思わず掻き毟り、巻かれた包帯を引き千切っていた。 「熱い……!」  剥き出しとなった私の首には、うじゃじゃけた傷が存在していた。まるで獣に咬みつかれた痕のような、卑猥にすら感じる肉の裂け目。穿たれた牙の証。  そこが二つ目の心臓みたいに、鼓動を刻みながら蠢いている。 「私は、どうして……!」  なぜもっと早く、この異常を彼に伝えなかったのだろう。  心配させたくなかったから? 怒られると思ったから? それともたいしたことではないと考えたから?  違う違う――私はきっと分かっていた。分かっていながら秘めていたのだ。 「夢を見ました……」  そして今も、夢の中に私はいます。  その到来を待ち望み、覚めるのを嫌がって、密やかにだけど確実に――  私は私の変化を受け入れて、辿り着く果ての未来に期待した。  膨れ上がる感情。制御できない想いの奔流。それが導く先にあるのは善き処に違いないと、なぜだか信じられたから。 「あなたに、近づけるような予感がしたから」  なのにその結果がこれならば、私はなんて罪深いことを。  駆けて、駆けて、駆け続け、恥ずかしさのあまり逃げる私は、しかし〈向〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》のだというのも分かっていた。  呼ばれているのだ。声が聞こえる。こちらにおいでと言われている。  目の前には、何処までも深く広がる真の闇。  その〈腕〉《かいな》へと、自ら飛び込んでいくかのように…… 「いいだろう。それがもっとも理に適っているなら〈否〉《いや》はない。  愛する者のためならば、穢れも私は厭わぬさ。どうした、何を笑っている」 「いや何、やはり似た者同士だと思ってね。私もつい先日だが、私の女神を見出したのだよ。彼女のためにすべてを捧げると誓ったのさ。  求める結末は少々御身と違うがね。まあ些細なことだ、ともかく応援させてもらおう」 「さあこれを。祝いの品だ。近く現れるだろう、メトシェラの花嫁へと……」  差し出された物が何なのか、私は判別できなかったが。 「受け取るがよい。きっと似合うと私は信じる」 「そうだな。ああ、その通りだとも」  彼らがそれを、私に重ねているのだということだけは分かっていたから。 「斯くの如し、聖なる光に私は逢いたい」 「―――違う!」  全力で否定し、全力で叫んだ。なのにもう、自分の言葉だという確信すら抱けない。  首を中心に巡る鼓動が、私を闇の中へと引き込んでいく。 「そんな大それた評価、いらないから……!」  ただ光が好きで、光に触れたい。そして光を与えたい。  そんな風に思っていただけ。  そんな風に思うだけでいられた私を、どうか返して。  だけど答えは、私のすべてを包み込む闇の翼となって現れた。  首に走る微かな痛み、ああそれすらも…… 「共に行こう。終わりの日まで」  渦巻く闇の奔流へと消えていく。  深く、深く、果てもなく……彼が歩んできた久遠の時を語るように。 「チッ……マジであの馬鹿、何処行きやがった」 完全にクラウディアを見失い、途方に暮れる俺だったが、ここでようやく当たり前のことに気が付いた。 そもそも、この町であいつが行きそうな場所など限られている。トチ狂って闇雲に駆け回っているんじゃない限り、知った所へと向かうだろう。 いいや、たとえその場合でも、無意識に行く先を選ぶはずだ。 「となりゃあ……」 思いつくのは一つしかない。俺は身を翻し、一路教会へと走り始めた。 距離的には三分も掛からねえ。すぐに捕まえられるだろう。 だから本当に大事なのは、その後のこと。あいつと会って何をすべきか、そこを詰めておくべきだと考えた。 正確には、俺が何をやりたいのか。でかい方針を一つ定める。そしてそれを貫き通す。だったら何かと考えて、浮かんだ思いは一つだった。 「てめえは聖女なんかじゃねえ。そんなもんにはならせねえ」 何があり、何を思って俺の血なんぞが欲しくなったか、今となってはそんなのどうでもいいんだよ。第一に究明するべきことじゃない。 ただ、あいつはそれを恥ずかしいとでも思ったからこそ逃げたんだろう。その勘違いを正してやる。そっちのほうが万倍大事だ。 なぜなら、俺は餓鬼の頃から知っている。 「人間なんてのは汚ぇんだよ。クソみてえな生きモンなんだ」 「そして、おまえもそんなもんだ」 カマトトぶってんじゃねえぞ、面倒臭い処女のトップランナーめ。 クソがクソなことをやったからって、いちいち狼狽えるなって話だよ。おまえは自分がたいしたもんじゃねえみたいに事あるごと言っていたが、それでもまた認識が甘ぇ。綺麗に取り繕ってやがる。 「だからあの程度で焦るんだよ。思いあがるな!」 たとえ汚く、罪深いところを見せられようが、俺は失望などしない。 むしろなんだ、俺に恋を教えたいならこの野郎―― 「お高くとまってんじゃねええェェッ!」 断固、今あいつに言うべきことはその一点。決意を胸に確かめて、辿り着いた教会の扉を蹴破っていた。 「クラウディア!」 そして、そのとき俺が見たものは…… 「―――――――」 祭壇の下、絡み合うように立っている二つの影がそこにあった。 上向いた顎を微かに痙攣させながら、光の失せた目で虚空を眺めているのはクラウディア。 そしてそれを抱きすくめ、覆い被さるように首元へ顔を埋めている奴は他でもないルートヴィヒ。 「てめえ……」 いったい、何をしているんだよ。 「……、……、……っ」 明白すぎる光景で、逆に理解が追いつかず、立ちすくんでいる俺の前でクラウディアの身体が揺れる。 首から垂れた血が一滴、床に落ちるまでの数瞬が無限の長さに感じられた。 「ああ……」 そんな中、ゆっくりと顔をあげた奴は俺のほうに目を向けて…… 「なんだおまえ、今頃になりやって来たのか」 にやりと、吊り上げた口元からは血に濡れた牙が覗いていた。 「遅かったな。彼女はもはや、私のものだ」 「―――――ッッ」 瞬間、たいして有りもしない自制心が、粉々になるまで吹っ飛んだよ。 「てめええええぇぇェェァァッ!」 爆発する絶叫。魔業の宿った咆哮が礼拝堂の内装を砕き散らし、床材と椅子の破片を嵐のごとく巻き上げる。 未だかつて、これほどキレたことはない。俺は音より速く跳躍し、乱舞するステンドグラスを突っ切って野郎に迫った。振り上げた拳を全力でその顔面に叩き落とす。 しかし予想した手応えは何もなく、霞を殴ったようなものだった。カチンのときとまったく同じ、そして三日前とは異なって、俺の攻撃が通じない。 のみならず―― 「ぐおおおおおァッ」 何か分からない力を受けて、俺は吹き飛ばされていた。癒えかけていた傷が再び開き、五体砕け散るような痛みの中、歪む視界に写った姿は…… 「身の程を知れよ出来損ない。おまえの牙などそんなものだ」 「子が親に、紛い物が本物に、そしてノアの子孫がメトシェラに……勝てる道理もないだろう。もとよりおまえのごとき若造は、まったく問題にしていない」 「しょせん〈闇〉《わたし》を間違った形で信仰している、無様な贋作ではないか」 クラウディアを抱いたまま、宙に浮かぶルートヴィヒ。 翼のごとく広がるマントは、闇に溶け込んで境目が見当たらない。そして奴の顔も手も、暗闇の色に染まっていく。 つまり同化しているんだ。周囲を覆う闇そのものが奴であり、手足も同然。俺はこれに近いものを知っている。 「求道の、創造……?」 しかも、途轍もなく巨大な規模だ。奴が宙に浮かんで見えるのも、本質は大巨人の一部に人型の模様があるというだけにすぎないだろう。 いいや、おそらくそんな表現すら生ぬるい。 「なんだそれは。おまえたちの陳腐な理屈で私を量るのはいい加減にやめてもらおう」 「闇は闇、そこに在るもの。開闢から存在する世界の裏で、それが私だ」 「ゆえに――」 闇を名乗る男の手が、ゆらりとあがった。そして俺を指差すと―― 「せめておまえが求めた夜の業を見せてやろう。クラウディアを私に引き合わせてくれた礼もある」 「格を知れば、二度とその浅慮な〈渇望〉《ユメ》で世界を穢すこともあるまい」 全身、傷口も含めた穴という穴から黒血が迸った。 「――があああああァァァッ!」 何をしたのか、されたのか、それさえまったく分からない。 ただ、闇の賜物が薄れていく。俺の中で、ヘルガも同様に絶叫していた。 ヴィルヘルム・エーレンブルグをカズィクル・ベイと成さしめていた魔血のすべてが、闇の御手により搾り出される。 「知れよ、吸血鬼など幻想にすぎん」 俺の願い、俺の理想、自負も信念も残らず握り潰すように。 「おまえは人だ。人として生き、死ぬがいい」 「世界が終わる日も近い」 告げて、渦巻く闇を纏いながら身を翻した。 「待て……」 待てよ、待ちやがれ。 手を伸ばすが届かず、声を張り上げるが音にならず、止まらない出血の中で消えようとする俺の〈渇望〉《すべて》。 「さらばだ」 最後にこちらを一瞥し、礼拝堂の天井を突き破って飛び去ったルートヴィヒを仰ぎ見ながら、俺の意識は闇に落ちた。 一人置き捨てられた空の下、月の光さえもが届かない。 「……さて、共に行こうかクラウディア。我々二人だけの天地へ」  腕の中で気絶している少女を労わるように見下ろして、ルートヴィヒは囁いていた。つい先ほどヴィルヘルムに叩き付けた冷淡さとはまったく違う、慈父を思わせる顔と声。あるいはこれこそ、彼の真実なのかもしれない。  しかしそれは、すぐに別のものへと変わっていた。眉間に一瞬だけしわを寄せ、次に皮肉的な苦笑を浮かべる。 「とはいえ、そうだな。筋を通しておく必要は確かにあるか。  面倒なことは御免だが、そのためにも釘を刺しておかねばなるまい」  言って〈首〉《こうべ》を巡らすと、定めた地を目指し飛び始めた。腕のクラウディアを気遣っているのか、速度自体はさほどでもない。  だが俯瞰的に見た場合、彼を中心に極限の異常が発生していた。飛翔するルートヴィヒに合わせる形で、世界の夜が移動している。  天体の自転に狂いが生じたわけではない。むしろさらに荒唐無稽で、戦慄を促す現象だった。影の領域それ自体が、生物であるかのごとくルートヴィヒに付き従っているのだから。  いや、その表現も正確ではないだろう。  なぜならば、彼こそが闇である。開闢以来、世界の半分を版図に持つ王であり、それすらも夜という概念を適応した場合にすぎない。  当然だろう。暗闇とは、何処であろうと発生するもの。  たとえ日中でも、人工の照明下でも、光を遮る物さえあればそこはメトシェラの領土と化すのだ。  洞窟の中、深い森、建造物の裏はもちろん、人間を含む全生物の足元に這う影さえも。  ゆえに移動を始めた黒色の王国は、その度外れた規模をもってルートヴィヒの肉体である。神代の昔、闇なるものを信仰する人々によって生み出された自然の擬人化。神の眷族。  世界を斯くあらしめるため、既知法則のバランスを担ってきた一柱に他ならない。  かつては数多いた同類たちも、大元の死期が近づくにつれ神秘が薄れ、自然の中に還っていった。しかし、彼だけは残っている。  〈神〉《おや》と一番似ていたから。諦めの悪い男だから。彼はメトシェラとなり、未だ自律した意志を有しているのだ。  結果、ルートヴィヒが意図して力を揮いつつ、自儘な移動を続ければどうなるか。答えは至極簡単だった。  本来、まだ朝が来るべきではない領域から、闇のすべてが剥ぎ取られる。そこは陰陽どちらでもない虚無と化し、すなわち消滅してしまうのだ。  ゆえに彼が、東へ西へ――もしも野放図に全球を一周すれば、それだけで世界は滅びる。  無論、ルートヴィヒにそのような真似をする気はないものの、可能な力を持った存在なのは確かだろう。 「――水銀よ、聞くがいい」  その彼が今、目的地に到着した。闇の神性たる威も高らかに、眼下のヴェヴェルスブルグ城へ大音声を轟かす。 「過日の誓い、未だ半分だが私は果たした。ついに伴侶を手に入れたぞ」  傲慢とも取れる口上とは裏腹に、クラウディアを抱く彼の腕はどこまでも真摯で優しい。そうした二面性こそ光を得た証であると言うかのように、ルートヴィヒは続けていく。 「よっておまえと、その走狗へ、一言礼を述べに参った。  感謝しよう。すべてが終わるその日まで、おまえたちのことは忘れない。  私からやれるものは何もないが、せめておまえたちの未来を祈ろう。邪魔立てもせんと約束する」 「ゆえに――」  彼はメトシェラ。存在そのものが魔術を超える超古代の奇跡である。  吐く息、視線、そしてもちろん言葉にも、現代の常識を覆す神秘の力が宿っていた。  王を中心に蠢く闇の全域へと、声が届いていることこそ証だろう。ルートヴィヒの口上は、カール・クラフトのみならず黒円卓すべての爪牙、そして夜に在る者たちが聞いているのだ。  そのうえで、厳かに告げる。 「私の邪魔もせんと約束しろ」  瞬間、密度を増した闇の圧力を世界の半数が体感した。  人は皆、暗がりを畏れる。昼行性に生まれた者の本能として、光が届かぬ領域を異界であると認識するのだ。  ヴィルへルムがそうであるように、夜を愛する者たちでさえ根本的には変わらない。恐るべき概念だからこそ畏敬を捧げ、讃えることでその力を取り込もうとしているだけ。  たった一夜の暗黒だろうと、闇に彷徨うのは恐ろしい。  それが真理。それが摂理。そう、たった一夜であろうともだ。  しかし、彼こそは久遠に生きる既知世界の最長老。 「私の安息を妨げるな。  残る半分、終わりの日まで伴侶と添い遂げることこそ我が望み。無粋な真似をすれば容赦せん」  何千、何万、那由多の年月……無限に等しい〈夜〉《ヤミ》から成る存在なのだ。メトシェラから見れば刹那も同然の短命種たちが、その一端にでも触れてしまえばどうなるか。 「死を与えるぞ、小僧ども」  許容を超える深淵に精神が崩壊する。  神威と呼んで差し支えないルートヴィヒの圧を受け、この日、欧州を中心とした世界の半分が恐慌状態へと墜落した。  自殺者、発狂者は数知れず、闇の波動に呑まれた者らは後世まで呪いを残す悪夢を孕んだ。  見れば、聞けば、読めば狂うと噂される芸術が萌芽して、子宮に揺蕩う多くの胎児が〈ノアの子供〉《アルビノ》へと変わっていく。  誰も彼も、皆が皆、メトシェラの夜に震えあがった瞬間だった。  例外は、僅かに二人。 「最後の神秘か……なるほどな。  相変わらず迂遠だぞカール。要はこれこそ、卿の意図したものであろうが」  呆れ気味に肩を揺らし、玉座にあって愉悦の相を浮かべるラインハルト・ハイドリヒ。 「否定はせぬが、さて如何する。もしやお気に召さぬかな?」  口を諧謔の形に歪めて、水銀のごとく揺らめいているカール・クラフト。  彼らはどちらも、微塵たりとも闇の圧力を畏怖していない。一方は愛でるように、そしてもう一方は白々しく、共に面白がりながら〈嘆〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  対象の力は認めているし礼も払おう。だが、それとこれとは完全に別次元で事象を見ていた。 「ああ、まだだ。まだ既知が晴れん。あなたもだろう、黄金よ。  怒りの日は依然遠く、ゆえに当たり前と言えば当たり前だが、相応に手間をかけた点を鑑みれば落胆を禁じ得ない」 「羨ましいな、メトシェラよ。おまえは満足したというのか」 「であれば――」  後の言葉を引き継いで、黄金の瞳が虚空を見上げた。城の天蓋を透かし見て、その先に在るルートヴィヒへと告げるように。 「こちらの満足にも付き合ってもらおう。我々にしてやれることは何もないと言っていたが、そんなことはあるまい」 「なあ御身、メトシェラ殿よ。己は闇だと謳っていたが……」  同時に、ヴェヴェルスブルグが震えだす。主の意を受け、積み重ねた死者の総軍が鬨の声をあげているのだ。  ジークハイル。ジークハイル。〈我らに勝利を与えたまえ〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》。 「私はそれを壊したことがあるのだろうか。 ああ、知りたいな。試してみよう」  我が愛こそは破壊である。溢れる黄金の〈覇道〉《カリスマ》に、城は本来の姿を取るべく変わり始めた。 「ほぉ……」  その現象を前にしたルートヴィヒの反応はたったそれだけ。吐息一つを漏らしたにすぎない。  含まれる思いは感嘆であり、また呆れであり嫌悪であった。つまり何も感じていないわけではなく、むしろ驚いてさえいるものの、やはり異常と言うしかない。 「それがおまえか、ハイドリヒ。まったく罪深い男だな。  水銀の夢に繋がるという舞台道具……なるほど、確かに中々の役者だよ」  そこに現れたのは、山をも超える巨大な骸骨の像だった。上半身のみ姿を晒し、大地に手をついて顔をあげているその威容は、冥界から這い出ようとする亡者の様を思わせる。  そして実際、その連想は正鵠を射ていた。展開したヴェヴェルスブルグが膨れあがって出現した骸の城は、数百万を超える死者の魂から成っている。  つまり、これ自体が一つの奈落だ。戦死者たちの軍勢であり、互いに永劫の時を殺し合う修羅の殿堂。グラズヘイムと呼ばれる地獄の形態に他ならない。  忌まわしく、恐ろしく、だが黄金に輝く戦争のすべてがそこにある。人の悪性が具現したとすら言ってよい。  たとえ神の眷族であろうとも、容易く流せるものではないのだ。なぜなら〈ほ〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈同〉《 、》〈類〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  よってこの城を前にしても、超然とした趣を崩さぬルートヴィヒは異常だった。メトシェラとしての自負なのか、猛る戦鬼の群れに哀れみすら浮かべて憚らない。  その強大な口蓋が開き、核を凌駕する超絶の熱量が収束し始めてもそれは変わらず―― 「やめろ、私は言ったはずだぞ。邪魔はせんから、邪魔をするなと。  戦いたければ、他所で好きなだけやればよかろう」 「――否」  射爆の刹那、グラズヘイムの中枢から期待に満ちた声が響いた。 「卿がよい。もとより師の仰せでね、前座は締め括らねばならんだろう。  最後の神秘は、我々だ」  そして修羅の轟哮が迸る。国を一つ灰燼と化すに足る破壊の波動が、黄金の光線となって放たれた。 「愚か者めが」  しかしルートヴィヒは動じない。ゆえに破壊も巻き起こらない。  あらゆるものを呑み込む暗黒の天体がごとく、光は彼を透り抜けて闇の中へと消えていった。  否、消えたのではない。  次の瞬間、天を揺るがす大音響と共にグラズヘイムの巨体が宙を舞った。自ら放った一撃が、足元の影から跳ね上がってきた結果である。  すべての闇、すべての暗がりはルートヴィヒの掌だった。ゆえにこの程度、何ら驚くに値しない。彼にとっては、文字通り呼吸をするに等しい次元だ。  鼻から吸い、口から吐いた。理屈としてはそれと変わらぬ所業にすぎない。 「もう分かったろう。これが最後だ」  地響きをあげて倒れるグラズヘイムに、ルートヴィヒは再度告げる。  今のが互いに小手調べ以下であり、地獄の総体は依然微塵も減じておらぬと知ったうえで。 「私を追うな。興味がないのだよ、戦などには」  そうして身を翻し、闇を引き連れ飛び去っていく。  北へ――彼の理想が存在する地の果てへと、迷いなく。 「やられましたな」 「ああ、まったく素晴らしい」  初戦を見事に制されながらも、ラインハルトに怒りは見えない。  むしろ逆だ。大いに喜んでおり、賞賛をもってルートヴィヒを評価している。  ゆえに、続く言葉は至極当然だったと言えるだろう。 「追うぞ。総員出撃用意。  あれほどの神秘、ただ女人との安らぎに朽ち果てさせるなどあまりに惜しい。私が救わねばなるまいよ」  本気で、真実心の底から彼はそう思っている。  愛とはすなわち破壊であり、それを掲げてぶつかり合う戦争にこそ至高の天は存在する信じているのだ。  その価値観は決して揺るがず、異なる理想を呑み込んで膨れあがるからこその覇道である。 「ではそのように。だが一つだけよろしいか」 「皆まで言うな。もちろんのこと分かっている」  再び一戦交える前にやるべきことは決まっていると……ラインハルトは委細承知の態で頷いた。 「此度の立役者へ、まずは褒美を与えねばならんだろう」 冷え切った俺の上に、一滴の雫が落ちる。 その瞬間、止まりかけていたすべての器官が復活し、活力を得た血流が轟音を伴って身の内を走り抜けた。 「ぐッ、がぁ……!」 爆発にも似た蘇生感。転がるような勢いで俺は上体を跳ね起こしていた。 「気がつきましたか」 「っ、……、てめえ」 そうして、見ればそこにいたのはベアトリス。最後の記憶にあるがままの礼拝堂で、こいつは不機嫌も露な顔をしつつ俺を見ていた。 「なんで、てめえが……」 「ここにいるのかと? そんなの大きなお世話です。私も好きで来たんじゃありません」 「本音を言えば、あなたが死ねば嬉しいくらいにこっちは思っていますからね」 などと、いつも通りと言えばいつも通りで、可愛げの欠片もねえ。だがそのお陰とも言うべきか、状況を察する程度の頭は働きだした。 「……そうかよ。まあ、世話になったみてえだな」 おそらくだが、こいつは俺に血でも与えてくれたのだろう。それで枯れ落ちる寸前から、間一髪留まることが出来たというわけだ。 ヘルガも同じく、弱っちゃいるが消えてねえ。つまり俺はまだやれる。 「やめてください。言ったでしょう、好きでやったことじゃないと」 「単なる命令。それ以上でも以下でもない」 「嘘だな」 そして、事態のあらましをおおよそ理解できたからこそ俺は言った。こいつは馬鹿だが、上に唯々諾々の案山子じゃねえ。 「おまえはたとえハイドリヒ卿の命令だろうが、気に食わなけりゃあぶっ千切る奴だろう。つまんねえ演技してんじゃねえよ」 ご命令通り、ベイを助けに向かいましたが、私が着いたときにはもう手遅れでした――それくらいのことはしれっと抜かすに違いない。 俺に死んでほしいと思っているのは事実だろうが、にも拘らず助ける必要がこいつにはあったということ。 だったらそれは? 「どういうことだよ」 問いに、ベアトリスは目を逸らすと、答えも真っ直ぐには返さなかった。 「あなたのそれ、ルートヴィヒにやられたのでしょう。彼、ハイドリヒ卿に喧嘩を売りましたよ。追撃命令が出ています」 「率直に、どう思いますか」 「…………」 言われ、驚かなかったと言えば嘘になる。だが、どこかで納得もしていた。 あいつならやりかねないと。しかしそのうえで、俺が言うべきことは決まっていた。 「馬鹿な野郎だ」 「ええ、馬鹿な奴です。彼がまともじゃないというのは分かったし、あなたを手玉に取るほどの力もある。実際、私たちとは違う域の人なのかもしれません」 「でも甘いですよ、分かってない。ハイドリヒ卿はそういう次元じゃないんだって、黒円卓の全員が知っている」 「まして今回は、副首領閣下までもが乗り気になっているんです。考えてみてください、あの二人ですよ? あの二人まで彼は敵に回したんですよ? なんて馬鹿なこと、有り得ない……」 声は徐々に震えていき、呆れ笑いのようなものへとなっていった。 「終わりですよ。もう絶対に助かりません。彼がたとえ何者だろうと、これは自殺行為としか言えないでしょうね」 まったく同意するしかなく、無言でいる俺の胸倉をベアトリスが掴みあげた。 そして一転、激しく吼える。 「だけどそれでも――!」 「それほど愚かな真似をしてでも、彼はクラウディアを欲したのでしょう!」 「見積もりが甘い。自分の力を過信している。もしかしたらもう勝った気なっているのかもしれないし、そこは分からない――けれど!」 「彼はクラウディアを渡さないでしょう。遠からず、ハイドリヒ卿がどれほどのものだったかを痛感し、己の迂闊さを知るのは必然」 「ですが、絶望だけはきっとしない!」 「彼女のために、彼は戦い抜くでしょう。それだけは分かる!」 対して――と、怒りに燃える濡れた瞳が俺を見ていた。 「あなたはどうなんですか、ヴィルヘルム・エーレンブルグ!」 「クラウディアは! あなたこそを! 生涯最後に光を与えてくれる相手だと――定めたんじゃないんですかッ!」 叩きつけられたその言葉に、俺は静かな驚きを覚えていた。 「おまえ、知ってやがったのか」 「ええ……さっき、少佐から聞きました」 クラウディアが、もう長くはないということ。 その事実を知ったからこそ、ここでこいつはこうしているのか。 気に食わない命令でも、助けたくない相手でも、クラウディアのために一番良いと思える道を選択した。 俺の服から手を離し、自嘲するようにベアトリスは続けていく。 「私は今でも、あなた達の関係が許せないし、あの子に死んでほしくない」 「でもそれは、人間を辞めてまで長生きしろという意味じゃないです。そんな馬鹿は、私たちだけでもう沢山」 だから寿命のままに死んでいけとおまえは言うのか。目で問う俺に、ベアトリスは儚げな笑みを浮かべて頷いた。 「クラウディアが自ら選んだ道の結果として病があるなら、取り上げちゃいけないように思うんです。そんなの、彼女の人生に対する否定も同じ」 「少なくとも、吸血鬼になってまで生き永らえたいなんてこと、あの子は思わないし願わないはずだから」 「あなたは責任持って、クラウディアを救わないといけません」 どうせ助からない命なら、せめてもっとも幸せな死を。求めて祈った、善き処へ行けるような安らぎを。 こいつはそう言っていた。 「でも正直言うと、分からない。みんな私の勝手な思い込みだし、別の見方もきっとある」 「たとえ嫌われても、憎まれても、どんなに泣き叫ばれようとも……断固死なせないと手を尽くすことだって、それは否定できない愛でしょう」 「なのでこれは、あまり当てにならない私個人の、女としての意見ですが」 「共に自分を欲してくれる男性が二人いて、その間で揺れているとき……選ぶ決め手になるものがあるとすれば、たぶん一つで……」 なんだと言うのか。続きを待つ俺だったが、答えは中々紡がれず…… 「もういいか。取り込み中のところ悪いがね、生憎時間が押している」 「愚にもつかん話なら、そこらでいい加減に切り上げろ」 「しょ、少佐っ!」 開け放たれたドアを背にして寄りかかり、鬱陶しげな様子を隠しもせずにノックしているザミエルがそこにいた。 「まったく……」 どうやらほんとに、これは総力戦の様相を呈してきたなと思ったぜ。たかだか俺とクラウディアの問題が、いつの間にやらでかい話になったもんだ。 「ああ、確かにしょうもねえ話だったわ。待たせて悪ぃな、そんじゃ行こうか」 「ちょ、あなた、ほんとに仕舞いにゃぶっ殺しますよ! だいたいさっきから、いまいち覇気が見えないと言うかそういうところが心配で――」 「やる気、ちゃんとあるんでしょうね?」 「当たり前だ、このボケナス」 前にザミエルから忠告された通りだよ。俺たちは誰が相手だろうと完膚なきまでに勝たなきゃならんし、何よりも―― あいつに対して、俺がやるべきことは決まってるし揺るがねえ。 「クラウディアは俺のもんだ。俺が拾った奴なんだから、俺が取り返しに行くんだよ」 そして大輪の薔薇となれ。俺が与える光の中で、最高に輝きながら死ぬのがあいつの定めなんだ。  とても長く、だけど瞬きのようでもあった夢の中から、私の意識は浮上した。 「お目覚めかね、クラウディア」 「……ルイ」  見れば、目の前には彼の顔。夜空に溶けるような闇色の……人種による肌の違いなどでは断じてない異形の貌がそこにあった。  白目は血を思わせる真紅に染まり、瞳は逆に漂白されてる。どれも人が持ち得る特徴ではない。  有り体に、普通は悲鳴の一つもあげてしまう形相だったが…… 「怖がらないのだね、私のことを」 「ええ、あなたにそういう気持ちは感じません」  私が半分だからという意味ではなく、この人が自分を労わってくれているのが分かるからだ。それが証拠に目は優しく、腕は柔らかで暖かい。  私を抱いたまま、彼が空を飛んでいるのも分かっていたが、そのことにも恐怖を感じる心はなかった。眼下には雲海が広がっているほどだというのに、墜ちるという不安感はまったくない。  上手く言葉には出来ないが、とても大きな馬車に乗っているような心地だった。あるいは、お城とでも言うべきか。最上階がどれほどの高さだろうと、室内にいる状態で怖がるような人はいない。それと似ている。 「ではクラウディア。私に問いたいことはあるかね? 答えられるものならば、何であろうと答えるよ」  そもそも、今の私は疑問が大勢を占めていて、恐怖を感じるゆとりがない。彼の言葉はその事実を正確に読んでいて、こちらの気持ちを汲んでくれてる。  だから私は、言われた通りに問いを投げていくことにした。 「ルイ……あなたはいったい、誰なのですか?  ルートヴィヒ・ヴァン・ローゼンクランツという人物は……」 「本物の、という意味ならば、あのカチンで死んでいる」  返ってきたのはそんな答え。半ば予想していたものであり、それがこの人の真実を紐解いていく始まりだった。 「私はあそこで、長いこと眠っていたのだ。正確に言えば、二百年程度だがね」 「君らの感覚で計るなら、長いと表現して問題あるまい。実際、私としてもそこまで睡眠するつもりはなかった。  何せ、かなり久しぶりに眠ったのでね。子の皮を被るにあたり、まずは形から入ってみようとしたわけだが、どうも成りきりが過ぎたようだ。とはいえ、それを失敗だったとは思っていない。  目覚めのときに、君と会うことが出来たのだから」  言って、闇色の顔に笑みを浮かべる。つまりこの彼こそが、ヴィルヘルムたちの言うカチンの怪異そのものだったというわけだ。 「時代ごと、そのとき生きている人間から名や立場を拝借するのは、古い友人から教わった処世術だ。私は寝室に踏み入ってきたルートヴィヒなる人物を殺し、彼の経歴を頂いたのだよ」 「じゃあ、あなたの本名は?」 「ない。ただ、件の友人はメトシェラと呼んでいるし、私もそれを許している。  そして今は、ルイという名が気に入っているね。君がつけてくれたものだから……今後はそう名乗るし呼んでほしい」  まるで、宝物でも授かったかのように彼は言う。  メトシェラと呼ばれた彼。二百年も眠っていた彼。  きっと、その何十倍も生きてきた彼。 「あなたの正体は、闇なのですか?」  問う私に、ルイは一瞬だけ驚いたような顔をしたけど、すぐに納得の表情へ変わった。 「なるほど、一種の血盟というやつか。血の交換をするにあたり、私の記憶が君に流れていたわけだね。  気恥ずかしいが、ここは手間が省けたと考えよう。ああ、その通りだよ。私はそういうものらしい」 「そして、自分の子供である吸血鬼の真似事をした?」 「然り、必要なことだったのでね。  君を死なせないためには」  永遠とも言える長い年月を生きた彼は、生涯に対となる伴侶を求めている。  だけどそれを見つけたところで、相手は彼ほど生きられないから、延命の法を施す必要があったということ。  夢で見たものが真実だと証明されて、一応の筋はこれで通った。 「お願いだから、どうして自分が――などと言わないでくれよ? 私の記憶を垣間見たなら、おおよそ理解はしているはずだ。  私にとって、君は無二の……」 「光だったと?」 「そうだ。あのカチンで、君の魂に私は触れた。ゆえに目覚めた。  吸血鬼としての皮を被っていたからね。その外装を瞬時に無力化されては飛び起きざるを得んよ。  そして、そんな真似が出来る者は光以外に有り得ない。黒円卓の連中は状況を不思議がっていたようだが、真相は何のこともない。君が資格者だったというだけさ」  あのとき、彼が生んだ闇の中にいた者は、リザさん、ベアトリスさん、ヴィルヘルム……そして私と、本物のルートヴィヒ。  そこで曰く光を見たルイは、一番孤立していた最後者を殺害して成り代わった。棺に残っていた謎の骸は、その彼だったということだろう。  経歴を頂いたと言っていたのも、単に詐称しただけではないと分かる。なぜならルイは現代における知識を完璧に持っていたから、文字通りルートヴィヒの存在を丸ごと奪い取ったのだ。  吸血鬼ならば可能なこと。ましてその大元である闇の神祖なら言うに及ばず。血の魔業がもたらす〈賜物〉《キセキ》を、私も同様に体験している。 「それでも君は、なぜ自分が選ばれたのか不思議かね?」 「いいえ、そこはこの際問いません」  だから、問題は別にあるのだ。彼が私に向ける過大評価は、確かに解せないものだけど。  あの洞窟で、具体的に私がどう闇を祓ったのかも、自分自身不明だけど。  今、明らかにしたい事実はそういう類のものじゃない。  単純に、ただ当たり前に目先のこと。 「私は吸血鬼になるのですか?」  その一点。それが何よりも大事だった。  とても簡潔な私の問いに、返ってきた答えもやはり簡潔。 「そうだ」  頷き、彼は目で告げている。これは決定した事項なのだと。 「だったら私は、あなたの伴侶じゃなく奴隷です。だって吸血鬼の親子とは、そういう関係なのでしょう?  御伽噺のような幻想だけど、あなたはその皮を被って“らしく”振舞ったわけなんだから。つまり私も、そういうものになってしまう」 「なら私の意志はいったいどこに? あなたに操られるだけなのですか?」  あのカチンで見た、哀れな死者たちのように。自分もそういう存在なのかと訊く私に、ルイは首を横に振った。 「違うよ。私は君を縛ったりなどしていないし、むしろ逆だ。解き放っているつもりだよ」 「なぜなら、吸血鬼とその成りかけは、自分の感情や欲望を制御することが難しくなる。特に後者は顕著でね。  ゆえにこの数日間、君がこれまでと違う状態だったのは事実だが、別に操られていたわけではないし、人格が変わったわけでもない。  ただ、普段より数割増しで素直になっていただけだ」  少しの喜び、少しの怒り、そして恥ずかしさや、諸々の衝動……  今までなら自覚も出来ず、しても自制可能だった心に対して、私は過剰反応するようになったのだと彼は言う。 「だから解放?」 「そうだよ。それは君の言う、半分じゃなくなるということではないだろうか。  戸惑いはしただろうし、後悔もしただろう。はしたないと感じることさえ、もしかしたらあったのかもしれない。  だが、それこそ君の求めていたものではないかね? 制御できぬ思いの奔流……振り回されることはあっても、やりたくないことはやらないだろう」  ルイに好感を持ち、気を許したこと。  彼に乱暴したヴィルヘルムを見て、怒ったこと。  そして、あのとき私を血の欲求へと誘った思いは…… 「そうした意味で、君の意志は君のものだ。私が操ったわけではない。  吸血鬼にその手の主従関係があるのは否定せんがね。そんな命令は決して下さんし、そもそも出来んよ。  なぜなら君は、光だから。  それを前に、あらゆる闇の者は無力となる」 「だけど――」  そういうことなら、彼の言には矛盾があった。私を光と定めたのに、どうして吸血鬼という闇の存在に落とすのだろう。  これでは、名実共に夜の住人になってしまっただけではないか。 「いくら私を生かすためでも、心を解放するためでも、太陽の下を歩けなくなるなら意味なんかない」 「あなたは、私から光を奪ったのですか? 答えて、ルイ!」  もともと満足にそれが出来ず、にも関わらず求めたから私は命を縮めてしまった。ゆえに延命を図るなら二度と太陽を見るべきじゃないと、確かに正論だが納得できない。 「だってそんなのは私じゃない。私の今までを否定している。  あなたが光と定めたクラウディア・イェルザレムではなくなるんですよ。分かってるんですか?」 「もちろん、百も承知だよ。言われるまでもないことだ」  と、即答で返されたから面食らった。そんな私の反応を慈しむように、ルイはそっと囁いて…… 「白い夜。  覚えていないか? この世界には、光と闇が同居している地もあるんだよ。  そして、君もそれを見たいと言ってくれた」 「ぁ……」  同時に、私は思い出す。彼が自分の理想郷だと言っていたその場所を。 「そこでなら、闇は光と共存できる。光もまた、闇を宿して光のままに生きられる。  私が君から奪うのは、死という暗黒。それだけだよ。他には何も望まない。君は君のままで在ればいい」 「勝手な真似をしたのは認める。押し付けだと言われても否定は出来ん。ゆえに愛してくれと言う気もないさ。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。  ただ、私は君を愛していると、知ってもらうために死を奪った。  そのことだけを理解してくれ。私から言える事実は、以上がすべてだよクラウディア」  終わりの日までと、祈るように結びをつけたルイに私は何も言えない。言うべき思いを見つけられない。  このまま彼の伴侶になることで、願いのすべてが叶えられるのは事実だから。この人が、私をそう導いてくれたのは間違いないから。  でも、なぜだろう。何かが胸に引っかかる。  非の打ち所がないような告白に、真っ直ぐ頷けない自分がいる。  素直になったというクラウディアは、いったい何が気に入らないの?  彼に会うまでは気付きもしなかった感情が、自分の中にあるというの?  じゃあいったい、それは何? 分からない。分からない。分からないけど無視できない。  自問は、このまま永遠に続くような気さえしたが、しかしそのとき―― 「ち……まったく無粋な奴らだ。忠告はしたというのに」  後方に向けたルイの視線を追った私は、そこでようやく気がついた。 「あれは……」  そう、胸を苛むこの感情の正体は、きっと…… 「しばし眠れ、クラウディア。目が覚めたとき、そこには白い夜が広がっていると約束しよう」 「ま、待ってルイ! あなたは――」  言葉を最後まで紡げずに、私は彼の内部へ沈んでいく。  白夜に至るという、一瞬の闇の中へと落ちるように。  北緯七十五度、東経九度――ノルウェー海をスヴァールバル諸島に向けて北上する黒い星へ、それは怒涛の猛追を見せていた。  比喩表現としてのものではない。当時の如何なる手段も凌駕する高速の移動だったのは事実だが、単純にその進行が怒涛でしかないからである。  轟音と共に噴き上がる水柱は数百メートルもの高度に達して、しかも連続し続けた。まるで際限ない爆撃を受けているような状況が、厳寒の海を文字通り震わせている。  放射状に津波を巻き起こしながら迫るモノが、ここに至るまで生んだエネルギーの総量は歴史的な大地震にも匹敵しよう。もはや破滅級の災害とすら言っていい。  にも関わらず、そんな程度は序の口でさえないのだ。  当然だろう。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈走〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  山をも掴めそうな巨腕が海面に叩き込まれる。右手が海の底を掴むと同時に、次は左手、再び右手――その繰り返しが起こしている現象にすぎなかった。  神話の世界から抜け出てきたとしか思えない、黄金に輝く超巨大な骸骨が這うように進んでいるだけ。  真っ当な神経を持つ者なら軒並み狂気に至る光景だったが、これは紛れもない現実なのだ。  その名は〈至高天第五宇宙〉《グラズヘイム・ヴェルトール》――ラインハルト・ハイドリヒの創造にして、大戦の死者たちから成る修羅の魂。まさに地獄の総軍である。  度外れた威容は無論数多の者らに見られており、大混乱どころではない騒ぎを起こしていたがそれでいったいどうしたという。  秘匿? 隠蔽? 笑止千万。これは覇者の出陣である。一般社会の裏で匹夫のごとく隠れ潜まねばならぬ理由は何処にもない。  既存の常識とやら、価値観とやら、すべて制圧するからこその覇道なのだ。纏めて呑み込み、塗り替える新世界の絶対法則がここにある。  娑婆から外れた身の者は、なべて暗い道を行くべきといった理屈など敗北主義者の戯言にすぎない。  おまえたちは勝てぬのだろう。人に知られ、表に実態が広まれば負けてしまうからこそ隠れるのだろう。  軍人然り。罪人然り。そして魔術師、人外然り。  己は〈常人〉《ただびと》よりも世界の真実を弁えており、ゆえに優れていると粋がりながらも俗世を恐れ、逃げている。  なんたる矛盾。なんとか弱い。〈愛〉《かな》しきほどに儚い者らよ。我が表裏残らず壊してやろう。  負けぬ。負けぬ。涙を流して〈怒りの日〉《ディエス・イレ》を崇め讃えよ、〈我は世界に勝利する〉《ジークハイル・ヴィクトーリア》。  おお、甘美なる戦争の喜びを与え給わん。  森羅万象悉く、修羅の理に染まるがいい。  謳う魔城の頭頂部には、ヴァルハラの王たる黄金の男が立っていた。麗々とした美貌にアルカイックスマイルを浮かべ、愛おしむように前方の闇を眺めている。 「追いついたな。さて……それでは開戦といかせてもらうか。  存分に奮うがいいメトシェラ殿よ。卿に〈破壊〉《アイ》を与えよう」  優雅な口調に蛮性を匂わすものは何もない。ただ血を好む戦闘狂とは、そこが一線を画している。  言葉通り、愛を与えるつもりなのだ。この男にとって、破壊することと愛することはまったく同義なのだろう。  ゆえに〈怯懦〉《きょうだ》も、躊躇いも一切ない。溢れる覇王の情をもって、あまねくすべてを壊すのみ。  傍らに侍る水銀の魔術師は、それを寿ぐように頷いていた。 「彼は私にとって古き友だ。せめてその生涯に、光となる滅びの花を咲かせてほしい。  とはいえ、油断めさるなよ。率直に申し上げて、これまでとは格が違う。  概念としては、創造より半歩上の領域だ。あなたはこの城を三ヶ月近く展開している状態だが、あちらは確かなところでも三万年は続いている。  自らの〈渇望〉《いし》でそうなったわけでもないようゆえ、単純な比較は出来んがね。ともかく極めて原始的だ。あまりこちらの常識は通じない。  よって、私から助言できることもさほどないが……」 「あれは求道か。それとも覇道か」  友の長広舌を断ち切るように、ラインハルトは知りたいことのみ舌に乗せた。実際、夜闇という存在はどちらの属性も有している。いいや、両方らしくないと言うべきか。  日没と共に侵略してくるところは覇道的だが、その領土は基本的に一定しており、たいした増減が成されない。これは求道的と言えるだろう。  かといって、光という別の理に直面すれば容易く道をあけるのだ。そこに求道特有の頑迷さはなく、覇道特有の攻撃性も見られない。  原始的とは言い得て妙で、〈混沌〉《カオス》さながらに定義しきれない部分がある。それを肯定するかのように、メルクリウスは含み笑った。 「分かりませんな。きっと、そういう種類分けが生まれる以前のものなのだろう。原生生物を捕まえて、雄か雌かと言っているのに等しい。  だから先ほど申した通り、あまり常識で量らぬことだ。不明なものを理屈に嵌めたがるのは文明人の悪い癖で、愚かな行為と私は思う。  単純な話、メトシェラと対するならば戦術的には大きく二つ」  魔術師は指を立て、闇を撫でるように囁いた。 「自ら理屈に嵌ってもらうよう促すか――」 「すべてを力技で消し飛ばすか――なるほど、大方理解した。せいぜい楽しませてもらうとしよう。  あるいはここで、私の全力が出せるのならばそれでよい。  出来ずとも――」  言葉を切って、ラインハルトは片手を挙げた。背後に控える万軍を鼓舞するかのごとく続ける。 「果てにさらなる戦が約束されていると信じよう。期待しているぞ、カール」 「謹んで、沿えるように努力いたそう」  そうして二人は目を合わせ、互いに微笑した後のこと。 「総員、出撃」  ラインハルトの手が下ろされた。爆発する戦意と共に、黄金の軍団が雄叫びをあげる。  今ここに、もう一つの大戦を決する幕が切って落とされたのだ。  降り注ぐ修羅の賛美歌。それに呼応して地獄が溢れ、吶喊を開始する。魔城を構成していた死者の一つ一つがバラけだし、雪崩を打ってルートヴィヒへと殺到した。  その多くは歩兵だったが、すべてがそうなわけでもない。戦車があり、戦闘機があり、戦艦までもが存在していた。そして彼らは、空中においてもその機能を失わない。  際限なく溢れる死者の群れが、大河と化しているからだ。もとより飛べる航空兵器は当然として、その他の者らも同胞を踏みしだきながら進撃している。  我らこそ、最後最強の神秘であると自負するように。悪夢の光景を具現しながら、闇なる神威へ向かっていく。  あらゆる常識を駆逐する光景で、事実これより先は超級規模の魔戦となろう。  しかしそれでも、戦である限り不変の哲理は存在していた。  すなわち、先陣を切るのは如何なるときも最精鋭。 「〈Fahr’hin,Waihalls lenchtende Welt〉《さらば ヴァルハラ 光輝に満ちた世界》――  〈Zarfall’in Staub deine stolze Burg〉《聳え立つその城も 微塵となって砕けるがいい》」  屍の河を〈轍〉《わだち》としながら、狂気の咆哮と共に疾走するのはウォルフガング・シュライバー。最速を自負する〈白騎士〉《アルベド》が、当然の権利であると言わんばかりに一番槍を買って出る。  その背後にはマキナと、そしてベアトリス。最前線を務めるにあたり、誰の異も挟ませない布陣と言えよう。 「〈Leb’wohl, prangende Gotterpracht〉《さらば 栄華を誇る神々の栄光》――  〈End’in Wonne, du ewig Geschlecht〉《神々の一族も 歓びのうちに滅ぶがいい》」  それが証拠に油断は皆無。全員が初手から全力を発揮する気だ。シュライバーの加速はさらにさらに、音速の千倍を超えて速くなる。  この世の誰も、何者も、彼を追い抜けないし捕まえられない。競う相手が光であれば、それすら超えてみせると誓う世界法則の突破現象。  そうした渇望を具現する、ここに凶獣の求道が炸裂した。 「〈Briah〉《創造》―― 〈Niflheimr Fenriswolf〉《死世界・凶獣変生》!」  ゆえに最速。捕捉は不可能。  悪名高き狼が、絶対無比の流星と化してルートヴィヒを貫いていた。  しかし―― 「……で?」  メトシェラは動じない。貫通した胸の穴すら、瞬きの内に復元していく。  いいやそもそも、この存在には実体という概念さえないのだろう。 「速いのは分かったが、それでどうした? 何か意味があるのか小僧。  そんなものを競う気など、私は端から持っていないぞ」 「───おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」  その間にも、シュライバーの攻撃は続行する。もとより創造位階へ入った凶獣に、まともな会話が出来る理性など残っていない。  敵より速く、何よりも速く――すべてを対価に払ってでも、求めたのは万物届かぬ速度域。生涯心より願ってきたそれのみが、最大にして唯一の武装だ。  比するものなき最速の理論のみを引き連れて、抉り噛み裂き引き千切るだけ。  よってルートヴィヒは八つ裂きにされ続けるが、やはり瞬く間に復元した。これは本来、有り得ないことだと言える。  なぜなら創造位階はルールの創造。既存の常識を己が理想で粉砕する業ゆえに、闇だから砕けないといった当たり前など今のシュライバーには通用しない。  はずであり、事実〈白騎士〉《アルベド》はルートヴィヒを削っているのかもしれなかったが―― 「総じて浅い。蟻の一穴にもなっておらんわ」  総体規模が巨大すぎる。重ねた歴史が深すぎる。つまり圧倒的な火力不足だ。  しかし、だからといってシュライバーを非力と断ずることは出来ないだろう。  たとえ一夜の闇であろうと、その大きさは世界の半分。それが那由多の年月に重なっているのがメトシェラなのだ。  如何に速い牙であろうと、一撃で切り裂ける面積は知れている。蟻の攻めにも及ばぬという言葉は確かで、否定ができない。 「〈War es so schmählich, ihm innig vertraut-trotzt'ich deinem Gebot〉《私が犯した罪は 心からの信頼においてあなたの命に反したこと》」  ならばどうする? 答えは次なる槍となり紡がれていった。 「〈Wohl taugte dir nicht die tör'ge Maid,〉《私は愚かで あなたのお役に立てなかった》  〈Auf dein Gebot entbrenne ein Feuer;〉《だからあなたの炎で包んでほしい》」  二番手はベアトリス。黒円卓でもシュライバーに次ぐ速度で駆けながら、その全身が徐々に紫電を帯びていく。  いいや、それだけではない。 「〈Leb' wohl,du kühnes,herrliches Kind!〉《さらば 輝かしき我が子よ》」  後方で、エレオノーレが部下の援護に入っていた。その横では、列車砲と呼ばれる規格外の大火砲が唸りをあげて稼動している。 「〈ein bräutliches Feuer soll dir nun brennen,〉《ならば如何なる花嫁にも劣らぬよう》 〈wie nie einer Braut es gebrannt!〉《最愛の炎を汝に贈ろう》」 「〈Wer meines Speeres Spitze furchtet, durchschreite das feuer nie!〉《我が槍を恐れるならば この炎を越すこと許さぬ》」  剣が、身体が、魂が、戦神の稲妻へと変生する。  それは無明の戦場を照らすため、願い祈った彼女の〈渇望〉《ルール》。  血と硝煙に染まった空の下、数多の同胞が道を見失うことなどないように。  敬愛する上官の理想が輝くように。  闇を切り裂く閃光に――英雄たちを〈栄光〉《ヴァルハラ》に導く戦乙女になりたい。 「〈Briah〉《創造》――」  その高潔な祈りこそ彼女の〈創造〉《セカイ》だ。背後から轟いた列車砲の火炎に乗って、ベアトリス・キルヒアイゼンの求道が輝く。 「〈Donner Totentanz Walküre〉《雷速剣舞・戦姫変生》!」  そう、闇は砕くのではなく祓うもの。爆発する光さえ生み出せば、暗がりの領土は減殺される。  天に大輪を咲かす稲妻と炎の共演。それは見事、メトシェラの王国を四分五裂させることに成功した。 「    」  しかし同時に、光と闇は表裏一体。輝きが強ければ強いほど、影は濃く深くなる。  地の底から這い上がるような声は文字通り、彼らの真下から聞こえてきた。  先にグラズヘイムの轟哮を返したときとまったく同じ、下方から噴き上がってきたのは己の技に他ならない。紫電と焔の奔流が、魔城の軍勢を数百纏めて焼き払う。 「くッ―――」  いくらか予想はしていたのか、ベアトリスは咄嗟の回避を決めていた。シュライバーもまた然り。  そして歯噛みをした間にも、再びルートヴィヒは何ら変わらぬ姿で眼前に現れている。  歩兵たちの一斉射撃も、銃剣による槍衾も、火を噴く戦車や戦艦の砲弾も、何ら効果を表さなかった。  メッサーシュミットの編隊が空から機銃掃射の弾幕を叩き込もうが、〈Ju 88〉《ユンカース》と〈He 111〉《ハインケル》が爆撃を繰り返そうが、闇は超然と在るばかり。  現状、悉くが通じていない。 「だから私は言ったのだ。追ってこようが益などないと。  無駄な真似をさせるなよ。なるべくなら、クラウディアを悲しませることはしたくないのだ。  彼女は清い女性だから、たとえどのような外道であっても人の死には心を痛める」  ゆえにおまえたちと戦うのは本意でないと言いながらも、ルートヴィヒの声には諦観が滲んでいた。  もはや最後通牒は終わっており、今さら再び促しても結果は変わらぬと知っているのだ。少なくともベアトリスは、ラインハルトの意向がどうであろうと続けるだろう。 「戦で身を立てようとする輩はいつの時代も理解に苦しむ。おまえたちは戦乱を闇と言い、それを制す栄光とやらの虜だが、順序を顧みたことがないのだろう。 始めに闇ありきではない。名利を求めるおまえたちの浅薄さこそが、屍山血河を築いているのだ」  混沌の暗雲を祓うため、英雄たちは自ら光になろうとした。古今、戦士たる者はそう主張しているが、逆であるとルートヴィヒは言っている。  闇から光は生じない。つまるところ、栄光に煽られた愚か者たちが戦乱を呼んでいるのだ。己が輝きたいために、舞台作りとして世界を暗黒に沈めようと画策している。  歪んだ光で、歪んだ闇を生んでいると気付いていない。 「そんなものは醜い自作自演の陶酔だ。破壊の愛だと? なるほど確かに壊れているな。よくもそこまで冒涜的に狂っていられる。  本来善も悪もないものに、おまえたちが欺瞞を施してきた結果をこれから教えてやろう」  すると、メトシェラの周囲で夜の厚みが増していった。事実、目に見える域で暗さに差異が生じている。  その色相変化によって浮かんだ形は、さながら魔獣の牙めいて―― 「私は醜くなってしまった。  おまえたちがそう望んだのだ。私は怖く、獰猛であれと」  闇を忌まわしき存在と定義したのは人間だ。本能的な恐怖の対象だからこそ、同様におぞましいものを表す代名詞となっている。  戦乱然り、災害然り、狂気然り、死も然り。  すべて悪しきことで、脅威となるもの。人類に対する捕食者の概念とすら言っていい。  ゆえに、ルートヴィヒは人を貪る事象の塊だった。精神的にも物理的にも、殺す手段は無限に近くそろえている。  にも関わらず、これまで攻撃らしい挙に移ることがなかったのは、彼がそんな己を嫌っているからだろう。  穢されたと思っているのだ。本来善も悪もない闇たる己を、煮え滾る猛毒に変えられたと嘆いている。  よってそのような面を見せるのは、彼にとって耐え難いこと。吸血鬼の皮を被ったときも同様に、好んで行ったわけではないのだ。  しかし、今となっては是非もなく―― 「おまえたちのような輩こそが忌まわしいと、自覚してから死ぬがいい。  闇の何たるかを分からん者は虚無も同じだ。無に還れ」  背後に浮かび、展開していた〈顎〉《アギト》の群れが、牙を噛み鳴らしながらグラズヘイムに襲い掛かった。  戦乱を制すものはやはり戦乱。それこそおまえたちの理屈だろうと告げるように。 「―――――――」  対するベアトリスは、稲妻に変じた己の身体をさらに強化することで迎え撃つ。如何な脅威の具現であろうと闇は闇。自ら光源となり輝けば、その爪も牙も届かない。  理屈としては正しいだろう。しかしあくまで、それは規模が同等だったときの話である。 「なッ――――」  稲光が浸食される。闇の領域に塗り潰される。どれだけ全霊を込めて雷化を成そうと、迫る〈顎〉《アギト》は薄れない。  それもそのはず、ルートヴィヒは牙の一つ一つに百日分もの夜を凝縮していた。事象を構成する密度の桁が違いすぎる。  岩屋に閉じ込められた状態で、たかが電球の光が外に届くはずもない。結果は潰され、光源ごと圧殺されるのみだろう。 「ぐああァッ―――!」  悲鳴が上がり、血飛沫が舞う。直撃こそは避けたものの、ベアトリスは左腕を丸ごと闇に毟り取られた。しかもまだ終わらない。  連続する夜の軍勢が津波のごとく押し寄せてくる。シュライバーは回避し続けているものの、すでに一撃喰らった戦乙女は迎え撃てる態を失っていた。このまま次波に呑み込まれれば、骨も残らず彼女の光は掻き消えるだろう。  再びエレオノーレの火砲によって援護が入るが、やはりそれでも止められない。メトシェラの夜がベアトリスを喰らい尽くす。  かに見えた、刹那。 「〈Miðgarðr Völsunga Saga〉《人世界・終焉変生》」  割って入った鋼鉄の幕引きが、闇の牙を一撃のもとに粉砕していた。  ついに、ようやく初の戦果。これまで蟷螂の斧にもならなかった状況が、この男により動かされた瞬間だった。 「……、マキナ卿」  痛みに顔をしかめながら、ベアトリスは彼の背を見上げていた。男は何も言わないが、その立ち姿から匂うのは紛れもない英雄の威風。  すでに自身の名も忘れ、至高の戦場にて果てることのみ願っている偉丈夫は、それがゆえに死というものの具現だった。より正確に言えば、終焉である。  〈英雄譚〉《ヴォルスング・サガ》に幕を引くこと。彼の渇望はその象徴として、あらゆる事象を終わらせる。そこに有形無形は意味を成さない。  歴史を内包する物語なら、例外なく有している終点へと移動させる問答無用のデウス・エクス・マキナ。  生物ならもちろんのこと、建造物は言うに及ばず、炎であろうと稲妻であろうと、思想や概念だろうと関係ない。  彼の拳を受けることは、それにとって歴史の終焉を意味するのだ。ゆえに当然、闇の神威であろうと同じこと。  殴れば砕け、一撃のもとに消え去るのみ。 「ほぉ……これはまた驚いた。危険な奴がいるのだな」  感嘆とも呆れともつかぬ吐息を漏らすルートヴィヒは、マキナの本質を先の一合で見抜いていた。人間にとって最たる暗黒が死である以上、そこを通じて察することは彼にとって難しくない。 「確かにおまえなら私を討てるのかもしれん。しかし、どうだ? 闇夜を終焉させる所業というのは、果たして是なのか、非になるのか」 「私が消え去った後の世など、自分でも想像できんがどう思うね」 「俺の知ったことではない」  寂びた声音は単純明快。即答で返す彼の在り方に迷いは一片も見当たらなかった。  擬人化された自然という概念を粉砕すれば、かつての同胞たちがそうであったようにルートヴィヒは神秘を失い、ただの闇へと還るだろう。よって穏当な結末はそこにあったが、マキナの拳は諸共砕いてしまいかねない。  つまり、闇夜という存在そのものの終焉だ。深く考えるまでもなく、それは世界秩序の崩壊を意味するだろう。  だというのに、この男はまったく頓着していないのだ。微塵の興味も示していない。 「夜が消えて、だからどうした。俺に砕かれるモノならば、いつか終わるモノなのだろう」 「ならば、今消えて何の不都合があるという」  色即是空。空即是色。もとより死んだ男である。  万象の本質はそこに帰結する以上、虚無を生むことに一切の躊躇いがない。だからこそ、彼は幕引きの求道なのだ。 「なるほど。ではおまえに一つ、良いことを教えてやろう」  再び、ルートヴィヒの周囲で闇の色相変化が発生する。先ほどまでと異なるのは、数とそして規則性。  獣群を放ったのが一撃目なら、これは隊列を組んだ銃口の様に酷似していた。  空に描かれたのは正確無比すぎる幾何学模様。それを背負ってメトシェラが告げる。 「    」 「ああつまり、おまえのような者には何の値打ちもないのだよ。  消えて不都合がない存在とは、要するにおまえだな黒騎士よ」  同時に、背後の射出口から一塊の闇が放たれた。それはマキナの眼前で弾けると、球体状に変形して彼を内部に閉じ込める。  そしてそのまま、押し潰そうと凝縮を開始した。しかし無論、この程度で討ち取られる〈黒騎士〉《ニグレド》ではない。 「――効かん」  すべてを砕くその拳が、暗闇の牢獄を粉砕していた。当然の結果であり、ルートヴィヒもそんなことは分かっている。  そう、分かっているからこそ、これだけでは終わらない。  二発、三発、四発、五発――絶え間なく連続する銃撃のごとく、闇がマキナを覆っていく。その悉くを彼は砕き続けているものの、すでに拳の回転率を遥かに凌駕した数と速度だ。もはや姿を視認できない。  極薄の壁が、何層にも渡りマキナを囲い込んでいく状況だった。一つ一つを砕くことは可能でも、個々独立して迫るものを一度に終わらせることは不可能である。  ルートヴィヒに対したとき、シュライバーの弱点が破壊力ならマキナは手数。すでに漆黒の球体に閉じ込められ、なお終わらない闇の重ね掛けを皆が呆然と見詰めている。  百を超え、千を超え、いつまでこれは続くのか。もはや誰にも数えられず、だが時間的には十秒も経たず終わっていた。 「五十万だ――千四百年に相当する夜をおまえには与えよう」  完全に閉じた闇の内部では、未だにマキナが奮闘しているのだろう。しかし、外側からそれを知る術は何もない。 「その一つ一つに喰われぬまま、自慢の幕引きを続けられるか? いいや仮に出来たとして、そこから出られるのはいつになるかな?」  単純に考えて、五十万発ものデウス・エクス・マキナを撃たねばならない。しかも、自らを押し潰そうとする暗黒の領域でたった一人、天地前後も分からぬままでだ。  那由多の夜が凝縮している本体にさえ拳が届けば、マキナはメトシェラであろうと一撃のもとに砕いただろう。しかしそれをさせないため、ルートヴィヒは必要量の闇を切り離して使ったのだ。  その規模は、自ら言った通り千四百年に相当する夜。五十万日分もの暗闇だ。  こうなってはいくらマキナであろうとも、個々に潰していくしか術がない。 「数ヶ月? 数日か? あるいはおまえなら、数時間で突破できるのかもしれない。しかし私は知っているぞ。  おまえたちの〈創造〉《それ》は長続きせんのだろう。水銀の薫陶を受けたとはいえ、人間一人の意志でいつまでも異界を持続することは不可能だ」  マキナもベアトリスもシュライバーも、己が願う〈渇望〉《いのり》によって自身を異世界に変えている。求道の彼らは内に閉じているため既存世界との軋轢を最小限に抑えられるが、それでもゼロではないし異物は異物だ。  さらに上の、自ら神となる位階に上がれば話は別になるものの、そうでない以上は必ず限界が訪れる。 「実に際どい天秤だろう。幕引きを使えなくなればおまえは死ぬし――」  そもそも、と付け足してルートヴィヒは失笑した。 「どのみち、数時間もすれば戦い自体が終わっている」  そして、軽く指を弾いた。埃か小虫でも払うようなその挙措で、マキナを捕らえた闇の牢獄が弾丸のごとく飛んで行く。  空の果て、水平の彼方へと一直線に。 「そんな……」  これで彼は戦線の離脱を余儀なくされた。ルートヴィヒが言った通り、仮に再起できても戦闘自体が終わっている。  さらに言えば、グラズヘイムの戦奴であるマキナはラインハルトと一蓮托生。主が斃れれば消える定めだ。  つまりどの角度から見ようとも、〈黒騎士〉《ニグレド》の脱落は揺るがない。メトシェラに対する唯一と言っていい切り札を、これで失ったことになる。  今このときもシュライバーは突撃を続けているが、依然効果は皆無に等しい。ベアトリスは傷ついており、残る者らも疲弊のほどは大差なかった。 「ちょっと、これ――どうすんのよォ!」  中でもルサルカは相性が悪すぎる。影を操る彼女の〈創造〉《セカイ》は、メトシェラに対して自殺行為も同然だった。ゆえに行動を制限され、何ら局面を打開できない。  リザも、シュピーネも、そしてカインも同様だ。有効な手を持っている者が一人もいない。  強いて例外を挙げるならエレオノーレだけだったが、それもベアトリスに比べればマシという程度のものだ。闇夜に光源を生むことで仲間と自身の損害を最小限に防いでいるが、逆に言うと他にやれることがない。  創造を使えば幾らか事態は好転するかもしれないが、リスクがあまりにも高すぎた。通用する保証がないうえに、やれば同胞を皆殺しにしてしまう。  彼女の世界はそういうもので、必要ならば敢行することも躊躇わないが、ここでは無意味な行動だろう。自分の首すら絞めかねない。 「ということだ、ハイドリヒ。そろそろ自ら出張って来い。  部下の陰に隠れるのがおまえの覇道でもないだろう。それとも、すべてが屍にならねば墓の王は気が入らんか」  であればそのようにしてくれよう。翼のごとく両手を広げて、ルートヴィヒは謳いあげた。 「        」  果てに何が訪れるのか。瞬間的に黒円卓の爪牙たちは身構えたが、しかし何の異常も顕現しない。  まさか不発か――そう訝った次の瞬間、それは唐突に牙を剥いた。 「……え?」  ルサルカの両脚が塩のように砕け散る。次に手指が、腕が、そして肩が、ぼろぼろと風化しながら崩れていくのだ。 「なに、なに……何なのよこれえええッ!」  異常は瞬く間に伝播した。個人ごとで侵攻度合いに差があるものの、肉体が崩壊するという点は変わらない。  グラズヘイムを構成する死者の群れすら、片端から砕け始める。戦車や戦闘機の類は錆に覆われ、自壊しながら海へと墜落していくのだ。しかも惨状は加速度的に増すばかり。  もはや総崩れ。全滅の未来さえ遠くない。 「ほぉ……興味深いな。そんな真似も出来るのか」  言葉通りに悠然と構えるラインハルトは、しかし頬に亀裂が生じていた。僅かそれだけではあるものの、謎の攻撃は彼にさえ効果を及ぼし始めている。  そこだけ見ても尋常ではない。規格外の魔業が揮われているのは間違いなかった。  ではいったい、その正体は何だというのか。 「これは時間かな、カール」 「左様、メトシェラが歩んできた夜を高速で回している。あまりに速すぎるため自覚するのは難しいが、身体は常に正直だ。風化が始まっているのだよ」  黒円卓は不死と不滅を求めている。そして彼らがそれを欲する以上、まだ至っていないのは明白だった。現状、ラインハルトでさえ例外ではない。  極めて死ににくいというだけで、相応の負荷を与えれば当然砕ける。たとえば、悠久の時間を叩き込むというような。 「千五百……八百、九百……ああ、今二千年を超えましたな。そろそろあなた以外は限界だろう。まだ肉体面にしか作用しておらぬから耐えているが、哀れにも察してしまえばどうなるか」 「自死衝動に潰されるか。確かにそうだな、気付けば魂が朽ちるだろう。  まあ、私以外の者に部下を壊させるわけにもいかんのは事実」  言って、ラインハルトは黄金の髪を掻きあげた。そうして一瞬隠れた顔が再び覗くと、頬の亀裂は跡形もなく消え去っている。  そのまま、こちらはこちらでまったく変化の見えない水銀を窺いつつ言葉を継いだ。 「とはいえだ、私は欲張りなのだよカール。こうして戦に臨む以上、完全なる勝利を求めている」 「と、いうと?」 「つまり、先に一度話しただろう。メトシェラ殿を制すにあたり、執るべき方針についてだよ」  こちらの理屈に嵌ってもらうか、すべてを力で消し飛ばすか。 「なるほど。ここであなたが前に出れば、後者を具現するしかなくなるな。  〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈相〉《 、》〈応〉《 、》〈し〉《 、》〈き〉《 、》〈者〉《 、》〈に〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈か〉《 、》」  メルクリウスもそこは認めて、ゆえに黄金は指揮官としての決を下した。 「そうとも。完全に勝利するとは、悉くに勝つということ。  私は両方取る気なのだよ。すなわち――」 「どうした、未だ腰を上げる気にはならんのかハイドリヒ。  おまえもだ、水銀よ。私を消したいなら自ら舞台に上がるがいい」  ルートヴィヒの声を受け、黒円卓の双首領は同時に苦笑を浮かべてみせた。やりたいのは山々だがと言わんばかりに。 「卿、その前にやるべきことがあるだろう」 「まずは恋敵と雌雄を決するのが筋ではないかな、メトシェラよ」 「……なに?」  それは奇妙な指摘。不可思議な言葉だ。理解できるが有り得ない。  彼らの言っている人物が誰を指すのかは明白でも、その実行に何の意味があるというのか。  あの男はとうに果てたはずであり、まかり間違って生き延びようが出来ることなど一つもなく…… 「いったい、何を言っている」  ただの聞き間違いかと思った刹那、夜を引き裂く茨の嵐が巻き起こっていた。 「――おおぉぉォッらああァッ!」 ぶち壊し、捩じり切り、ズタズタにして粉砕する。 そうした果てに打ち捨てる。 俺の戦い方にスタイルってやつがあるとすればそういうもんだ。力任せに蹂躙するし、陵辱する。 それが下品で外道なノリだっていうのは承知だが、しかし何だっていうんだよ。確かに俺は凡百って概念を馬鹿にしてるが、必死にそこから外れようと頑張ってるわけでもねえ。 見方を変えれば、俺のスタイルも一種テンプレだろうしな。悪ぶるのを格好いいとか、クソ餓鬼の背伸びみたいな真似をしたことは一度もねえよ。 単にこれは得手不得手の問題で、好きか嫌いかの問題だ。俺にはこういう暴れ方がしっくりくるし、他は出来ねえ。夜中に犬猫を狩ってた頃、自然と身に着けたもんだから染み付いてる。 好きこそ物の上手なれって言葉があるだろ? あれは真理だろうし逆も然りだ。 自分にとって、一番上手くやれる方法だから好きになるし楽しくもなる。 「―――ッ、貴様!」 特にこういう、いけ好かない野郎の顔色変えてやるのが快感なんだよ。俺はそのために生きてるとすら言っていい。 「よぉ、また会ったなクソッタレ――ぶち殺してやるからツラ貸せやァッ!」 雄叫びと共にバラ撒いた杭の魔弾が、野郎の闇とやらを片っ端から撃砕する。それによって、死に掛けていた連中もギリギリ難から逃れ出た。 「ベイ……!」 「ベイ……!」 「おお、なんだてめえら、ちょっと見ねえ間にどいつもババっちくなりやがって。みっともねえから下がってろ」 「あの野郎は、俺が殺る」 もとより譲る気なんかは欠片もねえ。借りのでかさも因縁の深さも桁が違っているんだよ。ゆえにこっから先の喧嘩は俺のもんだ。 文句なんかは言わせねえし、その暇すらも与えない。 「――行くぜええええェェッ!」 迫り来る闇の〈顎〉《アギト》を拳の一撃でぶち壊した。同時にこっちの腕も吹っ飛んだが、瞬時のうちに復元する。 「なんだと……?」 眼前の光景に、奴は驚愕の相を浮かべていた。表情の分かりづらい顔になっちゃいるが、にも関わらず丸分かりだ。つまりそれだけ、面食らってるという証だろう。 「疑問の理由は分かってるぜ。だがわざわざ教えてやると思うか間抜け」 「せいぜいああでもないこうでもないと考えながらよ、てめえは屑になるまでぶっ飛べやあァッ!」 爆ぜる死の棘――全身隙間なく茨を纏い、回転を加えながら自身を砲弾と化し突撃した。そのまま破城槌さながらに守りを砕き、本丸へと切り込んでいく。 まずは一発、何を置いてもこいつがなければ始まらねえ。過去三度に渡りすかされ続けた喧嘩の華を、今度こそ過不足なく受け取りやがれ。 「ぜいやああああああァァァアッ!」 全力で握り込み、全力でぶん殴る。ついにようやくここにきて、俺の拳がルートヴィヒの顔面に叩き込まれた瞬間だった。 芯に届いた手応えを確かに感じる。いなされてなどいなかったし、あがった苦鳴は演技なんかじゃ断じてねえ。 その代わりと言っちゃあなんだが、俺の身体も半分闇の牙にもぎ取られていた。しかし、さっきと同じく負傷は即座に回復する。たとえ致命域の損壊だろうと、この場に限っちゃ関係ねえ。 「──カハッ、ハハハハハハハハ!」 俺の中に流れ込み、血肉と化していく黄金の魂。この戦いへ臨むにあたり、ハイドリヒ卿から授かったこれが褒美であり祝福だ。 グラズヘイムの総軍から、俺は際限ない命の補給を受け続けている。教会で一度は瀕死に追い込まれながら、こうして全快を遂げたのもそのお陰だ。 どれだけ負傷しようが瞬時の内に癒せるし、こちらの攻撃は常に最大規模でぶっ放せる。 つまり後先考える必要がまったくねえ。現状の許容限界である八千相当の魂を、一発ごとに燃やし尽くしているんだよ。 結果、攻めも守りも爆発的に向上する。しょせんはこのとき限定の褒美だったが、そこから察せる未来の栄光を確信せずにはいられねえ。 すなわち、それはエインフェリア――ハイドリヒ卿の一部となってヴァルハラに召されれば、この権利を獲得できるということだ。 ザミエルがさほど多くの魂を喰ってなかった理由もそこだろう。あいつは端から不死の英雄となることにのみ狙いを定め、ゆえにつまらん雑魂を弾き続けた。 眼鏡に適う精鋭だけの、真に栄えある軍団の編成。半端な魂をグラズヘイムに献上するのは、不忠と考えたからに相違ない。まったく、なんともあいつらしい話じゃねえか。 俺はそこまで生真面目にはやれねえがよ、誇りの何たるかくらいは理解してるぜ。見事期待に応えることでそれを果たす。 こうしてグラズヘイムと繋がるため、諸々の準備から遅参した身の上だ。遅れて来たぶん、美味しいところは掻っ攫わなきゃあ嘘だろう。 「図に乗るなよ、恥知らずの紛い物が」 「どれだけハイドリヒの支援を得ようが、貴様の器が浅いことに変わりはない」 「はッ――だったらその浅い野郎と五分ってる、今のてめえは何なんだよォ!」 すれ違い様、共に痛打を与えあった。俺は腹を貫かれ、ルートヴィヒは腕が吹き飛ぶ。爆散する互いの欠片は絡み合って渦を巻き、断末魔のような音響を轟かせて虚空に消えた。 そして、次の瞬間には寸分違わず再生する。 「解せん――貴様ごときがなぜ私に触れられる。そこにどんな神秘があるというのだ」 「永遠の夜などと、壊れた理想を追っている貴様ごときに――」 「だから、教えるわきゃねえと言ったろうがこのボケがァッ!」 俺がグラズヘイムの補給を受けてることは流石に察したらしいものの、無論それだけでこの野郎とは競り合えねえ。業腹だが、こちらの器がたいしたもんじゃねえというのは確かなんだ。 八千そこらの魂を叩き込んで済む話なら、シュライバーでも似たようなことはやれただろう。つまりそういう理屈じゃねえんだよ。 圧倒的な質と物量、そして格の勝負でメトシェラを砕くなら、それはきっとハイドリヒ卿にしかやれないことだ。いわゆる王者の戦いであり、俺が具現できるもんじゃねえ。 加えてもちろん、マキナのような真似も不可能だった。無限の生を望むヴィルヘルム・エーレンブルグに、終焉の概念なんぞは宿らない。 では何か? 言っただろう、教えねえよ。 少なくとも、こいつがそれに気付くまで。 その瞬間、驚愕に引きつった顔を嘲りながら殴るまで。 「痛ぇか、痛ぇだろ――嬉し涙流せやコラアアァッ!」 俺は戦いに高尚な理念なんぞ求めちゃいない。殴りたい奴を力の限り殴って潰し、すっきり出来りゃあすべてがジークハイルなんだよ。 そのためにも手は抜かねえ。全力で楽しむし全力で殺すのみ。俺が標榜する騎士道ってのはそういうもんだ。 機関銃による千の掃射よりもなお多く、万の悪意を宿して茨が唸る。もはやそれは、この北極圏を蹂躙する森の様相を呈していた。傍目に状況を見るならば、狂気の光景に他なるまい。 とはいえ、ここで薔薇の夜は封じていた。全力を尽くすと言った以上、勘違いされちゃ困るが、別に余裕こいてるわけじゃねえ。理由はしっかりあるんだよ。 俺が夜を展開するのは、周囲から吸い上げて力を向上させることが主目的だ。しかし現状、補給に不足はまったくねえから必要性が薄くなってる。 加えて、ルートヴィヒを相手に夜を厚くすることのリスクだった。早々逆効果にならねえ自負なら持っていたが、言った通り主目的は果たされてるんでわざわざやらかす意味がない。 最後にこれが一番でかいが、ここでヘルガの意志を解き放つわけにはいかない事情が存在したんだ。それが何かは、先に教えねえと言ったことが密接に絡んでくる。 全力で破壊を成し続けてはいるものの、同時にひどく繊細な作業もやらなきゃいけない状況なんだよ。 要するに、頭の芯までかっ飛んじまったらすべてがご破算。 今はまだ、ヘルガを抑え込まねばならなかった。際限なく供給されるグラズヘイムを燃料に、あいつの力を揮いながら意識の覚醒だけは防ぐという、真に絶妙の綱渡りで―― 「必ずてめえをぶっ潰す!」 この戦いを勝利に導く。目指し、求めているのはその結末だ。つまり俺は、この上ないくらいに本気なんだよ。 「出来るものならやってみせろ、私はメトシェラ――」 「あまねく貴様ら、ノアの長だ。子に遅れを取る道理が何処にある!」 「ましてや、貴様のような奇形になど――」 ムカつく台詞を最後まで言わせにゃならん理屈はない。全身の筋肉をしならせて、引き絞られた弩弓のように上体を捻転させつつ、同時に弾く。 「てめえが俺の親父なら――」 そこから放たれるのは渾身の一撃。 「俺に殺される定めだろうがあァッ!」 血を吸う鬼になりたい。殺戮と暴虐と耽美と不死と――他者を吸い殺して己を新生させる夜の不死鳥。 俺の〈渇望〉《いのり》を陳腐と言うなら、間違った育ち方をしてると言うなら―― てめえの系譜に名はいらねえ。俺が俺であるために、親殺しこそが道だろう。 我が始まりよ、灰になれ。昔もそうしてやったように。 「砕け散って、消えやがれえええェェッ!」 空間に炸裂するのは闇と闇。激突しても光は一切生じねえが、俺たちの目には瞬く深淵が見えている。 ならば火花と表現して問題あるまい。乱れ散る〈闇〉《ヒカリ》は暴風に巻かれて、吹き荒ぶ嵐の中を星屑のように流れ飛ぶ。 変わらず回転を続ける悠久の夜とやらは、もはや俺だけを標的に絞っていた。この段階で何千年が経過しているのか知らないが、たとえ百万年をぶっ千切ろうがまったく関係ねえんだよ。 手足が崩れ、塵となっても、俺は無限に蘇る。それこそ求める〈吸血鬼〉《ヴァンパイア》。 死なねえんだよ、死んじゃならねえ。百億年でも千億年でも、星や宇宙が消え去ろうとも―― 死なないものに、俺はなりたい。 「──────!!」 「──────!!」 再度の激突、あがる叫びは言葉の態を保てなかった。 しかしそこに宿るものは明白で、互いに凝縮した殺意の発露。 砕き合い、潰し合い、絡み合いながらもしかし混ざらず、我こそ〈暗闇〉《メトシェラ》だと矜持に懸けて牙を剥く。 ああ、そうだとも、俺は〈真祖〉《オリジン》――てめえのようなよく分からん存在など、目障りでしかないだろう。 引き裂かれて千切れ飛ぶ音の欠片を追い越しながら、ヒビ割れていく大気の中を共に螺旋しつつ乱舞する。 いつの間にか発生していた巨大な竜巻をなぞるように、上昇する高度と速度は重力の〈頚木〉《くびき》すら食い破ってなお速く、速く、速く─── 「――負けねえ」 断固、敗北など許されない。 俺に勝った男はハイドリヒ卿一人のみ。これまでも、これからも、そこは未来永劫変わらねえんだ。 そのためにも砕け。再生しろぶち壊せ! 勝機を見出す瞬間まで、血の匂いを嗅ぎ続けろ。 クラウディア――何処にいる。 「  」 「――――――」 そして、それはそのとき訪れた。 「  ――!」 業を煮やしたルートヴィヒが、神秘の行使に踏み切った。見渡す限り空一面に、闇色の〈極光〉《オーロラ》が発生している。 まるで大陸すら沈没させる津波のような、凄まじい何かの降臨を予感させる圧倒的な破滅の光景。 天変地異の前兆めいたこれこそが、おそらく奴にとっての切り札だろうと確信したが、しかし俺は―― 「――〈Yetzirah〉《形成》」 そんなもん、どうだっていいんだよ。指を鳴らして、目の前にぶら下がった勝利の証を掴み取った。 「〈Qliphoth Bacikal〉《闇の賜物 》」 「―――――――」 同時、自らの内から突如生えてきた光り輝く茨を見下ろし、ルートヴィヒは放心していた。いったい何が起きたのか、まったく理解できないのだろう。 無理もあるまい。これはこいつの預かり知らないところで起こった事象。 何が悪いと言えば運が悪いとしか言えないもので、だからこそ俺にとっては切り札となったものだ。 「……いいや、それとも全部必然か?」 たとえ一つ一つは些細なものでも、積み重なれば流れとなって、不可逆性を発揮しながら落ちるべきところに帰結する。 メルクリウスならそんな風に言いそうなことで、だったらルートヴィヒの自業自得と言えなくもない。 実際、この展開を予想するのは、絶対不可能でもなかったはずなのだから。 「今、てめえを貫いてるのは俺の血だ。クラウディアに吸われたもんだよ」 「な、に……?」 そこで、奴もようやく察したらしい。 すべては血盟――吸血鬼という〈理屈〉《かわ》を自ら被ったくせに、その何たるかを軽んじたこいつの在り方にこそ敗因がある。 「俺はクラウディアに血を吸われた。ほんの一舐め程度のもんだが、それでもあいつの中に混じったのは間違いねえ」 俺の中に流れる〈闇の賜物〉《キッス・インザ・ダーク》――たとえどれほど微量でも、あいつは牙を取り込んだんだ。 「もちろん、単にそれだけじゃあ意味なんかねえ。だからどうしたって話だよ」 「ここで何より大事なのは、てめえがクラウディアを崇め奉ってるっつうことだ」 曰く光、無謬の太陽。こいつ自身がそう定義したのだから、そこで相関は不変となる。あいつの前じゃあ闇は無力と、さんざっぱら気障い台詞を抜かしてきた結果にすぎない。 「分かるか、おい。吸ったもんと吸われたもんには、血の繫がりが出来るんだよ。てめえがあいつに、あいつが俺に、縦一本の線が通った」 ゆえに俺は、クラウディアを通じてルートヴィヒの攻撃に対抗できた。黒円卓の連中を軒並み吹っ飛ばしたメトシェラを前に、伍することが出来たのはそういう理屈だ。 言い換えれば、クラウディアの力で戦っていたからなんだよ。 薔薇の夜を使わなかった理由もそこにある。ヘルガの意識が強くなれば、ただでさえ薄い血盟が途切れかねない。あいつはクラウディアを嫌っているから、むしろ嬉々としてやりやがるだろう。 わたしを愛して、わたしを見てよ。わたしがいればいいじゃないと、いつものように。 それじゃあ勝てる戦も勝てなくなるわな。 「だから俺は、てめえがマジになる瞬間を待ったのさ」 人のことを浅い浅いと言いやがったこの野郎が、いったいどれだけ深いのかは知らないが。 「そのときだけは芯が覗く。誰でも同じだ、変わらねえ」 人でも、魔でも、たとえ神でも―― 「そこを内から一突きされりゃあ、どんなバケモンでもイチコロだろうが」 「まして、闇に対する光ならな」 「がッ……」 ともかく、種明かしはこれで終わりだ。親切に説明してやったのも、すべては続く展開のためにすぎない。 言いたくて言いたくて、言いたくて堪らなかった台詞と共に、ぶん殴ってやるから吠え面見せろこの野郎――! 「てめえさっさと、俺の女を返せやコラアアアアァァッ!」 渾身の言葉と拳を叩き込み、吹き飛ぶメトシェラから俺はクラウディアを取り返していた。 そして―― 「見事だ中尉――ならば次は、私の番だな」 「Long〈inuslanze Testam〉《聖約・運命の神槍》ent―――」 同時に巻き起こる黄金光。ハイドリヒ卿の手の中で、槍の形に凝縮された〈宇宙〉《ヴェルトール》が出現する。 これこそ真実、疑いの余地など微塵もない神威の具現だ。その切っ先が何処に擬されているのかは、もはや言うまでもないだろう。 最後の神秘と言われたメトシェラ。理屈をもってそいつを制したのが俺ならば、ハイドリヒ卿は力ですべてを消し飛ばす。 覇道、王道、破壊の愛は揺るがない。二つの面から完膚なきまでに打ちのめしてこそ―― 「完全勝利だ。いざ参るぞ、受けるがいい」 那由多の夜すら、真っ向切って砕き散らす。 それはさながら、旧い秩序を一掃する新たな世界の開闢を思わせる光だった。 「オオオオォォォ、オオオオオオオオオオオ──ッ!!」 瀑布のごとく、闇のすべてを黄金の奔流が押し流す。絶叫しながら薄れていくルートヴィヒは、すでにメトシェラなんかじゃねえ。 こいつをこいつたらしめていた古代の神秘が、聖槍の一撃で蒸発していくのを皆が如実に感じていた。後に残るものは単なる闇。 形もなければ口も利かない、変哲もねえ自然が残るのみだろう。これをもって、カチンから続いた怪事は終わりを迎える。 そう、そこについては間違いなく終わったのだが―― 「まだ、だ……!」 光の中から伸びた手が、俺の肩を掴んでいた。正確には、俺の手にあるクラウディアを。 「まだだ……まだだ、まだ終わらん! 光を返せ……私の伴侶を、貴様などには渡さない……!」 「てめえ……!」 信じられない。驚天動地に値する光景だった。この男は俺にやられたのみならず、ハイドリヒ卿の聖槍をまともに受けてもまだ生きている。 いいや、すでに死んでいるのかもしれなかった。死んでいながら、なお滅びを拒絶する規格外の意志、執念。 俺がハイドリヒ卿とメルクリウス以外で恐怖というものを覚えたのは、このときが初めてだった。 「渡さん、断じて……彼女だけは!」 「貴様に、光を……奪わせはしない!」 「させるものか、させるものかあああああああァァァッ!」 そして一気に力を込める。予想を遥かに超える強さで、俺とクラウディアは奴に引かれるがまま宙に身を躍らせていた。 「うお、おおおッ――おおおおおおおおああああッ」 落ちる、落ちる、俺たち三人は絡み合ったまま、成す術もなく重力の虜となって墜落していく。 やがて雲を突き破り、開けた視界に映ったのは雪と氷に覆われた酷寒の大地。 これがいつだか言っていた、野郎にとっての理想郷なのかと思ったが―― 「くそったれがあああァァッ!」 この高さ、この速度、まともに落ちたらクラウディアが助からねえ。 ついさっき、三度目の恐怖を感じたばかりだったが、ここで立て続けに四度目を経験したんだ。 そう、俺は怖いと思ったんだよ。 クラウディアを失う未来に、自分でも分からねえほど戦慄したんだ。 「これはこれは、中々飽きさせぬ展開だな。いや、むしろ王道と言うべきか。  理屈で敗れ、力で敗れ、しかしまだまだ負けていない。最後に残ったのは男の矜持。愛しい女を手にするため、いざ魂の決闘に臨んでみせると。  つまり我々の見立てが甘かった。取るべき勝利は二本に非ず、三本あったというわけだ」  一連の状況を俯瞰して、メルクリウスは舞台の観客めいた無責任さを発揮しつつ嘯いていた。  ここまで指一本動かしもせず、修羅場にあっても勝手なことしか述べない姿勢は、彼が多くの者に嫌われている原因の一つだろう。 「さて、ならばどうされる? 援軍でも送りますかな、それとも皆で見守りますかな」 「必要ない」  どちらになってもやはり指一本動かさないだろう魔術師に、ラインハルトはそれだけ言うと聖槍の形成を解いていた。一度だけ眼下に視線を向けてから、無感動に付け加える。 「我々の成すべきことはこれで終わった。後は彼らの個人的な問題だろう」 「ゆえに引き上げだ。ベイも生きていれば戻ってこよう。完全勝利の是非については、このまま委ねることとする。  今さら部外者の立ち入りは、下世話というものだろうしな」 「ふむ……確かにそれはその通り」  心なしか残念げな水銀だったが、どこまで本気かは分からない。ただ、引き上げると言ったラインハルトに、別の問いを投げかけた。 「時に、どうでしたかなメトシェラは」  満足したかと、そこに単純な言葉のみでは量れない情念を込めて。 「悪くない。  しかし予想を超えるものではなかった。事実、既知も未だに晴れん」 「前座としては文句のない出来だったがね、部下の〈箍〉《たが》を締める役には立っただろう。  今後、己がどういうものと相対するのか。怒りの日とはどんな地平を目指しているのか。此度のことで、そこを感じ取ってもらえればそれでよいのだ。  つまり、概ね有意義な戦だったと表現できるな」 「それは重畳。有り難き御言葉、冥利に尽きる」  ならば次へ、その次へ、両者が見据えている事象の果ては、遥か遠く彼方にある。  ゆえにこの場は、もはや終わったものとして通り過ぎる。決して足を止めなどしない。 「ではひとまず、戻った後はクリストフの問題を片付けますかな」 「そうしよう。あれはあれで、私に必要な男だからな」  言って、瀕死の部下たちを見下ろすラインハルトの瞳は愛に満ち、彼らの未来を心から祝福している。  壊し、壊し、戦い続け、永劫の果てに達する修羅の理想郷を夢見ているのだ。 「ぐううううぅぅッ――」 「がああああァァッ――」  そして相容れぬ二人の男は、奇しくもまったく同じ方法で期せず協力を果たしていた。  すなわち、共に残った最後の力でクラウディアを守りきる。ヴィルヘルムもルートヴィヒも、墜落の衝撃を緩和することに己が全霊を注ぎ込んだのだ。  高度数千メートルから酷寒の大地に激突し、身を砕かれて血飛沫をあげながらも少女のことを離さない。離さない。  凍った斜面を塵のように転がって、砕ける氷に切り刻まれても離さない。  その果てに、ようやく止まった三人の前に広がるのは、見渡す限り白銀の世界だった。 「ヅ、ぐぁ……ガハッ」  立ち上がったルートヴィヒには、闇の神祖である証のすべてが失われていた。肌の色も目の色も、纏っていたはずの暗がりも、すでに跡形もなく消え失せている。  もとよりラインハルトの一撃で、彼は核と呼べるものを砕かれたのだ。放っておいても消滅は必至であり、僅かな残滓もクラウディアのために使い果たした。今現在、人型を保てているのが奇跡に等しい。  どういう理屈でそれが成されているのかは彼自身にも不明だったが、やはり執念なのだろう。他に説明のしようがなく、だからこそやるべきことは決まっていた。 「クラウディア……」  己の光を……命などより遥かに大事な伴侶の安危を確かめずにはいられない。  身を引きずるようにして歩きながら、彼は雪原に横たわる尼僧のもとへと辿り着いた。 「っ……、ぅぅ……」  そうして、聞こえてきたのは微かな呻き。胸を撫で下ろしたルートヴィヒは、跪いてクラウディアの容態を確かめる。  氷で切ったものだろうか、頬や手から血が滲んではいたものの、他に目立った外傷は見当たらない。即座に分かる大きな骨折もしていないようだった。  おそらく、半吸血鬼としての特性も利いたのだろう。大元であるメトシェラの力はすでに失せたが、少なくともルートヴィヒが存在している限り彼女は常より頑健でいられる。  ならば今、己が成すべきことはなんだ? 決まっている。 「早く、彼女を……」  安全な場所に連れて行かねばならない。ルートヴィヒの消滅は秒読み段階に入っているのだ。  ここで彼が消えた後、再び病を抱えたか弱いクラウディアに戻ってしまえば、即座に命が尽きてしまう。  それはならない。断じて許せるものではない。終わりの日まで共に生きることはもはや不可能になっていたが、そんな次元の問題ではないのだ。 「君は生きろ……一秒でも、一瞬でも。  君が生きたというその事実が、私の生涯を照らす光なのだ。  すべてなのだ……死なせはしない!」  そう誓って、クラウディアを抱き上げようとしたときに。 「そこまでだ。汚え手を引っ込めろ」  背後から届いた声は、永久凍土すら溶かしかねない熱を孕み燃えていたのだ。 「…………」  二人の男は無言のまま、白い世界で睨み合う。  共に目を覆うような有様だった。特にヴィルヘルムの傷は深い。  先の戦闘ではグラズヘイムの補給を受けていた彼だったが、今は完全に枯渇している。自前の魂しか残っていない。  最後の一撃をルートヴィヒに食らわした際、持てる魂をほぼ残らず燃やしたのだろう。そしてそのまま、やはりクラウディアのために少ない余力を使い切った。  ゆえに今のヴィルヘルムは、負傷の回復すら覚束ない。  そんな真似をすれば自前を削り、己が欠けてしまうのだ。結果どうなるのか具体的なところは不明だったが、間違いなく碌なことにならないだろう。  命を繋ぐために命を削る。本末転倒でしかない。  だから現状、ヴィルヘルムは生身の人間も同然だった。身に宿した魔業のすべてを、実質封じられたと言っていい。  この極限で、酷寒の下で、以上の事実は死に直結する。  ならばいったいどうするのか、すでに彼の中で答えは出ていた。 「貴様……クラウディアを殺す気だな」  搾り出すように紡がれた、怨嗟と憤怒に塗れた声。  そう、ここでヴィルヘルムが生き残るには、それしか手がないのだった。 「もとからそのつもりだったんだ。早いか遅いかの話だろう。  そいつは俺にとって、戦闘糧食みたいなもんなんだよ」  吐き捨てる言葉には不快の念が滲んでいたが、そこに殊勝な理由があるわけではない。  止むに止まれず、仕方なく――彼がそう思っているのは事実だったが、一般的な緊急避難に見られるような悲壮感はまったくなかった。 「不本意なのはお互いだろうが。せっかく手間ァかけたってのに、こんなクソくだらねえ事情で喰わなきゃいけねえ。最悪だぜ。  これじゃあそいつの魂は、光も何も発さねえ。一山いくらの雑魂だ」 「まったく馬鹿馬鹿しい話だよ。とんだ落ちになったもんだが、それでも俺が死んじゃあ堪んねえだろ。  この際、屑でも何でも腹の足しになればいい」 「屑だと?」  その一言を、ルートヴィヒは逃さなかった。今にも消えそうな身でありながら、燃え上がる激情と共に咆哮する。 「貴様は、彼女を屑と言うのか! 清く生き、理想に殉じ、儚く逝こうとしている彼女のことをッ!」 「幸多き人生では決してなかったはずなのに、微笑みを絶やさず、光を求め、与えんとし、貴様のような外道すら救おうとしていたクラウディアをッ!  屑にすぎぬと、そう断ずるのか!」 「やかましい」  対して、ヴィルヘルムの声は平静そのもの。ただ状況のみを進めるように、淡々と続けていく。 「そいつは結局、分不相応なもんを求めて身を滅ぼした間抜け野郎だ。  ごく普通っていう枠ん中じゃあ、満足できなかっただけなんだよ。足りねえ足りねえ、半分だなんだと言いながら、持ってる本質は過剰だった。  つまり貪欲で、強欲で、浅ましいうえに自分勝手な、罪深い奴なんだよ。  俺と似ている。飢えてんのさ」  だから俺のものであると、刻み付けて言うかのように。 「似た者同士、弱い奴が強ぇもんの糧になるのは摂理だろう。そいつは自ら死に向かっちまったが、俺は生きる。生きなきゃならねえ。  俺が求めているもんは、決して分不相応なんかじゃねえと……天下に声張り上げて謳うためにな」 「ここで殺すと?」 「その通りだよ」  もはや議論の余地はない。双方、己の真実を通すために、相手を叩き潰すしか道はなかった。 「彼女が貴様より弱いなどと、勝手に決めないでもらいたい」 「そう思うなら、てめえは今すぐその馬鹿叩き起こして光らせろ。  てめえに出来るもんならな」 「やってみせるさ。私が守る」  一歩、そしてまた一歩。二人は歩きながら近づいて…… 「───おおおおおぉぉォォァァァァァァ!!」  間合いが触れたその瞬間、共に男の〈拳〉《ほこり》を振りかぶっていた。 飛び交う鉄拳。跳ね上がる顎。そして舞うのは、極北のブリザードを真紅に染める血飛沫だった。 「ぐッ、があ……!」 「ごはッ、づおぉ……!」 今や俺たちに残った武器はこれしかない。壊れかけ、消えかけている肉体と、にも関わらず燃え上がる無限の闘志。 必ずここで貴様を斃すと、互いに断固誓っている。その先に譲れないものを求めているから、阻もうとする奴が邪魔で仕方ねえんだよ。 ――おまえにクラウディアを渡さない。 同じ想いを抱きながら、殴り合う、殴り合う、殴り合う。 衝撃で骨は砕け、裂けた皮膚が拳を斑に染めていっても止まらない。止められない。止める理由が存在しない。 目の前のクソを叩き伏せ、地に這わせて踏みつけるまで、俺たちの爆発は続行するんだ。 命の一つも見当たらねえ、こんな僻地でくたばって堪るかよ! 「笑わせやがるぜ、根暗野郎。よりによって、これがてめえの理想郷だと?」 「ここには何もありやしねえ。何の流れも存在しねえ。ただ凍って、凍って、それで終わりだ」 「これこそ虚無と言うんじゃねえのかァッ!」 広がる世界は、見渡す限りの白い闇。昼も夜もないもんだから、きっと時間さえもが動いていない。単なるどん詰まりのクソじゃねえか。 そして同時に、だからなのかと理解する。かつてマレウスがこいつの心象を灰色だと言ったのは、この極圏を胸に描いていたからだろう。 光と闇が溶け合う地……白夜の光景を追っていたからに他ならない。 「終わりの日まで? 馬鹿かてめえは! 終わってんのはここだろうが!」 「てめえごときがメトシェラ名乗んな、こんな場所に愛着持ってる時点で見え見えなんだよ! 一度も生きたことがねえだけだろうが!」 腹を思い切り蹴り上げて、屈んだ上体をアッパーでぶち上げる。そのまま追い打ちしようとしたときに、カウンターの拳を右目の上に叩き込まれた。 曇り、偏った目玉など潰してやると言うかのように。 「貴様にはそう見えるのだろう。殺すことしか知らん貴様にはな!」 「確かにこの地は極限だ。木々は茂らず、草すらまともに生えてこない。奪う獲物に不足するのは事実だろうが、それでも営みは存在するのだ」 「厳しい環境だからこそ、命は崇高に輝いている。俗世に見られる無駄な消費も濫用もない!」 「ゆえに自然だ。〈生〉《き》のままの姿だ。光と闇が同居して、原初の姿を今でも唯一保っている!」 「それを食いでの有る無しでしか判断しない――狭く、単純な価値観だな。だから浅いと言っている!」 「俗物が、貴様のような輩が世界を荒廃させているのだ!」 「俗の何が悪いんだ馬鹿野郎ォ!」 吼えて、奴のこめかみを殴り返した。互いに〈踏鞴〉《たたら》を踏むものの、怪しい足腰を無視して再び鏡のように殴り合う。 「つまんねえもんはつまんねえし、不味いもんは不味いんだよ! 侘びだ寂びだと抜かしてりゃあ、頭良くなったつもりか間抜けェ!」 「誰も褒めねえもんを褒めてりゃあ、何か悟った気にでもなれんのか? そんなもんは引きこもりの自慰なんだよ。俗離れした仙人なんぞは、骨と皮のカスだろうが!」 「薄っぺらいのはいったいどっちだ、このボケがァッ!」 希少イコール尊いじゃねえ。分かりづらいイコール真理でもねえ。誰にも見向きされねえもんにさえ価値を見出すのはご立派だが、それが高尚なんてこともねえ。 「てめえに俺の持論を教えてやるよ」 もっとも、このとき思いついたようなもんじゃあるが。 「売れてるもんの出来がいいとは必ずしも限らねえが、売れねえもんの出来がいいなんてことァ有り得ないんだよ!」 なんであれ、ここを越えりゃあ威張っていいというラインがある。競技にしろ、経済にしろ、頭脳や腕っ節に関しても―― いっぱしの面が許される一線は、そのジャンルごと確実に、曖昧に見えるが絶対に、間違いなく存在するんだ。 「そこにさえ届かねえもんは、てめえみたいな奴がどれだけ持ち上げようがクソだ」 「負け犬が負け犬に、自己投影してるだけだろうが!」 いわゆるアンダードッグ効果というもの。最低限の一線すら越えられない無能極まるしみったれを、同じ無能が擁護しているだけにすぎない。それで救われ、何か悟ったような気になりたいだけ。 「俺はそんなもの認めねえ」 対極のバンドワゴン効果ってやつも無論ある。流行ってるもんが流行り、金は金に集まり、出来や能力を度外視して勝ち組は勝ち続ける。 世界一売れてる食い物はジャンクフードだが、だったらコーラとハンバーガーが世界一美味いなんてことはねえだろう。 しかし俺は、そういう俗っぽさが嫌いじゃねえ。負け犬礼賛よりは遥かに共感できるんだよ。 それらは勝ちの基準となる一線を越えたんだから。最初に流行れたからこそ、さらに流行ることが出来たんだよ。 ハナから負けて、同類のお情けを受けながら存在しているボンクラとは違う。 「そんなもんは、自称違いの分かるソムリエ気取りしか崇めねえ、ぺらっぺらの聖域だろう!」 「てめえにお似合いだぜクソ馬鹿が! のし上がろうって覇気が足りねえ!」 世界が終わる日に自分も死ぬと、そんな未来を受け入れた雑魚いところがそっくりだ。 「いいか、よく聞けこの野郎――」 「愚かだろうが、俗だろうが、勝って勝ち続ける奴が強ぇんだよ!」 「すべてを呑み込み、喰らって膨れあがるのが覇道ってもんだ!」 気合いと共に激しくなる拳は、そのまま感情と直結していた。 俺の価値観と精神は、この楽園とやらを屑と断ずる。 「木は茂らず、森にならず、草すらまともに生えてこねえ」 自然というやつに先の一線を当て嵌めるなら、それは森林限界点―― 植物さえもが逃げ出すようなクソ辺境に、いったい何の価値がある。 「流行らねえんだよ、こんな場所は! 屑を無理矢理持ち上げて、いい空気吸ってんじゃねえぞォッ!」 高高度、あるいは高緯度――ここから先、森は生まれないとされる領域こそ俺に言わせりゃアンダードッグだ。 そう実感し、だから改めて気付いたよ。大自然サマの雄大さに比べりゃあ、自分はなんてちっぽけなんだと悦に入りながら抜かす馬鹿ども、そういう手合いにどうして俺はムカつくのか。 連中の崇める自然ってやつには、結構な率で森林限界点を越えた場所が含まれている。 白夜然り、オーロラ然り、高山然り、そして宇宙もまた然りだ。 そんなもんを持ち上げる奴らのことが、クソ売れてない映画の信者みたいで気持ち悪い。何ら現実は変わらねえのに、真理でも悟ったような負け犬どもをぶん殴ってブチ殺したい。 要はそれだけ。俗な俺にはそう感じるというだけのこと。 「ならば――」 最初から、すでにお互い満身創痍。食らい、食らわせた拳の数は、もはや三桁を超えている。 にも関わらず衰えない闘志はこいつも同じで、氷点下の風を吹き飛ばすがごとく咆哮するんだ。 「貴様は、この地に干渉しないとでも言うつもりか? いいや違う――知っているぞ」 「自然を壊し、星を喰らっても生きるのが人間だと抜かしたからなァ!」 「ぐッ、おぉ……!」 鼻に頭突きを直撃され、目が眩んで視界が潰れた。そこに連続してくる嵐のような蹴りと拳。 噴き上がる血が空中で凍りつき、それごと砕きながらなお殴る。 赤いダイヤモンドダストを背負うように、ルートヴィヒは消える寸前の身体を燃やしていた。 「屑でも貴様は喰らうのだろう。己が生きるためならば、すべてを呑み込むつもりだろう。価値を認めていないものですら、蹂躙するのが覇道と嘯き、恥もなく――!」 「共存という選択を持たず、無関心すら貫かない! 光と寄り添わず、他者に感謝の心も捧げず、かといって一人孤高に生きもしない!」 「果てに具現するのはただの荒野だ。覇道だと? 笑わせるなよ、血吸いの虫けらにすぎん分際で!」 「業深き、宿主すら殺す寄生虫が貴様らだ! 挙句、星と心中する殊勝さすら持っていない!」 「何処までも貪り続け、いつまでも飢え続ける。一つ制覇すればその次へ、それが終わればまた次へ――際限なく進む呪われた軍隊だ、おぞましすぎて反吐が出る!」 「太陽すら貪って、訪れた暗黒を真の夜だと謳うのか! これこそ至高の、求めた世界だと誇るのか!」 「何度も言うぞ、貴様は浅い!」 一際強く、渾身の拳を叩きつけながら、死にかけのメトシェラが吼える。 終わりつつあるという、旧世界の代表を自負するように。 「それこそ証だと言っているのだ! 貴様の求める不死は虚無と変わらん!」 分不相応だの、手に余るだの、そういう次元ではないと言う。俺が欲する栄光ってやつは“無い”のだと断言した。 「ゆえに貴様は、その手に何も掴めない」 「もとから無いものを目指しているのだ。どれだけ飢えて渇こうと、得られないのは道理だろう」 かつてメルクリウスは、俺のことを無限に奪われる者だと評したが―― 「貴様が貴様で、己の在り方を奪っている」 「お似合いだよ、血吸い虫。光を忌んで、闇に這い出る虚ろな魂は最初から死んでいる。無に何を掛けても無にしかならん」 「そしてこれは、おそらく貴様の主にも言えることだ」 「―――――――ッ」 その言葉が、俺の意識を限界以上に沸騰させた。 相容れず、殴り合っている者同士、俺への罵倒ならいくらでも受け止めよう。論に筋が通っていようがなかろうが、口舌の刃もまた戦だ。喧嘩の〈掟〉《ルール》を外れちゃいねえ。 だが〈一対一〉《タイマン》なら、文句は俺にだけ言うもんだろう! 「勘だがな、あの男の覇道は破綻している。成立しない」 「仮にハイドリヒがすべてを制覇したとして、そのときあいつは消えるだろう。あれはそういうものだと確信した」 「そして、奴に付き従うおまえたちも――」 「総じて虚ろだ。俺の目には、巨大な矛盾の塊と映る」 「あれは、まるで――」 虚無と知らずに虚無へ向かい、自滅に突っ走ることを運命付けられているようだと…… 抜かしやがったこの野郎が、俺は魂懸けて許せねえ。 「黙りやがれえええェェッ!」 互いに顎を打ち抜く一撃。 よろめいたのは数瞬で、爆発した意識に従うまま、再び吼えと打撃音が木霊し始める。 溢れ出す血は気管まで逆流し、それでも肉体の停止には及ばない。闘争はさらに激しさを増し、流血を巻き上げながら加速していく。 「ハイドリヒ卿が消えるだと!?」 有り得ねえこと抜かしてんじゃねえぞこの野郎、負け惜しみにしても度が過ぎてる。 「覇者が、覇道を貫いて、消えるわきゃあねえだろうが!」 理屈が立たない。完全に意味の分かんねえ戯言だ。よって俺は否定する。 「不滅なんだよ、俺らが目指すヴァルハラはなァッ!」 「だったらなぜ――」 肘を俺の顔面にぶち込んで、こいつもまた怒号した。 「貴様はこの世界の不滅を信じない? 遠くないうちに滅びると私が言っても、特に否定しなかっただろう!」 「当たり前だ!」 何せ俺らが、ハイドリヒ卿が既存のすべてを滅ぼすのだから―― 「つまり、自分たちだけは特別だと言いたいのか。呆れ返ってものも言えん、なぜそこまで思い上がれる!」 「既知の世界を滅するのが貴様たちなら、それを滅する何かも到来するとは考えんのか!?」 「真に不滅なものなど無いんだよ、小僧!」 「うるせえ――」 うるせえんだよ、この野郎。 「俺らを雑魚の理屈に当て嵌めんなあああァァッ!」 最後で、最強なのは俺たちだ。てめえはしょせん、途中でくたばる半端者にすぎない。 「空飛ぶピラミッドなんざねえんだよ! てめえのお仲間が消えたのも、てめえがこれから消えるのも、弱いからに決まってるだろうが!」 「俺らは違う――残り続ける!」 強いからだ。一点の曇りも無い覇道を奉じ、突き進むからだ。 「進化し、飛翔し、最新式であり続ける。後ろなんか見やしねえ!」 「今より上の過去なんかねえんだよ、覇道の歴史は成長の歴史だ」 「てめえらみたいな古いもんが何を言おうが、負け犬の遠吠えにすぎねえ! そっちが強えって言うんなら、消えるわけがねえんだからなァ!」 よって俺の流儀は変わらない。最新式こそ最強で、太古の昔はああだのこうだの馬鹿くせえ。 「神秘だ魔術だ奇跡だ真理だボケクソ死ねえェ! もうなくなっちまった雑魚のくせに、でけえ面晒すんじゃねえよ!」 「だからいい加減に、消えやがれえええェッ!」 咆哮と共に、全身でぶち当たる。それをまともに受けながら、ルートヴィヒは搾り出した。 「ではあくまで、求めるものは不滅だと?」 「ああ、俺はそれを信じてる」 そして仮に、もしまさか億が一、あの人でさえ滅びることがあったとしても。 「ハイドリヒ卿がいなくなっても、俺は生きる」 「宇宙がぶっ壊れようが……生きるんだよ!」 それこそメトシェラ。俺が目指す理想の体現に他ならない。 そのためにも、こんな所でくたばるわけにはいかねえから…… 「クラウディアを寄越せ……あいつは俺のものなんだよ」 渡さない。渡さない。俺にはあいつが必要なんだ。 「喰らうために、あくまで貴様が死にたくないがためだろう」 「悪いかよ」 いい加減、俺を相手に一般倫理などを説く虚しさに気付けよという話だった。 しかしそれでも、こいつの流儀に少しだけ乗っかった態で話をするなら…… 「おまえはよ、結局一方通行なんだよ」 「惚れてんのは勝手だ、好きに愛でもなんでもほざいてろ。だがそれで?」 「おまえはあいつに、どんなもんを生んでやれるんだ」 「……、いったい、何を」 言ってるのかって? 簡単なことだこの野郎。 簡単すぎて言うのも嫌になってくるが、つまりはこうだよ。 「おまえ、あいつに好かれるつもりがねえだろう」 「〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》だの、言ったんじゃねえのか色男」 「―――――――」 病を癒し、命を与え、愛で包みながら終わりの日まで共に過ごす。こいつはそれを望んだわけだが、総じて一方通行だ。俺が俺がでしか動いてねえ。 無償、献身と言えば聞こえはいいが、要するに歪なんだよ。てめえの尺度でしか量ってねえ。 「あいつが真に輝くときってのがどんなもんか、ちゃんと考えたことがあんのかい?」 俺はある。こいつに言わせりゃ傲慢で自分勝手なノリだったろうが、少なくとも双方向の繫がりを意識したのは間違いない。 「なんで主導権を丸投げしなきゃいけねえんだ」 「言っただろ。俺はあいつに惚れたいから、まずは惚れさせたいんだよ」 俺からクラウディアに与える光は、その心。こいつみたいに貢ぐだけじゃあ、真の意味であの女は満たされない。 なぜって、あれは強欲な奴だから。そのうえ頓馬なカマトトだから。自分じゃ意識しなくても、相思相愛じゃなければ首を捻ることだろう。 「私は罪深いと言わせたいんだ」 死にたくないと、魂から叫ばせたい。 「そのときあいつは、半分じゃねえ自分をようやく知って、認められる。光を手に出来るんだよ」 「てめえにそれは、与えられねえ」 「ならば、貴様は……」 ああ、もういい。すでに色々鬱陶しかった。俺はただ、一歩踏み込み―― 「どのようにして、そうさせる。人の心は都合よく操れない」 「貴様の奉ずる覇道でも、これは専門外だろう!」 「分かってんよ、そこが面倒臭ぇからこそ――」 クラウディアは俺のために死なねばならない。これは決定事項で、揺るがないこと。 そして糧にするならば、当然身になるほうがいい。 「面白ぇんだろうが、とにかくてめえは逝っとけやああああァァッ!」 やはり緊急避難で食い散らかすのはやめておこう。この極限状態にあってこそ、初志は貫くべきだと考えて…… 乾坤一擲の拳と共に、俺の意識は白熱の闇に呑まれていった。  叫びの残響が消え去って、残った者は一人のみ。彼は荒く息を吐きながら、足元に倒れた男を見下ろしていた。  構図はともかく、その目は勝者のものではない。 「……馬鹿な」  決着となった一撃の前、受けた言葉が何より彼を揺るがしていた。その気になれば容易く止めを刺せる状況で、それを行うことがなぜか出来ない。  つまり、決着と言うならこれがそういうことなのだ。ルートヴィヒは、ヴィルヘルムの指摘によってとうに敗北を喫している。 「私は、私は……」  一方通行だと言われたこと。愛する女に与えるだけで、受け取ろうとしなかったこと。  彼女の中に恋を芽生えさせようとしなかったのはなぜなのか。  望んでいないと思ったから? 自分に出来るわけがないと思ったから?  それとも、ヴィルヘルムの手前勝手な理屈に対する単純な反発心から?  いいや違う、きっと違う。 「私は、おそらく怖かったのだ」  闇たる己の影響で、光の彼女に変化を及ぼしてしまうことが恐ろしかった。  吸血鬼の真似事をし、吸血鬼に変えたこととは次元が違う。外郭的な属性がどうなろうが、クラウディアの本質は揺るがないと信じていたし、事実その通りだった。  しかし、心に干渉してしまえばそうもいかない。恋を知らないクラウディアに、異物を混ぜてしまう気がして……  新雪に墨汁を垂らす行為だと、そんな風に考えてしまったのだ。 「終わりましたか?」 「――――――」  それは冒涜だと、思うことこそ冒涜だったと彼は気付いた。  自分と共にいることで、彼女は堕ちると判断したようなもの。  愛しい女の健やかさを侮っている。光の不変性を疑っている。  だからなるほど、敗北は必然だったのだと今さらながら理解したのだ。 「気が付いて、いたのだね……」 「ええ、途中からですが」  振り返り、そこに立つクラウディアと向き合ったルートヴィヒは苦笑を浮かべる。  そうだ、彼女は気付いていた。先の決闘のみではなく、自分の間違った求愛にも。  実にみっともない話であり、もはや笑ってしまうしか出来ない。 「前のときは、途中で止めたら怒られてしまいましたので……  こういうときは、黙って見守るべきなのだろう考えました。私、間違っているでしょうか?」 「……いや、お陰ですっきり出来たよ。ありがとう」  彼女が間違ったことなど一度もないし、これからもきっとない。  少なくとも、彼はそう信じている。 「よかった。すごくはらはらしたんですよ。男の方というものは、やっぱり子供で、どうにも放っておけませんね。  あまり、賢くもないようですし」 「すまない。まったく、耳が痛い限りだよ」  なんとも定番的な構図であり、説教だった。ここに至るまでの諸々と、現在どういう状況なのかを鑑みれば、呑気に過ぎるというものだろう。  しかし、そんな彼女だからこそ何より尊い。気恥ずかしさが心地よく、極寒の吹雪さえ春風のように感じるのだ。 「ええ、本当に困った人たち。だけど私は、そんなあなた方を眩しいと感じました。 綺麗だと、美しいと感じました。  そして、何より……」  間を置くと、少し照れたように言い淀むクラウディア。ルートヴィヒは優しくその先を口にする。 「冥利につきると?」 「はい、罪深いですか?」 「いや、可愛らしいよ。光栄な話だ」  二人の男が、一人の女を懸けて争った。およそ馬鹿馬鹿しいものではあるが、古今東西に残る普遍的舞台に違いはあるまい。  ならば演者の嗜みとして、王道に努めなければならないだろう。男は熱く心身を燃やし、女は胸を痛めながらも誇らしく思ってほしいのだ。  自分たちは猛ったのだから、彼女はそれを讃えてほしい。悪女の業と人は言うかもしれないが、嫌がられ、呆れられ、馬鹿じゃないのかとそっぽを向かれては甲斐がなくなるではないか。 「そう考えれば、私も君に何かを芽生えさせることが出来たのかな。  ああ、だったら私の生涯にも……」  意味があったのかもしれない。最後まで添い遂げることは出来なかったが、伴侶と定めた彼女の中に想いを残せた。  ならばよし。それでよし。無限に近い那由多を彷徨ってきたメトシェラは、ただそのように納得して…… 「幸あれかし、愛しい君よ。私は光を信じている。  その選択が、どのような未来を描こうとも讃えよう。君は君が望むまま、やりたいようにやって生き……」  そして―― 「果てるのだよ、クラウディア」 「はい、素直にいきたいと思います」 「あなたが、それを気付かせてくれたから」  今、白夜に溶けながら消えていく。  彼にとっての理想郷……光と闇が同居する、この地で自然に還ったのだ。  旧世界の終わりが迫る。もっとも年経た者が逝き、後は大元が残るのみ。  それがいつか、何かはこの場の誰にも分からなかったが、クラウディアはただ祈った。  胸の〈十字架〉《ローゼンクランツ》を抱きながら、そこに答えがあるかのように、ひっそりと。 ………… ……………… …………………… そのとき俺が感じたのは、信じられないことに温もりだった。 直前まで、自分が何をやっていたか忘れるほどボケちゃいねえ。身体は大量の血を流し、〈賦活〉《ふかつ》に回せる魂もない。そのうえ現場は北極圏ときたもんだ。 どこから誰がどう見ても、この状況で感じることがあるとすれば“寒い”以外にないだろう。にも関わらずこれはいったい何なのか。 そう訝りながらも、どこかで納得をしていたんだ。ああなるほど。つまりこれこそ、求めていたもの。 「クラウディア……」 自分が愛されている実感。その手応えが、血盟を超えて俺の胸を満たしている。 確信しながら開いた視界に、女は淡く微笑みながら存在したんだ。 「目ぇ、覚めたのか」 「ええ……だけどそれは、普通私の台詞ですよ。自分がどういう状況なのか、分かってます?」 無論、そんなことは百も承知だ。さっきも言ったが、そこまでボケてるわけじゃねえ。 横たわる俺に膝を与え、上から覗き込んでくるクラウディアは、昼も夜もないこの地の空に溶け込むような佇まいを見せていた。 浮世離れの在り方が普通じゃなく、だからたとえ俺じゃなくても即座に察せることだろう。こいつの命は消えかかってる。 もとから体力がない上に、ルートヴィヒが消えちまったから吸血鬼としての力もねえ。氷点下の世界にそんな軽装で留まれば、どうなるかなんて明白だった。 自分の状況云々言うなら、おまえこそ分かってるのかと言いたくなったが、それは野暮だなと思い直す。 こいつは分かっているはずだ。分かっているからこそ、今こんなにも…… 「……、……」 「なんです?」 血染めにしたくて堪らないほど輝いている。そう素直に思えるっていうのによ。まったくふざけた話だったぜ。 「クソが、動けねえ……」 力がまるで入らないんだ。すぐ傍にあるこいつの顔に、手を伸ばすことさえ出来やしない。 殺すなら今。クラウディアから生の渇望を搾り出し、奪うのならこのときだ。待って待ち続けた瞬間を前にして、皮肉にもそれを成す力がない。 これまで何千と殺してきたし、人を超える存在だって潰してきた。殺しは俺の得意技で、誰が相手でも早々遅れを取らない自負がある。 だっていうのに、どんな巡り合わせなのだろう。過去最高に殺らねばならない時に限って、こんな死に掛けの女一人、好きに出来ねえ。 怒るべきか、嘆くべきか、それとも笑うしかないのだろうか。そんなことさえ分からなくなっていた。 辛うじて動かせるのは、口だけで。 「おまえを殺したい」 切実にそう呟く。遠吠えじみてみっともないとか、思えるような気分じゃなかった。 「殺したいんだよ、クラウディア」 「だから言えよ、死にたくないと」 言って、俺の魂を奮い立たせろ。おまえの光を見せ付けることで、再び夜に羽ばたく力をくれ。 懇願じみた殺意であり、脅しのような告白だった。まったく不恰好極まりないが、俺はこういうやり方でしか自分の気持ちを表現できない。 「おまえは俺のものだろう。俺のために咲き誇って、俺のために枯れるんだよ」 「薔薇となって、命を渡せ。それがおまえの役目だ、クソ女」 そう訴え続ける俺に対して、クラウディアは少し困ったような顔をする。 頬に触れるこいつの指はすでに凍り始めていたものの、やはり暖かく、不思議な癒しに満ちていた。 そのままそっと、慈しむように。 「天使とは、綺麗な花を撒く存在じゃありません。苦しんでいる人のために、戦う者のことを言うんです」 「私がナイチンゲールを尊敬しているという話はしましたよね。今のも、彼女の言葉ですよ」 「だから私は、花よりも天使になりたい。あなたのような」 「………ッ?」 いったい、何を言っている。よりにもよって、この俺が天使だと? あまりにふざけた喩えを前に、俺は二の句が継げられない。そんなこちらをいいことに、クラウディアは続けていく。 「あなたは私を救うために、いつも全力でいてくれました。それがたとえ、どんなものでも」 「一般的ではないでしょうし、だいぶおかしな関係でしたが、あなたなりに私を正そうとしてくれたのは確かでしょう?」 「善き処へ行けるようにと」 「違う……!」 ここを譲ってはならないという思いに駆られて、無理矢理搾り出していた。 俺はおまえを血泥に沈めたい。みっともなく泣き喚かせて、汚い部分を抉り出して、清々とした顔のまま逝こうなんて幻想をぶち壊してやりたいんだよ。 それでこいつがヘルガのようになったとしても、俺の知ったことじゃねえ。 覇道の性とはそういうものだし、人の都合などお構いなしに呑み込んで進むんだよ。 ゆえにこれは、天使じゃなく悪魔の所業だ。堕とし、潰して塗り替える。汚くなったこいつじゃなければ愛すに足る価値がないと、思って、しかし…… 「本当に?」 どうしてか、それ以上の強い否定を返せなかった。柔らかな顔と口調に、気圧されるものすら感じている。 「私はあなたに恋を教えることで救いたいし、救われたかった。でもそれだけじゃあ、やっぱり罪深いことなんですね」 「なぜなら今、死にそうなあなたを見るのがとてもつらい。死別に嘆く人たちは数限りなく見てきたのに、こうして体験するまでその悲しみを正しく分かっていなかったなんて、恥ずかしい……」 「私がやろうとしていたことは、あなたにこんな気持ちを与えること」 だからそれも呪いであり、罪深い行為だったのだとクラウディアは自嘲した。 けど、違う。やはり違うんだよ馬鹿女。 「俺が欲しいのは、破壊の愛だ」 愛しているからこそ殺して喰らう。そこに死別を嘆くような感性はない。 的外れなんだよ。ワケの分からん自省などをしてるんじゃねえ。 「でも、私はそう思ってしまいます。つまり噛み合っていないんですよ。一方通行はいけませんね」 「これは、あなたがルイに言ったことでしょう?」 「…………」 こいつ、聞いてやがったのか。羞恥よりも怒りを感じて睨みつけるが、クラウディアの瞳は揺るがない。むしろ喜んでいるような様さえ見せる。 「あなたの心を奪いながら、こちらの心を差し出さないのでは釣り合わない。代わりに命を捧げれば同等だろうと最初は思っていましたが、やっぱりそれも違うんですね」 「あなたは強く、強く生きたいと願っている。だからその糧になるものは、軽く差し出される命なんかじゃ見合わない」 「結局、何が言いたいのかと言いますと」 深呼吸して、姿勢を正して、まるで勝利の宣言をするかのように。 だが満面に広がるその笑みは、同時に降伏を表すものでもあった。 「あなたが好きです、ヴィルヘルム」 「私にこの気持ちを与えるため、戦ってくれた〈天使〉《あなた》をクラウディアは愛しています」 ゆえにこれは、もはや一方通行なんかじゃない。そこにすべての答えがあるのだと受け入れて、見出している顔だった。 「死にたくないと思うことが罪深いんじゃない。大事なのは、自分が何のために生きているかを知ることだって、教えられました」 「ルイにしろ、あなたにしろ、自分が生きる理由を知っている」 「そんなあなた達を、私は眩しいと感じたから」 俺に惚れて、その想いを伝え、後に死んでも罪ではないと。 「私もまた、輝けるでしょう。光となって、善き処へ」 「あなたを愛し、愛されることで、あなたを求め、求められる。双方向に繋がることで、私の命は二人ぶん。もう決して、軽くない」 「半分じゃない」 だからこの先、どうなろうとも釣り合いは取れるはずだと、確信した顔でこいつは言うんだ。 「死にたくないと思います」 「そしてあなたを、死なせたくないと思います」 「私を奪ってください、ヴィルヘルム。これは両立する気持ちなんです」 「私の一方通行じゃないのなら」 共に惚れ合っているなら対等で、罪は相殺され昇華する。好きな女が去っていく悲しみも、好きな男を残していく未練も、単体では呪いとなるが二つ合わされば光になると。 負の掛け合わせが正に転じる法則のように、そこに嘆きはないのだとクラウディアは言っていた。 「俺は……」 こいつの汚いところが見たかった。血みどろになるまで悶えさせ、狂ったように叫ばせたかった。 しかしいったい、これは何だ? 死にたくないと言いながら、俺のために死のうとしているこの女は。 そこに矛盾はないのだと、誇りを持って輝く魂が吸血鬼には眩しすぎる。 「てめえが嫌いだ……」 あるいはこいつの言う通り、何処かで承知していたのかもしれない。 汚してやるなんてのは餓鬼じみた強がりで、こいつの闇落ちは有り得ないと誰より信じていたのは俺自身。 だからこそ、クラウディアは得難い光だと最初に定義したんじゃなかったのか。 「嫌いなんだよ、てめえみたいな奴は気持ち悪い」 「死ぬなら死ね。喰ってやるよ。だが、俺の心は奪われちゃいねえ」 「俺は、てめえがくたばろうが、これっぽっちも……」 悲しくない。破壊の愛だ。俺は修羅の覇道を行く、黄金の爪牙なんだよ。 躊躇いなんかあるはずがなく、こいつを留めようとしてるわけじゃ断じてねえ。 これは単に、そう、あれだ。主導権の問題だ。 どっちが先に惚れたのか、そこらへんのことをこいつが都合よく解釈してそうで気に食わねえから、俺は〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》主張している。それだけのこと。 本当に、それだけのことだったんだが…… 「言ったでしょう、あなたとルイの喧嘩は見ていたと」 「二回とも、だいたいしっかり見ましたよ」 「……なに?」 呆れたようなその言い草は、俺の考えていることなどお見通しだと言わんばかりだ。 そして実際、ずばり図星を突いてくる。 「主導権とか、どうせそれでしょ? まったく、男の人はよく分からないことに拘るんですね」 「まあ、そんなところも可愛らしいと思いますが……いいでしょう、分かりました」 何がいったい分かったのか、クラウディアは名案を思いついたような顔をする。俺は不吉でしょうがない。 「天使は戦うものだと言ったでしょう? だから私も、私なりの戦いをしてるんです。本当に捻くれてる誰かさんを、少しは素直にさせたいという、そんな戦い」 「きっとそれは、その人の欠点で、良くない未来に繋がりそうだからなんとかしてあげたいんです」 「なのでまずは、こちらから譲歩しましょう。例の主導権、でしたっけ? そこはあなたの勝ちで構いませんよ。どうぞお好きに誇ってください」 いつの間にか“誰かさん”が“あなた”に変わっていたうえに、そんな屑でも放るように勝利を寄越されても嬉しくない。だが歯噛みする俺を無視して、クラウディアは続けていく。 「そういう男性の拘りを汲んであげたんですから、女の拘りも汲んでもらいたいと思います。ちゃんと言葉が欲しいんですよ」 「憎まれ口ばかり叩いて、言わなくても分かるだろうとかやめてください。そして、面倒だからと適当に言うのもやめてください」 「私が納得できるような、あなたの気持ちが偽りじゃないと確信できる裏付けと、そのうえでの言葉」 「以上が成されないと、このまま置いて帰っちゃいますよ」 「そういうわけで、はいどうぞ」 「……………」 帰るって、何処に帰ると言うんだよ。こんな永久凍土のど真ん中で。 そんなもんはもちろんハッタリだと分かっちゃいたが、抗弁する気力も時間もすでになく…… 「俺がてめえに惚れてるなんざ、まだ一言も言っちゃいねえし、何をそれ前提に進めてんのか知らねえが……」 ここで生き残るために、必要なことだと言うのなら。 「……具体的に、どうしろって言うんだよ。言葉の裏付けとか、そんなもん」 「そうですねえ、たとえば……」 言って、悪戯を思いついたように笑うクラウディア。 そのとき俺は、ふと目の前で揺れている些細な違和感に気が付いた。 「私のちょっとした変化に気付いてみせたりとか」 「それだけちゃんと見てくれたんだなあと、感じさせてくれるようなものを」 それはいつか、以前も聞いたことがある主張で―― 「おまえ……」 「ロザリオ、変わってんじゃねえか」 指摘したその瞬間に、目の前で光の奔流が爆発した。  彼の言葉を聞いたと同時に、私の中で想いが弾ける。  それは喜びで、祝福であり光だった。ちゃんと気付いてくれたんだと、彼の気持ちを確信することが出来たのだ。  ああ、私は愛されている。決して一方通行のものじゃないと。  思えたからこそ、満足したのだ。  死にたくないけど、死なせたくもない。これは矛盾じゃないのだと、笑って言えたことがもう半分じゃない証。  だから私は、あなたのための天使になりたい。  そうして罪は相殺され、福音の音色に昇華する。果てに不安は何もないから、どうか私を奪ってくれと――  委ねようとした矢先に、これはいったい? 「何なの……?」  胸のロザリオが熱を持ち、破滅的なまでの光を放つ。〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈魂〉《 、》〈を〉《 、》〈吸〉《 、》〈い〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  ヴィルヘルムはもちろん、自分自身でも分からない事態を前に、混乱する意識は過去の情景を紡ぎ始めた。  まるで、そこに答えがあるのだと言うみたいに。 「君はどうやら長くないね」  あの日、初めて彼らのお城に行ったとき、私を招待した人物から一瞬のうちに見抜かれたのだ。  これはルイも、そしてヴィルヘルムも知らないこと。私の本質、秘めた部分。良いところも駄目なところも、すべてを最初に指摘したのは彼だったのだ。 「にも関わらずあまり恐れていないようだが……ただの諦観でもないようだね。ほぉ、察するに過剰なのだな。道理で、これは面白い」 「ベイも中々に見る目がある。君もカチンに行くのかね? ならばこれも縁だろう」  言って、彼は私のロザリオを指差し告げた。 「お嬢さん、光を求めるならもっと良い物を持ちたまえ。聖職者に俗な価値観を植え付けるようで恐縮だが、知る限り神もさほど暇ではない。  祈りを天へ届かせるには、相応の場所なり時なり、または装いなどがあるのだよ。それを覚えておくべきだ」 「君が真に光たらんとしているのなら。  その渇望を成就させることに迷いがないなら」  人事を尽くせと。それも信仰に懸ける誠意であろうと彼は言うのだ。 「君は燦然と輝く天の御使い。愛の契約によって昇華する〈太陽の意志〉《メタトロン》として生まれたのだから。  ただ、そのように在るのが真理と心得たまえ」  そして私はあのときに、カチンの深部でこのロザリオを見つけたのだ。  ルイが眠っていたという棺の上に、これはそっと置かれていた。  闇に包まれた玄室で、仄かに光を放ちながら。  それが真実なのかは分からない。だけど、ある種の共鳴があったのは確かだろう。  私の魂とロザリオが繋がって、だからこそ真闇の中でも見つけられた。同時に彼の言葉を思いだす。  真に光たらんとしているなら、その思いを成就させることに迷いがないなら、使徒は相応しい装いを心がけろ。  正論であり逆らえない。そもそも私自身が欲している。  墓荒らしに等しいことだと思いながらも、誘惑は禁忌に勝った。  そして、ああ……だからなのか。  あの闇が、つまりルイの影が瞬時に洞窟から掻き消えたのは、私がこのロザリオを身につけたから。  夢の中、垣間見た彼の記憶にもあったことだ。  伴侶を求めると言ったルイに、古い魔術師が贈った品物。  メトシェラの花嫁にと、光の御子に相応しい装飾だと言って渡したのは、他でもない―― 「これが、そうなの……?」  胸のロザリオが肯定する。私を吸い上げ、光を放ち、何処までも〈永久〉《とわ》までも強く熱く輝きながら。  〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈変〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「――クラウディア!」  彼の呼びかけにも応えられない。駄目よやめて私を見ないで、〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈や〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》。  私の意思が焼き切れていく。違う――〈渇望〉《いし》だけの私になる。 「ヴィルヘルム……」  生きる意味と死ぬ意味と、自分の真実を悟った生涯最後、最大の喜びと共に。 「In principio creavit Deus caelum et terram.」  私の〈渇望〉《いし》が謳いあげるのは、私が夢見た〈理想〉《セカイ》だった。 「Briah――」 「Date et dabitur vobis.」  逃げて、お願い……私の〈愛〉《セカイ》があなたの〈理想〉《セカイ》を殺してしまう、その前に。 そして俺の前に広がったのは、極圏の景色を吹き飛ばす無窮の空と、そこから舞い降りてくる御使いの姿だった。 蒼く、白く、果てしなく突き抜ける天に輝くのは銀の太陽。この世すべての清さを集めたような聖光が、祝福を謳うかのごとく世界をクラウディアの色に染めていく。 この現象、この祈り、もはや論ずるまでもない。一目瞭然というやつだ。 「覇道の、創造……」 これがあいつの夢見た世界。求めて願った、渇望の具現。 だから、その意味するところは極めて明快なものだった。 「ぐおおおおおおおぉぉぉォォッ!」 降り注ぐ天の光に全身が焼き尽くされる。血が沸騰して骨が爆ぜ、音を立てながら崩壊していく。 俺がアルビノだからというわけじゃない。穢れた吸血鬼だからでもない。 この輝きはすべてを燃やす。たとえ真っ当な常人でも、黒円卓にいる他の奴でも、例外なく灰へと変える極限の神火だった。 しかもこれは、〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈の〉《 、》〈類〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。この世界に、敵を滅ぼすという悪意や害意は存在しない。 ゆえに微塵の容赦もなかった。光は尊く、〈焼〉《 、》〈く〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》とクラウディアが認識している常識こそが法則なんだ。 それが証拠に、見るがいい。 『ああ、ああああぁぁ、ああああ―――』 天使と化したクラウディアもまた焼かれている。あいつにとって光はそういうものであり、文字通り焦がれた理想だから至極当然のことだろう。 万象すべて、この太陽に〈祝福〉《もや》されよ。天使がしろしめす〈光〉《アイ》の前に、真なる命の燃焼を得るがいい。 果てに灰となっても構わない。 「馬鹿野郎があああっ!」 こいつは俺の創造とまったくの反対だった。 永遠の夜と永遠の昼。欠けない月と落ちない太陽。吸血鬼願望と天使願望―― 覇道でありながら求道を孕み、染めあげた世界の効果を自分にフィードバックさせている。 対極だからこそ掛け離れ、同時に悉くが類似していた。しかしそれでも、決定的な相違点はたった一つ。 「暴走……してやがる!」 クラウディアにはこの世界の制御が出来ず、あいつの渇望があいつの意思を無視している。 喰われているんだ。 発動は意図したものじゃなく、よって自ら解除も出来ない。 自分で自分を焼き尽くすまで、楽園の火は燃え続ける。 『幸せです。幸せです。私は光を得たのだから、もう半分なんかじゃない』 『ああ、今……こんなにも世界は尊く輝いている』 『光あれ、光あれ、光あれ、光あれ――』 『愛しています、ヴィルヘルム。私の天使、あなたの天使に私はなりたい』 「ぎ、ぐぅ……、がああああッ」 どうしてこんなことになっている。因果がまったくの不明だった。 クラウディアの胸元で、今も輝くロザリオこそが事象の核である聖遺物。それは理解したものの、いったいなぜという疑問が拭えなかった。 状況的にはカチンの前後、そのあたりに入手したと見るべきだが、そこから詳細を読む術はない。 確かなのは、依然変わらずクラウディアがド素人だということだ。そして同時に、破格の才能だということだ。 魔術の何たるかを欠片ほども知らないまま、渇望の強さのみでいきなり創造位階まで駆け上がった。しかしその反動で暴走し、自我が吹き飛んで己の世界に殺されかけてる。 馬鹿馬鹿しく、愚かしく、悪い冗談のような三文喜劇。だいたい、こんなもんは到底許し難いだろう。 「ただのガラクタが……誰に断って俺の女を吸ってやがる!」 あのロザリオには蓄えた魂など宿っていない。もし最初から人魂を内包している物体だったら、即座に俺やベアトリスが気付いたはずだ。 つまりあれは空っぽで、にも関わらずこの状況がある以上、燃料になっているのはクラウディア自身の魂。 俺が吸うべき俺のものを、横から十字架ごときが掻っ攫うだと? ふざけるのも大概にしやがれよ。 「許せねえ……!」 許していいものじゃない。 だったら、なあ――ここでやるべきことは一つだろう。 動けねえとか傷がどうとか、相性問題がなんだとか、言い訳並べながらやられてる場合じゃねえんだよ。 「ぐッ、が……おおおおおォォッ!」 気力を振り絞って咆哮し、激痛の縛鎖をぶち切りつつ立ち上がった。身体の至るところは火を噴いて、炭化した箇所が崩れ落ちたがそんなもんは関係ねえ。 蒸発し始めている眼球に映るのは、同じく光に焼かれているクラウディア。あいつの顔を見据えたまま、俺は短く宣言する。 「待ってろ。いま救ってやる」 こんなもんは俺たち二人の本意じゃねえ。おまえの魂が尽きる前に、必ず望み通り奪ってやる。 「おまえは俺のもんだ、クラウディア」 だから抱いてやろう。逃がさない。 そして今こそ―― 「俺の〈初恋〉《はじまり》よ、枯れ落ちろ」 ついに訪れた約束の時。自分の気持ちを認めたことで、ここにすべての覚悟は完了した。 ああ、そうだよ。もはや道は一つしかねえ。 「ヴィル、ヴィル、わたしの愛しいヴィルヘルム……」 俺の中に流れる〈闇の賜物〉《キッス・インザ・ダーク》――薔薇の魔性を解き放つんだ。もちろん対価は、言うまでもない。 「わたしのものになると言うのね? 本当に? 絶対に? いいのね、手加減なんかしないわよ」 「好きにしろ」 くれてやるよ、俺の魂――! 「いくらでも、吸い上げやがれえええェッ!」 許可し、同時に膨れあがる夜の覇道。ヘルガの歓喜が炸裂する。 「うふふ、あははは、きゃはははははははははハハハハ―――!」 そこから紡ぎ出されるのは、俺が求めた深淵の〈理想〉《セカイ》だった。 「〈Wo war ich schon einmal und war so selig〉《かつて何処かで そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか》」 「〈Wie du warst! Wie du bist! Das weiß niemand, das ahnt keiner!〉《あなたは素晴らしい 掛け値なしに素晴らしい しかしそれは誰も知らず また誰も気付かない》」 同調し、跳ね上がっていく闇の霊圧。俺の魂を喰らいながら、ヘルガが薔薇色の陶酔を謳いあげる。 「〈Ich war ein Bub', da hab' ich die noch nicht gekannt.〉《幼い私は まだあなたを知らなかった》 〈Wer bin denn ich? Wie komm'denn ich zu ihr?〉《いったい私は誰なのだろう いったいどうして》 〈Wie kommt denn sie zu mir?〉《私はあなたの許に来たのだろう》」 「〈Wär' ich kein Mann, die Sinne möchten mir vergeh'n.〉《もし私が騎士にあるまじき者ならば、このまま死んでしまいたい》 〈Das ist ein seliger Augenblick,〉《何よりも幸福なこの瞬間》―― 〈den will ich nie vergessen bis an meinen Tod.〉《私は死しても 決して忘れはしないだろうから》」 聖遺物とは、数多の血や信仰を浴びたことで意思を持つに至った呪われし器物。だから奴らは魂を求め、己に理想的な餌を供給する使い手を選別する。 つまり、気に入った相手を求めるということだ。そこに存在する真実は、単なる協力関係なんてもんじゃねえ。 〈聖遺物〉《こいつら》にとって、もっとも喰らいたいのは使い手の魂。 特に〈闇の賜物〉《ヘルガ》はその典型だ。俺を愛し、俺に尽くし、俺のためにすべてを捧げようとする裏側で、狂い悶えるほど俺の命を欲している。 「――〈Sophie, Welken Sie〉《ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ》」 それもまた破壊の愛。ここで新たに捻じ込んだ俺の〈詠唱〉《イノリ》は、クラウディアに捧げる想いであり、ヘルガと初めて双方向に繋がった証でもあった。 俺もおまえも、愛した相手こそを吸い殺したいと願っている。 すなわち、この狂気こそが〈血染花〉《ヴァンパイア》―― 「〈Es ist was kommen und ist was g'schehn, Ich möcht Sie fragen〉《何かが訪れ 何かが起こった 私はあなたに問いを投げたい》」 「〈Darf's denn sein? Ich möcht' sie fragen: warum zittert was in mir?〉《本当にこれでよいのか 私は何か過ちを犯していないか》」 「〈Sophie, und seh' nur dich und spür' nur dich.〉《恋人よ 私はあなただけを見 あなただけを感じよう》」 おまえがクラウディアを気に入らないのは百も承知だ。しかし文句なんか言わせねえ。 代わりに俺を吸わせてやるんだ。ならば釣り合いは取れるだろう。そこに一方通行は存在しない。 「〈Sophie, und weiß von nichts als nur: dich hab' ich lieb〉《私の愛で朽ちるあなたを 私だけが知っているから》」 「――〈Sophie, Welken Sie〉《ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ》」 俺はクラウディアを、おまえは俺を、そしてあいつが善き処へと行けるように。 「〈Briah〉《創造》――」 完成した薔薇の祈りは、ここに奇跡の夜を発動させた。 「Ros〈enkavalier Schwarz〉《死森の薔薇騎士》wald 爆発する闇の奔流が光を塗り潰して巻き上がる。周囲に咲き乱れる血染めの花は俺の魂そのものであり、命の蝋燭に他ならない。 それは今までも、そしてこれからもないだろう特殊な形での創造だった。出力だけなら凄まじい域に達しているが、原則として戦闘に使えるものじゃねえ。 「うふ、ひひひ、あはははははははははは―――!」 「甘ぁい、甘いわ、なんて素敵なのヴィルヘルム! もっとちょうだい、あなたの命を、魂を!」 「美味しくて美味しくて、美味しすぎてどうにかなっちゃいそうじゃないの! ひゃひゃ、ひゃひゃひゃひゃ――キャヒャヒャヒャヒャヒャヒャァァ!」 〈闇の賜物〉《こいつ》が何より、俺の味に狂いまくっているからだ。麻薬どころじゃない甘露を前に、クラウディアへの敵愾心など吹き飛んでるし見てもいねえ。 それが証拠に、展開された夜は極限級に濃いものの、効果範囲が非常に狭い。せいぜい俺を中心にした数メートルの半径で、現状におけるヘルガの狭窄視野を表している。 よって、まともに考えれば失敗以外の何物でもないだろう。他者からの略奪による補給と強化が薔薇の夜の真骨頂で、にも関わらずこれはすべてが反転している。 ただ単に、俺を吸い殺すだけの夜。傷の回復も力の強化も一切なく、ひたすら逆のベクトルに突っ走る自滅技だ。 しかし、この場このときに限って言えば―― 「これでいい……」 今はこれこそが奇跡の夜。なぜなら過去最高に濃い闇で、天使の光を減じることが出来たのだから。 動ける。歩ける。クラウディアの傍まで行ければ問題ない。 ここから杭の弾丸を飛ばそうと、夜の結界から出た瞬間に燃やし尽くされてしまうだろう。だから直接手が届くまで―― 直にクラウディアを抱きしめて、あいつの命が尽きる前に枯れ落とす。 それまで俺の魂が保てばいいんだ。 「行く、ぜ……」 呟き、夜を引きずりながら歩き始めていた。 まだ死ぬなよ、クラウディア。 俺はおまえを――愛しているからこそ奪ってやる。 「ヴィルヘルム……」  彼の行動とその意図を、私は焼かれていく意識の中で理解した。 「ああ、どうして……」  なぜこんなことになったのか分からない。私たちの関係と、果てに至った選択はそれほどまでに罪深かったというのだろうか。  何があっても成就させるべきではないと、神が定めたことなのだろうか。 『そうですヴィルヘルム、光を踏み越えて。私を奪って。  死なせたくない、死にたくない。これは両立する気持ちだから……  戦ってください。私の愛しい、私の天使よ』 「――ぐおおおおおおッ!」  それを肯定するかのように、私の〈渇望〉《いし》は私を無視して光の雨を降らせ続ける。  まるで試練を課すかのごとく、彼の歩みを讃えながらも妨害するのは矛盾ゆえに双方向。  生きるために命を削っているヴィルヘルムと、同じ真似することこそが愛の証と信じているんだ。 『私も天使になりたいから、あなたを救うために戦いたい』  その純性。狂気すら感じる論理展開。これがおまえの真実で、如何に罪深いかを自覚しろと天の光に言われている。  罰を受けろ。地に堕ちよ。壊れて間違った愛の報いを受けるがいいと、叩きつけられるような光景で――  薄れ消え行く今の私は、何一つとして抗えない。このままでは確実に、お互い死ぬと分かっているのに。  誰も善き処へは行けなくなるのに。 「もっと、もっとよ――もっとちょうだいヴィルヘルム! 足りないわ、ねえ吸わせてよ。枯れ落ちるまでわたしと共に行くんでしょおぉォォ!」 「ああ、好きに吸え。もったいねえとか思ってんじゃねえぞクソッタレがァ!」 「うふふふふふふ………ひひひひひヒハハハァァァ!」  彼は前進をやめようとせず、〈天使〉《わたし》は光を減じさせない。  むしろこれこそ求めた救いのすべてであると、無限に輝きは増していくのだ。 「当たり前じゃない。骨までしゃぶってあげるわ、大好きよおおおォ!」 『愛してます。愛しています。あなたに与えられた光の尊さを知ってください。見てください。抱いてください。奪ってください。  ああヴィルヘルム、私は今、こんなにも……』 「なんて幸せ、蕩けちゃいそう。   死んでもいいわ、一緒に死んでえええええェェェッ!」  向かう先には破滅しかない。至極簡単な理由として、ヴィルヘルムが〈天使〉《わたし》のもとへ辿り着けないのは明白だった。  一に相性。二に効果範囲。この二つが、どちらも彼の不利を物語っている。  まず、今のヴィルヘルムは本当の意味で吸血鬼となっているから、太陽の光にひどく脆い。天敵を相手にしていると言っていい。  そして第二の問題は、彼の展開している夜の範囲が非常に狭いものだということ。こちらの光は届くのに、向こうの闇は届かない。つまり一方的に殴られ続けている状態なのだ。  本来ならもっと広く、〈天使〉《わたし》の昼と同等以上に効果を及ぼせるはずだろうが、今はそれが出来ていない。  凝縮することでより濃い闇を纏っているのは間違いないが、それもたぶん気休めだ。なぜなら、〈完〉《 、》〈全〉《 、》〈な〉《 、》〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈暗〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈外〉《 、》〈の〉《 、》〈情〉《 、》〈報〉《 、》〈が〉《 、》〈掴〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  今の私が、この創られた昼の外をまったく認識できないように。  ヴィルヘルムは前に進むため、〈天使〉《わたし》の姿を見失わないために視界の確保が絶対必要となってる。  だから全力で光を遮断することが出来ず、致命の毒を浴び続け、なおかつ自分の魂を奪われているという状態なのだ。  こんなに悪条件がそろったうえで、目的を果たせるはずもないだろう。無理だと客観的に分かってしまう。  果てに訪れる未来は、光に焼かれて死ぬか少女に吸われて死ぬかの二つ。  にも関わらず、この人は…… 「待ってろ、そこ動くなよぉ……すぐに、行ってやるからよォ!」  自分の道に一片の疑いさえ持っていない。  出来る出来ないじゃなく、やるんだと。やれるのだと気炎をあげて、命を文字通り燃やしている。  その姿は、何処までも胸に迫るほど切なくて…… 「眩しいです……」  愛しいです、ヴィルヘルム。 「死なせたくない」  そして私も、死にたくない。  出来るのならばあなたと二人、ずっとずっと生きていきたい。  あなたの憎まれ口が大好きです。もっと聞きたいと思っています。  気が短くて乱暴で、普通にとっても悪い人で、今後もきっと碌なことをしないんでしょうね。  あるいはここで死んだほうが、助かる人は大勢いるに違いないけど。  あなたに殺された人たちは、あなたの死こそを望んでいるはずでしょうけど。  駄目ですね。それでも私は、あなたを救いたいと思ってしまう。  あなたは闇に生まれたノアの子で、だからこそ誰より光を知っている。 「だって、薔薇はこんなにも輝いている」  なんて言っても、どうせ否定するんでしょう?  気持ち悪いとか、誤解するなとか、すごく嫌そうな顔で怒鳴り散らす様が目に浮かびます。  それは実際、その通りなのかもしれませんね。  〈今〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》―― 〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈に〉《 、》〈お〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》。 「ルイはもうすぐ世界が終わると言いました。  そしてあなたは、世界が滅びても生き続けると言いました」  ならば次か、その次か……新しく生まれる世界において、薔薇の光が意味を持つときはきっと来る。  血盟を結んだことであなたの〈人生〉《いのり》を知った私は、強く確信しているんです。  だからこそ、ここであなたを――  その尊い光が無為に終わるような結末を生んではならない。  恋を知り、愛を抱いて、理由がどうであろうと身を削りながら戦う姿。  それを失敗で、つまらない馬鹿な真似だったとあなたの魂が思ってしまえば、続くすべてが崩れ去るような気がするんです。  私がずっと光を追いながら生きてきたのは、間違いなくこのときのため。  あなたに出会い、あなたを愛し、愛されて、薔薇の騎士を未来に昇華させる礎として私は生まれた〈契約の天使〉《メタトロン》。  クラウディア・イェルザレムが求めた光の正体は、あなたが楔となった果てに広がる奇跡の地平だと理解しました。  血染めの花から生じる可能性を、約束された祝福へと導くために。  黒円卓の第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ。あなたはきっと、もっと先へ行ける人だから。  守らねばならない。貶めてはならない。私たちの関係を、単なる敗北の歴史としてあなたに刻み付けたくはない。 「私も、そんな風に思いたくはありませんから」  たとえ、神その人から罪深いと言われても。おまえたちは報われるべきじゃなく、罰を受けねばならないと弾劾されても。  嫌なのです。聞きたくない。私が求めた善き処は、失意の円環なんかじゃないと信じてる。  じきに死んでしまうという〈世界〉《カミ》の筋書きに従う必要はないでしょう。  消えるのは弱いせいで、今より上の過去などないと雄々しく言ったヴィルヘルム。ならば、進化した彼の魂は断固“次”に繋げねばならない。  旧い世界の法に翻弄され、共に消える儚いものになっていいわけがないのだから。 「いつかまた、私の料理を食べてくださいね」  あなたが買ってきてくれたジャガイモを、少し丁寧に扱いたいので時間は掛かるかもしれませんけど。 「待っていてくださいね。しばらくジャガイモ抜きの食卓でも、必ず最後は完成させると誓いますから。  満足したと、言わせますから」  どうかここでの結末を、敗北だと思わないでほしい。  あなたの戦いはまだ続く。だから止まらず、最新式であり続けて。  世界の終わりを超えて、何処までも――  運命に挑み続ける不滅の戦士を救いたい。  そんなあなたが好きだから。 『一つになりましょう、ヴィルヘルム』  自分の〈渇望〉《いし》には抗えない。よって光は止められない。  だったら出来ることは一つだけ。 「先へ、あなたが前へ進めるように」  私はそれを実行するべく覚悟を固めた。  胸のロザリオを強く強く抱きしめて、〈メトシェラ〉《あなた》の奇跡となるために。 「づ、ら……あああああァァッ!」  一歩、そしてまた一歩、遅々としてだが天使にヴィルヘルムは近づいていく。  すでに身体は立っているのが不思議なくらいの有様だったが、そんなことを気にしてる場合ではない。気にしたら最後、潰れて終わりだ。  なぜなら当たり前の理屈として、光源に近づくほど輝きは強くなる。身を苛む太陽が破滅的な域に達している今、僅かでも躊躇するわけにはいかなかった。  あらゆる意味で時間がないから。 「おらもっとだ。もっと吸え……甘ぇんだよ、てめえの愛はその程度かァ!」 「こんな程度じゃあ、ちっとも役に立ってねえぞ! 俺を吸い殺したいんじゃねえのかてめえッ!」 「言ったわね、言ったわねェ! どうしてあなたは、いつもわたしを感じさせるの!  ああ、愛しいヴィル。可愛いヴィル。そんなにそんなに待ちきれないのね。いいわ、〈お母さん〉《ムッター》がとびっきり激しくしてあげる。  気持ちよくしてあげるから、ありったけを吐き出しなさい。残らず絞り取ってあげるからあァッ!」 「ぐ、ギ、がああ……ッ!」  歓喜に叫ぶヘルガと共に周囲の闇が濃くなって、同時に薔薇が枯れていく。  負傷や痛みとは違う次元で、ヴィルヘルムは自分という存在が崩れていく感覚を味わっていた。  まるで硫酸の海に落ちた角砂糖。魂を根こそぎ奪われた者がどういう存在になるのかは、あくまで予想しか立てられない。  黒円卓にはトバルカインという屍兵がいて、それがまさに“そう”なのだが、あれはあれで特殊な事情の持ち主だ。この状況にも適応されるとは限らない。  ただ間違いなく、自我と呼べるものは失うだろう。たとえ身体は生命活動を続けていても、思考は出来ず意思も持てない。  虚ろとなって果てるのか。それとも中身をそっくり入れ替えられるのか。いずれにせよ、これまでの彼ではなくなるだろう。  ならば今も、すでに己の何割かを失くしているに違いない。ヴィルヘルム・エーレンブルグという個を象る諸々の要素から、一つ一つが消えていく。 「は、つまりジャガイモのねえ料理ってか……」  自嘲の呟きを漏らしつつ、しかし悲観などはしていなかった。これは己が選んだことで、今後無限に続くだろう道の途中にすぎないからと。  長く生きれば落としていくものも当然あるのだ。ならば後ろなど顧みないのがヴィルヘルムという漢の流儀。  過去に拘泥していたら覇道が曇る。メトシェラには達せない。 「けどよ、こりゃあ別に、女々しいこと言ってるわけじゃねえんだが……  ずっと、永遠に歩いてればよ……またひょっこり拾うことがあるのかもしれねえな」  取り戻そうなんて願わないし、その機会を期待もしない。だが、何かの拍子に再びそれが目の前に転がっていたら。 「たとえジャガイモみてえな、しょうもないもんだとしてもよ」 「そんときは、また喰らうさ。進み続け、呑み込み続けるのが覇道だからな」  ゆえに今、彼は失われていく己の欠片を刻み付けておきたかった。  忘れないように腐心するという意味ではない。惜しんで涙する感性など、最初から持っていない。  刻み付ける相手は自分じゃなく、この世界にだ。いいやさらにもっと上の、巨大な法則が座す根源にだ。  彼やクラウディアが、それぞれの運命にどう立ち向かったのかを知らしめる。ここで燃えていく魂も、崩れていく二人の欠片も、たとえ二度と戻ってこない光であろうと―― 「そいつは決して、馬鹿のように消費されて屑のように散っていくだけのものじゃねえ」  意味があり、先に繋がる。 「言っただろう、俺は宇宙がぶっ壊れようと生きるんだよ!」  だったら如何にくだらない部分であろうと、自分の欠片が無為に終わるなんてことは有り得ないと、このとき彼は信じていたのだ。 「そうだろう、なあクラウディア……!」  我が初恋よ、枯れ落ちろ。灰となり塵と化しても、やがて大輪の薔薇を咲かせる礎となれ。  そのためにも歩く。歩く――歩みは止めない。彼が彼であるために。 「善き処ってやつへ、行くんだろうがああァッ!」 「ええ、だからこそ私はあなたを――」  瞬間、ついに間近へ迫った天使から聞こえてきた彼女の声を、ヴィルヘルムは生涯忘れることがなかった。  暴走した渇望が言わせているものではない、澄み切った祝福の輝き。  彼が太陽の光を美しいと思ったのは、後にも先にもこのときだけで…… 「待たせたわねヴィルヘルム――さあ、あなたの全部をちょうだい!」 「ガァッ……!」  極限まで肥大したヘルガの牙が、同時に魂の芯を咬んだ。  ヴィルヘルムの中枢とも言える核に食い込み、爆発的な勢いで吸い上げる。吸い上げる。枯れ落としてバラバラにして燃やし尽くしながら灰になるまで抉り抉り犯してやるから我が愛の証明になるがいいと――  それはかつて、彼が本物の〈母親〉《ヘルガ》に対しやったこと。  絶頂に叫ぶ〈闇の賜物〉《ヘルガ》の哄笑が、ヴィルヘルム・エーレンブルグのすべてを砕かんとした、まさに寸前の出来事だった。 「死なせはしない。生きてください、私の〈天使〉《メトシェラ》…… あなたの光は、ここで消えるべきものじゃないから」  先に砕けたのは、天使の核となっていた聖遺物。一際強く、そして美しく輝いたクラウディアの祈りによって、ついに器の限界を突破したのだ。  その意味するところは、一つしかない。 「なんで、なんで、なんでなんでなんでどうしてえええ! もう少し、あとちょっとで彼はわたしのものだったのにッッ!  ぶち殺してやる……! おまえなんか、おまえなんかあああァァツ!」  煌くロザリオの欠片を纏いながら、同様に砕け散った天使の中から現れたクラウディアがヴィルヘルムの首に抱きついている。  そっと触れ合う唇と唇。溢れ出る光の奔流が波となり、具象化した〈闇の賜物〉《ヘルガ》を彼方へ押し流していった。 「ひ、ぎゃっ……あああああああああぁぁぁァァッ!」  吸い上げた力の大半を失いながら、逃げるように闇へ消えていく姿はまさに悪霊の最後そのもので……  当のヴィルヘルムは、あまりの展開に呆然として口が利けない。  しかし代わりにクラウディアは、そんな始終を見送った後で困ったように苦笑するのだ。 「あなたは本物の彼女じゃないでしょうに。故人を貶めるのは、正直感心しませんね。  そしてそれは、あなたにも言えることですよ。ヴィルヘルム」  いつもと変わらぬ調子のまま、自分の状況なんかは関係ないと言わんばかりに窘めてくる。  そのズレたところ。馬鹿なところ。ヴィルヘルムにとってはムカつくし苛つくし呆れ返るし、面倒臭くて敵わないと思うところ。  クラウディアは変わらない。  すでに事切れ、魂だけの存在になっても彼女は彼女のままだったのだ。 「あなたが自分の母親にどういう印象を持っているのか知りませんけど、少しはそこを改めましょうね。すぐには変えられないんでしょうが。  いつかまた、会えるかもしれないでしょう?」 「……うるせえ」  ようやく搾り出した男の声は、からからに枯れていた。 「うるせえんだよ、そんなことはどうでもいい」  そう、ヴィルヘルムは気付いていた。  彼女はおそらく、自分を助けるために自ら魂を絞りきったと。そうして過負荷を発生させ、〈十字架〉《ロザリオ》を砕いたのだと。  その結果がここにある。聖遺物を砕かれれば、その使い手も一蓮托生。つまり生きてはいられない。 「ふざけるな、ふざけんなよ! 誰がこんな真似をしろっつった。いつ俺が、おまえに助けてくれと頼んだってんだ!」  取り逃がした。もうクラウディアを奪えない。  ヘルガはしばらく使い物にならないと分かっていたから、ヴィルヘルムには目の前の彼女をどうすることも出来ないのだ。 「こんなん有りかよ? 結局俺は、何一つだって……」 「得られなかった。なんて悲しいことは言わないで」 「私はあなたの欠片を抱いて逝くんだから」  優しく抱きしめ、あやすように囁いてくるクラウディア。そんな二人の周囲には、星屑のような無数の輝きが舞っている。  それはヘルガに吸われたヴィルヘルムの魂と、〈十字架〉《ロザリオ》に吸われたクラウディアの魂だった。二つは交わり、一つとなって今このときも瞬いている。 「確かに私は、ここであなたに奪われることが出来なかったけど」 「失敗じゃない。負けじゃない。あなたは何も失っていない。  そのことだけは覚えていて。私はあなたを救えて幸せだったし……」  言いながら、クラウディアの姿が薄れていく。それに伴い、二人の欠片も高く遠くへと昇っていく。 「決して離れ離れになるわけじゃない。一緒だから、一緒だからね。どうかお願い、ヴィルヘルム」  そうして、消え去る間際のこと。 「泣かないで。大好きよ」 「ばッ―――」  いつ、誰が涙を流した。ヴィルヘルムは絶句し、次いで激昂する。  俺は生まれてこの方そんなもの、一滴たりとも流してないしこれからだって流さない。 「ふざけんな、待て――」  待てよ、待てと言ってるだろうと追い縋るが届かない。 「私はあなたを抱いて、善き処へ……今はまだ分からなくても、きっとこれが未来を照らす光になると信じてる。  生きてね、ずっと……世界が終わっても生き続けてね。私のメトシェラ、私の愛しい……」  最後に、心からの笑みを浮かべて。 「大切な人、ヴィルヘルム」 「―――クラウディアアアアッ!」  絶叫は届かない。声に応えは返ってこない。薔薇の欠片を胸に抱き、光の中にクラウディアは消えていった。  彼が彼女を見たのはそれが最後。  当たり前だが、二度とクラウディアが現れることはなかったのだ。  そう……この日を境に、もう二度と。 「………ッ」 そうして、気付けば俺は大の字になり、横たわっていた。 さっきも似たような状況だったなと思ったが、明確に違うところはもちろんある。今度は本当に一人きりで、温もりなんかまったくねえしクソ寒いということだ。 クラウディアは死に、天使が創造した世界も消えて、後にはボロクソの俺だけだ。完膚なきまでに負け犬という構図だろう。 「ボケが、綺麗事抜かしやがって……」 「いったい、誰が納得するっていうんだよ。そんなワケ分かんねえ理屈をよ」 「最後の最後に、一方通行かましやがったのはそっちだろうが」 「一人で、せいせいと逝きやがって。結局てめえの勝ち逃げかよ」 「クソが、クソが、クソがあああああああァァァッ!」 俺は負けた。失敗した。望んだ結果は何一つ、微塵もこの手に得られなかった。 あいつはごちゃごちゃ意味不明なフォローをしてたが、そんなもんで丸め込まれる俺じゃねえ。勝者の情けなんか要らねえんだよ。 「結局、メルクリウスの言った通りかよ」 俺は何も得られない。望んだ相手こそ取り逃がす。 ずっとずっと、カズィクル・ベイの名を受けてからずっと否定していたことだったが、もはや反論できなかった。俺は奪われる者であり、そういう呪いに蝕まれている。 アルビノとして生まれ昼の世界を奪われた。穢れた血筋を清算し、生まれ変わったと思っていたのに破壊の愛を貫けなかった。 初恋は成就しないなんてよく言うが、冗談事じゃねえんだよ。あんなに欲しいと願った女からも逃げられて、自分は奪う側だなんて言えるわけがねえだろう。 「しかも、今じゃ名実共に半分かよ」 魂さえ欠けているんだ。俺の初恋はクラウディアが持ち去ったまま、もう戻らない。返ってこない。 あいつに惚れたヴィルヘルム・エーレンブルグは、真なる意味でこの世界から消えたんだ。もはや、〈当〉《 、》〈時〉《 、》〈の〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》〈を〉《 、》〈正〉《 、》〈確〉《 、》〈に〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「くは、はは、ははははは……」 だからか、思わず笑っちまったよ。そりゃそうだ。 半分となったこの俺が、失恋の痛みなんぞをまともに感じられるわけがねえ。残ってるのは悔しさと腹立たしさで、他にあったかもしれない感情はクラウディアと共に消えたんだ。 「ははははは、ははははははは、はははははははは―――」 ゆえに笑え。己の未熟さ、惨めさを、嗤い侮蔑し怒りに変えろ。 欠けた隙間を埋めるため、無限に貪る〈永久〉《とわ》の覇道を行くために。 「―――泣いてねえ!」 泣くわけあるか、俺は一度も泣いたことなんかねえんだよ。 あいつは俺が泣いていると抜かしたが、目ん玉腐った馬鹿の戯言なんか真に受けねえ。 もし仮に億が一、俺に涙があったとしても、やはりクラウディアと一緒に消えたんだ。 消えたんだよ。もう何処にもねえ。 そして、落としたもんをわざわざ引き返してまで取りにいかねえ。 前に、俺はひたすら進まなきゃいけねえんだからな。 「そうだろヘルガ。てめえはついてくるんだよな」 呼びかけに、応える声はこちらもなく。 「は、だんまりかよクソが。へそ曲げやがって」 まあいいさ。後一歩で目的を果たせなかった者同士、今後も好きにやっていこうぜ。 おまえは俺の勲章で、唯一手に入れることが出来た勝利の証なんだから。 「愛だの恋だのはともかくとして、相応の親近感は持ってるんだぜ」 あいつと違って、これからも長い付き合いになるんだしよ。 思い、俺は改めて空を見上げる。昼も夜もないこの極圏で、目に見えない果ての果てがあるのなら。 そこにいるのだろうあいつに向けて、最後の言葉を投げたかった。 「あばよ、クラウディア。クソ女」 「てめえは死んで、俺は生きる。これはただ、それだけのことなんだ」 「ああ、生き返らしたりなんかしねえよ」 勝ったのはおまえだと認めているから、リターンマッチなんか申し込まねえ。 上手く逃げやがったな、ご苦労さん。せいぜいよく分からん満足抱いて、お星サマにでもなってろよ。 「俺はそこに行かねえからな」 目指すメトシェラを極めるために、歩いて歩いて歩き続ける。 「だからよ……」 おまえが、相手されなくて悔しいってんなら。 「いつでも、そっちから出向いてきやがれ。そんときは絶対に喰ってやる」 「忘れるな、勘違いをすんじゃねえぞ。これは主導権の問題だ」 行くのは、あくまでも俺じゃなく。 「おまえが来るんだよ。ジャガイモ持ってな」 呟き、再び笑いだした。さてそれじゃあ、そろそろ現実問題をどうにかしなきゃあならんだろう。 俺もヘルガも共に瀕死で、場所は永久凍土のど真ん中。辺りにゃ人っ子一人いやしねえ。 白熊でも来てくれりゃあどうにかなるかもしんねえが、今の俺じゃあ殺されかねん。だったらどうすると考えていたとき…… 「クラウディア、クラウディアー!」 「聞こえますか、無事だったら返事をしてください。クラウディアー!」 気に食わなけりゃあハイドリヒ卿の命令だろうとぶっ千切る馬鹿の声が聞こえてきたんだ。 「またおまえかよ……」 都合がいい、とは言えねえな。あいつが気にかけてるのはクラウディアで、俺の名前は一回だって呼ばねえんだもんよ。 これで真相話したら、今度こそ殺されるかもしれなかった。しかしそうなったらそうなったで、ベアトリス相手に暴れてみるのも悪くねえ。 少なくともそのほうが、凍死や熊の心配するよりよっぽど気が利いてるだろうと思ったから。 「おう、こっちだこっち。早よ来いこのクソ、チビ女ー!」 俺は全身痛ぇのを我慢しつつ、声を張り上げて叫んだんだ。 そして…… 「よぉクリストフ、久しぶりだな。色々話は聞いてるぜ」 「おおかた自業自得の奴にかける言葉なんかねえんだが、強いて言うならまあ、殺されなくてよかったじゃねえの」 1945年、4月30日。ベルリン陥落の日を迎えた俺たちは、当面最後となる仕事を前にこうして顔をそろえていた。 ルートヴィヒとクラウディアの一件から早数ヶ月。傷はとうに回復してたし、そこは他の奴らも変わらねえ。 体調は万全で、ゆえに気分も昂揚していた。祭りを前にしたときと同じ、内から湧き上がるものを感じている。 「ええ、お陰さまで。あなたのほうこそ、色々あったようですね中尉」 「当事者でない私が言うのもなんですが、お察ししますよ」 「は、やめろやめろ。済んだことはどうでもいい」 心底本音だ。俺は前しか見ねえから、終わったことに拘泥しない。ふと思い出すことはあるものの、そこにたいした意味はねえんだよ。 「ま、あれに比べりゃ赤いの相手に暴れるくらいは何てことないか」 「そうですねえ。お陰で多少のことには驚かなくなりましたよ。まあもっとも」 「一番無茶と冗談総動員みたいな人が身近にいるからねえ。さあて、いったい、これから何が起きるのやら」 「君はそのへん、どう思うマキナ」 「知らん。特に興味もない」 ベルリンに攻め込んできた赤軍相手に、何かやらかすことは分かっている。無論それは殲滅の類だろうが、この段階じゃあまだ詳細は伏せられていた。 よって気にする奴は気にしている。何せハイドリヒ卿とメルクリウスが立てた計画のこれが仕上げだ。普通に済むわけがねえからな。 「あなたは知ってるんでしょう、エレオノーレ。現場の指揮を任されているんだから」 「ああ、だがしばし待て。じきに総統閣下が身罷られる。そのときをもって状況開始だ」 「ともかく貴様ら、腹を決めておくがいい。この作戦に、失敗など許されん」 「それが本当に、必要なことだと納得できれば迷いませんが」 さて、どうだろうな。思えばベアトリスは、このときもう分かっていたのかもしれない。 あのカチンで見た、こいつが有する心の闇。そしてクラウディアの結末を知ったことで、希望的未来に飛びつく無意味さを悟っていても不思議はなかった。 「ま、なるようにしかならねえよ〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈キ〉《 、》〈ュ〉《 、》〈リ〉《 、》〈ア〉《 、》」 ゆえに俺が、こいつをその名で呼び始めたのはここからだ。英霊をヴァルハラに導く戦乙女。死神と揶揄されたその業を讃えるように。 「気合い入れて行こうぜ、なあ」 「そういうことだ、では行くぞ」 開かれた城門の向こう、距離と空間を無視してそこにあるのは、眼下に広がるベルリンの街。 戦火に覆われた祖国の首都を見下ろしながら、俺らはそれぞれの〈渇望〉《おもい》を抱いて唱和する。 「我らに勝利を――」 「ジークハイル・ヴィクトーリア」 こうして、時は今へと至るんだよ。 「とまあ、そんな感じで話は終わりだ」  深くソファに背を預け、ヴィルヘルムはおどけるようにそう言った。彼の初恋にまつわる物語は、クラウディアの死をもって幕を閉じたのである。 「後のことは、特に語るまでもねえだろう。おまえさんも知ってる通りだ。  終戦以降、俺は世界中の鉄火場歩き回ってる。ベトナムだの、アフガンだのよ。そこにたいした意味はねえ。単なる趣味だ」 「戦後に生まれて、戦時に青春ってやつを送ったからな。そういう空気が一番馴染むし、落ち着くんだよ。  もっとも、一般社会が居心地悪いってわけじゃないぜ。分かるだろ?」 「ええ。今のあなたを見れば、当然ね」  彼は現代の享楽も肴代わりに楽しんでいる。戦争の申し子めいた男だが、都会の生活を檻の中とは考えていないのだ。  コンクリートジャングルも庭の一つ。飲むし打つし買うのだろうし、もしかしたら普通の友人さえいるのかもしれない。  それもきっと彼の主義で、端的に表現すれば以下の通りだ。 「俗が好きだし、そう在りたいというわけか」  メトシェラとして生き続けると誓ったヴィルヘルム・エーレンブルグは、己にそのスタイルを課している。おそらくは、クラウディアから教えてもらった長生きの秘訣だから。 「とても興味深い話を聞かせてもらってありがとう。確かにあなたがどういう人かは、よく分かったわ」 「だけど一つ、強いて気になることを訊かせてもらっていいかしら」  鷹揚に笑って頷くヴィルヘルムへ、ディナは礼を言ってからテーブルのレコーダーを取ると、スイッチを切る。それでここからは取材じゃなく、個人的な話だと主張しつつ問いを投げた。 「あなたは今でも、クラウディアとの結末を失敗の歴史と思っているの?  あなたに呪いを自覚させ、刻み付けた最初の一人だと、本当に?」  彼にとってヘルガが最初に奪った女なら、クラウディアは最初に取り逃した女である。客観的にそれは事実で、ゆえにカール・クラフトが指摘した呪いを体現したのは後者の女性。  しかし、一概にそうとも言い切れないものをディナは感じる。だから質問したのだが、ヴィルヘルムの答えは早かった。 「ああ。どんな理屈を並べようが、あれは失敗で負けだろう。  俺はあんな結末を望んじゃいねえ。確かにクラウディアがああしなきゃあ、死んじまってたかもしれねえがな。そういう問題じゃねえんだよ」  己は納得していない。そこにすべての結果があると言ってた。 「あなたのために、君を想って……聞こえはいいが、そりゃ独り善がりっつう話だ。クラウディアもルートヴィヒも、最後に一方通行かましやがった。  似た者同士で組み分けするなら、あいつら二人に俺とヘルガって感じだろう。まんまと逃げられておきながら、いいやあいつは俺のもんだと勘助みたいなことは言えねえよ。  モテねえ男にも、相応の意地ってもんがあるんでな」 「だけどそれは、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈残〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》?」  言われ、ヴィルヘルムは数瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに自嘲の笑みを浮かべる。度胸があるなと、ディナを褒めているようだった。 「今の俺が魂の欠けた半分だから、ちゃんと分かってないだけじゃねえのかと言いたいわけだ」 「ええ、不快に思ったのなら謝るけど」 「別にいいぜ、それで続きは?」  ディナの考えはさほど飛躍したものでもない。むしろ聞き手として当然の反応とも言えるだろう。 「クラウディアが持っていったというあなたの欠片は、納得していたんじゃないかしら。だったら、そこについてだけは〈双方向〉《りょうおもい》」 「事実、あなたは彼女の死に臨んだ当時のことをちゃんと記憶できていない。話の中でも、そこについてだけはかなり曖昧だったでしょう。  ヘルガを解き放ってから以降、ぷつりと流れが途切れていた。次に一人きりとなって目が覚めるシーンまで、なんだかダイジェストみたいな感じだったわ」  何を言われて、何を言って、結果どうなったかというのを語っただけ。つまり主観的なものを感じなかった。  目の前にいる、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ィ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ヘ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ム〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈登〉《 、》〈場〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  正しく言えば、登場していたヴィルヘルムが今この場にいないのだ。 「それこそ証じゃないかと私は思う。だからあなたは負けたんじゃなく……」  単に役割分担をしただけじゃないのかと。ディナはそう考える。 「初恋を抱いたヴィルヘルム・エーレンブルグは、クラウディアと相思相愛を結実させて、一つになった。  でも、それは生きながらに達することが出来ない状況だったから……」 「そこは俺が任されたと?」 「ええ、だってあなたは今も生きてる。そしてこれからも生きようとしている」  負けだ失敗だと言いながらも、彼はひたすら前向きだ。腹は立てているだろうし呪いに蝕まれてもいるだろうが、それでも腐ってなどいない。  生きるつもりだ。生き続けて、その果てにある可能性を夢見ている。 「ほんとはジャガイモを待ってるんじゃない? あなたは否定するんでしょうけど」  長く生きれば落とすものも当然あるが、やはり長く生きれば再び拾うこともあるはずだと。  立ち止まって引き返すのではなく、進み続けることで完全を目指す。それがヴィルヘルムという人物の哲学だから。 「ちょっと感傷的にすぎるかしら?」 「そうだな、女の理屈だよ。悪いが頷いてはやれねえな」 「言ったと思うが、俺はそんなの願わないし夢見ねえ。  ただ、貪欲だからな。向こうのほうから転がってくるんなら、そりゃ拾うだろうって言ってるだけだよ」 「主導権ね」 「ああ、大事なことだぜ」  砕けた調子で笑う彼に、ディナもまた笑みを返す。結局同じじゃないかと思うものの、そこを認める殊勝さは、きっともう一人のヴィルヘルムが持っていった部分なのだろう。 「不死身になりたい。あなたは今もメトシェラを目指しているのね。  私なんかからすると雲を掴むような話だけど、叶うと思う?」 「当然だ」  答えはやはり早かった。彼は微塵の疑いも持たず、その栄光を掴む気でいる。 「とはいえ、呪いのこともあるんでな。今のままじゃあ、例のごとく後一歩で届かないかもしれねえ」 「だから順序としてはそっちが先だな。まずはこのふざけた業……欲しいもんから逃げられるって俺のキャラを、どうにかしなきゃいけねえんだよ。  ああ、実際色々やってきたんだが、悉く失敗してる。そこでだな、ちょっと訊いてみたいんだが……」  そのとき、ふっとヴィルヘルムから何かが抜けた。笑っているし態度は弛緩しているものの、強いて言うならある種の温度が一瞬にして下がったのだ。  先ほどまでの彼は、言わば猛獣のようだった。恐ろしい存在ではあるものの、まだ愛嬌があるし意思疎通も出来なくはない。  しかし今は、喩えるなら爬虫類か鮫のような……  異形のものをディナは感じる。知らず、背に汗が噴き出ているのを自覚した。 「おまえさん、いったい何処の回しもんだ?  前にCIAの脱走兵から狙われたことがあるんだが、そっち繋がりの人間かい? 何にしろ、絶対〈素人〉《カタギ》じゃねえわなあ。  言ったと思うが、俺は鼻が利くんだぜ」  瞬間、ディナは微塵の躊躇も見せずにレコーダーの――そう見せかけていた携帯端末の――スイッチを押した。 「―――――――」  同時に見えない紫電が炸裂する。ヴィルヘルムの内部で、常人なら即死に値する激痛がスパークしたのだ。  そのまま倒れる彼を見下ろし、立ち上がったディナの顔はまったく違うものになっている。先に指摘された通り、〈素人〉《カタギ》と呼ばれる者のそれではない。 「女から進められたお酒には、もう少し警戒したほうがいいわよ。ミスタ・エーレンブルグ。  でも、さすがね。これでも殺せないとは思わなかった」  言って、再び端末のスイッチを入れる。声もなく痙攣するヴィルヘルムは、ディナが注いだ〈闇の賜物〉《キッス・インザ・ダーク》に何かの異物を盛られたのだ。  暗闇のキスは甘美で危険。それを証明するかのように。 「だけど効果はあったようね。あなたも言っていた通り、人類は進化するの。  魔術概念の現代的兵装化は、もうそちらの専売特許じゃないのよ」  彼女がヴィルヘルムに〈服〉《の》ませたのは俗に言うナノマシンだが、もちろん通常の物ではない。  全身の毛細血管まで行き渡り、スイッチ一つで引き起こされる苦痛の正体は言わば呪いだ。 「捕虜や囚人を拷問して、今わの際に現れる脳波パターンをプログラムに組み込んでる。つまり魂の電子化ね、文字通り死ぬほどの苦痛でしょう。  これで殺せるなら越したことはなかったんだけど、データは取れたし今日のところはここまでね」  艶然と微笑みながら踵を返し、部屋を出て行くディナは間際にもう一度振り返って―― 「バイ、中尉殿。とても楽しい時間だったわ」 「縁があったら、いずれまた会いましょう」  日本でね、と心で呟き、〈怪物園〉《ボルヘス・ハウス》を後にしたのだ。  残されたヴィルヘルムは、まだ痙攣を続けたままで立ち上がれない。 「ええ、はい。そうです。任務は無事終了しました」  十分後、ブルックリン橋を走るフォードの車内で、ステアリングを握るディナは上司に報告を行っていた。  言ったように最大の目的はヴィルヘルム・エーレンブルグの殺害だったが、それを逃しても得られる戦果は多かったし生還も果たした。完了とは言えないまでも、成功と言って問題あるまい。  こちらの手の内を晒したことで警戒されることになるだろうが、あれは自分の不覚を吹聴して恥の上塗りをする男じゃないはずだ。たとえ命が危なくなっても拘る類の人種だと、インタビューから分かっている。 「彼は昂揚していましたし、自身でそこを認めてもいました。よって、おそらく“近い”のだろうと思います。  はい、十一年前にカートライト中佐が起こした事件です。当時と違い、今度は準備が整ったのだと確信しました。  つまり、日本へ行く気でしょう。黄金錬成が始まります」  言いながら、背筋に冷たいものが走るのを止められない。ディナやその上にいる立場の人間にとって、黄金錬成とは断固阻止せねばならないものだった。  ラインハルト・ハイドリヒが戻ってくる。ベルリン崩壊の日、三人の部下を連れて〈何処〉《いずこ》かへ消えた黒円卓の首領が、この世界に帰還するのだ。  果てに何が起こるのか、具体的なところは分からない。  ただ、儀式の祭壇と化す都市は確実に壊滅するし、その後も舞台となった国――つまり日本――は十三人の魔人たちによって蹂躙されるだろう。むしろ問題なのはそこからだ。  この現代で、一つの先進国が転覆すれば周辺に及ぼす影響は計り知れない。冗談ではなく、世界大戦の勃発さえ可能性として存在する。  彼らの目的はそれなのか。二度に渡る敗戦の屈辱を払拭するため、三度目の闘争を望んでいるのか。  黒円卓について、長らく議論されていた点はそこにある。馬鹿馬鹿しいと言って取り合わない者たちも多くいるが、先の推論でさえまだ現実的な範疇にすぎないのだ。  もっとも荒唐無稽なものを挙げれば、世界が終わるとさえ言われている。大戦によって核がどうのといった意味ではなく、形而的かつ霊的な、例えるならば最終審判。  黒円卓は単なるテロリストなどではなく、滅びの喇叭を吹き鳴らす御使いであると。そして訪れる恐怖の大王こそがラインハルト・ハイドリヒ。 「〈怒りの日〉《ディエス・イレ》……」  まるで宗教じみたものになってきたが、ディナはそれを笑えない。少なくとも、ヴィルヘルムはその未来を信じているのだと分かったからだ。 「現状、確かなのは彼が政治的イデオロギーを持つような手合いでないということです。  そこについてはヴィルヘルム・エーレンブルグだけが特殊である可能性も捨て切れませんが、私の個人的感想ではノー。  ひどく俗な、そしてそう在ることに意義を見出す者たちです。彼らが求めているのは、一種陳腐とさえ言える形の現世利益」  世界の支配だの国家の栄誉だの、そういったものは眼中にない。それも俗ではあるだろうが、戦鬼の夢はもっと単純で、ゆえに永遠的なテーマだった。  すなわち。 「不死です、長官。死なないものになることで、果てなく戦い続けること。  つまり黄金錬成とは、不死身になるための儀式なのだと理解しました」  メトシェラになりたい。それがヴィルヘルムの願いなのだから。  黄金とは不滅を指し、〈永久〉《とわ》に歩き続ける修羅の魂を得ることなのだ。  通信先で絶句している上司の反応を受け止めつつ、ディナはヴィルヘルムから聞いた話を今一度反芻していた。  彼は自分の正体に早くから気付いていたようだが、だからといって嘘を適当に並べたわけでもないだろう。あれはその手の真似が出来るような男じゃない。  よって、クラウディアのことも真実だったはずと考える。あの吸血鬼は死すべき外道であるものの、天使に愛された男でもあったのだ。  そこについて複雑な気持ちがないわけではない。ヴィルヘルムに生きてほしいと願ったクラウディアの祈りは、遠からず踏みにじられるわけなのだから。 「残念よね」  上司に聞こえないよう、ぽつりと呟く。しかし、すべては詮無いことだ。  あの男は殺しすぎている。そして不死など与えてしまえば、さらにさらに殺すだろう。温情など掛けていい次元ではもはやなかった。  彼の理想は潰されないといけない。それがたとえ、クラウディアの死を冒涜することであっても。  ここで彼女の都合にのみ肩入れするのは、ヴィルヘルムの手で悲劇的な死を与えられた数多の人間に対する冒涜である。  だからこれはそういうこと。一方通行では道理が通らないという社会の法で、常識だ。 「でも……」  強いて一つ、浪漫のある見方でクラウディアに花を持たせることが出来るとしたらば。 「来世で幸せになればいいんじゃない?  それもまた、永遠の命。メトシェラと言えなくもないでしょう」  と、我ながら感傷的だなと苦笑したときだった。 「――中尉」  上司の声で再び現実に戻される。ディナは慌てて居住まいを正した。 「申し訳ありません。それで、今後の方針はどうなるのでしょうか? シャンバラへ投入される部隊にまだ空きがあるのでしたら、私も志願したいのですが」 「ああ、それなら心配要らんよ。その必要はない」 「……?」  すでに自分の現地入りを申請してくれたということか。それとも反対の意味なのか。どちらとも取れるような言い方であり、またどちらでもないような声にも聞こえる。  そうして訝るディナへ伝えられたのは、耳を疑う言葉だった。 「不死身、不死身か。素晴らしい。もしやそうなのでは思っていたが、なるほどやはりそうなのだな。彼の地へ行けば、不死身になれるというのだな。  だったら是非してもらおう。私も不死身に。ラインハルト・ハイドリヒに忠誠を誓って」 「――長官ッ!?」  事態を理解したときには、もう遅かった。 「ご苦労。君の役目は終わりだよ、中尉」  走行中のフォードが爆発し、夜に炎の花が咲く。ディナは成す術もなく巻き込まれ、一瞬のうちにすべてを燃やし尽くされていた。  突如とした出来事にブルックリン橋は蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、連鎖で幾台もが事故を起こす。悲鳴と爆煙に包まれた戦場さながらの光景を前に、遅れて来た男は心底からのぼやきを漏らした。 「あーあ、またかよ。勘弁してくれ」  ヴィルヘルムはディナを追いかけていたのだ。しかし結果は、捕まえる前にこの有り様。 「やっぱ慣れねえ小芝居しないで、さっさと殺っときゃよかったのかね。しかしそれじゃあ、つまんねえしな」  バーでディナから受けた攻撃は、さほど効いていなかったのだ。まったく無効というわけではなかったものの、昏倒するほどではない。  にも関わらず彼が小芝居を打ったのは、きっと試したからなのだろう。  自分に対抗できる手段を持ったうえで接触してきたのなら“いい女”だ。喰うに値する魂だと。  ディナはその第一関門を突破して、良くも悪くもヴィルヘルムに気に入られた。よって彼流の愛情表現、ドラマチックな追跡劇という舞台のヒロインに選ばれたのだが、役目を果たしきる前に横槍が入ったという落ちである。  もしくは、彼に好かれた時点でこうなる運命だったと言うべきか。吸血鬼が奪う前に、別の何かから奪われる。未だ呪いは拭えない。 「大概へこむぜ。これから祭りが始まるってのに、マジで幸先悪いったらありゃしねえ。   だがまあ、済んじまったもんはしょうがねえわな」  前へ、ただひたすら前へ。  それがヴィルヘルム・エーレンブルグの生き様だから。 「仇は取ってやるぜ、ディナ。行きがけの駄賃だ」  炎上するフォードの前で息を吸い込み、おそらく彼にしか分からないだろう匂いを嗅いで標的を探り当てる。  横からいい女を攫った間男、許してやる道理がない。 「――皆殺しだ」  サングラスの奥で瞬く瞳は、真紅の薔薇色に燃えていた。  全身から杭を生やし、獣の速度で駆ける。駆ける。  彼は夜に羽ばたく闇の不死鳥――願い求めた夢を得るため、今宵も血を浴び猛り舞う。 「行くぜヘルガアァァッ!」 「そうねヴィル。いつも一緒よ、愛してるわあァ!」  世界の終わる日は近い。  だが、たとえどんな未来が訪れようとも、彼は走ることをやめないだろう。  メトシェラゆえに。  不滅なるものとして、〈永久〉《とわ》に輝き続けるのだ。  それは一瞬にも満たない刹那のまどろみ……目覚めた彼は緩く瞳を瞬かせてから呟いた。 「……ああ、夢か」  この男が眠るというのは極めて珍しいことであったが、その内容自体は特にどうというものでもない。  過去に生まれ、そして消えたとある星屑の物語。無限に等しい総体を持つ彼の宇宙では芥も同然の存在であり、もはや名前すら記憶していない。  だというのに、なぜ夢など見たのだろう。これから望んだ死を迎え、求めた結末に至ろうとしている自分が、どうして…… 「あるいは、何か意味があるのかもしれないな。私にも分からぬ先の先で、君の祈りが光を生むと。  よかろう、ならば天使の魂に祝福を。この地で趨勢を見守りたまえ」  言うと、男の掌から一つのロザリオが現れた。それを一度だけ見下ろして、さらさらと黄昏の砂浜に落とす。 「ここは開闢の特異点だ。君の求めた真が確かなら、何かの足しになるはずだよ。そう願うがいい。  やがて来る女神の地平に、福音をもって抱かれるように」  そうして男は身を翻す。ロザリオはこの茫漠とした浜辺に埋もれながら、誰にも気付かれることなく在るのだろう。  ただ一つ、一つの光のみを唱えながら。 「たとえどんなに立場が違っても、私たちが目指しているものはきっと同じ。  善き処に行きたい。そうなのでしょう?」