「うーん、うーん」 「――うーん。ニンジン、キライ、です」 「ピーマンも、キライ、です」 どうして、いつも、いつも。ご飯には、嫌いなモノが入ってるんだろう? 「むにゃむにゃ……」 ネムネムだね。ふかふかだね。 ベッドがふかふかだから、ボクはネムネムなんだね? 「おばーちゃん、きょうのごはん、はー?」 今日は、どんなご飯だろう? この前みたいに、ケーキだといいなー。 お誕生日に食べたケーキ。 ボクが、『まいにち、おたんじょうびだったらいい、ねー』って言ったら、おばあちゃんに笑われたの。 おばあちゃん、『毎日毎日歳をとって、すぐアタシみたいになっちゃうよ』って言ってた。 ――それでも、いいのにね。 だってボク、おばーちゃんのこと、好きだもん。 おばーちゃんみたいになれたら、いいなー。 おばーちゃんみたいに―― 「あれ?おばーちゃんって」 どんな顔してたっけ? 「――あれれ?」 おばーちゃんって、誰、だっけ? うまく思い出せない。 あ、そっかー。 おめめを閉じてるから、まっくらで分からないんだね。 「……えい」 ボクはおめめを開けて―― 「あれれ?」 びっくり。 「ここは、どこー?」 知らないお部屋。 「なんでー、なんでー?」 ボク、お《うち》〈家〉で寝たよね? あれ?でも、ここにも見覚えあるような気がする。 「どこだっけ?うーん」 もやもや、もやもや。 「ダメー。おもいだせません」 でも、分からないままも、よくないよね? 「うーん。おそとをみたら、わかるかな」 窓を見つけたので、そっちに行ってみます。 ……けど、背が届かないからお外が見えないよね。 「おイス、どこかな?」 キョロキョロしたら、隅っこにひとつ見つかりました。 「よいしょ、よいしょ」 あんまり重くないね、これー。 ボクは、おイスを窓の近くまで引っ張ってから座ってみます。 「よいしょっ、とっ」 「…………」 「――おそと、みえない、ねー」 さっきとあんまり変わらないや。 「うーん」 「ホントは、ダメなんだよ。こんなことしたら、ねー」 「クツをぬいでー、イスのうえにのってー」 やっと届いた窓から外を見れば―― 「う、わぁー」 屋根、屋根、屋根がいっぱい、下の方にいっぱいあったの。 「ボクのおうち、どこだろー?」 そう思って、端っこから順々に探すけど――ボク、どんなお《うち》〈家〉に住んでいたのか……思い出せません。 「こまっちゃった、ねー」 どうしたら、いいんだろう? 一軒ずつ、ドアの前まで行ってみる? 「でもでも。どうやったら、あそこにいけるのかなぁ?」 難しいよね。途中で迷子になっちゃうかも。 「――とりあえ、ず」 イスを片付けて、と。 ベッドに戻って、枕を叩いてみよう! なにか思いつくかも、ねー。 「ばふ、ばふ!」 ――ばふ、ばふ。 ばふ、ばふ、ばふばふ! ちょっと楽しい。ちょっと楽しいけど―― 「――あきちゃった」 お部屋にオモチャあるけど、ボクのモノじゃないかも。 もしボクのじゃないオモチャだったら、勝手に遊ぶのはダメだよ、ね? 「うーん」 することがなくなって、ボクはドアを見ます。 「むこうも、おへやかな?」 それとも、廊下かな? 「どきどき」 ちょっとだけ、見てみようかな? 「よいしょ」 ドアを開けて、そーっと覗いてみると…… 「あ、ろうかみたいだ、ねー」 右見て、左見て、ずっと向こうまで続いてるみたい。 「うーん。おでかけしたら、おこられるかな?」 「きっとダメだよ、ねー」 「でもさ、でもさ。ずっとひとりだと、つまんない」 暗くなるまでひとりだったら、どうしよう? 「こわいねー。こわいよ、ねー」 ボク、ずっとひとりはイヤ。 ……だから。 誰かを探しに行こう、ねー。 広くて長い廊下。 「――うううぅぅ、ダレもいません」 壁にペタペタ触りながら歩いても、歩いても――ずっと同じ。 ……だけど。 「きゅうに、ダレかにあったら――どうしよう?」 「……」 そうしたら―― 「こんにちは、かな?」 怖いけど、ご挨拶しないとダメだよね? ボク、ちゃんとお辞儀できると思う? 「こんにちは、こんにちは」 壁に向かって練習、練習。 「アイテッ!」 ごっつんこ、しちゃった。 けど、これでご挨拶は平気ー。 「じゃ、しゅっぱーつ、だねー」 ボクは次の《かど》〈角〉まで歩いてみることにしました。 「ダレか、いません、かー?」 ――お返事、ありません。 「ううぅ、かくれんぼみたい」 探すの難しい。 探すより、隠れる方が得意。 草むらに入って、おめめ押さえてしゃがむの。 ダレかにツンツン、ってされたら……おしまい。 「でもさ、でもさ。さいしょにみつかると、ボクのバンだよね、さがすの」 いつも隠れる役がいいなー。 だって、見つけてくれた子、笑ってくれるもん。 「えへへ」 みんな、まだかくれんぼしてるかな? ボクも、みんなとかくれんぼ、したいな。 「ううぅ、どこかなー?」 ボクは、《かど》〈角〉っこにあるドアの前で止まります。 もしかしたら、この向こうに誰か居るかも。 「コンコーン。ダレか、います、かー?」 ――やっぱり、お返事ありません。 「……あ。かくれてるのかなぁ?」 それなら、お返事ないよね。 「えっと、えっと。あけます、よー」 ドアに鍵はかかってなかったです。 「うわーっ、きれいな、おへやー」 お部屋の中には、おっきな、じゅうたん。 入ろうと思ったけど、叱られそうだからヤめました。 「つぎー」 ボクは、ちゃんとドアを閉めてから―― 「あれ?ボク、どっちからきたっけ?」 右だったような、左だったような。 もしかしてボク、迷子なの? 「うわぁ、まよっちゃった。たいへーん」 どうしよう? 「……いっか。そのうち、おもいだすよね」 それよりも、早く誰かを見つけなくちゃ。 がんばって、探すんだー。 「――このおへやも、からっぽ」 広いお部屋、ちょこっと狭いお部屋。色々あったけど、どこに行っても人が居ません。 「どうしよう。さっきのかいだん、おりてみようかなぁ?」 あの階段の先に、誰か居るかもしれないね。 でも、もし――どこに行っても、誰も居なかったら? 「うぅぅぅ、ダレかいませんかー?」 「『ココー?』」 「あれれ?ダレかのコエ、した?」 耳を澄ましてみます。 「『どこですかー?』」 「あー、うー。どっちかなぁ?」 向こうかな?それとも、こっちかな? 「こまっちゃった、ねー」 こんなときは、どうすればいいんだっけ? 「うーんと、うーんと」 「(――あ、そうだ。まってればいいんだ!)」 かくれんぼ。 動かないで、待ってれば見つけてもらえるよね。 「よいしょ」 ボクは座ってお膝をかかえます。 おめめをつぶって、わくわく、わくわく。 誰が見つけてくれるのかなぁ? …………………… 「(――あ。ダレかきたみたい……)」 「――良かった。こんなところに隠れていたのね」 「(――みつかっちゃった!)」 ゆっくりとおめめを開けて―― 「(――うー、わぁー!)」 見上げると、そこにはドレスを着たキレイな女の人が居たの。 「(――あれれ?ダレだっけ?)」 一生懸命思い出そうとしていると、もうひとりの―― 「――ココ?」 横に居た黒い服の女の子が、ボクを見て『ココ』って言う。 「とても探しましたよ、ココ」 あれれ?ドレスの人も、『ココ』って言うね。 「えっと、えっと――どなたですかぁ?」 「えっ?」 一瞬びっくりしたドレスの人は、絵本に出てくるお城の……お姫様みたい。 「ど、どうしましょう?」 そんなお姫様は、横に居る女の子の顔を見てから、もう一度こっちを覗き込む。 「(――ど、どうしよう?)」 こんなときは―― 「あ、そうだー!」 そのときボクは、忘れていたことを思い出す。 練習、したもんね。 「こんにちは」 まずは、立ち上がってお姫様に。 「はい、こんにちは」 「こんにちは」 続けて、黒い服の子に。 「――こ、こんにちは」 そして、最後に―― 「ボク、まいごです。ごめんなさい」 もう一度、ぺこり。 「謝らなくとも良いのですよ、ココ」 「……『ココ』?」 「(――なんだか、ききおぼえがあるよね?)」 「あなたのお名前です。忘れてしまいましたか?」 「――ココ。ココがボクの、おなまえ?」 「はい」 「(――ココ。ココココ。コココ?)」 コが、1、2、3……じゃなくて、ふたつ。 うんうん。コがふたつで『ココ』だよ、ねー。 「あい。ボク、ココです。うんうん!」 自分の名前って、不思議。 呼ばれて初めて気がつきました。 「おひめさまみたいな、ヒメサマの、おなまえはー?」 「わたくしの名は――『クリスティナ』です」 哀しそうな顔をするお姫様。 あれれ?ボク―― 「ヒメサマのこと、しらないのに、しってるみたい」 「そうですね。あなたは、わたくしのことを『ヒメサマ』と呼んでくれております」 「うーん、うーん」 そう言われると、そんな気がする。 「そして、こちらは――『エファ』です。あなたのお友達よ」 「エファ、エファ……」 なんとなく、憶えているような―― でも、やっぱり、うまく、思い出せません。 「……無理をしないで、ココ。時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと思い出せばよいのです」 「あーい、わかりました」 ヒメサマがそう言うなら、それでいいよね。 だってヒメサマは、いつも笑顔でボクの話を―― 「――あー。すこし、おもいだしましたー」 「本当に?」 横のエファが少し笑ってくれる。 「うんうん!」 そうそう!ヒメサマとエファ、知ってます。 「えっと、えっと。ボクは――おにんぎょう、です」 そしてヒメサマは、ボクに『お勉強』を教えてくれる人。 エファは、ボクと同じお人形なんだけど『ちょっと』違う。 だってエファには―― 「『姫!姫はどちらにいらっしゃいますか?』」 「うー、わぁー?」 急に女の人の声がしたよ?周りを見ても、ヒメサマとエファしか居ないのに。 「いまのはダレのこえ、ですかー?」 「あれは、わたくしの護衛――『デュア』です」 「『姫ー』」 「ごえーい?デュアー?」 「(――ダレだっけ?)」 「デュアは、姫様をお守りする騎士なの」 「すごいね、すごいね!」 知ってる、知ってる!騎士って、知ってるー! ボク、絵本で見たことあるよ。 「リュウとたたかうヒトだよ、ねー?」 「うふふ。竜とは戦いませんが、この国で一番強い者ですよ」 やっぱり、すごいんだ! 「『――姫ーっ。どちらに……』」 「……あの、行かれてしまわれそうですが」 「――困りましたわ。わたくし、まだココとのお話を終えていないのに」 「姫様。あの声からして、お急ぎなのでは?」 「――そのようですわね」 エファに言われて、ヒメサマはちょっと考える顔。 「では、エファ。ココのこと、頼んでもよろしいですか?」 「はい。私で良ければ」 「では、お願いします。ごめんなさい、ココ。わたくしは、デュアの元に」 「あーい」 「いってらっしゃいませ」 ヒメサマ、にっこり。 そのあと、そのまま声のした方に歩いて行ったから――エファとふたりきりになっちゃった。 「……」 ボクは、エファの近くに寄ってジーッと見ます。 「…………?」 「エファも、おにんぎょうだよ、ね?」 「そうよ」 そうそう。でも、エファとボクはちょっと違うね。 ボクの背中には『ネジ巻き』があるけど―― 「エファには、『ネジまき』ないの?」 「ないわ」 「ボク、あるよ」 「いいわね」 「ほしい?あげよっか?」 「ダメダメ。それは、ココのモノだから」 エファは、にっこり笑って首を横に振る。 「でも、エファ。ネジまき、ないよね?」 「えぇ、ないわ。でも、私には――」 「この羽根があるから」 「ハネがあると、ネジまき、いらないの?」 「ちょっと違うと思うけど、そうかもしれないわね」 「??」 「私たち人形はね、十番目の天使なの」 「10ばんめ?」 「ココは、天使を知ってる?」 「うんうん」 「神様がお創りになった天使には、『九つの階級』があると言われているの」 ここのつ? 「そして私やココは、人間に造られた人形」 「(――『ここのつ』って、《きゅう》〈9の〉ことだったよね?)」 「神様に捧げられて、天使の仲間入りをさせてもらうから――十番目になるの」 「(――《じゅーう》〈10〉?)」 「…………うーん」 「わかる?」 「《きゅう》〈9の〉つぎだから、《じゅう》〈10〉なんだよね?」 「その通りよ」 だけど―― 「かいきゅう、って、なあに?」 「偉さの順……といえばいいのかしら?数字通りの順番ね」 「ふーん。そうすると、10ばんだから――」 《いち  にー さーん しー》〈1、2、3〉、4…… 「10ばんめに、エライの?」 「そうね」 えへへ。10までだったら、指で数えられるから平気。 「――それでね、天使には『《 ハ ネ》〈羽根〉』があるでしょ?」 「うんうん」 ご本で見たことあるから、知ってる。 「それで、私たちにも――『ハネ』がつけられたの」 「あー。エファのおせなかのハネー」 白くて、キレイな、二枚の羽根。 「……これが、人形の証なの」 「――あれれ?」 「どうしたの?」 「ボク、ハネ、ないです」 「そんなことないわ。ココにも、ちゃんと『ハネ』はあるの」 言われて背中をペタペタしたけど、見つかりません。 「ココにとっては、ネジ巻きが『ハネ』なの」 「そうなのー?」 「ほら、形が蝶の《ハネ》〈羽〉みたいでしょ?だから、それがココの『ハネ』にあたるの」 「そっかー」 寝る前に外すから、そのとき見てみよっと。 「でも、すごいねー」 「えっ、なにが?」 「エファって、ものしりさんだ、ねー」 「そ、そんなことないわよ」 エファが、ブンブンって首を横に振ります。 「私、他のことはほとんど知らないから」 「そうなの?」 「えぇ」 「じゃあさ、じゃあさ」 なに訊こうかなー? 「すきなタベモノ、なぁに?」 「好きな食べ物?そうね、美味しいモノなら何でも好きよ。ココは?」 「えっとねー、おにく。エファ、おにく、すきー?」 ボク、すきー。 「嫌いじゃないわ」 嫌いじゃない、ってことは好き? 「じゃあさ、じゃあさー。キライなモノは?」 「食べ物で?嫌いというより……」 「辛いモノが苦手」 「ニガテ?」 「得意じゃない、ってことね。食べられるけど、あまり食べたくないの」 得意じゃない、と、苦手。 「ココは?」 「うーんと、ニガテなモノ?」 「そうね、苦手なモノ」 あまり食べたくない、と、『ニ・ガ・テ』――なんだよね? 「……ピーマンとニンジンが、ニガテです」 「(――いっちゃった)」 「そうなの?美味しいのに?」 「おいしいの?」 「美味しいと思うわよ」 「…………」 ボク、エファと同じお人形なのに。 なにが違うのかな? 「ココ、泣きそうな顔しないで」 「だって、エファはへいきなのに。ボクがダメなの、はずかしい……」 「ココだって、もう少ししたら――きっと食べられるようになるわよ」 「ホントー?」 「――えぇ」 エファが、ちょっと考えてから頷きました。 「大人になると、美味しく思えるようになるから」 「おとな?おたんじょうび、いっぱい?」 「いっぱいじゃなくて、あと何回かでいいと思うの」 「そっかー」 「ココもすぐに克服できるわよ」 「こくふく?」 「苦手じゃなくなる、ってこと」 「ピーマンとニンジン、とくいになれるの?」 「――たぶん」 そっか。もうちょっとしたら、ピーマンもニンジンも平気になるんだね。 「はやく、とくいにならないかなー」 「でもね、ココ」 「?」 「誕生日をいっぱい迎えるだけでは、大人になれないのよ」 「そうなのー?」 「苦手なモノでも、きちんと食べていれば――」 「いればー?」 「大人になれるわ」 「ホントー!?」 「えぇ。だから少し我慢して、苦手なモノも食べてね」 我慢、苦手です。だけど、大きくなれないのイヤだから―― 「――うぅぅ。がんばる、ね」 「うん、応援する」 「たべられるようになったら、おこられないよねー?」 「食べ残さなければ、怒られないと思うわ」 「たべられるようになったら、じまんしても、いーい?」 「いいわよ。もし食べておいしいと思えるようになったら、最初に教えてね」 「うんうん。でも、それまで、ボクがニガテなの、ひみつね」 「うん、約束」 エファが笑ってくれた。えへへ。 食べられるようになるまで、苦手なのは内緒にしておこっと。 「あのね、あのね。ほかにも、すきなもの、きいていーい?」 「えぇ、いいわよ」 「すきなおハナは?」 「――ユリの花が好き。ココは?」 「タンポポー」 「私もタンポポ、好きよ」 「ホントー?えへへ」 タンポポって、見てて飽きないよね。 「じゃあさ、じゃあさ。すきなどうぶつ、なぁに?」 「――鳥、かしら?」 「どーして?」 「空を飛べるから」 「あー」 パタパタして、お空に上がっていくよねー。 「エファもハネあるよ、ねー。おそら、とべる?」 「――無理。動かすことはできるけど」 「パタパタ、できるの?」 「ちょっとだけなら」 すごい、すごい! 「ボクのネジまき、パタパタしないよ」 「でも、代わりにクルクル回るでしょ?」 「クルクル。クルクル。ルルル」 回るの大好き。 「楽しそうね、ココ」 「うんうん、まわるとたのしいー。エファ、まわるのすき?」 「そうね。目が回らないうちは」 「そうだねー」 クルクル、クルクル。 ヒメサマも、回るの好きかなぁ? 「ねぇねぇ、エファ……」 ボクは、ヒメサマのことを訊こうと思って声をかけます。 「――あ、待って」 でも、エファはボクではなくて、廊下の向こうを見てました。 「どうしたの?」 「足音がするの」 カツ、コツ、カツ、コツ、って聞こえてくるね。 「ヒメサマかなぁ?」 「――違うわ」 「ダレなのかなぁ?」 「あれは、アインね」 「(――アイン?)」 アインって、誰だっけ? 「こんにちは、ココ」 「こんにちは、です」 ボクもお辞儀するよ、ちゃんとね。 「(――このヒトが『アイン』でいいんだよね?)」 「アイン?」 「そうだが――」 黒くて長い服を着てて―― 同じぐらい長い髪をした男の人。アインとヒメサマ、どっちが髪の毛長いのかなぁ? 「どうかしたのかな?」 すごく不思議そうな顔されちゃった。 「もしかして、忘れてしまったのか?」 アインはボクのお名前知ってるのに、ボクはアインのこと―― 「うううぅぅ、ごめんなさい」 「いいのだ、謝らなくとも。だいたいのことは『姫君』より聞かされている」 「ひめぎみー?」 「姫様のことよ」 エファが小さい声で教えてくれた。 「あー、ヒメサマー」 アインはヒメサマのこと、『ひめぎみ』って呼ぶんだね。 「ヒメサマが、ボクのこと、いってたの?」 「うん?いや、そうだな――」 「?」 「姫君は『ココは面白い子です』と、おっしゃっていた」 「おもしろい、の?」 「自分の胸に手を当てて訊いてみるといい」 うんうん、わかった!訊いてみます。 「ボクって、おもしろい?」 胸に手を当てて、わくわく! 「(――んー?)」 「――よくわかんない、ねー」 「――いや、もう手を下ろしていいよ。キミは充分に面白い子だから」 アインが困ったような顔で笑ったけど、本当に面白かったのかな? ただ、胸に手を当てて質問しただけなのに。 「――ところで、ココ」 「あーい」 「こんな廊下で、何をしているのかな?」 「えーっと――」 ボク、なにしてるんだろう? 急に訊かれると、分からないよね。 「遊んでいたのかな?」 「ち、ちがいます」 アインは、ジッとボクを見つめる。 「エファと一緒に散歩?」 「えっと、えっと」 ど、ど、どうしよう? 「それとも、城内の見学を?」 「じょうない?」 「お城の中のことね」 またエファが教えてくれた。 「あー、おしろだったんだー」 だから、ヒメサマが居るんだね。 「目的の場所があるなら、私が案内しようか?」 うわぁ、お話続いてたの!? 「うぅ、うううぅぅ」 アインのおめめって、細くてちょっと怖い。 だから、うまく答えられなくて―― 「――ココは、部屋を出て迷子になったの。そうよね?」 「う、うん」 「そうか。それで?」 「うー、あー」 「姫様が見つけて、さっきまで話をしていたの。そうよね?」 「うん!」 「それで、姫君は?」 「えーっと」 「デュアの呼ぶ声がしたので、そちらへ行きました」 「そうそう、そうです」 アインの質問でボクが困ると、エファが答えてくれる。 楽ちん、楽ちん。エファにお任せー。 「デュアか」 あ。アインが何か考えてるみたい。 えへへ、まねっこしてみよう。 「デュア、かーぁ」 「……ん?」 「……どうしたの、ココ?」 「――あれれ?」 ふたりがボクを見てるよ。 「ココ?デュアが、どうかしたのか?」 「デュア、しらないです」 「うん?」 「あわわ。デュアって、ダレですか?」 どうしよう。また細めたおめめで見られちゃった。 「ココは、あのあと『まだ』デュアと会っていません」 「――あぁ、そういうことか」 「そうそう、そうです」 アインが頷くのを見て、ボクも首を縦にブンブン振ってみる。 そうしたらアインは、 「――解ってなさそうだが、良しとしよう」 だって。 良かったー。まねっこしたら、アインがちょこっとだけ笑ってくれたし。 「――それで、ひとりで部屋に戻れそうかな?」 「もどれそうかな?」 まねっこで、エファに質問。 「えっ?私が訊かれたの?」 「きかれたの?」 まねっこで、アインに質問。 「いや、キミに訊いたのだが?」 「きいたのだが?」 またまたエファにー。 「え?それは、私が答えるのではなくて――」 「答えるのは、ココなの」「答えるべきは、ココだよ」 うわぁー、ふたりから同じこと言われちゃった! 「ボク、どっちのまねっこすれば、いいのー?」 困っちゃうね。とっても、困っちゃうよ、ねー? 「――ふっ。もう真似はしなくていいよ」 ――あ、アインが笑った。 「……まぁ、いい。キミが部屋に戻る前に、確認しておきたいことがあるのだ」 「なんですかー?」 「キミは、自分がどこから来た『何者』か、憶えているかな?」 「アイン、それはココの記憶を――」 「安心したまえ。必要以上のことは口にしない」 そう言ってアインが、エファの前に手を伸ばすの。 「…………はい、分かりました」 よく分からないけど、ふたりにはそれだけで分かるみたい。 「――では。どうかな、ココ?どこから来たかな?」 どこから来たのかなぁ、ボク? 「うーん、わかりま、せん」 「それでは、いまキミの居るこの場所は?」 「うーん、うーん。おしろー?」 「その通り。ここは白の国、ドルンシュタイン城。――『白のお城』でもいい」 「しろのおしろー」 「城主がクリスティナ姫」 「ヒメサマー」 「そして、キミは東にある『青の国』――ブリューから」 「(――ブリュー?)」 「目の前に居るエファは、西にある『赤の国』――カーディナルからやってきた」 「ボク、アオのくに?」 「あぁ」 「エファ、アカのくになのー?」 「そうよ」 「ふたりは、ドルンシュタイン城に招かれた『お客様』なのだ」 そうだったんだー。 「もし、まだ分からないことがあるなら質問を」 「あーい、しつもんでーす」 「どうぞ」 「アインって、ダーレ?」 「…………私がアインだが」 「あ、そうじゃなくてー」 ……間違えちゃった。 「アインって、なにするひと、ですかー?」 「私は、姫君の後見人――といって解るかな?」 「こーけーにーん?わかりま、せん」 「姫君が正式な国王になるまでの間、色々な面で補助をする役目の人間だよ」 「おてつだい?」 「そういうことだ」 「じゃあ、アインは、おてつだいさん?」 「――違うわ、ココ。アインはとっても偉い人よ」 エファが、ボクの左手をちょっと引っ張る。 「うーん?」 「姫様が1番。アインは、その次に偉い人なの」 「そうなの?」 「一応は、な」 「すごいねー、アイン」 「それだけ仕事も多いし、責任も重大だがね」 アインが、首を横に振って寂しそうに笑うの。 「おしごと、たいへん?」 「大変というよりは、大切なことだね」 「たいせつー」 「そして、キミたちにも大切な仕事があるよ」 「えー?」 「忘れてしまったかい?」 「……おへやのおそうじ、とかー?」 「いや、演劇」 うわぁ、またジーッと見られてます。 「えんげきー?」 「そうだ。姫君と一緒に劇をするため、キミたち『ふたり』は呼ばれたのだから」 「うーん、うーん」 ヒメサマと、劇をするために―― どんな劇をするんだろう? ヒメサマがさらわれて、ボクが助けに行くのかなぁ? 無理だよねー、ボクじゃ。 「キミたちが主役の劇だよ」 「えーっ!エファ、ほんと?」 「――え?そうとも言えるかも」 エファ、びっくりした顔で頷きます。 なんだか、お話ちゃんと聴いてなかったみたい。 さっきから、あまり喋ってないし。 「どうしたの、エファ?」 「なにが?」 「なんだか、げんきないみたい」 「…………うん」 「もしかして、ボクがずっとしゃべってるから?」 「いいえ」 エファ、そわそわしてるね。 「――エファ。姫君のことが気になるのかな?」 「それもあります」 それも……ってことは、他にも気になること、あるんだよね? 「エファ、おトイレいきたい?」 「――違うわ」 「じゃあ、わすれもの?」 「――違うの」 「じゃあねー、じゃあねー」 「(――うーん)」 「なんだろうね?」 「――あのね、ココ」 エファが、小さくため息をついてアインを見ました。 「私、この場に居づらいの」 「どうしてー?」 「――その、アインが……苦手だから」 アインのことが? 「そうなの?」 誰かに『苦手』って言われちゃったら、誰でも哀しいよね? やっぱり、アインも―― 「エファよ」 「……はい」 「そろそろ、姫君のところへ」 あれれ?アイン、哀しそうな顔してないんだ。 「――でも、私は姫様よりココのことを……」 「ココのことは、私に任せてほしい」 「――分かりました。それでは、ココのことをお願いします」 「ボクのこと?」 「ごめんね、ココ。またあとで」 「うん」 エファは、ボクとアインに頭を下げて廊下の向こうへ。 角を曲がって、白い羽根が見えなくなったところでアインが、 「嫌われたかな?」 って、言ったの。 「エファに、『ニガテ』っていわれちゃったね」 「あぁ、ハッキリとな」 「かなしくないの、アイン?」 「別に哀しくはないが――」 アインが、おじいさんみたいにアゴを撫でます。 「?」 「――ところで、ココはどうなんだい?」 「なにが、ですかー?」 「キミは、私が『平気』なのかな?」 アインのこと? エファは苦手だって言った。ボクは、どうなんだろう? 「(――ちょっとニガテ、かな?)」 「……うーん。わかりま、せん」 苦手なんだけど、『ニガテ』って言えないよね。 だって、言われたら誰だって哀しいと思うもん。 「――『わかりません』、か」 「あい」 「優しいのだな、ココ」 「えーぇ?」 「お気遣い、ありがとう」 なんで、ボクの頭なでてくれるの?よくわかんないけど、嬉しいなー。えへへ。 「あ、でもでもでも、ねー」 「エファは、アインのこと、キライじゃないんだよー」 「――どうして、そう思う?」 「だって、『ニガテ』っていったからー」 「ん?」 「キライじゃなくて、ニガテー。もうすこししたら、へいきになるのー」 「そうなのかい?」 「……たぶん。オトナになればー」 「ふふふっ」 あれれ?なんで笑うのー? 「――大人になれば、か」 「うんうん」 「それでもエファは、『キミのようには』なれないだろうな」 「ボクー?」 「エファはキミと違って、嘘がつけないのだよ」 エファが嘘をつけない。ボクと違うの? 「――そうする、とー。エファが『しょうじきさん』で、ボク、『うそつき』?」 「いやいや、そうではない。誤解させる言い方で悪かった」 「嘘がつけない、というよりは――『何でも正直に言ってしまう』のだよ」 「なんでもー?」 「問われることには『正確な答えを返す』よう造られているのだからな」 「ふーん」 「ココは、何でも正直に言うかな?」 「うーん、うーん。むずかしい」 「ある意味、それも『正直な回答』といえるよ」 「?」 「思ったことをストレートに言えない。だから『難しい』と答える。ひとつの答え方だ」 「……?」 「ココには少し難しかったかな?」 「うーん、でもでも。ホントは、『しょうじきさん』がいいんだよね?」 「時と場合によりけり。誰だって、本心を秘密にしたいときがあると思わないか?」 「うーん、どうなのかなー?」 よくわかんないけど―― 「あるかもー」 「そうかそうか」 アインのおめめが、優しい感じになったね。 「では、ココ」 「あい」 「――どんな秘密があるのかな?」 「えーっ?」 アインが腰をかがめて、ボクをジーッと見つめる。 こ、今度は、ちょっと怖いよね。 「いわないと、だめ?」 「いってくれると嬉しいのだが――無理強いはしないよ」 「うーん、どうしようかなー?」 言っちゃおうかな?アインになら、言ってもいいよね?怒られないよね? 「あのね、あのね」 「アインは、ピーマン、すきー?」 「ピーマン?」 「うん」 もしもアインがピーマン大好きだったら、秘密だよね。だって、『苦手です』って言ったら、好きな人は哀しい気持ちになっちゃうもん。 「ピーマンね……」 どうして笑ってるんだろう、アイン? 好きなのかな?嫌いなのかな? 「じゃあね、じゃあね。ニンジンは?」 ――コンコン。 あれれ?なぁに、いまのコンコンって音? 「すまない、ココ。その答えは、少し待ってもらえないか」 「?」 「……もうひとり、お客様がいらしたようだからな」 「(――おきゃくさまー?)」 「――自分は『お客様』ではありません」 急にボクの頭の上で女の人の声がした。 「それとも、『招かれざる客』という意味でしょうか?」 女の人なんだけど、男の人みたいな格好してるよ? 腰には剣も吊り下がってるし。 「お話し中のところ申し訳ない。――よろしいかな?」 どこかで聴いたことある声だよね。 うーん、誰だっけ? 「私は構わんが――」 「ココも構わないか?」 「なにが、ですかー?」 「少し、アイン殿を貸してもらっても構わないか?」 「貸りたら返さない気だぞ」 「えーっ、そうなの?」 「アイン殿!」 「冗談だよ、デュア」 ――デュア? 「自分はまじめな話をしにきたのです。それを――」 この人が、デュアなの? 「こんなときでもないと、冗談も言いづらい相手だからな」 「…………くっ」 「まぁ、そうにらむな。ココが怯えるではないか」 「にらんでなどおりません」 なんだろう?アインの喋り方、優しいような気がする。 「それで、用件は?」 「はい。先週、自分が提出した近衛兵たちの待遇に関する意見をまとめた報告書の――」 「――あぁ、その件か」 「ご覧いただけたでしょうか?」 「目は通した」 「それでは、ご回答を」 「現在、検討中だ」 「――あれから何日が経ったとお思いですか?」 「三日、四日……かれこれ五日ぐらいか?」 「アイン殿!少しはマジメに――」 あわわ、デュアが怒ってるよ。たいへん。 「わかった、わかった。そう怒るな」 「自分は怒ってなどいません!」 「どう思う、ココ?」 「えー?」 「デュアは、怒っていないと思うか?」 「う、ううぅぅ」 怒ってる、怒ってるよね? 「自分が怒っているように見えるか?」 「うううぅぅぅ」 「あまりココをいじめるな、デュアよ」 「な、なにを!それでは、この自分が全て悪いような――」 「そうは言ってない。早く回答を出さない私が一番悪いのだ」 「あ、いえ、何もそこまで――」 「……ということで、私は執務室に戻る」 「なっ!?」 「検討のため、デュアの報告書にしっかり目を通さなければな」 アインの言葉に、デュアなんだかすごく疲れた顔してるね。 「……わかりました。では、自分も同行します」 「いや、それには及ばない。それよりも」 あれ?アインがボクを見てる。 「ココを部屋まで送り届けてほしい」 「――それはご命令ですか?」 「命令でなければ断るのか?」 「――いえ。承りました」 「結構。それでは、またあとで。ココも、な」 「あーい」 「まったく、あのお方は――」 「いっちゃったね」 「いつもいつも、ああやって誤魔化してばかりだ」 「そうなの?」 「あぁ、毎回、毎回。これまで一度だって――」 「?」 「いや、最後にはしっかりと仕事をしてくれるから、文句も言いづらいのだが――」 「たいへんだね」 「ふーっ。まぁ、ほとんどの大役を任せきりにも近いからな。少々、我らの意見が後回しにされても、それは仕方がない」 なんだかデュア、元気なさそう。可哀想だね。なでなでしたら、元気になるかな? 「なでなで、なでなで」 「……ひゃっ!?」 「なっ、何をする!?」 「あたま、とどかないから、おしりをなでなでー?」 「――あ、ありがとう、というべきかな」 「えへへ」 ほめられちゃった。 「さぁ、部屋まで送ろう」 「ありがとう、というべきか、なー?」 「……」 「……あれれ?」 「いまのは、その……自分の真似か?」 「うんうん!」 「そうか」 「……にてなかった?」 「いや、それ以前の問題で……」 デュアは何か言おうとしてやめ、また何かを思いついて―― 「まぁいい。気にしすぎなのだ、自分が」 ひとりで頷いて解決しちゃった。 「では、気持ちを改めて。ココ、部屋まで送ろう」 「ありがとう」 ボクは、デュアについていくよ。 「……」 カツ、コツ。 「……えへへ」 テクテク。 「…………」 ……デュアって、喋らないね。 「――ねぇねぇ、デュア」 「なんだ?」 「デュアって、なにをするひと、ですかー?」 「自分か?自分は、姫をお護りするのが仕事だ」 「リュウとたたかうのー?」 「リュウ?それは、翼のある竜のことか?」 うんうん! 「あのね、キシがね、リュウとたたかうの」 「……まるで絵本の中の話だな」 「えほんで、みたよー。デュア、たたかわないのー?」 「――そうだな」 あ、デュアが悩んでるみたい。 「姫のためであれば、それもいとわない」 「すごいねー。おっきいのと、たたかうんだね?」 「できれば、小さい方がいい」 「おっきいと、こわい?」 「――そうだな。ココも相手が大きいと怖いだろう?」 「うーん、うーん」 「うん?」 「みんな、ボクよりおっきいけど、こわくない、よー」 「そうだな。ココがふたり分で、やっと自分ぐらいか」 ボクの頭の上に、ボク、もうひとり? 「せのびしたら、ボクがちょっとだけ、うえ?」 「――あぁ、ココの勝ちだよ」 えへへ、デュアに勝っちゃった。 「ねぇねぇ」 「なんだ?」 「アイン、すきー?」 「なっ、なにを急に!?」 あれ?デュアがすごくビックリして、そっぽ向いちゃった。 「キライー?」 「嫌いではないが――」 「ニガテー?」 「苦手でもないが――」 「じゃ、すきー?」 「――なんでそんなことを急に訊く?」 うーん、なんでだろう? 「ボク、アイン、ニガテー」 「――そうなのか?」 「でもね、でもね。アイン、すきー」 「……」 「ヒメサマも、エファも、すきー」 「そうか。自分も――」 「デュアも、すきだよー」 「……あ、ありがとう」 何だかデュア、困ったり笑ったり、たいへんだね。 「――さぁ、部屋に着いたぞ。いま、ドアを開けるからな」 「わー、ホントだー」 思い出した、思い出した。ボク、この部屋から廊下に出たんだよねー。 「ありがとう、ございます」 「ほう、ちゃんとご挨拶もできるのだな」 「れんしゅう、したのー。クルクルもできる、よー」 「クルクル?」 「クルクルクルクルー」 両手を広げて、クルクルクルー。 「楽しそうだな」 「うんうん!」 「そうか」 そう言ってデュアが、ボクの頭に手を伸ばしてきた。 あ、もしかして、なでなでしてくれるのかな? 「――今日は楽しかったよ、ココ」 「えへへ、ボクもボクもー」 「…………ふふっ」 あれれ?頭なでてくれないね。 だけど代わりに―― 「握手をしようか」 差し出されたのは、デュアの右手。 「うん、いいよー」 ボクはデュアと握手、握手。 「――では、またな」 「うん、バイバーイ」 デュアは何度か振り返りながら、向こうに行っちゃった。 ちょっと寂しい。 「(――でもね、でもね)」 振り返るたびに、デュアが笑ってくれたから…… ちょっと、嬉しかったよ。 「やれやれ」 久しぶりに歩く《 ドルンシュタイン》〈『白の城〉』の中庭は、以前と大差ない。 「――二年か」 言語に秀でた自分が学者としての能力を買われ、《 ブリュー》〈青の〉国へ大使として出向いたのが二年前。 それから一度も母国へは戻らず、ひたすら職務に忠実だった自分。 ……だが、その大使という仕事にも、初めの三ヶ月で疲れを覚えてしまったのも事実だった。 自国への連絡と、それらにからむ書類審査の認可のサイン。 または、青の国内で開かれる行事などに《 ヴァイス》〈『白〉』の代表として参加の挨拶回り。 個人としての能力はさして求められず、ほとんど『飾り』のような扱いには面白みがない。 無論、それはそれで大切な仕事だと分かっていた。 が、それでも―― 「退屈な日々の繰り返しは、本当に辛かった」 マジメに取り組むほどに、『自分でなくても良いのでは?』という気持ちが大きくなる。 そんな中、救いの手を差し伸べてくれた人物が居た。 「――彼のおかけで、充実した日々が送れるようになったのだ」 感謝せねばなるまい。 そして、その厚意に報いることができるのは、《 ヴァイス》〈白の〉国に戻った自分なのだ。 「うーん、それにしても――」 ドルンシュタイン城の敷地内は、本当に静かだ。 クリスティナ姫が周りに最低限の人数しか置かないようにしているとはいえ、これはあまりに不用心ではないか? 一瞬、自分が登城の時間を間違えたかとも思ったが―― 「それもなさそうだし」 時計をしまいながら、ふと顔を上げれば二階の窓から誰かが手を振っている。 「(――おや、子どもか?)」 いや、違う。 背の高さだけなら子どもぐらいだが、あの特徴的な横幅と頭部は―― 「おぉ、あれは『ユッシ殿』か!」 懐かしい姿に軽く手を振り返しながら城内へと入る。 まさか、あのユッシ殿が時間よりも早くに来ていようとは。 月日が人を変えたのか? 私は約束の客間の前に立ち、襟元を正してから扉を開け、中にいる御仁よりも先に頭を下げる。 「――ごきげんよう、ユッシ・オズボーン殿」 「遅いぞ、ハンス」 「あ、いや、その――申し訳ありません」 定刻を過ぎたわけでもないのに、自分が頭を下げている。 「(――仕方がない。ユッシ殿を相手に、異議を唱えても時間の無駄)」 「しかしまぁ、久しぶりだなハンスよ。かれこれ三年か?」 「いえ、二年です」 「そうかそうか、二年か。がっはっはははは……」 間違えたことなど露ほども気にならないらしく、ユッシ殿は大口を開けて笑う。 「それにしても、お早いですね」 「ん、ワシか?今日は他に用もないのでな。暇つぶしも兼ねて早々と登城したのだ」 「……」 「も、もちろん、貴殿たちとの約束もあってのことだぞ」 自分は勘違いをしていた。ユッシ殿が短い月日で変われるわけもない。 「――それはそうと。久しぶりの帰国となりましたが、何ら変わらず――」 「どこに目を付けているのだ、ハンスよ」 「はっ?」 別に自分は、ユッシ殿のことを『嫌味に』言ったつもりはないのだが―― 「国を離れていたハンスには分かるまいが、ひどくなる一方だ」 「(――あぁ、誤解していたのは自分の方か)」 「失礼しました」 「まあ、他国に住み、書面のやりとりと使者から聞かされるぐらいでは、内情が分からんのも理解できる」 「は、はぁ」 「しかし、しかしだ!」 「貴殿が呑気に――いや、外交の《かなめ  》〈要た〉る大使として離れた三年間で、国政は大きく変わってしまった」 ここで、『二年なのですが……』と言い直すのも馬鹿らしく思えるので黙っておく。 「表向きには軍備を限りなく削り、人形技術の促進を公言」 「……が内実は、人形の輸出を抑えて、国民には農耕分野の自給自足強化を推奨する」 「おかしいとは思わないか!?」 「有事の際、兵が少数では国を守れぬではないか!」 「《ヴァイス》〈我が〉国が他国に強くアピールできるモノは、人形技術以外にない。なのに、それを極力『外貨に換えるな』だと!?」 「芋ばかり作らせて、どうなる?」 「そんなことをしたら、国民だけでなく我ら貴族の食卓までも変わり映えしなくなるわ!」 ユッシ殿は頭から湯気を立てて熱弁を振るい、鼻息も荒くこちらをギロリとねめつけてくる。 「じ、自分は大使だったとはいえ、青からの輸出入に関しては本国からの指示に従わざるを得ず……」 「そうじゃろう?皆、不本意ながら屈しているのだよ」 「貴殿ほどの博識ある者の意見すら通らないこの国は、何処へ向かおうとしているのだ……」 憂いを噛みつぶすかのように顔を歪めたユッシ殿は、 「それもこれも、全てあのアインのせいだ!」 と歯ぎしりで恨み人の名を洩らした。 「…………アイン殿ですか」 「そうだ、あのアインだ!」 「(――ユッシ殿、口元に《つば》〈唾〉が)」 「あの若造がクリスティナ姫の後見人に任命されてからというもの、やりたい放題もいいところだ!」 「……ははは」 「ははは、ではないわ!」 「いや、その、すみません」 「貴殿は知らないだろうが、あやつのおかげでどれだけの者が苦汁を舐めさせられたことか」 ユッシ殿は、まるで自分が一番ひどい目にあったと言わんばかりの激昂ぶり。 「まあまあ、ユッシ殿。少し冷静に」 「ワシはいつも冷静じゃ!」 ……と、そこまでいってテーブルを叩くと、さすがに本人も行き過ぎたことに気づいたらしい。 「――とにかく、そういうことだ」 「(――なにが、『そういうこと』なのでしょう?)」 まだ何の説明も受けていないが、問いただして振り出しに戻すのもどうかと思うので、ここはひとまず納得しておく。 「そうですか、そうですか」 そして、この先の話は自分が誘導して―― 「えぇぇぃ、《いまいま》〈忌々〉しい!」 「――は?」 「何もかもが《しゃく》〈癪に〉障る!」 ――この御仁、『堪える』ということを知らないのだろうか? 「まぁまぁ、ユッシ殿」 自分は、この手の人物が一番苦手だ。 「確かに、アインの父親であるフリッツ・ロンベルク殿は、この《 ヴァイス》〈白の〉国の重鎮にふさわしきお方だった」 「まだまだワシが若輩だった頃、何度か助けていただいたこともある」 「(――かなりの頻度で助けていただいた、というお噂も)」 「その恩義は忘れん。忘れられるものではない」 「が、しかし!だからといって、その息子であるアインが『優秀』とは限らんではないか!」 「確かに」 「なのに、先代国王はお亡くなりになる直前、気弱になられ判断力も鈍ったままにアインめを――」 「(――クリスティナ姫の後見人としてご指名になられた、と)」 「それが今日まで尾を引き、このような『悪政』を強いられる結果が生まれたのだ」 「確かに、財政難は否めませんな」 「そうじゃ、そうじゃ!見よ、このドルンシュタイン城の警備の薄さを!兵士とてロクにおらん有様を」 「いや、これはただ単にクリスティナ姫が人払いを――」 「えぇぃ、分かっとらんのうハンス」 「クリスティナ姫は、ご自分で財政難を少しでも改善しようとしておるのじゃ」 「――はぁ」 つい先ほどは、軍備を減らすことをアインの悪政と罵ったような―― 「本来ならば城の本丸に置くべき兵士、護衛を合わせれば、最低で20は必要なところ」 「それがたったの5人だ!四方にひとりずつと、お《そばづか》〈側仕〉えの直護衛がひとり」 「その直護衛が『デュア』で、あまつさえ『隊長』ときている!何故、女などに任せるのだ!?」 「(――怒りの矛先がずれた)」 「それは、女性であればクリスティナ姫も気兼ねなく――」 「ワシが言いたいのはそんなことではない!」 「女だてらに剣を振り回す粗野な者に、なぜ人を束ねさせる?」 「一代限りの名誉とはいえ、どうして『騎士の称号』まで!?」 「――それは」 「なんじゃ!?」 「い、いえ」 姫の護衛に相応しいだけの剣技と礼節を兼ね備えているから……だと、言いたいが言えない。 それに、元々デュアは貴族階級――名門カールステッド家の生まれ。 「(――デュアも男子に生まれていれば、文句も言われなかったということか)」 「アインめ。自分の好みひとつで《ばってき》〈抜擢〉しおって」 「納得ゆかん、納得ゆかんぞ!あのような女、ワシの屋敷におる護衛が5人もおれば――」 「(――5人がかりですか)」 国で一番の腕前と言われる剣士デュア。 情けない話だが、それぐらい頭数を揃えて挑めば――いや、それでも難しいのではないだろうか? 「まぁ、剣だけが取り柄の女の話はどうでもいい。――問題はアインなのだ」 また根の深い恨み話に戻るとは。聴かされているこちらの身にもなってほしい。 しかしユッシ殿にとって、それだけアイン殿という存在が『目の上のたんこぶ』なのだろう。 「――ハンス、実はな……」 「は、はい」 話題に乗り遅れたかと思って身構えたが、どうもそうではなかったらしい。 「……なんでしょうか?」 「ワシは外務大臣を『辞めた』のだ」 「……は?」 「ええぃ、何度も言わせるな!ワシは、外務大臣の職から退いたのだ」 「そ、それは!?」 さすがに初耳だ。 まだ任期が来たわけでもないのに辞めたとなれば―― 「誤解してもらっては困るが、ワシは『自ら』外務大臣の職を辞任したのだぞ」 「あ、は、い。それはもちろん――」 「話せば長くなるが、ワシはアインの元で外務大臣を続ける気になれなくなった」 「は、はぁ。それで、いまは?」 「うむ。外務大臣《 ・ ・》〈補佐〉を務めておる」 「(――外務大臣、補佐?)」 なんともまた、中途半端な役職に。 「アインめが辞めたワシを頼るので、『仕方なく』補佐の職を引き受けてやったのだよ」 「そ、そうだったのですか」 もし仮に、ユッシ殿の言うとおりだとすれば…… 「(――《 ヴァイス》〈白の〉国の人材不足は、深刻なものだ)」 「他の大臣どもは腰抜けばかり。若造が怖いのか、正面からぶつかろうともしない」 「ワシのように、自らの意思で立場も明確にできないとは!」 「――それは、一理ありますね」 ユッシ殿がどれほど強い態度を見せられたかは、さておき。 現在、クリスティナ姫の後見人――アイン殿に面と向かって逆らおうとする者はほとんど居ない。 「そうだろう、そうだろう!だいたい、国内で書類だけ眺めているような連中に何が分かるというのだ?」 「アインとて、口では偉そうなことを言いながら、いざというときには国を離れることもできない」 「だからこそ諸外国の事情に詳しいこのワシが、外務担当として必要だったはず……いや、必要なのだ!」 「……あの、ユッシ殿?」 「ワシこそが真の外務……なんじゃ?」 「ユッシ殿は『自ら退任』されようとした……のですよね?」 何か矛盾している。いまの発言では、まるで『自らが返り咲き』を望むようにしか聞こえない。 「――う、ぐぅ、よ、ようするにじゃ!」 「現在のアイン中心の政権を打破した上で、ワシがあるべきポジションへ戻る、そういうことだ!」 「は、はい。おっしゃりたいことは、よく分かりました」 「(――おかわいそうに)」 アイン殿から退陣を迫られたところで泣きつき、なんとか補佐の地位を与えてもらった……が、妥当な経緯か。 「ま、そんなわけで以前のようにはいかないが、貴殿等に力は貸せるぞ」 「(――そうは言われても)」 口元だけニヤリとさせるユッシ殿には、期待というより……不安を覚えさせられる。 が、それでも貴重な同志の一人。いまさら後戻りはできない。 「ところでハンスよ。もう一人は?いつ、ここへ?」 「少し遅れているようです」 「信用できるのか、その男は?」 「――はい。そうでなければ、このような相談をユッシ殿には致しません」 「ふむ、そうか」 計画に関わる人数を増やせない。 それだけにユッシ殿のように我欲が強く、他者をはねのけることを躊躇わない人間は貴重な存在。 ……特に、この《 ヴァイス》〈白の〉国内においては。 「だが、勘違いはするな」 「はっ?」 「ワシは、会ったこともない男を信じたのではない」 「――ハンス、貴殿を信じたのだ。貴殿だからこそ、な」 「ユッシ殿――」 意外な言葉に、少し心が震えた。 これまでの印象が変わるものでもないが、それでも悪い気はしない。 共に『ひとつの計画』を成し遂げようとする間柄であれば、互いを信じる気持ちが大切。 自分もユッシ殿を信じる。 ……が、注意と警戒だけは怠るわけにいかない。 用心を知る者が、不注意な人間を監視。ミスしないようにしっかりとコントロールする必要がある。 これは信頼関係とは別の問題。役割分担として、割り切らねばならない。 「しかし、ひとつ疑問があるのだが」 「なんでしょうか?」 「いまさらなのだが、何故ワシに計画を持ちかけたのだ?」 「それは――」 多少の『不穏な動き』をしても、即座に咎め立てを受けることのない人物。 権力で嫌疑を覆せるならば、それに越したことはない。 しかし残念なことに、この《 ヴァイス》〈白の〉国においては該当なし。 そうなれば……裏の手だ。 「ユッシ殿ならば、必ずやご助力くださると信じたからです」 日頃よりアイン殿との対立がハッキリしつつも、見逃してもらっている者。 多少マークされていようとも、その危険度が低いと思われている者こそが、次点の同志候補に挙がる。 「もし、このワシがその誘いを断ったとしたら?」 「『――よいですか、ハンス殿。もし仮に、ユッシ殿が誘いを断るような発言で探りを入れてきたら――』」 「『この計画はなかったことにする、と軽く一言』」 「――この計画は、なかったことに」 「ほうほう」 「『そこですかさず、ユッシ殿が必要だ……という部分を強くアピールすれば……それで充分に納得してくれるでしょう』」 「ユッシ殿が欠ければ、計画は水泡に帰します。――ユッシ殿は、それだけ重要な存在なのです」 「うむうむ!」 上機嫌のユッシ殿を見て、ホッと胸をなで下ろす。 「(――まさか、本当に彼が想定した『質問』がくるとは)」 「ガッハッハッ!よかろう!もちろん、助力は惜しまん。ワシ抜きではありえない話だからな」 「は、ははは……」 全ては、『彼』が想定した通りに順調。 だが、それだけに気を緩めてしまいそうで怖い。 準備しなければならないことは山ほどある。 万が一にも《 コ ト 》〈計画〉が武力行使にまで発展すれば、文官の自分など何の役にも立たない。 自分――この『ハンス・ブラント』が全力で立ち回るべきは、いまこの場面なのだ。 「――ハンスよ!」 「はっ、はい!」 「聴いておるか?」 「――失礼しました。少し考えごとをしていたもので」 「……大切な話をしているときは、こちらに耳を傾けてもらいたいものだ」 「申し訳ありません」 「……まったく」 《 せ》〈急〉いてはコトをし《そん》〈損〉じる。 「(――冷静に、冷静に)」 「……で、一体なんのお話でしょうか?」 「うむ。まぁ、そのなんだ……その……まぁ、よい」 「はい……?」 大切な話ではなかったのだろうか? 「え、ええぃ。とにかく、とにかく、だ!」 仕切り直しの言葉を探し、ユッシ殿は室内をウロウロする。 やがて何かを思いついたらしく、ポンと手を叩いた。 「ハンス、《 ブリュー》〈青の〉国はどうであった?」 ユッシ殿は、唐突に話を切り替える。 「は、はぁ。赴任してから二年。ちょうど慣れてきたところで戻ってきましたので――」 「えぇい、面白くない男だな。また図書館にこもって、読書に明け暮れていたのだろう?」 「ははは。明け暮れてはおりませんが、色々と学ぶべきことも多かったですよ」 「ふむ」 「ご存じの通り、《 ブリュー》〈青の〉国は海に面しておりますので、船舶技術や貿易航路などについても――」 「あーぁ、専門的な話はよい。ワシが分かる程度にかいつまんでくれ」 「……ま、まぁ。《 ヴァイス》〈白の〉国では見聞きできないモノが豊富で、飽きることがありませんでした」 「そうかそうか」 「そして自分は、多少なりとも――『人形』についての知識を深めてまいりました」 ――その昔。 《カーディナル》〈赤の国〉の鉱山から多く産出される貴石の中に、特別な力を持つモノがあることを見つけ出した者が居た。 きっかけは、ほんの偶然から。 戯れに貴石のペンダントを人形の首にかけたとき、その腕がほんの少し持ち上がった――と言われている。 人形といっても、当時は木ぎれや余り布を用いて作られた簡素なモノで、子どもの遊び相手程度の造り。 しかしその不思議な貴石の力は、子ども以上に……大人たちからの関心を集めることになった。 そして長い年月が過ぎる中で、最初のモノとは違う力を持つ貴石が幾つも見つかり、研究に拍車のかかった赤の国は―― ついに『人形を《 ・ ・》〈人間〉のように動かす』ところにまで達した。 「ほうほう、人形の勉強をしたのか」 「はい。我が白の建国にも関わることでしたので」 こうして本格的に始まった人形開発は、当時の物珍しさも手伝って、瞬く間に国内外で噂に。 当然、赤の隣国である《 ブリュー》〈青の〉国にも情報は伝わり、貴族階級の人間たちがそれに興味を示す。 広大な領土を生かした農業や鉱山採掘の貴石の産物で経済を支えてきた《カーディナル》〈赤の国〉。 それに対して、東に広がる海の航路などを利用し、他国との貿易をメインに栄えてきた《 ブリュー》〈青の〉国。 これらふたつが、『人形』という存在をもって流通関係を強くするのに、さして時間はかからなかった。 「《 ブリュー》〈青の〉国の人形研究も、なかなかのモノですよ」 「ほほーう。……といっても、我が国には及ぶまいて」 「ははは、それは確かに」 我らがヴァイスは『赤と青の平和の証』として、両国の境に誕生した国。 そしてそんな象徴だけに留まらず、人形技術を研究する国として重要な役割を課せられることになった。 「特に我らがクリスティナ姫は、歴代でも一、二を争うほどの人形調律の腕前を持つからの」 「王の一族――ドルン家の特権ですね」 人形の研究を専門とする王家の人間は、代々その技術を発展させて赤や青の国へと伝える。 そんな中、『秘伝』とも言うべき技術が幾つも誕生した。 それは王家の人間のみが理解し、生かせると言われるモノ。 「他国からは門外不出――血のなせる技術、と呼ばれているぐらいですからね」 「うむうむ」 自分が《 ブリュー 》〈『青』〉で人形技術について学んできたのも、他国から見た自国の技術がどのようなモノか知るためだった。 「ですが、ユッシ殿。《 ブリュー》〈青の〉国にも、新しい技術がありまして」 「そうか、そうか!」 「……で、食べ物はどうだった?」 「(――は?)」 いま、自分は何の話をしていた? 「さぞかし《 う ま 》〈美味〉い料理を食べてきたのだろう?」 「う、うまい料理、ですか?」 確か、いまのいままで、自分はユッシ殿と人形について―― 「あの、ユッシ殿。人形の話は……」 「人形?あぁ、ワシにそんな話は要らん。だいたい、人形は嫌いだからな」 「――嫌いとか、そういった問題ではなく……」 「ほれ!ハンスが急に人形などと言い出すから、何の話をしていたか忘れてしまったではないか」 「(――それはこちらの台詞です!)」 「…………は、はぁ。ユッシ殿は、食べ物の話をされようとしてました」 「そうだ、思い出したぞ!」 「以前、《ブリュー》〈青を〉訪れたとき馳走になったあの肉料理!あれは最高の味じゃった!」 「…………肉」 相づちを打つ程度で、聴いてないも同然だったわけだ。 「あれは子羊に違いない。味付けはワインだったような。名前はなんといったかな?確か――」 ……どっと疲れてきた。自分とは興味を持つモノも違えば、会話のリズムも違う。 「む、そうだ、ハンス!いまの『ワイン』で思い出したぞ!」 「…………はい?」 「今回の計画で出てくる、『ワイン』とは……なんぞ?」 「(――ほ、本当に、この御仁ときたら……)」 「――あ、はははははっ」 ユッシ殿の話の飛び具合には、怒りよりも先に笑いの方がこみ上げてくる。 「なっ、なにがおかしいか!だいたい同志であるワシが、まだ計画の全容を知らずに――」 人形から食べ物、食べ物からワイン、ワインから計画へ。 「い、いや、これは!その、少しばかり思い出し笑いを……はははっ」 めまぐるしさ満載。ここまでされると笑うしかないが、それでも話の方向だけは正されたのだ。 「いま、自分が酒蔵からワインを持ってまいります」 「ん?あぁ、すまんのわざわざ」 「いえいえ。お待ちの間は……そう、中庭でもご覧になっていてください」 「なんじゃ、中庭に何か面白いモノでもあるのか?」 ゆさゆさと窓際へと寄っていくユッシ殿。 「――あそこに見えますでしょう。クリスティナ姫と人形たちの姿が」 「ん?何処じゃ?」 「ほら、あそこを歩くのが――」 手抜かりなく、慎重に。 ユッシ殿が下手に動いて計画が露見しないよう、手綱を握るのは――自分の役目なのだから。 「――エファ、ココ。こちらですよ」 「あーい」 人形ふたりは、仲良く手を繋いでわたくしの後をついてくる。 今日は、とても良い天気。 こうして太陽の恵みが降り注ぐ中庭をみんなで歩くのは、本当に気持ち良い。 「ココ。あまり手を振り回すと、エファが――」 「私は平気です」 「へいき、でーす」 「――もう!」 わたくしは思わず苦笑で口元を隠す。 「――でも、本当に良かった」 エファとココが、このドルンシュタイン城に着いたのは……かれこれ一週間ほど前のことになる。 両人ともほぼ同時の到着だったため、一緒に謁見の間へと来てもらった。 「『赤の国よりやってまいりました、エファです。このたびは格別の待遇にてお招きいただき――』」 「『は、はじめまして、です。――ボク、ココといい、いい、ます』」 よどみなく礼儀正しい挨拶をするエファに比べ、ココはギクシャクと緊張した動きで一生懸命に頭を下げる。 そんなふたりの差に頬が緩みそうになるも、『いまは厳粛な初会見』と思い、堪えていたが―― 「『あー』」 ココがおなかを鳴らし、真っ赤な顔をしたから大変。 「『あわわ、ボク、はずかしいー』」 「(――両手で顔を隠す仕草のかわいらしさといったら)」 わたくしやエファに限らず、その場に居たアインやデュアまでもが口元に手を当ててしまった。 「『あれれ?みんなも、はずかしい、のー?』」 「(――謁見の間に笑いが溢れたのは、何年ぶりのことかしら?)」 わたくしはあのときのことを思い出しながら、振り返って後ろを歩くココを見る。 「ヒメサマー。ボクにごようです、かー?」 「なんでもありませんよ、ココ」 「うーん?」 「大丈夫ですか、ココ?」 「なにがです、かー?」 ――あれは、ココがドルンシュタイン城に来て3日目のこと。 「『うぅぅ、うわぁぁーん』」 「『ココ?また泣いているのですか?』」 「『――うぅぅ。おばあちゃんに、あいたい、です』」 ココは慣れない暮らしのせいかホームシックにかかり、昼夜を問わず、思い出したかのように落ち着きを失っては泣いていた。 《 ブリュー》〈青の〉国に確認をとるも、ココを造られた老技師は……すでに亡くなっている、との哀しい報せが届いている。 そしてその報せには、『ココ自身も、それを知っているはず』との注釈もあった。 「『おばあちゃん、ボクのこと、キライに、なったから、あって、くれないの?』」 「『いいえ。ココのおばあさまは、ココのことを嫌いになったりしませんよ』」 「『ホン、トー?』」 「『本当ですよ。ただ、ココのおばあさまは……ずっとずっと、遠いところにいらっしゃるの』」 「『アオのくに、だよね?ボクのくにに、いるんだよ、ね?』」 「『――えぇ、そうです』」 ココの問いにも、わたくしの答えにも嘘はない。ただ、ココの求めるような会見は―― 「『とおいから、あえないんだよ、ね?』」 クリス「『――ココ、よく聴いてください。あなたのおばあさまは、残念ながらお亡くなりに――』 「『しんじゃったんだよ、ね。だから、あえないんだよ、ね?』」 「『……えぇ』」 「『でも、そうしたら、いつ、あえるの?』」 「『……ココ……』」 簡単な診断の結果、ココにはまだ『人の死』というものが理解できないと判明。 そこで国内の技師を呼び寄せて調べさせたところ、意外なことも分かった。 そのかわいらしい外見上とは裏腹に、構造はこれまでにない――方向性が全く違う新しい技術の固まりだということ。 未知の造りの人形の『《かいふく》〈解復〉作業』の成功率は低く危険を伴う。 そのため、わたくしが得意とするメンタルケア――『調律』のみで解決するしか方法はなくなってしまった。 ……が、それにかけられる時間は、あとに控える演劇のためほとんど残されていない。 色々考えた末、わたくしはココの記憶の一部――老技師の存在を一時的に封印する調律を選んだ。 「――ココ。わたくしが誰だか、もう分かりますよね?」 「あーい。ヒメサマーですー」 「――それでは――」 わたくしはそっと視線をエファに移し、 「こちらが誰だか、わかりますか?」 と尋ねてみる。 「エファ、だよ、ねー?」 「そうです。よくできましたね、ココ」 しかし、あの調律の後遺症で『記憶の欠落』が生まれてしまうとは―― 「(――わたくしが、もっとしっかりした調律を施せば……)」 不幸中の幸いだったのは、それがこの白の城に着いてからの記憶に限られていたこと。 「ボク、もう、へいき、でーす。みんな、わかる、よー」 「ごめんなさいね、ココ」 「???」 「記念式典が終わったら、ゆっくり時間をかけて……」 「きねん、しきてんー?」 「ココやエファが演劇を披露する式典のことですよ」 「……あい、おもいだしましたー」 「ボクが、ボクで、エファが、ボク、なんだよ、ねー?」 「あれ?どうなんだろー?エファ、わかるー?」 「え、えぇ?うん、それで合ってると思うわ」 「うふふっ」 ココと話すと、ボタンの掛け合わせがずれてしまうかのよう。 「ココ?もう少し詳しく説明できますか?」 「えっと、えっ、とー」 腕を組み、首を傾げ、反対を向き、元に戻したかと思えば空を見上げ、口を開けて―― 「ボクが、とべないテンシ。エファが、とべるテンシのやく、でーす」 と、両手をパタパタさせながら答えてくれた。 「よくできましたね。――それでは、エファ。もう一度だけ、ココに説明してあげてもらえますか?」 「この前、ココに聴かせてあげた説明でよろしいですか?」 「はい、それで構いません」 わたくしのうながしを受け、エファは小さく頷いた。 「――時はこれより二百年以上も昔。《 ヴァイス》〈白の〉国に、初代女王が誕生した頃のお話なの」 「うんうん」 「その女王は、歴代王家の一員の中でも一、二を争うほどの人形調律の技術を持っていたそうよ」 「――女王が調律を施した人形は、これまで以上に人間らしく振る舞い、考え、話すの」 「エファみたい、にー?」 「そう。私だけじゃなく、ココや他の子たちみたいに」 「……でも、当時ではまだまだ難しい技術だったの」 赤と青の国に挟まれた場所に位置する小さな白の国――ヴァイス。 その白の国を統治するドルン家は『赤・青』両国王家の一員から選出され、婚姻を結んだふたりから始まった。 「そして、そんな《 ヴァイス》〈白の〉国の女王の元へ、赤の国より一体の人形が送られてきたの」 「あー、おもいだしたー!それが、ボクのやくだよ、ねー?」 「そうよ」 「あれれ?でもでもー」 「なぁに?」 「ボク、アオのくにからきたよ?」 「それは気にしないでいいの。あとで赤の国の人形である私と、交代になるでしょ?」 「あ、そっかー!うんうん」 「私たちが演じる人形は『天使の卵』と呼ばれ、女王の元でお勉強を」 「初めは反応の悪かった人形も、次第に言葉を覚え、文字を書き、心というモノを持ち始めるの」 「そうしたら、エファのばんだよ、ねー?」 「そうね。私がココと入れ替わりで、天使の役を演じるわ」 劇中で成長を遂げた天使を表現するため、ココはエファへと交代。 「やがて天使は立派になって――」 「なってー?」 「――ねぇ、ココ」 「あいあい?」 「昨日の説明、忘れてしまった?」 「あれれ?つづき、わすれちゃったー」 「もう、ココったら」 別段、エファは怒ったりはしない。 ただ、苦笑してココのおでこを撫でてあげるだけ。 「えへへ。ごめんなさい」 それに、こんなにかわいらしく謝られてしまったら、もう誰も怒ることができないだろう。 「――エファ。そこから先は劇の練習をしながら、ココに思い出してもらいましょう」 「分かりました」 「あーい、おもいだしまーす」 両手を挙げて元気よく返事をするココ。 この子を見ていると、たとえ空が曇りだったとしても――気持ちは晴れて微笑むことができる。 「れんしゅー、れんしゅー」 「がんばりましょうね」 「うんうん!それでボク、なにをすれば、いいです、かー?」 「まず、わたくしがココが登場するところまでの流れを説明しますので、聴いてください」 「あーい」 最初は、ココの演じる『天使の卵』が城に到着したシーンを。 女王は、謁見の間で天使の卵を待つ身。 しかし、いつまで経っても現れないのを心配して城内を探すことにする。 「それでは、始めますね」 わたくしは、少しドキドキしながら最初の台詞を口に―― 「――確かに到着と聞いたが、一体どこに居るか?」 「あーい!ここにいますー」 「……ココ。まだこの場面では、お返事しないでくださいね」 「あーい」 「やがて女王はホールに足を運び、そこで――『いずれに居るや、天使の卵よ』と言います」 「うんうん」 「……そこでココが初めて、『誰ですか?』と応えてください」 「それまでボク、じっとしてないと、ダメです、かー?」 「はい、柱の影に隠れているのです。返事をするときも、その場所で」 「わかりましたー」 「では、そこまでを試してみましょう」 わたくしは、ココが隠れる柱の代わりになるモノを庭園内で探す。 「ココ、あの植え込みの裏に隠れてください」 「みつからないようにー?」 「はい」 「あーい、かくれまーす」 ココは嬉しそうに、わたくしが指し示した『植え込み』までパタパタと走る。 そして、周りをキョロキョロと見回してから、その裏側へとしゃがみ込む。 「もー、いー、かーい?」 「?」 「あ、まちがえちゃった!もー、いー、よー、だねー」 「(――どうしたのかしら?)」 「ココ?いまの……それは、なぁに?」 「かくれんぼー。エファ、かくれんぼ、しらない?」 「知らないわ」 「(――隠れん坊、のことね)」 幼い頃、父上や家臣の者と何度か―― 「ヒメサマは、しってます、かー?」 「……はい」 それは、懐かしい思い出。 家臣の者たちは隠れるとき、必ずわたくしが気づくようにと、頭を出したり、足の先を見せたりしてくれた。 「(――でも、父上だけは――)」 「うふふっ」 「――姫様?」 「ごめんなさい。思い出し笑いをしてしまって」 本気で隠れ、見つけられずにわたくしが泣き出すと真っ先に飛び出してくる、そんな父上だった。 「ヒメサマー。ボク、かくれましたー」 「はい。ではもう、いいですね?」 「もー、いー、でーす」 わたくしは少し笑い、それから気持ちを切り替えて大きく息を吸い、 「確かに到着と聞いたが、一体どこに居るか」 と、再び最初の台詞を口にする。 「はーい」 「(――あら。とても元気の良いお返事だこと)」 「ココ、まだ姫様の呼びかけに応えたらダメなの」 「あわわ、そうだったー」 声のする方向からココの頭が覗いたかと思うと、口を両手で押さえながら隠れる。 「それでは、もういちど。よろしいですか、ココ?」 「………………」 「(――返事がないのは承諾、と考えてもよいのでしょうか?)」 「こほん。……確かに到着と聞いたが、一体どこに居るか」 「…………」 「(――順調ですよ、ココ)」 わたくしは、ゆっくりゆっくり、ココを探す演技を続ける。 「そして、女王はホールへ辿り着きました」 この場面で、ココが初めて返事をする段取り。 「いずれに居るや、天使の卵よ」 「……」 「いずれに居るや、天使の卵よ?」 「…………」 「(――出るタイミングを忘れてしまったようですね)」 「………………」 「――エファ、お願いがあります」 「はい」 「ココのところに行って、教えてあげてください」 「わかりました」 静かに歩き出したエファは、植え込みまで近寄ってゆっくりしゃがみ込み、ココの背中をトントンと叩く。 「う、わぁー。みつかっちゃったー」 「ココ、もう出番。姫様がお待ちよ」 「あ、あれれ?そうだっけ?」 「早く返事をしてあげて。……ね?」 「あわわ。あーい、ここにいますー。ここでーす、ヒメサマー」 「うふふふっ」 ココの頭には、葉っぱがいっぱい。 「少しだけ、出てくるのが遅かったですね」 わたくしは、ふたりに近づきながら空を見上げて考える。 「(――まだまだ、時間は充分にありそうですね)」 「それでは、少し別のことをしましょうか」 「べつの、ことー?」 「はい。ココの好きな『かくれんぼ』を三人で」 「かくれんぼー!」 「エファは、『かくれんぼ』を知らないと言いましたよね?」 「は、はい」 「――ココ。エファに説明してあげられますか?」 「あーい!」 ココが一生懸命に、 「あのね、あのね」 身振り手振りでエファに説明する姿は、とても微笑ましい。 「最初に隠れるのは、あなた方ふたりですからね」 わたくしはドレスの裾を気にしながら木陰に座り、準備が整うのを待つことにする。 「(――ふたりは、何処に隠れるのかしら?)」 「クリスティナ姫は、人形どもと一体なにを始めたのじゃ?」 「――かくれんぼ、でしょうか?」 「あぁ、そういうことか。はぁーっ」 ぼんやりと眺めていたユッシ殿は、全くもって面白くないと言わんばかりのため息でうなだれる。 「――よいではありませんか。護衛の者をつけずとも安全に遊べる中庭なのですから」 「ふん。護衛の者なら、あそこに居るわ」 「えっ?」 ユッシ殿の指す方向に目を凝らせば――そこには護衛隊長であるデュアの姿が。 彼女はクリスティナ姫の近くに居ながらも、常に皆の視界に入らないよう心がけて移動していたようだ。 「……よくお気づきになられましたね」 「ふん!ワシを誰だと思っておる?」 ――これは失礼しました、と言いそうになったが、それを口にしたらヘソを曲げられてしまうと気づいて留まった。 「いえいえ、さすがはユッシ殿。目端がおききになりますな」 「ま、これでも軍人を見る目はあるつもりだからな、ムフーッ」 ……最後の鼻息は、聴かなかったことにしよう。 「――ふん、デュアめ。お遊戯の監視と護衛は、さぞかし大変じゃろうて」 「えぇ。広い範囲になりそうですからね」 この部屋からだと中庭の様子は手に取るように分かるが、同じ視線で動き回る人形たちを追いかけるのは―― 「……ま、しばらくはワシらのためにも、楽しんでいただこうではないか」 「?」 「……先ほどの話の続きじゃよ、ハンス」 「あぁ!」 自分としたことが、会話の流れでユッシ殿に遅れをとるとは。 「ワシは、こういうチャンスが来るのを待っていた」 「耐えておられたのですね」 「もちろんじゃ!」 「それもこの数ヶ月の屈辱といったら、筆舌に尽くしがたい!」 振り上げた握り拳を思い切りテーブルに叩きつけるというパフォーマンスは、狙ったものではなく本心の現れ。 ……その証拠に、ユッシ殿は痛みに顔をしかめている。 「――くっ、アインめ!何の恨みがあって、このワシを迫害するのじゃ?」 「これまでワシは、外務大臣としての職務をまっとうしてきた」 「それはもう、国家国民のため身を粉にして働いてきたのだ」 「……え、えぇ」 「アインのように、きれいごとだけで国家の関係が成り立つと思ったら大間違いじゃ!」 「気持ちばかりのもてなし、いくばくかの金銭の融通。それらは言わば『必要悪』じゃろう。……そう思わんか!?」 「は、はぁ。まぁ、多少であれば」 自ら『必要悪』と弁護し、同意を求めてしまった時点で、後ろめたさがあるように思える。 きっとユッシ殿の言う『気持ち、いくばく』は年月と共に大きくなり……感覚も麻痺してきているだろう。 「――それをなんじゃ、あの男は!見て見ぬフリで済むやりとりをわざわざほじくり返しおって――」 「……は、ははは」 「そのくせ、自らが裏で進める他国との取引などについては、こちらに明かそうともしない」 「アイン殿が、ですか?」 「そうじゃ!あやつめ、自分は不正など全くしないと言わんばかりの顔で『いけしゃあしゃあ』と、だ!」 「それも、全くそれらしき証拠を残さないあたりが《しゃく》〈癪に〉障る!」 「…………」 それは単に、ユッシ殿の妄想では? 「(――いや、そうとも言い切れない)」 仮に根拠のない疑いだったとしても、アイン殿がユッシ殿を通さず渉外を進めた可能性は充分にあり得る。 もしも自分がアイン殿の立場の人間であったら、ユッシ殿に任せたままにはできないだろう。 「……まぁ、見ておるがいい。ワシを敵に回すとどうなるか、あの若造にたっぷり教えてやるわ」 「ユ、ユッシ殿。お気持ちは分かりますが、あまり感情的にはならず……」 「ワシは充分に冷静じゃ!」 「(――あぁ、もう!)」 ついさっきも似たようなやりとりをしたような気がする。 「ぐっふっふ、アインの奴め。ワシが一計を案じているなどと、露ほどにも思っておるまいて」 「ワシのことを甘く見た罰じゃ。これから起こることを前にし、子どものようにうろたえるがいい」 「――うむ。そこで泣いて詫びを入れたら、召使いぐらいにはしてやろうか」 「(――ここは、気の済むまで言わせておこう)」 このような不平不満を大切な場面で漏らされてしまうことがあれば、それこそ一大事なのだから、いまのうちに発散してもらう。 そう考え、テーブル横のイスを引いて座ろうとしたとき―― 「おやおや、おだやかではありませんなぁ」 部屋のドアをノックもせずに開け、男がひとり苦笑しながら入ってきた。 「(――あぁ、やっと!)」 「だ、誰じゃ?」 我が待ち人、来たれり! 「これはこれは、ヴァレリー殿!お待ちしておりました」 このたび執り行われる記念式典に合わせ、新たに赴任することとなった《 ブリュー》〈青の〉国の大使殿。 自分が《 ブリュー》〈『青〉』に大使として出向いている間、なにかと便宜を図ってくれた上、今回の『計画』を持ちかけてくれたのが、このヴァレリー殿なのだ。 「ヴァレリー!?この男がか?」 ユッシ殿は初対面だというのにも関わらず、挑戦的な視線で背の高いヴァレリー殿を見上げていぶかしがる。 一方、ヴァレリー殿は30センチは差があるユッシ殿を真上から見下ろす格好で、 「これはこれは、初めまして!私がヴァレリー・ジャカール。以後お見知りおきを」 と恭しく《こうべ》〈頭を〉垂れた。 ……が、お互いに相手の目を見たままの挨拶で、逸らす様子もなく。 仕方なく自分が、紹介役を買って出ることにする。 「ヴァレリー殿。こちらが、ユッシ殿です」 「――改めまして、ユッシ殿。お噂はかねがね」 「お、遅いではないか!どこで道草を――」 頭上にできた影が気に入らないらしく、わざわざ首を傾けてから距離をとったユッシ殿は、まばたきすらも堪えて相手の顔をにらむ。 「(――あぁ、これは自分がどうにかしないと!)」 そんな姿を横目で追いつつ、ヴァレリー殿はこちらに向けて軽く手を掲げてみせたので、自分がサッと間に割り込む。 「ヴァレリー殿も、ユッシ殿も。ひとまずは席について――」 手近にあったイスを客人であるヴァレリー殿に勧めるが、 「そうですな。ささ、どうぞお先にユッシ殿」 それはもうひとりの前へスルーされた。 「……ワシを年寄り扱いするつもりか?」 「とんでもない」 ――はてさてどうしたものか、と言わんばかりの表情で、ヴァレリー殿はゆっくりと頭を左右に振ってみせる。 「ぐっぐぅぅぅ……」 その大仰な仕草が、よけいユッシ殿のヘソを曲げさせていく。 「(――これでは、話もロクにできない)」 「あの、ヴァレリー殿……」 「……しかし、この城はなかなかに良い造りですな」 「んぁ?」 「ドアの前に立てば、誰が中にいるかしっかりと分かるあたり」 「(――あぁ!)」 「部屋を間違える心配もないですな」 「なにをいう?ドアには小窓も――」 ユッシ殿はそこまで口にしたところで、ヴァレリー殿の言う『間違えない理由』を悟ったらしい。 「通りすがりで話の内容までは判らずとも、立ち止まれば染み出る声のニュアンスで予想ぐらいはつくもの」 「――少し用心された方がよろしいかと思いますが?」 「す、すみません」 「むむむっ、それは確かにそうだが――」 何か言い返さないと気が済まない性分は、直しようもないのだろう。 「――だ、だいたい、貴殿が定刻通りに来れば、余計な雑談をすることもなかったのだ」 「それはそれは、大変失礼いたしました」 「――なにぶん初の来訪ゆえ、衛兵に再三の質問を受けたり、確認で待たされたりと」 「申し訳ありません。自分がお迎えにあがるべきでした」 「……そうだな。ハンスの不手際、このワシからも詫びよう」 確かに自分の落ち度なのは認めるが、ユッシ殿に言われると納得できない気持ちになる。 「当人も反省しておることだから、許してやってくれ」 「いえ、そこまで取り沙汰しても意味のないことですので」 言い返してやりたい気持ちは、グッと堪えよう。 ……ユッシ殿は、元々こういう御仁なのだ。 それに威圧的な態度をとる相手に反発すれば、あとが面倒になることも理解している。 ここは自分がゆとりを持って―― 「ところで、だ。その……『ワイン』の件とは?」 「――ワイン?」 「そうじゃ!ハンスより聞かされた話では、ワインがどうのこうのと」 「…………」 「このワインが、今度の計画に必要なのか?」 そう言って、ユッシ殿はテーブルの銀カップを持ち上げるが、それは全くのハズレ。 「ん?それとも、貴殿が《 ブリュー》〈『青〉』から運ぶ土産か何かか?――なんじゃ、ワインとは?」 こうしてユッシ殿は、自分が教えてあった『ワイン』というキーワードを尋ね続ける。 「(――それも当然といえば当然か)」 計画の全容はもちろん、隠語のワインが何たるかも説明していない。 「すでに瓶は届けてありますが、まだご存じありませんか?」 「どういうことだ?ワシは何も知らんぞ」 「もうご覧になられていると思ったのですが……」 「な、なんじゃと?このワインはヴァイス産のモノだし……」 ユッシ殿は、全く訳が分からないと言わんばかりの顔。 そして、哀しいかな……部屋の中をキョロキョロし始める。 「(――申し訳ない、ユッシ殿)」 ヴァレリー殿に口止めされていたとはいえ、もう少し教えて差し上げても良かっただろうか? 「(――では、自分からも……)」 ささやかな『《おれい》〈復讐〉』の意味を込め、ほんの少しヒントを。 「そうですよ。先ほどから自分と一緒に、中庭を眺めていたではありませんか」 「……中庭じゃと!?」 その視線は中庭、ヴァレリー殿に続いて、こちらへと泳ぎ、理解できないことの苛立ちからか、みるみる充血していく。 「出し惜しみはよい。とっとと、ワインの意味を教えんか!」 「――そう急かさずとも。私も長旅で疲れもとれておりません。頭の中を整理してから――」 「何をいう!貴殿の到着は一昨日のことではないか!それをいまさら疲れがなどと……」 「前任大使からの引き継ぎもあれば、就任に関わる挨拶回りも。休む暇さえありませんでした」 「むぐぅぅ」 「……などと忙しさにかまけて、大事を《おろそ》〈疎か〉にするわけにもいきませんな。では――」 ヴァレリー殿は、気持ち襟元を正す仕草のあと、 「順を追って話しましょうか」 前置きを入れてから語り出す。 「――ご存じだとは思いますが、私の母国である《ブリュー》〈青は〉貿易で成り立つ国家です」 「そして、大きく隣接している《カーディナル》〈赤の国〉は……資源豊かな土地を持つ国家」 「その両国の間に位置するのが、この《 ヴァイス》〈白の〉国」 「――さて、ユッシ殿。この三国の中で一番人口が多いのは?」 「ん?それは――」 「(――そこで何故、自分に助けを求めるような視線を……)」 「あ、赤の国じゃろうな」 「……その通り。さすがですね、ユッシ殿」 「ふ、まぁ、外務専門のワシに尋ねるほどのものでもあるまい」 「それでは、一番軍事力が整っているのは?」 「……貴殿の国、《ブリュー》〈青で〉あろう?」 「――人形技術が発展しているのは?」 「我らが《 ヴァイス》〈白の〉国だ」 ユッシ殿の回答に、満足げな笑みを浮かべるヴァレリー殿。 「広大な国土、資源に見合うだけの人口の赤――カーディナル」 「貿易と軍事に秀でた青――我がブリュー」 「小国ながらも、人形においてはナンバー1の白――ヴァイス」 「それぞれの特徴が、国家を成り立たせているというわけです」 「そのようなこと、わざわざ説明されんでも……」 「まずは、共通認識の確認」 ヴァレリー殿は、優しい目でユッシ殿を見る。 が、そこには一種『哀れみの色』が混ざっていた。 「……と、準備も整ったところで本題を。ユッシ殿は、《   ジルベルク》〈『白銀〉高原』にはお詳しいですか?」 「……わ、我が国より、かなり南部にある山岳地帯であろう?」 南部……ではなく、南東の方角です。 「ハンス殿は?」 「山の尾根が、青と赤の国境の役割を果たしている地帯――ぐらいにしか」 「そう、その通り。それだけ知っていれば充分。……これまでは、ですが」 「――ヴァレリー。貴殿はワシらをからかっておるのか?」 「滅相もない。ただ、その地帯について認識を改めていただく必要がありますので」 「……ほんの二ヶ月ほど前、《 ジルベルク》〈白銀高〉原付近にて新たな鉱脈が見つかりました」 「ん?!」 「ハンス殿がおっしゃったように、そこは青と赤の国境地帯。どちらの領地で見つかったか?……が問題です」 「……が、また困ったことに、境も境の際どい場所でして。お互いが『自国の領地である』と主張を始めた次第」 「折しも、赤が鉱山資源の産出量低下を理由に、『物資の輸出価格を上げたい』と申し出てきた直後のことでして」 「むぅ」 「――そうでしたか」 自分も《 ブリュー》〈青の〉国に居るとき耳にしなかった話だけに、興味深い。 「赤は発見された鉱脈を自国のモノであると主張し続け――」 「期待しただけの産出が得られれば、輸出価格を安定させ、これまで通りに《 ブリュー》〈『青〉』と取引ができる……と」 「…………ほほぅ」 「ま、理にかなったような意見ですが、そんなモノはまやかし」 「期待した通りの鉱脈であっても、『ハズレ』と嘘をついて価格を上げることもできるわけですからな」 「(――なるほど)」 「では、ヴァレリー殿。実際に産出が低かった場合は――」 「その鉱脈に『賭けた』だけの費用が、さらに輸出価格へと上乗せされる可能性もある、ということですね?」 「はい」 「ん、ううん……」 「――ここまではお分かりですか?」 「わ、分かるに決まっておろう!が、そんな話は我ら《ヴァイス》〈白に〉は関係あるまい」 「そうとも言えないのです。この続きがありまして」 「続きじゃと?」 「えぇ。お聴きになりますか?」 「早く話せ!なるべく、手短にな」 「いまの話にあった赤の産出量低下については、かなりの疑問があります」 「ん?」 「実際には低下などしておらず、ただの外貨獲得を目的とした方便と、私は考えております」 「……ずる賢いのう」 「えぇ、全くもって。その外貨は、物資を買い上げる我ら《ブリュー》〈青が〉払うモノ。青が損をし、《カーディナル》〈赤が得〉をする」 「その先に待つのは――青の国力衰退と、赤の富国強兵です」 「けしからん話じゃな!」 「さて、そこで。私たち《 ブリュー》〈青の〉国はこの危機を脱するために、あなた方『おふたりの力』をお借りしたいわけです」 ヴァレリー殿はサッと右腕を我々ふたりへと伸ばし、静かに笑う。 「……のう、ヴァレリー」 「はい、なんでしょうか?」 「確かに、その鉱脈の一件は理解した。青も赤も、自国の領地として相手に認めさせたいんじゃろうよ」 「しかし、それは我らには何の関係もなかろう?その領地の所有権が、我らにもあるならいざ知らず」 「……ユッシ殿。もう少し大きな範囲で物事を《とら》〈捉〉えていただきたいものですな」 「なんじゃと?」 「青と赤のバランスが崩れれば、巡り巡って白に至り――」 「……分かった、分かった!その辺りの話は、あとでこのハンスにでも聴かせてやってくれ」 ユッシ殿が鼻息も荒く噛みついている姿は、同胞の身として大変恥ずかしい。 「ワシが知りたいのは、『ワイン』についてだ!」 「貴殿はまず、訊かれたことから答えるべきではないのか?それをわざわざこねくり回しおって!」 「……ユ、ユッシ殿。もう少し声を下げてください!そうでないと――」 「えぇい、横からゴチャゴチャとうるさい!」 とうとう《かんしゃく》〈癇癪〉を起こした御仁が腕を振り上げたとき、ヴァレリー殿が何気なく一歩前へ。 そのジュストコールの内側に滑り込ませた右腕を―― 「むぉ!?」 騒ぎ立てるユッシ殿めがけ、瞬間的に伸ばす! 「う、うお……き、きさま……」 声を濁す御仁の喉元を通り過ぎたのは、銀色の――櫛。 「おっと、失礼」 彼はオーバーアクションで取り出した銀の櫛を自らの前髪に当て、軽くひとなでさせて笑う。 「それで、なんの話でしたか?あ、いやいや思い出しました。確か、『ワイン』の一件でしたな」 「…………そ、そうじゃ。ワインじゃ」 落ち着きを取り戻し、ユッシ殿は襟元をゆるめる。 気づけば自分もつられるように、同じ動作をしていた。 「ワイン、ワイン、ワイン。――そう、ワインと一口に言っても色々ありましてな」 「……どんなに有名な産地のワインであっても、《ねん》〈年〉によっては微妙な出来だったりもするモノ」 「――ですが……」 「ん?」 「ヴァレリー殿?」 説明の途中に生まれた間に、語り主が視線をドアに走らせる。 が、すぐに、 「――食通と名高いユッシ殿なら、この辺りの事情には私よりもお詳しいかと」 話題はこちらへと戻ってきた。 「……それはもちろん!貴殿の国を通じて、各地のワインを試しておるからな」 「そんなユッシ殿でもお気づきでない《 ・ ・》〈名品〉があると言ったら?」 「ほう、そんな一品があるのか?」 「いや、よくご存じでも『これまで気づかなかった』、と言った方が良いかもしれません」 「ん?銘柄の名は?」 「…………もう少しこちらへ」 「なんじゃ?」 ヴァレリー殿の手招きに応じたユッシ殿の耳元で、そっと秘密の名前がささやかれる。 「その銘柄の名は――クリスティナ・ドルン」 「なっ、そ、それは我らが姫の……」 「しーっ、声が大きい」 あやしく片目を閉じて見せたヴァレリー殿は、その口元に人差し指を立ててから笑う。 「まぁ、その銘柄は決して口に出さず、そのままご内密に」 「私はそのワインを是非、《 ブリュー》〈青の〉国へ持ち帰りたいのですよ」 「そ、そんな、持ち帰るなどと……」 「私も、タダでワインをいただくつもりはありません」 「そのワインに見合うだけのモノは、お渡しできると思っております」 「ヴァレリーよ。そのようなことをして、貴殿に――」 「私の国にもワイン通がおりまして……と、この先を話す前に」 斜に構えていた身体をサッと起こしたヴァレリー殿は、テーブルを迂回するように壁際へと向かう。 そして、 「ひとつ、大切なことを忘れていたのを思い出しました」 と、無造作にドアに手を伸ばせば―― 「ぬぉ!?」 「なっ!?」 「…………」 開かれたドアの向こうには、無言で佇む『デュア』が居た! 「そろそろお呼びするつもりでしたから、ノックは不要ですよ。――デュア殿」 「(――ヴァレリー殿は、デュアが来るのを知っていた!?)」 しかし、クリスティナ姫の護衛をしていたはずの彼女が――何故ここに!? ドアのノックに遅れること数秒後。 「――アイン殿、いらっしゃいますか?」 控えめなデュアの声が聞こえてくる。 「開いているぞ」 こんな朝早くから執務室を訪れる者は、限られている。 「(――姫君か、デュアか……)」 「……ココぐらいなものか」 私は小さな訪問者を思い出し、ひとり苦笑いをする。 「――失礼します」 相変わらず律儀な彼女は、きっちりとドアが閉まるのを確認した上で机へと近づき、恭しく頭を垂れる。 敬礼は無用だ……と私が何度言っても改めない辺り、彼女は意固地になっているのではないだろうか。 「今日はまた一段と早いが、何か急用か?」 「いいえ、それほど急ぐものでもありませんが――本日は、予算決議を前にした《 ・ ・ ・》〈準備会〉が控えておりますので」 「あぁ、そういうことか」 国政においては、何に関しても書類を作るのが決まり。 特に金銭が絡めば、『記録』としてしっかり残すことになる。 「(――また書類が増えるな)」 先々代国王の時代までは、各大臣たちが手にした書類を予算決議の場で読み上げ、特に異議も出さず認可させてきた。 しかし、そんなことを長年繰り返していれば、王のサインをもらうための通過儀礼でしかなくなる。 「――馬鹿馬鹿しい話だな」 「はっ?」 「準備会の存在だよ」 「…………」 嫌味ともとられかねない物言いにコメントしづらかったのか、デュアは視線をそらして何かをぼそりと呟く。 一瞬気にはなったが、わざわざ何を言ったか尋ねるほどのことでもない。 「(――提出される書類など……)」 読み上げられるだけの存在で、水増しや故意の記載漏れの塊。 真実性に乏しく、ただの紙切れよりも《たち》〈質〉が悪い。 そこで正式な予算決議を前に、『準備会』と称して各部門の大臣たちから報告書類を受け取り、その場で個別に審査する。 この時点で疑わしき部分や不明瞭な点があれば、答弁を求め、納得できる説明が返ってこなければ差し戻す。 「準備会など、突き詰めれば時間の無駄でしかない」 「ですが、万が一にもアイン殿が準備会を廃止されれば、ユッシ殿のように申請の誤魔化しを考える御仁が――」 「……分かっている」 いま名前の挙がったような人物を増やさないための牽制――抑止力なのだ。 「すみません、差し出がましい意見でした」 「いや、そんなことはないが――そこまでにしよう」 準備会《 ・ ・》〈延長〉記録保持者のことは、なるべく忘れていたい。 「――ところで、今日は何の用だ?」 「……はい。《いっさくじつ》〈一昨日〉に提出しました近衛兵の増員案について、ご回答をいただこうかと」 「…………」 そろそろ催促されるだろうと思っていたが、まさか朝一番でくるとは思わなかった。 「今日はまた、一段と早い回答要請だな」 私はデュアの求めている書類を探そうと、話しながら机の引き出しに手をかける。 「……別にいますぐにとは申しませんが、いつも先送りにされますので」 「――おうかがいは、こまめにしておこうと考えた次第です」 ……なかなか、どうして。 「こちらの手の内は読まれている、というわけか」 「自分も隊長職という立場ですので、『毎回』手ぶらで帰れば能力を疑われます」 少し疲れた表情で小さく息を吐くデュア。 以前よりは柔らかくなったとは思うが、それでもまだ硬さが残っている。 「ところで、先ほどから何かをお探しのように見えるのですが」 「そうか?」 デュアの表情に決して嫌味が混じってないとしても、自分の提出した書類が捜索中と知ったら―― 私は念入りに書類の束を指で探るが、こんなときに限ってデュアが求める物を見つけられない。 「――先の回答、少し先送りにしてもらえないか?」 「いつ頃になりそうでしょう?」 「今日中には、必ず」 「……了解いたしました」 気持ち口元をゆるめたデュアから察するに、こちらの事情を理解してくれたらしい。 私は引き出しを閉じて一息つき、前に立つ護衛隊長の顔をジッと見る。 「……なにか、自分の顔についてますか?」 「いや、何でもない」 「――?」 それほど他意があったわけでもないが、問いつめられるのを避けるため……軽く世間話へと切り替えることにした。 「そういえばあの子たち――エファとココは、どうしている?」 「準備会が終わるまでは、なるべく部屋を出ないように伝えてありますが」 「だからか」 「何が、ですか?」 「そろそろココが遊びに来てもいい時間なのに、その姿が一向に見えない」 「ココが?執務室にですか?」 「あぁ。昨日はそこのドアで、かくれんぼの相手をさせられた」 本人はちゃんと隠れたつもりらしいが、背中のネジ巻きはしっかり見えていた。 「お仕事の邪魔でしたら、自分からココに――」 「いや、その必要はない。どちらかといえば、息抜きにちょうどいい」 「…………アイン殿が、そう仰るのであれば」 「ん、なにか不満でも?」 「――いえ。しかし、まだ安心はできませんので」 「あの子たちのことか?」 「――はい」 赤と青、両国よりやってきた二体の人形――エファとココ。 後日執り行われる記念式典内での演劇――『天使の羽ばたき』のために呼ばれた者たち。 小国である我が《ヴァイス》〈白は〉、ふたりをはじめとする人形たちのおかげで成り立っている……と表しても過言ではない。 「疑りたくはないのですが、姫のお側で警護をする自分にとりましては……」 「万が一、か?」 「はい。……考えすぎでしょうか?」 「いや、それはない。姫君を護る者として正しい」 「…………」 「ん?肯定されて不服か」 「いえ、不服ではありません。……ただ、複雑な気分になりましたので」 「本音と職務は別、と言いたいのだな?」 「――はい。特にココについては……」 「――もういい、分かった」 うまく表現できないが、ココには不思議な魅力がある。 「(――そう、『神に愛されている存在』と言えば適切か)」 あの子と話していると、『疑う』という感覚を忘れてしまいそうになるのだ。 「……が、用心は怠るな」 「我々は、常に万が一を考えておかなければならない」 「……はい」 デュアは知らないが、『姫君と人形の関係』においては……もうひとつ大きな問題がある。 「確認しておこう。いまのところ、ココたちに問題は?」 「ありません」 「分かった。今後も、注意だけは怠らないように」 「はい」 デュアは即答で頷く。 「――では、私はこれより執務……」 「アイン殿」 「どうした?まだ何か?」 「……実は、少々……」 普段のデュアとは違って歯切れが悪い口調で、ドアの方へと視線を走らせる。 「(――部屋の外を気遣うということは……)」 「まだ別に報告が?」 「はい」 「では、誰も訪れないうちに聴こう」 気持ちを改めてデュアに向かい、報告が始まるのを待つ。 彼女は軽く咳払いをしたあと、一歩前に踏み込んできた。 「――先日、中庭でココたちと演劇の練習をする姫の護衛についておりましたとき、『迎賓の間』の窓際に不審な人影を見つけました」 「……それはすぐにユッシ殿と分かりましたが、その横にハンス殿の姿も」 「どうやら、おふたりは姫の練習風景をご覧になられている様子でしたが、それとなく気をつけておりましたところ――」 「城門兵から伝令の者が寄こされ、《ブリュー》〈青の〉大使を名乗る御仁が『入城の許可を求めている』との報告が入りました」 「新しい大使、ヴァレリー殿か」 「はい」 昨日の夕刻に城門ですれ違った《ブリュー》〈青の〉公用馬車。 こちらは再登城、向こうは城からの帰路についていた。 一瞬だけ見えた御仁とは軽く会釈を交わした程度だったが、あれがヴァレリー殿だろう。 「噂では、なかなかの切れ者と聞くが」 「……切れ者?あの男、とんだ食わせ者です!」 途端にデュアの語気は、バッサリ斬って捨てる勢いに変わる。 どうやら、腹に据えかねる何かがあったようだ。 「続けてくれ」 「――はい。突然の訪問は、『ユッシ殿に呼ばれてご挨拶にあがった』とのことでした」 「それでユッシ殿が迎賓の間に居たわけか」 「……そう考えるのが妥当と思い、自分も一応の許可を出しましたが――」 「どうしても気になりましたので、姫の護衛を部下に任せて迎賓の間に向かいました」 デュアらしい判断と行動力だ。 「部屋の前に立ったとき、多少言い争うような声が聞こえたので、ノックすべきかどうか――」 「迷っているうちに、中からヴァレリー殿の招き入れを受けてしまいました」 「気づかれたか」 「……はい」 「ほう。デュアの気配を察するとは」 「それは、どういう意味でしょうか?」 「言葉のままに捉えてもらって結構だ」 先日ココと廊下で話しているときも、すぐ近くに寄ってくるまで気づかなかった。 デュアは姫君を影から警護するにあたり、自然と気配を絶つようになったのだろう。 「まぁよい。続けてくれ」 「――まず驚かされたのは、ヴァレリー殿が自分の名を知っていたことです」 「……デュアの名を、か」 「はい。自分は一度もヴァレリー殿とお会いしたことはありません。それなのに開口一番、名前を呼ばれました」 「――では、『大使という役目柄、クリスティナ姫の側近たちの名は憶えてきた』とでも言われたか?」 「……」 目を丸くしたデュアが、不思議そうに私を見る。 「どうした?」 「いえ、その……いま、アイン殿が言われた通りでしたので」 「そうだったのか」 当てるつもりもなかった予想だけに、こちらとしても苦笑するしかなかった。 「……で、中の者たちの反応は?」 「――先の御仁は冷静そのもの。残りのおふたりは、かなり驚いた様子」 「ユッシ殿はすぐに『客人を招いたのはワシだ』と言って、退室の勧告を」 「――ハンス殿はうわずった声で、帰国の挨拶と世間話を始めようとしました」 「ずいぶんと分かりやすい反応だな」 そのようなフォローでは、逆に『密談をしていました』と報せるようなものだ。 「それだけ自分の登場が想定外だったのでしょう」 ふたりの反応と、招かれた新任大使。彼らの間には後ろ暗い『何か』がある……と考えるべきか。 「そのあと、どうなったのだ?」 「そのまま失礼しようかとも思ったのですが、ヴァレリー殿にワインを勧められ――」 「こちらが丁重にお断りすると、『内密な相談と約束』を持ちかけられました」 「内密?」 「……はい。断る場合には、決してアイン殿には言わないで欲しい、と」 「それをこれから話そうとしているのか?」 「そうです」 「いいのか?青の大使との約束を――」 「交わしておりません。それに自分が『報告されることを希望されないのであれば、ご無用にすべき』と、明言したのにも関わらず、勝手にお話を進めましたので」 デュアのまっすぐな性格には感心する。 が、ときにはそれが仇になることも注意すべきこと。 場合によっては、自らの考え方や感情を押し殺す必要もある。 「――ならば、ヴァレリー殿も『明かされる』と承知の上で話したと考え、聴かせてもらおう」 元々、こちらに伝えるつもりでわざわざ話したモノであれば、聴かないわけにもいかない。 「ちょうどお三方が話されていたのは、お飲みになられていた『ワイン』のことだそうで」 「ワイン?」 「お持てなし用にと出されたワインを大層お気に入りになり、それを自国へ持ち帰りたいと」 「別に内密にせずとも――」 「……それが『国外への持ち出しを禁止している銘柄』ゆえ、どうしたものかと検討されていたというのです」 「ほほう」 「ヴァレリー殿《いわ》〈曰〉く、『このような話が、まだお会いしたことのないアイン殿の耳に入れば、心証が悪くなってしまう』と」 「それではなぜ、わざわざそれを自分に聴かせるような真似をしたのかと尋ねれば――」 「――『廊下にお立ちの際、お耳にされたと思いまして』……などと!」 「予防線を張られたわけか」 持てなしの『ワイン』を気に入り、国外への持ち出しを禁じた品でありながら、それを持ち帰りたいと考えた。 一般的な法の考えであれば密輸出行為になるが、大使ほどの地位の者に対して適用するほどものでもない。 「……おまけにあの男、『もしデュア殿の口添えで持ち出しが可能となれば、それ相応の品を礼に』などと言い出す始末!」 「断ったのか?」 「当たり前です!誰がそのような!自分が金品に釣られる者に見えますか!?」 「いや」 「全く、ふざけるにもほどがあります!それにこちらが断った途端、意味ありげな顔で――」 「何か言われたか?」 「――あの男、平然と『若い貴族の紹介でも構いません。男女、どちらがお好みか?』と尋ねる!」 「おまけに『どちらであっても、よく吟味してご用意します』とまで言われた身にもなってください!」 肩を震わせるデュアがキッとこちらを睨み、その拳を机に叩きつけようと振り上げる。 が、ギリギリのところで思いとどまり、 「……し、失礼しました」 と、やや落ち込んだ声で一歩後ろへ下がった。 「こちらこそ。事情を知らなかったとはいえ、イヤなことを思い出させたな」 「……いえ。いまのは個人的な感想でしかありませんので。場をわきまえた報告だけをすべきでした」 デュアの気持ちが分かるだけに、下手な慰めもできない。 せめて、職務に忠実な態度で接することぐらいが私にできることだ。 「――デュア。その一件、裏があると思うか?」 「はい。アイン殿は?」 「少なくとも、ワインは『逃げ』の方便だろうな」 仮にワイン持ち出しの密談が真実であったにせよ、それは露呈させても……青の外交官ならば《 ・ ・ ・》〈さして〉問題にならない。 実際には別の『何か』があり、そちらを隠すために語られた表向きの告白……と考えるべきだろう。 「ユッシ殿とハンスは、何か言っていたか?」 「自分が退室するまでほとんど語らず、話はヴァレリー殿任せで、相づちを打つ程度でした」 「その直前、ヴァレリー殿がふたりに話を振る感じだったか?」 「……はい。視線を向けられると、おふたりが頷くようでした」 「――そうか」 余計なことは喋らず、自分に合わせろ……といったところか。 まだ話したこともないが――ヴァレリーという男、充分に注意すべき人物に違いない。 「(――というより……)」 己の直感が『敵』と警告している。 「さて、どうしたものかな」 「――もし、調査を進めるのであれば自分が」 「いや。すでにデュアは警戒されているだろうから、内偵には適さない」 「では、誰か別の者に……」 「――そうだな。城下の者に任せる」 「城下の者に、ですか?」 「我ら《しろづと》〈城勤〉めのふたりでは、見えてこない部分も考慮して……のことだ」 調査に向きそうな密偵の顔が、三人ほど思い浮かぶ。 うちひとりは、すでに何年も前からオズボーン邸で働く者。 まずは、一番防御のゆるそうな《ユッシ》〈相手〉から探りを入れることに。 「すぐに伝令の者を走らせる。準備が整い次第――あとのつなぎはデュア、お前に任せる。よいな?」 「はい」 これまで、いくつかの政敵との攻防を乗り越えてきた。 しかし、今回の相手は自国内に駐在する隣国の大使。 手の出しづらい相手だけに、《 コト 》〈内偵〉は慎重に進めなければならない。 「それと。このことは、決して姫君のお耳には入れないように」 「――心得ております」 「――姫様。明日は、雨かもしれません」 調律が終わる間際、エファが発した言葉。 「えっ?」 わたくしは思わず、変な声を出してしまった。 「いえ。何となく、そう思っただけです」 「――そうでしたか」 精神のバランスを正すために行う調律は、時として思わぬ結果を招く。 以前わたくしが調律した人形も、感覚が研ぎ澄まされたのか――同じような予報をしたことがあった。 「(――ジゼル……)」 思い出した懐かしい《 ジゼル 》〈人形〉は、どこかおぼろげ。その姿をエファに重ねてみるが……あまり似ていない。 「…………それでは、調律を終えるので楽にしてください」 「はい、姫様」 わたくしは気持ちを切り替え、エファの背中にそっと両腕を回す。 ゆっくりと抱き寄せながら、お互いの顔が肩に乗せ合う格好になったところで髪を撫でる。 「もう目を《ひら》〈開〉いてもよろしいですよ」 「……はい」 眠そうな目を開けてこちらを見上げるエファに、わたくしは一度だけ大きく頷く。 「気分はいかがですか?」 これで特に問題がなければ、廊下で待たせてあるココを呼んであげて―― 「はい、まだ少しぼんやりしますが……平気……です」 「あ、まだ立たなくても良いのですよ」 「でも……」 「ほら、危ない」 イスから腰を上げてよろけるエファに手を貸し、もう一度座らせる。 「怪我をされたりしては困ります」 「はい」 エファは素直に頷き、静かに頭をうなだれた。 その仕草はとても柔らかく、わたくしがこれまでに知る人形の中でも一番自然に見える。 「(――さすがは『赤の至宝』と名高い人形です)」 わたくしが生まれるよりずっと以前から存在しているエファ。 彼女は元々『劇練習の相手役』を務めることを目的に造られ、教育を施された。 ……が、当初予想されていたモノより、エファの潜在能力が高いことが徐々に判明。 練習台本の台詞を一度の読み合わせで完全に憶えてしまい、指示された動作もしっかりと再現できると評判になった。 さらにそれだけではなく、その場に合わせたアドリブも可能。 そして、練習曲に合わせ唄を口ずさんでいたのを発見されてからは―― 本番の舞台袖でその美声を披露する機会を与えられ、それが赤の王侯貴族の目に止まることで『国宝』の仲間入りをした……と聞く。 「あの、姫様」 「なんでしょう?」 「調律でおかしい箇所は……見つかりませんでしたか?」 「安心してください。あなたの身体に異常はありません」 「――そうですか」 「なにか、気がかりなことでも?」 「……はい」 エファは嘘のつけない造りゆえ、問われたことにはしっかり答える。 「私には、分からないことがあります」 「――姫様。私は何のために……このドルンシュタイン城へ招かれたのでしょうか?」 「……エファ、もしかして、あなたはココと同じように……」 わたくしは、また調律に失敗してしまったと―― 「いいえ、平気です。私は、今度開かれる記念式典の劇に参加するため、ここに居ります」 「……あまり、わたくしをびっくりさせないでください」 「すみません」 「でも、それが解っていながら……なぜ、『分からない』と言うのですか?」 「言った通りです」 エファは顔色ひとつ変えない。謎かけや含みの《たぐい》〈類は〉なく、ただまっすぐにわたくしを見る。 「私は、演劇をするために呼ばれた人形です」 「それなのに、こちらに来てからは演劇以外のことばかりの日常で――」 「――ゆるしてくださいね、エファ」 エファにとっては、演劇こそが一番大切なこと。 赤の代表としての『職務』を《まっと》〈全う〉できないかもしれない――となれば、不安も大きくなるだろう。 「わたくしが至らないばかりに、きちんとした練習の時間を作ることができず……」 「ひ、姫様?そんな、頭を下げられては困ります」 下から覗き込むようにわたくしを見上げたエファ。 「それは誤解です。姫様が謝られてはなりません」 その表情には、少し焦りが感じられた。 「……それは?」 「申し訳ありません。誤解を招く言い方をしました。私が分からないと口にしたのは、演劇のことではないのです」 「違うのですか?」 「はい。……ですから、最後までお聴きいただけますか?」 「わかりました。……が、ひとつお願いがあります」 「な、なんでしょうか?」 「《かしこ》〈畏ま〉らず、普通に話してください」 「思うがまま、無理に言葉を選ぶようなことなく、親しき者を前にするときのように」 ここ数日で、自然な会話も楽しめるようになってきたと思う。 それがいま、『申し訳ありません』と謝られた途端、全てが国事の一環に思えてしまい……哀しかった。 「(――ごめんなさい、で構わないのに……)」 「せめて、ふたりで居るときは……普通に話してください」 「は、はい。……ですが本来、姫様は私のような者に――」 「――エファ。それ以上を口にしてはなりません」 わたくしは、そっとエファの唇に人差し指を当てる。 「あなたは、自分が思うよりも……ずっと高貴な存在です」 「いまのあなたに『赤の国からの《ひんきゃく》〈賓客〉』という立場があるのは、自身が持つ才能と魅力があってのこと」 「まだ短い時間とはいえ、あなたと共に過ごしたわたくしにも、それが『どれだけの価値』を持つのか……少しは理解できたつもりでいます」 「……姫様」 「自分を『私のような者』などと《 ひげ 》〈卑下〉する真似はおやめなさい」 「それは、あなたを認めている『わたくし自身』を否定することにも繋がるのですよ」 強い口調は好まないわたくしでも、いざとなればしっかりと告げなければならない。 「…………大変申し訳ありませんでした」 「言っているそばから、また《かしこ》〈畏ま〉ってます」 「――ただ『はい』と返事をすれば、それで良いのですよ」 「はい」 素直に頷いてくれたエファを見て、わたくしも安心する。 人に何かを強要するような発言を続けるのは、できるだけ避けたい。 「分かってもらえれば、それでよいのです。強く言ったこと、ゆるしてくださいね」 「……いえ。ですが、姫様も謝らないでください。謝られると、私もどうしていいか……」 「あぁ、それは気づきませんでした。ゆるしてく――」 言いかけて、また失敗しそうになった自分に気づき、思わず笑ってしまう。 「……うふふ。お互い、なかなか直せないものですね」 「そうですね」 心なしか、エファも笑っている。 「(――そう、これでいいのです)」 わたくしが欲しかったのは、他愛のない関係。 公の席では立場をわきまえて然るべきでも、お互いの信頼で成り立つプライベートな時間は……ゆっくりと過ごしたい。 「……それで、わたくしたちは何を話しておりましたか?」 「え?それは……」 わたくしとエファはひとしきり無言になり、自分たちがどんな話題を口にしていたかを考える。 「……思い出しました。私が『分からない』と言った話です」 「そうです、それでしたね」 胸のつかえが取れた気持ちになったが、これで話が解決したわけではない。 「私が言いたかったのは、『どうして良いのか分からない』という意味だったのです」 「どうして良いのか、ですか?」 「はい」 エファが寂しそうな目で足下を見る。 「私は、人形です。自分の存在意義も、しなければならないことも理解しています」 「でもそれは、あくまで人形や劇に関することのみです」 「日常生活をどう送ればいいのか、どう振る舞えばいいのか、《つたな》〈拙い〉知識を頼りにずっと迷っています」 「……エファ」 あまりに予想外の告白をされて、わたくしの方が返す言葉に迷ってしまう。 「(――そのようなごく当たり前のことに……)」 「姫様は、ココが記憶をなくして廊下に座っていた日のこと、憶えてらっしゃいますか?」 「――もちろんです」 あれは、わたくしの調律の失敗。忘れたくとも忘れられない。 「姫様が立ち去られたあと、私はココとお喋りをしました」 「そのとき色々と質問をされた私は、本当に……どう答えていいか、分かりませんでした」 「きちんと答えられたのは、自分たち人形についての話だけ」 「好きな食べ物を訊かれても、ただ『おいしいもの』としか答えられず――」 「好きな花を訊かれても、ほんの数種見たことのあるモノの中から、百合を選ぶしかありませんでした」 「嘘をついてはいけない……と教えられ、自分の知る狭い範囲の中で、何とか当てはまりそうな答えを探すしかありません」 「それが正しい考えなのか、その行動が正しいのかすらも分からず、ただ問われるままに答えます」 「本当は嘘をつけないのではなく、嘘をつけるほど物事を知らない――ただの世間知らずな人形なのです」 ……わたくしは口を挟まず、エファが話すのを止めるまで聴き続けた。 そしてエファが小さく頭を下げたのを見てから、そっと彼女の肩に手を触れる。 「――ココとふたり、お話をしたのですね?」 「はい」 「そのとき、ココをどう思いましたか?」 「……」 返答に困るエファを見て、わたくしはもう一歩踏み込んで問いかける。 「…………うらやましく思いましたか?」 「……はい」 「では、わたくしもエファと同じです」 「――えっ?」 「わたくしもココと話したとき、うらやましく思いました」 「姫様も、ですか?」 「はい。何がうらやましかったかは、エファには言わずとも解ると思います」 自分の感情を素直に表現し、思ったことを口にし、何事にも一生懸命になれるココ。 普通の子どもと同じような環境の中で教育を受けたココは、本当の意味での自由を『身体』で知っている。 「エファは《カーディナル》〈赤の国〉で、どのような生活をしていますか?」 「私は……普段、ショーケースの中で眠っております」 「――やはり、そうでしたか」 エファを調律をしたとき、貴石のいくつかの活性反応が鈍く、一部にズレも生じていることに気づいた。 それは長期に渡っての睡眠、またその逆で、周期の長い活動を強いられた人形に見受けられる症状。 「演劇に関わるときのみ……起こされるのですね?」 「はい」 至宝と呼ばれるエファであれば、国が保存を最優先に考えるのも理解はできる。 しかし、その措置は人形の思ってのことではなく、人間の都合からくる扱いで……納得できるものではない。 「国へ戻れば、エファはまた眠りにつかされるのですね」 「……はい、そうなります」 問うまでもなかった未来。 わたくしは、それをほんの少しでも変えてみたくなる。 「何か、夢見ることはありませんか?たとえば……」 「眠っている間は、孤独な夢しか見ません」 「(――あぁ、そうではありません……)」 エファには、『望み』という意味で尋ねたかったのに。 わたくしは切り口を変え、もう一度挑戦するべく、 「この《 ヴァイス》〈白の〉国には慣れましたか?」 と質問するが―― 「…………慣れません」 予想外の返答に、わたくしは次の言葉を失ってしまう。 こうなるともう、この暗い話の流れを続けるしかない。 「どうして?なにか気にいらないことでも――」 「いいえ」 「では、食べ物が口に合いませんか?それとも風土が――」 「違います、姫様。これは、私のわがままのようなもので――」 「言ってごらんなさい。わたくしにできることであれば、何とか改善してみせます」 「…………」 押し黙るエファ。 ……が、最後には諦め、 「私には、デュアとアイン……おふたりの視線が、厳しく思えてしまうのです」 と付け加えた。 「あの者たちの視線が、ですか?」 「……はい。視線というよりは、態度と表現した方がよいのでしょうか?」 「(――態度が厳しい)」 「不信感のようなものが、とても強く……」 「…………そうでしたか」 その理由を一番よく知っているのは、わたくし自身。 デュアは職務に忠実で、どんな者であろうと疑い、相手が不審な行動をとればすぐさま『わたくしの盾』となるつもり。 そのため、いついかなるときでも不測の事態に備えての警戒を忘れない。 そしてアインは、わたくしの過去を知る身だからこそ―― 「両名には、『必要以上にあなたを怖がらせないように』と申しつけておきます」 「……姫様」 「ただし、代わりと言うわけでもありませんが――あのふたりのことを嫌わないであげてください」 「アインもデュアも、国やわたくしを第一に考えているので、どうしても厳しくなってしまいがちです」 「特にアインは――アインは……」 「……姫様?」 言い淀むわたくしにエファが戸惑う。 皮肉にもそのおかけで、出しかかった話題を抑えることができた。 「(――これ以上は、エファ相手に話すべきではありませんね)」 ……わたくしの過去を知ってしまったら、きっとエファは哀しい顔をする。 そして二度と過ちが繰り返されないよう、きっと距離を―― 「――姫様……?」 「…………心配ありません」 「でも、『アインは……』と言いかけたまま、ずっと……」 不安そうなエファを見て、《 むげ 》〈無下〉にするのも悪く思えてきた。 「アインは人一倍、心配症なのですよ」 嘘ではないにしろ、家臣の一人を『盾』に誤魔化したことを心の中で詫びておく。 「ですから、どうしても……ね?」 「はい、理解できます」 わたくしの笑みに、エファも微かに同様の仕草を返す。 アインにはアインの、デュアにはデュアの立場がある。 「(――同じように、わたくしやエファにも……)」 わたくしは、深く考えるのをやめた。 皆が皆、ままならぬ『何か』があると思えば――自分の不平など、贅沢な立場のわがままでしかない。 「(――それでも、もし……)」 滲み出てくるのは、微かな可能性と夢見る未来のふたり。 「(――それでも、もしエファが望むのであれば)」 わたくしは戯れを装い、思い切って尋ねようとするが―― 「――どうなさいましたか?」 いざエファを前にすると言い出せなくなり、固まってしまう。 「――その、言いづらいのですが……」 「……姫様?」 そのとき、タイミング悪く鳴り出した鐘の音。 「(――いけない。もう、準備会が終わる時間……)」 「ごめんなさいね、エファ。これよりわたくしは、執務室に出向かなければなりません」 「分かりました。それでは私は、ココと一緒にこの部屋で……」 「(――ココ。ココ……ココ!)」 エファの言葉を聞き、慌てて部屋のドアを開けて廊下を見る。 「あぁ!わたくしとしたことが、どうしましょう」 「もしかして、またココは何処かへ?」 わたくしはエファの調律が済むまで、部屋の外で待つようココにお願いをしていた。 「(――長くとも、五分程度で終わるつもりで……)」 それが予想外にエファと話し込んでしまったため、きっとココは痺れを切らして―― 「姫様。私がココを探しに行きます」 「――でも」 「姫様は、早く執務室へ。皆様がお待ちかと」 「…………そうですね」 この場に誰も居なければ、わたくしが責任を持って探すのが当たり前。 しかし、エファが代わりを果たす申し出をしてくれるのであれば、わたくしは国事を優先すべき。 「それではお願いしますね、エファ。頼りにしておりますよ」 「――はい!」 わたくしはドレスの裾を持ち上げ、はしたなくも少し早足で執務室を目指す。 「(――ありがとう、エファ)」 エファが最後に見せてくれた顔と力強い返事が忘れられず、ひとり微笑んでしまう。 わたくしなら、エファをケースに入れたままにしておくなど我慢ならない。 動くことのできる人形は、人間と共に生きてこその存在。 にも関わらず、時間を止めて『埋葬』するような真似は―― 「いっそのこと、記念式典のあとも――」 先ほどは言いたくて言えなかった提案が、いまになって甦る。 「『この《 ヴァイス 》〈白の国〉に残って暮らしませんか?』」 それが叶わぬ願いと解っていても、もしかしたら……などと、淡い夢を見てしまう。 「(――そんなわたくしは、まだまだ人の上には立てない子どもなのでしょうか?)」 「……であるからして、ですなぁ……」 ユッシ殿の話し方は、どうにも我慢できない。 奥歯に物が挟まるかのような物言いは、聴いているだけでイライラしてくる。 しかし、それでも私は『姫の代理』として、この準備会が終わるのをただジッと待たなければならない。 「(――早く終わらないものか)」 どうこねくり回したところで書類の不備は明らかな事実であり、弁明の余地はないはず。 それを認めようとせず、無理に言い訳を続けようとするから……無意味に長引くのだ。 「……ということで、認めてはいただけないだろうか?ロンベルク殿」 「(――またこの男は、アイン殿のことを『姓』で呼ぶのか)」 本人は暗にアイン殿の父『フリッツ・ロンベルク殿』を連想させたいのだろうが、それはあまりにストレート。 効果的な表現ができないのであれば、嫌味など言わなければよいものを。 「(――そう考えるのは、素人の浅はかさだろうか?)」 事実上の解任を《 ・ ・ ・》〈格下げ〉に留めてもらい、なんとか大臣補佐の職にかじりついているユッシ殿。 その勧告に立ち会った私は、涙目で子どものようにうつむく大の男を初めて見た。 「いかがなものだろうなぁ、ロンベルク殿?」 「この外務費用を捻出させるべきだ……と?」 「そうじゃ。さっきからそう言っておるではないか」 彼のスタイルを剣にたとえるなら、判りやすいフェイントの先に待つ、毎度毎度同じコースからの心臓一点狙い。 見え見え過ぎてお話にもならず、戦地であれば一撃の元に葬り去られている。 「(――しかし、ここは宮廷。そして……)」 毎度追いつめられながらも命乞いし、何とかいまの地位に踏みとどまれているということは―― 「(――あながちユッシ殿の処世術も、間違いではない……のか)」 無様でも構わないのであれば、だが。 「よかろう、では、ユッシ殿がおっしゃる《 ・ ・》〈半分〉の額を予算案に盛り込もう」 「は、半分じゃと!?」 「左様」 「ワシは、削りに削ってこの額を提示したんだぞ?それを半分とは、無体にもほどがあると思わんかぁ?」 「私も、それを解った上での無理をお願いしている」 「――何とか半分で納得していただけないかな?ユッシ殿」 「ぐむむむっ」 譲歩を見せたアイン殿を前に、ユッシ殿の表情がぐらつく。 「ユッシ殿であればこそ無理もお願いできる……と、察していただけないだろうか?」 「しっ、しかし……」 「頼む」 アイン殿はへりくだることなく、しっかり芯の通った声。 それがどう聞こえたのかは判らない。……が、ユッシ殿はニヤニヤと笑ってから三度頷いた。 「ぐふっ、ふっ……まぁ、き、貴殿がそう言うのであれば、仕方あるまい」 「よかろう。あとは決議会で文句が出ようとも、きっちりワシがねじ伏せてみせるぞ」 「(――やれやれ)」 ユッシ外務《 ・ ・ ・》〈補佐官〉殿は、アイン殿からいただいた認可を盾に、他の抗議を跳ね除けようとしているだけではないか。 「……なお、その代わりといっては何ですが、別件――輸出管理官の増収案は、事前却下とさせていただく」 「なぁ、なんじゃとぉー!?」 「……管理官の職務に負担が増えているのは理解している」 「ならば、なぜだ!?それに見合うだけの報酬は払うべきではないのか!?」 「個人の負担が増えたからと言って、ひとりが職務に割ける時間は変わらず」 「……とすれば、管理官個人に賃金を多く払うよりも、補佐の者をつけて負担を軽減させた方が慰労になるかと」 「ぐむむむっ。では……管理官の報酬を増やし、そこから雇う者の賃金を――」 「それをすれば、『見えない補佐官』を雇う管理官が出てくる可能性が否めません」 厳しい口調に変わったアイン殿を前に、ユッシ殿の額にはじんわりと汗が浮かぶ。 「……ぐむむうぅ」 「管理官の『懐具合』で採用を決められる反面、それと同じ数だけの調査が必要となれば」 「――外務担当である我々ふたりが、天井が見えないぐらいの書類に押し潰される日も遠くは――」 「ふはぁ、待て待て!そんな面倒はご免じゃ」 「それでは過剰雇用抑止の意味も込めて、輸出管理補佐官の採決は我々ふたりで管理を」 「…………う、うむ。う、ううん?」 「まだなにか?」 「いや、その……ワシらふたりが管理となれば、また仕事が増えるのではないか?」 ユッシ殿が、珍しく筋の通った考えを披露した。 それに対し、アイン殿が少しだけ柔和な表情を見せる。 「ご安心を。無理な願いが来たとき、ユッシ殿がひとにらみすればお終いでしょう」 「――ユッシ殿には、それだけの貫禄がおありだ」 「……お、おおぉぉ!そうじゃ!そうじゃの!面倒なモノは、バッサリじゃ」 「……万が一、それでも食い下がる者が居れば、私の方へ来るように申しつけてください」 「ん?良いのか?」 「はい。それだけ『ひっ迫』しているのであれば、それなりに事情を聴いてから……内々に処理します」 「ほ、ほう。貴殿もなかなかの……いや、まあ良い。では、頼んだぞ」 ユッシ殿は何かを勘違いをしているような言動ながらも、ひとまずは納得した様子。 ――いや、実際には補佐官殿が丸め込まれただけだった。 「それでは、続けてハンス。待たせたな」 「はっ、はい」 これまで無言で待ち続けていたハンス殿が、驚いたような返事で歩み出る。 《 ブリュー》〈青の〉国へ大使として出向した二年間をハンス殿自らが報告する番がきたのだ。 「一通りの報告は、帰国前の書類にて済ませてしまいましたが……内容に問題はありましたでしょうか?」 「いや、特には。充分な報告だった」 「ありがとうございます」 「では、いくつかの質問をさせてもらおう」 「は、はいっ」 アイン殿が尋ねたのは、人形貿易に関わる部分がほとんど。 現在の《ブリュー》〈青が〉、どのぐらいの頻度で人形を輸出しているか。また、その輸出先や経路の変化などの質問を繰り返していく。 「(――込み入った話になりそうだな)」 それでも、ユッシ殿の弁解を聴き続けるよりは何倍もマシに思える。 「――そうか。《 ブリュー》〈青の〉国では、新しい人形技術が誕生したのか」 「はい!それはもう、興味深い新技術が幾つも」 「ほう」 「もうアイン殿もご存じの人形――ココなどは、見かけは多少《こっけい》〈滑稽〉ながらも……」 待っていたとばかりの説明を始めた彼は、つい先ほどまでの沈黙が嘘のように生き生きしている。 「……と、これがまた素晴らしい技術でして!」 「(――あのハンス殿が……いや、ハンス殿だからこそか)」 知識欲の塊ともいえるハンス殿であれば、異国の新技術に興味を示すのは当然かもしれない。 「……だいぶ人形にも詳しくなったな、ハンス」 「あ、い、いえ、それほどでも。所詮は、机上と受け売りの知識でしかありませんので」 ハンス殿は《けんそん》〈謙遜〉するも、まんざらではなさそうな表情。 その証拠に、まだこれからと言わんばかりの熱気を全身から発している。 「(――これはこれで、長くなりそうな……)」 そう思ったとき、私の横で動く影がひとつ。 「のう、ハンスよ。その辺りの話は、また次の機会にせぬか?」 「(――あぁぁ、よりにもよってこの御仁と意見が……)」 間違っても『同志』とは呼びたくない人物の代弁だけに、複雑な気持ちになる。 ……が、それでもこの場の流れとしては―― 「それに、詳しいことは青の大使――ヴァレリーに任せたらどうかの?」 「(――最悪だ)」 この場であんな男の名前を耳にするとは! 「(――やはりユッシ殿は……ユッシ殿でしかないのか)」 ほんの一瞬でも共感した自分が腹立たしい。 「どうする、ハンス?私はどちらでも構わないが」 「え、いえ、その……私は……」 選択を迫られた途端に自信をなくしたハンス殿は、弱った視線をこちらに向ける。 「(――そんな目で私を見られても……)」 それぐらいは、ご自分で判断いただきたい。 「そ、それでは……またの機会に」 「よろしい。では、最後に姫君への報告で閉会となるが――」 アイン殿の言葉に一同が眺める時計は、まだ姫の到着まで数分を残していた。 「むぅぅ。まだ終わらせるには少しばかり早かったか」 「あ、ではせっかくですので先ほどの続きを……」 「ええぃ、それはもうよいと言ったであろうが!」 「……そうですか」 あっさり止められたハンス殿は、小さくため息をつく。 「ハンス。大の大人が会議の席でそのような顔をするでない」 「(――大の、《 ・ ・ ・》〈おとな〉。ユッシ殿がそれを言うのか)」 先ほど思い出していたユッシ殿の顔が再び甦り、思わず頬がゆるみそうに―― 「ん?なんじゃ、デュア?何がおかしい?」 「いえ、何でもありません」 これは失態。 「ほれ見ろ、ハンス。デュアに《 ・ ・》〈まで〉笑われておるぞ」 度重なる勘違いは勝手だが、『まで』とはどういう意味だ? 「まったく、《ヴァイス》〈白の〉代表として三年も務めた男が――」 「……お言葉ですがユッシ殿。私の赴任期間は二年でして」 「ええぃ、細かいことにうるさい男じゃの!そんなことだから、あのヴァレリーにアゴで……」 「(――またヴァレリーか)」 ユッシ殿は、人を不快にさせるのが目的の仕事に就くべきだ。 そうすればきっと―― 「ユ、ユッシ殿」 「……なんじゃ?」 「(――うん?)」 慌てるハンス殿の表情が、ユッシ殿へと伝染していく。 「いや、まぁ、そのだな。青の国に滞在の間は、ハンスがヴァレリーの世話になって……そうじゃな、ハンス?」 その場を無理に取り繕おうと必死なユッシ殿だが、一体何があったのだろう? ハンス殿はハンス殿で、固まったままアイン殿を見ている。 「――どうかしたのか?」 「な、なんでもありません」 「……ぐむぅ、なんでもないぞ」 ふたりが口を揃えて否定したのを聞き、アイン殿は何事もなかったかのように書類へと目を落とす。 ――が、しかし。 「の、のう、ロンベルク殿?」 「なにか?」 「貴殿は、ヴァレリーについて……何かないのか?」 わざわざ本人が蒸し返すような質問をする。 「……何か、と言われても」 「ロンベルク殿は、ヴァレリーをどのような男と見る?」 「私は人を一見で判断できません」 「…………ぬぬぅ、面白くないのぅ」 「何か、ヴァレリー殿に関して気がかりなことでも?」 「ふ、ふん。何もあるわけなかろう!」 そう言ってそっぽを向くユッシ殿の顔は、ちょうどこちらに。 そして私の顔を見たまま、 「デュアとヴァレリーなら……」 などと意味深な言葉を口にしてから、再びアイン殿へと向き直る。 いきなり名前を呼ばれた私としては、 「何が、でしょうか?」 と訊き返すしかなかったが―― そこで打ち切りとばかりに鳴り響いたのは、11時を報せる時計の音。 姫が無事エファの調律を終えていれば、執務室へやってくる時間になっていた。 「さぁ、それでは準備会はこれまで。デュア、姫君をお迎えに」 「はい」 私は命ぜられるままに部屋を出て、廊下を歩き出すが―― 「(――くっ、気になる……)」 ユッシ殿は私とヴァレリーを比べ、何を言おうとしたのだ? 「……わたくしへの報告は以上でしょうか?」 アイン殿によって渡された書類に目を通し終えた姫は、静かに顔をあげて一同を見渡す。 「はい、残すは本予算決議のみとなります」 「わかりました。皆の者、ごくろうさま」 「わたくしはこのあと、アインと話をしますので」 姫の言葉に一同が頭を下げての閉会となり、ユッシ殿に続きハンス殿の順でふたりが部屋を出て行く。 私は先ほどのユッシ殿の発言が気になり、あとを追おうと思ったが―― 「――デュア。あなたも残ってもらえますか?」 「は、はい」 呼び止められてしまっては、どうすることもできなかった。 「話というのは、エファについてです」 「本日、エファの調律で少々気になる点が見つかりました」 「……詳しく診断するには時間がかかりそうですが、異国での生活に不安を抱えているように思えます」 「そこで、ふたりにお願いがあります」 「……エファには、できるだけ優しく接してください」 「ココの一件もあるので理解してもらえると思いますが、人形たちは総じてナイーブな造りです」 「あまり精神的な負荷がかかった場合、わたくしの調律だけでは回復できませんので」 姫は一息にそこまで喋ると、小さく頷き返答を待つ。 自分は言うまでもなく、アイン殿も姫に忠誠を誓う身。 「エファの件、確かに承りました」 「――同じく、承りました」 アイン殿を倣い、自分も姫の言葉に従う。 「ありがとう。ふたりへの話は以上です」 「では、アイン。わたくしを部屋まで送ってもらえますか?」 「はい」 「……そして、デュアは――少しの間、人形たちを見ていてもらえますか?」 「はい」 「エファの調律の都合、ココには退室してもらったのですが、いつの間にか廊下から姿が見えなくなってしまって」 「いま、エファがわたくしの代わりに探してくれております」 「もしかしたら、すでに人形部屋に戻っているかもしれませんので、覗いてみてください」 「お任せください」 「もしもまだ見つかっていないようでしたら、お願いしますね」 「承知しました」 姫が大きく頷いたのを確認してから、私は執務室を後に。 廊下を走るような真似はせず、静かに歩みを進めながら城の中庭を眺める。 「――ココ、か」 青の国からやってきたココは、妙に人なつっこい人形で――出会ってしばらくは対処に悩んだ。 しかし、三日も経つとこちらも慣れてきたせいか、子どもに接する感覚で付き合えばいいと判ってきた。 「(――私にも歳の離れた弟か妹が居れば、ココのように……)」 いや、さすがにそれはない。 これまでの人生を振り返っても、私に兄弟姉妹はひとりも居ない。 もし仮に、そんな存在があれば。 さらにそれが『男子』であったとすれば―― 亡き父が『せめてお前が男子であれば』を口癖にすることもなく、カールステッド家は安泰のはずだった。 「ふふふっ」 馬鹿馬鹿しくも、ココがカールステッドを継いで家長の席に着いた姿を想像してみる。 「(――ココのために、踏み台のついたイスを新調しなければならないか)」 そして、まずは厳粛な空気に耐えることから始めてもらう。 「…………無理だろうな」 答えは考えるまでもなく出ていた。 やはり、家長は務まらない。 ……ココであろうと、私であろうと。 「やめたやめた」 早くココを見つけて、気分転換をしよう。 そう思って歩みを速めかけたとき。 「――ん?」 通り過ぎようとする迎賓の間に、人の気配を感じた。 「(――何者?)」 日頃の習慣で剣の柄に手がかかる。 中の様子を察知するためドアに耳を当てれば―― 「『いけ好かん!』」 「『それでは、おふたり……何が違うのですか?』」 「『……ぐぐっ、細かいのう!』」 声のニュアンスからして、ハンス殿、ユッシ殿のふたりまでは確認できる。 「(――どうする?)」 「(――気づかなかったことにするか、動向を探るか)」 前回は、迷っているうちに先手を打たれた。 ならば、今度はこちらが先手をとるべきだろう。 ドアをゆっくりとノックし、無言のまま向こうからの反応を待つ。 やがて鍵が外され、中からはオドオドしたハンス殿が顔を覗かせる。 「あ、デュアか。なにか……」 「通りかかったとき、室内から声がしたように思えたので、失礼ながら確認させていただきました」 「そ、そうか。では……」 「どなたか、ご一緒ですか?」 有無を言わさず入口に足を挟もうとすれば、 「ワシじゃ!文句あるか?」 もうひとりの御仁も釣れた。 「いえ」 「――ふん。またこの前のように……」 「申し訳ありませんが、職務ですので。他にはどなたか?」 相手に全てを語らせず、こちらからの質問で主導権を握る。 「居らん!ヴァレリーが居るとでも思ったか?」 「判らないのでお尋ねしました」 「きっ、貴様……!」 ハンス殿を押しのけ、廊下に顔を出したユッシ殿は、下から私を睨み上げてくる。 「――何か、お気に障りましたか」 「…………むぐぐぅ」 「部屋をご利用の際には、警備の者なりをドアの前に立たせてください」 「はっ!ただでさえ衛兵の少ないドルンシュタイン城に、そんな余裕はないわ」 「――仰るとおりです。それでは、自分が警護につかせていただきましょう」 「結構、結構。余計なお世話じゃ。……誰が女なぞに。もうワシらは部屋を出るから、用はない!」 ユッシ殿は『早く退け』と言わんばかりに身体を揺すって部屋から出てくる。 そして、そんな彼が鼻を鳴らして通り過ぎようとしたとき、私は準備会の最後を思い出す。 「――ユッシ殿、しばしお待ちください」 「なんじゃ?」 「先ほどの準備会の最後で、何か言いかけておやめになった話。あれは一体、なんだったのでしょう?」 「ん?ヴァレリーの引き合いにお主の名を出したことか」 「……えぇ」 「なぁに。単純に、どちらが強いか考えてみただけだ」 「――そうでしたか」 「オマエ自身、どう思うかな?」 「比べることに意味があるとは思えませんが」 あれこれ想像するのは本人の勝手だが、そんなくだらないことにわざわざ付き合うのは馬鹿らしい話だ。 「逃げの方便を使うな。ワシの問いに答えよ」 「ヴァレリー殿の技量を存じ上げておりませんので、比較のしようもありません」 「……では、こうじゃ。ふたりの腕が互角だとして、お主が腰の剣、ヴァレリーが短剣を使う。どうじゃ?」 「普通に考えれば、『《ながもの》〈長物〉』を使う自分が有利です……が」 「取っ組み合いにも近い距離から始まる争いであれば、立場は逆転となるでしょう」 「……ふーっ」 答えを聞き、あからさまなため息をついたユッシ殿は手をひらひらさせる。そして―― 「よーく分かった。もう下がれ。ハンス、行こうか」 と別れを告げ、廊下の向こうへと去っていく。 きっと、教本通りの模範回答をしたのが気に入らなかったのだろう。 「それでは、自分も失礼します」 私はふたりに頭を下げながら、何故ユッシ殿があのようなことを言ったかを考えてみる。 先日の会談の前後、ヴァレリー殿から私の剣技のほどを尋ねられたのだろうか? それでも、わざわざ『ふたりを比べる真似』はしないと思うのだが…… 「(――それも、具体的な武器まで持ち出して……)」 意味があるのか、なかったのか。 気にはなるが、どちらにしてもいまはどうでもいい。 私は自分の職務に立ち返り、人形部屋へと向かうことにする。 ココの相手をすれば、こんなモヤモヤした気持ちも少しは和らぐはず。 そう思うだけでも充分に心が晴れ、足取りも軽くなっていく。 「(――さて。エファにココが見つけられたかな?)」 私の予想は、ずばり―― 「(――アインめ。人の優しさを踏みにじりおって!)」 今日のアインには、本当に腹が立った。 「(――このワシが敵である若造に、ほんの少し助言してやろうと思ったのにな)」 ワシの好意を台無しにした代償は、自らの後悔で払うがいい。 腹に溜まったモヤモヤは、鼻から一気に噴出させる。 「(――どいつも、こいつも!)」 そう、このハンスもだ! この男ときたら先の迎賓の間で、 「『……ユッシ殿の対応には、冷や汗ものでしたよ』」 などと! ワシが何か危険なことでも口走らないか、不安だったのか?……と尋ねれば、笑って誤魔化しおった。 「(――ふん!)」 アインもアインだが、ハンスもハンス。 いまは同志でも、いつ《 ひよりみ》〈日和〉見されるか知れたものではない。 政治とは常に他者を疑り、自らの安全を築きながら進まねばならないことを肝に銘じるべきだろう。 そうしなければ、すぐにも政敵の陰謀に飲み込まれ、屈辱の人生を送ることになる。 「(――だが、これからじゃ……)」 こうして生涯最大の敵とも言うべきアインを前にしたとき、自然と手駒が揃ってきた。 いまの地位に甘んじるだけの《バカども》〈貴族〉には得られない力。 ワシのように、野心をもって上を目指す者こそに与えられるチャンス。 いまいちど外務大臣へと返り咲き、果ては――この《ヴァイス》〈白の〉国を裏から動かす存在となるのだ。 そんなワシであればこそ、他人にはこれまで以上に寛大な態度で臨む。 「(――まぁ、アインについてた者たちは、適当に……)」 ……と思ったが、許せんヤツが居る! 「……デュアだ!」 「……は、はぁ?何の話ですか?」 「ワシらが迎賓の間で話していただけなのに……」 鬼の首でもとったかのように、文句をつけてきおって! 「まったく持ってつまらん!」 「まぁまぁ、お怒りはごもっともですが――」 「毎回毎回、あの女は大切なところで入ってきおって!」 「ノックをしてくれただけでも、助かったではありませんか」 「ノックなど当たり前じゃ!」 前々から思っていたが、ハンスは何処かズレている。 「(――あんな奴をフォローしてどうなる?)」 迷惑な人間に目をかけたところで、何も得るモノなどないというのに。 「城内に油断も隙もない。どこもかしこも敵だらけか」 「……はぁ」 ハンスを前に歩かせ、念のため周囲を警戒しながら階段を下りる。 先ほどのデュアのように、予想だにしない場所で数少ない衛兵に出くわすかもしれない。 「そうだ、中庭で話そうではないか。あそこなら見晴らしも良い分、近くでコソコソされることもあるまい」 「なるべく声は小さめ、聞かれても分からないよう隠語で……ということでしたら」 「分かっとるわい!」 「(――心配症め)」 これから大きな計画を動かそうというのに、そんな小さい肝っ玉で挑まれてはこちらが迷惑を被る。 ワシは時間を惜しみ、ハンスの背を突くようにして中庭の真ん中まで進んでいく。 「さぁ、話をまとめようか」 「……はい。では、まずユッシ殿に確認をとりますが、『例の物』の制作依頼は?」 「三ヶ月ほど前から頼まれていた『モノ』のことだな?言われた通り、一番腕の良い職人に頼んでおいたぞ」 「ありがとうございます。それはいつぐらいにお手元へ?」 「明日の午前には届くから、午後には渡せるぞ」 「それは、ユッシ殿から直接この私へ……と」 「もちろん。使用人すら注文や受け渡しの仲介に挟むな、と言ったのは貴殿ではないか」 同じことを何度も言われると腹が立つ。 「……で、ワインについてだが」 ヴァレリーとの初会見の日――デュアに邪魔されて以来、まともに尋ねることができなかった話題に立ち返る。 「はい。ワインの銘柄に関しましては、そのままの意味で」 「う、うむ」 「(――やはり、クリスティナ姫が『ワイン』ということか)」 「そして、そのワインを運び出すには――カモフラージュするための『瓶』が必要となります」 「ふむ」 「まだお話してませんでしたが、瓶とは『人形』のことです」 「ワインの瓶が、人形?よく分からんな」 「詳しくはもう少し時間が経たないとお話できませんが、ワインを運び出すためには『瓶』が必要なのです」 「……むう。何故、いまこの場で教えてもらえんのか、きっちりとした説明が欲しいところだな」 「それは、その……」 「ん?」 「…………私もまだ、全てを聞かされておりません」 「(――そういうことか)」 同志たちがふたりしてワシに隠し立てしているのではなく、ヴァレリーだけが計画の全容を知っている。 「のう、ハンス。しつこいようだが、ヴァレリーのこと……信用できるのか?」 「――はい。ヴァレリー殿の力を借りれば、必ず」 「本当に『ワイン』を国外へ持ち出すようなことが――」 「(――アインを失脚させることに繋がると?)」 「信じてください、ユッシ殿。そのための準備期間です」 「ワシが作らせている『モノ』も……」 「計画の成功に必要なモノです」 ハンスが力強く答えるのを聴いて、少しは安心できた。 あとは、計画実行日までの時間を待てば―― 「(――むぅ。しかし、何とかして全容を知りたいものじゃ)」 その計画に思わぬ穴がないのか? また万が一、ヴァレリーがしくじったときには? 新たに立て直しが効くのか、それともこのワシにまで影響が及ぶのか……など、考え出すとキリがない。 「とにかく、ユッシ殿はこちらからの報せをお待ちください」 「いつになるか分からん報せをか?」 「――ご辛抱ください。《じき》〈直〉に風は我らを後押しするはずです」 「…………よかろう」 納得はできないが、いたしかたあるまい。 「――それでは、私もそろそろお《いとま》〈暇を〉。今日の準備会の整理もありますので」 「仕事熱心なことだな、ハンス」 「やるべきことが残っていると、次のモノに手が着けられない《しょうぶん》〈性分〉でして」 「相変わらずの性格じゃの。……まぁ、頑張ってくれ」 「はい」 ハンスは会話が終わるとそそくさと城門の方へと立ち去り、ワシひとりが中庭に残る。 「……ふーむ」 アインの失脚を目的とした計画。 あの男を引きずり落とすことができるのであれば、多少の被害や犠牲は厭わない。 ただ、それがクリスティナ姫にまで及ぶとなると話は別。 「クリスティナ姫あってのヴァイス……じゃからのう」 アインがどれだけ傷つこうと知ったことではないが―― クリスティナ姫は幼き頃より聡明で臣下に優しく、まさに先代国王の跡を継ぐにふさわしい人物。 忌々しい後見人さえ除けば、なんら問題のない存在なのだ。 「(――そうか!)」 「このワシが後見人になれば、全てが解決するではないか!」 「こーけーにん?」 「そう、ワシがなるのじゃ!」 「アインじゃなくてー?」 「そのとお――」 「(――ん?)」 ワシはいま、誰と話しておる? ハンスは先ほど…… 「んー?どうした、のー?」 「うぅわあぁぁぁ!?」 なんで、なんでこんなところに! 「きっ、きさま!ワシを驚かせて、何が楽しい!?」 いつの間にか横に居座っていたのは、青の国からやってきた人形――ココではないか! 「えーっ?たのしーい?」 「ワシが訊いておるんじゃ、ワシが!」 「うんうん」 「分かって頷いておるのか、分かって?」 「んー、どうなんだろー?どうなのー?」 「ワシに分かるわけなかろう!」 なんだ、この人形は? 尋ねておるのがこちらなのに、どうしてワシが答えなければならないのだ!? 「そっかー。むずかしい、ねー」 「なんじゃ、人間の子どもみたいに喋りおって!」 「人形なら人形らしく、おとなしくしておれ」 「うん」 そういうと人形は、そのままぴたりと動きを止める。 「…………おい」 「……」 「返事をせい」 「…………なぁーに、ユッシー?」 「なっ、なんと!このワシを呼び捨てにするのか!」 許せん! いくら《ブリュー》〈青か〉らの客分とはいえ、無礼にもほどがある。 「たかが人形の分際で……」 「うん、ボク、にんぎょうだよー」 「分かっておるわ!」 姿形だけでなく、喋ったり考えるところまで我々人間を模倣する人形。 この国の財源を支えるような存在でなければ、とっとと排除すべき者たちだ。 「すごいねー」 「……なにがすごいんじゃ、なにが」 どうにも調子が狂う。 「(――これだから人形は嫌いだ)」 人間とは違うのに、我々と同じように振る舞う。 そして背中には羽根を持ち、人間よりも神に近い位置へと捧げられ――十番目の天使とか称される。 本当にその羽根が天使の《あかし》〈証だ〉とでも言うのか? 貴石の見えない力で動き、突然暴走する危険がつきまとう人形をどうして皆やすやすと受け入れる? その背中の象徴が『悪魔の羽根』でないと、誰が保証してくれるというのだ? 「(――もう懲り懲りじゃ)」 過去の記憶が、ワシの背筋に冷たいモノを這わせる。 あんな恐ろしい思いをするぐらいなら―― ワシは知っている。 あのクリスティナ姫も、一度は人形で『命を落としかけた』ことがあるのを。 それなのに―― 「ユッシー。どーした、のー?」 「だーぁ!馴れ馴れしく呼ぶな、馴れ馴れしく!ワシは、この国の大臣なのだぞ!」 「おー」 「すごいねー、ダイジーン」 「ん?大臣の意味が分かるのか?ワシはオマエが思うより、ずっとずーっと偉いんじゃぞ」 「ユッシ、ダイジンなんだよ、ね?」 「うむ」 「ダイジン、エライんだよ、ね?」 「そうじゃ」 「だから、ユッシ、エライんだー。すごーい」 「ほ、ほう?なんだかんだ言いながらも、理解しておるではないか」 思ったよりも、この人形……話が通じる。 それに、コヤツの背中にあるのは羽根ではなくネジ巻き。 天使や悪魔というよりは、本当にただの人形といった感じがする。 「ダイジンって、なにをするヒト、ですかー?」 「ふふふっ。ワシか?ワシは、この国を影で支えておる」 「んー?」 「まぁ、簡単に言えば……この国で一番の苦労人じゃ」 「すごいねー、ダイジーン」 「ふっ。おだてたところで、何もないぞ」 「おだてるって、なぁーに?」 「その、なんじゃ……」 どう説明すればいい? 「ま、相手を褒め続けるのを『おだてる』と言う……のか?」 「ほめる?ほめられると、うれしいよ、ねー」 「そうだな」 「ユッシも、ほめられるの、すきー?」 「……まぁ、好きか嫌いかと訊かれたら、好き……じゃな」 「うーん」 頬に両手を当てて首を左右に振る人形は、ちょっと困った顔をしている。 「どうした?何を考えておる?」 「あのねー、ボク……ダイジーンのこと、よくしらないの」 「うむ。だから?」 「だから、ほめるの、むずかしいよねー」 「……ふん。なんでワシが、オマエなんぞに褒められなければならん」 「えーっ!ほめたら、ダメ?」 「ダメかと言われたら……」 人形ごときに何を言われようとも、ワシには何の影響もない。 「なでなで、しても、いーい?」 「こっ、こら!やめんか!」 なにが哀しくて、人形なんぞになでられなければならんのか。 「うーん。ちょこっと、とどかない、ねー」 「(――ちっ)」 背伸びぐらいで、届くはずもなかろう! ワシはとっととお邪魔虫を離すべく、追い払う口実を考えるのだが―― 「(――いやいや、待てよ)」 この人形は、青――ヴァレリーの国からやってきた。 そして、ハンスの話では……人形《 イコール》〈 =〉 瓶。 ということは! 「(――この人形が、クリスティナ姫を運び出すための……)」 だんだんと読めてきた。 きっとこの人形が、何らかの《おとり》〈囮な〉のだ。 「……のう、ココ」 「んー?なぁーに、ダイジーン?」 「ちょっとだけ、ココの秘密を教えてもらえんかの?」 「えーっ!?」 「ぎゃっ!?」 オーバーアクションの人形に、こちらの方が驚かされた。 「なななな、なんだ!い、い、いきなり飛びはねおって!」 昔、目の前で暴走した人形を思い出したではないか。 「だってー、きゅうに、きかれたんだ、よー」 「とっても、かんがえちゃうよ、ねー」 「(――あぁぁ。漠然としすぎた問いだったからか?)」 それならこんな子どもにも分かるよう、かみ砕いて尋ねるか。 「……のう、ココ。質問を変えよう」 「?」 ハンスが大好きな『隠語』にしておけば、あとでうるさく言われる心配もなかろう。 それに、この人形なら、あっさり情報を洩らしてくれそうだ。 「……『瓶』と聞いて、何か思いつかんか?」 「ビン?ビンって、なぁーに?」 「ワインの瓶じゃよ」 「んー、ボク、わかんない」 「瓶が分からんのか?ほら、こんな形をしたヤツで……」 両手を使って、瓶の輪郭を空中に描いてやる。 ……と、人形は食い入るようにそれを見て、コクコクと頷き、 「しってるー。ごはんのとき、あるよね?」 と笑う。 「おー、通じたか。よしよし、偉いぞ、ココ」 「えへへ、ほめられちゃった」 「すごいぞ、ココ。頭がいいのう、ココは」 「えへへ。おだてられちゃった」 この人形、おだてていることに気づきおった。 「(――あぁ、ワシが教えてやったのか)」 「……とにかく、何か『瓶』について知ってることを教えてくれんか」 ワシが頭を鍛えてやった、その礼として。 「うーん、うーん」 「がんばれ。がんばって思い出せ」 「……うーん。わすれちゃったの、かも」 「忘れたじゃと?どうして?大切なことを」 「うぅぅぅ。ボク、いろいろわすれた、のー」 そう言えば、クリスティナ姫が人形をおとなしくさせる調律をして記憶が……とか何とか。 どうでもいいことだったので気にもしてなかったが、まさかワシにまで関係してくるとは。 「……使えんのう」 「うぅぅ、ごめんなさい」 「あー、しょぼくれんでいい」 嫌いな人形とはいえ、そんな顔をされるとワシが悪いことをしたみたいな気分になってくる。 「あ、でもね、でもねー。エファなら、しってるかも」 「ん?《カーディナル》〈赤の国〉の人形か?」 確か、白く長い羽根の生えた者。 「なんで、あの人形が知ってるかもしれないのだ?」 「うんうん。エファ、ものしりさんだからー」 「ものしり?」 「いろいろ、しってる、よー。ボクのヒミツも、しってる」 「どうして?」 「おしえてあげたのー」 「(――秘密を教えた?)」 ということは、もしかしたら―― 「『……ココ、何処に居る?』」 そのとき、いきなり響いたデュアの声。 「あー、デュアー。どーこー?」 肝心なときに! 二度では飽きたらず、三度もワシの邪魔をするのか? ええぇい、負けぬぞ。あの女が来る前に―― 「『……居たら返事をしてくれ、ココ!』」 「あーい。ボク、ここにいまーす」 「……ぐっ」 「んー?どーしたの、ダイジーン?」 場所がバレてしまっては、どうしようもない。 こうなったら、鉢合わせにならないよう去ることにしよう。 「のぅ、ココ。ワシと会っていたことは誰にも内緒じゃぞ」 「ないしょ?……うん、いい、よー」 「よしよし。では、またな」 糸口さえ失わなければ、まだまだチャンスはある。 それをきっちり掴み、ワシはあのヴァレリーやハンスよりも優位に立つ。 ……そう。この国をよく知るこのワシが、一番上であるべきなのだ! 「ねぇねぇ、デュアー」 「なんだ、ココ?」 ボク、前を歩くデュアのズボンを掴んでます。 だって、夜の廊下……こわいんだもん。 「こわくない、のー?」 「ん?夜がか?」 「うんうん」 お部屋で寝てたら、誰かの歩く音がして。 誰かなーと思って、ドアをちょっぴり開けてみたの。 そうしたら、そこにはデュアが居て―― 「ココは、夜が怖いのか?」 「……こわいかもー」 「そうか」 いま、一緒にお城の見回りしてるの。 こわいよねー、夜って。 だって、とっても暗いんだよ? 灯りがないと、ごっつんこしちゃうんだよ? 「……あれれ?」 「ん?」 「(――ボクさ、ボクさ……)」 いま、デュアに『こわい?』って訊いて、答えを教えてもらってないよね? 「デュアって、こわい?」 「私が、怖い……のか?」 「わたしー、じゃなくてー、よるー」 「……ん、んんっ!」 「どーしたの?」 デュア、急に咳払いしちゃったね。 「……その、いま……自分が『私』と言ったのは忘れてくれ」 「どーしてー?」 「どうしても」 「わすれないと、プンプン?」 「――怒りはしないが、ちょっと……」 困った顔されちゃった。 「うん、いいよー。わすれるー」 「ありがとう」 でも、どうやったら忘れられるのかなぁ? 「(――むずかしいよね、わすれるのって)」 誰かに『忘れて』って言われて、すぐに忘れられるのって、すごく難しいと思う。 「なぁ、ココ」 「あい」 「さっき、『夜が怖いか?』と尋ねたよな?」 「あいあい」 「そうだな。怖いと言えば怖い」 「でも、自分には……もっと怖いモノがある」 「そーなの?なにが、こわい、のー?」 「見えない、人の、心、かな?」 「(――あれれー?)」 デュアの喋り方、ボクに似てたよね? 「もしかして、いま、デュアに……まねっこされちゃった?」 「――ふふふっ。似ていたか?」 「うーん、わかんない」 「そうか」 「でもね、でもねー」 なんだろう、なんていえばいいのかなー? 「ちょっと、はずかしい」 「……恥ずかしい?」 「うんうん。ほっぺが、きゃーっ!」 両手で触ったら、すごくあったかい。 真っ赤だったら、笑われちゃうかな? 「あはははっ!」 「あわわっ、わらわれちゃったー」 「――失礼。悪いな、笑ったりして」 デュアって、おもしろい。 見た目は、ちょっとだけ怖いけど……ホントは、優しいの。 「あのね、あのね」 「ん?」 「どうして、デュアは……ヒトの、ヒトの……」 「……心、のことか?」 「うんうん!ヒトのこころー」 「なんで、こわいのー?」 「……難しい質問だな。正直、分からない」 「――えーっ?分からないから、こわいのー?」 「…………」 あれれ?デュア、黙っちゃった。 「――ココ。その通りだよ」 「ほえー?」 「ココの言った通り、人の心は分からない。だから怖いんだ」 「ボク、アタリ?」 「そう。ぴったりの答えをくれた。すごいな、ココは」 「えへへへっ。やっ、たー」 褒められちゃった。 もしかしたら、もっと褒められて……おだてられちゃう? 「……なぁ、ココ」 「あい?」 「ときどき自分は……自分が怖くなるんだよ」 「んー?デュアが、デュアをー?」 「……あぁ」 「どーして?こころが、わからないからー?」 「――本当に冴えているな、ココは」 うわーぁ、なでなでされちゃった。 「えへへ。おだてられちゃう、ねー」 「ふふふっ。またおかしなことを覚えて。誰に習った?」 「えーっと、ないしょー」 ダイジーンと、約束したもん。 「(――あったことは、ないしょだもん、ねー)」 ボク、約束は忘れないよ。 「(――あれれ?でもさ、でもさ……)」 もしも、『約束忘れて』って言われたら、どうしたらいいの? 「……むむぅ」 昨日とは打って変わり、水煙が見えるほどのどしゃぶり。 こんな日に登城とは、全くついてない。 午前中ハンスに会って『例のモノ』を渡し、登城するまでは問題がなかった。 ……といっても、黒雲が山の向こうに見えたので、それなりの予感はあったといえばあったのだが。 「まさか、ワシが帰る前に降り出すとはのう」 眺める中庭には、雨のカーテン。山の向こうには、稲光も見える。 「昨日とは大違いじゃ」 面倒な準備会だったが、帰りまで憂鬱にさせられることはなかった。 どちらかといえば、人形の片割れ――ココとの接点を得たおかげで、今後の展望が見えてきたのだ。 「あとは、あの人形が余計なことを喋らなければよい」 こちらが気をつけてダイレクトな質問をしないようにすれば、まずバレることもあるまい。 「仮に喋ったとしても、まともな会話になるとは思えんがな」 あの人形と話していると、どんどん本題からズレていく。 それに物忘れも多そうだから、ワシと交わしたやりとりなど……どこまで憶えているかすら、あやしい。 「……しかし、やまん雨だのう」 こんなことなら、馬車は帰さずに待たせておけばよかった。 午後の雑務で時間がかかる、と読み違えたのが最大の失敗か。 「使用人が気を利かせ、予め迎えを寄こして……など、ありそうもないな」 使いに走らせた者は、そろそろ自邸に着いた頃だろう。 「……むぅ。まだ戻るまでしばらくはかかるか」 持て余した時間、いつ降り止むか分からない雨を眺めながら馬車を待つのは退屈で仕方ない。 「……ワインでも飲みながら、時間を潰すか」 ワシは城内に入り、酒蔵に寄ってから迎賓の間に向かう。 「――しかし、ヴァレリーのヤツめ」 クリスティナ姫を『ワイン』などと称し、大胆にもそれを運び出す計画を準備するとは。 「(――おもしろい、おもしろいぞ、これは!)」 そんな国の一大事ともいえる『誘拐事件』が起これば――下の失敗は、上にも響く。 護衛隊長であるデュアは言うまでもなく、その上役であるアインの責も確実に問うことができるだろう。 「……くくくっ。アインもひとりで仕事を抱えすぎるからな」 管理する範囲が大きいからこそ、目の行き届かないところも出てくる。 きっとヴァレリーは、そんな部分を狙って突こうとしているに違いない。 「(――しかし、ハンスは『誘拐とは違う』と言っていたな)」 クリスティナ姫を連れ出すのであれば、どうやっても誘拐にしかならないと思うが―― 「それとも、ご本人の意思で国外へ?」 ……分からない。 ただ、ひとつだけ分かっているのは、『我々が関わっている』のがバレてしまってはならないということだ。 白を救うためとはいえ、アインを蹴落とすまではこちらが『反逆者』の立場にあたる。 我らの意義が主張できるのは、革命が成就してから。 反逆の汚名をかぶる覚悟で実行した『正義』は、成功と共に美談へと昇華されるのだ。 「……そういう意味では、実行後の味方が欲しいところだな」 アインに対し、不満を持つ者は少なからず居る。 その者たちをうまく扇動できれば、アインを失脚させたあとの『国家体制立て直し』にも役立つ。 「……むむっ。となれば、いまから候補者リストと、その後の待遇について考えねばな」 いまから後々のことを考えておかなければならないとは、やはりワシは苦労人。 書類を見て頷くだけのアインとは違うことを見せつけるためにも、少しずつ準備をしていこう。 「(――それにしても、いつもながらワシは冴えている)」 少しぐらいワインを空けた状態でも、問題なく頭が働く。 やはり頂点に立つ者は、これぐらいの余裕が―― 「――ん?」 考え事をしていたせいで気づくのが遅れたが、廊下の向こう端に佇む人の姿がある。 目をこらしてみれば、それは赤の国からやってきた人形――エファ。 白い二枚の羽根を微かに揺らしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。 「(――ということは、近くにクリスティナ姫が……)」 とっさに《ばっせん》〈抜栓〉した瓶を後ろへ隠す。 ……も、ここから見える範囲にそれらしき姿は見つからないので一安心する。 「(――うーん)」 が、次に困ったのは、ワシの目指す『迎賓の間』は……あの人形の先にある。 ぐるっと一周するか、近くの階段を下りて一階奥にある別階段を再び上がるかすれば、回避できないこともない。 しかし、そこまでするのは面倒。 仮にそれらを実行し、辿り着く頃に人形が立ち去っていたら……あまりにも間抜けな話だ。 「(――とっとと退いてくれんかのう)」 ワシは見つからないよう壁に寄りかかり、通路が空くのを待ってみる。 「…………むむぅ」 全く動く気配がない。 「(――これだから人形は……)」 本当に扱いづらい。 それともワシが思い切って近づけば、何も言わずに退いてくれるのだろうか? 「うーん」 それでも、あの『羽根』の横を通るのには抵抗がある。 「(――昨日会ったココなら、別段なんともないが……)」 見た目は人間そのものと言える赤の人形には、なるべくなら近づきたくない。 ワシはどうしたものかと、手にしたワインの瓶を眺めながら思案する。 「……ん?」 いま、ワインを見ていて『何か』を思い出しかけた。 確か昨日、ココが『エファにどうのこうの』と言ったような気がする。 「むむむっ?」 「(――秘密を……)」 「……そうだ。秘密だ」 ココが『秘密』をあの赤の人形に教えた、とか言っていた。 「ふっふっふっ」 クリスティナ姫は側に居ない。 なんと絶好のチャンスか。 さりげなく赤の人形に『秘密』を尋ねればそれで良い。 そうすれば、それだけで……あの人形は、こちらの知りたいことを教えてくれる。 「――何故なら、嘘がつけない造り」 来訪の日に、赤の付き添いが自慢げに教えてくれたのだから……それこそ嘘はあるまい。 ワシは堂々とした態度で、ココの秘密を聞き出すことにした。 「――あー、そこの人形!」 「……えっ?」 「確か、そちの名はエファだったな」 「は、はい」 レスポンスは上々。 こちらもココ相手に練習しておいたおかげで、人形に対する苦手意識が薄くなっていた。 「クリスティナ姫は、どちらに?」 「お部屋でお休みになっているはずです」 「そうか。……で、お主はこんなところで何をしている?」 「……はい。空を見て、自分の国のことを考えていました」 「ほうほう、寂しくなったのか?」 「はい?」 「その、なんじゃ。あのココのように、ふるさとを思い出し、寂しくなって……」 ――空を眺めていたのか、と。 「いいえ」 「……そ、そうか」 あっさり否定された上に、話を断ち切るかのような言い方なので、こちらが言葉に詰まる。 「ところで……何かご用でしょうか?」 「ん?いや、ま、用といえば用だが……」 いざとなると言い出しにくいもので、口の中が乾いてしまう。 「……?」 人形の視線が、ワシの頭から胸元、手の先へと動く。 ワシもそれにつられ、ワインの瓶にまで辿り着き―― 「そ、そうじゃ!ワインじゃ」 ちょうどよく、話を切り出すことができた。 「ワインを知っておるか?」 「はい。存じておりますが……」 「お主、ワインについて何を知っておる?」 「…………?」 「ワインについて、じゃよ。解らんか?」 「わかりません」 ここは、根気よく、根気よくいこう。 「では、ワインの銘柄について。これでどうじゃ?」 「ほ、ほとんど知りません」 「むむぅ。では、ワインの瓶については?」 「……瓶の種類ですか?」 「むぅーっ」 こちらの意図することが伝わってないような気がしてきた。 これは隠語など使わず、直接尋ねた方が良いのだろうか? 「ならば、いまひとつ尋ねる。ココの秘密を教えてもらいたい」 「えっ?」 その顔色の変わりようは、秘密を知っていることの《あかし》〈証。〉 「――知っておるのじゃな?」 「……は、はい」 「では、教えてくれ。ココの秘密を」 「ココの秘密は……」 「うんうん、ココの秘密は?」 「ココの秘密は……言えません」 「な、なんじゃと!?どうして!?」 「そ、それは……それは……」 外の雨が強くなったせいか、聞き取りづらい声。 この肝心なときに!だから人形は嫌いなのだ! 「答えてもらわんと困るんじゃがのう」 「コ、ココは……その……」 そこまで言いかけたのにも関わらず、煮え切らない。 ギュッと目をつぶって、イヤイヤと首を振り、 「……言えません」 と繰り返すばかり。 「(――むむぅ、これは困った!)」 あっさり答えが得られると思っていただけに、どう対処していいか迷う。 「(――いたずらに問答を続けて、疑られるのもまずいか?)」 しかし、せっかくのチャンスを生かさずにどうする? ……待て。肝心なことが訊き出せないのなら、それとなく口止めをして解放するべきか。 もし仮にワシがしつこく尋問したなどと、クリスティナ姫相手に言われようものなら―― 「(――いかん、それだけはいかんぞ)」 「……ごめんなさい」 「いやいや、謝るのはワシの――」 とってきの笑顔で人形を見たつもりだったが、そこには誰も居ない。 「な、なっ?どっ、どこじゃ?」 気づけばエファはワシの横をすり抜け、廊下の向こう側へと走り出していたのだ! 「あっ、待たんか!」 「(――焦らぬよう心がけたつもりだったのに!)」 ワシは、急いで人形を追いかける。 「ま、待て!待てと言うておろうに!」 日頃から走るような機会のないワシが、追い付くのは難しく。 角を曲がり、長い廊下に差しかかったときにはかなり距離を離されていた。 白く長い羽根を揺らしながら、暗がりの廊下の奥へ奥へと遠ざかっていくエファ。 「ま、待ってくれ!」 このままでは秘密を聞き出せないばかりか、こちらの秘密が漏れる恐れがある。 そうなったら、全てが水の泡に…… 「――の、のう、エファよ。は、話を……」 ワシは腕を伸ばし、何とか人形を呼び止めようとした瞬間。 「うぉっ!?」 外からの稲光が窓を突き抜け、廊下を照らし出す。 そして…… 「ギッ!」 壁にはワシの想像をはるかに超えた『黒の羽根』が、大きく、大きく―― 「ひ、ひぃ――」 ワシは思わず頭を押さえ、床に座り込んでしまった。 雷鳴と共に見たのは白い羽根の影。 そんなことは充分に承知している。 しかし、頭では理解していても身体がついてこない。 言いようのない恐怖に足が震え、呼吸が乱れる。 暗い廊下で一瞬だけ見えた黒い羽根は、あの《 エファ》〈人形〉の本性が滲み出たモノと思えてならない。 「(――や、やはり人形など……)」 あれは、エファとは似てもにつかない人形―― その顔にある目も口も鼻も全ての造形が浅く、まさに木切れボロ切れを寄せ集めてこねくり回した造りでしかない。 「(――思い出したくもない!)」 甦る光景は先代国王を前に披露された――人形の自由意思に介入する強制命令の公開実験。 輪郭だけが人間の《 デク》〈木偶〉人形は、のんびり中庭を散歩していた。 それが技師の命令――『そこに居る鳥を捕まえろ』に反応し、《とつじょ》〈突如〉訓練された兵士並の速度で鳩に近づいていったのだ。 「『――むぅ』」 ワシは見た瞬間、言いようのない《 ・ ・》〈何か〉を感じていた。 《 デク》〈木偶〉人形は命令された通り、鳩を追いかける。 たとえそれが空に飛び立とうとも可能な限り追い続け、城壁を乗り越え、鳩めがけて―― 「『――馬鹿な!』」 ヤツは使命をまっとうした。誰も《とが》〈咎〉めることはできない。 むしろ、忠実なまでの最期を褒めてやるべきだろう。 事実、先代国王は『見事なまでの実直さだった』と、軽く拍手もしていた。 ……が、ワシはそんな気分にはなれなかった。 表現しがたい、モヤモヤとした気持ちがあったのだ。 「『ユッシ殿、こちらへ』」 すぐ横まで歩み寄ってきた人形技師が城壁までワシを誘い、その向こう側――城壁の下で這い回る残骸を指したときに、ワシは自分が抱いた感情の正体に気づいてしまった。 「『多少、いびつではありますが――』」 膝から先を失った右脚、ほとんど損傷のない左脚。 ふたつはお互いの長さを比べることもできず、我先に命令を果たそうと……前へ後ろへ規則正しい動作を繰り返す。 そんな脳の足りない下半身に全てを託す上体は、四方八方に指の花を咲かせた両手を空に突き出し、彼方へ飛び去る鳩を追い求めていた。 「『――命令は生きておりますので』」 所詮は人形。だから、愚かしさの代償に哀悼は感じない。 あったのは、恐怖。 命令ひとつで、人間が躊躇うほどの無謀な試みを実行できる。 その一点が、ただただ恐ろしかった。 「はぁはぁはぁ……」 呼吸が辛い。足がもつれる。 「はぁ、ワシ、が……な、ぜ……」 ワシが何故、このような目に遭わなければならない? 「ワシは、ワシは……」 雷鳴も遠のき、窓を打ちつける雨音だけがうるさい。 気づかぬうちにワシは廊下の角まで戻っていたらしく、壁にべったりともたれかかっていた。 「はぁ、はぁ……《 エファ》〈人形〉は?」 上下する視界の中でその姿を探すが、暗くてよく見えない。 青臭くも生暖かい空気が、吸い込むたびに喉の奥を不快にさせる。 「――まずい、のう……」 不覚にも距離をとってしまったが、早く追いついて口止めをせねば。 体勢を立て直しつつ、手にした瓶の中身を確かめる。 「……こぼれてはおらんな」 ワシは瓶を『直接』口の端にねじ込んで、《 ・ ・ ・》〈気つけ〉代わりにと軽くあおる。 多少不作法だが、誰に見られているわけでもない。 喉が潤えば、思考もハッキリしてくるはずだ。 「ふーっ、ふーっ、ふーっ……よーし」 相手は人形、それほど頭が良いはずもない。 うまく丸め込んで、さっきの質問はなかったことにしよう。 どうやるにしても、まずは《 エファ》〈人形〉を見つけることが先決だ。 「エファ、何処に《 お》〈居〉る?」 吹き抜ける風がロウソクの火を揺らがせ、通路にちらつきをもたらす。 奥から聞こえてくるのは、開け放たれた窓が揺れる音か。 「……むぅ」 幸い、こちらの廊下側にあるのは全てが空き部屋で、誰かが飛び出してくることもない。 ……とはいえ、万が一にも出くわしたときには―― 「さすがに、《 ・ ・》〈コレ〉はまずいか」 《ばっせん》〈抜栓〉したワインなど持っていては、体裁も悪い。 《コレ》〈瓶〉は、迎賓の間にでも置いていこう。 そう思って廊下の奥を見たとき、スッと白いモノが横切った。 「あれは、エファの羽根?」 一瞬、天井に広がった黒い影を思い出して立ち止まるが……もう大丈夫だ。 正体さえ知れてしまえば、恐れるに足らず。 「そうじゃ!せいぜい、子どもを怯えさせるぐらいじゃ」 ワシは意を決して先へ進む。 あともう少しで、次の角。 「……のう、エファ。そこに居るのか?」 返事はない。 「で、出てきてくれんかの?」 こちらの声が届いてないのか、暗闇からは反応がない。 「(――ぬぅ、これではラチがあかないではないか)」 何が哀しくて、かくれんぼの相手などしておるのか。 段々と、もどかしさが腹立たしさに変わってくる。 こちらが《したて》〈下手〉に出ている間に、とっとと姿を現すべきなのだ。 「……何処に《 お》〈居〉る?」 すでに場所は階段の近く。 もしかしたら、エファはここから下に? それとも、向こう側に続く廊下をさらに奥へと進んだか? 「まったく、どっちに――」 ワシは階段を数歩分降りかけて迷い、下ではないだろうと考えたそのとき。 背後に誰かの気配を感じ、とっさに振り返ってみれば…… 「ひっ、ひぃ!?」 前触れのない、目がくらむほどの白い光! 何が起こったのか判らず、後ずさったワシの足下には浮遊感しかない。 「ぐっ、ぐわぁ!」 とっさに支えを求めて腕を振り回すが、何ひとつとして触れられるモノはなく―― 「うぉ、お、おち……ぅわぁぁぁぁぁ!」 天井、柱、エファ、そして――! …………自分の身体が、動かない。 「…………ワ………………ワシ……は……」 どうし……て? 「ワシ……は……これから……」 「……大……臣……などで……」 「…………おわ……ら…………」 「………………」 「あっ、ヴァレリー殿!」 回廊で出会ったのは、よく知る顔のハンス。 《 ・》〈俺〉を待っていたのか、脇目もふらずこちらへ走り寄ってくる。 「これはこれは。わざわざ、お出迎えくださるとは。……もしや、相当お待たせしましたか?」 「いえ、そのようなことは……」 「(――そうだろう。落ち合う約束はしていないからな)」 「ここでヴァレリー殿をお待ちしていれば、きっとお会いできるだろうと思いまして」 「ん?今日は正式なご挨拶を兼ねての参上。遅かれ早かれ、会合の席にて――」 「そ、それでは遅いので」 ハンスの上ずった声には焦りが混ざっている。 「(――当然といえば当然か……)」 あんなことが起こったあとでは、仕方がない。 「(――まぁ、《 ・ ・ ・ ・ ・ ・》〈遅かれ早かれ〉……ああなる運命だったがな)」 口にはできない結末を軽く飲み込み、静かに微笑む。 これ以上はぐらかしてハンスをいたぶる趣味もない。 「……で、一体どんな話でしょうか?」 「はぐらかさなくとも、お判りでしょう!?」 「少しばかり声が大きいですよ、ハンス殿」 「あ、はい。すみません」 これはもう、趣味とかではなく……生活習慣の問題。 地位や権力はあっても、中身がそれに見合わない者たちを相手にする毎日が染みついてしまっている。 多少《 じ》〈焦〉らし、相手から直接『望み』を引きずり出すことの大切さが身に染みついてしまったのだ。 「(――だから許してくれたまえ、ハンス)」 キミは、そんな無能連中とは違う。 それ相応の礼儀は尽くすべきだと、いま反省している。 「ユッシ殿の一件ですね」 「はっ、はい……」 「(――おいおい)」 自分で話を振っておきながら、そんなにビクついてどうする? 相手が《したて》〈下手〉に出て主導権を譲ってくれたなら、それを掴んで離さないのが基本だろう? 「ヴァレリー殿は、その……どう、ご覧になりましたか?」 「ユッシ殿の死について、ですか?」 「はい」 「それについては、一昨日の葬儀の説明にあたり、『急病死』と言われていたではありませんか」 大使赴任の初仕事がユッシのための国葬参列になろうとは、さすがに予想してなかった。 「何か、納得のいかないことでも?」 「…………本当に、病死なのでしょうか?もしかしたら、何らかのトラブルがあって……」 ハンスの瞳は、周囲に誰か居ないかとせわしなく動いている。 「(――ほう。ユッシの死に疑問をもったか)」 なかなかどうして鋭い洞察……と褒めてやりたいところだが、我らの立場からすれば嫌疑は当然。 それに、これはハンスの臆病な性格から出てきたもの。 まず、疑うべき対象が定まってない。 相談を持ちかけた俺に対してまで『恐れの目』を向けているのがその良い証拠だ。 「(――ふっ)」 俺を疑うなとは言わない。 が、せめて話すときはその色を隠さないと、良い関係を築くのは難しいと思うが……どうだろう? 「まさかとは思いますが、ハンス殿は私をお疑いですか?」 「まっ、まさか!そのようなことは決して!」 そこまで強く否定されると、笑いを堪えるのが辛い。 どうせなら『……はぁ?』などと、とぼけてみせるぐらいの余裕が欲しい。 まだ話題が見えていない状況で、『何を疑う』と言うのだ? 少し冷静になってもらい、お互いの信頼を確かめるべきではないだろうか。 「ハンス殿は、疑っておられる」 「何を言いますか、ヴァレリー殿!あなたにどれだけの信頼をおいているかは……」 「まぁまぁ、お待ちください。この私を、ではなく……ユッシ殿の死を疑っておられるのでしょう?」 「…………あ、は、はい」 「それについては、私も同じです。あれだけ活気のある御仁が、いきなり病死と言われても納得できません」 「そうですよ、その通りです」 「――と、これが『病死』でないとすれば一体何でしょう?」 「……う……」 「何か、隠し立てしないとまずいような死だった……とか」 「……ぅぅ……」 「何者かに殺されたかもしれない――などとは……ハハッ、突拍子が過ぎましたか」 「…………」 ハンスは返事もせず、青い顔のままだ。 「(――少しは笑ってくれ)」 会話というものは、相手に合わせることが大切。 そちらができないのであれば、こちらが歩み寄るしかない。 「何にせよユッシ殿は亡くなられた。少なくとも、それだけは事実ですね」 「……はい」 「我々は惜しい人物を亡くしたとしか言えませんが――逆の感想を持たれた御仁も居られるかもしれません」 俺がほのめかした瞬間、ハンスの瞳が横に泳ぐ。 「――逆、とは?」 「(――解っているくせに、とぼけるな)」 ユッシと違い、ハンスは頭が回る。 しっかり悟った上での念押しをしてくる辺り、抜け目ないというよりは……臆病。 確証がなければ一歩が踏み出せない。 もとより、そんなことは見抜いた上での付き合いであれば、いまさら取り沙汰するのも野暮か。 「アイン殿にしてみれば『目の上の何とやら』で――ていよくやっかい払いできたと思うかもしれません」 「あ、ああ、はい」 安心したのか、ハンスがパッと明るくなった。 この顔に出る正直さが、俺にとって不安材料のひとつになる。 「(――まぁ、いいさ)」 いちいち『ああしろ、こうしろ』と命令するより、最小限で効果的な方法を思いついた。 念には念の『確認と演習』を兼ねてハンスを試し、続いてアインといこうではないか。 「しかし、ハンス殿。人の死とは分からないものですね」 「――えぇ」 「ユッシ殿とお会いしたのは、つい一週間ほど前のこと。《 ・ ・ ・ ・ ・》〈あのときに〉ご一緒したワインが最後になるとは」 「…………はい」 「おっと。ユッシ殿にとっての『最後のワイン』だったと言う意味ではありません」 「……?」 「いえ。私の知るユッシ殿は、本当に《 ・ ・ ・ ・ ・》〈あのときが〉最後だったと言うだけのことですよ」 「……は、はぁ」 「(――いい答えだ)」 何も知らない、何も判らないと如実に語る表情を見て、俺はにっこりと微笑む。 「あとは、アイン殿次第ですね」 「それは、どういうことで――」 「いえいえ、お気になさらず。後で解りますよ」 「(――ハンスは潔白。ユッシの死に絡んでいない)」 そしてアイン側に寝返った形跡も、現在のところはなし。 あとは用心のため、アインがユッシを亡き者にした可能性を考慮しておくべきか。 「ところで、つかぬことをうかがいますが。アイン殿は、髪の長い御仁ですか?」 「はい」 「――ほう、やはりそうでしたか」 ……馬車から見た、あの男。 「どこかでお会いに?」 「えぇ、城門の辺りですれ違った程度ですが」 俺の勘が正しければ、今回の相手は強敵になるだろう。 「……それでは、そろそろご案内いただけますか?」 「はい。では、こちらへ」 午前中は、アインとの《 ・ ・》〈正式〉な初会見で、記念式典についての打ち合わせ。 そして昼過ぎからは、この国一番の宝――《クリスティナ》〈お姫様〉とのご対面となる。 「――さて、お手並み拝見といきましょうか」 ……ワインの護り手や、いかに。 迎賓の間に通すのが何度目かであっても、これが初の会見であれば挨拶も限られてしまう。 「……ようこそ、《 ヴァイス》〈白の〉国へ」 私は横に並ぶデュアと共に椅子から立ち上がり、《 ブリュー》〈青の〉国よりやってきた大使を丁重に出迎える。 「(――やはり……)」 城門ですれ違ったとき、馬車に乗っていた男。 「これは、これは。わざわざのお出迎えを」 ハンスの案内で部屋へと入ってきた彼は、にこやかに笑って両手を広げたあと、軽やかな会釈を寄こす。 そして、タイミングを見計らっていたらしいハンスが、 「こちらが新たに《 ブリュー》〈青の〉国より大使として赴任されました、ヴァレリー・ジャカール殿です」 と、間に入ってくれた。 「ヴァレリー・ジャカールです。以後お見知りおきを」 「アイン・ロンベルクです。そしてこちらが――」 「デュア殿、ですね。もう既に存じあげておりますが、改めまして」 「こちらこそ。デュア・カールステッドです」 相手の表情とは対照的に固いデュアは、少し《ためら》〈躊躇〉いながらも会釈を返す。 ヴァレリーが口にした通り、ふたりはこの場で出会っている。 そのときの状況は伝え聞いたが、良い関係とは言い難い。 「では、挨拶もそこそこで恐縮ですが、ご着席ください。本日の議題である『記念式典』について、お話しをしたいと思います」 「えぇ。雑談よりも、終わらせるべきことを先に……ですね」 意外そうな顔もせず、頷いてみせるヴァレリー。 ……だが、そこには少しばかりトゲがある。 「(――デュアの言うとおり、癖のある男だな)」 それは言葉だけではない。その風貌からして性格の表れ。 にこやかな表情の裏に、《ししょう》〈嗤笑〉が見え隠れしている。 「では、まず記念式典に関して――」 「すでにご存じの内容ばかりだと思いますが、主催国である《ヴァイス》〈白 〉として簡単な説明をさせていただきます」 「どうぞ」 私は彼の承諾を得て確認を始めた。 赤・青の平和協定で誕生したこの白の地を中心とし、三国の『これまでとこれから』を祝う祭典が、この行事にあたる。 執り行われるのは三週間後。 開催前日から当日および後日二日までの期間、白が設置している通行税は全て免除とし、出入国の緩和を図る。 またその際、警備面で問題が起こらないようにとの配慮から、赤・青の両国より人員増強の兵が派遣される《てはず》〈手筈〉。 「あー、アイン殿」 「……なにか?」 「《 ブリュー》〈青の〉国の兵増員数については、書面にてお伝えした通り。現時点では、《カーディナル》〈赤から〉派遣される兵数も変わりありませんね?」 「はい。共に《へだ》〈隔〉てなく同数のままですが」 「もしも全体数に不安があれば、お申し出を。我が《ブリュー》〈青よ〉り多少の増員も可能です」 「いえ、お気持ちだけで」 「そうですか」 下手に受け入れ、逆の国から『あちらがそうならこちらも』……などと、無意味な対抗意識を燃やされては堪らない。 両国に挟まれる小国の《ヴァイス》〈白と〉しては、なるべく問題が起きないようにバランスを保っていくのが最重要なのだ。 「話の腰を追って申し訳ない。続きを」 「はい」 城下の街で華やかな祭りも行われる中、ドルンシュタイン城では両国の来賓を交えた会談や食事会を始め、余興の数々が催される予定。 その中でも三国共同ともいえるのが、演劇『天使の羽ばたき』であり、宮廷のホールにて各国の来賓客を前に披露される。 この『天使の羽ばたき』は、白の初代女王の自伝を基に作成されたモノで、人形技術発展の試行錯誤が語られる内容。 ……よって、このたびの式典には《 ・ ・ ・ ・ ・》〈うってつけ〉の劇であると思われていたが―― 決定後に、懸念される問題が浮上。 それは、当日の記念式典に出席する両国代表のほとんどが、『以前にもこの劇を観た経験がある』ということだった。 告知もさることながら、準備を進めてしまった都合……演目自体の変更は難しい。 そこで今回は、劇の内容の一部とその結末に大胆な展開を加えてみてはどうか?……という案が《 ブリュー》〈青の〉国から挙がった。 「ヴァレリー殿。変更の入った台本の到着は、いつ頃に?」 「先日届いた脚本家からの手紙には、三日後とあります」 「……と、一週間後の予行演習時には間に合いますね」 「えぇ、確実に」 そして《 ブリュー》〈青の〉国が、『自分たちが提案した手前、変更する脚本の用意をさせてもらいたい』と申し出たため、それを受ける運びとなり―― 「変更内容の詳細について、ヴァレリー殿はご存じですか?」 「いえ、残念ながら。ただし、出演者が増えることだけはないとのことです」 その内容には、まだ不明な点が残る結果となった。 「――さて、これであらかたの確認は済みましたが……ヴァレリー殿の方からは何か?」 「そうですね。式典に関しては、これぐらいでしょうか」 特には何も……と首を横に振るヴァレリーは、堅苦しい話は終わりとばかりに襟元を少しゆるめる。 それを見たデュアが一瞬だけ目を細めるも、客人に対して不作法と《いまし》〈諫め〉るような真似はしない。 ここまで同様、一切口を挟まず終わらせるつもりらしい。 「ヴァレリー殿。式典の話は、これまででよろしいですか?」 「いやいや、そうしていただけると非常に助かりますな」 「(――ん?)」 ヴァレリーの砕けた口調に、自然と警戒心が戻ってくる。 「なにぶんまだまだ新任ゆえに、息が詰まるほど緊張しまして」 「ははっ、ご冗談を」 私としては、彼と他愛ない会話をする方が『ずっと』疲れてしまいそうだ。 「おや、信じていただけませんか?」 女性を口説くような声のトーンと絡みつく視線。 予想以上の不快感に襲われるも、 「――では、そういうことに」 どちらともとれる一言ぐらいは投げ返すことはできる。 無論、向こうも戯れの延長という認識はあるため、しつこく引っ張るような真似はしない。 が、次に持ち出された別件は―― 「このたびの、ユッシ殿の急死――お悔やみ申し上げます」 かわしようのない弔辞に始まるモノだった。 「(――きたか)」 私は返礼の言葉は口にせず、軽く会釈をする程度に留める。 実際には階段からの転落が原因での事故死。 ……だが、現場に飲みかけの『ワイン』があったこともあり、故人の名誉を守るために表向きは『急病』という形で内々に処理をした。 この事実を知る者は私とデュア、立ち会った検死官、そしてオズボーン家の人間までに抑えてある。 記念式典を前にしての事故。 それを隠蔽しようとしたことが発覚すれば、それなりの問題にも発展しかねない。 「(――形式的な挨拶のみか、それとも探りを入れてきたのか)」 何を思って発言したのかが判らないうちは、こちらも慎重にならざるを得ない。 さらにこの話題を続けるのであれば……なおさらのこと。 「――しかし、アイン殿。人の死とは分からないものですね」 「えぇ。あまりに急の出来事で、戸惑うばかりでした」 「私がユッシ殿とお会いしたのは、つい一週間ほど前のこと。《 ・ ・ ・ ・ ・》〈あのときに〉、ご一緒したワインが最後になるとは」 何らかの含みがあるのか、『あのときに』が感慨深くも強調される。 「(――デュアが《ふんがい》〈憤慨〉した一件か)」 あの日、もてなしに出されたワインについて《 ひともんちゃく》〈『一悶〉着あった』の報告が届いているのは承知の上……ということか。 「(――それも、デュアやハンスを前に……)」 当然、この場に同席するふたりも話題には気づいている。 デュアは、口元をひくりとさせただけに留まるが―― ハンスの方は明らかに動揺し、ヴァレリーを凝視していた。 こんな危険を冒すからには、それに相応しい『何か』を手に入れようとしているのか? そうでなければ、わざわざ『腫れ物』のハンスを抱えたまま火中に飛び込むような真似もしないはず。 「(――いや)」 ハンス同伴でも『ボロを出さない自信』があっての挑戦か。 ……どちらにしても、こちらが逃げる理由はない。 「――どうかされましたかな、アイン殿?」 「いえ、少し故人のことを思い出しておりまして」 「そうですか。てっきり私が誤解を与えたかと心配しました」 「――誤解?」 「えぇ。先ほど私が口にした『ご一緒したワインが最後になるとは』の言葉……憶えていらっしゃいますか?」 「もちろん」 「あれは、ユッシ殿にとっての『最後のワイン』と言う意味ではありません」 「(――最後のワイン……)」 「私の知るユッシ殿は、《 ・ ・ ・ ・ ・》〈あのときが〉最後になってしまった、と言いたかっただけです」 「(――この男……!)」 何を言いたいか解った。 先日のワイン国外持ち出し云々を蒸し返しているのではない。 ヴァレリーは《 ・ ・》〈最後〉と《 ・ ・ ・》〈ワイン〉をキーワードにし、『ユッシの死因を知っているぞ』とこちらに告げているのだ。 「……そうでしたか」 何処から洩れた? 私とデュアの他に『事故死の事実を知る存在』と言えば――検死官と遺族であるオズボーン家の者ぐらい。 ヴァレリーが検死官をつかまえて尋ねたと考えるよりは、オズボーン家の誰かから……と見る方が妥当だろう。 「(――問題はそれよりも……)」 どこまで知っているか、いうことだ。 「どんな形にしても、人の死とは痛ましいと思いませんか?ヴァレリー殿」 「まったくですな。どんな人間でも、最期は《はかな》〈儚い〉幕切れとなるわけです」 「それでも最期を誰かに看取られたなら、少しは安らぎも……」 せめてもの慈悲は、誰にでも平等に与えられて然るべき。 「ユッシ殿の最期を看取られたのは?」 「残念ながら、臨終に立ち会った者は《 ・ ・ ・ ・ ・》〈居りません〉ので」 これにヴァレリーがどう反応してくるかで……情報の《でどころ》〈出所〉が特定できるかもしれない。 「ほう。そういった意味では、ユッシ殿は『不幸』だったと」 「残された者としては、『故人の苦しみは短かった』ことを信じたいところですね」 「……ですな」 「(――厳しい)」 ヴァレリー自身が何らかの形でユッシの死に関与していれば、『立ち会った者は居ない』と嘘をついた私に反応を見せると思った。 しかし、それはあくまでも相手次第でしかなく、確証にまで繋がらない。 「(――どこまで行っても、現状で真相を知るのは難しい)」 考えれば考えるほど深みへ落ち、疑り出せばキリのない世界。 「(――そう)」 姫君お気に入りのエファですら、ユッシの死に直接関わっている可能性も否めなくなるのだ。 「――少しお話があるのですが……」 わたくしは意を決し、定期調律を終えて椅子で休むエファに声をかける。 「はい、なんでしょうか?」 ユッシの不幸な事故から日が経つことで、少しずつエファの精神状態も安定してきたと思う。 あの嵐の夜、部屋のドアをノックしたエファは、 「『アインを……アインを呼んでください』」 と訴えるのみで、身体の動きもぎこちなかった。 一体どうしたのか?……と尋ねても、エファは首を横に振るばかりでわたくしを心配させたが、後にそれは階下に倒れたユッシの姿を見せまいとしてのことと判った。 「実は、折り入ってエファに尋ねたいことがあります」 「……はい。それは、もしかしてユッシ殿のことでしょうか?」 「そうです。察しが良いのですね」 「――姫様のお考えは、それとなく分かってしまいます」 「あら、どうして?」 「……うまく言えないのですが、何となく……」 「それは、わたくしが隠し事が苦手だからでしょうね」 「――それでしたら私も同じです」 「うふふ。似た者同士ですね」 昔から家臣の者に次の行動を悟られることが多かったのを思い出し、ひとり笑ってしまう。 きっと自分では気づかないうちに、身振りや態度に表しているのだろう。 「それで、姫様は何をお訊きになりたいのでしょうか?」 「――その、あの日……」 自分から言い出しておきながら、いざとなるとなかなか。 それを見かねたのかエファは、 「ご安心ください。私は、何を尋ねられても平気です」 そっとわたくしの手を握ってくれた。 「ありがとう。では、気を悪くしないで聞いてください」 「はい」 大体の経緯は調律の最中に聴き、残すは最後の出来事のみ。 直接、記憶の《 ドロップ》〈人形〉石を覗くこともできるが、それは調律者としてあまり感心できない。 「あの日エファを追いかけていたユッシは階段付近で落雷に驚き、足を踏み外して……落ちたのですね?」 「……そうです。少なくとも、私にはそう見えました」 「そのとき、エファは……だいぶ離れた位置に?」 「はい。私は二階の踊り場に隠れておりました」 「――そうでしたか」 「すみません。私がもっと早く事故のことをお伝えできれば、もしかしたらユッシ殿も……」 「いいえ。いまはもう誰にも分かりませんし、到底間に合ったとも思えません」 「――それよりもわたくしは、エファに謝らなければ」 「なにを……ですか?」 「知らなかったとはいえ、ユッシがあなたを――」 いくら自国の城内とはいえ、ゲストであるエファを追い回すなど許される行為ではなく、《かば》〈庇〉い《だ》〈立〉てのしようもない。 赤の国から正式な抗議の声が挙がれば、国家の代表としてそれ相応の謝罪も必要となってくる。 「いいえ、気になさらないでください」 エファは慌てて首を横に振り、わたくしの両手を握りしめる。 「いま考えてみれば、ユッシ殿は少し酔われていたせいで、私に何かを話したかっただけだと思います」 「逆に私が訊かれたことを答えていれば、あんなことには……」 「何を尋ねられたのですか?」 「その……ワインの瓶や、ココの秘密などを……」 「(――ワインの瓶?それに、ココの秘密?)」 「ワインについては何も分かりませんし、ココの秘密は――」 「ココの秘密はココだけのもので、私が明かすのは筋違いかと思い……話しませんでした」 「そうです。無理強いされて話すようなことではありません」 わたくしが同意すると、彼女は嬉しそうに笑って白い羽根を上下させる。 故人を悪くいうのには抵抗があるが、このたびの件の非はユッシにしかない。 「……それに、ユッシ殿がどうして『ココの好き嫌い』などを知りたいのか、私には理解できませんでしたので」 「ココの好き嫌い、ですか」 「はい。ココは、ピーマンとニンジンが苦手なのです」 「まぁ、そうでしたの!どうりで」 食事のとき、ココのお皿のピーマンとニンジンが残っていた謎が解けて、わたくしはスッキリ。 でも、代わりにエファが暗い表情になってしまったのが気になる。 「エファ、どうしたのですか?」 「そ、その……姫様」 「はい?」 「私、いま、ココの秘密を……うっかり……」 「…………」 「姫様に明かして……しまいました」 「あ、あぁ……」 わたくしもうっかり、尋ねるような受け答えをして―― 「――エファ。人間、誰にでも失敗はあります」 「――私は、人形ですが……」 「同じですよ、わたくしもあなたも。これはふたりの失敗」 「…………」 「だから、このことは……ふたりの内緒にしましょ?」 「えっ?」 「嘘をつく必要はありません。ただ、いまの話は……なかったことにしておきましょう」 「――それは……」 「あとは優しく、ココが苦手な食べ物たちを克服できるよう導いてあげましょう。そうすれば――」 「秘密にする必要もなくなり、わたくしたちふたりの失敗も……なかったことになりますよ」 そう。わたくしがエファと初めて会った……あのときと同じ。 エファは忘れてしまったかもしれないけれど、わたくしはしっかり憶えている。 「いいのですか、それで?」 「えぇ。わたくしが良いと決めたのですから、それで……などと言ったら、アインに叱られてしまいそうですわね」 「そうですね」 ふたりはどちらからともなくクスクスと笑い、お互い相手の唇にそっと人差し指をあてがう。 「いいですか、これはふたりの――」 「……内緒、ですよね?姫様」 「(――ほう。クリスティナ姫は、噂以上に美しいな)」 ユッシの国葬で見かけたときには遠目だったこともあって、髪の長さぐらいしか印象になかったが、実際に面と向かえばなかなかの美形。 ……ま、女の外見などはどうでもいい。 特にこの姫の《 ・ ・》〈価値〉は、そんなところにはないのだから。 「お目にかかれて光栄であります、クリスティナ姫」 「私の名はヴァレリー・ジャカール。《 ブリュー》〈青の〉国より新規赴任した大使であります。以後、お見知りおきを願います」 「初めまして、ヴァレリー殿。こうしてお会いできること、楽しみにしておりました」 「ありがたきお言葉、痛み入ります」 お互いの前口上も終わり、俺はゆっくりと頭を上げる。 「それでは、さっそくですが……《 ブリュー》〈青の〉国よりのお届け物についてです」 「――今回の記念式典につき、赤の国よりはエファが。そして、《 ブリュー》〈青の〉国よりは『天使の羽ばたき』の新しい台本を……というお約束でしたが」 「――その台本の改訂が遅れており、持参すること叶いませんでした」 「それでは今回の記念式典の演目、古い台本の内容のままで上演することになりそうですか?」 そうなると、この俺が非常に困る。 「いえ、そう結論をお急ぎになられずに。先日書簡にて連絡が入り、あと三日ほど後にこちらへ届くとのこと」 「クリスティナ姫には誠に申し訳ありませんが、いましばらくお待ちいただければ、と」 「……新しい台本、どの程度の改訂なのでしょう?」 「――もしも大幅な変更があれば、練習にも時間がかかり、式典に間に合わなくなるかもしれません」 「改訂部分は、後半――天使の役が入れ替わったあとからになります」 「……ココの演じる天使の卵に影響はない、と言うのですね?」 「仰せの通りです」 そんなところまで直させる必要はない。 不慮の事故で劇の進行自体が止まるようでは、計画に支障が出てしまう。 「……分かりました。では新しい台本が到着次第、わたくしの元に届くよう手配をお願いします」 「畏まりました。それでは、私はこれにて」 挨拶と報告を終わらせた俺は、そのまま下がろうとする。 が、クリスティナ姫は何を思ったのか、 「お待ちなさい、ヴァレリー殿」 と声をかけてきた。 「……なんでございましょうか?」 「ひとつ、ココのことで尋ねたいことがあります」 「(――ココだと?)」 一瞬、背筋に嫌なものを感じる。 「ヴァレリー殿は、あの子を造られた技師について、何かご存じではありませんか?」 「……私は老齢の女性技師であったことしか知りませんが、あのココに何か問題でも?」 「いえ、ココに問題はありません。あくまで、わたくし個人の興味で尋ねました」 「そうでしたか。大使でありながら人形に関する勉強不足、お許しください」 「気にされる必要はありません」 「(――やれやれ)」 俺は改めて退室の挨拶をし、謁見の間を離れる。 台本にしても、ココにしても。 記念式典に合わせ、クリスティナ姫のために用意したモノだ。 ココを造った技師も、まさか自分の人形が舞台にあがるとは思いもしなかっただろう。 「……全てが終わった暁には、花のひとつでも墓に届けよう」 あなたが造られた人形のおかげで、三国がひとつにまとまる機会を得た、との伝言つきで。 「……ふっふっふ……」 きれいごとなど、それなりの布石さえ打っておけば、あとでいくらでも書き加えることができる。 ……多少、誰かの血が流れようとも。 我ら《 ブリュー》〈青の〉国がすべてを《 す》〈統〉べるような結果になり、しばらくは遺恨も残るだろう。 が、それも10年、20年と経てば次第に治まり、50年も経てば『過去の出来事』でしかなくなる。 民にとって一世代前の見たこともない歴史よりも、明日の生活――『いまの暮らしをどうするか?』の方が大切。 これは大昔からの戦乱を乗り越え、着実に国土を広げていき、赤の国にも匹敵するだけの領地を手に入れてきた青の歴史が物語っている。 世の中とは、常に正道に沿って流れるもの。 そして、そのための布石は自然とできあがる。 青と赤の要になる《 ヴァイス》〈白の〉国を切り崩すための因子など、黙っていてもこの俺の元へと寄って―― 「ヴァレリー殿!」 「おぉ、ハンス殿ですか」 ……噂をすれば、なんとやら。 廊下の角を曲がったところで、ハンスが声をかけてきた。 相変わらずの臆病さからか、周囲をやたらと気にしている。 「クリスティナ姫との会見、いかがでしたか?」 「……えぇ。拝顔もご挨拶もお話も、全て滞りなく」 「そうでしたか。では、台本の件も……」 「了承がいただけました。予定通り、三日後にハンス殿のお手元からクリスティナ姫の元へ」 改訂された台本は、記念式典リハーサルの上演までに練習できるであろうギリギリのタイミングで渡す必要がある。 内容に疑問を持たれるような時間は、極力与えないように。 そうすることでイレギュラーの可能性を下げ、我ら《 ブリュー》〈青の〉国が用意した進行に合わせた劇を披露していただくのだ。 「では、そろそろハンス殿にもワインの出荷時期をお知らせしましょうか」 「……えっ?それは式典の……」 「式典のリハーサル――『天使の羽ばたき』の直後、です」 「……式典の本番ではなく、ですか!?」 「昔から言うではありませんか。『善は急げ』とね」 「(――すまないな、ハンス。元々、リハーサルこそが……)」 我々の《 ・ ・》〈本番〉……という計画だったのだよ。 「……姫君が、我々を《ばんさん》〈晩餐〉に?」 「そうです、アイン殿」 私は驚いているアイン殿を久しぶりに見て、思わず内心で微笑んでしまった。 国家の仕事に忠実な我が上司は、いつも賢く聡明で、あまり崩した面を見せようとしない。 上に立つ者としては当然なのだが、万事がこの調子では息が詰まる。 「(――だから、たまには……)」 「なにか、私の顔についているのか?」 「い、いえ」 「そうか」 「(――もしかして私は、ニヤニヤしてしまったのか?)」 ……しかし、それを確認しようもない。 「それでアイン殿。姫のお誘いですが、いかがされますか?」 「……うーむ」 そう呟いてうつむき加減に眺められた机の上には、山とまで行かないにしても《 ・ ・ ・ ・》〈そこそこ〉の書類が溜まっている。 いつものこととはいえ、それらを片付けるまでは離れる気になれないだろうか。 「すでに準備が整っているのか?」 「はい。少なくとも、人数に合わせた料理は運び込まれるかと思いますが」 「――そうか」 ここで『お断りになりますか?』などと訊き、肯定されてはかなわない。 よって、下手なことは口にせず、ただ黙って待ってみる。 「それで、デュアも同席なのか」 「はい。もしも邪魔であれば、自分は辞退して――」 「誰もそのようなことを言ってない。憎まれ口は叩くな」 「――申し訳ありません」 それならば、同席の確認などしないで欲しい。 「分かった。あと一枚だけ書類に目を通したら行こう」 「本当ですか?」 「誘いに来ておいて、何故不服な顔をする?」 「いえ、私が疑っているのは……その……書類が一枚で終わるのかどうか、です」 「信頼されてないのだな」 「滅相もありません。ただ、残務に関しては――」 これまでだって、約束した時間に執務室の灯りが消えた試しがない。 「よし、分かった。廊下で待っていろ。すぐに行く!」 「は、はい」 まるで朝一のような身のこなしで机に座り、書類を手に取るアイン殿。 その目が文字を辿り始めると、執務室の空気が変わったようにも思えた。 「――何を見ている?廊下で待っていろと命じたはずだ」 「失礼しました」 私はひとにらみに耐えられず、すぐさま部屋を出る。 「(――ときどき、何を考えておられるか解らなくなる)」 そして、ほんの数分もしないうちにドアが開き、アイン殿が廊下に姿を現した。 「……どうした?そんなに珍しいモノを見る目で」 「いっ、いえ。その、上着は……?」 「ん?置いてきたが」 アイン殿がジュストコールを脱いだ姿を見るのは、これまで指折り数える程度。 今日は、本当に珍しいことが続く。 「――本来ならば着ていくべきだが……いま、裾口にインクをこぼしてしまってな」 「…………」 もしかして、私が焦らせたせいで? 「(――悪いことをしてしまったかな……)」 「それでも、デュアが『着ていけ』というなら――」 「う、あ、その……どうなのでしょう?さすがに事情が事情なので、お許しになられるかと」 「(――ん、待て。そうすると、この服装は……)」 現在、私自身も正装とは言い難い格好になっている。 「アイン殿。私の服装は……」 「ん?いつもながら、似合っているぞ」 「こっ、これはいつもの服とは違います!」 「何を怒っている?」 「怒ってなどおりません。ただ、アイン殿が――」 似合っている……と褒めてくれたまではいいが、服装が違うことに気づかないのはどうかと。 「……?」 「――何でもありません。さぁ、行きましょう」 この御仁は、どこか普通の男性とずれている。 私の部下には無骨者が多いが、それでも少しは気を利かせてくれる……はず。 「(――まぁ、いい)」 別段、女らしい格好をしているわけでもないのだから、期待する方が悪いのだ。 「(――期待?何を期待するのだ、何を)」 私は馬鹿な考えを打ち消し、食堂へと向かって歩き出す。 「待て待て。もう少しゆっくり歩かないか?」 「いいえ。これ以上、姫をお待たせするわけにもいきません」 「……そうだな」 横に追いついたアイン殿は、私よりもやや前に。 何となくそれが悔しくて、思わず一歩先へ。 ……と、急にアイン殿が目配せをして、 「歩きながらでいい。聴いてもらいたいことがある」 と言う。 「なんでしょうか?」 「今日の午前のヴァレリーとの会談。デュアはどう見る?」 「(――いきなりそんな重要そうな話を……こんなときに)」 多少ムッとしながらも、すぐさま国事に気持ちを切り替える。 「ユッシ殿の話についてですね?」 「そうだ。ヴァレリーは、どこまで掴んでいると思う?」 「……あくまで自分の勘ですが、病死とは思っていないかと」 あのときの口ぶりからは、こちらに探りを入れるかのような印象を受けた。 「何処からか情報が洩れているのは、確かだな」 「本当ですか!?ユッシ殿の死因を知るのは――」 「まぁ、この場でみなまで言う必要もない。ただし、この先はこれまで以上に慎重にならねばな」 「……はい」 「話はそれだけだ。さ、食堂に着いたぞ」 そう言われた私はアイン殿より先にドアの前に立ち、呼吸を落ち着けてからノックをする。 「失礼します。アイン殿をお連れしました」 「……お入りなさい」 そのお許しを合図に気持ちを正し、アイン殿の後ろに続いて部屋に入るつもりで振り返ろうとした。 ――が、が? 「さぁ。どうぞお先に」 横から伸びた腕がドアノブを掴み、もうひとつの腕がそっと私の背中を押しているではないか! 「そっ、あ、アイン殿?」 「姫君の前で、はしたない声を上げるな」 「…………あ、う……」 「(――人を驚かせておいて、何をいまさら……)」 それでも、エスコートされるのは悪い気がしない。 「いいか、デュア。上司たるこの私に恥をかかせるなよ」 口調も表情も軟らかい。……それなのに、その言葉には強制力がある。 「(――まったく、この御仁は……)」 人を喜ばせておいて、何をいまさら…… 「あー、デュアー」 部屋に入って最初の出迎えは、ココ。 続いてエファが軽くお辞儀をし、最後に姫がにっこりと笑う。 「これは、その……」 私がアイン殿を迎えに行こうと部屋を出たときは、人形たちふたりは居なかったはずだが―― 「今日は、みんなで一緒にお食事をしようと思いまして」 「ごはーん、ごはーん」 「ほら、ココ。姫様と静かに待ちましょ。……いい?」 「あいー」 よく考えてみれば、姫は人形といつも食事を共にしている。 我々が誘われた側であれば、相席は当然となるわけだ。 「さ、ふたりとも席に着いて。アインとデュア、あなたたちも」 「は……はい」 一応の礼儀作法は知っているつもりだが、それはあくまでカールステッド家の中でのモノ。 それがこの場に適応するのかどうか、全く分からない。 「――姫君。お席に」 いつの間にかアイン殿は姫の近くに寄って、恭しく椅子を引いている。 「(――しまった)」 普段の側仕えを考えれば、自分がすべきことをとられた。 「アイン殿。それは自分が――」 「……姫君が座られるまでは、その場を動くな」 「まぁ、アイン。いつもながら厳しいのですね」 「(――くっ……)」 姫の言葉に微笑むアイン殿を見ていると、何故か無性に腹が立ってきた。 「(――これではまるで、私が何も知らない田舎者で……)」 「――さぁ、デュア。どうぞ」 またまた気づかないうちに私の側へと戻っていたアイン殿は、先の姫のときと同じように椅子を後ろへ。 「……あ……はい……」 完全にペースを奪われた私は、もう逆らう気力も失せて席に腰掛けるしかなかった。 「あのね、あのね」 「どうした、ココ?」 給仕の運んできた料理をアイン殿が切り盛りをする風景。 ……途中で自分が替わろうかとも思ったが、ここはもう諦め、一から十まで任せてしまうことにした。 「デュアは、なにが、すきー?」 「……食べ物か?」 姫の前とはいえ、ココ相手に丁寧な言葉を選ぶのもどうかと思い、普通に喋る私。 「うんうん!」 「うーん」 目に入ったのは、ちょうど正面に座るココがスプーンですくい上げたモノだった。 「――ポテトは好きかな」 「おー、ポテート。おいしいよ、ねー」 「そうだな」 ココは同意を得られたのが相当嬉しかったらしく、ニコニコしながらスプーンのポテトを口に運ぶ。 「お皿から取れないときには、声をかけるのですよ?」 「あーい」 姫は自らの食事を進めるよりも、ココの世話役に忙しい。 そして、おいしそうにココが食べる姿を見ては、満足そうに目を細めて笑う。 「(――姫は、お優しい方だ……)」 生まれながらにして人形調律師になる運命のドルン一族。 先代国王も気立ての良い方で、我が父も仕えるに相応しいと口癖のように言っていたのを思い出す。 「(――それを聞いて育った私も、いまでは姫に仕える身)」 本来ならば、このようなところに居られない私なれど――横に座るアイン殿の計らいもあり、こうしていま護衛隊長を務めている。 ……が、それはそれ、これはこれ。 父が要職だった経歴や、姫の後見人たる人物の推薦だけでこの位置に居続けるつもりはない。 「(――私は、私の力で……)」 自分が授かったこの護衛という仕事を続けていく。 姫のため、国のため、この身がどうなろうとも―― 「デュア、手が止まっているぞ」 「…………ご忠告、感謝します」 私にはお世話役など必要ないはずなのに、今日に限って特別厳しい《 ・ ・》〈お方〉がついてくれたようだ。 「さぁ、デュア。食べたい物を」 「いえ、自分はそれほど――」 「余らせるようなことはできないぞ」 確かに、それには同意する。しかし―― 「……でしたら、アイン殿がお食べになってください。先ほどからほとんど手をつけてないではありませんか」 人に勧める前に、まずはご自分が手本を見せるべきだと思う。 「……ならば、ふたり均等にいこう」 「いや、お待ちください。これでも自分は女なので――」 「普段から男女差を嫌うオマエが何を言うか」 「それとこれとは……あぁぁ、そんなに盛られたら……」 容赦なく均等分配された料理は、まるで鏡に映ったかのよう。 「……残すなよ、デュア。その分、この私が食べることになるのだから」 「それは命令でしょうか?」 「お願いだ」 「(――ひ、卑怯すぎる……)」 姫を前にそのような言葉を使われてしまっては、断ろうにも断れないではないか! 「うふふふっ」 「――も、申し訳ありません。マナーもわきまえず騒ぎ立ててしまい……」 「よいのですよ、デュア。せっかくこれだけ揃ったのですから、楽しい《ばんさん》〈晩餐〉を。……ねっ?」 「…………はい」 私はお言葉に甘え、肩の力を抜いて皿の料理に手をつける。 「(――本当に、久しぶりだ)」 ……こんな気分で食事をするのは。 「あのね、あのね、アインー」 「なにかな、ココ?」 「おひるにね、ボク、ほめられたのー」 「演劇の練習で……かな?」 「アタリ!すごいね、すごいね。どーして、わかったのー?」 「……内緒だ」 随分ともったいを付けているが、私は事実を知っている。 お昼過ぎ、アイン殿が執務室の窓から中庭を眺めていたのを。 「うわーっ。みんな、ないしょ、おおいよ、ねー」 「ほら、ココ。手が止まってますよ?」 姫の的確な指摘。 ココは口を大きく口を開き、スプーンを口へ運ぶ。 「あ、そっか。はやくたべないと、おなかへっちゃうもん」 「(――んんっ!そういう問題か?)」 口の中に物が入っているときは、あまり笑わせないで欲しい。 「エファも、たべないとダメー」 「うん。ちゃんと食べるから大丈夫よ」 そうは言うものの、エファはほとんど口にしていない。 人形に詳しくない私が心配するようなことではないかもしれないが―― 「もしかして、体調がすぐれないとか?」 それでも、気にはなって尋ねてしまう。 「い、いえ。そうではなくて――」 「……ずっと昔、勧められるままに食事をしてしまい、大変な思いをしたことがありまして」 「エファのおなか、パンパン?」 「うん、そんな感じになったの。……なので、少しずつ、ゆっくり食べます」 「そうだったのか」 「はい。心配してくださって、ありがとうございます」 「あ、いや……まぁ……」 考えてみれば、エファとはあまり喋ったことがなかった。面と向かって話すのは、これが初めてかもしれない。 「(――それにしても……)」 初めて会った頃に比べて、優しい顔つきになった気がする。 ココのインパクトが強かったせいもあるが、エファにはどことなく日陰の花……といったイメージがあった。 それがいまこの食卓で、ほんの少し言葉を交わしただけでも……違いが判る。 「(――姫のおかげ、か)」 いや、それだけではない。ココの影響も多大にあるはず。 そして―― 「(――姫も、エファやココのおかげで明るくなられた)」 私たち家臣がどれだけ頑張っても、調律という分野には手が出せない。 そこに立ち入ることができるのは、その施術を受ける側――人形となる。 とすれば、いまこうして二体の人形の世話をする姫は……良き理解者を手に入れたことになるのではないだろうか? 「デュア、てが、とまってるぞー」 「はっ、はい、申し訳あ――と、ココ!?」 似ても似つかない口調なのに、思わず引っ張られてしまい、声まで裏返ってしまった。 「アインに、にてたー?」 「…………似てない……」 本人を前に、断固否定。 穴があったら入りたい気分で一杯になった私は、おとなしくしていることにした。 「――はい。《いたずら》〈悪戯〉はそこまでですよ、ココ」 「えーっ?まねっこ、ダメー?」 「それよりもね、ココ。ニンジンはどうしますか?」 「えーっ」 それまで元気だったココの動きがピタリと止まる。 「(――ん?)」 ニンジンに何かあるのだろうか? 「目の前のお皿にある分は、きちんと食べましょうね」 「……ううぅぅ。エファ、おうえん、してくれる?」 「うん。がんばって、ココ」 「……が、がんばり、ます」 流れからして、ココはニンジン嫌いのようだ。 「ううぅぅ。スプーンに、とりました。……おしまい」 「がんばるって約束したよね、ココ?」 「うぅぅぅ。たべたら、いいこと、あるのかなぁ?」 「……よろしい。きちんと食べたなら、私が何かひとつだけお願いを聞いてあげよう」 「……ア、アイン殿!?」 まさか、いきなりそんな条件を持ち出すとは。 「ココのお願いなら、大したものにはならないさ」 こうして―― 姫が、エファが、私が、そしてアイン殿までがココの動きを見つめる食卓が生まれた。 「……あんまり、みない、でー」 恥ずかしそうに、ココは頭をフルフルさせる。 「デュア、みてるー?」 「ん?見てないぞ」 言葉通り、少しそっぽを向く私。 「アイン、はー?」 「……見ないように努力しよう」 「ヒメサマー?」 「わたくしは、ココがスプーンを落とさないように」 「エファ、はー?」 「…………うん。ちょっとだけ、ね?」 ……私以外、誰も『見ない』とは断言せずに言葉を濁すのか。 「うぅぅぅ、た、たべます」 ココは、がんばってニンジンを口元に運ぼうとしている。 「(――せめて私ぐらい、約束は守るか)」 軽く目を閉じ、結果は耳を頼りに知る道を選ぶ。 「……どう、ココ?」 「うぅぅぅ……まだまだ、ニガテ、です……」 「(――ダメだったのか……)」 「また今度、がんばろうね」 「う、うん。でも、ちょこっと、たべられました」 「(――ちょこっと、か)」 こういう場合の判定は、アイン殿がすることになるのか? 「どうですか、アイン。あなたの目から見て、合格ですか?」 「努力を認める、ということでしたら」 「……えーっ!?じゃあ、おねがい、いいのー?」 「――あぁ」 「(――今宵のアイン殿は、懐が広いようですね)」 私もココがどんなお願いをするか、少し興味があったので、期待を裏切られずに済んだ。 「えっと、えっと……しつもん、いいですかー?」 「どうぞ」 「アインは……デュア、すきー?」 「なっ、なんてことを訊いて――」 「もちろん」 「ア、ア、アイン殿まで、なにをいうのですか!?」 「では、嫌われている方が良かったか?」 「そういう意味ではなくて!」 「ならば、好き……で良いではないか」 「…………」 「デュアのことを嫌う者は、そうそう居ないと思うが」 「ボク、デュア、すきー。エファ、はー?」 「…………えぇ、好きよ」 「(――エファ……)」 私のことが苦手ではなかったのか? それとも、場の空気で嘘をついて―― 「よかったですね、デュア。……言うまでもありませんが、わたくしもデュアのこと……好きですよ」 「……は、はい。ありがとうございます」 ――どうして、こんなことになったのか。 私はうつむいて考えるも、頭の中はグルグル回るばかり。 それでも、ただひとつだけ判ったことがある。 それは、しばらく顔を上げられないだろう……ということ。 「(――赤いのは、私の服だけで充分だ……)」 「……もう、引き返すことはできないのか」 ポケットから人形石を取り出して見るたびに、心臓の鼓動が早くなる。 初めてこの貴石の使い方を知ったとき、自分は恐怖を覚えたはずなのに。 「『理論的には、人間を遙かに上回る力を秘めています。近い将来、軍事にも可能性が見えてくるかもしれません』」 「『軍事利用?』」 「『――人間ではないだけに……』」 「(――人ではない……)」 人に似せて造られ、人と同じように振る舞い、人の社会に溶け込んで、人ができないことを容易にやってのける。 一見すれば便利だが、その裏にある危険性を無視するのか。 先代国王の前で披露された実験に立ち会ったときに、自分はそれを強く懸念したではないか。 「『……技師の方々は、それを本気で考えているのですか?』」 「『我々も考えておりました……と、お答えすべきでしょうか』」 「『えっ?』」 「『実は、これは我々技師の机上の空論。――はっきり言えば、コストに見合わないのですよ』」 「『……たとえあのような《 デク》〈木偶〉人形クラスで使う貴石だけでも、家一軒が建ってしまう額』」 「『それほどの代償が必要となれば、そうそう使い捨てにはできないわけです』」 「『……そうでしたか』」 城壁を乗り越えてまで鳩を追いかけようとした人形。 ユッシ殿が人形を毛嫌いしだしたのは、あの実験のあとからではなかっただろうか? 「……ふふっ」 おかしい。何かがおかしい。 「……何故、何故、自分がこんな石を持っている?」 自分は、これから起こることが判らないほど馬鹿ではない。 これから、自分が引き起こすことが何であるかなど―― 「――もう、引き返せない」 何度も、何度も、何度自問自答しても、答えは変えられない。 ――自分はもう、二年前の自分ではないのだから。 「アーイーンー」 「……どうぞ、開いているよ」 「はいり、まーす」 ココが部屋のドアを開けて、ちょっとだけ覗かせてこちらを見ている。 「どうした、ココ。入ってこないのかい?」 「えへへっ」 「どうぞ」 私は笑って椅子から立ち上がり、 「おはよう、ございます」 と改めて挨拶をするココを出迎えた。 「おはよう。今日は、一体何の用かな?」 「きょうも、おてつだいにきまし、たー」 この前はブラシを持ってきて、じゅうたんの掃除を。 その前は、両手に雑巾を持って窓の掃除をしてくれた。 「(――じゅうたんは半分、窓は下一列……だったがな)」 「それで、今日のお手伝いとは?」 「ボクも、しょるい、みます」 「……ん?」 「デュアが、いってました。アインは、しょるい、みるのキライって」 「だからー、ボクがいっしょに、みます」 「…………そうすると、どうなるのかな?」 「そうしたら、アインも、ラクになるでしょ?」 何が楽になるかは疑問だが、少しは気分も変わるだろうか? 「では、こちらへどうぞ」 「あーい」 ココは招かれたのがよほど嬉しかったらしく、パタパタと机の横まで走ってくる。 そして私の前で軽くピョンと跳ね、両足揃えで着地した。 「……はい、つきました」 「両手を挙げて」 「あい?」 「持ち上げるから、暴れないように」 「わあぁー」 私は、自分の横にある予備の椅子へとココをおろし、 「そこから、机の上は見えるかな?」 と尋ねてみる。 「うーん。ちょこっとだけ」 「背中のネジ巻きは、背もたれにぶつからないかい?」 「へいきー」 問題なさそうなのを確認してから、いつもの作業に戻る。 多少視線が気になっても、いまこの場にある書類はそれほど神経を尖らせて見るモノでもない。 ゆっくりと一枚一枚目を通し、数字にミスがないかどうかをチェックしていく。 「これ、なんです、かー?」 「これは食料庫からの報告。そろそろポテトの補充を……とのことだ」 「おー、ポテート。ボク、しってるー」 得意げなココは、 「そっちはー?」 と、さらに別の書類を指差す。 「それは、ポテトの収穫と、《タネイモ》〈種芋〉についての報告」 「たねいもー?」 「ポテトも食べるばかりではなくなってしまう。収穫したあとで、一部はまた土に埋めるのだよ」 保存性の高い食料として年々需要が増える中、生産体勢も追いつかせなければならない。 できれば、食料は国内の自給自足を目標にしたい。 輸入に頼る傾向が強くなれば、それだけ外交も厳しくなる。 「ポテート、かくしちゃうの?」 「隠しておく、というか……増やすために植えるのだよ」 「うえると、ふえるの?」 「その通り」 「どれぐらいー?」 「四、五倍……といって解るかな?」 「…………わかりませーん」 「そうか。では、これがポテトだとしよう」 私は右手を握って、左の人差し指でトントンと叩く。 「土に埋め、次に見つけるまでには《つる》〈蔓〉が生えて――」 右手の指を一本ずつ順番に立てて、 「この指の数ぐらい、ポテトが増えている」 と説明する。 「えっと、えっと。いーち、にーい――」 ココも真似をして指を立てていき、広がった手のひらを見て首を傾げた。 「これで、5コー?」 「そう。種芋が二個なら約十個。三個ならざっと十五個になる」 「うぅぅぅ。10までしか、わかりま、せん」 「ふふふっ、そうか。今度その先を教えてあげよう。……さて。そろそろ、次の書類に移ってもいいかな?」 「あーい」 私は順々に書類を片付けつつ、ときおり隣に目を向ける。 そのたびにココもこちらを見てくれるが、段々とその眉が困った形に変わっていくのが分かった。 「……あまり楽しくないだろう?」 「んー、なにをおてつだいすれば、いいの?」 確かに、横で見ているだけでは手伝いにはならない。 「……では、こうやって揃えてくれると助かる」 見終わった書類を両手で束ね、横、縦の順で机にトントンと落としてみせる。 多少は紙の大きさにばらつきがあっても、これで《 ・ ・ ・ ・》〈そこそこ〉に揃えられるのだ。 「……できるかな?」 「がんばり、ます。えっと、えっと……」 ――トントン、トントン。 室内に、ココのお手伝いをする音が響く。 「そう、それでいい。五枚たまったら、お願いしようか」 「あーい」 こうして仕事を与えてからは、思いのほか作業は順調。 私の方もココをあまり待たせないようにと意識し、普段よりいいペースで確認が進む。 そして、最後の一枚を渡したとき。 「これ、なーにー?」 ココが手にした書類――輸出に関する契約書を掲げて見せた。 『――輸出入品搬送の納期および賃金支払いの契約書――』 それは先の種芋の件とは違って、ココには説明しづらい内容。 私は、できるだけ簡潔に《ブリュー》〈青と〉の貿易についてを話し、 「……取引の際の約束を守ります、という証だ」 そう最後を結んでココの反応を見る。 が、やはり前置きが長かったせいか、首を傾げられてしまう。 「……むずかしい、ね」 「……そんなことはない。たとえば、ココにできることを約束すればいい」 契約の《たぐい》〈類の〉意味を教えるには、実演するのが一番早い。 そう考えた私は、仕事の休憩代わりにと紙を一枚取り出し、『《 ア イ ン》〈Ein〉がペンを持っているときは、この机から少し離れ、ひとりで遊びます』と書いて、ココに見せる。 「どうかな?これにココが約束できるかどうか、だよ」 「あいあい。やくそく、できます」 ココは大きく二度頷いたあと、急に目を丸くしたかと思うと窓際のカーテンまで駆け寄り、その裏に隠れてしまう。 「どうしたんだ、ココ?」 「ペンもってるから、ボク、はなれます」 「……はははっ、失礼。それは気づかなかった」 人間の子どもと同じように、思いついたらまず行動。 それもまた、ココを可愛いと思える要因のひとつなのだろう。 「……この書類にサインしてみるかい?」 「えーっ、いいのー?」 「あぁ、構わないよ」 「でもね、でもね。ボク……もじ、かけま、せん」 「では、教えてあげよう。名前はココだから――」 ココを呼び戻して椅子に座らせ、別の紙に『Coco』と書いてみせる。 そして、ペンを渡してその下を指差し、 「さぁ、真似てごらん」 練習を勧めてみた。 「うんうん!ボクのなまえ、コーコ」 握ったペンで何度か名前を書くうちに、次第にそれらしく読めるところまで筆跡が安定。 頃合いを見計らい、本番の契約書にサインをさせる。 「……よし、ちゃんと書けたようだな。それでは、お手伝いの報酬も兼ねて」 約束を守ってもらうからには、それなりの代価を。そうでなければ、『契約』にはならない。 私は机の引き出しを開けて、あらかじめココのために用意しておいたお菓子の箱を取り出す。 「ご苦労。中身は五つしかないが、これを」 「……あー!マカロン、いっぱいー」 慎重に箱を開けたココは、大喜び。 その笑顔を見ると、こちらも幸せな気分になってくる。 「ありがとう、ありがとう。たべても、いいです、かー?」 「どうぞ。ただし、食べ過ぎないように」 「あーい!」 ココは丸いマカロンを大きな口に入れ、満足そうに食べる。 そして、次のマカロンを口に運ぶかと思いきや―― 「ごくろー、う」 何故か、私の方にそれを差し出す。 「それは、私に対する仕事の報酬かね?」 「あい。いつも、ごくろーさま」 「(――ふふふっ。ココにねぎらわれるとは)」 私は気持ち良くそれを受け取り、ココを真似て口元へと運ぶ。 「おいし、い?」 「あぁ、とてもな」 もしこの場にデュアがやってきたら、どんなことになるか。 きっと、『仕事中に……』などと怒り出す前に―― 「(――ココからマカロンを渡され、私たちの仲間入りだろうな)」 「いそがな、きゃー」 たいへん、遅刻しちゃう! 「ヒメサマのおへや、ヒメサマのおへや」 約束の時間まで、あとちょっと。 「『十時になったら、わたくしの部屋まで来てくださいね』」 ――昨日、そう言われたのに。 ボク、アインのお手伝いしてて、忘れてた。 「もうすこし、もうすこしー」 あの角を曲がって、ふたつ目のドアがヒメサマのお部屋。 早く行って、劇の練習始めないと。 「(――そうそう、そのまえにー)」 お手伝いでもらったマカロン、ヒメサマに見せなくちゃ。 この箱に、あと3コ入ってるんだもんねー。 最初は5コあったけど、ボクが1コ、アインが1コで―― 「あわーっ!?」 お菓子のこと考えてたら、思いっきりズルベサドサーッって転んじゃった。 「うーっ」 おなかとか、おひざとか、ちょっと痛いけど平気。 ボク、頑丈だもん。 ……だけど、だけど―― 「……あー」 ボクの手の下で、アインにもらった箱が……半分ぐらいに。 「うううぅぅぅ……」 立ち上がって箱をそーっと覗いてみたけど、やっぱり中身がぺっちゃんこ。 「あうあう」 ……せっかく、アインにもらったのに。 アインが、『ごくろう』って、ほめてくれたのに。 「――うぅぅぅぅ」 「――そこに居るのはココ?何の音ですか?」 「……あ、ヒメサマー」 向こうから近づいてくるのは、白いドレス。 でも、そんな姿を見たら……ボク、おめめからポロポロ…… 「あらあら、どうしたのですか?」 「ううぅぅぅ」 「何があったのです?」 「うぅぅぅ、ヒメザマー」 「泣いていたのでは判りませんよ?」 「あ、あのね……」 「あら?この箱は、なぁに?」 「アインに、もらって、ころびました」 「えっ、アイン?……ココが転んだの?大丈夫ですか?」 「うぅぅぅ、ボクは、へいきです。でも……」 ボクはうまく説明できなくて、手にした箱を持ち上げます。 「――箱?中を見ても良いですか?」 「……あい」 ヒメサマは、そっとフタを開けると―― 「これは……マカロン?」 すぐに、中身を当てました。 「そう、です。もらった、おかし……」 「残念。転んだ拍子に、箱を潰してしまったのね」 「ごめん、なさい」 「どうして謝るのですか?」 「ヒメサマと、エファと、デュアに……あげようと、おもって」 それなのに、《 マカロン》〈お菓〉子が―― 「まぁ、そうでしたの。……いらっしゃい、ココ」 「うぅぅぅぅぅ……」 「泣かないでください。少しぐらい潰れても、箱からこぼれてなければ平気ですよ」 「でもね、でもね。マカロン、まんまるだったのに……」 「もう、いいのよ。過ぎたことは気にしないで」 ヒメサマが、ずっとなでなでしてくれます。 「きっと、エファもデュアも気にしませんよ」 「ホントー?」 マカロン、丸くなくてもいいの? 「――えぇ。わざとではないのでしょう?」 「そう、です」 「それなら、誰もココを責めたりはしません」 「でも、潰れてしまったからといって捨てたりしたら、神様に怒られてしまいます」 「かみさま、プンプン?」 「えぇ。このお菓子を作った人も」 そうだよね。せっかく作ったのに、食べてもらえなかったら、泣いちゃうよね。 「さぁ、ココ。このマカロンは、あとで食べましょうね」 「あとで、ですかー?」 「――あらあら。ココは、わたくしの部屋に来た理由を忘れてしまいましたか?」 「……あー!」 そうです。ボク、ヒメサマと劇の練習をするために来ました。 「うふふっ、思い出しましたね。さぁ、いらっしゃい」 「あーい」 ボクは、ヒメサマに手を引かれて部屋に入ります。 でも、その前に―― 「(――ごめん、ねー)」 近くにアインは居ないけど、やっぱり謝っておきました。 きっとアインも、《 マカロン》〈お菓〉子がこんなになるなんて……思ったりしなかったよね? 「――ココ。もう、目を開けてもよろしいですよ」 「……むにゃむにゃ……」 「……どうですか、気分は?」 「ネムネム、です」 「うふふっ。もう起きてくださいね」 ヒメサマに抱っこされてお話を聴かされると、すぐネムネムになります。 この『調律』は、ボクやエファに……とっても大切。 ヒメサマとお話ししなくなると、病気になっちゃうんだって。 「……なにか、気になることなどありますか?」 「うーん。ありま、せーん」 「良かった。ココも、この数日で安定してきましたね」 「あんていー?」 「えぇ。ココが白の国に来た直後は、大変だったのですよ」 「えーっ!ごめんなさい」 「いいえ、ココが謝る必要はありません。謝らなくてはならないのは、このわたくしの方なのです」 あわわっ!ヒメサマが哀しそうな顔。 「ど、どうして、ですかー?」 「それは……わたくしが失敗し、ココに迷惑をかけたからです」 「(――しっぱい?めいわく?なんだろう?)」 うーん。全然、思いつきません。 「ヒメサマ、ヒメサマ」 「……はい?」 「ヒメサマ、わざと、でしたかー?」 「まさか!わたくしは――」 「それなら、だれも、ヒメサマをせめたり、しませーん」 「……ココ……」 ちょっとビックリしてから、ヒメサマはゆっくり頷きます。 「――それは、わたくしの『まねっこ』ですか?」 「あい。でもでも、これは、ヒメサマがおしえてくれたこと、でーす」 「……あなたは賢い子です。みるみるうちに物事を学び、自分のものにしていきますね」 「あれれ?ボク、ほめられてますか?」 「えぇ、もちろんです」 「えへへっ。ボク、おだてられてます、かー?」 「まぁ!そんなことを尋ねるなんて。……メッ、ですよ」 あわわっ!……ボク、怒られてますか?笑われてますか? 「あらあら、戸惑ってますわね?それでは、いまのうちにこっそりと……」 「えーっ、なにを、ですかー?」 「演劇練習の準備をしてきますね」 そう言ってヒメサマは、部屋の反対側へ。 「あーい」 ボクは、側にあったお椅子に座って待つことにします。 「(――えへへっ。ほめられちゃった)」 いつも失敗してるような気がするけど、平気なのかな? 褒められたってことは、良いことなんだよね? 「(――うーん)」 あんまり難しいことは分からないので、考えるのをやめて上を向きます。 「(――ん?)」 そうしたら、何となく天井の『形』が気になってきました。 「(――あー、さんかく。となりも、さんかくー)」 そのまた隣の三角、その次……って見ていくと、最初の三角に戻ります。 ……もしかして、すごい発見!? 「(――うんうん。よくみると、ケーキみたーい)」 まーるいケーキを切ると、あんな感じ? だけど、うまく切るのって難しそう。 「(――いっぱい、きったら、いっぱい、たべられるかな?)」 「――ココ?」 「いっこ、にーこ、さーんこ……」 「……何を数えていたのかしら?」 「ケーキ、です」 「……ケーキ?マカロンではなくて?」 「アレー。ケーキみたい、です」 「……天井が、ですか?」 「あい。おたんじょうびに、たべたケーキと、そっくりです」 「まぁ、ココったら」 「まいにちが、おたんじょうびだったら、まいにちが、ケーキですかー?」 「うふふっ、ココらしい考えですね。でも、毎日がお誕生日だと、すぐに歳をとってしまいますよ」 「うんうん。すぐ、おばあちゃんに、なっちゃいます」 「(――あれれ?)」 おばあちゃん?おばあちゃんって―― 「おばあちゃん?」 「……ココ……」 おばあちゃんって、ダレだっけ? モヤモヤモヤー。 「(――うーん。きになるけど、いいやー)」 考えても、思い出せません。 「あー、ヒメサマ。れんしゅー」 「そうでしたね。……はい、これが《 ・ ・ ・》〈今日の〉台本です」 「あいー」 ボクは、渡された台本をパラパラめくります。 「あれれ?ボクのセリフ、マルがついてませーん?」 その代わり、後ろの方のページにマルが……いっぱい。 「……それは、エファの台本だからです」 「あれれ?」 「今日はココの練習ではなく、わたくしの練習をしたいのです」 「今日だけは、エファの代わりを務めてもらえませんか?」 「えーっ、ボクがー?」 「はい」 「うーん。でも、でも……」 どうしよう、困っちゃった。だって―― 「エファのセリフ、おぼえてません」 ボクが先で、天使の卵。エファが後で、天使。 ……ボクは、ボクの台詞しか知りません。 「憶えなくても構いません。ココは台本を見て、エファの台詞を読んでくれるだけでよいのです」 「ボクが、エファの、まねっこ?」 「……えぇ。お願い、できますか?」 「がんばり、ます」 エファの役、難しそう。 「では、ココがエファに交代したところ……このシーンからで良いですか?」 「あいー」 ヒメサマが開いたのは、《ボク》〈卵〉が《エファ》〈天使〉になる場面でした。 「(――えっと、これは……)」 「始めますよ?」 「あーい!」 「『天使よ。そなたは、この地に着いてどれぐらいになる?』」 「『……あー、あしたにはー』」 「――えっ?それは……」 「(――あれれ?)」 「あ、まちがえちゃった。いまの、ボクのセリフー」 天使の卵が最後の方で言うセリフだから、エファじゃない。 「『……えっと、もう1ねんになり、ます』」 「『もう、一年になるか』」 「『あい。じょおうさまには、いろいろと、おそわりました』」 「『わたしは、はじめてあった、ころにくら、べ、どうでしょう、かー?』」 ……エファのセリフって、『ボク』じゃなくて、『わたし』なんだよね。 「『天使よ。そなたは賢くなった』」 「『すべては、じょおうさまの、おかげ、です』」 「『本当にそう思うか?』」 「『あい』」 「『……ならば、それでも良い』」 すごいねー、すごいねー。ヒメサマは、台本なしでスラスラとセリフを言います。 でも、途中で―― 「『天使よ。そなたには――そなたには……』」 「??」 「ごめんなさい。まだ、変更された場面を憶えきれなくて」 と言って、台本を見ました。 「へんこーう?」 「えぇ。ココの場面はそのままですが、わたくしとエファには変更が入ったのです」 「ふへーっ」 「ほんの数カ所と最後の場面が変わっただけでも、大変ですね」 「たいへん、たいへん」 「うふふっ」 ヒメサマは少し笑ってから、マジメな顔に。 「はい。思い出したので、練習を再開します」 台本を閉じると、ヒメサマは……女王様の役に変身。 「あーい」 それから、お話はどんどん先に進んでいくと、何だか……ふたりの仲が悪くなっていきます。 女王様は厳しくなって、天使はどんどん……マジメさんに? 天使の卵のときみたいに、楽しそうじゃありません。 それで、『台本もおしまい』に近づくと―― 「『……ならば、わたくしを殺して行きなさい』」 女王様の、こわいセリフが出てきちゃった。 「『うぅぅぅ、わかりましたー』」 「『さぁ、ひと思いに刺すがいい』」 「『うぅぅぅ、できませーん』」 「『何故できない?先ほど、解ったと申したではないか』」 「…………」 このお話、何だかイヤー。 どうして、天使が、女王様を殺さないといけないの? 「……ヒメサマー」 「はい?」 「どうして、エファにさされなきゃ、いけないの?」 「これは、お芝居の設定なの。それに、最後には……ほら」 ヒメサマが指差したところには―― 「――わたしには、できま、せん?」 って書いてありました。 「エファはね、わたくしを刺さずに短剣を落としてしまうの」 「えーっ。じゃあ、ヒメサマ、へいき?ケガ、しない?」 「はい」 そっか。じゃ、いいやー。 「ボク、あんしんしましたー」 「では、最後のシーンをもう一度だけ練習してから、終わりにしましょう」 「あーい」 ヒメサマは大きく息を吸って、 「『――ならば、わたくしを殺して行きなさい』」 ……って、また女王様になります。 「(――しかたないよね、レンシュウだもん)」 「『わかり、ましたー』」 このあと、エファがヒメサマを倒して――お芝居、続くの。 「『さぁ、ひと思いに刺すがいい』」 「『できま、せーん』」 「『さぁ、ひと思いに……』」 「『できませーん』」 「『そなたは、自由が欲しくないのか?』」 「『それ、はー』」 「『人として、生きたくはないのか』」 「『にんぎょうは、ひとに、は、なれませーん』」 「『わたくしを殺せば、そなたが人間になれる……としたら、どうする?』」 「『それはー』」 「(――なれるのかなぁ?なれないよね?)」 「『人になりたいのではないのか?人間のようになりたい……と申したのは、そなたではないか』」 「『……それは……』」 「『わたくしの命令が聞けぬのか』」 「『……それが、めいれいであれば……』」 「『ならば、あえて命じよう。さぁ、天使よ。私を殺し、自由を手に入れ、羽ばたき去るがいい』」 「『…………うぅぅ』」 もうすぐ、おしまい。 ……なのに、ヒメサマが次のセリフを言ってくれません。 「あれれ?ヒメサマー?」 ボクは、我慢できなくなってヒメサマのお顔を覗き込みます。 そうしたらヒメサマ、すごく困った顔してます。 「『…………天使よ。わたくしはあなたを――』」 「『あ、愛していま……す』」 ……あーっ。セリフ、言ってくれました。 「(――じゃあ、ボクのばん!)」 「『……やはり、わたしには、できません』」 「『わたしも、じょおうを、あいしてます』」 「(――きゃーっ!)」 よくわからないけど、何だか、とっても恥ずかしいね。 声に出して『あいしてます』って言うの、たいへん。 「――ふーっ。お疲れ様でした、ココ」 「あーい。これで、おしまい?」 「はい、練習はここまで。もう、座っても良いですよ」 「あいあい」 やっと、終わりましたー。 エファって、こんな役だったんだ。ボク、初めて知りました。 「大丈夫ですか?」 「あい。でも、なんだか、おなかがへりましたー」 「うふふっ。では、ココがアインにもらったマカロン、一緒にいただきましょうか?」 「さんせーい!」 ボクは急いで、台本とお菓子の箱を交換。 「……もう、ココったら。せっかちさんですね」 「えへへっ。あい、ヒメサマ、どーぞー」 「ありがとう、ココ。いただきますね」 ヒメサマは、にっこり笑ってマカロンを見て、 「これが一番潰れてしまってますわね」 と言いながら、そっと手に取ります。 そして、それをお口の近くまで運んだのに、なかなか食べてくれません。 「ヒメサマ、マカロン、キライですか?」 「いいえ。大好きですよ。大好きですが……」 「……?」 「あなたは食べないのですか?」 「ボク、もう、たべちゃいました」 最初にボク、次がアイン。いま、ヒメサマがとったから―― 「のこりは、エファと、デュアのぶん、です」 ボクが食べちゃったら、ひとつ足りなくなっちゃうの。 そうしたら、エファとデュアのどっちかが、食べられません。 「だから、がまん――あれれ?」 ヒメサマはマカロンを両手で持って、ゆっくりとふたつに分けてます。 「ごめんなさい。見た目はひどくなりましたが……どうぞ」 「えええーっ。それは、ヒメサマのぶん、です」 もう丸くないけど、マカロンは『まんまるひとつ』で1コだよ? 「……いいえ。わたくしにはこれで充分」 「えええっ、でも、でも、でもー」 「ひとりで食べると、寂しいと思いませんか?……だから、一緒に」 ヒメサマの手に、半分。ボクの目の前に、半分。 「(――あー。ふたり、いっしょが、いいよね)」 ……ひとりは、イヤだよね? ひとりぼっちでご飯を食べたら、何にもお話できないもん。 「いただき、ます」 「……はい。いただきます」 ふたりで、マカロン、はんぶんこ。 おいしい、マカロン、はんぶんこ。 残りのマカロン、エファとデュア。 ふたりも、マカロン……はんぶんこ? 「(――この日が来てしまった……)」 記念式典の本番を一週間後に控え、とうとう予行演習の日がやってきた。 普段は静かな城内も、昨晩の下準備あたりから慌ただしく、我々貴族たちの使用人までも可能な限り動員……といった具合に駆り出しての作業に追われている。 ここホールも、いまから大々的な準備に追われるのだ。 「ハンス様。私どもは、どちらのお手伝いに加わればよろしいでしょうか?」 「舞台の設置をしている、アイン殿の使用人頭の指示に従え」 「かしこまりました」 三人しか居ない私の使用人も、この場においては貴重な戦力らしく、色々な場所から引き合いを受けていた。 予行演習とはいえ、ほぼ本番と代わりないぐらいの人手が要求されるのには理由がある。 それは、このリハーサルが『外部の人間』を引き入れた上で、当日のスケジュール通りに敢行されるためだ。 「……そろそろか」 城内は、これからが本当の意味で忙しくなる。 これより、青や赤からやってくる式典の先行組――使節団が城内入りをする時間。 両国使節団の人間が、今回の予行演習において各国首脳陣役として参加し、本番当日の流れを掴むことになっている。 「私も自分の持ち場につかねば……」 気が重くなること、この上ない。 限りなく本番に近いリハーサルでも、周囲の心の何処かにまだゆとりがあるはず。 何か些細なミスをしても、当日に繰り返さなければ許される。 ……が、この私にとっては――今日が本番。 ここで失敗すれば、全てが終わる。 与えられたチャンスは、一度だけなのだ。 「――できる。問題なくできる……はずだ」 気持ちがくじけないよう、これまでのことを思い返す。 この日のために、どれだけ苦労をしたか。 この日のために、どれだけ犠牲を払ってきたか。 この日のために、どれだけ眠れない夜を過ごしてきたか。 「……さぁ、行こうか」 ここホールですべきことは終わらせた。 いまは亡きユッシ殿から託された『モノ』は、すでに舞台の小道具の中に紛れ込ませてある。 「(――そして、残るは……)」 私はポケットの中にある貴石をお守りのように握りしめ、人目をはばかりながら廊下に出る。 「(――見守っていてください、ユッシ殿)」 いまは、どんな加護でも欲しい。 ……たとえそれが《 こころざし なか》〈『 志 〉半ば 』で消えてしまった人物だとしても。 いままで頼りにできなかった分、せめて心の支えぐらいにはなってもらいたい。 私は廊下を進み、人形たちが使う部屋を目指す。 こちらの《むね》〈棟〉は今日利用される施設から遠く、常駐の衛兵すら中央に招集されている。 情報に間違いがなければ、いま人形部屋に居るのは―― 「よろしいか?」 「あーい?どちらさま、ですかー?」 「(――よし)」 ドア越しの返事は、ターゲット――ココだった。 「私はハンス。ハンス・ブラントだ。……判るか?」 「あー、タイシのハンスー。げんきー?」 「あぁ、おかげさまでね。キミはどうだい?」 「うんうん、げんきだ、よー」 「そうか、そうか」 ココの受け答えも、充分に研究済み。 「ところで、いまはひとりかい?」 「うん。エファ、いないのー」 式典のための調律は、ココ、エファの順で行われる。 そして、《 ココ》〈前者〉は部屋に戻され、《エファ》〈後者〉はそのまま使節団との謁見に立ち会う。 そのスケジュールを知っていればこその訪問なのだ。 「そうか。私はココに用事があってきたのだが、ドアを開けてくれないかな?」 「えーっ、ボクにー?よーじ?」 「そう、キミにだよ」 「うん、わかったー」 あっさりとドアは開き、ココがひょっこりと顔を出す。 「やぁ、ココ。久しぶりだね」 「あいあい。ハンス、いつ、きたのー?」 「えっ?」 「ハンス、シロのくに、いつきたのー?」 「(――あぁ、そうか)」 一瞬、クリスティナ姫の調律で記憶が消されたためかと考えたが、それはこちらの思い違い。 《 ヴァイス》〈白の〉国に戻ってから、自分はココと一度も会っていなかった。 こちらが一方的に、練習風景などを眺めていただけなのだ。 「……私が来たのは、ココが着いた少し後だね」 「そうなんだー。あ、ちょっとまっててね」 「?」 ココはひとり頷くと、ドアの隙間から身体を滑らせるように出てくる。 そして背中でドアを閉め、 「よーじ、なんです、かー?」 と、こちらを見上げてきた。 「うーん。できれば、部屋の中でお話がしたいのだが……」 「ダメー」 「(――なっ……)」 「いま、おへや、たいへん。おかたづけ、してません。だから、はいれません」 通せんぼ、とは驚いた。 自分が青で出会った頃は、こんな説明をするような人形ではなかった。 「(――姫の教育で、賢くなったというわけか)」 しかし、そのていどの理由では……まだまだ。 こちらとしては、誰にも見咎められずにコトを終わらせたい以上、いつまでも廊下で時間を無駄にするわけにもいかない。 「いや、いいんだよ、ココ。多少、部屋の中が汚くても……」 「うーん。そう、なの?」 「あぁ、誰にも言わないから」 「うーん。でも、ダメー」 「(――こっ、小生意気になったな……)」 《 ブリュー》〈青の〉国で初めて会った頃は、右も左も判らないぐらいの反応だったのに。 「どうして、ダメなのかな?」 「だって、ボクだけのへやじゃ、ないの。だから、ダメー」 「……エファも使っているから、ってことかい?」 「そうそうー」 ココは理解してもらえたのが嬉しいらしく、しきりに首を縦に振っている。 「(――このままでは、時間ばかりが……)」 無理に部屋へと押し込んだりして騒がれてはまずい。 「(――仕方がない。この場で済ませるか)」 私は、迷っているより迅速な行動を選ぶことにした。 「……それなら、ココ。こっちへ来てくれ」 「あい?」 万が一にも廊下の向こうに人が現れたときのことを考え、見えにくい柱の影へとココを誘う。 そして、ゆっくりとポケットに手を入れ―― 「……コレを見て欲しい」 貴石のひとつを取り出す。 「うわー、キレーイ!」 人形が貴石に強く興味を持つ要素は二つ。純度の高さと……相性の良いモノ。 この貴石の純度は最高級かつ、ココにとっては抜群の相性のはず。 何故なら―― 「(――ココが持つ石と、同じ鉱脈で産出されたモノだからな)」 「すごいねー、すごいねー。それ、どーしたのー?」 「《 ブリュー》〈青の〉国から持ってきたんだよ」 「アオのくにー?」 「キミの祖国だね」 ココが貴石を食い入るように見つめる。 ……これなら、交渉も楽だろう。 「この石が欲しいなら、キミにあげてもいい」 「えーっ?」 「どうかな?」 答えは聞かずとも判っている。 「――うーん。ダメー」 「え、えっ!?」 ……もう何回目の『ダメ』になるのか。 「だって、それ、ハンスのでしょー?」 「いや、コレは、その……そういうことに……なるか」 ヴァレリー殿から預かったとは言えない以上、自分のモノということにしておくしかない。 「たいせつ、でしょー?」 「確かにそうだが……」 「うん。じゃあ、ほしいけど、もらえませーん」 「(――くっ、とんだ誤算だ!)」 こんなところで謙虚にならず、子どもらしく受け取ればよいものを! こちらとしては、何が何でも―― 「(――待て。無理矢理はまずい)」 それだけで相性が悪くなり、失敗の可能性が上がってしまう。 何か、何か良い手はなのか? 「ココがもらってくれると、嬉しいのだが……」 「えーっ、でもでも。しらないひとから、モノをもらったら、ダメなんだよー」 「……いやいや、私のことは知っているだろう?」 「あ、そっか!ハンス、しってる。でも、よくしらなーい」 「よく知らないときたか……」 こんなことなら、もっと前からコミュニケーションをとっておくべきだった。 「(――どうする、どうすれば……)」 「――それじゃ、こうしよう。ココが私のお手伝いをする。その報酬として……コレをあげる、でどうかな?」 「ほーしゅう?しってるー」 「おっ?」 「アインが、おしえてくれたのー、ほーしゅう。やくそく、まもると、もらえるんだよ、ねー?」 「そう、それだよ」 自分はこれから恩を仇で返す身ながら、アイン殿の見えないアシストに感謝する。 「お手伝いをしてくれたなら、《 ・ ・》〈コレ〉はキミのモノだ」 「うん。それなら、いい、よー。ボク、おてつだい、すきー」 「(――よし!)」 子ども好きの老技師が造った《 ココ》〈人形〉は、誰かのために進んで何かをすることを好む。 彼女が残した文献にあった通り。 直接会ったことはないが、人形技術に関わる知識の大半はココの生みの親である彼女の本から手に入れた。 「(――そういう意味では、師匠と呼ぶべき存在だな)」 《 ブリュー》〈青の〉国へと戻ったら、いまは亡き老技師の墓を見つけて報告ぐらいしよう。 あなたの造った《 ココ》〈人形〉は、その教えを忠実に守っている……と。 「ねぇ、ハンスー。ボク、なにをおてつだいー?」 「それはね――」 「あー、まって、まってー」 「……ん?」 自分から訊いておきながら『待った』をかけるとは。 相変わらず、調子が狂わされる。 「えっと、ね。ハンス、『けーやくしょ』って、しってるー?」 「契約書?」 「うん、それー。ボク、おてつだいするから、けーやくしょ、ください」 「どうして……」 そんな小難しいモノをココが要求してくる? 「ボク、アインがおしごとしてるとき、ひとりであそぶって、やくそくしたのー」 「はぁ?」 「それでー。けーやくしょに、サインしたんだよー、サイン。サイン、しってるー?」 「も、もちろん……」 「ハンスも、けーやくしょ、かけますかー?」 「そりゃ、契約書ぐらい!」 馬鹿にしてもらっては困る。 私はこの二年、朝昼晩と数え切れないぐらい書いてきたのだ。 「……で、どんな契約書類がいいのかな?不履行時の罰則も明記した方がいいかい?」 そこまで口にしてから、自分がどれだけ愚かか気づく。 子ども――というより人形相手に、私は何を言っている? こんなママゴト、真剣に取り合う必要などないのに。 「うーん、よくわかりません。ハンスに、まかせ、ます」 「…………そ、そうかい?」 「(――アイン殿、うらみますよ)」 説明する手間と相殺に値する面倒……いや、それ以上か。 下手な証拠が残せない状況でわざわざ書面を残すなど、愚かにもほどが―― 「(――いやいや。ママゴトにすらならなければいいのか)」 私は名案を思いつき、上着の内ポケットから携帯用のペンと小さな手記帳を取り出した。 「いまは時間がないから、まずは……この辺りにココがサインを書いてくれないか」 一番新しいページを開き、下の方を指差してペンを渡す。 「あとで時間ができたら、私が上に約束を書いておくよ」 「うんうん。じゃあ、かく、ねー」 「C《コー》〈・〉o……」 「……c《コー》〈・〉o」 たどたどしい書き方でインクが滲み気味だが、予想に反して読める文字だった。 「どーおー?アインに、ならったのー」 「ちゃんと読める名前だね」 急いでそのページを手記帳から破り、周囲を確認してからココの手に押しつける。 これなら、まかり間違って誰かに見つかっても、名前を書く練習のお遊びに付き合った……で押し通せる。 「では、これをココに預けておこう。お手伝いが終わったら、それを持って私のところへおいで」 「あーい。なくさないよう、にー」 大雑把な手つきで、楽しそうに紙片を4つに折っている。 そんな白紙契約書が、私の元に戻ることがないのも知らずに。 「よし。じゃ、その胸にぶら下げている袋を少しだけ開けて……中を見せてくれないかな?」 「これー?いいけど、どーしてー?」 ココが袋を広げるのを待ってから、ゆっくりと説明をする。 「先に、この石をキミに渡したいんだよ」 「えーっ?でも、ボク、まだおてつだいしてないよー?」 「安心していいよ。この石が『ソレ』を教えてくれるから」 ……そう。 この貴石が、イヤでもココにお手伝いをさせることになる。 廊下をひとりで歩くのが寂しい。そう思い始めたのは、いつの頃からだろう。 「(――少なくとも、この国に来る前ではないの)」 赤の使節団との謁見が終わり、部屋に戻ることを許された私は、ぼんやりと記憶を辿りながら歩いている。 劇を演じるときに起こされ、ほんの数ヶ月も経てば仲良くなりかけた役者たちともお別れ。 途切れ途切れの記憶の中で人々は知らない間に歳をとり、私との再会でため息を洩らし―― 「『――あぁ、エファよ。そなたはいつまでも美しく……』」 ……変わらない、と呟く。 「(――変わらないのではありません)」 人間と違う私には変わることはおろか、その資格すらないのです……と、言いたかった。 それなのに人は、私に人間と同じことを望み、時には違う部分を見つけ、讃辞の言葉と嫉妬の視線で私を見上げる。 同等を望まれるのか、違いを求められるのか。 「(――どちらなの?)」 これまで、私はどれだけの矛盾を感じたのだろう。 悲しむべきは、その疑問に向き合って考える前に劇が終わり、眠りの時間が訪れてしまうこと。 「(――だけど、今回は違う)」 白の国に来て、信じられないぐらいの自由を与えられた。 時間だけではなく、人との交流の機会も。 その中で私は、姫様とココのふたりから大きく影響を受けている、と思う。 姫様は調律師でありながらも、それ以上のことをしてくれる。 ココは私とまるで違う人形で、とても魅力的。 「(――私よりも、ずっと人間に近い……)」 そんなココを見て、人間が私に向ける視線――嫉妬の理由が少し解った気がする。 私は、ココにはなれない。外見も、内面も。 でも、もしもココのようになれたのであれば―― そんな『叶うことのない憧れ』こそが、人間が欲するモノなのではないだろうか? 限りなく現実に近い空間を創り、虚構と知りつつ幻を語る。 「(――いつまでも、いつまでも)」 私は、その世界を《さまよ》〈彷徨〉う。 人間が私という人形に求める一時の夢は、劇の中だけにある。 「(――ひとりは、さびしい……)」 私は回廊から階下を見て、ユッシ殿を思い出す。 嵐の日、階段で足を滑らせて亡くなられた御仁は、ひとりの心細さから私に声をかけたのだろうか? もしそうだとしても――いまはもう、あのときの態度を謝ることしかできない。 「(――ごめんなさい)」 《もくとう》〈黙祷〉を済ませ、足早に部屋を目指す。 ココがオモチャに飽きて、廊下で『かくれんぼ』を始めないうちに戻らなければ。 「(――ううん、違う)」 本当は、私が一時も早くココに会いたいだけ。 角を曲がり、少し切れた息を整えてからドアをノックする。 「ココ、ただいま」 でも、部屋の中からはココの返事がない。 「……まさか、もうどこかへ行ってしまったの?」 まだ時間があるとはいえ、この後には演劇が控えている。 万が一にも、その舞台に遅れるようなことになったら―― 「あーい。どなた、ですかー?」 「――あ、ココ。よかった。私よ、エファ」 「おかえ、りー」 中からは、いつもと変わらないココが出迎えてくれた。 私は、ホッと胸をなで下ろして部屋へと入る。 「待たせた?」 「うーうん。へいきー」 幸せそうに笑うココを見て、私は良かったと思う反面、何かが満たされないような気になった。 この不安は、なんだろう? 「……ねぇ、ココ。ひとりで寂しくなかった?」 「えーっ?うーん、ひとり?うん、ひとりだった」 「?」 「ひとりは、さびしいよ、ねー」 「……あ」 一瞬ココの反応に違和感を覚えたが、それよりも何も気になったのは自分自身。 いまの質問では、『寂しかった』と答えるように頼んだも同然だと思った。 「(――ごめんなさい)」 私は心の中で謝り、ココの手をとる。 「なぁーに、エファ?」 「ううん、何でもないの」 「んー?あ、そうそうー。あのね、あのねー、まってて」 「どうしたの?」 ココは、後ろにあるテーブルから小さな箱を持ってくる。 「……それは?」 「おかしー」 「どうしたの?」 「うん、とー」 考える仕草のココはやがて、 「えらいひとが、くれましたー」 と答えてくれた。 「(――偉い人?)」 「あっ。もしかして、またアインにもらったの?」 「ちがいまーす。アインじゃない、です」 この前、ココがアインからご褒美にもらったというお菓子。 残念ながら潰れてしまっていたが、それでも充分においしいマカロンだった。 「(――そう言えば、あのときココは……)」 「『あと1コは、デュアのぶん、です』」 そう言って自分は食べようとしないココに、半分あげようとしたらビックリされてしまった。 理由を訊けば、姫様も同じようにしてくれたとのこと。 それを聴いて、どうしてか分からないが……私は、とても幸せな気持ちになれた。 「(――姫様は、私が同じことをしたと知ったら……)」 「うーん。コレ……ダレから、もらったんだっけ?」 「……えっ、忘れてしまったの?」 ココの声で我に返り、お菓子の話をしていたのを思い出す。 「あい。よくしらないヒト?」 「ダメよ、知らない人から物をもらったりしたら」 「うん、ボクも、そういったのー。でも、ちょっとしってるヒトだった、よー」 「(――誰かしら?)」 今日のリハーサルのために、準備をする人たちが特別に入城していると聞く。 なるべく私たちとは接しないように配慮されているらしいが、窓から中庭を眺めれば出入りする人々の多さも分かる。 もしも、多少でもココと面識のある人物が居るとすれば―― 「そうすると、《 ヴァイス》〈白の〉国の《かた》〈方〉かしら?お手伝いの人とか?」 「うーん、シロのヒトとちがうかなー?それに、もっとエライひとー?」 《 ヴァイス》〈白の〉国ではない『偉い人』となれば、赤か青のどちらか。 その中で、ココがそれとなく知っている人とすれば―― 「《 ブリュー》〈青の〉国の《かた》〈方〉かしら?」 「うんうん、そうそう!アオのくにでみたヒトー。ふたりでたべなさい、って、くれたー」 「……そうだったの」 きっとココは、《ブリュー》〈青で〉も人気があるに違いない。 だから、お土産としてお菓子を持ってきたのだろう。 「げきのまえに、たべなさい、だって。おなかがへると、しっぱいするから……だって」 「ふふふっ」 「エファは、どれがいーい?」 もう、すぐにでも食べるつもりだったのか、ココの両手にはお菓子の箱が乗っかっていた。 「くいしんぼうさんね」 「えへへ」 白の国での初会見の席で、お腹を鳴らしたお人形さんが居たことを思い出した私は、危うく笑ってしまいそうになる。 「(――あのときは、ココのお腹の音で場の空気が和んだの)」 「あいあい。エファ、すきなの、どうぞー」 「えっ、でも……」 勧められるままに覗いた箱の中には、小さなビスケットがいっぱい入っている。 それほどお腹は減ってないが、断るのも悪いのでひとつだけもらうことにした。 「うんうん。ボクもー」 お互いひとつずつビスケットをつまみ、『いっせいのせ』で口に入れる。 ……と、これまでに食べたことのない不思議な味で―― 「ねぇねぇ、エファ。もう1コ、たべない?」 「……う、うん。もう一つだけよ?」 ふたりして『もうひとつ、もうひとつ』……と手を伸ばし、気づけばほんの数分で箱の中身を空にしていた。 「たべすぎちゃったー」 「……そうね。初めは、ひとつだけのつもりだったのに」 「ボク、おなか、いっぱいー」 「……私も」 ココにつられて苦笑すると、急に眠気が訪れ、思わず後ろにあったココのベッドに座ってしまった。 「(――あ、いけない。これから、劇に出るのに……)」 そう思って立ち上がろうとするが、脚に根が生えてしまったかのように動きたくなくなってしまう。 「……ねぇ、ココ」 「あい?」 「ココは、眠く……ないの?」 「うーん。ねむくない、よー」 「そう……私は、なんだか……眠いの」 身体だけではなく、羽根やまぶたまで重い。 このままでは、本当に寝てしまいそうなぐらい。 「(――ダメよ。寝るわけにはいかないの)」 私は、ホールにココを連れて行くように頼まれている。 「(――そうしないと、劇の準備が)」 「……エファ、ネムネム?」 「う、うん……何だか……眠くなってきたの……」 「(――まだ、夜にはなってないのに)」 私は、これと似た感覚を知っている。 それは……劇での役目を……終えたとき―― 私が…………次の出番……まで……眠る……のと…… 「あー、デュアー」 「……デュア、じゃないだろう?」 否定はしたが、私は確かに呼ばれた本人。 だが、そんな明るく手を振られても、素直に喜べないときもある。 「こんなところで何をしているんだ?」 人形部屋の前の廊下で棒立ちだったココは、私が来たのを見て急に動き出した。 「えっと、エファをまってるのー」 「エファ?まだ部屋に戻ってないのか?」 「うーうん。おへやにいるよ」 「そうすると、出てくるのを待っているのか?」 「うんうん」 「――なぁ、ココ。どうして自分がこの部屋まで来たか……分かるか?」 「どーして?」 「ふたりを迎えに来たのだよ、ふたりを」 「……そうなのー?」 「(――まったく……)」 いつもいつも、調子を狂わされてしまう。 「いいか?ふたりは、これから劇に出る。あれだけ練習していた劇の開演まで、それほど時間もない」 「エファには、『ココを連れてホールまで来るように』と伝えたはずだが……聞いてないか?」 「うん」 「(――意外だな)」 ココが忘れたのなら仕方がない、とも言えるが…… 「……エファは、どうしている?」 急にイヤな予感がしてきた。 もしや、エファの身に『何か』起きたりしてないだろうか? 「ネムネムー」 「……えっ?」 「ねてます、ベッドでー」 「…………悪いな、ココ。どいてもらうぞ」 「あわわっ?」 私は急いで状況を確認するため、ノックなしで部屋に入る。 「エファ!」 「…………は……い」 「(――良かった)」 ココの言うとおり、エファはベッドに居た。 しかし、何となく……その表情がすぐれないように見える。 「どうした!体調でも悪いのか?」 「い、いえ。ただ、少し眠気がとれなくて……」 「熱は?」 私はエファに駆け寄り、その額に手を当ててみた。 「……気持ち、熱があるな」 それに、目の焦点が少しあやしい。 「平気……です。それよりも、リハーサルの時間……」 反射的に、エファが口にした『リハーサル』という単語で、ふたりを早く連れて行かなければ……と考えてしまう私。 だが、それはすぐに打ち消す。 「(――馬鹿か、私は!)」 現状を考慮し、最善の判断をするのが現場指揮官の務め。 スケジュールのズレで生まれる支障など、上の人間たちに任せればいい。 「無理はするな。とにかく、いま姫を呼んで……」 「なりません!」 予想だにしなかったその声は、この場に姫が居合わせての叱咤かと思われた。 ……が、それはあり得ない話。 にわかには信じがたいが、いまのは―― 「…………エファ?」 それぐらい、私の中でエファと姫の印象が重なったのだ。 「すみません。私は平気ですから、姫様にはご迷惑を……」 「迷惑もなにも、そのような――」 「大丈夫です。眠気さえなくなれば、問題ありません」 「し、しかし――」 「デュア。私は誰にも迷惑をかけません。約束します」 さっきの錯覚もあって、あたかも姫を前にしたかの気持ちにさせられ、強い態度に出ることができなくなってきた。 「(――どうする?)」 エファの言葉を信じるか、安全策をとるか。 どちらが正しく、どちらがエファのためになるか? 「……分かった。ただし、少しでも身体に異常を感じたら、すぐに申し出てくれ」 「たとえそれが、演劇の途中であろうとも、だ」 「それは……」 なんと言われようとも、それだけは譲れない。 「……いいな、エファ」 「――はい。それでは、そろそろホールへ……」 「いや、もう少しベッドで休んでいてくれ」 「えっ?でも、私はもう……」 「エファが良くとも、こちらが『まだ』なのさ」 私は、腰の辺りから様子をうかがっていた忘れん坊の頭を軽くポンポンと叩く。 「この子の準備が終わってない、ということだ」 「ボクが、どーしたの?」 「……そのままの格好で、ココはリハーサルに望むのか?」 「あれれ?ちがうの?」 「まったく」 仕方なく、私はベッドサイドにある一着の服を持ち上げてみせる。 「――コレ、は?」 「………………あーっ!」 「やっと思い出したか」 このリハーサルで唯一、本番の衣装を着て出演するのがココ。 それは、もう一週間も前から決まっていたことだ。 「さぁ、その服を脱いで」 「えーっ、はずかしーい」 「……女同士、何をいまさら」 「エファが、みてるー」 「わ、私も一応……女の子だと思うの」 「あ、そっか」 「えぇい、もう動かないで!これまで、さんざん着替えを手伝ったのは、姫以外で……誰か居たか?さぁさぁ!」 「てつだいー?」 「そう、ココのお着替えを……だ」 自負するほどのものでもないが、いまなら目をつむってもココを着替えさせられる。 ……それぐらい、衣替えのアシストをしてきたのだ。 「……おてつだい、わすれちゃった」 「…………さびしいことを言ってくれるな」 「うーん、うーん。なんだったかなー?」 「もう悩まなくていい。……はい、両手を上げて」 私は背中のネジ巻きに注意しつつ、ココのスカートを裾から持ち上げて脱がしにかかる。 「(――本当に世話のかかる子だな)」 しかし、それだけに可愛いとも言える……のか? 「デューアー、どーこー?みえませーん」 「手袋が引っかかってるんだ。少し我慢してくれ」 自分の服に顔を包まれてクルクルと回るその姿は、傍目からすれば微笑ましいのだが―― やはり、相手をするこちらとしては、いささか疲れてしまうのも事実だった。 「……ご苦労だったな、デュア」 「いえ。それよりも、遅くなってしまい申し訳ありません」 演目『天使の羽ばたき』開始まであと数分というところで、デュアがやっと報告に現れる。 かなり急いできたのか、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。 「思いのほか、点呼に時間がかかりまして」 「……だろうな」 演劇会場となるこのホールに、観覧役の人間たちは約三十人。 本番当日はもう少し増える予定だが、それでも充分に座れるだけの椅子を用意してある。 そして、それらの方々を不測の事態から護るために用意したのは、デュアを除いて十人の警備兵。 今回のリハーサルは本番の流れに即し、各兵士たちも当日と同じ配置で望むことにした。 「(――しかし……)」 残念ながら、全てが自国の兵でなく他国の補助が入るという時点で……警備の万全は望めない。 白の兵士が四に対し、赤が三、青が三という構成の都合、どうしてもやりづらい部分が出てくる。 かといって、ホールに白の要員を多く割けば、他の場所の警備が手薄になってしまう。 本番当日の要人たちに私設護衛がつくことを前提とすれば、初期配置は妥当な数と言えるかもしれない。 「(――それでも全体としては……ギリギリ、か)」 どの場所も《 ・ ・ ・ ・》〈どうにか〉白の兵士が一番多い比率配分にしてみたものの、つまるところ過半数は外部からの補助でしかなく。 いかに各ポジションの指揮官が有能であっても、他国の兵に『従え』と命じて発揮できる統率など……たかが知れている。 声に出さないにしても、一時でも《ヴァイス》〈小国〉の指揮下に入ることを屈辱と感じている者も多いはずだ。 これでは、いざというときに力を発揮どころか……烏合の衆にもなりかねない。 「(――考えを改めざるを得ないな)」 これまでは経済的な理由に加え、両国の手前もあって軍備を抑え気味にしていたが、こうも現実を見せつけられると―― 「――アイン殿?」 「あぁ、すまない。少し考え事をしていた」 「それは失礼しました。ところで、劇のことなのですが」 「ん?」 「アイン殿は、劇の詳細をご存じですか?」 「いや。執務室から覗いた程度のことしか知らないが」 姫君からも、初公開となるリハーサルを楽しみにするように言われていたので、式典の進行管理に神経を注いできた。 手元にあるのは大筋の流れと、それに沿った各舞台装置や暗転等のタイミングを書き記したスケジュールのみ。 新しい台本は細かい台詞の修正のみで、段取りは初めのまま……と姫君から聞かされるに留まる。 「――練習に立ち会ったデュアはどうなのだ?」 「いえ。実は自分も、ココが天使を演じるところまでしか……」 「……そうだったのか」 「それに台本の変更後の練習には、自分は関わっておりません」 「……」 「てっきりアイン殿だけは、進行の都合で詳細をご存じかと思っていたのですが」 「いや。……ということは、実際に舞台に立つ姫君たち以外、全容は誰も知らないのか」 「そういうことになりますね。姫も、せめてリハーサルまでは内密に……と仰せでしたので」 姫君、エファ、ココ。 舞台装置の進行は除いたとして、知る者が居るとしたら―― 「そろそろ始まるようですので、自分は持ち場へ。それでは」 「あぁ、頼んだぞ」 デュアが去ってしばらくすると、ホールにカーテンが引かれ、舞台の燭台には係の者によって火が灯される。 いよいよ、演目『天使の羽ばたき』が開催されるのだ。 「(――見事、劇が成功するように祈ろう……)」 ホール内のざわつきが徐々に静まると、舞台の袖から姫君が姿を現して中央へと進む。 「『我が名は、女王――マルグレーテ・ドルン』」 「『……カーディナルとブリュー。両国の平和と繁栄のために建国された、このヴァイスを統治する者』」 「『そして、ドルン家における最初の女王が、このわたくし』」 役柄を朗々と語り、ゆっくりと《こうべ》〈頭を〉垂れる。 同時に上品な拍手が起こり、その音が切れる頃を見計らって姫君が両手を広げた。 それに続くのは、初代女王が統治者となるまでの歴史。 人形技術の向上を目指し、多くの技師や調律師たちを従え、いくつもの試練を乗り越え、 「『こうしていま、新しい人形を生み出す試みに至った』」 ……と結ばれる。 「(――さて、そろそろか)」 舞台を歩き始めた姫君。 「『――確かに到着と聞いたが、一体どこに居るか?』」 天使であるココの姿を探す。 そして、一番右端に辿り着いたところで―― 「『いずれにおるや、天使の卵よ』」 と、合図の一言を。 「『あいー。ここにおり、まーす』」 緊張した台詞が反対の舞台袖から響き、小さな影がちらつく。 いよいよ、ココの出番がやってきた。 ここまでは進行表にある通りだが、果たしてこの先は……平気だろうか? 「あれは……」 天使役のココは、いつもの格好とは違っていた。 黄色い三角帽に、これまた黄色い服を着ての登場。 緊張しているらしく右手右足、左手左足の組み合わせで、おかしな行進を披露している。 「(――ココ……)」 まるで、まだまだ歩き始めたばかりのヒヨコ。 これでは他の観客たちも、拍手より笑いが先になってしまう。 しかし、それがココにとってはプラスとなったのか、最後の一歩を元気よくピョンと跳ねて姫君の前に着地する。 「『はじめまして、じょおうさまー』」 「『よくぞ来た、天使の卵よ。その顔をよく見せておくれ』」 「『あい、どう、ぞー』」 ドレスの裾をしっかと握り、自らは背伸びして顔を姫君に近づけようとするココ。 それに対し、姫は自然な微笑みで軽く腰を落とし、 「『美しき眉、透き通るような目、利発そうな口元。そなたは、申し分なき天使の卵』」 そうささやいて、ココの頬を優しく両手で包む。 ココの可愛らしい外見に似つかわしくない評価でも、舞台を見守る観覧役たちは、笑うこともなく劇に没頭していく。 「(――見よ。これが我らがヴァイスの現統治者だ)」 ……そんな声に出せない誇りは、そっと胸にしまっておく。 私が口にせずとも、姫君を見れば解ることなのだ。 「『じょおうさま、じょおうさま。こんなボクでも、りっぱなテンシになれます、かー』」 「『もちろん』」 「『ホントー?』」 「『……だが、それにはそなたの心がけも大切』」 「『こころがけ、ですかー?』」 「『自らが高みに登らんと欲しない限り、そなたを待つのは……あの奈落』」 姫君が指差す舞台隅で揺れ動くのは、真っ赤な布。 その後ろには、永遠に動くことのない『ただの人形』が積み重ねられている。 「『万が一にも《みな》〈皆〉の期待を裏切るようなことがあれば……このわたくしでも、救うことはできない』」 「『……あ、あい』」 「『選ばれて天使に生まれ変わるか、割れて全てを失うか……それは、そなた次第だ』」 「『わかり、ました』」 「(――うん?)」 ふと、自分とは反対側に位置するデュアに注目すれば、 「…………」 声は聞こえないが、ギュッと左手を握りしめて胸に押し当て応援するかのようだった。 こうして劇は着実に進み、女王が天使の卵を教育しながら、自身も人形技術の新しい道を模索する流れに。 舞台には出てこない『ココ以外の卵たち』のことが女王の口から語られ、奈落に積み重なる人形の数が増える。 「『……そなただけが卵ではない』」 「『あいー』」 ……戒めの言葉に脅しが加わるときもある。 「『そなたの望みは?』」 「『じょおうさまの、そばにいることでーす』」 ……女王が無言で卵の頭を撫でることもある。 さらには―― 「『じょおうさまー、みてくださーい』」 「『なんの騒ぎだ?』」 ココ「『えっと、えっと……』 「『……いかがしたのだ?』」 「『わすれましたー』」 ……などと、予定通りか本当の失敗か判らないまま、ココが舞台袖へと引っ込むシーンがあったりと、女王と天使の卵の近づく過程が続く。 そして、とうとう―― 「『天使の卵よ。そなたはいつ、その背にある羽根を広げる?』」 「『……ハネ、ですか?』」 ココからエファへと『生まれ変わる』シーンが目前となった。 「『――そう。天使の象徴たる羽根、いつ手に入れられるのかと聞いているのだ』」 「『……それは、じょおうさまが、くださるのでは?』」 「『それに値すると、そなた自身が証明できれば……すぐにでも与えよう』」 「『……しょうめい』」 「『左様。いつまでも卵のままでは居られないこと、忘れたわけではあるまい』」 「『…………あい』」 哀しげな表情でうつむくココに続く沈黙。 観客が《かたず》〈固唾〉を飲んで見守る中、天使の卵はゆっくりと両手を持ち上げる。 「『じょおうさま、じょおうさま』」 「『なんだ?』」 「『……じょおうさまは、ボクがテンシになることを、のぞまれますか?』」 「『……無論』」 「『もしも、ボクがタマゴのままなら、じょおうさまは、いかがされますか?』」 「『初めて会った日に教えたこと、忘れたのか?』」 「『いいえー、わすれておりません』」 「『では、なぜ知っていることをわざわざ尋ねる?』」 「『わからないから、です』」 「『何が判らないと申すのか』」 「『……それは、じょおうさまのこころ、です』」 「『ここ、ろ、とは?』」 「『じょおうさまが、のぞまれるのは、どちらです、かー?』」 「『……天使の卵。はっきり言うがいい』」 「『テンシになることを、ホントウにのぞまれます、かー?』」 「『くどいぞ。もしも天使になれないのであれば……』」 「『ボクをナラクへ、かえすのですね?』」 「『……解っているではないか』」 「『あい。でも、ボクにわからないのは、じょおうさまのこころ、です』」 「『何が申したい?』」 「『もしも、テンシにアタイしないとき、じょおうさまは……ボクが、ナラクにかえるのを、のぞまれるの、ですか?』」 「『…………それは……』」 劇が始まって以来、天使の卵が初めて女王を沈黙させる。 「『すべては、じょおうさまの、のぞみのままにー』」 「『…………』」 人の心を理解しようとするぐらいにまで成長した天使の卵。 ……だが、哀しきかな。 根幹は人形であり、自らの処遇を主である女王に一任するしかできない。 「『…………賢くなったな、天使の卵よ』」 「『ありがとう、ござい、ます』」 「『しかし。そなたには、まだまだ教えるべきことがあるな』」 「『……あい』」 「『わたくしは、迷っている。そなたを永遠に卵のまま側に置くか、天使にするチャンスを与えるか……を』」 「『ナラクには?』」 「『……天使に値せねば、返さねばならない』」 見つめ合う、舞台の上のふたり。 女王も天使の卵も、自分たちの中に次の言葉を探している。 「『では、なにをまよわれるの、ですか?』」 「『…………』」 「『ボクが、テンシになれば、よいのです。それで、すべてのなやみが、きえますか?』」 「『消せぬ。何故なら……』」 「『……なぜならー?』」 「『……いや、よい。そのときがきたら、話そう』」 人払いの仕草で天使の卵を追いやる女王。 が、その黄色い帽子が舞台袖に消えそうになったとき―― 「『――卵よ。天使になる心の準備はよいのか?』」 女王は、何かを決心したかのように声を絞り出す。 「『じょおうさまが、みとめてくださるなら。ボクはいつでも、かまいません』」 「『――よかろう。明日、そなたに羽根を与える。ただし……』」 「『ただし?』」 「『今日のことを含め、奈落の話は忘れよ。二度と思い出してはならない』」 「『……あい。あしたにはー』」 「『あした、とは?』」 「『もしも、ナラクにかえれば、なにもかも、わすれます』」 「『…………』」 「『テンシにうまれかわれたならば、タマゴのきおくも、きっと、なくなりますので』」 ……こうして一幕が終わり、ホールの灯りが戻る。 重い展開での幕間だけに拍手はなく、ため息だけが洩れた。 ひとりが立つと隣も、またその逆も……といった具合に、数人の観客が腰を浮かせる。 特に赤の使節団の一時退席が多く、あれよあれよという間に両手の指ぐらいの人数になった。 風習とはいえ、この暗がりの中をフードを《まぶか》〈目深〉に被って歩くのは危険だと思うのだが、こればかりは―― 「――アイン殿。あれは皆、ご婦人たちです。……その、あまりジロジロとご覧にはなられないように」 いつの間にか側までやってきたデュアが、小声で耳打ちしてくる。 「これでも気を遣っているつもりだが」 「それならば、よけいに……です」 「――あぁ、そうか」 《 じ》〈焦〉れたようなデュアの態度で、それとなく合点がいった。 長時間の座席となれば、男性よりも女性の方が立つ回数が多くなる。 つまりは、幕間を有効活用しようということか。 「(――ここからは、ココに替わって成長した天使……エファか)」 舞台の上では、係の者がいそいそと赤いジュウタンや新しい小道具の類を運び込んでいる。 この先の展開は天使が自我に目覚め、女王の元から旅立つというもの。 ただし、台本には変更が加えられているとのことだが、その経過は判らない。 「(――我々も、手に汗握る観客というわけか)」 あのエファに限って失敗は考えられないので、演劇自体にはそれほどの心配はない。 ……が、何故か悪い予感――胸騒ぎがする。 「(――私の思い過ごしであればいいが……)」 「ヒメサマー。ボク、ちゃんと、できましたー」 「ありがとう、ココ。立派でしたよ」 「えへへっ」 途中で何度かハラハラさせられたが、天使の卵は役柄的にもココのような失敗が許される。 「(――でも、本当に……)」 「あなたは、成長しましたね」 「……?」 ただ台詞をうまく言えるようになっただけではない。 ココは色々なことを学び、自覚なく行動に反映させている。 「よいのです。またあとで、ゆっくり話しましょうね」 「あーい。それではボク、おへやで、きがえて、きます」 「劇の続きは観ないのですか?」 「――えっと、えっと……みたいけど……こわいから……」 「怖い?」 「……だって、だって。エファが、さいご、ヒメサマに……」 「(――あぁ……)」 わたくしは、ココをエファの代理として練習に付き合わせてしまったときのことを思い出す。 きっと、最後にエファがわたくしに覆い被さるシーンを気にしているのだろう。 「やはり、最後が怖いですか?」 「あい」 「エファが使うのは、本物そっくりの短剣です。偽物ですよ」 「……でも、でも」 半泣きになりそうなココを見て、わたくしは強要にならないうちに諦めることにする。 「わかりました。ひとりでお部屋に戻れますか?」 「へーき、でーす」 「それでは、また後でね」 「あーい」 わたくしはココの姿がホールの端から消える前に、衛兵のひとりを呼び寄せる。 「心配なので、気づかれないよう……ココを部屋まで見送ってあげてください」 「……ハッ、かしこまりました!」 「――ふーっ」 劇は折り返し地点とはいえ、もう残すところあとわずか。 ココの代わりにエファが天使を演じ、わたくしとの別離の危機を乗り越えれば――全てが終わる。 「……姫様」 「エファ?どうしたのですか?」 「はっ、はい。実は……その……」 「――?」 「私、失敗をしないか……とても不安で」 「まぁ、エファらしくないですね。あなたが失敗をするなどということは……」 「――ないと思われますか?」 「……えぇ」 「それは、私が国宝と呼ばれる演劇人形だからでしょうか?」 「違います」 わたくしは、エファの目を見てはっきりと言う。 「……エファがどんなに名高い人形であろうとも、今日初めて会ったばかりの者であれば、不安にもなります」 「……が、あなたはわたくしやココと共に、あれだけ練習を重ねてきたのですから」 「……姫様……」 目を見張るエファに、わたくしの気持ちも揺れ動く。 「(――これは、不安?いいえ、違います)」 劇の後半を前に、気持ちが昂揚してきただけのこと。 そしてこれは、決して負のイメージではない。 「……わたくしは、あなたを信頼しています。これだけは、何があっても……忘れないでください」 「――はい!」 エファは舞台裏のカーテンを使い、反対の袖口へと回る。 「(――頑張りましょうね、エファ)」 わたくしはドレスの裾を正し、まっすぐに前を見る。 「(――いきましょう)」 初代女王――マルグレーテ・ドルンの加護の下。 「『天使よ。そなたは、この地に着いてどれぐらいになる?』」 「『……もう1年になります』」 舞台に戻ったわたくしと、新たに『天使』として登場したエファは拍手によって迎えられる。 「『もう、一年になるか』」 「『はい。女王様には、色々と教わりました』」 その歓迎には、真打ち登場の意味が込められている。 「『私は初めて会った頃に比べ、どうでしょうか?』」 「『天使よ。そなたは賢くなった』」 「『全ては、女王様のおかげです』」 「『本当にそう思うか?』」 「『――はい』」 「『……ならば、それでも良い』」 ココを相手にしたときとは違い、緊張感のある会話。 わたくしが演じる初代女王マルグレーテも、こうして人形に接していたというが…… 「(――わたくしには、真似るので精一杯)」 気丈な初代に比べ、わたくしは人形に甘い調律師。 こうして遠い先祖であるマルグレーテ女王を演じることで、少しでも技術が高まればと思っていた。 ……でも、いまは違う。 「(――わたくしは、この瞬間クリスティナではない)」 舞台に立った以上、《マルグレーテ》〈初代女〉王その人でなければならないのだ。 …………こうしてわたくしは、エファと共に劇を進める。 そして、徐々に自我を持ち始めた天使を相手に、自らを苦悩する女王へと変えていく。 「『いつか、そなたはわたくしの元から旅立つときがくる』」 これが、劇中の台詞と理解はしている。 ……が、エファを前に舞台で自らが口にすれば―― 「『……そのようなことはありません。私はいつまでも女王様と共に』」 否定の返しすら、心に重くのしかかってくる。 「(――そう。エファは、わたくしの元を去るときが来る)」 エファを初代の育てた『天使』であると思えば思うほど。 自分が育てた人形――エファが、ずっと遠くへ離れていく錯覚に襲われる。 「(――いえ。わたくしは、エファを育てたりしていない)」 エファはエファとして、わたくしの側に居るだけ。 ……そして、とうとう。 ココが恐れていた、最後のシーンがやってきた。 「『……ならば、わたくしを殺して行きなさい』」 育ての親の元を離れると宣言した天使を前に、女王は我を忘れて恐ろしい言葉を口にする。 「『――分かりました』」 それに対し、従順な天使は壁にかかった短剣を手に取る。 女王に従い、その身体へと馬乗りになった天使は―― 逆手に持った短剣を主の胸元に向け、動きを止める。 「『さぁ、ひと思いに刺すがいい』」 自分を刺すことはできない、と信じる女王。 「『――それは、できません』」 「『何故できない?先ほど、解ったと申したではないか』」 目論見は当たり、困惑する天使に言葉を強くしていく。 「『さぁ、ひと思いに……』」 「『できません』」 女王は勝ち誇ったように悲しむ天使へと詰めより、 「『そなたは、自由が欲しくないのか?』」 甘い誘惑をささやく。 「『それは……』」 「『人として、生きたくはないのか』」 「『人形は、人にはなれません』」 それは当然のこと。人間とは違うからこその人形。 女王は去らせたくないあまり、そんな言葉で天使を縛る。 「『わたくしを殺せば、そなたが人間になれる……としたら、どうする?』」 ……が。 「『……それは……』」 「『人になりたいのではないのか?人間のようになりたい……と申したのは、そなたではないか』」 感情のコントロールができなくなった女王は、天使にあたるかのように誘惑を続ける。 「『…………それは……』」 「『わたくしの命令が聞けぬのか』」 「『……それが、命令であれば……』」 「『ならば、あえて命じよう。さぁ、天使よ。私を殺し、自由を手に入れ、羽ばたき去るがいい』」 ――できないであろう? それができないからこそ、そなたは人形であり……わたくしだけの天使でいられる。 わたくしは、そなたを離したくない。 だから、そなただけは天使の卵のままにしておきたかった。 そうすれば、そなたは賢くなることもなく―― 「(――あっ……)」 気づけば、エファが短剣をわたくしの上に掲げている。 「(――もう、劇はここまで進んでいたのですね)」 自分を忘れてしまうぐらい『女王』になれたことが、本当に良かったのかどうか。 いまはそれが解らない。 しかし、劇はもうクライマックス。 「(――あとは、わたくしの一言で……)」 ――天使よ。わたくしはあなたを愛しています。 天使を試すためではなく、心の底から洩らしてしまう一言。 それを聴いた天使は、女王の心の弱さを悟り―― どれだけの時間が過ぎてしまったのか。 ほんの一瞬?それとも、呆れるぐらいに? 「(――エファ……)」 「……ひ、め……姫、様?」 短剣で自分の口元を隠し、観客に悟られないように何とかわたくしの名を呟いてくれるエファ。 でも、その声は……いまのわたくしには―― 「(――あぁ、最後の台詞が……どうして言えないの?)」 ひとりのときや、ココをエファに見立てて読み合わせたときには言えた台詞が、喉から先に出てこない。 「(――何故?何故、わたくしは……)」 愛している、の一言が口に出来ず苦しんでいるのか? 「(――あぁ、エファ。わたくしは……)」 唇がわななき、恥ずかしさで涙が出そうになる。 ……誰でもいい。 「(――わたくしに、力を……!)」 「ひめ……様……いま、私がお助け…………しま、す……」 「(――えっ?)」 ……と、エファはゆっくりを首を横に振って、息を大きく吸い込んだ。 「た、とえ、それ……が――」 「(――エファ……!)」 苦悩を浮かべたエファが、台本にはなかった台詞を紡ぎ、わたくしを助けようとしてくれている。 何故エファが、そんなに苦しそうなのか解らない。 自分自身も、どうして最後の台詞をためらうのかが―― 己の情けなさでエファの目を見ることができず、観覧席へと視線を逃がす。 そしてそのとき、そこでわたくしは何故か――青の大使ヴァレリーの姿に気を奪われてしまった。 ひとりだけ、劇を観ている他の者とは明らかに違う表情。 不安や驚き、いぶかしの表情ではない。 「(――笑って、いる?)」 しかし、それは失笑や苦笑でもなく。 まるで、何かを確信したかのように勝ち誇った口元で…… 「――衛兵!デュア!」 「(――えっ?)」 突然響いた声。 それがアインのモノだと判ったとき、観覧席より何者かが舞台に向かってくるのが見えた。 「(――デュア?違う、あれは……)」 わたくしの知らない、フードを被った者が走り寄ってくる。 その後ろには、血相を変えたデュアが居て―― 「姫!お逃げください!」 「何をしている!?舞台!幕を落とせ!」 またもや響くアインの叫び。 「(――なにが、起こっているの?)」 舞台に飛び上がるフードの影。 その手には、ギラリと光る剣。 その視線は、このわたくしにだけ向いている! 「にっ、逃げるのです、エファ!」 エファを巻き込むわけにはいかない! わたくしは、エファをかばって立ち上がろうとするが―― 「ひ、ひめ……様!」 それよりも先にエファが身体を離し、向かってくるフード目がけて短剣を―― 「なっ、なりません!」 ――次の瞬間、わたくしには何が起こったのか、全く理解ができなかった。 「(――白い羽根が……)」 「(――天使の……エファの……白い羽根が……)」 「エファ!?エファ!!」 「姫、落ち着いてください!」 「離しなさい!離すのです!」 目の前でエファが倒れているというのに、手も差し伸べてはならないのか。 「――なりません、姫!」 デュアがわたくしを捕らえ、近寄ることを許さない。 「……あぁ、エファ!」 何故、あなたが傷つかねばならないの! あの者が狙ったのは、このわたくしだと言うのに! 「……どうして、どうしてなの!?」 何故、あなたがその美しい羽根を失うようなことに! わたくしは、このような目に遭わせるために―― 「(――エファ!)」 いつから居るか忘れてしまったが、わたくしはこの場所が城の敷地内であることを充分に知っている。 「『……中庭……?』」 木々のざわめきと、鳥の声が聞こえてくる空間。 生まれてから今日まで、ずっとドルンシュタイン城で過ごしてきたわたくしだからこそ分かる。 試したことはないが、きっと目を閉じていても望む部屋まで歩くことができると思う。 「『――気持ちのいい風……』」 わたくしは、長らく外に出ていなかったような気がする。 ずっとベッドのかたわらで、誰かの看病をして―― 「『――エファ、いらっしゃい。ここに立つと、とても……』」 そういって傍らにエファを探すが、そこに彼女の姿はなく。 周りを見渡しても、わたくしの他には誰も居ない。 「『――あぁ……』」 ふと《わけ》〈訳〉もなく、いまの自分が夢の中に居ると悟った。 そして、この世界の正体に気づいたときだけは、目が覚めるまで思うがままに操れることも思い出す。 ……誰かを呼び寄せることも、風景を一変させることも。 わたくしはもう、ひとり風に吹かれるまま立ちつくす現状に飽きていた。 「『――デュア……』」 「『――なんでございましょうか、姫?』」 「『わたくしを城門まで』」 「『はい』」 望み通りに現れた騎士は、すぐさま門まで案内してくれた。 「『…………』」 「『いかがなさいましたか、姫?』」 「『この先は、どうなっているのですか?』」 「『――それは、その……』」 デュアらしくもない、歯切れの悪い物言い。 「『わたくしがこの門から向こうへ足を運んだことは……数えるほどしかありません』」 「『――だから、あなたに訊いているのです』」 「『……はい。この先に……この先には、姫が治める白の領土が広がっております』」 「『えぇ、知っております。でも、わたくしが知りたいのは、そんなことではありません』」 「『知りたいのは、どんな風景が待っているか……ということ』」 「(――窓から見る眼下の街ではなく)」 もっと身近にあって、わたくしが理解できる《 ・ ・ ・》〈たとえ〉で。 「『……さぁ、デュア。答えなさい』」 夢の世界だから、無理も承知でわがままを押し通す。 「『――この先の世界は、姫の望むままであります』」 「『本当に、そうなのですか?』」 「『…………』」 「『解らないのなら、無理に答えなくても構いません』」 「『……申し訳ありません』」 「『――下がりなさい』」 夢の中とはいえ、これ以上デュアを苦しめたくない。 「『……わたくしは、愚かです』」 デュアが答えられないのも当然。 いきなり呼び出された上に、夢の支配者すら知らないことを突然尋ねられても、まともに説明できるはずがないのだ。 「『――アイン……』」 「『……何でございましょうか?』」 「『――わたくしをホールまで』」 「『はい』」 門をあとにし、わたくしはアインの先導で廊下を歩く。 「『――姫君。そろそろ、お目覚めになりませんか?』」 「『もう少し、このままで』」 「『…………』」 「『わたくしに、何か不服でも?』」 「『――いえ、何も』」 アインは、夢の中でもアイン。 諭し、導き、それでも最後は……わたくしの《めい》〈命〉に従う。 「『――アイン。あなたに、尋ねたいことがあります』」 「『何でしょう?』」 「『あなたは……デュアのこと、どう思っているのですか?』」 「『…………どう、と申しますと?』」 「『――訊かれたことを答えなさい』」 顔色ひとつ変えないアインに苛立ちを覚え、強要を口に。 すると彼は、 「『……私はデュアを……愛しております』」 口元に哀しそうな微笑みを残したまま、姿を消してしまった。 「『――あぁ、アイン。どうか、許して……』」 いまのアインの言葉は、決して彼自身のモノではない。 このわたくしが想像する、こうであって欲しいと望む回答。 「『……ふたりが一緒になり、ずっと側に居てくれたら』」 そう考えるわたくしの、身勝手すぎる未来の展開。 ――そして…… 「『あれは、わたくしが口にできなかった台詞の……代弁』」 「『ヒメサマー』」 「『……ココ!?一体、いつから?』」 「『えへへー。ボク、うまく、できましたー』」 「『えっ?何をですか?』」 「『えーっ?ボク、がんばりましたー』」 「『――あぁ……』」 何の前触れもなく現れたココに驚きつつも、衣装代わりの寝間着姿が現状を理解させてくれる。 「『……天使の卵役、見事でしたよ』」 「『えーっ、ホントー?』」 「『はい。あなたは、よく頑張りました』」 途中で台詞を間違えたのを差し引いても、余りあるぐらいに。 「『えへへー。じゃあ、じゃあ。あとは、ヒメサマー、だけー』」 「『えっ?』」 「『あとは、ヒメサマ、ひとり、がんばれば……おしまい』」 「『……わたくし、ひとりが?』」 「『うんうん。だから、ボク、サヨナラー』」 お待ちなさい……と声をかけるよりも早く、黄色い帽子が廊下へと消えていく。 「(――あとは、わたくしだけ……)」 ココは、言った。 「『――そう。あとは、わたくしだけです』」 天使の卵は役目を終えた。 あとは幕が下りるまで、わたくしが舞台を引き継がなければならない。 「(――ふーっ……)」 深呼吸をして、台詞を思い出す。 「『我が名はクリスティナ・ドルン。この《 ヴァイス》〈白の〉国を治める者なり』」 過去の女王の名ではなく、自らの力で、いまのヴァイスを。 誰も居ないこのホールに、何を訴えかけるというのか。 誰もが認める統治者に、わたくしがなれるというのか! 「『わたくしには……わたくしには、できません!』」 これまでずっと、誰かに助けられてきたわたくしが―― 初代女王のように、立派な統治者になることなどできるはずがない。 「『たとえウソでもいいのです。誰か、誰か側に居て!』」 「『……せめて、せめて《いっとき》〈一時〉だけでも!』」 「『わたくしが、ドルン家の《めい》〈命〉を忘れられる時間を……』」 「『――ひめさま……』」 「『……あ、あなたは……まさか……』」 舞台で泣き崩れるわたくしの耳に、懐かしい声が届く。 おそるおそる振り返れば、そこに居たのは―― 「『……ジゼル!』」 「『――ひめ、さま……』」 忘れもしない! 幼きわたくしが、かたときも離さず生活を共にした人形――ジゼル! 「『あぁ、ジゼル!帰ってきたのね』」 「『……はい、ひめさま』」 「『もう、もう二度と会えないものだとばかり……』」 あの日、わたくしがジゼルを失いたくない余り―― 「『……わたくしが無理をしたばかりに、あなたは、あなたは《ならく》〈奈落〉へ……』」 「『わたし、いつでも一緒』」 「『もちろんです!』」 「『……いつでも、一緒でした』」 「『――何を言うのです。これからも、いつまでも……』」 「『いいえ、それは叶わぬ願いです』」 「『……ジゼル……』」 「(――何を言うの?)」 「『――あなたは、わたくしの側に居て……』」 「『それ、昔のことです』」 「(――ジゼル。そんなことを言わないで)」 「『……わたしの役目、終わりました』」 「(――あなたに終わりはないの!)」 「『いつまでも……』」 「『そうです!いつまでもわたくしと……』」 「『いつまでも、わたしでは、ダメ』」 「『……ジ、ジゼル……』」 「『壊れてしまった、わたしでは、ダメです』」 「『哀しいことを言わないで。きっと直してあげます!いますぐにでも、あなたを奈落から引き上げて……』」 この世界で、わたくしの思い通りにならないことはない。 「(――だから、ジゼルも!)」 「『いいえ、ひめさま。わたしではなく……』」 「『……あなたではなく?』」 「『エファを助けて』」 「『――エファを?』」 ……エファ。どうして、ジゼルがエファを? 「『何故、ジゼルがエファを……』」 「『ひめさま。エファを……エファをわたしのようには……』」 「『お待ちなさい!どこに行くのです!?』」 「『あるべきところへ、帰ります』」 わたくしに背を向けようとするジゼル。 このまま行かせてしまったら、もう二度と彼女は―― 「『許しません!そんなことは、このわたくしが……』」 「『わたし、もう、舞台を下りてしまいました』」 「『ジゼル、お願い!わたくしは、心細いのです。これから先、どうしていいのか迷っているのです!』」 「(――だから、だから……)」 「『もう一度、舞台に戻ってきなさい!』」 「『それは叶いません。何故なら、わたし――』」 「『天使の羽根、失いました。だから……』」 「『ですから!何度も言うとおり、わたくしが直して……』」 「『ひめさま、強く、生きてください』」 「『あなたが居れば、わたくしは……』」 「『いいえ。それは違います』」 そう言って振り返ったジゼルは、 「ひめさまに必要なのは、エファ、です」 と、つけ加えた。 「『……ジゼル』」 「『……ひめさまが直すのは、エファの羽根……』」 「(――エファの羽根?)」 エファの羽根を直す?どうして? エファが持つ羽根は、傷一つない、白くとても美しい…… 「『……ジゼル?ジゼル!?どこに行ったの!?』」 舞台と共に消えてしまった彼女は、別れの言葉すらくれず。 わたくしは、ホールにたったひとり取り残されてしまう。 「(――ジゼル……)」 ……わたくしは、あれだけ彼女の名前を叫んだのに。 ジゼルは、わたくしを『ひめさま』と呼び続け、決して……『クリスティナ』と名前で呼んではくれなかった。 「(――これまで、一度たりとも……)」 わたくしが欲しかった物は何? それはどんなモノ?……と訊かれても、答えられない。 空に手を伸ばし、雲が掴めないのと同じように。 形を覚える間も与えず、刻一刻と姿を変え、気づかぬうちに流されていってしまうモノを何と表現すればいいのか? 「(――もう、いいのです)」 ままならないばかりの世界など、苦痛でしかない。 いまのわたくしが欲するのは、実感の伴う現実。 多少の不満があっても、端から消えていく幻に比べれば……ずっと温もりがある。 「(――夢から醒めなさい……)」 わたくしは、そっと自分に命じて世界を閉ざす。 次に目を開けば、そこにはわたくしを待つ者が居る。 今度こちらに戻るときには、必ずその者たちを連れてこよう。 決して忘れないよう……記憶に強く焼き付けて。 ずっと、ずっと、真っ暗で。 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる回る。 「うーん、うーん」 「――うーん。ニンジン、ニガテ、です」 「ピーマンも、ニガテ、です」 どうして、いつも、いつも。ご飯には、苦手なモノが入ってるんだろう? 「……もう、いりません。また、こんどー」 赤より、緑より、黄色がいい……です。 「むにゃむにゃ……」 ネムネムだね。ふかふかだね。 ベッドがふかふかだから、ボクはネムネムなんだね? 「……ヒメサマ。きょうのごはん、はー?」 今日は、どんなご飯だろう? 「『――ココ……』」 「……あ、ヒメサマー!」 「『今日は、あなたの誕生日ですよ』」 「やったー。たんじょうび、は、ケーキ、です」 この前みたいに、マカロンだといいなー。 「……マカロ、ン?」 マカロンは、ご飯じゃなくて、お菓子だよね? それに、マカロンをくれたのは―― 「えへへっ。アインー」 ボク、しっかり憶えているよ。 「『……何を憶えてるのかな?』」 「けーやくしょ、のことー」 「『……偉いな、ココ。契約通り、ちゃんとニンジンとピーマンは食べているか?』」 「えーっ!ちがいます、ちがいます」 「ボクが、アインとやくそくした、のは――」 アインがお仕事してるときは、邪魔しちゃダメ……ってこと。 けーやくしょに、サインもしたんだから。 「(――あれ?)」 ボク、サイン……練習のあと、何回したっけ? アイン、『一回でうまく書けた』って、褒めてくれたよね? だけどボク、また『Coco』って、サインしたような気がする。 「(――うーん?)」 思い出せないから、いいや。 ……それよりも、起きなくちゃ、起きなくちゃ。 早く起きないと、怒られちゃう。 「(――ダレにー?)」 誰だろうね?よく分かんないや。 「……じゃあ、もうちょっと、ねちゃう?」 ダメダメ。またエファに起こされちゃう。 「(――たまには、ボクが、おこすのー)」 そうしたらエファ、びっくりするよね。 驚いたエファ、見てみたい。 「……うーん、おき、ます。おきましたー」 だけど―― 「あれれー?」 ……エファが居ない。 「エファ?どこー?」 もしかして、ボクが起きないから怒っちゃった? 起こしても目を開けないから、どこか行っちゃったの? 「……どうしよう」 もうすぐ、ご飯の時間なのに。 いつもヒメサマに、『エファと一緒に来てくださいね』って言われてるのに。 ボクひとりで行ったら、約束守れないよ。 「うーん、うーん」 ……そっか!ヒメサマに会う前に、ボクがエファを見つければいいの! 「えへへ。そうすれば、みんなで、いっしょに、ごはーん」 そうと決まれば、しゅっぱーつ! 「……のまえ、にー。おきがえしないと、ねー」 「……うぅぅぅぅ」 見つかりません。 エファも、ヒメサマも、アインも、デュアも。 誰の姿も見えません。 「こまっちゃうよ、ねー」 みんなが、迷子になっちゃうなんて。 ボクひとりじゃ、探すの大変。 「うぅぅ、どうしよう」 前みたいに、待っていたらヒメサマが来てくれるかな? 「……あれれ?このまえは、ボクが、マイゴ?」 どっちだか忘れちゃった。 でも、きっと待っていれば……来てくれるよね? 「…………」 「――どうしました、ココ?そんなところにうずくまって」 「ほら、やっぱりー」 「……?」 廊下に座っていたら、ちゃんとヒメサマが来てくれました。 「何をしていたのですか?かくれんぼ?」 「いいえー。エファをさがして、ました」 「おきたら、おへやに、いませんでした。だから」 「……そうでしたか。ごめんなさいね、ココ」 どうして、ヒメサマが謝るのかな? 「いま、エファは……わたくしの部屋に居ます」 「ヒメサマのおへや?」 「……はい」 あー、よかった!エファ、マイゴじゃないんだね。 「それで、しばらくは……ココの部屋に戻ることができません」 「えーっ?どうして、ですかー?」 「…………それは……」 ヒメサマ、すごく言いづらそうなお顔してる。 こういうときは、しつこく訊いたらいけないんだよね。 「あのね、あのね。きいて、ください」 「……は、はい?」 こういうときは、お話、変えるといいんだよー。 頑張るんだから、ボク! 「ボク、ユメをみました」 「――夢……」 あれれ?どうしてヒメサマ、またまた哀しそうなの? ……ボク、失敗しちゃった? 「どんな夢を見たのかしら?」 「えっと、えっと……」 「――ヒメサマが、きょうは、おたんじょうびだから、マカロンで――」 「そうしたら、きゅうに、アインがでてきて、ニンジンと、ピーマンでした。……おしまい」 ……夢で見たとおり言ったけど、わかってもらえたかなぁ? 「もうちょこっと、せつめい?」 「…………」 ヒメサマ、おめめパチパチさせたけど、 「――充分、解りました。良かったわね」 って笑ってくれた。 「あい」 ……だけど急に不安になったから、ヒメサマにしがみつくの。 「あら、どうしたの?」 「な、なんでもありません」 ボク、ウソをつきました。 本当は、なんでもないの反対の……なんだろう? 「う、ううーん?やっぱり、なんでも、ありません」 ただ急に、ヒメサマが……ヒメサマが、ずーっと遠くまで行ってしまいそうだったから。 ここに居て、ずっと笑ってて欲しいな。 「……うそおっしゃい。何を隠しているのかしら?」 ヒメサマは、優しくボクを叱るの。 「な、なんにもありません」 そして、ボクはまたウソをつきます。 きっと本当のことを言えば、ヒメサマはここに居てくれます。 でも、でもね。ヒメサマ、きっと哀しい顔になっちゃう。 わがまま言う子には、笑ってくれないの。 ……そう、思ったから。 「平気ですよ、ココ。わたくしは、あなたを置いて何処かへ行ったりしませんから」 「――あわわわっ!?ど、どうして、ボクのかんがえ、わかるんです、かー?」 「……うふふっ。何故だと思いますか?」 「……ボク、アタマよくないから、わかりません」 「そんなことないわよ、ココ。あなたは、よくできているわ」 そう言って、ヒメサマがボクの頭を撫でてくれる。 温かいの、ヒメサマの手。 「ココ、憶えておいて。そんな顔でしがみつかれたら、誰でも分かってしまうの」 「そんなカオー?」 「……えぇ。とても哀しそうな顔をしているわ」 お庭でかくれんぼしたときみたいに、ヒメサマが覗き込む。 「はえはぇ?」 そうしたら、ボクの両肩をそっと掴んで、にっこり。 ……けど、けどね、ヒメサマ。 「どうして、ヒメサマも、かなしそうなの?」 「悲しい?」 まるでボクみたいに、ヒメサマの動きがピタリと止まる。 「うん。うまく、いえないけど――」 「もしかして、ヒメサマもボクとおなじ?」 何となく、ヒメサマ―― 「……ヒメサマも、さびしい、の?ひとりが、こわい?」 「……ココ……」 ヒメサマの大きな瞳が、もうちょっとだけ大きくなって、キラキラしてきた。 それで、両手が強くボクを掴むの。 「うわぁぁ!?ボク、どこにもいきません。ホント!」 「……わかっています。あなたは、何処にも行かない」 「そうです。ボク、どこにも、いきません」 ――うーん?ちょっと違うよね。 「……どこにも、いけません」 「迷子になるから?」 バレちゃった。 「……まいご、ハズカシイ……」 ……でも、今日は迷子、違います。 「うふふっ」 ヒメサマが、クスクスと笑って横を向く。 ……けどね。 そのおめめから『キラキラ』がこぼれてるの、見えちゃった。 「ヒメサマ、ぽろぽろ、タイヘン!ふかなきゃ、ふかなきゃ」 ボクは慌てて、手袋でヒメサマの両目を覆うの。 「……ねぇ、ココ」 「あい?」 「気持ちは嬉しいのですが、前が見えません」 「あれれ、しっぱい?あい、コレで、どーですかー?」 指を開いて、隙間を作ってみます。 「ヒメサマ、みえますかー?」 ……こうしたら、平気? 「見えますよ。ちゃんとココが見えます」 ヒメサマ、少しだけ笑ってくれました。 でも、ボクの指を持って―― 「あわわっ?どうしてー?」 どうしてまた、指の隙間を埋めちゃうの? 「いまは、このまま聴いてください」 「……あい?」 ヒメサマのお顔、見えないけど……声は聞こえます。 「ココは、劇のこと……憶えてますか?」 「あいあい。おぼえてます。れんしゅー、れんしゅー」 ヒメサマと、エファと、中庭でいっぱい台詞を覚えました。 「――そうです。よく練習をしましたね」 「その練習ですが、しばらく……お休みになります」 「えーっ?」 びっくりして両手を挙げたら、ヒメサマが見えちゃった。 「どうしてー?どうしてー?」 楽しみにしてたから、何でお休みになるか教えて欲しかった。 「――それは……」 ……けど、いまは訊いちゃダメみたい。 「じゃあ、こんどは、いつごろ、れんしゅー?」 「……わかりません。ただ、しばらくの間は……劇のことを忘れてください」 「――あい……」 なんだか、ヒメサマの声……震えているの。 ……だからボク、わがまま言っちゃいけないんだよね? 「――ヒメサマ?」 「……はい」 「わすれるのって、むずかしいよね?」 「…………本当に、そう……思います……」 それでも、ヒメサマが『劇のこと忘れて』っていうから……きっと、できます! 「あー、でもね、でもねー」 「……?」 「セリフは、おぼえたままで、いいです、かー?」 「――もちろんですよ、ココ」 「あわわっ!」 よく分かんないけど、ギューって抱きしめられちゃった。 「少しの間、このままでもよいですか?」 「あ、あい」 ヒメサマの顔が当たったところ、何だかすごく温かいけど、何だか、何だか……すごく寂しくなるの、何でだろう? ……ひとりじゃなくて、ふたりなのに。 「(――どうして、かな?)」 「――どうぞ、お入りください」 「……」 執務室への招き入れに躊躇うご婦人――赤の使節団の団長をどうしたものか? 「やはり、もう少し広いお部屋へご案内した方がよろしいでしょうか?」 「…………いえ、こちらで結構です」 しばし間のあけてから一礼をくれた彼女は、聞き取るのがやっとの小声でささやき、ゆっくりとした足取りで室内へ。 私が大きな音を立てないようにとゆっくりドアを閉めれば、大袈裟とも思えるぐらいこちらから距離をとる。 「(――人見知りをするタイプ、か……)」 彼女が率いる使節団は、みな一様にフード付きのローブ姿。 それは、遠くからでもはっきり視認できる『赤の記号』的な意味合いが強い。 「こちらがアイン殿のお部屋ですか?」 「……はい」 「失礼ながら、もう少し華美な部屋を想像しておりました」 使節団の団長は、そっとかぶりに手をかけて視野を広げると、端から端まで時間をかけて眺める。 普段この部屋に他国の人間を入れることがないため、室内の調度品は自分の使い勝手を最優先。 気づけば装飾の《たぐい》〈類な〉ど、数点が残るだけになっていた。 「――申し訳ありません。迎賓の間にお通しできれば良かったのですが」 「あまり気になさらず。こちらこそ、急な会談を持ちかけたのですから」 「……わかりました。それでは、そちらにおかけください」 客人が腰掛けるのを待ってから、自分も席に着く。 そして、どう話を始めようかと思案していると―― 「先にお断りしておきますが、これからお話すること全て……他言無用に願います」 と、確認から入られた。 「もちろんです」 「これはアイン殿の胸の内に。できれば、クリスティナ様にもご内密に」 「――念押しされずとも、心得ております」 この数日の姫君は、記念式典のリハーサルで片羽根を失ったエファの調律にかかりっきり。 定期的にデュアがお声をかけるように手配しておかなければ、寝食を惜しんでも調律に打ち込むだろう。 そんな姫君に対して、精神的な負担となりそうな『別件』を持ちかける真似はできない。 「(――いや。姫君以外の者にしてみれば、同件か)」 いま目の前に座る彼女が、わざわざ人目を忍んで二者会談を持ちかけてくるからには、用件もうかがい知れたものになる。 「――それではアイン殿。私からで構いませんか?」 「……どうぞ」 「ハッキリと申し上げます。今回の記念式典において起きたアクシデントに、我々《カーディナル》〈赤の国〉は一切関わっておりません」 「言うまでもないことですが、クリスティナ様を襲った暴漢は私が率いる使節団員はおろか、我が国の者ではありません」 「このことはアイン殿が調べるまでもなく明白で――」 「――お待ちください」 「……なにか?」 「いま、私が『調べるまでもなく』とおっしゃいましたか?」 「当然です」 自信を持って答える彼女に、私は苦笑をしてみせる。 「……残念ながら、そうはまいりません」 「なぜ?」 「関わりがないという証拠がないのであれば――」 「――疑う、というのですか?」 「当然です」 つい先ほど彼女が口にした言葉をそのまま突き返す。 「少なくとも、確証がない以上――」 「アイン殿は、証拠もなしに我々を疑うと?」 「それとこれとは話が別です。調査なくして結論は出せません」 「――調査がなされれば、問題ないと?」 「問題があるかどうかは、調査をしてからですね」 「分かりました。では、我々赤の使節団より正式な調査書類を提出し、嫌疑を晴らすことにします」 「お待ちください」 「まだ何か?」 「調査書類に関しては、願ってもないことです。しっかり拝見させていただきます」 「それでしたら――」 「……が、それはあくまで《 ・ ・ ・》〈そちら〉の調査でしかありません」 「……」 「こちらはこちらで調査をし、その結果と照らし合わせた上で……結論を出すことになります」 「我々の報告が信頼できないと?」 進展を望まない堂々巡りの入り口が見え隠れし、ため息が出そうになるが堪える。 「少なくとも、この一件は《 ヴァイス》〈白の〉国で起こったこと。法律を持ち出すのであれば、調査の権利は我々にあります」 「私および赤の使節団は、外交官特権でそれを拒否します」 「――そうですか」 「はい」 あくまでも不可侵を押し通そうとする団長。しかし、その声には……威厳よりも焦りが感じられる。 「(――可哀想に……)」 使節の《おさ》〈長〉とはいっても、押し上げられてしまった者の哀れ。 聴くところによれば、今回の団長就任は『調律師』としての才覚を買われてのことらしく、赤の重んじる階級制度からはズレた人選とのこと。 この会談に臨むにあたり、徹底した『拒否の姿勢を貫け』と……《 ・ ・ ・ ・》〈真の団長〉から指示されているに違いない。 「わかりました。赤の使節団の方々に関しては不問とします」 「――ご理解いただけて何よりです」 「では、こちらからのお話も……よろしいですか?」 「はい」 「今回の件で、《 ヴァイス》〈白の〉国の統治者――クリスティナ姫を狙ったと思われる暴漢についての調査報告です」 「…………それは……」 「こちらに用意した書類は、検死官からの物」 姫君を襲った男は衛兵によって捕らえられ、ひとまず牢へと入れたものの、事情聴取に対しては完全黙秘の上―― 数時間後、突然喉をかきむしったのを最後に絶命。 「――死因は、服毒と思われます」 「非常に残念ではありますが、本人からの証言がない以上は、遺留品からの身元の特定が最善ですので――」 「お、お待ちください!」 「はい、何でしょうか?」 「いましがた、アイン殿は調査の件については――」 「えぇ、不問と申し上げました」 「なっ、なのに、この調査資料は……」 「私が認めたのは、使節団の方々への嫌疑に関してです」 「この調査報告書にある人間は、使節団はおろか《カーディナル》〈赤の国〉とも無関係……と、さきほどお聴きしました」 「よって、この調査に何ら問題は発生しません」 「そっ、それは……そんなものは、きっ、《 ・》〈き〉弁です!」 「……その言葉、そっくりそのままお返ししましょう」 「……なっ、なんということを!仮にも私は――」 「――赤の使節団の団長。そうおっしゃりたいのであれば、その地位に相応しく、国家間の問題に臨んでいただきたい」 私は、しっかりと目を見据えて相手の言葉を待つ。 「……くっ……」 「……」 女性相手に厳しい態度に出るのは心苦しいが、国事において私情は禁物。 たとえ彼女が泣き出そうとも、引き下がるわけにはいかない。 「さ、最初に申し上げたとおり、この件は他言無用に――」 「それは、今後のそちらの対応次第となります」 「……そっ、それは脅しですか?」 「いいえ。対等な立場ではごく当たり前のことかと存じますが」 「…………」 「それとも、この《ヴァイス》〈小国〉相手に同じ議題の席にはつけない……とおっしゃいますか?」 「――誰もそのようなことは」 「…………」 「……わ、わかりました。その報告をお受けします」 「ありがとうございます」 「――たっ、ただし!これはあくまで、我々に対する嫌疑を晴らすための弁明をすべく、私個人が独断で協力するものであり、使節団員には一切の関係がないことを――」 「わかっております」 「…………」 「あなたの立場も、その後ろに立つ存在の《 ・》〈影〉も」 「……何のことでしょう?とにかく、報告を」 こうして、やっと会談の席についた赤の《みょうだい》〈名代〉と協議が始まる。 こちらが用意した報告書に目を通す彼女は、《カーディナル》〈赤の国〉に不利な部分を発見するたびに再調査の願いを口にする。 「――あの男は、我々と同じローブをまとっていただけです。間違っても、《カーディナル》〈赤の国〉とは関係はありません。それに――」 「あのホールに入場する際、しっかりとした身分照会をされたのは《ヴァイス》〈白を〉始めとする三国の警備兵ではありませんか」 「――はい。その時点では、侵入しておりませんでした」 「……では、いつ?」 「《まくあい》〈幕間〉のあと、です」 「えっ?」 「使節団の方々は、《まくあい》〈幕間〉にこぞって席をお立ちになりました。その方々が席に戻られる頃を見計らい――」 「赤のローブをまとって紛れ込んだ模様です」 「……そんな……」 背格好から性別の推測はできても、目深にフードを被られてしまえば、個人を特定も困難。 一度ホールに通した人間が戻ってきたのだと認識していれば、検査なしにスルーした警備兵が居た可能性もある。 それが他国自国を問わずの《げいひん》〈迎賓〉であれば、なおのこと。 「(――いや、あえて見過ごしたか)」 内通者が居たとすれば、それもあり得る。 「それで、我ら《カーディナル》〈『赤』〉を《かた》〈騙〉った者の正体は?」 「現時点では判明しておりませんが、《カーディナル》〈赤の国〉に滞在した形跡は見つけられました」 「だっ、だからといって我々は――」 「――分かっております。こちらとて……」 どれもこれも赤の仕業だ!……と言っているわけではない。 「――あの、アイン殿……」 「はい」 「これは、私個人がお訊きすることですが――」 「……その……《ブリュー》〈青の〉方々とは……何か?」 「何か、とは?」 「――会談の申し入れをされたとか、そういう経緯は……」 「ありません」 「何か、《ブリュー》〈青に〉ついて調査を?」 「まだ、です」 「それは、《ブリュー》〈青を〉疑っておられない……ということですか?」 「…………いいえ」 一瞬、どう答えるべきか迷ったが、ウソをつくべき相手ではないと判断し、真相を口にする。 「……では、《ブリュー》〈青の〉ことも……」 「失礼ながら、そうなります」 言葉を選び、彼女の反応を見る。 「……よかった」 「……?」 「いっ、いえ。……これは、あくまで私個人の……感想です。くどいようですが、使節団の意思とは関係のない――」 ……いまの安堵に、他意は感じられない。 「(――難しいところだが……)」 ひとまず、《カーディナル》〈『赤』〉に対する嫌疑は保留としよう。 少なくとも、この使節団長は……何も知らないに等しい。 それよりも一番疑わしいのは……考えるまでもなく、青の大使――ヴァレリーなのだ。 「(――ここはひとつ、こちらから仕掛けてみるか……)」 私は目の前に居る使節団長を見て、一計を思いつく。 この計画を実行に移すかどうかは、デュアからの追加報告を待ってからとなる。 「(――と、その前に……)」 私は、彼女に重要な事項を聞きそびれていたのに気づく。 「……そう言えば、まだお名前をお訊きしてませんでしたね」 「――え、えぇ。私の名は――」 ――待ちかねていた御仁が城に姿を現した。 その連絡を受けた私は、取るものも取り合えず登城したが、肝心の存在が見つけられずに焦っていた。 「(――何処に居る?)」 あの御仁には、リハーサルの一件で尋ねなければならないことが山とある。 自分が聞かされていた段取りは、最後の一幕の演技の最中にエファがクリスティナ姫を舞台裏へ連れ出す……というものだった。 しかし、実際に起こったことといえば―― 「(――グッ……)」 予期しなかったワンシーンと共に、胃の痛みが戻ってくる。 この一週間ほどは、まともに眠れぬ夜ばかり。 精神的な限界がくる前に、何としても彼に会わなければ! 「……あっ!あれは」 中庭の回廊を堂々と歩く、あの後ろ姿! 「ヴァレリー殿!」 思わず大きな声で名前を叫んでしまい、振り返る本人から軽く失笑を買ってしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。 急いで階段を駆け下りて中庭に向かおうとしたが、さすがに理性がそれを止める。 「(――これ以上、周囲の注目を浴びるわけには……)」 要らぬ嫌疑をかけられぬよう、城下の大使邸へ近づくことを我慢し、城内で自然と接触できる機会をうかがってきたのだ。 声をかけられたヴァレリー殿が、待たずに何処かへ行ってしまうことなど―― 「(――果たして、ないと言えるのか?)」 計画が未遂に終わったいま、何を信じればいいのか判らなくなってきている。 万が一にもヴァレリー殿が居なくなれば、残された私はどうすればいいのか? 今回の一件で疑われた場合、私には『知らぬ存ぜぬ』の一点張りしかなく、釈明の手段すらない。 仮にヴァレリー殿が裏で糸を引いていると証言したところで、私自身の罪が軽くなることも叶わず。 ……いや。それどころか彼の場合、帰国してしまえば外交官特権によって『白の国』で裁かれず、有利な青の法律に庇護されるだけではないか。 「(――切り捨てられるのか……)」 そうはいかない。 こうなった以上、何が何でも最後まで食らいつく。 「(――最悪でも、亡命の《てはず》〈手筈〉は整えてもらわねば)」 「……ヴァ、ヴァレリー殿」 柱に寄りかかり、到着を待ってくれていた青の大使。 その遠く青空を眺めていた目が、のんびりと私へ向けられた。 「どうしました、ハンス殿。そのように青い顔をされて」 「……は、はははっ。最近、睡眠に見放され気味でして」 「ん?それはよろしくないですな。一度健康を害すると、なかなか元の身体には戻れませんよ」 「は、はは……そうですね」 「(――まるで《 ひとごと》〈他人〉事のように!)」 どうして同じ当事者のあなたが、そんなにも普通で居られるのか理解できない。 少なくとも、あのような大それた計画を実行しながら―― 「ところで、ハンス殿。今日はいかがされたのですか?」 「えっ?いや、その、クリスティナ姫をお見舞いに……」 「――奇遇ですな。私も同じ用件でお伺いしたのですが、やんわりと断られましたよ」 「……まぁ、頃合いとしてはそろそろだと踏んだのですが、思った以上に白の姫はナイーブなようですな」 ――あれから五日。 やっと落ち着きを取り戻したドルンシュタイン城は、以前にも増して静かになってしまった。 それでも城門から中庭へと通じる空間の警備兵は増員され、緊張が消えることはない。 「――ヴァレリー殿。少々お伺いしたいことがあるのですが」 「どうぞ」 「その、できれば場所を変えていただけないかと」 「……そうですか?では、こちらへ」 彼は柱から身を離し、小さなあくびをしてから中庭の中心へ向かって足を進める。 「待ってください、ヴァレリー殿。そちらではなく……」 「下手に隠れると疑われます。堂々といきましょう、堂々と」 歩みを止めることないヴァレリー殿に、私は黙ってついていくしかない。 やがて城の建物が一望できる地点に辿り着いた彼は、 「この場なら、誰かに聴かれる心配もありません」 と笑った。 「(――何処から見られているかも判らないのに……)」 が、彼の言うことの方が重要なのはよく解る。 嫌疑はあくまで嫌疑。確証をつかまれなければ、いくらでも逃げ道は存在するのだ。 「それで、お話とは?」 「――は、はい」 ひややかな視線を受け、何から問うべきかと迷う。 何を尋ねたところで、全てが無意味なのではないだろうか?……などと、諦めの気持ちまでも生まれつつある。 「どうされましたか?」 しかし、ここで引き下がってしまえば、また眠れない夜へと逆戻り。 それなら、腹をくくって思うがままに尋ねる方が百倍マシであろう。 「わ、私が伺っていた話では――劇の最後でエファがクリスティナ姫と共に舞台裏へと入り、待機させていた者たちを使って国外へ……とのことでした」 「えぇ、そのようにお伝えしました」 「……」 「それで?」 「――そっ、『それで』と言われると……」 ……会話が止まってしまうではないか。 いまの切り出しで何らかの答えをくれるだろうと思っていた自分としては、続ける言葉が見つけられない。 「ハンス殿は、何か誤解されているようですね」 「……ご、誤解……」 それならどれほど救われることか。いっそ、全てが《 ・ ・ ・ ・》〈なかった〉ことになればいいのに。 「うーん。全てを明かさないと、ダメでしょうか?」 「い、い……」 まるでこちらを秤にかけるかのような問いに対し、とっさに否定の言葉を口にしかけたが―― 「でっ、できれば、全てを」 今回ばかりは、何も知らずに身をゆだねる気にはなれない。 「よろしいでしょう。同志であるからには、知る権利をお持ちですからね。……ただし」 「ただし?」 「――他言無用、ですよ」 「あっ、当たり前です……」 こんなときに解りきったことを言われると、腹が立つよりも先にドッと疲れてしまうでないか。 「やれやれ。ハンス殿の悪い癖だ」 「えっ?」 「……心境がすぐ顔に出る。いま、張りつめていた糸が切れたのではないですか?」 そんな状況に追いやっているのは貴方だ!……と、声を大にして言ってやりたかったが、その力も残ってない。 「……よいですか、ハンス殿。アナタは賢い。賢いが故に、常に考える。それが悪いとは言いませんが――」 「それを自ら外部に洩らすような真似をしてはなりません。……ましてや、いまが一番大切なときですから」 「悟られてまずいことは、おくびにも出さない。これが鉄則」 「……解りました。努力します」 「そうそう。少し物憂げな面持ちでいれば読み取るのも難しいというものです」 彼はひとしきり笑ったあと、襟元を正して向き直る。 「では、再確認の意味も込めて、順を追って話しましょう」 「――まず、計画の動機はご存じの通り。クリスティナ姫の身柄を預かり、その上で《 ヴァイス》〈白の〉国の面々にアイン殿の立場をご検討いただく……というものでしたね」 「はい」 言葉は選んでいるものの、『姫誘拐における後見人の失脚』というシンプルな計画の説明に過ぎない。 「さて、これにはいくつかの問題がありますが、その中で最も重要なのが――『我々に嫌疑がかからないように』する、ということ」 「ま、汚い言い方をすれば……この私は、《 ブリュー》〈青の〉国の外交官。多少の嫌疑は『いかよう』にもできます。そうでしょう?」 「――はっ、はい」 「しかし、《 ヴァイス》〈白の〉国の人間であるハンス殿や――いまは亡き同志ユッシ殿に関しては、そうもいきません」 「……となれば、答えは簡単。我々よりもあやしい者へと目が向くようにすれば良かっただけのことです」 「――あやしい者」 「えぇ。嫌疑など、《カーディナル》〈赤の国〉にくれてやればいい」 「そう考え、カーディナルの動向を探ってみた結果――こちらが《いち》〈一〉から準備をする必要もない、と判明しました」 「……どういうことですか?」 「今回の記念式典に向けて、赤は赤なりに『幾つかの計画』を動かしていたのですよ」 「ハンス殿は、我々だけが一計を案じている……と思われていましたか?」 「い、いえ」 値踏みするかのような物言いが不服で反発したわけではなく、それなりの根拠があって否定した。 自分とて、赤の使節団の中に不穏な動きをする者が居るのを知っている。 「――フフフッ。神の教えに従い、平和を願う《カーディナル》〈赤とい〉えども……急進派のひとつやふたつが存在するわけで」 「腰の重い保守派の一員を寝返らせる努力より、少しばかり意義主張が重なる派閥同士が手を結ぶ方が楽と気づき――」 「水面下で行動を起こしていた次第です」 「…………ヴァレリー殿は、いつ頃からその情報を?」 「詳細は省きますが、かなり早い段階です」 「それはどの筋から?」 「――《カーディナル》〈赤に放〉った密偵から、とでも申し上げておきましょう」 含みのある言い方をするからには、何か裏があるのだろう。 「赤の急進派が狙ったのは、我々の目的と少しばかり被ります。欲したのは、人形技術の結晶――『ドルンの記憶』です」 「……記憶?」 その言葉の意味するところを掴みかね、単語を繰り返す。 「(――もしかしてヴァレリー殿は、白の王家が代々受け継いできた人形技術最大の秘密を……)」 「おやおや?ハンス殿ともあろうお方が、ドルン家の秘密をご存じないのですか?」 「なんのことでしょう?」 カマをかけられた可能性を恐れ、表情には出さないようにと努力する。 ……が。 「同志相手に隠し事ですか?」 その試みは、鋭い一言であっさりと打ち砕かれてしまう。 「――まぁ、いいでしょう。なかなかサマになってましたよ」 ヴァレリーは私の肩をポンポンと叩き、 「その調子で隠し通してください。ドルンの血がなせる技も、全ては代々受け継がれる貴石のおかげ」 さらりと核心をついてきた。 「なぜ、ヴァレリー殿が……その秘密を?」 「建国から何年が経ったと思われますか?隠し通せるわけもありますまい。言わば、公然の秘密というものですよ」 そう告げられ、いかに自分が小さな世界の中でしか生きてこなかったかを思い知らされた。 外交官として青の国へ出向いた私でも、結局は井の中の《かわず》〈蛙で〉しかなかったのだ。 「とにかく、赤は『高度な人形技術』が欲しかったのです。当然といえば当然でしょう。人形技術は赤の国の《で》〈出〉」 「隣に領地を与えた《ぶんけ》〈分家〉の技術が大きくなり過ぎれば、本家としては面白くもない」 「……そんな身勝手な」 子どもの成長を喜ばず、自らが与えた《オモチャ》〈玩具〉を取り上げようとする大人が居るとは。 「えぇ、素晴らしくも身勝手な話ですよ。赤も、我々も。現状に満足せず、それ以上を手に入れようとするのですから」 「…………」 「さて、どこまで話を戻します?赤の計画ぐらいで?」 「は、はい」 「狙いは先に申し上げた通り、人形技術の結晶ともいうべきクリスティナ姫が持つ貴石――『ドルンの記憶』ですが……」 手を組んだ急進派には、二つの勢力があるとのこと。 うち一方は、保守派寄りの―― 「穏健派、とでも表現しておきましょうか」 あまり《おおごと》〈大事〉にはしたくないが、それでも何らかの成果をあげなければならないと考える一派らしい。 もう片方は、急進派も急進派。 「国際問題に発展することもいとわない――そんな連中です」 それら二つが合意したのは……『表』の穏健、『裏』の急進。 「……『表』がうまくいけば良し。もしダメならば、実力行使。こんな具合で記念式典に臨まれたようです」 「……表の計画とは?」 「エファに仕込んだ『貴石』に、クリスティナ姫の記憶を写す」 「……!」 「青で技術を学んだアナタであれば、この意味も解りますね?」 「は、はい」 人形は成長の過程において、人と同じように周囲の環境から物事を学ぶ。 ……が、両者では学習において決定的な違いがある。 人間が時間をかけて『自分なりに理解していく』ものだが、人形――貴石にはそれを上回る能力が秘められているのだ。 「――記憶石による複製、ですか」 「えぇ。あたかも《とおと》〈尊い〉書物を丁寧に書き写したかのごとく。一言一句の間違いもない、完全な複製」 「しかし、それはごく一部の現象で、事例もそれほど……」 「あるのですよ、ハッキリとした事例が。……それも、幼きクリスティナ姫が起こした一件がね」 「なんですって!?」 それから聴かされた話は、私が全く知らなかった事件だった。 それもそのはず。 先代の王が娘の件を明かした相手は、ごく一部の者だけだという。 「まぁ、詳細を伏せたとはいえ、他国の技術者に相談の手紙を出してしまっては……辿られるのもいたしかたないでしょう」 「……」 「くどい話もいささか疲れましたので、まとめましょう。まず、赤は赤で、それなりの計画を動かしていた」 「貴石に記憶を複製して持ち帰ることを進め、それが失敗した場合には『本人』を連れ去ってしまおうという大胆な作戦」 「私はそれを事前に知り、少しばかり便乗させてもらうことにしました」 「……途中までは《カーディナル》〈赤のお〉好きなように。ただし、最後だけはこちらが頂戴して帰る、とね」 「どうですか、ハンス殿。これで充分でしょう?」 「……いや、解せません」 自分でも信じられない反論を口にしてしまったが、ここで取り下げるつもりはない。 彼がいま話したのは、あくまで『赤の計画』の暴露。 「(――私が訊きたかったのは、『青の計画』なのだ!)」 「……まだ、解らないことがあります」 「――疑問があれば何なりと。下手なわだかまりは、今後にも差し支えますので」 「では、お訊きしますが――ユッシ殿を経由して入手された本物の短剣。あれにはどのような意味があったのでしょう?」 「短剣?あぁ、劇でエファに持たせていたモノですね」 「……はい」 見た目は本物でも、実際には刃がついてない劇用の短剣。 それをわざわざ本物に換える必要があったとは思えない。 「あれは、一種の保険ですね」 「保険とは?」 「万が一の失敗にそなえてのことです。策略とは、常に失敗を想定した上で成功を模索しておかなければなりません」 「あの短剣に刃があれば、エファがクリスティナ姫に、危害を加える意思があったかのように見せることができますからね」 「……」 「――それに」 「それに?」 「最後のシーンに、本物の緊迫感が生まれるでしょう?」 「結末の分かりきったお芝居といえども、『万が一の要素』が加われば……脚本を知る我々も楽しめるではないですか」 「(――ウソだ)」 ヴァレリー殿らしい理由ではあるが、それが全てではない。 「(――万が一、を加えたのではないとすれば……)」 「……私がココを使ってエファに制御石を入れたのは……」 「ん?それは、舞台の《 ・ ・ ・》〈女王様〉を裏へ連れ去ってもらうための細工です。ご説明しませんでしたか?」 「は、はい」 「クリスティナ姫の手を引いて走り出す人形が『ココ』では、我々《ブリュー》〈青が〉疑われてしまうではありませんか」 「なので、面倒でも少々手の込んだ真似をした次第です」 式典当日、エファと直に接触する危険を避けるために、一番近くに居て疑われない存在――ココを利用した。 ココに与えたモノは、その後の行動を制御するための貴石と、エファ専用の眠り薬が混入された菓子。 すでに制御石の効果で無用なことを口にしなくなったココは、菓子を食べて眠るエファの靴を脱がせて、その踵に造られた隠しに『もうひとつの貴石』を入れる使命を果たす。 ……問題は、このエファに仕込んだ貴石なのだ。 「エファの制御石に関しては、赤より入手したエファ用のモノ。失礼ながら、技術を学んで数年のハンス殿に任せるには……少々手のかかる代物でして」 「(――それも、もっともらしい理由だが……)」 その貴石に封入された『制御式』が暗号化されていたのは? 「(――あぁ、そうか。発見された場合の時間稼ぎか)」 ……私が尋ねれば、きっと彼はそう答える。 「……フフフ。右の踵に記憶石があり、左の踵には制御石。ちょうどバランスがとれたと思いませんか?」 「それに、ふたつも石が揃えば嫌疑としては充分でしょう。いや、短剣という要素もありましたな」 「(――それだけではないでしょう?)」 ヴァレリー殿は、一番重要な部分を話してくれない。 「まだ他に気がかりなことでも?」 「――その、最後の最後で登場した、我々の計画になかったはずのフードの男は……」 尻切れトンボの質問に、彼は口元に薄い笑みを浮かべたままこちらを凝視した。 「――あれは、赤の陰謀だろう?」 「……!」 「……違いますかな?」 これまでなかった強い物言いに返す言葉を見つけられず、私はただオロオロするばかり。 いま、彼の目は笑ってない。 「怖ろしい話ですな、ハンス殿」 「(――あろうことか……)」 「カーディナルは、我々よりも大胆な手を用意していた」 この御仁は、初めから―― 「あのとき、エファが割って入らなければ、クリスティナ姫もどうなっていたことか」 エファに握らせた短剣や、フードの男を使って―― 「……さすがの私も、あそこまではできません。ハンス殿も、そう思いませんか?」 「(――間違いない!)」 先回りの否定と結論への誘導は、肯定以外の何物でもなく。 赤の急進派は、クリスティナ姫を奪取しようと動きながらも、当の本人を傷つけるような計画を練るわけがない。 クリスティナ姫を舞台上で殺害し、その罪を赤に被せる。……彼が準備した計画は、そこまで狙った陰謀だったのだ。 「(――しかし、どうして殺害など大それたことを。そこまでしたら、あとに待つのは……)」 「何にしても、困ったことになりましたな。これは、最悪の事態も考えなければなりませんぞ」 「さ、最悪の事態?」 「戦争」 「(――ああぁぁぁぁぁぁ!!)」 私は自分を呪う! 計画の一端を握りながら、その可能性が見えてなかったなど! 自分やユッシ殿に持ちかけた話など、飾りにも近い。 アイン殿の失脚に手を貸すフリをし、クリスティナ姫の命はおろか、白そのものまで戦火に巻き込むつもりだったとは! 「……ぐぅぅ……」 「――あぁ、皮肉にも《 ・ ・》〈平和〉式典が『戦争』へと発展するとは」 「あっ、あなたは、はっ、初めから……」 「ん?ご存じだったでしょう?」 「まっ、まさか!そんなことと知っていれば……」 「……知っていれば?何を、どうなさいました?」 「…………」 「ハンス殿に止められたとでも?」 死神が喉元に鎌をあてがい、優しくささやく。 「忠義の心に目覚め、これまでのことを進言しますか?そうしたところで、もう歯車は動き出したあとです」 「――どちらに転んでも、裏切り者には死あるのみ。……なれば、とるべき道はひとつ」 「――勝つ側の庇護を受けるしかありませんね」 「…………」 初めは、アイン殿の鼻をあかしたかっただけだった。 ユッシ殿のように、大それた野望もない。 それが話を聴くうちに戻れなくなり、ここまできてしまった。 「(――いや……)」 ココに貴石を仕込むことを拒まなかった時点で、私の運命は決まっていたのだ。 「……心は、決まりましたか?」 「……は、はい」 ヴァレリー殿の言うとおり、全ては『赤の仕業』に。 そして何が起ころうとも、青の大使についていくしかない。 「……思いついた計画をそのまま行動に移すなど、世の中の現実と厳しさを知らない子どもがするようなこと」 「我々のような大人が自らが策を弄したゲームに負ければ、頭上に落ちるのが親の《こぶし》〈拳と〉は……到底思えません」 「もっともなお話……です」 「(――代価のほどを知れ、ということか……)」 「ご理解いただけたようですな」 「――は、はい」 もう、充分すぎるほど解った。 「そう青い顔をされず、もっと大きく構えて。あ、そうそう!」 「……?」 「ご安心なさい。国家を裏切ろうとする者が、ひとりであろうはずがありません」 「…………どういうこと、ですか?」 「他にも居るのですよ。この城の中に入り込んだ者が――」 ヴァレリー殿は、これまでにない会心の笑みで空を見上げる。 「……《 ・》〈女〉とは、怖ろしいものですな」 「――おっ、女!?」 「詳しくは、時が来たらお話しましょう。いまはまだ、ただの不確定要素ですから」 「…………」 まだまだ切り札を隠し持つ策士の余裕を見せつけられ、胃がキリキリと痛み出す。 「(――あと、何日こんな思いをすれば済むのだ……)」 私は、自らの母国を敵に回し……何をしているのか? 「(――この男は、白や赤を敵に回して……)」 ……何を手に入れようとしているのか? もう私には、何が正しいのかも――判らなくなっていた。 18.10.15 今日の朝、訃報が入る。 元外務大臣のユッシ・オズボーン殿が急死。 昨日の朝に会ったときには何ら兆候もなく至って元気そうだったため、信じられない。 死因は『病死』とのみ伝えられた。 冥福を祈ると共に、祖国のために尽くした彼の遺志の一部を継ぐことをここに記す。 18.10.16 ユッシ殿は公示で『病死』と発表されたにも関わらず、幾つかの噂がささやかれている。 中でも一番怖ろしかったモノが『伝染病』であったが、これに関しては当初から検死官によって否定されている。 万が一にもそのような怖ろしい事態だったとしたら、火葬処置などがとられているはず。 ……よって、伝染病説はあり得ないだろう。 次に多いモノは、病死説ではなく…… いや、これはわざわざ書き留めるほどのことではない。 今日は、ここまでとしよう。 18.10.17 葬儀の後、オズボーン邸で見知りの使用人を数名つかまえてユッシ殿の話を聴く。 驚かされたのは、最期を看取った者はひとりしかおらず、その他の使用人は正式な病名はおろか死亡時刻を『夕方頃』としか把握していなかったこと。 《しようにんがしら》〈使用人〉頭の執事ですらも詳細を口ごもる中、私はその看取ったと言われる男を探したが、主の死のショックから体調を大きく崩して《いとま》〈暇を〉もらい屋敷を去った……と聴かされた。 その男は、《ぎょしゃ》〈御者〉として仕えていた模様。 屋敷を出たあとの行き先は……不明。 御者が最期を看取り、葬儀前に屋敷を去る。――これが何を意味するのか? 18.10.18 ドルンシュタイン城の階段には気をつけよ。 下手に転べば、捻挫では済まないと知れ。 診察費と治療費は、推定で10と14。 最終的には、もっと高くつくかもしれない。 18.10.20 ここ最近、食欲が減退している。 来月になれば、少しは状況も落ち着いて回復するだろうか? 18.10.20 記念式典に合わせ、ワインを《 ・ ・》〈入荷〉する予定。 手配主は、青の大使であるヴァレリー殿。 私は受け取りのサインをしないが、当日の朝『手続き』さえ済ませておけば、後々問題も起こらないだろう。 ワインにあまり詳しくない私自身としては、ヴァレリー殿に全て任せてしまいたい。 18.10.23 式典が近づくにつれ、段々と不安になる。 私の準備に問題はなかっただろうか? 万が一の手違いがあれば、これまでの全てが水泡に帰すことになる。 J2つを再確認。最終配分はC1、E1。 Cを経由してEにJを渡して、Cは終了。 CのJは、回収。EのJは、そのまま。 18.10.25(再記) 24と25の日記についての補足。 裏面の存在を忘れて新しいページと勘違いし、破いてCに渡してしまったせいで、二日分の日記をなくす。 さらに、先のJ回収の際の時点では気づかず、いまこうして失敗を悔やむ形となった。 ……が、特に何か問題のある覚え書きもないので良しとする。私の準備に関しては終了。 ……あとは、記念式典が《 ・ ・》〈無事〉に終わることを祈るばかりだ。 「(――フフフッ。思った通り)」 三国会議の提案。 アインからの申し出は、とても判りやすいモノだった。 「(――招集を受けたのは、俺と《カーディナル》〈赤の使〉節団長。リハーサル時の参考人としてデュア)」 「……そして、ハンス」 白の国にしてみれば、赤の使節団長など初めからお飾りで、三国という名目を成り立たせるための1パーツとしか考えてないだろう。 ……いや、『他国の証人』という価値は充分にある。 「(――この俺の計画を暴いたときには、な)」 青と赤を天秤にかけ、どちらがあやしいかと言われたら……どう考えてもこちら側に疑いのまなざしは向く。 それは当然の成り行き。 迎賓の間での会談をデュアに察知されたことで、俺は確実にマークされている。 手元のワインを見て、『輸出禁止銘柄を持ち帰りたい』……などという思いつきの戯れ言が易々と通るはずもない。 そう。俺は通らないのを承知で、あからさまに手札を隠してみせたのだ。 「(――多少のリスクがないとな)」 この退屈で結果の見えているゲームに、色を添えるため。 少しばかりの張り合いもなければ、真剣さに欠けてしまう。 「(――しかし、哀れな話だ)」 人形だけが売りのような弱小国は、父母たる青や赤の顔色をうかがい、常に生き残る道を模索し続けなければならない。 どちらにもつかず、離れず。 片側に寄り過ぎれば、必ずもう一方の機嫌を損ねる。 「(――針のむしろ)」 ここ数代はパワーバランスを考え、青と赤との《いんせき》〈姻戚〉を避けて国内から《きさき》〈妃を〉選んでいたようだが―― 先代王の妃が、一子クリスティナを出産してから数年で病死。 喪が明けてしばらくも経てば、争うように青と赤それぞれの国から、望みもしない次のお妃候補を立てられていた。 「(――それでも、先代の王はよく乗り越えたものだ)」 もちろん、早々に別口から次を決めれば良かったのだが…… 「(――亡き妻への操か、《 ・》〈娘〉可愛さか)」 それもせず、嫡男もないままに他界したおかげで現在がある。 「おかわいそうに」 国家成立時の取り決めが『直系世襲』である以上、《ぼうけい》〈傍系〉から正当後継者を探すわけにもいかず。 統治者の座は、強制的にもクリスティナのために用意される。 「(――名目だけの血筋が求められるなら誰でも良いが)」 そこには、それが許されない理由が隠されているのだ。 「(――人形技術の伝達)」 白の国歴代の統治者たちは、個々の資質に左右されつつも、その時代において最先端の技術を獲得している。 ……それも、異例とも思える短時間で『先代クラス』まで。 とても書物や優秀な先生だけで補えるものではない。 では、何がそれを実現させているか? それが初代から脈々と受け継がれ、人形技術の叡智の全てを貯め込んでんできたと言われる貴石――『ドルンの記憶』に他ならない。 「(――人間の記憶を受け継ぐ貴石)」 ドルン家は、あらかじめ直系のみが利用できるような細工を施し、それを代々の保険としてきた。 無論、それは青と赤がお互いにかけ合った《 ・ ・》〈呪い〉。 「(――双方どちらの手にも、技術の真髄が渡らぬように)」 仮に強奪されたとしても、中を覗くことができなければ……貴石とはいってもただの石。 利用価値のない石ころを得たところで、誰も喜びはしない。 「何ともまた、立派な『鍵』をかけたもの。……まさに血のなせる技であり、哀しき宿命ともいえるな」 血筋だけで統治者に祭り上げられた少女が背伸びをする姿は……見ていて嘆かわしい。 良き隣国の一外交官としては、早く男をあてがい、気持ちを楽にさせてやるべきだと思う。 「(――なぁ、アイン)」 若すぎる後見人としては、候補を押し通すのも難しいのか?いやいや、それとも…… 「(――時期を見計らって、自ら統治者になるつもりか?)」 内部の反発は覚悟しなければならないだろうが、名門貴族のアインであればその資格は充分にある。 姫の後ろに立っていた良き理解者が真横に移動したところで、諸外国の面々の話す相手は『これまで通り』なのだ。 「(――それはそれで面白い)」 オマエのような優秀な人間こそが、民を率いるべきだろう? 白の当主がアインならば、外交でしのぎを削るのも悪くない。 「……しかし、しかし、し・か・し」 そんな願いはもう叶わない。 「(――残念だったな、アイン)」 ……もう、準備が整ってしまった。 どれほど我ら《 ブリュー》〈『青〉』が疑られようと構わない。 「陰謀を暴露するには、とても良い日だな」 《カーディナル》〈赤の国〉の連中が、エファの靴に記憶石を入れたことも。 クリスティナを殺すための制御石を加えたのも。 念には念を入れて用意した、ローブの暗殺者も。 「……我々《ブリュー》〈青へ〉の嫌疑は、オマエたちの血で洗い流してやろう」 全てが《カーディナル》〈『赤の〉仕業』となり、全てが丸く収まる。 アインが用意してくれた三国会議の場こそが―― 「(――戦争のファンファーレを鳴らすにふさわしい)」 「……エファ。調子はどうですか?」 「……はい。良い目覚めです」 その言葉を聞いて、わたくしはホッと胸をなで下ろす。 あの一件以来、傍らを離れず看病と調律を繰り返してきたが、やっと以前のエファらしい表情を見ることができたのだ。 「姫様。私はどれぐらい寝ていたのでしょうか?」 「さぁ、どれぐらいかしら。でも、そんなことは良いのです」 「そうはいきません。私は劇をするために……」 そこまで口にして、エファはハッとする。 「――あの、申し訳ありませんでした」 「なにが、ですか?」 「その、私は……舞台に立つ資格のない者です」 「……何を言っているのですか?」 「――それは、その」 自分の背中に手を回しかけた姿を見て、エファが考えていることを悟った。 「天使の羽根を失ってしまったから、とでも?」 「………………はい」 その言葉が、わたくしの胸に突き刺さる。 エファは自らが羽根を失ったことを哀しむよりも、それによって劇に出られないと考えている。 動けなかったわたくしを護ろうと、震える身体で凶刃の前に立ちふさがったことについて語ろうともしない。 「(――エファ……)」 このままあの出来事に触れず、ふたりが忘れたい記憶として扱うこともできる。 しかし、それは間違っているのではないだろうか。 そんなことをしたら、わたくしはこれから先、ずっと誰かを頼る一生になる。 自分のために傷ついた者を黙認する人間にはなりたくない。 「(――では、なんと告げればいいの?)」 御礼?それとも謝罪? こんなとき、普通ならどんな言葉で理解を求めればいいのか。 切り出し方すら見つけられないこの身が、恨めしい。 「(――それでも……)」 それでもエファに伝えなければならない。 たとえ、うまく表現できなくても―― 「あなたはわたくしを助けようとしてくれ、そのせいで羽根をケガしてしまい……」 「い、いいえ。それは違います。姫様のせいではありません」 「何故、違うというのです?」 「それは、私が不注意で……私がうまく避けていれば……」 「そんなことができるはずありません。あなたは最初から――」 「――あなたは最初から盾になろうと立ち上が……って……」 「ひ、姫様!?」 言葉に詰まったわたくしに駆け寄ろうとしたエファが、まだふらつく足を制御しきれず倒れそうになる。 「危ない!」 急いで差し伸べた手は何とか間に合い、何とか彼女を支えることができた。 「も、申し訳ありま――」 「……エファ。何度言えば分かるのですか」 「えっ?」 「そのような謝り方はしない、と約束したではありませんか」 「あっ、あ……ご、ごめんなさい」 心なしか、エファの身体が軽く感じられる。 舞台に上がる前に調律したときは、もう少し―― 「(――あぁ、羽根のせいなの?)」 それとも、食事らしい食事をさせてあげられなかったから? どちらにしても、全ての責任はこのわたくしにある。 いくら自分が動けなかったからとはいえ、エファが傷つく姿を黙って見ていたのは……わたくしなのだから。 どれだけ言い訳しようとも―― 「悪いのは、わたくしの方です」 「……えっ?」 「…………わたくしが、エファにケガをさせたのも同然です」 「そんな。何度も言いますが、あれは私が勝手に――」 「本当に、勝手だった……と思っているのですか?」 「は、はい」 「どうして、どうしてそんなことを言うのです?」 「…………姫様?」 「どうして、わたくしを責めないのです」 「な、なぜ姫様を責めたりしなければ……」 本当にそうされたところで、心が晴れるわけでもない。 逆に、わたくしの気持ちは沈むだろう。 「思った通りを口になさい。痛かったのでしょう?」 「それは……」 「わたくしのせいでしょう?」 「……違います」 エファひとりが傷つき、自分だけが何の被害もない現在が変えられるなら。 自虐など無意味だと判っていても、せめて心ぐらいは―― 「(――エファと共にあらんことを望んでいる……)」 「――姫様。もうこのお話は……」 「……いいえ、なりません」 ここで話を終わらせられるほど、わたくしは大人になれない。 「――わたくしが逃げれば、あなたが前に出るような真似もせずに……」 「それは、私が姫様の上に居たせいです。姫様は――」 「あなたを押しのけてでも逃げていれば――」 「無理です!」 エファにしては、大きな声。 「……エファ?」 「姫様は、姫様はあのとき……動けなかったのでしょう?」 「…………そうです」 「私も……本当は……動けなかったのです」 動けなかった?わたくしの聞き間違い? 「姫様が最後の台詞を口にする場面の少し前から、私の身体はいうことをきかなくなっていました」 「意思の効かない人形は、眠ってしまった人と同じような重さです。とても姫様ではどかすことなどできません」 「……ですから、姫様がいくら逃げようとしても……」 「お待ちなさい」 「…………」 「それでもあなたは、実際には『動いた』ではありませんか。いまの理屈は当てはまりません」 「……でっ、でも私は……とても姫様を責めることなど……」 「……?」 「わ、私は、私は、ひ、ひめ、姫様を……あのとき……」 エファの様子がおかしい。 わたくしは黙って彼女をベッドに座らせ、そのわななく唇にそっと人差し指をあてる。 「気づかず、ごめんなさい。まだわたくしと言い争うには早い体調でしたね」 「そうではありません。私は……」 「いいのですよ、エファ」 どけられてしまった指を再び元の位置へ。 「いまはもう少し、お休みなさい」 「ひ、姫様。私は、その前に言わなければならないことが……」 「――いいのですよ、エファ」 わたくしは調律師。エファが何かを口に出来ず苦しんでいるのは、痛いほどよく解る。 「さぁ、横になって。また起きてから……ね?」 「…………は、い」 静かに頷いたエファに手を貸し、横たわらせる。 「姫様、すみません。私は、ずっと姫様のベッドを使って……」 「いいえ、よいのです。一日も早く回復してくれれば」 「はい、頑張り、ます」 「……うふふっ」 「??どうされたのですか、急に?」 「いえ。いまのエファの喋り方がココに似ていたので」 「そうでしたか。そういえば、ココは……どうしていますか?」 「ココは、いつも通りです。エファが部屋に帰るのを心待ちにしていますよ」 「…………分かり、ました……」 まぶたが揺らぎ、見え隠れする瞳が涙に濡れているエファ。 「……姫様。もう少しの間だけ……お側に……」 「何を言うのですか。ずっと側に居ますよ」 軽く彼女の手を握って頭を撫でてあげると、やがてリズムの整った寝息が聞こえてくる。 わたくしは安らかな寝顔を見たまま、なるべく音を立てないようベッドサイドに座る。 「(――わたくしは、本当に愚かです……)」 先のやりとりが、彼女を哀しませていると解っているのに。 親に甘える子どものように、ただ困らせてその反応が見たいだけの気持ちで、エファに無理難題を押しつけていた。 否定でもいいから――わたくしの弱い部分を知り、きつく諭して欲しい。 肯定でもいいから――わたくしの弱い部分を感じ、優しく騙して欲しい。 そうすれば―― 「――ありがとう、エファ……」 ……御礼も。 「……エファ。ごめんなさい」 ……謝罪も。 取り繕うことなく、素直な気持ちで言えたのだと思う。 「(――こんな言い訳が浮かぶうちは、いつまで経っても……)」 誰かの助けをアテにして生きていくことになるだろう。 「……姫様……」 「どうしたのですか?」 「姫様……私は……私は姫様を……」 「……?」 どうやら意識がしっかりしているわけではなく、うわごとが洩れているらしい。 「台詞を……」 苦しそうな顔で呟くエファを見て、起こしてあげるべきかどうか悩む。 「台詞を……止めて」 「(――台詞?もしかして、劇のシーンを夢見ているの?)」 「私は……私には……姫様を殺すことは……できない……」 「…………わたくしを殺す?」 一瞬、言いしれぬ恐怖を覚えたが、すぐに劇の終盤の展開についてだと気づいてホッとする。 ――しかし。 「姫様、離れて……ください……」 「エファ?」 「そうしないと……私は……姫様の最後の台詞で……」 謎めいた発言。 先ほど、何かを言いかけて言えなかったエファ。 ……わたくしを殺す。 「…………!」 とてつもなく嫌な予感が脳裏を駆けた。 たとえるなら、わたくしの知らないエファが居る。 「……エファ、答えて」 本来、調律とは相手の合意の元に行うべきものだが、いまはその決まりを犯す。 きっと、夢うつつだからこその―― 「劇の最後の台詞。何か、秘密があるのですか?」 「…………私は……その台詞で……姫様を……ころ……」 みなまで聞かずとも、充分に解った。 「――そこまで。それ以上は何も言わなくてよいです」 「……できません。私には、できません」 「もうよいのです、エファ」 しかし、彼女は言うのを止めない。 「私には、姫様を……」 「エファ」 「――大好きな姫様を殺すなんて、私には……」 「…………エ、エファ……」 突然の一言が耳に流れ込んだ瞬間、わたくしの全身から力が一気に抜けてしまう。 「(――大好き……)」 これまで父や母を相手に、自らが口にしたことはある。 もちろん、心底そう思って表した気持ち。 それに応えるように返された言葉は、いまでも覚えている。 ……が、いまほど重く感じた経験はなかった。 「……好き……」 アインやデュアが口にする親愛の『好き』とも違う。 「(――だい、すき……)」 ココに言われる『すきー』とも違う。 「(――だ……いすき……)」 何故かエファの口から漏れた言葉だけが頭の中でぐるぐると回り、どこにも出て行こうとしない。 「(――それは、本当なの?)」 もしかしたら、混乱しているだけかもしれない。 「……エファ」 「……姫様」 彼女がまどろみにいることは解っている。 人形の気持ちを調律で解き明かすのが、どれだけやましいことか百も承知。 それでも、わたくしは……もう一度、エファの声で、口で、言葉で…… 「(――もう一度、聴きたい……)」 額を近づけ、調律の体勢に入る。 鼓動が高鳴り、どう尋ねればいいかを悩み焦ってしまう。 「(――そう。素直に……素直な気持ちで……)」 「わたくしのことを……どう、想っているのですか?」 わたくしは、勇気を振り絞って問いかける。 「……私は……姫様のことが……大好きです」 「…………!」 「誰よりも、姫様のことが……好……き」 「……も、もう……何も言わないで」 「いいえ、何度でも。姫様が……姫様が、望まれるなら……」 「ご、ごめんなさい。わたくしが、言わせているだけなの」 あのときの夢と同じ! アインがデュアに告げるはずもない言葉と同じ! 調律の力で、聴きたいと思う言葉をエファに押しつけて―― 「姫様……どこに、いらっしゃいますか?」 「……わたくしは、ここに居りますよ」 「――これは、夢……ですか?」 「……そうです。あなたは夢の中に居るのです」 調律中とは言えずにウソをつく。 「……良かった。夢なら……安心です」 そしてわたくしも、他愛ないやりとりで罪悪感を紛らわせる。 「……でも、どうして?夢だと安心できるのですか?」 「夢の中の姫様になら、甘えても怒られません」 「うふふ。きっと、現実のわたくしも怒りませんよ」 「本当、ですか?」 「……本当ですとも」 間近で感じるエファの吐息が心地よくて、何でも許せそうな気持ち。 「それなら目が覚めたときに……」 「目が覚めたときに?」 「……やっぱり、無理です」 「(――あらあら、エファったら)」 「勇気をもちなさい、エファ。きっとあなたならできます」 「いいえ、私にはとても無理です」 「……それなら……」 調律で心を聴き出した、せめてものお詫びに。 「夢の中で、わたくしを本物の姫様だと思って練習なさい」 「……良いのですか?」 「えぇ、もちろんです。これは、夢ですから」 「…………では、夢の姫様に……お願いです」 「はい、どうぞ」 「抱きしめて、ください」 「うふふっ。それならいつも調律で……」 「違います、姫様。私は……私は……」 「……?」 「調律ではなく、人形でもなく――」 「エファ、として抱きしめてほしいのです」 「………………」 「ダメでしょうか?」 「……いいえ」 「(――これは、夢……)」 そう自分に言い聞かせる。 そうすれば、普段のわたくしとは違う自分になれるはず。 「――いま、夢のエファを抱きしめることはできません」 「……そうですか……」 「――でもね、エファ。代わりに……」 わたくしは、ずるい。 エファの望むモノを与えず、自分の欲しいモノを求める。 「これは、夢です。……だから、特別に……」 額を離し、ゆっくりと吐息の在処を見つめ―― 「……あっ……」 「……んんっ……」 ……そっと自分の唇でふさぎ、数秒だけ重ねたままの感触に身をゆだね、わたくしだけが現実を取り戻す。 「……ひめ、さま……」 「…………エファ……」 「私、嬉しい……これが夢でなければ……もっと……」 「――そうですね。わたくしも、夢でなければ……」 ……きっと、この気持ちを伝えられなかっただろう。 「――ごめんなさい。わたくしは……」 「何を謝るのですか?」 「それは……」 「謝らないでください、姫様」 「私に勇気をくれた夢の姫様が謝られては、困ります」 「…………勇気などと、そんな……」 「そして、ありがとうございます」 「……えっ?」 「夢とはいえ、私は……とても幸せでした」 「……でした?」 「……夢から醒めたら、私は……きっと赤の国へ……」 「――エファ!」 夢とはいえ、手に入れたばかりの気持ち。 それが現実に持ち帰れないモノと暗示するような未来を悟り、わたくしは全てを無くしそうになる。 「夢の姫様に、お願いが……あります」 「……なんでしょう?」 「良ければ、私が眠ったとき……また会いに……来てください」 「…………」 わたくしは、調律の効果が切れるまで――何も答えることができなかった。 「……ヴァレリー殿は、どこだ?」 呼び出しを受けた三国会議。 できれば出席する前にお会いして、注意点の確認などをしておきたかったのだが―― 「……どこにも見えない」 城内での接触は控え、外門よりも前でお待ちしようと思い、人目につかない位置から様子をうかがっていた。 しかし、定刻が近づいてもヴァレリー殿の馬車が現れない。 不安になって外門を護る衛兵にそれとなく尋ねてみれば、何と1時間前に通過されているとのこと。 それではまるで、『変更前の会議時間』に合わせての入城ではないか! そういうことなら、自分にも使いの者を走らせてもらえれば良いのに……と考えたとき、あるひとつの懸念が生まれた。 「(――もしや、自分が時間を間違えたのでは?)」 すぐに手記帳を開き、自分のスケジュールを確認する。 確かに今日の朝、アイン殿の使者が1時間の遅れを伝えにきたと明記してあるし、自邸を出る前に二度は見直した。 「(――こんなことなら、当初の予定時刻で登城すべきだったか)」 ……といって、下手に早く到着して居心地の悪い思いをするのも、痛む胃にさらなる負担をかけるので避けたかった。 「――仕方がない。そろそろ行くか」 事前の打ち合わせという意味なら、もう数日前に終わらせてある。 会議中は私が口を挟まず、ヴァレリー殿に任せておく。 もしもこちらに話が振られたときには、彼のフォローを待つ。 このニ点さえ守れば、『あとはどうとでもなる』と言われた。 ……私としては、それを信じて会談に臨むしかないのだ。 「さて、会議は執務室ではなく……食堂で、だったな」 あやうく執務室に向かいそうになった足を逆方向へ。 会食を兼ねて……と考えたなら、時間の調整も妥当だろう。 「(――しかし、それにしても……)」 どうしてこの城は、こうも静かなのか。 これではまるで、誰も住んでいないかのような―― 「(――うん?)」 夕暮れの廊下の先に、見覚えのある姿が佇んでいた。 ……が、それは、私が求めていた人物ではない。 「……い、いやぁ。デュア……か」 「――お待ちしてました、ハンス殿」 「(――ふーっ。しかし、何故デュアが……)」 その答えは、私が考えるよりも早く、 「自分も会議の席に呼ばれておりましたので」 と、彼女の方が答えてくれた。 「そ、そうだったな。……で、もう他の方々はすでに?」 「……えぇ」 デュアはこちらに歩み寄り、そのまま私を追い越して後ろへ。 そして、窓際に立つ格好でゆっくりと振り返った。 「……ハンス殿」 「――なにか?」 「自分は、姫の護衛隊長です」 ……何を急に言い出すかと思えば。 「もちろん、言われなくても分かっているが?」 「……えぇ。二年離れていたハンス殿でもご存じでしょう」 「――な、何が言いたい?」 「二年の間に、何がありました?」 「……デュア。質問の意図が……」 「ご自身の思うままにお答えください」 デュアの低い声が、背筋に冷たいモノを走らせる。 「それは……《 ブリュー》〈青の〉国で大使として……」 「貴殿は大使として務め、何を持ち帰られた?」 「…………」 「あなたは祖国に何を持ち帰られたのか、と尋ねている」 「お、おい。その訊き方はまるで尋問ではないか」 「いかにも。これは尋問。そしてこれは――」 「二年の間に、自分が請け負った仕事の一環です」 普段は物静かな彼女の腰のサーベルが、ガチャリと鳴る。 「ま、待て待て。そろそろ会議の時間だ。遅れるようなことはできないだろう?」 食堂への通路は私の後ろ側。 デュアが道をふさいでいるわけではないので、さりげなく後退ればいい。 「尋ねたいことがあるなら、あとでいくらでも付き合おう。だからいまは……」 「ご安心を。すでに遅刻の件は了承済みです」 「……は?」 「付け加えるなら、会議は執務室で開かれております」 「…………そんな馬鹿な!私のところにアイン殿から……」 「残念ですが、場所も時間も……変更されておりません」 「なっ、な!?じ、じゃあ!」 場所は食堂ではなく、会議は一時間前から始まっていた!? 「執務室は、自分の後ろを進んだところにあります」 「そんなことは、言われなくても……」 「しかし、ハンス殿をお通しするには条件があります」 「デュア、冗談はそれぐらいで……」 「冗談?自分は、つまらない冗談は大嫌いですが」 「強いて言えば、笑えない冗談ほど嫌いなものは……ない!」 「……ひっ!」 デュアの眉間にシワが寄り、口調がズンと重くなる。 「(――この女……まさか……)」 「全く知らない間柄でもない。手短にいきましょう」 「――貴殿は、式典で何を?」 「……なっ、なにを……なにもしてない。準備だ」 「何の準備でしょう?」 「式典で使う舞台劇の準備だよ。……といっても、あくまでもうちの使用人に手伝わせただけだ」 そうだ!私は何もしていない。 自分を信じろ。自分を信じ込ませろ! ここで退けば、もうあとがないと思え! 「……そうでしたか」 「そ、そうだ」 「では、もうひとつ。ユッシ殿から、何を受け取りましたか?」 「……は、はぁ!?何をとは何をだ?」 カマをかけられているだけだ。そうに決まっている! 「…………」 「さ、さっきから中途半端な質問ばかりだな。言いたいことがあるなら、ハッキリ言え。……何かの嫌疑なら、それなりの証拠を見せてからにしたまえ」 「証拠?」 「そうだ!私がユッシ殿から『何か』を……というなら」 「…………ワイン」 「……ワ、ワインだって?」 一瞬、何かと思って驚いたが―― 「……ふっ、ふはははっ!」 やはり、やはりそうか! とんだ勘違いのまま、尋問を敢行しているわけだ。 「……デュア。オマエは、以前の一件の話をしているのだな?」 「……えぇ」 「ヴァレリー殿が土産に持ち帰ろうとした、輸出禁止ワインのことか!」 「それ以外に、何が?」 嘘をつくのは苦手だが、自分にやましいことがなければ、臆病になる必要もない。 「ふふふっ。……いいか、よく聴けデュア。このハンス、ユッシ殿からワインなど――」 「それは……本当ですね?」 ワイン譲渡を否定する発言の途中で、真偽の割り込みが入る。 「もちろんだ!何かに誓えと言うなら、いくらでも誓おう!」 「そうか。……では、この剣に誓っていただきたい」 「……け、剣!?」 デュアが軽く鞘を揺らし、先ほどの音を再現する。 「嘘がないのであれば、誓えるでしょう?」 「……い、いいだろう」 「――それを聴いて安心しました」 「えっ?」 彼女の身体から漂ってきていた緊張が緩む。 「もしも貴殿が誓えないと言ったら――」 「そんなわけないだろう。潔白な身の上で、何を《ためら》〈躊躇〉うか」 「……これで、心おきなく断罪できるというものです」 「――何を言っている?いま、その剣に誓って……」 「……貴殿は、アイン殿が何も知らないとお思いか?」 「なっ……」 「ハンス殿が受け取ったのは、これだろう?」 「(――あぁぁ、それは!)」 ひらひらと舞って足下へと落ちるのは……紙。 それはよく見れば……エファが舞台で使うための短剣の図面! 「ユッシ殿から依頼を受けた職人は、こう言われたそうだ。……『見本にある模造の短剣そっくりに本物を造れ』と、な」 「……な、なんのことか……」 「そして、ユッシ殿はその職人に賃金を『後払い』にしたまま亡くなられ――」 「当然のように、その代金の請求は、後日オズボーン家へ」 「――それが巡り巡って、ドルンシュタイン城に届いたのだ」 「だっ、だから……何だと……」 「リハーサル直前、舞台の準備に関わったな」 「だから私だというのか!い、いくらだって私の他にも……」 「他に誰が居る?亡くなられたユッシ殿か?」 「馬鹿な!第一、私が小道具の短剣などすり替えて何の得があるというのだ!」 「…………ハンス殿。誰が『すり替えた』などと話した?」 「…………は……はっ……いま、おまえが……」 「自分は、ユッシ殿の話をしただけだろう?」 「(――し、しまった!)」 「アイン殿の言った通りだ。ハンス殿は賢い」 「……だからこそ、口を割らせるには『からめ手』でいくしかないと」 何か言い返そうと思っても、喉から先に声が出て行かない。 何か打開策を見つけ出そうとしても、呼吸をするので精一杯。 「…………ま、まさかデュアに……おまえにハメられるとは」 「ワインの話で油断をした貴殿が悪い」 「いまの話の流れは、全てアイン殿が準備したもの。武人たる自分が、策を弄するとは思わなかったのが失敗」 「……恨むなら、自身の浅はかさを恨むことだ」 ――どうして、こうなった? スルーしようとしたデュアの後ろに、アイン殿の影があることを……どうして最初に見抜けなかった? 「関わったこと、知っていること。洗いざらい、全て吐け」 「…………ぐぅ……」 「――そうすれば、罪も軽くなる」 「…………くっ……」 「貴殿の後ろに誰が控えている?まず、その名前を口にしろ」 「……な、なぁ、デュア。取引をしよう」 「取引?」 まずは、時間を稼ぐ。 「もちろん、話す。全てを話す。だが、その前に……他の敵を知りたくないか?」 「……他の敵?」 いますぐにヴァレリー殿の名前を口にしたら、そこでお終い。 少なくとも、命の保証を得るまでは黙秘するしかない。 「(――しかし、もしも、万が一にも……)」 何かの拍子に、あのヴァレリー殿が真相を語らずに死んだら? 《 ブリュー》〈青の〉国よりも早く《カーディナル》〈赤の急〉進派が動く可能性を伝え、それを阻止できたとしたら? ……そう考えれば、まだ生き残るチャンスはある! 「……どうした?他の敵とは、なんだ?」 「ふふっ。デュアは知らないかもしれないが、この城には赤の関係者が潜り込んでいる」 「…………赤の、関係者?」 「無論、敵と表現したとおりの危険な存在」 「(――そうだ。ヴァレリー殿の言葉を思い出せ)」 「『……《 ・》〈女〉とは、怖ろしいものですな』」 ……女。女か。 「……それは、赤の使節団と関わりのある女だ」 「――冗談は、そこまでにしてもらおうか」 「いや、待て!話は最後まで……」 「言ったはずだ。笑えない冗談は嫌いだ、と」 ……ごく当たり前のようにサーベルが抜かれ、その切っ先が自分の喉元へと向けられる。 「嘘はついてない!この情報は、きっと役に立つぞ!?」 「どちらか選べ。いますぐ死ぬか、黒幕の正体を吐くか」 「(――この女……ほ、本気で……)」 目を見れば判る! ……言わなければ、本気で私を殺そうとしている! 「……たっ、助けてくれ……」 「……言え。余計な情報は要らない。一番大切なことからだ」 「(――も、もう……無理だ……)」 「そっ、それは……」 そのとき、デュアの後ろにあったドアが突然開き―― 「……あー、デュアとハンス、だー」 「……コ、ココ!?」 デュアが一瞬だけ気を取られて振り返る。 ……と、小さな人形がトテトテとふたりの間に入ってきた。 「なにしてるんです、かー?たたかい、ゴッコー?」 「退くんだ、ココ!」 「ど、退いちゃいけないぞ、ココ!」 「(――いましかない!)」 私はココをデュアの方へと突き飛ばして走り出す! 「……うー、わぁー?」 「きっ、貴様!コ、ココ!?平気か!?」 後ろで聞こえるやりとりに構っているヒマはない。 いまは……いまは、走って逃げるしかないのだ! 「――はぁ、はぁ、はぁ……」 隠れた場所は、皮肉なことに……最初に密談をした迎賓の間。 ……あれからどれぐらい経ったかは判らないが、そこそこの時間が流れたように思える。 「……城内で、捕り物とは。それも追われる側、か」 二年離れていたとはいえ、間取りはそれなりに把握していたことが存命につながった。 護衛隊長のデュアに比べれば分も悪い話になるが、それでもこうして生き延びている奇跡を神に感謝しよう。 「……ふっ、はははっ……」 私は、何をしているのだろうか? こんなところで捕まり、果ては…… 「――もう、終わりにしよう……」 どうせ逃げ延びることもできないのなら、潔く捕まろう。 デュア以外の者に投降すれば、その場で命を絶たれることもないはず。 そう考えて、私はドアを開けて廊下へ出ようとする。 ……と。 「……やはり、こちらでしたか」 「ヴァ、ヴァ、ヴァレリー殿!?な、何故!」 「しーっ。さぁ、ひとまず部屋に戻って」 まさかの人物との遭遇に頭の中が真っ白になる。 が、いまの自分には紛れもなく救いの神に見えた。 「い、いったい、どうして、どうやって?……そ、そうです。三国会議に呼ばれた私は……」 「――あぁ、全て把握してますよ。この私も、アインの奴にまんまとハメられました、ということですな」 ハメられた?このヴァレリー殿が!? 「こしゃくにも赤の使節団長を丸め込み、挙げ句は――」 あれだけ自信満々だったヴァレリー殿が、アイン殿に―― 「はっ、はははははっ。そうですか、そうだったんですか」 「――お互い、笑い事ではないのですが」 「し、失礼。いや、失礼……」 ……仲間だ。哀しい話だが、ここにも同じ仲間が居る。 「でも、でもですよ、ヴァレリー殿。我々は、もうお終いです」 「……まさか、私の名前を洩らしたのですか?」 「そんなわけないでしょう!私とあなたは、同志ですよ。……ここまできて、仲間を裏切るわけがないでしょう!」 「喜ばしい。さすがは私が見込んだハンス殿。では、私もあなたの気持ちに応えねばなりませんな」 「……?」 「詳しい話はあとです。とにかくいまは、この城から脱出することにしましょう」 「ど、どうやって?無理です!あなたも私も、すでに……」 「幸運なことに、まだ私のところは『嫌疑』止まりです。証拠なしで、おいそれと外交官を捕らえることはできない」 嫌疑ということは、まだ計画が完全に露見したわけではない……と? 「……ほ、本当ですか!」 「えぇ、もちろん!嘘はつきません。……その証拠に、私は大手を振ってこの城から出て行きます」 「…………わ、私は!?私はどうなるのでしょう!?」 まさか、この場で! 「ご安心なさい。すでに手は打ってあります」 「……そ、それはどんな方法で!?」 「まぁまぁ、まずは落ち着いてください。そうそう、ワインを一本失敬してきましたので、これで……」 「こんなときにワインなんて!」 「――こんなときだからこそ、です。さぁ、気付けの意味で」 そう言ってヴァレリー殿は栓を開け、瓶のままでワインをあおり、それを私の胸元に押しつける。 「……しっ、しかし……」 「おっと失礼。人が口を付けたモノは苦手でしたか」 「……いや、そのようなことはありません」 ヴァレリー殿が飲んだ以上、それを遠慮するのも気が引ける。 それに、言われてみれば喉がカラカラで声も枯れ気味だった。 「……んぐっ、んぐっ……」 「あまり焦って飲むと、むせますよ」 「……ゲハッ……」 こんな飲み方をすることは二度とないだろうが、それでも生きてきた中で最高の気付けになったような気がする。 「……さて。少しは落ち着きましたか?」 「はい」 「では、これから脱出の段取りを簡単に説明します」 「まず、私は正門から馬車で帰ろうとします。……このとき、きっと馬車の中が《あらた》〈検め〉られることでしょう」 「そうですね」 「そこで。私が多少の演技をして、ハンス殿が乗り込んでいるようなそぶりを見せます。こうして注意を引きつけていれば、ハンス殿の逃げるチャンスが生まれるわけです」 まくしたてるように語る彼の計画に『穴』はないのだろうか? 「し、しかし……そんなに上手く行くものでしょうか?」 「えぇ、大丈夫。すでにハンス殿の《 ・ ・》〈馬車〉を用意してあります。ただし、乗り心地の悪さだけはご勘弁ください」 「この際、乗り心地なんて……」 「それでは、こちらへ。私の従者がしっかりサポートします」 ヴァレリー殿に言われるまま、私は部屋を出て廊下を進む。 やがて彼の言うとおりの男性がふたりほど現れて、手早く私の上着を脱がしたかと思うと、工事労働者の服を被せる。 「……これは?」 「簡単な変装ですが、効果は大きいですよ。無事、城下まで逃げ延びる可能性を高めてくれます」 「あ、あの、ヴァレリー殿!」 「なんでしょうか?」 「……私は、一体このあと……」 「大丈夫です、私を信じて。亡命の準備は進めてあります。あとで迎えが行きますので、そのときまでの辛抱ですよ」 「……ありがとうございます」 「なぁに。我々は同志。あなたを救わず、誰が救われますか。……それでは、そろそろ。《 か》〈彼〉の地でお会いしましょう」 「は、はい!」 ヴァレリー殿が従者に合図を送り、さっそうと去っていく。 残された私は、ふたりに連れられて裏口へ向かう。 すでに裏工作がされているのか、衛兵の姿は見あたらない。 そして、古着やゴミなどを満載にしたオンボロな《 ・ ・ ・》〈荷馬車〉を指差され、あの中に隠れろと言われる。 「わ、わかった」 やがて荷馬車は、ガタガタと音を立てて動き始める。 ……裏門での検閲は、衛兵ひとりの声しか聞こえず、ないに等しいものだった。 「(――脱出、できたか……)」 私は古着の隙間から射し込む夕日を見ながら、約束通り城下へと向かっていることを知る。 「……は、はぁ……」 もう死を覚悟していた自分が、こうして生き延びられるとはにわかに信じがたい。 しかし、私はこうして……多少のニオイに我慢すれば済むぐらいのことで、ドルンシュタイン城を脱出できたのだ。 「(――さらば、祖国よ)」 きっと、明日か明後日にはこの国を出ていることだろう。 戻ることがないと分かると、急に寂しさがこみ上げてきた。 「(――私は、アイン殿のような器でもなかったのだ)」 彼に憧れ、嫉妬し、その地位に揺さぶりをかけた結果が……この有様とは。 自分でも情けなくなってくる。 「(――きっと、私は裏切り者として名が残るだろう)」 それでも構わない。……いまは、生きていることが第一。 青の地で新しい生活を始め、きっと戻ることもないだろう。 「それでも、いつか帰れることがあるなら……」 そのときは、この国のために何かを―― 「(――まさか、二日続けて……)」 この執務室で三国会議を執り行うことになろうとは、思いもしなかった。 揃う面子も変わらず、赤の使節団長と青の大使のふたり。 デュアも前日同様、初めから席を用意していない。 しかし、もうひとりは確実に居なくてはならない人物だったのに。 「(――ハンス)」 今回の記念式典リハーサルにおけるクリスティナ姫暗殺未遂事件で、表立って取り沙汰されるのは……フードの男の正体。 しかし実際には、その男を含めて事件を画策した黒幕をいぶり出すことこそが、我ら白の国として最重要課題である。 「(――確証はないが、裏で糸を引くのはヴァレリー)」 そして、なかなか尻尾を出しそうもない青の大使につながる人物――ユッシとハンス両名を泳がせる形で調べを進め…… エファが舞台で使う短剣に、細工をしていたことが判明。 その物証を手に入れたまでは良かったのだが。 「(――詰めが甘かったか)」 先日の夕刻、食堂近くの廊下でのデュアの尋問中に逃走。 門兵に確認をとり、城外に脱出した形跡がなかったことから内部を徹底的に探索させたものの、その姿は見つからず。 念のためにハンスの自邸へ衛兵を向かわせたものの、戻った形跡はなし。 時刻も遅く外での捜索が困難となったため、捜索は翌日――今日へと繰り越された。 ……が、その結果。 早朝、ハンス邸の使用人から『主人が居間で倒れている』と報告が入り、すでに彼がこの世の者でないと判明した。 「(――これで、語る者はなし……)」 検死官によれば、ハンスが自らの手で喉をかきむしった跡がある特徴から見て、リハーサルで姫君を襲った男の最期―― 中毒症状と《 ・ ・ ・ ・ ・》〈同じだろう〉とのこと。 断言ができない理由として、我が国でこれまでに類を見ないタイプの死亡例――2件のみで、毒素の特定が非常に難しい……との報告も付け加えられた。 「(――口封じと考えるのが筋)」 服毒《 ・ ・》〈自殺〉の線もあるにはあるが、仮にそうだとしても結果は変わらず。 裏で糸を引いていた者は……トカゲの尻尾切りに成功となる。 「(――さらには……)」 それが本体の逃げ延びる時間稼ぎに留まらず、ハンスこそが黒幕であったかのごとく―― 「私も、《ブリュー》〈自国〉でハンス殿と交流のあった身として複雑な気持ちですが……こうなりますと、『彼こそが』としか……」 見せる者が居て、 「…………《カーディナル》〈私たち〉も、その可能性を無視できません」 ――見ようとする者が生まれる。 「(――完全に裏目だった)」 昨日の会議の呼び出しのあと、あえて嘘の時間変更を入れ、ハンスとヴァレリーを引き離す。 そして、私兵付き添いのない城内でデュアが彼の足止めをし、策を弄した尋問で証言をとって会議の場に出席させる段取り。 こちらの作戦がうまくいくよう、赤の使節団長にも手を回し、ヴァレリーの言葉に一切耳を貸さないよう言い含んでいた。 しかしコトが上手く運べず、最後に出せるはずだった証人を欠いてしまえば…… 「(――こうなるのも仕方なし、か)」 死人に口なし。 ハンスに全嫌疑をかぶせ、『自国は無縁、知らぬ存ぜぬ』と首を横に振る。 青のヴァレリーだけでなく、赤の代表までが上っ面の会合で終わらせようとするのには閉口した。 「(――彼女の立場を考えれば、当たり前か)」 表向きとはいえ使節団を束ね、《カーディナル》〈赤の国〉を代表する身であれば、無理に我々の味方をするよりも……《ブリュー》〈青と〉歩調を合わせる道を選ぶだろう。 昨日の三国会議の時点で協力的だったとしても、今日までその気持ちが持続する保証など……どこにもなかったのだ。 私の中の甘さが招いた失敗、としか言いようがない。 「……さて、アイン殿。今回の一連の事件に関してはまだまだ不可解な部分が多く、調査も続けるとは思われますが――」 「――我々としては、この段階である程度の方針を示していただきたいのです」 赤の代表を一瞥してから、こちらをゆっくり見るヴァレリー。 その表情に皮肉の色はなく、自分は大使として当然のことを口にしているだけ、と言わんばかりの仮面が張り付いている。 この場で勝ち誇り、まくしたてるようなら対処もしやすいが……そういった安易な行動に出る男でもないだろう。 「(――そうなると、白として打てる手は……)」 ヴァレリーが持つ手札が判らない以上は、大きな勝負に出ることも難しい。 それに赤の代表を『こちらの味方』に引き込めないうちから打って出るのは、負けを承知で戦地に足を踏み入れるようなもの。 ここで私が業を煮やして軽率な発言をすれば、姫君だけではなく国の民まで巻き込むことにもなりかねない。 慎重にコトを運ぶ。それしか道はない。 「……まず我が《 ヴァイス》〈白の〉国は、記念式典の開催を無期延期とさせていただきます」 「――ほう!それは『《 ヴァイス》〈白の〉国代表の言葉』……と受け取ってよろしいのでしょうか?」 「構いません」 「少なくとも、クリスティナ姫の意に反してはない、と?」 「確認するまでもなく……と申し上げれば、ご納得ですか?」 「えぇ。アイン殿がそこまで言われるのであれば、私はそれで。……赤の《かた》〈方〉も、よろしいでしょうか?」 「――はい。妥当な判断です」 「ご理解、ありがたく思います」 「……では、開催の無期延期にあたって。アイン殿は、我々にどのようなことを望まれますか?」 「失礼ながら、まずは両国からおいで頂いた使節団の方々にはご退去をねがいます」 「――まぁ、そうなりますか。式典が開かれないのであれば、駐留の意味もなくなりますからな」 もっとも、もっともと首を縦に振るヴァレリーを見て、 「その通りです」 と呟く赤の使節団長。 「ん、んっ」 彼女は会話の切れ目を待っていたらしく、私とヴァレリーの視線を受けて、軽く咳払いを入れ―― 「……となれば、さっそく我らが国の宝であるエファを連れて帰る準備をさせていただきます」 一気にまくし立てると、もう会談は終わりと言わんばかりに席から立ち上がる。 「お待ちください」 「まだ何かお話がおありなのでしょうか?」 「……えぇ。エファの件に関しましては、失った羽根の修復が終えるまでは――」 「――いいえ。使節団の帰国ともなれば事情も変わります。式典の開催が大幅に延期されるのであれば、一度連れ帰って修復させるのが道理……と、アイン殿は思われませんか?」 「(――返す言葉もないな)」 私としても、無理にエファを白の国で修理する必要はないと考えている。 できることなら、これ以上何も起こらないうちに……という気持ちの方が強い。 しかし、それでもエファの帰国に待ったをかけたのは―― 姫君の哀しそうな顔が容易に想像できてしまったからだ。 「(――国事に私情をはさむのは禁物。……とはいえ、それが姫君に関わるとなれば……)」 エファの即刻退散を見過ごすわけにもいかない。 「アイン殿。反論がないのであれば、退室させていただきたいのですが」 「反論はありません。……が」 「…………?」 「出立まで、少しお時間をいただけないでしょうか?」 「……何時間ほど?」 数時間単位で問い返してくる辺り、彼女はすぐにでも帰国の途につきたいらしい。 「そうですね。今日を《 ・ ・ ・》〈除いて〉あと三日ほど」 「三日も?」 「その間に、エファの『お別れ会』を開きたいと考え――」 「お別れ会に三日もかけるおつもりですか?」 「……では、今日を入れて三日――《みょうごにち》〈明後日〉のご出立で」 交渉には、譲歩の姿勢のアピールが大切。 こちらが先に『あと二日』と持ちかければ、『明日にでも』と言い出しそうな予感があったので、『今日を除いて』から持ちかけておいた。 こうしておけば、それなりの準備もできよう。 「――《みょうごにち》〈明後日〉の夕刻、エファを引き取らせていただきます。……それでよろしいですね?」 「……はい」 渋々ながらも承諾をしてくれた赤の団長に、軽く頭を下げた。 「(――そして、あとは……)」 「――お別れ会、ですか。《 ・ ・ ・》〈うちの〉ココも同じように?」 自分の番を待っていたヴァレリーは、面白くなさそうな顔で先手を打ってくる。 「――もし、エファの帰国に合わせ、ココをお戻しになるのであれば……」 「いやいや。残念ながらココは国宝などではないので、焦って帰国させる必要などありません」 「強いて言うなら、このまま《ヴァイス》〈そち〉らでお引き取りいただいても問題がないぐらいです」 「…………」 「それよりも、別の者を帰国させようかと」 「別の者、とは?」 「……私ですよ。このヴァレリー・ジャカールの帰国です」 「玉座に腰掛けるのも、久しぶりのような気がします」 「はい。……姫君は長らく、調律に専念されてましたので」 リハーサルの一件以来、姫君はエファに全神経を傾けていると言ってもいいぐらいの集中振り。 デュアが適度に隙を見計らって止めに入らなければ、寝食も忘れそうな勢いだった。 「――姫君……」 「なにか?」 問い返された私は言おうか言うまいか迷ったが、見たままの感想を口にすることにした。 「少し、お痩せになられたのではありませんか?」 「……言われてみれば、そうかもしれませんね」 姫君は否定もせず、二度ほどまばたきをするばかり。 そして、その視線が気にする方向は……ご自身の寝室。 いまこうしている瞬間も、エファのことが気になるのだろう。 「(――どう切り出すべきか)」 お伝えしなければならないことは山ほどある。 しかし、どこから報せるのが良いのか判らなくなるぐらい、暗い話題ばかりが揃っていた。 「(――まずは、ハンスのことか)」 天寿をまっとうしたわけでも、長らくの《やまい》〈病か〉ら帰らぬ人となったわけでもなく、国家間の紛争をもちらつかせる怪死。 本来なら『ありのまま』にお伝えすべき有事関連事項だが、いまの姫君に必要以上の負担をかけるわけにもいかない。 ……となれば。 「では、報告を聴きましょう」 「――はい」 あとは嘘にならないよう注意しつつ、必要最低限の言葉で済ませるのが無難だろう。 「最初に《ふほう》〈訃報〉からとなりますが……今朝方、ハンス・ブラント死去との報せが届きました」 「…………ハンスが?あのハンスが、ですか!?」 「はい」 「一体、どうして?」 「目下、専門医からの詳しい報告待ちとなっております」 「…………し、信じられません。あのハンスが……」 「私も驚きました。いまはただ、故人の冥福を祈るのみです」 「……そうですね。残念ではありますが……」 こちらが多くを語らない以上、それまでの話にしかならず。 姫君が目を閉じて祈りの言葉を口にするのに合わせ、私も同様にハンスの死を悼む。 「(――ハンス。何か言い残すモノはなかったのか)」 ヴァレリーに通じる『決定的な何か』を残していれば―― 「……アイン。ハンスの葬儀の日取りは?」 「未定ですので、決まり次第ご報告いたします」 「……分かりました」 分かっていても、姫君の表情が沈むのを見るのは忍びない。 が、このあとには……これ以上に重い話が控えている。 「――姫君。冷静にお訊きください」 「……はい?」 「実は、本日の三国会議にて――」 長引かせても解決にはならないと判断し、エファ帰国の件を経緯を交えて事務的に報告する。 その間、姫君の表情は変わることもなく。最後に、 「いつかはやってくる別れと分かっていたつもりでも、いざとなれば寂しいものですね」 と言うに留まった。 「確かに、その通りです」 「そうなると、ココも同時期に?」 「いいえ。青の大使によれば――」 ヴァレリーの言葉をそのまま伝えるような真似はせずに、あえて『帰国させずとも良い』という部分だけを話す。 「まぁ、そうでしたか」 「……いかがなされますか?」 「…………」 「姫君?」 「……えっ?」 「――ココのことです。しばらくこちらで預かる……でよろしいのでしょうか?」 「そうですね。できれば、ずっと側に置く方向で」 そう結論づけた姫君は急にうなだれ、頭を左右に揺する。 そして一言、 「アイン。少しの間、ひとりにしてもらえないでしょうか?」 と呟き、黙りこくってしまった。 「かしこまりました」 まだ報告する事柄は何点かあった。 ……が、無理にお聴かせするほどでもないと判断し、ドアの向こうで待つデュアにあとを任せて謁見の間から退場する。 「(――両国使節団の退去と、エファの帰国)」 ……ひとまず、これで白の国と姫君を取り巻く当面の危機は回避できるだろう、と考えるが―― 何故かまだ、心の奥では言いようのない不安が渦巻く。 「(――本当に、これで問題はないのだろうか?)」 私は窓から中庭を眺め、ひとりの男を思い浮かべる。 「(――ヴァレリー)」 あの大使は、青の使節団と共に帰国すると言っていたが――果たして本当に、おとなしく去るものであろうか? 「(――《いな》〈否〉)」 何か裏がある……と見た方が正しい。 こちらを油断させ、不意を突いてくる可能性は充分にある。 「さて、どうするか」 ……まだまだ、暗雲はこの国から立ち去りそうにはない。 「……そこに居るのは、デュアですね?」 「はい」 アインとの会見のあと、数名の大臣と久しぶりの顔合わせをしたが、皆が皆……同じような会話の流れの中でわたくしの身体の心配を口にする。 「よければ、こちらへ」 「――かしこまりました」 デュアには、いつも迷惑ばかりかけている。 護衛隊長という役目だけでなく、《そばづか》〈側仕〉えを呼ぶほどのことでないときは、彼女に身の回りの簡単な世話をしてもらう。 それでもデュアは嫌な顔ひとつせず、自ら進んで雑務までこなしてくれる。 「(――許してくださいね)」 わたくしは心の中で無礼を詫びつつ片手を差し出し、 「自室まで頼みます」 と、また子どもじみた願いを口にした。 「――かしこまりました」 アインに言われた通り、ここ数日のわたくしは体力に自信がない状態。 こうしてデュアに支えてもらわないと、途中で壁の助けを借りることにもなりかねない。 わたくしは、ゆったりしたペースのままで廊下を歩きながら、今日の報告で一番ショックだったことについて考える。 「(――エファの帰国……)」 出会いがあれば、別れがある。 これまでも数々の人形がこの城を訪れ、また元居た場所へと帰っていった。 エファも、その人形のひとり。 そんなことは、初めから分かっていた。 初めから分かっていたはずなのに―― 「(――何故、わたくしの気は……これほど重いの?)」 他のことを考えようとしても、すぐエファの姿が頭に浮かぶ。 先ほどアインから『ココの帰国保留』に関して話をされたときも、その喜びは一瞬で消えてしまっていた。 「(――ココはよくて、エファは……)」 赤の国宝エファと、青の国で身寄りをなくしたココ。 かたや帰国、かたや保留。 ……どちらも、当然の成り行きではないか。 「(――それをわたくしは……)」 比べても仕方がないふたりを並べ、不満をつのらせる自分が愚かしい。 そう思って少しでも前向きになろうと顔を上げるが、視界はぼやけモヤがかかったように見える。 「……姫、足下にご注意を」 「――ありがとう」 デュアの手に従って歩き続ける廊下が、幼い頃からずっと慣れ親しんでいるはずなのに長く感じる。 「(――エファ……)」 本来であれば、記念式典の本番も無事に終わり、すでに帰国していたはずではないか。 そう考えればエファは予定よりも滞在し、わたくしと過ごす時間も長くなっていたのだ。 いまさら、何を悔やむことが―― 「(――でもそれはエファが傷つき、羽根を失ったから……)」 突き詰めれば、全てがそこにつながる現実。 あのときエファが怪我をしなければ、いまのわたくしは―― 「わたくしは、エファのことを……」 「――姫?」 「いえ。ただの独り言です」 「…………はい」 自分でも気づかないうちに声が出ていたことに驚きつつも、逆にそれがきっかけで少し気が楽になった。 「……そう言えば、お別れ会の件についてですが」 「お別れ会?」 「アイン殿から、お聞きではありませんか?赤の使節団長が早々にエファを帰国させようとする中、お別れ会を開くのを理由にあと二日の猶予をもらった、と……」 「――アインが、そのようなことを……」 「そのご様子では、まだお耳にされていなかったようですね」 「デュア。そのお別れ会について、詳しく教えてください」 「……は、はい」 わたくしはデュアを立ち止まらせ、明日のお別れ会の詳細を聴かせてもらった。 「……わたくしは、そうとも知らずアインに冷たく当たってしまいました」 「お気になさらずとも平気です。アイン殿は、姫のお気持ちを理解していますので」 「――そうだとしても」 「自分たちは、姫あっての家臣ですから」 その言葉を聴き、わたくしの胸が熱くなった。 「(――わたくしは、ひとりではない)」 護衛のデュアは、いつもこうして側に寄り添う。 いまは近くに居ないアインも、何らかの形で支えてくれる。 他の者たちも《みな》〈皆〉、国やわたくしを―― 「(――ユッシ、ハンス……)」 よく知る顔が、ひとり、またひとりと姿を消す。 それも、この一ヶ月そこそこの間で。 「(――いつか、わたくしはひとりになってしまう?)」 そんな不安が、急に押し寄せてくる。 統治者としての能力に欠けるこのわたくしに呆れ、見放し、ひとり、またひとりと―― 「――姫……いかがなされましたか?」 「えっ?」 「……その、お手の力が急に強くなられたもので……」 「……あっ……」 見れば、デュアの手をギュッと握っているわたくしが居た。 自分でも気づかぬうちに、指先が白くなるぐらいまで。 「少し、お休みになりますか?」 「いえ。もう部屋も近いです。それに……」 「(――エファが部屋で待っていますから)」 そう続けそうになった自分を制し、少しホッとする。 しかしデュアは立ち止まり、ゆっくりと片膝を床について頭を下げた。 「……申し訳ありません」 「デュア?」 「自分は、姫のお側に居てはいけない人間かもしれません」 「なにを言い出すのですか?あなたが居なくなって、誰がわたくしの護衛を務めるというのです?」 「他に相応しい者は、いくらでも居ります」 「(――なにを突然?)」 「いつか、いつか自分は姫のお気持ちと期待に沿えず……」 「おやめなさい」 「――ですが、姫」 「お、おやめなさいと言っているのが、解りませんか?」 わたくしは動揺からうまく言葉をつむげず、デュアの身体を抱きしめることで心を落ち着けようとする。 「ひ、姫……」 「どうして、このようなときに、そのようなことを」 「…………」 「わたくしを置いて、何処へ行こうというのです?」 「そなたがこの城を離れるなど、あってはならないこと」 「わたくしをひとりにすることは……絶対に許しません」 ありったけの力を込めてしがみつき、彼女に訴えかけるしか……わたくしにはできない。 「わがままだと解っています。それでも、それでも……」 「――姫、解りました。もう充分に解りましたので……」 彼女の見開いた目を間近に見て、わたくしは我に返る。 また家臣に無理を言い、困らせて―― 「――姫、ありがとうございます」 「えっ?」 「自分は少し悩んでおりましたが、姫のお言葉をいただき、決意が固まりました」 「ま、まさか……」 「自分は、姫のためにお仕えし――」 「わたくしに愛想を尽かして……」 「はっ?まっ、まさか!何をおっしゃられますか」 「……えっ?」 「自分はいま、『姫にお仕えし、姫のために死にます』と申し上げたかったのです」 「…………そ、そうでしたか。てっきりわたくしは――」 不安のあまり先走った考えを口にして、デュアに苦笑されてしまう結果になるとは。 「ん、んっ!申し訳ありません、いまのは決して姫を……」 「分かっております。でも、どうして……その……『わたくしのために』などと、急に?」 「自分は騎士の称号を持つ身とはいえ、いまの職を解かれれば城勤めはおろか、身分すらも失うかもしれません」 「そのような心配は無用です。このわたくしが決して――」 「――姫。あくまで、仮の話です」 デュアは優しく頷き、話を続ける。 「果たして自分は、そうなったときでも……『この国に忠義を尽くせるだろうか』と不安になりました」 「本来ならば、そのようなことを考えた時点で失格です」 「それでも、そんな自分が姫に必要とされる人間であるなら、姫のために全てを……と考えたのです」 「……デュア……」 「身の程をわきまえない発言、お許しください」 「――よいのです。デュアの気持ち、とても嬉しいです」 わたくしには、こんなにも心強い味方が居る。 いつも側に居てくれることで、気づかなくなっていただけ。 「これからもずっと、わたくしのことを頼みますね」 「――かしこまりました」 デュアと共に一息つき、小さく笑い合ってから立ち上がる。 重かった足も、いまでは普通に前へと進む。 わたくしはこれを機会に、思い切ってデュアに対して悩みを打ち明けてみることにした。 立場は違うとはいえ、すぐ側に居る者。 もしかしたら、良い案を出してくれるかもしれない。 「……デュア。ひとつ相談したいことがあります」 「何なりと」 「話は、エファのことです」 「……はい」 「先ほどアインからの報告で、エファの帰国が決まり、ココはこちらが望むのであれば滞在させても構わない……との話を聴かされました」 「わたくしとしては、ココだけではなく――エファの帰国する時期も延ばしたいと思うのですが……」 「……難しいご相談で、自分には何とも」 「やはり、そうですか」 「はい。エファが滞在するそれなりの理由があれば……」 「わたくしが側に置いておきたい……では、ダメでしょうか?」 「…………姫……」 デュアの驚いた表情を見て、わたくしは自分の軽率な発言に気がつかされた。 「――いまのは忘れてください」 「い、いえ。別にそのお考えを否定したわけではありません。ただ、少し意外だったもので」 「意外?」 「姫が、ご自身の思われたことを率直に語られたので」 「…………そうでしたか」 わたくしの発言自体が問題視されたわけでなく、一安心。 「……姫。自分からもひとつお伺いしたいことがあります」 「何でしょう?」 「どうして、エファをお側に……とお考えになりましたか」 「――それは……」 そこまでは、問題なく口にできた。 が、そこから先が、どう表現していいのか判らなくなる。 「……どうしてでしょう?うまく、言い表せません」 喉まで出かかっている気持ちを言葉にできないのは、とてももどかしい。 「でも、どうしてそのような質問をわたくしに?」 「……何故でしょう?自分でもよく判りません」 わたくし同様の回答で、デュアが首をひねる。 一瞬デュアに真似されたのかと思ったが、そのような戯れは『ココ』でもない限り―― 「(――ココ……)」 ちょうど部屋の前にさしかかったとき、わたくしはデュアの問いに対する答えを見つけたような気がした。 エファとココ。 わたくしは、ふたりとも側に置きたいと考える。 でも、それは―― 「お部屋に着きましたが……」 「……えぇ、ありがとう」 「自分は近くに居りますので、ご用の際にはお呼びください」 「いつもありがとう、デュア」 「――いえ、これが職務ですので」 そう言って下がるデュアを見つめつつ、わたくしは安心して部屋のドアに手をかける。 「(――デュアへの感謝と、アインへの感謝は同じ気持ち)」 しかし、エファとココを側に置きたいと思う気持ちには……大きな差があったのだ。 それに気づいてしまったわたくしは、向こうに待つエファを想い―― 「……この辺りにしよう」 姫の護衛を部下二名に任せ、私は夜の中庭に立っていた。 いつもであればこのような時間、見回りでしか訪れない所。 そこをあえて話し合いの場に選んだのは、他でもない―― 「これはこれは、良い場所ですな」 相手がこの男、青の大使ヴァレリーだったからだ。 「私としては城下の酒場あたりでも良かったのですが、やはり抜け出せませんか?」 「……職務を果たすのに、酒が必要だと思うか?」 「時と場合によりけり、でしょうな」 よりにもよって、この男から声がかかるとは。 本来ならば、その呼び出し状を持ってアイン殿のところへと向かうべきなのだろうが、今回ばかりはそうもいかない。 「しかしドルンシュタイン城の夜は、本当に静かですな」 「……余計な話はどうでもいい。用件を聞こう」 「ずいぶんと仕事熱心なことですな。ところで――」 「伏兵はどちらに?」 「(――喰えない男だ……)」 「そちらの希望通り、こちらは自分ひとり」 部下たちにも、ヴァレリーが城へ来る情報は伝えていない。 そもそも、裏門からこの場所まで案内したのは……この私。 昨日までなら、会った瞬間に間違いなく……腰の剣へと手を伸ばしていたであろう。 「では、私の方も約束を守るとしましょう」 「――なに?」 「いえいえ。少なくとも、デュア殿から私は敵視されている。万が一に備え、護衛のひとりぐらいは連れてきても当然かと」 「(――まさか!?)」 そんな気配はみじんもなかったのに! 私はとっさに剣の柄を握り―― 「――冗談ですよ、デュア殿」 「…………」 「あなたは筋の通った武人。相手を騙し討ちするようなことはないと、初めから信じておりましたので」 「き、貴様……」 「おっと、その手は元の位置へ戻しませんか?少なくとも、私には脅されながら話す趣味はありません」 次から次へと軽口を叩くこの男は、一体何をしにきたのだ! 「……さて、それでは話を始めましょうか」 「こちらから話すことなど何もない。それに――」 「それに?」 「もしもそれが聞くに値しない話であれば……貴殿をこのまま帰すつもりもない」 「ほう!これは面白いことを。……いいでしょう」 「――私とて、多少の危険を承知であなたに会談を申し込んだ。間違っても価値がないなど……言わせる気もありません」 そういうや《いな》〈否〉や、上着の内ポケットに手を伸ばす。 そして、そこから一通の書簡らしき紙を取り出して広げた。 「……月明かりで、これが読めますかな?」 「――それは……」 指先で角をつまみ、高い位置でヒラヒラと揺らされた紙には……見覚えがある! 「そう、もうお解りですね?これは、デュア殿直筆の手紙。宛先は……赤の国の貴族――」 「それ以上言う必要はない」 「…………そうですか」 ほくそ笑むヴァレリーが、この私を呼び出した理由。 この男は、私が赤の要人とつながることを知り―― 「(――ふん。脅しか)」 「……この手紙の価値、ご理解いただけましたか?」 「……残念だが、貴殿は何か勘違いをしている」 「――ほう。それはどのような?」 「赤の国との関係を証明する手紙一枚ごときで、この私がどうにかなると思ったことが……だ」 「そうですね。確かにこの手紙ひとつでどうこうするのには、少々力不足というものです」 「…………」 含みのある言い方に、苛立ちが増す。 「良いですかな、デュア殿。私とて子どもの使いではない。この場にくるからには、それ相応の情報を持ってきたのです」 「――情報?」 「仮にこの手紙をアイン殿に差し出し、貴殿の部下は赤と内通しているようです……など言えば、痛い目を見るのはこの私」 「しかし。もしもこの他に貴殿が『不穏で後ろめたい要素』を持つとすれば」 「こちらは無傷のまま、あなただけが罰せられる対象となる」 「…………その要素とは?」 「――滞在中の赤の使節団に、貴殿とつながる者が居る」 「(――何処まで知っている?)」 「……その者は貴殿に対して、クリスティナ姫を『赤の国』へ亡命させる用意があることを報せてきた」 「…………」 「そのこと、アイン殿にお伝えしましたか?」 月の光を雲が隠し、互いの顔に影を落としている。 ……少なくとも、天が私の敵に回ることはなかった。 「それは、どんな脚本家に任せた筋書きだ?」 「フッ、フハハハハッ!なかなか、これはなかなか!」 「あまり大声で笑うと、人が来るぞ」 「これは失礼。……いや、自分に《ひ》〈否〉がないからこその態度と、賞賛すべきですかな?」 「どうとってもらっても結構」 これ以上、この男とマジメに話す気にもなれない。 確かに、ヴァレリーの言う通り。 使節団のひとりは、私の母方の血を引く家系の従者。 いわば、カールステッド家の遠縁が赤の国に居て、その者が政治活動の一環に携わっているだけのこと。 これまで取り合った連絡の中で、こちらから白の国の情報を売ったことなど一度たりとてない。 家系云々の話を始めれば、この白の国の者たちのほとんどが『赤か青の国』にルーツを持つ。 「(――何をいまさら……)」 たとえ手紙が公の場に出されようとも、私には―― 「(――後ろめたいことは何もない)」 その一念があればこそ、ここまで姫の護衛を続けられてきた。 私はヴァレリーから視線を逸らさず、相手の出方をうかがう。 「――いっそのこと、赤の誘いに乗ってみてはいかがです?」 「…………」 「いやいや。青の国と手を組めないのであれば、赤の国を頼るのが筋でしょう?」 「何を言っているのか解らないが、仮にもそんな真似をすれば、貴殿の国は黙ってないだろうな」 「――そんな真似をしなくても、黙ってないかもしれませんね」 ヴァレリーは『明確な脅しの言葉』をもってこちらの反応を見ていたが、やがて何を言っても無駄だと分かったらしく、 「……ふーっ。やはりダメ、ですか」 と、おどけてみせた。 「残念だったな、組みにくい相手で」 「いえいえ、それほど落胆はしておりません」 「そのまま帰ることが叶わなくても、か?」 「はて、どういうことでしょうか」 「ここまできて、自分がタダで帰すと思われるか?」 「嫌疑だけを理由に、この外交官を捕まえられますかな?」 「……いいや。少なくとも貴殿は、この私を脅そうとした。これは、『嫌疑の域』を充分に超えていると思わないか?」 「――誤解ですよ、誤解」 ヴァレリーは、大袈裟に両手を振りながらこちらへと近づく。 そして、私が剣を抜きかけたにも関わらず―― 「よいですかな、デュア殿。ここはお互い賢い人間らしく、平和的に別れようではありませんか」 「…………何をもってそうするつもりだ?」 「さぁて、どうするのが一番でしょうね?」 目と鼻の先の距離。自らの襟元の崩れを左手一本で正し始め、その出来の善し悪しを目配せでこちらに尋ねてくる。 「簡単です。今宵、ここでお話ししたことはお互いの胸の中に。私は、あなたが赤の内通者だと思い込んでいただけの愚か者。そしてあなたは、嫌疑だけで親善大使に剣を――」 「――剣を……何だ?」 ふたりの間を絶つように真横から滑り込ませた剣の切っ先は、相手の鼻先スレスレの位置で止める。 「大した腕前。さすがは白一番の剣士殿」 「下らん世辞は嫌いだ」 「お世辞など言うつもりはサラサラですよ」 「――ただ、《ろうばしん》〈老婆〉心から申し上げるとすれば。ここはお互い、《 ・ ・ ・ ・ ・》〈怪我のない〉ままに終わらせたいかと」 声の意味するところは彼の右手に隠されていた短剣であり、その尖端は私の左腰にぴったりとあてがわれていた。 「(――くっ!)」 私の方が早かったとはいえ、その差は相討ちの域。 殺傷力の高い剣であっても、その威力を発揮できるだけの間合いが確保できなければ……それは無用の長物。 「それとも、ブーツから覗いている短剣で……フェアな戦いを挑まれてみますか?」 「――やめておこう」 決闘となれば負ける気はしないし、相手も無傷で終わるとは思ってないだろう。 しかし、それに私が勝利をおさめても、青の大使を殺めたという『負の業績』は白の国にとって何ら足しにならない。 下手をすれば、戦争の火種になるだけだ。 「賢いご判断、痛み入ります」 ヴァレリーがポケットに手をしまい、私が刀身を鞘に収める。 全て何もなかったことに……など、そんな都合のいい考えができれば苦労もない。 「さて!夜の散歩も終わったことです。私は城下に戻って、帰国の準備を始めますか」 「二度とこの国に訪れるな」 「……あなたが居るうちは、ご遠慮しますよ」 満面の笑みで静かに距離をとり、一礼を寄こした青の大使はゆっくりと立ち去っていく。 私は、その姿が闇に消えるまで見届けてから城内へと戻る。 「(――ヴァレリー)」 今日の会見で、ひとつだけ分かったことがあった。 それは、『あの男だけは決して姫に近づけさせてはならない』ということだ。 「明日はお別れ。もう二度と会えなくなるかもしれませんね、エファ」 振り返る姫様の瞳には、ほんの少しだけ『かげり』がある。 その意味は、人形の私にも充分に理解できるもの。 「――姫様、哀しいことを言わないでください」 でも、その気持ちを和らげて差し上げることが……いまの私にはできない。 「許してくださいね。もうあとわずかしか一緒に居られないと分かっているのに、あなたを哀しませる言葉ばかり口にして」 「違います。私が申し上げたいのは――」 「……?」 「(――姫様に何と伝えればいいの?)」 うまく言葉にできない。 そう思っているうちに、時間は刻一刻と過ぎていく。 「(――私にとっては無限に近いものでも……)」 人間である姫様にとっては、限りある大切な流れ。 こうして話していられるのは明るいうちだけで、夜がくれば自然と身体を休めなくてはならない。 人形のように動き続けることも可能であると教えられたが、それをすれば必要以上に体力を失ってしまい、あとで無理に見合うだけの睡眠が必要になる……とも付け加えられた。 「(――もし叶うなら……)」 昼も夜も、そのまた次の朝も。 ずっと姫様のお側に寄り添い、その声を聴いていたいと思う。 「(――姫様と少しでも一緒に居たい)」 この気持ちに偽りはなく、白の国に来てから日を追うごとに強くなっていく。 それでも、いつか別れはくる。 私が赤の国へと帰るのは、ここを訪れる前から決まっていた。 たとえ帰国が明日から明後日になり、その次の日に延びようとも、必ずや戻される約束なのだ。 「――エファ。あなたの住む赤の国は、この白の国と何処が違いますか?」 「は、はい。私はあまり外に出ることはありませんが――」 目を閉じて記憶を呼び覚ます。 街で劇を披露したときのことや、その公演の地まで旅をしたときのことを。 しかし、それらの風景は色あせつつあり、どう説明すればいいのか困ってしまう。 「(――どうして?見たまま、聴いたままを忘れないはずの人形の私が……昔のことを……)」 そして、何故か思い出されるのは姫様と過ごした時間の記憶。 「ごめんなさい。以前の記憶がボヤけてしまいました」 「――調子が悪いのですか?」 「いえ、そのようなことはないと思うのですが……」 「まだ無理は禁物です。帰りの道中で具合が悪くなった場合は、きちんと調律師の方を頼るのですよ?」 「……は、はい」 言われるままに頷いたものの、気持ちはその言葉に従えない。 「(――姫様に逆らうつもりはありません。でも……)」 いまの私は、姫様以外の人に触られることを嫌悪してしまうかもしれない予感があった。 「(――申し訳ありません)」 姫様には叱られたくない。だから心の中で謝る。 だけど、本当は……姫様になら叱られるのも悪くないと思う。 「(――私は、どうしてしまったの?)」 この不安定な気持ちは、決して調律では治してもらえない。 それは姫様とて無理……だと、私は確信している。 「(――私は姫様に……どうしていただきたいの?)」 答えが探し出せず、ジッと前に立つ姫様を見る。 「……いらっしゃい、エファ」 「は、はい」 誘われるまま、一歩、二歩。 足は止まることを知らず、そのまま白いドレスにぶつかるまで進み続けてしまう。 「も、申し訳あ――」 「――よいのですよ、エファ」 そっと包み込んでくれる腕が、髪が、温もりが―― 「(――全てが私だけのモノであればいいのに)」 そんな大それた考えをもったまま、この身を委ねてしまう私。 「――あなたが、私だけのモノであればいいのに……」 「……えっ?」 耳に届いた姫様の声は、私の心の声の丸写し。 「(――偶然、かしら?)」 私にとっては、どんなささやかな偶然であっても嬉しい。 「いま、わたくしが何を考えているか……分かりますか?」 「い、いいえ」 「当ててご覧なさい」 「……えっ、でも……」 「――さぁ、考えて」 言われるがまま、姫様の胸の中で『答え』を探してみる。 「(――姫様は……このまま、ずっと……)」 「どうです?分かりましたか?」 「正しいかどうか分かりませんが、姫様はこのままずっと――」 「…………」 ギュッと抱きしめられた私は、無言で抱きしめ返す。 「(――きっと、これで良かったの)」 言葉では答えてくれない姫様は、身体で私に報せてくれる。 「(――ずっと一緒に居られたら)」 「(――ずっと一緒に居られたら)」 私も……同じことをずっと考えていた。 昨夜のエファとのお別れ会に、姫は給仕の者すらもつけず、食堂でふたりきり……静かに夕食をとった。 それが姫の望みである以上、我々は従うのみ。 私はその扉の前――廊下に立って、アイン殿と共に招かれた晩餐を思い出しつつ、せめてココだけでも同席させることができたなら……などと考えていた。 しかし、無邪気なココが一緒に食事の席につけば、きっと悲しさが増すだけ。 あの子の明るさが、逆に重い空気しか生まれないとすれば、誘うことなど初めから叶わなかったのだ。 「(――姫は明日、エファを無事に見送れるのだろうか……)」 そんな心配を胸に警備を続けていた私は、姫のために自分が何をできるかを考え始めていた。 やがて、姫とエファが揃って食堂から退室してきたが、そのふたりの硬い表情に……私は何も声をかけることができず。 「それでは、エファ。おやすみなさい」 「はい。姫様も、ごゆっくりと」 いつもと変わりない挨拶を交わすのも、黙って見ているしかなかった。 そして姫は、私の部下にエファを部屋まで送るよう申しつけ、自らはその場で彼女を見送るだけ。 「……デュア、わたくしを部屋まで」 「……はい」 その戻るまでの時間も、姫は一言も発することはなく。 そして今日―― 「『――ごきげんよう、エファ。また、いつの日か』」 中庭を前にした回廊で、にこやかに笑ってエファに別れを告げた姫は、すぐにきびすを返して自室へ戻ってしまった。 私は、姫が城の敷地ギリギリである正門まで見送り、後ろ髪引かれる最後のひとときを過ごすだろうと思っていただけに、驚きを禁じ得なかったのだが―― 「いま、エファが城下に向かう道を下り始めたところですよ」 部屋の窓辺に立つ姫の遠くを眺めている姿を見て――何故、エファが城を出て行くのを見届けなかったのか悟った。 「(――姫……)」 その位置から、正門は全く見えない。 姫は時刻を報せるベルの音を頼りに、赤の使節団とエファがどの辺りに居るかを予想しているだけだったのだ。 「馬車の揺れで、エファの体調が……悪くならないと……」 お別れ会でも、つい先ほどの使節団長へのあいさつの場でも、笑顔を絶やすことのなかった姫が――ドレスの裾をギュッと握りしめ、声を押し殺し……泣いていた。 「(――ひ、姫……)」 ドア付近に立つ私からは、顔が見えないように。 「……うっ……うっ……」 しかし、震える肩や、鼻をすする音までは隠しきれず。 姫の身体が少しずつ小さくなっていくように見えるのも、錯覚ではないように思えてきた。 「――姫。自分はしばらく、廊下にて――」 「い、いえ。そこに、居て……くだ、さい……」 「…………」 「わたくしを……ひとりに、しないで、くだ、さい……」 「……ひ、姫……」 「で、でも……それ以上は……ち、近づかないで……」 そう言われ、私はどうしていいか迷ってしまう。 「(――いま、姫は何を求めている?)」 命令を無視し、姫のお側に寄って慰めてあげるべきか。 それとも忠実にこの場で待機して見守るだけが良いのか。 「(――いまの姫に、何が必要なのか……)」 ……少なくとも、私でないことは判る。 いま必要とされているのは、哀しみに暮れる姫を救うことができる唯一の存在、エファ。 そこまで判っていても―― 護衛という職に縛られ、ままならない私には何もできない。 「(――あぁ……)」 私自身の悩みなど、どうでも良かった。 姫は、こんな私とは比べるまでもないぐらい、重く見えない鎖に縛られて苦しんでいるのだ。 「(――生まれながらにしての統治者)」 ドルン家という王族の、直系世襲を運命づけられた姫。 国家代表の立場を重んじ、自らの意思を表に出すことを禁じ、これから先の人生を送るつもりだろう。 「(――それが、どれほど辛いモノなのか)」 身分の違う私などに、姫の考えが理解できるとは思えない。 ……が、お側に仕える身だからこそ解ることもある。 このまま『白の国の統治者』である以上、姫は姫であり続け、後継者が現れるまで片時もその立場を忘れることができない。 そして姫がそれだけの年月を過ごしたあと、一体どれだけの自由が得られるのかを考えたとき。 「(――果たして姫は、幸せなのだろうか?)」 私には、判らない。判らないが―― その未来すら、脅かす存在がある。 「『……そろそろ、いかがでしょう?』」 「『青の国が攻めてきてからでは、遅いのです』」 「『――良い返事、お待ちしています』」 姫の身柄を渡せば悪いようにはしない……という赤の国。 「『――いっそのこと、赤の誘いに乗ってみてはいかがです?』」 「『いやいや。青の国と手を組めないのであれば、赤の国を頼るのが筋でしょう?』」 「『――そんな真似をしなくても、黙ってないかもしれませんね』」 情報を握り、甘言と策略で揺さぶりをかけてくる青の国。 両国に挟まれた小国の白に、一体どうしろと!? 「(――赤も青も、どちらも滅んでしまうがいい!)」 「……ど、どうしました、デュア?」 「えっ!?」 「険しい顔をしてますよ。何か悩みでも?」 いつの間にか私の近くで、心配そうな顔をした姫がこちらを見上げていた。 「――私などよりも、姫が……」 「わたくしは平気です。もう、悩みなどありません」 嘘が下手な姫は、目の端の涙をそっと拭う。 「それよりも、わたくしは……デュアのことが心配です」 「わたくしのわがままに付き合い、疲れてしまったのでは?」 「滅相もありません」 「いいえ。嘘をつくこと、無理をすることは許しません。……正直に言いなさい、デュア」 「(――できるならばその言葉、姫にそのままお返ししたい)」 それが言えたら、どれだけ楽になれるだろう? 姫の本心を訊き出し、その望みを叶えてあげられるとしたら。 もしも姫が、エファと過ごす時間を望まれるのであれば―― 「――もしも……」 「はい」 「いっ、いえ!いまのは、その……」 「言いかけて止めるのは許しませんよ、デュア」 今日に限って、なんと意地悪なことをいう姫であろうか。 ……しかし。 この戯れの会話のまま、お尋ねしてしまうこともできる。 「(――いや……)」 たとえ冗談でも、こんなことを口にするのは躊躇われる。 国家に対する反逆の《そし》〈誹〉りを免れることもできない。 「(――それでも……それでも!)」 姫の望みを知り、それを叶えてあげられるならば―― 「――もしも、ですが」 「はい」 「もしも、姫が望まれるのであれば……」 口内が乾き、声が喉に張り付きそうになるが、そこを何とか乗り越えて問う! 「エファと一緒に、国をお発ちになるのはいかがでしょう?」 「…………えっ?」 目を見開き驚く姫。 だが、きっと私の提案を本気には受け取らなかったのだろう。 「何を言い出すかと思えば」 苦笑したまま首を小さく横に振り、消え入るような声で、 「ありがとう。気を遣い、そのような無謀案まで……」 と呟く。 「――いまのは、そのようなつもりで申し上げておりません」 いちど提案を口外してしまえば躊躇いも嘘のように消え去り、逆に妙な勇気すら湧いてくる。 「……デュア?」 「自分は、本気でエファに同行する気があるのかをお尋ねしております」 「それは、その……わたくしが、赤の国へ?」 「はい」 何度もまばたきをして、考え込む姫。 やがて決意が固まったのか、 「悪くない案ですね」 と両手を合わせ、ニッコリと微笑んだ。 「(――おぉ!)」 まさか、これほどあっさりとご決断されるとは! これまでの緊張がドッと疲れに変わるが、そんなことは気にしていられない。 「それでは早速!」 「気が早いことですね」 いまから行動を起こせば、城下でエファと合流予定の赤の使節一行に連絡をつけるのも容易。 そこで事情を説明し、落ち合う場所を決めて城に戻り―― あとは、裏門辺りから偽装の荷馬車に姫を乗せて連れ出し、そのまま赤の国までご同行を願えば―― 「手配は誰に任せるつもりですか?」 「自分が全てを!」 「――デュアが?」 「はい!」 「楽しみになってきました」 私の返事を聞き、姫は嬉しそうに微笑む。 「赤の国を視察訪問した際、エファに一目会って……」 「(――視察?)」 「少しわがままを言って、エファと過ごす時間など作らせてもらえたりしたら、どれほど――」 「違います!自分が申し上げているのは旅行や訪問ではなく、『このままエファに同行されるか』ということです」 「……この、まま?」 「そうです。エファと共に」 「……この国を出る?」 姫は動きを止め、私を凝視する。 「自分は、お叱りを受ける覚悟で申し上げております」 「――デュア。そなたは、このわたくしに……」 「この国を捨て、エファと共に過ごす日々を選ばれる気持ちはおありですか?……とお尋ねしております」 間違っても、姫からは口にすることがないであろう選択肢。 それを私が代弁し、ご本人に回答を迫っている。 「すでに、赤の国では姫を迎え入れる準備も整っております」 「……わ、わたくしは……」 「あとは、姫のお気持ちひとつです」 ――もう引き返せない。 ここまで口にして姫が断るようであれば、そのときは…… 「(――私は、死んでお詫びをするしかない)」 「わたくしは、白の国の姫――クリスティナ・ドルンです」 「そのようなこと、まかり通るわけが――」 「では、そのお気持ちはあっても……立場上、行動に移すわけにはいかない、と申されるのですね?」 「――それには、答えられません」 「……姫……」 否定しきれずあやふやな答えを返せば返すほど、それは肯定につながる。 「す、少なくともわたくしは……わたくしには決められません」 「……では、自分が姫の身柄を奪い、赤の国――エファの元へ行こうとすれば?」 「――なりません」 「……では、どうすれば!どうすれば姫は、そのお気持ちを明かしてくださるのですか?」 「………………」 姫の沈黙を受け、私は少しずつ冷静さを取り戻してきた。 よくよく考えるまでもなく、これは現実離れした夢のような話。 そのようなことに姫を付き合わせていた自分が恥ずかしい。 「申し訳ありませんでした。この件につきましては――」 「……もしも、エファが望むのであれば」 「自分はどのような罰でも受け――」 ……待て。 「(――いま、姫は何と仰った?)」 「わたくしには、決められません。それは……エファ次第です」 何とか聞き取れるぐらいの声ではあったが、確かに姫は―― 「……エファが望むなら、と?それ次第と仰るのですね?」 「…………………………はい」 「失礼します!」 一礼をし、すぐさま姫の部屋を出る。 向かう目的地は城下――エファを連れていく使節団の元。 宿泊施設、出立、到着予定時刻もしっかり把握している。 少し時間が経ったとはいえ、馬を駆れば追いつくのは容易い。 私は他の者に気取られないよう、早足を維持しながら裏門へ。 途中、一番脚の《はや》〈疾〉い馬を選び、それにまたがる。 「(――姫。お待ちください。必ずや朗報を!)」 外へ出てからは、なるべく人の少ない道を選んで城下を目指す。 そして町に着き、『使節団が駐留している』と聞いていた宿泊施設を覗くが―― 「――なに?もうすでに出立した!?」 施設を管理する者に話を聞けば、城にエファを迎えに行った一団との合流はここではなくて町の外――国境付近の街道でとのこと。 帰国の時間を少しでも早めるため、無駄のないように……と考えたのであろうが、何というタイミングの悪さか。 私は再び馬にまたがると、そのまま赤との国境を目指す。 万が一にも国境を越えられてしまえば、入国手続きその他で使節団に追いつくことが難しくなってしまう。 それに確認等などの問題が発生すれば、最悪……この計画が《おおやけ》〈公 〉になってしまう可能性もある。 「(――それだけは、絶対に防がねば)」 私だけ処罰を受けるのであれば構わない。 ……が、その余波が姫やエファ、はたまた国家問題にまで及ぶことだけは許されないのだ。 「……もっと《はや》〈疾〉く!すまん、そこを退いてくれ!」 すれ違う商隊や旅人を道脇に追いやり、手綱を振い続ける。 そしてひとつ丘を越えた辺り――国境の手前で、赤の使節とおぼしき一団を発見。 「――あれか!」 ……が、しかし。 私が予想していた光景とは大きく違っていた。 「……馬鹿な!」 そこに居たのは、赤の使節団だけではなく。 明らかに護衛とは違う武装をした者どもが、使節団一行を襲撃していたのだ。 「――くっ!野盗か!」 武装のちぐはぐさ、指揮のない弓矢の無差別な攻撃など、統率された軍隊には遠く及ばない集団。 視界に入っただけで、馬に乗る者が六人。それ以外が八。 金品目当ての強盗どもは、我先に獲物を狩らんとしていた。 「――エファ!何処に居る!?」 私は馬上で剣を抜き、上体を低くして現場に突入を図る。 こちらに気づき、馬の向きを変えようとしていた男の胴を先手必勝で一閃。 「ぐぇ!」 絶命して崩れ落ちそうになる身体を横に蹴り、地上で剣を振るっていた男にぶつける。 「エファ!居たら返事をしろ!」 「……デュア……」 「エファか!」 その声のする方を向けば、倒された馬車の影から白い羽根が見えていた。 「そのまま動くな!すぐに行く!」 右から寄ってくる重鎧の槍を牽制しながら、エファの元へ。 「つかまれ!」 伸ばした左腕にエファがしがみついたのを確認し、一気に馬上まで引き上げて脱出のルートを探す。 「デュア、後ろに!」 「――ウォァアアアー!」 「――ふん!」 雄叫びをあげて斬りかかってきた男の首筋に刀身を滑らせ、その返り血でエファが汚れないように馬をターン。 右斜め前から伸びてきた槍を護拳でいなしつつ―― 「ぎゃぁぁぁぁ!」 その棒を辿り、相手の握りの手首を切っ先でかすめておく。 「――エファ、しっかり掴まっていろ!」 「……は、はい」 「《 ど》〈退〉け《 ど》〈退〉け!邪魔をすれば容赦しない!」 私は抜き身の剣を担いだまま、一路ドルンシュタイン城へと馬を走らせる! 「な、何故……デュアが……」 「黙っていろ!舌を噛むぞ!」 「……で、でも、どうして……」 「――姫の《めい》〈命〉だ!」 「……えっ?」 「――姫が、『エファに尋ねよ』と」 「なっ、なにをですか?」 「姫は……エファが望むのであれば――」 そこまで口にし、姫が赤の国へと向かう計画が破綻していたことに気づく。 「――訂正する。答えは改めて姫の前で、だ」 「……?」 「とにかく、この場は逃げ切ることだけに――」 しがみつくエファの反対側で、空気を切り裂く鋭い音が! 「(――矢か!)」 一本、二本と風を切って周囲の茂みに消えていく弓矢を見て、エファを潰さないギリギリまで上体を落として馬を駆る。 「苦しくないか?」 「……へっ、平気です」 「いいか。なにがあっても、おまえだけは護る」 「……デュア」 「だから、必ずおまえは、姫の元へ帰るのだ!」 「……ひめ……さま……」 エファの腕に、気持ち……力が入る。 「――ふふっ。こうしてまともに話すのも初めてだな」 「……そ、それは……」 「いまだから正直に言う。私は、おまえが苦手だった」 「…………」 「人間に近すぎる人形のおまえは――」 「赤の国が送り込んだ、刺客の可能性があったのだ」 「……わ、私は……」 「分かっている。疑ったりして悪かったな」 「……デュア……」 「リハーサルのとき、姫を護ってくれた勇気――」 「私にも、おまえぐらいの勇気があれば――」 ――そのとき。 「――デュア!?」 「……くっ!気にするな。舌を噛みそうになっただけだ」 「ち、違います。いまの音は、矢が……」 「――黙っていろ!このまま《やぶ》〈藪〉を抜ける!」 肩口の痛みに耐えながら、進路を右にとる。 そのとき横目で確認した馬の数は……三、四といったところ。 「(――振り切れるか?)」 エファが軽いとはいえ、こちらは二人乗り。 おまけに手綱の取りづらさを考慮し、距離は確実に縮まると見た方がいい。 「(――どこまで追ってくるか、だ)」 街道を走り続け、通る者たちを巻き込むわけにもいかない。 それに、あまり開けたところでは、また矢の的にされる。 ……となれば―― 「――エファ。ひとりでも平気か」 「……なにを言うのですか!?」 「この馬は優秀だ。しっかりしがみついていれば、きっと城まで無事に……」 「ダメです!先ほど言われたことを忘れましたか?」 「……ん?」 「私を……私を護る、と言ってくれたではありませんか」 「――そうだったな……」 ……まさか、エファに叱られることになろうとは。 「では、こうしよう。この先の《やぶ》〈藪〉を抜けたところで――」 この付近の地理をどちらがどれだけ把握しているか? ――勝負の分かれ目は、そこにある。 「(――ひとつずつ、確実に数を減らそう)」 剣は一本。馬は一頭。 ……そして、護るべき者も一人。 「……デュア!デュア!」 「…………あまり揺すらないでください、姫……」 「あぁ、ごめんなさい。で、でも……私は……姫様では……」 「(――ん?では、一体?)」 私は少し、ウトウトしていたのか。 「傷は……傷は平気なのですか?」 「ああぁ、エファか。私は平気だ。おまえは?」 エファの声を姫のモノと間違えるとは。 「(――私も疲れているのだな)」 「いま、人を!すぐに戻りますから、それまで――」 「心配するな、エファ。もう、部下が呼びに行っている」 《こんだく》〈混濁〉していた記憶が、やっと戻ってきた。 私は赤の使節団を襲った野盗の群れから、エファを―― 「(――最後は、一対三。我ながら、よくしのいだ……)」 最後の最後に受けた背中の傷が、じんわりと痛み出す。 「(――これも、武勲に入るのか?)」 「……あー、デュア、みつけ、たー。どーした、のー?」 「おやおや、その声は……ココだな?」 「うん、そーだ、よー。でもでもデュアは、なんでここにー?」 「ん?あぁ、ここは城門の通路だったな……」 この先に続くのは、中庭。 しかし、私には……もう、そこに入る資格はないのだ。 「……それより、ココ。どうしておまえが?」 「んー?ボク、たんけん、してましたー。たーんけーん」 両手をぶんぶん振り回し、あちこちを眺めてみせるココ。その姿は、いつもながらに可愛らしい。 「あまり遠くまで行って、姫に心配をかけるなよ」 「うんうん。ボク、しっかりさん、だもん」 「ふふふっ。ココが?しっかりさん、か?」 「そーだ、よー。ボクね、ちゃんとドアのカギ、しめられるの」 「……おぉ、やるなぁ。じゃあ、お着替えは……どうだ?」 「できる、よー。ひとりでも、へい、きー」 「……そうか、そうか……」 「あれれ、デュア?ネムネムさん?」 「……んっ?あぁ、少しだけ、な……」 ココの顔を見て話をしていると、とても安心できる。 同じ視線の高さで、まっすぐにこちらを見てくれる人形。 「(――以前、廊下で握手したときも、確か――)」 「おー、そーだー。ねぇねぇ、きいて、きいてー」 「……何かな?」 「ボク、さっき、ねー。エファにあったの、エファにー」 「……エファか……」 「エファね、かえってきたの。おわかれしたのにー」 「ふふふっ」 ココの無邪気な顔を見て、微笑まない者が居るだろうか? 「それでね、それでね。エファから、ききました」 「……何を?」 「ここに、デュアが、いることー」 「――あぁ、そうだったのか……」 「エファに、たのまれたの。デュアと、おはなし、しててって」 「…………エファが……」 「しててっ、しててって。……なんか、ヘンだね、しててって」 「……うん、おかしい、ねーっ」 「あー、まねっこ?ボク、まねされたー?」 「…………あぁ……ちょっとだけ、な。似ていた、か?」 「うんうん。ちょっとだけ、ね。ちょっとだ、けー」 「(――ココからのお墨付き、か)」 「…………なぁ、ココ」 「あい?」 「もう少し、そばに寄ってくれないか?」 「んー??」 「……ココの声が、な。少し、小さくて……」 「あー、あー、あー」 「きーこ、えーる?」 わざわざ口元に手を当てて、ココは大きな声を出してくれる。 「ふふふっ。ちゃんと聴こえるよ、ココ」 「ねぇねぇ、デュア。おカオのいろ、わるいよー?」 「――そうか?」 「……うん。おなか、いたいの?」 「いいや。平気だよ。もう少し休んでいれば……」 「あー、そーだ。ボク、いいものあるの」 「……ん?」 「……こー、れー。これ、あげるね。はやく、ゲンキになるの」 ココが、ごそごそと自分の首に下げた袋の口を開け―― 「……これは……」 私の前に差し出してきたのは、薄い緑色の貴石。 「ダメだろう、これは。おまえの大切な――」 「いい、よー。ボク、すこし、なくても、へい、きー」 「でーもー。ゲンキになったら、かえしてー?」 「……ありがとう、ココ。おまえは……優しい子だな」 「えへへ。ほめられちゃった?」 「……あぁ。じゃあ、代わりに何か……」 いまの私に、ココへ渡せるモノは―― 「もう少しだけ、前にきてくれるか?」 「あいあい」 「……ごめんな、こんな《 ・ ・》〈モノ〉で」 私はそっと頭を落とし、ココの額に唇を当てる。 「きゃー!チューされたの?ボク、チュー、された?」 「ふふふっ。大袈裟だな」 「だって、だって――きゃー!はずか、しーい」 「デュア!いま、人が来ます。ですから、ですから……」 「……あぁ、エファ。無事か?」 「は、はい。私は、私は平気です。だから、しっかりして……」 「エファにひとつ、頼みがあるんだ」 「…………えっ?」 ちょうどココが、私の置き土産に喜んでいる隙に―― 「これをあとで、ココに返して……あげて……ほしい」 「……これは……ココの?」 「しばらくは、内緒でな。おりを見て、頼む」 「――わ、わかりました」 「あー、エファー。あのね、あのね。ボクねー、いまねー」 「こーら、ココ。さっきの《 ・ ・》〈コレ〉は……内緒だぞ」 ココの額を軽く小突き、そっと髪の毛を撫でる。 「えーっ?」 「その代わり……ひとつ、ココに仕事をあげようか」 「おしごと?うん、いいー、よー。おてつだい、すきー」 「…………姫を……」 「……あれれー。デュア?きこえない、よー」 「デュア、お願いです。しっかりして……」 「私の代わりに、ココ……姫を……護ってあげてくれ」 「…………デュアの、かわりー?」 「そう。私の……代わり、に」 「うんうん、わかったー。やくそくー」 「(――これで……)」 これで私も、ゆっくりと休める。 ココに任せるのは、ちょっと心許ない気もするが―― 「へい、きー、だよ……な?」 「あーい!」 とても良いお返事を耳にしながら、静かに息を吐く。 ……私は、エファを護った。 …………私は、姫の大切な人形――エファを護りきった。 「(――それが、私の……最期の誇り)」 「……デューアー?」 「(――なん……だ?)」 「おカゼ、ひいちゃう、よー?」 「(――もう、そんな心配は……いいんだよ……コ……)」 「――お呼び立てしてしまい、申し訳ありません」 「いえ。こちらこそ、このようなときにお伺いしてよいものか迷っておりましたので」 そのまま立ちつくし、《えっけん》〈謁見〉の間へと入ってこない彼女を見て、数日前の執務室での会見を思い出した。 「(――あれはまだ、三国会議の前のことだったか)」 それがひどく昔のことに思いつつ、振り返るだけであの日に戻れたらどれだけ救われることか、などと考えてしまう。 「お怪我の方は?」 「幸い、擦り傷程度のものでしたのでお気になさらず」 赤の使節団長の声は固く、その言葉とは裏腹の沈痛なもの。 本来ならば帰国を果たし、もう『団長』という肩書きからも解放されたはずの彼女が、このドルンシュタイン城に居る。 不幸中の幸い、と表現すれば良いのか。 《カーディナル》〈赤との〉国境付近で起きた使節団襲撃事件の被害者のひとり。 その渦中で気を失い、倒れていたところを後から駆けつけた白の国境警備兵たちによって救い出されたのが使節団長たる彼女。 そして唯一の『生存者』となってしまった彼女は屋外を嫌い、窓から風景の見えない謁見の間での会談を条件にあげてきた。 「いま、席を用意いたしておりますので、しばらく……」 「アイン殿。お気遣いは嬉しいのですが、私としてはそれほど長居をするつもりがありません」 相変わらずの早口に、つっけんどんな態度。 「ですが、短い時間とはいえども立ち話はお身体に――」 「私のことはともかくエファのことが気になります。……我らが国宝は、無事なのでしょうか?」 性急な調律師は、何をおいても自らの職務が最優先……と言わんばかりに人形の安否を気にする。 「――はい、ご無事です」 人間ではないエファもまた、『生存者』と呼ぶべきだったか。 それ以外の使節団員、および帰国のための護衛兵二十一名は死亡確認も済んでいた。 「それを聞いて安心しました。つきましては――」 「帰国の日取り、でしょうか?」 「はい」 先回りした私に鋭い視線で答えた彼女だったが、すぐに、 「……ですが、それよりも先に解決しなければならない懸案がありましたね」 と、ため息で俯く。 さすがに使節団のトップである以上、外交問題を放ったまま戻ることはできないことは理解している。 「では、こちらへ」 今度は席に案内しても断ることはせず黙って腰掛けたので、私も用意していた書類を手にし、彼女に対して質問を始めた。 「まずは、今回の使節団襲撃の事件についてですが……」 場所が国境の近くという不安定な位置にあるが、領土的には《ヴァイス》〈白の〉管轄となる。 当然、こちらの責任が追及されることは避けられない。 しかし、使節団が帰国する際に用意した白の護衛に関して、辞退の意を表明してきたのは《カーディナル》〈赤の側〉だった。 あのとき無理にでも見送りの兵をつけておけば良かった……と悔やまれる。 「《ヴァイス》〈白 〉の方々に護衛をお断りしたことは、私どもの落ち度です」 「…………」 「――私どもは帰国に際し、国境警備隊と合流がうまく行くと過信しておりました」 これまでも国境付近の治安維持において、管轄担当者同士の些細ないざこざなどがあったことなども含め、両国の連携に支障があったことも事件発覚の遅れにつながったと思われる。 「今回の帰国についての連絡は、早馬を?」 「はい。決まったその日のうちに伝令を走らせました」 「帰路や時間などについても、そのときに?」 「えぇ。それが?」 彼女はいぶかしんでみせるが、こちらの質問の意図には薄々感づいている。 「その情報が洩れていた、とお考えではありませんか?」 「…………」 「あらかじめ使節の方々が通る道と時間帯を知った上での襲撃とみるか、商隊などを狙っていたところに運悪く踏み込んだと思うか――」 ふたつのうち、どちらかだとすれば。 「私は、間違いなく『前者』であろうと考えております」 「……アイン殿。その理由をお聴かせください」 「結論から申し上げれば、狙われたのが《 ・ ・ ・》〈エファ〉だからです」 「その証拠は?」 「これはエファの証言が頼りの話となりますが――」 「襲撃の地点に駆けつけたデュアがエファを連れて逃走を試み、それを追ってきたことが理由に挙げられます」 「ただの物盗りであれば、現場で剣を振るったデュアの腕前を見た者たちが追撃するとは……考えづらいものがあります」 「――エファを『高価なモノ』と判断したからでは?」 「確かにエファの羽根を見て『人形』と認識すれば、それもあり得る話です」 「……が、必要以上に執着し、剣士相手に命を賭けてまで奪うとは思えません」 「そんな危険を冒してまで手に入れるからには、『初めからエファが狙いだった』と言われるのですね」 「えぇ。無論そのような理由もなく、ただ欲に駆られて深追いした可能性もあります」 「しかし、素人目に見ても比べものにならない完成度を誇るエファとはいえ、買い手がなければ……《 ・ ・ ・ ・ ・》〈無用の長物〉です」 最後のたとえが気に入らなかったのか、彼女は少しムスッとした表情になる。 それでも強く反対意見を述べてこないあたり、一応の理解は得られているようだった。 「では、襲撃の最中に盗賊の誰かがエファを『赤の国宝』と知った可能性は?」 「否定はできませんが、そこまで頭の回る者が一味に居たとすれば、エファを連れ去ろうとはしないでしょう」 「……何故、そうお考えに?」 「赤の国宝を買う者など、見つけられるとは思えないからです。手に余る人形を持って逃げ回ることになれば、国家が威信を賭けて追いかけてくるでしょう」 「それに、《カーディナル》〈大国を〉相手に身代金を要求するなども考えられない」 「――下手をすれば、同業に近い存在からも懸賞金目当てに『国家に売られる』危険性もあるはずです」 人形を金に換えられず、自らの命が金に換えられる運命など……進んで選ぶ者は居ない。 「……いかがでしょうか?」 「一理はあると思いますが、確証とまでは。……他には?」 「あなたを救出した白の国境警備兵たちが近隣を調査した結果、盗賊たちの野営の陣を発見しました」 「……えっ?」 「残念ながら、その場には口をきける者はひとりも居らず、それが襲撃者たちだという証言は得られませんでしたが――」 「弓矢でハリネズミのようにされた野盗たちの隠しポケットに、赤の方々の遺留品と思われるモノが数点あった次第です」 「ど、どういうこと、ですか?」 「使節団を襲わせた上での口封じ。彼らが襲撃者であることを知られないため、戦利品を全て回収したつもりが……」 「――盗賊の『最期の秘密』までは見つけられなかった、と言うわけです」 「…………」 「のちほど、遺留品の確認をお願いできますでしょうか?」 「……はい」 「我らが神よ。同胞たちの魂に永遠なる安らぎを……」 悔しそうに唇を噛みしめながら胸元で手を組む使節団長は、小さく祈りの言葉を口にしながら目を閉じる。 やがて気持ちが収まったのか、ゆっくりと頭を振ってからこちらへと向き直った。 「……アイン殿は、『今回の襲撃の裏には何者かが存在する』と仰いたいのですね」 「はい」 「それが誰であるか、見当はついているのですか?」 「――はい」 「……それは誰だとお考えです?」 「(――もちろん、その人物は……)」 だが、赤の名代を前にその男の名を口にすれば―― 「……もしやアイン殿は、この私をお疑いですか?」 数日前であればその筋も考慮に入れていたが、いまはもう、青の大使ヴァレリーしか候補に残っていない。 もちろん、彼女がヴァレリーと内通している線もあり得ない話とも言い切れない。 しかし、そんな低い確率に神経をすり減らす余裕もないのが実情。 ヴァレリーは自らの策略の末端を見え隠れさせつつ、肝心な場面では他者を盾にしてきた。 「……アイン殿、お答えください」 「――《 ・ ・》〈それ〉はありません」 疑いが皆無と言えば嘘になるのを承知の上で、あえて首を横に振ってみせる。 私の判断ミスで、白がコトを構える『《てき》〈国〉』を間違えるような事態だけは避けねばならないのだ。 「いまさら疑いを口に出せば、互いの信頼が《がかい》〈瓦解〉します」 「……はい」 向こうも同じで、言い出せない思いがあったはず。 その証拠に、彼女は声にならない口元の動きを飲み込み、ただ一度だけ頷いてみせた。 「我々の敵は、一筋縄ではいかない相手です。ここはひとつ、《 ヴァイス》〈白の〉国にお任せいただけないでしょうか?」 「……《 ヴァイス》〈白の〉国?それはアイン殿、ということですか?」 「そうとっていただいても構いません。ただし」 「はい?」 「あくまで個人的な感想とご判断に留め置いてください」 「…………判りました。では、私もお返しいたします」 「――?」 「我々赤の国の中に他国を快く思わぬ人間が居ない……とは言い切れません。もちろん、その対象は白も青も然りです」 「さらにはその逆――他国とつながり自国を裏切る者も」 「……ですが、それらが『全て』ではなく、ほんの一握りです。一時の気の迷いから悪事に荷担してしまう者も居るでしょう」 「………………」 「我らが神は、『過ちを犯してもそれに報いるだけの贖罪をすれば、いつか許される日が来る』と教えます」 「あなた方の国に仇なす者を全て許してくれとは言いません。ただ、ただ……勇敢に戦われて死んだ者のことは……」 「(――そうか。彼女は、遠回しに……)」 ――デュアのことを言っていたのだ。 「……《 ・ ・ ・》〈内通者〉をご存じだったのですか」 「……はい……」 赤の関係者と手紙で連絡を取り合っていた事実を知りつつも、中身を調べるような越権行為には出なかった。 また、今回の赤の使節の中のひとりがデュアと接触していることも分かっていたが……それも不問にした。 ……何故なら私は、デュアが裏切り行為に走るなど、考えたことすらなかったからだ。 「仮にも団長の身。それとなく、赤にも白にも通じる者が居ることは耳に届いておりました」 「お心遣い、痛み入ります」 「――いまのは私の個人的な発言で、国家とは無縁です」 彼女はバツが悪そうに立ち上がり、気持ちを切り替えるかのような咳払いを入れる。 「……では、アイン殿。話をまとめさせてください」 「――はい」 「エファが狙われていたという結論から考えて、帰国の時期は慎重に検討させていただきます」 「(――当然の判断だな)」 「それが決定されるまでは、警護はよろしくお願いします」 「お任せください。城下の宿泊先にも優秀な者を配置します」 「そして、エファの件ですが……」 「恥ずかしながら、いまの私には調律を施す余裕がありません」 「ご迷惑でなければクリスティナ様に全てをお任せしたいと考えておりますが、いかがでしょうか?」 その質問には、 「……こちらは構いません」 と、私の一存で答えた。 すでに姫君には事前確認をとってある事項だからだ。 「よろしくお願いします。私の話は以上ですがアイン殿は?」 「(――訊くべきか、訊かざるべきか)」 一瞬迷ったものの、ひとつでも不安を消す道を選ぶ。 「国へ戻られた際、今回の件について……どのようなご報告をされるおつもりでしょうか?」 「エファの羽根の治療には白の国の技術が絶対的に必要である……と、調律師の私が判断した旨を伝えます」 「――城に『国宝』を連れ帰ってしまった者の件に関しては?」 「野盗に襲われて壊滅寸前となっていた使節団の一行の中から国宝を安全なドルンシュタイン城まで運んでくださったこと、感謝こそすれ……非難などあり得ません」 「たとえ《 ・ ・ ・》〈その方〉が何を考えていたとしても、それは……」 「……それは?」 「――神のみぞ知る、ことです」 「――計画とは、なかなかうまく進まないものだな」 これまでの人生において何度も番狂わせに遭遇してきたが、万が一を考えて用意した『控えの手』が働いたものだ。 最初の三国会議では、《 ・ ・ ・》〈まんま〉とアインにハメられてしまい、焦らされもした。 宣戦布告のタイミングを逸らされたばかりか、危うく全ての計画をハンスの口から語られそうにもなったのが痛い。 ……が、それでもこうして俺がこの城に未だ『大使』という立場で滞在できているのは、そんな場面を見事に乗り切ったからこそ。 それが今回に限っては―― 「……打つ手なし、か?」 さすがに打開策が見えてこない。 「こんな田舎に長く滞在したせいで、思考も衰えたか」 この国に来て良かった思い出など、ほとんどない。 唯一、青ではなかなかお目にかかれない早熟ワインを自由に飲めることぐらいだろうか。 「――ワイン、か」 懐かしい響きだ。 盃を傾けつつ、この迎賓の間に三人が揃ったときのことを思い出してみる。 「……フフフッ。からかいがいのある男だったな、ユッシ殿は」 初対面の俺に向かって臆せず突っかかってきたとき、これは楽しめる同志と思い、丁重に扱ってやった。 それにも関わらず、あの男ときたら―― 「――階段からの転落死」 それはあまりにあまりな死に方。一時はアインが俺の計画を察知し、警告を兼ねた見せしめかと勘ぐったりもした。 しかしフタを開けてみれば、馬鹿馬鹿しくも笑えない結果が残るだけで何の足しにもならなかった。 「……いやいや。舞台で使う短剣ぐらいは用意してくれたか」 そう考えれば、少しは優しくもなれる。 「ユッシ殿に、乾杯。そして――」 これからは《 ・ ・ ・》〈たとえ〉神の勧めであっても……酒の飲み過ぎには注意してもらいたいものだ。 「続いては、ハンス殿……か」 ユッシとは違い、青の国での付き合いがあった彼は、比較的付き合いやすかったと言える。 ただ、ハンスも扱いづらいところ――精神的な弱さがあった。 「……もう少し青の国で鍛えておけば良かったな」 常に陰謀渦巻くドロドロとした政治家たちに引き合わせず、新しい人形技術の学習に力を入れさせたのが失敗だったか? 「(――いやいや)」 人にはそれぞれ『向き不向き』があることを考慮すれば、根っからの学者肌であるハンスに《 ・ ・》〈アレ〉以外の道はなかった。 「彼も、それなりによくやってくれた」 期待ほどではないにしろ、分相応の働きはあったと思う。 彼が居たからこそ、ココを介してエファを操る算段がついたのだ。 「ハンス殿にも乾杯しよう」 残念ながら舞台での策略は、『同志殿に内緒の二段構え』の策をとったにも関わらず失敗に終わったが。 「まぁまぁ、《 ・ ・》〈アレ〉はハンス殿の失敗ではない」 ショーケースの中で眠り続ける余り、カビが生えて誤動作を起こした赤の古くさい人形が悪いのだ。 「……そう。過ぎたことは忘れようじゃないか」 ハンスに乾杯する前に、名も知らぬ暗殺者のことを考えてやるべきだったか? 「……遅ればせながら、安い賃金と家族のために身を張った名も無き彼にも、乾杯」 ハンスが最期に飲んだワインと銘柄に差があっても、旅立つまでに必要な《 ・ ・ ・》〈隠し味〉が同じモノだったことで許してもらおう。 あの毒は、青でもなかなか手に入れづらい高価な一服。 「フフフッ。口に合わなかったことだけは詫びておこう」 「(――さて、次は誰に乾杯か?)」 目を閉じてみれば、夜の中庭で会った女騎士の姿が浮かぶ。 「……ふん。剣の腕は《 ごぶ》〈五分〉、といったところか」 悪くない太刀筋で、青でも数年なかった感覚を味わえたのが記憶に新しい。 「(――デュアとは、もう少し話がしてみたかったものだな)」 何かにつけて、『姫、姫、姫』と言いそうな忠義一本の者。 全てを職務に捧げているのかと思いきや、時折アインを見る目には女の色が見え隠れしていた。 「腕が立つといっても……所詮は、なぁ」 アインが少しぐらい『かまって』やれば、もう少し柔らかくなって『愉しみのひとつ』も増えただろうに。 「――ま、俺には興味のない話だがな」 何度目か数えるのも面倒になった乾杯をしようと、腕を軽く突き上げてみるが、いつの間にか中身は空になっていた。 「……ハッ。女剣士殿はワインがお嫌いか」 こちらとしては、そんなご本人の方こそ《 ・ ・》〈いけ〉好かない。 デュアのせいで、余興のひとつが台無しにされている。 「……あの女め」 俺はわざわざ青の国に使いを出し、腕の立つ兵を招集した。 そして、その者たちを通じて盗賊団を雇い、帰路に就く赤の奴らを襲撃させ、クリスティナ姫お気に入りの人形を持ってこさせる予定だったものを。 どこでどう嗅ぎつけたのか、いきなりデュアに飛び入りされ、横取りされる形に終わってしまった。 「使節団からエファを奪ったのがデュア、までなら最高だった」 愛する姫のために、人形を連れ戻そうとする忠義の騎士……だけなら、《いかよう》〈如何〉様な味付けの料理にもできた。 両国の境の近くで揉め事を起こし、不和の種をまいておけば、水面下での準備が可能となって作戦の幅が限りなく広がる。 それを期待したからこその一手。……なのに、コトの全てが面白くない方向へと転がった。 「――ふん。愚痴はここまでにしておくか」 語り出せばキリがない。それに―― 「そろそろ、赤の《 ・ ・ ・ ・》〈生き残り〉が会談を終える頃合い」 ……となれば、次に自分がアインに面会を求める番となる。 「さようならだ、死者諸君」 死んだ人間は死んだ人間同士、仲良くすればいい。 生きている俺には、まだまだやるべき仕事が残っている。 「……これから、だ」 今日の会談で、アインが何を言ってくるかが楽しみだ。 話し合ってみた結果、もしも奴が賢いだけでなく、《こうかつ》〈狡猾〉で生き残ることにどん欲であるなら―― 「青の手駒に加えるのも悪くない」 が、そうでなければ……向こうの仲間入りをしてもらうしか提案できなくなってしまう。 「……どちらに傾く?」 気位の高さで『あちら側』をお望みであるなら―― 「……俺が逝かせてやろう。なぁ、アイン」 暗い空間で目を覚ました私は、一瞬自分が何処に居るのか判らなかった。 「(――姫様の……お部屋?)」 灯りがないとはいえ、見間違えるようなことはない。 片羽根を失ってからの私は、ずっと姫様に看病されながら生活してきたのだから。 「……でも、私は《カーディナル》〈祖国 〉へ――」 ぼんやりとした頭の中に、もう二度とこの部屋に戻ることもないと嘆いた記憶が残っている。 それなのに、いまこうして私はここに―― 「『……必ずおまえは、姫の元へ帰るのだ……』」 「――デュア?」 耳元で甦る彼女の声があまりに鮮明で、思わず振り返る。 が、デュアは、もう居ない。 「……デュア……あなたは……」 どうして、あの場に駆けつけてくれたのか。 自分を犠牲にしてまで、この私を助けてくれたのか。 「『――姫の《めい》〈命〉だ!』」 そう。全ては、姫様のため。 あまり話したことはないが、護衛のときの態度を見ていれば充分に解った。 「――姫様……」 そんな彼女が仕える主は、いまこの場に居ない。 きっとデュアなら、すぐにそのお姿を探しに行くだろう。 「(――私は?)」 もしも自分がデュアの立場だったら、同じことをする。 姫様のお側に仕える身であれば、当然の選択だと思う。 でも、私にはそれができない。 眠りに就く前、姫様にそっと耳元で、 「『部屋を出てはダメですよ、エファ。ここでお待ちなさい。わたくしは、すぐに戻りますから……』」 と、ささやかれた記憶があるから。 「――姫様……」 私は、泣きたくなった。 暗い部屋の中、こんなにも心細いのに。 姫様の元に戻ってきたはずの私が、どうしてひとりなの? ベッドに近づき、シーツを触って温もりを確かめるが―― 「……う、うぅ……」 ほんのり残る姫様の体温を感じた瞬間、寂しさだけが溢れた。 「(――あぁ……)」 白の国に来てから、私は大きく変わってしまった。 演劇で泣くシーンがくれば、自分の気持ちひとつで目の前を曇らせることができる。 それは、いまでも同じ。 「……でも、どうして、私は……」 舞台の上でもないのに、そんなシーンでもないのに。 涙がコントロールできず、勝手に溢れ出てきてしまう。 「ひ、姫……さ、ま……」 部屋を飛び出して、姫様を探しに行きたい! ……だけど、それは許されないこと。 こんなとき、私がデュアであれば―― 「……ずっと姫様のお側を離れずに居られるのに」 「(――お側を離れたら、きっと叱ってもらえるのに!)」 私は、もういまは亡き人に嫉妬していた。 それも、私に救いの手を差し伸べたせいで……亡くなってしまった人に対して。 「――許してください、許してください」 私は、どれだけ身勝手な人形なのだろうか。 「……そんなモノ、私は持ち合わせていません!」 首を横に何度振っても、もう取り返しのつかない誤解。 「――勇気ではなかったの!」 振り上げていた短剣を姫様の胸元へ突き立ててしまいそうな自分自身が怖くなり、動くことすらままならなくなった。 ただ何かの合図を待つ状態に陥ったとき、フードの男の姿が見えて我に返っただけのことだったのだ。 「……デュア……」 涙が止まらない。 姫様の側に居なければならないはずの人が亡くなり、肝心なときに何もできない私が生き残る。 神に捧げられるはずの人形が、なぜ、こんなところで姫様の大切な人の代わりを務めようとしているの? 「――私は、デュアになれないのに……」 私は、姫様の大切な人を奪った神を呪う。 そして、姫様が大切に想う人を羨む自分をも呪う。 「……姫様、早くお戻りください……」 いますぐここに、姫様が来てくれたなら―― 「きっと、私は……こんな気持ちから解放されるのに……」 「――お前は、満足だったのか」 ひとり中庭に立ち、ぼんやりと夕焼け空を見上げていた私は、ふと側にデュアが居るような錯覚で我に返った。 「…………居るはずもないか」 すでにデュアは葬儀を終えて、静かな時間を過ごしている。 せめて彼女が安らかに眠るまでは、何も起こらないで欲しい……と願っていた。 「もう、あれから三日か」 「『……デュア・カールステッド。赤の国宝――エファの窮地を救った業績を称え、ここに永代名誉騎士の称号を与える』」 小高い丘で自らが読み上げた言葉が、耳から離れてくれない。 「――本当にこれで良かったのか?」 嫡男不在、いつできるかも判らない婚姻までの場つなぎ……などと陰口を叩かれ続けながらも、カールステッド家の名に恥じぬよう振る舞ってきたデュア。 「……私は、父が失脚させたカールステッド家の者だから取り立てたのではない」 「――お前の才能と、その忠誠心に惹かれて呼び寄せたのだ」 あれから二年。 私の思った通り、デュアは姫の護衛を立派に務めてきた。 そして、今回の騒動のときも―― 「……ずっと、私の支えになってくれていた」 こうして振り返れば、その存在の大きさが思い出される。 「いつも、護衛兵の数が少ないと文句をつけられていたな」 何かと執務室を訪れては、『提出書類のサインがまだか』とせっつく姿が、遠い日の出来事に思えてしまう。 「……あのとき、他の予算を少し切りつめてでも……」 デュアの言うように、兵の数を上げておけば。 式典リハーサルのときの警備を強化し、事件を小さく収めることができたかもしれなかった。 「やはり、専門家の意見は尊重すべきだったか」 建国以来、戦争というものを経験したことがない我が国では、ほとんどが実戦を知らない自衛目的の兵士たち。 そんな中でも、デュアだけは天性の才で別格の技術を持ち、白のみでなく他国の剣闘技大会でも優秀な成績を残していた。 「『……相変わらずの強さだな、デュア』」 「『世辞で人を百戦錬磨の扱いをするのは、おやめください』」 「『……何を言うか。強いから強いと褒めたまでだぞ?』」 「『失礼ながら、アイン殿は勘違いしておられます!』」 一年ほど前の中庭。ちょっとした行き違いから、この場所で私がデュアに稽古をつけてもらえる機会が生まれてしまった。 初めはその場の勢いだと思っていたが、あのときのデュアは、 「『自分が他人に言われるほど強くないことを証明する』」 と言い、ガンとして譲らなかった。 「『……では、ひとつ。お手合わせ願えるか?』」 「『――はい!』」 ……が、あれはどういった冗談だったのか。 満面笑みのデュアは練習用の刃引きサーベルを持ち出しつつ、私には長さがその半分にも満たない木の棒を渡してきたのだ。 「『……互いの武器、逆ではないのか?』」 「『いいえ、これで良いのです』」 私の剣の腕前など、ひいき目に見積もられても並の域。 そんな者に短い木の棒を持たせて、国一番の剣士と名高いデュアがサーベルを構えるとは。 「『――これは、安易に人を褒めると痛い目を見るという教訓か何かを私に教えるための……』」 「『――違います!いざ、尋常に!』」 一瞬にして間合いを計って容赦のない打ち込みを入れてくるデュアに対し、こちらが防戦一方になるのは当たり前の結果でしかなかった。 「……何事に関しても、本当にマジメだったな」 そして、一度とこうと決めたら曲げない信念。 私は、そんな気むずかしい性格をも買っていたのだ。 「――デュア、教えてくれ」 迷いのある私は、いま、どうすべきなのかを。 知恵を振り絞り、この国を守るために立ち回るべきか? 「(――それとも)」 主である姫君を第一に考え、行動を起こすべきか? 「……デュアならば後者、か」 本人の答えを聞かずとも分かってしまう。 デュアのことは、誰よりも理解していると自負してきた。 武人だから、頭よりも身体を使う……のではない。 デュアは、何よりも姫を最優先に動く。 だからこそ姫直属の護衛隊長に任命し、私は安心して国務に従事することができた。 些細なことで論議を持ちかけてくるデュアと、それを《ケム》〈煙〉に巻こうとする私。 周囲の目には、ずいぶんと難儀な関係に映っていただろう。 それでもふたりは―― 「――自然とバランスがとれていたのだな」 私は、そんな二度と得ることの出来ないであろう者を失った。 ……それも、こんな大変なときに。 「深く考えたからといって、デュアが戻るわけでもない……」 そう。いつまでも死者を想う時間は許されない。 ……残された私には、やるべきことがあるのだ。 「国と姫君、どちらを優先すべきか」 親愛なる部下が亡きいま、私がとるべき道は―― 「――その前にひとつ。越えなければならない壁があったな」 それは、申し込まれても何かと理由をつけて断り続けてきたヴァレリーからの会見依頼。 そろそろあの青の大使も、痺れを切らす頃だろう。 「……待たせたな、ヴァレリー」 「……ふん。ずいぶんと待たされたものだ」 使節団襲撃事件以降、何度申し込みをしても叶わなかったアインとの会見に、やっと認可が下りた。 あの男が何を考え、この俺を避けて来たのかは不明。 ……だが、そんなものは無駄な時間の先延ばしに過ぎない。 白の国の運命など、ふたつにひとつ。 それも最終的には、どちらも同じ道にしかつながってない。 「……しかし、遅いな」 約束の時間がすでに十五分は過ぎているのに、アインの姿が見えない。 「(――それとも、何か策があってのことか?)」 今回の会見にあたり、俺自身が指定した謁見の間。 会談内容の重要性から完全な人払いをアインに申し入れて、これも承諾させた。 念のため、その約束が守られたかどうかの調べも済ませた。 お姫様や人形は別の棟。警備兵たちはごく少数で建物の外。 この謁見の間で何が起ころうとも、城の者たちが駆けつけることはない。 「(――他者の介入ほど邪魔なものはないからな……)」 そんなことを考えていると、突然ドアをノックする音に続き、 「……お待たせしました」 と、待ち人が謁見の間に入ってきた。 「これはこれは、アイン殿。お久しぶりです」 「えぇ。ヴァレリー殿との会見を何度もお断りしてしまい、申し訳ありませんでした」 「いえいえ。一連の出来事の処理で大変なのは、充分理解しているつもりです」 「……恐縮です」 アインは軽く頭を下げ、俺の後ろを通り過ぎていく。 そして、会談用に準備したと思われるテーブルへと近づき、どっかと書類やら何やらの荷物を置いた。 「……あぁ、アイン殿。約束よりも早く着いてしまったので、先に席をお借りしておりました」 俺は椅子の背にかけた《ジュストコール》〈 上着〉 を指差し、にっこりと笑ってみせる。 「(――少しでも身軽にしておきたいからな)」 「……そうですか。では、時間も時間ですので、さっそく」 「…………え、えぇ」 遅れたことについての詫びの一言もなしに、いきなり会談を始められてしまい、俺の調子が少しばかり狂う。 ……だが、いつまでも体裁を繕っての会話を続けても、何もいいことなどない。 ならばいっそ面倒な手間を省き、こちらから核心をついてしまおうと考える。 「今回折り入って私がお話ししたかったのは、これからの白の国について……です」 「――はい」 「……率直にお訊きします。今後、《 ヴァイス》〈白の〉国はどのような形で諸外国との関係を続けていかれるおつもりですかな?」 「これまで通りです」 「……いや、もう少し詳しくお聴かせ願えないでしょうか?」 「ご存じの通り、我々《 ヴァイス》〈白の〉国は……ヴァレリー殿の国――《ブリュー》〈青 〉と、《カーディナル》〈 赤 〉の間に位置する小国」 「建国時の目的を忘れず、両国の平和の架け橋として……」 「(――この男は、何を言っている?)」 そんなことは、いまさらこのような席で話す内容でもない。 「――つきましては先に述べたように、『これまで通り』という答えとなります」 「……いや、なんと申しますか……」 俺がしたいのは、このような戯れ言座談会ではなく。 「――もう少し、腹を割った話をしたいのですが」 「……腹を割った、と仰いますと?」 「そちらは実質的な白の国の代表。私は、青を代表する大使。こうして会談の席を設けたからには、それなりの方向へ――この数週間で起きた問題の解決へ傾けるべきかと思いますが」 ここまで《こんせつていねい》〈懇切丁〉寧に言えば、皮肉も充分に―― 「……同感です」 「……ならば、アイン殿。いささか前置きが長すぎるとは思われませんか?」 「同意ですね」 「(――この男!)」 ……俺をおちょくっているのか? 「もしやとは思いますが、何かご冗談を用意されていますか?」 「……冗談とは?」 「…………先ほどよりのアイン殿の態度が、《 げ》〈解〉せませんので」 「それはこちらも同じです、と何度も申し上げておりますが」 「…………ハァ?」 「《 ・ ・ ・ ・》〈それなり〉とは、問題解決のための腹を割った話でしょう?」 「もちろん。先ほどから――」 「先ほどから前置きが長いのは、ヴァレリー殿。貴殿の方です」 「………………」 「……わざわざ会見を申し込まれたのですから、貴殿の方から率直な話をされるべきでしょう。それをありきたりの質問で様子見から入るなど、少し遠回しが過ぎると思いませんか?」 「……フッ、フッフフフ……フハハハッ!」 先の皮肉に対する返礼と言わんばかりのお言葉に、自然と笑いがこみ上げてくる。 「何がおかしいのですか?」 「いや、失礼。いや、しかし、しかし……」 「(――このアイン、なかなかどうして!)」 守るしか能のない後見人と思いきや、しっかり攻める機会を狙っていたとは! 「――よろしい。よく解った!ならば単刀直入に尋ねよう。アイン殿。《 ヴァイス》〈白の〉国は、我々《 ブリュー》〈青の〉国と手を組む気はないか?」 「手を組む?」 「そうです!もちろんこれまで通り、青と赤の狭間で苦しむような関係ではなく――」 「《カーディナル》〈 赤 〉と手を切って《ブリュー》〈青に〉つけ、と」 そう言って微笑むアイン。 俺はそれを見て確信した。 「(――この男は!)」 この男は使える。これまで見てきた誰よりも優秀で使える! 表と裏の顔を使い分ける力と、それに見合った才能と地位。 そして、何より……己で国を動かしてきた実績がある! 「《カーディナル》〈 赤 〉との関係を切り、我ら《ブリュー》〈青と〉。まさにその通り!」 「もちろん、悪いようにはしません」 「アイン殿にはこのまま《ヴァイス》〈白に〉滞在してもらい、これまでと同様……いや、これまで以上の待遇をお約束しましょう!」 ――俺は、物分かりの良い男が好きだ。 こんなことならハンスやユッシなどを無視し、初めから―― 「ヴァレリー殿」 「何でしょう、アイン殿?」 「……まだ私は、あなたの提案を正式に受けておりませんが」 「フフフッ、もういいのですよ。堅苦しい話は抜きで……」 「――お断りしよう」 「…………何ですと?」 いまのは、何かの聞き間違いか? 「聞こえなかったか、ヴァレリー?私は、断ると言ったのだ」 ハッキリと口調を変えたアインから『呼び捨て』にされて、俺の中の気持ちが急に冷めていくのがよく分かる。 「……フッ、フフフ。考え直す気はなさそうだな?」 「改めて答える気すらない」 「……そうか。まあ、それなら仕方がないな」 ――俺は、物分かりの悪い男が大嫌いだ。 「まぁ、下手な期待をしたは俺のミス。初めから、予定通りにコトを進めていればそれで良かったわけだ」 「ヴァレリー。いまさらだが、貴殿がこれまでに働いてきた《 ヴァイス》〈白の〉国に対する行為の代償を払っていただこうと思う」 「――ふん。本当に《 ・ ・ ・ ・》〈いまさら〉だな!」 「それとも、私がひとつずつ証拠でも挙げていくべきか?」 「――いいや、結構。時間の無駄は嫌いだ。こうなったら、手っ取り早く済ませようじゃないか」 「初めから、そうするつもりで人払いを申し出たのだろう?」 「察しがいいな、アイン。ついでを言うなら……」 パチンと指を鳴らし、廊下の影に待機させていた者たちへと合図する。 ……しかし、それに反応する物音がしない。 「……お約束通り、人払いはしてある。そちらが用意した者もその《 ・ ・》〈対象〉だ」 「何だと!」 「約束は約束。ここに居るのは、貴殿と私……ふたりだけ。他の者たちは、牢屋で見張る側と見張られる側に落ち着いた」 「ハッ、これはしてやられた!……だが、そんなお人好しでいいのか?自分の部下のひとりやふたり、残さないでどうする!?」 俺はポケットから短剣を取り出し、真向かいに居るアイン目がけて躊躇うことなく腕を伸ばす! ……が相手も予期していたのか、ギリギリのところで避ける。 「……さぁ、どうするアイン?こういう話し合いは苦手か?」 「……苦手だな」 そう言いつつ、アインは書類の隙間から短剣を取り出す。 「ハッ!それなりに準備をしていたということか!!」 「良く見ろ、ヴァレリー。これに見覚えがあるだろう!」 「(――ほう!)」 アインの右手に握られた短剣は……俺がユッシに造らせた、クリスティナ殺害用の『本物』ではないか。 「これをユッシに造らせ、ハンスの手ですり替えさせたな?」 「……あぁ。舞台には適さないぐらい、良い短剣だろう?」 お互い、テーブルを挟みながらのにらみ合い。 「貴様は劇の台本に細工をし、あわよくばエファの手で姫君の命を奪おうとした」 どちらからともなく、広い方へと移動を始めるふたり。 「さらには、赤の使節一員のフリをさせた男も用意し……」 そして、ふたりの間にあった《へだ》〈隔〉たりがなくなった瞬間。 それぞれの切っ先がぶつかり合う! 「――計画の成功をより強固なモノにした、と続けるのか?……ん、アイン!」 「……くっ!」 「それ、どうした!?」 二度、三度と切り結びながらアインの力量を計る。 「(――ハッ!俺の相手をするには、まだまだ力不足)」 ……だが油断は禁物。 俺はゆっくりと後退り、どうやって確実な勝利を掴むかを考える。 「ヴァレリー。今回の計画は貴様が立てたものか?」 「……ん?答える義務はないが、『そうだ』と言っておこう」 「我らが姫君を殺害し、その罪を赤の国になすりつけ、戦争を始めるつもりだったのか」 「当然!戦争開始には、それなりの大義名分が必要だ。そして、戦いに勝利するには……先手が不可欠なのだよ!」 「…………」 「――いいか、アイン。いつの時代にも戦争は起こり得る。白のように戦争を知らない国家は希有な存在だが――」 「……まぁ、何事も経験。白の民もじきに慣れるさ」 「愚かしいぞ、ヴァレリー!」 焦れて踏み込んできたアインの短剣を軽くいなす。 「愚かしいのはキサマだ、アイン。書物で読まなかったか?我々人間が、いかにしてこの時代に辿り着いたかを」 「――戦いは人間の本能。いま我々を突き動かす衝動こそが、まさにそれではないか」 「……貴様と一緒にしないでもらおうか、ヴァレリー」 「一緒!……俺と?キサマがか!?」 三歩ほど踏み出し、牽制で出されたアインの短剣を左右に払って距離を縮める。 「……いいか、アイン。この差を埋めてからモノを言え!」 そして俺はアインの引き際を狙い澄まし、強烈な一撃で奴の短剣を叩き落としてやる! 「ぐっ!」 「……どうした、拾え。拾わないのか?」 「…………」 当然、武器を手にしたままの俺を前に、素手のアインが腰をかがめるわけもなく。 動きが止まった獲物は、ただこちらをにらむばかり。 「……ふん、つまらんな」 俺は無造作に屈み、アイン同様に武器を床に放置してみせる。 「……これで一緒だな、アイン」 「……おごるな、ヴァレリー」 「ご心配は無用。そちらが拾う前に、勝負はつく」 これはおごりでも何でもなく、次へのステップ。 同じ間合いで戦うのに飽きたからこその、小休止でしかない。 「……最後に、アイン殿にもう一度だけお伺いしよう」 「…………?」 「――アイン。青か、赤か……選ぶがいい」 「……もう答えたはずだ。《ヴァイス》〈白は〉あくまで《ヴァイス》〈白の〉立場を貫く!」 「(――頭の固い男だ……)」 「ま、いまさらどちらを選ぼうと、キサマの運命は変わらない」 俺は優しくアインに微笑みかけてから、ゆっくりと柱の影に向かい…… あらかじめ準備しておいた抜き身のサーベルを手にして戻る。 「せっかく用意したモノを使わないのも、損な話だろう?」 「……貴様……」 「いいぞ、アイン。負け犬の蔑みほど見ていて気持ちの良いモノはないからな!」 「(――さぁ、アイン……)」 《 ・ ・ ・ ・》〈あちら側〉へと逝かせる前に、存分に楽しませてもらおう! 「(――哀れな男だ……)」 剣技も智謀の才も、充分に兼ね備えた青の大使。 しかし、その使い方を根本的なところで間違えている。 「(――とは言っても……)」 現状、これだけ不利な状況に置かれた私には、悠長なことを考えている余裕はない。 「……さぁ、どうする!アイン?」 まさに、ヴァレリーの言うとおり。 「(――どうするか、だな……)」 先ほどの競り合いで、使っていた短剣は落とされてしまった。 それに対し、相手が手にしているのは―― ――《リーチ》〈長さ〉のあるサーベル。 素手とサーベルでは、勝ち目などほとんどない。 「(――技術は、向こうが格段に上)」 ヴァレリーからサーベルを奪うことができれば、こちらにも勝機が生まれるだろう。 ……が、それができるほどの腕前が自分にないのを承知している以上、そんな無謀な挑戦はできない。 「(――では、どうする?)」 床に転がる二本の短剣のうち、こちらに距離が近いのは……私が落としたモノの方。 しかしそれを手に入れようと考えれば、まず間違いなく―― 「(――ヴァレリーのサーベルの方が早い)」 「……なぁ、アイン。キサマも哀れな男だな」 「――哀れ?」 先ほどヴァレリー相手に思った言葉を自分が耳にし、思わず反応してしまった。 「《 ヴァイス》〈白の〉国など、生い立ちからすれば……いつかはこうなるだろうと考えたことはないか?」 「…………」 「青と赤によって建国されたときから、いつかはどちらかのモノに収まらなければ存続もままならなくなる」 「それがアイン!キサマの時代で訪れてしまっただけのこと」 「……確かに、な」 「フフフッ、そうだろう!」 「いつの世も、多くの者は何かしらの問題をかかえながらその時代を憂い、どうにかしようとあがくだけだ」 「俺やキサマのように、選ばれた地位に居る者には選択権が与えられる」 「――それなのに、《ヴァイス》〈白の〉後見人アインは、愚かな選択をした」 「……キサマは、国の未来を『理想』で語ったのだよ!」 「現実に沿った《 ・ ・》〈流れ〉に乗らないでどうする?」 「……歴史など、現実の積み重ねと繰り返し」 「後の時代は、理想にではなく現実にだけついてくるモノだ!そうだろう、アイン!?」 「…………講釈は、それでお終いか?」 「ほぅ!キサマは、冥土の土産も要らないというのだな。……いいだろう。望み通り、終わりにしてやろう」 ゆっくりと距離を縮めてくるヴァレリー。 「あちら側では、キサマを慕う者たちが溢れているはず」 「ユッシ・オズボーン」 「ハンス・ブラント」 「キサマとお姫様、そして《カーディナル》〈赤の国〉にも忠義を傾けた犬――」 「デュア・カールステッドもな!」 「(――許せ、デュア……)」 いますぐこの男の呼吸を止めてやりたいが、残された逆転のチャンスの到来はまだ。 「(――それまでは、奴の暴言を聞き流させてくれ)」 「(――そして、ユッシ……)」 転がった短剣に目をやり、憎めなかった大臣の顔を思い出す。 「(――この私を一度だけ助けるんだ)」 「……何か言い残すことがあれば聴くぞ?」 「――こちらにはない。そちらはどうだ?」 「ハッ!最後まで楽しませてくれるなぁ、アイン」 「……しかし、しかし!残念だが、これで終わりだ!」 ヴァレリーが間合いを詰めに来たこの瞬間が勝負! 私は床に落ちた短剣を拾おうと―― 「うおぉぉぉぉ!」 「フハハハッ!正直すぎるぞ、アイン!」 伸ばしかけた腕に振り下ろされるサーベル! 当然、こちらもそうなると予期していた。 ………………だからこそ! 「『――よろしいですか、アイン殿?』」 「『長い剣を持った敵に、短い武器で勝ちたいのであれば。……相手の懐に飛び込み、至近距離で戦うことです』」 「『……もちろん、懐に入るにも多少は技術も必要です。が、それよりも大切なのは何より……勝つという気迫と――』」 「……まさ……か……」 「――臆することなき勇気、だ……」 「…………キッ、サマ……」 「……それ、は……あの、おん、なが……」 短剣は拾うフリ。本命は、ジュストコールに忍ばせた―― 「デュアが……ブーツに、隠し……ていた……短、剣……」 「――勇気も、短剣も。デュアがくれた大切な忘れ形見だ」 「……クッ!俺が……お、女に……負ける、と、は……」 崩れ落ちてくるヴァレリーを横へ突き飛ばし、私は大きく肩で息をしながら天井を見上げる。 「…………はぁ、はぁ、はぁ……」 ヴァレリーに勝てたのは、奇跡としか言いようがない。 「……いや、違う、か……」 ひとりで戦っていれば、きっと負けていただろう。 「……私には……」 「(――私には、デュアの加護があった……)」 そして…… 「……守らなければならない……」 ――国も、姫君も居たのだ。 ゆっくりと椅子のところまで歩き、静かに腰を下ろす。 これでしばらくは―― 「……ゆっくりできるかもしれないな……」 私は静かに目を閉じて、明日からのことを考える。 何故だか分からないが、いま私は―― ――無性にココの顔が見たかった。 何だか《 ・ ・ ・》〈お部屋〉が、すごく散らかってます。 ボクが、ちょっと歩くと―― 「あいたー。ぶつかっちゃったー」 テーブルとか、イスとか、おもちゃとか。いろいろ、ぶつかってきます。 だからボク、今日はおかたづけします。まずは、おイスがこっちで―― 「よいしょ、よいしょ」 テーブルは、あっちに―― 「……うんうん!」 ちょっとだけ、広くなった? 「うーん?」 眺めてみたけど、あんまり変わらない? 「あー。あるくところ、おかたづけすれば、いいんだ、ねー?」 ベッドからー、ドアまでー。そうすれば、ぶつかりません! 「……コレは、こっち。アレは、あっちー」 おイスとテーブル、離れちゃったけどいいよね? 「あい。とっても、よく、はたらき、ましたー」 ……おかたづけ、おしまい。これで、ドアまで行進できます。 「えへへ」 でも、どうしてあんなに散らかるんだろう?お部屋には、ボクひとりしか居ないのに。 「(――あー。ひとりだから、かなー?)」 エファが居ないと、広いお部屋にはボクだけ。 「エファ、かえってきたのに、ねー」 帰ったのに、会えません。ヒメサマにも、なかなか、会えません。 ご飯を食べるときも、ひとりです。 「しかた、ないよ、ねー」 エファはまだ、ケガしたハネが治ってないから、ボクとは遊べないんだって。 「『ごめんね、ココ』」 ヒメサマは、その調律で忙しくて、やっぱり無理。 「『……許してくださいね、ココ』」 「うんうん、いい、よー」 だって、しかたないもん。それに―― 「『……いいかい。ココが良い子にして待てば――』」 アインが、そう教えてくれたの。エファ、戻ってくるって。 それまで、がまん、がまん。 新しいオモチャのお名前、エファと一緒に考えるんだー。 「……えへへ。いいコにして、ます」 おかたづけもしたから、いつでもいいよ、戻ってきて。 「はやく、よくなーれ、エファの、ハネー。ねねね」 ……あれ?何でボク、『ねねね』って言ったんだろう? 「うーん?」 ルルルーとか、繰り返すと、唄みたいだから? 「はやく、よくなるー、ルルルー?」 さっきと、ちょっと違うみたい。唄うつもりだと、普通になっちゃうの。どうして? 「……いっか」 あんまり考えても、よく分からないし。それより、エファが戻ってくるまで……どうやって待つ? 「おはなしするヒト、すくないよ、ねー」 廊下に立ってる人も、ときどき頭はナデナデしてくれるけど、よく知らないから、あんまりお話できません。 ……それに、お仕事中だから、ダメなんだって。 「ダレだと、いいのかなー?」 ダイジーン?ハンス?でも、ふたりとも、最近お城の中で見ないよね。 どこに行ったの?……ってアインに訊いたら、 「『――ふたりは仕事を終えて、いまはお休みしているよ』」 って教えられたの。 そうする、とー?デュアも、この前お話したあとから会ってないから―― 「デュアも、おしごと、おしまい?」 ……で、お《ウチ》〈家〉に帰っちゃったのかな? 「――あいたいよ、ねー」 ダイジーンとハンスは、お話、ちょこっと。でもでも、デュアとは、いっぱい、いっぱいお話しました。 お背中のネジも回してもらったし、お着替えだって、夜の見回りだって一緒にしました。 だから―― 「もっと、もっと、おはなし、したいよ、ねー」 うーん。デュア、どこに行ったら会えるかな? 「……もしかしたら、あそこ?」 この前、窓の外から見たお家いっぱいのところかも。 ちょうど近くにおイスがあるから……よいしょっ、よいしょ。 ……ちゃんと、おクツは脱ぐからね。 「――どのおウチー?」 やっぱり、いっぱいあって……わからない。お城の人に訊いたら、教えてもらえるかな? 「デュアのおウチ、どこです、かー?」 ……これで大丈夫?みんな優しいから、きっと教えてくれるよねー。 「うーん、だけど……」 「(――ボク、ミチ、おぼえられる?)」 お城の中なら、もう迷わないの。ときどきしか。でも、お城のお外って行ったことないから―― 「マイゴになっちゃうかな?」 ボクには無理?……けど、きっと、大丈夫。 「マイゴになったら、きけばいいよ、ねー」 ボク、お名前だって書けるもん。 「もし、わすれて、もー」 ハンスがくれた紙に、『CoCo』って書いてあるから、それを見れば平気なの。 「ではでは、しゅっぱーつ、しまーす」 そう言って、バンザーイしたら。 「あいたーっ」 何かが、お手々にぶつかりました。 「――うううぅ。ここに、テーブルおいたの、ダーレー?」 …………あ、ボクだった。 「『――エファ。エファ?』」 「……はい……」 「『――何処か悪いのですか?』」 優しい声が、耳元で聞こえる。一瞬、夢の世界かと思った。 でも、今度はしっかり―― 「……答えて、エファ」 それが姫様のモノだと判ったとき、私は安らぎに包まれる。 「(――あぁ、良かった……)」 もし、部屋に姫様がお戻りにならなかったりしたら―― ここ数日、そんなことはないとは思いつつも、心の何処かで恐れていた私。 それは、ドルンシュタイン城に戻ったときからずっと続いている。 「……エファ?」 「(――はい)」 私はちゃんとお返事しようと思って、重いまぶたを―― 「(――ダメ……)」 何故か怖くて、持ち上げられない。だから、せめて姫様のお顔だけを想像する。 「『どうしたのですか、背中を丸めて?……もしかして、傷跡が痛むのですか?』」 「いいえ、違います」 羽根を失った痛みは、とうの昔に癒えました。いま痛むのは―― 「(――私の胸の奥、です)」 でも、そんな言葉は口にできない。それを姫様に知られたら、痛みはもっと大きくなる。 「……どこも、痛くはありません」 「――そうですか。それでは、手足を伸ばして……」 「……はい……」 「『――そう。そして、楽にしていなさい』」 姫様の手がゆっくりと髪を撫で、頬に触れ、やがてそれは、私の胸元――両手の上で静かに止まる。 「……胸が、痛いのですか?」 「――どうして……」 「あなたが、ずっと両手を押しつけていますから」 「……姫、様……」 私は、嘘がつけない。嘘をついても、すぐにバレる。 ……きっと姫様には、どんな隠し事も見抜かれてしまう。 「『ど、どうしたのです、エファ?』」 「……ひ、め……さま……」 もう我慢できない。 私はかたくなにつぶっていたまぶたを開き、にじむ視界に姫様の姿を探す。 「(――あぁ……)」 そこに居るのは、まごうことなき姫様。 「そんな顔をされると……わたくし、何と答えていいのか」 「何も、何も仰らないでください。――ただ、ここに居てくだされば、それで……」 「安心なさい。わたくしは、エファの元から離れませんよ」 そっと握られる手の甲にじんわり、じんわりと温もりが増し、その言葉に嘘のないことがよく解る。 「(――優しい、姫様……)」 ずっと、私のことを考え、心配してくれていた。それなのに私は、姫様のことを想うときは――自分を中心に考えてばかり。 「何か、心配事でもあるのかしら?」 「…………ぁ……の……」 「――おかしなエファ。あなたは先ほどから、小鳥のように小首を傾げてばかり」 「……ごめん、なさい」 「謝らなくとも良いのです。それよりも、すぐに戻ると言って戻らなかったわたくしこそ……」 「いいえ、お気になさらないでください。私は、『待て』と言われればいくらでも待てる《からだ》〈身体〉です」 この数日、夜な夜な姫様は部屋を出て行かれる。 最初の日、何処に行くのかを尋ねそびれてしまった私は、その後も訊くに訊けないままになっていた。 「姫様が『戻られる』と言われたのですから、それを信じて何日でもお待ちします」 「……エファ。まさかあなた……」 「……?」 「わたくしが外出したとき、あなたは言いつけを守って……」 「はい」 「部屋の中でずっと待って…………」 「――あの?」 そこで無言になる姫様のことが、私には理解できない。言われた通り、待つ間はこの部屋から一歩も出なかった。 もちろん、時間はまちまちでも姫様はきちんと戻ってくる。それに、それ以外の時間のほとんどは私と一緒。 だから、姫様が気にするようなことはなにもない。……そのはずなのに、哀しいお顔をするのは何故? 「――軽々しく守れない約束をしたこと、許してくださいね」 「とんでもありません!私は、自分の意思でお待ちしていただけで……」 「エファ」 「は、はい」 「……本当にそれがあなたの意思で、自身が納得できるものであるならば構いません」 「……が、もしもエファ自身が望まないモノであったら――」 「あなたは、わたくしの言いつけを守りますか?」 「それが姫様の《めい》〈命〉であるなら、私は……」 「お待ちなさい」 遮断の声。 「少なくとも、わたくしはそのような『強制』を望みませんし、《 ひ》〈延〉いてはあなた自身のためにもならないと考えます」 さらに、強い口調と―― 「――わたくしを尊重せず、まずは自分ありき」 鋭い視線。 「……言い換えるならば。いま、あなた自身が求められている答えをわたくしの中から探そうとするのはおやめなさい」 ……私は、一瞬にして全身の力を失ってしまった。 「…………はい」 ――どんな形でもいいから、構っていただきたい。 そんな甘い考えで『姫様に叱られたい』などと思い描いていた自分に気がつき、恥ずかしさで顔が上げられなくなる。 それでも姫様の問いに答えなければ……と頑張るつもりが、実際に動くのは唇ではなくて、人差し指の先ぐらいなモノ。 私は段々と自分が嫌になり、目を閉じて現実から逃げようとするが―― 「責めているのではありませんよ。わたくしはただ――」 「……?」 先の言葉が気になり、そのお顔を見ることができた。 「――エファが苦しむ姿を見たくないだけです」 「……姫様……」 「でも、愚かなわたくしはそう言いながらも、余計にあなたを苦しめている」 「ご自分を『愚か』などと、哀しいことを仰らないでください」 いけないのは、姫様に嫌われたくない一心だった私の方。もっと素直な気持ちで、自然にしていれば良かったのだ。 「……では、改めて。長々と待たせてしまったこと、許してくださいね」 「……はい」 今度は、しっかりと謝罪に応えられた。 そして、姫様も晴れた空のような微笑みを返してくれるが……すぐにその表情は、元の曇りへと戻ってしまった。 「どうされたのですか?」 「――その、蒸し返すようで悪いのですが。待っている間……苦痛ではありませんでしたか?」 「…………それは」 とっさに『違う』と答えられずに口ごもれば、姫様は静かに目を伏せて、 「正直に答えてよいのですよ」 と、うつむき加減で呟く。 「……た、確かに、お戻りにならない間は不安で、不安で、どうしていいか判らず……困りました」 「でも、それはあくまで私の勝手な気持ちです。姫様がお気になさるようなことでは――」 「――辛い思いをさせてしまいましたね」 私の頬を軽く撫でた姫様が、ゆっくりと《かぶり》〈頭を〉振る。 「……でも、覚えておいてください。調律師と人形の関係は、主従にも近いものです」 「わたくしの何気なく放った一言が、あなたを強く束縛してしまう可能性は……大いにあるのです」 「束縛、ですか?」 「――はい。もしもわたくしが、命令にも近い言葉をもってあなたの自由を奪いそうになったときは、必ずエファから抗議するのですよ?」 「はい!」 少しおかしな話だけど、お許しがあれば心強い。 「(――私も、自分の意思を強くもって……)」 ……きっと姫様のお役に立てるようになろう、と思った。 「――なかなか忘れられないモノだな」 昨日の今日では仕方がないとは思いつつも、右手に残ったヴァレリーの重さが、想像以上の鮮明さを保っている。 「(――人の命、か)」 これまで私は何度か極刑の許可を下すサインをしてきたが、その断罪に立ち会ったことはなく、『奪う側』という考えに実感が伴わない位置に居たのだが。 昨晩、自らが明確な意志でヴァレリーを討ったことにより、一瞬にして暗い世界へと足を踏み入れてしまった気がした。 「……私も、まだまだということか」 我が父・フリッツの怒鳴り声までが、記憶の中で鮮明に甦る。 「(――父上。お叱りは後ほど……)」 ……私は私。父とは違うし、父のようにはなれない。それをしっかりと心に刻み、姫君の後見人を引き受けた。 「(――父の影を追いかける息子では、誰もついてこない)」 そして何度も迷いながら今日に至り、また悩んでいる。 「……ヴァレリー」 これまで出会った中でも、理解するのが難しい男。 あれだけの才能を有しながらも生かす道を誤り、他人の命をまるでゲームの駒のように考え、斬り捨て、死を振りまく。 ヴァレリーは、何を求めていたのか? 「(――戦争……)」 多くの血が流れる中、自分の身近な者たちもその輪に混ざる可能性があることを考えはしなかったのだろうか? 「……可哀想な男だ」 きっと、彼には守るべき者がなかった。 「(――もしかしたら、自身すらも持て余し……)」 ……いや、やめよう。 死んだ者を憶測で語ったところで、何も答えは出てこない。それよりも、いまは彼の残した『問題』に目を向けるべき。 「……目の前のモノから片付けるか」 昨晩、ヴァレリーと共に城を訪れた者のうち、謁見の間近くまで侵入していた連中は『不法侵入』の容疑で全て投獄。 さすがヴァレリー配下と言うべきか、『これは命令であった』などと主人の立場を不利にさせるような証言はせず、静かに解き放ちの時を待っている。 「……彼らがどこまで事件に関わり、事情を把握しているか」 それを調べ上げ、裏付けを進めさせつつ……青の国に対して保険をかけておく必要がある。 「大きな借りを作ることにはなるが――」 青の中でも『個人的に友好な関係にある御仁』と連絡をとり、内々の取引で解決できる道も模索しておくべきだろう。 ヴァレリーから仕掛けてきた……と正直に抗議したところで、青の国のお偉方があっさり認めるわけもない。 「……しかも、問題は青だけではなく」 向こうよりは友好的とは言え、赤の国も充分に危険な存在。 下手に青との交渉で弱い部分を見せてしまえば、つけいってくるのが目に見えている。 「(――それに……)」 姫君預かりの身となっているエファの返還の時期と方法が、その後の三国の関係を左右しそうな予感もある。 「……これは、まだまだゆっくりできそうもないな」 「(――わたくしは、どうしてしまったの?)」 部屋でひとりになるのは、久し振りのこと。 エファが城に戻って来た日から、ここに居るときには彼女がずっとわたくしの側に居る。 「……ずっと、ずっと。それなのに、わたくしは……」 夜な夜な、ひとりになりたくて部屋を抜け出し、エファには寂しい思いをさせてしまっていた。 「――ごめんなさい、エファ」 それに気づかなかったわたくしは、何とひどい調律師なのか。 挙げ句にエファを責めるようなことばかりを口にし、最後は優しい言葉で彼女の髪を撫でていた。 「(――何とわがままで、救いようのない人間なのでしょう)」 わたくしは、自分のことしか考えていない。 側に居て欲しいときには寄り添い、ひとりの時間を作りたくなればエファを待たせて部屋を出る。 そして、何をしているかと言えば―― 「(――デュア……)」 わたくしの愚かな望みを叶えようとしてくれた騎士を想い、誰も立ち入らないホールで、子どものように泣いて天井を見上げているばかり。 エファが『わたくしの命ならば……』と答えたとき、何故かデュアの姿が重なって見えてしまった。 「……愚かな《あるじ》〈主を〉許してください」 あのとき、あんな言葉を口にしなければ―― 本音など見せず、デュアを静かにいさめて終われば―― いまも部屋の外の廊下に、頼もしい彼女が立っていたはず。 「…………うぅぅ……」 あのとき、あんな言葉を口にしていなかったなら。 エファは、盗賊団襲撃の窮地から脱することもできず――いまは、赤にも白にも存在しない人形となっていただろう。 「……わたくしは、どうすれば……良かったのですか」 矛盾する心。 ――デュアを失った哀しみと、エファが戻ってきた喜び。 デュアが廊下に立ち、わたくしとエファが部屋で過ごすのを見守る時間など……これから先、二度と来ないというのに。 「(――そんな夢ばかりを見てしまう……)」 そしてまたひとりで泣く夜が、あと何日続くのか。 「……いいえ。もう、そんな日々もお終いです」 そう。いつまでもわたくしは哀しんではいられない。 あと数日で、赤の国からエファの羽根が届く。それは、リハーサルで傷ついてしまった片羽根の代わり。 我が国最高の技師が復元を手がけたのち、わたくしが調律で感覚を取り戻させる。 それが済めばエファは母国――赤へと帰れるのだ。 「――めでたい話ではありませんか」 ひとつの過ちが改善され、元ある形へと戻る。わたくしが不服を唱える箇所など、何処にもない。 「――何処にもないはずなのに……」 心の中の霧は晴れるどころか、より濃さを増していく。どうして、このような気持ちになるのか。 ……その答えは、すぐそこで静かにわたくしが到着するのを待っている。 「(――エファは人形、わたくしは調律師)」 改めて確認すべき事柄でもない、周知の事実。 「(――わたくしがエファを想う気持ち)」 考えるまでもなく、これは人形に対する愛情。 生まれながらにして『調律師』としての未来が決まっていたわたくしは、普通の人間以上に人形と関わる機会に恵まれ、深く理解ができる立場に居る。 わたくしがそのような身なればこそ、人一倍……人形たちのことを考えられるのだ。 「(――それは、個々の差なく平等に?)」 人形を愛する『親としての気持ち』ならば、エファもココも分け隔てはない。 しかし、これがもっと別の気持ち――人形と人間の垣根すら越えた部分での位置づけが許されるのであれば。 「……わたくしは、エファのことを……」 震える唇から、あと一息で自らの心の在り方がこぼれそうになったとき。 ノックの音が、わたくしの呼吸に『待った』をかけた。 「――誰、ですか?」 「……姫様、私です。エファです」 「…………どうしたのですか?」 「はい。そろそろお部屋に戻ってもよろしいかどうか、お伺いしようと思いまして」 当然、それは訊かれるまでもないこと。 「――構いませんよ。お入りなさい」 「失礼します」 そろそろとドアを開き、エファが恐る恐る中へと入ってくる。 その姿の可愛らしさに、わたしくは思わず微笑んでしまった。 「あっ、あの……私、何か……」 「いいのです。何も気にする必要はありません」 「そうは仰っても……」 思うところがあるのか、少しふくれたようにも見える頬。 そのような態度をとられては、余計に笑いが止まらない。 「何か、私の顔についておりますか?」 「ついていると思いますか?」 「えっ!?」 どう反応していいか困るエファ。 自らの顔を両手で探って特におかしいところもないと知り、改めて非難の目を向けてくる。 「少しからかいが過ぎたこと、許してくださいね」 「……ず、ずるいです、姫様……」 「えっ?」 「そのように謝られてしまうと、私には……何も言えません」 「(――あらあら)」 先のやりとりで理解したのか、エファはしっかりと自らの不服を申し立ててきた。 「ならば、わたくしは……どうすれば良いのでしょう?」 「――それは私には……判りません。姫様ご自身がお決めになることだと思います」 「もし、自分自身がどうして良いか判らない、としたら?」 「……?」 「具体的に、『エファはわたくしにどうして欲しいのか?』と尋ねているのです」 「…………そっ、それは……」 何か思い当たる節があるのに、言い出せずに困っている? エファはわたくしと視線がぶつからないよう、一生懸命になって壁や窓へと逃げ場を探してキョロキョロしている。 「ほらほら。言いたいことは、きちんと口で言うのです」 「…………意地悪、です……」 「えっ?」 「姫様は、意地悪だと申し上げたのです!私の気持ちを知りながら、からかい、はぐらかして……」 急に肩を落として両手で顔を覆ってしまったエファを見て、わたくしは度が過ぎたことを悟る。 「あぁ、エファ、ごめんなさい!ほんの少し悪戯心から……」 わたくしは急いで彼女に駆け寄り、心から詫びてその身体を抱き寄せるが―― 「……うぅぅ……」 「……あぁ、泣かないで、エファ」 「もう、いっそのこと……私のことなど……そのままお忘れになってください」 「馬鹿なことを言わないで」 「私は姫様のお役に立つことの出来ない、ただの人形でしかありません」 「……エファ……」 「――デュアのように、姫様をお護りすることも……」 その言葉を聴いた途端、わたくしの身体は硬直してしまった。 「………………」 「……姫、様?あの、姫様……」 「――デュア……」 ここにエファが居て、デュアが居ない。デュアが残してくれたのは、わたくしが望んだ……エファ。 「――あぁぁぁ!申し訳ありません。私は姫様のお気持ちも考えずに……」 「……よいのですよ、エファ」 自分の過言に気づいた彼女を責めるつもりにはなれない。仮に気づかなかったとしても、わたくしはエファを許す。 「人間とは、いつか亡くなるものです。……ただ、悔やんでも悔やみきれないのは、それを早めてしまったのが――」 「……私のせいです!」 わたくしの懺悔より先に、エファの声が部屋に響いて驚く。 「……何を言うのですか。あなたのせいなどでは……」 「いいえ、私のせいです。私が、私がしっかりしていれば……」 「――しっかりしていれば、どうなったと言うのです?」 「…………」 ピタリと動きを止めるエファ。 「あなたがいくら努力をしても、デュアの運命が変わったとは思えません」 エファを傷つけたくて言うのではなく。 デュアの死は、諸悪の根源たるわたくしが蒔いた種であり、エファには何ら責任がないからこそ―― あえて強く否定し、その間違いを正しておく必要があった。 「それは、私が……何もできない人形だから、でしょうか?」 「……」 「……非力な人形だから、デュアの助けになるどころか、足手まといにしかならず……」 「そう言って欲しいのならば、それでも構いません。ただし!」 「――それとは比べものにならないほどに罪深い者がここに居ることを知りなさい」 「…………?」 「――あの日、デュアをあなたの元に走らせたのは、この……この、わたくしなのです」 「……えっ!?」 「わたくしが、わたくしが……あなたと一緒に過ごせる未来を望み、それをデュアに託してしまったのです」 「……姫、様……?」 「この《ヴァイス》〈白を〉捨て、あなたと共に……」 「それ以上は、ダメです!」 エファの《ひときわ》〈一際〉大きな制止の声で、告白の歯車にはクサビが打ち込まれてしまった。 「――もう、充分に……」 わたくしは下から見上げるエファの涙目を見て、止められた理由を探し―― 「……そう、ですね」 彼女のモノとは違うかもしれないが、自分なりの解釈を得た。 一度は捨てようとした身であっても、こうして国家の象徴であるいまがある限り、不穏な発言は許されない。 懺悔ならば、人知れず神にするもの。 「(――あぁ。そして……エファが……)」 その神が代理に遣わされた天使と考えれば、ほんの少しだけ救われた気になれる。 「……いまの告白は、エファの胸の中に留め置いてください」 「はい」 「そして、先ほどの……あなたを貶めるような発言を許してもらえたら……」 「なにを、ですか?」 「非力な、足手まといな……などと言わせてしまったことを」 「気になさらないでください。姫様の言われた通り、私は――」 「――違います!」 「えっ?」 「デュアを亡くした原因が、あなたに流れそうになるのを止めたくて……あのような言葉で……」 「ありがとうございます」 天使の微笑みがこれまでの罪全てを洗い流し、新しい勇気を得た気にさせてくれる。 いまなら、わたくしの中でくすぶっていた気持ちを正直に伝えられるかもしれない。 「……エ、エファ」 「はい」 「改まって言うのも、どうかとは思うのですが……」 「??」 「あなたは、わたくしにとって……大切な……存在です」 うまく言葉にできないのが、もどかしい。それでもエファに、心の一欠片でも伝えたくて。 「あ、あの……私も……同じです。でも、私は……」 「な、なんでしょう?」 「い、いえ。こんなことを言ったら……」 「言いなさい」 「…………その、姫様を護るデュアのようには、なれません」 「(――何を言い出すかと思えば……)」 デュアは、デュア。わたくしにとって大切な者。これは未来永劫、変わることのない存在。 「(――それでは、エファのことは?)」 直接、口にするのは恥ずかしいので……何と喩えるべきか。 「(――あっ……)」 そこでわたくしは、ひとつの案を思いつく。 「……大切な、《シスター》〈姉妹〉のようなもの、です」 「――シスター、ですか?」 「……はい。そ、それとも、他の関係に喩えるのが……」 もっと良い呼び方があれば、と言おうとしたが―― 「嬉しいです、とても」 エファは、両手をギュッと握りしめて自分の胸に押し当てた。 「でも、姫様。人形の私が、人間である姫様と姉妹などと……恐れ多いのではないでしょうか?」 「そんなことを心配するのですか?」 「は、はい」 「それでは、こうしましょう」 わたくしの頭に、さらなる妙案が浮かぶ。 「あなたたち人形は、神に《 ・ ・ ・》〈仕える〉十番目の天使……と呼ばれていますね?」 「はい、そうです」 「同じように、神に仕える尼僧は『シスター』と称されることがあります」 「それに倣い、これからあなたたち人形全てを『シスター』と呼びます」 「……私たち、人形、全てを?」 「そうすれば皆、平等です。……どう思いますか?」 「……それなら、恐れ多さも少しはなくなります」 「では、決まりです。あなたは、わたくしのシスター」 「……『わたくしの尼僧』というのは、少しおかしな気も」 「あなたは尼僧ではありません。『わたくしの姉妹』です」 「えっ、で、でも……それでは」 「一度認めたのですから、もう諦めなさい」 「ひ、姫様。それは……」 「ならば、『わたくしだけのシスター』では?」 「…………え……そ、んな……」 「不服ですか?」 「…………いいえ。とても、光栄……で、す」 やっと了承させることができ、わたくしは安堵する。 ……と、エファも緊張が緩んでしまったのか、クタクタとこちらへと倒れてきそうになった。 「……エファ、しっかりして」 「申し訳ありません、姫様。少し、調子が……」 「――いま、様子を診てあげましょう」 エファの頬が赤みを帯びているのが気になり、おでこへと手をやる。 「――若干、熱があるようですね。調律をする前に……」 わたくしは休ませた方が良いと判断し、ベッドへ運ぶ試みをするが、力の抜けかけた彼女の身体は意外に重い。 《てんがい》〈天蓋〉を支える柱を避け、何とかエファを横にさせることもできたが―― 「……わたくしまで一緒に、ですね」 巻き込まれる形で倒れ込み、気づけばふたり揃ってベッドに寝そべっていた。 「大丈夫……ですか、姫様?」 「えぇ。わたくしは。あなたの方は?もしや羽根が下に……」 「平気です。ただ、服が……少し」 見れば、エファの黒いドレスの肩紐がずれ、しどけない格好になっている。 「……まぁ、大変」 それを直してあげようと手を伸ばすが、わたくしの指は肩紐に届くことがなく。 「……姫、さ、ま……」 「……エ、ファ……」 うわごとのようにわたくしを呼ぶエファの指が、一本、また一本と絡みつき、離してくれない。 「ドレスの肩口を直してあげますから、この手を……」 「……それよりも、調律を……お願いします」 「少し休んで、熱が下がってからでも――」 「……いいえ、姫様。いま、すぐに……調律を……」 「まさか、それほどまでに?」 万が一、エファの発熱が貴石の配置の狂いからくるものであれば、調律師のわたくしだけでは力不足。 わたくしは焦り、自由な方の手でエファの肩紐をおろし、速急な確認のため……直に胸部の触診を試みる。 「ど、う、でしょう……か?」 「……貴石の鼓動が、かなりの早さで……」 エファの生命が、胸部だけでなく、絡み合う手のひらからも伝わってくる。 「いつからですか?」 「……その……だいぶ前から……」 「どのようなときに?傷が痛むときですか?」 「……いい、え。それは……姫……」 「わたくしが?」 「――姫様のことを考えていると、急に……」 「『――それは、いえ、そのようなことが……』」 「…………い、いますぐに技師を呼んできますので」 「行かないで、ください……姫、様。……私をひとりに……」 「すぐに戻ります。ですからこの手を――」 「平気です。こうして姫様に触れられていると、自然と心が落ち着いて……まるで、夢の世界に居るような気持ちに」 安心しきったエファの表情を見ていると、わたくしの方まで不思議と焦りが消え―― 握った手も、押し当てた手も、離したくなくなる。 「……エファ。あなたは、憶えていますか?」 「何を、でしょう?」 「あなたがうわごとで、わたくしを……求めた、ことを」 脳裏に、あのときのキスが甦る。 「……はい。夢の中で、姫様に……優しくしていただきました」 「そう、ですか」 「でも、もう忘れてしまいそう。……ですから……」 「…………?」 「もう一度、私に……ください」 「……エファ……」 拒む理由など、何処にもない。 わたくしは躊躇わず、エファに熱い唇を押し当てる。 「……んんっ……ん」 エファの甘い吐息が、わたくしの理性を溶かしていく。 「――姫様は……」 「…………?」 「……姫様は、ずっとおひとりでお苦しみになられてましたね」 「――エファ……」 「いまだから解ります。こうして唇を重ねると……姫様の心が……私の中に流れ込んできます」 「…………!」 「もしよろしければ、その苦しみを……私にも分けてください」 「重い苦しみも、ふたりなら……きっと……」 その言葉だけで救われた気持ちになりながらも、わたくしは止められなくなった衝動に身を任せ―― 「おー。ここは、げきのれんしゅー、しまし、たー」 ボク、自分のお部屋を出てから、あちこちを歩いたの。廊下も、階段も、知らないお部屋も、いっぱい、いっぱい。 途中で何度か、兵士さんにも会いました。みんなにデュアの家を訊いたけど、誰も知りません。 だけど最後に会った人が、こう言いました。 「『もし良かったら、門で隊長の名前を呼んであげてくれないか?きっと、寂しがっているから』」 だからボク、いまは門を目指して―― 「なーかーにーわ」 に、着きました。 「えっと、えっと。ここ、かーら……」 あれれ?向こう、だったかな?ちょっと忘れちゃった。 迷ったときは、どうするんだっけ?動いちゃ、いけないんだよね? ……でも、早くしないと、夜になっちゃう。夜になったら、暗くなって、よく見えなくなって―― 「きゃー、こわーい」 「――何をしているんだ、ココ?」 「あ、アインー」 ボクが両手で顔を隠したら、急にアインが出てきたの。びっくりだねー。夢の中みたい。 「あのね、あのね。アイン、こんどは、きえちゃう?」 「消える?」 「ボクが、《 ・ ・ ・》〈おめめ〉かくしたら、きえちゃう?」 いま、アインが居なくなったら、ボク、頼る人が居ないの。 「……ふふっ。消えないから安心したまえ」 「うんうん。よかっ、たー」 「――ところで。いつもながら、何をしているのかな?」 「……ボク?」 「そう、キミが」 「あい。ボク、モンをめざして、ます」 「もん?正門のことか?」 「んー、どうだろう?」 最後にあった兵士さん、『モン』って言っていたよね? 「それで、門に行ってどうするつもりかな?」 「えっと、『デュアー』って、よびます」 「…………デュアを?」 「あい。デュア、さみしいの。だから、よんであげてって」 「――そうか」 アイン、すごいね。 ボクが説明すると、みんな考えちゃうのに。アインだけは、すぐにわかってくれるんだよ。 「――ココは、門までひとりで行くつもりかな?」 「んー、どうなんだろう?」 誰かがついてきてくれないと、マイゴになっちゃうかも。 「……では、私が一緒に行こう」 「おー、すごーい。アインって、すごい、ねー」 「……ん?」 「だって、ボク、ついてきてほしいな、って、おもってたの」 「そしたら、アインが、『いこう』ってー」 「……フフフッ。気持ちが伝わった、ということだよ」 「うんうん。すごい、ねー、ホント。トトト!」 「ん?それは新しい喋り方かい?」 「なにがー?」 「いや、気づいてないならそれでいい。……さぁ。暗くならないうちに、正門まで行こうか」 「あーい」 ボクは、アインに連れられて『セイモン』まで歩きます。 「……ココは、デュアと仲良しだったな」 「うん。ボクね、デュアとね、よるのロウカ、たんけんしたの」 「……ほう」 「そしたらね、そのときね。デュアが…………あれれ?」 「どうした?」 「うーん。デュアが、ボクに、なにかいったの」 「でも、ボク、わすれちゃった」 あのとき、デュアがボクのマネしたのは憶えてるんだけど。 「いつか、思い出すときがくるかもしれないな」 「そーだねー。……あー、おもいだしまし、たー」 「……早いな」 「うんうん。ここ、ここ。ここが、セイモン、です」 「あぁ、そうか。正門のことを思い出したのか」 そうだよね! エファが帰ってきたとき、ボク、ここでデュアと―― 「デューアー」 「………………」 「デュー、アー。ボク、あいに、きたよー」 誰もお返事、してくれません。 「ねぇねぇ、アイン。デュア、おやすみ?」 「……あぁ。いまは、お休みだ」 「(――そっか!)」 デュア、壁に寄りかかったまま、寝ちゃったから。 きっと、おカゼひいたんだ、ねー。 「……しばらく、ゆっくりさせてあげようか」 「うん。おやすみ、しかたないよね」 「…………今度、私と一緒にデュアのところへ行くか?」 「えーっ、デュアのおウチ、しってるのー?」 「あぁ。ここからは見えないが、この先の小高い丘に居るよ」 「いいな、いいなー。ボク、いきたいです」 「よしよし。それなら、もう少し静かになったら、行こうか」 「あーい。そしたらボク、マカロンもって、いきまーす」 「マカロンか?」 「うんうん。あのね、あのね。アインにもらった、マカロン」 ヒメサマとエファにあげたのは話したけど、デュアのことは教えてなかったの。 「ボク、デュアにもあげたの」 「……ほう」 「デュアね、おかし、だいすきなんだっ、てー」 「それで、ボクがマカロンあげたら――」 すごかったんだよー、デュア。 「ひとくちで、たべちゃったの。モグモグって」 「フフフッ。そのあと、デュアは慌てて口元を隠したろう?」 「うんうん!それでね、『おいしいね』って、いったの」 「デュアらしいな」 「で、で、でー。ボクが、ヒメサマとエファと、《 ・ ・ ・ ・ ・》〈はんぶんこ〉のはなしをしたらー」 「こまったカオして、『こんど、おかしをあげるよ』って」 「……えへへ。なにかなー?なんだと、おもうー?」 「さぁな。でも、そのことは憶えておくよ」 「んー???」 なんで、アインが? 「さぁ、そろそろ夜になる。城の中に入ろう」 「あーい」 ボク、最後にもういちどデュアを呼ぼうと思いました。 ……だけど。 「――どうした、ココ?」 「…………うぅぅ……」 なんでだろう? 「……ココ……」 アインが、ふしぎそうな顔してるね。 ……うん。ボクもふしぎ。 「――ねぇねぇ、アイン。ボク、どうして、ないてるの?」 「姫君。今日は少々、お話ししたい件がございます」 「――そうですか。奇遇ですね。わたくしも、聴いてもらいたい話がありました」 私は、これまで伝えていなかったことを話すため、姫君の部屋を訪れた。 今回は話題が話題だけに、エファには退席を願っている。 「……では、姫君のお話から承ります」 「いいえ。わたくしの話は……あとにしましょう」 「……?」 デュアが亡くなり、エファが戻り、心中穏やかでないことは充分に理解している。 姫君に新しい直護衛をつけるかどうかも考え抜いた挙げ句、『いまはその時期でない』という判断を下した。 そんな状況での報告だけに、多少話しづらいかと思っていたのだが―― 今日の姫君には、思い詰めた表情も見あたらない。 「……では、私の方から」 まずは、ヴァレリーの一件をと考えたが、内容の重たさからして後に回した方が無難かもしれない。 「実は先日、ココと一緒に中庭を散策する機会がありました」 「最近は、アインにばかり面倒を見てもらってますね」 「いいえ、それは構わないのですが――」 私にできるのは仕事の合間の遊び相手までであり、 「そろそろ、姫君にも見ていただく時期かと」 ……調律に関しては、どうすることもできない。 「……ココに何かあったのですか?」 「人形に関しては、素人同然の私の口からは何とも。できれば明日、姫君が直接診ていただけないでしょうか?」 「……分かりました。お昼過ぎに、この部屋まで来るように伝えてください」 「了解いたしました」 「……他には何か?」 「あとは小さな輸出入問題と――」 一番の大物『ヴァレリー』の一件が残るが、私の中で《 ・ ・》〈何か〉が引っかかっていた。 「姫君。こちらの報告は後回しということに。先に、そちらのお話をお願いできますでしょうか?」 「…………はい」 少しの間をおいて返事をした姫君は、ゆっくりと室内を歩き、やがて鏡の近くで立ち止まる。 「アインは、わたくしの幼い頃を知っていますか?」 「はい……と申しましても、あまり昔のことは……」 まだ私が城に出入りが出来なかった時期の話となれば、別。 「――ジゼル」 「(――ジゼル?)」 その名前には、聞き覚えがある。 確か、ジゼルとは…… 「……あの、姫君が危うく命を落としかけたときの……」 「そうです。そのときの人形が、ジゼルです」 残念ながら、自分は実際のジゼルを見たことがない。……が、その一件については、父から何度も聴かされていた。 姫君がその才能の片鱗を見せ、同時に先代の王からキツくお叱りを受けることになった事件。 「……そのジゼルが、どうかいたしましたか?」 すでに何年も前の話。人形も、すでに廃棄となっているはず。 「わたくしにとって、あれが最初で最後だと思っておりました」 「……はっ?」 「なのに、わたくしは愚かにも……」 姫君は、一体何を言わんとしているのか? 「……同じ過ちを犯してしまいました」 「(――同じ、過ち?)」 「…………まさか」 ジゼルの一件と同じ、と表現されるモノがあるとすれば―― 「……その、まさかです」 それは、エファのこと以外に考えられない! 「――姫君!」 「わたくしが全ていけない。よく解っています」 「……それでもわたくしは、自分の気持ちを抑えることができませんでした」 「…………そっ、それは……」 「わたくし自身の記憶と意識が、エファの中に急激な速度で流れ込んでます」 「姫君!」 「詳細を前に、結論から伝えましょう」 「……このままエファを《カーディナル》〈赤の国〉へ返せば、きっとあの子は……哀しみから壊れてしまうことでしょう」 「そして、このわたくしにも、エファ同様の運命が待っているでしょう」 「……無論、このままエファを手元に置き続けたいなどと、わがままは申しません」 「ただ、慎重に対処しなければ両者共に……」 「――打開策は?」 「……ひとつだけ」 「……それは?」 「わたくしの記憶を封じ、《カーディナル》〈赤の国〉へと返します」 そのとき姫君は哀しそうに笑ったが――決して、私の顔を見ようとはしなかったのだ。 「(――姫君の記憶がエファに流れ込む……)」 当代城主、クリスティナ・ドルンは、私が『後見人』として仕える若き姫。 ドルン家は赤と青の婚姻によって生まれた、この国において直系世襲の王族を義務づけられていた。 その理由は、ふたつ。 ひとつは格式ある名門王家――赤と青の血を引き継ぐことで、小国ながら両隣をはさむ二大国の平和のシンボルを維持する。 ふたつ目は―― 「(――特殊な記憶石を継承させることで、代々国王たちが持つ人形に関する知識を後世に伝える……というもの)」 国内で『ドルンの記憶』と呼ばれ続けてきた貴石――現在の姫君が所有するペンダント・ヘッドが、それにあたる。 「(――そして、それに近い貴石が……)」 ……あのエファの靴に仕込まれていたとは。 「『――いつからご存じだったのですか?』」 「『……傷ついたエファの調律を始めたあとのことです』」 「『何故すぐにでも、エファを遠ざけなかったのです?』」 「『調律師であるわたくしに、それができると思いますか?』」 姫君の理論と感情を考慮しなくとも、あの時点でエファの治療を放棄することは白の国としては無理な選択であった。 ……が、だからといって、赤が自国の宝に仕組んだであろう『記憶盗み』の貴石をそのままにしたのは、完全なる失敗。 それを姫君に諭したところで、時間が戻るわけでもない。 「『……過ぎたことを問うのは、ここまでとしましょう』」 「『――そうですね』」 姫君がエファを想えば想うほど、エファに仕込まれた貴石が記憶を吸収する。 ……といっても、記憶が移動してしまうわけではない。 複製に近い形で、『情報が貴石の中に刻まれていく』と表現するのが妥当だろうか。 ならば、その貴石を遠ざければ済む話……と考えたいところだが、大きな問題が浮上した。 姫君の調律によって、エファ自身の精神は元の記憶石に加え、靴に隠されていた貴石にも依存して成り立っていると判明。 片羽根を失った直後から『ふたつでひとつの記憶石』として機能し、分離させるのは至難……と付け加えられてしまった。 「『……エファをそのまま赤の国へ返すわけには?』」 姫君の記憶の一部が盗まれるのを諦めた場合を提案すれば、 「『先ほど言いましたが、いまエファがわたくしと離れれば、活動停止は避けられないでしょう』」 それこそ《カーディナル》〈『赤』〉自らが蒔いた種であり、己の責任で国宝を失うのが当然の報いと言えるだろう。 しかし、大国を相手に道理だけが正義として通じるなどと、甘い考えは持てない。 「『――そうなると、やはり……』」 「『わたくしの記憶を封じ、エファを返すのが最善でしょう』」 「『その調律に、失敗の危険性は?』」 「『正直に言えば、成功する確率の方が低いです。……が、それ以外の方法は、ないというべきでしょう』」 姫君の表情から、全ての真実を読み取るのは難しい。 成功を収めるためには、エファの精神構造の理解を深め、『一番の根元から記憶を封じるしかない』とのこと。 「『切り株を残せば、そう遠くない未来まで延命させるだけです』」 「『……それは、全てを姫君にお任せするしかない、と?』」 「『――はい。わたくしを信じてもらう以外には……』」 「『……コン、コン。アインー、います、かー?』」 声のノック音で考え事から抜け出し、ゆっくりと目を開ける。 「……ココか。どうぞ」 「あいー。はいりま、すー」 ココはいつものようにドアから覗き込み、私が頷くのを見てから机の方へと寄ってくる。 「なに、してた、のー?」 「少し考え事をしていたよ」 「アイン、たいへんだ、ねー。おやすみ、しない、のー?」 「……そうだな。もう少ししたら、ゆっくりしたいところだな」 振り返ってみれば、それほど昔のことでもないはずのに、一連の事件が始まる前の平和な日々が懐かしく思える。 「(――多くのことがありすぎたせいか)」 椅子から腰を上げようとして、足下がふらつきかける。 この頃の疲れと寝不足が、だいぶ身体に跳ね返ってきているらしい。 「(――ココの言うとおりかもしれない。少し休憩をとるか)」 私は横にあった予備の椅子を軽く近づけ、 「よければ、座るか?」 とココに勧めてみる。 「いい、のー?」 そう言いながらも、すでに机の方へと歩いてきたココは、こちらの用意した椅子には座らず……私の膝の上へ。 「ん?どうかしたのか?」 「すわり、ましたー。あれれ?ダメ?」 その視線の先は、私が用意した椅子から完全に外れている。 ……どうも、こちらの意図は伝わらなかったようだ。 「……いや、構わないよ。そのままで」 休憩をとると決めたのだから、たまった書類を眺めるのも後回しにしよう。 私は机の引き出しを開け、そこにあったマカロン入りの箱を取り出してココに与える。 「あー、マカロン!」 「……でも、でも。まだ、おてつだい、してません」 「ふふふっ、気にせず食べなさい」 そう言ってから私は、休むつもりで軽く目を閉じる。 ……が、頭の中は先ほどまで思い出していた姫君との会話が自然と甦ってきてしまう。 仕方なく眠るのは諦め、窓の外をぼんやりと眺める。 「(――姫とエファ。そのふたりに関わる自分……)」 そして、幼き頃の姫君と……ジゼル。 そのふたりに関わったのが、我が父――フリッツ。 「(――親子揃って、因果なものだな……)」 父の話では、ジゼルとはそれほど造り込まれた人形ではなく、どちらかといえば試作的な意味合いが強いモノだったらしい。 「(――当時の姫君は、まだ『ドルンの記憶』を受け継いではいなかった。それなのに……)」 ジゼルへの調律は、先代の王が感嘆するほどの出来映え。 当然、側近の者たちもその才能の高さに色めきだち―― 幼い姫君は周囲の期待に応えようと、自ら進んでジゼルに調律を続けてしまった。 その結果が、姫君自身に生死の境を彷徨わせることになった……と聴かされている。 「(――さて、今回のエファの件。どうすべきなのか)」 全てを姫君に任せるべきか、それとも。 「(――父がしたように、恨まれるのを覚悟でエファを……)」 最悪の事態が来る前に、『私が奈落へ突き落とす』か。 無論、ジゼルと赤の国宝たるエファを同列には置けない。 ……となれば、何かしらの方法で姫君からエファを引き離すしかない。 「ねぇ、ねぇ、アイン?」 「……なにかな?」 「アイン、ほかの《 ・ ・》〈くに〉、いったこと、あるー?」 「あぁ、何度か。ココの祖国である《ブリュー》〈青に〉も行ったことがある」 「すごい、ねー!ボクは……シロのくに、だけ?」 「……たぶん、そうだろうな。他の国にも行ってみたいか?」 「あい。アインも、いくー?」 「……私も一緒なのか?」 「うん、うん。ひとりは、イヤー」 マカロンをほおばりながら、ココが何度も頷いてみせる。 「(――他の国、か)」 そんなココの言葉が、ふと私に『もうひとつの可能性』を閃かせた。 普段の私の頭の中には、常に白を中心とした赤と青の状勢が渦巻いている。 しかし、それはあくまで『建国以来のしがらみ』が基礎。 大胆にも、それを無視する考え方を持てば―― 「(――ほんの一時……いや、うまくすれば限りなく……)」 「……ココ。すまないが、隣の椅子に移動してくれるか?」 「ボク、おもいー?」 「いいや。できれば、ずっと座っていて欲しいぐらいだが……少し急ぎの仕事ができてしまった」 ペンをとり、引き出しの最下段を開けて上質の紙をとる。 「……あい。ボク、やくそくまもる、よー」 「ふふふっ。ちゃんと憶えていたのか」 ココの頭をひとなでし、久し振りの手紙を書き出す。 もしもこの可能性を選ぶときがきた場合、私は他者に多大な迷惑をかけ――国家の《 ・ ・》〈逆賊〉に成り下がるかもしれない。 そうだとしても、それで姫君たちが助かるのであれば―― 「コン、コン。ヒーメー、サーマー」 ボクはアインに言われた通り、お昼にヒメサマのお部屋へとやってきました。 でも―― 「『……ココ?いま、姫様はお着替えの途中なの』」 中から聞こえてきたのは、エファの声です。 「『――少しの間、待ってもらえる?』」 「あーい!」 お着替えを覗いたら、ダメ、ダメ。ヒメサマも、エファも、ボクも、みんな女の子だもん。 男の子に見られたら、恥ずかしいよ、ねー。 「あれれ?ボクがみても、へい、きー?」 そうだよ。ボク、男の子じゃないから。ヒメサマやエファのお着替え見ても、変じゃない。 「……ううーん。でもでも、きゃーっ!」 ボク、ふたりみたいにお胸もないし、お尻もぺったんこ。……きっと、ヒメサマとエファが驚いちゃう。 「…………もー、いー、かい?」 「『――えっ、えっ!?もう少しだけ、もう少しだけ待って』」 エファの慌てる声って、あんまり聴いたことがない。だから、ボクは―― 「…………もー、いー、です?」 「『あぁぁ、姫様!こちらのお袖を……』」 「……なんだか、ダメみたい」 それから三回、ボクはひとりでかくれんぼをして―― 「――ココ、ごめんなさい」 「……あー、エファ」 やっと、見つけてもらえました。 「おきがえ、たいへんだったー?」 「……う、うん」 「えへへー。ボク、ひとりでおきがえ、できます」 「…………そうなの?」 「あい」 エファとお部屋が別々になってから、頑張りました。お背中のネジ巻きは無理だけど、付けるだけなら、へいきー。 「……それじゃ、私は部屋を出るから。ココは姫様に調律をしてもらってね」 「あーい」 ボクはエファとお別れをしてから、急いでお部屋に入ります。 「ヒーメーサーマー!」 「……はい、ココ。元気にしてましたか?」 「あいあい」 久し振りのヒメサマを見て、ボクは何度も頷きます。 「……あのね、あのね。ヒメサマ、きいて、きいてー」 「はい。ゆっくり、順序よく話すのですよ」 「あい!」 ボクは、これまであったことをいっぱい話します。 お部屋にカギをかけることや、お着替えがひとりでもできるようになったこと。 デュアと『セイモン』で色々お話したことも言ったけど、うまく説明できませんでした。 ……だって、『秘密』もあるし。 それにヒメサマがすごく哀しそうな顔をしたから、あんまり話しちゃいけないのかなー、って。 「(――それと、ね。ボクも……)」 「……ココ。こちらを向いて」 「……あい……」 「どうして……あなたはいま、泣いているのですか?」 「――わ、わがりまぜん」 なんでだろうね?デュアのこと考えると、涙がポロポロ出てきちゃうの。 「…………いらっしゃい」 「……あい」 ……だけどね。ヒメサマが優しく抱きしめてくれたから、ちょっと平気。 「――あなたにも、大変な思いをさせましたね」 「……たい、へ、ん……?」 「その小さな身体には、あまりに重すぎるモノばかり」 「――そうならないようにと、あなたを造られた方は……」 「…………?」 「きっと『忘却』を与えたのですね」 「ぼう、きゃ、くー?」 ヒメサマの使う言葉、むずかしい。 「……ココ。あなたには、わたくしたち人間にはない『力』が備わっています」 ……どうしてヒメサマ、ボクのおててをニギニギするの? 「そしてそれは、エファにもない……あなただけの『力』です」 「エファになくて、ボクに、あるの?」 「はい。その力の使い方を、いまから教えます」 「……あ、い」 ……でもね、でもね。 ヒメサマに抱っこされてると、ネムネム、です。 「『……これから先。哀しくて、辛くて、泣きたくて。どうしても我慢できなくなり、全てを忘れたいときがきたら』」 あれれ?ヒメサマ、ボクの手袋を外そうとしてる? 「あー、てぶくろ。りょうほう、はずしちゃ、ダメ……です」 ――よく憶えてないけど。ボク、手袋は片方ずつしか外しちゃいけないの。 お洗濯するときも、片方ずつなんだよー。 「『えぇ、分かってます。そのときが来たら、です』」 「あい?」 「『……こうやって両方の手袋を外し、お祈りをするのです』」 「おいの、りー?」 「『そうです。そうすればあなたは――』」 ――みんな、みんな、忘れることができるんだって。 「――折り入って話があるので、来てもらったのだ」 「……はい」 私は姫様の元を離れ、アインの執務室を訪れていた。 「……こうして話す機会は、いままであまりなかったな」 その言葉を聴かされたとき、一瞬だけデュアの姿をアインの中に見たような気がしてしまった。 「……は、はい……」 それは私を救い出してくれたデュアが、馬上で口にした言葉とそっくりだったから。 「――では、あまり時間をとらせるのも悪い。話を始めよう」 アインは私が頷くのを見て、二度ほどまばたきをする。 そして、 「この白の国に来てから色々あったと思うが……」 などと、長くなりそうな出だしを語り出した。 「……何をお訊きになりたいのですか?」 「これまで、この国に滞在した感想を」 「最初は慣れませんでしたが、姫様やココとお話するうちに少しずつ……」 そんな他愛もない問いかけが何度か続き、私にもアインの考えていることが解りかけてきた。 アインの質問は、これまでの経緯を辿り……私が《カーディナル》〈赤の国〉へと戻るときまで話を進めるつもりなのだ。 「――ひとつ、私からお尋ねしてよろしいでしょうか?」 「……どうぞ」 「私は《カーディナル》〈赤の国〉へ戻されるのですね?」 「――無論。キミは《カーディナル》〈赤の国〉の宝。それが道理ではないか?」 「…………」 そう問われてしまっては、私にはもう返す言葉がなかった。 この場で姫様と私が、どれだけお互いを必要をしているかを力説できるとは思えないし、するだけの勇気もない。 「(――それでも私は、姫様の元を離れたくない)」 その気持ちだけは誰にも―― 「……人形である身でも、姫君が愛おしいか?」 「――えっ!?」 ……まさか、アインがそんなことを尋ねてくるとは。 「(――でも、きっとアインは……)」 私が『いいえ』と答えることを望んでいる。 でも、もしもここで嘘をついたら―― 私はこれから先、ずっと後悔してしまう。 「(――それとも……)」 この答え次第によっては、私は白の国に留まることができる? アインのことをよく知らない私でも、その立場を考えれば答えが見えてくる。 もし許してくれるようなことがあれば、それは奇跡にも近いものだろう。 「……答えられないか?」 「いいえ」 このまま無意味に時間をかけたところで答えは、ひとつ。 たとえ姫様と引き離される結果になろうとも、私の中では絶対に揺るがない。 「(――この気持ちに偽りはないの)」 自分に嘘をついても、姫様は褒めてくれたりしない。 もう、何も知らないから、嘘がつけないのではなく。 ……自分を知っているからこそ、嘘をつきたくないのだ。 「…………では、答えてもらおうか」 「わ、私は、ひ、姫様のことを――」 姫様、私に勇気をください! アインをまっすぐに見て、この気持ちを言えるだけの勇気を! 「……もう、いい」 「――えっ?で、でも……」 アインの視線が怖くても、まっすぐにその目を見て言おうとしたのに。 「以上で質問を終えよう」 「……その、アイン。私はまだ、いまの質問に……」 「――言葉で伝えるだけが答えではない」 「……えっ?」 「――目は心の窓」 「…………それは……」 「言葉でなくとも、《 ・ ・ ・》〈その目〉で答えを見せられてしまっては、私も黙って納得するしかない……ということだ」 アインの表情が、とても軟らかいものへと変わる。 「(――まさか、アインが……)」 「――すぐに結論は出せないが、私なりには善処しよう」 「……ア、アイン……」 「……すまなかったな。茶番にも近い問答に付き合わせて」 「い、いえ。そんなことはありません」 これまで怖いと思わせていたモノの正体が判った気がする。 それは、アインが……姫様を思う気持ち。 アインも、デュアも。 「(――ふたりとも、同じ目をしている)」 そして全ては、この国と姫様を護るために―― 「それでは、そろそろこの質問会も終わりにしよう」 「お、お待ちください」 「……何か?」 「(――私も、ひとつだけ)」 そう言いかけたが、その続きを口にできない。 「(――アインは、デュアのことを……)」 いま尋ねなければ、二度とその機会が訪れないと思う。 それでも言い出せなかったのは、彼の目を見てしまったせい。 「(――この人は、決して語ってくれない)」 私のように、口にしようとしてできない……のではなく、答えるための言葉を持ち合わせていない。 うまく表現できないけれど……そんな風に感じた。 語る機会も、必要もなかったアインの心の中に。 ……姫様や私の知らない『デュア』が居る。 「(――そしてそれは、アインだけのモノ)」 きっとデュアも、同じような気持ちでアインを見つめていた。 ……私は、そう信じたい。 「――緊急の書簡?ご苦労だったな、下がってくれ」 伝令係が立ち去った後、私は渡された手紙の差出人名を見て少しだけ残念に思う。 「さすがに昨日の今日では、返事の届きようもないか」 それでも、この書簡に価値がないというわけではない。 これは、《 ブリュー》〈青の〉国に出している配下の者からの手紙。 私宛に直接届けるということは、かなり重要なモノだろう。 「……できれば、朗報であらんことを」 誰も居ない執務室で、静かに《ろうふう》〈蝋封〉を切る。 そして、その書面に目を通せば―― 「…………笑えない話か」 言葉とは裏腹に、諦めにも近い笑みがこぼれてしまう。 ……あまりに予想通り。 そこに書かれた文章は、とても簡単な内容だった。 「『……飢えた鶏、水の下の白魚すら狙う』」 この一文を決められていた符号に置き換えて読めば―― 「……青の軍部が、水面下で動き始めている……」 その標的は、この《 ヴァイス》〈白の〉国……ということだろう。 「――さて、どうすべきか」 青の軍部の動向については、詳細確認をするまで結論づけることもできないが、実際に戦争が始まってしまってからではこの情報はまさに紙くずと化す。 「……軍隊、か」 いまから戦争に備えようにも、戦力の差は圧倒的すぎる。 仮に民を徴兵しても、いたずらに増えるのは死者の数ばかり。 「(――では、無抵抗に全面降伏か)」 確かにその場はしのげるかもしれないが、その結果に不服を申し立てる《カーディナル》〈赤の国〉が待っていることを忘れてはならない。 「(――当然、両国の境にあたる《ヴァイス》〈白が〉最初の戦地になり……)」 赤と青が戦い始めた瞬間、白の民が両国の盾になる。 「先手を打たれる前に、《カーディナル》〈『赤』〉と同盟を組む……か」 そうすれば『青は白に戦争を挑む、即ち、赤を敵に回す』の公式が成り立つ。 これで《 ブリュー》〈青の〉国が軍を下げれば、当面の危機は乗り越えられることになるが…… 「ヴァレリーは、初めから《カーディナル》〈『赤』〉とコトを構えるつもりでいた」 あの男ひとりが、赤の国に戦争を仕掛けるつもりだったとは考えられない。 それを考慮に入れれば、戦争に発展する可能性どころか……早期開戦の口実を与えることにもなりかねない。 「……そうなれば、まさにヴァレリーの思い描いた通り」 どこを向いても道の先に光が見えず、あれこれ考えるだけの時間が過ぎていく。 「遅かれ早かれ、《 ・ ・》〈流れ〉に巻き込まれる運命だったということか」 最終的な行動を前に、両国は善後策も含めて協議を計るはず。 「そこにつけいる隙があれば、もしくは……」 時期を待つか、何とかして打開策を見出すか。 「……どちらにしても、他の閣僚たちの意見も訊かねばな」 刻一刻と変わる、めまぐるしい状勢。 ――しかし。それでも決断の限界は、すぐそこまで差し迫っている。 「(――そして、何を選ぶにしても……)」 そうと決めたら、その道を信じて進み続けるしかないのだ。 「――姫君。少々、困ったことになりました」 アインは、いつもながらの遠慮がちな顔で前に立つ。 その声に疲れが見え始めたのは、いつの日のことからか? 「そういうからには、あまり良くない知らせのようですね」 「……はい」 「かといって、わたくしが耳を塞いでは何も始まりませんね」 この数日、アインが閣僚関係者を呼び出し、食堂やホールで論議を交わしていたのは知っている。 そして今日辺り、その結果がわたくしの元に届くであろうことも予想していた。 「心の準備はできております。――アイン、報告を」 「……了解しました」 軽く礼をしたアインは、手にした書類を持ち上げる。 「現在まで、この白の国が否応なく巻き込まれてしまった一連の事件に関して――」 アインが語るのは、聴くに堪えない話ばかり。 ユッシは舞台用短剣の『本物』を職人に作らせる。 その短剣は、ハンスの手で舞台準備の最中にすり替えられ、エファの手に握られることに。 「……何かの拍子にエファが姫君の胸元へと短剣を落としていたなら、危ういところでした」 わたくしは、エファの話題を出されて鼓動が早くなった。 すでにアインは、記憶石のことをわたくしから聴いている。 しかし、もうひとつの石――エファを操っていた制御石の話は、誰にも明かしてない。 もしもこの報告の中で、制御石の話が出てくるようなことがあれば―― 「(――わたくしは、エファの無実を証明しなければならない)」 ……そう。彼女は石の力で操られていただけ。 それに、狙われていたわたくしは、こうして生きている。 「そしてエファの短剣はあくまでオトリか、あわよくば……の狙いでしかなく、実際には姫君を襲ったあのフードの男が、襲撃のメインだったようです」 「では、あのフードの男が事件の黒幕……」 「いいえ。裏で糸を引いていたのは、青の大使ヴァレリーです」 「……あの男が、ですか?」 「……そうです。ユッシやハンスをそそのかし、この白の国に姫君殺害の計画を持ち込み、挙げ句は……国家の戦争にまで発展させようとしたのです」 「(――何という大それたことを)」 何故この白の国に、そのような争いごとを持ち込むのか? 「(――ということは、制御石を入れたのも……)」 エファが持たされた短剣、壁際に居たヴァレリーの含み笑い。 ……そして、制御石。 わたくしの中で、アインも気づいていない計画が見えた。 「……それで、青の大使は?」 「もう、二度と姫君の前には姿を現すこともありません」 「…………?」 一瞬、どうしてそのような断言ができるのか尋ねようかとも思ったが、アインがそう言うのであれば不問に終わらせる。 「では、ここから本題に移りますが……よろしいでしょうか?」 「いまのが本題ではなかったのですか?」 「――残念ながら、違います」 仕切り直しが入り、話題は《 ・ ・》〈より〉暗い方向へと傾いていく。 「ヴァレリーが画策した計画に続き、青の軍部が動いていると情報が入りました」 「現在、その件については赤の国からも緊急協議の打診があり、三国の関係はこれまで以上に混迷してきております」 政治的な話題に疎いわたくしに解るようにと、アインが要約しながら説明をしてくれる。 《カーディナル》〈赤の国〉は、『赤の使節団襲撃の事件に《ブリュー》〈青が〉関与している』と。《 ブリュー》〈青の〉国は、『リハーサルの一件に《カーディナル》〈、赤 〉が関与している』と。 双方共に『《ヴァイス》〈白の〉国の保護』を第一に掲げ、共闘の同盟を結ぶ提案をしてきた……とのことだった。 「――どちらかを選べば……もう一方の誘いを蹴ることに。蹴られた側は、当然のように我が国を『敵』と見なします」 「……筋道を通すなら、姫君を亡き者にしようとした青の国を敵と考えるべきでしょうが――」 「エファに『二つ目の記憶石』を持たせてきた赤の国の真意をどう見るか、も問題になります」 「…………どちらもどちらです」 さらには、赤の国宝であるエファを『危険物』と見なして、青の国側からは《 ・ ・ ・ ・》〈引き渡し〉要請がきている、と。 「それは絶対になりません!」 「何故、《ブリュー》〈青な〉どにエファを渡さなければならないのです?人形をモノ扱いした上、戦争の駆け引きにまで……」 「……姫君……」 「どうして《カーディナル》〈 赤 〉や《 ブリュー》〈青の〉国は、自らの子どもにあたる我々を攻めたりしようとするのですか」 ――哀しい。 「わたくしたち白が、一体何をしたというのです?」 ――悔しい。 「何故、両国は初代たちをこの地へ遣わせたときの意義を忘れ、争いを始めようというのですか?」 ――情けない。 そんなことをすれば、多くの者たちが犠牲となり―― 「――姫君、お気を鎮めてください」 アインからいさめられ、わたくしは初めて自分が玉座から立ち上がっていたことに気がつく。 「戦争をいとわない両国が『《おのおの》〈各々〉の意義主張』を掲げる中、我々が『何が大切か?』を説いて語りたいのであれば――」 「あえて渦中に飛び込んで勝利を掴み、双方を屈服させるか。……完全な中立を維持し、争いに関与しない姿勢を貫くか」 「…………」 「――姫君は、どちらとの同盟を望まれますか?」 「……どちらも望みません」 「それでは、両国とも敵に回しますか?」 「……そんなことはできません」 「――ならば、このまま黙って成り行きを見守りますか?」 「……それは……」 わたくしには判らない。 どうすれば、この状況から抜け出せるのか……など。 「…………分かりました」 「えっ?」 「……あとのことは、私にお任せください」 そう言ってアインは、静かに笑って後ろに下がる。 「(――アインは一体……)」 ……どうするつもりなのだろうか? 「(――ヴァイス……)」 私はこの国の王家に生まれ、お父様が亡くなられたあと、アインを後見人とし、名目上の統治者として生きてきた。 あと数年が経ち、本当の統治者として認められたならば、わたくしは一体どんな女王になるのだろう、と想像してみる。 「(――似合いません)」 名ばかりの姫として周りの者たちに迷惑をかけてきた自分が、名実ともに国を治める立場に就くなど考えられなかった。 「(――アインが居て、デュアが居て……)」 他に何人もの家臣たちに助けられながら、今日まで何とか白の国を治めてこられたと思う。 「(――いいえ、違います……)」 治める真似事をさせてもらってきた、だけかもしれない。 いま、それを痛烈に実感している。 「(――《カーディナル》〈 赤 〉や《ブリュー》〈青が〉、戦争を始めようと画策する中で……)」 政治的な手腕もなく、ただオロオロするばかり。 国の進退がかかっているときに、わたくしは…… 「(――こうして、一日のほとんどをエファと過ごしている)」 もちろん、これは調律師としての大切な仕事。 わたくしの盾となって片羽根を失ったエファのため、治療を前提とした調律を繰り返す毎日だった。 それがいま、エファを理解することに重点をおいた調律になっている。 「(――エファの中に眠る、ふたつの記憶石)」 ひとつは、本来のエファが持つ石。 もうひとつは、赤の国の陰謀で加えられてしまったモノ。 気づくのが遅れてしまったばかりに、エファは二つの石に依存して活動するようになってしまった。 そして、その二つ目の石には『わたくしの記憶』が吸収され、少しずつではあるが……エファがエファでなくなっていく。 わたくしが、エファを想えば想うほど。 エファが、わたくしを想えば想うほど。 二つ目の記憶石の純度は、上がってしまう。 純度が上がれば上がるほど、わたくしから流れ込む記憶量も加速度的に増えていく。 そうなると、エファ自身が負荷に耐えられず壊れてしまう。 かといって、ここで調律をやめてエファから離れてしまえば、今度は『わたくしが居ない寂しさ』で彼女がダメになる。 唯一、エファを救う方法は―― 「(――わたくしの記憶を封じてしまうこと)」 そうすれば、わたくしがエファ恋しさの気持ちを我慢するだけで解決する。 だから、それを実行に移すために必要な調律を繰り返した。 エファの限界が来る前に、わたくしの記憶を封じようと、何度となく挑戦をした。 ……しかし。 「(――エファの限界は、もう、すぐそこ)」 日数にすれば、あと一日か二日。 それが過ぎてしまえば、エファは…… 「(――それに……)」 わたくしとて、エファをなくしては生きていけない身体。 どうすればエファを救い、わたくしも助かるのか。 「(――いいえ、違う)」 わたくしは、助からなくてもいい。 「(――せめて、エファだけでも)」 ……そして、とうとう。 わたくしは、ひとつの解決策を見つけ出したのだ。 「――馬車を裏門に用意し、待機させよ!いますぐに!」 中庭に居た衛兵に声をかけ、急いで姫君とエファの姿を探す。 「(――赤も青も、選ばない)」 ひとりでも多くの命を救うことこそが、私に科せられた使命。 かの先代国王より姫君の後見人を任じられた私―― アイン・ロンベルクがとると決めた道は、この国の民から未来永劫のそしりは免れない。 過去の王家の方々に合わせる顔もない。 それでも、私は―― 「『……現実に沿った《 ・ ・》〈流れ〉に乗らないでどうする?』」 「(――《 ヴァレリー》〈あの男〉の言葉にも一理あったな)」 いまは、理想を語って済まされるときではない。 「(――赤にも、青にも。姫君は渡さない!)」 「……姫君、早急なお話があります」 姫君のお部屋のドアをノックをしても、反応がない。 「――姫君?いらっしゃいませんか?」 失礼とは知りながらドアに手をかければ、あっさりと開く。 「……いらっしゃらない……」 部屋の空気から察して、退室されてからだいぶ時間が経っているように思える。 「(――姫君は、一体……どちらへ?)」 先ほど中庭を通りかかったときには見かけなかった。 ……と、ホールや謁見の間にふたりで? 「(――何か、嫌な予感がする)」 漠然とした不安に襲われ、私は走り出す。 「――姫君、どちらに!?どちらにいらっしゃいますか!?」 「……エファはまだ、台詞を憶えてますか?」 「えっ?」 突然の問いに意味が分からず、私は目をぱちくり。 それでも『台詞』というキーワードのおかげで、姫様が『天使のはばたき』のことを話していると理解できた。 「はい、憶えてます」 「それは良かった」 「どういう意味ですか?」 記念式典で披露するはずだった『天使のはばたき』は、そのリハーサルの日に起こった事件のせいで、もう演じる機会もないはず。 「いま、その意味を教えます。一緒に謁見の間へ」 「は、はい……?」 私は解らないながらも、誘われるまま姫様のエスコートで部屋を出て廊下を歩き始める。 「……とても残念でしたね」 「えっ?」 「わたくしたちは、三人で一生懸命に劇の練習をしたのに、それを発表する機会を逃してしまいました」 「…………そうですね」 確かに、姫様の言われる通り。 私たちにとっては、リハーサルが本番になってしまったのだ。 「(――それに。私はあの場で、片羽根を失ってしまったの)」 でも、あのときの怪我で姫様のお近づきになれたと考えれば。 「まだ、劇のことは……触れない方が良かったかしら?」 「いいえ、そんなことありません」 「……では。わたくしのわがまま、きいてもらえますか?」 「――なんでしょうか?」 「実はあのときの真似事をしたくて、エファを誘ったのです」 「……真似事?」 「いまから少し、わたくしのために時間をくださいね」 「……はい」 今日の姫様は、いつもとどこか違うような気がする。 でも、それが何であるか……私には解らない。 やがて誰も居ない謁見の間に辿り着き、私と姫様は中央まで歩みを進める。 「……さあ、着きました」 「……はい。でも、一体ここで何を?」 「………………」 姫様は、問いには答えず無言で私を見つめてくる。 「……?」 そして、いきなり姫様は―― 「天使の卵よ。そなたはいつ、その背にある羽根を広げる?」 と口にされた。 「……羽根、ですか?」 「――そう。天使の象徴たる羽根、いつ手に入れられるのかと聞いているのだ」 「(――普段と違う口調?もしかして?)」 頭の中で、『天使のはばたき』の一幕が甦る。 そう、これは……姫様とココが演じたシーンの再現? 「……それは、女王様がくださるのでは?」 「それに値すると、そなた自身が証明できれば……すぐにでも与えよう」 やっぱりそうだった。姫様は私を驚かそうと、急に劇の一幕を始めたに違いない。 「……証明」 「左様。いつまでも卵のままでは居られないこと、忘れたわけではあるまい」 「…………はい」 そこまで続けてちらりと姫様のお顔を見れば、意外にも少し寂しそうな笑みを浮かべていた。 「……あの、姫様。もしかして私、台詞を間違えましたか」 「いいえ、エファ。台本の台詞としては合ってます」 「えっ?」 「いま、天使の卵が『はい』と答える台詞がありましたね?」 「……はい」 「そこが少しだけ、違ってました」 「どういうことですか?」 指摘された部分が、どうして間違いなのかが解らない。 「……うふふっ。それでは、思い出してみてください。実際に、舞台の上で天使の卵を演じたのは誰でしたか?」 「それは、ココですが……」 「ココの普段のお返事は?」 「…………あっ!」 ……そういう意味だったのですね! 台本の台詞は私が読み上げた通り、『はい』の返事。 でも、その役を受け持ったココのお返事は―― 「……『あい』でしたね」 「そう、正解です。それにしても、よく天使の卵の台詞まで憶えてましたね」 「私は演劇の練習相手を務めることも多いので、台本にあるほとんどの台詞を憶えてしまいます」 「……では、わたくしの演じるはずだった初代女王――マルグレーテ・ドルンの台詞も?」 「はい、もちろんです!」 「すると、いざとなれば……わたくしの代役にも?」 「……えぇ」 一瞬、姫様の表情が暗くなったように見えたのは気のせい? 「……それなら、わたくしもエファが演じる天使の台詞をしっかりと憶えておけば良かったですね」 「――どうしてですか?」 「そうすれば。ふたりで役を交代し、みんなを驚かせることができたかも」 「……あぁ!」 確かに、その通り。 「わたくしが天使で……」 「私がマルグレーテ女王」 私たちふたりは、ぴったりのリズムでお互いの役柄名を入れ替えて笑い合う。 「……それでは、ふたりだけの本番を始めましょうか?」 「……はい!」 観客はひとりも居なくてもいい。 私は、姫様とふたりで演じられることに喜びを覚える。 「……エファ。どこから再現しても構いませんか?」 「大丈夫です」 先ほどのが予行演習のようなモノ。 もう、私の頭の中には台本の台詞が甦っている。 「それでは、まいります……」 姫様は大きく息を吸い、 「……ならば、わたくしを殺して行きなさい」 と一言。 まさか、そんなところから再現されるとは思っていなかったので、私はびっくりしてしまうが―― 「……さぁ、続けて」 そう言われてしまっては、急いでシーンに合わせるしかない。 「――分かりました」 「(――私は、ここで壁にかかった短剣を手に取る)」 そして、女王の身体へと馬乗りになるのだが…… 「さすがに馬乗りにはならなくて良いですよ」 そう言って姫様が、ニッコリと笑って私を招き寄せる。 「……そうですよね」 私も笑って姫様の前に立ち、次の台詞を待つ。 「さぁ、ひと思いに刺すがいい」 「――それは、できません」 「何故できない?先ほど、解ったと申したではないか。さぁ、ひと思いに……」 「できません」 「そなたは、自由が欲しくないのか?」 「それは……」 「人として、生きたくはないのか」 「人形は、人にはなれません」 順調に進む、ふたりだけのお芝居。姫様は台詞を一言一句間違えず、私は少し感心してしまう。 「わたくしを殺せば、そなたが人間になれる……としたら、どうする?」 「……それは……」 「人になりたいのではないのか?人間のようになりたい……と申したのは、そなたではないか」 そう問われ、私は少しだけ考える。 「(――私は、人間にはなれなくとも構いません。姫様のお側に居られるなら)」 ……本当にそう思う。 「わたくしの命令が聞けぬのか」 「……それが、命令であれば……」 「(――もうすぐ、クライマックス)」 あとは、姫様の台詞が幾つか続いて―― 「…………えっ!?」 私がびっくりしたのは、急に姫様があの『舞台の短剣』を目の前に差し出したから。 「そ、それは……あのときの……」 「……そうです。さぁ、握って……」 「……でっ、でも……」 「ならば、あえて命じよう。さぁ、天使よ。私を殺し、自由を手に入れ、羽ばたき去るがいい」 姫様は次の台詞を言いながら、私の手に短剣を握らせる。 私は何のために持たさせたのかも解らず、 「……ひ、姫様?」 と尋ねるが―― 「……エファ。もう少しで劇が終わりますよ」 と、寂しそうに笑うばかり。 「……それは、そうなのですが……」 そのとき、私の中で『何か』がささやく。 ――姫様を殺してしまえ……と。 ……そして、 「わたくしを……殺してください」 それに呼応するかのように、姫様の声が続く。 「……ま、まさか、なんのご冗談ですか?」 私は信じている。これは、あくまで劇の真似事なのだと。 それなのに、身体の奥で渦巻く強い力が、《 ・》〈次〉の言葉を本気で待っている。 「なぜ、なぜこのような危険な真似事を!?もしも、何かの拍子に怪我でも負わせたりしたら……」 「…………それを望んでいるのですよ、エファ」 「こうすることでしか、あなたを助けられないのです」 「……何のお話をしているのですか?」 「……では、わかりやすく説明しましょうか。いまのあなたが持つ『記憶石』の数は……幾つですか?」 「ひとつ、ですが」 「残念ながら、あなたには記憶石がふたつあります」 「えっ?」 「ひとつは、あなたが元々持っていた記憶石。もうひとつは、純度の高い、人の記憶や知識すらも吸収できるほどの貴石」 「あなたに純度の高い貴石を隠し持たせた者は、どうやらわたくしの人形技術に関する記憶や知識を欲したようです」 「姫様の、ですか?どうして私に?」 「式典前後の時期、わたくしの側に居ることができる人形だったからでしょう」 「……それで、その貴石にどんな意味が……」 「触れれば触れただけ。想えば想うだけ記憶を吸収する石」 「現在、その石にはわたくしが『相当量』流れ込んでます。いま、この瞬間も。あなたが望む、望まないに関わらず」 「当然といえば当然でしょうね。わたくしとあなたは――」 みなまで言わなかった姫様は、そのまま話を続ける。 「その貴石は母体であるあなたの限界など無視し、わたくしの記憶を吸収しつづけます」 「そして、もし限界を超えてしまえば……」 姫様が目を伏せ、首を横に振るう。 「あなたの心と身体は耐えきれず、終わりを迎えてしまいます」 「その石を外せば良いのではないでしょうか?」 「――残念ながら、もう深く根付いてしまっています。いまから外しても、あなたに深刻な障害を残すでしょう」 「……では、どうすればいいのですか?」 「あなたを傷つけない一番の方法は、わたくしに関する一切の記憶から思い出を……早期に封印することでした」 「……封印……」 「でも、残念ながら……もう、それすら手遅れになったのです」 「………………」 「このまま一緒に居れば、あなたは確実に壊れてしまいます。かといって、わたくしと離れたいとは……」 「思いません!」 「……ありがとう。わたくしも、同じ気持ちです」 「そこで、わたくしはずっと考えていたのです。あなたが壊れることなく、わたくしと一緒に居られる方法を」 「それは……」 「この方法がうまくいけば、わたくしはずっとあなたの側に居ることができます。……試してみますか?」 「もちろんです!でも、それは……」 「大丈夫ですよ。ずっと、あなたと一緒です」 姫様が一歩近づき、私が手に持つ短剣の先端を……自らの胸元へと向ける。 「…………姫様。ですから、ご冗談は……」 「――冗談などではありません」 「あなたがわたくしを刺す。それでおしまいです」 「……そんな真似、私にはできません」 「……できますよ、エファ。あなたには……制御石の力がありますから」 「制御石、とは何ですか?私は、そんな石……」 その単語の響きに、嫌悪感を覚える。 「――そ、それはまさか、私の心や身体を勝手に動かす……」 「……はい」 「(――あぁぁ!そんなモノが私に!)」 だから私は舞台で、姫様を殺してしまいそうになったの!? だからいま、この身体が思い通りに動かないの!? 「わたくしが死ぬことによって、これ以上の記憶の流れ込みは起こらなくなります」 「……そうすれば、貴石を取り出す必要もなくなり、エファが壊れる心配もなくなります」 「ダメです、姫様は間違われていらっしゃいます!いまさっき姫様は、私と一緒に居ると仰ったではありませんか!」 「……あなたの二つ目の記憶石。わたくしは、そこに居ります」 「そ、そんな。納得できません!どうして私を助けるために姫様が犠牲になるのですか!」 「……もうわたくしの命も、そう長くはないのですよ」 「えぇ、何故ですか!?嘘です。嘘だと仰ってください!」 嘘です!絶対に嘘です!だって、そんな様子は欠片も…… 「許してくださいね、エファ。せめて最期はあなたの手で……」 「納得できません!全て、何もかも!」 「触れることのできない姫様なんて、欲しくありません!」 「姫様が仰ったではないですか!命令にも近い言葉で、私の自由を奪いそうになったら、抗議なさいと――」 「そうでしたね。……でもね、エファ」 「こうも言ったことを忘れましたか?」 「えっ?」 「わたくしは、わがままな姫なのです」 「それならば、私も負けません!私は姫様よりもわがままで、誰よりも、誰よりも姫様のことを大切に想っております!……ですから!ですから!」 「私など、どうなっても構いません!ですから、姫様は――」 「もっと、もっと、ご自分を大切になさって……ください」 「ありがとう、エファ。……その言葉、この胸に刻みました」 「こんなふたりが《 ・ ・ ・》〈ひとり〉になったら、さぞかしわがままで――」 「自分を大切にすることでしょうね」 「……エファ」 「ダメです!最後の言葉を言わないでください!」 その台詞を言ってしまわれたら、私は……! 「わたくしが、ずっと……ずっと口にできなかった気持ちです」 「姫様!」 ずっと、ずっと聴きたかった言葉。 耳元でささやいて欲しかった言葉。 でも、いまは……そんな言葉を聴きたくない! 「……泣かないで、エファ。これから先、わたくしは《 とわ》〈永久〉にあなたと共にあります」 「ひ、め……さ、ま……」 「……こうして、あなたを直に見るのも最後ですね」 「そんなこと、言わないで……」 「もしも記憶に意志も宿るなら、わたくしは鏡の中から……あなたを見つめます」 「……そんな!私は、誰に!誰に抱きしめてもらえば……」 「――エファ、泣かないで……」 姫様がさらに一歩前へ。 私の顔のすぐ前に、大好きな姫様の顔が…… 「いやです!私は、ずっと、ずっと姫様を見つめて……」 「……エファ。わたくしは、あなたのことを――」 「ダ……メ……言わない、で……」 「あなたのことを……《 ・ ・ ・ ・ ・ ・》〈愛しています〉」 「……姫様……」 「……私も……姫様を……」 「……あい……して……ま……す……」 「『――これは、夢……ですか?』」 「『……そうです。あなたは夢の中に居るのです』」 「『……良かった。夢なら……安心です』」 「『……でも、どうして?夢だと安心できるのですか?』」 「『夢の中の姫様になら、甘えても怒られません』」 「『うふふ。きっと、現実のわたくしも怒りませんよ』」 「『本当、ですか?』」 「『……本当ですとも』」 「『それなら目が覚めたときに……』」 「『目が覚めたときに?』」 「『抱きしめて、ください』」 ココがその目で見た風景も―― 知ることもなかった場面も―― これらは全て、白の国が持つ記憶の断片。 赤と青という大国に挟まれたヴァイスが、運命と言う名の悪夢に導かれる中で―― クリスティナとエファは、別れの辛さを知り―― 忠実なる臣下たちの力によって、再会の刻を得て―― ふたりだけの世界を築き上げるも―― ――それは、つかの間の淡い幸せに終わろうとしていた。 「……こ、これは!?」 謁見の間に入り、私はがく然とした。 じゅうたんに座り込んだエファ。 そのひざに、もたれかかるように倒れている姫君。 まさかの光景を前に、私はふたりの元へと走る。 「姫君!」 そのお身体に触れるのをためらっている場合ではない。 「姫君、このようなところで……」 私はお叱りを覚悟で、姫君の肩にそっと触れ―― 「(――く、くっ!)」 自分のかけた言葉が、永遠に主の耳には届かないことを知ってしまった。 「どうして、どうして……このようなはやまった真似を……」 いや、違う。 あともう少し、あともう少し自分が姫君にお知らせするのが早ければ良かったのだ。 ……まさか、姫君がエファと共に自害の道を選ぶとは。 「――ア、アイン」 「エファ!生きていたのか!」 まったく気配がなかったエファが、静かにこちらに顔を向け、小さく頷いてみせる。 そして、 「……私はまだ、死ぬわけにはいきません」 と呟いた。 「一体、何があった?」 「――私が、姫様を……姫様を手にかけたのです」 「…………エ、エファ!?」 一瞬その告白を真に受け、エファの首に手を伸ばしかける。 ……が、姫君の安らかなお顔を前に何とか思いとどまった。 「……それは本当なのか?」 「はい。私が……姫様に……姫様を……」 「包み隠さず、正直に答えよ」 「私に……姫様が短剣を握らせて……劇の再現を…………望まれました」 「姫様は、私の靴に隠された貴石の力を知りながら……自らの胸に短剣をあてがって――」 エファが語ったのは、自分に施されていた制御石について。 記念式典のリハーサルの時点で、台本の中の台詞が合図となって『姫君を手にかける仕組み』が施されていたこと。 調律を通じてその仕組みを知った姫君は、それを利用してエファに自らの命を絶たせた、と。 「――そして、姫様は……この私の記憶石の中に残るのみ」 「私は、このようにしてまで……助けてもらいたくは……」 語られたコトの顛末は、あまりに哀しく……空しいモノ。 だが、ここで自分までもが放心していては、何も始まらない。 「……失礼いたします」 私は姫君の首から『ドルンの記憶』をそっと外し、エファに握らせる。 「これは姫様の……白の国の、大切な貴石ではないですか。……なぜ、私に?」 「それを持ち、私が用意した馬車に乗るのだ。そしてこの国を出て、《カーディナル》〈赤の国〉へと向かってもらう」 「姫様が残された貴石を《カーディナル》〈赤の国〉に引き渡すと言うのですか!」 「違う。赤の国に私の『血縁の者』が居る。まずはそこへ」 「その者と合流して南へと下り、《カーディナル》〈赤の国〉から離れてもらう」 「……それは……」 「姫君と共に、お前やココを赤や青の手の届かない――さらに『向こうの国』へと逃がすことも考えていた」 我が国よりもずっと南東にして、赤の国の向こう側にある永世中立の国へ。 この危機的な状況下から姫君以下の人形を救うために……と、最終手段と思って書簡を出し、逃亡の手筈と段取りをつけた。 「うまく逃げ切れる保証はない。……が、それでも可能性があるなら、賭けてみようと思っていたのだ」 「――いま手渡した『ドルンの記憶』の意味、解るな?」 「……はい。姫様の記憶が、何たるかを教えてくれますので」 「よろしい。それでは、馬車まで送ろう。ココを連れて――」 「お待ちください、アイン」 エファがしっかりとこちらを見据える。 「私が逃げれば、確実に《カーディナル》〈赤の国〉より追っ手が差し向けられます。そうは思われませんか?」 「……もちろん、それは最初から承知の上。故に可能性は……」 「ならば、その可能性を少しでも成功する方へと傾けるのはいかがでしょう?」 「それは、どういうことだ?」 「……私は逃げず、ココにこの『ドルンの記憶』と『姫様の記憶』を託して、馬車に乗ってもらうのです」 「…………姫君の記憶は、すでにお前の中にある記憶石の一部であろう?」 「はい。だからこそ、私は『姫様の記憶』である記憶石として、ココと共にまいります」 「待て!それではお前は、人形としての身体を……」 「……私は、姫様と共に記憶石の中で眠れれば、それで」 姫君が助けようとしたエファ。 だからこそ、五体満足で生き延びてもらいたいと願う。 しかし、エファの言うとおり、赤の追随を考えれば―― 「(――もう、時間との戦いか……)」 「エファ。お前は自分の身体を残すことで、追っ手から時間を稼ぐつもりだな?」 「はい。私が姫様の記憶石を失っても、しばらくは平気です」 よどみのないその返事には、強い力が宿っている。 エファはもう、こちらが何を言っても決意は変えないだろう。 「……ならば、私からも提案だ」 「なんでしょう?」 「芝居は得意だな?」 「……はい。それがなにか?」 「では、『姫君殺しはアイン・ロンベルク』……ということにしてもらおう」 「……えっ?」 「……馬車で逃げずにこの城に留まるなら、あとから来た者にそう告げて欲しい」 「それは嘘です。姫様を死に追いやったのは、この私です」 「……だから『芝居』なのだ。これから話す筋書きに沿って、最後まで演じきってもらいたい」 「……姫様」 私はベッドに横たわる姫様に向かい、静かに話しかける。 「これから姫様の記憶を守るため、私はお芝居をすることになりました」 「アインは赤と青のよく知る高官に対し、ひとりずつ伝令兵を発たせるそうです」 「それぞれの伝令が持たされる書簡には、その国が裏で進めていたことが書かれており――」 「ひとつの条件を飲まねば、全て《 おおやけ》〈が公〉になる……と但し書きを付け加えたそうです」 白の国の民が、以後、赤にも青にも恨みを持つであろう、と。 「……もちろん、その条件が受け入れられるかどうかは難しいところだ、とアインが言っていました」 「それでも、うまく行けば……被害は最小限で収まるそうです」 そして私はそのためにも、最期まで演じきらねばならない。 「エファー、どーこー?」 「……ココ……」 「あ、いたー!」 アインと共に、ココが部屋に入ってくる。 「……姫君はいま、お休みになっていらっしゃる。決して起こさないようにな」 「あい。ちいさいこえ、だよねー」 私は静かに立ち上がり、ココの前に立つ。 「エファ。おわかれに、きまし、たー」 「……えぇ。アインから話は聴きました」 「うんうん、でもね。エファも、あとからくるんだよ、ね?」 ココの後ろでアインが頷くのを見て、私もそれに倣う。 「それじゃ、また、あとでー。さきに、いきます」 「いってらっしゃい」 ――もう会うこともなくなるココ。 これが最後だから、もっといっぱい話したいことはあった。 でも、これ以上話したら、私は…… 「あ、そうだー。あのね、エファー」 「なぁに、ココ?」 ココは私に駆け寄り、背伸びをしてこっそりと耳元で、 「ボク、ニンジンとピーマン、へいきになったの」 とささやく。 「……!」 私が片羽根を失って以来、一緒に食事をする機会がなかった。 その間にココは、苦手だったニンジンとピーマンを―― 「さいしょに、エファに、おしらせー」 「…………ありがとう、ココ。今度……」 嘘はつきたくない。でも、もし次に会うことがあるなら! 「――今度、食べてみせてね」 「あい!」 ……とても元気のいいお返事、ありがとう。 「……さぁ、時間だ。行こうか、ココ」 「いって、き、まーす」 元気に部屋を出て行くココの背中を……アインが優しく押す。 「……では姫君を頼んだぞ、エファ」 「……はい。アインもお気をつけて」 アインとも……これが最後。 初めて会ったときは、怖い人だと思っていた。 だけど、いまは―― 「……さらばだ」 ドアが閉まり、私と姫様だけが残される。 いいえ、少し違う。 私と姫様の身体だけが、この部屋に残ったのだ。 すでに『姫様の記憶石』は、『ドルンの記憶』と共にココの手にある。 私が元々持つ記憶石が、あとどれぐらい持つか解らないが、そう長くないのだけは体感している。 私はその力が尽きるまで、アインに頼まれた演劇をするのみ。 「……私の台詞は、たったひとつ」 ――姫様を殺した、アイン、宝を持って逃げた。 それが、アインの用意した筋書きの全て。 ――姫様を殺した、アイン、宝を持って逃げた。 聞きようによっては、全てがアインの仕業。 この台詞を部屋に訪れた者に告げるのが、私が演じる……最期の役割。 だけど、その上演に入る前に。 「……私は知っています。あなたが優しい人だということを」 送り出すとき、その背に語りかけたかった言葉を呟く。 ――アイン・ロンベルク。あとは、お任せしました。 私は、静かに台詞の復唱に入るだけ。 記憶の最後に残るのはアインに頼まれた、この―― 「……さぁ、ココ。忘れ物はないな」 「あいあい。わたされたもの、みんな、あるよー」 「ペンダントは、ポッケ。イシは、ふくろのなか」 馬車に乗り込んだココは、ひとつずつ指差しで確認する。 「……マカロンも、あるから、ねー」 「よし。では、そろそろ出発だな」 「うんうん。アインも、あとでくるんだよ、ねー?」 どう答えていいか迷いつつ、アゴをなでた私は―― 「……あぁ」 ココにフードを被せる準備をする。 「ヒメサマも、エファも。だよ、ねー?」 「……そうだな」 出立が遅れれば、それだけココが逃げおおせる可能性が低くなってしまう。 「では、ココ。私の代わりに、姫君たちを護ってくれよ」 「えーっ?」 「……約束できるかな?」 「うん、いい、よー。でもねー。デュアにも、いわれたの」 「デュアに?」 「デュアも、『ヒメサマまもって』って、いってました」 「……そうか」 「それで、それでね。デュア、チューしてくれました。きゃー」 ――あのデュアが、キスをしたのか。 「あー、アイン、わらったー?」 「すまない、ちょっと意外だったからな。それで……」 「デュアは、どこにキスをしたのかな?」 「おでこー。ここにー」 ココは、両手でその箇所を指し示す。 そのときのデュアの気持ちが、何となく解った気がする。 私はココにフードを被せながら、そっと額に顔を近づけ―― 「……これが、姫君を護る報酬の先払いだ」 「…………きゃー。アインも、チューしてくれたの?」 かわいいココに、最初で最後のキスを送る。 「ふふふっ。デュアには、内緒だぞ」 彼女からの不平は、直接……私自身が聞くことにしよう。 「……さぁ、御者!行ってくれ!」 ――さらばだ、ココ。 「アーイーンー。ボクー、バイバイして、ない、よー」 走り去る馬車を見送り、私は襟元を正す。 あとは、ココの無事と…… ――エファの演技。 そして、赤と青の両軍陣営に走らせた伝令兵が無事に書簡を届けたことを祈るのみ。 「約束の時間まで、あと一時間程度か」 書簡の最後には、ちょうど両軍が兵を揃えてにらみ合いを始めた国境付近に『姫殺しの逆賊アインが出向く』と記し、それをそろって討つように、と書き記した。 こうすれば、赤も青も『逆賊討伐』のため軍隊を動かしたという大義名分が成り立ち、お互いが衝突しないでもよくなる。 考える時間さえ与えなければ、私の知る赤と青の高官は……そろって『手打ち』の方向にコトを運ぶはずだ。 「(――全てが思惑通りになるとは思えないが……)」 それでも、これで無駄な血は流されないで済む道が生まれた。 ただひとつ、残念なのは―― 「……私には、《 ヴァイス》〈白の〉国の行く末を見るチャンスがないこと」 姫君を救えなかった後見人には、贅沢が過ぎるというものか。 「……さて、そろそろ私も準備をしよう」 デュアがエファを護ったように。 私は《 ヴァイス》〈この〉国と――ココの未来を護ろう。 それが、このアイン・ロンベルク……最期の役目だ。         ―― Ein Romberg ――     クリスティナ・ドルンを殺害したとされる短剣を     振りかざし、赤と青の軍が待つ場所へ現れた男は、     その場にて即刻、両軍の兵によって討ち取られた。      そして、そのときの彼の最後の言葉は――     『全ての罪は、この私にある』だったと伝わる。 「……力を抜いて、エファ」 「……は、い」 からめた指を一本一本ほどくように外し、その手をエファの額に再び当ててみる。 「どうでしょうか?」 その熱っぽさはさらに増してはいるものの、これは彼女の不調からくるものではない。 「平気よ、エファ。この熱は、あなたが正常だという証です」 「……そうなのですか?」 頷くわたくしはそっと自分の胸にエファの手を運び、 「……ほら。わたくしと同じです」 と報せる。 「本当ですね」 「わたくしがあなたに、ウソをついたことがありますか?」 「い、いえ。決して姫様を信頼していないわけでは……」 「分かってますよ、エファ。ただ……不安なのでしょう?」 「……はい。自分でも、自分のことがよく分かりません」 頬を染めたエファが、そっと視線を逸らす。 そんなエファを少しだけからかうように、 「でも……気持ち、わたくしよりも鼓動が早いかも」 と告げる。 「……えっ?」 「鼓動の違いが、熱の差に感じてしまうのかも」 綺麗なエファの肌を触りつつ、感覚石の中枢の在処を探る。 そして、それらが各所にちりばめられていることを知ったわたくしは、ゆっくりと額をエファの胸に押し当てる。 「ひ、姫様……?」 「力を抜いて、エファ。普段の調律の延長だと思ってください」 彼女のドレスの肩口をおろし、小さなふたつのふくらみを空気にさらす。 「……寒くはないですか?」 「は、はい。姫様の額が、とても温かいです」 「そ、そうですか」 熱があるのは、わたくしの方? いいえ、それは違う。不調を訴えているのは彼女。 いい訳がましくも理由をつけ、わたくしはエファの身体から自分よりも熱を持つ箇所を探しだそうとする。 「姫様……ん、んっ!あまり、急に動かれると……」 「くすぐったいですか?」 「はい。できれば、ゆっ、ゆっくり、んんっ……」 エファは、かわいらしくも押し殺した声で身をよじる。 「どこか不調な箇所があれば、正直に言うのですよ」 「は、はぁい……」 首筋、肩口、胸元。 「……あぁ……」 少し押し上げた腕の隙間、肘、手のひら、指先。 わたくしは自らの額に続き、静かに唇で軌跡を描く。 「姫……様?」 「どうしましたか?指先が……なにか?」 「い、いえ。そちらの手は……姫様とつながったままですので、開くべきかどうか迷いまして……」 言われて気づく自らの右手は、先ほど放したはずなのに……いつの間にか知らずに結んでいた。 「…………」 わたくしは無言で二度、手に軽く力を加えて……そのままに。 「……はい」 それだけで通じたのか……エファが静かに目を閉じたので、進路を柔らかい腹部へと変えて静かに顔をうずめる。 「……ここは、どうですか?」 「そこは何ともありません」 「そうですか。では……」 「あ、お待ちください!できれば、もう少し、そのままで」 「……?」 わたくしが言われた通りに動きを止めると、上から優しくエファの左手が頭の上に。 そしてエファは、ゆっくりとしたリズムでわたくしの髪をサラサラと撫でてくれる。 「お許しください。一度こうして姫様の美しい髪を触ってみたかったのです」 「(――エファ……)」 そのていどのことで謝る必要などないのに。 「何度でも、好きなだけ撫でなさい。ただし――あなたの指で髪をすくことも忘れないように」 「……はい。このようにすれば、よろしいですか?」 エファが指をおそるおそるわたくしの髪の中へと潜らせる。 それが静かに首筋の方へと進むにつれ―― 「あぁっ!」 わたくしの身体に、甘い痺れが走った。 「申し訳あり……」 「……いいえ、構わず続けなさい」 エファがくれたのは苦痛ではなく、気遣いのこもった優しい快感。 「んんっ……っ、あっ」 彼女にこうして髪をすいてもらうだけで、これだけ幸せな気持ちになれるなど知らなかった。 「姫様、苦しそうなお声ですが……」 「……違うのですよ、エファ」 不思議そうな面持ちでこちらを見つめるエファのために、わたくしは上体を持ち上げて彼女の頬に手を伸ばす。 「こうすれば、あなたにも分かります」 エファの耳の裏側へ指を滑らせ、後頭部を軽く支える。 そして指の間にはさまった髪を痛めないよう静かに、静かに撫でてあげる。 「……あぁっ……」 クッと持ち上がるエファのあごが、理解の証。 「苦しくはないでしょ?」 「はい。とても……気持ちいいです」 満足そうに頭を揺する彼女に、わたくしは黙って顔を近づけ、その唇に触れるか触れないかの位置で止める。 「……熱い息ね」 「それは、姫様も同じぐらい……」 微妙にズレた呼吸のリズムが、互いの鼻先をもどかしくもかすめて去る吐息を生む。 「では、どちらが熱いか比べてみましょうか」 ほんの少し位置を正し、斜めに唇を重ねる。 「……あっ……!」 驚きの声をあげかけたエファだが、それ以上は何の抵抗なく、わたくしのなすがまま。 「んっんっ……んっ」 息を吹き込めば背の仰け反らせ、吸えばわたくしから唇を外さないよう……追いかけてきて。 そんなエファの反応が嬉しくて、ギュッと身体を抱きしめる。 「……かわいいエファ。わたくしだけのエファ……」 「……ひ、姫、様……」 わたくしだけに開かれた、エファの心。 わたくしだけが知る権利のある、エファの身体。 エファは、わたくしを待っていてくれた。 そんな彼女のために、わたくしができることは? 「(――心の調律、身体の触診……)」 「あ、あの……姫様。身体が……さっきよりも熱くて……」 「そのようね。……ほら、ここを見てご覧なさい……」 「あっ、そっ、そんな……んっ!」 エファの小さな胸先を軽く触れれば、ビクリと震えて―― 「……ねっ?あなたの鼓動の波、よく分かるでしょ?」 呼吸の荒さが、ダイレクトに胸の隆起に変わる様。彼女はそれを自らの目で見て、さらに頬を赤らめる。 「……あ、あの……私、このままでも……大丈夫でしょうか?」 目をつぶり、自らの闇で意志を保とうとするエファ。 わたくしとしては、一瞬でも目をそらさずにいてもらいたい。 「……まぶたをあげて、エファ」 「で、でも……」 「いつまでもそうしていると、わたくしは哀しくなります」 エファは優しい。 「そんな!私は姫様を哀しませたくありません」 その証拠に、こうしてすぐさま目を開いてくれた。 「ありがとう、エファ」 「あっ、ず、ずるいです……姫様……」 「何がですか?」 「哀しいと言いながら、いまの姫様は笑っていらっしゃいます」 騙したとでも思われては心外。 わたくしは、二度エファの頬を撫で、 「あなたが、わたくしを見てくれたからですよ」 と告げる。 「……信じて、よろしいのですね?」 「では、もしもわたくしがエファを騙そうとしたら?」 多少意地悪な質問でも、彼女の反応が知りたい。 「もし姫様が……私を騙すなら……」 「……騙すなら?」 「私は、喜んで……騙されようと思います」 「その言葉に、嘘はありませんね?」 わたくしを信じ、喜んで『騙される』と言ったエファ。 そんな彼女に対し、これまでどんな者にも試したことのない調律を試みる。 「あぁっ、ああっ!」 「あっ、あ、あ……あぁ、んくっ!」 「どうしたのですか、エファ?」 耳元に息を吹きかけ、両胸を触る。 「あぁぁ、ひ、姫さまぁ……い、いゃ……」 エファの逃げる方、逃げる方へ。 「……いやなのですか?」 「いっ、いぇ……そんなぁ……あぁぁぁ……っ」 先回りして、触診の追い打ちをかける。 「ほ、本当に……これは……そ、その……」 「わたくしを信じてくれると言いましたよね?」 「は、はぃ……」 「……騙されてくれるとも、言いましたね?」 「……い、いじわ……る……」 「……では、わたくしを嫌いますか?」 「そっ、そんなこと……でき、ま……せ……ん」 身をくねらせつつも、本気で逃れようとはしない。 そんなエファに、わたくしはより一層の愛情をそそぐ。 「(――エファは知らなかったはずです)」 自らの身体に備わった感覚に、このようなモノがあることを。 ……知らなかったからこそ、どうしていいか分からず、持て余しながらも、わたくしに全てを委ねる。 「……良い子ね、エファ」 「こっ、こんな……私の……どこ、が……はぁ、良いと、いうのです、か?」 「…………全てよ。この白い肌も……」 「あぁぁぁっ!」 「この柔らかな髪も……」 「んんっっんっ……!」 「そして、熱い身体も……」 それらに触れれば触れるほど、わたくし自身は悪い姫へと変わっていく。 「はぁ、はぁ……ああ、姫様ぁ……っ」 エファの声に誘われ、わたくしの身体にも熱がこもり始める。 「あっ……あぁあ、んくっ」 目を細め、うっすらと涙を浮かべるエファ。 「痛いの?」 優しい声でそうささやくと、エファはふるふると小さく首を横に振った。 「違います……何だか、変なのです」 ふぅ、と甘い吐息を漏らし、エファは頬を紅潮させる。 「身体が浮き上がるような不思議な感覚で……」 「……もう少し、解りやすく説明して」 「あっ、んっ、ふぅ、はぁ……はぁ」 わたくしは、そっとエファの首筋に唇を押し当てたままに、ゆっくり、ゆっくりと吸い続けてみる。 「あぁぁっ、あぁん!」 「……力を抜いて。そうしてくれないと……」 軽く歯を立て、舌先でうなじをなめる。 「……跡を残してしまいそう」 そう言ってわたくしは、彼女からの返答を待つ。 「そ、それは……困ります……」 「どうして困るのですか?」 「も、もし……他の誰かに……見つけられたら……」 エファが語る意外な理由に、わたくしは驚く。 このような行為を何も知らないはずなのに、羞恥の気持ちが出てくる。 それは、本能的なもの?それとも―― 「……誰にも見つかりませんよ、エファ」 「ほ、本当ですか?」 「見つかるような場所には……跡を残しませんから」 わたくしは少し強引にエファのうなじに顔を埋めて、強く、強く吸い続ける。 「あっ、ああぁん!」 そして、息があがるまで彼女の抵抗に耐え―― 「……ふはぁ!はぁ、はぁ、はぁ……」 「……ハァ、ハァ……」 身体を離すとともに、ふたりして荒い呼吸を繰り返す。 「ひ、姫、様……」 「ご、こめんなさい、エファ……」 頭がフラフラする中で、もたれかかってくるエファを何とか受け止める。 少しずつ熱気が逃げていくベッドの上、わたくしはしっかり彼女を抱きしめて頬ずりをし、その額にキスをする。 「……あ、あの……姫様?」 「……なんでしょう?」 「その、キスしていただけるのは、とても嬉しいのですが……」 「…………あっ」 エファがかきあげて見せた首筋の『跡』は、いまわたくしが興奮してつけてしまったもの。 そしてそれは、目立たないところだと思っていたのに―― 髪を下ろしたエファが大きく息をするだけで、見え隠れしてしまう位置に存在した。 「……だ、大丈夫ですよ、エファ。すぐに目立たなくなります」 「本当、ですか?」 「……は、はい……」 きっと、わたくしの持っている白粉を使えば、消えてしまう。 ……そう、信じたかった。 「……ん」 わたくしは、カーテンの隙間から差し込む光のまぶしさに目を覚ます。 「ああ……もう、朝なのですね」 横を見れば、エファが幸せそうに身体を丸めて寝ている。 「……エファ」 寝顔に手を伸ばし、触れる寸前で自分に『待った』をかけた。 「(――いま触れてしまったら、わたくしはまた……)」 わたくしはまた、過ちをおかしてしまう。 これは調律、エファのため……と自身に言い聞かせながら、それ以上に干渉をする。 《カーディナル》〈赤の国〉から預かった大切な人形。 なのに、わたくしは自分の感情の赴くままに彼女を求めた。 そしてエファは、その調律を嫌がることもなく受け入れ……身を委ねてしまう。 いや、彼女のせいにするような考えはいけない。 これは、孤独なわたくしが立場を利用して犯した罪。 「(――調律師と人形の、間違った関係……)」 わたくしはため息をこぼしつつ、エファの気持ち良さそうな寝息を見つめる。 素直で優しい無垢な彼女を『汚してしまった』とは思わない。 むしろ、わたくしの色に染められたことを誇りに―― 「(――わたくしは、何と傲慢なのでしょう……)」 そんな考え方では罪悪感が増すばかり……と解っているはずなのに、心が勝手に逃げ道を探す。 「……ゆるしてくださいね、エファ」 こんなにも心が締め付けられて苦しいのに、わたくしはまだ『何か』を求めようとしている。 このもどかしさの、何と忌々しいこと。 求めるモノの正体が解れば、諦めることも考えられるかもしれないのに。 「……エファ」 優しく声をかけ、何度も頭を撫でる。 「あなたが初めから、この国で生まれた者であれば――」 誰に遠慮することなく、ずっと共に居られるのに…… 「……う……ん。姫様……です、か?」 うっすらと目を開け、わたくしをまっすぐに見つめる無垢な瞳。 「そうですよ。他に誰が居るというのです?」 思わず苦笑いをしたわたくし。 そう。こんなことができるのは、わたくし以外には居ない。 髪を撫でるのも、その顔や首筋に触ることも。 ――それは、わたくしにだけ許された行為。 「エファ、後ろをお願いできますか?」 凛とした声で、姫様がこちらに背を向ける。 ……それは、信頼の証。そんな姫様のためならば、何でもできる気がする。 「はい、姫様」 私は静かに手を伸ばし、ドレスの交差したヒモに触れる。 そして、ゆっくりとその結び目をほどきながら、白い背中が現れるのをぼんやりと見つめていた。 「(――綺麗なお背中……)」 姫様は背をピンと伸ばすだけで、そこに気品が感じられる。 ……私と、どこが違うのか? 人間と人形。それ以前の差? 「(――ううん、ダメよ……)」 自分と姫様を比べるなんて、許されないこと。 たとえ口に出さなくとも、それは身分をわきまえない愚かな考えでしかなくて…… 「エファ?」 姫様が肩越しに、こちらへと顔を向ける。 その視線を受けることもはばかられ、私は俯いてしまった。 「……どうかしましたか?」 「……い、いえ」 とっさに誤魔化してしまう自分。 ……でも、それでは姫様に嘘をつくことになる。 自らの罪を知りながら、それを告白しないのは……もっと罪。 私は、叱られるのを覚悟で懺悔する。 「申し訳ありません。私はいま、姫様と自分を――」 「わたくしとあなたを?」 「……心の中で、比べてしまうような真似をしました」 口にしたらしたで、余計にみじめな思いになる。 ……が、それでも。黙って隠すよりは、ずっといい。 「比べてみて、どうでしたか?」 「……自身を愚かだと思いました」 「なぜ?」 「……姫様と私では、何から何まで違います」 できれば、追求しないでいただきたかった。 でも、姫様が望まれるのであれば……答えなければならない。 「人間と人形、だからですか?」 「……それもあります。が、それだけではありません」 「埋められない身分の差が……あります」 哀しい告白に、私は自分が情けなくなる。 「……何を言うのですか、エファ。何も違いませんよ」 「えっ?」 「確かに、エファの言うとおり。生まれも育ちも何から何まで違うと言えば……そうでしょう」 「――ですが、それは誰もが同じだと思いませんか?」 「おな、じ……?」 「人間であろうと、人形であろうと。それぞれが……ひとりの存在です」 「相手を理解しようとすれば、自分と何処が違うか考える。……そうは思いませんか?」 「…………」 姫様は、私をかばうためにそのようなことを? 「わたくしも、あなたを見て……羨ましいと思います」 「私が、ですか?」 「えぇ。あなたのようになれるなら……と、何度思ったことか」 「そっ、それはなりません。私は人形です。姫様は……」 「だからこそ、です。なれないからこそ、憧れるのです」 その言葉が、強く胸に刺さる。……なれないからこそ。 「私も、姫様が羨ましい……です」 「わたくしが、ですか?」 「……はい」 キュッと唇を噛みしめ、姫様を見上げる。 「姫様のようになりたい、と……何度も思いました」 「そうでしたか。わたくしと同じではありませんか」 「……ですが」 「難しく考えすぎですよ、エファ」 ゆっくりと振り返った姫様は、 「……ご覧なさい」 とささやく。 「……ひ、姫様……」 「さぁ、こちらへ」 言われるがまま、その御前に進み出てしまう私。 姫様の手がそっとこちらに近づき、静かに私の寝具に触れる。 「……いまのわたくしと、あなたの違いは?」 「……そ、それは」 「思ったとおり、答えなさい」 「服を着ているか、着ていないか……でしょうか?」 「そうです。……いまのふたりが違うとすれば、それぐらいのことです」 「あなたはわたくしを羨み、わたくしはあなたを羨む」 「――もっと相手を知れば、きっと大差がないと解りますよ」 そう言って姫様は、私の腕をとって自らの下腹部へと運ぶ。 「ひ、姫……様?」 「……教えて、エファ。あなたとわたくし、何か違いますか?」 「そんな難しいことを言われても……」 「難しくなどありません。さぁ、触って……」 強要するわけでもない力でも、決して放してはくださらない。 それが解った以上、姫様の言葉に従うしかない。 ……が。本当に自分は、従順なのだろうか? 「し、失礼します」 私の指先が、姫様の熱く柔らかい部分に少しだけ食い込む。 「んっ、んんっ……」 その途端、甘いため息が私の耳元に。 「ひ、姫様……す、すみません」 「よ、よいのです。わたくしが望んでいること」 さらに強く握られた手のひらが、姫様自身のリズムで上下に動かされる。 「くっ……あっ……」 「あぁぁ、姫様。じ、充分です。もう、充分に解りましたから」 「何が……解ったと……いうの、ですか……」 「私と姫様は……その……」 「同じ……ですか?あなたも、同じ?」 「は、はい。……あまり見たことはありませんが、きっと同じです」 自分の言葉に、一瞬だけ姫様が驚きの表情に。 疑われたと思った私は、 「ご、ごらんになりますか?」 と口走ってしまう。 「……うふふっ。それは見てみたいです。が……」 「いまは、このままで。わたくしは、あなたを想像するだけで我慢します」 「な、なぜですか?私は、姫様と同じだと証明したくて……」 「……この次。この次に、見せてくれれば良いのです。その代わり、いまは……」 私の指先の温度が、じわじわとあがってくる。 「口で……わたくしと、あなたが同じであることを……説明なさい」 「……は、はい」 姫様の声が、耳の中でこだまする。 「……エファ。あなたのここは、わたくしと同じ。どうです?」 「……はい。かわりません」 「では、こ、この……ように……触られると……んん……」 「わ、わかりません。触ったことがありませんので……」 「……嘘をおっしゃい。一度や二度は、あるのでしょ?」 「……本当に……ないのです……」 姫様の火照りが、私にまで伝わってくる。 そして、それが徐々に身体の中へと吸い込まれていき―― 「……んんっ……ぁ……」 甘い痺れのようなものになり、両脚の震えへと変わる。 「ど……どうしたの、ですか、エファ?」 「よ、よく……わからないのです、が……」 姫様に導かれて指を動かすうちに、それはまるで自分自身の身体に触れている気分に。 これまで触れたりすることのなかった場所が、熱く、《うず》〈疼〉く。 「教えて、エファ。もしや、あなたも感じているの、ですか?」 「は、はい。……なんと、なく……同じような……」 もぞり、もぞりと下からはい上がってくる感覚は、私が指を動かすリズムと一緒。 「あぁっ、エファ……も、もう少し……早く……」 「わ、わかりました……」 求められたとおり、その動きを早める。 同時に、私の中をかけめぐる気持ち良さも高まりだして―― 「ひ、姫様……す、すみません……わ、私……」 「ど、どうしたの、ですか……?」 「……その、し、下着を……ぬ、濡らしてしまい、そうで……」 「……まぁ、エファが……そんなことを」 「も、もうしわけ……あぁぁ……」 我慢しようとすればするほど。……脚の付け根は熱くなり、震えもひどくなる。 「あぁぁ、ひ、姫様の前で……そ、そんな……」 「いいのです、いいのですよ……エファ……」 「おゆ、おゆるしを……」 「……構いません。さぁ……我慢など、せずに……」 「……んんんぁああっ……」 限界がきてしまった私は、お許しの言葉に全てを委ね―― 「……い、いゃぁぁ……」 下着が濡れるのも構わず、力を抜いて―― 「ぁあぁ……エファ。ドレスの裾から……」 内股を流れてゆく透明な液に、恥ずかしさで泣きそうになる。 「み、見ないでください……姫様……」 「いい、え……ダメ……です。わたくしと、同じであることを……しっかり確認、します」 「ひ、め、さま……?」 「……さぁ、エファ。わたくしを……導いて……」 強く握られた手首と、哀願する姫様の顔。 それは、いままで私が見たどんな姫様よりも愛おしくて。 「ど、どうですか……姫様……」 「んんっ、んぁぁ……いい、です……と、とても……」 「この……尖った箇所は……」 「あぁぁ、ダメ……そこは……」 「では、その奥は……」 「そっ、そこも……あぁ、いい……。ゆ、ゆるします……。エファの、エファの好きなよう……に……」 姫様に従い、姫様の求めるまま、姫様の感じる姿を見て―― 「あ、ぁぁ……あの、姫様……わ、私……ま、また……」 「こ、今度は……共に……」 「は、はぃ……ひ、姫様が一緒で……したら……」 「あぁぁ、わ、わたくしも……エファと同じ……んんっ……」 お互いの身体は密着にも近くなり、振動はダイレクトに。 そして、荒い吐息もシンクロしたとき―― 「あぁぁぁっーっ!」 「んんんっぁぁっ!」 ふたりの声は重なり、それぞれの身体を支えながら、静かに床へと崩れ落ちてしまった。 「……エファ。何日が過ぎたか覚えてますか?」 「……いいえ……」 こうしてエファの手を握っただけで。まるで初めてかのように、わたくしの心音は高まる。 「(――でも。これは、いつまでも続かない日々……)」 どこかで必ず別れはやってくる。 「……わたくしは、あなたに謝らなくてはなりませんね」 「……謝る、とは?」 不思議そうに目を見開いたエファに、わたくしはそっと顔を近づける。 「わたくしが、あなたにしたことを……ですよ」 「なにをでしょうか?」 何度か目をしばたたかせるエファ。 そこには、わたくしに対する恐れや不満の色はない。 もちろん、それは当然のこと。 もしもエファが拒むのであれば、わたくしはすぐに諦めた。 いくら自分の欲望であっても、求めない者に押しつけてまで果たしたいとは思わない。 しかし、エファは受け入れてくれた。 それが、調律に始まる行為のエスカレートであっても。 「姫様……?」 ぽたり、とエファの頬に涙がこぼれて落ちる。 「……エファ、泣いているのですか?」 「違います、泣いているのは……姫様です」 エファの手が頬に触れ、初めて気づかされた。 わたくしも、彼女同様に……涙を流していることに。 「どうしたのでしょうね、ふたりとも。何が哀しくて涙を」 「わかりません。でも、姫様……」 「――嬉しいときも、涙は出るものではありませんか?」 「……そうでしたね。では、いまのふたりは……幸せ?」 そう自分で言いながら、それが愚問であることをすぐに悟る。 いまが幸せかと尋ねられたら、幸せとしか答えられない。 「はい、幸せです。大好きな姫様とこうして居られることが」 「(――あぁ、エファ……)」 わたくしは、エファの言葉に甘えてしまいたくなる。 幸せ。わたくしは幸せ。それは嘘ではない。 心の底から、エファとの生活に喜びを覚えている。 ……しかし。同じぐらい、哀しい。 わたくしがエファを求めれば求めるほど。 エファと居て、心が安らぐほどに。 ……それだけ彼女はわたくしに近づき、同化していく。 初めの目的を忘れたわけではない。 何としても、エファを助けたい! なのに、何処で関係を断ち切るかを迷って深みにはまり―― 戻る道も、目指す光も見失ってしまった。 「いけない……エファ、わたくしを求めてはなりません」 ぎゅっと目を閉じてそんな言葉を口にするが、それは間違い。 エファがわたくしを……ではなくて。 わたくしがエファを放さないだけなのに。 「姫様。哀しいことを言わないでください」 エファはそっとわたくしの頬をなで、涙を拭き取る。 「私は、姫様が大好きです」 そうエファから口にされ、いつかの夢の話を思い出す。 まどろむエファから引き出した台詞。 わたくしがエファからその言葉を聞きたかったから。 そう望んだからこそ、生まれた言葉。 「エファ……それは違うのですよ」 「……違いません」 優しくもきっぱり反論するエファの、何とまっすぐな瞳。 「私は、私の意志で……姫様を求めております」 エファの顔が近づき、そっと唇が押し当てられる。 「姫様のことが大好きな気持ちに、偽りはありません」 「……エファ」 この温もりに、わたくしはどう応えれば良いのか? 強引にでも、記憶石からわたくしの全てを奪い去るべきか。 「(――できない……)」 そんな真似をして、二度とエファが目覚めなかったら。 これまでだけでなく、未来までも消えてしまう。 ……では、どうすれば? 「(――その逆は……?)」 ふと、頭をよぎった考え。 わたくしが無理に奪うのではなく、こちらから与える。 こちらが奪われているのではなく、こちらから《 ・ ・ ・》〈あえて〉与える。 「(――難しい方法……)」 思いつきだけで実行するには、危険すぎる。 ……だか、それでもしもエファを救えるのなら。 「……エファ、もっとこちらへいらっしゃい」 「……はい」 拒まず、求められるままに。 そして、わたくしの求めるままのエファであらんことを。 そのための一歩を踏み出すわたくし。 当然、何が正しいかなど……もう考えている暇はない。 「……かわいい、エファ――」 お互いの素肌が、なにものにも邪魔されることなく触れ合う関係。 以前のように、わたくしだけがドレスを脱ぎ去ったわけではない。 いまだからこそ、こうして全身を重ね合わせて心を通わせる。 「あなたの肌は、とても柔らかいですね」 「姫様には……かないません」 これまでの調律で、エファの全てを知り尽くした。 髪も、頬も、唇も。 小さな胸も、そのずっと下にある……女性的な部分すらも。 ただ、それはあくまでも正規の調律での話。 こうして、それぞれが求める対象としての過度な調律では、初めての経験になる。 「……うふふっ」 「どうされたのですか?」 「いえ。わたくしは……すでに全てをさらけ出していたことを忘れておりました」 「えっ?」 「エファに、ここを触らせ……」 「……あっ」 あのときと同じように、エファの手をとって下腹部へ。 ただし今度は軽く触らせたところで、その指をわたくしの手首へとからみつかせる。 「次は、わたくしが……という約束でしたね?」 「や、約束したつもりは……」 「いやですか?」 「では……そっと……」 「……んんっぁ……」 柔らかい付け根は、わたくしの指先に怯えて震える。 「あっ、姫様……もうしわけ……」 「……良いのです。初めて触るのですから……少しぐらい」 「あ、その……実は、初めてでは……」 「えっ?確かこの前は、触ったことはないと……」 「お、お許しください!」 意外な謝罪に、わたくしの動きは止まる。 ……が、きっとエファのこと。その答えには、何か理由があるに違いない。 「正直に言えば、許します」 「は、はい。実は……あの……あのあと……」 「――本当に姫様と同じなのか、確かめたくなってしまい……」 段々と小さくなっていく声に、恥じらいが混ざる。 「――ほんの少し触ってみるつもりが……」 「……つもりが?」 「…………もう少し、もう少しだけと……」 「何度も、触ったのですね?」 「……は、はい。も、もう決して、ひとりでは触りません。ですから、お許しください」 あまりの初々しさと、『ひとりでは』の言葉に、わたくしは全てを許す気持ちになれた。 しかし、そのままではまた過ちを犯す危険もある。 「……よいでしょう。では、もうひとつだけ答えて。いつ、触ったのかしら?」 リハーサル以来、ほとんどの時間をわたくしと過ごしていたエファが、そんなことを試す余裕はなかったと思う。 だからこその質問だったのだが―― 「…………そっ、それは……よ、夜ごと……姫様がお眠りになったあとで……」 「……わたくしの横で?ひとり、こっそりと、ですか?」 「……そ、そうです……」 ちょっとした衝撃の告白に、わたくしは思わず笑ってしまう。 「ひ、姫様……そんな。私を嫌いにならないでください」 「いいえ。より一層、あなたのことが好きになりました」 不安を口にするエファの頬にキスをし、そのまま唇をも奪う。 「んんんっ……」 「……逃げてはなりません」 そして互いの息が同じリズムになったところで、ゆっくりと腰を落とし―― 「ほら……同じでしょ?」 エファが夜にひとりで慰めていた部分に、わたくし自身をあてがってみせる。 「……あっ……」 「うふふふっ。どうですか?」 「……ひ、姫様……も……濡れていらっしゃるのですね」 「……えっ?」 わたくしはビックリして、腰を浮かして自分の太ももを見る。 ……と、エファの指摘通り。 気づかぬうちに、熱い気持ちが溢れてしまっていた。 「こっ、これは……いま……エファのモノが……」 「違います。私は、そんなに……」 「まぁ、そんなにとは!わたくしがはしたないと?」 「そ、そうではありません。私は、姫様まで濡らすほどではないと言いたかっただけで……」 焦ったわたくしの早合点。 「ごめんなさい。ゆるしてくださいね、エファ」 わたくしは、額同士を合わせて許しを乞う。 「……ゆ、ゆるせません……」 「えっ?」 「申し上げた、と、とおりです。姫様をゆ、ゆるしま、せん……」 ……ああ!そんな涙目で何を言い出すかと思えば。 そんな顔をされたら、わたくしが何もできなくなってしまうことをエファは知らず知らずに…… 「どうすれば許してもらえますか?」 「…………わ、わかりません……」 「では、あなたがわたくしを……調律するのは?」 「……えっ?」 わたくしは、それ以上は何も言わず。 身体の位置を入れ替えさせ、エファに上を譲ってみせた。 「……姫様。私はどうすれば……?」 「うふふふ。自分で考えて。いまのあなたは、調律の姫ですよ」 「私がですか?それはどういう意味なのでしょう?」 「簡単にいえば、あなたがわたくしで、わたくしがあなた」 「――お互いの立場を入れ替えたと考えなさい」 「……私が姫様、ですか?」 「えぇ。そして、わたくしがエファ」 戯れ事なれど、気持ちは本物。 わたくしの望みは、エファになること。 ……たとえ一時の夢でも、叶えられるなら。 「……あの、本当によろしいのですね?」 「はい、ひめさま」 エファの身体を借りたフリで、自身の呼称を口にしてみる。 すると、エファにもそれが伝わったのか、 「……よ、よいですか、エ、ファ……」 自らの名でわたくしを呼んでくれるエファ。 その瞬間、鼓動は一気に高鳴り、わたくしの感覚がスッと抜け落ちたような気持ちを味わう。 「……姫様?姫様、大丈夫ですか?」 「えぇ、平気です。ただし名前の交換は……これきりに」 わたくしはエファが頷くのを見てから、ゆっくりと彼女の胸へと手を伸ばす。 「――さぁ、わたくしと同じ動作を」 「はい。こうですか?」 エファの胸にわたくしが触れ、わたくしの胸にエファが。 その肌触りに、心がとろけそうになる。 「……姫様の胸は……私よりも大きいのですね」 「えぇ。許してくれますか?」 「許すも何も!……羨ましいのです」 「……わたくしも幼い頃は、あなたのような大きさでしたよ」 「それはそうでしょう。姫様は……」 ――人間、と言いかけたエファのために。 わたくしは黙って首を横に振り、頭をもたげてキスをする。 「……ほどなく同じようになれますよ、エファ」 「は、はい」 エファの肩を抱き寄せ、少しでも肌の重なる箇所を求めてその背をまさぐる。 「あっぁぁ……」 「……エファ……」 一瞬だけ触れてしまった背中の羽根。 その傷跡をわたくしは癒すこともできず―― 「ひ、姫様……もっと、そこに触れていただけると……」 「……痛くないのですか?」 「……はい。姫様に触れられると……逆に……」 エファの気遣いかもしれない。 でも、わたくしはその言葉を信じ、優しく、優しく愛撫する。 「……あぁぁ……ぁ……」 上体を仰け反らせたエファは、残った一枚の羽根を高々と掲げて気持ちを表現してくれる。 「姫様は……どこが、気持ち良く思われますか?教えてください」 「わたくしは……エファが触れてくれるのなら、何処でも」 「……胸は?」 唇の先で軽く包むようなキスをくれるエファ。 「んんぁぁっ……」 たったそれだけなのに、全身が痺れて幸福な気持ちになる。 「……首筋は?」 「……うくっ……」 呼吸を止めてわたくしの首に顔をうずめたエファは、 「……私も……印、つけさせていただきました」 と、ささやく。 「……もう。仕返しですか?」 「いいえ。できれば、私にも……いっぱい……ください」 彼女の望むように、あらゆる箇所へ。 「んあぁぁ……っ」 エファの感度を探るかのように、いくつも。 「――あぁっ、そっ、そこは……」 「……誰にも見えないのですから、平気ですよ」 「ひっ、ひっ、姫様……ぁ……」 やがて息も荒くなった頃、お互いは目を開けることもなく、それぞれの身体を身体で感じ取るように。 「……エファ……」 「ひ、め……さ、ま……」 満たされなかった孤独感が、少しずつエファで埋められて。 肌がすり抜けて熱を失った寂しさは、追いかけて逃がさずに。それを繰り返している間は、エファはわたくしだけのモノ。 「ひ、姫様……あっ、あぃ……」 「……なぁに、エ、エファ……?」 「わた、私……も、もう……」 「いいのよ。さぁ、わたくしだけに……わたくしだけに、その声を聴かせて」 「ひっ、ひっ、姫様……す、好きで……す」 「わたくしもよ、エファ……」 「ひめさ、ま……だっ、誰よりも……誰よりも……愛し……」 「(――ダメ……)」 ……その言葉だけは。 そう思った瞬間、わたくしはエファの唇を強引に奪い―― 「んんぁぅぁぁぁ……ぅ……」 「あぁぅんっ……」 自らが口にできない想いは、吐息に込めて。 エファと共に果て――奈落とも思える闇に落ちた。 ――わたくしには、もう光ある未来は訪れない。 赤と青の、そして白の国が、わたくしを放さないから。 我が『《 ド  ル  ン》〈Dru〉n』の姓は、イバラの意味。 最後の血の一滴までも、白き国に捧げられる運命の一族。 神がお許しになるなら、この血すべてをエファに捧げて…… 何もかもを忘れ去りたい。 願わくば、エファと共に―― 「『――わたくしには、天使の加護がある』」 「『この国も、この人形も、技術も。何ひとつ譲る気はない』」 「『そなたの力がどれだけわたくしに勝ろうとも、決して屈するつもりもない』」 誰も居ない空間をジッと《にら》〈睨〉みつけ、あたしは頭をゆっくりと左右に振る。 「『我が名は、クリスティナ・ドルン』」 「『赤と青の平和の証として建国された白を守ることこそが、このわたくしに課せられた使命』」 「『たとえそれが、これまで忠義を尽くした《 ・ ・ ・》〈そなた〉であろうと、この白の国に仇なす者を許さな……んんっ!』」 「(――もう一度!)」 「『たとえそれがこれまで忠義を尽くしたそなたであろうと、この白の国に仇なす者を許すわけにはいかない』」 「『……答えよ、《 ・ ・ ・》〈アイン〉。なぜ、そなたはわたくしを《 ・ ・ ・》〈裏切る〉?』」 無言で横に歩き出す《 ・》〈彼〉とは逆方向に進むクリスティナ。 「『それが答えか。ならば、このわたくしを殺していくがいい』」 「『たとえわたくしが死のうとも、白の国は滅びぬ』」 お互いが一度立ち止まったところで、クリスティナがスッと前へ出て、 「『――アイン・ロンベルク』」 「『そなたの過ちは、必ずや後の世が正してくれよう』」 クリスティナの言葉を聞き終えた彼が、その上着の裾から取り出した短剣を振りかざし―― 「――舞台、暗転」 あたしはまぶたを閉じてその後の光景に埋没しようとするが、役に入りきれなかったせいか、うまくイメージが湧かない。 「……ふーっ。やっぱり、読み合わせしてくれる人が居ないとリズムが狂うわ」 一人芝居ならいざ知らず、相手との駆け引きがあるシーンは特に辛い。 「もう、リュリュは寝ちゃったかな?」 ふと誰かの力を借りたくなるが―― 「ううん、ダメ。あの子だって、昼間の仕事で疲れてるもの」 深夜だというのに、こんなわがままに付き合わせたら可哀想。 「あたしはあたしで頑張らないと」 いつまでも人を頼るわけにはいかない。 ……これは、自分との戦いなのだから。 「(――クリスティナ。あなたは、どんな思いで『その刻』を迎えたの?)」 白の国の最後の城主――クリスティナ・ドルンは、後見人であったアイン・ロンベルクの裏切りによって若き命を落とし、歴史の闇へと消えていった……と言われている。 信じていた家臣の謀反で、何もかもを失う悲劇の姫。 そして《こんにち》〈今日〉―― 「(――きっと、彼女が望まなかったモノだけが残った……)」 後世の者たちが、クリスティナの哀しみとアインの非道を忘れぬように語り継がれてきたお話は、こうしてひとつの史劇として形になっている。 でも、クリスティナの本当の魅力は、劇の中で語られているようなものとは違う気がしてならない。 「……そこまで演じられるかどうかは、まだ先ね」 地に足を着け、しっかりと未来を見据える。 「早く舞台に上がって、お金をもらって……お母さんに少しでも恩返ししなきゃ」 ……だから、いまは努力の《 と き》〈時間〉。 「(――待ってなさいよ、クリスティナ)」 今度のチャンスだけは、絶対に逃さない。 「あなたの役を――必ず射止めてみせるわ」 「初めまして。あたしの名前は、アンジェリナ・ロッカ」 「いまは念願かなって、舞台に立てるようになったけど――」 「窓辺で練習していたころは、オーディション前のお話ね」 「懐かしいなー。もうあれから、どれぐらい経ったのかしら?」 「……ま、自分の話は後回しにするとして」 「今日は初舞台で一緒だった仲間たちの『旅のはじまり』を見に、練習を休んで遊びに来たの」 「……そこ。暇人とか、野次馬とか言わないで」 「だって、あたしは『青の都』でメンバーに加わったから、それより前の旅がどんなものか知らないの」 「苦楽を共にした仲間なら、知る権利があると思わない?」 「……ということで、良かったら一緒にどうぞ」 「……ふふふ〜ん、ふっふー♪ んー、んー?んーっ!?」 タイピングの手を止め、用紙を送って書いたばかりの文章を目で追う。 「ちっがーう!こんなの私《 ・》〈の〉文章じゃないもん!」 勢いに乗って書いてたら、とんでもなく脱線しちゃった。 誰にも見られないよう、急いで問題の行に《アスタリスク》〈***〉の連打。 ちょっと調子に乗ると、いつだってこうなる。 「……慎重に、慎重にね」 文章って、すっごくデリケート。ほんの一言いじるだけで、意地悪で悪い魔女が哀しげで憎めない老婆に変わったりする。 小さい頃、そんな魔法みたいな入れ替えに気づいてしまった私は『小説家になるしかない!』って決意したんだけど…… 「――世の中って、なかなかうまくいかないのよねー」 お母さんの店の手伝いして、弟の面倒みたり、本屋さんで立ち読みしたりで、あっという間に夜が来る。 そこからタイプライターに向かって、『いざいざ!』って腕まくりしても、もう寝る時間はすぐそこ。 「あーぁー。夏休みなんだから、もっと時間あるはずなのに」 毎日毎日、何かしらやらなきゃいけない雑用ができ、普段と大差ない生活が繰り返されていく。 「こんなんじゃ、いつまで経ってもデビューできないわ」 私としては一刻も早く小説家として世間に認知され、誰もが驚くお話を書き続ける生活がしたいのに。 「(――なんて口にしたら、絶対バカにされるわよね)」 何事も成功を収めてからじゃないと、世間は認めてくれない。ちゃんと理解している。理解しているつもりなんだけど―― 「うぅぅ、少しぐらい感想とか期待の声とか聴いてみたーい!」 これまで何人かの友達に、手がけた物語の書き出しを読んでもらって感想を求めたが、答えは皆一様に同じだった。 「――完成したらまた読ませてね……って、そればっかり!」 それって感想?本当に期待されてる?何か違うよね? 私が欲しいのは、こう……もっと直接パッションに繋がるような言葉なの。 でも、それってすごく贅沢でわがままな要望かな? 「……難しいわよね、何かを継続するって」 いまこうしてタイピングするお話だって、いつ書き始めたことやら。 当初は1ヶ月で書き上げて、出版社に持ち込んでみようと決めて取り組んだような気がする。 それが途中から1日、2日とズルズルと延びて、気づけば行き詰まったのを理由に寝かせてしまったのだ。 「テーマが悪かったのかなぁ?」 恋愛って古今東西誰しもが惹かれる題材だと思うし、色々なシチュエーションで飽きさせないように書き綴れると信じていた。 だけど、いざ挑戦してみたら大きな難関にぶつかってしまい、段々と両手が動かなくなっていく。 「えーっと、『そのとき彼の腕を振り払えず、私は』……って、これも違うかぁ」 先に待つ展開は決まっていても、そこにつながるシーンがどうしてもうまく動いてくれない。 たとえばこれが食事の風景だとすれば、詰まるわけもなくスラスラ書ける。 じゃあなんで、恋愛だと進まなくなるの? 「……胸に手を当てて訊いてみよ。さすれば、自ずと答えは出るもの」 ……はいはい。格言を実行するまでもなく解ってます。それは、私が恋愛ってものをよく理解できていないから。 「理屈とかじゃなくて、感覚的に……分かんないのよね」 そりゃ私にだって、恋する気持ちのひとつやふたつはある。 でもそれを他人に伝えるのが非常に難しい。 ……だって私―― 「――告白とか、したことも、されたこともないもん」 自分の気持ちを伝えたことのない人間が、読み手である赤の他人を相手にどう文章で表現すればいい? 誰かに『好き』と言われたと仮定しても、言葉に詰まって何も言えそうにない自分しか想像つかない。 いくらフィクションとはいえ、そこにある程度の現実味がなかったら……それこそ『お話にならない』ではないか。 「うーっ、この小説……しばらくお休み!」 もう少し経ってからのお楽しみにするってことで、ひとまずお終い。 「あーぁ。そうすると、手を付けられそうなのは……」 児童向けの宝探しのお話か、毎晩窓辺に現れる哀しい幽霊のお話……のどちらか? 「宝探しは、第5のカギを見つけたところまで書いてて――幽霊は、今度で6回目の登場?」 何だか、どちらも回数ばかり重ねた作品で進展に乏しい。 「はぁーっ、何だかなぁ。両方とも、グッと来ないのよね」 それでもどちらかを選ぶなら、子どもに受けそうな前者か。 「(――あー、だけど。完成させても、聴かせる相手ってココぐらいよね)」 あの子が喜ぶのは悪くないけど、イコール一般受けするとは言い難い。 「ねぇ、どうするの私?苦手な幽霊、行ってみる?」 こうなるともう、グダグダのスパイラルに陥ってしまい、書き直しも効かなくなった原稿で作った飛行機の出番がくる。 「……今日は、どっちが飛ぶかなー」 そして、滞空時間の長かった方を選び、少しでも『努力』をして先に進める作業になるのだ。 「――うぅぅぅ、それがダメなのよ!」 そう!無理な進行が良い結果を生んだ試しはない。それなら、新たに選択肢を増やす方が有意義なんじゃないの? 「思い立ったら、実行!」 私は軽く両目を閉じて、大きく息を吸う。 「(――何を書く?)」 できれば、前のふたつとは違う傾向の作品で。 何かこう、黙っていても指先が進むような、そんな内容がベストだと思う。 「……むかし、むかし……」 定番の出だし。 「……ひとりのお姫様がおりました」 定番の下り。 「そのお姫様の名前は、クリスティナ・ドルンといい――」 それは、白の国を治めていた実在のお姫様の名前。私が書くまでもなく、有名なお話が現在に残っている。 「(――なんで私、急にクリスティナ姫の話なんて……)」 これまで、一度だって書こうなんて思わなかったのに。 ……でも、いま動かしている指は、確かに頭の中に浮かぶ光景を形にしようとしていた。 「(――あ、これって……私が最近見る夢の内容に似てる?)」 そう思った途端、急に自信が湧いてきた。 断片的なシーンばかりの夢で『使えない』と考えていたのに、ここにきて『ひとつのお話』へ変化しようとしている。 「――これって、いけるかも!」 信じられないぐらいアイデアが浮かぶ。それはもう、これを書かずに何を書けばいいかというぐらい! 「(――ごめんね、ココ)」 ……これでしばらくは、宝探しの話とサヨナラなの。 「ただい、まー」 家に戻ってドアを開けるときは、必ずごあいさつ。 だって、そうしないとセロがビックリしちゃうの。 「……あれ、れー?」 いつもだったら、お返事あるのに。 もしかして、まだ寝てる? 「セーロー?」 ボクは、セロの部屋に行ってドアを叩きます。 「かえり、まし、たー」 ……やっぱり、お返事ありません。 「セーロー?」 黙ってお部屋に入るのは、良くないの。 だから、声はちゃんとかけます。 「……いませ、ん」 ベッドの上にも、本棚の隙間にも、セロの姿はありません。……かくれんぼじゃないみたい。 「どーこー?」 セロが居ないと、ボク困っちゃいます。だって、朝ご飯作れないから。 「うーん、うーん」 ご飯を食べないと、かくれんぼできません。 ……だって、お腹の鳴る音で見つかっちゃうから。 「どうしよ、う?」 セロ、もしかしたらお外?ボクが帰る前に、何処かに行ったのかな? 「さが、そーう」 そうだよね。じっとしてても、退屈だもの。家の中でマイゴにならないから、動いても平気だよね。 「セーロー、どーこー?」 もしかしたら、『もうひとつのベッド』に居るかも。 ボクは、両足跳びでピョンピョンしながらリビングに。そうしたら―― 「あー、やぱぱりー」 セロ、ソファーでセロが寝てました。 ボク、さっきここを見ないでお部屋に行っちゃった。 先に見ておけば良かったのにね。 「セーロー。おき、てー、おき、てー」 「……うぅぅーん」 「あさ、ご、はーん」 「…………もう少し、ねむ……」 「(――ねーむ?ネムネムさん?)」 セロって、いつもご本を読んで、そのまま寝ちゃいます。 「もーすこ、しー?」 「……うん、もう、少し……」 「あ、いー」 だけど、少しって、どれぐらい待てばいいのかなぁ? 「うーん」 セロが起きるまで、することありません。 「(――あー。あるかも……)」 ボクがご飯作るの、どうかな?セロ、楽ちん? ……ということで。今日は、ボクが作ってみます! 「セーロー。ごは、ん、なにー?」 「……ぅん?そうだね。ハムエッグかな?」 「おー、ハム、エググー」 材料、知ってます。道具も、ちょっと知ってます。 ハムと、卵と、フライパンと……おしまい? 「がんばり、ます」 「……ん?」 まずは冷蔵庫です、冷蔵庫。ドアを開けると、ひんやりしてます。 「たまーごー、ハムー」 ……あ、失敗。両手がいっぱいで、ドアが閉められません。 「……えへへ」 でもでも、ボク、平気です。こんなときは、背中で閉めるんだよ、ねー。 セロは背が高いからお尻だけど、ボクは、せーなーかー。 「つぎ、はー」 フライパン。フライパンは、台所の横の棚にあって―― 「あー」 ダメです。背中で棚のドア、開きません。 「……うぅぅぅ」 順番、間違えちゃった。最初にフライパンをとって、次に卵とハム……だったんだ。 何だか、パズルみたい。 「(――うん。つぎは、へいきー)」 ……ということで。今日は、ここまで。 続きは、セロに頼みます。 「(――うーん)」 最近どうも体調が良くないと感じていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。 ……とうとう、右腕の感覚がなくなってしまったのだ。 「(――困ったなぁ)」 これじゃ本のページをめくれないどころか、《 ・ ・》〈ココ〉の相手もままならない。 だけど、どうしてこんなになるまで気づかなかったのだろう? 「……あぁ……」 分かった。 僕はまたソファーで寝てしまい、枕代わりの右腕が痺れて動かなくなっただけだ。 「(――なんだ、良かった)」 ひと安心して頭をずらし、ぼんやり《まどろ》〈微睡〉んでいれば、何とも言えない気持ち悪さがこみ上げてくる。 「……うぇぇ……」 やっぱり、夜はしっかりとベッドで寝るべき。 ……と、毎度のように後悔するが、どうしてもリビングのソファーを愛用してしまう自分がここに居る。 いまは亡き親父の『悪癖を受け継いだ』と分かっていても、なかなかやめられない。 「(――いっそのこと、本棚とベッドを自分の部屋からリビングに移せばいいかな?)」 そうすれば、ソファーで寝ることもなくなる。 「(――なんか、すごくダメな考えだよね)」 そんなことをしたら、ズルズルと物が増えて、きっと目も当てられないリビングになる。 一人暮らしならまだしも、《ココ》〈妹〉の存在を忘れちゃいけない。 あの子はすぐに真似をしたがるから、ふたりしてリビングをジャングルに変えてしまうだろう。 「……うん?」 そういえば、ココは何処に居るんだろう? まだ部屋で寝ているのかな? それとも、もう遊びに出かけてしまった? 僕は朝の光を避けるように薄目を開けて、 「……ココ?」 軽く呼びかけてみる。 しばらくしても返事がないから、近くには居ないらしい。 ココの大好きな『ひとりかくれんぼ』の最中だったりすると、これもまたアテにならないのだが。 「(――まぁ、いいか……)」 たとえこんな朝早くから遊びに行っていたとしても、お腹が減ったら帰ってくる。 それに、今日はまだ背中の《 ・ ・ ・ ・》〈ネジ巻き〉も回してあげてない。 「(――平気、かな?)」 ちょっと心配だけど、以前のように下手に探しに出かけて入れ違いになる方が怖かったりするし。 「(――果報は寝て待て……ってことで)」 きっと、僕がもう一眠りして目覚める頃には帰ってくるはず。 「(――今日の朝ご飯は……何を作ってあげよう……か……)」 「ただい、まー」 「(――うん?)」 何となく、ココの声がしたような、しないような。 「……あれ、れー?」 「(――あぁ、やっばり、そう……だ)」 眠い頭でも、ココの喋りだけはハッキリ判る。 僕は返事をしようと少し頭を上げたつもりだったが、声よりあくびの方が先に出てしまった。 「セーロー?」 「(――おや?声が遠くなった?)」 パタパタと走り回る音から察するに、僕の部屋の方まで探しに行ってしまったらしい。 「かえり、まし、たー」 「(――こっちだよー、ココ)」 「セーロー?」 大きめの声で呼ぼうとしたけど、そのうち戻るだろうと思いとどまる。 「(――まだ、起き上がるには辛いなぁ……)」 もう少しゆっくりして、それから―― 「あー、やぱぱりー」 突然、ココの声が真横で響いた。 「セーロー。おき、てー、おき、てー」 「……うぅぅーん」 思ったよりも早いココの登場に、身体がついて来ない。 「あさ、ご、はーん」 「…………もう少し、ねむ……」 「もーすこ、しー?」 「……うん、もう、少し……」 ココの喋りを聴いて、思わず甘えてしまう僕。 「あ、いー」 「(――ありがと、ココ)」 心の中で、あと10分と区切りをつけておく。 「うーん」 「(――うん?)」 ココが何か考えてるみたいだけど…… 「セーロー。ごは、ん、なにー?」 昨日はサラダと、溶かしたチーズを乗せたパンだったな。そうすると、今日は―― 「……ぅん?そうだね。ハムエッグかな?」 「おー、ハム、エググー」 「(――そうそう。ココの大好きな)」 「がんばり、ます」 「……ん?」 ココは何を頑張るのだろう?食器でも準備してくれる? そんなことを考えていると、ココがパタパタと台所の方へ遠ざかっていく。 そして、しばらく冷蔵庫を開く音などが響いたあとで―― 「むーりー」 ココが卵とハムを持って、ソファーまで戻ってきた。 「あははっ。自分で作るつもりだったの?」 「うん、うん」 「そうかそうか。でも、火を使う料理に挑戦するときは先に一声かけてね」 「あ、い」 僕はココから材料を受け取り、一緒に台所へと向かう。 ……今日も、良い1日でありますように。 「彼は、あたしたち一行のリーダー的な存在、セロ・サーデ」 「《シスター》〈人形〉のココと一緒に暮らす、未来の歴史学者さん」 「……セロったら、昔もいまも、同じような生活してるのね」 「今度会ったら、ちょっと言ってやろうかしら?規則正しい生活を送りなさい、って」 「あ、そうそう。あたしたち人間と同じように動く人形は、『シスター』と呼ばれているの」 「……ココのように見た目が可愛らしい《シスター》〈人形〉もいれば、人間と見まごうばかりの外見を持つ《シスター》〈人形〉もいるわ」 「ちなみに、あたしのように舞台に立つ人間たちは、一般の人と違って『シュエスタ』って呼ぶの」 「もし何処かで、《シスター》〈人形〉のことを『シュエスタ』って呼ぶ人が居たら、その筋の人の可能性が高いわ。憶えておいてね」 「……と、あたしがずっと話していても話が進まないから、またあとで」 「……さて、少し早い朝食も済ませたことだし」 僕はココとふたり、玄関を出たところで顔を見合わせる。 「ココは今日、何か予定があるの?」 「ない、です。セーロー、はー?」 「うーん。いつもと同じかな」 夏休みに入った途端、僕は家から出る機会がめっきり減った。 元々、食料などの買い出しはまとめて行い、配送してもらうようにしている。 僕が車を運転できるよう、免許を取りに行けば行動範囲も広がるんだけど…… 「(――まとまった時間は、調べごとに没頭したいんだよね)」 自分でも良くないと解っていながら、『街までなら歩いていけるから』と思って現在に至る。 「……そのうち、取りに行った方がいいかな?」 いざというとき、車が運転できた方がいいのは確かだし。 「んー?」 「――あ、いいんだ。気にしないで。ところで、ココはもう遊びに行くのかい?」 「んーんー。まーだー」 ココは広げた両手を口元に運び、背筋を仰け反らしてクイッ、クイッとリズムをつけて身体を揺する。 その動作は、毎朝の日課になっている…… 「……あぁ、《ミルク》〈牛乳〉か」 「そー、です。ミル、クー」 「今日飲むはずの分、昨日ココが飲んじゃったんだよね」 「えへ、へー」 「今日の分が届くのは、もう少しあとなんだよな……」 配達をしてくれるのは、よくココの遊び相手になってくれる少年――ライト。 彼のお母さんが『パン屋さん』を経営している関係から、1日3本の牛乳を届けてもらっている。 《いわ》〈曰〉く、『息子が世話になっている』の理由から、ほとんど原価ともいえる値段で売ってくれるので申し訳なく思う。 「(――ココの方が、ずっとお世話になってるんだよね)」 そして僕自身は……この街に越してきた直後から、ライトの姉――ワカバから何かと良くしてもらっているので、さらに頭が上がらない。 「うちら兄妹、フォーレさん一家に甘えすぎかな?」 「んぁー?」 無邪気にこちらを見上げるココを見ると、わけもなく頭をなでてやりたくなる。 「さぁ、どうしよう?まだ届くまで時間もあるし」 うちへの配達は一番最後の便で、まだ出発もしてないはず。 こちらから取りに出向いたら、ライトが驚くだろうか? 「ふたりでミルクを取りに行くかい?」 のんびり散歩がてら……も悪くないと思う。 「うん、うん」 「じゃあ、待ってて。戸締まりしてくるから」 僕は家に戻り、自室の窓などを閉めて回る。 それほど高価なモノは置いてないとはいえ、大切な蔵書など盗まれたりしたら勉強ができなくなってしまう。 「さて、と。あとは……」 念のため、火の用心、火の用心、と。そう思って台所に足を踏み入れたとき―― 「うわぁ!」 何の予告もなく首筋を伝った冷たい感触に、飛び上がってしまった。 「……え、なになに?もしかして……」 とても嫌な予感がした僕は、表に出てココを呼ぶ。 「――ねぇ、ココ。悪いけど、《 ・ ・ ・ ・》〈おつかい〉を頼んでいいかな?」 「いい、よー。ミル、クー?」 「そう。ひとりでも平気?」 「あ、い」 力強く頷いたココは、両腕をブンブン回してから街へと向かう道を歩き出す。 「いって、くるー」 「行ってらっしゃーい」 ココの後ろ姿を見送ってから、大きくため息をつく僕。 「ココのお使いは問題ないとして……」 やっかいなのは、こちらの方になりそうなのだ。 「……納屋にハシゴあったよな?」 「ひとりでお留守番……できるかな?」 こんな朝早くから誰か尋ねてくるとは思えないが、念のため。 それに、これはココの『練習』にもなる。 「うん、うん」 「なるべく早く戻るから、良い子にして待ってるんだよ」 「あーい」 これまで数回留守を頼み、だんだんと良くなってきた。 「(――最初に頼んだときは、大変だったなぁ)」 家に戻ったのがお昼で、夕方までココと一緒にリビングのお片付けに奮闘。 よくもあれだけのおもちゃを持ち出したものだと思う。 「(――まあ、いまは10分もあればキレイにできるし)」 僕は家に入り、ココの手が届かない窓を閉めて玄関に戻る。 「それじゃ、行ってくるよ」 「あ、い」 「もしも、誰かがやってきたらどうする?」 「なま、えー。ごよ、うー?」 「そうそう。もしもその人が知らない人で、『家に入れて』と言ってきたら?」 「ダー、メー」 留守番の心得を確認できた僕は、ココの頭を撫でてから街に向かって歩き出す。 丘を超え、家が見えるギリギリの場所で振り返れば、 ココが両手をパタパタさせ、『いってらっしゃい』の合図を送り続けている。 「あははっ、あの子は」 僕は軽く手を振り返してから、少し早めの足取りで歩く。 このペースで行けば、街まで10分。ちょっとした運動ぐらいにはなるだろう。 「ふぁーあぁ。ねーむーっ……」 早起きするのは苦手だ。 「かーちゃん、よく毎日起きられるよな」 眠い目をこすりながら牛乳の瓶を並べているオレは、この場所に立ってから3回ぐらいあくびをしている。 ……とか考えた途端、 「ふぁあぁぁぁーっ」 プラス1。 いまここにベッドがあったら、すぐに眠る自信があるのに。そうすれば、夢の続きだって―― 「(――きれいな人だったなー)」 今朝『夢で見た』髪の長いお姉さんは、とっても印象的な《 ひ と 》〈女性で〉。 目覚まし時計のせいで後ろ姿しか見てないけど、すごく美人だった……ような気がするなぁ。 「うちの『ねーちゃん』とは大違い」 思わず呟いてからハッとする。 ……良かった。ねーちゃんは近くに居ない。聞かれたりしたら、絶対ゲンコツが待っている。 「もしかしたら、まだ寝てるのかな?」 どうして《きょうだい》〈姉弟〉で、こうも扱いが違うんだろう? 「(――かーちゃん、ねーちゃんには甘いし)」 これが病弱で……とか、おしとやかなお嬢様で……とかなら、それも分かるんだけど。 見るからに、百歳まで生きてもいまと変わらず子どもっぽい悪態をつきそうな感じだし。 弟として、ねーちゃんの行く末が心配になる。 「それに比べて、夢のお姉さんは……」 ずっと大人で、キレイで、優しくて……みたいなイメージの塊だった。 「(――きっと、オレが思う理想の女性なんだ)」 頑張ってもう一度思い出そうと、目を閉じてみる。 でも、奥から漂ってくる焼きたてパンのニオイが気になって、気になって。 「うぅぅ、ハラへってきたー」 幻よりも、まずは現実から! お腹の音を黙らせるには、目の前にある牛乳を片付けないといけない。 「多いよなぁ、オレが配る本数」 家の手伝いは、夏休みに入った途端厳しくなった。 「『……休み中は、普段より1時間早く起きて、牛乳配達の準備しなさい』」 「『そりゃないぜ、かーちゃん!オレだって色々……』」 「『どーせ昼間は、勉強もしないで遊びに行くんでしょ?』」 「『そんなことないって!宿題だって結構あるんだぜ』」 「『だったら、朝早く起きて少しずつ宿題しなさい。これまでみたいに、溜めたりしないの』」 「『信用ねーの』」 「『1日分しっかり終わらせたら……好きなだけ遊びに行ってもいいわよ』」 「『ホント!?オレ、やるよ!』」 オレはかーちゃんと、もし破ったら小遣い減らされても文句言わない約束までした。 「――それなのにさぁ……」 1時間早く起きて勉強したあと、さらに牛乳配達の手伝いもさせられるなんて聞いてない。 「『約束ちがうじゃんかよー!』」 「『……あら、なにが?ライトが自分で“やる”って言ったんじゃない』」 「『宿題終わったら遊びに行っていいって言ったの、かーちゃんだろ?』」 「『手伝いしなくていいなんて、言ってないけど?』」 「『うわぁー!めちゃくちゃ騙されたーっ!』」 でも、小遣い減らされたくないから頑張るしかないんだ。 「――オレ、頑張ってるよなー。もう3日も勉強してるし」 去年だったら、1ページだって進んでなかった。 「――ってことは、いつもより3日早く宿題がなくなるから……」 夏休みの最後は、思いっきり遊べる? 去年みたいに、セロにーちゃんのところに行ってヒーヒー言いながら勉強しなくてもいい!? 「……待てよ、違うなぁ。途中で仲間とキャンプするのもいいよなー」 もしセロにーちゃんが許してくれたら、ココも一緒に連れて行ってやれば、友達もみんな喜ぶだろう。 「(――へっへっへー)」 どっちにしても、遊びの計画は勉強なんかより10倍楽しい。考えるだけでワクワクできる。 「あーっ、早く終わらせて遊びに行こう!」 そうと決まれば、牛乳も早いとこ配ってしまうに限る! 「6の、3の、2の、1の……」 配達の順番に合わせ、牛乳瓶の本数を固めておく。これで戻ってくるたびに数えなくて済む。 「(――あとは、集金のお知らせの紙を持って……)」 自転車にまたがって、出発するだけ。 「よーし、いくぞー!」 「ぞー」 「(――なんで後ろから声が?)」 オレがびっくりして振り返ると、そこには―― 「ココ!?」 「うん。だ、よー」 「どうして?オレ、まだ手伝い終わってないから遊びに行けないぜ?」 「そーな、のー?」 「このバッグにある牛乳配っても、まだまだいっぱい」 店を指差してから、両手の指をいっぱいに広げてみせる。するとココは、端っこから順番に、 「いーち、にー、さーん……いっぱ、い?」 ゆっくりと数えてくれた。 「あぁ、そりゃもう!ココがいくら飲んでも余るぐらいさ」 「やたたー」 「……あ、これはココの分じゃないよ」 バッグに手を伸ばされ、オレは慌ててそれを上に持ち上げる。 「えー?ボ〜クの、はー?」 「まだ店の中に置いてあるよ」 ココの家――セロにーちゃんの住むところは、最後に届けることになっている。 それは店から一番遠いのと……なにより、配達が終わったらそのままココの予定を確認できるから。 「(――他のやつらと違って、勉強とかカンケーないもんなー)」 ココは学校に行く必要ないから、ほとんどセロにーちゃんの家に居る。 居ないのは、どこかへ遊びに行ってしまったときぐらいだ。 「……ま、もうちょっと待ってろよ。配達終わったら、遊べるからさっ」 「うん、うん」 「そんじゃ、行って――」 「まて、てー」 「ん?」 「ミル、クー。くだ、さい」 「えーっ、だからこれは……って、そうか!今日は牛乳をとりにきたのか」 「そー、だ、よー」 「なんだ、それならそうと早く言えよ」 オレは自転車を降りて、店の中に引き返す。 そして、セロにーちゃんの家に運ぶ分――3本を持ってココのところへ戻ろうとしたが。 「こーら、ライト!なぁに横着してんのよ?」 店の入口で、かーちゃんよりもうるさい『ねーちゃん』とぶつかりそうになった。 「なんだよ、ねーちゃん。邪魔だからどけって」 「こっのぉー!おねぇちゃんに向かって『邪魔』ですって?生意気な弟ね。ぜぇーったい、どいてやらないんだから」 「うわぁ、サイアク。本気で邪魔すんなよ」 「ダーメ!配達早く終わらせようとして、バッグに入らない分まで持って行こうだなんて」 「違うって!これは……」 そこまで言ってから、うまいことねーちゃんに仕返しできる説明を思いついた。 「(――へっへっへー)」 オレは軽く咳払いをしてから、 「なぁ、ねーちゃん。向こうでお客さんが待ってるんだけど」 と、アゴを突き上げてみせる。 「……えっ、あ、そうなの?そっ、それならそうと早く言いなさいよね、まったく」 理由も訊かずに通せんぼしたのは誰だよ……と反論はせず、その横を悠々とすり抜けてお客さんのところへ向かう。 ……笑い出しそうになるのを必死に堪えて。 「はい、お待たせー」 「わーい。ミル、クー」 「……なっ、ライト!お客さんって、ココじゃないの!」 「そーだよ。でも、お客さんには変わりないだろ?」 「きーぃ!そんな屁理屈、聞きたくないの」 「ひでぇよな、うちのねーちゃん。お客さんを前にして」 「……うっ」 「いらっしゃいませ、の一言もないんだぜ」 ねーちゃんの悪い癖。頭に血が上ると、周りが見えなくなる。 「…………い、いらっしゃい、ココ」 「カバー」 「……あ、あはははっはっ。あのね、ココ。そろそろ私のこと……ワカバって呼んでくれない?」 「カバー」 「う、うん。その上に『ワ』を付けてほしいかなぁ、みたいな」 「カバー?」 「……はぅ」 「……ダメだよ、ねーちゃん。ココ、自分ではちゃんと『ワカバ』って呼んでるつもりなんだから。なーっ?」 「うん。カバー、だ、よー」 「ほら、それとなく『ワカバ』って聞こえるだろ、ワカバって。ワカバ、ワカバ、ワッカバー♪」 「こっのぉー!これ見よがしに、私のこと呼び捨てにして!」 「うわっ、ちょっ、やめろって!暴力反対!牛乳もってんだぞ、オレ」 「ダーメー。ぼーりく」 「なっ、なによココまで。これじゃ、私が悪いみたいじゃない」 うん、ねーちゃんが悪い。 「とっ、とにかく。はい、ライトはココに牛乳を渡す」 バツが悪かったのか、ねーちゃんはオレから瓶を奪うようにしてココへと押しつける。 そして、ひとりでウンウンと頷き、 「じゃ、行きましょうココ」 店を出て行こうとしていた。 「ちょ、ちょっ、ちょっと!どこ行くんだよ、ねーちゃん?」 「ん?ココと一緒にセロの家まで」 「何でねーちゃんが?ココは、ひとりで帰れるぜ?」 「うんうん、へい、きー」 「そうね。でも、私はココを送っていくわけじゃなくて、セロに用事があるのよ」 「セロにーちゃんに?何で?オレも行く!」 ねーちゃんだけなんて、絶対にずるい! 「……ダーメ。ライトには牛乳配達っていう大切な仕事があるでしょ」 「それ言ったら、ねーちゃんだってそうだろ?」 「……ん、私?私はいいの。もう、お母さんにだって許可もらってるの。午後からの手伝いでもいいって」 「か、かーちゃん、そりゃないぜ。オレんときは、そういうの許してくれないじゃんか……」 「……まぁまぁ、『日頃の行い』ってやつよ」 「なおさら納得いかねー!」 いつだってねーちゃんは『将来のために』とか理由つけて、手伝いサボって小説を書いたり、高いタイプライター買ってもらったり。 そんなんだったら、オレも―― 「じゃあ、ライト。配達がんばってねー」 「て、ねー」 「うわぁ、ふたりともひでぇ!くっそー!ゼッタイあとで遊びに行くからなー!待ってろよ、ココ!」 「あ、いー。って、るー」 去っていくふたりを見て、オレは急いで自転車にまたがる。 「……新記録出してやるぞ!」 少しぐらいスピード出して牛乳瓶がガチャガチャいったって、転ばない限りは割れたりしない。 だから、人通りの少ない場所はとっとと抜けちゃえ。 「へいへい!フォーレ牛乳のお通りだー」 オレはカーブに差し掛かり、レーサーのつもりでハンドルを切って―― 「……うひゃぁ!?」 「うぉっと!」 向こうから顔を出した人と、思いきりぶつかりそうになってしまった。 「ごっ、ゴメン!平気!?」 「あぁ、何とかね……って、ライトか」 「――セロにーちゃん!?」 事故寸前だったのもドキドキだったけど、その相手がまさか『セロにーちゃん』だったのがもっとビックリ。 「どうしてこんなところに?なんかあったの?」 「いや、別に。ただ、うちに配達してもらう牛乳をとりにきたんだけど……」 セロにーちゃんは、小さなため息をついてからオレを見て、 「……おとなしく待っていた方が安全だったかな?」 って言う。 「うん、ゴメンよ。人も居ないだろうと思ってさ」 「そういうときに限って、事故は起こるものだからさ。気をつけて」 「……はーい」 ねーちゃんに言われると癪だけど、セロにーちゃんには……ちょっと逆らえない。 「これからうちに配達だったのかな?」 「ううん、まだ。あと二往復したら、にーちゃんの家の番」 「そっか。そうすると、うちの分はまだお店に?」 「そうだよ。なんならオレ、すぐにとってこようか?」 「いいよ、ライトは。早く配達行っておいで」 「うーん」 そう言われて、『分かった』……とは答えづらい。 「じゃあさ、せめて店までお詫びに送るよ」 「はははっ。何のお詫び?」 自転車から降りて、セロにーちゃんの横を歩く。 にーちゃんは、いつも変わらずマイペース……って言うか、あんまり自己主張しようとしない。 ときどき、ねーちゃんが『セロって優柔不断なのかなぁ?』とか心配してるけど、それはそれで違うと思う。 実際のところは、人がイイから他人に合わせるタイプなんだ。 でも、自分の意見はしっかり持ってるみたいだから―― 「……なぁ、ライト」 「なになに?」 「最近うちのココに、変わったところとかないかな?」 「へっ、何で?何かあったの?」 「これといってどう、ってわけじゃないんだけどさ。いつも遊んでくれているライトの目から見て、どうかなって」 「うーん?」 《シスター》〈人形〉の身体が大きくなるって話は聞いたことないから、きっと外見よりも内面とか行動について? 「(――けど、そんなこと急に訊かれても)」 オレは普通にココと遊んでいるだけだし、注意してるのはひどい悪戯にならないようにするぐらい? それ以外では……って訊かれると、考えてしまう。 「うーん。特に思いつかないけど……」 「それならいいんだ」 「……何がいいのかしら?」 セロにーちゃんの方を向いていたオレには、いきなりの横槍。 「(――うおっ、ねーちゃん!?)」 ……正直、めちゃくちゃ心臓に悪かった。 「やぁ、ワカバ」 「はぁい、セロ」 「よぉ、ねーちゃん」 オレもふたりの真似をして、さわやかに挨拶をしたら―― 「ライトっ!」 「うへっ!」 軽く頭をはたかれた。 「まったく、調子に乗るんじゃないわよ。配達に飛び出して行ったと思ったら、すぐに戻ってきて」 「だって、すぐそこでセロにーちゃんに会ったんだぜ。うちに来るっていうから、送ってきたんだよ」 「別にセロと会ったからって、ライトは挨拶ひとつでそのまま行けばいいじゃないの」 「なんだよ、それ。そんなことできるわけないだろ?だって、応対する店番が――」 「私が居るじゃないの」 「(――うわぁ、信じられねっ!)」 珍しく早起きしてきたと思ったら、いかにもな台詞を言うし。 「(――くっそー!言い返してやりたいけど……)」 ここで反発しても、オレになる。 ただでさえ人前では『姉貴面』したがるタイプだから、目の前にセロにーちゃんが居ればなおさらだ。 オレ相手に、ねーちゃんは絶対退いたりしない。 「じゃあ、ねーちゃんに牛乳頼んでいいかな?」 「なんで私が配達するの?」 「……ちがうって。セロにーちゃんの分」 「あぁ、セロの?はいはい、任せてー!」 ねーちゃんは急にニコニコして、鼻歌交じりで店の中に引き返していく。 「……ゴメンな、あんなねーちゃんで」 「ん?明るくていいんじゃないかな」 他人から見ると、そういうもんなのかな? いや、違う。セロにーちゃん、ちょっとズレてるから。特に、ねーちゃんのことになると……かなり。 「(――なーんかあやしいんだよな)」 ねーちゃんが失敗しても、さりげなーくフォローするし。 ん?でもそれは、セロにーちゃんの性格的なものか。 特別、うちのねーちゃんだからってことは―― 「(――どうなんだ?)」 セロにーちゃんにとって、うちのねーちゃんって? もう、付き合ってるようにも見えるんだけどなぁ。 「……にしても、ねーちゃん遅いなぁ」 「……なんだよ、セロにーちゃんの前だからって」 反発してもねーちゃんを怒らせるだけ……と分かっていても、言い返したくなるときはある。 「なっ、なによーぉ?別にセロの前だからとかカンケーないでしょ?」 「何ムキになってるの?あーぁ、これだからねーちゃんは」 「キーッ、許さないわ!」 「まぁまぁ、ふたりとも。朝からそんなに大きな声で……」 「セロは黙ってて。これは、私たち《きょうだい》〈姉弟〉の問題なのっ」 「うんうん、そうだね。だけど、僕はどれぐらい待てばいい?」 「それは……その……」 セロにーちゃんって、言うときは言うタイプなんだよね。 それもごくごく普通の顔してズバッと核心をついてくるから、言われた側も一瞬考えさせられるんだ。 「ごめんね。ココが家で牛乳を待ってるから、早く持って帰ってやりたくて」 「……だってさ、ねーちゃん」 「ライトは調子に乗らないのっ!……もう、分かったわ。セロがそう言うなら、仕方ないから許してあげる」 「(――何が仕方ないんだよ……)」 とか思っても、蒸し返すのも馬鹿馬鹿しいから口にしない。 ……セロにーちゃんが居なくなってから、リベンジしてやる。 「じゃあ、いまセロの牛乳もってくるから待ってて」 「ありがとう」 セロにーちゃんに見送られ、ねーちゃんは笑顔でパタパタと店の中へ。 ……でも、それなりに時間が経っても戻ってくる気配がない。 「……何か、ねーちゃん遅いよね?」 「うん。ちょっと時間かかってるみたいだね」 牛乳瓶はバックルームに入ってすぐのところにあるから、すぐにとってこられるはずなのに。 「はーい、おまたせ!牛乳三本だったよね?」 「うん、ありがとう」 「おっせーよ、ねーちゃん。……ねーちゃん?」 「ん、なぁに?」 「何でおでかけバッグ持ってんの?」 「出かけるから」 軽く答えられ、思わず頷きそうになっていたオレは慌てて首を横に振る。 「……どこに?」 「セロの家よ」 「なんで?」 「用があるから。いいよね、セロ?」 「僕は別に構わないけど……」 セロにーちゃんの許可とか、あったもんじゃない。 もう『断らないのが当然』とか、『断られるわけない』とかいうレベルの準備だ。 「ちょっと待って、何かおかしくない?オレ配達してるのに、ねーちゃんが遊びに行くのってどうなの?」 「失礼ね。遊びじゃないわよ」 「じゃあ、何しに?」 「ふふふっ。ひ・み・つ」 ねーちゃんが、わざとらしくピーンと立てた人差し指をチッチッと振って見せるのが最高に腹立たしい。 「キーッ!そんなん納得できるかよ!だいたい、かーちゃんが許さないだろ!」 「お母さんには、午後から手伝いするってことで許可もらってあるの」 「じ、じゃあオレも行くよ!」 「ダーメ。ライトには『配達』っていう大切なお仕事があるでしょ?」 「ひ、ひどいよ、ねーちゃん」 「ココと遊びたかったら、早く手伝いを終わらせることね」 「よ、よーし!」 こうなったら、これまでの配達でも最速になるスピードで廻って―― 「くれぐれも、安全運転を心がけて。……いいね、ライト?」 「……は、はい」 セロにーちゃんに言われたら、さっきの件もあるし……黙って頷くしかなかった。 だけど、別にねーちゃんに負けたわけじゃない。 「(――見てろよ、ねーちゃん)」 オレには、前々から温めていたひとつの作戦がある。いままでこれを実行しなかったのは、爽快感に欠けるからだ。 「(――早く終わらせて、みんなをびっくりさせてやるからな)」 「ワカバ・フォーレと、ライト・フォーレの《きょうだい》〈姉弟〉」 「……ホント、ワカバって勢いだけで走るタイプよね」 「一緒に旅をしたときも、ばっちりトラブルメーカーだったし」 「それに引き替え、ライトの方は……ちゃんとお店を手伝って偉いじゃない」 「少しはお姉さんの方も見習うべきよね」 「……そんな文句をつけつつも、お話を書くことに関してだけは実力を認めてあげないとね」 「彼女が居たからこそ、いまの『あたし』があるわけだし」 「……まぁ、今度下手な脚本持って遊びに来たら、ただじゃおかないけど」 「ココは朝ご飯、食べたの?」 「あ、い」 「そっか。……ってことは、相当な早起きさんね」 3本あるうちの牛乳瓶の1本は私が持って、ココと一緒にセロの家まで歩いている。 「カバー、は?」 「まだ。もしセロが食べてなかったら、一緒しようかな……と思って」 私はバッグの中に手を入れ、店から持ってきたパンの包みを取り出してみせる。 「あー、パンー」 「えっ、どうして分かったの?店の袋に入っているから?」 「うーうん。においー」 「あ、そっか。匂いね」 焼きたて……って言うには少し時間が経っちゃったけど、おいしそうな香りはバッチリ! いつもかいでいる私は、逆に気づかなかった。 「パーン、パーン」 「もしかして、欲しいの?朝ご飯、食べたんじゃないの?」 「えへへー。ボ〜ク、くいしん、ぼー」 にこやかに自己申告されると、そのままあげたくなっちゃうけど―― 「じゃあ、セロの家に着いてからね。それまで我慢できる?」 「うんうん」 ココは大きく頷いてくれたんだけど、その直後に…… ――ぐうぅぅぅ。 なんて、お腹の音を聞かせてくれちゃう。 「うー、わーぁ。はずか、しーい」 両手で目を隠すその仕草がすごく可愛らしくて、思わず頭を撫でてしまった。 「(――誰も見てないわよね?)」 別に悪いことしているわけじゃないから気にする必要もない。 でも、以前ココを抱っこして頭を撫でてあげていたら、《ライト》〈弟に〉それを見られ、 「『うわーぁ!ねーちゃん、似合わねー』」 なんてはやし立てられてから、どうしても抵抗がある。 「……んー、もう。1個だけだからね?」 「やたたー」 「絶対、ぜーったいライトには内緒だからねっ?」 「あ、い」 「(――うーん、もう!甘いな、私も……)」 「ほら、牛乳瓶貸して。持っててあげるから」 「ありが、とー、カバー」 「落とされたりしたら、うちが困るからね。……あ、ほら!そこに座って食べるの。あ、口の周り汚さないの。もう……」 「えへへー」 ココはニコニコしながら、両手で持ったクリームパンを口に運んでいる。 その姿が小さい頃のライトとダブり、思わず私まで微笑んでしまった。 「どー、した、のー?」 「なっ、何でもないの!……どう、おいしい?」 「うん、うん」 食べ終わったココの口元をもう一度拭いてあげる。 いつもは弟がココの遊び相手で、私が接する機会はセロと一緒のときぐらい? こんなツーショットって結構珍しいから、どう接していいか少し迷ってしまう。 「ごちそう、さ、まー」 「いえいえ、おそまつ、さ、まー」 「わー。まねー、された?」 「うふふ。ちゃんと通じるんだ」 私は牛乳瓶を返しながら、またふたりで歩き始める。 「……ところでココ」 「あ、い?」 「ココって見た目は小さいけど、私なんかよりも……ずっとずっと『お姉さん』でしょ?」 「うん、うん」 ココは私の使った『お姉さん』って表現が気に入ったのか、ちょっと誇らしげに胸を張る。 「(――ずいぶん小さなお姉さんだけどねーっ)」 この前セロにココの《 ・ ・ ・》〈生まれ〉を尋ねたときには、 「『僕や僕のお父さんより、ずっと昔らしいよ』」 と言われたので、気になっていたのだ。 「……で、実際にはどれぐらい『お姉さん』なの?」 「んー??」 「えっと、ココは何年ぐらい生きてるのかなぁ?……と思って」 「ボ〜ク?まて、てー」 立ち止まったココは、リズムよく頭を縦に振り、 「いーち、にーい……」 と数え始める。 そして10で悩み、自分の手袋を交互に見て、私を見て、空を見て、くるくると回るトビを見つけて―― 「あー、とーりー」 と、嬉しそうに笑う。 「……あのー、もしもし?」 「あーれー、トー、ビー」 「へーっ、知ってるんだ」 「うん!くるくる、くるくるー」 「あ、牛乳持ってるんだから……」 私を柱に回り出されてしまったら、それより前の話なんてあったもんじゃなくて。 きっと本人も忘れちゃうぐらい昔に生まれた……ってことで終わらせることにする。 「さぁ!遊びもお終い。早く帰らないと、セロが心配するわよ」 「うん、うん。かえ、るー」 うちの《ライト》〈弟も〉これぐらい素直だったらいいのに……と思いつつ、ココの両肩を押しながらセロの元へと急ぐ。 今日、私が彼に会いに行くのには『それなりの理由』がある。 決して店の手伝いをサボる口実とか、何となく会いたいから……とか、不純な動機じゃない。 「……うふふっ」 「……んぁー?」 「何でもないのー。こっちの話よ」 重要なのは、このカバンの中にあるモノ。 もしもセロが『コレ』に興味を持って協力してくれれば―― 「(――きっと、すごいことになるもんね!)」 「なぁに、セロ?私の顔に何かついてる?」 「いいや。ただ何となくワカバは変わらないな……と思って」 帰り道、ワカバとふたり夏休みに入ってからの話をしているとき、ふと昔のことを思い出した。 あれは、僕がこのモスグルンにココと越してきて間もない頃。 新しい家が中心街から離れた場所だったこともあって、まずは『街の様子見をしよう』と考えて。 ココに留守番を頼んで、自分がフラフラと散策に出たのだ。 そして、そのとき最初に立ち寄ったのが―― 「(――ワカバの居るパン屋さんだったんだよな)」 「……気になるのよね、その視線。あっ!もしかして私、寝グセとかひどいの?」 「大丈夫。そんなのじゃなくて」 「だったらなぁーに?教えなさいよー」 「わ、分かったから。そんな顔しないで」 あのときと同じように腰に手を当てるワカバを見て、思わず笑いそうになるがグッと堪える。 別にワカバが悪いわけじゃない。……どちらかと言えば、僕が悪かったのだ。 「『いらっしゃーい!』」 「『……あ、どうも』」 店に入ってキョロキョロしていると、急に横から現れたのがワカバで。 役所や銀行などの場所を訊こうと思ってブラッと立ち寄り、いざ尋ねようとしたら、 「『はい。これがトレイで、これがトング』」 いつの間にか2つのアイテムを渡されていた。 「『……あの……』」 「『ん?お勧め?うちのパンはどれもおいしいけど、強いて言うなら……』」 それまでパン屋さんで押しの強い接客をされたことはなく、僕はかなり面食らってしまった。 しかし、そんなこちらの事情も知らず彼女は一押しのパンを5つぐらい列挙して、『どれにするの?』と言わんばかりの微笑みまでサービス。 そうなると、さすがに何も買わずに質問をするのも悪い気がして、勧められたパンをひとつトレイに乗せるしかなかった。 「『あら、ひとつでいいの?』」 「『……じゃあ、それももらいます』」 「『ふたつだけ?』」 「『…………じゃあ、お勧めのパンを全て』」 「『えーっ!?ち、ちょっと待って待って!』」 彼女は軽い気持ちで勧めたつもりで、それを真に受けた僕にびっくりしたらしく。 考え直してほしい、押し売りするつもりじゃなかったの……と、弁明までされてしまった。 「『いや、僕も本当は道を尋ねたかっただけで……』」 「『そうだったの……って、それならそうと早く言ってよ!もーう、恥ずかしいなぁ』」 聞こうともしなかったのは誰だかはさておき、僕は買う気もないのに店に入ったことを彼女に詫びていた。 「……って、そんなことを思い出して」 「――もーう!その話は忘れてよねー」 「……そう言われても、そう簡単に忘れられるエピソードじゃないよ」 からかうつもりはなかったが、ふたりの出会いを振り返ればそんな感じ。 あれ以来、仲良くしてくれるワカバには慣れたつもりでも、押しの強い態度をとられると……条件反射的に譲ってしまう癖が抜けない。 「言い訳じゃないけど、あのときは色々あったのよ」 「ん?」 「――朝からあんまりお客さんは来ないし、やりたいことあったのに店番から解放されないし。それに……」 「……それに?」 「私の焼いたパンが、ひとつも売れてなかったの」 「それって、もしかして……」 「そうよ。あのときセロに勧めたパン、みんな私が焼いたの」 「……文句ある!?」 そこで詰め寄られたら、いまさらのクレームは難しい。 「文句なんてないよ」 食べてお腹を壊した記憶もないので、問題もなかったはず。 「……ホントに?お金返して、とか言わない?」 「あははっ。言わないって」 「そ、そう。……じゃあ、これあげる」 「ん?これは……」 バッグの中を覗かせてもらうと、そこにはいつもよく見るパンの包み紙が入っていた。 そして、袋の口を開けたときに漂う匂いからして……中身は焼きたて。 そのうち幾つかは、ちょうど話にあがっていた5つのパンと被っていた。 「これ、ワカバが焼いたの?」 「……ううん。今回『は』お母さん」 「そっかぁ。御礼、言っておいてくれる?」 「うーっ。持ってきたの私なのに……」 拗ねた口調のワカバは、隠すようにパンの袋をバッグへ戻す。 「でも、持たせてくれたのはワカバのお母さんだよね?」 「違うよ」 「……ってことは」 「別に黙って持ってきたわけでも、余り物でもないからね」 誰もそこまでは言ってないけど、もしも断りなしだとしたら受け取りづらい。 「それに今回は、ちゃーんとお代をレジに入れてきたもん」 「幾ら?払うよ」 「いいのっ!セロはそんな細かいこと気にしないで。今日は私の『おごり』ってことで」 それは嬉しいが、そのとびきりスマイルを見せられると……何でだろうか、不安になる。 「(――こういうときって、大抵……)」 「でも、セロがどーしても気にするって言うなら……」 「(――きた)」 何かしら理由をつけて、僕を納得させようとするんだ。 「ん、何か言いたそうだけど?」 「ううん、何にも。で、気にしていたら……どうなるの?」 「セロの持つ知識と交換。で、どう?」 「僕の?知識?歴史の話しかできないけど、それでも?」 「それが必要なの。聴かせて」 満足そうに頷くワカバを見て、僕は首を傾げる。 「(――うーん。夏休みの宿題がらみかな?)」 普段から僕の話を聴いてくれるワカバとはいえ、自分から願い出てくる可能性があるものなんて……それぐらいしか思いつかない。 「(――でもまぁ聴きたいっていうなら……)」 「あ、でもでも!先に私の話を聴いてもらうからねっ」 「……う、うん。どうぞ」 「まぁまぁ、家に着いてからゆーっくりと。ねっ?」 ワカバは自分のバッグをバンバンと叩き、にんまりと笑う。 ……が、ハッと真顔に戻ったかと思うと、 『失敗したー!』の表情に変わった。 「どうしたの?」 「いま、思いっきり……パン、潰しちゃった」 「……ぅ」 「クリームパンとかあったのにぃ」 「…………あ、はははっ」 もう少し後先を考えて行動してくれるようになれば、とってもいい子なんだと思う。 逆に、こういう部分があってこそのワカバ……と考えれば、それほど気にはならない。 ――それよりも『いま』気になるのは、そのクリームパンの具合だったりする。 「ふーっ」 屋根に登って見る街並みは、普段とは少し違っ《 おもむき》〈た趣〉で新鮮。 ……だが、いつまでものんびり眺めているわけにもいかない。 「……さて。問題の場所は、と」 ココとふたりっきりの生活にも慣れたつもりだったけど、家屋の管理だけはどうしても苦手で億劫になる。 親父が居たとき任せっきりにせず手伝っていれば良かったと、いまさらながらに思う。 「この辺りかな?」 さっき台所で落ちてきたのは、雨漏りの水滴。 一昨日の暴風雨の影響が今日になって出てくるなど、思いもしなかった。 「でも、準備だけでこんなに時間がかかるなんて……」 台所の天井を見上げ、日曜大工の本を調べ、滅多に入らない納屋からハシゴなどの必要な道具を持ち出して。 ……気づけば、かれこれ30分以上は経っていた。 「(――あんまり時間かけると、ココが戻ってきちゃうな)」 できればその前に作業は終わらせてしまいたい。 「……あ、アレかな?」 ラッキーなことに問題と思われる箇所は、立てたハシゴの足場から近く、手を伸ばせば届く距離。 「よい……しょっ……と」 1枚だけポッコリと浮き上がっていた瓦を持ち上げてみればその付近が『溜まり場』となっており、下の板も予想通りの染みができていた。 「……あーぁ。でも、腐るまではいってないな」 今日一日、風通しを良くして乾かせば直るかな?……などと、良い方向に考えてしまう。 「明日見て、ダメだったら修理の人を呼ぼう」 自分みたいなインドア派が無茶をしたら、ロクなことがない。それに、もしハシゴで屋根に登る姿をココに見られたら―― 「……真似したがるだろうし」 そうなるのが、一番心配だ。 なにせココは、高いところに登って遠くを見るのが好き。 そのくせ、自分ひとりでは降りられなくなって助けを求める。 木に登って泣き出したココをこれまで何度助けたことか。 「――セーロー?」 まだ遠いが、ココの呼ぶ声がハッキリと聞こえた。 「……うわっ、もう戻ってきた!?」 僕は慌てて屋根から降り、納屋にハシゴを隠すように戻してココを待つ。 「(――呼ばれたってことは、見られたってことだよな)」 どうしようか考えていると、ココの頭に続いて見覚えのあるトレードマーク――三角の黄色い頭巾がチラチラと見える。 「――あれ?ワカバ……」 どうしてワカバがココと一緒に? たぶん店でココと会って、そのままついてきたと思うが…… 「おはよっ、セロ!」 「やぁ、おはよう」 「おはー、よー」 「ココとはもう『おはよう』したよ?」 「あ、そかかー」 えへへ、と照れるココの頭を撫でながら、ワカバへと視線を移す。 今日の彼女は、いつにも増して元気いっぱいという感じで、何か良いことがあったように見受けられる。 「もしかして、ココを送ってきてくれたの?」 「うん、まぁね。でも本当は、ちょっとセロに用があって」 「僕に?」 「そう、頼りにしてるの」 ワカバはそう言うと、僕の身体をくるりと回し、玄関の方へズイズイと押していく。 「え、ち、ちょっと?」 「ココ!少しセロ借りるわよー」 「あーい」 「ねぇねぇ、どうかな?」 「……ごめんね、読むのが遅くて」 「あ、いいのいいの。ゆっくり、しっかり読んでくれたら」 家に入るなり、お茶の準備をする暇すらも与えてもらえず、僕は自分の部屋に連れ込まれてしまった。 そして、ワカバはバッグからタイピングされた原稿らしきモノを取り出し、こちらへ押しつけてきたのだ。 ……どうやら、その目の輝きからして自信作のようで。 「……へぇ……」 「どう、どうかな?」 「うーん」 「ストレートに言ってよね。知り合いとか普段からチェックしているとか差し引いて」 僕はお世辞を言うつもりもないが、今回のは……どう評価していいものやら。 「これって、まだ『プロット』って呼ばれる段階だよね?」 「うん。……どう?」 「――難しいね」 「えーっ、何が?あ、もしかしてベースになってるお話を知らないから?」 「たぶん『天使の導き』のことだと思うけど、詳細までは……ちょっと判らないや」 知らないと言えば嘘になってしまうが、僕の持つ基礎知識がワカバから『要求されるレベル』に達しているのか判らず、不用意に知っているなどとは言えない。 「じゃあ、簡単に説明するわね」 ワカバは、手にしたペンを指先で回しながら語り始める。 「知ってると思うけど、わたしたちの住んでいるこの国は、その昔……大きく分けて2つの国だったの」 「それは、赤の国と青の国。そして、その二カ国の間に平和の象徴として『白の国』が作られました」 「……って、なんか歴史専攻のセロに解説するのは……バカにしてるみたいで気が引けるな」 「いいよ、気にしないで。知ってるつもりになるのが一番怖いから」 ……これは、親父の教え。 歴史とは過去の積み重ねであり、その時代を生きた人だけが真実を知る。 後世を生きる人間が当時のことを知るためには、文献や口伝などの『記録』を通じて学習するしかない。 そして、それらが『本当かどうか?』は、時間が経てば経つほど風化し、あやふやな要素を含んでいく。 そういった部分を払拭し、次の時代に真実を伝えていくことこそが歴史学者の役目……と教えられた。 「ワカバが教えてくれたことと、僕の情報を比較するよ」 常に疑るばかりではダメだが、再確認――見直すチャンスを逃してはならない。 「……子どもの頃に習う、基礎の基礎でも?」 「うん。もしかしたら、新しい発見があるかもしれないし」 ――初心に帰る、という意味でも。 「そっか。セロがそう言うなら、遠慮なく」 ワカバは腕まくりをする《ポーズ》〈仕草〉を合図に、いまの話を続ける。 「――白の国を最初に治めたのは、元々は赤と青の国の王族の婚姻から生まれたドルン家」 「……それから先もその一族の直系《ちゃくし》〈嫡子〉が統治者となり、ある技術を発展させていきました」 「……さて、その《 ・ ・》〈技術〉とは何でしょう?」 「いつの間に、歴史解説がナゾナゾのコーナーになったの?」 「ん、気分よ。私が話しているだけじゃつまんないから」 「――あ、そう」 ワカバの気まぐれは、いつものことか。 「ヒントは、ココね」 「(――えっ?)」 わざわざヒントを付けてくるってことは、何か裏がある? 「……白の国と言えば、人形技術だよね?」 ちょっとドキドキしながら答えてみれば―― 「あったり〜♪」 ワカバは楽しそうに正解を告げてくれる。 「……良かった。何か『引っかけ』でもあるのかと思った」 「むむっ、なぁに、それ?」 「ごめんごめん、こっちのこと。それで続きは?」 「……ココが?」 ワカバの真意が掴めない以上、下手に答えない方が―― 「う、うん。ココよ、ココ。……もしかして分からない?それとも、わざわざボケようとしてる?」 「いや、何て言ったらいいんだろ。どう表現すればいいのか」 「……難しく考えないで、『人形の技術』とか答えればOKじゃないの?」 「……あ、あはは。そうか」 「もーう、セロったら。まだ寝起きで頭が回ってないとか?」 「(――無理矢理回されてリズムが狂った、って感じだけど)」 「ま、まぁまあ。……それで、説明の続きは?」 「うん。……で、その白の国最後の城主がクリスティナ姫」 「彼女は人形に対し、最高の教育を施せる『調律者』だと言われていた人」 「……それが今回、私が手を付けたお話の主人公のひとりなの」 「みたいだね。それに……」 ワカバのメモには名前が挙がったクリスティナ姫を始め、何人かの名前があった。 それらは、みんな歴史上で実在したと言われる人物たち。その中でも、一番有名なのが―― 「……アイン・ロンベルク」 「うん。この作品における『裏』の主人公なの」 「――でも、ずいぶん《 あくみょう》〈と悪名〉高い人を持ち出してきたね」 「えへへ。なんてったって『あの』アインだもん」 ――アイン・ロンベルク。 クリスティナ姫の後見人を務めていたというアインであれば、歴史に明るい者でなくても知っている。 白の国で長年『忠義の人』を演じつつ、裏で赤と青の両国に戦争を起こさせようと画策し、それが失敗に終わったことで主君であるクリスティナ姫を暗殺。 しかし、生前に姫が教育した人形によって導かれた赤と青の連合軍によって討ち取られた……と、歴史で伝えられている。 「いま見てもらったプロットは、史劇――『天使の導き』をベースにしているの」 たとえ舞台劇に興味のない者であっても、歴史の授業で逆賊アインの名と共に、そのタイトルぐらいは聴いたことがあると思われる作品で、一部では『呪われた演目』と呼ばれる。 その理由は、昔から『天使の導き』を上演しようとすれば、必ずといっていいほど何かが起こって失敗に終わる……との噂が消えることなく脈々と続いてきたため。 そしてそれは長い年月の中で、原典『天使の導き』に限らず、アレンジした作品――小説やテレビ・映画など他ジャンルのモノまでもが『呪いの対象』にエントリーされていった。 「《いわ》〈曰〉くつきの題材だけど、よく手をつける気になったね」 僕自身は、あまりこの手の話は信じないようにしている。 ……が、つい最近、『天使の導き』の上演を告知した劇団のクリスティナ候補の女優が高熱で倒れた……と新聞に載ったのを思い出すと、少し考えてしまう。 「まだ本当に書くかどうかは分からないわ。だって、その前にセロの意見を訊きたかったから」 「僕の?」 「うん。歴史学者としての意見」 「僕は史学を専攻しているだけの学生だから……」 「――じゃあ、未来の学者さんに、未来の小説家が尋ねるわ。どうかしら?」 ワカバの目は、決して僕をおだてたりしていない。自分の将来も含め、そう信じ切っている感じだ。 「……その前に僕が尋ねたいんだけど」 「どうぞ」 「……ワカバのプロットをざっと見る限りだと、逆賊アインが『良い人』で進むの?」 まだまだ粗いみたいで詳細が見えてこないが、至るところに『かっこいい!』とか、『やさしい!』とかの注釈がある。 「そうよ」 ということは、忠義の人の印象を強くするつもりだろうか? 「途中でも陰謀を企てるシーンとかなさそうだけど、最後の最後でドーンと裏切るの?」 「まだ考えてないけど、裏切らないの」 「へっ?」 「その流れだと、裏切りようがないでしょ」 「う、うん。だから疑問に思って……」 「私の疑問もそこなの」 ワカバの話は、ときどき迷宮入りすることがある。 いきなり結果だけを持って現れて、途中経過はワカバだけが知っているような状況だから……追いかけるのが大変。 「えっと、ワカバの疑問ってなに?オチがつけられなくて、僕に相談?」 「半分正解。私、アインを『イイ人のまま』終わらせるのってどうかな、って相談に来たの」 「どうして僕に?」 「それは、その……さっきも言った通りよ。歴史に詳しい人の目から見て、『それってアリなの?』かどうか」 「うーん。僕が口を挟むコトじゃないような気がする」 史上最大の逆賊と呼ばれるアインが、最後まで裏切らない。 ……しかし、それでお話が成立するのだろうか? 「(――まぁ、そこはワカバが何とかするところだから、いいか)」 「なんでなんで?あんまりにもカッ飛んでる?ダメ?」 「ダメじゃないと思うけど、僕に訊いても仕方ないよ」 「ど、どうしてよ!?だって、いつも私の書きかけを見て、意見くれるじゃない」 「うん、それは一読者としてね。でも、今回は歴史的観点で尋ねられたから」 「???」 「……ワカバ。分かっていると思うけど、人間に過去を変える力はないんだ」 「少なくとも、歴史の真実が変わることはない。それに僕は、アインをこの目で見たわけじゃないよ」 意地悪をするつもりはない。 ……が、自分の専攻する分野だけに、今回ばかりは黙って味方につくわけにもいかないのだ。 「…………」 「だから、悪いけど歴史がらみでは……何とも言えないや」 「……そ、そっか。そうだよね、あははーっ」 ワカバは笑っているけど、ショックが隠しきれてない様子。 「(――ごめんな、ワカバ)」 僕が、もっとうまく表現できれば良かったんだけど。歴史という単語を出されると、どうしても身構えちゃって。 「あーぁ。コレ、いけると思ったのは寝不足だったからかなー」 「(――うわぁ、そこまで《カラ》〈空〉元気!?)」 「待って、ちょっと待ってワカバ!それとこれとは別だよ」 「…………え?」 「――だって、ワカバのは『創作』でしょ?歴史の本を書くつもりもないよね?」 「そりゃ、そうだけど」 「そういう意味なら、アリだと思う。奇抜なアイデアだし」 ちょっといまさらなフォローになったけど、これは本心から思っている。 「そ、そっか。面白そう?」 「いいと思うよ」 「えへへーっ。そうよねー!いけそうよねー」 ワカバの顔に、いつもの明るさが戻る。 「(――よ、良かった……)」 「……あ、じゃあさ。出だしの文章とか見てくれない?コレなんだけど」 いそいそとバッグから別の紙束を取り出した彼女は、それを僕の方へズイッと差し出す。 「――っと、なになに?……『そのときチロは、彼女を抱き寄せて――』……」 「うっきゃーぁ!それ違う!それ、ちっがーう!!」 「へ?」 すごい勢いでひったくられた原稿は、半分以上クシャクシャ。 ワカバはそれを鼻息を荒くしながらカバンにしまい、 「見た?読んだ?理解しちゃった?」 と、まくしたてる。 「い、いや、その……声に出した範囲しか……」 「それならいいの!ううん、よくない!そこ、忘れて!」 「……忘れるも何も……あ、何となく忘れたよ、う、うん」 彼女のえらい剣幕の前には忘却しか許されないような気がし、とりあえず首を縦に振っておく。 「そう、それならいいの。いいの。いいんだけど……」 「……?」 こちらを見上げる顔が妙に赤い。 そして、それがさらに赤くなったかと思うと、 「き、今日はありがと!また、またねー!」 と叫び、部屋を飛び出してしまった。 「ワ、ワカバ?」 いきなりのことに追いかけるべきかどうかも判らず、僕は立ちつくすのみ。 「『ココも元気で!』」 「『……んぁー?』」 階下から聞こえたやりとりも一瞬で、すぐにドアがバタンと閉まる音が響いた。 「……なんだったんだろう、さっきの?」 ――いつもながら、ワカバは嵐のような女の子だった。 「……ココ。やっと、見つけた」 「あー、セーロー」 今日は週末も近い金曜日。ココとふたり、買い出しを兼ねて街に出たまでは良かった。 だけど―― 「何処かに行くときは、一声かけてね……って約束したよね?」 「あい。ごめんな、さい」 何かあったときのために待ち合わせ場所は決めてあったが、それでも振り返って姿が見えないのは心臓に悪い。 「……で、どうしてこんなところまで?」 「ハートー、ポッ、ポー」 「ハト?」 言われてみれば、数メートル先に数羽の《ハト》〈鳩〉が居る。 「まねっ、こー」 ココは鳩を指差しながらかがみ、後ろ手の格好で頭を前後に振ってみせた。 そして鳩が地面に落ちている餌を求めて歩き出すと、その後ろにピッタリとついてジリジリと移動を始める。 「……それで、この場所まで?」 「あい」 僕が本屋さんであれこれ悩んでいるうちに、路地一本分も追いかけっこをしていたとは。 「ごめんね、ココ。さぁ、そろそろ行くよ」 「あい。バイ、バーイ」 ココが鳩にサヨナラし終わるのを待ってから、僕は最後に寄ると決めていた『銀行』へ向かって歩き出す。 「なんてったって、今日は『入金日』だからね」 「おー。おカネー」 嬉しそうにはしゃぐココ同様、僕もこの日が待ち遠しい。 「(――親父が亡くなってからは、ずっと助けてもらいっぱなしだな)」 この街に越して数ヶ月で親父が病気で倒れ、看病の甲斐なく神様の元へと旅立ってしまった。 「(――あのときは、もう、本当にどうしていいか……)」 しかし、親父自身が自分の身体のことを承知していたらしく、その後の僕たちの暮らしについては『ある人物』に相談済みだった。 そしていま、僕たちはその人――レイン・ヘルマーさんのおかげで不自由のない生活を送っている。 「(――本来なら、僕はバイトをしながら勉強を続けなきゃいけないんだろうけど……)」 パトロンになってくれたレインさん《いわ》〈曰〉く、『その気持ち分、勉強に打ち込んでくれ』とのことで。 毎月決まった額でやりくりしつつ、働き始めたら少しずつ返せばいい……とまで言ってくれた。 「……レインさんには、頭が上がらないね」 「うん、うん」 「おっ?ちゃんと解って頷いてるのかな?」 「んぁー?」 その反応から見て、ココにはちょっと難しかったのかも。 「(――でも、これでいいのかな?)」 確かに、レインさんの配慮は嬉しい。 でも、どうしてそこまでしてくれるのかが不思議だった。 「(――血縁、ってわけでもないし)」 僕自身、レインさんと親父の関係を微妙に掴みかねている。 いま分かっている接点といえば―― 「(――ココ、ぐらいなんだよなぁ)」 この子のような《シスター》〈人形〉を造り出せる知識と技術を持ち合わせた人が『人形技師』と呼ばれる。 レインさんはその中でもトップにあたる特級を超えた――『国宝』の称号を持つほどの人。 だから、もしも僕の学費や生活費を援助してくれる理由がココに関係あるとすれば、何となくは納得……できる? 「(――うーん。親父、何にも教えてくれなかったからな)」 ココを家に連れてきたのは親父で、その頃の僕はまだまだ言葉を覚えたばかりぐらいの年齢だった。 そのため、僕にとってのココは『遊び相手のお姉さん』で、家族のひとりとしての認識しかなく、親父に《すいか》〈誰何〉するような存在ではなかった。 そして物心がついて尋ねる機会に恵まれたときも、取り立て急ぐ必要性も感じなかったから訊かずじまいのままで。 「(――結局、親父も亡くなって……)」 腰の高さで頭をヒョコヒョコさせる、小さなままの姉――《シスター》〈人形〉と二人暮らしになってしまった。 「んー?なぁー、にー?」 「何でもないよ、ココ」 人形、姉、妹。どれも呼び方は『シスター』だからいいけど、謎はいっぱい。 人間と見間違うばかりの外見の者もいれば、ココのような人形らしい《シスター》〈人形〉まで。 《 ドロップ》〈人形〉石と呼ばれている『貴石』の力で動く《シスター》〈人形〉は、現在でこそ数は少ないが……昔は、各地で技術を競うようにして造られていたとのこと。 ……とは言っても、一体を生み出すのにとても労力とお金がかかり、その完成度もピンからキリまでだったらしい。 「ココは、自分と同じような《シスター》〈人形〉に会ったことはあるの?」 「んー?わかりま、せん」 考えた素振りからして、僕の質問が分からないのではなく、『記憶にない』と言いたいらしい。 「そうかぁ。少なくとも、このモスグルンに居る人形はココだけだよね」 「あい。ボ〜ク、だけー」 街の人たちは初めの頃は物珍しさからよく声をかけてきたが、いまではもう『普通の子ども』と同じように扱ってくれる。……きっと、あと何年経ったとしても。 「最近は、怒られるようなことしてないかい?」 「へーきー」 「そう」 そんな問答をしながら、僕は駅近くまで来たところでココを抱きかかえる。 「じゃあ、中身は成長しているんだ」 「んぁー?」 この子は本当に面白い。喋ることは苦手でも、きちんと物事を考えられる。 そして、日々の生活の中で少しずつ物事を学び、少しずつ変わっていく。 そういう『人間くさい』ところが、みんなに愛される理由のひとつなのだろう。 「さぁ、ココ。銀行に寄るよ」 「あーい」 僕はその返事を聞きながら、何となくココの成長ぶりを見てみたくなった。 「たまには、ひとりで行ってみるかい?」 銀行に、ひとりで。ココにとっての、ちょっとした冒険。 ……いや、僕にとっても。 「うんうん」 ココは大きく頷いたあと、えっへんと威張ったポーズをとる。 どうやら自信満々のようで、僕の渡した通帳を手に自分の胸をドンと叩いてみせた。 「よし。じゃ、ココに任せるよ」 ……と言ってはみたものの、やっぱりココひとりだけでは不都合もあるので、バレない程度の距離を保ってついて行く。 ココは、テクテクと銀行前まで歩いていって、そこで一休み。それから、 「あー」 ひとり何かを納得し、両手でドアを押して中へと入っていく。 「(――いつもは僕が開けているから、少し戸惑ったのかな?)」 だとしたら、ひとまず第一関門は突破したことにはなった? 僕は充分に間を空けてから、ゆっくりと銀行のドアを開ける。 そして何食わぬ顔で店内を見渡し、カウンターの横にココの姿を見つけた。 「ダーイー」 「はいはい」 「きた、のー」 「ん?」 ココが声をかけたのは、顔見知りの……銀行員のおじさん。 普段から親切に応対する人で、ときどきココにお菓子とか渡してくれたりもする。 「(――このまえ街で見たときは、奥さんと一緒に歩いてたな)」 街でも評判の綺麗な女性だから、とてもよく目立つご夫婦だ。 「今日は、お兄さんと一緒じゃないのかな?」 「あい。ひと、りー」 「そうかそうか。それじゃあ、確かポケットに――おぉ、あったぞ」 おじさんはポケットの中から小さな飴を取り出し、そっとココの手に握らせる。 「他の人には内緒だぞ?」 「あー。いい、のー?」 「あぁ、いいよ。ところで、今日は……?」 「おカネ、くだ、さい」 「(――ストレートだね、ココは)」 通帳を渡さなかったら、かわいいギャングが誕生するところだった。 「……おー、お使いできたのか!よしよし、もうひとつ飴をあげよう」 「やたたー」 大喜びのココを見て満足そうなおじさんが、チラリと僕に視線を流す。 「(――あ、どうも)」 どうやら、初めから気づかれていたらしい。 苦笑して頭を下げれば、向こうは片手で『わかってるよ』の合図をくれ、ココへの応対に戻る。 「それで、いくら頼まれてきたのかな?」 「……ぜん、ぶー」 「おぉ、全部か。そういえば、セロくんはいつも全額だったな」 おじさんは納得し、ココから受け取った通帳をカウンターの向こうの従業員に渡す。 「いま、お金を用意するからね」 「あい、あい」 おじさんは、ココの相手をするのが自分の仕事……と言わんばかりのニコニコ振り。 後ろからきた従業員もつられて微笑み、現金が入った封筒をココに渡してくれる。 「……はい、これがお金。落とさないように持って、そこの席に座って待ちなさい」 「あーい」 言われた通り椅子に座るココを見届け、おじさんはこちらへ歩いてくる。 きっと、受け取りの正式なサインを求められるのだろう。 そして、ココに見つからないようにおじさんと合流すれば、開口一番、 「――セロくん。本当に全額で良かったのかね?」 と訊かれてしまった。 「えぇ、いつもと同じように」 レインさんの入金してくれる額は、毎月末固定。 それを持って色々な支払いを済ませて残ったお金が、次の入金までの大切な生活費になるのだ。 「……もしかして、何か問題でも?」 「いや、問題はないのだが――ひとまず、封筒の中身を見てくれないか?」 「どーし、た、のー?」 「……うん、どうもしないよ。どうもしないんだけど」 銀行を出ても、僕の疑問は尽きない。 「(――レインさん、どういうつもりなんだろう?)」 おじさんが言った意味は、ココから封筒を受け取ってすぐに分かった。 「『……これって!?』」 「『そうじゃろ?額が額だからな』」 入っていたのは、普段の固定額をはるかに上回る――5倍近いお金。 一瞬、おじさんがココを驚かせようとしたのかと思ったが、さすがにそこまで大胆なシャレはないだろうと気づく。 「通帳にカウントされた額とは同じ……」 「うーん?」 そうすると、レインさんが入金する額を間違えた? 「いや、それもちょっと変だよなぁ」 一桁ズレや似たような数字なら、それも考えられるけど。 「なんだろう?もしかして、先渡しとかかなぁ?」 それならそれで、何か一言あっても―― 「……あ、もしかして!」 普段通りなら、入金日付近に必ずレインさんから手紙が届く。 今回のお金については、そこに説明があるかもしれない。 「よし、急ごう。ココ、今日は寄り道しないで……って、ココ?どこに行ったんだい!?」 さっきまで側に居たはずのココの姿が見えない。 僕は、慌てて周囲を見渡す。 「ココ!」 「んぁー?」 すぐに後ろの木陰から返事があり、僕はホッとする。 どうやら、『ひとりかくれんぼ』をしていたらしい。 「かくれんぼは、また今度にしよう。ちょっと、家に帰って調べたいことがあるんだ」 「あい」 僕は、ココの手を引いて早足で歩き出す。 「あー、はしー、るぅ?」 「いいよ。じゃあ、家まで競争だ」 「……ぜぇぜぇぜぇ。ごめん、ココの勝ち……」 「えへ、へーっ。ボーク、いちば、ん!」 はじめは軽い気持ちで走り出したが、久しぶりだったせいもあり、『ココの全力』を忘れていた。 この子は、人間のように一時的な運動で疲れたりはしない《シスター》〈人形〉だった。 いったん動き出してしまえば、あとは目的を果たすまで同じペースで頑張ることができる。 「――運動不足だから、余計かも」 普段、こんなココと一緒に遊んでいるライトの体力は大したものだと思う。 「……あ、ココ。郵便とってくれるかい?」 「あーい。とり、まーす」 ココが手にして戻る手紙の束の中に、特徴的なモノ――レインさんが好んで使うオレンジ色の封書が混ざっていた。 「これこれ!」 早速、僕はココと一緒に自室へ戻って封筒を開けてみる。 「よんでー、よん、でー」 「待ってて、いま読むから。えっと、なになに……」 内容は至ってシンプルなもので、丁寧な季節の挨拶に始まる。 「……ココは、相変わらず元気にしていますか?、だってさ」 「げん、きー。ボ〜ク、とってもー」 「そうだね。泣き虫なのもずっと変わらないけどさ」 「きゃー」 恥ずかしがるココの頭を撫でながら、手紙の続きを読む。 「――心配ないとは思いますが、そろそろココの調律――メンテナンスが必要な時期かもしれません……か」 「んー?」 「……そっか。もう、レインさんには何年も診てもらってなかったよな」 前回は、この街に引っ越してくる前。親父も生きていた頃だから――5年前か。 ちょっとした不調は、街に居る元人形技師の調律師さんに頼んで済ませてきたので、あまり気にしていなかった。 ……が、言われてみれば確かに。 そろそろ、きちんとした調律を受けさせる時期かもしれない。 「『――では、ごきげんよう。今月の仕送り分に、旅費を入れておきました』」 「『――万が一にも足りなくなりそうなときは、《 ・ ・ ・ ・ ・ ・》〈レインのツケ〉にしておいてください』」 「レ、レインさん。どんな豪華な旅をしても、使い切れない額ですよ」 それに足りなければ《 ・ ・》〈ツケ〉にしろ、だなんて。 「レインさんの場合は、ツケじゃなくて……フリーパスなのに」 「パー、スー?」 「うん、レインさんは特別な人だからね。……それよりココ。レインさんに会いたいかい?」 「しって、るー?あれー?しら、なーい?」 「そうだね。知ってるようで、知らないかもね」 亡き親父から聴かされた話では、レインさんはココの調律を終えると決まって『自分との記憶』を消してしまうらしい。 だから、ココはレインさんに会うたびに『初めての人』だと思ってしまう……そうだ。 「……とにかく、詳しいことは電話かな?いつ頃行っていいのかも尋ねないとまずいし」 ココをベッドの真ん中に座らせ、枕元にあるカレンダーをめくりながら考える。 「(――夏休みのスケジュール的に、僕としては早い方がいいかな?)」 レインさんが住むのは『ジルベルク』と呼ばれる高原の村で、自然が豊かな観光地として有名。 このモスグルンから行くには、確か『ルノンキュール』から登山列車に乗り換えて……のコースだったと思う。 「えっと地図、地図は……と」 「こーれー?」 「おっ、ナイス!」 以前ワカバがくれた観光地図が、こんなときに役立つとは。 まずは、ココのために我らがモスグルンを指し示し、 「えっと、モスグルンがここで、ルノンキュールがここ」 中継点となる街をトントンと叩いてみる。 「うん、うん」 「そして、レインさんの住むジルベルクが……ここだね」 「おー、ジルー」 ココの指が、僕のなぞったコースを追いかけてジルベルクに辿り着く。 「知ってるの?」 「んーん」 ココはゆっくりと首を横に振ったあと、その指先を一気に北上させたかと思えば、さらに右へ。 「え?青の都が、どうかしたのかい?」 ココが指差したのは、海洋交易で栄える大都市だった。 「どーこ?」 「そこは、貿易港のある都市『ブリュー』だよ」 「しって、る?」 「知ってるといえば知ってるけど、行ったことはないんだ」 《ブリュー》〈青の〉都は、このモスグルンなど比べられないぐらい都会の街。一度ぐらいは行ってみたいな……とは思う。 「(――ん?でも、何でココは急に……)」 「ねぇ、ココ。もしかして、『ブリュー』を知ってるの?」 「んー?わかん、ない」 「……そうか。そうだよね」 僕はココに両手万歳をさせて地図を解放してもらい、それを見ながら電話へと手を伸ばす。 「(――ルノンキュールまでは急行で……いや、待て待て。いくらお金があるといっても……)」 ダイヤルしながら日程と旅費を試行錯誤するが、なかなかうまく段取りが組めない。 こういうときばかりは、数学が苦手な自分が恨めしかった。 「(――ちゃんとメモとってから電話すれば良かったかな?)」 旅行中は、きっちり支出入をノートに控えよう。 そして、あまったお金はレインさんにしっかり返さないと。必要以上にお金があると―― 「(――本とか買っちゃいそうで、怖いんだよね)」 「『……もしもし?どなたかな?』」 「セーロー、でん、わー」 「……あ、しまった!す、すみません!どうも、モスグルンのセロです!いつもお世話に……」 僕は慌てて受話器を手にし、詳しい話をして聴かせてもらうことにした。 「ふふん、ふ〜ん。たりらり〜ん♪」 「……ねーちゃん、ずいぶんご機嫌だね」 「まぁねっ」 「…………そんでさぁ、ちょっと……」 弟は気を利かせたのか、改行のタイミングで声をかけてきた。 「しっしっ!創作活動中は話しかけないで」 でも、いまの私の指は止まることを知らない。 この前セロに見せて好評だった『白の国のお話』の続き……というか概要が、頭の中でまとまり始めたのだ。 「いまの私は、誰にも邪魔されたくないの」 「へーっ」 「なに、その笑いは?ケーキの『余り』が出たなら、ライト食べていいわよ。今日は譲ってあげるわ」 たまには……じゃなくて、『いつでもお姉さんらしく』と。 「太っ腹だー」 「誰が太ってるって言いたいの?」 「ひっでぇ空耳早合点。ちなみに、ケーキじゃないよ」 「じゃあ、なぁに?貰い物のお菓子?」 そうだとしたら、少し休憩しても……いいえ、ダメよ!旬を逃してしまった創作活動なんて、紙くずの山を作るだけ。 ここは心を鬼にして―― 「まぁ、セロにーちゃんが買い物に来ただけだから……」 「早く言いなさいよ、バカっ!」 私は急いで書きかけの1行を締めくくり、 「このままにしておいて!」 とライトに言って階段を下りる。 タイピングも大切だけど、それ以上にセロとの会話が大切。何てったって……そう、貴重なアドバイザーだもん! 特に今回は、必要不可欠だから。 「へーん。やっぱり、セロにーちゃんだと反応違うよなぁ。……作品とセロにーちゃん、どっちが大切なのさ?」 「バカっ!」 そんなの……比べるモノじゃないわ。 戻って文句をつけようかとも思ったが、そんな余裕がないと悟り、裏口から一気に表通りへ。 予想通り、セロはウチでの買い物を終えてドアから出てくるところだった。 「あ、ワカバ」 「いらっしゃい……って、今日はひとり?」 「うん。ココは家で遊んでるよ」 「そうだったんだ。……で、このあとの予定は?」 「うん。ワカバに時間あったら、少し話でもしようかなって。それで、ライトに訊いてみたんだけど――」 「もしかしてあの子、私が居ないとか言った?」 「ううん。ライトは、『窓から飛んでくるよ』って」 「…………あはは……っ」 「(――ふ、ふん。いくら私だって、そんなことしないわよ)」 「でも、買い物終わったのにずっと店内に居るのも悪いから、外で待ってようと思ってさ」 「別に、中でいいのに」 ……セロって、変に生真面目なのよね。 「それで、私に話って何?……あ、待って!当てるから」 思わずノリで宣言した私に、セロは無言で軽く頷いてみせた。 「(――考えて、私)」 「……夏休みの予定について、とか?」 まだ始まったばかりだけに、旬の話題だから。 「すごい!よく分かったね」 「えっへへーっ。セロの考えることぐらいお見通し」 「そっか。じゃあ、これから気をつけるよ」 「(――気をつけるって、何を?)」 セロはときどき、素の笑顔で面白いことを言ってくれる。 「それで夏休み、どうするの?また図書館通い?」 去年の夏、セロに付き合って『3日間だけ』同行したことを思い出す。 「(――あれはあれで楽しかったんだけど……)」 初めはセロに座り、横から眺めたり、本棚から小説を持ってきたり、ちょっかい出してみたり……とか。 でも、それがセロばかりでなく図書館を利用する人の迷惑になると悟り、一緒に行くのを諦めた。 「(――真剣なところ邪魔するのも気が引けるし……)」 私自身も本に刺激されてやる気になるけど、タイプライター持ち込んでカタカタさせるわけにも行かない。 それに、書いたら書いたで、次は『誰か』の意見を聞きたくなるもん! あと、恋愛がらみのシーンとか見せるの恥ずかしいし―― 「(――もし笑われちゃったりしたら、絶対ショックで立ち直れない自信ある……)」 「……というわけで、ココと一緒なんだ」 「えっ?ココ?何の話?」 「夏休みの予定でしょ?」 「あ、あぁ、そうだったわね。うん、夏休みの予定」 私の頭は去年のことで、いっぱい、いっぱいだった。 「……で、ココと?いつも一緒じゃない。たまにはひとりとか、ダメなの?」 「さすがに、ジルベルクまでココひとりで行かせるのは無理だよ」 「……ふたりの今後について、とか?」 たまには大胆な質問とかしてみたり……って、バカ、私! こんなジョーク、セロに通じるわけないじゃない! 「うん、よく分かったね」 「そりゃ、セロのことですから……って、なにその展開!?どうやったら、いまのが正解になるのよ!?」 「え?」 「……『え?』じゃないわよ、え、じゃ。それは私の方」 「??」 まだ付き合ってもいないのに、そんな未来の話されても困る。 だって私たち、それぞれ家族だって居るし、結婚反対されたからって駆け落ちとかできるわけないし。 「(――あぁー、私、ダメ……)」 小説ばっかり書いてるから、何でも話が飛躍しちゃう。 セロは、何が言いたいんだろう? 普通に考えたら……交際の申し込み、からよね? 「いい、落ち着いてセロ。あなたひとりの問題じゃないの。ご、誤解しないでね。私、別にイヤだとか言ってないわよ。ただ、こういう問題には、その、心の準備っていうか……」 「えっと、うん。心の準備……必要、かな?」 「だって、未来が大きく変わるかもしれないのよ?」 「うーん。確かにそうだけど、大きく……かぁ」 「もしかして、あまり真剣に考えてないの?」 「そんなことないよ。いつだって真剣さ」 決して怒ったりはしないが、それでも真剣な表情でこちらを見つめるセロ。 そんな目をされたら、私、まっすぐ見返すのが―― 「端から見ればお気楽に見えるかもしれないけど、これでも結構色々とあるんだよ」 「う、うん。そうね」 ずるい、急に優しい声の変化球だなんて。 どう反応したらいいか、迷って答えられなくなる。 「(――私だって、本当はセロに迷惑かけてるんだ……って分かってるんだけどさ)」 何故かいつも、先走る格好になっちゃうんだもん。 「(――あーぁ。どうしたら、うまくセロとやっていけるの?)」 「……って、ワカバ?僕の話、聴いてる?」 「えっ、な、なにが?『ふたりの話』について、でしょ?」 「う、うん。僕とココのプライベートな話で悪いけど」 「……えっ?セロと、ココ?」 「そうだよ、僕とココの『ふたりの今後について』の話」 それは、セロと私……じゃなくて、セロとココ? 「あはっ、あはははははははっ。そ、そうだったの!?そうよねー、あったりまえー」 ……今回も、私のフライングってことね。 「それでね。今年はココと一緒に、ジルベルクまで行くことになったんだ。だから、去年みたいにワカバと……」 「え、ちょっと待って!」 セロとココの話で、私が関係なかったのはよく分かった。 でも、そこから先はチンプンカンプン。 「……何だろう?ねぇ、なぁーに?」 それなりに考えてみたけど、見当がつかない。 いつもの私なら、意地でも答えを探すけど―― 「珍しいね。普段のワカバなら、当たるまで言うのに」 「……ぅっ。そこまで言うならいいわよ。当ててみせるわ」 「(――なによ。たまにはセロに主導権あげようと思ったのに)」 こんなことなら、もっとこねくり回して考えれば良かった。 さぁ推理するのよ、私。 出不精なセロがわざわざ店まで来たってことは―― 「(――それなりに重要な話?)」 「……だから、ジルベルクまで行くことになったんだ」 「(――ジルベルクね。それはちょっと遠いわね)」 のんびり屋さんのセロじゃ、何日かかるか分からない。 「(――って、列車使うわよね普通。あはははっ……はぁ?)」 ちょっと待って!私、何だか話の流れに乗り遅れてない? 「ジルベルク?ジルベルクって!?」 「湖がキレイで有名な白銀の村だよ。モスグルンからだと、ルノンキュール経由になるね」 「わ、私だってそれぐらい知ってるわよ!写真でだって見たことあるし」 私が訊きたいのは、そんなことじゃない。 「どうしてセロが、白銀の村――ジルベルクまで行くの?」 「……だからココのメンテナンスで、って。僕、その話をしてたよね?」 「聴いてないわ」 「えっ!?だって、ワカバは普通に頷いてたし――」 「それはこっちの話。とにかく、初耳だもん!」 「……そっか、ごめん」 「あ、い、う……うわっちゃぁ……」 なんでセロが謝るの?どう見たって悪いの、私なのに。 「もう少し、きちんと話すべきだったね。ごめんよ、ワカバ」 「う、うん……いいの。あんまり謝らないで」 「(――どうして私って、いっつもこうなんだろう?)」 「実は、もう何年もココのきちんとした『調律』をしてなくて。そろそろどうかな?……って、打診をされたんだ」 「……で、そう言ってくれた人が、僕のパトロンでもある人形技師のレインさんで――」 「レインさん?」 セロの口から、何回か名前だけは聞いたことがある。 確かお父さんの親友で、セロの学費や生活費などを支えてくれている人。 でも、その人が『人形技師』だって話は初耳だった。 「(――人形技師。レイン、さん?)」 確証はないけど、思い当たる人物がひとり居る。 「……ねぇ、セロ。もしかして、もしかして、なんだけど」 「ん?」 「その人って、すっごく有名な人形技師だったり、する?」 「あー、うん。そうだね。国宝って呼ばれるぐらいだから、ワカバも知ってるかも」 「知らないわけないでしょー!」 信じられない!セロが、セロのパトロンが……国宝レインだったなんて。 「――うわぁ、なんだろう、この気持ち?ねぇ、もしかして私だけ知らなかった?」 「……いや、いま『知らないわけない』って言ったのはワカバじゃ……」 「そうじゃなくてー。セロの身近に、そんな有名人が居るなんて知らなかったの……私だけ?」 「それはないと思うよ。少なくとも僕はいままで、パトロンが人形技師のレインさんで……とか、話した記憶ないし」 「えっ、そうなの?じゃあ、私が初めて?」 「うん。誰も訊かないし、聴いたからって何かあるわけでもないでしょ?」 セロって、意外と無頓着なのね。 普通だったら、自慢するところなのに。 「……まぁ、そんなわけで。夏休みの最初は、ジルベルク行きなんだ」 「……そうだったんだ。何日ぐらいかかるの?」 「うーん。行って帰って、トータル1週間ぐらいの予定になりそうだね」 見送ったら、その次の週の同じ曜日までセロに会えない。 「(――なんか、寂しいな……)」 高名な人物――人形技師のレインと関係があると知らされたことも相まって、目の前に居るはずのセロが遠ざかっていく。 「(――きっと私なんか、夏休みはずっとお店の手伝いしながら、劇の原作と脚本に追われて……)」 これから演劇に出てくれる役者も探さなきゃいけないのに、ひとりじゃ何から手を付けていいものか。 「(――セロだったら、何とかしてくれると思ったんだけどなぁ)」 いまさらながら、無茶な計画を立ててしまったと後悔する。 かといって、せっかくのエントリーをキャンセルするなんて、挑戦もせず負けたみたいで悔しい。 「(――そうよ。私がめげてどーするの!?勝負は、これからじゃない!)」 「……ねぇ、ワカバ。何か欲しいお土産とかある?」 「お土産?」 「うん。本当はこういうのって訊かない方がいいかもしれないけど、渡して困られるぐらいなら先に……と思って」 「そんな!セロがくれるモノ、もらって困るわけないでしょ」 ……って、私ったら何を言ってるの!?変に意識されちゃったら、私―― 「え?う、うん。そりゃ、信じてくれるのは嬉しいけど、万が一変なの買っちゃう可能性もあるし」 ……って、セロも照れるとこ間違えてるし!バカ!鈍感! 「(――うわぁぁん、もう!どうしてこう、みんなうまく行かないのよー!)」 誰も見てなかったら、両手両足でジタバタしてやるのに! 私は呼吸を落ち着け、少しでも冷静になろうと努める。 「……あ!そうだ、ワカバ」 「な、なに?」 「写真とか、どうかな?ワカバがお話書くときに役立ったりしない?」 「……写真……」 それは嬉しいけど、その風景はセロだけが見て感じたものであって―― 「(――私の知らない時間の風景、なんだよね……)」 「……どうせなら、一緒に行って……自分で写真撮りたい」 自分でも分かるぐらいに思考はネガティブ。セロの厚意ですらも、自然に受け入れられなくなっている。 「……そう」 「うん」 「じゃあ、一緒に行く?」 「……うん。行けたらいいんだけど」 セロと一緒に色々なところを回ったりして……気づいたら、これまで以上にセロと仲良くなってたり、なんて。 「あんまり、乗り気じゃない?」 「……何が?」 「一緒にジルベルク行くって話」 「へっ?」 もしかして、私また聞き逃し? 「いま、ワカバが『一緒に行きたい』って言ったんだよね?」 「…………」 あー、思わず言っちゃったような気がしないでもない。 ……けど、何、この展開?もしかして、期待してもいいの!? 「……あの、ね。モノは相談なんだけどね。ダメならダメって言って」 「うん」 「もし良かったら、私もその……ジルベルクまで同行したいなー、みたいな。あははー」 ……とか、軽い感じで口にしちゃったけど、心臓はバクバク! 「……うーん」 「…………やっぱり、ダメ、だよね?」 「ううん、それは構わないよ。ただ、平気なのかな、と思って」 「何が?」 「行き帰りで一週間かかる旅だから、軽い気持ちだと――」 「平気!行く気満々!それに、こう見えても貯金だってあるし!」 ――きっとある!あったはず! 「でも、いいの?大切なお金を――」 「大丈夫!」 ここで行かなきゃ、私ぜーったい後悔する。 だって、一週間の旅でセロが可愛い女の子と出会って恋に落ちちゃう可能性だってあるんだから! 「私、未来の自分に投資するんだもん!」 「……投資って……あ、自分の執筆に役立てるとか、そういうこと?」 「……う、うん。そう。そうなの!ほら、やっぱり何事も経験って言うじゃない?リアリティには必要不可欠なの!」 それだけじゃなくて、本当はいますぐにでも役立つ―― 「…………少し、考えさせてもらえるかな?」 「……あ、ありが、とう」 思わず勢いがつき過ぎて、余計なことまで言いそうになった。 「(――そうよね)」 当たり前のこと忘れていたけど、先方の都合だってある。 余計な人間――それも面識のない者がお邪魔したりするのは、あまり良くない。 「(――あーぁ。一週間か……)」 いつでも会えるはずのセロが、しばらく居なくなる。そう思うだけで、何だか心が重くなって―― 「いいよ、ついてきて」 「……は?」 「ジルベルクまで、一緒に来てくれる?」 回答、はやっ! 「えっ、ちょっと。レインさんに確認とかしなくていいの?」 「ん?平気でしょ」 「待って待って。そこ、セロが決定権あるの?」 「――うん。レインさんから、友達を一緒に連れてきてもいいよ、って言われてたから」 「…………なんだぁ。それならそうと……」 「でもね、ワカバ。だからって、誰でも連れて行っていいわけじゃないと思うんだ」 「えっ?」 「……レインさんから渡された旅費にも限りはあるから、考えなしに《だれかれ》〈誰彼〉誘うことはできない」 「いつかは返すお金だけど、いまは援助してもらっている以上……やっぱり節度は大切だと思うんだ」 「そうね」 セロの言うとおり。 「だけど、あんまり渋って『行く意思のある人』を遠ざけるのも情けない話だし」 そう言ってセロは頭を掻きながら笑い、私をジッと見つめた。 「……だから、ワカバ。一緒に来てよ」 「……私なんかで、いいの?」 「うん。それだけの熱意があるなら、きっとレインさんも歓迎してくれる。それに――」 「……それに?」 「――未来のワカバに投資するのも悪くないかなぁ、って」 どうしてセロは、そんな台詞を真顔で言えるんだろう? ……言い直される身の恥ずかしさも、少し解ってほしいな。 「……って、セロ!?アナタが旅費を負担?」 「最終的には返すって意味では……そうなるかな。もう少し先の話になるけど」 「ダメダメ!私が連れて行って言ったんだから、それダメ!払うのは私じゃなきゃ、おかしいでしょ!?」 「おかしくなんかないよ」 「どーして!?」 「だって僕は、ワカバを誘いに来たんだから」 ……もしかして、もしかして。話って、そういうことだったの? 「で、でも!だったらどうして『お土産』とか言ったの?」 「だって、そのとき……ワカバ、あんまり乗り気じゃない感じだったから。興味ないのかな、と思って」 「あっ、あれはセロが旅行だって聞いて……その……」 まさか誘ってくれるなんて、思いもしなかったから。 「……?まぁでも。ワカバの気持ちも分かったし、誘いに来て正解だった」 「……セロ……」 「じゃあ、スケジュールなんだけど……」 「う、うん!いつから?私、いつでも平気よ!」 最高!今年の夏は、すごい休暇になる! セロがポケットから出したカレンダーを横目に、明日からのことを考えるだけで心が躍る! 「(――よーし!これなら旅行中に作品も完成して……)」 それだけじゃない。その先にも行ける、かも!? 「(――えへへへへっ)」 「……何か説明でおかしいところ、あった?」 「ううん、違うの!何でもないのー」 思わずゆるんだ頬を両手で戻してセロの話に耳を傾けるが、それでも気持ちはふわふわしてくる。 「(――セロと旅行できるのも嬉しいけど……)」 追い風が吹いてきたことに、喜びが隠しきれない。 「(――勢いでエントリーしちゃったけど……きっと入選しちゃうわ)」 私は自分が店内に貼った『モスグルン演劇祭』のポスターを思い出す。 まだ誰にも言ってなかったけど、実は―― 「(――新人脚本家部門に、エントリーしてるのよねー)」 「ACVは、アナザー・キャラクター・ビューの略ね」 「――視点変更が近づいたとき、画面左上に特別なアイコンが現れることがあるの」 「――こんな風に、ね」 「このままにしておくと、視点変更は『メイン』の人へ」 「視点変更になる前に切り替えると、『アナザー』の人へ」 「もちろん、『アナザー』を選んだけど『メイン』に戻す……とかも可能よ」 「メインのお話の裏側で、どんなことが起きていたんだろう?……なんて思ったら、選んでみてね。もしかしたら、大きくお話の流れが変わるきっかけが生まれるかも」 「触らなかった人は、次回……試してみてね」 私は浮かれすぎて、セロに大切なことを聞くのを忘れていた。 それは、私たち以外に『誰が』旅行に参加するかということ。 すでに誰かを誘ったのか、それともこれから誰かを誘うのか? 電話をかけて訊けば済む話なんだけど、かけるタイミングが難しい。だって―― 「ん?ねーちゃん、なにさっきからウロウロしてるの?」 「……何でもないの。それよりライト、早く寝なさいよ」 「早く寝ろって、まだ7時じゃん!夕飯食べたばっかりだし」 「明日の朝も早いんでしょ?」 リビングにライト本人が居る。これが一番の問題だった。 「(――セロは、ライトも誘ったのかしら?)」 あのとき私を呼びに来たのはライトだから、先にセロからジルベルク行きを聞かされていた可能性はある。 でも、それらしい素振りは見せなかったし、《ライト》〈弟の〉方からもそれに関する話を持ちかけてこようとしない。 「(――聞かされてない、のかなぁ?)」 それとも私が誘われたかどうか判らなくて、話すに話せない? 「……うーん」 8:2で『知らない』が有力だけど、下手に本人を突いて、 「『えーっ、聞いてねぇ!オレも行きたい!』」 なーんて騒がれたら、セロに迷惑をかけることになりかねない。 「(――それに、旅費の件もあるし)」 ひとり増えれば、それだけの額が未来のセロにのしかかる。 ライトが誘われているなら、それはそれで良し。 しかしそうでないなら、私が声をかけるのは―― 「なぁなぁ、ねーちゃん」 「なぁに?」 「ねーちゃんさぁ、なーんかオレに隠し事とかしてない?」 いつになく勘が冴えた突っ込みに、あやうく慌てそうになる。 「…………ないわよ」 バレないように、冷静に、冷静に。 「じーっ」 「……そんなに凝視して目が疲れたでしょ。早く寝なさい」 「だからいまから寝たら、夜中に目が覚めちまうってば」 「むむむぅ」 「それに、食べてすぐ寝たら太っちまうよ」 「いいんじゃない、少しぐらい太った方が」 「いやだね。それよりねーちゃんの方こそ、少し太れよ。特に、『上の方』とかさ」 「(――上の、方?)」 「胸だよ、ムーネ」 「なっ、なんですってぇ!」 「(――私が気にしてることを!)」 「いまがそれぐらいじゃ、急がないとダメなんじゃない?」 「き、きぃぃぃ!何いってんの!これからよ、これから!びっくりするぐらいおっきくなるんだから!」 「無理無理。胸だけでっかくなっても、身長がそれじゃ……」 「伸びるの!これからよ!」 「知らねえの?女の子の成長って、ねーちゃんぐらいの歳で止まるらしいぜー」 「むきぃぃぃ!」 こんな弟のために、してあげることはなーんにもない。 「何処行くんだよ、ねーちゃん?」 「もう寝るのよ!」 私は、電話の件をスッパリ忘れることにして部屋に戻る。 「(――怒った!絶対、《ぜーったい》〈絶対〉ライトなんかに声かけない!)」 そうよ!ライトには店の手伝いがある。 夏休みの宿題だって、去年は最後の最後でヒーヒー言って私やセロに泣きついてきたくせに。 「(――ライト。アンタはお留守番)」 私が決めた、いま決めた。 ……泣いてわめいても、連れていってあげないんだから! 「ん?ねーちゃん、なにさっきからウロウロしてるの?」 オレの方をチラチラ見ながら、リビングを行ったり来たり。 こっちとしては、すっごく気になる。 「……何でもないの。それよりライト、早く寝なさいよ」 「早く寝ろって、まだ7時じゃん!夕飯食べたばっかりだし」 「明日の朝も早いんでしょ?」 「(――そりゃ、そうだけどさ)」 妙にツンケンされてるけど、その理由が見あたらない。 今日はまだ、ねーちゃんを怒らせるようなことはしてないし。 ……それとも、もっと前の『何か』を根に持っているとか? 「(――ねーちゃんって、ときどき昔のこと持ち出すしなぁ)」 そんな過去の話題で責められて、誰が謝れるかってーの。 だいたい、ねーちゃんだって悪いんだ。いっつも大人ぶって、オレのすることにケチつけて。 小さい頃と違って、年の差なんてどんどん埋まるのにさ。 「……うーん」 「(――騙されないぞ)」 こういうときのねーちゃんは、オレに何かを隠している。誤魔化す方法を探しているか、やり込める算段か。 「(――それとも、オレをリビングから追っ払いたいのかな?)」 どっちにしたって、面白くないのはオレの方だ。 「なぁなぁ、ねーちゃん」 「なぁに?」 「ねーちゃんさぁ、なーんかオレに隠し事とかしてない?」 「…………ないわよ」 「じーっ」 オレは、わざとらしく呟きながらねーちゃんの動向を見守る。 「……そんなに凝視して目が疲れたでしょ。早く寝なさい」 「だからいまから寝たら、夜中に目が覚めちまうってば」 寝ろ、寝ろってしつこい。 「むむむぅ」 「それに、食べてすぐ寝たら太っちまうよ」 「いいんじゃない、少しぐらい太った方が」 うわっ、こっちの顔も見ずに言ったよ! 「(――そっちがその気なら、こっちだって!)」 「いやだね。それよりねーちゃんの方こそ、少し太れよ。特に、『上の方』とかさ」 ねーちゃんの眉がピクッと動いたのは、オレが何を言わんとしているかに気づいた証拠だ。 「(――でも、ダメ押ししちゃうもんねー!)」 「胸だよ、むー、ね」 「なっ、なんですってぇ!」 「いまがそれぐらいじゃ、急がないとダメなんじゃない?」 「き、きぃぃぃ!何いってんの!これからよ、これから!びっくりするぐらいおっきくなるんだから!」 根拠のない未来を夢見るのはいいけど、現実は厳しいと思う。 「無理無理。胸だけでっかくなっても、身長がそれじゃ……」 「伸びるの!これからよ!」 必死なねーちゃんが面白くて、さらに追い打ちをかけるオレ。 「知らねえの?女の子の成長って、ねーちゃんぐらいの歳で止まるらしいぜー」 「むきぃぃぃ!」 顔を真っ赤にしたねーちゃんは、右足で何度も床をドカドカと踏みならしてからドアの方へ。 「何処行くんだよ、ねーちゃん?」 「もう寝るのよ!」 振り返ってそう叫ぶと、開けたドアも閉め損ねたまま自分の部屋へと戻っていく。 「ありゃりゃ。ちょっと言い過ぎたかな?」 それにしても、ねーちゃんは何でオレにあそこまでしつこく『寝ろ寝ろ』って言ったんだろう? そのくせ最後は、『自分が先に寝る』とかって、なんだよ。 「ま、いいけどさー」 ねーちゃんが居ないなら居ないで良し! かーちゃんが店を閉めて戻るまで、この空間はオレのモノ。 テレビのチャンネルだって好きに変えられるんだ! 「あ、もしかして。何か観たいテレビがあったとか?」 試しにチャンネルを回して、ねーちゃんが好みそうな番組を探してみる。 でも、それらしきモノは見つからなかった。 「……へっ、いいや。ねーちゃんなんか、しーらねっと」 オレは大好きなアニメにチャンネルを固定し、イスふたつに寝っ転がって観賞を始める。 「……あはははっ!相変わらず『ネコ王子』はバカだなぁ」 テレビに映るネコ《ひげ》〈髭〉の生えたダメ王子の失敗は、いつ観ても面白い。 追い出されたお城に戻ろうと、あの手この手で頑張る割にはいつも報われずに終わる。 そして最後は、必ず真っ赤な夕日に向かって自らの剣を抜き、『次こそは!』って誓いを立てるんだけど―― 「あはははっ!今回は犬に尻かまれてやんの!」 絶対に決まらないところが最高! オレは両手を叩いて振り返り、 「観てみろよ、ほら……」 なんて笑ったけど、当然……オレしか居なかったわけで。 「(――ちぇっ。何か、こっちが意地悪して追い出したみたいじゃんか)」 先にオレを追っ払おうとしたのは、ねーちゃんの方なのに。 「……残ったお菓子、くっちゃおっかなー?」 わざと大きい声で宣言してみるけど、さすがにねーちゃんの部屋までは届かないかな? 「…………なーんてね」 反応がないと、正直つまらない。 あんな口うるさいねーちゃんでも、居ないよりは百倍マシか? 「『――いい、ライト?誰かと喧嘩して自分が悪いな……と思ったら、すぐに謝るの。そうしないとね……』」 「いつまで経っても仲直りできないんだろ?解ってるって」 偉そうなこと言うくせに、肝心なときに居ない。世話のかかるねーちゃんだよ、まったく。 「……たまには折れてやっか」 オレはねーちゃんの部屋の前まで行き、深呼吸のあとドアをノックしようと右手を持ち上げた。 ……けど。 「『あー、もう腹立つ!ぜーったい連れて行かないんだから!』」 そんな声が聞こえてきて、叩くタイミングを失ってしまった。 「(――連れて行かない……って何?)」 あの怒りようからして、対象はオレ? だけど連れて行く云々なんて話、これっぽっちも心当たりがない。 「(――うーん?)」 こういうときに限ってその先がタイプライター音ばかりで、独り言もひとつも聞こえてこなくなる。 「(――オレ、何か知らない間に失敗したのか?)」 こっちが素直に謝って、すぐに機嫌が直るねーちゃんならいいけど……それだけは期待できない。 「(――う、うぅ。な、なんかすっげぇ気になるよ……)」 「……ってわけなんだー」 「ふん、ふん」 昨日の夜、ねーちゃんの部屋から聞こえてきた言葉の意味が分からず、考えて考えて考えて――寝不足になっていた。 朝の配達はあくびの連発だったけど、自転車でコケるようなドジは踏まない。 「……なぁ、ココ。オレの話、何となく解る?」 「あい」 ゆっくりと頷くココ。 ……少しは相談相手として、期待してもいいのかな? 「ねーちゃんの『オレを連れて行かない』って、何なんだよー」 「うーん。んぁー?」 「おっ、何か分かったのかココ!?」 「んーん」 「……だよなぁ」 姉弟のオレが悩んでいるのに、何の関係もないココが分かるはずもないか。 「あーぁ。一晩明けたから、謝って教えてもらおっか」 ねーちゃんの心の広さに頼る!……という選択肢を考える。 「…………無理っぽいな。だいたい『何処でその話を?』とか訊かれたら……」 立ち聞きした、としか言いようがないもんな。 「……うーん。もしかして、遊園地とか連れて行ってくれるつもりだった?」 なさそうな話だけど、ねーちゃんの気まぐれでそんな計画があったとして。 オレがタイミング悪く怒らせて……だとしたら、ショックがデカ過ぎる。 「ゆーえん、ちー?」 「……あ、あぁ。まず、あり得ない話なんだけど」 「いく、のー?」 「うわっ!行く気マンマンだろ、ココ?」 「えへ、へー。ボ〜ク、もー」 「そりゃ、もしも遊園地に行くならココも連れていくよ」 「やたたー」 「だけど、あの《 ・ ・ ・ ・ ・》〈ねーちゃん〉に期待するだけ無駄だって」 「カバー、やさし、いー」 「優しくなんてねーよ。きっとオレを置いてひとりで楽しんでくるんだぜ」 そう考えると、すごく腹が立ってきた。 「なんでぇ、ねーちゃんだからって。ぺっぺっ!」 「ぺっ、ぽー」 「ココはマネしちゃダメだって」 あんまり似てなかったけど。 「どうし、てー?」 「……うーん、そのな。ツバを吐くのとかって良くないんだよ」 オレ自身がやって見せたことだけに否定しづらいが、ココに変な癖をつけさせるわけにはいかない。 「(――セロにーちゃんと約束したもんな)」 ねーちゃんは、オレがココと『ただ遊んでいるだけ』だと思ってるだろうけど、本当は違う。 セロにーちゃん《 ・ ・ ・》〈たって〉の頼みで、お守りをしているのだ。 「……あー。そうすると今年の夏も、オレはココと一緒かー」 「うん、うん」 「よーし!じゃ、ふたりでどっか行こうぜ!少しぐらい離れたところに旅行とか!」 「りここ、う?いく、よー」 「うっし!何処がいい?思い切って、シェンナとか?」 あそこなら、このモスグルンなんかよりずーっと都会だから、遊園地だってあると思う。 「んー、んー。ちが、うー」 「えー。じゃあ何処?」 「ジール……ジール、ベー、べー」 「……ジルベルク?」 「うん、うん。ジールーベー」 ジルベルクって、山と湖のある観光地……だったよな? 「うーん。モスグルンなんかより、ずっと田舎だぜ」 「ボ〜ク、いく、よー」 「遊園地とかないけど、いいのか?」 ちょっと考えるココ。 やっぱり、たまにはジェットコースターとか乗りたいよな? オレだって、滅多に乗るチャンスがないから―― 「セーロー、と、いく、のー」 「…………ひでぇ!誘ったのオレなのに」 田舎のモスグルンと都会のシェンナを天秤にかけていたはずなのに、いつの間にかセロにーちゃんが出てくるなんて。 「んー?」 「だから、どうしてそこでセロにーちゃんの名前が……」 「ラーイー、も、いく、のー?」 「(――うわぁ、『も』とか言われた……)」 それだとまるで、誘ったオレが『オマケ』みたいじゃないか。 どっちかって言えば、セロにーちゃんも一緒に……ってことなんだろうけどさ。 「……ん、待てよ?」 実はふたりの会話って、食い違ってるんじゃないか? オレがシェンナに誘ったら、ココは『ジルベルクに行く』と言う。 セロにーちゃんと行く。オレも行くのか?……と尋ねられる。 それって、もしや―― 「もしかしてさ。ココって、セロにーちゃんとジルベルクまで旅行……するの?」 「うん、うん。メン、テー」 「…………な、なんだよぉ。ココまでどっか行くのかよー」 オレはがっくりして、野原に寝っ転がる。 この夏、ココですら旅行するのにオレは―― 「ラーイー、も、いーく?」 「…………うぅぅぅ、い、行かねーよ!」 ――行きたいのが、本音だけどさ。 「さぁ、鍵もかけた。荷物も持った。出かけるよ、ココ」 「あーい」 レインさんのところまでが往復で4日、滞在を3日の計算。モスグルンに越してきてから、初めて旅行で長期不在となる。 「……いまさらだけど、忘れ物とかないよね?」 「うん、うん」 ココは、自分が手にしたお菓子の袋を頭の上まで持ち上げてみせる。 それはココ自身が選びに選び抜いた……と思われる、飴やクッキーなどの『ぎっしりセット』だった。 「列車に乗ったら、僕やワカバにも分けてね」 「あい」 嬉しそうに頷くココ。 その手を引いて街まで歩く道のりも、しばらくはお預けになるわけだ。 「ココは、お友達に『しばらく帰りません』って、言っておいたかい?」 「んーん。まーだー」 「……そうか。じゃあ、帰ったら教えてあげてね」 ドアの低めの位置に張り紙しておいたから、ココのお友達もきっと見てくれると思う。 僕は家の周りを一回りしてから、ココと一緒に街へ向かって歩き出す。 「ワカバは気が早いから、もう駅に居たりするかな?」 「カバー?」 「そう、ワカバね。気が早いから、30分前に居そうだけどね」 ココの喋りは特徴的で、長めの名前は『前か、後ろか』が少しカットされてしまう。 そして、男の子は『前』で、女の子は『後ろ』で名前を呼ぶ法則があるらしい。 「(――ワカバは『カバー』で、ライトが『ラーイー』……)」 最初のうちは、呼ばれていると判らず無反応な人も多い。 「……そういえばライト、旅行に来ないんだよね」 「……うん」 ワカバを誘いに行った日、先に会ったのはライト。 しかし、ライトは店の手伝いをしていたように見えたので、ひとまずワカバを優先に話を進めてしまった。 その後、ワカバ経由でライトに『参加意志があるかどうか?』を尋ねようと思っていたのだが―― 僕よりも先に、ココから旅行の話が流れたらしく、 「『……ラーイー、いかな、いー』」 の伝言が我が家に届いた。 「一応、ワカバに電話で確認はしたんだけどね」 彼女曰く、『家の手伝いや宿題があるからライトはダメ』と。 無理に誘うのも迷惑なので、僕もそれ以上は言わずにおいた。 「……ラーイー」 「……まぁ、一週間後には会えるから。お土産、買ってきてあげようね」 「うん」 メンテナンスが終わったら、なるべく早く帰ってくることにしよう。 僕たちは話しながらのんびり歩いていたので、駅前に着いたのは約束の5分前。 いつもなら、ワカバが待ちくたびれたような顔で出迎えてくれるはずなのだが―― 「……あれ?まだ来てないのかな?」 めずらしく、彼女の姿が見えない。 「どこかで買い物でもしてるとか?」 待ち合わせは発車時間までに余裕を見ておいたから、問題はないと思う。 それに、いざとなれば近くの公衆電話から確認もできるし、彼女の家もそう遠くないので走っていける。 「カバー、さが、すー?」 「いや、動かない方がいいよ。そうしないと、入れ違いで……」 「あ、カバー」 「ほらね!」 まさにドン・ピシャリのタイミング。 「おーい、ワカバ。こっちこっちー」 僕とココは、建物の影に見え隠れする彼女に手を振る。 ……が、向こうは肩掛けカバンだけでなく、両手には大きな荷物まで持っていたから、黙々と歩いてくるだけだった。 「やぁ、ワカバ。めずらしく時間通りだね」 「なぁに、その言い方?それじゃまるで、私がいつも遅刻してるみたいじゃない」 「いや、悪い意味じゃなくて。めずらしく遅いなぁ、って」 「うーん。どれを持って行くか悩んで、悩んで、色々減らして」 「……どれだけ持って行くつもりだったの?」 あとは、背中に無理矢理リュックでも背負うぐらいの空きで? 「だって、一週間の予定でしょ?あれやこれや考えると、もーうパンクしそうで」 ……いまでも充分パンクしてると思う。 「それに、これでも泣く泣く商売道具も置いてきたのよ」 「商売道具って?」 「……タイプライター」 「あの大きい奴?」 彼女が自宅のリビングで打っているというタイプライターは、とても立派な造りの物で。 《 ワ カ バ》〈持ち主〉が抱えたら、身体半分は見えなくなりそうな大きさがあったはずだ。 「初めはアレだけは何とか……って思ってたけど。さすがに」 「そりゃ厳しいね」 仮に持って行こうと本気で考えたら、他の荷物は全部諦めるぐらいの持ち物になる。 「その代わり、ノートはいっぱい持ってきたの」 「あはははっ。僕もだよ」 「ボ〜ク、もー」 「あら、そうなの?」 「ココは落書き帳だけどね。……あ、いまは見せなくていいよ」 カバンを開けて《 ・ ・》〈宝物〉を引っ張り出そうとするココを止め、その頭をなでてあげる。 「あ、い」 いつも輪ゴムで止めてある小さな落書き専用のノートには、ココ自身が集めたお気に入りのチラシなども挟まっている。 それをお披露目するなら、列車に乗ってからの方がいい。 「いまから乗り込んで、いい席とろうか?」 発車まではまだ充分時間もあるが、乗る予定の列車は始発ですでにホーム入りしているばず。 「賛成!」 ココよりも早くワカバが同意し、僕たちは彼女についていく格好でホームに向かう。 ……が。 「あっ、待って。その前に、ちょっと……」 少しモジモジしたワカバが、えへへと照れ笑いを見せた。 「まさか、忘れ物?」 「ち、ちがうわよ。その……トイレに」 「あ、ごめん。じゃ、荷物持っててあげるよ」 「うん、お願い。先に席とっといて」 「わかった。じゃ、前の車両の方へ移動してるから」 「オーケー!」 渡された荷物は予想以上で、僕たちのモノよりずっと重い。 「……何が入っているんだ?」 「セーロー。ボ〜ク、もつ?」 「あぁ、ありがとう。じゃ、僕たちの方をお願いするね」 「あい」 ココは見かけと裏腹で、いまの僕と同じぐらいの腕力を持つだけに、こういうときには『充分な戦力』になってくれる。 「おてつ、だーい」 「あはは。がんばってね」 自分にできることを見つけたときのココは、本当に嬉しそう。 僕はそんなココについていく格好で、車両ひとつふたつ、と超えていく。 「……あ、前の車両ガラガラだね。あそこにしようか」 「あ、い」 そして、一番端っこのボックスシートに行こうとしたとき。 「うぉっほん!」 「あー」 「えっ?」 僕たちが通り過ぎそうになったシートに、見知った男の子が座っているのに気付かされた。 「あ、セロにーちゃん!奇遇だね」 「……ライト」 「ラーイー」 どうして、『来ない』と言ったはずのライトが列車に? 「偶然、なのかい?」 「うーん。まぁーねー」 「お待たせー。トイレが混んでてさ……さー、さー」 後ろからパタパタと近づいてきた声は、僕の背中にぶつかるところで途絶え、 「どどどどどどっ、どうして……」 弟との対面にパニックを起こしかけていた。 「どうして、どうして……ライトが!」 「さぁ、どうしてだろう?どうしてだと思う?」 「きーぃ、答えなさーい!なんで、ライトが居るの!?」 「当ててみ」 「だっ、ばっ、でっ、ぼっ……」 「ワカバ、少し落ち着いて」 「つい、てー」 「わ、私は、いつでも冷静沈着よ!スー、ハー、スー、ハー」 ワカバが呼吸を整える中、ライトはそちらをまっすぐに《とら》〈捉〉え、 「オレも、ちょっと旅行するんだー」 と、挑戦的な言い方をしてみせた。 「へっ、へーぇ、そうなの。どちらまで行くのかしら?」 「ん?ルノンキュールまで」 「そうですかー、ルノンキュールね。そこからすぐに帰るんでしょうね?」 「んー?そこからジルベルクかなー」 ライトも?……なんて偶然を考えるよりは、この《きょうだい》〈姉弟〉の間で『何か』あったんだろう……の方が自然。 「何でアンタがジルベルクに行くの?何の用があるのよ?」 「そういうねーちゃんは、どーなんだ?」 「なによ!私は……」 「まあまあ、ストップ」 ここは喧嘩が始まる前に、僕が仲裁に入った方が良さそうだ。 「……ふたりとも、僕の質問に答えて。いいね?」 「うん」 「……えぇ」 「まずはライトから。僕はココから『旅行には来ない』って聞かされたけど?」 「あれは……勢いっていうか、うんと……ねーちゃんが行くとか知らなかったし」 ……ワカバが来ることを知らなかった? 「ねぇ、ワカバ」 「はっ、はい」 「ライトが来られない理由は聞いたけど、それはライト本人が言ったことなの?」 「そ、それは……その……私がそう思って」 「ライトには訊かなかったの?」 「だ、だってこの子、遊ぶことしか考えないし、宿題だって溜め込むし……」 「な、ひでえだろ?ねーちゃんはオレに何も教えず、自分で勝手に判断したんだぜ?」 「それは!ライトまで来たら旅費がかさんで……セロに、その迷惑かかるし……」 ……そうか。ワカバは僕が旅費を出すことを気にして、弟が来るのを良しとしなかったのか。 「だいたいねぇ、私が許したとしてもお母さんが……」 「かーちゃん?平気だぜ。だって、ちゃんと断ってきたもん」 「ウソつかないの!」 「ウソじゃねーよ!かーちゃん怒らせたりしたら、シャレで済まないって」 「はい、そこまで」 「ま、でー」 ワカバとライトの間に、僕とココが割って入る。自分たち以外に誰も居ない車両とはいえ、いつまでも放置はできない。 「話を整理しようか」 まずは、ライトの言い分を聞く。 ココからジルベルク行きを教えられたものの、そのときは他のことで頭がいっぱいだったため詳細を聞かず、勢いで断ってしまった……と。 「……で、かーちゃんに『ココが旅行する』って話したら、ねーちゃんも一緒に行くはずよ……って知らされてさ」 「――オレが最初にココの話を断ったのも、元はといえば……ねーちゃんのせいだから」 「何で私のせいなのよ?」 「だってねーちゃん、オレのこと『連れて行かない』って」 「いつ?」 「……『早く寝ろ寝ろ』うるさかった日。喧嘩のこと謝ろうと思って部屋まで行ったら……ねーちゃんが怒ってて」 「…………え、もしかして独り言、聞こえてた?」 「廊下まで普通に聞こえてたよ」 「……あちゃー」 ワカバの反応から見て、ライトの言い分は正しいようだ。 「それで、ワカバはどうして『連れて行かない』って?」 次は、ワカバの番。 彼女としては、『僕から話が伝わっているかどうか?』の確認をする前で、弟に尋ねていいものかどうか迷った……とのこと。 「それでセロに確認の電話しようと思ったら、ライトと口論になって――私からは誘わないことにしたの」 「ひっでーぇ!」 「そりゃ、私だって大人げなかったと思うわよ。でもさ……」 「でも何だよー?」 「……ほら、ライト。もう騒ぐのはやめて、話をまとめよう」 「へーい」 この場合、どちらが悪いと言えば――ワカバになると思うが、それを僕が責めることはできない。 何故なら僕が初めから人任せにしないで、きちんとライトを誘っていれば良かったのだ。 ……そうすればワカバがお金の件などで妙な気兼ねもせず、ここまでこじれずに済んだと思う。 「ひとまず、僕が悪かった。ごめんね、ふたりとも」 「……ちょっ、なんでセロが謝るのよ?」 「そーだよ。セロにーちゃんが悪いだなんて、言ってないぜ」 「うん。でも、結果的にふたりを惑わせたのは僕だし……」 「待って、それ待って。それは違うわ。問題は、うちら姉弟にあったの。セロとは別の問題」 「待って、それ待ってよ。悪いのはどう見てもねーちゃんだよ」 「きーぃ、この子は!そりゃ、私が悪いわよ。そうよ、私!私がいけないの。認めるわよ!文句ある!?」 「……謝りながら怒るなよなぁ」 「と、とにかく!悪かったのは私。……ごめんなさい」 ワカバが姿勢を正し、僕に頭を下げる。 「それで、こんなこといまさら頼むのもどうかと思うけど。うちの弟も、連れて行ってもいい?」 「……僕はいいよ。ライトが居れば、ココも喜ぶし」 「やったぜ!ざまーみろ、ねーちゃん。セロにーちゃんは優しいんだ」 「ただし、条件がふたつある」 「いいわ。どんな条件でも、私が……」 「ワカバじゃない。ライトに、だよ」 「……へっ?」 「ふーっ。いいかい、ライト?きちんと確認しなかった僕も、黙っていたお姉さんも悪い」 「――だけど、どうして旅行の話をお母さんから聞いたあと、僕に改めて『行きたい』って言わなかったんだい?」 「……それは……」 「もしダメって言われたら困るから?」 「…………う、うん」 「やっぱり。でも、それだからって『押しかけ』はどうかと思うよ」 「ご、ごめん」 「連れて行く条件のひとつは……お姉さんに言わせたりせず、自分の口でしっかり言うんだ」 僕自身、偉そうなことを言っているみたいでむずがゆいが、ケジメはケジメとして大切だと思う。 「……その、セロにーちゃん。オレも、旅行に連れて行ってよ」 「いいよ、ライト。歓迎する」 「えへへっ、やったぜ!あ、でも……もうひとつの条件は?」 「……お姉さんとの喧嘩はここまで。男なら、過ぎたことは水に流す」 「……い、いいぜ。ねーちゃんがいいならな」 「私は……いいわよ」 「よし。じゃ、これ以上僕は何も……と言いたいけど、もうひとつ」 「な、なんだよ?まだ何かあるの?」 僕はライトをワカバから引き離し、軽く耳打ちをする。 「『……旅行にライトがついてくることは、“僕の了承済み”になっているだろ?』」 「え、ぇっ?」 「『そうじゃなきゃ、お母さんが許してくれないと思うけど?』」 「…………え、えへへへ」 「『それも、今日の朝とか……ギリギリになって言ったね?』」 「ど、どうしてそこまで知ってるの?」 「『……そうでもなければ昨日か一昨日の電話で、お母さんからライトの話があったはずだからさ』」 「……あ、ははは。バレてるし」 「(――まったく、ライトは……)」 頭がいいというか、悪知恵が働くというか。 「……ねぇ、何ふたりでコソコソ話してるの?」 「なぁーに、はなしてる、のー?」 「いや、何でもないよ」 僕はライトの肩をグッと掴み、軽く揺すってから、 「『黙っててあげる代わりに――ココの面倒は頼んだよ』」 ……と、言っておく。 「お、おう!任せておけって!」 力強い答えと共に、発車のベルが鳴り響く。 ……僕たちの旅は、いま始まったのだ。 ココとライトが通路の向こう側の席でお喋りしてるとき、急にワカバが《かしこ》〈畏ま〉った顔で話しかけてきた。 「……ねぇ、セロ。私、内緒にしていたことがあるの」 そんなことを言われてしまっては、先を促すしかない。 「なにかな?」 「あのね、演劇祭についてなんだけど……」 「演劇祭?あぁ、モスグルンの」 二ヶ月ちょっとぐらいあとに開かれる、地元の演劇祭? 「……うん。私ね、それにエントリーしたの」 「エントリー?」 演劇祭に参加? ワカバに関係あるようなこと……あっただろうか? 「私ね、舞台でやってみたかったの」 「やってみたかった……って、舞台を?」 「う、うん」 「……そうなんだ……」 ワカバが、演劇の舞台に立ちたかった? 話がうまくつながらないが、言葉通りなのだろうか? 「でも、舞台で何する気だったの?もしかして、朗読とか?」 「違うよー、演劇だよ」 「一人芝居?ワカバが?」 「なんで?私、脚本家だってば」 「あー、そっか。そうだよな。うん、ワカバが脚本ね」 演劇祭とはいえ、自称小説家のワカバが脚本家デビュー。少しだけ、プロっぽいイメージがもてる。 「……それって、すごいね。ワカバの作品が、劇になるのかぁ」 「えへへ」 照れるワカバを見て、自分の頬もゆるんでしまった。 しかし、なんだろう。なにかこう、一抹の不安が残るのは? 「で、演目は?オリジナル?」 「……うーん、オリジナルっていえばオリジナルだけど、なんて言うのかなぁ……なんて言えばいいの?」 「どんな内容?」 「この前、セロに見せたやつ」 オリジナルで、この前見せられたもの? 「えっと、僕がちらりと見せてもらった……チロだっけ?」 「ちっ、ちっがうよ!あれじゃないもん!あれはダメ!絶対ダメ!」 ものすごい勢いで否定するワカバは、顔が真っ赤。それだけNGを出されると興味も湧くが、そっとしておいてあげよう。 しかし、それが違うとなれば残るは―― 「そうすると『天使の導き』のアレンジみたいな?」 「うん、そっちの方」 「……あぁ、そういうことか」 あのとき、ワカバが見せてくれたモノはまだプロット段階。 だから、その内容がどうなるかは分からないけど、ベースに『天使の導き』があるからオリジナルと言い切れない……といったところだろうか? 「ああいうのって、インスパイア?オマージュ?どっち?」 「パクリじゃないもん!」 「そういう意味じゃなくて、純粋にどっちかな……って思って」 「う、うーん。元は夢だから……インスパイアかな?」 「……あ、でも。一般的な見解からいけば、オマージュ扱いされちゃうのかな?」 「うーん。だけど、史実と原典に思い切り反するあたり……どうなんだろう」 ふたりして首をひねってみる。 自分としては、まだ完成を見せてもらったわけでもないので、なかなか結論がつけづらい。 「……ねぇ、ワカバ。もし良かったら、その脚本……読ませてくれない?」 「ごめん、まだ書き上がってないの」 「そっか。じゃあ、この前の続きでも」 「あれからドタバタしてたから、ちょこっとしか書いてないけど……いい?」 「それじゃ、脚本どころか……原作も完成してない?」 「あったりまえでしょ!そう簡単に書けるもんじゃないわ。それに、これからレインさんに取材したりするのよ」 「そうだけど、それでエントリーして……平気だったの?」 「……まぁね」 妙に落ち着いたワカバのお答えに、安心してしまった僕。 ……いや、ダメだ。そんな笑顔に惑わされて、これまで何度失敗したことか。 「よーく考えようよ、ワカバ。ここは冷静に」 「冷静なつもりだけど、動揺してるように見える?」 「……いたって冷静だね」 動揺しているのは、自分の方だった。 「とにかく、まずは原作から書き上げないことには……」 「ま、役者もまだ決まってないから!のんびり行くわ」 「(――本当に大丈夫かな?)」 「すげぇ!でっかい湖だ!」 「ほら、そんなにはしゃがないの」 ルノンキュールで一泊。 朝早くから登山列車に乗って揺られること2時間あまりで、私たちは目的地ジルベルクまで辿り着いた。 「(――確かに、きれいな風景ね……)」 でも、私の目には少し霞んで見えるのは気のせい? 「(――いやだ。ホントに霞む……)」 目をゴシゴシとこすり、やっとピントが合ってくる。 「どうしたの、ワカバ?」 「あははー。ちょっと寝不足みたい」 ルノンキュールの滞在は、私にとって色々と考えさせられた時間だった。 だって、初めはセロとココと私の3人の予定だったから―― 「(――誰だって、一緒の部屋だと思うじゃない)」 そうしたらセロが変に気を利かせて、旅立つ前から二部屋のご予約を入れていた。 「(――そりゃ、おかげでライトが増えても困らなかったわよ)」 でも、私の期待は見事に裏切られたわけで。セロとふたりっきりにならないまでも、少し距離の近すぎる夜の寝室でドキドキしながら……とかあると思ってたのに。 「もしかして、原稿とか書いてた?」 「えぇ、そうよ!」 「……あ、あんまり筆の進みが良くなかったみたいだね」 「(――半分アタリで、半分ハズレ!)」 お察しの通り、執筆してましたとも。ついでを言うなら、いい感じで進んでました! 「(――ライトの寝言に邪魔されなければ、もっとね)」 私は、横に居る飛び入り参加の弟を――って、居ない? ……と思ったら、何やら湖のほとりでココと話している。 「ライト、なにやってんのー!?」 「気にするなってー。《 い》〈良〉い子にしてるよー」 あり得ない。ライトに限って、あり得ない。 これまでも、自分から『良い子宣言』して成り立った試しがないのに、どう信用しろと? だいたいあの子は『何か』引き起こしてから慌てるタイプで、おまけに学習能力ってモノに乏しい。 だからいつも同じようなミスをして、私やお母さんがため息つくような事態に陥る。 「(――あーぁ。どうしてあんな弟になっちゃったんだろ?)」 小さいときは、『おねーちゃん、おねーちゃん』って言って、私にベッタリで言うこと何でも聞いてくれたのに。 「(――あの頃は、可愛かったわよね)」 それが、段々と大きくなるにつれ……小憎たらしい子に。 ライトが失敗すると、お姉ちゃんの私が叱られるようになり、それがイヤで見張っていると―― 「『なんだよー。かーちゃんじゃあるまいしー』」 とか、生意気なことまで言うようになって大変。 この頃は力も強くなってきて、つかみ合いとか互角だし。 「(――それに、手加減してんのよね……あっちが)」 悔しいことに、私が本気なのに対して向こうには余裕がある。 それが余計に腹立たしい。 「(――何よ。昔おねしょしたとき、かばってあげたじゃない)」 お菓子の数が合わないときも、お店の備品壊したときだって。 みーんな私がやったことにしたのに、あの子が感謝するのはその場限りもいいとこ。 「(――次の日にはケロッとして、また悪戯するんだから)」 いつになったらフラフラしないで、私を安心させてくれるのだろう? 「……ねぇ、ワカバ」 「ん、な、なに?」 いきなりのセロの声にびっくりして、私はハッとする。 「ライトが、先に……って」 「そう。よくあるパターンでライトらしい……って、何で!?」 ここはモスグルンなんかじゃなく、初めて来た土地。そこでいきなり別行動だなんて! 「ココと一緒に、レインさんの家を見つけるつもりみたい」 「見つけるって、見つけてどーするの?私たちは、どーなるの?どうやって合流するのよ?」 「……確か『現地で』って言ったから、僕たちも待たずに移動していいと思う」 「万が一、どちらかがたどり着けなかったら?私たちはまだしも、向こうはレインさんの家の電話番号だって知らないんじゃない?」 「……その通りだね」 「もーう!リーダーがそんなので、どーするの!?」 責める私にセロは少し困ったような顔をして、 「……まぁ、この地域であることは間違いないから、どうにかなるよ」 とか、呑気なことを言ってくれる。 「(――うわぁ、すっごい甘いわ!)」 男の子って、どうしてこうなの?計画性とかに欠けて、どうにかなるさ……みたいに考える。 「……何か、すごく疲れた」 「ごめんね、ワカバ。お詫びに荷物は僕が持つよ」 「いいわよ。自分の荷物ぐらい……」 「いいから、いいから」 セロはにっこり笑って、私から一番大きな荷物を受け取り、ひょいっと肩にかける。 「それ、重いわよ」 「平気、平気」 「(――こういうときだけ、押しが強いんだから……)」 ため息をついて、私は彼のあとについて行く。 「(――ま、そういうところ嫌いじゃないんだけどねー)」 ……そんな風に考える辺り、私もまだまだ甘いのかも。 「――ねぇ、セロ」 「ん?なんだい?」 「さっきから風景があんまり変わらないのは、私の気のせい?」 「いいやー。気のせいじゃないと思う。湖、広いよね」 「…………そ、そうね」 歩き始めて20分ほど。ふたりの足下はそれなりにアップダウンするのに、横の湖が動いてくれない。 「(――確かに、大きいのは分かるんだけど……)」 これじゃあ、いつレインさんの家に到着することやら。 それに、先行したらしい『ふたり』も気にかかる。 「ライトのことだから、絶対どこかで油売ってるわよ」 「あんまり信用されてないんだなぁ」 「そりゃそうよ。セロだって、あの子がいい加減なの知ってるでしょ?」 「そうでもないよ。さっきだって、約束守ってくれてたし」 「約束?」 「……うん。ココの面倒を見るって約束。だからふたりで行動してるんだよ」 セロって、本当にお人好し。そんなの、どう考えたって遊びながら探すためじゃないの。 「見つかるかしら、レインさんの家」 「そんなに大きい村じゃないから、平気だと思うよ」 「でも、住宅街からは離れてるんでしょ?」 歩き出す前に見せてもらった地図によれば、レインさん宅は番地外の離れたところにある。 「まぁ、逆にそれだけ特徴的な場所だから、誰かに尋ねれば分かるはずさ」 「……そうよね。その『誰か』が見つかればいいけど」 のどかな風景の中、住宅地から離れるように歩く私たちは、まだ一度も他の人と遭遇していない。 このままじゃ、いつまで経っても《さまよ》〈彷徨〉い続けることに? 「(――ま、ひとりじゃないだけマシよね)」 知らない土地で自分だけだったら、さすがの私も―― 「……え、あ、そっか」 「どうしたの?」 「なっ、何でもないの!何でも」 いまさらだけど、気付いてしまった。 「(――どうしよう。私……)」 セロとふたりっきりじゃない! 「……ねぇ、ワカバ」 「ななな、なにかしら?」 「モスグルンもいいけど、ここジルベルクもいいよねー」 「……そ、そうね」 急に話しかけられたせいで、思わず挙動不審になっちゃった。 「お世辞にも交通の便がいいとは言えないけど、こういう《やまあい》〈山間〉の田舎暮らしも悪くないかな」 「確かに、そうね。静かだから、セロみたいに調べごとが大好きな人には向いてるかも」 「……うん。ワカバみたいな執筆の人にもいいかもね」 片や読み手、片や書き手。私たち似た者同士だから、イイ感じの会話になる。 「(――あ、でも……)」 セロが夢を叶えて歴史学者になった場合、私と同じように書く側に回るのかも。 「(――そうしたらふたりは同業者よねー)」 どちらかの筆が止まったら、もう片方がアドバイスしたり。……でも、ふたりして煮詰まったりしたら大変なことになる。 「(――お互い部屋にこもって、出てこなくなったりして)」 壁の向こうからは、うなり声とか聞こえて―― 「(――って私、何考えてるの?)」 それじゃまるで、ふたりが一緒に暮らしてるみたいじゃない。私ったら、妄想しすぎよ。 「……もしも、もしもなんだけどさ」 「え?なに?」 「本当にジルベルクで暮らすとしたら、どうかな?」 「(――え、誰が?誰と?)」 セロの言葉に、私の心臓がキュッって縮まる。 「……それって本気で訊いてるの?」 「仮に……だけど」 セロの口調は笑っているけど、目は真剣。 もし、このまま一緒に来てほしいとか言われたら―― もしかして、もしかしなくても……これってプロポーズ? 「――無理よ。だって、私には家族が居るし……」 そりゃ、セロと一緒に暮らすのってすごく魅力的な話だけど、お母さんやライトのことを考えると……難しい。 「……あはは。確かに、ワカバだと難しいよね」 「(――なんでそこで笑うのよ!こっちだって真剣なのに)」 私だって独り立ちして、いつかは家を出ることになるはず。小説家としてお金が稼げれば、実家に仕送りだってできる。 だから、もう何年か先の話であれば―― 「……ねぇ。それって『いますぐ』ってわけじゃないわよね?」 「すぐじゃないけど、そう遠くもないかもしれない」 「……セロ……」 「あぁ、ごめん。いきなりこんな話題を振られても困るよね」 「う、ううん、いいの。だけど、どうして急に?」 「……うん。実は、色々考えててさ」 坂道の途中、セロは立ち止まり私の方へと振り返る。 「ココのこと、なんだ」 「……ココ?」 名前を出されて、ハッとする私。 「(――ごめん、ココ!あなたのこと、忘れてたわ)」 確かにセロと一緒になったら、当然ココだって居る。私はセロのことで頭がいっぱいで―― 「ココのことを考えると、僕は……このまま歴史学者になっていいのかどうか」 「……え?」 「それで少し悩んでる。僕には別の道もあるんじゃないかって」 「――ま、待って。私にだって、心の準備が……」 ストレートな告白とか嫌いじゃないけど、さすがに前置きがないと私でも焦る。 「……あぁ、そうだよね。ワカバにする質問じゃなかった」 「えっ?」 「だって、これはあくまで僕の問題だから。立場の違うワカバだと……」 逸らされた視線が、あまりに哀しい。どうして?急に自分ひとりで解決しようとしないでよ! 「そんなことないわよ!セロ『だけ』の問題じゃないわ」 「……あ、え、う、うん」 「ひどいわ。そんな質問で私を巻き込んでおいて、すぐに答えられなかったからポイするの!?」 「そんなつもりじゃないよ。ただ……」 「ただもへったくれもないの!そこまで口にしたなら、最後まで言いなさい。これは、『ふたり』の問題なの!」 私は、キョトンとしているセロにエンジンを掛けるため、 「ほら、しっかり!」 その背中をバンと叩く。 「……だね。僕だけの問題じゃなかった。ふたりの問題だ」 「そうでしょ。だから、ちゃんと相談して」 「うん。やっばり、ココ本人に相談すべきだよね」 「そうそう、ココに……ココ?」 「いくら僕が世話しているとはいえ、ココだって立派に意志がある。本人の意見はきちんと聞かないとね」 世話?ココ?本人の……意見? 「ごめん!相談って、私相手じゃなくてココなの?」 「う、うん。だっていまワカバが言ったとおり、僕だけの問題じゃないから」 「……待って。なんか、話が見えないんだけど」 流れ的には、セロがジルベルクで暮らすことについて、私が同意できるのか……みたいだったはず。 それが急にココの名前が出されて、頭の中がこんがらがってきた。 「ワカバにも解るよう、きちんと説明するとね――」 「僕が親父と同じように歴史学者になる。それはそれでいい」 「でも、最近は……自分のことだけ考えるのはどうかな、って思い始めて」 「……自分のことだけ?」 「だって、僕にはココっていう『家族』が居る。ワカバにも、お母さんとライトが居るでしょ?」 「うん」 「やっぱり、家族の将来とか、考えるよね?」 「……か、考えたわ」 すごーく、ペアとベクトルがズレたことを想像していたけど。 「そうするとね。僕は歴史学者じゃない道も考慮した方がいいのかな、ってなるんだ」 「家族のために?」 「うん。ココのためには、僕が人形技師とか調律師になるのもアリかな、ってさ」 「…………それは……セロじゃないから、私にはよく解らないけど……」 「うん」 「だけどね。だからって、自分の夢を捨てるような選択はどうかって思うの!だって、セロはお父さんに憧れて――」 「あっ、勘違いしないで!僕だって、史学の道を諦めるわけじゃないよ」 「――ただ、少し寄り道も必要かもしれないと思って」 「どうして?」 「現代において、人形技術はすでに失われつつあるものなんだ」 「――ワカバはモスグルンにいる人形調律師さん、知ってる?」 「えぇ。実際に話したりしたことはないけど、顔ぐらいは」 「いい《 とし》〈年齢〉だよね、あの人も」 「そう、ね」 パッとは思い出せないけど、確かに年季の入ったおじいさんだったような。 「いま、人形技術を持つ人がとても少なくなっている。モスグルンの技師しかり、これから会うレインさんも高齢。……その伝統を受け継ぐ若者が、ほとんど居ないんだ」 「…………」 「特にココは古いタイプの《シスター》〈人形〉だから、メンテナンスも難しい」 「この先ココの調子が悪くなったとき、もし身近に人形技術を持つ人が居なかったら……」 「……それで、セロが人形技術を学ぼうっていうの?」 「うん。幸いなことに、僕にはレインさんっていう強い味方が居るから」 「……だからジルベルクに移り住んで、ってこと?」 「そう。さすがワカバ、察しがいいね」 こんなときに褒められてもあまり嬉しくない。 「……もう、レインさんには相談したの?」 「いや、まだだよ。大切なことだから、直接会ってから話すつもりなんだ」 「……そっか」 ただ歴史一本槍だと思っていたセロが、そんなことを考えていたなんて。 それに比べて、私はまだまだ子ども。 自分のやりたいことを不自由なくやらせてもらっているのに、まだひとつの作品も成果を挙げていない。 ……このままじゃ、セロに負ける。 「(――ううん、勝ちとか負けとかじゃなくて)」 私は確実に置いて行かれる。 ……そんなのダメよ! 「あ、あのね、セロ!私も頑張るからセロも――」 少しでも追いつこうと、そう言いながら彼に近づいたとき。 「……あ、見て」 唐突にセロが、私の後ろを指差した。 「へっ?」 タイミングを外されて脚がもつれまくりだけど、何とかして転ばないように振り返る私。 ……と、坂の下の方から誰かが上がってくる姿が見えた。 「……あれって、村の子たちかしら?」 まだ距離があるから微妙に判別がつかないが、男の子ひとり、女の子がふたり? 都会育ちっていう感じではなく、素朴な印象がある。 「それっぽいよね。手にしてるのも旅行カバンとかじゃなくて、生活用品みたいだから」 「言われてみれば、そうね」 先頭を歩くオーバーオール姿の女の子に、後ろのふたりがついてくるような格好。 そして、その間で……白い『何か』が揺れている。 「(――あれ、何だろう?)」 目をこらしてみると、それは白い羽根のように見えてきた。 「そうだ。レインさんの家のこと、あの子たちに訊いてみよう」 「……う、うん」 セロの提案に頷く。 しかし、それよりも先に尋ねたいことがある。 「(――もしかしたら、あの子……)」 やがて坂道を登ってくる一団との距離も近くなり、向こうのやりとりが耳に届くようになった。 「ねーねー、ベルーっ。帰ったら、クッキーの作り方教えてー」 「ダメだって。おいらたちと鬼ごっこする約束が先だぜ」 「ひどーい、おにいちゃん!わたしたちだって、ベルと遊びたーい」 「ほーら、ケンカしないで。兄妹は仲良くしないとダーメ。わかった?」 ベルと呼ばれたオーバーオールの子は、屈託のない笑顔で後ろのふたりに語りかける。 足下のネコも、3人のあとを楽しそうに歩いている。 「だってさ、おにーちゃん」 「そりゃそうだけど……約束は約束だよ」 「うーん、困ったなー」 そんな会話も、私たちの存在に気付いてピタリと止まった。 「……あの、何かご用ですか?」 「すみません。少々おうかがいしたいのですが、地元の方……ですよね?」 「は、はい」 「実は僕たち、この村に住むレインさんという人の家を探していて」 「……!」 女の子が、ちょっと驚いた顔をする。 「(――私の見立てが間違ってなければ……)」 「……もし知っていたら、どの辺りか教えてもらえるだけでも助かります」 「レインの家でしたら知ってますけど、あなたは……?」 「僕はモスグルンのセロと言います。今日、レインさんのところへお邪魔する予定で来たのですが、慣れない土地で迷ってます」 セロが苦笑いでそう告げると、女の子は合点がいったような顔で大きく頷いた。 「そうですか。あなたが、セロさん……でしたか」 「……えっ?」 彼女の背中で揺れる白い羽根は、伊達の飾りなんかじゃない。 あれは古い《シスター》〈人形〉が付けていたという、天使の象徴。 信じられないけど、どこから見ても人間にしか見えない―― 「初めまして。レインの娘の『ベル』と言います」 「(――ビンゴ!)」 私の予想通り、やっぱり彼女はレインさんの関係者だった。 「みんな、あたしより先に会っていたのよね」 「……いいなぁ。あたしもモスグルンからスタートしたかった」 「そうすれば、ベルともっと早くに知り合えて――」 「でも、いいわ。このあとあたしは、青の都でベルと劇的な出会いをするんだから」 「……妄想とかじゃないわ。ホントよ!」 「このあと、みんなは青の都へ……って、ここで終わり?」 「……あたし、そんな話聴いてないわ!」 「いくら『旅のはじまり』だからって、せめてあたしがベルとお話するところぐらいまでは……」 「すげぇ!でっかい湖だ!」 「ほら、そんなにはしゃがないの」 ねーちゃんが腕を振り上げたので、オレは小突かれないよう少し距離をとる。 「(――それにしても、ホントにでかいなー)」 家を出てくる前に見た観光ガイドの写真だと、小さくてよく分からなかった。 でも実際に自分の目で見てみると、その大きさに圧倒される。 「なぁなぁ、ココ!あとで一緒に泳ごうぜ」 「およ、ぐー?」 「……あ、ココは泳げないんだっけ?」 「えー。へい、きー」 「あ、でもオレ……水着とか持ってきてないや」 「ボ〜ク、もー。ない、ない」 「あぅ。裸で泳ぐわけにもいかねーもんな」 オレならパンツ一枚無駄にすれば済むけど、ココは―― 「(――ココぐらいなら、裸でも平気か?)」 一応は女の子らしいけど、見た目はどっちつかず。 たとえ裸になっても、オレと同じようにパンツ一枚あればどうにかなりそうな気がしてきた。 「(――よーし。あとでこっそり……)」 「ライト、なにやってんのー!?」 こんなときに限って、うるさいねーちゃんの監視が入る。 「気にするなってー。《 い》〈良〉い子にしてるよー」 オレはセロにーちゃんとの約束を思い出し、目一杯の笑顔で手を振っておく。 「(――あーぁ。ねーちゃんが居ると何もできなさそうだな)」 こんな場所なら一日中遊んでも飽きない。 でも、きっとねーちゃんのことだから『あそこはダメ』とか、『どこか行くなら、私もついてく』とか言い出しそう。 「(――ん?あ、それなら……いっしっしっ)」 「ねぇねぇ、セロにーちゃん」 「なんだい?」 ねーちゃんに悟られないよう小声でセロにーちゃんを呼び、自由を勝ち取るために思いついた作戦を実行に移す。 「レインさんちって、何番地?」 「レインさんの家?ちょっと待ってね」 セロにーちゃんはポケットから地図を取り出し、 「だいたい、この辺りのはず」 と指を指す。 「なんだか、へんぴなところにあるね」 「……うん。正確な番地とかつかない場所らしくて、電話でだいたいの位置を教えてもらったんだ」 「じゃあさ、オレたちふたり、先に行ってもいいかな?」 「ふたりって……ココと?」 「うん!村の人捕まえて訊けば、きっと迷わないと思うし」 「……それはいいけど」 「大丈夫だって!ココの面倒はしっかり見るから!その代わりさぁ、ねーちゃんのこと頼むよ」 「ワカバのこと?」 「うん。ねーちゃんたら昨日の夜、ずーっとセロにーちゃんの名前呼んでてさ。うるさくて」 「僕の名前を?」 「そう。セロー、セローって」 オレ半分寝ぼけてたから、どうしてか……よく知らないけど。 タイプ音の合間に呪文みたいな感じで言ってたよ、確か。 「だから、ねーちゃんと一緒に居てやってよ。ふたりっきりで。いっしっしっし」 「……な、ライト。よく分かんないんだけど……」 「よーし、行くぞココ」 あとは、困ってるセロにーちゃんに任せて! 「あーい」 「……じゃ、現地で!」 オレはセロにーちゃんが口をパクパクさせているうちに、ねーちゃんの視界から外れる方向へ。 「おーい、そっちは……」 レインさんの家と反対なのも知ってるから、気にしない。ちょっと探索してから……ってことで! 「よし、ココ。オレについてこい!」 「あーい」 とりあえず、湖のほとりに沿って人を見つける。 「じゃあ、見つけてくるぜ!」 「えっ、それはいいけど――」 セロにーちゃんが何か言ったみたいだけど、わざわざ戻って聞き返すほどじゃないと思う。 それに、ねーちゃんがお目付役でついてくると言い出したら困るし。 「ひゃっほー!」 「ほー」 オレはココと一緒に全力で走り出す。 きっと、レインさんの家なんてすぐに見つかるはずだ! 「見つかる……はず、だったんだ……」 時計持ってないからよく分かんないけど、かれこれ30分? 「ラーイー、へい、きー?」 「あぁ、大丈夫。大丈夫だけど、ちょい疲れた」 まさか、こんなに探して地元民と遭遇しないと思わなかった。 「みんな、揃いも揃って……」 出会った団体、カップル、その他色々――声をかけた人たち全てが、観光客だなんて! 湖の上に浮かぶボートの人に手を振ったら、オレたちが写真撮られる始末だし。 「おっかしいなぁー」 予定では、尋ねた一人目でレインさんの家が判り、道すがらココと遊ぶつもりだったのに。 このままだと、ねーちゃんの方が先について―― 「……『遅かったわね』とか言われたら、すっげぇ悔しい!」 それだけは、絶対に回避しないと。 「……うーん、何かいい手は……」 「んー?」 小首を傾げるココを見ても、あまり良い作戦が思いつかない。 せめて電話でもできれば―― 「そうだ、ココ!レインさんの家の電話番号とかは!?」 「しら、なーい」 「……はぅ」 最初にして最後の手がかりは、一瞬にして消えた。 「くーぅ。こうなったら、手当たり次第だ。いいか?誰か見つけたら、どんなところに居ても訊きに行くぞ」 「あーい。あれ、はー?」 「え、どこどこ?」 ココが指差す場所は、湖の向こうの山の中腹付近。目を凝らすと、小さな《 ・》〈点〉がゆっくりと動いている。 「(――よく見つけたなぁ。でも……)」 「あれはさすがに遠いや」 「だーめ?」 「うん。せめてぱっと見、男か女か判るぐらいの距離で」 「あ、い」 頷いたココは、つま先立ちでくるりと半回転してから、 「い、たー」 と湖のほとりを指差す。 「え、どこどこ?」 「あそ、こー」 しゃがみ込んでみれば、茂みの辺りに何かが揺れている。 「あれって、釣り竿か?……ってことは!行くぞ、ココ!」 「あーい」 ふたりでバタバタ走っていくと、その姿がハッキリしてくる。 釣り人は、白い髭のおじいさん。 大きなあくびをしながら湖を眺め、ハゲ上がった頭を軽く叩いている。 怖そうな感じはなく、人当たりの良さそうに見えた。 「なぁなぁ、じーさん」 「ん?ワシのことかぁ?」 「そうそう、じーさんを呼んだんだ。ちょっといいかい?」 「うーん、何かね?」 「俺たちさ、人を探してるんだよ」 「ほーっ、人を。……友達か誰かね?この1時間ばかりは、誰も通ってないと思うが……」 「いや、そうじゃなくて、この村の人。このジルベルクで、すごい有名そうな人」 地方のオレだって知ってるぐらいだから、地元じゃさぞかし知られた人のはずだ。 「人形技師のレインさんって人。知ってる……よね?」 「……レイン?」 「あ、もしかしてじーさん、地元の人じゃなかったかな?」 「いやいや、この村の《もん》〈者〉じゃよ」 よっしゃ、アタリを引いた! 「じゃ、知ってるよね!?」 「まぁ、知ってるも何も。……尋ねてきたんじゃな、その人を」 「そうそう!レインさんの家、良かったら教えてくれない?」 「……良いじゃろ。ちょうど釣りにも飽きてきた頃じゃから、案内してやろう」 「おっ、ラッキー!でも、いいの?」 「ん?何がじゃ?」 「だって、ほら。せっかく釣りしているのに。何だったら、方角とだいたいの位置だけでもいいぜ」 「ほっほっほ!お気遣いは無用じゃよ。今日は一度も引きがない」 そう言ってじーさんは、ゆっくりと腰を上げて大きく伸び。 「……そろそろ帰ろうかと思っていたところじゃからな」 「そっか。ありがとっ!ほら、ココもお礼言おうぜ」 「…………んー」 「あれ、どうしたんだ?」 横のココは、じーさんを見上げてボーッとしている。 「ワシの顔に、何かついておるかね?」 「んーんー」 「そうかぁ。こんにちは、ココ」 「こんにち、は」 じーさんに倣って、ココも思い出したかのようにペコリした。 「ほっほっ!ちゃんとご挨拶はできるのじゃな」 「あったりまえさ!ココは、モスグルンでも『一番』の人形なんだから」 「ほーっ、ほっほっ。モスグルンに《シスター》〈人形〉は増えたのかね?」 「……え?いや、どうだろ。えへへっ」 思わず『人形』とか言っちゃったけど、ココたちの呼び方はじーさんが言ったとおり『シスター』だった。 それに『モスグルンに居る《シスター》〈人形〉』って言ったら、ココだけだったんだよな。 「まぁ、そこそこの帰り道じゃ。ワシが退屈せぬよう、何か面白い話でも聴かせておくれ」 「おぅ、任しといてよ!」 せめてもの案内の御礼にと、胸をドーンと叩いて引き受ける。 「うーん、そうだなぁ。じーさんは、《シスター》〈人形〉に詳しいかい?」 「……どうじゃろうなぁ?」 「よーし!それなら、ココの話をしてあげるよ」 歩き始めたじーさんの横に並び、ココと遊んだときに起きた面白おかしい出来事を話し始める。 レインさんの家までどれぐらいあるか知らないが、きっと最後まで話題は尽きないはずだ。 「オレがココと出会ったのは……」 案内された場所は地図にあった通り、僕の家と同じように住宅街から外れていた。 「ここが、父――レインの家です」 「(――へーっ)」 お世話になっているとはいえ、お邪魔するのはこれが初めて。 「……かわいい感じの家よね」 モスグルンでも見たことがないタイプの造りだから、横に居るワカバも感心している。 「いま、父を呼んできますね」 「ありがとう」 家の中に入っていくベルを見送り、僕たちは一息つく。 坂道で出会ってからここまで、ちゃんとした自己紹介をする暇もなかった。 「それにしても、あの子たち……元気だったわね」 「そうだね」 ベルと一緒だった村の子ふたりは、手前の分かれ道まで代わる代わるひっきりなしに話してくれた。 「『ベルは、レインじーさんの自慢の娘なんだぜ』」 「『私たち、みんなよく遊んでもらってるの』」 「『……でもって、レインじーさんはすごい人形技師で……』」 その間、当の本人であるベルはあまり会話に参加せず。 彼女から返る答えは、『……はい』とか『……いいえ』と短いものだった。 「(――もしかして、人見知りするタイプとか?)」 いや。もしかしたら、僕よりもワカバに対して関心があるのかも? ここに到着するまでの間、ベルの視線はチラチラとワカバに向いていたから。 「……ねぇ。私たち、悪いことしちゃったかしら?」 「ん、なにが?」 「ほら、村の子たちよ。ベルと約束してたみたいなのに、私たちが予定狂わせちゃったかな……と思って」 「うーん、そうだね。僕がしっかり家の場所を把握してれば、問題なかったのかも」 「……あ、私は別にセロを責めているわけじゃないのよ」 フォローしてくれたつもりだろうけど、会話が途絶えて数秒。 「次からは気をつけるね」 と告げれば、ワカバは何故か口をパクパクさせる。 「どうしたの?」 「な、なんでもないわよ。……それにしても、セロ!」 「は、はい」 「本当に、ベルの存在を知らなかったの?」 ……何を言われるかと思えば、そんなことか。 「……うん。電話で話すことはあったけど実際に会ったのは数年前だし、近状報告とかは僕がするだけだったから」 「じゃあ、初めて会って……びっくりだった?」 「うん。最初なんて『娘です』って言われて、何が何だか」 「……でも、すぐ関係に気付いたんでしょ?」 「全然。ワカバは分かったの?」 ……僕にとって、初見は普通の女の子だったけど。 「ベルは《シスター》〈人形〉。レインさんが『生みの親』なら『娘』って表現が当てはまるじゃない」 「そりゃ、彼女が《シスター》〈人形〉だって気付けばね」 「…………そこからして、気付かなかったの?」 「う、うん」 ワカバは額に人差し指をあて、小さくため息。 「もーう、シンボルの羽根があったじゃない!」 「いや、見えてたけどさ。羽根が《シスター》〈人形〉のシンボルだったのはかなり昔の話だし。初めはただの飾りかなぁ、って」 「呆れた!史学専攻のセロが勘づかないでどーするのよ?」 「……あはは、面目ない」 人形の専門じゃないから、少しは大目に見てくれると嬉しい。 「でも、仕方ないかもね。ベルのこと、レインさんから聞かされてなかったんでしょ?」 「うん。さっき、村の子に教えてもらうまでは」 「それにセロは、ずーっとココばっかり見てきたわけだし」 「それって、どういうこと?」 「ほら。ココって古そうな割には、羽根らしい羽根がない《シスター》〈人形〉でしょ」 「――そんなココとずーっと暮らしているから、羽根がある、イコール《シスター》〈人形〉……って認識に欠けるのかな、って」 言われてみれば、そうかもしれなかった。 ココの背中にあるのは、羽根というより……ゼンマイ巻き。 見ようによっては『羽根』と言えるかもしれないが、僕にとっては巻き慣れた《  ネ ジ》〈突起物〉でしかない。 「(――でも、どうしてベルには羽根があるんだろう?)」 確かに古い《シスター》〈人形〉には、羽根があったと伝えられている。 でもその風習があったのは、百年以上も昔の話だったはず。 レインさんが若い頃に造ったとすれば、少し計算が合わないような気もする。 そんなことを考えながら、頭の中で指折り数えているうちにベルが戻り、 「すみません。父は留守のようです」 と教えてくれた。 「そうですか。少し待たせてもらってもいいですか?」 「は、はい。何のおかまいもできませんが、どうぞ中へ」 ……と言われたものの、僕たちふたりで全員ではない。 先行したはずのココとライトが、まだ到着していないのだ。 家の近くまで来て、素通りしてしまう可能性もある。 「えっと、まだ連れが来てないので外で待ちます」 「ちょっとセロ。こういうときは、お言葉に甘えるの」 「でも、まだココとライトが来てないから。……何だったら、ワカバだけでも」 「えぇぇっ!?」 意外な方向からあがった驚きの声に、僕とワカバが顔を見合わせてしまう。 「どうしたの、ベル?うちの弟とココに、何か……」 「えっ、と、その……ワカバさん、だったんですね」 「ほぇ?私が、なに?」 「ご、ごめんなさい。ワタシ、ココちゃんだとばっかり」 「……だ、誰が?」 「ワカバさんが、ココちゃんだと……思ってました」 ……ワカバがココ。 「私が……ココ?」 「……ら、らしいよ。……ぷっ、ぷはははっ!」 「ち、ちょっと!何がおかしいのよっ!?」 「ご、ごめん!で、でも、す、すごい勘違いで……」 笑いが止まらない。 「ご、ごめんなさい!本当にごめんなさい!」 「い、いいのよベルは。誰にだって勘違いはあるの。ねっ?」 似ていると言ったら、明るく元気で―― 「セロ、笑いすぎ!シャーラップ!」 「……ウぉブッ!!」 ――加減を知らないところ、ぐらいか。 肘打ちを喰らって(別の意味で)呼吸ができなくなった僕を尻目に、ワカバは何事もなかったかのように話を続ける。 「だけど、どうして私がココだと思ったの?」 「それは、その……セロさんと一緒に居たのと……」 「……父から、『ココは底抜けに明るくて元気な子だよ』と聞かされていたので、てっきり……」 「……は、ははは。明るくて元気、ね。あはは……」 ワカバは乾いた笑いで空を眺めつつ、若干の放心状態。 僕は痛みの残る脇腹をさすりながら、ベルにこっそり、 「間違ってないよ」 と告げておく。 「……ナンカイッタ?」 「何でもないよ。……あ、ほら、噂をすれば何とやらだ」 タイミングよく、道の端に待ち人の姿が見える。 「(――あ、あれは)」 「もーう、遅いんだから!ライト!こっちよ」 「『ちぇっ、ねーちゃんが先かよ!』」 飛び入りのライト。 「ココ、こっちだよー」 「『あー、セーロー』」 メンテ待ちのココ。 「……あ、お父さん!」 そして、無言で手を振り返すレインさん。 三者三様の出迎えと受け答えに、場は一気ににぎやかなものへと変わった。 「……お久しぶりです、レインさん」 「いやいや、本当に久し振りじゃな。セロ君も、少し見ないうちに大きくなったの」 「いえ。それもこれも、レインさんのおかげです」 「まぁ、個人的な話はあとにしよう。まずは、お友達の紹介をしてくれるかの?」 「はい、僕の横に居るのが友達のワカバ」 「初めまして、レインさん」 「初めまして、お嬢さん。儂のことは、『じーさん』とでも呼んでくれ」 「そ、そんな!有名なレインさんのことを……」 「しかし、名前を知らなければ……ただのじーさんじゃろ?」 「それは、そうですけど……」 「だったら、じーさんで。弟くんも、そう呼んでくれるからの」 「……ラ、ライト。アンタ、そんな風に……」 「うわっ、ちょっ、暴力反対だってば、ねーちゃん!」 モスグルンと変わらない光景が、遠く離れたジルベルクでも繰り広げられる。 「ほっほっ!元気の良い子じゃの。……で、順番で行くと、ライト君か?」 「そうですね。もうご存じみたいですが……ライト、自分で挨拶するかい?」 「……う、うん。初めてじゃないけど、初めまして。ライトです。よ、よろしく」 「うんうん。ライト君。こちらこそ、よろしくな。道中、色々楽しい話をありがとう」 「あっ、あれは……その……ひ、ひでぇよ、じーさん」 「んー、なにがじゃ?」 「……だってよ。オレ、じーさんがレインさんだって知ってたら、あんな話……」 「なに話したの、アンタ?」 「なっ、内緒だよっ!」 「教えなさいよっ!」 「まぁまあ。ライト君は、ココの話をしてくれたんじゃよ。そうじゃよな?」 「……そ、そうだよ」 レインさんが軽くウインクした辺り、少しばかり手心が加わっているのかもしれない。 「さて、あとは紹介されんでも……『知っとる』でいいのかな、ココ?」 「んー?どっ、ちー?」 「ほっほっほっ!相変わらず可愛いのう、ココは。じゃが、今回も改めて言わせてもらおうかの。初めまして」 「はじめ、まし、てー?」 少しちぐはぐなやりとりだけど、ココの場合はこれでいい。 どんな理由か知らないが、レインさんは毎回ココの記憶から自分の存在を消しているのだ。 「さぁ、そうすると……残るはうちの娘か」 レインさんに頷かれ、ベルが一歩前に出る。 「初めまして、ベルといいます。よろしく」 「へぇー、じーさんの娘。……娘?ホントに?」 「バカっ!言葉を慎みなさいよ」 「だって、どう見ても娘って年齢差じゃないぜ。孫って感じ」 「それでも娘なの……って、アンタ。もしかして、気付いてないの?」 「ほぇ?何が?」 どうやら本当に分かってないライトに、僕は軽く耳打ちする。 「……ベルは、ココと同じ《シスター》〈人形〉だよ」 「……ウソ!え、だって、《シスター》〈人形〉って、ココと同じなの?」 ライトは目を丸くしてベルに近づき―― 「……あ、ごめん」 近づき過ぎて、顔を赤くさせた。 「(――まぁ、仕方ないよな)」 僕だって、最初は気付かなかったぐらいだし。 「……ホントにダメな子……」 「ほっほっほ!まぁ、それぐらいで勘弁してあげなさい」 「……は、はい」 「では自己紹介もこれで終わりとして、昼食にでもするか?」 「さんせーい!もう、腹減って仕方なくてさぁ」 「ラーイートー。他人様の家にお邪魔してるのよー」 「まぁまあ、ワカバ君。気にせんでよいから。その代わりといっては何だが……」 レインさんはベルを見て、 「食事を準備する娘の、手伝いでもしてもらえるかの?」 と続ける。 「いいぜー、任せておきな!あ、ねーちゃんはいいぜ」 「なんでよっ!?」 「だってねーちゃん、料理したことねーだろ?」 「あっ、あるわよっ!あるわよね、セロ?」 「う、う、うーん。そうだね。おいしいかどうかは……まぁ」 「なによ、ハッキリ言いなさいよね!怒るわよ!」 以前僕の家へ来たとき、『絶対に失敗しないカレー』というモノを作ってくれた。 ……が、隠し味と言うミルクを『あまるともったいない』の理由で、止める間もなくドボドボと。 それが全てを台無しにしたとは言わない。 でも、もう少し野菜とか肉を小さく切った方が、火の通りや味も良くなったと思う。 「食べ物は大切にした方がいいと思うなー、オレ」 「むっきー!」 ワカバには悪いけど、ライトに少し同意したい。 「ほっほっほ。……ま、そこまでライト君が言うなら、キミの実力を見せてもらおう」 「いいけど、簡単なのしか作れないぜ?」 レインさんの一言で、少し声が小さくなるライト。 それでも、引き下がるつもりはないらしい。 「構わんよ。材料はそこそこ台所周りにあるはずじゃ。一応、うちの娘が料理長……ってことで良いかの?」 「うん!ココも手伝わせていい?」 「ライト、遊びじゃないんだから……」 「いいじゃんか!ココだって色々覚えたいもんなー?」 「あ、い」 「よーし、決まり!んじゃ、案内してくれる?」 「……は、はい。こちらです」 ベルを先頭に、ライトとココが家の中に消えていく。心配そうな姉がその後を追おうとするが、レインさんの、 「そうじゃ、ワカバ君」 の一声でその足を止められた。 「……セロ君の話によれば、この儂に色々と尋ねたいことがあるそうじゃな」 「えっ、えぇ?でも、どうしてそれを……」 「僕が出発前の電話で、取材の確認をしておいたんだ」 「そういうことじゃ。儂の方は構わんが、ワカバ君の準備は?」 「も、もちろん!いますぐでもいいです!」 「……よし、決まりじゃな。料理ができるまで、儂の部屋でのんびりと話そうか」 「さぁ、どうぞお入りなさい」 「お、お邪魔します」 レインさんの私室に通されたワカバは少し緊張気味らしく、両手を握ったり開いたりしている。 「……で。僕が書記役なの?」 「そうよ。私は質問に集中するから、セロはちゃんと書き留めてね」 ワカバからはノートと鉛筆、レインさんからはテーブルを提供され、すっかり役割は確定してしまった。 こうなった以上、僕は口を挟まない方がいいだろう。 「……うぉっほん。それでは、レインさん」 「じーさんと呼んで欲しいのぅ」 「……むぐぐぅ」 レインさんがにこやかに笑うのを見て、ワカバがこちらに視線を送ってくる。 が、こればっかりは僕がどうのこうの言える立場でもない。 やがてワカバは降参と言わんばかりに大きく息を吐くも、 「それでは、《・》〈お〉じーさん」 と最後の抵抗を見せた。 「……ふむ。では、何から答えればよいかね?」 髭を撫でつつ、満足そうに目を細めたレインさん。 どうやら、ワカバの譲歩を良しとしたらしい。 「えっと、レイン……失礼。おじーさんは、どうして人形技師になられたのですか?」 「うん?なんとなく、じゃったかな?」 「…………あの、『なんとなく』でなれてしまう職業ですか?それとも、おじーさんにとっては余裕だったとか?」 「ほっほっほ。余裕などなかったよ。がむしゃらじゃったな」 「…………」 先の返答との落差に戸惑うワカバが、無言の上目遣いで先を促す。 「いまでこそ儂は『国宝』などと言われておるが、元を正せば……ただの移民じゃ」 「い、移民?」 「それも、戦争移民じゃ」 「戦争……移民」 この大陸での戦争は、もう百年を軽く超える以前の話。 それこそ、まだ現在の赤や青の都が『自治区』ではなく、『国家』だった頃まで遡ることになる。 「(――さすがに、その時代から生きているわけは……)」 となれば、考えられるのは……海の向こう側の国々。 おじいさんの年齢を仮に80歳とすれば、いまから約70年ぐらい前の時代となるが―― その時期は海外からの移民が多く、レインさんの故郷の国を特定するのは難しそうだ。 「儂は物心ついたとき、旅芸人の一座におった。いまでこそこんなお腹じゃが、昔はセロ君ぐらい細くて格好良かったよ」 「……あははははっ。本当ですか?」 「あぁ、本当だとも。証拠写真がないのが残念じゃ」 レインさんはわざとらしくポケットを触り、肩をすくめる。 「……ま、思い出は思い出じゃ。ところで儂は、どこまで話したかな?」 「旅芸人の一座に、までです」 「おぉ、そうじゃったな。儂は、奇術を見せる《クラウン》〈道化〉として働いておったが――」 「――奇術はまずまずでも、人を笑わす方が苦手でなぁ。いつも道化の師匠に頭を小突かれておったんじゃよ」 「……そうだったんですか」 「儂の得意はハンカチマジックで……と、そんな話はどうでもいいか」 「――ワカバ君が訊きたいのは、人形技師としての話じゃろ?」 「い、いえ。続けてください」 「ほっほっ。まぁ、長くなるから端折ろうか。とにかく儂はその旅芸人の一座から離れ、新天地を目指した」 「――いま考えれば、よくも悪くも若かったと思うよ」 「……色々、あったんですね」 「……あぁ。戦火は逃れられても、生きる戦いは続く。移民に優しい国など、そうそうあるわけでもなく――」 「――オマケに中途半端な儂の芸では、その日の宿や食事もままならない有様じゃった」 「……そこで儂は考えたよ。こりゃ、心機一転するしかないと」 「もしかして、それで人形技師に、とか?」 「おぉ、よく分かったの!ちょうど転がり込んだ軒先が、後に儂の師匠となる人の家だったわけじゃ」 ……明るい口調で言われると、まるで行き当たりばったりの人生にも聞こえてしまう。 しかし、にこやかに過去を話すレインさんの当時は、本人にしか解らない重さがあるのだろう。 「それで、『なんとなく』……『がむしゃらに』ですか?」 「そうそう。手先が器用だったのが幸い。でも、それだけじゃあどうにもこうにも」 「――師匠の手伝いから基礎を学び、文献を調べ、小さな人形を造り……なんてことをしていたら、あっという間にこの歳じゃ」 「ま、改めて自分の人生を振り返ると、話すことも少ないのぅ」 レインさんは自らの頭をペチペチと叩き、僕たちの顔を交互に見た。 こうして昔話を聞かされると、どうしてレインさんが僕のパトロンになってくれたのか……分かるような気がする。 「儂が人形技師になった経緯は、こんなもんでいいかい?」 「は、はい。ありがとうございました」 ワカバは頭を何度も下げつつ、僕の書いたメモを覗く。 そして、ちょっと考えるような顔をしてから、 「……ねぇ、セロ。悪いんだけど、少しの間……席を外してもらえるかな?」 と言ってきた。 「構わないけど、もう書記は要らないの?」 「……うん。やっぱり、自分で書いた方がいいかなぁ、って。あ、別にセロのメモがダメってわけじゃないの!誤解しないでね」 「ほっほっほ。そんな言い方したら、セロ君がよけいに気にしてしまうよ」 「でも、本当にそんなつもりじゃなくて、その……」 「あぁ、分かってるから平気だよ。じゃあ、僕はちょっとココの様子を見てきます」 「……そうだったの。ライトくんは、ココちゃんのために……」 「まぁね!ココって結構寂しがり屋だからさ。なー?」 「あい」 初めは会ったばかりで一緒に料理をするのが心配だったけど、ふたりともすぐにうち解けることができた。 いまは昼食の準備も無事に終わり、みんなでお父さんたちのお話が終わるのを待っている。 「ライトくんは、普段なにをしてるの?お仕事?勉強?」 「仕事は牛乳配達……っていっても、家の手伝いだよ。勉強は、そこそこかな?」 「……そうなの。じゃあ、ココちゃんは?」 「しご、と?あそ、びー?」 「ココちゃんも、お仕事してるの?」 「んーんー。あそ、びー」 「だよなー。ココは遊んでる姿が似合ってる」 ワタシもそう思う。 「ココって見た目が大きくならないから、ずっと子どものまんまみたいでさ。……って、ベルもなの?」 「ワタシたち《シスター》〈人形〉は、造られたときのままの外見がほとんどらしいの」 「……らしい?」 「お父さんの話でしか聴いたことがないから。ワタシが他の《シスター》〈人形〉と接する機会はほとんどないの」 「へーっ、どうして?ココみたいにメンテに来ないの?」 「お父さんの人形技術が要求されるときは、大抵が出張なの。……ワタシはお留守番だから」 「そうだったんだ。じゃあ、ココと会ってみて、どう?」 「うん、会えて嬉しい」 容姿はもう少し『おねえさん』を想像していたけど、実際のココは小さくて可愛かった。 ……最初、ワカバをココだと思ったことは内緒。 「ココの方は、どうだい?」 「ファー?」 「……ファー?ファーって、なんだ?」 「あ、どうもワタシのことみたいなの」 「え?」 事情を知らないライトは、きょとんとしている。 「ワタシを呼ぶとき『ファー』っていうの、ココちゃん」 台所で料理をしていたとき、ことあるたびに、 「『ファー?』」 と言いながらズボンのお尻を引っ張られたワタシ。 初めは『ねぇ、ねぇ』と声をかけられていたと思っていたが―― 「……どうも、ワタシの『愛称』みたいな感じなの」 「……ふーん。なんで、ファーなんだ?」 「んー?わかん、ない」 「自分でも分からないのか?変なヤツだな。……あれか?ベルの羽根が『ファー』って感じだからか?」 「どの辺りが?」 「んー。ココってときどき、感覚で喋るから。どうなんだ?」 「うーん、うーん」 「……あまり悩まないでいいの、ココちゃん。ワタシを呼ぶとき、『ファー』でもいいからね」 「ベルって結構アバウトなんだね」 「そうかしら?名前で呼ばれないのに、慣れているから」 「それなら、オレも『ファーちゃん』って呼んでいい?……オレのことは、『呼び捨て』でいいからさ」 「……いいけど、どうして?」 「ほら、見た目オレより年上っぽいし、『ファーちゃん』って呼びやすいじゃん。セロにーちゃんとか、ねーちゃんみたいに」 「うふふ、いいわよ。でも、見た目以上に『年上』なの」 「あ、そっか。そう考えると、ココもオレより上なんだよなぁ」 ライトの言うとおり、ココだってお姉さん。 「えへ、へー」 ココは両手を腰に当てて、えっへんのポーズをとっている。 「(――そして、もしかしたらワタシよりも……)」 「……あ、そう言えばさぁ。ちょっと訊いてもいいかな?」 「なにかしら?」 「ほら、ココって首からぶら下げてるじゃんか。……ファーちゃんには、そういうのないの?」 ライトが指差したのは、ココの胸元にあるガラス瓶。その中には、色とりどりの『貴石』が入っている。 「……《 ドロップ》〈人形〉石のことね?」 「そうそう。それって、《シスター》〈人形〉には大切なモノなんでしょ?」 「よく知ってるわね」 「初めてココに会ったとき、セロにーちゃんに聞かされたんだ。この瓶の中にある『石』だけは遊びに使うなって」 「セロの言うとおりよ。その石は、ワタシたち《シスター》〈人形〉にとって必要不可欠なの」 「……の割には、ココのって無防備だよな」 「ちなみにワタシのは……《 ・ ・》〈ここ〉にあるの」 ライトに解るよう、そっと両手で胸を押さえてみせた。 「そうなんだぁ」 人間でいう心臓の辺りに、ワタシの《 ドロップ》〈人形〉石は集中している。 「見せてあげることはできないけど、ココちゃんの《 ドロップ》〈人形〉石とは違うタイプなの」 ココのは色々な形・大きさのモノだけど、ワタシのは――ほとんどが同じ大きさで丸い形状のモノが多い。 「……あ、そうだ。ワタシの部屋にいけば、予備の《 ドロップ》〈人形〉石があるわ。それで良ければ、見てみる?」 「うんうん、見せて見せて!」 「せ、てー」 「それじゃ、いま持ってくるから待ってて」 ふたりが喜ぶ顔が嬉しくて、ワタシは家の中に戻ろうとする。……が、ちょうどそのとき。 ドアのところでセロにばったり。 「……あ、やっぱり外に居たんだ。台所に居なかったから、探したよ」 「ごめんなさい。食事の準備はできたんですけど、まだお話が続きそうだったので」 「あ、セロにーちゃん!もう話は終わったの?」 「いや。いまはワカバが単独でインタビューしてるよ」 「ふーん。ねーちゃんの話って長そうだよなぁー。きっとカッコつけて、どーでもいいこと勿体ぶって訊くんだぜ」 「あははっ、そうでもなかったよ。……それで、いまはみんな何してるの?」 「えっ?ファーちゃんに色々と《シスター》〈人形〉の話を聞いてたんだ」 「……ファーちゃん?」 「あ、それはワタシのあだ名……です。ココちゃんが付けてくれました」 改めて他の人の口から出ると、少し恥ずかしかった。 「ココが?……でも、なんでまたそんな……」 ワタシ、ライトに続き、ココにまで首を傾げられたセロは、困ったような顔を見せる。 それでも彼は、ココにしつこく訊くようなことはせずに、 「そんなあだ名で、迷惑じゃない?」 とワタシに笑いかけた。 「平気です。ワタシも何となく、気に入りましたから」 言葉にウソはなく、ワタシの中では妙にしっくり来ている。 「それなら、気にしないことにするよ」 「セロにーちゃんも、『ファーちゃん』って呼ぶかい?」 「……いや、僕は普通に『ベル』で。さん付けとかは……」 「い、いえ。そこまでは」 セロに限らず、誰かから『さん付け』されるのは苦手。 村の子たちだって、何年か経ち、大きくなってもワタシのことを昔と変わらず『ベル』と呼んでくれる。 唯一、ワタシを名前で呼んでくれないのは―― 「(――お父さんだけ……)」 そんなことを考えていたら、 「『……ベル、どこに居るのー!?居たら返事してー!』」 の声が響いた。 もちろんワタシを呼んだのはお父さんではなく、ワカバだ。 「ワタシは、外に居ますけど……」 「あ、動かないで!いま行くから!」 パタパタと走ってくる音が近づき、ドアの横にいたセロが『やれやれ』と笑うけど―― 「ぐっ!」 次の瞬間その姿が消え、勢いよく開いたドアの裏側から声だけが響いてきた。 「あっ、ごめんー!ドアの側に居るって気付かなくて」 「……いいんだよ。こんなところに居た僕がいけないんだから」 少し背伸びしてセロの額をさするワカバに、本人はちょっと涙目で逆にフォローを入れる。 「ひっでぇ、ねーちゃん。狙ってやったろ?」 「バカッ!そんなことするわけないでしょ!事故よ、事故」 「(――今日のお客さんたちは、みんな明るくて楽しい人ばかり)」 痛そうなセロには悪いと思いつつも、騒がしくなったことで沈みそうになった気持ちが元に戻ってきた。 「……で、何しにきたんだよ、ねーちゃん」 「アンタはお呼びじゃないの。ベルに用事があってきたの」 「ワタシに、ですか?」 「へーっ。腹減ったのが耐えきれなくなって、とかじゃなく?」 「……ライト、アンタねぇ」 「あ、あの、喧嘩は……」 《きょうだい》〈姉弟〉が争う前に止めようとしたワタシ。 だが、それよりも先に――ぐぅぅと、誰かのお腹の鳴る音が響いた。 「やっぱ、ねーちゃん……」 「ちっがーう!私じゃないもん!信じてよ、セロ!」 「う、うん。いまの音はワカバっていうより……」 「えへ、へー。ボ〜ク、はずか、しーい」 赤くなったホッペタを隠すココを見て、みんなが一斉に笑う。 そしてそれを合図に、ライトが率先して、 「しゃーねぇーなぁ。ファーちゃん、石はあとでいいから」 と言い、台所へと向かおうとする。 「……ファーちゃん?石って、何?」 「あ、それはワタシのあだ名で、石は《 ドロップ》〈人形〉石の……」 「いいって、ねーちゃんのことは。セロにーちゃんに任せておけば」 「っていうか、私はベルに用事があって……」 「はいはい、それはまたあとでなー」 説明も半端に、ワタシはライトに促されるまま家の中へ。 外ではワカバが、 「教えなさいよー」 とセロに詰め寄っていた。 「……みんな、いつもあんな感じなの?」 「そーだよ。あのふたり、見てて飽きないぜ」 「うふふっ、そうね」 ワタシはライトに同意しながら、軽く振り返る。 ワカバとセロには、通じ合う何かがあるからこそ……あんなやりとりができるのだろうと思う。 「レインさん。いらっしゃいますか?」 「……ん、セロ君か?入りたまえ」 「……はい」 遅めの昼食も終わり、僕はレインさんの私室へ。 ちょうどいまはみんなが食休みを兼ね、思い思いの時間を過ごしている。 「済まないのぅ。旅の疲れも抜けんうちから呼び出したりして」 「いえ。僕は平気です。それより、先ほどはワカバが……」 「ん、取材のことかね?いや、なかなか楽しかったよ。最近では、昔を思い出しても話す相手が居ないからのぅ」 レインさんは、そう言って椅子の背にもたれかかり、 「……それに、昼食会も良かった」 と目を細めた。 「あははっ、そうでしたね」 せっかくの天気ということもあり、昼食は外でとることに。 僕やワカバも食器などの準備を手伝い、庭にある大きな木のテーブルにシーツを広げた。 そして、ベルがレインさんを呼びに行って全員が集合。 ライトの献立は手軽に作れるサラダやカレー、生ハムサンドなど思ったよりもバリエーションに富んでおり、みんなから好評だった。 ただ、ワカバだけはカレーを食べるとき、 「『まぁ、いいんじゃないのかしら?』」 などと、妙に僕の視線を気にした発言が出ていた。 きっと、以前の白いカレーのことを思い出したに違いない。 「地元での生活は、いつもあんな感じかね?」 「いえ、いつもってわけでは。ときどきワカバやライトが来て、勉強したり遊んだり……そんなところです」 「ほっほっほ。では、読書ばかりの人生というわけでもないのだな」 「えっ、えぇ……」 どう答えればいいか微妙な生活をしているだけに、返答に困ってしまう。 「ま、セロ君はセロ君なりに、自分の考えた人生を送りなさい。もしも史学の道に迷いがあるなら、別のことを学ぶもよし」 「…………」 「うん?もうすでに迷っているのかね?」 「いえ、迷っているというか……はい、少し迷ってます」 「ほうほう。それは、ココのことかね?」 「えっ!?」 いきなり心を見透かされたかのような発言に、ドキリとする。 「……おぉ、どうやら儂の山勘もまだまだ、どうして」 「山勘、ですか」 「……ま、半分はな。ほっほっほっ」 レインさんは豪快に笑ったあと、 「で、ココの何を悩んでおるのかね?」 と優しく尋ねてきた。 「……うまく言えないのですが……」 自分が史学の道に突き進む前に、少しは人形技術について学んだ方が良いのではないか? 僕は、レインさんの家に来るまでの道のりでワカバに話したことを掻い摘んで口にする。 「うーん、困った。マジメなセロ君らしいのぅ」 「すみません」 「いやいや、儂はセロくんの考えを否定しているわけじゃない。むしろ、後継者不足の我々としては喜ぶべきこと」 「――じゃが、な。儂としてはその考え、もう少し先延ばしにして欲しいんじゃ」 「?」 「史学の道を突き進むか、人形技術に寄り道……または、儂のように思い切って乗り換えるか」 「――それに迷って答えを出す前に、ひとつ頼まれごとを受けてもらえんか……と思ってな」 「なんでしょう?レインさんの頼みなら……」 「ほっほっほっ。儂の頼みというよりはワカバ君の、じゃな」 「ワカバですか?」 「そう、キミが連れてきたワカバ君。あの子は、実に面白い」 「――何でも将来は、小説家を目指しているそうじゃな?」 「はい」 「キミから見て、どうじゃ?彼女、小説家になれそうかね?」 「……ワカバなら、きっと」 友人としてのひいき目もあるが、ワカバからは夢を現実に変えてしまう底力のようなものを感じる。 「そうじゃな。キミと同じで、何かをしてくれそうな子じゃ。……だから儂も、ついつい応じてしまったんじゃよ」 「……本人次第かと」 簡単になれるとは思えないが、それはどんな仕事も同じ。 情熱と努力を忘れなければ、なんとかなると思う。 「うんうん。手厳しいかもしれんが、その通り。そこで儂は、ワカバ君を試すことにしたんじゃよ」 「……え?」 苦笑いをするレインさんに一抹の不安を覚える。一体、ワカバはレインさんに何を…… 「二ヶ月後に、モスグルンで演劇祭があるそうじゃな」 「え、はい……って、まさか!?」 ワカバ、頼みごと、演劇祭ときたら、ルノンキュールからの道中で聞かされた、無計画エントリーしか思いつかない。 「うん。セロ君も知っておるじゃろ。その演劇祭でワカバ君は、自らの腕を試したいそうなんじゃよ」 「それは知ってます。知ってますが……詳細、聴きましたか?」 「あぁ、脚本が現在進行形、出演する役者も未定だそうじゃの」 「は、はい。それどころか……」 「おまけに曰くつきな『天使の導き』をベースに、大胆にも逆賊のアインが良い人……という、何処までもトンデモな企画と言っとったよ」 どうやらワカバは、包み隠さず伝えているようだ。 「それで、ワカバのレインさんに対する頼みは……」 「一言にまとめれば、『資金援助』の申し込みじゃった。昼食前の取材でセロ君が出て行ったあと、すぐに言われたよ」 「…………やっぱり……」 相変わらず無茶というか、直球勝負というか。ワカバらしい判断だとは思うが、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。 「それで、レインさんは承知されたのですか?」 「……いくつかの条件を出そうと思ったんじゃ」 レインさんは目を細めに細め、何度も頷いてみせる。 「まず第一に、役者はワカバ君が集めることを掲示した」 「――そうしたら、すかさず『うちの娘』を候補に挙げてきた」 「ベルを?」 「天使の導きに登場する、《シスター》〈人形〉役を任せたいそうじゃ」 「――だからこう言ったよ。儂は構わんが、本人が何というか。うちの娘に出てほしいなら自分で口説くように……とな」 「それであのとき……」 ワカバは庭に居たベルの元へ、すっ飛んできたというわけか。 「……あれ、レインさん?出資の条件って、それだけじゃないですよね?」 「あぁ。他の条件については、まだ話しておらん。じゃから、セロ君を呼んだ。……キミから話してもらおうと思ってね」 「それは構いませんが……」 「なぁに、身構えるほど難しいことでもないから安心しなさい」 レインさんはイスに座り直し、改めて僕の方を見る。 「儂がワカバ君に聴かせてもらった話では、『天使の導き』をアレンジするというよりは、なるべく史実に沿ったモノにしたいそうじゃ」 「――となれば、それなりの裏付けが必要だと思わんかね?」 「確かに」 「それには、ワカバ君が少しでも当時のことを調べなければならない。誰か協力者が欲しいところじゃの」 「…………僕のこと、ですか?」 再確認するまでもなさそうだが、念のため尋ねてみる。 「まぁ、これは儂がお節介するまでもなく自然とお声がかかるじゃろう。ほっほっほっ」 「(――わぁ、他人事みたいな笑い方だ)」 「あとの条件はふたつほどか。きちんと舞台となったヴァイス――『白の都』や『ドルンシュタイン城』を自分の目で見てくること」 「――そして、役者は儂を頼らずに自力で集める。これらを満たせば出資しよう……というわけじゃ。厳しそうかね?」 「……どうでしょう」 現地視察と、役者揃え。これはレインさんが出すまでもない条件だが、後者が難関になるかもしれない。 演劇祭はプロアマ問わず参加が可能だが、最近では出演者のレベルが高くなってきた。 素人ばかりを集めてワカバの『問題作』を上演したら……ブーイングの嵐になることも覚悟しなければならない。 が、しかし。 「……とにかく、やってみないことには分かりません」 「結構、結構。それでいい。若いうちは何事も挑戦じゃ」 レインさんは立ち上がり、満足そうに笑う。 「……このあと10日ぐらいは、セロ君の夏休みにも余裕があるじゃろう?」 「えぇ」 「まぁ、そんなに押せ押せで旅をせんでもいいが――」 「ちょっと待ってください、レインさん。それってまさか」 「まさかも何も、キミがついていかなくてどうする?」 「で、ですが旅費とか」 「ほっほっほっ!そんなことキミが心配せんでもいい。儂が行かせるのだから、当然費用は『こちら持ち』じゃよ」 「……ですが」 「ではその代わり、セロ君には別件で頼みたいことがある。それで手を打たないかね?」 「…………」 少し考えてみるが、断る理由は見つからない。 僕自身も、まだ行ったことのない白の都までの旅は魅力的だ。 「分かりました。それで、僕がすべきことは何でしょう?」 「うちの娘の『お使い』に、同行してやってほしい」 「……ベルのお使い?」 「青の都に、儂の同業者が店を開いておってな。そこには、一体の人形が預けてあるのじゃ」 「――それは元々、儂が娘のために造ってやった人形でな。色々な事情から、その『同業者』にメンテを任せておったのじゃよ」 「その『人形』を娘に引き取りに行かせようと思うのじゃが、なにぶんあの子は……ジルベルクからほとんど出たことがなくてな」 「そんなわけで、セロ君に付き添いをしてもらいたい、というわけじゃ」 「そういうことですか」 「無論、白の都へ向かう道中で構わんよ。娘の帰り道は、儂が迎えに行ってもいい」 「……分かりました」 「それと。もしも娘がその先も同行したいと言い出したときは、よろしく頼むよ」 「はい」 「まぁ、その辺りは……ワカバ君次第だろうがな。ほっほっほ」 「お邪魔しまーす」 「どうぞ。すみません、散らかってますが……」 ベルはそういうけど、私の部屋なんかよりずっと綺麗。……というよりは、あまり置いてある物がない? 「ごめんね、急に押しかけちゃったりして」 「……あ、そのイスでよければ腰掛けてください」 「ありがとっ!」 私は勧められるままに座り、室内をもういちど見渡す。 「ここにひとり?」 「はい。他にも部屋はありますが、父とふたりきりなので」 「いいなぁ、広い部屋でー。私なんて、ひとり部屋もらったの最近だもん」 「それまでは?」 「……ライトと一緒。もーう、アイツったらすぐ散らかすし、お菓子の《クズ》〈屑〉はこぼすしで大変だったの」 「うふふっ。楽しそうでいいですね」 「楽しくなんかないわよ。仮にベルがあの子と同室になったら三日……いえ、一日で愛想尽かすわ。保証する」 もーう、何にも知らないから言える感想よね。 「それでも、同世代の家族がいるのはうらやましいです」 「……そういうもの?」 「はい。この村にも兄弟姉妹の子たちが居ますけど……」 ベルはそこまで言って急に何かを思い出したのか、首を横に振って続きを濁す。 「どうしたの?」 「いえ、何でもないんです。それより、ワタシにお話って何でしょうか?」 「……あ、う、うん」 本当は昼食の前に尋ねたかったんだけど、タイミング外して先延ばしになっていたこと。 「(――演劇祭に出る気ない?)」 おじいさんからは、もう許可はもらってある。あとは本人の意思確認のみ! ……だけど、いざとなればなかなか言い出しにくい。 「あのさ。ベルって、観光とか好き?」 「観光?」 「そうよ。ベルも旅行とかするでしょ?」 「……したことがないので、よく分かりませんけど」 「(――ありゃ)」 ネタ振り、失敗しちゃったか。 「……でも、楽しそうだから嫌いじゃないと思います」 「うん、楽しいわよ。見知らぬ土地で色々な発見があると、それだけで幸せ!筆も進むし!」 「ワカバを見ていると、何となく分かりますね」 「あ、そうなの?えへへ」 ベルの笑顔につられて自分の頬も緩むが、私はそんな雑談をするためにベルの部屋にきたわけじゃない。 こういうときは、勢いが大切!ズバッといくわ、ズバッと! 「あのね、ベル!単刀直入に言うわ」 「は、はいっ」 「あ、あなたが……欲しいの」 「…………えっと……」 ベルの表情がすごく微妙で、私も反応に困る。 この前読んだ小説だと、こんな感じの台詞ひとつで役者を口説き落としていたのに! 「……ご、ごめんなさい。ワタシは……」 「大丈夫!もう、おじいさんから許可もらってるから」 「……えっ?」 「あとは、あなたの意思で決まるの。どうかしら?」 「ワ、ワタシは……」 「うんうん」 「ワカバのこと、嫌いではないです。いい人だと思います。だけどワタシは……これからも、父と一緒に暮らしたいです。誰かの家でご厄介になることは……」 「(――あれ、なんか反応が変ね?)」 何で一緒に暮らすとか、ご厄介になるとか―― 「あ、いや、待って、誤解!私の言葉が足りなかった!」 よく考えたら私、何の説明もせずに口説き文句だけ言ってた! 「別に、ベルをどうこうしようってつもりもないの!私もベルのこと嫌いじゃないわ。でも、それは……あれ?」 何だか、こっちまで調子が狂ってきた。ここはひとつ、深呼吸で気持ちを落ち着けて仕切り直し。 「えっと、これまでの流れは忘れて」 「……は、い」 「今度ね、私たちの住んでいるモスグルンで演劇祭があるの。私、それにエントリーしてるんだけど、まだ役者が揃ってないのよ」 「……はぁ」 「それで、良かったら……っていうかベルにしかできない役があって、どうしても舞台に立ってもらいたいの。どうかな?」 天使の導きに登場する《シスター》〈人形〉は、いまでも諸説色々あってどんな格好をしていたか判っていない。 けど、私のイメージする『天使』は、古い時代の《シスター》〈人形〉のシンボルである『羽根』を持つ者。まさにベルは、その役にぴったりだと思う! 「ワタシが、舞台に……?」 「そうよ」 「演劇祭、なんですよね?ワタシ、演技とかしたこと……」 「子どもたちと『お姫様ごっこ』とかしたことない?」 「それぐらいならありますけど……」 「だったら充分よ!素質あり!練習あるのみ!」 「あ、そ、それに、何をする役でどうしたらいいかも……」 「お姫様の側に立つ《シスター》〈人形〉の役」 「立っているだけでいいんですか?」 「さすがにそれはないかな」 ベルったら、中途半端にボケるけど……もしかして天然? 「じゃあ、まだお話が完成してないから簡単に説明するわね。ベルにお願いしたいのは、お姫様と共に居た《シスター》〈人形〉の役なの。そして、その《シスター》〈人形〉は唄が上手くて……」 「……うた、ですか」 「そう!ベル、唄を歌うの好きでしょ?」 おじいさんから許可と一緒にもらった『ベルは唄が好き』の情報をここで有効活用! 「……す、好き……です」 「じゃあ、合格!」 「え、どうして唄が好きだと合格に?」 「劇中で、《シスター》〈人形〉が唄を歌うシーンを入れるつもりなの。あ、これはベルに頼みたいからとかじゃなくて、初めからあった設定ね」 「――これでベルが受けてくれたら、あとはもうお姫様役を探すだけも同然なの!どう?」 この場は勢いで出演の承諾をもらい、それからじっくりと説明をしよう。 まず、中心人物のうちのひとり――天使の役が欲しい! 「……ワタシが、お姫様の横で唄を歌う役……」 うつむき加減のベルの口元に、一瞬だけ微笑みが浮かんだ。押すなら、いましかない! 「そうよ!いまならオーディションもなし!即決!」 「……」 私のごり押しに、ベルがゆっくりと顔をあげる。そして、小さく頷いた彼女に期待をして耳を傾ければ―― 「……急な話なので、少し考えさせてもらえませんか?」 と、肩すかしな返答をされてしまった。 一瞬、どうしてダメなのかとか言いそうになった私だが、それは逆効果だと理性が待ったをかける。 やはりセロから列車で言われたように、そうそう引き受けてもらえるものではなかった。 「ごめんなさい。せっかくの誘いなのに……」 「……あ、気にしないで。ベルの反応は正しいと思うわ」 「…………」 「じっくり考えて。無理にとは言わないけど、私……諦めないから!とりあえず、今日の話はここまで。またねっ!」 「は、はい」 部屋を出て、私は深呼吸をする。 「(――あーぁ。交渉って難しいな……)」 自分の見立てでは、ベルに脈はあった。 ただ、何かが引っかかって『うん』と言えない。 ……そんな感じがした。 「……モスグルン……」 ワタシは棚にあった地図の本を手にして、ジルベルク南東にその名前を確認する。 セロたちを家に連れてくるときに、列車を乗り継いで一日ちょっと……と話していた。 「(――どんな劇をするんだろう?)」 ワカバから話を聴かされたときは、あまりにも急だったのでよく覚えてないが、詳しい説明はされてないと思う。 「……お姫様の側に居る《シスター》〈人形〉」 確か、そんな役柄を頼みたいと言っていた。 「……どう答えればいいのかな」 全く興味がないわけでもない。それに、『ワタシが必要』と言ってくれたワカバの誘いが、とても嬉しかった。 ……でも、実際に何をするか教えられ、それを想像すると。自分が実行できる自信がないことに気付いてしまった。 「どうしたんじゃ、そんな顔をして」 「……あのね、お父さん」 お父さんの部屋に入り、どう切り出せばいいか悩んでしまう。 「何か用があってきたんじゃないのかね?」 「うん」 「ワカバ君から演劇に誘われ、困っておるのか?」 ワカバに『唄が好き』と教えたのはお父さんだから、そんな推測をされても当然。 「……そうです。どうして、わざわざワタシのところに話を」 お父さんは知っている。ワタシが唄を歌うのが好きでも、人前では歌えないことを。 なのに、何故ワカバが尋ねた時点で断ってくれなかったのか。 「ほっほっほ。珍しく拗ねた顔をしておるの」 「……お父さん。質問をはぐらかさないでください」 「……ほう、珍しく強気じゃな。しかし、それこそわざわざ『どうして?』と儂に尋ねるまでもないだろう?」 「…………」 「誘われたのは儂ではなく、おまえじゃよ。外出に関してならもう許可してある。……あとは自分で決めなさい」 「……お父さん」 最近のお父さんは、いつもこうだ。これまでのように、ワタシが困ったときにヒントをくれない。 そして、ワタシが『これでいい?』と尋ねれば―― 「答えは儂に求めず、自分で見つけるべきじゃよ」 ……こう言われてしまう。 「(――ワタシ、お父さんに嫌われたのかな……)」 そんなことはないと分かっていても、気持ちが沈むのは抑えられなかった。 「もし、ワタシがワカバの申し出を受けたら……お父さんはどうするの?」 「儂か?儂は特に劇の練習には関係ないからのう。おまえがモスグルンに行っている間、ここで留守番をしておるよ」 「一緒に行ってくれないの?」 「……まるで儂が側に居らんと、何処にも行けないような口振りじゃの」 「逆です。ワタシはお父さんが心配で……」 「ほっほっほ、ありがとうよ。じゃが、心配は要らんよ」 お父さんは大きく笑ってから、ワタシの目をじっと覗き込む。 「……まぁ、すぐに結論を出すこともあるまい。その前に、頼みたいこともあるしな」 「えっ?」 「おととい、青の都から手紙が届いてな。頼んでおいた『チョコ』のメンテナンスが終わったそうじゃ」 「本当に!?」 「……あぁ。ただ、儂にはやらねばならんことがあってな。代わりに、おまえが迎えに行ってやってくれんか?」 「でも、ワタシひとりで列車に乗ったこともないのに……」 これまでジルベルクを出たことが数回しかないワタシが、青の都へ行くだなんて。 「大丈夫じゃ。ちゃんと付き添いを頼んでおいたよ」 「付き添い……って?」 「ん?白の都に向かうセロ君たちにな。道中、青の都まで送ってくれないか……とお願いしておいた。彼らではダメかの?」 「そんなことないけど……」 「では、一緒に行っておいで。そして、彼らともう少し付き合ってみて……それから劇に出るかどうか判断するのは、どうかの?」 「……そうは言われても……」 お父さんの言いたいことはよく分かる。 セロやワカバのことをよく知ってから劇に出るかどうかを決めるのは、間違ってないと思う。 でも、それだとワタシは―― 「(――きっと承諾してしまう……)」 まだ半日も一緒に居ないが、みんないい人だと分かっている。できればワカバに協力してあげたい。 ……が、劇の中でワタシに求められるのはお姫様の横に立つだけではなく、『唄も歌う』という話だった。 唄は好き。だけどそれは、ワタシがひとりのときのこと。 村の子どもたちにせがまれたときも『みんなで歌おうね』と言って、自分は一番小さい声で歌詞をなぞって終わらせた。 偶然お父さんに鼻歌を聴かれたときですら大慌てするのに、それが演劇の舞台だったりしたら……取り返しがつかない。 「……無理だよ……」 ワタシが下手に参加すると言って、迷惑をかけるのが怖い。こればかりは、いくら練習したところで―― 「あー、ファー」 「……あっ、お帰りなさい」 元気のいい声に、ワタシは頭を上げる。 「あれ、どうしたの?もしかして、オレたちが帰ってくるの待っててくれたとか?」 「うん。お父さんがね、晩ご飯の前にココちゃんのメンテをするから、戻ったら呼んでくれ……って」 「そうだったんだー。すぐの方がいいかな?」 家の前に立つふたりは、靴にいっぱい泥がついている。きっと、湖のほとりまで行ってきたに違いない。 「靴が心配?洗うなら、こっちよ」 「ありがとっ!ココ、先でいいぜ」 「あ、い」 キュポン、キュポンと可愛い音をさせながら靴を脱ぐココ。ワタシはそれを受け取り、ホースの水で泥を落としてあげる。 「手袋も汚れてるわね。貸してくれる?」 「ダー、メー」 てっきり何の問題もないと思って手を伸ばしたのに、ココはササッと両手を後ろに隠してしまった。 「えっ、どうして?自分で洗いたいの?」 「あー、それは無理だと思うぜ。オレも理由は分からないけど、ココは手袋を外したがらないんだ」 「そうなの?」 「うん。セロにーちゃんだと、うまいこと外させるんだ」 そう言われてみれば、昼食のときも手袋はしたままだったような気がする。 「……ココちゃんにも、色々あるのね」 「あい、あい」 何度も頷くココを見て、ワタシとライトが笑う。 「あ、オレは自分で洗うからいいぜ。だから、ファーちゃんはココをじーさんのところへ連れてってやってよ」 「そう?それじゃすぐに戻るから、ここで待っててくれる?」 「うん、いいけど……」 「えーっ、そうだったの!?ねーちゃん、そんな面白そうなことしようとしてんの?」 「……あ、あれ?ライト、知らなかったの?」 ライトの意外な反応に、切り出したワタシまでもびっくり。 「全然!ねーちゃん、いつの間に演劇なんかに……」 てっきり、みんな知っているものだと思って話したのに。 「そうすると、ワタシが一緒に青の都まで行くこととかも?」 「そうなの!?っていうか、一緒?オレたち、青の都に行くの?初耳だぜ」 「……は、はぅ……」 そして、こちらもセロ止まりだったらしい。 「なーんだ!まだまだ旅には先があったんじゃん。おまけに、ファーちゃんが加わるなんて」 「青の都まで、よろしくね」 「おう!……って、そっから先は?ひとりで帰るの?」 「ううん。お父さんが迎えにきてくれる……って」 「ふーん。じゃあ、ねーちゃんの劇には参加しないんだ」 「…………どうしようか、悩んでるの」 だからこそ、ライトと話して少しでも考えをまとめようと思っていた。 「ライトは、劇に出るの?」 「……どうなんだろ?ほら、いまファーちゃんから聞いたぐらいだし、オレには関係ないんじゃないかな?あっても裏方とか」 「……そっか」 「あ、でも分かんないなぁ。あのねーちゃんのことだから、『猫の手も借りたいぐらいなのっ!』とか言われて、駆り出されるかも」 「あははっ」 まだそれほどワカバを知っているわけではないが、容易に想像ができてしまった。 「だけど、そうすると……セロにーちゃんとかもかな?」 「そうかも」 「セロにーちゃんって、ねーちゃんに弱みとか握られてたりするから、『やれ』って言われても逆らえないもの」 「……そうなの?」 「だってアレだぜ!あんだけワガママなうちのねーちゃんに愛想つかさないって、それぐらいしか考えられないじゃん」 「……そうかしら?他に理由があるんじゃないの?」 ふたりの間に流れる空気に、ライトが言うような負の要素は感じられない。 どちらかと言えば、お互いが信頼し合っている……の方が正しいのでは、と思う。 「うーん。そうすると、やっば……アレかな?」 「アレ?」 「へっへっへー。ふたりは……付き合ってる!」 「あぁ、付き合っているのね。それなら……」 「いや、よく分かんない。……っていうか、うーん」 ライトは腕組みをして考え始める。 そして、しばらくすると、 「あー馬鹿らしい。どーでもいいや」 あっさり考えを放棄してしまった。 「あら、いいの?お姉さんのこと、心配じゃないの?」 「えー、だって相手がセロにーちゃんだったら、問題ないよ。逆にセロにーちゃん以外だと、そっちの方が心配かな?」 「……セロって、信頼されているのね」 ワカバにも、ライトにも。 「信頼してるっていうか……他の人だったら、ねーちゃんの相手できないと思う。逆に、付き合う相手の方を心配するね」 「うふふっ、そこまで言わなくても」 「いやー、ホントだって。あのねーちゃんと一緒に暮らしてみなよ。三日といわず一日でぐったりだぜ?」 「……うふふふっ」 ほとんど変わらない台詞をワカバから聞かされていたせいで、笑いが抑えられない。 やはり、ワカバとライトは本当の姉弟。 「……うらやましい」 「ん、なにが?」 「……ううん、何でもないの」 ワタシは長い間このジルベルクで生活し、何人もの村の子を見てきた。 生まれたばかりの赤ちゃんが言葉を話せるぐらいに成長し、共に野山で遊べる年齢になり、そして数年が過ぎてワタシを超えていく。 もちろん、実際の年齢が抜かれることはない。 ただ、人間には目で見て分かる成長があり、ワタシのような《シスター》〈人形〉にはそれがない。 同じ時間を過ごした子が大人になり、やがて愛しい相手を見つけて結婚し、新たに生まれた子を紹介される。 そのときに感じるのは、無上の喜び。 だけどそのあと、ひとりになって思うことは―― 「ファーちゃん?」 「は、はいっ!?」 「……平気?何か、急に黙っちゃったから」 「ごめんなさい。ちょっと考え事しちゃって」 「ふーん」 ライトはまだ何か言いたそうな顔をしたが、それ以上踏み込んでくるようなことはせず、 「……あ、それでさ。ファーちゃんは何で青の都に行くの?」 と話題を変えてくれた。 「お友達を迎えに。……ワタシの大切なお友達よ」 「へーっ、どんな子?」 「チョコっていう名前でね、トランペットが得意なの」 「かっこいー!ねぇねぇ、青の都で会わせてくれる?」 「いいわよ。きっとライトも、チョコのこと気に入ると思うわ」 劇の出演については少し保留にすることにして、ワタシはライト相手にお友達の話を続ける。 まずは、青の都まで行こう……と思う。 もしかしたら、そこでどうすべきかが判るかもしれない。 「……ほい。それじゃ手をこうして上に」 「ほい」 ボク、ジージと同じぐらいに両手を上に挙げます。 「ん、真似されたか。じゃあ、もうちっとあげてくれんか?」 「これぐら、い?」 「あぁ。だが、椅子から立ち上がらんでよいからの」 「あー」 失敗、失敗。 ジージのまねっこするのは、手だけで良かったんだ。 「痛いところはないかい?」 「へーき、です」 「じゃあ、次。椅子に座ったまま、足をブラブラさせておくれ」 「……ブラー、ブラー」 「どうかな?動かしにくいとか、痛いとかは?」 「えっ、と、みぎ?」 「ん?右足の何処じゃ?足首?スネ?それとも膝か?」 おじいさんは、ボクの脚を下から3回『トントン』って軽く叩きました。 痛くないけど、何だかくすぐったいです。 「いまの三カ所で、調子の悪いところは?」 「あしく、びー?」 ボクは最後に叩かれた場所を指差して、 「へん、かも」 と教えます。 「ほっほっほ、そりゃ悪いことをしたな。しかし、そこは足首ではなくて……膝じゃよ」 「きゃー」 間違えちゃった。 「……さぁ、これでどうじゃ?もう痛くないじゃろ?」 《 ・ ・ ・》〈ジーッ〉とジージに見られてるから、ちょっと恥ずかしいけど、ゆっくり動かしてみます。 「あー、へい、きー」 今度は全然大丈夫!痛くも何ともありません。 「すごい、ジージ」 「ほっほっ。そりゃ、これが仕事だからの。さっ、次はお口を開けてみせておくれ」 「アーン」 「もうすこーし、開けられんかの?」 「ンァー、アー」 「よしよし、その調子じゃ。がんばれよ」 お口を開けっ放しって、お願いされると大変。 だって、閉じちゃダメなんだよ。 喋るときはお口をパクパクさせないと、うまく言えないのに。 「もー、いーかい?」 「まーだまだ、もう少しの辛抱」 「……あ、いー」 ボクのお口の中をのぞくおじいさんは、頷いたり、笑ったり。いったい、何をしているのかな? もしかして、探し物とか? 「うんうん。問題はなさそうじゃな。もう口は閉じてもいいよ」 「あいあい」 それからジージは、ボクの首から瓶をとって中に入った石を取り出します。 そして、それを机の上に置いて、ひとつずつジーッと眺め、 「うむ、前と同じ。無くしたりはしてないの」 と言って、にっこり笑いました。 「なく、すー?」 「そうじゃ。ココはこの貴石たちをしっかり守らんといかん。いまではもう、なかなか手に入らない加工品じゃからな」 「(――うーん)」 難しい話は、よく分かりません。 でも、石がなくなったら大変なのはボクでも分かります。 ボクたち《シスター》〈人形〉は、石の力があるから動けるの。 それにー。この中のひとつは、大切な、大切な石です。 必ず護ってね、ってお願いされたの。 「(――おねがい、ダレだっけ?)」 ……忘れちゃった。 「――儂がこの石を、あと50年早く見つけていたら……」 「んぁー?」 「……いやいや、何でもないよ。儂のむかーし昔の話。いまとなっては、これで良かったと思える巡り合わせじゃ」 ジージは、ボクの石を集めて瓶に戻しながら、 「これからも、大切に護っておくれよ」 と言います。 「あい。まかせ、てー」 大丈夫です。ボク、これまでもずっと護ってきました。 みんなと約束したもん、ねー。 「(――あれ?みんな?)」 誰だか思い出せないけど、ひとり、ふたり、さんにん……? みんな、同じこと言いました。 「(――でも。いつまで、まもればいいのかな?)」 ボクもいつか、ジージみたいに歳をとって、おばーさんになっちゃいます。たぶん。 「……さぁ、そろそろメンテナンスも終わりにしようか。口の周りの調整もしたから、お喋りが少し楽かもしれんぞ」 「ありが、とーう」 「おまえさんの造り自体が特殊で、いまの人形技師が知らんロスト・テクノロジーが施されておる」 「ロースト、テクノ、ロ、ジー?」 「失われてしまった技術、じゃ」 ジージは、遠くを見るような目で壁を見てます。 「古い技術でも、うちの娘のように文献に残っていたモノもあれば、現存しないモノもある」 「――おまえさんを構成する技術の半分ぐらいは、後者じゃ」 「んー?」 「だから色々な意味で貴重なんじゃよ、おまえさんの存在は」 「えへ、へー」 ボク、ほめられた? 「できれば言語石の機構を調べて、もっとうまく喋れるようにしてやりたいのだが――」 「……おまえさんに本格的な『《かいふく》〈解復〉』を施すとなれば、儂ひとりではとても無理じゃ」 「ふんふん」 「それにな、この歳になって思うんじゃよ。必要に迫られない限り、あまり手を加えることもないかとな」 「――いまのままでも、話すのに不自由はないかね?」 「あい」 大丈夫です。 みんな、身振り手振りで分かってくれます。 「セロ君たちは、みんな良くしてくれるようじゃの」 「あいあい。セーロー、やさし、いー」 いつも、抱っこしてくれたり、頭なでたり。 ご飯も作ってくれるし、さびしいと一緒に居てくれます。 ときどき怒るけど、それはボクが悪いことした場合です。 「ラーイー、も、カバー、も」 他にも、みんな優しいよ。 「……良かったの。これからも、ココに幸せがありますように」 「あい。ジージに、もー」 「ほっほっほ。お返しありがとう。……では、これでメンテもお終いじゃ。おつかれさん」 「ねぇ、ワカバ。レインさんから聴いたんだけど……」 「あ、う、うん」 ワカバと散歩に出て、湖のほとりから夕日を眺めていた僕は、雑談の途中から本題を切り出した。 「資金援助とは、ずいぶんと思い切ったお願いに出たんだね」 「……ごめん。本来ならセロに相談してから持ちかけるべきだったって、反省してる」 「いや、別にそれはいいんだ。僕だって学費や生活費を出してもらってる身だし。……ただ、大胆な発想だな、と思ってさ」 演劇祭参加に関する資金援助の願いをレインさんに申し出たワカバ。 レインさんの目には、どんな風に映ったことだろう。 「自分でも、あのときは勢いで口にしちゃって……」 「あははっ。ワカバらしいね」 「そういう言い方しないでよ。私だって、『やっちゃった』……って思ってるんだから、これでも」 さすがのワカバも、勇み足だったことは理解しているらしい。 「……それで、ベルには出演依頼してみたの?」 「うん、彼女の部屋でお話して……結果は、保留だって」 「さすがに、『考えさせてほしい』って言われた?」 「そうなのよ!あーぁ、ジルベルクに居る間に、ちゃんとOKもらえるかしら?」 ワカバは自分の頭をブンブン振ってから、心底ため息をつく。 「ねぇねぇ。あと何日、ここに滞在する予定なの?」 「うーん。早ければ明日には出るかな」 「えーぇぇっ!そんなに早いの?もう少しゆっくりしていかない?」 「僕たちはよくても、レインさんの都合もあると思うよ」 「そこをなんとか!私、一刻も早くベルを口説くから!」 「……い、痛い。そんな強く掴まなくても熱意は伝わるから」 「あ、ごめん」 僕はワカバに握られた手首をさすりながら、どうして滞在にこだわるのかを考える。 ベルに答えをもらうにしても、どうせ一緒に青の都まで―― 「あーっ!」 「うぁぁ?な、なに?湖に何か居たの?変な生き物!?」 「いや、違う!言い忘れてたんだけど……怒らないで聴いてくれるかな」 「ん、何を?私、大抵のことじゃ怒らないわよ」 目をパチクリさせて微笑む彼女に、多少懐疑的な僕。 そこで、軽く『ベルを連れて青の都に行くことになった』と告げてみれば。 「なーんでそんな大切なこと、すぐに言わないのよーっ!」 文句のあと、おまけの体当たりまで喰らわされてしまった。 「あー、それだったら焦る必要ないじゃない!青の都に行く途中で……って、あれ?私も青の都行くの?」 「……うーん」 このまま話し続けると『僕が後付けした』みたいな展開になりそうなので、きっちり説明をしよう。 「ワカバは最後まで話を聴かずに飛び出したらしいけど、レインさんは出資について『条件付き』でOKしてるよ」 「ホントに!じゃあ、ベルさえ何とかすれば……」 「待って待って。条件はまだあるから」 きちんと舞台となる現地を取材し、史実の裏付けも含めての話作りを心がけ、役者は自力で揃えることを伝える。 「……これらができるなら、って話だった。どう?」 「もちろん、やり遂げてみせるわ!……となると、白の都は行かないとダメね」 「当然、そうなるね」 「それから、そのまま『赤の都』まで行って――」 「……え?」 「ぐるーっと回って、モスグルンへ戻る旅ね。決まり!」 説明を終えて1分も経たないうちに、とんでもなく旅路が増えているのは……どういうこと? 「何で『赤の都』まで行くの?舞台はいまの『白の都』――ヴァイスだよね?」 「だって、『青の都』に寄って、『白の都』も行くんでしょ?とーぜん、『赤の都』だって行かなきゃ!」 握り拳のワカバは、下から僕を見上げて力説してくる。 「――私が書くのは、赤、青、白の三国時代のお話なのよっ。赤だけ除け者にはできないわ」 「それに!赤の都まで行けば、いい役者さんも見つかるかもしれないし」 「あっ!あそこにはこの国一番の図書館もあるじゃない!セロが調べ物するには最適よっ!」 「(――そりゃ、『国立カーディナル図書館』は魅力だけど)」 「あそこで調べれば、きっと歴史の裏付けなんてちょちょいのちょい!これで条件ひとつ完全クリア!」 「……あ、あのね。確かにあそこは魅力的で……」 「なぁに、セロ?私たちの演劇、実現させたくないの!?」 ……わ、私たち、って。ワカバの中では、そういうことなの? 「セロなら大丈夫!私が保証する!自信持って!」 「…………あ、ありがとう」 「よし!そうと決まれば行動あるのみ!明日には出発ね!」 「待って。まだジルベルクに来た目的が……」 「あ、そっか!じゃ、ココのメンテが終わったらすぐに!」 興奮するワカバと共に、僕はレインさんの家に戻る。すると、ココのメンテは終わっており―― 「……と、いうことで……」 ジルベルクに着いて次の日の朝。 僕たちは荷物をまとめ、レインさんの家の前に立っていた。 「大変お世話になりました!ほら、ライトも頭さげて!」 「わっ、わかってるよぉー。じーさん、お世話になりました」 「ほっほっほ。儂は、ほとんど何もしとらんけどなぁ」 「(――ワカバって、本当に……せっかちというか……)」 僕から資金提供の条件を聞き、意気揚々と帰ったワカバは、その足でレインさんのところへ行った。 そして、すでにココのメンテナンスが終わっていたと知るや否や、 「『セロ、準備してっ!』」 などと駆け戻ってくる始末だった。 「私、レインさんには感謝の言葉もありません。それに、こんなオシャレなタイプライターまで……」 そう言って、両手で赤いバケツのようなケースを持ち上げてみせるワカバ。 その中身は、ポータブルのタイプライターらしい。 「ほこりを被ったままにするぐらいなら……と思ってな」 どうやらレインさんの心遣いで、本業に相応しいアイテムを手に入れることができたようだ。 「その代わり、娘のこと……よろしくな」 「はい、必ず!」 ワカバの返事が微妙にレインさんの意図とズレている気もするけど、突っ込めるような雰囲気ではなかった。 「さぁ、ココもお別れを」 「あい。また、ねー」 「……あぁ、またおいで」 今回、レインさんはココからメンテナンス時の記憶を消していないと言う。 では、どうして以前は記憶を……と尋ねようかとも思ったが、何となくそのままにしてしまった。 「……それじゃあ、青の都に着いたら電話します」 「ほっほっほ。よろしく頼むぞ、セロ君」 僕がココを下がらせ、ワカバがライトの肩を引く。 残るはレインさんと、お出かけ用の服に着替えたベルの挨拶。 「お父さん、行ってきます」 「……あぁ、行っておいで」 それはまるで、『ちょっとそこまで行ってきます』ぐらいのやりとりだった。 レインさんの家が見えなくなってから、しばらくして。 「……にしてもねーちゃん、ひでぇーよ」 「なにがよ?」 「オレ、演劇祭の話なんて全然聞いてなかったぜ」 「なにいってるの?昨日の夜、してあげたじゃない」 口を尖らせるライトに、澄まし顔のワカバ。 「オレが言ったからだろ?……なんで《きょうだい》〈姉弟〉なのに、ファーちゃんから先に報されたりするかなー」 「そ、それは……」 さすがにバツが悪くなったのか、言葉につまっている。 「ごめんなさい。ワタシ、もう知ってるものだと思って……」 「いいのよ、ベル。あなたが謝る必要はないの」 「そうそう。悪いのは、ねーちゃんだから」 「……ぐっ」 言い返すに言い返せないワカバを見て、そのままというわけにもいかない。 僕は軽く咳払いをしてみんなの注意を引き、 「それで、ワカバが用意するのはどんな感じのお話なの?」 と方向を変えてみることにした。 「あー、そうだ!オレ、まだ内容知らないよ」 「ワタシも、まだ詳しい話を聴いてません」 「ボ〜ク、もー」 「……あーもう、知らなくて当然!まだ、誰にも話してないんだから!」 うまく変えたつもりだったのに、ワカバがみんなから一斉に《 ・ ・ ・ ・》〈知らない〉コールを受けて鼻を鳴らす結果となってしまった。 「(――失敗したかなぁ……)」 それでも、ワカバは一息入れたことで持ち直したようで。 みんなをひとりずつ見たあと、 「本当は、もう少し形になってから話すつもりだったのよ。だけど、トントン拍子に来ちゃったから……」 と告白。 ルノンキュールからの電車の中で聞かされた段階では、辞退するしかないぐらいに何も決まっていなかった。 それがたった一日かそこらで資金や役者の候補も見つかったわけだから、説明が前後になっても仕方ないと思う。 「まず、みんなの基礎知識を確認するわ。悲劇として名高い『天使の導き』は知ってる?」 「……はい。詳しくは知りませんが、だいたいのあらすじなら」 「……オレが知ってるのは、逆賊のアインが出てくる劇ってぐらいかな」 「アイ、ンー?」 順番に情報量が減っていく回答。僕が思わず笑いそうになったところで―― 「ん?なんだ、ココもアイン知ってるのか?」 ライトが意外そうな顔でココの知識を再確認する。 「んー、しってる、のー?」 「いや、オレが訊いてるんだけど」 「……はいはい、元々の質問は私がしたの。脱線するなら、続きはまた今度よ」 「分かったよ。それで、『天使の導き』を知ってると、なんかあるの?」 「それを知っていると、説明が早かったんだけど。これは、基礎から時間をかけて解説しないとダメなレベルかしら?」 「えーっ!ねーちゃんの話なげぇよ。簡単にお願い」 「……くっ、人が親切に順序立てようとすればぁ……」 「まぁまぁ、抑えて。いまはワカバの書くお話を教えつつ、相違点だけ挙げればいいんじゃないかな?」 「……そうね。その方が手っ取り早いわ」 ワカバはウンウンと頷き、大きく息を吸って、 「むかしむかし、この地方には『赤・青・白』――3つの国がありました」 「知ってるよ、そんなの」 「むきーっ!話の腰折るライトには教えない!」 「まぁまぁ、落ち着いて。ほら、ライトも聞き手に回ろうよ」 さっきから僕が似たような仲裁ばかりしているのは気のせいだろうか? 「……簡単に話すと!むかし、赤と青に挟まれた白の国には、ひとりのお姫様が居ました。その名はクリスティナ・ドルン」 「マー?」 「あ、ごめん。……ほら、ココ。黙って聴いててあげようね」 「ごめん、ねー」 「――いいのよ、ココは」 「なんでオレには怒って、ココには甘いんだよー」 「シャーッ!黙れ小僧!」 「(――やれやれ……)」 そんな調子で、駅に向かうまでの道のりはワイワイガヤガヤ。以前、僕に話してくれたような説明を続けたワカバは、 「……で、お姫様は。摂政だったアインによって殺されてしまったそうよ」 と、一旦結んだ。 「そんな話だったんだ。初めて知った」 「もーう。これぐらい習わなくても知ってると思ったわ」 「うっさいなぁ!……で、その後はどうなったの?まさか、お姫様が死んでお終い?」 「……いいえ。史劇の中では、アインは国外逃亡を図ろうとし、赤と青の連合軍によって討ち取られているわ」 「――そのとき、赤と青の軍にアインの居場所を知らせたのが、お姫様の元にいた《シスター》〈人形〉だったそうなの」 「それで、タイトルが『天使の導き』なのですか?」 「……そう。そして、お姫様の仇討ちを成し遂げた《シスター》〈人形〉は、人知れず何処かに行ってしまって……終わり」 「ふーん。やっぱ、悪は栄えないんだな」 「まぁ、アインが本当に悪者だったら……それでOKよ」 そこでワカバは、意味深な口調でニヤリと笑う。 「ん?どういうことさ?」 「……私が書こうとしているのは、いまのお話と根本的に登場する人たちの『役割』が違うのよ」 「役割が、ですか?」 「そうよ。別にお姫様が実は悪い人で……とかじゃなくて。逆賊アインが、『実はいい人だったんじゃないかなー』っていうお話なの。どう?」 すでにそれを聞かされていた僕は、ワカバと同じように他のみんなの反応をうかがう。 「……ねーちゃん、それってアリなのか?ズルくない?」 「なんでよっ!どこがズルいのよ?」 「だってさぁ、なんか……引っ繰り返しただけじゃん」 「……バカッ!そこがすごく大変なのっ!いまだって、どうやって観た人を納得させられるか、苦労してるんだから!」 「そうなんだ。オレにはよく分かんないけど……ファーちゃん、どう思った?」 「えっ、ワ、ワタシ?」 ベルは何か考え込んでいたらしく、ライトの呼びかけに驚き、 「ワタシは、その《シスター》〈人形〉がその後どうなったのかが……気になります」 と感想を述べた。 やはり、同じ《シスター》〈人形〉として……の気がかりだろうか? 「うーん。ちょうどいま、その結末部分で悩んでいるのよねー」 「――アインがイイ人だとすれば、お姫様は殺されない。……ということは、敵討ちっていう設定も消えるでしょ?ねぇ、セロ」 「……そうだねぇ」 そこでこちらに振られても、話を書くのは僕の担当じゃないので何とも言えない。 「ま、ボチボチ考えていきましょ!白の都に着けば、きっとイイ案も見つかるわよ!」 最後は、ワカバらしいポジティブに締めたところで駅に到着。 僕たちはみんなで仲良く切符を買い、青の都行きの列車へと乗り込む。 「……列車って、すごいんですね」 これまで本やテレビで見たり、話には聴いたことがあった。でも、こうして自分が乗るのは―― 「え、ファーちゃんって電車、初めて?」 「えぇ、そうなの」 初めてジルベルクを訪れたときは、荷馬車に揺られての旅。村を離れる際には、父の知り合いが自動車で送迎してくれた。 「ふーん、そうだったんだ。……あ、この荷物どうする?網棚の上でもいいかな?」 「あっ、それは……お願いしてもいい?」 ワタシは非力で、重い物が持てない。 それを知ったライトが進んで荷物を持ってくれたときは、とても頼りがいのある男の子だな……と思った。 「はいよ、お任せ!ええぇぃ」 ライトは、ちょっと背伸びをしながら頭上の網棚に荷物を並べていく。 そして、 「そのバスケットも?」 と、ワタシの手元を指差した。 「これは、このままで。ありがとう」 「いーえ、どういたしまして」 ライトの親切は嬉しかったが、このバスケットだけは膝の上。 「(――これだけは、しっかり持ってないと)」 ワタシは周囲のみんなに気付かれないよう、こっそりフタをノックしてみる。 「んー?」 「(――えっ?いやだ!まさか、起きてるの?)」 そんなはずはない。 だって、お父さんに頼んでしばらく眠らせてもらったから―― 「なぁに、そ、れー?」 「きぁあ、コ、ココちゃん!?」 通路向こうのボックス席から身を乗り出し、ワタシの膝に注目していたのはココ。 その目が分かりやすいぐらい興味津々で、ワタシを焦らせる。 「こ、これはね。その、ワタシのおと……」 「『いいかい。ココにはしばらく、内緒にしておくんじゃ』」 父の言葉が頭に甦り、あやうく口から出そうになった言葉を飲み込む。 「んー?」 「これは、ワタシ以外が開けると……大変なの」 「あ、い。わかりまし、たー」 とっさの言い訳が通じ、ココの視線はワタシのバスケットから向かいのセロへと移る。 どうやら、さっき聞こえた声は、ココのものだったらしい。 「あの、ねー。たい、へん」 「ん?何が大変なんだい?」 「ファー、たい、へん」 「(――えーっ?)」 指差されたのはワタシ。 それで説明の最後だけ伝えられたら、確実に誤解されちゃう。 「ワタシは平気です。何もないですから、本当に」 「……う、うん。大丈夫。それとなく、耳に届いてたから」 セロは手を横に振りながら笑い、 「ほら、ココ。外を見てご覧よ」 と、いまの話題から意識を逸らしてくれた。 「……フーッ」 「…………ねぇ、ファーちゃん」 「は、はいっ!」 一難去ってまた一難のごとく、次々に話しかけられる。 「そのバスケット、何か秘密があるの?」 「(――あ、ぅ……)」 「何か、ノックして中の反応待つような仕草してたからさ」 「……見てたの?」 「真ん前だし、自然と見えちゃった。あ、でも!」 ライトは小声で、 「何かまずいモノが入ってるなら、見なかったことにするぜ」 と言ってくれた。 「……ありがとう。じゃあ、忘れてくれる?」 「オッケー!」 ……とは言ってくれたものの。 列車が走り出してからの雑談の最中、ライトの視線がチラリ、チラリとバスケットに注がれてしまう。 「(――やっぱり、興味引くような断り方がダメだったのね)」 ワタシは覚悟を決め、ライトだけには秘密を話すことにした。 「……ねぇ、ライト。ちょっと隣の車両までいいかな?」 「ほぇ?いいけど」 ちょうどココは、向こう側でワカバの影絵遊びに夢中。 「(――ごめんね、ココちゃん)」 心の中で謝りながら、気付かれないように席を立つ。 「(――うまく説明できるといいんだけど……)」 「へーっ、そんな『目覚まし』が入ってるんだ」 思い切ってバスケットの秘密を話したところ、ライトは少しびっくりした顔。 それでも、秘密にして欲しいとお願いすると、 「りょーかい!」 気持ちいい返事をくれた。 「ありがとう」 「だけど、意外だなぁ。ファーちゃんが、そんなモノ持ってるなんて」 「そ、そう?おかしい?」 「いや、そんなことはないんだけど」 そう言ってはくれたけど、困ったような顔を見るに、 「(――もしかして、子どもっぽいと思われた?)」 ワタシは昔から朝に弱くて、お父さんがくれた『お友達』が居ないとなかなか起きられない。 「(――セロやワカバに話したら、笑われちゃうかな?)」 きっとみんな大人だから、目覚ましなんかなくても―― そんなことを考え、ワタシはライトに相談を持ちかける。『どうすればバスケットの中身を秘密にできるか?』と。 そして、一番知られてはいけない相手がココであることも、一言付け加えてみる。 ……と、ライトが急にニヤニヤと笑い出した。 「……何かいい方法があるの?」 「うん。いま、すっごくいいのを思いついたんだ」 「こっちよ、ココちゃん」 ココひとりを呼んできてほしいと言われ、ワタシは車両を一往復。 セロとワカバが仲良く話し込んでいたので、手招きだけで連れてくることに成功したけど―― 「あ、ラーイー」 「よう、ココ。実は、すごく大切な話があるんだ。いまから話すこと、よーく覚えてくれよ。いいな?」 いきなりあやしい前振りで耳打ちを始めるライトに、一抹の不安を覚える。 「ファーちゃんの持つバスケット、分かるよな?」 「あい」 「――あのバスケットは、決してファーちゃん以外が開けてはいけないんだ」 「どーし、てー?」 「実は、な。あのバスケットには……『ガブガブ怪獣』が住んでいるんだ」 「(――えっ?)」 な、なに?そのガブガブ怪獣って? 「ガブガ、ブ?」 「……そう、ガブガブ怪人!なんと、そのガブガブ怪人は、ファーちゃん以外の《シスター》〈人形〉を……食べちゃうんだ!」 「(――そんなウソで脅かさないでも……)」 それに、最初は『怪獣』だったはずなのに―― 「……こ、こわい、ねー」 「そうだろ、こわいだろ?だから、ココは開けたらダメ!……いいな?わかったら2回頷いて」 「うん、うん」 「よーし!そしてこれは、セロにーちゃん、ねーちゃんには内緒だぞ。いいな?」 「……あ、い」 「あ、あの……ライト?何もそこまで……」 「しーっ、オレに任せて」 ライトは何度も首を横に振ってから、 「さぁ、もう戻っていいよ」 とココに告げる。 「ガブガブ、イヤー」 パタパタと走って戻る後ろ姿に、何となく罪悪感を覚えてしまうのは……ワタシだけ? 「ふーっ。これで平気」 「……でも、ウソはよくないと思うの」 「そりゃそうなんだけど。ココは……あれぐらい言わないと覗いちゃうと思うなぁ」 「よく知ってるのね」 「そりゃーだって!いつも遊んでやってるのオレだから。ココって、オレのマネばっかりして、探検ごっことかするし」 「……それ、もしかして……ライトの影響?」 「あ、あははっ。そんなことないよ。きっとココは、昔からそういうのが好きだったんだよ」 視線をそらした辺り、ライトにも自覚はあるらしい。 「……でもさ、ファーちゃん。実際、その『目覚まし』って、どんな感じなの?」 「(――ど、どうしよう?)」 ライトに見せていいものか迷うが、ここで断るのも悪い気がしてバスケットのフタに手をかけた。 「……秘密、守れる?」 「うんうん!」 その笑顔がとっても不安なの……とは、いまさら言えない。 ワタシは諦めて、ゆっくりとバスケットの中身をライトに見せた。 青の都に向かうため、ジルベルクを出た僕たちが乗り込んだ列車は、ひとまず手前の都市『ペルヴァンシュ』が目的地。 しかし普通列車のために停車駅が多く、ずいぶんとゆっくりしたペースで進んでいた。 「……ヒマですることないよねー」 「ライト、少し勉強でもしたらどうなのよ?」 「えーっ、なんで?」 「夏休みの宿題とか、コツコツやらないと終わらないでしょ」 そしてこの山間にある小さな駅では、かれこれ10分ぐらい止められたまま。 車掌の話では乗り換えの待ち合わせらしいが、それらしき列車の姿はどこにも見えない。 「……大丈夫だって!これでも家にいるとき、配達前に勉強してたんだから。3日で1ページ進んだんだぜ」 「ふーん、3日で1ページねぇ。それで終わるの?」 「…………さぁ?」 この列車に負けず劣らず、ライトも呑気な返答をする。 「旅行中、ちゃんと進めておくのよ?いい?」 「進めるも何も、宿題は家だから……」 「いますぐ帰って、とって・き・な・さーい」 「無理だって!第一、列車動いてないし!」 ボックスシートで仲良く話す姉弟を見て、僕は微笑む。 モスグルンを出てきたときの一件のせいで、姉弟の関係がギスギスしないか心配していたが、どうやらそれも無用な感じだ。 「……なぁ、ねーちゃん。なんかお菓子とか持ってない?」 「ないわよー。ただでさえ荷物が多いんだから、私は」 「ちぇーっ。そうすると、しばらくはお預けか……」 「ボ〜ク、ある、よー」 ふたりの話を聴いていたココが、ピーンと閃いたかのようにこちらのシートへ顔を出す。 そして、期待に満ちた目で僕の方をジーッと見ている。 「……いいよ、みんなに分けてあげてね」 僕は棚からココのバッグを取って渡すと、 「ありが、とー」 ココ謹製のお菓子の詰め合わせセットは、みんなで仲良く分けることに。 「じゃあ、これはベルに渡してあげて」 「あい。ファー、おか、しー」 「……ありがとう、ココちゃん。あ、そんなには……うん、それぐらいで」 「えへ、へー」 裏側へと戻ったココは、ベルと仲良く話している。 「……ところでこの列車、いつ出るのかな?」 「さぁ?セロ、分かるー?」 「乗り換え列車の姿も見えないから……まだまだじゃないかな」 この辺りの土地では、時間の流れが大らかなのかもしれない。 「これで『ペルヴァンシュ』に着かないとか、ないよね?」 「それはないと思うよ」 すでにホテルは予約済みだから、多少遅れた到着でも何とかなる……はず。 初めてにも近い旅で不安は尽きないが、泊まる場所さえ確保できていれば、どうにかなりそうな気がする。 「(――まあ、野宿はあり得ない話でも……)」 ちょっとした問題は残る。 それは、新たにベルが増えての5人旅となり、部屋割りをどうするか?……という話。 「(――やっぱり、ベルは女の子だから……)」 ワカバと同室になってもらい、ライトを僕たちの部屋にするのが一番ベストな考えだろう。 もしベルがひとりを望むなら、ルノンキュールの組み合わせ――僕とココ、ワカバとライトのペアで合計三部屋をとる。 「うーん」 我ながら妥当な考えだとは思うが、何となく面白みに欠ける部屋割りのような気がしてきた。 「(――まぁ、いいか)」 別に、いますぐ決めなきゃいけないほどのことでもない。 それに、まだ『青の都』での滞在日数も分からないのだ。仲良くなったら、適度に組み合わせを替えてもいいと思う。 「こら、ライト。恥ずかしいから、お菓子の屑を落とさないで」 「うるさいなぁ、そういうねーちゃんだって……ほら、そこ」 「えっ、どこどこ?私、そんなに行儀悪くないわよ」 「へへーん!ねーちゃん、だまされてやんの……って、うわぁ、マジで怒るなよ!」 「……待ちなさーい!周りの人に迷惑だから走らないの!」 「そーゆーねーちゃんも、走るなって!」 「(――やれやれ……)」 ライトもワカバも、疲れというものを感じさせない。 僕がそんなふたりが隣の車両へと消えていくのを見ていると、シートから頭を覗かせていたベルと目が合ってしまった。 「…………元気だよね、あのふたり」 「そうですね」 にっこりと笑うベルに、僕もつられる。 「(――この子、自然に笑うなぁ……)」 うちのココとは違って、限りなく人間に近い造りの《シスター》〈人形〉。 初めて坂道で出会ったとき、僕は《シスター》〈人形〉とは気づかなかった。 「ワカバとライトは、いつもあんな感じですか?」 「うーん。普段はもう少しおとなしい、かな。……あははっ」 旅行のせいで浮かれているんだと思うよ、と付け加えれば、ベルも納得がいったらしく2、3度頷いてくれた。 そしてそのあと、何かを思い出したかのようにハッとして、 「あの、すみません。そろそろワタシ、眠らないと……」 バツが悪そうに呟いた。 「……あ、いいよ。ゆっくり休んで。あのふたりが戻ったら、静かにするように言っておくから」 「ありがとう。でも、平気です。いまのワタシは、一度寝たらなかなか起きませんから」 「…………そうなの?」 「はい。なるべくご迷惑かけないよう、心がけます」 そう言って軽く頭を下げ、シートの向こうに沈んでいくベル。 僕も彼女の邪魔はしないよう、静かに元の位置へ戻る。 「(――さて、と。いまのうちにスケジュールの確認をしよう)」 モスグルンを出るときは、ジルベルクに行ってそのまま戻るつもりだったので約1週間の計算していたが、この調子だと10日もしくは2週間に伸びるかもしれない。 「(――戸締まりはしっかりしてきたから、いいとして……)」 「……セロにーちゃん、なにしてんの?」 「あぁ、ちょっとした覚え書きを……って、いつの間に?」 気づけばライトだけでなく、ワカバも戻ってきている。 「へへへっ。ファーちゃんが寝てるみたいだからさ」 「馬鹿な弟に振り回されるのもどうかと思って、おとなしく戻ってきたの」 「へーん。結局、追いつけなくて先に戻った言い訳?」 「……ホームに出てまで逃げるのは反則でしょ!」 どうやら、ルール無用の戦いだったらしい。 「まぁ、ワカバも落ち着いて。ほら、ライトもそれぐらいで」 僕はふたりをなだめすかし、ベルの方をチラリと見た。 ――大丈夫。ちゃんと寝ている。 ……が。 「…………ねぇ、ワカバ。ココ、知らないかい?」 「へっ?」 覗き込んだボックスシートには、ベルしか見あたらず。 一緒に居たはずのココの姿が、どこにも見えない。 「そう言われてみれば、戻るの遅いなぁ」 「……遅いって、何がよ?」 「え?いや、ちょうどホームに出たとき、ココが居てさ。ねーちゃんを挟み撃ちにしようって、計画したんだ」 「は、はさみうち?それってどういうことよ!」 「う、うん。オレが先頭車両、ココは後方から乗り込んで、ねーちゃんに見つかったら気を引いておいて――」 「気づかれてない方が、後ろから驚かそうぜ……って」 「バカでしょ?アンタ、ホントにバカでしょ?そんなので私が驚くわけないじゃない!」 「(――待って、ワカバ。論点が違うから!)」 いま大切なのは、ココが何処に居るか分からないこと。 「ライト!ココは間違いなくまた列車に乗り込んだのかい?」 「うん。その姿を見てから、オレも乗り込んだから」 それなら、車両の中を探せば済む。 もし、またホームに降り立ったり、さらにそこから外に……なんてことになっていたら、大変なことになる。 「ワカバ、悪いけど先頭車両方向でココを探して。ライトはそのまま待機。僕は後方車両を見ていくから」 哀しいかな、ライトの計画していた『挟み撃ち』の逆で探索することになろうとは。 「え、えっと、もしそれで見つからなかったら?」 「そのときは、ホームに出てみて。最悪、駅員さんに迷子の届けを出して……」 そこまで言って、僕の口はパクパクと無音になってしまった。 「どうしたの、セロ?」 ……どうしたも、こうしたも。 「なんか、変なモン食ったの?」 「……ち、違う。もう、いいんだ」 窓の外から―― 「……ココ。そこで、なにをしてるのかな?」 「『かくれん、ぼー』」 探していた《 ココ》〈迷子〉が、顔を覗かせているんだ。 「『あー、みつかっ、ちゃっ、たー?』」 「ふーっ」 変に焦ってしまっただけに、ドッと疲れが出てしまった僕は、少しだけお小言タイムをとる。 「……いいかい、ココ。何度もいうようだけどね……」 かくれんぼが好きなのは知ってるし、禁止にもしない。……だけど、時と場合によっては取り返しがつかなくなる。 「ごめん、ねー」 反省するココを見て、これ以上怒っても意味がないだろうと判断した僕は、軽く頭をなでてあげる。 「気をつけてね」 「あい、きをつけ、ます」 こんな騒ぎの中でも、ベルは静かに眠ったまま起きることもなく。 やがてホームの反対側に列車が到着し、乗り換えが行われて発車の時間を迎えた。 「(――やれやれ……)」 「まぁ、無事に出発できたからいいじゃないの。ねっ!?」 「……そうだね」 きっとココも、この反省を生かしてくれることだろう。……そう、信じたい。 天気はモスグルン出発以来、変わることなく晴天続き。 旅の仲間が増えた私たち一行は、ジルベルクから列車で下り、空が暗くなる寸前に無事『ペルヴァンシュ』入りを果たした。 新しいメンバーに入ったのは、ココとは違うタイプの《シスター》〈人形〉で、背中には白い一枚羽根を持つ女の子――ベル。 彼女のお父さんからのお願いで、『青の都』まで送り届けることになっているけど、私としては『その先』も一緒に行動してもらいたい。 だって、劇に出す予定の天使のイメージにピッタリだから! ……私、『青の都』に着くまでには……必ず口説いてみせる! 「(――って、意気込みを日記に書いた私だけどさ)」 実際のところ、ベルは向こう側のボックス席で……お休み中だったりするのよね。 「……はぅ」 無理矢理起こして、祈願成就ってわけにもいかない。 「どうしたの、ワカバ?ため息なんかついたりして」 「何でもないわ。こればっかりは、仕方ないもの」 今回の旅は、ベルにとって初めての体験ばかり。 ジルベルクからの外出、ペルヴァンシュのホテル……などと慣れない環境が続き、だいぶ疲れが溜まっていたらしい。 「『すみません。青の都までの《のぼ》〈上〉り列車で、少し休ませてもらってもいいでしょうか?』」 律儀な彼女は、私たち全員に許可をもらってから、アメ玉のようなモノを飲み、そのまま寝てしまったのだ。 「……あーぁ。青の都に着くまで、起きそうもないわよね」 「ん?ベルのこと?」 「……そう。この列車がチャンスかな、とか考えてたんだけど」 「演劇の件なら、焦らなくてもいいと思うけど……」 さすがは、セロ。察し良く私の考えを理解している。……でもね。あくび付きだとカチンとくるわよ。 「いいわよねー、セロは。役者集めの苦労とか関係ないから」 思わずもらした嫌味。それのせいか、 「…………」 セロは無言で窓の方に視線をそらしてしまった。 「(――あ、言い過ぎた?)」 「……ねぇ、ワカバ」 「なっ、なに!?」 「……僕にもできることがあるなら、言ってよ。できる限り、力になるつもり……だから」 てっきり、文句を言われると思って首をすくめたのに。 私は、そんなセロの優しい言葉に喜びながらも―― 「……そうね。そのときがきたらお願いするわ」 何とか、自制のかかった答えを返す。 「(――危ない、危ない……)」 私が蒔いた種だから、刈り取りまで自分ですべき。 もちろん、できないことまで無理に頑張るつもりはない。 ただ、いまからセロを頼ってしまったら……全てが人任せになって終わりそうで怖いのだ。 「……うん、分かった。必要になったら声をかけてね」 「……いいのよ。私が好きで始めたことだから」 素直になれず、振り払うような答えを返していた。 「(――あーぁ、もう!)」 自分でもバカだと思うけど、口にしちゃったものは仕方ない。 こうなったら、とことん自力で頑張るしか……ないの? 「……そっか。でも、必要になったら声をかけてね」 「(――セロったら!)」 決心が揺らぎそうなときまで、そんなフォローは困るのに。 「……って、セロ?」 「…………ん?……あ、ごめん。ちょっと眠くて」 窓に寄りかかってぼんやり気味だったセロは、慌てて身体を元に戻そうとする。 「いいのよ。あんまり寝てないんでしょ?」 「うん。メンテのおかげか、ココがすごく元気でさ。ちょっと遅くまで話を聞いてあげて、それから本を読んで……」 あくびの理由も、よく分かりました。 「はいはい、寝てていいわよ」 「でも、そうしたらワカバの話し相手が居なくなるよ」 「……私のことは、ほっといて。原稿でも書いてるから平気」 「そう?じゃ、少し休ませてもらうよ」 セロが目をつぶり、車両の中が静かになる。 ついでにと思い、立ち上がって裏側のボックス席を覗けば、 『騒ぐの禁止令』を珍しくも忠実に守っていた弟とココも、互いに寄りかかって眠っている。 「……みんな揃って仲良しね」 でも、ここで自分まで『右に倣え!』で寝てしまうのは、あまりに不用心すぎる。 「よし、原稿とか書くぞっ!」 気持ちを引き締め、紙と鉛筆を取り出し、装丁の厚い辞書を下敷きにして脚本の準備に取り組む。 ……が。 ちょうどいま眠りについたばかりのセロの前で、ガサゴソ始めるのは嫌がらせっぼい。 「うーん。ベルなら平気そうね」 私はぐっすりと眠るベルの前の席に移動し、作業を再開する。 「まずは改めて、登場人物の確認と整理をしようかしら?白の国のクリスティナ姫……」 続いて後見人だったアインや、青の国の大使の名が挙がるが、他にも、政治に絡む役職を持った者が必要だと言う。 「うーん。当時だと、どんな人が居たのかな?大臣とか?」 その辺りは、セロに訊くことにして後回し。 「……他には……あ、そうだ!肝心《かなめ》〈要の〉……」 向かいで眠る《シスター》〈人形〉――『ベル』の名前をササッと書き加えておく。 「――名前が不明な天使だから、とりあえずは……ねっ」 既成事実って手もある。 いや、実は本当に『ベル』という名前だったりして!? 「……ねぇ、ベル?」 一瞬、前の席で音がしたような気がして頭を上げてみたが、ベルは先ほど同様に寝たままで起きた様子もなかった。 「(――おかしいなぁ。気のせいかしら?)」 チラチラと様子を見ていたが、やはり起きそうな気配もない。 「……ま、いっか。さて、他にはどんな役柄が……」 私は思いつくままに登場人物を書きつらねてみたが、よく考えてみるまでもなく、出・し・過・ぎ。 こんなに出てきたら話が進まないばかりか、経費がかさんで大変なことになってしまう。 「そーすると、チョイ役はライトとかで……うーん」 あんな跳ねっ返り小僧には、門兵とかぐらいしかできそうもないが、お手軽メンツとして頭数に入れておこう。 「うーん、あとは悩むわねぇ。多少コストはかかっても……主要メンバーはそれなりの人で固めたいし」 最低でも、舞台に立ったことのある人は確保したいけど―― 「……あれ?」 人数調整の最中に、また自然と視線が上がってしまった私。 だけどやっぱり、相変わらずベルは静かに眠ったまま。 「…………私、疲れてるのかな?」 そう思うと、周囲のみんなの幸せそうな寝顔がうらやましくなってきた。 「……あー、休憩。私もきゅーけーい!」 初めからエンジン全開で行ったら、あとでバテちゃう。 だからいまは、体力温存の方向で行こう! 「……お休みなさーい」 ………………うん? ――いま、誰かの声が聞こえたような気がするけど……気のせいよね? 「……んーぁー?」 なんだか、眠いです。まだ明るいのにネムネムさんなのは、どーして? 「(――あー、でんしゃのなかだー)」 目を開けると、横でライトが寝てます。 ……そうです。ボクは、セロと一緒に旅をしてます。 どこまで行くか訊いたら、『青の都』って言ってました。 「(――アオのみやこ、ブリュー?)」 行ったことないけど、なんだか知ってる? 「……うーん」 ボクって、よく忘れちゃうよね。 覚えてるつもりなんだけど、なかなか思い出せないの。 ずーっと前って、ボクは何をしてたのかな? ……ぼんやり、ぼんやり、ふわふわ、ふわふわ。 「(――ふかふかのベッドって、いいよ、ねー)」 昨日の夜のベッドは、ちょっと硬めでした。 やわらかいベッドなら、お背中のネジつけたままでも平気。 「……あれれ?ネジ、だね」 なんでおひざの上に、ボクのネジがあるんだろう? ……あ、そっか。ライトが寝る前に抜いてくれたんだ。 「……えへへ。よい、しょ」 ボク、ネジ抜くの下手だけど、付けるのはできるんだよ。 こうして、持って、寄っかかって―― 「でき、たー」 これで、いっぱい動けます。 「(――あれれ?もしかしか、みんな……ねてる?)」 ん?『もしかしか』って……なぁに? 「(――うーん?)」 ……ま、いっか。 向こう側では、ワカバとベルがスヤスヤ。 裏側では、セロが……ぐうぐう。 隣のライトは、よだれ垂らして笑ってます。 「……ぅぅん。もう食えねぇ……」 「なに、がー?」 「……カレー、もう、いい……」 カレー!おいしいよね、カレー! 「カレー、どーこー?」 「……んへへへっ。あっち。ねーちゃんには、ない、しょ」 「あ、い」 言われた通り、ライトの指差した方を見ます。 でも、そこは……ワカバとベルが座る席です。 「(――どこだろー?)」 もしかしたら、ワカバの横にあるのかも。そう思って、ワカバの隣まで見に行きました。 「……ない、ねー」 カレー、どこにもありません。 「(――んー?)」 ライト、言ってました。ワカバには、内緒って。 そーすると……ワカバはカレー、知らない? じゃあ、ベルが知ってる? 「ねぇ、ねぇ、ファー」 あ、また『ファー』って言っちゃった。 なんでベルのこと、『ベル』って呼べないんだろ? 「……すぅすぅ……」 「あー、ごめん、ねー」 ベル、まだまだネムネムさんでした。起こしちゃ、ダメねー。 だけど、そうするとカレーって、どこにあるんだろ? 「……あ……」 もしかして、もしかして。あのバスケットの中かな? 「……うぅぅぅ」 だとしたら、カレー食べられません。……だって、『ガブガブ怪獣』が居るんだよ、あの中に。 ボクが食べられちゃうんだって、ライトが言ってた。きっと、頭からガブガブって! 「……こわい、ねー」 カレー食べたいけど、食べられちゃうのはイヤ。 だから、諦めます。……ううぅぅ、カレー、食べたいなー。 「……あれれ?」 いま、ベルのバスケットが揺れなかった? いま、なんか音がしなかった? ――カタカタッ。 「うー、わぁー。こわ、いー」 ごめんなさい、ごめんなさい! カレーは今度にしますから、許してくださ、いー! 「……なぁ、ワカバ。そろそろ起きない?」 「んんんっ……なぁによぉ?」 「……そろそろ、青の都に着くんだけどさ」 「えっ、もうそんな時間?」 私、ちょっとだけ休むつもりだったのに―― 「……うわっ!」 「あわっ、ご、ごめん!」 いきなりセロの顔が近くにあったから、びっくり! 危うくおデコをぶつけそうになって頭引いたら、背もたれに後頭部ぶつけちゃった。 「い、いったーい……」 「……大丈夫、ワカバ?」 頭がクラクラするけど、セロが心配してるから平気へいきと手を振っておく。 「他のみんなは?もう起きてる?」 「まだ寝てるんだけど、ココが……」 「ココがどうしたの?どっか行っちゃったとか?」 「いや、あそこに居るんだけどね」 セロが指す場所は、車両の一番奥――連結のドア付近。 ココが背もたれを壁に、ジーッとこちらを見ている。 「なにしてるの?かくれんぼのつもり?」 「うーん。どうも違うみたいでさ」 「――僕が起きたときからあそこに居て、あの調子なんだよ」 「……どういうこと?」 「さっき、『こっちにおいで』って言ったら、すごい勢いで首を横に振って、イヤイヤをしてさ」 「――側に行って話を聞いたら、『ガブガブされる』とか、『食べられる』って、怖がるんだ」 「……ガブガブ?食べられる?」 「うん。ワカバの方を指差して。何か、心当たりとかない?」 「失礼ね、何で私が!……って、あれじゃない?慣れない環境だから怖い夢見て、ナーバスになってるとか」 むかーしライトが小さかった頃、突然明け方に泣き出されたことがあって、話を聞いたら……そんなオチだった。 「それならいいんだけどね。……にしても、いつの間にそっち移ったの?」 「へっ?あぁ、いいの気にしないで」 セロが寝ているのを邪魔したくなくてベルの方に……とか、わざわざ言うことでもない。 「もしかして、僕のいびきとか?」 「そんなことないわよ。……セロって、いびきかくの?」 「さぁ、どうなんだろ?」 笑って頭をかくセロ。 どうして、そうやって悪くもないのに『自分のせい』をベースにして考えるかな? 「……あ、そろそろ降りる準備をしようか。さっき車掌さんが終点まで30分って教えてくれたから」 「それ、どれぐらい前?」 「10分ぐらい、かな」 「……うーん、ねーちゃんたち、なーに話してるのさ?」 「あら、アンタも起きたの?」 「あぁ。ねーちゃんの声で、食い過ぎの悪夢から醒めたよ」 ……平和な子ね、ホントに。 私はやれやれって感じで頭を振ってみせると、セロが急に窓の外を見て、 「おっ!みんな、あれ!」 と叫ぶ。 「……あれが……」 「すげぇ!でっけぇ!」 列車の窓から見えたのは、私たちの住むモスグルンとは比べものにならないぐらい都会の―― 「あれが、青の都ね!?」 「そうみたいだね。よし、隣の車両に行こう。あっちの方がよく見えるはずだから!」 「ひゃっほう!」 「あ、ライト!走らないの!」 「ココ、手を貸して。だっこしてあげるから」 「うー、わぁー?」 私はライトを追いかけ、セロはココを抱き上げて隣の車両へ。 「ほら、ココ!見えるかい?」 「うーわー。うーみー、うーみー」 「海だけじゃないって!ほら、港も見えるだろっ!すげぇよなーっ!青の都って、あんなにでかいんだぜ!」 「……もう、あんまりはしゃがないの!恥ずかしいでしょ」 「なんだよ。ねーちゃんだって、慌ててカメラ取り出して……」 「うっ、うるさいわねっ!これは取材!資料入手よっ」 窓から入ってくる潮の風に鼻孔がくすぐられる中、私は一生懸命シャッターを切る。 「僕が撮ろうか?」 「いいわよ。セロはココで手一杯でしょ」 「オレが撮ろっか?」 「アンタ、壊すからダメっ!」 「ひっでぇ!ねーちゃんより、よっぽど安全だと思うぜ」 「なんですって!?ちょっとセロ。ライトにカメラの難しさ教えてあげてよ」 「……ココ、船がいくつ見える?」 「いーち、にー、さーん……」 ……ありゃ。セロは、世話焼きモードだったのね。 「とにかく、アンタはその目に風景を焼き付けておきなさいよ」 「なんだよー。あとで写真見せてくれるんだろー?」 「バカね!肉眼が一番なのっ」 「……なんか矛盾してね?そうすると、写真ばっか撮ってるねーちゃんって、バ……」 「なんですってぇ!」 「あはははっ、ライトも言うなぁ」 「セロも笑うなっ!」 大はしゃぎで近づく青の都を見ていた私たち。……が、ふと我に返って大切なことを忘れていたのに気づく。 「――大変!ベルを起こしてあげるの忘れてたぁ!」 青の都に着き、僕は先にホームに降りてみんなの荷物を受け取りながら、忘れ物がないかを確認する。 ぎりぎりまで寝ていたベルも自然に起き、スッキリした顔で降り立つ。 「……すみません。ワタシひとりで寝てしまって」 「そんなことないよ。実は、みんな一眠りしたから」 「そうだよ、ファーちゃん。オレなんか、すごい夢見てさ……」 そんなことを話しながら、ひとまず駅から外へ出て、街の中心部である『広場』へと向かう。 「……はい、これが青の都の地図。なくさないように」 「さすが、セロにーちゃん!……で、この星印が……ここ?」 「そう。もし何かあってはぐれたら、この場所で落ち合おう。……15時、16時みたいに、ぴったりの時間を狙ってね」 「どうして一時間置きなのさ?」 「あくまで不慮の事故だから、何時に待ち合わせ……とか、いまは決められないだろ?それに、ずっと待ち続けるより区切って集合した方が効率がいいんだよ」 「へーっ。だってよー、ココ。分かったか?」 「あい、あい」 一番不安なのはココだが、基本的に僕が手をつないでいれば迷子にはならないだろう。 「――さて。じゃ、まずはベルの……」 「よっしゃココ、どこに行こっか?あっちが賑やかだぜ!」 「どっ、ちー?」 僕が行動指針を説明する前に、いきなりのフライング宣言が飛び出してガックリしてしまった。 「はいはいはい、そこのライト!こっちいらっしゃい」 「なんだよぉ?」 「目的を忘れない。どう考えたって、ベルの用事が先でしょ」 「あー、そう言えばそんなことも。あははっ」 人形技師さんのところにベルがお使いを頼まれている話は、きちんと教えてあったのに。 「……あの、ワタシはひとりでも平気ですけど」 「ダメダメ。私たち、おじいさんから頼まれてるんだから」 ベルは割と普通に言ってくれるが、ワカバの言うとおり。 それに、この街に詳しい者が居ない以上……単独行動は回避すべきだ。 「そうなると、全員で……ですか?」 「うん。なんか問題ありそう?」 「……あの、できれば少人数の方が」 ベルがこれから伺おうと思っているところは、アパートの一室を仕事場にしている人形技師さんのお宅とのこと。 彼女は、『この人数で訪れては迷惑に……』と心配しているようだ。 「どうする、セロ?ふたつに分けて、どこかで落ち合う?」 「……そうだね。そうなると……」 「よっし!オレがココの面倒みるよっ!」 ……と、ライトから先に意見が出たが。 「ダメ!アンタ、またジルベルクの再現する気?」 当然、あのときの勝手な行動を怒ったワカバがそれを許すわけがない。 「なんだよぉ。ちゃんと合流できたじゃんか!」 「あれは偶然っていうの!とにかく、ココとふたりはダメ」 かといって、ココとライトを分けるのも考えもの。 そうすると、僕かワカバのどちらかが『ふたりのお守り』となり、もう片方がベルと一緒? 「……よし、こうしよう。僕がココとライトと行動する」 そして、ベルの同行をワカバに任せる。 こうすればベルの要望にも沿えるし、ワカバが大変な思いをしないで済む。 「私はいいけど……ベルは構わない?」 「はい」 「じゃあ、そうしよう。それで、ベルの用事は、どれぐらいの時間がかかりそうかな?」 「……たぶん、3時間もあれば大丈夫です」 「よし。いまが14時少し前だから……17時に、この噴水で落ち合おう」 「その間、オレたちどこ行くの?」 「街を見て回りながら、泊まるホテルを決めようか」 「オッケー!オレがすぐに見つけるよ」 「……不安だわ、私。ライト、絶対セロに迷惑かけそう」 「へっ。それはこっちの台詞だい。ねーちゃん、方向音痴だし」 「な、なんですってぇ!きーぃ、それは……」 これでは、いつまで経っても行動できないので、 「おいでココ。さぁライト、早くしないと置いていくぞ」 《ふたり》〈姉弟〉を引き離すことにした。 「……じゃ、17時に噴水前で!遅れないでよ?」 「ねーちゃんこそ、なー」 こうして僕たちはベルのことをワカバに任せ、街並みを見ながら青の都でのホテル探しを開始した。 「すげぇ!店が数えられないぐらいあるよ!」 青の都は、オレが想像していたよりも都会でびっくりの連続。普通のお店以外にも、こんなに露店が並んでるなんて! 「待って、ライト。……もう少し、ゆっくり行こうよ」 「えーっ!これでも結構待ってるつもりなんだぜー」 後ろから『待った』をかけるセロにーちゃんを見て、オレはため息をつく。 「だいたい、何でねーちゃんの荷物を持ってるのさ?それがなけりゃ、普通に歩けるんじゃない?」 「そりゃそうかもしれないけど。ワカバに持たせるには、ちょっと厳しい重さだと思うよ」 「だって、ねーちゃんが持ってきたんだろ?それなら自分で運ばせなきゃ」 セロにーちゃんは、絶対ねーちゃんに甘すぎる。弟のオレが言うんだから間違いない。 このままだと、きっと将来セロにーちゃんが苦労するだけだ。 「(――ん?それとも……)」 セロにーちゃんは、ねーちゃんのわがまま聞くのが好きとか? 「……もしかして、ちょっと変?」 「え?誰が?」 「あ、う、ううん。何でもないよ!」 危ない、危ない。 オレもねーちゃんに似て、思ったことを口にしちゃうときがあるから注意しないと。 「とっころで、さっ!今夜の部屋割りとかどーすんの?」 昨日は、オレとねーちゃん、セロにーちゃんとココ。そして、ファーちゃんがひとり部屋。 ファーちゃんは途中参加だから除いて、モスグルンからのメンバーの組み合わせは、変わってなかった。 「うん?今日も同じにするつもりだけど。何かあるの?」 「……うーん。あのさぁ、ちょっと提案なんだけど……」 「別にオレ、ねーちゃんと同じ部屋がイヤなわけじゃないよ。でも、せっかくの旅行なのに、いつもと変わらないのが……」 「うんうん」 「それに、ファーちゃんもひとりじゃつまんないだろうし」 「……あははっ。何となく分かったよ」 「え、えへへ」 さすがはセロにーちゃん。同じ男だから、ツーカーだった。 「……けど、それはベルに訊いてみないとね」 「そうだね。どんな部屋割りがいいって言うと思う?」 「うーん、本人じゃないから分からないけど――ベルが誰かと一緒になるとしたら、ワカバかココかな?」 「ボ〜ク?」 「そっか。同じ《シスター》〈人形〉同士だと、そうなるか」 オレはココの頭をなでなでしながら、残りを考える。セロにーちゃん、ねーちゃん、オレの3人? 「あのさぁ、できればオレ……」 「ベルと一緒がいいのかい?」 「いや、そうじゃなくて!ねーちゃんと別がいいんだよ」 ……あ、やばっ。 「どうやら、本音が出たみたいだね」 「う、うん。ねーちゃんには言わないでくれよ?」 「かといって、ライトを一人部屋……ってわけにもいかない」 そりゃそうだ。そんなことになったら、オレがつまんない。それに、セロにーちゃんが『ババ』を引くことになる。 「そうなると……ワカバとベルが同じ部屋。残りが一緒……って感じかな?」 「セロにーちゃんとココか……」 「ラーイー、いっしょ?」 「うん。それぐらいしか組み合わせがなさそうでさ」 「やっ、たー。あそぼ、あそぼー」 なんだか、ココの中では『決まり』みたいな雰囲気だ。 「……よし。じゃ、今夜は二部屋で予約しよう。最後の組み合わせなら、ワカバも文句は言わないと思う」 「そうかなぁ?ねーちゃんって、つむじ曲がってるから……」 「逆に、ベルと一緒ってことを感謝されるかもしれない」 「なんで?」 「ワカバが、ベルを演劇祭に誘ってるのは知ってるよね?」 「…………あぁ、そういうことか!」 昨日の夜の時点で『まだ交渉中』……って言ってたから、同じ部屋で色々と話せるなら文句なし。 「ファーちゃん、参加してくれるかな?」 「どうだろう?こればっかりは、本人の意志だからね」 「セロにーちゃんとしては、どうなの?」 「そりゃもちろん、参加して欲しいと思ってるよ。ライトだって……そうじゃないのかい?」 「……う、うん」 どんな劇になるかは予想もできないけど、物語を書いているねーちゃんが指名するなら……それが適役だと思う。 それにファーちゃんが参加してくれれば、一緒に『白の都』にも行けるし、モスグルンにも来てもらえる。 「ベルが引き受けてくれると、いいね」 「いい、ねー」 「ま、あんなねーちゃんだけど、振られたらかわいそうだしな」 そうそう。ここで弟のオレが敵になっても仕方ない。 「……だけど、問題はその先。仮にベルが承諾してくれたあと。残りの役者をどうするか、だ」 「……残りって?お姫様、とかか?」 「うん。僕たちが駆り出されるとしても、役に限界がある」 ……オレ、間違ってもドレスとか着たくないぞ! 「それとも、ワカバが自らお姫様役でも……」 「うわぁぁぁ、それだけはイヤだなぁー」 弟として……というより、客観的に考えて『似合わない』と断言したい。 「何にせよ、絶対数が足りない。ワカバが言うように、旅の途中で適役が見つかればいいけど……」 「ねーちゃん、そういうところがアバウトだよね」 オレも『どうにかなる!』とか思うことが多い方だけど、ねーちゃんほどじゃない。 「あーあー。オレも役者探し、協力した方がいいのかなー?」 「ボ〜ク、もー?」 「そうだね。みんなで手分けすれば、いい人が見つかるかも」 セロにーちゃんがニッコリと笑うと、そうなりそうに思えるから不思議だ。 「(――よーし!すごい人見つけて、ねーちゃんをびっくりさせてやろう)」 さっそくオレは、道を行き交う人々や露店の売り子さんを見て回る。 「……どうだい、このリンゴは?まけとくぜ」 「う、うーん。また今度」 「坊や、買ってかないか?新鮮な野菜だよ」 「あ、うん。でもオレ、観光だから」 「(――そう簡単に見つかるわけない、か……)」 お店の人たちは気さくで明るく、声も通る人が多いけど、それが役者に向いてるかどうかは別問題だった。 それに劇の説明と出演のお願いしたところで、『よーし!』なんて言ってくれるとも思えない。 「(――あーぁ。こりゃ、無理じゃないかなぁ……)」 それこそ、とんでもなく運命的な出会いでもあれば―― 「…………あ…………」 「ラーイー?どーした、のー?」 「…………あれ…………」 オレの頭も口も、うまく動かない。 「ライト?なにしてるんだ?」 「……あの人……」 「えっ?」 いま、オレとすれ違った女の人。 「知っている人でも居たのかい?」 「う、うん。あ、でも……ち、違うんだ……」 「んぁー?」 うまく説明できない。説明できるはずがない。夢で見た女性にそっくりな人が、オレの横を通り過ぎた。 そんなことを言ったって、笑われるだけだ。偶然とか、そう思い込んだだけとか、言われるに決まってる。 でも、オレにとってはすごく運命的で…… 「(――あの人、どこの誰なんだろう?)」 紙袋を抱え、長く綺麗な髪をたなびかせていた女性。 気付けば、その姿は……人混みに消えてしまっていた。 ベルについていく格好の私。 「ごめんなさい。ワタシに《ちから》〈力が〉あれば……ひとつぐらい荷物を持つんですが」 「あー、いいのいいの!気にしないで」 そんなことをさせるぐらいなら、ライトに押しつけるから。……なんて、いまそんなことはどうでもよかった。 私の頭の中は、ベルが『演劇の誘いを受けてくれるか否か』でいっぱいだったから。 「(――この用事が終わったら、すぐにでも帰っちゃう?)」 いや、さすがにそれはない。 ベルはさっき、今夜のホテルを探しに出かけたセロに対し、それらしきことは言わなかった。 ……ということは、最悪でも今晩は泊まって明日の朝までは居るはず。 「(――でも、のんびりはしてられない)」 しっかりアピールだけはしておかないと、忘れられてしまう。押しが弱くて獲得に失敗……じゃ、あまりにも哀しすぎる。 口説くなら、いま! セロはそんなつもりで私とペアにしたつもりはないと思うけど、せっかくのチャンス。 逃すわけにはいかない。 「……あのね」 「この辺りだと思います」 私が話しかけた途端、道の真ん中でグルッと回ったベルは、 「えっ、いま何か言いましたか?」 と目をパチクリさせた。 「あ、うん。その……この辺りが目的地なのね?」 こりゃ、切り出すタイミング失敗したわ。 「さっき見た番地が5の8だったので、そろそろかと思って」 「良かったら、私にもそのメモ見せてもらえる?」 「はい、これです」 メモの街区に続く通りの数字は6‐11。 「……えっと、街区名は間違ってないから……」 順に考えて、次の通りが6になるはず。 「こっちよ。ついてきて」 「はい」 私は歩く速度をベルに合わせつつ、彼女が持つバスケットを見つめる。 「(――そういえば、列車の中で……)」 ベルの前に座っていたとき、ちょっと気になっていたことを思い出す。 「ねぇ、ベル。そのバスケットの中って……何が入ってるの?」 「これですか?これは……」 どう答えていいものか悩むような表情。 そのあとベルは、 「この中には、ワタシのお友達が入っています」 と言った。 「お友達?」 「……はい。いまからお伺いする人形技師さんのところに、もうひとりのお友達が居ます」 「この中に?」 バスケットは、それほど大きくない。 その中に収まるお友達って、一体―― 「あっ、6の11……ここみたいです」 「おっと、行きすぎるとこだったわね」 私は立ち止まり、ベルが指差す番地表示を見る。 どうやら、すぐ前にあるのが目的のアパートのようだった。 「……よし。じゃ、行ってらっしゃい」 「えっ?ワカバは?」 「私は部外者だからここまで。お部屋まではお邪魔しないわ」 「そう、ですか」 「別に気にしないで。私も少しブラブラしたいから。どれぐらいかかるかは……ちょっと読めないわよね?」 「は、はい。でも、待ち合わせの時間に間に合うようには……」 「いいわ。それなら……いまから1時間半後に、この場所で」 「分かりました。じゃ、行ってきます」 アパートの中に入っていくベル。その背中で揺れる白い羽根は、とても嬉しそうに見えた。 「本当に、ありがとうございました」 ワタシは何度も御礼を言ってからドアを閉め、アパートの階段を降りる。 バスケットの中では、久し振りにお友達が勢揃い。 一刻も早くみんなの『目覚まし』が聴きたかったが、すぐにチョコを起こして演奏をしてもらうのは―― 「(――ワタシのわがままになっちゃう)」 だから、夜……いや、明日の朝になってから。それまでは、少し我慢することにした。 「……ワカバは、まだみたい」 待ち合わせたアパートの入口で軽く周りを見渡しても、それらしい姿はない。 技師さんの部屋にお邪魔していたのは30分ぐらいだから、まだあと1時間ぐらいは待つことになりそうだ。 「(――もっとかかると思ったけど……)」 チョコを診てくれていた技師さんは意外と喋らない人で、お父さんのことをちょっと尋ねてきただけ。 てっきり色々質問をされると思っていたので、少し拍子抜けだった。 「……どうしよう?時間、余っちゃった」 このまま、ここでワカバを待つか。それとも、近くを散歩してみるか。 どちらかといえば、ワタシもこの街を見て回りたい。 「……遅れないようにしないと、ね」 しっかりと場所を再確認してから、迷子にならないために横道には入らず、通りはまっすぐ歩くことに。 もしかしたら、ワカバとバッタリ会えるかもしれない。 「……綺麗な街並みね」 青の都に着いて気になっていたのは、ひとつひとつの建物がジルベルクよりも大きいこと。 代わりに開けた空間は限られ、見上げれば空だけ……ということがない。 「それだけ、ジルベルクが田舎なのかしら?」 別に都会に憧れるわけでもないし、この街を嫌うこともない。でも、ワタシにとってはあの自然に囲まれた世界の方がいい。 「……『住めば都』って言うもの」 きっと、この街に住む人たちにしてみれば、自分たちの街が一番住みやすい。 他の土地の人も、何かの拍子にジルベルクの風景を知って『訪れてみたい』と思っても、移住までは考えないはずだ。 「あ!お父さんにお土産とか買った方がいいかな?」 それなら住宅街を離れ、お店が並ぶ通りに出ないといけない。 でも、そこまで行って戻れるほど時間に余裕もなさそうだ。 「(――みんなと合流してからにしよう)」 そうすればホテルの場所も分かり、行動範囲も広がる。 もし暗くなってしまったら、明日にでも見て回ればいい。 「(――明日……)」 ワタシは、ふと足を止める。……明日になったら、ワタシはどうすればいいんだろう? 急にワカバたちの寂しそうな顔が頭に浮かぶ。 青の街に来て用事を済ませたワタシには、これ以上滞在する理由がない。 そしてワカバたちもこの地に留まるわけでなく、次の目的地――白の都へと旅を続ける。 このままなら、ワタシはジルベルクへと戻るだけだ。 「(――どうしよう?ワタシは、どうしたいのかな?)」 もう少し一緒に旅をしたい、という気持ちは強い。 だけど、そのためには……ワカバの誘いを受ける必要がある。 「……困ったな」 きっとワカバのことだから、劇の参加に関係なく、お手伝いなどの申し出でも旅に同行させてくれる気がする。 でも、そんな真似はしたくない。 舞台に立つことを望まれているのだから、その期待にできるだけ応えたい。 そしてそのためには、ワタシが観客を前にして唄を歌えるようにならないといけないのだ。 「(――いまのワタシでは、無理)」 どんな唄でも、ひとりなら口ずさむことはできるのに。 ……人前では、恥ずかしくて声が出なくなる。 「……どうしたら、歌えるようになるのかな?」 ワタシはバスケットのフタを見ながら、ため息をつく。 「(――中にいるお友達の前なら、平気なのにね)」 この子たちだけが観客なら、それで全て解決……と思ったら、もっと大変なことに気付いてしまった。 よくよく考えてみれば、他の役者さんにも聴かれるのだ。 「……ダメだわ」 ワカバたちに、『できる』なんてウソはつきたくない。迷惑をかけないためにも、他の人を探してもらおう。 「(――ごめんなさい、ワカバ)」 あとで会ったら、理由を話して断ろう。 「『だったら充分よ!素質あり!練習あるのみ!』」 あれだけ押してくれたワカバに、ワタシはきちんと言える?それを考えるだけで、胸が痛くなってきた。 せめて、ほんの少しでも可能性があるなら、ワタシだって…… 膝の高さに置いてある時計が、14時30分を指した瞬間。 「それじゃ、バイトあがりまーす」 あたしは後ろに立つおばさん――店長に向かい、大きな声で終了宣言をする。 「はーい、おつかれさん」 「はい!それじゃこれで!」 ミートハンマーを店長に渡し、そそくさとエプロンと帽子を外して普段着に戻るあたし。 アルバイトの中で一番帰宅準備が早い……と笑われるけど、いまのあたしには一分一秒が大切なの! 「(――あ、でも……)」 今日だけは、少しゆっくりするつもりだったんだ。 だって、あとは天命を待つのみで―― 「そういや、アンジェリナ。オーディションはどうだった?」 「明日の朝、結果発表です!」 「そうか。受かったらお祝いしてやるからな」 「本当ですか!?」 「あぁ。うちにある肉、10キロぐらい持っていきな」 「……いいんですか、店長。あたし、本気にしますよ?」 「おうともさ。弟や妹が喜ぶだろ?」 「ありがとっ!じゃ、明日は荷車持ってくるから!」 あたしは優しい店長に手を振りながら、店の外に出る。 「(――いつも、ありがとう)」 心の中で、もういちど御礼を言う。 『演劇の練習をしたい』というあたしのわがままを聞いて、バイトの時間を調整してくれたり。 『余った』と言いながら、まだ売れる肉を持たせてくれたり。 「(――あたしは、色んな人に支えられてるんだ)」 それを忘れちゃいけない……といつも思いながら、演劇の舞台に立つため頑張ってきた。 そして、その積み重ねの結果が、明日の朝に出る。 「(――二次選考、通ってますように)」 これに通って三次選考へと進めば、残る候補者は3人にまで絞られる。 そうなれば、クリスティナ・ドルンの役まであと一歩! きちんとした演技指導を受け、問題がなければ最終選考を残すのみとなるのだ。 「よし!今日はちょっと奮発しちゃおうか!」 パウラから買ってくるように頼まれていた食材に、ちょっとだけオマケを付ける! ……と言っても、下手に残って捨てるようなことになったら大変だから、缶詰にしておこう。 「ふふふん、ふーん♪」 「おう、ご機嫌だなアンジェリナ。いいことあったのかい?」 「これからよ、これから。……あっ、それ2つもらえる?」 「あいよっ。じゃあ、ひとつはサービスだ」 「えっ、いいの?ありがとう!」 あたしは顔なじみの店を周りながら、ひとつ、またひとつとメモにあった食材を集めていく。 久し振りの買い物を楽しんでしまい、気付けば荷物が両手いっぱいになってしまった。 「そろそろ家に戻ろうかしら?」 時計を見れば15時を少し回ったぐらい。 このまま帰ると、普段より2時間ぐらい早いことになる。 「うーん」 きっとまだ弟や妹たちは、庭ではしゃぎ回っている? たまには相手をしてあげるのも悪くないと思い、家に向かう路地へ入ろうとするあたしだけど―― 「あー、モヤモヤする!」 日課にしていた『練習』をせずに帰るのは、何となく気分が落ち着かない。 「(――それに……)」 二次選考が終わって落ち着いたからこそ、新しい発見があるかもしれない。 「……よし!ちょっとだけ練習してから帰ろう」 あたしは、市場通りの向こう側から大通りへ抜け、遠回りのコースをとる。 この住宅街の一角にある小さな噴水が、お気に入りの目印。 こう言っちゃ何だけど、憩いの場として作られた割には……あまり利用する人が居ない。 あたしがそこを見つけたのは、1年ぐらい前だったかな? ――広すぎず、狭すぎず。 舞台に見立てて歩き回る範囲は充分に確保できるし、周囲の倉庫の壁がイイ感じに音を反響させてくれる。 最初の頃は調子に乗って大声出してしまい、近所の人に注意されたりもした。 でも、いまではどれぐらいまで平気か『身体が』覚えていて、誰かにチラリと見られる程度で済むようになった。 もちろん、休憩場に先客が居たときには邪魔にならないよう、台本の暗記と復習とかで終わらせる。 「……さぁ、今日はどうしようかな?」 ここはやっぱり、最後のシーンをもっと研究して三次選考に備える方がいいかしら? そんなことを考えながら角を曲がり、憩いの場へと入ろうとしたけど―― 「(――誰か、居る?)」 あたしは人の気配を感じて、急ブレーキをかけた。 「(――いつものおばさん?)」 ときどき隅っこの方に座っているおばさんだったら、軽く挨拶をするだけで事足りる。 でも、それ以外の人だったら……今日は台本持ってきてないから、ソラで台詞の復習するぐらいに留めよう。 そう決めて、もう一歩踏み込むあたし。 そしてそこに居た予想外の人を見て、自分の足がピッタリと止まってしまった。 「……あー。あー、あー」 発声練習なのか、背筋を伸ばして空を見上げる女の子。 身にまとう服はまるで雪のように白く、その背には同じく真っ白な羽根飾りがある。 「(――かわいい……)」 それは昔、絵本で見た妖精のような姿で。 建物の間を抜けて吹く風に、ゆるいウェイブの金髪が微かに揺れている。 「……あー、あー。これぐらい、かな?」 喉元に当てられた手が、滑るように落ちて広がる。 向こうは、あたしの存在に気付いていない。 あたしの方はといえば……前に進むも後ろに戻るもできず、ただその場で眺めているだけ。 そんな中、女の子はスッと一歩前に足を踏み出し、 「……LaLaLa……」 透き通るような声でメロディーを口ずさみ始めたのだ。 「(――綺麗な声……)」 その唄はこれまで聴いたこともないモノだったが、そんなことはどうでも良かった。 あたしは彼女の歌声を前に、ただ立ちつくして耳を傾ける。 そして、メロディーが紡がれるあとに遅れ……自然と歌詞を復唱してしまう。 「(――空を見上げ、鳥に誓う……)」 もしあたしがこの唄を知っているなら、歌詞を追いかけるような真似はせず、彼女の横で声を揃えて歌いたい。 ……そう思えるぐらい、心に響く歌声。 「……この想いが……」 「(――この想いが……)」 「……あなたの元へ……」 「(――アナタの元へ……)」 「……届きます、よ、う、に……」 「――届きます、よう、に……」 1フレーズの締めが訪れ、彼女の声も消えかかる。それが惜しくて、あたしは思わず一歩前へ踏み出し―― 「……あっ!」 紙袋から落ちかけた缶詰で我に返り、とっさに手を伸ばす! 「……ふう」 ぎりぎりセーフ。 危うく大きな音を立て、彼女を驚かしてしまうところだった。 「(――あ。いま、あたし……結構、大きな声だった?)」 慌てて顔を上げて、驚かせてしまったことを謝ろうとする。 でも、そこには白い妖精の姿などなく、いつもと変わりない憩いの場があるだけだった。 「……あれ?あ、あの……」 吹き抜ける風が、あたしの髪を揺らす。 いまの女の子は――幻だったの? いいえ、そんなわけない。 あたしは確かに……あの声を聴いたのだ。 そして、この目で確かに見たはず。 白い一枚の羽根を持った少女が、この広場で歌う姿を。 「……まったく、もう……」 ホテルの予約の手続きが長引き、待ち合わせに遅れそうになった僕は、先にココとライトを行かせていた。 たぶん、自分が着く頃には約束の17時はオーバーしていることだろう。 「(――まさか、あんなこと言われるなんて)」 僕たちのニーズにあった二部屋はすぐに見つかったものの、いざ記帳となった段階でベルとココ――《シスター》〈人形〉の扱いが問題になった。 胡散臭そうな支配人が言うには、この青の都において《シスター》〈人形〉は丁重に扱われるので、色々と手続きと確認が必要だとのこと。 ルノンキュール、ペルヴァンシュと、そういった話が一度も出なかっただけに、戸惑いながらも言われるままに書類へと記入をした。 ……が、最終的な身元証明の段階でレインさんに電話口へ出てもらったところ、問題は一瞬にして解決。 支配人は、『それならそうと、おっしゃっていただければ』などと言い出し―― 値段はそのままで構わないので、お部屋は是非1ランク上をお使いください……とか、なんとか。 「(――有名なレインさんの『関係者』……だからの《 ・ ・ ・》〈ひいき〉なんだろうな)」 そう考えると、そんな申し出も何となく受ける気がしなくて。 ワカバたちに相談しないのは悪いと思いつつも、とりあえず『一泊』だけの予約に留めてしまった。 「あ、セロ!遅かったわね。ホテルの予約、平気だった?」 「……うん。ここからそれほど遠くない場所にとれたよ。ベルの方はレインさんのお使い、無事に終わったかい?」 「ねぇ、ベル?セロが訊いてるけど……」 「……あ、はい!なんでしょう?」 どうやら僕の質問は耳に届いてなかったらしい。 「ベルの用事は済んだの?……だって」 「えぇ。無事に終わりました」 ベルはバスケットのフタを触り、にっこりと笑う。 「それは良かった。そうすると、もうホテルに行った方がいいかな?」 「そうね。どっか行くにしても、荷物は置きたいし」 ワカバの頷きが総意となり、みんなは僕の案内でホテルへ。 ココとライトに『さっきのホテルだよ』と説明し、少しだけ先に行かせた僕は、ワカバに予約のときの話をする。 「……そんなことがあったの?」 僕の説明が正しく伝わったかどうかは分からないが、彼女も同感だったらしく、 「セロは間違ってないわよ。仮に私がその場に居たら、予約もキャンセルね」 と言ってくれた。 「……ありがと」 「え?べ、別に。私もそう思ったからよ」 そんな風に笑ったワカバだったが、その表情は少し曇り、 「……でも、他のホテルもそんな感じなのかしら?」 と言う。 「どうだろ?それは行ってみないと分からないけど……」 もしも同じような対応をされたらと思うと、うんざりしてしまう。 「……ところで、セロ。話は全然変わっちゃうけど、いい?」 「うん、なに?」 「実はベルなんだけど、少し気になるのよ――」 ワカバの説明によれば、合流する前の待ち合わせのときからベルに『上の空』なところがあると言う。 「そう言われると、さっきもそうだったね」 「でしょ?だけど、些細なことって言えばそれまでで――」 「おーい、ねーちゃん!ここだよ」 「こー、こー」 「はいはい、分かってます。そんな大声出さないで」 こうしてみんながチェックインを済ませたことで、晴れて安全な自由時間となった。 部屋割りは、市場でライトと相談した通りの組み合わせに。 ワカバとベルは部屋に残って休むというので、外出する僕はココを任せることにした。 「……なーんだ。結局、出てきたのはオレたちだけ?」 「うん。僕は街の下見ついでに本屋さんに行くから、ココはワカバに預けてきたんだ」 「そっかー」 「……で、ライトは何処に行くんだい?」 「オレは……ち、ちょっと人捜しに!」 「この青の都に、ライトの知り合いが居るの?」 「いや、知り合いっていうか、知り合うっていうか……うん、うまく言えないけど、そんな感じ!」 ……悪いけど、全然相手が想像できない。 「とにかく、忘れないうちに捜したいんだ!見つけたら戻るから!」 「ち、ちょっと待って!」 ライトは僕が止めるのも聞かず、サッと走り出してしまう。僕としては、何時頃に戻るかを訊きたかったのだが―― 「ま、いいか。カギは僕が持ってるけど、先に戻ればワカバのところに行くだろうし」 特に問題にもならなそうなので、ライトを追いかけず商店の並ぶ通りへと向かう。 きっとここには、モスグルンでは手に入りにくい本もあるに違いない……と、僕はにらんでいる。 「(――あまり無駄遣いしないように気をつけないと)」 そのためにも、なるべく厳選して買うのは1、2冊に抑える。 それでもまだ気になる本があったら……明日、街の図書館で吟味してから購入を検討しよう。 「ただいまー」 「あら、ずいぶん早かったじゃないか?」 家に戻ったのを最初に出迎えてくれたのは、お母さん。最近は左脚の調子もいいらしく、よく歩き回っているようだ。 「早く戻って来ちゃダメだった?」 「そんなことは言ってないさ。珍しく早いから驚いたのさ」 わざとらしくへの字な口をして見せたあたしに、お母さんも澄まし顔でアゴを突き上げる。 「まぁま、そのおかげで晩ご飯の材料も早く届いて嬉しいよ」 「はいはい」 あたしはクスクスと笑いながら、お母さんと一緒に家に入る。 食堂に寄ってみると、料理担当パウラの姿がなかったので、食材はそのまま冷蔵庫へ放り込む。 「……ねぇ。最近、食べ物の減りが早くない?」 「そりゃ、あんたらがモリモリ食べるからねぇ。私なんて、余り物をこっそり食べるぐらいで……」 「もーう、お母さん!知らない人が聞いたら誤解するような言い方しないで」 「誤解なもんかい。アンなんか、その最たるもんだろ?」 「あたしは小食です!太るワケにはいかないですから」 「あらあら!その割には、シーザーサラダはいつも二人前たいらげるよねぇ」 ああ言えばこう言う……の塊みたいに、口の悪いお母さん。 でも、これまで憎いと思ったことなど一度もない。 「……あたしは、他のモノを食べない分、サラダで栄養補給してるんです」 「そーかい、そうかい。それなら、ドレッシングのかけすぎに注意しなよ。あれはカロリーたっぷりで……」 「分かってまーす」 冷蔵庫のドアをバタンと締め、ふくれてみせるあたし。すると、苦笑しながらお母さんは、 「ところで、明日はどうするんだい?」 と訊いてくる。 「な、なにが?」 「とぼけなくたっていいじゃないのさ。明日は発表なんだろ?このケチな私が、『たまにだから、お祝いしてやろうか?』……ってことさ」 「け、結構です」 誤魔化しきれなかったのが癪で思わず断ってしまったが、その気持ちは嬉しい。 ……というより、その気持ちだけで充分だった。 「たまには、私が料理を作ろうかい?」 「ぅわぁ、ごめんなさい。それだけは……うん、遠慮するわ」 「ひどい娘だこと。親の心子知らず、ってのはこのことだ」 「あっ、あのねぇ!これだけは、他の子たちの多数決とってもいいわ。お母さんの料理は――」 おいしいときが極めて希……という、分の悪いギャンブルのような出来映え。 おかげであたしたちは、そこそこ自力で料理ができるよう、兄や姉に鍛えられてきたのだ。 「……で、私の料理が何だって?」 わざわざ耳に手を当てて、よーく聴きますよとアピールするお母さんを見ると、文句の言葉も消えてしまう。 「もう、自分でも分かってるなら訊かないで」 「……はいはい、分かりましたよ。明日はパウラに任せるから安心おし。それじゃ私は、洗濯物でも取り込もうかね」 「あっ、それならあたしも手伝う」 「あらあらいいのかい?未来の大女優がそんな雑用しても」 「……いまは、大飯喰らいの居候……で・す・か・ら」 「あはははっ!それなら、しっかり働いてもらわないとねぇ」 あたしのお母さん――ニコラは、孤児院で一番えらい人。 ううん。簡単に『えらい』とか言うのもためらわれるぐらい、素敵なお母さん。 いつも軽口を叩きながら、子どもたちのために頑張って院を支えてくれている。 これまでこの孤児院を巣立っていった兄や姉たちは、口をそろえてこう言う。 『お母さんのこと、しっかり頼むよ』……と。 そして『仕送り』という形であたしたち妹や弟を援助し、お母さんに親孝行をしている。 ……が、だからといって、この孤児院の経営が安定しているわけではない。 いつ下に《きょうだい》〈弟妹〉が増えるかも分からないし、年々老朽化していく建物も修繕の必要がある。 それに……兄さんや姉さんからの援助に甘んじていたら、自立できなくなってしまう。 「(――だから、あたしも……)」 一日も早く女優になって、稼いだお金で―― 「……あ、あたしがカゴ持つから。お母さんは無理しないで」 「……なに言ってるんだよ、これぐらい。私を年寄り扱いするんじゃないよ、全く」 「年寄りなんて言ってないでしょ、もう。自分でできることは自分でするだけよ」 「あらあら、言うようになったねぇ。じゃ、あとよろしくね」 「え、あ、ちょっと!これ、あたしひとりじゃ無理だってば」 まんまと洗濯物の取り込みを押しつけられたあたしは、庭でひとり大きなため息をつく。 「あー、でも早くしないと夜になっちゃう」 手早く済ませないと、他の仕事が片付かない。 「よーし、頑張るぞっ!」 あたしはまくり上げた袖をさらに押し上げ、干し物をカゴに放り込んでいく。 「サボるんじゃないよー」 二階から聞こえてくる声。 「そんなわけないでしょー!」 ……まったく、お母さんたら。 「いま、リュリュを監視に行かせたからねー」 「……もう!」 なんだかんだ言って、ちゃんと《 ・ ・》〈援軍〉をくれるんじゃない。 「(――ありがと、お母さん)」 あたしは心の中でお礼を言いながらも、リュリュが到着する前に取り込みを終わらせようとやっきになる。 だって、少しはお母さんを見返してやりたいじゃない。 ――あたしひとりでも、充分できるって。 「……ふぁぁぁーあ。ねっみぃー」 これだけ眠いのに、空は暗くない。 そりゃ、夜も過ぎて朝になれば、空も明るくなるってか。 「アンタ、夜更かししたんでしょ?」 「してねーって。ねーちゃんこそ夜中の無差別タイピングで、ファーちゃんに迷惑かけたんじゃねーのか?」 「バーカ!ライトが同室ならまだしも、そんなことするわけないでしょ」 「(――だからオレ、ねーちゃんと同じ部屋はイヤなんだ!)」 っていうか、弟相手なら何してもいいのかよ!……と文句のひとつも言ってやりたいけど、ここはグッと我慢する。 もしも下手に逆らって、ホテルから出るのを禁止されたりしても馬鹿らしいだけ。 この青の都の何処かに、オレが見つけなきゃいけない人が居るんだから。 「(――そして、一泡ふかせてやるぜ)」 何としても昨日市場通りですれ違った『あの人』を探し出し、ねーちゃんに見せてやる。 演劇のお話に登場するお姫様がどんな人かは知らないけど、きっとあれだけ綺麗な人だったらピッタリ! ……そんな気がしてならない。 「あれ?ところでセロにーちゃんたちは?」 さっきまでみんな居たはずなのに、いつの間にかオレたちが取り残されてる? 「セロたちは、次に宿泊するホテルを下見に行ったわ」 「あ、そうなんだ。でも、何で?あのホテル何かあったの?」 「んー、まぁ、なんていうか。色々あるのよ」 こういうとき、変に大人ぶって教えてくれないんだよな。 「……とにかく、チェックアウトしちゃったんだから諦めて」 ついでに、強引に終わらせようとするのが腹立つ! 「……で、でも、我慢」 「うん、何が我慢?」 「なーんでもないよ。ところで、セロにーちゃんたち、いつ戻ってくるかな?」 「ホテルが見つかったら、じゃない?」 「……そ、それじゃ困るなぁ」 オレとしては、一刻も早く『あの人』を探しに行きたいのに。 「…………もしかして、戻ってくるまでここで待機とか?」 「そうね。荷物持ってうろちょろしたくないから」 それは言える。できれば、身軽な身体で探しに行きたい。 「(――ん?あ、そっか!)」 いまこの時間を利用すれば、一番効率的だ! 「……ねーちゃん。オレ、ちょっと行ってくる!」 「あぁ、そう、行ってらっしゃい……って、どこへ!?」 「ん、あーそうだな。トイレ!長めのトイレ!」 「長いって、どれぐらいよ?」 「一時間ぐらいで戻るから、待っててー!」 オレは、ねーちゃんに荷物番をさせるという技を使って、あの人を探す時間を作り出すことに成功した。 そう簡単に見つかるとは思えないけど、これで出会えたらまさに運命の人だ! 「むっきー!ベル、どっかであの《 ・ ・》〈バカ〉見なかった?」 「え、えっ?誰のことですか?」 「ライトよ、ライト!全く、あれが私の弟だと思うと哀しくなってくるわ」 ホテル選びが難航しているセロに頼まれ、ひとまず戻ったワタシを待っていたのは……ワカバだけ。 その怒り具合からみて、何が起こったのか想像ができた。 「すぐに戻ってきますよ、きっと」 「えぇ、そうでしょう、そうでしょうとも。だけどね、ベル。どんだけ長いトイレでも、1時間はかからないと思うのよ」 「……それは、確かにそうですね」 「絶対、どっかで道草よ。いいえ。もしかしたら、初めから遊びに行くつもりだったのよ。ええ、そうに決まってる!」 「(――あぁ……ライト)」 一刻も早く戻らないと、ワカバの推測はどんどん悪い方向に流れてしまいそう。 「あ、もしかしたら遊んでるわけじゃなくて、戻るに戻れない状況に陥ってるのかもしれませんよ」 「…………たとえば?」 「……たとえば、困っている人を助けて道に迷ってる、とか?」 「それならいいけど、万が一何かのトラブルに巻き込まれたりしてたら……」 何だかんだ言いながらも、ワカバはライトのことを心配? 手のかかる弟から目が離せないだけのお姉さん……といった感じだろう。 村の子たちの中にも、似たような姉弟が居ることを思い出し、思わず笑ってしまった。 「……ねぇ、ベル。悪いけど少しここで待っててくれない?私、ちょっと近くを探しに行ってくるから」 「あ、待ってください。そうすると、行き違いの可能性が」 「うーん、そうなんだけど……じっとしてるのがイヤなのよ」 気持ちは分からないでもないが、それは控えないと―― 「……たっ、だいまー!」 「あ、ほら。戻ってきましたよ、ライトが!」 ギリギリの感はあるけど、ライトが戻ってきて一安心。……といっても、一悶着起こりそうな空気だけは消えない。 「(――よ、よし。ここはワタシが仲裁に入って……)」 「あのね、ライト。ワカバから聞いたけど……」 「あー、ファーちゃん。あとで聞く!あとで聞くから」 「アンタ、どこに行ってたのよ!?」 舞い上がっているように見えるライトは終始笑顔で、眉間にシワを寄せるワカバとは対照的。 ワタシはいま戻ったところだけど、ワカバはずっとライトを待っていたわけだから、切り出しも厳しくなる。 「え、あ、ちょっと。まぁ、詳しい話はあとでするから……」 「あと?いまよ、いま!」 「あ、あのねワカバ。少しは落ち着いてね」 「私はいつだって冷静よっ!」 「(――はぅ……)」 このままでは、すごいことになってしまいそう。 「ねぇ、ライト。何があったかは知らないけど、いまは……」 「大丈夫だって。それよりもっといい話があるんだから!」 「いい話って、それこそあとにした方が……」 「ダメダメ。これは新鮮さが勝負だからさっ」 ライトは自信満々の顔で首を横に振り、腰に手を当てて姉の方を見る。 そのときライトの右腕には、中に『重そうなモノ』が入ったビニール袋が揺れていた。 「まぁ、ねーちゃん。聞いてくれ。オレ、見つけてきたんだよ」 「見つけた?またくだらないモノでしょ。聴きたくもない」 「ワ、ワカバ……」 「ねーちゃん、いま何て言った?」 「くだらない、って言ったのよ。……勝手に飛び出してって、戻ったと思ったら何?何を買ってきたのよ?」 「こ、これ?これは、その……」 「見せてご覧なさい」 注目のビニール袋を後ろ手に隠そうとするライトだったが、ワカバの方が一歩早く。 中を覗き込んで、 「なに、これ?紙に包まれてるけど?」 と眉を八の字にした。 「に、肉だよ、に・く!これは生の肉!」 「……生の、肉?何でアンタ、こんなの、こんなに……」 動きの止まってしまったワカバの代わりに、ワタシがそっとビニール袋に手を伸ばして覗くと、中身は見た目にも1キロぐらいはありそうな塊だった。 「これが、その……『新鮮さ』ってことなの?」 「……ちっ、違うんだ!肉とそれは別!これには色々と事情というか、何というか……」 「あっきれたわ、ライト。もう充分。何も言わなくていいわ」 「……待って、話を聞いてくれよ!オレだって、たまにはねーちゃんの役に立とうと思って」 「はぁ、訳分かんない。言い訳するんだったら、もっとマシなこと言いなさいよ!」 「……ぐっ……うぅぅ……」 「ほら、何も出てこないじゃない。どうせその辺りの店でおだてられて、ホイホイ買わされちゃったんでしょ?」 「…………ぐむむぅ……」 「バッカねぇ。そんなことでお小遣いパーにしたって、私は助けないからね。だいたい、アンタは……」 「うっ、うるせぇ!」 ライトの大声に、ワタシだけでなくワカバも驚く。 そして、ワタシたちが唖然としている中、ライトは、 「バーカ!ねーちゃんなんか、勝手にしろっ!」 と叫び、大通りの方へと走り出してしまった。 「(――え、えええっ!?)」 突然の展開にワタシはどうしていいかも分からず、オロオロするのみ。 「ラ、ライト?ワカバ、止めなくていいの?」 「いいわよ、あんなヤツ!お腹が減れば、帰ってくるでしょ」 ワカバはワカバで鼻で笑い、そっぽを向いてしまった。 「(――ううぅ、困ったなあ……)」 いまからライトを追いかけるにも、ワタシの足では絶対に追いつかないだろう。 それに、人混みにまぎれてどこに行ったのかも分からない。 こうなるともう、まとめ役のセロが戻ってくるまでは……どうしようもなさそうだった。 「なんでぇ、ねーちゃんなんか!」 オレの話も聞かないで、言いたい放題しやがって! そりゃ、テキトー言って飛び出したのは悪かったけど、あのとき理由を説明したからって―― 「……絶対、行かせてなんてもらえなかったさ」 だいたい、ねーちゃんは自分に分からないことがあると、『知りません、聞こえません』とか言い出す。 ちゃんと話を聞く耳も持たないで、いつもえらそうな態度。 「いい気になんなー!バーカ、バーカ!」 オレは裏路地の人気のないところで腹いせに叫び、少しだけスッキリ。 でも、冷静になってみれば、『オレ、何やってんだろう?』の状態だ。 「……あーぁ。あの人を見つけたまでは良かったんだけどなぁ」 ねーちゃんのところから飛び出して、まっさきに行ったのが市場のある通り。 同じぐらいの時間に行けば、また会える可能性高いかも……とか考えていたけど、さすがにそこまでは引っ張れない。 だから、行って帰って一往復ぐらいの気持ちで歩いた。……けど、当然のようにすれ違うこともなくて。 諦めかけたとき、ふと視線を移した軒先で―― 「(――あ……あれって……)」 格好が少し違ったけど、確かに昨日の人を見つけたのだ。 「『……ふぅ……』」 その人は店頭で、ため息まじりにおっきなハンマーを振って、目の前の肉を叩いていた。 すれ違ったときの『可憐で綺麗な人』ってイメージがズレたけど、そんなのは些細な問題。 オレには、すごい『運命の再会』としか思えなくて。……しばらくそのまま、ボーッと眺めてしまった。 「(――それで、どうするか迷って……)」 すぐにねーちゃんのところに戻って報告するか、それともオレが名前ぐらい聞いておいた方がいいのか? そんなことを考えていたら、 「『……あ、いらっしゃい』」 とか声をかけられちゃったんだ。 「『へっ?』」 「『肉をお求めなんでしょ?』」 普段のオレだったら、普通に否定できたんだけど、そのときばっかりは気が動転しちゃって。 「『えっと、その……』」 何か言わないと変な子どもだと思われるかもしれないので、 「『どれがお勧めなの?』」 とかカッコつけてみたり。 そうしたら当然、何かしらの説明が入るはずなんだけど――その人は、まるでこっちを見ようとせず、上の空な感じで、 「『どれもお勧め。今日はみんなお買い得です』」 って言った。 まさか話が続かない展開なんて想像もしてなかったから、オレはひとりあたふた。 とりあえず棚にある肉を端から端まで見たけど、元々買うつもりがないから選びようもない。 「『……決まりましたか?』」 「『あ、え、と……』」 焦らせないで欲しかったのに、またドキドキして肉の値段を眺めながら、『財布に幾らあったかな?』とか。 「『……決まったら、教えてね』」 「『あ、はい!じ、じゃあ、これを!』」 「……なんて指差したのが、この肉だったんだよなぁ」 ビニール袋の中には、購入したでっかい肉の塊。我ながら、すごく情けない。 ねーちゃんが唖然としたのも、冷静になったいまなら解る。こんなの見せられて、喜ぶ方がおかしいって。 「……はぁぁ……」 切り売りしてもらえることも忘れ、そのまま一塊だったから……財布の中身はほとんどすっからかん。 お金もなく、ほとんど知らない旅行先でひとりになって、オレは一体どうすればいいんだろう? かといって、ねーちゃんと喧嘩したばっかりだから、戻るに戻れないし。 「うぅぅー、泣きてぇ。こうなったら、この肉で食いつなぐか」 そんなことを真剣に考えていたら、通りの向こう側の角からオレのことを観察している視線に気付いた。 「…………ふぅん」 それは見たこともないおばさんで、左側に杖をついている。そして、オレと目が合った途端、ニッコリと笑って、 「何か、お困りかい?」 なんて声をかけてきた。 「……べ、別に」 世話好きで人が良さそうな感じはあるけど、注意しないとまずい。 モスグルンならいざ知らず、ここは右も左もよく分からない旅先だ。 何かあって逃げ出すにしても、土地勘だって働かない。 「困ってないなら、それでいいけど。……ずいぶんと湿気た顔だったから、思わず声をかけちまったよ」 「……湿気た《ツラ》〈面〉って」 「《ツラ》〈面〉じゃない、顔だよ。言葉遣いが悪い子だねぇ」 細かい突っ込みだけど、喋りに関してはこのおばさんだって似たり寄ったりな感じがある。 「……それで、坊や。早く家に戻らなくていいのかい?買い物の途中だろ?」 「余計なお世話だって」 「あらあら、見かけは坊やだけど……口だけは達者なんだねぇ」 「坊や坊やって言うな。オレにはちゃんと、ライトって名前があるんだい」 「ほーっ、ライト。この辺りの子じゃなさそうだねぇ」 そう言っておばさんは杖をつきながらこちらに近づき、 「おおかた、お駄賃を先に使って買い物ができなくなったとか……そんなところかい?」 なんて言ってくる。 オレは、その見当違いが面白くて思わず笑ってしまった。 「違うって。オレはお使いなんて頼まれてないよ。これは何て言うか……」 どう説明しても『ダメな自分』の烙印しか待ってないので、非常に言いづらい。 「ライト、といったね。アンタの家は、この近くかい?」 「いいや。オレの家は……って、そんなの訊いてどーすんだ?」 「いいからお答えよ。近いか遠いか、それだけでもいいさ」 「……遠い、かな」 ここからずっと南のモスグルンだし。 「それで、この青の都には……観光かい?」 「そりゃ、観光だけど……」 「その割には、ずいぶんと身軽だね。家族は、ここに居ること知ってるのかい?」 家族と言われて、かーちゃん、ねーちゃんの顔が思い浮かぶ。ねーちゃんが家に電話入れてたのは、ペルヴァンシュが最後? だとすると、オレたちが青の都に到着していることは―― 「どうなんだい?」 「まぁ、たぶん。微妙だけどね」 それほど重要なことでもないと思って答えたオレだけど、おばさんにとってはすごく大切な質問だったらしい。 「…………アンタ……」 その証拠におばさんはこっちをしっかりと見据え、視線すら逃げることを許さない雰囲気を醸し出す。 「な、なんだよ?オレ、別に悪いことは……」 「……アンタ、家出かい?家出してきたんだろ?」 「…………は、はぁ!?」 オレが家出?なんで?それって大変なことじゃん!そんなことしたら、かーちゃんもねーちゃんも―― 「悪いことは言わない。すぐに家へお帰り。きっと家族が心配してるから」 「……そうかな?」 さっき喧嘩したねーちゃんが、オレのこと心配するかな? 「そうに決まってるさ。……まぁ、いいや。こんなところじゃ何だから、私の家においでよ」 「へ?」 「なぁーに。とって食ったりしないよ。ただ、ちょっとお茶でも飲ませてやろうと思ってさ」 ホテル探しからセロが戻ってくるなり、ワカバは、 「ライトが消えて、現れて、またどっか行った」 と告げただけで、ムスッとしてしまった。 さすがのセロも、それでは分からないと思ったのに―― 「……さて、どうするかなぁ」 意外にもそんな一言を発し、それ以上の説明も求めずに腕組みをして考え始めた。 「(――すごいな……)」 ここで詳しく尋ねたりしたら、ワカバがもっと感情的になるから差し控えた? それともこれは毎度のことで、慣れてしまっているとか? つい先日一行に加わったワタシには判断つかないが、ふたりには通じる何かがあるのかもしれない。 「いいんじゃないかな、ほっといて。そのうち戻るわよ」 さっきからワカバの意見は変わらない。でも、何度も口にしているということは……それだけ心配? 「まぁ、戻ってくるとは思うけど、いつまで待てばいいか?……ってことだよね」 「……いいわよ、ワタシが待ってるから。みんなは観光でもしてきて」 「そうは行かないよ。実はまだ、ホテルも取れてないんだ」 「えっ、なんで?また同じような対応されたの!?」 「……うん。ココと一緒にフロントに立つと、お決まりのパターンでさ」 ワタシも最初は同行していたので、その状況がよく分かる。 ……正直、《シスター》〈人形〉だからといって特別扱いされるのはあまり嬉しくない。 でも、別段それで冷遇されるわけではないし、ココも―― 「んぁー?」 この話題自体、気にはしていないように見える。となれば、あとはワタシがOKを出せば問題もなくなるはず。 「……ベルは、どっちがいいと思う?」 「ワタシのことは気にしないでください。どこのホテルでも構いませんから」 「……え、いや、そうじゃなくて。ごめん」 「えっ?」 「ライトを探すか、それとも待つか……ってことでしょ?」 ワカバのフォローで、ワタシは質問の意味を理解する。どうやら、ワタシひとりが話題から取り残されていたみたい。 「ラーイー、まつー?」 「……ワタシ、ここで待ってます」 誰かが探しに行くにしても、誰かしら残らなければいけない。 ライトが戻ってきたとき、ワタシが相手ならうち解けやすいような気もするし。 「ワカバはどう思う?ベルはここに居てくれるみたいだけど」 「でも、それだとベルが退屈しない?」 「ワタシは別に大丈夫ですよ。ここから街を眺めるだけでも、充分新鮮ですから」 セロとワカバが顔を見合わせ、無言で『どうする?』と確認している。 「あ、遠慮せずどうぞ。それに、ワタシはそれほど体力があるわけでも……」 そう言って、通りの向こうを見た瞬間。 「あ、ライト……あそこに」 「えっ?」 「えっ?」 待機を申し出たワタシが発見してしまった。 「……交代で探しに行きますか?」 みんなで探しに行ったら、ライトが戻ってきたときに困ってしまうだろう。 それなら、戻る時間を決めて交代で街を歩いた方が、気分的にも救われるような気がする。 「ワカバはどう思う?」 「そうね。それが妥当なところかな。ココもそれでいい?」 「あい。ボ〜クも、さがし、まーす」 どうやらワタシの意見が通ったらしく、ちょっと嬉しい。でも、次の瞬間。 「あー、いーたー」 「えっ?」 「えっ?」 「えっ?」 ココの声に、ワタシたちは驚いて振り返ってしまう。 「『おーい、ねーちゃん!』」 「……なっ、なによライトったら!性懲りもなく笑顔で」 「まぁまぁ、いいじゃないか。戻ってきたんだし」 「それは、そうだけどさぁ……」 「……もう、喧嘩しちゃダメだよ?」 「わ、分かってるわよ」 やはりセロには何があったのか、おおよそ見当がついていたらしい。 「ラーイー。こっ、ちー」 「『おーう!』」 ライトが走っている間、ほんの少しワカバの機嫌が直る。あとは、さっきのようにならないことを祈るだけ。 「た、た、ただ、い、ま……」 「……お帰り」 「(――ライト、ちゃんと謝るかしら?)」 「……その、さ。さっきは、ごめんよ」 「…………そう。まぁ、分かればいいのよ、分かれば」 もっとキツイ言葉をかけると思っていたのに、ワカバはすんなりと引き下がる。 その理由は、きっとセロという存在にあるのだろう。 「よし!ライトも帰ってきたから、ホテル探しを再開しよう」 「あっ、待って!まだホテル決まってないんだよね?」 「うん、そうだけど」 「へっへっへー。それなら、オレが案内するぜ!」 「アンタが?もしかして、見つけてきたの?」 「まぁね!」 Vサインを見せるライトは、クイクイッと鼻を高くする。 「(――でも、本当かしら?)」 ライトが走ってきた方角は、昨日の昼にワタシが立ち寄った人形技師さんのアパート――住宅街のはずだ。 ホテルのような施設があるとは思えないのだけど…… 「ここが……そのホテルなの?」 住宅街の中の《かわべり》〈川縁〉に立つその建物は、ホテルというより……少し大きめの民家。 ワタシの知る範囲だと、ジルベルクにあるペンションが近い? 「ホテルじゃないけど、泊めてもらえるんだ!」 「ねぇ、ライト。どういうことか説明してもらえるかな?」 「話せば長くなるから、まずは『おばさん』に挨拶してよ」 「おばさんって、誰よ?」 「ニコラおばさんさ!おばさーん、連れてきたよー」 ライトは我が物顔で家の敷地に入っていく。 そして、3分ほどすると奥からひとりの女性を連れて戻ってきた。 「(――この方が、ニコラさん?)」 小柄で左手に杖を持つ女性は、ゆっくりとワタシたちを眺め、 「……おやおや。確かに面白いメンバーのようだね」 と笑う。 「だろっ?これでオレの『家出疑惑』も晴れたろ?」 「まぁね。下手したらまたひとり、子どもが増えるかと思ってヒヤヒヤしてたんだから」 「あの、すみません。私の弟のライトが、何かご迷惑を……」 「ん?あぁ、アンタがお姉さんか。平気だよ。私が勝手にこの子を『家出少年』と間違えただけだからさ」 「いえで……しょうねん、です、か」 「さぁ。立ち話も何だから、自己紹介は家の中でしておくれ」 「そうそう!家ん中、広いんだぜー!」 ワタシたちが通されたのはどうやら食堂らしく、テーブルの席に着くよう促される。 そして、おばさんの指示でライトがみんなの飲み物を出し、改めて自己紹介が始まった。 「えっと右から順に、ねーちゃんのワカバ。その隣に居るのがリーダーのセロにーちゃん」 「ふんふん。お姉さんが小説家で、このお兄ちゃんが歴史学者かい」 「えっ、そんな。私はまだ、小説を書いているだけで……」 「ぼ、僕も将来は歴史学者になれたらと思って勉強中で……」 ふたりが顔を赤くして修正をし、情報の出所たるライトが頭をかいている。 「ライトにとっちゃ、自慢のふたり……ってことだろ?」 「え、いや、どうなんだろ……どうなの?」 「バ、バカっ!知らないわよ」 「さて、お次は?この小さな子が、ココかい?」 「あい。ココ、です。こんにち、はー」 「かわいい子だねぇ。どことなく、リュリュに似てるよ」 「リュリュ、って、ダーレ?」 「うちの子のひとりさ。あとで会わせてあげるよ」 「あい、あい」 ココはきちんとご挨拶をしたあと、ワタシの方を見る。 「どうしたの、ココちゃん?」 「つぎ、は、ファーの、ばん?」 「そうだねぇ。よければお名前を」 「は、はい。ワタシの名前はベルといいます。ジルベルクからやってきました」 「へぇ、あのジルベルクから」 「ご存知なんですか?」 「若い頃、新婚旅行で……ね。もう、ずーっと昔の話さ」 おばさんは目を細めて笑い、ゆっくりと背筋を伸ばす。 そして、 「……おぉ、いけない。私が名乗ってなかったね」 と笑い、 「私の名前は、ニコラ。この孤児院の院長だよ」 そう挨拶をしてワタシたちを見回した。 「(――孤児院、って……)」 確か、身寄りのない子どもなどを預かり、大人になるまで育てるところ? 昔読んだ本に、そんなことが書かれていたような気がする。 「ま、自己紹介はこんなところでいいかい?リーダーさん」 「えっ、あ、それはいいんですが。どうして僕たちをここへ?」 「あぁ。元々は……ね」 ニコラさん曰く、路地裏でしょんぼりしていたライトを家出少年だと思い連れ帰ったのがコトの発端で―― 話をするうちに、どうやらお姉さんと喧嘩して……と分かり、もう少し詳しい説明をさせてみた。 ……と、『次に泊まるところがない』とライトが言い、それなら孤児院に連れておいで……の流れらしい。 「(――ところどころ、ライトが脚色してるみたいだけど……)」 大筋では、招待された経緯が分かった。 「そうだったんですか。うちの弟が……本当にご迷惑、を……」 「……あわわっ、ワカバ。あまり怒らないで」 「へい、き。私、いつだって、冷、静よ」 そう言うけど、ワカバの目とライトの怯えようを見れば……誰もが苦笑するしかない。 「なんにせよ、招待されたからには気兼ねなく過ごしておくれ。あぁ、先に宿泊費のことだけど……それは、要らないから」 「えっ、でも、それだとさすがに」 「いいんだよ、細かいことは。その代わり、色々と手伝ってくれないかい?」 ニコラさんが軽くウインクをすると、まっさきにココが、 「てつだい、す、きー」 と両手を挙げる。 「あらあら、ココが一番手かい。じゃ、ちょっと頼もうかね」 「あの、私たちもすることがあれば……」 「ワカバ、だっけ?アンタ、料理はできるかい?」 「それは、もち……」 「えっと、料理の手伝いは僕がします」 何故かワカバの返事を遮り、セロが名乗りを挙げる。 「そうしたら、私は?」 「そうだねぇ。洗濯物を頼もうかね」 「はいはい、オレはオレは?」 「アンタは、掃除」 「……えぇぇーっ!」 「なにいってんだい。お姉さんたちを困らせた罰だと思えば、楽なもんだろ?」 ニコラさんの言葉に反発できないライトは、プーッと膨れながらもコクリと頷いた。 「あ、あの……ワタシは何をすればいいですか?」 「あぁ、天使さんね」 「(――天使?ワタシのこと?)」 「天使さんは、ココと一緒に……うちの子たちの面倒を見てくれるかい?」 「ほうら、順番は守って!横入りするんじゃないよ」 「はーい」 裏庭で遊んでいる子どもたちのところへココを連れて行くと、それはもうみんな大はしゃぎ。 同じ背丈のココを見るなり、自分たちの遊びにまざってもらおうと……引っ張る、引っ張る。 「まわるー、まわ、るー、ねー」 「こらこら!ココだって痛いって言ってるよ」 「へい、きー。ボ〜ク、つよーい、のー」 「もう!そんなこと言うと、うちの子たちは……」 「えーい」 「うー、わぁー?」 言ってるそばから、うちのわんぱくと正面衝突。 でも、ふたりは泣いたりもせず―― 「どー、ん!」 「どーん!」 何度も仕切り直しで、ぶつかり合って笑っている。 「もういっ、かい?」 「うんうん!もういっかーい!」 「(――いつまで続けるんだか、全く……)」 あのぐらいの子どもにとっては、他愛ないごっつんこがひどく面白いらしい。 「怪我したら、自分で薬つけるんだよ」 私は最低限の注意だけ促してから、壁際のベルの元へ近づく。 「天使さんも、子どもは好きかい?」 「あ、はい。とっても好きです」 「……それは頼もしいね」 ココと違い、最初のうち子どもたちはベルの様子を遠巻きにうかがう。 その視線にベルが気づいて微笑むと、柱の影に隠れる。 そして、ベルが他の子に気を向ければまた顔を出して……といった感じで、『かくれんぼ』のような遊びが始まる。 「うちの子たち、天使さん相手には随分とシャイなんだねぇ」 「そうですか?ジルベルクの子たちも、初めはこんな感じですよ」 「そうかい?だったら、ウチの子たちも普通ってことだね」 「うふふふっ。とっても可愛いですよ、みんな」 私と話す間にも、すぐそばまで来た子ふたりがベルの元まで辿り着き、その手に触れて……また柱の方へ走っていく。 「……やっぱり、変じゃないかい?」 「いいえ。こうやって、少しずつ距離が縮まっていくんです」 そう言われると、私も思い当たる節があった。 孤児院を訪れたばかりの子は、気恥ずかしいのか私のことを『お母さん』とは呼ばない。 それがやがて、何かの拍子に呼んでくれるようになると……あとはもうそのまま。 でも、そこに至るまでの子どもたちにしてみたら、おそるおそる距離を縮めようとしてくれていたに違いない。 「ところで、ニコラさん」 「ん?ニコラでいいさ。アンタの方が『年上』だろ?」 「どうでしょう?ワタシ、自分の正しい年齢を知らないので」 見た目でいけば、うちの子たちと同じぐらい。でも、この《シスター》〈人形〉の年齢はそれよりもずっと上のはず。 「(――私の記憶が、確かなら、ね)」 もう二十年以上も前の話だから、少し自信もないけどさ。 「……で、なんだい?」 「どうしてニコラは、ワタシを『天使』と呼ぶのですか?」 「……あぁ、それはねぇ」 ちょうどいま、思い出していたところだった。……けど、やはり記憶なんて薄らぐモノで。 「もう、昔のことだから、おぼろげだけどね――」 「旦那と行ったジルベルクで、白い羽根の天使さんが野山を駆け回っているのを見たような気がしたのさ」 「それがアンタだったかどうかは……」 「――それはワタシだと思います」 「へーっ、そうかい。私もボケちゃいなかったんだね」 「……はい。いまでもワタシは、野山を走ってますから」 「あはははっ。それは何よりだ」 きっとこの子は、私のことなんて知らないだろう。それでも、話を合わせるためにウソをついたりはしてない。 私が行った当時から変わりない生活をしているからこそ……自分であろうと認めてくれたのだ。 「ありがとうね」 「いいえ、こちらこそ」 歳をとった私にしてみれば……懐かしい思い出を運んでくれた天使さん。 この天使さんの目に、私たち人間の変化はどう映るのだろう? 「(――あ、家に着いたんだ……)」 バイトを終えたあたしは、気付いたら家の前に立っていた。 今日は朝一番で二次選考の合格発表を見たあとから、ところどころ記憶が飛んでいる。 バイトで肉を叩き過ぎたり、接客があやふやになったり。 「お会計を間違えてなかっただけ、上出来?」 あたしは自分の情けない慰めにため息をつき、空を見上げた。 「……仕方ないわ。こうなる可能性もあってのオーディション」 受かる人が居れば、落ちる人も居る。今回のあたしは、その後者に回っただけのこと。 審査員の先生のひとりからもらったメモには、『あとは実践と場数次第』と書かれていたけど―― 「(――それを実行するには、舞台に立つしかないと思うのよ)」 二次選考で落とされたら、そんな経験を積むチャンスはない。 「……要するに『スクールに通い続けろ』ってわけね」 以前、数ヶ月だけ在籍したスクールで色々なことを学んだ。 確かに、身につくものはたくさんあると思う。 でも、それを継続するためには、先立つモノが求められる。 「……バイトの時間増やして、頑張るしかないのかな」 「どうしたの、アン?家の前でボーッとしちゃって」 「リュリュ……」 気付けばすぐそばにリュリュの姿が。 「いつからそこに?」 「いまだよ、来たのは。二階の窓からアンの姿が見えたから、出迎えに」 そこでリュリュは、あたしのつま先から頭のてっぺんを眺め、 「何だか、いつものアンらしくないけど……」 と続く言葉をにごした。 「――理由は簡単よ。選考、落ちちゃったから」 隠していても仕方ないことだから、自分から告白してしまう。 特にリュリュには、何回も台本の読み合わせを手伝ってもらっていたから、きっちり報告する義務もある。 「そうか、残念だったね。ぼくには『次、頑張ってね』しか言えないけど――」 「あ、台本読むぐらいならできるから、その……頑張って」 口下手なリュリュが、気を遣って励ましてくれる。 あたしには、それだけで充分だった。 「……ありがと。今度は、無理に悪役とかやらせないからね」 「う、うん。そうしてもらえると、助かるかな。えへへっ」 ふたりして笑い、少しは気が晴れて余裕ができたあたしは、ふと家の中から聞こえてくる声に気付いた。 「ねぇ。今日はずいぶんと賑やかみたいだけど……」 もしかして、あたしが『選考』に受かった仮定でお祝いの準備がされてるとか? 「あぁ、それはね。お客さんが来てるんだよ」 「お客さん?お母さんの?」 「うん。そう……なるのかな?面白い団体さんで」 「団体さん?」 それも、面白い? たまにお母さんを訪ねてくる人は居るけど、精々ひとりかふたりがいいところ。 もし団体がやってくるなら、事前に知らせてくれていたと思うのだが―― 「んぁー?」 「……は、はい?」 突然下から聞こえてきた声に、あたしは思わず一歩下がってしまう。 「あなた、誰?」 一瞬、おもちゃ屋さんの等身大人形が話しかけてきたのかと思ってビックリしたが、よくよく見れば……《シュエスタ》〈人形〉だと判る。 「コーコ。ボク、コーコ」 「コーコ?」 「あのね、アン。この子が、団体さんのうちのひとり。名前はココ」 「こんにち、はー」 「……こ、こんにちは」 あたしの半分ぐらいの背丈しかない子に倣い、お辞儀を返す。 これまで何回か《シュエスタ》〈人形〉を見かけたことがあるけど、こんなタイプは初めてだった。 「……リュリュ。団体さんって、みんな《シュエスタ》〈人形〉なの?」 「シュエスタって……あぁ、《シスター》〈人形〉のこと?」 「あ、うん」 演劇関係者は、みな《シュエスタ》〈人形〉と呼ぶ習わしがあったので、つい。 リュリュが相手だから、一般的な呼び名――《シスター》〈人形〉で尋ねれば良かった。 「《シスター》〈人形〉は、あともうひとりだけだよ。残りは男の子ふたりと、女の子がひとり」 「……ということは、全部で5人?」 「いち、に、さん……そうだね、5人。みんなお客さんのはずなんだけど、家事の手伝いさせられてて」 「え?お母さんがさせているの?」 「みたいだよ。何でも、宿泊費代わりだって」 ……お母さん、一体どんな人たちを招いたのかしら? 「ねぇ、お母さん?お客さんが来ているって聞いたけど……」 「おや、お帰り。まぁ、お客さんって言えばお客さんだね」 お母さんはのんびりと食堂の椅子に座り、あたしを出迎え、 「いま、泊まる部屋の掃除をしてもらってるよ」 などと言う。 「……お客さん、じゃないの?」 「お客にも色々あるさ。今回のご一行は、面白い面々だね」 「(――何がどう面白いのかしら?)」 さっきリュリュも同じようなことを言っていた。 「さぁねぇ。どうなんだい、セロ?」 「『はい?ニコラさん、僕のことを呼びましたか?』」 台所の方から響いてきたのは……男の子の声? 「あぁ、ちょっとこっちに顔出してくれるかい?」 「『分かりました。じゃあ、パウラ。これは切っておいたから、あとよろしくね』」 「『はいはいー。いってらっ!』」 台所で料理番をしているパウラの声が響き、しばらくしてフキンで手を拭きながら……割と身長のある男の子が現れた。 「これが、今回のお客さんのリーダーさんだ」 「はじめまして。セロと言います」 「ど、どうも。あたし、アンジェリナです」 お互い名乗ったはいいけど、その先どうしていいか相手待ち。 痺れを切らしたお母さんが、 「あぁ、もう!いくら男の子が苦手だって言っても、もう少し愛想良く挨拶できないもんかね?」 なんて言い出してビックリ。 「ち、ちょっと!余計なこと言わないでよっ」 「……ほらね。本当は、これぐらい元気がいいんだ」 「おかーさーん!」 「おー、こわこわっ。まぁ、この子がうちのリーダーみたいなもんさ。仲良くやっとくれ」 「は、はい」 ……全く。初対面の人を前に、からかわないで欲しかった。 「それじゃ悪いんだけどセロ。アンタのお仲間を集めてくれるかい?」 「分かりました。いま、呼んできますね」 「……ふぅ、疲れた」 食堂での挨拶も終わり、晩ご飯まではゆっくりできる。 あたしはベッドに寝っ転がって、紹介された面々の顔を順番に思い出してみる。 「(――最初、庭で会ったのがココ)」 背中にゼンマイ巻きがついた、かわいい《シュエスタ》〈人形〉。 リュリュの話では来た途端、《きょうだい》〈弟妹〉から引っ張りだこにされていたそうだ。 「(――次に会ったのが、セロ)」 彼がココのお兄さんで、モスグルンで一緒に暮らしているという。 「(――で、あの姉弟が……ワカバとライト)」 お姉さんのワカバは、小説家を目指しているらしい。 あたしのことをジーッと観察するような感じで、ちょっと取っつきにくかった。 そしてライトの方は―― 「『……あ、あの……お肉屋さんのお姉さん、だよね?』」 「『えっ!?何で知ってるの?』」 いきなりバイトを当てられて驚くと、 「『あ、やっぱり憶えてないか……』」 しょんぼりと肩を落とされてしまった。 「……ごめんね」 いまさらだけど、自分の部屋でこっそりとライトに謝る。 どうやら昼間、あたしがボーッとしていたときに店頭で買い物をしてくれたらしく。 その証拠に、うちの台所には……あたしが売った肉の塊がゴロンと転がっていた。 「でも、何でライトは……生肉なんて買ったのかしら?」 謎は残るが、ひとまずそれは置いておこう。 「…………あとは……」 もうひとりの《シュエスタ》〈人形〉――ベル。 あのとき、お母さんのお使いで買い物に行かされており、会うことができなかった。 「……どんな子なんだろう?」 やっぱり、ココのようなかわいらしい《シュエスタ》〈人形〉かしら? それとも、大人びた感じの綺麗な―― 「はい?」 部屋に響いたノックの音に、ベッドで跳ね起きる。 「(――もう、食事かしら?)」 いつものようにリュリュが呼びに来たと思い、ドアを開ける。 ……と向こう側には、ワカバが立っていた。 「はぁーい、アン。ちょっと時間あるかしら?」 「えぇ、晩ご飯までなら……」 フレンドリーな口振りに押され、正直に答えてしまった。 「よっし!好都合ね。お部屋、お邪魔してもいい?」 「い、いいけど……散らかってるわよ?」 「あー、気にしないで。私の部屋に比べたら綺麗よっ」 あたしの答えを待たずにススッと入ってきたワカバは、 「あーっ!やっぱりぃ!」 と大きな声でポスターを指差した。 「何が、やっぱりなの?」 「クリスティナ・ドルン!白の国のお姫様。へーっ、舞台だとこんな感じになるのね……メモメモっ」 ワカバは、取り出した紙に簡単なスケッチを始める。 興味が出て後ろから覗き込んだら、このポスターを見た者だけがかろうじて判別できる輪郭線、でしかなかった。 「(――絵の方は、それほどでもないのね)」 「……それで、このポスターの噂を聞いて訪ねてきたの?」 「いいえー。ポスターじゃなくて、アンの噂よ」 「あたしの?」 「噂ってよりは、そのものズバリね!待って、今度は失敗しないように言葉を選ぶわ」 「……『今度は』って、何?」 「ちょっと待っててね。とびきりの言葉を考えるから」 なにやら、『私のモノになれ』とか、『私ならあなたをいかせる』とか呟いたあと、 「これにした!アン、私と一緒にプロを目指して!」 なんて、腕を掴んできた。 「……ち、ちょっと」 「あれ?何かおかしい発言だった?」 「最初にブツブツ言ってたのはおかしいけど……」 「じゃあ、OK?」 「待って、待って。話が見えないわよ。プロを目指すって何?」 「え?アンは舞台女優、私は小説家……でしょ?」 ……ごめん。訊いてるのはあたしの方ね。 「そりゃ、あたしは舞台に立つことが夢だけど……」 「じゃあ、バッチリよ!舞台に立たせてあげる!」 「あなたが?あたしを、舞台、に?」 「うんうん!それも、役柄は……これ!クリスティナ姫よ」 ポスターをバーンと指差し、ワカバはとびっきりのスマイル。 あたしも急な話でドキドキしたけど、よくよく考えれば……眉唾感の方が大きい。 だいたい、情報が少なすぎる。 「……もう少し、詳しく」 「じゃ、説明するわね。知っているかもしれないけど、私の住むモスグルンでは、毎年演劇祭が開かれて――」 「……そうだったの」 「そうだったのよー!分かってもらえた?」 「えぇ、大まかには……ね」 彼女の説明で、モスグルンの演劇祭の『だいたい』は掴めた。 「良かったー!もうこれで完璧!アンに会えて良かった!まぁ、うちの弟のおかげも少しはあるかなー。あははー」 「ライトの?」 「そそっ。あの子、アンの働く肉屋さんで買い物したでしょ?あれは、アンのことを探しに行って……ああなったらしいの」 ワカバの話は、ポンポンと飛ぶのでついていくのが大変。 「……まぁ、ライトがアンを《み そ》〈見初〉めたのにはビックリしたけど」 あのセロって子はワカバと仲が良さそうだけど、いつもこんなテンポで会話してるのかしら? 「ま、とにかく!ライトと私の一押しで、アンに決定!」 「そうね。あたしが『うん』って言ったら、決まりよね」 「うんうん!ちゃーんとドレスとか用意するから!」 「(――ド、ドレス……)」 普段からポスターで見る、クリスティナ姫のドレス姿。一瞬、自分がそれと重なる光景を思い浮かべて、心が揺れる。 「(――だけど……)」 「ねぇ、ワカバ。それは少し考え直した方がいいわよ」 あたしは彼女に呑まれないよう、慎重に言葉をつむぐ。 「……へっ?なにを考え直すの?」 「クリスティナ・ドルンの役」 「なんで?」 「あたしが……引き受けないから」 「…………えぇぇぇぇっ!?」 「……ふーっ」 あたしは、ため息混じりでベッドに身を投げ出す。いや、疲労がたまっているのは精神的なものね。 「(――ワカバったら、もう夜なのに……)」 結構なボリュームで、『どーして、どーして?』の連呼をしてくれたせいで、他の部屋の子たちが覗きに来る始末。 おかげで部屋から追い出す口実はできたけど―― 「……はーぁ。今日は、散々な日ね」 選考から落ちるわ、変な誘いを持ちかけられるわ。 「(――そりゃ、舞台に立てるのは魅力的だけど……)」 まだ脚本もできておらず、役者の見通しすらたってない。 強いて言うならワカバはプロでも何でもない……小説好きな女の子で、舞台については素人。 あたしもプロじゃないから大きなことは言えないけど、どう考えても成功しそうには思えない。 「(――もっときつーく言ってあげれば良かったかな?)」 恥かくだけよ、とか。他の役者を揃えられたらね、とか条件つけたりして。 そうすれば、諦めて別の人を探しに行ったかも。 「……演劇、か」 さっき彼女は『ライトがあたしを《み そ》〈見初〉めた』とか、何とか。 もしそれが本当なら、あたしが演劇を目指していることを知っていたのは……ライト? 「……どうでもいいか……」 誰が最初に知ろうが、あたしには関係ない。 ここで舞台に立ちたいがあまり承諾してしまったら、次のオーディションを目指す練習ができなくなる。 いや、それ以前に。 「……しばらく家を離れることになるじゃないの」 その間、バイトもできない。 こうやって考えると、初めから無理だったことが浮き彫りになるだけだった。 「……ん?」 いつの間にか、あたしはウトウトしていたらしく、ノックの音で目が覚めた。 「はぁーい。もうご飯?」 「『……そ、そうです』」 寝ぼけているせいで、向こうから返ってきた声が誰のものか判らない。 「リュリュ?パウラ?」 「『えっと……ベルと言います』」 「(――ベル?ベルって……)」 頭を振って考えると、団体さんのひとりがそんな名前だったような気がする。 「ち、ちょっと待ってね。いま出るから」 「『……はい』」 簡単に髪をとかし、スカートの裾を払ってからドアを開ける。……と、そこに立っていたのは―― 「……あなた!?」 「え?あ、どうも。初めまして」 昨日、裏路地の練習場で見た……あの唄の女の子!? 「ご挨拶が遅れてすみません。ワタシのことは……もう他の人から聞いてますか?」 「う、ううん。名前と……」 《シュエスタ》〈人形〉ということぐらいしか教えてもらってない。 「ワタシは、ジルベルクからセロたちと一緒に旅をしてます」 「……そうなの」 「……?あの、ワタシの顔に何かついてますか?」 「う、ううん。そんなことないわ。綺麗よ」 ……あたしったら、何いってるんだろ。 でも、見れば見るほど――人間にしか見えない。 「あの、あなたって……《シュエスタ》〈人形〉、よね?」 「え?あ、はい。そうです。でも、久し振りです。その呼ばれ方をされるのは」 「《シュエスタ》〈人形〉、って呼ばれたことあるの?」 「昔、数回だけ。父に訊いたら、演劇をする人たちが、舞台にあがる《シスター》〈人形〉をそう呼ぶことがある、と教えてくれました」 「……そうだったの」 話が通じて、ちょっと嬉しい。 あたしは改めて目の前のベルを見て、ふとあのときの唄について尋ねてみたくなった。 「あなた、唄とか歌うの?」 「えっ?」 ベルの表情が、少し曇る。 「(――あっ、訊いたらいけなかったのかしら?)」 「……もしかして、ワカバに聞きましたか?」 「ううん、違うけど……どうして?」 「アンジェリナさん、ワカバから演劇祭に誘われましたか?」 「……えぇ、ついさっき」 「ワタシも誘われました。お姫様の横で、唄を歌う天使の役として舞台にあがらないか、と」 そう言われてみれば、『天使役はほぼ決まりで……』などと、ワカバがすごい勢いで説明してくれたような。 「あなたは、それを受けたの?」 「まだ考えてます。ワタシは出たくても、出られないので」 「どうして?演劇の経験がないから、とか?」 「それもありますけど……もっと大きな理由があります。ワタシ、唄が歌えないんです」 「えっ、ちょっと待って。だってあなた唄を……」 「はい。ワカバは『唄を歌えるから天使役を……』と言ってくれました。でも、ワタシは……人前で唄が歌えないんです」 「……ねぇ、ココちゃん。横に座っても、いい?」 「あい、あい。どう、ぞー」 孤児院のみんなと晩ご飯を一緒に食べ、小さい子たちは寝る準備を。 ワタシたちはせめてものお礼に……と、後片付けを申し出た。 「みんな、いい子たちよね?」 「うん。ボ〜ク、どーん、したの。どーん」 「……どーん?あぁ、お庭で子どもたちと『どーん』ね」 子どもたちが我先にココと遊ぼうとして、《やっき》〈躍起〉になっていたのを思い出す。 「ファーも、どーん、すきー?」 「痛くなかったら、好きかな」 「……ちょと、いたい。でも、たの、しーい」 「うふふふっ」 ココと話していると、それだけで元気になれる。 きっと子どもたちがココに近寄る理由も、同じなんだと思う。 「あらあら。《シスター》〈人形〉がそろって悪巧みかい?」 台所から出てきたニコラは、ニコニコ顔。 言葉は悪いけど、決して本気で疑っているわけでないことは口調で判る。 「そんなことありませんよ」 「まぁ、少しぐらい悪さする方がかわいいってもんさ。……ん、どうしたんだい、ココ?何か見えるのかい?」 「あー、れー」 ニコラの質問にココが指差したのは、棚の上に乗せられたテレビ。 お父さんがときどき観ているテレビより、ちょっと古い型に見える。 「テレビが観たいのかい?でも、時間がね……」 「じか、んー?」 「まぁ、いいか。今日はよく働いてくれたから特別だよ」 そう言ってニコラは棚に手を伸ばし、テレビのスイッチを入れる。 そして、ワタシに向かい、 「子どもたちを早く寝かすために、夜はあまり付けないんだよ」 と、先の理由を教えてくれた。 「やっ、たー」 「悪いけど、ボリュームは下げるからね。他の子たちが起きてこないように。チャンネルはどうする?適当でいいかい?」 「あいー」 お任せをされたニコラは、なにやら古くさい映画を選局し、笑いながら台所へ戻っていく。 「ココちゃん、面白い?」 「あい。おヒゲー、のひと、です」 「どんな感じ?」 ヒゲの人と言われ、何となくお父さんを思い出して興味をそそられたワタシは、横からテレビ画面を覗き込んでみる。 ボリュームが小さいので映像からの判断になるが、どうやら『ならず者と賞金稼ぎ』の映画らしい。 そして、お話はだいぶ前に始まっていたらしく、いきなり銃弾が飛び交うシーンになっていた。 「バーン、バキュー、ン」 画面の中のフラッシュに合わせ、ココが小さい声で音真似をする。 ワタシもしばらく眺めていたが、むかしお父さんと一緒に観たような気がしてきた。 「(――あれ?ワタシ、何だかお父さんのことばかり考えてる?)」 ジルベルクを離れてから3日ぐらいしか経ってないのに、もしかしてホームシックになったとか? 「ドーン」 「(――変なの)」 これまで長い時間を過ごしてきたのに、たった3日の時間を気にするなんて。 だけど、お父さんが言っていた。 時間とは誰にとっても平等に流れるものだが、その長さをどう感じるかはその人次第だ……と。 それは《シスター》〈人形〉にも同じこと? 動力である《 ドロップ》〈人形〉石が違うと、それだけで感じ方が変わるのかもしれない。 それとも、身体と《 ドロップ》〈人形〉石との組み合わせ? 経験と記憶によって左右される? もしどれかひとつでもこの条件に当てはまるなら、ワタシとココは、一緒だったこの3日間の長さを別々に感じている? 「(――ワタシの感覚は、どちらに近いのかな?)」 出会って間もない、同じ《シスター》〈人形〉のココか。それとも、ずっと一緒に暮らしてきたお父さんなのか。 突き詰めて考えれば、《シスター》〈人形〉か、人間か―― ちょうど隣の部屋で電話が鳴り、ワタシの集中力が切れた。 「(――慣れないことを考えたら、疲れちゃった)」 ワタシはそっと立ち上がり、ココにお休みを言って食堂から出ようとする。 ……が、そのとき。 「あぁ、天使さん。ちょっと頼まれごと、いいかね?」 「はい、なんでしょう?」 「悪いけど、アンに『電話だよ』って伝えてくれるかい」 「はい、いいですよ」 「相手は、『マリオン』だそうだよ」 晩ご飯の前に呼びに行ったから、部屋は知っている。 ワタシはなるべく足音を立てないよう気をつけつつ、彼女に伝言を運ぶ。 「あたし宛に電話?誰からかしら?」 「マリオンさん……だそうです」 「……うそっ!いやだ、どうしよう!?」 名前を聴いて慌てたアンジェリナは、急いで鏡の前に立って髪や服のチェックを始める。 「あの、電話ですから相手には見えないかと」 「……あぁ、それもそうね。うん、いそがなきゃ!」 ここまで気を遣って歩いてきた廊下に、アンジェリナの走る大きな足音が響く。 「……あぁ。ドア、開けっ放しです……」 ワタシはドアを閉めようとして、彼女の部屋に貼ってあるポスターを見つける。 そこには、クリスティナ・ドルンという名前が。 「……あれが、アンジェリナさんの目指すお姫様?」 当然、ポスターの人がクリスティナ姫本人ではないのは判る。 でも、そこにある『お姫様像』は、限りなくアンジェリナに近くて―― 「……ワカバたちも、同じように感じたのかな?」 そう思うと、ワタシもアンジェリナが演じるクリスティナの姿が観てみたくなった。 「おかえ、りー」 「ただいま。映画はどこまで進んだの?」 「おひげー、ろう、やー」 どうやら、ワタシが戻ってくるまでにお髭の男性は牢屋に入れられてしまった様子。 確かこのあと髭の人は仲間に助けられて、最後にならず者と一対一の決闘を試みる展開……だったかな? 「おひげー、たい、へん」 「そうね。ピンチみたい」 終わりも近そうなので、ココと一緒に最後まで観ることに。 だけどワタシには、結末の解っている映画よりも……隣の部屋から漏れ聞こえてくる電話の声の方が気になった。 「(――マリオンって、誰なんだろう?)」 呼びに行ったときのアンジェリナの慌てようから考えて、相手が『お友達』とは考えづらい。 身だしなみを気にしたぐらいだから、アンジェリナにとって……大切な人とか、尊敬する人かしら? ワタシは悪いとは思いつつ、そっと耳に神経を集中させる。 「『……はい。それは審査員にも言われました』」 「(――審査員?)」 「『もちろん、受かるつもりでした。えっ、自信ですか?それは、そこそこ……』」 「『そんな!落ちるつもりだったら、受けません!』」 「……ドッ、サー」 「あ、あのねココちゃん。電話してるから、シーッ」 「あー、あいー」 ちょうど画面の中で敵役の人が倒れたのを観て……の擬音だったらしい。 「『……ひどいです、おねえさま!』」 おねえさま?アンジェリナのお姉さん?もしかしたら、孤児院を去った年上の人? 「『……えっ、本当ですか?いつこちらに?』」 そのあとは何度も頷く声が続き、 「『……それでは、お休みなさい』」 そう締められて、電話が切れる音がする。 そして、しばらく経ってから、アンジェリナが食堂へと顔を出した。 「(――やっばり、盗み聞きはダメよね)」 気になるとはいえ、無縁のワタシがプライベートな話を聞くわけにはいかない。 そう思って、ココと一緒にテレビの方へと意識を集中させる。それでも、 「『そんな!落ちるつもりだったら、受けません!』」 「『……ひどいです、おねえさま!』」 ……など、大きな声はどうしても拾ってしまい、とても悪い気がしてきた。 「あー、おひげー。ばきゅー、ん!」 「あー、残念。撃たれちゃったね」 「うん、うん」 最後は、弾が当たっても死ななかった賞金稼ぎが立ち上がり、油断していたならず者が振り返ったところを一発で仕留める。 そして、そんな展開が終わって画面に『END』が出た頃に、アンジェリナが食堂へと顔を出した。 「……あら、テレビ観てたの?」 「あいあい。おひげー、ばきゅー、ん。ド、サーッ」 「楽しそうね」 そう言って笑うアンジェリナも、どこか嬉しそうで。ワタシもつられて微笑むと、アンジェリナが、 「さっきはありがとうね」 柔らかい声でお礼を言ってくれた。 「あ、別に……ただ、電話のことを伝えただけですから」 「それはそうなんだけど……うん、何となくね」 それだけ言うと、アンジェリナは自分の部屋へと去っていく。 「ファー、つぎ、はー?」 「もう寝ましょ?セロたちがお部屋で待ってると思うわ」 「あーい」 テレビを消して、ココをセロたちの部屋まで送る。 そして、ワタシも用意された個室へと戻って休むことにした。 「……ワカバ。あなた、何処までついてくる気なの?」 「えっ、別に……ただ、散歩しようかなーって」 「あー、そうなの。あたしの部屋の前から食堂までが散歩?」 「準備体操みたいなモノよ。気にしないでー」 ……そう言われて『はいそうですか』って納得できるほど、あたしは楽天家じゃない。 「用があるなら、はっきり言いなさい」 「……だって、普通に訊いても断られそうだから……」 その考えは、あながちハズレとも言えない。 「だからってそんな真似したら、よけい悪化すると思わない?」 「むむっ!確かにそうかもしれないけど、他にいい手が思いつかないんだもん」 「あなたの考えるいい手って、なに?」 「困っているアンを私が助けて『ありがとうワカバ。あなたは心の友よ』……で、『そんな、気にしないで。私とあなたの仲じゃない』みたいな」 ……ひとつ分かったことがある。 「あなた、いい役者になれるかも。舞台に立てるぐらい」 「ホントに!?」 「あなたの脚本で、あなたの演じるクリスティナ。完璧。あたしの出る幕なんて、これっぽっちもないわ」 「なによー、それー!」 騒ぐワカバをあとに、あたしは軽く手を振りながらその場をあとにした。 「……それで、まださっきの手を続けるつもり?」 「ちょっと改良しようかなー、って」 食事が終わったあとも、あたしの後ろにピッタリついてくるワカバ。 女の子だからいいようなもので、これが男の子だったら―― 「(――考えただけで倒れそう)」 「今度は、どんな手?」 「正攻法よ。アンのことだから、きっと毎日何処かで演劇の練習をしているはずだわ」 「……それで?」 「その現場に着いたら、私はさりげなく脚本を取り出して、それとなく見てもらい、そのまま……って感じ」 「それ、どの辺りまで本気?」 「え?割と全体的に?」 こういう人は嫌いじゃない。 これまでに知り合った人の中でも、トップクラスの面白さがある。 でも、それはあくまで……笑える範囲にとどまっていた場合。 「悪いけどあたし、今日は用事があるの」 「ホントに?」 「ウソはつかないわ。今日、あたしは、恩師に会うのっ!」 2年振りの再会でドキドキしているはずなのに、ワカバのおかけでそんな気持ちも何処へやらになっている。 「……そっか、ごめんね。じゃあ、今日は遠慮する」 「…………あ、そう……」 拍子抜けするぐらい、ワカバはあっさりと立ち去る。 自室に戻り、抜き打ちでドアを開けて廊下を見たりするけど、彼女の姿は全く見えない。 「(――なによ。しつこいかと思ったら、割と根性なしね)」 どうしても、っていう気迫を見せたら、あたしだって―― 「あー、ダメダメダメ!いけない、感化されてきてるわ」 そんな風にワカバを気にしながらも身なりを整え、あたしは出発の準備を終える。 そして、玄関から外に出て大きく深呼吸……のはずが。 「……待ち伏せかしら?」 「あっ、アンもお出かけ?」 「ワーカーバーぁ!」 「ほぇ?な、なによ?」 絶対ここで張っていたと思って詰め寄るが、本人はまるで心当たりがないといった顔で、キョトンとしている。 「…………何処に行くつもりだったの?」 「文房具店。もらったタイプライターのインクが切れたから、買いに行こうと思って」 「あ、あら……そうだったの。場所は分かるの?」 「さっき、リュリュに教えてもらったから平気よ」 方向的には、あたしの目指すオープンテラスと大筋で同じ。 メモか何かをもらったかと尋ねれば―― 『大通りに出て、右行って左で看板が見える』……程度の説明だけで飛び出してきたことが判明した。 「……リュリュったら。それは、地元の人向けの道案内よ」 「もしかして私、迷いそう?」 「大丈夫よ。大通りまで、あたしが一緒だから」 そこで説明してあげれば、何とかなるだろう。 下手に見過ごして迷子にでもなられたら、探しに出る手間が増えるだろうし。 あたしは、遅刻だけはしないように心がけながら、ワカバと共に大通りを目指す。 「これからアンは、さっき言ってた『恩師』と待ち合わせ?」 「……そうよ。昨日の晩、急に連絡が入ったの。時間があれば、お茶でもどうか……って」 「ふーん。最近、会ってなかったの?」 「うん。会わせる顔がなかった、ってところかな」 「へーっ。良かったね、誘ってもらえて」 嫌味ない笑顔のワカバに、あたしもうっかり口元がゆるむ。 「その人って、やっぱり演劇関係の人?」 「……そうね。自慢するわけじゃないけど、有名な人」 あたしが誇れる、目標の……おねえさま。 「あっ!間違っても、演劇祭の出演依頼とか考えないでね」 「平気だって。私だって、見境なしにお願いしたりしないもん」 「……ホッ!」 「それに私の基準、アンが思っている以上に高いからねっ」 「……そうなの?」 「あったり前でしょー!自分で言うのも何だけど、結構面食いだしー」 「ふーん。面食いねぇ」 おねえさまだったら、才色兼備だから余裕でクリアね。 「少しは候補、増えたの?」 「ぜーんぜん」 「……そうすると、セロにも出演のお願いするとか?」 「へっ、セロ?それどういう意味?私、別にセロのこと顔で選んだりしてないわよ」 「……え?何の話してるの?人手が足りないなら、セロも役者に駆り出されるの?……って意味で訊いたのよ」 「ま、ま、まぎらわしい訊き方しないでよっ!焦るじゃない」 ワカバはひとりで顔を真っ赤にして、口ごもる。もしかしたら、ワカバはセロのことを……? 「でも、いざとなったらセロだけじゃなく、ライトもでしょ?」 「……そうね。主要メンバーだけかな、こだわれるのは。本当は全てにこだわりたいけど、妥協も大切だと思うし」 てっきり、自分の好みガチガチじゃないとNGを出すタイプだと思ったのに。 意外とワカバは、現実的な考えを持っているのかもしれない。 「そういえば、あの《シュエスタ》〈人形〉にも舞台に上がるように勧めてるって聞いたけど」 「えぇ、そうよ。誘った順番なら、ベルの方が先。脈アリなんだけど、まだOKもらってないのよね」 「……みたいね。あの子も悩んでいたから」 「アンと違って、私がプッシュすると引いちゃいそうで怖いのよねー」 あたしなら、どれだけ押しても平気だと言いたいのかしら? 「ま、どうにかなるでしょ!……で、文房具店は、ここからどう行けばいいの?」 「そこの道をまっすぐ行ってから、右、左の順に折れて。すぐに看板が見つかるから」 「ありがとー!さーて、リボンはいくつ買えるかなー?」 陽気に財布を取り出すワカバを見て、あたしもスカートのポケットに手を伸ばす。 誘われた身だけど、今日はあたしがおごる約束。 だから、いつもより多くお金を持ってきた。 「……あ、あれ?おかしいわね。お財布……」 ポケットの中には、数枚のレシートが入っているだけ。 一瞬どこかで落としたかとも思ったが―― 「(――あたし、鏡の横に置いたまま出てきちゃったのかも)」 いまから戻ったら、約束の時間には間に合わない。 かといって、このまま無一文でカフェテラスに入るなんて真似はできない。 「……アン、どしたの?」 「ワカバ!まだ居たの?」 「だって、アンが青い顔してるから心配で。体調悪いの?」 「……その、ね。実は……」 ここでワカバにお金を借りれば、何とか危機を回避できる。 でも、まだ会って間もない人にお願いできるようなこと? 「実は、なーに?」 「あたし、お財布……忘れて来ちゃったみたいで……」 「あらら、それは大変ね」 「そんな簡単に言わないでよ!あたしはこれから――」 「……はい、どうぞ」 差し出されたのは、ワカバの財布……まるごと。 「……ワカバ……これ……」 「持ってって。金額は、いまチェックしたばっかり。家に帰ってきたら、ピッタリにして返して。利子はなし」 「そんな簡単に……貸してくれるの?リボンは買わないの?」 「うーん。それじゃ、帰りにこの型番のリボン買ってきて。それで貸し借りゼロ。これなら納得する?」 「う、うん。ありがとう……」 差し出されたメモと財布を受け取り、あたしはお礼を言う。 「いいの、いいの。じゃ、よろしくー」 足取りも軽く戻っていくワカバを見て、もう一度頭を下げる。 ワカバは、あたしが思っている以上に……いい子なのかも。 「ファーちゃん。このあと時間あるかな?」 朝食が終わり、食器の片付けの手伝いをしていたところへライトがやってきた。 「いいわよ。これが拭き終わったら、テーブルに行くわ」 ワタシは手早く作業を終えて、ライトのところへ向かう。 「お待たせ。なにかしら?」 「……そのさぁ。何て言ったらいいかな……」 何か言い出しづらそうな感じからして、ワカバから何かを頼まれたのかもしれない。 「もしかして、演劇の話?」 「あ、う、うん。それもしようかなとは思ったけど」 「……『それも』ってことは、別のお話もあるのね?」 「うん。どっちかっていうと、そっちの方が本題かなぁ」 「どちらでも好きな方から話して」 これだけだと、さらに迷うかもしれないので、 「――できれば楽な方から」 と付け加えてみた。 「だったら、演劇の方からかな。ファーちゃん、参加する?」 「いまのところ、まだ分からないの。でも、そろそろ答えを出さないとダメよね」 「ふーん、そっか……」 「ライトは、参加するの?」 「まぁね。ねーちゃんの頼みは断りづらいし。それに、兵士の役やらせてくれるっていうからさ」 その口振りと表情から察するに、ライトとしてはまんざらでもなさそうだ。 「ファーちゃんもさぁ、良かったら一緒にやろうよ」 「う、うん」 「ねーちゃんの脚本とか心配だと思うけど、面白そうだしさ」 ワタシも、唄の件がなければ頷きやすいんだけど。責任が大きいと、なかなか踏み切れない。 「……それで、もうひとつのお話の方は?」 ライトには悪いと思いつつ、ワタシはいまの話題から逃げてしまう。 「……あ、あのね。変な質問なんだけど――ファーちゃんは、アンジェリナを見て……どう思う?」 「アンジェリナさん?どういう意味で?」 役者さん?それとも、人柄?どっちにしても、あまり話したこともないから答えづらい。 「……その、女の子として」 「女の子として?」 よけい難しくなった。 「(――ワタシは《シスター》〈人形〉だから、将来はアンジェリナさんみたいに……とか考えづらいし)」 《シスター》〈人形〉は外見を大きく変えることはできない、とお父さんも言っていた。 「うーん、オレの質問がズレてるのかなぁ?」 「もう少し分かりやすい質問の方が、答えやすいかも」 「じ、じゃあねぇ。ファーちゃんは……アンジェリナのこと、す、すすす、好きかな?」 好き嫌い……ってこと?苦手な人は居ても、嫌いになった人はあまり居ない。 彼女について、どちらかで答えるなら―― 「好き、かな?」 「どんなところが?」 「うーん。難しいけど、全体的にかしら」 ライトはワタシの答えを聞き、うーんと唸る。彼自身、質問からしてどうすべきか悩んでいるらしい。 「ねぇ、どうしてそんな質問をするの?」 「う、うん。あのさ、誰にも言わないって約束できる?」 「いいわよ」 「――オレさ。もしかしたら、アンジェリナのこと……好きなのかも……って」 「――初めて会ったときも、再会できたときも、すごくドキドキして」 「いまも、なんか気持ちがフワフワなんだよ……」 「……ライト……」 これまで、村の子たちが大人になっていく過程をいくつも見てきた。 その中で、そういった相談を持ちかけられたことも多い。 「ワタシは《シスター》〈人形〉だから、人間とは違う感覚かもしれないけど、きっとライトの気持ちは……」 年頃に近づいてきたための、異性に対する関心の現れ。 「それは、恋に《 ・ ・》〈近い〉ものだと想うの」 「…………そっか。《 ・ ・ ・》〈これが〉恋なんだ」 こういうとき、下手なアドバイスはできない。 「だから、無理に自分を偽ったり、悩んだりしないでね」 ワタシから言えるのは、それぐらいだ。 「……うん、分かった!ありがとう!よーし、オレ全力でぶつかるぞ!」 「あ、ライト!?」 飛ぶような速度で食堂から出て行くライト。 追いかけて廊下に顔を出したときには、その姿はどこにもなかった。 「(――最後の『ぶつかる』って、なんだろう?)」 「(――よかった。おねえさまより早く着いて)」 待ち合わせのカフェで先にテーブルに座り、ひとりの時間を過ごす。 「……もう、2年経つのね」 最後に会ったのは、このカフェテラス。 奇しくもいま、あたしが座っているこのテーブルで話した。 「『あっ、あの……おねえさま!』」 「『……なぁに、アンジェリナ?』」 「『実は、今日、真剣に聴いて欲しい話がありまして……』」 ……あのときのことを思い出すと、恥ずかしさで顔から火が出そう。 「『あなたの話は、いつでも真剣に聴いているわ』」 「『……あ、ありがとうございます』」 「『でも、真剣な話を聴かせてもらう前に……私の話を聴いてもらえると嬉しいな』」 「『は、はい!』」 こちらが緊張していた理由は、とても簡単なもの。 あの日のあたしは……自分の気持ちを彼女に打ち明ける気でいたから。 受け入れてもらえないのを覚悟で、『告白』したかったのだ。 「『それで、おねえさまのお話って……』」 「『……私、来月から巡業に出るの。だから、あなたの通うスクールには顔が出せなくなるわ』」 「『そ、それは……おめでとうございます!』」 何とか頑張って、恩師にお祝いの言葉を口にできたあたし。 ……だけど。それに続いて目に入ったモノには、ショックを隠しきれなかった。 「『……あぁ……』」 彼女の左の薬指には、キラリと光るシンプルな指輪が。あたしだって、それにどんな意味があるかぐらい知っていた。 「『巡業に出る前に、色々な人から声をかけられてね』」 「『――その中のひとりが、とても熱心な人で……』」 「『私のことを女優として、ひとりの女として認めてくれたの』」 指輪に加えられた言葉が、あたしの甘い希望を粉々にした。……いまでも、裏切られたとは思わない。 あのときのおねえさまは、あたしが何を言おうとしたのか察知した上で―― 「(――あえて、それを話させずに立ち去ったの……)」 「『あっ、今日こそはあたしが払います』」 「『……いいのよ、気にしないで』」 「『でも、せめて今日ぐらいはお祝いの意味を込めて……』」 「『……ありがとう。それなら、今度。今度ここで会ったとき、お願いするわね』」 おねえさまは、あのときの約束を憶えてくれているだろうか? 「……お待たせ、アンジェリナ」 「あっ、おねえさま!」 風のようにやってきて、当たり前のように向かい側に座ったおねえさまは、二年前と変わらず……とても綺麗。 あたしは目の前で優雅にお茶を飲むおねえさまに、どれだけ近づけたのだろう? 「(――憧れていた恩師、マリオン・キュリーに)」 各地で公演を成功させ、少しずつ名声を集めてきた彼女は、いまでは立派な有名人。 時折、テレビなどでもインタビューを受けている姿を見るが、こうして本人を目の前にすると―― 「(――あたしなんかと比べるまでもないわ)」 哀しいかな、現実の距離に打ちのめされてしまう。 「どうしたの、アンジェリナ?動きが止まってるわよ」 「……す、すみません」 「もーう、久し振りの再会なんだから少しは微笑んで。……それとも、あまり嬉しくなかった?」 「そんなことありません!あたし、昨日は電話をもらって、とっても嬉しかったです」 「……いまは?」 意地悪なおねえさまは、すかさず質問を重ねてくる。 「……も、もちろん」 「その割には、ずいぶんと怖い目をするのね」 「そうですか?あたし、そんなつもりありませんけど」 「なんていうかなー?照準を定められてる感じ。……隙あらば撃つ、みたいに」 「……ごめんなさい」 「いいんじゃないのかしら。ライバル視されているみたいで、ちょっと燃えるかも」 おねえさまは、目をパチクリさせてからニッコリと笑う。 「……ライバルだなんて思えません。いまのおねえさまは、あたしなんかの届かない、ずっと遠い存在で……」 「えーっ、つまんない。そーんな、つまらないこと言うようになっちゃったの?」 「…………それは……」 「もう私は、ライバル視されないの?」 「だって……」 「もしかして、オーディションに落ちたのが効いた?」 矢継ぎ早の問いに、あたしはついて行けなくなってカップに手を伸ばす。 そして、一息ついてから、 「……分かっているなら、わざわざ訊かないでください」 とお願いをした。 「うふふふっ、ごめんね。かわいいから、ちょっといじめてみたくなったの」 「おねえさま!あまりからかわないでください」 「いーや、でーす。こんなチャンス滅多にないから、どんどん言っちゃう」 「――落ち込みなさいな、好きなだけ」 「……えっ?」 「挫折って、大切よ。特に、あなたみたいなタイプは」 「どういう意味、ですか?」 「……言った通りの意味。挫折を知った上で、どうするかを考えなさい」 「――もう諦めるのか、それともまた挑戦するのか。……いまの気持ちは、どっちなの?」 「もちろん、挑戦します」 「……だけど、悩んでる。どこから手を付けていいか悩んでる」 おねえさまの指摘が、胸に刺さる。 「ねぇ、アンジェリナ。そういうときこそ、初心に帰りなさい」 「初心に、ですか?」 「そうそう。あなた、スクールで会った頃は、がむしゃらだったでしょ?」 当時、お母さんが『先行投資だよ』と言って通わせてくれたスクール。 入ってすぐ、同じクラスのみんながずっと上に居ると知り、追いつこうと必死だった。 「別にあの頃と同じことを繰り返せ、と言うつもりはないの」 「ただ、いま自分に必要なモノが何であるかを見極めるのに、初心に帰ることが大切……って言いたいの」 ……いまの自分に、必要なモノ。 「チャンスって、色々あると思うわ。大きいモノから小さいモノまで」 「――そりゃ、誰だって大きい方が魅力的よ」 「だけど。手に入れても持て余し、最後に成果を放しちゃったら、もったいないじゃない?」 「……そうですね」 「私としては。少しずつ、着実に追いついてきて欲しいかな」 おねえさまの言葉をひとつひとつ噛みしめる。 足下がおぼつかないのに上だけ見ていたらダメなことぐらい、二年前のあたしでも知っていた。 でもいま、落選で崩れた自信を急いで取り戻そうとしている自分は―― 「(――まさに、足下がおざなりだったのね)」 「……むむっ。何かつまらないわ」 「はい?」 「ちょっと先輩風吹かせたら、シューンとしちゃって」 「そっ、そんな!あたし、おねえさまの話をじっくり聞いて、それで考えて……」 「あーん、もう!それがつまらないって言ってるのー」 「……お、おねえさま。落ち着いてください」 こういう子どもっぽいところも好きだけど、あまり公の場でそんな姿をさらすのはよくないと思う。 「(――どことなく、ワカバにも似てるかな)」 「これだから努力家の優等生は嫌ーい。賢いのも考えものね」 「それを言ったらおねえさまだって……」 「あたしがなぁに?両親が芸術家で英才教育受けたから、気にくわないの?」 「そんなこと言ってません!おねえさまはコツコツと努力して、いまの場所に辿り着いたんです!」 「…………うふふっ。ありがとう、フォローしてくれて。優しいのね、アンジェリナは。だから、好きよ」 「……おっ、おねえさま……」 突然の言葉に、あたしの思考が停止する。 「あらー、顔が赤いわー。どうしたのー?」 「……あたしのこと、嫌いとか好きとか……振り回さないでください!」 「うふふっ。ごめんなさい。いまは、気になる人が居るのよね」 「えっ?あたし、そんなこと言ってませんけど……」 「……あれ、私の勘違いかしら?ま、いいわ。忘れて」 おねえさまは、あたしから視線をそらし、カップを手にする。 「――それで、これからどうするつもりなの、あなたは?」 「……色々、悩んでますけど」 「具体的に、何か目標になるようなものとかないの?また次のオーディションが来るまで、ひとりで練習?」 「…………それも考えましたけど、いまは……あまり」 「他に何か、道が見えてきたりとか?」 そう言われて、ワカバの誘いが頭をよぎる。 「(――どうしよう……)」 あたしは少し考えてから、相談を持ちかけてみることにした。 「……面白そうね」 「本当にそう思ってますか?」 「えぇ、もちろん。モスグルンの演劇祭でしょ?楽しそう!やっばりお祭りっていうぐらいだから、《でみせ》〈出店〉とかもある?」 そっちの意味で『面白そう』……ですか。 「実際、おねえさまとしては、どう思いますか?」 「うん?そのお誘いがってこと?」 「はい」 私にとってプラスなのか、マイナスなのか。 「……私が誘われたわけじゃないから、答えられないわ」 「…………ぅ」 「だけど、ひとつのチャンスかもしれないわね」 「そう思いますか?」 「クリスティナに泣き、クリスティナに笑う。そんな自分でもいいと思うなら、候補に入れてもいいんじゃないかしら?」 ……結局、おねえさまは『どうしろ』とは言わなかった。 最後は自分で決めなさい、と言いたいのだろう。 「……さぁ!名残惜しいけど、そろそろ時間ね。私これから旦那様と約束があるの」 そういって、おねえさまは帽子をかぶった。 「旦那様って……ファビオ、さん」 「……えぇ。ちょっと前に派手に喧嘩して。どうしても会いたいって言うから、仕方なく」 おねえさまは『やれやれ』って顔してるけど、きっと本音は違うはず。 ファビオ・グレイといえば個性派として名高く、多忙な人。 お互い、スケジュールをすりあわせての再会だから、邪魔はできない。 「さて、と。それじゃ、支払いは……」 「…………あっ、あの、それは」 「今日は、アンジェリナのおごりで良かったのよね?」 「は、はい!」 「それじゃ、支払いよろしくね。悪いけど、私……先に行くわ」 「今日は、ありがとうございました!」 「うふふふっ、いいのよ。かわいい後輩のためだから」 そう言って立ち上がったおねえさまは、最後に一言、 「……次は、舞台の上で会いましょう」 と残して去っていった。 あたしは後ろ姿を見送りつつ、いつか一緒に歩きたいと思う。 「(――ううん、違う。横に並んで……追い抜くの)」 「……うふふっ。あの子ったら」 2年会わなかった間に、すごく変わった。 初めてアンジェリナに会ったのは、確か……私がスクールに特別講師で顔を出していたとき。 みんな真剣な表情で練習に取り組んでいた中で、ひとりだけズレた子が居たのに気付いた。 その子もマジメに取り組んでいるんだけど、何処か他の子と違う。 何となく目の端に入るようにしていたら、向こうもこちらに気付いて話しかけてきてくれた。 「『……あの、すごく初歩的な質問でも……いいですか?』」 恥ずかしそうに尋ねてきたアンジェリナ。 当時、他に相談できる人が居なかったらしく、一度答えてあげると次の日、また次の日と私のところへ。 あとで詳しく話を聞けば、スクールに通い始めて2ヶ月。 入学試験で演じた役が評価され、一番上のクラスに入ったものの―― 基礎を学んだことがなく、周囲の子たちを観察して何とかやってきた……と告白された。 目鼻立ち、声ともに良し。努力家で負けん気が強く、記憶力も抜群。 自己顕示欲も行きすぎない程度に持ち合わせており、他人を惹きつける魅力もある。 ただし、絶対的な経験のなさと情熱の空回りが、不安要素としていつも彼女につきまとっていた。 「……難しいわよね。何事においても、完璧はないし」 アンジェリナのようなタイプは、『アタリ』を引けば強い。 それこそ、一瞬にして『華』を手にするかもしれない。 ……が、実際にそうなったとき。もしも彼女に、自信を維持できるだけの経験がなかったら。 ただ『早咲きの華』として一時注目され、終わるだけ。 「(――私としても、そんな未来は見せたくないのよね)」 これから、アンジェリナがどうなるのか。 演劇界で彼女に注目しているのは、いま……私ぐらいかしら? 「うふふっ。楽しみよねー」 とりあえず、第一歩は踏み出せたみたいだし。 ……私も負けないように、頑張らないと。 なんて考えていたら、見覚えのある派手な車が真横に止まり、中から最近見てなかった《 ・ ・》〈人物〉が降りてきた。 「いゃあ、待ったかい?《 ・ ・ ・》〈麗しの〉マリオン!」 「……いきなりだけど、やる気失せそう」 アンジェリナとの楽しい時間の余韻が、一瞬にして台無し。 目の前に立つメガネうすらトンカチは、『個性派俳優』とか呼ばれてチヤホヤされているけど―― 私からしてみたら、役者バカの旦那でしかない。 「あーん。どうして私、この人と結婚したの?」 「それはもちろん、キミがプロポーズを受けてくれたから」 「……カンチガイシナイデ。私の心は、素で嘆いているの」 「まっ、まさか。そんな……ウソだろう?」 信じられないような目で見ても、状況は変わりません。 「あなたも役者なら、演技を見抜きなさいよ」 「うーん、そうか。寂しかったんだねぇー。だからそうやって私の気を引こうと……」 「へい、タクシー!」 「おぉ、何処へ行こうというんだい?車なら私のがそこに」 ……急に何処か遠くに行きたくなったの! 「怒らない、怒らないで!これは、神様がくれた奇跡ともいえる仲直りのチャンスなんだから」 「お互いスケジュールの合間を縫って、青の都で落ち合った。……だから、なに?」 「許しておくれよ、《 ・ ・ ・ ・》〈かわいい〉マリオン。怒った顔も素敵だが、できれば笑ってもらいたいんだ」 私は、勢いで止めたタクシーに笑顔で『ごめんなさい』をしてから、旦那にとっておきのスマイルをプレゼントする。 「怒ってなんかないわよ、私の旦那様」 「嬉しいなぁ、そう呼んでもらえると、心に羽根が生えるよ」 「うん。だって、名前で呼びたくないから」 「それはまだ、許してもらえてない……ということかな?」 「別に。許すとか許さないとか、そういうレベルじゃないの。……あなた、本当に分かってないわね!」 贅沢は言わないから、たったひとつのことに気づいて!どうして私と喧嘩をしたか、元を辿るだけで答えが出るの。 「ああぁ、待ってくれ、《 ・ ・ ・ ・》〈哀しげな〉マリオン!」 「くぅぅぅ、本当にこの人は……」 「街中でいちいち、『《 ・ ・ ・ ・》〈何とかの〉マリオン』とか呼ばないでって、何回言えば理解できるのよ!?」 全く、恥ずかしいったらありゃしない。 「いい?私たちは2ヶ月に渡る夫婦喧嘩の真っ最中なの!解る?解ったら、馴れ馴れしくしないで」 「しかしだな。それもこれも、今日で終わりにしようと……」 「ふーん。籍を抜いてもいいってことね?」 「……ち、違うぞ。断じて違う!キミとの離婚なんて、これっぽっちも考えたことはない」 「あら、そうでしたか。私の早とちり?」 「もちろんだよ、《 ・ ・ ・》〈愛しの〉マリ……おうぼっ!」 見えない角度からの右パンチ。 「全く。どうしてあなたは、演劇以外においては……こうも学習能力に欠けるのかしら」 「わかった。今回のことでよーく解った」 「……なにが、かしら?」 「キミが恥ずかしがり……やざんだがぼっ!」 真下からのアッパーカット! 「……もういい。私、本気で怒りました」 「ま、まさか実家へ帰るとか言い出さないよな?」 「えぇ、そんなこと言いません。ただ、ちょっと昔の人と仲良くするだけ」 「む、昔の人?そ、それは昔の知り合いとか、お友達とか?」 「うーん、告白されちゃったこともあるし……」 「な、なんと!そっ、それは一体どこの誰なんだい?」 「さぁねー、秘密よ。楽しみだなぁ、今度会うときが」 「マ、マリオン!」 私は旦那様をからかいながら、彼の車に乗り込む。 「(――少しは考えてもらわないとね)」 一筋なマジメさは買うけど、もう少しゆとりを持って欲しい。 「……さぁ、車を出して。旦那様が一番よかれと思う場所へ連れて行ってくれたら、考え直してあげるかも」 「ま、任せておきたまえ!それじゃあ、夕日が最高に綺麗なホテルに行って……」 「いまはお昼でしょ!よーく考えてから発言しなさい」 ……しばらく、ドライブも始まらなさそうだわ。 「(――おねえさまに会えて良かった……)」 それは、昨日の落選を帳消しにできるぐらい。いまのあたしは、過去ではなく未来に向かって頑張れる! 「……頑張れるといいな」 さすがに即気持ちを切り替えて、とはいかない。その準備ができつつある……と、いったところだ。 「(――でも、これからどうしようかしら?)」 ワカバの申し出も、一案として考えるべきなのだろうか? 「……あ、いけない。ワカバの買い物!」 彼女がお財布を貸してくれたおかげで、カフェの支払いも無事に終わった。 あのときお金がなかったら――すごく恥ずかしいことになっていたのだ。 あたしは文房具店で頼まれていたタイプライターのリボンを買い、家へと戻る。 「ただいまー!」 「マー!」 「……『マー』?」 変なかけ声に振り返れば、食堂にはココが居た。 「おかえ、りー、マー」 「うん、ただいま。……ところでその『マー』って、あたしのこと?」 「あいあい。そう、です」 「……何でかしら?」 「にてる、のー」 「……誰に?」 「…………さぁー?」 てっきり、その『マー』って言う人に似ているのかと思ったのに、違うらしい。 「ところで、ワカバは?」 「カバー?」 「う、うん。カ、カバー、ね。あははっ」 変な略し方でちょっと笑っちゃったけど、本人に見られてないわよね? 「ちょっと話があったんだけど……知らなそうね」 「しりま、せーん。あ、でもー」 「ん?」 「ファー、は、あっちー」 ……それは、誰?これは、翻訳家のセロが居ないと解らないかも。 「『……アン!戻ってきてるのかい?』」 「はーい、戻ってます!」 お母さんの声は庭からで、あたしは窓から下を覗く。 「何か用?」 「『あぁ、ちょうどいいところに居たね。ちょいと台所にあるハンマーを持ってきてくれるかい?』」 「……ハンマー?」 「『さっき台所の板に釘を打って、そのまま忘れちゃったのさ。今度は、物置の柱に使おうと思ってね』」 「……もう、人使い荒いんだから」 軽いモノだったら窓から落として……なんて横着できるけど、さすがにハンマーはまずい。 あたしは、カウンターに置かれていたハンマーを手に取り、ココにお別れを告げる。 「いってらっ、しゃーい」 そして、階段を下りて玄関を回って裏庭へ行こうとしたとき。 「アンジェリナ!」 正面からライトに声をかけられた。 「あら、ライト。どうしたの?」 「あっ、あのさぁ。それ、おばさんのところに運ぶんだろ?」 「えぇ、よく知ってるわね」 「ちょうど物置の前に居たんだ。よかったらオレが届けるよ」 「……いいの?」 「うん。任せてよ!」 靴を履き直す手間を考えたら、ライトに渡した方が楽。 「それじゃ、お願いね」 あたしはハンマーを渡し、そのまま家の中へ戻ろうとする。 「あ、待って!」 「ん?なぁに?」 呼び止められて振り返れば、ライトがモジモジしている。 「どうしたの?」 「あっ、あのね!訊きたいことがあるんだけど!」 「……なにかしら?」 「……そっ、その……アンジェリナには――」 「『アンー!ハンマーまだかーい?』」 もう、お母さんたら。ホントせっかちなんだから。 「いま行きまーす!」 条件反射で返事をしたけど、いまハンマーを持っているのはライト。 「悪いけど、それ……早く持って行ってくれる?」 「うん。あ、だけど――」 「訊きたいこと?どうぞ。でも、手短にね」 「わ、分かった。あのさ!アンジェリナには好きな人とか居るの?」 唐突な質問に、あたしの思考が一瞬止まる。 「(――好きな人?)」 「どうして、そんなこと訊きたいの?」 「そっ、それは……」 「『まだかーい?日が暮れちまうよー』」 「……ほら、早く答えて。お母さんが待ってるから!」 急かされたあたしは、思わずキツイ言い方をしてしまう。 「……そっ、その!もしも好きな人とか居ないなら、オレ……候補にしてよ!」 「…………ぇ」 「それじゃ、オレ……届けてくる!」 「待って!」 「……!?」 呼び止めてから、頭の中を整理する。 ……好きな人が居ないなら、候補に。 「(――ライトが言いたいのは、きっと……そういうことね)」 だけど、あたしはライトの気持ちに応えられない。 ……仮に、ライトじゃない他の誰かでも。 「(――だから、こう答えてあげるしかないの)」 「……ごめんなさい」 「……遅いなぁ」 僕はニコラさんから物置の掃除を頼まれていたのに、いつになっても相棒のライトが来ない。 昼過ぎに柱の補修をしたときは、ライトも居たらしいのに。 「……あ、リュリュ。この辺りで、ライトを見なかった?」 「さぁ?ぼくは見てませんけど。部屋に居るとか」 「そうなのかな?ありがとう」 一応部屋まで戻ってみるが、ココがひとりオモチャを持って遊んでいるだけだった。 「……ライトを見なかったかい?」 「ラーイー?さがす、の?」 「手伝ってくれる?」 「あーい、まかせ、てー」 ココは嬉しそうに両手を挙げて駆け寄ってくる。 「ただし、走り回ったりしないこと。あと、他の部屋を覗くときには、中の人に許可をもらってからね」 「あい。わかりまし、たー」 初めはふたりで隣の部屋から順番にノックしつつ、ドアが開いている場合はササッと覗く。 しかし、同じ階でライトの姿は発見できない。 「出かけるなら、一言ぐらいありそうだし」 それとも、ワカバやベルに伝言して遊びに行ったとか? 「……あ、ファー」 「どうしたの、ココちゃん?」 「あ、ちょうどいいところに。ライトを知らないかな?」 「ライト?この部屋に居ると思って来たんですけど……」 「……ベルも知らないのか」 「あの、ライトに何か変わったこととかありませんでした?」 「いや、特には。……昼過ぎに会ったときには、やたら元気が良かったぐらいかな」 「…………そう、ですか」 ベルが沈んだ表情をみせる。 「何か気になることでもあるの?」 「ある、のー?」 「あっ、大したことじゃないんです。じゃあ、ワタシはこれで」 少し慌てるような素振りからして、何か知っているのかもしれない。 「……かと言って、追求するのもなぁ」 まだ時間は夕方。これが深夜なら手分けしてでも探すことになるが…… 「……いいか。僕が先に掃除を始めて、のんびり待てば」 「ボ〜ク、も、てつだう?」 「そうだね。そうしてもらえると助かる」 力持ちのココなら、ライトの代役を充分に務められる。 「じゃあ、行こうか」 「……はい、ココ。これをお願い」 「あい、あい」 「それで、こっちは……リュリュに」 「はい、はい」 ちょうど階段ですれ違ったリュリュが、第三の助っ人として掃除に参加してくれることに。 物置にある荷物は大小様々で、手前から順に外へ出していく作業から始める。 「次は重いから……ココかな」 「まかせ、てー」 「ココって、すごいんだね」 リュリュは、ココが自分ぐらいの大きさの荷物をヒョイと持ち上げるのを見て、目を丸くしている。 「そうなんだ。見かけ以上に力持ちで、いつも助かってる」 「……ねぇ、ココ。どうしてそんなに力持ちさんなの?」 「……さぁー?」 小首を傾げたまま、ゆっくりと荷物を下ろすココ。そして立ち上がるときは逆に首を傾けて、 「なんでだ、ろー」 と悩んでみせる。 「あははっ。自分でも分からないんだ」 「ちなみに、僕にも分からない。きっと造った人だけが理由を知ってるんだと思うよ」 三人も揃ったおかげで、思っていたよりも早く荷物を出し終えることができた。 あとは、ほうきと雑巾で清掃……という段取りになる。 「掃き掃除は……誰がする?」 「あーい。ボ〜ク!」 「そうすると、雑巾担当は……」 「あい、あい。ボ〜ク」 「待って、ココ。ぼくたちの仕事がなくなっちゃう」 「そうそう。僕らがのんびりしてたら、ニコラさんに叱られる」 僕とリュリュが一緒にしゃがみ、働き者さんの顔を見る。 ……と、ココはポカーンと口を開けたあとで、 「……みんな、ボ〜ク」 万々歳といった感じで喜ぶ。 「ねぇ、セロ。こういうときはいつもどうするの?」 「うーん。普段はもう少し聞き分けがいいんだけど……」 立ち上がるふたりに、ココは指差しながら、 「ボ〜ク、ボ〜ク」 と言い、最後に満面の笑みで、 「ボ〜ク!」 「(――ん、これって……)」 ココは、全部ひとりでやると言い張ってるわけじゃなくて。 「分かったよ、リュリュ。ココが『ぼくぼく』言う理由が」 「……なんでなの?」 「リュリュは、自分のことを何て呼ぶ?」 「ぼく?ぼくは『ぼく』かなぁ?」 「ココも『ボ〜ク』で、この僕も『僕』ということ」 「……あぁ!それで、みんな『ボ〜ク』なんだね」 「あい、あい」 理解してもらえて嬉しいらしく、ココはご満悦でクルクルと回る。 「でも、よく分かったね」 「一緒に暮らしてるから、それとなーく伝わってくるんだ」 リュリュがココの頭を撫でているのを見て、ふと、ふたりが似ていることに気付く。 ココとリュリュ。 「(――名前も繰り返し系で、似てるな)」 もしもココが人間のように成長できるとしたら、リュリュみたいな感じの子になるのだろうか? 「どうかした?」 「……あ、うん。何となくココと見た目が似てるかも、って」 「そうなの?」 「そうな、のー?」 ココに真似されたリュリュは、笑いながら首を傾げる。 「どうなんだろう?そういうの、自分じゃ分からないから」 「そう、そう」 「あーっ、本当に分かって言ってるの?」 「んーん」 ふたりは、息のあったコンビのように会話をして、僕を楽しませてくれる。 リュリュみたいなタイプは、きっとこの孤児院でも他の人を和ませる役なのだろう。 「……あー、ラーイー」 「えっ?」 「…………ぁぁ」 ココが手を振る方向を見てみれば、うなだれたライトが突っ立っている。 一瞬、あまりの元気のなさにライトだと思えなかったぐらい。 「どうしたんだ、ライト?物置の掃除なら、これからだから……こっちにおいでよ」 「…………ごめん。いま、オレ……そんな気分じゃないんだ」 「ラーイー?」 「どうしたの、ライトくん?」 「……オレに構わないで、楽しくやってよ」 大きなため息でトボトボと歩き出したライトは、そのまま家の外へ。 明らかに様子がおかしい。 「ねぇ、セロ。物置の掃除は、ぼくとココでやっておくよ。だから、行ってあげて」 「あげ、てー」 僕は無言で頷き、ライトを追いかけた。 「おーい、ライト」 「ついてこないでいいよ……」 「なぁ、待てよ」 ライトは川沿いに歩き、僕が追いつこうと脚を速めれば、それと同じだけスピードを上げる。 「ライト!」 「いいから、ついてこないでくれよぉ!」 そう言ってライトは、橋の《らんかん》〈欄干〉をヒョイっとまたぐ。 僕もまたごうかと思ったが、それ以上ライトが動くことなくしゃがんだので、そこで足を止めた。 「一体、どうしたんだよ?」 「……何でもないよぉ……」 「……本当に?」 「……何でもないって……言ってん、じゃん、か……」 声のかけづらい状況に、僕は鼻の頭をかく。ライトは、口をへの字にして……必死に涙を堪えている。 「(――こんなときは、黙っていた方がいいんだろうな……)」 「……うぅぅぅ……」 「…………」 「……うっうっぅぅ……」 僕はライトが落ち着くまで待とうと思ったが、どうにも…… 「なぁ、ライト。何があったか、言いたくないならそれでもいいけど」 「――僕で力になれることなら、相談に乗るよ?」 「……うぅぅ。もう、いいんだ。終わったんだから……」 「…………ワカバと、喧嘩でもしたのかい?」 「違うやい!ねーちゃんとの喧嘩なら、別に、別に……」 ライトの嗚咽が続く。 「…………セロにーちゃん……」 「ん?」 「……セロにーちゃんは、誰かに……フラれたこと、ある?」 「…………まだ、誰にも告白したことないから、ないんだ」 「……いいなぁ。オレ、オレ……フラれちゃったんだ……」 「…………ライト……」 返す言葉もない。 「でも、オレ……フラれたことより、フラれたことより……」 「……『好きだ』って言ったときのアンジェリナの困った顔を見て、オレ、バカしたなぁ……って気づいて」 「あんなこと言っちゃって、ギクシャクしちゃって、せっかくねーちゃんが、お姫様の役に誘ってるのに……」 「これでアンジェリナが引き受けてくれなかったら、オレのせいなんだよ……」 「……考えすぎだよ」 こんなときは、そんなこと考えなくてもいいのに。 「……大丈夫だよ、ライト。彼女は、それぐらいのことで……」 「それぐらいとか言うなぁー。うわぁぁぁーん」 「……ご、ごめん……」 言葉選びに失敗し、僕としても立場がない。 「……ウゥゥゥ……ちっくしょう!涙とまんねー」 「……ハンカチ、持ってるかい?」 「もっでねーぇ!」 「……ほら、これ」 「いらねー、いらねぇーよ。こんなん、ゴシゴシこすりゃ……」 やがてライトは少し落ち着きを取り戻したところで、それとなく声をかけてみる。 「……なぁ、ライト。たぶん、彼女は戸惑ったんだと思うよ」 「…………」 「会って間もない年下の子から突然告白されたら、誰だってビックリすると思わないか?」 「年下だからダメなのか?」 「…………いや、年上でもダメそうだね」 こんな相談受けたことがないので、どう進めてよいものやら。 「とにかく、ライトが思っているほど深刻じゃないかもな」 「…………ホントに?」 「あぁ。別に、『嫌い』って言われたわけじゃないよな?」 もし言われていたら、フォローのしようがないけど…… 「……『ごめんなさい』って言われただけだよ」 「……そうか」 ふと顔をあげれば、孤児院の玄関先辺りでキョロキョロするアンジェリナらしき姿を発見。 「ちょっと待ってて。すぐ戻るよ」 僕はアンジェリナの元により、それとなく様子をうかがってみる。 「あっ、セロ!あのね、ライト知らない?リュリュに訊いたら、セロが……」 「あぁ、大丈夫。向こうに居るから」 「そ、そう。てっきり、何処かに行っちゃったかと思って」 「……心配してくれたんだ」 「う、うん。だって、その……あたしが……その……」 「いま、その話を聞いたから、だいたいのことは分かる」 「……ごめんなさい。突然のことだったから、ビックリで。ちゃんと説明してあげられたら良かったんだけど……」 「……ひとつだけ訊きたいんだけど、いいかな?」 「なに?」 「別に、ライトのことを『嫌い』ってわけじゃないんだよね?」 「もちろんよ!ただ、あたしは……」 何か言いづらいことらしく、アンジェリナは下唇を噛んで黙ってしまう。 「もし良かったら、ライトに一声かけてくれると助かるよ。僕が間に入って伝言するよりも、その方がいいと思うんだ」 「……分かったわ」 アンジェリナが、ライトのところに行って10分ほどした頃。 どうやら話は終ったらしく、アンジェリナが先にひとりで戻ってくる。 「……どうだった?」 「……うん。あたしなりに説明して、納得してもらえたわ」 「そうか。それは良かった」 「悪いけど、あとのことは頼んでもいいかしら?」 「うん、任せて」 アンジェリナが家の中に入り、しばらくしてライトが来る。 その顔はどことなくバツが悪そうだったが、先ほどのように落ち込んでいる印象は薄い。 「お帰り」 「た、ただいま。あのね、セロにーちゃん」 「ん?なんだい?」 「オレ、フラれちゃったけど、仕方ないって分かったんだ。詳しくは言えないんだけど、少し理解できたから。それに――」 「それに?」 「……『好き』って言われちゃった。でへへっ」 やっと笑顔を見せてくれたライトは、両腕をブンブンと回しながら家の中へと入っていく。 「ゴーゴー、ネッコ王子ー♪ へっこたれずに、突き進めー!」 「……ふーっ。まぁ、何とかなったか」 一体、アンジェリナが何と言ってライトを納得させたかは謎。 でも、波風も無事に収まったようなので、これで良しとしておくことにした。 「(――ね、眠れないわ……)」 どうして、こんなことになっちゃったのかしら? 私たちが泊めてもらっているのは大部屋で、ダブルベッドがふたつ……ピッタリと並べられている。 ニコラさんの説明は、『子どもたちが並んで寝られるように』とのことで、それは理解できるの。 でもね―― 「(――これって、どうなのよ?)」 そりゃ、この旅行でセロと相部屋になったらいいな……とか、ちょっぴり考えてたわよ。 でもでも、本当にそんなことになるってどうなの? それに、まさかこんな至近距離――溝はあるけど、陸続きのベッドになるなんて。 「(――困ったなぁ)」 昨日の夜は、私、ライト、ココ、セロの並びで寝てたから、それほど意識せずに済んだ。 だけど今夜は……ライトがトイレに立って、戻ってきたと思ったら、私のことを中央に押しやって。 ……まぁ、『ココが隣ならいいかな?』とか思っていたら、隣に居るの『セロ』じゃない! 「……どうするのよ、この状況……」 「んむゃむゃ。ねーちゃん、ごめんなぁ……」 「(――バカっ、なに寝言で謝ってるのよっ!)」 腹いせに、目の前にあるライトの鼻を軽くつまんでやる! 「……ふんが、ふんが」 そんなことしても、あとが空しいだけ。背後の存在が、気になって仕方ない。 「…………すぅ、すぅ……」 「……あぅ。私の気も知らないで、普通に寝てるし……」 少しぐらい、意識してくれてもいいじゃない。 だいたい、セロって鈍感なのよね。 これで私が振り返っても、そのままのはず。絶対にそう! よし、試してやろう! ……と思ったけど、万が一にも向こうが起きて、目と目が合っちゃったりしたら大変だからやめた。 「……私、どうすればいいの?」 「カバー、ドーン!」 「……ひゃっ!?」 「ふにぃ、ふにぃ……」 「……ううぅぅ。ココまで寝言で私をいじめるのね」 もういい、もういいわ。こうなったら、意地でも寝てやるんだから! 「……ダメ。もーう限界」 目を閉じると、色んなことが頭の中を駆けめぐってしまう。セロの存在がある限り、絶対に朝まで眠れない。 「(――どうせ眠れないなら!)」 他のみんなを起こさないようベッドから離れ、静かに服を着て部屋を出た。 「……うーん、いい風ね」 頭を冷やすには充分。だけど、これで部屋に戻ったら……また同じ。 それならいっそ、ベルの個室に押しかけちゃうってのもアリかも。 私も身体ちっちゃい方だから、シングルでもふたりぐらい平気かな、とか思ったりした。 「……でも、さすがに悪いわよね」 アンの部屋の方が、もう少し可能性があるかもしれない。 とにかく!大部屋に戻っても私の居場所はないの。 「……ん?ライトを真ん中に押し込めばいいのか」 私、焦りすぎでそんなことにも気付かなかったなんて。そうと分かれば、実行あるのみ! 「……ワカバ」 「……ひゃぁ!?だ、誰!?」 なんで今夜に限って、みんな私のことを呼ぶの!? 「あたしよ。アンジェリナ」 「お、脅かさないでよ。心臓が止まるかと思ったじゃない!」 私は2、3度深呼吸をして気持ちを落ち着ける。 「……結構、気が小さいのね」 「そ、そんなことないわよっ!」 誰だって、いきなりは慌てるでしょ? 「……それで、こんなところで何してるの?」 「アンジェリナこそ、何してんのよ?夜のお散歩?」 「そんなところよ……って言いたいけど、違うわ」 アンジェリナは、小さく笑って私を見る。 「窓からあなたの姿を見つけたから、驚かそうと思って」 ……何のことはない。意地が悪いだけだった。 「ウソよ、ウソ。……夕方、色々あってお財布返したときに話しそびれたことがあってね」 確かに、あのときは『ありがと』の一言とタイプライターのリボンを受け取って終わりだったけど。 アンジェリナが私に話があるとしたら―― 「ははーん!あたしの劇に出たくなったのね?」 「……さぁ、どうかしら?」 軽いノリで言ってみたのに、案外反応は良好だ。 これは、このままクリスティナをガッチリとゲットできる! 「……いいのよ、アン。お姫様、やりたくなったんでしょ?」 「…………ふぅ」 あれれ?結構、クールな反応ね。 「ねぇ、ワカバ。ひとつ言いたかったことがあるの」 「なにかしら?」 「あなた、根はいい人よ。嫌いじゃないわ」 「うんうん」 私、いい人だから、いまの『根』は聞き流してあげる。 「……だけど、その横柄な態度だけはダメ。人にモノを頼むなら、それなりの礼を尽くしなさい」 「……アン……」 ショックだった。 お母さんにも『口の利き方がなってない』と怒られることが多いけど、他人からズバリ言われたのは初めて。 「……分かってる、分かってるわ」 「そう。分かってくれれば、それでいいのよ」 ここは我慢しなきゃ。アンジェリナは真っ向意見してくれたのだから、私が大人になって―― 「……あと、台本とか演技に関して知りたいことがあったら、気兼ねなく訊いて」 「は、はい」 「たぶん、ワカバは我流で文章を書いていると思うから、台詞の言い回しとかもチェック必要だろうし……」 「……む……」 「他にも何かあったら助言するわ。素人じゃないから、色々な場面で役に立つと思うの」 「……そ、そうね」 「良かったわね、ワカバ。あたしに会えて。あたしも――」 「し、しし、しゃーらっぷ!」 もうダメ、完全にカッチーンきたわ! 「ワ、ワカバ?」 「言いたい放題もそこまでよ、アン……」 「……な、なんですって?」 「何よ何よ!少し演劇の経験があるからってお高く止まって!どーせ私のこと、素人脚本家だと思ってるんでしょ!」 「あ、あたしはお高くなんてないわっ!それに、素人なんて言ったりしてないわよ」 「言いました、言いましたー!さっき、『素人』って」 「それは、『あたしが素人じゃない』っていう意味でしょ?」 「ほらーっ!それがお高いのっ!」 鼻息荒く言い切って顔をあげれば、そこにはアンジェリナの哀しそうな顔があった。 「(――あっ、私……また、やっちゃったの?)」 最近注意していたつもりだのに、ついカッとなってしまった。 「……ごめん。少し考え直させて」 「あ、あぁ……あぅ……」 別に、ワカバひとりを責めるつもりはない。 あたしも調子に乗って、よけいなことを口にしてしまった。 きっかけがどちらにあろうと、今回はふたりの失敗だ。 「(――だけど、これでひとつ分かったわ)」 誘いを受けて演劇祭に参加した場合、あたしとワカバは必ずいつか衝突する。 でも、そんなぶつかり合いを恐れていたら、何も始まらないのも確か。 「(――どうしようかな?)」 肩を落として先に戻ったワカバは、さすがに自分の部屋へと戻っただろう。 あたしは、ゆっくりと音を立てないように家の中へ戻ろうとする。 ……と。 「アンジェリナさん」 ちょうど階段を下りて玄関に辿り着いたベルと出会った。 「今夜は、みんな外に出たがるのね。あなたも散歩?」 「いいえ。ワタシはさっきのふたりの声を聴いて起きました」 「…………ごめんなさい」 気をつけていたつもりが、口喧嘩で我を忘れていた。 「いえ、それは気にしないでください。今日は眠りが浅かったので、声がしなくても起きたと思います」 ベルはあたしを見たまま、動こうとしない。 「何か、あたしに用かしら?」 「……はい。少し、相談したいことがあります」 まっすぐに見つめられると、断るわけにもいかない。 「いいわ。だったら、あたしの部屋で話しましょう」 「『……ねぇ、どうしたらいいと思う?』」 「『――うーん。その場に居たわけじゃないから、状況が分からないし……』」 「『だからね、ワタシがアンを怒らせちゃったの』」 「(――困ったわね)」 廊下に面した食堂から、セロとワカバの声が聞こえてくる。 まさか、こんなところで相談をしているとは思わなかった。 「『それで、ワカバはどうしたいの?』」 「『……そりゃもちろん、仲直りしたいわよ』」 「『もしも彼女が、演劇に参加しないと言っても?』」 「『それは……哀しいけど、仕方ないわ。私がいけないもん』」 「(――やっぱり、ワカバは……『根がいい人』なのね)」 「……あの、アンジェリナさん。どうします?」 「ごめんなさい。《そばみみ》〈側耳〉ってあんまり良くないわね」 「…………ぁ……はい」 食堂のふたりが話し終わって出てくる可能性もあるので、ここはひとまず自室を諦めて元の玄関先へ。 改めて外の空気を吸い、ベルの話を聴くことにする。 「――相談は、演劇についてです。前にもお話ししたように、ワタシは人前で唄が歌えません」 「だから、もしワタシが参加するなら、それを克服しないといけません」 「……でも、その方法が見つかるかどうかも分からないんです」 ベルは思い詰めたような顔で言葉を続ける。 「ワカバに誘われてから、ずっと考えてました。受けるか、断るかを」 「アンジェリナさんは、どっちがいいと思いますか?」 あたしはそんな質問をされて、お昼のことを思い出す。おねえさまは、あたしに選ぶよう勧めた。 「……残念だけど、それは自分で決めるしかないと思うわ」 そしてあたしも、ベルに同じことを言う。 「…………」 「(――でも、あたしと悩みの質が違うわね)」 あたしには、それなりに見えている目標がある。 だけどベルには……まだ目標となるモノは見えてない。 「いいわ。あたしの質問に答えて。まず、あなたは唄が好き?」 「……はい」 「その唄を誰かに聴かせたいと思う?」 「……聴いてもらったことがないので、よく分かりません」 「…………じゃあ、もし。聴いた人があなたの唄をもう一度聴きたいと言ったら?」 「……え?」 「仮の話。聴きたいと願う人が居たとき、あなたはその人に唄を聴かせてあげたいと思う?」 「…………はい。ワタシの唄で良ければ」 彼女の答えに、あたしはホッとする。 「あのね。あたし、あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」 「……アンジェリナさんが、ですか?」 「うん。だけど、ここじゃなくて、ある場所で謝りたいの。……悪いけど少しだけ、夜の散歩に付き合ってくれる?」 あたしがベルを案内する場所。それは―― 「ここは……」 「ここは、昼間にあたしがよく演劇の練習をしている場所」 裏通りにある、小さな噴水がある人気のない空間を指差し、ベルの表情を見る。 「もしかして、アンジェリナさん……」 「……気付いたみたいね」 あたしは改めてベルの前に立ち、 「あの日もあたしは、練習をしようと思ってやってきたの。……そして、あなたの唄を聴いてしまった」 と告白する。 「……そう、だったんですか」 「黙って聴いてしまって、ごめんなさい」 「そんな、謝らないでください。ワタシが誰も居ないと思って歌ってみただけなんです。それに――」 「謝るのはワタシの方です。アンジェリナさんの練習場所を勝手に……」 「いいのよ。ここは誰の場所でもないの。それを言ったら、あたしも勝手に使っているわけだし」 いまは夜。……昼間とは違った舞台が目の前にある。 「あなた、踊りできる?」 「……村祭りでの踊りぐらいです」 「それで充分。手を貸してもらえる?そう、右手はここに」 あたしは彼女の身体を引き寄せ、静かにダンスのステップを踏む。 「右、右……そう、そのリズムよ」 「あっ、あっ、ごめんなさい。ワタシ、足を踏みました」 「うふふっ。言われなくても分かるわ。いま踊っているのは、あなたとあたしの……ふたりだけよ」 「あ、で、でも、また……」 「……平気、少しぐらい踏まれたって。それより、あたしの顔を見て」 「…………はい」 「そう、いい感じね。あたしのリードに任せて」 ゆっくり、ゆっくりと踊る、あたしたち。そして、どちらからともなくステップを止めたとき。 「アンジェリナさんは、ワタシの唄……聴きたいですか?」 そんな質問がくると予感していたあたしは、黙って頷く。 「…………いまは、まだ歌えるとは思えません。だけど、ワタシは……アンジェリナさんのために頑張ってみます」 「ありがとう。でも、あなたの唄を待っているのは……あたしだけじゃないわ」 「……え?」 「忘れないであげて。ワカバのこと」 「…………はい」 演劇に参加するかしないか、決めるのはベル自身。 ……だけど、待っている人が居ることに気付かず諦められてしまったら、それは哀しいお話になる。 「ワタシが歌えば、お芝居……できますか?」 「分からないわ。だけど――」 ベルに決めさせるつもりでも、あたしは逃したくない一心で言葉を続ける。 「――あなたが居ないと、お芝居は始まらないと思うの」 ……それが、ずるいことも承知の上で。 「……アンジェリナさんは、ワカバの劇に参加しますか?」 「…………そうね。どちらがいいと思う?」 あたしの質問にベルは、 「それは、アンジェリナさんが決めることです」 と答えつつ、 「でも、できれば……アンジェリナさんの側に立ちたいです」 などと、逃げられなくなる言葉をくれた。 「(――ま、お互い様ね……)」 まずは、ワカバに謝ることから始めないといけない。 それと、色々な問題も片付ける必要がある。 「あたしの場合は、それから……ね」 「何がですか?」 「……ううん、何でもないの」 空を見上げ、ふたりを照らす月に目を細める。 いまは三日月で弱い光だけど、いつかきっと満月にも近いスポットライトの下で―― あたしは静かに歌い始めたベルの声に合わせ、ふたりだけの時間を踊り続けた。 昨日の夜、僕は突然ワカバに叩き起こされ、アンジェリナと喧嘩してしまったと聞かされた。 そして、それは『どうしたら仲直りできるか?』の相談へと発展。 食堂談義は、ニコラさんに見つかるまで続いて、部屋へと戻った頃には空がちょっぴり明るくなっていた。 ……おかげで今朝は、眠くて眠くて仕方がない。 「セロっ!聞いて聞いて!」 僕と変わらない睡眠時間のはずなのに、どうしてワカバにはこれだけの活力があるのかが知りたい。 「……んー、どうしたの?」 「えっとね、いい話といい話の2つがあるのっ!どっちから聞きたい?」 ここで『どっちでも』とか言おうものなら、ワカバの機嫌は急降下するだろう。 「……それなら、ひとつ目の話で」 一応、順番通りに聞くのが筋ということで。 「……それなら、ふたつ目の話で」 わざわざ『どっち?』と訊かれたのだから、後者を選ぼう。 「ま、どっちでもあんまり変わらないから、アンジェリナのことから!」 ……ごめん。先に、選ばされた意味を教えて欲しい。 「……どっちでも好きな方からで」 眠い目をこすりつつ、僕は抗議の意味を込めてそう答える。 「つまんなーい!もう少し乗ってくれてもいいでしょ?」 「……乗ってあげたいのは山々だけど、睡眠不足で頭が働かないんだ」 「……あ、ご、ごめん……」 原因が自分にあると理解した彼女は、拗ねつつも謝ってくる。 僕としても解ってもらえればそれでいいので、 「それで、いい話ってなにかな?」 と話題を元に戻す。 「……あのねっ。ひとつ目は、アンジェリナのこと!」 「……仲直りできたの?」 「そうなのー!……って、なんでセロが言っちゃうのよっ!」 「ごめん。ついうっかり。それで演劇に参加してくれるって?」 言い切ったあとで、僕は気づく。 それが『ふたつ目のいい話』の可能性があったことに! 「(――失敗したぁ!)」 またどやされるかと思い、首をすくめて待つ。 でも、それに対してワカバは、 「……そっちは『保留』って言われちゃった」 と、寂しそうに答えた。 「…………そうだったんだ」 予想が外れて、良かったのか、悪かったのか。 とにかく、これ以上落ち込まれる前に次を促すことにした。 「ふたつ目のいい話は……うん、セロがもう言っちゃったか」 「えっ?」 「ベルがね、『演劇に参加してくれる』って!」 「……良かったじゃないか!」 「……うん!」 「だけど、急に今朝になってOKくれたんだよね?それとも、ワカバが水面下で粘り強く交渉してた成果とか?」 「ううん。初めはそのつもりだったんだけど、青の都に着いてからは一度もしてないかな?」 「――そうか。そうすると……考えに考えた末とかかな?」 「うーん、とりあえず結果オーライね!」 それは、とてもワカバらしい締めの言葉だった。 「お邪魔しまーす!」 「どうぞ。良かったらベッドにでも座って」 「とーう!」 元気が売りの料理長ことパウラは、あたしがベッドを勧めた瞬間にジャンプ。 派手な音を立てて、大きな座席をひとりで占領する。 「えっへへーっ!何か、すごく新鮮ー!」 「もーう、下の子が文句言ってくるわよ?」 「大丈夫よー。アンねぇさんに逆らう子なんて居ないわ」 「……居るとしたら、あなたぐらい?」 「あちゃー、見逃してっ!」 歳は離れているけど、パウラは物怖じしない妹で。 自分にしっかり意見があるときは、あたしやお母さん相手にとことんまで勝負を挑んでくる。 「だけどさぁ。どうして急に、部屋に誘ってくれたの?」 「……うーん。話せば長くなるかも。それでもいい?」 「ZZzzz……」 「こら、寝るなっ!」 こんな風にふざけ合うのも、久し振り。 最近のあたしはバイトと演劇の練習に明け暮れて、家の子と触れ合う機会も激減していた。 「いったーい。アンねぇさんが本気で叩いたー!」 「はいはい、そろそろ本題に入るから……」 あたしは、面倒なことは抜きにしてストレートな質問をする。 「あなた、そろそろ一人部屋が欲しいって言ってたわよね?」 「そうなの。同じ部屋に、小さいとはいえ男の子居るでしょ?私もそろそろ年頃だから、ひとりの部屋がいいなーって」 「――だけど、個人用なんて、3つしかないじゃない?」 パウラの言う3つとは、お母さん、あたし、リュリュの部屋。 「……そう考えると、改築でもしない限りは当分無理よねー」 以前より何度か『子ども投票』でトップに上がる要望だが、残念なことに永遠の《 ・ ・》〈希望〉で終わっている。 「……それだったら、あたしの部屋に予約入れる?」 「えーっ、いいの!?ホント!?」 「うん。ただし首尾良くこの部屋を手に入れたら、あなたにも……『あの条件』がつくわよ」 「もっち、それは覚悟の上よ!」 彼女はドーンと胸を叩き、 「働くのは嫌いじゃないから、アルバイト上等!」 と言い放つ。 「あー、でも、あれ。頭脳労働とかパスしたい。身体動かす仕事がいいなー」 「さすが、料理担当ね。あ、そうだ!それでひとつ、相談があるの」 「ん、なにナニ何?」 もしもパウラが引き受けてくれるなら、あたしの懸念材料がひとつ減ることになる。 「『……あのね、お母さん。折り入って話したいことがあるの』」 アルバイトから戻ってきたアンが、挨拶もそこそこにそんなことを言ってきた。 他の誰かが来ないかを気にし、らしくもないぐらい緊張した面持ち。 そんな姿を見れば、どんな話題がくるか想像がつく。 「(――あれはもう、私の経験としかいいようがないね)」 だから、何の準備もなしに話せるもんじゃないと考え、 「『悪いけどいまは忙しいんだよ。夜にしとくれ』」 ほんの少しだけ先送りにした。 本当は、その場で話を聴いてやれば良かったのかもしれない。 が、アンの場合にはいくつかの事情が重なる。 それらを解決するには、準備する時間が必要だったのだ。 「……それにしても、あの子も大きくなったねぇ」 この家に来る子たちには、それぞれの生い立ちがある。 早くに父母を亡くした子も居れば、問題のある親の元から逃げ出してきた子も居る。 どんな子であろうと、私が育てると決めたからには私の子。 責任を持って面倒を見、大人として社会に送り出す。 亭主と別れ、息子に家を飛び出された私でも、何かできると信じて続けてきたこと。 ……それはこれまで通り、これからも《 や》〈止〉めるつもりはない。 「……だけど、アンはある意味で《 ・ ・》〈節目〉かもしれないね」 どうして……って説明できるわけじゃないが、そんな気がしてならない。 あの子が持つ将来の夢は、ぜひとも実現させてもらいたい。 ……それが、いつになるかは分からないとしても。 「さぁ、アンのためにも、面倒はいまのうちに終わらせとくか」 「……さて、と。昼間の話の続きをしようかね」 「うん」 晩ご飯も終わり、子どもたちはみな部屋に戻っていった。 今日のあたしは、『お母さんにどう話を切り出すべきか』と『どう説明するか』をずっと考えていた。 結局、出てきた答えは『なるようになる』の一言。 どれだけ悩もうとも、自分の中での決意を実行に移すために必要なことはやらねばならない。 それでダメだと言われたら、そのとき考えればいいのだ。 「あー、アンねぇさん!お昼の話だけど……」 「悪いねぇ、パウラ。ちょっとアンは借りていくよ」 台所からの声にお母さんが笑って答え、あたしは別の場所に誘導される。 そこは雨の日、小さい子たちが集まって遊ぶお遊戯の部屋。 あたしは隅にあるピアノに近づいて、しみじみと眺める。 「懐かしいかい、それが」 「そりゃ、あたしがお母さんと派手に喧嘩した思い出ですから」 「ふん。あれからしばらく、みんなから『お姉ちゃん万歳!』って言われて鼻が高かったろ?」 「そんなこと……ないわよ」 あれはもう、5年も前のことか。 子どもたちの間で『遊戯室にピアノが欲しい』と声が上がり、いつもの投票の際にそれが一位をとった。 しかし、その頃のお母さんは願いを聞き入れてくれず、反対するばかり。 誰がまともにピアノを弾けるんだい?ただでさえ近所からうるさいと言われるのに?買ったはいいけど、埃をかぶるんじゃないの? ……そんな言葉を聴いて、あたしはみんなを前にお母さんとやりあってしまった。 「『あたしが何とかする!』」 いま思えば、全く質問に合わない答えからのスタート。 ピアノはオモチャの鍵盤で練習し、どこで遊ぶにも意識して声は小さく。 買ってもらったら毎週どれぐらい使うかの日程表まで書いた。 そして、それらをお母さんにアピールし続け、やっと買ってもらえたのは―― 「……予想していたのより、小振りのピアノ」 「なんだ?いまでもまだ不服なのかい?」 「ううん。そんなことないわよ」 あたしたちは、嬉しかった。 街のお店で眺めた、どんなピアノよりも素敵だった。 「……買うの、大変だったでしょ?」 「さぁね、忘れたよ」 「この部屋も、防音にしたのよね?」 「そうだったかもしれないね」 ……お母さんは、いつもこうやってはぐらかす。子どもたちのことを考え、子どもたちのために無理をする。 でも、そんな部分はサラリと流し、憎まれ口を叩いて笑う。 あたしは、そんなお母さんが好きだ。 「それで、話ってなんだい?お金持ちのいい人でも見つけたから、将来は安泰になりました……の報告かい?」 「……違うわ」 どちらかと言えば、その対極。 「あたしね、舞台女優になろうと思うの」 「……なにをいまさら。そんなのあれだけ反対したんだから、充分知ってるよ」 「……うん。だけど、今日の宣言は違うの」 「へぇ、どう違うんだい?」 「…………あたしは女優になるために、この家を出るの」 もっとうまく説明するつもりでいたのに、結論を先に言ってしまったあたし。 お母さんは、そんなあたしを一瞥して、 「……ふーん」 と呟く。 「別に一人暮らしがしたい、ってわけでもなさそうだね」 「当たり前でしょ。あたしはこの家が好きなんだから!」 「じゃあ、ずっと居るがいいさ」 「それはダメ。兄さんや姉さんたちと同じように、あたしも自立する必要があるのよ」 「……立派な心がけだ。それなら、私も準備してきた甲斐があるってもんさ」 「……?」 「気にせず続きをお話しよ。それで、具体的にどうするのさ?」 まずあたしは、ワカバたちがモスグルンで開かれる演劇祭に参加する予定であることを話す。 そして、そのメンバーのひとりとして自分が誘われたことを付け加える。 「ふーん。それで、ワカバたちの旅に同行するわけかい」 「うん。旅費は、あたしが貯めたお小遣いでギリギリ何とか」 「へぇ、ずいぶんと持ってそうだね。知らなかったよ」 「お母さんに言われたとおり、無駄遣いしないで貯めたから」 それから、具体的な部分――まだ役者が全て揃ってないこと、ワカバの脚本が完成してないことも報告する。 「ずいぶんとドタバタだねぇ。それまでのアンの生活費は?」 「それは、ワカバが特別に『出演費』という項目で捻出してくれると言ってくれたの」 「ずいぶんと、ボランティアにも近いデビューだね」 「何であれ、まずは舞台に立ちたいの。あたしに足りないのは経験で、それを積まないことには……」 「あー、わかった。わかった。難しい話はいいよ。アンタがそうするって決めたなら、私は反対しないさ」 お母さんは手にしたグラスを揺らしながら、二、三度頷く。 「……自分からいっておいて何だけど、本当にいいの?」 「アンに始まったことじゃないさ。子どもたちはみんな、ある日突然、同じようなことを言うのさ」 「――それで、いつ出発するんだい?」 「明日か、明後日には」 「そりゃまた、えらい急な話だね。そうすると、肉屋さんのバイトは?いきなり抜けたりしたら向こうが大変だろ?」 「……代わりの人材を見つけてあるの」 「手回しがいいねぇ」 「…………パウラよ」 「こりゃまたビックリだね。だからあの子に自分の部屋を……ってことだね?」 「そうよ」 「……って、何でお母さんそれを知ってるの?」 あたしはまだ、そのことを報告してないはずなのに。 「おっと、口が滑ったね。……ま、タネ明かしするとねぇ。あらかた裏はとってあるんだよ、ワカバにも、パウラにも」 「ええぇぇっ!?」 「……私を誰だと思ってるのさ?」 「じゃあ、ここまでの話は?みんな知ってて聴いてたの!?」 「あぁ、そうなるね。アンが嘘いつわりなく報告してるのがよーく分かったよ」 ……まさか、そんなことになっているとは思いもしなかった。 「そうでもなきゃ、いま言われて『はい、そうですか』って納得できるわけないだろう?」 お母さんはゆっくりと立ち上がり、小さなため息で笑う。 「まぁ、話があんまりにも急だからさ。せん別もロクに用意できなかったけど、許しておくれ」 「そんなの、気にしないで。謝らなきゃいけないのは……」 うつむく私の目の前に、お母さんから何かが差し出される。 「これは?」 銀行の通帳? 「アンがこれまでアルバイトで稼いだお金が、それだよ」 「あたしって、結構働いたんだね」 毎月毎月、お母さんに渡した額がそのまま記入されている。 「ま、本当はそこから渡した分のお小遣いを抜くのが決まりなんだけど、今回はそれはサービスさ。持っておゆき」 「えっ!?そんな、このお金は家に入れたモノだから……」 「そうだね。そして、うちの子が家を出るときには、それを渡すことにしてるんだ。上の子たちも、みんなそうしてきた」 「――自立するんだろ、これから?」 「そのための準備を自分でさせられていた……ってことさ」 「……お母さん……」 内実はどうであれ、一度は家に入れたお金。 孤児院の運営も、国の補助だけじゃ大変なのは知っている。 それなのに、お母さんはこうして―― 「あら、湿っぽいのは勘弁だよ。ここはひとつ、サラッと軽いお礼でも言ってもらっときな」 「ありがとう、お母さん。このお金は大切に使います」 軽くなんて言えない。この通帳には、それだけの重みがある。 「……しかし、なんだねぇ。あんたがお姫様役って聴いたけど、大丈夫かい?」 「どういう意味?」 「だって、どう考えたってお姫様は、自分のことを『あたし』とか言ったりしないだろ?」 「平気だって。台本通りに演じるのが決まり。舞台の上では、あたしはお姫様なんですから」 「ふふふっ」 「何がおかしいの?」 「いや。アンが『あたし』って自分を呼ぶようになったのは、この私のせいだったなぁ、と思い出してさ」 「そうだったの?」 「……憶えてないのかい?」 首をひねって考えても、あたしはずっと《 ・ ・ ・》〈あたし〉だし。 「やれやれ。アンが小さい頃の話さ。当時、私は自分のことを『あたし』って呼んでたのさ」 「そうしたら、アンはそれを真似して自分を『あたし』って言うようになってね」 「仕方ないから、『私』って呼ぶように心がけつつ、アンには『わたしって言いなさい』と口酸っぱく……言ったろ?」 「そこは何となく。……でも、『あたし』ってそうだったんだ」 「結局は、『あたし』が改善されちまったんだね」 「……うふふふっ。ごめんなさい」 「ははははっ!いいってこと。せん別代わりに、《 あたし》〈ソレ〉も持っていきな」 しばらくふたりで笑い、お互いを見る。 歳をとったお母さん。 あたしは自分の夢を追いかけるため、このお母さんを残して家を出るのだ。 だからこそ、必ず女優になって戻ってくる。 「(――お母さんの目に、あたしはどう映ってるんだろう)」 「……本当に大きくなったね、アン」 「…………」 「自分の未来、大切にね。アンは、みんなの期待なんだ」 「……はい」 「ふたり目さ。舞台志望の子が、私のところから出て行くのは」 「えっ?あたしの他にも?」 「あぁ、居たんだよ。アンが会ったこともない男の子さ」 お母さんが、遠い目をする。 あたしが会ったことのない? ……ということは、あたしよりずっと前に居た子? 「ま、いいさね。さぁ、私はそろそろ部屋に戻るよ。アンも旅の準備があるんだろ?」 「……う、うん」 「……だったら、これでおしまいさ。みんなへの報告は、明日にしようね」 「……はい」 お母さんへ報告した次の日。 あたしは、みんなが集まった食堂でモスグルンの演劇祭に参加するため、家を出ることを伝えた。 「『えー!いつ帰るのー?』」 「『…………しばらくは、帰って来れないわ』」 「『いやだ、いやだー』」 小さい子たちは、口々に反対。 「『……本当のお別れってわけじゃないからね』」 あたしも昔、同じようなことを聞いたのを思い出しつつ、ひとりずつ頭を撫でながら説明して回った。 逆に、歳の近い子たちの理解はしっかりしたもので、 「『……えへへっ。アンねぇさん、いってらっしゃい。お部屋ありがたーく使っちゃうから。バイト、がんばるよ!』」 ……なんて、気持ちよく言ってくれたり。 そして、荷物の整理も終えた夕方。 「……ごめんね。ぼくだけの見送りになっちゃって」 あたしは、リュリュに送られて駅までの道を歩いている。 「いいの、いいの。お母さん、子どもたちの世話でしょ?」 「……うん。お母さんたら、ぼくが替わるっていうのに、『別れは昨日すませたから』って」 「お母さんらしいじゃない」 「せっかくセロたちが気を利かせて、先に駅に向かったのにね」 「いいのよ。それより、ごめんね。カバン持ってもらって」 「ううん、せめてこれぐらいはさせてよ」 リュリュは、あたしの引き継ぎで孤児院のリーダーへと昇格。 ちょっと押しの弱いところが心配だけど、優しいリーダーになってくれるに違いない。 「あのね、アン」 「なぁに?」 「モスグルンでの演劇祭には、みんなで駆けつけるからね」 「うん」 「……あ、あとね。パウラからの伝言で『お部屋は、大切に使う』って」 「……変ね?朝、そう聴いたけど」 「なんか、『自分が部屋を欲しがって、追い出したみたいで』って気にしてたよ」 「……あの子ったら。気にしないで、って伝えて」 弟や妹たちは、みんないい子ばかり。 お母さん同様、あたしが誇りにできる家族だ。 後ろ髪引かれる思いがないと言えば、嘘になる。 ……だけど、そんな家族が居るからこそ頑張れるのだ。 「……あー、きたきた!こっちよー、アン!」 「マー。こっ、ちー」 「はいはい。そんなに大きな声は出さなくても」 ホームに入り、ワカバたち一行と無事に合流したあたしは、リュリュから荷物を受け取る。 「……ココ。アンのこと、お願いするね」 「あい、あい。まかせ、てー」 「セロも、よろしくね」 「……うん。物置の掃除のときは、手伝わせて悪かったね」 「あ、それは逆だよ。うちに居る間、色々と手伝ってくれてありがとう」 「いや、そんな!こっちはみんな泊めてもらったわけだし」 リュリュがみんなと握手し、最後に改めてあたしの前に立つ。 「発車したら聞こえないかもしれないから、いまのうちに。……いってらっしゃい」 「……うん!いってきます」 こうしてあたしは、思い出のたくさんある故郷を旅立った。 …………いってきます。 次の街へ向かうために乗り込んだ列車は、青の都まで来たモノとは明らかに違い、ワタシはびっくりしてしまった。 通路はホーム側だけで、座席らしきモノが見つからない。 いくつもの扉があって、ここはまるで横一列に並んだ部屋のような印象だった。 ワタシは後ろから来たセロに、 「この先の車両に行けば、座席がありますか?」 と尋ねる。 「……僕たちの部屋はこの車両だけど、食堂に行きたいの?」 「えっ、と……そうすると、このドアは?」 「これは個室のドア。僕たちは寝台列車に乗ったんだよ」 ……寝台列車?言われた単語を、頭の中で繰り返して何となく思い出した。 遠くからジルベルクまで観光に来たという人から、そんな列車を利用したという話を聞かされたことがあった。 「そうすると、次の目的地『オーベルジーヌ』までは……」 「これ一本だよ。普通列車でのんびりもいいけど、途中の街で降りて宿泊するのも疲れそうだから、寝てても走ってくれるこの列車を選んでみたんだ」 確かに、セロの言うとおりかもしれない。 駅で降りて荷物を運び、また朝になって列車に乗り込むのは、それなりの時間と体力を消耗する。 特にワタシはみんなよりも力が劣るので、ライトが荷物を持ってくれたりするのだが……少し心苦しいところがあった。 「レインさんと待ち合わせたのは、《 しあさって》〈明明後〉日だっけ?」 「はい。オルテンシア経由で来るそうです」 昨晩、お父さんに電話で演劇祭に参加することを伝えると、『長旅の前にメンテナンスを』と言われ、白の都に向かう途中のオーベルジーヌにて落ち合うことに。 お互いに余裕を見ての約束だったのだが―― 「いつ頃、オーベルジーヌに着きそうですか?」 「明日の昼過ぎかな。だから、現地で二日ぐらいはのんびりと待つことになるね」 セロがにっこり笑うと、ちょうど列車が動き始める。 ……と、乗車口に立って手を振っていたアンジェリナが、ゆっくりとこちらへやってきて、 「……あら、ふたりとも。一般の座席はこの奥にあるの?」 なんて、ワタシみたいなことを尋ねてきた。 「えっと、ワタシたちの使うのは、この車両だそうです」 「…………え?だってここ、寝台車両でしょ?」 「ベル、説明してあげて」 さすがにセロも同じことを言うのは躊躇われたらしく、 「僕は、ワカバに頼んだ切符をもらってくるよ」 と言って、ひとつ向こうの車両へと向かった。 「それで、どういうことなの?」 ワタシはセロの受け売りそのままで、アンジェリナに説明。彼女は戸惑いながらも頷き、 「……で、でも……すごく高そうよね、この車両」 と呟く。 「平気ですよ。旅費は、父が持ちますから」 「そ、そういう問題じゃなくて……」 「……?」 何を困っているのだろう……と考えていれば、向こうからセロが切符を手に戻ってきた。 「はい、これ。アンジェとベルの分」 手渡された切符を見ると、アンジェリナと同じナンバーが振ってある。 「……僕とココがふたりの隣の部屋で、ワカバとライトがひとつ隣の車両」 「これって、ワタシとアンジェリナさんが同じ部屋ってことですか?」 「うん。僕とライト、ベルとココ、アンジェとワカバって組み合わせも考えたんだけどね」 せっかくだから、主役ふたりが語らう時間を作ろう!……と、ワカバが提案したそうだ。 「……あの子ったら、変なところで気が利くのね。それとも、あたしが避けられたとか」 「もしかして、まだ仲直りしてなかったの?」 「……冗談よ、冗談」 セロの心配そうな声に、アンジェリナは慌てて否定する。 「だけど、あたしたち……何日間この列車に乗るのかしら?二日三日あるなら、交代するのも悪くなさそうじゃない?」 「そうだね。だけど車中は一泊。明日のお昼には到着なんだ」 「ホントに?白の都まで、一日で行っちゃうの?」 セロの説明に、疑いのまなざしを向けるアンジェリナ。 でも、勘違いをしているのは彼女の方だから―― 「……ほら、見てよ。宿泊期間は二日じゃない」 「えっ?そんなはずは……って、本当だ!そ、それも、白の都までの切符だよ、これ……」 目を丸くするセロを見て、ワタシも自分の切符を眺める。 ――寝台車両、二泊。目的地、白の都―― それはワタシが降りる予定のオーベルジーヌより、確実に先まで行ける切符だった。 「アンジェリナさん、あまり怒らないであげてください」 「……別に怒ってなんかないわ。どっちかっていうと、嘆いているの」 切符を買い間違えたのがワカバと聞き、あたしはガックリしてしまった。 「どうしたら、オーベルジーヌと白の都を間違えるのかしら?」 「それは、ワタシがいけないんです。今日の朝、ちゃんとみんなに待ち合わせのことを伝えてあれば……」 「そこは問題じゃないの。だって、セロはきちんと下車駅を教えて、ワカバが買いに行ったんでしょ?」 それをあの子が勝手な解釈で、『オーベルジーヌ経由』とか思い込んで、白の都まで切符を買うから! ……どう考えたって、悪いのはワカバだ。 「あーぁ。オーベルジーヌから先、もったいないわね」 ワカバに早合点なところがあるのは気づいていたが、まさかここまでとは。 特にお金がからむことなら、もう少し慎重に行動してほしい。 「……あの、アンジェリナさん。みなさんたちだけでも、白の都に行くのは……どうですか?」 「オーベルジーヌで待ち合わせているワタシが、あとから追いかけて合流すれば、ひとり分のお金で済みますよ」 「そんなことできるわけないでしょ。却下よ、却下」 当のご本人は『にこやかに』そんなことを言ってきたが、そんなお金惜しさでベルを置き去りにするわけにはいかない。 「(――でも、誰かが付き添うとかなら……)」 白の都までは追加ふたり分の旅費で……と《ひらめ》〈閃く〉。 本来なら付き添いは原因を作ったワカバがすべきなんだろうけど、現状では任せられる気がしない。 そうなれば、あたしかセロのどちらか。 みんなに頼りにされるリーダー不在を回避すべきと考えれば、あたしがベルに付き添うのが適任だろう。 「……いいわ。あたしが一緒に降りる」 「えっ?それは悪いですよ。だって、アンジェリナさんは劇の練習だってしないといけないし」 「ワカバはまだ、あらすじぐらいしか完成させてないわ。それに、あたし以上に練習が必要なのは……あなた」 「――意地悪で言うわけじゃなくて、劇がどんなものか、想像もつかないでしょ?」 「……はい」 「だからあたしが一緒に居て、その間に少しでも練習するっていうのは、どうかしら?」 「ふたりで、ですか?」 「……そうよ。イヤ?」 「そんなことありません。逆に、少し嬉しいぐらいです。みんなの前だと恥ずかしくて……なにも、できないかもしれないから」 頼られるのは悪くない。 それにあたしとしても、身体がなまらないうちに練習を再開しておきたい。 「もし良かったら、いまから練習してみる?」 「えっ?ここで、ですか?」 「えぇ。ちょうどいまなら、ふたりっきりだし」 あたしはシートから立ち上がり、ベルの手をとって、 「初めまして、シュエスタ」 と声をかけてみる。 「……え?あ、はい。ワタシが『シュエスタ』ですね?」 「そうそう。ワカバの台本も、そうなっているみたいだから」 お姫様の側に居た人形の名は《しょせつ》〈諸説〉色々あるが、どれが本当の名前かは分かっていない。 「……では、改めて。挨拶からしてみましょうか」 「はっ、はい!」 「緊張しなくてもいいの。最初からうまくできる役者なんて居ないの。まずは気分から始めましょ」 あたしはそっと手を差し伸べて、もう一度挨拶をしてベルの反応を待つ。 「は、初めまして……アンジェリナさん」 「そうね、そんな感じ。多少の緊張感が逆にリアリティを生んだかも。だけど大切なことを忘れているわ」 「なんでしょう?」 「いまは、アンジェリナじゃなくてお姫様よ」 さすがに自分でもちょっと無理を感じて笑ってしまったが、舞台に上がったら間違えなど許されない。 ここはしっかり、お互いの役柄を把握しておく必要があると思う。 「あの、もう一度お願いします」 「いい心がけね。じゃ、いくわよ」 繰り返される挨拶なんて、何も知らない人が見たら変に思うだろう。 あたしはベルが発音がなめらかになってきたのを見計らい、今度は動きをつけてみることを提案。 それも回数を重ねると緊張が解けてきたのか、ベルの挨拶が『ごく自然なモノ』になってくる。 「……いい?今度は、いまの自然な口調を維持したままで、動作を大きくしてみるの」 「は、はい。……初めまして、姫様」 残念ながらまだまだ動きにつられてしまうようで、口調が最初の硬さに戻ってしまった。 聞き取りやすく自然な発声、動作は大きく分かりやすいもの。 さすがにいきなりの両立は難しいので、まずは『滑舌』に《まと》〈的〉を絞っていこうと考える。 「まだ、頑張れそう?」 「はい、大丈夫です!」 「じゃあ、今度はきちんと声を届ける練習ね。まずは……」 「セーロー、みーてー」 空も赤くなり始めた頃。 僕とココは、通路の窓を流れてゆく風景を眺めていた。 「あそ、こー。おおきな、やまー」 「……そうだね」 青の都から離れていくに従い、のどかな田園や人気の少ない自然そのままの環境が多くなる。 歴史を辿れば、この辺りは『青の国』と呼ばれていた地域。農業よりは貿易を中心とした国家政策の元で栄えていた。 「あー、ウーシー」 飽きることなく何かを発見して喜ぶココ。 僕はのんびりと相槌を打ちつつ、なかなか決まらない明日のオーベルジーヌ下車をどうするかで頭を悩ませていた。 「(――うーん。僕が残ってみんなを先に行かせるか、それとも誰か別にベルの付き添いを頼むべきか)」 ――いっそのこと、全員で降りてしまうか。 いつまでもワカバの失敗を責めるつもりはないが、このあとどうすればいいか考えると…… 「……あー!セロにーちゃんのでっかいため息だ」 「なんだ、ライトか。ワカバはどうしてる?」 隣の車両からやってきた弟に、お姉さんの様子を尋ねてみる。 「ねーちゃんもため息つきながら、タイプライターをカタカタしてたぜ」 「そうかー。だったら、そんなに落ち込んでないか」 「いや、結構ショックだったみたいだよ。その証拠に、ほら」 ライトが苦笑いで見せてくれたのは、ワカバが打ち出したと思われる原稿の一枚。 「おーべる、おーべる?」 ココの指摘通り、そこには数行ごとに『オーベルジーヌ』という単語が現れて、内容も散文になっていた。 「……相当、苦悩が現れてるね」 「だよねー。ねーちゃんも失敗の責任はとりたいんだろうけど、どうすればいいか悩んでるみたいでさ」 ライトも中途半端にお手上げのポーズをとり、口をへの字にしてみせる。 「……さすがのオレも、下手につっこめなかったよ」 「はぁー。どうするべきなんだろうなぁ……」 「……何?ワカバのこと?あの子、まだダメなの?」 「えっ、アンジェ?いつの間に?」 「失礼ね、人を幽霊みたいに。……で、切符の件かしら?」 「そうそう。ねーちゃんの失敗について……なんだけどねぇ」 通路に集まった3人が顔を見合わせ、揃って肩を落とす。 「んぁー、ぁー」 そしてそれを見たココが、負けじとそれを真似てみせる。その仕草がかわいいのだけが、現在の救いかもしれない。 「……まぁ、このままでも仕方ないでしょ。シュエスタには『あたし』がついていくから、みんなは先に行ってよ」 「シュエスタ?ファーちゃん?」 「……えぇ。ついさっきまで練習でそう呼んでたから、癖になっちゃったかも」 アンジェリナは小さく笑って舌を出し、 「……で、どうかしら?リーダーのセロとしては、あたしがついていくので構わない?」 と訊いてくる。 「うーん。それは……」 確かに、アンジェリナにだったら任せられるような気もする。 ……が、『それで本当にいいのか?』と考えれば、素直に頷くのも難しい。 「……結論は、明日になってからでもいいかな?」 あまり先延ばしにするのもどうかとは思ったが、少なくともこの列車には明日の昼までは乗っているのだ。 いまここで無理に決めずとも、時間は充分にある。それに、明日になったらなったでまた『何か』が起こり、みんなが慌てるかもしれない。 そんな『何か』を期待していたわけではないのだが―― 「……ここは?」 ワタシは、ベッドの上に寝ている。 でも、寝台列車で眠ったときとは違う。 ベッドの硬さどころか、目に映る風景は―― 「……気がついた?」 同室の彼女が、ワタシの顔を覗き込んでいる。 「アンジェリナさん?」 「良かった……本当に良かったわ」 「あの、ワタシは……どうしてこんなところに?」 確かワタシは青の都から寝台列車に乗って、アンジェリナと同室になり、ちょっとした稽古をつけてもらって―― 「……待って。いま順序よく説明するから」 そういってアンジェリナは、ワタシが乱した掛け布団を元に戻しつつ、状況を話してくれた。 「ここはオーベルジーヌ。当初の予定通り、あたしたちは全員この街で列車を降りたの」 「そうだったんですか。……でも、ワタシ……その記憶が……」 「……でしょうね。あなた、意識がもうろうとしてたから」 「え?」 アンジェリナの説明によれば―― 夕方に部屋へ戻ったときにワタシが寝ていたそうで、そっとしておいてくれたらしい。 それが朝になってもなかなか起きず、オーベルジーヌ到着の少し前にワタシが目を覚ましたと言う。 しかし自分にその記憶がないのも当然のように、そのときのワタシはボーッとしたままで、話しかけても上の空とのこと。 「……で結局、あたしたち全員がオーベルジーヌで下車したの」 まさか、そんなことになっていたなんて。 時間がぽっかりと抜けてしまったようで、少し怖い。 「あとは、事前にセロがあなたから聞いていた待ち合わせのホテルに入って、現在に至る……というわけよ」 頭がはっきりしてきて、何となく原因が分かってきた。こうなったのは、明らかにワタシのせいだ。 「……ごめんなさい。みんなに迷惑かけてしまったみたいで」 「なに言ってるの?元々は降りる予定だったんだから。それに謝るのは……あたしの方よ」 「どうしてですか?体調を崩したのはワタシなのに」 「そうさせたのは、あたしが無理に練習させたからよ」 「それは違います。ワタシが……飲み過ぎたんです」 「飲み過ぎた?何を?」 「精神安定のための、《 ドロップ》〈人形〉石を……です」 アンジェリナとの練習のあと、なかなか興奮が冷めず、ワタシはお父さんから渡されたモノを使うことにした。 それは、青の都に着くまでに使った……あの《 ドロップ》〈人形〉石の残り分。 「その《 ドロップ》〈人形〉石を使うと、体調保持が優先になるのですが、処方のタイミングを間違えるとしばらく起きられなくて……」 「人間でいう、薬の副作用みたいなモノかしら?」 「そうですね。昔も一度失敗したことがあって、そのときは一日ぐらい寝てしまって……」 そこでワタシは、時間の感覚が狂っていることに気づいた。 「……あの、ワタシはどれぐらいグッタリしてましたか?」 「ここに着いたのは今日のお昼。あなたが列車で寝たのは昨日だから……だいたい一日かしら?」 時間の計算が合い、意識を失った原因もほぼ特定できた。 ……が、それで安心できるわけではない。 「(――まさかワタシが、一時使用の《 ドロップ》〈人形〉石の処方を間違えるなんて)」 前のモノを吐き出さず、新しい《 ドロップ》〈人形〉石を飲むような失敗は、これが初めてだった。 「ごめんなさい。みんなには何てお詫びすればいいか……」 「いいのよ。あなたが元気になれば、それで」 「……それで、他の人たちは?」 「初めの頃はみんなしてこの部屋に押しかけてきたんだけど、邪魔だからあたしが追い出したの。ひとり居れば充分だし」 アンジェリナさんが、ふざけて腕まくりをしてみせたので笑ってしまったが、お昼から……と考えれば! 「……いま、何時ですか?」 「えっと……夜の7時ぐらいかしら」 「ずっと、付き添ってくれていたんですか?」 「どうせ他にすることもなくて、読書してたから。気にしない。ついでに、もう謝らないでね」 先手を打たれて、ワタシは無言で頭を下げるだけ。 アンジェリナは、『もう少し様子を見て、大丈夫そうならみんなに伝える』と言い、ベッドサイドの椅子に座り直した。 ワタシは再び目を覚まして時計を見るが、時間は30分ほどしか経ってなかった。 「(――もう、《 ドロップ》〈人形〉石の副作用も落ち着いてきたかしら)」 体調さえ万全であれば、過剰になった人形石だけを自力で吐き出すこともできる。 だけど今回は……素直にお父さんが来るまで、待った方が良さそうだった。 「あら、早いお目覚めね。ごめんなさい。あなたが寝ている間、ちょっと時間があると思ってたから……」 ワタシに気づいた彼女が片付けようとしていたのは、紙の束。 「いえ。ところで何を読んでいたんですか?」 自分としては、その内容の方が気になる。 「これ?これは、ワカバが書いている劇の《あらすじ》〈粗筋〉。ホテルに着いたときに借りたの」 カサカサと音を立てて数枚めくり、ひとり頷くアンジェリナ。 「列車でふたり、お姫様とシュエスタの練習をしたでしょ?」 「……だけど、実際の劇がどんな感じなのか、よく分からないまま先入観持つのも良くないと思ってね」 「でも、ひどく路線を外すことはなさそうで安心したわ。ふたりの初々しいやりとりもありそうだから」 彼女は、嬉しそうにワカバの手書き文章を見せてくれる。そこには、『姫様と人形、ラブラブ』とか書かれていたので、少し恥ずかしくなってしまった。 「これの元が、『天使の導き』という悲劇なのは知ってる?」 「はい。ワカバから聴かせてもらいました」 「その中で登場するお姫様の側に居た人形、いまでも名前が分かってないの」 「――だからワカバも名前を付けず、《シュエスタ》〈人形〉と呼ばせているみたい」 シュエスタ。 ワタシ自身、そう呼ばれるには慣れが必要かもしれない。 「……演劇関係の人が、《シスター》〈人形〉のことを『シュエスタ』って呼ぶことが多い理由は知ってる?」 ワタシは、小さく首を横に振る。 「最初に『天使の導き』の舞台脚本を書いた人の故郷では、どうやら『シュエスタ』ってなまるらしいの。それが原因ね」 「――ちなみに、もう少し詳しくいうと。あなたたちを最初に『シスター』と呼ぶようになったのは、クリスティナらしいのよ」 「そうなんですか?」 「……うん。クリスティナに関しては色々と研究が盛んで――」 「彼女の書いたモノなどから、歴史の裏を《ひも》〈紐〉解こうとしている学者さんも多いの」 「歴史の裏?」 「正史には残ってない、こぼれとかいう《たぐい》〈類ね〉。赤・青・白の三国時代って、色々複雑だったらしいの」 「それで《しょせつ》〈諸説〉色々あって、ワカバみたいな説を唱える人も居るぐらい。……アインはいい人だった、って」 てっきり、ワカバだけの空想だと思っていたのに。 ……他にも同じような発想を持つ人がいたとは。 「あ、話がそれちゃったわね。歴史関係はセロに訊いて。あたしが言おうとしていたのは――そうそう、《シスター》〈人形〉の件ね」 「何でも、クリスティナが愛読していたらしい書物の端に、彼女の直筆でこう書かれていたらしいの」 「――今日より、わたくしの愛する人形を『シスター』と呼ぶ……って」 「――その書物が発見されてからは、クリスティナに倣って、人形は『シスター』と呼ばれるようになった……と、そんなところね」 「アンジェリナさん、詳しいんですね」 「……クリスティナに関してだけは、一生懸命調べたから」 アンジェリナが、照れ隠しで笑う。 もう少し固い印象があっただけに、饒舌な一面が意外で……少し好感が持てた。 「……そういえばあなた。ココとライトからは『ファー』とか『ファーちゃん』って呼ばれているのね」 「……はい。最初にココちゃんが、ワタシのことを何故か『ファー』と呼んで。それからです」 「やっぱりココだったの」 「あたしも、変な風に呼ばれるの。ココ《いわ》〈曰〉く『マー』だって」 「……うふふふっ」 「ココちゃんにかかると、みんな面白くなりますね」 「ワカバも、『カバー』とか呼ばれているみたいだし」 「案外、本人は普通に呼んでいるつもりなのかも。なまりかな?あたしはあの喋り、かわいいから好きだけどね」 ふたりで雑談しているうちに、段々とみんなのことが気になりだしてきたワタシ。 「……そろそろワタシも起きます」 そう宣言して、肘を頼りに上体を起こそうとしたけど―― 「あ、ダメよ、無理しちゃ」 ふらつく身体をアンジェリナに支えられ、そのまま元に戻されてしまった。 「最低でも、今日だけは寝ていて。《あさって》〈明後〉日になれば、あなたのお父さんがいらっしゃるそうだから」 「ちょっと、私たちが来るには……あれだったかな?」 小腹が空いたというワカバと共に、下見を兼ねて外に出るつもりだったが、まずは近場からということで。 一番近いであろうホテル備え付けの施設が……ここ。 カウンターの後ろの壁にはお酒の瓶がところせましと並んでいることから、『ダイニング・バー』といったところか。 間違っても、食事がメインのレストランではなさそうだ。 「どうする?」 僕ひとりなら、隅っこでこっそり……ぐらいで問題ない。 ただ、ワカバと一緒だと少し厳しいかも。 「……ま、いいんじゃない?お酒頼まなきゃOKでしょ!」 あっけらかんと店内に踏み込むワカバ。 客の何人かがこちらを見て、目を丸くしたりもする。 ……が、店主らしきおじさんは追い返そうともせず、黙ってカウンター席を指差してくれた。 「(――軽く食べて、戻れば平気か)」 どちらかといえば、僕もこういう店に興味はある。 せっかくの機会だから、ちょっとだけ雰囲気を楽しもう。 僕はメニューを見ながら、手頃な値段のモノをチョイス。ソーセージの盛り合わせを頼めば、ワカバとも食べられるし。 「すみません。これと、これで。ワカバは?」 「私もセロと一緒でいいわ」 盛り合わせ2つ……はさすがに面白くないので、もう1つはサラダということに。 やがて頼んだ皿が運ばれ、ふたりでつつき始めると、自然と途中下車の話になっていた。 「……ごめんね、セロ。私が話をよく聞かないで切符買って、お金いっぱい使わせちゃって」 「いや、いいんだよ」 きちんと再確認しなかった僕も悪い。 「それに……」 「どっちかって言ったら、いまはベルのことでしょ?」 「……うん」 心配は心配だが、いま覗きにいっても迷惑になるだけ。 そう割り切ることにして、話題を変えることにした。 「……ところで、脚本の方はどう?」 「脚本はまだだけど、《あらすじ》〈粗筋〉ができあがってアンに渡してあるの。もう見てくれたんじゃないかな?」 少し笑ったワカバは、ソーセージにフォークを突き立てる。……どうやら、そこそこ自信があるらしい。 「どんな感じになったのかな?触りだけでも聞かせて」 「基本的には、天使の羽ばたきの途中からググッと路線変更」 ワカバのいう『天使の羽ばたき』は、『天使の導き』の中で演じられる別の劇。 クリスティナが、白の国の初代女王の役を演じる……とか、そんな劇中劇だったはずだ。 「赤の国や青の国の陰謀説が渦巻くお城の中で、お話は……もう、クリスティナと『シュエスタ』のラブラブに焦点を当てるの!」 「……あぁ、そ、そうなんだぁ。シュエスタと、ね……」 《シュエスタ》〈人形〉の役を任されるベルは、内心どう思うだろうか? 「不服なのぉ?だって、そうしないとつまんないじゃない」 「元々の陰謀《うんぬん》〈云々〉がメインじゃダメなの?」 「そんなの味付け。観る人が寝ない程度に、ちょこっとあれば充分よ」 本当にそんなもんでいいのだろうか? ただでさえ、最後はアインが『良い人』で終わる予定なのに。 「とにかく、私の書く『天使の羽ばたき』は、お姫様と《シスター》〈人形〉の独壇場に近いわ」 どうやら本筋の『天使の導き』をアレンジするため、そこをターニングポイントに選んだようだ。 「――くっつきそうでくっつかず、離れそうで離れないで……」 ワカバの構想が段々と熱を帯びてきて、次第に声も大きくなってくる。 バーという場所だけに周りもそこそこの会話があり、僕らの会話が取り立ててうるさかったわけではない。 「……それでねっ!青の国から来た大使は《やさおとこ》〈優男〉なんだけど、変な噂があったり」 「一応、『天使の導き』の中ではアインの陰謀を曝く役だけど、私の書く話ではちょっと違って――」 気づけば周囲が静かになり、ワカバの声だけが目立つようになっていた。 「最後は『アイン』の味方になって、青の国からの軍勢を止めようとするの!どう?」 「……ス、ストップ。後ろ、見てみようか」 「はぇ?」 ワカバは振り返り、僕らを見ている人たちに気づく。 そして、その中のひとり――酔ったおじさんの熱い視線も知ることになった。 「……あ、うるさかったです、か?」 「んにゃ、何となく面白くて聞いてただけさ」 「あ、あはははっ」 感想を告げられて少し照れているワカバだが、その相手が酔っぱらい気味なことには気づいているのだろうか? 「ついでといっちゃ何だが、質問させてくれ。そのお話は、じょーちゃんが考えたのかい?」 「……えぇ、だいたいはね」 「ほーう、そりゃいいね。想像力豊かだ。……それで、最後はどーなるんだい?」 「いまの流れだと、青の大使も騙されて『逆賊のお仲間入り』みたいだな」 トゲのある口調に、僕は不安を覚える。 このままワカバが自分の劇を語るのは―― 「そこは平気よ。アイン、悪い人じゃないから!」 「……え、なんだって?もう一回言ってくれよ」 「……ワカバ、そろそろ引き上げよう」 「ダメよ、いまいいところなんだから!」 ワカバは、空気が読めてないのか!? 「私が書くお話の中のアインは最後まで『忠義の人』なの。地元の演劇祭でも、そこが目玉になるわ」 「……へっ、そうかい。なら、おいらが《 ・ ・ ・ ・》〈おひねり〉のひとつでもやらなきゃな」 酔ったおじさんは鼻で笑い、テーブルにあった『何か』を掴みながらワカバをにらむ。 次の瞬間、何が起こるか悟った僕は、とっさにワカバを押しのけ…… 「おらよ!」 赤い《 ・ ・》〈何か〉がボールのように飛んでくるのに続き、 ――ベシャッ! それは、ずっしりと鈍い感触と共に着弾。 僕の額には冷たい感触が流れ、バーの中での時間が止まり、全員がこちらに注目する。 投げた本人も当たると思っていなかったのか、口をパクパクさせていた。 「……ち、ちょっと!な、なにすんの?セ、セロ……」 「ワカバ、平気だった?」 「私は平気だけど、あぁ、あなたの頭からトマトが……」 「トマトか。あはは」 硬いモノじゃなくて良かった。 ワカバに怪我もないなら、それで充分。 「おめぇ、わざわざ自分からアタリにいかなくても……」 ………………。 ワカバと僕の身長差からして、そのまま動かないで居れば当たることもなかったらしい。 「と、とにかくよ!逆賊アインのことを良く言うヤツがいけねぇんだ。なぁ、みんな、そーだろ?」 酔ったおじさんは周囲の人に同意を求め、手にしたコップをクイクイッと持ち上げる。 ――が、それに続いたのは…… 「悪いのはアインじゃなくて、名もないおっさん。あんたさ」 新聞を手にした黒い服のお兄さんの声だった。 「なっ、なんだとっ!?もういっぺん言ってみろ!」 「何度でもいうぜ。どー考えたって、悪いのはあんたさ」 「いくら他人の話が気にくわないからって、そりゃねーだろ?」 「く、くっ、てっめぇえ……」 「おっと。またトマトを投げつけるのかい?ここは誰の店?マスター、このおっさんが影のオーナーかい?」 お兄さんに軽く問われたカウンターのマスターは、黙って首を横に振る。 「だったら同じ客相手に言えるのは、『うるせぇ』がいいとこじゃないかなぁ、と俺は思うけど……どうさ、みんな?」 今度は無言ながら、他のお客さんたちが首を縦に。 それを見て、酔っぱらいのおじさんはチッと舌打ちをし、店から出て行こうとした。 「おっと、待ちなって!そのまま帰るには、足りねぇもんがあるんじゃないのかい?」 「なんだとぉ!?」 おじさんは鼻息荒くお兄さんの方へ寄っていき、腕組みをしてみせる。 「――理由はともあれ、無実の少年にトマトぶつけたんだ」 「クリーニング代ぐらい、出してやるべきじゃないかな?」 「む、ぐぐぐっ……こ、これでいいだろ!?」 ドン、と机に叩きつけられた手のひらの隙間から見えるのは数枚の紙幣。 お兄さんは、それを見るとニッコリと笑い、 「じゃ、残りはマスターに『お代』払ってからのお帰りさ」 「てっ、てめぇ……」 胸ぐらを掴もうとするおじさん。 でもお兄さんはスッとそれをかわして、おじさんに一言二言耳打ちをし、 「あとは任しておきなって」 と締めくくれば―― 「……わ、わかったよ」 おじさんは多少不服そうながらも、そのまま店を出て行った。 お兄さんは、一体なにをあの人に―― 「あーあ、こりゃイイ男も台無しだね。怪我はなかったかい?」 「あ、ど、どうも……」 「そっちのお嬢さん、とばっちりは?」 「へ、平気です」 「そいつは良かった!マスター、タオルもらえるかな?」 「あの……危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」 こんなとき、どう言えばいいのか分からないけど、ひとまずお礼だけは。 「あぁ、いいんだよ。こういうのは慣れてるからさ」 「だけど、あれだぜ?さすがにこの地区でアインがどうの言うのは、なかなか勇気があるというか何と言うか」 「……そんなにまずかったの?私の話」 「キミら、この辺りの出じゃないな?モスグルン辺りからの旅行者かい?」 「そうです」 「ははっ、やっぱり。それなら、この先の旅行でも注意しなよ」 「この地区は、さっきの話で出てきた時代は『青の国』の領地」 「白の国へ向かった青の大使が『逆賊の味方をした!』……って地元のヤツが聴かされたら、あんまりいいもんじゃないだろ?」 「で、でもでも。昔のことだし!それにあくまで創作だから、あんな目くじら立てなくてもいいと思わない?」 「……あのおっさんのご先祖、実は青の大使だ」 「えっ!」 「うそっ!」 「……って言われたら、何となくは納得できるかい?」 「騙された気分だけど、そう言われたら……そうかもね」 「ま、そういうことさね。……っと、いけねっ!」 お兄さんは急に立ち上がり、 「わりぃ!俺、人と待ち合わせしてたんだ」 と慌てる。 「あっ、あの!さっきのお礼を……」 「あぁ、いいって、いいって!マスター、俺のお代はここに置くぜ!釣りはいらね」 そして、僕たちに軽くウインクをして風のように去っていく。 「……あっ、あの……って、行っちゃったわ」 僕はその後ろ姿を見送ったあと、『いい人だったね』と言うつもりでワカバの方へ振り返ったが―― 「ちょっと気になるのよねー」 なんて言われてしまった。 「細かいこと言うとね。……あの人、さっきの酔っぱらいから受け取ったクリーニング代、ポケットに入れたまま帰ったの」 ……言われてみればその通り。 だけど、わざわざ追いかけて、『そのお金は……』などとはさすがに言えない。 「(――あのお兄さん、ただ単純に忘れただけだよ、きっと)」 それに、助けてもらったことを考えたら、それぐらい…… 「……おはよう。気分はどうかしら?」 「……あっ、アンジェリナさん。昨日より、だいぶ良く……」 「はいはい。まだ起きなくていいから寝てなさい」 あたしは昨日と同じように、ベルがベッドから出ようとするのを良しとしない。 「(――顔色を見れば分かるわよ……)」 いくら《シュエスタ》〈人形〉とは言っても、ほとんど人間と変わらないベル。 表情だけでなく、身体の動きからもまだ本調子ではないのが判る。 「朝食、どうする?ホテルのモノ以外がいいなら、買ってきてあげるわよ」 「そ、そんな……ワタシ、自分で行きます」 強情にも立ち上がろうとするベルを見て、思わずあたしは、 「何度も言わせるのではありません、シュエスタ」 などと。 「ごめんなさい。つい、オーディションのときの台詞が出たの」 自分でも何を口にしたのか気づき、慌てて修正を入れる。 本来そんな台詞などなかったが、気分的にクリスティナ姫のノリで言ってしまった。 強い言いまわしだけに、誤解を与えないといいのだが…… 「……いえ。悪いのはワタシです。無理して迷惑かけることも考えずに……」 しょんぼりする彼女を見て、失敗が過ぎたと痛感する。 「(――困ったわね……)」 お互い、何とも言えない雰囲気の中で動くに動けず。 それでもここは、体調の悪いベルに負担をかける方がまずい。 「ほんの少し、外の空気を吸うぐらいなら……いいわよ」 さっきと言っていることが矛盾するかもしれないが、これはこれで正論。きっとそう! 「じゃあ、すみません。窓を開けてもらえますか?」 彼女からの返答に、途中まで浮かせた腰が砕ける。 ……外の空気を吸う、と言ったらイコール『外に出よう』にならないかしら? それとも、もっとハッキリ言わないと、伝わらない? 「……あのね、そういう意味じゃなくて。短い散歩ぐらいならいいわよ、って言いたかったの」 目をパチクリさせるベルに、口で言っても解らないなら……とばかり、あたしはその細い腕にそっと触れる。 「あたしが付き添ってあげるから、どうかしら?」 風邪を引いた子どものような熱もなく、ごく普通の温もり。 そんな検温をしても、あたしはお医者さんじゃないから……何か答えてもらえないと、この手も放しづらい。 「……いいんですか?」 一息おいて返ってきた答えに期待のニュアンスがあり、少し安心した。 あたしはホッとしたことを顔に出さないよう注意しながら、ベルの靴をベッドサイドに揃えてあげる。 「途中で体調が悪くなったら、きちんと言うのよ?」 「……わかりました」 立ち上がるベルに手を貸しつつ、どこへ行こうかと考える。 いまさらだが、まだこの街についてホテルから出ていない。 ……となれば、本当に近場をぐるっと一周するぐらいか。 「おっ、ファーちゃんだ!もう平気なの?」 「まだちょっと不安があるけど、あたしが付き添いで散歩よ」 「ふーん、そっかー!」 にこやかに笑うライトを見て、ベルも嬉しそうに微笑む。 「何だか、ライトに会うのも久し振りね」 「……ん?あ、そっか。ファーちゃんずっと寝てたもんな」 ライトの言うとおり、みんなベルをお見舞いに来たときにはベルは寝たままだったので、一方的な面会だった。 ……結局あたしがベルの全てを引き受けたから、一日ぐらい彼女を『箱庭《シュエスタ》〈人形〉』にしたようなもの。 「……ライトもお散歩なの?良かったら、ワタシたちと一緒に行く?」 「(――それはダメよ)」 一瞬、頭に浮かんだそんな『否定』をそのまま口にしそうになっていたあたし。 慌てて自分の口をふさぎ、ふたりから注目を浴びてしまった。 「……あ、うん。何でもないの、続けて」 「……ん?あ、散歩はね……行きたいんだけど、ココと遊ぶ約束があるんだ」 「そう。それなら、また今度。ココちゃんによろしくね」 「おう!あとでふたりで遊びに行くから!」 ライトは得意げに言うけど、それはかなりの浅はか。 「……いい、ライト。まだ不安があるって言ったでしょ?だから、遊びに来るのは禁止。ココに伝えるならもう少し考えて」 その辺りの気配りは、まだ子どもだから仕方ないのかしら? 「そんじゃ、『元気になったけどまだ遊べないよ』ぐらい?」 「もう少し抑えて」 「うぅーん。それなら『元気だけど面会謝絶』とか?」 ……ずいぶんと両極端で矛盾のありそうな状態ね。 「そこまでは言ってないわ」 「あー、何て言えばいいんだろ?わっかんねー」 「起きられるようにはなったけど、遊ぶのはまだ無理……とかぐらいかしら?」 ココに理解できるかどうか悩むライトを見ながら、あたしはさっきの自分を思い返す。 いま冷静になって考えてみれば、別にライトがついてきても問題はない。 賑やかの度が過ぎそうになったら、あたしが注意すれば済む。 それともそうなることすら無意識に恐れ、ついてくることを止めようと思ったのか? だとしたら、あたしは―― 「……アンジェリナさん?」 「な、なに?あれ、ライトは?」 気づけばライトの姿が見えない。 「えぇ、もう行ってしまいました」 あたしは心の中でこっそり謝る。 口にしなかったまでも、ライトにはすごく悪いことをしたような気がしたから。 レインさんが到着するのは、明日朝の予定。 それまで僕がベルのためにできることといったら、お見舞いぐらいしかないと思っていた。 しかし、ふとした拍子に、自分がとても『大切なこと』を忘れているのに気づいたのだ。 「……この街にも、人形技師が居るかもしれないじゃないか」 どうして僕は、そのことを考えなかったんだろう! レインさんを待つあまり、基本的な考えが抜けていた。 「よーし、技師の人を探しに行くか。まずは役所で調べて……」 ……その前に。まず、役所がどこにあるかから探さないと。 僕はそう思って、街の中心地へ向かうが―― 「……あっ、あれは昨日のお兄さん!?」 黒い服に黒い帽子。 あれだけ目立つ格好の人は、そうそう居ないと思う。 「あのー」 昨日のお礼も中途半端だったので、ここは思いきって声をかけてみることにした。 「……お?キミは昨日の?」 「はい!昨日は助けていただいて……」 ふと『クリーニング代』のことを思い出すが、それをここで尋ねるのは失礼にあたるような気がした。 運が良かったことに、それほど汚れもひどくなかったから。 「あ、あぁ、いいよ。良くないことは、もう忘れなって」 「それよりも、どうせするなら楽しい話をしようや。どう?彼女とはうまくいってるかい」 「か、彼女だなんて。そんな、ワカバは別に……」 あのとき、そんな風に見られていたとは。 「へーっ、ワカバっていうんだ、あの子。それで、キミは?」 「あっ、そっか。僕たち、まだ名乗ってなかったですね。僕、セロです。セロ・サーデといいます」 「お、そう言われてみれば。俺は、トニーノ・スタラーバ。仕事は……まぁ、便利屋みたいなもんかな?」 「便利屋……さん?」 「色んなことができるってことで。何だったら、ここの案内を引き受けてもいいぜ?格安でな」 見知らぬ街で、心強い味方を手に入れた。うまくすれば、自然に昨日のお礼もできそうだ。 「だったら昨日のお礼も兼ねて何かおごりますから、役所まで案内してもらえませんか?」 「……や、役所。役所か……」 トニーノさんの顔が微妙に曇る。もしかして、観光に近い案内が得意であって……とか? 「それで、役所まで何をしに行くつもり?」 「えぇ。この街の人形技師の人が、何処に居るかを尋ねたくて」 「ん、人形技師?何でまた、そんな珍しい職業の人を」 「連れの《シスター》〈人形〉が体調を崩してまして。それで……」 「ふん、ふんふん!そうかい、そうかい!セロ、おまえさんは運がいいぜ!」 急に目を輝かせたトニーノが、僕の背中をバンバンと叩く。 「なんてったって、俺の相方が……人形技師なんだよ」 「ほ、本当ですか!?」 いきなりの大当たりに、思わず疑ってしまった。 「あぁ、誰が嘘なんかつくか。いますぐに案内してやれるけど、どーする?」 それは願ってもないこと! 僕は一も二もなく返事をし、そのまま彼についていくことにした。 「……で、ここに居るんですか?その、相方さんが」 「わりぃな、昨日の今日で。ただ、俺たちの待ち合わせが……ここだったもんでさ」 忘れもしない、トマト事件の現場。 僕としては、あまり利用したくない場所だったが、贅沢は言ってられない。 「えーっと、何処かなーっと。……あ、居た居た!」 トニーノさんは、奥の方のテーブルに向かって手を振る。 「ヘイ!マスター・シルヴィア!」 「ぁ?なによ、トニーノ。急にそんな呼び方で……」 トニーノさんの呼びかけに応えたのは、紅い髪のキレイなお姉さん。 片目が髪で隠れてて、ちょっと色っぽい。 人形技師といえばレインさんみたいなお年寄り……と思っていた僕としては、正直びっくりだった。 「こちら、セロ!今回のお客さん」 「……で、こっちがさっき話した人形技師――シルヴィア」 ササッとトニーノさんがふたりの間に入り、それぞれを紹介。 「ど、どうも。セロと言います」 僕は失礼にならないようにと、自分でも名乗ることにした。 「あ、あぁぁ!はいはい!お噂はかねがね……」 「(――うわさ?)」 僕は、どこかでシルヴィアさんに知られるようなことをした? いや、それ以前にトニーノさんとさっき会ったばかりで―― 「違うって!その『セロ』は別件。こちらは新規のセロさん」 「あぁ、それは失礼しました。えっと、この人もセロさんね?」 やっと話がかみ合ったかというように、ふたりは同時に笑う。 どうやら、僕と同じ名前の人が仕事をお願いしていたらしい。 「それで今日は、どういったご用件ですの?」 「実は僕の連れに《シスター》〈人形〉が居まして――」 気を取り直し、さっきトニーノさんに話したような説明を繰り返す。 「……あ、はいはい。《シスター》〈人形〉が体調を崩されているのね」 「そうそう!だから、プロのシルヴィアならチョチョイと直せると思って連れてきたんだよ」 「……バーカ。人形技術は、そんな軽いもんじゃないよ。だいたい、アンタはいつもそうやってアタシの技術を軽く見て――」 「おっと、すまねぇ。思わずセロにイイ顔したくってさ」 「ふん、どうだか」 どうも、シルヴィアさんの方が上の立場らしい。 「……で、その《シスター》〈人形〉は、いつぐらいの生まれ?」 「詳しくは知らないですが、それなりに昔の《シスター》〈人形〉かと」 「……うーん。そうすると、ちょっと難しいわね」 やはり、若い人形技師さんには古めの《シスター》〈人形〉は扱いづらいとかあるのだろうか? 「でも、どうにかできるかも。あー、だけどねー、うーん」 天井の方を向いたり、床を見たり。どこか落ち着かないというか、言い出しづらそうな雰囲気。 「何かあるんですか?」 「……うん。診てみないと分からないけど、アタシが持つ《 ドロップ》〈人形〉石がね……」 チラリ、と相方を見るシルヴィアさん。 それに対して、コクコクと頷いたトニーノさんは、 「あとでモメるのも何だから、説明しちゃえよ」 と言う。 「……『しちゃえよ』ですって?」 「……した方がよろしいか、と思います」 おどける彼を一瞥したシルヴィアさんは、大きく息を吸ってからこちらをマジマジと見る。 「ぶっちゃけ、そこそこの値段するのよ。《 ドロップ》〈人形〉石って」 「えっと……」 それは何となく知っている。 しかし実際に幾らぐらいするモノなのか、買ったことがないので判らない。 「ひどく高いってわけじゃないんだけど、検診する際には……どーしても必要でね」 「一度使うと、他の《シスター》〈人形〉には使えなくなるんでしたよね、マスター・シルヴィア?」 「そういうことなの」 彼のフォローを受けて、シルヴィアさんが目を伏せる。 要するに、『何だかんだでお金がかかるけど出せるの?』と言いたいらしい。 「わかりました。……それで、お幾らぐらいですか?」 「…………モノにもよるけど、これぐらいね」 差し出された紙には、記憶石、動力石、五感石などがリストアップされている。 そして、その横に並ぶ数字が彼女の言う『そこそこの金額』と見て間違いないだろう。 「(――桁を見間違えないようにしないと……)」 念のため、テーブルの下で指折り数えてみれば――手持ちの半分から全額に近いと判明した。 「は、払えないこともないんですが……モノによりそうで」 「まあ、困ってるみたいだからオマケはするわ。そうそう出る商品でもないし」 シルヴィアさんは軽く目を伏せ、唇だけで『お互い様よ』と言い、テーブルから立ち上がる。 「とにかく、その《シスター》〈人形〉を診てみましょ」 「あっ、ありがとうございます!」 これでレインさんが来るまで、容態が悪化しなければ―― 「……と、その前に。ちょっと失礼」 「おや、先生どちらへ?」 「……お化粧直しよ」 ニンマリしたトニーノさんの頬を笑顔でつねり、そのまま歩き去るシルヴィアさん。 残された僕たちは、少し気まずい空気を苦笑で誤魔化す。 「……あー、セロ。実は、ちょいと相談が」 「なんでしょうか?」 シルヴィアさんの後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認し、トニーノさんは僕をテーブルの中央まで手招きで呼び寄せる。 「マスター・シルヴィアのことなんだけどさ――」 「あの人、いざ診察が終わると、お金を受け取らない可能性があって」 「えっ?どうして?」 いまさっき、こちらが支払えるかどうかで考え込んでいたというのに? 「なんていうか、お人好しでね。ただ、それをされちゃうと、仲介の俺も食い上げっていうか……」 トニーノさんが手早く説明するには、仕事はする前は慎重なくせに、いざ受け取りになると気が大きくなって『要らない』とか言い出すとか。 それではさすがに、診てもらうこちら側としても困る。 「払います、絶対に。無理にでも押しつけます。何でしたら、いま……」 財布の中を再確認しながら、ホテル代など最低限必要な額をより分けていく。 ……こんなとき数学が得意だったら、サッと渡せるのに。 僕はなるべく焦らないように計算し、所持金の半分までは渡しても平気だと判断する。 「……それじゃ、これが前金ということで」 「前金?そっ、そりゃ悪いだろ……」 「いいえ。どっちにしたって払うお金の一部ですから……」 最終的に足りないときは、レインさんの到着を待って僕が借りて残りを支払うことになる。 「そこまでいうなら、預かっておくぜ。ありがとな」 「はーい、お待たせ……って、ふたりで何コソコソしてるの?」 「いや、何でもないさ。なっ、セロ?」 「は、はい!」 危うくやりとりを見られたかと思ったが、シルヴィアさんは気づいてない様子。 それでも何か気にかかるといった感じが拭えないらしく、僕らふたりを交互に見る。 「……ん?まぁ、いいわ。それで、《シスター》〈人形〉はどこに?」 僕は部屋に行って了承をとってくると言い残し、そそくさとダイニング・バーを出る。 あとはきっと、トニーノさんがうまく誤魔化してくれるに違いない。 「ふーん、すごくマジメそうな子ね。どこで捕まえたの?」 「まぁ、人生に運命的な出会いはよくあるってことさ」 「バカ言ってないで、ちゃんと答えな」 アタシはトニーノの鼻をキュッとつまんで、言葉を続ける。 「情報に乏しいと、仕事がしづらいんだよ。もしもあの子が《シスター》〈人形〉に詳しかったりしたら、そこそこ危険な橋を渡ることになるんだよ?」 「あぅ、あぅ……いぎぐじぐで、ごだえらんねぇっで」 「はいはい。それで?」 「……昨日の晩、ここで会ったんだよ、ここで。どこぞのオヤジにからまれてるところを助けて知り合ったのさ」 「へーっ。アンタでも人の役に立つことがあるんだね」 「当たり前さ!さっきのミス、フォローしたのは誰かな?」 「ふん!アンタだよ」 急に初見のセロを紹介され、テキトーに『お噂は……』とか言ってしまったアタシ。 「ということで。頼れる男トニーノ、これからもよろしく」 それに助け舟を出したことをアピールされてしまった。 「……はいはい」 トニーノは、相棒として悪くない。 今回みたいにお客を見つけてきてくれたり、車の運転もしてくれる。 下戸だからお酒の相手はしてくれないけど、アタシが少し酔っぱらっても大目に見てくれる。 「(――でもねぇ……)」 問題なのは、アタシがそこそこの関係のトニーノを前に―― 「なぁ、シルヴィア」 「あによ?」 人が考えごとしてるときに話しかけてくるな! 「……今回の仕事が終わったら、どーする?」 トニーノの言う『今回』とは、さっきのセロのことだろう。 「どうするって?」 「しばらく、この街を離れるかい……ってことさ」 「…………どういうことだい?」 「さっき、役場で張り紙を見てきてさ。とうとう、この街でも『尋ね人』に昇格しちまったようで」 「……見間違えじゃ……なさそうだよね、やっばり」 いただけない。非常にいただけない。 「この前の《 ・ ・》〈ヒヒ〉じじいを相手に商売したのが、運の尽きだったみたいだよなぁ」 「イヤなヤツを思い出さ、せ、る、な」 種類は問わず《 ドロップ》〈人形〉石を大量に買い付けてくれるって話を聞き、喜び勇んでお屋敷にうかがったアタシ。 そこに待っていたのは、いかにもスケベそうなオヤジで。 そりゃ、手や肩を触られるぐらいなら我慢できたけど―― 「……あぁぁ、もう!お尻がムズムズするぅー!」 「……シルヴィア、もしかして……欲求不満か?それなら、このまま上に行って……」 「バカッ!昼間っから何いってんのよ!ったく!」 勘違いトニーノはビンタ一発で許してやるけど、あのスケベオヤジだけは許せなかった。 ビンタのあと、転がったケツを蹴っ飛ばしてやったら、『あぁん!』とか、変なおまけまで聴かせやがって! 気持ち悪いからそのまま放置して帰ったら、次の日の朝…… アタシたちふたりは『人形石詐欺のコンビ』として、望みもしないデビューを果たしていた。 「アタシ、まだ何も悪いことしてなかったのに……」 「……その『まだ』ってのがくせ者だよな」 「うっさい!派手に粗悪品を掴ませてやりたかったのに、未遂に終わってお尋ね者じゃ……」 「おぃおぃ、声がでかいって!とにかくこれが終わったら、このオーベルジーヌからおさらばしようぜ」 「そうね。そのためにも……」 今回のお客様――セロからは、そこそこの額を頂戴しないと。 もちろん、人形技師初級&調律中級のアタシにできる範囲のことはする。 使う《 ドロップ》〈人形〉石も、値段よりちょっと落ちるぐらい。 お互い様ってことで、手打ちにしてもらうつもりでいこう。 「そら、噂をすれば何とやらだ。おーい、セロ、どうだった?」 バーに入ってきたセロは、小走りでテーブルまで戻ってくる。 「あ、どうも。それが、部屋に居ると思ってたんですけど……」 カギがかかっており、中の気配もないことから外出しているかもしれない……と、セロは言う。 「どこか行きそうなところはあるのかい?誰かが呼びに来て出て行ったとかは?」 「もしかしたら、付き添いの女の子と一緒に外出したのかもしれません」 「……うーん、困ったわね」 《シスター》〈人形〉が居ないのでは話にならない。 適当な《 ドロップ》〈人形〉石だけ渡して『これで平気!あとは頑張って!』とかでもいいが、それはさすがに心が痛む。 ……かといって張り紙が出回った以上は、あまりこの街に滞在したくもない。 「(――いつでも脱出できるように、車の準備だけはして……)」 「……ねぇ、セロ。うちらはホテルの前で待機してるから、見つかったら声かけてくれるかしら?」 「わかりました」 セロを見送ってから、アタシはトニーノをホテルの前に残し、車を回してくる。 「どうかしら?セロの方は」 「いいや、セロからはまだ何にもないね」 「……そう。早いとこ戻ってきてくれると助かるんだけどね。ちょっとセロのところに行って、どんな感じの子か聴いてよ」 「どんな感じって?」 「容姿とか、特徴とか、その辺りを。正面から戻ってくれば、声かけて捕まえられるでしょ」 「おー、そういうことか。了解ー!」 鼻歌交じりで階段を上がっていくトニーノを見て、アタシは車から降りる。 患者さんは、一体どこをほっつき歩いていることやら。 体調を崩しているなら、部屋で休んでいればいいものを。 きっと子どもの《シスター》〈人形〉で、あっちフラフラ、こっちフラフラ……みたいな感じに違いない。 「るる、るー。ら、ららー」 「そうそう、こんな感じの……」 「んぁー?」 何ともいえない《シスター》〈人形〉が、アタシを見上げている。 「あの、アナタ……もしかして」 もしかして、この子が……セロの言う《シスター》〈人形〉? 「あい?ボ〜ク?」 「そう、アナタよ、アナタ」 こんなへんぴな街で、《シスター》〈人形〉なんてそうそう居るもんじゃない。 きっとこの子が、セロが診てもらいたいといっていた《シスター》〈人形〉に違いない! 「こんにちは、《シスター》〈人形〉さん。お名前は?」 「こんにち、はー。ボ〜ク、コーコ、です」 「アナタが、セロのお連れさんね?」 「セーロー?そうで、す。ボ〜ク、セーロと、いっしょー」 「(――ふぅ、やっぱりね)」 この街に《シスター》〈人形〉持ちのセロが何人もいない限りは、この子がアタシの患者さんということだ。 「セーロー、の、おともだ、ちー?」 「……まぁ、そんなところね」 面倒なやりとりは要らない。変になつかれても、あとでやっかいになるだけだから。 「アナタ、喉の調子が悪いのね?」 「そーな、のー?」 「明らかに、そうにしか見えない……ってか、聞こえないわ」 見た感じ、この《シスター》〈人形〉は相当古め。 セロを相手に古いと多少難しいような顔をしたのは、軽く値段を吊り上げられるかなーとか、考えたから。 実際のところは、古い方がアタシにとってはありがたい。 「なんてったって、アタシの持つ《 ドロップ》〈人形〉石は――」 旧式も旧式。最近の《シスター》〈人形〉にはほとんど効果を発揮しないモノばかり。 今回は、それが役立つという粋な神様の計らいなのだ。 「よし!チャッチャッと片付けよう、チャッチャとね!」 「チャッ、チャ!チャッ、チャチャチャ!」 何が楽しいのか、アタシの真似をしているつもりらしいけど、どうにも調子が狂っている。 「えっと、《 ドロップ》〈人形〉石はどこに……」 アタシはかがみ込んですぐ、その在処を見つけてしまった。 「(――首からぶら下げてる瓶に入ってるなんて)」 これまでで最速の発見にして、最大級のカルチャーショック。 外部に石を持つ《シスター》〈人形〉は何体か見たことはあっても、こんな透明瓶に入れてあるのは―― 「ず、ずいぶんと暴力的なデザインね。キライじゃないけど」 「ぼうりょく、ダメー」 「そうね、その通り。じゃあココ、ちょっとだけ首の瓶……貸してくれる?」 「えーっ?なん、でー?」 「治してあげるから。はい、貸して」 「……うん。あい」 素直なココは、あっさり頭を下げてアタシに瓶を委ねる。 「ふふん、ふーん。結構、大雑把な石の配置ね。……ただ詰めただけに近いわ」 それで普通に機能しているところを見ると、この子は結構な技術で造られているのかも。 「……言語石、言語石……あれ?何か変ね」 一見したところ、言語石そのものが瓶の中に存在しない。 そうなると、この子は内部にある補助の石で喋っているとか? 「……ま、いいわ。とりあえず、入れてみましょ」 アタシの持つ言語石は、残りひとつ。 ラッキーなことにリストの中でも一番値が張るモノだから、今回の商売は大成功かも! いつもみたいに心苦しい販売方法じゃないし、真っ向からお代を請求できる。 「はい、おしまい。どう、調子は?」 「んー?なんか、あれ、れー?」 「おかしいわね?反応出るまで、時間かかるのかしら?」 多少のズレはあっても、効果のほどはそれなりに見えてくるはずなんだけど…… 「発声練習してみましょうか?……『あ』とか『い』とか」 「あ、い?」 「さっきと変わらないわね……って、それがアナタのお返事か」 「あい、あい」 こうなると、セロに見てもらってどの程度改善されたかを確認してもらうほかなさそうだ。 「……シルヴィア!」 やっと情報収集から戻ってきたトニーノを見て、アタシはちょいちょいと目の前の《シスター》〈人形〉を指差す。 「遅いわね。もうとっくに捕まえて、処置も終わらせたわよ」 「あぁ、そうだったんだ。……で、そこにいる子は?」 ……話が通じないニブチンね! 「……この子でしょ、セロの言う《シスター》〈人形〉って」 ココは両手を挙げたり下げたりに夢中で、こちらを全く気にしてない様子。 「んんーっ?セロに聴いた話だと、《シュエスタ》〈人形〉の背中には羽根があって……」 「あのゼンマイ巻きが羽根ってことかしらね?」 「かわいいとキレイの中間ぐらいの、天使みたいな……」 ――かわいいは当てはまるけど、キレイはどうなの? 「……髪の特徴とかは?」 「軽いウェーブのかかった、短めの金髪……だったかな?」 「ねぇ。あれ……金髪に見える?」 「……いや、どう見ても金には見えねぇ」 アタシは、だんだんと不安を覚えてくる。 「……ねぇ、ココ。ちょっとこっち戻ってらっしゃーい」 「あいあいあい、あいあいあい」 「…………なぁ、シルヴィア」 「なによ、いま忙しいんだから」 「診てもらいたい子の名は、『ベル』って言うらしいぞ」 「………うっそ」 ココじゃなくて、ベル? そうするとアタシは変な思い込みで、ココに無用な《 ドロップ》〈人形〉石を与えたわけね。 「あーぁ、無駄なことしたわ。とりあえず、回収しなきゃ」 多少粗悪とはいえ、そこそこの価値はある。 アタシはココを呼び戻し、首にかけてあげた瓶から言語石を回収しようとするが―― 「あお、あお、すす、めー、どーこーまーで、もー」 右手右足、左手左足の組み合わせで。 「あか、あか、すす、めー、どーこーまーで、もー」 「あ、あのね?」 ……ココは、ズンズンとホテルの中へ入っていく。 「……なぁ、シルヴィア。なーんか、様子が変じゃないか?」 「う、うん。むかーし、師匠のところで見たケースにそっくり」 「……それって、どんなことになったのさ?」 「《 ドロップ》〈人形〉石の相性が良いのか悪いのか、突然元気になっちゃって」 「……で?」 「そりゃもう、周囲を気にせず暴れて暴れて……大変だったの」 そう言った矢先。 「……シルヴィア。いまのは……」 何かが砕ける音、かしら? 「…………あ、あはははっ」 「もしかしなくても、やばいんじゃねーの?」 「……ふ、ふふっ。ふふふっ」 「ち、ちょっと?ど、どーするのさ!」 「心配しないで。こんなこともあろうかと……」 アタシらにとっての『最悪の事態』だけは回避する! 「逃走準備完了!」 「まっ、待てよ!あれ、あの子のことは……」 アタシはモタモタしているトニーノを無理矢理助手席に引きずり込み、車を急発進させる! 「早く乗って!」 「乗ってっていうか、乗ったっていうか……」 「行っくわよーっ!」 「待てって!お前の運転だけは勘弁してくれ」 「うるっさい!舌かみたくなかったら黙ってな!」 これから起こるであろう騒ぎに、アタシたちが絡んでいたのがバレる前に、この街を出ないと! 「冷静になれって!俺が運転を代わぁぁぁ……!」 「だーっ!一刻も早く脱出よ!脱出が先なのっ!」 「そ、そんなにまずいのかぁ!?」 「……知らないわよ、知りたくもない!」 器物破損の弁償とか罰金とかで済めばいい。でも、アタシたちにはそれ以上のモノが待っている。 「……いい?アタシらはお尋ね者なの。もしも下手に足止め喰らって調べられたら、そのままお縄なの!」 「確かに、そうだけどよぉ……うぉぉぉっと、右っ、右!」 ハンドルは言われた通りに、右、右っ! 「あーん、もう!今回は儲けゼロどころか、《 ドロップ》〈人形〉石ひとつを無駄にしちゃったわよ!」 「そっ、それなら平気さ。セロが前金くれたからな」 「……えっ?そうなの!?」 「いいヤツだぜ、アイツは!何かのためにとか言って、わざわざ俺に金を押しつけてくれたのさ」 まさに、その『何か』が起こったのだ! 「……あ、でも……」 「ん?」 頼まれた仕事をせず、勘違いでココを暴走させつつ、お金はしっかりもらって逃げる。 「……これって、本物の詐欺じゃない!?」 今回ばかりは、言い逃れもできないってこと!? ベルが戻ってくるのをいまか、いまかと待っていた僕。 部屋の前に立ったままでは他のお客さんの邪魔にもなるし、不審者と思われる可能性もある。 そう考えて、僕は通路を挟んで向かい側にある自分の部屋で待機していることにした。 「……遅いなぁ」 ……かれこれ、どれぐらい経ったかな? 「『特徴が判れば……』」 トニーノさんが来て、ベルの特徴を尋ねられてからは、誰も廊下を通らない。 ホテル前にはシルヴィアさんが居るので、ベルを見かけたら声をかけてくれると言うけど、果たして―― 「うーん。案外、ホテルの中に居たりして」 階段が幾つかあるホテルなので、タイミングが悪く別々のコースで行き違ってしまった可能性もある。 それともベルがぐっすり寝てしまい、アンジェリナまでも付き添いに疲れてウトウト……なんてパターンも? 「……だとしたら、もう一回ぐらいノックしてみるか」 そして、モノは試しと廊下に顔を出してベルの部屋に……と思ったとき。 階下から、誰かが上がってくるような音が聞こえた。 一瞬ベルであることを期待したが、この特徴的な足音は僕がよく知っている。 それは、どう聴いても――ココのモノ。 ベルたちでなくて残念と思いつつ、半ドアから廊下を覗き、こちらに向かってくるココの姿を見て……僕は声を失う。 「なっ、なんだ?」 ココは、いままでに見たこともないような速度で走っている。 まさに暴走という名が相応しい……なんて感心している場合じゃないぐらいのスピードで! 「コ、ココ、止まって!」 「んぁぁぁぁあぁぁぁー?」 僕の制止を振り切って部屋に飛び込んできたココは、ところ構わずぶつかりまた同じ勢いで出て行く。 「止まるんだ、ココー!」 「あいあいあいー!」 そして、よいお返事とは裏腹に止まる素振りは皆無のまま。 「うぅぅ、わぁぁーい」 大声で廊下を突っ走り、お客さんにぶつかりそうになる。 ホテルの従業員さんを驚かせ、食器を割らせたりもする。 そんなこんなで、また部屋の前を通り過ぎようとするココに飛びついて止めようとしたが、それも叶わず。 「どうしたんだよ、ココ!?」 振り回す手で倒れたモップが、窓ガラスを破壊! 「とーまーらーな、いーのー」 このフロアの通路を駆けめぐったココは、来たときと同じスピードのまま階段を下りていく。 「……まずい。このままだとホテルの外に」 何とか建物にいるうちに捕まえようと思ったのに、日頃の運動不足がたたって追いつけない! 「待って、ココ!」 「うー、わーぁー」 何がどうなっているのか!? 「あ、ワカバ!ココ見なかったか!」 「えっ?ココならいま、すんごいスピードであっちに走っていったけど……」 「ありがとう!」 見失ったココを発見しようと、ワカバが指した方向へ。 しかし、それなりに道が交差する街中では、直進したのか曲がったかも見当がつかない。 「あー、どこだよー!……ん、あれか!?」 立ち止まって目を凝らし、一瞬通りを横切るココを見つけてそれを追いかける。 そして、縦横無尽の追いかけっこの果てに―― 「ココ!こっちにおいで!」 「あいあいあいー!」 ホテルの前、真正面から全速力で突っ込んでくるココと、僕は対決することになった! 「必ず止めてみせる!」 「とー、めー、てー!」 僕はココを信じ、きっとココも僕を信じて―― 「ち、ちょっと、そのスピードは……」 む、無理!命が幾つあっても無理!死にものぐるいになったつもりでも、横から腰に手を伸ばすのがやっと。 それでも掴んだ身体は放さず、全体重をかけてブレーキをかけようと試みたけど、けど、けど! 「あ、あいたっ、いたたたっ!と、とまってぇ!」 ココに引きずられる格好で、僕はまたホテルの中へ。 今度は部屋に戻らず、1階のダイニング・バーへと突き進む。 「みっ、みなさーん!逃げてぇー!逃げてくださーい!」 「あいあいあいー!にー、げー、てー」 暴走ココはカウンターをコース代わりに走り出し、近くにあった物を手当たり次第に引っかき回していく! 「なっ、なんだぁーコイツは?」 そのとき聞こえてきたのは、僕にトマトをぶつけた人の声。 あの酔っぱらいのおじさんは他の人より逃げるのが遅れて、突っ込んでいくココを避けられずにいた。 「あっ、危なーい!」 「ぶ、なぁーい!」 ココは、おじさんを前に大ジャンプを試みて―― 着地箇所は、激しく手前。 「(――間に合わなかったー!)」 「ぐえぇぇぇぇ!」 おじさんの後頭部に、踵落としをお見舞いしてしまったのだ! 「コ、ココーぉ!」 「うひーぃ!」 「ぷ、ぷぃぃぃぃ……」 潰されたおじさんは、妙な声でカウンターに熱いキスを。 「だっ、大丈夫ですか!?」 「……い、いでぇ……」 「(――あぁぁぁ、もう……!)」 僕は何とか暴走を止めようと、必死になって手を伸ばし―― 「……こっ、これか!?」 ココの首からぶらさがる人形石の入った瓶を指先に引っかけ、何とかそれを外すことに成功した。 ……が当然、これで全てが解決したわけではなく。 「……本当に、本当にすみませんでした!」 僕はホテルの偉い人に頭を下げて回りつつ、今回の事件でココに重い処分が下らないように、とお願いをする。 しかし、世の中はそれほど甘くはない。 当然のようにしっかりと事情を聴かれることとなり、場合によっては公安系の機関への引き渡しもある……と言われた。 「(――しかたないよな……)」 そして、どんな処分が下されるのかとビクビクしていると、『僕宛てに電話が入った』と言われる。 一体誰からだろうと思いつつ、電話口に出てみれば―― 「『あー、セロ君かね。ずいぶん派手に暴れたそうじゃの?ほっほっほー』」 相手は、なんとレインさんだった。 「そ、それでお咎めナシになっちゃったの!?」 「キツいお説教と……罰金で、今回は許してくれるって」 昼の一件の一部始終を聴いたワカバが、拍子抜けと言わんばかりの表情で、 「色んな意味でありえないわ」 と呟く。 「うん、そうなんだよ」 ココの処置も罰金も、全ては明日到着のレインさん預かりとなり、僕たちはめでたくも解放。 少し従業員さんの目が厳しいのを我慢できれば、このままホテルに滞在することも許可されてしまった。 「……ねぇ。あのおじいさんって、何者なのよ?」 「…………国宝級の人形技師ってことだからか、な?」 青の都での待遇には少し困ったが、今回ばかりはその力に頼らざるを得ない。 ……お金も然り。 「…………あ!」 「どうしたの?」 僕は、お金というキーワードで思い出す。 トニーノさんに前金を渡しておきながら、ベルの様子を診てもらってないじゃないか! 「どうじゃ、調子は?」 「……はい。だいぶ落ち着きました」 一昨日、オーベルジーヌで下車したセロ君から電話で《ベル》〈娘〉のことを聞かされたときは、少しばかり焦った。 ……が、それ以後は容態も悪化しなかったようで何より。 昨日の時点で外出できるまでに回復しているのなら、さして心配することもない。 「しかしお前らしくない……というよりは、ワシのせいじゃな」 青の都に向かうとき、慣れない環境で神経をすり減らさないようにと持たせた《 ドロップ》〈人形〉石は薬的な意味合いだった。 ひとつだけにしておけば良かったものの、もうろくしたのか……余計に渡してしまったのがそもそもの原因だ。 「ううん。お父さんは悪くないの。うっかりしていたワタシのミスだから」 娘は儂を気遣い、首を横に振る。 半世紀以上の親子関係ともなれば、お互いの性格は重々承知。 最近では、娘の方が儂に合わせてくれている。 「ともかく、様子を見てみようか」 「……ふむ」 儂は、調律との平行で解復作業を行う方法をとる。 人間でいえば、問診をしながら手術を施すようなもの。 まさに、人形技術ならではの治療手段といえる。 「まだ《 ドロップ》〈人形〉石は吐き出しておらんかったのじゃな?」 「はい」 技師によっては『精度が低下』を理由に平行作業を嫌がるが、儂としてはこの方がしっくりくる。 「では、儂の方で外しておくぞ」 予想通りというべきか体調不良の主な原因は、《 ドロップ》〈人形〉石の力がキャパシティを超えてのことだ。 ……が、どうもそれだけではないように思える。 「……何か、気がかりなことでもあるのかね?」 「気がかり……」 「そうじゃ。いくつかの石に微弱ながら『揺れ』があるの」 娘の迷いは、石の輝きに現れている。 「何か気になることでもあるのか?」 「…………はい」 微かな間が入っての肯定。 それが意味するところは、《ベル》〈娘〉自身の無意識にも近い領域の答えということ。 「演劇祭か。参加することに、まだ抵抗があるのかの?」 「…………分かりません」 「ふむ。抵抗というよりは不安か」 「……はい」 「何が不安なのか……とは訊くまでもないか」 ワカバ君が娘を誘った第一の理由は、《シスター》〈人形〉だからということ。 しかし、求められたモノはそれだけではなかった。 「(――唄、か……)」 質問を止め、少し考える。 ……どうするのが最善か、を。 儂が一時的に調律で補強することはできる。 娘が自力で歌えるようになるのを信じ、手を貸さないこともできる。 親として、どうすべきか。 「……難しいのう」 この歳になっても、まだまだ迷うことは多い。 だが、そんなときにいつも辿り着く指針は決まっている。 「(――失敗は成功の素……)」 何事も経験が大切。 そして、生き物とは自らの手で未来を選ぶことで成長する。 ならば儂は必要以上に手を出さず、選択肢を与えるに留めるべきだろう。 「……人前で唄を歌ってみたいかの?」 「……はい」 「それなら、あとでひとつ《 ドロップ》〈人形〉石を渡そう」 儂は、今回の体調保持に失敗した石の再利用を試みる。 今度は人前でも緊張せず、自分自身の思考に集中できる力を発揮するような効果を与えておく。 「……使うか使わないかは、自分で判断しなさい」 《ベル》〈娘〉の人生は《ベル》〈娘〉のモノ。 たとえ《 ・ ・ ・》〈生まれ〉がどうであれ、命を得たからには自らの意思で生きていく権利があるのだ。 「……あ、あの……」 あたしは、何故かホテルのダイニング・バーでレインさんと差し向かっている。 他にセロやワカバが同席するわけでもなく、テーブルにはふたりだけ。 いつものあたしなら『相手が男性』という理由でソワソワしてしまうが、相手が高齢なためにそれはない。 ただ、これから何を言われるかと思うと……そちらの方が気になってしまう。 「うちの娘が世話になっているそうで」 「え、そ、そんなことありません。あたしの方こそ……」 「ほっほっほ!まぁ、そんなに緊張しなさるな。ひとまず、好きなモノを頼みなさい」 「…………じゃ、お言葉に甘えて」 あたしはシーザーサラダを注文し、指を二本立てる。 「ん?儂の分なら気にせんでいいぞ」 「いっ、いえ。……あたしが……その……二人前を」 「……ほっほっ!そりゃ失礼。いやいや、若い証拠じゃ」 さっきから笑われっぱなしで、肩身がせまい。 レインさんはそんなあたしを気にもせず、あっさり目の鶏肉料理と水だけを頼んだ。 「他にも何かあるなら、自由に頼んでいいんだよ」 「は、はい」 そうは言われても、あまり人からご馳走されることに慣れていないので、どこまでOKなのかが判らない。 「……ところでレインさんは……」 「ん?じーさんとかの呼び方でいいぞ」 「そんな失礼な真似はできません」 確かさっきライトがそんな呼び方をしていたが、あたしには無理。 お年を召した方には、それなりの敬意を払うべきだと思っている。 「そうか?だったら、そうじゃの。ヘルマーと苗字で」 「……ヘルマー、さん、ですか?」 「あぁ。昔な、アンジェリナ君に似た女性から、そう呼ばれておった」 「――もしよければ、年寄りの思い出に少し付き合っておくれ」 「……わかりました、ヘルマーさん」 仕切り直しの意味で、レインさんを苗字で呼ぶ。 ……と、子どものような笑顔で会釈をしてくれた。 「(――人形技師だっていうから、てっきり頑固で職人っぽい方かと思ったのに……)」 どちらかといえば、公園でのんびりひなたぼっこをしている普通のおじいさんだ。 「さて、料理もきたことだし。さっきの話の続きといこうかの。儂に何か尋ねようとしていたね?」 「はい。まずお尋ねしたかったのは、ベルとココのことで……」 「ふんふん」 「あのふたりは、もう平気なのでしょうか?」 「あぁ、娘は《 ドロップ》〈人形〉石の飲み過ぎによる体調不良。ココに関しては……まぁ、相性の悪い石を持たされただけのことじゃ」 「――人間の薬と同じようなモノでな。量や用法を間違えれば、毒にもなるのじゃよ」 「……そうだったんですか」 「うむ。特に《シスター》〈人形〉を動かす原動力自体、それら貴石の力。人間以上に左右されやすいのじゃ」 「――ココの暴れっぷりは、なかなかのものだったらしいの?」 「……あたしは直接見てなかったんですが……それなりに」 このダイニング・バーが現場なだけに、あまり声を高くして話せない。 「まぁ、ココは人に危害を加えたりはしておらんし……」 「え?あの、ひとり病院に運ばれましたけど……」 「…………まぁ、酔いさましの当たりどころが悪かったということで。ほっほっほっ」 病院入りした男性はココに後頭部を思いっ切り蹴られたが、できたのはたんこぶ程度の怪我だったらしく。 店内で壊れてしまったモノも含め、全てレインさんが示談という形で丸く収めたそうだ。 「(――や、やっぱりお金の力かしら……)」 もしも《 う  ち》〈孤児〉院の子たちがそんな真似しでかしたらと思うと、背筋が寒くなる。 「……ところで、アンジェリナ君。ひとつ尋ねてもいいかな?」 「はっ、はい!なんでしょうか?」 急な質問に驚き、フォークを落としそうになる。 「キミは、うちの娘をどう思う?」 「……どう、とは?」 「うーん、思うままでいい。特に限定はしないで」 そう言われると、逆に難しい質問だ。レインさんは、何をもってそんなことを……と考えてしまう。 「うまく言えないですけど、とてもキレイでかわいい……とか」 口にしても、やはりありきたりな言葉しか出てこない。 「……むぅ、そうか。少し見込み違いだったかの?」 「見込み違い?」 「いや、なに。さっき娘と話していたときにな。何かにつけてアンジェリナ君のことを話題にするからの」 「……?」 「てっきり、娘がキミに『特別な何か』を感じているのかと思ってな」 「……は、はぁ……」 「アンジェリナ君の方にも『何か』あるのかと思っての」 ベルが?特別な何かって……何? あたしの方にも、って……ベルに? 「おっしゃることが、よく分かりませんけど……」 「……じゃろうな。きっと、他人のそら似のせいじゃろ」 レインさんは寂しげに微笑み、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。 そして静かに、 「儂があの子の父親というなら、母親的な存在も居たんじゃよ」 と呟いた。 「その人が、あたしに似ている……とか、ですか?」 逆をいえば、『あたしがその人に似ている?』……になるか。 「ほっほっほ。賢い子じゃのう。その通りじゃ。ただ、な」 「――その女性も、誰かに似ておったからこその『母親』……」 「運命とは、こういうことを言うのかもしれんのう」 「…………?」 ベルがあたしに、何か特別なモノを感じているとして。それは、ベルの母親的な存在の女性に似ているのが原因? ……それで、さらにその女性も『他の誰か』に似ている? ――ダメ。頭の中が、こんがらがってきた。 「あまり悩まないでおくれ。年寄りの《たわごと》〈戯言〉じゃよ」 「……分かりました。でも、ひとつだけ教えてください」 「なにかな?」 「ベルがあたしに『特別な何か』を持っているとして……」 「それは、お母さんのイメージをあたしに重ねている……ってことですか?」 「……難しい質問じゃの。娘には母親の記憶はないからの」 「だったら、他人のそら似とか関係ないのでは?」 ベルにお母さんの記憶がないのなら、どうやってもあたしと比べようがないはず。 「手厳しいのう、アンジェリナ君は」 「……あっ、すみません」 「じゃがの。人は記憶だけを頼りに、誰かを求めたりはせんよ」 「えっ?」 「たとえ記憶という名の『運命』に導かれたとしても、未来をどうするかは……本人次第」 「――だからの、アンジェリナ君。よければうちの娘を……しっかり見守ってやってくれんか?」 「できれば、過去に縛られるような生き方を……させないでやってくれ」 レインさんの話は、最後まで難解だった。 だけど何故だか、いつか解る日がくるような気もする。 それはきっと、レインさんが自分の人生の中で学んだことを伝えようとしている……から? そのあとあたしは何度もベルのことを頼まれてから、部屋に戻る。 「(――うふふ。あたしは、ベルのお母さんじゃないのに)」 どちらかといえば、ベルの方がずっと長く生きていて―― 見た目は年下、中身は年上。 そんな子が、あたしに何を求めているのか? ……逆にあたしは、ベルに何かを求めたりするのだろうか? 「(――ま、当座は……)」 舞台のパートナーとして、しっかり練習についてきてもらうことかもしれない。 「あれ、ワカバ?こんなところでため息なんかついて、どうかしたんですか?」 「……ううん、何でもないの。ただ、私がまたこの列車に乗るのって、どうなのかなぁ……って」 レインさんの度重なるご厚意もあり、私たちはまた白の都を目指して寝台列車に乗れた。 もちろん、それは金銭的な意味での話。 「『……すみません。本当にすみませんでした』」 「『そんなに謝らんでもよいよ。若いうちは何事も経験じゃ』」 そんな一言で解決されてしまうと、こちらも立場ないなーと思っていたら…… 「『――まぁ、出世払いということで。ほっほっほっ』」 重い催促が、私の未来に回される方向に傾いた。 「あまり気にしないでください。元々、ワタシがみんなに伝えてなかったのが悪いわけだし」 「ううん。それはないわ。ベルは悪くないの」 「それにほら。仮に白の都まで行く予定でも、ワタシが体調を崩したから結局は……」 結果論って、あんまり慰めにはならない。 でも、あんまりウジウジしてても始まらないのだけは確か。 「……うん、ポジティブに忘れる!」 「……あ、あはははっ」 「ところでベル。もう、調子の方は完璧?」 「はい。父が調律をしてくれたおかげで」 「……私たちって、もう一生おじーさんに頭が上がらないわ」 「――この旅の始まりも、ココの一件の後始末も……」 何から何まで、全てがレインさんのおかげ。こうなったら、私は劇を成功させて一発逆転を狙うしかない! 「……それにしても。ココちゃん、そんなに暴れたんですか?」 「うん。私も一部始終は見てないから何とも言えないけど、あれだけ疲れ切ったセロから察するに……」 きっと、すごいことになっていたのだろう。 「だけどあれはセロやココが悪いってよりは、変な《 ドロップ》〈人形〉石を掴ませた詐欺師がいけないのよ」 「……詐欺師?」 「話せば長くなるんだけど――」 私はベル相手に、トマト事件とその流れでセロが人形技師を紹介されたことを話す。 「そんなことがあったんですね」 「えぇ!もしどっかで見つけたら、そりゃあもう、口では言えないようなことしてやるんだから!」 少なくとも、セロから奪ったお金は倍返し! ついでに、泣いて謝るまで重労働の刑! さらには―― 「……ワカバ、何かすごく良くないこと考えてない?」 「あ、あははっ。き、気のせいよ」 ――もしも見つけたら、の話だから。 「アンジェリナさん、戻りました。ワカバと話していたら、ちょっと遅くなりました」 「『……開いてるわよ。気にせず入って』」 ワカバとの会話は思った以上に長引き、外の風景はすでに暗くなっていた。 「どうだった、他のみんなは?」 「セロは部屋で読書。ココはライトと一緒に、車両の端から端まで探検ごっこしてました」 「……そう。あのふたりって、いつでも元気ね」 ワタシはアンジェリナに同意しながらドアを閉め、彼女の向かいに座る。 「……それで、アンジェリナさんは何をしていたんですか?」 「あたし?あたしは、例によって例のごとく」 そう言って見せてくれたのは、タイプライターの原稿だった。 「これ、もしかして……」 「ワカバが書き始めた原稿ね。小説っぽいから、まだまだ台詞合わせとかはできないけど」 「良かったら、見せてもらえますか?」 「いいわよ。はい、どうぞ」 ワタシはさっそく頭から目で追いかけてみる。 「……題名『真説・天使の導き』……」 「すごく物議を《かも》〈醸〉しそうなタイトルよね」 「……は、はい」 さっきワカバ本人に聴いた話では、その内容を話していたらトマトを投げつけられた、と。 劇の本番でそんなことをする人が現れるとは思いたくないが、ヤジぐらいは覚悟する必要もありそうだ。 「まだ出だしだから全体は解らないけど、いまのところは……それほど過激でもないみたいよ」 「そう、みたいですね」 物語は赤の国から白の国へ、《シュエスタ》〈人形〉がやってくるところから。 よく見れば、最初の列車の部屋で練習した初対面のシーンが再現されていた。 「最初のシーンは、あたしがワカバに頼んで変えてもらったの」 「――せっかくあれだけ練習したんだから、役立てないとね」 「…………ありがとうございます」 「……な、そんなお礼言われるほどのことでもないわよ」 「でも、嬉しかったので」 正直な気持ちを口にしながら、続きを読む。 「《シュエスタ》〈人形〉は、白の国へ何をしに来るのでしょうか?」 「白の国があった頃、代々城主は《シュエスタ》〈人形〉を教育する力に長けていたの」 「――だから他国からも《シュエスタ》〈人形〉を呼び寄せて、その技術のほどを披露していたらしいわ」 アンジェリナの説明を受けながら、原稿を読み進める。 ワタシの中では次第に想像がふくらみ、いつしか目の前の彼女が『お姫様その人』としてワタシの前に立っていた。 「『何をしているのですか、《シュエスタ》〈人形〉よ』」 「……はい。中庭にある花を眺めていました」 「『花は好きですか?』」 「はい、とても好きです。……が、ほとんどの花の名前を知りません」 「『そうですか。名を知らぬことを恥じたりしますか?』」 「……いいえ。誰かと花の名前について語り合うこともありませんので」 「――花は花。ワタシには、それで充分です」 「『哀しいことを言うのですね、そなたは』」 「そうでしょうか?名前を知らずとも真価を知りさえすれば、それで充分ではありませんか?」 「『分かりました。では、わたくしもそなたの名をあえては尋ねません』」 「『――《シュエスタ》〈人形〉 は《シュエスタ》〈人形〉。わたくしには、それで充分です』」 「……あ、あれ?」 「……『などと言われたら、そなたは……』っとっ!」 「読み合わせの途中で、急に戻ったりしないでくれる?」 読み合わせ?もしかして、ワタシが聴いていた声は―― 「いまの相手、アンジェリナさんだったのですか!?」 「……待って。何だと思っていたの?」 「…………て、てっきりクリスティナ姫かと……」 「う、うぅーん。あたし、ここは喜ぶべきなのかしら?」 「ワタシもよく分かりませんけど」 だけど、ひとつだけ分かったことがある。 それはワタシが原稿を握って読んでいる間、アンジェリナは暗記した台詞を口にしていたという事実。 やはり、舞台を目指す人にとっては、これぐらい当たり前のことなのだろうか? 「……それにしても、開始早々波乱含みな展開ね。《シュエスタ》〈人形〉は反抗的っていうか、冷たい感じがするし」 「――対するクリスティナ姫も、何だかんだで名前を訊かず、『シュエスタ』って呼び続けるようになりそうだし」 先ほどの続きに軽く目を通せば、アンジェリナの言うとおり。 そのあとクリスティナ姫から念を押されても、《シュエスタ》〈人形〉はためらいなくそれを認めている。 自らの名前を閉ざし、《シュエスタ》〈人形〉は何を望んでいたのだろう? 「歴史上でも名前が出てこない《シュエスタ》〈人形〉だから、こんな書き方にしたんだろうけど、収拾つくのかしらね?」 「……さあ、それは書いているワカバに尋ねてみないと」 「それもそうね。……だけど、このままだとあたしもあなたを『シュエスタ』って呼び続けることになりそう」 ……アンジェリナから、ずっと『シュエスタ』と呼ばれる。それは、どんな気持ちなのだろう? 「あの、アンジェリナさん。もし良かったら、しばらく……シュエスタって呼んでもらえますか?」 「……えっ?」 「そうしたらワタシ、《シュエスタ》〈人形〉の気持ちが少しでも理解できるかもしれません」 「…………」 「ワカバに尋ねれば教えてもらえると思います。……だけど、ワタシは自力で……」 「いいんじゃない?あなたがそう言うなら、協力するわ。そうすればあたしも、クリスティナ姫の心が掴めるかも」 アンジェリナはコクリと頷いたあと、真顔になって、 「――《シュエスタ》〈人形〉 は《シュエスタ》〈人形〉。わたくしには……それで充分です」 と台詞を繰り返す。 そして、それ以上のフォローは投げかけてこなかった。 こうして、互いを劇の役柄に置き換えたはずだったのに―― 「あ、あのね。日常でも『クリスティナ姫』って呼ばれるのは、かなり無理があるわね」 「えーっ!そうすると、ワタシだけ『シュエスタ』ですか?」 「だっ、だって。……《まちなか》〈街中〉であたしが『姫、姫』呼ばれてたらおかしいでしょ?」 言われてみれば、確かに。 ふたりだけだから、成り立つ世界。 少し寂しい気もするが、練習の時間まで我慢すればいいこと。 それに――アンジェリナは、アンジェリナ。 舞台にあがったときだけ、クリスティナ姫なのだ。 「はい、みんな!こっちにきて!」 オーベルジーヌから寝台列車に揺られること約1日。 僕たちは、劇の舞台となった白の都へと無事に到着した。 「すげーっ。あそこにあるのって、お城だよね!?」 「そうよ。あれこそがドルンシュタイン城。キレイよねー」 都の中心部にある広場から見える小高い山の上には、当時を偲ばせる白いお城がいまもそのままに残っている。 「よーし、さっそく行ってみようぜー!」 「はい、待った待った。その前にすることがあるよね?」 いつもながら楽しいこと優先のライトを捕まえて、まずはホテル探しから。 観光地だけに宿泊施設の数も多く、選ぶ楽しみも増えたと思っていたのだが―― 「このホテルがいいー!」 「いー!」 最初のホテルのカウンターでそんな大声を出されてしまい、他をあたることも難しくなった。 「他のみんなは、どう?」 「あたしは、何処でも」 「ワタシも別に……」 「もう、ここでいいんじゃない?」 誰も異論はなく、すんなりと決定。 手続きもあっさりしたモノで終わり、僕たちは荷物を部屋に置いて再び都の中心にある広場へ。 当然のように、みんなは『お城を見学しよう』ということで観光コースを辿り始めたのだが―― 「……変ね。人が少ないと思わない?」 一番後ろを歩いていたアンジェリナが、僕にそう話しかけてきた。 「そう言われてみれば、あがっていく人たちもまばらだし、降りてくる人も少ないよね」 それにすれ違う人々のほとんどが、楽しんできた……という顔をしていない。 「(――何となく、いやな予感がするなぁ……)」 そして、それはお城の正門が見えたところでハッキリとした。 「えーーーっ!?改修工事中で、城内は立ち入り禁止!?」 正門まで来て初めて知る事実に、一同はがっくり。 係の人の話によれば、都にある主要な施設やお店などでその旨は告知してあるという。 「見てないし、聞いてないもん!」 確かにその通りなのだが、係の人に食ってかかっても仕方がない。 僕はワカバをなだめ、外周だけでも散策をしようと提案する。 「ココ、いこーぜ!」 「あーい」 「行きましょう、シュエスタ」 「はい。それじゃ、お先に行きますけど……いいですか?」 「行ってらっしゃい。僕は、ワカバとふたりで行くから」 へそを曲げたワカバは僕が受け持ち、他はそれぞれのペアで見学を始めた。 「……あーぁ。計画狂っちゃったわ。どうしてこんな時期に工事なんてしてるのよー」 「……運が悪かったよね」 「そんな理由じゃ済まされないわよー」 城壁に寄りかかり、唇を尖らせるワカバ。 そんな彼女に、僕はお城のパンフ兼ガイドマップを手渡す。 「まぁ、入れないなら入れないなりに、資料とか集めてさ」 「うぅぅぅ、リアルで見たかったんだもん」 「ほら、写真集とかも売ってるみたい」 「そんなの、街の本屋さんでも買えるわ」 なかなか機嫌は直らなかったが、僕が飲み物を買いに行って戻ってきたときには、 「……ふーん。これは面白そうね」 何か興味引かれるモノをガイドマップの中に見つけたらしく、笑顔を見せてくれた。 ……ただ、そのスマイルには邪さが混ざっているような。 できれば、気のせいであって欲しい。 「ねぇ、セロ。かるーく一周しましょ」 「う、うん」 僕はワカバに腕を引っ張られるまま、城壁沿いに時計回りを始める。 この城は戦争などで攻められたことがないおかげで、老朽化以外の損傷は皆無。 ……そうパンフに書かれてある通り、外観は立派なもの。 中で改装工事をしているというのが、ウソのようにも思える。 「…………この辺りね」 「ん、何が?」 「城壁の守りでも、一番薄くなってしまった場所」 そう言ってワカバが、クイクイっとアゴを上げる。 僕には、他の場所と代わりがないように見えるのだが…… 「……ってワカバ、なにしてるの?」 「見れば、わかる、でしょ!ジャンプ、よ、ジャンプ」 ぴょこぴょこと跳ねるワカバは、スカートの裾が広がるのもおかまいなし。 必死になって、城壁の向こう側を……覗こうとしている? 「あ、そうか」 いまになって気づいたが、ここだけは他よりも地面が高く、城壁のてっぺんが低い位置になっている。 ……が、だからといって飛び跳ねて中が覗けるほどではない。 「くっやしいー!もう少し身長があったら……」 「それでも無理だと思う。ほら、人が来るからそろそろ諦めて」 まだまだ時間に余裕はあったが、城の中が見られないのではあまり意味がない。 僕は再びワカバをなだめて、他のみんなと合流をはかる。 「セロたちは、もう戻るの?あたしとベルは、もう少し残るつもりなんだけど」 「それは構わないけど、お昼は別々になるよ。いいかい?」 「すみません。わがままを言って」 ふたりがいうには、もう少し城のある空間で役柄を掴みたいそうだ。 当然、それを聞かされたらワカバもダメとは言わず、 「じゃ、私の方はホテルで先のお話を書くわっ!」 一瞬で普段の元気さを取り戻してくれた。 ……これでまた少し、劇の準備が進むというものだ。 「……はあーぁ」 私はひとりロビーの端っこで原稿を眺めて、ため息をつく。 お城をあとにしたときはやる気満々だったのに、いざ帰ってきて紙を前にすると―― 改築工事の恨めしさが再燃するばかりで、筆は止まったまま。 「あぁぁ、お城の中が見たかったなぁ……」 セロから渡されたパンフに城の中の写真などはあるけど、これじゃ全然足りない。 ……というか、このぐらいの情報ならモスグルンの図書館で充分なレベルだ。 「ここまで来て、現物が拝めないなんてー」 ジタバタしても始まらないので、私はどうするかを考える。 こういうときは、切り替えが大事。 今日は諦めてパーッと遊びに出るとか!? そう考えてみたものの、アンジェリナとベルが頑張っている手前、私がそんな真似はできない。 かといって、このまま続けてもうまく行きそうな気配もない。 「よーし、シャワーでも浴びて気分転換!」 私は部屋に戻り、鼻歌まじりでシャワーのコックをひねったのだが―― 「……ったく。ねーちゃん人使い荒いぜ」 部屋に戻ってくるなり風呂に入って、シャワー浴び始めたと思ったら、 「『石けんがなーい!』」 とか叫ぶし。 自分で確認もしなかったくせに、オレにどうにかしろとか言うなんて、ちょっとひどくないか? でもまぁ、仕方ないから……お使いしてやるか。 そう思ってロビーまで小走りに向かったら、ちょうど前からきたセロにーちゃんに出会った。 「あれ、ライト。どうしたんだい?」 ここでねーちゃんのドジっぷりを伝えてもいいけど、そんなことしたらあとで痛い目みるのは俺の方。 いまはとっとと面倒なことを済ませて遊びに行きたい。 「あ、そうだ。悪いんだけどセロにーちゃんの部屋にある石けん、貸してくんない?」 「石けん?どうして?」 借りられたら、フロントにクレームつけなくて済むから。 「うちの部屋、切れてて。……で、すごい急いでんだよ」 あのねーちゃんのことだから、時間かけたら怒りそうだし。 「うーん。部屋に戻ればあると思うけど、いまココを探してて」 「あ、それならいいや。ゴメンゴメン!」 俺は、セロにーちゃんに手を振ってフロントに向かう。 ま、どうせねーちゃんも風呂につかって待つだろうから、少しぐらいのんびりしてもらおう。 ……ちょっとした仕返しさ。 「どこに行ったのかな、ココは」 その姿を探して通路の端から端まで歩いてみたが、やはりどこにも見あたらない。 たぶん、ホテルの外には出ていないと思うのだが―― 「……それにしてもライト、さっきはずいぶんと急いでたな」 何に使うか知らないが、石けんがないと困るらしい。 僕は部屋の前にココが戻ってないか見るついでに、ライトが求めるモノを持って行ってやることにする。 「……えーっと、石けん、石けん」 ……それが、どうしてこうなったんだろう? 「ライト、持ってきたよ。はい、これせっけ……」 「あ、あわわわっ……」 「ワカ、バ……?」 「セ、セ、セロ……」 目の前が真っ白になりかかる。 おかしい!何でワカバが!?ライトじゃなくて!? 部屋のドアをノックしたらロックもなく、『不用心だな』と思いつつもライトに声をかけようとした。 そうしたら、お風呂の方からシャワーの音が聞こえてきた。 だから僕の頭では、石けんとお風呂がつながったのだ。 ごく自然に、『ライトがお風呂で使いたかったのか』と。 それなのに、現実は―― 「きゃあぁぁぁぁーっ!バカーっ!」 「う、うわぁぁ、ちょっ、ちょっと……あつ、あつぃ」 「何でセロが!?」 「ラ、ライトに石けんって言われて……」 「だからって、入ってくることないじゃない!」 ワカバの言うことが正しい。 でも僕は中に居るのがライトだと信じて疑わず、ふたつ目のドアも開けてしまった! 「ダッダメー!見ちゃダメー!」 「み、見てないって」 言われて初めて、見ちゃいけないと気づき目を閉じた。 だけど、目に焼き付いたワカバの裸の残像がチラチラする。 「は、早く、は、早く、ちょうだい!」 「う、うん、じゃあ、これ、石けん……」 「あぁぁ、そ、そうじゃなくて!タ、タオルよ!」 そう言われて、タオルを探そうと周囲を見渡す。 「だーっ!だから見ちゃダメなのーっ!」 「おわぁ!ご、ごめん。だっ、だけど……」 目を開けなきゃ、どこにタオルがあるか判らないよ!そんなドタバタしたときに限って、次の波乱がやってくる。 「『ねーちゃーん!石けんもらってきたぜー』」 今度の声こそ、ライト本人のもの! 「なっ、なんでこんなときにあの子は戻ってくるのぉ!セロ、ドア!」 僕は慌てて風呂場の外に出ようとするが―― 「バカっ、いま出て行ったらライトと鉢合わせでしょ!」 「じ、じゃあどうすれば……」 「あぁ、もう!いい、ちょっとこっち来るの!」 「う、ぅわぁあ!?」 横から首根っこを引っ張られたかと思ったら、世界が大回転して生温かくなった。 「お待たせー、ねーちゃん」 「……ぐぅぅ……」 頭に血がのぼる。 「あれ、オレもしかしてドア開けっ放しだった?」 「そ、そうね。だから寒かったのね」 ……そう?僕は何となく温かいけど。 「あれー?確かに閉めたと思ったけど……」 いやいや、『部屋のドア』はしっかり開いていたから。 そのせいで僕は、こんな風に―― 「ど、どっちでもいいわよ。そ、そこに石けん置いて!」 「ん、いいよ、別に。なに恥ずかしがってるの?いつも、すごい格好で家の中歩いてるのに」 ……どんな格好?色々想像しようとするけど、どうも思考がハッキリしない。 「もう、いいのそんなこと言わなくて!早くそこに置くの!」 ワカバの焦る声が上から聞こえてくる。……あれ?下からかな?どっち? 「いいって、さむいんだろ?渡すぐらいどーってことないし」 「むっきー!私がいいって言ったらいいのぉ!」 「……ちぇ。せっかく人が持ってきてやったのにさ」 確かに、持ってきてこの仕打ちは辛いと思う。 「ハァハァハァ、やっと行ったわ……って、セロ!平気?」 「く、苦しいんだ。せめて、シャワーとめてもらえると……」 風呂の栓が閉まってなかったからいいようなものだが、僕はいまも上半身だけ確実に洗い流されている。 「あわわっ、ご、ごめん。いま止めるから。ああぁ、で、でもどうしよう?どうやってセロを部屋の外に……」 それも問題だと思うけど、できればその前に―― 「どうにかしてほしいんだ……この体勢」 もう、どうにでもして……って感じもするけど。 「……ドルンシュタイン城って、思っていたよりも大きいわ」 「そうですね。当時は、どれぐらいの人がこの中で生活を……」 「一説によると、あんまり人は多くなかったらしいの」 ワカバたちが立ち去ったあと、あたしはベルと一緒に城の外壁に沿ってゆっくり歩く。 「中が見学できなくて、残念ね」 あたしもワカバほどではないにしろ、ショックは大きい。 舞台上に城内の通路や部屋が再現されるわけではないが、それでも一度は実物を見ておきたかった。 「ねぇ、シュエスタ」 「何でしょうか姫さ……ま、じゃなくて。アンジェリナさん」 先の練習の名残が出たようで、あたしは思わず笑ってしまう。 「ごめんね。やっぱり、シュエスタだと反応しづらい?」 「……正直、まだちょっと慣れません」 「もし負担がかかるようなら、言ってね。あたしも、無理に呼んだりしないから」 そう口にしてから、ふと自分の言動に違和感を覚える。 「(――あたし、まだ……『ベル』って呼んだことがない?)」 まさか……と思って記憶を辿るが、呼んだような気がしない。 いや、最初に会った頃、一度ぐらいなら? でも、明らかに『あなた』とか『シュエスタ』の呼び名が慣れてしまっている。 「あの、アンジェリナさん?」 「なっ、なに……」 そこで『ベル』と名を口にすれば良かった。 ……なのに、何故かそれが出てこない。 「いま、何か言いかけてませんでしたか?」 「……何でもないわ。ちょっとしたことだから」 あたしは曖昧な言葉で誤魔化してしまい、そのまま自分が何を話そうとしていたかまで忘れてしまう。 「ごめんなさい。何だか、ど忘れしちゃったみたい……」 「アンジェリナさんらしくないですね」 「そうかしら?あたし、結構ボーッとすること多いわよ」 「あっ、ワタシも多いです。特に寝起きが弱くて……」 そんな他愛もない話をするうちに一周も終わり、そろそろ昼食にしようと考えて街へと戻る。 そして、何処で食事をとろうかと相談していたとき。 中央の広場の一段高いところを前にして、何やら人だかりが生まれつつあるのに気づいた。 「一体、何かしら?」 その近くへ寄って話を聴くと、どうやらこれから一般公募で集めた少年少女の聖歌隊が公開練習をするという。 年々参加する子ども達が減っており、新しい隊員の参加を募る意味も込め、人目のつくこの場所を選んだらしい。 「一体、何が行われるのですか?」 「これから、聖歌隊の子たちが歌うそうなの」 「……まぁ」 興味がありそうなベルと一緒にしばらく待てば、お揃いの白い服を着た子たちが少しずつ集まってくる。 あたしは、ふとした思いつきで、 「あなたも唄ってみたい?」 などと口にしてみたところ…… 「…………練習に、なるでしょうか?」 案外、本人にも乗り気な素振りが見え隠れ。 こんなときこそ物は試し……とばかりに、その足で主催者の代表らしき人に声をかけてみた。 「あの、すみません。少々おうかがいしますが――」 相手はあたしの話を聴き、あっさりと承諾をしてくれた。 ただし聖歌隊用の服に予備がないので、そのままの格好での参加に……と言われる。 「あっ、それは大丈夫です。あたしが歌うわけではないので」 自分が混ざってしまったら、せっかくの統一感が台無し。 その点ベルなら白が基調のかわいいドレスだから、見た目に問題はないだろう。 「……ということで、話はつけてきたわ」 「…………ほっ、本気だったんですか!?」 寝耳に水、というぐらいびっくりした声をあげるベル。 「……いやだ、どうしよう……」 いまの流れは、誰がどう考えても実現の方向だったと思う。 「とにかく、こうなったら出るしかないでしょ」 多少強引でも、いまはベルの……ひいては劇実現のため。 あたしはその背中を軽く押し、本人が怖じ気づかないように応援をする。 「落ち着いて。楽譜と歌詞カードはこれ。……定番の唄だけど、大丈夫そう?」 「……はい。これなら《 ・ ・》〈そら〉で歌えます」 「バッチリじゃない!」 「で、でも。それは誰にも聴かせないときの話です」 「わかってるわ。だからこそ、今回のはうってつけでしょ」 もしもベルが歌えなくても、他の子たちがカバーしてくれる『合唱』なのだから。 「どうしてもダメだったら、口パクでもいいじゃない」 「そっ、そんな。それは聖歌隊の人たちにも悪いし、聴いている人も騙しているみたいで……」 「だったら、頑張って歌いましょう。……ねっ?」 いつかは乗り越えなければならないのなら、それは少しでも早い方がいい。 それに、せっかくのチャンスを生かさないのは勿体ない。 「ワタシに……できると思いますか?」 「あなただからこそ、できるの」 交わすのは、あの夜と似たやりとり。 あたしは真正面からベルの両肩に手を置き、その目を見据える。 そして、少し茶目っ気を出し、 「こんなときは、アタシが応援した方がいい?それとも……」 のあとに、 「――『わたくし』が見守る方がよろしいですか?」 と続ける。 「……両方が、いいです」 ちょっと意外な答えが返ってきて、一瞬こちらが戸惑う。 「アンジェリナさんが居てくれたら、歌えそうな気がします」 「――でも。舞台のためと強く思うには、姫様の力添えも……」 「……大丈夫。きっと、クリスティナ姫も見守ってくれるわ」 ベルの髪を撫で、ゆっくりと頷いてみせるあたし。 すると、彼女も決心をつけたように頷いて聖歌隊の方を見る。 「準備します」 「うん!」 これ以上の言葉をかけるのはプレッシャーになると思い、あたしは黙って一歩後ろへ下がる。 彼女は自分に言い聞かせるように何事かを呟き、聖歌隊の代表者のところへ挨拶に向かう。 「(――歓迎されているみたいね)」 ここの位置から会話は聞こえないが、雰囲気はまずまず。 こちらに戻ってきたベルの表情を見ても、それは充分に解る。 「……もうすぐ始まるそうなので、列に加わってきます」 「いってらっしゃい。バスケット、持っててあげるわ」 あたしは軽く手を伸ばし、彼女の荷物を指す。 ……と、ベルは少し困った顔をしたあとで、 「ちょっとだけ、待ってくださいね」 こちらに背を向け、隠すような格好でバスケットのフタを開けようとする。 「(――見たら悪いわよね……)」 しばらくするとベルは中の整理を終えたらしく、ゆっくりとバスケットをこちらへ差し出した。 「……お願いします」 「確かに預かったわ」 正直、この中身が気にかかる。 ……が、それ以上に気になるモノがベルの手にあった。 「(――そ、それは……)」 一瞬しか見えなかったが、《 ドロップ》〈人形〉石? 実物を見たことがないあたしだったが、直感的にそう思える輝きが指の隙間からのぞいていた。 「いってきます」 ベルはあたしが声をかける間も与えず、聖歌隊の列へ。 一番端に並んで近くの子たちと挨拶を交わす彼女に、一抹の不安を覚える。 「(――どうするつもりなのかしら?)」 ヘルマーさんから、列車での不調が《 ドロップ》〈人形〉石の過剰摂取と聞かされた。 「『――人間の薬と同じようなモノでな。量や用法を間違えれば、毒にもなるのじゃよ』」 そんな言葉が思い出され、よけい心配になってくるが、もう黙って見守ることしかできない。 やがて代表の人が列の前に立ち、集まった観衆に趣旨を語る。 「…………」 そして、聖歌隊全員が一礼をすると小さな拍手が起こり、本番の準備へと入るそのとき。 「……あっ!」 手にしたモノをそっと口元へ運ぶベルの姿が見えた。 「(――あの子……)」 その石にどんな効果があるか、あたしは知らない。 だけど、また列車のときのようにあとで身体に反動がくるようなことになったら―― 「(――もしかして、あたしが強引に勧めてしまったから?)」 その期待に応えようとしたベルに、無理をさせている。 そう考えると、急に罪悪感で心がいっぱいになってきた。 「……ラー、ラー、ラー」 いつの間にか聖歌が始まっていた。 その歌い出しの中から、ベルの声をハッキリと感じ取る。 「(――きちんと、歌えているじゃない)」 しかし、どうしても手放しで喜べない。それは、あの《 ドロップ》〈人形〉石を見てしまったから。 「ラーラー、ラー」 ベルの声が、近くて遠い。 「(――その歌声は、本当にあなたのモノなの?)」 《シュエスタ》〈人形〉のことは、まだよく分からない。 《 ドロップ》〈人形〉石のことも、知らないも同然。 でも、あたしがベルの歌う姿を初めて見たとき―― 彼女は、さっきの石の力に頼っていたのだろうか? 「(――そんなことはない)」 月夜の下で踊ったときも、自然と歌ってくれたはず。 ……だとしたら。 あたしの勘が正しければ、いまは歌を成功させるためにあの《 ドロップ》〈人形〉石を飲んでいる。 「(――ベル……)」 やがて聖歌が一曲終わったようで、観衆から拍手が起こった。 聖歌隊の子たちも満足そうに笑う中、ベルも一安心という顔をみせている。 あたしも遅ればせながら拍手を送るが、どうしても気持ちが乗らないものになってしまう。 あとで問うべきか、問わざるべきか。 ……いまのあたしの頭の中には、そんな考えが渦巻いていた。 「(――えへへっ)」 お昼のかくれんぼ、楽しかったー。 おっきいホテルって、すごいよね。 いっぱい、隠れるところがあるの。 ……だから、セロにもずーっと見つからなかったの。 「……こーら。また探しちゃったよ」 「あー、セーロー」 違います。ボク、もうかくれんぼしてません。 もう、パジャマです、パジャマー。 パジャマに着替えてから、また遊びにきました。 「それは、何の本?どうしたの、それ?」 「んー?かりた、のー」 さっきね、ホテルの人がボクに渡してくれたの、絵本。コレ読んで、静かにしててねって。 「してて、しててー、ねー」 何だか『しててねって』言い方、『て』がいっぱい。間違えたら、ててててて……とか言っちゃう? 「ふーん。それは、この白の都の……昔のお話だね」 「そ、なのー?」 「うん。ワカバがいま、一生懸命になって書いているお話の原点みたいなもの」 「げん、てん?」 「元になっている……って、言えばいいかな」 いつもセロは、ボクにきちんと説明してくれます。 だから、すきー。 「……昔、この白の都が『国』だった頃のお話でね」 「うん、うん」 「クリスティナという名前のお姫様が居たんだよ」 おー。ヒメサマー! 「そして、そのお側には名前の知られてない《シスター》〈人形〉も」 「んぁー?」 お名前、ないの?何だか、かわいそう。 ボクだって、ちゃんと『CoCo』ってお名前あるのにね。 「……って、僕が解説したら面白くないか」 「んーんー。よん、でー」 家ではボクが一緒に寝るとき、よくご本を読んでくれます。 でも、この何日かはずっと旅行で、お話……聴いてません。 「わかった。じゃ、最初からいくよ?」 「あーい」 ボクはセロのお膝に座って、絵本を眺めます。 最初のページには、大きなお城の絵があります。 ……あ。お昼に見ました! ライトと兵士さんごっこしたときに、外からちょっとだけ。 でもでも。 何だか、中も知ってるような気がします。 ……今日、見たっけ? 「むかし、むかし。まだ白の都が『国』として栄えていた頃。ドルンシュタイン城には、それはそれは綺麗なお姫様と……」 「――名も知られていない、白い羽根の《シスター》〈人形〉がおりました」 お姫様と、シスター?……ボク、じゃないよね? だってボクには、白い羽根ないもん。 「お姫様は調律師と呼ばれる人で、《シスター》〈人形〉に物事を教えます」 そうなんだー。 そう……だよ、ねー。 ヒメサマ、いろいろ、おしえて……くれます。 「《シスター》〈人形〉は、そんなお姫様のことが大好きです」 うん、うん。 …………ヒメサマ、すきー。 「…………ココ?」 ヒメサマ、どこです、かー? ……ボク、ここにいます。むにゃむにゃ。 「…………もう。お昼に遊びすぎたんだね」 ごめん、ねー。ボク、ネムネムです。 「仕方ないな。お部屋に運ぶから、ジッとしてるんだよ」 「……あ、い、あ、い……」 セロ、いつも、やさしいね。 ボク、いつも、こうやって………… こうやって―― 「……んぁー?」 「おはよう、ココ」 パジャマから着替えた僕は、ネクタイをしめながらベッドのココに挨拶をする。 「…………どーこー?」 「ん?僕はこっちだよ」 「えー?ここ、どーこー?」 ココは寝ぼすけさんらしく、目をこすりながら周囲を見る。 「ここは白の都のホテルだよ。忘れたのかい?」 「……おし、ろー?」 「違うよー。お城は昨日みんなで観に行ったところ。ここはホテル。ホーテール」 そうやって念を押しながら、ふと昨晩のことを思い出す。 ロビーで寝てしまったココを抱きかかえて部屋に戻り、そのあと―― 「(――うーん。あれはまずかったな……)」 バレなかったから良かったようなものの、あれはやり過ぎ。あんなことになる前に、しっかりワカバを止めるべきだった。 「(――それにしても……)」 まさかあのとき、ワカバが僕に―― ――きゅるるるぅ。急に鳴り響いたお腹の音に、僕は自分かと思ってビックリ。 「あー、きゅる、るー」 でも、その正体はいつも通りにココだったと判明する。 「お腹が減ったよね。朝食にしようか?」 「あーい」 僕はタオルでココの顔を拭いてやりながら、昨日の夜のことを思い出していた。 「……あ、来た来た!」 ロビーで待ち合わせたセロを見つけて、軽く手招きをする。 「やぁ、いきなりフロントからコールが入ってびっくりしたよ」 「えへへ。少し驚かそうかと思って」 部屋のドアをノックしても良かったけど、旅先なんだから少しぐらいドッキリがあってもいいかな、と。 「……それで、さ。呼び出された理由は、僕にも何となく判ってるんだ」 珍しく察しがいいセロに、今日の運勢が最高だと確信した。 「んふふふふっ」 すばしっこさだけだったらライトでもいいけど、あの子は従順さに欠ける。 アンジェリナは、何だかんだで固いところがあるからダメ。 ベルはマジメで、ココは論外。 そう!これからパートナーという名の共犯になる相手は、セロ以外居なかったのだ! ……あれ、運勢関係ないか。 「ごめんな、ワカバ。あのあとよく考えたんだけどさ」 「とにかく、セロで決まりね」 「……やっぱり、僕が悪かったよ」 「じゃ、コレとコレ持って」 「うん……って、何、この懐中電灯とカメラ?」 「はいはい、行くわよー!」 何となく会話がかみ合ってないけど、いまは急がないと。 あまり遅くなると、ホテルまで戻ってこられなくなる危険があるから。 「部屋には鍵、かけてきたわよね?」 「まぁね。ココも疲れたみたいで、もうベッドの上だから」 それを聞いて安心! 「おいおい、どこに行くつもりだい?」 「ついてくれば判るわー」 ホテルを出てから歩き出すこと10分。 広場から見えるドルンシュタイン城は、パンフレットにあるとおり綺麗にライトアップされていた。 「(――うふふふっ。待っててねー)」 「なぁ、ワカバ。そっちは街の外だけど……」 「えぇ、そうよー」 「……もしかして、夜のドルンシュタイン城を観に行くとか?」 鋭いセロの一言に、思わず身体がこわばる。 でも、いずれはバレるのだから、無言で頷き認めてしまう。 「なんだ、それでカメラと懐中電灯か。納得したよ」 きっと彼は、私がロマンチックなお城の写真とか撮って……とか、それぐらいにしか考えてない。 「(――違うわよ、セロ……)」 これは、デート。 それも、とびっきりスリリングなデートになるの! 「さぁ、着いたわよー」 途中の山道は、夜の観光客用にしっかりガイドの外灯があり、懐中電灯で照らす必要もなかった。 「……あれ?でも、微妙に見学時間が……」 いつのまにかセロがパンフを手に、時計と見比べている。 「あー、ほらほら!それは城内の話で、いまは入れないから関係ないでしょ」 危ない、危ない。こんなところで計画に気づかれたら、絶対に巻き込めない。 私はセロの背中を押し、閉ざされた城門前を通過して《ひとけ》〈人気〉のないコースへと誘う。 「ど、どこへ?」 「……くればわかるわ!」 そして昼に見つけた小高い場所まで移動し、いよいよ秘密を打ち明けようとすれば―― 「あのね、ワカバ。よーく聴いてほしいんだ」 「……なっ、なに?」 出鼻をくじかれたけど、真剣な表情のセロには勝てない。 「さっき、ホテルのロビーで言い損ねたから、いま言うよ」 ネクタイをギュッと握ってから、コホンと咳払い。 改まった態度で彼の口から出てきた言葉は、 「ごめん。本当に悪かった」 ……だった。 「……なんの話?」 「いや、その……ワカバの……お風呂に……」 言われるまで全く頭に浮かんでこなかった、謝罪の理由。……いや、私も忘れていたわけじゃない。 セロに思いっきり裸を見られた上に、浴槽へ引きずり込んだなんて、忘れられるもんなら忘れたいわよ! でも、いまさらそんなことを言っても過去は変わらない。大切なのは、もっと未来のこと。 「(――むむっ。だけど、これは……)」 彼には悪いが、ちょっとばかり使えるような気がする。ダシにするつもりもないけど、円滑な計画遂行のために! 「もう、気にしないで……って言っても、気にするでしょ?」 「えっ、う、うん」 「だったら、私のお願いを聞いて欲しいの。それでチャラ」 セロの目をジッと見ると、向こうはひとまずコクリと承諾。 頷いたからには、もう大丈夫。 私は周囲を気にしながら、城壁近くの太い一本の樹を指差す。 「……お願い。私と一緒に、アレに登って」 「……ワカ、バ。これって、どう、いう……ことか、な?」 「しーっ!静かにして。人が来ないか、ちゃんと見張って」 「み、見張っても……な、なにも……く、首が……」 私の計画は、とても簡単。 昼間に探り当てた城壁の上まで一番距離の短い場所に、人が充分に登れそうな樹を見つけました! さらにはそこから、壁までは本当に近距離。 さて、どうする?……とか訊かれるまでもないってこと。 「……もう少しの我慢だからねっ。この恩、忘れないから」 それに、早く登らないと人が来ちゃうっていうか、何かの拍子にセロが上を見て……覗かれちゃうかもしれないし! 「やっ、やっぱりやめようよ。見つかったら、タダじゃ……」 「なぁに?『乗りかかった船』って言葉、知ってるでしょ?」 「……降りたい……っていうか、降りて、欲しいなぁ」 弱気になってきたセロがくじける前に、何とか壁の上に辿り着かないと! 私はもう一段上にある木の枝を保険で掴み、セロの肩を軽く蹴って跳ね上がる。 「えぃっ!」 私の身体にして半分もない距離は、問題なくクリア! これで見事、ドルンシュタイン城を制覇……は言い過ぎか。 「わぁー。中がハッキリ見えるー!」 私はカメラを取り出し、早速その風景を納めようとする。 「待って、ワカバ!フラッシュたいたら、バレるかも」 「平気よ。これだけライトアップされてるんだから」 「いや、危険!……っていうか、やっばりコレは不法侵入にも近いから、早く戻って」 戻ってと言われて『はいそうですか』って答えるぐらいなら、初めから登りません。 第一、この壁はあくまで『境』であって城内とは違うの。 ……うん、きっとそう。 「セロ……見張りよろしくねっ!」 そう言って、二、三度シャッターを切ってみれば、それほどフラッシュは目立たない。 よしよし!これならしめたもの。 「……ワカバ……」 斜め下からは不安そうなセロの声が聞こえてくるが、いまは気にしていられない。 本当なら、このまま中に潜り込んで探検したいぐらい。 だけど、きっと警報装置とかあるだろうから無茶は控える。 「よーし。あとはこのまま城壁を伝って……」 「……ワカバ!ダメだ」 カメラを構えて歩きだそうとした私は、セロから再び名前を呼ばれる。 「何で?ここまできたら、あと少しよ」 「……だったら、僕はもう降りる」 そう宣言したが早いか、彼はスルスルと樹の下へ。 こちらが声をかけるのをためらっているうちに、その姿はどこにも見えなくなってしまった。 「…………ひ、ひどくない?」 こんなところで置いて行かれたら、どうやって戻るの?そりゃ、さっきとは逆に樹へ飛び移ればいいんだろうけど。 ……この高さ、この暗がり。支えてくれる人も居なければ、さすがに無理だと思う。 「……ねぇ、セロ?近くに居るよね?」 しかし。10秒待っても返答がない。 「セーロー?居たら返事してほしいな……」 今度は辛抱強く1分待ってみたが、ダメ。 「……戻ってきてくれたら、チューしてもいいんだけどなー」 ここは勝負とばかりに、ドキドキしながら大胆な取引条件を口にしてみるが―― 結果は、まるで変わらず。 こうなるともう、『本気でどうすればいいか?』を考える必要が出てきたことになる。 とにかく、どうにかして下に降りる方法を見つけないと! 樹を使うのは危険。……だとすれば、どうするか? 最初に考えていたように、このまま城壁の上を伝って横に移動して城門までいけば、城内へと降りる階段があるだろう。 でも、それでは城の外に出ることにはならない。……下手をすれば、警報装置か、警備員のお世話になるかも。 「あ、あうあう。ど、どうしよう?」 八方塞がりにも近い現状をどう打破すればいいの? 「……うぅぅ。セロ、助けて……」 そう呟いたところで、戻ってきてくれるわけもない。 だってもう、彼は私に愛想を尽かして―― 「……ん、んんっ!」 いきなりの咳払いに驚き、あたふたする私。 だけどそれは、戻ってきてくれた彼のモノと気づいた。 「……ま、まだ居たの。帰ったんじゃなかったの?」 「そのつもりで降りたけど、ワカバが心配でずっと見てたんだ」 「……見てたって、どこから!?」 セロは黙って樹の下を指差し、それからこちらへと手を差し伸べてくれる。 「まっ、待って。ずっと下に居たの?」 「うん」 「じ、じ、じゃ……私の声も……ずっ、と聞こえてたり?」 「……まぁ、ね」 ということは。呼びかけに応えてくれなかった!? 「ひ、ひどいっ!私が困ってるのみて、笑ってたの!?」 「それはない。ただ、少し頭を冷やしてもらおうと……」 「だとしてもズルい!私、あんなことまで言ったのに!」 「……だ、だって、そこで返事したら……まるで……」 セロの口調が急に弱くなり、 「――キスが欲しくて、助けるみたいじゃないか」 そんなうつむき加減の答えが返ってくる。 「……ご、ごめんね。そうだよね。普通に困るよね」 私が彼の立場だったら、同じような考えを持つと思う。それに、元はと言えば自分が蒔いた種。 こうして戻ってくれたセロに、文句をつけてたりはできない。 「……さぁ、人が来ないうちに。僕が支えるから、手を貸して」 優しく伸ばされた腕にしがみつき、バランスを崩さないよう樹に移る。 そして、無事に大地へ脚を降ろすことができたとき―― 「……えっ?」 無意識に近い感覚で、私はセロの頬にキスをしてしまった。 「あっ、あのね!いまのは何でもないの!た、ただ……」 「……ありがとう」 言い訳に忙しい自分に対し、何故か言われてしまったお礼。 その真意を聞き返そうとした私だが、ちょうど散策コースに入ってきた男女のせいで、タイミングを逃してしまう。 「(――あぁん、もう!)」 ……結局それっきり、ホテルに帰るまでは無言にも近い状態。 お互い、『今晩のことはなかったことに』的な雰囲気のまま、それぞれの部屋へ戻ることになってしまった。 「……ああぁ……」 身から出たサビと解っていても、こんなモヤモヤの気持ちに終わるなんて。 ため息がちにカメラのフィルムを交換しようとしたところで、これでもかという追い打ちを受け、私はベッドに突っ伏す。 「あぅ。新しいフィルム、入れたつもりだったのに……」 ……やっぱり、悪いことってできないみたい。 「……しっかし。白の都ってのは、どうも馴染まないなぁ」 逃げ出してきたオーベルジーヌが恋しいってわけじゃないが、どうにも観光地は苦手だ。 人が多くて紛れ込める……という意味では、こちらの方が俺たちに向いていると思う。 ……が、逆にこんなところで下手な商売を打とうもんなら、確実に全国区に顔が知れ渡ることになるだろう。 そんな状況に陥るぐらいなら――勝手気ままに放浪できる身の上の方が、ずーっと楽。 たまに故郷近くに立ち寄って昔を懐かしめれば、充分に幸せだと思える。 「流れ流れて白の都。次は何処に行こうかね、と」 見上げた空には、どうやっても追っかけられなさそうな雲が一面に広がっている。 風に流されるうちに、溶けて消える……そんな感じ。 「……人生、ゆるーく行かないとね。急がず、焦らず……」 気楽な考えが、風来坊の俺には似合っている。そうそう。あまり深く考えても、ロクなことがないわけで。 なるようになる……を信条にして、そこそこの風当たりでもノラリクラリと回避するのがいい。 ……さて、さて。俺も、久し振りの単独行動で羽根を伸ばした。 あとは、シルヴィアと合流して―― 「あーっ!トニーノさん!?」 「……ん?」 こんなところで俺の名前を? その声には聞き覚えがあるが、間違ってもシルヴィアのものじゃない。 あまり男の知り合いは多くないが、はてさて? 「トニーノさん!探しましたよっ!」 ……探していた、この俺を。声の主が。 ギリギリ振り返らずに踏みとどまって、普段は使わない頭をフル回転させる。 「(――誰だっけな?)」 声から察して、俺の古い友達なんかじゃない。若すぎる。……となれば、残る知り合いなんて商売相手ぐらいか。 しかし、白の都に入ってから新規の仕事は受けてない。……よって可能性が高くなるのは――以前カモにしたお客? 「……トニーノさんですよね?僕です、セロです!」 近づいてきた声の主が、自らビンゴだと教えてくれる。 「(――やっべぇ!)」 忘れちゃいけない、オーベルジーヌでの依頼人!《 ドロップ》〈人形〉石の前金と称して、お金をくれた好青年じゃないか! 「あぁ、やっぱり!こんなところで会うなんて」 人混みに入って逃げようとしたのに、どうしてその方向からやってくるんだ、キミは? それも何だか連れっぽい女の子と一緒に、揃いも揃って俺の真ん前に立ちふさがるなんて! 「よ、よぉ!元気かい?トマトの怪我は?」 一瞬、『今日の女の子は、一段と髪が長いね!』とか言ってしまいそうになったが、無益な争いは大人の余裕でスルー。 この場は穏便に、1分で話をつけてサヨナラ作戦で抜ける! 「い、いえ。あのときは、その……どうもでした」 想像していたよりも穏便な対応に、こっちは少し腰砕け。 もしかしたら、あのあとシルヴィアが言うような大事にはならなかったとか? ……だとすれば、案外楽に逃げおおせるかもしれない。 「――ねぇ、セロ。こちら、どなたなの?」 「あぁ、こちらトニーノさん。オーベルジーヌのバーで、僕を助けてくれた人だよ」 「オーベルジーヌで?助けてくれたの?」 そうそう、彼とその彼女が困っていたからね。この俺が、一肌脱いで争いを止めてあげたわけよ。 「ほら、ココが大変なことになっちゃった前に、僕がワカバとホテルのバーに居た話、したよね?」 「……え、えぇ」 ……雲行きがあやしい。セロの言う『大変なこと』と、けげんそうな彼女のまなざし。 「……ねぇ。つまりは、このトニーノっていう人が、あなたに人形技師を紹介したのよね?」 「うん、そう。それで……ちょっと尋ねたいことがあって」 まずい、この流れは確実にまずい!下手な受け答えをしたら、逃げるチャンスを無くしかねない。 俺は帽子を手に取り、彼らの後ろに向かって大きく合図を送るようなフリをする。 そして、ふたりがそちらを見た瞬間に――それとは逆方向へ一目散に走り出す! 「わ、わりぃな!こっちも急ぎの用があってさ」 「え、あ、あれ?ト、トニーノさん!?」 「ああん、もう!いい加減、騙されたって気づきなさい!」 長い髪の女の子、人聞き悪いけど正解さ。騙すつもりはなかったけど、結果的には……そういうこった! 「悪いね!そんじゃ、これにて!」 「待ちなさいって!セロ、みんなを呼んで!」 「……わ、わかった!」 おいおい、他にもまだ人が居るのか!?こりゃとっととふたりを撒いて、シルヴィアと合流しねぇと! 「……ぜぇ、ぜぇ……運動、不足かな、ぁ……」 こういうときこそ、逃げるときは一周技が使える。 普通に考えれば、まっすぐ走ってどっかで曲がって……と、できる限り遠くを目指して逃げるもの。 そこをあえて、元の位置近くにグルッと回って時間差で戻る。 こうすれば追っ手は移動したあとなので、こっちは悠々と反対方向へ逃げたりもできる。 「さぁて、セロも居ないし……」 名前も知らない長い髪の娘も見あたらない。 余裕を取り戻した俺は一安心とばかりにスーツの襟を正し、鼻歌交じりで歩き出す。 「ねぇねぇ、そこのにーちゃん!ちょっといいかな?」 「ひっ!」 背中からかけられた声に、振り返る前から危険信号を覚える。 そして、こんなときに限って……俺の予感は当たるんだ。 「……ひ、人違いだろ?」 明るい顔で振り返ってみれば、まだまだ少年って感じの子がこっちを睨んでいたりする。 「オレ、まだ何も訊いてないけど?」 「…………あ、はははっ」 ……おっしゃる通りで。 「……黒い服、黒い帽子……」 「……まぁ、何処にでも居るさね、そんなヤツ」 少年。俺がカッコイイからって、そんなにジロジロ見るなよ。 「そうか。そうだよねー」 「……だろっ、あははははっ!」 いい感じだね、少年!それぐらい大らかに生きていけば、将来は―― 「あははは、じゃねーよ!ココの仇、見つけたぜぇ!」 「おっと!」 いきなりのタックルに危うく捕まりそうになった俺だが、その辺りはお手のもの。 「悪かった!俺たちが悪かった。セロに謝っといてくれ!」 「自分で謝れーぇ!」 そりゃ正論だ。でも、いまはそんな暇がなくてね! 「また今度な!」 「待てぇー!」 俺は脚の長さに全てを賭け、もう一周の勝負に出る。 「……ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」 少年を撒くのに、どうにか、こうにか、成功、したようで。 できれば、しばらく、走らない生活を送りたいと思う。 「……とりあえずは、車で合流だよな」 こういうときこそ、冷静に、さりげなく。 いま撒いた《 ・ ・》〈坊や〉と、セロ。 そしてあの《シュエスタ》〈人形〉――ココに会わなきゃ何とかなる。 そんなことを考えながら、再び歩き始めれば――前からキョロキョロと周囲をうかがう女の子がひとり。 「(――なんか、さっきの坊やに、どことなく似てるな……)」 「……っていうか、アレは……」 俺は、すごく大事な女の子を忘れていた。 「……うふふふふっ。見つけたわぁ、詐欺師ぃ!」 そうだ!この子がセロの彼女――ワカバじゃないか! 「うっそだろ?なんで、こうもあっさりと!」 それも、一番やばそうな相手に見つかるのさ、俺は!? 「……あーぁ。結構、暇よねー」 白の都って、クロムまで《 ドロップ》〈人形〉石を買い付けに行く途中で立ち寄るぐらい。 観光地だから賑やかでいいけど、2日も居たらすぐに飽きる。 「お城の中も修復工事中で、観光客も減ってるし」 アタシとしては、《シスター》〈人形〉の聖地ともいうべき白の都でお仕事をしたいけど、いまさらカタギには戻れない。 「(――この前、思いっきり詐欺しちゃったし……)」 ……確か、あの子の名前はセロ。 人の良さそうな子だっただけに、良心が痛む。 せめて、値段相応の処置ができていれば―― 「……なんて、もう遅いよね」 過ぎたことにこだわっても仕方ない。 アタシは時計を見て、トニーノと待ち合わせをした時間が近づいてきたのを確認する。 きっとトニーノのことだから10分ぐらいは遅れて来るだろうけど、万が一もある。 こっちがごく希に遅れたときに限って、向こうが先に待っていたりすることもあった。 たった一回の逆転で、大きな顔をされるのは腹立たしい話。 余裕をもって行動すれば、何事もいい方向に流れる。 ……世の中、そういうものだ。 「んぁー?」 「……はぁい?」 突然下から響いた可愛らしい声に、ぶっきらぼうな答えを返してしまい、作り笑いで相手を見るアタシ。 でも、その顔が瞬間で凍り付いてしまった。 「……ア、アンタ……ココ?」 「あい、あい。こんにち、はー」 嘘!悪夢?神様、これってどういうこと? アタシ、《シスター》〈人形〉のお化けなんて聞いたことない! 「だ、だってアンタ、オーベルジーヌで……」 どうなったかは見ずに逃げたけど、あのときの音からして暴走確定だったはず。 「(――あ、でも別に壊れたわけじゃないのね)」 少し動揺したけど、逆を言えばこれで胸のつかえも落ちた。何より、こうして元気なココと再会できたのだから―― 「――ん?待って。アンタがこの場所に居るってことは、セロもこの白の都に?」 「あい。みんな、いる、よー」 みんな?みんなって、誰のこと? 「ココちゃん、どうしたの?知り合いの人?」 そうココに話しかけたのは、白い羽根を持つ天使みたいな金髪の女の子。 アタシはその子を見たとき、トニーノの言葉を思い出す。 「『んんーっ?セロに聴いた話だと、《シュエスタ》〈人形〉の背中には羽根があって……』」 「『かわいいとキレイの中間ぐらいの、天使みたいな……』」 「『軽いウェーブのかかった、短めの金髪……だったかな?』」 「……ってことは……アンタが……」 「『――診てもらいたい子の名は、《 ・ ・》〈ベル〉って言うらしいぞ』」 「……シスター・ベル?」 「は、はい。そうですけど、何故ワタシの名前を?」 ……だんだんと複雑な気持ちになってきた。 《シスター》〈人形〉ふたりが元気なのは、何よりの吉報。 だけど、そんなふたりを連れているセロが白の都に居るのは、ちょっと……というか、相当いただけない。 「……あ、あのね、ココ。あ、それとシスター・ベル!」 「あい?」 「はい?」 「……セロに『ゴメン』って言っといて。そ、それだけっ!」 アタシは小さく手を振りながら後退る。 「それはいいですけど、あなたは……?」 「ア、アタシ?名乗るほどの者じゃーないから。あはははっ」 「……ですが、お名前が分からないと、セロも困るので……」 なに、この子。変に賢いっていうか、マジメ! どうせだったら、ココと同じぐらいシンプルに―― 「どーこ、いく、のー?」 「き、気にしないのっ!いい、追ってこなくていいからね?」 「えー?おに、ごっ、こー?」 ……どうしてこの子、単純なくせに曲解するの!? 「(――こうなったら……)」 もう四の五の言わず、撤退あるのみ! 「バァイバーイー!」 「あーっ」 もう知らない!あとはふたりで仲良くしてて!走り出したアタシは、もう振り返らない。 「まーっ、てー」 ……振り返らないつもりだったのに。 「……ウソでしょー?」 あの子あんなに小さいのに……どうしてアタシと同じ速度で走れるの!? 「こーなーいーでー!」 「まーっ、てー」 逃げる人が『待って』と言われて、待つわけないでしょ。 アタシは全速力で走りながら、右へ左へ路地をクネクネ! それでもココは、ぴったり追いかけてくるから逃げ切れない! 「あーっ、もう!」 アタシは次の角を曲がったら、フェイントでどっかのお店に駆け込もうとしたけど―― 横から現れた人影に、急ブレーキをかけた。 「何やってんの、トニーノ!?アンタ、どっから――」 「そんなのあとさ!いま、俺はセロに見つかって……」 セロ?トニーノの方も、追われてるとか!? 「アタシなんて、ココに見つかって……後ろに!」 「……へっ?そっちも」 ふたりして、なにをヘマしているのか。 「……やっべぇな。こうなったら、どうにか車まで辿り着いてトンズラしねぇと」 「そ、そうね。とにかく!その辺りの店に入って、裏口よ!」 アタシたちは目の前の雑貨屋さんに飛び込んで、計画通りに裏口を拝借。 建物ひとつ分向こうの通りに出て、後ろから誰も来ないのを確認しつつ、静かに、静かに、車を止めた駐車場まで。 「……車が近くて助かったわね」 アタシはトニーノにキーを投げ、車を出してもらおうとする。……と。 「どうしてみんな、車の前に揃ってるのかな……セロ?」 そんなやるせない声が聞こえ、アタシはガックリしてしまう。 「……何で、どーしてぇ?」 そこにはセロやココをはじめ、知らない子たちもいっぱい。 「……ココが憶えていたんです、ふたりの車を」 「おまけに、駐車場の端にあったおかげで運良く見つけました」 「……そ、そう。そりゃ良かったわね」 何か言おうとするトニーノを制し、アタシはどうにかしてこの場を乗り切る方法を考える。 「(――車にさえ乗れたら、勝ちね)」 でも、その前にこの子たちを散らさないことには。 下手に車の前に立たれたりしたら、発車できなくなる。 「(――もうこうなったら、ハッタリ使ってでも……)」 奥の手とも言うべきモノに手をかけると、トニーノが驚く。 「やっ、やめろって!」 「平気よ。いつも言ってるでしょ?決めるのは一発、って」 アタシはできるだけ凄みを込めた声で、 「動くなっ!」 と叫ぶ! 「えーっ!あ、あれって……本物?すごい、初めて見た」 「オレも初めて見た!」 「あっ、あれって……銃、で、ですよね?」 「バッ、バカ!みんな、危険よ。下がりなさい!」 「……シ、シルヴィアさん!?」 「うーわぁー!」 それぞれ豊かな反応をみせてくれ、アタシはニヤリとする。これだけハッタリがきけば、あとはもう平気だろう。 「さぁ、車から離れなさい!そうじゃないと撃つよっ?」 「でも、シルヴィア。お前……いま『動くな』って……」 「だーっ!何でアンタがそんな細かいこと気にするの!」 この、バカトニーノ! 「……アンタはとっとと、車とってきなさいよ!」 アタシはトニーノの背中を押しつつ、銃口を軽く泳がせる。 「いい?車の通る道を開けて。……開けなさい」 ひとり、またひとりと左右に避けてくれる姿に、心の中で何度も謝る。 「(――ゴメンね、ホント、ゴメン!アタシだって、こんな真似したくないのよー!)」 そして、いよいよ最後に残ったココが……あれ? 「ジャ、ジャーン」 ………… ……とか言って、どきやしない。 「……いいかしら、ココ?これ、当たると大変なのよ」 「ピー、ピー、ピーィー」 何でか知らないけど、哀しいメロディ奏でてるつもり? 「ふーん。イイ度胸ね。だけど、そんなシャレはアタシには通用しないよ?」 「しょーうぶ、だー」 ……あぁ、ダメ。この子、何か変なテレビ観ちゃったのね。 どうしてこっちに背中向けて、脚でリズムとってるの? それって、もしかして……決闘のシーンか何かじゃない? 「セ、セロ!アンタ、この子の保護者なんでしょ?止めさせなさいって」 「い、いや、そ、その……そっちが銃を下げてくれたら……」 「いまさら無理よっ!出しちゃったんだから、もう無理!」 「10、9、8、なーな、ろーく……」 それにもう、アタシより向こうの方がヤル気だし。 「(――いいわっ。茶番に付き合ってあげる!)」 驚いてくれたら、それで良し。みんなが頭抱えている間に、アタシたちはズラかるの。 「さーん、にー、いーち」 「ゼロっ!」 ココのカウントダウンに合わせて、最後の数字を口にする。そして、アタシは躊躇うことなく―― とびっきりな《くうほう》〈空砲〉をプレゼントした。 「ココっ!」 「ココちゃんっ!」 「ココっ!」 「ココっ!」 「ココっ!」 みんなの声が響く中、ココは突っ立ったまま。そりゃそうでしょう。だって、ただの空砲だし。 アタシは、車に向かおうと銃をおろしかけるが―― 「う、た、れー、たー」 「え、えぇぇっ!?」 ココの身体が、ゆっくり、ゆっくりと後ろへ。 周りに居た子たちの時間が一瞬凍って、そのままココの元へ走り出す。 「……ココ!ココっ!目を覚ますんだ!」 「だっ、ダメよココっ!意識をしっかり持って!」 「ああぁ、なんてことなのっ!ココ!起きてっ」 「ココちゃん、ココちゃん!」 「ひでぇ、ひでぇよ!」 「……う、うそ。だっ、だってコレ……」 いざというための脅しの銃で、入っているのは全部空砲よ? そりゃ、射撃には自信あるけど、実弾なんて演習でしか―― 「ばっ、ばっきゃろー!お前、何で撃ったんだよ!」 「ト、トニーノ!だって、コレは……」 「だってもクソもあるか!いくら《シュエスタ》〈人形〉だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ!」 「…………うぅぅうぅ、も、もしかして本当に……」 アタシが知らない間に、実弾が装填されていた、とか? 「ア、アタシ、そっ、そんなつもりじゃなかったのよ!」 ココに駆け寄り、周りのみんなをどけて銃創を探す。 もし当ったのが大切な箇所じゃなければ、アタシが必ず治す! 「ココ!どこに当たったの!言って!言いなさいよ!」 体内の《 ドロップ》〈人形〉石に傷さえついてれなければ―― 「……んぁー?」 「…………えっ?」 間の抜けた返事でココがむくりと起き上がり、一言。 「えへへ。まけちゃっ、たー」 そんな状況に、全ての者の動きがピタリと止まる。 「……も、もしかして……その……なに?」 「弾は外れて……とかなの?」 「いいえ、弾なんて入ってないわよ。これ、全部空砲なの!」 アタシの告白に、みんなが安堵のため息。 そして、誰からともなく笑い声が起こって―― 「……あっ、あははははっ。そうよね。アタシが一番知ってるはずなのに。あはははっ!」 もう、アタシは力が抜けて立つこともできずに座り込む。 ……でも、当然というか何というか。 アタシとトニーノは、みんなに囲まれて逃げ場なしの状況に。 「わかった、わかったよ。もう、逃げも隠れもしねぇから」 「(――ま、仕方ないわよね……)」 トニーノのお手上げに、アタシも並んで降参をする。 「……さぁ。あとはみんなに任せるわ。何処にでも突き出して」 そう言って、セロたちを一回り見て……ふと大切なことを思い出す。 捕まるのは構わない。 ……だけど、その前にやるべきことがあったのを。 「……ねぇ、セロ。1分だけ時間を頂戴。逃げたりはしないわ」 「……は、はい」 アタシは彼の許可をもらい、ゆっくりと両手の指を鳴らす。 「はぁぃ、トニーノ。ちょっと、ツ・ラ・貸・し・な」 「……へっ?」 「さっき、アタシのこと『すごく』罵倒してくれたよね?」 「空砲だって知ってたアンタが、何でアタシを罵るの、さ?」 「そっ、それは……」 「うんうん、よく分かるわ。人間、気が動転すると、ね?」 「そうそう、そうだよな。あはははっ……あはははは……」 よーく分かるわ。分かるけど、さ! 「……『あはははっ』じゃねぇ!」 「ぐぼっ、まっ、て、ぼごぁ……ちょっ、マジで……」 「うーわぁー、すーごーい」 「コ、ココちゃん。あ、あんまり見ちゃダメよ?」 そうそう、お子様にはよくないわ。 ……アタシは、大人だから、い・い・の。 「ハーッ、スッキリしたっ!はい、もういいわ。捕まる」 しばらくはこの相棒ともお別れだから、いまのうちにケリは着けておきたかった。 ――ただ、それだけの話よ。 「……あら、あなた。こんなところに居たの?」 「はい、少しココちゃんとお話がしたくて」 ワタシがロビーでココを待っていると、部屋に戻ろうとしていたアンジェリナさんがこちらに近づいてきた。 同じ部屋だから、戻ればすぐに会える。 でも、こうして偶然ばったり……みたいなのは、何となく小さな幸運みたいで嬉しい。 「なにを話すつもりだったの?」 「今日のこと、とか……です」 「そうね。今日は大変な一日だったわ」 昼間に起きた大事件。 ワタシがオーベルジーヌで体調を崩していたとき、ココに暴走する《 ドロップ》〈人形〉石を渡してしまった人形技師《 ・ ・》〈さん〉を追いかけ、大変な目にあった。 「……だけど、許してあげて良かったんですか?」 「うーん、どうなんだろう?本当はダメだと思うわ」 わたしも、アンジェリナと同じ意見。 オーベルジーヌの件は詳しく知らないので何とも言えないが、駐車場での発砲は―― 「でもね。一番の被害に遭ったココが『おかまいなし』で、騙されたセロも『許す』って言ったら、それまでよ」 「……そうですね」 賞金首と聞かされていたので、さぞかし悪い人だと思った。 しかし、セロがオーベルジーヌの役所に電話して、確認したところ、実際に張り出されていたのは『懸賞金付き尋ね人』だったそうで。 以前、シルヴィアと商売相手として会ったお金持ちさんが、『どうしても、彼女にもう一度だけ会いたい!』とのことで、張り紙を出したらしい。 「……どんな理由で、あのシルヴィアって人に会いたかったのかしらね?」 「……さぁ、分かりません。あ、でもシルヴィアの方は、会いたくなさそうでしたよ」 その事実を知ったシルヴィアが、 「『もしかして、あのオヤジ……ド《エム》〈M〉?』」 とか、すごい顔で言っていたから、あまり仲は良くなさそう。 「(――でも、《 ・ ・》〈ドM〉って何を意味するのかしら?)」 謎は謎のままに、セロは内容を確認するだけで通報はせず。 「『渡したお金、分割でもいいから返してくれたら、それで』」 そう言って、あっさりふたりを解放してしまった。 「『……本当にいいの?後悔しない?』」 「『僕はトニーノさんに助けてもらったし、シルヴィアさんも、騙す気なかったのが解ったから』」 「『お人好しね、アンタ。いつか痛い目見るわよ』」 「『……はい。いつも見てますから』」 あんなことを笑って言えるセロは、ちょっと変わっていると思う。 結局、発砲についてはワカバの、 「『何かの撮影とか、劇の練習のリアリティ追求のため……ってことにしておけばいいんじゃん?』」 そんなすごく大胆な言い訳で、聞きつけて集まった人たちを納得させてしまった。 「……まぁ、あれであのふたりも懲りたでしょ」 「……そうですね」 「『この恩は、しばらく忘れないぜ!』」 「『この借りは、いつか必ず返すわ!ありがとっ』」 ふたりが晴れ晴れとした顔で去っていく姿を見て、みんな充分に笑えたから……それで良かったのかもしれない。 「……さ。じゃあアタシは先にシャワー浴びてゆっくりするわ。戻ったら、ノックしてちょうだい」 「あ、はい」 急に立ち上がったアンジェリナさんが、通路の向こうに手を振っている。 「マー、ファー」 どうやら、ココと入れ替わりで部屋に戻ると決めたらしい。 「あんまり夜遅くまで遊んじゃダメよ?」 「あーい」 すれ違うふたりが、ちょん、とハイタッチをする。 もちろん、アンジェリナが大きく身をかがめて。 その姿を見て、ワタシは一瞬だけ羨ましく思ってしまう。 「(――ワタシも自然と、あんなことできたらな……)」 村の子相手には平気でも、アンジェリナ相手には―― 「おまた、せー」 「あっ、いらっしゃい、ココちゃん」 「おはなし、なーにー?」 「……うん。今日はココちゃんのおかげで、みんなが助かったでしょ?」 「んー?そうな、のー?」 「そうなの。だから、ちょっとだけココちゃんに、ご褒美っていうか……その……」 ワタシはそんな理由にかこつけて、自分が隠していた秘密を打ち明けるつもりだった。 ……が、いざこうして話そうとすると、いままで騙していた事実に心苦しくなる。 「……あのね。青の都に向かう列車で、ライトからワタシのバスケットの話、聴いたの憶えてる?」 「……あ、あい。ガブガブ、こわい、です」 ココは、ライトの作り話をしっかり憶えていた。 「それでね。いまから、その秘密を話すから……よく聴いて」 「あ、あい」 身構えたココに、ワタシも深呼吸で準備。だけど話し始めようとしても、うまく説明する自信が持てず、 「……ごめんね。とりあえず、最初に中を見て」 と言って、フタを開けるように勧める。 「いーの?」 「はい、どうぞ」 ココは、おっかなびっくりバスケットを開けて―― 「う、わぁー?」 驚きの声を上げる。 「……隠しててごめんね。この子たちが、ワタシのお友達なの」 「女の子がフローラ」 同じ言葉を繰り返すのが好きな、指揮者のお姫様。 「そして、おひげの人が、クエイク」 本名、ノーマン・クエイク。無口だけどドラムで意思表示。 「最後のネコさんが、チョコ。青の都でメンテをしてもらっていたの」 チョコはホルンを吹くのが得意で、ネコ語を喋る。 「みんな、ココちゃんに、ご挨拶してくれる?」 ワタシは、バスケットの中のお友達に声をかけた。 ……と。 「ダレですか、あなた!あなた、ダレなんですか!?」 「あわわ、わっ。ボ〜ク、ココ、です」 「……ニ、ニャニャニャー!?」 そして残念ながら、クエイクはまだ寝ているみたいだった。 「どう?三人揃って、ワタシの『目覚まし』さんなの」 「あ、あわわわ。ガブガブ、されちゃう?」 急に立ち上がって、チョコを凝視するココ。 「た、たいへ、ん。たすけな、きゃー!」 「えっ、ええぇ?」 「ニャーニャーニャーニャー!」 ココはいきなりチョコを手に取り、ブンブンと首を横に振る! 「あっ、ダメよ。まだチョコは……」 「ガブガブ、されちゃ、ダ、メー」 「(――それは、ライトの作り話で……)」 ワタシが止めるのも聞かずに、ココはチョコを持ったまま走り出してしまった。 「ココちゃん、戻ってきて!」 「きゃー!」 「おきなさい、クエイク!クエイク、おきるのです!」 ――ドン! 「あっ、フローラ?」 「おうのです、クエイク!チョコ、おうのです!」 「ああん、あなたたちまで!?ダメなのー」 バスケットを飛び出したフローラとクエイクのふたりは、制止を聞かずにココとチョコを追いかける。 「うぅ、わぁぁ、ぁー」 「まちなさい、あなた!あなた、まちなさい!」 「走っちゃ、ダメなのー!みんなー」 「かえしなさい、あなた!あなた、チョコ、かえしなさい!」 「ダーメー。たべられ、ちゃう、のー」 「ニャニャニャニャニャー!」 チョコを掴んだココを先頭に、フローラとクエイクが走る。 「ちょっと、ココ。もう夜なんだから……って、な、なに?こ、この行進は!?」 「――あぁ、ワカバ。あのこれには訳が……」 「はなしなさい、あなた!あなた、はなしなさい!」 「……騒々しいわねぇ。一体……え、えぇっ!?」 「ああぁ、アンジェリナさん。これは、これはですね……」 「きーゃー、つーかーまーるー」 「ニャニャニャニャニャー!」 掴まえているのはココで、捕まっているのがチョコ。 「とにかく、チョコを離してあげて。お願いだから!」 「あ、あい、あい!」 ココは、ワタシの言葉を聴いて素直にチョコを解放する。 ……が。 「ゆるしません、あなた!あなた、ゆるしません!」 「ああん、もう!フローラ!クエイクもー!」 「たーすーけーてー」 それでも追撃は治まらず、廊下を行ったり来たり。 ココが最後に逃げたのは、ロビーの椅子の上。 ワタシは急いでフローラたちをバスケットに誘導し、何とか騒ぎを最小限に抑える。 「……うぅぅぅ。ごめんな、さい」 「う、ううん。ワタシこそ、誤解させちゃって……」 こうなると分かっていたら、きちんと説明してバスケットを開けたのに。 ワタシとココは一緒にホテルの人に謝ってから、それぞれの部屋へと戻る。 ――今日は昼も夜も追いかけっこばかりで、もう……ダ、メ。 「あなた、昨日の夜はちゃんと寝たの?」 「は、はい」 あたしは横を歩くベルの眠そうな顔を見て、少しだけ笑ってしまう。 昨夜、廊下でパレードを披露してしまったのは感心できないけど、彼女にそんなお友達が居たことが分かって嬉しかった。 ずっとひとりだとしたら、たとえ長い時間を生きる《シュエスタ》〈人形〉でもやっぱり寂しいと思う。 「アンジェリナさん、ごめんなさい」 「……なにが?」 「アンジェリナさんにはもっと早く、あの子たちのことを知らせておくべきでした」 「あぁ、いいのよ。青の都まで一緒に来たセロたちだって、知らなかったんでしょ?」 「……はい。父が、しばらくは黙っていなさいと言ったので」 「そうね。あの子たちの存在が知れたら、すごく賑やかで……大変そうだからね」 特にココ辺りが心配の種だったのでは……と思う。 「……ところで、アンジェリナさん。このあとワタシたちは、白の都からどこへ向かうのですか?」 「ワカバの話だと、明日にはこの白の都を出発して、クロムへ向かうことになるの」 ホテルの外へ出たところで、あたしはワカバから渡された小さな地図を取り出し、ベルに見せながら説明をする。 「……クロム?鉱山の村ですか?」 「えぇ。《 ドロップ》〈人形〉石の産出地として有名な鉱山ね」 「――そこからバーミリオンを経由して、赤の都へ」 「そして、この国で一番古くて大きいカーディナル図書館に立ち寄って、セロが調べ物をしてくれるそうなの」 セロとしては、ワカバの劇の完成度を高めるために、たとえフィクションであっても裏付けをしておきたいらしい。 その意見には、あたしとしても賛成。少しでも当時のことが解れば、それだけ演技もしやすい。 「あとはシェンナを経て、そのままモスグルンまで。そこが最終目的地ってことね」 「……はい」 「そしてクロムに向かう前に、あたしたちは白の都で最後の観光をするの。さぁ、あのバスに乗るわよ」 「一体、何を観に行くのですか?」 「さぁ。セロが誘ってくれたんだけど、詳しくは現地で説明をするって言ってたわ」 あたしも降りる場所の名前しか聴いてないので、少し不安。 ただ、セロが先に現地に行って停留所で待っているとのことだったので、何とかなるとは思う。 「(――だけど、一体何を観るのかしら?)」 「いゃあ、ふたりとも。時間通りだね」 あたしは言われた通りの場所でベルと下車し、セロと合流。 セロは発見されやすいことを考えてか、停留所よりも少し手前に立っていてくれた。 「これでも1本早いバスに乗ったんだけどね」 遅れないように余裕を持ってホテルを出たが、なかなか思うようにはいかない。 「……あはは。途中で観光客の乗り降りが多いからね」 彼の言うとおり、何カ所かで乗客の入れ替えが激しく行われ、そのたびに時計とにらめっこをしたのを思い出す。 「それで、ガイドさん。あたしたちに何を見せたいの?」 「……うん。こっちに来て」 セロは、あたしの言葉に大きく頷いてから歩き出す。 しかし、前を行く観光客の一行から距離を取りたいらしく、歩幅はかなりゆっくりとしたもの。 やがて前を行く人たちの声が聞こえなくなったところで、彼は静かに説明を始めた。 「――この場所は、昔でいう白の国と赤の国を結ぶ街道でね」 「当然いまも普通に利用されているけど、見ての通りあまり整備はされていない」 のどかな自然が広がる光景は、都会に住んでいるあたしにはとても新鮮。 列車から見た自然とはまた違い、肌で直接感じられる空気が心地よい。 「でも、観光スポットならもう少し手を加えるべきじゃない?……舗装されてない道だったから、バスの揺れも結構なものだったわ」 そんな愚痴を告げると彼は少し笑い、 「……理由は色々あって、ひとつは昔ながらの風景を守ろうという環境維持」 といって立ち止まる。 そして、大きく背伸びをするジェスチャーで、右手に見える小高い丘を指差した。 「車が多く行き交う道路や列車の線路は、ひとつ向こう側を走っていることになるね」 どうやらセロは、先にきてこの地帯を調べていたらしい。 その証拠にセロが手に持つ観光地図には、彼自身のモノと思われる書き込みが幾つもあった。 「そうすると、この地帯は……昔のままなの?」 「ふたりが演じる劇の時代そのまま……とまでは行かないけど、城の外はこれぐらい自然だらけだったんだ」 「ワタシ、こんな風景を見たことがあるような気がします」 セロの説明に、それまで黙っていたベルが口を開く。 その視線は、はるか遠くを見つめ―― あたしは一瞬、ベルの足が地から離れ、そのまま空へ浮かび上がりそうな錯覚にとらわれてしまう。 「ジルベルクほど高地じゃないけど、自然は豊かだから……似ているかもね」 「……それで、かもしれませんね。少し、懐かしさがあります」 そう言ったベルは、にっこりと笑う。 故郷を離れて間もない彼女でも、やはりそんな気持ちになるものだろうか? 「そして、観てもらいたかったのはこの風景だけじゃなくてね」 「――この道の先にある、お墓……なんだ」 セロが改めて指差すのは、道の先。 前を歩いていた観光客が、ちょうど離れていく場所。 しかし、そこにはお墓らしきモノは見えない。 「……お墓が、あるの?」 「……あぁ。きっと、実物を見ておいた方がいいと思う」 セロは小さく頷き、わたしたちを手招きする。 「……これ、は?」 わたしたちが進む道の中央にあったのは、石のプレート。 そこには何か一文が刻まれていたが、判読できないぐらいに摩滅してしまっている。 「……これが、白の国クリスティナ姫の『後見人』だった、アインの墓だよ」 「えっ?待ってください。どうしてお墓が、道の真ん中に?」 「ガイドラインの言葉を借りるなら、『逆賊の罪を踏みつけ、記憶を風化させることなく、永遠に罰を与え続ける』……と」 セロが苦々しい顔で手元の資料を読み上げる。 あたしは静かにしゃがみ、プレートの土を払う。 「……ひどいわ。いくら何でも、死者を弔わず、こんな……」 「――いつから、なんですか?」 「歴史上では、アインが亡くなってすぐ……だそうだよ」 「……そ、そんな」 ベルの顔に哀しみの色が浮かぶが、それは同情とは少し違うように見える。 「……ごめんね。別にふたりを不快にさせたくて見せたわけじゃないよ」 「ただ、知っておいて欲しかったんだ。僕たちがやろうとしている劇の人物のアインが、どう思われているかを」 「――そして、どんな扱いを受けているかも」 あたしたちは言葉を失い、ただアインのお墓を見つめるだけ。 ひとつ解ったのは、これから先も逆賊と言われたアインは、このお墓の下で、道行く人に踏まれ続ける運命だということ。 それがどれほどの罰に当たるのかは、これまでと――これからの歴史が語るのだろう。 「(――アイン。あなたは本当にクリスティナ姫を……白の国を裏切ったの?)」 当然、そんな心の問いかけに死者が答えてくれるはずもなく。 ――ただ、風がほんの少しの砂埃を払うだけに終わる。 あたしたちは、もう少し調べ物をするというセロを残して、先に都へ。 「……アンジェリナさん」 「なぁに?」 「アンジェリナさんは、アインを……どう思いますか?」 「……漠然とした質問だけど、『かわいそう』とかいう答えは求められてないわよね?」 黙って頷くベルに、以前から思っていた意見を口にする。 「……あたしは、アインが悪人だったと思ってないの」 だからこそ、ワカバの『アインが逆賊ではなかった』という無謀な創作――フィクションにも惹かれた。 「ワタシも、うまく説明できないのですが……そう思います」 ベルの同意を耳に、自分の気持ちをさらに引き締める。……アインが正義の人だったと信じ、舞台を演じよう。 そうすることで、どんな非難を受けようとも――舞台の上での真実をねじ曲げるような真似だけはしない。 「……舞台、がんばろうね」 「……はい」 ふたりは互いの手を握り、決意を新たにホテルへと戻った。 「それじゃ、行くわよー」 チェックアウトを終え、僕たちはホテルをあとにする。すでに、クロム行きの寝台列車のチケットは入手済み。 青の都で目的地を誤った経験を持つワカバは、朝から僕を連れ出し、購入の際に何度も確認を入れてきた。 ……おかげで、今度は無駄なお金を使わなくて済みそうだ。 「……ワカバ。あなた、昨日は部屋にこもっていたみたいだけど、脚本の方は進んだの?」 「えっへへー!そりゃ、もちろん!」 「じゃあ、列車の中で台詞の練習しなきゃね」 「はい!」 昨日、アンジェリナとベルをアインの墓に連れて行ったとき、ふたりが『かなり』ショックを受けていたので心配だった。 ……が、それは僕の取り越し苦労だったようで。 目の前のやりとりを見る限り、問題は――ワカバが、カバンに手を入れて首を傾げていることぐらい? 「……どうしたの?」 「……う、うん。その原稿を……忘れちゃったみたいなの」 「忘れたって、ホテルに?」 ワカバが頷き、僕も手を貸してカバンの中を一緒に探す。 それを見たアンジェリナが、 「カバンの底に入ってたりするんじゃないの?」 と言えば、 「……だって、大きな封筒に入れたもん!それがないってことは、忘れた以外考えられないわ!」 ワカバが口を尖らせて、偉そうに断言する。 「まったく、何やってるんだか」 「忘れちゃったもんは仕方ないでしょー。気づかなかったら、もっと大変だったんだから!」 「そうですよね。そのまま列車に乗っていたことを考えれば」 「ありがとう、ベル!それに比べて、アンって心狭いわ」 「……狭くて結構です。それより早く取ってきたら?」 そんなやりとりにヒヤヒヤさせられるが、タイミングよく、 「あー、いいよ。オレがとってくるから。ねーちゃんより、ずっと早く戻れるぜ!」 の一言が入る。 「あら、言ってくれるじゃない。それじゃ、その足並み拝見よ」 「(――忘れた本人がそれを言ったら……)」 争いの火種にしかならないが、いまはそんなときではないとライトも理解しているようで。 「よし、じゃ行ってくるよ」 出番とばかりに荷物をワカバに預ける。 「……じゃ、先に行ってるからね!」 そして、これで何とかなるだろうと思ったとき―― 「ボ〜ク、も、いくー」 走りだそうとするライトを見て、ココが声をあげた。 ……ココが、ライトについていく? 「ライト!ココを頼むよ」 僕は、変に足止めして時間をロスするよりは、そのままライトに任せてしまった方がいいと考えた。 「任せとけって!行こうぜ、ココ!」 「あーい」 「……待って、ココ」 ココが心配というより、ふたりが揃うことが心配だった僕は、思わず呼び止めていた。 「ココは、残ってくれるかな?」 僕はさりげなくベルを見て、『お願いできるかな?』と口を動かす。 さすがに賢い子だけあって、こちらの意図をすぐに察知し、 「ワタシと一緒に居てくれる?」 と言ってくれた。 「いい、よー」 「……じゃ、決まりだ。行こうか、ライト」 「すみませーん!」 オレが部屋の番号と事情を告げると、係の人がすぐに確認をしてくれる。 そして、10分近く待たされてホテルの人から渡されたのは、ねーちゃんの言っていた通りの『茶色い封筒』だった。 お礼を言ってそれを受け取ろうとすれば、中身の話をされる。 「ええっ!?空っぽ?」 「そんなはずないって!こんな感じのでさぁ……」 オレはフロントにあった紙を指差して、もう一度説明する。 「……あぁ、とにかく、もう一回探してくれよ!」 時間は刻一刻と迫っている。 「……うぅぅ、どうしよう?」 「んぁー?」 「あれ、アンタ……」 「……あぁ!駐車場でぶっぱなし……」 「いい子だから、物騒なこと言わないでよねー?」 思いっきり口を塞がれて、息ができねぇ! 「ヴィーア!」 「あら、名前憶えてくれたのね、ココ」 「……で、なにやってるの?」 「う、うん。実はさぁ……」 手を放してもらったオレは、なるべく手短に説明する。 「ふーん。原稿をねぇ……」 「……で、それってさ。ボウヤのおねーさんの勘違い……って可能性は?」 「へっ?もしかして、原稿忘れたんじゃなくて……?」 「そう。その可能性、高くない?」 ワタシたちは、入れ違いにならないよう、すでに列車へと乗り込んでいる。 「おっそいわねー」 「そうね……」 ワカバもアンジェリナも、ライトたちが来ないことを心配し、窓からホームを覗いているが―― 「(――大丈夫かしら?)」 ワタシの目にも、その姿は見つからない。 「きっとライトのことだから、ギリギリでも列車に間に合うわ」 「それに万が一のときは、家に連絡することになってるから」 確かに《きょうだい》〈姉弟〉で連絡を取る場所さえ決めてあるなら、完全な行き違いにはならないだろう。 ……でも、できればそんな事態になって欲しくはない。 時間は、あとわずか。 ワタシは祈るような気持ちで、ライトたちが来るのを待つ。 ……しかし。 「ダメだ、やっぱり乗ってない」 「うぅぅ、私のせいだわ」 そして、それに追い打ちをかけるかのように、 「……ああぁっ!どうしよう!」 ワカバが頭を抱える。 「あの子、小銭ぐらいしか持ってないわ」 「大丈夫よ。ライトだってきっと考えて、どうにかするはず」 「――だから、いまは原稿が手元に戻ってくることを信じて、待ちましょうよ」 「そうね、そう信じるわ!」 切り替えの早いワカバは、自分を落ち着かせるように頷き、自室へと入っていく。 そして、ひとまずワタシたちも自室へ移動しようとしたとき、 「あぁぁぁぁ!」 と共に、ワカバが飛び出してきた。 ……今度は一体何が? ワタシたちが驚いた顔で彼女を見れば、その手には紙の束が。 もしやと思いながらも、三人がそれを指差せば―― 「――原稿、タイプライターのケースの中に……あった」 そんな衝撃の告白が、寝台列車の廊下で語られたのだった。 「……はぁ、はぁ、はぁ。探したわよ……」 「あぁぁっ、詐欺師!」 「人聞き悪いこと言わないでよ!トニーノの車で駅まで運んでもらって……」 「――こうして列車に飛び乗って、伝言運んできたんだから」 彼女は『詐欺師』と叫んだワカバを見て、ニヤリと笑う。 「なんでも、脚本家が原稿忘れたらしいじゃない」 「……うっ」 言葉に詰まるワカバ。どうしてシルヴィアが、『原稿』のことを知っているのか? そこからの彼女の説明は、至って簡潔。 ホテルのフロントで見知った顔――セロたちに声をかけ、ワカバの原稿の件を聞かされた……という。 「……で、空の茶封筒があって中身はナシ」 「アタシはワカバが持ってると思うんだけど。どうかしら?」 シルヴィアの言葉に、ワタシはアンジェリナと顔を見合わせ、ワカバへと視線を移す。 疑いたくはないが、その可能性もないとも言えない。 「そんな。だって、茶封筒に入れたはずだから……」 「よーく考えてみて。思い込みって怖いわよ?」 「……念のため、探してみた方がいいんじゃないかしら?」 「ワタシもそう思います」 三人の言葉にしぶしぶ頷いたワカバは、自室へと入っていく。そして、2分ほどが経ったころ―― 「…………あぁぁぁ!」 の絶叫。 「――あっ、あったの。タイプライターのケースの中に……」 部屋から出てきたその手には、原稿とおぼしき紙の束が握られていた。 「チャンチャン、って感じよね」 「うぅぅぅ、セロとライトに何て言えば……っていうかぁ、合流できるのかしら?」 ひとつの問題が解決したのに、次の問題が浮上。しかし、それには…… 「平気よ。うちのトニーノに、追っかけ車でふたりを送らせる手はずつけてきたから」 そんなシルヴィアの救いの言葉がもたらされた。 「……それで、ライトとは連絡が取れたの?」 「……うん。それが、ちょっと変なことになって」 鉱山の村であるクロムに着いたのは、アンジェリナ、ワカバ、セロ……そしてワタシの4名。 どうしてふたり欠けているかは、ワカバの早とちりが原因になっている。 「あのコンビが、ライトとココを送ってくれるらしいの」 「コンビって?」 「……ほら、シルヴィアとトニーノのふたり組よ」 「あの、駐車場でココちゃんを撃った人ですか?」 ワカバに尋ねると、無言の頷きが。 アンジェリナは、そんなワタシたちのやりとりを見て、 「……あぁ、賞金首じゃなくて、お尋ね者だった人たちね」 と、あのふたりを思い出した様子だった。 でも、どうして、シルヴィアとトニーノが……ココたちを? その理由と予定に関しては、ライトと電話連絡のついたワカバが説明してくれた。 あのふたりは、白の都で『解放してくれた』ことに恩義を感じているらしく、ドライブのついでと称してココたちを運んでくれる。 ただ、まだその詳細は決まっておらず、このあとの連絡を待っている……とのことだった。 「……とにかく。ライトとココのこと、いまは気にしないで」 持ち前のポジティブさを発揮するワカバは、明るく言い放つ。 しかしアンジェリナは、それが少し気に入らなかったようで。 「気にしないでって言われてもね。とにかく、何か分かったら教えて」 「――これじゃ、練習もできないわ」 そう言って、ワタシたちの元から離れていってしまった。 ワタシは、少し沈んだ顔を見せたワカバに、 「ごめんなさい、ワカバ。アンジェリナさん、少し気が立っているみたいで……」 とフォローを入れておく。 そうしないと、ふたりが喧嘩になるのでは……と思ったから。 でも、意外にもワカバは冷静で、 「それより、アンと何かあったの?」 などと、神妙な表情を見せる。 「えっ、いえ、別に……」 そんな風に言葉を濁そうと思ったが、思い当たる節があるワタシにはうまく逃れられるわけもなく。 ワカバが視線を逸らさないので、 「どうして分かったんですか?」 と尋ねてみることにした。 「……何だか、浮かない顔してるから」 「それに、ベルが悩むとしたらアンのことぐらいでしょ」 答えは妙に納得できるもので、同意するしかなかった。 「私で良かったら話して。力になれるかもしれないから!」 彼女の気持ちの切り替えの早さは、見習いたいと思う。 そして、そんなワカバに……ワタシは甘えることにした。 「……実はワタシ、白の都の広場で、聖歌隊の列に――」 ワタシは、飛び入りで歌わせてもらったことを話す。 「へーっ、そんなことあったの!知らなかったー」 当然、人前で唄も歌えたのだから……成果があったと思う。 「……だけど、アンジェリナさんは喜んでくれなくて――」 クロムに向かう列車の中で聖歌隊の話になると、決まって沈黙が訪れるようになってしまった。 「……ふんふん、それで?」 「あとは、空気がピリピリしてて、何かにつけて……」 「へーっ。……で、そのときのことを色々と訊かれたの?」 その一件について触れるような、触れないような。 ときどき『演技に関して』注意されたりすることがあっても、そこまで雰囲気が重くなったりしなかっただけに、ワタシはどうしていいか分からない……とワカバに告げた。 「うーん。分かったわ。私に任せておいて!」 「……はい」 思わずワタシも頷いてしまったが、本当はワカバにお願いするようなことではないのでは? そう考えて顔をあげてみたが、もうそのときにはワカバの姿は何処にもなく。 ――ただ、走り去る音だけが建物の向こう側に響いていた。 「ねぇねぇ、アン。ちょっといいかしら?」 クロムをひとり散策していたあたしに、何処からともなくワカバが近づき声をかけてきた。 「……なぁに?」 つい1時間ほど前にココとライトのことを聞かされたとき、虫の居所が悪かったあたしは、かなり『つっけんどん』な態度を取ってしまっていた。 少し悪いことをしたな……と思いつつも、謝るタイミングも見あたらず、ワカバの言葉を待てば―― 「白の都で、ベルが唄を歌ったって、本当?」 そんな質問が飛んできて、あたしはビックリした。 「誰から聞いたの……って、あの子しか居ないわね」 「ん?何か問題でもあったの?」 「……別に。どうして?」 わざわざワカバに話すようなことでもない。 「何か、ベルが気にしてたみたいだから……」 「まあ、でもワカバが気にするようなことじゃないわよ」 ……というより、気にしないでほしい。 「むむっ。なぁに、その言い方?私を仲間外れにするの?」 「――もぅ、子どもなんだから。そんな意味で捉えないでよ」 ずずっと顔を寄せてくるワカバに、あたしも思わず邪険な扱いをしてしまった。 しかし、それが向こうにとっては面白くなかったらしく―― 「うわぁ!?すっごくカチンときた!なに、その言い方?」 おなじみの短気な彼女の一面が、フルパワーで迫ってきた。 「……悪かったわ。ごめんね。でも、これはふたりの問題なの。他の人が口を挟むと、もっとややこしくなるから――」 「きーぃ!やっぱり仲間外れじゃん!それはダメっ!」 「……何がダメなのよ?」 「私は、今回の劇の脚本家でしょ。主役を務めるふたりのこと、知らないじゃ済まされないのっ!」 「あー、はいはい。でもね、余計な干渉はしないで」 「ふーん、そう。……ってことは、何か私に言えないやましいことでもあるのね?」 「……挑発しても無駄よ」 「べっつにぃ。そんなつもりじゃないでーす」 「でもでも、もしかしたら……ってこともあるでしょ?」 「何が言いたいのかしら?」 「……うーん?ずーっとふたりで居るから……何かあるのかなぁ、って」 「……そんな心配なら、自分の方をすればいいじゃない」 「な、なぁに?よく聞こえなかったけど……」 「だったら、ハッキリ言ってあげる。あなた、自分の心配をしたら?」 「どういう意味よっ!?」 「……いつまでもセロのこと放っておいたら、誰かに……って言いたかっただけよ」 「そ、それこそ、よ、余計なお世話よ。私は、セロと――」 「セロとなぁに?」 「……き、きーぃ!もういい!アンなんて知らない!」 バタバタと走り去るワカバは、一度も振り返ろうとしない。 悪いけど、こういう喧嘩は負けてあげる気なんてないし、第二ラウンドがあるなら正面から受けて立つ。 でも、ワカバの言うことも、当たらずとも遠からず……なのかもしれない。 聖歌隊の一件は、あたしの中でくすぶっている。 ――それは、ワカバの言うような『何か』ではなく。 これから先、『劇のパートナー』としてうまくやっていくために…… 「(――あたしの方も、ハッキリさせておいた方がいいかな)」 「どうだったのかしら、セロとライトは……」 ワカバの大失敗のせいで、列車に乗れなかったふたり。 アタシに直接の原因がないにしろ、ふたりのことを考えると、劇の練習にも手が着かない。 「……ほらほら、心配しないで。最初に言った通り、うちのトニーノが何とかしてれくるから」 「そうは言うけど……」 さらにはイレギュラーな存在――尋ね人だった彼女が一行に加わり、妙なメンバー構成になっているのも気がかり。 「ワカバと弟のボウヤが、いざというときは、お互い自宅に電話する取り決めだったんだって」 「それでも、ギリギリの予防線よね」 「――まあ、アタシもトニーノと連絡する方法あったから、どうにかなったと思うけど」 お気楽な彼女は、ひとりでウンウンとか頷いているけど、危機感というものがない。 「(――当然か)」 シルヴィアは、これまであたしたちと行動を共にしてきたわけでもなく、どちらかといえば良くない関係だった。 今回は助けてあげたことに恩を感じたのか、気を利かせてくれたみたいだけど、だからと言って仲間意識が芽生えたわけでもなく。 「でも、なんか悪いわねー。アタシ、寝台列車なんて初めて乗っちゃったわ」 ……どちらかと言えば、この軽いノリに苛立たされてしまう。 「悪いけど、トニーノと合流できるまでは、一緒に居させてね」 「……はいはい。それまでは仕方ないわよね」 あたしがぶっきらぼうに告げると、彼女は目をパチクリさせ、 「その代わり、少しはこの前の恩返しするからさっ!」 などと言う。 余計なお世話をされる前に、あらかじめ断ろうと思ったが、 「……そうねぇ。まずは、アンタにしようか?」 「……ち、ちょっと!?」 気づけばあたしは背中を押され、村にある一軒のお店へと押し込まれていた。 「……ここクロムはね、昔から鉱山の村だったの」 「それで、良質の《 ドロップ》〈人形〉石になる貴石が採れるの」 シルヴィアが『恩返し』と称してあたしを連れ込んだ店内は、外装とはうってかわって別世界。 「……すごい……」 これまで見たこともないぐらいの数の石や、小さな人形など、店内に所狭しと置いてある。 「……鉱山だけに、こんなにいっぱい」 「いまでは昔ほど採れないって話だけど、アタシに言わせれば充分よ」 シルヴィアはこちらをチラリと見て、軽く首を横に振る。 「……哀しい話だけど、もう廃れゆく技術なの。需要と供給を考えたら、バランスとれてるのよねー」 「……シルヴィア……」 その横顔は、とても納得しているようには見えない。 「ところで、どうしてあたしを……この店に?」 「……ん?あぁ、列車の中で聞いたのよ。アンタたち、劇をやるんでしょ?」 「えぇ、そうだけど」 「それで、アンタがお姫様。シスター・ベルが、名もなき天使」 「ふたりがコンビなら、それなりに友情を確かめ合ったら?」 「な、なんでそんな必要があるの?別にあたしたちは……」 「……鈍いわねぇ、アンタ。石のひとつでもプレゼントすれば、ってことよ」 そう言ったあとで、彼女は唇だけ動かしてニッと笑う。 「(――はやく仲直り、し、な?……)」 読み取れた言葉は、そんなニュアンス。 アタシはそれが何を意味するか、すぐに悟ってしまった。 「(――もしかして!)」 クロムまで列車で向かう際、アタシはベルと喧嘩……をしたわけではないが、あまりうまくいってなかった。 ……理由は簡単。 それは、白の都でベルが《 ドロップ》〈人形〉石を使って唄を歌ったのを気にし、色々と尋ねたから。 ベル自身は、あたしの詰問の理由がどこからきているのか気づいてない様子。それが余計に苛立たせ―― 「(――少し、ギクシャクしていたのよね……)」 理由を知るはずもないシルヴィアに見抜かれていた。 そう考えると、あたしもまだまだ……だと思う。 「……でも、《 ドロップ》〈人形〉石って高いのね」 何気なく手にしていた石など、よく見ればあたしのお財布が10個あっても足りないぐらいのもの。 「いいのよ、値段なんて。よく見て。ほら、ピンキリでしょ?」 彼女は笑いながら、その反対にあたる石を指してくれる。 「大切なのは、気持ち。なんだけど、ときにはそれを形にする必要もあるの」 「ほら、何かあったときのこと。形あるモノを見ることで、大切な気持ちを思い出したりできるかもしれないじゃない?」 確かに、シルヴィアの言うとおり。 ベルにとってはあの《 ドロップ》〈人形〉石がお守りで、勇気をくれる大切なきっかけのひとつだったのかもしれない。 もちろん、薬みたいな効果を望んでいたのも事実だろうが、それをあたしがとやかく言う資格もなく。 どちらかと言ったら、見事に唄ったことを喜んであげるべきだったのだ。 「(――もう少し、心を広くしないとね……)」 自分が望むことが最善とは限らない。 特に相手に対しての理解の気持ちが欠ければ、うまくいくものさえダメになる場合もある。 「……ねぇ、シルヴィア」 あたしは、それに気づかせてくれた彼女に感謝の言葉を……と思ったが、うまく口にできず。 気づいたら、 「あなたも、大切な何かを形にして持っているの?」 などと、からかい半分に尋ねてしまった。 「……そ、そりゃね。アタシだって、ひとつぐらい持ってるわ」 「(――あ、意外……)」 気丈そうなシルヴィアが、ちょっと照れてる? 「でも、アタシは自分の気持ちとか知られるの、恥ずかしくて」 「ふーん。そうなんだ」 「……って、アタシはいいのよ、アタシは!いまは、アンタの買い物!」 彼女は、常に強い人であらんとするタイプと見た。 「それで、どの《 ドロップ》〈人形〉石がいいのかしら?」 「……自分で選びなさいな」 仕返しとばかりに、アドバイスなしを決め込んだ彼女。 あたしはお財布と相談しながら、やっとひとつの石に狙いを絞ることが出来た。 「……これ、かな?」 「決めた?じゃ、アタシの出番ね!」 彼女はそう言うなり、お金を取り出そうとするあたしを制止。 そのまま、 「おじさまぁ〜ん」 などと、カウンター向こうの店員を手招き。 さっきまでとはまるで違う甘い声を出しながら、指先で石を転がし始める。 「……えへへっ。いつも通り、まけてほしいなぁー、みたいな」 「(――結構、キツネよね……)」 こんな彼女だと、きっとあのトニーノという彼も…… 見えないところで、大変な目に遭ってたりするのかしら? 「……何だか降り出しそうでイヤな空ね」 山の天気は変わりやすいって言うけど、本当にその通り。こんなことなら、傘を持って散歩に出れば良かった。 「早めに宿へと戻るかい?」 横に居るセロも、心なしか歩きが速くなったような。 本当はもっとゆっくり話しながら宿に戻りたいけど、いまは彼の判断が正しい。 「……そうしましょ」 私は彼に足並みを揃えようと、意識的に歩幅を広げてみた。……が、身長の差からか、私が小走りになってしまい―― それに気づいたセロは、自然と速度を落としてくれる展開へ。 「(――あう)」 ……嬉しさ半分、残りは寂しさ。さりげなくフォローしてくれるセロは好き。 でも、最近ではそれに甘んじている自分に気づいてしまい、素直に喜べなくなっている。 「(――私、何だか……ずっと迷惑かけてる)」 いつからかは分からないが、この旅でそれがハッキリした。 ライトの飛び入り参加に始まり、オーベルジーヌ通過切符、白の都での原稿忘れ騒ぎ。 どれもこれも私の失敗なのに、セロはそれを責めない。 「(――少しぐらい、文句つけてくれたらいいのに)」 そうすれば一時は落ち込んでも、あとが楽そう。……いや、どうなんだろう? 他のみんなの前で言われたりしたら、すごく《へこ》〈凹〉みそう。せめて、ふたりだけのときなら―― 「ねぇ、ワカバ。さっきから浮かない顔して黙ってるけど……平気?」 「あ、うん。ごめんね」 私の悪い癖。考え出すと周りが見えなくなる。 「もしも悩み事なら、相談に乗るよ」 「――悩みっていえば悩みで……」 だからって本人を前に、『叱って』とか言えないでしょ? 「アンジェのこと?」 「へっ!?」 予想外の人物の名前に、思わず変な声をあげてしまう。 「あ、あれ?違った?」 「……うん、違うけど。どうして、アンの名前が出てきたの?」 「えっ、だってほら。宿の近くで口論みたいな……」 「(――口論?それって……)」 ベルのために一肌脱ごうとしたら、セロとの関係を言われて……って、何で!? 「……何で、セロがそれを知ってるの?」 「いやぁ。何となく耳に入ってきちゃって……」 「近くに居たの!?」 「……近くってよりは、宿の部屋で。会話の内容まではよく聞こえなかったけど、誰だかすぐに判ったよ」 「…………」 アンジェリナの声は通るし、私も後半……感情的だったわね。 「言い争うような感じがしたから、大丈夫なのかな……って。心配して見に行ったときには、ふたりとも居なくて」 そう聞かされて、私は胸をなで下ろす。バッチリ聴かれていたら、どうしたものかと思った。 「じゃあ、私とアンの話の内容までは把握してないのね?」 再度の念押しのあと、セロの目をジッと見る。 「……うん」 どうやら、嘘をついてはなさそう。ただ、逆にまっすぐ見返されて、こっちがドキドキしてきた。 「……た、大したことじゃないのよ」 「そう?それならいいけど」 私が言うことをマジメにとらえ、そのまま引き下がりそうな気配のセロ。 ……違う。そこでもう一歩踏み込んで欲しいのに。 「で、でも……そう言われても、気になるわよね?」 「そりゃ、気になるかって訊かれたら、気になるけど……」 つくづく自分勝手だとは思いながらも、話を聞いてもらう私。 「……あのね。白の都でベルが――」 まずは順を追い、白の都でベルが聖歌隊に混ざって歌ったという一件を語る。 そして、クロムに向かう列車で、アンジェリナからベルに唄に関しての質問があったことも付け加えた。 「――それでね。私、アンジェリナに『どうして?』……って尋ねたの。そうしたら、段々と話が険悪になってきちゃって」 セロは私が話し終えるまで黙って耳を傾け、最後に一言、 「そうだったんだ……」 で締めくくる。 「……なんか、冷たい反応ね」 「そ、そうかな?」 「いいのよ。とりあえず、思った通りに意見してくれれば」 「じゃあ、訊くけど……ワカバは、どうしたいの?」 「どうしたいって、それはもちろん……アンと仲直りしたいの」 「う、うん。仲直りすればいいんじゃないかな?」 すごいストレート……っていうか、投げた球そのままの返し! 「私はいま、その方法を募集してるんだけど」 「……素直に謝るとか」 「なんで?私が悪いの?アンは悪くないの?」 「その現場を見たわけでもないから、どっちがとか判らない」 「――僕に意見を求めるまでもなく、ワカバはもう自分の中で答えを出していると思うんだ」 「……私が?」 「うん。さっき、宿を出る前に僕とベルを呼んで、これからの旅の予定を教えてくれたよね?」 バーミリオンで合流する話は、モスグルンを中継点にしてライトと決めたこと。 私は、それを報せるとき―― 「あのとき、どうしてアンジェを呼ばなかったの?」 「それは、喧嘩したあとで顔を合わせづらかったから」 説明するまでもなく察してもらえる理由だと思っていたので、ついぞんざいな受け答えをしてしまう。 「別に、アンを仲間はずれにするつもりじゃないわよ?……予定は、ベルから伝えておいてもらえるように頼んでおいたし」 「……だけどそれって、どこか後ろめたさとか残らない?」 「そ、そう?」 「喧嘩から時間が経って冷静さを取り戻したとき、ワカバが会うことに抵抗を感じていたのは……」 「――多かれ少なかれ、『悪かったかな?』っていう気持ちがあったからじゃないかな?」 「…………そうね」 間違ってない。まさに、そのものズバリな指摘。 アンジェリナに対して引け目があるからこそ、会いづらくて呼べなかっただけ。 「あとは、それを口にできれば仲直りできるのも、ワカバは僕に言われるまでもなく理解していると思う」 「……だから、答えは『私の中で出ている』ってことね?」 「うん」 ……セロには敵わない。 自分のような直情タイプからすれば、その冷静さは羨ましい限り。 「いっつも失敗して、フォローされてるね、私」 「そんなことないって」 「……そんなことばっかりだよ」 うまく頭が働かず、オウム返しで反論している自分が居る。 将来は売れっ子小説家になるはずなのに、いま、何を言えばいいのか思いつかない。 「(――ダメだな、私……)」 でも、そうやって大きなため息をついたとき。 アンジェリナよりも先に、謝らなきゃいけない相手が居ることに気づいた。 「……ねぇ、セロ」 「うん?」 「いつも、ごめんね」 「ううん、僕は謝られるようなことは何も」 「……ううん、気にしないで。私の中の気持ちの問題」 そして、謝るだけじゃダメ! 「――いつも、ありがとう」 謝ることも大切だけど、たまには素直にお礼も言わなきゃ。 「えっと、僕は別に……」 「いいの。セロも《 ・ ・ ・》〈素直に〉受け取ってよ」 私は大きく深呼吸して、空を見上げる。 「あっ、降ってきた!早く戻りましょ!」 「う、うん」 ポツポツと落ちる雨に追われながら、私はセロと走り出す。思い立ったが吉日!鉄は熱いうちに打て! 勢いだけじゃダメだけど、それはそれ――私の武器として。アンジェリナに、素直な気持ちで謝る。 ……それと、ベルにも。 「(――喧嘩してる者同士の間に立つのって、損な役割だもんね)」 「アンジェリナさん」 「ごめんね。こんな雨の中、外に呼び出したりして」 「いいえ。通り雨ですから、すぐにやむと思います」 ワタシはクロムの宿の軒先で、灰色の空を見上げる。高地の天気が変わりやすいのは、ジルベルクも同じ。 村の子どもたちは外で遊べなくなるから雨を嫌うが、これも大切な自然の恵み。 最近は晴れ続きだったせいもあって、少し新鮮に感じた。 「どうしたの?思い出し笑い?」 「いいえ。ただ、久し振りの雨だな……と思って」 「そうね。あなた、雨は好き?」 突然の質問にびっくりしてしまい、どう答えようか迷う。 好きか、嫌いか。毎日が雨なら憂鬱になると思う。 逆にずっと晴れだったら、きっと雨が恋しくなる。 「……あなたって、面白いわね。いまの質問、真剣に悩んでいるの?」 「おかしいですか?」 「ううん。そんなことないわ。自分で訊いておいて何だけど、答えづらい質問だったわね」 そう言って彼女は顔の前で軽く手を振り、 「いまの質問、なかったことにして」 と言いながら、ゆっくりこちらへと向き直った。 「――ところで、さっきワカバと話していたみたいだけど……」 「ライトたちと落ち合う場所が『バーミリオン』になった、と聞かされました」 「バーミリオン?赤の都の手前辺りの街だっけ?」 「はい。ふたりは『アゾ』を経由して、車でバーミリオンまで送ってもらえるそうです」 「そうすると、あたしたちも明日にはクロムを出ることになるのかしら?」 「ワカバは、『朝には出発するつもり』と言ってました」 「……そう。だいたい分かったわ。ありがとう」 アンジェリナは灰色の空を眺めたまま、動こうとしない。 呼ばれたワタシも、このあとどうすればいいか分からず、ぼんやり彼女と同じ方向を見る。 「……ごめんね。わざわざこんなときに外まで連れ出して、大した話もせずに」 「……いえ。でも、どうしてワタシに訊いたのですか?」 合流の話が出たとき、その場に居なかったのは彼女だけ。 もう既にアンジェリナが聴かされているのかと思っていたが、いまの話の流れからして……どうやらそうでもないらしい。 「ちょっとね。ワカバと喧嘩しちゃって、訊きづらかったのよ」 「喧嘩?ワカバと?どうして?」 「どうもこうも。あの子が色々とうるさいから、こっちも軽く言い返して……それで、よ」 「……その、演劇に関係することですか?」 「ワカバとしては、関連させたいみたい。でも、それは全くのお《かど》〈門〉違い」 アンジェリナは小さく眉をひそめ、ため息をつく。 「……『お門違い』?」 きっと意見の相違だと思うが、根元が判らないうちは下手に仲直りの提案もできない。 「そう。あたしたちは、舞台のために旅を一緒にしているわ。だけど、プライベートまで結びつけられたら困るでしょ?」 「……え、えぇ」 「それをあの子ったら、言うに事欠いて……」 思い出して腹立たしくなったのか、彼女は足下の小石を道へ軽く蹴り出す。 そしてそれは水たまりへと落ち、ひとつの波紋を作る。 「……つまらない喧嘩だと思う?」 「……いいえ。人にはそれぞれの考えがありますから。事情を知らないワタシには何とも……」 「もしその喧嘩に、あなたがからんでいるとしたら?」 「(――何の話だろう?)」 ワタシはあまり深く尋ねるのも悪いと思い、口を閉ざす。 ……と、彼女も同様に黙り込み、少しの間は雨の音だけしか聞こえなくなる。 「……ま、あなたに愚痴を聴かせても悪いわよね。これは、あたしとワカバの問題なんだし」 「そんなことないと思います。人に話してスッキリすることも、あるはずですから」 「…………そうね。でも、あなた相手だから話せないこともあるのよ」 「えっ?」 意外な言葉に、ワタシは驚く。 そして、それがどういうことか尋ねようとしたとき―― 「『ベール?アーン?』」 宿の中から、ワカバの声が響いてきた。 「ワタシたち、呼ばれているみたいですね」 「そうね。だけど、いまはワカバに会いたい気分じゃないの」 その気持ちは、いまの話を聞いてワタシにも伝染している。 「……少し、宿から離れますか?」 手にしたバスケットのフタを開き、ワタシは折りたたみ傘を取り出す。 小さな傘だけど、ふたり寄り添えば歩くこともできそう。 「ありがとう。じゃ、少しお邪魔するわね」 そう言ってアンジェリナがこちらに手を差し出し、 「あたしが持つわ」 ワタシは一瞬断ろうと思ったが、手を離して彼女に任せることにした。 「平気?濡れない?」 「……大丈夫です。アンジェリナさんの方はどうですか?」 「いいのよ、気にしないで。それよりも、あなたの羽根が濡れないようにしないとね」 ふたりで寄り添って歩き始める。 ワカバには悪いと思いつつ、ワタシはアンジェリナと一緒に歩けることがとても嬉しかった。 「――さっきの喧嘩の話だけど」 「正直に言うと、原因は……あたしと、あなたにあるのよ」 「ふたりの?」 「…………白の都から、《 ・ ・》〈ここ〉クロムに向かう列車の中で、あたしは……あなたが聖歌隊に混ざって唄を歌ったときの話をしたでしょ?」 「……は、はい」 「あたしね、見てしまったの。あなたが歌う前に、《 ドロップ》〈人形〉石を飲み込むところを」 その説明ひとつで、彼女が列車でどうして聖歌隊の一件にこだわったのかを悟った。 オーベルジーヌで調律を受けたあと、ワタシがお父さんから渡された《 ドロップ》〈人形〉石。 それには雑念を払い、ひとつのことに集中できるようになる機能が施されていた。 「あなたのお父様から聞いたけど、オーベルジーヌの手前で具合が悪くなったのは、落ち着くための《 ドロップ》〈人形〉石を飲み過ぎたせいだったんでしょ?」 「…………はい」 アンジェリナは、《 ドロップ》〈人形〉石についての話を父から聴かされたと明かし、 「――だからあたしは、『また調子を悪くしないか?』とか、『危険なことをするのね』とか、色々と心配だったの」 そう締めくくって、一息つく。 「(――みんな、知られていたんだ……)」 飲み過ぎの失敗に加え、心配までされていた事実。 ワタシの頬が、恥ずかしさで熱くなってくる。 ……でも、よく考えてみれば、それは当然の流れ。 ずっと付き添ってくれていた彼女に、お父さんが不具合の原因を話さない方がおかしい。 「歌う前に飲むかどうか、悩んだんでしょ?」 「……はい」 「…………ごめんね」 「アンジェリナ……さん?」 素直に認め、叱られるのを覚悟していたワタシには、そんな彼女の謝罪の意味が判らなかった。 「……いま、カッコつけて『心配だった』とか口にしたけど、あのときのあたしは、それよりも別のことも考えていたの」 「――《 ドロップ》〈人形〉石に頼らず唄う姿を見たかったな、って」 「……ごめんなさい」 それは、言われて当然。 あのときのワタシは一時の不安に負け、もっとも大切な――自力で歌うという努力を怠り、彼女の期待を裏切ったのだ。 これは、何度謝ったところで許してもらえないかもしれない。 それなのに、アンジェリナは、 「ううん、謝らないで。謝られると、困るのよ」 歩みをゆるめ、首を横に振って目を伏せる。 「……元はと言えば『あたしが悪い』からよ」 彼女の言うことが、理解できない。 「なぜですか?」 どう考えても悪いのはワタシで、アンジェリナに非はない。 「その場の思いつきから、あなたに聖歌隊へ加わるのを勧めて、いきなり『さぁ、歌いなさい』っていう、傍若無人ぶり」 「――おまけにあなたが置かれた状況も考えず、《 ドロップ》〈人形〉石を飲む姿をみて勝手にハラハラ」 「……それは……」 「――結論から言うとね。……もしもあたしがあなたの立場だったら、同じように《 ドロップ》〈人形〉石を飲んでいたと思う」 「…………アンジェリナさん」 「あたしが無理させておきながら、『《 ドロップ》〈人形〉石を使うのはダメ』……なんて、虫が良すぎる話よね」 明らかに彼女は、ワタシを庇おうとしている。 「……その上、『心配した』とか言っちゃって……何だろう?」 弱まった雨音にさえ、消されそうになるアンジェリナの声。 「――お門違いは、あたしの方だったんだわ」 そんな風に自分を卑下する彼女の姿が納得できない。 うまく表現できないけど、何か違う。 他人の考えを否定するのは苦手。 だけど、いまは―― 「そんなことはありません。それとこれとは別です」 思わず強く言い切ってしまい、『しまった』と思う。 ……が、これだけ強く否定してしまった以上は引き返せない。 「どうして?だって、自分の推測だけで相手を……」 「そうかもしれませんが!」 ワタシは一度深呼吸をして、自分の中の考えをまとめる。 「(――落ち着くの……)」 こんなときだからこそ、しっかりと気持ちを伝えなければ。 「……アンジェリナさんとワカバが何を話したのか、詳しいことは判りません」 「だから、当事者でないワタシは口をはさめません」 「――でも、唄の一件はアンジェリナさんひとりの問題じゃなくて……ワタシたち『ふたりの問題』です」 「――さっき『あなた相手だから話せない』って言ったのは、自分に否があるのを無意識のうちに認めていた、からかも」 「…………」 「結局のところ、あたしひとりが勝手に……」 「違います!」 「……どう違うの?」 勢いで否定してしまったが、言いたいことは心の中にある。問題は、それをどうやって言葉にするか。 「……アンジェリナさんは『自分ひとり』と言いますけど、どうしてですか?」 「これまで説明したとおりよ。あたしがもう少し大人になれば良かっただけ。あなたに迷惑をかけたことが……」 「待ってください!」 思わず大きな声を出し、彼女をびっくりさせてしまう。それでもワタシは言うしかない。 「……自分だけで解決しようとしないでください」 「アンジェリナさんが謝るだけでコトを済ませてしまったら、ワタシはまたいつか同じ間違いを繰り返します」 「――だって、これは『ふたりの問題』だから」 そう口にして、自分が納得できなかった理由がはっきりした。 ワタシは、彼女が悪者になるような終わり方を望んだりしてなかったのだ。 「……わかったわ」 アンジェリナは傘をそのままに、ワタシと向かい合う。そして、怒った様子もなく。 「――だったら、ふたりとも相手の非を認めた上で、お互いに『ごめんなさい』……で、どう?」 むしろ優しい口調で、そんな提案をしてくれた。 「…………」 ジッと見つめられるうちに頭の中が白くなり、黙って頷きかけた自分に気づいて『待った』をかける。 「(――きちんと考えてから、答えないと……)」 用心を怠って流れに身を任せたら、またどこでどんな失敗をするか分からない。 「無理にとは言わない。でも、まずは歩み寄るところから……気持ちを切り替えてみない?」 その言葉を耳に、新たな気持ちで深呼吸。 「…………すみませんでした」 「……ううん。あたしこそ」 ワタシ、アンジェリナ、ワタシ、アンジェリナ。頭を下げた相手を見て謝ること、ふたりして交互に計4回。 傍目にはちょっとズレたやりとりも、5回目にはぴったりとリズムが重なり―― 「『ごめんなさい』」 やっとお互いが顔を上げたときに視線がぶつかる。 「……あなたの気持ちを理解したつもりになっていただけね。これからは、推測で終わらせず率直に尋ねるわ」 「ワタシも隠し事はせず、素直に話します」 「本当?だけど、何でもかんでも相談とかはナシよ?」 「……はい、気をつけます」 そうそう、極端はダメ。 「お互い気をつけながら、少しずつ誤解を減らしていって。もっといい関係になりましょう」 「……もっといい関係?」 「……あ、う、うん。その……演劇のパートナーとして」 「はい。がんばります!」 「……違うわよ。ふたりのことだから、そこは『がんばります』じゃなくて、『がんばりましょう』って言わなきゃ」 注意されてワタシがハッとすれば、彼女が小さく笑う。 そんな他愛ないやりとりでも、ワタシにはアンジェリナとの距離が少し縮まったように感じられた。 「……それじゃ、そろそろ戻りましょ。あたし、もうひとり謝らなきゃいけない相手が居るから」 ワタシは小さく頷き、アンジェリナのあとに倣って雨の道を引き返していく。 「……あの……」 「なぁに?」 「……アンジェリナさんは、宿の軒先でワタシに、『雨は好きか?』って……尋ねましたよね」 「……えぇ、そうだったわね」 「ワタシ、今日の雨……好きです」 うまく説明できないけど、いまはそう答えられる。 「……そうね。あたしも好きよ」 やや遅れて得られた同意。 ワタシは、そっと感謝の言葉を胸の中で呟く。 「(――ありがとう)」 知らず知らず積もったわだかまりを自然と洗い流してくれた――この空に向かって。 白の都から南下すること1日とちょっと。 本当だったら、みんなと一緒に寝台列車でクロムに向かい、もう現地で悠々と観光してたはずなのに―― 「……みーんな、ねーちゃんのせいだよなー」 現実には、低地のアゾから遠く向こうにある《もと》〈元〉目的地を眺め、文句を言うことしかできない。 「んー?なに、がー?」 「……原稿の話だよ。ねーちゃんの原稿」 「――それも『ホテルに忘れた!』とか言ってたくせにさ!」 あれだけ慌てて、ホテルの人にも探し回ってもらったのに。 かーちゃんに電話して、ねーちゃんからの報告を聴かされたときには、もう……なんて言ったらいいか。 「実は、タイプライターのケースの中にあったんだってよ!」 「へー」 「合流できたら、ぜってー文句つけまくってやる!」 「……ぷんぷん?」 「もう、どんだけ謝ったって許されないと思わないか?」 「そうな、のー?」 《 コ コ》〈相棒〉の冷めた反応に、ひとり熱くなっている自分がおかしいのかと思ってしまう。 「……あのさぁ、ココ。オレたち、もう少し怒ってもいい立場なんだぜ?」 「んー?どうし、てー?」 「そりゃ……ほら!オレたち、無駄足だったんだよ」 「……うんうん。むだあし、って、なぁーに?」 「――なんていうか、その徒労に終わるっていうかさ」 よーく考えたら、ココは『怒る』ってことを知らない。 「……まぁ、いまはいいか。ココに当たるわけにもいかないし」 ずっと列車だったから、こうして車で旅するのも気分転換で悪くないと思えてきたし。 それに、送ってくれる二人組――トニーノとシルヴィアも、最初は白の都でのイメージが強くて馴染めなかったけど…… 話してみると意外に普通、っていうか面白い。 「『人形技師って言うと、どうも先入観からか……年寄りだと思われるケースが多くてな』」 「『ふんふん!』」 トニーノが、近くに居たシルヴィアをアゴでクイッと指し、 「『――若くてイイ女だって知ると、急に鼻の下を伸ばすのさ』」 ……なーんて言う。 「『……んんっ、トニーノ。ボウヤ相手に何の話をしてんのよ?』」 「『いいじゃねーか。別に、お前の悪口言ってるわけじゃないし』」 「『……だっ、だからって話題と相手は選びな!』」 「『あれー?シルヴィアって文句言ってるけどさ。なんか、嬉しそうじゃない?』」 「『あぁ、こう見えて結構シャイなところがあっ……ブッ!』」 「『うわっ!すっげぇビンタ!』」 「『トーニー、いたそうだ、ねー』」 「『平気よー。コイツ、見た目より頑丈だから。……ねーっ?』」 「『…………も、もちろん、さ。こんなの蚊に刺されたより……』」 「『あはははっ、蚊!そう、蚊?あっ、もう一匹いたわ』」 「『……おぶっ!』」 「『うーわー。ほっぺ、りょうほう、まっかだ、ねー』」 シルヴィアのビンタはすごく派手な音だったけど、本気っていうよりは冗談まじり。 普段からこんな感じのコンビなら、それほど悪い人たちじゃないって思えてきた。 そして、昨日の夜も―― 「『……はい。アンタたちの宿は、あそこね』」 「『ん?オレたちだけ?シルヴィアたちは?』」 「『俺たちは車の中でふたりっきり、楽しく過ごっ……ダァ!』」 「『ちょっとドライブしたい気分なのよ。ねー、トニーノ?』」 「『……ま、まぁね。はは、はははは……』」 オレとココをホテルに泊め、『自分たちは車で過ごす』とか言って。 朝になって、待ち合わせ場所で車にこっそり近づいたら―― 「『……だから、お前だけでもホテル泊まれば良かったのに』」 「『どっかの誰かさんが、浮かしたお金をセロに返したいとか言ったの聞かなきゃ、アタシだって泊まったわよ!』」 「『気にすんなって。元はと言えば、俺が前金せしめて……』」 「『あー、うるさい!過ぎたことをごちゃごちゃ言うな!』」 シルヴィアじゃないけど、そんな会話を聞いちゃったら……根は良い人たちだって丸分かりもいいところ。 「『――明日の朝になったら、アタシたち居ないかもよー?』」 とか言われてたけど、そんなこともなかったわけだし。 「……よう、ボウズ!どうした、空なんか眺めて?」 ぼんやりとふたりのことを考えてニヤケてたら、片割れがやってきてビックリ。 オレは、なるべくムスっとした顔を意識して、 「ボーズじゃねぇーって。オレの名前は、ライト」 きっちり文句をつけておいた。 「ボ〜ク、コーコ」 「……お、そうだった。わりぃわりぃ!あんまり物覚えがいい方じゃねぇから、許してくれや」 「あい、あい」 会話の流れ的にはオレが頷くべきなんだろうけど、ココ……でもいいか、別に。 「ところでボウズ!ワカバとの連絡は順調かい?」 「まぁね。ねーちゃんたちがクロムで泊まってるホテルの電話番号は、かーちゃんから聞いたよ」 「おっ!じゃ、直に電話して落ち合う場所も決めたのか?」 「うーん。一応、『バーミリオン』ってことにしといたけどね」 「……ん?一応って?なんか、まずいことでも?」 「こっちが移動にどれぐらいかかるか、分かんなかったから」 非難したつもりはなかったのに、トニーノはスッと目を細め、 「わりぃ。この車、あんまりスピード出すと……あとが大変で。まぁ、持ち主と同じで『ジャジャ馬』だからよ」 そんな風におどけて見せる。 「(――誤解させちゃったかな?)」 そう思ったオレは、素直に謝っておくことにした。 「……ごめん。車のスピードとかじゃなくて」 ただ単に、まだねーちゃんと口をききたい気分じゃないから、かーちゃんを間に連絡を取り合っているだけ。 「どうした?他に何かあるのか?もし何だったら、俺を頼りにしてくれてもいいんだぜ?」 「トニーノを?」 「あぁ、もちろん!こんなときは、どっちかっていうと……ココより俺に相談した方がいいんじゃないか?」 ココをチラリと見たトニーノは、軽くウインクをして帽子を持ち上げる。 「ボ〜ク、ダメー?」 「……ダメじゃないさ。ただ、男には女に話しづらい相談事もあったりするもんなんだよ。ココは、女の子だろ?」 「あい。ボ〜ク、おんなの、こー」 「そうすると、だ。ココが相談するなら……俺じゃなくて、あっちに居るシルヴィアってことになるんだ」 「ヴィーア?」 「――うーん。何か論点がズレてるような……」 「まぁまぁ!物は言い様ってやつさ」 セロにーちゃんは、こんな感じの喋りに引っかかったとか? 「(――でも、まあ……)」 いまさらトニーノが、身代金目当ての誘拐犯に化けたりするとも思えないし。 「……じゃあ、少し聴いてもらおうかな?」 「そうこなきゃ!おーい、シルヴィア!」 車から離れていたシルヴィアの名を大声で呼んだトニーノは、軽くココを指差して、 「……少しの間、頼んでいいか?」 と続ける。 「ん、なんで?」 「ちょっと、このボウズと男同士の話があってな」 「……何か変なこと企んでない?ボウヤは承知してるの?」 「ぜんぜん!な、ボウズ?」 「……まぁ、そうだけど。どうしてふたりとも、オレのことをボウヤとか、ボウズとか……」 「それならいいわ。……ココ、こっちにいらっしゃい」 「あーい」 「(――まだオレ、質問してるんだけど……)」 「あたし、お腹減ったからこの子とご飯食べて来ちゃうけど、いいわよね?」 「おうよ。俺たちはあとで……いいよな?」 人の話はそっちのけのペースに、オレは逆らう気力も失せて。 「……うん、いいよ」 そう答えて、シルヴィアとココを見送ることにした。 「……さぁて、と。のんびりするか」 ふたりの姿が村の方へ消えたの確認したトニーノが、帽子をかぶり直しながら車のボンネットに腰を下ろす。 オレも真似てみたけど……身体の大きさが違うせいで両脚がプラプラ。 「いまさらだけど、トニーノって背が高いんだね」 「ん、そうか?まぁ、そこそこってとこだろ?」 セロにーちゃんが、ふたりの中間ぐらい?……いやいや。どう考えても、オレが思いっ切り低い。 「――ねぇねぇ。いつからそれぐらい身長あったの?」 「うーん。もう10年ぐらい昔か?待て待て。そう考えると、俺も結構な歳になったんだな」 「……そのあごヒゲとか剃れば、もっと若く見えると思うけど」 「確かにそうかもしれねーけど、これを剃ったら……きっと何か足りない感じになると思うぜ?」 ヒゲのないトニーノを想像して、思わずニヤリ。 「なんだ、笑うこたぁーねぇだろ?」 「ごめんごめん!でも、いつぐらいから伸ばしてるの?」 「いまの仕事を始めた頃だから……かれこれ5年ぐらいか」 「5年も《 ドロップ》〈人形〉石を売ってるの!?」 「いやいや、それはシルヴィアと組んでからの話。――俺の仕事は便利屋、もしくは『なんでも屋』が本業」 「……《 ドロップ》〈人形〉石を扱うようになったのは、シルヴィアと出会ってからさ」 「儲かるから?」 「……いいや、逆だよ、ぎゃく。売れない《 ドロップ》〈人形〉石ばっかりが山とあってな」 「――話せば長くなるけど、聞くか?」 「うん!」 面白そうだから、とりあえず頷いておく。 「……数年前、まだ駆け出しの人形技師だったシルヴィアには師匠が居てな」 「人形技術の腕はなかなかのモノでも、《 ドロップ》〈人形〉石の目利きだけは大の苦手らしかったんだ」 「いつも中途半端な粗悪品ばっかり掴まされて帰ってきては、『あぁ、また無駄な出費を!』とか、シルヴィアに叱られて」 ……弟子が師匠を叱るのってアリなの? 「――挙げ句にそれが積もり積もって散財し、『すまん!』の書き置きで夜逃げ同然に姿を消して……」 「未払いの給料代わりに、どうにか金になりそうだったのは、粗悪品の《 ドロップ》〈人形〉石ってわけさ」 「……」 「それを何とか売ろうとする姿があんまりにも哀れで、俺が手を貸してやったのが始まりで――」 「粗悪品ばかりじゃ売るに売れないから、何とか金を工面して相性のいい《 ドロップ》〈人形〉石を手に入れて、抱き合わせ販売してみたり」 「人工《 ドロップ》〈人形〉石の開発用サンプルとして、正規業者のフリして売り払ってみたりと……ずいぶん苦労したぜ」 「結構、スレスレのことしてるんだね」 「……まぁ、商売で儲けようと思ったら、多少は危ない橋も渡らないとな。それでも、お代相応の取引をしてきたつもりだぜ」 「ふーん」 「さぁ、俺の話はおしまーい。本題といこうか、ボウズ?」 「……本題ねぇ」 オレの悩みは、ねーちゃんと電話するかしないかぐらいの些細な問題だから、わざわざ話しても鼻で笑われそう。 でも、ここで何も言わないのも―― 「(――あ、そうだ!)」 ふと、いいことを思いつく。 トニーノとシルヴィアは、オレなんかよりもずっと大人。 そして、うちのねーちゃんとセロにーちゃんも年上。 ……ってことは、悩みってほどじゃないけど相談してみたいことがある。 「……そうか。あのふたり、《 ・ ・》〈イイ〉感じなのか」 「まぁね。ずっとあんな調子だけど……さ」 話してみたのは、ねーちゃんとセロにーちゃんについて。 オレ的には、ずっと前から恋人同士かそれに近い関係かな?……と思っていた。 けど、それはあくまですぐ側にいる《 オレ》〈身内〉の目から見た予想でしかなく。 傍目にはどう映るのか、ちょっと興味があった。 「……俺はよくふたりを知らねぇけど、見た感じ……まんざらでもないよな」 「やっぱり、他の人にもそう見えるんだ」 知り合って間もない外野のトニーノから見た感想が同意なら、まず間違いないだろう。 やっぱり、ねーちゃんたちは……そういう感じなんだ。うん。 「弟としては、ねーさん取られるみたいでイヤか?」 「ううん。ちょっと違うかな」 「……ん?」 セロにーちゃんが相手なら、全然文句なし。 正直言えば、ねーちゃんを任せられるのは……ってぐらい、適役っていうかハマリ役? だから―― 「できれば、早いところくっついて欲しいのが本音」 セロにーちゃんには悪いけど、早めに観念してほしい。 「はははっ。煮え切らない方がどうにも……ってことか」 「だってそうだろ?セロにーちゃん、いい人だし。うちのねーちゃんの相手してくれるのなんて、そうそう居ないって」 「……こりゃまた、すごい言われようだね」 そりゃあ、ねーちゃんがもう少しおしとやかで、シルヴィアぐらい大人っぽければ―― とか考えたら、ちょっと別のことが訊きたくなってきた。 「トニーノは、どうなの?」 「俺?俺がどう思うかってことか?」 「違うよ。シルヴィアと、どうなのかなぁ……って」 「……なんだ?俺がシルヴィアとどうでもなかったら、狙ってみたいのか?」 からかい口調の言葉で微妙にはぐらかされ、ムッとした。 確かに綺麗で魅力的だけど、人は外見だけで選べない。 「……そんなわけないだろ?あんな人、相手にできるのトニーノぐらいじゃんか」 「言ってくれるねぇ」 トニーノのニヤけ顔は……どこか不安な感じ。 「……でも、自分でもそう思ってるんだろ?」 それでも否定しない辺り、『シルヴィアの彼氏』って位置は認めているみたい。 「……そりゃ、ね。だけどさ、世の中ってやつは、そうそうはうまく行かないもんなんだよ」 小さなため息をつくトニーノは、ぼんやりと空を眺める。 「……前によ。それっぽい気持ちで指輪を渡したのさ」 「指輪?いま、トニーノがしてるみたいな?」 よく帽子を触るときに見かける、トニーノの右手の薬指。 シルバーリングが、キラリと光ってる。 「そうそう、おそろいってヤツさ。そしたらよ……」 背を逸らし、真上を見たトニーノは、 「一日でなくされちまってさ」 結構、衝撃的な告白をしてくれた。 「…………それは、う、うん……」 もらった当日か、次の日なのか知りたかったが、どちらにしても大差なし。 好きな人にプレゼントしたりとか経験のないオレだって、想像するだけで充分『やるせない』と解る。 「気にしないフリはしてみたけど、さすがの俺もショックが大きくてな」 ……そりゃ、当然。 「……おまけにそれ以降、シルヴィアは一度もその話題に触れないんだぜ」 すごくコメントしづらいけど―― 「それって、気にしてるんじゃないかな?悪いなーって」 きっとシルヴィアだってそう感じている!……と信じたい。 「……だといいけどな」 トニーノは帽子の煙草に手を伸ばしかけるが、首をすくめてそれを止める。 「……わりぃな。相談のってやるつもりだったのに、こっちの泣き言聴かせちまって」 「ううん、いいんだ」 本当は、トニーノとシルヴィアがどんな風に付き合っているのか訊いて、ねーちゃんたちの参考にしようと思っていた。 でも、そんな出来事を聴かされたあとじゃ、話題としては引っ張りづらい。 ここはきっぱり諦めて、目下の問題について相談した方が良さそうな気がしてきた。 「それより、オレたち……ねーちゃんたちとうまく合流できるのかな?」 恐る恐る話題をチェンジしてみれば、案外トニーノも気分の切り替えが早いのか、 「……そりゃ、俺たちがなんとかしてやるさ」 と、普段の軽い調子の言葉が返ってきた。 昨日までは不安だったそのノリも、いまでは逆転して安心に変化しているのに気づく。 トニーノたちが、悪い人じゃないって……確信できたから。 食事を終えたアタシは、ココを連れて腹ごなしの散歩中。 ココがモグモグおいしそうに食べるのが楽しかったから、好きなだけ……とか思っていたら。 「『アンタ、底なしなの!?』」 「『んぁー?』」 休憩所のおばちゃんが、ココの食べっぷりに感心してお代をまけてくれたからだいぶ助かったものの、お財布は相当軽くなってしまった。 「夕食は、きっちり一人前分でおしまい。いい?」 「そうな、のー?」 「うぅ、あ、あたしの分を少しあげるから。ねっ?」 哀しそうな下がり眉には、どうしても強く出られない。 「(――調律で満腹感を与えてから、食事させようかしら?)」 我ながらケチくさいが、背に腹は替えられない。 いざとなったら、セロたちと合流するまで眠っていてもらう手も考えなければ。 「ヴィーア、こっちー」 「はいはい。あんまり森の奥に入らないでね」 この子は、元気なだけに心配な《シスター》〈人形〉。目を離したら、いつの間にかどっかに行ってしまうタイプだ。 きっと、セロもその辺りで苦労しているに違いない。 「かくれん、ぼー、するー?」 「ふたりで?それだったら、あのふたりも居た方が……」 そこまで言って時計を確認。果たして、いま車に戻ってトニーノたちが居るのか? 居たとしても、入れ違いで食事に行くような気がする。 「車のキーは預けてあるし。ふたりの邪魔するのもアレだから、かくれんぼは……また今度ね」 「あーい」 「……だけど、あのふたり。どんなこと話してるのかしらね?」 「さぁー?」 男同士、みたいなことを言っていたのを思い出す。 「……なんか、変な話とかいう可能性ない?」 「へんな、はな、しー?どん、なー?」 「そ、それは……」 年頃の男の子が、ちょっと遊んでそうなトニーノを相手に、色々と大人っぽい質問して―― 「いや、やっぱりいいわ。アンタには無縁。忘れて」 ……っていうか、こんな話題をふった自分こそ忘れたいわ! 「あい。わすれ、まーす」 「……アンタがいうと、本当に忘れそうね」 思わず笑ってしまうが、ふとした不安に駆られて尋ねてみる。 「いま、なにをアタシと話していたか憶えてる?」 「んー?なにがー?」 「まさか、本当に……」 忘れろって言われて、忘れられるような機能がある? そんな危険な命令が、会話だけで作動する造りでは―― 「へんな、はな、しー?」 「……なんだ、心配させないで。ちゃんと憶えてるんじゃない」 「あい、あい。でも、ねー」 「……?」 「いつか、わすれま、す」 ――いつか、忘れます。その言葉が、何故か一瞬だけひどく寂しく思えた。 ……が、よく考えてみれば。 「それは、ひとつの真理だよね」 「しん、りー?」 「そう、真理。何があっても変わらない、普遍とも呼べる事柄」 そして、アタシはふと、自分が『人形技師になった理由』のひとつを思い出した。 「……ココは、何処で生まれたんだい?」 「どこ、だろう、ねー。わかん、ない」 「――そっか」 「ヴィーア、はー?」 「――アタシは、赤の都よりもう少し下の方。自分で言うのも何だけど、実家はかなり裕福でね」 「ふんふん」 頷くココがどれぐらい理解しているかは判らないけど、話を続ける相槌にはピッタリ。 「……不自由を知らずに育てられて、性格が曲がったの」 「まがっ、たー?」 「……えぇ。いま思えば自分でも恥ずかしいぐらい傲慢で」 「ボ〜ク、ぐらいー?」 そこでココが腰に両手を当てると、右に左に何度か傾け、その曲がり具合を披露してくれる。 「あはははっ。身体じゃなくて、心の話よ」 空気を読まないトニーノのダンスだったら速攻で地面に這わすところでも、この子だと苦笑で済ますしかない。 「――で、うちには《シスター》〈人形〉が居てね。アタシの大のお気に入りだったんだけど……」 「あるとき、《 ドロップ》〈人形〉石に不具合が起きていたのに気づいてあげられなくて」 何の不満も口にしない《シスター》〈人形〉だったからって、アタシが調律も受けさせずに連れ回していた。 子どもだったアタシは、調律のために離れる二週間を嫌がり、わがままで断り続け―― 「それが判明したときには、もう手の施しようがなくてさ」 「……しんじゃっ、たの?」 「……うん。《 ドロップ》〈人形〉石を新しいモノに完全交換すれば、また動かすことはできるって、技師の人に言われた」 「――でもね。記憶はダメだって」 診断をしてくれた人形技師に泣きつきながら、あのときのアタシは……初めてお金ではどうにもならない現実を知った。 「そんな記憶が風化せず、アタシは大人になって……いまの仕事を選んだの」 「――消えゆく技術で、あまりお金にもならないけど。これで良かったんだって、思い返すたびに自分を納得させてきたの」 そして、そんな割には……アタシは自分が人形技師になった根本を忘れて、どうしようもない生活をしている。 「……この前は、ゴメンね」 いまさらだけど、ちょうどいい機会だからココに謝る。 「んぁー?」 それなのに、相手はぽっかりと口を開け、こちらを見上げて首を傾げるだけ。 「……その、撃つ真似して脅したりとか」 「バーン?」 「それから、勘違いで瓶に《 ドロップ》〈人形〉石……入れちゃったりとか」 「おー!」 「悪気はなかったんだよ、別に」 拳銃を向けたのは言い逃れできないにしても、本当にココを撃ちたかったわけじゃない。 単純に、人間相手に向けるのが怖くて思わず……だから。それでも、そんな言い訳をする自分が恥ずかしい。 アタシは、ずっと《シスター》〈人形〉の味方で居なきゃいけないはずなのに。 「……とにかく、ゴメン!ホント、ゴメン!」 「あい」 「……なんか、えらくあっさりだね。いいの?」 「いい、のー?」 「もう、アタシが訊いてるの。真似しないで」 「えへ、へー」 どうにも調子が狂うが、この子は別段気にもしてないらしい。 ……心が広いというよりは、危機感に乏しいというか。 「ねー、ヴィーア。バーン、やっ、てー」 「……バーンって、銃のこと?」 「そう、そう。バーン」 外見だけでなく、本当に中身までお子様。 ココを造り出した者は、人間を模した《シスター》〈人形〉を造りたかったのではなく。 ――ただ単純に、『子ども』が欲しかっただけだったのかもしれない。 「……いいよ、分かった。ただし、本物の銃はダメ。指鉄砲で我慢しなよ?」 「あい、あい」 アタシは笑いながら、人差し指でココに狙いをつける。 ココの方もニンマリと期待に満ちた目でこちらを見つめて、いまかいまかと合図を待っている。 「バーン!」 「うー、わーぁー」 ドサリと音がして、ココがバッタリと倒れる。 白の都での一件が頭をよぎり、正直……心が痛む。 「はい、おしまい。いつまでも寝てると風邪ひくわよ」 「えーっ?」 むっくりと起きたココは、また下がり眉。 「どうせなら、他の遊びにしようね」 「じゃー、ケットーごっこー」 どこでそんな言葉を覚えたんだか。 「…………あんまり変わんないわよ、それ」 そうは言っても、子どものリクエストを無下にもできず、 「……仕方ないわね。三回だけよ?」 アタシは事前の制限付きでお遊びに同意することにした。 「やっ、たー」 ルールはオーソドックスに、背中合わせスタートの10歩で振り返り、先に撃たれたと思った方が倒れる約束にした。 ……が、いざ始めてみるとこれがなかなかうまくいかず。 一度目は、10カウント進み振り返ってみたものの、ココがアタシをほぼ真下から見上げるぐらいの位置までくっついてきていたので無効。 二度目は、振り返って指で狙いを付けても、ココが撃たれるのをワクワクして待つばかりだったので、望まないけど……アタシの勝ち。 三度目は、しっかりと流れを教え直したあとでの決闘で―― 「……5、6、7、8、9、10だよ!」 オーバーアクション気味にターンすれば、ガンマンチックなココが両手をフリフリ、 「……バン、バン、バーン!」 「二丁……拳銃……ずるく、ない?」 アタシはそんなココを見ながら、笑って倒れることができて満足だった。 「……さぁ、これで気が済んだ?」 決闘ごっこのあとは、ふたりかくれんぼ、超難問クイズなどなど。 「『セーローの、たんじょうび、いつ、だー?』」 「『…………知らないわよっ!』」 こっちも対抗してトニーノの誕生日を問題にしようとしたが、さすがに大人げないので―― 「『6+4は、いくつだー?』」 「『えっと、えっと…………10、です』」 両手の指で数えられる範囲で許してあげたり。 そんなやりとりに、アタシの方が少し癒された気分。 「……よーし。そんじゃ、お礼代わりにちょっと診てあげるわ」 「なにをー?」 「アンタの身体。これでもアタシ、人形技師なのよ」 持っている技師の資格は初級だけど、腕前の方は調律と同じ中級ぐらいの腕前と自負している。 「おー。ジージとおな、じ?」 「さぁ、よく知らないけど、そうなんじゃないかしら?」 いま技師たちは後継者不足だから、この子の知っている人も高齢なのだろう。 「はい、それじゃ両手を挙げて」 「バーン?」 「いや、それはもういいの。身体検査よ」 アタシは苦笑しながら、ココに万歳をさせて身体を触る。 「なにも、かくしてない、よー?」 「はいはい。後ろ向いてみて」 「クルクルー?」 ココは嬉しそうに一周回ってくれるが、それではさっきとまるで同じ真正面だから意味なし。 仕方なく、アタシが位置を合わせて確認を続ける。 「ほら、横を向いて」 見た限り、特にどこか調子が悪いところはなさそう。 関節部のきしみもなく、いい具合にゆるさが保たれている。 「……にしても、デザインすごいわ」 ギリギリの部位の構成には、職人技の世界。 外見にはこだわらず、シンプルさだけを追求したかのような造りで、アタシ的には好き。 いつの時代か正確なところは判らないが、その当時としては斬新な設計だったに違いない。 「……でも、少し違うわ」 「なに、がー?」 それ以上にこの子を造った技師は、内面――性格付けに力を注いだのだろう。 「そうじゃなきゃ、こんなヘンテコさんにならないからね」 ……これは、賛美の意味で。 「へんて、こさん。へん、てこさん」 「……うふふっ。区切り方も変よ、アンタ」 あまり脱力な会話をしていると、肝心の調律ができなくなる。 アタシは気を取り直して、ココの手を引いて身体を近づけた。 「はい、じゃ目を閉じて」 「……あい……」 静かに同調をはかり、ココの感覚を読み取る。 「(――鼓動と精神の波に、ほとんど差はなし、か……)」 ……つい最近、誰かが調律を施しているのかもしれない。 「……いいわ、目を開けて」 調律の診断結果としては、申し分なしの健康体。 《 ドロップ》〈人形〉石は瓶の中だから、服を脱がせて《きょうしん》〈胸診〉をするまでもない。 「さぁ、それじゃそろそろアイツらのところに戻りましょうか」 いつまでものんびりしていたら、本当に日が暮れてしまう。 その前に、ちゃんとした宿泊ができる場所まで移動したい。 車で4人、野宿なんて絶対にお断り! それに……今日こそはシャワーを浴びなきゃ、気持ち悪くてまともに寝られない。 「いく、よー」 「……って、アンタいつのまに仕切ってんのよ!」 マイペースな《シスター》〈人形〉に振り回され気味なアタシ。 でも、たまにはそんなのもいいかな?……って思う。 最近ずっと気が張りつめていたから、ちょうどいい息抜きになった気もする。 「(――ありがとね、ココ)」 こんな子に引き合わせてくれたことを少しだけ神様に感謝し、アタシはトニーノたちが待つ車まで走ることにした。 「はい、ストップ!」 急な声に、ボクはびっくり! 「う、うわぁ?」 誰がストップ? 前と右と左を見たけど、誰も居ません。 そうすると、後ろ? だけどボクは止まらないといけないから、後ろが見えません。 きっと、勝手にお散歩に出たから、怒られちゃうの。 「ぴ、たーっ」 泥んこ遊びで、ちょっと手袋も汚れちゃったから、セロ……ぷんぷん? 「……いや、そんなすごい格好で止まらなくてもいいのに」 あ、この声は知ってます。セロじゃないです。 白の都で、ボクと決闘した人です。ケットー! 「ヴィーア?」 「そうよ。……で。これから、行進でもするつもりだったの?」 「えーっ?」 これは、逃げるときのポーズ。でもでも、慌てちゃったから右手と右足が一緒です。 「うーん?これ、はー。かけっ、こ?」 「そ、そうなんだ」 「うごいて、いーい?」 このポーズ、嫌いじゃないけど、シルヴィアとお話するにはちょっと変だから。 「いいけど、逃げないでね。アンタに用があるのよ」 「えーっ、ボ〜クに?なんです、かー?」 「うふふ。ちょっと『いいこと』してあげようかなぁ、って」 「いいこと?なぁ、にー?」 「……調律ついでに、相性占いしてあげる」 おー、調律。知ってます。この前、ジージがしてくれました。 「さっき、ベルと話して知ったんだけど。あの子のお父さん、あの『マスター・レイン』なんだってね」 「あい。ジージ、ねー」 みんな、レインって呼んでました。 「じーじ、ってアンタ。……いい?人形技師の世界において、マスター・レインって言ったらすごいのよ」 「すごーい、のー?」 「……業界の噂では、若い頃に国家がらみの仕事を引き受けて、『再現不能』と言われていた昔の技術を復活させることにも成功した、天才って言われてるの!」 「おー、てんさーい」 「――おまけに初期の人工《 ドロップ》〈人形〉石の開発にも関係していたって話で……」 「はなし、でー?」 「――弟子を取らず、若手を育てようとしなかったことだけが残念で、『これで100年は業界の寿命が縮んだ』……って言われるぐらいの重鎮なの」 「ふん、ふん。じゅーちん、って、なぁーに?」 「重要人物とかそういう感じの意味で……って、アンタ。ここまでの話、理解しないで頷いてるでしょ?」 「えーっ?」 「……まぁ、アタシみたいに調律や技師でもやってない限りは、彼のすごさなんて解らないか」 じーじは、人形技師、です。 だから、すごいんだよねー。 あれれ?でも、シルヴィアも人形技師? 「ヴィーアも、すご、いー?」 「……全然。マスター・レインの話の途中で出されたりしても、引き立て役にすらならないわ」 よく分かんないけど、ダメみたい。 「――だけど、そんじょそこらの『なんちゃって技師』より、腕は立つからね」 「ホン、トー?」 「あー、疑うの?いいわ。いまからアンタたち相手に、このアタシの腕前を披露してあげる」 あんた、たちー? ボクの他に、誰か居るの? 「……じゃじゃーん。この子、知ってるでしょ?」 シルヴィアは、後ろに回していた手をボクの前に。 「あー、ラー?」 そこには、ベルの目覚ましさん――フローラが居ました。 ……何だか、ご機嫌ナナメさん? 「ベルがね、『この子の調子が悪いみたい』って言うから、預かってきたの」 「へい、きー?」 ボクも心配だから、声をかけてみました。そうしたら―― 「おきなさい、ベル。ベル、おきなさい」 「う、うわぁー?」 ボク、ベルじゃありません。 「……ね?とんちんかんなこと言うでしょ?」 「とんちん、かん。とん、ちん、かーん」 なんか、おもしろいねー。 「だから、アタシが診てあげるって約束したの。ついでってわけじゃないけど、アンタも診てあげるわ」 「えーっ?」 「心配しないで。この前みたいなことはしないから。それに、お代も取らないわよ」 「んー」 「……じゃ、こうしない?アンタが、この子――フローラの検診のお手伝いをする。そうしたら、お代はタダ」 ボクがお手伝い? 「あい。おてつだい、すきー」 「よし、決まり!じゃ、早速手伝ってもらおうかしら?そうね……まず、この子を持ってあげてくれる?」 「あい、あい」 「……って、アンタの手袋、泥だらけね」 「ごめん、ねー」 ……バレちゃった。 「はい。フローラのドレス汚さないように、その手袋外して」 「あい」 右手を出します。 「はい、次は左手」 「ダメ、です」 「何で?洗濯してあげるから、貸しなさいよ」 「かわりの、テブクロ、はー?」 「アタシは持ってないわよ」 そうだよね。ボクの手袋は、セロが持ってるんだもんね。 「さぁ、いいから貸しなさいって」 「ふたつは、ダメー。やくそく、なのー」 「誰との約束?セロ?ワカバ?それともアンジェリナ?」 「ちがい、ます。おばーちゃん、で、す」 おばーちゃんが言ったの。手袋は、両方一緒に外しちゃダメって。 「へーっ、アンタにおばあちゃんが居たんだ。優しかった?」 「あいあい。ケーキ、くれました。たぶん」 よく憶えてません。 でも、ボクにはおばーちゃんが……居たよね? 「ケーキもらったんですか。もらったんですか、ケーキ」 「う、わぁー?」 「……あら。ケーキって単語には普通に反応したわね」 フローラが、ケーキ、ケーキって、ボクをジーッと見てます。……ごめんなさい。よく憶えてません。 「……ケーキかぁ。アタシも子どもの頃、イヤっていうほどもらったよ」 「ケーキ、きらい?」 「きらいなんですか、ケーキ。あなた、ケーキきらいなん……」 「はいはいはい。おちびさん、黙る」 たいへん!フローラが高く持ち上げられちゃった! シルヴィアに食べられちゃう? 「ですか、ですか」 「たべちゃ、ダメー。ファー、ないちゃうー」 「食べたりなんかしないわよ。ただ、ちょっとね」 シルヴィアは、フローラのドレスを持ち上げてます。 「ヴィーア。パンツ、すきなのー?」 「だーっれがよ、誰が。違うってば。この子の《 ドロップ》〈人形〉石を調べるのよ」 何だかちょっと笑ってるね、シルヴィア。 ……だけど、手の動き、すごいです。パッパッ、パーッと、フローラを触ってます。 「面白い造りの子ね。マスター・レイン作かしら?」 「ちがいます、レイン、ちがいます」 「……あら。じゃあ、あなたのお母さんは、だぁれ?」 「おかあさん、ルート。ルートおかあさん」 ルートって、だーれ? 「へーっ、すごい。ちゃんとアタシの質問が理解できるなんて」 「すごい、のー?」 ボクには、よくわかりません。 「まぁ、アタシが『いま』いじってるからってのもあるけど。それでも大した技術ね。アタシの師匠なんかより上も上」 シルヴィア、とっても嬉しそうに笑います。 「……あっ、ミゾ見つけっ!これがあやしいわ」 「なぁに、それ?」 フローラのドレスの裾から何か出てきました。 「お宝はっけーん!かなり古いけど、言語石っぽいわね」 「げんご、せきー?」 この前、ジージが言ってました。言語石を調べて……どうしたっけ? 「これは骨董の領域ね。アンタぐらいの年代だったりして。どう、どっかで見かけたこととか……ない?」 「…………あ、れ?」 ボク、その石……知ってる? 「もっとよく見てみる?」 「あいあい。みせて、みせ、てー」 「あぁ、アンタが直接持ったらダメよ!下手するとこの前みたいなことになるからね」 「……はい、ハンカチ。手袋してない方の手、貸して」 シルヴィアは、ボクの右手にハンカチを乗せます。そして、フローラから出てきた石を……コロリ。 「……こーれー?」 「そうそう……それよー。えいっ!」 「あー?」 ボクが石を見ていたら、左の手袋とられちゃいました。 「へへん。油断大敵ってヤツ」 「あー、かーえーし、てー」 「メンテが終わったらね。はい、その手を……」 シルヴィアがボクの手を持ち上げようとしたら―― 「あー、おちちゃーう」 手のひらの上にあった石が落ちそうに! 「あわわっ」 ボク、慌てて両手を伸ばして石を掴もうとしました。 そうしたら、それより先にシルヴィアが、 「おっと!」 片手でパシッと! 「おー、すごーい……かっこ、い……い……」 「まぁ、これぐらいはね。……あれ、どうしたの?」 わかりません。なんだか、急に頭がクラクラです。 「あ、あれ、れ……?」 どうしちゃったんだろ、ボク? 石が掴めなくて、両手を組んだだけなのに。 「(――あれ、これ……)」 手袋を外して、お祈りするのって―― 「ココ?どうしたの、ボーッとして?」 「(――ボク、むかしも、こうやって……)」 「(――ボク……いろいろなヒトにあって……)」 「(――いろいろなヒトと、わかれて……)」 「(――あっちいったり、こっちいったり……)」 「……ココ?おーい!」 「(――あれは、ダレだっけ?)」 「(――ボクのクツ、あたらしくしてくれたのは……)」 クツだけじゃないの。石の入った袋も…… 破れちゃったから、瓶に交換してくれたお友達も居たの。 それにね…… 「(――スカートにナマエをつけてくれたのは……)」 いつもゆりかごの傍で編み物をしていた、女の子だったの。 それに、それに…… 「(――ボクに、おねがいしたのは……あれ、あれは……)」 「『……ありがとう、ココ。おまえは……優しい子だな』」 あれは……ボクに、ボクに…… 「……デュア、だよ、ね?」 「……へっ?」 「もう、へいき?ボクのいし、なくても……へいき?」 「い、石?……石って、この《 ドロップ》〈人形〉石のこと?」 「…………あい」 なんだか、急に眠くなっちゃった。 デュアも、あのとき……寝ちゃったんだよね。 「ココ?ココ!?起きて!アタシ、またアンタに何かまずいことしちゃった!?」 ……そんなこと、ない、よー。 バーミリオンへと向かう普通列車の中。 ココに調律の必要があると言って、あえて人の少ない車両を選び、その端にあるボックスシートを陣取ったシルヴィア。 理由としては、『ベルに影響が出ないため』の配慮らしいが、 「ワタシがココちゃんの調律に立ち会っても、問題はないと思いますけど……」 と、いう話も。 オーベルジーヌの一件もあり、『任せるのには少し不安が』……と言う私に、アンジェリナが首を横に振る。 「平気でしょ?プロの言うことなんだから」 「そうかもしれないけど、自称プロかもしれないじゃない」 「自称、プロ……ねぇ」 「な、なによ、その目は!?何か言いたいことあるの?」 口を尖らせた私に、悪戯っぽい視線のアンジェリナが笑う。 「うふふっ、冗談よ。きっと彼女は、誰にも邪魔されず作業に集中したい……とか、そんなところじゃないの?」 「……そっかぁ」 そう言われたらそうかも、と納得してみたものの。 「(――やっぱり、気になる!)」 一度そう考えると、いてもたってもいられなくなり―― 「……あら、どうしたの?」 追い返されるのを覚悟で、シルヴィアの元を訪れてみた。 「……う、うん。気になって見にきたの」 「あら、そう。隣、どうぞ」 思ったよりも気さくに席を勧められ、私はホッとして尋ねる。 「……ココの様子はどう?」 「そうねぇ。気が抜けちゃったっていうか、こんな感じよ」 「んー?カバー?」 いつものイントネーションで『カバー』って呼ばれるけど、その声に元気がない。 気のせいかもしれないけど、目つきも少しぼんやりしている。 「……やっぱり、不調なのかしら?」 「まぁ、寝起きみたいなものだと思ってくれれば」 「ねぇ、クロムで何があったの?」 列車に乗り込む前に聴いた話では、彼女がクロムを立つ前にココの様子を診たあとから……らしい。 「う、うーん。うまく説明しづらいんだけど」 「まさかとは思うけど、またココに何かしようとして……」 「待って!確かに、アタシはココに調律をしようとしてた。けど、不慮の事故って……誰にも予想できないでしょ?」 「……う、うーん。でもさ。シルヴィア、この前もココの瓶に変な《 ドロップ》〈人形〉石を入れちゃった前科があるじゃない」 いまとまったく逆方向のココになって暴走騒ぎが起きたのは、シルヴィアの渡した《 ドロップ》〈人形〉石が引き金。 「うぅぅ、それを言われると……」 気の強そうな彼女が、珍しく困った顔をする。 「……アタシ、ココと相性が悪いのかな?嫌われてる?」 「んーん。ボク、ヴィーア、すきー」 「……ココ」 「マー、も、ファーも、みんな、すきー」 「……そう。そうなの。うんうん」 マーは、アンジェリナ。ファーは、ベル。 「(――ねぇ、ココ。私は……?)」 「……カバー、す、きー」 「え、えへへっ。ありがと」 心の声が通じたみたいで、嬉しいような、寂しいような。それとも、私がジーッと見たから? 「と、とにかく!いまはシルヴィアだけが頼りなんだから」 落ち込ませた私がフォローするのも何だけど、レインさんが居ない現状は彼女に任せるしかない。 「それで、実際のところ……どうなの?ずっとこのまま?」 「ううん、そんなことはないと思う。ただ、元に戻るまでには少し時間がかかりそう」 「……どれぐらい?」 「いまの調律具合からすると、あと半日ぐらいは……ね」 「――仮に長引いたとしても、バーミリオンの合流までには何とかするわ」 「……お願いね」 私はココの頭を撫でてから、アンジェリナたちのところへ戻ろうとした。 ……が。 「あ、待って!ちょっと、訊きたいことがあるのよ」 「なぁに?」 呼び止められて振り返れば、彼女がシートから立ち上がり、通路に出てこちらに耳打ちしてくる。 「……ねぇ。デュアって、誰だか知ってる?」 「はぃ?デュア」 「しーっ。声が大きい!ココの耳に届いちゃうでしょ!」 事情はよく分からないけど、どうやらココに聴かれたくない話のようで。 私はシルヴィアと同じぐらいの声でささやく。 「あのデュアのこと?」 「……『あの』って言われても……」 心当たりなしって感じで、目をパチクリさせるシルヴィア。 「白の国の英雄――クリスティナを護って死んだと言われる女性騎士のデュア、じゃなくて?」 「あー、それか!どっかで聴いたことある名前だと思った!むかーし、歴史の授業で習ったわね。うんうん」 「……むかーし、ねぇ」 「ちょっと、なに?そんな昔じゃないわよ。ほんの数年前のことよ。おほほほっ!」 ――自分で言ったくせに。 「……でも、何で急に?」 「え?あぁ、うん。まぁ、気になるじゃないの。知ってるはずなのに、誰だったか思い出せなかったりすると」 確かにそれはあるけど、いまの会話の流れからして…… 「(――あやしいわねぇ)」 最初に『デュアの名前』からしてつまづいたシルヴィアでは、誰かを思い出すとかのレベルじゃない。 「……な、なによ、その疑いの目は?」 わざわざ呼び止めてまで訊くからには、何かある。 「正直に言えば、許してあげるわよー?」 「なにを?」 「どうして『デュアの名前』を気にするの?それをココに聴かれたくない理由は?」 「……それは……」 言い淀む彼女に、私はズイズイと顔を近づけると、意外にもあっさり、 「ココがね、その名前を口にしたからよ」 答えが返ってきた。 「……ココが?何で?」 「さぁ?それが解らないから、アンタに訊いてみたの」 「私だって、ココじゃないから解らないわ。それこそ、ココに尋ねる方が――」 「はい、ストップ。私もそうしたいけど、少しお預け」 シルヴィアは、『分かってるんだけどね』と口だけ動かし、 「いま尋ねると、せっかくの調律に影響が出そうで」 と言う。 「それと、問題はそれだけじゃないの。話せば長くなるし……」 「……?」 「ワカバよりも先に、事情の説明をしなきゃいけない相手が居るのよ」 その視線が、隣の車両に注がれる。 「――ふーん」 その相手が、アンジェリナか、ベルか。どちらにしても、私じゃないらしい。 「(――ま、いいか)」 私も、シルヴィアの口からデュアの名が出てきたから疑問を持っただけだし。 「(――あぁ、でもデュアねぇ……)」 劇に登場させる予定ではいるものの、肝心の配役が―― 「あ、そっか!」 「……うん?」 どうしていままで、気づかなかったんだろう!すぐ近くに、勇ましい女性騎士を演じるのに相応しい人間が居たことに。 「……ねぇ、シルヴィア。どう、デュアにならない?」 「(――ま、いっか……)」 深く考えるのも面倒。 シルヴィアが稀代の英雄デュアに関心を持ったからといって、私には何の関係もない。 「(――関係ないけど)」 それとは別に、ひとつ、いいことを思いついたりして。 「ねーぇ、シルヴィア」 「な、なに?なんなの、気持ち悪い声で?甘える相手、間違えてない?」 「それこそ何よ!?私、こんな声でセロにお願いしたことなんてないわよ!」 「……ふーん。別に、アタシは『誰』とか特定してないけど」 「げげっ!」 「そっかぁー、セロなのねー」 どうして私が、彼女にニンマリされなきゃいけないの!? 「む、むきーぃ!それはどうでもいいの!即刻忘れて!」 「即刻っていうけど、否定すればするほど忘れられないわよ。うふふふっ」 意地悪そうに笑うシルヴィア。だが、スッと真顔に戻り、 「……で、なに?」 と、何事もなかったかのように首を傾げる。 「えっとね、いまのデュアの話なんだけど。もし良かったら、やらない?」 「ハァ?なにを?」 「だから、デュアを。シルヴィア、が」 「……アナタ、よく人から説明が下手とか言われない?」 腰に手を添えたシルヴィアが、ハァとため息。何か私、アンジェリナのときにも勧誘に失敗したような。 「じゃあ、よーく聴いて。いい?私たちの演劇で、デュアの役をシルヴィアがやるの。どう?」 「……どうって言われても、アタシはデュアがどんな人かも知らないわよ」 「平気!デュアは白の国の女性騎士で、クリスティナ姫を最後まで守る剣の達人。ほら、シルヴィアにぴったり!」 「アタシ、銃には自信あるけど、剣なんて使ったことないわ」 「大丈夫!舞台の上で剣を抜いても、誰かと斬り合うことはないから」 「うーん、面白そうだけど……」 面白そう!?まんざらでもない発言に手応えを感じ、さらにごり押し! 「絶対いける!……っていうか、シルヴィアしか居ないの!」 「……そ、そうなの?でも、アタシはトニーノと違って、演劇とかやったことないよ?」 「へっ?」 「さすがに素人じゃ無理でしょ」 「いや、そうじゃなくて。いま、『トニーノと違って』……って言わなかった?」 「えぇ、言ったけど。……あ、あっ、ちょっと待って。いまの忘れて」 「無理無理!役者に飢えた脚本家を前に、そんなの通用するわけないじゃない」 「ア、アンタ……目つきがすごいわよ」 「うーふーふーふーっ」 「へへーん。さっき私が同じこと言ったとき、『忘れて!』が通用しなかったでしょ?」 仕返しとばかりに詰め寄り、引き締まったおなかをツンツンしてやる。 「……ぐっ」 「(――ぐ、ぐぅ……)」 関係ないけど、悔しいぐらいにメリハリあるボディよね。 で、でも……私だってそのうちこれぐらいには―― 「とにかく!ぜーったい忘れない。忘れてなるもんですか!」 どの程度かは知らないが、演劇経験者なら大歓迎! それも、これからバーミリオンで合流するトニーノだったら、逃がす手はない! 「ねぇねぇ!トニーノならシルヴィアとワンセットみたいなもんでしょ?」 「あのねぇ。一緒に居るからって、同列扱いしないでくれる?アタシが上で、アイツが下。《 ・ ・》〈便利〉だから、そばにおいてるの」 「うん」 「……他人がどう見ようと勝手だけど、別に付き合ってるわけでも、何でもないの。分かる?」 「そ、そう。じゃ、特に問題なしでしょ?」 何をそんなにムキになって否定するのか、分からない。 「私は、トニーノが劇に出てくれるならそれでいいんだけど。シルヴィアが上なら、話も早そうだし」 「……あ……あのね。アタシが言いたかったのは、アタシとアイツは特に親しくもないのに、アタシが色々アイツのことを……」 しどろもどろのシルヴィアは、きっと自分でも何を言ってるのか分からなくなってきている。 「どうどうどう。落ち着いてー」 「アタシ、馬じゃないわよ!」 「じゃあ、これでどう?ひとまず、トニーノには私が出演を頼む。そのとき、もし彼が出るか出ないかで迷ったら……」 「一言、シルヴィアから口添えしてほしいの」 「――もちろん、無理にとは言わない。でも、このチャンスを逃したくないの。お願い!」 彼がどんな経緯で演劇を始め、いまはどうなっているのか?……とか、細かいことは判らない。 でも、舞台に立つことに少しでも興味があるなら―― 「(――絶対に、出てほしい!)」 「……アンタって、周りを活かして得するタイプだわ」 「――え?」 「そんな言われ方したら、断れないじゃないの」 シルヴィアが苦笑しながら、私の肩をボンボンと叩く。 「……ってことは、引き受けてくれるのね!?」 「……いいわ。その代わり、トニーノには、アタシが漏らしたことは内緒よ?」 「もっちろん!やったー!」 「……んぁー?」 「あ、ごめんねココ。ちょっとうるさかったね」 ボックスシートの横から顔を出したココに手を振り、私は気合いを入れ直す。 「よし!いまからすぐに、ふたりを脚本に当てはめてみるわ。ありがとう、シルヴィア!あっ、ココのこと、よろしくっ!」 「う、うん……って、ふたり?ふたりって?」 「分かってるわよ。トニーノはまだ決まったわけじゃないけど、段取りとして準備しておくの!」 「え、いや、そうじゃなくて!」 「(――シルヴィアがデュア。トニーノは……ヴァレリー?)」 「ねぇ、アタシを頭数に入れてない?」 それでもまだまだ、男性役の手は必要。 「がんばって残りも探すぞ!」 「ぞー」 真似っこココの声援を受けて、私は右手を突き上げる。 「さっそく、アンたちに知らせてこよーっと!」 大切なのはやる気と勢い! ちょっと重いけど、膝の上でタイプライター打てるかしら? 「……ちょっくら、ここいらで休憩にするか?」 車の速度をゆるめつつ、俺は後部座席のふたりに声をかける。 「いいけど、ここはどこー?」 「そろそろ、アゾの辺りじゃねーか?どうだい、セロ?」 「だと思います。さっき、それらしい標識もありましたから」 窓にべったり顔と手のひらを押しつけてるライトと、地図を広げて場所を確認しているセロ。 「(――男3人ってのも、色気のねぇ話だなぁ……)」 俺はバックミラーを見ながら、声に出さずひとりごちる。 本来なら横の助手席に座るのがシルヴィアで、後部座席には商売道具の商品――《 ドロップ》〈人形〉石の入った袋が転がっているはず。 それが現在、相棒の《シルヴィア》〈売り〉子は後ろのふたりと交換で、クロム方面にご旅行中だ。 「『いい、トニーノ?連絡を待ってから行動よ?』」 「『……あいよ。で、問題は忘れモンの原稿だな?』」 「『そう!それを見つけるのがアンタの役目だからね!』」 「(――ってな感じだったけど)」 その結果が『実は原稿忘れの勘違いでした』と判ったのは、夕方になってから。 結局、お騒がせ《 ワカバ》〈お嬢〉さんのおかけで足止めを食ったふたりを連れて、俺はクロム一行とは別ルートで南下を始め―― 「(――最後はバーミリオンで合流、と)」 「ねぇ、トニーノ!アゾって何が有名なの?」 「うーん?アゾか?別にこれと言って何もねぇけど……」 「――ま、大昔には人形技師の集落があったらしいぜ。シルヴィアの受け売りだと、そんなところか」 「へーっ。そうなんだ。どうなの、セロにーちゃん?」 車から一番に降りたライトの問いは、俺へと返らずセロへ。 「……うん。このアゾに人形技師が多く居たのは本当だよ」 「元々は、クロムで採掘された原石がこの地域に運び込まれ、それらを加工する職人が住みつき、あとから技師の人たちも集まってきたんだ」 「時代にして、まだ赤・白・青の三国だった頃の話さ」 「すげぇな、セロ。何でそんなに詳しいんだ?」 「セロにーちゃんは、史学専攻の学生だぜ?これぐらい、朝飯前なんだって」 まるで、自らの手柄のように鼻の下をこするライトは、 「でも、数学は苦手なんだよなー」 ついでの蛇足まで。 「……そ、そうなんだよね」 セロの方は謙遜しかけた言葉を照れ隠しで飲み込み、微妙な表情で頭をかくハメに陥っている。 「しっかし、史学とはまたずいぶん……」 将来、金にならなそうな専攻科目を選んだもんだと思う。 「父が歴史学者だったんです。それで、自分も影響を受けて」 「へーっ。なかなか渋い職業だな、アンタのオヤジさん。……『この親にしてこの子あり』って言葉がピッタリくるな」 「(――俺もあったなぁ、そんなことを考えた時期が)」 あの頃はまだ若く、オヤジのような仕事に就くなんて造作もないと思っていた。 もちろん、そこにはまったく根拠などなく。 世間知らずなガキが、金持ちになってお袋に楽してもらおう……なんていう、ありがちな夢がスタートライン。 そして、書き置き一つで家をあとにし、疎遠だった父親頼ってみたものの―― 「(――性格が合わず、厳しい指導にも耐えられなくなって)」 逃げ出していまに至る、中途半端のろくでなしが……ここに。 きっと俺には、母方の血が濃く流れていたに違いない。 だから、お袋と別れたオヤジと馬が合うわけもなく―― 「なぁなぁ、トニーノ」 「……うん?」 「やっぱり男って、とーちゃんの仕事を継ぐもんなのかなぁ?」 話題に混ざってきたライトは、妙にまじめな顔。……できれば、いまの俺のようになってほしくはない。 「継ぐ、継がないは自由だろ。ボウズのオヤジさんの仕事は?」 「パン屋さ。だけど5年前からは、かーちゃんが店長だぜ」 「ん?」 「……うちと同じで、ライトのところもお父さんが亡くなってまして」 さりげなく補足をしたセロの言葉に、『歴史学者だった』の意味を悟る。 「……そうか。ワリぃこと訊いちまったな」 「ううん、別にー」 「それで、ライトは……そのパン屋を引き継ぎたいのか?」 「どうだろ?ねーちゃんは小説家になるって息巻いてるから、オレが継ぐべき?」 ライトはまだ岐路に立たされているわけではないだろうし、これから別の将来を考えるチャンスが訪れるかもしれない。 だから、俺が与えられるのは答えでなく。 「……さぁな。自分で考えなって。ただひとつ忠告しようか」 「一度やろうって決めたら、どんなに辛くても貫き通す覚悟で頑張るしかないってこった」 「――そうしないと、俺みたいになるぜ?」 「……あ、うん。気をつける!」 「こ、こら、ライト!それはトニーノさんに……」 「ハハハッ!いいんだって、いいんだって」 悪い見本として自分をさらけだすことぐらい、朝飯前。 ……オヤジにもよく言われたもんさ。 「『お前はよくて三枚目。二枚目の役者にはなれない』」 ってな。 褒められたのが『アドリブのセンス』だけじゃ、表舞台で生きるのは無理って話よ。 「……さぁて。腹も減ったし、飯でも食いに行くか」 「さんせい!」 「よしっ、ボウズ!ひとっ走り先に行って、ランチが安くて美味そうな店を探してきてくれや」 「――俺とセロは、今晩の宿を見つけてくるから」 「オッケー!集合場所は、そこの車でいいね?」 「おうとも。よろしくな」 元気よく駆け出すライトを見送ってから、俺はセロと一緒にのんびりと歩き始める。 「……あの、トニーノさんは旅行とか好きなんですか?」 「ん?まぁ、好きな部類かな。……でも、何でいきなり?」 「いえ。旅行好きだから、いつも車で各地を移動するような仕事をしているのかなぁ、って」 「ははははっ、そりゃいいや!使わせてもらうぜ」 「え、えっ?」 「いまセロの言った『旅行好き』を理由にしておけば、俺の風来坊な稼業も少しは格好つくってことさ」 帰るところもなく、フラフラしている言い訳にはピッタリ。 勝手気ままな旅ってほど各地を移動しているわけでもないが、自分でも知らず知らずのうちに見聞は広めていた。 通り過ぎただけの街や村。それでも実際に目で見て、肌で空気を感じたことを思い出してみれば…… 「(――そこそこ、土産話ぐらいは揃ったか)」 なんでも屋を始めて5年。シルヴィアとつるんでから3年弱。 しかし、実家に戻るには……ちょいと、時間を空けすぎた。 「なぁ、セロ。やっぱ、オヤジさんのあとを継ぐのかい?」 「どうなんでしょう?ちょっとだけ悩んでます」 「他にもなりたいモンがあるのか?」 「……実はココのことを考えて、人形技師の道も」 ココ?あぁ、シルヴィアと闘ったあの《シュエスタ》〈人形〉か! 「年々、《シスター》〈人形〉の調律やメンテナンスができる技師の人の数が減り続けてます」 「……あの子に『もしも』のことがあったとき、近くに誰も診てあげられる人が居なかったらって思うと……」 「自分がその技師になっといた方がいいんじゃねーかな?……ってところか」 「…………はい」 家族が病になったときのことを考えて、医者になる。 「そういう考えもアリっていえば、アリだが……」 だからといって、みんながみんな医者になれるわけでもない。向き不向きだってある。 ただ、人間の医者と違い、担い手が少ない『人形技師』を目指すのであれば、その筋の人たちには歓迎されるだろう。 「……と、『なりてぇ』ってよりは『ならざるを得ない』ってことか」 「そうですね。そろそろ自分の将来を決める時期でしたし」 「……そうか。難しいなぁ」 一緒に暮らす者にしてみれば、《シュェスタ》〈人形〉も家族の一員。他人の俺が、軽い気持ちでアドバイスできる問題ではない。 「でも、迷いも消えてきたんです。やっぱり、僕は歴史学者を目指すべきかな……って」 「そう思った理由は?」 「まずは、自分にできることからしよう、と」 地に足の着いた、まっとうな考え方。 「……それに、シルヴィアさんみたいな若手の技師さんが居ることも分かったので」 「いや、待て。そこでアイツを人生の岐路に引っ張り出すなよ。オーベルジーヌの一件を見たろ?」 「……えぇ、あれはまぁ。でも、実際の腕は良さそうだから」 ……予測だけで判断するなって。だから騙されるんだ。 「実際のところ、シルヴィアさん……どうなんですか?」 「お、俺は《シュエスタ》〈人形〉についてプロじゃねぇから何とも言えねぇけど、そこそこいける方だぜ」 「だったら、問題なしですよ」 人を疑うってことを知らない若者だなぁ、セロは。……相方を信じてもらって悪い気はしねぇけどな。 「それに、シルヴィアさんが診てくれるなら、返してもらうお金から差し引くこともできるし」 「…………うぉっ、イテテ」 まさかそこで、ナチュラルな返済プランが出てくるとは。 「おーい、セロにーちゃん!トニーノ!」 「ライト、どうしたんだ?」 「見つけたぜ、安くてうまそうな店!そっちは?」 「は、はえぇな。こっちはまだホテルの『ホの字』も見つけてねぇのに」 「えーっ、ふたりとも遅いって。じゃあ、先に食べようぜー」 「……そうだな、ホテル探しは後回しってことで。よーし、今日の昼は、俺がおごってやるぜ」 「ホント!なに頼んでもいいのかい?」 「……ボウズの下見通り、安い店ならな!」 「大丈夫なんですか?どちらかっていうと、ガソリン代とか考えて僕らが出すべきじゃ……」 「へいき、平気。いざというときのためのへそくりが――」 俺は帽子を持ち上げて裏返し、そこから輪ゴムで止めた札束――隠し金を取り出して見せる。 「うぉー、すげぇ!そんなに小遣いくれんの?」 「なんでそうなる?これは、俺がシルヴィアが居ないときに稼いだ貴重な……」 「そのシルヴィアが帽子のこと知ったら、どうなるかなぁー?」 ――まったく、近頃のお子様ときたら。 「……ボウズ。俺を相手に……ゆすりか?」 「にっしっしっし。じょーだん、だよーん」 ライトは大笑いで跳ね回る。憎たらしいが、こういう子どもは嫌いじゃない。 「……ん、なんだい?セロもチクり派かい?」 「い、いえ……そうじゃなくて。ただ、その……」 「歯切れ悪いぜ。思ったことがあるなら、言っちまいなって」 「いや、もしかしたら、その一部って……オーベルジーヌの酒場でもらった『クリーニング代』とかかな?……って」 「(――よく分かったな……)」 騙されやすいセロでも、勘は鋭いってことか。 白の都で再会したときにも言われなかったので、気づかれてないものだとばかり思っていた。 「しっかし、なんだ。あのとき、トマトを被弾したセロは格好良かったね!」 「あーっ、なんの話!?オレ、聞いてないよー?」 「いや、ライト。面白くもない話だから……」 「いやいや。あのときのセロは、ボウズのねーさんを守ろうとして飛び出し……」 男三人、騒がしく村の食堂へ。 「トニーノさん、無理矢理なにかを誤魔化そうとしてません?」 「――ははははっ!」 なんといっても、あのオーベルジーヌのトマト事件があってこその今日。 「よーし、夕食も俺がおごるぜ!」 「やったー!」 「……あ、あれ?なんか、あれれ?」 頂いたクリーニング代を使うにも、申し分なし。 ……きっとあの名前も知らないおっさんも、これでお詫びができたと喜んでくれるに違いない。 「トニーノって、いい感じだよね」 宿の入口で空を眺めていると、後ろから声をかけられた。 「……うん」 僕は素直に頷いて、横に陣取ったライトを見る。 「初めは胡散臭いなぁ、って思ってたんだ。セロにーちゃんも一杯食わされたって、ねーちゃんから聞いてたから」 「はははっ。あれは、そうだね」 診てもらうはずのベルがそのまま、勘違いからココが暴走。 挙げ句にお金を払ったあとでふたりが居ない……となれば、そういう見解が出ても仕方ないと思う。 「昼も夕方もおごってくれて、さらには宿代まで持ってくれて。……これって本当なら、ねーちゃんが出すべきじゃない?」 元はと言えば、ワカバのお騒がせが発端。 「セロにーちゃんは、トニーノとシルヴィアが居なかったら、どうなってたと思う?」 「うーん。ワカバたちが列車に乗らなかったか、僕たちが次の列車に乗って、向こうにはクロムで待っててもらうとか……」 「そうしたら、またよけいにお金がかかってたんだよなぁ。そう考えると、ねーちゃんの失敗って」 「……あ、あはははははっ。それはそうなんだけどね」 見落としがちだが、一番の被害者は……僕たちではなくて、トニーノたち。 ふたりはそんな風に思ってないかもしれない。……が、確実に迷惑はかかっている。 「(――僕たちが送ってもらってるのに、色々出してもらって)」 今回の食事や宿代だけではなく、ガソリン、駐車場代など車の維持費も。 きっとトニーノはオーベルジーヌの一件を気にし、良くしてくれているに違いない。 だが、それにいつまでも甘えるのもどうかと思う。 「……うん。これからはきっちりしよう」 「きっちり?なにを?」 「――関係をだよ」 僕たちの失敗をフォローしてもらっているのに、さらなる負担を強いるような真似は恥ずかしい。 「えっと、どんな風に?」 「……そうだなぁ。まず、よくないと思ったらしっかり言う。ズルズルした関係は、ダメだ」 「うんうん」 「次に、お金がからむことは、しっかりしよう」 「それは言えるね!ねーちゃんに金は持たせられないよ」 大きく頷いたライトにつられ、首を縦に振りそうなるが…… 「……誰の話?」 「え?ねーちゃんでしょ?」 「違う違う!トニーノさんのこと」 僕は、ずっとトニーノさんの話を続けていたつもりだったが、ライトは…… 「なんだぁ。てっきりオレ、ねーちゃんのことだとばっかり」 ふたりして勘違いを笑い、一息つく。……しかし、話はそこで終わらなかった。 「ねぇ、トニーノのことは置いといてさ。……ねーちゃんとの関係、どうなの?」 急なつながりに、なにを問われているのかを理解できず。 「えっ、それは……どういう意味で?」 思わず声を詰まらせながら尋ね返してしまった。 「……そのさ。うちのねーちゃんって、セロにーちゃんとはどうなってんのかなぁ、と思って」 「どう、と言われても……」 「前から訊きたかったんだけど、ふたりは付き合ってないの?」 「べ、別に付き合ったりはして……ないよ」 自分でその言葉を口にするのが、少し寂しい。 「本当?恥ずかしいから誤魔化してるとか、ナシだぜ?」 「……うん」 いまの僕としては、そうとしか答えられない。 「……なーんだ、そうだったんだぁ」 ライトが唇を尖らせ、足下の小さな石を蹴った。軒先以外は暗く、飛んでいった石はすぐに見えなくなる。 自分としては、このまま会話を終わらせるつもりだった。それなのに―― 「どうして僕たちが、付き合ってると思ったんだい?」 何故か、そんな疑問をライトに投げかけていた。 「えーっ?傍目に見たら、そうとしか思えないよ」 「……どの辺りが?」 「うちでの会話で、ねーちゃんの口から出る名前って言ったら、ほとんどがセロにーちゃんだし」 「――何かにつけて、セロにーちゃんのこと褒めるし」 「セロにーちゃんのとこ遊びに行って居なかった日なんか、めちゃくちゃご機嫌ナナメだし」 「……初めて聞いたよ」 当然だが、そんなワカバの姿を見たことはない。 「――そりゃ、ねーちゃんは、セロにーちゃんの前では猫被ってるから。……あ、あれでも、だいぶ」 「……そ、そうなんだ」 いま、ふたりの想像するワカバ像が合致したかどうかは不明。 ただ、自分の知らないワカバの一面を聞かされ、良かったというか何というか。 何故か、口元がゆるんでしまう。 「だけど、別にそれだけで付き合ってるとかには……」 「そう?セロにーちゃんだって同じようなもんじゃない?」 「……僕が?」 「ねーちゃんには甘いし、怒らないし」 「それは、まぁ……ほら、相手がワカバじゃなくても」 「……確かにそうかもしんないけど。じゃあさ、じゃあさ!ねーちゃん以外で、誰か女の子と遊んだり話してる?」 ワカバの顔の他に思いつくとしたら―― 「……ココぐらいかな?」 僕がそう答えるとライトに、 「……真顔で言われると、すごく複雑だよ」 などとコメントされてしまった。 「確かにライトの言うとおり、よく接するのはワカバだけど。だからって、それが……」 「あー、もう!じゃあ訊くけど!うちのねーちゃんのこと、どう思ってるの?」 「……どうって……」 改まって訊かれると、何と答えていいものやら。 それも、本人相手にではなく……その弟に尋ねられた状況で。 「…………嫌いとか、言わないよね?」 「当たり前さ」 ライトから哀しそうな顔で言われたとき、ワカバを目の前にしているかのかと錯覚してしまった。 「じゃあ、好き?」 「そ、それは……」 否定する気はない。 でも、この場で答えるにはかなりの抵抗があって―― 「あー、いけねぇ!煙草が切れそうだぁー!」 言い淀む僕の背中で響いたのは、場違いで棒読みな台詞。 「……なっ、なんだよ、トニーノ!?」 「わりぃわりぃ。……そうだ、わりぃついでに相談なんだが、これと同じ銘柄の煙草を買ってきてくれないか?」 ポケットから引っ張り出すのは、彼の帽子の飾りとも思える煙草のパッケージで、中は数本だった。 「まだ中身あるじゃんか」 「切らすとシルヴィアがうるせぇんだ、これがまた」 「それならいまじゃなくたって……」 「まぁまぁまぁまぁまぁ、駄賃はずむからよ。煙草の釣りで好きなモン買ってこいって。……な?」 トニーノはコインを数枚ライトに握らせ、宿の中を指差す。 「なんだよ。宿の中で売ってるなら、トニーノが……」 「ふっ、それがダメなんだって。下手に俺が女将に話しかけて、惚れられたりしたらあとが……なっ?」 「…………ありえないって。ったく、もう……」 ぶつくさ言いながらもライトは、手渡されたコインをじゃらつかせながら宿の中へ。 そして、それを見届けたトニーノさんがライトの居た場所にドカッと陣取る。 「あの、トニーノさん。いまのは、僕たちの会話を……」 「……ん、何か話してたのか?」 とぼける彼は、微妙に曲がった煙草を一本取り出し、サッと火を付けて―― 「……んー。たまに吸うとくるね、こりゃ」 と笑う。 「あまり煙草は吸わないんですか?」 「これは、シルヴィア専用みたいなモンだからな。たまーに、付き合いで吸うていどで……ゴホッ、ゴホッ」 「大丈夫ですか?」 急にむせたトニーノさんの背中をさすれば、涙目で、 「……ゴホッ!ま、いいんじゃねぇか?」 と呟く。 「なにが、ですか?」 「人にはそれぞれ、付き合い方ってのがあると思うぜ。セロがどんな形を望むかは知らねぇけどな」 「…………トニーノさん」 しっかり聴いてたんじゃないですか。 「互いの気持ちを理解した者同士、関係を維持していけるなら、傍目や風評は気にしないでいいと思うぜ」 「…………」 「でもまぁ、何においても。まずは相手に気持ちを伝えねーと」 「――自分ひとりが噂に舞い上がっても、話にならないしな」 煙草を地面スレスレに、トニーノさんが上目遣いで空を見る。 「向こうも、誰かさんの本音……待ってると思うぜ」 その言葉が妙に重く感じられ、僕は黙って頷くだけ。 ……でも、実際のところ。 僕は、素直に本音を伝えられるだろうか? 「(――ワカバ……)」 二日ほど会わなかっただけなのに、寂しく思える。 「(――もしもいま、ここにワカバが居たら……)」 ……どういう言葉で、彼女にこの気持ちを伝えるのだろう? あたしたちは、クロムから列車で約1日半のバーミリオンに辿り着き、無事に分かれたメンバーと合流。 「ねーちゃん!ったくさぁ……」 「……ご、ごめんねぇ、ライト……」 今回ばかりは、ワカバもライトに頭が上がらない様子。まるでお祈りするように両手を合わせ、ひたすら謝っている。 一方、姉弟とは逆とも言える兄妹コンビは―― 「セーロー!」 「いい子にしてたかい、ココ?」 「あい、あい」 走り寄るココをセロが抱っこで高く持ち上げて喜ぶ、という微笑ましい再会。 「……セロ、ごめんね。私のせいで……」 「……いや、いいんだよ」 ワカバからの謝罪をあっさり許すセロの姿が印象的だった。 「(――セロって、大人……?)」 それとも、そういった部分には無頓着なのだろうか? どちらにしても、場の空気を乱すことは避けているようで、リーダーらしく別れ別れだったときの出来事をまとめようとしている。 「(――あれ?だけど、何か変よね)」 全員揃っているはずなのに、誰か足りないような? ベル、ワカバ、ココ、セロ、ライト、自分、そして…… 「……あっ!」 「アンジェリナさん?どうかしました?」 いまさらながら、この場に居るべきはずの追加のふたり――『シルヴィアとトニーノ』が居ない事実に気づいた。 「ほら、あのふたりよ」 「……シルヴィアさんたちですか?」 あたしのキョロキョロする仕草に、ベルも周囲を見渡す。しかし、どこにもふたりの姿は見受けられない。 「ねぇ、ワカバ。あのふたり知らない?」 「……あぁ、シルヴィアとトニーノ?あのふたりだったら、ちょっと働いてもらってるのー」 「え?」 「大丈夫よ。この私が、逃がしたりするわけないじゃない」 ワカバのニヤニヤ顔には、何か企みが見え隠れする。 「……何を考えているの?」 「別にー、あとで分かるわ」 そこまで言ってから、ハッとした彼女は、 「あ、でもあれだよ!変なこと考えたり、お節介焼こうとか、アンを怒らせるようなことじゃないからね」 分かりやすい自己弁護を入れてくる。 「……解ってる。でも、あまり隠し事しないでね。誤解の元よ」 「……うん。私だって、もうアンとやり合いたくないし」 クロムでの口喧嘩は、ふたりにとっていい薬になったと思う。 「(――ううん。ベルも入れて、3人……かな?)」 列車の中での話振りからして、あのふたりは劇の役者として確定済み。 ただし、そのうち片方――トニーノには、まだ話すら回ってないような気がする。 「あれ?アンが不安そうな顔するなんて珍しいわね」 「……ワカバと会ってからは、気苦労が絶えないから」 「むむっ!」 「まぁ、いいわ。あのふたりのことは、ワカバが説得するって話だからね」 「うーふーふー。でしょ、でしょー。任せてね!」 「『……タレコミ元は言えないんだけどね……』」 そう言って聞かされた『トニーノ役者経験あり』の情報には、本当に驚かされた。 もし、それが事実でなおかつ劇に参加もOKしてくれるなら、これほど力強い味方はない。 「(――それにしても、タレコミって……)」 どう考えても、そんなことを知っているのはシルヴィアしか居ないのに。 「さぁ、みんなも揃ったことだし。……って、あれ?トニーノさんと、シルヴィアさんのふたりは何処に?」 「あー、ふたりのことは気にしないで。それより、大切な話があるの!」 「え、な、なに?」 合流後初のリーダー号令を押しやり、ワカバがみんなの前に立つ。 「えっと!とっても嬉しい話と、とっても言いづらい話のふたつがあるんだけど。どっちから聴きたい?」 ……なにを言い出すかと思えば。 「――好きな方からにしなさいな」 きっと、どちらが先でも結果は同じ。 「つまんないなぁー、もう!私は、どっちって訊いてるの!」 口を尖らせるワカバを前に、セロがスッと歩みよって、 「じゃあ、順番に行こう。嬉しい話からお願いするよ」 さりげないフォローを入れてくれる。 「(――そうね。最初から彼に任せておけば良かった)」 この一行の中で、ワカバの舵取りができるのは彼だけ。 それがいいのか悪いのかは判らないけど、あたしからすればお似合いのカップルに見える。 「(――でも、実際のところ……どうなのかしら?)」 あたしは誰かと付き合ったりしたことがないし、その対象が『男の子』っていう部分が考えづらい。 いや、いままで考えなかっただけでは?男の子に対する苦手意識が先行し、恋愛対象と見てなかった……と言った方が正しいのかもしれない。 そうすると、『その苦手と思う気持ちを克服』できれば―― 「(――男の子を恋愛の対象として、見ることができる?)」 たとえば…… 「マジで!それって、モスグルンのお祭りみたいに……」 ちょうど声が聞こえたライトは?告白されたとき、彼を嫌いで断ったわけではない。 あのときは……そう、まだ苦手意識が強かった。 「(――だったら、いまはどうかしら?)」 少し考えてみたが、どうもピンとこない。やはり、まだライトが年齢的に『子ども』だからだろうか? 「ほーら。嬉しいのは分かるけど、はしゃがないでね、ココ」 だったら、年齢的にも近い……セロは?彼は誠実で、とてもいい人。好感も持てる。 「……じゃあ、ふたりとも賛成ねっ!しめしめっ」 ワカバには悪いけど、あくまでも『仮』として考える。 「(――なんだろう、この気持ち?)」 たとえるなら―― 「……ねぇ、アンはどうかしら?」 「――あ、ワカバと同じなんだ!」 「ほぇ?」 そうだ。あたしにとって、セロはワカバと同じ存在。彼に対しては、友情というか……同胞みたいな感覚がある。 「(――そう考えると、他には……)」 リュリュは弟以外の何者でもないし、トニーノのことはまだよく知らないから―― 「……おーい。アン?アン、アン、アン?」 「なによ、変に連呼しないでくれる?」 「そっちこそ、ちゃんと話聴いてるの?」 「…………あ……」 そう言われれば、ワカバが大切な話をするとかしないとか。 「……いま、『あ』とか言った?言ったわよね?」 まずい。中途半端にしか聴いてなかった。 「(――ごめんね、ワカバ……)」 「……明日、感謝祭があるそうです。それに参加するかどうか、多数決をとってました」 後ろから小さな声のフォローが入り、話の流れを掴む。 「(――ありがとう、ベル)」 あたしは何事もなかったように襟元を正し、コホンと咳払い。 「いま、あたしって言いかけたの。あたしの『あ』よ」 「ふーん。で、どっちなの?」 「…………賛成」 さすがに聞き逃しては、反対もできない。 「やった、満場一致!これで万事解決!良かったー!」 「待って。もうひとつ、話が残ってるでしょ?」 どちらかと言えば、そちらの方が危険で重要な気がする。 「――言いづらい方からにして」 ショックは先に受けた方が良さそうな気がしたので、あえて。 「うわっ、ホントに?」 ――本当も何も、自分が選択肢を与えたんだから。 「……えっとね。実はみんなから了解をとる前に、とあるイベントに参加表明をしてて……」 「ねーちゃん、またかよ」 「ま、またとは何よ?それじゃ、いつも私が……」 「少なくとも、ひとつはしてるわよね。演・劇・祭」 「あ、あはははっ。そうねー。そう言われてみれば」 言われてみれば……じゃないわよ、まったく。 「(――だけど、そのおかげで……)」 いま、あたしはこうしてみんなと一緒に居る。 そういう意味では、ワカバに感謝した方がいいのだろうか? 「――それで、今度は一体何にエントリーしたの?」 「えっとね、明日開かれる、バーミリオンの感謝祭で催し物をしまーす、って」 「……明日?催し物!?」 あまりの急な話に、悲鳴にも近い声をあげたのはセロ。 「ありえないだろ、ねーちゃん!何で明日なんだよ?」 「そんなの、街の人に訊いてよ。私がお祭りの日を決めたわけじゃないし」 ……勝手に参加するのを決めたのは、ワカバなのに。 「それで催し物は、一体何をするつもりですか?」 「そうそう、そうだ!……ねーちゃん、答えてくれよー」 「まさか、何も考えずにエントリーしたとか言わないわよね?」 「よ、ねー?」 「う、ぐぐぐぐっ……」 みんなからの相次ぐ質問に、ワカバが声を詰まらせる。そしてセロの、 「ま、まさか……本当にそうなのかい?」 の一言に―― 「もーう、しゃーらーっぷ!」 ワカバが小噴火した。 「――ふーっ、ふーっ。みんな、落ち着いて。私は冷静よ。と、とにかく!まずは聴いて。悪い話ばかりじゃないの」 呼吸を整えながらのクールさアピールは、信憑性に欠ける。 「……感謝祭に出展するとね、色々と特典が付くの」 「とくて、ん?」 「そう、特典!」 「いって、ん?にて、ん?」 「その得点じゃなくて、ボーナスの方。そう、ココが大好きな食べ物!」 「えーっ?」 それを聞いて、ココの口が大きく開く。 「感謝祭に出展すれば、あとで色々振る舞われる料理とか、食べ放題よ。分かる?た・べ・ほ・う・だ・い!」 催眠術のごとくココの目を覗き込み、コクコクと頷きながら言葉を句切るワカバ。 それは、横にいたライトの関心までも引いたようで。 「ねーちゃん、それ……マジ?」 ゴクリと喉を鳴らしたライトが、キラキラした瞳をワカバに向けていた。 「私がアンタに嘘ついたことある?」 「…………それなりに、あったよ」 「……そ、そうだったかしら?」 姉弟の間で微妙な空気が流れるが、ワカバはそんなことなどモノともせず。 ふたりを抱きかかえ、その耳元で何やらささやき始めた。 「……ステーキとか、ハンバーグとか、ソーセージとか」 「おー、にくー」 「ジュースだって、ワインだって、お水だって……」 「ワインも?」 「……あ。私たちワインはダメね。でも、その他いーっぱい。なんでも、いけるわよー」 「ち、ちょっとワカバ。あなたねぇ……」 「ココー、どうかなー?」 「えへ、へー。いい、よー」 片方が落ちると、ワカバはすぐさま弟を見つめる。 「……あんたは?」 「――嬉しい話からでいいわよ」 どちらでも同じ結果になりそうだけど、前者から。 「おーけい!なんと明日、このバーミリオンでは感謝祭が開催されるの!」 「ねーちゃん、それマジでっ!?」 「私、嘘なんかつかないわ。食べ放題とかのイベントも……」 「やったな、ココ!」 「やっ、たー!」 大喜びのふたりだが、ワカバは人差し指を横に振る。 「はい、そこ冷静に。話の続きを聴いてから喜びなさい。残念だけど私たち観光客は、普通にお金払って食べるのよ」 「そんなぁー」 「……なぁー」 ライトと一緒に残念ポーズをとるココを見て、みんなが笑う。 「だ・け・ど!これには裏技があってね!」 「――お祭りを手伝うことで、なんと食べ放題のチャンス!」 「チャン、スー?」 「いえっす!」 彼女は満面の笑みを浮かべ、あたしたち全員を指差す。 「そ・こ・で・相談。……どう?いっちょ、引き受けない?引き受けるわよね?」 だいたいのパターンは読めてきた。 「ねぇ、ワカバ。その話、もうやることになってるんでしょ?」 「ぎくぅ!!ど、どうしてそれを……」 「…………たぶん、みんな気づいてるわ」 あたしのため息に続き、ココをのぞく全員が何度か頷く。 「とっ、とにかく!いい話でしょ!?ねー、ココ?」 「えー?」 「何でも食べられるのよー」 「えへ、へー」 ずるいことに、彼女は喜ぶココを抱き寄せて味方に。その上、自分の弟に向かい、 「『肉という肉が食べ放題。ジュースだって飲み放題よ』」 なんて、おまけ攻撃に出た。 「し、しゃーねーなー。ねーちゃんがそこまで言うなら……」 「(――ライトって、結構……ワカバに弱いのね)」 ……というよりは、完全に釣られている。 「これで賛成は6人中、3人!ベル、どっち?」 「えっ?ワタシは……その、アンジェリナさんが良ければ……」 「……あう、そう来たか」 ベルと同時に、ワカバの視線があたしに向く。当然、すでに半数が同意した中での蒸し返しは時間の無駄。 「……いいわ。事後承諾っていうのが気に入らないけど」 あたしは、勝ち目のない戦いを放棄する。 「えっ、でも……ほら、一応は……」 「なぁに?いまから反対してほしい?」 「ううん、とんでもない!ありがとっ、アン!」 「ふふふっ、どういたしまして」 ワカバにつられ、こちらも少し微笑む。……と、そんな顔をベルにジーッと見られてしまった。 「あ、賛成したけど……問題なかったわよね?」 「……はい。アンジェリナさんだったら、反対しないと思ってましたから」 「もし反対してたら?」 「……えっ?もしかして、反対だったんですか?」 そこでそんなにビックリされても、困ってしまう。 「冗談よ。でも、変に信用されているのね」 「……?そうですか?」 「うーん。どちらかと言えば……」 ベルが賛成を口にしたあと、『アンジェリナさんは?』とか言われた方が、しっくりくるような。 頼られるのは嫌いじゃないけど、彼女にはしっかりと自分の意志を持って行動してほしい。 「(――あたしが『おねえさん』っていうよりは……)」 そう。本来ならベルの方が、ずっと『おねえさん』なのだ。 「(――それなのに、何でベルは……)」 あたしに付き従うような行動や発言を? ……もしかして、劇の役割――クリスティナとシュエスタの影響が強いせい? 「アンジェリナさん?どうしたんですか?」 「え、えっ?」 そっと肩口を触れられて、あたしは我に返る。 「大丈夫ですか?アンジェリナさんが急に黙ってしまって、みんなが……」 「あ、な、なんでもないの、気にしないで。それより!」 そう、そんなことよりも! 「ワカバ!言いづらい話って、何?」 「ほ?言いづらい話?あぁ、もう話しちゃったわ」 「……どういうこと?」 「みんなの了承とる前に、感謝祭に参加表明したことよ」 ……ドッと疲れた。 「自分でも悪いと思ってたのね」 「……う、うん。でも、明日の開催で締め切り間際だったから。いまごろ、トニーノたちが手続きを終えているはずよ」 無計画に見えて、案外と段取りだけはしっかりしている。 「最初に言っていた、嬉しい話って……何?」 「あぁ、それ?感謝祭に出たときの特典――食べ放題のこと」 「……え?もしかして……それだけ?」 「そうよ。なんで?」 ……もっと別の話があると思っていたので、肩すかしの気分。こんなワカバに話を合わせられるセロは、すごいと思う。 「いまごろは、シルヴィアたちが出展の手続きをしてくれてるから安心して」 「――あっ、それと!今日の宿は、諸般の事情によりホテルじゃないからねっ」 「ちょっと、ねーちゃん!え、オレたち、野宿かよ?」 「まさか!そうじゃなくて。感謝祭に参加する観光客には、街の人たちが『一宿一飯のお持てなし』をしてくれるの!」 「……だけど、普通の家の人が、厚意で空いている部屋を提供してくれるから、みんな一緒ってわけにはいかなくて」 「ふたりずつが基本みたいだから、いつものように――」 セロとココ、姉弟、シルヴィアとトニーノのコンビ。 「……あとは言わずもがなの、アンとベルの組み合わせね」 「すげぇ、定番だよなー。たまには替えない?」 「――だったら、私とセロが入れ替わるとか」 「おっ!そうしたら、オレとココが一緒?」 「そうそう……って、ち、ちっがーう!そ、そ、そんなことしたら、私がセロと一緒になっちゃうじゃないの!」 「なに動揺してんの?冗談だって。オレとセロにーちゃんのコンビだろ?しっかりしろって」 「ろっ、てー」 「あ、あははっ。そうよね。そうよ、ね……」 ワカバには、からかわれたことを怒る余裕すらない様子。 普段は見られない彼女の動揺を前に、あたしとベルは顔を見合わせ、思わず微笑んでしまう。 「あっ、いま笑ったでしょ?なんだったら私、アンとベルのどっちかと替わっちゃうからね?」 ワカバとあたしが同じ部屋になれば、ベルがライトと?そんな組み合わせ、どう考えたってあり得ない。 あたしは、少し笑いながら首を横に振り、否定の言葉を口にするが―― 「……ダメよ」「……ダメです」 それとほぼ同時に、ベルからも声があがった。 「なっ、なによー。冗談に決まってるでしょ。ふたりしてハモって否定しなくても、いいじゃないの……」 お互いに顔を見合わせる、あたしとベル。別に示し合わせたつもりもなかったのに、どうして? 「あ、あの……いまのは偶然です。ごめんなさい」 「そこで謝られてもねー。こっちこそ、ごめんね。下手な冗談言うもんじゃなかったわ。あはははーっ」 「(――ベルの言うとおり、偶然なんだけど……)」 自分の中で、何かがグルグルと回り始める。 「……ところで、質問なんですけど」 「はいはい、なぁに?」 ふたりは次の会話へ進んでいるのに、何故かあたしはそこにつまづいたままで。 「結局、ワタシたちは感謝祭で一体何をするんですか?」 「うふふふふ。それはね――」 謎めいたワカバの言葉に、あたしはベルに問うタイミングを失ってしまったのだ。 セロとココ、あたしとベル。そして、意外なことに―― 「私はシルヴィアと一緒。それで、ライトはトニーノと一緒でどう?」 「……なんで?」 「あら、私と一緒がいいの?」 「そうじゃねーけど、なんで、シルヴィアとねーちゃん?」 ライトじゃなくても、少し疑問に思う組み合わせ。 「まぁ、話があるのよねー。色々と」 訳あり顔でワカバは何度も頷いてみせ、ライトをはぐらかす。 「なんだよ、それー?」 「(――シルヴィアたちを劇に参加させる足場固めかしら?)」 確か列車で、『トニーノはシルヴィア次第だと思う』とか、言っていたような気がする。 「……あやしいなぁ。オレとセロにーちゃんが居ない間に、何かあったんじゃないの?」 「なぁに、それ?女同士じゃダメだっていうの?」 「それはないよ。ただ、アンジェリナとファーちゃんみたく、しっくり来ない組み合わせだからさぁ」 あたしと、ベル?急に出されたふたりの名前に、あたしたちは顔を見合わせる。 「ますます分かんないわ。どうだったらしっくり来るの?」 「……うまく言えないけど、アンジェリナとファーちゃんだとお似合いで、すごく自然な感じ」 「――で、ねーちゃんとシルヴィアだと、何て言うか、似た者同士で……混ぜると危険、みたいな」 「へーっ。なかなか面白いこと言うじゃ・な・い・の」 ポカリ、とライトの頭を《はた》〈叩〉く音。 「いってぇ!正直に言っただけなのに……」 「むっきー!」 逃げるライトをワカバが追い回し、それを眺めていたココがみるみるうちに顔を輝かせ、 「おっかけっ、こー」 と、その後ろに。 「……あぁ、もう。ほら、こんなところで騒がないでー!」 収拾役のセロが『やれやれ』といった感じの表情で、さらに後ろへと続く。 「(――みんな、元気ね)」 あたしは改めてベルを見て、先ほどのライトの言葉を考える。――お似合い、ねぇ。 そんなことを考えていればベルが、 「……自然……」 と呟き、こちらを見上げてきた。 「うん?」 「い、いえ」 口ごもる彼女は、慌てて視線を逸らす。……その頬が、かすかに赤い。 「(――な、なにかしら?あたし、何か変なこと……)」 ベルを見て、気持ち笑顔で問い返しただけなのに。そんな些細なことで、どうして―― 「(――あたしまで、視線、逸らさなきゃいけないのかしら?)」 そして、仮デバッグ用の分岐を選択できます。 「……まったく、ワカバったら」 「アンジェリナさん。あまり怒らないであげてください」 「別に怒ってないわよ。ただ、何て言うか――」 「いつも、話が急ですよね」 「そう、そうなのよ」 感謝祭への参加は、あまりに突然の話で一同が驚かされた。そして、それに加え―― 「何をするかまで決定済みだったなんて……」 「でも、これからみんなで相談するには時間も足りなかったと思います」 「……そ、そうね。あなたの言うとおりだわ」 主催者にかけあったワカバが用意してきたのは、人形劇。……と言っても、ワタシやココが劇を見せるのではなく。 「アンジェリナさん。セロとワカバ、大丈夫だと思いますか?」 ハンディ・パペットを使い、子ども用の劇を披露することになったのだ。 「……言い出しっぺなんだから、しっかりやってもらわないと困るわよ。それより、あなたは平気なの?」 「ワタシですか?ワタシは……」 一瞬不安にかられ、ちらりとアンジェリナを見る。 「無理に引き受けることないのよ。何だったら、ワカバに交代してもらうとか――」 「大丈夫です。ワタシ、できます」 一度、白の都で体験済みだから。 「(――できるわ)」 ここで尻込みしたら、劇の本番も危うくなってしまう。 そして、なにより―― 「あの、アンジェリナさんの方は……大丈夫ですか?」 「アタシ?アタシは平気。うちで『弾いてた』からね」 オルガンで伴奏を入れてくれるのは、アンジェリナ。 練習とはまた違ったパートナー役を経験しておけば、劇にも役立ちそうな気がする。 「それを聴いて安心しました」 「……あら。心配してくれてたの?」 「い、いえ。アンジェリナさんだったら何でもできそうだから、そんなには……」 「心配してくれないんだ?」 アンジェリナの少し沈んだ目。 「え、えっ?心配した方がいいんですか?」 ワタシは、失敗の可能性が低い方がいいと思うけど…… 「――じ、じゃあ、心配します」 彼女が、そう言うのであれば……従うべき? 「バカね、あなた。そんなお義理なら要らないわ」 「あ、う……じゃあ、ワタシはどうすれば……」 別に、ワタシはどちらでも構わない。 ……というより、彼女がどうしてほしいのか判らないことが一番困る。 「……どうするもこうするも、自分の思うように……でいいんじゃないかしら?」 「えっ?」 「アタシがどうこう、じゃなくて。あなたがどうしたいのか、が大切じゃない?」 「……うぅぅ」 本当に? 彼女の言葉が正論らしく聞こえるが、どこかが間違っているようにも思える。 「アタシに左右されず、思ったように言えばいいじゃない」 「えっと、それなら言います。……心配しません」 「あら、そう」 「でも、ちょっとだけ心配します」 「……どっち?」 「だ、だから!心配じゃないけど、心配なんです!」 思わず口から出てしまった言い方は、本来なら彼女に向けるべきようなモノではなかった。 「……ごめんなさい。つい、うっかり……」 「気にしないで。アタシが、からかい過ぎただけだから」 「……ワタシ、からかわれていたんですか?」 「え、う、うん。悪気はなかったけど、何となく……その……」 ちょっとだけ、ムッときた。 ジルベルクの子どもたちに悪ふざけでからかわれたのなら、注意はしても怒ったりはしない。 小さい子たちは、無邪気にふざけるだけだから、お姉さんとして『ダメよ』という立場を取ればいい。 でも、アンジェリナは違う。 「……『何となく』って、どういうことですか?」 ワタシは、彼女を『分別の付く立派な大人』だと認めてきた。 だからこそ尊敬もしているし、一緒に居て安心もできる。 それなのに、突然子どものような態度をとられてしまうと、ワタシとしても…… 「正直に言うと、あなたの困った顔が見てみたくて、つい……」 「…………つい、って……」 それこそ、どうしていいか判らず困ってしまう。 「アンジェリナさんって、もっと大人だと思ってました」 「……ごめんね」 「でも、どうして急に……そんな子どもみたいな真似を?」 「……アタシにも、よく解らないわ。どうしてかしら?」 「(――本人が解らないのに、ワタシに尋ねられても……)」 そんなことを考えていると、ふと同じやりとりを思い出す。 「(――それも、相手はひとりじゃなくて……)」 時と場所、相手は違えど……繰り返してきた会話。 村の子どもが、ワタシに困らせるようなことをしたあとに、その理由を問うと決まって最後は『同じような答え』に辿り着く。 「……ねぇ。怒らないで聴いてくれる?」 「は、はい」 「アタシが話の最初、明日の感謝祭への参加が『決定済み』だったことに文句を言ったでしょ」 「――そうしたら、あなたが『相談する時間はなかった』ってフォローして、そのあと……ワカバを心配したじゃない」 ……言われてみれば、確かに。 「……そのとき、ね。どうしてだか、『なんで、あたしのこと心配してくれないの?』って思って」 「えっ?そのあとでワタシ、アンジェリナさんのことを……」 「そうよ。あなた、心配してくれたわ。ワカバの次に」 「…………」 「バカよね。あなたはここに居て、あたしと話しているのに。たったそれだけで、無視された気がしちゃって」 「……アンジェリナさん」 きっと、村の子どもがワタシを困らせた理由と同じ。 ――自分を見てほしい。 子どもたち相手に分け隔てなく接しているつもりだったのに、ふとした拍子に注意が逸れ、寂しい思いをさせたことがある。 そんなとき、その子がとった行動でそれに気づかされてきた。ワタシの真似をする子も居れば、強引に話しかけてくる子も。 かくれんぼでもないのに振り返れば姿を隠す子や、大声で泣き出す子も居た。 ……みんな、それぞれの方法で自分をアピールして。 「ごめんなさい」 「えっ、ちょっと?何でいきなり謝ったりするの?」 「ワタシ、アンジェリナさんの気持ちも知らずに……」 「別にそれほど大層なモノじゃないから。わ、忘れてよ」 「……そんなことありません」 「こ、こんなの、あたしの、ただの、わがままで……」 「たとえ、そうだとしても!」 なかなか視線を合わせてくれない彼女の前に回り込んで、その瞳をじっと見つめる。 アンジェリナが疎外感を覚えているのにも気づかず、さらにどっちつかずの発言を繰り返して惑わし、勝手に腹を立てて。 「(――鈍感すぎる)」 きっとアンジェリナも、そう思っているに違いない。 「そんな風に思われてるって、考えもしないで」 「……『想われてる』って……?」 「ごめんなさい。ワタシ、鈍感だから……すぐに気づかなくて」 「ま、待って。待ちなさい。ストップ!いいからストップ!」 「は、はい」 かなり焦っているらしく、彼女らしくない動揺振り。 「落ち着いて。誤解よ。きっと誤解。……いい?そう簡単に人の気持ちなんて、解らないものなの」 「気づいたつもりでも、それは推測でしかない。そうでしょ?」 「……そうですね」 「あたし自身だって、まだ自分の気持ちに確証を得てないの。……なのに、あなたが先に気づくとか、おかしいでしょ?」 「そうでしょうか?ワタシだから、気づくこともあります」 「…………」 「こんな言い方すると嫌われるかもしれませんが、ワタシはアンジェリナさんより、ずっと長く生きてます」 「――外見の変わらないワタシは、老いていく人間から見れば……きっと違和感がある存在です」 「村の子どもたちが成長し、自分よりも大きくなったときには、もうワタシは『お姉さん』ではなく、『妹』のようなものになります」 「そして、その子たちが『大人』になって、また次の代へ」 ……これまでも、これからも、それは続く。 「生きている時間が長い分、数多くの子どもたちと知り合い、通り過ぎていく姿を見てきました」 「――だから、アンジェリナさんの気持ちも何となく……」 「通り過ぎた人たちと似てるから、解るって言いたいの?」 「……はい。きっと同じような気持ちで――」 「――やっぱり、推測の域を出ないじゃない」 「…………え?」 アンジェリナの低い声に、ワタシの説明が止まる。 「あたしが、あなたの横を通り過ぎると思うの?」 「……出会ったときには、もう通り過ぎているかと」 外見でいけば、彼女はすでにワタシよりも年上。 ……追い越されたわけでもないから、『通り過ぎる』という表現はおかしい? 「――そんなわけないじゃないの」 「アンジェリナ、さん?」 いきなりにらまれて、ワタシは混乱してしまう。何がそんなに彼女を怒らせてしまったのか、見当もつかない。 「少し長生きしてる『お姉さん』だからって、決めつけないで」 「あなたと知り合って日はまだ浅いけど、できればこれからも一緒に居たいと思ってる」 「そりゃ、嫌われたりしたら辛くて逃げ出すかもしれないけど、そうでもない限りは……」 嫌う?ワタシが?アンジェリナを? 「……あ、あの」 「とにかく!あたしの気持ちは、あなたの横を通り過ぎていった人たちのようには変わらないと思いなさい!」 「……は、はい。で、でも……」 どこか、会話がかみ合ってないような気がして。 「アンジェリナさん、何か……勘違いしてませんか?」 「勘違いしてるのはあなたの方よ」 そう言われ、揺らぎのない目で見つめられると、だんだんと自分の方が間違っているような気がしてきた。 「(――だ、だけど。あ、もしかして……)」 彼女は『ワタシにアピールしていたこと』に自ら気づいて、それを指摘されまいと怒っている……とか? 「いいわ。よーく聴きなさい」 「あたしは、これまでの誰よりも、あなたのそばに居るのに相応しい人間だと、明日の感謝祭で証明してみせるわ」 そばに?相応しい?証明?何か、ワタシの知らない方向に話が―― 「……え、えっと、ですね」 「……も、もちろん。それがイヤならイヤって言って」 自信に満ちた顔が、弱々しいものへと急変する。 「……あたしのことが嫌いなら、そんなことするだけお互いに時間の無駄だから、いまのうちに断ってほしいの」 「(――アンジェリナさんのことが、嫌い?)」 そんなわけない。 もしもそうなら、どうして一緒に旅をしたりできるの? 「断る理由なんてありません。だってワタシは――」 「――アンジェリナさんのこと、好きですから」 「……あ、う、う、うん。あ、あり、がとう……」 今日のアンジェリナは、どこかおかしい。こんなに真っ赤な顔をする彼女を見るのは、初めて? 「じ、じゃあ、あの……ね?明日、頑張ろう……ね」 「は、はい。それならそのためにも、いまから練習しないといけません……よね?」 「そ、う、ね……うん、そうしましょう」 理由は解らないが、アンジェリナの勢いがなくなったいま、話を蒸し返すわけにもいかず。 ワタシは彼女と共に、オルガンを貸し出してくれるお店へと向かう。 「(――困ったなぁ……)」 お互い、何か誤解の上で会話を成立させているような。 そのキーワードは、たぶん―― 「『あたしは、これまでの誰よりも、あなたのそばに居るのに相応しい人間だと、明日の感謝祭で証明してみせるわ』」 アンジェリナは、一体……誰と比べて相応しい人間だと証明するつもりなのだろうか? 「…………それで、僕たちは『コレ』を操るんだ」 「そうよ!なんか、乗り気じゃないみたいだけど?」 「いや、そんなことはないんだけど……」 セロったら、口では受け入れながらも、身体の動きがついてきてない。 なにが不服なのかしら? 「ほら、ライトを見てよ」 「すげぇ、すげえよねーちゃん!これ、怪傑ネコ王子だ!」 「このイカサマなヒゲのデザインとか、よくできてるわよね」 アニメで人気のダメ王子様は、追い出されたお城に帰ろうとしていつも失敗する可愛そうな人。 「はい、セロ。この王子のモデルは?」 「――ガスパロ・フレスコバルディ」 「正解!」 さすが歴史専攻。 「へーっ、そんな名前の人だったんだ。で、どんな人?」 「本物のガスパロは、王族ではなくて赤の国時代の名門貴族の生まれの人なんだ」 「えーっ、そうなの!?」 「彼はフレスコバルディ家の三男で、家督とか興味を示さず、すごく自由な生き方をしていたらしいんだ」 「――けど、それが過ぎて父親から勘当されてしまい、放浪の旅に出ること3年」 「ガスパロが久し振りに故郷へと戻り、実家の近くまで足を伸ばしてみると――」 「一番上のお兄さんが、王族のお姫様と結婚式を挙げる準備の真っ最中だったんだって」 「ジャジャーン!」 ここからが面白いのよね! 「……って、なんでいいところなのに変な音が入るの?」 「変とは何よ、変とは。効果音よ」 「ま、いっか。で、続きは?」 「それでね!ガスパロは、『祝福しなきゃ』って思ったけど、勘当中の身でしょー?だから、変装して結婚式に参列!」 「でも途中で他の人に《すいか》〈誰何〉されて、彼はこう言ったの。『自分はガスパロではありません』って」 「それでみんなは、彼がガスパロだって気づいちゃうんだけど、お祝いの席だからそのまま『ガスパロじゃない人』扱いに」 「簡単な祝辞を述べる時間を与えられても、やっぱり違う人としてスピーチして、いつの間にかドロン!」 「以後、誰かに名前や素性を尋ねられて答えづらいときは、『自分はガスパロではありません』と言うのが流行ったそうよー」 「へーっ!ネコ王子もときどき、お城に入れるチャンスをその台詞でダメにしちゃうんだよねー」 「どう?ひとつ賢くなったでしょ?」 「……まぁね。でもさ、ひとつ訊いていい?」 「どーぞっ」 「なんで、ねーちゃんが説明すんの?」 「……私じゃ不服だっていうの?信じられない?」 セロのあとをきっちり引き継いで、最後まで説明したのに。 「そこまで言わないけど、いまセロにーちゃんが話してたろ?横取りとかよくないぜー」 ……生意気なこと言う子よね、ホント。 「い、いいじゃない。私だって、知ってるんだから。それに、これぐらいでセロは怒ったりしないもん。……しないよね?」 「……しないよ。だけど、ひとついいかな?」 急に真剣な表情で見つめられると、思わず答えにつまって。 「あ、はい……」 セロ相手に、変にかしこまっちゃった。 「ワカバの言った話だと、結婚式から姿を消した……になっていたけど、本当はそうじゃないんだ」 「えっ?」 「……フレスコバルディ家に残された日記によれば、その結婚式の日にガスパロの勘当は許された」 「そして後日。ガスパロは放浪した年月と同じ期間、一番上の兄の従者をしっかり務め、周囲にも認められたそうだよ」 「…………初めて聴いたわ、そんな話」 「ワカバがさっき言った『ガスパロではありません』……にも続きがあるんだ」 「いひひっ。ねーちゃん、ダメダメじゃん」 「なっ、なによー!だって、私は……」 セロみたいに、歴史のプロじゃないもん。 「ワカバが知らなくても仕方ないさ。たぶん、ほとんどの人が知らない逸話だから」 ……また、フォローされちゃった。 「で、で?どんな続きがあるの!?」 「王族の姫と結婚したお兄さんが、義理の父――お城の王様を前にご挨拶したときのこと」 「王様は、娘婿の従者がフレスコバルディ家の者と知って、自分の前で顔を上げて話すことを許したんだ」 「……するとガスパロは床を見たまま、こう言った」 セロ「『この場において、私はガスパロ・フレスコバルディではなく、主人の一従者に過ぎません』 「『……過分なお取りはからいに感謝いたしますが、その件につきましてはどうかご容赦ください』」 「(――なにそれ?ガスパロ、かっこいいじゃないの!)」 手元にある、大口開けっぱなしのパペットとは大違い。 「……へーっ。それで?どうなったの?」 「それを聞いた王様は感心し、娘婿に『よい従者を持ったな』と言って、ふたりに褒美を与えたそうだよ」 「――これは、赤の国に残る正式な王室文献からのお話」 「たぶん『ガスパロではありません』って台詞が流行ったのは、この一件の影響もあったと思うんだ」 「すげぇー。セロにーちゃん、物知りだなー」 「そんなことないよ。たまたま図書館で手にした本に書いてあっただけだから」 セロはそういって謙遜するけど、『たまたま手にした本』の内容をそれだけしっかり憶えているのがすごい。 「(――私なんか、憶えたつもりでポンポン忘れちゃうのに)」 「……でもさ。なんでそんな人が、こーんなダメなネコ王子のモデルになったの?」 「ガスパロって王子でもないし、お城を追い出されたわけでもないのに、変じゃない?」 「その辺りは、ワカバの方が詳しいよ」 「え、えっ?私?」 「ふーん。ねーちゃん、答えられそう?」 なによ、その疑いと憐れみの視線!自分の姉が信じられないっていうオーラが、にじみ出ている。 「……よく、聞きなさい。ネコ王子のモデルは、もうひとりの『ガスパロ』なの」 「へっ?ガスパロって双子?」 「……違うわよ。ネコ王子は、ガスパロ・フレスコバルディをモデルにして創られた『もうひとりのガスパロ』が原型なの」 「よくわかんねー。ちゃんと説明してくれよー」 そう言って、私に向かって耳を突き出すライト。……憎たらしいわね、その態度が。 「耳掃除からしてあげようか、耳・そ・う・じ・から」 突き出されたライトの耳を引っ張り、少し大きな声で感度を確認してみる。 「うぎゃあー!聞こえてるって!でかい、でかいって!」 なによ、ちゃんと通じてるんじゃない。 「――そうすると、足りないのは理解力かしら?」 「……ワ、ワカバ」 「いたたっ!やめろって!ファーちゃんが見てるだろ?」 「見てるから何?第一、そんな嘘で誤魔化そうったって……」 「あ、あの……」 「――うっそ!」 聞き覚えのある声に振り返ると、本当にベルが居るじゃない! 「……《きょうだい》〈姉弟〉ゲンカなの?」 「違う、違う。これは、どう見ても虐待だって!」 「違うわよ。これは……耳の準備体操なの!」 自分でも無理があると思いつつ、言い訳してみたけど。ベルの視線からして、信用されてないのは私の方だ。 「ワカバは、おねえさん……ですよね?」 「(――うっ、何かいつものベルと違う……)」 彼女の言葉には何とも言えない重圧があって、とてもとても言い返すことなんてできず、 「……は、はい」 素直に頷くので精一杯。 一体何があったか知らないけど、いつものベルとは違う。 「ありがと、ファーちゃんのおかげで助かったよ。……で、どうしたの?」 「……えっとね、これからアンジェリナさんと音合わせするの。だから、楽器担当のライトにも来てもらいたくて」 「いいぜ、いくいく!じゃ、ねーちゃん。またねー!」 「あっ、ちょっ、と!」 迎えに来たベルを置いて、ひとり先に行ってしまうライトを見て、私はガックリと肩を落とす。 「…………ごめんね、ベル。あんな弟だけど、頼むわ」 「大丈夫。ライトは、頼りになる子です」 お世辞だと判っていても、身内を褒められるのは嬉しい。 「……それに、あなたも頼りになる人だから」 その視線は、セロに……ではなくて、私? おかしい!だって、そんなことを言われた経験、ほとんどないんだから。 「私は……全然、ダメよ。いつだって人に迷惑かけて」 「そんなことないです。クロムで相談に乗ってくれた上に、アンジェリナさんと仲直りするきっかけを作ってくれたり」 「(――ひぃ!すっごい誤解されてる!私は火に油注いで、そのまま放置しかけてたのに)」 それなのにお礼じみたこと言われるって、どうなの?もしかして、遠回しな嫌味とか? いや、ベルは絶対にそんなことしない。となれば、私の知らないところで誰かが何か細工して…… 「……あの、ワカバ?」 「は、はは、はい!?」 「もし良かったら……もう一度だけ、ワタシの相談に乗ってもらえませんか?」 「よ、よろこんで……って、ダメダメ!私よりセロの方が頼りになるわよ、どう考えても」 ふたりを交互に見るベルは、私で視線を止めて頭を下げた。 「――ごめんなさい」 「(――はやっ!)」 速攻で乗り換えられたのは少し凹んだけど、それでいいのよ。解決したら、そのときにでも教えてもらえれば―― 「迷惑かもしれないけど、やっぱりワカバにお願いしたいです」 「…………へ?」 「セロはとても頼れる人です。でも、今回は……どうしても」 「……ワカバ。相談、受けてあげなよ」 「う、うん。……で、どんな話?」 「それは、その……あとで、いいですか?」 チラチラとセロを見る視線と、赤らんだ頬。数秒経って、私はその意味に気づく。 「(――セロが居るから困ってるんじゃん!)」 「では、またあとで戻ってきます。あまりアンジェリナさんとライトを待たせるのも悪いので」 「わかったわ。行ってらっしゃい」 立ち去る彼女を見送ると、自然とため息が出てくる。 ……ねぇ、ベル。こんな私を頼ってもいいの?我ながら、先行きが不安で仕方ない。 「ワカバも、何か悩み事があるのかい?」 「えっ、悩み?そう言われると、うーん」 相談されたことが悩みで、それを『セロに相談する』とか、頭の悪い子みたいで恥ずかしい。 「僕でよければ、相談乗るけど?」 こんなとき、『……気持ちだけでいいの。ありがとう』とか、スマートに言える自分になりたい。 クロムのとき、アンジェリナのこと聴いてもらって、少しは自分でも成長したと思っていたのに。 「――私、セロに頼りすぎてない?」 「それはないよ。僕だって、ワカバを頼りにしてるし」 「どの辺りで?そんな機会ないでしょ?」 「あるさ。いまさっき、僕は歴史がらみでガスパロを説明してたけど、後半はワカバに任せるつもりだったし」 「……うそ。それは、私が勝手に横取りしただけじゃない」 言いたくなったら言っちゃう、私の悪い癖が出た。 「おまけにそのあと、セロが後日談でフォローしてくれて――」 「いやいや、そこじゃなくて!そのさらに先。ガスパロから創られた『もうひとりのガスパロ』の説明だよ」 「――ドタバタしちゃってお流れになったけど、僕はワカバに続きを頼むつもりだったんだ」 「……どうして?」 「だって、僕には説明できる自信なかったから」 「……本当に?」 またそんなこと言って、私を立てようとかしてない? 「ライトは『物知り』って褒めてくれたけど、それはたまたま僕が知っていただけのことだよ」 「ネコ王子のモデルとなった『ガスパロ』について、僕は『小説の中に登場する人で……』ぐらいしか知らなくて」 「――小説のタイトル、なんだっけ?」 「……『赤のクローバー』よ」 赤の国に伝わる古い歴史を大胆にアレンジしたその小説は、いまから50年ぐらい前に書かれたモノ。 登場する主要人物たちのほとんどが『美男美女で大活躍する』辺りが大衆に受け、今日でも古典として根強い人気がある。 「赤のクローバーに登場するガスパロは、王家の三男」 「――武芸に秀でた容姿端麗な人なんだけど、ちょっと悪戯な性格が原因で事件を起こし、お城を追い出されるの」 「……その後ガスパロ王子は、何かお城で事件が起こるたびに変装した『謎のヒゲ男』として現れ、お兄さんたちのために色々がんばるの」 「……でも、その変装がお城の人たちにバレると、決まって『自分はガスパロではありません』と言って立ち去るのよ」 「あぁ!小説のガスパロも、その台詞を言うんだ」 「そうなのよ。バレバレの身分を偽るくせに、本心ではお城へ帰りたいと思ってる辺りが『二枚目半』でね」 「そんな情けないところがカリカチュアされて、子ども向けのアニメ――『怪傑ネコ王子!』が誕生したのよ」 「へーっ、そうだったんだ!ひとつ賢くなったよ」 「…………むっ。それ、私に対する嫌味?」 「ち、違うって。本当にそう思ったから……ううぅ、ごめん」 セロったら、すぐに謝るんだから。少しぐらい当てつけされたって、本気で怒ったりしないのに。 「でも、意外だったわ。セロが『赤クロ』を知らないなんて」 「……何度か手にしたことはあるんだけど、読むのが怖くて」 そんな言葉に、私は思わず彼を凝視してしまう。 「歴史ベースの小説だけど、アレンジ色が強いって聞いていたから、自分の価値観とか狂わないかなぁ……って」 「娯楽として割り切ればいいのに」 「それがなかなかできなくて。あははっ」 知らなかった一面を見せてくれたセロに、私は嬉しくなった。……が。その気持ちは、一瞬にして裏返る。 「(――ってことは、私のやろうとしている演劇も……)」 天使の導きは、白の国の終焉を語る史劇。 それを大逆転させるほどアレンジを加えている私の作品は、セロにとってどういう存在なのか。 思いっきり歴史をいじろうとしている私は、セロの瞳に……どう映っている? 「ね、ねぇ……セロ……」 「ん?」 彼にどう思われているのか、知りたい。でも、もしそれが『改悪』と思われているとしたら。 「(――あぁ、コワイよ……)」 セロに否定されたら、立ち直れないと思う。いますぐ荷物をまとめて逃げ出したくなるに違いない。 「(――訊かない方がいいのかな?)」 だけどこのまま続けて、本当は彼の価値観を傷つけていたとあとで知ったら―― それこそ、取り返しがつかないことになる。 「……ワカバ?」 「ううぅぅ……」 訊きたいし、訊かなきゃいけないと思うのに、言えない。 「(――あ、あのね、セロ……)」 口の中が渇く。声がうまく出せない。どう切り出せばいいのか? 「……ううぅぅぅ、ちょっと。ちょっと待ってて!」 「う、うん。焦らなくていいよ」 その微笑みが、もしかしたら私の一言で哀しみに変わるかも。どうすればいいの、私? このピンチ、誰か救ってくれない?ほんの少しでいいから、アドバイスとか―― 「(――あ、そうだ!)」 相談!誰かに相談しよう!それができる相手といったら、アンジェリナ? 待って。彼女も頼りがいあるけど、キツイことを言われそう。……となれば、弟とあのふたり組を除いて、残るのはベル。 「(――そうね。ベルがいいわ。ギブアンドテイク!)」 さっきの相談と交換で、こっちの話を聴いてもらおう。 それに、よくよく考えたらベルは私よりもずっとお姉さん。 「ねぇ、セロは……ネコ王子でもいいわよね?」 「え、明日の人形劇の話?」 「そうよ!」 と答えながら、少し罪悪感を覚える。 言い出せず、話題をすり替えた自分だけど、いまは人形劇の準備をしないといけない。 「(――前向き、前向きにいこう)」 きっとベルが、あとで何かいい知恵を授けてくれる……はずだから。 「あの、わざわざ……すみません」 「いいの、別に。私も、ちょっと話したいことがあったから」 「…………そうですか」 「……う、うん」 そこで黙ってしまうふたり。もしかして、というか―― 「(――アタシが居るせいで、気まずいんじゃない?)」 明日の感謝祭の出演手続きが終わったので、それをワカバに報告するために戻ったら、そのままこのオープンカフェまで連行されてしまった。 「『ち、ちょっと?アタシ、トニーノたち待たせるんだけど?』」 「『平気、平気。トニーノだって子どもじゃないんだから』」 「『……で、何処に行くの?』」 「『ちょっとした話もあるし、ついでだから付き合ってほしいの。お茶ぐらいおごるから』」 「(――ついで、ね)」 待っていたのは、白い羽根の《シスター》〈人形〉――ベル。その割には、メインのおふたりの口が重い。 アタシだって折り入って話すこともないから、この場に居る必要はないと思う。 「……あのさ。アタシ、席はずそうか?」 でも何故かふたりは、アタシを見て首を横に振る。 「飲み物も頼んでしまいましたし……」 「まだ何も話してないでしょ、私たち」 「……うん。まぁ、いいんだけどね」 白の都のように追われる立場でもないから、急いで立ち去る必要もない。 ……かといって、他人と同席して無言の時間を過ごすのは、かなりの苦痛になる。 「……で、ふたりの話ってなぁに?」 「さぁ?まだ何の相談かも聞いてなかったから」 「それは、アンジェリナさんのことなんですが……」 ベルが困ったような顔でワカバを見て、そのままこっちにも視線をくれる。 「アタシは気にしないで。存在しない人っていうか、あんまり関係ないから」 だから席をはずそうか?……って、言ったのに。 「(――まったく)」 やがて3人のお茶が運ばれ、仕切り直しのチャンスが。 それぞれがカップを置いたところで、どちらが話すか待ってみたが、ふたりともソワソワするばかり。 「(――仕方ないなぁ……)」 なんでアタシが、世話役なんだか。 「はい、ワカバ。アンタから話す」 「え、えぇ?なんで?」 「だってー。そうすれば、アタシが先に帰れるでしょ?」 「なんで?」 ……『なんで』とか連呼しないの、子どもじゃないんだから。 「人のことを『ついで』で呼んだのは、だぁれかしら?」 「……分かったわよ。シルヴィアってせっかちね」 「アンタほどじゃないわ」 「むきぃー。じゃあ、最初にあなたの話をしてあげるわよ」 あら、ご親切にありがとう。 「明日の人形劇が終わったあとのことよ。シルヴィアたちは、どうするの?」 「アタシたち?……さぁ?まだ決めてないけど」 「オーケー。じゃ、私たちのあとを追って、モスグルン行きね」 「……は、はぁ?モスグルン?なんで?」 「演劇祭があって、人手が足りないから手伝って。……以上」 サラッと言い切ったワカバは満足そうに笑うが、それで了解できるほどヒマじゃない。 「……あのね、ワカバ。アタシたち、ボランティアじゃないの」 「バーミリオンまで来たのは、白の都のお詫びの意味を込めて、ライトたちを送るためだったの。分かる?」 「そのことについては、本当に感謝してます。ありがとう」 「……あ、うん。分かればいいのよ、分かれば」 もう少し文句言おうと思ったのに、肩すかしをくらい、どう告げればいいか迷ってしまう。 「それじゃ、どれぐらいで手を打ってくれるの?」 「……え?」 「仕事として、どれぐらい出せば手伝ってくれるのかってこと」 話の流れからして、それはお金のことだろう。 ……が、急にそんなことを言われても、何をするかも不明で交渉のしようもない。 「まず、何をするか教えて。それと、どれぐらいの期間か」 「やってもらいたいのは、演劇の準備と本番での役者」 「――期間は演劇祭が終わるまでだから、約2ヶ月かな?」 白の都のホテルにワカバが原稿を忘れたことがきっかけで、ライトたちを送る途中でそれとなく聞いていた。 だけど、それほど突っ込んだところまで話さなかったので、まだまだ不明な点が多すぎるのだ。 「先に訊くけど、どうして素人のアタシに頼るの?」 「……いま言ったとおり、人手が足りないの。それに私は、プロとか素人とか関係なく、参加してくれる人を募集するわ」 「……それで、もしもアタシが断ったら?」 「…………そうしたら、他の人を探すわ」 勝ち気な笑みが消え、彼女らしくない沈んだ表情へと変わる。 「最初は強引にでも……って思ってたけど、それはやめたの。だって、やりたくない人に無理をさせるのは、良くないから」 「(――妙にしおらしいわね。何かあったのかしら?)」 ワカバらしくないのが、逆に気持ち悪い。それに、さっきから気になってたけど―― 「……?はい。なんでしょう?」 「……っていうか、アンタがこっちずーっと見てたのよ」 「あ、すみません。そんなつもりなかったんたですけど」 期待したまなざしは、見なくてもジリジリ伝わってくる。 「(――あぁぁ。困ったなぁ……)」 この頼まれると断れない性格、どうにかならないかしら? 「誰がそのお金、出すの?やっぱり、アンタのお小遣いで?」 「いいえ。未来の私よ」 「はぁ?もしかして、出世払いとか言うつもり?それだと、いつになるか……」 「大丈夫です。ワタシの父が払いますので」 横からの声に、アタシは少し驚く。 「そうすると、アンタのお父さんが……パトロン?」 小さく頷くベルに、ワカバが大きく息をはく。 「でも、近い将来。私が全額返すことになってるの」 「……払うアテは?」 「小説家になって、しっかり稼ぐから安心して」 「……あははっ。大した自信ね」 笑っちゃうぐらいに堂々とした態度。……しかし。 アタシが笑ってもワカバは笑いもしないし、怒りもしない。ただ、まっすぐにこちらを……いや、未来を見据えている。 「(――アタシも、この子ぐらいのときに自分の将来を決めたんだっけ)」 当時の自分に、いまの自分は胸を張れない。そんなアタシに、ワカバを笑う資格なんてないのだ。 「ごめんね、笑ったりして。意気込みは分かったよ」 ある意味、アタシたちよりも大きな借金を抱えている。 「――じゃ、もう少し詳しい話を聴かせてもらえる?」 「……えっ、引き受けてくれるの!?」 「詳細を聴いたあとで考えるわ」 ――それから1時間。 「……と、そんな感じでここまで辿り着いたの」 一通りの説明が終わったときには、空が赤くなっていた。 「…………しかし、驚いたわね。まさかアンタが……」 アタシの横に座るベルが、マスター・レインの娘だったとは。 「こっちもびっくりよ。てっきり、知ってるもんだとばっかり」 「だけど、まあ……これで色々解ったわ」 国宝とまで言われた人形技師、マスター・レインの元に居る人形であれば納得もできるし、パトロンとしても充分な存在。 そして、そんな関係者が後ろ盾と知ったら、逃げるわけにもいかない。 「……いいわ。アンタたちを手伝う」 「ホントっ!?やったぁ!」 相当嬉しかったらしく、ワカバはベルの腕をとってブンブン振り回す。 「ほらほら、暴れないの」 これだけ喜ばせておいて、『……実はまだ問題がある』とは言い出せない。 「(――まぁ、トニーノにはうまいこと言って……)」 やる気にさえすれば、アタシなんかよりずっといい助っ人になる。 アイツだって、昔の自分に少しぐらい胸を張りたいだろうし。 「……さぁ、おまけはここまで。暗くなる前に、本題へと入りなさいな」 アタシはパンと手を叩いて、ふたりを見る。 「……あ、あう……」 「そ、それじゃ、ワタシから……」 「あ、いいよー。ベルより先に私の方が……」 「ううん。順番からすれば、今度はワタシで……」 「(――やれやれ……)」 こんなことでは、本当に夜が来てしまう。 「ほら、ふたりとも。明日もあるし、待たせている相手も……」 アタシの背中が、イヤな汗をかく。忘れるつもりはなかったのに、しっかり記憶から抜けていた。 「(――トニーノ、ごめん!)」 別にアイツは怒ったりしない。ほんのちょっと眉間にシワを寄せるだけで、許してくれる。 ……でも、それが本当に心苦しくて。 「ごめん!アタシ、用事があった!あとはふたりで!」 アタシは席を立ち、伝票をかっさらってレジに向かう。 「あ、それは私のおごりって言ったのに……」 「い、いいの!」 席に戻るヒマも惜しみ、アタシはトニーノのところへ。できれば、下手な言い訳なしで正直に謝りたいけど―― 「(――アタシ、謝るのだけは苦手なんだよなぁ……)」 ……これだけは、いまも昔も変わりないところが哀しい。 「あい。これ、だーれ、だー」 「うーん。どんどん難しくなるなぁ」 ココは後ろ手のポーズで、頷きながら歩き回るばかり。その姿は、さっきの『警察官』と大差ないジェスチャーだ。 「散歩するおじいさん、とか?」 「はず、れー」 「……散歩するおばあさん、か?」 「ぶ、ぶー。ちがい、ます」 さすがに、性別入れ替えただけじゃダメか。 「もう少しヒントをくれないか?判りやすいのを」 「いい、よー」 何がそんなに嬉しいのか、ココは背伸びの万歳をしたあと、 「アメ、あげ、よーう」 と言いながら、スカートをゴシゴシ。その手をこちらに伸ばして、大きな口を開けている。 「……それが、ヒントか」 「あい」 「…………アメをくれるおじいさん」 俺の想像力なんて、こんなもの。 「うーん。ちょっ、と、アタ、りー」 きっと、当たっているのは『アメをくれる』のところだけ。 こんなクイズ、保護者のセロか……いつも一緒に居るらしいライトでもなければ分かりっこない。 「あと少し、ヒントくれるかな?」 「うーん。ぎんこうの、ひとー」 「(――なんか、それはヒントってより……)」 それって、そのものズバリじゃないだろうか? ……いや、ここで安心して『銀行員』とか答えたらハズレだ。 「……答えは、『アメをくれる銀行員』だろ?」 「うーん。もう、ちょっ、とー」 「まだダメなのか!?」 これで当たらないとなると、他に何が―― 「あー、ヴィーア」 「……ん?あぁ、来たか」 通りの向こうでキョロキョロしているシルヴィアは、ざっと一時間と三十分の遅刻。 相変わらずの放置っぷりだが、記録更新ってほどじゃない。おおかた、ワカバ辺りに捕まって……なんてパターンさ。 「悪いけど、迎えに行ってくれるか?」 「あーい」 走り出したココを見つけ、向こうもこちらへ駆け寄ってくる。 そして、途中でひょいっと《シュエスタ》〈人形〉を抱え上げ、バツが悪そうにこちらまで歩いてくる。 「よぉ、シルヴィア」 「…………た、ただい、ま……」 「この短距離で息切れかい?」 「なっ!?ずっと走って、きたのよ」 ココをおろして呼吸を整えるシルヴィアは、うっすらと汗をかいていた。 「だいじょう、ぶー?」 「――えぇ、ありがと。色々あって、遅れて……ごめんね」 「一服するかい?」 「ばかっ。いま吸ったら、よけいひどくなるでしょ」 キッとにらまれたので、しばらくは大人しく待つことに。 やがて大きく揺れる胸の動きも治まったころ、 「ありがと、もう平気よ」 と、回復宣言が下された。 「……で、準備の方は順調だったかい?」 「ワカバが言うには、あとは『勢いで乗り切る』だって」 元気が売りのあの子らしいコメントだ。 「そうすると俺たちは当日、客寄せと撤収ぐらいだ」 手先よりは口先の方が得意な俺としては、その方が気も楽。 あとはダラダラ、後ろから観させてもらうのがベストだろう。 「……まぁ、明日はそれでいいんだけど、さ。その先が、ね」 「(――ん、歯切れが悪いな?)」 いつもストレートな言い方を好むシルヴィアが、ごくたまに口ごもることがある。 そうやって弱気な態度を見せるときは、彼女が大きなミスをした直後か、俺に対して言い出しづらい『何か』がある場合。 今回のそれが『隠し事』か『お願い』なのかは知らないが、あまり長引かせると後々が面倒になる。 「(――いま、『その先が……』とか言ってたな)」 ここは下手に勘ぐらず、気づかないフリで話を進めるか。 「そういや、今晩の宿はいいけど。明日はどうするんだ?」 「感謝祭の晩は、もう一泊お世話してくれるらしいわ。だから、この街を出るのは明後日の朝ね」 「そうかい。飯代が浮いて助かるね。……それで、それからどうする?」 「……そ、そのことなんだけどさ」 シルヴィアは視線を俺の足下へと移し、そこからズズィっと頭の天辺まで値踏みするかのように眺める。 続いて横にいたココを見て、ふーっとため息をつく。 「なんだ、なんだ?俺とココを見比べたのか?」 「えーっ?そうな、のー?」 「いいえ、そうじゃなくて……」 「今日の俺がカッコ良すぎて、直視できなくなったとか?」 「ばーか。変わり映えのない、普段の見慣れたアンタだよ」 「……なんでぇ。少しはお世辞のひとつでも言ってくれ」 言われたら言われたで、こっちが心配するだけなんだけどな。 「……だったら、ひとつ……頼まれてくれないかな?」 俺に対して『あれやんな、これやんな』の命令口調が基本のくせに、消えそうな声で『お願い』とは。 これは用心してかからないと、あとで痛い目を見そうだ。 「なんだ、頼みって」 「アタシと一緒に、ワカバたちの手伝いをしてほしいんだ」 「……手伝いって、いましてるだろ?」 「そうじゃなくて、このあと。もう少しの間だけ」 「……そりゃ構わねぇけど。感謝祭で人形劇が好評だったら、巡業でも始めるつもりかい?」 「…………当たらずとも遠からず、かな」 テキトーに茶化したつもりだったのが、まさか中途半端に当たっていたとは。 しかし、まだ試しても居ない人形劇なんか…… 「(――待てよ)」 ワカバたちを手伝う、と言われた。 あの子が白の都で忘れたと思い込んだのは、演劇の脚本とか何とか……ボウズが言っていたような。 「なぁ、シルヴィア。もしかして、もしかしすると、だ」 「――その『手伝い』ってのは、ワカバが書いているとか言う脚本が絡んでいたりするのか?」 「……えぇ。その脚本を基に、モスグルンで開かれる演劇祭に参加するそうなの」 ……あぁ、弟くんがそれっぽいことを言ってたな。 それのお手伝いってことは、当然――裏方だけじゃ済まないだろうと予想される。 「……ま、いいんじゃねーか」 ここであれこれ取り沙汰しても、野暮なだけ。 知らなかったフリで巻き込まれつつ、のらりくらりとやっていこう。 「…………引き受けてくれるの?」 「あぁ。俺がダメでも、シルヴィアは手伝うつもりなんだろ?」 「う、うん」 「だったら、俺がとやかく言うつもりはないさ。それに――」 「ワカバが何かするってんなら、保護者はひとりでも多い方がいいんじゃねーのか?」 「……あははっ。それはそうかも」 シルヴィアは小さく笑い、不思議そうに見上げていたココに、 「また、よろしくね」 と告げる。 「あい、あい」 こうして今後の方針もまとまり、俺たちは引き続いてココのお守りをすることになる。 ……が、その前に。疑問をひとつ解決させておきたい。 「……なぁ、ココ。さっきの『アメの人』って、正解は?」 「こた、えー。ダーイー」 「え?それって?」 「ぎんこうの、ひ、とー」 ……まったくもって、謎は深まるばかりだった。 「……おいしかったね、出してもらった晩ご飯」 「あい、あい」 今日のボクは、ひさしぶりにセロと一緒です。 泊めてもらうおウチのおばさん、とっても優しかったの。だからボク、ご飯をいっぱい、いっぱいおかわりしちゃって。 「ちゃんと歩けるかい?」 「へい、きー、かな?」 おなか、ちょっとだけ重いです。たぷたぷ。 「どこ、いく、のー?」 「うん。シルヴィアさんと待ち合わせ。ココのことで、お話があるって言われたんだ」 「ボ〜ク?」 なんだろう?ボク、セロの居ないとき、いい子にしてたよ?……あれ、してたっけ? 「あ、セーロー?」 「ん、なんだい?」 「あした、なにする、のー?」 お昼から晩ご飯までの間、ボク、シルヴィアと一緒でした。 「『みんな、明日の練習で忙しいからアタシが面倒見るわ』」 だからボク、明日のこと知りません。 「うーん。それは、明日のお楽しみ」 「あい、あい」 セロが『お楽しみ』って言うときは、ワクワクします。でもでも、なんだろう?気になる、ねー。 「あー、ヴィーア。きた、よー」 「本当だ」 向こうの方から、シルヴィアがのんびり歩いてきます。カツカツ、って感じじゃないよね。 「悪いわね、セロ。お疲れのところ、呼び出しちゃったりして」 「……いえ。あ、そうだ。今回は、ありがとうございました」 「ん?あぁ、車のことだったら気にしないで。観光ついでと思えば安いもんよ。それに……」 あれれ?シルヴィアが、ボクを見てます。じーっ。 「ちょっと、ココのことでセロから恨まれるかもしれないし」 「……え?」 「先に謝っておくわ。ごめん!ホント、ごめんなさい!」 「な、何のことでしょうか?」 うんうん。ボクも分かりません。 「あのね。かいつまんで話すと――」 あ、シルヴィアが、ボクの手にフローラを乗せようとした話。 泥だらけの手袋だと、ドレスが汚れちゃうからダメって。知ってます、知ってます。 「……で、ココの手袋を?」 「そうなの。むずがられても、それほど重要じゃないと思って、ぱぱーっと外しちゃったの」 「そう、そう。ぱ、ぱー」 ボクとシルヴィアがコクコクすると、セロも同じで頷きます。もしかして、セロにまねっこされた? 「……ココが『ダメ』というので、僕も手袋を交換するときは片方ずつでした。でも、実際にふたつ一緒に外すと?」 「外しただけでは問題ないの。この子が素手になった状態で、こうやってお祈りをするみたいに両手を組む」 「――そうするとね。両手の甲に互いの指先が直に触れて、特別な能力が発揮される……ってか、されちゃったのよ」 「そうな、のー?」 ボクもまねっこしてみたけど、何も起こりません。……まねだから、ダメ? 「いまは、手袋してるから作動しないのよ」 「そうな、のー」 でもでも。手袋、外しちゃダメなんだよ、ねー。 「……それで、どんな能力が?」 「甦るのよ。ココの中に眠る古い記憶が」 「ココの古い記憶?」 セロがまんまるの目でボクを見ます。にらめっこー? 「――いい?順を追って話すわね」 「胸の瓶に詰められた《 ドロップ》〈人形〉石のタイプと特徴から見ると、ココはちょうど最盛期に生み出された《シスター》〈人形〉だと考えられるの」 「――だけどその当時、『命の源』である《 ドロップ》〈人形〉石を身体の外部に持たせるなんて構造を試した技師は、記録にないのよ」 「それに技師も様式美へのこだわりが強く、いかにして人間と見間違えんばかりの《シスター》〈人形〉を造れるか?……と、苦心していた時代だから、ココの存在には少し疑問が残るんだけどね」 難しいことをいっぱい話したシルヴィアが、ボクを見ます。 「まぁ、最盛期は人形技術そのものが珍重され、門外不出的な色合いも強かったから、あえて残さなかったのかもしれない」 「ココは、何か秘密の研究で……とかですか?」 「その線もありそう。ただし、当時でもこれだけ動ける《シスター》〈人形〉を一体造り出すのに相当な費用がかかったから、お金持ちか、技師自身の道楽でもなければ、実現できなかったと思うの」 「おかねも、ちー?」 「そう。でも、お金だけじゃない。人形技術が低下しつつあるこの時代で、『アンタみたいな人形を造れ』って言われたら、特級人形技師か……それこそ、マスター・レインが必要ね」 「その、シルヴィアさんの言うレインさんって……」 レイン?じーじのことだよ、ねー。 「えぇ。アンタたちがお世話になってるレイン・ヘルマー氏。関係については、クロムの宿で聴かせてもらったわよ」 「隠すつもりはなかったんですが、言い出すタイミングがなくて」 「……あぁ、気にしないで。でも、まさかアンタたちの《バック》〈後ろ〉にマスター・レインが居たとはね。恐れ入ったわ」 シルヴィアが、自分のおでこをペチペチしてます。もしかして……たたくの、すき? 「え、へへー。ぺち、ぺち」 「…………アンタ、なんでアタシのお尻を叩くの?」 「とどかないか、らー?」 手を伸ばしたら、そこまででした。 「わっかんない子ね。……で。アタシ、どこまで話したっけ?」 「えっと、ココを造るとしたら――みたいなところですか?」 あれ?ふたりとも、考え込んでます。 「何かズレたわね。……とにかく説明したかったのは、ココが『自分の記憶を調整する機能を持っている』ってこと」 「アタシたち人間は忘れたい出来事があったとしても、それを自分の意志でどうこうできない」 「――逆に『忘れたい』と思えば思うほど、強く憶えてしまう」 「だけどココには、それがいま説明した方法で可能だったの」 シルヴィア、またお祈りしてます。 「……ちょっと待ってください。確かシルヴィアさん、さっき『古い記憶が甦る』って言ってませんでしたか?」 「えぇ、そうよ。ココ自身が『忘れたい』と思ってこの動作をすれば、それに関する記憶を消せる」 「――そして、何かの拍子に《 ・ ・》〈また〉こうすることで、それは夢のように甦るようなの」 「……ココ、本当なのかい?」 「さーぁ?」 よくわかんないけど、ボクが手袋を外したり、お祈りしたりするお話みたい。 「いまのココに尋ねても無駄よ。思い出したことのほとんどは、アタシが手を外させたあとに忘れちゃってるから」 「……でしょ?」 「うーん?なに、がー?」 ボク、今度はシルヴィアとにらめっこ? 「……あの、シルヴィアさん。それで、ココは一体……何を思い出したんですか?」 「…………セロ。アンタ、『デュア』って知ってるわよね?」 ――デュア? 「デュアって、白の国の英雄の……?」 「そうよ。そのデュアを……ココが『知ってる』みたいなの」 「あい、あい」 ボク、知ってます。デュアって、すごいんだ、よー。 「……デュアを?」 セロのおめめ、まんまる!すごい?ボクも、すごいの? 「えへん」 「……それは、昔話とか、絵本の中とかのデュアじゃなくて?」 「えほ、んー?しって、るー」 デュア、とっても、つよいです。 「リュウ、と、たたかうんだよ、ねー?」 「へっ?リュウ?」 「……あい。あれ、れ?たたかわ、ない、の?」 どっちだっけ?デュアは、騎士なんだよね?絵本の騎士は、リュウと、戦うよね? でも、デュアは絵本の騎士じゃないから、リュウとは―― 「シルヴィアさん。ココが知っているデュアは、どうも絵本に登場する英雄みたいですけど……」 「ちがう、のー」 「……うん?」 うまく言えないけど、ボクね、デュア知ってるの。ボクの知ってるデュアは、リュウと戦いません。だけど、デュアは騎士で、かっこよくて―― 「うーん、うーん」 何でだろう?ボク、デュア知ってるのに、知らないみたい。 「……セロ、アタシから話をふっといて何だけど。明日もあるから、今日はこの辺にしておかない?」 「は、はい」 「アタシがセロに知って欲しかったのは、アンタが居ない間にそういったことが起こったという事実」 「――そして、それを知った上で、『今後どうするのか?』っていう方針を決めてもらいたかったの」 「…………」 セロが、ボクとシルヴィアを交互に見ます。 「このまま特に何もしないなら、それで。もしもアタシの力が必要だっていうなら、どんな形にしろ……協力は惜しまない」 「……それは……?」 「古い記憶を取り戻させる。逆に、そういったことが起きないような調律を施したり、メンテを加えることもできるってこと」 「ただ、ひとつ注文付けさせてもらうとすれば――」 「……この子と、しっかり話してから決めてほしいかな」 ボクの頭をシルヴィアがなでなでします。 「セロの場合、ココの所有者ってよりは……お兄さんだから、きっちり相談に乗ってあげてよ」 「…………はい」 セロって、おにーさん? 「(――うーん?)」 セロって、ボクのおにーさんだっけ?ボク、セロが小さいころ知ってます。初めて会ったとき、セロはボクより小さくて―― 「(――ボク、おねーさんだったよね?)」 「(――あたし、ちゃんと弾けるかしら?)」 昨日の練習で借りたピアノは、孤児院にあったモノに近く、違和感なく使えた。 しかし、今日の本番で使えるのは…… 「ピアノじゃなくて、リードオルガンだったのね」 考えてみれば、屋外で子どもたち相手に見せる人形劇。 柔らかい音を出すリードオルガンの方が、打弦のピアノより向いている。 「どうかしましたか?」 「……ううん、何でもないの」 あたしは椅子に腰掛けてペダルを交互に踏みつつ、昨日練習した曲を弾いてみる。 「(――なんとかなりそうね)」 リードオルガンは、ふいごを動かさなければ音が鳴らない。 緊張のあまりこのペダルを踏み忘れたら、思い切り出遅れてしまう。 「ベルの方は、のどの調子……どう?」 「はい。声はちゃんと出ると思います」 ベルは昨日の練習で、ライトを観客代わりに数曲を披露した。 「『……すげぇ!ファーちゃん、うまいじゃん!』」 「『……あ、ありがとう……』」 唄といっても、メロディーに合わせて歌うシーンは少なく、ベルが語るのに合わせてあたしが短い伴奏を入れる、という構成がほとんど。 だから、《 ベル》〈本人〉としてはあまり歌っている気がしないらしい。 「(――逆に、それがいいのかしら?)」 本番も変に気負いせず、伸び伸びと歌ってほしい。 そしてあたしは、それに合わせて曲を奏でる。 ……決して、すれ違わないように。 「(――これがふたりにとって、初めての本番ね)」 モスグルンでの演劇を前にした予行演習……ともいえる。 練習時間は半日もなかったけど、ふたりのリズムはそこそこ合っていた。 あとは、向こうのペアとうまく連携がとれるように心がけるだけだ。 「ワカバ。そっちはどう?」 「えーっ、なーに?」 人形劇の台の向こう側から、ワカバの頭が覗く。 「いま、セロと最後のチェックをしてるの」 今回大変なのは、劇担当のワカバたち。 舞台下で台本を見ることができるから、台詞は丸暗記せずに済む。 ……が、台詞と同時に『パペット』を操らなくてはならない。 「いい、セロ?もし途中でトチっても、慌てず、騒がず、何事もなかったかのように進めるのよ」 「大切なのは『勢い』なの。緊急のときは、アドリブで回避!わかった?」 「う、うん」 ……ワカバらしい、というべきか。セロの方は、半笑いで頷くのが精一杯の様子なのに。 「あの……うちの子たち、おとなしくしてますか?」 「えぇ、バスケットで寝てるわ。あとは本番に期待ね!」 ベルの目覚まし人形たち、フローラ、チョコ、クエイク。 「『ねぇねぇ、ベル。あなたのお友達って……舞台に立てる?』」 「『……あの子たちが舞台にあがっても、ほとんど見えないと思うんですが』」 「『……演劇祭じゃないわよ?今回の人形劇の話』」 台の下でふたりが操れるパペットは、それぞれの両手で最大4体まで。 ……といっても、こなせるようになるほど練習時間はないと判断したワカバは、ベルを頼った。 「『――お話の流れをワタシが聞かせてあげたあとに、何度か練習すればできるとは思います』」 「『……ただ、あの子たちの格好は個性が強いので、今回の劇に合うかどうか……』」 「『そこはぬかりなし!私、お話を書き直しちゃったから』」 「(――さすが、ワカバって感じだわ)」 短時間で元の台本をいじれるのもすごいが、それ以上に――交渉前から書き直してる辺りが彼女らしい。 「……大したもんよね」 「んー、なぁに?」 「……色々な意味で」 今回の人形劇の台本を見る限り、舞台劇の方もワカバになら任せられる……ような、られないような。 不安はぬぐえないが、それ以上に何かを期待させてくれる。 そんな気にさせてくれる脚本家であることは間違いない。 「最後にもう一度流れを合わせて、本番に挑みましょう」 あたしは出だしの伴奏を入れ、みんなに合図を送る。 「いいわ!ライトっ、アンたちの足引っ張らないようにね」 「ねーちゃんこそ、セロにーちゃんに迷惑かけんなよ」 みんなの笑顔を原動力に、きっとうまく上演できる。あたしは鍵盤に両手を置き、深呼吸をした。 「(――さぁ、いくわよ)」 「……太陽が黄色いわ」 「うん。そんな感じだね」 しゃがんだ体勢から見上げる朝日は、とても高くて。少しふらつきながらも、ふたりは立ち上がって腰を伸ばす。 「徹夜ってわけじゃないけど、すごく眠いのよね……」 「同じく」 昨日のお昼から夕方まで。人形劇の練習をすれぱするほど、本番で失敗しそうな不安が増すばかり。 かといって、このまま夜通しでがんばっても、今度は当日の体力が心配になる。 「『明日の朝早く起きて、練習しようか』」 「『……それよ!セロも、たまにはいいこと言うわね!明日の4時に、セロが泊まってる家に行くわ』」 「『え、まだ暗いと思うけど……』」 「『なに言ってるの?4時って言ったら、もう立派な朝よ。それに、台本を読める灯りがあればいいんじゃない?』」 ……そんなこんなで4時きっかりに、ワカバは眠そうに目をこするライトを連れてやってきた。 「『……うぅ、ねみぃよぉ。なんでオレまで起こされて……』」 「『ごめんねー、ライト。あんたには、ココを頼みたいの』」 気を利かせてくれたワカバであっても、いきなり 「『それなら、オレとココで泊めてもらえば良かったんだよー』」 「『ばっ、ばかね!そうしたら、私とセロがひとつ屋根の下になっちゃうでしょ?』」 ……これまで、宿はずっと同じ屋根の下だった気もするが。 「『とにかく、頼んだからね』」 こうしてふたりは暗がりに練習を始め、太陽が昇り始めてもそのまま続行し―― その結果、数カ所の難関をクリア。見事最後まで『通し』で終わらせることに成功したのだった。 「あとふぁぁー」 「なんだぁぁぁーあい?」 ココが居たら、『ネムネムさん?』とか訊かれそうなぐらい大きなあくびをしつつ、お互いを笑う。 「……あとは、本番を残すのみね」 「そうだねぇ」 「私たち、しっかりできるかしら?」 普段は自信の塊みたいなワカバが、珍しく弱気なことを言う。 自分もつい釣られ、『どうだろう?』とか応えそうになるが、ふたりして不安な顔をしても始まらない。 「平気さ。いまだってうまくできたし。もしも本番中に台詞を忘れることがあっても、コレを見れば何とかなるよ」 舞台劇と違って、台に隠れてパペットを操る僕たちには強い味方ともいえる『台本』がある。 もちろん、あまり頼ってしまうと手がおろそかになるので、多用は禁物だ。 「読みづらい台詞があったら、それとなく言い換えちゃってね」 「うん。だけど、大丈夫じゃないかな?もう何カ所も修正入れてもらったから」 「……そう?だったらいいけど……」 ため息をつくワカバには、どことなく自信が感じられない。 「ほらほら。言い出したらキリがないからさ」 「分かってる。……だけど、この人形劇では考えさせられることが多くて」 「……ん?たとえば?」 「今回のこの台本、私が手直し入れたじゃない?」 感謝祭のために用意されていた劇の台本は、もっとたくさん人形が出てくるものだった。 しかし、それをそのまま上演するには人数が足りないため、ワカバが大幅にアレンジしている。 「ストーリーに合わせて、私が書き直した台詞があるでしょ。それを自分で口にしてみて、初めて気づいたの。思ったより読みづらいモノが多いんだなーって」 「――アンに何回か、『この台詞、こうしたいんだけど』って言われたとき、『ここはこれでいいのよ!』みたいに自分の意見を押し通しちゃって、ダメだなーとか」 「……人形劇の台本ですらこれだけ苦戦した自分に、舞台劇の脚本なんて書けるのかな?……とか」 「仮に台本ができて上演までこぎ着けても、私が選んだ題材が題材だけに、参加してくれたみんなに迷惑がかかったり……」 「考えすぎだって」 僕は、どんどん落ち込んでいく彼女にストップをかける。 「……そりゃ、台詞だってワカバの書いた言葉が絶対ってこともないさ」 「でも、最初にワカバが書かなきゃ、それがいいか悪いかも判らないよね?」 「それは、そうだけど……」 「今回の人形劇で苦労した部分は、つぎの舞台劇で活かせると思うし」 「ワカバが『天使の導き』みたいな有名作品に挑戦するような真似したからこそ、アンジェやベルに出会えて……いまがあるんだよ」 「……もちろん、史実に逆らう作品を快く思わない人も居るさ」 オーベルジーヌのダイニングバーでトマトを投げつけてきた、あの酔っぱらいおじさんのように。 「だけど、ワカバの考えた物語を認める人だって居る」 「…………本当に居ると思う?」 「少なくとも、僕が居るさ」 「……セロ……」 思わず言い切った僕をまっすぐに見つめ返してくるワカバ。 「ベルが言ってた通り。どんなことがあっても、セロだけは私の味方で居てくれる……って」 「(――ベ、ベルが?い、いつ?)」 僕の知らないところで、自分のことを言われていた?そう思うと、急に背筋がむずがゆくなってきた。 「もちろん、僕だけじゃない。きっと、一緒に旅をしているみんなもそうさ」 「レインさんだって、ワカバに期待するからこそ……出資してくれたはずだ」 「――だから自信をもって。僕にできることなら、いくらでも協力するから」 「…………あ、ありがとう。私ね、セロが居てくれたから……ここまでがんばれたと思う」 「……も、もちろん、セロだけじゃないわ。他のみんなも居たからこそ」 僕の発言に似たような言葉でフォローを入れた彼女は、一息ついてから、 「――期待を忘れないように、がんばるわ」 と笑ってくれた。 「(――よかった)」 やっぱり、明るい表情のワカバが一番だ。 「……ってことで、これからも協力してねっ!」 「もちろん」 「何てったって、歴史的な考証はセロの担当なんだから!」 確かにその通り。 僕には僕の『得意とする役割』があって、ワカバのためにもがんばろう。 そう言う意味では、次に訪れる『赤の都』が重要ポイントとなる。 少しでも文献を調べ、その当時の情報を手に入れる。 「(――でも、その前に……)」 ……まずは、この人形劇でワカバの期待に応えなければ。 「おーい、ココ。どこだー?」 もうすぐ、ねーちゃんたちの人形劇が始まるってのに。 この会場に来るまでも、ココはお店を見かけるたびに何度も立ち止まってなかなか動こうとしなかった。 だから、また何処かで引っかかってるかもしれないのだ。 「ココー。居たら返事しろー」 「ラーイー、ここー」 「……お、居た居た!どこに行ってたんだ?」 向こうから走ってきたココは、さらにその先を指差し、 「あっ、ちー」 と答える。 「迷子になるから、あんまり遠くに行っちゃダメだぜ?」 「あい」 ……返事だけはいいんだよなぁ、ココも。 「さぁ、そろそろ人形劇が始まるからな。ココは、そっちの観客席の方に」 「どんな、げ、きー?」 ココには当日のお楽しみということで、まだ何の劇をするか知らせてなかった。 でも、あと少しで劇は始まるし、タイトルだけなら配られたチラシに書いてあるから……教えてもいいよな? 「今日の劇は、ココも知ってる『怪傑ネコ王子』だぞ」 「おー!ネコおーじ、す、きー」 オレもオレも……と言いたかったが、あんまりはしゃぐと子どもっぽいから咳払いで自重。 やっばり、年相応――大人っぽく振る舞わないとな。 「へへん。ココは、ネコ王子に詳しいかなー?」 「うーん。ひげー?」 ほっぺたをペタペタ触ったココは、他に思いつかないらしく首を横に振る。 「ふっふっふ。じゃ、いいこと教えてやるよ」 「――ネコ王子の本名は、ガスパ……ガスパーぁフレ……」 なかなか思い出せない。 「ガス、パー?」 「ガ、ガス……う、うーん。ガスパー・フレスコバーァとか、そんな感じの名前らしいぜ!」 確か、そんな感じだった。 「ガス、パー、フレ、スコバー」 「おっ、それっぽく言えるじゃん」 いつもなら名前が中途半端で、うちのねーちゃんみたいに、『カバー』とか呼んじゃうのに。 「その人は、『私はガスパーではありません!』……で有名な人なんだ」 「どうし、てー?」 「うんと……まぁ、なんだな。あとはセロにーちゃんに聞いてくれよ。オレの先生みたいなもんだから」 あんまりいい加減なことを教えちゃうと、ねーちゃんとかに叱られちまうし。 「だけど、セロにーちゃんって物知りだよな。昔のことなら、何でも知ってるって感じで」 「うん、うん」 ココはセロにーちゃんが褒められて嬉しいらしく、両手をバタバタさせている。 俺は長時間本を読んだりとかできないから、セロにーちゃんみたいに調べ物とか得意な人はすごいと思う。 「本当なら、知らないはずのことをいっぱい知ってるんだよな」 「しらない、のに、しって、る、のー?」 「だって、そうだろ?教科書にも載ってないようなことは、普通の人は知らないだろ?」 「うん」 「でも、セロにーちゃんは本で調べて、知っちゃうんだぜ」 俺だったら、面倒だから……誰かに訊いちゃうのに。そこを自力で調べるってところが、尊敬できる! 「ねー、ラーイー」 「ん?なんだ、その威張りっ子ポーズは?」 「えへへー。ボ〜クも、しらない、のに、しって、る、よー」 「なにを?ナゾナゾか?」 「えっ、とー。なんだっ、けー?」 ココは腕組みで何度も首をひねり、身体を左右に揺らす。 「わすれちゃっ、たー。で、もー、しって、るー」 「んんん?なんだ、そりゃ?」 「あれれ?あの、ね。うーん、と……」 考えに考え込むココを見ていると、こっちもだんだんのどの辺りがかゆくなってくる。 「あー、よし。人形劇が終わってからにしよう!なっ?」 「あい」 俺はココの頭をなでてから、アンジェリナとベルのところへ向かう。 今日は、セロにーちゃんやねーちゃんの手伝いじゃない。 唄を歌うベルと、伴奏をするアンジェリナと一緒に、音楽を担当するんだ。 「(――よーし、派手に鳴らすぞー!)」 あ、でも……あんまり目立っちゃいけないんだよな。 子どもたちが集まり、開演の時間になる。スタートを切るのは、アンジェリナの役目。 彼女がリードオルガンを鳴らせば、それが合図となって……みんなが動き始める。 「……いいわね?」 アンジェリナがささやき、ワタシとライトが頷く。台の裏で身を潜めるワカバたちは、ワタシのナレーションに続くことになっている。 「(――始まったわ……)」 アンジェリナが奏でる優しい音色でリズムをとり、ワタシは観客たちに向かって両手を広げる。 「……むかしむかし、あるところに、『ガスパロ』という名の王子様がおりました」 「ガスパロは三番目の王子様で、仕事は上のお兄さんふたりに任せっきり」 「朝は中庭で、兵士相手に追いかけっこ」 「昼はこっそりお城を抜け出して、街で遊び……」 「夜は舞踏会で、ナンパばかりをしていました」 「あははははっ」 「(――ナンパって、なにかしら?)」 ワカバの台本には、ときどき解らない単語が入っている。 「当然、王子は王様やお兄さんたちに叱られて、そのときは反省するのですが――」 「また次の日には、同じようなことをしていたのです」 「『……さぁて、今日は誰と遊ぼうかなー?』」 「――そして、とうとう優しかった王様はとっても、とっても怒ってしまい……」 「ガスパロ王子をお城の外へ追い出してしまったのです」 「『うそーん!』」 「あははははっ」 「……王子はしばらく門の前で呆然としましたが――」 「『よーし、二度とこの城には戻らないからなー!』」 「そう言って、国からも飛び出してしまったのです」 解説が終わると同時に、ライトがタンバリンを鳴らす。 「それから1年が経ち――」 人形劇の舞台に、王子がはい上がるように登場したところで、バトンはセロたちに渡される。 「帰ってきたぞ、わがハウス!たどりつくまで1年ちょっと」 「長い旅も今日でおしまい。明日からは、明日からは……」 「おいしいモノをいーっぱい食べるんだー!」 「……あー、そこの門番よ。ちょっと通してもらおうか」 「入城証をお見せください」 「なにかね、それは?」 「門を通ることを許された者が持つ証明書のことですよ」 「……それぐらいは分かっているよ。僕はお城の者だからね。当然、キミは僕を知ってるだろう?」 「いいえ、存じませんが」 「この顔に見覚えがないとは言わないよね?」 ガスパロ王子が、ぐいっと門番に顔を近づける。 「……さぁ?」 「うぅぅ。ちょっぴり変装してるけど、僕は……」 「……もしや、ガスパロ王子ですか?」 「あははっ、なぁーんだ、ちゃんと分かってるじゃ……」 「私は、『万が一、ガスパロ王子が戻っても城に入れるな』と言われております」 「…………」 「どうされました?」 「えっと、僕はガスパロ……ではありません」 「そ、そうでしたか」 「だから、通してください」 「では、通行証をお見せください」 「…………ぁ」 門番の言葉に、ガスパロ王子の動きが止まった。 「どうかされましたか?」 ガスパロだと分かれば戻れず、かといってお城に入るための通行証も持ってない。 そんな王子は、どうしようもなくなって―― 「お、突然だが急用を思い出したぞ!では、さらばっ!」 「あぁ、お待ちなさーい!」 逃げ出す王子と、少し遅れて追いかける門番。 アンジェリナの伴奏が大きくなり、ワタシが唄を歌うときがきた。 鼓動は高鳴り、緊張の波が徐々に押し寄せてくる。 でも、ワカバたちが見せてくれたやりとりや、劇を楽しむ子どもたちの声が和らげてくれるから。 「(――それに……)」 リードオルガンを弾くアンジェリナが、ちらちらとワタシに視線を投げかける。 その瞳が、無言で語りかけてくるの。 「『……だいじょうぶ』」 ……と。 「(――ありがとう……)」 プレッシャーがないと言えば、嘘になる。知らない人の前で歌うのには、まだまだ抵抗もある。 それでもいま、こうして―― 「ガスパロ、ガスパロ、ガスパロ、ガスパロ、走って逃げた。……どうして、どうして、どうして、どうして、ガスパロ逃げーる?」 ワタシがネコ王子の唄を歌えるのは、みんなのおかげ。アンジェリナやワカバ、セロやライトだけではなくて。 「(――いまは、もっと多くの……)」 観客席で楽しそうにしている子どもたちの笑顔も、ワタシの唄の原動力になっている。 「追われて、追われて、追われて、追われて、森のおくー。……前から、前から、前から、前から、クマさん現れたー」 「がおーっ!」 「ぎゃー!ぼ、僕は、おいしくありませーん!」 「が、おーっ」 「(――うふふっ。あの声は……)」 きっと、ココのまねっこに違いないわ。 「(――悪くない反応ね)」 裏でパペットを操る私たちからは見えないけど、ときおり起こる笑いからしてまずまずの出来。 ネコ王子はお城から森のクマから命からがら逃げて、さらに湖のほとりまでやってくる。 そして、そこで湖の精霊に出会うシーンとなるのだ。 「(――ここからが大幅改造したストーリーなんだから)」 私は大きく息を吸い込んで、セロを見る。 「……いくわよ?」 「……うん!」 セロはそのままで、私がクマを精霊に持ち替え、ほんの少し高い声で精霊役に変身! 「風で飛んでしまった帽子を拾ってくださって、ありがとう」 「なんの!ちょうど僕の目の前に落ちてきただけのことー。お礼なんていりません」 自分から『お礼』という単語を持ち出す辺り、元の台本にある王子の性格そのまま。 「そうでしたか。だとしても、何かお礼をさせてください」 「いやいや、そんなモノは要りません。ところで、あなたはこんな場所で何を?」 「私はこれからここを通るお姫様に、『祝福の魔法』をかけるため待機してました。もしよろしければ、あなたにも……」 「なんと、お城に嫁ぐ姫が!?では、その者たちについていけば……」 ここで王子が、精霊に頼み込む。 「祝福の魔法は要りません。その代わり、この僕をその姫の従者のひとりにしてください」 「どうして私に頼むのですか?直接お姫様に頼めば……」 「いやいや、それはスマートじゃありません。あくまで優雅に」 「い、意味がわかりません」 「とにかく、頼みましたよー」 そう言って、王子は端っこの方へ隠れようとするが―― 「(――ち、ちょっとセットが狭いわね)」 クマと精霊を交換するときに、セロと位置を替わらなかったのが一番の失敗。 セロの腕と交差したまま劇が続くから、王子が舞台の端へと向かえば向かうほど、私の居場所がなくなってくる。 「……あ、セロ……。これ以上は無理よ」 「で、でも、もう少し奥まで……」 グイグイ押されて、尻餅をつく私。それでも劇は続けなきゃいけないから……って意識してたら、 「あ、ち、ちょっと……ダメですよ、ガスパロ王子」 なんて、台本にない台詞でネコ王子の名前を呼んじゃった! 「『……セロ、アドリブ入れて』」 「『わ、わかったよ』」 「何がダメなんですか?それに、どうして僕がガスパロだと知っているのです?」 「(――うまいわ、セロ。でも、そこから私、どう続けるの?)」 「……ねぇねぇ。どうしてですか、精霊さん?」 「そ、それは……」 王子が精霊に近づいたおかげで、私とセロの距離が空く。 「あなたが王子だということが、一目見て分かりましたから!」 「おぉ、やはりそうかー!僕は見るからに王子様。……んー、だから門番にも気づかれたのかー」 「(――ナイスよっ!)」 この先のシーンで、『だって、頭に王冠がありますから』の台詞があるのをうまく流用し、さらにアドリブを入れるセロ。 だけど、このシーンから新たに登場する存在を忘れていた。 「『……あぁっ!まずいわ』」 「『な、なにが?』」 それは、お姫様とその従者たる――ベルの目覚まし人形たち。 あの子たちにアドリブは、無理!……っていうより、もう舞台に上がってるじゃない! 「と、とにかく!お姫様たちが来てしまいますので、王子は隠れて!」 「は、はいっ!」 隠れる、イコール、さっきと同じ展開……って、私、バカ! 「だ、だから、はなれて……ください、王子!」 離れてほしいのは、舞台の上も下も一緒。 「で、でも……そうすると……」 舞台優先でパペットが離れれば、下はどんどん近づいて。 「(――あわわっ、セ、セロの顔が……)」 「『……ご、ごめんよワカバ。苦しいだろうけど、我慢して……』」 「『あ、う、うん。で、でも……それ以上に……』」 セロの顔がすぐ近くにあって、頭の中が真っ白になりかかる。 意識しないよう、しないよう……って考えるほど、ドキドキしてしまい言葉に詰まる。 「(――あ、なんだろう。どうすればいいんだろう、私)」 このままでも幸せで、悪くないかな……って!私だけ時間止めてどーするのよ! 「と、とにかくお姫様が……」 私は彼から視線をそらし、何とか落ち着こうとして台の上を見上げれば―― 「……なにしてますか?ふたり、なにしてますか?」 フローラ姫に、ジーッと見られてるじゃないの! 「『……あわわわっ、こ、これは違うの。ただの事故で……』」 こんな言い訳されても、困るのは向こうの方で。 姫はおろか、私のパペットまでこっち向きで、劇がストップしかかっている。 「(――はぅ!私が失敗じゃ、シャレにならないのにぃ!)」 ――そのとき。 「……さぁ、たいへん!ガスパロ王子は、お姫様がそっぽを向いているうちに隠れることができるのかしら?」 突然、そんな声が観客席へと向けて発せられたのだ。 「『……アン!』」 それは伴奏のアンジェリナから送られた、まさかのアドリブ。そして、さらには…… ――ドン、ジャカジャカジャカジャーン! クエイクが太鼓を叩いて……子ども達の注目を集めてくれた? 「『よし!ワカバ、いまのうちだ!』」 「はやく、はやく」 フローラにせき立てられ、入れ違いの体勢を立て直す。 「あぁ、お姫様!もういらしていたのですね!」 私たちは何とか正位置に戻り、劇を続行。 「(――こりゃ、あとでお礼しないとね……)」 ヒヤヒヤだけど、なぜか笑みがこぼれてしまう。 「(――ほら、気を引き締めて!)」 まだ劇は続くんだから! 「(――ねーちゃん、危なっかしかったなぁ……)」 さっきの湖のシーンでは、すっごくドキドキさせられた。 もう少し動き出すのが遅かったら、観客のみんなはザワザワしたんだろうな。 「(――だけどまぁ、無事に切り抜けたみたいだし)」 タンバリンの出番は残すところフィナーレのみで、あとはゆっくり人形劇を見られる。 何とかしてお姫様の仲間に混ぜてもらおうと、ネコ王子は精霊を通じてお願いしたんだけど……ダメで。 仕方なくお姫様たちのあとをついていくと、黒い猫人形――チョコがお供に加わり、ネコ王子が涙するシーンもあり。 アンジェリナがお城までの行進曲を弾いて、ファーちゃんがそれに合わせて唄を歌う。 結構有名な曲だから、子どもたちも一緒に歌い……とうとう門の前までやってきた。 「(――ここから先は、オレも知らないんだよなー)」 ……昨日の夕方、また台本に手を加えたらしいし。 「これはこれは、お姫様。よくいらっしゃいました」 フローラに挨拶をするのは、ねーちゃんが操る門番パペット。 借りモノのはずなのに、ねーちゃんそっくりなんだよなー。 「……ところで、もうひとり誰かの気配が……?」 「……はっ!」 ネコ王子は柱の影から覗いてたけど、すごく頭がはみ出して門番に勘づかれちゃった。 「ニャニャニャー?」 「しっ、しっ!」 おまけにチョコにまで見つけられ、追い払おうとするけど、太刀打ちできず追いかけ回されて……みんなの前へ。 もう開き直った王子は、 「いいじゃないか、ひとりぐらい従者が増えたってー!」 とか言い出しちゃうし。 「……ダメだと思いますよ」 「どうしてさ?僕をガスパロではなく、このお姫様の従者のつもりでササッと入れてください」 「……これでも門番。そこまでいい加減な仕事はできません」 「うぅぅ、ケチ。……じゃあ、お姫様!僕をほんの30秒、家来にしてみませんか?」 「キライです、あなた!あなた、キライです!」 「あぁぁ、ストレートに言われたぁ!ヘ、ヘン!僕だって、あなたみたいなおチビさん、嫌いですよ!」 「しつれいです、あなた。あなた、しつれいです!」 フローラ姫、プンプン!そして、右手に持った剣を掲げ、 「タイジします、オウジ!オウジ、タイジします!」 「ニャーニャー、ニャーニャ!」 お供のみんなと一緒に、ネコ王子に宣戦布告をした。 「(――すげぇ!ファーちゃんのお友達、大活躍じゃん!)」 ……っていうか。ヒゲのクエイクが持ってる、それ……なに? 「いやいや、待ちましょう、お姫様。暴力はいけませんよ、暴力は。ねっ?ねっ?」 そうは言っても、お姫様はやる気まんまん。 「……むむっ」 ネコ王子はキョロキョロし周りを見たあと、勝てると思ったのか、ファイティングボーズをとってみたりする。 「まけません、わたくし。わたくし、まけません!」 「い、いたたっ。いたいです!やっぱり、暴力反対。ねっ、門番さんも見たでしょ、いまの」 「えぇ、見ました。お姫様に手を挙げようとしましたね?」 「えぇぇー、そんなー」 4対1で焦り出すネコ王子は、突然舞台の外に向かって、 「たすけて、綺麗なおねーさん!」 と、叫ぶ。 「(――え、そっちに居るのは……)」 パペットでも人形でもなくて、アンジェリナじゃんか。…………いいの、それって!? 「……もともと、誰がいけないのかしら?」 「うぅぅ、いいよ、もう!そうだ、そこの羽根の女の子!僕をたすけてー!」 そんな呼ばれ方をするのは、ひとりしか居ない。 「…………」 ファーちゃんは、ちょっと困った顔をしたあとで、 「こういうときだけ人を頼るのは、よくないわよ?」 すっごい正論で、ダメ王子を諭した。そして、さらには…… 「じゃあ、タンバリンの男の子!ヘルプミーだよ!」 オレにまで回ってきたよ! 「……う、うーん」 こんなとき、オレは何て答えればいいんだろ? 「そ、そうだ!お城に戻れたら、いっぱい褒美をあげよう!それでどうだい?」 演技しているセロにーちゃんは好きだけど、それとこれとは話が違う。 「…………そういうのって、嫌いだな」 良くないことをしようとしているのに、手は貸せない。……それが答え。 「あぁぁぁ。じ、じゃあ……舞台の前の、みんなは?僕を助けてくれるかい?」 最後の頼みとばかりに、観客席のみんなへ。 観客席に居た子どもたちが顔を見合わせると、ねーちゃんの声が台の裏から響いてきた。 「じゃあみんな!『いいよ』か『ダメー』のどちらかを……『《いち   に》〈1、2〉の、《さん》〈3〉、はい』で答えてね」 「1、2の……3、はい」 「『ダメー!』」 「ううぅぅ、そうかー。やっぱり、僕が悪いのか……」 「――よし!今日のところは反省だけして、お城に戻るのはヤメにしよう」 「しかし、しかし。僕は決して諦めないぞ!」 「いつかお城に戻れる日を夢見て、今日は……たいさーん!」 「しょうりです!せいぎ、しょうりです!」 「ニャニャー!」 「(――うわぁ、この音ってやっぱり……)」 ……クエイクの持っていた、アレの音? 「……こうしてガスパロ王子は、また旅に出ました」 「……次に戻ってくるときには、堂々とお城に戻れる人になっていてほしいですね」 「みんなも嘘をついたりせず、清く正しい人であってね」 アンジェリナの伴奏に合わせて幕が下りて、ファーちゃんが子どもたちに終わりのメッセージをプレゼント。 みんな思い思いに返事をしながら、観客席から散っていく。 オレは急いで台から顔を出したセロにーちゃんのところへと駆け寄り、さっきのことをちょっとだけ愚痴る。 「さっき、いきなり質問されたからビックリしたよー」 「……えっ?事前に『こんな感じで質問振るよ』……って、ワカバから伝言があったはずだけど」 「…………待って!それ、知らないって!アンジェリナ、知ってた!?」 「えぇ、知ってたけど」 「ファーちゃんは?」 「ワカバから聞いてたわよ」 ひどい。ひどすぎるって! 「…………ね、ねーちゃん!オレだけ知らなかったぞ!」 「……あ、あはははっ。言ったつもりだったけど、あははは」 「……なんだよぉ、『あはは』じゃねーよ」 だーっ!ぜってぇ、この貸しは返してもらうぞ! 「でも、みんなありがとうね!アンも途中、サンキュ!」 「ワカバったら、ポーッとしちゃって……見てられなかったわ」 「ん?何があったの?またオレだけ知らないの?」 「い、いいのっ!気にしない!」 そう言われると、よけい気になるんだけどなぁ。 「きになる、ねー」 「そうだよなぁ!」 ……良かった。知らないのがオレだけじゃなくて。 「いいの、気にしない!と、ところでっ!最後の効果音、誰が仕込んだの?ばきゅーん、ってヤツ」 「えっ?あの音は、ワカバじゃないの?」 「……まさか!」 ……ってことは、一体? 「あー、それアタシよ。クエイクがいい感じの持ってたから、火薬の量減らした空砲で……」 人差し指と親指を立てたシルヴィアが、片目をつぶったまま『サイン』を送る。 「(――シルヴィアって、いい人っぽいんだけど……)」 「あ、あれ?まずかった?」 ――心配の種が尽きないタイプなんだよな、ホントに。 「……おつかれさま」 「いえ。ワタシは、それほど疲れてませんよ。それよりも、アンジェリナさんの方が大変だったじゃないですか」 「……もう、律儀なんだか、固いだけなんだか」 ベルときたら、定番の言葉を大きくとらえて返す。……そんなに、かしこまらなくてもいいのに。 「どっちが大変とか関係なく、ふたりとも……おつかれさま」 「……はい」 リードオルガンには苦戦したけど、他のみんなにはきっと普通に聞こえたことだろう。 途中で間違えて隣のキーを押したとき、強引に1フレーズを弾いて誤魔化してしまった。 「そういえばアンジェリナさん。一度、間違えてましたよね?」 「……あ、気づいてたの」 「はい。練習のときにはなかったフレーズだったので」 「でも、さりげなく続けられて……すごいなぁ、って」 「まぁ、あれぐらいならね」 ベルにバレていたのと、変に褒められたのが恥ずかしくて、どう答えていいか迷ってしまう。 「ワタシだったら対処できなくて、あのときのワカバのように……動きが固まると思います」 「……あのとき?」 「人形劇の途中で、セロがワカバを端に追いやって、どうにもならなくなったときのことです」 「あぁ、あれね」 フローラが登場するシーンで、ふたりが位置取りに失敗してもがいていたことを思い出す。 あの場面は少しヒヤリとさせられたが、あたしの時間稼ぎで何とかなって本当に良かった。 「……ワタシ、失敗が怖いです」 「怖いのは誰でも同じよ。問題は、そのあとどうするかで……」 「そのあと、どうすることもできない場合は?」 「……失敗しないこと、って言いたいけど……」 それでは、何の解決にもならないから―― 「……ワタシには、この前の《 ドロップ》〈人形〉石があります」 「この前?聖歌隊のときの?」 「……はい。実は、今日の人形劇でも使ってました」 「あら、そうだったの」 「ワタシも、できれば使わずに歌いたかったんですけど……」 悪いことをした子のようにシュンとするが、あたしは別に怒るつもりもない。 「雨のクロムで話し合ったでしょ?別に、使ってもいいの」 「……だけど、アンジェリナさんには言わずにいたから……」 「いいの、いいの。そんな気にしないで」 ……そんな顔される方が、あたしには辛いから。 「それでも、やっぱり……」 「お・こ・る・わ・よ」 本当に怒っているわけではないので、軽くベルの頭をなでてあげる。 ……と。 「…………あ、あぁ……えっと……」 彼女の頬が段々と赤くなり、両手をバタバタし始めたのだ。 「……ど、どうしたの?」 「えっと、い、いえ……急に触られたので、どうしたらいいか解らなくなって……」 「あ、ごめんね」 悪いと思って手を離しても、ベルはまだ落ち着かない様子。 一瞬、『意外にかわいい反応』……などと思ってしまうも、本人にしてみれば相当ショックだったようで。 遅ればせながら、 「……あたしもよく、下の子たちに後ろから飛びつかれて、変な声を出しちゃうときがあるから……分かるわ」 などと、フォローしておくことにした。 「……それ、経験あります。村の小さい子たちも、ときどきしてくるので」 「でしょ」 「だけど、アンジェリナさんにされたのと、少し違うんです」 「……なんていうか、気恥ずかしい感じで」 白い羽根を揺らし、うつむくベル。 あたしはそれを見て、また頭をなでそうになり……つつも、何とか堪えた。 「これから、徐々に慣れていってね。劇の最中にそんな反応をされたら、お話が止まっちゃうから」 「だ、大丈夫です。集中できる《 ドロップ》〈人形〉石があれば、そんなことはありません」 「……そうは言うけど、いまそれを使っているんじゃないの?」 人形劇が終わってからずっと一緒に居るが、取り出すような姿は一度も見ていない。 「それはそうですけど……」 「本当にその《 ドロップ》〈人形〉石に、効果があるのかしら?もしかしたら、『効果がある』って信じる力が原動力だったりしない?」 「いいえ、それはありません。これを使わないと、本当に唄が歌えなくて」 そこに貴石があるのか、胸に手を当てて目を閉じるベル。 「……ずっと昔、村の子どもたちにせがまれたとき、一度だけこの《 ドロップ》〈人形〉石を試して、歌えました」 「……そうだったの」 「そのときまでワタシは、『誰かのために唄を歌う』なんて、考えたこともありませんでした」 ベルの瞳がスッと曇り、その視線が遠い空へと向けられる。 「……ずっと、ひとりでした」 「……失敗しない方法は、ひとつだけあります」 あたしの考えをさえぎり、ベルがうつむき加減で呟く。 「ご存じの通り、ワタシたち《シスター》〈人形〉は、《 ドロップ》〈人形〉石と呼ばれる特殊な貴石の効果で動くことができます」 「その中には、一時的に集中力を高めるようなモノや、初めに決められた命令・動作を『確実に』こなすモノもあります」 ……命令や動作を確実にこなす? 「――白の都でワタシが聖歌隊に加わったときのこと、憶えてますか?」 「え、えぇ。もろちんよ」 あれはあたしが、練習の意味も込めて歌ってもらった。 「あのときワタシは、特別な《 ドロップ》〈人形〉石を使って唄を歌いました。今日も同じように、その力を借りてます」 「それが、あなたの言う……失敗しない方法なのね?」 「……はい」 あたしが気にしながらも、訊くに訊けなかったこと。 ベルが聖歌隊に並ぶ前に飲み込んでいたモノの正体が、いま判明した。 「…………あのときの唄は、《 ドロップ》〈人形〉石の力で歌っていたの?」 「そういうことになるかもしれません」 「……『なるかも』ですって?だっていまあなた、《 ドロップ》〈人形〉石の力を借りたって言ったわよね?」 失敗を怖れる気持ちは解る。……でも、『命令』で歌うのは間違っていると思う。 「唄には歌詞があるように、演劇には台本があるの」 「舞台に立ったら、間違えるわけにはいかない。それは唄にしても演劇にしても同じ」 「失敗したくないからこそ、練習をして完璧なモノに少しでも近づける。そう思わない?」 「……思います」 「……だけど、あなたは失敗を怖れるあまり、それを省こうとしている」 「――それにね。あたし、心配なの」 「……何が、ですか?」 オーベルジーヌでの看病。 「あの列車のときのように、あなたが《 ドロップ》〈人形〉石のせいで体調を崩したりしないか?……って」 きっと、《 ドロップ》〈人形〉石は人間でいう『薬』のようなモノ。誤飲とケースは違っても―― 「……効果の強いモノを使ったりしたら、あとで反動がきたりするんじゃないの?」 「…………そうです」 「だったら、よけい賛成できない」 劇の成功よりも、ベルの方が大事に決まってる。あたしはこの件に関して、譲るつもりはない。 「…………わかりました」 ベルは目を伏せて小さなため息をつき、あたしに背を向ける。そして、一言、 「……見ないでくださいね」 と呟き―― 「ごほっ、ごほっ!」 急に咳き込んだ。 「ど、どうしたの?」 「……あ、い、いいんです。もう、もう平気ですから」 そう言って振り返ったベルは、口元に当てた手をゆっくりと外す。 「……いま、《 ドロップ》〈人形〉石を吐き出しました」 しっかりと握られた小さな右手が、後ろに隠される。 「……あ……」 「これがなくてもできるよう、唄も演劇もがんばります」 反対したのはあたしだから、ベルの行動を否定できない。ただ、何となく……罪悪感が残るのは何故だろう? 「…………」 こちらから声をかけようにもかけづらい空気が流れる中、ベルの視線は遠い空の向こうへと向けられた。 「――ワタシは、自分がひとりのときにだけ歌ってました」 「えっ?」 「父が最初に教えてくれたのが、唄だったんです」 「……ワタシが目覚めてからしばらくは、周りに誰も居なくて。父がかけてくれる音楽と、歌詞の書かれたノートがワタシの宝物でした」 「…………」 「そうしたら、ある日突然……あの子たちが枕元でワタシを起こしてくれて」 「フローラたちのこと?」 「はい。父がワタシのために……と思っていたんですけど、あとでフローラに訊いたら『違います』って言われました」 ……ヘルマーさんじゃない、別の人が造ったのかしら? 「それでも、そんなことは関係なく……ワタシは嬉しくて」 「あの子たちの前で、ずっと唄ばかり歌ってました」 「お父様は、それを見ていただけ?」 「父は仕事に忙しく、たまに聴いてくれるぐらいでしたが、そんなときはとても嬉しそうに笑ってくれて」 「でも、ときどきすごく寂しそうな顔をして言うんです」 「……『おまえは生まれて幸せかい?』って」 「どうして、そんなことを?」 「詳しくは知りません。ただ、ワタシは『ある計画』に沿って、モデルになった《シスター》〈人形〉と『寸分違わずに』造られるはずだったそうです」 ……モデルの《シュエスタ》〈人形〉? 「そして父は、『その計画』に携わってしまったことをとても後悔していたようで……」 「昔、父がまだお酒を飲んでいたころ、酔ったときにそんなことを話してくれました」 「……そうだったの」 「だから父にとって、ワタシは『娘であって娘でない』のかもしれません」 「どうして、そんなこと言うの?」 「……実はワタシ、いままで父から『名前』で呼ばれたことがないんです」 「――いつも、『おまえ』とか、人前では『うちの娘』とか」 …………名前で呼んで、ない。 「(――でも、それは……)」 「初めは気にしませんでした。でも、ジルベルクに住むようになり、村の人たちと接する機会が増えてから、考えるようになりました」 「……名前で呼んでもらえないのは、もしかしてワタシが、『父に愛されてない』からじゃないか……って」 「……普通なら、誰もが名前で呼んでもらえますよね?」 その瞳に、複雑な色が浮かぶ。こんなとき、何て言えばいいんだろう? 「(――考えても、仕方ないか)」 あたしは、自分の知る範囲でしか答えられない。事情も知らないまま無理にフォローしても、彼女を傷つけるだけ。 「そうね、名前で呼んでもらえると思う。でも、何か理由があって呼べないのかもしれないわ」 「…………」 「だけど、あたしはあなたのお父様じゃないから、それが何であるかは分からない」 「でもね。あたし……『自分の理由』なら話せるわ」 「……自分の、理由……って?」 「あたしも、あなたのこと……名前で呼んでなかったでしょ」 レインさんの話の流れから、あたしは自分自身のことを告白する。 「…………あ」 「(――え?いま、『あ』って言われた?)」 「言われてみれば、そうでしたね」 ……まさか、気づかれてなかったとは。 「と、とにかく!あなたのお父様が名前で呼ばない理由は知らないけど、あたしは……」 「約束、したからですよね?」 「……は、はい?」 「え?だってワタシのことは、『シュエスタ』って呼ぶって」 ――言った。確かに言った。でも、その前から一度も呼んでなかったのに。 「(――この子に悪気はないのよ。それはよく分かる)」 話の腰を折られて、穴の空いた風船のように気持ちがしぼむ。 それにいまは、あたしよりもベルの問題の方が大事だから、話題を戻すにはちょうど良かったかもしれない。 「……もういいわ。あたしの件は忘れて。それより、あなたとお父様のこと」 「本当に、愛されてない……て思っているの?」 「…………いいえ。いまは、ときどき思い出したかのように不安な気持ちになるときがあるぐらいで」 「……うふふっ」 「なにか、おかしいですか?」 「ううん、違うの。……自分も、同じだったから」 あたしの頭の中には、お母さんの顔が浮かんでいる。 「あたしは、物心ついたぐらいで孤児院に入って、お母さんに育ててもらって」 「――小さいときは、悪さをして怒られたり、何かお願いを聞いてもらえなかったりすると、すぐ感情的になってね」 「そんなとき、いつも思った。勝手に『愛されてない』って。本当の子じゃないから、ダメなんだ……とかも」 「…………」 「あなたと理由は違うけど、あたしも同じようなもの。だけど、いまは……そんなことないの」 「まだ家を出て数日しか経ってないけど、お母さんから『すごく愛されてる』って実感してるわ」 電話で話したわけでもなく、夢で見たわけでもない。 「どうして、そう思えますか?」 「うーん、うまく言えないけど……これまでの関係かしら?」 「血のつながりはなくても、無意識のうちに『親子』だって思えるだけのつながりを感じるの」 ベルの表情が、少しずつ明るくなってくる。 「……ワタシにも少し分かりました。家を離れて旅をして、寂しくなって――」 「オーベルジーヌのホテルで目を覚ましたとき、父が居て――」 「あのとき、最初に思ったのは……」 記憶を辿りながら何度も頷いたベルは、最後に目を開き、 「ワタシ、ちゃんと父を『愛して』ます」 と、笑った。 「……良かったわ」 思わずあたしは、そんな彼女の頭をなでてしまう。 「あ、あぅ……」 「(――かわいいわね、ホントに)」 悪いな……と思いつつも、この反応は捨てがたく。 「お父様の代わりよ」 などと、さらになでてみたりすれば、 「あぁ、あぅ……」 真っ赤になったベルが、あたしの方へともたれかかってきた。 「えっ、ちょ、っと……」 倒れないように身構えるあたし。 支えた彼女の身体は思った以上に軽くて、細くて、柔らかく。予想が外れたせいで、少し力が入りすぎてしまい―― 「……アン!」 「……は、はい!」 お互いが変な声を挙げる格好になっていた。 「あ、あの……ごめんなさい」 「い、いいのよ、別に。あたしが悪ふざけしたから……」 「違います。ワタシがちょっと気が抜けたから……」 「でも、なんであたしのこと……そんな呼び方したの?」 「えっ?なにがですか?」 「いま、お母さんやワカバみたいに『アン』って」 これまでずっと『アンジェリナさん』と呼ばれていたので、新鮮というか……とてもドキドキさせられた。 「………………ちがいます。いまのは、びっくりした声です」 腕の中で、ベルが小さく動いてあたしの胸に顔を隠す。 「(――あっ、ちょ……っと……)」 甘えられた気分で、嬉しいような、恥ずかしいような。 押しつけられた額の熱が、服を通じて身体へと浸透してくる。 「ごめんなさい」 「……いいのよ」 あたしの方もボーッとしてきて、なにを謝られているのかが理解できない。 「(――この子、こんなに柔らかかったかしら?)」 青の都を旅立つ前、月夜の下で踊ったときは?オーベルジーヌで看病したときに触れた身体は? 「(――思い出せない……けど)」 ……いまと違うことだけは確かだ。 「あ、あの……アンジェリナさん」 顔を上げたベルが、ゆっくりと左右に首を振る。 「……あ、ごめん!」 あたしは、自分がベルを抱きしめていたことに気づいて、とっさに両腕を上に。 「べ、別に、変なこと考えていたわけじゃなくてね」 「その……前と違ったから……って、な、何でもないのよ」 「…………」 下から無言で見上げる彼女の視線が、まっすぐ過ぎて痛い。 「……どうして手を挙げているんです?」 「……『もう、触ってないわよ』っていうアピール」 我ながら情けないので、一歩下がって咳払いをする。 「ごほん。……えーっとね。許してくれるかしら?」 「なにをです?」 「……その、ずっと抱きしめたりして」 「いけないことだったんですか?」 「そんなことはないけど、なんていうか……うーん」 どう説明しても、伝わらないような気がしてならない。 「……とにかく、迷惑だったでしょ?」 「いいえ。気持ち良かったし、嬉しかったです」 「は、はい?」 「アンジェリナさんは、イヤでしたか?もしもそうなら……」 身をすくめて引き下がろうとするベルを見て、あたしは何も言わず、また自分の腕の中へ彼女を捕まえる。 「アンジェリナ……さん?」 「…………しーっ」 これ以上、気持ちとは裏腹な方向に進まれたくない。そんなことになったら―― 「(――あたしは、きっと後悔する)」 人形劇の音合わせのときに受けた告白。 「『こんな言い方すると嫌われるかもしれませんが、ワタシはアンジェリナさんより、ずっと長く生きてます』」 「『――外見の変わらないワタシは、老いていく人間から見れば……きっと違和感がある存在です』」 「『村の子どもたちが成長し、自分よりも大きくなったときには、もうワタシは《 ・ ・ ・ ・》〈お姉さん〉ではなく、《 ・》〈妹〉のようなものになります』」 「『そして、その子たちが《 ・ ・》〈大人〉になって、また次の代へ』」 ……これまでも、これからも、それは続く。 「『生きている時間が長い分、数多くの子どもたちと知り合い、通り過ぎていく姿を見てきました』」 ……その中に、いまのあたしと同じような子が居たはず。 「(――ベルのことを好きになっても、諦めて……)」 変わりゆく人間。変わらない《シスター》〈ベル〉。 「『あたしが、あなたの横を通り過ぎると思うの?』」 自分の言葉を思い返し、もう一度決心する。 「……離せって言われても、離さない」 両腕にそっと力を込めて。 「あなた、あたしのことを『好き』って言ってくれたわよね?」 「……はい」 「あたしも、あなたのこと……好き、よ」 こんな気持ちで、こんな言葉を使ったのは初めて。 舞台の練習で口にしたことはあっても、それは自分ひとりで作り上げた……外側だけがしっかりの台詞。 どう表現しようと悩んだ心を、いま手に入れることができた気がした。 「もういちど、教えてほしいの。あなたの気持ちを」 「――あたしのこと、好き?」 「はい。うまく言えませんけど、とても……とても、好きです」 「…………ありがとう」 誰かに自分のことを認めてもらえた喜び。それが大きく、身体まで震えてしまう。 「大丈夫……ですか?」 「う、うん。ちょっと、浮かれたせいか、熱っぽくて」 「あ、ワタシも……なんです」 そう言ってベルが、あたしの二の腕に額をそっと押し当て、 「……ねっ?」 と。 その顔は幼いままなのに、声だけはおねえさんのように。じわじわと伝わってくる熱のせいで、余計に思考が麻痺する。 「(――このまま、時間が止まったら……)」 「…………あの、アンジェリナさん」 「な、なぁに?」 「……部屋に戻って、休みませんか?」 感謝祭は、これから。 人形劇に参加したあたしたちには、自由に食べて回る権利があって、みんなもいまごろは……楽しくしているはず。 「……そうね。そうしましょうか」 ……もう満足。こうしてベルの気持ちを知り、自分の気持ちを伝えたことで、世界が変わって見えるぐらいに。 あたしはベルの横に並び、そっと右手を握る。 「アンジェリナさん?」 「……部屋に戻るまで、寂しいじゃない……」 抱きしめたまま帰れないから……せめて、手だけでも。 「はい!」 ベルの元気な声と、重ねられた左手。 包み込まれた手のひらは、まるで抱きしめられたかのようで。 「(――勝てないな、この子には……)」 期待以上の応えを返すベルには、この先もずっと…… それた話題も無事に終わり、ホッとしたあたしは……ふと、ベルの握られたままの右手に気づいた。 「(――あれは、あたしが吐き出させた《 ドロップ》〈人形〉石)」 だったら、いまその手にあるモノの代わりに。 「……ねぇ。片手は空いてるわよね?」 「えっ、は、はい」 「だったら、その左手。前に出して」 あたしは、ずっとポケットにしまったままだったあるモノを取り出し、突き出された手にそれを乗せようとする。 「……これは?」 「…………その、クロムで……ね」 シルヴィアが案内してくれたお店で買った、小さな《 ドロップ》〈人形〉石。 どうやって渡そうか悩んでいたが、いまなら自然と渡せそう。 「安物で、特に何か効果があるわけでもないけど、も、もしも良かったら……どうぞ」 「そんな!確かにそれは安めの《 ドロップ》〈人形〉石ですけど……」 「(――はぅ、安くてごめん……)」 ストレートに言われて、ちょっとショック。 「どんなに安くても、それなりの値段がするモノです。それをもらうわけにはいきません」 もう少し気の利いた台詞で渡せば良かった……と後悔するが、どうにもならなそう。 「いいのよ。だって、あたしが持ってても何にもならないし」 じゃあ、なんで買ったの?……とか訊かないで。 「そうだとしても、どうしてワタシに?」 「……ほ、他に誰も居ないでしょ。もらってくれそうな人」 「えっと、ココちゃんは?」 「…………あ」 ココも《シスター》〈人形〉だということを完全に忘れていた。でも、これはココにあげるために買ったわけじゃない。 「あ、あの子には……ほら、セロが居るじゃない」 「セロが……居る?」 「そして、あなたのそばには……」 ――自分が居る、と言いかけてギリギリで踏みとどまる。セロとココは家族。 ベルにとっての家族は、自分ではなく……ヘルマーさん。 いま、ベルがお父さんとの絆をかみしめた直後に、あたしが踏み込むような真似はできない。 「……そうね。じゃあ、これは……ココにあげようかしら」 無理に渡せば、きっとベルが困ってしまう。 「かわいい《 ドロップ》〈人形〉石だから、きっとココちゃんも喜ぶと思います」 「う、うん。そうね」 あたしはベルの笑顔を見て、にっこりする。……そう。しっかり微笑み返せた。 「(――こんなときに、演技の練習が生きてくるだなんて)」 「…………?」 《 ドロップ》〈人形〉石をポケットにしまい、あたしは心の中でため息をつく。 ……渡すチャンスは、もう永遠に来ないような気がする。 「……おつかれさま、セロ」 人形劇が成功に終わり、後片付けを終わらせたみんなは、それぞれが思い思いの場所へと散っていく。真っ先に居なくなったのが、シルヴィアとトニーノ。 「『……アタシ、とっととシャワー浴びて寝たいの。じゃ!』」 アンジェリナは、ベルと一緒にどこかへ。きっと、ふたりだけで反省会とか……そんな感じだった。 ライトはしばらく離れていたココと共に、食べ放題の野望を果たすべく一番端の露店へと向かった。 「『ちゃんとココの面倒、見られるの?』」 「『へーき、へーき。誰かさんのおかげで、ココが泊まってる家だって、知ってるんだからさー』」 ……それは、朝から引っ張り出した『私のおかげ』ってこと? 「『まぁ、セロにーちゃんが戻ってくるまでは、オレがしっかりココのこと見てるからさ』」 「『いって、き、まーす』」 そして、最後に残ったのは―― 「……あれ、ワカバ?」 ボーッと壁に寄りかかる私と、セロのふたりだけだった。 「……あ、セロ……」 「どうしたの、ぼんやりして?」 「ううん、何でもないの。セロこそ、どうしたの?お祭り、見に行かないの?」 「うん。人形劇がうまくいったからホッとしちゃって、なんかゆっくりしようかな……とか思ってね」 「……あはは。私も同じ」 途中で危ない思いはしたけど、無事に終わらせられた。言わば私にとって記念すべき、人形劇脚本の第一号の成功。 もちろん借りた台本に手を加えたモノだから、一から十まで全てが私の力ってわけじゃない。 それでも、自分が携わった劇がうまくいったことは、充分に誇れると思う。 「それで、このあと……どうするつもりなんだい?」 「うーん。何にも考えてなくて」 初めは、ライトと同じで食べ放題に命を賭けようかと思った。……けど、そんなことしたら。しばらくは後悔の日々が続く。 「セロは、どうするの?」 「ワカバ次第かな?」 「……えっ?」 「いや、ココがライトに連れて行かれちゃったからさ」 「……なんだ。ココが居ないから、か」 嫌味をいうつもりじゃなかった。だけど、自然と口から……さびしさがこぼれていた。 「ごめんよ。言い訳するつもりじゃないんだけど……」 「(――えっ?なんでセロが謝るの?)」 「僕にとっては、ココが残された家族で。どうしても、一番に見ちゃうんだ」 「……当然じゃない。私だって、旅行中はライトだけが家族の一員だし」 腹も立つし、手間もかかるライトだけど……目は離せない。ううん、逆かも。 この旅行では、私の方がずっと弟に迷惑をかけてきた。ライトだけじゃない。セロには、その何倍も。 「ごめんね。私のことは気にせず、お祭りを楽しんできて」 思ってもいないことが言えるのが、少しイヤ。……こんなの、自分が書いている作品の中だけでいいのに。 「うーん。そう言われると困るよ」 「……どうして?」 「だって、ワカバのこと放っておけないし」 「もーう、律儀ね。たまには、ひとりもいいんじゃない?」 「…………だけどさ。せっかくふたりで居るのに、わざわざ別行動しなくてもよくないかな?」 「なんで?」 「その、さっき『ワカバ次第』って言ったのは、ね」 「ワカバの行くところだったら、どこでも付き合うよ……って意味だったんだ」 想像もしなかった嬉しい言葉に、心が揺らぐ。 だけど、いまさら『それじゃ、食べ放題の敢行よ!』とか、中途半端に《 ひよ》〈日和〉るのも哀しい。 「(――だったら、たまには素直に……)」 思い切って、『セロと一緒に居たい』って言えばいいのに。 「僕としては、ワカバと一緒に居たいんだけど」 「…………え?」 どうして、私の考えていた言葉をセロが? 「ダメ、かな?」 「ダメなわけないじゃない!私だって……」 私だって―― 「私だって、セロと一緒に居たいから」 すごく勇気が必要だと思ったのに、意外なくらいよどみなく。一度口にしてしまえば、その想いがずっと濃くなる。 「こんなこと言われて、迷惑じゃ……ない?」 「どうして?僕が一緒に居たいって先に言ったんだから……」 「後先とか、関係ないの!」 私が知りたいのは、セロの本音。彼の言う『一緒に居たい』が、私の想う気持ちと同じなのか? それとも言葉が同じだけで……実は違う気持ち、なのか。 「セロは、私と居て……楽しい?」 本当は、そんなことを言いたいんじゃなくて! 「そりゃ、もちろん。ワカバは?」 ――ここで、踏み込んだことを言わなければ。きっと私は、このままセロの一歩後ろをついていくだけ。 ……だから、少しでも横に並べるように努力しなきゃ。 「私だって、楽しいよ。今回の旅行だって、セロのおかげで色々体験できたし……」 「……白の都で、夜にドルンシュタイン城へと行ったでしょ。あのとき、私が思わずキスしちゃって……」 「――セロが、『ありがとう』って言ったの憶えてる?」 「……う、うん」 「あのとき、どんな気持ちで言ったの?」 「それは……その……」 うまく思い出せないけど、あのときの私は…… 「……うん。ワカバにキスしてもらえて、嬉しかったから」 私も『ありがとう』って言われて、嬉しかった。でも、あのときは私が一方的にしただけ。 「……いいな。私も、セロがキスしてくれたら……」 ……もっと、嬉しいのに。 「えっ、いや、あの……それは…………」 「…………う、嬉しいの?」 覗き込んできたセロの瞳に、私が映っていた。そんなもうひとりの自分が、私を無言で見つめ返してくる。 いましかチャンスはないよ……って。 「……うん。だって、セロのこと……好きだから」 そして、私は確信した。こんなときこそ、互いが正直になる必要があるということを。 そうしなければ、バランスは保てないのだ。 「……あ、あのさ。もし良かったら……キス、してもいい?」 セロは、私のためにそんな質問をしたわけじゃない。求められたから、してくれるのではなく。 ……自分自身がそうしたいから、こそ。 「……うん」 嘘をつくことのない彼の目を見れば、それがよく分かる。私にとって、家族以外で一番信用できる人。……それが、セロ――彼だったのだ。 「……ワカバ……」 「あ、でも、ここは……ちょっと」 人形劇のとき、あれだけ顔が近づいたとはいえ、さすがに街の真ん中では抵抗がある。 それに、万が一にも知ってる誰かに見られたら―― 「(――ぶるぶるぶる……)」 「それじゃ、ワカバが泊まっている家の部屋に行く?」 「……そうね」 ライトは、ココと一緒。セロが泊めてもらっている家よりは、安全……かな? 「もしも、ライトが戻ってきたら……」 「……平気さ。ライトは僕の泊まっている家の方に行くって言ってたよね?」 ボクは人形劇のあとから、セロとずっと一緒に居ます。……セロが、言ったの。 「『――白の都で離れ離れになっちゃったから、今日はずっと一緒に居ようね』」 って。 ボク、さびしかったんだー。セロとボク、旅に出てからずっと一緒だったのに。朝、目を覚ましても、近くにセロが居なかったの。 「……どうしたんだい、ズボンなんて掴んで。今日は何処にも行かないから平気だよ」 「あい」 みんなが優しくしてくれたから、泣かなかったけど。もしも、ボクひとりだったら、なにもできないよ、ねー。背中のネジだって、はめられるけど、回せません。 「……そうそう。人形劇、楽しかったかい?」 「うん、うん」 ネコ王子って、いつ見てもおもしろい。だけど、いつになったらお城に帰れるのかな?王子様なんだから、お城に居なきゃダメだよね? お姫様だって、お城に――居るよね? 「セーロー、れんしゅー、いっぱい?」 「……あまり時間がなかったから、朝早くからワカバと猛特訓だったよ」 「あー、そうな、のー」 だから朝起きたとき、セロ、居なかったんだー。……でもね、でもね。セロの代わりに、ライトが寝てたの。 ボク、びっくりしちゃった。だって、セロが小さくなっちゃった……って、思って。 「あれー?」 「ん、どうしたんだい?」 セロって、ずっと前……ライトとかボクより小さかったね。ボク、おねーさんだったのに。 「セーロー、おーきく、なっ、たー」 頭の上に両手を置いてから、バッて背伸びします。バッ、て。 「ボ〜ク、そのま、まー」 「あぁ、そうか。幾つぐらいでココの身長を抜いたかな?」 セロ、伸ばした指を一本一本倒しながら数えてます。 「えへ、へー」 あの数え方、最初にボクが教えてあげたの。……あれなら、10まで数えられるもんねー。 「ちょっと思い出せないや。気づいたときには、もうココより高くなっていたと思うよ」 「いい、よー」 ボクも昔のこと、思い出せないからー。ちょっと前のことなら、平気なんだよ。たとえば―― 「ガスパー、フレス、コバー」 合ってるかなぁ? 「えっ?それって、もしかしてネコ王子の名前かい?」 「うん、うん。ラーイー、いって、たー」 セロがライトに教えて、ライトがボクに教えてくれたの。……だから、セロが先生で、ライトも……先生? 「そうかー。でも、惜しいなぁ。あと少しで完璧だったのに」 「えー?」 「正確な名前は、ガスパロ・フレスコバルディ。憶えられる?」 「ガス、パロ、フレス、コバルデー?」 「うんうん、ほとんど正解。すごいな、ココ。最近は、喋りもだいぶ良くなってきたよね」 ボクも、もう少し練習したら……セロみたいに物知りさんになれる?セロは、知らないことも、知ってるんだよねー。 「あー、そうだー」 「ん?何か食べたいの?」 「ちがう、のー。ボ〜ク、も、ねー」 「しらないのに、しって、るー」 あれ?ぎゃく?知ってるのに、知らない? 「………………ココ」 「んぁー?」 急にセロが、困った顔になりました。……どうしたんだろう?ボク、変なこと言ったかな? 「……もしも、だけどね。もしも、ココがずーっと昔のことを思い出せるとしたら、思い出したいかな?」 「えー?どうな、のー?」 「ううん、僕は何とも言えないよ」 「シルヴィアの話だと、ココには『知ってるけど知らない』記憶が眠ってるって話なんだ」 あー、それかもー。何だか、難しいね。どっちなんだろう? 「セーロー、どっ、ちー?」 「うん、だから、それは僕が決めることじゃなくて――」 「じゃなく、てー」 「……えっと、まねっこ?」 「んーん。ちがう、のー」 いまの、『じゃなく、てー』は、そうじゃなくて。 「セーロー、しり、たい?」 「…………そ、それは……その……」 ボク、セロがお勉強好きなの、知ってます。いつも、ご本ばっかり読んで、昔のこと調べてるの。 「むかし、のこと、しり、たい?」 「…………」 ボクが知ってて知らないこと、ボクが思い出して。それをセロに教えてあげたら。 「セーロー、もっと、ものしり、さん?」 「…………ココ……」 あれれ、あれれ?なんで、そんなに困った顔なの? 「かなしい、の?ないちゃう、の?」 「違うんだ。すごく、嬉しいんだ。嬉しいんだけど――」 「んぁー?」 「…………それを望んでしまったら、僕は、とってもずるい人間になりそうだから」 「どーし、て?」 「自分の知識欲のために、ココを……ココを……」 あわわっ!セロ、おめめから、ポロポロしちゃダメ。どうして、セロが泣いちゃうの? 「セーロー、ダーメー。おとこの、こー」 ボク、セロのおねーさんだったんだよー。よく分かんないけど、セロ、男の子だから、泣いちゃダメ。 「……ごめんね、ココ」 「あい」 両手で、セロのおめめを隠します。……セロが泣くの、見たくないから。 「ボ〜ク、おねーさん。えへん」 「……そうだった。忘れてた。ココ、おねえさんだったよね」 あー、セロも忘れちゃうこと、あるんだー。でも、いまは思い出したみたい。 だったら、ボクも思い出して……いいよね?おばーちゃん、両方の手袋はずしちゃダメって言ったけど。あとでちゃんと戻せば、いいよね? ――この前だって、すぐに戻したもん。 「あい、これー」 左手のてぶくろー。 「あい、こっち、もー」 右手のてぶくろー。 「…………本当に、いいのかい?」 「あい、あい」 ……だって、だって。セロがずっと困った顔のままだと、ボクも困っちゃう。それに、セロがもっと『ものしりさん』になったら…… 「ボ〜ク、に、おしえ、てー」 「……なにを?」 ガスパー・フレスコバーみたいに、ヘンテコな名前を、ねー。 アンジェリナと感謝祭のお店を回り始めて、30分後のこと。 「『……先に部屋へ戻っているわ。たまにはあなたも、ひとりで羽根を伸ばしてきたら?』」 そう言われたワタシは、しばらく時間を空けて帰ろうと思い、迷わない程度にお祭りの会場を歩くことに。 ……と、人形劇を観てくれた子どもや街の人に話しかけられ、気づけば空の色もすっかりオレンジに染まっていた。 「(――そろそろ帰ろうかしら?)」 シルヴィアに預かってもらったフローラたちを迎えに行き、アンジェリナの待つ部屋へ戻れば……かれこれ3時間ぐらい過ぎることになるはず。 そのぐらい経てば、ひとりの時間を満喫した……と言うには充分だろうと思えた。 「(――本当は、ハネを伸ばす必要もなかったんだけど……)」 せっかく気を遣ってくれた彼女に悪いと考え頷いたワタシだったが、そろそろひとりにも飽きてきたのが本音だった。 「…………どーしたのん?」 「きゃっ!?」 前触れもなく背後から響いた声に、思わずしゃがみ込んでしまったワタシは、恐る恐る顔をあげてみる。 ……とそこには。 「えーっ!そんなに驚かないでよー」 「……ワカ、バ?」 見慣れた三角巾スタイルの彼女が居た。 「そうよ。ごめんね、びっくりさせて。なんだか寂しそうな背中だったから、どうかしたのかな?……って」 「ううん、何でもないから」 「それならいいけど。……あ、そうだ。セロにはもう会った?何か用があるみたいで、ベルのこと探してたわよ」 「まだ会ってません。それは、いつぐらいのことですか?」 「かれこれ2時間ぐらい前?ベルを探してたみたいだったわ。まだ居るとすれば……あそこね」 ビシッと指差されたのは、通り向こうにあるオープンカフェだった。 何か丸いお菓子を口に運ぶココと、それを見守るセロの姿を見つけ、ワタシは早足でテーブルに向かう。 「……お待たせしました」 「んぁー?」 「ベル!よく僕たちがここに居るって分かったね」 「さっき、ワカバに教えてもらって……」 「そうだったんだ。……で、そのワカバは?」 「もう少しお祭りを見て回るそうです」 「……それで、ワタシに何か?」 勧められるままココの正面に席をとり、斜め向かいのセロを見る。 「――なにから話せばいいか、ずっと考えていたんだけど……」 いつもは穏やかな彼なのに、いまは喋りも表情も硬い。 「僕が話す前に、これからする質問に答えてもらいたいんだ」 「は、はい」 「もしも途中で気分が悪くなるようなことがあったら、教えて。すぐに止めるから」 何をワタシに尋ねたいのかは判らないが、ひとまず頷く。 「……これから僕が挙げるもので知っている名前があったら、その場で声をかけてほしいんだ」 「わかりました」 「……ココも、いい?質問中は、静かにね」 「あい、あい」 両手で口元を抑えてみせたココは、そのままピタリと動きを止める。そして、それを合図にセロがゆっくりとした口調で、 「最初は、クリスティナ・ドルン」 と告げてきた。 「はい。白の国のお姫様ですよね?」 セロは無言で頷き、次の名前を挙げる。 「アイン・ロンベルク」 「はい。セロが案内してくれた……お墓に眠る人?」 「そう。……では、デュア・カールステッド」 「……えっと、確か……白の国の英雄……」 バーミリオンまでの列車で、ワカバがシルヴィアにその役を頼んだ……と言っていた気がする。 「ヴァレリー・ジャカール」 「……天使の導きに出てくる人です」 「じゃあ、ハンス、ユッシの両名」 これまで挙げられた人から考えれば、そのふたりも劇に関係のある人物だろう。 でも、ワタシの記憶にはふたりの名前はなかったので、首を横に振る。 「そうしたら、最後に……エファ」 セロとココが、何故かテーブルに身体を乗り出してきた。特にココが、期待した視線でワタシをジーッと見ている。 「…………えっと、知りません」 「……うん、ありがとう。これで質問はおしまい。ココも、しゃべっていいよ」 「…………ぷはーっ」 ココは嬉しそうに口を開け、思い切り空気を吸っている。 「あの、これはワカバの用意した試験ですか?」 もしかしたら、劇のことをどれだけ把握しているのか……の抜き打ち検査かと考えたワタシ。 しかし、それはあっさりと否定された。 「……違うんだ。これは、僕の準備調査。これから本格的に調べるための確認だったんだ」 そう言ってセロは、これまで挙げた名前を紙に書く。 「……この名前のほとんどは、史劇『天使の導き』に関係する人たちで――」 セロが大きな丸で囲むのは、クリスティナ、アイン、デュア、ヴァレリーの四名。 「ベルが知らないと告げたこの三名が、僕の調査対象になる」 「……この人たちは、一体誰なんですか?」 「まだ推測にもならないけど、ココの言葉を信じるなら……歴史上、実際に存在した人たちになる」 「うん、うん。いた、のー」 紙の中から『エファ』の名前を指差したココが、 「しってるけど、しら、ない?」 と言って、ワタシを見つめる。 「ワタシは知らないけど、ココちゃんは知ってるってこと?」 「あい。……ファー、です」 ワタシを『ファー』のあだ名で呼ぶココにも慣れてきた。 だけど、それは何故か気にかかる呼び方でもあって―― 「……ねぇ、ベル。これから僕が話すことを笑わずに聴いてね」 「はい」 まじめな顔のセロが大きな囲みの中に『ココ』と書き記し、ゆっくりとワタシを見る。 「本人が言うには、この人たちを実際に知ってるそうなんだ」 「まだココから全部を聴いたわけじゃないから何とも言えないけど、僕は『あり得る』と考える」 どんな話をされるかと思い、少し身構えていた。普通の人間にはあまりに昔で計りづらい尺度かもしれないが、ワタシたち《シスター》〈人形〉にしてみたら―― 「父が言ってましたが、ココちゃんは古い時代に生まれた《シスター》〈人形〉です。……だから、その可能性はあると思います」 セロの言うとおり、『あり得る』話として受け入れられる。 「じゃあ、時間的な部分は……レインさんに確認した方が?」 「はい。父なら、かなり正確に判ると思います」 「あい、あい。そうだ、ねー」 「……あ。ほらほら、お菓子が口の周りについてるよ」 「……ホントー?」 真剣なやりとりの途中でも、同席するココの面倒を見るセロ。 その微笑ましい光景を前にワタシは、ふとアンジェリナとの会話を思い出す。 「『あ、あの子には……ほら、セロが居るじゃない』」 「『セロが……居る?』」 「『そして、あなたのそばには……』」 そのあと続きは話さず、自己完結してしまった彼女は、何と言うつもりだったのだろう? 「(――ワタシのそばには……父が居る)」 ……話の流れからすれば、そんな感じだろう。しかし、それだと少し違うような気もする。 「ェファー、も、いるー?」 唐突にココから差し出されたのは、丸いお菓子――マカロン。 「……いいの?もらっても」 ワタシは手を伸ばしてそれを受け取り、一瞬考えてしまう。 「(――あれ?いま……)」 お菓子を渡すとき、ココから『エファ』と呼ばれた気がした。 「どうしたの、ベル?」 「……ねぇ、セロ。この『エファ』っていう人は……」 「それはココの話を聴く限り、《シスター》〈人形〉だと思われるんだ」 エファが《シスター》〈人形〉?急に、胸の鼓動が早くなる。 何かが、何かが分かりそうなのに、うまく言葉にできない。 「すごく失礼な質問かもしれないけど、ベルはレインさんの娘……だよね?」 「はい、そうです。でも、どうしてそんなことを?」 セロならお父さんとの交流も長いはずだから、知っていると思う。 それに、旅立つ前。ずっと『うちの娘』と呼ばれている姿を見ていたはず。 「ココの言うエファが、ベルのことなのかもしれない……って」 「エファが、ワタ……シですか?」 セロの手で紙の端に書き加えられたワタシの名前は、矢印でエファへとつながれ、『?』扱いにされる。 「理由はすごく簡単。ココがベルのことを『ファー』って呼ぶからだけど。……単なる偶然や、こじつけに聞こえるかな?」 「もし、ココちゃんの言うとおりなら、ワタシはそのころから知り合いだったことになるわね」 「んー、そうな、のー?」 仮の話を口にしながらも、『それだけはない』と思っている。 《シスター》〈人形〉ならばいざ知らず、人間であるお父さんがその時代にワタシを造り、《こんにち》〈今日〉まで生き延びるのは不可能なこと。 この50年の記憶が、自分を支える。 「……ココちゃん。ワタシって、エファとそっくり?」 「あい。そっく、りー」 「(――それはきっと、ワタシのモデルになった《シスター》〈人形〉)」 お父さんの話からして、そう考えるのが一番しっくりくる。ワタシが『エファに似せて造られた理由』は知らない。 お父さんが『関係していた計画』についても知らない。……だけど。 「やっぱりワタシは……レイン・ヘルマーの娘、ベルです」 これだけは、胸を張って言える。 「(――ココから、白の国の歴史を聴かせてもらう)」 これが良いことなのか、悪いことなのか、判断がつかない。 「『ハンスも、いっしょ、ねー』」 「『それじゃココは、青の大使ヴァレリーと白から派遣されていたハンスと共に、白の国に行ったんだね?』」 「『そーです。それで、それ、でー』」 お喋りが苦手なココを相手に、時間をかけて話を聞いていく。 「『あー、ボ〜ク、ねー。タマゴ、でしたー』」 「『タマゴって?』」 「『えっと、ボ〜クが、タマゴ、でー。エファが、テンシー』」 解らないことだらけでも、その続きが知りたくて。昼下がりのオープンカフェで、ココ相手に僕はメモをとった。……だけど。 「『……じゃあ、さっき出てきたユッシという人が、いま言ったダイジーンのこと?』」 「『あい、ユッシー。あれれ?そうな、のー?』」 「『うん。ちょっと太めで小柄な人って言うと、その人になると思うんだけど……』」 時間が経つにつれ、なかなか聞き取りが進まなくなった。 「『……いいかい、ココ。これまでのことを確認するからね』」 一度目の確認で、教えてもらったことのうち半分が消え…… 「『んー。どうだっ、けー?』」 二度目には、その半分が疑問形に。三度の念押しで残ったのは、お城に居た人たちの名前だけ。 「『それで、ハンスは……』」 「『ハーン?』」 ベルがやってきたときには、それすらもあやふやになってしまっていた。 「(――結局残ったのは、僕がメモした名前と……いくつかの情報)」 これを元に調べていけば、なにか新しい発見があるかもしれない。 そしてそれが、ワカバの書こうとしている演劇の脚本に役立つ可能性だってある。……だけど、そうすることが本当に良いことなのか? ココが自ら進んで記憶を取り戻そうとしてくれたとき、僕は止めるべきだったのではないか。何故なら―― 「……ねぇ、ココ」 「んぁー?」 「ココは、昔のことを思い出して忘れないようになったら、嬉しいかい?」 「んー、わかん、ない」 いつものココらしい答えに、僕は少しホッとする。シルヴィアのときを初めてとすれば、都合2回の記憶の再生。 最初はほんの数分にも近く、ココが語った内容も薄かったと聴かされた。しかし、自分のときは……2時間程度の持続があった。 「(――それを繰り返すと、ココにどんな影響が生じる?)」 僕が漠然とした不安を覚えているのは、そこの一点。 どうして『記憶を封じる』などという機能を持たされたかを考えれば、それはなおさら…… 「セーロー、きい、てー、きい、てー」 「……なんだい?」 「ボ〜クね、ユメ、みたのー」 「……どんな夢だい?」 「えっと、ね。おねが、い、されたユ、メー」 普段なら遊びか食べ物の夢の話をするココが、めずらしいことを言う。 「みんなが、まもって、いうのー」 「だから、ね。ボ〜ク、がんばり、ましたー」 「……うんうん。それで?」 「あい、おしまい」 「……ふふふふっ。あははははっ」 あまりの急展開に、僕は思わず笑ってしまう。 「ごめん、ごめん、がんばったんだよね、ココは。それで、一体なにを守ってほしいって言われたの?」 「――うんと、コー、レー」 そう言って掲げられたのは、首からぶる下がった《 ドロップ》〈人形〉石の入った瓶。 「そうだね。ココは、それがなくなったら大変だもんね」 「あい。なくしま、せん。でも、ねー」 「…………?」 「かえすか、らー。なくなる、の。だか、らー、おしま、い」 「……ココ?」 「あの、ねー。みつけた、のー」 「……なにを?」 「ボ〜クの、いーし」 バーミリオン出発の朝。駅前に集まった一行は、二手に分かれている。 「……それじゃ、アタシたちはここでお別れね」 そう言って立ち去ろうとするシルヴィアたちに、私は驚いてその腕を掴んでしまう。 「ち、ちょっと!あの話、どうなったの?」 「……あの話?あぁ、お手伝いのこと?」 「そうよ!まさか……ダメだったの?」 シルヴィアなら、トニーノを説得できると信じていたのに。 「安心しなって。俺が断るとでも思ったか?」 「え、じゃ、いいのね!?こき使っても、いいのね?」 「…………考え直すか」 「……そうね」 「うわぁ、冗談だってば!ふたりとも、待ってよ」 私は車の前に立ちはだかり、手にしたプリントを押しつける。 「見て見て、これを見て」 「……なぁに、これ?記念にくれるの?」 「違うわ。これが演劇の仮台本。ふたりの役柄も書いてあるの」 シルヴィアには、白の国の英雄――デュアを。 そして、トニーノには…… 「おいおい、待て待て。これは……っていうか、何だぁ?」 「書いてある通り。『アイン』と『ヴァレリー』の役ね」 「舞台で一人二役は無理だぜ?それにどう考えたって、俺がアイン役なんて――」 「安心して。それはあくまで『仮』の役なの。人手が増えたら、どっちか一方に固定するから」 ただでさえ男役が足りない現状では、こうするしかない。 「……いくら俺に舞台の経験があるからって、二役かけもちの天秤……って言われるとなぁ」 「えっ?いま、『舞台の経験』とか言わなかった?」 「……あぁ。それを知ってて、手伝い頼んだんだろ?」 私は仲介人のシルヴィアを見て、 「聴いてないわよ?」 と抗議する。 「言ってなかった……っていうか、色々あるのよ、事情が」 視線を交わすシルヴィアとトニーノの間に、何があるのか? ちょっと知りたい気もするけど、いまはそんなことより―― 「とにかく、そういうことなら……よけい頼みやすいわ!」 いまは、経験者が手に入ったことの方が大切。私って、すっごくラッキーじゃない? 「本番までに、必ずもうひとり見つけてみせるから」 「先に断っておくが、プロじゃねぇし、ブランクも長い。だから、過度な期待は禁物だぜ?」 「大丈夫。素人じゃないっていうことだけでも大収穫だから」 「……分かった。それまで、俺が二役で読み合わせの相手をすればいいんだろ?」 「そうそう!そうよねー、アン?」 「まぁね。だけど、ワカバのいう『もうひとり』って、アテがあるの?」 ……そこを突かれると、とても辛い。 「な、なんとかするわよ!」 「それに、トニーノだったら平気でしょ?」 シルヴィア曰く、彼は舞台経験のある人間。それなら、マルチな役回りでみんなをカバーしてもらいたい。 「おいおい。知ったような言い方してもいいのか?これで、とんでもない『ヘタレ役者』だったらどうするのさ?」 「もしも本当に『ヘタレ』なら、引き受けたりしないと思うし」 「口先だけだとしたら?」 「そのときは、アンのお出ましよ。ねぇー?」 「……脚本家が指導しなさい」 「えーっ、私なのー?」 「できるならね」 「むっきー!絶対やるもん!」 「良かった。これで『演出家』の人手も何とかなったわね」 ……何だか、アンジェリナにハメられたっぽいわ。 「……ま、残りの問題は追い追い片付けるとして、だ」 「――このリストを見てると、役者としてセロとライトも駆り出されてるみたいだけど、裏方はどーするんだ?」 「え?僕も舞台に立つのかい?」 「やったー!なに?オレ、何の役になったの!?」 ……あ。ふたりにはまだ、正式に伝えてなかったわね。 「セロは赤の国からやってくる大使みたいな人で、ライトは白の国の衛兵の役」 「――出番は数シーンで、残りは裏方をメインに務めてもらう。あとは、舞台に出てない人が代わりばんこね」 「カバー。ボ〜ク、はー?」 「ココは……うーん、私の助手でお願い」 「じょ、しゅー?」 「うん。練習中に気づいたことがあったら、どんどん報告して。ただし、本番はおとなしく劇を観てね」 「あーい」 まだまだ万端とは言えないけど、布石は順調! あとは、このままの勢いで行ければ―― ワタシは赤の都へ向かう列車の中で、今日の朝の出来事を思い出している。 あれは、バーミリオンを旅立つ直前。 「『おは、よー』」 出発のための準備を終えたとき、ココがセロに連れられてやってきた。 「『ココちゃん。迎えに来てくれたの?』」 「『んーん。あの、ねー。おはなし、ある、のー』」 ココの身振り手振りの話は、残念ながらワタシには少し理解しづらく、途中からセロがそれを引き継いだ。 「『ココは昔、白の国に居て、そこを出るときに大切なモノを預かったらしい』」 「『それはふたつあって、すでに片方は返して、もうひとつが残った……と本人が言っているんだ』」 「『そー、です』」 そう言ってココは首から提げた瓶のフタを開けて、そこから綺麗な《 ドロップ》〈人形〉石をひとつ取り出してきた。 「『こーれー』」 「『……らしいんだけど。ベルは、見覚えはないかな?』」 ワタシは首を横に振ろうとしたが、ふと考え直した。 いつ、何処で……とは言えない。 でも、ワタシはそれを見たことがあるような―― 「『知っているような……』」 「『しってる、けど、しらな、いー?』」 「『そう、そんな感じが……』」 その言葉に同意すると、ココは手にした《 ドロップ》〈人形〉石をワタシに差し出し、 「『かえ、し、ます』」 と言う。 「『どうして、ワタシに?』」 「『ファーは、ファー、だから?』」 「『…………ワタシがエファに似ているから?』」 そのときココが言いたかったことは、前日の話のおかげで何となく解った。 「『あい。そー、です』」 仮に、ワタシのモデルがエファだとして。 エファのモノをワタシが受け取っていいのだろうか? でも、その《 ドロップ》〈人形〉石には何処か惹かれるものがあって―― 「『……うん、わかった』」 それを預かるつもりで受け取ることに。 そしてその代わり、ワタシはバスケットから別の《 ドロップ》〈人形〉石を取り出した。 「『昨日、ココちゃんたちとカフェで別れたあと、シルヴィアに預かってもらっていたお友達を受け取りに行ったの』」 「『……そうしたらね……』」 フローラを調律した際に出てきた《 ドロップ》〈人形〉石が、ココのモノである可能性がある、と聞かされた。 「『これ、ココちゃんの《 ドロップ》〈人形〉石なの?』」 「『うん、うん。ボ〜クの、いしー』」 どうしてフローラがココの《 ドロップ》〈人形〉石を持っていたのか、ワタシには解らない。 だけど、それが本当にココのモノであるなら、やはり返してあげるべきだと思った。 「『それじゃ、これと交換ね』」 「『ありが、とー』」 いま、私は交換で受け取った人形石を大事に持っている。 そしてそれは、肌身離さず持ちたい衝動に駆られ―― お父さんが造ってくれた靴のかかとにある『隠し』に治めた。 どうしてそんな気持ちになったかは判らない。 でも、こうしていると……とても落ち着くのは、何故? 「(――はぁ……)」 赤の都に向かう列車の中で、ワタシは隠れてため息をつく。 バーミリオンを出発してから、ずーっと続くこの気持ち。 普通だったら、こんな想い……しないのかもしれない。 「(――どうしよう)」 誰かに相談しようにも、その相手が見つからない。 目の前に居るアンジェリナは、論外。話を持ちかけてきたワカバも、除外。 残るセロやライトは、男の子だから相談しづらい……というよりは、あまり期待できない。 そうなると、やはり残るのはワタシ……自分だけ。 「――どうしたらいいんだろう?」 列車の窓から見える風景はキレイで、一時悩みを忘れられる。 でも、前に座るアンジェリナが目に入れば、またすぐに元に戻ってしまう。 「『……いいから、気にしないで』」 「『で、でも……どうしてワカバからワタシがお金を……』」 彼女はいつも急に行動を起こすので、ついていくのが大変。 最初にきちんと説明してくれればいいのに……とは思うけど、これがワカバらしさといえばそこまでかもしれない。 「『これは、感謝祭でもらったお金。人形劇が好評だったから、少ないけどボーナスが出たの』」 「『……みんなで分けるには少ないし、かといって私がひとりでもらうのも悪いから……ベルに全額、あげることにしたの』」 ちゃんと説明はしてもらった。……だけど、それはとても納得できるようなモノではない。 「『そ、そんな!みんなのお金を黙って受け取るなんてワタシにはできません』」 「『あ、勘違いしないで。私の独断じゃなくて、みんなの意思よ』」 「『どういうことですか?』」 「『……うーん。ぶっちゃけるとね。このお金で、アンに何かプレゼントを買ってあげてほしいの。みんなの代表として』」 「『……どうして、ワタシが代表に?』」 「『だって、ベルが一番アンのこと解ってると思うから』」 何の疑いもなく、『当たり前でしょ?』という顔をされると、ワタシはどう答えていいのか? まさか、バーミリオンで起こったふたりの関係をワカバが知るはずもない。 だから努めて冷静に、 「『…………そうなんでしょうか?』」 なんて口にするけど、そんな自分に違和感を覚えるだけだった。 「『もちろん。アンのパートナーだって、自覚してるでしょ?』」 そう言われると黙ってうなずくしかないのに、どうしてもまだ実感が湧いてこず、視線を逸らしてしまった。 「『……とにかく、任せたから!あとはよろしくっ!』」 「『あっ、ワッ、ワカバ!?』」 結局、最後にはお金を押しつけられ……こうして悩んでいる。 任されること自体、イヤではなかった。 むしろ、『彼女のことを一番理解している』のが自分だと言われて嬉しかったぐらい。 でも、プレゼントを選んで渡すとなると……急に難しくなる。 「(――いままで、誰かに贈り物をしたのは……)」 誰かの誕生日には、手作りのケーキをあげるのが定番。 お父さんには普段から、『ワタシが居ればそれでいい』的なことを言われ、特別これといって何かを渡したことがない。 「(――受け取ったお金で、材料を買って何か作るとか)」 ワタシが作るとしたら、作り慣れたケーキやクッキーなどがいいと思うけど、旅先ではキッチンがなかった。 「(――アンジェリナは、何がほしいのかしら?)」 贈られて一番嬉しいのは、やっぱり本人が望むモノだろう。 それなら思い切って、本人にさりげなく尋ねてみるのがいいかもしれない。 ワタシは意を決して、向かいに座る彼女に声をかけた。 「……あ、あの、アンジェリナさん……」 「……ん?なぁに?」 台本を読んでいた彼女は、少し間をおいてから顔を上げる。 「い、いえ……なんでもないです」 「……?いいのよ、気にしなくて。軽く目を通していただけだから」 「あ、はい」 そうは言われても、一度タイミングを崩されたので言葉がなかなか出てこない。 「えっと、アンジェリナさんは何が好きですか?」 「……好きなもの?それは、食べ物とか?」 「はい」 「うーん。シーザーサラダが好きよ。なんで?」 「特に、深い意味は……ありません」 どうしてワタシは、『食べ物』で質問してしまったのだろう?……今回は、料理という選択肢がないのに。 アンジェリナは『?』という感じの表情でこちらを見てから、また台本へと戻りそうになる。 ワタシは会話だけでも続けようとして、 「食べ物以外で、好きなモノは?」 と、次の質問をしていた。 「……何でもいいの?」 「あ、はい」 ……また、やってしまったワタシ。 ジャンルを特定した方が良かったのに、問い返されるままに答えて、今度は答えの幅が広すぎる。 「……そうね、好きなモノ。いまは……」 アンジェリナは何度かまばたきをしたあと、少し赤い顔で、 「……あなた、とか?」 と呟いた。 好きなモノ、あなた。ワタシ…… 「え、あ……の……」 「…………そういう質問じゃなかったの?」 「ち、ち、違います」 それはそれで嬉しいけれど、求めていたのはそんな答えではなくて。 先日のことを思い出したワタシは、自分の顔が熱くなるのを止められず、助けを求めてアンジェリナをうかがう。 が、彼女の方も同じように赤く染まり、すぐさま台本の束で頬を隠すと、逆に照れ隠しの視線を送られてしまった。 「……えっと、何が訊きたかったの?」 「そんな大した質問じゃなくて、ただ……何となく……で」 「……そう。じゃあ、逆に質問する。あなたが好きなモノは?」 「ワタシ、ですか?」 問われるままに、頭の中に何かを思い浮かべようとする。でも、そこに出てきたのは―― 「…………あ、あの……何を言っても、怒りませんか?」 「え、えぇ。あたしの嫌いな毛虫とかじゃなければ……」 「えっ、毛虫がダメなんですか!?」 「……わざわざ確認しないで。名前聞くだけでもダメよ」 身震いしてみせた彼女は、本当に苦手なようで。自分も得意ではないが、そこまで怯える相手でもないと思う。 「それでいま、あなたは何を言おうとしたの?」 「えっ?」 「だから、好きなモノ。答える前に、怒らないかって……」 「それは……あの……アンジェリナさん、です」 「…………あ、あたし?なんで?」 「わかりません。ただ、好きなモノを訊かれて、パッと頭に浮かんだのが……」 彼女を見れば、サッと視線がずらされて。 「あ、あなたねぇ。わざわざ律儀に、あたしを真似なくても」 「そんなことありません。本当にそう思ったからワタシ……」 ……改めて口にするのが、こんなに恥ずかしいことだとは。 「あー、もういいの!そこまで。この話は終わり。いい?」 「……はい」 台本をウチワ代わりに自分をあおぐ彼女は、怒っているというよりは―― 「恥ずかしいから、あんまり見ないで」 「ごめんなさい」 「謝らなくててもいいのに……もう」 ふたりしてモジモジしながら、窓の外を眺めてみたり、うなずいてみたり。 チグハグな行動のあと、ふと前を見れば同じタイミングでお互いが向かい合い、その視線が交差する。 「……気分転換に、読み合わせでもする?」 「……は、はい」 周りに迷惑がかからないよう、小声のリレーを始めるふたり。 アンジェリナのほしいモノは判らなかったけど、ワタシは彼女の気持ちを再確認できて……とても満足。 あとは、みんなのお金で買うプレゼントで失敗しないことを祈るばかりだった。 赤の都――カーディナルは、バーミリオンから約半日の場所。 古くから宗教の聖地として有名だったこの都には、いまも多くの寺院が残されている。 「……青、白……そして、この赤の都!」 ここにきて、とうとう三大都市訪問を達成したことになる。 ……が。別に私たちはただの観光目的ではない。 「(――うふふっ。そして、この赤の都こそが……)」 セロの力を存分に発揮してもらうための訪問地なのだ。 「じーっ」 「……ん?な、なに?僕の顔に何か……」 「違う、違ーう。私の目を見て、セロ!」 私は彼の背をドンドンと叩き、ニッコリ。 きっとこれで気持ちは通じるはず……と、信じている。 「……ワカバ……」 「……セロ……」 「ねーちゃん」 「きーぃ!ライトぉ!」 せっかくイイ感じで見つめ合ってたのに! 「あはははっ、そんなに怒ると身体に毒だぜー」 「誰が怒らしてるのよっ!」 「まぁまぁ、ふたりとも」 いつもいつも同じパターンだけど、今日はひと味違う。 私はライトの首筋をむんずと掴まえ、 「はい、ライト。今日の役目をいいなさい」 とにらみを効かせる。 「ココと一緒に居るから……って言わせたいんだろ?」 いつもは反抗的な弟だけど、こういうときはしっかり味方になってくれる。 「よくできました。えらい、えらい」 本日は大奮発して、昔のように頭をなでてあげることに。 「ちょっ、うわぁ、やめろよ、恥ずかしいから!」 ……久し振りだったので、私も恥ずかしくなってきた。 「……というわけで。セロが図書館に行っている間、この子がココの面倒を見るわ」 セロの役目――すなわちそれは、このカーディナルにある大図書館で調べ物をすること。 それはもちろん、私たちの劇――『天使の導き』に関わってくるであろう歴史的な裏付け調査だ。 「なぁ、ねーちゃん。人に物を頼むときは、もー少しこう、なんかあるんじゃないかな?」 「なによぉ。ライトにはお小遣いあげたでしょ!あれじゃ足りないって言うの?」 正真正銘、私の最後の最後のへそくり、全部渡したのに!? 「ち、違うって!オレじゃなくて、セロにーちゃんにだよ」 「……へっ?」 「だってセロにーちゃん、オレとは違って何にも出ないのに、わざわざ図書館で調べごとしてくれるんだろ?なのに……」 ライトの言いたいことはよく分かった。 セロに頼りっきりで、何も言わなくても調べてもらえるのが当たり前だと思って―― 「いいんだよ、ライト。調査はワカバに頼まれるまでもなく、僕自身がやりたいことだから」 「……あ、あぅ……あのね、セロ……」 「ワカバも気にしない。……というより、もっとハッキリ命令するぐらいの気持ちで言えばいいのに」 「……人にはそれぞれ役割があると思う。舞台ではあまり力になれないけど、図書館での調べ物なら僕に任せて」 「――なんていうか、それぐらいしかできない気もするし」 「…………」 返す言葉もなく、私は彼の足下を見るだけ。本当は『そんなことない!』って、いっぱい言いたい。 言ってやりたい。 セロが居るから、私は頑張ってこられた。 セロが居なかったら、私なんてただのわがままな―― 「…………セロ。調査の方、任せるわ」 「うん、任せて」 「……で。私たちは、私たちにできることをするわ」 私は全力で、脚本を仕上げる。 そして、他のみんなも……いまできることをする。 「よーし、行くわよっ!」 「……ごめんね、アンジェ。練習とかあるのに、何か荷物運びみたいな真似させて」 「いいのよ、これぐらい。その代わり、セロはきっちり調べて。歴史的な考察と裏付けは、あなたにかかってるんだから」 「うん。それはしっかりやるよ」 図書館に入った僕たちは、膨大な量の本を前に呆然とした。 そこにある冊数は、予想していたよりもはるかに多く。 普段、モスグルンの図書館を利用している僕でさえ、息を飲んでしまった。 この本たちに囲まれての生活は、退屈とは無縁の世界だろう。 「ほらよっ、これがそれっぽい本だと思うぜ」 「ありがとう、トニーノさん」 歴史はノンフィクションであり、ワカバのやろうとしてる劇はフィクション。 おまけに、今回の劇ではアインは悪人ではない……ということを前提にする時点で、よけいに創作性が強くなる。 それも、どちらかといえば、観た人に好印象を与えるのが難しい。 下手をすれば、僕がオーベルジーヌで受けたトマトのようなヤジが飛び交うかもしれないのだ。 しかし、可能な限り文献を調べて劇に反映させることで、鼻先で笑われるような胡散臭さは消せるはず。 ……少しでも、リアリティを。 たとえ10人のうち9人から批判を受けたとしても、残りの1人に作品として少しでも認めてもらえたら……と思う。 「なにか、面白そうな文献は見つかった?」 「……あ、うん。劇には登場しないんだけど、当時の食事とか、流行の遊びとか、載っている本があったよ」 「いいわね。時間があったら読んでみたいわ」 アンジェリナは僕が思っていた以上に歴史に詳しく、黙っていても自分で資料になりそうな本を見つけてくれる。 トニーノさんの方は、どちらかというと……質より量といった感じ。 しかし、こういうときは力のある男性が居るのは心強い。 最後は物量で勝負……という可能性も高いのだ。 「……これは、違うわね。こっちの方が時代はピッタリ」 「もし気になる本があったら、そこに置いてね。僕が可能な限り目を通してみるから」 「わかったわ」 「なぁ、こんなんでいいのかい?」 「あっ、それ助かります!あとで探しに行こうと思っていた本なんですよ!」 「俺にはさっぱりなんだけどなぁ……」 そんなことを言いながら、次の本を見繕いに行ってくれるトニーノさん。 やはり、興味のない人にとってはどれも同じようなモノにしか見えないのだろうか? こうして、次々と運ばれてくる本の中から必要そうなモノをピックアップしていくが―― 「なかなか、思うようには見つからないものね」 「うん。本腰入れて探して調べようと思ったら、泊まり込みで何日も……ってなりそうだよ」 「セロは、それ……結構本気で言ってるでしょ?」 「まぁね。言わば、本業みたいなものだから」 そして、ある程度の冊数が揃ったところで一度分類化し、貸し出し許可の下りないモノから順番に調べていく。 こういった専門書の多くは貸し出しが禁止されるモノが多く、さらには読もうと思ったときに限って、他の人が閲覧中……などということもしばしば。 だから、見かけて手にした本で『これは!』というモノがあったら、急いで読むなり書き写すようにしている。 「(――ん?何だろう、この本は?)」 ふと膝元に残った文献の一冊が気になり、持ち上げる。 それは歴史の中で『異説』と呼ばれる類のモノを紹介する本で、ある意味……『ワカバの書こうとしている展開』と同ジャンルになるかもしれない。 ……が、ここに掲載されているモノの多くは面白みに欠け、初めから『ニセモノです』と言わんばかり。 僕はそっと下のテーブルに置き、次の本へと意識を移す。 「……白の国に関する資料は多いなぁ……」 ――そんな中。 「(――あれ、これは……)」 当時の服飾に関する資料が目の端に入った。 「……ちょっと見てみるか……」 普段は歴史といっても人物や出来事について調べているが、たまにはこういったモノの遍歴を見るのも楽しい。 「……ねぇ、少し、探すペース落とした方がいいかしら?」 「えっ、どうして?」 いつの間にか戻ってきたアンジェリナに声をかけられて、びっくりした僕。 「だって、セロの手がさっきから止まっているせいで、そこに本が溜まってるのよ」 「あっ、ごめんごめん!ちょっと待ってね」 思わず読みふけってしまったようで、恥ずかしい。 僕は手早く分類を始め、何とか彼女の持ってきた本を置けるスペースを作る。 「……よし、大丈夫。ごめん。もうペース戻してもいいから」 「分かったわ。でも、その本の山は……」 確かに、単純に省こうと思った本を横に押しやっただけで、何の解決にもなっていなかった。 ……と、そんなところへちょうどよくトニーノさんが。 「ごめんなさい、トニーノさん。そこにある本、調べ終わったので……戻してきてもらえますか?」 「へいへい。任せておくんなさいよ」 僕は何回も頭を下げつつ、少しでも調査を進めるために次の本へと手を伸ばす。 この調査が、あと何日続けられるのか。 自分としては、一ヶ月ぐらいでもいいのだが―― きっと、横に居るふたりは許してくれないだろう。 そして、その指先に触れたモノを見て……手が止まる。 それは、先ほど軽く目を通しただけの『異説』の本。 動かしたときにめくれてしまったらしいそのページに、ある『人物』の名前を見つけたのだ。 「(――ハンス・ブラント?)」 どうしてその名前が気になるのか? 「(――そう言えばココが挙げた名前に、ハンスって人が居たな)」 同じ名前の人物なんて、いくらでも。 それこそ、昔から数えたら一体どれだけの『ハンス』さんが居たことだろう。 だが、ここに載っているハンスという人物は、白の国時代の貴族のひとりではないか……と書かれている。 「…………ハンス・ブラント」 その名を口にして、よく考えてみる。 「もしかしたら……」 この人物が、ココの言う『ハンス』である可能性も…… 「……ここで待てばいいのかしら?」 ベルから指定されたのは、昨日ふたりで台本の読み合わせをした橋の近く。 青の都は海風で潮の匂いも強いが、この赤の都に流れる川は湖からくるもの。 街の水路にまで交易網がある青の都と違い、ここでの時間はとてもゆるやかに思える。 「そろそろ時間だけど……」 時計の針は、約束を5分過ぎていた。自分が待つ分には構わない。 が、ふとした瞬間に『ベルに何かあったのでは?』などと考えてしまい、急に不安な気持ちに襲われる。 「……遅いわね。何処かで道を間違えたりして……」 慣れない旅先では、通り一本隔てて似たような風景があれば、それだけで迷路に迷い込んだも同じ。 「……大丈夫かしら、あの子」 こんなことなら、ホテルの前で待ち合わせてから出かけるべきだった。 「アンジェリナさーん」 「……あっ!」 通りの向こう側から、ベルが何か袋のようなモノを抱えて走ってくる。 思わずあたしが手を振ってしまうと、彼女はさらにスピードアップ。 短いスカートをはためかせながら、元気よく駆け寄ってきた。 「……はぁ、はぁ、はぁ。すみません。待ち合わせに、遅れて」 「いいのよ、そんなに急がなくても」 息を切らす彼女に、あたしは不満をもらす。急がせて転ばれたりしたら、それこそ寝起きが悪い。 「迷っていたの?」 「は、はい」 「(――やっぱり)」 予想が当たったあたしは、ちょっと頬をゆるめる。 「ワタシ、こういうの不慣れで……ごめんなさい」 「……ううん、いいのよ。少しぐらい遅れたって、怒ったりしないから」 「本当は初めから決めてたんですけど、いざとなると、隣のもよく見えてしまって」 「よく見える?」 隣の道が? 「あ、いえ。いまのは忘れてください。それより……」 ベルは胸元に抱えていた袋を背中に回し、 「少しの間、目をつぶってもらえませんか?」 と言ってきた。 「いい、けど……」 軽く目を閉じると、前からガサゴソと音が聞こえてくる。 「(――なに、かしら?)」 「両手を前に出してみてください」 「……両手を?」 おそるおそる言われるままに手を出せば、そこにベルの手が触れる。 「あ、あの、もう目を開けても平気です」 「……?」 そして、あたしがゆっくりと目を開ければ―― 「えっ?……なに、これ?」 ベルの持っていた袋が、あたしの手の上にトンと落ちてきた。 「その……これは……みんなからのプレゼントです」 「みんな、って?」 「感謝祭の人形劇で、好評だったワタシたちにボーナスが出たそうなんです」 「それで、そのお金をみんなで分けず、アンジェリナさんに何かプレゼントをするって決めて……」 「ワタシが代表で何にするかを決めて、買ってきました」 「…………」 「でも、ワタシはこういうことに慣れてなくて……」 「……それで、迷ったの?」 道ではなく、品物で。 「……はい」 手渡された袋の意味が判り、気持ちは少し落ち着いた。しかし、だからといって……鼓動の高鳴りまではおさまらず。 「あ、あのね。こういうのって……すごく、困るの」 「えっ?」 「だって、いきなりでしょ?それに、みんなって言うけど、あたしは知らなかったわけだし」 「…………ワタシも、知りませんでした」 「えっ?だって、これはあなたが買ってきたって……」 「はい。でも、ワタシも『ワカバからお金を渡される』まで知らなくて」 ……ワカバが仕組んだとは。 「やっぱり、迷惑でしたか」 「ううん、そんなことないわよ!」 ついさっき、自分で『困る』とか言っておきながら、ベルの哀しそうな顔を見たら頷くことなんてできない。 それに、本当は……嬉しかったから。それなのに、どう言ったらいいのか判らなくて。だから色々と理由をつけて、逆にベルを困らせてしまった。 「あの……ありがとう」 「……?じゃあ、受け取ってもらえるんですか?」 「当たり前じゃない。そんな、みんながくれるっていうのに、要らないなんて言ったら……罰当たりよ」 旅のメンバーの顔をひとりひとり思い浮かべ、心の中でそれぞれにお礼を言う。 もちろん、あとで会ったら本人を目の前に言うつもりだが、ワカバの反応が読めない。 「(――知らないフリか、それともニヤニヤされるか)」 ……どちらにしても、『ありがとう』の気持ちは変わらない。 「これ、開けてみてもいいかしら?」 「はい。気に入ってもらえるといいんですけど……」 「バカね。あなたが選んでくれたんでしょ?……気に入らないはずないじゃない」 袋の口のテープをほどき、ゆっくりと中に手を入れる。 外からでも何となく判ってはいたが、これは―― 「ワンピース?」 「……どうですか?」 「う、うん」 覗き見るだけでも、とても可愛いデザインだと思う。 だけど、あたしみたいに夏場は長袖シャツを腕まくりにし、実用的な着こなし優先、さらにはあとで妹が着られる服を選ぶ人間には……これが自分に似合うかどうか、判らない。 「……ね、ねぇ。これ、あたしが着ても笑ったりしない?」 「どうしてですか?」 「だって、似合わなかったりしたら……」 「アンジェリナさん。ワタシは似合うと思います」 まっすぐにワタシを見て、ベルは大きく首を縦に振る。 「(――そっか……)」 ベルがわざわざ、似合わないと思う服を見立てるわけがない。 それに、選んでくれた人を前にためらうような真似はダメ。 「……ちょっと、ここで待っていてくれる?そうしたら、ホテルに戻って着替えてくるから」 「……はい!」 満面の笑みのベルに名残惜しさを覚えながらも、あたしはホテルまで走って戻ろうとする。……が。 「走らないでください!転んだら大変ですから」 なんて、さっき自分が思っていた言葉で止められてしまった。 「だって、早く着替えてあなたに見せたいじゃない」 「……大丈夫です。ワタシは逃げたりしませんから」 「(――もう!)」 ちぐはぐな感情にさいなまれ、モヤモヤしながら歩きだす。一刻も早く見てもらいたい。 だけど、子どもじゃないから……言いつけは守らなきゃ。角を曲がったところで振り返り、ベルの姿がないのを確認し、あたしは大きく息を吸って―― 「……早足、早足!」 もうすぐ夕方になる。走らないけど、時間短縮の最大限の努力はする。だって、あたしは大人だから。 「……どんな感じになるんだろう?」 自分が渡したワンピースを着て戻ってくるアンジェリナを思い描きながら、少しそわそわ気味のワタシ。 走らないでください……と言いつつも、本当は早く戻ってその姿を見せてほしいと思っていた。 「(――こんな気持ちで人を待つのは、初めてかも)」 待ち遠しさと、その間に訪れる期待と不安。それらが入り交じって、何とも言えない幸せな気分に。 「(――早く来ないかな……)」 橋から川を眺め、この先がどこへ続くのかぼんやりと考える。 これまでワタシは、ずっとお父さんとふたりで過ごしてきた。それは、とてもとても長い時間。 アンジェリナと過ごした日数なんて、比べものにならない。……だけど。 いま、ワタシがお父さんと離れて寂しいと思うこの気持ちと、アンジェリナが居なくなったら……と考えたときの気持ち。 どちらが耐えられないかと言ったら、答えは『後者』になる。 「(――どうしたんだろう、ワタシ……)」 うまく表現できない感情が、心の中で渦巻いている。……本当は、比べること自体おかしいのに。 それなのに、どうしてワタシは―― 「……お待たせ」 背中の方から響いた声に、ワタシはハッとした。 「……アンジェリナさん、ですよね?」 「もちろんよ。どうして?」 聞き慣れた声が、一瞬別の人のモノに聞こえたのは気のせい?ワタシは深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返る。 「…………ど、どうかしら?」 「………………」 「や、やっぱり、想像と違って……ダメだったかしら?」 彼女の言葉に、ワタシは目一杯首を横に振る。 「……そんなことありません。思った通りです」 本当に、彼女は想像したままの姿をしていた。あのとき、迷ったもうひとつの服でも似合っていたとは思う。 でも、このワンピースの方が絶対に良かった。 自信を持って、 「アンジェリナさんに、ぴったりです」 と言える。 「……ありがとう」 微笑むアンジェリナを見ているだけで、幸せ。この気持ちは、どこから生まれてくるのだろう? 「このワンピース、あなたとお揃いで……ここが出ちゃうの。いままでずっと長袖だったから、なかなか慣れなくて」 自分の二の腕をさすり、苦笑するアンジェリナ。 「……だけど動いていれば、すぐに慣れると思うから」 そう言いながら彼女は、少し離れた向こうの広場を指差し、 「あそこまで、歩かない?」 とワタシを誘ってくれる。 「……はい」 いつものように並んで歩くが、どうにもリズムが合わずにワタシの方が先に進んでしまう。 「……新しい靴、まだ慣れてないのよ」 「あ、無理はしないでください。靴擦れとか痛いですから」 「うふふっ。心配してくれてありがとう」 やがて広場に到着し、その一角に誰も人が居ない場所を発見。 アンジェリナは何かを思いついたように数回頷き、ワタシの肩に手を置いてから、ゆっくりと後退って距離をとる。 「(――なんだろう?)」 そして彼女は静かに両手を広げ、夕焼けの空を見上げる。 「……《シュエスタ》〈天使〉よ。そなたは、この空を飛びたいと思いますか?」 その声は、彼女であって……クリスティナ姫のものにして、ワカバがくれた台本にあった台詞。 それに続くのは―― 「ワタシは、空を飛べない天使。なぜなら、この背には一枚の羽根しかないからです」 「……飛べるか、飛べないかを尋ねたのではなく、わたくしは『空を飛びたいと思うか?』と尋ねたのです」 「飛べるものなら、鳥のように空を舞ってみたいと思います」 クリスティナ姫は、城の外を『空』に見立てて、天使――シュエスタに告げる。 「……わたくしは、そなたが自由に空を舞う姿を見てみたい。そして――」 「できることなら、あとを追い……この城から飛び立ちたいと思います」 城を出て行く天使のあとを追っていきたい……と。 「……それはなりません」 「なぜですか?」 「……姫様はこの白の国の大切な領主です。空に飛び立てば、地に残された家臣や民は嘆き哀しむことでしょう」 「……ならば尋ねます。仮にそなたが本当に空を舞えたなら、残されたわたくしは……どうすればよいのです?」 「それは……」 「家臣であろうと、民であろうと、このわたくしであろうと。残された者の哀しみは同じだと思いませんか?」 「……姫様、ご安心を。ワタシはどこにもまいりません」 「……そういって、いままで幾人もの《シュエスタ》〈天使〉がわたくしの元を去ったのです」 「信じてください」 「なにをもって、そなたを信じればよいのです?」 「…………この羽根に誓って、ワタシは姫様のお側に」 「この背の羽根が一枚である限り、ワタシは空を望みません」 「では、もしも……わたくしが、もう一枚の羽根を与えたら?」 ――クリスティナ姫が『自由を与える』と言ったなら? 「姫様がワタシに『空を舞え』とおっしゃるのなら、喜んで」 「――やはり、そなたも……」 「……そして、必ずや姫様の元へと戻ります」 「――なぜですか?」 「……空を飛ぶ鳥も、その羽根を休める場所が恋しいのです」 ワタシの台詞を最後に、アンジェリナの表情が柔らかくなる。 「……あなた、この短期間でよくそれだけ覚えたわね」 「アンジェリナさんがセロのお手伝いで図書館に行っている間、少しずつ覚えました」 「……そうだったの。偉いわ。さすがあたしのパートナーね」 「そんな、パートナーだなんて……」 「あら、不服なの?それなら、自由に空を舞いなさい」 「……えっ?」 一瞬、彼女が何を言いたいのか理解ができなかった。 「……洒落よ、洒落。いまの一幕の台詞に引っかけたのよ。気づかなかった?」 ……が、その説明を受けて初めて台詞の冗談だったと知る。 「――ま、なんにしても。この調子でがんばりしょう」 「はい」 広場を離れ、連れだって歩き始める。 自然と手をつないだふたりの影は、夕日のおかげでひとつになって。 ワタシたちは、それが消えてなくなる時間まで街を散歩し、ホテルへと戻っていった。 そして、しばらく街を散歩したあとで、そろそろホテルに戻ろうとしたとき―― 「……アンジェリナさん?」 彼女がワタシの左手をそっと握った。 「ねぇ、あなた。この前あたしが渡そうとした《 ドロップ》〈人形〉石のこと、まだ覚えてる?」 「……はい」 アンジェリナがクロムで買ったという《 ドロップ》〈人形〉石。ワタシはそれを受け取らず、そのまま返してしまった。 「でも、あれはココちゃんに……」 「あのときのあたし、『もらってくれそうな人が居ない』とか言っちゃったけどね」 「これは、あなたのために買ったモノなの」 ……ワタシのために。 「だから、ココにはあげられない」 「……アンジェリナさん」 「もちろん、押しつけるつもりはないの。ただ、ね……」 着替えたばかりの新しいワンピースのポケットから、それはもう一度取り出された。 「断られるなら、しっかり『もらってほしい』って口にして、フラれたいな……と思って」 「…………」 あのときのワタシには、もらえる理由が解っていなかった。……だけどいまは、ハッキリしている。 「――受け取ってもらえる?」 「……はい。大切にします」 左手に乗せられた《 ドロップ》〈人形〉石をしっかりと握る。 《 ドロップ》〈人形〉石として、特別強い力を持つモノでもない。 だけどこれは、どんな《 ドロップ》〈人形〉石よりも効果のある―― 「(――ワタシのお守り)」 「……ワカバ。こんなことしてたら、いつまで経っても脚本が終わらないと思うけど……」 「そんなことないわよー。セロが頑張れば、それでいいのよ」 「頑張るって言っても、こんな格好じゃ……」 いくら目の前にタイプライターがあるからって、ワカバが僕の膝に座るような格好をしていたら、『頑張っている』の説得力はどこにもない。 「それにさぁ。どうして僕が脚本を手伝う必要が……」 「いいじゃないの。共同作業とか、嫌い?」 「……好きとか嫌いじゃなくて、これは効率悪くないかい?」 「えーっ、そうかなぁ?私的にはバッチリなんだけどね」 「あのね、セロ。これは気分転換も兼ねているの」 「――ずーっとひとりでお話を考えているとね、正直煮詰まることも多いのよ」 「セロもそういうこと、なぁーい?歴史の資料見て、孤独にレポート書いたりしてるとき」 「そりゃ、たまには……」 手元にある資料だけじゃ足りないとか、二冊の名高い文献に《 そご》〈齟齬〉を見つけて、どちらを信じるべきか悩んだりとか。 「ほらね、そうでしょ。だから、こうして外の風を入れるの」 「僕がその『風の役割』って言いたいのかな」 「……うん。普段書いた文章を読んでもらったりするやつの、延長みたいなものよ」 いままでにはないぐらいの距離で、お互いのぬくもりまでも伝わってくる。 これでは、真剣さもさることながら、適切な判断も難しい。 「(――でも、たまには……いいのかも)」 旅の中で、ワカバは人知れずコツコツと劇の脚本を書き続け、アンジェリナやベルに練習の機会を与えてきた。 もちろん、それはふたりの意見を聴いたりして、少しでも完成度を高める考えがあってのこと。 しかしそうやって返ってきたものは、最終的にワカバ自身が消化し、作品に生かさなければならない。 その途中の苦労とプレッシャーに、耐えられなくなるときもあるのだろう。 「(――僕が息抜きの相手になれるなら、それでもいいか)」 まじめ一辺倒では、お話も固くなるだけ。少しぐらい、笑いが含まれても……いいのかもしれないし。 「……ねぇ、ちょっと。手が止まってるわよ」 「そうそう簡単には、アイディアも浮かばないよ」 「力抜いて、かるーく考えてくれたらいいの」 「――たとえば。クリスティナ姫とシュエスタが、どれぐらいラブラブなのか、とか」 「そんなの、僕には解らないって。だいたい、変にべったりさせたら主役のふたりが困っちゃうよ」 「平気、平気!少しぐらいベタベタしすぎるぐらいで!」 そういってワカバは『姫とシュエスタ、公然で抱き合う』とタイプし、その後ろに僕の名前を書き記す。 「ち、ちょっと!僕、そんなこと言ってないのに」 「いいのー。セロの言葉に刺激されて、浮かんだアイディアだから」 「そんな勝手な……」 「なぁに、文句あるの?あんまり異議申し立てするなら、セロの登場シーン増やすわよ」 ……なんて横暴な。気にくわないから脅してくるなんて。 「ねぇねぇ、どんな経緯から抱き合ったりすればいいと思う?」 「……さぁ」 「アイディア出した張本人なんだから、責任持ちなさいよー」 神に誓ってもいいが、その責は僕に回されるものじゃない。それでも、協力しないわけにはいかないから―― 「何かのハプニングで、とかかな?」 と意見してみる。 「それでもいいけど、パンチが弱いわ。それなら、公然であることを忘れ、昨夜の関係を思い出し、気づいたら……とか」 「……昨夜の関係って……」 「えへへっ。センセーショナルすぎるかしら?」 ただでさえ題材の改変具合が危ういのに、さらに追い打ちをかけることになるのは必死だと思う。 「でもね、セロ。私は、そういうの……あっていいと思うの」 「――やっぱり、ほら。あ、愛する人とは……いつでも、ねぇ?」 妙に照れた声で、彼女がしがみついてくる。 僕としても、さっきからの密着で……ちょっとだけ意識してしまっているから、否定しづらい。 「……ワカバ……」 「あ、あのね。……しばらく、ライト……戻ってこないの」 「……そ、それって……」 「ドアの鍵も……かかってるわ」 「……ワカバ……」 「――セロっ……!」 「『……ねーちゃん!ねーちゃんの大好きなお菓子買ってきたぜー!開けてくれー!』」 「……くっ、こんなタイミングで……う、うぅぅ……」 「怒らない、怒らない」 「いま開けるわよ!」 「……あー、セロにーちゃん!ふたりで何してたのさ?」 「脚本について、意見してもらってたのよっ!」 「…………何で怒ってるの?」 「怒ってないわっ!」 残念な気持ちはあるけど、ライトに少し感謝する。もう数分遅かったら、弁解すらできなかったのだから。 「――買い物なんて、昼のうちに行っておけば良かったな」 タイプライターのリボンが切れてしまい、朝まで待てなくて買いに出たけど……微妙な時間だったから開いてるお店がなかなかなくて。 やっと見つけた文具店で買ったときには、もうこんなに暗くなっていた。 「……なんだ、犬の遠吠えか」 いきなり街角とかでイヌに吠えられたりすると、心臓が止まりそうになる。 でも、私が怖がりだなんて他の人に知られたくないし―― 「……ひっ!」 一瞬変な音がしたけど、特に誰かが居たわけでもない。 こんなときに、セロがすぐ傍に居てくれたらいいのに。 「オバケなんて、居るわけないわよね。実際、居ても困るしー」 目の前にあるホテルもホラーな雰囲気漂わせて……とか、一度考えるともうダメ! 私は早く部屋に戻るため、ホテルのロビーに向かおうとする。 ……が、明るいのは入り口だけ。 少し離れたところはとても暗く―― 「……え?なに、いまの?」 黒い『何か』が、暗闇の中で動いたような気がした。 見間違いだろうと思い、なるべくそっちを見ないように……と、いそいでホテルに入ろうしたとき。 「ずももももぉー」 「ひっ、ひっ、ひぃぃぃ!?」 「そーれー、そーれー」 いきなり目の前に、黒いローブのオバケが現れた! 「う、嘘でしょー!?」 腕が四本の、丸い顔した悪魔が―― 「おーばーけー、だ、ぞー」 地の底から響くような声で自己主張しながら近づいてくる! ありえない!絶対にウソ!そんな非現実的なモノが存在するだなんて―― 「ぎゃあぁぁぁぁーーーーーーー!」 「なぁに騒いでるの?」 ホテルから出てきたのは、シルヴィアが、シルヴィアで! 何でもいいから、そっちに向かってダッシュ、ダッシュ! 「たっ、たすけて!電気!明るくして!」 「オバケが出たのよ!」 「……お化け?そんなの居るわけないじゃない」 「嘘じゃにゃいもん。らって、らって……」 舌が回らない。とことん回らない。 「あぱぱぱ……」 「……ワ、ワカバ?ど、どうして口をパクパクさせて……」 「……う、うじろ……うじろ……」 「……後ろ?へ、へんなこと言わないでよ」 「ア、アタシを驚かそうったって、そうはいかないのよ」 「み、みればわがるわよぉー」 「見ないわ、ぜーったい見ないわよ。そんな手に引っかかるなんて、どんな子どもよ?」 そんなこと言ってる間に、オバケは彼女の肩に手を触れ―― 「……ヒッ!」 「ギ、ギャアァァァァ!」 「まーてー、まーてー」 「く、くるなぁ!こっちくるなぁー!」 「ぎゃー、む、向こう行ってよー!」 「ヒィィィィィ!」 「どーしてこっち来るのよー!」 私、食べてもおいしくないから!絶対、おいしくないもん! 「た、たすけてー!」 「ヒョッヒョッヒョッ……」 「ひっいぃぃ……」 もうダメ!私、セロやライトに会うこともなく―― あれ?私、この白い手に見覚えがある。 それに、この背格好…… 「ムヒャヒャヒャヒャ!」 「……って、その声は……もしかして」 私はオバケに手を伸ばし、その黒いローブを思いっきり引っぺがしてみる! 「……あ。よっ、ねーちゃん!元気?」 「あれ、バレちゃっ、たー?」 「……ココとライト……」 「そ、そうねぇ……正体知っちゃったわよ。うふ。うふふふっ」 なんで私、こんな子どもじみた格好のオバケに驚いていたの? ……それこそ、ありえない! 「やばっ!に、にげ……」 「逃がすわけないだろうがぁ!」 「うぎゃぁぁぁ!何で俺だけ!?」 「どーせ、アンタが考えて、ココを巻き込んだんでしょうが!」 「いでぇ!いででででぇ!」 「…………こ、この……くっ……」 「……ごめん、ねー」 「……い、いいわ。許してあげる」 「(――結構、シルヴィアも甘いのね)」 私だったら、絶対に100倍にして返すところなのに…… 「ただし!この件は誰にも言ったらダメよ!いいわね!?」 「……は、はぁぃ」 どうやらシルヴィアも、私と同じで相当の怖がり。 ……そして、そのことを誰かに知られる方が、もっと怖いに違いない。 私は、ココとライトを引っ立てながら、彼女に妙な親近感を覚えてしまった。 ――正直、あんまり嬉しくないんだけど。 「それじゃ、行ってくるわね」 「はい」 アンジェリナは、今日もセロの手伝いで図書館へ。 ワタシも一緒に……と思ったけど、あとは資料をまとめたりするだけで、人手はそれほど要らないとのことだった。 「あなたは今日、どこかに出かけたりするの?」 「いいえ。ワタシは部屋で台詞を覚えようと思います」 「熱心なことね」 ホテルの入口。彼女は人気がないのを確認してからワタシの頭をササッとなでてくれる。 たったそれだけのことなのに、何だか妙に恥ずかしくて。 「…………ぅ」 無言でアンジェリナを見上げると、向こうも軽く咳払いで誤魔化していた。 「と、とにかく。あまり無理はしないようにね」 「はい」 「戻ってきたら、一緒に練習しましょうね」 「はい。待ってます」 別にこれでしばらく会えなくなるわけでもないのに、何故か名残惜しく思えてしまう。 ワタシは見送り、この場に残る。アンジェリナは旅立ち、ここから立ち去る。 「(――旅立ち?もう戻らない?)」 いくらホテルの前だからといって、それは考えすぎ。 第一、アンジェリナは旅行カバンを持っているわけでもなく、これから少し離れた図書館に行くだけ。 どんなに遅くても、閉館後の夕方には戻ってくるはず。……それなのに、不安だけが大きくなっていく。 「……あの、アンジェリナさん!」 「うん?どうしたの?」 彼女の長い髪が、振り返りざまにふわりと揺れる。その仕草がとても『懐かしく』思えてしまうのは、何故? 「……その、いつぐらいに戻りますか?」 「そうね。だいたい、夕方ぐらいかしら?あ、でも……」 「今日が最後のお手伝いだから、セロがあたしとトニーノに何かごちそうする……って言ってたような」 「……そうすると、戻るのは夜に?」 「うーん。なるべく早く帰ってくるわ。ご馳走って言っても、たぶん何処かで軽くお茶するぐらいだから」 そう言ってくれるのは嬉しかったが、気を遣わせてしまったことの心苦しさの方が大きい。 ――彼女には彼女の、自由な時間があるのに。 際限が判らず、プライベートにまでズカズカと踏み込んでしまいそうで怖い。 「(――ダメだな、ワタシ……)」 困らせてばかりで、いつか叱られてしまうのでは? 「(――ううん。叱られるのは構わない)」 むしろ、その方が自分が悪かったと思えて安心できる。ワタシのわがままが、度を過ぎないうちに…… 「あ、あの……」 「んーもう。なぁに?」 「な、なんでもありません」 「うふふふっ。どうしたの?そんな子どもみたいに」 「えっ?」 「うちの小さい弟や妹たちも、家を出ようとするときに声をかけてくることがあるの」 「……で、そういうときに『なぁに?』って訊くと、いまのあなたみたいな答えを返すのよ」 「…………」 「なにか不安なことや悩みでもあるの?」 「……ありません」 「……あら、そう?もしあるなら、図書館のお手伝いは他の人に頼んで――」 「ダメです、そんなこと」 それこそ、彼女だけでなく他の人にまで迷惑をかけてしまう。 「そろそろ行ってください。待ち合わせの時間、ですよね?」 「……あ、本当!それじゃ、なるべく早く戻るわね!」 手を振るアンジェリナが遠ざかっていく。 ワタシはその姿が角を曲がるまで見送り、しばらく経っても戻ってこないのを確認してからため息をつく。 「(――部屋に戻ろう……)」 もしかしたら、なにか忘れ物をして戻ってきたり、ワタシが気になって……などと、淡い期待をしたことが空しい。 ホテルの階段を上がり、部屋に駆け込む。そして、ふと窓辺から外を眺めたとき。 窓辺に映った自分の姿を見て、ワタシは我が目を疑う。 「(――ワタシじゃ……ない?)」 そんな違和感。そこに居るのは、ワタシのようで、ワタシでない者。向こうがワタシに送る視線には、明らかに精気がなく。 「……あなたは、誰?」 思わず自身の鏡像に向かって、馬鹿げた質問をしてしまう。窓に映るのは、ワタシ以外の何者でもないのに。 「(――ワタシは、ベル……)」 レイン・ヘルマーによって生み出された《シスター》〈人形〉。何処が違うのか判らない。あえて違うと言うなら、それは―― 「……黒い……ドレス……?」 肩紐の形が違う?首元のリボンも違う? 「……そんなはずは……ないわ……」 自分の着ている服が鏡に映ったからといって、それが変わるわけなんてあり得ない。 おそるおそる自身の身体を見る。 当然、ワタシは見慣れた白いドレスを着ている。……それなのに。 「(――それなのに……)」 何度見ても、向こうに居るのは黒いドレスのワタシ。 「あなたは……誰?誰なの?ワタシは……」 ……ワタシは、誰?ワタシこそ、誰なの? 「(――ワタシは、レイン・ヘルマーの娘のベル。あなたは?)」 すると、その問いに対する答えが自分の中に生まれる。 「(――私は、赤の国の人形……エファ?)」 そんなはずはないのに。 エファがワタシのモデルだった可能性はあっても、ワタシが……ワタシがエファであるはずはない。 「……だってワタシには、私には……ワタシには……」 頭が混乱してくる。 「(――ワタシが……エファ?)」 だったら、ここに立っているベルは、誰なの? 「(――助けて!)」 自分が『ワタシ』でなくなる。自分が『私』にとって変わられる。 「(――助けて、アンジェリナ!)」 ワタシはもらった《 ドロップ》〈人形〉石をギュッと掴み、目を閉じ想い人の名を口にする。 「……助けてください、姫様!」 自らの発したその声に、戸惑い、何かを失う。 「(――どうして、アンジェリナの名前じゃないの?)」 「……ど、どうして……?」 開いた手に握られていたのは、アンジェリナからもらった《 ドロップ》〈お守〉りではなく。 そこにあるのは、ココから受け取った――エファの《 ドロップ》〈人形〉石だった。 「……急に曇ってきたわね」 セロたちとのお茶は早々と済ませ、あたしはホテルで待つベルの元へと急いでいる。 「うふふふっ。あたしが男の人とお茶するだなんて」 男性は苦手。だから、もっと緊張すると思っていたのに、抵抗感すらほとんどなく。 「……あのふたりだから、かな?」 誰かに喩えるなら――セロを相手にしていると、何処かリュリュに似た雰囲気が。 「(――物腰の低さとか、自分のことを『《ぼく》〈僕〉』っていうところ)」 トニーノはトニーノで、何故かお母さんの匂いがした。 「(――彼、どことなくお母さんと口調が似てるのよね)」 あたしはクスクスと笑ってしまうが、そんな楽しい気分もこの暗い空が台無しにしてくれる。 「……あっ、もう!」 あと2つ角を曲がればホテルの通りに……というところで、とうとう降り始める。 あたしは強引に走り抜こうかとも考えたけど、それをしたらベルからもらった服が濡れてしまう。 仕方なく大きな建物の軒先へ駆け込み、空が少しでも機嫌を直してくれるのを待ってみる。 「一瞬でもいいから、やんでくれれば……」 ベルのところまで走って戻れる。直線距離なら50メートルもないはずだから、多少は曲がりくねっても……1分ちょっと? だけど、水たまりには注意しないといけない。――もらった靴も、できるだけ汚したくないから。 「……もう、何で雨脚が強くなるの?」 水煙まで上がるほどの豪雨。そんな中を……傘もささずに歩いている人影が目に入った。 「(――ベル?)」 まさかとは思ったが、間違いない。 「どうしたの!?ずぶ濡れじゃない!」 「…………」 雨音のせいであたしの声が届かないのか、ベルはそのまま目の前を通り過ぎようとする。 「ベル!聞こえないの!?」 「…………ぁ……」 一瞬だけこちらを向いた視線も、すぐに離れていってしまう。 「待ちなさい!どこに行くの!?」 もう服が濡れることを気にしてなんていられない。あたしは雨の中へ飛び出し、ベルの元へと向かう。 そして、その腕をつかみ無理矢理に近い格好で振り返らせる。 「しっかりしなさい!なにやってるのよ!?」 「……誰?」 「誰、じゃないでしょ?あたしが判らないの?」 「ワタシは……誰……ですか?」 「…………あなた、ベルでしょ?自分の名前を忘れたの?」 「ベル……そう、ワタシはベル……」 「そうよ、しっかりなさい!」 「…………アンジェリナ……さん……助けて……」 ベルの視点が定まらず、その声は震えを帯びて。 「とにかく、早く部屋に戻って身体を拭かないと……」 「いや、いやです……部屋に戻ったら……ワタシは……」 首を大きく横に振り、泣きながらあたしにもたれかかるベル。 何を怖れているのか判らないが、連れ戻そうとするあたしの力以上に彼女の抵抗が強くなる。 「……ベ、ベル!」 「あぁ、アンジェリナさん!ワタシを……名前で……」 「もうさっきから、何回も呼んでいるわよ!」 「……そう呼んでほしいなら、いくらでも呼んであげるから」 「アンジェリナさん……」 ギュッと抱きつかれ、あたし思わずバランスを崩す。 それでも、ベルにケガをさせないようにと何とか尻餅をつく程度に抑えて―― ふたりして豪雨の中、遊歩道近くに座り込んでしまった。 「ワカバ、ちょうど良かった。聴いてほしい話があるんだけど、いいかな?」 「ん、なになに?」 「そろそろ、調査報告をしようかと思って」 「ホントに!聴きたい、聴きたい!」 ホテル前でセロと会った私は、部屋に戻って話をしようかと思ったが、せっかくなので買い物に付き合ってもらうことにした。 「それで、どうだった?」 セロが図書館に半分こもるような数日、私はホテルで缶詰になって脚本制作。 ほとんどの部分が書き終わり、多少は手を加えても大丈夫なレベルで安定している。 あとはセロからの報告で変更を加える……といったところ。 問題は、最初に目標としていた『なるべく史実に沿った』をどこまで再現できるか?……にかかっている。 「まずは先に結果から言うと……ワカバの望むような歴史を証明できるモノは見つからなかった」 「――つまり、残念だけど『アインがいい人』で終わるのは、史実に沿うという意味では難しいと思う」 「そう……」 「確かにアインは、有能なクリスティナ姫の後見人としての評判も高く、忠義の人で通っていたらしい」 「ただ、それだけに最後の一件が大きくクローズアップされ、現在では『逆賊の代名詞』になってしまったと思われるんだ」 「……そうだったの」 「これは蛇足かもしれないけど、アインをフォローするような文献も、あるにはあるんだよ」 「本当に?」 「うん。でも、それはあくまで推測を元に書かれたモノだから、信憑性には欠ける」 セロが調べたそれらの推測は、どれも最終的には陰謀説へと辿り着くらしい。 「できる人だっただけに敵も多く、快く思わない者たちが彼を罪人に仕立て上げた……と言った感じのモノが多かった」 「…………そうね。可能性があるとしたら、それが一番かも」 「……中にはもう少し踏み込んで、それら陰謀を証明できると言われる書類の存在も確認したんだけど……」 「ダメだったの?」 「今度は、その書類自体が偽造されたモノだ……と言われてて、振り出しに戻されてしまうんだ」 「もちろん、『それらが偽物』だという証明のあやしいモノもあったから、いつかは真実が解き明かされるときがくるかもしれない」 「……ごめん。なんの進展がないも同然な報告で」 「ううん、そんなことないわよ。調べてくれてありがとう」 少し夢見ていた部分はあるけど、現実は厳しい。 「セロが言ったとおりね。……『人間には、過去を変える力はない』って」 最初に言われたその言葉を否定したかったわけじゃない。 ただ、私には私の信じたモノがあって―― 「やっぱり、正直なところ……残念かい?」 「……そりゃーね。私の中のアイン像って、結構ハッキリしてきた時期だったから」 「どんな感じの人なの、ワカバの中では?」 「うーん、そうねぇ。髪は長くて、漆黒のような黒。整った顔立ちで……滅多に笑わない感じかな」 「ふーん。本か何かで見たのかい?」 「ううん。私が夢の中で見た姿に、ちょっと脚色しただけ」 「それで、服飾とかの方はどう?」 「うん。そっちはアンジェに手伝ってもらって、かなり正確なデータが集まったんだ」 セロが見せてくれたコピーの束は、実際に当時の貴族たちが着ていたモノ、歴代の『天使の導き』で使用されてきた衣装まで、数多くの図説や写真などで埋め尽くされていた。 「すごい!これがあれば、舞台衣装はバッチリね」 私は改めてセロの前に立ち、深々と頭を下げる。 「ありがとう、セロ。おかげで『どうするか?』が、私の中で決まったから」 「…………」 「最初の目標からはズレちゃうけど、私は自分の信じた作品を完成させる」 「……そりゃ、本当の歴史とは違うものよ。でも、作品は作品として生かしたいの」 「それに、リアリティだけを追求したら……夢がないもん」 ――過去は変わらない。 悲劇の姫クリスティナが、この世に甦るわけもない。 だからせめて、自分の書く劇の中では幸せになってほしい。 「私、ハッピーエンドを書く。ここだけは、初志貫徹よ」 「…………うん。それがいいと思う」 「よしっ!そうと決まれば。さっそく作品の調整よっ!」 ……見てなさいよ、アイン。 いつかあなたが『イイ人だった』と証明されたときのために、先行で真実を語る脚本を書いちゃうんだから! 「それは、あくまでフィクションとして……ってことだよね?」 「そうよ」 私がそう答えると、セロは目を閉じて何かを考え始める。 「……どうかしたの?」 「たとえ真実がどうであっても、最後はハッピーエンド。……これだけは変えないね?」 「えぇ、もちろん」 頷いた私を見たセロは少しの間沈黙し、やがて、 「実は、話そうかどうか迷っていたことがあってね」 と言う。 「――さっき僕が『陰謀を証明できる書類』って言ったの、憶えてる?」 「そりゃ、ついさっきのことだから憶えてるけど」 「その中のひとつに、『とある人物が書いた日記』があってね」 「そこには、白の国で起きた『ある事件』についての詳細と告白が書かれていたんだ」 「詳細と……告白?」 「当時、彼はアイン失脚の計画に手を貸してしまい、それを激しく後悔する日記」 「それって、陰謀説?」 「うん。その日記を書いた人物の名前は、ハンス・ブラント。青の国に大使として出向いたこともある白の国の貴族」 「……すごいじゃない!それが本当なら……」 「……それが本当なら、ね。当然これは、偽物扱いされている」 「…………偽造ってこと?」 「うん。言ってしまえば、その他の陰謀証明の書類も、これと似たりよったりなんだ」 「じゃあ、ダメじゃない」 「…………うん。モスグルンを出て旅をする前の僕だったら、諦めていたよ」 「――実はね。その日記が本物と証明できるかもしれないんだ」 「…………何を根拠に?」 「答えは、ココが持っている」 「…………ココって、ココ?」 「うん。ココは、白の国で起きた事件の生き証人。そして、ハンスの日記が本物であると証明できるモノを持っていた」 「な、なぁに、それは?」 「破かれた日記の1ページ。そこには『CoCo』のサインと……裏には、他のページにつながる文章があったんだよ」 「……す、すごい!すごいじゃないの!?」 「紙の材質やその古さ、使われたインク、破れた箇所の符号。それらがぴったり合えば……歴史は変わるかもしれない」 「で、で、いまその日記はどこに?」 「……ごめんね。さっき図書館を通じて、日記原本との照合鑑定を依頼してきたから、手元にはなくて」 「あうぅ。で、でもいいわ!それで……」 その日記が本物と分かれば、アインの無実を証明できるかもしれない! これは、すごい発見よ!! 赤の都を旅立ってしまえば、あとはもう自分たちの故郷――モスグルンへと戻るのみ。 でも、いざ帰るとなると……これまでの旅が急に懐かしく思えてきた。 出立を前に、これまでのことを振り返る。 白の都までの切符買ったりとか、セロに裸見られたりとか、思い出すのが失敗ばかりってところが寂しいけど―― その中でも、ひとつだけ気になる思い出があった。 それは、夜のドルンシュタイン城での出来事。 私が城壁に登り、セロが愛想を尽かして居なくなったと思ったら、ちゃんと下で待っていてくれて。 最後に《 ・ ・》〈弾み〉から彼の頬にキスしちゃったとき、確か『ありがとう』って言われた。 あのときのお礼の言葉の意味が、私にはすごく気になる。 でも、こんなことって改めて聴くのは難しい。 それに、時間が経てば忘れられてしまう可能性もある。 「……チャンスって、なかなかないのよね」 あるとすれば、まだ旅行をしている『いま』しかない? ……そう考えた私は、セロ宛てに『ロビーで待ってて』とメモを書いてポケットにしまった。 きっとセロのことだから、このメモを見たら私が呼びに行くまで待っているはず。 駅前集合の待ち合わせだから、みんながホテルを出たあとにこっそり戻り、横を並んで歩きながら『あの言葉』の意味を尋ねる。 そうすればどんな答えがきても、『みんな待ってるから』の一言で走り出し、うやむやにできそうじゃない? 「(――ナイス、私!)」 そして、いざ実行に移そうと、彼の泊まっている部屋の前に立ち、ドアの隙間からメモを入れようとしたが―― どうしても、勇気が出ない。 「……あーやめやめっ!」 だいたい、気づいてもらえなかったら寂しいだけじゃない! 「こんなの、こうしてやるっ!」 私は哀しいメモをロビーのゴミ箱に捨て、一足先に駅へとひとりで向かった。 「……おかしいわね。あとはセロだけなのに」 他のみんなは揃っているのに、何故か居ない。 普通に考えれば、ココはセロと一緒のはずだから…… 「ねぇ、ココ。セロはどうしたの?」 「セーロー?ホテルー、いるよー」 「なんでっ!?もう、出発の時間近いのよ?」 「えーっ。でも、セーロー、まつ、ってー」 「待つ?待つってどういうこと?」 「メモ、わたし、ましたー」 「も、もしかしてそれって、私がロビーで捨てたヤツ!?」 「……あい」 ココは何かを拾う動作をし、私に向かって右手を差し出す。 もう、それ以上何も訊くまでもない。 私は急いでホテルに戻る! 「あぁ、ワカバ!ずいぶん遅かったね」 「遅かったじゃないわよ!遅いのはセロでしょ!」 「だって、このメモに……」 そんな悠長な会話をしているヒマなんてないの! 「あう、どーしてそんな、ああ、もう!早く行きましょう!」 時計を見たら、もうあと数分で出発じゃないの! 荷物をライトに預けてきた身軽な私は、セロの腕を掴んで、駅を目指してまっしぐら。 だけど…… 「……あ、あははは。またおいてけぼりだ」 駅前はおろか、ホームにも誰も居ないなんて。 「……ううぅぅ。また私のせいじゃないのぉー」 白の都から出るときだって、原稿忘れたって騒いで…… 「まぁ、いいさ。次の列車で追いかけようよ」 みんなもそうするだろうと思って、先に行ったんだよ……とか言いながら、ズボンのお尻を叩くセロ。 でも、その表情が、どことなく落ち着かない感じに変わる。 「……どうしたの?」 「あのさ、ワカバ。お金持ってる?」 「小銭ぐらいならね」 だけど、セロがわざわざそんなことを聞いてくるってことは。 わざわざお金のことを訊いてくるってことは―― 「もしかして、セロ……旅費は?」 「……うん。先に行ったライトとココに荷物ごと渡して……」 「…………ってことは、私たち……」 「ワカバの小銭が頼り。……銀行通帳とかも、一切なし」 「なっ、なんでこーなるのーぉ!?」 ぜったい私、誰かに呪われてる! 僕たちは体験してみて、初めて分かったことがある。 「……ヒッチハイクって、なかなか難しいんだね」 「……そうね」 いざとなったら、レインさんを頼って……とも考えたけど、旅費に始まりオーベルジーヌの一件など、これ以上金銭的に頼るのは……正直はばかられる。 それならヒッチハイクで気ままに!……とかワカバが言い、僕も『旅の醍醐味だね』とか安請け合いした結果が、これ。 気前の良いおじさんが乗せてくれたまでは良かったけど、途中でエンストを起こして立ち往生。 国道に出れば車も捕まるさ、という言葉を信じて歩いたけど、どうやら道を少し間違って教えてくれたみたいで。 かれこれ1時間、のどかな風景が続き……横を通った車は、風景に似つかわしくない二人乗りのオープンカーなんてオチ。 僕たちとしては、そろそろ宿泊できそうな場所を見つけたい気分だけど―― 「……何処にも、村ひとつ見えないね」 「こうなったら、次の車!何が何でも捕まえましょ!」 しかし、その車が一台も来ないことには手の打ちようもなく。 原因としては、やっぱり僕たちが公道からそれた田舎道を歩いていることにありそうだった。 「……ねぇ。もし野宿になっても、恨まないでね」 「うん。もう、ここまできたら……どうにでも……」 やがて日もとっぷり暮れ、夜になった頃。 僕たちは、やっと村らしき場所に着いてホッとする。 「どうする?」 「……そうね。こんな深夜にドアを叩くのも悪いし……」 時計を見れば、もう零時を回って次の日になっていた。 「朝まで我慢して、朝食だけお願いしようか?」 「……うん、決まり。それまでは、これ借りましょ!」 ワカバが指差したのは、畑の横にある荷馬車だった。 「こうして夜中にワカバとふたりって、お城のとき以来だね」 「……うん」 白の都、ドルンシュタイン城。 「あのときは、ビックリしたよ」 訪れたとき、改修工事の真っ最中で城内に入れず―― 「……キスのこと?」 「えっ、いや、そうじゃなくて!その前。城壁に登るって言い出したときのこと」 いきなりすごい単語を口にされて、僕は内心慌ててしまった。 「……なんだ、そっか……」 寂しそうな顔をするワカバを見て、そんなに強く否定することもなかったと思い始めた。 「……そりゃ、キスもビックリしたけど」 ちょっとフォローしてみたけど、さすがに間に合わなかった。 僕は仕方なく、無言で夜空を眺めるワカバに倣う。 そして、ふとアゾでトニーノさんに言われたことを思い出す。 「『でもまぁ、何においても。まずは相手に気持ちを伝えねーと』」 「『向こうも、誰かさんの本音……待ってると思うぜ』」 あのときはワカバと別れ別れ。 いまはこうして、すぐ傍に―― 「……ねぇ、ワカバ。もしも、なんだけど……」 僕は、勇気を出して彼女に尋ねる。 「もう一回、キスして……って言ったら、怒る?」 トニーノさんの言葉を思い出し、素直な気持ちを口にする。 「怒るわけないでしょ。でも、どうして?」 意外な答えと跳ね返しの質問に、ドキドキしてしまう。 「いや、ほら。……あのときは、偶然っていうか、その……」 「……バカ」 ……えっ? そっと頬――それも唇スレスレに柔らかい感触が訪れた。 「これで満足?それとも、もう一回?」 「うん。もう一回っていうか……」 僕は、そっと彼女の首筋に手を回し、正面からしっかりとキスを返し、 「……ワカバ。好きだよ」 と、僕の気持ちを正直に告げる。 もし、嫌がられたらそれまで。 だけど、僕はずっと前からワカバのことが―― 「……もっと早くに聞きたかった」 「ごめんね、言い出すタイミングが見つからなくて」 本当に、こんなときでもないと言い出せない自分がちょっとイヤになる。 僕が喧嘩を嫌うのは、その相手と仲直りできなかったときが怖いから。 ワカバとライトを見て、いつも羨ましく思った。 争っても、争っても、最後にはいつもお互いを理解している。 僕もワカバとそんな関係になれたら……と思って、思って、ただ、思うだけだった。 もし告白してダメだったら、元の関係にも戻れないんじゃないか……と考えてしまい、ずっと躊躇ってきたのだ。 「バカ!いつだって良かったのに!白の都で離れ離れになってから、すごく寂しくて……」 ……でも、いまは違う。 こうして自分の気持ちを伝えてみて、初めて知った。 ワカバの言うとおり。 自分の気持ちに正直になるのは、いつだって良かったんだ。 壊さないようにと思うがあまり、疎遠になったりしたら―― それこそ、大切なモノを失ってしまう。 ――いま、こうしてワカバを抱きしめて、そう悟った。 「……とりあえず、助かったよね」 「……そうね」 ……助かったと言えば助かった、のかもしれない。 昨日の夜、畑の横に止めてあった荷馬車が、いまは私たちを運んでくれているのだから。 そう、私たちはこの荷馬車を無断借用して―― 「…………あ、あのさ……昨日のことなんだけど」 「……あぁ、あう」 「(――蒸し返さないでよぉ)」 顔から火が出るほど恥ずかしい。 だって、セロと私は……あんなことしちゃって…… 「……ごめんね」 「ばっばか!その話は忘れて」 「いや、その……」 「あ、あのさ。昨日のは……その、一時の気の迷いとか……」 「本気だったって!嘘じゃないさ」 「あ、そ、そう。本気だったんだ」 「……怒ってる?」 「そ、そんなことないけど……」 「ねぇ、セロ。やっぱり、ああいうこと……好きなの?」 「……嫌いじゃないさ。僕だって」 「そ、そうなの」 「(――わ、私も……嫌いじゃないけど)」 肯定されても、否定されても続く言葉は口にできない。 「僕だって、男だし……」 「相手が女の子なら、誰でもいいとか?」 「……そ、そりゃ相手がワカバじゃなかったら、あんなことしない!」 私は、あせって口元に指を立てる。 いま、私たちを運んでくれているおじさんに合わせる顔がないような会話してるんだから! 「……あ、ご、ごめん……」 「私の方こそ、変なこと訊いてごめんね」 「(――気まずいな……)」 Hしちゃったあとの恋人同士って、こんな気分を味わうものなのかしら? 小説とかだとみんな格好良く書かれてて、あんまり俗っぽい部分は省かれているから…… 「ねぇ、このことは……ライトには内緒ね?」 恥ずかしいってよりは……何かこう、少し後ろめたい。 それにまだライトは子どもだから、耳に入れる自体がまずい。 「……そうだね。しばらくは」 「(――しばらくって?いつかはバラすつもり?)」 私、一生ライトにからかわれちゃうかもしれないじゃない! 「あ、そうだ!それと……」 「劇が終わるまでは……控えようか」 「う、うん。私もいま、そう思ってたところ……」 きっと、あんなことやこんなことしてたら……他のことが何にも手に着かなくなっちゃう。 私たちは、ふたりして赤い顔をしながら荷馬車に揺られ…… 「……やった!着いたよ、着いたんだよワカバ!」 辿り着いたのは、モスグルンじゃなくて手前のシェンナ。 あとはお母さんに電話をして、迎えに来てくれるのを待つだけだけど…… お母さんも結構トラブル・メーカーだから、とても心配。 赤の都から『シェンナ』を経て、あたしたちはワカバたちの故郷――モスグルンへとやってきていた。 ……セロとワカバが遅れてやってくるまでの数日、あたしとベルは質素なホテル住まい。 そしてワカバが帰ってくるなり、あたしとベルは―― 彼女の住む家に半ば強引に連れて行かれてしまったのだ。 「……今日は、朝から疲れたわね」 「……は、はい」 演劇祭本番までの滞在をどうするかで悩んでいたとき、声をかけてくれたのはワカバ。 「じゃじゃーん。ここが私たちの家なの。どう、びっくり?」 あたしとベルが案内されたのは、モスグルンの駅から少し歩いたところにあるパン屋さん。 旅の途中、姉弟から色々と聴かされていたけど、それは噂に違わぬ立派なお店で、軒先の窓から覗く棚のパンは、どれもおいしそうなモノばかりだった。 「アンやベルにはお世話になってるし、これからもなるから、もーう好きなだけ泊まっていって」 「お店のパンも食べ放題!……って、ココ並の胃袋とか持ってないわよね?」 「いいの、勝手に安請け合いしちゃっても?かーちゃんに相談とかしなくて」 その一言は、あたしたちふたりをドッキリさせるには充分な爆弾発言だった。 「……ライト?私が何も考えずに言ってると思ってる?ちゃーんと、報告済みよ」 「へーっ、めずらしい」 「なんですって!?」 「ワカバ、落ち着いてください」 「そうよ。せっかく戻ってきたんだから……」 なぜかあたしたちふたりが、セロの真似事をして落ち着かせ、 「……とにかく、荷物だけでもおかせてほしいの。ねっ?」 と言って、早々に自宅へと上がらせてもらった。 「ただいまーっ。久し振りの我が家、サイコー!」 二階にあげてもらうと、外から見たときに予想したスペースよりもずっと広いリビング。 「テレビ観ようぜー」 「なに言ってんのよ?ふたりを案内するのが先でしょ?」 めずらしくも正論を口にしたワカバが案内してくれたのは、家具は少ないとはいえ、ベッドもしっかり備え付けられた立派な部屋で、ふたりは少し気が引けてしまった。 「ここの部屋を自由に使って。いまは何もないけど、あとで必要なモノは買ってくるから」 「そうはいうけど……」 「遠慮しないでっ」 「そうそう。かーちゃんはいま忙しいから、挨拶とかはあとでいいぜ」 「あ、急に偉そうな態度とって!」 「ねーちゃんなんか、年がら年中じゃんか」 「むきーっ!」 躍りかかろうとするワカバをあたしが抑え、ベルにライトを任せたり……と、大変な時間を過ごした。 「(――やっぱり、シルヴィアたちと同じように……)」 「『……うちらは、しばらくホテル住まいね。ちょうどいま、トニーノが手続きしてるところ』」 「『アンタたちも?』」 「『ううん。あたしたちは、ワカバの家にご厄介になるかも』」 「『そっか。じゃ、なにかあったらホテルに電話入れてよ』」 ……あのとき、その足で彼女について行けば。 「……あたしたち、これで良かったと思う?」 ワカバの家に宿泊させてもらう……という未来について。 「……どうでしょう?でも、ワカバの家に泊まると毎日が楽しそうですよ」 「そうかしら?たまにならまだしも、あれが毎日続くのよ?耐えられる?」 最初のうちは、それなりに気を遣って控えてくれるかも。 だけど、きっと慣れてきたら、あたしたちに構わず……あの《ふたり》〈姉弟〉は争うことだろう。 「たぶん平気です。ワタシも、喧嘩した村の子どもたちの間に入ったりして慣れてますから」 それが、ワカバとライトに通用するかどうか。 「……それでも、限度ってものがあるわよ」 あのふたりを見ていると、うちの妹や弟たちを思い出す。 「アンジェリナさんは、ワカバやライトのこと……嫌いですか?」 「……そんなわけないけど……」 「ですよね。ふたりの仲裁に入ったときのアンジェリナさん、何だか嬉しそうだったから」 「……そうかしら。これでも女優の卵だから、作り笑顔かもしれないわよ?」 「そんなことありません。アンジェリナさん、優しいから」 まったく疑わない視線に耐えられなくなり、あたしは思わずベルのほっぺたをつまむ。 「はぅはぅ!」 「……ほーら、あたしだって意地悪するんだから。こんな風に裏表あるのよー」 「うぅぅ。わざとそんなことしなくてもいいのに……」 「わざとじゃないわよ。本気よ、本気」 ……と言ってみたものの、これ以上力を加えることもできず。 「……ごめんね、痛かった?」 「い、いたくありま……せんでした」 「本当は痛かったでしょ?正直に言いなさい」 「ちょっとだけ」 人差し指と親指で表現された隙間は、本当にちょっと。それでも、やっばり痛い思いをさせたのは悪かったと思う。 「……うーん。はい、どうぞ」 あたしは仕返しを受けるため、自らの頬を彼女へと差し出す。 「…………えっと、ここで、ですか?」 「早くしなさい」 いつまでもこんな格好していると、あたしが間抜けで…… 「……えっ?」 ふんわりとベルの髪が頬に当たり、続けて温かい唇の感触が。 びっくりして横を向けば、彼女の顔が遠ざかっていくところだった。 「…………な、な、なんで?」 「えっ?キスしてほしかったんじゃないんですか?」 「どうしたら、そうなるの?いまのは、つねったお詫びにやり返していいわよ……って意味でしょ」 「……あ、考えもしませんでした」 無実のベルをつねった挙げ句、キスまで求めたあたしって。 ……だけど、予想外のキスにちょっと得した気分。 「お返しのキス、いる?」 「…………は、はい」 今度は解るように尋ねたおかけで、勘違いはなし。 あたしは、そっと彼女のおでこにキスをし、その頭を静かに抱き寄せる。 「……ねぇ、ベル。あなたに訊きたいことがあるの」 「はい。なんでしょうか?」 「この劇が終わったら、あなた……どうするの?」 旅の途中から気になりだしていた疑問は、日に日に膨らんでいた。 「ワタシ、ですか?ワタシは……家に帰ります」 ごくごく当然の答えに、『やっぱり』としか言いようがない。 彼女にはお父さんという、かけがいのない家族が居る。 たとえ人間と《シュエスタ》〈人形〉という関係でも、しっかりした絆があるのだから。 「アンジェリナさんは、どうしますか?」 「あたしは、家には戻らない。……あ、誤解がないように先に言うけど、別にイヤで帰らないわけじゃないわよ」 「……解ってます。弟さんや、妹さんのため……ですよね?」 こういうときは、しっかり通じるのね。 「まぁね!それにひとり分食費が減れば、少しは楽になると思わない?」 「…………アンジェリナさん」 「それでね!あたしが女優になって、お金を稼いで、それを家に送れば……もっと楽になるじゃない」 ――そう。あたしの夢は、それだった。 幼い頃は貧乏が嫌いで、裕福な家の両親の居る子どもを見て、ねたましく思ったこともあった。 だから将来の夢は、ストレートにお金持ち! でも、大きくなるにつれて少しずつ考え方が変わり、いつか自分のためだけでなく『誰かのためになることをしたい』と思うようになった。 そして自分が選んだ道が『演劇』だった。 役になりきる。自分には、それが楽しい。 観客に良い時間を提供し、それでお金がもらえるなら、誰に文句を言われることもない。 あたしはそのお金で、家のみんなを幸せにする。 それができたら―― 「(――家を増築して、あたしの住む部屋を作るのもいいかも)」 ……なんて、大きな夢を持ってみたりして。 「がんばって、女優になってくださいね」 「……うん」 「そうしたらワタシ、必ずアンジェリナさんの舞台を観に行きます」 「ありがとう。それなら、一番いい席のチケットをあげるわ」 「……ダメです。それは、家族の方にあげてください」 「それじゃ、二番目にいい席を……」 「……それも、家族の方に。ワタシは、もらえなくても必ず観に行きますから」 嬉しいことを言ってくれるベルの頭をそっとなで、あたしは空を見上げる。 ――いまは、そんな夢のためにも。 あたしは、演劇祭での初舞台を成功させなければならない。 俺とシルヴィアは、モスグルンでの生活を楽しんでいる。 なんといっても、この土地に来るのは初めて。 昔は演劇祭に興味があって何度か訪れてみようとしていたが、最近ではそんなものがあったことすらも忘れていた。 ……そういう意味では、俺は誘ってくれたアイツらに感謝するべきだろう。 「よう、おふたりさん。どうしたんだい?」 ホテルを出て、その辺りのカフェでぼんやりしようか……なんて考えていた矢先、向こうからセロとライトのコンビがやって来るのが見えた。 どうせだから、感謝の気持ちを込めてコーヒーの一杯でもおごってやるか……なんてな。 「あ、トニーノさん。ちょうど良かった。いまから練習に?」 「……練習って、明日からじゃなかったのかい?」 「あっちゃー。ねーちゃんの言うとおりだ!」 ……ワカバの? 詳しく話を聴けば、練習開始は明日ではなくて今日から。俺とシルヴィアは、ふたりして勘違いしていたことになる。 「今日、大丈夫ですか?もし、トニーノさんたちが来ないと、きっとワカバが――」 そこで言葉を濁したくなる気持ちは、よーく解る。……きっと、こんな感じに言われたに違いない。 「『なーにやってんのよ、あのふたりは!セロ、暇そうね?首に縄つけてでも連れてきなさい!』」 シルヴィアも似たようなもんだから、嘆くな同志よ。 「もしトニーノたちが来ないと、あとでネチネチ言われるぜ」 ……だろうね。弟くんが言うんだから間違いなさそうだ。 「オーケー。その前に、シャワーだけいいかな?」 「……えぇ。シルヴィアさんも一緒に?」 当然、アイツも居ないと話にならない。俺はふたりに少し待つように言い、急いでホテルの部屋へ戻る。 そして、手短に身繕いをしようと浴室に入ったが、やっばりシャワーだけってのも。 そう思ってバスタブにお湯を張り、烏の行水程度の入浴を楽しもうとすれば―― 「ねぇ、トニーノ。悪いけど……バスタブ、ゆ・ず・り・な」 シャンプーの真っ最中に、そんな声が聞こえてくる。何ておいしいシチュエーションだろう。 朝からふたり、せまい浴室でイチャイチャするのも悪くない。……外で待っているふたりには、あまり嬉しくない話か。 「一緒に入るかい?」 「……いいわね。でも、今日は『上』だけよ」 ……上だけ?その微妙な言いまわしに、妄想が膨らむ。 「……そいつは嬉しいねぇ……」 俺は急いでシャンプーを洗い流し、彼女の提案する『上』をいまかいまかと待って―― それが何であるかを知り、ため息しか出なかった。 「ふふふ、ふん、ふーん……朝風呂って、最高ね」 もう時間はとっくにお昼だけど、明るいうちにバスタブへ身を沈めたときは『朝』の扱い。 贅沢ってほどじゃないけど、こんなのんびりした時間は最高。 「ま、トニーノには悪いことしたけどねー」 アタシは頭に乗った帽子を軽く摘み、クスクスと笑う。 「なーにを期待したのかなぁ、トニーノは?」 一緒に……と言われて、それも悪くないと一瞬だけ思った。でも、そんなことをしたら変な汗かいて、そのままベッドに戻ることにもなりかねない。 「……ま、最近ご無沙汰してたからねー」 きっとシャンプー中のトニーノも、一時の夢を見ただろう。 「……う・え・だ・け」 片手で浴槽の泡をすくって吹けば、危うくトニーノの帽子を落としそうになる。 「あぶな、いっ、と、ね」 アイツにとってはお気に入りだから、下手に汚したら―― 「(――怒るかしら?)」 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。なんだかんだ言って、トニーノはアタシにぞっこん。 自意識過剰ってわけじゃなくて、それはもう充分に理解している。 ……だからこそ。何かトニーノの気に障るようなことをしても、案外許されてしまいそうな気がしたのだ。 「……そうだよねぇ。あのときだって……」 トニーノが、照れ隠しに差し出したペアリングの片割れ。それをアタシは、次の日に『なくした』と告げた。 そうしたら彼は、ちょっと肩をすくめただけで……お終い。 「文句のひとつでも言ってくれたら、アタシも楽だったのにね」 トニーノにとって、自分はどんな存在なんだろう? 勝手ばかりのアタシなのに、いつもついてきてくれる。 「あ、そっか。愛されてるのかぁー」 ふざけてそんな言葉を口にしてみたが、急に恥ずかしくなった。 「バカみたい。こんな女の、どこがいいんだろ?」 本人目の前に、自分の気持ちを素直に言えない女なんて―― 「『トニーノ!いつになったら来るんだよー』」 「……ん?いま、何か声がしたわね?」 空耳かと思ったが、そうじゃない。 「『トニーノさん?シャワーだけって言ってましたよね?』」 「……ライトとセロ?」 ちょっと遠いが、確かにふたりの声だ。でも、何でふたりがアタシたちの部屋に来るの? 「……あれ?今日って何かあったかしら?」 練習は明日のはずだから、その打ち合わせとか連絡とか? アタシが、ぼんやりとそんなことを考えていたら――突然、バスルームのドアがガチャリと開いた。 「もう、トニーノ。アンタ、部屋に入れるのはいいけど……」 「…………ぁ……」 「……い、いっ?」 「…………うっ!」 ドアの向こうに居たのは、トニーノじゃなくて。目を見開いた男の子――セロとライトのふたり。 「すっ、すみません!」 「ごっ、ごめんよっ!」 「……いっ、いっ……」 落ち着け、アタシ!こんなとき、取り乱したら余計に恥ずかしいだろ? 「……いっ、いらっしゃい。どうしたの、ふたりとも……」 「……あ、あの……今日は練習の日で……」 「オッ、オレたち、ねーちゃんに言われてふたりを迎えに!」 「あ、今日だったっけ?」 「そ、そうです!それで、トニーノさんがシャワーだけって言ったので、外で待ってたんですが……」 「待ちきれなくなって、部屋まで来たのね?」 「う、うん!だっ、だから覗くつもりなんて……」 「……いいのよ、ボウヤ。でも、寒いから……閉めてくれる?」 「はっ、はい!失礼しました!」 ふたりがバタンとドアを閉め、ドタドタと走り去る。 「『あーっ、トニーノさん!どこに行ってたんですか!』」 「『……煙草買いに?それなら、鍵しめとけよー!』」 そんな声を聴きながら、アタシはゆっくりと帽子を持ち上げ、泡の上でヒラヒラ。 「…………ふーん、そういうこと」 かるーく落としてやろうかとも思ったけど、やめておく。 「帽子に罪は、ないもんね」 当然、罪があるのは……ご本人様。 「…………トニーノ!ちょーっと、いらっしゃーい!」 練習ではアタシが教わる側だけど、いまはこっちが教える側。みっちり、基本的なことを叩き込んでおく必要がある。 「(――アタシの裸は、そんなに安くないってことをね!)」 ボク、ワカバと一緒です。 「……ココ。憶えていること、順番に話してみてくれる?」 ワカバが、昔のお話、聴きたいんだってー。 「いい、よー。でも、なかなか、おもいだせない、のー」 「うん、ゆっくりでいいの」 「えっと、ねー。ボ〜クは、しろのくに、いきましたー」 ベルから石を返してもらったから、少しずつ喋れるようになってきたの。 でー。なんとなく、思い出してきたんだ。 ふかふかのベッドとか、エファとか、姫様とか。 だから、ボクはワカバに話します。 「あのねー、アインって、かみ、ながーいの。ヒメサマ、ぐらーい」 「エファはー、ハネがあるの。ボ〜ク、ネジだけど、エファ、しろいハネ」 「ダイジーンって、すっごくビックリするひと、でしたー」 ワカバが何度も頷くから、ボクも頷くね。うんうん。 「デュアはー、おかし、すきー」 「ヴァレリー、ちょっと、こわいー」 「ハンスには、サイン、しましたー」 それから、ボクはいろいろお話してて―― 「あー、あのね。デュアが、ねー」 ボク、門のところでデュアとお話して、石を貸してあげたの。 このまえ、ベルが返してくれた石ね。 「デュア、ゲンキになれたのか、なー?」 どうなったのか、ボクは知りません。でもね、セロが教えてくれたの。 デュアも、アインも、ヒメサマも、エファも。 みんな、みんな、もう昔の人だから、会えないって。 ……仕方ないよね、それは。 「……それで、ボ〜クはおしろを、でましたー」 「アインがね、さいごに、ちゅーしてくれたのー。きゃー」 「でもね、でもね。ボ〜ク、『バイバイ』いえなかったの」 アインに頼まれたおじさん、すごいスピードで馬車を走らせたから。 「………………ごめん。ちょっとだけ、席外してもいい?」 「こっち来ないで!」 「ごめん、ココ。いまは、私のこと見ないで」 「ワカバ、ないてるのー?」 「……ち、ちょっと目にゴミが入っただけよ」 「…………ごめん。やっばり……こっちに来て」 「あい」 「私が泣いたの、ぜったい内緒だからね」 「ない、しょー。やくそ、くー」 ボクが頷くとワカバ、急にギュッて抱きしめたの、ギュッて。 「う、わぁー。どーした、のー?」 「……ココ。あなた、ほんとうに、大変、だったの、ね……」 「んーん。へいきー」 「あのねー。アインは、デュアがすきでー」 「デュアは、アインのこと、すき、なんだよー」 「カバーのげきも、おなじー?」 「私の劇では、アインとデュアは結ばれないけど……」 「そんなことしなくても、きっと……ふたりは……」 「(――そうだと、いいよ、ねー)」 赤の都から『シェンナ』を経て、あたしたちはワカバたちの故郷――モスグルンへとやってきていた。 ……セロとワカバが遅れてやってくるまでの数日、あたしとベルは質素なホテル住まい。 そしてワカバが帰ってくるなり、あたしとベルは―― 彼女の住む家に半ば強引に連れて行かれてしまったのだ。 「……今日は、朝から疲れたわね」 「……は、はい」 演劇祭本番までの滞在をどうするかで悩んでいたとき、声をかけてくれたのはワカバ。 「じゃじゃーん。ここが私たちの家なの。どう、びっくり?」 あたしとベルが案内されたのは、モスグルンの駅から少し歩いたところにあるパン屋さん。 旅の途中、《きょうだい》〈姉弟〉から色々と聴かされていたけど、それは噂に違わぬ立派なお店で、軒先の窓から覗く棚のパンは、どれもおいしそうなモノばかりだった。 「アンやベルにはお世話になってるし、これからもなるから、もーう好きなだけ泊まっていって」 「お店のパンも食べ放題!……って、ココ並の胃袋とか持ってないわよね?」 「いいの、勝手に安請け合いしちゃっても?かーちゃんに相談とかしなくて」 その一言は、あたしたちふたりをドッキリさせるには充分な爆弾発言だった。 「……ライト?私が何も考えずに言ってると思ってる?ちゃーんと、報告済みよ」 「へーっ、めずらしい」 「なんですって!?」 「ワカバ、落ち着いてください」 「そうよ。せっかく戻ってきたんだから……」 なぜかあたしたちふたりが、セロの真似事をして落ち着かせ、 「……とにかく、荷物だけでも置かせてほしいの。ねっ?」 と言って、早々に自宅へと上がらせてもらった。 「ただいまーっ。久し振りの我が家、サイコー!」 二階にあげてもらうと、外から見たときに予想したスペースよりもずっと広いリビング。 「テレビ観ようぜー」 「なに言ってんのよ?ふたりを案内するのが先でしょ?」 めずらしくも正論を口にしたワカバが案内してくれたのは、家具は少ないとはいえ、ベッドもしっかり備え付けられた立派な部屋で、ふたりは少し気が引けてしまった。 「ここの部屋を自由に使って。いまは何もないけど、あとで必要なモノは買ってくるから」 「そうはいうけど……」 「遠慮しないでっ」 「そうそう。かーちゃんはいま忙しいから、挨拶とかはあとでいいぜ」 「あ、急に偉そうな態度とって!」 「ねーちゃんなんか、年がら年中じゃんか」 「むきーっ!」 躍りかかろうとするワカバをあたしが抑え、ベルにライトを任せたり……と、大変な時間を過ごした。 「(――やっぱり、シルヴィアたちと同じように……)」 「『……うちらは、しばらくホテル住まいね。ちょうどいま、トニーノが手続きしてるところ』」 「『アンタたちも?』」 「『ううん。あたしたちは、ワカバの家にご厄介になるかも』」 「『そっか。じゃ、なにかあったらホテルに電話入れてよ』」 ……あのとき、その足で彼女について行けば。 「……あたしたち、これで良かったと思う?」 ワカバの家に宿泊させてもらう……という未来について。 「……どうでしょう?でも、ワカバの家に泊まると毎日が楽しそうですよ」 「そうかしら?たまにならまだしも、あれが毎日続くのよ?耐えられる?」 最初のうちは、それなりに気を遣って控えてくれるかも。 だけど、きっと慣れてきたら、あたしたちに構わず……あの《ふたり》〈姉弟〉は争うことだろう。 「たぶん平気です。ワタシも、喧嘩した村の子どもたちの間に入ったりして慣れてますから」 それが、ワカバとライトに通用するかどうか。 「……それでも、限度ってものがあるわよ」 あのふたりを見ていると、うちの妹や弟たちを思い出す。 「アンジェリナさんは、ワカバやライトのこと……嫌いですか?」 「……そんなわけないけど……」 「ですよね。ふたりの仲裁に入ったときのアンジェリナさん、何だか嬉しそうだったから」 「……そうかしら。これでも女優の卵だから、作り笑顔かもしれないわよ?」 「そんなことありません。アンジェリナさん、優しいから」 まったく疑わない視線に耐えられなくなり、あたしは思わずベルのほっぺたをつまむ。 「はぅはぅ!」 「……ほーら、あたしだって意地悪するんだから。こんな風に裏表あるのよー」 「うぅぅ。わざとそんなことしなくてもいいのに……」 「わざとじゃないわよ。本気よ、本気」 ……と言ってみたものの、これ以上力を加えることもできず。 「……ごめんね、痛かった?」 「い、いたくありま……せんでした」 「本当は痛かったでしょ?正直に言いなさい」 「ちょっとだけ」 人差し指と親指で表現された隙間は、本当にちょっと。それでも、やっばり痛い思いをさせたのは悪かったと思う。 「……うーん。はい、どうぞ」 あたしは仕返しを受けるため、自らの頬を彼女へと差し出す。 「…………えっと、ここで、ですか?」 「早くしなさい」 いつまでもこんな格好していると、あたしが間抜けで…… 「……えっ?」 ふんわりとベルの髪が頬に当たり、続けて温かい唇の感触が。 びっくりして横を向けば、彼女の顔が遠ざかっていくところだった。 「…………な、な、なんで?」 「えっ?キスしてほしかったんじゃないんですか?」 「どうしたら、そうなるの?いまのは、つねったお詫びにやり返していいわよ……って意味でしょ」 「……あ、考えもしませんでした」 無実のベルをつねった挙げ句、キスまで求めたあたしって。 ……だけど、予想外のキスにちょっと得した気分。 「お返しのキス、いる?」 「…………は、はい」 今度は解るように尋ねたおかげで、勘違いはなし。 あたしは、そっと彼女のおでこにキスをし、その頭を静かに抱き寄せる。 「……ねぇ、ベル。あなたに訊きたいことがあるの」 「はい。なんでしょうか?」 「この劇が終わったら、あなた……どうするの?」 旅の途中から気になりだしていた疑問は、日を追うごとに膨らんでいた。 「ワタシ、ですか?ワタシは……家に帰ります」 ごくごく当然の答えに、『やっぱり』としか言いようがない。 彼女にはお父さんという、かけがいのない家族が居る。 たとえ人間と《シュエスタ》〈人形〉という関係でも、しっかりした絆があるのだから。 「アンジェリナさんは、どうしますか?」 「あたしは、家には戻らない。……あ、誤解がないように先に言うけど、別にイヤで帰らないわけじゃないわよ」 「……解ってます。弟さんや、妹さんのため……ですよね?」 こういうときは、しっかり通じるのね。 「まぁね!それにひとり分食費が減れば、少しは楽になると思わない?」 「…………アンジェリナさん」 「それでね!あたしが女優になって、お金を稼いで、それを家に送れば……もっと楽になるじゃない」 ――そう。あたしの夢は、それだった。 幼い頃は貧乏が嫌いで、裕福な家の両親の居る子どもを見て、ねたましく思ったこともあった。 だから将来の夢は、ストレートにお金持ち! でも、大きくなるにつれて少しずつ考え方が変わり、いつか自分のためだけでなく『誰かのためになることをしたい』と思うようになった。 そして自分が選んだ道が『演劇』だった。 役になりきる。自分には、それが楽しい。 観客に良い時間を提供し、それでお金がもらえるなら、誰に文句を言われることもない。 あたしはそのお金で、家のみんなを幸せにする。 それができたら―― 「(――家を増築して、あたしの住む部屋を作るのもいいかも)」 ……なんて、大きな夢を持ってみたりして。 「がんばって、女優になってくださいね」 「……うん」 「――そうしたらワタシ、必ずアンジェリナさんの舞台を観に行きます」 「ありがとう。それなら、一番いい席のチケットをあげるわ」 「……ダメです。それは、家族の方にあげてください」 「それじゃ、二番目にいい席を……」 「……それも、家族の方に。ワタシは、もらえなくても必ず観に行きますから」 嬉しいことを言ってくれるベルの頭をそっとなで、あたしは空を見上げる。 ――いまは、そんな夢のためにも。 あたしは、演劇祭での初舞台を成功させなければならない。 ボク、ワカバと一緒です。 「……ココ。憶えていること、順番に話してみてくれる?」 ワカバが、昔のお話、聴きたいんだってー。 「いい、よー。でも、なかなか、おもいだせない、のー」 「うん、ゆっくりでいいの」 「えっと、ねー。ボ〜クは、しろのくに、いきましたー」 ベルから石を返してもらったから、少しずつ喋れるようになってきたの。 でー。なんとなく、思い出してきたんだ。 ふかふかのベッドとか、エファとか、姫様とか。 だから、ボクはワカバに話します。 「あのねー、アインって、かみ、ながーいの。ヒメサマ、ぐらーい」 「エファはー、ハネがあるの。ボ〜ク、ネジだけど、エファ、しろいハネ」 「ダイジーンって、すっごくビックリするひと、でしたー」 ワカバが何度も頷くから、ボクも頷くね。うんうん。 「デュアはー、おかし、すきー」 「ヴァレリー、ちょっと、こわいー」 「ハンスには、サイン、しましたー」 それから、ボクはいろいろお話してて―― 「あー、あのね。デュアが、ねー」 ボク、門のところでデュアとお話して、石を貸してあげたの。 このまえ、ベルが返してくれた石ね。 「デュア、ゲンキになれたのか、なー?」 どうなったのか、ボクは知りません。でもね、セロが教えてくれたの。 デュアも、アインも、ヒメサマも、エファも。 みんな、みんな、もう昔の人だから、会えないって。 ……仕方ないよね、それは。 「……それで、ボ〜クはおしろを、でましたー」 「アインがね、さいごに、ちゅーしてくれたのー。きゃー」 「でもね、でもね。ボ〜ク、『バイバイ』いえなかったの」 アインに頼まれたおじさん、すごいスピードで馬車を走らせたから。 「………………ごめん。ちょっとだけ、席外してもいい?」 「こっち来ないで!」 「ごめん、ココ。いまは、私のこと見ないで」 「ワカバ、ないてるのー?」 「……ち、ちょっと目にゴミが入っただけよ」 「…………ごめん。やっばり……こっちに来て」 「あい」 「私が泣いたの、ぜったい内緒だからね」 「ない、しょー。やくそ、くー」 ボクが頷くとワカバ、急にギュッて抱きしめたの、ギュッて。 「う、わぁー。どーした、のー?」 「……ココ。あなた、ほんとうに、大変、だったの、ね……」 「んーん。へいきー」 「あのねー。アインは、デュアがすきでー」 「デュアは、アインのこと、すき、なんだよー」 「カバーのげきも、おなじー?」 「私の劇では、アインとデュアは結ばれないけど……」 「そんなことしなくても、きっと……ふたりは……」 「(――そうだと、いいよ、ねー)」 「みんな!お待ちかねのモノが届いたみたいなの!」 劇場を借りて練習していたワタシたちの元へ、待ちに待った舞台衣装が届いた。 これは、セロが中心となって図書館で調べた資料を基にして選んだ貸衣装がほとんど。 セロの説明によれば、史劇『天使の導き』には各役柄ごとに伝統的なカラーがあるとのこと。 たとえば、クリスティナ姫であれば『白』そのもの。 逆賊と呼ばれるアインは、その反対の色である『黒』――といった風に、舞台から遠い観客も誰がどの役かを判別できるようになっている……と教えてもらった。 「はい、これがセロで……これが、ライトの分ね」 アンジェリナが手際よくそれぞれに衣装を配る中、この場にふたりの人間が足りないことに気づく。 「あの……ワカバとトニーノは?」 「いま、まさに貸衣装屋さんで奮闘中」 「えっ?」 「ほら、トニーノは役の掛け持ちでしょ?一応は彼の寸法で合わせておこうってことで、ふたりして出かけたんだけど」 「トニーノをモデルに、『あーでもない、こーでもない』って、相当粘っているらしいのよ」 「――服だけではなく、カツラとかも相談込みでね」 トニーノの頭が色々と変わる様を想像し、ワタシも少しだけ笑ってしまう。 個人的には、そのままの彼が一番だと思うけど…… 「さぁ、みんな。ひとまず、楽屋に行って着替えてみて」 大きな劇場だけに個室の楽屋も多く、それぞれ自分の名前が書かれた部屋に入り、着替えを始める。 隣だったライトの部屋からは、 「うぉーっ!この衣装、かっけぇー!」 なんて声が聞こえてきて、思わず苦笑してしまった。 「(――ワタシの衣装は、どんなモノかしら?)」 史劇『天使の導き』で、もっともポピュラーと言われている天使――シュエスタの服装らしい。 ドレスと背中の羽根にからめるリボンの色は、黒。 普段ワタシが着けているリボンにそっくりなのは、ワカバの計らいだろうか? 衣装の大きさもピッタリで、ただただ感心するばかり。 一通り鏡の前でのチェックも終えたワタシは、楽屋を出て舞台を抜けて観客席の方へ。 「(――懐かしい……)」 ワタシにとっては、赤の都で窓に映った鏡像のイメージ。そしてエファの記憶からすれば、当時をしのぶ懐かしさ。 「(――あの頃のエファも、女王に仕える天使の役を……)」 劇の内容は違えども、ワタシとエファは時代を超えて同じ『天使』という役柄をこなすことになった。 「(――いきましょう、エファ)」 ワタシは自分の中に眠る、もうひとりの私に声をかけてから楽屋をあとに。 そして、最初に戻ったのが自分だったことに驚きながら、待っていたアンジェリナの前に立ってみる。 「…………よく似合ってるわ」 「は、はい」 お褒めの言葉と微笑みに、自分の顔が赤くなってしまうのが判り、うつむいて誤魔化そうとするが―― 「……はい。常にまっすぐ、視線は逸らさず」 「……あ、ぅ……」 指先ひとつでアゴを持ち上げられ、たしなめられる。 「いまから恥ずかしがっていたら、本番が大変よ?」 ……確かに、言われる通り。 ワタシは少し我慢して、なんとかアンジェリナを直視する。 「そう、その調子ね。……ほら、二番手さんの到着よ」 振り返れば、向こうからシルヴィアが大股で歩いてくるのが見えた。 「ベルは、どう思う?」 「シルヴィアらしくて、とても似合ってます」 これは、率直な感想。 デュアとは全くタイプの違う女性だが、どこか似たところもあって……《サマ》〈様〉になっている。 「……彼女なら、充分にデュアを演じられると思います」 「それは、あなたの感想?それとも……」 「……《 ・ ・ ・》〈ふたり〉の感想です」 ワタシの答えにアンジェリナは何も言わなかったが、静かに一度だけ頷いてくれた。 しかし、ワタシたちが認めた当の本人は、衣装が気になるらしく服の裾や袖口などをしきりにいじっている。 「……騎士のデュアねぇ」 「……いまさら騎士の役が不服とか言わないでね、シルヴィア。これだけ似合うあなたが逃げたら、劇ができなくなるわ」 口調は多少冗談めかしているけど、それは彼女の本心。 ……アンジェリナは、決してお世辞は言わない人だから。 「確かに、騎士は格好いいとは思うけどねー」 頭をかきながらも、褒められてまんざらでもない様子。しかし、左手に持ったモノが気になるらしく、 「……ねぇ、やっぱりデュア役って、剣じゃないとダメ?」 と、アンジェリナに尋ねてきた。 「どうして?剣以外に適切なモノが何かあるの?」 「え、いや……ほら。拳銃の手さばきの方が慣れてるから……」 「……シルヴィア」 「ほら、人形劇のときだって、クエイクが銃を持ってたけど、平気だったじゃない?」 まったくお話にならない、と言わんばかりにアンジェリナが天井を見れば、交渉の矛先はワタシに変えられる。 「……ねぇねぇ。やっぱり、銃じゃダメ?」 「あの……その時代には銃はまだ……」 「そういうこと。だから、却下よ、却下!」 「……そんな怖い顔しないでよ、冗談なんだから」 「でも、なーんかしっくりこないのよねー」 「まったく、もう。これで騎士が務まるのかしらね?」 呆れたアンジェリナがため息をついて、シルヴィアがそれに反論しようとしたとき、向こうからガチャガチャと金属音が聞こえてくる。 3人揃ってその音につられ、誰がやってきたかと見れば―― 「あははっ。ライト、似合ってるじゃないの!」 やってきたのは、カブトを被ったライトだった。 「かわいい兵士さんじゃない」 カブト越しにふたりから頭をなでられたライトは、ワタシの前に立って、 「どう、似合う!?」 と尋ねてくる。 「……うん。とっても強そう」 小さな兵士さんだけど、いざとなれば頼りがいがある男の子だって、ワタシは知っている。 「えへへっ」 満面の笑みで、ワタシたちの横に並ぶライト。 そして最後に登場したのが、セロらしくないセロで―― 口ひげをつけているその格好は、正直……コメントしづらい。 「……み、みんな揃ったわね。それじゃ舞台に上がって……練習してみない?」 アンジェリナが、笑い出しそうになるシルヴィアとライトの背中を『ドン』と叩き、急いで舞台へと追いやる。 「『……ベ、ベルも、笑っちゃダメだからね』」 小声でワタシに釘を刺す彼女も、実は笑いを堪えている様子。 そんなアンジェリナを見て、ワタシは何かが足りないことに気づいた。 「……そう言えば、アンジェリナさんの衣装は?」 「あたしの着るドレスは、作ってもらっている真っ最中なの」 「――それに、もしドレスが届いたら……」 彼女は、他のみんなには聞こえないように、 「一番最初は、あなたに見てもらいたいから」 と言ってくれた。 とても嬉しい。 ……嬉しいけど、少しだけ不満が残る。 「……でも、それならワタシも一番最初に見てほしかったです」 「あら、一番最初に見たわよ?」 「それは偶然です。もしもシルヴィアが先に来ていたら……」 「いいじゃないの、もう……」 そう言って膨れるアンジェリナだったけど、ワタシは許してあげることにした。 それは最後に、 「……だって、一刻も早く見たかったんだもん」 なんて一言をくれたから。 何だかんだと色々ありながらも、俺とシルヴィアはここ数日モスグルンでの生活を楽しんでいる。 なんといっても、この土地に来るのは初めて。 昔は演劇祭に興味があって何度か訪れてみようとしていたが、最近ではそんなものがあったことすらも忘れていた。 そういう意味では、俺は誘ってくれたアイツらに感謝すべきだろう。 もちろん、それと同じぐらい苦労していることがあるのは忘れてもらいたくない。 ――特にワカバは、結構な無理難題をくれる常習犯として。 「……さて、と」 俺はホテルを出て、その辺りの《カフェ》〈茶店〉でぼんやりしようか……なんて考えていた矢先、向こうからセロとライトのコンビがやって来るのが見えた。 「よう、おふたりさん。どうしたんだい?」 昨日はワカバのお供させられた『衣装選び』で丸一日が潰れ、このふたりにも会うことがなかった。 ま、ダラダラ3人でコーヒーでも飲んで、愚痴をこぼすのも悪くないかもな。 「あ、トニーノさん。ちょうど良かった。いまから練習に?」 「……練習って、明日からじゃなかったのかい?」 「あっちゃー。ねーちゃんの言うとおりだ!」 ……ワカバの? 詳しく話を聴けば、本格的な練習の開始は明日からではなく、このあとすぐってぐらいの時間にスタート。 俺とシルヴィアは、ふたりして勘違いしていたことになる。 「今日、大丈夫ですか?もし、トニーノさんたちが来ないと、きっとワカバが――」 そこで言葉を濁したくなる気持ちは、よーく解る。 ……きっと、こんな感じのことを言われたに違いない。 「『なーにやってんのよ、あのふたりは!セロ、暇そうね。首に縄つけてでも連れてきなさい!』」 シルヴィアも似たようなもんだから、嘆くな同志よ。 「もしトニーノたちが来ないと、あとでネチネチ言われるぜ」 ……だろうね。弟くんが言うんだから間違いなさそうだ。 「オーケー。その前に、シャワーだけいいかな?」 「……えぇ。シルヴィアさんも一緒に?」 一瞬、シャワーの話なのかと思ったが、違う、違う。 ……セロが言いたかったのは、『一緒に来ますよね?』ってことさ。 俺はふたりに少し待つように言い、急いでホテルの部屋へと戻る。 そして、手短に身繕いをしようと浴室に入ったが、やっばりシャワーだけってのも。 そう思ってバスタブにお湯を張り、《カラス》〈烏の〉行水程度の入浴を楽しもうとすれば―― 「ねぇ、トニーノ。悪いけど……バスタブ、ゆ・ず・り・な」 シャンプーの真っ最中に、そんな声が聞こえてくる。 セロの言葉が、俺の頭の中だけで反響するじゃないか。 「『……えぇ。シルヴィアさんも一緒に?』」 ……なーんて、おいしいシチュエーションだろう。 朝からふたり、せまい浴室でイチャイチャするのも悪くない。 ま、外で待っているふたりには、あまり嬉しくない話か。 「一緒に入るかい?」 「……いいわね。でも、今日は『上』だけよ」 ……上だけ?その微妙な言いまわしに、妄想が膨らむ。 「……そいつは嬉しいねぇ……」 俺は急いでシャンプーを洗い流し、彼女の提案する『上』をいまかいまかと待って―― それが何であるかを知り、ため息しか出なかった。 「ふふふ、ふん、ふーん……朝風呂って、最高ね」 もう時間はとっくにお昼だけど、明るいうちにバスタブへ身を沈めたときは『朝』の扱い。 贅沢ってほどじゃないけど、こんなのんびりした時間は最高。 誰かさんがお湯の準備してくれていたみたいで、待ち時間もなしにバスタイムと洒落込めたし。 「ま、トニーノには悪いことしたけどねー」 アタシは頭に乗った帽子を軽く摘み、クスクスと笑う。 「なーにを期待したのかなぁ、トニーノは?」 一緒に……と言われて、それも悪くないと一瞬だけ思った。 でも、そんなことをしたら変な汗かいて、そのままベッドに戻ることにもなりかねない。 「……ま、最近ご無沙汰してたからねー」 きっとシャンプー中のトニーノも、一時の夢を見ただろう。 「……う・え・だ・け」 片手で浴槽の泡をすくって吹けば、危うくトニーノの《うえだけ》〈帽子〉を落としそうになる。 「あぶな、いっ、と、ね」 アイツにとってはお気に入りだから、下手に汚したら―― 「(――怒るかしら?)」 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。 なんだかんだ言って、トニーノはアタシにぞっこん。 自意識過剰ってわけじゃなくて、それはもう充分に理解している。 ……だからこそ。 何かトニーノの気に障るようなことをしても、案外許されてしまいそうな気がしたのだ。 「……そうだよねぇ。あのときだって……」 トニーノが、照れ隠しに差し出したペアリングの片割れ。それをアタシは、次の日に『なくした』と告げた。 そうしたら彼は、ちょっと肩をすくめただけで……お終い。 「文句のひとつでも言ってくれたら、アタシも楽だったのにね」 トニーノにとって、自分はどんな存在なんだろう? 勝手ばかりのアタシなのに、いつもついてきてくれる。 「あ、そっか。愛されてるのかぁー」 ふざけてそんな言葉を口にしたら、急に恥ずかしくなった。 「――バカみたい。こんな女の、どこがいいんだろ?」 本人目の前に、自分の気持ちを素直に言えない女なんて―― 「『トニーノ!いつになったら来るんだよー』」 「……ん?いま、何か声がしたわね?」 空耳かと思ったが、そうじゃない。 「『トニーノさん?シャワーだけって言ってましたよね?』」 「……ライトとセロ?」 ちょっと遠いが、確かにふたりの声だ。 でも、何でふたりがアタシたちの部屋に来るの? 「……あれ?今日って何かあったかしら?」 練習は明日のはずだから、その打ち合わせとか連絡とか? アタシが、ぼんやりとそんなことを考えていたら――突然、バスルームのドアがガチャリと開いた。 「もう、トニーノ。アンタ、部屋に入れるのはいいけど……」 「…………ぁ……」 「……い、いっ?」 「…………うっ!」 ドアの向こうに居たのは、トニーノじゃなくて。目を見開いた男の子――セロとライトのふたり。 「すっ、すみません!」 「ごっ、ごめんよっ!」 「……いっ、いっ……」 落ち着け、アタシ!こんなとき、取り乱したら余計に恥ずかしいだろ? 「……いっ、いらっしゃい。どうしたの、ふたりとも……」 「……あ、あの……今日は練習の日で……」 「オッ、オレたち、ねーちゃんに言われてふたりを迎えに!」 「あ、今日だったっけ?」 「そ、そうです!それで、トニーノさんがシャワーだけって言ったので、外で待ってたんですが……」 「待ちきれなくなって、部屋まで来たのね?」 「う、うん!だっ、だから覗くつもりなんて……」 「……いいのよ、ボウヤ。でも、寒いから……閉めてくれる?」 「はっ、はい!失礼しました!」 ふたりがバタンとドアを閉め、ドタドタと走り去る。 「『あーっ、トニーノさん!どこに行ってたんですか!』」 「『……煙草買いに?それなら、鍵しめとけよー!』」 そんな声を聴きながら、アタシはゆっくりと帽子を持ち上げ、泡の上でヒラヒラ。 「…………ふーん、そういうこと」 かるーく落としてやろうかとも思ったけど、やめておく。 「帽子に罪は、ないもんね」 当然、罪があるのは……ご本人様。 「…………トニーノ!ちょーっと、いらっしゃーい!」 練習ではアタシが教わる側だけど、いまはこっちが教える側。 みっちり、基本的なことを叩き込んでおく必要がある。 「(――アタシの裸は、そんなに安くないってことをね!)」 「……ねぇ、セロにーちゃん。オレたちってさ、ねーちゃんの雑用なのかな?」 セロにーちゃんの家の近くにある小高い丘は、晴れた日に寝っ転がってぼんやりするには最高の場所。 「ワカバの……ってよりは、劇全体の雑用って感じだね」 だけどいまは、ねーちゃんのためにふたりして自主的な創作活動――『かきわり』制作の真っ最中だ。 トニーノたちが《 ・ ・ ・》〈すごい〉遅刻をしてくれたおかげもあって、ご機嫌斜めなねーちゃんを回避したい……ってのが本当のところだったりするけど。 「そっかー。オレ、もう少し格好いい役が良かったな」 「ん?兵士の役、イヤなのかい?」 変な衣装がきたら色々と文句言ってやろうと思ってたけど、ビシッと決まる兵士の服だったから、その辺りは納得した。 「……イヤじゃないさ。どっちかっていうと、好きかな?このカブトとか、結構気に入ってるし」 劇が終わったら、『このまま記念にもらったりできない?』……って、ダメ元で訊くつもりだし。 ――まあ、セロにーちゃんが図書館で一生懸命調べてくれたおかげで、ねーちゃんも衣装が選べたんだと思う。 でも、問題はそこじゃなくて。 「だけどさ、活躍の場がないっていうか、ほとんど台詞ないし」 不満があるのは、出番の話。 最初にチョロっと出て、あとは混乱のシーンでドタバタするぐらいの登場しかない。 「それを言ったら、僕だって同じさ」 オレが塗り損ねたところを指摘しながら、セロにーちゃんがトニーノとの読み合わせしたときの話を持ち出す。 「『それじゃ、俺はセロやライトたちの練習に付き合うぜ』」 まずは男同士仲良く……って言ってたくせに、いざ台本を手にして読み始めるとダメ出しの連発。 「『……ほれ、手がお留守』」 「『今度は、台詞が飛んでったか?』」 「『いいか。台詞は読むんじゃなくて、舞台で喋るものさ』」 読み合わせの段階なのに、演技の指導が厳しくて。 セロにーちゃんは根がマジメだから、オレなんかより真剣に練習するんだけど……何度も同じ台詞でつまづいて大変。 「『台本通り読むのも大切だけどな、少し落ち着いていこうや』」 何回言ったか数えられなくなった頃には、トニーノの方が、 「『どうしても言いづらかったら、脚本家と交渉するんだ』」 なんて、ねーちゃんにバトン渡すし。 そんな話で、ふたりして思い出し笑い。 セロにーちゃんが、いつ見てもおかしいヒゲをつけっぱなしだから、余計におかしかった。 「セロにーちゃん、そんなに舞台で喋りたいの?」 「いいや。できれば、立ってるだけの方がいいかな」 うーん。オレとは違って、セロにーちゃんって控えめ……とか思っていたら。 「こらー!なんか、脚本に文句あるわけ?」 一番しゃしゃり出るのが好きなねーちゃんが、斜面を登ってやってくる。 「ないから安心していいよ」 「むむっ。そう言われるとつまんないわねぇ」 いつもながらに、身勝手でわがままなねーちゃん。 その口を尖らせたまま、オレの描いている絵を見て、 「……っていうか、その青空。どこで使うの?」 なんて言う。 「えっ?舞台って言ったら、こんな感じじゃないの?台本にだって、青空が……とかあったし」 「あ、それはね。お城をバックに、さらにその後ろが青空っていう意味よ」 さらには『舞台のかきわりにしては小さい』とか言い出して。 「えーっ、なんだよ!じゃ、これ無駄になるの!?」 オレたちの努力とか、どーなるのさ!? 「……大丈夫。私の錬金術で、どうにかしてみせるわ」 「錬金術?」 「うーん。もっと分かりやすく言うと、わらしべ長者?」 もうすでに、何のたとえかも分からない。 「まっ、完成したら任せてよねー」 こういうときねーちゃんに任せると、うまくいくか、大コケするかの両極端なんだよな…… 「あれ、なにかしら?」 「はい?」 あたしがベルと観客席で休憩をとっていると、何か前方から騒がしい声が聞こえてくる。 「あそこに居るのは、ワカバとセロかしら?」 「……そうみたいですね」 どうやら、ワカバがセロを連れて舞台に向かっているらしい。 「ふふふふっ」 「どうしたの、ワカバ?」 ワカバのあやしい笑いに、セロは少し不安な声。 それを好意的と受け取ったのか、ワカバが得意満面の笑顔で舞台裏に入り、 「この前、セロとライトが作った青空は……こうなりました!」 そう叫ぶと……徐々に舞台の幕が上がり始める。 「あ、あれって……」 「まさか……お、お城の《かきわり》〈書割〉……」 現れたのは、立派なお城の風景が描かれた舞台背景。 あたしとベルが顔を見合わせる中、セロも唖然とした表情でそれを眺めている。 「……これ、ワカバが塗り直したの?」 「ちっがうわよ。……いい?まず、あの青空を見せて、森とトレードしたの」 「……青空?」 「……森?」 あたしたちには、ワカバの言葉の意味がさっぱり判らない。 「ふんふん」 「次に、今度はその森を別の人に見せて、海の底と交換してもらって……」 「最後に、あのお城になったの!」 「――どう、すごいでしょ?」 「……どう、すごいのかしら?」 ワカバの言葉をそのままに辿るなら、元に青空の舞台背景があり、それをどうにかして……いまのお城に変化させた? 「……ワカバが色々手を尽くして、お城を手に入れてきた?」 「……となると、すごいですね。ワカバの交渉手腕って」 「……そうね。彼女、脚本家よりもそういう方面に進んだ方が成功したりして」 頭に浮かんだのは、まだ出会ったばかりの頃のシルヴィアやトニーノのようなイメージで―― 「……アンジェリナさん」 ちょっと思考を読まれたような気がして、あたしは襟を正す。 「冗談よ。ワカバの実力をちゃんと認めた上での冗談」 「……本当、ですか?」 「えぇ、ウソはつかない。でも、本人を目の前にそんなことは言わないわよ。絶対、鼻が高くなってダメになるから」 「……うふふっ。ちゃんと、考えてあげてるんですね」 「そ、そんなことないわよ。ただ、威張られるのがイヤなだけ」 「――さぁ、せっかくお城もできたことだから、練習、練習!」 あたしは、この場を誤魔化すように立ち上がる。 ……ワカバになんか、負けていられないんだから。 「やー、待て待て!許可無きモノは、一歩も通さないぞ」 シルヴィアの練習に付き合う傍ら、あたしは舞台の端から聞こえてくるライトの声に耳を傾ける。 「(――城を訪れた《シュエスタ》〈天使〉に見とれてしまうシーンの練習ね)」 「はい、そこでベルの姿を見てポーッとする!」 ライトに演技指導をしているのは、姉のワカバ。 いつもと違い、ライトはおねえさんのいうことをマジメに聞いているようだ。 「こ、これは失礼しましま!」 「……ごほん。これは、これは失礼しました!」 「その、『ごほん』要らない。『これは』は一回ね」 「分かってるってば!」 「でもまあ、それぐらいのリアクションの方が本物っぽいか」 「なんだよ!いまのアドリブじゃないぞぉ!」 振り回し気味の脚本家に、ライトが怒りたくなる気持ちも分かるけど、ここはグッとこらえて練習を続けてほしい。 「……それに引き替え、こっちは……」 舞台端からズカズカと歩いてきたシルヴィアは、開口一番、 「アンジェリナ!」 あたしの本名を呼んでくれたりする。 「騒々しいですね、デュア。それではまるで、シルヴィアです」 「……ご、ごめん。いまは、クリスティナだったね」 こちらのため息に、さすがの彼女も気づいたらしく、謝ってくれたまではいいが……まだあやしい。 「次は、まさか『クリスティナ』とか呼ばないでしょうね?」 「あ、そっか。台詞だと『姫』か。姫、姫、姫……。憶えた!」 ……言わなかったら、本当にそうなるところだったらしい。 「それじゃ、もう一度……」 シルヴィアが舞台袖に戻ったのを確認し、改めて合図を送る。……と、彼女は多少控えめの足音であたしの前まで来て―― 「姫!……ぶっ」 今度は、笑いのアドリブなんてものを入れてくれる。 「なにかおかしなことでもありましたか、デュ・ア?」 「ゴ、ゴメン!ホント、ゴメンね!アンタを笑ったわけじゃないの。これだけはホント!」 「……だったら、何が真実なのか聞きたいわよ」 「……いまのは、自分の台詞に吹いちゃっただけなのよ」 「慣れないことはするもんじゃないわね」 「……ねぇ。もう少し緊張を解いて、自然にいきましょ?」 彼女の場合、何も考えずに地が出てしまうわけではなく、演技しようとする気持ちが強すぎて失敗している……と思う。 「あなたに無理をさせるつもりはないの」 多少本番で台詞を間違えたりしても、それはそれ。 しかし、登場シーンもそれなりになる役だけに、あまりに失敗が多くなれば、劇の流れが止まってしまう危険がある。 「もし、台詞が辛いならいまのうちにワカバに言って、多少のアレンジを加えてもらうけど……」 「平気よ。本番までには、何とかしてみせるわ」 「……アタシを信じてよ、姫様」 そう言って、グッと親指を立ててくれるシルヴィア。彼女らしいといえば彼女らしいが、デュアのイメージからは離れていく。 「(――本当に、大丈夫なのかしら?)」 劇場に姿を見せた彼女は、少しやつれ気味。ワタシがその《 わけ》〈理由〉を尋ねると、 「ココと話すのって、とっても……大変なのね」 そんな答えが返ってきた。 そう言われてみれば、最初の1、2回はワカバが家にココを呼んでいたが、いつの間にか彼女の方がセロの家へと出向くようになっていたようで。 夜になって戻ってくるワカバは、自室でタイプライターを打ち続ける生活を繰り返していた。 「だけど、おかけで大幅な修正を入れて……完成よ!」 「さぁ、これが新しい台本!」 そう言ってワカバが取り出した紙の束は、男性のキャストがふたり追加されていた。 「(――ハンスと……ダイジーン?)」 ワタシの中の『私』が、前者の名前をおぼろげに憶えている。 ……が、『ダイジーン』という人は……当時、居ただろうか? 「えーっ、オレ台詞とか憶え直し?」 「安心して。ライトとセロには変更ないから」 「それより、問題は……『ダイジーン』なのよね」 ワタシにとっても、それが問題。 「どっかに手頃な人、居ないかしら?」 でも、それは二日もしないうちに解決されてしまった。 「強力な助っ人を呼んできたわよー」 「(――この人は……確か、ユッシ殿?)」 エファの記憶の中でも、強烈に残っている人物。 あまりもよく似ている人だったので、一瞬だけ自分の記憶がまた《こんだく》〈混濁〉したのかと思ってしまった。 「(――でも、この人は別の人……)」 ワタシたち《シスター》〈人形〉と違い、人間はそれほど長くは生きられない。 それに、彼はあのとき―― 記憶は不鮮明だが、もう亡くなっていることだけは確か。 でも、どうしてワカバは……こんなにも似た人を連れてくることができたのだろう? 「……私も忙しいんだけどねぇ」 「そこを!そこを何とか!ねっ?」 「そうは言われてもねぇ。私も仕事があって……」 「あ、ダイジーン」 「え、あれ。ココじゃないか!」 「うんうん。ダイジーン、どうした、のー?」 「いゃ、その、この子が私に……『演劇に出ないか』って」 「――それで、衣装だけでも着てみないか……と言われてなぁ」 「うんうん。あのね、あのね。ダイジーン、そっくりー」 「へっ?」 「はいはい。簡単に説明すると、あなたはココが知ってる昔の大臣にそっくりなんだって」 「ほうほう」 「(――そういうことだったの)」 疑問は解決。スカウトしたのがココなら納得もいく。 「それで、今度の演劇祭があってね。舞台に立って欲しいの」 「私が?そりゃダメだ。そんな人前に立ったりしたら……」 「大丈夫よ!台詞はそんなにないし、1シーンか2シーンの登場で勘弁してあげるから」 なかなか強引な勧誘に、周囲のみんなも唖然。 「そ、そうは言われても……」 「おねがーい、ダイジーン」 「いゃ、ココに頼まれると、困るんだよなぁ……」 「えへへー」 「なんだったら、宣伝のチラシに銀行名……入れちゃう?」 こうなると、ワカバの独壇場にも近く。押され気味の彼は後退りながら、 「え、そんなことされても、出るのは私個人だし……」 ……などと言ってしまった。 「あ、いま、『出る』って言ったわね!決まり!」 「……え、待ってくれ。そんなことは一言も……」 「言いましたー。私、聴きました!ココも聴いたでしょ?」 「あい」 「ひぃ、そ、そんな……。せめて、どんな役かだけでも」 「悪役よ、あ・く・や・く」 「そ、そんな!私には妻が居て、子どもだって……」 「はいはい。私にだってお母さんと弟が居るわよーん」 こうして新たに『大臣』が加わり、残る追加は『ハンス』となって、ワカバは手近なところですべてを解決しようした。 「おいおい。俺は便利屋扱いか?」 それは、アインとヴァレリーの二役の台詞を担当をしていたトニーノ。 「……ハンス。ハンスねぇ」 これで三役目となる彼は、少し考えたあと、 「そ、そりゃ、できねぇってことはねーけど」 などと曖昧な答えを返したがために『ハンス』の役に。 こうして新しい『天使の導き』の練習が始まり……ワタシとアンジェリナは、半分近い量の台詞を覚え直すことになった。 「(――ワタシは暗記が得意だけど……)」 「……こりゃ、しばらく睡眠時間削るしかねーな」 今回、一番の貧乏くじは……トニーノになりそうだった。 「……悪いわね、お休みのところ」 舞台にひとり立つ女性。それは、よく見知ったアンジェリナのはずなのに。 ドレスを着ているわけでもないのに、本物のお姫様がそこに居るのかと錯覚した。 「練習がお休みの日に呼び出したりして、ごめんなさい」 「いや、いいさ。そっちは、休まなくていいのかい?」 「うん。本当はゆっくりするつもりだったんだけど、劇場を覗いたら誰も居なくて――」 アンジェリナから電話がかかってきたのは、かれこれ30分ぐらいまえのこと。 シルヴィアが買い物に出かけ、ひとりゴロゴロしていた俺が応対し、この劇場までやってきた。 「――係の人に訊いたら、練習予定のグループがキャンセルを入れたとかで。頼み込んだら、使ってもいいって言われて」 「それで招集がかかったわけか。……で、ワカバたちは?」 「姉弟で家の手伝いをするって言うから、ベルのこと頼んだの。たまには気分転換も必要でしょ?」 「そうだな。どうせ、セロは調べ物か何かだろ?」 「あたり。昨日、取り寄せていた本が来たんですって」 みんな、それなりに忙しいようで。……ヒマなのは、俺ぐらいなもんか。 「やっぱり、迷惑だった?」 「いいや、そんなことないぜ。どうせシルヴィアも出かけてて、ボーッとしてただけだからさ」 「ま、俺ひとり相手に練習できるシーンなんて限られてるけど、それでもいいなら喜んで」 「もちろんよ!」 「……よし。せっかくの舞台稽古なら、俺も着替えてくるぜ」 俺は時間をかけるのも悪いと思い、さっさと衣装を替えて舞台へ戻る。 「ヴァレリーの服しかないけど、アインと見てくれるなら……それもアリだぜ」 お姫様と舞台に立つシーンで一番多いのは、アイン役。 俺もスイッチで両方をこなしてきたが、そろそろ固定して練習に集中したいところだ。 「じゃあ、アインとのシーンを練習してもいいかしら?」 「オーケー。どのシーンにする?」 「……三国会議がなくなったことを報されるシーンで」 アンジェリナはそう言うと、舞台の袖口に立つ。 いつもなら他の連中が見守っている中での練習だが、今日はアンジェリナとふたり。 「(――というよりは、クリスティナ姫……か)」 アンジェリナなら、これまでの『天使の導き』のお姫様役と比べても恥ずかしくないと思う。 「では、わたくしがアインの執務室を訪問したところから」 すでに役作りが完了している彼女の口調は、お姫様仕様。 俺の方も少しは『威厳のある後見人』になれるようにと、気を引き締めてから頷く。 「……アインよ。三国会議の席はどうしたのですか?」 「大変申し上げにくいのですが、私の一存で取りやめとさせていただきました」 「……どういうことですか?すでにこの城は、赤と青の国の連合軍に取り囲まれているのです」 「これが弁明できる最後の機会だというのに、そなたはそれを投げてしまったというのですか?」 「お言葉を返すようですが、そうではありません」 「――初めから弁明の機会など、我々には与えられてなかったのです」 「どういうことですか?」 いぶかしがる姫。顔を上げるアイン。 「すでに赤、青の両国間で秘密裏に話が進んでおります」 「彼らは占領後の我ら白の国をどのように取り分けるか、また新しい国境をどのように制定するかなどが決まっております」 「なにを根拠に?」 「私の放った密偵からの報告により、すべて把握しております」 両者共にうつむいて、しばしの間を開ける。先に顔を上げるのは、クリスティナ姫の方。 「……では、そなたにいまひとたび尋ねます」 「なんなりと」 「そなたの言葉を信じたとして、この国はどうなりますか?」 「……残念ながら、両国の取り決めのままに」 「我が国の民は?」 「抵抗さえしなければ、最小限の被害にて。両国にも他国への体面がありますので、無益な争いは好まないはずです」 「…………臣下の者たちは?」 「……同じく」 「では、そなたは黙って降伏しろ……と言うのですね?」 「いいえ。それをすれば、姫君の身に危険がおよびます」 「わたくしのことなど良いのです。問題は――」 「本当にそう思われますか?」 「…………」 無言の姫君を前に、アインはここで一歩踏み込む。 「――赤も青も、欲しているのは我が国の人形技術です」 「その最高峰ともいうべき力をお持ちなのは、白の国の主たるクリスティナ・ドルン――『あなた様』です」 「……表向きは穏やかに交渉が進んでも、必ずや姫君の処遇は悪化する一方となるでしょう」 「それを運命として受け入れ、生涯幽閉されるような未来を望まれますか?」 「……運命であれば、わたくしは……」 「シュエスタとの未来、閉ざされても構わないのですか?」 「……シュエスタと、の……」 「――もしも姫君が、シュエスタと共に生きる未来を……」 「だまりなさい!」 「姫君」 「……それ以上、それ以上口にすることは許しません」 「……ありがとう、トニーノ。あなた、本当にアインの台詞を暗記していたのね」 「なぁに。それぐらいしか取り得がない『役者崩れ』だからさ」 口では軽く流したものの、本当はいつボロが出るかドキドキしていた。 これは、俺ひとりが流れと台詞を覚えていればよいというものでもなく。 相手を務めるアンジェリナが、『しっかりした役者』だからこそ成り立つものだった。 「…………あたしの演技、どうだったかな?」 「姫君そのもの、って感じだったぜ」 「……お世辞じゃないわよね?」 「あぁ。女の子相手に下手なお世辞を言うと、相方が口きいてくれなくなるからな」 「……あはははっ。シルヴィアって、嫉妬するの?」 「さぁね。その辺りが微妙さ」 俺のことをどう見ているかで、話は変わってくる。 恋人に近い存在か、それとも……自分専用の便利屋か、で。 「あたしは、ふたり……お似合いだと思うけど?」 「ありがとさん。だけど俺からすれば、アンジェリナたちのコンビの方が、もっといい感じに見えるぜ?」 「そ、そんなことないわ。あたしたちは別に――」 「……舞台上でのふたりのやりとり、サマになってきたしな」 「えっ?」 「ん?お姫様とシュエスタの練習風景さ」 拍子抜けしたアンジェリナの顔を見て、思わずニヤリ。 少しからかったぐらいじゃ動じない彼女も、こと『ベル』に関してだけは……まだまだお澄ましが苦手なようで。 「…………む。わざとらしいわね」 「最初に話題を振ってきたのは、そっちさ」 そうそう。大人をからかう方が悪い。ついでを言えば、しっぺ返しは3倍と相場が決まっている。 「姫君。ひとつお尋ねしたき『議』がございます」 「……なんなりと申してみよ」 とっさのアドリブも大したもの。こちらに合わせ、きっちりお姫様になってくれた。 「もしも、アンジェリナ様とベルの未来。閉ざされたならば、どうなさいますか?」 「…………それは……」 そのうろたえ具合、演技か本物か。……どちらにしても、いい表情だ。 「(――あんまりいじめると、あとがコワイか)」 俺は引っ込みのつくところで止め、誤魔化し笑いでこの場を終わらせようとするが―― 「そのような未来、考えることすら愚かしいですが……万が一、閉ざされたとしても――」 「わたくしの心は、常にシュエスタと共にあります」 「(――いいね、その台詞)」 あとでワカバ辺りに、こっそり言ってみるか。 「そして、ベルの心も、アンジェリナの中に……ってことか。お熱いね」 「ち、違うわよ。いまのは、クリスティナの言葉。トニーノが質問を間違えたから、あたしがアドリブで修正したの」 ……苦しい言い訳、ご苦労さん。まぁまぁ、仕返しはここまでってことで。 「……ところで、アンジェリナ」 俺は何事もなかったかのように話題を切り替えてしまう。 「出身は、青の都なんだってな」 セロたちとの会話で小耳にはさんだ情報。それは、アンジェリナが……孤児院の出だということ。 「……そうだけど、なんで?」 「俺も昔、青の都に住んでてさ。ずいぶん戻ってないから……どうなってるかと思って」 「どれぐらい離れているの?」 「……そうさなぁ。かれこれ、もう……」 それすら数えなくなって、何年が経ったのか。宛名は憶えていても、最後に手紙を書いたのは―― 「――忘れちまったよ」 「……そう。ご家族は、まだ青の都に?」 「さぁ、どうかなぁ。たぶん、まだ……」 きっと母さんは、まだまだ元気でやっているはず。それも、多くの子どもたちに囲まれて―― 「……トニーノっ!」 「シ、シルヴィア?」 あんな風に、元気が《 ・ ・ ・》〈過ぎる〉感じで。 「……ありゃ、えらい剣幕で……どうしたのさ?」 「どーしたも、こーしたも!メモも残さず出るなんて!」 おっと、まずった! 「ホテルのフロントで、アンジェリナから電話があったって聞いたから、さんざん探して……」 ズカズカとやってくる鬼のような形相のシルヴィア。 「たまには驚かせてやろうって、ディナーの予約入れて戻ってみれば、アタシに黙って――」 「あらあら。怒ってるわよ、彼女」 「いゃあ、嫉妬深いもんで」 そんな冗談が向こうの耳に入ろうものなら、殺されかねない。 「隠れて練習するなら、アタシも呼んでよ。ただでさえ素人なんだから、少しでもやっとかないと本番が怖いでしょ?」 「わ、悪かったよ。そんなに怒ったら、せっかくの――」 「せっかくの、な・に・よ?」 そう睨まれたら、お世辞のひとつも言えなくなるぜ。 「あ、あたし。そろそろ着替えてきます。それじゃ……」 「……お、俺も……」 「アンタは残る!」 ――こりゃ、相当な『しっぺ返し』が待っていたようで。 今日は、アタシとアンジェリナで『サシ』の練習。 この前トニーノに抜け駆けされたから、仕返しとばかりに個人レッスンをお願いしたんだけど―― 「姫、お気をつけてください」 「……違うわ、シルヴィア。そこは、『お気をつけください』よ」 「えー、そうだっけ?」 実際やってみると、これがまた厳しいのなんのって。 アタシはこのシーンだけ書き写した『あんちょこ』を手に、自分の間違えた場所を再確認してみる。 「……あ、本当だ!アンタ、よく他人の台詞までチェックできるわね」 信じられない。 「なんで判るの?アタシなんて、自分のだけで精一杯なのに。もしかして、全部の台詞を丸暗記してるとか?」 トニーノもバカみたいにキッチリ台詞覚えてるけど、舞台に上がる人間ってみんなこんなんなの? 「全体としては把握してるけど、細かい言いまわしまでは無理」 「え、でもいまの指摘って、細かい部類じゃない?」 「いまのは自分とかけあいになる台詞だから、覚えてるの。自然とそうならない?」 「無理無理。アタシ、『誰の次にこの台詞……』って感じで乗り切ってるから」 この一瞬に命を賭ける……とか言えば、ちょっとはカッコがつくかしら? 「その割に、演技はそこそこできるのね」 「うーん。頭よりは身体で覚えるタイプだからじゃない?」 褒められるのは苦手。 小さい頃からどうしても『おだてられてる』と思いがちで、素直に受け取れない。 「……昔から勉強とか苦手でねー」 「でも、人形技師になるために、相当勉強したんじゃないの?」 「えー?それこそ人形技術は感覚的なモノだから、頭よりは身体が資本なのよ」 アタシの師匠は、ホントにセンスのないタイプだったけど。 「もちろん知識も必要だけど、それはオマケでついてくるわ。必要だから自然と……って感じで」 「アンタだって、演劇のためになるって分かってる勉強なら、それほど苦じゃないでしょ?」 「……そうね」 同意はするものの、何か考えているアンジェリナ。 しばらくの間のあと彼女は、 「ねぇ、あたしがもし、人形技師になろうとしたら。……素質とかありそうかしら?」 などと訊いてきた。 「――そればっかりは、試してみないと何とも言えないわね。ま、意気込みだけは充分ありそうだけど……」 ――だけど。 「はっきり言って、お勧めはしない」 「どうして?」 「……アンタが技師になろうとするなら、それはどう考えてもシスター・ベルのためでしょ」 「そ、それは……」 あまりに図星な反応で、アタシは思わず苦笑してしまう。 「それだと技術は得られても、技師にはなれないと思う」 「…………そうかも」 こればっかりは、人の一生がかかるかもしれないだけに、テキトーな答えを返すわけにはいかない。 一時の気の迷いで舞台と人形技師を天秤にかけるようなら、嘘でもキツイ一言をあげなきゃいけなくなる。 「いい、アンジェリナ?人にはそれぞれ『役割分担』ってのがあるの」 赤の都で、セロがトニーノを借りにきたとき言った台詞をちょっと拝借する。 「……アンタがいま、こうしてクリスティナ姫をしている。これも、ひとつの役割。誰かが替わることは難しいでしょ」 黙って頷く彼女を見て、アタシは一安心する。 「――それと同じ。アンタはまっすぐ女優を目指しなさい」 「シスター・ベルには、凄腕のお父さんが居るわけだし」 「……ま、いざとなれば。ここに次世代の人形技師だって居るじゃない」 どう?突っ込みどころ満載の、いい落としどころでしょ? 「……そうね。あなたになら任せられるわ」 「ち、ちょっと!そんなあっさり認めないで、もっと疑いなさいよ」 この子、なんでそんなまっすぐにこっち見るのよ!? 「……あら、どうして?もしかして、照れてるの?」 「…………ち、ちっがうわよ!そうじゃなくて、そんな風にあっさり人を信用するなって言いたいの」 「あなたのこと、信用したらまずいの?」 あーぁ、もうダメ。笑いもしなければ、視線を逸らそうともしないし。 「…………いいわよ、もう。信用すればいいじゃない」 「うふふふっ」 「……もう!アンタ、最近シスター・ベルに似てきたわよ」 悪気とかない『スカし』が、一番手に負えない。 「さぁ、練習に戻りましょ」 アタシは、ハイハイと手首の振りだけで返事をしながら、これから先のことを考える。 きっと、アタシはこの子たちにもっとなつかれてしまい、変に長い付き合いが始まるのかもしれない。 ――それはそれで、悪くはないと思うから良しとしておこう。 アタシは、ハイハイと手首の振りで返事をしながら、 「あ、その前にさ。訊きたいことがあるんだけど……いい?」 アンジェリナの顔をよーく見る。 それは、アタシのよく知る《 ・ ・》〈人間〉とは似ても似つかない。 「話は全然変わるけど、アンタって確か、『青の都』の……孤児院出身だよね」 「そうよ」 だけど、この子は……アイツの『妹にあたる存在』なんだ。 「『……知ってるさ』」 「『でもな、シルヴィア。いまさら声もかけづらいだろ』」 以前、青の都から飛び出してきた話をしてくれたトニーノに、それとなくアンジェリナのことを尋ねた結果が、そんな答え。 きっちりとは認めないくせに、否定もしない。 だったら、アンジェリナの舞台を見に来るであろう家族との再会は?……って尋ねたら、 「『そうだなぁ。舞台の俺に気づいてくれたら……』」 遠い目をして、薄く笑うだけ。 「……そのさ。演劇祭のときは……家族を呼んだりするの?」 「……うん。できれば、みんなに観てもらいたいから」 「そっか、そうだよね!それがいいよね!」 「『……ま、俺は見つけられないだろうさ』」 「『……なんてったって、観客席は別世界なんだよ』」 「『舞台のライトが明るすぎて、向こう側は見えないのさ』」 カッコつけ屋のトニーノは、諦めの台詞で締めくくったけど、アタシにしてみたら―― 「でも、急になんでそんなことを?」 「あ、うん。いいの、気にしないで。何となく気になったから」 「……気になるわね」 「ほら!子どもの晴れ舞台は、親に観てもらいたいじゃない。そうでしょ?」 「う、うん」 「ささっ、姫。本番で失敗などしないよう、練習を」 「……いまの『ささっ』は、よけいな感じね」 「…………ホント、細かいわ。うちの姫は……」 もし、トニーノがこの子と生活していた時期があったら―― もう少し、しっかりした男になっていた……かもしれない。 「……よし、着いたぞ」 時間があれば、ファビオさんの公演を観ておきたかったが、シェンナの駅に降り立ったときには……すでに夕方。 もう劇も終盤とのことなので、チケットは買わずに外で待つことにした。 何故か今日、僕はワカバに言われてシェンナまで来ていた。 「(――だけど、本当に大丈夫かな……)」 「『ファビオなら、きっと受けてくれるわよ!』」 ワカバは軽くそう言ってくれたけど、本当にそんなことが可能だろうか? ファビオといえば、個性派として人気のある舞台俳優。 いまもこうして、全国巡業の舞台公演で話題になっている。 「(――門前払いされても、おかしくない相手だよな……)」 相手は、仕事として舞台にあがっている本業の役者さん。 そんな人のところにいって、いきなり『僕たちの劇に……』とか言う光景を想像しても、まるで現実味が感じられない。 「『……いい?まずは、強くアピール!』」 「『どんなところを?この劇の売りとか?』」 「『……違うの。ファビオには、そんなの関係ないの』」 「『――彼が望むような悪役が待っている。これがポイントよ』」 どうしてワカバが、自信を持ってそんなことを言うのか? それは彼女が見せてくれた雑誌に載っていたインタビューで、ファビオが熱く語っているのが根拠になっていた。 「『……私はですね、ぜひ悪役が演じてみたいのですよ!』」 その一文を根拠に、本気で受けてもらえると思っているか?……だとしたら、僕は断るつもりだった。 あまりに現実味のない無茶なお願いのために、シェンナまで出向くのは時間の無駄だと思ったから。 しかしワカバが、 「『それにね、こっちには最後の切り札があるの』」 と言って、一通の手紙を出したことで状況が変わった。 「『……これは、無敵の紹介状。交渉に難色を示されたら、遠慮なく使って』」 「『紹介状なら、初めから見せた方がいいんじゃないのかな?』」 「『ダメよ。この紹介状は、あくまで最後の武器だから』」 それが『誰からのモノで、どんな内容か?』と尋ねても、彼女はガンとして教えてくれない。 もし僕が知れば、交渉自体ができなくなってしまう、というのが理由だそうだ。 「『頼んだわよ、セロ!』」 最初は手ぶらでお願いに行くと思っただけに、状況がだいぶ明るいモノに見えてきた……か? 結局、そんなワカバに丸め込まれるような格好で―― 「……ここに居るんだよな」 改めてひとり思い返すと、かなり無謀な状況だ。唯一の助っ人は、カバンに入っている大切な紹介状ぐらい。 これがワカバの直筆談判状とか、ゆすりや脅しの類の写真や文面ではないか……と考えたこともある。 それでも正体を確かめず、こうしてシェンナに来たからには、いまさら『ごめん、ダメだった』と帰るわけにもいかない。 そう。こうなったら、当たって砕けるしか道はないのだ。 「よし!行こう!」 僕は覚悟を決め、劇が終わるのと同時に楽屋裏へと向かった。 「……はぁ。食事に……ですか」 意気込んで向かい、緊張に緊張で一時間待たされたところ、出てきたのはファビオではなかった。 彼は舞台の終了後、いの一番で楽屋をあとにし、近くのお店へ『腹ごしらえ』に出かけてしまったというのだ。 「……それで、そのお店とは……」 応対をしてくれた劇団の人によれば、公演中はずっと同じレストランに通い続けているらしく、そこに行けば間違いないと言う。 しかしそうは言われても、僕はファビオさんを雑誌の写真でしか見たことがない。 それもインタビューに答えるときの姿は、羽根飾りのついたあやしい宣教師みたいな姿をしたもの。 素顔が分からないとなれば、呼び出しをかけてもらうか? 「……はぁ……」 重い足取りで、ファビオさんが居るであろうレストランへと向かう。 劇団の人《いわ》〈曰〉く、『呼び出しの必要はない』とのこと。 店に着いたら、『珍しい格好の人を探すだけ』でいいという。 僕はその言葉を信じ、薄暗い店内で目を凝らせば―― どう見ても、これ以上に珍しい格好の客は居ないだろう……といえる人物を発見することができた。 「(――この人、だよね?)」 逆をいえば、この人がファビオでなければ誰が……と思えるぐらい。 その席だけ、明らかに雰囲気が違っているのだ。 僕は深呼吸をし、ファビオさんであろう人物の近くに行く。そして、勇気を出して声をかけることにした。 「お食事中すみません。失礼ですが、ファビオ・グレイさんでしょうか?」 「……あぁ、そうだと思う」 ……お、思う? 「えぇ、この人がファビオよ。あなたは?」 答えに焦っていた僕に、彼の隣の女性が救いの言葉をかけてくれる。 「僕の名前はセロ・サーデと言います。実は、ファビオさんに折り入ってお話がありまして……」 「ん、そうなのかい?じゃ、そこ座って」 「……は、はい」 あっさりと同席を許されて、逆に戸惑ってしまう。 横に座る女性はといえば、そんな僕を見て面白そうに笑っている。 「……えーっと、セロ?キミ、何処からきたの?」 「モスグルンから来ました」 「ご両親は?」 「すでに他界してます」 「……そうか。じゃ、天涯孤独とかかね?」 「い、いえ。《シスター》〈人形〉と一緒に暮らしてますが」 「シスター。お姉さん、妹さん?どっち?」 「あ、そうじゃなくて……《シュエスタ》〈人形〉です」 言い慣れてないので、すごく違和感がある。でも、舞台に上がる人相手には……この表現の方が? 「ほーう、《シュエスタ》〈人形〉とか。なかなか興味深いね」 「それじゃ、簡単に自己アピールしてもらえるかな?時間はそう……このボールからサラダがなくなるまで」 「あ、は、はい。僕の名前はセロ・サーデ。モスグルンから、ファビオさんに会うためやってきました」 「……うん、それはもう聴いたよ。そうじゃなくて、私に伝えたいこと。売り込み」 売り込み?本題ってことだろうか? 「……では、率直に言います。すみませんが、僕たちの劇に出ていただきたいのです」 「そうか、そうか。そっちの話だったか」 「そっち、と言いますと?」 「……彼はね、あなたを入団希望の役者さんと間違えてたの」 見るに見かねたといった表情で、女性がフォローを入れる。 「……かくいうあたしも、そう思ってたんだけどね」 「そ、そうだったんですか……」 「それで、あなた。引き抜きに来たのかしら?だとしたら、同じ劇団員として見過ごせないわ」 からかい口調でこちらを一瞥し、そのままファビオさんを見る女性。 「この人、面白そうな話に目がないタイプだから、危険なのよ」 と言って、首をすくめる。 「役者は求められるうちが華、とよくいうのはキミだろう?」 「そうだけど、あなたみたいな役者バカは《 ・ ・ ・》〈根無し〉っぽくて……」 「役者バカ、結構じゃないか。そのおかげで私たちは舞台に立つことが許されるのだ」 「……あ、あの……」 このままでは入る余地がなくなりそうなので口を挟み、 「僕は引き抜きとか、大それたことが目的ではなくて――」 と、一気にここへ来た目的を話してしまう。 「……ほう。モスグルンの演劇祭、か」 「……はい」 最悪、一蹴されてもおかしくないお願い。それがまともに話を聴いてもらえただけでも、満足しそうになった。 ……いけない、いけない。目的は、ファビオさんの獲得なのだ。 「ふぅーむ。それで、どんな演目を?」 「それが、『天使の導き』……と言えば天使の導きなのですが」 「……ですが、なにかね?」 「少し、内容がおかしいというか……何というか……」 僕はワカバから預かった台本の一部を見せ、その反応を待つ。 「……ほうほう。概略によれば、アインが悪人ではない、と」 「どれどれ?あたしにも見せて」 隣の女性が台本を読む間、ファビオさんは何か考えている。 「……アインが悪人ではない……か」 問題は、そこ。 アインが『悪役』ではないのに、引き受けてくれるのか? ワカバは、『表向きは悪役でしょ?』とか……すごい強引なこと言っていたけど、それで納得してくれるとは思えない。 ある意味、それは『だまし』にも近くて―― 「そして、逆にヴァレリーが……悪人ときたか」 反応はまずまず。でも、だからといって、引き受けてくれるとは限らない。 「面白そうではあるな。あるが……1分、考えさせてくれ」 ……1分?そんな短い時間で決められてしまうことだったとは。 僕は少し焦ってしまう。もしこのまま断られてしまったら、僕はどうすれば…… そう考えたとき、台本を出すために開けたカバンの中から顔を出している紹介状に気づいた。 「あっ、あの……これも見てもらえますか?」 出し惜しみをして断られては、元も子もない。 「……ん?なにかね、それは」 「見ていただければ、分かると思います」 いまさら『紹介状です』と口にするのもおかしい。とにかく、中身を見てもらうのが肝心なのだ。 「……こ、これは……!」 「どうしたんですか?一体、中には何が……」 「どうしたもこうしたも!……キミはこれが何か知らずに渡したのか?」 「……は、はい。すみません」 「……いや、謝ることはない。知らなくても構わないことだ」 「ねぇ、どうしたの?見せてもらってもいい?」 「いや、見ないでもらおう。これは私と妻のプライベートなやりとりだからな」 ……妻?奥さん? 「あー、奥さん!マリオンからの手紙?ねぇ、見せてよ」 「……断る。これは大切な、大切な手紙だからな」 「ケチね。じゃ、せめて何て書いてあるか教えてよ」 それは僕も知りたい。 「……ただ一言、『モスグルンで待ってます』と書いてある」 「…………あの、それだけなんですか?」 「あぁ、それだけだよ」 ……まさか、そんなモノが紹介状と呼べるモノ? 「よし、決めた。行こう」 「え?」 「ん?何か不服なのかね?」 「い、いえ!ありがとうございます!」 「別段、マリオンに頼まれたからではない」 「ウソウソ。この人、奥さんには頭あがらないから」 「うおっほん!」 「(――いや、これは断られたときに出すモノ)」 下手に思考の邪魔をするような真似はよくない。 「…………んん……」 ファビオさんが答えを出すまでの時間が、とても長く思える。やがて彼は唐突に軽く頷き、 「面白そうだな」 と言って笑ってくれた。 「……ということは……?」 「よかろう。その役、引き受けよう」 僕はその言葉を待っていたが、まさか本当に言ってもらえるとは…… 「あっ、ありがとうございます!」 「ただし、私にも都合というものがあってね」 「……そちらの練習には、ほとんど顔が出せないと思っていただきたい」 「それは、もちろんです」 「通し稽古の日程など、決まっているのかね?」 「いえ、そこまではまだ」 「では、ひとまず本番近くだけはスケジュールを空けておこう」 「あとは、ここに電話してくれたまえ」 出演承諾からはトントン拍子で話が進む。 そして握手も交わし、僕は先に席を離れようと思ったが―― 「あの……すみません。最後にお尋ねしたいことが」 「なにかね?」 「その……格好は、一体?」 もしかしたら……という僕の予想が、当たっているかどうか。 「この格好?なにかおかしいかね?」 「い、いえ。……ただ、その……」 僕が、バーミリオンで演じた役と同じかもしれないと思って。 「これはね、公演中の衣装よ。この人、『食事が優先!』って言いながら楽屋飛び出して、そのままなの」 「……そうでしたか」 ということは、やっばり……ネコ王子のモデル、ガスパロ! 「格好などどうでもいいのだよ。ここが舞台かそうでないか。そこだけ間違えなければ、何ら問題はないのだからな」 そう言って最後のひと皿に手をつけるファビオさんは……役柄同様やっぱり変わった人だった。 「――わたくしには、天使の加護がある。この意味、そなたに分かるか?」 「……はい。姫様には、数多くの護り手がついております」 「そうではないぞ、シュエスタ。わたくしがいう天使とは、城に居る者たちのことではなく――」 そこであたしは、彼女を見つめる。 クリスティナにとっては、シュエスタこそが『天使』であり、その事実を本人に伝えておきたいと思っている。 しかし、それはなかなか口にできない想い。 だからこのシーンでは、言葉ではなく視線と沈黙の間で理解させようとする。 「(――ベル、気づいて……)」 「…………」 いま、目の前に立つシュエスタに惹かれているのは、あたし本人であり―― 「…………ごめんなさい、もう一度」 「はい」 これが7回目の失敗。 最初の2回は観客席に居たワカバからのもので、残りは全て……このあたしが出したモノになる。 「……あの、次のワタシの台詞のタイミング。やっぱり遅いでしょうか?」 「ううん。ここのシーンは早いとか遅いじゃなくて。ちゃんと観客を納得させないといけないの」 「――クリスティナが、どんな想いで見つめているか?それが伝わらないうちは、決して次の台詞に行かないで」 「は、はい。わかりました」 ベルはとても正直な子だから、こちらの意向に沿ってくれる。本当はあたし自身、1回目の演技で完璧だと思っていた。 だけど脚本家からは、まさかのダメ出しが飛んできたのだ。 「『はーい、ダメー』」 「『……どうして?いまのベルのタイミングは完璧でしょ?』」 「『うーん、そうなんだけどね。何か違うのよ』」 「『……何かってなに?具体的に言ってちょうだい』」 「『……私からすると、アンジェリナとベルなのよねー』」 あたしとベル。その言葉の意味は、なかなか深いものがあった。 「『ほら、私はふたりのこと知ってるでしょ。だから、ふたりのリズムとかも、それとなく計れるの』」 「『……ふ、ふーん』」 ふたりの関係を解ったかのように言われ、少しだけカチンときたが、ここは我慢。 話をまとめれば、お話の中のクリスティナとシュエスタは、『まだ結ばれてない』とのことだった。 「『……心がね、まだなの。心が』」 「『わかってるわよ、連呼しなくても』」 すでにお互いの気持ちを理解しているふたりではなく、まだ一方通行だったクリスティナの想いが通じる瞬間を……と。 「(――やっぱり、演劇って難しいわ)」 あたしは気を取り直し、8回目にチャレンジしようと息を吸い込む。 「さぁ、もう一度いくわよ……」 ……と、そのとき。舞台を見つめる『誰か』の視線を感じた。 さっきまで居たワカバのモノではない。 「(――誰、かしら?)」 あたしは観客席を見渡し、さっきまで誰も居なかったはずの場所――中央辺りにひとりの人物が座っているのを確認した。 「(――あそこに居るのは……)」 今日はスポットも当たり、逆光気味で観客席がよく見えない。 演技に集中しなければと思いつつも、どうしても気になってしまい目を凝らせば……その正体が、おぼろげながら見えてきた。 「(――あれは……)」 そこであたしは、言葉を失う。 「……ファビオ・グレイ……」 それは、到底こんな場所に現れるはずのない人物で―― 「えっ?」 「あっ、ごめんなさい」 練習の途中だと言うのに、思わず口走ってしまった名前。 あたしの視線を追いかけたベルが、首を傾けて尋ねてくる。 「……あの、あの人は……?」 「舞台俳優のファビオ・グレイ。あたしが知る男性の中で1、2を争うぐらいに全国的に有名な人物」 そして、舞台を下りたプライベートも気になる存在。 何故なら彼は―― 「(――マリオン・キュリーの夫)」 青の都のカフェで、あたしがおねえさまに告白もできずに終わったのは、彼がおねえさまの隣に立つと知ったから。 その人がいま、あたしたちの練習風景を見ている。 「……あっ!時間通りね」 ちょうど席を外していたワカバが、戻るなりそんなことを言いながらファビオの近くへ。 彼の方もワカバに気づいたようで、 「……やぁ、お待たせ」 とよく通る声で席から立ち上がった。 「(――ワカバが……ファビオの知り合い!?)」 一体、どんなつながりがあって? それともワカバは、あたしの知らないところで演劇界に深い人脈を持っている? 「初めまして、ファビオ・グレイ。私がワカバ・フォーレです」 「こんにちは、ワカバ。キミがこの脚本担当だね?」 その言葉からして、彼の手に握られたのは……この劇の台本? 「そうです。今回は急なお願いを……ありがとうございます!」 「(――どういうことなの?)」 もうこれは、『気にするな』という方が無理な話。 とても練習に没頭できないと悟ったあたしは、ベルと一緒に舞台を下りて彼らの元へと向かった。 「あっ、きた!彼女です。私の書いた『天使の導き』で、クリスティナ・ドルン役を務める――」 「――アンジェリナ・ロッカです。初めまして」 ワカバの紹介と舞台衣装に合わせ、思わずあたしは仰々しくドレスの裾を持ち上げながら挨拶をしてしまう。 ……と、こちらをジーッと見ていた彼は、1テンポ遅れて、 「マリオンが気に入るだけある」 と、言った。 「えっ?」 いきなりファビオの口から出されたおねえさまの名前に、驚きを隠しきれなかったあたし。 しかし、向こうはサッと手を差し出しながらにっこりと笑う。 「初めまして、アンジェリナ。キミのことは妻から聞いている」 聞いている、あたしのことを。奥様である、おねえさまから。 一体どんなことを?……まったく想像もつかない。 あたしはそれを尋ねるべきかどうか、ほんの一瞬迷う。……が、やはり好奇心には勝てず。 「おねえさま……あたしのことを何と言ってましたか?」 恥も外聞もなく、ストレートに質問してしまった。 「ふふふっ、それは秘密だよ。ただし、悪い噂はないから安心したまえ」 それが何の答えにもならない『はぐらかし』だと気づくのに、あたしは何秒をかけたのか。 もう一度改めて尋ねようとしたときには、彼はすでに横へとスライドしていた。 「こんにちは、シュエスタ。唄を歌われるそうだね」 「は、はい」 「《シュエスタ》〈人形〉との共演は、これが初めてになる。どうぞよろしく」 「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」 「(――でも、どうしてファビオが台本を持っていたり……って)」 彼のさらりとした挨拶に、何かとんでもない一言が混ざっていたような気がする。 「共……演?」 そう、共演!確かに彼は、《シュエスタ》〈人形〉との共演……と口にした。 「そうよ。ファビオには……アインを演じてもらうの」 「そうよ。ファビオには……ヴァレリーを演じてもらうの」 これまたあっさりと答えてくれたワカバには、もう心の中で突っ込みを入れるぐらいしかできなかった。 「(――彼は、プロ中のプロなのよ?解ってる?……って、あんまりよく解ってないわよね、ワカバ)」 「……アンジェリナさん、しっかり」 「……大丈夫よ」 それからしばらくは、ぎくしゃくした会話が続く。 あたしにとっては、色々な意味で『遠い存在』だったはずの舞台俳優ファビオ・グレイが、思ったよりも『普通の人』であったことが驚きであった。 「……はい、そしてこれがアインの衣装です!」 「……はい、そしてこれがヴァレリーの衣装です!」 「……ふむ。衣装も悪くない」 あまり滞在時間がないというファビオは、手にした衣装に袖は通さず、確認するにとどめた程度。 話を聞けばシェンナにトンボ返りをし、明後日からの公演のため、自らが所属する劇団に合流するとのことだった。 「……それじゃあ、本番のときはよろしくお願いします」 「いやいや、こちらこそ」 「参加するからには、全力でやらせてもらうよ」 「……それでは、本番で」 「こちらこそ!どうぞ、よろしくお願いします」 「……って、ワカバ!」 「んー、なぁーに?」 「《ファビオ》〈彼 〉が来るなら来るって、どうして教えてくれなかったの?」 「えへへっ。少しぐらい驚かしてあげようかなぁ……って」 「少しどころじゃないわよ、まったく……」 「だいたい、あなたどうやってあのファビオを劇に誘ったの?」 普通に考えて、ワカバにそんな人脈があるはずない。あるとすれば、あたしとおねえさまのつながりぐらいで―― 「うふふふふっ、それは企業秘密。まぁ、強いて言うなら……」 「……強いて言うなら?」 「セロに感謝してあげて。シェンナまで出向いて、口説いてくれたのは彼だから」 ……セロが?ますます訳が分からない。 「まぁ、とにかく!これで『アイン』はもう平気よ」 「あっさり言ってくれるじゃない。こっちは毎日がドキドキだったっていうのに」 「へーっ。鋼鉄の心臓を持つアンでも、そんなことあるの?」 「誰が鋼鉄ですって?」 「……ア、アンジェリナさん。ワカバは、別にけなしているわけじゃなくて……」 誰よりも心配症のベルが間に入り、あたしとワカバは思わずふたりして笑ってしまう。 「えっ、あの……ふたりとも、なにがおかしいんですか?」 「うふふふっ、いいのよ」 「そうそう、気にしないで。あはははっ」 「……?」 緊張の合間の一息。 あたしとワカバでうまくいかないときは、ベルが居る。 じゃあ、あたしとベルがうまくいかないときには? 「……さぁ、練習に戻りましょう。ワカバ、次で8回目よ」 「えーっ、そんなに練習してたのー?」 「当たり前でしょ。最初にあなたがダメ出ししたんだから」 「……むーっ」 観客席から、あたしとベルを見守るワカバが居る。 それは、とても力強い味方。得ようとしても、なかなか得られるものではない。 「はい、じゃ8回目。張り切って行って!」 「……バカッ。緊張感そぐようなかけ声やめてよね」 「えーっ!じゃ、なんて言えばいいのよーっ?」 「あ、あの……ふたりとも……」 ――ゆるい練習だけど、きっとこれがあたしたちにはベストなんだと思う。 「まぁ、とにかく!これで『ヴァレリー』は確定ね」 「良かったですね、アンジェリナさん」 確かにふたりが言うとおり、力強い味方が入ってくれた。 「……だけど、まだ『アイン』と『ハンス』の役が居ないわ。どちらか一方はトニーノに任せるとしても、あとひとり」 もう本番までそれほど日数もない以上、あまり悠長にコトを構えてはいられない。 「……アテはあるの、ワカバ?」 「うーん。あるような、ないような……」 「いざとなったら、脚本書き換えてもらうしかないけど……」 「それはないわ!もう、ここまできたらあとは勢いよっ!」 「……まさか、トニーノに一人二役やらせるつもりじゃ……」 「……それだわっ!」 グッと握り拳を造ったワカバに、あたしとベルはため息で顔を見合わせる。 「あの、さすがにそれは無理があると思いますけど……」 「うぅ、ベルに言われると何か重みが違うわね」 「どういう意味かしら?」 「まぁ、まあまあ!あと数日待って。何とかするから」 本番まで、1週間を切りかけているというこの時期。 「(――ここまできたら、ワカバを信じるしかないか……)」 そう考えられるのも、ファビオの参戦があってのこと。あとひとりも、不思議とワカバが何とかしてくれそうな気がしてきた。 「……頼んだわよ、ワカバ」 「任せておいてっ!」 舞台へと向かう階段を小走りで上がるドレス姿に、ワタシは思わず声をかける。 「アンジェリナさん?」 だけど、視線で追いかける背中はいつもより一回り小さく、どこか別人のようにも見えて…… 「……やばっ!」 そして一瞬聞こえたのは、ワカバの声だったような? 「(――いまの、アンジェリナ……さん?)」 ワタシは首を傾げながら練習の準備を始めようと思うけど、どうしてもドレスの影が気になり、近くでのんびりしていたライトに声をかける。 「……ライト。いま、アンジェリナさん見なかった?」 「んにゃー、見てないなあ。そういや、ねーちゃんも居ないな」 そう言ってキョロキョロするライト。 ……と、舞台からクスクスと笑い声が聞こえたのに続き―― 「じゃじゃじゃーん!わたくしは、ここに!」 まさかの格好をした人物が階段を下りてきて、その場に居た全員がどう反応していいか迷っていた。 「……ワ、ワカバ……」 クリスティナ姫のドレスを身につけたワカバが、笑顔を振りまきながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。 「……ねーちゃん。オレ、一瞬……アンジェリナ……」 「見えた!?やっぱり!?私でも――」 「ううん。アンジェリナの衣装が盗まれたのかと思ってさ」 「むきぃ……じゃなくて、おほほほほっ!」 「い、いてぇ!なんだよ、殴ることないだろー?」 「いいわよ。あんたの評価なんて聴きたくもないわ」 そう言ってワカバは、当然セロの方を見る。 「に、にあってると思うよ、僕は……うん」 「アンと私、どっちが似合うと思う?」 「……ど、どっちとか比べられないよ……」 あとで問題にならないように? それとも、みんなが居るから恥ずかしくて? 「(――なんて、意地悪なこと考えたらダメよね)」 ワタシなら、ワカバには悪いけど……答えはひとつしかない。 「嘘でもいいから、『ねーちゃん』って言ってやってくれよー」 「ラッ、ライト!」 「……なぁなぁ、セロにーちゃん。こんなねーちゃんだけど、とっとともらってやってよ」 「ライト!大人をからかうなっ!」 「そうよっ!」 ふたりして赤くなったところを見ると、本気で照れくさい? 「……と、ところでさ。そのドレス着ることはアンジェリナに断ってあるの?」 「あ、あはははっ。と、当然でしょ?」 「……すっげえ、あやしいよなぁ」 「……あやしいも何も、無許可よね……」 「ありゃりゃ。見つかっちゃった」 「……裾とか踏んだりしてないでしょうね?」 ワカバはアンジェリナの首筋を掴まれ、そのまま楽屋へ。 そのあと、ふたりの間で何があったかは……誰も知らないし、知ろうともしなかった。 「……それ、うちの家に代々伝わるネックレスじゃんか」 「そうよー。このドレスにピッタリでしょ?」 「いいよな、ねーちゃんばっかり。オレが誕生日にもらったの、とーちゃんのサスペンダーだぜ」 「なんだかんだ言って、気に入ってるくせに」 「……まぁねっ!」 「…………そう。お気に入りって大切よね」 「げっ!こ、これは、アンジェリナ様」 「…………着るなら着るで、一言ぐらい言って。着替えようとしたら衣装が無かったから、本気で焦ったわよ」 「ごめん、ごめんー。あ、おわびにコレ……貸してあげるから」 「……高そうなネックレスね。どうしたの?まさか……」 「失礼ね!これは正真正銘、私のネックレス。お母さんから、この前の誕生日に譲り受けたの!」 「……そう……」 「本番で、使って。きっとアンなら似合うから!」 「あの……ワカバ」 「ん、なぁに?」 「もし良かったら、ワタシにそのペンダントを……よく見せてもらえませんか?」 「……いいけど、なんで?ほしいって言われても、あげられないわよ?」 「そんなことは言いません。ただ、どうしても……」 ワタシは口ごもり、少し離れた場所にいるみんなを見る。 ……と、ワカバはワタシの意を察してくれたのか、 「うん、いいわ。じゃ、外に出ましょうか」 と言ってくれた。 「はい、どうぞ」 「あっ、触るつもりはありません。ただ、見せてもらえたら、それでいいんです」 「そうなの?じゃあ……こんな感じで?」 「(――ワタシは、このネックレスを知っている……)」 「(――このネックレスにはまる貴石は……)」 「……これは、どうしてワカバが持っているの?」 「あれ?さっき話さなかったっけ?これはこの前の誕生日、お母さんからもらったの」 「……お母さん」 「そして、お母さんはそのお母さん……私のおばあちゃんから。貧乏な家だけど、一応は『家宝』ってことになるのかな?」 「……家宝……」 「一応は代々伝わる家宝よ。……元々は、とある国の偉い人が持っていたモノらしいんだけど」 「――その人が亡くなった際に、形見分けとして親戚筋に渡されたらしくて」 「まぁ、それが我が『ご先祖様』だったみたい」 「…………それから、代々……引き継いできたの?」 「――みたいね。でもでも、子どもに渡す際にはいくつかの条件があるんだって」 「ひとつは、できる限り女の子に渡す。……そりゃそうよね。どう見ても男の子向けじゃないし」 「そして必ず、渡したその場で身に付けさせること」 「……?」 「それで、そのときの感想を訊くんだって」 「……ワカバは、そのとき……どんな感想を口にしたの?」 「うーん。何て言ったかな?確か……『ありがとう』だったと思う」 「あー、でもね。もらったとき、こうも思ったの」 「……これって、私がもらうべきモノだったんだなーぁ、って。理由はよく解らないけど」 「…………ねぇ、ベル」 「は、はい」 「これ、私には似合わないよね?」 「どっちかっていうと、これは……アンみたいにキレイな人が付けた方が似合うと思うの」 「……ワカバ」 「えへへっ。アンのドレス勝手に着てみて分かったんだけど、私にはこういうの似合わない」 「――そりゃ、私のご先祖様の中にはピッタリくる人も居たと思うけどねー」 「(――姫様……)」 ワタシの中の人物が、そのペンダントの持ち主を見極める。 それは、ずっとずっと昔、ワタシがエファだったときに―― そして、もうひとりの人物の意識が、ほんの一瞬だけ戻る。 ずっとずっと昔、わたくしが―― 「(――ドルンの記憶……)」 ワタシ以外の『ふたりの記憶』は小さく波打ち、そのまま記憶石の中へと沈んでいく。 「……ありがとう、ワカバ」 「ん、もういいの?」 「はい。少しだけ、スッキリしました」 きっと、ワタシがここに居るのも……姫様のお導き。ワカバと出会ったのも奇跡ではなく、運命だと信じたい。 「そのペンダント、とってもよく似合ってます」 「あー、ありがとっ!お世辞でも嬉しいわっ」 「いいえ。本当に……よくお似合いです」 ワカバは『私の知る姫様』とは違う。 でも、その瞳の色には姫様の面影がある。 「あ、あんまりおだてないで。そういうの、苦手なんだから。あはははっ」 「……でも、本当にありがとう。なんだか、ベルに認めてもらえただけで満足よっ!」 「そんな……」 「うふふふっ。じゃ、約束通り、これはアンに貸すわ」 「アンが舞台でつけてくれたのを観客席から見て、ひとりでニヤニヤするの」 「あの……最後にひとつだけ……」 「ん、なぁに?やっぱり触りたいの?」 「いいえ。そうじゃなくて、お礼を言わせてください」 「んんん?なんだろう?」 彼女には解らないかもしれないけど、これは『ふたり』から。 「本当に……ありがとう」 「よく解らないけど……うーん、どういたしまして?」 「……はい、そこに立って」 今日は、舞台への入り方の指導をみっちりと行うつもり。 基本はクリスティナを中心に、天使がたわむれにステップを踏んで廻るシーン。 この場面では立ち位置が非常に重要となり、間違って舞台の奥に移動してしまえば観客席から見えなくなってしまう。 「1、2、3……ここで止まる」 「はい」 「そこであなたが、あたしの周りを時計回りに」 「こんな感じ……ですか?」 「……そうね。いいリズムよ」 ふたりは舞台の右から左へ、都合3回に分けてダンスを披露する。 まだ白の国が平和だったときを象徴するシーン。 ベルの飲み込みは早く、逆にあたしが置いて行かれてしまうぐらい。 「少し早いわよ」 「そうですか?ワタシは、一定のリズムで移動してますけど」 「…………そ、それはど……うかしら?」 反論しかけたが、あたしはその原因が自分にあると気づいた。 呼吸の乱れ、体力的なもの。 最初のペースから、あたしの方がスピードダウンしていると知り、ショックを受ける。 「(――運動不足が否めないわ……)」 本番では重いドレスを着るのに、いまからこの調子では……非常に問題がある。 「……ベル。10セットよ」 「え、えぇ?で、でも時間的に次の組の人たちが……」 「簡単よ。休憩を省いて、時間短縮。いくわよっ」 「で、でも……」 「はい、この時間が惜しいの」 あたしはベルと共に、舞台袖から再スタート。 演技そのもののスピードを変えては、意味がない。 本来なら、誰かにストップウォッチで計ってもらうのが一番なのだが、いまはあたしたち以外は誰も居ない。 仕方なく、リズムの乱れないベルを頼りに練習を続ける。 「…………あ、あと3回」 「アンジェリナさん。そろそろ休憩をとりましょう」 「だ、大丈夫!」 これぐらいで根を上げていたら、舞台になんて立てないから。 それに、あたしは所定のポイントでベルと踊るだけなので、実際には彼女の方が運動量も多いのだ。 「(――負けられない)」 「……あ、あと2回」 何とか目標が見えてきたあたしは、さらにがんばって―― 「……えっ?」 ふとした違和感。中央のダンスの立ち位置が、微妙に違う。 さすがに9回連続ともなれば、身体が覚え込んでいる。 それなのに、ここから見える風景がほんの少しずれている。 「(――最後のポイントで修正ね)」 本番でもあり得ることだから、臨機応変にいかないと。あたしはベルが先行するに任せ、最終の位置へと移動する。……が。 「……ベル?」 彼女は正確な歩幅だが、移動距離が短くなっているような? 「(――立ち位置が違う……)」 最後の舞台端は、それなりにギリギリ。そして、そこでベルがステップを踏み始めたら……危険! 「ダメっ!」 「えっ!?」 遅かった!……と思った瞬間、あたしは彼女に向かって―― 「きゃっ!」 「イタッ!」 間一髪、舞台端からふたりとも落ちることはなく、どうにか重なり合う無様な格好をさらすだけで済む。 「へ、平気ですか?」 「……あはははっ。悔しいけど、あなたの方が断然軽いわ」 これが上下逆だったら、彼女にケガをさせていた。 「……もう!わざと移動距離を短くしていたでしょ?」 「ごめんなさい。アンジェリナさんが少しでも疲れないように……と思って」 「ダメよ、そういうことしたら。立ち位置がずれると危険って、これで分かったでしょ?」 「は、はい。気をつけます……って、ワタシ、いつまで……」 そそくさと横にどいたベルが、そっと手を差し伸べてくれる。 「ありがとう」 あたしはその手をとって、ゆっくりと立ち上がろうとして。 「イタッっ!」 右足のくるぶしに鈍い痛みが走り、思わずしかめっつらをしてしまう。 「アンジェリナさん?もしかして、いまので……」 「平気よ、平気。これぐらい、なんてことないから!」 実際に立って、体重をかけてみれば……結果は出る。 「う、う……うーん」 体重のかけかた次第で、眉間にしわが寄るレベル。 「まぁ、本番までに何とかなると思うわ」 「…………お医者さん、行きましょう」 「……そうね。ひとまず、ここを片付けてから」 あたしたちは、簡単ながらも撤収作業を始める。 「…………アンジェリナさん……痛くないですか?」 「気にしすぎ」 「で、でも……ワ、ワタシのせいで……」 「……バカね。誰もあなたを責めたりしてないでしょ?」 「だ、だけど……どう考えてもワタシが……」 「違うわ。最初にオーバーワークを言い出した、あたしのせい」 こんな言い争いを続けても、無意味。 だけど、ベルって結構頑固なところがあるから、少し困る。 「(――仕方ない子ね)」 あたしは、うつむいたままの彼女の横に立ち―― 「えっ?」 「……分からず屋さんは、嫌いよ」 「そ、そうは言われても……」 「言うことききなさい、ベル。そうしないと、もう二度とキスしてあげないんだから」 「……そ、そんなぁ……」 「いいわね。このことは忘れて。……ついでに」 「他の人にも言ったらダメ。……いい?」 「…………」 「お願い。これ以上、誰かに心配をかけたくないの」 「…………はい」 「……いい子ね」 あたしはもう一度だけキスをして、彼女から離れる。 さて、問題は……この足のねんざがどの程度のモノかということ。 そう思って、残り2回に入ろうとしたとき。 「……す、すみません。ワタシ……ちょっと」 「えっ?どうしたの?」 さっきまで元気だった彼女が、急に疲れを訴えてきた。 「ごめんなさい。舞台で廻っていたら、昔の記憶が……」 「……あっ、いいの。いいから、そこに座って!」 「……まだ、安定してなかったみたいで」 「ううん!こっちこそ、オーバーワークさせてごめんなさい」 「少し、休めばよくなると思います」 「ダメっ!病院行くわよ!」 「……あの、ワタシの場合は……シルヴィアさんのところが」 シルヴィアによれば、結果は特に異常なしとのこと。 ただし、あまり無理な活動は控えるように……と釘を刺されてしまった。 「(――仕方ないわ。あとは、あたしが自分で……)」 身体を鍛えるしかないようだ。 「やっほー。お元気ですか、クリスティナ?」 ノックもなしにドアが開き、あたしのことを役名で呼ぶ声。でも、それは聞き覚えのある人のモノで―― 「……おねえさま!」 「はぁい、アンジェリナ。もうすぐ本番ね」 室内を見渡しながら入ってくるおねえさまに唖然。一体、どうしてここに? 「いつ、モスグルンへ?」 「一昨日だったかしら?プライベートの時間ができたから、少しぐらい遠出してもいいかな……と思って」 「……そうだったんですか」 それでモスグルンまで来てしまう辺り、何というか。 「えぇ。それでアンジェリナの舞台衣装をこっそり見に来たら、本人が『そんな』なんだもん。びっくりよ」 「あっ、こ、これは……」 あたしは足首のテーピングを隠そうとしたが、おねえさまの視線はしっかりと包帯に釘付けだった。 「役柄の上で……ってわけじゃないでしょ?」 「…………はい」 「他のみんなは、このこと知ってるの?」 「……いえ、ほとんどは」 ひねったときに一緒に居たベル以外は、トニーノぐらいか。 「相当きつく縛ってるみたいだけど、平気なの?くじいたかなにか?」 「……は、はい」 「お医者様には診てもらったのかしら?」 「……いちおう、は」 「それで、何て言われたの?しばらくは無理な運動を避けて、安静にしてなさい……ぐらい?」 「……いえ、そんなにひどくはない、です」 「……うふふっ。自分のこととなると、途端に演技ができなくなっちゃうのね」 言われなくても、分かっている。 でも、おねえさまの推測があまりに的確だったから、それを認めるのが少し《しゃく》〈癪で〉。 「どうするつもり?……とか、訊かないでほしい?」 「…………お好きになさってください」 「あら、ご機嫌斜めにさせちゃったわね。ごめんなさい」 「そんなことないです。ただ、おねえさまが意地悪だから……」 「うふふっ、昔からよ。いまに始まったことじゃないでしょ」 おねえさまは少し苦笑したあと、ゆっくりとあたしに近づき、 「……ちょっとだけ、見せてもらえるかしら?」 と言う。 当然、あたしには断ることもできないので頷くだけになる。 「…………アンジェリナらしいテーピングね」 「どういう意味ですか?」 「色々、試したんでしょ?巻いて立って、痛みの具合をみて」 「…………はい」 それが『あたしらしい』と言いたいのだろうか? 「何事も試行錯誤、自分が納得できないとダメ……って感じがにじみ出てるわ」 結び目をほどき、踵の側を少しゆるめてからもう一度しばるおねえさま。 その手の動きがとてもキレイで、あたしはジーッと見つめてしまった。 「……はい。こうした方が動きはよくなるわ」 「本当ですか?」 「あまりガチガチにすると、いざというとき動けなくなって、それを無理に動かしてさらに酷く……なんてことにもなるの」 「それだったら、ちょっとぐらい痛みがあっても、最初から自分の動ける範囲を広げておいた方がいいと思わない?」 「そう、ですね」 「……聞き分けいいのね。巻き方は憶えられそう?」 「……はい」 からかい口調で言われ、自分でも顔が赤くなったのが分かる。だけど、おねえさまのアドバイスは……とても嬉しい。 「ありがとうございます。これで、本番は何とかなりそうです」 「……えーっ?正直無理じゃないかなぁ、って思うんだけど」 「えっ!?」 「だって、ほとんど通しで舞台でしょ?」 「負荷が長引けば、それだけ痛みも増して、だんだん演技にも影響出てきちゃうと思うの」 「……それはそうですけど、いまさら代役も立てられないし。あたしが頑張るしかないんです」 「本当にそう思う?」 挑戦的な言い方に、少しだけムッとしたあたし。 「……どういうことですか?おねえさまは、あたしが根性なしだとでも?」 思わず、強く言い返してしまった。 「いいえ。あなたはそこら辺の子なんかより、ずっと頼もしい後輩なの」 「……だからこそ、あなたの初舞台を見に来たのよ」 「…………おねえさま」 「……だけどね。いまの姿を見ると、やっぱり不安になるの」 「大丈夫です。あたし、おねえさまの期待を裏切るような真似は絶対にしません」 「そうね。その言葉が聞けるなら、平気そう」 ゆっくりと立ち上がったおねえさまは、そっと自分の唇に手を当て、 「いたいの、いたいの、どっかいけー」 と、あたしの足首に投げキスをしてくれた。 「あ、ありがとう、ございます」 「気にしないで。こんなの気休めにもならないから」 「そんなことありません。おねえさまは、心の支えですから」 「きゃー、かわいい。嬉しいこと言ってくれるのね。何だか、私の方が励まされてる気分」 「――なんだったら、そこにコメントとサイン書いちゃう?」 「……そこまでは、いりません」 そんなことをされてしまったら、本番でも同じ包帯を使うことになってしまう。 「……うーん、残念。ざんねん、ホント残念」 「もしかして、書きたかったんですか?」 「……違うわよ。サインじゃなくて」 あたしのドレスをそっと掴み、おねえさまはニヤリと笑う。 「もし万が一、アンジェリナが辞退するようなことになったら。私が代役になろうと思ってたの」 「そんな。さすがのおねえさまでも、練習もなしには……」 「うふふふふっ。練習してあるのよ、それが」 「えっ?それって」 「……実は、ね。脚本家さんから私宛てに、演劇祭の招待状と一緒に……『とあるモノ』が届いていたりするの」 脚本家といったら、ワカバ。そうすると、その『とあるモノ』ってまさか…… 「だから、台詞だけならバッチリ。誰でもこなす自信あるわ」 「…………それは……」 おねえさまが言うと、冗談に聞こえないところが怖い。 「それに。さっき、こっそりと通し稽古も見せてもらったの」 「だから、もし急な『代役』が必要になったら、言ってね。うふふっ」 多少めかしてはいるが、本音が見え隠れしているのは確か。 「ねぇ、空きそうな端役とかないの?私、頑張るから……出してくれない?」 「そ、そんな真似できません。おねえさまに端役だなんて」 「結構、かたいわねー。だって、うちの旦那様だって出てるじゃない。夫婦競演とかも楽しそう」 「……そう言われると……」 あたしも、ふたりの競演は見てみたい気がする。 「まぁ、いいわ。半分冗談だから」 「……やっぱり」 「あら!でも誤解しないで。私、アンジェリナと同じ舞台に立つのは、やぶさかじゃないのよ」 あたしはどう答えていいか分からず、俯くばかり。だけど、もしそんな夢のようなことが起こるとしたら…… 「(――それは、もっともっと先の話ね……)」 「一杯だけ!ねぇ、いいでしょ……トニーノ」 妙に甘えた声を出すと思えば、そんなお願いか。 「……あのなぁ。いくら通しの練習が全部終わったからって、本番は明後日なんだぜ」 「そんなの知ってるわよ。だからこそ、今晩なんじゃないの」 「……いいか、一杯だけだぞ?」 「なによ、偉そうにぃ。信用ないんだから……」 少し拗ねた口調に、ついつい甘くなってしまう俺。 ……当然、その結果は分かりやすいもので―― 信頼とは、裏切られるためにあるということ。 「あっははーっ、ごっきげーん!」 「……約束ちがうじゃんかよ」 「えーっ、なぁーに?もぅ、自分が飲めないからって!拗ねてるのぉ?」 「ちげぇよ!……ったく」 ご機嫌な彼女とは反対に、どうして俺がこんな辛い思いをしなゃきゃならないのか。 「あー怒らないでぇ、トニーノぉー」 「……おっ」 肩にもたれかかったシルヴィアの、大きくて柔らかい感触が俺をドキリとさせる。 普段からこれぐらい甘えてくれてりゃ、俺としては文句もないんだけどな。 「……なぁ。他の奴らに見られてもいいのか?」 「あー、ちょっと困るかも。恥ずかしいよねぇ、あははっ!」 ご機嫌笑いの彼女は、俺の背中を布団か何かのように叩く。 「……ったく、いい気なもんだな。アイツら、今頃も練習してるかもしれないんだぜ?」 「…………ぁ」 俺の言葉が効いたらしく、シルヴィアの表情が一瞬で素に戻って身体を離していく。 「……バカトニーノ。せっかくのほろ酔いが台無しよ」 「とても『ほろ酔い』って感じじゃなかったけどな」 「……ふん……」 別に、それほど強く言ったり諭したりしたつもりはなかった。 ……が、どうにも酔い覚めがよくなかったらしく、ホテルに戻るなり、 「別の部屋を借りる」 とか言い出してきた。 「シルヴィア。酔っぱらってワガママとか、かっこわるいぜ」 「酔ってなんかないわ。アタシはいたってシラフよ」 そう言いきった直後に、 「なぁにょー?お酒飲めないアンタと部屋に戻れっての?」 というのは、いかがなものかと。 「……好きにすればいいさ」 さすがの俺も付き合いきれない。 部屋を新しく借りさせるなんて真似はできないから、ここはこっちが退散して彼女に部屋を譲るべきだろう。 「ちょっとー。何処行くつもりよー?」 「さぁね。セロのところでも行くよ」 アイツだったら、俺のひとりぐらい泊めてくれるだろう。 「あーぁ。なんだかなぁー」 「いまさら、見つけた……とか、そんな嘘も言えないし」 「こんなことになるなら、初めから素直に着けておくんだった」 でも、着けたら着けたで。アタシが『トニーノの横にずっと居る』って約束しちゃうようなもの。 それがイヤとは思わないが、もし途中で息苦しくなったり、向こうがアタシに飽きたら―― そう考えると、やっぱり着けるのをためらってしまう。 「難しいわよね、ホント……」 自分が素直になればいいだけのこと。 それが解っているつもりでも、なかなか実行に移せない。 「……だっ、誰!?」 いきなりの物音に、アタシの背筋が凍る。 「……誰なのっ?」 以前、ココとライトにびっくりさせられたときの記憶が甦る。正体が判らない者ほど、怖いモノはない。 「だっ、誰なのよ!?」 アタシは身動きもできず、そのまま固まっていると―― 「……へっへっ、仕返し」 その正体が、あっさりトニーノだと判明する。 「あっ、アンタ!なにやってんのよ?」 後ろから吹きかけられた息に、アタシは少し驚く。下戸のトニーノが―― 「たまには……オレだって飲むさ」 こんな匂いをさせて戻ってくるなんて。 「(――あっ、いけない!)」 アタシは我に返り、慌てて指輪をはめた手を隠そうとするが、逃がす場所がない。 仕方なく、そっと机の下へとそれを逃がそうとしたけど―― 「ん?なぁに隠したんだ?」 「なっ、なんでもないってば!」 追いかけられて、触られて。 あまりにもあっさり、アタシは指輪を見つけられてしまった。 「…………見つかったんだ」 「…………こ、これはね……」 必死に言い訳を考える。 なくしたはずのモノが、そう簡単に出てくるはずがない。 だったら、何処から出てきたと答えれば一番しっくりくる? 「……ありがとうな」 「…………えっ?」 あまりに拍子抜けなお礼の言葉に、アタシは思わず、 「もっとこう、何かないの?」 と、立場を忘れて文句をつけてしまう。 「……あ、いや。何て言うかなぁ?着けてくれただけで、満足かな?」 前から予想していたとおり。トニーノは怒らず……アタシを許してしまう。 「(――それじゃ、ダメなのに……)」 「気取るなヘンタイ!だいたいアンタはねぇ!」 「(――もっと、きっちり叱ってくれないと……)」 「そんなんだから、アタシに舐められて、いいようにこき使われて……」 「(――アタシが素直になれないのに)」 「いっつもおいしい思いできないのよ!」 たたみかけたアタシに、トニーノは何も答えず。 キョトンとしたその顔が、あまりにも滑稽で思わずからかいたくなってしまう。 「どうしていつも添い寝だけで我慢できるの?女に興味ないのが紳士のつもり?」 「誰がそんなこと言ったかな?けど、酒入ってるからな」 だから、パス……っていいたいのかしら? でも、そんな理由で逃がすわけないじゃない。 いまのアタシは……『その気』なんだから。 「……お酒入ってると、たたないのかしら、坊や?」 「……っと、そいつは聞き捨てならねぇな、さすがに」 「(――いいわ、それでいいのよ……)」 そうやって、たまには荒々しく手を伸ばしてくれたら―― アタシだって、少しは従う気持ちになれると思う。 「……準備はいい?」 そして迎えた、本番当日。色々な事があったけど、もの思いに耽るにはまだ早いわね。 開演時間は、もうすぐそこ。 あたしは自分自身に気合いを入れて、舞台の袖口へと向かう。 「あっ、アンジェリナさん」 「おまたせ」 「……もうすぐですね」 あたしはベルと一緒に、幕の隙間から観客席を見る。 「(――あの中に、母さんたちも居るんだわ……)」 そう思うと、緊張よりも勇気が湧いてくる。 あたしはそっとベルの手を握り、いまのこの気持ちを共有できたら、と願う。 「みんな、それぞれの位置で準備しているわ」 「……はい」 握り返してきたベルの手からは、不安と緊張がありありと伝わってくる。 「トニーノやセロは、舞台の大道具をしたり……大変ですよね」 「……そうね」 優しいこの子は、自分よりも他のメンバーの心配をしていた。 「(――ベルのためにできることは……)」 そんなことを考えていると、背後から足音が近づいてくる。 「(――こっちの袖口スタートは、あたしとベルだけのはず)」 もしライト辺りが勘違いしてこちらにきたのなら、早めに定位置へと戻す必要がある。 あたしはゆっくりと振り返り、そこに立つ予想外の人物を見てびっくりしてしまった。 「……ヘルマーさん?」 「お父さん!」 突然の訪問者――ヘルマーさんは、口元に人差し指を立てて笑顔を見せる。 ……どうやら、黙って舞台裏まで入ってきたらしい。 「アンジェリナ君、キレイじゃのう」 「……そんな」 満足そうに頷かれ、あたしもどう答えていいか迷ってしまう。 こんな衣装が着られるのも、こうして舞台に立つチャンスが得られたのも、ひとえにヘルマーさんの援助があってのこと。 「それもこれも、みんなヘルマーさんの……」 そんな風に言葉を探しながらお礼を言おうとするあたしに、ヘルマーさんは無言で『イヤイヤ』と首を振り―― 今度は、隣に立つベルに視線を向ける。 そして、ふたりのしばらくの沈黙。 やがてベルが大きく息を吸って、 「……お父さん……その……」 と言いかければ。 「おまえも、頑張るんじゃぞ」 ヘルマーさんは、ただ一言そう告げて頷く。 「……はい!」 たったそれだけのやりとりで、ベルの中から緊張が抜ける。 「(――そうか。あたしと同じだったんだ……)」 あたしもベルも、『家族』から力をもらっているんだ、と。 ……やがて、開演5分前のブザーが鳴り、観客席の方が暗くなっていく。 ヘルマーさんは、その音を合図にゆっくりときびすを返し、裏口の方へと消えていった。 「(――さぁ、行くわよ)」 はじまりの刻は、すぐそこ。 ……あとは、幕が上がるのを待つばかり。 「……我が名はクリスティナ・ドルン」 そんなアンジェリナ扮する姫の『白の国の統治者である』の宣言から、私たちの劇は始まった。 ここに居る観客たちの大半が知っているであろう白の国の姫――クリスティナは、史劇『天使の導き』において、反逆者であるアインの手にかかって非業の死を遂げる。 ……でも、この劇は違う。 私たちは、これから『違う未来』を見せるんだから! 白の国へやってきたのは、赤の国より送られてきた天使――シュエスタ。 情報の行き違いから、城門を入るところで、彼女は衛兵に呼び止められてしまう。 「やー、待て待て!」 ライト扮する兵士は、天使が来ることを知らされておらず、城内に入れまいと奮闘。 しかし、目の前にいる美しい《シュエスタ》〈天使〉を前に、どうしたものかと悩んで城の中へ。 すぐに戻ってきた《ライト》〈兵士〉は、 「これは失礼しました。どうぞ、お通りください!」 と言って、彼女を招き入れる。 緊張が抜けきってないのか、多少ぎくしゃくした動き。 でも、ライトはしっかりとクリスティナ姫の元まで天使を案内してくれた。 「赤の国より遠路はるばる、この白の国へようこそ」 「初めまして、クリスティナ姫。ワタシは名もなき天使です。どうぞ、お好きな名前でお呼びください」 ひざまずく《シュエスタ》〈人形〉に対して、クリスティナ姫はその手をとって立ち上がらせ、ゆっくりと抱き寄せてこう告げる。 「……ならば、神に仕える者の名――シュエスタを授けよう」 最初、私は『名もなき人形』という意味からシュエスタと呼ぶ設定を脚本で採用していた。 でもそれは途中で考え直し、改めてクリスティナ姫に天使の名付け親になってもらうことに。 そうすることで、姫と天使の距離感がグッと縮まるから! 初謁見のおり、ふたりはお互いに見えない糸のようなモノを感じるが、当然それは……周囲の者は誰も気づかない。 しかし、時間も経てばその空気を感じ取る者が現れる。 それは――赤の国よりやってきた大使。 「……《シュエスタ》〈天使〉よ。この国での暮らしはどうだ?」 クリスティナ姫によってつけられた名前で彼女を呼ぶも、その表情はとても事務的でしかない。 「はい。姫様の調律を受け、ワタシは幸せに暮らしております」 そんな言葉に、大使はけげんそうな顔をし、 「忘れてはならんぞ。お前は、我ら赤の国の大切な人形なのだ」 そう言って天使の立場を思い出させようとする。 あくまで国交のために運び入れた高価な人形が、万が一にも白の国から戻らぬようなことになれば、責めを負うのは……大使である彼になる。 「……解っております」 もちろん、我が身可愛さだけの発言ではなくて。 「もしものことがあれば、国家間での争いにもなりかねない」 危ういバランスによって保たれている『白・赤・青』だけに、ちょっとした油断が大事に発展する可能性があることを示唆したのだ。 「……シュエスタよ。何処にいますか?」 天使を探す姫の呼ぶ声に、赤の大使は大股で歩みより、 「そのこと、《ゆめゆめ》〈努々〉忘れるなよ、シュエスタ」 そう最後の忠告を与える。 「居たら返事を」 赤の大使――セロは、クリスティナ姫の声が近づく中、寸前のところで舞台袖へと消えていく。 「(――順調、順調……)」 セロ扮する大使は、青の国に対する赤の国……という立場の人間が居ることを知らせる役割。 観ている人たちに、短い時間ですんなりと3つの国の存在を認識させるには、代表となる役者を立てるのが一番だった。 「(――いいわ、その調子よ……)」 セロやライトも精一杯の演技でしっかりと場面をつないでくれたし、アンジェリナとベルのシーンも問題なく進む。 そしてとうとう、トニーノ演じるヴァレリーが登場となる! 「初めてお目にかかります、クリスティナ姫。私が青の大使――ヴァレリー・ジャカールです」 「……よくまいられた」 「はじめまして、青の大使殿」 アンジェリナとベルの前に立って、うやうやしく挨拶をするトニーノこと、ヴァレリー・ジャカール。 「(――うっ、やっぱり浮いてる……)」 三枚目っぽいヴァレリーが、観客席の笑いをとってくれる。 だけど演劇を目指していただけあって、演技力はバッチリ! アゴ髭を剃ればもっとイイ感じだったかもしれないけど、さすがにそこまで強要はできなかった。 それに『コレはコレで面白いから、いっか!』……とか、GOサインを出したのは私だったわけで。 あとはクリスティナ姫との初謁見が無事に終わることを祈りながら見ていたら、隣の席に座っていたニコラさんから、 「……まさか。でも……」 なんて声が聞こえてきた。 ――もしかして、トニーノが大きなミスをしたとか!? 「……あの子、トニー……」 私の焦りとは別に、食い入るように舞台を見るニコラさん。 ……というより、その視線は舞台に居るアンジェリナにではなく、トニーノひとりに向けられていた。 「いかにも、いかにも!」 どうして、アンジェリナじゃなくて……トニーノに注目? そんな疑問を持ち始めた私を代弁するかのように、反対側の隣に座る孤児院の子が、ニコラさんの顔を不思議そうに眺めていた。 「……お母さん?どうしたの?」 「ん?あぁ、何でもないよ」 「ほら、私はいいから。舞台をご覧よ」 「はぁーい」 「私の自慢の子どもたちが、立派に舞台を務めてるんだ」 そう嬉しそうに呟くニコラさんの言葉に、私は小さな疑問を覚える。 「……それでは、これにて」 退場を匂わせるトニーノの台詞を聴いたニコラさんが、そっと目を閉じる。 どうしても引っかかる、『子ども《 ・ ・》〈たち〉』という表現。 クリスティナ姫に呼び止められ、舞台端から戻るトニーノを横目にニコラさんを見ていれば、 「……ありがとうね、ワカバ」 などと、声をかけられてしまう。 「……あ、私は別に、何も……」 一瞬なんのことか判らなかったが、それはきっと演劇祭に孤児院のみんなを招待したことだろうと察しがつく。 「あっ、あの……」 ――もしかしてニコラさん、トニーノのことを知ってる? 私は舞台が暗転するチャンスを生かし、小声でそれを尋ねてみようと考えた。 が、それは…… 「……ん?」 「……いえ、何でもないんです」 ニコラさんの何とも言えない優しい微笑みを前に、諦めることにした。 何となく、他人が軽々しく踏み込んじゃいけないような……そんな空気を感じとったから。 「(――うわぁ、そろそろアタシか……)」 トニーノの出番をニヤニヤしながら見てたけど、とうとう自分の番が回ってきた。 「……およびでしょうか?」 「……デュアよ。そなたを呼んだのは他でもありません」 「最近このドルンシュタイン城の中で、変わったことがないか尋ねたかったのです」 「恐れながら、自分の知る限りそのような動きはございません」 「そうですか」 「……姫」 「なんでしょう?」 「もし何かお気になさるようなことがありましたら、自分にお申し付けください」 「お側を警護する者として、一命に代えましても……」 「……その言葉は嫌いです。それは間違っております」 「……姫。それは……」 「家臣はみな、同じことを口にする。我が一命に代えて、と」 「わたくしは、誰にもそのようなことを望んでおりません」 「このわたくしの命も、そなたの命も、兵も、民も、みな……同じ命です」 「わたくしのために死ぬと言うぐらいなら、わたくしのために生きると言ってもらいたい」 「――その方が、どれだけ……どれだけ……」 「(――アンタ、最高よ……)」 「(――アンジェリナ。誰が認めなくても、アタシは認める)」 「(――クリスティナ役は、アンタ以外居なかったよ)」 「……失礼いたしました」 「これより、このデュア・カールステッド。姫のために全身全霊をもって、生きてまいります」 「(――このシルヴィア・ペレッツ。アンタのため、この役……やり遂げてみせるわ)」 ――これは……アタシなりの。迷惑かけたお詫びよ。 クリスティナ姫と寸でのところですれ違った赤の大使は、 「クリスティナ姫!」 姫を追いかけてきたらしき人物――白の大臣とバッタリ。 ココの話では、当時の大臣は大きな事件が起こる前から姿が見えなくなったとのことだから…… 私の予想では、それには何らかの陰謀が絡んでいたと思うが、ココが知らない以上はこちらで脚色するしかない。 「これはこれは、赤の大使殿!」 「私でよろしければ、城の中を案内しましょう」 その大臣の瞳にはどこか不穏な色が見え隠れしているものの、赤の大使としては断る理由が見つけらず、城内を共に歩き出す。 でも、しばらくの雑談のあと―― 「ところで、ひとつ提案があるのですが……」 ……なーんて悪そうな顔で、それとなく『不穏な計画』を持ちかけにいく。 赤の国にクリスティナ姫をお連れして、国家間の親交を深めましょう……というようなことを告げる。 だけど赤の大使は、これに興味をあまり示さない。 白の大臣は残念そうに《かぶり》〈頭を〉振って、赤の大使と別れ、その足で周囲を気遣いながら中庭の隅っこへと行き―― 「残念ながら、赤の大使は《 ・ ・ ・》〈なびき〉ませんでした」 口元に手を当て、誰も居ない空間――暗幕に向かってそんな報告を始める。 お芝居の都合、暗幕の向こうに居る『謎の人物』は姿も声も判らない。 「……どうなさいますか?」 そのため大臣の一人芝居が続くが、ここから先は中の人――腰の低い銀行員さんの身振り手振りで悪巧みが語られていく。 「わかりました。それでは、お任せください」 謎の人物から回答を得たらしき大臣は、悪そうな顔つきで歩き出す。 「あとは、ハンスと共に。実行あるのみ、だ!」 名前だけが先行する人物。彼は、史劇『天使の導き』には全く登場しない。 「ワシにも、やっと風が吹いてきたというわけじゃな」 私のオリジナルってわけじゃないけど、この劇においてはとても重要な存在。 「……はっはっはっ!」 これから大臣共々、分かりやすい『悪役』になってもらう。 劇への参加を請け負った私には、一抹の不安があった。 「これはこれは、クリスティナ姫。初めてお目にかかります」 アインに替わる悪役『ヴァレリー』を演じられることは、とても嬉しい。 「私は青の大使ヴァレリー。以後お見知りおきを」 だが、その《ライバル》〈敵役〉たるアインの役者とは、ただの一度も練習をしていない。 おまけに、『遅刻気味で間に合うかどうかもあやしい』と、ワカバから言われていた。 「遠路はるばる、ご苦労様です」 アンジェリナは、堂々とクリスティナ姫を演じている。 そして、その横には《シュエスタ》〈人形〉――エファの役を務めるベルの姿も。 「そちらが赤の国宝と名高い《シュエスタ》〈人形〉、ですね?」 「はじめまして、ヴァレリー殿。お会いできて光栄です」 まだ硬さがあるものの、聞き取りやすい発音で挨拶をくれたベルは、しっかりとこちらを見ている。 「……お噂はかねがね。劇で披露するその美声たるや、まさに天使の唄と名高く――」 私ことヴァレリーが人形を褒める口上を述べ、シュエスタが無表情の会釈で答える。 「(――なかなかだぞ、ふたりとも……)」 ……さぁ、問題はこれから。 元々の脚本では、ヴァレリーの策略によってアインが謁見に遅れて現れる展開。 しかし、実際のアイン役の会場への到着が『リアルに遅れて』いる現在――アドリブが必要になる。 「『アン!もしもアイン役が間に合わなかったら……』」 「『平気よ。後見人のひとりやふたり、居なくても何とかしてみせるわ』」 劇の開始前に、ワカバの言葉に自信たっぷりな答えを返したアンジェリナの顔は素晴らしかった。 「(――頼もしい限り)」 このままアインが謁見の間に姿を現さないという展開へと、見事運ぶことができるか否か。 軽い打ち合わせだけはしてあるが、果たして。 私はアンジェリナに軽く目配せをし、アインが登場しないシーンへと変更する旨を伝える。 「それではこのたびの式典につきまして、クリスティナ姫にお伺いいたします」 「……なんなりと」 アドリブとまではいかなくとも、アンジェリナと想定して組んだ台詞の流れへと頭を切り換える。 「式典におきましては……」 「――しばし待たれよ!」 「(――なっ?)」 突然、舞台袖から響いてきた台詞に私は自分の耳を疑る。 それは、私がよく知る者の声。 多少声色は変えていても、その美しさは間違えようがない! 「――遅ればせながら。アイン・ロンベルク、ただいま参上!」 当初の脚本通りのタイミングで入ってきたのは、我が《 ・ ・》〈愛し〉のマリオンではないか! 「(――あぁぁ、し、しかし、何故……)」 何故、マリオンがアインの役を!? 長い髪は、栗毛色から黒へ。 予測もしなかった登場人物に、私だけでなく観客席までもが静まりかえる。 そしてマリオンの、 「どうかなされたか、ヴァレリー殿?私がこの場に現れないとでもお思いだったか?」 の言葉で、全てが元のストーリーへと戻っていく。 「……これはこれは、アイン殿。お待ちしておりましたよ」 ワカバも人が悪い。まさか、こんなサプライズを用意していたとは。 「失礼。普段ならお待たせするようなこともないのですが……」 そう、このやりとり! 私が求めていたのは、悪役であるヴァレリー・ジャカール。 それも相手は……我が妻、マリオンが演じる宿敵アイン! 「(――すばらしい……)」 まさか、こんな形で夫婦の競演が叶うとは。 「それでは、式典についてのご報告をいただきましょうか」 「……もちろんですとも」 私は、青の国から陰謀を運び、クリスティナの姫を狙う者。 そして、目の前に居るのがその姫を護ろうとする男。 当然、結末は分かっている。 アドリブでも、そこだけは変えられないことも承知している。 しかし、いまこの瞬間だけは―― 「(――アイン。貴様は必ず……)」 私は役者として、ヴァレリーとして。 アイン・ロンベルクに勝つために戦い続けるのだ! 舞台は『赤と青』の陰謀に巻き込まれた『白の国の悲劇』の歴史をなぞりつつも、少しずつクリスティナとシュエスタのふたりの話に変わっていく。 そして、アインは姫を裏切ることなく、彼女とその愛するシュエスタが逃げられる手筈を整え…… そして、アインは姫を裏切ることなく、陰謀を運んできた青の大使ヴァレリーを倒すも…… 「シュエスタ!わたくしは、決めました」 「わたくしは、この国と共に滅びることよりも……」 「そなたと共に、生きる道を選ぶことにしました」 「……姫様」 「もちろん、苦難の道でしょう。国を裏切る真似をしてまで生き延び、幸せになれるとは思いません」 「でも、それでも!わたくしは、あなたと共に生きたいと思った!」 「……アインが、デュアが、忠義を尽くした家臣が。みな、わたくしのために死にゆき……」 「助けられたわたくしが死んでしまったら、誰があの者たちの労をねぎらい、弔うのです?」 「……姫様。どうしてワタシを連れていかれるのです?」 「足手まといが居ては、姫様が助かる見込みも……」 「そんなことはありません!そなたが居れば……」 「……そなたが居なければ、わたくしは、生きるということの意味をこれほど深く知ることはなかった」 「《シュエスタ》〈人形〉のワタシにそれほどの価値があるのですか?」 「ワタシの代わりなどいくらでも居るではありませんか」 「代わりなどいません!そなたは、この世界でただひとりの……わたくしが……わたくしが……」 踏み出した最後の一歩。 ここでシュエスタがあたしへともたれかかり、最後の一言を告げてくれるはずだったのに…… 「……あっ!」   あたしの痛めた足首が、最後の最後で悲鳴をあげてしまった。 「姫様!」 無様にも転んでしまったあたしを支えてくれたのは……目の前に居たシュエスタ――ベル。 「シ、シュエスタ……」 「もう、何も言わないでください」 「…………」 まさか、この子があたしのために……慣れないアドリブを? 「ワタシは、姫様と共にあります」 「初めてお会いしたときより、ワタシの心は姫様と共に」 「月夜のもと、ふたりで踊ったときも」 ……それは、クリスティナ姫とではなく。 「何も知らないワタシに色々なことを教えてくださったときも」 あたしとの旅の思い出を語るかのように。 「こうしていま、共に生きると言われたときも」 「どんなときにも、ワタシのそばには姫様が居て……」 「姫様しかいませんでした」 「……ワタシの横を通り過ぎず、立ち止まり、ただひとりのシュエスタとして認めてくださる姫様のために……」 そして、あたしが何度かベルのために告げた『言葉』を。 「ワタシは、共に苦難の道を選びます」 あたしとの全ての時間をかけて、舞台の間をつないでくれた。 「シュエ、スタ……」 ……もう、返す言葉もない。 「……はい」 それでもあたしは舞台に立った以上、クリスティナ姫として最後まで演じる義務がある。 「ありがとう。わたくしはそなたを……心から……」 そして、全ての観客に聞こえるように告げよう! ……だけどね、ベル。 「心から、愛しています」 この台詞は、心を込めて……あなただけに捧げるわ。 「……これは……」 「……姫様……」 あたしとベルはお互いに顔を見合わせ、何が起こったかを確認する。 それは、ふたりが知らなかった演出。 ワカバたちが用意したのは、スポットライトを利用したシュエスタの――もう一枚の羽根。 「これは……天からの恵み」 「そなたにもう一枚の羽根が与えられるよう、祈り続けた」 「そなただけでも、自由になれるようにと」 「……これでそなたは、空を飛べる」 「姫様」 「わかっています。そなたもわたくしも、鳥ではありません」 「空を飛ぶことは叶いません」 「それでも、ひとつ分かるのは……」 「自由とは、求めて初めて手に入るもの」 「……わたくしは、そなたと共に生きたい」 この気持ちは、ベルと――その中に眠るエファに。 「……ワタシも姫様のおそばに」 「たとえこの羽根が一枚に戻ろうとも……」 「自由の意味を教えてくださった姫様が居る限り……」 「ワタシには、二枚の羽根があるも同じです」 「……シュエスタ、共に生きましょう」 過去は取り戻せなくとも、未来はある。 「ひとりでは心許ない者同士でも、ふたりであれば……」 「はい、姫様」 あたしは頷いたシュエスタをしっかりと抱きしめる。 ……クリスティナ・ドルンも、エファも。 心は、すべて――ここにあるのだ。 「……こんなところで観ていたのかい?」 「うん。本当は、最後まで席から観ているつもりだったの」 「そっか。でも、そろそろフィナーレだもんね。舞台の方へ移動しないと……」 「……私、舞台には行かないことにしたの」 「どうして?脚本家として、最後のカーテンコールで紹介を受けるはずじゃ……」 「いいの、そんなの。私の出る幕なんてないから」 「……ワカバ」 「そりゃ、ちょっとは拍手とか讃辞を受けてみたいわ」 「……でも。いまはそんな気分じゃない」 「私は劇を成功させてくれたみんなに、拍手と讃辞を送る側で居たいと思ったの」 「……アインが、デュアが、忠義を尽くした家臣が。みな、わたくしのために死にゆき……」 「助けられたわたくしが死んでしまったら、誰があの者たちの労をねぎらい、弔うのです?」 「……姫様。どうしてワタシを連れていかれるのです?」 「足手まといが居ては、姫様が助かる見込みも……」 「そんなことはありません!そなたが居れば……」 「……そなたが居なければ、わたくしは、生きるということの意味をこれほど深く知ることはなかった」 「《シュエスタ》〈人形〉のワタシにそれほどの価値があるのですか?」 「ワタシの代わりなどいくらでも居るではありませんか」 「代わりなどいません!そなたは、この世界でただひとりの……わたくしが……わたくしが……」 そこでシュエスタが、姫の元へといく。 ……そのはずだったが。 「……あっ!」 それよりも先にクリスティナがバランスを崩してしまい―― 転びかけた姫を救うかのように両手を差し伸べた天使が、クリスティナであるアンジェリナを救った。 本当だったら、ここは天使が姫の元に倒れ込むはずだった。 そして、台本では姫がシュエスタを励まし、愛の告白をする。 しかし、実際にはその逆の展開が目の前にあった。 「最後を変えられた脚本家として、一言……どうぞ」 「……ふん。やるじゃない。あのふたり」 「……ま、これも計算内だけどねー」 「…………ありがとう、セロ……」 「いいよ、僕にお礼なんて。いまはふたりに拍手しようよ」 「ううん。それ、やっばりやめたの」 「えっ?だって、ついいまさっき……」 「拍手と讃辞は、楽屋裏でいっぱいすることにした」 「……いまは、こうしてセロと幕が下りるのを観たいの」 「……わかったよ」 手は繋いだまま。拍手もせず、幕が下りるのを観るふたり。拍手が大きくなる中、 「……セロ」 そう言って僕の顔を見たワカバは満面の笑みを浮かべる。 「――この劇は、私の一生の宝物」 「くじけそうなときが来ても、思い出せばやっていけるわ」 「……ワカバ……」 「そして、セロがそばに居てくれたら……」 「大丈夫だよ」 僕は手を強く握り、それ以上は何も言わない。 「そうそう。今度の新作についてなんだけど……」 「…………」 「あれ?何を読んでるの?」 「ちょっと、ね。面白いモノを見つけたの」 「……面白いもの?」 何となく、ワカバが手にする便せんに見覚えがあるような、ないような…… 「(――まさか、アレじゃないよな……)」 「……あ、あの……もしかして、それって」 半年ぐらい前、徹夜明けのちょっと熱っぽい頭で―― 「……愛する人へ。僕にはまだ、こんな風にキミのことを呼ぶ権利はない……」 「――でも、いつかそう呼べるときがきたら、どれだけ嬉しいことか……」 ワカバのことを考えながら書いた―― 「……ワ、ワカバ……それは、ね……誤解なんだ」 「――いまはまだ、この気持ちをどう伝えていいかも解らない」 「……だけど、こうして手紙を書くだけでも想いは強く……」 出すに出せなかったラブレター! 「も、もうそれ以上は読まないで!」 「…………ふーん。セロって、案外ロマンチストだったのね」 「ありがとう、セロ。《ひづけ》〈日付〉見て、ちょっと感動しちゃった」 「――そんなに前から想われてたなんて、嬉しい……」 「……ワカバ……」 迫ってくる彼女の顔に、僕も身体を引くことができず―― そのままワカバのなすがままにキスを受けようとしたら。 「……あっ、ココ!?」 「カバー。チュー、する?」 「えっ、ええぇ!?」 悪戯好きのココには、窓越しに目隠し。 これで、ほんの一瞬―― キスするぐらいは、許してもらえるだろうか? 僕たちの旅と演劇祭はこうして幕を閉じ……またいつか、同じようにみんなで集まれたら、と思う。 そのころの僕やワカバが、どんな人生を歩んでいるか。 ……それはまた、別のお話。 いまはまず、ただひとつのことを願うだけ。 ――今日一日が、いい日でありますように……と。 劇のあと、色々ありました。 ヴァレリーのファビオは、アインのマリオンとこっそり会ってました。 ファビオって、やっぱり変な人です。 「『おーぉ、麗しのマリオン!まさかキミが我が宿敵の役を受けていたとは!』」 「『……私、旦那様が悪のヴァレリーと聞いたから、この役を引き受けたの』」 「『素晴らしい!こんな夫婦競演が達成できようとは!私は今日という日を生涯忘れない!』」 「『……はいはい。そろそろ衣装を着替えて家に帰りましょ』」 「『おっと、その前に!素敵な思い出の1ページとして、この姿をしっかりとまぶたに――』」 「『調子にのるのもそこまでですの。だ・ん・な・さ・ま』」 「『ど、どうして名前で呼んでくれないのかな?まさか、まだこの前のことを……』」 「『……いい加減、学習しなさい!』」 「『……そうやって怒った顔もかわいいよ、《 ・ ・ ・》〈愛しの〉マリ……ぃい、いたたたたっ!』」 ヴァレリーが、アインにチューしようとして、ホッペをつねられてました。 ……あ。もうマリオンは、アインじゃなかったね。 じゃあ、いいのかな? トニーノとシルヴィアも、ちょっと変でした。 「『……あら、トニーノ。もう着替えちゃったの?』」 「『そりゃね。いつまでも衣装きてたら、未練が残っちまうしな』」 「『ふーん。せっかくふたりで記念撮影しようかと思ったのに』」 「『おっと、そりゃしくじったな。でもまぁ、目に焼き付けておけば……俺としては充分かな?』」 「『……バーカ。変な目でジロジロ見ないでよ』」 「『そんなつもりじゃないけどさ。……あ、だけどそれもいいか』」 「『……なにがよ?』」 「『……ほら、この前のあつーい夜の約束。続きはその衣装のまま、ってのはどうさ?』」 「『我が名はデュア・カールステッド。姫に仇なす不届き者をいまこの場にぃーてぇー!』」 「『……ちょ、ちょっ、冗談だって!悪かった!』」 トニーノとシルヴィア、おっかけっこで楽しそう。でも、捕まっちゃったトニーノが何か言ってました。 「……だから、言ったろ?向こうが気づいたら……」 「そうだよ。ほら、見てみなって」 あそこに居るの、ニコラだねー。 「ほら、バカやってないで行きなって」 「…………あぁ。行こうか、シルヴィア」 「はぁ?な、なんでアタシまで?関係……」 「紹介させてくれよ。自慢の相方だって」 「…………ばかっ。もう少しランク上げて紹介しないさいよ」 トニーノ、デュアに剣を突きつけられてタジタジでした。 ……うん。ボク、むかーし見たの。 あのときは、トニーノじゃなくてハンスでした。 ハンスも、デュアに怒られちゃうようなことしたのかな? セロの話だと、日記でも『ごめんなさい』してたんだよね。 そんなふたりを見ていたら、ボクの頭をポンポンってする人が居たの。 「『あーっ、リュリュー!』」 「『……ココ。元気だったかい?』」 「『あいあい。リュリュ、みにきてた、のー?』」 「『うん!レインさんが、孤児院のみんなをモスグルンに招待してくれたからね』」 「『そうだったん、だー』」 「『……ねぇ、ココ。あの髭のお兄さんって……誰?』」 「『トニーノ?なんでー?』」 「『うん。パウラの話だと、お母さんがずーっとあの人のことを見てたらしいの。……だから知り合いなのかなって』」 うーん。ボクは、ふたりを知ってます。 でも、だからってふたりが知り合いかは、分からないよね? そうやって考えると、分からないことがいっぱい。 たとえば、ボクって……ホントに女の子、なの? 男の子と女の子って、なにが違うんだろ? ……うーん、うーん。 「どうしたの、ココ?」 「うーん。ボク、おんなのこ、だよね?」 「あれ、ちがうの?」 「……ううん。おばーちゃんが、おんなのこって、いったから」 「じゃ、それでいいんじゃないかな?性別とか、あんまり気にしなくても良さそうだけど」 「うーん?あれれ?じゃあ、リュリュも、きにしない?」 「リュリュって、どっち?おとこのこ?おんなのこー?」 「……うーん、秘密」 やっぱり、よく分かりませんでした。 ……それから、ボクはセロとワカバを探したの。 でも、ふたりとも見つかりません。 あとで聞いたら、ワカバがインタビューから逃げたんだって。 ……インタビューって、なぁに? 「『私、謎の脚本家で行こうと思うの!かっこよくない?』」 「『……謎って。もう充分にバレてると思うよ』」 「『そんなことないわよ。エントリーだってペンネームだし、関係者とも手紙でやりとりだったし』」 「『……ちゃんと、インタビュー受ければ良かったのに』」 「『えーっ!そんなことして新聞に載ったりしたら、私にデビュー前から天才のイメージついちゃうじゃない!』」 「『……天才って……』」 「『大変なのよ、下手に才能知られちゃうと!次の作品とか期待されて、変にプレッシャーかけられて……』」 「『だから謎の脚本家!私の夢は小説家だから、デビュー作は活字でいきたいじゃない!』」 「『まぁ、ワカバがそれでいいと思うなら、それでいいけどね』」 「『んふふっ。それで、十年ぐらいしたらバラすのもよくない?』」 「『……それまで、憶えていてもらえたらね』」 「『絶対、大丈夫!史実を引っ繰り返した問題作よ。それに……セロが力を貸してくれるから』」 「『……僕が?』」 「『あったりまえでしょ!この先、セロが立派な歴史学者になって、しっかりと裏付けをとるの』」 「『そのためにも、ココ!もっともっと、当時の詳しい話を聞かせてあげて頂戴!』」 えーっ、またー? でも、ワカバより先に『お話を聴かせて』って言った人が居ます。 ……だからセロに話すのは、また今度ね。 「あのね、あのねー」 今日、ボクはジージのところに来てます。 そうです!お話を聴かせて欲しいといったのは……ジージなのです。 いま、ボクはジージとふたりっきり。 ベルは、セロと一緒に、ご飯を作ってます。 ジージがセロに、『ふたりにして』と頼んだの。 「それでエファは、ヒメサマといっしょに、あとからくるって、やくそくしたの」 「ほぅ。あとから、か……」 ジージ、ちょっと体調が悪いからベッドに寝ています。 だけど、ボクの話をちゃーんと聴いてるよ。 「……だけど、ふたりは、ずっと、きませんでした。ボク、ずっと、まってたのに」 「それで、ね。ボク、かなしくて、かなしくて。ヒメサマにいわれたように、おいのり、したの」 手袋はずして、『ヒメサマとエファに会えますように』って。 「……そうしたら、ふたりのことも、アインも、デュアも……」 みーんな、忘れちゃってたの。この前まで。 「……すまんかったの」 「んー?なにがー?」 「儂は、おまえさんが持っていた人形石が、クリスティナ姫の記憶石だと知っておったんじゃよ」 「そーなのー?」 「あぁ。だがそれを知ったのは、ずーっとあとのことじゃった」 「――儂はな。昔、国家が進めていた人形技術再生の計画に参加してたんじゃよ」 「あのときの儂はまだ若く、自分の腕前に過信しておった」 「かしんー?」 「そうじゃ。人形に関することなら、何でもできると……な」 「……そんな儂に任されたのが、とある人形の再生じゃった」 「その人形は……むかし、とある国のお姫様のお側に居た者で、名前を『エファ』といったそうじゃ」 「エファ?エファ、しってるー」 ジージって、エファを知ってたんだ! 「あぁ、おまえさんの知るエファじゃ。だが、残念なことに、完全に復帰させるには足りないモノが多すぎたんじゃ」 「一番難しかったのは、記憶の再現」 「国家が欲しがったのは、エファに残されたであろう……お姫様の記憶の写しであり――」 「それこそが、人形技術再生計画の中心にあったんじゃよ」 「…………むずかしい、おはなし、だね」 ボクには、よく分かりません。 「あぁ、すまないな。……だが、もう少しだけ聴いておくれ。他に聴かせられる者もおらんでな」 ジージは、天井を見上げて話を続けます。 「儂は、ただひたすらにエファを再現しようと躍起じゃった」 「だが、できあがった新しいエファを何度目覚めさせても、当時の記憶らしい記憶は戻らない」 「……ただ、エファの記憶から語られる言葉は……」 「……『姫様を殺した、アイン、宝を持って逃げた』のみ」 「儂は、自分が責められている気分を味わいながら、ずっと研究を続けたんじゃ……」 儂の本当の名前は、アイン・ロンベルク。 白の国の摂政――ではなく、ただの海外からの移民だった。 儂はこの国に来る前は芸人をしていた。 そのころの芸名が、レイン・ヘルマー。 本名の《 ア イ ン》〈Ein〉に、『R』を付けただけのお遊びから。 そんな芸名の《 レ イ ン》〈Rei〉nと名乗り、生きる必要があった。 理由はただひとつ。 逆賊と名高い『アイン・ロンベルク』と同姓同名というだけで仕事にはありつけず、いわれのない中傷を受けた。 初めは、アインを恨んだ。 戦争を避けるため、この大陸へと逃げてきたのに。 祖国で生きるよりも辛い目に遭うハメになった。 そこで、レイン・ヘルマーの登場。 偽名を本名とし、生きていくことに抵抗はあったが…… それでも儂は人形技師としての腕を磨き、少しずつ自分の地位を築いていった。 ……そんな儂に『ドルンの記憶再生計画』の話がきた。 エファという人形の設計をそのままに、新たな身体を造る。 そして、エファの身体に残されてた貴石を全て移植する。 廃れゆく人形技術を活性化させるためと称し、やろうとしたことは……あまりにも稚拙で冒涜的な行為だった。 それでも当時の儂がそんな計画に参加し、その中心に立ったのには理由がある。 目覚めた新しいエファが、クリスティナと見まごうばかりの女性を見たら、再生率も上がるだろうという考えの元―― クリスティナ・ドルンにそっくりな者――同業ともいえる人形調律師の『ルート』という名の女性が選抜された。 儂は準備会でその女性を一目見て、恋に落ちてしまった。 それが、仕事を引き受けた理由。 いま思えば、あまりに若く馬鹿馬鹿しい考えだったが…… ……当時の儂には、彼女と語らう日々が全てだった。 儂がエファの身体を甦らせ、ルートが心を甦らせる。 そんな共同作業の終わりは、情けなくも国家が計画から手を引くことで訪れた。 成果うんぬんというより、人形技術自体に見切りを付けてのことだった。 儂らは、国家が関わった莫大な予算をかけて行った実験的な計画を生涯誰にも漏らさない約束をさせられた上、お互いが何処にいるかも判らない未来を与えられてしまった。 ……いまも彼女が生きているなら。 きっと、かわいらしいおばあちゃんになっていることだろう。 最後に、儂のとっておきの秘密を教えよう。 儂は、最後にこっそりと国家に逆らってみた。 白の国にあるアイン・ロンベルクの墓の下には、な。 彼の遺骨はない。 何故ならこの儂がこっそり持ち出し、このジルベルクの墓地に埋葬したから。 残念ながらその墓に彼の名前は彫れないが、それでも人々に踏まれ続けるよりは……百倍はマシだろうと思った。 そして、いつしか儂が死んでその墓に入るとき。 遺言で、堂々と儂の本名を書いてやるつもりだ。 国宝とまで言われた人形技師、最後のわがままとして。 「……さぁ。儂の話は、もうこれでお終いじゃ」 「ちゃんと、憶えてくれたかの?」 「あい。おぼえ、ました」 「……では。このことは、みんなには内緒じゃ」 「えーっ。いったら、ダメー?」 「あぁ。他のみんなには、儂から話すからの」 それぞれが知るべきこと、知ってはならないことがある。ただ……過去からこの時代まで残ったココだけには、全てを話しておきたかった。 「その代わり――」 「んー?」 「ひとつだけ、ココにプレゼントしよう」 「なになにー?」 「もうしばらくしたら、アインに会わせてあげよう」 「ホントー?いついつー?」 「もうしばらくしたら、じゃ」 「さぁ、そろそろ食事の準備も終わるじゃろ」 「……悪いが、セロ君を呼んできてくれるかな?」 「あーい」 「……気を落とさないでね、ベル」 「はい。……大丈夫です、といったら嘘になりますけど……いつまでも、泣いてはいられませんから」 「強いのね」 「そんなことありません。アンジェリナが居てくれるから……」 ワタシは、傍に居てくれる彼女の手をギュッと握る。 「……お父様とは最後に、どんなことを話したの?」 「名前を呼んでくれなかった理由を……聴かせてくれました」 「『……ベル。いままで苦労をかけたな……』」 何十年振りかにお父さんから呼ばれたワタシの名前。そこには、色々な想いがいりまじっていたことを知った。 「もう、そのことは気にしてないのね?」 「……はい。父が最後に、ハッキリと言ってくれたから」 お父さんにとって、ワタシの名前は『ベル』でも『エファ』でもなかった。 「『……お前さんは、誰が何と言おうと儂の娘じゃよ』」 ……そう。ただ、ひとりの『娘』として愛してくれたのだ。 「ジージね。いろいろおはなし、してくれました」 「……だけど、ほかのひとには、いったらダメだって」 「……うん。わかってるよ」 「そのかわりー、アインにあわせてくれるって!」 「……そうだね。そのために、ココを……この場所に連れてきたんだ」 「そーなの?ここ、ジージのおはか、だよね?」 「あぁ。よく分かったね」 「ボク、ちがい、わかります。このイシ、なかったです」 「……あぁ。それは先日、やっとできたモノなんだ」 この前は、何もありませんでした。 「この下に、アインは居るよ。レインさんと一緒に眠ってる」 「ちょっとだけ、おはなし、してもいいー?」 「……あぁ。じゃあ、僕は先に戻っているから」 「こんにちはー」 「ボク、ココです。げんき、です」 「アインと、ジージは、げんきー?」 お返事ありません。やっぱり、みんなと同じ。お墓に入るとお話できません。 だから、ボクだけ話します。 「……あのね、ボク、アインとのやくそく、まもりました」 「ヒメサマとエファ、ちゃんとまもりました」 「……ジージとのやくそくも、まもるよ」 「わすれないし、ダレにも、はなしません」 「でもでも、ここにきておはなしするのは、いいよ、ね?」 「……じゃ、みんながまってるから、かえります」 ボクは、お墓の前でお辞儀をしてから帰ります。 ……と、その前に。ふたりに言いそびれちゃった挨拶、しておかないとね。 「アーイーン。……バイ、バイ」 ふたりともアインだから、これでいいよね?それに……またすぐ、会いに来るから。 「『セーロー、どーこー?』」 「『……こっちだよ、ココ』」 「あっ、アンジェリナ……さん」 「んっ……」 吐き出す息が熱い。触れ合う肌と肌は、まるで燃えるよう。無防備にさらけ出された肢体を前に、苦しいほどに鼓動が速まっていく。 「とっても柔らかいわ、あなたのここ……」 「あぁっ……んくっ……んんっ……」 下着に差し込んだ手の向こう、ベルの大事な部分にいま、あたしの指が触れている。 ゆっくりと、優しく壊れ物を扱うかのように指を動かしていく。 「あ、あのあの……アンジェリナさん、ワ、ワタシ……」 潤んだ瞳があたしを見つめる。まるで夢のような光景。あたしたちは、部屋へと休みに戻ってきた、それだけだったはず。 「んっ……んんっ……ふぁっ……くすぐったいです……」 これは……お互いの気持ちを確かめ合ったから?どちらにしても、自然とあたしたちは体を重ねあっていた。 「ふあぁっ……ア、アンジェリナさん……そ、そこは……そんな風に……んっ!」 「さ、さわ……る……も、ものなんです……か?」 「さぁ?」 ベルの問いに首を傾げるあたし。そんなこと考えてやったわけじゃないし。 「えっ……じ、じゃあ……ど、どうして……んくっ……」 「あたしが、こうしたかったからじゃ、ダメ?」 「もっとあなたを感じたい……あたしを感じて欲しい……」 「ア、アンジェリナさん……」 ふっとベルの身体から力が抜け落ちる。まるで破裂してしまいそうなまでに騒ぐ心臓。 いまの言葉にウソはない。もっとベルを感じたいし、あたしを感じて欲しかった。 「は、はい……ワタシも……もっと触れて欲しいです……」 「…………不思議です………いままで、こんなことなかったのに」 「ふふ、あたしもよ」 胸の奥から愛しいと想う気持ちが溢れて止まらない。 自分の言葉を証明するように、硬く閉ざされた入り口を、上下に擦り上げていく。 「んぁっ……ふぅっ、お、おかしな感じ……です……」 「おかしな感じって、どう?」 「あ、頭を撫でてもらうのとも……んんっ……だ、抱きしめてもらうのとも……違います……」 「な、なんだか……か、身体の奥が熱くなってきて……ふあぁっ……!」 「……可愛い声」 あたしの指の動きにあわせて、声をあげ身をよじらせるベル。その反応がもっと見たくて秘所に触れる力を強くする。 「あんっ……だ、だめです……つ、強くしちゃ……」 「どうして?あたしの指は、いや?」 「そ、そうでなくて……んうぅっ!」 「いや……なの?」 ほんのわずか指の動きを止めて、ベルの顔をじっと見つめる。 「あ、あの……ワタシ……」 「ん?」 頬が、静かに赤く染まっていく。恥ずかしそうに口をもごもごとしながら、 「い、いやじゃ……ないです。アンジェリナさんに……触られるのは……」 そんな嬉しいことを言ってくれる。 「それなら……もっと触ってあげなくちゃね……」 「んんっ……ア、アンジェリナさん……ふあぁっ……」 「はぁはぁっ……あふっ……」 気づけばベルの息が荒くなり始めていた。あたしの指に感じてくれている証拠、なのかしら? 呼吸にあわせて上下する小さな胸。その先端がいじらしく自己を主張している。 「ここも、可愛いのね……」 「あふっ、ああっ……やっ……んくっ……」 ピンク色のつぼみを指先で弄ると、先ほどよりもベルが可愛らしい声を上げた。あたしの指で感じてくれている。それがとても嬉しい。 「あら……こうしていると、少しずつ硬くなっていくみたい……」 「やぁっ……あんっ……んっ……んあっ……」 いつしかあたし自身、身体の奥が熱くなり始めているのを感じた。まるで頭の芯が甘く痺れてしまったかのよう。 「あら、そんなに声をあげて……こうされるのが気持ちいい?」 「わ、わかりません……で、でも……む、胸の先が痺れて……んうぅっ……!」 摘んだ指の間。最初は柔らかかった先端が、いまは痛いほどに尖っている。 あたしはベルが胸に気を取られている間に、もう片方の手の動きを再開した。 「んんぅっ……んぁっ……あんっ……あぁっ……!」 ふと、指先に感じる湿り気。これってもしかしなくても―― 「アンジェリナさんっ……あふっ……んっ……んくっ……!」 「濡れてきてるわ……あなたのここ……」 「あっ、ふあぁっ……ぬ、濡れ……る?」 「ほら、わかる?ここが、どうなっているか……」 あたしが指を動かすと、クチュリ――と小さな水音が響いた。 「んくっ……えっ……い、いまの……」 「こうすると……どんどん奥から溢れてくる」 「ひゃうっ……んっ……んあぁっ……あんっ……あくぅっ……!」 円を描くように、秘所の中心に刺激を与えていく。とろりとした蜜があたしの指を汚していくのがわかる。 「ね?濡れているでしょ?」 「は、はい……ワ、ワタシ……んんぅっ……」 「ワ、ワタシのそこ……ぬ、濡れて……ます……」 自分の体でも感じ取ったのだろう。小さく頷いて答えるベル。すると、どういうわけかその顔に不安そうな色が浮かぶ。 「あ、あの……アンジェリナさん……」 「ん?なあに?」 「ワ、ワタシの身体……どこか、おかしいのでしょうか」 「えっ?」 予想外の問いかけ。なんだって、そんなことを? 「だ、だって……こ、こんなこと初めてで……」 「ど、どこかおかしいから……そ、その、そんな風に……」 ベルの瞳の中で、不安の色が強くなる。ようやくそこであたしは理解した。 ああ、そうか……この娘がなんのことかわからなくても無理はない。 「大丈夫、おかしくなんてないわ」 「だ、だけど……ふあぁっ……」 あたしは優しく、胸と秘所に触れていく。甘い声をあげるベルに、微笑みながら応えた。 「これは、あなたがあたしの指に感じてくれている証拠だもの」 「あふっ……ワタシが……アンジェリナさんの指に……」 「それにあたしだって……同じようになるし」 さすがにそれを口にするのは恥ずかしくて、顔が熱くなってしまう。 「アンジェリナ……さんも?」 「ええ……あなたを、感じさせてくれれば」 「同じ……アンジェリナさんも……」 「そう、だから気にする事は――」 「あ、あのあのあのっ」 「そ、それならワタシも……ワタシにも!」 安心させようと、もう一度微笑みかけたところで、ベルがあたしの言葉を遮る。 「ちょ、ちょっと落ち着いて。あたしにもって?」 ぐっと上半身を起こしたベルをなだめると、 「そ、その……アンジェリナさんを……感じさせてください……」 そんなことを、とても可愛らしい顔で口にする。 「っ……!」 自分で一気に顔が赤くなっていくのがわかった。 「あっ、す、すみません、ワタシったら……余計なことを……」 「いまのは忘れてください……」 「ま、待って、なんでそうなるの?」 見るからにしゅんとうなだれるベルに、あたしは慌てて声をかける。 「だって……アンジェリナさん……ご迷惑そうな顔をされたから」 さっきのあたしの反応を見て、そう思ってしまったらしい。もう、なんて勘違い! 「だから、ごめんなさい……」 「本当に可愛いんだからっ」 「あっ、んんっ……ア、アンジェリナさん……?」 今まで以上に、あたしはベルへと顔を近づける。そして、真っ直ぐに瞳を見つめながら静かに告げた。 「いいわ……あなたを感じさせて……」 「で、でも……」 「でも、はなし……お願いよ」 チュッと頬にキスをする。一瞬、ベルの目が驚きに見開かれたかと思うと、 「はいっ、任せてください」 すぐに嬉しそうな返事をかえしてくれた。 「あぁ……」 「んっ……ちゅっ……」 すっかりと濡れた下着を脱ぎ捨てて、一糸まとわぬ姿になったベル。 柔らかなベルの唇が、あたしの大事なところにそっと触れる。たったそれだけのことで、目の前がくらくらとするほどに心地良い。 「ちゅっ……んちゅっ……んんっ……」 「ふあっ……んぅっ……」 我慢しようとしても、どうしても声が出てしまう。 「ちゅちゅっ……どうですか……?アンジェリナさん……」 「あっ……凄く……んぁっ……恥ずかしい……かも」 ベルの言葉に、あたしは素直な気持ちを応えていた。 自分でさえまともに見たことのない部分。そこにいま、ベルが触れているなんて。 「ちゅぱっ……んちゅっ……ちゅむっ……」 「ひゃうっ!」 ふいに、ぬめっとして温かな感触が、秘所を襲う。未知の感覚にあたしはみっともなく声をあげていた。 「んんっ……ちゅぱちゅぱっ……ちゅぷぷうっ……」 「ふぁっ……んぁっ……あくっ……んあぁっ……!」 続けざまに襲いくる刺激。それがベルの舌の仕業だということに、あたしは気づく。 「だ、だめよ、そんなとこ舐めたりしちゃ……あふっ……」 「んっ……ちゅっ……ちゅちゅっ……気持ちよく……ちゅぱっ……ないですか?」 優しく舌を動かす合間に、そんなことを聞いてくる。 「そ、そういう問題じゃなくて……あんっ……あぁっ……!」 「なら……ちゅぷっ……びちゅっ……どういう問題……です?」 「そ、そんなところ……きゃうっ……き、汚い……からぁ……」 じんわりと、秘所から広がってくる快感。 本当は止めて欲しくない……だけど恥ずかしさから、あたしはそんな言葉を口にしていた。 「ちゅぷちゅぷ……んっ……大丈夫です……ちゅぱちゅぱっ……」 「アンジェリナさんの身体に……んむっ……汚いところなんて……ないです……」 「ふあぁっ……んんぅっ……!」 言いながら、ベルの舌の動きがますます激しくなっていく。あたしはその刺激に、ビクンビクンと反応してしまう。 「あふっ……ちゅっ……感じてください……んんっ……」 「ワタシのこと……いっぱい……ちゅぱちゅぱっ……」 「あぁっ……そんなっ……んんっ……くぅっ……」 生まれて初めての感覚に、あたしはなすがまま。何よりもベルがあたしのためにしてくれているという事実で、胸がいっぱいだった。 「はぁはぁっ……やぁっ……そ、そこ……だ、だめ……」 「ちゅぱちゅぱっ……ふふ……アンジェリナさんも……可愛い声ですよ……」 「それに……ここも熱くて……んちゅっ……ちゅぷちゅぷっ……」 「あふっ……し、舌……う、動いて……あぁんっ……!」 頭の中が、快感で埋め尽くされていく。全身が、ベルから与えられる刺激だけを求めているのがわかる。 「んちゅっ……んっ……んんっ……あっ……」 小さく声をあげて、ベルの舌が止まったかと思うと、 「本当……だったんですね……」 どこか嬉しそうに、そう呟いた。 「えっ?」 「アンジェリナさんのここ……濡れてきました……」 「ワタシと同じって……本当だったんですね……」 言われて自分の大事なところから、熱いものが滲み出していることに気づいた。思わぬ指摘に、また顔がかぁーっと熱くなっていく。 「あ、当たり前でしょ……ウソなんてつかなっ……あぁんっ!」 「これって……んちゅっ……ちゅぱちゅぱ……ワタシで感じてくれているんですよね……」 「あぁっ……あんっ!んんぅ!ふあぁっ!」 「嬉しいです……ちゅぷちゅぷっ……ちゅぱっ……んちゅっ……」 「あふっ……んあぁっ……んっ……!」 時には優しくキスを。時には激しく舌を。決して休むことなく、あたしを感じさせようとするベル。 できるならずっと、こうしていたい。だけど、それじゃダメ。あたしだけが、満足していたんじゃダメなのだから。 「ね、ねぇ……ちょ、ちょっと……待って……」 「ちゅっ……アンジェリナさん?」 「あふっ……」 離れる唇の感覚に、一瞬身体がびくんと反応してしまう。快感の余韻に浸りながら、あたしは一つの提案をする。 「そろそろ……二人一緒に……感じてみない?」 「二人一緒に……?」 「そう、最初はあたし、次はあなた。順番からして、次は二人一緒に、でしょ?」 あたしはベルを感じさせ、ベルはあたしを感じさせてくれた。だけど、それだけじゃ充分じゃない。 「もっと……もっと、お互いを感じあいましょう」 「……はい、ワタシもアンジェリナさんのこと、もっと……もっと感じたいです」 お互いに求めているものは同じだった。もっと、もっと……触れ合いたい、感じあいたい。そして……想いを確かめ合いたい、ただ、それだけ。 「あっ…………」 ふわりと、横たわるベル。その象徴である羽がベッドの上に広がる。 「んっ……」 もう、言葉での確認なんていらない。あたしは、そっとベルの身体へと自分の身体を重ねていく。 「あぁっ……アンジェリナさんの身体……とっても熱い……」 「それは……あなたもよ」 触れ合うお互いの肌と肌は、まるで燃えるよう。先ほどまでの行為で、汗がじっとりと浮かび上がってもいた。 「あぁっ……んんっ……んくっ……!」 「ふあぁっ……んぁっ……んっ……あんっ!」 あたしの大事なところと、ベルの大事なところを重ね合わせる。すっかりと濡れたそこは、いやらしい音を立てた。 「あくっ……んぁっ……あっ……あっ…!」 「はぁはぁっ……あんっ……んんぅっ……!」 夢中になって、ベルの身体を求める。徐々に腰の動きが早くなっていくのが自分でもわかった。 「あぁっ……アンジェリナさんっ……ワ、ワタシ……ワタシ……」 「ふあぁっ……き、気持ち……気持ちいい……です……!」 「あ、あたし……もよ……んくぅっ……」 「あなたの身体……とっても……気持ち……よくて……っ」 あたしの動きにあわせて、いつしかベルも腰を動かし始めていた。まるでそうすることが自然なように、ひたすらに快感を貪る。 「んあぁぁっ……す、好き……好きです……アンジェリナ……さんっ……」 「あ、あたし……あたしも……あなたのこと……好きよっ」 自然と口から出た言葉。声で、身体であたし達は、気持ちを伝え合う。 そして、もっともっと一つになることを望む。だからなのか、ベルがそんなお願いをしてきたのは。 「な、名前……あぁんっ……!名前でっ……」 「んくっ……はぁはぁっ……えっ?」 「な、名前で……呼んでくださいっ……んあぁっ!」 あたしの下で、身悶えながら懇願するような声でベルが言う。 「ベルっ……ベル……!」 ――きっと、ずっとあたしは、その瞬間を待っていた。彼女の名前を、ベルの名前を呼べる瞬間を。 「好きっ、好きよっ、ベルっ……ベル……!」 「あぁっ……アンジェリナ、う、嬉しいです……!」 まるで、堰を切ったように、今まで以上に気持ちが溢れ出す。 「ベルっ……んくぅっ……ベルぅっ……!」 「い、いい、いいのぉっ……ベルっ……あふっ……!」 「ワ、ワタシも……い、いいです……アンジェリナっ……!」 「んうぅっ……んっ……あっ……あぁんっ……!」 「あぁっ……もっと、もっとぉっ……!」 最初からそうであったかのように、あたし達は夢中で互いの名を呼び合う。 何もかも全てが融けあって、一つになっていくような感覚。 身体の奥底から、今までに無いほど熱い塊がこみあげてきた。 「ふあぁっ……も、もう……あ、あたし……あたしぃっ……」 「アンジェリ……ナっ……んくううぅっ……!」 「き、きちゃう……きちゃうよっ……ベ、ベル……!」 「あぁっ……ワ、ワタシも……ワタシもです……!」 切なげに声を上げるベル。もう、限界はすぐそこまで迫っていた。 「い、いっしょ……いっしょにぃ……お、お願い……んあぁっ!」 「は、はいっ、はいっ……あくうぅっ!」 ぎゅうぅっとお互いの身体を抱きしめ、強く強く秘所を擦り付ける。 その瞬間、 「あっ、んあぁぁっ……!」 「あぁぁぁぁんっ……!」 あたしとベルの背中が仰け反り、目の前が真っ白になった。快感の波が何度も押し寄せてはビクンビクンと身体を震わせる。 「はぁっ……んっ……はぁはぁっ……」 あたしは荒い息を吐きながら、ゆっくりと身体の力を抜いていく。 「んくっ……はぁはぁっ……んんっ……」 そして、同じように荒い息を吐き出す彼女の耳元に、 「……愛してるわ、ベル」 そう呟き、まぶたを閉じた。 「……ベル!」 冷え切ったベルの身体をギュッと抱き寄せ、少しでも熱を与えようとする。 「アンジェリナ……さん」 口元にかかる吐息の甘さは、あたしの思考を麻痺させるのに充分な力で。 こんなときにするべきではないと頭では考えながらも、心がそれを許してくれない。 「……ベル……んんっ……」 「んんっっ……」 押し当てた唇は、想像以上に柔らかく、そして熱い。 それは、温めるはずのあたしの方が……溶かされそうになるぐらい。 「……あっ、んんっ……」 あたしの後ろに廻された彼女の両腕が、ゆっくりと背筋をはい上がり、肩口の辺りでグッと力を込めてくる。 「……ワタシは……ベル……」 唇の隙間から洩れてくる言葉に、あたしはただ頷きながら、彼女の髪を撫でてあげることしかできないように思える。 「(――でも、それだけじゃダメ……)」 理由は解らない。……が、彼女は《 ・ ・ ・》〈あたし〉に助けを求めてきた。 「ベル!あなた、あたしを探してホテルから出てきたの?」 「……は、はい。ワタシ、部屋にひとりでいるのが怖くて……」 「……そんな、子どもみたいに。昨日もおとといも、あたしが居ないときは、ひとりだったでしょ?」 「そうです。でも、今日は違った……んです」 「……何が違ったの?」 「アンジェリナさんが……もう、戻ってこないような気がして」 「……バカね。あたしが戻らない理由がどこにあるの?」 「…………ワタシが、ベルじゃなくなったら……」 ――ベルじゃない? 「あなたがベルじゃなかったら、誰だというの?」 「…………」 「ほら、ごらんなさい。あなたはベル以外の何者でも――」 「……姫様……」 あたしの言葉をさえぎるようにささやかれたのは、台本の読み合わせでしか出てこない存在。 しかし、ベルの目はまっすぐにあたしをとらえ、 「……姫様です、よね?」 と語りかけてくる。 「おかしなこと言わないで。いまは練習の時間じゃないの。だから、あたしはアンジェリナ。そうでしょ?」 「違い……ます。姫様、ワタシをお忘れですか?」 「忘れるわけないでしょ。あなたは……」 そこまで口にしたあたしは、ベルの身体が少し熱を帯びてきたことに気づく。 「――ベル?」 「……ワタシは、姫様のお側にずっと居たかった」 「たとえ引き離されることになっても、心だけは……と思ってました」 「でも、それは幻だと気づいたのです」 それはまるで、『天使の導き』にでも出てきそうな台詞。 しかしそんなモノは、原典にもワカバの脚本にも存在しない。 「……姫様は、すべてがそろってこその姫様でした」 「そうでなければ……こうして……」 「……んんっ!」 ベルが持ち上げた唇が、あたしの口元をふさぐ。 「……あんっ……ベ、ベル……?」 そして、そのままゆっくりと舌がねじ込まれ、呼吸が苦しくなってくる。 「……んぁっ…………んんっ……」 口内の奥まで侵入してくるベルの舌は、どこまで逃げても追いかけてきて、確実にあたしの思考を低下させていく。 「……あ、ダ、ダメ……よ……」 「どうして、拒もうと……するの……ですか……?」 「ら、らって……ろんな、ろと……」 「いや、ですか?」 目をつぶった瞬間、彼女の舌がスッと引き抜かれそうになる。 あたしは、無意識のうちにそれを追いかけ、 「……んんっ、んっっ……」 彼女の唇を吸い上げてしまっていた。 「…………姫様……」 ねっとりと舐めあげられた頬には、熱い舌先が残すぬめりが。 ベルは、自らの頬をすり寄せることでそれを拭いながら、 「愛しい姫様……」 とささやいてくる。 「……ベル……あたしは……」 「ベルでは……ありません。私の名をお忘れですか?」 「ワタシは……エファです、よ……」 「……エファ?」 「……そうです。ずっと、ずっと。姫様が戻られるのをお待ちしてました」 「あなたのいう、姫様とは……誰のこと?」 「クリスティナ姫……様……」 「あたしは……アンジェリナ。クリスティナとは違うの」 「あなたは、ベルなの!」 「いいえ、違います」 その言葉と共に、腕の中からすり抜けていってしまう。 そのままベルは橋の下へと歩いていく。慌てて、あたしはその後姿を追いかけた。 「……ベル」 「私の着ていたのは、このドレスではありません」 まるで拒むように、ベルがドレスを脱ぎ捨てる。 「私はエファ。姫様と共に生きるため……生きるため」 「しっかりして!何があったか知らないけど……」 「あなたは、ベル!ベルなの!」 「どうして、私を……ベルと呼ぶのですか?」 「エファでは……ダメなのですか?」 「……あたしにとって、ベルは大切な存在よ」 「でも、そのベルが自分を『エファ』だと言い張るなら……」 「それはそれで構わない」 「…………」 「あなたが誰であろうと、あたしは……あなたが好き」 「あたしは、あなたのいう姫様じゃない」 「だけど、もしもあなたがベルに戻ってくれるなら……」 「あなたのいう姫様に……」 「……アンジェリナ」 一瞬、口調の変わった彼女に、あたしはありったけの思いを込めてすがりつく。 「ベル!あなた、ベルなのね!」 「アンジェリナ……」 「んっ……」 小さく呟かれた、あたしの名前。 ベルの唇が優しくあたしの胸に触れる。 雨に濡れて冷め切っていた肌に、小さな火照りが生まれる。 「……とても……温かい」 「あっ……ベル……」 そっとベルの手が、あたしの大事なところへと。 「んっ……ちゅちゅっ……」 「ふぁっ……んくっ」 胸へのキスを繰り返しながら、手を動かすこともやめないベル。 その指先はあくまで優しく、あたしの大事なところに触れてくる。 「ちゅちゅっ……ちゅっ……んっ……」 「あふっ……そこはっ……んぁっ……ベル……あぁっ……」 入り口に引っかかるように、指を曲げて上下に動かしていく。 あたしはただ、されるままにベルの行為を全て受け入れる。 「もっと……感じてください、ワタシを……」 「ここにいる……ワタシを……」 「ひゃうっ!んくっ……ふあぁっ……!あくっ……!」 徐々に、ベルの指の動きが激しくなっていく。 身体の奥から、熱いものが溢れてくるのが感じられた。 「あっ、んん……指先に……熱いのが」 「んぁっ……あふっ……あぁっ……」 自分でも太ももを雨とは違う、熱い滴が伝っていくのがわかる。 「ふあぁっ、ベ、ベル……あふっ……ゆ、指入って……」 ほぐすように入り口で円を描いていた指。それがゆっくりとあたしの中に入ってきた。 「アンジェリナの中……もっと……熱い」 「だ、だめ……動かしちゃっ……あふっ……んくっ……!」 「ちゅっ……ちゅぱちゅぱっ……ちゅうっ……」 「あぁっ!そ、そんな……む、胸まで……んあぁっ……」 「んむっ……くちゅくちゅっ……ちゅぷっ……」 胸の先端が、ぬるりとした感触に包まれる。 まるで生き物のように動く温かで柔らかなもの。 それがベルの舌だとすぐにわかった。 「ふあぁっ……やぁっ……す、吸っちゃ……あぅっ!」 「ちゅうぅっ……ちゅぴちゅぴっ……ちゅぱぁっ」 「あふっ……ベル……ベルぅ……んぁっ……」 激しくあたしの身体を求めてくるベル。普段の姿からは、想像もつかないほどに。 でも、それほどに彼女は確かめたいのかも知れない。自分がここにいるこということを。 「ぷぁっ……ここ……さっきより濡れてきた……」 「んくっ……はぁはぁっ……あふっ……んんぅっ……!」 じゅぷじゅぷと指の出入りが激しくなる。 内壁を擦られるたびに、背筋に電流のようなものが走りぬけていく。 「アンジェリナ……感じてくれていますか?ワタシを……」 「ベ、ベル……ええ……あ、あたし……ふあぁっ……」 押し寄せてくる快感。あたしはそれをぐっと堪えて、言うべきことを口にする。 「あ、あたし……あなたを感じてる……」 「い、いま……ここにいるあなただけを……」 「……アンジェリナ」 ふと、ベルの動きが止まった。後にはただ、雨音だけが響いていく。 「ベル……?」 「…………」 呼びかけても、返ってくるのは沈黙だけ。 もう一度、名前を呼ぼうとした瞬間、 「…………きです」 「え?」 「ワタシは……あなたのことが……好き、です」 その声は、確かに届いた。どんなに小さくとも、雨音に消される事無くハッキリと。 「ありがとう……ワタシのことを……ワタシを受け入れてくれて……」 「……当たり前じゃない、そんなこと」 「だって……あたしはあなたのことが、ベルのことが大好きなんだから」 真っ直ぐな言葉。あたしもベルに届くよう、雨音に消されぬようハッキリと声にする。 そんなあたしの気持ちに、 「…………はい」 ベルは確かに、頷いてくれた。 「ねぇ、ベル……もっと、あなたを感じさせて……」 「不安になる時があったら、何度でも抱きしめてあげるから……」 「アンジェリナ……んっ……ちゅぱっ……ちゅっ……」 「あっ……ふぁっ……んあぁっ……」 言葉に代わりに行動で応えるベル。 さきほどよりも、より激しくあたしの身体を求めてくる。 「んっ……ちゅっ……ちゅうっ……ちゅちゅっ……」 「ちゅぱっ……ちゅくちゅくっ……んむっ……ちゅるぅっ……」 「くうぅっ……あっ……あふっ……あぁっ……んあぁっ……!」 胸の先端を吸ったかと思えば、身体のそこかしこに降り注いでくるキス。 そして、休むことなく指があたしの中に入ってきてはかき混ぜていく。 その一つ一つに込められたベルの想いに、あたしの全身が満たされていく。 「んぁっ……い、いい、いいの……ベル……んくぅっ……」 「そ、そこ……あふっ……も、もっと……して……んあぁっ……!」 「アンジェリナ……んむっ……ちゅっ……ちゅぱっ……ちゅうっ……!」 「ちゅっ……んんっ……んちゅっ……ちゅぱぱぁっ……!」 重なり合う身体と身体。そう、いま確かにあたし達の身体は一つになっていた。 思考の全てが、ベルの与える快感で塗りつぶされていく。 「はぁはぁっ……ベ、ベル……あ、あたし……んくぅっ……」 「ちゅうっ……んっ……ちゅぱちゅぱっ……」 「ぷあっ……アンジェリナ……アンジェリナっ……!」 ぐっと、中指が強く差し込まれる。同時に親指が最も敏感な部分を押した。 「ふぁっ!?んあぁぁぁっ」 予期しない刺激に、頭の中が真っ白になる。 後から後から、身体の奥で熱い塊りが弾けていく。 「あふっ……はぁはぁっ……」 全身から、力が抜けていくのを感じる。 思わず倒れそうになったあたしを、ベルが優しく抱きしめてくれた。 「アンジェリナ……ありがとう……」 そして最後にもう一度耳元でそうささやく。 やっぱりその声は、雨音の中でも……確かに聴こえた。 「準備はいい?パンは?牛乳は?下に敷くシーツは?」 「はい、みんな持ちました」 モスグルンでの生活に慣れた、休日の早朝。 「……いちどでいいから、こんな時間帯にピクニックがしてみたかったの」 「そうだったんですか……」 あたしは散歩を口実に、セロの家の近くにある小高い丘までベルと共にふたりっきりでやってきた。 「青の都って、海はあっても山はほとんどないの」 「もちろん、山がないっていったらウソになるけど、こういう、のどかでいかにも自然っていう景色がなくて」 「うふふふっ」 「あなたもそういう気分になるとき、ないの?」 「ワタシは田舎暮らしなので、いつでも楽しめますよ」 モスグルンの街を一望しようと、丘の一番高いところを探し、そこに特等席を作る。 風もおだやか。ふたりで広げたレジャーシートも飛ばされず、のんびりとした時間を楽しめそう。 「おいしいわね、ワカバの家のパン」 「そうですね」 あたしたちは持たせてもらったパンと牛乳を手に、この街に着くまでの旅を振り返ったりしてみる。 ベルにとっては、ジルベルクから。 ――あたしにとっては、青の都から。 他愛ない会話の中でも、お互いが知らない時間の出来事を耳にすると……思わず詳細を訊いてみたくなるようで。 あのとき、こうしていた。あのときは、こうして欲しかった。 そんな巻き戻せない過去を振り返り、話が弾むほどに……この先に待つモノが気になり始めてくる。 「ねぇ、ベル。やっぱりあなたは、この劇が終わったら……」 「ジルベルクに帰ります」 ……返ってくる答えがそうであると知りつつも、尋ねずにはいられなくなる未来。 「前にも訊かれましたけど、何か?」 そんなストレートな物言いに、あたしは持て余した気持ちをどう表現すればいいのか? 「……う、うん……」 質問にあっさり答えられるベルが、少し羨ましくもあり、恨めしくもある。 「顔、赤いですよ。熱があるんじゃ……」 「ないわよ、もう。そんなんじゃなくてね!」 思わず感情的になり、ベルの手を振り払いそうになる。 ……が、あたしの伸ばした腕は、ちょうど彼女の手のひらをキレイに捕らえていた。 「あのね、ベル!もし良かったら、あたしと一緒に……暮らさない?」 握った手は離さず、言うに任せた告白でベルを見つめる。 彼女は何も言わずにあたしを見つめ、それからゆっくりとシーツからはみ出した下草へと視線を落とす。 「……それは、本気ですか?」 「もちろんよ。冗談でこんなこと言わない」 「うれしいです、とっても。だけど……」 曇るベルの表情に負けて振り出しまで戻ってしまったら、いつまで経っても進展はない。 「ダメ、なの?」 あたしは多少強い言葉で、その真意を尋ねる。 「ワタシは構いません。ただ、アンジェリナさんが……きっと後悔します」 「あたしが持ちかけているのに、それはないと思うけど」 多少の冗談で間が持たせられるなら……などと考えたが、それは控える。 何故なら、いま彼女の瞳に……哀しみの色が宿っているから。 「……本当にそう思いますか?」 「……えぇ、後悔が怖くて何もしないなんて、そっちの方があとで《へこ》〈凹〉むわ」 少しでもポジティブな方向を目指してみようとして、自分がワカバのような理論を展開しているのに気づく。 しかし、そんなワカバ受け売りの前向きさですら……彼女の微笑みを得ることができなかった。 「…………怖いのは、時間です」 「えっ?」 「時間は、残酷です。ワタシは《シスター》〈人形〉で、アンジェリナさんは人間です」 「――いつか必ず、どこかで時間の流れがズレてきます」 「そのときが来てからでは、遅いです。だから……できればいまのうちに……」 「バカっ!」 それ以上ベルの懸念を聴きたくなかったあたしは、思わず大声を上げてしまった。 「え、えっ?」 「バーミリオンで言ったこと、憶えてる?」 「あたしは、あなたの横を通り過ぎるような真似はしないの」 言い返す時間なんて与えない。 「ずっと、ずっと一緒に居る。あなたの横を一緒に歩きたい」 この気持ちが偽りでないことを知って欲しい。 「あのとき、あたしはそう思った!だからこうして今日まで一緒に……」 ふたりで培ってきた時間こそが、その証明であると信じて。 「……アンジェリナさん」 「あなたがあたしを嫌いにならない限り!あたしはあなたの横に居たい」 迷惑はかけたくない。ただ、ベルが望むなら―― 「……大丈夫です。ワタシはアンジェリナさんが好きです。嫌いになったりしません」 「……本当に?」 「いままでワタシがウソをついたことありますか?」 静かに笑ってくれたベルを見て、衝動的にその口元へと唇を寄せてしまうあたし。 何の抵抗もなくそれを許してくれる彼女の吐息に、 「…………でも、ちょっと心配」 あたしの口から本音がこぼれてしまう。 「えっ?」 「他に好き人ができないとも言えないでしょ?」 こんなときでもなければ、言い出せない気持ち。 もちろん、それはないと言い切りたいのに―― 「…………それはそうですけど」 当のご本人が否定してくれない限り、不安の種はいつまで経っても消えてくれない。 「バカっ。こういうときは、少し気を遣って……」 素直過ぎる肯定に不平をもらしてそっぽを向けば、真横からそっと肩に押し当てられたベルの頬。 「ワタシが最初に好きになった人は……アンジェリナさんです」 「だから、ワタシは……たとえ他に好きな人ができても……あなたしかダメなんです」 もぞもぞと動くやわらかな感触と意味深な言葉に、あたしの心が大きく波打ってしまう。 「どういう意味?」 「……ワタシの《 ドロップ》〈人形〉石は、あなたを忘れません」 「生みの親と、初めての人だけは……決して忘れない。それが《シスター》〈人形〉の《さだめ》〈運命〉です」 彼女のささやきが、肩から首、首から耳元へと伸びる。 「……ベル……」 「だから……アンジェリナさん。あなたもワタシを忘れないで」 そして、その潤んだ瞳に視線を奪われた瞬間。 「忘れるわけないじゃない。忘れてって言われたって、絶対……絶対……」 あたしの心は、彼女の全てを求めて―― 「あ、あの……アンジェリナ」 「なあに?ベル」 あたしの目の前、ベルがどこか恥ずかしそうに口を開く。 「な、なにも服を全部脱がなくても……良いと思うのですが」 「あら、だめよ。そしたらベルの身体が見られないじゃない」 「でも……こんな場所で、その……」 恥らうベルの姿に、何ともいえない愛しさがわきあがってくる。 あたしはその華奢な身体を、ぎゅっと抱き寄せた。 「ア、アンジェリナ……」 ムードのある会話に身を任せてしまったきらいはあるが、いまさらこの気持ちを抑えられるほどの理性は残ってない。 「あたしはベルの全てを見たい……それは、恥ずかしいこと?」 「え、そ、その…………いいえ」 「ベルのそういうところ……大好きよ」 「あっ……」 重なり合う視線と視線。ゆっくりとお互いの顔が近づいていく。 「んむっ……ちゅっ……」 「ちゅっ……んちゅっ……ちゅぱっ……」 ついばむようなキスをかわす、あたしたち。 抱きしめたベルの胸から伝わる鼓動が、あたしの鼓動と重なっていく。 「んちゅっ……ちゅっ……ふふっ……ベル……」 「ね?あたしの名前……呼んでみて」 「あっ……ちゅっ……アンジェリナ……ちゅぱっ……」 可愛らしく、あたしの名前を口にするベル。 そのお礼にキスをお返ししてあげる。 「あふっ……相変わらずベルの唇は柔らかいわね……」 「んっ……そ、そうですか?」 「ええ、他のところだって、こんなに柔らかくて……」 「あっ、やんっ……んんっ……」 優しく背中を撫でてあげると、ベルがぴくりと肩を震わせた。 思わず笑みがこぼれてしまいそうなほどに、愛らしい反応。 「本当、思わず羨ましくなっちゃう……ちゅっ……」 「あむっ……んっ……そ、それならアンジェリナだって……」 「とっても……綺麗な身体で……柔らかくて……んちゅっ……」 言いながら、ベルがさっきあたしがしたように、背中を撫でてくれる。 細くしなやかな感触に、ぞくぞくとしたものが身体を駆け巡っていく。 「こうして触れていると……もっともっと触れたくなります……」 熱を帯びた瞳であたしを見ながら、そんなことを言う。 ああ……あたしだけに見せてくれる、ベルの顔だ。 「うふふ、ありがとう、ベル……ちゅっ……んんっ……」 「お世辞でも嬉しいわ……ちゅぱっ……」 「あふっ……んちゅっ……お、お世辞じゃなくて……んぷっ……」 「んちゅっ……ちゅぷちゅぷっ……ちゅぱっ……」 「ちゅぷっ……んちゅっ……ちゅちゅっ……」 唇を重ねて、舌を絡めるとベルも同じように絡めてきてくれる。 ぬるぬるとした舌の感触に頭の奥が痺れてくるよう。 「ぷあっ……んっ……ベルって、キスが上手よね」 「えっ、そ、そうですか?」 「そうよ、凄く気持ち良いもの……ちゅっ……」 「んむっ……ちゅぷぅっ……ちゅぷちゅぷっ……」 飽きることなく、あたし達は何度も何度もキスを繰り返す。 誰もいない森の中、絡み合う舌の音だけが響いていく。 「あっ……ふぁぁっ……!」 「んくっ……!」 突然、襲ってきた刺激にあたしとベルは唇を離し声をあげてしまう。 その正体はわかっていた。胸の先端がこすれあったのだ。 「んっ……アンジェリナ……硬くなって……ます」 「そ、それは……ベルだって」 ベルの言葉に、あたしは慌てて言い返す。 まるで自分だけ感じてしまったように思えて恥ずかしかったから。 「あふっ……キ、キスだけじゃなくて……こっちも……んくっ……」 「き、気持ち……んっ!い、いい……」 「あっ……そ、そんなベル……お、押し付けたら……あんっ!」 胸の先端と先端が擦りあうようにベルが胸を動かす。 それだけで、みるみる痛いほどに尖っていくのがわかった。 「んちゅっ……アンジェリナ……ちゅぱっ……んんっ」 「ふぁっ……ちゅぷちゅぷっ……あうぅっ……!」 唇を求めながらも、胸を擦り合わせるのもやめようとしないベル。 どんどんと高まっていく快感に、身体が熱く火照っていく。 「ちゅぷちゅぷっ……んちゅっ……はぷっ……ちゅうっ……」 「んっ……ちゅぱちゅぱっ……ちゅっ……んむっ……」 ベルに唇を吸われてあたしも吸い返す。 凄い。キスをかわせばかわすほど、どうすれば気持ちよくなるのかわかる気がする。 「んちゅっ……ちゅぱぁっ……ちゅぷちゅぷっ……んちゅっ……!」 「あむっ……ちゅうっ……ちゅくちゅくっ……んっ……」 もっと深く、強くキスをしようとすると、ベルの前髪が額に触れる。 そのふわふわとした感触が、どこかくすぐったくて心地良い。 「あぁっ……ベル……もっと……もっとして……」 「ええ……アンジェリナ……んむっ……ちゅぱちゅぱっ……」 おねだりするように唇を近づけると、ベルはそれを優しく受け入れてくれる。 小さく柔らかなベルの舌があたしの舌に絡まり離そうとしない。 「あぷっ……んちゅっ……ちゅくちゅくっ……」 「ちゅっ……ちゅぷちゅぷっ……ちゅるるっ……!」 夢中になって、お互いの唇を求め合う。 ついこの間まで、まったく知らなかったこと。 好きな人とのキスは、こんなにも気持ちが良いということ。 「んんっ……ぷぁっ……アンジェリナ……」 「……ちゅぱっ……ベル?」 そっと、ベルがあたしから唇を離す。 先ほどまで絡み合っていた舌の名残がつうっと互いの口の間を伝った。 「ワ、ワタシ……その……」 トクントクン、とベルの心臓の鼓動が跳ねた。 もじもじと太ももを動かしながら、切なげにあたしを見上げる。 「もしかして、キスだけじゃ……物足りなくなった?」 「……………はい」 熱い息を吐き出しながら、ベルが恥ずかしそうに頷く。 あれだけ激しいキスをしておきながら、妙なところで照れやなんだから。 「ふふ、わかったわ……それじゃあ、ね?」 「あっ……んむっ……」 最後にもう一度、あたしはベルにキスをすると、腰を下ろしていく。 「あっ、アンジェリナ……」 そのまま後ろの木に寄りかかるように、座り込む。 すると、自然ベルがあたしの身体に覆いかぶさる形になった。 「んっ……こうすれば、もっと触れられるでしょ」 「ふぁっ……あんっ……」 突き出される格好になったベルのお尻。 そこをなぞりながら、大事な部分へと指を伸ばす。 「も、もう、アンジェリナ……いきなりそこから……あふっ……」 「ふふっ、だってキスだけじゃ物足りなかったんでしょ?」 「んぁっ……あぁっ……そ、それは……そうですけど……んくっ……」 あたしは大事なところを指で僅かに押し開ける。 そして、その筋にそって擦り上げていく。 「あふっ……んくっ……あんっ……あぁっ……!」 あたしの指に合わせ、可愛らしく反応してくれるベル。 少しずつ大事なところから熱い蜜が溢れてきた。 「やっ……あふっ……アンジェリナ……んちゅっ……」 「ひゃうっ……ちょ、ちょっと、ベル……」 「んんっ……ワタシだけ気持ちよく……ちゅぱっ……」 「させるなんて……ちゅうっ……ずるいです……」 「あっ……そ、そこ……あぁっ……だ、だめ……」 あたしの首筋にベルがキスをしていく。 くすぐったいような、むずがゆいような感覚に身体が反応してしまう。 「んちゅっ……ちゅっ……んくっ……あふっ……」 「あぁっ……くぅっ……んあぁっ……」 あたしが指を動かせば、負けじとキスをしてくるベル。 ぎゅうぅっと、お互いに身体を抱きしめながら快感を与え合う。 「あんっ……そこ……だめだってば……」 「ちゅぱっ……ふふ……アンジェリナは……ここが弱いんですね」 「な、なによ……ベルだって、ここが弱い……くせに」 「あふっ!きゃうっ……そ、そこは……ふあぁっ!」 大事なところに隠されたもっとも敏感な部分。あたしはそこを指で転がす。 そうすると、ベルが過敏に反応した。 「ひゃうっ……やっ……そ、そこ……あぁっ……」 「ゆ、指で……い、弄ったら……だめ……ですぅ……!」 触れば触るほど、熱い蜜が奥からあふれ出してくる。 ベルは身体をよじらせながら、甘い声をあげていた。 「あっ、んっ、ベ、ベル……」 「はぁはぁっ……んくっ……ア、アンジェリナ……ちゅぱっ……」 感じながらも、あたしへのキスを一生懸命に続けようとしてくれるいじらしいまでの姿が、とても嬉しかった。 「んぅっ……どんどん……濡れてきてるわ……ベルのここ……」 「あふっ……だって……ア、アンジェリナの指……気持ちいいから」 「んくっ、そ、そんなに……いいの?」 くちゅくちゅと、指先を動かしていく。 ほんのさきっぽだけ中にいれると、痛いほどの締め付け。 「あっ、ひゃうぅっ!んっ!んあぁっ!」 そのまま敏感な部分と肉壁を擦るようにすると、ベルが激しく反応した。 「ふふ、そんなに大きな声を出して……誰かに聞かれたらどうするの?」 「あふっ……!ああんっ!そ、そんなっ……!」 「ほら、だめよ、ベル……もっと声を小さくして」 耳元でささやきながら、さらに指の動きを激しくしていく。 「きゃんっ……む、無理……無理……ですっ……ふあぁっ!」 「こ、声……声……でちゃっ……んあぁっ……!」 ぐりっと、敏感な部分を指ではじくと、ベルの背中が大きく仰け反った。そのまま荒く息を何度も吐き出す。 「はぁはぁはぁっ……」 「あっ、大丈夫……?ベル」 さすがに悪乗りしすぎしてまったかと、指の動きを止める。 「も、もう……い、いじわるです、アンジェリナ……」 「ごめんなさい、あまりにベルが可愛いから……」 言い訳でなく、本心からそう言う。 するとベルの頬に、さっと赤みが差した。 「そ、そういうことを言うのは……ずるいです……」 「ふふ、でも本当のことだもの」 「あっ……」 あたしは、そっとベルの頭を撫でてあげる。 柔らかな髪の感触が手の平に心地良い。 「こんなにベルが可愛いのがいけないのよ」 「んっ……」 頭を撫でられながら、気持ちよさそうな声を出すベル。 そう、こんな反応も可愛らしい。 「アンジェリナ……アンジェリナっ……」 切なげにあたしの名前を呼びながら、身体を寄せてくる。 下手に力をいれたら、いまにも折れてしまいそうな身体。 だけど、あたしはその身体を目いっぱい抱きしめた。 「んんっ……ちゅっ……アンジェリナっ……」 「ベル……あふっ……んっ……くぅっ……」 再び首筋にベルがキスをしてくる。 どんなに近くにいても、まだ足りない。 だからあたし達は抱きしめあう、身体を重ねあう。 ずっと、ずっと……この時間が続くことを願って。 「ちゅぷっ……アンジェリナ……また、一緒に……」 「あぁっ……ベル……」 優しい優しいベルのキスとささやき。 あたしがその誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。 「背中……痛くない?」 「はい、大丈夫です」 先ほどまで座っていたシートをたぐり寄せ、そこにベルをゆっくりと寝かせる。 「それじゃ、ベル……」 「……来て、アンジェリナ」 あたしの言葉に、こくりと彼女が頷く。 それを合図にあたしは自分の大事なところをベルの大事ところへ重ねた。 「んっ……」 「あふっ……」 濡れていたベルの大事なところが、少し卑猥な音を立てる。 でも、それを責めることはできない。 何故ならあたしも、彼女と同じような《 ・ ・》〈湿り〉を覚えてきたから。 「ベル……んっ、んんぅっ……」 「ふあぁっ……あっ……あんっ……!」 ゆっくり、ゆっくりと腰を動かしていく。 その度にベルの身体の動きにあわせ、小ぶりな胸が揺れた。 「あんっ……んはぁっ……んくっ……ふぁっ……」 「あぁっ……んっ……くぅっ……んんっ……」 身体を重ねるたびに、あたしたちは更に馴染んできている気がした。 前よりも、もっとしっくりとくる感じ。 「はぁはぁっ……ア、アンジェリナ……もっと……」 「も、もっと……強くしても……大丈夫です……」 「わ、わかった……んくっ……あんっ……あふっ……!」 それは、きっとベルも同じ。あたしは、その言葉に応えて速度を上げる。 「ふあぁっ……んんっ……ああぁっ……!」 「ベ、ベル……ど、どう……?き、気持ちいい……?」 「は、はい……き、気持ち……い、いいです……!」 「ア、アンジェリナのが……こ、こすれて……ふあぁっ……」 「よ、良かった……あたしも……んくっ……気持ちいいっ……!」 気づけば、お互いの愛液で大事なところがぐっしょりと濡れていた。 熱い蜜が混ざり合い太ももを伝い落ちていく。 それは……二人が一つになっている証明に思える。 「ああっ……アンジェリナっ……もっと……もっと……!」 「もっと……してっ……んくぅっ……ふあぁっ……」 普段は絶対に見せない顔、絶対に出さない声。 これは、ベルがあたしにだけ見せてくれる姿なのだから。 「んっ……ここは……どう……?あくっ……!」 「ひゃうっ……!そ、そこ……こすりつけたらっ……」 「あっ……くあぁっ……!」 「アンジェリナっ……あんっ!ふあぁっ……!」 自分の最も敏感なところを、ベルの敏感なところに擦り付ける。 それは思っていた以上に強い刺激になって返ってきた。 全身がまるでしびれてしまうような快感。それなのに腰の動きが止められない。 「ひゃうぅっ、そ、それ、だ、だめぇ……あ、頭の中……真っ白になっちゃう……!」 「くうぅっ……ベル……ベルぅっ……!」 ふたりの擦れあう音が、静かな森の中に響いていく。 お互いの秘所はまるで燃えるように熱く、融けてしまいそうなほど。 「あぁっ……ア、アンジェリナ……ワ、ワタシ……!」 「お、おかしく……なっちゃ……ふあぁっ……!」 「んあぁっ……ベルっ……あたしのベルっ……」 「大好き……大好きよっ……!」 「んくぅっ……ワタシも……ワタシもです……!」 何度、言葉にしても足りない。どんなに身体を重ねても足りない。 ああ、好きという気持ちはどうしてこんなにも大きいのだろう。 あたしは、そんな相手とめぐり会えたことを心の底から幸運だと思う。 「ふあぁっ……か、身体熱くて……んんぅっ……!」 「も、もっと……もっと……もっとぉっ……!」 「くうぅっ……!」 ベルがあたしの腰の動きにあわせて、腰を動かしていた。 それによって、さらに快感が強くなる。 「ベ、ベル……そ、そんなに動いたら……ああんっ……!」 「あふぅっ……アンジェリナっ……き、きちゃう……」 「ワ、ワタシ……も、もう……きちゃうよぉっ……!」 「んんっ……んくっ……あふっ……」 太ももを掴んだベルの手に力がこもる。 押し寄せる快感の波に、必死に抗っているようだった。 それは、あたしも同じ。一瞬でもこの時間を続けるために耐える。 「んあぁっ……ベル……ベルぅ……」 「アンジェリナ……アンジェリナっ……!」 だけど、それも限界に近かった。 もうお互いに名前を呼ぶ事しか出来ない。 「あっ、はぁはぁっ……んくっ……んあぁっ」 「あふっ……あんっ……あぁっ……くうぅっ……!」 「も、も……だ、だめぇ……!」 「ワ、ワタシも……!」 その言葉と共に、互いの敏感な部分が強く擦れ合う。 途端、身体の奥で快感が弾けとんだ。 「あっ……あぁぁあぁーっ!!」 「んくっ……んああぁぁぁっ!」 周囲にあるシロツメクサがぼやけ、真っ白に変わる視界。 繰り返し押し寄せる快感の波にあたしはただ、身を任せていた。 「あふっ……アンジェリナ……」 あたしの名前を呼ぶ、愛しいベルの声を耳にしながら―― 倒れ込んだ先にある、確かな温もりを抱きしめ続けていた。 調子に乗って、トニーノったら。アタシは脱がされかけた服を投げ捨て、トニーノにまたがった。 「さて、どうでしょうね〜?」 アタシはトニーノのズボンのジッパーをゆっくりとおろし、彼のモノを引っ張り出した。 「……な、なぁ……やっばりさ……」 今になって、弱気な声で、トニーノったら。ホント、こういうところ、可愛いったら。 くすくすとアタシは笑ってしまう。 「人に手出しておいて、何言ってるの?」 そう、確かにからかったのはアタシ。でも、手を出して来たのはトニーノ。だから、アタシは乗ってやっただけだ。 「でもよぉ。……何か、立場おかしくねぇか?」 押し倒されたことが、気に入らないのだろう。 「おまえとこういうことするのは、その……ラッキーだけど、できたら俺の方が上で……」 もごもごとまだ何かを続けようとしているトニーノにアタシは強引にキスをしてそれを阻止した。 「これでいいのよっ、バカ」 きっぱりとそう言い切って、アタシは再びトニーノのモノを指で弄び始めた。 「はぁい、坊や。いい子にしてるのよ」 軽く指で先端をいじってやる。そうしながらも、手の平でそっと裏筋をこすりあげる。 「……気持ち良い?」 聞くまでもない、しっかりと反応してきているトニーノのモノにアタシは興奮を覚える。 「ストレートに訊かれて、『はい』とは答えづらいだろ?」 「ふーん。じゃ……やめる?」 「それは勘弁だなぁ」 言葉にしなくても、しっかり硬くなってきちゃってるから、抵抗しても無駄なのに、トニーノったら口先を尖らせて、アタシを睨んできた。 「素直が一番よ、坊や」 「……とりあえず、坊や扱いはやめてくれるかな?」 やっと反論したと思ったらそんな内容。ぷっとあたしは吹き出した。 「あら。ライトより、ちょっと上ぐらいじゃないの?」 「それをいうなら……セロだろ?ライトとは軽く10違うぜ」 「どっちも同じよ。アタシからしたら……ね」 アタシはトニーノの下半身に顔を近づけ、その先っぽに軽くキスをする。 「ん……くっ」 びくん、とトニーノは体を揺らす。 「ねぇ、トニーノ?なすがままでも、大人ぶっちゃう?」 刺激に耐えかね、先端から出てきた液を手の平でぐいぐいと円を描くように乱暴に愛撫する。 「子どもにはできねえことやっといて、その質問はねぇだろ」 「ふーん。屁理屈でカバーする気?」 「そういうつもりじゃねぇけどさ。比べる相手を間違えたりするのはどうかと思うぜ?」 「へぇ?そうなの?」 アタシは、じっくりとトニーノの体を見る。そして、そっと開いている方の手でトニーノの顎のラインをなぞった。 「うん、彫りの深さが違うわね」 ジョリジョリした感触に、ふむ、とアタシは頷く。 「……髭も生えてる」 そのまま、指を首に這わせ、胸まで持って来る。 「胸板もあるわね」 下り続けるアタシの指が、やがてトニーノの腰元へ。 「この辺りが、決定的に違うわね」 しっかりと勃起したイチモツを、アタシはぎゅっと握った。 「違うって……おまえ……あいつらの、みたのかよ!」 「何言ってるのよ」 あはは、とアタシは笑ってしまう。 「見なくったってライトたちと違うのくらいわかるわよ。っていうか、同じだったら逆にびっくりだわ」 「……どうだかな。もうずいぶんとご無沙汰で、こっちは忘れられたんじゃないかと思ってたぜ」 拗ねた声でトニーノは言った。 「ま、あの子たちのがどんなかは知らないけど、アンタのは……ちゃーんと把握してるわ」 「……そうかい」 最近ご無沙汰だったのが、気に入らないらしい。気分でしか相手してあげないのは、やっぱりかわいそうかな? 「あらー、よく聞こえないお返事。……でも、確かに最近忘れ気味かな?」 「……おいおい」 でも、アタシはそんな不満、聞いてやらない。 「いいじゃない。いま、こうしてるんだから」 手を軽く上下させながら、つーっと唾液を垂らす。軽い潤滑油だ。 「日頃のお詫びに、今日は満足させてあげるわよ」 誘ったのはこっちだ。たまには、こういう夜も悪くない。 「……今日は、ってのが引っかかるね」 「もぅ、言い直してほしいの?」 身を乗り出して、ちゅっとアタシはトニーノの頬にキスをした。 「いいや。言葉じゃなくて、身体で教えてくれよ」 観念したらしいトニーノは、ゆっくりとアタシの胸に手を伸ばしてきた。 「ん……」 胸を揉まれながら、アタシはトニーノのモノを刺激し続ける。口でやった方が早いけど、してやらない。 こういうのはじらしてじらして、じらしてやるのが得策だ。トニーノはきっと我慢が出来なくなるに違いない。 いつギブアップするか……これも勝負である。 「もっと優しく……揉んでほしいかな?」 そんな注文をつける。 「……だったら、口でしてくれるかな?」 「質問を質問で返すな、バーカっ!」 ぴしっとおでこにデコピン。そんな簡単にしてあげないんだから! アタシはそう思って、またじれったくトニーノのモノに指を絡め、ゆっくりと愛撫を続ける。 弱い先端部分をいじって、トニーノが反応したのを見ると、アタシはすぐに動きを止める。 そして、ひとしきり落ち着いたあと、また手を上下させて……。 「……じらすなってっ!」 アタシの腰に手をつかんで、むーっと頬をふくらませる。 「もうっ。本当、お子様なんだから」 アタシはくすくすと笑ってしまう。 「ちぇ……いいよいいよ。どうせ、俺はお子様だよ……」 観念してトニーノは大の字になった。 「ふふ……わかればいいのよ」 アタシは、トニーノの愛撫に集中した。今度は途中で止めたりしない。 「(――今夜はこの辺でいいかな?明日も早いし……)」 そう思って、手の動きを早める。 「ちょ……シルヴィ……ア」 ぐっと体を硬くするトニー。 「どう?気持ち良い?」 もう何度となく肌を重ねてる相手だ。どこがツボかは何となくわかる。 「……早く出しちゃいなさいよ」 「そっ、そんな……」 彼は根本の部分が弱い。 「いいのよ、声に出しても。男の子のあえぎ……好きよ」 「ちっ、ちっくしょう……」 だからそこを手のひらで押しながら、手を動かす―― 「……って。もう我慢、できねぇ……」 「そうそう。素直がいいわぁ、坊や……」 「うっ、うおっっ!?」 「きゃっ!」 「い、いきなり出すバカがどこにいるのよ」 「……溜まってたんだって」 「……もーぅ。自分で拭きなさいよ……」 「……シルヴィア。今夜は、逃がさないぜ?」 そんな言葉をささやいたら、トニーノが突然起きあがる。 「どっ、どうしたのよ?」 「……どうもこうもあるか。人を子ども扱いしやがって」 「え……?」 言うなり、トニーノは強引にアタシをベッドに押し倒した。 「ち、ちょっとトニーノ……」 「久々だもんな。まずは忘れかけたその裸体、堪能させてもらうぜ?」 すっかりやる気になった俺は、ジーパンと下着を脱いで、シルヴィアの丸いおしりに手をあてた。 「(――この感触も久しぶりだな……)」 そう思っただけで、また俺のモノは元気になってくる。だというのに、シルヴィアは眉を寄せて、振り返って俺を見て、 「ねぇ、トニーノ。やっぱりこの辺でやめといた方が良くない?」 いきなりこんなことを聞いてきた。 「何で?誘ってきたのは、そっちだぜ」 「だって……明後日には劇の本番なのよ?」 「だから、いましかないってことさ」 俺は、もう準備万端、《 い》〈挿〉入れる気満々だ。 「それに、ここで仕切り直したら……いつできるかも分からないしな」 「ふぅ。がっついてるのね」 観念したように、シルヴィアはため息をついた。 「まぁ、いいわ。……で、このままするの?」 「俺としては、このままで」 腕で体を支えている姿勢のシルヴィアは不満そうな声でそう告げた。 「……この格好、腕が辛いのよねぇ」 「自分の体重で?」 「バカっ、アンタ殺すわよ?」 本気で怒ったようで、眉をつり上げ、俺を睨み付けるシルヴィア。 「……シルヴィアに殺されるなら本望だね」 俺はわざとふざけて、シルヴィアの口元へ自分の首を差し出した。 「ふんっ!バカトニーノ!」 かぷっとシルヴィアの八重歯が首に刺さる。 「いてっいててっ!」 「……ふん。軽く噛んだだけでしょ?」 「うぉ、血が……」 俺は大げさに首を押さえ、よろめいて見せる。 「う、嘘!?大丈夫、トニーノ?そんなつもりじゃ……」 「冗談だよ」 ふっと笑うと、むっとしたシルヴィアは、 「バカっ!」 ばしっと俺の足を蹴り上げた。 「いててててっ!」 弁慶の泣きどころを蹴られ、マジで涙が出てくる。 「ふんっ!どうせまた演技でしょっ」 「……そうだな。ここからは演技なしってことで」 せっかく美味しい料理が目の前にあるのに、いつまでも遊んで居られない。 もっとたっぷりと味わわせてもらわないとな。 そう思って、俺はたぷんと重みで揺れているシルヴィアの胸に手を伸ばした。 「あ……っ」 「相変わらず敏感だな」 その甘い声と仕草に、すぐに俺のモノは元気になる。 「こっちは、と……」 あいている方の手で、俺はシルヴィアの下半身に手を伸ばした。 「……あっ、ダメっ……」 触るまでもない。じっとりと潤って、足にまで透明な液体が垂れてきている。 「おいおい、ひとりで先にいかないでくれよ?」 「……そ、そんなことないわよっ!ちゃんと、待ってるじゃないの」 するとシルヴィアはもっと、というように、お尻を突き上げ、軽く揺らしてきた。 「……そうかい。悪かったよ」 俺はシルヴィアの胸に手を伸ばす。 「あぁ……んっ」 びくっと背を逸らすシルヴィア。嬉しくなってきて、俺は、そっとシルヴィアのクレバスに自分のモノを挿入した。 「ふぅ、はぁ、はぁ……っ!」 きゅぅきゅぅと良い感じに動くシルヴィアの中で、俺のモノはどんどん大きくなっていく。 「いいぞ、シルヴィア……っ!相変わらずの……締まり、で」 「バ、バカっ!変なこと……んんっ、言わない……の!」 赤い顔でそんな反論をしてくるシルヴィア。そんなところも可愛らしい。 「いいんだぜ、もっと声をあげても。キライじゃないからさ」 ぱんぱん、と激しく腰を打ち付けると、それに反応して、手を握りしめるシルヴィア。 「あっ、はっ、はっ、ああ、んっ!」 少し堪えたような声が、また劣情を誘う。 胸に手を伸ばすと腰の動きにあわせて揺れるモノだから、また気持ちがイイ。 「そういえば……さっきの指輪だけどさ」 「え!?」 その言葉に身体を強張らせるシルヴィア。 「いてて!力抜けって、シルヴィアっ!」 「あ、ご、ごめん……っ」 はぁ、と大きく息を吐くシルヴィア。締め付けが丁度良い具合になる。俺は腰を動かしながら、会話を続ける。 「良かった、見つかったんだよな」 俺は自分の薬指を見て、ふっと笑った。我ながら、ペアリングなんて柄でもないと思っていたが。 「………そっ、そうよ……」 「どこにあったんだ?」 「どっ、どこだって……いい、で、しょ……」 今更、照れくさいのだろうか? 「(……まぁ、いいか。それよりもいまは……)」 こいつは気まぐれだから、いつその気になってくれるかわからないし。 「はぁ、はぁ、はぁ……」 「あっ、はぁ、はぁ…………気持ち……いいわ……」 ぐっと背を反らせるシルヴィア。その動きにあわせて、またアソコが締まる。 「久し振りだから……お互い……ちょっと……」 「つ、らい……かしら?」 「そ、そうでも、ねぇ……といいたいけどな……」 「んんっ……あぁっ……」 お互い、そこそこには知った仲だから。 「……少し、早いけど……許してくれよ」 俺はシルヴィアの白く丸いおしりをぐっと押さえた。 「うぅっ、んん……で、でも……」 「……あぁ?」 「な、なんでも、な……い。アンタが気持ちいいなら……それで」 「かわいいこと、言ってくれるね……」 ぎゅっとシーツを掴み、目を細めるシルヴィア。 「あっ、あっ、あっ、あはぁ、んぅ、ふぅ、ふぅっ!」 がくがくと体を揺らすシルヴィア。それに呼応して俺のモノも刺激される。 「くっ、だ、出す、ぞ……」 「ん……っ!」 くいっとおしりを突き出すシルヴィア。 「く……っ!」 「あああああああああああああっ!!」 「ぐっ、あっ……っ!」 ぐいっと腰をシルヴィアに押しつけて、たっぷり最後の一滴まで注ぎ込む。 「あぁ……中に出すなんて……」 呆れたようにシルヴィアはそう呟いた。 「……わりぃな。何かあったら、責任とるから、よ……」 「そういう台詞は……甲斐性できてからにしなさいな……」 「ねぇ、トニーノ。言いそびれたんだけど……」 「ん?この続きは、劇が終わったらってことかい?」 「バーカ!」 「……あーぁ。こんなことなら、指輪出さなきゃよかった」 「なくして、今日見つけたんじゃなかったのか?」 「…………だって、その……トニーノの指輪が片方だけで可哀想かな……って」 「そうそう。寂しい」 「しばらく付けないわよ」 「いいぜ。劇が終わったあとを期待するよ」 「……なんで?」 「ごほうびの合図ってことで」 「……バカッ!」 ワカバが泊めてもらっている部屋に入り、お互いしばらくはベッドに座って……つかず離れずの距離で落ち着いてしまい、空いてしまった『間』をどうしようか悩んでしまう。 こんなときは、やはり男の僕の方から改めて『キスの話』を持ちかけないといけないのか? そんなことを考え、合わせづらい視線を部屋の隅に向けていると、隣からゆっくりとした衣擦れの音が聞こえてきた。 僕が《 ・ ・》〈それ〉に反応して彼女の方を見れば―― 「あんまり見ないで……」 いつの間にか、スカートを脱ぎ終えたワカバが居て。 その白い太ももに視線を奪われた僕が、 「う、うん……」 声にならない返事をしていた。 「……セロ。本当は、嫌なの?」 抱きしめたまま何もしない僕が、不安そう声で尋ねられる。 それがワカバのことか、キスのことか。それともこの先に予想される展開なのか、判らない。 でも、たとえどれであっても……僕は拒絶するつもりはなく。 「そ、そんなこと、ないよっ」 ギュッと強くワカバを抱きしめることで、みんなひとつにひっくるめて答えたつもりになっていた。 「あっ……んっ!」 目を細めたワカバの甘い声があげる。 すべすべした肌の感触に、僕の下半身が熱くなってくる。 「(――ああ、やっぱりこの姿勢は、まずかったかなぁ……)」 大きくなってくるモノを、僕はなんとかしたかったけど、それは叶わない。 手から感じるワカバの肌の感触、抱きしめたときのワカバの小ささ。 僕の腕の中にぴったりと収まってしまう彼女の身体は、それまでよりずっと『女の子』に思えた。 「セ、セロ……?」 ワカバが上目遣いに顔を赤らめる。 「……いま、なに考えてる?」 突然の質問に、僕は一瞬言葉を失った。 「何って……ワカバが思ったより女の子だな、って」 「……あんまり、女の子って認めてくれてなかったんだ」 「そうじゃない。こうなってみて、意識が強くなったんだ」 言葉が嘘でないことを証明するため、腕に力を込める。 「……セロ……」 「こういうときこそ、ちゃんと言わないとね」 僕は、ワカバの首筋に顔を埋める。ふんわりと女の子らしい甘い香りに気持ちを預け、そっと、 「好きだよ」 と告げる。 「……なっ、どう、したのよ……急に……」 ワカバの熱が上がるのが、素肌で解る。 「聞こえなかった?もう一度言おうか?」 「う、うん」 「……好きだよ、ワカバ」 「…………え、へへっ。何だか、照れちゃうな……」 「もう一回ぐらい言う?」 「いくらでも……って言いたいけど、あんまり聴かされると疑っちゃいそうで」 「じゃあ、どうする?」 僕の質問に、ワカバは無言で腕に力を込めてくる。肩にまわされた指が、もどかしげなリズムでクルクルと回る。 「……わ、わかんない。すごい緊張して……頭、働かないの」 ワカバはキュッと唇をかみ、僕に頬をすり寄せてきた。 「こうしているだけでも充分な……でも、何かが物足りない感じもあって」 もぞもぞと動く彼女の身体が、言葉にできない部分を補っている? 「(――やっぱり、ワカバも……したいのかな?)」 ……なんて考えるのは、ちょっと勝手だろうか? いや。違うかもしれないが、ここは僕が行動を起こす番。いつまでもワカバを待たせるわけにいかない。 「……ねぇ、ワカバ。うまく言えないんだけど……」 「…………ん?」 「その……したいんだ。ワカ、バと……」 「…………」 「で、でも!もしもイヤなら……」 「……そんなわけないじゃない」 ワカバが首を横に振り、耳に息を吹きかけてくる。 「――いいよ。セロだから……いいの」 「あっ、ありがとう」 「……馬鹿。こんなとき、お礼なんて言わないでよ」 「ごめん」 「……もう!こんなとき、謝らないで……ねっ?」 叱られてばかりの僕は言葉を慎み、そっと彼女の髪をなでる。 「……んっ……」 静かに甘い息をもらすワカバが、とても可愛い。 「ワカバ……」 僕は、ワカバの背中に回した腕をそっと動かす。 「あ……んっ」 ワカバの上体が後ろに反り、やわらかい太ももが強く僕へと押しつけられる。その感触はとても生々しく―― 「あ……セロの――おおきく、なってきてる?」 言われる通り、僕は自然と反応してしまった。 「……ダメだったかな?」 「そんなことないよ。私だって……」 「ワカバも、感じてる?」 グッと下半身を押しつけてみれば、ワカバは派手に動き、落ちないようにと僕にしがみついてくる。 「いきなりは、ズルい……」 そう言いながらも、少しずつ内股をすり合わせてくる彼女。僕はその動きに合わせ、彼女の背筋をなぞり上げる。 「はっ、あ……はっ、あぁっ……っ!」 ワカバの声と肌の柔らかさに反比例して、僕のモノは次第に硬さを増していく。 「……セ、セロの、が……こんなに……?」 「……う、うん。ワカバも……気持ちいい?」 「き、聞かなくても……わかるでしょ?」 ワカバは軽く僕の肩を甘噛みして、静かに目を閉じる。 「ワカバの胸、触ってもいいかな?」 「こ、ここまできたら……もう……セロに任せるわよ」 お互いが密着した身体に隙間を作り、そっとその小さな胸に手を伸ばす。指先で軽く乳首をつつけば硬く尖るも、その周りは―― 「……柔らかいなぁ」 「もうっ、なに言うの……んっ……」 「……素直な感想だったんだけど」 「いいのっ!そういうことは、言わなくってもっ!」 突然、唇が唇で塞がれる。 「……んんっ……」 「ぁ、ワカ……バ……」 体勢が崩れかけるのを必死に留めようとするも、彼女の力が思った以上に強くて維持しきれない。 「きゃっ!」 そして、ふたりはベッドに倒れ込んでしまい、身体が外れる。 「……うふふっ」 「あははっ……」 離れて気持ちが冷めたわけじゃない。ただ、ふたりして熱くなりすぎで、見えなくなっていただけ。 「ワカバ……いい?」 「……うん」 言葉は少なく、お互い改めてキスを交わし、静かに体勢を入れ替える。 「……あ、ダメ……」 下着を脱がしたワカバは、目をぎゅっとつぶり、 「み、見ないでね……」 とささやく。 「でも、見ないとうまくできないよ?」 「そ、それは、そうだけど……」 両脚を閉じて逃げようとするのを軽く押さえ、その付け根をよく見る。 「……濡れてるね」 「……あっ、イヤ……」 僕はワカバの下半身に顔を近づけて、軽く息を吹きかける。 「あ……はぁっ、はぁ、んっ」 目を閉じたまま、近くにあった枕をたぐり寄せたワカバ。僕は、そっと指をワカバの秘部に近づけ―― 「あ……っ!」 その反応をこっそりと楽しむ。 「……ワカバ、もっと楽にして」 彼女の小さなクレバスに、少しだけ指をはわせる。 「はっ、あっ、はぁ……っ、さ、触ってるの?」 「そうだよ。ワカバのここ、すごく熱いね……」 恥丘に沿って指を滑らせ、気持ち谷間へ先を食い込ませれば、 「あぅ……ぅぅっ!はぁ、ああ……っ」 ワカバの脚が突っ張ったような動きをみせる。 「……痛くない?」 「う、うん。痛く、ない。……気持ち、いいよ」 話すのも精一杯……という感じの途切れ途切れな言葉。 「もう、少しなら……平気、だから……」 「……うん」 僕は、うっすらと生えている繁みの奥へと指を進ませる。 「……はぁ、あああんっ!」 びくっとして、ワカバは枕に爪を立てる。 そんな反応を見て、僕はゆっくりと指を動かした。 それだけでも、どんどん奥から熱い液が溢れ出してくる。 「ワカバ……」 そんなワカバの下半身に顔を近づけて、そっと吸い上げるようにキスをした。 少し甘い味のする愛液を下からゆっくりと舐めあげていく。 「ふぁあああっ、あぅ、ぅううっ、セ、セロぉ……っ、そ、そんな、のっ!」 ワカバの身体に力が入り、僕の指先が強く締め付けられる。 「……ワカバ、力を抜いて」 「ぬ、抜いてる……抜こうとしてるんだけど……」 「……ほら……」 僕は顔を上げ、そっとワカバの頭を撫で、おでこにキスをする。 「…………ありがとう」 するりと両脚から力が抜け、指が解放される。 僕はそのまま、ゆっくりとワカバに覆い被さり、 「ごめん、あんまり上手じゃないと思うけど……」 と最後の謝罪を口にした。 「…………セロなら、平気……」 ワカバがそっと腕を下へ伸ばし、僕のモノを入り口まで導いてくれる。 そして、互いが定位置につくと覚悟を決めたように目を閉じ、 「……いいよ、セロ……」 そう言って、僕の侵入を許してくれた。 「……いくよ」 先端で敏感な芽を刺激し、溢れ出す愛液を潤滑油として、グッとワカバの中に僕のモノを押し入れる。 「……んんんっ!」 「い、痛いかい?」 「……へ、平気……だから」 ビクリと背をそらせたワカバが、小さく首を横に振る。 僕はゆっくり、ゆっくりと腰を動かし、ワカバが苦しそうな反応で力をゆるめるようにした。 「……セ、セロ……いいよ。あっ、あっ……そ、そんなに……」 「でも……ワカバが……」 「……セロに任せた、けど……あああっ、自由で、いいの……」 「…………ワカバ……」 彼女の名前を呼び、何度目かのキス。 さらにもう数えられない感触の中、お互いの舌をからめ合い、何もかも忘れようとする。 「んっ、はっ、はぁ、あぅ……っ!」 ワカバの腰を抱き寄せつつ腰を押しつけ、また身を引いて。さっきよりも動きを早くして、ワカバの中を掻き回す。 「ん、くぅっ、ふっ、ふわぁ……っ!」 上では、ねっとりとキスをしながら―― 「あぁぁっ……セ、セロ……」 下では、激しく混ざり合うふたり。 「……ワカバ、好きだよ……」 「わ、私も……好きだ、よぉ……っ!」 唇の隙間から気持ちを漏らしつつ、下半身の熱は上がる一方。 「ふ、ふああっ……なんか、頭が、ぼーっと、し、て……」 抱きついてくるワカバに、僕は無言で腰を振り続けてしまう。 「……なっ、何にも、考えられない……感じ、だよぉ……っ」 「う、うん……いいよ、何も考えなくて」 「で、でも……セロの……わかるよ。大きいの、感じる、よ」 「私たち、いま、つ、つながって……るのよ……ね?」 「そ、そうだよ」 ワカバの身体がピクピクと震える。 脇腹や胸のラインを指でなぞってやると、素直にそれに反応を示す。 「あっ、あぁぁっ……」 「……ワ、ワカバ……可愛いよ……」 「あっ、はっ、はぁ……はぁ、んっ、くぅ……んっ!」 ワカバは目を閉じ、下半身をギュッとしめつけてくる。 その刺激が、限界を早めてしまうが―― 「いい……の、セロ。我慢、しないで……」 「で、でも……」 「そのか、わり……いっぱい……いっぱい……に、して」 「……ワカバ……!」 「セロで……満たして……」 その言葉が、最後の意識を飛ばす。 「わ、ワカバ……僕、そ、そろそろ……」 「う、うん……いい、よ……っ」 僕はぐっとワカバを引き寄せる。ぱん、と激しく腰を押しつけて……僕は。 「ん……っ!!」 「あっ、あぁぁぁぁっ……!」 「はぁ……はぁ」 僕はワカバに望まれるまま、彼女の中に全てを吐き出す。 「あ……」 ぐったりとしたワカバは、ゆっくりと僕を見上げる。 「セロの……熱いの、おなかに……感じる、よ」 くすっと笑ったワカバ。僕はそのまま彼女の上にもたれかかり、抱きしめてもらう感触に甘えたまま…… 「……ね、ねぇ……セロ……」 「……なんだい?」 火照った身体をベッドになげうったまま、眠りたい衝動に駆られる。 「シーツ、ぐちゃぐちゃだけど……大丈夫かしら?」 「…………あ、あぁ……」 ここはホテルではなく、ご厚意で泊めてもらった民家の部屋。シーツのシワ以上に、別のことを恐れるべきではないのか!? 「……ワ、ワカバ……」 「…………すやすや……」 「うっ、もう、寝てるし……」 グルグル回る頭で、どうするべきかを考えに考えて―― 「(――ふたりが喧嘩をして、僕がビンタをくらい、鼻血を出した)」 そんな言い訳を思いついたが――果たして、通じるだろうか? 「……んっ!」 セロがいつもより強引に私を抱き寄せた。そして、上着をあげて、私の胸に軽いキスをした。 「ひゃぁっ!」 「ワカバ、寒い?」 上目遣いで聞かれ、私はふるふると頭を横に振った。 「寒くはない、よ?」 素直にそう答えた。 「なら、良かった」 セロは頷いて、私の胸の谷間に顔を埋めてきた。 「や……あ、あぁ」 そんなに胸がある方ではない。こんな風にされたら、それがばれてしまいそうで……恥ずかしかった。 「……ワカバ、好きだよ」 セロはそう言ってちゅっとまた私の乳房にキスをする。そして、右手は私の小さな胸をそっと包んだ。 「あ……うぅ」 恥ずかしい、小さい胸だって、そう思われてるんじゃないかって。 「どうしたの、ワカバ?」 私の様子に、セロが視線をくれる。ぱちっと目が合ってしまい、より一層私の顔は赤くなる。 「だ、だって……セロが私の……小さい胸を……見てるから」 「……ワカバ」 再び胸の間に顔を埋めて、キス。 「気にしないでいいよ。胸でワカバを選んだわけじゃないから」 くすっとセロに笑われて、より一層恥ずかしさが増した。 「だって……自信ないんだもん」 「……それに、小さい胸……好きだよ」 それって、優しいけど……とってつけ? 「じゃあ、もしもおっきくなったら?」 「……それはそれで」 「バカバカっ!いま、小さいの好きって言ったのに!」 「大きいワカバも悪くない。……ワカバだから、好き」 「……セロ……」 「先にそう言ったよね?」 反論できない言葉に、私は何も言えなくなってしまう。 別に胸にこだわるわけじゃないけど、ずっと気にしていた。それをあっさり受け入れられたら、私の悩みって―― 「……寂しい思い、させたんだね」 セロは不意に呟き、私は現実に立ち返る。 「――ずっと気づかなくて……ごめん」 「え、あ、その……」 「あのメモのおかげだよね」 「――ワカバの書いたメモが、巡り巡って……僕にチャンスをくれた」 「……そうじゃなかったら、ずっとワカバの気持ちに……」 「……いいの……」 セロの言葉に嘘はない。それは、声を聞けばわかる。 あのメモ、捨てないでちゃんと渡せば良かった。あ、でもそうなったら、こうして告白してもらえなかった? 「ワカバ……」 セロの手の動きが激しくなってくる。胸を揉む手が、早さを増す。 「あっ、あ……っ、はぁ、セ、セロ……っ!」 次第に呼吸が苦しくなってくる。私、セロと……こんなことしてる。 こんな風になるなんて、考えたこともなかった。でも、全然嫌じゃなくて。むしろ、うれしい。 「あんっ、はぁ、はぁ……はぁ、はあああっ……」 こらえきれず、自分でも信じられないような声を出す私。 セロの手は指の間に乳首を挟んで、軽く上下させる。 「……へ、平気?」 そのゆっくりとした動きに、背中からぞくっとした何かが上がってくる。 寒いんじゃない……これは。 「気持ち、いい……よ」 私はくしゃっとセロの頭を撫でた。 「そう?なら良かった」 そう言いながらも、セロは私の胸にキスをしたまま、舌先で突起を転がしている。 それと同時に胸を揉まれて刺激されるから……。 「はぁ、はぁ、はぁ……あんっ」 だんだん頭の中がぼんやりしてきて、訳がわからなくなってくる。 「……セロ、セロ、セロッ!」 私はセロの名前を呼んで、身体を震わせるしかできない。 「……ワカバ、じっとして」 「え……?」 ぐったりの私の下半身をセロがグッと引き寄せる。 「セ、セロッ!」 「すごいね。……下着、ぐっしょり」 そして彼はくすりと笑い、普段ならとても口にしそうにない言葉をサラリと言ってのけたのだ。 「やだ……そんなこと、言わないで……」 「気持ちいいってことだよね?それならいいと思うよ」 下着の上からラインに沿って、ゆっくりと指で上下になぞられる。 「……んっ!」 ぴくん、と背を反ってしまう。軽く触れられているだけなのに……いや、だからこそ。 「……き、気持ち……いい」 拒みたい気持ちと逆らえない感覚の半々で、ぎゅっとセロに抱きつく。そんな私に、セロは黙ってより密着してくる。 「セロ、セロ……ぉ」 どうしていいかわからず、私は彼の名を呼び続ける。 下腹部に伸びたセロの右手は、下着の上をゆっくりと這い、敏感な部分に指の平で円を描くように刺激を加えてくる。 「あ……ダッ、ダメ……」 「ダメなの?」 「…………ダメじゃない……よ」 盛り上がってくる快楽に、はぁ、と大きく息を吐く。 「……ワカバ、すごい濡れてきてる……」 ちょっと驚いたような顔をするセロが……憎たらしい。 「だって、だってだって……」 「いいんだ、ワカバ」 急に手を取られ、セロの下半身へと手を持っていかれる。 「……わかる?」 一瞬、訳が分からず『何が?』とか言いそうになったが―― 「(――セロの……熱い……)」 それが彼の気持ちの塊――脈打つモノと判り、言葉を失う。 「……ふたりとも、一緒だね」 「…………うん」 いつも見せてくれる優しい笑顔に、私はギュッと抱きついた。 「けど、いきなり触らせるとか……ナシだよ」 「ごめん、ごめん」 「でも……ほら。お互い、鈍感だから」 「えーっ、セロだけでしょ?」 「ううん。ワカバもだよ。……だって、僕がワカバのことをずっと好きだった……って気づいてなかったでしょ?」 「……え、そう……だったの?」 「うん」 あっさり認められて、私はちょっと腰砕け。そんなことなら、もっと前からセロと色々……あったよね? 「ゴメン。ワカバのせいにするようなことじゃなかったね」 「……いいの、セロの言うとおり」 損した気持ちもあるけど、今日という日が来たんだから。 「……だけど。知ったからには……もう、離さないから」 「うん。僕もワカバを離さない」 ふたりして抱き合い、周囲を見渡す。 野宿しようと決めた馬車の上は満天の星空で、考えようによっては……ロマンチック? 「……ありがとう、セロ」 私はセロの頬に軽くキスをして、今度は自分から彼のモノに手を伸ばす。 「ちょっと恥ずかしいけど、私からのお礼……受け取って」 本当は、ちょっとなんてもんじゃない。 でも、セロが喜んでくれるなら――少し大胆な自分になっても、いいと思えた。 「ん……っ」 ワカバが、僕のモノに口づけをする。 「い、いいよ、そんなことしなくて……」 僕は恥ずかしくて、ついそんなことを言いつつも―― 「……いや?」 上目遣いで聞かれ、どう答えていいか迷ってしまう。 「い、嫌じゃないよ……で、でもこういうのは……ま、まだっ」 「……セロ。いままでの分、とりかえさせて」 そこでワカバは、僕のモノにキスをして 「お詫びとお礼。みんな込めて……じゃ、ダメ?」 「ダ、ダメじゃ……ないけど」 むしろ、嬉しい。でも、こういうのってどうなんだろう? 順番っていうか、本当は僕がもっとワカバを知ってから―― 「ん……はむぅ……セロ……大きいね」 彼女の唇が、静かに僕のモノをくわえていく。舌先で軽くつつかれる感触が、脳までダイレクトに伝わる。 「(――あぁぁっ……)」 「はむぅ……あ、まだ、大きく……なるの?」 アイスを舐めるかのように僕のモノを愛撫しながら、彼女がそんなことを呟く。 「だ、だめだ……って」 初めての刺激に僕は想像以上に、興奮している。正直なところ、口では否定しつつも喜んでいる。 ワカバのこんな顔、僕は見たことがない。こんな風にうっとりした顔で、こんなことを…… 「ん……っ」 思わず声が漏れてしまい、とても恥ずかしい。 「……あっ、痛かった?」 戸惑った様子で、ワカバは僕を見上げてくる。 「……いや、気持ちいいよ……」 僕はワカバの頭をそっと撫でた。 「ただ、ちょっと恥ずかしくて……」 視線をそらし、素直な気持ちを告げると、ワカバはちょっと笑う。 「……バカ」 「バカはないんじゃないかな」 僕はワカバの頭を叩く真似をして、ため息をつく。 「それを言ったら、私だって……恥ずかしいんだよ?」 そこでまた上目遣い。 「――もしイヤなら、やめるけど……」 そして、さびしそうに呟く。 「……ち、違うよっ、そうじゃなくて!ワカバが、その……あんまりにも可愛くて……」 「……え、えへへっ。ありがとう。私……がんばるね」 満面の笑みに続き、左手でそっと先端を刺激してくるワカバ。 やがてその口を動かしたり、舌で舐めたりしながら、徐々に僕自身を濡らしていく。 「……セロ……ど、どう……?」 「……う、うん。す、すごく、いいよ……」 「そう……よかっ、た……」 動きが激しくなるにつれ、お互いの息が荒くなってくる。僕は堪えきれずに、ワカバの小さな胸に手を伸ばした。 「……あんっ!」 それは、さっきよりも大きくなったように思える。 「柔らかい……」 僕は欲望の赴くままに、そっとワカバの胸を揉み上げた。 「はうぅ……っ!」 目を細めたワカバは、口の動きを止めて身体を震わせる。 「だめ……胸、だめぇ……」 ワカバの甘いうめきと、その左手に込められた力。両方の刺激が、さらに僕の興奮を呼び起こす。 「あんまり……触ると……口と手が止まっちゃうの」 「……それでもいいよ」 「んんんっぁぁっ……も、もう、セロ……ったら……」 身をよじりながらも手を離さず、必死に奉仕を続けようとしてくれるワカバ。 そんな姿が可愛くて、僕は思わず笑ってしまった。 「……わ、笑わなくてもいいでしょ?」 「――ワカバの反応が可愛いから……」 「またそんなこといって……んんぁっ、ダメっ。ダメな、の」 「どうして?」 「だっ、だって……セロのために、がんばってるのに……私が……あぁっ……」 「いいんだよ。ふたりで気持ちよくなろう。……ねっ?」 「で、でも……そんなこといったら……し、して……ほ……」 「……ん?」 聞き取れなかった声に、僕は身をかがめて彼女の言葉を待つ。 「……して……ほしくなっちゃう……でしょ?」 「……え?なにを?」 「もうっ!聞き返さないでっ!それぐらい、わかって……」 じれったそうに腰をくねらせたワカバを見て、僕も気づく。 「あ……そ、そういう意味か」 「……バカ……恥ずかしいじゃない」 「ごめん。じゃ、今度は僕が……」 「ダメよ。まだ、私がセロにしてるでしょ?」 ワカバは強くそう主張し、僕の腕を振り払う。そして、さっきよりも力強く……早い動きで僕のモノを攻め立てる。 「うぅぁ……っ、ワ、ワカ……バ……」 「……もう、意地悪させないわ。私が、セロの……その顔、見ててあげる……」 「それじゃ、そっちが僕に……」 「いいのっ、いまは私。……答えて。気持ちいいの?」 「……うん……」 「どれぐら、い……?」 「……ううっ……そ、それは……ぁぁ……」 ワカバの手が交互に寄こすピストン運動の刺激に、僕の身体が前後に波打つ。 「こた、えて……」 「……だっ、だ、うぅ……」 「……もぅ、強情ね……んんっあっ……」 ワカバは自らの胸を触り、甘い息を放つ。 「……こ、こんなことしちゃう子でも……か、かわいい?」 「……当たり前、だろ。好きなんだか、ら……」 「う、うれしい……じゃ、もっと……」 舌がからみ、卑猥な音を立て、小さなあえぎと共に、世界が白く霞み始める。 「……ワ、ワカバ……っ、ダメだっ!」 「な、なにがぁ……?」 「だっ、だから……っ!」 僕は耐えきれなくなり、慌ててワカバを押しやろうとする。……が。 「うぅぅ、ぁぁっ……あっ……あっ……」 「きっ、きゃぁ!?」 「……ゴメンよ……ワカバ……」 「……う、うううん。いいの……」 満足そうに笑ってくれるワカバを見て、喜び以上に罪悪感が生まれる。 このまま、終わるわけにはいかない。僕はまだ、彼女を満足させていないのだから。 さっきの射精からほんの数分後。 「……い、いいのよ、セロ。無理しなくても」 「無理なんかしてないさ」 僕は、自分でも信じられないような回復力に感謝する。 「……で、でもっ……ああぁっ……」 ワカバを抱きかかえ、後ろからゆっくりと持ち上げていく。 「ほら、こうやって……」 ワカバの指先で秘部を確認しながら、静かに腰を落とさせる。 「あっ……いっ、痛い……」 「……少しだけ我慢して。そうしたら、気持ち良くなるから」 そうは言っても、その根拠はどこにもない。 「……が、がんばる……ね」 身体を強張らせて、腰に手を回すワカバ。僕もその背を支え、いつでも止められるようにする。 「んん……っぁぁっ……」 ジリジリとした圧迫が先端から伝わり、少しずつ熱い感覚に変わってくる。 「あっ、あっ……ち、ちゃんと、入ってる……?」 「大丈夫だよ……ほら、こんなに」 見なくても、しめつける度合いでそれが判る。 「……ホ、ホント……だ……ぁ……」 「痛みは……平気かい?」 「……う、うん。痛くないっていえば、嘘だけど……我慢、できる……よ」 「無理はしなくていいよ」 「平気……だから。だって、気持ちよくなるんでしょ?」 僕の言葉を信じたワカバは、自らその腰を上下させ始める。 「んぁあぁっ……あっ……ぁっ……」 「……ワカバ……」 「……セロの……が……わかるよ……」 プルプルと身体を震わせ、彼女は回した腕に力を込める。 「ヘンな……気持ち……んあぁ……っ」 「……そ、そうかい?」 「で、でも……き、気持ち……いい、か、も……」 「……本当?」 僕は軽く腰を揺すって、反応をみる。 「うん……うん、うんっ」 コクコクと懸命に頷き、身をよじって答えるワカバ。柔らかいヒダに挟まれて、僕の方にも痺れが伝わってくる。 「セロも……気持ち、イイ、の?」 虚ろな視線を投げかけてくるワカバに、 「わからない?どんどん、大きくなってきてるの」 と答え、 わざと中だけを動かしてみる。 「ふわぁ……はぁ、はぁあ……っ、んくっ!」 びくん、とワカバは身体を突っ張らせる。 「……ぁぁっ、わ、わかる……わ……」 「――はっ、はっ、はっ、あんっ、あぁんっ!」 ワカバの声が次第に高鳴り、僕の身体もそれに強く反応する。 「……ワカバ……」 「……セロ……」 後ろから無理な体勢と解っていても、彼女の表情が見たさで首を伸ばす。 「こっちを向いて……」 「……セッ、セロぉ……」 ふたりの身長差のおかげで、僕はワカバの顔はおろか―― 「い、いや……み、見ないで……」 接合部まで、しっかりと見ることができた。 「……ちゃんと、入ってるね」 月夜に照らされ、ぬめるような光を帯びた部分には、彼女の純血の証が流れている。 「見ないでって……いってる、のに……」 ワカバは抵抗のつもりかアゴを上げ、僕にキスを求める。 「……んんっ……」 「んあっあ、あぁっ……」 無理な角度で交わる唇の端から、ふたりの唾液がこぼれ、ふたりの隙間を伝っていく。 その感触を追いかければ、次第に下半身へと意識は導かれる。 「セッ、セロ……な、なにか言って……じゃないと……私……」 「ワカバ……好きだよ……」 「……い、意識が、ああっ、と、飛びそうで……ぇぇ……」 「……ワカバ……ワカバ……」 呪文のように繰り返してしまう、彼女の名前。そのたびに、僕の気持ちはどんどんと加速して―― 「……も、もう、我慢で、できない……かも……」 「う、う……うん、わ、私……も……」 互いの限界が近づき、治まることを知らない衝動が熱を増す。 「ぁっ、あっ……ぁぁ……」 せつない吐息でなおもキスを求めるワカバに、僕は頬ずりをしながら―― 最後の瞬間を迎えるために、グッとその身を押しつける。 「ワッ、ワカバ……」 「あっ、ぁぁぁっっ、あぁぁぁぁっ!」 「んぁぁぁっ!」 突き抜けるような快感で、何度も腰をもたげてしまう僕。 「ぁっ、あっ、ぁっ……ああっ、あつい……の……」 「……セ、セロ……のが……あぁぁっ……」 ぐったりと果てたワカバを見て、僕もそのまま後ろに倒れる。 「ワカバ……平気?」 「う、うん……き、気持ち……よかったよ……とって、も」 夜風が足下から吹き抜け、ふたりの熱を徐々に冷ましていく。このままだと、風邪を引きそうだが―― 「……セロ。ギュッてして。ギュッ……って」 「……うん」 もう少しだけ、このままでいたい。 ……そう思った。 「みんな!お待ちかねのモノが届いたみたいなの!」 劇場を借りて練習していたワタシたちの元へ、待ちに待った舞台衣装が届いた。 これは、セロが中心となって図書館で調べた資料を基にして選んだ貸衣装がほとんど。 セロの説明によれば、史劇『天使の導き』には各役柄ごとに伝統的なカラーがあるとのこと。 たとえば、クリスティナ姫であれば『白』そのもの。 逆賊と呼ばれるアインは、その反対の色である『黒』――といった風に、舞台から遠い観客も誰がどの役かを判別できるようになっている……と教えてもらった。 「はい、これがセロで……これが、ライトの分ね」 アンジェリナが手際よくそれぞれに衣装を配る中、この場にふたりの人間が足りないことに気づく。 「あの……ワカバとトニーノは?」 「いま、まさに貸衣装屋さんで奮闘中」 「えっ?」 「ほら、トニーノは役の掛け持ちでしょ?一応は彼の寸法で合わせておこうってことで、ふたりして出かけたんだけど」 「トニーノをモデルに、あーでもない、こーでもない……って、相当粘っているらしいのよ」 「――服だけではなく、カツラとかも相談込みでね」 トニーノの頭が色々と変わる様を想像し、ワタシも少しだけ笑ってしまう。 個人的には、そのままの彼が一番だと思うけど…… 「さぁ、みんな。ひとまず、楽屋に行って着替えてみて」 大きな劇場だけに個室の楽屋も多く、それぞれ自分の名前が書かれた部屋に入り、着替えを始める。 隣だったライトの部屋からは、 「うぉーっ!この衣装、かっけぇー!」 なんて声が聞こえてきて、思わず苦笑してしまった。 「(――ワタシの衣装は、どんなモノかしら?)」 史劇『天使の導き』の中で、もっともポピュラーと言われている天使――シュエスタの服装らしい。 ドレスと背中の羽根にからめるリボンの色は、黒。 普段ワタシが着けているリボンにそっくりなのは、ワカバの計らいだろうか? 「(――懐かしい……)」 ワタシにとっては、赤の都で窓に映った鏡像のイメージ。そしてエファの記憶からすれば、当時をしのぶ懐かしさ。 「(――あの頃のエファも、女王に仕える天使の役を……)」 劇の内容は違えども、ワタシとエファは時代を超えて同じ『天使』という役柄をこなすことになった。 「(――いきましょう、エファ)」 ワタシは自分の中に眠る、もうひとりの私に声をかけてから控え室をあとに。 そして、最初に戻ったのが自分だったことに驚きながら、ワタシは待っていたアンジェリナの前に立ってみる。 「…………よく似合ってるわ」 「は、はい」 お褒めの言葉と微笑みに、自分の顔が赤くなってしまうのが判り、うつむいて誤魔化そうとするが―― 「……はい。常にまっすぐ、視線は逸らさず」 「……あ、ぅ……」 指先ひとつでアゴを持ち上げられ、たしなめられる。 「いまから恥ずかしがっていたら、本番が大変よ?」 ……確かに、言われる通り。 ワタシは少し我慢して、なんとかアンジェリナを直視する。 「そう、その調子ね。……ほら、二番手さんの到着よ」 振り返れば、向こうからシルヴィアが大股で歩いてくるのが見えた。 「ベルは、どう思う?」 「シルヴィアらしくて、とても似合ってます」 これは、率直な感想。 デュアとは全くタイプの違う女性だが、どこか似たところもあって……《サマ》〈様〉になっている。 「……彼女なら、充分にデュアを演じられると思います」 「それは、あなたの感想?それとも……」 「……《 ・ ・ ・》〈ふたり〉の感想です」 ワタシの答えにアンジェリナは何も言わなかったが、静かに一度だけ頷いてくれた。 しかし、ワタシたちが認めた当の本人は、衣装が気になるらしく服の裾や袖口などをしきりにいじっている。 「……騎士のデュアねぇ」 「……いまさら騎士の役が不服とか言わないでね、シルヴィア。これだけ似合うあなたが逃げたら、劇ができなくなるわ」 口調は多少冗談めかしているけど、それは彼女の本心。 ……アンジェリナは、決してお世辞は言わない人だから。 「確かに、騎士は格好いいとは思うけどねー」 頭をかきながらも、褒められてまんざらでもない様子。しかし、左手に持ったモノが気になるらしく、 「……ねぇ、やっぱりデュア役って、剣じゃないとダメ?」 と、アンジェリナに尋ねてきた。 「どうして?剣以外に適切なモノが何かあるの?」 「え、いや……ほら。拳銃の手さばきの方が慣れてるから……」 「……シルヴィア」 「ほら、人形劇のときだって。クエイクが銃を持ってたけど、平気だったじゃない?」 まったくお話にならない、と言わんばかりにアンジェリナが天井を見れば、交渉の矛先はワタシに変えられる。 「……ねぇねぇ。やっぱり、銃じゃダメ?」 「あの……その時代には銃はまだ……」 「そういうこと。だから、却下よ、却下!」 「……そんな怖い顔しないでよ、冗談なんだから」 「でも、なーんかしっくりこないのよねー」 「まったく、もう。これで騎士が務まるのかしらね?」 呆れたアンジェリナがため息をついて、シルヴィアがそれに反論しようとしたとき、向こうからガチャガチャと金属音が聞こえてくる。 3人揃ってその音につられ、誰がやってきたかと見れば―― 「あははっ。ライト、似合ってるじゃないの!」 やってきたのは、カブトを被った兵士のライトだった。 「かわいい兵士さんじゃない」 カブト越しにふたりから頭をなでられたライトは、ワタシの前に立って、 「どう、似合う!?」 と尋ねてくる。 「……うん。とっても強そう」 小さな兵士さんだけど、いざとなれば頼りがいがある男の子だって、ワタシは知っている。 「えへへっ」 そして最後に登場したのが、セロらしくないセロ。 口ひげをつけているその格好は、正直……コメントしづらい。 「……み、みんな揃ったわね。それじゃ舞台に上がって……練習してみない?」 アンジェリナが、笑い出しそうになるシルヴィアとライトの背中を『ドン』と叩き、急いで舞台へと追いやる。 「『……ベ、ベルも、笑っちゃダメだからね』」 小声でワタシに釘を刺す彼女も、実は笑いを堪えている様子。 そんなアンジェリナを見て、ワタシは何かが足りないことに気づいた。 「……そう言えば、アンジェリナさんの衣装は?」 「あたしの着るドレスは、作ってもらっている真っ最中なの」 「――それに、もしドレスが届いたら……」 彼女は、他のみんなには聞こえないように、 「一番最初は、あなたに見てもらいたいから」 と言ってくれた。 とても嬉しい。 ……嬉しいけど、少しだけ不満が残る。 「……でも、それならワタシも一番最初に見てほしかったです」 「あら、一番最初に見たわよ?」 「それは偶然です。もしもシルヴィアが先に来ていたら……」 「いいじゃないの、もう……」 そう言って膨れるアンジェリナを見て、ワタシは許してあげることにした。 それは最後に、 「……だって、一刻も早く見たかったんだもん」 なんて一言をつぶやいたから。 「あれ、なにかしら?」 「はい?」 あたしがベルと観客席で休憩をとっていると、何か前方から騒がしい声が聞こえてくる。 「あそこに居るのは、ワカバとセロかしら?」 「……そうみたいですね」 どうやら、ワカバがセロを連れて舞台に向かっているらしい。 「ふふふふっ」 「どうしたの、ワカバ?」 ワカバのあやしい笑いに、セロは少し不安な声。 それを好意的と受け取ったのか、ワカバが得意満面の笑顔で舞台裏に入り、 「この前、セロとライトが作った青空は……こうなりました!」 そう叫ぶと……徐々に舞台の幕が上がり始める。 「あ、あれって……」 「まさか……お、お城の《かきわり》〈書割〉……」 現れたのは、立派なお城の風景が描かれた舞台背景。 あたしとベルが顔を見合わせる中、セロも唖然とした表情でそれを眺めている。 「……これ、ワカバが塗り直したの?」 「ちっがうわよ。……いい?まず、あの青空を見せて、森とトレードしたの」 「……青空?」 「……森?」 あたしたちには、ワカバの言葉の意味がさっぱり判らない。 「ふんふん」 「次に、今度はその森を別の人に見せて、海の底と交換してもらって……」 「最後に、あのお城になったの!」 「どう、すごいでしょ?」 「……どう、すごいのかしら?」 ワカバの言葉をそのままに辿るなら、元に青空の舞台背景があり、それをどうにかして……いまのお城に変化させた? 「……ワカバが色々手を尽くして、お城を手に入れてきた?」 「……となると、すごいですね。ワカバの交渉手腕って」 「……そうね。彼女、脚本家よりもそういう方面に進んだ方が成功したりして」 頭に浮かんだのは、まだ出会ったばかりの頃のシルヴィアやトニーノのようなイメージで―― 「……アンジェリナさん」 ちょっと思考を読まれたような気がして、あたしは襟を正す。 「冗談よ。ワカバの実力をちゃんと認めた上での冗談」 「……本当、ですか?」 「えぇ、ウソはつかない。でも、本人を目の前にそんなことは言わないわよ。絶対、鼻が高くなってダメになるから」 「……うふふっ。ちゃんと、考えてあげてるんですね」 「そ、そんなことないわよ。ただ、威張られるのがイヤなだけ」 「――さぁ、せっかくお城もできたことだから、練習、練習!」 あたしは、この場を誤魔化すように立ち上がる。……ワカバになんか、負けていられないんだから。 「やー、待て待て!許可無きモノは、一歩も通さないぞ」 シルヴィアの練習に付き合う傍ら、あたしは舞台の端から聞こえてくるライトの声に耳を傾ける。 「(――城を訪れた《シュエスタ》〈天使〉に見とれてしまうシーンの練習ね)」 「はい、そこでベルの姿を見てポーッとする!」 ライトに演技指導をしているのは、姉のワカバ。いつもと違い、ライトはおねえさんのいうことをマジメに聞いているようだ。 「こ、これは失礼しましま!」 「……ごほん。これは、これは失礼しました!」 「その、『ごほん』要らない。『これは』は一回ね」 「分かってるってば!」 「でもまあ、それぐらいのリアクションの方が本物っぽいか」 「なんだよ!いまのアドリブじゃないぞぉ!」 振り回し気味の脚本家に、ライトが怒りたくなる気持ちも分かるけど、ここはグッとこらえて練習を続けてほしい。 「……それに引き替え、こっちは……」 舞台端からズカズカと歩いてきたシルヴィアは、開口一番、 「アンジェリナ!」 あたしの本名を呼んでくれたりする。 「騒々しいですね、デュア。それではまるで、シルヴィアです」 「……ご、ごめん。いまは、クリスティナだったね」 こちらのため息に、さすがの彼女も気づいたらしく、謝ってくれたまではいいが……まだあやしい。 「次は、まさか『クリスティナ』とか呼ばないでしょうね?」 「あ、そっか。台詞だと『姫』か。姫、姫、姫……。憶えた!」 ……言わなかったら、本当にそうなるところだったらしい。 「それじゃ、もう一度……」 シルヴィアが舞台袖に戻ったのを確認し、改めて合図を送る。……と、彼女は多少控えめの足音であたしの前まで来て―― 「姫!……ぶっ」 今度は、笑いのアドリブなんてものを入れてくれる。 「なにかおかしなことでもありましたか、デ・ュ・ア?」 「ゴ、ゴメン!ホント、ゴメンね!アンタを笑ったわけじゃないの。これだけはホント!」 「……だったら、何が真実なのか聞きたいわよ」 「……いまのは、自分の台詞に吹いちゃっただけなのよ」 「慣れないことはするもんじゃないわね」 「……ねぇ。もう少し緊張を解いて、自然にいきましょ?」 彼女の場合、何も考えずに地が出てしまうわけではなく、演技しようとする気持ちが強すぎて失敗している……と思う。 「あなたに無理をさせるつもりはないの」 多少本番で台詞を間違えたりしても、それはそれ。 しかし、登場シーンもそれなりになる役だけに、あまりに失敗が多くなれば、劇の流れが止まってしまう危険がある。 「もし、台詞が辛いならいまのうちにワカバに言って、多少のアレンジを加えてもらうけど……」 「平気よ。本番までには、何とかしてみせるわ」 「……アタシを信じてよ、姫様」 そう言って、グッと親指を立ててくれるシルヴィア。彼女らしいといえば彼女らしいが、デュアのイメージからは離れていく。 「(――本当に、大丈夫なのかしら?)」 「や、やっぱり私には無理じゃないだろうか?」 「大丈夫です。僕もドキドキしてますけど、何とかなります」 「そうか?そう思うかい、セロくん?」 何とかなるといいなぁ、が正直なところだけど。ここで、他の人まで不安がらせるわけにはいかない。 「とにかく、思いっきりいきましょう、ユッシ殿」 「……あ、そうか。いまの私は大臣ユッシで――」 「キミは、赤の大使殿だったな」 「……はい」 「よし、役作り、役作り」 パンパン、と景気よく自分の顔を叩くユッシ殿。 「ワシ、ワシ、ワシ……と」 いつも優しくしてくれる彼に悪役を頼むのは気が引けるが、そこは割り切ることにした。 「ダイジーン」 「……ありゃりゃ、ココ。暗くなる前に席へ着いとかんと」 「へいきー。ボク、ダイジーン、おうえんにきた、のー」 「おぉ、こんなワシを応援してくれるのか!?」 「あい。がんばって、ねー」 「ありがとう、ありがとう。がんばるからな!任せておけ」 「セロも、ねー」 ふたりはココに見送られ、舞台裏へと向かう。 「おっと、そうだ!実は頼みがあってな」 「はい、なんですか?」 「ファビオのサイン……もらえるかのう?家の奥さんが、大のファンでな」 「(――こんなときに思い出すなんて)」 でも、そのにこやかな笑みを見て、僕の緊張も解ける。 「おぉ、そうか!ワシも、役者のひとりじゃったの!」 「ね、ねぇ?衣装、どっか変なところない?」 「大丈夫よ。どっからどうみても、デュアだから」 「あー、もうホント。引き受けなきゃ良かったわよ……」 「なーに、いまさらなこと言ってるのー?」 「だって緊張するじゃないの!」 「そんなの、誰だって一緒よ」 「ウソウソウソ。みんな、すっごく平然としてるしぃ」 「――アタシだけしくじる予感が。あぁぁぁ……」 「大丈夫、大丈夫。リラックスして。はい、ひーひー、ふー」 「……ひーひー、ふー。なんか違うわよ、これ?」 「いいじゃないの、なんだって!」 「いいわよねぇ、アンタは。舞台に立たないから」 「……それはそうだけど、私だってこの劇の一員だよ?」 「気持ちは、舞台にあがってるもん!」 「…………そっか。そうだよね。アンタがいてナンボだった」 「違う違う違う。……みんなが居て、初めて成り立つの」 「誰が欠けても、ダメなの。だから、シルヴィア……お願い」 「…………アンタ、それプレッシャーかかるわよ」 「えぇ、じゃあ、なんて言えばいいのよー?」 「う・そ・よ。ありがと。アンタのおかげで、楽になったわ」 「……まぁ、アンタは堂々と、腕組みでもして観てなさいな」 「(――ありがとう、シルヴィア……)」 「そんじゃ、いっちょみんなを驚かせてやろうぜ!」 「大丈夫なのか、アンジェリナ?」 「……何度も言うようだが、無理だけはするなよ」 「そんなに緊張しなくていいから。リラックス、リラックス」 「で、でもよう……」 「よーし、いいこと教えてやろう」 「な、なになに?」 「いいか?お客さんを見るな」 「俺たちの舞台は、お客さんとは別の世界に居るんだ」 「――舞台の上で見るべきは、同じ世界の住人たち」 「……俺だって、そうでもしないとブルっちまうのさ」 「ホントに?」 「あぁ、本当さ。見つけたい気持ちもあるんだけどな」 「ん?」 「ま、気にすんな。こっちの話さ」 「いいか、衛兵ライト。しっかりと城門を守れよ?」 「(――あ、いま……オレのこと……名前で)」 「トニーノ!」 「うん?」 「うまくやってくれよ?」 「……ふっ。そりゃ、こっちの台詞だぜ」 「……悪いわね、お休みのところ」 舞台にひとり立つドレスの女性。それは、よく見知ったアンジェリナのはずなのに。一瞬だけ、本物のお姫様がそこに居るのかと錯覚した。 「練習がお休みの日に呼び出したりして、ごめんなさい」 「いや、いいさ。そっちは、休まなくていいのかい?」 「うん。本当はゆっくりするつもりだったんだけど、劇場を覗いたら誰も居なくて――」 アンジェリナから電話がかかってきたのは、かれこれ30分ぐらいまえのこと。 シルヴィアが買い物に出かけ、ひとりゴロゴロしていた俺が応対し、この劇場までやってきた。 「――係の人に訊いたら、練習予定のグループがキャンセルを入れたとかで。頼み込んだら、使ってもいいって言われて」 「それで招集がかかったわけか。……で、ワカバたちは?」 「姉弟で家の手伝いをするって言うから、ベルのこと頼んだの。たまには気分転換も必要でしょ?」 「そうだな。どうせ、セロは調べ物か何かだろ?」 「あたり。昨日、取り寄せていた本が来たんですって」 みんな、それなりに忙しいようで。……ヒマなのは、俺ぐらいなもんか。 「やっぱり、迷惑だった?」 「いいや、そんなことないぜ。どうせシルヴィアも出かけてて、ボーッとしてただけだからさ」 「――ま、俺ひとり相手に練習できるシーンなんて限られてるけど、それでもいいなら喜んで」 「もちろんよ!」 「……よし。せっかくの舞台稽古なら、俺も着替えてくるぜ」 俺は時間をかけるのも悪いと思い、さっさと衣装を替えて舞台へ戻る。 「ヴァレリーの服しかないけど、アインと見てくれるなら……それもアリだぜ」 お姫様と舞台に立つシーンで一番多いのは、アイン役。俺もスイッチで両方を練習してきたが、そろそろどちらかに集中したいところではある。 「じゃあ、アインとのシーンを練習してもいいかしら?」 「オーケー。どのシーンにする?」 「……三国会議がなくなったことを報されるシーンで」 アンジェリナはそう言うと、舞台の袖口に立つ。いつもなら他の連中が見守っている中での練習だが、今日はアンジェリナとふたり。 「(――というよりは、クリスティナ姫……か)」 アンジェリナなら、これまでの『天使の導き』のお姫様役と比べても恥ずかしくないと思う。 「では、わたくしがアインの執務室を訪問したところから」 すでに役作りが完了している彼女の口調は、お姫様仕様。 俺も少し威厳のある後見人になれるように、気を引き締めてから頷く。 「……アインよ。三国会議の席はどうしたのですか?」 「大変申し上げにくいのですが、私の一存で取りやめとさせていただきました」 「……どういうことですか?すでにこの城は、赤と青の国の連合軍に取り囲まれているのです」 「これが弁明できる最後の機会だというのに、そなたはそれを投げてしまったというのですか?」 「お言葉を返すようですが、そうではありません」 「初めから弁明の機会など、我々には与えられてなかったのです」 「どういうことですか?」 いぶかしがる姫。顔を上げるアイン。 「すでに赤、青の両国間で秘密裏に話が進んでおります」 「彼らは占領後の我ら白の国をどのように取り分けるか、また新しい国境をどのように制定するかなどが決まっております」 「なにを根拠に?」 「私の放った密偵からの報告により、すべて把握しております」 両者共にうつむいて、しばしの間を開ける。先に顔を上げるのは、クリスティナ姫の方。 「……では、そなたにいまひとたび尋ねます」 「なんなりと」 「そなたの言葉を信じたとして、この国はどうなりますか?」 「……残念ながら、両国の取り決めのままに」 「我が国の民は?」 「抵抗さえしなければ、最小限の被害にて。両国にも他国への体面がありますので、無益な争いは好まないはずです」 「…………臣下の者たちは?」 「……同じく」 「では、そなたは黙って降伏しろ……と言うのですね?」 「いいえ。それをすれば、姫君の身に危険がおよびます」 「わたくしのことなど良いのです。問題は――」 「本当にそう思われますか?」 「…………」 無言の姫君を前に、アインはここで一歩踏み込む。 「――赤も青も、欲しているのは我が国の人形技術です」 「その最高峰ともいうべき力をお持ちなのは、白の国の主たるクリスティナ・ドルン――『あなた様』です」 「……表向きは穏やかに交渉が進んでも、必ずや姫君の処遇は悪化する一方となるでしょう」 「それを運命として受け入れ、生涯幽閉されるような未来を望まれますか?」 「……運命であれば、わたくしは……」 「シュエスタとの未来、閉ざされても構わないのですか?」 「……シュエスタと、の……」 「――もしも姫君が、シュエスタと共に生きる未来を……」 「だまりなさい!」 「姫君」 「……それ以上、それ以上口にすることは許しません」 「……ありがとう、トニーノ。あなた、本当にアインの台詞を暗記していたのね」 「なぁに。それぐらいしか取り得がない『役者崩れ』だからさ」 口では軽く流したものの、本当はいつボロが出るかドキドキしていた。 これは、俺ひとりが流れと台詞を覚えていればよいものでもなく。 相手を務めるアンジェリナが、『しっかりした役者』だからこそ成り立つものだった。 「…………あたしの演技、どうだったかな?」 「姫君そのもの、って感じだったぜ」 「……お世辞じゃないわよね?」 「あぁ。女の子相手に下手なお世辞を言うと、相方が口きいてくれなくなるからな」 「……あはははっ。シルヴィアって、嫉妬するの?」 「さぁね。その辺りが微妙さ」 俺のことをどう見ているかで、話は変わってくる。恋人に近い存在か、それとも……自分専用の便利屋か、で。 「あたしは、ふたり……お似合いだと思うけど?」 「ありがとさん。だけど俺からすれば、アンジェリナたちのコンビの方が、もっといい感じに見えるぜ?」 「そ、そんなことないわ。あたしたちは別に――」 「……舞台上でのふたりのやりとり、サマになってきたしな」 「えっ?」 「ん?お姫様とシュエスタの練習風景さ」 拍子抜けしたアンジェリナの顔を見て、思わずニヤリ。少しからかったぐらいじゃ動じない彼女も、こと『ベル』に関してだけは……まだまだ。 「…………む。わざとらしいわね」 「最初に話題を振ってきたのは、そっちさ」 そうそう。大人をからかう方が悪い。ついでを言えば、しっぺ返しは3倍と相場が決まっている。 「姫君。ひとつお尋ねしたき『議』がございます」 「……なんなりと申してみよ」 とっさのアドリブも大したもの。こちらに合わせ、きっちりお姫様になってくれた。 「もしも、アンジェリナ様とベルの未来。閉ざされたならば、どうなさいますか?」 「…………それは……」 そのうろたえ具合、演技か本物か。……どちらにしても、いい表情だ。 「(――あんまりいじめると、あとがコワイか)」 俺は引っ込みのつくところで止め、誤魔化し笑いでこの場を終わらせようとするが―― 「そのような未来、考えることすら愚かしいですが……万が一、閉ざされたとしても――」 「わたくしの心は、常にシュエスタと共にあります」 「(――いいね、その台詞)」 あとでワカバ辺りに、こっそり言ってみるか。 「そして、ベルの心も、アンジェリナの中に……ってことか。お熱いね」 「ち、違うわよ。いまのは、クリスティナの言葉。トニーノが質問を間違えたから、あたしがアドリブで修正したの」 ……苦しい言い訳、ご苦労さん。ま、仕返しはここまでってことで。 「……ところで、アンジェリナ」 俺は何事もなかったかのように話題を切り替えてしまう。 「出身は、青の都なんだってな」 セロたちとの会話で小耳にはさんだ情報。それは、アンジェリナが……孤児院の出だということ。 「……そうだけど、なんで?」 「俺も昔、青の都に住んでてさ。ずいぶん戻ってないから……どうなってるかと思って」 「どれぐらい離れているの?」 「……そうさなぁ。かれこれ、もう……」 それすら数えなくなって、何年が経ったのか。宛名は憶えていても、最後に手紙を書いたのは―― 「――忘れちまったよ」 「……そう。ご家族は、まだ青の都に?」 「さぁ、どうかなぁ。たぶん、まだ……」 きっと母さんは、まだまだ元気でやっているはず。それも、多くの子どもたちに囲まれて―― 「……トニーノっ!」 「シ、シルヴィア?」 あんな風に、元気が過ぎる感じで。 「……ありゃ、えらい剣幕で……どうしたのさ?」 「どーしたも、こーしたも!メモも残さず出るなんて!」 おっと、まずった! 「ホテルのフロントで、アンジェリナから電話があったって聞いたから、さんざん探して……」 ズカズカとやってくる鬼のような形相のシルヴィア。 「たまには驚かせてやろうって、ディナーの予約入れて戻ってみれば、アタシに黙って――」 「あらあら。怒ってるわよ、彼女」 「いゃあ、嫉妬深いもんで」 そんな冗談が向こうの耳に入ろうものなら、殺されかねない。 「隠れて練習するなら、アタシも呼んでよ。ただでさえ素人なんだから、少しでもやっとかないと本番が怖いでしょ?」 「わ、悪かったよ。そんなに怒ったら、せっかくの――」 「せっかくの、な・に・よ?」 そう睨まれたら、お世辞のひとつも言えなくなるぜ。 「あ、あたし。そろそろ着替えてきます。それじゃ……」 「……お、俺も……」 「アンタは残る!」 ――こりゃ、相当なしっぺ返しが待っていたようで。 「姫、お気をつけてください」 「……違うわ、シルヴィア。そこは、『お気をつけください』よ」 「えー、そうだっけ?」 「……あ、本当だ!アンタ、よく他人の台詞までチェックできるわね」 「なんで判るの?アタシなんて、自分のだけで精一杯なのに。もしかして、全部の台詞を丸暗記してるとか?」 「全体としては把握してるけど、細かい言いまわしまでは無理」 「え、でもいまの指摘って、細かい部類じゃない?」 「いまのは自分とかけあいになる台詞だから、覚えてるの。自然とそうならない?」 「無理無理。アタシ、『誰の次にこの台詞……』って感じで乗り切ってるから」 「その割に、演技はそこそこできるのね」 「うーん。頭よりは身体で覚えるタイプだからじゃない?」 「……昔から勉強とか苦手でねー」 「でも、人形技師になるために、相当勉強したんじゃないの?」 「えー?それこそ人形技術は感覚的なモノだから、頭よりは身体が資本なのよ」 「もちろん知識も必要だけど、それはおまけでついてくるわ。必要だから自然と……って感じで」 「アンタだって、演劇のためになるって分かってる勉強なら、それほど苦じゃないでしょ?」 「……そうね」 「ねぇ、あたしがもし人形技師になろうとしたら。素質とかありそうかしら?」 「――そればっかりは、試してみないと何とも言えないわね。ま、意気込みだけは充分ありそうだけど……」 「はっきり言って、お勧めはしない」 「どうして?」 「……アンタが技師になろうとするなら、それはどう考えてもシスター・ベルのためでしょ」 「そ、それは……」 「それだと技術は得られても、技師にはなれないと思う」 「…………そうかも」 「いい、アンジェリナ。人にはそれぞれ『役割分担』ってのがあるの」 赤の都で、セロがトニーノを借りにきたとき言った台詞をちょっと拝借する。 「アンタがいま、こうしてクリスティナ姫をしている。これも、ひとつの役割。誰かが替わることは難しいでしょ」 「――それと同じ。アンタはまっすぐ女優を目指しなさい」 「シスター・ベルには、凄腕のお父さんが居るわけだし」 「……ま、いざとなれば。ここに次世代の人形技師だって居るじゃない」 「そうね。あなたになら任せられるわ」 「ち、ちょっと!そんなあっさり認めないで、もっと疑いなさいよ」 「……あら、どうして?もしかして、照れてるの?」 「…………ち、ちっがうわよ!そうじゃなくて、そんな風にあっさり人を信用するなって言いたいの」 「あなたのこと、信用したらまずいの?」 「…………いいいわよ、もう。信用すればいいじゃない」 「うふふふっ」 「……もう!アンタ、最近シスター・ベルに似てきたわよ」 「さぁ、練習に戻りましょ」 「『……知ってるさ』」 「『でもな、シルヴィア。いまさら声もかけづらいだろ』」 「『そうだなぁ。舞台の俺に気づいてくれたら……』」 「『……ま、俺は見つけられないだろうさ』」 「『……なんてったって、観客席は別世界なんだよ』」 「『舞台のライトが明るすぎて、向こう側は見えないのさ』」 「あ、その前にさ。訊きたいことがあるんだけど……いい?」 「話は全然変わるけど、アンタって確か、青の都の……孤児院出身だよね」 「そうよ」 「……そのさ。演劇祭のときは……家族を呼んだりするの?」 「……うん。できれば、みんなに観てもらいたいから」 「そっか、そうだよね!それがいいよね!」 「でも、急になんでそんなことを?」 「あ、うん。いいの、気にしないで。何となく気になったから」 「……気になるわね」 「ほら!子どもの晴れ舞台は、親に観てもらいたいじゃない。そうでしょ?」 「う、うん」 「ささっ、姫。本番で失敗などしないよう、練習を」 「……いまの『ささっ』はよけいな感じね」 「…………ホント、細かいわ。うちの姫は……」 ワタシがその《 わけ》〈理由〉を尋ねると、 「ココと話すのって、とっても……大変なのね」 そんな答えが返ってきた。 そう言われてみれば、ワカバは夕方ぐらいにセロの家へ行く機会が多くなっていた。 そして、夜に家へと戻ってくれば、自室でタイプライターを打ち続ける生活を繰り返していた。 「だけど、おかけで大幅な修正を入れて……完成よ!」 「さぁ、これが新しい台本!」 そう言ってワカバが取り出した紙の束は、男性のキャストがふたり追加されていた。 「(――ハンスと……ダイジーン?)」 ハンスの名前はそれとなく憶えているが、『ダイジーン』という人は……居ただろうか? 「えーっ、オレ台詞とか憶え直し?」 「安心して。ライトとセロには変更ないから」 「それより、問題は……『ダイジーン』なのよね」 ワタシにとっても、それが問題。 「どっかに手頃な人、居ないかしら?」 でも、それは二日もしないうちに解決されてしまった。 「強力な助っ人を呼んできたわよー」 「(――この人は……確か、ユッシ殿?)」 エファの記憶の中でも、強烈に残っている人物。あまりにもよく似ている人だったので、一瞬ワタシの記憶がまた混濁したのかと思ってしまった。 「(――でも、この人は別の人……)」 ワタシたち《シスター》〈人形〉と違い、人間はそれほど長くは生きられない。それに、彼はあのとき―― 記憶はおぼろげだが、もう亡くなっていることだけは確か。 ……だけど、どうしてワカバがこんなにも似た人を連れてくることができたのだろう? 「……私も忙しいんだけどねぇ」 「そこを!そこを何とか!ねっ?」 「そうは言われてもねぇ。私も仕事があって……」 「あ、ダイジーン」 「え、あれ。ココじゃないか!」 「うん、うん。ダイジーン、どうした、のー?」 「いゃ、その、この子が私に……『演劇に出ないか』って」 「――それで、衣装だけでも着てみないか……と言われてなぁ」 「うん、うん。あのね、あのね。ダイジーン、そっくりー」 「へっ?」 「はいはい。簡単に説明すると、あなたはココが知ってる昔の大臣にそっくりなんだって」 「ほうほう」 「(――そういうことだったの)」 疑問は解決。スカウトしたのがココなら納得もいく。 「それで、今度の演劇祭があってね。舞台に立って欲しいの」 「私が?そりゃダメだ。そんな人前に立ったりしたら……」 「大丈夫よ!台詞はそんなにないし、1シーンか2シーンの登場で勘弁してあげるから」 なかなか強引な勧誘に、周囲のみんなも唖然。 「そ、そうは言われても……」 「おねがーい、ダイジーン」 「いゃ、ココに頼まれると、困るんだよなぁ……」 「えへへー」 「なんだったら、宣伝のチラシに銀行名……入れちゃう?」 こうなると、ワカバの独壇場にも近く。押され気味の彼は後退りながら、 「え、そんなことされても、出るのは私個人だし……」 ……などと言ってしまった。 「あ、いま、『出る』って言ったわね!決まり!」 「……え、待ってくれ。そんなことは一言も……」 「言いましたー。私、聴きました!ココも聴いたでしょ?」 「あい」 「ひぃ、そ、そんな……。せめて、どんな役かだけでも」 「悪役よ、あ・く・や・く」 「そ、そんな!私には妻が居て、子どもだって……」 「はいはい。私にだってお母さんと弟が居るわよーん」 こうして新たに『大臣』が加わり、残る追加は『ハンス』となって、ワカバは手近なところですべてを解決しようした。 「おいおい。俺は便利屋扱いか?」 それは、アインとヴァレリーの二役の台詞を担当をしていたトニーノ。 「……ハンス。ハンスねぇ」 これで三役目となる彼は、少し考えたあと、 「そ、そりゃ、できねぇってことはねーけど」 などと曖昧な答えを返したがために『ハンス』の役に。 こうして新しい『天使の導き』の練習が始まり……ワタシとアンジェリナは、半分近い量の台詞を覚え直すことになった。 「(――ワタシは暗記が得意だけど……)」 今回、一番の貧乏くじは……トニーノ?