『オブシディアンの因果目録』  パンドラの中に記述されている、黒い黒い真実。  黒曜石の側面には、表立っていない過去が隠されている。  吸い込まれそうな黒は、けれど誰かを傷付かせるために用意されたものではなかった。  ごめんなさい。  遊行寺闇子は懺悔する。  自らの選択が、自らの後悔が、彼らを困らせてしまったことに。  クリソベリルが語った白真珠は、そんな事実を覆い隠すための幻が含まれていた。  夜子と瑠璃の淡い思い出は、偽りだ。  弱くて、脆くて、一人では生きていけない夜子が、初対面の男に気を許すことがあるわけがなく。  それは、遊行寺闇子が願っていた、理想の愛娘像だったのだから。  まずは、緩やかに紐解いていこう。  それぞれの視点から、因果を振り返ってみよう。  偽りの一切ない、過去の記述。  黒曜石が見せるのは、純然たる真実なのだから。  あるいは、白真珠の煌めきに、騙されていたほうが良かったと思うかもしれないが――しかし、ページはもう開かれてしまっている。  魔法の本は、途中で止めることが出来ないんだ。  因果目録、第一面。  遊行寺汀の、家族背景。  遊行寺家の実情は、内輪揉めの毎日だ。  前当主と現当主との方針の違いが、身内の中の対立を形成し、つまらない政治ごっこが勃発する。  権利だとか、金だとか、飽きもしない争いを延々と続けられることに、俺は疲弊してしまっていて。  その理由が、遊行寺家の中の俺の立ち位置にも深く関わってきていたから。  ――非嫡出子。  それが、俺の呼び名。  遊行寺家当主である父親が、浮気相手との間にこさえたのが、この俺というわけである。  正式な婚姻関係を続けておきながら、裏側では別の女と愛を育むあの男のことを、俺は心底軽蔑しているが、しかし、それは毒をはいてもしかたがないことだと思う。  どうやら、親父の本命は、今の結婚相手ではなく、俺の実の母親の方だったらしい。  だが、俺の母親の家庭事情によって、親父との交際が認められなかったため、消極的な選択肢の果てに神宮寺闇子と結婚することになったそうだ。   しかし、結婚後も、親父は母親の事が諦めきれず、神宮寺闇子の知らないところで不倫関係を継続していく。  親父にとってはそちらが本命だったため、悪びれることもなく彼女を裏切り続けていたらしい。  やがて――親父とお袋の間に、俺が生まれて。  母親は、俺を産み落としたそのすぐ後、他界した。  遊行寺家は、不倫相手の子供――非嫡出子という爆弾を抱えて、大いにモメることになってしまう。  親父の不貞を、前当主は強く咎めた。  貞操観念が強い祖父は、血管がぶちきれるほどに怒り散らしたそうだけれど、既に母親は他界して、残された子供一人。  遊行寺家が責任をもって引き取る他無く、以降、俺という存在は不貞の証明として疎まれ続けることとなった。  だが、俺が生まれて1年後に起きた事件が、遊行寺家を大いに揺るがすこととなる。  親父と、神宮寺闇子――当時はもう、遊行寺闇子、か。  二人の間に、一人娘が産まれたのだ。  正式な夫婦間の、大切な子宝。  俺の場合と違って、心から祝福されるはずだったのだが。  ――白髪赤目の、呪われた赤ん坊。  不倫相手を妊娠させてしまったことが吹き飛ぶくらい、遊行寺家に激震が走ったのだ。  親父の不貞よりも、祖父はそのことを強く咎めた。  曰く、生まれてきた赤ん坊を殺そうとするくらい、白髪赤目に怯えていたらしい。  神宮寺家は、遊行寺家とも密接に関わる家系。  曰く――遊行寺闇子は本に携わる仕事をしているらしいが、それは俺の知り及ぶところではない。  だが、祖父の嫌悪感を見るところ、色々ときな臭さを感じる。  親父と彼女の結婚の際も、渋々了承したというわけだから、大変だ。  呪われた正妻との娘と、不貞を働いた不倫相手との息子。  遊行寺家は二つの爆弾を抱え、頭を悩ませる事になるのだが、結局はどちらも内輪で囲うことにしたようだ。  つまり、身内の不貞、身内の始末は外に出させない。  立場は違いながらも、俺と夜子は似たように囲われてしまったのである。  そして、遊行寺家の中で身内の不幸が発生し、遊行寺闇子と夜子が島流しの憂き目にあって。  落ち着いた遊行寺家本家が、俺の存在を疎み始めたのも無理もないことだろう。 ――上等だよ。  生まれてからそれまで、隠れて生きていくことを強要されてきた。  同じ本家で暮らしながらも、遊行寺闇子と遊行寺夜子は隔絶されて生活してきて、その存在を知らないまま。  疎まれるように島流しにあった彼女らのことに、興味を覚えたのである。  本家の連中は、俺を追い出すことを提案する。  厄介者は、遠くの孤島へ。  ああ、上等だよ。  初めまして。  自己紹介をした時の、遊行寺闇子のことを覚えている。  不倫相手の子供――親父の不貞を見せつけられて、心底憎悪していたっけか。  俺はてっきり、とっくに知っていると思っていたけれど、彼女は親父のことを本当に信じてしまっていたのだ。  あの碌でもないクソ親父を、愛してしまっていた。  だから、裏切りの象徴である俺を、受け入れることが出来なかったのだろう。  ――〈近〉《丶》〈寄〉《丶》〈ら〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈で〉《丶》。  遊行寺家本家が、俺を預けると伝えているはずだ。  だから、追い出したり迫害したりは、一切しなかったが。  ――〈私〉《丶》〈と〉《丶》〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈に〉《丶》、〈近〉《丶》〈付〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈で〉《丶》。  徹底的に距離をおいて、俺と話そうともしてくれなかったな。  俺の存在が、汚くて汚くて仕方がなかったのだろう。  そのことで、お袋を恨んだりすることはない。  むしろ普通の反応で――恨むなら、親父を憎むべきだとわかっているから。  そして。  最も肝心の、女の子。  腹違いの俺の妹は、そんな俺をどういう風に見つめたか? 「……う、ううううっ」  初めて、夜子と顔を合わせた時。  心から、怯えられてしまった。  怯え? いや――もう、恐怖と表現しても構わない。  あいつは、俺のことを化け物をみるように、見つめていた。 「や、やめっ……あたし、なにも、しない……から…………」  白い髪を隠し、赤い瞳を伏せ、小さな身体を震わせていた。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」 「……なんだ、これは」  遊行寺夜子の噂は、知っていた。  白髪赤目の少女が、呪われた血の末裔として、迫害されていることも知っていた。  けれど、まさか、ここまでとは。  遊行寺本家は、一人の女の子をここまで追い詰めたのかと、戦慄した。 「ちっ」  そのとき、こみ上げた感情の正体はなんだったのか。  血液が沸騰し、憎悪がこみ上げたのは、やっぱり俺と夜子が兄妹だったからなのだろう。  ――守りたいと、思ったんだ。  柄にもなく、横柄な俺が、か弱い夜子を守ってあげたいと思ったんだ。  その日以降、遊行寺闇子に拒絶され、遊行寺夜子に恐怖されながら、必死に歩み寄ろうとしていく。  なるべく、心を開いて。  相手を、怯えさせないように。  隠し事をせず、嘘を吐かず、見返りを求めないまま俺らしく振る舞って。  適切な距離を取りながら、それでも言葉を交わそうと努力した。  怯えるような言い方にならないよう、一人部屋で練習して。  鏡の前で自然な笑顔を作る練習をして、少しでも夜子の恐怖を和らげたかったんだ。  近づくと怖がるから、遠くから話しかけるようにした。  それでも声が大きくなると怯えるから、遠くても聞き取りやすい声で話すように務める。  だけど決して、自分を偽ることだけはしないようにしていた。  お袋や夜子のことを気遣いながらも、俺は俺らしく、馴れ馴れしさや自由奔放さを忘れなかった。  自分を偽ってまで、相手に合わせてはいけない。  俺は俺のまま、二人に受け入れられたくて――そんな毎日だった。  やがて、変化が現れた。  それは、俺が初めて夜子と顔を合わせた日から、半年が経過した頃だろう。  いつものように、馴れ馴れしさをもたらす俺に対して、怯えや恐怖ではなく、静かな敵意を向けるようになったのである。  俺に対して、鬱陶しさを覚え始めた夜子は、ある日初めてこういった。 「――何よ、お前。あたしに構わないで」  びくびくしたわけでもなく。  何かに怯えていたわけではなく。  気丈に、強い言葉を吐いてみせた。  それは、俺のことを嫌った言葉だったとしても、嬉しかったんだ。 「言うじゃねえか、夜子」 「汀お兄ちゃんは、しつこいのよ」  傍目からは、悪化したと思うかもしれない。  しかし、怯えから敵意への感情の変化は、俺にとって大きな一歩だったんだ。  怖がる畏怖の対象から、思ったことを言えるような関係へ。  初めて――夜子に存在を認められたような気がして、嬉しかったんだ。  その日から、少しずつ夜子は変わっていった。  おどおどしたような振る舞いが消え、凛とした振る舞いに変わっていく。  俺に対しても容赦の無い言葉を吐くようになって、それまでの弱さが消えていく。  それはきっと、強がりに類似するものだったと思うけれど。  以前の夜子は、そんな強がりすら不可能だったから、尚更嬉しかったのだ。  この世全ての絶望を知ったような面が気に食わない。  その顔を、幸せに笑わせてやりたい。  そう思って接してきたこれまでが、報われたような気がして。  ――ありがとう。  お袋が、頭を下げて感謝した。  裏切りの象徴である俺に、歩み寄る意思を示してくれたのである。  ――ごめんなさい。  そのときの感情は、今でも言葉に出来ない。  半年が経過して、その時初めて、思ったんだ。 「ようやく、夜子の兄貴になれたんだな」  お袋が俺を認めてくれて、心からそう思えるようになった。  そして。  出会って、1年の時間が経過した。  その頃にはもう、怯えを前面に出すことはなくなって、俺もあけすけのない態度で夜子と接していた。  兄貴として、余計なお節介を焼こうとして、拒絶されたり。  夜子へ愛情を示そうとして、鼻で笑われてしまったり。  まあ、瑠璃に指摘されるまでもなく――俺はシスコン野郎に成り下がってしまってたんだろう。 「そろそろだな」  夜子には、次のステップが必要だと思っていた。  どんなに俺が兄として愛せても、いつか限界が訪れる。  あいつがもっともっと幸せになるためには、家族以外の物が必要だったから。  友達。  それも同い年の、夜子を絶対に傷付けない友達を、作ってあげたくなったんだ。 「――なあ、瑠璃。図書館に興味ねえか?」  同時期、愉快な奴と出会っていた。  他の奴とは違う、不思議な雰囲気を持った面白い奴だ。  ひょっとしたら、こいつなら夜子と友達になれるんじゃねえかって、思ったんだ。  初めて夜子と引き合わせる瞬間、ちくりと胸が傷んだ。  可愛い妹が、遠くに行ってしまうような、そんな感覚。  ああ、その時俺は、なんとなくわかったんだ。 「俺は、本当の本当に、夜子のことが好きだったんだな」  それが兄としてのものなのか、男としてのものなのか、さしたる意味はない。  けどまあ、それがわからないまま有耶無耶にしていたから、その後、妃に向けている気持ちの正体が、わからなかったんだろうな。  因果目録、第一面。  遊行寺汀がもたらした影響と、繋ぎ合わせた出会い。  彼がいなければ、引き合わされることはなく、別々の道を歩んでいた。  結果として、結末はとても悲しいものになってしまうけれど、愛する妹のために励んだことを、彼は一生誇って良いだろう。  それはまさしく、兄妹愛。  遊行寺夜子だって、そんな兄のことを心から感謝していると、黒曜石は保証する。  因果目録、第二面。  黒曜石が魅せるのは、白真珠に覆われた真実。  遊行寺夜子と四條瑠璃の出会いは、全く甘いものではなかったのだ。  ――紹介したい奴がいる。  いつか、汀お兄ちゃんがそんなことを言っていたような気がすると、あたしは思い返していた。 「初めまして」 「――っ!」  そいつは、人畜無害そうな笑顔をしていた。  無遠慮に書斎を訪れても、なんて事のないように笑っている。 「汀から、会わせたい奴がいるって聞いてたんだけど」  あのバカ兄貴は、何を考えているのだろう。  あたしが他人を紹介して欲しいなんて、一度だって言ったことがあっただろうか。 「……出て行って」 「え?」 「早く、出て行ってくれる? キミがいると、読書に集中できないの」  拒絶しながら、心臓がばくばくと音を立てて脈動する。  赤の他人が目の前にいるだけで、心が悲鳴を上げていた。  強い言葉を口にすることで、弱い自分を隠す術を知ったけれど、いきなりはさすがに辛い。 「でも」 「くどい、でてって!」  今日ばかりは、汀お兄ちゃんを〈怨〉《うら》みたい。  後で会ったら、思う存分罵ろう。  なのに、どうしてだろう。  こうまで拒絶しても、その男は背を向けなかった。 「俺は、お前とおしゃべりがしたいな」 「……は、はあ?」  あけすけもなく、薄ら寒い台詞を口にした。  物語でしか聞いたことがないような言葉である。 「お前に興味をもったんだよ。その読書姿勢に、目を惹きつけられてしまって」  彼の瞳は、あたしの髪に向けられている。 「上手く言葉に出来ないんだけど……読書をしてるお前は、美しいなって思った」  気が付けば、書斎にいて。  声をかけられるまで、ずっと見られていたらしい。 「き、気持ち悪いわ」  素直な感想を口にする。 「……そうだな。俺だって、気持ち悪いと思ってたところだよ」  そう言って、彼は破顔した。 「ま、いいや。それにしても、ここは本当に凄い図書館だよな。ったく、汀もそういうことなら、早く言ってくれたら良かったのに」  そして、一人で喋り始める。 「小説は、大好物なんだ。正直、この図書館の風景には、圧倒されてしまってる」 「……ん」  お母さんが集めてくれた本たちを褒められて、思わず嬉しくなったけれど。 「ってそうじゃないわよ。ここの本は、全てあたしのものなの! お前は、絶対に触れちゃ駄目!」 「いいだろ、読ませてくれよ。良い本は、読まれてこそ良い本として完成されるのに」 「う……そうだけど」  まずい、思わず丸め込まれそうになってしまった。 「それにしても、本当に綺麗な白髪なんだな」  感嘆するように、彼は目を向ける。  そして、一歩、近付いた。 「や、止めて。見ないで」  過去、悪戯な視線が脳裏にフラッシュバックして、強烈な不快感が込み上げる。  彼もまた、同系列の人間だと、本能が警鐘を鳴らしていた。 「思わず吸い込まれてしまいそうな、純白だ」  蕩けるような瞳で、近付いて。  彼は不用意に、あたしの頭に手を伸ばした。 「――っ! やめなさいっ!!」  衝動的に、左手を振り払う。  彼の不用心な接触を、拒絶して。 「あ、ごめん」  はっとして謝る彼を見て、しかし、込み上げてきたのは怒りだった。 「いい加減にしなさいっ!」  左手で、払った直後。  右掌が、彼の頬を打っていた。 「――っ」  ぱしん、という乾いた音。  明確な拒絶の姿勢に、彼の瞳は大きく揺れた。 「馴れ馴れしいのよ。気持ち悪いのよ。鬱陶しいって言ってるの、わからないのかしら?」  汀が、鬱陶しい時。  こうして声を荒らげたら、苦笑いをしながら身を引いてくれる。  なんだかんだであたしの嫌なことはしないようにしてくれて、絶対に深追いはしてこなくて。 「……あ」  けど、あたしは間違ってしまっていたのだろう。  それは、汀が家族だから、許してくれただけで。  赤の他人にそうされたら、相手は嫌な感情を覚えるに決まっていた。  怯えることはなくなって、強い言葉を口にできるようにはなったけど。  それは、他人を攻撃するということにかわりなく、それは決して、褒められたものではなかった。 「痛っ――強烈、だな」  酷く、傷付いたように頬を抑える彼の表情。  しまったな、とか。  どうしよう、とか。  焦りや戸惑い、不安が見えてきて、それは過去の自分を見ているような気がした。  ――〈呪〉《丶》〈わ〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》〈忌〉《丶》〈ま〉《丶》〈わ〉《丶》〈し〉《丶》〈き〉《丶》〈娘〉《丶》。  そうやって、他人に攻撃されてきたことを忘れたのか。  攻撃される側の気持ちを、あたしは一番に知っているはずなのに。  汀が親しく接するから、忘れかけていた。  忘れかけて、怯えるのではなく攻撃したらいいなんて、思うようになって。  汀が、それを許してくれたから。  甘える子供の攻撃なんて、意にも介さず受け入れてくれたから。  だから安心して、汀に辛辣な態度をとるようになっていたんだ。 「思ってた以上に、暴力的なんだな」  汀が彼をここに寄越した理由は、わかっている。  友達のいないあたしに引き合わせようとしてくれた、いつものお節介の一貫。  彼は、汀に付き合わせられて、ここへきたというのに。  自己嫌悪の渦が、ぐるぐるとあたしの心を締め上げる。  昔の怯え戸惑う自分から、少しだけでも変われたと思っていたのに。  その変化は、結局、たいしたものではなく。  あたしはやはり、碌でもない人間であることを、強く実感させられた。 「……わかったでしょう。あたしは、こういう女の子なの」  引き篭もりの、呪われた女の子。  他人と関わる必要がなくて、他人と関わることすら出来なくて。 「いや、違うな」  けど。 「今のは俺が、悪かった」 「……はい?」  彼はあっさりと、それを許してしまった。 「初対面なのに、馴れ馴れしすぎたよな。あまりにも綺麗な髪だったから、衝動的に触ってみたくて」  へらへらと笑いながら、なんてことのないように、あたしの暴力を受け流す。 「それに、お前のことは汀から聞いてるんだよ。引き篭もりで、口が悪くて、気難しい妹、だろ?」 「な、なっ――!」  なんだ、その紹介は!  あの馬鹿兄貴は、あたしのことを〈蔑〉《さげす》みすぎだ! 「遊行寺夜子」 「……な、何よ」  おそらくは、汀から聞いてたであろう、あたしの名前を呼ぶ。 「大丈夫、どうせ嫌われるだろうからって、汀からは言われてるからな! ここまで予想通りだよ」 「はあ?」  何を素っ頓狂なことを言ってるのだろう。  この男は、何が面白くてそんなに笑っていられるのかしら。 「お、お前は、馬鹿じゃないの」 「お前じゃない、瑠璃だ」  きっぱりと、口にする。 「四條瑠璃だ。忘れてくれるなよ」 「……覚える必要はないわ。どうせ、二度と会うことがないから、呼ぶこともないし」 「そうか? 俺はそうは思わないけど」  叩かれた頬を、さすりながら。  「夜子は、面白い性格をしてるよなあ。是非とも、そのままでいてくれ」 「な、な、な――!」  面白い???  あたしがついさっきまで、自己嫌悪していたこの性格を??  叩かれた衝撃で、脳みそがおかしくなったなんじゃなくて? 「動揺してる動揺してる」  面白おかしく、笑い立てて。 「してない! 知った風な口を聞かないで!」  何だ、この男は!?  どうしてこうも人を苛立たせてくれるのかしら!  汀のように、怒ったらすぐに引いてくれるくらい、嫌われてることを察しなさいよ!  厚顔無恥にもほどがあるわ! 「さすが、汀の妹なだけはあるな。これからも、よろしく頼むよ」  人がこんなに混乱しているのに、あくまでマイペースに事を運ぼうとする。  この馬鹿は、既にあたしと仲良くなって気でいるのかしら?? 「嫌よ、絶対によろしくなんてしないから!」  彼のあまりの対応に、あたしの心に闘志が灯る。  負けてたまるものですかと、めらめらと対抗心が宿り始めて。  お望みなら、そうしてあげましょう。  お前がそうするのなら、あたしはこのまま嫌い続けて、拒絶し続けて、軽蔑し続けるわ。 「はははは、すっかり嫌われたな」  それでも手を差し伸べて握手を求める彼の手。 「お前は――もうっ! 馬鹿じゃないのっ!?」  それを思いっきり叩いて、完膚なきまで拒絶する。  じんじんと痛みが残る中、それでも彼は笑い続けていて。 「お前じゃなくて、瑠璃」  まるで赤ん坊に言い聞かせるように、囁いた。 「それが、俺の名前だよ」 「どうでもいいわよ!!」  それからも、あたしを遠慮なくなじる彼に、振り回され続けて。  遊行寺夜子と四條瑠璃との出会いは、実に二人らしい、喧しい物だったのである。  初めて瑠璃と出会った日から、しばらくして。  丁度読みかけの小説も読了したこともあって、夕食を摂りに食堂へ降りてきたあたしを待ち受けていたのは。 「よう、夜子」  汀と、理央と、歓談をしているあいつが、嬉しそうに挨拶をする。 「な、なんでお前がここにいるの――!」  当然、あたしは怒りの声を上げるけれど。 「お前、じゃないだろ」  もう二度と、会いたくなんてなかったのに。  まさか、数日のうちに再会するとは思わなかった。 「お前、じゃなくて、る、る――」  瑠璃、と。  ラピスラズリの名前を呼ぶことが、どうしても出来なくて。 「ど……どうして、キミがここにいるのよ」  自分でもおかしいくらい、変な二人称を使ってしまった。 「キミ、か。ま、それでもいいけどさ」  苦笑いを浮かべながら、瑠璃は距離を詰める。  彼の背後で、汀と理央が笑っていた。  とても、居心地が悪い。 「こ、ここはあたしの図書館よ! キミが勝手に出入りしていいはずがないわ!」 「ここは、闇子さんの図書館だろ? ちゃんと招かれて、ここにいるんだよ」 「う、嘘……!」  あのお母さんが、優しくて優しくて大好きなお母さんが、まさかこんな奴を!! 「無礼な輩が来たからって、二度と入れないようにってお願いしてたのに……」  あいつが帰った後、懸命に不満を訴えて。  お母さんも、笑いながら頷いてくれていたはずなのに! 「それにしても、理央の料理は旨いよなあ。毎日食べたいくらいだ」 「り、理央はあたしのものなのよ! キミが勝手に、関わっちゃ駄目!」  本当に、勝手気ままやつだ。  「あ、そうそう、この本返しておくよ。ありがとな」 「はい?」  ごそごそと、鞄から一冊の本を取り出した。  渡されたそれは、あたしがついこの間まで読んでた本。  もっといえば、瑠璃と最初に出会った時に、読んでた本だ。 「夜子が読んでる時から、気になっていたんだよ。それを伝えると、闇子さんが貸してくれた」 「……へ?」  ちょっとちょっと。  何を勝手に、貸し借りを行っているわけ?? 「甘々しくて清々しい、青春ジュブナイル小説。瑞々しい作者の言葉が、胸に染みこむような文章だった」 「き、キミが、この小説の何がわかるというのよ」  それは、きっと。 「俺のような奴にだって、良いものと悪いものとの違いはわかるさ。特にこの作者は、優しい文章を描くのが上手だからな」  嬉々として、小説の内容を語る彼は。 「主人公と親友の絶妙な距離感なんて、それはもう素晴らしいの一言だ。言葉にしなくたって、伝わるものってあるんだなあ」  手にした本を眺めながら、思い出を語る彼の姿は。 「思っていた以上に、最高だった。是非とも、この作者の他の作品が読みたくなったな」  本当に小説が好きな、一読者としての姿を見せてしまうんだ。 「……だったら、勝手に読めばいいじゃないの」  そして、何よりも。  瑠璃の口にする感想が、あたしが抱いたものとほとんど同じで、どうしようもなく、共感してしまったから。 「お、読んでもいいのか?」 「別に……お母さんが許可をしたのなら、あたしがどうこういえることではないわ」  苦虫を噛み潰したように、あたしは頷く。 「返して。キミが持っていると、本が不憫よ」 「はいはい。まあ、夜子に許可を取らずに借りて、悪かったよ。直接頼んでも、断られそうだったからな」 「よくわかってるじゃない」  ふんだくるように、本を取り返す。  彼の手のぬくもりが、少し残っているような気がして――あたしは、不思議な感傷に浸る。 「それでも、本は読まれてこそ意味がある。キミはとても失礼な人間だけれど、活字を読むことが出来る程度には、普通なのね」 「……俺のこと、どれだけ下に見ていたんだよ」 「今でも、最低の男の子だと認識してるわよ?」  ため息を一つ、これみよがしに吐き捨てた。  それでも不快に思ったような素振りはせず、瑠璃は笑い続けていた。  それから、あたしは瑠璃から逃げるように、テーブルの隅で食事をする。  理央や汀からはもっと近くで食べたらと言われたけれど、あたしは頑なに断って。  ――キミがいるから、嫌なの。  三人の楽しそうな輪を、外側から見つめるあたし。  ぼんやりと彼の不快な横顔を見ながら、それでも寂しさを覚えなかったのは何故だろう。  見ていると、イライラする。  とてもとても、腹立たしい。  けれど、少しだけ変だと思った。  失礼で、鬱陶しくて、嫌になるくらいに嫌えてしまう彼だけれど。  一方で、ふわふわと浮足立つような感覚が、その裏側に張り付いていた。  〈二〉《に》〈律〉《りつ》〈背〉《はい》〈反〉《はん》、アンビバレンスな感情の中身に、あたしはなんの答えも得られないまま。  しかし、そんな彼の存在に愚痴を吐き続けながらも、僅かな時間の変化を楽しんでいたことだけは、間違いないと思う。  それから、あたしと瑠璃の関係は、ずっとずっと変わることがない。  離れることも、近付くこともなく、最初の距離感をひたすらに続けてきた。  変わらない関係になっていたのは、最初から着飾らない言葉で接してくれたから?  瑠璃は、あたしのことを特別な存在として扱うこと無く、多人数の中の普遍的な1として、話しかけてくれたんだと思う。  本音でぶつかり合うことの出来る、生まれて初めての対等な他人。  特別扱いされることはなく、適当に扱われるのが当たり前の距離。  それでいて本の好みが似ていて、どうしても彼の感想に共感してしまって。  わかっていた。  わかっている。  あたしの嫌いという言葉の中身に、もはや何の意味もこもってなくて。  さり気なく、自然に、格好良い彼のことに、惹かれていることくらいわかっていた。  けれど、認められることと、認められないことがあって。  瑠璃に関することは、絶対に認められない感情なのだ。  その恋心を自覚すること無く、長い年月が経過して。  居心地の悪さを覚えながら、顔を合わせては瑠璃のことを拒絶していく。  大嫌いと、口酸っぱく指摘するのは、やっぱりあたしのつよがりに過ぎなくて。  自覚するのが怖かった。  今までの連中のときのように、いつか嫌われてしまうことが恐ろしいから。  嫌いな相手に、嫌われるのなら耐えられる。  だったらあたしは、瑠璃のことを嫌いになり続けておきたいのだ。  閉じた世界の中で、マイナスの心意気から始めよう。  限りなく後ろ向きで、ネガティブで、脆弱な心を隠しながら、今日もあたしは彼に言う。 「キミのことが、大嫌い」  そして、気付いたら。  そういう風に言い聞かせる自分のことが、一番大嫌いになってしまったんだ。  因果目録、第二面。  遊行寺夜子が受けた影響と、初めて芽生えた恋心。  脆弱な少女は、生まれて初めての経験に戸惑いながら、後ろ向きな感情を抱き続ける。  変わらない関係に安堵を覚えながらも、しかし変わらない関係など存在しないことを、のちに思い知ることになってしまって。  それはまさしく、初恋。  凄惨な過去に怯える夜子は、不確かな感情の揺らぎに耐え切れることが出来なくて。  その初恋は、空気のように透明で、硝子のように繊細だった。  因果目録、第三面。  黒曜石が魅せるのは、現実の真後ろにある企み。  創られた少女が知ったるは、人の道標を狂わすパンドラの未来。  近頃、幻想図書館は幸せに溢れています。  そのことを疑っていたものは、きっと誰一人といません。   初めて、理央が生まれた時、ここはとても寂しい場所でした。  夜ちゃんは心を塞いで閉じこもり、お館様は心配で心配で夜も寝られない日々。  一生懸命お世話をしてみても、紙の上の存在である理央には、与えられたことしか出来ません。  最初の変化は、汀くん。  持ち前の押しの強さを発揮して、夜ちゃんの心を外側に向けさせました。  怯えるのではなく、強くなれ。  ちょっとつんつんし過ぎちゃっている気がしないでもないけれど、それは夜ちゃんにとって良いことだと思いました。  汀くんと夜ちゃんは、次第に兄妹になっていったのです。  次の変化は、瑠璃くん。  汀くんが連れてきた、最初で最後の部外者です。  あの警戒心の強い汀くんが、初めて身の内側を晒したのです。  最初、お館様は苦言を呈していましたけれど、それまでの汀くんを見てきたお館様は、彼の強い言葉に最後は納得したのです。  連れて来られた男の子は、夜ちゃんに大層嫌われちゃいました。  とてもとても無礼な振る舞いをして、いつまでも嫌われ続けたのです。  理央も、お館様も、あんまりに楽しそうに嫌うものだから、何もかも嬉しくなってしまって。  そういう形で良い影響が生まれることもあるんだって、知ることが出来ました。   今ではすっかり、瑠璃くんは図書館に馴染んでしまって。  今でもずっと、夜ちゃんに楽しく嫌われ続けているのです。  次の次の変化は、妃ちゃん。  瑠璃くんの妹さんで、同じく汀くんに連れて来られた一人です。  ミステリアスな雰囲気に、与える影響も少しだけ恐ろしかったですが、やっぱり瑠璃くんの妹さんは、素敵でした。  あっというまに夜ちゃんの友だちになってしまって、理央もお館様も安心しました。  夜ちゃんにも、ちゃんとした青春が、残されているんだなって。  そのときは、次なる変化が楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。  次の次の次の変化は――。  幸せな幻想図書館。  今がずっと続けばいいなって、思っていたのに。  けれど、変わらない関係が存在しないように、幻想図書館の人間関係も少しずつ動いていくのです。  ――夜子って、もしかして。  お館様が、心配そうに言葉を漏らします。  ――彼のことが、好きなのかしら。  不安げな面持ちに、理央は頷き返します。  誰がどう見たって、それは明らかです。  大嫌いなんて、ツンデレっぽくてわかりやす過ぎです。  それに気付いていないのは、きっと張本人だけ。  素直な心のあり方を知らない夜ちゃんは、前向きな感情を受け入れられなかったのです。  ――失恋なんてしてしまったら、あの娘は一体どうなるのかしら。  みんなの影響で、夜ちゃんは前を向くことが出来るようになりました。  弱々しい姿は鳴りを潜め、今では立派なツンデレちゃん。  けど、痛みに弱いのは変わらなくて、何かを失う強さまでは持ち合わせていなかったのです。  今は、恋心を自覚していないけれど。  既に叶わない状態になって、後から自覚してしまったら。  心の処理の仕方が分からなくて、再び夜ちゃんは塞ぎこんでしまうでしょう。 「瑠璃くんは、誰が好きなのかな」  お館様は、愛娘の恋心に余計な心配をしてしまって。  ――〈月〉《丶》〈社〉《丶》、〈妃〉《丶》。  夜ちゃん以外の女の子が、特別な感情を持ってしまっていることに気付いてしまったのです。  そして、瑠璃くんもまた、妃ちゃんに対して、兄以上の思いを抱いていました。  決して。  決して二人の感情は、白真珠に用意されたものではなく。 「理央は、どうしたらいいんだろう」  複雑な恋模様を描き始める幻想図書館。  夜ちゃんが女の子で、瑠璃くんは男の子。  男女入り乱れるコミュニティに、恋は必然だったのです。  ――〈せ〉《丶》〈め〉《丶》〈て〉《丶》、〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈が〉《丶》〈傷〉《丶》〈付〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈に〉《丶》。  お館様は、祈りを捧げます。  魔法の本に願うのではなく、その恋が成就しようとしなくとも、夜ちゃんが前を向いて生きていけるように。  失恋もまた、成長なのだと信じていて。  しかし。  事態は予想外の展開を迎えてしまいました。  ――〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈で〉《丶》〈す〉《丶》。〈付〉《丶》〈き〉《丶》〈合〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》〈下〉《丶》〈さ〉《丶》〈い〉《丶》。  夜ちゃんでもなく。  妃ちゃんでもなく。  全く関係のない、瑠璃くんのクラスメイトが告白してしまったのです。  そして、最悪はその直後。  夜ちゃんが、そのシーンを見て取り乱してしまって。  ――〈う〉《丶》、〈う〉《丶》〈あ〉《丶》〈あ〉《丶》〈っ〉《丶》……。  自覚していないまま、恋が失われようとする夜ちゃんを見て、お館様は間違いを犯してしまいます。  それもまた成長なのだと言い聞かせてみても、いざ夜ちゃんが壊れそうになると、本能のまま行動してしまいました。  それは、パンドラの原型とも呼べる形。  夜ちゃんにとって、優しい世界を生み出す魔法。  このままでは夜ちゃんが不幸になると、紙の上の魔法使いは囁きました。   しかし、罪悪感があったのか、抵抗感があったのか。  そのときのお館様の手法は、酷く中途半端なものでした。  夜ちゃんには全てを忘れさせ、どうでもいい告白劇はなかったことにしてしまって。  瑠璃くんはすべてを忘れ、いつもの様に過ごすはずだったのに。  けれど、開かれた本は中途半端に、影響を残し続けます。  ――〈誰〉《丶》〈か〉《丶》〈に〉《丶》〈告〉《丶》〈白〉《丶》〈さ〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》。  その事実だけが、瑠璃くんの中に残ってしまって。  相手不在の告白に、記憶が勝手に現実を歪めました。  ――〈妃〉《丶》〈に〉《丶》、〈告〉《丶》〈白〉《丶》〈さ〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》。  現実と幻想のずれが、整合性を縫い合わせるように正されていくのです。  記憶の掛け違いをなくすように、彼はその記憶を都合の良いものへと認識し。 「やがて瑠璃くんと妃ちゃんは、気が付いた時にはもう恋人になっていました」  それはきっと、お館様の最初のミス。  告白される瑠璃くんを見て、傷付く夜ちゃんの心を、楽にさせようとしただけなのに。  その告白をなかったことにして、何でもないよと笑えるようにしたかったのに。  その結果、瑠璃くんは本命の女の子と付き合えてしまったのです。  兄妹だからと、お互いに戒め、恋仲にならないようにしていた二人の背中を押してしまったのです。 「きっと、お館様が何もしていなければ、こうはならなかった」  瑠璃くんと妃ちゃんは、付き合うことはなかったでしょう。  兄妹の恋仲が、不幸の果てに沈むことなんて、本人が一番分かっていましたから。  お館様の余計な干渉が、夜ちゃんの恋心を更に報われなくさせてしまったのです。  だからこそ、もう何もしないと腹をくくり。  傷ついた夜ちゃんの支えになろうと、お館様は覚悟して。  なのにどうして、魔法使いは本を開くのかな。  どうして彼女は、不幸を撒き散らして笑うんだろう。  お館様は、とても弱い人でした。  夜ちゃんのために、他人を犠牲にしてでもと決意して――それでも、悪役にはなりきれなくて。  心の何処かで、分かっていたのだと思います。  そうしてお館様が身を捧げても、その幸せはまがいもの。  本当に夜ちゃんが幸せになるためには、夜ちゃんがその幸せを掴まなくちゃいけなくて。 「理央は、どうなって欲しかったのかな」  ふと、わからなくなってしまいます。  もがけばもがくほど、深みにはまっているような気がしてしまって。  いっそのこと、全てを諦めてしまったら、楽なんじゃないのかと思うこともありました。 「幸せって、何なのかな」  傍観者で在り続けた理央は、瑠璃くんや妃ちゃんに、何かを言う資格はないのだと思います。  全てを知りながら、口を閉ざすことしか出来なくて――そんな理央自身が、大嫌いでした。 「理央が、秘密を知られたくなかったのは」  紅水晶を開いてまで、内緒にしておきたかったのは。 「瑠璃くんの味方になれないって、知られたくなかったからなんだよ」  紙の上の存在で、人間ではなく空想の産物。  何もかもを知りながら、それでも笑顔で誤魔化し続けていたのです。  瑠璃くんが現状に戸惑って、混乱していても。  その答えを知りながら、可愛い子ぶって、首を傾げて惚けるのです。 「――理央は、ひどいね」  消えてしまったら、楽になると思ったことは何度もあります。  紅水晶に従って、消えてしまえればよかったのにって。  いつか瑠璃くんがすべてを知って、理央に裏切られたと思うことがあったとしても。  理央は、逃げずに受け止めよう。  それが、彼を裏切り続けていた代償なのですから。  因果目録、第三面。  伏見理央が傍観していた現実と、その背景。  紙の上の少女は、見ていることしか出来なくて、口を閉ざすことしか出来なかった。  好きな人が、苦しんでいても。  好きな人が、悩んでいても。  大切な人が、心折れそうになったとしても。  魔法使いが、暗躍したとしても。  何もすることの出来ない、無力な真実。  そして。  決定的に狂わされた瞬間は、訪れる。  遊行寺闇子は、そんなことを望んでいなかった。  魔法の本は、決していいように使われるものではなく。  〈彼〉《丶》〈ら〉《丶》〈は〉《丶》、〈生〉《丶》〈き〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》。  思う存分、物語を語りたがって。  結局、担い手であったとしても、制御することは出来なかったのだ。  『サファイアの存在証明』  〈で〉《丶》〈は〉《丶》、〈な〉《丶》〈く〉《丶》。  『〈オ〉《丶》〈ニ〉《丶》〈キ〉《丶》〈ス〉《丶》〈の〉《丶》〈不〉《丶》〈在〉《丶》〈証〉《丶》〈明〉《丶》』  月社妃の最期を、黒曜石が映し出す。  因果目録、第四面。  月社妃が、最期に開いた物語。  『サファイアの存在証明』  〈で〉《丶》〈は〉《丶》、〈な〉《丶》〈く〉《丶》。  『〈オ〉《丶》〈ニ〉《丶》〈キ〉《丶》〈ス〉《丶》〈の〉《丶》〈不〉《丶》〈在〉《丶》〈証〉《丶》〈明〉《丶》』  本城奏は、一つだけ嘘をついた。  それは、彼女にしてみれば善かれと思った嘘である。  ――あれは、どんな宝石を冠していたのでしょうか。  月社妃が、本城奏に問いかけた。  丘の上の教会で、闇子の使いで本を受け取りに向かった時のことだ。  中身に興味を示す彼女に、真実を伝えて興味を持たさないように、嘘をついた。   封をされた中身に、蒼い煌めきはなく。  真っ黒な輝きを放つ、オニキスの煌めきに満ちていた。  黒い本を口にしたら、好奇心旺盛な少女が開いてしまうのではないのかと。  本城奏はそう思って、つい口にした嘘。   しかし、そこにさしたる意味はない。  サファイアだろうと、オニキスだろうと、勝手に封を開けるような人間ではないのだから。  だが、そこでオニキスだと知っていれば、その後の選択は変わっていたのかもしれない。  それは今更どうしようもない、無駄な後悔ではあるけれど。  正直に、告白します。  私は、かなり早期から、開かれているのが『サファイアの存在証明』ではないことに気付いていました。  気付いたのは、いつだったでしょう。  おそらくは、家族に忘れられ、友人に忘れられ、それでも瑠璃が覚え続けてくれたことを実感したとき。  あるいは、夜子さんから拒絶され、心を僅かに傷付けられたその少し後。  私の目の前に、一人の魔法使いが現れたのです。 「きゃははははっ!」  それは夜子さんのよく似た姿をしている、紙の上の魔法使い。  彼女は私に、違和感の正体を突きつけてくれたのです。 「だってこれは、別の物語。妃ちゃんは、別の本の主人公なのよ!」  もちろん、それを鵜呑みにして信じたわけではありません。  人並み以上に警戒をする私ですから、最初は細心の注意を払っていましたけど。 「……あなたは、何者でしょうか」  神出鬼没の魔法使い。  少女が語るは、私が抱えていた違和感そのもの。  最初こそ疑いに満ちていましたが、僅かな焦燥感が次第に信じるという方向へ傾いていくのです。  ――『〈オ〉《丶》〈ニ〉《丶》〈キ〉《丶》〈ス〉《丶》〈の〉《丶》〈不〉《丶》〈在〉《丶》〈証〉《丶》〈明〉《丶》』  少女は、真なる本の名前を口にした。  口にして、更には見せつけてきたのです。  黒い宝石を冠した、災いを持たらす魔法の本。 「妃ちゃんが望むなら、この先の未来をネタバレしてあげても構わないわよ?」  心底楽しそうに、魔法使いは囁きます。  蒼色の未来ではなく、黒々とした未来を提示して。 「いいえ、結構です」  最初は、少女の誘惑をはねのけました。  少女の感情が邪なものであることは明白でしたし、信用に値する人物ではないでしょう。  あるいは、甘言を弄して私に黒い本に触れさせようとしているのかとも、警戒していました。  しかし。  サファイアの物語は、完全に停滞していました。  瑠璃は私のことを忘れることがないまま、時間だけが過ぎていく。  蒼色の輝きが、幻のように見えてしまっていて。  確かに、何かが違うと思い知らせてくれたのです。 「ちなみに」  魔法使いは、付け加えます。 「オニキスの中身が語られてしまうと――妃ちゃんと瑠璃のお兄ちゃんは、完全なる破局を迎えるわよ!」 「――っ」  その言葉が、トドメでした。  天秤が大きく傾いて、焦りを覚える私に選択をさせてしまいます。  少女が提示する、サファイアとは別の物語。 「オニキスの未来をみた妃ちゃんが、どういう風に絶望するのかが楽しみねえ!」  受け取った私を見つめながら、少女は無邪気な笑顔。 「瑠璃のお兄ちゃんは、何も知らない。知らないまま――妃ちゃんを失うのよ」  そして。  私は、オニキスの未来を目にして。  このままでは――全ての思いが消えてゆくことを、知ってしまったのです。  それが、終わりの始まり。  されど魔法使いは理解していない。  月社妃は、決して物語に屈するような女の子では、ないのだから。  それがまた、更なる不幸を呼ぶことになっても。  月社妃は、我を通し続けるのだ。  それは、いつだったかの記憶。  瑠璃が、サファイアが停滞していることに焦り始め、どうにか進ませようと考えていた時のこと。 「一つ、宣言しておきます」  オニキスの真実を、知ってしまって。  この先、自らの行く先を憂いながら。 「私は、この物語を、終わらせる気はありません。冒頭で停滞しているというのなら、それで結構です」  サファイアを終わらせようとする瑠璃へ、祈るように口にした。  彼はまだ、これがサファイアだと思っている。  私はもう、これがオニキスだと知っている。  けれど。 「当たり前でしょう」  真実を告げることはしない。  この時点で、私はもう終わり方を決めていたから。 「今の私は、世界から独立した存在です。全てを許される、バグのようなもの」 「お前、何を言い出すんだ」  私の変化に、戸惑う瑠璃。  けれど今は、説明する言葉を持ち合わせていません。 「前にも言ったじゃありませんか。今の状況は、私たちに都合が良すぎます。人の目を気にせず手を繋げるなんて、まるで夢のようではありませんか」  違う。  けれど、そうでもいわなければあなたはわかってくれない。 「でも、本はいずれ閉じるんだぞ? どのみち、終わってしまう。未練がましく追いすがっても仕方がないだろ」  その通りです。  瑠璃の、言う通りです。 「未練がましくても、追いすがります。少しでも終わりを引き伸ばせるなら、私は本望ですから」  終わらせないことを、宣言しましょう。  あなたが思うサファイアの物語のまま、これは閉じられるのです。  オニキスだったと、知らないまま。 「だから、もう協力しません。知恵も貸しません。だらだらと引き伸ばして、物語を腐らせてしまいましょう」  魔法の本を終わらせる方法はありません。  だから、語るしかないのです。  結局、半ば押し通すようにして、了承されました。  今はサファイアを終わらせることを考えず、つかの間の停滞に身を委ねましょう。  きっと、これは裏切りなのかもしれません。  一方的に気持ちの整理をつけて、瑠璃に押し付けることになってしまったのですから。  けれども、うかつに本を開いてしまったのはこの私。  警告されていたのに、危険に近付いてしまったのは私なのですから。  約束のデートを最期にして。  私は、私なりのけじめを付けようと思います。  『サファイアの存在証明』  それは、少女の奮闘記なのだとしたら。  『オニキスの不在証明』  それは、少女の喪失の物語である。  忘れられて、思い出すのがサファイアだとしたら。  忘れて、思い知らされるのがオニキスなのである。  二つの物語はよく似ていて、見間違うほど酷似している物語だが。 「――ああ、神よ、これはなんという悲劇でしょうか」  瑠璃とのデートの果てに、神様の失われた教会で、私は呪う。  オニキスの宿命。  黒い宝石が紡ぐ絶望とは――つまり。 「私が、瑠璃への想いを忘れるということでした」  紙の上の魔法使いの語る破局とは、恋心の喪失。  瑠璃が私のことを忘れるのではなく ――私が、瑠璃のことを忘れてしまう。  それが、物語のオチで。  それで、物語が満足したのなら、私は我慢出来たかもしれないけれど。  オニキスの物語の、結末は。  「――きゃっははは! バッドエンドなんだから、そんなんじゃ生ぬるいよね!」  瑠璃への想いを忘れるだけには、留まらず。  オニキスが導く、私の結末は。  私が開いてしまった、黒黒しい魔法の本の台本は。  「瑠璃のお兄ちゃんへの恋心を忘れた妃ちゃんは、他の男に恋をするの」  どこの馬の骨とも分からない相手との恋愛を、強要されて。 「手を繋いで、好きになって、愛して」  瑠璃以外の人と、〈巫〉《ふ》〈山〉《ざ》〈戯〉《け》た恋物語を演じて見せて。 「キスをして、ハグをして、身体を重ねちゃうんだよ」  瑠璃の事を忘れて、他人との愛を語る。  そんなことを、例え演技でも我慢できるはずがないでしょうに。 「――本が閉じて、瑠璃のことを思い出して、私は瑠璃に顔向けが出来ません」  一時でも思いを忘れることに、耐えられなくて。  一瞬でも、他の男を愛することに、耐えられなくて。  「私が愛したのは、たった一人の男だけ」  オニキスが私の移り気を求めるのなら、私は全力で逆らわなければなりません。  想い人への気持ちを忘れて、他人と恋する物語。  『オニキスの不在証明』は、そんな寝取られのシナリオでした。  ――〈許〉《丶》〈せ〉《丶》〈る〉《丶》〈は〉《丶》〈ず〉《丶》〈が〉《丶》、〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈の〉《丶》〈で〉《丶》〈す〉《丶》〈よ〉《丶》。  例え、本が閉じる間の一瞬でも、絶対に無理なのです。 「どうかこの悲劇を、喜劇にしては頂けないでしょうか。誰もが滑稽だと笑うことの出来る、愉快な喜劇へと」  質の悪い冗談です。  よりにもよって、浮気を求める物語ですか。 「そして許されるのであれば、私の恋を叶えて下さい。そう、たった一度で、構いませんから」  私は、瑠璃のことを愛しているのです。  心から、あなたのことが大好きなのです。  だから、だから、それだけは信じて下さい。 「神に誓って、私は生涯をかけてあなたを愛しましょう」  例え、どんな物語が開いたとしても。 「神に誓って、本懐を遂げましょう」  他の男になんて、髪の毛一本触らせません。 「――瑠璃、あなたは神に、誓えますか?」  私は、誓えますよ。  すべてを捧げて、誓うことが出来ますよ。  なんなら、証明してみましょう。  オニキスが私の心変わりを求めるなら――私も相応の覚悟で応えます。 「他の男を愛するくらいなら、瑠璃への想いを抱いたまま、死んでみせましょう」  妾は、馬鹿だ。  本物の、大馬鹿者だ。  月社妃の人間性を理解できないまま、得意気に物語を提示して。  オニキスの影響で、妃ちゃんが他の男と浮気をして、身体を重ねてしまったら。  例え物語が閉じた後、瑠璃のお兄ちゃんへの気持ちを思い出したとしても、罪悪感に押しつぶされて、こじれるだろうと思っていたのに。 「――妾は、何をしている」  目の前で、生命を散らせる月社妃を目撃して。 「妾はどうして、悲劇を語っている」  血化粧を咲かせながら、その身を持って瑠璃のお兄ちゃんへの愛を貫いた少女を見て。 「これが、私の覚悟ですよ」  直前まで、笑っていた。  妾と愉快そうに話をして、先の未来が不安だねと笑っていた。  浮気は嫌だけど、このままじゃどうしようもないねとか。  不安めいた様子に、妾は満足していて。  それなのに、まるで流れるように、飛び込んだ。  止めるまもなく、助けるまもなく、一瞬のことだった。  「どうして」  撥ねられる瞬間、月社妃の表情を見た。  オニキスに絶望して、苦痛に歪んでいるわけではなく。  他の男に抱かれることを、悲しんでいるわけではなく。 「ざまあみろ」  月社妃は、笑っていた。  現実を嘲笑うかのように、笑っていた。  魔法の本が、何かを変えることなんて、出来ないとでも言わんかのように。 「私の愛は、私だけのもの。他の誰にも、揺るがせない」  負けた。  叶わなかった。  夜子のために、どうにかしてその想いを潰したかったのに。  これじゃあ、全てが台無しで。  ここからは、悲劇しか待ち受けていないじゃないか。  そうして、月社妃は命を散らせた。  妾に見せるつけるかのように、最期を迎えた。 「……きゃははっ、もうどうにでもなっちゃったらいいや」  所詮、妾は他人を不幸にする魔法使い。  誰一人幸せにできないことは、産まれた時から知っていた。  夜子は、月社妃のことが大好きだった。  だからこそ、彼女は夜子の親友で在り続けなければ、夜子の幸せは紡がれない。  彼女は、死んではならなかった。  生きたまま瑠璃のお兄ちゃんを諦めてくれたら、良かったのに。 「喪失は、夜子を不幸にさせてしまう」  災いを振りかざし、混沌に陥れる魔法使い。  もう、それでいいかなって。  何が正しいのかわからないまま、紙の上の魔法使いは間違いを犯していく。  ――そして、月社妃は自決したのだ。  因果目録、第四面。  月社妃が、黒光りの物語の中で貫いた想い。  それは痛いほど真っ直ぐな、一途な恋模様。  彼女にとって、四條瑠璃こそが全て。  それ以外を求められるなど、生きるに値しない物語だった。   因果目録、第五面。  そして、四條瑠璃は何を思うだろうか。  さあ、今こそ一年前を思い出そう。  覆い隠されている現実を、確かめようじゃないか。  妃が死んで、自暴自棄になって。  それでも、サファイアの物語の違和感に気付いただろう? 「――真実を、教えてあげる」  壊れかけた感情の中、紙の上の魔法使いは教えただろう。  オニキスの存在と、そこに覆い隠された真実を。 「真実の剣を、抜いてご覧なさいな」  既視感を、覚えなかったのか。  俺はかつて、一年前にも同じことを聞いていた。  妃の想いを、とっくの昔に知っていたはずだ。 「クリソベリルが、教えてくれた」  けれど、何故今になって忘れている?  それはとっても単純な真実。  さあ、思い出してみよう。  クリソベリルから、真実を教えられてから。  妃が、自らの愛情を貫くために、自殺したことを知ってから。  俺は、どうなったんだ?  幻想図書館に存在する人間の中で、誰が一番脆かったのだろう。  事情を知っている人は、必ず夜子だと答えると思うし、あるいは妃と指摘する人もいるかもしれない。  月社妃の愛情を見せつけられた妾は、半ば自暴自棄になっていた。  上手く物語を語れなくて、失敗に失敗を重ねて、更なる失敗を犯したことに気付いてしまう。  妾は、正当化したかったのだ。  あるいは、信じたかったのかもしれない。  月社妃が自殺してしまったこの失敗を、未だカバーできると信じていて。  瑠璃のお兄ちゃんなら、それさえも乗り越えて夜子を愛してくれるのではないかと思っていた。  ――〈盲〉《丶》〈信〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。   四條瑠璃と、月社妃は、どこまでもお似合いだったのかもしれない。  その光景を目にした妾は、もはや何も考えることが出来なくなっていた。  妃ちゃんが死んで。  それでもまだ、妃ちゃんが生きてるのではないかと可能性を探る瑠璃のお兄ちゃんに。  望むなら、真実を伝えようと近付いた一年前のあの日。   もちろん、瑠璃のお兄ちゃんは知りたがったから。  瑠璃のお兄ちゃんに、全ての真実を伝えたら。 「〈な〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》、〈そ〉《丶》〈う〉《丶》〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈か〉《丶》」  真面目な表情で、静かに納得された。  予想外に、普通の返しをされてしまったのである。  驚きや、怒りさえ、何もなく。  とてもとても、穏やかな表情だった。 「〈納〉《丶》〈得〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》〈よ〉《丶》。〈確〉《丶》〈か〉《丶》〈に〉《丶》、〈あ〉《丶》〈い〉《丶》〈つ〉《丶》〈ら〉《丶》〈し〉《丶》〈い〉《丶》〈な〉《丶》」  安堵した? 確かにそう見えたの。  納得した? 確かにそう見えたの。  それは、妾が思い込んでいたからなのか。  はたまた、本当にそういう表情を浮かべていたのか。 「〈ち〉《丶》〈ょ〉《丶》〈っ〉《丶》〈と〉《丶》、〈考〉《丶》〈え〉《丶》〈を〉《丶》〈整〉《丶》〈理〉《丶》〈す〉《丶》〈る〉《丶》〈か〉《丶》〈ら〉《丶》、〈一〉《丶》〈人〉《丶》〈に〉《丶》〈さ〉《丶》〈せ〉《丶》〈て〉《丶》〈く〉《丶》〈れ〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈か〉《丶》」  穏やかな表情で、瑠璃のお兄ちゃんはそういった。  思った以上に冷静さを保っていたことに、心の底から安堵して。  なんだかんだで、事態はまだ取り返しの付く範囲内かもしれないと、希望さえ感じていた。  瑠璃のお兄ちゃんが、こうまで冷静に受け止めてくれたなら。  今すぐは無理だとしても、近い将来、夜子の気持ちに応えてくれる日がくるのではないか。 「〈俺〉《丶》〈は〉《丶》、〈冷〉《丶》〈静〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》」  その言葉を信じて、妾は退室した。  最期まで落ち着いた言葉で、最期まで冷静さを失わなかった瑠璃のお兄ちゃんは。  ――翌日、 〈首〉《丶》〈を〉《丶》〈吊〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》〈死〉《丶》〈ん〉《丶》〈で〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。  〈当〉《丶》〈た〉《丶》〈り〉《丶》〈前〉《丶》〈の〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈に〉《丶》、〈死〉《丶》〈ん〉《丶》〈で〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。  〈冷〉《丶》〈静〉《丶》〈さ〉《丶》〈を〉《丶》〈貫〉《丶》〈き〉《丶》〈通〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》、〈死〉《丶》〈ん〉《丶》〈で〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。  〈ま〉《丶》〈る〉《丶》〈で〉《丶》、〈そ〉《丶》〈う〉《丶》〈す〉《丶》〈る〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈が〉《丶》〈自〉《丶》〈然〉《丶》〈な〉《丶》〈事〉《丶》〈の〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈に〉《丶》、〈死〉《丶》〈ん〉《丶》〈で〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。  〈愛〉《丶》〈す〉《丶》〈る〉《丶》〈妹〉《丶》〈の〉《丶》〈後〉《丶》〈を〉《丶》〈追〉《丶》〈う〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈に〉《丶》、〈死〉《丶》〈ん〉《丶》〈で〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》。 「――あ、あああっ」  これじゃあ、月社妃と同じじゃないか。  同じ失敗を、目の前で起こしてるだけじゃないか。  どうして気が付かなかったのだ。  そうして考えが至らなかったのだ。  冷静なはずが、ないだろう。  冷静になれる時点で、壊れてしまっているじゃないか。  全てを知った時点で、瑠璃お兄ちゃんの心は死んでしまった。  あとは身体が、心を追いかけるように従うだけ。  終わった、と。  妾はすぐに、理解した。  これでもう、何もかもうまくいくことはなく。  二人の兄妹を死に追いやった事実が、変わらずに残るばかりだ。 「こんな、はずじゃなかったのに」  後先考えず、行動していたのは誰?  ――〈ざ〉《丶》〈ま〉《丶》〈あ〉《丶》〈み〉《丶》〈ろ〉《丶》。  死体が、嘲笑っているように見えた。  魔法の本にはしゃいで、人の心を観察する魔法使いを、心底軽蔑しているように、見えてしまって。  ――〈そ〉《丶》〈れ〉《丶》〈が〉《丶》、〈不〉《丶》〈幸〉《丶》〈と〉《丶》〈い〉《丶》〈う〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈だ〉《丶》。  存在が、災い。  まさに、その通り。  けれどこれは――あんまりだ。    ――〈そ〉《丶》〈れ〉《丶》〈が〉《丶》、〈因〉《丶》〈果〉《丶》〈な〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》。  やっぱり妾は、腐れ魔法使い。  そのことを強く自覚して、それでいいやと諦める。  悪役は、悪役らしく貫こう。  不幸をばらまきながら、それでも夜子だけでも幸せに。  例え、それがどんなに空虚な幸せでも。   夜子がそれに気付かなければ、構わない。  現実には、月社妃も、四條瑠璃もいなくなって。  妾のせいで、まともな幸せなんて叶わないのだから。 「ごめんなさい、ごめなんさい、ごめんなさい」  他人の不幸の上に、我儘な幸福を創りあげましょう。  空っぽで、虚しくて、すっかすかの幸せを。  四條瑠璃の死を前にして、終わってしまっていた。  物語は、一年前のあの日に、終わってしまっていた。  全ては月社妃が死んだ日に、終わってしまっていたのだ。  月社妃がオニキスを開いたのは、私の予想外の出来事でした。  そう言い訳したところで、責任逃れが出来るとは思いません。  私は、オニキスの物語を良しとしてしまっていたから。  魔法の本を切り裂けば、それで全てが解決すると知りながら、その方法を教えなかったのですから。  魔法の本に踊らされて、四條瑠璃との間に亀裂が入ってくれたなら。  そう考えた時点で、私が最悪であることは明らかなのです。  クリソベリルは、遊行寺家に取り付いている本の化身のようなもの。  理央と同じく紙の上の存在ですが、彼女よりはもっと根源的な存在です。  故に、語りたがりの本の意志に甘く、物語が波乱に満ちることを願っていて。 「――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」  二人の死を前にして、私は筆を執りました。  もはや、事態は取り返しの付かないレベルに至っていながら、それでも私は諦めなかったのです。  全てをなかったことに、したくて。  それでもまだ、夜子に幸せを与えてあげたくて。  都合の悪いことを、消し去って。  あくまで未来に、幸せを描いてあげたくて。  遊行寺闇子の、一世一代の執筆作業。  これから夜子が幸せになれるようにと、細すぎる綱渡りを仕掛けることにしました。  『パンドラの狂乱劇場』  それは、夜子が幸せになるためのストーリー。  なかったものは、補えばいい。  補えないものは、作り出せばいい。  分冊。  パンドラに従って用意された二冊の本。  人名を冠した魔法の本は、二つあった。 『月社妃』  そして。 『〈四〉《丶》〈條〉《丶》〈瑠〉《丶》〈璃〉《丶》』  瓜二つの偽物を用意して、夜子のために語って欲しい。  間違えを正さないまま、新しい間違えを犯していく。  それでも。  それでも、ぐちゃぐちゃになった現実を偽るために。 「――もう、これしかないのよ」  生命を削って刻んだ本を見ながら、全てをパンドラに託していく。 「都合の悪いことは、全て忘れて」  貴方だけは、幸せにね。  「私は、世界一の悪党に成り果てたから」  惨めに苦しみながら、死に逝きます。  全ての真実が伝わった瞬間、最初に込み上げてきた感情は、納得だった。  ――〈や〉《丶》〈っ〉《丶》〈ぱ〉《丶》〈り〉《丶》。  頷きが、まず初め。  もちろん、驚きや怒り、悲しみも滲み出ていたけれど、何より一番の気持ちは納得だった。 「瑠璃さん……」  心配そうに、彼女は視線を向ける。  怯えや戸惑いが、如実に現れていた。  白真珠は、偽りの物語だった。  月社妃の死の真相は、一途な恋を貫くための自決。  そして、それを知った俺が、既にこの世を去っていたという真実。  ――〈や〉《丶》〈っ〉《丶》〈ぱ〉《丶》〈り〉《丶》。  だから俺は、今を生きることが出来るのだろう。  大切な人を失いながら、それでも立ち直れる強さがあったのは、俺自身が強かったからではなく。  俺はとっくに死んでしまっていて、今ここにあるのは紙の上の意志なのだから。  定められたシナリオをなぞるように、俺はここに生きているのだ。  ――〈や〉《丶》〈っ〉《丶》〈ぱ〉《丶》〈り〉《丶》。  紙の上の存在だったのは、夜子ではなく。  失ったものを埋めるように、四條瑠璃は紡がれた。 「瑠璃さん……!」 「……なんだ?」  怯える彼女が、切実に名前を呼ぶ。 「大丈夫、ですか」  こうまで彼女が揺れているのを、もしかすると初めて目にしたのかもしれない。 「大丈夫さ。こんなもの、とっくの昔に覚悟していたからな」  それは、強がりなんかじゃなく。 「むしろ、納得だ。俺は今まで、どうして自分が普通に暮らしていけているのか、不思議だったから」  都合の悪いことを忘れてしまっているのは、忘れるようにと設定されていて。  都合のいいことだけを認識し続けて、今まで生かされてきたのだろう。  俺も、理央と同じ。  そして、妃と同じように――死して、紙の上に書き留められた、四條瑠璃の残り粕なんだろう。  人間として、生きてはおらず。  〈曖〉《あい》〈昧〉《まい》〈模〉《も》〈糊〉《こ》に、現実と空想の間を揺れ動いている。 「――あんたは俺が、怖いか?」  知ってたか?  どうやら俺は、バケモノらしい。 「遊行寺闇子によって、創られたマガイモノだよ」  夜子の幸せのために、生きることを定められていたのだろう。  道理で、俺の脳裏から夜子が離れないはずだ。 「怖いというのなら、怖いです」  彼女は、静かに言う。 「真実を知って尚、取り乱さない瑠璃さんが、怖い」 「……ははっ」  狂喜乱舞するとでも、思ったのだろうか。  そんなことをしても、何も意味が無いことを知っている。  「だけどな、やっぱり納得できてしまうんだよ。妃が死んでから、当時の俺の心境を思い返してみれば、到底立ち直れるとは思えない」  むしろ、そこで妃の死の原因を知ってしまったのなら、後を追うのが自然だと思う。  「俺は、脆弱な人間なんだ。大切な人が消えるだけで、壊れてしまうくらいにな」  一年前に、全ては終わっていた。  今続いている物語は、遊行寺闇子の諦めきれない蛇足なのだろう。 「だけど、決して何も感じていないわけじゃない」  俺が、俺であるのなら。  「――妃は本当に、大馬鹿者だよ」  俺が、死んでいたことなんかどうでもよくて。  俺が、紙の上の存在だったことなんて、どうでもよくて。  「一人で何でも勝手に決めて、何の相談もせずに死にやがって」  馬鹿かよ、本当。 「お前がいなくて、俺が生きられるとでも思っていたのか」  お前が愛した兄は、お前が想っている以上に弱いんだ。 「これが、秘められていた真実か」  なるほど、覆い隠したくもなるだろう。  全ては一年前に終わっていて、今ある俺達は、凄惨な過去を誤魔化すための蜃気楼なのだから。  空想。  夢を見るのは、終わりにしなければいけないな。 「……これから、どうするつもりですか」 「別に、何をすることもないかな」  緩やかに、口を開く。 「全部、終わっちまってるからな。今更何をなそうとも思わない」  言ってしまえば、これは消化試合のようなものなのだから。 「……だが、与えられた時間は大切にしたいと思う」  どういう意図で、『四條瑠璃』が残されていたとしても。 「夜子のことは、放っておけないな。確かにこの真実は、あいつには重すぎる」 「私だって、正直どうしたら良いのか……」  気丈な彼女でさえ、多大なショックを受けているくらいだ。 「死んだ人間が、生きている人間にしてやれることはない」  それは、絶対不変の理だが。 「死んだ俺にも、あいつに何かをしてやれるなら、本望だ」  簡単に命を手放してしまった俺にも、役目があるのだろう。  それが、今ここに存在している意味。  遊行寺闇子やクリソベリルが何を願おうとも、俺は俺のやり方でこのチャンスを活かそうか。 「……瑠璃さんのその気持ちでさえ、設定なのかもしれないんですよね」  紙の上の存在は、すべからく記述に縛られるが。 「どうなんだろうな。それを否定する事はできないが」  ひょっとすると、今のこれは創られた感情なのかもしれないが。 「都合よく動かしたかったら、もっとやりようがあったような気がするんだ。お人形遊びのように、淡々と演じさせることも出来たはず」  理央を縛り付けたように、設定で雁字搦めをしていれば、俺は夜子のためだけに尽くせただろうに。 「……確かに、本当に全てが思い通りに動かせるなら、この真実だって知ることは出来なかったはずです」 「そこに、穴があるんじゃないかな。理央のときと、俺のときとの違い」  だからこそ、この気持ちが俺自身のものだと思うことが出来る。  疑えばきりがないけれど、今はもう真っ直ぐに突き進むしかないのだから。 「あるいは妃だって、自らの意志で退場した。設定は、思った以上に都合の良いものではないらしいな」  先ほどまで、クリソベリルがいた場所へと目を向ける。  読み終わった頃には、もう既に姿はなく。 「俺は、全てを知っても何も変わることはない」  何を恐れて、真実を覆い隠そうとしたのか。 「安心しろ。俺だって夜子を悲しい目に遭わせたくないからな」  あいつにとって、それが目を逸らしたい過去ならば。 「真実を知っても尚、俺は今まで通り、変わらなく接するぞ」  自分が紙の上の存在であることを理解しても、それで何が変わるわけではない。  それより少し前から、そういう未来を予想していただけに、衝撃は少なかった。 「おはよう」  凄惨な真実を紡いでも、朝はやってくる。 「おはよ、何だか元気だね! 今日の瑠璃くんは、テンションたかめ?」 「そう見えるか?」  決して、無理して高めているわけではないんだけどな。 「もしかして、何か良いことでもあったりして?」 「そういうわけじゃねえよ」  いい事なんて、何もなかった。  変わったのは、心構え。  パンドラの中身がどうであれ、俺は今を大切にすると、決めていたから。  過去の絶望に、染まることはなく。  強い自分で在り続けると、妃に誓ったんだ。 「なあ、理央はさ」  それは、思いついた疑問。 「ほえ?」  俺が紙の上の存在であることを、知っていたのかと。  そう質問しようとしたところで、思わず言葉が詰まった。 「……いや」  知っていたのだろう。  知っていて、しかし、それを告げることを禁止されていた。  紅水晶のときの、理央の苦しみを忘れたか。 「色々、大変だなって、思っただけさ」  何かを誤魔化すように、俯いた。  なるほど、それは簡単に口にしていい言葉ではないように思う。  理央が、どうして自らの秘密を隠したかったのか。  頭では理解していたつもりだが、一層心で理解できたと思う。 「たいへん?」  これは、口にできないな。  誰もしらないほうが、確かに幸せなのかもしれない。  互いの存在を共感し、分ち合おうと思った俺の心は、直ぐに閉ざされる。  「ああ、まあ、気にするな」  誤魔化すように、笑いかけて。  その仕草に、理央は何かに気付いたのか。 「……それでも瑠璃くんは、ここにいてくれるんだね」  微笑を浮かべながら、見守るようなその言葉。 「それはきっと、瑠璃くん自身の意志だと思うよ」  「そうかな」  きっと。  理央もまた、俺が知ったことに気付いていると思う。  一見して天然な女の子だけれど、その心の内側では、色々と気にかけていて。 「そうだよ! だから理央も、毎日頑張っちゃうよー?」  ふーん! と自慢気に声を上げて、腕まくりをしてみせる。  程よい肉付きの二の腕が、僅かに揺れて。 「何よ、やたらにテンション高いわね」  寝起きの夜子が、姿を見せる。 「おはよーございます皆さん! あはは、少しお寝坊してしまいました」  夜子の後を追うように、彼女も姿を表した。  珍しく、今日は遅かったらしい。 「かなたも……うるさい」  いつもよりもテンション高めの彼女に、夜子も不機嫌面。 「いいじゃないですかー! ニコニコ楽しくしましょうよ!」  ギアの上げ方が不自然だと思ったけれど、それは彼女なりの気遣いだと受け取っておく。 「今日のかなたは、少しうざいわ。いえ、それはいつものことかしら」 「ひ、酷いですー! 瑠璃さーん、可愛いかなたちゃんを慰めてあげてくださいよー!」 「確かに今日は、鬱陶しいな」 「がーん!」  オーバーリアクションで落ち込んでみせる彼女。  そんな彼女をスルーして、夜子は席に座る。 「なあ、夜子」 「何」 「魔法の本を、一冊見せて欲しいんだけど」 「……は?」  目を丸くさせて、驚いてみせる。  隣にいた彼女も、間を見開いて。 「どういうつもり? また、変なことを企んでいるんじゃないでしょうね」 「そういうわけじゃねえよ。ただ、少し昔を振り返りたくなったんだ」  その言葉に、彼女は視線を伏せる。  「サファイアは、妃が最期に開いた物語だろ。それを、もう一度確認したいんだ」  サファイアではなく、オニキス。  そんなことは、わかっているが。 「……キミは、平気なの?」  様々な言葉が、省略された言葉。  不安げな夜子の言葉が、嫌にまとわりつく。 「当たり前だろ。ただ、ノスタルジックな気分になっただけ」  当時のことを思い出したいんだ。  そんな俺の言葉に、夜子は少し悩んでから。 「……駄目。悪戯に触れて、開いたりしたらどうするのよ」  魔法の本の担い手として、冷静な判断を下す。 「というわけで、諦めなさい。キミには、ノスタルジーなんて似合わないわよ」  顔を背けて、視線をそらす。  取り付く島もなく、断られてしまったらしい。 「残念でしたね」  小声で、彼女が声をかける。 「何か、気になることでもあったんですか?」 「……別に、何でもねえよ」  大したことではない。 「まあ、そちらよりも、クリソベリルさんの出方の方が気になりますしね」  真顔で、彼女は口にした。 「真実を知ってしまったら、瑠璃さんがどう取り乱すかが恐ろしくて、頑なに隠し続けていて」  それでも、俺は知ってしまった。  自分が、この世に存在していないことを、知ってしまった。 「けれど、冷静な瑠璃さんの反応は、彼女にしてみれば予想外だったんじゃないでしょうか。あのときとは違う瑠璃さんを見て、戸惑っているのでは?」  一年前、全てを知った俺は、妃の後を追うように自殺した。  だけど今回は、そんな弱さを見せたりはしない。  「どうだろうな」  俺が真実を知ったということは、爆弾のスイッチを手にしたものと同じ。  夜子に全てを伝えるという行為を選択してしまったら、たちまちこれまでの日常は崩れ去るだろう。  クリソベリルは、俺に選択肢を与えたくなかったのだ。  夜子に全てを伝えるかどうかの、選択肢を。 「とりあえず、『四條瑠璃』を見つけることが先決かな」  自らの本を見つけ出して、どのような設定に縛られているかを確認したい。 「結局さ」  横目で、夜子の様子をうかがいながら。 「過去がどうであれ、関係ないんだよ。俺の不始末は俺の責任だし、それを誰かに背負わせたいわけじゃないんだ」  妃が自殺してしまったのは、軽々に魔法の本を開いてしまった妃自身の責任だ。  俺が自殺してしまったのは、真実を受け止めることの出来なかった自らの弱さが原因だ。 「四條瑠璃が、今何を求めているかなんて、余りにも明白だ」  残された者達が、幸せになってくれればそれでいい。  幻想図書館が、笑顔のまま続いてくれたらそれでいい。 「クリソベリルが夜子の幸せを願っているというのなら――俺達の目的は、同じはずなんだけどな」  なのにどうして、違えているのか。 「……幸せの形が、違うのでしょうね」 「それはきっと、間違っていると思うんだけど」  歪な愛情は、幸せを形作ることは出来ない。  「幸せっていうのは、人為的に用意されるものではなく――自然に、生まれるものだと思うんだ」  俺が、この図書館に生きてた頃。  誰が何をしようとしたわけではなく、ただ幸せだったから。 「……わかりました。それなら私も、協力しましょう」  彼女はにっこりと、答えてくれた。 「幻想図書館を笑顔にする。それが、名探偵かなたちゃんの使命です!」 「あんたは十分、笑顔をくれてるよ」  本当の本当に、感謝してるんだ。  それを、言葉にするのは恥ずかしいけどな。 「やーん、熱い眼差しで見つめないでくださいよーん!」  照れながら恥じらう彼女の笑顔に、いつしか俺は惹かれていく。  そして、その夜のことだった。  そろそろ眠りにつこうかと灯りを消そうとしていると、扉がノックされる。 「……瑠璃、起きてる?」  控えめな声がして、ビックリした俺はすぐさま扉を開けた。 「どうしたんだよ、こんな時間に」  日付が変わろうとする時間帯。  それは、夜子が最も読書に集中しやすいタイミングだというのに。 「何か、あったのか?」 「えっと」  あの夜子が俺の部屋を尋ねるなんて、そうそうない。  顔を合わせないようにするのはいつものことで、間違っても自分から会いに来てくれることはなかったのだが。 「これ、見たかったんでしょう?」 「なっ――」  夜子が差し出した、一冊の本。  それは、蒼い煌めきを放つ、『サファイアの存在証明』だった。 「お前、どうして」  触れて、しまっているんだよ。  思わず声を荒らげようとする俺へ、夜子は神妙な面持ちで答えてくれた。 「瑠璃が、気になるからって……だから、とってきた」  しおらしく、戦果を報告するかのように。 「いや、だからってお前」  夜子が、言ったんじゃないか。  悪戯に触っては、いけないって。 「だって、キミの気持ちもわかるから。あのときは強がったけれど、やっぱり、キミが望むなら見せてあげたくて」  夜子らしくない対応を見ていると、変わりつつあるのかなという気持ちが生まれて。  しかし、無防備に魔法の本に触れる行為に、たまらなく危機感を覚えてしまう。 「大丈夫、この本はあたしを主人公にすることはないと思う」  表紙を触って、感慨深そうに。 「それどころか、とても満足しているようにみえるわ。まるで、今も語っているかのよう」 「そうなのか?」  担い手である夜子がいうのなら、間違いはないのだろうけど。 「一年前に、語ったから。魔法の本は、そんなに頻繁に開くようなものではないもの」 「俺からしてみると、開きまくりなんだがな」 「それでも、同じ本が開いたことはなかったでしょう? よっぽどのことがない限り、二度目はないわ」 「……それは、ある意味恐ろしいけどな」  二度目が開いた時に、どうなるのか。  不穏な言葉に、一抹の恐怖を覚える。 「でも、どうして突然? やっぱり、妃が自らの本を破いたから……?」 「そういうわけじゃないさ」  別に、過去を引きずろうとしているわけではなく。  前を向くために、気になることを確認しておきたかっただけ。 「お前は、一年前にも言ったよな」  あの頃を、思い出しながら。 「サファイアは、開かれているって」 「……そうだけど?」  当たり前のことだろうと、首を傾げる。 「それを確認できたら、十分だ。ありがとな、夜子」  差し出された本を、受け取って。  夜子の言葉を信じて、サファイアが開かれることはないと腹をくくった。 「それじゃあ、満足したらすぐに返すこと。あと、他の誰にも読ませちゃ駄目よ?」  じっと、俺を見つめて。 「キミだから、特別に貸してあげたんだから。ちゃんと、あたしの期待に応えなさいよ」 「……お、おう」  特別。キミだから。  それは夜子らしくない、優しい扱いだ。 「それじゃ、おやすみなさい」 「おやすみ、夜子」  ほんのり薄く、微笑んで、夜子は扉の向こうに消えていく。  珍しく親しげのある言葉を貰って、ついつい舞い上がりそうになってしまった。 「サファイア、か」  触っても大丈夫と、言われても。  しかし、警戒してしまうのはしかたがないよなあ。  思えば、自ら魔法の本を読んだことは、一度もなく。  いつだって、巻き込まれる側だったなあと思い返す。 「俺は、主人公って柄でもないのかな」  それとも、俺が紙の上の存在だから、創られた主人公には興味を示されなかったのかもしれない。  メインを据える、ヒーローは、作られたものではなく、自然に産まれたものであって欲しい。  そういう意味では、『四條瑠璃』は、永遠に主人公にはなれないのだろう。 「――なれなくて、いいっつうの」  幸せになれるなら、モブキャラで構わない。  最も、それさえも実現不可能であることは、痛いほど理解しているが。  幻想図書館。  魔法の本。   紙の上の存在――クリソベリル。   それらの言葉で検索しても、眉唾の情報しか引っかからない。  インターネットは便利なものではあるけれど、局地的な情報には疎い。 「……ふぅ」  思いっきり身体を伸ばして、一休み。 「難儀なものですねえ」  瑠璃さんが受けてきた受難は、私の想像以上のものでした。  明るさを信条とする私でさえ、思わず目を伏せてしまうほどのものでした。 「瑠璃さんは、もうこの世にいなくて」  目の前にいるのは、生前の彼を模した存在。  いわゆる紙の上の存在として、都合よく生かされているだけ。 「……だから、何だというのでしょうね」  だからって、何を諦めろというのでしょう。  彼が私に向けてくれた笑顔や言葉は、まさしく本物なのですから。 「そんなに瑠璃のお兄ちゃんのことが、好き?」  私の背後で、クリソベリルさんは笑っています。 「……相変わらず、突然の登場ですね。無礼ですよ」 「あらら、驚かないのね。貴女は、肝が座りすぎているわねえ」 「予想はしていましたから」  むしろ、遅すぎたくらいに。 「部外者の癖に、関わり過ぎなのよ。言っておくけれど、貴女がどんなに想ったところで、あれは紙なんだけど?」  あれ。  彼を人ではなくモノとして、指し示さないで欲しい。 「あははっ、下らないことを聞かないでくださいよ。私の想いは、他の何者にも遮られないのです!」 「……ふぅん、あっそう」  にやにやと、にやにやと、笑い続けて。 「随分と余裕がなさそうですね。さすがの魔法使いさんも、困っているように見えますが」 「困っている? 妾が?」  鼻で笑う、魔法使い。 「別に、どうでもいいのよ。確かに妾はパンドラの物語に沿おうと思っていたけれど、それはあくまで闇子の意志なのだし」  余裕ぶって、笑っているようだけれど。  声色が、少し苛立っている。  やはり、少女にとって現状は、あまりよろしくないものらしい。 「瑠璃のお兄ちゃんが真実を知った時点で、闇子の未来図は消滅しちゃった。だったら、後は妾の好きにさせてもらうだけよ」  好きに。  とは、どういうことでしょうか。 「……魔法使いさんは、まだ何かを企んでいるのでしょうか」  一歩、踏み込んだ質問を。 「あなたにとって、夜子さんとはどういう存在なのですか」  夜子さんを幸せにするために。  そういう言葉を口にしながら、私たちの前に立ちふさがっていて。 「夜子には、同情しているのよ。あの白髪赤目は、生きることを大いに難しくさせたでしょうから」  自ら、同じ物を持ちながら、同情する。  魔法使いさんも、過去に嫌な思い出があったのかもしれません。 「妾は、知っているのよ。呪われた少女は、絶対に幸福を手にすることは出来なくて」  魔法使いさんは、夜子さんの幸せの存在を否定して。 「紙の上にのみ、夜子の幸せは存在する。だから妾は、闇子の用意した台本の幸福を、魅せてあげたかったのに」  諦めにも似た感情が、差し込む。 「――結局、どうでもいいのよ。妾は不幸を振りまく魔法使い。結果的に、愉快な悲劇を見せてくれたら、満足なのだから」  鋭い眼光で、私を捉えて。 「魔法使いさんは、まだ何かをするつもりなのでしょうか」 「夜子に、現実は酷いものだと教えてあげる。かつての妾のように、絶望に染め上げられながら、紙の上の幸せが一番だと語ってあげる」 「――無駄ですよ。夜子さんには、瑠璃さんがいます。名探偵かなたちゃんだって、味方をしているのですから!」  魔法使いさんが、どんな魔法を駆使しても。  夜子さんには、素敵な友達がいるのですから。 「きゃははっ、素敵で格好いい言葉。やっぱりかなたちゃんは、恐ろしい相手だけれど」  諦めた魔法使いは。  不幸を振りまくと決めた魔法使いは。  もはや、他人を傷付けることを厭わない。 「――ねえ、知ってる? 魔法の本は生きてるの」  それは、最初に聞かされていた言葉。 「生きているから、語りたがる。生きているから、開きたがる。けれど、魔法の本を開くには、他者の意思が必要よ」  だからこそ、開くものの意志が必要で、協力者が必要なのだ。  魔法の本が開くには、本そのものと、その物語を願う人間が必要。  触れた本人が願わなければ、本は物語を展開できなくて。 「誤解してはいけない。夜子はいつだって、被害者ではなく加害者だったのだから」 「……え?」  それは、えっと、どういう意味? 「遊行寺夜子は、呪われた災厄の少女。そう呼ばれることもあったけれど、しかし、それは外見が故の言葉だけではないのよ」  外見、だけではなく。 「魔法の本に、愛されて。魔法の本を、担うことが出来て。魔法の本が、従う存在」  だから。 「夜子が魔法の本を願う限り、彼らもまた夜子の意志に応えようとする。偶然を装いながら、語らせたい人間の元へ、魔法の本を届けるのよ」  魔法使いさんの言葉の意味が、わからないまま。  ふと、私は一つの気になる点を思い出してみました。  ヒスイを初めとした、この一年間の魔法の本の語りぐさ。  連続して開かれ続けてきた過去を思い返すと、開いたきっかけはあまりにも偶然です。  ヒスイは、瑠璃さんの自室にたまたま置いてあったり。  オニキスは、弱っていた月社さんの前にたまたま置いてあって。  アメシストは、私の部室にたまたま置いてあって。 「妾があなた達に魔法の本を届けていたのは、それを語って欲しい人間がいたから」  ローズクォーツは、魔法使いさんが理央さんへ提示して。  ブラックパールは、魔法使いさんが汀さんへ提示した。 「――夜子が、物語を願ったから。すべての本は、夜子の願いに応えているだけ」 「なっ――」  思わず、驚きに目が見開きます。 「気付いていなかったのかしら? タクトを振るっているのは、妾じゃないわ。妾は所詮、道化にすぎない」 「魔法の本が起こす悲劇は、夜子の心の闇が創りだしたもの。自分勝手な欲望を、無自覚に魔法の本が叶えていく。それが、災いを振り起す腐れ魔法使いの真実よ」  魔法の本の根源は、夜子さんの欲求。  そんなことが、ありえるのでしょうか? 「だから妾は夜子のために動いているの。夜子の本当に望む幸せを、届けたくてね。だって、妾を生み出したのは夜子だもの」  夜子さんと同じ、白い髪、赤い瞳。  紙の上の存在は、作られたものというけれど。  それじゃあ、クリソベリルを産んだのは誰? 「心の何処かで、鬱陶しいと思っていたのよ。大好きな瑠璃のお兄ちゃんに近付く悪い虫。それを排除するために、妃ちゃんは迫害されて」 「もう、黙ってくれませんか」 「あれが自分の願いだと気付かないまま、妃ちゃんを失ったことに塞ぎこんで。きゃはは、本当は少し、嬉しいくせにね!」 「……それ以上は、不要です」 「次は、理央ちゃんね。設定に縛られながらも、べたべたべたべたいちゃついて。目障りになったから、消えてほしいと思ったのかしら?」  ノリノリの魔法使いは、止まらない。 「瑠璃のお兄ちゃんが初恋を引きずったままなのが許せなくて、妃ちゃんを開いて見せて。残酷な物語の果てに、見事失恋をさせたわね」  怒りが込み上げてきて、我慢できず。  それでも、懸命にこらえ続けていた。  それが、魔法使いさんの狙いだと、わかっていたから。 「そうとも知らないまま、よくもまあ夜子のためと頑張れたものよね。原因は、常に夜子にあったというのに」  真実を知られて開き直った魔法使いさんは、悪びれることもなく述べて。 「……だから、何ですか。それでも夜子さんが、その願いを口にしたわけではないのでしょう?」  心の中で、嫌な考えに至ったとしても。  夜子さんは、それを本気で願ったりはしない。 「夜子さんの意志に答えたなんていいますが、それは一方的に解釈しているだけなのでは?」  原因を、他者に求めないで欲しい。  幻想図書館をかき乱したのは、他ならぬ魔法使いさんの方だ。 「ふぅん、そういう解釈をしちゃうんだ。平和な考え方をしているのね」  呆れるように、笑って。 「じゃあ、妾がここに現れた意味はわかるのかしら?」  余裕の無さが、消えていて。  企みを有する瞳が、金緑に煌めいた。 「私のことが、邪魔になりましたか?」 「ええ、今更のようにね。かなたちゃんがいなければ、瑠璃のお兄ちゃんは強くなれなかったでしょうから」  敵意のこもった、眼差しが。 「だからこれは、妾の八つ当たりのようなものかしら」 「ふふふっ、それでも名探偵は、誰にも負けませんから」  紙の上の魔法使いは、物語しか語れない。  腹をくくって、心を乱すな。  魔法の本に触れさえしなければ、少女が私にできることなんて、何もない。 「おっとっと、少し違うわね」  厭味ったらしく、笑って。 「夜子の八つ当りになるのかしらん?」 「久しぶりだな」  昼休み。  珍しく奏さんに呼び出された俺は、中庭に訪れていた。 「いや、別に用という用はないんだが、久しぶりに君の様子を見ておきたくてな」 「ちゃんと、サボらずに登校していますよ」  怒られるようなことは、何もしていない。 「そういう話をしたいわけではないんだがな」  苦笑いを浮かべながら、奏さんは口をとがらせる。 「汀は、聞き分けよく働いてますか?」 「憑き物が落ちたように、気持ちを切り替えているようにも見えるが……それも、いつまで続くのやら」  呆れたように笑いながらも、楽しそうだ。 「君の方は、問題ないか? 何かあったら、直ぐに相談するんだぞ」 「わかっていますよ」  だが、全てを打ち明けることはしない。  奏さんのことを信用していないわけではないが、それでも口は重く。 「特に、魔法の本というものは厄介で、気が付けば開いてしまっていることもある。特に、君の周りでは頻繁に開くようだからな」  これまでも、数々の本が開いてきたから。 「記憶と現実に違和感を覚えたなら、決してそれを見過ごすなよ。根本から、洗いなおして考えるべきだ」 「そう、ですね……」  矛盾を見つけてしまえば、それが突破口になるだろうから。 「例えば――私の妹と、君の知らない間に関わりがあったりするかもしれないわけだ」  妹。  それは、あの愉快なクラスメイトのことを指し示している。 「実は、もっと昔に岬と出会っていたりして。それを示す伏線を見つけたら、決して逃してはいけない」 「……あんな強烈な性格を、忘れられるはずがないでしょう」 「強烈かな? とてもかわいい性格だと思うんだが」  あ、微妙に怒っている。  そういえばこの人は、妹のことを愛してやまないシスコンだったんだ。  俺の周りには、妹のことが好きすぎる奴が多すぎるんだよ。 「確かに、俺は昔からこの島に住んでいましたから、どこかで会っている可能性を否定することは出来ませんね」  本土で暮らしていたのは、僅か二年間。  それ以外は、この島で暮らしてきたのだから。 「それが、違和感を洗うということだ。なにか引っかかったりしたら、直ぐに相談してくれよ」  明朗に笑いながら。 「最も、君には私の力なんて不要だろうがな。君の傍には、可愛い助手がいるじゃないか」 「……はい?」  奏さんは、何のことを言ってるんだろう。 「惚けるなよ。日向かなたが、味方になってくれてるんだろう? 一緒になって、図書館に住まわせてもらっていることくらい知っとるよ」  面白がりながら、指摘する。 「ああ、まあ、そうですけど」  可愛い、ねえ。 「彼女とは何度か話をしているが、面白い女の子じゃないか。素直で、明るくて、何よりも好奇心が強い。君には、一番必要なタイプじゃないかな」 「どういう意味ですか」  苦笑いを浮かべながら、首を傾げる。 「君は、彼女のことをどう想っているんだ?」 「…………」  不意に尋ねられた言葉は、危険を犯した質問だ。 「君から話を聞いていると、随分と尽くしてくれているようじゃないか。笑顔を忘れず、献身的。常に君の傍で、君を支えようとしてくれている」  積極的な性格は、陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれる。  華やかな笑顔は、見ているこっちまで笑顔にさせてくれる。  尻込みをすること無く、常に前を見据えながら、きらきらした瞳をきらめかせて。 「――素敵な、友達ですね。俺なんかにはもったいないくらいのやつですよ」  それは、本当。  嘘偽りない言葉だ。 「君は、彼女からどう想われてると思ってるんだ?」 「…………」  それは、危険。  本当に危険な言葉だろう。 「なあ、四條くん。私は、そういうことはハッキリさせておいた方がいいと思うんだ。少なくとも、見て見ぬふりをしちゃいけないな」  真面目な表情で、奏さんは口にしてしまった。 「日向かなたは、君のことが好きだよ。本当に、大好きなんだろうね」  いつも、傍にいてくれるのは。  どんなときでも、笑ってくれているのは。  他ならぬ、俺のため。 「彼女の力強さの源は、君への恋心だ」 「……知ってます」  静かに、だが、はっきりと。 「言われるまでもなく、知っていますよ。とっくの昔から、気付いていました」  鈍感主人公じゃないんだから、気付いているに決まっているだろう。  本当に気付いていないのだとしたら、俺は最低だ。 「へぇ、ちゃんと分かってたのか。君は、そういうことには疎そうだからな」  一歩踏み込んだ言葉を口にする様は、少し、岬に似ていると思った。  見透かしたことを言ってくれるのは、姉妹変わらない。 「あれほど慕われてしまったら、誰でも気付きます」  いつからだろう。  それは、わからないけれど。 「それなら、安心した。わかっているなら、それでいい」  大きく頷いて、奏さんは笑う。 「それをどうするかは、君次第だ。願わくば、誰も傷つかないようになったらいいな」 「それは、無理でしょう」  はっきりと、切り捨てる。 「誰も傷付かないなんて、幻想ですから」  傷付かない選択なんて、あるはずがなく。  「それにもう、終わってしまっていますから」  彼女が俺のことを、どれだけ好きだったとしても。 「終わっている?」 「ええ、特に意味はありません」  俺は、もう死んでいるのだから。 「……それじゃあ君は、どうもしないのかな。好意を寄せ続ける彼女に、知らぬふりで接するのか?」 「それこそ、お節介が過ぎますよ」  これは、俺と彼女の問題だ。 「彼女が何を求めるか、俺は何も聞いていないんですから」  じゃあ、俺は?  内なる疑問に目を逸らしながら、滲む想いを押し殺した。  『四條瑠璃』  伏見理央や、月社妃の例に漏れず、俺が紙の上の存在だというのなら、どこかに俺の名前の冠した本があるはずだ。  それを見つけることが、今最も重要な事だと位置づけていて。 「…………」  寝静まった、深夜。  息を殺して、足を忍ばせる。  真実を知って以降、毎晩のように本棚を捜索していた。 「……まあ、そうそう見つかるはずもないんだろうけどさ」  あるいは、クリソベリルが所有しているのかもしれない。  それなら、都合よくかき消されてしまいそうなものだが。  しかし。  夜遅くに徘徊していたら、いつか怪しまれてしまうのも無理はなく。 「瑠璃くん、何をしてるの?」  珍しく起床していた理央が、俺の背後から声をかけた。 「……ちょっと探しものを」  何を、とは言わず。 「もしかして、魔法の本?」  遠慮無く、理央は指摘した。 「いや、その」  どう誤魔化したものかと、思考する。  本当のことを口にして、迷惑をかけてしまうのではないだろうか。  どのみち、理央は設定に縛られている以上、協力してくれることは難しいから。 「あはは、誤魔化さなくてもいいんだよ。こうなってしまった以上、どのみち理央はどうしようもないんだし」  本棚に並べてある本を、ゆっくりと眺めながら。 「……きっと、瑠璃くんが探しているものは見つからないと思うな」 「それは、どういう意味だ?」 「パンドラの物語は、もう否定されちゃったんだよ。瑠璃くんがページを返さなかったせいでもあるけれど……もう、お館様の思い通りにはならない」  クリソベリルは、諦めた。  俺が、真実を知ってしまったから。 「突然、どうしたんだよ。今までは、理央が何かを教えてくれることなんて、なかったのに」  それは、許されない行為じゃないのか? 「んーと、もう、全部失敗しちゃってるからね。理央が与えられた命令は、瑠璃くんが真実に至るまでの協力を拒絶することだし」  既に俺は、真実に手を触れてしまったから。  必然的に、隠す必要もないということか。 「お人形遊びは、虚しいだけ。お館様は、理央からそれを学んだの」  淡々と語る理央は、いっそ清々しい表情を浮かべていた。 「設定を雁字搦めで思い通りにすることは出来ても、そこに自然な幸福は訪れないの」  何もかもを、作り物に用意したって、虚しいだけ。 「瑠璃くんが心配しなくても、もう大丈夫。二度と、パンドラの続きが語られることはないから」  胸元から、紙切れを取り出して。  理央は、俺へと差し出した。 「……なんだこれは?」 「瑠璃くんが探していたもの」  しかしそれは、本ではなくページ。 「お館様が目指していた、物語の結末だよ。それを理央は、破っちゃったの。命令から自由になっていた、紅水晶の時に」  丁寧に折り曲げられたページは、しかし今でも熱を帯びていて。  これを元に戻してしまったら、再び続きが語られてしまうのだろうか。 「見て、いいのか」 「瑠璃くんにお任せ」  にこっと。  勇気づけるように、笑ってくれて。  熱を帯びたページを、開いてみた。  ――〈四〉《丶》〈條〉《丶》〈瑠〉《丶》〈璃〉《丶》〈が〉《丶》、〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈を〉《丶》〈幸〉《丶》〈せ〉《丶》〈に〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈あ〉《丶》〈げ〉《丶》〈る〉《丶》。  ――〈四〉《丶》〈條〉《丶》〈瑠〉《丶》〈璃〉《丶》〈が〉《丶》、〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈の〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈を〉《丶》〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈に〉《丶》〈な〉《丶》〈る〉《丶》。  ――〈四〉《丶》〈條〉《丶》〈瑠〉《丶》〈璃〉《丶》〈が〉《丶》、〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈を〉《丶》〈愛〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈結〉《丶》〈ば〉《丶》〈れ〉《丶》〈る〉《丶》。  ――〈瑠〉《丶》〈璃〉《丶》〈く〉《丶》〈ん〉《丶》、〈お〉《丶》〈願〉《丶》〈い〉《丶》。  切実な、文字だった。  ――〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈を〉《丶》、〈一〉《丶》〈人〉《丶》〈に〉《丶》〈し〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈で〉《丶》。 「…………」  心からの叫び声が、聞こえたような気がした。  闇子さんがどういう気持ちで、それを描いたのかを理解する。 「お館様が、『四條瑠璃』を執筆するときに決めた命令は、それだけ。夜ちゃんを好きになること以外、何も縛り付けていないの」  不都合な記憶や、不都合な思い出は消し去って。  しかし、未来の保証はたったそれだけしか残さなかった。 「初めは、どうしてだろうと疑問だったけど……理央は、すぐにわかっちゃった」 「……俺も、わかるよ」  真実を調べるな、とか。  他の女と関わるな、とか。  俺と夜子を結ばせたいのなら、様々な命令で縛り付けたら良かったのに。 「――俺が俺のまま、夜子の前にいて欲しかったんだな」  命令を加える度に、それは都合の良い四條瑠璃になってしまう。  命令を加える度に、本物の四條瑠璃との違いが生まれてしまう。  夜子が好きになってくれたのは、ありのままの俺自身。  だからこそ、変わらない俺のまま、夜子の傍にて欲しくて――最低限の命令にとどめたのだ。 「だけど理央は、その命令が一番許せなかったの。だから、破いちゃった」  そうして俺は、夜子を愛すること無く今に至って。  不都合な過去を消し去られても、闇子さんの願いに沿うことはなくなってしまった。 「だから、クリソベリルは失敗したんだな」  闇子さんが、命令によって俺を縛り付けなかったから。  様々な本を開いて、無理やり失恋を重ね、夜子との恋を始めさせようとしていたんだ。 「パンドラの未来図は、夜ちゃんと瑠璃くんのイチャラブストーリーだからね。恋心がなければ、紡がれるはずもなく」  過去の思い出は、消し去っても。  未来に至る鍵が、揃っていなかった。 「瑠璃くんが、瑠璃くん自身で恋に落ちてくれたら、理央はなにも不満はなくて」  じっと、見つめられて。 「瑠璃くんが、無理やり他の誰かと恋に落とされるのが、我慢ならなかったんだ」  理央は、自らの恋を捨てさせられ続けて。  一方で、闇子さんは、自ら望む恋愛模様を強引に手繰り寄せようとした。  なるほどそれは、理央からしてみれば怒るのも無理もない。  些細な理央の裏切りは、切実な感情が故なのだ。 「……俺の本は、今、どこにあるんだ?」 「分からない。ページを持ち去られたことに気付いた魔法使いが、持っていってしまったから」 「だとしたら、やっぱりクリソベリルと対峙する必要があるんだな」  語られることのない物語とはいえ、それでも自らの本を持たれているのは、不安である。 「……瑠璃くんは、夜ちゃんのこと、どうするつもり?」  不安げに、尋ねる。 「もし、夜ちゃんが全部知っちゃったら……とても、嫌なことになりそうで」 「わかってる」  言われなくても、わかっているよ。 「俺が知った真実は、夜子に知らせない。俺だって、今の幻想図書館を壊したいわけじゃないからな」  妃と違って、俺は俺の存在を認めることが出来るから。  紙の上の存在であっても、やっぱり生きたいと思うんだ。 「なあ、理央」  ふと、思いついた疑問を。  あるいは、わかりきっていた質問を口にしてみよう。 「紙の上の存在でも、誰かに恋することが出来るのかな」  それは、ともすればとても失礼な言葉になってしまうけれど。  紙の上の存在であることを自覚した俺にしてみれば、不安で不安で仕方がなかったんだ。 「大丈夫、何も不安がらないで」  今も、設定に縛られ続ける少女は笑う。  今も、命令に縛られ続ける少女は語る。 「――今の、理央を見て? こんなに、こんなに、満ち足りているんだからね!」  直接的な言葉は、使えない。  愛情を告げることさえ、禁じられているけれど。 「ああ、大丈夫、分かってる」  見せかけは、友情の極み、親愛を伝えてみせたとしても。 「ありがとな、理央」  言葉の裏側にある感情は、痛いほど伝わってきた。  「うむうむ! 何にもできない理央だけれど、せめて紙の上の先輩として、瑠璃くんに生き様を見せてあげられるよ!」  ほのかに笑う、少女。  彼女が恋をしていたことが、今の俺に確かな安心を与えてくれる。  それが、たとえ紙であったとしても。  誰かに恋をすることは、誰にでも許される平等な権利なんだ。 「だから瑠璃くんも、瑠璃くんの気持ちを、迷わないで」  紙の上だからと理由は、決して使ってはいけなくて。 「好きなものは好き! って、伝えようよ!」 「――ああ、そうだな」  そして、いつか理央が自由に恋愛できるように、そのしがらみを取っ払おうと、改めて決意した。  その日は珍しく、夜子さんが広間で本を読んでいました。  瑠璃さんは席を外していて、私との二人っきりです。  読書に集中する夜子さんは、改めて見ると美しいですね。 「……おや?」  こそこそと見つめていると、夜子さんは顔を上げて、本から目を逸らします。  どうやら、丁度読み終わったところのようですね。 「中々、悪くなかったわ」  私の視線に気付いた夜子さんは、感想を口にしてくれます。  「それって、恋愛小説ですよね。夜子さんは、その手のジャンルが好きなんですか?」 「別に……あたしは雑食だから、何でも読むわよ」  少し、声が上ずっています。  ツンツンしていても、中身は女の子なのかもしれません。 「これは少し、甘酸っぱすぎよ。こんな恋愛、ありえないわ」  テーブルに置かれたその本は、最近発売されたベストセラー小説らしい。  有名な作者の新刊らしくて、流行りにも目敏いのはさすがです。 「現実の恋愛なんて、物語ほどドキドキするはずありませんからね」  それでも、決して陳腐なわけではないと思いますが。 「かなたは、恋をしてドキドキしたことはないの?」  不意に放たれた、夜子さんの言葉。  心臓が大きく鼓動して、変な汗を掻いてしまう。 「恋のお話が、気になりますか?」  まさか、夜子さんからその手の話を振られるとは思っていなかったから。 「気になるかならないかといえば、気になる程度よ」  恥ずかしそうに、視線を外して。 「かなたなら、あたしと違って普通の恋愛をしてきたんじゃないのかなって」 「あはは……夜子さんも、お年頃ですか」 「失礼ね。あたしは、かなたと同い年よ」  むすっとした表情で、頬を膨らませる。  パンドラの中身を思い出しますと、色々複雑な言葉ですね。  未だ、その思いを自覚すること無く。  あの魔法使いの言葉が本当なら、それでも影響は水面下で受けてしまうのでしょう。 「……何処へ行くのかしら?」  立ち上がった私に、夜子さんは興味をもつ。 「少し、お散歩です。今日はいい天気ですから、外の空気を吸いたくて」  誘うような言葉を、口にしてみた。  もちろん、それで夜子さんが食いついてくるとは、思っていなかったのですが。 「あたしも、行く」 「えっ?」  立ち上がって、薄く笑う。  予想外の反応に、私は思わず笑顔になる。 「丁度、歩きたい気分だったの。ご一緒しても、いいかしら?」  その言葉は、かつての夜子さんなら口にしなかったものだと思います。  緩やかに何かが変わりつつあって、少しずつ良い影響を受けているのかもしれません。 「もちろんですよ!」  瑠璃さんがいないところでは、素直になって。  そしてどのような物語が紡がれるのでしょうか。  記憶と記録の狭間に揺られながら、何色かの煌めきを感じました。  小さな歪のようなものを見つけてから、時間が経つにつれて次第に見えなかったものが見えていく。  幻想図書館の過去を知ってから。  魔法使いさんに、警告を受けてから。  次第に何かが変わりつつあるような気がします。  例えば、私のお散歩に夜子さんが同伴を申し出たのにも、意味があって。  決して、思いつきの言葉ではなかったように思うのです。   もちろん、夜子さんは何かを自覚したわけではないと思います。  むしろ、無自覚だからこそ、こうなってしまったのでしょう。  夜子さんは、瑠璃さんのことが大好きですから。  私は、瑠璃さんのことが大好きですから。  無自覚のまま、次第に気付き始めているのだと思います。  本能的に、予感しているのだと思います。   私が瑠璃さんのことを好きだなんて――それはもう、誰の目にも明らかなのですから。 「――好きな人、いたの?」  丘の上の教会を目指すと告げた夜子さんは、少し表情に影が差し。  それでも、ついていく意志は変わらなかった。 「ええ、いますよ。私も一人の女の子ですから、好きな人の一人や二人くらいいます」 「……好きな人は、一人じゃないの?」 「うふふ、そうでした」  話題は、先ほどの流れをくんだもの。  女の子らしい、恋のお話です。 「い、いつから? と、いうか誰なのよ!?」 「さあ、秘密ですよ」  本当に、気付いていないのでしょうか。 「教えて欲しければ、夜子さんの好きな人を教えて下さいよ。そうじゃなきゃ、不公平ですよ」 「え、えええ……」  等価交換をお願いすると、たちまち表情は険しくなる。 「あ、あたしには、好きな人なんていない……」  目を逸らしながら、言葉を濁して。 「一度だって、出来たことないわ」  目を逸らしたのは、何から? 「あはは、夜子さんらしいですね」  今は、言及することはない。  お茶を濁したまま、緩やかなお散歩を継続しましょう。 「好きな人がいるって、素晴らしいですよ。毎日がうきうきで、毎日がどきどきです」  その気持ちを、胸に抱えて生きている。 「その人のことを思うと、心が落ち着かなくて。その人と顔を合わせると、思わず笑顔になってしまって。声を聞くだけで、顔が赤くなってしまいます」  その気持ちは、決して無自覚になりきれないものだと、私は思います。  自覚してこそ、意味がある想いなのだと。 「……かなたは、本当にその人のことが好きなのね」  寂しそうな表情が、言葉以上の気持ちを伺わせて。  夜子さん自身、気持ちの所在がわからないのでしょう。 「好きですよ。本当に、大好きです」  胸を張って、愛情を示しましょう。  それは恥じることのない、純粋な気持ちなのですから。  視線を上げると、あの教会が見えてきました。  そういえば、月社さんがサファイア――ではなく、オニキスの本を見つけたのは、あそこでしたね。  魔法使いさんによると、それは夜子さんの意志を汲んだ、魔法の本の意志だそうですけど。 「……中に、入るの?」  迷わず足を向ける私に対して、夜子さんは訪ねます。  自分でも、中へ入ることが当たり前のように思っていました。  だから、入らない事のほうが不自然に思えてしまって、足は止まりません。 「折角ですから」  特に意味はなく、過去を振り返ってみたくて。  ああ、不思議な感覚が込み上げてきます。  教会へ踏み入った瞬間、体内に忘れていた熱がくすぶり始めたのです。  ――〈宝〉《丶》〈石〉《丶》〈が〉《丶》、〈煌〉《丶》〈め〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈な〉《丶》〈気〉《丶》〈が〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》。  私がここにいて、夜子さんがそこにいて。  何が、この前に待ち受けていたのでしょう。  思わず呆けていた私は、振り返ります。  教会の外と中で、私と夜子さんは隔絶される。 「でも」  微妙に尻込みをしているのは、何故でしょうね。  別に、今まで足を踏み入れことがないわけではないはずなのに。 「この場所に、嫌な思い出でもあるんですか?」  教会の扉を開きながら、私は問いかけます。 「別に、そういうわけじゃあ」  明らかに気落ちする夜子さんは、怯えるように視線を伏せます。 「私は、ここに良い思い出しかありませんよ」  覚えていますよ。  ちゃんと、覚えています。  夜子さんは、どうですか? 「……あたしは、良い思い出なんて、ない」  私は、教会に踏み入れて。  夜子さんは、頑なに入ろうとはしません。 「ようやく、ようやく、ようやく」  小さな歪が、気が付けば大きな歪みへと変わっていく。  散らばった欠片を、一つ一つ拾い集めてきました。  違和感を見つけては確かめて、途方もなく迷いながらここまで来たのです。 「煌めきの中に、ようやく見つけましたよ」  パンドラが停滞してしまったことで、止まっていた物語が動き出したのでしょう。  予兆は、既にありましたが。  なるほど、そういうことなんですね。 「……かなた?」  夜子さんは、心配そうに私を見つめて。 「あはは、ごめんなさい。少し、考え事をしていまして」  誰もいない教会に、背を向ける。 「今、この場所に用はありません。夜子さんが入りたくないというのなら、帰りましょうか」  しかるべきときに、また。 「今日のかなたは、変よ?」 「何を言いますか、私はいつだって変てこで可愛い女の子ですよ!」  弾む足取りにつられて、テンションが上がる。 「む……なんだかご機嫌ね」 「そう見えますか? うふふふっ」  確かに、そうかもしれませんね。  再燃した想いを確認しながら、火照った身体を抱きしめる。 「もう……一人で盛り上がらないで欲しいわ」  口を尖らせながら、それでも笑ってくれる。 「そういえば、最近少しだけ本を読む量が減りましたよね」  話題転換、方向転換。 「私のお散歩にも付き合ってくれますし、ちょっぴり驚きです」 「……そうね。そうなっていることは、自分でも分かってる」  閉じこもりがちだった少女は、外の世界に目を向けて。 「瑠璃がこの島に戻ってきてから、随分変わったように思うわ。あの木偶の坊は、賑やかすぎるから」  騒々しくて、集中できなくて。  他にも楽しさが転がっているから、扉を開いてしまう。 「それに、読むだけじゃなくなってきたから」 「えっ?」  常に受け手側の夜子さんが、変化していく。 「妃が口にしていたわ。活字の楽しみ方は、読むだけじゃないって。最近、少しだけわかったように思うの」  書き手への変化。  明言はしていないものの、活字との接し方に変化が生まれているのでしょう。 「夜子さんも、日々影響を受けているのですね」  筆を手にとって。 「それでは、いつか読ませて下さいね。夜子さんの彩る文章を、私は読んでみたいです」 「い、嫌よ、恥ずかしいわ」  頬を紅潮させて、慌てて首を振る。 「誰かに読ませるために書いているわけではないし、あれは、あたしのためのものだから」 「ほうほう?」  しかし、好奇心の権化である名探偵に、それはうかつな言葉ですよ?  気になったら、調べたい! 「そんなに目を輝かせないでよ……! 見せないったら、見せないからっ!!」 「嫌よ嫌よも好きのうち! それは誘い受けですよね?」 「ち、違うからぁ……!」  本気で恥ずかしがる夜子さんは、可愛らしくて。 「あ、あれは物語じゃなくて、日記のようなものだし……」 「うふふふふ、楽しみにしておきましょう」  いつも受け手側だった夜子さんが、初めて発信する側になったということ。  それは、とても微笑ましいことだと思うから。 「……さて」  隣で恥ずかしがる夜子さんを横目で見つめながら。 「これから私は、どうしましょうかね」  煌めきを感じながら、瑠璃さんの顔を思い出す。  かっと熱くなる気持ちを抱きながら、前に進まなければならない。  真実を知ってから、何かが大きく変わったわけではない。  落ち着いて事実を受け入れることが出来たからこそ、冷静さを貫けたのだと思う。 「新入りくんは、最近とても落ち着いているよね」  岬に、そんなことを言われてしまった。 「余裕が出てきた? 腹を括った? なんとなく、男の子なんだなって思うよ」 「……なんだそりゃ」  呆れて苦笑いを浮かべるけど、わずかにその自覚はあった。  怖いものが、なくなった。  自分の過去を知る前から、半ば覚悟していたから。 「悲劇ってのは、突然知らされるよりも、ある程度予感を持って知らされる方がましなんだよ」  あれほど過去を隠そうとする魔法使いを見て。  どれだけ最悪の真実なら、その理由足りえるだろうと思っていたんだ。 「新入りくんは、それでも新入りくんらしいと思うけどね」  緩やかに、笑って。 「何かが変わったかもしれないけれど、それでも大事なところは変わってない。そういう新入りくんの揺るがなさは、きっと魅力だと思うな」 「……岬」  根源や、存在そのものが変わり果てて尚。  未だ、そう言ってくれることが、何よりも嬉しい。 「よくわかんないけど、悩んでてもしょうがないよね。ポジティブポジティブ、今を生きるしかないんだから!」  状況は、何も知らないはずだ。  俺の悩み自体、何もわからないというのに。 「適当に言ってるように見えて、結構嬉しい」 「えー? だって適当に、励ましてるだけだもーん!」  悪びれることもなく笑う岬。  話に関わることのない同級生は、それでもやっぱり、俺の心の支えになっていると思う。  つかの間の言葉のやりとりにさえ、ぬくもりを覚えているのだから。 「ねえ、瑠璃さん」  昼休みの教室で、感傷に浸る俺の元へ。  先ほどまで言葉をかわしていた岬を横目で見ながら、彼女は言う。 「瑠璃さんは、昔に岬さんと会ったことはありますか?」 「……え?」  なんだ、その質問は? 「昔っていうのがいつかわからないんだが……一年よりも前の話?」 「そうです。瑠璃さんが、家庭の事情で本土へ移る前の話です」  つまりは三年前以上の思い出を、彼女は問いかけているのか。 「会ったことはない。少なくとも、言葉を交わしたことはないと思うけど」  すれ違ったとか、視界にとらえたとか、そういうレベルの話をしてしまったら、可能性としてはあり得るが。  知り合いと認識するレベルに関わったことは、ないと断言できる。 「会ってたら、忘れるわけがないだろう」  わけがない。  その言葉の軽さは、身を持って知っているはずなのに。 「……明かされた過去のお話は、間違いないと思います。白真珠のように、偽られていたわけではありません」  彼女は、何を言おうとしているのだろう。  そして、何に気付いたのか。 「嘘をついたのではなく、偽ったのではなく――ただ、言及しなかっただけ。私にとってそれは、小さな歪みでしたよ」 「何か、あったのか」  彼女の真面目な様相に、引っ張られて。  思わず、表情が引き締まってしまった。 「名探偵かなたちゃんは、全てを理解しちゃいました。なるほど確かに、夜子さんは加害者なのでしょうね」  夜子が、加害者?  それは、どういう意味だ。 「名探偵かなたちゃんは、四條瑠璃さんに問いかけます」  薄っすらと笑みを浮かべて、優しい言葉を口にした。 「前に進んでも、いいですか」  包み込まれるような言葉とともに。 「――物語を、終わらせちゃってもいいですか」  何色の煌めきが、瞬いたのだろう。  何かが今、見えたような気がして。 「あんたが正しいと思うのなら、終わらせたらいい。その判断は、俺がするべきじゃないだろう」  信頼していたから。  心から、彼女のことを信じていたから。  その場では追求することはなく、ただ味方で在り続けると約束する。 「あんたが何をしようとしているのか知らないが、俺はこれまであんたに助けられてきたからな」  いつだって、そばに居てくれて。  いつだって、支えてくれていた。 「――こうみえて俺は、日向かなたに全幅の信頼を寄せてるんだよ」  ヒスイから始まった、あんたと俺の関係。  それは、俺にとってかけがえのないものになってしまっているんだ。 「それでは、仰せのままに」  恭しく頭を垂れて、気取ってみせたけれど。  その姿は彼女に似合わなくて、思わず笑ってしまった。 「日向かなたの全てを、語らせて頂きますね」  名探偵は、物語ではなく推理を語る。  まだまだ、魔法の本は終わらないんだ。  幻想図書館の真実を知っても、瑠璃のお兄ちゃんは変わらない。  今まで受けた仕打ちや裏切りに対しても、怒り狂うことはなく、ただ漫然と事実を受け入れて。  その反応は、妾にしてみれば驚き以外の何ものでもなく、変わらないでいてくれたことに可能性を覚えてしまった。  ――だが。  見えた可能性に託すほど、楽観的ではなく。  現実というものはかくも厳しいものであることを、妾は知っている。  確かに、今は変わらなくても。  何も変わらないということは、ありえない。  現に、そう。  瑠璃のお兄ちゃんは、夜子への想いを芽生えさせていない。  白髪赤目の少女のことを、友達として大切にしてくれてはいても――決して、それ以上になりえない。  それどころか。  別の女と、関わりを持ち続けて。  止まっていた物語が動き出して、日向かなたは動き出す。   月社妃とはまた違ったベクトルで――あの女は厄介なのだ。  「大変だよ、大変だよ、愛しい夜子」  魔法使いは、甘く囁く。 「真実を知らないのは、夜子だけ。他のみんなは、既に真実を知っている。それで貴女は満足なのかしら?」  全ての真実をひた隠しにして、瑠璃のお兄ちゃんは勝手に生きようとしている。  紙の上の存在でありながら、誰のために生かされていると思っているのでしょう。   遊行寺闇子は、罪悪感から貴方を書いたかもしれないが。  妾は、そんな勝手を許さない。 「もう、全ては手遅れなのよ。こうなってしまったら、もう利己的に生きるしかなくってよ」  耳元で、囁いて。  魔法使いは、誘う。 「夜子だけが何も知らないまま、有耶無耶で物語は終わってしまう。読書好きの貴方は、それに耐えられるの?」  知られてしまったのなら、しかたがないわ。  もはや、隠すことを終わりましょう。  瑠璃のお兄ちゃんが、全て知っても尚ひた隠しにして、過去から目を背けようとするのなら。  ――妾は、凄惨な過去を突きつけて、新しい物語を語りましょう。 「……お前は、誰なの」  虚ろな意識が、妾に向けられる。 「あたしの何を、知っているの」 「何でも知っているわ。痛みも、不幸も、感情も」  白い髪を撫でながら、甘く甘く囁いた。 「妾の血筋を最も色濃く受け継いだ貴方なら――必ず、幸福を語ることが出来るでしょう。そのために、魔法の本は存在しているのだから」  遊行寺闇子が、愛娘のために語った物語。  それは、彼女から見た夜子の幸せで――それ故に、叶えることが出来なかった。  本人が、何を望み何を叶えたいのか。  真に求めるものを理解しているのは、夜子自身だけ。 「望まなければ、手に入らない。いつだって、悲劇は勝手に語られていくのだから」  被害者の振りは、もうやめましょう。  貴女も立派な、加害者へ。  自分の願いを強く持てば、妾は貴女の好きな未来を叶えましょう。  ――妾には叶えることの出来なかった幸せを、代わりに果たして欲しくって。  憎しみを、〈携〉《たずさ》えろ。 「あたしの、願い?」  噛み締めながら、口にする。 「ずっと、小説を読んでいるだけで、幸せ」 「本当に? それは現実から目を背けているだけではなく?」 「ずっと、毎日が続けば幸せ」 「本当に? 時は流れて、変化は止まらない。知らないところで、毎日は変わり続けていくわよ?」 「ずっと、友達がそばに居てくれたら幸せ」 「本当に? 一番傍にいて欲しいのは、誰なのかしら?」  幼い頃から、抑圧されてきた夜子。  親族からは排撃され、周囲からは疎まれて、心を壊されてきた日々は、今でも深く残っていて。  遊行寺汀がそれに抗う方法を教え、四條瑠璃が楽しいという感情を教えても、根源は何も変わらずに。  幸せの形が、分からない。  当たり前の毎日すら、手にしたことがなかったから。  だけど、日に日に自らの幸せのかたちがわかってくる。  なんてことはない、たった一人の人間がいてくれるだけで、幸せになることに気付いてしまう。   されど、現実は残酷だ。  どんなに願っても、相手はいつまでもそこにいてくれるとは限らない。 「今までは、闇子が幸せを用意してくれようとしていたけれど――もう、それは出来ないわ」  パンドラは否定され、用意された幸せは二度と叶わない。  だからこそ、今度は自らの意志で、幸せを掴みましょう。  瑠璃のお兄ちゃんの気持ちは、自分の活字で動かすの。 「魔法の本の担い手は、思い通りの物語を描くことが出来る。夜子がそれを願うだけで――いつでも幸せは語られるのよ」  現実を覆い隠すほどの幻想を。  加害者として、語り部として、瑠璃のお兄ちゃんを奪えばいい。 「……あたしの、欲しいもの」  揺れ動く夜子の心は、弱く脆い。 「そのためにはまず、夜子も真実を知らなくちゃ」  月社妃の死の真相。  そして、瑠璃のお兄ちゃんが亡くなっていて、紙の上の存在であるということを。  紙の上の存在であるということは。  筆を執って、活字を刻むだけで――その想いを、自由に出来るということ。 「これを、読んでみて?」  手渡したのは、『四條瑠璃』。  瑠璃のお兄ちゃんのこれまでを記した、人名を関する魔法の本。  それを目にすれば、全ての過去を知ることが出来て。  彼の存在は夜子のためだけに用意されたもので、夜子の自由にしていいことがわかるだろう。  白紙のページが、たくさんあって。  彼のことを、好きにしてしまえばいいのよ。  遊行寺闇子は命令を刻むことはなかったから、失敗した。  今度は夜子自身が、利己的な命令文を刻めばいい。 「さあ、さあ、さあ!」  もう、この手しかないのよ。  時が来れば、瑠璃のお兄ちゃんは他の女と物語を紡ぐ。  夜子はただの友達で、それ以上でも以下でもないモブキャラ同然の扱いになってしまうわ。   押し付けるように、魔法の本を提示して。  妾は、しかし、夜子の瞳の強さに、気が付かない。 「――お断りするわ」 「え?」  それまで虚ろだった夜子の様子が、一変した。 「悪い魔法使いの囁きには、耳を貸さないことにしているの。残念ながら、他をあたってくれるかしら?」 「よ、夜子……?」  それは、敵意。  ともすれば、憎悪? 「きっと、そんなあたしの弱さが、みんなに迷惑をかけてしまったと思うから」  駄目。  その選択は、きっと間違っている。 「利己的な物語なんて、御免よ。誰かを悲しませてまで、幸せになりたいと想わないから」  わかっていない。  夜子は何も、わかっていない。  この先の痛みに、きっと貴女は耐え切れなくて。   瑠璃のお兄ちゃんが、どうして残酷な真実を耐えられたのか。  それは、予め予想をしていて、一度絶望を味わっているから。  硝子のような心の夜子は、きっと真似できない。 「しつこい」  強く、強く、輝きを魅せつける。  そんな立ち振舞に、妾は感動さえしてしまったけれど。 「……それでも夜子は、心が折れるわ」  継続するとは、思えない。  必ず、幻想に頼ると確信する。 「そんなとき、最初から魔法の本に頼っていたらと、後悔することになるのでしょうね」  じっと、天を見上げて。 「わかったわ。だったら、その目で現実をお読みなさい。痛みを知って、加害者であることを知って、思い知ればいいわ」  貴女は、妾とおんなじなの。  他人に不幸をばらまく魔法使い。  現実の何処にも幸せが待っていなくて――だから、妾は貴女に力を貸そうとしていると。  根拠の無い強さは、ハリボテだ。  脆く崩れ去った時――本当の弱さをさらけ出してしまうのだろう。 「ああ、妾の可愛い夜子……それでも妾は、貴女の味方よ」  傷付いた夜子を慰める言葉を、今は探しておきましょうね。  そして、物語は進む。  夜子の予想を超えるように、彼女は意志を貫き始めて。  ノックの音が、聞こえてくる。  訪ねてきたのは、恋敵。   友達として、夜子は彼女のことが大好きだけれど。  彼女も、夜子のことが大好きだけれど。  「夜子さん、私」  微笑を浮かべながら、その言葉を誇るかのように。 「私、瑠璃さんに告白しようかと思います」  日向かなたは、確かにそういった。 「……え?」  驚きに満ちる夜子の表情を見て、妾は何も間違っていないことを確信した。  野球。  懐かしさを覚えるその言葉は、確かに青春の色を匂わせてくれる。    ――キャッチボールをしよう。   久しぶりに、理央が提案してくれた。  ――素振りでもいいよ?  二人で何かを、したがっていた。 「あはは、そういえば片付けちゃってたんでした」  にこやかに笑いながら、理央は言う。 「……身体を動かしたくなったのか?」  代わりに、ひなたぼっこで手を打とう。  理央の誘いは、ただ俺と時間を過ごしたいようにも思えてしまったから。 「えっとね、うんとね、なんとなーく、そういうこともしてみたくて」  あーでもないこーでもないと悩みながら、理央は語る。 「ちょっとだけ、一緒にいたいなって思ったの」  照れ笑いを浮かべながら、上目遣いで覗きこむ。  ナチュラルな可愛さが、胸をくすぐった。 「そう言ってくれることは、嬉しいよ」  だけど、全く用事がないわけではないのだろう。  伝えたいことがあるから、誘いの言葉を口にしたはずだ。 「……瑠璃くんは、紅水晶を覚えてる?」 「当たり前だ」  忘れるはずが、ないだろう。  あの物語が開いてから、俺は理央という存在のことを、もっとよく知れたのだから。 「じゃあ、吸血鬼さんの気持ちとか……も?」  全力で恥ずかしがりながら、曖昧な言葉を口にする。  多分、それが限界なのだろう。  それ以上は、恋愛禁止のルールが許さない。 「吸血鬼の愛情を、覚えてるよ」  伏見理央の感情を、覚えている。 「わ、わわっ、あ、あれは理央じゃなくて、理央じゃないからね!」 「わかってるって」  それが、理央の与えられた役割。  今でも縛り続けている、呪いのようなしがらみだ。 「分かってるから、理央が傷付くような言葉を口にする必要なんてないんだぞ」  ただ、悲しいだけの台詞は聞きたくない。 「い、今更そういう話がしたいとか、そういうことじゃないんだよ!」  慌てるように、理央は首をする。 「そういうのは全部、もう閉じちゃったし、閉じて、なかったことになってるし、だけど、あのね」  それでも理央は、否定して。  「ごめんね、でもそれが理央の仕組みだから、今はこういう風にしか伝えられなくて……」  何を言おうとしているのか。  あるいは、何を伝えようとしてくれているのか。 「言わなきゃいけないことと、言っちゃいけないことが入り混じってて、それでも、伝えたいことがあってね」  与えられた役割から脱却しないまま、何かを紡ごうとするその様。 「無理しなくて、いいんだぞ。理央が何かを語れないのは、決して理央の責任じゃないんだから」 「そ、そうじゃなくてね! 理央は、その……気持ちとか、そういうのじゃなくて……その」  口下手になってしまった女の子。 「つまりは! そうだよ!」  自らを鼓舞するかのように、拳を上げた。 「……?」  その様子が、少し滑稽に見えてしまって。 「理央は、きっと、うん! 吸血鬼の眷属を、増やしたいわけじゃないんだと思う!」 「……眷属?」  何のことを言ってるのか。 「る、瑠璃くんの、血を吸いたいわけじゃなくて」 「そんなのは、当たり前――」  と、冷静に返そうとして。  眷属とか、吸血とか。  それは確か、紅水晶においては意味のある行動だったと、思い返す。  現実では、単なる空想のファンタジーだったが。  あのときは、それが俺たちの恋愛模様だった。 「瑠璃くんの血は、すっごく美味しいと思うし、ちゅーしたいとは、思うけど!」  それは、別のものを意味する言葉。  吸血衝動ではなく――伏見理央の、恋愛感情を差しているのだと、ようやく気付く。 「理央は、他のたくさんの大事なものがあって、その中の普通に、惹かれていて」 「理央」  笑っていた。  気持ちを伝えながら、力強く笑っていた。 「吸血鬼とか関係なくて、ただみんなで過ごす図書館での生活が、大好きだったんだよ」  恋愛よりも、日常が好きで。 「理央が欲しかったのは、瑠璃くんだけじゃなくて――瑠璃くんを含めたみんなとの幸せだった」  だから、と。  声を強く、想いを乗せる。 「もう、理央のことは気にしなくて大丈夫なんだよ! 理央の心配とか、理央のためにとか、理央の気持ちとか、そういうのはポイして」 「…………」  口下手にならざるを得ない、言葉たち。  それでも、理央の気持ちは痛いほどに伝わってきた。 「瑠璃くんが幸せになってくれたら、理央も幸せ。だから――うん」  紅水晶が閉じてから、宙ぶらりんだった理央との関係。  命令に縛られているからこそ、どうしようも出来なかったのだけれども。 「――もう、理央は決めたんだ。瑠璃くんの何かになるよりも、瑠璃くんの幸せを傍で見守っていきたいなって」 「どうして、そんな」  今になって、そういうことを言うんだよ。 「理央だって、ずっとずっと考えてきたんだよ。どうするのが一番いいのかなって、思って」  俺は、理央とどうしたかったんだろう。  理央の気持ちに、どういう風に付き合っていこうと思っていたのか。  だけど、今の俺の感情は――きっと、応えようとするものではなくて。 「瑠璃くんには、素敵な人が傍にいます。今なら、心からそれを応援することが出来るから」  素敵な人、と。  理央が誰を指しているのか、分からなくて。 「――かなたちゃんが、瑠璃くんに渡して欲しい、って」 「え」  不意に飛び出た名前に、心臓が大きく跳ね上がる。 「あはは、だいじょーぶ! 中身は見てないよ。瑠璃くんへの、お手紙さん」  それは、可愛らしく封をされた、便箋。 「あいつは……何か、言ってたのか」 「んんー? いっぱいいっぱい、聞かせてもらっちゃった」  何を、とは言わず。  しかし、そのことで理央の心は、晴れやかなものになったらしい。  その影響が、今日のこの言葉なのか。 「今度こそ、かなたちゃんの気持ちに向き合ってあげてね」  背中を押すように、理央は応援する。 「お返事、ちゃんと考えてしてあげてよね!」  最期まで、最期まで、ニコニコと笑顔を浮かび続けた理央。  その表情を胸に抱きながら。 「ありがとう」  そう言って、静かに笑いかけた。  彼女からの手紙を見つめながら、不意に思い返してみる。  何を思って、何を考えて、彼女は俺に手紙を託したのか。  ――何かに引っ掛かりを覚えながら、まずは一人になれるところで、読んでみようと思った。  瑠璃くんが、部屋に戻って行きました。  瑠璃くんが、かなたちゃんからの手紙を受け取りました。  その中身を見たわけではありませんが、予想することは出来ます。 「ごめんね、かなたちゃん」  沢山の言葉を込めて、祈るように謝罪した。 「でも、良かった。本当に、良かったよ」  止まっていた物語が動き出して、正しく現実は紡がれる。  それこそが、遊行寺家の犯した罪なのだと理央は知っている。 「…………理央は」  ちゃんと、強くなれたと思います。  理央なりの言葉で、瑠璃くんへの想いを吹っ切れて、それを伝えることが出来たと思います。  やっぱり瑠璃くんは素敵な人で、やっぱり好きなんだなあと想いながら、静かに思い返します。 「吸血鬼さんは、誰の血を吸うこともありませんでした」  それは、吸うことを禁じられていたからではありません。  本人がよーく考えて、吸わなくてもいいと思ったからです。 「吸血鬼さんは、瑠璃くんが幸せだったらそれで良いのです」  一人、静かになった午後。  吹きさす風がやけに冷たくて、理央の心に吹き指します。 「おかしいなあ……かなたちゃんと話してる時も、瑠璃くんと話してる時も、大丈夫だったのに」  身を引いたのは、勝てないとわかりきったから。  決して、諦めようとして諦めたわけではない。  その事実にいくら目を背けてみても、心が痛みを訴えていました。 「……こんなことなら、最初から恋心をなくしてくれたらよかったのに」  理央が一番、恨んでいるのだとしたら――きっと、そこなのでしょう。  中途半端に誤魔化すんじゃなくて、気持ちを抱かせることすらしないで欲しかった。  そうしたら。 「失恋の痛みを知ることもなかったのに……!」  気が付けば、涙がポロポロとあふれていました。  どうやら魔法の本は、普通の恋愛を経験させてくれなくても、普通の失恋は経験させてくれるようです。  そういう設定は、なかったようですね。 「最期まで、好きだって、言えなかった」  理央は理央のまま、告白することすら出来なかった。  紅水晶の物語にのっかって、吸血鬼のふりをすることでしか、想いを伝えられなくて。 「うううっ……うううううううっ――!」  ぐちょぐちょに濡れた顔は、何を意味してるのだろう。  悲しくて、切なくて、もどかしくて、我慢できなくて。  瑠璃くんの気持ちが、理央に向いていないと自覚したのはいつだろう。  それは最初からだと思うけれど、思い知ったのはいつ?  理央よりも、お似合いな女の子がたくさんいて。  瑠璃くんは、いつだって彼女を見ていたんだね。  「だけど、だけど、理央は」  それでも、普通の恋愛すら出来ないまま、痛みだけの失恋を経験しても。 「瑠璃くんを好きになれて、幸せだったよぉ……!」  やっぱり、さっきの言葉は嘘でした。  どんなに苦しくても、どんなに辛くても、恋心を知って良かったです。 「うわああああああああんっ!」  紙の上の存在の、理央でしたけど。  紙の上に縛られ続けた、理央でしたけど。  それでも、伏見理央の初恋は――紙の上ではなく、この現実世界に咲いていたと信じさせて下さい。 「大好きだったよぉ……!!!」  直接伝えることも出来ないまま、一人虚空に叫び続ける。  願わくば――次に生まれ変わった時は。  普通に恋を伝えられる、普通の女の子として生きたいな。  それくらい願うことは、許されてもいいよね?  二人の幸せを願いなら、傍観者の恋心は終演を迎える。  見ているだけしか出来なかった理央は、瑠璃くんから愛されるはずもないことを、強く、強く、思い知ってしまったのです。 「さよなら、瑠璃くん」  最期に紅水晶が煌めいたような気がしたけれど、何も語られることはないまま、伏見理央の恋物語は終了です。  明日からは、幻想図書館の給仕さんとして、みんなに笑顔を届けよう。  理央から受け取った、日向かなたからのメッセージを、開いてみた。  誰にも見られない、一人になれるところで。  ――教会で、待っています。  それは、呼び出し状だった。  丘の上の教会で、彼女は俺に用があるらしい。 「――っ」  その文字列を見た途端、強烈に痛みが走る。  側頭葉に刺激を感じて、思わずよろめいてしまったけれど。 「行かなくちゃ」  何かの物語に追われるように、使命感がこみ上げてくる。  今すぐ駆け出して、彼女に会いに行かなければならないと思った。  「どこへ行くの?」  待ち合わせ場所に向かおうとする俺を、夜子が呼び止める。 「そんなに真面目な顔をして、怖いわよ」 「……野暮用だよ」  デジャヴ。  どこかで同じことを、口にしたような気がした。 「ねえ、瑠璃。もしかしてキミは、あたしに何か隠し事をしているんじゃないのかしら」  急ぎで外出しようとする俺へ、夜子は腰を据えた話をしようとする。 「最近、キミやかなたの様子がおかしいわ。お願い、何かあったのなら、ちゃんと話して」  刺々しい言葉ではなく、心配そうなその口振り。  遊行寺夜子の言葉としては、最上級の優しさを備えていたと思う。 「急に、どうしたんだよ」  その様子に、俺は気付かない。  この会話も、単なる世間話としてしか見ていない。 「嫌な、夢を見たの。悪い魔法使いが、あたしを誘う夢」  不安げに、瞳を向ける。 「とても嫌な予感がするの。あたしの知らないところで、あたしが知らなきゃいけないことが起きてしまっているような、そんな感覚よ」 「…………」 「だから……えっと……キミに、相談したくて。あたしの傍にいて欲しくて」  真実を、語れという夜子に。  しかし、俺は何も応えることが出来ない。  この時夜子は、とても不安に満ちていて、誰かの存在を求めていたのだろうけれど。 「そんなことを言われても、俺にも心当りがないからな」  魔法の本が関わったせいで、妃が死にました。  その事実を知って、俺はとっくに自殺しています。  今目の前にいるのは、闇子さんが用意してくれたマガイモノなんだよ。   それを、伝えろというのか? 「キミはこれから、何処へ行くの。そんなに真剣な顔をして、また魔法の本が開いたのかしら」 「そうじゃねえよ。単なる野暮用って言ってるだろ。夜子には、関係のないことだ」 「……そう」  落胆したように、肩を落とす。 「キミにとって、あたしは部外者だものね。何もかも教える義務なんて、何処にもなくって」  いつか、話さなければいけないことだと思う。  けれど、今の夜子の精神状態では、その痛みに耐え切れないことは容易に想像付く。 「でも、信じてるから。キミは、ずっとこの図書館にいてくれるのでしょう?」 「……それは」  それは、どう答えたら良いのだろう。  確かにいつまでも、この場所にいたいと思い続けているけれど。 「そうなれたら、いいよな」  日向かなたのメッセージを思い出して、すぐに誓うことが出来なかった。  どうしても脳裏に彼女がちらついて、口篭ってしまったのだ。 「うん……」  不安げにうつむく夜子は、それ以上何も言うこと無く。 「それじゃあ、いってくる」  夜子の心境を、その日は最期まで理解してあげることが出来なくて。  どれほどの不安を抱えながら、夜子が声をかけてきたのかも知らなくて。 「……いってらっしゃい」  何色かの煌めきに、囚われてしまっていたのかもしれない。  嬉しそうだった。  とても、嬉しそうだった。  誰かに呼び出されて、誰かに誘われて、どこかへ行く瑠璃の表情が、たまらなく心細くて。  ――告白します。  かなたの言葉が、脳裏に浮かぶ。  宣戦布告のような台詞に、今はただ正体不明の恐怖しか感じない。  大切な何かが、指の隙間から零れ落ちていくような気がした。  このままじゃいけないと、本能が警鐘を鳴らせる。  ――関係ないでしょう、あたしには。  わかっていながら、どんなにそう言い聞かせたとしても、不安は止まらない。 「……返事、どうするのかしら」  かなたの告白に、瑠璃はどういう返事をするのだろう。  瑠璃はかなたのことが好きじゃないから、丁重にお断り?   いやいやそれはない。  あんなに魅力的な女の子に告白されて、断れる男の子なんているはずがないわ。  あたしとは、違って。  何もかもが、魅力的だから……。  だったら、二つ返事で了承するの?  そうして瑠璃とかなたは恋人に?  恋人になったら、これから何が変わるのかしら?  二人で図書館を出て行って、二人で暮らし始めて、キスしたり、愛したり、いろいろ、いろいろ……結婚とか、しちゃって。  その頃、あたしは何をして?  何をして、何をして、生きているのかしら?  孤独な幻想図書館で、書斎に籠もりながら時間に身を委ねていく。  活字さえあればいいと言い聞かせながら、自分を押し殺して生きていくんだ。 「慣れてるから、問題ない」  我慢することは、生まれてきた時からしてきたもの。  罵詈雑言や、奇異の視線。  その他諸々、心を殺してやり過ごすことを身につけてきたから。 「……元々二人は、魔法の本とは関係ないんだし」  たまたま成り行きで、関わっているだけ。  遊行寺家とは縁もゆかりもなくて、そのうち離れ離れになるに決まっている。 「…………っ」  でも。  あたしは既に、誰かと過ごす日常を知ってしまった。  楽しいという感情を、知ってしまった。   それを失うということが、どれほどの痛みを携えているのかをあたしは知らなくて。  この先、あたしたちの関係が、どういうふうに変化していくのかを、どうしても確かめたくて。 「あたしが、かなたなら」  図書館の扉に、目を向ける。 「――丘の上の教会で、告白する」  怖くて、怖くて。  不安で、不安で。  だからこそ、確かめようとしてしまう。  見てはいけないことがわかりながら、それでも人間は危険に近付いてしまって。 「きゃははっ!」  背後で、誰かが笑っていた。  ほら見ろと、笑っていた。  それでもあたしは、何も知らないふりをする。  ほとほと俺たちは、この教会に縁があるのだと思い知らされる。  運命の中心点というものがあるのなら、間違いなくここなのだろう。  いつだって、物語のターニングポイントはこの場所を通りすぎている。  だから今日だって、彼女はここを指定してしまったのだろうね。 「あ、瑠璃さーん!」  特に、緊張感も何もなく。 「遅いですよー! 女の子を待たせるなんて、最低ですね」  にこやかに笑いながら、彼女はいつもの調子で声をかけてくる。 「時間が明記されていなかったんだが?」  理央からもらった手紙には、場所しか書いてなくて。 「もし俺が、急用で来れなかったらどうしてたんだよ。今度からは、時間も忘れずに書くことだな」 「そのときは、瑠璃さんが来てくれるまで待ち続けるだけですよ」  当たり前のように、彼女は言う。 「瑠璃さんなら、私の呼び出しを優先してくれるって、信じていますから!」 「……あんたらしいな」  待ち続けようとすることも。  俺の性格を、わかりきっていることも。 「今日は少し、懐かしいお話をしたいと思いまして。ほら、私と瑠璃さんって、そういう話をあまりしてこなかったじゃないですか」 「まあ、長い付き合いではないからな」  濃い付き合いだったとは思うけど。  ――〈宝〉《丶》〈石〉《丶》〈が〉《丶》、〈煌〉《丶》〈め〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈な〉《丶》〈気〉《丶》〈が〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》。 「ヒスイと、アメシスト。思えばあれは、大変だったなあ」  どちらも、魔法の本に囚われたあんたに、愛されて。  そこから、俺達の関係は始まったんだ。 「あはは……あのときの私は強烈でしたね」 「強烈なのは、むしろ素のあんたの方だがな」  ヤンデレや、幽霊よりもずっと恐ろしい。  名探偵かなたは、なるほど周囲が恐ろしがる強さに満ちていた。 「今思い返すと、やっぱり不思議なめぐり合わせだな。一冊はともかく、二冊の物語が開いてしまうなんて」  ヒスイに連続した、アメシストの物語。  その繋がりが、それぞれの物語をややこしくしたこともあったっけ。  「あんたのような性格だからこそ、魔法の本は二度も開いたんだろう。それは、とても珍しいことらしいからな」  本を開くには、理由がある。  彼女が本に見定められたのは、その特異性が故だろう。 「いえいえ、もちろん私自身にも理由はありましたよ? 本を開く、理由が」 「へえ?」  以前、その話を振った時は、分からないと答えていたような気がするけれど。 「瑠璃さんと、仲良くなりたかったんですよ。瑠璃さんと、楽しくお喋りしたかった。そのために、本がきっかけをくれたのです」 「……それは、後付けだろう」  にこやかに語ったところで、騙されはしない。 「後付けじゃありませんよ。ずっと私は、こうしていたかったのです」  こうして? それは、どういう意味だろう。 「――雰囲気のある場所で、二人っきり。恋に落ちた乙女がすることなんて、一つだけ」  蕩けるような表情で、彼女は俺を見つめた。  さり気なく伝えられた好意は、いつも以上に甘いもの。 「そういえば、瑠璃さんって女の子に告白されたことはあるんでしたっけ」 「……えっと」  月社妃と、恋人関係だった。  しかし、お互いがお互いに告白したということは、一切なく。  気が付けば、付き合ってしまっていた。  それは、闇子さんの本の影響だと、後に知ったわけだけど。  伏見理央は、少し違う。  確かに気持ちは伝えてくれたけども、あの状況は普通とはいえないはずだ。  呼び出されて、ストレートに告白されたことなんて、今まで一度も。 「いや、あったな」  思い出した。 「俺は昔、クラスメイトの女の子に告白されたことがある」  それは最近思い出した記憶。  幻想図書館の真実を紐解く中で、思い出させられた過去だ。  ――好きです。付き合って下さい。  夜子ではなく。  妃でもなく。  全く関係のない、クラスメイトに告白された。  そして、それを知った闇子さんが、全てをなかったことにしようと魔法の本を手にとった。  愛する娘の初恋を守るため。  都合の良い記憶を現実に展開して、甘酸っぱい物語を継続させるために。  ――誰かに告白された。  その事実だけが、俺の中に残ってしまって。  ――妃に、告白された。  そういう風に、理解してしまったいことを。 「……衝撃的な真実だらけだったから、思わず失念していたよ。だけどその告白も、俺にしてみれば――」 「ねえ、瑠璃さん」  思い出を語ろうとする俺を遮って、彼女は語りかける。 「瑠璃さんは、誰に告白されたのでしょうか?」 「えっ?」  何だ、その質問は?  その質問に、何の意味がある。 「別に誰だっていいんじゃないのか。誰であるかということに、さしたる意味はない。大切なのは、その告白が与えた影響で――」 「何を言ってるのでしょうか? その発言が、根本的におかしいのです」  真実に至ったという、確信を持ちながら。  彼女と俺の間の錯誤が、未だに拭えていない。 「疑問に思わないことが、一番の疑問です。告白されたという事実に対して、最初に思う疑問は、『誰から?』であるのが普通でしょう」 「……そうか?」  相手が誰かなんて、どうでもよく。 「私は、この違和感の正体を知っています。そうやって、認識をずらされる現象の原因を、知っていますよ」  気が付けば。  気が付けば、彼女は一冊の本を手にしていた。  それは、俺が夜子から受け取っていたはずの、蒼い煌めきの本。 「――『サファイアの存在証明』に、あなたは違和感を覚えなくさせられてしまっているのです」 「なっ!?」  その言葉に、降って湧いた記憶。  数日前に奏さんとも離した、記憶と現実の齟齬の話。 『例えば――私の妹と、君の知らない間に関わりがあったりするかもしれないわけだ』 『実は、もっと昔に岬と出会っていたりして。それを示す伏線を見つけたら、決して逃してはいけない』  親愛なるクラスメイトの笑顔が、脳裏に浮かんだ。  無関係を貫きながら、それでも尚親しい彼女に、伏線を見出したような気がしたんだ。 「サファイアのあらすじを、覚えていますか?」  ページを開きながら、彼女は語る。 「全てに忘れられた少女は、一人、孤独に生きるのです。いつか、記憶を取り戻してもらうために、白紙の関係からやり直して」  そうだ、それがサファイアの物語だ。  すべてを失った少女が、それでもくじけることなく戦いぬく、奮闘記。 「俺はそれを、妃の物語だと思っていたけれど」  本当は、本城岬の物語だったのか。 「今こそ、思い出しましょう。数年越しに続いたサファイアの物語が、ようやくフィナーレを迎えるのです」  悲しそうに、彼女は語って。 「――どこで、告白されましたか?」  目を閉じて、思い出す。 「教室だ」  どこかの学園の教室で、本城岬に呼び出された。 「マネージャーをしている岬は、時間を作って俺の前に現れた」  照れくさそうにはにかみながら、見つめ合って。 「――何年前に、告白されたのでしょう?」  時計の針を巻き戻して、再現だ。 「妃と付き合っている前――夜子と、出会って少ししてから」  つまり。 「4年前――俺が、鷹山学園の1年の頃だ」  幼さの残る、俺達は。  とても若々しい、告白劇を執り行った。 「――どういう風に、告白されましたか?」  あの日の記憶を、手探ろう。 「僕は、新入りくんのことが大好きだよ」  とても、仲良しだった。  元気で明るい彼女は、とても、とても、魅力的で。 「――そうして瑠璃さんは、何て返事をしてあげたんです?」 「…………」  そこから先は、真っ黒だった。  途中まで思い出すことが出来たのに、何もわからなくなってしまう。 「……きっと、振ってしまったんだろうな。だから俺は、妃と付き合った」 「いいえ、違います」  はっきりとした声が、俺の言葉を否定する。 「何もかもが、間違っていますよ」  呆れるように、はにかんで。 「――だって、岬さんは鷹山学園2年生のときに、本土から転校してきたのですから」 「は?」 「よって、瑠璃さんが1年生のときは、出会ってすらいないのです。そもそも知り合ったのは、一年前じゃないですか」 「え……」  いや、でも。  今、確かにその記憶を思い出して。 「それが、サファイアの記憶喪失。正解に至りそうになったら、代わりの記憶を当てはめて、有耶無耶にしてしまうのです」  意識が、今に引っ張られる。  ここにいる彼女へ、否が応でも注意を引きつけられて。 「――私が、教えてあげますよ。当時、瑠璃さんがどういう風に、告白されたのかを」  頬に赤みがかかって、彼女は微笑んだ。  とても魅力的なその笑顔に、たまらなく胸が焦がれていた。 「あの日は、とても寒い日でしたね」  過去を懐かしむように、彼女は笑った。 「告白を決意した少女は、身を震わせながら瑠璃さんを呼び出したのです」  身動き一つ、出来ないまま。 「さすがの名探偵も、その日ばかりは弱々しくて、緊張で緊張で泣きそうだったんですよ」  今。  日向かなたは、笑っている。  泣きそうどころか、本当に幸せそうに笑うんだ。 「サファイアが煌めいて――少女の想いは忘却の彼方に消されてしまいましたが」  瞳が、潤いを帯びて。 「ようやく、ようやく、長い時間をかけて、ここまできましたよ」  それは何年越しの、物語だ。  魔法の本は、一体何年の時を縛り続けていて。 「――そして少女は、全ての記憶の感情を取り戻すのです。もう一度、あなたのことを好きになって――何度でも、恋に落ちました」  不意に、見覚えのない光景がダブって見える。  いつか、どこかで、こんな風に、愛を告白されたような気がして。 「ずっとずっと、大好きでした。瑠璃さんのことが、ほんとうに本当に――大好きだったんです」  そうしてかなたは、切に願う。 「4年前に貰えなかった返事を、してくれますか?」 「――っ!?」  その瞬間、視界に青の輝きが瞬いた。  遅れてこみ上げてくる光景は、サファイアが覆い隠していた記憶。  パンドラでさえ言及していなかった最期の真実に、思わず俺は呼吸が止まった。 「サファイアは、これにて読了です」  そうして、何も開かれていない現実が、やってくる。 「嘘だろ」  覚悟していなかった現実に、思考が追いつかないまま。  今は、サファイアが隠していた記憶の波に飲み込まれ、緩やかに意識は埋もれていった。  最中。 「瑠璃さん」  愛おしく、俺の名前を呼ぶ少女。  首にかけられていたサファイアのペンダントが、美しく輝いていた。  『サファイアの存在証明』  それは、全てを失った少女の奮闘記。  周囲に自らの存在を忘れられてしまい、生きてきた痕跡が失われてしまって。  そして、好きだった人への想いまでも忘れてしまった少女は、世界から不在になってしまうのです。  そのヒロインに選ばれたのは、月社さんではなく、私でした。  サファイアの物語は、ずっとずっと停滞していました。  『パンドラの狂乱劇場』が開いている限り、瑠璃さんは物語に囚われたまま、他の女の子との恋を紡ぐことは出来ません。  通常、魔法の本は途中で閉じることも止まることも出来ませんが、二つの物語が被ってしまった時、それは後に開いた方が優先されてしまうのです。  当時、日向かなたという存在は、とても不都合な存在だったようです。  毎日のように図書館へ向かう瑠璃さんでしたが、当然、学園にいるときは別の誰かと仲良くしていて。  夜子さんと仲良くなりながら、この私とも親交を深めていったのです。  違いは、一つだけ。  先に出会っていたのが、私だったということ。  何事においても先手を取るということは重要で、だから私は常に積極的にアピールしていきました。  いっぱいデートにも誘って、いっぱい愛情表現をして、そして、ついには告白まで先にして。  そういう目障りな行動が、目をつけられてしまったのでしょうね。  ――〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈は〉《丶》、〈邪〉《丶》〈魔〉《丶》〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》。  だから、サファイアを差し向けられてしまったのです。  今にして思い返してみれば、納得できることもあります。  白銀の猫、可愛らしいチンチラの蛍は、たまたま偶然、私のもとに渡ったわけではありません。  月社さんが拾った蛍が、家族事情で手放さなくてはならなくて――引き取り手を探している瑠璃さんが、私に相談したのです。  二つ返事で蛍を引き取って、私の元へと蛍はやってきました。  私と瑠璃さんが、当時既に顔見知りだったのですから、偶然ではなく当然の結果ですね。  最も、そんな私と蛍の繋がりの記憶でさえ、サファイアは覆い隠してしまったのですけども。  ヒスイや、アメシストが開いたのは、私の願望を叶えたから。  決して、単なる好奇心だけで、魔法の本が応えてくれたわけではないと思います。  仲良くなるための道標。  サファイアの物語は、私と瑠璃さんを引き合わせるアイテムとして、他の魔法の本を求めたのです。  特に、ヒスイの段階では、私と瑠璃さんの関係は白紙になっていて、赤の他人も同然だったのですから――再び関係をつなぎ合わせるには、決定的な何かが必要だったのでしょう。  もう一度、瑠璃さんと仲良くなりたい。  記憶は失われても、恋心までは奪い去られなかった私が求めていたのは、当たり前の欲求でした。  瑠璃さんを渇望していたからこそ、私は魔法の本を開いたのです。  思えば自分でも、笑ってしまいますね。  出会ったばかりの男の子に対して、ああまで積極的に絡んでいたのは、びっくりです。  好感度が振り切れていたのも、そういう前提があったからだと思えば、納得でした。  長い時間、自分自身でさえも忘れてしまっていて。  けれど、気が遠くなるほどの道のりを超えて、私は私の存在を証明します。  サファイアが開いたのは、私が告白したその瞬間。  まるで邪魔をするかのように蒼い煌めきは輝いたのですから――証明方法は、それをやり直せばよいのです。 「――瑠璃さん」  幼い日の記憶。  ようやく取り戻した、淡い思い出。 「あの、あの、突然呼び出してしまって、申し訳ありません」  まだ幼さの残る私は、一生懸命に告白の中身を考えて。  一番雰囲気が良いと思った、丘の上の教会に呼び出したのです。 「私、実は、ですね――!」  緊張感に、縛られて。  恥ずかしさに、限界いっぱいで。  だけど伝えなければ後悔するって分かっていたから、大きな声で告白しました。 「瑠璃さんのことが、大好きです! 私と、付き合って下さい!」  その瞬間、驚きで目を見開く瑠璃さんを見て。  嬉しそうに、破顔する瑠璃さんを見て。  もしかして、受け入れてくれるのではないかと、舞い上がる気持ちを抑えながら。 「……え?」  瑠璃さんの更に後ろで、扉が開いていることに気付いたのです。  告白の真っ最中なのに、どうして後ろが気になったのか。  それは、そこに蒼い煌めきを捉えたような気がしたからで。 「そこにいるのは、誰ですか?」  瑠璃さんが、返事をしてくれる前に。  探偵を目指すものとして、不審者の存在を見逃すことが出来ませんでした。  蒼い煌めきは、更に強く発光します。  全てを覆い隠すかのように、あるいは否定するかのように、全ての気持ちが塵となって、消えていく。  ――〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈だ〉《丶》〈と〉《丶》〈い〉《丶》〈う〉《丶》〈気〉《丶》〈持〉《丶》〈ち〉《丶》〈も〉《丶》、〈消〉《丶》〈え〉《丶》〈ゆ〉《丶》〈く〉《丶》〈よ〉《丶》〈う〉《丶》〈な〉《丶》〈気〉《丶》〈が〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》。  その煌めきに、大きな恐怖を覚えながら。 「……魔法、使い?」  私の記憶が崩壊する刹那、白髪赤目の女の子が、頭を抱えて震えていました。  それはとても可愛らしい女の子で、是非ともお友達になろうと思ったのですけども、そんな思いつきでさえ、サファイアは奪い去ってしまったのです。 「……何よ、これ」  蒼い煌めきが失われていくのを感じた直後。  脳内に流れ込んだ幼い日の記憶が、あたしの中で恐ろしいものを写し始める。 「え、ええ?? かなたが、瑠璃に、告白してた??」  瑠璃が、かなたに呼び出されて。  どうしても気になったあたしは、思わず後をつけて、様子を見てしまったけれど。  かなたが告白した瞬間、何かの物語が終わりを迎えたような感覚がした。 「――サファイア?」  忘れられていたのは、日向かなた。  この告白は二回目で、4年前にも行われた光景だった。  なら。  どうしてかなたは、サファイアを開いたのか? 「開いたのではなく、開かされた」  耳元で、魔法使いが囁いた。 「幼い日の夜子が見た光景は、大好きだった男の子が奪われそうになる瞬間。そのとき、夜子は、一体何を願ったのでしょうね」 「――い、いやっ! あたしは、何も知らないっ!!」  目をつぶり、耳を覆って、現実から目を逸らす。 「あたしじゃない、あたしじゃない、あたしは何もしていない!!」 「そうね。夜子は何もしていない。ただ、願っただけなのだから。恨みを、願っただけ」  何を、と。  聞きたくもないことを、魔法使いは教えてくれる。 「――日向かなたが、邪魔だって。この告白をなかったことにして欲しいって」 「知らないわっ!」 「魔法の本は、誰かの願いと本の意志によって開かれる。けれど、穢れた血をひく夜子なら、魔法の本はいくらでも応えてくれるわ」  サファイアが、一人の少女の存在を不在にしてくれたり? 「だから全部、夜子の願いなのよ。夜子が願ったから、妾たちはこうしてる。それを知らないと言われても、悲しいだけよぉ?」 「そんなの、あたしは何も頼んでないっ!! あたしがどうして、かなたにそんなことをしなきゃいけないのよ」 「自分の大切な人を、奪おうとしたから」 「やめてよぉ……っ!」  どんなに否定しても、魔法使いは口撃する。 「恐ろしい女の子よね。自分の思い通りにならないと、魔法の本を開いて現実を歪めてしまう。闇子と夜子は、よく似ているわ。憎しみの深さが、半端ない」 「いやあああぁ……っ!」  今まで目をそらしていたものが、一挙に押し寄せてきて。  脆弱なあたしの心が、急速に朽ち果てていく。 「知らないの、本当に、何も、知らなくて……」 「やっぱり夜子は、不幸を振りまく呪われた少女なのね」 「……あああっ!」  ぽろぽろと、涙が流れてきた。  それまでの幸せが、ただあたしが望んだから、用意されたものであると教えられて。  たくさんの犠牲のもとに成り立って、たくさんの人の気持ちを踏み潰してきたのだと知る。 「不幸を糧に、幸福を。それが、魔法の本の担い手よ?」  絶望が、あたしの全てを染め上げる。 「そして、瑠璃のお兄ちゃんも、かなたちゃんも、全部知ってしまった」  サファイアが閉じたということは、記憶を思い出したということで。 「――全てが夜子のせいだと気付くのは、時間の問題でしょうね」 「や、やだぁ……! そんなの、絶対に、嫌ぁ!」  あたしが、こんなに酷い女の子って、知られたら。  軽蔑されるどころか、憎悪されるに決まってるじゃないの。 「乙女の初恋を、数年も奪っておきながら、自分はのうのうと幸せになろうとしてた。ほら、だから言ったでしょう? 夜子はもう、普通の幸せは無理だって」  強がって、胸を張ってみても。  あたしには、普通の日常があると思い込んでも。  なんてことはない――その実態は、既に壊れてしまっていたのだ。 「ひっぐ……っ! ひっぐ……っ!」  大好きな人達に、憎まれるという恐怖。  それは、急速にあたしの心を狂わせていく。  失う恐怖が、底知れない。  弱い弱いあたしは、惨めに泣くことしか出来なくて。 「でも、大丈夫。夜子にはまだ、妾がいるわ。妾が、せめて幻想の幸せだけでも、魅せてあげる」 「……う、え?」  さめざめと泣き続けるあたしに、魔法使いは囁いた。  『パンドラの狂乱劇場』と題された、ボロボロの本を魅せつける。 「これはもう、壊れてしまった物語だけれど……大丈夫、破れたページは埋められるのよ」  心身疲弊したあたしには、何が正しくて、何が間違っているのかすら分からなくて。  今は、魔法使いの言うことに従えば、何かが良くなると信じていた。 「この続きは、夜子が書けばいいのよ。欠けた未来は、夜子自身で描けばいい。都合の良い未来日記を、記しましょう」 「そうしたら……あたしは」 「そうしたら、夜子は――必ず、幸せになれるわよ」 「う……う……」  少しだけ、迷ったあたしへ。 「夜子は、幸せになりたくないのかしら?」 「なりたい……よぉ……」 「夜子の背中を、押してあげる。ほら、前を見てみなさい」 「……え?」  めそめそと涙を流しながら、ふと、前を向くと。 「――瑠璃さん!」  遠く、遠くの光景に、愛を語り合うかなたと瑠璃を見てしまった。  幼い二人は、嬉しそうに手を繋いで。  これからの未来、お互いを想い合いながら幸せになってしまう。 「早くしないと、瑠璃のお兄ちゃんが返事をしてしまう」  あたしではなく、かなたの想いに答えてしまう。 「ほら、もっと利己的になって、夜子が願う物語を書き出しなさい。夜子が願えば、妾たちは全力で夢を見せてあげる」  甘い言葉に、心は陥落し。  お母さんと同じ道を行くことに、抵抗感はなかった。 「かなた」  瑠璃が、かなたの名前を呼ぶ。  その言葉にこもった感情が、あたしの理性を外させた。 「俺は、あんたのことが――」 「だめ」  それは、許されざる返事だ。 「駄目なのよ……!」  ごめんなさい。  ごめんなさい。  ごめんなさい。  あたしはとても、悪い子です。  被害者ぶった、加害者です。  いつだって、こんな風に都合よく何かを願って生きてきた。  その度に、他の誰かに他の何かに責任転嫁して、自分だけ知らないふりをしてきました。  だけどそうしなければ、脆弱なあたしは生きていくことが出来なくて。  「こんなあたしを、読者は軽蔑するのでしょう」  涙声に、懺悔して。  気が付けば、筆を執っていました。 「――さあ、新しい物語を語りましょう」  魔法使いは、指揮棒を振る。  それに合わせて、文字を書く。  あたしが、一番願う幸せを。  あたしが、一番欲しかったもの。  『ラピスラズリの幻想図書館』 「瑠璃色の輝きが、欲しかった」  日向かなたという女の子の話をしよう。  藤壺学園二年生、探偵部部長。  いつもニコニコ笑顔を咲かせて、愛嬌のある振る舞いをモットーにしている。  付け加えられたような丁寧語と、あけすけのない距離感は、接するものに親近感を沸かせてくれて。  味方にしたら、頼もしく。  敵に回すと、恐ろしい。  好奇心の権化であり、何かを調査することが大好きで――だから、魔法の本に連なる一連の出来事にも、興味津々だった。  それは、間違ってはない。  全てが正しく、全てが彼女で、それは日向かなたという女の子ではあるのだけど。 「――それだけじゃ、なかった」  俺と彼女の出会いは、遥かもっと昔から続いているもの。  あれほど親近感を覚えてのは、それが懐かしかったから。  あれほど頼もしく思えたのは、彼女が味方だと心強いことを知っていたから。  かつて、サファイアの煌めきに隠される以前から、彼女の魅力を知ってしまっていたのだろう。  過去の思い出に、特別なものはなく。  ただ、いつも通りの彼女と、ともに過ごした学園生活。 「瑠璃さん瑠璃さん、宜しくお願いしますね!」  鷹山学園入学式。  彼女はそう言って、俺に話しかけてくれた。  それは、4年前の色褪せた記憶。 「かなたちゃんとお呼びください! 愛情を込めて、呼んで下さいね?」  あの頃から、彼女は彼女だった。  元気で明るく、溌剌とした少女。  「瑠璃さんは、何の小説を読んでるんですかー? ミステリーなら、私も好きですよ!」  幻想図書館や、魔法の本さえ知らないときでさえ、彼女は俺のそばに居てくれて。 「妹さんがいるんですかー! それなら紹介してくださいよ!」  休み時間も昼休みも、そして、放課後も。  彼女はいつも、俺に話しかけてくれていた。 「あははは、瑠璃さんは本当に面白い人ですね!」  幼い日の俺は、恋という感情がわかっていなくて。  妃へ抱いている感情、彼女へ向けている感情、夜子へ向けている感情、そのどれもが言葉にすることが出来なかった。 「猫ですか?」  抱いていた感情に、迷いを覚えていた頃。  俺は、彼女に相談事をしていた。 「どうしてもというのなら、私が引き取りましょう! 名探偵に、お猫ちゃんはつきものですから!」  両親に咎められ、猫を手放すことを強要されていた時だって。  彼女は、俺の力になってくれた。 「瑠璃さんの妹さんも、可愛らしい人でした! うふふ、月社さんの分まで、私がたっぷり可愛がってあげますから!」  幼い子猫を抱きかかえて、頬ずりをしながら笑っていた。 「瑠璃さん、瑠璃さん!」  そういう、彼女の頼もしさや。 「瑠璃さん、瑠璃さん!!」  そういう、彼女の魅力に。 「――ねえ、瑠璃さぁん!!!」  俺は、次第に惹かれて言ってたのだと思う。  兄妹という関係に、隔絶され。  それが叶わない思いだと理解して、諦めようとして。  そうして、彼女という安らぎを見つけたような気がしたんだ。  だから。  ――丘の上の教会で、待っています。  彼女からのメッセージを受け取った瞬間、告白されるのだと理解した。  理解して、心が大きくときめいたのを覚えている。  嬉しくて、嬉しくて。  本当に、嬉しかったから。  ――彼女に、呼び出された。  そういうことを、口にしてしまったのである。  言わなくていいことを、言ってしまった。  談話室、広間。  和やかな幻想図書館のティータイムに、夜子の前で口にして。 「……え?」  狐につままれたような顔をしていた。  夜子は、心から驚いて――驚いた自分にも、また驚いて。 「そ、れが、どうしたのかしら?」  すぐに、感情が隠れていた。  強がりであることは、客観的に見れば明らかなのに、そのときの俺は気付かなかった。  どれほど夜子が揺さぶられていたのかを、まったくもって気づかなかったのだ。 「どうせ、冗談でしょう? キミに告白する女の子なんて、いるはずがないもの」  夜子は、俺をとても嫌っていたから。  そんな風に、いつものように罵倒する。  変わらなさに安心しながら、それじゃあ行ってくる、と背を向けたのだ。 「あの、あの、突然呼び出してしまって、申し訳ありません」  そして、教会で俺を待つ彼女。  頬は僅かに朱に染まり、緊張で笑顔はぎこちない。  僅かに高い声が、頑張って伝えようとしてくれるのが伝わってきた。  4年前の、丘の上の教会。  それが全ての始まりだったんだと思う。  日向かなたが、目の前にいて。  俺が、言葉を待ちわびて。  後ろの扉から、夜子がそれを目撃していた。 「私、実は、ですね――!」  始まりの言葉。  これから俺達の関係が、新たなものへと変わる一歩。 「瑠璃さんのことが、大好きです! 私と、付き合って下さい!」  生涯、最も幸せになれれるだろう一言が、真逆の影響を及ぼしてしまったのである。  彼女の幸せな一言が発せられた瞬間、サファイアの煌めきに覆われて。  その日から、俺と彼女の関係は、まるで栞を挟んでしまったかのように、閉じられ、放置されてしまっていたのだ。  時は過ぎて、物語は巡り。  全てを喪失した少女は、サファイアのあらすじを4年かけて辿っていく。  最初に出会った時のように、積極的に。  あの時以上に問題を起こしながら、もう一度俺と仲良くなって。  もう一度、彼女に惹かれ、彼女に好かれ、そして、時は重なり、場面は繰り返される。  お互い、大人になってしまったのかな。  それでも、あの頃と変わらない関係が築けていると、俺は思った。  ――丘の上の教会で、待っています。  4年前と、同じ手紙。  途中のまま、語られなかった続きをもう一度。 「ようやく、ようやく、長い時間をかけて、ここまできましたよ」  かなたと俺は、再び物語を語り始めよう。 「ずっとずっと、大好きでした。瑠璃さんのことが、ほんとうに本当に――大好きだったんです」  さあ、4年前に出来なかった返事を、口にしよう。  サファイアに忘れ去られていた記憶の一つ一つを、噛み締めていた。  硝子のように壊れやすい思い出たちは、それでも形を保ったまま帰ってきてくれる。  それは時間にして、一瞬のことだった。   けれど、脳内に駆け巡った走馬灯のような光景は、現実の時間の何十倍にも濃縮される。  サファイアの輝きは、失われていく。  そこに開かれているのは、現実だけ。 「……かなた」  彼女でも、あんたでもなく。  かなた、と、慣れ親しんだ名前を呼ぶ。 「あはは……ようやく、他人行儀な二人称をやめてくれましたか」 「不思議だったよ。かなたのことだけは、どうしてか名前で呼ぶことが出来なかった。あんたとか、あいつとか、彼女とか」  他の人と同じように接するのが、怖かったのかもしれない。 「私と変な距離感を取ろうとしていましたよね。地味に、傷付いていたんですよ?」 「サファイアのせいにさせてくれ。それに、俺は別に、かなたと仲良くなりたくなかったわけじゃない」  とっくの昔から、惹かれ続けていたんだよ。  「私への返事を怠りながら、月社さんといちゃついてましたね」 「……それは」  何の言い訳も、出来ないな。 「理央さんともフラグを立てていましたし、夜子さんだってルートが見えていましたよ」 「…………」  俺は、随分とあんたを待たせてしまったんだな。 「……ま、私自身も、当時のことを覚えていませんでしたから、おあいこにしてあげますよ。こう見えてかなたちゃんは、優しいのです」 「知ってるよ」  優しくて、頼もしくて、信頼できる名探偵だ。 「なんだろうなあ……俺は、もっと前からかなたのことが気になっていて、自分の気持ちに向き合って、事が落ち着いたら告白するつもりだったのに」  奏さんに言われるまでもなく、分かっていたんだ。  彼女が俺に寄せる思いとか、俺自身が、いつのまにか彼女に惹かれてしまっていたことを。  妃と、恋人のような関係に至っていたこともあった。  あの時の関係が続いていたら、こうはならなかったかもしれないけれど。  ようやく、正しく失恋することが出来て。  一番最初の、原点のような恋心に立ち返ることが出来たのだ。 「まさか、この展開は予想していなかった。自分の過去よりも、驚いたよ」  戸惑いが、最初の感想だ。 「だけど」  それでも俺は、嬉しかった。 「4年前も、俺はかなたに惹かれてて、サファイアがその記憶をなくしても、同じようにあんたに惹かれてしまった。その事実が、たまらなく嬉しいんだ」  例え、それがサファイアのあらすじだとしても。  閉じても尚、当時の気持ちを疑うことはないのだから。 「――迷って、戸惑って、留まり続けていたけれど。それでも俺は、物語の先にかなたを選んだよ」  伏見理央ではなく。  月社妃ではなく。  遊行寺夜子ではなく。 「かなたのことが、大好きだ」  それが、4年前に返し忘れた返事だ。 「俺と、付き合ってくれ」 「――はい!」  そしてかなたは、満面の笑顔を浮かべて、頷いた。 「付き合いますよ! 付き合います! 私だって、瑠璃さんのことが大好きなんですから!」  4年間、待ちわびた台詞に、心を躍らせるかなた。 「好きです、好き! 大好きなんです! 嬉しくて嬉しくて、泣いちゃいそうなくらいですよ!!」  満面の笑顔に、涙が浮かぶ。  これ以上ない幸せを抱きながら、膨大な感情が押し寄せてきたのだろう。 「……あーあ、いけないんだー!」  彼女が、涙を拭いながら言う。 「女の子を泣かせちゃ、いけないんですよーだ!」 「……それくらい、許してくれよ」  かなたらしい言葉に微笑んで、それから不意に、衝動が込み上げる。  「もっともっと、泣かせたくなった」 「へっ?」  不意をつかれる、かなた。  頬に手を伸ばして、不意打ちのキスをする。 「――んっ!」  一方的な口付けに、戸惑いながら。 「……ちゅっ……ん、んんっ!」  一転して、手を俺の肩へと伸ばして、そのまま抱きしめ返してきた。 「あっ……ん……ぷはぁっ」  それは十秒近い、濃厚なキス。  互いの愛情をすり寄せ合うような、甘いくちづけだ。 「瑠璃さんったら……積極的なんですからっ」  恥ずかしそうに、笑ってみせる彼女。  とても嬉しそうに、涙を流していた。 「待たせた分だけ、もっともっとキスして下さい。何度も何度も、キスして下さい。これからもずっと――私が、満足するまでです!」 「喜んで」 「ちゅ……」  柔らかく、触れ合うようなくちづけ。 「ん、ちゅう」  長く、相手を思うようなくちづけを。 「……っんっ……あぁっ……」  そして。 「んっ、ちゅ……ふ、あっ……!」  舌と舌を絡ませる深い深い口吻を。 「じゅる……ん、くっ……」  神の不在の教会で、淫靡な時間を紡いでいく。  互いを貪り合うような光景は、とても、とても、罪深いものに見えたのかもしれない。 「ん……あはっ」  やがて、長いキスが終りを迎えて、目と目が合う。  とろんとした瞳が扇情的で、かなたをもっと欲しくなってしまう。 「こう見えて、私」  足りないという、気持ちを高ぶらせながら。 「肉食系なんですよ……んちゅう……!」  まだまだ、夜は終わらない。  まだまだ、かなたは満足しない。  それは、俺も同じだ。 「待たせすぎたのですから……その分だけ、いっぱいいっぱい愛して下さい」  挑発的な眼差しの、見据える先を理解して。 「あの頃とは違って――私はもう、オトナなんです」 「知ってるよ」  歯止めが効かない関係は、気持ちを高ぶらせていく。  「大丈夫、もう、誰も見ていませんから」  耳元で囁かれながら、俺は彼女の腰に手を回した。  かなたを祭壇の上に座らせて、ゆっくりと押し倒す。  主張の激しい胸をはだけさせながら、上目遣いに見つめるかなたは、色っぽくて。 「やんっ……! 瑠璃さんったら、えっちなんですからっ……!」 「誘ってきたのは、かなたの方からだろ」 「ふっふっふ、そこは言わない約束ですよ」  恥じらいながらも、楽しげなかなた。 「男の人はお胸が好きといいますが、瑠璃さんはいかがでしょうか?」 「好きだよ」  〈顕〉《あらわ》になった乳房に、手を伸ばして。 「かなたくらいの大きさは、ちょうどいいな」  むに、と。  痛くないように、掴んでみた。 「やっ……んっ……」  くぐもった声が、耳に届く。 「る、瑠璃さんの好きにしてくださっても、構いませんからね……!」 「ああ、わかったよ」  まずは両の手で、じっくりの胸の感触を堪能する。  寄せて、揉み込んで、優しく撫でてみたり。 「はんっ……ん、んぁっ……! ふぁっ……!」  敏感なのか、すぐさまかなたは色っぽい声が出始めていた。 「おっ、おかしいですね……自分で触った時は、こうまで気持よくなかったのですが」 「……自分で、触ってるの?」 「いや」  かなたは、そこで初めて言葉を濁した。 「そ、それは、少しだけ、ですよ! 女の子のたしなみですからっ……!」 「そうなのか……?」  腑に落ちないものを感じながら、胸への愛撫を続行する。 「ひぅっ……! 瑠璃さんの、触り方はっ……! とても、お上手ですねっ……!」  決して、乳首には触れないように、周りをなぞり、触れるだけ。  外側の形を確認するような動きは、少しじれったいものかもしれないが。 「ん、んんっ……! むず痒くて、だけど、気持ちいいですっ……!」  素直な感想を口にしてくれると、俺としてもやりやすい。 「ああっ……! やだっ……瑠璃さんたら、赤ちゃんみたいですっ……!」 「へえ?」  なるほど、そう言われてしまったら。  赤ちゃんのように、吸い付いてやろう。 「胸ばっかり――って、ひゃぁうっ――!?」  撫でるような触り方から、一変して。  むしゃぶるように、かなたの胸に吸い付いた。 「ん、ぁあっ!! やっ、いきなりっ……!! やんっ――!!」  それまで触れてこなかった乳首へ、まっしぐら。  唾液をからませた舌で、乳首をこねくり回す。 「本当にっ、赤ちゃんみたいですっ……!! やぁっ……刺激、強いですっ……!」  胸を吸うという行為に、俺が感じる気持ちよさはない。  だが、女の子の胸を好き放題しているという征服感は、何物にも代えがたい満足感がある。 「ふ、ぁっ……! やぁあっ……! 胸ばっかりぃっ……!!!」  その声に導かれるように、空いていた手はかなたの下半身へと伸ばす。 「ひうっ……!」  胸から、お腹へ。 「う、動きが、なんだかいやらしいですよっ……! あうっ……!」  お腹から、背中へ。 「ひやぁっ……! 触り方が、へんたいちっくですっ……!!!」  そして、お尻へと。 「ちっ、痴漢さんの触り方ですっ……! これは、痴漢さんがいますっ……!」  胸に吸い付きながら、手はおしりを撫で続けて。  良い形をしたかなたの尻は、揉んだりすると、弾みのある質感をしていた。 「やんっ……! もぉっ、瑠璃さんったらぁっ……!」  けれども、声の色気は、更に強まって。 「神様のお膝元で、破廉恥ですねっ……!」 「ああ、それがいい」  ここが教会であることが、俺たちを燃え上がらせる理由になっていた。 「はうっ……ん、やぁっ……!! ぁうっ……ん、やっ……!」  もはや、唾液でベトベトになった胸は、触れるだけで声が漏れるほど敏感になってしまっていて。 「気持ちっ……いいっ……! かも、しれませんっ……!!」  快感を生み出す場所として、なすがままだ。 「かなたは、エロいな」 「瑠璃さんのっ……瑠璃さんがいやらしく触るから、ですよっ……!」  指が沈むほど、おしりを揉み込む。 「もぉっ、好き勝手に、遠慮のない人ですっ……!」 「悪いな。余りにかなたの身体が、魅力的すぎて」 「そ、そんな言い訳をしたって許されませんっ……! やっ、言ってる傍から、乳首吸うんですからぁっ……!!」  快感に悶えているかなたは、可愛くて。 「ひぐぅっ……! んっ、ぁぁっ……! 刺激が、強いんですっ……!」  もっと、喘ぎ声を聞きたくなってしまう。 「やーですっ……! いやですっ……! もう、駄目ですよっ……!!」  切なそうに、俺を見つめながら。 「もう、駄目ですよ」  とろけた瞳が、求めるもの。 「早く……ください」  おしりに伸ばしていた手が、そっと、前に持ってこさせられる。  「かなた……」 「もう、我慢できないのです……ね?」  俺の方を掴んで、立ち上がり。  そうして、後ろを向いて、お尻を突き出した。  「瑠璃さんが、欲しいんですっ……」 「――っ!」  そうまで言われて、何も出来ない男子がこの世にいるだろうか。  かなたの切ない求愛に、意識の全てを持っていかれた俺は、すぐさまベルトを外した。 「いいんだな?」 「二度も、言わせないでくださいよ……!」 「わかったよ」  スカートを捲り上げて、下着を横にずらす。  脱がせるのではなく、その隙間に陰茎をあてがって。 「いくぞ」 「はいっ――!」  後ろから、かなたの処女を貫いた。 「ひぐっ……!! んっ、っ――!」  堪えるような声が、一瞬。 「ああっ……!! 瑠璃さんのがっ……! 来る……!」  めりめりと、膣内を潜り込んで。 「これが、男女の営みっ……! あはっ……凄い、ですっ……!!」  初めての感覚に戸惑いながら、かなたは嬉しさを口にした。  そうして、ゆっくりとした挿入は、やがて根本まで到達して。 「はっ、入ったんですね……?」 「ああ、奥までな」  しっかりと咥え込まれた光景を目にすると、かなたを俺のものに出来たという征服感に、満たされて。 「中に、瑠璃さんのが入り込んでいるというのは……言葉に出来ない、感覚ですね……」  噛みしめるように、かなたは言う。 「痛みは、少しありますが……それ以上に、満たされているような気持ちでいっぱいです」 「それなら、よかった」  かなたの中は、じんわりと湿っていて、窮屈ではあれど、居心地はよく。 「さあ、動きましょう……?」  これから先をかなたは求めて、俺は静かに頷いた。  痛みを加えることのないよう、慎重に。 「んっ……あっ……中で、こすれてるっ……!!」  僅かに動くだけでも、かなたは反応してしまう。 「あんっ……やっ……やぁぁっ……!! 瑠璃さんのが、凄く、感じられる……っ!!」  ゆっくりと、だが確実に出し入れを繰り返して。  「んっ、あんっ! ふぁっ! んっ……やぁっ……! 突かれるっ……! 突かれていますっ……!!」  一回一回の動きを、刻みつけるかのように、腰を動かしていく。 「はぁんっ……! 中が、ぐりぐりっ……! やぁんっ、気持ち、いいっ……!」  挿入から、しばらくして。 「んっ! あっ! ああっ!! 凄い、ですぅっ!! やんっ!!」  痛みを堪えるような声が、完全に消え失せてしまっていた。 「はぁっ……! んっ、やぁっ……! んっ、んんっ……ん、あぁっ……!!」  ただひたすら、後ろから突かれる感覚に、喘ぎ続けていて。 「瑠璃さんっ……! 瑠璃さんっ……! 瑠璃さぁんっ……!!」  もっと、もっとと。  ねだるように、名前を呼ぶんだ。 「ぐっ……凄いな、これは」  一心不乱に乱れるかなたは、余りにもエロティックだ。  教会という場所も相まって、酷くイケナイコトをしているような気分にさせられる。 「神様は、こんな俺達を見てどう思うかな」 「やぁっ、そういうことは、言わないでくださいよっ!」  俺を責めるような声で、かなたは言う。 「こんなにっ……! 可愛らしい女の子を襲ったりなんかしてっ……! きっと、天罰があたりますねっ!!」 「へえ?」 「んっ、ああっ!! しかも、後ろから、ガンガンに突いてきてっ、まるでっ……! 瑠璃さんはぁっ……!! ひゃんっ!!」  大きく、深く、腰を打ち付けると。  それだけで、かなたは何も言えなくなってしまう。 「ず、ずるいですよぉ……最後まで、言わせてください」 「最後まで、イかせてください?」 「ち、違いますよっ!!!」  顔を真赤に染め上げて、かなたは抗議の声を上げる。 「そんなことっ!! いっていま――せんっ、からぁっ!!」  けれども腰の動きは止まらない。  かなたに快感を植え付けるために、ひたすらに振り続けて。 「神様は、見ていますっ! だからちゃんと、誓ってくださいよっ……!!」  喘ぎながらも、口にした言葉。 「わたしをっ……! ちゃんと、最後まで、ずっとっ……! 好きのままでっ……!! いてくださいっ……!!」  大きな声で、何度も、何度も。 「大好きだってっ……! かなたちゃんのこと、大好きだって、誓ってくださいよぉっ……!!」 「誓うよ」  即答しよう。 「かなたのことが、大好きだ。心から、愛してる」  その想いを、胸に抱いて。 「嬉しいっ……!! 今の私、とっても、幸せですっ……!!」  抱かれることの、喜びに浸りながら。 「幸せすぎて、もう、だめっ……」  膣内が、ぎゅっと収縮する。  限界はもう、近そうだった。 「ぐっ――その動き、やばいって」  中が、締まったせいで、俺もつられるように限界へと持ってかれる。 「あんっ、あんっ、やぁん!! なら、いっしょにっ!! 瑠璃さんと、いっしょにっ!」  ともにイくことを、おねだりする。 「わかってる! 俺も、もう――!!」  最後に、大きく刻みつけて。  何度も何度も、腰を動かして。 「ふぁっ……やっ、やぁっ、変なの、きちゃいますっ……!!」  切なそうな声が、した。 「やっ――やぁぁあああああんんんんんんっっ!!!!!!」  絶頂が、聞こえてきたんだ。 「ぐぅっ――!!」  とっさに、かなたの中から引き抜いて、性欲をありったけに吐き出していく。  迸る精液が、かなたの後ろを白く染め上げてしまって。 「ふぁっ……はぁぁぁっ……んっ、やっ……」  そのまま腰砕けになってしまったかなたは、動くことができないでいる。 「とても、素晴らしい、初体験でしたよ……」 「ああ、俺もだ」  大好きな彼女と、愛しあうことが出来て。 「裸と裸のお付き合いは……こんなにも、素敵だったんですね」  満足気に笑うかなたを見て、ほっと安心する。  神様の不在の教会で、淫らに乱れた俺たちは――そうして、一つになることが出来たのだ。  サファイアが閉じて、全ての物語が閉じきって、それでめでたしめでたしとはならなかった。  物語から開放された俺達は、4年越しの関係に至り、愛を育むけれど。 「……夜子さん、出てきませんね」  その原因の一端となった夜子は、その事実を重く受け止めていた。 「まあ、無理もないか」  かなた、曰く。  夜子の根源的な願望に、魔法の本が応えてしまって、これまでの物語が開かれてきたらしい。  言ってしまえば、夜子の感情のぶれが、大きく影響を与えてしまっているわけで。 「相当、ショックを受けているみたいだな」  自分のせいで、日向かなたが忘れられていたこと。  利己的な願いを叶えられてしまったがゆえに――自らの罪を必要以上に意識してしまっているのだ。 「夜子さんが悪いわけではないと思うのですが」  誰だって、面白くないことが起きたら、それを悪く思うことがあるだろう。  魔法の本が、勝手にそれを汲み取ってしまっただけで、夜子が本当にそれを願ったわけでもないだろうに。  サファイアが閉じてから、遊行寺夜子は俺達の前に一切顔を出さなくなってしまったのである。 「このまま放っておく訳にはいかないよな」  夜子の弱さが、次にどんな物語を引き起こしてしまうか。  そうなってしまったら、夜子自身が更に傷付いてしまうだろう。 「……しかし、とても複雑な状態ですね」  険しい表情で、彼女は語る。 「夜子さんは、瑠璃さんのことが好きなのですから――やはり、今の私たちには、どうすることも出来ないと思います」 「どういうことだ?」 「私と瑠璃さんが恋人になってしまった以上、夜子さんにとって毒にしかならないということですよ。慰めも、優しさも、怒りも、罵倒も、協調も、何もかもが逆効果になりそうです」 「…………」  夜子は、俺が告白されるという事実に嫌悪感を抱いたからこそ、サファイアがその想いに答えてしまった。  原因は、俺を中心とした恋愛模様。  確かに今の俺達は、夜子にとってもっとも面白くない状態になってしまっている。 「今は一人、傷付いて……痛みに耐えているのだと思います。時間が癒してくれるまで、近付かないほうが良いのではないかと」 「一理ある」  何もかもが受け入れるようになれるまで、待ってみるのか。  それとも、さらなる干渉に踏み込むのか。 「……だけど、クリソベリルが、怖いんだ」  あの魔法使いが、夜子に余計なことを口にしていないかどうか。  かなたの正当性を理解しつつも、そういう焦りが俺を襲っている。 「だから俺は、今の夜子を放っておけない。例え嫌われたとしても、一人で思い詰めさせたくないんだ」  何のために、俺や理央がここにいると思ってるんだ。  恋愛云々の前に、俺たちは読書仲間だったはずだ。  「それが、夜子さんの感情を刺激しなければよいのですが」  彼女は、笑って。 「――そっちの方が、いつもの瑠璃さんらしいですよね」  鬱陶しく、絡んだり。  嫌われても、話しかけたり。  そうやって、俺と夜子は仲良くなってきたんだから。 「よろしく頼むって、言われたんだ」  夜子に何かあったら、あのシスコン兄貴にぶっ殺される。  魔法使いの手から逃れさせるため、危険を承知で夜子のもとへと向かおうか。  襲いかかる罪悪感が、あたしの心を削ぎ殺そうとする。  自己嫌悪と後悔と混乱が順番に訪れては、悲鳴をあげていた。  惨め。  今のあたしは、その一言に尽きる。  のうのうと生きてきて、引きこもってきた日々はなんて滑稽だろうか。  一人、凛として生きてきたつもりでも、その裏にはたくさんの不幸を踏み台にしてきたのだ。  あるいは、他人の不幸を糧に、生きながらえてきたともいうべきか。  全てが、遊行寺夜子を根源としていた。  サファイアを開いた瞬間を思い出せば、その言葉は素直に飲み込むことができるだろう。  突きつけられてしまった真実は、更なる絶望感を味あわせてくれる。  知らない風に振る舞って、読者を気取っていた。  目の前で展開される魔法の本たちに、わくわくしていたこともあった。  開いた人間がそれを望んだのだから、しかたのない事だと諦めたことも確かにあった。  ――魔法の本は、夜子の意思に従僕する。  魔法使いは、そう囁いた。  最初はそれが、何を意味しているのか分からなかったけれども。  ――夜子の望む物語を、開いてくれようとする。  本の意思は、あたしの意思。  我侭な少女をあやすかのように、魔法の本は語らせてくれるのだ。  サファイアは、日向かなたを封じる本。  勝手気ままに幸せになる二人が許せなくて、あたしの心の奥底にある黒い感情が求めた物語。  他人の幸福が、許せなくて。  自分にはないものを手にするのが、許せなくて。  だからあたしは、災いをもたらす魔法使いなのだろう。  この白髪は、決して見せかけだけではなく、その証明だと思い知らされる。  恨めしい。  憎ましい。  〈悍〉《おぞ》ましい。  そういう感情を覚えながら、確かにあたしはサファイアを手にしていた。  かなたが、瑠璃に告白して。  勝手に幸せになろうとするなんて、許せなくて。  邪魔したかった。  否定したかった。  それはきっと、確かなあたしの意思。  紙の上の魔法使いは、それに応えてくれただけ。  「――だから夜子は、加害者なのよん」  隣に控える、魔法使い。  あたしとよく似た姿をしている彼女は、あたし自身の闇なのだろう。 「〈徹〉《てっ》〈頭〉《とう》〈徹〉《てつ》〈尾〉《び》、加害者だったからこそ、過去は隠さなくちゃならなかったわけ」  のうのうと、幸せになるために。  被害者のお面をかぶりながら、悲劇に嘆いている少女の振り。 「さあ、これで自分がどういう人間だったか分かるでしょう? ならば次は、真実を知る番よ」 「……まだ、何かあるの」  満身創痍のあたしへ、魔法使いが問いかける。 「夜子が知ったのは、サファイアの秘密。日向かなたの正体だけでしょう? それは単なる始まりでしかなかったの」  4年前の、サファイアから始まって。 「もう、瑠璃のお兄ちゃんは知ってることだ。知らないのは、夜子だけ。パンドラの箱の中身――幻想図書館の真実を確かめましょう?」  妃が生きていた頃。  妃が死んでしまった時。  そこにも何かが、起きていたのだろう。 「妃ちゃんは、物語に退場させられた。それは、サファイアのケースでのかなたちゃんに、よく似てるわよね」  瑠璃と幸せになろうとするかなたを見て、あたしはサファイアを願い。  そして、瑠璃と兄妹以上の関係に至る妃を見て、同じように何かを願ってしまったのか。 「夜子がいなければ、誰もが幸せに生きることができていた」  あたしがいなければ、誰もが幸せに生きることができていた。 「だけどそれは、仕方のないこと。それからどうするのかが、大切じゃなくて?」  災いをもたらす呪われた存在と、認識して。 「さあ、物語を続けましょう?」  魔法使いは、次なる物語を読ませようとする。 「……でも」  それでも、あたしは、躊躇していた。  かなたが瑠璃に告白をした瞬間、こみ上げていた悪しき感情はとても印象深く覚えているけれど、だからって、それを発散させたくはなかった。  誰かを不幸せにしてまで、幸せになりたくない。  それは、それだけは、あたしの本音だと思うから。 「むぅ……開き直ってしまえば、楽なのに。現実が不幸せなら、空想に幸せを求めればいいじゃないの」  現実は、諦めて。  物語を、思い通りに描いて。  そこに、何があるのかしら。  そこに意思が、あるのかしら? 「おーい、夜子?」 「――ッ!?」  扉の向こうから、声がした。  一番聞きたくない声がして、思わずあたしは息を呑む。  どうして、瑠璃が? 「夜子を、咎めに来たのかもね」  よくも、かなたを忘れさせてくれたな。  よくも、かなたの告白を台無しにしてくれたな。 「……止めて」  声が震える。  肩が震える。  扉の音から逃れるように、あたしは耳をふさいだ。 「いるんだろ?」  けれど瑠璃の声は、とても柔らかい響きをしていた。  いつもと何も変わっていなくて、いつもと同じ、瑠璃の声。  少しだけ安堵を覚える自分がいて、驚いた。 「かなたちゃんに告白されてから今まで、何をしていたのかしらね」  魔法使いは、小声で囁いた。 「あの調子だと、二人は付き合い始めたようね。もしかして、誰もいない夜の教会で――」 「静かに、して」  だったら、どうだというのだ。  そんなの、二人の勝手じゃないか。  そもそも最初から、あたしが介入していいところではないのだから。 「……色々、あったみたいだけどさ」  やがて、瑠璃は語りかける。  いるかどうかもわからない扉越しに、あたしへ向けて語り始める。 「4年前から、色々なことがあって――いろんな感情が、〈錯〉《さく》〈綜〉《そう》していたと思う。俺も、夜子も、かなたも、妃も、理央も」  みんな、みんな、いろいろあって。 「その中で生まれた何かに、俺達は誰も咎めようとはしないよ。誰が悪いとか、誰が原因とかそういう話ではなくて、これは、幻想図書館全員の問題なのだから」  一人ではなく、全員の。  「夜子が今抱いている感情を、俺は分かってあげることが出来ないだろうが――それでも、わかちあうことができると思う。そうやって、俺達は今まで過ごしてきたように思うから」  出会ってから、今日まで。  あたしと瑠璃が、過ごした時間。 「隠されたことがあった。秘密だって、たくさんあった。けれど、俺と夜子が過ごした時間に、嘘はなかった」  背景が、隠されていたって。  そこにあったものは、疑うまでもなく真実。 「だから、待ってるぞ。またみんなで、笑いながら過ごそうじゃないか。早くしないと、理央の夜飯が冷めちゃうぜ?」  俯きながら、息を殺して。  瑠璃に対しての返しを持ち合わせていないあたしは、何も言うことができないでいた。 「俺は今でも、この幻想図書館が大好きなんだ」  それが、最期の言葉だった。  それが、あたしの心に手を差し伸ばしてくれる、優しい言葉。 「あ、あたしは……」  さっきまで覆われていた暗闇が、あっけなく晴れていく。  薄汚れた感情と向き合って、それでも現実に生きられるような気がした。 「全部、紙の上の妄想よ」  だけど。 「それさえも、心のない木偶の坊の台詞なの」  魔法使いは、瑠璃の言葉をあざ笑う。  どうしようもなく、嘲笑っていた。 「どうして、そういうことをいうの。あたしは、やっぱり、ちゃんと謝って、受け入れて、これからだって、みんなと……」  あふれだす感情を押さえながら、ぐずるように問いかけるが。 「瑠璃のお兄ちゃんは、現実に生きてはいない。だからあれは、どうしようもなく空虚で哀れな、紙の上の存在よ」 「――え?」  紙の上の魔法使いは、あたしの知らない残酷な真実を告げてしまう。  あたしが耐え切れない、絶望の現実を教えてしまう。 「何も妾は、無根拠に空想に幸せを探せと言ってるわけじゃないのよ。ただ、わかって欲しいだけ」  悲しそうに、魔法使いは口にした。 「夜子が本当に欲しかった幸せは、もう二度と、手に入らないものなのだから」  現実に、ありえない幸せ。  瑠璃が、現実に在りえない事実。  それが意味するものは――空虚な夢への、逃避?  「だから、先ほどから言ってるわよねえ?」  今、瑠璃が囁いてくれた台詞。  あたしを現実に導いてくれる言葉は、本当に、本当に、優しくて。  やっぱり、あたしはまだまだ頑張れると、思っていたのに。 「夜子は、物語を司る加害者で――もう、犠牲はたくさん出ちゃってるの。今更、現実に戻るなんてやめておいたほうがいいわよ?」  差し出された魔法の本が、きらめいた。 「全ての空想を否定したら――瑠璃のお兄ちゃんだって、消えてしまうのだから」 「う、あ――っ! そんな、うそ、うそッ!」  表紙。  瞳が、捉えた。  文字。  題目  『四條瑠璃』 「いっ……いやっ……! いやああああああっ!?」  目まぐるしく想い出す過去の情景。  幻想図書館が経験した、過去最悪の光景。 「思い出さなくても、いいのに。思い出さなくちゃ、夜子は分かってくれないの。だったら、しかたがないわよね」  瑠璃が、瑠璃が、瑠璃が、もう、いなくて。  いないことを、いないことを、あたしはとっくに、知っていた。 「あ、ああああ……!」  チカチカと、目の前が瞬いた。  お母さんに消してもらっていた光景が、舞い戻ってくる。  「そして夜子も、幻想図書館の真実を知ってしまう」  妃が、物語に迷い自殺を選んだことも。  瑠璃が、生きる意味を失って、自殺を選んだことも。 「パンドラの中身は、絶望だらけ。ほーら、だから言ったのに」  震えが、怯えが、恐怖が止まらない。  あのときの陰惨な光景が、脳裏に思い浮かばされる。  妃が、死んだその日。  瑠璃の様子がおかしくて、瑠璃の様子が心配になって、深夜、自室へ向かって。  ノックを鳴らしても、返事はなく。  就寝してると思ったあたしは、寂しさから、瑠璃に会いたくなって。  勝手に、自室に、入ってみたら。 「る、り……?」  何かが、天井から、吊られていた。  よくないものが、よくないかたちで、そこにあって。  死。  人の朽ちる瞬間を、まさに目撃して。  脆く壊れやすいあたしの心は、瞬く間に終わりを迎えた。  悲鳴。  瞬間、お母さんが飛んできた。  憔悴しきったお母さんも、それを呆然と見つめることしか出来なくて。  あたしをぎゅっと抱き締めたまま、ごめんなさいと懺悔してた。 「ぜんぶ、なかったことにして」  壊れたあたしは、神様に願った。 「こんなの、いや」  妃が死んで、瑠璃が死んで、その原因があたしにあることも自覚して。  魔法の本という存在に関わったが故、関係のない人間を巻き込んでしまったのだ。 「あたしのとしょかんを、かえしてよ」  渇望、欲望、衝動。  現実を嫌ったあたしが願ったのは、あたしにやさしい空想の世界。 「――お願い、誰か、助けて」  そして、気を失ったあたしが、目を覚ました時。  お母さんが命がけで空想を騙り、パンドラの未来図が定められ。  不都合な過去を有耶無耶にして、適当な群像劇を語ろうとしていた。 「――それでも夜子は、あの現実に戻ることができるのかしら?」  魔法使いは、尋ねる。 「『四條瑠璃』は、夜子のための魔法の本。都合のいい存在として、未来を書き換えてあげたらいいんだよ」  お母さんが、理央や妃を縛った時のように。  あたしもまた、瑠璃を縛って、思い通りにすればいい。 「どうせ、当の本人はすでに死んでいる。だったら、その存在は勝手にしてもいいんじゃなくて? 所詮、物語はフィクションよ」  空想を語れ。  空想を描け。  さっき、あたしに語りかけた言葉ですら――紙の上の、言葉なのだから。 「現実に救いはなく、空想に幸福があって――夜子はもう、空想でしか生きられない」  魔法使いの言うとおり。  あたしの現実は、もう終わってしまっているのだから。 「さあ、筆を執ろう。夜子のための物語を、夜子自身が描きなさい」  今まで、それでも、抗ってきて。  なんとか、なんとか、こらえてきたつもりだった。  サファイアの過ちを繰り返したくはなくて。  あたしは何かに縋らなければ、生きていけないほどの弱い女の子です。  そのために人を犠牲にして、不幸にさせていくのです。  ああ、ようやく、わかった。  それを人は、こう呼ぶのでしょうね。 「――災いを呼ぶ、紙の上の魔法使い」  あの腐れ魔法使いの噂は、紛れも無い真実だった。  それを、あたし自身が証明してしまったのだろう。  どうしてこんな流れになったのか、今でもよくわかっていないけれど。  押しの強いかなたに負けて、こうなってしまったのだろうことだけはよくわかった。 「はむっ……ん、ちゅうっ……」  放課後の、探偵部部室。  色めいた空間の中で、直立する俺へご奉仕するかなた。  「どうれふか……? 気持ち、ひひ……?」 「ぐっ、それ、すごいっ……!!」  咥えることに、一切の抵抗はなかった。 「ふふふっ、もっともっとしてあげますからね……!」  それどころか、楽しそうにやる気をみなぎらせているくらいだ。 「男の子を手玉に取るなんて、かなたちゃんっぽくて素敵です……!」 「くっ……!」  与えられる快楽を、待ち侘びるひな鳥の気分だ。  なまじ、刺激の与え方が上手いから、何も言い返すことが出来ない。 「あむっ……ん、ちゅううっ、れろれろれろっ……んちゅっ……」  丁寧なフェラチオは、自分でするよりも優しい快感を伴って。 「じゅるっ、ん、じゅるるるるるっ……!!」  吸い付くようなバキュームは、激しい刺激を伴っていた。 「うふっ、瑠璃さんの反応、カワイイですねぇ……!」  見上げながら、嬉しそうに笑って。 「もっともっと、私を楽しませてくださいね……?」 「おっ、おかしいだろ……! 普通は、フェラされる方が楽しむはずなのに……!」 「喘ぎ声を出したりなんかして、面白いんですから!」  恥ずかしさを通り越してしまえば、かなたは積極的な女の子だ。  こういうとき、主導権を握られてしまうのはしかたのないことかもしれないが。 「くそっ……俺だって……!」  何とか、腰を動かそうと思ったけれど。 「じゅるるるるるるるっ……!!」 「ぅ、ぁっ……!!」  腰をギュッと押さえつけられてしまって、離してはくれない。 「安心してくらはい……んちゅっ……はむっ……すぐに、動く気もないほど腰砕けにさせてあげますからっ……!」  手や、唇を触れ合わせたり。 「ちゅっ、んっ……んちゅうっ、ちゅっ、はむっ、はぁむっ……」  舌や、口内で吸い付いてきたり。 「れろれろっ……んじゅうっ……れろっ、んじゅるるるるっっ、じゅるっ……!」  指を竿の方に這わせて、玉袋を弄んだりする。 「女の子みたいな声、出てますよ?」 「出て、ないっ……!」  自在に刺激を操るかなたに、全く敵いそうにもなかった。 「ここから、精液がどぴゅどぴゅって出ているんですよね……? 何だか、面白いですね」  亀頭を舌で舐めながら、かなたは奉仕を続ける。 「この先から……ん、れろっ……ちゅっ……白いのが、たくさん、たくさんっ……」  唾液でベトベトになったペニスは、もはや先走り汁との区別がつかない。 「これが私の中に入っていたかと思うと、少し恐ろしいですねえ……はぁむっ……ん、んんっ……!」  大きさを確認するように、今度は根本まで咥えようとする。 「ほれはほおひいれすねえ……お口の中が、ひっぱいれすっ……!!」 「ぐぁっ……」  咥えられながら喋られてしまうと、別の刺激が与えられて。 「んじゅるっ……どうひまひたか? 変なほえ、出ていまふよ……?」  目ざとくその反応を見つけたかなたは、意図的にしゃべり始める。 「ちゅっ……ん、ぁっ……はぁんっ……もう、エッチな匂いでいっぱいですよ……?」  止まらないかなたの奉仕。  熱心なフェラチオは、俺が果てるまで終わることがないのだろう。 「探偵部は、こういうところじゃないんですけどね?」  俺を見つめながら、かなたは言う。 「瑠璃さんの性欲を、解消してあげなければいけませんから……!」 「その割には、かなたの方がノリノリじゃねえか……!」 「そんなことはありませんよ? はむっ……!」  また、咥えて。 「じゅるるっ、ん、くっ……んっ、んんっ、んんっ……!」  咥え込んだまま、上下に首を動かして。 「あっ、それ、やばいっ……! 本当に、やばいってっ……!」 「じゅるっ、んくっ……! じゅるるっ、んんっ!! んあっ!!」  激しいストロークは、快感の波を大きく生み出してしまって。 「どうひまひたか……? もお、ひってしまうのれすか……?」  限界が近いことを悟ったかなたは、遠慮なしに動き出す。 「じゅるるっ、んっ、ちゅうっ、れろれろっ……」  快感を、せり上げて。 「じゅるっ、んちゅううっ、ちゅっ、んぁっ、んんっ! うぁっ! んんんんっ!!」  口内では、舌がいやらしく絡みつき。 「れろれろっ……はむっ、ちゅうううっ……!!」  唇をすぼめて、的確な刺激を繰り出していく。 「じゅるっ、んちゅっ、じゅぼっ……!! はぁむっ……ん、くぅ……!!」  やがて、遠慮のないストロークに、終わりを悟った俺は。 「駄目だ、もう……!」  必死に射精を訴えることで、限界を知らせたが。 「ひって、くらはいっ!!」  かなたは、更に刺激を強めるのだ。 「たくさん、たくさん、口の中に出してくださいっ……!!」  甘えるような声が、脳髄に突き刺さり。 「じゅるるっ、んちゅううっ、じゅぼっ、じゅぼっ、んちゅうううっ――!!!」 「う、あ――!!!」  そして、刹那。 「ん――んんんんんんんんんんんんんんんんっっ!!」  堪え続けていた快楽は、一挙としてかなたの口の中へ吐出されていく。  どくん、どくんと、何度も脈打つように、精液は飛び出して。 「んっ、んんんっ……んぐっ……!」  どろどろの精液で満たされたかなたは、口の中いっぱいに白濁液の感覚を味合うことになる。 「んくっ……んくっ……ん、んんっ……!!」  少しずつ、だが、確かに。 「……んぐっ……ごっくんっ……ん、ぁ……っ」  吐出された精液を、飲み込んでいく。 「……うふふ、全部、飲めましたよ」  口の中を開けて、空っぽであることをアピールする。 「無理しなくても、良かったのに」 「男の子は、飲んでもらうのが好きなんでしょう? だから、頑張っちゃいました!」  褒めて褒めてと、笑いながら。 「まだ、口の中はべたべたしていますが……身体の中まで、瑠璃さんに染められちゃいましたね!」 「……ありがとな」  頑張ってくれたことが、何より嬉しくて。 「とても、気持よかったよ」 「はい、またしてあげますね! フェラって、とっても楽しいですし、大歓迎ですから!」 「ああ……まぁ、ほどほどにな」  あんまりしてもらいすぎると、精魂尽き果ててしまいそうだけどな。 「かなたちゃんは、大好きな人だったらどんなことでもしてあげたくなっちゃうのですよ!」  自信満々に口にするかなたは、とても魅力的な彼女で。  これからもずっとずっと、大切にしようと心に誓ったのだった。  幸せの最中に漂いながら、下校する。  傍らに存在するかなたの笑顔を見つめながら、思わず笑顔がこぼれ落ちた。 「どうしましたか?」  俺の視線に気づいたかなたは、嬉しそうに微笑んだ。 「先ほどのご奉仕を、思い出していたりして? あははっ」  恥ずかしげに冗談を口にするが、自らも照れ照れだ。 「……つくづくかなたには敵わないな」  何を口にしても、言葉がつかえてしまいそうだ。  その全てが愛らしいから、眩しさにやられてしまう。 「ふっふっふー、主導権は私のものですよ! いつだって、昔だって、瑠璃さんはかなたちゃんにタジタジですからね!」 「否定はしないでおこう」  正しくは、出来ない。 「いつだって、かなたは俺を支えてくれてたよな」  魔法の本の一件に関わって以降、献身的に尽くしてくれていた。  特に、黒真珠の時になんて、その身を盾にして守ろうとしてくれていたこともあった。 「そういうのは、本来男の役割なはずなんだがな」  いつしか、かなたに支えられ、守られて。  頼もしさを信頼の上に、俺達の関係は築かれてきたのだろう。 「いいじゃないですか! なんたって、この私の方が大人びているのですし!」 「それはちょっと、どうかと」 「かなたちゃんに頼りっぱなしでしたからねー、これからも!」 「さあ、それはどうかな」  凛とした意識を、尖らせてみよう。 「俺だって、いつまでもかなたに守られっぱなしにはなりたくないからな。今度は俺が、かなたを守る番だ」  やっぱり男という生き物は、好きな女の子を守りたいものなのだ。  守って、頼られて、そこに生きがいを覚える生物。  そのためだったら、身を砕いても構わないとさえ思う。 「かなたはとても格好いい生き様だったが――それは、本来俺の役割であるべきだ」  凛々しくて、格好いい、俺の大好きな女の子。  その頼もしい背中は、しかし、とても華奢であることを知っている。  知ってしまったのだ――今度は、守ってやらなければ。 「ふふふっ、それはとても、楽しみですね」  力強い俺の言葉に、かなたは嬉しそうに微笑んだ。 「しかし、私が差し出がましい真似をしなくとも、瑠璃さんは瑠璃さんのやり方で、困難を乗り越えていたと思いますよ。私がいなくたって、上手くやったように思います」 「それは、違う」  謙遜とも取れる言葉を、俺は即座に否定した。 「今、俺がここにこうして存在できるのは、日向かなたの助けのおかげだよ。俺一人だったら、きっと、乗り越えられていなかった」  自分が死んでいると気づいた時、心が折れてしまっていたと思う。  それでも変わらなく接してくれたかなたに、どれほど救われてきたか。 「紙の上の存在になって、俺がこれからも生きようと思えるのも――やっぱり、かなたがいてくれるおかげだと思うから」  妃のような思考になっていた可能性も、大いにある。  なんたって俺は、一度、自らの意志で命を捨ててしまっているのだから。 「だから、今度こういうことが起きた時」  それが、一番言いたかったこと。 「かなたはもっと、自分を大切にしてくれよ。捨て身で俺を守ろうとか、恐ろしいくらいの強さを見せないでくれ」  黒真珠の時。  ナイフを突きつけられたかなたが、どうぞ刺してくださいと宣言して。  そのとき初めて、俺の弱さは漏れだしたと思うのだから。 「自分を大切に、ですか」  困ったように笑いながら、俺の言葉を繰り返して。 「しかし、こんな可愛らしいかなたちゃんよりも、素敵で格好いい瑠璃さんの方が大切なので――それはきっと、出来ませんね」 「…………」  あっさりと、却下した。 「瑠璃さんが危険に陥っているなら、私は全てを投げ打ってでもあなたの力になろうとします。どうしても瑠璃さんがそう願うのなら、私の出る幕がないようにしてください」  迷いない瞳が、交錯する。 「私に無力を求めるのではなく、自分に強さを求めて下さい。瑠璃さんが強くて頼もしくなっていただければ、私はいつでも可愛いだけの女の子になりますよ?」 「……はっ、それはなんとも、かなたらしい言葉だな」  俺が強く在り続けば、かなたが無理に出しゃばることもなくなる。  そんなことは端から分かっていたけれど、しかし、改めて意識させられてしまうな。 「それに、最近の瑠璃さんはとても頼もしいですからね! 自分の存在を受け入れてから、随分揺るがなくなったように思います」 「背水の陣、ってやつかな。一度死んだと理解すると、何も怖くなくなるんだ」  怖いのは、一握り。 「ちゃんと、ご自愛下さいね」 「わかったよ」  これ以上、何を言っても無駄なことを理解している。  俺の知る限り、日向かなたという女の子は、他の誰よりも頑固で、自分の決めた主義主張を曲げないのだ。  そういう意味では、やっぱりこの幻想図書館の中で、一番心が強いやつなのだろう。  幻想図書館に帰り着いて、心を引き締める。  閉じこもってしまった夜子を、どうして心を開かせるか。  元の日常に戻るために何をすればいいかを、これから模索しなければならない。 「大丈夫です、夜子さんならきっと強く在ってくれますから」  俺の心境を察したかなたは、優しく微笑む。 「今は信じて、待ちましょう」 「――ああ、そうだな」  大きく頷いて、玄関の扉に手を伸ばして。 「……あれ?」  がちゃり、といつものように扉は開かず。  鍵のかけられた分厚い扉が、俺達の帰還を立ち塞ぐ。 「珍しいな、閉まっている」  俺達が帰る時間帯は、いつもなら理央が開けたままにしておいてくれるのに。  今日は、うっかりしていたのだろうか。 「おーい、俺だ、開けてくれ」  呼び出しベルを鳴らしながら、扉をノックする。  だが、いくら待っても開く様子がなく、無反応ばかりだった。 「もしかして、鍵を閉めたまま買い物に出かけちゃったのかもしれませんね」 「参ったな」  そういうときは、理央から鍵を預かっているのだが、今日はそんな話を聞いていない。  と、どうしようかと手を〈拱〉《こまね》いていると、遅れて扉が開く音がする。  開いたのは、少し。  チェーンロックの隙間から、知ったる顔が覗き込まれる。 「どなたですか」 「え?」  伏見理央が、覗きこんで。  しかし、その声色は、その表情は、背筋を凍りつかせるほどの冷たさを有していた。 「新聞の勧誘なら、お断りしています。郵便物のお届けなら、荷物は置いておいて下さい。この図書館に用があるのでしたら――出直してきて下さい」 「理央……?」  怯えと、恐れが滲み始め、冷や汗となって頬を伝う。 「この図書館は、部外者が関わって良いものではないのです。即刻、お帰り下さい」  冷たい言葉が、冷たい対応が、俺達の反応を一瞬送らせて。 「おい、理央?」 「気安く名前を呼ばないでいただけませんか。私は、貴方の召使ではありませんよ」  ふわふわした口調や、可愛らしい響きはなく。  その他大勢へと向けられる、圧倒的な距離感が、重い扉を介して感じられた。 「り、理央さん? どうしたんでしょう!? 私ですよ、私!」 「拒絶、します」  かなたの言葉にも、変わらない意思を示す。 「二度と、この図書館に関わらないで下さい。それが、この館の主の意向ですから」 「おい、どういうことだよ――!」  話が終わったと、扉を閉めようとする理央。  しかし、納得できるはずもなく、追いすがろうとして。 「――遊行寺夜子は、他人を望まない。幸福になりたければ、他のところへどうぞ。お二人にも、帰るべき場所があるはずでしょう?」  深淵を湛えた瞳は、吸い込まれそうなほど黒く、黒く、濁っていた。  扉が閉じられた後も、冷酷な理央の表情が頭から離れない。  拒絶され、断絶され、俺達を排除する理央の姿勢に、次第に俺達は気がつく。 「夜子……!」  魔法の本が開いたと、理解した瞬間、俺は衝動的に見上げていた。  変わり果てたのは理央であっても、今回ばかりは原因は理央じゃなく。 「……る、瑠璃さん!」  数歩さがって、図書館を見上げてみた。  いつもは閉じきっている書斎の窓が、開いていて。 「……ふん」  遊行寺夜子が、冷たい眼差しで見下ろしていた。  俺と、かなたを、見下ろしていた。  虫けらを見るような目で、冷たく、冷たく、凍りつきそうな瞳。 「関係は、断絶される。もう、あたしの世界にお前はいらない」  拒絶している。  それは、夜子の意志なのか。  理央はそれに従って――ああなってしまったということか。 「遊行寺家は、呪われているのよ。近付く人間を、不幸にさせる」  だけど。  だけど。  それは、なんだろう、違和感?  開いた人間の意志が反映された、これまでの魔法の本たちに比べて、少し違うような気がして。 「今までの出来事で、それを思い知ったでしょう。思い知って――次に、理解なさい」  拒絶されて。  しかし、拒絶している側と、拒絶された側で――どうして、拒絶する方が悲しそうなんだよ。  冷たく、見下ろすその眼差し。  それは、何かを堪えているような、我慢の表情にも見えてしまった。 「あたしに、二度と関わらないで。もう、友達ごっこも、青春ごっこも、飽々なのよ」  利己的な、願いというよりは。  魔法の本に頼って、何かを語ろうというよりは。 「まるで、現実逃避をしているようにさえ見えるぞ」  それがお前の、語りたかった物語なのか?  理央を巻き込んで、伝えたかった意志がそれ? 「もう、駄目なのよ」  ひび割れた声が、切実に訴える。  自然、冷たい眼差しが、悲痛なものへと変わってしまって。 「近くにいたら、本当にもう――抑えきれないから」 「夜子!?」 「お前はもう、二度とこの図書館に入ることはない。だってここは、あたしだけの鳥籠なのだから」  そうして、一方的に語り終えた夜子は、窓をぴしゃりと閉じてしまった。  それだけで、俺と夜子の関係は塞がれて、何も届かなくなってしまう。 「おい、ふざけんなよ! こんなんで何を解決した気でいるんだよ!」  そんな悲しい表情で、何を諦めてしまっているんだ。  「それで俺が納得できると思っているのか! だとしたら、とんだ甘ちゃんだな!」  俺のことを、分かっていなさすぎて。  俺のことを、何だと思ってやがる。  何度も扉を鳴らしても、一切反応が帰ってくることはなく。  それでも、心が何かを諦めるということはなかった。 「これも、魔法使いさんの仕業でしょうか」  「そうに決まっている。クリソベリルが、余計なことを吹き込んだんだ」  何度も何度も、俺達の関係をかき乱す魔法使い。  夜子のためと口にしながら、やっていることはその真逆じゃねえか。 「上等だよ」  関係の拒絶を望むというのなら、俺は関係の継続を求めよう。  今更無関係を押し付けられたって、そうはいかない。  「俺には帰る場所なんて、どこにもないんだよ」  生まれてからこれまで、自分の居場所なんて、この小さな個人図書館にしか、なかったんだから。  それは、どういう物語だったのだろうか。  夜子が望み、夜子が求める物語だとは思っていたけれど、現実に訪れた変化の内容に戸惑いを隠せなかった。  全てを知った夜子が、願ったのは。  全てを理解した夜子が、追い詰められた末に縋った世界は。  ――全てから隔離された、孤独な鳥籠だったのだ。 「え? 遊行寺夜子……さん?」  本城岬に、彼女のことを訪ねてみると。 「あははー、誰だよもう! 他の女の子の話をするくらいなら、日向さんとのイチャラブ話を聞かせてくれよ」  なんて、言われるんだ。 「遊行寺……夜子君?」  はたまた、本城奏に彼女のことを訪ねてみると。 「おいおい、誰だよその名前は。遊行寺家を語るなら、せめて実在する名前を出してくれ」  なんて、言われるんだ。  彼女たち二人だけではない。  島中の人間が、有名であるはずの遊行寺家の存在は一切忘れてしまっている。  記憶に留めることはなく、最初から存在しなかったように扱われて。  それは、『サファイアの存在証明』や、『オニキスの不在証明』の物語によく似ていた。  記憶の欠如という意味では、それらに連なる物語に見える。  明確な違いといえば――遊行寺夜子だけではなく、この島で、遊行寺家に関わった全てのことを忘れてしまっていることだろう。  森の奥に、幻想図書館があったことも。  この島が、遊行寺家の所有物で、昔から有名だったことも。  この島から、この世界から、幻想図書館に関わる全てが、消え失せてしまっているのである。  ――関わらないで。もう、駄目なの。  最後に、夜子が遺した言葉。  俺たちを拒絶するというのは、つまりそういうことなのだろうか?  忘れて、無関係に戻って、自分たちのことはなかったことのように過ごして欲しい。 「――そんなわけ、ありません」  しかし、日向かなたは否定する。  はっきりと、すっきりと、竹を割ったように否定した。 「だったらどうして、私と瑠璃さんは覚えていられるんですか。本当に関わってほしくないのなら、私たちを含めて忘却させるべきでしょう」  その通りだ。  そうでなければ、意味が無い。  どんなに他の存在から忘れられてしまったとしても、俺達が覚えていたら無意味だろうに。 「これではただの、かまってちゃんではありませんか。これが忘却の物語なのだとしたら、今、私たちが忘れていないことが、夜子さんの意志の弱さを表しています」  果たして、どのような物語を開いたか、不明だが。 「真っ白な紙に、何を願ったのでしょう。あのときの対応が全てではないと、私は確信していますよ」  夜子だって、わかっていないはずがないだろう。  図書館の扉を封鎖して、理央に冷たい対応を強要し、自ら拒絶の意志を示したとして。  その上で、幻想図書館だけを現実から切り離したところで、何の意味もないことを。 「扉を叩きましょう。いつか、夜子さんが応えてくれるその時まで」  幻想図書館が忘れ去られても、俺達は未だ覚えている。  覚えている限り、俺達は幻想図書館に訪れ続けよう。  何度も、何度も、囁き続けて。  何度も、何度も、夜子に訴えかけてきた。  現実は恐ろしいほど厳しい物で、夜子の幸せは幻想の上にしか成り立たず。  だからこそ、思い通りに出来る紙の上でくらい、好き勝手な未来を描けばいいと、伝えてきたのに。 「馬鹿な娘」  歯ぎしりとともに、そんな言葉が飛び出してくる。  書斎の机で頭を抱え、必死に何かに怯えている夜子を見て、憤りしか感じない。 「どうして、欲望のままバラ色の未来を描かなかったの」  サファイアの物語が、日向かなたを封じたことを知った。  オニキスの物語が、月社妃を追い詰めたことを知った。  魔法の本が、四條瑠璃を自殺したくなるほど思いつめさせたことを知った。  夜子の現実は、もうどうしようもないくらいに絶望に染まっていて、誰もが夜子を、心の何処かで恨んでいるのだ。  それは、夜子の願いを反映させた物語だから。  日向かなたの恋路が、面白くなくて。  月社妃の奔放さが、気に食わなくて。  自分の思い通りになってくれない、四條瑠璃が恨めしくて。  だから、妾たちは語って。  夜子の意志に、従って。  遊行寺夜子は、加害者なのだから――もう、開き直って、全てを都合よく塗り替えてしまえばよかったのに。 「どうして夜子は、瑠璃のお兄ちゃんと結ばれる物語を描かなかったのかしら」  『ラピスラズリの幻想図書館』  パンドラが指針をなくして、代わりに紡がせた物語。  自らの欲求を自覚した夜子は、思い通りの物語を描くことで、紙の上の幸せを得られるはずだったのに。 「――本当に、何を考えているのかしら」  願った物語は、世界からの断絶。  これ以上、誰も不幸にしたくないと願った夜子は、一人孤独に生きる未来を紡いだのだ。  現実からは、存在を忘れられ。  幻想を見つめながら、夢に囚われ続ける物語。  そうすれば、災いを振りまく自分が、他の誰かを傷付けることはなく。  誰もいない相手、空虚な存在に縋ることが出来れば、誰も不幸せにしないまま充実感を得られる。  閉ざされた世界は、夜子一人で完結してしまっているのだから。 「ふふふ、今日はとてもいい天気ね」  孤独な書斎で、夜子は誰かに語りかける。  そこには誰もいなくて、それでも、誰かに語りかける。 「今日は、瑞々しい恋愛小説を読んだの。是非ともキミに読んでもらって、感想を聞かせてほしいわね」  引き篭もりの最上級系。  心までも、引き篭もってしまったのだ。 「……確かに、それは幻想の中の幸福だけど、そうじゃないでしょう」  そこには何も見えなくて、そこには誰もいない。  偽物の幸せは大切だけれども、今、夜子の見ている世界は、偽物にすらなりきれていないまがいもの。  「ねえ、明日はどんな小説を読もうかしら。キミの隣で、どんな物語を見られるのでしょう」  虚ろな瞳に、何が見えるのか。  何も見えないことを分かっているからこそ――無表情を浮かべている。 「それは、許されない物語よ」   魔法の本に頼って、甘い幸せを夢見るのは構わない。  そこに本当の幸福を見つけられるのなら、偽物に囲われ続けたら良いと思うけど。 「それは、違う」  囲われても、閉ざされても、引き篭もっても。  夜子自身が幸せでなくちゃ、意味が無いんだ。  ――今の夜子は、ただ虚ろ。  ――誰かに語りかける声色は、そして、表情は。  ――あまりにも、不幸に満ちたものなのだから。 「それはあまりにも、都合が良すぎる大人の世界。そういう我慢に満ちたものは、妾が作りたかった物語じゃないわ!」  空虚に縋る夜子の肩を、揺さぶって。 「妾は、夜子から生まれた存在なの。夜子のどす黒い感情から紡がれた魔法使い! こんな自己犠牲の物語は、夜子の本心じゃないはずよ!」  だから、知っている。  夜子の本音を、知っている。 「夜子が誰が好きで、誰との未来を願っているかなんて明らかじゃないの!」  見えていないふりをしても、知らないふりをしていても、夜子ならわかっているはずでしょう。  だって、妾は夜子の欲望そのものも。  あるいは、自己投影幻視体。  あるいは、ドッペルゲンガー?  あるいは、あるいは、あるいは―― 「――夜子、自身なの」  くすぶる火種から、目を逸らすな。  世界から断絶することで、得られる幸福は何もない。  もっと、我儘に。  もっと、利己的に。 「人を呪わば穴二つ。それまで受けていた仕打ちを思い出して、憎しみを燃え上がらせなさい」  今の状態は、夜子の願いなどではなく。  そうした方がいいという、使命感だけだろう。 「そうして妾は、お前の欲望を叶えてあげる」  妾はそのために、生まれてきたのだから。  それでも夜子は、動かない。  無感情になってしまった少女は、心が閉ざされてしまっていて。  遠くで、ノックの音が聞こえてきた。  誰かが夜子を訪ねてきた。  ――〈ほ〉《丶》〈ら〉《丶》、〈見〉《丶》〈ろ〉《丶》。  中途半端な物語を描いてしまったから、瑠璃のお兄ちゃんがやってきた。  それは、この物語を夜子自身が願っていないからでしょう?  願っていないから、邪魔が入る。  誰かが、終わらせることが出来てしまえる。  本当に、夜子がそれを願うなら――誰にだって、邪魔できるはずがないのにね。 「作戦会議です!」  かなたが、息を巻いて宣言する。  放課後の探偵部部室。  議題は、閉ざされた幻想図書館の打開法。 「嫌われることはあっても、逃げられることはあっても、追い出されることはあっても――このパターンは、初めてだな」  類似例なんて、いくらでもある。  それこそ俺は、夜子に嫌われて嫌われて嫌われ続けていたのだから、厳しい仕打ちなど今更のことなのだが。 「扉を閉ざされてしまった。これでは挽回する機会も貰えない」  会うことすら、叶わずに。  いつもは中に入れてくれる理央でさえ、今は俺の味方になってくれないのだろう。 「瑠璃さんだけではなく、私諸共ですからねー。さてさて、どうしましょう」 「ま、特別な何かをするつもりなんて、ないんだけどな」  それは、拒絶されたときに、かなた自身が口にしたことでもある。 「扉を、叩き続けるだけ。いつか、中から声がすると信じるのみだ」  その点に、迷いはなく。  迷いがあるのは、別の箇所だ。 「……紙の上の魔法使いって、何なんだろうな」  それは、あの少女のことだ。 「どうしてクリソベリルは、夜子を追い詰めるんだろう。どうして、現実に幸せがないことを、頑なに主張するのだろう」  確かに、これまでの夜子の人生は、とても悲惨なものだった。  幼少の頃は排撃され、親族からは指を差され、実の父親には怯えられ。  愛してくれたのは一人だけ――その髪と瞳は、恐怖の対象に過ぎなかったから。 「それでも、そういう時間は、終わったはずなのに」  俺がいて、かなたがいて。  理央がいて、汀がいて。どこかで妃も、見守ってくれている。 「あいつはもう、現実に生きることが出来ると思うんだ。現実に生きて、夜子の幸せを手に入れられると思うんだ」  それだけの頼もしい友達が、あいつにはいるのだから。 「空想に生きて、空想に頼る。魔法使いさんは、それを夜子さんに強要する」  何が幸せで、何が生きるということなのか。  クリソベリルは、夜子にとっての幸せをどう考えているのだろう。 「生かされるのと、生きるというのは、違うだろうに」  自らの胸に当てて、存在を確かめる。  心臓の鼓動は確かに聞こえているけれど、所詮、俺は紙の上に生かされている存在だ。 「私からしてみれば、魔法使いさんこそ、夜子さんにとっての不幸に思えますけどね」  幸福を与えてあげると語りながら、耳元で囁くのは幻想。 「味方であり、敵であり、魔法使いである。紙の上の存在であるクリソベリルは、何を求めているのか」  単に、夜子の幸せだけを求めているわけではないのだろう。  そうでないからこそ、俺達と行動の指針がずれてしまっている。 「魔法の本は、夜子さんの深層心理の願望を叶えようとしている。もし、それが本当なのだとしたら――魔法使いさんこそ、願いそのものなのかもしれませんね」 「クリソベリルが?」  それは、どういう意味だろう。 「人間の願いの本質は、単一的なものではないということですよ。幸福を望みながら、一方でその幸福の在り方に意味を求める。無意味な幸福、無償の幸福は恥であると考えて、忌み嫌う」 「――こんな私が、幸せになってしまってもいいのだろうか」  こんな、私が。  幸せに、なっても。 「呪われた少女は、現実には幸福になれやしない。そういう強固な思い込みが、クリソベリルさんの行動に強く影響しているのではないでしょうか」  自分で、それを信じてしまっている。  遊行寺夜子は、現実に報われない存在で、救われるべきではない存在と思ってしまっている。  だからこそ、夜子の心理を体現した紙の上の魔法使いは、頑なに空想を求め続ける。  ――〈夜〉《丶》〈子〉《丶》〈は〉《丶》、〈幸〉《丶》〈せ〉《丶》〈に〉《丶》〈な〉《丶》〈れ〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》。  現実に、夜子の幸せはなく。  空想に、夜子の幸せあって。 「そう思い込んでしまっているのが、他ならぬ夜子なのか」 「あくまで、私の予想ですけどね」  照れくさそうに、かなたははにかむ。 「だけどそれなら、俺が出来ることは一つだな」  現実に、幸せがあることを教えてやらなくちゃ。  それが、俺がここにいる意味だろう。 「……でも」  かなたは、俯いて。 「少なくとも今、夜子さんの幸せは現実にありません」  俺がいて。  目の前に、かなたがいて。  夜子は今、一人ぼっち。 「夜子さんが本当に求めていたのは――汗の滴る青春でも、安らぎの読書タイムでもなく、たった一人の男の子との、時間なのですから」 「…………」  なるほど、それは、叶えられそうにない。  「それでも」  それでも夜子を放置することなんで、出来ないんだ。 「幼馴染が苦しんでいるのなら、それを助けるのが友達だろう」  もしかすると、俺の干渉が更なる悪影響に繋がるのかもしれない。  ひょっとしたら、俺が近寄ることがなければ、夜子は立ち直れるのかもしれないけれど。 「俺はいつだって、嫌がられ続けながらあいつに会ってきたんだよ」  今更拒絶されたくらいで、何かが変わるわけじゃないんだよ。 「……そうですね。こういうとき、瑠璃さんはいつだって夜子さんを気にかけていましたからね」  嬉しそうに、笑って。 「瑠璃さんの信じるままに、最後までお付き合いしますよ」  この世で最も頼りになるパートナーは、力強く、そう頷いた。  『ラピスラズリの幻想図書館』  それは、あたしの知っているいつもの幻想図書館の物語。   遊行寺夜子が、静かに小説を読んでいる。  それを邪魔するものはほとんどいなくて、緩やかに活字が染みこんでいく。  少し読み疲れて休憩したくなった時に、親しい友達と笑顔の花を咲かせて。  伏見理央が、純粋な笑顔を浮かべている。  図書館の家事全てを担ってくれて、あたしの生活を支えてくれる女の子。  その性格は明るく前向きで、和みと癒やしを与えてくれるの。  月社妃が、優雅に寝転がっている。  皮肉めいた言葉は刺々しいものだけれど、それが彼女の魅力をさらに引き出している。  気兼ねなく、ありのままでお話できる相手は、とても貴重だった。  日向かなたが、ぐいぐいと迫ってくる。  底抜けに明るい彼女は、面白おかしい性格をしていて、その魅力は宝石のように輝いている。  引っ張ってくれる存在は頼もしく、その距離感が、好きだった。  世界から切り離された世界には、失った人たちがいてくれる。  それを紙の上の幻なんて言う人がいるけれど、何を言っているのでしょうね。  理央も、妃も、かなたも、ずっとずっとあたしのそばに居てくれて。  永遠に、永遠に、そばに居てくれて。  そして――。 「ふふふ、今日はとてもいい天気ね」  キミは、ずっと隣にいてくれる。  隣で、あたしのことを見守ってくれている。  ――そうだね。  キミは、あたしに笑いかける。  ラピスラズリの世界では、あたしはもう少し普通の女の子。  素直に気持ちを口にできて、素直に笑顔を浮かべることが出来る。 「今日は、瑞々しい恋愛小説を読んだの。是非ともキミに読んでもらって、感想を聞かせてほしいわね」  日常に揺られる中で、日々、小説の話題を口に出す。  キミは本のことが大好きだから、あたしの会話にも付き合ってくれるの。  ――そうだね。  キミは、あたしに笑いかける。  離れることのないまま、ずっとずっと。  「ねえ、明日はどんな小説を読もうかしら。キミの隣で、どんな物語を見られるのでしょう」  色恋沙汰とは無縁の世界。  平和で、平坦で、継続のためだけの世界。  変わらないことを望み、今のままであればそれでいいと心から願って描いた物語。  『ラピスラズリの幻想図書館』  それは、遊行寺夜子が思い浮かべた、不変化の日常だ。  伏見理央は、誰に恋することもなく尽くしてくれ続ける。  月社妃は、消えてしまうことなくあたしの友達になり続ける。  日向かなたは、告白することなく笑顔を浮かべ続けて。  ――キミは、あたしの傍に居続ける。  それだけ。  本当に、それだけの世界。  それ以上は何も求めなくて、ただ、それだけがあれば良い世界。  この先なんて、何も求めず。  だから、平和が続いてくれたらそれでよくて。 「――物語すら、語らなくていいのよ」  扉を鳴らす音は、聞こえない。  あたしを呼ぶ声も、聞こえない。  拒絶して、完全孤立に閉じられた図書館は、ただひたすらあたしの囲い続けていた。  紙の上の存在すら、いなくて。  遊行寺夜子が、一人で妄想するだけの世界。  現実に、何の影響も与えず。  空想にのみ、適用される夢物語。  だって、そう。  それはただの、妄想の物語なのですから。  ――誰も居ないはずの書斎で、誰も居ない空間へ語り続けて。  そこにキミがいると、妄想して。 「引き篭もって、妄想して、心を閉ざすの」  ニートお嬢様と呼ばれたあたしが迎えるには、最上の結末でしょう? 「――いいえ、それは許されない。妄想を語るのは、夢の中だけにしておきなさい」  魔法使いが、否定する。  そんなあたしの世界を、壊してしまう。 「妄想じゃなくて、物語を詠いなさい。夜子が願えば、叶うのに」 「あ……」  一人、頭を抱えて閉じこもっていたとしても。  やっぱり魔法使いは、あたしの逃避を許さない。  鍵を閉めて、引き篭もって、何をしたって。  あたしは、そんなあたしを許せないのだろう。  『ラピスラズリの幻想図書館』  誰からも忘れられ、孤立した世界の中で少女は一人妄想に浸る。  それが、願い。  それが、希望。  なのに、どうしてキミは忘れていないのかしら。 「忘れられたくないから」  唇が、動いていた。 「だからこれは、中途半端な物語なのよ」  魔法使いはあざ笑い、あたしが閉ざしたものを開いてしまう。  屈強な意志で鍵をしたのに、それはあっけなく開かれてしまって。  ラピスラズリの輝きとともに、世界は開かれてしまうんだ。 「――久しぶりだな、夜子」  あれだけ拒絶しても、まだ笑っていた。  あたしの意志なんてわかっているはずなのに、それでも無遠慮にやってくる。  ああ、そうだ。  そうだった。  四條瑠璃という男は、そういう奴だったんだ。 「だからあたしは、キミが嫌いなのよ」   心から、だいっきらいだ。  扉が、開いた。  中から手引されるように、勝手に開かれてしまった。  驚きよりも、焦りがまず始めに訪れた。  その変化はあまりにも唐突で、夜子の身に何かがあったのではないかと心配になったのだ。 「――久しぶりだな、夜子」  それでも、冷静になることが出来たのは、夜子自身が俺の姿を見て、怯えていたからだろう。  怖がらせないように、不安がらせないように、なるべく平常心でありたかったから。 「どうして、瑠璃が」  驚き、戸惑い、魔法の本に視線を向ける。  『ラピスラズリの幻想図書館』と名付けられた本が、今も輝いていた。 「どうしては、こっちのセリフだ」  まずは、言いたいことを言おうか。 「どうして、俺達をこの図書館から弾こうとするんだよ。言いたいことがあったら、伝えたいことがあったなら、言葉にしてくれ」  そうやって、魔法の本に頼るなよ。  それじゃ、何も伝わらない。 「うるさいっ、キミには何も、関係ないでしょう!」  罰の悪そうな顔を浮かべて、夜子は叫ぶ。 「関係なくはないだろ。俺だって、この図書館に住んでいるんだから」 「そんなのどうだっていいわよ! 折角、あたしが好き勝手な妄想に浸っていたのに、邪魔をしないでよ」  強い口調の、夜子だったけれど。  もう、ぼろぼろだった。 「妄想? 物語じゃ、なく?」 「っ、だいたい言葉になんか、いつだってしているでしょう!? あたしは、キミのことが大っ嫌い。大っ嫌いだから、関わらないで欲しい。そのために、拒絶しているのよ!」 「だから、魔法の本を開いたって?」 「そうよ! いつまでもわからずやなキミを、追いだそうとしてね!」 「……なるほどな」  だったら、言わせてもらおうか。 「なら、お前にとって日向かなたも、嫌いの矛先を向けられるような相手だったのか?」 「――っ」  それだけは、見過ごせないな。 「お前が俺のことを嫌いなのは今更だけれど、かなただけは、違うだろ?」  違っていたはずだ。  夜子とかなたは、確かな友達関係だったのだから。 「き、嫌いよ」  それでも夜子は、強がりを敢行する。 「かなたのことだって、大嫌いよ。だから、邪魔者は追い出しただけ。そうに決まっているじゃないの……!」 「そうかよ」  強がりもここまでくれば、虚しいだけだ。  いつだってお前は、裏返しの言葉を口にしてしまうんだな。 「あ、あたしは魔法の本の担い手、遊行寺夜子! 望めば望むだけの物語を開けるの! だから、キミたちは邪魔なだけ」  訴えるような言葉を、必死に口にする。 「都合の良い物語が語り放題なのに、どうして現実の面倒な人間関係を続けなくちゃいけないのよ。あたしは、あたしは、あたしは――!」  掠れるような、声。 「――そうやって、空想の中でしか幸せになれないのよ!」 「夜子……」  目に溜まる涙が、切実な心情を表す。 「キミと、いっしょにいたくない。絶対に、あたしは嫌な気持ちになっちゃうから」 「どうして?」 「恨めしいの。恨めしくて恨めしくて、仕方がなくて」  呪いの言葉を、口にする。 「キミが幸せになるのが妬ましくて――あたしの心が、キミの不幸せを願ってしまうから」  俺のことが、大嫌いだから。 「これからも、魔法の本はあたしの大切な人たちを傷付ける。だからもう、関わらないで欲しい」  吐き出すような言葉に、ようやく、本音が見えたような気がした。 「お前が俺の不幸せを願ったとして、それがどうなるっていうんだよ」 「こうなっているんじゃないの……!」  こう。  なって、いる。  紙の上に、生かされて。  本物は、もう、死んでいて。 「こうなったのは、俺の責任だ。お前の責任じゃねえだろ」 「キミにとってはそうでも、あたしにとっては違うから」  違う。  明確に、違う。 「あたしはもう、一人で生きるの。だから、放っておいて」 「……それは、出来ない相談だ」  出来るわけが、ないだろう。 「不幸せにできるものなら、してみろよ。俺は、幸せになれる自信があるぜ」  「……何を言ってるのよ」 「不幸になるのが怖いなら、立ち向かえるほど力強くなればいい。自分を支えてくれる友達がいてくれたら、俺はまだまだ戦えるぞ」  かなたの存在を、思い出しながら。 「これから、お前が幸せになれることを証明してやるよ。何がなくとも、ただ日常がそこにあるだけで、幸せになれることを教えてやる」 「出会った時から、変わらずに。いっしょに馬鹿なことをして、いっしょに喧嘩して、いっしょに、楽しい毎日を送ろう。それが、俺とお前の関係だったろうが」  そう、更に付け加えるなら。 「――小説を読みながら、素敵な時間を共有しよう」 「……っ」  俺達は、最初からそうだったじゃないか。  何も求めず、何も超えず、ただ、小説の感想や、他愛のない会をするだけで幸せだった。  そういう日常に価値を見出していたのは、他ならぬ夜子だ。 「それは、これからも変わらない。この世は変わることだらけでも、それだけは変わらないんだよ」 「そんなことを、言われたって……」  書斎に顔を伏せる夜子。  俺の言葉に、少しの迷いでも生まれてくれたのだろうか。 「それでもあたしは、駄目なのよ。生きてるだけで、側にいるだけで、回りにいる人を巻き込んでしまうから。妃だって……瑠璃だって……次は、かなたかもしれない」 「だから、見てろって」  それでも俺は、宣言し続けるぞ。 「魔法の本なんかに負けない。遊行寺夜子は、普通の幸せを手にすることが出来ると証明してやる」 「う、ううう――」  その白い髪を、指で触れながら。 「――こんなに可愛い女の子が、幸せになれないはずがないだろう?」  女の子は、すべからく幸せになるべきなんだ。  物語を語るのなら、ハッピーエンドを語ってみせようぜ。 「う、ぐすっ……!」  ラピスラズリの輝きが、薄れていく。  夜子の心が、優しく溶ける。  揺れる心。胸が鼓動する。少しだけ、ほんの少しだけ、夜子の心が軽くなったように見えて。 「瑠璃は、こんなあたしが怖くないの?」 「全く、怖くない」  お前の友達になれてよかったと、心から思う。 「そう」  少しだけ、夜子ははにかんで。 「やっぱりあたしは、キミのことが――」  何かを、口にしようとした夜子は。  しかし、その続きを言葉にすることが出来なかった。 「だけど、瑠璃のお兄ちゃんはね」  いつから、そこにいたのだろう。  夜子を惑わす魔法使いは、耳元で囁いた。 「――日向かなたのことが、大好きなのよ?」 「あ――」  瞬間、夜子の瞳は闇に沈む。  忘れていた現実を突きつけられていたように、感情が弾ける。 「もう二人は手を繋いで、キスをして、愛の言葉を囁いて――ひょっとしたら、それ以上の行為に及んでしまっているのかもね?」  嫌がらせのように、クリソベリルは笑って。 「汚れてしまった瑠璃のお兄ちゃんといて、本当に夜子は幸せになれるのかしらん?」  残酷な真実を振りかざし、全てを台無しにしてしまった。  「かなたちゃんと恋人であるかぎり、瑠璃のお兄ちゃんは夜子を幸せにできないのよ」  ラピスラズリの輝きが、失われていたはずの輝きが、大きく瞬く。  再び、何かが開かれてしまうような気がして。 「夜子――!」  俺は、とっさに名前を呼んでいた。  クリソベリルの傍で、悲しく笑った夜子は。 「ごめんなさい」  ただ、一言。  別れの言葉を口にして、俺の意識は宝石に包まれてしまった。  俺は、夜子を幸せにすることが出来ない。  それを強く思い知らされてしまって――じゃあ、俺はどうしたら良かったんだろう。 『気持ち悪い』  誰かがあたしに囁いた。 『気持ち悪い』  吐き捨てるように、囁いた。 『呪われた忌々しい娘』 『災いを呼ぶ魔法使い』 『腐れ外道』 『死にさらせ』 『近寄るな』 『お前のせいで不幸が起きた』 『気持ち悪い』 『気持ち悪い』 『気持ち悪い』 『気持ち悪い』 『気持ち悪い気持ち悪い悪い悪い……』  お父さんが、言った。 『――その目で、俺を見るな』  怯えながら、震えながら、恐れながら――震えて、必死に、懇願した。 『頼むから、これ以上関わらないでくれ』  お父さんが、あたしに、あたしに、そういった。  心が、針で貫かれたような感覚がした。  信じていたものに裏切られて、拒絶されて、支えが壊れてしまったような感覚。  ――お母さんと、お父さんだけは、夜子の味方だからね。  迫害されていたあたしを慰める度、お母さんはそう囁いてくれた。  こんなあたしにも、味方がいてくれるんだと思っていた。 『もう、うんざりなんだ』  何が、起きていたのか。  何に、怯えていたのか。  親族に、排撃され。  呪いのような感情が、胸に渦巻いていた。  どうして、不当な扱いを受けなければいけないのか。  どうして、お母さんはあたしを抱きしめながらごめんなさいと泣き続けるのか。  小説の中では、女の子は青春というものを過ごすらしいけれど。  遊行寺家のお屋敷に閉ざされたあたしには、それは夢物語にしか思えない。 『殺してしまえ』  お祖父様が、何度となくそう口にしていたことを知っている。  その度に、お母さんが頭を地面にこすりつけていたことも知っている。  思い出したくもない惨状は、いつまでもあたしの脳裏に焼き付いている。  おぞましいものを見るような瞳。  引きつった笑い方。  及び腰の耐性。  遠慮のない暴言に、固く閉じた扉。  だけど、あいつらが恐れていたことは、間違ってはいなかった。  あたしという存在が、魔法の本という存在が、いかに恐ろしいものかということを理解していたのだ。  理解していたから、迫害しようとした。  存在してはいけないから、なかったことにしようとした。  それは極めて当たり前の、人間としての防衛本能だ。 「――夜子さんは、恐れられて仕方のない人間なのです」  どこからか、妃の声が聞こえてきた。 「私だって、夜子さんの真実を知っていたのなら、側にいることはなかったでしょうから」 「……やめて」  もうこの世にはいないはずの妃が、あたしの耳元で責め立てる。 「なんたって私は、魔法の本の事件に巻き込まれて、命を落としてしまったのですよ」 「やめて、よ……!」  耳を覆って、瞳を閉じたとしても。  妃の声が、脳内に響く。 「――その現実と、あなたは向き合えるのですか?」 「嫌ぁっ……!」  妃の言葉が、あたしの心を削ぎ落としていく。  脆弱な精神に、それは耐えうるような痛みではなく、救いを求めて視線を彷徨わせていた。 「愛する妹を死に追いやった夜子さんを、瑠璃は生涯許さない」 「あ、ああ……」 「今はへらへら笑って見せていたとしても、その憎悪は根強く残っているのです」 「わ、わかってる……から」 「オニキスは、夜子さんの嫉妬を汲み取って――私のもとに、現れたのですからね」 「う――うううう」 「それに、ほら」  妃は、あたしの視線を誘導する。  混濁した意識の中で見つけたのは、必死な顔であたしに訴えかけている瑠璃だった。  力強い眼差しと、差し伸ばされる手。  本気であたしのことを心配してくれている、あたしのよく知っている瑠璃だ。 「だけど、瑠璃のお兄ちゃんはね」  妃ではなく、他の誰かの声がする。 「――日向かなたのことが、大好きなのよ?」 「あ――」  過去の迫害の記憶。  妃の責め苦。  そして――残酷な、今。  その事実が、あたしの心を完膚なきまでにへし折ってしまった。 「もう二人は手を繋いで、キスをして、愛の言葉を囁いて――ひょっとしたら、それ以上の行為に及んでしまっているのかもね?」  思考に流れこむのは、その情景。  瑠璃と妃が親密になっていくさまを想像すると、血液が沸騰するようだった。  ――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!! 「こんなの、もう、耐えられない」  血の涙を流しながら、怒り狂う亡霊のように。  あるいは、どこまでも腐り落ちた、呪われた魔法使いのようになってしまったのなら。  それはきっと、何も苦しいことはなくて。  こんな思いをすることも、ないのかしら? 「汚れてしまった瑠璃のお兄ちゃんといて、本当に夜子は幸せになれるのかしらん?」  上辺だけを取り繕ったりしても、それは近い未来の破壊を約束するだけ。  いっそのこと全てを諦めてしまったほうが、幸せなのかもしれないんだ。  「かなたちゃんと恋人であるかぎり、瑠璃のお兄ちゃんは夜子を幸せにできないのよ」  その通り。  あたしを幸せにできる人間なんて、どこにもいない。  瑠璃が、あたしを幸せにすることが出来ないのなら――  ――現実に戻る必要だって、ないに決まっている。  ラピスラズリの輝きが、失われていたはずの輝きが、大きく瞬く。  魔法使いは、あたしの記した物語を中途半端だと罵った。  確かに、その通りだと思う。  半端者のあたしは、どこまでも半端な物語しか願うことが出来なくて。  だったら、割り切った妄想世界を願ってみようと思う。 「夜子――!」 「ごめんなさい」  だけど、大丈夫。  きっと瑠璃には、辛い目には遭わせない。  瑠璃にとっても、都合の良い世界を願うから。  だからどうか、あたしの身勝手な妄想を、許してください。 「――瑠璃なんて、大っ嫌い」  不愉快で、鬱陶しくて、ムカつく馬鹿。  どうでもいい。  どうでもいいから、いっそのことあたしの前から消えてなくなればいい。  何処か知らないところで、勝手に幸せになってて欲しい。  憎しみと恨みを交えながら、『ラピスラズリの幻想図書館』は書き換えられる。  そこはとても、優しい世界。  誰もが死んでいない、幸せの幻想図書館。  ――もし、四條瑠璃の人生に、遊行寺夜子が関わらなかったら。  そういう物語を描いてみせよう。  瑠璃のための幸せを、空想してみよう。  一人よがりな妄想は、許されない。  現実に、生きることも耐えられない。  だからせめて、失ったものを取り戻したくて。  そこにあった幸せを、拾いあげたくて。  今度こそ、干渉させない。  瑠璃にだって、忘れ去られてみせよう。  一人、書斎にこもって妄想する。  それが、あたしの出来る最大限の償いだ。  いつものように家を出て、いつものように学園へ向かう。  そんないつも通りを、俺は今日も実践していた。 「急いでください。遅刻してしまいますよ」 「わかってるって」  昨夜は少し、遅くまで小説を読みすぎてしまった。  その弊害か、朝の目覚まし時計の音に起こされることはなく、遅刻ギリギリの出発だ。 「ってか、先に行ってたらいいだろ。鷹山の方が、遠いんだし」  俺が遅刻ギリギリなら、お前は遅刻確定だ。  足を引っ張ったのは俺だけれど、それに付き合ったのはお前なんだからな? 「何を言っているんですか。一緒に登校すると約束していたでしょうに。全ては瑠璃の、責任です」 「可愛げのない妹だこと」  足早に駆け抜けながら、これみよがしにため息をつく。 「そんなんだから、彼氏の一人も出来ねえんだよ」 「余計なお世話ですよ」  少し不機嫌になって、妃は頬を膨らませる。 「彼女が出来たからって、あまり調子に乗らないことですよ。瑠璃にあんな素敵な彼女が出来るなんて、それはもう奇跡のようなことなんですから」  厭味ったらしく、口を尖らせて。 「精々、振られないようにすることです」 「それこそ、余計なお世話なんだよ」  奇跡言うな。  俺だって、今に幸せを感じているのだから。 「放課後は、どうするつもりですか?」  話題転換。 「今日もまた、探偵部へ?」 「もちろん。なんたって、部員は二人しかいないんだから」  探偵部。  それが、今俺達の生活の中心にあるもの。 「お前も、来年になったら入部するだろ? 歓迎するぞ」 「お断りします。お二人の愛の巣に踏み込むほど、酔狂ではありませんので」 「おいおい、探偵部をどういうふうに捉えてるんだ……」 「彼女といちゃいちゃするための密室空間」 「その表現はいろいろと危険だ」  全く、呆れたやつである。 「……かなたさんなら、安心ですから。私は何の気兼ねもなく、諦めることが出来ます」  ぼそり、と。  弱々しい言葉を口にする。 「そもそも探偵部は妃が言い出したんじゃないか。お前が入らなくて、どうするんだよ」  月社妃と日向かなたの関係は、蛍という一匹の猫によって結び合わされたものである。  引き取り手を探す妃へ、かなたが申し出てくれたことによって始まった。 「別に、入部するなんて口にした記憶はありません」  ミステリー小説が好きな者同士、繋がり合うものがあったのか。  妃に感化されたかなたは、いつしか探偵を志すようになっていた。  ……あの好奇心は、少々危なっかしい方向へシフトしているような気がするけれど。 「そう言うなよ。かなたも、妃に会いたがっていたぞ?」 「それは、私もそうですが」  渋る妃へ、更に追撃する。 「何なら、今日の放課後はこっちに来るか? もしかしたら蛍を連れてきてるかもしれねえぞ?」 「だから、行きませんってば。それに今日は、向かうところがありますので」  頑なに断り続ける妃。 「なんだよ、図書館にでも行くのか?」 「…………」  図書館、と。  そのキーワードを口にした途端、時間が一瞬、止まったように感じたが。 「……この島に、図書館なんてありませんよ」 「ああ、そうだったか? いやいや、俺がいいたいのは鷹山学園の図書室のことだよ」  俺も、昔はよくあそこへ入り浸っていた。  卒業して以来、もっぱら探偵部ばかり訪れてしまっているけれど。 「一人は寂しいので、今はあまり訪れていません。用事というのは、単純に友達と遊びに行くだけです」 「へえ、妃にも遊びに行く友達が出来たのか」  猫被りの妹が――。 「……いや、別に不思議でも何でもないか」  猫被りは、とうの昔にやめていたんだっけ。  そうだな、普通の兄妹なのだから、仮面を被る必要はない。 「そうですよ、不思議でもなんでもありません。当たり前のことですから」  世間体に申し訳が立たなくて。  必死に言い訳をするかのように、優等生を演じる必要もないんだ。 「私は私の毒舌を、気に入ってしまっているので」  それが、月社妃。  俺の、妹だ。 「ちなみに、遊びに行く相手というのはかなたさんです。とっても、楽しみですね」 「はあ!? いや、あいつ、今日は部室に来ねえのかよ!」  聞いてねえぞ。 「別に、探偵部は自由参加でしょう? 何の不思議もありません」 「いやいや、つーかそれだったら俺も誘えよ! 寂しいだろうが!」 「今日は女の子だけのお出かけなので、瑠璃は邪魔です。しっしっし」  無表情で手を払われても、納得することは出来ず。 「どうしてもというのなら、かなたさんに言えば良いのではないでしょうか。瑠璃をハブろうとしたのは、他ならぬかなたさんですよ?」 「ええー……」  付き合って、しばらく経ってしまったけれど。  まさか、倦怠期というのが訪れてしまったのか。 「……ま、心配なんてしてないけどな」  俺と彼女の関係は、すこぶる良好。  友人関係にも恵まれて、愉快な妹とも仲良しだ。 「幸せそうな表情を見ていると、ムカムカしますね」 「そこは、満足してろよな」  それが、いつまで続くか分からなくて。  ひょっとしたら、どうしようもない嘘に塗り固められた妄想なのかもしれないんだから。 「今日も、幸せは続いていく」  不幸せだったことなんて、一日もない。  妃と別れて、藤壺学園へと到着する。  遅刻ギリギリの限られた時間の中、足早に教室へと向かって。 「…………ん?」  慌ただしい廊下の端っこで、遅刻を気にすることなく登校する一人の女子学生。  その柔和な顔つきに、奇妙な既視感を覚えたが。 「やば、遅刻する」  特に気にすることもなく、追い越していく。  通り過ぎる瞬間、ちらりと横顔を伺ってみたが。 「…………」  俯いたまま、無表情。  影のある雰囲気に近寄りがたさを覚えた俺は、そうそうに前を向いた。  そういえば隣のクラスにこんな女子がいたことをぼんやりと思い出した。  話したことも、関わったこともないけれど。  なんとなーく、岬かかなたが話題に出した覚えがあるようなないような。 「……噂通り、暗いやつだなあ」  ぼそりとこぼれた言葉。  それが、伏見理央に聞こえてしまったどうかは、不明。 「きゃほー! お昼お昼お昼ですよー! さーあ、机をひっつけましょうねー!」  4限目のチャイムが鳴った瞬間、かなたは大声で立ち上がった。  当然、その挙動は注目を集めないはずがないのだが、それはこのクラスにとっての日常だった。 「おい」  そして、俺がクレームを入れるのも恒例。 「瑠璃さんとー、お弁当ー! 嬉しいなーですよー! 嬉しいですよね? 嬉しいって言ってくださいー!」 「嬉しいから、少し落ち着け」  テンションマックスの彼女は、見ていて痛々しい。  少なくとも、普通の人間なら引きつった笑い方をするだろう。 「毎度のことだが、それでも毎回言っておくぞ。はしゃぎ過ぎ、目立ちすぎ、うるさすぎ、だ!」  お昼休みになると、いっつもこれだ。  そのせいで、周囲からも変な視線で見られてばっかり。 「せめて、部室で食べるとか、そういう方向性にしようとは思わないのか?」  ラブラブなカップルの扱いは、語るまでもない。  教室のど真ん中で、恥を晒す趣味は俺にはないのだが。 「思いません! というより、見せつけていくスタイルです!」 「…………」  このザマである。 「教室でいいじゃありませんかー! こんなにぷりちーできゅーとなかなたちゃんとお付き合いしているわけですから、自慢していきましょう?」  付き合い始める前は、少し……もうちょっと、ほんの少し、おとなしかったような記憶があるのだが。 「これでも私、人気者なんですからね! モテモテです。スキスキです。なので、私は瑠璃さんのものであるとアピールせねば!」 「……そりゃそうだけどさ」  日向かなたは、持ち前の明るさと愛嬌の良さで、誰からも慕われている。  彼女の並外れた好奇心による、常識外の探偵行動も、その評価の高さから大目に見られていたりして。  そんなかなたが俺に好意を寄せてくれていることは、確かに奇跡のような出来事だが。 「俺は、そういうのは苦手なんだよ。そんなの知ってるだろ」  端的に言えば、恥ずかしい。  ただそれだけの、ことである。 「ふっふっふー、そういっても、折れてくれる瑠璃さんのこと、大好きですよ?」 「……う」  掲げられたお弁当が、嫌に眩しい。 「可愛いかなたちゃん特製、手作りのお弁当ですよー? えええ!? 食べたくないんですかー!??」  白々しい声の上げ方だ。  更に、注目を浴びてしまうのだけれど。 「それは、卑怯だ」  断れないことを知っているからこそ、かなたは楽しそうにしているのだ。 「というより、もはやバカップルにしか見られていませんので、今更じゃないですか?」 「言わないでくれ……そこは、見ないようにしてるんだから」 「このやりとりも、毎日やってますよね。そろそろ観念して、堂々とキスしてくれませんか?」 「さらりと無茶振りするなよな!」  キスと昼飯に、何の関係もない。 「……そういえば、今日、妃と遊びに行くんだって?」  話題を変えて、主導権を握ろう。 「あ、月社さんから聞いたんですね。そうですよー?」  にっこりと、笑って見せて。 「最近出来たお洒落なカフェで、月社さんとおデートです。きゃっ、楽しみです!」 「……ふぅん」  色々と込み上がる感情があったが、全てを堪えることにする。 「それなら、いいんだけどさ」  放課後は部室で過ごすことが当たり前だったので、少し、寂しい。 「ははーん! なるほどなるほど? 名探偵かなたちゃんは、ぴきーん! ときましたよ!」  そんな俺を見て、したり顔で笑う。 「月社さんに私を独り占めされて、嫉妬しちゃってるんですねー! きゃー! 独占欲高いです-! 束縛されちゃうんですねー!」 「……おい」  声が、大きいぞ。 「瑠璃さんが、デレてます!! うふふふ、可愛いですねえ!」 「うるさい……」  否定はできないから、黙るしか出来ず。 「安心してくださいな。今日は、瑠璃さんへの誕生日プレゼントを買いに行くだけですので!」 「えっ?」  さらりと口にされた言葉に、驚いて。 「ふふふっ、実は期待しちゃってるくせに! 楽しみにしていて下さいね!」 「お、おう……」  唐突に知らされたサプライズに、正直、恐怖心になってしまう。  誕生日? あ、そういえば、そんな日もありましたね。  「そ、それなら、仕方がないな……」 「あはははは! 照れてますね、照れています! やーん、そういう瑠璃さんも素敵ですねー!」 「うるさい、馬鹿」  かなたのお弁当に舌鼓を打ちながら、恥ずかしさを殺そうとする。  しかし、どうあがいても言葉が詰まってしまいそうだ。 「毎日が、本当に幸せですねー!」  伸びをしながら、感慨深そうに口にする。 「それもこれも、素敵な彼氏さんがいてくれるからなのでしょうか?」 「幸せなんて、普遍的なものだからな。どこにでもあって、だれにでも手に入れられるもんだ」 「そうなのでしょうか? この世には、幸せそのものすらわからない人だって、いそうですけど」 「……まあ、確かに」  だが、少なくともこの平和な日常に生きている奴らは、概ね幸せであると言っても過言ではないと思う。  今が幸せであると認識していないだけで、客観的に見れば、幸せなのだ。 「では、幸せをお裾分けしてあげましょう!」  声を張り上げて、周囲に魅せつけるように。 「はい、あーん!!」  可愛らしいお箸が、俺の眼前に差し出される。 「あーん? あーん? あーん!!!」 「……わかったよ」  バカップルに、なってやるさ。  そういう幸せが、俺達には似合っているんだろう。  餌を待つひな鳥のように、待ち構えて。  かなたは、優しい手つきで、俺の口に箸を伸ばした。 「し、あ、わ、せ」  満面の微笑みで噛みしめる彼女を見つめて。  その幸せに、満足感を覚えていた。  それが、優しい世界の俺の日常。  それが、変わらないこの世界での、四條瑠璃の幸せなのだ。  疑問に思うこともなく。  何に気付くわけでもなく。  宝石は踊らず、活字は語らない。   だからこそ俺は、幸福な人生を歩むことが出来るのだ。  遠く、遠くに、果てていった時間。  夕焼けの校舎はノスタルジックな雰囲気を醸し出し、特別な感情を急き立てる。  青春。  そのものの象徴として、この上ないものだと思う。  これまで俺は、少なくない時間を生きてきて、それなりに幸せだったと思う。  面白い妹がいて、可愛い彼女がいて、愉快な同級生がいる。  普遍的な学園生活を送りながら、それでも没個性的ではない毎日。  特別な何かになる必要はない。  特別な何かが起きる必要もない。  そんなありきたりで、されどかけがえのない幸せは、思わず俺を笑顔にさせる。  だから。  別に、今に不安はなく。  今に、杞憂もなく。  それなのに、センチメンタルな気分になってしまうのは、夕陽のせいだ。  コントラストが不自然に当てられて、正体不明の感情が泡だった。  「…………」  そういうとき、ふと空を見上げてみる、 晴天の青と、宵闇の黒が交じり合う間に、何かが煌めいたような気がした。  ラピスラズリ――遠く、遠くの森の奥でそんな輝きを目にしたが、しかし、気にすることなく目を逸らす。 「……っ」  窓から見える、一人の少女。  その光の方向へ、伏見理央が歩いて行くのを見て、無性に追いかけたくなったのは何故だろう。  縁もゆかりもない女子学生が気になるのは、何故に? 「昔話をしましょう」  日向かなたは、提案する。 「瑠璃さんと私の、煌めくような思い出語りです」 「また、突拍子もない事を言い出したな」  下校の時刻がきて、部室に鍵を閉めた後に、かなたは言いだした。 「私と瑠璃さんの出会いって、何の特別性のないものでしたよね」 「ああ、そうだったかな」  藤壺学園のクラス分けの際に、たまたま席が前後だったというだけ。  ……あれ? 鷹山だよな。 「話しかけるなっつってるのに、あんたが興味津々で絡んできたんだよ」  そのことは、昨日のことのように覚えている。  日向かなたはいつだって、好奇心の権化だったから。 「だって、瑠璃さんたら面白そうな人だったんですもの! これはもう、お近づきになるしかないと思ってましたね!」 「その結果が、今か」  最初から、円満な関係だったわけではない。  最初から、良好な間柄だったわけではない。  それでも、時間の経過とともに分かり合って、知り合って、そして、惹かれ合ったんだ。 「鷹山学園のころから、この藤壺学園に場所が変わっても、かなたは何も変わらないな」  いつも、楽しそうににこにこしている。  自分のやりたいことを突き進むような生き様に、あこがれを覚えたことだってあるくらいだ。 「いーえ、変えさせられちゃっていますよ? 私だって、何も変わっていないというわけではありません」  ニヤニヤと、笑いながら。 「だーい好きな人と恋人になれて、もっともっと幸せになってしまいましたから!」 「……そうだな」  照れ隠しに、俯く。 「ずっとずっと、私をお側において下さいね。いつまでも、瑠璃さんを支え続けますから」  そっと、寄りかかるように体重を預ける。  かなたの柔らかな身体が、感情の昂ぶりを教えてくれた。 「当たり前だ。他の女の子になんて、興味ねえよ」  それは、純然たる本音。 「それでも、随分と月社さんとは仲良しのようですが?」 「妹だろ」 「妹だから、恋愛対象にならないわけでもないでしょう」  さらりと、かなたはそんなことを言う。 「……ならないよ。なっちゃ、いけないんだ」  目をそらさず、まっすぐと口にした。  乾いた言葉に、意味があったとは思いたくない。 「あはは、冗談ですよ。本気にしないでください」  どこまで本気かわからない、自由なかなた。  その笑顔の真意が、時折読めなくなることもあった。 「大丈夫。瑠璃さんが誰のことをどう思おうと、私は変わりませんから」  強い言葉を、口にする。 「あなたの一番の特別で在り続けるために、努力し続けてみせます。今の関係に甘えて、のうのうと生きていくつもりはありませんから!」  それは、強すぎる言葉だ。 「俺だって、同じだ。俺は特別な人間ではないけれど、かなたにとっての特別であり続けたい」  人は、誰かにとっての特別になら、なることが出来る。  そうやって、その特別を積み重ねて、生きていくんだ。 「他のだれでもなく、日向かなたの特別に。そのために、俺は生きていきたいよ」 「うふふふふ、それでは期待していますね」  夕暮れに染まりながら、かなたの笑顔が心に染みこむ。  かなたらしい言葉の一つ一つが、宝石のように輝いていた。 「例え、瑠璃さんが月社さんのことを愛してしまったとしても」  じっと、目を見つめて。 「それ以上に私のことを愛してくれていたのなら、それで良いのです」 「……馬鹿」  狂気じみた献身が、のしかかる。  そんな決意をしなくたって、俺はもうかなたしか見ていないのに。 「もし、私に魅力を感じなくて、私よりも素敵な女性が現れたら」  いけない。  その先を、口にしてはいけないんだ。 「――そのときは、遠慮なく捨てて下さいね」  悲しい台詞を、笑顔で口にする。  余計に悲痛に見えてしまったのは、何故だろう。 「どうして、そんなことを言う」 「瑠璃さんには、全てを理解した上で、私を選んでほしいということですよ」  にこにこと、にこにこと。  笑顔が止まらなくて――言葉が、止まらない。 「夜子さんを好きになったとしても、あなたを恨むことはないのです」  夜子。  夜子。 「だからちゃんと、向き合ってあげて下さいね」 「……それは、誰のことだよ」  今の俺が、その名前の人物を知ることはない。  かなたの口にする名前に、一切の心当たりがなくて。 「さあ、誰なんでしょうね。誰なんでしょう。もしかすると彼女は、この物語の主人公なのかもしれませんね」  目を逸らしていた現実が、すぐそこにあるような気がした。  かなたの不理解の言葉が、この優しい世界に綻びを作ってしまう。 「私はただ、待っていますから。あなたのそばで、あなたの隣で、私を選んでくれるその時を」 「俺とっくに、かなたを選んだつもりだぞ」 「――ええ、わかっていますよ。だからこそ、このような残酷な言葉を口にしましたから」  穏やかな風が吹きさして、太陽は沈みかけていた。  ふわふわと地に足がつかないような会話が、とても意味ありげに写ってしまって。 「かなたは、何かを知っているのか」 「いいえ、瑠璃さんの知っていることしか知りませんよ」 「そうか」  俺の知っていることを、知っていて。  だからかなたが口にしている言葉は、俺が既に理解しているはずのことなのか。 「さあ、そろそろ帰らなければいけませんね。下校のチャイムは、とっくに鳴り終えてしまっていますから」  帰る?  それは何処へ?  弱々しい台詞を口にすることはなく、俺達は歩みだした。 「優しい世界なのに、歪があるということでしょうか。その歪に気付いていないのは、瑠璃だけですけど」 「……あ?」  場面が切り替わって、夜の下校道。  珍しく妹と家に帰って――あれ? 家ってこっちだっけ? この海岸線の先に、俺達の家はないぞ? 「しかし、かなたさんも自信満々ですよね。脅すのでもなく、寂しさを武器にするのでもなく、自分の魅力を磨いて、瑠璃の気持ちを繋ぎ止めておこうだなんて」 「聞いてたのか」  先ほどの、かなたとの会話。 「最も、だからなのでしょうね。だから私は、二番手に甘んじるしかなかったのでしょう」  妃の髪が、〈翻〉《ひるがえ》る。  物憂げな眼差しが、俺を捉えた。 「……妃? どうかしたのか?」 「どうもしませんよ。優しい世界とやらが単なるハリボテにすぎないようなので……好き勝手に語ろうかなと」  意味不明な言葉を口にする妃。 「そうそう、一つ、訂正しておきたことがあります」  指を、ぴんと立てて言う。 「私が瑠璃に告白できなかったのは、何も兄妹という関係が恐ろしくて――というわけではないのです。いえ、全くなかったといえば嘘になりますが……」  そして妃は、まるで独り語りをするかのように話し始める。  目の前にいる俺の存在は、無視。 「敵わないことを、心から理解していたから。かなたさんという存在に、私は白旗を挙げていたのですよ」  それは月社妃の胸中。 「月社妃のことを、愛していました。兄は、妹のことを愛してしまいました。けれど、それ以上に――かなたさんを、愛してしまっていたのです」  同時に二人の女性を愛してしまうという咎。 「両者がぶつかってしまえば、負けることは必然です。私は、かなたさんには敵わない――そう分かっていたから、兄妹以上の関係を望まなかったのですよ」  振られるのが、怖くて。  崩壊するのが、怖くて。  魔法の本が、日向かなたの存在をなかったことにするまで、月社妃は二番手で在り続けた。 「耐えることが、美徳だと思っていました。悲劇の少女になったつもりで、私は兄のことを影から想い続けていて」 「ピリオドを打てない、曖昧な恋模様。その結果が、良い物になるはずがなかった」 「どうして……今更になって、そんなことをいうんだ」 「今しか言えないからですよ。今だから、お伝えしたのです」  この間までの妃とは、何かが違うような気がした。  平和な日常に、僅かな亀裂が走ったのを感じる。 「瑠璃も、違和感を覚え始めているはずでしょう? 無知を強要されていたとしても、本能までは変えられません。活字は、活字――存在を根本から揺るがすことは出来ないのだから」 「……そう、だったな」  歪が少しずつ大きくなるのを感じていた。  それまで優しかったはずの世界が、とたんに虚しい物のように思えてしまう。 「どうやら、瑠璃以外の登場人物の設定に、欠損があったようですね。この本の製作者は、私やかなたさんにルールを用意しなかった。結果、ありのままの私たちが顕現しています」  ありのまま、だから。 「設定崩壊してるのか。それじゃあ、読者からは叩かれそうなあらすじだな」  そんな風に、お前らしいんだな。 「唯一、瑠璃だけは何も知らないというルールを義務付けられていますが……それも、時間の問題でしょう」  空を見上げて、妃は語る。 「脆弱な物語は、第三者によって切り裂かれる。元々、ラピスラズリは無理だらけだったのですよ」 「魔法の本は、夜子さんの願望を叶えようとするのに、夜子さんはその願望を押し殺そうとし続けています。我慢の物語をいくら紡いでも、魔法の本は上手く語れない。結果、こうなってしまっています」  俺には何も見えないけれど、もしかしたら妃には何かが見えているのかもしれない。  ずっとずっと、空を見上げながら何かを待っているようだった。 「私は、瑠璃のことが好きでした」  過去を、語る。 「私のことを守ってくれる、頼りがいのある瑠璃のことが好きでした」  噛みしめるような、センチメンタリズム。  思い出されるのは、幼少の頃の記憶だ。 「大人になるにつれて、瑠璃の世界が広がっていって――周りに素敵な人が集まってきます。いつしか、遠く、遠くへ離れてしまう痛みを噛み締めながら、それでもずっと、好きでした」  熱を帯びた言葉に、刺激される過去。 「それでも、大丈夫。私はとても強い女の子ですから、誰かを愛する瑠璃のことさえ、好きになってしまうのでした」  二番手、と。  自らのことを、そう表現していた妃。 「だけど夜子さんには、私のようになることは出来ないでしょう。だからこそ、瑠璃は夜子さんの気持ちと対峙しなければいけません」 「……妃」 「それは私には出来なかった――勇気を伴う愛のピリオド」  何故だろう。  何も分からなくて、何も理解していないのに。  どうしてこうも、胸が張り裂けそうなのだろうか。 「ああ、そろそろ、ですね。まったくもう――遅すぎますよ」  何かを察知した妃が、背を向けた。 「下校のチャイムは鳴りました。太陽も沈んでしまっています。良い子はお家に、帰る時間ですよ?」 「妃、俺は――!」 「何も言わなくて構いません。何も言う必要はないのです。瑠璃にはもう、伝えるべき言葉は伝え終えていますから。これ以上は、蛇足というものですよ」  無駄に語ることを嫌う妃は、それ以上俺に何も言わせずに。 「これは、優しい世界が見せた夢幻。特に意味はなく、特に何もありません。夢を見たと思って、忘れてください」  すうっと、妃は森の奥の方を指差した。  海岸線が導く、印紙の匂いのする方向。 「そっちは、俺の家じゃない」 「こっちが、瑠璃の帰るべき場所でしょう?」  そこには、何もないと知っている。  森の奥には、なにもないことを知っている。 「――幻想図書館が、瑠璃の帰りを今か今かと待ち侘びています」  図書館なんて、この島にはないはずなのに。 「――くっ!」  何かを感じて、顔を上げてみた。  森の奥の果てに、何かが煌めいたような気がしたんだ。 「あれは!」  なんだ、と。  振り返って、妃に訪ねようとして。 「妃……」  そこには、誰もいなかった。  妹は、忽然と姿を消していた。 「あれ、俺は、何をして……」  どうしてこんなところにいるのだろう。  早く、家に帰らなきゃ。  そうして明日も、かなたと幸せな毎日を紡ぐのだ。  誰かに示された方向に、背を向ける。  森の奥に、俺の居場所はないのだから。  さあ、俺の家に帰ろうか。  温かい家族と、愉快な妹のいる、四條家へ。 「――何処に行くんだよ、少年?」  背後から、声をかけられた。  それはとても落ち着いた、格好いい声色をしていた。  初めて聞くその声が、何故か、何故か、とても懐かしくて。 「お前の帰る場所は、こっちだろ?」  シニカルな笑みを浮かべながら、少年は目をぎらつかせていた。 「忘れたなんて、言わせねえぜ?」  ラピスラズリが、輝きを失った。 「……どうして」  何度、ラピスラズリを描かせようとも、夜子は自分にとっての物語を描かない。  四條瑠璃の気持ちを決定づけて、自分に惚れさせらたら良かったのに。 「何を、しているのよ……!」  二度目の物語が選んだのは、完全なる忘却。  もしも、遊行寺家と関わりがなかったら――そういう世界を、描いてしまった。  どんな物語でも、思いのまま。  けれど夜子は、その物語で何も満たされていない。 「ばかじゃないの……!」  呆然と虚空を見上げる夜子は、ただ一人図書館に引き篭もる。  外の世界では、全てを忘れた四條瑠璃が、失ったはずの存在とともに、優しい世界に生きている。  そこでは、単なる学生として。  魔法の本に関わらなかったルートの彼が、幸せを謳歌している。  心を閉ざし、瑠璃の幸せを望み。  全てをなかったことにしてしまおうとする夜子が、許せない。 「冗談じゃないわよ……! どうしてわからないのかしら? 本心から、そんなことを思ってないくせに!」  この幻想図書館の思い出を、なかったことにしたいわけがない。  例え、四條瑠璃が遊行寺家と関わらなかったことで幸せになれたとしても―― 遊行寺夜子は、四條瑠璃と関わらなかった世界では、不幸にしかならないのだから。  夜子が前を向くことが出来るようになったのも、全部が全部、大切な人のおかげだから。  その大切な人との別離忘却を望むなんて、それは余りにも馬鹿馬鹿しい自己矛盾だ。 「だから、物語は破綻する」  夜子の願った優しい世界。  死んだものが全てもとどおりの、if世界。  けれどありのままの彼女たちを描いてしまうのなら――設定に縛られないキャラクターを与えてしまったのなら。 「おい、夜子」  四條瑠璃以外の人間は、この茶番劇を許さないのだ。 「お前、こんなところで何をしてるんだよ」  遊行寺汀が、睨みつける。  この優しい世界の中でただ一人、夜子と関わることの出来る人物だ。  初めから、関わりがあって。  紙の上の存在ではないが故――今も自分を見失わず、ここに在る。 「……なぎさ」  他人との関係を放棄して。  四條瑠璃との繋がりを切ってしまったこの世界では――夜子は、壊れかけの人形のよう。  過去、遊行寺家本家に幽閉されていた時のような、触れれば崩れ落ちてしまうほどの儚さを秘めている。  そういえば、と。 「いい加減にしやがれ、この馬鹿妹が」  現実の世界でも。 「不幸そうな面を浮かべてんのが、ムカつくんだよ」  最初に夜子の心を救ってくれたのは、遊行寺汀だった。 「そういえば昔も、そんな風に絶望を知った風な表情をしてやがったな。けっ、あんときの夜子の様子は、今でも覚えてるぜ」  遊行寺闇子と、伏見理央。  閉ざされた世界の中で、ただ活字を読むだけの毎日だった夜子。 「気に食わねえ。そうやって全てを知って、全てを諦めたような表情が気に食わねえんだよ! だから俺は、お前を笑わせてやろうって思ったんだったな」  あのとき。  汀と夜子が、初めて顔を合わせた時。  そのときも、同じようなことを口にしていた。 「でも、でも、あたしは……」  目を伏せたまま、夜子は弱音を吐いて。 「もう、誰とも会いたくないし、誰とも、話したくない。誰かと関わったら、また、傷つけてしまう……」 「うるせえ、黙れ!」  それは、妹を溺愛する兄にしては、乱暴な振る舞いだった。  荒々しく、腹の底から叫ぶような声は、瞬く間に夜子を萎縮させる。 「……え、えっ……」  けれど、汀は止まらない。  止まってはいけないことを、自覚していたから。 「お前は何も、していない。お前はただ、部屋に引き篭もってくだらねえ妄想劇を繰り広げてるだけだ。そんなもん、糞つまんねえ物語じゃねえか!」  物語。  夜子にありふれた、身近な言葉を口にして。 「会いたくなくても、話したくなくても、関わりたくなくても、きちんと物語を語れよ。お前一人じゃ、人と人との物語は語れねえんだよ」 「あ、あたしは……! 物語なんて、もう、語るつもりは……」 「孤独で恋物語が語れるか! ちくしょう、なんでお前は分からねえ!?」  焦るように、戸惑うように、汀は夜子の肩を掴んで。  怯える夜子を逃さぬよう、目と目を見据えて口にした。 「――どうしてお前は、俺と同じ間違いを犯そうとしてんだよ。お前は俺を見て、何も学ばなかったのか」  遊行寺汀の、物語。  遊行寺汀の、恋物語は――気付くまでが、遠い遠い道のりだった。 「嫌になるくらい俺の妹だな。笑えるくらいに、俺の妹だよ」 「気付かないふりをして、思いを押し殺して、何事もなかったように振る舞う。ああ、確かにそれなら、傷付かないかもしれねえな」  ずっとずっと、遊行寺汀は恋してた。  月社妃に、恋をしてた。  けれど、その気持ちに背を向けて、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばし、妹なんて呼んだりして、誤魔化していた。 「傷付かないから――気付かなかった。それが、何も解決しない停滞であることにさえ、気付かなかったんだ」  立ち止まり、滞る。  されど時間は流れ、見えないところで後悔は降り積もっていく。  気が付けば。  愛したはずの彼女は、この世から消えてしまった。  恋物語は語られることはなく、無慈悲に閉ざされてしまったのだ。 「俺は――そうやって、苦しんできた。それを、一握りの奇跡が救ってくれて――ようやく、終わることができたんだよ」  生前叶わなかった告白を、果たすべき失恋を、行えたのだ。 「う、うう……!」  夜子は、それを見てきたはずだ。  機会を逃し続け、想いに目をそらしてきた人間がたどる末路。  拭えない後悔を抱えながら、軋むような生き様を。 「お前は、一握りの奇跡を開くことの出来る人間だ。その奇跡を、逃避のための手段に使ってんじゃねえよ」  それから汀は、柔らかく笑った。 「安心しろ。魔法の本は、残酷なものだけれど――それによって救われる奴もいるんだ」  遊行寺汀は、魔法の本のお陰で、後悔を〈払〉《ふっ》〈拭〉《しょく》することができたのだから。 「お前も、戦え」  すっと、視線を横に向けて。  今もなお開き続けるラピスラズリを、鋭く捉えた。 「な、汀……! でも、でも、でも……あたしは!」  子供のように戸惑う夜子は、縋るような声で言う。 「もう嫌なの。嫌いなの。会いたくないの。それでもだって、あたしは瑠璃のことが嫌いだから――!」 「けっ、この期に及んで、何を言いやがる」  自らの言葉が、まるで理解できない夜子を笑い飛ばし。  気が付けば手にしていた銀ナイフの刃を、ラピスラズリに向けていた。 「や、やめて――駄目だから、それは! そんなことをしたら、あたしは汀のこと、嫌いになるわっ……!」 「上等だよ。全ての人間を、嫌ってろ」  シニカルな表情が、迷いをなぎ払う。 「お前はただ、誰かと会うことに怯えている、ただのガキなんだよ」 「やめてッ!」  ナイフが、ページの一端を切り落とす。  ラピスラズリの煌めきが、引き裂かれるのを見つめて。 「――いまどきツンデレなんざ、時代遅れなんだよ。そう思わねえか、少年?」  遊行寺汀が、夜子の逃避の世界を終わらせる。  緩やかにそれを静観しながら、妾は溢れだす感情をしっかりと〈咀〉《そ》〈嚼〉《しゃく》していた。 「もう、迷わない。妾は妾のやりかたで、夜子の幸せを語りましょう」  逃避することも、打開することもなく。  「そのための覚悟を決めて、妾は夜子を害しましょう」  害せば害すほど、夜子の感情は高ぶって。  停滞する気すら起きないほど、魔法の本に利己的な夢を見るはず。  「甘い言葉は、もういらない。思い出すのは、地獄絵図。現実に、幸福なんてありはしないのだから」  優しい世界が崩れるのを感じながら、二度と、夜子にこんな世界は語らせないと心に誓う。  夜子が語っていいのは。  夜子にとって、幸福で優しい世界であればいい。  そのためなら、妾は鬼にでも悪魔にでもなってみせる。  意識がはっきりと覚醒した時、俺は図書館の大広間で蹲っていた。  先ほどまで感じていた不思議で優しい世界の残滓を感じて、不意に寂しい気持ちが蘇る。 「……妃」  そこでは、あいつも生存していた。  いや、それさえも紙の上の存在であることは分かっているけれど、しかし、生きてそこにいてくれた。  「大丈夫、大丈夫、大丈夫だ」  託された気持ちを噛み締めて、俺は立ち上がる。  優しい世界などではなく、目の前の現実と対峙しよう。 「――夜子!」  悲しげな、表情で。  物憂げな、表情で。  意識のない人形のように、項垂れていた。  それは、オブシディアンが見せた時のような――昔、心を壊された時の夜子と被って見える。 「う、うう……変な夢を見ていたような気がします」  隣で、かなたが呻いていた。  どうやら彼女も、ラピスラズリの物語に囚われていたらしい。 「おおっ! しかし、出遅れていないようですね! 私も、お傍にいますから!」 「ああ、そうだな。ちゃんと、俺を支えてくれ」  魂が抜け堕ちたような夜子の傍ら。  不機嫌そうな魔法使い――クリソベリルが、冷たい瞳で見下している。 「……どうやら夜子は、憎しみを忘れた甘ちゃんになってしまったようね」  ラピスラズリの優しい世界に、クリソベリルは不満だったらしい。 「それが本当に望んでいる世界ではないのだから、何度やっても、続くはずがないのにね」  今までのような、あざ笑うような声ではなく。  淡々とした、冷酷な声だった。  その様子に、今までとは違った恐怖を覚えた俺は、自然と後ずさりをしていた。 「お前、夜子に何をした」 「何もしていないわよ。ただ、完全に心を閉ざしてしまっただけ。昔のように、戻ってしまったのかしら。よっぽど、瑠璃のお兄ちゃんに会いたくないようね」  面白そうでもなく、ただ静かに語ってみせる。  それは、嵐の前の静けさに見えてしまう。 「どうして夜子は、現実に見切りをつけないのか。いつまでも中途半端にしてたって、幸せになんかなれるはずがないのに」  迷うような言葉。  だが、クリソベリルの振る舞いに、迷いは感じられない。  目的も、到達点も、既に覚悟を決めたように。 「その点で言えば、闇子は失敗だらけね。最初っから雁字搦めに縛ってしまえば良かったのに」 「どういうことだ?」 「パンドラを紡ぐ際に、おびただしい量の命令を仕込ませておけば、こうはならなかったということよ」  最低限の命令だけに、留めるのではなく。  機械にプログラミングするかのように、全ての思考・行動を決めてしまえばと、クリソベリルは語る。 「縛られ、義務付けられた恋物語は、不自然さにあふれて、綻びが生まれるだろうというのが闇子の考えだったようだけれど、こうして現状を鑑みてみれば、そっちの方が正しかったのよ」  クリソベリルは、かなたを睨みつけ。 「感情も、行動も、関係も、魔法の本で縛り付ける。そうしておけば、こんな泥棒猫に奪われることもなかったはずよ」 「そ、そんなの非人道的過ぎます!」 「非人道的? きゃははっ――面白いことを言うのね」  そこで初めて、クリソベリルは外見相応に笑ってみせた。 「妾は魔法使いで――瑠璃のお兄ちゃんは紙の上の存在。この物語の何処に、人間が存在するのかしら?」 「……っ!」  それは、とても。  心臓を杭で貫かれたような、激しい痛みを伴う言葉だった。 「むしろ、妾や夜子にとって、今の瑠璃のお兄ちゃんは眷属のようなものでしょう? それをいいように扱って、何が悪いのかしらね」  そう言って、クリソベリルは本を開く。 「――ラピスラズリは、終わらない。これから、完全な理想を描いていくのよ」 「……?」  気が付けば。  そう、気が付けば――クリソベリルは、もう1冊の本を手にしていた。  遠目で、タイトルが良く見えないけれど……それは、ラピスラズリと同じような輝きをしている。 「瑠璃さん、あれは……?」 「本来なら、直接妾が手を下すのではなく――夜子自身に描いて欲しかった。担い手は夜子であって、妾は単なる現象にすぎないから」  右手には、羽ペン。  夜子が愛用していた、質素で趣きのある古びたもの。 「まさか」 「けれどそうも言ってられないわ。夜子にその気がないのなら、妾が代筆しましょうか。さながら妾は、ゴーストライター?」  そうして、クリソベリルは本を開いた。  ラピスラズリではなく――その本の、タイトルは。 「なっ――!?」  『四條瑠璃』  俺がずっと探し求めていた、俺の存在を記した、人名を関する魔法の本だ。  ということは、つまり。  そこに書かれる命令文は――俺の全てを、決定づけるわけで。 「瑠璃のお兄ちゃんと、かなたちゃんとの恋愛はとっても素敵だね。例え、瑠璃のお兄ちゃんが人外でも、かなたちゃんは変わらず愛してくれた」  嬉しそうに、嬉しそうに。 「信じるって、素晴らしいわぁ。愛するって、素敵だわぁ。けれどそれは、単に現実を理解していないだけではなくて?」 「おい、やめろ」  嬉しそうに――憎しみの花を咲かせるのだ。 「紙の上の存在なんて、たった一文を付け加えるだけで、そんな愛情を破壊してしまうもの」 「やめろ――!」  魔法使いは、書き記す。  残酷な一文を、俺に刻みつけて。 「最初から、こうしておけばよかったのよ。そうしたら、全てが夜子の思いのまま」  日向かなたへ、魔法使いは言う。 「夜子の幸福には、貴女が邪魔なの。だから、消えてくれるかしら?」 「え……?」  ――〈『〉《丶》〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈が〉《丶》、〈憎〉《丶》〈い〉《丶》』  頭の中で、染みこむような文字が踊った。   ――『〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈が〉《丶》、〈全〉《丶》〈て〉《丶》〈の〉《丶》〈黒〉《丶》〈幕〉《丶》。〈妃〉《丶》〈に〉《丶》〈本〉《丶》〈を〉《丶》〈開〉《丶》〈か〉《丶》〈せ〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》』  認識が、塗り替えられる。  それまで理解していたはずの思考に、新たな記述が上書きされた。  ――『〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈が〉《丶》、〈大〉《丶》〈嫌〉《丶》〈い〉《丶》〈だ〉《丶》。〈恋〉《丶》〈人〉《丶》〈の〉《丶》〈振〉《丶》〈り〉《丶》〈を〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈い〉《丶》〈つ〉《丶》〈か〉《丶》、〈復〉《丶》〈讐〉《丶》〈す〉《丶》〈る〉《丶》〈た〉《丶》〈め〉《丶》」  目的が、意識の中に刷り込まれた。  激しい嫌悪感が込み上げてきて、それまで抱いていたはずの思いが儚く砕け散る。  ――『〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》〈を〉《丶》〈殺〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈日〉《丶》〈向〉《丶》〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈だ〉《丶》。〈生〉《丶》〈涯〉《丶》、〈あ〉《丶》〈の〉《丶》〈女〉《丶》〈を〉《丶》〈許〉《丶》〈さ〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》』  一年。  そう、一年だ。  妃を失って、仕方がないことだと心を落ち着かせて。  自殺してしまうほどの悲しみを一身に受けて、それでも何とか、立ち直れて。  月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた。 月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた。月社妃を殺したのは、日向かなた!  断罪すべきは、このクソ女に決まっている。  のうのうと生かしておける訳が、ないじゃねえか。 「…………」 「……瑠璃、さん?」  不思議なものだなと、思った。  隣にいる女が、まさか、自らの敵であるなんて――何故、気づかなかったのか。 「おい」 「え?」  振り返り、日向の押し倒した。  逃さないよう、全力。 「っ――痛いです、瑠璃さんっ! どうしちゃったんですか!?」 「うるさい、黙れ」  脳裏にフラッシュバックする、妃の笑顔。  それをこの女が引き裂いたと思うと、腸が煮えくり返るほどの怒りがこみ上げてくる。 「……〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》」  〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》、〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》、〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》〈よ〉《丶》〈く〉《丶》〈も〉《丶》――! 「俺の誇りを傷付けたな!」 「――っきゃああっつ!!」  一閃、彼女の頬を引っ叩く。  倒れそうになる彼女を、しかし逃さないよう腕を掴み、引き寄せる。  胸倉をつかみ、睨みつけ、憎悪を吐き出した。 「お前さえいなければ! お前さえいなければ! お前さえいなければ――! 妃を失うことも、なかったのに!」 「う、うう……るり、さん? どう、して」 「妃がどうして死ななければならなかった! 妃じゃなくて、お前が死ねばよかったのに――!」 「あ、ああ……」  俺の残酷な言葉に、彼女の瞳に涙がたまる。 「泣いて許されると思っているのなら、思いあがりだと思わない?」  躊躇いかけた俺の背中を、クリソベリルが後押しする。 「かなたちゃんは、最低最悪の悪党よ。色香を使って瑠璃のお兄ちゃんをだまくらかし、邪魔な人間を排除する。まさに、悪女」 「ああ、ようやくそれに気付けたよ」  頬を打たれ、胸ぐらをつかまれて。  汚い言葉を一心に受けても、未だこれっぽっちも反省していないんだろうな。 「……私は、私は……」  突然、真実に気付いた俺に、戸惑う日向。  「これで、わかったでしょう、かなたちゃん。瑠璃のお兄ちゃんは、こういう存在なのよ」  日向の心を削ぐため、クリソベリルは耳元で囁く。  その度、日向が悲しそうな表情を浮かべるものだから、俺の気持ちはスカッとする。  もっと、苦しめよ。 「文章を付け加えるだけで、この有り様。何ならもっと、外道にしてあげましょうかぁ?」 「ひっ……!」  頬を打たれた恐怖を思い出すのか、俺が右手をあげようとすると怯え戸惑う。  面白いから胸ぐらを離してやると、情けなくその場にへたり込んだ。 「あは……ははははは……」  おかしくなったのか、狂ってしまったのか、日向は乾いた笑い声を浮かべる。 「これが、紙の上の存在よ。ね? こんなものを愛せるなんて、おかしいの。だってこれは、夜子の言いなり、ペットのようなものなんですから」 「ははは……ははは……」  頭を抱えて、呻くように笑って。  「瑠璃さんが、私に、ぼうりょく……頬を、打たれ、殴られて、憎まれて……はは、あははは……」  絶望する彼女を見つめて、俺は不思議な高揚感に満たされていたのだが。 「…………?」  震えていた日向の身体が、突然、収まった。  かすれた声も、弱々しい声も聞こえなくなんて、傷めつけ足りないのかと蹴り飛ばしてみるかを考えてみたら。 「DVですよDV! これは家庭内暴力です! これは大変なことですよ!?」 「……は?」  顔を上げたかなたは、満面の笑みだった。  その目に涙はなく。  どころか、力強さを秘めていた。 「痛かったです! 悲しかったです! 傷付いてボロボロのかなたちゃん、可哀想! でも、大丈夫。大丈夫なんですよ!」  手を広げて、日向は俺に笑いかけた。 「何があったかは知りませんが、その憤りさえも、私は受け入れてみせましょう! 瑠璃さんが私に暴力をふるうのなら、それを含めて愛してみせますよ!」 「なっ……! お前、何を言って――!」 「大好きなかなたちゃんに手を上げてしまうほど、大変なことがあったのでしょう? それなら私は、何も聞かずに受け止めて差し上げます」  先ほどまで、怯えていたくせに。  あんなに、泣いていたくせに。  なんだ、この女は。  気でも狂っているのか? 「馬鹿じゃないかしら。そうやって強がって、意味なんてないわ」 「強がりじゃありません! あれ? もしかして知らなかったんですか?」  自信ありげに、彼女は叫ぶ。 「私の愛情は、海よりも深く山よりも高く! 誰よりも健やかに、そして力強く! 真っ直ぐで素敵な輝きを放ちながら、一途に向けられているものなのですよ!」 「は、はい!? あ、貴女、頭おかしいんじゃないの!? こんな仕打ちをされて、どうして笑っていられるのよ!?」 「だって、面白いじゃありませんか! この程度の変化で、私の愛情を折るつもりだというのなら――私はこの愛情を、魅せつけていくだけです!」  そして、日向は。  俺を、見つめた。  その真摯な瞳は、ぶれることなく真っ直ぐで。  思わず、後ずさりをしてしまうほどの力強さを秘めていた。 「私が憎いのなら、存分に怒りをぶつけてください」 「なっ……」 「慈愛の心で、私は瑠璃さんを受け入れます。あ、でも安心して下さいね。どんなに手をあげようとも、私は瑠璃さんを好きで居続けますから」 「ば、馬鹿じゃねえのか!?」  それは、憎しみが故ではなく。 「――ぅっ!」  恐怖からくる、防衛本能として――彼女を叩いてしまっていた。 「いっ、たぁ……っ! これは、瑠璃さんが正気を取り戻したら、たっぷり慰めてもらわなければいけませんね」 「だから、近付くなよっ!」  それでも俺へ歩み寄る彼女に、もはや恐怖心しかなく。 「――ッ!」  もう一度、彼女の頬を殴ってしまう。 「……あれ? 少し、力が弱まっていますよ? 手も少し、震えています。どうしたんですか? 私、まだまだ殴られ足りませんが」 「そ、そんな……!」  軽口を魅せつけて、尚も笑っていて。  体の奥底から、不思議な動悸が止まらない。  彼女の力強さに、彼女の真っ直ぐな愛情に、身体が悲鳴を挙げていた。  彼女を殴る度、自分の存在が削がれていくような気がして。  痛みは、手よりも心に響いていた。 「渾身の力で、殴りなさい! 握りこぶしを、その女の頭蓋骨に減り込ませるのよ!」 「そんなことをしてしまったら、死んでしまいますね。ああ、でも、瑠璃さんに殺されるほど愛してもらえるなら、それも本望ですね」 「――っ!」  狂気に染まっているのは、果たして誰なのか。  俺か? クリソベリルか? 夜子か?  この世で最も恐ろしいのは、目の前の日向かなたなのではないだろうか。 「瑠璃さん、どうしました?」  震える手が、上がらない。  彼女の目が、見ることが出来ない。  声を聞く度、何も出来なくて、何も、見れなくて――込み上げる気持ちは、何? 「だ、駄目っ!」  慌てたように、クリソベリルは筆を執る。  何かに懸命に記そうとして、しかし慌てて中々記すことができないでいる。 「瑠璃さん、瑠璃さん、瑠璃さん」  彼女が、俺の名前を呼ぶ。 「私は、瑠璃さんのことが大好きなんですよ。こんなにも、大好きなんです。どうかそれだけは、わかっててくださいね」 「……あんた」  敵わないと、心が知っている。  そう、それは今、理解させられたことではなく――とっくの昔から、わかっていたんだ。  俺は、彼女に敵うはずがなくて。 「あんた、ではなく。かなたちゃんと、愛情を込めてお呼びください!」  真っ直ぐな輝きが、余りにも眩しかった。  そうだ、そうだった。  俺が、日向かなたに恋をしたのは、そういうところだったよな。  ――『日向かなたを憎め』  頭の中で、文字が踊る。  ふとクリソベリルに視線を向けると、一心不乱に文字を記していた。  ――『日向かなたが、全て悪い』  何度も頭に流れ込む文字に、とても冷静に気付くことが出来た。  クリソベリルの文字は、弱い。  全てを縛り付けられるほど、強固な力はないらしい。  これが、夜子の文字だったら、どうなっていたかはわからないけれど。 「かなた」  俺は、最愛の人の名前を呼ぶ。  迷いを振りきって、立ち上がり、手を差し伸べる。 「痛かっただろう。ごめんな。本当に――悪かった」 「いえいえ、構いませんよ。一つ、貸しということで」 「かなたには、貸しを作りっぱなしだな。本当に、本当に、助かったよ」  その力強さがなければ、屈していただろう。  どうすることも出来ないまま、最悪の結末を迎えていたのかもしれない。 「感謝をしているというのなら、他に言うべき言葉があるのでは?」  そういって、華やかに笑った。  俺の好きな笑顔を、見せてくれて。 「瑠璃のお兄ちゃん、お願い、従って」  クリソベリルの声が、悲痛に響く。 「魔法使いの命令に、従いなさいよ――!」  ――『日向かなたのことが、大っ嫌いだ』 「お断りだ!」  浮かび上がっていた文字列が、砂のように崩れ落ちていく。  でっち上げられた命令は、本来の機能を果たす前に崩れ去って。 「俺は、かなたのことが大好きなんだ! 他の誰よりも大好きで――俺の、一番の特別なんだ!」 「はいっ! 私もです!」  命令に抗った俺に、抱きつくかなた。 「私はどんなときでも、瑠璃さんの味方ですからね!」 「痛いほど、実感したよ」  それでも諦めきれないクリソベリルは、『四條瑠璃』にしがみつく。 「どうして、どうして、どうして――文字が、かけないのよ!」  現実を見ることなく、紙の上ばかりを見つめる魔法使い。  彼女の描く筆跡は、白紙のページに刻まれることはない。 「これは俺の物語だ。お前に指図される覚えはない」 「――っ!」  もはや、どうにもならないことを察知したクリソベリル。  羽ペンが手から抜け落ちて、呆然と俺たちを眺め続ける。 「愛は負けないということですね!」  これ以上、魔法使いの好きにさせてたまるかよ。  もう二度と、かなたの悲しい表情は見たくない。 「やっぱり、妾じゃ、駄目だった……夜子、貴女じゃなきゃ物語は紡げない」  縋るように、クリソベリルは夜子を見つめる。  壊れた人形のように虚ろなまま、夜子は何も言うことはなく。 「夜子が強く望まなきゃ……妾は、何も、叶えてあげられないの」  クリソベリルの訴えに、ぴくりと。  夜子の瞳が、動いたような気がした。  あそこまで。  あそこまで、誰かを強く思う行為を、あたしは知っていただろうか。  かなたの一途な愛情と、瑠璃のそれに応えようとする気持ち。  あれこそが、あたしが物語にまで願っていた、幸せの極致なのだろう。  ――ああなりたかった。  あたしだって、ああいう風に恋をしてみたかった。  けれどそれは、敵わない願い。 『お前はただ、誰かと会うことに怯えている、ただのガキなんだよ』  汀に、知った風な口を利かれてしまった。  屈辱的な言葉に、反論できなかったのは何故? 『お前も、戦え』  戦わなければ、強くなれない。 「あたしは、どうしたらいいの」  目の前の強い輝きに、心を打たれてしまって。  一歩、踏み出してみようと心が揺らいだ。 「――心から、呪いなさい。恨みが足りていないのよ」  けれど耳元で、あたしの弱さが顔を出す。 「憎んで憎んで憎んで――思いの全てを、物語にぶつけなさい」  憎しみは、あたしにとって最も原始的な感情だったように思う。  遊行寺家の人間が、憎らしい。  あたしのことを閉じ込めて、お母さんを不当に扱って、あまつさえ晒し者に仕立て上げ、根拠の無い噂で排撃した。  心を壊され、人間としての扱いをされず、ただ閉ざされるだけの日常。  人形のように塞ぎこんでも、憎しみばかりがこみ上げてくる。  お母さんは、そんなあたしを守るために、魔法の本を開いて、描いて、あたしを害する人間を排除していたらしいけれど。  たぶん、それは、違う。  あいつらを排除したのは、他ならぬあたしの憎悪だろう。  憎くて憎くて仕方がなくて。  許せなくて許せなくて仕方がなくて。  塞ぎこんだ心が育んだのは、悪しき感情だった。  知らないふりをしてたけれど。  何も知らない女の子のように振舞っていたけれど。  ――〈白〉《丶》〈髪〉《丶》〈赤〉《丶》〈目〉《丶》〈の〉《丶》〈呪〉《丶》〈わ〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》〈少〉《丶》〈女〉《丶》。  奴らがあたしをそう扱うのなら、そのものになってしまったらいい。  災いを振りまく腐れ魔法使いと罵るなら、その通りにしてやろう。  その結果、遊行寺家は災いが降りかかり――あたしとお母さんを隔離することで、何とか難を逃れようとした。  お母さんはそのことをとても悲しがっていたけれど、あたしはとても、健やかな気持ちだった。  誰にも排撃されず、誰からも攻撃されることなく、平穏な時間を手にすることが出来た。  けれど、一度憎しみに委ねた感情は、あたしの心を軽くさせることはなかった。 「夜子は、誰かを恨んで恨んで憎んで憎んで、そうやって生きてきた」 「だから、利己的になることに躊躇わなくていいのよ。好き勝手に、物語を紡ぎなさい」 「瑠璃のお兄ちゃんを奪われて恨めしいという感情に、何ら間違いはないのだから」 「瑠璃のお兄ちゃんが、自分を放ったらかして幸せになるなんて、恨めしくて憎々しくて我慢できないでしょう」 「自分を選んでくれない瑠璃のお兄ちゃんなんか、存在しなくていいんだよ。だから、恨みなさい」 「開き直って、恨みを糧に物語を語れ」 「魔法の本の根源は――人間の、負の感情なのだから」 「憎悪を糧に、生きていく。それが、紙の上の魔法使いよ」  様々な言葉が、あたしの中に沈み込む。  「憎しみを、思い出しなさい。現実が、いかに凄惨なものであるかを、夜子は知っているはずよ」  苦しかった。  生きてきて、本当に苦しかった。  他人に向けられる視線が怖くて、怖くて、普通に接してくれる人にさえ、怯えてしまうことが辛かった。  普通に頑張ってみようとしても、脳裏にちらつくのは昔吐かれた暴言の数々。  トラウマ。  言葉にしてしまえば簡単な事だけれど、乗り越えるには困難すぎた。  あたしは、こんなにも苦しんでいるのに。  大嫌いな瑠璃が、一人で幸せになるなんて許せない。  許せるはずが、ないのよ。 「瑠璃のお兄ちゃんにだって――夜子は憎み続けてきたでしょう?」  どろどろと渦巻く感情が、あたしに黒い目的を植え付けていく。  瑠璃の手にしていた幸せが、あたしの手で破壊したい衝動にかられてしまう。  それが、恨みの本質。  憎しみが、あたしの背中を後押しするんだ。  四條瑠璃が恨めしい。  一人で幸せになるのが、たまらなく嫌だ。  日向かなたが恨めしい。  あたしにはない力強さが、羨ましくて。  月社妃が恨めしい。  魅力的な女の子として、最後まで自分を貫いていた。  伏見理央が恨めしい。  自然な笑顔を浮かべられたら、あたしはもっと幸せになれただろうな。  恨みを重ねて、憎しみを滾らせて。  全てを壊したくなる感情に、今まで抗ってきたけれど。  魔法使いの囁きが、あたしを誘い始めていた。  瑠璃とかなたの絆の強さが、あたしのさらなる絶望に追い込んでしまった。 「人を呪わば穴二つ」  羽ペンを拾い上げて、その憎しみに身を委ねようとした刹那。 「え?」  背後で、蛍石が煌めいた。  壊れかけのラピスラズリの中に潜む、フローライト。  その光が、あたしの憎しみを優しく包み込んでしまう。  全てを恨みに委ねる決意を固めた。  黒い感情に囚われたあたしが、冷たい未来を思い浮かべた瞬間。   それは、背後からやってきた。  振り向かなくても、わかってしまった。  背後からやってくる人物の存在感に、あたしは唇を噛みしめる。 「それでもあなたは、立ちふさがるのね」  現実から目を背けることを。  空想に夢を委ねることを決意したあたしを咎めるかのように、月社妃は現れた。 「いえ、別に」  さも当たり前のように。  自らの意志で退場した少女は、それでも物語にとどまり続けて。 「ラピスラズリが、完全に破り捨てられていませんから。あの優しい世界で、夜子さんは私の存在を思い浮かべてしまったようですし」  汀によって、切り裂かれた『ラピスラズリの幻想図書館』。  未だ現状は保っているものの、その輝きは失われかけている。  「しかし、そんなことはどうでもよいのです」  一歩、妃はあたしに近付いた。  鋭い視線で、対立するかのようなまなざし。 「あなたはこんなところで、何をしているのでしょうか?」 「……は?」  言ってる意味が、分からなくて。  しかし、あたしの邪魔をしようとしていることだけは、理解できた。 「今、夜子さんがやるべきことは、空想に感情を委ねることではないはずです。そんなことも、わかっていないのですか?」 「わからないのは、どちらよ。あたしはもう、決めたもの。あんなものを見せられて、何も思わないほど鈍くはないわ」  瑠璃とかなたの絆の強さ。  もう、視界にさえ入れたくはない。 「うんざりなの。現実も、色恋沙汰も、友達も、みんなみんなみんな! 思い通りにならなくて、上手くいかないことばかりで、本当に面倒だわ!!」  これだって、そうだ。  あたしが憎しみを受け入れた途端、妃はそれを邪魔立てする。 「生きるのが苦しい。他人と関わるのが辛い。誰かと何かを育む度、恨み妬みがこみ上げてくる。そういうのはもう、あたしには必要ない」  そうしてあたしの子供らしさを、お前は笑いに来たのだろう!? 「はっ、笑いたければ笑えばいいじゃない! 賢くて優秀な妃なら、あたしみたいなことにはならないんでしょうけど――あたしは、妃とは違うのよ!」  生まれてからこれまでの、積み重ねが違う。  苦しみの総量、憎しみの渦が違うんだ。 「弱くて弱くて、どうしようもないくらい脆弱で、もう、まともになんて生きていけないのよ……!」  こんなにも、真っ黒な感情にあふれていて。  憎んで、恨んで、妬んで、魔法の本に願いながら、周りの人間に迷惑をかけることしか出来なくて。  だからもう、空想にしか、生きる道はないんだ。 「へえ、そうなのですか」  しかし。 「それはとても、可哀想ですね」  妃は、とても冷たく受け流した。 「……何?」  その適当さに、その雑感に、思わずカチンときてしまう。 「いえいえ、可哀想じゃありませんか。同情しますよ、哀れんであげますよ。そうやって憎んだり、妬んだりすることでしか、夜子さんは生きられないんですからね」  妃特有の毒舌が、今度はあたしに向けられる。 「あたしに、喧嘩を売っているのかしら?」 「いいえ、滅相もありません。夜子さんが可哀想ということは、先ほどご自分で語っていらしたではありませんか。哀れな少女の、不幸自慢」 「――ッ!!」  生まれて、初めてだったかもしれない。 「妃にあたしの、何がわかるのよ――!」  怒りが着火点となって、誰かに何かをぶつけたのは。 「知った風な口を聞いて、そうやってあたしのことを見下して! そういうところが、大っ嫌いだったわっ!!」 「あらあら、怒らせてしまいましたか。それはすみません」  それでも妃は、余裕を崩さない。  あからさまな態度であたしを刺激する。 「嫌い嫌いと駄々をこねるさまは――なるほど、たしかにただの、ガキですね」 「こ、の――っ!!」  それは衝動的な行動だった。  あたしにしては、直接的。  あたしにしては、積極的な行動。  怒りに身を委ね、そのまま掴みかかろうとする行動は。 「あら、これは驚きですね」 「――ッッ」  しかし、妃には一切通じることはなく、あしらわれ、逆に転ばされてしまった。  身体を翻して、足払い。  不格好に地面に転んだあたしは、すぐさま身体を起こそうとして。 「まさか夜子さんが、暴力的手段に訴えるとは。これも、恨みが募った結果でしょうか?」 「なっ……」  そのまま妃が、馬乗りになって、あたしを地面に押さえつけた。 「恨んで恨んで恨んで――とは言いながら」  妃の瞳が、あたしを見下ろす。  逃れられないことを否応なしに思い知らされたあたしは、気持ちでも、追い詰められていたのかもしれない。 「本当は、瑠璃のことが大好きなくせに」 「――ッ!!!!???」  あたし以上に、冷ややかな声。  あたし以上に、見下した瞳で、妃は吐き捨てた。 「好きで好きで、たまらないくせに――それが伝えられないから、憎しみを語っているだけ。本当に、哀れなガキですね」  妃は、怒っていたのだろう。  あたしに対して、怒っていた。  だから、言葉尻も荒くなり、いつも以上に遠慮が少ない。 「だ、誰が、そんなことを」 「はあ? 今更何を惚けるというのですか。そんなことは、出会った時から明らかだったくせに」  妃は、特に力を入れておらず。  しかし、それでもそこから逃れることができないでいた。  妃に全てを制圧され、心が折れてしまったのか。 「何でもかんでも、色恋沙汰に絡めないでくれるかしら!! あたしはただ、もううんざりしているだけで――」 「だから、夜子さんは瑠璃と対峙しなければいけません」  あたしの言葉を無視して、妃は宣告した。 「――夜子さんは、瑠璃に告白するべきです」 「っっっ!!!!!」  瞬間、たまらなく怒りが込み上げてきた。  制圧され、心折られたような気がしていたけれど、それは全くの逆。  「だから、瑠璃のことは大嫌いって言ってるでしょう!!!??」  ――ぱしん、と。  馬乗りにされたまま、思いっきり、妃の頬を引っ叩く。  生まれて初めて、妃に暴力を振るったのだ。 「――っ」  思わず表情を険しくしたが、それでも瞳の力強さは枯れやしない。  むしろ、あたしの平手打ちが、妃の心をさらに燃え上がらせたようにも見えた。 「どうしてあんな木偶の坊に、告白なんかしなきゃいけないのよ!! ありえないわ、本当にあえりえない!!」  妃の顔を正面から見上げながら、大声で叫ぶ。 「どうしてそんな発想が出てくるのかしら?? 頭、おかしいんじゃないの?? あいつの何処に、好きになる要素があるのよ!」  それは、今までずっと口にしてきたこと。  妃だって、わかっていないはずがないだろうに。  しかし、妃は全く意に介していない。 「そうやって、強い言葉で拒絶する。まさしく夜子さんらしい言葉なのですが」  あたしを上から、睨みつけ。  あたしの怒りに、怯える様子もなく。 「今の夜子さんは、失恋するのが怖いだけの、単なる子供にしか見えませんよ」 「なっ――!!?」 「告白して、想いを伝えて、振られるのが怖いのです。強い言葉は、怯えの何よりの証明。気持ちを曝け出して、報われないのが怖いんですよ」 「――――――――――――っ!!!」  心臓が、止まったような気がした。  ダメだ、いけない。  何か、喋らないと。 「どうして、そんなことが妃にわかるのよ! 妃はあたしじゃないんだから、勝手にあたしの気持ちを決めないでっ!」 「同じ、二番手にしかなれないから」  そこで妃は、初めて悲しそうな表情を見せる。 「二番手に留まることしか出来なくて――私も、怖かったから。その気持ちは、痛いほどわかります」  二番手。  妃はいつも、瑠璃を見つめていて。  その隣には、かなたがいた。 「振られるという気持ちは、本当に怖い。他人に大切なモノを奪われるというのは、心底憎らしいです」  憎悪。  妃も、そういう感情を覚えたことが、あったのだろうか。 「そ、そんなの、あたしは、知らない」  そこで認めたら、駄目なんだ。  あたしはきっと、駄目になるから。 「あたしはただ、幸せそうにする奴らが憎いだけよ! だから、だから、だから――」 「しかし、あなたが空想に求めるのも、瑠璃なのでしょう?」 「――っ」  それは。  それは、今、目をそらし続けてきた矛盾。 「大嫌いと言いながら、これから次なる物語はどういうものが開かれるのでしょうね。それは、夜子さんにとって都合の良い世界ではないのでしょうか?」  あたしにとって、都合の良い世界とは。 「何も失われない、何も奪われない、常に大切な人がそばに居てくれる――瑠璃を、独り占めできる世界です」 「…………そんなの、あたしは、別に」  憎しみに、身を委ね。  かなたと瑠璃の恋模様を、妬み。  その感情が紡ぐ物語は、何?  あたしの欲望を汲み取って生まれた、魔法使いクリソベリルが、果たしたかった願いとは?  いつだってあの魔法使いは、あたしに自分勝手な物語を語らせようとしていただろう。 「瑠璃と縁を切った、あの優しい世界を語ってみたけれど、結局納得できなくて。今、私が出てこなければ、夜子さんはどういう物語を描いたのですか」 「……う、うううっ」  だけど、それは。  口に出せるようなものでは、ない。  誰かの前で、口にして。  そんな怖くて恥ずかしいことを、出来るはずがない。 「し、知らないわよぉ! あたしがどんな物語を求めてるかなんて、知らないっ!! わかんないよぉ!!」 「――嘘です。知らないはずが、ありません。何が欲しいのかなんて、それはもう明白なのですから」  日向かなたを、サファイアに囚えさせたのは何故。  それは、瑠璃と結ばれることが、妬ましかったからではないのか。  あのときから、あたしは何かを求め続けていて――そこに、目をそらし続けてきて。 「認めないわッ!! 認めたく、ない。だって、だって、だって――」  それは、とても恥ずかしいことだから。  それは、とても恐ろしいことだから。  言葉になんか、絶対したくない。  物語に、代わりに語って欲しいくらい。 「――だから、瑠璃に告白するべきなのです」  逃げ出したあたしを、妃は逃がさない。 「怖くても、恐ろしくても、そうしなければ始まりません。物語ではなく、夜子さん自身が語らなければいけないことですよ」 「嫌、嫌ぁっ、嫌よぉっ!!? どうしてそんなことをしなくちゃいけないの。どうして怖いことをしなくちゃいけないの!?」 「その気持ちに、嘘をついてはいけないからです」  泣き叫ぶあたしへ、妃は繰り返す。 「自分自身を、裏切ってはいけないからですよ」  その眼に涙はなく。  ただ、底知れぬ豪胆さが秘められていた。 「怖いと思うことは、当たり前です。振られるなんて、恐ろしいに決まっているのですから。だけどそれを乗り越えなければいけないのですよ」  それが、恋愛なんだと、妃は付け加えた。 「嫌よ、絶対に、出来ないわ。怖いし、辛いし、苦しいし――それにもし、告白できたとして」  そのシーンを、想像してみたとして。 「瑠璃には、かなたがいる。振られるに、決まってるから」  仮に、妃の言う通りだったとしたって。  万が一、億が一、あたしがアレのことを特別だと思っていたとして。  その告白に、未来なんて一切ないじゃないか。  何も、始まらない。  恋が、終わるだけ。 「それでも、告白するべきです」  頑なに、妃は言う。  一歩も譲らない決意を感じて、恐ろしささえ感じ始めていた。 「妃は……」  すっかり、打ちのめされながら。 「妃は、あたしに……振られろって、言いたいの?」 「その通りです」  妃は、即答した。 「はっきりと、振られてしまってください。完膚なきまでに、敗北してください。それでこそ、意味がある」 「そ、そんなの絶対に嫌よっ! 出来るはずがないわ……!」  瞳に涙を溜めながら、あたしは懸命に訴える。 「き、妃はあたしに、そんな残酷なことを求めているの? あたしに、そういう残酷な気持ちを味あわせたいというのかしら!?」 「その通りです」  妃は、即答した。  先ほどと同じような口調で、はっきりと言った。 「そんな……っ!」  大好きな親友から、突きつけられたのは死刑宣告。  谷底から突き落とされたような気分に、襲われてしまっていた。 「そもそも、夜子さんは勘違いをしているのですよ。恋愛というものは、清らかで、瑞々しくて、優しい物などでは、断じてありません」  更に、妃はあたしを追い詰める。 「それはとても、人間の根源的な感情。故に、罪深く、凄惨で、複雑な、最も厄介な代物です」  わなわなと、身体が震えていた。  妃の言葉があたしに退路を奪い去り、心を追い詰めていく。 「それでも、あたしは……」  無理に、決まっている。  無理なのだ。無理なのだ。  無理無理無理、無理なのよ。 「私の恋愛だって、真っ当なものではありませんでしたよ。語りようによっては美談かもしれませんが、しかし、心はぐちゃぐちゃです」  妃の恋模様。  瑠璃との、つかの間の恋愛。 「かなたさんの存在が忘れられ、一時でも私は一番手になることが出来ました。それはとても幸せなことで――だから」  だから? 「ずっと、かなたさんが帰ってこなかったら良かったのに。今の私は、心からそう思っていますよ?」 「……え?」  しかし、それは。  それはとても、恐ろしい感情の吐露だった。 「恋愛なんて、そういうものなのですよ。利己的で、憎々しくて、黒々しくて、本当にどうしようもないものなのです。そのことを、あなたは理解するべきです」  恋愛は、泥だらけ。  おぞましくて、怖いもの。 「……だけど、小説の恋愛は、とても、素敵で、魅力的だった……」  煌めくような恋物語は、こんなにも恐ろしいはずがなく。  だから、あたしみたいな憎悪にまみれている女の子に、叶うはずのないものなのだ。 「だからこそ、です」  それでも、妃は優しく言った。 「残酷で、恐ろしいものだからこそ」 「その中で煌めく何かが愛おしくて、人は恋をすることを忘れないのです」  煌めく何か。  愛おしい、感情。 「辛くて、厳しくて、恐ろしいからこそ――それを乗り越えた先に、真の幸せがあるのです」  それは、きっと。  空想の物語では、手にすることの出来ないものなのだろう。 「本が、物語を描くのではありません。人が、物語を描くのです」  それは、当たり前の事実。  活字を選ぶのは、あたしたち自身なのだから。 「……妃は」  思い知らされて、それでもまだ渋るあたしは。  最後の言葉を、妃に向けた。 「妃は、あたしが傷付いても構わないの?」 「構いません」  即答した。 「妃は、あたしが振られてしまって、二度と立ち直れなくなってもいいの?」 「構いません」  即答して。 「その場で停滞するより、ずっとずっとマシですから」  迷いのない、言葉だった。 「傷付いて、泣き叫んで、立ち直れなくて、心が折れて、閉じこもって、もう、笑えなくなっても?」 「構いません」  即答して、それから。 「そこで怯えて進めないようなら、いっそのこと、踏み出して傷付いて、そして――」  恐ろしい言葉を口にした。 「恋に敗れて、死んでしまえ」  がくり、と。  全身の力が、抜けてしまった。  もう、抵抗する気も否定する気も沸かなくて、ただ妃の言葉を受け入れる。 「あたしの親友は、鬼だわ。鬼じゃなかったら、悪魔よ」  もう、笑うことしか出来なくて。 「魔法使いなんかよりも、ずっとずっと恐ろしいわね」  それが、多分。  白旗の言葉だったのだろう。 「大丈夫ですよ。それでも夜子さんは、強くなれると信じていますから」  いつものように、笑って見せて。 「痛みをこらえて、前に進むのです。それが、私には出来なかった、恋物語の描き方」  もう、何も言えなくなってしまったあたしへ。  最愛の親友は、最後の言葉をくれた。 「こうして少女は、大人になっていくのですね」  優しく、包まれるように抱きしめて。  あたしに、前に進む勇気を与えてくれた。 「――余計なことを!」  金緑石の煌めきが、視界の端に触れる。  銀ナイフの輝きが、ラピスラズリを切り裂いた。 「やっぱり妃ちゃんは、妾の天敵よ!」  この妃は、ラピスラズリの生み出した空想。  そうして、今度こそ、今度こそ、妃にサヨナラしなければいけなくて。 「大丈夫、もう、あたしは痛みを恐れない」  蛍色の輝きが、力をくれるから。 「――さあ、恋物語の続きを語りましょうか」   妃が、消えて。  意識が、現実に戻って。  周りを見渡すと、瑠璃と、かなたと、クリソベリルがいた。   『ラピスラズリの幻想図書館』は、魔法使いの手によって引き裂かれている。 「月社妃の言葉に、惑わされなくていいの」  焦りが、浮かんでいる。  必死に、懸命に、魔法使いは訴える。 「夜子は、現実には幸せになれやしない。傷付いて、心が折れて、その先にある未来なんてなにもないわ」 「そんなはずが、あるかよ」  瑠璃が、反論した。 「妃が、夜子に何を伝えたかは知らねえが、本がなくなったって、妃が消えたって、変わるものか」 「黙れ、紙の上の傀儡がっ!!」  恨み、妬み、嫉みが、魔法の本の根源と、クリソベリルは口にした。  だとしたら、紙の上の魔法使いそのものこそ、憎悪の象徴なのかもしれない。 「忘れないで、夜子」  尚も黙ったままのあたしへ、クリソベリルは訴える。 「今まで、現実に幸せはあったかしら? 生きていて良かったと、心から思えたことはある?」  問いかけて、追い詰めて、削ぎ殺す。 「それっぽいことはあったかもしれないけれど、それらは全て、紙の上の幻想。砂上の楼閣――崩れ去る運命なのよ」  今も、ここにいる瑠璃は生きてはいない。  ただ、現象としてそこにあるだけ。  紙の上の存在。 「現実は、生きにくく、辛いもの。だからこそ生きるために、全てを恨んで、憎んで、糧として――あなただけの幸福を語りなさい」  優しく、手を差し伸べる魔法使い。 「これからは、誰にも迫害されることなんて、ないわ」  目を閉じれば、思い返す。  白い髪を罵り、蔑み、赤い瞳をあざ笑い、見下したゴミのような連中。  お母さんにまで罵倒して、あたしたちを追いやったバカ連中。  想像するだけで、憎しみがこみ上げてくる。  思い出すだけで、腸が煮えくり返るのだ。  そうだ、これが憎しみというもの。  我慢できない、憎しみが、あたしの始まりで。 「瑠璃のお兄ちゃんが、かなたちゃんと恋人になる。それはとても、恐ろしいことだわ」  手を繋いで、仲睦まじく寄り添う二人。  羨ましい。羨ましい。羨ましい。  かなたが、羨ましくて――憎くて、憎くて、憎くて、ああ、もう、恨めしい。   ふつふつと沸き立つ感情は、遊行寺夜子の原点。 「その昔、かなたちゃんが告白するのを見て、何を思ったのかしら?」 「恨めしいと、思ったわ」  横から現れて、あたしの大切なものを掻っ攫われたような気がしたの。  ああ、今でも覚えている――教会の入り口から、彼女の告白劇を目撃して。  吐き気と、震えと、憎悪がこみ上げて――魔法の本が、応えてくれた。 「かなたちゃんがいなくなって、よかったわね」  そしてあたしは、憎悪の果てにつかの間の平穏を手に入れた。 「妃ちゃんが、瑠璃のお兄ちゃんと付き合ったと聞いた時は、どう思った?」  部屋に閉じこもって。  ふつふつと沸き立つ感情を抑えるのに、必死だった。  早く、諦めて。  早く、忘れろ。  失恋して欲しいと願うあたしの恨みが、クリソベリルを突き動かした。 「理央ちゃんをルールに縛りつけたのは、本当に闇子なのかしら?」  刻んだのは、お母さんだとしても。  それを願ったのは、あたし?  瑠璃と仲良くする理央が、許せなくて。  そういう自分が、もっともっと大嫌いだった。 「夜子は、憎しみにまみれているのね」  その通り。  あたしは、とても汚い人間よ。  被害者面をしておきながら、本当はほくそ笑む黒幕。  人畜無害に振る舞っておきながら、全ての現象の根源になってしまっている。  ああ、本当、大嫌い。  あたしは、あたしが一番大嫌い。  こんなにも惨めで、汚くて、悍ましい人間は、そうはいないだろう。 「本懐を遂げましょう。自分の気持ちに素直になって、欲望に突き進みなさい」  物語を、描こう。  魔法使いは、そう囁いた。 「――憎い」  唸るような声。 「そう、憎いの。憎しみを覚える感情は、間違ってはいないわ」  安心したように、クリソベリルは笑う。 「――憎い」  言葉にすると、憎しみが溢れだす。  抱えきれない感情をどこかにぶつけたくて、仕方がない。 「ぶつけましょう。思う存分、活字にして!」  思い通りの世界を浮かべて。  憎しみを感じることのない、あたしにとって都合の良い未来を手にするために。 「――夜子!」  瑠璃が、大きな声であたしを呼ぶ。  苦しくて、切なくて、辛くて――けれど、あたしは瑠璃を見た。  まっすぐと、力強いその視線。  眩しくて、煌めいていて、本当に―― 「あたしは、キミが、恨めしい」  ありったけの憎しみを、ぶつけよう。 「憎らしい、憎らしい、憎らしいの――おかしくなるほど、キミが、憎い」 「……そうよ」  頬を緩ませる、クリソべリル。 「忘れてはいけないわ! 夜子は憎しみを糧に生きてきた。その生き様はもう変えられないの!」 「その通りよ」  あたしは、肯定した。  心から、肯定した。 「夜子……!」  追いすがるように、瑠璃は目を細め。  瞬間、それまでの思い出が沸き上がってくる。  初めて、瑠璃と出会った日のこと。  喧嘩を続けながら、それでも時間が繰り返され、積み重ね、なんとなく、惹かれていたこと。  本土に行ってしまって、寂しかった記憶。  帰ってきてくれて、少しだけ、少しだけ、嬉しかった記憶。  楽しかった思い出が、宝石のように煌めいているのだ。 「煌めきが、失われていく」  このまま、きっと、瑠璃はかなたととも生きて。  あたしは、選んでもらえない……二番手。 「恨みを、思い出しなさいッ! 憎しみを、滾らせなさいッ! それが、魔法の本の担い手の、本領でしょう!」  大きな声で、叫び続けて。 「そうして恨み続けることでしか、夜子は幸せになれないのだから!」  瞳に、たくさんの涙を抱えながら。  じっと、瑠璃を見つめていた。 「あたしはきっと、恨み続けなければ生きていけない。誰かを憎んで、誰かを嫌って、そういう風に生きていくしかないのよ」  痛いほど、思い知ったから。  震えが、止まらなくて。  怯えが、止まらなくて。  弱い心が顔を出してしまっているけれど、それも自分だから、仕方がないの。  憎しみや、恨みは、受け止めて。 「あたしは、呪われた忌むべき少女なのだから」  明確な、憎悪。  込み上げる、殺意。 「憎しみが止まらない」  想いを、恨みに乗せて。 「あたしはキミを、殺したい」  全てに、別れを告げるように。 「――瑠璃のことを、殺したいほど愛してしまったの」  生まれて初めて、告白をした。  一世一代の、第一歩を踏み出した。 「他の誰かを呪ってしまうほど、大好きだった」 「瑠璃のことが大好きで、大好きで、仕方がなかった」 「ずっとずっと、傍にいて欲しい」 「かなたじゃなくて、妃じゃなくて、理央じゃなくて……あたしだけを、見て欲しい」 「その言葉が、言えなかった。その想いを、伝えられなかった。だから、あたしは、あたしは……っ!」  洪水のように、溢れ出る言葉。  一身に、瑠璃は聞いてくれていて。 「本に逃げて、本に頼って……本当に、ごめんなさい」  生まれて初めて、正直になろうと思ったんだ。  生涯初めての告白に、ちゃんと瑠璃は応えてくれる。  わかりきっている回答を、しかし、まっすぐ伝えてくれたんだ。 「ありがとう、夜子。とても、嬉しいよ」  好きな人に、想いを伝えて。  死にそうなくらいの恥ずかしさを我慢して。 「だけど、俺は夜子の気持ちには応えられない。かなたのことを、愛してしまったから」  そう。  それが、現実。  確かめるまでもなく、当たり前のもの。 「知ってるわ」  ああ、もう、痛いよぉ。  すっごく、すっごく、痛いなぁ。 「そういうキミに、あたしは恋をしたんだから」  到底抑えきれない感情が、溢れ出てくる。  想像を絶するような痛みが心を襲って、涙が止まらなかった。  本当に――妃は、酷い奴。  こんな残酷なことを、強要するんだから。 「振られるのが、怖かった」 「離れられるのが、怖かった」 「想いが敗れるのが、怖かった」 「好きって伝えるのが、怖かった」 「――好きという感情が、本当に、怖かったの」  だけど、全てが終わってしまったような気がしたけど。 「だけどあたしは、まだまだ瑠璃のことが大好きで。簡単には、諦められないから」  告白をして、それで全てが精算されるわけがないんだ。 「もう少しだけ、キミのことを好きなままでいてもいいかしら。もう少しだけ、好きなままでいさせて」  往生際が悪く。  しかし、あたしにしては、前向きな言葉だったと思う。 「その気持ちに、俺が応えることはないぞ」 「わかってる。それで、いい」  無理に諦めるよりも、その方が気持ちに整理がつくと思うから。  痛みに堪えるためには、相応の時間が必要なの。 「もう、大丈夫。もう、頑張れる」 「そん、な……!」  静かに、涙を湛えたままクリソベリルに振り向いた。  驚愕に満ちて、混乱している。 「どうして、夜子。憎しみを糧に、本を開くんじゃ……!」 「いらない。必要ない。あたしはもう、現実に生きるから」  はっきりと、伝えよう。  もう二度と、本に頼ることがないように。  この憎しみが、他の誰かに向けられないように。  憎悪にまみれた物語を、閉じなければいけないのでしょう。 「消えるのは、あなたよ――クリソべリル」  現実に、紙の上の物語は必要ない。  あるべきところへ、還りなさい。 「い、いやぁッ――!」  あたしがそれを求めた途端、手元に金緑石の輝きが放たれる。  『煌めきのアレキサンドライト』――これが、魔法使いの原点か。  あたしの願いを反映するのが魔法の本なら、消えるときも同じこと。 「止めてっ! いやぁ、消えたくないっ!」  動揺するクリソベリルは、普段の振る舞いとはかけ離れている様子。 「そんなことをしたら、夜子は絶対に後悔する! 妾なくして、絶対に幸せになれないわ!」 「……あたしの絶望から生まれたのなら、これから先、あなたが必要になることはない」  ここで消えておくべきなのよ、あなたは。  あたしの憎悪は、ここでおしまいよ。 「今は、大丈夫なつもりでも、いつか必ず本に頼る日が来るわ! 瑠璃のお兄ちゃんのことが諦めきれなくて、かなたちゃんを消したくなる日が来るから!」 「そんな日が訪れないために――あたしは今日、失恋したのよ」  二度と、瑠璃はあたしに思いを寄せてはくれないだろう。  それが思い知らされてしまったから、恨みを断ち切ることが出来る。 「それに、嫉妬も恨みも、構わないわ」  別に、不思議なことなんかじゃないから。  妃だって、あたしと同じような気持ちだったのだから。  恋愛というのは苦しくて、黒々しくて、恐ろしいもの。  嫉妬も、憎悪も、愛憎も――全て全て、恋愛なのだから。 「それが、現実に生きることなのでしょう」  この世に生きている人間が、平等に味わう苦しみ。  あたしだけが、逃げる訳にはいかないのよ。 「嫌っ、止めて、消さないでッ! 嫌、嫌、嫌ぁぁああっ!!」  泣きじゃくるクリソベリルに、慈悲を向けることはなく。  あたしは、魔法の本に手を伸ばした。 「妾はまだ、物語を語りたいの――!」  命乞いをして、心変わりを求めるクリソベリル。  誰かを廃するやりかたが、決して良いとは思わないけれど。 「――ごめんなさい。あたしはあたしの幸せのために、空想のない世界を望む」  自分勝手な世界を、語ろうとしていたでしょう?  あたしにとって、それは現実だから。 「さようなら、紙の上の魔法使いさん。あなたのおかげで、あたしは強くなれた」  最後まで、利己的に。  一人の魔法使いを見捨てることで、強くなろう。  最後まで、利己的に。  一人の魔法使いを見捨てることで、強くなろう。「いやあああああああああああああああああっ!!」」  びりびりびり、と。  魔法の本の断片が、宙に舞う。  金緑石の輝きが失われ、現実が訪れる。  長い長い物語の果てに、あたしがようやく得られたもの。  それは、激しい痛みを伴う、失恋だった。 「こうして少女は、大人になっていくのでしょう」  魔法の本の物語は、終りを迎えて。  そして、これからはあたし自身の物語が始まるのだ。 「見てて、妃。あたし、頑張るから」  今を生きて、幸せを探そう。  紙の上の物語は、手の平の上だけで十分なのだから。  後日談。  長く続いた物語の果てに、この幻想図書館での事件は決着を迎えた。  弱さを克服した夜子は、これまでのように魔法の本に願いを託すことはなくなるだろう。  それは、俺達の生活から、魔法の本自体が失われるということでもあった。 「…………」  魔法の本が、失われる。  その言葉を口にすると、少し心が不安になってしまったのは、俺自身が紙の上の存在であり、その存在を許しても良いのだろうかということだ。  妃は、そんな自分が許せないと口にして。  理央は、そんな自分が求められていると口にした。  なら、俺は? 「――俺は、ただ、生きたい」  その願いを胸に抱きながら、穏やかで静かな人生を歩もうと思う。  その傍らには――そう、いつだってかなたがいてくれるのだから。  二人だけの部室に響く音は、やたらに艶かしい喘ぎ声。 「んっ、あっ……!!」  その光景は、至福の一言に尽きる桃色。 「挿れます、よっ……!!」  寝そべる俺の上に、かなたは跨っていて。 「ひぐっ……!! やっ、んっ……入ってくるぅっ……!!」  ゆっくりと、腰を下ろし始めるのだ。 「ぐっ……!! 自分から誘ってきただけはあって、濡れ濡れだなっ!!」  二人きりの放課後。  今日は誰も来ないからと、かなたは静かに鍵を閉めて。 「――発情してしまいました」  そういって、俺を押し倒して求愛したのである。 「だっ、だってぇっ……!! 瑠璃さんを見つめていたら、胸がドキドキしてきてぇっ……!!」  咥え込んだ構図に、熱が滾る。 「一度、騎乗位というものを、してみたかったんですっ……! んっ、あはっ……! 瑠璃さんを征服したみたいで、楽しいですねっ……!」  余裕のない声の割に、視線は俺に絡みついていて。 「瑠璃さんが、気持ちよさそうにしているのが、よくわかりますっ……!」 「ぐっ……」  すべすべの手を、俺の胸に這わせながら。 「少し、待ってて下さいね……? すぐに、動いてあげますからっ……! んっ、んぁっ……!!」  鎖骨に触れながら、ゆっくりと腰を動かしていく。 「はぁっ! んっ、しょっ……!! 自分で動くのって……変な感じですねっ……!!」  上下、というよりも。 「こういうもの、ちょっぴり楽しいですっ……!!」  横の動きで、俺の陰茎を締め上げていく。  その刺激は、通常のストロークとは少し違った快感を生み出して、呻き声が出てしまう。 「くっ……かなた、それはっ……!」 「それは気持ちよすぎて、まずいですかぁ? あははっ、それならもっともっと、動いて差し上げますっ……!!」  発情したかなたは、行為そのものを全力で楽しみ始める。 「んっ……ここっ……気持ち、いいですっ!! もっと、もっと、あはっ……!!」  自ら気持ちいいポイントを探しながら、腰をくねらせて。 「ふふっ、何だか瑠璃さん、可愛らしいですねっ……!」 「くっ、そっ……!」  このままでは、限界がすぐに来てしまうと予感して。 「主導権は、俺がっ……!!」  腰の動きに逆らうように、小さく突き上げてみた。 「ひゃぁんっ!! だ、駄目ですよ、今は私が楽しんでいるのにっ……!」 「そんなこといわれても、我慢できないんだよ」 「んっ、やぁっ……!! もう、瑠璃さんったらぁっ……!」  少し頬をふくらませながら、しかしかなたは負けなかった。 「動いたって、無駄ですからっ! ん、あんっ……!! 私だって、私だってっ……!!」  俺の動きに合わせるように、深く腰を振る。  「ん、ぁっ……! それ、やばいってっ……!」  想像以上の刺激が脳に駆け巡り、思わず腰が止まってしまう。 「あはっ、止まっちゃって、いいんですか?」  その隙を、かなたは見逃さない。 「瑠璃さんの精液、全部絞りとっちゃいますよー? あははっ!」  重心を、俺の胸に預けながら。  これみよがしに、腰をグラインドさせていく。 「あんっ! やんっ! これ、いいのぉっ!! 瑠璃さんは、いかがですかっ……?」  目の前で、淫らに乱れる俺の彼女。 「んっ、はぁんっ!! もっともっと、気持よくさせてあげますからぁっ!!」  全身全霊の騎乗位は、想像を絶する快楽を伴っていた。 「ぁっ、駄目だって、本当にっ……!!」  逃れることは、出来ない。 「大丈夫ですよっ!! 気持ちいいのは、私も同じですからぁっ!! んっ、しょっ!!」  汗と汗が、絡み合い。  どうしようもなく、淫靡な音が奏でられ。 「はぁんっ――!! ん、くぅっ!! 素敵、ですっ! 素敵な、刺激ですっ!!」  嬌声を上げるかなたは、とても、とても、エロかった。 「瑠璃さんのが、ごりごりっ、してるぅっ……!! もっともっと、感じたいですっ……!!」  とろけるような表情は、快楽に溺れていて。 「はぁっ!! んっ! やぁっ!! こんなんじゃ、すぐにイっちゃいますっ!!」  絡みあう喘ぎ声は、部屋中にこだましていた。 「苦しそうな瑠璃さんは、可愛らしいですねっ……!! 我慢しなくても、いいんですよぉっ?」 「そんなこと、言ったって」  負けてたまるかと、男のプライドが食いしばる。 「イきたそうに、震えていますっ……!! あんっ、やぁっ!! 切なそうに、出したがっていますよぉっ!!」  咥え込まれた性器の全てを、かなたは把握していて。 「限界が、近いんですよねっ……だったら、思いっきり果てちゃってくださいっ……!!」  腰の動きを、更に激しくさせて。  暴力的な快楽に、突き落とそうとしてくれる。 「んぁっ!! んっ、くぁっ!! ふぁっ、んっ、んんっ……!! 気持ち、いいのっ……とっても、いいのっ……!!」  そして、強烈な射精感に襲われた俺は。 「駄目だっ、イくっ――!!」 「イってくださいっ!! 私の中で、思いっきりっ!! あんっ、あんっ、やぁんっ!!」 「う、ぁ――」  どくん、と。  下半身から、欲望が決壊して。 「やぁっ――ふぁああああああああああああああああああああああっっっ!!!!」  かなたの絶叫とともに、多量の精液を吐き出していく。  一度、二度、三度。  吐き出しきれない白濁液は、数回に分けて飛び出して。 「ぅ、ぁっ……出てる……瑠璃さんのが、いっぱい……たくさん……」  指を、俺の顎に触れさせて。 「中に、出しちゃいましたね。いけないんだ」  甘く、扇情的な囁きに、理性までもが狂わされてしまう。 「かなた……俺、まだっ」 「ふふふっ、欲張りさんですねえ」  ゆっくりと、笑いながら。 「今度は、瑠璃さんが動いて下さいね? 私、少し疲れてしまいましたので」 「ああ、わかったよ」  果てた余韻が、冷めやらぬ中。  今度は正常位に位置どって、二回戦をおっぱじめようか。 「ははっ、精液でぐちゃぐちゃだなっ」 「瑠璃さんのせいですよぉ……」  全てをさらけ出したかなたの局部へ、亀頭をあてがって。 「行くぞっ」 「はいっ……!! んっ、ぁっ……!!」  ずぶずぶと、俺のモノは飲み込まれていく。  二度目だからか、先ほどの熱を遺したまま、滾っている。 「すっごいっ、敏感ですっ……!! 挿れられただけで、おかしくなっちゃいそうですっ……!!」 「俺も、だ……!」  かなたの膣内は、うねりを上げて射精を促してくる。  あれでは足りないと、乾いた欲望に忠実だ。 「かなたは、本当にエロい身体をしているな」 「瑠璃さんを求めて、しかたがないんですよっ……!!」  指を絡めて、唇を求めるかなた。 「ん、ちゅっ、はむっ、んっ……ちゅうっ……!!」  挿入したままのディープキスは、いつもより舌の動きを活発にさせる。 「んっ、んんっ!! やらっ、うごいてっ……!!」  舌を絡めながら、ゆっくりと腰を動かし始めて。 「ふぁっ……!! ん、ちゅっ……!! はぁっ、はあっ、る、瑠璃さんっ……!!」 「もっとだ」  もっともっと、愛情を絡め合わせたくて。  腰の動きに合わせながら、かなたの舌を追いかける。 「ひゃぁっ……! ん、ちゅっ……れろっ……じゅるっ! ん、くぁっ……!!」  上と下の同時の刺激は、俺にとっても、かなたにとっても激しい物。 「ん、はぁっ――! やぁっ、そんなに、激しく愛されたらぁ……すぐに、イっちゃうじゃないですかぁっ……!!」  責めるような言葉は、快感の裏返しでもあり。 「まだまだいっぱい、気持よくしてもらわなきゃいけないのにっ……!」 「いい感じで、発情しちゃってるな」 「瑠璃さんがぁっ……! 私を、発情させたのですよっ……!!」  ねだるような声は、激しさを求めていて。 「やっぱりっ……自分で動くのもいいですけどっ……こうして、正面から愛してもらえるのが、一番かもっ……!!」  これが、いいと。  最愛の姿勢を、教えてくれる。 「この態勢なら、喘ぐかなたの表情がよく見える」 「んっ、やぁっ、瑠璃さんこそ、快感を堪えている表情がよく見えますっ……!」  挟み込んだ足は、俺を囚えて離さない。 「近くてっ、近くてっ……これ、好きぃっ――! 瑠璃さん、大好きですっ……!!」 「俺も、大好きだよ!」  愛情込めて、一突き。 「やんっ!! ん、あぁぁっ!! すごっ、ひぃっ……!! これ、いいっ……!!」  愛情込めて、二突き。 「ひうぅんっ!! おくっ、深くてっ、凄ひっ……のぉっ……!!!」  抜けるまで引いて、突き刺す三度目。 「はぁんっ――!! 頭までっ、気持ちいのが、来ちゃってますぅっ……!!」  喘ぎ狂うほど、感じるかなた。  それでも乾きは、満たされない。 「もっともっとっ、瑠璃さんを感じさせてくださいっ……! 私を、満たしてっ……!」 「ああ、もちろんだよっ!!」 「やっ、んぁっ!! ふぁっ、ぁっ、んぁっ――!!」  導かれるように、俺たちは上り詰めていく。  「やだっ、やだっ、もう、イっちゃうっ……!! もっともっと、したいのにっ……!」  我慢できなくて、かなたは限界を口にする。 「やぁっ、一人で先には、イきたくないですっ……!! 瑠璃さん、いっしょにっ……!!」 「ああ、俺ももう、限界だ!」  ラストスパートだ。 「ふぁっ、んぁっ……!! いいのっ、良すぎてっ……! 白く、なって、イっちゃうのっ……!!」 「ぐぅっ――!!」  ぎゅっと、かなたの膣内が収縮する。  「ぁっ、やぁっ、あんっ! やぁん!! ああぁっ!! ふぁああっ――!!」 「だ、出すぞっ……!」 「はひっ、きて、くらさいっ――!」  頭が白く、瞬いて。 「やっ――あっ、ふぁああああああああああああんんっっ!!!!」  盛大に、そして、激しくイき散らかす。 「あんっ……! あっ、ああっ……!」  何度か、痙攣するように肩を震わせるかなた。  二度目の射精も、中へと吐き出してしまって。 「ん、ぁぁあ……っ、激しくて、凄くてっ……」  俺に抱かれたまま、かなたはそっと呟いた。 「最高の、えっちでした……」  その言葉に、俺は微笑んで。 「んっ……ちゅっ……」  名残惜しむかのように、優しいキスをした。 「ふぁぁっ……とても、とても、幸せです。私を愛してくれて、ありがとうございますっ!」  愛情を確認し合えることの喜びを噛み締めて、今日も俺たちは幸せを自覚する。  クリソベリルは、夜子に存在を否定されてしまい、完全に消滅してしまったらしい。  あの日以降、誰の前にも姿を見せず、紙の上から退場してしまったのだ。 「紙の上の魔法使いといいますが、その根源は夜子さんの欲求によるものだと聞いています」  肩を並べながら、かなたは言う。 「その夜子さんが弱さを克服したことで、彼女の存在意義も失せてしまったのでしょうね」  引き篭もり少女は、もういない。  弱さを認めた上で、抗う生き様を選んだのだから。 「俺は、役立たずだったな」  思い返せば、そう。 「最後の最後で、あいつの力になることが出来なかった」  かなたや、妃に助けられ、夜子は自分の力で前に進んだ。  そこに俺は、居合わせただけ。 「何を言っていますか。瑠璃さんが瑠璃さんだったからこそ、ここまでこれたんですよ」  力強く、かなたは言う。 「何事にも動じず、自分を見失わないまま、そこにいてくれて。ずっとずっと、物語に立ち向かっていたからこそ、このような結末を迎えられました」 「あの場面で、瑠璃さんが出来る事なんて何もありません。夜子さんの決断を、見守ることだけですから」 「……そうかもな」  かなたの言う通りか。 「その意味で言えば、この物語の主人公は、夜子以外に他ならなかったんだろうな」  最後まで、中心に居続けて。  最後に、決断を迫られた。  「俺はただ、それを見守っていただけ。語り部みたいなものなのかな」  俺が主人公だなんて、片腹痛いにもほどがあるけれど。 「そしてこれからも、夜子さんの物語は続きます。広がった世界の中で、あの方がどのような物語を紡いでくのか、私はとても楽しみですよ」  これからの、夜子の物語。  それは、幾重にも連なる可能性を秘めた、希望の物語だろう。 「逃した魚は、思いの外大きかったかもしれませんよ?」 「つまらない冗談を言うなよ。そんなこと、思っていないくせに」  例え、夜子がどんなに魅力的な人間になろうとも。 「あんたは、俺にとっての一番の特別でいてくれるんだろう?」  いつまでも、隣で輝いて。  自分を磨くことも忘れずに、愛を忘れない。 「――はい! もちろんです!」  絡みあう手と手。  お互いの存在を貪り合うように、しっかりと交わって。 「もうすっかり、瑠璃さんは私にめろめろですからね!」 「かなたこそ、俺のことが大好きでしかたがないんだろう?」 「当然じゃないですかー!」  ぴたり、と。  足を止めて、かなたは俺を見つめた。 「本当に本当に、大好きなんですから」  明るめの調子が、少し隠れて。  色っぽい表情で、かなたは俺を誘う。 「好きだよ、かなた」  優しく、撫でるような言葉をささやいて。 「――んっ」  唇と唇と、触れさせた。  「ん、あっ……!」  相手のことを、誰よりも愛おしく。  優しさと慈しみを混ぜこぜにして、割れ物を扱うような力加減。 「はむっ……ん、ちゅ……」  色っぽさ、は当然に感じられるが。  それ以上に、幸せを噛み締めながら、かなたとのキスを行った。 「……瑠璃さんは」  喘ぐように、かなたは言う。 「キスが、お上手ですね」 「好きな女の子が相手だと、頑張っちゃうんだよ」  蕩けるような表情が、とても、とても、印象的だった。 「ふふふっ、ふふふふふっ」  幸せそうな微笑みに、癒やされながら。 「いつまでもいつまでも、あなたの愛情を注いであげて下さいね」 「もちろんだ」  物語は終わっても、愛は紡がれる。  見える未来に希望を抱きながら、足取りも軽い。  帰るべき場所。  俺達の居場所は、いつだってこの幻想図書館である。  この場所が、大好きで。  この場所を知ってから、俺はとても幸せな人生だったと思う。 「変わり始めていく、私たちの日常」  隣で、かなたが笑っていた。 「これからが、とても楽しみですね」 「ああ、そうだな」  幻想図書館の前には、一人の少女がいた。  お人形のような出で立ちの、白髪赤目の美少女。  優雅に髪を靡かせながら、太陽の光を浴びていた。  月ではなく。  夜ではなく。  まだ日の明るい、賑やかな時間に。 「――あら、おかえりなさい」  俺とかなたに気付いた少女は、嬉しそうにはにかんだ。  珍しく。  珍しく――少女は外に世界にいた。  書斎ではない。  陽の当たる場所だ。  そのことが、その変化が、たまらなく嬉しくて、 誰かから強要されたわけでもなく、ただ、自分の意志で外に出てきた夜子を見つめながら。 「今日は、いい天気だな」 「ええ、そうね。とても読書日和だわ」  それでも出てくるのは、小説の話題。  だけどそれは、変わらなくていい部分だ。 「こんな日は、どういう小説がいいんだろうな」  少女と向き合いながら、そんなことを問いかけてみる。 「現実という、当たり前の物語なんていかがかしら」 「それはいいな。とても、面白そうな物語だよ」  同時に、笑い合って。  そうして夜子は、歩を進めた。 「何処へ行くんだよ」 「お散歩よ」  振り返りながら、笑って。 「知らなかったの? あたし、歩くという行為がとっても好きなのよ」 「それは……知らなかったな」  夜が好きなんだと、思っていたよ。 「当たり前よ。だって、好きになったのは最近だもの」  ご機嫌に、頬を緩ませて。 「これからもっと、好きなものが出来るのでしょう。色々なものを見て、知って、触れて――好きが増えていく。今から、それが楽しみね」  開かれた世界に、夜子は生きていく。  活字だけではなく、たくさんのものと歩いて行く。 「あたしを振ったことを、後悔させてあげるんだから」  悲しみは、微塵も見せず。 「ああ、その意気だ」  どころか、とても充実したように、夜子は笑っていた。 「それでこそ、遊行寺夜子だよ」  何も言わず、歩いて行く夜子の背中を見守りながら、温かい感情に包まれていた。  今の夜子は眩しくて、輝かしくて、宝石のように煌めいている。  足取りは、ご機嫌。  声は、弾み。  光指す方向へ、突き進んでいく。  夜子が主人公で、俺が語り部だという話をしてみたけれど。  それならこういうとき、どういう言葉を持って締めるのが良いのだろう。  「ああ、そうか」  お決まりの文句が、あるじゃないか。  それを口にして、俺達の物語に終止符を打とう。  幾重にも重なるページを経て、辿り着いた結末。  恋は破れ、離れ、実を結び――それでも、懸命に生きた末の到達点だ。  夜子が、振り返る。  まるで、俺の言葉を先読みしていたかのように、唇を開く。  遠くて、遠くて。  小さくて、小さくて。  本来ならば、明確に聞こえるような距離ではなかったのだが。   可愛らしい、声がした。  きっとそれが、物語の幕を下ろすには、ふさわしい言葉なのだろう。 「めでたし、めでたし」  噛みしめるような言葉とともに、これからの未来は燦々と輝きを放っていく。  宝石のように煌めく未来を想像すると、その幸せに笑顔が我慢できなかった。  *** おしまい ***  世界は一瞬、停止したように感じてしまった。  理解の遥か上を通り過ぎる夜子の選択が、妾の思考を置き去りにしたのだ。  憎い。  その言葉に、嘘はないはずだ。  憎い。  その言葉こそ、夜子の原点だったはずなのに。 『消えるのはお前よ――クリソベリル』  その言葉を持って、魔法の本の存在を拒絶して。  夜子の手元に『煌めきのアレキサンドライト』が輝いた瞬間、自分自身の敗北を悟った。  夜子は、現実に幸せになれる可能性を見つけてしまった。  恋を叶えることなく、空想に甘えることなく、生きる力を見出したのだ。  憎しみを、乗り越えて。  全てを内包した複雑な感情を受け入れながら、憎しみを許してしまって。 「う、あ――」  夜子が、妾の本を破ろうとして。  そのとき、妾は惨めにも泣き叫んでいただろう。  消えることが、怖くて。  拒絶されることが、嫌で。  それは、いつかの忌まわしき過去を思い出させてしまうから。 「ああああああああっ!」  現実の向こう側に見える光景。  目の前の夜子ではなく、その先にある数多の可能性の欠片たち。  妾が物語を紡ごうとして――失敗した未来像が、見えたような気がした。  それは、夜子が幸せになれなかった結末たち。  『ローズクォーツの終末輪廻』  四條瑠璃が、夜子ではなく伏見理央を選んだ結末。  それはどうしようもなく刹那的な快楽で、どうしようもなく無意味な結末だった。  紙の上の存在である理央ちゃんが、同じく紙の上の存在である瑠璃のお兄ちゃんと結ばれるはずがなく。  夜子の憎しみが、理央ちゃんの記憶の欠落を推し進めてしまうことは明らかなのだ。  理央ちゃんの記憶は、妾の手によって破り捨てられていく。  毎日のように繰り返される喪失の輪廻は、まさしく終焉を約束された物語のようなもの。  他人を犠牲にして、自らの憎しみを果たしていく。  あの物語の結末の夜子は、やっぱり不幸せだったのでしょう。   『フローライトの怠惰現象』  四條瑠璃が、月社妃と心中する覚悟を決めた結末。  それはどうしようもなく悲劇的で、どうしようもなく最悪な結末だった。  すべてを失った夜子が、それから幸せになれるはずもなく。  心中したことを知った夜子は、永劫不幸で在り続けてしまうのだろう。  用意された命令群に抗うと決めた彼らは、迷うことなく行動する。  魔法の本の悲劇が、二人の兄妹を殺してしまって。  妾の知る限り、あの結末が最も最悪なエンディングだったのでしょう。  『ファントムクリスタルの極乱反射』  四條瑠璃が、ホワイトパールの幻想を受け入れて、夜子の束の間の夢を見た結末。  真実を知ることのないまま、本を閉ざしてしまって。  夜子と過ごした甘い時間を、偽って。  本当は、夜子との関係なんて何もなかったのに、ホワイトパールの過去は瑠璃のお兄ちゃんの罪悪感を刺激する。  用意された空想の中で、慎まやかに恋を育む二人は、きっと幸せだったと思うのに。  乱れ輝く宝石が、それでもくすんで見えたのは何故?  そのときの夜子よりも、どうして決意を固めた今の夜子の方が、充実しているように見えるのでしょう。  結末のどれもが、夜子にとって不都合の嵐。  唯一マシな結末も、空想に甘えることでしか辿りつけない仮初めの幸福だ。  そういう可能性、そういう未来しか見えなかったから、妾はこうまで振る舞っていたというのに。  妾の知らないところで、夜子は自分で未来を形作っていく。  その先に、その赤目の見据える先に、貴女は何を見たのかしら。  そこに、幸せの在り方が見えたの?  ――そうなのでしょうね。  そうでなければ、こうはなっていなかったでしょうから。  失恋しても尚、夜子は力強く生きている。  ちゃんと、幸せになれる未来があって――それは、現在の妾の存在理由を否定してしまっていた。 「……結局、貴女は妾と違うということ」  極めて冷静に、思い知ってしまった。  夜子が妾を切り捨てようとする瞬間、泣き叫んで吐いたけれど。  心の中は氷点下のように冷えきっていて、全てを悟ってしまっていた。 「それなら、それで、いい」  信じたくなかった。  妾と同じように生まれた夜子が、妾と違う風に生きていけたという事実を、認めたくなかったから。 「妾も、受け入れてあげるから」  自分が不要だと、受け入れてあげるから。 「せめて、無慈悲に破り捨てなさい」  幻想図書館の敵である、クリソベリルを消し去って。  それで障害を乗り越えて、夜子が強くなれるというのなら、受け入れましょう。  どのみち、妾はそういう存在。  他人から疎まれ、憎まれ、蔑まれて生きる腐れ魔法使い。  誰かが呪いを掛けたくなった時に、また現れましょう。  そのときは盛大に、呪ってやるんだから。 「――さようなら」  そこで妾の意識は、破れて消えた。  もう、呪いは語られない。  そして、物語は終息を迎えた。  それまでの煌めきが嘘のように、幻想図書館は元の姿を取り戻す。  弱さを克服した夜子は、これまでのように魔法の本に願いを託すことはなくなるだろう。  ただ、夜子は選択の果てに、全てを手放し、切り捨てるという行為を取らなかった。 「……やれやれ」  ソファーに眠る、一人の少女。  物語の影の中心人物は、意識を失ったまま眠りについていた。 「寝顔まで、夜子に似てるんだな」  紙の上の魔法使い、クリソベリル。  憎しみを受け入れた夜子は、少女の存在を許してしまったのである。 「……何よ、しかたがないでしょう」  眠るクリソベリルの隣で、夜子は頬をふくらませていた。 「魔法の本を望んだのは、他ならぬあたしなの。それを切り捨てるなんて勝手なこと、出来ないわ」 「お前がそれがいいっていうなら、反論はしないよ」  クリソベリルがいてもいなくても。  もう、夜子は迷わないだろうから。 「それに、この本が……」  夜子が魔法の本からの脱却を決意した瞬間、現れた魔法の本。  『煌めきのアレキサンドライト』と銘打たれたそれは、紛れも無くクリソベリルの物語。  夜子はそれを、今も抱きしめ続けていた。 「……んっ」 「お、目覚めたか?」  苦しそうに表情を歪めたクリソベリルは、ゆっくりと瞼を開ける。 「………………え?」  鈍い思考。  戸惑う現実。  何故自分がこうしているのか、全く理解出来ていないようだった。 「ど、どうして妾は……ここにいるの」  あの瞬間、破れて消えたはずなのに、と。  未だ、驚きに満ちていて。 「あなたに何もかもを押し付けて、悪者呼ばわりしたくなかったから」  短く、夜子は答えた。 「邪魔者を切り捨てて終わりだなんて、納得できなかったの。だから、魔法の本はまだここにあるわ」  すっと示した『煌めきのアレキサンドライト』。  それを見たクリソベリルは、夜子の言葉の意味を理解する。 「は、はい?? 夜子は気でも狂ったのかしら? 妾が今まで、何をしてきたかわかってるの?」 「わかってるわ」  クリソベリルの瞳を見つめて、静かに頷いた。 「あたしの望みに応えて、魔法の本を開き続けた。わかってるの」  責任の所在の話をするのなら。  幻想図書館の物語に、明確な悪役というものはいないと思う。  誰もが誰かの為に生き、誰かの迷惑になってしまったかもしれないが。  それは、俺達の弱さが引き起こしたものでもあるのだ。 「魔法の本に触れた時、あなたの全てが伝わってきたの。もう、全部知ってるから」 「なっ……! で、でも、だからって!」  もちろん、だからといって無罪放免ということではない。  すべてを許すというわけではない。  ただ、誰かに責任を求めて、一方的に話を終わらせたくないだけなのだ。 「あたしの憎しみの根源があなたなら、あなたという存在を受け入れてこそ、あたしは強くなれると思うから」  クリソベリルの存在を許した上での光景を見たくなったのだろう。 「それが、あたしの最大限の幸せかなって」 「夜子……!」  そんな夜子の言葉は、これまででは考えられなかったものだろう。  成長の証、未来へ向かう意志の現れだ。  しかし、クリソベリルは。 「……貴女、馬鹿じゃないのぉ?」  冷ややかな笑みを浮かべながら、口を開く。 「いい子ちゃんぶったって、いいことなんてなにもないわよ? そうやって物分かりよく振る舞わず、もっと正直になりなさいな」  ぐっと、覗きこむように。 「本当は、憎しみを切り捨てられなかっただけじゃなくて? いつか、妾の力に頼りたくなったから、貴女は妾を遺したのよねぇ!」 「違う」 「違わないわ。でなければ、これからの夜子の邪魔になりうる存在を、残すわけがないもの」  邪魔、と。  クリソベリルはそういった。 「どうしてお前が邪魔なんだ?」 「ふふふ、瑠璃のお兄ちゃんは〈耄〉《もう》〈碌〉《ろく》しているのかしら? 平和ボケ? そんなの、決まっているでしょう!」  手を広げて、堂々と語る。 「瑠璃のお兄ちゃんは、妾を見てなんとも思わないの? 妃ちゃんが死ぬ原因――ひいては瑠璃のお兄ちゃんが死ぬ原因を作ったのは、妾なのよん?」 「…………」  それは、確かな事実だった。 「妾が何もしなければ、夜子が何も望まなければ、こうなることはなかった。その原因が二つ揃って、心穏やかではないでしょう?」  にやりと、笑って。 「すべての責任を妾に押し付けて、その原因を切り捨てた方がすっきりするんじゃなくて?」 「だから、言っているだろ」  もう、何度も言ってるはずだ。 「俺達が死んだ理由は、俺達の責任だ。確かに、そうなる要因をもたらしたのかもしれないが、選択は常に俺達の方にあったんだよ」  妃は、本を開くかどうかを自らの意志で選んだ。  そして、その物語の果てに、殉じることを選んだんだ。  その死の原因は、その死の理由は、やっぱり当人にあると思うんだ。 「もちろん、何も思っていないわけじゃないけどな」  聖人君子ではないのだから、それは当たり前。  だけれどそれを飲み込んだ上で、俺も夜子の選択を尊重しようと思うから。 「き、気が狂ってるわ……本当に、馬鹿じゃないの」 「馬鹿で結構よ。というわけで、あなたは今日からこの図書館の召使よ。あたしのために働きなさい」 「……は?」  クリソベリルの表情が、驚きに崩れる。 「あなたは、あたしのために存在しているのでしょう? だったら、存分にその力を活かしなさいよ。これは、魔法の本の担い手としての命令よ」 「な、何を勝手なことを言ってるのかしら!? よりにもよって、妾を召使いだって!」  憤慨するクリソベリル。 「あら、嫌なのかしら?」 「当たり前でしょう!! 当たり前! 妾は紙の上の魔法使い! 悲劇を語る、悪役よ?」 「いいえ、違うわ」  端的に、夜子は否定した。 「あなたは紙の上の魔法使いでも、悲劇を語る腐れ魔法使いでもない。ただの一人の女の子よ」 「……え」  ぐっと。  本を握る夜子の手が、強まった。 「……何を、言ってるのかしら」  うろたえるように、後ずさるクリソベリル。 「わ、妾は魔法使いよ! 魔法を起こす、災いの魔法使い」 「違うわ」 「魔法の本を片手に、空想を詠うの。神出鬼没に現れて、誰かを惑わす天敵で」 「嘘ばっかり」  ぐっと、握りしめていた本を、夜子は俺に差し出した。 「ねえ、瑠璃。これはきっと、意味のない物語だと思う。知ったところで、あたしたちの物語に何も影響しないと思うけど」  優しい声色で、何かを求めていた。 「ひょっとすると蛇足に過ぎなくて、読まなかった方が良いのかもしれない。でも、あたしはそれでも、瑠璃にこれを読んで欲しいわ」  差し出された本は『煌めきのアレキサンドライト』。 「やめなさい、夜子。つまらない物語を語って、今更どうしようというのよ!」 「ただ、理解して欲しいだけ。あなたという少女のことを、理解して欲しいの。理解したら――あたしの選択の意味も、わかると思うから」  夜子が、クリソベリルを切り捨てなかった理由。 「ダメよ。理解して欲しくなんかないわ。妾は妾のまま、自由気ままに生きたいの」  手を伸ばして、本を取り上げようとするけれど。 「違うでしょう、クリソベリル。いえ――」  ゆっくりと、首を振って。 「――アレクサンドリア?」  クリソベリルが触れる前に、俺は本を受け取っていた。  ページが開き、輝きを放つ。  そしてこれが、終わりの向う側にある、原点の物語だ。  時間の流れを遡った先にある物語。それを知る意味は乏しいかもしれない。  知ったから、どうなるとか。  その事実の有無で、何が変わるわけではないと思うけれど。  しかし、だからといって、語らない訳にはいかないだろう。  クリソベリル。  紙の上の魔法使い。  はるか遠い時間軸の中で、少女は確かに生きていて。  夜子の憎しみが形どった存在ではあっても、その原型はそこに存在していたのだ。  金緑石の輝きに魅せられて、時計は巻き戻る。  あの廃教会が、まだちゃんとした目的で使われていた頃の、物語だ。  原始的な記憶。   潜在的な意識。  妾――ではなく、私の始まりを探すなら、やっぱりそれは紙の上の魔法使いなどではなく、何処にでもいる普通の女の子でした。 『アレクサンドリア』  仰々しい名前を与えられたのは、今でも照れくさく思うことがある。 「私は、島有数の名家のもとに生まれた、一人娘」  母親のお腹に私が宿った時、祝いに駆けつける人間の数は、島の人口とほぼ同じ。  私が産まれた時に喜びの声を上げてくれたのは、更にもっと多く。  島中の誰からも祝福されながら、私はこの世に生を受けたのです。  しかし、生まれた私という赤子は、彼らが望むような姿をしていませんでした。 「生まれ落ちた娘は、白髪赤目の特異体質でした」  突然変異。  前触れもなく、予兆もなく、愛娘に降りかかった不吉。  そのことに、周囲の人間がどう思うかなんて、余りにも明白なことでした。  今のこの世の中以上に、当時の世論は異質であることに敏感でしたから。  夜子が、遊行寺家で迫害されていたように、私もまた、そのような運命にあったのかもしれません。  事実、私を抱きかかえた両親の眼差しは、恐ろしい物を見たかのようでした。目の前の現実をどう受け止めたら良いのか困惑します。   まさか、うちの子が。  そんな言葉さえ零れ落ちそうな表情が、しかし一変します。  苦渋の末の、打開策。  しかしそれは、腐れ魔法使いの始まりでもありました。  ――〈こ〉《丶》〈の〉《丶》〈子〉《丶》〈は〉《丶》、〈神〉《丶》〈の〉《丶》〈生〉《丶》〈ま〉《丶》〈れ〉《丶》〈変〉《丶》〈わ〉《丶》〈り〉《丶》〈だ〉《丶》!  気でも狂ったのか。  現実を理解できていないのか。  私の父親は、そのようなことを口走り、私の特別性を、神聖なものであると主張し始めたのです。   誰よりも白く美しい髪の毛は、神に愛されている証。  凍りつくような赤い瞳は、全てを見通す聡明な力を感じさせる。  そんなわけがない。  そんなわけがないことを、誰よりも知っていたのは父親。  けれど直面した異質な自体に、そうやって嘘を上塗りして現実から逃避しようとしたのでした。  父親の嘘が招いた、私の特別性の理由。  しかし、それが思いの外受け入れられてしまったのは、父親にとっても想定外の事だったでしょう。  ――〈あ〉《丶》〈の〉《丶》〈子〉《丶》〈は〉《丶》、〈神〉《丶》〈様〉《丶》〈の〉《丶》〈寵〉《丶》〈愛〉《丶》〈を〉《丶》〈受〉《丶》〈け〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》!  ――〈素〉《丶》〈晴〉《丶》〈ら〉《丶》〈し〉《丶》〈い〉《丶》! 〈素〉《丶》〈晴〉《丶》〈ら〉《丶》〈し〉《丶》〈い〉《丶》! 〈是〉《丶》〈非〉《丶》、〈天〉《丶》〈啓〉《丶》〈を〉《丶》!  ――〈ア〉《丶》〈レ〉《丶》〈ク〉《丶》〈サ〉《丶》〈ン〉《丶》〈ド〉《丶》〈リ〉《丶》〈ア〉《丶》〈様〉《丶》!  現実が、嘘で塗り替えられていく。  私という何処にでもいる少女が、特別神聖な存在へと認識されていく。  それはまだ、私が物心付く前の出来事。  そうして私は、両親によって、神の寵愛を受けた、白髪赤目の『アレクサンドリア』様として崇め奉られるようになったのです。  ――アレクサンドリアは、神の啓示を受けたのです。  ――神に愛され、神に見初められ、神の代行者となった我が娘は、なんと素晴らしきことか。  他人と違うことは、拒絶される理由となって。  他人と違うことは、生きていくことを難しくさせる。  当時、名家としてそれなりの地位を確立してきた父親は、自らの子供が劣等生であることが許せなかったのでしょう。  許せなかったから、騙った。  嘘を上塗りして、物の視点をずらして、違うということを特別に思わせるようにして、私を担ぎあげてしまいました。  狭い社会、小さなこの島では、権力者の言葉は鵜呑みにされていく。  白髪赤目という存在なんて、当時の人間にしてみれば別世界の人間に見えても仕方がなく。  結果として、父親の想像していた以上に、私は島中から信仰の対象として崇められてしまった。  白髪が、珍しくて。  赤目が、恐ろしくて。  佇むだけで、存在するだけで異色の私は、違うという部分を否応なく目立たされてしまった。  それだけなら、まだ良かった。  私の見た目が他とは違うということは、事実であり。  その事実をひけらかす程度なら、まだ許されたものを。  ――〈娘〉《丶》〈は〉《丶》、〈未〉《丶》〈来〉《丶》〈を〉《丶》〈予〉《丶》〈見〉《丶》〈で〉《丶》〈き〉《丶》〈る〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》。  父親の目を眩ませたのは、私に捧げられた多大なる寄付金。  白髪赤目の少女は、当時の人間にしてみればよっぽど衝撃的だったらしく、本当に神の生まれ変わりだと思われてしまっていた。  だから、もっともっと、特別な存在へと私を昇華させたくて。  私が見た目以外は普通の女の子であることを、誰よりも一番良く知っている父親は、更なる信憑性を、欲しがって。  未来が見通せるなどという、そんな嘘八百を広めてしまった。  〈騙〉《かた》るだけではなく、〈騙〉《だま》す方へと悪化した。  未来予知の内容は、予め父親が用意していたシナリオ。  崇められている私にそのシナリオを予言させ、裏で父親が実力行使で叶えていく。  何のロマンもない、自作自演の神様ごっこです。  齢十三の頃。  私は気が付けば神の生まれ変わりとして確固たる地位を築いてしまっていた。  現代風に言うのなら、新興宗教団体の教祖様にさせられてしまったのですよ。   それも、詐欺目的の。  幼かった私は、逆らうことが許されていませんでした。  父親や母親からは神の生まれ変わりとして言い聞かされ、何の力を持たないことには首を傾げながらも、ただ言われたとおりに従っていて。  ボロが出ないよう、用意された教会の小部屋に幽閉されます。  謁見日以外は、そこから出ることを禁じられ、両親以外と会った記憶もありません。  度々、信者の人たちが私を一目見ようとやってきていたのは知っていますが、神聖さどうこうとか汚れがどうこうとか、よくわからな適当な理由で追い返していたらしい。  それで納得する方も納得する方ですが、それでもやっぱり、騙している方が悪いのでしょうけど。  だけど、正直に語ってみるのなら、そのときの私は、それほど悪い気分ではありませんでした。  特別だともてはやされることは喜ばしく、自分がとてもすごい存在になったかのように思えて、満足していました。  父親は、私が退屈しないように、幽閉した部屋の中に様々な物を用意してくれていましたし、とても裕福な暮らしだったと思います。  もちろん、制限され、縛られた生活は寂しくも孤独なものでありましたが、それも運命だと受け入れて。  そして、何よりも。  ――〈こ〉《丶》〈れ〉《丶》〈も〉《丶》〈全〉《丶》〈て〉《丶》、〈お〉《丶》〈前〉《丶》〈の〉《丶》〈た〉《丶》〈め〉《丶》〈に〉《丶》〈や〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》〈る〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈な〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》。  外へ出て、遊びたいという私へ、父親は笑いかけてくれたから。  私のために頑張ってくれている父親のことを信じたくて、詐欺の片棒を担ぎ続けました。  大丈夫。  父親は、私のことを愛してくれている。  だから私は、言われた通りの台詞を口にして、神様を騙り続けていました。  それがどんなに愚かな行為であるのかを理解しないまま、間違いを犯していく。  あるとき、私は一人の男の子と出会いました。  幽閉され、他者との関わりを禁じられている私ですから、それは非合法な出会いに決まっています。  いつもは閉じられているはずの小窓が、雨の日の湿気を逃すため、開かれていて。  その隙間はとても小さく、大の大人の立ち入りは難しかったけれど、私と同い年くらいの子供の侵入を許せる程度の隙間だったのです。  ――やあ、キミだれ? 「あなたこそ、誰ですか」  タメ口でした。  私に、タメ口です。  特別性の欠片もない普通の少年は、雨に濡れた髪を払いながら、笑っていたのです。  そのときの私は、教会のローブを被っていました。  特別性を曝け出すことを嫌っていた私は、そうやって髪を覆い隠そうとしていて――故に、少年は気が付かなかったのです。  ――こんな子が、教会にいたんだ。俺、知らなかったよ。  素朴な少女が、まさか崇められている少女だとは知らず。  ――なんだよ、目を合わせてくれよー。  そのことを悟った私は、ローブを深くかぶり直し、俯いて、視線を外し、正体をばれないように努めました。  声だけは、常に作ったような声を出していたので、普通の声色でもバレませんでしたけど。  ――何、文字書けるの? すげー!  机に広げられていた、書きかけの物語。  それを見た少年は、目を輝かせて迫ります。 「べ、別に、すごくないから……」  そのときの私は、他人という存在がひどく恐ろしかった。  生まれて初めて、二人っきりの状況で他人と会話をしているのです。  緊張で胸が高鳴って、まともに喋ることが出来ません。  ただひたすら、正体がばれないようにと必死だったことだけは覚えています。  口下手で、顔さえ見せようとしない私は、とてもつまらない人間だったでしょう。  少年が楽しかったかどうかといえば、それは否定できるのですが、どんなに私が下手な対応をしても、少年は笑って話し続けてくれたのです。  少年の、友達の話とか。  少年の、最近楽しかった出来事とか。  少年の、好きな食べ物の話とか。  他愛もない雑談が、私にとっては宝石のように煌めいていた。  外の世界の話を聞くだけで、まるで冒険小説を読んでいるような気持ちにさせられてしまったのです。  楽しい時間は、刹那。  少年が帰る時間になって、侵入してきた窓から帰っていきます。  背を向ける少年を見ていると、心がズキズキと痛み、居心地の悪い浮遊感を覚えました。  だけど、少年は。  ――また、来るぜ。 「……うん!」  去り際に、笑って、そういいました。  白い歯をにっと見せて、再訪を約束してくれたのです。  そうして、数日に一度のペースで、少年はこっそり会いに来てくれました。  その度にいろいろな話をして、色々な笑顔を見せてくれて、瞬く間に友情を育んでいきました。  片手では数えることの出来ないくらいになったときには、私はもう普通に話すことができていて、笑い合うまでに成長します。  もちろん、目と髪を隠すことだけは、細心の注意を払っていましたけども。   特別ではなく、普通の日常。  彼といるときにだけ手に入る貴重なそれを失いたくなかったから、ひたすら秘密にし続けたのです。  しかし、幸せは長く続くことはありませんでした。 「貴方は、どうして小窓から入ってきたりしたの?」  不意の質問に、彼は少し困ったような笑みを浮かべて。  ――アレクサンドリア様に、会いたかったんだ。  少年、曰く。  ある叶えて欲しい願いがあって、『アレクサンドリア』様に直談判をしたかったらしい。  結局、その目的は叶えられなかったものの、面白い友だちができたから良かったと、少年は笑っていたけれども。 「何を、お願いしたかったのかしら?」  ――お母さんの病気を、治して欲しいんだ。  少年、曰く。  彼の一家は、白髪赤目の『アレクサンドリア』様を、心から崇拝していたらしい。  貧しいはずの家庭事情でも、多額の寄付金を毎月続けていて、そのせいで生活が困窮することも厭わないほどの熱狂っぷり。  その中でも一番の教徒である母親が、重い病に臥せってしまっているらしかった。  ――だけど、大丈夫。アレクサンドリア様は、お母さんを見捨てない!  ――お母さんだって、不安がってないよ!  ――でも、俺はちょっとだけ不安だから、直接お祈りしようと思ったんだ!  尚も無邪気に、少年は語る。  ――アレクサンドリア様は、本当に凄いんだ!  ――あの白髪はきれいだし、あの赤目は輝いているし、本当に本当に素敵な方だ!  ――キミも、ちゃんとお祈りしなきゃいけないよ! キフキンだって、大事らしい!  好意的な言葉は、とても嬉しかった。  今すぐ自分がそのアレクサンドリアだと、口にしたい衝動に駆られたが。  落ち着いて、状況を理解しろ。  立場を考えて、理解しろ。  少年と、その家族は――騙されている側。  そして、私は――騙している側。  今、こうしてのうのうと暮らしていけているのは、そんな信者たちの貢物のおかげ。  どの面下げて、自分がアレクサンドリアだと口にできるというのでしょう。  生まれて初めて、少女の心に罪悪感と後悔が巣食いはじめ、自分のしていることに疑問を覚え始めたのです。 「ねえ、お父様。信者の人たちの、病気を治してあげたいわ」  焦燥感から、父親にそう訪ねてみても。    ――大丈夫、信仰の度合いが本物だったら、助かるよ。  なんて、笑って口にするだけだ。  じゃあ、もっとちゃんの祈りなさいと、私は少年に口にできるのか?  その言葉を口にしてしまったら、今度こそ私は人でなくなる。  誰もいない部屋で、少年がいつもやってくる小窓を眺めていた。  少しずつ、少しずつ、何かが嫌な方向へ傾くのを感じてしまう。  数日に一度の、少年の来訪。  今では、二週間に一度、来るか来ないか程度に目減りしていた。  ――ごめんね、少し大変なんだ。  ――ちょっと、いろいろ、よくなくて。  ――でも、大丈夫。もうすぐきっと、なんとかなるから。  数少ない来訪のときにも、少年は自らに言い聞かせるように囁き続ける。  少年の頬が、少し痩せこけていることに、私は本当に気が付かなかったのか。  ――もし、お母さんがよくなったら、お家に招待してあげる。  ――何もないところだけれど、きっと楽しいよ!  ――キミに、外の世界を教えてあげるよ!  連れ出してくれると、約束して。  真実を知らないまま、盲目に祈りを捧げ続けていて。  心を抉るような痛みに耐え切れなくなった私は、そっと心に固く誓う。 「全てを、打ち明けよう」  少年に対して、正直になろう。  これ以上偽りを重ねることに、耐え切れなくなってしまって。  それで拒絶されてしまったならしょうがないと、自らに言い聞かせる。  次、少年が訪れてくれた時。  それが、偽りの関係に終止符を打つ時だ。  白髪赤目の少女は、知らない。  既に、神の生まれ変わり『アレクサンドリア』という存在に、疑問を持たれ始めていたということを。  父親の用意した予言が、少しずつ実現できなくなってしまっていって。  寄付金の要求頻度が上がって。  白髪赤目の少女は、別段何の奇跡も見せてくれない。   冷静なものは、少しずつ異を唱え始め、信仰を失っていく。  熱狂的な信者は反論して擁護するけれど、一枚岩だった信仰心にヒビが入ってしまっていた。  もしかして、全部嘘なんじゃないか。  芽生えた疑問は、解消されることないまま蝕んでいく。  所詮、騙りは騙り。  長く続けば続くほど――綻び始めていくものだ。  白髪赤目の少女を、彼らがどういう風に見つめていたかはわかりません。  神秘的に見えたのか、幻想的に見えたのか――けれども心を奪われたからこそ、信じて祈るようになり、やがて全てを捧げてしまったのだ。  少年の母親は、信者の中でも群を抜いて信仰心に溢れていました。  全ては『アレクサンドリア』様のおかげだと感謝を続け、奉公を願い、何よりも一番上の存在と位置づけていたのです。  少年は、そんな母親を見て疑問に思うことはあったけれど、大好きな母親が信じる相手ならばと、そういうふうに納得して。  私の父親が、寄付金の集まり具合に不満を覚えた時。  少年の母親は、家財を売り払って捧げました。  詐欺師と、カモ。  これほど分かりやすい構図が、他にあるのでしょうか。  やがて、無理をして病に臥せってしまうのも、無理はなく。  寄付金を収めることができなくなった母親に、私の父親が慈悲をかけることはありませんでした。  ――信仰心が、足りないのでは?  それが、『アレクサンドリア』様の御言葉だと、伝えてしまって。  誰よりも身を捧げた少年の母親は、誰よりも愛した『アレクサンドリア』様に、見捨てられてしまったのです。  どれだけ寄付をしても。  だれだけ祈っても。  どれだけ身を削っても。   少年の母親は少しも快方へ向かうことはなく、最後まで『アレクサンドリア』様への信仰を胸に抱いて、死に逝きました。  最期まで、騙されていたとは知らないまま。  最期まで、救われることはなくても、少しの疑いの視線を持つことさえなかったのです。   救いがもたらされないのは、祈りが足りないから。  ――そういう奴がいたよ。  嘲笑う父親から、とある熱狂的な信者の最期を聞いた私は、心が闇に染まっていくのを自覚しました。  自分の片棒を担いでいるその行為が、いかに〈悍〉《おぞ》ましいものかを、ようやく理解したのです。  そして。  全てが崩れ去る時が訪れました。  少年の母親は、確かに最期まで信仰心を失いはしませんでしたが。  少年は、母親とは同じだったわけではありません。  出会った時と、同じような雨の日。  少年は、ぐったりとした表情で、私に会いに来ます。  母親を亡くしてしまった失意の中、絶望に染まった少年は、それでも誰かの存在が人恋しくて。  そんなとき、私のことを思い出して、話し相手を求めたのです。  だけど、私は。  そのとき、少年の事情を知りませんでした。  少年の母親が、亡くなったことさえ、知るすべがなかったのですから。  久しぶりに出会えたことに舞い上がり、秘めていた決意を言葉にしようと持ったのです。 「ねえ、大切な話があるの」  ――え?  恥ずかしくて、恥ずかしくて。  怖くて、怖くて。  それでもどうにか秘密を打ち明けて、少年にわかって欲しくて。  今にして思えば、私はただ罪悪感を拭いたかっただけなのかもしれませんが。 「これが、私の正体なの」  出会ってからずっと、かぶり続けていたシスター用のローブ。  それを、ゆっくりと脱ぎ捨てて、私の特別性を晒します。  ――うそ、だろ?  白い髪と、赤い瞳。  有無をいわさない力強さが、たしかにあったのだと思います。  面喰らう少年は、口をパクパクさせて何も言うことが出来ません。  その様子に焦った私は、どうにか落ち着いてもらおうと、せわしなく口を動かし続けます。 「アレクサンドリアは、私。私が、そうなの」 「嘘を付くのが、嫌だったから、どうしても、打ち明けたくて」  少年なら、理解してくれると思って、だから、頑張って見たけれれど。  ――〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》〈ら〉《丶》!  打ち明けた途端、彼は弾けるように私に掴みかかりました。   ――どうして、母さんを助けてくれなかったんだ!  ――あんなに、いっぱい、祈って。  ――身を削ってまで、あんたに尽くしてきたのにさあ!! 「……っ!」  そこで私は、少年の不幸を知りました。  少年の憤りに、触れてしまったのです。  ――あんただったら、どうにか出来ただろ!  ――母さんを、救ってくれる力があったんだろ!  ――なのに、どうして……!!  さめざめと泣き続ける少年は、力なくうなだれます。  母親の信仰が届かなかったことに、大きな不満を抱えてしまっていたのでしょう。  突然現れたその大本命に、思わず掴みかかってしまうほど、心が弱っていたのです。  ――どうして、母さんを見捨てたんだ……!  心が、声を上げてい泣いています。  少年の怒りは余りにももっともで、私は何も言うことが出来ませんでした。  だから、どうにか挽回したくて、更に口を開きます。  せめて、彼の怒りに正直であろうと、全てを伝える決意を固めました。 「ごめんなさい。私は、見捨てたわけじゃ、ないの」  震える唇が、真実を告げる。 「そうじゃなくて……ただ、私は、無力なだけ」  ――〈は〉《丶》?  少年の表情が、不理解に歪みました。 「全部、お父様の嘘だったの。こんな見た目をしているけれど、私は普通の女の子。貴方と変わらない、同じ人間よ」 「だから、特別な力とか、神様の寵愛とか、何も、なくて……」 「私には、貴方のお母さんを助ける力なんて、最初からなかったの……!」  本当は。  本当は、そこまで打ち明けるつもりではありませんでした。  正体を明かす程度に留めておいて、それより先の秘密は、もっと順を追って語ろうと思っていたのに。 「本当に、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい! 私は、最悪の嘘吐きでした……」  抱え込み続けていた不満や後悔が、溢れてきます。  一度誰かの前でぶちまけてしまったら、もう止まりません。 「だけどそうしなくちゃ、怒られるの。お父様は、全部私の見た目が悪いからって、怒鳴って、叩いて……!」  私には、そうすることしか出来なくて。  それを甘えというのは分かっていても、自分から逆らう勇気はなくて。  ――予言も、全部、嘘?  少年が、淡々と訪ねてきて。  混乱する私は、素直に答えてしまいます。 「お父様が、全部用意した筋書きよ。私はそれを、読んでいるだけ。だから私は、何も知らない」  何の力も持っていない。  特別なのは、見た目だけ――神聖さの欠片も持ち合わせていないのだ。 「これ以上、嘘を騙るのはもう嫌。貴方と同じ、普通の人生を歩んでいきたいの……!」  そこで、縋るように声を絞って。 「もう、こんなことを続けるのは嫌。どうにかして、全部終わらせたい……!」  きっとそれは、とても身勝手な要求だったでしょう。  自分のことしか考えていない、利己的なお願い。  当然、少年がそれを受けてくれる義理もないことは、分かっていたけれど。  そのときの私は、幼すぎて。  生まれて初めての友達なら、助けてくれるんじゃないかと思ってしまったんだ。  ――〈何〉《丶》〈言〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》〈ん〉《丶》〈の〉《丶》?  凍りついた表情を、よく覚えています。  ――お前、自分がなにしてるのか分かってるわけ?  人間が、こうまで恐ろしい表情を浮かべることが出来るのか。  変貌した少年の様子に、私は怯えることしか出来ませんでした。 「えっ、ええ……」  じりっと、後ずさりをしたのは。  少年が、傍にある重量感のある本を手にとったから。  ――全部、嘘。全部、嘘。全部、嘘!!!  目は、充血し。   ――お前は、ただの、嘘吐きだった!!  表情が、ぐちゃぐちゃに歪んで。  ――俺の母さんを殺したのは、お前じゃねえか!!  殺意に、満ち溢れていました。 「あ、あああ……っ!!」  鈍器のようなサイドの本を、振り上げて。  明確な殺意を、渾身の力でぶつけようとする少年。  「これが、罰なのね」  その時初めて、被害者の痛みを知った。  自分のしでかしたことが、どれほど他人にとって凄惨なことを知った。  だからそれは、当然の報い。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」  だけど、私は。  そうする以外、どうしたらいいのかわからなくて。  物心ついた時から、そうであることを強いられてきたから。  もう、全然、わからなくて。  ――うるせえ、死ねよ。  本が、振り下ろされる直前。  部屋の扉が、大きな音を立てて開かれます。  ――誰だ!  どたばたとした物音を聞いて、父親が助けにきてくれたのです。  ――ちっ!  我に返った少年は、すぐさま窓を割って、逃亡を測ります。  お父様は追いかけることはなく、私に現状を説明させました。  恐怖に掴まれた私の心は、上手く言葉を口にすることが出来なかったけれど、それでもたどたどしい説明を頷きながら聞いてくれる父親に、心から安心させられました。    ――大丈夫、任せておきなさい。  事情を聞いた父親は、優しい笑顔を見せながら、私の頭を撫でてくれました。  「言いつけを破ったことを、怒らないの?」  秘密を、他人に打ち明けてしまったのだ。  どんな仕打ちを受けるか、恐ろしいくらいなのに。  ――大丈夫さ。これくらい、なんてことのないことだ。  私を抱きしめながら、父親は囁く。  ――愛してるよ、アレクサンドリア。だから今は、部屋で大人しくしておくんだ。  優しい父親の言葉に癒やされて、私は大きく頷きました。  私が勝手に招いてしまった事態にも、眉一つ動かすことはなく。 「ごめんなさい、お父様」  安心した途端、ふっと力が抜けてしまいます。    ――おやすみ、アレクサンドリア。目が覚める頃には、全てが上手くいっているよ。 「うん、わかった」  心から、信じていた。  だから、腕の中で眠りに落ちて。  ――さようなら、アレクサンドリア。  眠りに落ちる刹那、父親の恐ろしい形相が、いつまでも瞼に焼き付いて離れませんでした。  その日の深夜。  私は、教会の外からの物音で目を覚ましました。  唸るような声と、行進のような足音。  お祭りでもやっているのかと思うほどの騒音は、深夜に起きるはずのないものでした。 「……熱い」  涼しい夜のはずが、やや熱っぽく。  夕方の出来事を思い出して、体調を崩してしまったのかと思いました。  しかし、その割には意識は冴えていて、周りを見渡す余裕がありましたから。 「え?」  窓に、鉄格子。  逃走を阻むかのような鉄が、嫌に印象的でした。  思わず、立ち上がって扉のドアノブに手を伸ばします。  閉じ込められていたような気がしたけれど、しかし素直に扉は開いてくれました。  が。 「――ッ!??」  扉の向こうから現れたのは、教会の中で暴れ回る、恐ろしいほどの炎でした。 「何よ、これ、どうなっているの……!」  お父様は? お母様は?  どうして、火が――!  早く消さないと、だなんて焦りながら、もはや消火が間に合うわけもないことを一方で理解して。 「と、とにかく、逃げないと……!」  立ち込める煙から逃れるように、私は一目散で出口へ向かいました。  途中、何度も黒煙を吸ってしまい、意識を失いそうになってしまったけれど、命からがら、どうにか出口にたどり着くことが出来て。 「だ、誰か……!」  勢い良く、教会の外へ飛び出した私を待ち受けていたのは。 「――え?」  島中の人間が、武器を持って教会を取り囲んでいる光景でした。  ――出てきたぞ!  ――この腐れ外道が!  私の姿を確認した彼らは、口悪く罵ります。  生まれてからそれまで、誰かに罵倒されるということを知らなかった私は、初め、それが何を意味するのかを理解することが出来ていませんでした。  だから、どれだけ敵意を向けられても。  どれだけ、悪口をぶつけられたとしても。  どこか他人ごとのようにしか思えなくて、しばらくぼうっとすることしか出来ませんでした。  ――嘘吐きは、処刑しなきゃいけないんだよ。  私を、現実に向きあわせたのは、あの少年の声でした。  夕方に向けられた殺意が、何倍にも研ぎ澄まされていて。  片手に握る銀ナイフは、炎のゆらめきを映し出していました。 「どうし、て」  さすがの私も、ようやく状況を理解することが出来ました。  つまるところ、彼らが教会を取り囲み、火を放って。  偽りの神様を、断罪しにやって来たのだ。  嘘が、バレた。  少年が、島中の人たちに真実を広めたのだ。  ――どうして? それはお前の胸に聞いてみろよ。  その通りだ。  その通りすぎて、何も言えなくなってしまった。  お父様は、失敗したんだ。  私のせいで招いた危険に、負けてしまったんだろう。  大丈夫だと口にしていたものの、やっぱり、私が悪くて。 「……けて」  だけど、どうしてだろうなあ。  私が悪いことは、分かっているのに。  嘘吐きの私が悪いことは、分かっているはずなのに。 「誰か、助けてよぉ……!」  家は、炎に飲み込まれ。  周りは、敵意の視線に囲まれて。  目の前には、たった一人の友達が、殺意を向けていた。  聖女は、一夜にして罪人へと変わってしまう。  私にしてみれば、それは一瞬の出来事だったけれど、その予兆は見えないところで現れていたのでしょうね。  騙りは、限界があって。  それがたまたま、今回噴出しただけのこと。    ――何が、神の寵愛だ! お前はただの、嘘吐きじゃないか!  ――烏滸がましい罪人めが! この、腐れ魔法使い!  魔法使い?  聞きなれない単語に、私の意識は引っ張られる。  それは、誰のことをを言っているのだろう。  私は、そんなものを自称した覚えはないのに。  ――悪しき魔法使いは、処断されてしまえ!  ――よくも今まで騙してきやがったな! 白髪赤目の、〈悍〉《おぞ》ましき魔法使いめ!  心のない言葉に晒されて、幼い私はすぐに泣いてしまいます。  他人に、そうやって強い口調で罵られたことなんて、なかったから。 「わ、私は……魔法使いなんかじゃ、ない……」  ましてや、神の寵愛を受けたわけでもない。 「どこにでもいる、普通の、女の子だから……!」  そうだ。  その言葉を言えなくて、ずっとずっと崇められてきた。  特別性を求められて、強いられて、騙し続けるしかなかったんだ。 「ごめんなさい、ごめんなさい、私は何の力もない人間です。神の寵愛もなくて、魔法も使えません」  ――嘘をつけ! その髪や瞳は、呪われている証じゃないか!  ――どこにそんな恐ろしい風貌の人間がいるという!  ――まさしく貴様は、悪しき魔法使いだろうに!  聖女という衣を剥がされてしまっても、私は普通になれなかった。  ただの嘘吐きではなく、人を惑わす魔法使いと呼ばれてしまって、何も信じてくれないのです。  それまで、崇められることが当たり前だった白髪は、今では他人との違いを主張する悪魔。  それまで、祈られることが当たり前だった赤目は、今では狂気に満ちたおぞましさを秘めている。  普通の人間からしてみれば、私は人外にしか見えなくて。  それは、聖女だなんていう嘘を塗り重ねて初めて、誤魔化されるものだったのだ。  生まれてから、それまで。  父親が嘘を重ね続けていたのは、私の存在がこうやって拒絶されることを分かっていたからなのだろう。  まともに生きていくことが出来ないと悟ったからこそ、それならば良い方向の特別へ変えたかったのだ。  普通なんて、私には最初から許されてはいなかった。  そうだ、だから少年に打ち明けることすら、してはいけなかったのだ。  私は、普通とは違うのだから。  私は、他人と関わることが出来ないのだから。  私は、単なる化け物で―― 「……お父様?」  自らの存在のマイナスに、打ちひしがれていた私は。  それまで探し続けていた両親の姿を、見つけたのだ。  二人は、炎に飲み込まれていたわけではなく。  ――お父様だなんて、呼ぶんじゃないっ!! 「え?」  両親は、私を迫害する側に立っていたのです。  ――この、化け物め! 嘘吐きめ! 腐れ魔法使い! よくも今まで、私たちを騙してくれたな!!  お父様が、何を口にしているのかわからなくて。  ――最悪だ! 本当に、恐ろしい悪魔だよ貴様は! そうやって騙し続けて、全てを奪い去るつもりだったのだろう??  心のない言葉が、まるで理解することが出来なかった。  お父様は、騙されていたと、自らの潔白を証明しようとして、私を罵り続ける。  ――まさか、こんな腐れ魔法使いだったなんて!  ――お前なんか、私の娘じゃない! 本当の我が娘を、返してくれ!  がくり、と。  それまで信じていたもの全てが、音を立てて崩れ去るのを感じました。  自分のことを愛してくれていると信じていた父親は、自らの保身のために切り捨てて。  ――私は、被害者だ!  そうやって、すべての責任を私にかぶせて、生きながらえようとするのだ。  そもそも、お父様は私のことを愛してくれていたのだろうか。  そんなことさえ、今となってはもう分からなくなってしまった。  ――死んで、償え!  殺意と狂気を向けられ続けながら、私の逃げ場所はなくなっていく。  もはやどうすることもできないまま、その場でうなだれるしかなかった。  私を取り囲む迫害者たちの瞳は、殺意と狂気に充血する。  騙していた嘘付きを殺さんと、じりじりとにじるよる様は、獲物を見つけた狩人のようだ。  血走った瞳は、とても皮肉に見えてしまい、思わず笑みが零れ落ちる。  「私の赤い瞳よりも、ずっと恐ろしい瞳をしているわ……!」  もはや、他人ごとのように呟いて見せて。  自らの心が、壊れゆくのを静かに自覚していた。  魔法使いの処刑法。  それは、生きたままの火炙りと、相場が決まっているらしい。  抵抗する気もなくなった私は、教会の真ん前で吊るされて、火をくべられる。   燃え盛る教会と心中するかのような光景は、なるほど、『アレクサンドリア』信仰の終焉を意味している。 「熱い……熱い……熱い、よぉ……!」  どれだけ救いを求めても、誰も助けてくれることはなく。  「誰か、誰か、助けてよぉ……!」  私の命がけの訴えは、魔法使いの断末魔として嬉々として拝聴されるだけ。 「私は普通の、女の子なのに……!」  燃え盛る炎の痛みを刻まれながら、絶望を味わって。  生きたまま火炙りにされるという苦痛は、言葉をなくすほどの壮絶なものでした。  どうして、私がこんな目に合わなければいけないの?  火に炙られながら、そんな疑問ばかりが胸の中に芽吹いてく。  私が、聖女を騙ったから?  それだって、父親に強いられたからだ。  生まれて物心つく頃から、そうしなさいと教えられてきたから。  そうすることしかわからなくて、それをするのがあたりまえだと思っていた。  じゃあ、私はどうしたらよかったの?  どうしたら、幸せになれたのかなあ?  ――腐れ魔法使いめ。  初めて出来た友達に、蔑まれ。  ――死んで、償えよ。  愛していた両親には、裏切られ。  ――呪われた魔法使いは、火炙りに限るな!  騙し続けていた信者たちには、その報いを受けさせられてしまった。 「……私は、悪い子」  認めましょう。  私は、騙していました。  被害者面をするつもりは、ありません。  けど。  けど、それにしたってこれは、あんまりじゃないか。  どうしてこうまで、迫害されなければいけないの。  私はただ、普通の人間として生まれ、普通の人間として生きたかっただけなのに。  全ての責任を背負わされ、火炙りにされるほどの罪を犯したのでしょうか?  ああ、神様。  偽物などではなく、本物の神様よ。  私の罪に、これが相応しい罰なのでしょうか。  あそこで元気に罵倒する父親は、何の罪を背負わさずに。  また、髪と瞳の色だけで、他人を害する島人たちに、何の罪もないのでしょうか?  私が、詐欺に加担していたから処刑されるのならば、それで構いません。  その罪は、受け入れましょう。  でも。  ――白い髪は、呪われた証だ!  ――赤い瞳は、〈悍〉《おぞ》ましき魔法使いの狂気を写している!  ――この、腐れ魔法使いが!  私が、普通の外見だったのなら。  果たして、こうなっていたのでしょうか? 「……呪ってやる」  それは、最期に小漏れでた感情。 「貴様達全員、呪ってやる」  心壊れた私が口にしたのは、底なしの憎悪。  逆恨みと呼ばれようとも、無条理なこの世を呪わざるを得ませんでした。  そうやって、貴様たちが私を魔法使いと恐れ、蔑むというのなら。 「――私は、聖女などではなく悪しき魔法使いになってあげる!」  だから、だから、だから。  普通なんてかなぐり捨てて、最悪の魔法使いでも構わないから。  ここにいる、全ての人間を呪う力が欲しい。  「あははははははははははははははっははははははははっははっはは!!!!!!!」  火炙りにされながら、狂ったように私は笑い続けます。  痛みも感じず、ただ瞳からは涙を流して、心から全てを恨みましょう。 「憎い、憎い、憎い、憎い――!」  誰か、ではなくて。  この世全てが、憎い。 「もう、全部、壊れてしまえ!」  私が、本当に、腐れ魔法使いだったのなら。  私を殺した全ての存在を、永劫呪ってあげましょう。  そうまで私を魔法使いにしたいのなら、そうしてあげる。  そして、長い時間の果てに苦しみなさい。  私は、どこにでもいる普通の女の子だったけれど。 「私を魔法使いにしたのは――他ならぬ、貴方たちよ」  事切れる瞬間まで、呪いの言葉を吐き続けて。  白髪赤目の少女、アレクサンドリアは、そうして処刑された。  神からの寵愛を受けた『アレクサンドリア』としてではなく。  神を騙り、人々を欺いた腐れ魔法使い――『クリソベリル』として、語り継がれていく。  それが、『煌めきのアレキサンドライト』の語る、全ての物語の始まりだ。  金緑石の輝きが見せたのは、遥か昔の記憶。  少女アレクサンドリアの死に様は、深く、深く、堕ちていくような悲しみに満ちていた。 「紙の上の魔法使い」  その名は、クリソベリル。  少女の生き様は、類を見ない悲劇で満ち溢れていた。 「笑い話よ」  つまらなそうに、クリソベリルは毒づく。 「笑いたければ、笑えばいい。自業自得だと思うのなら、そう罵ればいいわ。それでも、妾は恨まずにはいられなかった」 「笑えるかよ」  ぐっと、息を呑んで。 「それが、すべての始まりか」  今、ここにお前がいる意味。  そして、空想を現実に叶えるという、魔法の本の存在意義とは。 「彼ら、曰く――妾は腐れ魔法使いなのよ。災いを振りかざす、最悪の存在」  だから。 「だから妾は、紙の上の魔法使いになったの。あいつらが求める最悪の人物像に、なってやったの」  聖女アレクサンドリアではなく。  腐れ魔法使い、クリソベリルに。 「遊行寺家は、もしかして」  なんとなく、予想はしていたけれど。 「――妾を裏切ったあの父親が、夜子や闇子の祖先にあたるというわけよん」  それは、つまり。  クリソベリルも、同じということだ。  遊行寺家で白髪赤目が恐れられてきたのは、そういった過去の出来事があったから。  もちろん、遠い昔の出来事をそのまま語り継がれているわけではないだろうが――曖昧な言い伝えとして、噂として根付いていたのだろう。 「魔法の本は、妾の呪いの代名詞。災いを振りかざす魔法使いは、活字と紙で憎しみを振りまいていくの」  それは、遊行寺家にかけられたクリソベリルの呪いだ。 「魔法の本の原型は、『アレクサンドリア様』の予言なのよ。預言書に記された出来事は必ず起こってしまう」 「果てる直前の妾の恨みが昇華して、現実のものとなってしまった。以後、遊行寺家は妾の遺した憎しみに振り回され続けていくの」  遊行寺闇子は、魔法の本の収集活動に追われていた。  それが使命といわんばかりに、可愛い夜子さえも本家に置き去りにして、探し求めていた。 「だけど、夜子だけは違う。夜子は、あまりにも妾に似すぎていたわ」  白髪赤目の少女。  幼い頃から迫害され、監禁され、人として当たり前の生活すら送ることがままならず。 「ちょっとだけ――本当に、ちょっとだけ、同情してしまったから。闇子の夢物語に、付き合ってあげたのよ」 「……お前は、夜子の憎しみから生まれたんじゃなかったのか?」 「卵が先か鶏が先か。夜子の憎しみが妾を方向付けていたのは本当。けれど、どうなのかしら」  すっと、上を見上げて。 「どのみち、夜子が幸せになれるはずがないと、確信してたから」  夜子を幸せにしたいと願ったのは、みんな同じ。  それなのに、俺とクリソベリルは、分かり合うことが出来なかった。  決定的な差異の根本にあるものは、少女の深いトラウマがあったのか。 「夜子は、余りにも妾に似すぎていたから」   涙が、滴り落ちる。 「――幸せになれるはずがないと、思いたかった」  それは。 「――だって、あのときの妾も、幸せになれなかったんだから」  同じように、生まれた二人。  一方の幸せを願いながらも、どこかでそうなれないと強く思い込んでいた。  もし、一方が本当に幸せになってしまったなら。  どうして、自分は幸せになることが出来なかったのだろうか? 「この見た目が、全てを台無しにした。そう思い込むことが出来れば、少しだけ、しょうがなかったと思うことが出来るから」  全部、白髪と赤目のせい。  これがあるかぎり、幸せになることは出来ないのだと。  「きっと、妾は――夜子に嫉妬していたのでしょう」  幸せの可能性が、存在していて。  それは、自分には掴むことの出来なかった未来だから。 「妾のときは、どうにもならなかった」  赤目の視線の先にいる人間は、誰?  遠く遠くに銀ナイフを突きつけた少年は、生涯少女を理解してくれることはなくて。 「瑠璃のお兄ちゃんが、あのとき妾の傍にいてくれたら」  甘い、吐息混じりに。 「妾も夜子みたいに、強くなれることが出来たのかなぁ……?」  涙を流す少女が、とても、とても、壊れてしまいそうだったから。 「――っ!」  俺はとっさに、抱きしめてしまっていた。  力強く、華奢な身体を折れても構わないと、ぎゅっと、ぎゅっと、ぎゅーっと。 「る、瑠璃の、お兄ちゃん……」 「もう、何も言わなくていいから」  驚きの声は、殆ど無く。 「同情なんて、されたくないかもしれないけど」  格好いい言葉は、言えないが。 「それでも俺は、お前のことを心から可哀想だと思ったよ」  下手をすれば、逆上しかねない言葉でも。 「これじゃあまりにも、救いがなさすぎる。最期の最期まで、お前は幸せになれなかったじゃないか――!」  生まれた風貌に、全ての権利を取り上げられ。  最愛の両親からは嘘を強要され、人を騙すことだけが僅かばかりの辿れる道筋。  もう、どうにもならなくて。  一瞬、友達という名の可能性を見つけたような気がしたけれど、それも不運で台無しにされてしまって。  最後は、凄惨な死に際で、果てるしかなかった少女の人生。 「俺達の、誰よりも」  誰よりも、誰よりも。 「お前が報われなきゃ、駄目じゃないか」 「うっ――」  全てを許したわけではない。  クリソベリルの開いた本によって、俺たちは何度も窮地に立たされてきた。  だから、清らかな心で何もかもを洗い流して、切り替えようだなんて思わないが。 「夜子が、魔法の本を破り捨てられなかったのはこういうことか」  一足早くに、クリソベリルの人生を知ってしまって。  一歩間違えれば、夜子もそのようになってしまったのかもしれないと思うと、切り捨てることができなくなってしまったのだ。 「夜子にまで、同情されちゃったわ。もう、魔法使いはおしまいね。きゃはは……」  だから、そう。  次は、クリソベリルの番なんだ。 「なあ、知ってるか」 「……へっ?」 「幻想図書館は、俺や夜子みたいな奴でも、幸せになれる場所なんだよ」  まずは居場所を、作ってあげようか。 「無愛想な主様や、可愛いメイドさんがいる。うるさいほど明るい同居人も居れば、俺みたいなろくでなしもいるし、何よりそれは楽しい日常だと思うんだ」  そういうのが、少女の人生に欠けていたんじゃないのかな。  楽しいとか、嬉しいとか。そういう、当たり前のもの。 「満たされなかったものを、注いでいこう。欠けていたものを、継ぎ足していこう。そうやって語ることの出来るのが、この幻想図書館じゃないのかな」  少なくとも、俺たちはそうやって生きてきたつもりだ。  そしてそれからも、何も変わらない。 「……瑠璃のお兄ちゃんは、ずるいわよ」  俯きながら、少女は言う。 「こうまでされて、妾にはもう選択肢なんか残されていないのに」 「そうか?」 「今の妾は、夜子の手の平の上よ。夜子がそれを望むなら、妾もそれに従うだけ」 「従う? いいや、お前の意志を見せてみろ」  卑怯な言い回しは、許さない。 「お前の意志を示してみろよ。これからお前は、どうしたいんだ」  もう、何も隠すことなんて出来ないぞ。  目的は破れ、夜子は一人で立ち直り、憎しみは晴れてしまって。  目指すものを失った魔法使いは、やがて自分の道を決めなければならない。 「今度こそ、幸せになってみないか?」  紙の上のラピスラズリは、紙の上の魔法使いへ問いかける。 「物語のように尊くて、普遍的な幸せを掴んでみようぜ」 「――っ」  クリソベリルの顔が、くしゃっと歪む。  泣き腫らした表情が、全ての答えを物語っていたけれど。 「私も」  仮面の一人称を、脱ぎ捨てて。  紙の上の魔法使いではなく、一人の少女として答えた。 「私も――幸せになりたいよぉ!」  俺の胸に、顔を埋め。  それまで閉ざしていた感情が決壊したかのように、号泣する。 「そんなの、当たり前よぉおおお! ううう――!」  不満や、嬉しさや、戸惑いが沢山混じったその言葉。 「瑠璃お兄ちゃんのバカああああああ!!!」  魔法使いの仮面を剥いでみたら。  底にいるのは、夜子と同じ、普通の少女でしたとさ。 「ドキドキするの! ドキドキしてるの! もぉ、責任取りなさいよぉ!」 「え?」  しかし、弱々しさは瞬く間に消えていき。  「そんなに優しい言葉を囁かれたら、もう我慢できなくなっちゃうじゃないのぉー!」 「え?」 「満たされないものを、注いでくれるのなら」  甘く、甘く、誘うような声色で。 「妾に、女の子としての喜びを注いでくれるかしら?」 「――え?」  一瞬、頭が真っ白になる。 「大丈夫、ここはアレキサンドライトが見せる夢の中。現実ではないから、安心しなさいな」 「いや、そういう問題じゃ――!」 「きゃははっ、だーめ」  先ほどの弱さは何処に言ったのかと、突っ込みたくなる変わりっぷり。  だけど泣き腫らした目尻の赤みが、やっぱり痛々しく。 「それに、この中は妾だけの場所だから。ごめんなさい、瑠璃のお兄ちゃん」  少し、真面目な表情で。 「一度だけ。一夜だけで、構わないから――」 「おい――!」  その瞬間、クリソベリルの右手にはペンが握られていた。  いつからそれを持っていたのか、わからなかったけれど。 「――妾に優しくした、瑠璃のお兄ちゃんが悪いのよ。貴方のことを、本気で愛してしまいそうだから」  そうして、ペンを動かして。  空中に、何かを記述した。 「だからこれで、全て諦めるの。大丈夫、今からの記憶は、現実に残ることはないでしょうから」 「あ――」  すうっと。  頭の中に、何かが入り込むような感覚がした。  誰かに与えられた情報。  目の前の少女が、別の少女に切り替わったような気がして。  違和感も、齟齬も、なくなった。 「男女の営みを、始めましょう?」 「……ああ、わかったよ」  むくむくと、込み上がる性欲。  それをぶつけることに、いささかの疑問もなくなっていた。  愛されたかった。  自分の願望に気付いた時、妾はその権利を失っていた。  もはや、誰からも愛されることのない、災いの魔法使いとなっていて。  瑠璃のお兄ちゃんは、そんな妾を受け入れてくれるというけれど――。 「これは、夢の中のことだから」  非現実世界の、妄想。  そう思って、記憶すらしなくて構わないから。 「妾の都合の良い展開を、どうか許して」  強がりは、剥がれ落ち。  誰かの存在が、欲しくなって。 「これは、一夜限りの過ちよ」  認識を、操作する。  今の妾のことを、あの少女だと思って――恋人同士のように、甘えさせて? 「恋人同士、身体を重ねることに不思議はなくてよ?」 「ああ、そうだな……×××」 「――っ」  本来なら、一時的でも、妾自身を愛してもらおうとすればよかったのだけれど。  一瞬でも、人の気持ちを変えることが、どれほどの過ちかを知ってしまったから。  それだって、詭弁のようなもので――恋泥棒のような真似をしていることに代わりはないけれど。 「さぁ、始めましょう」  痛みを伴う背徳感は、知らないふりをして。  乾ききった心に、たった一度だけの潤いを。 「んっっ、しょっ……!」  瑠璃のお兄ちゃんのズボンを下ろして、性器を露わにさせる。  「……これが、男性の……っ」  驚くほど熱り立ったそれは、触れるだけでも恐ろしく。 「んっ……でもっ……!」  触れなければ、始まらない。  手袋を脱ぐことを忘れたまま、そっと、竿の部分を握った。 「くっ……」  後ろから、瑠璃のお兄ちゃんの声が聞こえてきた。 「可愛い声ね。もっともっと、聞かせて欲しいわぁっ」  一度触れてしまえば、抵抗はなく。 「んっ、しょっ……えっと、擦って、それからっ……舐める? のかしら……ぺろっ」  舌を、先の部分に這わせてみた。 「うっ」 「……ふふふっ、なるほど」  積極的になればなるほど、快感は強まるらしい。 「だったら、遠慮する必要はないわね」  グロテスクなそれを、飲み込むように咥えて。 「はむっ! ん、うぁっ……!! ん、ちゅううっっ!!」  フェラチオを、開始する。 「ちゅぱっ、ん、ちゅうっ! ん、はぁっ……! どぉ、かしらぁ?? ん、ちゅっ……!」 「それ、やばっ……!」  あっけなく、喘ぐ瑠璃のお兄ちゃん。  なるほど、ちょろい。 「きゃははっ、だったらもっと、しゃぶってあげるわ」  もっともっと、瑠璃のお兄ちゃんをイジメてあげたくて。 「れろっ……ん、ちゅうっっ、ん、じゅるるるるるっ!!」  舌と唾液を、絡ませて。 「れろれろっ、んちゅうううっ、じゅるっ、ん、はぁっ……!」  熱烈な、奉仕を捧げる。 「くっ、そっ……!」  苦しそうな声が聞こえてくる度、嬉しくて。  だけど妾は、この構図の弱点に気付いていなかった。 「んちゅっ……ん、ぁっ……えっ?」  お尻に、瑠璃のお兄ちゃんの指が這ってきて。 「やられるばかりじゃ、嫌だ」 「やっ――!! んっ、何を、していっ――!」  そのまま下着をずらされて、性器が顕になってしまう。 「やぁっ! 勝手にっ、何をしているのかしらっ……!」  自分のことなど、棚に上げて。 「舐めるぞ」  舐める? えっ、何を?  と、口に出すまもなく、応えを突きつけられる。 「ひやぁぁあっっ!! ん、ぁっ……! ふぅううっ――!!」  瑠璃のお兄ちゃんの舌が、妾の大切なところをねっとりと舐めていく。  べろべろと、べろべろと、わざとらしい音を立てて、何度も繰り返す。 「ふぁっ……やめっ……いやぁぁぁっ……!!」  与えられる感覚は、とてもむずむずするもので。 「ひうっ!! やぁんっ!! やめぇっ……!!」  舐めるばかりではなく、舌先を沈ませたり。  「あがっ……! ふぁっ、ぅ、ぁあああああっ!!1」  吸い付くように唇を付けて、激しい刺激を与え始める。 「これ、じゃぁっ……フェラ、出来ないわよぉっ……!!」 「お返しさ」 「ぐぅっ……!! やぁっ……もぉっ!!」  恥ずかしさと気持ちよさをこらえながら、何とかそれを握りなおして。 「ひうっ、ああっ、ん、ちゅうっ……!!」  快楽に負けないよう、刺激を与え返すことにする。 「んちゅうっ、んぁあっ!! ふぁっ、れろっ……んっ、ぁぁぁっ……!!」  けれど、快楽に悶えながらの舌の動きはたどたどしく。 「んっ、ぁっ……やぁあっ!!」  一方的になすがままの状況は、とても、とても、我慢できなくて。 「――はぁむっ!! じゅるっ、んぁっ、じゅるるるるっ!! ん、ぐぅっ……!!」  深く、深く、咥えこんで……大きい動きで、刺激することにした。 「うぁっ……」  その選択が正しかったのか、瑠璃のお兄ちゃんの愛撫は少し弱まって。 「んじゅるっ、んちゅうっっ、んぁっぁっ――!!」  手の動きと相まって、瑠璃のお兄ちゃんを苦しめていく。 「駄目だっ、ちょっと、たんまっ……!」 「ほぇっ? やらっ、またなひのぉっ――! んじゅるるるるっ、ん、ちゅうううっ!!!」  待てば、やり返されると分かっていたから。 「くそっ――! こうなったらっ」 「ふぉぁぁあっ――! んぁっ、それ、やらっ……!!」  負けじと瑠璃のお兄ちゃんも、妾にむしゃぶりついてくる。 「んじゅるっ、んぁっ――もぉ、らめっ……!」  激しい攻撃は、限界近く。 「俺も、くそっ、無理だっ、我慢できるかぁっ――!!」  どっちが先か、どっちが勝ちか。  それがわからないほど同時に、強い強い、変化が訪れる。 「じゅるっ、んちゅうっ、ん、んんっ、んんんん!?」  口の中で、それが大きく脈打った。  体の奥底が、切なそうに悲鳴を上げて、意識を果てさせる。 「ん、ぁっ――んんんんんんんんんんんんんんんんんっ!!」  意識がかなたに連れ去られそうになる瞬間、口の中で盛大に弾けた欲望。 「ぐぅっ――!」  どろどろと、口の中に絡みつくそれは、まさしく瑠璃のお兄ちゃんが果てた証。  大量の精液が、妾の口の中を犯していた。 「ひぅっ……はぁっ……!」  だけど、妾自身もまた、果ててしまっていて。 「やぁっ……こんな、はずじゃっ……!」  恥ずかしさに答えながら、口の中の精液の残滓を味わっていると。 「もう、いいよな?」  瑠璃のお兄ちゃんは、疲れ果てた妾を抱きしめて。 「挿れるぞ……?」 「えっ……あっ……うんっ……」  何故か、素直に頷いてしまった。 「ひぁっ――!! んっ、ぁあああっ――!!」  めりめりと、妾を突き破っていく感覚。  瑠璃のお兄ちゃんに包まれながら、妾の初めてが失われていく。 「きっつっ――!」  痛みが、脳みそを突き刺して。 「ひぎぃっ――! やっ、痛いっ、痛い痛い痛いっ――!!」  子供のように、妾は泣き喚く。 「抜いてっ、やだっ、痛いのっ、やだぁっ――!!」  そうして、少女のように泣き喚いた妾は、ふと我に返る。 「……違う、わ」  妾が、欲しかったもの。  今、こうして無理やり迫って、思い知りたかったものは――痛み、などではなく。 「大丈夫か……? 無理そうなら、止めておくか?」 「何も問題ないわっ……!」  痛みを訴える妾を、心配そうに見つめる瑠璃のお兄ちゃん。 「痛くなんかないから、思いっきり突き破って頂戴」 「はっ?」  躊躇う瑠璃のお兄ちゃん。  だから妾は、深く、深く――自らの意志で、腰を下ろす。  根本まで、一気に。 「ひぐっ――! 痛っ――くん、ないんだからぁっ!! 痛くないわよぉ!! 痛いわけ、ないからぁっ!!!」  涙目になりながらも、最奥まで駆け抜けて。 「っはぁっ……! っはぁっ! どう、かしらっ……ちゃんと、挿れられたわよ?」 「無理しやがって……」  妾の頭を、優しく撫でる。  それだけで、痛みが消し飛んでしまいそうだった。 「動いて、瑠璃のお兄ちゃん」  切なそうに、お願いする。 「痛みも、全て、欲しいの。沢山、沢山、思い知らせて」 「……わかった」  そこで止めるほど、瑠璃のお兄ちゃんは臆病ではない。  妾の覚悟も、ちゃんと汲み取った上で、動いてくれる。 「んっ……っ……!! おっきぃっ、くてっ、深いっ……!!」  こんなものを、世界中の女の子は突っ込まれているのか。  そう思うと、他の女の子は、妾よりもずっと強いのだと思い知らされる。 「ふぁっ……んっ、あっ……!! くぅっ――!!」  ゆっくりと、着実に繰り返される上下運動。  瑠璃のお兄ちゃんの喘ぎ声だけが、今の妾の全て。 「気持ち、いいっ……? 気持よく、なってくれてるの、かしらぁっ……?」 「ああ、もちろんだっ」  嘘だ、と。  妾はすぐに分かった。  「んっ……あっ……やぁっ……!!」  こんなに、濡れていない中は、ただ狭苦しいだけで。  痛みを堪えているだけの少女に、申し訳無さでいっぱいに決まっている。  だけどそれを見せず、腰を振って、少しでも感じていようとしてくれて。 「どうしたら」  ちゃんとしたエッチが、出来るのかしら。  それが分からなくて、分からなくて。 「愛して、欲しいのに」  切なさが、胸をかすめて。 「ん、ぁっ……!」  けれど、僅かに、ほんの僅かに、痛みの果てに何かを見たような気がした。 「やんっ……んっ、ぁぁぁっ、あんっ、あんっ――!」  声に、色味がまじり。 「ふぁっ、んっ、くぅっ――! やだっ、変な、気分にぃッ!!」  自然と、声が出てしまっていて。 「くっ、やばっ――!」  瑠璃のお兄ちゃんから、余裕のない声が聞こえてきた。  本当に、妾の中で気持ちよくなってくれているんだと思うと、胸がきゅんとする。 「ぁっ、やぁっ、急に、痛く、なくなってっ……!!」  どんどん、溢れてきたもの。 「ふぁっ、んっ、ああんっ、あんっ、ああんっ――!」  くちゅくちゅと、湿った音を奏で出す。 「やぁっ、気持ち、いい……? かもっ!! 瑠璃のお兄ちゃんの、それ、いいっ……!」 「くう――!」  腰の動きが、加速していることに気付かない。 「やっ、ぁんっ、ふぁぁぁぁっ、あんっ――!」  坂道を転がり落ちるかのように、妾は快楽の渦に飲まれていく。 「すごっ、これ、凄いっ!! 気持よくてっ、凄くてっ、いいっ!!」  痛みは、何処へ消えたのか。  瑠璃のお兄ちゃんの優しさが、全てを覆い隠してしまって。 「好きっ、愛してるっ、大好きなのっ――! そうやって、普通に、恋をしたかったぁっ……!」  当たり前に、存在するもの。 「妾は、魔法使いじゃなくてっ、あんっ、んっ――!」  当たり前に、存在するもの。 「普通の、女の子なんだからぁっ――!!」  きっと、そんな当たり前のことを、諦めていたんだ。 「くっ、そろそろ、ヤバイっ――! 「いいわよっ! 好きに、果ててっ……! 存分に、教えてっ!! 瑠璃のお兄ちゃんの、全てをっ――!」  妾の全てが、彼を求めていて。 「あんっ、あんっ、やぁんっ――んっ、あっ、あんっ! あっ――!」  ぎゅっと、目を瞑って。 「ひ――ひゃぁあああああああああああああああんんっっっっ!!!!」  盛大に、昇天する。 「ぐうっ――!」  注ぎ込まれる精液の熱さに、脳みそは完全に蕩けてしまって。 「ぅ、ぁ……ぁつ、くて……おもい……」  妾の中で、染みこんでいく白濁液。  女にさせられたことを自覚して、一筋の涙が零れ落ちていく。 「ありがとう……瑠璃のお兄ちゃん」 「……俺の方こそ、気持よかったよ」  そういうことじゃ、ないんだけれどね。  だけど、そういうことにして欲しい。 「ん、ちゅっ……!」  最後に、やさしいキスをして。 「好きだよ、×××」  別の少女の名前を呼んで、静かに眠りに落ちる瑠璃のお兄ちゃん。 「……妾は」  その唇が、その言葉が、妾に向いていないことは理解している。  だからこそ、満ち足りた今でも、空虚な何かが胸の中へと去来して。 「この夢も、全て忘れて」  非現実の中での間違いは、全てが幻となって消える。 「妾の我儘に、付きあわせてしまって、ごめんなさい」  だけど、どうしても抱いて欲しくて。  それを教えてくれなければ、妾は再び間違えてしまいそうだったから。 「紙の上の魔法使いは、愛を教えられて魔力を失っていく」  もう、災いを呼ぶ力もなく、無力なひとりとして。 「――そうして妾は、ようやく、憎しみを忘れられる」  それは、生前、一度だって手にすることが出来なかったもの。  「女の子は、誰かに恋をして、強くなっていくのね」  ほろり、涙が流れて。  さあ、この夢を終わらせよう。  そして、全ての物語は語り終えられる。  幻想図書館での一連の事件は収束し、ようやく、ようやく、平穏が訪れたのだ。  『煌めきのアレキサンドライト』を読んでから、クリソベリルの受難を理解して。  前後の記憶がややうろ覚えなものの、夜子の気持ちに共感してしまった。 「あたしは、出来ないから」  一度は破り捨てようとした魔法の本。  そこに、少女の凄惨な過去を見てしまって。 「それは、同情?」  冷たく笑うクリソべリルに、夜子は大きく頷いたのだ。 「そうよ。だから、同情されながら生きてみなさいな」  夜子は、破り捨てることなんて出来やしない。  当時のクリソベリルの気持ちが、痛いほどにわかってしまうから。 「あ、理央さーん! 私は紅茶でお願いしますー!」  そして。  そして、日常がやってきた。 「おっけーだよ! ちょびーっと待っててね!」  相も変わらず、楽しげな広間。  笑顔が咲き乱れる、素敵な空間だ。 「かなたは、どれだけ紅茶を飲むつもりなのよ。それで3杯目よ?」 「いいじゃないですかー! 理央さんの入れる紅茶が、美味しいのが悪いんです!」 「えへへ、そう言ってくれると頑張っちゃおっかなー!」  思わず頬が緩んでしまうような光景が、今はとても愛おしい。 「そういえば、明日から学園に通うんでしたよね! わー、楽しみです!」 「……ふん、別に、大したことじゃないわよ」  強がりを口にしながら、夜子は胸を張る。 「折角在籍しているのだから、少しは通ってあげようかという気になっただけ。特別な感情はないわ」 「えー、そうなのー?」  理央が、にこやかに笑うと、夜子は罰の悪そうな表情を浮かべる。 「そ、そういうわけじゃないけど」  ちらりと、かなたの様子を伺って。 「……かなたや理央との学園生活が、ちょっとだけ羨ましくなっただけ」 「はい、ありがとうございますー! 素直になれましたねー!!」 「なんか、むかつく」  まるで子供扱いに、さすがの夜子も唇をとがらせる。 「夜子は」  そして。 「夜子は、本当に――変わろうとしているのね」  傍らに佇むクリソベリルが、俺に語りかける。  幸せな光景を眺めながら、何処か寂しげに。 「クリソベリルを受け入れるってのも、その一歩だろうな。夜子の成長を見守るのが、次のお前の役目だな」  『煌めきのアレキサンドライト』が閉じてから。  俺と夜子は、他のみんなにもその過去を打ち明けた。  嫌がるクリソベリルだったけれど、夜子の意志には逆らえず。 「わかってるわよ。瑠璃のお兄ちゃんこそ、後悔しないようにね」  結果として、全員が夜子の選択を尊重してくれたのだ。  クリソベリルを、日常に迎え入れる。  それぞれ思うところはあるかも知れないが、それでも笑って受け入れてくれた。 「後悔ってなんだよ。この結末に、後悔なんてあるものか」 「別に、今はそれでいいのかもしれない。けれど、遠くない未来に、妾のことを許せなくなる時が来るかもしれないから」  希望を持っても、絶望が待ち受けている。  そういう世界しか知らないクリソベリルは、今の現状を信じることが出来ない。 「もし、妾の存在が憎く思えてしまったのなら――瑠璃のお兄ちゃんの好きにして欲しい」  そうして差し出された、一冊の本。  確認するまでもなく『煌めきのアレキサンドライト』だ。 「妾は、瑠璃のお兄ちゃんたちを不幸にさせてしまったことに変わりはないわ。特に、妃ちゃんには恨まれても何も言えないでしょう」  間接的に、死の原因を作ったのは。  やっぱり、クリソベリルなんだから。 「上手くまとまって、決着したように見えるけれど――そこを忘れてはいけないわ」  だからこそ、贖罪の証。  そういう意味で、自らの魔法の本を俺に委ねるのか。 「俺が、お前を許せなくなる時が来るとしたら」  その本を、受け取らず。 「夜子を、不幸せにした時だよ」  突き返して、笑ってみせる。 「今度は、夜子にとっての幸せがどういうものなのか、よく考えて行動することだな」  夜子の幸せは、夜子一人が満足して生まれるものではなく。  周囲の人間含めて、満面の笑みを浮かぶようなものでなければならないのだ。  そういう意味で、空想に甘えた幸福は、夜子にとっての最良ではなかった。 「……わかってるわよ」  そしてクリソベリルは、遠巻きに理央を捉える。 「そのために、妾は闇子の命令を抹消したんだから」  紙の上の魔法使いの、最後の仕事。  それは、命令に縛られて、恋を失った少女を、解き放ってあげること。  今の理央は、誰にも支配されることのない、何処にでもいる女の子だ。 「だけど、いいのかしら。理央ちゃんは、きっと瑠璃のお兄ちゃんのことを好きで居続けるわよ。あの子、とっても一途だから」 「それでも、見なかったことにして有耶無耶にするのだけは間違っていると思うから」  きっと。  きっと、これからもまた、俺たちの間には色々な事件が起きるだろう。  だけどそれは、そうなることは、悪いことではないと思うんだ。 「人と人が関わっている時点で、事件は起こってしまうんだ。そのときはそのときで、頑張るよ」  青春に夢を見た、生きていた頃。  俺は、誰もが笑っている場所を作りたいと願っていた。  「そういえば」  『アパタイトの怠惰現象』  妃も、そういう世界を夢見ていた。  色々形は変わってしまって、その通りとはいかなかったが――これも、悪くはないはずだ。 「おい、何してんだよ。邪魔だっつーの」  背後で、声をした。  振り返るまでもなく、それが汀だと分かっていて。 「なんだ、帰ってきてたのか」 「当たり前だろ。ようやく――終わったってんだからな」  薄い目で、傍らに立つクリソベリルを睨みつけ。 「俺の目の黒いうちは、好き勝手に出来ると思うなよ」 「どうぞ、お好きに」  色々と、〈禍〉《か》〈根〉《こん》は残してしまっている。  汀はクリソベリルを許さないだろうし、クリソベリルもまた許されるとは思っていない。  けれど、今はこれでいい。  それはゆっくりと、時間をかけて解決していくものだと思うから。 「けっ、ほとほと甘い奴らだな」  俯くクリソベリルから視線を外し、汀は吐き捨てる。 「俺のことかよ」 「違ぇよ。おい――夜子! 愛するお兄様が帰ってきたぞ?」 「はい?」  突然呼ばれた夜子は、驚いたように視線を向ける。 「汀、帰ってきてたのね」 「気付くのがおせえんだよ。ったく」  苛々したように、落ち着きのない汀は。 「それよりも、新入りはちゃんと構ってやれよ。瑠璃なんかに相手させてたら、可哀想だろうが」 「へ? ――きゃぁっ!!」  それまで。  楽しそうな様子を、遠巻きに見つめていたクリソベリル。  彼女の背中を強く押して、無理やり、日常の輪の中へ飛び込ませる。 「な、何をするのよブラコン! 妾は、別に――!」  慌てふためくクリソベリルは、やっぱり馴染めていない様子。  しかし、そこはやっぱり、優秀なメイドさんが。 「紅茶がいい? 砂糖はいくつ? 甘々がおすすめだよ!」 「あっ……」  にこやかな笑顔で、蕩けさせようとしてくれる。  無駄な言葉を、口にせず。  当たり前のように、迎えてくれようとして。 「やーん、可愛いー! 恥ずかしがっちゃってー?」  とっさに、かなたがクリソベリルに抱きついた。  ぬいぐるみのような扱いに、クリソベリルは困惑する。 「え? ええ?? これはどういう状況なのかしら!?」 「夜子さん以上に華奢ですねえ! ひらひらのお洋服が羨ましいくらいに素敵! この魔女っ娘コス、私も着てみたいです!」 「似合わないから、やめておきなさい」 「ひ、ひどい!」  クリソベリルを中心に、がやがやと騒々しくなる広間。  無理やりねじ込んだ汀の行動が、全員の背中を押した形になったのか。 「ったく、変なところでビビリだな」 「夜子がか?」 「お前ら全員だよ」 「……しょうがないだろ」  それまで、色々あったんだから。  すべてを水に流してというわけにもいかないのだから、自然と肩肘が張ってしまう。 「お前がそれでいいっていうなら、俺たちは誰も文句言わねえよ。クリソベリルを最も許せないのは、他ならぬお前なんだから」 「そんなことを、言われても」  最善を選び続けていたら、こうなるんだよ。 「ま、お前がそういう風に選べたから、今があるんだろうな」  見ろよ、と。  汀は、華やかな世界を指さした。 「それにしても、とっても似ていますよねー! さすが、血筋? ちょっと並んでくださいよー!」 「ちょ、ちょっと、かなた!?」  ぐいぐいと、かなたが夜子を押して。 「魔法使いちゃんも、ほらほらほらー!」 「ちょ、ちょっと!」  理央が、クリソベリルを推した。  おしくらまんじゅうのように、半ば抱き合うような形で夜子とクリソベリルは密着する。 「肌が、くすぐったいわ!」 「わ、妾も、恥ずかしい!」  そうして並んで見れば、確かに二人はよく似ていて。  さながら、双子のようにも思えてしまう。 「よく似てますね、よく似てます! 可愛い、お人形さん見たい! お持ち帰りしたくなるー!」 「お洋服をちぇんじしても、よく似合いそう!」  黄色い声に、空気は緩んでいく。 「い、嫌よ、こんな露出の多い服! 絶対に着たくないわ!」  と、夜子が声を荒げると。 「妾だって、夜子みたいな重そうな服は嫌よ! もっと可愛らしいのがいいわ!」  クリソベリルも、負けじと声を荒らげた。  その光景は、幼い姉妹のようにも見える。 「きゃはは、夜子はまだまだお子様だから、お肌は見せられないものね」 「くっ、自分だって、見せられるようなものがないくせに……!」  苦虫を噛み潰したような、夜子の表情。  恥ずかしさが、にじみ出ていた。 「……ねえ、夜子」  次第に、その距離に慣れたのか。  クリソベリルは、顔を少し近づけて。 「その長い髪の毛を、もっと妾に見せて頂戴」 「う……どうしてよ」  やや紅潮させたまま、クリソベリルは夜子の髪を手にとった。  とても繊細な手つきに、思わず夜子も戸惑っている。 「これでも、妾は、嬉しかったのよ」  白い髪の毛に、視線を落としたまま。 「貴女がこの髪の毛を、恥じないでいてくれたことが」 「……ん」  いつか。  そう、いつか。  夜子は、語ってくれたことがある。  その髪を、隠すようなことをしたくはないと。  黒染めをして人の目から逃れようとする行為が、どうしても許せなかったって。  「別に、なんとも思わなかったわけじゃ、ない」  過去。  自ら墨汁を被って、白い髪を否定したこともあったけれど。  「ただ、お母さんが悲しい表情をするから、あたしはこの髪を誇りに思うようにしたの」  今度は夜子が、クリソベリルの髪を撫でる。 「この髪は、お母さんがくれたものだから」  そして。 「――クリソベリルから、受け継いだものなのね」  白い髪が、交じり合って。  赤い瞳が、交錯する。  まるでこの図書館が別世界のようにみえるほど、幻想的な光景だった。 「ありがとう、夜子」  そして。 「ごめんね、夜子」 「……ん」  いつしか、二人は自然に寄り添って。  本物の姉妹のように、互いの存在を求めていた。  「こんな光景を見てしまったら」  隣には、汀がいて。  あいつは、どう思ったのだろう。 「今、俺たちがこうしていることが――間違っていないと、確信できるよ」  クリソベリルに対して、何も思わなかったわけじゃない。  解消しきれないわだかまりも、もちろんあったけれど。 「それさえも飲み込んで、この図書館は幸せに満ちていくんだ」  紙の上の魔法使いは、一人の少女に変わって。  「そうだろ――妃?」  天を見上げて、呟いた。  どこかで蛍色の煌めきを感じたような気がして、自然と笑顔が零れ落ちる。  それが、これからの幻想図書館の、物語だ。  紙の上ではなく、現実の上に描かれるストーリー。  それが、生きているという意味なのだろうと、俺は知っている。  *** TRUE END *** 「現実、活字が織りなす紙の匂いのした世界」 「空想、境界線を歪み揺らめく真実」  小さな世界に囲まれて、埋もれて、沈みながら、それでも境界線を失った現実に身を任せていく。  自らの意志で籠の中に留まることを選んだ白い小鳥は、朽ち果てるまで翼を広げることを拒み続ける。  大空を舞うことに、憧れを持つことはなかった。  空を飛ぶことに憧れを持つのは、飛ぶことの出来ない者の特権だ。 「……これからあと何冊の本を読むことが出来るのかしらね」  この世全てに存在する、ありとあらゆる物語。  それを咀嚼し続けることが、あたしの生涯だった。  ただ、その他に目的も楽しみもなく、ひたすらにページをめくる。  他人から見れば、それがいかに特異であるかくらいは、理解できていたけれど。 「まるで、命の蝋燭」  本を読み終えていく毎に、達成感を覚える。  一つの物語が閉じて、あたしの命も終わりに近づく。  あたしにとっての寿命とは、あと何年何十年という時間の区切りではなく、後何冊という本の区切りだった。  この図書館にある本全てを読み終えてしまったら、そのときはどうなっているのかしら。 「それでも」  そんな生涯に不満はない。  それどころか、充実しているとさえ思う。  活字だけしか存在していない籠の中の世界は、外の世界よりもずっと素晴らしいものに見えてしまったのだ。  ここは、そんな優しくて素敵なあたしの世界。  森の奥に佇む幻想図書館は、甘い幸せを見せてくれる。  現実も非現実も混ざり合い、常識は歪曲されていく。  魔法のような物語が、奇跡のような物語が、現実に現れるのだろう。  それが誰の仕業かと尋ねられれば、声を揃えて答えましょう。  籠に留まることを選んだ白い小鳥は、胸をときめかせて奇跡を観測しましょう。  幻想図書館に収められている、とある本。  魔法や奇跡を体現させるのは、読者でもなく、作者でもなく――一冊の、本だった。  語り部は、『魔法の本』。  現実と空想の境界線を失わせる、規格外の代物だ。   一歩、島へ降り立った瞬間。  帰ってきたことを実感すると、思わず込み上げてくるものがあった。  潮風に吹かれながら、ニ年前から何も変わらないこの島に、今は懐かしさ以上の友愛を抱く。  送り届けてくれた船乗りに小さく会釈をして、懐かしさを貪るように歩を進めた。  鼻をこする春の匂いは、嗅ぎ慣れた桜の香り。 「……久しぶり、か」  二年。  言葉にすると、軽い言葉だった。  あまりにも乾いた灰色の時間は、俺にとって何物にもなることはなく、ただ漫然と過ぎ去っただけ。  思い出も、思い入れも、欠片すらない。  足の裏から伝わる大地の感触から、おかえりと言われたような気がした。  ぎゅっと歩を進める事で、ただいまと返す。  感傷に浸る自分が珍しくて、少し、笑みが零れ落ちた。  記憶を頼りに、かの場所へ。  故郷へ戻ってきた俺が目指す場所は、まずあそこであるべきだ。 「海は、嫌いです。潮風がべたついてたまりません」  島へ降り立った俺を一番に迎えたのは、家族だった。  彼女の名前は、月社妃という。  別居した両親のうちの、母親の方に残された、実の妹。 「それだけ髪が長いと大変だろうなぁ」  目をそらして、どうでも良さそうに返す。  数ヶ月振りの再会でも、俺たちの距離感は何一つ変わっていなかった。  妃は、水平線の彼方を見つめている。  風に靡く髪の毛を片手で抑えながら、無表情に。 「それでは、いっそのこと肩の辺りまで切り落としてしまいましょうか」  意地悪そうに、笑ってみせた。 「お前は長い方が似合うんだから、そのままにした方がいい」 「そんなことは、分かっていますよ。瑠璃は私の髪にメロメロですからね」  優雅に髪をかきあげる。  挑発的な視線が、まるで誘っているように見えた。 「何いってんだか」  呆れながら、海岸沿いの遊歩道へ歩を進める。  妃の言葉をいちいちまに受けていたら、きりがない。 「本土の生活は、いかがでしたか? 私のいない場所では、さぞのんびり出来たことでしょうね」  肩を並べながら、久方ぶりの雑談に興じる。 「ああ、平和で素敵な毎日だったよ」 「無味乾燥」 「幸せで愉快な日常だった」 「退廃的で無刺激な時間の奔流」 「……お前なあ」  勝手に人の毎日を決めつけやがって。 「それでも、これからはとても起伏ある毎日になりますよ」  ぴん、と指を立てて、唇の端を吊り上げる。 「これから瑠璃を、たくさん可愛がってさしあげましょう。たくさん、虐めてさしあげましょう」 「そういうところも、相変わらずだな」  兄を兄とも思わずに、妃は俺のことを扱う。  昔から、いつだって、そうだった。 「何故なら、私は瑠璃のことが、大嫌いですから」  上目遣いに、冷ややかに笑う。 「嬉しそうに、言うんじゃねえよ」  言葉に説得力が、なかった。 「被虐趣味のくせに」 「あのなぁ!」  不当な指摘をされて、思わず声が荒ぶる。 「そして私は、加虐趣味」  唇に手を当てて、艶かしく続けた。 「もっともっと、瑠璃のことを嫌いになりたいですね。積極的に、嫌ってあげたいです。あなたはどんな風に、鳴いてくれるのでしょうか」 「とんでもない妹を持てて、俺は幸せだよ」  不機嫌を目いっぱいに込めて、嫌味を送る。 「あら、それは残念ですね」  心底つまらなさそうに、妃は言う。 「幸せな瑠璃なんて、見たくありません。もっともっと、不幸になってください」  いえ、と。  首を振って、透き通る声で念を押す。 「――私が、責任をもってあなたのことを不幸にしてさしあげましょう。安心して、不幸の渦へ沈んで下さい」 「余計なお世話だ」  本当の、本当に。  「……ったく、あんまり口が悪いと、性根が腐ってることが周りにバレちまうからな」  成績優秀、容姿端麗、才色兼備。  いわゆるクラスの高嶺の花として、輝かしく咲き誇っている。  もちろんそれは、俺の前以外で。 「あら、それこそ余計なお世話ですよ」  一歩、踏み出してから。 「猫を被るのは、得意ですから。それに、家族の前だけでは素直になる妹なんて、可愛らしい事この上ないでしょう?」 「出来れば俺の前でも猫をかぶってくれると嬉しいんだがな」  腕を組んで、言い返す。  高嶺の花に、騙されていたかった。 「……てか、両親の前では、素直以前の問題じゃねぇか」 「何を今更」  両親、という単語を出しただけで。  こうも不機嫌に、表情が変わるものなのか。 「くだらない事を言わないで下さい。あの人達は家族でも何でもない――ただの、血の繋がった他人です。家族は、せいぜい瑠璃だけ」  月社妃は、両親のことが心から嫌いだった。  いや、嫌いという単語は、そぐわないのかもしれない。 「どうでもいいんですよ、あんな連中。嫌うどころか、それ以前の問題ですね」  存在として、認めていない。  以前、妃は彼らのことをそう評価した。 「それにあの人達だって、私のような厄介者が消えて、清々していることでしょう」 「……そうだな」  何も、言えなかった。  言い返す権利も、なかった。  妃の"嫌い"は、とても複雑で、様々な意味がある。  この島にある学園へ通うための、下宿先。  親元から離れ、気兼ねない毎日を過ごすため――妃は、暫く前から、遊行寺家にお世話になっていた、というのがこれまでの経緯である。 「あのお屋敷は素晴らしい図書館ですからね」  そして、新年度。  この島にある藤壺学園に通うこととなった俺は、妃と同じように、これから遊行寺家のお世話になる予定だった。  ちなみに、年齢が一つ下の妃は、鷹山学園に通っている。  順当に行けば、鷹山学園を卒業して、来年には藤壺学園に入学するのだろう。 「子供のころは、あの図書館で毎日本を読んでいた気がするよ」  俺たち兄妹の、共通の趣味。 「あいつは――夜子は、今でも本の虫なのか?」 「答えるまでもない、愚問ですね」  俺たちの青春は、紙とインクで築きあげられたものである。  とある島の森の奥、ひっそりと佇む小さな個人図書館。  本を読むことが、俺達の幸せだった。 「……ああ、そうだな。あいつから活字を取り上げたら、何も残らなくなってしまう」  ニ年振りに訪れてみれば、懐かしさ以外の感情は込み上げてこない。  「本の匂いが、する」 「甘く、耽美な匂いですね」  兄妹、揃いも揃って活字中毒者。 「相変わらず、人っ子一人立ち寄らなさそうな雰囲気だな」 「もちろん、一般人は立入禁止ですよ」  部外者は、一切の関わりを拒絶する。  排他的な個人図書館は、しかし、それでも魅力的だった。 「ようこそ、瑠璃くん。お帰りなさい、妃ちゃん」  門前に待つは、屋敷の現代当主。 「お久しぶりです、闇子さん」 「あらあら、格好良くなりましたね」  俺の幼馴染である、遊行寺夜子と、遊行寺汀の母親だ。 「私たちは、あなたを歓迎致します」  認められて、招かれて。  そして俺達の物語が始まるのだ。 「幸せを、たくさん読みましょう」  この、幻想図書館で。  屋敷の中へ案内されると、まるで別世界に迷い混んだのかと錯覚した。  外観の古めかしさと相反して、内装は趣のあるアンティーク品で統一され、必要最低限にまで絞られた灯りは落ち着きと安らぎを与えてくれる。  特筆すべきは、辺り一面に広がるおびただしい量の本棚。  個人図書館の名に恥じない、膨大な蔵書量である。 「昔よりも、存在感が増したように見える」 「あれからも、たくさんの本を集めたの」  嬉しそうに、闇子さんは説明してくれる。 「ここにあるだけではないのよ? 本棚に納めきれない量になっちゃって」 「うへぇ、これは卒業まで、退屈しなさそうだ」  確認できる本の量だけでも、読みきることは難しそうだが。 「ここを瑠璃くんの家だと思って、好きに使って頂戴ね」 「ありがとうございます」  至れり尽くせりの厚待遇で、申し訳ないくらいだ。 「気にしなくたって、構わないわ。あなたたち二人は、夜子の数少ないお友達だからね」 「……私はともかく、瑠璃はどうなんでしょうね」  意地悪に、妃が口を挟む。 「確かに、瑠璃と夜子さんは、ある意味素敵な関係でしたけどね」 「さぁ、どうだろうなぁ」  苦笑いを浮かべたまま、あやふやに返答した。 「ちなみに、俺がここでお世話になることを、夜子は納得したんですか?」 「納得するどころか、夜子は何も知らないわよ」 「……え」  苦笑いの表情が、ぴきりと凍りつく。 「だって、説明しても納得してくれそうになかったんだもの」  そう言って、闇子さんは微笑んだ。 「だから、ここでのあなたの最初の仕事は、夜子に認めてもらうことになるのかしら」 「……最初っから、絶望的なんだけど」  頭を抱えながら、先の未来に憂いを感じた。 「夜子さんは、瑠璃のことが大好きですからね」 「嬉しそうに嫌味をいってくれるなよ」  その、真逆だ。 「今更ながら、よく俺を迎えてくれましたね。夜子の嫌いな、俺を」  闇子さんは、娘に対して異常に溺愛しているところがある。  だから、あいつの嫌悪する人間を、ここにおいてくれるとは思わなかった。 「今まで、そうはいなかったのよ」  柔らかな物腰のまま、語る。 「あの子が他人のことを嫌うのはいつものことで、それこそ例外は妃ちゃんくらいのものでしょうが」  瞳が、俺を優しく捉える。 「正面から喧嘩できるような相手は、瑠璃くんだけだったから」 「…………」  少し、思い出が美化されているような気がした。  それはただの不毛な争いでしかなかったはずだ。 「特別何かを意識する必要なんて、ないのよ? いつも通りのあなたでいれば、それで構わないから」  この人は、俺に何を期待しているのだろうか。  何かを期待しているのなら、それは徒労に終わってしまうだろうに。  「あーーーー! 瑠璃くんがいるーーーー!」  間延びした声が、図書館の広間に響き渡った。  その声につられて振り替えると、見覚えのある顔が一直線に駆け寄ってきた。 「ひっさしぶりーーーー!」  幼馴染みが一人。  俺や妃のように、この家でお世話になっている女の子。  名前は―― 「理央だよーーーーー!!!」 「って、おい!?」  駆け足の勢いのまま、身を投げるようにして抱きついてきた。  不意の接触に驚いて、戸惑うばかり。  アンバランスに揺らめいて、転ばないように受け止めた。 「うわぁ、本物だあー! 瑠璃くんの匂いがするよおー! 懐かしいなあ」 「…………」  胸に顔を埋めて、頬をすり寄せる理央。  確かに昔はこういう直情的なスキンシップが多かったが、この年で同じことをされると……。 「瑠璃くん、理央のこと覚えてるー? 忘れちゃってたら悲しいな。それでも、理央の匂いで思い出させてあげるよー!」 「ほほう、どれどれ」  寄り添う理央へ、顔を近付けようとして。 「何をしれっと堪能しようとしてるんですか」  あえなく妃に釘を刺されてしまう。  呆れ声が、俺の蛮行を止めさせる。 止めてくれて、ありがとう。 「いや、その、せっかくだし」  と、ほのかに笑いながら、理央の体を引き剥がす。 「ありゃ、もうおしまい?」 「これ以上すると、俺がおしまいになっちまうからな」 「そっかー、それならしょうがないねー」  一貫して満面の笑みを崩すことなく、理央は言う。 「お前は、びっくりするくらい何も変わってないなぁ」  人懐っこくて、天然混じりの性格とか。  常にマイペースで、笑顔を絶やさないところとか。  伏見理央という女の子は、今でも健在だった。 「えへへー、そっかなぁ?」  もじもじしながら、照れ臭そうに笑う。 「それじゃ、理央ちゃん、あとはお願いね。私はこれからお仕事があるから」 「はぁーい! お任せあれ! いってらっしゃいませ、お館様!」  手を挙げて承る理央。 「今日も遅くなるだろうから、夜子ちゃんのこと、よろしくね」  後を任せた闇子さんは、俺達に手を振りながら、行ってしまった。 「闇子さんって、どんな仕事してるんだろ?」 「本の収集家、だそうです。あまり深くは知りませんが」 「夜ちゃんのためにねー、毎日頑張ってるんだよー」  ご機嫌な足取りで、理央は歩き出す。 「瑠璃くんのお部屋は、こっちだよーん」  理央の後についていきながら、階段を昇る。  それから真っすぐ行ったところにある廊下で、理央は停止した。 「ここが廊下になるんだよー! 理央たちの部屋は、ここだからね。忘れちゃ駄目だよ?」  手を広げて説明をしてくれる。 「……しかし、相変わらずでかい屋敷だなぁ。いくつ部屋があるんだよ」  目視出来るだけでも、ちょっとしたホテルみたいである。  さすが、遊行寺家の財力といったところか。 「一階が図書館としてのスペースになっていて、主に二階がプライベートエリアというわけです。1階にある本は、好きに読んでいいそうですよ」  無表情に、妃は歩き出す。  つられて、俺達もついていく。 「なるほど」  それでも夜子のことだから、二階にも書庫があるんだろうな。 「瑠璃くんのお部屋は、ここだよー」  廊下を進んで、すぐ。  三つ目の扉に差し掛かった所で、理央は立ち止まった。 「ちなみにお隣は妃ちゃんだねー。向こうには理央の部屋もあるよー? そんで、もうちっと先に行くと、夜ちゃんのお部屋があるの」 「さしずめ、この辺りは居候組のスペースですね。これでも部屋が余っているのですから、恐ろしい」  さして何とも思ってなさそうな、妃の口振り。  口上だけで、実際は我が物顔で利用しまくっているのだろう。  昔から、遠慮の知らない奴だったから。 「何かあったら、理央に言ってよねー。理央はこのお屋敷の、メイドさんみたいなものだから!」  胸を張って、任せなさいと言う。 「あまり迷惑はかけないようにするよ」  居候は身の程を弁えて、行動しよう。 「えええー、減るもんじゃないから、ビシバシ頼ってよね! 理央はここの、先輩さんなんだよー!」 「理央はもう、夜子や汀の家族も同然だろ」  居候とは言っても、俺達とは違う。  文字通り物心ついた時から、この家でお手伝いをしている。  いわば、家族同然の付き合いのはずだ。 「そうだけど、でも、理央はそういうわけにもいかないんだよ」  ぎゅっと手を握りならが、理央は続けた。 「ここに生きて、ここに居て、夜ちゃんのために頑張るのが、理央の務めなのです。だから、夜ちゃんやお館様のお客様を、もてなす義務があるのです!」 「お客様、ね」  友達では、駄目なのだろうか。  その言葉を口にすることはなく、俺は受け流す。 「そういえば、汀はどうしてんの?」  すっかり忘れていたが、この図書館の住人は、あともう一人いたはずだ。  名を遊行寺汀と言って、夜子のお兄さんをしている。 「あの人なら、また遊びに行ってるのでしょう。瑠璃が来ることは知っているので、そのうち顔を見せにくるんじゃないですか」  どうでも良さそうに、妃は説明してくれた。 「それでは、私は部屋へ戻ります。読みかけの小説がありますので、正直に申し上げると、これ以上瑠璃と無駄な時間を過ごしたくありません」  辛辣な言葉で、妃は歩を進める。 「面白かったら、俺も読ませろよな」 「どうでしょう? 夜子さんから借りたものなので、ご自分で許可を取ってはいかがですか」 「……おいおい」  だったら、貸してくれるわけ無いだろうが。  それをわかってて言うのだから、性格が悪い。 「じゃあ、理央も夕飯の支度があるからいくよー。部屋にあるものは好きに使っていいからね」 「ありがとう」 「理央の素敵なお料理で、瑠璃くんをぽっくりさせるのです!」 「出来ればびっくりさせてくれると、ありがたいかな」 「努力するよー!」 「んじゃ、また」  小さく手を振りながら、あてがわれた部屋へ入る。  その部屋は、昔、一度だけ訪れたことのある部屋だった。  確か、突発的に図書館に泊まることになったとき、この部屋を与えてもらったんだっけ。 「あのときは、妃と同じ部屋だった」  まだ幼い俺達は、二人で一つのスペースで十分。  もちろん、年頃に成長した俺達には、二人一つのスペースでは不十分だが。 「……ふう」  一人になった途端、少しだけ疲労を感じた。  抑えきれない感情を覚えながら、それでも平然でいられたのは、懐かしい顔と再会できたからだろう。  自分でも、こうまで禁断症状が強いとは思わなかった。 「……まるで、依存症か」  そのままベッドへ倒れ込み、息を吐く。  緊張が弛緩するのを自覚して、自然に振る舞うことのできた自分を褒めてあげる。 「…………」  嘘を付くのは、得意だ。  感情を隠すのは、平気だ。  だけど一人になってしまったら、この胸の昂揚を抑えることは出来ないらしい。 「自分でも驚くくらいに、好きだったんだな」  布団に顔を埋めながら、湧き出る感情をひた隠しにする。 「船は、苦手だ」  責任を、別のところに向けてみよう。  本音が見え隠れしている自分を、欺くために。  波の揺らめきは、活字に集中しようとする者を邪魔してくる。  だから俺は、乗り物が苦手で――あの振動に、揺るがされてしまう。 「懐かしい匂いだ」  島の匂い。  潮風の匂い。  図書館の匂い。  妃の匂い。  理央の匂い。  これから出会うだろう、夜子の匂い。  ああ、本当に――帰ってきたんだなぁと、実感する。 「…………」  ベッドのぬくもりに包まれながら、壁に目を向けた。  その向こうには、妹がいて。  その向こうには、妃がいた。 「…………」  今は、何も考えないことにしよう。  余計なことは考えず、ただぬくもりを甘受し続けた方が懸命だ。  壁から視線を切って、無表情を作りなおした。  鞄から、一冊の小説を取り出して、ページを開く。  船に乗っている間は、読むことが出来なかった。  良い所で中断していたの事を思い出して、心を落ち着かせるために活字を与えることにした。  それはどこにでもあるミステリー小説で、きっと夜子は読んだことがあるのだろうな、と笑う。  活字を瞳に捉えれば、あら不思議。  全ての雑念が、無に却る。  そうして時間を忘却するほど、俺達は本の世界に囚われるのだ。  四條瑠璃は、決して遊行寺夜子と仲良しだった訳ではない。  むしろ、顔を合わせては喧嘩をするような、犬猿の仲だったとさえ思う。 「近寄らないで。話しかけないで。存在しないで。キミのことが、心から嫌いよ」  照れ隠しでもなく、強がりでもなく。  冷たい声で、全てを否定するかのように宣言した。  あるとき、その理由を尋ねたことがあったが。 「生理的に無理なの」  端的に言い切られてしまって、苦笑いをした記憶がある。  些細な心当たりはいくらでもあるが、それでも、直接的な原因は分からなかった。  結局のところ、夜子と俺は決定的に相性が悪かったのだろう。 「母さんや理央は、どうしてこんな奴を……」  扱いは、ひどくぞんざいだ。  妃や理央とは、態度が一変してしまう。  それでも、そうまで嫌われてしまっても、俺は夜子のことを嫌いにはなれなかった。 「本を読んでいるときだけは、物静かで、儚くて――」  本を読むために生まれてきたのだと、そう思ってしまうほど。 「――魅力的だったから」  そのことを、臆面もなく本人に伝えてみたら。 「そういうところが、大っ嫌いなの」  心から、軽蔑されてしまった。  もはや、慣れたものである。  誰かの気配を感じ取って、微睡みの底から意識が引っ張り上げられる。  どうやら読書をしながら眠ってしまったらしい。  寝ぼけまなこをこすりながら気配の正体を確かめてみる。  「よう、起こしちまったか?」 「……あれ?」  二枚目役者が、覗き込んでいる。  ああ、駄目だ、あんまり頭が回っていない。  小さく頭を振って、雑念を取っ払った。 「随分と疲れてたみたいだな。鍵が開いてたから勝手に入らせてもらったぜ」  鋭い眼光と、モデルのような整った顔立ち。  くるくるの癖毛が、次第に懐かしい名前を呼び起こしてくれる。  「――汀!」 「久しぶりだな、少年」  遊行寺汀は、横たわる俺に、手を差し伸べる。  まるで、登校前に迎えに来てくれた、幼馴染のように。 「もう少年って年でもないんだけど」  自然と笑顔がこぼれ落ちて、汀の手をとった。  ぐいっと、体が引き寄せられて、汀の横へ立たされる。  思いの外力強くて、驚いた。 「俺にとっちゃ、お前はいつまでも俺の弟分だよ」  再会を喜び合いながら、互いに破顔した。  汀は俺の一つ上の学年で、夜子の実のお兄ちゃん。  俺がこの図書館に通っていた頃は、妃ともどもよく遊んでもらっていた。 「しばらく見ねえうちに、随分とでかくなったじゃねーの」 「汀こそ、妃から聞いてはいたけど、格好よさに磨きがかかったな。とても、同じ男子とは思えませんなぁ」  外見通り、というべきか、昔から汀は女の子に非常にモテていた。  持ち前の容姿にプラスして、清濁合わせ呑んだような危うい性格が、年頃の女子には魅力的に写ったのだろう。  最も、その欠点は――。 「へぇ、妃の奴、俺のいないところでは誉めたりしてくれてんだな」  見境のない、妹好きである。 「やっぱあいつ、いい女だよ。俺の夜子と同じくらい、良い妹だ」  妃からの褒め言葉に、心底嬉しそうに笑った。 「妃は俺の妹で、汀の妹じゃないってのに」  妹であれば、それで良いのか。 「ところで、お前が通うのは藤壺学園だったよな」 「ああ、そうだけど」 「俺、留年したから同じ組になるかも」 「はぁ?」  さり気なく伝えられた事実に、驚愕する。 「汀って、そんなに成績悪かったっけ?」 「バッカ、勉強なんかで俺がミスるかよ。理由なんて、決まってるだろーが」  愉快そうに、笑いかけて。 「夜子と同じ教室にいたかった。ただ、それだけだよ」  なんてことのなさそうに、語るんだ。 「いや、やっぱり、馬鹿だろ」  どうしようもなく、シスコンだ。  手の付けられないほど、シスコンだ。 「ああん? 妹思いの兄貴で何が悪いんだっての。ていうかお前こそ、妃が心配で戻ってきたくせによ」 「生憎だけど、俺は妃のことを一度だって心配したことはないぜ。あいつに心配なんて、するだけ無駄だ」  それこそ、余計なお世話といわれるだけ。 「ま、妃はお前のこと、大嫌いだもんなぁ。夜子にしろ、妃にしろ、お前はとことん嫌われる」 「……汀だって、あまり人のことを言えないような」  兄妹愛を信じているのは、汀だけ。  夜子はああいう性格だから、普通にうざがっていた。 「照れ隠しも見極められないんなら、兄貴としてまだまだ未熟ってことだ、少年?」 「へーへー」  どうでもよさげに、受け流す。 「ったく、妃みたいな妹がいるのに、本当に関心が薄いんだな。俺がお前なら、居候なんて絶対に許さねぇぞ?」 「ここは、特別だからな」  そして、何よりも。 「心配はしていない。信頼、してるから」  汀から視線を外して、呟いた。 「へえ、嬉しいこといってくれるじゃん」 「……それなりには」  あやふやに答えて、何かを誤魔化す。 「汀はさ、俺がこの家にお世話になること、反対しないの?」 「ん? どういう意味だ?」  話題転換に、話を振る。 「夜子が疎ましがっている俺を、邪魔だとは思わないのかってことだよ」  シスコンの汀にとって、妹の機嫌を損ねるのは本意ではないはずだ。 「俺はお前のことを気に入っているから、何も思わねーよ。夜子がどう思うかは、関係ないさ」 「それで、夜子が不快な気分になっても?」 「お前が何かしたってわけじゃないんだろ? だったら、そのことで俺がとやかくいうもんでもねえからな。こうみえて、俺は公平なんだぜ」 「よくいうよ。妹だけは、特別扱いの癖に」 「それは、心外だな」  むっとして、汀は続ける。 「特別なのは、幼馴染みも同じだっつーの」 「……なるほど」  そう言われてしまったら、俺には何も言い返せない。 「明け透けもなくそういえるのが、モテる人間の魅力、かな」  立ち上がって、緩やかに笑顔が生まれる。 「お前は本当に、勿体ない男だな」 「ハァ? 何が勿体ないもんかよ」  自信満々、威風堂々、明朗快活。  眩しいほどの輝きは、汀が自分自身に対して、確たる自信を備えているからなのだろう。  だから、言ってのける。 「俺は俺の環境を、死ぬほど謳歌してるつもりだぜ。可愛い妹がいて、家が金持ち。おまけに、親友にさえ恵まれている」 「……そうだな、それでこそ汀だよ」  そういう姿に、憧れを抱いたこともあったっけ。  汀が部屋を出てから、数時間後。  控えめなノックの音と共に、元気な声が聞こえてきた。 「理央だよー! 瑠璃くん、いる?」 「おう、いるぞ」  読みかけの小説に栞を挟んでから、扉を開く。 「夜ご飯の用意ができたので、呼びに来ちゃいました!」 「なんだ、もうそんな時間だったのか。気が付かなかったな」 「ありゃ? 読書ちう、だったかな? ごめんね、邪魔しちゃって」 「そんなことはねえよ」  むしろ、感謝しているくらいだ。 「今日は、理央のお手製シチューだよ! 瑠璃くんが好きだった、ホワイトシチュー」 「おお、懐かしいな。昔はよく作ってくれたよな。理央の料理は旨かったなあ」  幼い頃から遊行寺家の家事をこなしていたせいか、元々の才能があったのか、理央は料理がとてつもなく得意だった。  それは、当時にして年端のいかない少女が作れるレベルを遥かに越えるほど。  「瑠璃くんは、食いしん坊さんだからねー。今日はたくさん作ったよ!」  その他、炊事や洗濯など、見た目は天然ちゃんにしか見えないのに、中身は超高性能なメイドである。 「えへへー、楽しみだなぁ、瑠璃くんに食べてもらうの」 「こういうのって、食べる側が楽しみにするもんじゃないの?」 「理央は、食べてもらうだけで幸せだよ?」  だって、と。 「瑠璃くんに美味しいって言ってもらいたくて、たくさん練習したんだから!」  ひたむきで真っ直ぐな言葉。 「だから、覚悟しなさぁい!」  心底楽しそうに、理央は笑う。 「……ここにいる奴らは、自分に正直な奴ばかりだな」  日常に垣間見る輝きが、たまらなく、眩しい。 「にゃにゃ? そーかなー?」  可愛らしく、首をかしげた。 「よくわかんないけど、瑠璃くんはお腹が減ってるってことかな!」 「ああ、そういうことだよ」  確かに、腹の虫は正直だ。 「あ、そうだ! あのね、あのね、お願い事してもいいかな?」  ふと思いついたように、理央は俺を伺って。 「任せろ、何でも承るぜ」  胸を張って、即答する。 「おおう!? 理央はまだ内容を言ってないのにー。さては何か企んでいるね!」 「夕飯の代償と思えば、何でもこいだ」  力になれることがあるなら、喜んで協力しよう。 「ありゃ、瑠璃くんはいつの間にか頼れる瑠璃くんになったんだねー」  意外そうな声で、理央は微笑んだ。  昔の俺は、頼りなかったのか? 「それで、お願いって?」 「あのね、うんとね、理央、いまから配膳の準備があるから、夜ちゃんを呼んで来てほしいのー」 「……うげ」  なんて、無茶振りを。 「瑠璃くん、まだ夜ちゃんと会ってないでしょ? ちょうどいいんじゃないかなーって閃いたりして!」 「…………」  何がちょうどいいのだろう。  夕食前に、喧嘩でもさせるつもりなのだろうか。 「駄目、かなぁ?」 「……いいよ。俺が、呼んでくる」  だが、そんな理央のお願いを、断ることが出来るはずもなく。  どのみち夕食の時には顔を合わせるのだから、この際丁度いいと思うべきだろう。 「夜子の部屋は、昔と変わらないあの書斎か?」 「うん、そだよー」  書斎の方を指さしながら、嬉しそうに語る。 「夜ちゃん、ビックリするだろうなあ。仲良しだった瑠璃くんが帰って来てるって、知らないし」 「仲良し……?」  なにそれ初耳。  理央の中の幼少時代は、バグでも起こって改ざんされているのか? 「理央は、瑠璃くんと仲良しさん。そして、夜ちゃんとも仲良しさん」  満面の微笑みで、俺と、自分と、書斎を指さし確認。 「だから、瑠璃くんと夜ちゃんも、仲良しさん!」  手を合わせて、うんうんと頷いた。 「あまりにも理央らしい、平和で幸せな考えだな」  涙が出るくらい、無謀な妄想だ。 「ま、いいや。とにかく行ってくる。骨は拾ってくれよ」 「シチューに骨なんてないよー! 鳥さんのお肉も、とーっても柔らかいんだからね」 「そういう意味じゃ、ないんだけど」  それでも、そんな理央の脳天気さに、癒されっぱなしだ。 「じゃ、また後で」  理央に見送られながら、廊下の奥へ進んでいく。  夜子の部屋は、二階の廊下の突き当たりにある。  引きこもりがちな夜子は、いつだって出口から最も遠い場所で本に埋もれている。  それはまるで、現実から逃げるかのように。 「さて」  書斎の前に到着して、大きく深呼吸。  右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す気構えでいこう。  そう腹をくくってから、なるべく静かにノックした。 「…………」  しかし、返事はなく。  静寂が、廊下に浸透する。 「……にゃろう」  不在のはずは、なかった。  おそらく、中で本の世界に集中しすぎて、ノックの音に気付いていないのだろう。  俺が来ていることは知らないのだから、無視されているとは思えない。  もう一度、ノックする。  今度は少し、強くしてみた。 「……もしもし、夜子?」  それでも、反応する気配さえ見せなかった。  しばらくどうしようかと迷ったが、段々面倒臭くなってきて、ドアノブに手を伸ばす。  最低限の礼節は尽くしたと、自分に言い訳をしておきながら。 「入るぞー」  恐る恐る扉を開けて、数年振りの書斎へ踏み入る。  重厚な扉は、長年の時間の経過を感じさせるほど、重々しい。 「…………」  そして。  案の定、ともいうべきか。 「…………」  遊行寺夜子は、書斎の机に座りながら優雅に本を開いていた。  足を組んで、美しい読書姿勢。  灯されたランプの光に飾られた夜子は、西洋貴族のように大人びていた。  そのまま画家に一品描いて貰えれば、それだけで一つの美術品として完成しそうな振る舞いだ。  「どうしてこう、本を読むのがそんなに似合うんだろうな」  瞳は、ただただページに向けられている。  まばたき一つすることなく、活字を飲み込んでいる。  本を読むためだけに生まれてきた少女――そんな評価を、昔の俺は抱いていた。 「……夜子」  雰囲気に飲まれながらも、ここへ来た目的を思い出す。  だが、それくらいの干渉では、夜子は何の反応も見せてくれない。  無理に邪魔をすると間違いなくキレられる。  少し時間がかかってでも、ゆっくりするしかないかな、と思ったところで。 「……不愉快な臭いがするわ」  本に視線を落としたまま、夜子が呟いた。  透き通るような、声色だ。 「害虫でも迷い混んだのかしら。早く駆除してもらわないと」 「…………」  残念、夜子の機嫌は最悪に近かった。 「誰の許しを得て入ってきたの? 殺されたくなかったら、今すぐ消えなさい」 「理央に、頼まれて」 「馬鹿なことを口にしないで。理央が、見知らぬ他人の存在を許すわけないじゃない。今すぐここから立ち去れば、不問にしてあげる」 「……おいおい」  まさか、俺のことを覚えていないのか? 「何をしているの? 早く消えなさい。消えろ。消えて。……殺すわよ」  語尾が段々、苛立ちに満ちていく。 「ちょっと待て! せめて話を聞けよ! 本を閉じろ!」  このままだと本当に殺されかねなかったので、慌てて夜子を宥める。 「……本当に煩わしい。いつかの誰かさんを思い出すくらいに、鬱陶しいわね」  不機嫌さを隠そうともしない声とともに、ようやく夜子は顔を上げる。  書斎の出口に佇む俺を、ようやく視界に捉えた途端、夜子の表情は、瞬時に冷却された。 「……え? 瑠璃?」  たちまち表情は驚愕へと塗り替わり、夜子の中で過去の思い出が蘇る。 「どうして、キミがここに」  自分が最も嫌いだった相手を、今に見て。 「嘘、信じられない……」 「よっ、久し振り」  爽やか少年っぽく、右手を上げて。 「今日からこの屋敷でお世話になることになったんで、宜しく!」 「はあ!?」  凍りついていた夜子の感情が、一気に沸騰した。  怒るだろうなぁと思って、本当に怒った夜子を見て、何故か喜びを感じた。 「今日から、この図書館に?? キミは、何を言っているの!? ちょっと待って、理解が追いつかないわ……」  右手で頭を抑えながら、夜子は苦悩する。 「だから、妃みたいに、しばらく俺もここに住まわせてもらうことになったんだよ」 「何よそれ、そんなの許されるわけ無いでしょう! あたしがそんなの、許さないわ」 「いやいや、もう決まったことだから」  手続き上も、色々済ませておりますゆえ。 「冗談もいい加減にして。御託はいいから、今すぐ出て行きなさい!」 「でも、お前の意志は関係ないみたいだぞ」 「……どういうこと?」  不穏に表情を歪ませる夜子へ、決定的な言葉を投げかける。 「闇子さんが、俺の受け入れを許可した。だから、俺は今、ここにいる」 「なっ……!?」  絶句する夜子。 「それに、ここには妃もいるだろ? 兄貴として、やっぱり放っておけないし」 「き、キミね……! 都合のいい時にだけ妃を妹扱いしないでくれるかしら」  忌々しくも、白々しく。  そういう風に、夜子は俺を評価している。 「ああ、もう、最悪の気分よ……。どうしてこう、キミはいつもあたしの邪魔してくるのかしら」 「まるで俺が、厄病神みたいな口振りだな」 「そう言ってるの、理解できなかった?」  恨めしそうに、睨まれる。  厄病神程度なら、好評価の範疇だろう。 「……そう、朝から理央の機嫌がよかったのも、こういうことね。黙っていたのは……母さんが、そういったのね……」  歯痒そうに、言う。 「どうしてうちの人間は、こんなのを甘やかせるのかしら。本当に、不愉快ね」 「……凄まじい嫌われっぷりに、懐かしさが込み上げてくる」  腕を組みながら、しみじみと昔を思い出す。  年月は経過しても、夜子の中の俺への評価は、不変だった。 「何を嬉しそうに笑ってるのかしら。もしかして、この二年の間におかしくなっちゃったの?」 「いたって正常だ。俺も、お前もな」  久しぶりに帰ってくると、そういう昔と同じ部分が、嬉しく思ってしまうのだ。  変わっていく部分と、変わらない部分。  1つずつ比べては、安心していく。 「キミと同じにだけは、扱われたくないものね」  困ったように呆れ果てて、夜子は再び本に手を伸ばす。 「とにかく、用はもう済んだでしょう? あたし、これからとても忙しいから、早く出て行ってくれないかしら?」 「自由気ままに読書することが、忙しい?」 「……五月蝿いわね。息を殺して、影を薄く。キミもこの図書館で快適に過ごしたいのなら、あたしと関わることなく過ごしなさい」 「なんだ、あっさり居候を許してくれるんだな」 「許したわけじゃないわよ」  すぐさま、夜子は反論する。  渋々と言った、声色。 「ただ、母さんが決めた以上、もうどうにもできないって分かってるから」 「……そうか」  我が儘や無理を言えるのも、理央や汀相手だけ。  闇子さんは夜子を溺愛しているが、何も全てを許しているわけではない。  遊行寺家の親として、闇子さんの決定は絶対的な効力を持つ。 「あたしとキミは、赤の他人。知らない人。だから、話しかけないで。互いに不干渉でいきましょう」 「いや、でも」  その前に、理央から頼まれごとが……。 「口答えしない。黙れっていってるの、分からない? これでもあたし、譲歩しているつもりなんだけど?」 「だから、あの」  鋭い目つきで、睨まれる。 「というわけで、あたしに話しかけないでね。これ以上話しかけてきても、無視するから」 「…………」  無表情で、夜子は本へと視線を落とした。  俺のことなんて空気のように扱って、本気で俺の存在を無視するらしい。 「いや、挨拶だけじゃなくて、他にも用事があったんだよ」  無視。 「おーい、聞いてるかー?」  聞く耳持たず。  ぶれることなく、一心に読書を貫く。 「理央から頼まれたんだよ」 「……っ」  僅かに、瞳が揺れた。  理央という単語に、意識が反応したのだろうか。 「そろそろ夕飯だからって、お前を呼んできてくれないかってさ」 「…………っ!」  意識が、本の世界から少しだけ離れた。  本の世界に集中するあまり、空腹を忘れてしまうことはよくあることだ。 「久し振りの理央の手料理、楽しみだなぁ。あいつの料理って、天才的に旨いよな」 「…………う」  ページをめくる手が、完全に止まっている。  この辺りはとても分かりやすい、感情の振れ。 「そういえば、お前も理央の料理、大好きだったよな? なんだよ、いらないのか? 勿体ねぇなあ」 「……五月蝿い。聞こえているから、少し黙りなさい」  静かだが、怒りのこもった言葉だった。 「それならそうと、さっさと言いなさいよ。キミの事情なんてどうでもいいから、真っ先に言いなさい」 「あれ? 俺のことは無視するんじゃなかったっけ?」 「――っ!」  揚げ足を取られ、紅潮する夜子。  最初の冷たい無表情は、今はどこやら。 「……本当に、キミは……!」  怒りを堪えながら、振り絞るような声で。 「キミのそういうところに、吐気がするの!」  「そりゃどうも」  ひとしきり俺を睨んでから、ふんっと、鼻を鳴らして横を通り過ぎていく。  どうやらこのまま、食堂へ向かうらしい。  へらへらと笑いながら、夜子の後について、食堂へと向かう。 「……ついてこないでくれる?」 「同じ目的地なんだから、しょうがねぇだろ」 「ちっ」 「…………」  舌打ちまでサービスしてくれる。  どれほど俺のことが嫌いなのかを、ひたすらに教えてくれた。 「本当に、不愉快な性格をしているわね……どうしてこう、人を喰ったような言葉ばかり出てくるのかしら」  嫌われる原因は、たくさんある。  適当な性格、ずぼらな態度、へらへらした表情、その場しのぎの言動等々。  何一つ改善することはなく、俺は今日も嫌われ者で在り続ける。  「……それでいいと、思っちゃったら駄目なのかな」  この距離が、とても居心地が良いと思ってしまう。  月社妃に、嫌われて。  遊行寺夜子に、嫌われる。  だけど、俺は―― 「――結構、好きなんだ」  だから、図書館に留まることが出来て、心から喜びを感じている。  嘘つきな俺の、僅かな真心である。  翌日、新しい制服を身に纏いながら、初登校の準備をする。  下ろし立ての制服は少しばかり堅苦しかったけれど、そのうち慣れていくのだろう。  新芽が顔を出す、春の風物詩。  今日から、新学期が始まる。 「おはよ」  仕度を終えて食堂へ顔を出すと、先に闇子さんと理央がいた。 「あ、おはよう! 朝食の用意出来てるよー」 「おはよう、瑠璃くん。うちの子どもたちとは違って、優秀ね」  廊下の方へ視線を向けながら、朗らかに言った。 「俺だって、朝は弱い方ですよ。今日はほら、たまたま」  環境が変わったことを、少しばかり意識していたから。 「ふふふ、私はその辺りうるさく言わないから、自己管理はしっかりね」 「善処します」  テーブルに座って、用意された朝食を頂くことにする。 「ねーねー、瑠璃くん?」  当たり前のように美味しい朝食を堪能していると、理央がにこやかにやってきた。 「どーかなどーかな?」  手を広げながら、くるっと一回転。 「うん、今日も旨いぞ。朝飯とは思えないクオリティだ」  端的に感想を口にした。  しかし、理央はやや不満げに顔を膨らませて。 「そ、そーじゃなくて! もっと別の何かを期待してた!」 「あん?」  朝飯の話じゃ、ない?  助けを求めるように、闇子さんに視線を送ると。 「制服」  短く、答えを提示してくれた。  その言葉で、ようやく理央が何を求めているのかを理解する。 「おおっ」  ぽん、と手を叩いて、納得した。  納得して、すぐさま行動に起こす。 「その制服、似合ってるよ」  歯の浮くような台詞を口にした。 「えへへ、ほんとかなあ?」 「ほんとほんと。ちょっとドキドキしちゃうくらい」 「そ、そっかー! そう言ってくれると、嬉しいな!」  ご機嫌に頬を緩ませて。 「瑠璃くんもとっても格好良いよ! 理央もドキドキしちゃってるかも」  照れ照れになりながら、誉めあう二人。 「何を朝っぱらからいちゃついてるんですか。低血圧な朝には、糖分控えめでお願いしたいものですね」  そんな俺たちへ、遅れて姿を見せた妃が一言申す。 「あ、妃ちゃんおはよー!」 「……おはようございます」  無表情のまま、席につく。 「大丈夫だぞ、妃」 「お前の制服姿も、すげぇ似合ってる」 「そんなこと、言われるまでもなくわかっています」  これみよがしにため息をつきながら、どうでも良さそうに言う。 「というより、理央さんや瑠璃とは違って、私はこの制服が初めてというわけでもありませんし」 「……そうかい。可愛いげのないやつめ」 「それはもう、今更のことですから」  そういって、理央が用意してくれたブラックコーヒーを口にする。 「でも、妃ちゃんのとこの制服も、可愛いよねー。なんか、ぷりちー!」 「私は、理央さんが着ている制服の方が、好きですけどね」 「来年にはこっちの学園に上がってくるんだから、今はその制服を楽しめよ」 「制服を楽しむ趣味なんて、私にはありませんから」 「そりゃ残念」  俺は結構、好きなんだけどなあ。 「それにしても、夜子と汀はまだ寝てんのか? このままだと遅刻するぞ」 「……あー、うーんとね」  苦笑しながら、理央が説明してくれる。 「夜ちゃんは、学園には行かないんだよ。ああいうところ、苦手だから……」 「流石の、引きこもりだな」  予想はしていたが、改めて自由なやつだと感心する。  ちらり、と実の母親を伺ってみると。 「ほんと、勿体ないわよね。あの子の青春って、本ばっかり」 「…………」  それを許しているは、他ならぬ闇子さんなのだが。  「ま、行きたくないならしょうがないわよ。無理に行っても、ストレス貯めちゃうだけだから」 「夜子さんがクラスに溶け込めるとも思いませんし、賢明な判断でしょう」 「……ちなみに、汀は?」  ひとまず夜子のことは置いておいて、もう一人の不在者の名前をだす。 「汀くんは、もちろんおさぼりだよー!」  今度は、即答だった。 「それで、いいんですか?」 「ええ、うちは緩やかな家なのよ」  ほとほと甘い教育方針である。 「だから、瑠璃くんと妃ちゃんは、先に行っててもいいからねー。理央は、二人が起きるまで家事しなきゃだから」 「待ってても構わないぜ」 「んーと、さすがに遅刻に巻き込みたくないから」 「お前は、二人のサボりに巻き込まれてるだろ」  どこまでも、優先順位のおかしなやつだ。 「それが理央の役目だもん!」  嬉しそうに、胸を張った。 「それじゃ、理央は他にもすることあるから、先にいっててね。食器とか、そのままにしといてくれていいから!」  たたたーっと、小走りに食堂の奥へ消えていく。 「……それじゃ、俺たちもそろそろ行くか」 「ええ、そうですね」  兄妹揃って、立ち上がった。 「……ねぇ、瑠璃くん」  そこで。  先程まで俺と理央のやり取りを静観していた闇子が、呼び止める。  まるで、理央がいなくなるのを待っていたかのようなタイミングで、口を開く。 「あなたたちがここに住んでることは、なるべく言いふらさないで欲しいの。出来れば、誰にも知られないで欲しい」  申し訳なさそうに、語る。 「この図書館は、ひっそりと佇む場所。夜子の、数少ない落ち着くことのできる場所だから」 「……わかってますよ」  この図書館が、その他大勢の干渉や関心から逃れたいことくらい。 「今日からしばらく、私は本土へ行くことになったわ。私の不在の間は、夜子のこと、宜しくね」 「それは、理央に頼んだ方が……」  少なくとも、俺よりは適任だろう。 「理央ちゃんだって、出来ることと出来ないことがあるわ」  そう言って、闇子さんの手が頬に触れる。 「これから、あなたの身の回りではたくさんの不思議な出来事が起こるでしょう。どうか、それに逃げないで」  優しい声色だった。  それなのに、表情は悲しそうで。 「……わかりました」  ただ、頷くことしかできなかった。 「良い子ね。あなたのそういうところ、好きよ」  安心したように、闇子さんは微笑みかける。 「それじゃ、いってらっしゃい」  力強い声で、背中を押してくれる。  色々な言葉を飲み込んで、俺は頷き返した。 「そういえば」  登校中、ふと思い出したかのように妃は言う。 「瑠璃は、部活には入らないのですか? 藤壺学園といえば、部活動に力をいれているようですし」 「……その発想は、なかったなぁ」  明後日の方角に視線を向けて。 「学生の醍醐味でしょう? 瑠璃は、そういう青春っぽいことがお好きなくせに」 「それよりも好きなものがあるから、放課後は早く帰りたいんだよ」  しかし、俺の言葉を聞いて、妃はくすくすと笑った。 「昔は、理央さんたちとよく野球やサッカーをしていたではありませんか。瑠璃の楽しみは、何も本だけではないでしょうに」 「遊び盛りだったから、体を動かしたくもなるさ。最も、お前と夜子はずっと籠りっきりだったけどな」  理央や汀の三人で、子どもらしい遊びに興じたこともある。  白球を投げ合うただのキャッチボールは、どうしてああも楽しかったのだろう。 「スポーツをしたければ、スポーツものの物語を読めば事足りますからね」 「いや、それは違うだろ……」  苦笑いを浮かべながら、否定する。 「別に、スポーツがやりたかったわけじゃないからな。ただ、理央や汀と、何かをすることが楽しかっただけ」  それはきっと、あいつらも同じだろう。 「少し、不愉快ですね」  昔を思い返す、俺を見つめながら。 「幸せそうな瑠璃を見るのは不愉快です。もっとこう、私が楽しくなるような痛快な話をお願いします」 「無茶いうなよ」  一歩、距離を詰めて抗議すると。 「……近寄らないでくれますか。吐き気がします」 「…………」  心底嫌そうな顔で言われてしまった。  たまらず、一歩後ずさる。 「……そんなに傷付いたような顔をしないでください。今のは、そう、照れ隠しですよ。恥ずかしい」 「誤魔化す気が一切ない、素敵な棒読みをありがとう」  真顔の台詞に、込み上げる情動はない。 「クラスの友人に見られてしまったら、誤解されてしまいます」 「どの口がそれをいうか」  白々しいにもほどがある。 「ところで、話は変わるのですが、あれはなんだったのでしょうね」 「ん?」 「朝の、闇子さんの忠告ですよ」 「ああ、そんなこともあったな」  汀に続いての、意味深な台詞。 「……ま、何か事情があるんだろ。そのうちわかるだろうさ」 「余裕ですねえ」 「んなこといってもなあ。お前には心当たりあんのか?」 「あるといえば、ありますね。ないといえば、ないんですけど」  曖昧な言葉を並べる妃。 「幼い頃から、そういう神秘さはありました。あの屋敷では、何かが隠されているのだと」 「……それは、俺が本土へ行ってる間から、か?」 「さあ、どうでしょうね。しこりのような違和感を、気付いたときには抱いていましたから」  緩やかに微笑み返す。 「だから私は、興味津々なのですよ。あの方たちが隠している秘密にね」 「……そういえば、昔、変な噂があったよな」  妃の言葉に、ふと思い出した。  それは他愛のない噂話にすぎないだろうが。 「森の奥の古びた屋敷には――」  その続きを口にする前に、妃が先に答えてしまう。 「――魔法使いが、住んでいる」  その真偽は、今も不明。  途中で妃とは別れ、藤壺学園へと向かう。  春の匂いに満ちた海岸線は、新しい季節を知らせてくれる。  まばらな学生の姿を視界に納めると、なるほど新しい学園にやってきたのだと実感する。  門をくぐり、前もって知らされていたクラスへと向かう。  一年一組。  少し早く着すぎたのか、教室内には俺と、もう一人しかいなかった。 「……本当に来ないんだな」  隣の空席を眺めながら、呆れるように笑う。  そこは、唯一同じクラスであった遊行寺夜子の机である。  偶然にも同じ教室で、偶然にお隣さん。  ちなみに理央や汀は隣のクラス。 「そんなに俺のことが嫌いかね」  そんなに俺のことが嫌いなのだろう。  あるいは、他人が嫌いなのだ。 「……無理もないか」  あの容姿は、少し目立ちすぎる。  印紙のように白い髪は他人との違いを浮き彫りにさせ、血液のように赤い瞳は他人を遠ざけるのだ。  「……本でも読むか」  鞄から取り出したのは、『ヒスイの排撃原理』という本だった。  今まで一度たりとも見たことのない本だったが、丁寧な装飾となんとも言えない存在感に興味を覚えたのである。  この本は、あてがわれた部屋にあったものを、夕食後に妃が掘り出してきたもので、次は貸して欲しいと言われていた。  本来の持ち主である夜子には無断で拝借する形になってしまったが、闇子さんからは好きに使っていいと言われていたことだし、何も問題ないだろう。 「ふむ」  表紙を手のひらで撫でながら、感触を味わう。  知らない物語を開く瞬間は、中々に心地がよい。  そういう自分がいることに気付くと、やっぱり俺は妃の兄貴なんだと思い知らされる。  新しいということは、良いことだ。  本にしろ、環境にしろ、そして―― 「もしもし、こんにちは」  ページを開こうとした瞬間、後ろから声をかけられた。 「席が前後ということで、宜しくお願いしますね、四條瑠璃さん」 「ん」  振り返ると、にこやかな笑顔の女の子がいた。  楽しみを邪魔されて、やや残念だったが、それでへそを曲げる俺ではない。 「あんたは、えーっと」 「おお! 初々しい反応です! なんだか入学したって感じがしますねー。外から来た人は良いですねー」  テンション高めを維持して、彼女は喋り続ける。 「私、日向かなたと申します。遠慮なくかなたちゃん、とお呼び下さい」 「…………」  なんだろう、妙に明るすぎる女の子だったが、何故か親しみを込めて名前を呼ぼうという気持ちにはなれなかった。 「不束者ですが、優しく接して頂けると幸いです」 「ああ、宜しく」  それじゃ、と。  再び前に向き直って、開きかけていた本へ意識を戻す。 「いやいやいやいや! ちょっと待って下さいよー! 折角お知り合いになれたことなんですから、本なんて読まずにお話しましょ?」 「……いや、でも」  今の俺は、読書に夢中で。 「本を読むのが好きなんですか? それも素敵なご趣味ですが、私とおしゃべりするというのも中々にユニークだと思います」 「…………」  ぐっと、身を乗り出して。 「瑠璃さんは、部活とか入る予定あります? やっぱり、藤壺学園で青春を謳歌したいなら、素敵な部活動に限りますよねー」 「……特に、予定はないな。あんまりそういうの、興味なくて」  途中で本を読むのを諦めて、会話に付き合うことにした。  これもまぁ、新しいクラスで要領よくやっていくには、不可欠なものだろう。 「そういうあんたは? 口振りからすると、何か意中の部活動がありそうだけど」 「よくぞ聞いてくれました!」  胸を張って、声を張り上げる。 「そうなんですよ! そうなんです! 私、部活を作ってみようと思ってるんです!」 「……はぁ」  元気よく宣言する日向を眺める。 「それってなんだか、楽しそうじゃありません? きっと痛快ですよ? 愉快です! 面倒な先輩に頭を下げる必要もなく、自分の城を持てるのですから!」 「割りと自分本位なんだな」  正直な心情が漏れ出ているのに気づいて、少し頬が緩んだ。 「というわけで、瑠璃さんも、私の作る部活に入ってみませんか? きっと楽しいですよ?」 「うん、パス」  即答した。 「そうですか、では入部届を用意しておきますね!」 「おい」  聞いちゃいなかった。 「俺は今、断ったんだぞ! その耳は生きてるのか?」 「冗談ですよ。私だって、初対面の男の子を勧誘なんかしません。こうみえて、メンバーは厳選するつもりですから」  そういって、やさしく笑った。 「それに、まだどんな部活にするかも決めていませんし」 「これはまた、前途多難なこった」 「でも、どういう部活にするかくらいは、決めていますけどね」  すっと、日向の視線が俺を射抜く。  表層ではなく深層を覗きこむような、冷たい視線。 「と、いうか!」  しかしそんな一面は、すぐに霧散する。 「さっきから、そっけなくありませんか!? 初対面の女の子ですよ、私! もっとこう、ちやほやしたり、可愛がったり、デレデレしたりしてください!」 「……悪い、意味不明だ」  何に怒っているのか、何に不満を持っているのか。 「だって、私ってこんなに可愛らしい外見をしているでしょう? 天使のような女の子です! それなのに、本を読もうと無視したり、私の誘いを迷いなく拒否ったり!」 「そういうの、自分で言わないほうがいいんじゃないのか」  明るさと可愛らしさを備えた女の子に見えて、実はそうでもないらしい。 「ふん! 余裕綽々ですか! きれいな彼女がいるからって、調子に乗らないでください! 瑠璃さんなんて、すぐに愛想尽かされてしまいますよ!」  「……は?」  唐突な指摘に、思わず仰け反る。 「彼女?」 「あのお屋敷に一緒に住んでいる、月社妃さんのことですよ」  にこやかな、表情のまま、しかしピンポイントで指摘する。  その変わらない平然さが、背筋に冷ややかな感触をもたらす。 「あんた……どうして、妃のことを知ってる」  いや、それよりも、彼女って。  動揺を表に出ないよう、震えを押し殺して言葉を吐く。 「あは、素敵な反応、見せてくれましたね」  俺の心を覗きこむように、彼女は極上の笑みを浮かべる。 「実は昨日、瑠璃さんと月社さんが仲良くお喋りをしているところを目撃してしまいまして」  手元から手帳を取り出して、ページをめくりながら述べていく。 「とても興味が湧いたので、そのまま後をつけてみると――あのお屋敷へ、二人して入っていくではありませんか」  その姿は、あまりにもこなれていた。 「……見てたのか」  いや、調べたのか、という方が正しいか。  そのとき俺は、目の前の女の子の恐ろしさを、初めて垣間見たような気がした。  にこやかな笑顔の下に、面倒な好奇心と行動力を備えてやがる。 「二人のご様子は、とても微笑ましいものでした。だから私は、恋人と推理させていただいたのですが――間違っていたでしょうか?」  びしっと、俺を指さして。  どや顔で、彼女は問いかけた。 「馬鹿か、阿呆め」  あくまで、余裕がある風に装う。  精一杯の強がりで、笑ってみせて。 「とんだ迷推理だぜ。俺と妃は、単なる兄妹だよ。盛大に外してくれて、どうもありがとう」 「……あら、そうだったんですか」  苦笑いを浮かべながら、彼女は俺から視線を外すことはない。 「仲良く見えたのも、兄妹だからだろ。……まぁ、実際のところ良好な関係じゃないんだがな」 「はい、月社さんは、お兄さん嫌いで有名ですからね」 「……え?」  あれ、なんだこいつ……知ってたのか? 「ふふふ、そんなに意外そうな顔をしないでくださいよ」  めまぐるしく、彼女は笑顔を撒き散らかす。 「ちょっと試しただけですよ。そういうカマをかけてみたら、瑠璃さんがどういう反応を見せてくれるのか、気になっただけ」 「……それは、初対面の人間にすることじゃねぇぞ」  笑顔の裏に隠れる意図が、恐ろしい。 「初対面だから出来るブラフですよ。いろいろ調べていく上で――それはとても大切なことですから」  手帳に何かを書き込みながら、続ける。 「私の好奇心は、そうやってあの手この手で探らないと中々満たされないんですよ。ふむ、例えばですね――」  ペンを唇に当てながら、彼女は思案して。 「――瑠璃さんと、遊行寺家の関係、とか」 「…………」  一瞬、強烈な不快感が俺を襲った。  他人に土足で踏み入られたような、言いようもない不快感。 「お二人は、どうしてあのお屋敷に住んでいるんでしょうか? そもそも、遊行寺家はどうしてあんなところにお屋敷を立てたのでしょう?」  ぺらぺらと、彼女の口は止まらない。 「特に――あのお屋敷は昔から噂話がありますからね。以前から、とても興味があったのですよ」 「……あんたには関係ないことだろ」  ――野次馬根性の人間を、屋敷に寄せつけないで。  その言葉が、即座に思い浮かぶ。 「関係ないからこそ、気になるんですよ。安心して下さい! 調べた内容を、他人に広めようとは思っていませんから」 「そういう問題じゃねえよ」  それ以前の問題だ。 「……ケチですねー。まぁ、勝手に調べるから構いませんけど」  ぶつぶつと愚痴りながら、日向はそれでも語る。 「森の奥に佇むお屋敷と、そこに住まう謎の兄妹。さらには――」  ちらり、と俺の隣の席を見て。 「――引きこもりの、お嬢様。これはもう、何か面白そうなことが起きるに違いありませんよ! 素敵な事件の予感がします」 「……やめとけ」  息を吐いて、忠告する。 「夜子は、そういう野次馬根性が大嫌いだ。下手に関わると痛い目を見るぞ」  あの図書館は、他人を寄せ付けない。  まして彼女のようなタイプの人間は、到底受け入れられないだろう。 「うふふ、ご忠告ありがとうございます」  嬉しそうに笑いながら、しかし理解してくれたわけではないらしい。 「面倒な奴と関わりを持ってしまった……」  入学早々、ろくでもない。  学園初日は授業があるわけではなく、昼過ぎくらいには下校することが出来る。  本格的な授業は明日かららしく、今日は顔合わせということらしい。 「朝は災難だったね」  下校しようと荷物をまとめていると、今朝とは別の女子に声をかけられた。 「日向さんって、可愛らしい外見してるけど、中身はとびっきりの変人だから気をつけたほうがいいよ」  まず、あの女子の話題が飛び出てきた。  咄嗟に周囲を伺って、張本人がいないかを確かめてしまう。 「あははー、いやいや警戒しなくても、日向さんは帰ったよ。だからこうして新入りくんに話しかけているわけ」 「新入りくんって、俺のこと?」  新入りというのなら、第一学年の学生全てが新入りのはずだろうに。 「本土から転入する人って少ないから、殆ど鷹山学園からの顔見知りだからね。僕らからしたら、本土から来た人は目立つんだよ」 「それで新入りっていう……」  それでも、この学園はそれなりに評判も良いから、俺以外にも本土からの入学者は多いはずだが。 「鷹山の出身者からしてみれば、日向さんは超がつくほど有名人だからねー。あの子は見てくれは可愛いけど、中身は本当に愉快だから!」 「愉快すぎてちょっと面倒だったかな」  好んで仲良くなろうとは思わない人種だ。 「いやいやー! 新入りくんはまだまだ日向さんの厄介さをわかってないけど思うけどなー。むしろこれから、身にしみてわかると思うけど!」 「……なんか、物凄い不穏な言葉だな。というより、物騒だ」  嫌に不安にさせないで欲しい。  ただでさえ、面倒になりそうだというのに。 「まー、だから結構、嫌われてる……わけじゃないんだけど、避けられているね」 「やっぱり?」  そんな気はしていた。 「こう、鑑賞用なら良いんだけど、実際に関わりたくない、みたいな。観葉植物的な感じ?」 「それって外見しか評価してないのでは?」 「酷いこと言うね、新入りくん」 「言ったのは、あんただろ」 「ともかく、日向さんには興味を持たれないように善処した方がいいよ。つまらない人間で、何もない人間だと思われたほうがいい」  真面目な顔で、彼女は忠告する。 「あれはかなりエグい性格をしてるから、一度興味を持ってしまうと、あらゆる手段を持って好奇心を満たそうとするの」 「……ご忠告、どうもありがとう」  それは少し、遅すぎたような気がするけど。 「ところであんた、名前はなんていうんだ?」 「え? 僕? やー、朝の自己紹介、聞いてくれてなかったんだねー。ちょっとショーック! あははは」 「ああいうのって、よっぽど印象に残らない限りは覚えきれないから……」 「それでも、僕は覚えてるよ? 四條瑠璃くん」  どや顔で、俺の名前を口にする。 「そりゃ、あんたからしたら、俺は数少ない新入りの一人だろうからな」 「あはは、バレてた? それに加えて、朝っぱらから日向さんに絡まれてたから、結構目立ってたしね。そういうのって印象深いから」  そういって頬をかきながら、彼女は自己紹介をする。 「僕の名前は、本城岬。どこにでもいる普通の女の子だから、警戒せずに仲良くしてくれてもいいよ! むしろじゃんじゃん仲良くなっても構わないから!」 「普通の学生は、警戒する必要なんて一切ないんだけど」 「それは日向さんが特別だということで」 「特別という言葉は、本当に便利だよな」  その言葉に、同時に笑いあう。  確かに彼女は、日向かなたとは違って接しやすい普通の女の子らしい。 「でも、日向さんのことで何かあっても、僕は助けられないかなーって」 「自分に正直だなぁ」  まぁ、クラスメイトなんて、その程度の関係である。 「初対面の人間と会話をするのは、しんどい」  でも、ある意味で楽ではあった。  相手が自分のことを知らないというのは、思っている以上にやりやすい部分もある。  知らないからこそ、俺への評価はゼロからのスタート。  決してマイナスから始まることのない、これからの自分次第でどちらにも振れる。 「……ああ、でも、やっぱりろくでもねぇな」  校門を出たところにある人影を目にした俺は、すぐさま前言を撤回する。  初対面の人間には、気をつけろ。  相手が自分のことを知らないのなら――相手は、自分のことを知ろうとする。  人間的な知的好奇心は、時として牙を向いて襲い掛かってくるのだから。 「あら、奇遇ですねえ! 今からおかえりですか? ちょうど私も、帰ろうと思っていたところなんですよ!」  日向かなたは、そんな好奇心の権化である。 「何が奇遇だ……これを奇遇というなら、世の中は打算ばかりだ」  この女、待ちぶせていやがった。  どこまでアグレッシブなんだよ。 「人聞きの悪い事を言わないで下さい。これでも後をつけることだって出来たのに、わざわざ同伴をお願いしているのは、私なりの気配りですよ?」 「どうだかな。今更過ぎる気配りだろ」 「つれないことを言わないでくださいよー。私はただ、瑠璃さんと仲良くなりたいだけなのですから」 「嘘つけ」  彼女を無視して、歩き始める。 「あっ、ちょっと待ってくださいよ! もう! 置いていこうとしないで下さい!」 「うるさい。ついてくるな。そもそもあんたの家、俺と同じ方向じゃないだろ? あの屋敷は、人気のない森の奥にあるんだから」  まるで人の目から逃げるようにして、あの図書館はそびえ立っている。  住宅街とは、全く別の方角だ。 「私としましては、友達を自宅に招くという行為にいささかの不自然さも感じませんが?」  この女、いけしゃあしゃあと友達を自称するか。  なんて図々しいやつなんだ……。 「知ってるか? 赤の他人が勝手に家へ踏み入ると、不法侵入罪にあたるんだぜ」 「それは驚きました。それではバレないように、こっそりと頑張りましょう」  可愛らしくぐっとポーズを取りながら、俺の一歩先を行こうとする。 「そういう問題じゃない」  屋敷の方へ歩き出す彼女を静止させ、どうにかしてとどまらせた。 「あのなぁ、色々と気になるのは理解するが、俺の立場も考えてくれ。こっちはただでさえ居候で肩身が狭いのに、厄介事を抱えて帰るなんて勘弁したいんだよ」  こんな女を屋敷へ案内してしまったら、夜子や妃になんて言われるか。 「……私としても、瑠璃さんに負担をかけたいと思っているわけではありません」  気持ちが僅かにでも伝わったのか、彼女はやや引き気味に答える。 「では、一つだけお願いを聞いて頂けませんか? それで、今回は納得しようと思います」 「……お願い?」 「私だって、本気で何か事件が起きたりとか、そういうことを期待してはいませんから。ただ、この好奇心を満たしたいだけ」 「なんだよ、そのお願いって」  興味無さげに、とりあえずは聞いておこう。 「遊行寺夜子さんを、紹介していただけませんか」 「無理」 「ありがとうございます。さすが瑠璃さんですね。それではお屋敷に向かいましょうか」 「いや、だから無理」  頑なに、彼女のお願いを拒絶した。  にこやかな笑顔は、崩れることなく固まった。 「ええええ!? 今の流れで断るんですか!??」 「いや、流れも何も、無理なものは無理だから」 「そんな! い、いえ、まだ諦めませんよ! お願いです! ちょこっとだけで構わないので、紹介してくださいよ!」 「だから無理だって。ってか、そもそもお願いを聞く道理もねえだろ」  要求のラインが下がっただけで、一貫してこちらに干渉しようとしてくることには変わりない。  それに、この女が一つのお願いを聞き入れたくらいで引き下がるとも思えない。  何かにつけて因縁をつけ、不要な詮索を続けそうである。 「あー! もう! わからず屋ですね! いいじゃないですかー、幼馴染を紹介してくれたって!」 「……一応、説明しておくが」  頭を抱えながら、補足する。 「確かに俺は、あんたに何かをしてやろうという気は一切ないが――万が一、そういう気まぐれが起きたとしても、遊行寺夜子をあんたに紹介することは不可能だ」 「無理ってのは、そういう意味でもある」 「どういうことですか?」 「要するに、あんたが夜子と関わりを持てない理由と同じだよ」  彼女がこうまで俺に紹介しろと求めるのは、誰も夜子と関わりを持っていないから。  他に紹介してくれそうな人間がいないから――執拗に求めるのだろう。 「あの引きこもりは自分の都合でしか屋敷から出ようとはしないし、他人との関わりは必要最低限度で満足している」 「さらに言えば、俺のことを心底嫌っているから、満足に口も聞いてくれないだろうな」  付き合いが長くて、近くに住んでいる。  でも、それだけなのだ。  それだけにすぎないから――俺も、日向かなたと同じ側の人間。  あの図書館のことも、夜子のことも、ほとんど何も知らない。 「夜子にとって、俺は単なる他人にすぎないんだよ。赤の他人が他人を紹介しようとしても、無視されるだけだろ?」 「瑠璃さんって、少し嫌われ過ぎでは?」 「うるせぇ、周りの人間の見る目がないってことだよ」  哀れみの目を向けるのはやめろ。 「だから、諦めろ。心配しなくても、あんたが目を輝かせて期待するようなものはなにもないさ」 「……むぅ、瑠璃さんは中々に強情な人ですね……この私がここまでおねだりしても、協力してくれないなんて」 「無い袖は振れないってこった」 「そうですか……わかりました」  渋々と言った風に、彼女は頷いて。 「とりあえず今日のところは諦めます。嘘を付いているわけでも無さそうですし……」 「でも、本当に瑠璃さんには心当たりがないんですか?」 「あん?」  何のことだ、と首を傾げる。  「昔の旧友で、この島にいたのなら一度くらいは聞いたことがありますよね? あのお屋敷の奇妙な噂を……」 「……おいおい、お前まで何を馬鹿のことを言うんだ」  それは今朝も、耳にした噂話。  何年も前からひっそりと噂される、この島の根強い怪奇伝説。 「――森の奥の館には、魔法使いが棲んでいる」  それは何のひねりもない、くだらない噂話。 「決して近付いてはならない――魔法使いは、常に玩具を探しているのだから」  特に幼少期に流行った、怪談の類。 「……お前は、信じているのかよ」  半ば嘲笑気味に、尋ねた。 「ええ、もちろん」  彼女は、即答した。 「だからこそ、その噂の中心に出入りしている瑠璃さんのことが、気になるのですよ」  満面のほほえみを、向けられてしまった。 「俺は別に、中心にいるわけじゃないんだがな」  皮肉じみた返しをしながら、会話の切れ目を目ざとく見つけた。 「それじゃ、今日はこの辺で。ひとまずあんたの好奇心は、封印しとけよ」 「……とりあえず、今日のところは!」 「怪しいもんだな……」  念のため、背後に気をつけて帰宅することにしよう。  最も、既に住んでいる場所も割れてるし、あまり意味は無いか。 「はい、では瑠璃さん!」  元気よく、名前を呼ばれて。 「今日はありがとうございました! たくさんお喋りが出来て、久しぶりに楽しかったです!」  そう言って、彼女は深々とお辞儀をした。 「また、お喋りにお付き合いしてくださいね! それでは!」  笑顔で手を振る彼女を見て、初めて歳相応のらしさを垣間見たような気がした。  「……久しぶり、か」 「それじゃ、また明日」  にこやかに笑う彼女に背を向けて、躊躇することなく歩を進める。 「…………」  少なくとも、このワンシーンだけを切り取ってみたら、今日はまんざら悪い一日でもなかったと。  そういう補正がかかって、日向かなたを評価しそうになる自分がいて。 「……ちょろいなぁ、俺」  苦笑いを浮かべながら、呆れ果てた。  後ろ姿が見えなくなるまで、私は笑顔を崩すことなく手を振り続けていた。  その間も、瑠璃さんと交わした会話を脳内で振り返る。  初対面にしては、盛り上がりすぎました。  仏頂面の見た目とは相反して、瑠璃さんは意外と脇が甘い。  突けば色々なことを喋ってくれるから、調査対象の相手としては随分やりやすかった。 「うふふ、これならしばらくはお友達でいてくれそうですね」  教室では本城岬に色々と釘を差されていたようだが、それでもまだ話し相手くらいにはなってくれるらしい。  すっかり悪評が広まっているため、そういう相手がいてくれることは、素直に嬉しい。  気が付けば、瑠璃さんの姿は見えなくなっていた。  代わりに私は、一人ぼっち。 「……あれ?」  ふと、視界の端に何かが落ちているのを見つける。  さり気なく、しかし確かな存在感を持って、それは自己を主張していた。 「瑠璃さんの、落し物? それはラッキーですね。手帳とかなら、情報ゲットです」  ご機嫌に手を伸ばして見るが、それは手帳よりもずっと重みのあるものだった。  私はこれを、見たことがあった。  なるほど、これは。  瑠璃さんが、教室で読もうとしていた小説だ。  独特の装丁の本で、記憶に新しい。  確か『ヒスイの排撃原理』とかいう、聞いたことのない本のタイトルだったと思う。  ……ん?  なんだろう、手にとって見ると、とても肌に馴染むような気がした。  表紙を撫でているだけで、心が安らぐような、居心地の良さを覚えてしまう。  今、私の内側で芽生えた感情。  それは、『本』と『人間』の根源的な欲求だった。 「……読みたい」  口にすると、尚強くなる。 「なんだろう、とても心惹かれます」  視線が本に、釘付けだ。  どくん、どくん、と心臓の鼓動が強く鳴る。  その瞬間だけは、一切合切の余計な感情は持ち合わせていなかった。  ただ、読みたいと願う私の心の欲求に、読みたいと願う私の身体が従僕しただけ。  そうして、道路の端っこで、私は不思議な魅力を持つ本を開いてしまって。  ――瞬間、私の意識は沈殿した。  四條瑠璃と月社妃の関係を説明するのは、少しだけ難しい。  二人は確かに血の繋がった家族であり、仲睦まじく一つ屋根の下で暮らしていたこともあった。  四條は、父方の姓。  月社は、母方の姓。  今、二人を苗字が違っているのは、家族事情が良好の関係にないことを意味している。  昔から、妃は両親にとって扱いづらい子供だったように思う。  何をするでもなく反抗的な態度は取らないし、何を言われるまでもなくやらねばならぬことを不言実行する。  子供らしくない子供だった妃に対して、両親はなんとも言いがたい感情を覚えていただろう。  ――瑠璃は、私達に迷惑かけても構わないからね。  そんなことを、言われた記憶がある。  曰く、勝手に育ってしまった妃のことが、少しだけ恐ろしかったらしい。  出来の悪い兄と出来の良い妹がいて、両親が望んだのは前者だったのだ。 「迷惑をかけられて、手間をかけさせられて、大変な苦労をして、初めて愛情は生まれるものですよ」  そのことを妃に相談すると、見透かしたようにそう言われた。  なるほど、それはなんとも皮肉なことだ。  同時に、両親は妃のことを愛していないのだろうかと思い至る。 「愛してはいないのでしょう。いいえ、愛してくれようとはしてくれているようですが、それでもうまくいかないみたいです」  少し、困ったように妃は笑った。 「まぁ、その辺りは私の性格の悪さが故なので、あの人達が思いつめることもないんですがね」  そのとき、思った。  両親が妃に対して色々思っているように――妃もまた、言葉にならない不思議な距離を感じていたのだろう。  両親が妃へ、妃が両親へ語るその口振りは、いつだって他人行儀だったから。 「あなたが気にするようなことは、何もありませんから」  そんな歪な家族関係は、後に致命的に違えることになる。  その予兆は、そのときから既にあったのだろう。  学園へ向かう用意を済ませた俺は、今朝見た夢を虚ろに振り返っていた。 「家族……ねえ」  結局、俺と妃は互いに両親から離れてしまった。  決着は既についてしまっているけれど、それは前向きな終わり方ではなかっただろう。 「ま、終わったことを考えるのはよそうか」  懐かしさが思い出を刺激する。  振り返ってばかりの自分に苦笑いを浮かべながら、未だ朝食を食べにこない妃を迎えに、部屋の前にやってきた。 「おーい」  ノックを鳴らしながら、声を張り上げる。  妹を迎えるのも、兄の役割である。  「俺だ。寝てるのか?」  しかし、返事はなく。  無音の時間が数秒続いた後。 「……しょうがないか」  一つため息をついて、躊躇うこと無くドアノブに手を伸ばした。 「入るぞー」  小さく声をかけて、ドアノブを回す。  案の定、施錠されていなかった。  部屋の中は、女の子の部屋としては酷く簡素なものだった。  余計な飾り物はいっさいなくて、実用性を重視した内装となっている。  言うまでもなく、本棚だけは豪華に揃っているが、それはこの屋敷では当然のことだ。 「案の定である」  妃の姿を視界に捉えた瞬間、強烈なフラッシュバックに襲われた。  この光景を、俺は今まで何度見てきただろうか。  見た目は優等生な容姿をしていながら、生活態度は杜撰の一言に尽きる。  きめ細やかな美しい髪は、あられもなく乱れていて。  寝顔を晒すことを一切躊躇しないまま、まどろみの中で幸せを貪り尽くす。  無防備に晒される白い肌は、魅力的に思えてしまった。 「ん……」  俺の妹は、とても優秀な人間である。  ただし、それは人が見ている前だけで。  本当は、とても適当で、とても面倒くさがりで、とても自分の欲望に素直なのだ。 「…………」  両親は、妃のこういう一面を殆ど知らなかったのだろう。  元々、共働きで同じ時間を過ごすことも少なかったため、妃の優秀な部分しか見たことがなかった。  それは多分、異常なことだと思う。  家族という最も身近な関係にありながら、それでも尚、月社妃という人間を誤解していたのだから。  それも、とても簡単な部分なのに。 「……瑠璃?」  寝ぼけ眼が、うっすらと開いた。 「おはよう、寝坊助。いいから、ゆっくり寝てろよ」  その寝顔をもう少し見たくて、眠りを促してしまう。  俺は一体、ここへ何をしにきたのか。 「……言われなくても……寝ます……ぐう……」  寝顔を見られても、恥ずかしがるどころか平気で睡眠を続行する。  時間に囚われること無く、欲望に忠実なお姫様。 「ん……すう……すう……」  太陽の光から逃げ出すように、自由気ままに快眠を貪るのだ。  その光景は、幸せの一言に尽きる。 「昔はこうして、眠り続ける妃の隣で本を読んでいたっけ」  あんまり気持ちよさそうに眠るものだから、ついつい見とれてしまって、ページをめくるスピードが遅れがちだった。  その後、目を覚ました妃は、見とれていたんですか? と嬉しそうにからかってくるのだ。  昔のことを思い出しては、笑みがこぼれ落ちていく。 「……残念ながら、今日は遅刻だな」  当然、俺は間に合うように登校する。  自己管理は大切だと、闇子さんも言っていたことだし。  「さて、いくか」  長居をすると、眠り姫を起こしてしまいそうだ。  安眠を妨害すると、後でどんな文句を言われるのか分かったものではない。  久しぶりに可愛い妹の寝顔を見れたということで、今日は満足しておこうじゃないか。  立ち上がり、もう一度だけ妃へと視線を向ける。  無防備な柔肌に、目を奪われて。 「…………」  …………。 「…………」  …………。 「おやすみ、いい夢見ろよ」  ぐっとこみ上げた何かを噛み潰して、退出した。  なんとなく、予想をしていた。  昨日に続いて、今日も日向かなたは口うるさく俺に干渉してきて、夜子やあの屋敷について根掘り葉掘り聞こうとするんだろう。  彼女の抑えきれない好奇心を前にして、俺はどうやって対処しようかと考えていた。  諦めがとても悪そうな奴だった。  だから、席が前後ろなのは、ある種の呪縛のように逃れられない。  席替えの予定はいつだろうかと考えてしまうくらいには、クラス内での問題児の扱いに辟易していた。  無視の一つでもしてしまえば、良いのかな。  だが。  その日、俺が日向かなたに声をかけられることは、一度もなかった。  ただの一度も、なかったのである。  朝、最初に教室に訪れた時には、早くも彼女は着席していた。  肩を寄せ、縮こまるようにして座るさまに違和感を覚えたが、さして興味もなく。  一瞬だけ目があった瞬間、失敗したと後悔したが――その後、彼女は逃げるように俯いて、手にしていた何かを机の中に隠した。  おはようの挨拶も、図書館についての質問も、愉快な雑談も、一切無く。  最初は、距離を開けて反応を見られているのだと思った。  押しても駄目なら引いてみろ――ではないけれど、それに類するような挑戦だと思ったのだ。  休み時間、お手洗いに行く際に、ちらりと彼女の様子をうかがってみたが、こちらへ一切視線を向けることはなく、ただただ大人しく着席しているのみ。  他の誰かと会話をすることもなく。  ただ、人形のように静寂を守り、鎮座する。  昨日の放課後に見せてくれた笑顔は、どこにも見当たらなかった。  前と後ろ。  沈黙を貫く彼女の存在を背中で感じながら、奇妙な居心地の悪さに満たされた授業中。  あちらから干渉してこないのなら、こちらから干渉する必要など一切ない。  違和感こそ覚えたが、不意に手に入れた静寂を噛み締めながら、現状を甘んじて受け入れる。  改めて客観的に教室内を見てみると、日向かなたという女の子はあからさまにクラスから浮いていた。  誰からも話しかけられることはなく、まるで息を殺すように偲んでいる。  あるいは、周りの人間も、まるで彼女が存在していないかのように扱っていた。  それは同級生だけではなく、教師陣も同じ事。  腫れ物でも扱うかのように、教室から拒絶されているようにさえ見えてしまった。 「……少し、違った印象だな」  昨日目の当たりにした、日向かなたのイメージ。  本城岬から聞かされていた、日向かなたのイメージ。  そして――今日の、日向かなたのイメージ。  三者三様、全く別のものにさえ見えた。  どれか彼女の本質で、どれが彼女の本性なのか。  ああ、少しだけ俺は、興味を抱き始めているのか。 「日向かなたは、もしかして」  本城岬は、嫌われているわけではないと、いっていたが。  しかし、この雰囲気は、どう見ても――。  息の詰まる教室にいることが耐えられなくて、緑の生い茂る素敵な中庭へと下りる。  昼休みだというのに人気の少ないこの場所は、心を落ち着かせるには調度よい場所だった。 「ちょっと、閉塞的なんだよな」  それが、このクラスに抱いた最初の感想。  楽しげな笑顔の下に見え隠れする思惑。  問題を抱えながらも、見て見ぬふりをすることによって現状を維持する逃避。 「ま、俺には関係ないことだけどさ……ん?」  中庭の倉庫の横に立てかけられた、青春の象徴とも呼べるアイテムを発見する。  汗水流して思いを馳せる、金属バットだ。 「……昔を思い出すなあ」  野球をやっていたことは、もちろんない。  太陽の下で元気に体を動かすようなアクティブな少年ではなかったが、しかし、それでもキャッチボールくらいは経験済みだ。  野球は9人でしか出来ないけれど、キャッチボールなら2人でもできる。  手にした金属バットの感触が、やけに冷たい。  夏の暑さを思い出させてくれる冷たさだ。  ぎゅっとバットを握り締め、素振りの構えを取る。  見よう見まねの素人フォームだったが、存外悪くはないのではないかと思った。 「スポーツ系の青春小説は、あんまり読まないんだがな」  バットを何度か振ってみた。  漫画のように、最初からきれいなスイングなんて出来るはずがない。 「身体を動かすことは、嫌いじゃないけど」  上手くなるための練習ではなく、ただ闇雲に振り続けているだけのストレス発散。  素振りは、一人でもできる運動だ。 「……しかし俺には、あんまり似合わねえよな」  と、自嘲気味に笑った所で。 「ん?」  誰かの視線を感じて振り返る。 「……あっ」  理央が、素振りに熱中する俺を嬉しそうに眺めていた。  目と目があって、小さく手を振られてしまった。  途端、恥ずかしさが込み上げてくるが、慌てて平静を取り繕う。 「いつの間に……」  まさか、見られているとは思わなかった。 「けんがくちゅう?」  眠たそうな声だった。  甘くて甘くて、とろけそうな声質。 「あーんまり瑠璃くんが熱中しているから、ついつい見惚れちゃったー」 「熱中しているわけじゃないよ。別に、甲子園を目指そうとも思っていない。練習じゃなくて、ただの発散みたいなもんだ」 「ほえ? やきうの練習じゃないの?」 「全然違う」  目的もなくただ身体を動かすことを、練習とは呼ばない。 「れ、練習じゃないのなら……訓練?」 「でもないな」 「うーん、じゃあねー」  楽しそうに悩みながら。 「なんなんだろうねー! わかんないや」  なんでもないやり取りが、幸せそうだった。 「ちょっとしたお遊びみたいなもんさ」  ぐるぐるとバットを回して、構えて見せる。  「どうも、軟式野球部の幽霊部員です」  挨拶がわりに素振りをしてみた。  素人らしい、軸のぶれた中途半端なスイング。 「おおー!」  それでも、理央は嬉しそうに拍手してくれた。  今更のように、恥ずかしさが涌き出てくる。 「素振りじゃなくてキャッチボールなら、何度かやったことがあっただろ。それの延長線上みたいなもんだよ」 「あー! 理央も覚えてるよー! うんうん、とっても楽しかったなあ!」  目を輝かせて、理央は同意する。 「理央も、やってみるか? たまにはこうして体を動かすのもいいもんだぞ」 「おおー! ちょっぴりやってみたいかも!」 「……お?」  理央の視線が、一点に注がれる。 「理央も、バットさんをぶんぶんしたいなーって。ばちこーん!」 「じゃ、はい」  ご要望にお応えして、バットを差し出す。 「やってみたいなら、やってみよう」  昔を思い出してみたかったんだ。 「うわーい! やったぁ!」  元気よくバットを受け取って、見よう見まねの構えを取る。  当然、不恰好な構えになってしまうが、それは無理もないだろう。 「うりゃうりゃー! ほーむらんうつぞー!」 「ボールはないけどね」 「気合で頑張るよー!」 「イメージが大切だからね」 「うおおお、振っちゃいますよー!」  歪な構えを取る少女から、少し距離を置いて見守る。 「いっくよー!」  思いっきり。  そう形容するしかないほど、理央は力を込めて、スイングする。  余計な力は、空回りを生む。 「え」  瞬間、頭のすぐ隣を、何かが通りすぎた。  直後、背後から聞こえてくる衝撃音。  振り返ることなく、理解した。 「あはは、どうかなぁ? 上手く出来てたかな?」  そう言ってはにかむ少女の手からは、バットが消えてしまっていた。 「あれ!? バットさんがどこにもいないよ???」 「……素振りをするときは、しっかりと握り締めて、スイングしよう」  冷や汗をかきながら、すっぽぬけたバットを拾いにいく。 「ありゃ? もしかしてファールかっ!?」 「空振り三振バッターアウト。ついでに、警告だ」 「ご、ごめんなさいいいい……」  縮こまって、自らの失態に気付いた理央。 「大丈夫、すっぽ抜けることはよくあることだから」  もう一度、バットを渡す。 「次は、しっかり握り締めるように」 「も、もう一回やってもいいの?」 「むしろ一回しかするつもりなかったのかと聞きたいくらいだ」  素振りは繰り返して行うものだ。  一度なんて、味気ないだろう? 「よ、よーし! 今度こそ!」  元気なかけ声と共に、またあの歪な構えを取る。 「もう少し、力を抜いて」  たまらず、素人ながら助言をしてしまう。 「力を、抜いて……」  理央は、真剣な面持ちで呟く。 「脇をしめて、コンパクトに」 「わき、わき、わき……」 「足を広げて、重心を安定させる」 「足を、広げて……足を……」  そこで、理央は硬直した。 「あ、足を、広げる……」  どうしたのかと様子を窺うと、理央は顔を真っ赤にさせていた。 「あ、足、を、広げるなんて……」  俺に、訴えるような表情で。 「恥ずかしくて、出来ないよ……」  バットを持った手で短いスカートの裾を押さえる。 「なるほど、それは想定外だった」  いや、本当に。 「ご、ごめんね……」  顔を紅潮させながら、バットを返却する。 「でも、ありがと! なんだか懐かしくて、楽しかった!」 「昔を思い出したよ。キャッチボールした時も、理央はこんなかんじだったな……」  全力で楽しもうとして、失敗する。  そんな理央を見て、俺達は朗らかな気持ちにさせられていた。 「えーそうだったかなあ?」  恥じらいながら、理央は苦笑い。 「あ、そうだ」  ふと、思いつきを口にする。 「理央は、一年前まで鷹山学園に在籍してたんだよな? だったら、日向かなたって女、知ってるか?」  唐突な質問に、理央は首を傾げる。 「日向、かなたちゃん? なんだか、知ってるよーな、知らないよーな……」  むむむ、と真剣に悩み始める。 「知ってる……気がする。お喋りしたことも、あるよーな、ないよーな」 「……問題児って、聞いたんだけど」  あるいは、痛感したんだけど。 「んーとねー、理央は屋敷のお外のことはよく分かんないかな」 「は? でも、通ってたんだろ?」 「理央は夜ちゃんの付き人さんだからね! 他の人のことは知らないのです。友達も、作ら……作れなかったから」 「…………」  言い直した言葉が、少しだけ侘しい。  「その日向かなたってのが、俺と同じクラスなんだよ。そのせいで、教室の雰囲気がぎこちないっていうか……」  息苦しいと、言うべきか。 「うーむ、理央はそういうの、気付きませんからなあ」 「鈍いからね」 「なまくらー」  嬉しそうに、頬を緩ませる。  いや、褒めてないんだけど。 「……ちなみに、その日向かなたはあの図書館に興味津々だ。夜子にすっげえ会いたがってたぞ」 「お、おおっ! 珍しいね、凄い!」  その事実に、理央は感激する。 「それなら是非仲良くなっちゃおうよ! 夜ちゃんに紹介しちゃおー!」 「……馬鹿、それは駄目だろ。不可能だ」  脳天気少女は、まるでわかっちゃいなかった。 「万が一にでも部外者を招いたら、夜子に雷を落とされるぞ。あいつは、他人に干渉されることを忌み嫌ってるからな」 「あー……そうだった……」  肩を落として、落胆する。 「夜ちゃんも、ちょこっとだけオープンになってもいいと思うのになあ」 「……それは、無理もないことだと思うがな」  誰にでも事情があって、理由がある。  「でも、せめて学園にだけは来て欲しいな。理央は、夜ちゃんと一緒に登校したい」 「…………」  思わず、隣の空席を思い出してしまった。  引き篭もりでも、一応在籍だけはしている状態。 「もし、あいつが心変わりして登校するようになっても――今のクラスの雰囲気は、ちょっと駄目かな」  あれじゃ、居心地が悪いだろう。  図書館のほうが素晴らしいのは当然にしても、あの環境は劣悪だ。  予鈴が鳴り終わった後、教室へと戻る俺を、誰も居ない教室が迎える。  時間割を確認して、次の授業が移動教室であることを今更ながらに気付いた。 「……遅刻だよ」  妃のことを、笑えない。  ため息をつきながら移動の容易をすませていると、一点、背後が気になってしまった。  日向かなたの、空席。 「…………」  そうえいば。  そういえば――今朝、彼女と目が合ったとき、手にしていた何かを机の中に隠していた。  他人には見られたくない何かを、隠していた。 「いや、それは、駄目だろ」  慌てて首を振り、邪念を振り払う。  どうしてこんなにも気になってしまうのか。  昨日はあれほど無碍に扱ったというのに、この心変わりは一体何だ。   無機質な机が、甘い甘い秘密の匂いで誘惑する。  手をまさぐって、宝物を見つけよう。  それは人として違えてしまう、好奇心という異物。  俺自身が昨日に制したはずの、人間としての情動だ。 「…………」  誘惑を振り払って、心を落ち着ける。  今日の自分が少し変であることを自覚して、冷静になろうと努める。  だが、今度は机の上に無造作に置いてある教科書に、瞳を奪われてしまった。   本の隙間に、白い紙。  ページの間に、何かが挟まっている。  机の中ではない。  机の上においてあるもの。  秘密を弄ろうとするわけではない。  ただ、教科書を手に取るだけ。  ああ、それは好奇心という甘いささやき。  悪魔の甘言に惑わされて、無意味な妥協点を見つけた俺は、教科書に手を伸ばしてしまう。  脳が警鐘を鳴らしていた。  教科書を開く行為がもたらす意味。  自らの好奇心に従僕してしまう意味。  見るか、見ないか、という表面上の選択肢のどちらかを選ぶかで、心は揺れ動く。  どうして、急に気になってしまったのか。  どうして、日向かなたのことが気になってしまうのか。  どうして、閉塞的な雰囲気を漂わせる教室を、好きになれないのか。  それは凡そ、四條瑠璃という人間にはそぐわない行動、感性。  見掛け倒しの選択肢は、選ぶ必要すらない。  選択という可能性を見せびらかしてみたものの、どちらかを選ぶかなんて最初から決まっていた。  いつだって、選択肢は発生する前から選ばれている。  好奇心という悪魔に囚われた俺が選ぶのは、用意されたあらすじだけ。  本を開いた。  挟まれていたのは、無機質な手紙だった。  挟まれていたのは、凄惨たる脅迫文だった。 『新入リニ、色目ヲ使ウナ色情魔』  とか。 『他人ト関ワルナ、腐レ魔法使イ』  とか。  そういう気味の悪い文章が、連なっていた。 「…………」  急速に体温が低下する。  めまぐるしく脳裏を駆け巡った好奇心は、想像以上にどす黒いものを引っ張りだしてしまったらしい。  ああ、よく見ればこの教科書だって、新品のはずなのにボロボロじゃないか。  これは使い古されたのではなく、ただ乱雑に扱われただけ。  ページを捲ってみると、手紙の内容と同じような文章が、あちらこちらに散見されている。 「あの笑顔から、この現状を読み取れっていう方が無理があるだろ」  天を仰ぎ、呟く。  元気で明るい、雄弁な女の子。  ちょっと好奇心が強すぎて、面倒くさい女の子。  でも、その笑顔は、とても柔和で可愛かった。  そんな彼女は、クラスから迫害を受けていました。  もっと、わかりやすく言うのなら。 「日向かなたは、イジメられていました」  あのときの笑顔の裏で、彼女は何を思い話しかけてきたのだろう。  そして、今朝、俺と目があった瞬間、何を思って瞳を伏せたのだろう。 「ごめんな、理央」  だが、それでも。  それでも俺は、何かをしようとは思わなかった。 「見て見ぬふりする俺は、格好悪いな」  手紙を元に戻して、教科書を閉じる。  何事もなかったように教室を出て行く。  好奇心は満たされた。  身近にあった問題は、思った以上にデリケートなもの。  対岸の火事であるならば、川を渡ろうとは思わない。  むしろ、それで彼女の好奇心を殺せるのなら、願ったり叶ったりだと思ってしまった。  それは、夕食後のことだった。  珍しく活字を辿ることをしなかった俺は、気分転換がてらに散歩にでも出かけようとした時のことである。 「らん、らららららんー」  廊下の曲がり角の先から、ご機嫌な鼻歌が聞こえてきた。  夜の静寂に唄うように、澄み切った声色だ。 「らららー」  そして、廊下の奥から鼻歌の主が顔を見せる。 「あ」 「……ちっ」  廊下の先から、こんにちは。  高速の舌打ちをプレゼントしてくれた。 「……キミ、こんな時間に何をしているの。お子様が寝る時間はとっくに過ぎているわよ」  気恥ずがしさを誤魔化すような表情で、睨みつけられる。  仄かに照れているのが、手をとるようにわかった。 「俺とお前は、同年代なんだがなあ」 「精神年齢が違うということよ。全く、不愉快だわ。身の程を知りなさい」 「夜に気分が昂揚するのは、大人も子供も同じだろ」  子供は、自分の知らない暗闇の世界に心躍らせる。  大人は、美しく輝く月のきらめきに、狂わされる。 「静寂の中に聞こえる木々の揺らめきや、風の息づかいが、散歩にぴったりなんだよ」  考え事をしながら歩くには、うってつけの環境だ。  森に囲まれたお屋敷は、素敵な散歩道を提供してくれる。 「そんなことよりも、書斎から出てくるなんて珍しいな。てっきり食事とトイレのときだけかと思ってたぜ」 「お風呂も入ってるわよ!!」  即座に怒鳴られてしまった。 いや、分かってるけど。 「部屋を出たくないわけじゃないわ。引き篭もり扱いしないでくれる?」  呆れたように、ため息をつく。 「あたしはただ、部屋を出る必要がないから出ないというだけ。必要があるのなら、扉を開けることに躊躇しません」 「部屋を出るかどうかに、必要性を問うようなものでもないと思うんだけどな」  その時点で、何かを違えてしまっているような気がする。 「……で? そんな大人のお嬢様は、夜な夜な書斎を抜けだしてどこへ行こうというんだよ?」 「それこそ、キミには関係のないことでしょう」  簡潔に、拒絶されてしまった。 「鼻歌なんて歌いながら、随分と浮かれてただろ。面白そうだから、俺も付いて行こうかな」 「は、鼻歌なんて、歌っていません!」  かああっ、と顔を赤らめて、強く否定する。 「夜の空気に当てられているのは、俺じゃなくてお前の方なのかもしれないな」  月に狂わされた大人か、それとも、未知の闇に思いを馳せる子供か。 「キミにだけは、言われたくないっ!」  悲痛な面持ちで、睨みつけることを辞めようとはしない。 「昔から本当に失礼な人! どうしてあたしを怒らせるようなことばっかり言うのよ!」 「……そんなことを、言われても」  怒らせるつもりなんて、ないのに。 「俺からしてみれば、お前が何に怒ってるかすら、分からないんだよ」  それは純然たる本音だった。 「……お話にならないわね。折角の素敵な夜も、キミが存在するだけで台無し。雰囲気を壊すのだけは天才的に得意なんだから」  苛立ちを抑えるような、声色。 「我ながら、屈辱よ。こんな男と、同じ感想を持ってしまうなんて」 「…………?」  一瞬、何を言ってるか分からなかったが。 「……あ、なるほど」  遅れて、理解した。 「夜子も、夜の散歩に行こうとしてたんだな」 「いいえ、そんな気分はもう無くなったわ。風情なくして、何を楽しめというのでしょう」  髪の毛を翻して、書斎の方向へと向き直る。 「あたしが夜の森を好きなのは、誰も居ないから。キミというお邪魔虫がいるのなら、そこはあたしの空間でなくなる」 「……そうか」  夜に靡く白い髪。  赤く煌めく瞳。  奇異の視線から逃げるように、夜子は自分だけの空間を求める。  世界を包む闇だけが、そんな彼女の異質さを隠してくれる。  夜とは、隠れ蓑。 「なあ、一つ聞きたいことがあるんだが」  背を向けて、話を打ち切ろうとする夜子へ。 「……何よ?」  それでも、律儀に応えてくれる夜子へ。 「この図書館に、魔法使いが棲んでいるってのは、本当か?」  ただの居候にすぎない俺が、好奇心を示してみた。 「昔から、そういう噂があっただろ。不思議で、煌めく、魔法使いの噂がさ」 「だからちょっと、聞いてみたくなっちまった」  どうしてだろう。  今日だけは、俺の好奇心は揺れ動く。  日向かなたのことを調べたり、また、こうして質問してしまったり。 「……そう、魔法使いの噂、ね」  そんな俺に対して。 「いるわけないじゃないの、あなたは夢見る乙女かしら?」  即座に否定した。 「夢をみるのはお伽噺の中だけにしておきなさい」 「……そういうことをあたしに聞いてくるなんて、珍しいわね」 「ただ、聞くタイミングを逃し続けていただけだよ」 「そう、何年も?」 「ああ、何年も。いや――これでもまだ、早すぎたくらいだ」  あまり、知りたくないんだ。  知っておきたくないんだ。  どんな些細や物事であっても、それが悲しいお話に繋がってしまいそうで。 「キミが今まであたしたちと関われてきたのは、その絶対的な距離感のおかげなのかもしれないわね」  ぎゅっと、手を強く握る。 「ねえ、瑠璃。あたしも珍しく、キミに質問をしてあげます」 「それはまた、珍しい事が起きるものだな」  やはり今宵の月は、輝きが強すぎるのかもしれない。 「『ヒスイの排撃原理』という本を、見たことはあるかしら」  小さな唇から紡がれた、名前。  一瞬、心臓が高鳴った。 「それはあたしたちにとって大切な本。世界に二つとない、貴重な本。それがつい先日、この図書館から消失したの」  目と目が合う。  感情の揺れを見逃さない。 「あたしはそれを、探しているの。早く見つけなければいけなくて――だから、キミに質問した」 「……『ヒスイの排撃原理』」  夜子が口にした本の名前。  それはまさしく、俺が昨日まで読もうとしていた本だった。 「あら、やっぱり心当たり、あるのね」  何も答えない俺に対して、得心がいったように夜子は嘲笑う。 「中身は読んだ? 読んでいない? まあ、どちらにしても同じ事。消えたという事実がもたらす意味を考えれば、些細な事よ」  愉快そうだった。  どうしてそうまで楽しそうに笑えるのか不思議なほど、夜子は昂揚している。 「あれはとても愉快なお話だから、きっと楽しめるでしょう」  じっと、俺を見つめて。 「あたしを、楽しませなさいね」  そして。 「思い知って、この図書館から立ち去るがいい」  冷たい言葉を、かけてくれた。 「……お前が何を言いたいのか、俺にはサッパリだよ」  何を知っているかも、分からない。 「大嫌いなキミのもがき苦しむ姿が、とても楽しみだということよ」  小さく、笑みをこぼしながら。 「早く読み終わって、返してね。あれは本来、あたしの本なんだから」 「……ああ、善処するよ」  失くしたと、言える雰囲気ではなかった。  いや、失くしたことさえ、夜子は気付いている?  好奇心ゆえの質問がもたらしたのは、これまた予想外の切り返し。  知らず知らずのうちに、ページがめくられているようだ。 「最も、キミのような大根役者が演じてみせるのは、どうしようもない三文芝居だけなのかもしれないけど」  夜は、深まる。  頁は、捲られる。  一人取り残されて、惑わされ、迷わされてしまって。 「お前は本当に、性格悪いなあ」 「ええ、だってキミのことが、心から嫌いなんだもの」  数えきれないほど繰り返されてきた文言を、口にしてくれた。  本日の昼食は、とても珍しい相手と一緒でした。 「日向さんをイジメている学生が誰かだって?」  足を組みながら、本条岬は驚きながら聞き返す。  未だ喋る相手が彼女くらいしかいない俺に、話しかけてくれた少女。 「そんなことを聞いてどうするっていうのさー。いやいや、加害者を庇うわけじゃないけど」 「別に……ただ、気になっただけだ」  目を逸らしながら、どうでも良さそうに呟く。 「……うーん、あのね? 僕だったからよかったものの、なるべく他の人にはその手の質問をしちゃ駄目だよ? 絶対、引かれるから」 「それくらいに、嫌われてるって言うことか」  あるいは、迫害されている。 「みんなねー、日向さんと関わりたくないんだよ。言葉だけじゃなくて、姿すら視界に収めたくないの」  日向かなたの席をチラ見して、本条岬は続けた。 「それは本人がいないところでも同じ。名前さえ耳にしたくなくて、噂すらしたくない。だから、その名前を出すととっても嫌な顔をされるだろうねー」  脳天気に笑う。 「それは、本条さんも同じじゃないの?」 「岬ちゃんでいいよー。僕、この名前ちょー気に入ってるの。岬ちゃん、岬ちゃん、岬ちゃん。可愛くない?」  身を乗り出して可愛さをアピールしてくるが、別に可愛くない。 「……岬も、同じじゃないのか?」 「呼び捨て! 新入りくんは、天邪鬼だねー」  それでも笑顔は、崩さなかった。 「僕は違うよ。気にしてない。あ、でも勘違いしないでね? それでもみんなと同じく、関わり合いたくないと思ってるのは同じだから」  同じ。  ということは、つまり。 「うん、僕も、嫌っている側の人間だし。人間って、嫌われているからという理由だけで、嫌えちゃうんだよね」  ああ、でもそれは。 「酷いことだよね、軽蔑しちゃったりする? ま、でも人間そんなもんだよー。誰だって自分が一番大事だし!」 「……それを咎められるほど、俺は潔癖症じゃないから」  それは当たり前の感情で、取り繕う必要のない発想である。  だが、聞きたかったのは、そういうことではない。 「それじゃあ、最初の質問から答えよっか」  ――誰が、日向かなたをイジメているのか。 「広義的に言うなら、それはクラスメイト全員になるけれど、そういう答えを求めてるんじゃないよね」 「その答えもまた、異常だと思うけど」  全員が一致団結して誰かを迫害する行為。  それは、考えるだけで恐ろしい。 「そうかな? イジメって、そういうもんだと思うけど」  加害者は蔓延する。  第三者という立場さえ、被害者からしてみれば加害者と同一。 「でもねー、残念だけど、新入りくんの問いには答えられないかな。答えられるけど、答えられない」 「?」  疑問符を浮かべる俺へ。 「だって、誰がイジメの主犯格なのか、僕にだって分からないから」 「……どういうことだ?」  違和感に塗れた答え。 「もっと言えば、誰が直接的に日向さんをイジメているのか、わからないの。無視とかは全員がしているけれど、逆に言えば、僕たちは無視以外のことを何一つしてないし」  だから。 「新入りくんが言うような、教科書をボロボロにしたりとか、悪口を書いたりとか、そういうのは誰がやってるか不明」  困ったような表情だった。  嘘を言っているわけではなさそうだった。 「それは少し、おかしくないか?」  そんなことが、ありえるのか?  学級内のイジメで、教師や両親が加害者を見つけられないのはわかるが、  同じ空間にいるはずの同級生が、加害者を知らないというのは強烈に納得出来ない。  例え、明確な加害者が分からなくても、そういう雰囲気、あるいは匂いのようなものを、感じることが出来るはずだ。 「インビジブルなイジメ。誰が加害者かわからない。そういう得体のしれなさが、今の状況を加速させているのかもしれない」 「……誰が黒幕なのか、知ろうとはしないのか」 「しないよ。だって、知りたくないもん。知ったら僕まで、巻き込まれるじゃない」 「なるほど、それは最もな意見だ」  それを臆面もなく口にできるのが、素晴らしい。 「それでも、なんとなく分かりそうなもんなんだがな。イジメなんて、見せしめみたいな側面もあるだろ?」  容疑者くらいは上げられそうなものなのに。 「皆目検討がつかない。本当に誰が犯人か分からない。怖いくらいに、正体不明なんだよ」  しかし、岬は頑なに否定する。 「新入りくんも、しばらくしたら肌で感じると思うよ。ああ、これはこういうもんなんだなって、身にしみて分かるはず」 「……なるほど、聞けば聞くほど、気味の悪い状態だ」  苦笑いを浮かべてから、少し嫌味を言って見ることにした。 「ちなみに、イジメられてる原因ははっきりしているよ。それだけはみんな自覚していると思う」 「イジメの原因なんて、あってないようなもんだろ。どんなものでも理由になっちまう」  可愛いからとか、肯定的な部分でさえも、理由になってしまうのだから。 「そうかな? この理由は、きっと理解されづらいものだと思うけど」  ヘラヘラ笑いながら、答えてくれた。 「――日向かなたは、魔法使いなんだ。不幸を呼ぶ、呪われた魔法使い」 「…………」  またか。  また、魔法使いか。  この島では、どれだけ魔法使いの噂が流行っているんだ? 「日向さんは呪われているんだよ。不幸という呪いにね」 「腐れ魔法使いの噂」  日向かなたが究明しようとしていた、魔法使いの噂。  遊行寺夜子の住まう屋敷を舞台としている、魔法使いの噂。  現在、イジメの原因になっている、腐れ魔法使いの噂。  そして、この島に昔から伝わる魔法使いの噂。  これらは全て、同一のものを根源としている。  災いをもたらす邪悪な魔法使いが、森の奥の屋敷に棲んでいる。  彼女は人間のことが酷く嫌いで、近寄るものに対して大いなる不幸を振り分ける。  幸せそうな親子には、子を失う悲しみを。  楽しそうな旅人には、軽快な両足を失わせる。  笑顔の美しい少女には、酸の雨で化粧をしてあげましょう。  孤独に絶望する老人には、慈悲なき時間をプレゼントする。  それは不幸という形で行われる残酷な呪い。  この親不孝者が。  これは不運な事故だった。  どうして私がこんな目に?  早く死なせておくれよ。  彼らは気付かない。  それが、魔法使いの呪いよって齎された仕組まれた悲劇であることに。  気付かないほうが幸せなのかもしれない。  それを知ってしまっても、悲しみが晴れることはないから。  近寄ってはいけないよ。  魔法使いはとても残酷な呪いをもたらしてしまう。  拒絶しろ。 迫害しろ。 軽蔑しろ。  島に住まう魔法使いは、まごうことなき腐れ魔法使いなのだから。 「魔法使いの噂を探っていたあいつが、その魔法使いだなんて、おかしいだろ」  いや、それ以前の問題だ。  そもそも、そんな下らない噂を現実に当てはめるほうがどうかしている。  それが当然となっている原因。 「日向かなたは、不幸に呪われている」  本条岬は、平然と語る。  ――偶然にしては恐ろしいほど、あの子は不幸に苛まされているよ。  日向かなたの周囲では、彼女を中心に不幸なんて言葉では済まされないほど災いが起こるらしい。  曰く、彼女と仲良くしていた教育実習生が、事故で入院した。  曰く、彼女と話をした同級生が、階段から転げ落ちる。  曰く、彼女と目を合わせた子供が、泣き止まない。  曰く、彼女が笑ったその日は、大雨が降る。  曰く、彼女が幸せになると、誰もが不幸になる。  根拠のない根も葉もない逸話たち。  だが、全く関係のない偶然も、おびただしい量の回数を重ねれば、それを信じてしまう人も生まれる。  確かに一つ一つを上げれば無関係かもしれない。  でも、彼女の周囲に限っては、そんな偶然が多すぎるのだ。 「でも、俺は……まだその不幸の呪いを、一度も体験していない」  ――本当かな? 本当に?  気が付けば、すぐそこに訪れているのかもしれない。  呪われた魔法使いが、すぐそこに。  それが、魔法使いの噂だ。  物語の転換を迎えたのは、その日の放課後だった。  夕暮れの太陽を見ていると、哀愁が込み上げてくるのはどうしてだろう。  オレンジ色の光は、何を照らそうと輝きを放っているのか。 「…………」  水平線の彼方に沈む太陽に、手を伸ばそうとする。  眩しさから逃れるように、瞼を閉じた。  遠くから、トラックのエンジン音が聞こえてくる。  不意に目を開いて、前方の信号を確認する。  女子学生の歩く横断歩道で示す信号機の光は、確かに緑色をしていた。 「…………?」  それなのに、妙に胸騒ぎがした。  確かに信号は安全を知らせてくれるのに、現実、そうは感じられず。  不意に足を止めて、気が付いた。  左方から、停止することを忘れたトラックが、赤色の交差点を突っ切ろうとしている。  横断歩道の中央に、ふらふらとさまよう人影。  危ない、と声を出しても、反応せず。  だから、弾けるように飛び出した。 「――っ!」  気が付けば、交差点の向こう側で、少女を抱きかかえるように倒れ込んでいた。  信号無視を働いたトラックは、一時停止することもなく、そのままのスピードで通り過ぎていく。 「野郎――!」  怒りが、一瞬、トラックへ向かうも。 「あ、あああっ……!」  弱々しく震える声が、俺の脳味噌を冷却させた。  そうだ、気にかけなければならないのは、轢かれそうになった少女である。 「大丈夫か? 怪我はないか?」  震える肩を抱きとめながら、優しく声をかける。  間一髪で助けはしたものの、あちこちに擦り傷が出来てしまっていた。  自分ののろさに苛立つものの、今は少女の心配をする。  少女は、それほどまでに、震えていた。  恐怖からか、震えていたのだ。 「あ、ああ、あああ……っ!」  上手く言葉が発することができなくて。  本当に怖かったのだろうと、悲しくなった。  そうして、ようやく、少女の表情を確認する。  なるべく優しい表情で、安心させようと、懸命に。 「……え?」  恐怖に打ち震える少女と目が合った瞬間、凍りついた。 「る、瑠璃……さん……?」  日向かなたは、怯えた目を見開いた。  これは、何の因果だろう。  これは、何の呪いだろうか。  彼女の震えが治まるまで、しばらくの時間がかかった。  5分、10分くらいだろうか、次第に落ち着きを取り戻した彼女は、やがてよろよろと立ち上がる。 「あ、あのっ! ありがとう、ございました!」  ぎゅっと手を握って、頭を下げる。 「私、余所見してて……全然、気が付かなくて……その、お怪我はありませんか」 「それは俺の台詞だ」  決まりの悪さを覚えながら、ぶっきらぼうに言う。  虫の居所の悪さを自覚しながらも、状況が状況だけに邪険にすることが出来なかった。 「わ、わたしのせいで、怪我をしてしまったら……その、申し訳なくて……」  しゅん、と申し訳なさそうに俯く。 「いや、俺は大丈夫。こうみえて結構丈夫だから。それよりも……」  スカートから伸びる生足に、視線を下ろして。 「少し、痛そうだな。大丈夫か? 歩けるか?」 「は、はいっ、大丈夫です、痛くないですっ」  試しに聞いてみたものの、強がりであることは明白だった。  作られた笑顔にやりきれなさを覚えた俺は、少し逡巡してから、口を開く。 「あんたの家、ここからどれくらいかかる?」 「え、えっと……ここから、30分くらいです」  微妙に、遠い。  半刻という時間は、俺に迷いを与えるには十分すぎた。 「……………………………………仕方ないか」  怒られるだろうなと、頭を抱える。  しかし、その選択が最善であることは明白だったので、迷う余地はなかった。 「んじゃ、失礼」  その行動は、自分自身でも驚きだった。  おおよそ四條瑠璃という人間がとりえない、大胆な行動。  彼女の足に手を伸ばし、ひょいっと持ち上げる。  落とさないようにしっかりと手を回して、ぎゅっと胸元へ寄せた。  か細い足をばたつかせながら、少しだけ彼女は抵抗する。 「な、なななな、何を、しますかっ……!」  突然抱きかかえられたなら、それは当然の反応だろう。 「……我慢しろ。治療できるところへ連れて行ってやるから」  庇い方が、見逃せなかった。  大丈夫と口にした彼女だけれど、その庇い方は、明らかに足首をひねっている。  擦り傷も相まって、これを放置して立ち去れるほど非情にはなれなかった。 「で、でもっ! 重いですし、恥ずかしいですし、わ、わたしっ、やっぱり!」  顔を真赤にさせて、抗議の声を上げる彼女。  痛みを忘れることが出来るなら、それで良いと思った。 「だから、速やかに連れて行く」  俺だって、こんなところを誰かに見られるのはご免である。  お姫様抱っこなんて、何一つ似合いやしない。  もう少し暴れられるかと思っていたけれど、存在、彼女もこれを受け入れてくれたようで、小さく身体を縮こませて羞恥心に耐えてくれる。 「ううっ……強引な人です……」  泣きそうになりながらも、抗議の声を上げることはなくなった。  これ以上騒がれると、まるで拉致しているみたいに見えるから、助かった。 「……瑠璃さんは、優しいんですね」  穏やかな声が聞こえてきた。 「あんたこそ、意外とドジなんだな」 「……ドジですよ。ノロマですし、おバカさんです」  やや、自嘲気味に言う。 「何をやっても失敗ばかりで、今日だって、迷惑かけてしまって……」 「…………」  俺の腕の中で、彼女は嘆く。 「私、駄目な子なんです」 「…………」  そんな、彼女の言葉に。  本条岬との会話がフラッシュバックしてしまう。  不幸を体現する魔法使い。  忌むべき災いの象徴。  なんて、つまらない脅し文句だ。 「……何が不幸だ。何が、呪いだ」  そんな適当な言葉で片付けてたまるか。  彼女を不幸の象徴と呼ぶなら、背負ってしまったこの俺はこの先どうなってしまう? 「う、うおおおっ!!? 瑠璃くんが女の子を連れてきた!!」  図書館への帰還を果たした俺を迎えてくれたのは、理央の勘違い発言だった。 「こ、これはどういうこと! しかも抱きかかえて! きゃー、強引!」 「盛り上がってるところ悪いんだが、手当してやってくれないか。怪我してるんだ」 「ありゃ?」  その言葉に、理央は少し表情を引き締める。 「うん、わかったー。そーゆーことなら、理央にお任せあれ」  素早く状況を察した理央は、救急箱を取りに向かう。  その間、広間のテーブルに怪我人を座らせて、ようやく一息ついた。 「あ、あのー、ここは?」  あたりを見回して、興味津々に尋ねる彼女。  「図書館」 「み、見ればわかります……そうじゃなくて、ええと、今の方は……同じ学年の、伏見理央さん……でしたっけ」 「……さすが、よく知ってるな。夜子のメイドだ」  説明するのが面倒だったので、簡潔に紹介した。 「あんたが興味津々だったこの屋敷の中身は、個人図書館だったってわけ。これで少しは好奇心が満ち足りたか」 「う、うう……別に、今は……」  乱暴な俺の物言いに、彼女は申し訳なさそうにうなだれる。  ……これじゃあ、俺が悪者みたいじゃないか。  この前の強引さはどこへ消えた。  まるで、別人のようじゃないか。 「キミは、一体何をしているのかしら」 「……げ」  二階から落とされた冷たい声に、心臓を掴まれたような気がした。  動揺を表に出さないように平静を装って、ゆっくりと振り返る。 「ただいま、夜子」  極寒の視線で俺を見下ろして、仁王立ち。  出来ればばれないままやり過ごしたかったが、間の悪さをみせつけてくれる。 「うちは、ペット禁止よ。どこで拾ってきたのかしらないけど、今すぐ捨てて来なさい」 「……ペットって」 「私、ペットですか……?」  はにかみながら、彼女は首を傾げた。  それは愛らしい仕草といえば、愛らしいのかもしれないが。 「怪我をしてるんだ。治療を済ませたら、すぐに追い返す」 「本当?」  疑いの視線が、俺を射殺す。  その言葉に秘められたプレッシャーが、俺の言葉を改めさせる。 「追い返す……努力はする」 「煮え切らないわね」  吐き捨てるように、夜子は言う。  彼女と俺を交互に見つめた後、少し考えるように目を伏せて。 「なるほど、そういうこと」  得心がいったように、薄ら笑みを浮かべた。  鋭い眼光は、俺と彼女を捉え続けている。 「特別よ。今回に限っては、好きにさせてあげる。怪我の治療をしたいなら、ゆっくりしていきなさい」 「え?」 「キミにも事情があるのでしょう? それなら次期遊行寺家の当主として、寛大な心で対応してあげます」 「…………」  背筋がぞっとするほどの優しさを見せてくれた。  あまりに普段の夜子とはかけ離れた対応に、胡散臭ささえ覚えてしまう。 「ただし、二階には絶対に入らないこと。部外者が許されるのは、1階までよ」 「……分かった。ありがとう、夜子」  それでも、許可をくれたことに対してお礼を述べなければいけないだろう。  どういう事情があるかは知らないが、夜子が他人の存在を許すという行為なんて、そうはお目にかかれない。  いや……少なくとも、俺が見る限りでは初めてだ。 「何を言っているのかしらね。馬鹿じゃないの?」  それからきびすを返して、書斎の方へ消えていった。  不確かな緊張感が消え去って、予想外に許されたことに安堵しながら、腰を落ち着ける。 「か、彼女が遊行寺夜子さんですね……! 私、初めてお会いしましたよ! うわぁ、とても美しい方でしたね!」 「ああ、目にするのも初めてだったのか。それなら驚くのも無理はないな」  白髪赤目の容姿は、とても目立ってしまうから。 「あ、でも、やっぱりご迷惑だった様子でした……あの、本当に申し訳ございません」 「俺が勝手に連れてきただけなんだから、あんたが謝ることじゃないだろ」 「それでも、やはり夜子さんからは疎まれているようでしたし……やっぱり私、帰ったほうが……」  泣きそうに顔を歪ませながら、痛む足で立ち上がろうとする。 「――っ!」 「馬鹿、座ってろ。治療もしないまま帰られる方が、よっぽど迷惑なんだよ」  目を合わせずに、言った。  恥ずかしいからでは、ないはずだ。  本当に面倒なことになったと、ため息が出た。  あの不用意な暴走車に、恨みが募る。 「はーい、お待たせしました! 看護師理央の登場でーす!」  そうこうしているうちに、理央が小走りに戻ってきた。 「ごめんね、遅くなっちゃって。救急箱なんて滅多に使わないから、場所が分かんなくてー」 「いや、十分だ。用意してくれるだけで助かるよ」 「あはは、何だか今日の瑠璃くんは優しいねー。甘々だよ! よーし、手当するねー」  慣れた手つきで救急箱を開き、包帯やら何やらを取り出した。 「あ、あの、すみません、何から何まで……」 「ううん、気にしないでいいよー。こういうときは助け合いの精神だし!」  長らく使っていなかった割には、理央の手際は素早かった。  料理だけではなく、こういったことも得意なのだろうか。 「この怪我は、どうしたの? 瑠璃くんが抱きかかえて連れてきたときは、無理やり拉致してきちゃったのかと思ったよー」 「ええと、似たようなものではありますが……」 「全く違うだろ」  即座に否定する。  人聞きの悪い事を言わないでくれ。 「車に跳ねられそうになったところを、俺が助けた。でも、助けるときに上手くできなくて、怪我をさせてしまった。それだけ」 「なるほど、瑠璃くんに傷物にされちゃったんだねー」 「……お前な」  誤解の招くような言葉は謹んで欲しいものである。 「間違えた。あ、でも瑠璃くんは大丈夫だった?」 「ああ、俺は助ける側だったし、受け身は取れてたから」  倒れることを想定していた俺と、まるで予想していなかった彼女の意識の違い。  それが、怪我の有無を左右したのだろう。  加えて、生身の足をさらけ出すスカートは、アスファルトに無防備過ぎた。 「ん、ならよーし。それなら安心だね」  傷を手当をしながらも、理央は嬉しそうに笑った。 「……お二人は、仲がよろしいんですね」  そんな俺たちを見ていた彼女は、微笑を浮かべる。 「幼馴染なんだー。らぶらぶだよーん」  対する理央は、よくわからない受け答えをする。  しばらく彼女は難しい表情を浮かべていたけれど、直ぐに笑顔を作ってから。 「本当に、ありがとうございましたっ」  真っ直ぐな感謝の気持を、口にした。 「照れるよーもー!」  やや頬を赤らめて、理央は立ち上がる。 「ん、とりあえず応急処置は終わりだよ。やっぱり足首ひねってたから、包帯で固定したからね。暫く安静にすること!」 「何から何まで、本当になんと感謝すればよいのか……」  初対面の図々しさは、どこへやら。 「手当をしていただいたばかりで恐縮ですが、そろそろ失礼させて頂きますね。夜も遅いですし、それに……」  ちらり、と2階を見上げて。 「私がいると、お邪魔なようですから。今度、改めてお礼させて頂きます」  困ったように笑いながら、俺を見つめる。  すぐに出て行ってくれること自体は、非常にありがたいことなのだが。 「……一応、送って行こうか」  いくら応急処置をしても、やはり弱々しい足取りに変わりはない。  松葉杖でもあれば良いのだろうが、そこまで用意周到であるはずもなく。 「いえいえ、大丈夫ですよー。そこまでご迷惑をお掛けするわけには」 「帰り道で、また轢かれそうになったら困るだろ。あんた、ふらふら歩いてそうだし」 「……うう、酷い言われようです……」 「否定はできないだろう」  そう言って、立ち上がった。 「えーと、ちょっとまってね、お二人さま」  俺たちの話を聞いていた理央は、困ったように窓を指さして。 「外、凄い大雨だよ?」 「……え」  この図書館の防音性は、かなり高い。  それはひとえに、静寂な読書空間を作るためのものであって、だからこそ今まで気が付かなかった。 「ぼーふーうー!」 「……嘘だろ」  頭をかきむしって、現状を嘆く。  さっきまでは、そんな気配は少しもなかったはずなのに。  あまりにもタイミングの悪い空模様に、少し不条理を覚える。 「あ、あの、傘を、お貸しいただければ……」 「駄目だよ、かなたちゃん」  理央が、きっぱりと拒絶する。 「足を捻ってるのに、この暴風雨は怪我に触るよ。無茶をする人のお手伝いはしたくないもん」  真剣な表情で、その申し出を却下する。 「……いや、でもどうするんだよ。この島、タクシーとかないだろ?」  残念ながら、需要の関係上その職種は成り立たない。  嬉しそうに、理央は言う。 「ここに泊まってけばいいんだよ!」  日向かなたが泊まっていくことそれ自体は、何も問題はない。  着替えなどの道具は理央のものを融通すれば良いし、夜子からは1階の客間を使わせる許可は降りていた。  あとは、勝手に2階にあがったり、物色するようなことさえしなければ、トラブルなく朝を迎えられるだろう。  と、思い込んでいた俺は、馬鹿だった。 「……瑠璃」 「はい?」  夕食時、1階の食堂に降りてきた夜子は、そこにいる部外者の姿を確認した途端。 「あたし、泊まっていく許可まで出した覚えはないんだけど」  ものすごい形相で、睨まれた。  彼女ではなく、俺を。 「……悪い、流れで」  むしろ、当然の結果とも言える。  しかし、今更追い返すような選択肢は取れない。  外の天気のことは夜子も分かっているだろうから、結局のところ、納得するしか無く。 「今日は、一人で食べるから」  夜子は、部外者を徹底的に嫌う。  他人という存在を恐れ、逃げるように部屋に篭る。  そのことに、異議を唱えるものはいなかった。 「んじゃ、あとで夜ちゃんの部屋にご飯もってくね」  理央は苦笑いを浮かべて、受け入れる。  ちなみに、妃に関しては。 「…………ふぅん」 「………う」  他人がいるにも関わらず、冷めた視線を向けながら、ひたすら無言を貫いていた。  不機嫌さがピリピリと肌に感じさせられる。  妃のことだから猫をかぶって優しく接するものと思っていたが、想像以上に機嫌が悪いらしい。  そして、夕食後、それぞれがそれぞれの部屋へ散っていく。  お客様である彼女は、そのまま理央の案内によって客室へと通され、そこで一夜を明かすだろう。  外部の人間がいるからか、今宵の幻想図書館はいつになく静かである。  明かりを最低限までに落とした1階の広間で、俺は一人小説を読み耽る。  外部の人間が余計な行動を取らないかどうか、それを見張るの俺の役目だ。 「……しかし、自分でもよくわからないな」  危機的状況に、反射的に彼女を助けた事は問題ない。  誰かを助けるという行為に、恥ずべきところはないのだから。 「問題は、その後か」  怪我をしている彼女に手を差し伸べて、図書館まで連れてくる。  この行動だけは、どうしても納得出来ないものがあった。  どうして、俺はそんなことをしたのだろう。  普通なら、そのまま見捨てるか、どれだけ優しくなれたとしても、理央を呼んでその場で手当をしてもらうのが精々だ。  間違っても、この図書館に招くということだけは、絶対にないはずなのに。 「……少し、変だな」  本を閉じて、天井を見上げる。  意識と行動が合致していないことに、戸惑いを覚える。  あのときは本当に――咄嗟の行動だった。  気が付いたら、彼女を抱きかかえていた。 足が、図書館へ向いていたんだ。 「昨日と彼女の様子が違うというなら、それは俺の方にこそ当てはまるのかもしれないな」  気味の悪い優しさに目覚めてしまっている。 「あ、あのう……」  と、俺が頭を抱えていると。 「すみません、あの、瑠璃さん……」 「……あ?」  気が付けば、彼女が客間から抜け出していた。  着替えはまだしていないようで、制服のままだった。 「何か用か?」 「あの、用というか、その……」  煮え切らない態度に苛立つが、それでも言葉の続きを待つ。 「わ、笑わないでくださいね……?」 「なんだよ」  やや恥ずかしげに、彼女は続ける。 「ひ、一人でこんなに大きなお屋敷にいると、少し、怖くて……」 「…………」  知るか。  と言いたかったが、言葉は言葉にならなかった。 「だ、だからその、瑠璃さんがまだ起きていらっしゃるなら、お喋りに付き合って頂けないかと……」 「…………」  本を読むほうが百倍楽しい。  そう言いたかったが、理性が言うなと制御する。 「……だ、駄目ですか?」  小動物のように目をうるませる彼女。  初日の彼女の印象なら、それは意識的な偽装。  今日の彼女の印象なら、ただ純粋に弱気なだけ。 「……話を聞いてやるくらいなら、構わない」  とりあえず、様子見を選択する。  ただし、こちらから話すことは、一切ない。 「わっ、嬉しいです!」  と、手を当てて、喜びを顕にする。  それから俺の隣の椅子に腰掛けて、控えめに口を開く。 「……今日は、本当にありがとうございました。私、あまり人にやさしくしていただいたことがなかったので、本当に、嬉しくて……」  まずは、お礼から始まった。 「理央さんも、素敵な方ですね。何も聞かずに私のことを手当してくれて……私、感動してしまいました」 「あいつは、人の世話をするのが好きだからな」 「凄い人ですよね。包帯も、こんなに上手に巻いていただいて……私なんか、不器用で、ドジだから、こういうの全然出来ないんですよ」 「そりゃ、車に轢かれかけるくらいだもんな」 「あはは……その通りですね。私、ダメダメです……」  少し落ち込んだように、トーンが下がる。 「でも、こういうことは日常茶飯事なのです」 「……?」  その言い回しが、少し気になった。 「瑠璃さんは、人生の幸福量が、一定だと感じたことはありませんか?」  悲しげに、彼女は口にした。  「よく、運が良い人と悪い人っているじゃないですか。そんな風に、人の運の総量には上下があって――でも、全ての人の総量の和は、零になっちゃうんですよ」 「誰かが幸福だと、誰かが不幸になる……か?」  その手の話は、数々の小説に出てきたっけ。 「その通りです。幸せの背景には、必ず不幸があって――私は、不幸担当の女の子なんですよ」  あっけらかんと、彼女は言った。 「何をするも運がなくて、だから、今日のことも運が悪かっただけなのです」 「運が悪かったって……」  そんな適当な締め方で、本当に納得できるのか。 「慣れてますから」  短く、答えた彼女の笑顔。  その笑顔を見て、あの魔法使いの噂を思い出す。  不幸をばらまく腐れ魔法使い。  彼女を取り巻く不幸の呪い。 「……なぁ、一つ聞きたいことがあるんだが」  状況は整ってしまった。  こうなってしまえば、尋ねずにはいられない。 「あんたって、イジメられてるのか」  単刀直入に、切り出してみた。  瞬間、彼女の表情は強張った。 「そ、そんなことはありませんっ!!」  大きな声で、彼女は否定する。 「こ、こんな明るくて可愛らしい女の子をいじめる人なんて、いるわけないじゃないですか!」  それはやや、必死さを感じさせる否定だった。 「明るくて可愛らしいから。そういう部分が、理由につながることもあるだろ」  そこに形式的な理由を求めても、無駄だ。 「ち、違います、ただ、友達がいないだけで……」  視線が、泳ぐ。 「少しだけ……意地悪されるだけなんです……」 「……そうか」  それは、肯定の言葉だった。 「意地悪って、どんなこと?」  どうしてここで、追求するのだろう。  そんなこと、どうでも良いではないか。 「……物を、隠されたりとか、悪口を、机に書かれたり」 「典型的なイジメだな」  疑うまでもなく、イジメである。  それは、昼休みにあの悪意の込められた手紙を見て知っていたことではあるが。 「あとは、夜、誰かに後をつけられたりとか……」 「…………」  それは、イジメの範疇を超えていないか? 「で、でも、直接何か言われたり、嫌いって言われてるわけじゃないんですよ」 「間接的には、壮大に嫌われているようにしか見えないが」  ついでに、もう一つ質問をする。 「ちなみに、誰にイジメられてるんだ?」  供述の裏付けを。  本城岬の言葉がどこまで正しいのかを、確認する。 「いえ……あの、その」  言葉を濁す。 「庇い立てする必要はないだろ。あんたをイジメてる奴なんて、ろくなやつじゃないだろうに」 「……分からないんです」 「…………」  分からない。  不明。  インビジブル。 「誰が私に意地悪をしているのか、分からないんです」 「私、確かに嫌われやすくて、友達もいないんですけど……それでも、直接嫌われているわけじゃなくて……ただ、避けられているだけで」  戸惑いが、溢れだす。  動揺が、俺に助けを求めていた。 「私に意地悪をしている人に心当たりがなくて、だから、怖いんです……」 「……そうか」  本条岬の言葉は、概ね正しいらしい。  第三者と本人が言うのなら、間違いないのだろう。 「わ、私は……自分でも気付かない所で、誰かに恨みを買ってしまったのかもしれません。自業自得、なのでしょう……」 「何を、馬鹿な」  運が悪いとか、自業自得とか。  そういう責任を、なぜ自分の中に求めるのか。 「……ごめんなさい、変なお話をしてしまって」  話を打ち切るように、彼女は微笑んだ。  無理矢理表情を変えたせいか、少しだけ窮屈な表情だった。 「私、部屋に戻りますね。読書の邪魔をしてしまって、申し訳ありません」  立ち上がりながら、小さくおじぎをする。 「……ああ」  引き止める理由もない。  俺にとって、それは好ましい展開だったから。 「今日は、本当にありがとうございました。久しぶりに誰かとお話できて、とても楽しかったです」 「…………」  何度目かのお礼に、もはや何を言うこともなかった。  ただ、彼女が立ち去るのをじっと見つめるだけ。 「そ、それでは、おやすみなさい」  俺の視線に気付いた彼女は、やや恥ずかしそうに言葉を繰る。  それから、足早に反転しようとして―― 「――きゃっ!」  テーブルの足に引っかかり、派手に転んでしまった。  顔面から、もろに床にぶつかっている。 「……何やってるんだよ」  呆れたようにため息をつきながら、倒れる彼女に手を差し伸べる。  あまりにも不安定な存在すぎて、見ているこっちが危なっかしい。 「い、いたたた……あはは、お恥ずかしいところをお見せしちゃいました」  俺の手をとって、罰の悪そうに微笑む。 「怪我をしてるんだから、もう少し周囲に気を配らなきゃ駄目だろ」  ああ、もう、苛々する。  どうしてこうも、不器用なのだ。  硝子のように繊細な彼女の手は、脆く、壊れやすい。  力を込めて握ってしまうと、それだけで折れてしまいそうだ。 「る、瑠璃さん……? あ、あの、手……」  黙ったまま手を握っていた俺に、彼女は恥ずかしそうに声を上げる。 「そんなに強く握られてしまうと、お部屋に帰れません」 「……そうだな」  無意識な自分の行動に、驚愕する。  どうして俺は、馴れ合っている。  奇妙な感覚が巡りに巡り、違和感だけがしこりのように引っかかる。 「……ここは、素敵な場所ですね」  その様子を見守りながら、彼女はこぼす。 「瑠璃さんを中心に、みんなが楽しそうです。つい、私もこの環の中に入れたらなって、思うほどに……」  乞い願うように、彼女は呟くが。 「勘違いするなよ、ここはあんたの居場所じゃないんだからな」  本来ならば踏み入ることすら許されていない、閉ざされた場所だ。  もっと言えば、夜子のためだけの図書館。  中心にいるのは、俺じゃない。 「……そうですね。陽のあたる場所に、私は似合いませんから」  くしゃっと笑いながらも、どこか悲しそうな声色だった。 「太陽の日差しから逃れるために、この図書館は存在する」  開いていた本を、閉じる。 「寝よう。夜の帳が下りる頃合いだ」 「……わかりました」  寂しそうに目を伏せるが、すぐに笑顔に切り替える。  それから、名一杯の愛嬌を灯して。 「それでは、おやすみなさい、瑠璃さん。良い夢を!」   何も変わらない関係性の中で、ひとまず一日は終わる。  遊行寺夜子。  遊行寺汀。  伏見理央。  四條瑠璃。  そして――日向かなた。  新しい登場人物の存在が、俺の心を強く揺さぶる。  自分でも意識しすぎていると自覚しても、どうにもならないらしい。  彼女が眠る、客間を見つめる。  苛立つほどに、彼女の声が脳裏に響く。 「まさか俺は――」  心臓が強く脈打つ。  言葉にすれば、更に意識してしまいそうになりそうで、途中で言葉を飲み込んだ。 「…………」  呆れ果てて、目を瞑る。  この俺が彼女に恋をしているなんて、あるはずがないのだから。  あるはずが、ない。 『ヒスイの排撃原理』  少女は呪われていました。  不幸という名の呪いに、取り付かれていました。  一つは、見えない加害者という、人為的な不幸。  悪意を持って彼女を害する、明確な不幸。  それを呪いと呼ぶには、あまりにも都合が良すぎるのかもしれない。  もう一つは、彼女を取り巻く偶発的な不幸。  日常を過ごす彼女の元へ、突然降り注ぐ不意の不幸。  通常ではありえない偶然が、まるで呪われているかのように起きてしまう。  二つの不幸に呪われた少女。  だから、人は彼女と関わりを拒絶するのだろう。  巻き込まれたくないから。  気味が悪いから。  疎ましいから。  そうして少女は世界から排撃され、呪いは過熱していく。  暴風雨は嘘のように過ぎ去って、空は眩しいほどの朝日を輝かせる。  海沿いの通学路を歩きながら、隣にいる人物を横目で確認して、騒ぐ心を抑えるのに必死だった。 「……ふんふんふーん」  妙にごきげんな様子で、彼女は軽やかに歩を進める。  捻挫はどうしたのかと突っ込みたくなったが、痛まないのならそれでいいと飲み込んだ。 「なんだか不思議な気分です。男の子と一緒に登校するなんて、初めて」 「俺だって、他人と肩を並べるなんて何時ぶりか」 「むふふ、ドキドキします? ニヤニヤします? なんなら手を繋いで登校しましょうかー!」 「……何言ってるんだか」 「ぶー! どうしてそんなに辛気くさい顔をするんですかー! こーんなに可愛い女の子が一緒にいるんですよ? もっと思うこともあるでしょうに!」 「元気になったもんだな。図書館での大人しさが嘘みたいだ」  弱みを晒して、一夜がすぎれば、元通り?  だけど今の方が、ずっと彼女らしいと思った。 「うう、あまり意地悪なことを言わないでくださいよ。私だって、その、色々と恥ずかしいんですから……」  徐々に声が小さくなっていく。 「強がっていることくらい、察して下さい。本当にもう……気が回らない人ですね」  ぼそぼそと愚痴をこぼしながら、それでも俺の隣を離れることはない。 「鬱陶しいほど明るくなったり、気が滅入るほど沈んだり、あんたは忙しいやつだな」 「な、何を言いますか! 人は誰だって、一本調子でいられるわけないでしょうに!」  彼女は、強く言った。 「瑠璃さんだって、私の前では愛想悪くてつんけんした態度でも、好きな女の子の前ではデレデレなんじゃないですか?」 「……何を言うかと思えば」  誰かの顔を、思い浮かべる。 「あ、目線逸らしました! 図星ですね!」 「…………」  デレデレではないけれど、それでも、彼女の前ではいつもの自分を維持することは出来なかった。  自分を崩されながら、彼女色に染め上げられているような、そんな気さえしていたんだ。 「る、瑠璃さん?」 「……ああ、ちょっと考え事をしていた」  どうでもいいことを、考えてしまっていた。 「私を放置して思考の渦に飲まれないで下さい! 寂しいです……!」  ぐいぐいと俺の腕を引っ張って、絡みつく。  まるで、尻尾を振る犬のようだ。 「知るか。重たい」 「あー! 女の子に重いとか言わないでくださいよー! ショックです。すっごいショック!」 「……面倒くさい」  ああ、もう、どうして俺は、こんなのと関わりを持っているのだろう。  そんな苛立ちが自然に外に出てしまっていて、無造作に彼女の腕を振り払ってしまう。  距離を開けようと、歩を進めたが。  しかし、彼女は儚げな表情で俺をその場に留めさせようとするのだ。 「足が痛くて歩けないんです。瑠璃さん、助けてください」 「…………」  あまりにも都合のいい言葉だったが、それでも俺は、放置することが出来なかった。  嘘であると思いながらも、なぜだか、突き放すことが出来ない。 「……わかったよ」  彼女の隣に並び、それから肩を貸す。  不機嫌な俺の表情に対して、彼女は嬉しそうに笑った。 「ありがとうございます。やっぱり瑠璃さんは、お優しいですね」  そして、彼女は続ける。 「……本当に、優しいから……私も、つけ込んでしまうんですよ」  自嘲気味な言葉だった。  だけど俺は、聞こえないふりをする。 「あの、瑠璃さん」 「何?」 「今日も、図書館へ行って良いですか」 「…………」  俺に体重を預けながら、甘えるように口にした。  どこまでも依存するように、彼女は願う。 「一人じゃ、寂しいんです。とても、怖いんです……」 「駄目に決まってるだろ」  俺は立ち止まる。  必然的に、立ち止まる必要があって。  それでも彼女は、歩みを止めなかった。 「瑠璃さんの隣に、いさせてくれませんか?」  足の痛みはあるだろうか。  立ち止まった俺から離れるように、彼女は歩を進める。  預けた体重を開放し、そのまま、ゆっくりと離れていく。  彼女の視線は、俺に絡みついて。  彼女の視線は、前を向いていなかった。  どこまでも後ろ向きに、限りなくネガティブに。 「……おい、馬鹿!」  そうやって、ふわふわと浮かぶように彷徨っているから。 「――え?」  停止した二本の足を、動かして。  離れ行く彼女の腕を、強く握り締める。  そのまま、力の限り、手繰り寄せて。 「きゃっ!」  咄嗟のことだったが、それでも的確に動けたと思う。  胸の中に抱きとめて、無理矢理こちら側へ留めさせる。  瞬間、一台のトラックが俺の眼前を猛スピードで通り過ぎた。  彼女の髪の毛をかすめるように、危険は突如として現れていたのだ。 「前を、向いて歩け。俺が止まった理由を考えろ。どうしてこうも、危なっかしいんだ」 「あ、ああ……私、また……」  弱々しい彼女は、再び顔を出す。 「……お願いです、瑠璃さん。私、やっぱり……怖くて」  噛み締めるように現状を確認していた俺へ、彼女はそれでも、尋ねる。 「私を、一人にしないで下さい。怖くて怖くて、たまらないんです……」  不幸を体現したような少女に向けて、俺は唸るように答えた。 「……それでも、これ以上図書館に招くことは出来ない」  嫌な流れになっていることは、自覚していた。 「でも、俺は……」  目の前の泣きそうになっている少女を放置することができなくて、関わることを選んでしまう。 「キミは、ああいう女の子が好みなの?」  それは、登校前のワンシーン。  日向かなたが朝食を済ませ、登校の用意をしている頃。 「今までその手の話を聞いたことがなかったから、ちょっと意外だったわ。まあ、可愛らしいものね」  彼女と顔を合わせないよう、遅れて食堂に顔を出してきた夜子は、毒舌を披露する。 「男受けしそうな、いかにもな女の子」 「……そういうのは、面と向かって言えよな」  どうして俺に言うんだよ。 「別に、どうでもいいことよ」  流れるような動作で、自らの席に座る。  しばらくしたら、理央が朝食を振る舞うのだろう。 「少なくとも趣味が悪いと言っているわけではないでしょ。 お似合いだと思うけど?」 「やめろよ」 「あら? お気に召さなかったのかしら? そんなことはないはずよ」  赤い瞳は、何でも見通す。 「あの娘の事、気になっているのでしょう? 助けてあげなさいよ。抱えている問題を、受け止めてあげなさい。キミには、その使命がある」  強い口調で、夜子が命ずる。 「一連の事件の全てを、余すこと無く解決しなさい。それも、可及的速やかに」  無理難題を、吹っかけてくる夜子。 「……今回に限っては、どうしてそんなに饒舌になるんだ?」 「いつものお前なら、そもそも俺に対して話しかけることすらしなかっただろ」 「見ず知らずの他人に、宿泊させるような寛大さなんて見せるはずがない。どうして、そんなに優しく振る舞う?」 「……別に」  不機嫌そうに、視線をそらす。 「ただの、気まぐれよ。それ以外になにもないわ」 「気まぐれで、お前は他人と接点を持つのか?」 「……五月蝿いわね。これだから、キミのことが嫌いなのよ」  苦虫を噛み潰したように、表情を歪める。 「全く、人の好意の裏を探るなんて、とんだ無粋な輩だこと。教養のなさが伺えるわ」  見下すように、声を強める。 「それよりも、早く用意をしたらどう? キミのヒロインが、待ってくれているわよ」 「………ヒロイン、ねえ」 「それに、そろそろあの女も目障りになってきたの。昨日は特別に許したけれど、これ以上は絶対に許さないから」 「我儘なやつだなあ」 「当然よ。あの女がいる限り、ここはあたしの空間ではないもの」  すっと、視線を上へ向ける。 「妃もずっと不機嫌なまま。楽しんでいるのは、キミと理央だけ」  朝食の時間にも、妃は顔を見せなかった。  彼女に会いたくないのだろう。  あるいは、彼女の存在を許したくないのだろう。 「しかし、解決しろと命じられても、どうしろっていうんだ」  彼女の周りにある不幸。  それは人の手でどうにかなるものと、ならないものがある。 「あら、そんなの簡単でしょう?」  くすくすと、微笑して。 「インビジブルなイジメの加害者を、見つけ出せばいいの。人為的に形成されている不幸を、取り除きなさい」 「それで、彼女は幸せになれるのか」 「知らないわよ。不幸なんて、一山いくらで売ってるような、ありふれたものなんだから」 「なるほど、説得力がある」  確かに、目に見えるものだけでも対処すれば、状況はずっと良くなるだろう。 「それで最後にキスでもしてあげれば、めでたくハッピーエンドでしょう」 「それは、少し適当すぎないか?」 「あら、世の中の物語なんて、大抵そんなものよ」  それが、活字中毒者の感想なのかよ。  今朝の夜子との会話を思い出しながら、教室に入る。  その横には当然、日向かなたがいるはず……だったのだが。 「ごめんなさい。一緒に登校するのはここまでが限界です」  年頃の女の子らしい恥じらいが理由ならば、それでよかった。 「瑠璃さんまで、悪意の対象になってしまうと困りますから」  そうやって、くしゃっと笑ってみせる。  その一挙一動に、心がざわめく。 「……あんたがそれでいいなら、そうする」 「はい、ありがとうございます」  そうして、少し遅れて登校する二人。  後ろから見守るように、教室へと入る。 「……あっ」  俺が教室に入った瞬間、彼女は自分の席の真横にいた。  その小さな瞳が僅かに見開くのを、見逃さなかった。  僅かに悲しみの色を浮かべた後、慌てたように机に覆い被さった。  狸寝入りをするような姿勢で、彼女は顔を伏せる。 「寝るには少し、早すぎないか」  俺と彼女は、前後の席。  結局、隣り合ってしまう。 「……昨夜は、興奮して眠れませんでしたので」  声が、僅かに震えていた。 「とても、それだけじゃなさそうなんだが」 「瑠璃さんも、あまり私に構っていると、巻き込まれてしまいますよ。先ほど、ご忠告しましたよね」 「初日は、あんたの方から構ってきたじゃないか。鬱陶しいほどに」 「鬱陶しいなんて、酷いです……」  その言葉に、僅かに顔を上げる。  依然として、姿勢は変わらない。 「……手紙が、来たんですよ。新入りと仲良くするなって」 「そうなのか」  知っている。  その手紙は、もう見てしまったから。 「私が楽しそうにしているのを見て、不愉快だったんでしょうね。だから、瑠璃さんとこうしてお喋りするのも、教室では辞めた方が……」 「少なくとも、そのときの俺は楽しそうに見えてたのかな」  初対面の時は、面倒くさそうな表情を見せていたはずだ。 「ま、その新入りも同じように迫害されてみれば、黒幕の手掛かりもちょっとは見つけられそうかな」  このままじっとしているよりは、何らかのアクションを起こした方が良いかもしれない。 「昔から、思っていたんだが」 「居眠りをするときのポーズって、どうしてこう悪戯したくなるんだろうな」 「え?」  人差し指を1本立てて、そのまま彼女の脇腹をつっついた。 「ひぃっ!?」  ウイークポイントを突っつかれた彼女は、可愛らしい悲鳴を上げて飛び跳ねる。 「な、ななな、何をするんですかー! セクハラですよセクハラ! 乙女のカラダに触るなんて!」  身体を起こしながら、猛抗議する彼女。 「一限目も始まらないうちから寝ようとするあんたが悪い」 「そ、そんなつもりじゃなかったんですよ!」 「ああ、知ってる」  先ほどまで彼女が伏せていた机を指さす。  覆い隠されていた惨状が、顕になっていた。 「……あっ」  真新しい机に刻まれた、呪い文句。  彫刻刀で込められた悪意は、年頃の女の子に対してあまりにも酷だったのだろう。  ――xxxx  放送禁止用語に引っかかるような、下劣な文言。  それが幾重にも連なって、彫られていた。 「……あ、あははは」  乾いた笑顔で、彼女は再び覆い隠す。  「こ、困っちゃいますよね、本当! 鉛筆で書くならともかく、彫っちゃうなんて! これじゃあ、隠せないじゃないですか……」 「今までは、隠してたのか」  鉛筆なら、消しゴムで消せる。  だが、机に彫られたら、どうしようもない。 「瑠璃さんにだけは、見られたくなかったのになあ……」  ぎこちない笑顔が、痛々しい。  「こんなところ、見られたくなかった……」 「…………」  そういう弱さを魅せつけられて、平常心でいられる方がが無理だ。  体の奥底で一斉に燃え上がる炎。  初めて、思った。  なんとかしてあげたいと、思ってしまった。 「る、瑠璃さん、注目を浴びちゃっています」 「ああ、あんたが変な声を出したからだろ」 「違います、瑠璃さんが子供っぽい悪戯をするからです……!」 「いいだろ、何も問題ない」  強い言葉で、言った。 「十中八九、あんたをイジメている奴は同じクラスの誰かだろ? だったら、分からせてやった方がいい」  注目を浴びたままでも、彼女に強く語りかける。  「あんたには、味方がいる。それを、見せつけよう」  瞳と瞳が交錯して、熱が迸る。  思わず息が詰まった彼女は、少し、唇が震えていた。 「そういう存在が、今のあんたには必要なんじゃないか」  我慢したって、唇を噛み締めてみたって、受難が去ることはないだろう。  力になれるかはわからないけれど、気持ちを共有することは出来る。 「全くもう……瑠璃さんはずるいですよ」  それから少し俯いて、押し殺したような声。 「瑠璃さんは知らないかもしれませんが、私、不幸の象徴だと思われているんですよ。災いをもたらす、悪しき魔法使いって」 「そんな魔法使いの味方になっちゃったら、瑠璃さんまで不幸になっちゃいますよ。不幸の呪いが、伝染してしまいます」 「なるほど、それは初耳だ」  もちろん、既に知っていることではあるけれど。 「だが、不思議だな。そうは言っても――」   ぐっと、力を込めて。 「あんたと出会ったこの数日間、不幸なことなんて何一つなかったぞ」  繰り返し、念入りに。 「あんたは面倒臭くて鬱陶しい性格をしているが、それでも、決して不幸を招くような女じゃない。呪われているはずなんか、ないんだよ」 「る、瑠璃さん……」 「それに、残念だが」  少し、嫌味っぽく言う。 「呪いなんて信じるほど、オカルトな人間でもねえんだ」  この目で見たもの以外、信じないたちなんでね。 「だから俺が、味方になってやる」  そうして、俺は彼女に手を差し伸べる。  彼女の窮地に馳せ参じる。  それはまるでヒーローのように、颯爽と。  事件を解決しなさい、と夜子は命じた。  それに従おうと思ったわけではないが、それでも俺は彼女の味方になることを選んだ。  不明瞭な加害者。  少女を害する悪意の塊。  イジメの主犯は、意図的に姿を隠しているのだろう。  自らの行いが露見することを嫌っている。  そこに手掛かりがあるのではないかと、俺は考える。  だから、彼女の傍にいるという行為が、すぐに解決につながるとは思っていなかった。  朝は、待ち合わせて登校する。  休み時間は、なるべく教室で雑談。  昼休みには、食堂で昼ご飯に勤しむ。  放課後は家の近くまで送っていく。  一日の時間のほとんどをつぎ込んで、彼女と時間を過ごしても、インビジブルなイジメはその隙間を縫うように行われた。  移動教室の際に、机が荒らされる。  定期的に届く脅迫文。  黒板に描かれる、心のない罵倒の数々。  そして、もう一つ。  彼女の不運についても、思い知るようになっていた。  あのトラックのひき逃げ未遂と同じく、イジメとは別の、ちょっとした不幸な出来事はたくさん起きた。  放課後待ち合わせをしているときに、野球部の放った打球が彼女に命中しそうになったり。  雨の日に、横を通り過ぎた自転車の水しぶきを被ってしまったり。  飲み物を買おうとしたら、目当ての物だけ全て売り切れていたり。  日常に散らばるちょっとした不運が、度重なって発生する。  誰もが経験したことあるようなちょっとしたことから、一歩間違えれば大怪我をしてしまうようなものまで、それらは多彩だ。  たまたま、局地的に、不幸が重なっただけ。  そう自分に言い聞かせながら、呪われた魔法使いの噂を思い浮かべてしまう。 「ね、新入りくんって馬鹿だよね?」  本条岬が、忠告する。 「関わんない方がいいって言ったのにさー。ま、いいけどねー」  呆れたように、忠告する。 「忠告した上での行動なんだから、それなりに覚悟を決めているんだろうし」  やや、笑いながら。 「最近は日向さんも笑うようになってきて、良かったんじゃないのかなー」  それは人事のような言い方だった。  そうして、日向かなたと過ごす時間が増えていった。  何の成果も得られないまま、ただ、彼女の笑顔を見ることが増えていった。  嫌な出来事が起きる度に見せる、あの困ったような笑顔を見てしまうと、なんとかしてやりたくなってしまう。 「お待たせしました、瑠璃さん。それでは帰りましょうか」  放課後、人気のない中庭での待ち合わせ。  それは恒例となっている決まり事。 「ああ」  イジメの主犯を見つけるという名目上で、こんな日常を何日も続けている。  事態の進展のなさに焦る一方で、現状にそれほど不満を覚えていない自分がいた。 「…………」  隣でにこやかに歩く彼女を見て、血液に熱が滾る。  まるで恋人に寄り添うが如く、密接していた。 「どうかしましたか?」  俺の視線に気付いて、彼女は首を傾げる。 「私の顔に、何かついています?」  恥ずかしそうに鏡を取り出す。  その一挙一動に、視線が奪われる。 「……いや、何でもない」  誤魔化すように、俯いた。  すると彼女は、嬉しそうに声を弾ませる。 「あら、もしかして見惚れちゃっていましたか! この、私に!」  学園内では見せない、元気で明るい彼女。  鬱陶しくもあり、賑やかでもあり、そして、華やかだ。 「瑠璃さんは意外とわかりやすいですねー! この私の可愛らしい横顔が見たければ、どうぞご覧になってくださいな」  ん、と。  差し出すように、背伸びする。 「あんたも、よく自分を可愛いと口にできるよな。そうそう出来ねえだろ」 「女の子はいつも可愛らしくありたいものですから! スマイルスマイル! にこー」  可愛さを誇示するように、笑った。 「それとも私、可愛くありませんか? 瑠璃さんからしてみれば、面倒臭い勘違い娘でしょうか?」 「さあ、どっちだろうな」 「……ふふふ、そういうところ、好きですよ」  見透かすような目で、笑う。 「もし私が可愛くなかったら、瑠璃さんは味方になってくれなかったのでしょうか。もしそういう想定をするなら、私は私の可愛さに感謝しなければいけませんね」 「さらりと滅茶苦茶な事を言うなよ」 「あはは」  一歩、彼女は俺の先を進む。 「第一、そういう質問は辞めておけ。友達失くすぞ」 「残念でした。私には、もう友達はいませんから」 「……そりゃそうか」 「でも、そういわれたら聞きたくなりますよね。瑠璃さんは私が可愛らしい女の子だから、助けてくれたんじゃないのかなーって」 「…………」 「私が不細工な女の子だったら、あなたは助けてくれましたか?」  やけに引きずるその質問。  少し逡巡してから、回答する。  「誰でも助ける博愛主義者じゃないからな。相手を問わずに手を差し伸べることなんて、しない」  首を振って、続ける。 「正直にいえば、どうしてあんたの味方になろうと思ったのか、今でも不明瞭だ。俺は本来、他人と積極的に関わろうとするタイプの人間じゃないからな」  だから、そこに理由を求めてしまうのなら。  あり得る理由を、想像してしまうのなら。 「可愛い女の子の助けになりたいなんて、一般男子的には憧れるシチュエーションだろう」  自分でも思っていた以上に、俗物的だったのかもしれない。 「あはは、酷いですねー。どんなかなたちゃんでも助けてあげるよ! と格好良く囁くところだと思いますよ? 女の子を口説くときは、そうしてください」 「残念ながら、口説く気はさらさらない」  少なくとも、性格はちっとも可愛くねえんだよ。 「うふふ、でも嬉しいですね」  悪戯が成功した子供のように、彼女は笑って。 「なんだかんだと、瑠璃さんは私のことを可愛い女の子だと思ってくれているようですから」 「……随分と周りくどい真似を」  それを炙りだしたかっただけじゃねえのか。 「ほんと、素直じゃありませんねー! このこの!」  ぎゅっと、腕を絡ませて迫る彼女。  距離が、あまりにも不用意だ。 「ねえ、瑠璃さん。……手、繋いでもいいですか?」  やや大人しい声色。 「こうやって楽しいお喋りをしてても、突然不安になるんですよ。瑠璃さんがいつ、私の傍から消えてしまうのか」  不安という弱い言葉を口にする。  先ほどまでのにこにこ顔が、怯えに支配されていく。  そういう表情をされてしまうと、たまらなく居心地が悪くなる。 「……手を繋いで、何かが変わるのなら、好きにしろ」  不用意な距離と自覚して、それでも断るという選択肢が浮かばない。  弱みを見せられると、抗えないのだ。 「ありがとうございます」  一方的に腕を絡ませて来ても、手を繋ぐには許可を求めるのか。  その違いは、一体何?  指と指が、触れ合って。  互いの熱が、敏感に伝わった。 「あんた、汗かいてるぞ」 「そ、そういうのは言わないで下さい! デリカシーというものを知ってますか!」  だから、心を落ち着かせたくて、雰囲気を掻き乱すことにする。 「こっちだって緊張してるんですよ! 照れ照れなんですよ! もう、どうしようもない人なんですから!」 「そうやって怒ってるほうが、あんたらしいな」  その間も、手は繋がれたまま。 「不安に取り憑かれ怯えているよりは、ずっと魅力的だぞ」 「――っ」  かああっ、と赤面する彼女。 「そ、そういうことを突然にいわないでくれませんか! 不意打ちは卑怯です!」  恥ずかしさを誤魔化すように、彼女は手を放した。  少しだけ名残惜しいと感じた自分を、律する。 「可愛いは嬉しくて、魅力的なのは駄目なのか? よくわからないよ」  これが女心と言うやつか。 「私が理解できないのは、瑠璃さんの言動です……」  そういいながら、一度離した手をもう一度握った。 「分かりやすそうなのに、分かりにくくて。分かりにくそうで、分かりやすい。変な人です」  繋いだ手に、湿る汗。  また、彼女は緊張しているのだろうか。 「でも」  熱が滾る。  想いが、溢れる。 「私、そういう瑠璃さんが、結構好きですよ」  笑いながら、さらりと言ってのける。  そういう彼女の方が、俺にしてみれば変な人になるんだよ。  手は握られたまま。  心は、繋がる?  日向かなたと別れた俺は、そのまま図書館へと向かっていた。  道中、繋いだ手のひらを見つめ、彼女のぬくもりの残滓を噛み締める。  少しずつ、日常が日向かなたに侵食されてるようだった。  彼女のいないときにまで、彼女のことを考えている。  これは、とても良くない兆候だ。 「本当にまあ、デレデレし過ぎじゃありませんか」  冷たい声が、響く。 「甘々の青春ラブコメを見せられている気分です。端的にいえば、不愉快」 「見てたのか」  背後から声をかけてきのは、妃だった。 「最近、瑠璃の様子がおかしかったものですから、しばらく観察させていただきました」 「…………」  声色が、まるで俺を咎めてるようだった。  そりゃ、そうか。 「見知らぬ女の子を図書館へ連れ込んだかと思えば、その日からやけに仲良くなり始めて。順調に段階を踏んでいるようで、何よりですよ」  怒ってる。  物凄く怒っている。 「しょうがないだろ。こっちにだって事情があるんだから」 「その辺りのことは、夜子さんから聞いています。彼女の不幸を払ってあげるのでしょう?」  厭味ったらしく、妃は言う。 「随分なご身分ですね。あなたが事件解決にあたって、何の力になるというのでしょう。女の子と手を繋いで、鼻の下を伸ばしているような男に、何が」 「わかったから……勘弁してくれ」  そういうのも含めて、しょうがないんだ。  そういう、ものなんだ。 「夜子さんも早急な解決を望んでいたというのに、一向に進展ないようですから……見かねた私が登場というわけです」 「というと?」 「私が解決してあげますよ。探偵役を張らせていただきましょう。もう、観客席で終わりを待つのはうんざりです」 「……それは頼もしいな」 「出しゃばるつもりなんてなかったのですけどね。瑠璃が、ベタベタしているのが悪いんです。今日なんか、手まで繋いだりして……」  恨み嫉みを、つらつらと。 「瑠璃は、一人で幸せになるおつもりですか? もしそうなのだとしたら――それは私が許しません」 「わかってる」  ああ、どうやら妃の臨界点を超えてしまったようだ。  妃は、俺の幸せを絶対に許さない。 不幸の底に、叩き落としたいのだ。 「このまま瑠璃に任せていても、どうやら解決しそうにありませんからね。こういうのは、私の出番でしょう?」 「そうだな……適材適所ってか」 「……だが、全く進展がなかった、というわけではないぞ」  収穫は、確かにあった。 「未だ、糸口さえ掴めていない。全くもって、犯人の姿形さえ見えない。だが、それもまた、収穫だろ」  改めて確認できたこと。  彼女に見舞われているイジメの足取りは、この距離に立っても追うことが出来ない。 「……ふむ、なるほど」  それもまた、収穫なのだ。  そして、不明瞭な犯人像という要素が、鍵となるのだろう。 「しかし、先程はああ言いましたが、手を握って鼻の下を伸ばしているだけでも、彼女は救われているのかもしれませんね」 「……そう見えるか?」 「味方ができて、胸をときめかせて。もしかすると、瑠璃のことを王子様とでも思っているのかもしれません」 「そこまで夢見がちな乙女には、見えないけどな」 「どうでしょうね。女の子って、潜在的にそういうところがありますから」 「……どちらにせよ、俺が傍にいることで気が楽になっているなら、十分だ」  それでこそ、意味があるというもの。 「ですが、それは仮初ですよ」  念を入れて、妃は否定する。 「仮の関係、偽物の間柄。そこで生まれるものは、カーテンコールを終えたらなくなってしまいます」 「…………」 「そうでしょう?」  瞳が交錯する。 「当然だろ」  いうまでもなく、当然だ。 「それではもう少し事情をお話していただけますか? 夜子さんは詳しく話してくれなかったので、把握しきれていないのです」 「どこまで聞いている?」 「イジメられている女の子を、正義の味方気取りで助けようとしているらしい、としか知りません」 「……概ねあってるのが腹立たしい」  あの野郎、陰口も叩き放題だな。 「もっと言うなら、正体不明の犯人を探している。彼女が受けているイジメは、正体不明のものばかり。痕跡さえ掴めないほど、インビジブルなんだよ」 「インビジブル? 正体不明?」 「ああ、誰かが確実に彼女をイジメているのに、それが誰だかサッパリわからない」  その言葉に、妃は少し考え込む。 「それだけじゃないぜ。単なる偶然による不運もやけに多い」  それこそ、あげだせば切りがないほど。 「イジメの理由が、災いをばら撒く呪われた魔法使いだから――ってらしいが、確かに噂になるくらいに、彼女の周囲には不幸が多すぎる」  それはまるで、そういう星の下に生まれてきたとしか思えないほど。  一言で言えば、呪われている。 「……まあ、イジメの標的になった、というのも、言い換えれば不幸の一つになるのでしょうね」 「人為的な不幸と、偶発的な不幸。それらが折り重なって、今の彼女は不幸に呪われている」  だから、俺みたいな人間が傍にいるだけで、心を許してしまうのだろう。 「しかし、不思議ですね」  何かを思いついたのか、妃は微笑を浮かべる。 「本当に災いをもたらす存在なのだとすれば、明確に幸福だといえる瑠璃の存在が、気に食わない」  妃は、俺の存在を否定する。 「物語的にヒーローが駆けつけてくれるのは美談ではありますが、それを現実に当てはめるのは少々臭すぎです」 「……不幸が重なるだけで、幸福が一切ないわけじゃないだろ。救いようがないほど、呪われているわけでもないだろうに」 「何だか、陳腐な展開じゃありません? いえ、こういうのって不謹慎かもしれませんが、もしこれが本なら――」  と、そこで。  妃の口が、止まった。 「ん? どうした? いつもどおり、好き放題言って構わねえぞ? オブラートな言葉で包み込むなんて、柄じゃねえだろ」 「いえ……そういえば、そんなこともありましたね」  何かを思い出したように、言葉をこぼす。 「どうりで既視感があると思ったら……なるほど、これは無関係とはいえないでしょうね」  まっすぐ、俺を見つめて。 「私は、この一連の出来事に心当たりがあります。ごくごく身近で目撃し、ごくごく最近、知りました」 「……どういうことだ?」 「瑠璃も、それを知っているはずですが……その様子だと、読んではいなかったようですね」  その目は、核心を得たように輝いている。  宝石のように、煌めいて。  その言葉に、その口振りに。 「『ヒスイの排撃原理』」 「……え?」  それは、俺が手にし、一度だってページを開くことなく、失くしてしまったかの本。 「不幸の象徴、インビジブルなイジメ。少女に降り注ぐ数々の呪い」  日向かなたの、受難。 「それは、『ヒスイの排撃原理』のあらすじと、全くの同一なのですよ」 「……なんだって?」  それは、驚愕の事実だった。 「あれは、見えないイジメや不幸に呪われている少女を、主人公が親身になって救ってあげるというストーリーでした」 「ちょっと待てよ。ええ?」  確かに、最初にあの本を見つけたのはお前だけれど。 「不幸の渦中に沈む少女と、手を差し伸べる格好良い主人公。まさしく、今のお二人のように」  最も、結末までは読んでいませんけどね、と付け加える。 「これは何の因果でしょうね。全く、興味深い話です」 「そんな、馬鹿な――いや、そうだったとしても、それは」 「ただの、偶然?」 「…………」 「それがただの偶然である可能性と、これらに因果関係がある可能性。果たして、どちらの方が確率は高いのでしょうか」  わかっている。  そんなことは、言われるまでもなくわかっている。  だが、理解は出来たとしても、そう簡単に納得できるものではないだろう。  目の前の真実を、疑いたくなるというのが人間だ。 「もし、万が一何らかの因果関係があるのだとしたら――」  それは、おそらく、きっと。 「あの本を所有していた、夜子たちも関わってくるってことだぞ」  夜子は、彼女に対してやけに寛容だった。  怪我をした彼女に滞在の許可を出し、俺に事件の解決を命じた。  他人という存在をゴミのように見ている夜子には、到底考えられない所業。  しかし、そこに本が関わっていたのだとすれば、納得せざるを得ない。  夜子にとって、本は特別な存在だから。 「現実が、本の内容と同じように展開している。それが作為的なものなのかはわかりませんが――少なくとも問いただす必要はあるでしょう」  図書館の方向へと向き直る妃。  ああ、どうやら妹も、俺と同意見らしい。 「今まで見て見ぬふりを決め込んでいたものと、向き合う時が来たのです」 「兄妹仲良くご登場なんて、珍しいわね。どうしたの?」  それから真っ直ぐ書斎へと向かった俺達は、夜子と対峙していた。 「妃は心から歓迎するけれど、キミは邪魔よ。消えなさい」  相変わらずの扱いの悪さだったが、しかし、今日ばかりは引き下がれない。 「聞きたいことがあるんだよ」 「……へえ? キミが、あたしに?」  赤色の瞳が、好奇心に疼く。 「それは、妃も同じかしら」  俺たち兄妹を交互に見て、面白そうに笑う。  どうやら夜子は、この状況を楽しんでいるらしい。  ということは、ここまで想定済みということか。 「ええ、勿論です。何を、と言わないまでも、夜子さんなら理解しているはず」 「残念ながら、言葉を繰らずに伝わるほど以心伝心ではないわ。何を聞きたいのか、教えて頂戴」  あくまで語らせることを、選ぶのか。 「少し前に、『ヒスイの排撃原理』の話をしただろ。お前はその本のことを、とても大切な本だと言っていたよな」  そう、あのときも、面白おかしく笑っていたっけ。 「今回、彼女の周りで起きている事柄は、あの本の内容に酷似している。偶然では済まされないほど、そっくりだ。この事実は、到底見逃せるものではない」 「お前は、早く解決しろと急かしたよな。それなのに持っている情報を開示しないのは、おかしいだろ」 「教えてくれ――両者の因果関係の正体は、何だ?」  妃は、黙って夜子の様子を伺っている。  補足しないということは、俺の言葉に満足しているのだろう。 「……ふん、ネタバレはもう少し先にするつもりだったのだけれどね」  冷たく笑いながら、夜子は口を開く。 「話してあげても構わないわよ。というか、母さんは最初から打ち明けるつもりだったみたいだし」  つまらなさそうに、愚痴る。 「もしキミがこの島に帰ってきて、昔と変わらずにいてくれたなら、全てを打ち明けると言っていたわ」  机の上に置いてあった本を、手に取る。 「――宝石の名前を関した本。それは、他の本とは一線を画する代物よ」  そして夜子は、口を開く。 「噛み砕いて分かりやすく言うのなら――」  それは、にわかには信じがたいものだった。 「――本の内容が、現実に起きるということよ」  怪しく語る、夜子の様子に。 「それらの本は、空想を現実に当てはめる力を持っている。その本が開いてしまったなら、現実が物語の舞台になってしまうの」  一旦、言葉を区切って。 「あたしたちは、その本のことを――魔法の本と呼んでいるわ」 「……は?」  呆気にとられる俺を、夜子は全力で放置する。 「いやいや、ちょっと待て。言ってる意味が――少し、理解できない」  こめかみを抑えながら、夜子の言葉を脳味噌が分解する。  けれど、突拍子のない言葉が、それを許してくれないのだ。 「待たないわよ。理解できないなら、置いていく」  止まることなく、語る。 「魔法の本は、生きているのよ。語りたがっているとも、言うべきかしら。だけど彼らは、文章ではなく現実を介して物語を広げてしまう」  本の内容が、現実に起きる。  先ほどの夜子の言葉がリフレインされる。 「例えば――『ヒスイの排撃原理』は、不幸な少女をヒロインとした物語。主人公が優しく手を差し伸べ、ヒロインを救う。この場合だと、まず本は配役を決める」 「『ヒスイの排撃原理』は、ヒロインを救う主人公に、キミを抜擢した。同時に、不幸な少女役として、日向かなたを指名した。二人を中心に、物語は開かれるのよ」 「そして、ヒスイの内容に従って、キミたち二人は急速に仲良くなっていくのでしょう。ヒスイの排撃原理と同じ、不幸という呪いに侵された、少女を救うためにね」  冷たい声色が、弾む。 「――ここで大事なのは、本の影響力は現実をも歪める力を持っているということ」 「本の内容に沿うように、都合の良い改変を行ってしまうの。それが、今のキミにありありと写っているわね」  そう、具体的には。 「ヒスイに描かれる主人公のように、今のキミは変わってしまっているのよ。より、ヒスイの主人公に相応しいようにね」 「……なるほど、それなら合点がいきますね」  夜子の言葉に、妃は頷いた。 「近頃の瑠璃は、どうも様子が変でした。ライトノベルの主人公のような、無気力で斜に構えたような偏屈な人間になっています」 「……こいつは元々そんな感じだった気がするけれど」 「つまり、その変化は、その本による影響だったと、そういいたいのでしょう」 「今のキミは――今の、キミたちは、物語に支配されているのよ。自分でも気が付かないうちに役割を振られて、舞台に上がってしまっている」  そして、気づけば。 「まさか自分が、台本に用意された行動をとっているなんて、気付きもしなかったでしょうね」  面白おかしく、夜子は笑った。 「……それじゃあ、あの日、俺が彼女を助けたのは」  夕暮れの帰り道、トラックに轢かれそうになる彼女を救ったのは。 「『ヒスイの排撃原理』の、43ページ。ここから、主人公とヒロインが仲良くなるのよね」 「ちなみに、ヒスイでは電車に轢かれかける、という設定だけれど、この辺りは辻褄合わせね。この島に、電車はないんだし」  それさえも、決められていたことだったのか。 「だったら、彼女の身の回りに起きていた不幸は――その、呪いは?」  極端に運が悪い彼女。  その理由も、正体も。 「そういう設定だからよ。ヒロインは、不幸に呪われた少女。だって、呪われていなければ、物語は始まらないでしょう?」  あくまで魔法の本による演出だったというのか。 「この間の暴風雨も、きっとそう。ヒロインを物語に絡まらせるために、本が仕組んだ演出でしょう。だから私は、素直に宿泊を認めたの」  夜子が他人の存在を認めたのは――それが、本の意志だったから。 「それはさながら、決められた未来のプロットを追うように、本は物語を誘導していく」  自らのストーリーを、現実に顕現させるため。  雨も降らせば、不幸をも招く。 「全部が全部、小説の中の出来事だったのか」  込み上げてくるこの気持ちは、一体何? 「それでも、全てが忠実に再現されるわけではないわ。台本はあくまで台本に過ぎず、物語を見せてくれるのは、瑠璃やその女なのだから」  なるほど、これは舞台の演劇と同じか。  知らないうちに壇上に登らされて、知らないうちに台本を渡されていた。 「『ヒスイの排撃原理』を元にして、キミたちはどんな物語を見せてくれるのだろう。それが、魔法の本の意志よ」  なんだよ、それ。  無理やり巻き込まれた人間が、バカみたいじゃないか。 「本当に……いい迷惑じゃないか」  怒涛に押し寄せる夜子の言葉に、飲まれっぱなしでいた。  脳味噌の中で不理解の言葉が渦巻いて、心を侵食していく。 「これまでのことは、一体何だったんだ」  苦虫を噛み潰したような言葉しか、呟くことが出来なかった。 「そうね、それはその通りだわ。少なくとも、巻き込まれたキミには、心中察するわ」 「……え?」  夜子の嘲笑うような微笑に、胸がざわめく。 「ふふっ、面白い男ね。まさか今抱いている気持ちが、真心だとでも思っていたのかしら」  夜子は、見下すように笑う。 「ねえ、瑠璃。一つ聞きたいんだけど、この物語はどういうジャンルだと思う? 本が開いた物語のテーマは、何でしょう?」  それは、試すような口振りだった。 「……それは」  嫌な汗が、だらだらと流れ始める。  夜子のいわんとしていることが、わかってしまったから。  それは何も、俺だけではなかったらしい。 「――恋愛小説ではないのですか。不幸な少女と、それを救う主人公との、恋模様」  妃は、それを口にしてしまう。 「正解よ。つまりは――ヒロインが主人公へ、主人公がヒロインへ、恋心を抱かなければ物語は進まないというわけ」  苦しむ俺を見て。  夜子は本当に、楽しそうだった。  ああ、本当に性格の悪いやつだ。  こいつは――とびっきりに、最悪だ。 「本は、物語を語りたいから現実に干渉する。ページは捲り続けなければならないの」  もういい、わかった。  お前が何を言いたいのか、よくわかったから。  これ以上、何も言わないでくれないか。 「今、キミが抱いている恋の芽生え。それはどうしようもなく、本に用意された演出上のものにすぎないのよ」  血液の熱さを、知った。  心臓の鼓動が、こうまで高鳴ることを知った。  抱いていた想いを、他人に指摘されて。  それが偽物だと指摘されて。 「今まで抱いていた日向かなたへの恋心は、全て虚構よ」 「……ああ、そうか」  込み上げる感情がこぼれ落ちないように、天井を見上げる。  虚構。  偽物。  本が生み出した幻影。  言われて、吐き気を覚えて。  理解して、怒りがこみ上げて。  後に、辿り着いたのは、納得だった。  大きく息を吐いて。 「良かった、これが、偽物で」  直後に訪れたのは、それをも超える安堵感だった。  俺は心から、安心したのだ。  偽物であって、虚構であって、幻影であって――良かった。  物語に、感謝した。 「……何よそれ。つまらない反応ね」  つまらなさそうに、夜子は毒突く。 「恋もしたことのないような童貞に、甘い夢を見させてあげたのよ。むしろ、感謝して欲しいものね」 「余計なお世話だよ、引き篭もり処女。ああ、本当に――良かった」  偽りと指摘された瞬間、疑いの思考は掻き消えた。  魔法の本の存在よりも、俺にとってはそっちの方が重大だったのだ。  俺にとって、そっちのほうが都合がいいから。  魔法の本の仕業と知れば、安心できる。 「では、影響を受けているのはあの人も同じなのでしょうね」  妃が、口を挟む。 「不幸に呪われた少女、日向かなた。それは、キミが救うべき少女の名前」  余裕たっぷりで、夜子は言った。 「おそらく、ヒスイを開いたのはその女でしょうね。あれはもう、成りきってしまっているわ」  成りきってしまっている。  本の中の存在に、染め上げられてしまっている。 「彼女もまた、哀れな登場人物なのか」  台本の存在を知らないまま、用意された不幸と恋に、惑わされている。  一段落して、妃が声を上げる。 「概ね、その本のことはわかりました。にわかには信じ難いですが、真実なのでしょう。これで嘘だったら、一生許しません」 「当然よ。隠すことはあっても、嘘はつかないわ」  夜子も、妃には胸を張って語る。  この二人は元々仲が良かったから、通じ合うものでもあるのだろうか。  こほん、と一つ咳払いをして。 「ひと通り聞いたところで、まず初めに」  ぎろり、と夜子を睨みつけた。  こういう表情は、とても珍しい――と感想を抱いていると、いきなり妃は声を上げた。 「ちょーっぷ」  棒読みな掛け声と共に、妃は夜子の頭頂部へ、手刀をかます。 「――いたっ!」  その行動があまりにも予想外だったのか。 「え? ええ!?」  両手で頭を抑えながら、痛みではなく困惑に満ちる夜子。  妃に手を挙げられたことに、心底驚いている様子だった。 「な、何で叩かれたのかしら? あれ、あたし、怒られてるの?」 「怒っていません」  強く否定する妃。 「お、怒っているわよ! 絶対に怒ってるわ!」 「怒っているわけないじゃないですか。これまでの会話の中で、私が怒るようなことをあなたは言いましたか?」 「ん……黙っていたこと、くらい。でも、それだって……」 「ええ、そんなことで怒りを覚えるような女でありません」  ちなみに。  俺は、妃がどうしてチョップしたのかを理解している。  妃が怒った理由も、把握している。  でもそれは、夜子には絶対にわからないこと。 「もういいでしょう。話の続きをしましょうね」 「腰を折ったのは妃の方よ……!?」 「気にしない気にしない」 「おい、肝心な話をしていないだろ」  和気藹々とする二人に呆れながら、口を挟む。 「肝心の解決方法についてを聞いてない」  そう、開かれた本を閉じる方法。  この一連の出来事がヒスイによるものなら―― 「どうすれば、このつまらない三文芝居を終わらせることが出来る?」 「急ブレーキは不可能よ。一度始まったら、終わるまで止まらない」  それは、つまり。 「エンディングを迎えなければ、ヒスイは満足しないわよ」 「……やっぱ、そうなるのか」  半ば、予想はしていたことだ。 「そうじゃないでしょう、瑠璃」  隣にいた妃が、呆れたように口を挟む。 「先ほどの会話から、夜子さんが『ヒスイの排撃原理』の内容を把握していることは明白です」  遅れて、俺も気がついた。 「この事件を終わらせるために、本を閉じるためにエンディングが必要というのなら、少しカンニングさせていただきましょう」 「さあ、夜子さん。この物語のオチを教えてもらえますか」  物語を終わらせることしか出来ないのなら。  すみやかに終わらせるために、その道筋を知ればいい。 「嫌よ、あたしはそんな無粋な真似をしない」  しかし、頑なに夜子は拒絶する。 「あたしはこの図書館の主よ。本を裏切る行為なんて、出来るはずがないじゃない」 「また、チョップしますが」 「それは駄目」  さっと頭を隠す夜子。  そういう可愛らしい反応を、何故俺の前でしないのか。 「……それでも、解決法は教えてあげるわ」  妃の前だからか、やや控えめな口調。 「空想が現実に起きているとはいえ、これは物語なの。だから、流れに沿うように問題を解決すればいい」  それは、つまり。 「ヒロインを呪っている人物を見つけなさい。イジメの加害者を見つければ、後はドミノ倒しのように不幸の呪いは終焉を迎えるでしょう」 「……おい、それだと状況は何も変わってないんだが」  結局、本の内容に準じることに変わりがないぞ。 「変に抵抗しないで、さっさと解決すればいいの。これが本だからって、意識することにあまり意味は無いわ」  頑なに、夜子は言う。 「本が原因だとしても、その不幸や呪いは現実に発生してしまっている。なら、それに向き合うしかないんじゃなくて?」 「……わかったよ」  最もな言葉だった。  現に今、彼女は不幸の呪いに苦しめられている。  どのみち、俺には選択肢なんてなかったのだ。 「本当に、強情な人ですね」  妃は、呆れたようにため息を付いて。 「……ちょっぷ!」 「いたっ! ……うう、何だか今日の妃は、乱暴」  口を割らせることを諦めた妃は、お仕置きを敢行する。 「とりあえず、今のところはこれで勘弁してあげます。これ以上、私を怒らせないでくださいね」 「……何だか、理不尽な気がするわ」 「何を言いますか」  窘めるように、妃は言った。 「魔法の本の方が、よっぽど理不尽です」  ああ、全くだ。  『魔法の本』  ――それは、書いてある内容を現実に引き起こしてしまう規格外の代物だ。  夜子が語る、現実と空想の境界線を超える摩訶不思議の存在。  本が俺に与えた役割は、ヒロインを救う主人公。  ああ、そういわれてしまうと、猛烈に納得してしまった。  こうして彼女の傍にいるのも、そういうシナリオだから。  浮かれた心が緩むのも、全て演出に過ぎない。  知ってしまったら、随分楽に過ごすことが出来る。 「……と、思ってたんだが」 「はい? なにか言いましたか?」  今も、こうして彼女と隣り合う。  誰もいない放課後の教室は、とても心地よい雰囲気。  そうしているだけで、心が落ち着かなかった。 「いや、何でもない」  舞台裏の事情を、伝えるべきではないだろう。  伝えてどうにかなるようなことでもない。  むしろ、逆効果になってしまう可能性のほうが高いと思う。 「そうだ、聞いてくださいよー、瑠璃さん! ねえ、聞いてます?」  ぐいぐいと肩を叩いて、話しかける彼女。  「近頃、少し平和になったように思うんです。嫌なことが起きる頻度が、減ったような気がして」  嬉しそうに、彼女は語る。 「怖いことも、危険なことも、なくなってしまいました。これも、瑠璃さんのお陰ですね」 「……さあ、どうだろうな」  ぶっきらぼうに答えるが、少し、誇らしかった。  自分が、彼女の役に立てていると、実感できたような気がしたから。 「それは、イジメ以外もか?」 「はい、その通りです。もう随分と、嫌な思いをしていないように思います」 「不幸の呪いが、薄れた?」  俺と時間を共有することで?  それは、どういう因果か。 「私、今がとても幸せですよ。瑠璃さんがお傍にいてくれるようになってから、とても満ち足りています。もう、これ以上は何も望まない程に」  幸せ、と。  不幸に取り憑かれていた彼女は言う。 「……それでも、原因がなくなったわけじゃない」  これで解決するような物語を、夜子が好むとも思えなかった。  嵐の前の静けさ。  これからまた、何かが起きて、何かが終わるのだろう。  物語とは、そういうものだ。 「瑠璃さんは、私をイジメていた犯人を見つけるつもりなんですか」 「ああ、それが最も的確な解決方法だろ」  夜子から、そうネタバレされているところだし。  それにいつまでも、この関係を続けるつもりはない。 「……私は、知りたくありませんけどね」  やや俯きながら、零す。 「私のことを悪く思っている人のことを、少しだって知りたくはないです。知ってしまうのが、怖い」 「……それは」 「も、もちろん! 解決してくれようとする瑠璃さんのお気持ちは嬉しいです! でも、その後のことを考えると、憂鬱で」  それはとても弱い心の現れ。  だが、そう思ってしまう気持ちに理解が芽生える。 「犯人を見つけて、それで終わりという訳じゃありませんよね。イジメは終わっても、私の学園生活はこれからも続きます」  震える声が、逃げ惑う。 「不明瞭な悪意よりも、確定した悪意の方が、私は辛い。加害者を知りながら、それでも平常な心で暮らせるほど強くはないです」 「……そういうものか」  悲痛な声が、俺に納得を要求する。 「俺からしてみれば、誰が加害者かわからない状況のほうが、ずっと恐ろしく思えるんだがな」  誰が自分のことを嫌っているのか、わかっていたほうが安心する。 「だが、そう思う気持ちもまた、理解したい。何よりも一番、あんたの気持ちが大事だからな」 「但し、犯人は見つける。少なくとも、イジメをやめさせる方法はそれしかないだろ。あんなに陰湿なイジメ、そう簡単に終わるとも思えない」 「安心しろよ。もし、全てが終っても、傍にいてやるから。どうせ、席は前後ろだろ? 気長な学園生活が、あんたを待ってる」  本当に?  すべてが終わっても、俺は傍にいるのか。  俺はもう、この気持ちが本の演出上のものであることを知っている。  全てが終わって、元通りになったなら――俺は、彼女の傍にいるのか?  舞台を降りた俺たちに、未来はあるのか? 「……うふふ、頼もしいです。やっぱり男の子は、格好良いですね」  噛みしめるように、笑いながら。 「瑠璃さんがそう言ってくれるだけで、私はどれほど救われたのでしょうか」  ただ、等身大の輝きを放つ。  それは、目も眩みそうなほどの輝き。 「やっぱり、私は――」  と、彼女が口を開いたところで。 「あー、瑠璃くんとかなたちゃんだー!」 「理央? 珍しいな、こんなところで」 「えへへー、放課後の教室でうとうとしてたら、眠っちゃってた! 瑠璃くんとかなたちゃんも、お昼寝ちう?」  「眠っていたように見えたか? ちょっとした、雑談だよ」 「ほえ? そうなんだー。瑠璃くんとかなたちゃんは、仲がいいんだねー!」 「……ああ、そうだな」  適当に、肯定した。 「今日は、やきうの練習はなし? ほーむらんは打ちませぬ?」 「甲子園に夢を見るのは終わったんだよ。今は、つつがない青春を送ってる」 「なんだー、残念。またほーむらん打ちたかったなー」 「また?」 「うん、また。ありゃ? 違った?」 「……………………」  お前がやったのは、バットを思いっきりぶん投げたことだけだ。 「今度は、キャッチボールにしよう。素振りよりも、オススメする」  どうせ、スカートのままだと振れないだろうし。 「オススメされちゃったらしょーがないね。ほーむらんは諦めるよー」 「ああ、折角二人いるんだから、二人で楽しめることをしよう」  素振りは、一人で黙々とすればいい。  二人で楽しむ方が、きっと幸せだろう。 「理央も、きゃっちぼーるの方が好きかなー」  首を傾げながら、はにかむ。 「瑠璃くーん」 「なんだよ」  俺の名前を呼ぶ。 「理央の名前、呼んでみて?」 「……理央?」  困惑しながら、呼んでみた。 「はーい」  手を上げて、元気のいい返事をしてくれた。  可愛かったけれど、込められた意味はさっぱり不明。 「元気ですかー」  呼びかけるように、語りかける。 「瑠璃くーん」  嬉しそうに、もう一度、名前を呼ぶ。  頭のゆるい受け答えをして、浮かぶのは疑問符ばかり。 「やばい、理央が何を言いたいのかわからんぞ」 「きゃっちぼーるだよー」  笑いながら、説明する。 「理央が名前を呼んで、瑠璃くんが答えてくれる。瑠璃くんが理央を呼んで、理央が答える。言葉のきゃっちーぼーる」 「……ああ、そういう」 「道具がなくても出来る、素敵な時間の過ごし方」  にこにこが、止まらない。 「理央は、そういうことに、憧れをもっているのです」 「野球じゃなくてもいいんだな」 「やきうもやってみたいかも」 「そこにこだわりはないんだな」 「理央はすとらいくぞーんがひろいのです」  えへへーと、嬉しそうに頬を緩める。  もう、理央の笑顔は咲き乱れっぱなしだ。 「瑠璃くんとなら、何をしても楽しいよ。ほーむらんでも、きゃっちぼーるでも、やきうでも」 「……まだ、空振り三振しかやってないぞ」 「それではこれから、思い出を作っていこー!」  おー! と。  理央は右手を突き出して、声を上げた。 「じゃ、理央はそろそろ行くねー。のんびりお喋りしてる場合じゃなかった! 夜ご飯の用意をしなきゃだよ」 「あ、おい待てよ。一緒に帰ろうぜ」 「んーん、買い出しもあるし、急いでるから先に行きます! それに、邪魔しちゃ悪いから」 「邪魔って、何の?」  理央の言葉に、俺は過敏に反応して。  対する理央は、少し俺に近づいて、囁くように言った。 「瑠璃くんの邪魔をしちゃ駄目って、夜ちゃんから言われてるの」  それは。 「ちゃんと、きれいに終わらせてあげてね。ヒスイを満足させてあげて欲しいの」  魔法の本の、ことだった。 「……ああ、わかってるよ」  理央だって、知っていた。  もちろん、知っていた。  知らなかったのは、俺と妃だけ。 「ごめんね、ずっとずっと、ナイショにしてて。理央は、悪い子だね」  困ったような表情に。 「それがお前の、役目だったんだろ。気にするな」  無造作に頭を撫でてやった。 「あーうー、理央は猫ちゃんじゃないよー?」 「猫みたいなもんだろ」 「にゃあ?」 「ほら、可愛い声で鳴くじゃないか」  ぐりぐりと、頭を撫で続ける。 「にゃあー……」  理央も満更ではなさそうに、気持よさそうな表情を浮かべた。 「瑠璃くんのお手手は、まるでまたたびだね。やみつきー」 「のんびりしてて、大丈夫か?」 「……はっ!? 忘れてた!」  帰ると口にしていたはずなのに、気が付けば戯れてしまっていた。 「んじゃ、またねー! ばいばい!」 「ああ、また後でな」  大きく手を振りながら、理央は駆け出す。  その背中を見守りながら、頭をなでた感触に、幾ばくかの懐かしさを感じていた。 「そういえば、昔はよく理央の頭を撫でていたな」  撫でられることが、好きだった。  撫でることも、好きだった。  成長して、気恥ずかしさからか、そういうことを忘れていたけれど。  理央の姿が見えなくなったところで、席に戻る。 「……お二人は、仲良しなんですね」  開口一番、突き刺さる言葉。 「何だか、勝手知ったる仲、という印象を受けました」 「まあ、幼馴染みたいなもんだからな」  少し、不機嫌?  言葉や声に、棘が見える。 「……ねえ、瑠璃さん」 「なんだ?」 「私と理央さんとの違いって、何なんでしょうね」 「は?」  質問の意図が、サッパリ理解出来なかった。 「近くなったと思ったのに……まだまだ、遠い」  表情が、強ばっていた。 「……具合でも悪いのか?」  心配そうに声をかけると、彼女ははっと我に返る。  それから、何かを振り払うように首を振って、笑顔を作った。 「いつもニコニコ、あなたのお傍にかなたちゃん。今日も笑顔で、瑠璃さんの隣で咲き誇ってみせますよ!」 「……はあ?」 「女の子は笑顔を忘れちゃ駄目ですからね!」  過剰な笑顔に、何を思うか。  困ったような笑顔でもなく、純粋無垢な笑顔でもなく。  それは俺が見たことないような、硬い笑顔だった。 「瑠璃さんも、笑顔の女の子の方が、好きですよね」 「ああ、そうだな」  脳裏によぎった笑顔。 「理央だって、いつも笑っていた。やっぱり人間、笑顔が大切だな」 「……はい、そうですね」  一転して、落胆したような声色。  それでも、明るく務めて。 「私は、瑠璃さんがそばに居てくれたら、いつでも笑っていられますよ」  それは、甘えるような声で。 「――瑠璃さんが傍にいてくれなきゃ、笑えないんです」 「……心配するな。俺は、あんたを裏切らないよ」  何を心配しているのだろう。  安心させるために囁いた言葉だったが、しかし、彼女は最後まで固い笑顔のままだった。  理央の笑顔に、彼女がどういう不安を抱いたのか。  俺は本当に、気付かなかったのか?  4限目の体育の授業が終わったら、中庭に来てくださいね。  昼休みは、誰もいない中庭でのんびりと過ごしましょう。  お手製の美味しい美味しいご飯を振る舞います。  それは甘い誘い。  男女別の授業前に交わされた小さな約束。  断る選択肢は、少しも浮かぶことはなかった。  つかの間のひとときに夢を見て、馳せてしまう自分がいる。  ああ、これも本の影響なのだろう。  そう自らに言い聞かせながら、階段を降りていく。 「よぉ、少年。今日もあの女のお守りか?」  頭上から、冷ややかな声が飛んできた。 「……汀、来てたのか」 「お陰様で、初登校だよ。あんまりサボりすぎてると、卒業できねーからな」 「汀は最近、何してたんだ? 学園はともかく、図書館でもめっきり見てなかったが」 「女遊び」 「またそれか」  あまりにも適当過ぎる答え。 「嘘は言ってねーんだけどな」  それでも余裕は崩さない。 「お前、夜子から魔法の本について聞いたんだってな。あいつ、珍しく楽しそうだったぞ」 「俺を魔法の本で翻弄して、さぞ楽しかったんだろうな」  そんなに、俺のことが嫌いか。 「そんなことよりも、随分と腑抜けた面をしてんじゃねーの。お前のヒロインは、そんなに可愛く見えたか?」 「見た目だけなら、可愛いんだよ。性格は……」  不安げな瞳と、弱気な心。  強がって、頑張って、懸命にすがる少女。 「……ああ、腑抜けてしまっているのは、自覚している」  理性が抑えられない情動。  その名前を、俺は知っているはずだ。 「甘すぎて、蕩けそうだな。理央辺りが好きそうな、ベッタベタのラブコメしてんじゃねーよ」 「少なくとも、コメディ要素は薄いだろ」  いじめに、不幸に、呪い。  どうあっても、笑えない。 「それでも夜子は、お前の様子を楽しみに観察してる。俺にまで、様子を伺ってこいと言ってくるくらいだ」 「妹の頼みなら何でも聞いてくれる頼もしいお兄ちゃん」 「うるせえ」 「夜子の好みは、ラブコメ系統からは外れていただろ。こんな物語を見て、あいつは本当に楽しいのか」 「瑠璃の苦悩する様が見れて、それだけであいつは満足してるんだろ」 「汀は、ヒスイの話の続きを知ってるのか?」 「ああ、読んだことがあるからな」 「……ふうん」   やや、伺うようにして。 「ネタバレ、あり?」 「許されるわけねえだろバカ」  ノータイムで断られてしまう。 「親友だろ」 「諦めろ」 「ちょっとだけ、ヒント」 「俺は妹を裏切れねえ」 「このシスコン野郎が」  その辺りも、夜子に命ぜられているのだろう。 「だが、助言はしておいてやるよ」  ぶっきらぼうな物言いに、優しさがにじむ。 「台本が、全てじゃない。演じる人間の数だけ、エンディングは存在するんだよ」  強い眼差しで、汀は語る。 「望まないエンディングなら、変えてみせる気概を見せろ。登場人物が、物語を変えることだって出来るはずだ」 「だからこそ、夜子は楽しみにしてる。お前が、この『ヒスイの排撃原理』をどう終わらせてくれるのか」 「……イジメの犯人を見つけろ、か」  彼女と恋人になれ、とは言わなかった。  不幸を拭え、とも言わなかった。  示されたエンディングへの道筋は、それだけ。  そこからは俺が、何を選ぶのか。  「少なくとも、平和的に解決したい。彼女を取り巻く不幸は物騒ものばかりだからな」 「これが危険な物語であるなら、俺も夜子も静観なんかしねーよ」 「…………」  危険な物語も、あるんだな。 「んじゃ、用も済んだし俺は行くぜ。引き止めて悪かったな」  「おう、ありがとう、助かったよ。これからはサボらず登校しろよ?」 「前向きに検討しておく」  そうして、汀は階段の上を登っていく。  来た方向とは逆方向――本当に、俺の様子を見に来ただけだったらしい。 「……少し、時間を使い過ぎたか」  体育終わり、女子の着替えは時間がかかるだろうが、それでも待たせてしまっているかもしれない。  一人寂しく待ちわびてる彼女を想像すると、胸が傷んだ。 「……急ごう」  階段を見上げてみた。  汀はもういない。  振り向いて、階段を降りようとした。  ふと――後ろに影が差したような、気がした。  汀が戻ってきたのかと思い、振り返ろうとして――  その影は大きな不安を爪痕のように残しながら、俺の真横を通り過ぎて行く。  その影の正体を確認することが出来ないまま、現実は加速する。  甘い匂いがした。  鼻の中に広がる、もはや嗅ぎ慣れた匂い。  それは日向かなたという、恋の匂いだ。  あどけない笑顔を思い浮かべる。  脳裏で浮かんだ彼女の表情は、しかし不安に怯えていた。  助けを乞い願うかのように、手を伸ばす。  刹那の走馬灯が過りながら、現実には影が真横を通り過ぎて行く。  否――それは、落下だった。 「――っ!?」  不意に身体が動いて、手を伸ばした。  離れていく大切な物をつかもうとして、けれど、間に合わない。  トラックからは、守ることが出来たのに。  重力からは、守ることが出来なかった。  彼女は、落下する。  日向かなたは、階段から落下する。  「おいっ!?」  俺の声が声になったのは、彼女が地面と衝突するのとほぼ同時。 「おいっ! 大丈夫か!?」 「……う、うっ」  すぐさま駆け寄り、横たわる彼女を抱きかける。  その体はあまりにも華奢で、折れていまいそうだった。 「しっかりしろ! 意識はあるか!? 俺がわかるか!?」 「る、瑠璃さん……? あ、あれ……私……?」  朦朧としながら、それでも声が帰ってくる。 「頭は打ってないか!? 足は平気か!? クソッ、何やってんだよ!」 「あ、あああっ……!」  階段から落ちるなんて、不注意が過ぎるだろうに。  どうしてこうも、心配させてくれるんだ。 「ち、違うんです、わたし、わたし……!」  彼女は、涙声でしがみつく。  体中が震えに支配され、動揺が伝わってくる。 「うえでっ! 背中、押されてっ……!」 「――え」  唇も、指先も、足も、瞳も、全て震えていた。  それは純然たる恐怖による代物。 「誰かにっ……わたしっ……もう、嫌ぁっ!! 嫌だよぉ……っ!」  混乱する俺にしがみつき、さめざめと泣き晴れる彼女。  階段の、上で、誰かに、背中を、押された。  これまでのものとは比べ物にならな明瞭な悪意だ。 「どうして、私だけこんな目に遭うんですかぁ! もう嫌ですよ、こんなの! 怖いよぉ……! 怖いよお!」 「…………」  ああ、それまでの彼女の笑顔はなんだったんだろう。  俺が与えてきた安らぎは、いともたやすく崩れ去る。  初めて、思った。  彼女をイジメている人間が、憎いと。 「とにかく、落ち着け」 「る、瑠璃さん……でも、わたし、わたし……っ!」 「いいから、落ち着け。今はそれよりも、身体の心配をしろ。怪我はないか? 意識ははっきりしているか?」 「あ、ああ……」  俺の声を聞いた彼女は、しばらく力の抜けたような声を上げる。 「は、はい、大丈夫です……。落ちたときに腰を強く打ったくらいで、頭は打っていません」 「そうか。それは不幸中の幸いだ」  それでも、楽観は出来ない。  「おい、立てるか? とりあえず、保健室に行こう」 「は、はい……」  しがみつく彼女を引き剥がし、一旦距離をとった瞬間。 「あ、あああ……ッ!」  突如として、彼女は全身を震えさせて怯え始めた。 「あ、ああっ……! る、り、さん……っ!」 「お、おい!?」  まるで痙攣するかのように、怯えが止まらない。  呼吸困難になるほど、彼女は追い詰められていた。 「た、すけ……て」  涙を浮かべながら、手を伸ばす。  応えるように握り返して、怯えを止めさせようとぎゅっと抱きしめる。 「怖いよぉ……怖い、です……」  そうすると、彼女の震えも収まっていく。  ゼロ距離に触れ合って、力ずくの荒療治。  それでも彼女が落ち着けるのであれば、構わない。 「……もう、嫌ぁ……」  悲痛な叫び声。  途切れそうなその言葉は、彼女が壊れかけていくことを教えてくれる。  二人でいる時の明るい笑顔を見て、俺は勘違いをしていたのかもしれない。  ずっとずっと、彼女は一人だった。  不幸に苛まされ、イジメに怯える毎日。  俺と出会った時から、もう彼女は壊れる寸前で――これは、ただの契機。 「俺と関わって、悪化させてしまったのかもしれない」  イジメが加速した原因を求めてみれば、明確。 「そんな、ことは……」  弱々しい声が、腕の中から聞こえてくる。 「瑠璃さんがそばに居てくれて、私、幸せでした」  だから、と。 「もう、離れないでください。ずっと、傍にいてください。私を――救ってください」  昼休みの階段で。  二人の男女が抱き合いながら、囁くは。 「あなたのことが、大好きなんです。私には、瑠璃さんしかいません」  次、こんなことが起きたなら。  取り返しの付かない事態になってしまうだろう。  そう思わされてしまうほど、そのときの彼女の叫び声は悲痛なものだった。  「……俺が、あんたを守ってやる」  もう二度と、泣かせたりはしない。   腕の中のぬくもりが、増したような気がした。  それから、彼女はゆっくりと声を上げる。  溜まっていた何かを吐き出すような、泣き声。 「ううう……うああ……」  きっと。  彼女は俺の知らないところで、こうして泣いていたのだろう。  何度も何度も泣いて、耐えてきたのだろう。 「うわああああああん!」  恥も外聞もなく、彼女は泣き続ける。  騒ぎを聞きつけた教師や学生がやってきても、それは収まらなかった。  日向かなたに、大きな外傷はなかった。  階段から突き落とされたことは不運だったが、それでも僅かな奇跡に感謝する。  念のため保健室に連れて行ったときに、彼女は苦笑いを浮かべてこういった。  ――このことは、誰にも言わないでください。  ぎこちない笑顔から生まれた震える懇願。  曰く、波風を立たせたくはないとのこと。  有無をいわさない真剣な瞳に、頷く他、なかった。  彼女を家まで送り届ける最中、俺たちは互いに無言だった。  言葉を必要としない以心伝心。  もう、何をいう必要もないだろう。  繋いだ手のぬくもりが、全てを物語っていた。  透明な加害者を、見つけ出す。  彼女の不幸を、終わらせる。  そして――彼女を、誰よりも幸せにしてあげたい。  ただ、純粋にそう願う。  弱々しい彼女を、守ってあげたかった。 「……なるほど、不愉快な物語ですね」  夕刻の防波堤で、今日の出来事を聞いた妃が毒づいた。  魔法の本の存在が明らかになってから、こうして一日の事を報告している。  この事件は、俺一人では到底担いきれないだろうから。 「よくもまあ、のうのうと語ることが出来ましたね。このまま海に突き落としてあげましょうか?」 「そうしてもらえば、熱が下がるのならな」  右手のぬくもりを思い出しては、心が躍動する。  妃の顔を、正面から見ることが出来なかった。 「俺だって、お前に今日の出来事を話すかどうか、迷ったんだから」  そして、話すことを選択した。 「……まあ、その誠実さだけは、認めてあげないこともないですが」  こほん、と咳払いをして。 「それで? 甘々なラブコメに身を浸らせながら、瑠璃は事件の展望を見通すことが出来ましたか?」 「出来ていれば、こうしてお前に相談しねえよ」 「でしょうね」  そこで初めて、嬉しそうに笑った。  まるで、出来の悪い子どもを見ているかのように。 「瑠璃は、日向かなたという女性に、どういう印象を抱きましたか?」 「イメージ? そんなの、見たまんまじゃねえか」  当たり前のように、俺は語る。 「悲運の少女。弱々しくて、儚くて、強く抱きしめてしまったら壊れてしまいそうな、守ってあげたくなる存在」  それから、やや躊躇いながら。 「……愛嬌のある笑顔が、とても可愛い。俺は多分、あの笑顔をもっと見たくて、あいつの味方になったんだろうな」 「はい、もう結構です。お腹いっぱいです。これ以上は不愉快なので」 「そういう言葉が出ることくらい、分かってただろ……」  だからそんなに、怒らないでくれ。 「あなたは随分と、偏ったイメージを抱いているのですね」 「……え?」  それは、海に放り投げるような問いかけ。 「ここのところしばらく、物陰からあの人の様子を観察させていただきましたが、私とは違ったイメージを抱いています」 「……観察? ストーカーの間違いだろ」 「失敬な。探偵はかくあるべき存在ですよ。犯罪者と一緒にしないでください」  やや子ども染みた怒りを見せる妃。  数少ない妹らしい表情だ。 「周囲に怯えて、危なっかしい足取り、縮こまるように座る様、そして、瑠璃の前だけで見せる笑顔」  妃が語る彼女の様子は、まさに俺が目にしたもの。  それを見て、弱々しくて、守ってあげたいと思ったんだ。 「私は、弱々しいとも、守ってあげたいとも思いませんでしたよ」 「……はあ」  妃の言いたいことが、さっぱりわからない。 「そうそう、優れたミステリー小説の特徴って、わかりますか?」 「はい?」  転々とする話題に遅れる俺。 「上質なプロットには、無駄なシーンが一切ないのです。すべての文章に意味があり、伏線があり、作者からの意図が込められている」  ミステリー小説は、妃が最も好む小説のジャンル。 「だからこそ、奇想天外なトリックを扱った物を除けば、案外推理しやすいんですよ。上質なミステリーは、逆算して真実を解き明かすことが出来る」 「……言いたいことは、分かる。だが、何の関係が」 「全てのことには意味がある。関係ないことのように見えても、それがミステリー小説であるのなら、必ず真実に繋がっている」 「故に、作中に登場する無駄な描写は、後で必ず真実へ繋がる伏線へと昇華する」  強い口調で妃は断言した。 「故に、この出来事に意味があると決めつけて、そこから真実を導き出すことも可能なのですよ」 「現実の事件では通用しない、ミステリーならではの手法。偶然性を廃して、必然性だけを辿る推理の邪道」 「最も怪しい人物は、ミスリードのためのスケープゴート。唐突に登場人物が口にする豆知識は、トリックの根幹に繋がる需要なヒント」 「そうやって、無機質なパズルのように、荒らすことが出来るのです」  確かに、それは現実には当てはめることは出来ないが。  しかし、それは。 「現実では、最も怪しい人物は、ほぼ確実に犯人です。突然耳にする豆知識は、本当に下らない無関係のトリビア」 「現実の事件は偶然の産物、気まぐれの中で必然性を求めますが――ミステリー小説にはその必要がない」  提示される要素に、意味がある。  ミスリードのために用意された罠。  トリックのために用意された伏線。  動機を裏付けるための人間関係。  犯人を断定する会話。  それがミステリーだからこそ成立する、ある種のルールのようなものだ。 「これが魔法の本という小説に書かれた物語なら、そのような邪道の推理が可能なのではないでしょうか」  ミステリーの決まり事を逆手に取った、推理手法。 「おい待て……いつから『ヒスイの排撃原理』はミステリーになったんだ。これは、恋愛を描いた青春小説だっただろ?」 「はあ? 何を今更なことを」  馬鹿にするように、妃は鼻で笑った。 「見えない加害者、インビジブルなイジメ。こんなの、ミステリーに決まってるじゃないですか」  更に、妃は付け加える。  水平線に沈む太陽を見つめながら、確信を得ているかのように。 「イジメの加害者を見つけて、主人公とヒロインが結ばれて幸せ――それで終わるには、少し伏線の数が多すぎやしませんか」 「まさか、妃」  その辺りで――ようやく俺は理解した。 「イジメの犯人が、わかったのか?」  冷や汗が、頬を伝う。  どうして俺は、こんなに緊張しているのか。 「ええ、なんとなく。証拠なんて一切ありませんが、目星はつきました」  少し、意地悪そうに笑って。 「これが、ミステリーであるのなら――そういう、邪道の推理ですよ」  音の薄い空間。  月光が煌めく夜の帳。 「……夜子」  俺は、遊行寺夜子と対面していた。 「あら、どうしたのかしら」  今日もまた、夜子はご機嫌だった。  大嫌いな俺が訪ねても、歓迎してくれる。 「本当に、犯人を見つけたら終わるのか」 「もちろんよ。あたしは嘘を言わないわ」 「でも、隠し事はするだろ?」 「……何のことかしら」  表情は変わらなかった。  動揺は見られない。 「まあいいさ。元々、全ての説明をしてくれると期待をしていたわけじゃない」 「もしかして、もうすぐエンディングに至るのかしら」  夜子の表情が、引き締まる。 「ああ、犯人がわかったよ」  妃は当てずっぽうだと口にしていたが、理には適っていた。  そう結論づけて考えてしまうと、何よりそれは、小説らしい真実だったから。  物語らしい真実――それこそが、邪道すぎる言葉なのだが。  こんな解決法を、許しても良いのだろうか。 「明日中には、解決しようと思う。少なくとも、イジメは終わるだろう」 「そう、早かったのね。元々のあらすじでは、まだまだ事件が起こるはずだったのだけれど」  少し、残念そうだった。  早く解決しろと命じながらも、今の状況を楽しんでいたんだろう。 「不幸に苛まされるキミを、もう少し見ていたかった」 「お前は本当に、性格が悪い女だよ」 「それじゃ、事件解決まで頑張ってね。これで瑠璃も、不幸から解き放たれるでしょう」 「……だと、いいんだがな」  そう、不幸に苛まされていたのは。  深淵に潜む不幸という存在に囚われてしまっていたのは――俺、だったのだから。 「……そろそろ本の続きが読みたいわ。主人公は、さっさと壇上に登ってもらえるかしら?」 「わかったよ」  つまらない悲劇の演目を、終わらせようじゃないか。 「おはようございます、瑠璃さん」  そして、翌朝。  今日も今日とて、彼女と待ち合わせて登校する。  今日が最後かと思うと、少しばかり寂しい。 「おう、元気そうだったな。あれから何もなかったか?」 「はい、大丈夫です。ぐっすり眠って、ばっちり切り替えました! 可愛いかなたちゃん、ただいまです!」 「そうか。それなら良かった」  昨日の怯えや震えが嘘のように、元気になっていた。  いや……元気に、振る舞おうとしているのか。  引きずらないようにしているのなら、俺のほうが暗くなる訳にはいかないだろう。 「瑠璃さん」 「ん?」 「いつもの、忘れてますよ」  ニコニコ顔で、彼女は左手を差し出した。  何かを求める空っぽの左手。 「ちゃんと、汗は拭ったか?」 「で、デリカシー!」  と、声を上げて憤る前に、ぎゅっと握った。  それだけで、反論の声は止まってしまう。 「――っ! そ、そんなに、力強く握られてしまうと……」 「嫌か?」 「い、いえ……そんなことは……」  顔面を真っ赤にさせながら、照れている。  手を差し出したのは、彼女の方だろうに。  「何度もこうして手をつないでいると、慣れそうなもんだけどな」 「な、慣れるわけないじゃないですか……毎回、どきどきですよ……」 「…………」  繋いでいるときに、胸が踊ることはない。  だが、繋いだ手が離れてから、寂しくなることはある。  彼女を送り届けた後に残る、右手の寂寞感。 「当たり前に、なってしまってるのか……」  我ながら、毒されてしまっている。  「……もし」  手を握ったまま。 「もし、今日も昨日と同じようなことが起こったなら、そのときは教師に報告するからな」 「本当に危なかったんだ。いくらあんたが大事にしたくないっていっても、状況がそれを許さない」  それを、言っておく必要があった。 「だから、注意を怠るなよ。俺もなるべく傍を離れないが、それでも常に一緒にいるわけにはいかないからな」 「……だったら」  弱々しく、彼女は呟く。 「常に、一緒にいてください……」 「だから、それは」  無理だって、言ってるのに。 「ずっとずっと、一緒に……」 「…………」  その表情に揺さぶられている自分を、戒める。  甘やかせたくなる衝動をぐっとこらえて、歩みを進める。 「今だって、恋人と噂されるくらいにはべったりついているだろ。これ以上、どうしろっていうんだ」 「本当の恋人になっても、私は構いませんよ」  弱々しい声のまま。 「瑠璃さんが良ければ、私は……」 「…………」  その声に、俺は何も言うことはなく。 「……なんて! 冗談です! 引っかかりましたか?」 「何をだよ」  呆れ笑いながら、安堵する。  場の空気に、流されてしまいそうだったから。 「瑠璃さんは、草食系男子ですか?」 「いいや、文学系男子だよ」  ページをめくることばかりが趣味の、味気ない人生。 「あんたは、割りと肉食系だよな」 「はい、女の子は恋に飢えていますから!」 「ああ……本当だな」  全く、本当に。  教室に入った瞬間、声をかけられる。 「おはよ、新入りくん」 「……ああ、おはよう」  少し早めの時間帯、まばらに学生が机に座る中で、本条岬はにこやかに挨拶する。  後ろの彼女は、息を殺すようにして自らの席へ向かった。  当然、本条岬が彼女に声をかけることはない。 「今日もらぶらぶだねー。新入りくんは手が早いこと」 「余計なお世話だ」  首を振りながら、下世話な話を切り替える。 「そういえば、今日は珍しく早いんだな」 「いつもこんなもんだよ? 僕、部活の朝練があるからさ。今日は遅刻して顔を出しづらかったから、教室でおサボりってわけさー」 「随分とまあ、優等生なんだな」  皮肉をプレゼントして、彼女の元へ向かおうとする。  立ち去ろうとする俺を見て、本条岬も呼び止めたりはしない。 「新入りくんは、日向さんのことが好きなの?」 「さあ、どうだろうな」  岬には関係ないことだ。 「そっか」  ニッコリと笑ってから、岬は教室を出て行った。  俺は自分の席へと着席して、彼女に話しかける 「机に悪戯は、されてなかったか?」 「あ、はい……今日は大丈夫みたいです」  声を殺して、彼女は頷く。  教室内では、いつもこんな調子だ。  存在を殺し、息を潜め、縮こまる。 「それより、本城さんは……その、瑠璃さんに何用で……?」 「ああ、ただの挨拶だよ。ま、あいつくらいのもんかな、あんたと関わっても俺に話しかけてくる奴は」 「……そうですね、あの方は誰とでも距離を縮めることが出来ますからね」 「あんたとも?」 「私は……もちろん、例外です」 「だろうな」  そうでなければ、あんたは孤独になんかならなかったはずだ。 「それよりも、本当に何もされていないのか?」 「え?」  彼女は、意外そうな表情を浮かべる。 「いや、このタイミングなら、何か仕掛けて来ると思っていたんだが」  インビジブルなイジメの傾向。  その特徴は、既に把握している。 「け、警戒しすぎですよ……いくらなんでも、それは」  と、否定しそうになった彼女の表情が固まった。 「あれ?」  鞄の中の教科書を、机に入れようしたときだった。 「……何か、入って……る?」  顔面蒼白、驚愕に満ちる彼女の表情。  震えが再び、始まった。  階段から落ちて以降、彼女はとても脆くなった。 「落ち着け、大丈夫だ。俺がいる」  震える彼女の肩を掴み、声をかけた。 「見なくていい。俺が確かめる」  彼女の指先が掴んでいたもの。  それは、手紙だった。 「あ、あああっ……お、おかしいですね。慣れたものと、思っていたはずなのに」 「…………」  彼女の様子は、一段と怯えていて。 「手紙なんて、今更の、ことなのに……」  震えが、増していく。  怯えが、広がっていく。 「あ、ああああっ……」  それは、昨日突き落とされた影響か。  今までは堪えることの出来た悪意に、今はあまりにも無防備過ぎた。  ちょっと小突いてしまったら――すぐに、崩壊してしまう。 「大丈夫だ、安心しろ」  そんな彼女を、寄り添いながら勇気づける。  「俺が傍にいるから……心配はいらない」 「る、瑠璃さん……!」  震える指先から、手紙を取り上げる。  これは、悪意の象徴物。  彼女が見る必要も、持つ必要もない。 「あ、あの……」  弱々しい声が、求めるもの。 「頭を、撫でてくれませんか」 「……それであんたの心が落ち着けるなら、喜んで」  左手でぐりぐりと頭を撫でる。  艶やかな髪をなぞるように、脆く壊れやすい硝子をなぞるかのように、繊細に。 「あ……う……」  撫でられるという行為を噛みしめるように、彼女は目をつぶる。  悪意に満ちる現実から逃避して、癒やされるかの如く。 「瑠璃さんの手のひら……暖かい……」 「あんたの汗のおかげかな」 「で、でりかしー……」 「ないものねだりは、よくないぜ」  ぐりぐりと、ぐりぐりと。  猫を撫でるかのように、甘える彼女を撫で続ける。  その一方で――もう片方の手で、手紙の中身を開いてみた。 「…………」  『新入リヲ、不幸ニシテ楽シイカ?』  その一文から始める、心のない文章。  最初に見た時と、使う言葉の差はあっても、似たような内容だった。 「あ、あの……手紙、見たんですか?」 「ああ、見たよ」  撫でる手は、止めなかった。  止められなかったと、言うべきか。  「……それで、内容は……」 「あんたへの恋心を連ねる、ラブレターだった」 「そんなわけ、ない……」 「本当だ」 「う、うそ――ぎゃうっ」  抗議の声を挙げられる前に、撫でる手を強める。  残念ながら、内容は見せられない。  見せる必要が、ないんだよ。 「ら、乱暴ですよ……」  膨れたような声を上げながら、それでもなすがまま。  どうやら撫でられるのが、気に入ったらしい。 「あんたが俺を信じないからだ」 「だ、だって……それなら、中を見せて下さいよ!」 「断る」  断固として、拒否。 「ど、どうしてですか! もともとは、私宛のものですよ?」 「おもしろくないんだよ」  適当な言葉で、誤魔化そうか。 「あんたへのラブレターなんて、不愉快だ」 「……え?」  一瞬、彼女の表情が緩む。 「他人の男が愛を囁いているのを見て、平常心でいられるほど出来た人間でもないからな」 「……そ、それは!」  目を輝かせて、彼女は反応した。 「し、嫉妬ですか!? 瑠璃さんが、私のことを……!」  悪意の手紙の事を忘れて、声を上げる彼女。  この切り替えの速さは相変わらず。  だが、珍しく教室内ということを、忘れているようだ。 「ま、もちろん全部嘘だけどな」 「……ぶー」  それを戒めるためにネタばらしをしたが、思ったよりも不評を買ってしまったらしく。 「……呪ってやります。瑠璃さんなんて、最低ですよー……」  落ち込む彼女の頭を撫で続けながら、そういう落ち込み方に安心を覚える。  悪意に怯えるよりも、そうしている方がずっといい。 「……何やってるんだ俺は」  物語に流されかけている自分を戒める。  そうじゃないだろうと思いながら、それでも、彼女の魅力に当てられていく。 『ヒスイの排撃原理』  不幸の真実を求めましょう。  見えなかった悪意の解答を割り出しましょう。  翡翠色の物語が唄うはただ純粋な願い。  少女はそれだけを願い、全てを廃絶する。  少女は、少年と出会いました。  救いの手を差し伸べてくれた、愛おしい少年。  少女は、不幸に囚われていました。  抗うことの出来ない不運が、少女に降り注ぐ。  少女は、迫害を受けていました。  謂れ無き罪を被せられ、衝動の矛先を向けられる。  少女の世界は、孤独でした。  全ての存在を失い、不幸ばかりが彼女に寄り添う。  その中で、少年だけが存在する。  少年だけが、排撃されずに、そこに在る事が出来ました。  翡翠色の真実。  それこそが、少女の『排撃原理』だったのです。  そして、少年はその原理を解き明かしてしまう。  例えば誰が犯人であっても、それ自体に重要な意味を秘めているとは思っていなかった。  この現象は本が魅せる演出上の展開であり、俺はただ、終わらせるために行動すれば良いと思っていたからだ。  犯人の持つ、迫害の動機。  それだって、きっと本が作為的に抱かせたいっときの夢なのだろう。  これはただの、悪い夢。  本が閉じれば、全てのことがなかったことになる。  ある意味、彼女をいじめていた犯人こそが、『ヒスイの排撃原理』に選ばれた、最大の被害者なのではないかとさえ、思っていた。  そんな俺を、夜子は否定する。 「魔法の本は、決して無作為に本を開くわけではないわ。物語を開くためには、その物語を望む人間が必要なの」 「魔法の本に託す願いがあって、魔法の本はそれに応えただけ。だからこそ、犯人が誰であるかにも、ちゃんとした意味があるのよ」  それならば。  彼女が俺のことが好きだという、そんな情動にも、意味があるというのだろうか。  それは、魔法の本が見せた、いっときの夢幻だろう? 「本に提示された内容をどう解釈するかは、読者の楽しみじゃなくて?」  ああ、もう。  知った風な口を聞いて、神の視点で言ってくれる夜子が憎い。  ともあれ――それでも、魔法の本が開いた意味はどうであれ、何をするべきかは決まっている。  妃から提示された邪道の推理を、証明していこうじゃないか。 「放課後、か」  彼女は今、トイレに行っている。  昨日までの俺ならば、用心して入り口にまでついていったのだが、今はその必要はない。  この瞬間、彼女への迫害が起こりえないことを理解しているからだ。 「何を一人でたそがれているのですか。折角この私が、立ち会ってあげようというのに」  鷹山学園の制服をまとったまま、妃は俺の机に腰掛けている。  同じ制服のはずなのに、他校というだけで違和感が半端ない。 「やはり、この教室は素敵ですね。来年がとても楽しみです」  来年、妃はこの学園に入学する。 「……お前、なんでそんなにこの学園に憧れてんだ? 今の制服も、可愛いだろ?」 「何もわかっていませんね」  くすり、と微笑する。 「理央さんや、夜子さんと同じ制服を来て、この学園に通ってみたい。私だけが、一つ年下ですからね」 「……なるほど」 「もっと言えば、皆さんが留年してくれれば良いのですけど。瑠璃にも、汀さんのようなシスコン具合を求めてみたいですね」 「あれはただのバカだろ」 「ええ、そうですね。あそこまでの大馬鹿者は、正直にいうと好感を持てるほどです」  それから、俺を見つめて。 「とはいえ、瑠璃が私に甘々になってしまうというのは、少々どころか大変気持ち悪いので、遠慮させていただきたいものですが」 「お前の注文は、難しいんだよ」  どっちだよ、と憤りたいくらいだ。 「……それにしても、遅いですねえ。加害者はまだですか?」  机に寝そべりながら、だれる妃。 「ぱぱっとすませて、理央さんの夕食に舌鼓を打ちたいのですが……」  と、妃が愚痴ったところで。 「……あれ、新入りくん? まだ残ってたの?」  本城岬が、やってきた。 「って、その女の子、誰? も、もしかして……」 「あ、いや、えっと」  大袈裟に驚いて見せる岬。  どうしたものかと手をこまねいていると、妃は颯爽と立ち上がり、笑顔を作った。  「初めまして、私、月社妃と申します。こちらの、お兄様――四條瑠璃の、妹をさせていただいております」 「……え? お、お兄様?」  面食らう岬。  これが、他人と接する時の妃の仮面。  俺がいない場所では、いつもこうして優等生を演じている。 「驚かせてしまって、申し訳ございません。以後、お見知り置きを」  優雅に笑って、恭しく頭を下げる。 「そ、そうなんだ……へえ……」  対する岬は、腰が引けていた。  「し、新入りくんは、自分の妹にお兄様って呼ばせてるんだね……怖っ……」 「濡れ衣だ」  勝手に呼んでるだけに決まっている。 「お兄様はとても奇抜な趣味をしていらっしゃるので、こう呼ばないと怒ってしまうのです。あなた様も、お兄様には注意をされたほうが懸命ですよ」 「それはどうもありがとう。うん、他のみんなにも伝えておくよ……」 「おい、まて」  これだから、俺の評判が悪くなるんだよ!  「じゃあ、兄妹水入らずに邪魔しちゃ悪いから、僕は行くね。ちょっと忘れ物を取りに来ただけだし」 「……忘れ物、ですか?」  目敏く、妃は反応する。 「うん、明日までの宿題をね、忘れちゃって。置き勉してると、ついつい家に持って帰るのを忘れるんだ」 「わざわざとりに帰ってくるなんて、豆なんだな」 「いや、だって部活行ってただけだし。そりゃ、階段登るくらいの手間はかけるよ」  机の中から一冊の教科書を取り出して、見せびらかす。 「んじゃ、まったねー。新入りもとい、お兄様。それに、妹ちゃん」 「……ああ、またな」  軽く手を振る岬にあわせて、俺も応える。  余計な言葉は、拾わない。 「――おっと」  しかし、退出しようとした岬の足が、一瞬止まって。 「新入りくんのお気に入りが、ご到着だよ。妹ちゃんとかち合わせても、いいのかな?」  意地悪そうな表情を浮かべて、今度こそ岬は退場する。  そして、入れ替わりに、日向かなたが、戻ってくる。  怯えた表情が、最初から全開だった。 「え、えっと、その……」  その怯えは当然。 「その方は――たしか、あの図書館にいた」 「どうも、初めまして」  冷たい口調で、妃は応える。  先ほどまでかぶっていた仮面を、脱ぎ捨てた。  本城岬のときは偽装していたのに、彼女の前ではそれをしない。  最初に図書館に招いた時から、それは変わらなかった。 「こうして会話をするのは、初めてですね。宜しく――はしなくて結構です。どうせ、あなたと私にこれ以上の接点は生まれませんので」 「……う、うう」  全力だった。 全開過ぎた。  あの館に彼女を招いてから、彼女の前で猫を被らない。  「わ、私、やっぱり嫌われやすいです……」  明確な敵意をぶつけられて、たじろぐ彼女。  敵意の正体がこの物語と関係ないことは知りながら、フォローが出来ない。 「……ふむ、なるほど。夜子さんから聞いていた通り、男性から好かれそうな女性ですね。間近で見てみると、一層際立ちます」  明らかに刺のある言葉。 「なんだか、見ているだけで無性に腹立たしい人ですね。いらいらします。不愉快ですね」 「る、瑠璃さぁん……!」  涙目で助けを呼ぶ彼女。  いや、俺だってどうもできねえよ……。 「中々に、趣味が悪い人ですね。瑠璃も、そして、あなたも」 「え、ええ……?」  冷たい眼光を、彼女に向ける。 「……はい、満足しました。これで満足です。あとは二人でお好きにどうぞ。邪魔者は去りますね」  彼女をまじまじと見つめた妃は、ぶっきらぼうに声を投げる。 「本が閉じてしまう前に、少し話せて良かったです。瑠璃がどういうキャラクター像に心を奪われたのか、知りたかったので」 「おい、もう帰るのか?」  立ち会うんじゃなかったのかよ。 「私がいないほうが、スムーズに進むでしょう? それに、そこのあなたにしても、私の存在は酷く疎ましいでしょうから」 「わ、私、そんなことは言ってません」 「言ってはなくとも、思っているのでは?」  見透かしたように、妃は微笑んだ。 「わかったよ。まあ、お前が自分勝手に行動するのも、今に始まったことじゃねえしな。本当、何しに来たんだか」 「それでは、失礼致します。脇役の出番は、これでおしまい」  扉はがらりと締められて、静寂が、辺り一帯を包み込む。  まるで台風が訪れたかのように、盛大に荒らしていってくれた。 「ごめんなさい……私、あの人の言っていることが、さっぱり分からなかったんですが」 「分からなくて構わない。ただ、煽りたいだけなんだよ」  さて。  とにかく、始めようか。 「どうして、こんな不幸が続いたんだろうな」  思い返すように、語ってみる。 「不幸って、なんだろう。イジメのことはおいておいても、あんたの周りに巡る不幸の呪いは、常軌を逸している。あんたはいつから、呪われていたんだろうな」  『ヒスイの排撃原理』を先読みしよう。  妃の言う、邪道の推理を行ってみよう。 「人を憎むって、なんだろう。あんたがこうまで不幸な理由を、どこに求めればいいのか」 「少なくとも俺が知るあんたの素顔は、誰かから憎まれたり、嫌われるようなものじゃなかったのに」  それでも、嫌われることがあったとしても。  こうまで陰湿な目にあうほどではないはずだ。  彼女の受けている不幸と、彼女の背負っている業は、釣り合いがとれていない。  アンバランスなのだ。 「私だって……私だって、知りたいですよ。どうして、自分がこんな目にあっているのか」  その、彼女のつぶやきに。 「教えてやるよ」  俺は、答えを提示しよう。 「全てのことには意味がある」  それは、妃から与えられた邪道の推理。  ゆっくりと、息を吐いて。  真実への一歩を、踏み出した。 「あんたは、そんなに俺のことが好きだったのか?」 「え?」  ぐっと、力を込めて。  辿り着いた真実を、突きつけた。 「インビジブルなイジメの正体は、全てあんたの自作自演だろうが」  それは、妃から受け取った、決め付けを前提とする推理。 「……な、何を?」  驚愕に満ちる彼女。  汗が、滴り落ちる。 「ノックスの十戒、あるいはヴァン・ダインの二十則というものがありますが、ミステリーにはある種のルールが存在しています」  もちろん、全ての作品がそれらを遵守しているわけではないし、それを守る義務があるわけでもないが。 「その中でも、ある一つルールは、正当性を誇るミステリーなら必ず守っているものがあります」  指を、さして。 「犯人は、小説の初めから登場している人物でなくてはならない」  それはノックスの十戒の第一項。 「これを、今回の小説に当てはめて考えます。もちろん、こんなのは現実では許されない、意味不明な推理方法ですが」  それが物語とわかっている前提の、邪道の推理。  これが、月社妃の物語の終わらせ方。  小説の内容が現実になるという異常性を逆手に取った、奇襲である。  魔法の本だって、突き詰めてしまえば小説なのだから。 「手がかりを与えない小説はアンフェア。これが夜子さんの好きな物語だというのなら、必ず公平さを有しているはず」 「少なくとも、顔も名前も知らないような誰かがぽっとでて現れて、その人が犯人でした――なんてオチは許されません」  強い口調で妃は断言する。 「そう考えると――魔法の本が開かれてから、主人公である瑠璃の視点から、一度でも登場した人物が犯人である、ということになります」  もっといえば、と。 「正体不明を謳っているのなら、そこに驚きがないと面白みがありませんよね。そう考えると、驚くほど全体像が見えてきてしまいます」  あくまで物語的に、と。  無慈悲な推理を展開する。  これは、何の楽しみにも生み出さない、無情な解き明かしだ。 「本城岬。無関係そうに見えて、初めに瑠璃と仲良くなったクラスメイト。瑠璃のことを新入りと呼び、ちょろちょろと周囲で顔を出す脇役」 「ああ、なんてことでしょう。あまりにも容疑者として、最もらしいではありませんか」  怪しく笑って、続ける。 「最初に親切に声をかけてくれた同級生が、犯人だった。これはいかにもな真実です」 「いかにも過ぎて――面白くない。これでは、興が削がれてしまいますよ」  目に見える容疑者は、ミスリードの証。  妃はそう言って、本城岬を容疑者から外した。 「露骨なヒントは、作者の罠に決まっています。無視しましょう――本城岬は、犯人ではありません」  決め付けによる憶測。  それだけで、妃は白と判定する。  繰り返し言うが、とてもじゃないが、まともな推理ではない。  こんなものを推理と呼ぶのが、間違っている。 「それよりも、相応しい人物がいますよね」  見えないことに意味がある。  不明なことに意味がある。 「全てが日向かなたの自作自演と決めつけてしまえば、これは簡単な物語なのです」  見えないからこそ。  不明だからこそ。  ――〈正〉《丶》〈体〉《丶》〈を〉《丶》〈隠〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈に〉《丶》、〈意〉《丶》〈味〉《丶》〈が〉《丶》〈あ〉《丶》〈る〉《丶》。 「正体が一向に掴めないのは、そもそも加害者が存在していないから」 「見つかるはずがないんですよ――そもそも誰も、日向かなたをイジメてなんていないのですから」  邪道どころか、暴論だ。  読者としての推理予想。 とてもじゃないが、登場人物がしていい推理ではない。 「それでは、次に動機ですね。犯人を決めつけたら、今度は相応しい理由をこじつけなければなりません」 「こちらは、悩むまでもなく明白ですね。現状を見てしまえば、一目瞭然でしょう」  彼女が、一連の出来事の中で手に入れたもの。  叶えた、現在とは。 「可哀想な自分を演出して、意中の想い人と距離を縮める。それはなんと、乙女心に溢れる恋心でしょうか」  被害者であれば、助けてくれる。  孤立している自分をアピールすれば、何も知らない主人公が救ってくれる。  弱みをさらけ出すことで、甘える。  共に過ごす時間を増やすことで――関係を深めていく。 「瑠璃が、彼女を守ろうとしたわけではありません。彼女が、瑠璃に守ってもらう状況を作ったのです」 「そう考えて見れば、全ての事象は簡単に説明できてしまいますよね」  トラックに轢かれかけたのも、故意だった。  助けてくれると信じて、身を危険に晒した。  女の子を事故から救うなんて、それは男冥利に尽きる事件。  イジメられていたのも、故意だった。  自分が被害者であり、加害者だった。  全ての迫害が自作自演であれば、これほど容易いことはないだろう。  女の子をイジメから守るなんて、それは男冥利に尽きる事件。  不幸も、どこまでが偶然だったのだろう。  彼女が語る不幸は、本物か?  俺が目にした不幸の中で、一体どれほどの本物があったのだろう。  薄幸の美少女なんて、年頃の男には魅力的に写ってしまった。  腐れ魔法使いの噂。  日向かなたと仲良くなると、不幸になるらしい。  彼女、呪われているんだって。  そんな風評も、自分で流したのだろう。  故意に孤立する状況を作って、主人公を待ちわびていた。  階段から、落ちたのは?  どうして、突き落とされても無傷だったのか。  ああ――彼女の演技は、本当に上手い。  自ら転がり落ちるなんて、凄まじい覚悟だと拍手をしたいくらいじゃないか。 「他人と交流を深める術を知らない馬鹿な人。おそらく、狂言による不幸は幼い頃からのものでしょうね」 「わざと転んで両親の気を引いたり、馬鹿なことを言って笑われたり、不器用な自分をアピールしたり」 「だから彼女の不幸の根底にあるのは、歪な愛情。愛され方を知らない彼女は、弱みを見せることでしか誰かを求めることが出来ない」  妃は、そう断言した。  一切の配慮もなく、切り捨てる。  「そんな馬鹿な女性に、瑠璃は今まで騙され続けていたのですよ」  妃が推理を語れば、夜子が補足をしてくれる。  それはヒスイの物語の真実。 「ヒスイの本質は、身を焦がすほどの愛情よ」  月光に煌めきながら、夜子は囁く。 「かまって欲しくて、きっかけが欲しくて、いつのまにか、可哀想な自分を演じるようになってしまった」  片思いは遠く届かず。  実らせるためには、強烈な何かが必要だった。  弱々しい自分。 強烈な弱さを露呈させれば、主人公の庇護欲を刺激できる。 「弱い自分を露呈させたら、白馬の王子さまが迎えに来てくれると信じていた。だから、狂言癖は治ることなく今に至る」  けれど。 「狂言は、狂言だけに留まらなかった。嘘が真実を呼び、狂言が現実のものとなってしまう。それが、彼女の不幸――呪いの本質」  彼女は自分で自分を呪い、不幸な自分を生んだのだ。  もっと弱い自分を、もっとおろかな自分を。 「――あとどれくらい不幸になれば、王子様が迎えに来てくれるのだろう」  それは、あまりにも弱すぎる心。 「彼女が不幸を願ったから――彼女は呪われ、不幸になったのよ。ああ、なんて滑稽な話でしょうね」  狂言が、狂言ではなくなった。  可哀想な自分を演じていたら、本当に不幸な出来事ばかり起きるようになってしまった。  それが、『ヒスイの排撃原理』の結末。  夜子が伏せていた、エンディングである。  妃が語った推理を、俺の言葉に噛み砕いて彼女にぶつけた。  俺はあいつと違って、上手く立ち振る舞うことは出来ないだろうが――それでも、なんとか出来たはず。 「ち、違います……な、何を言っているんですか、瑠璃さん……!」  しかし、彼女は震えながら否定し続ける。 「わ、私が……自演だなんて、そんな……!」  涙目になりながら、首を振って。  必死に否定し続けている。 「どうしてそんなひどいことを言うんですか! よりにもよって、瑠璃さんが……!」  揺らめく瞳が、俺の心を揺さぶる。 「瑠璃さんだけは、私の味方でいてくれるって、言ってくれたじゃないですか……!」 「それでも、間違っている部分は正さなければならない」  不幸は望むものではなかったはずだ。  真に望むべきは、幸福であるはずなのに。 「わ、分かりました、さっきの方ですね。あの方が、瑠璃さんを惑わせているのです。きっと、そうに違いありません……!」 「そんなわけないだろ。少し、落ち着け」 「これが落ち着いていられますかっ!」  一際大きな声を出した彼女。 「お願いですよ、瑠璃さん……! そんな意地悪なことを、言わないで。瑠璃さんはただ、私のそばに居てくれたら……!」  がくがくと足が震え、指先は行き先を失くす。  動揺が全身に現れてしまっていた。 「ふ、震えが、止まりません……! あ、うっ……!」  それは、階段から落ちたときに現れた震え。 「た、助けて下さいよぅ……瑠璃さぁん……!」  甘えた声で、震える声で、泣きそうな瞳で、彼女は俺を求め続ける。 「私は、あなたがいないと何も出来ない女の子なんです……」  弱みを全面に押し出して。  庇護欲を突き出し続ける。 「…………」  ああ、なんてことだろう。  俺が抱いていた恋模様は、なんて稚拙なものだったのか。  弱い彼女を甘やかせて、今の現実があった。  俺に甘えることしか知らない彼女は、ただ切実に求め続ける。  だから――終わらせないといけない。  これは、ダメだ。 「俺の目を見て、胸を張って否定できるか」  邪道の推理に、証拠はない。  だから、彼女が否定し続ければ、咎めることは出来なくて。 「俺は、この推理を正しいと確信している。これが真実だと判断した。それでもなお、あんたはそれを否定することが出来るのか」  やっぱりこれは、ミステリーというよりは、青春恋愛小説なんだろうね。 「さあ、答えてくれ」 「それは、もちろん――」  即答する彼女を制して、念を押す。 「――俺は、嘘をつく女が大嫌いだ」  その言葉に。  その、口調に。  彼女は、僅かに戸惑った。 「わ、私は……」 「もし、あんたが嘘をついていたことがわかったら、俺はあんたのことを軽蔑するぞ」  ダメ押しに、続ける。 「嘘をつくような奴に手を差し伸べるほど、俺は優しい人間じゃないんだよ」  目と目があって、交錯して。  それでも目をそらそうとする彼女の様子を見れば、一目瞭然だったけど。  それでも、自らの口で告白させることが、大事だと思ったんだ。 「…………」  揺れる瞳が、地面に落ちる。  肩の震えは、いつのまにか収まっていた。  ああ、やっぱり俺がいなくても、大丈夫じゃないか。  助けなんて、必要なかったじゃないか。  誰かがいなければ震えが止まらないなんて、嘘だったんだ。 「……そうですね」   呟いたその言葉は、諦観の色をしていた。 「あはは……バレてしまいましたか」 「……認めるんだな」 「認めますよ。どうやらもう、否定しても仕方がないようですので。どのみち、瑠璃さんは確信を得てしまっている」  それは、ヒスイが開かれてから、初めて見せる彼女の余裕。 「本当、どこで気付かれてしまったんですかね。私、とても上手く振舞っていたと思ってたんですけど」  悪戯がバレた子供のように、彼女は笑う。 「あんたの演技は、上手だったよ。少なくとも俺は、完璧に騙されていた」 「とすると、やはり月社さんですか」  妃の名前を口にして、初めて悲しみの色を見せる。 「嫌な予感を、していたんですよ。初めて図書館で顔を合わせていた時から、あの方は私のことを警戒していましたから」  それは彼女が思うような理由からではなかったが、今はややこしくなるので黙っておく。 「まるで名探偵のように、解決してしまったんですね。私の憧れるような、安楽椅子探偵のように」  そこで……力なく、項垂れて。  ようやく、彼女の余裕は崩れ始めた。 「おかしいなあ……こんなはずじゃなかったのになあ……」  声色に悲しみが湧き出てくる。 「でも、こうでもしなければ、瑠璃さんと仲良くなれる方法なんて、なかったんですよ……」  瞳に、涙が滲み始める。 「……あんた、俺のことを昔から知ってたのか?」 「そうですね、知っていましたよ。二年ほど前でしょうか、瑠璃さんはこの島に住んでいらっしゃいましたよね」 「一目惚れを、してしまったのです。でも、内気で陰気な私に、自分から声をかける勇気はありませんでした……」  だから。 「いつか瑠璃さんが帰ってきたときに、今度は仲良くなりたくて……どうすれば、興味を持ってもらえるかと、思って……だから、私は……」  声が、震えていた。  僅かに有していた余裕さえ、無常にも剥がれ落ちる。 「そうすることでしか、誰かと繋がりを持つことができなかったんですっ……! 優しい瑠璃さんなら、可哀想な私を助けてくれると、信じてっ……!」  両手を顔で多いながら、泣き崩れる。 「ごめんなさいっ……全部全部、瑠璃さんの言うとおりです……」  本当に、ごめんなさい、と。  何度も何度も、彼女は謝罪する。 「イジメも、不幸も、全て私の嘘でした」 「ねえ、瑠璃さんは知っていましたか? 不幸って、自分から望めば際限なく訪れるものなんですよ……?」  不幸に呪われた少女は――自らの意思で、呪われていた。 「狂言を繰り返しているうちに、自分でも驚くほど不幸になっていくのを実感しました」  ヒスイの物語は、彼女に不幸という呪いを与える。  彼女の望む愛情を、不幸で溢れ返そうとして。 「自分でも止められないほど、不幸は止まらなくなりました。私は、自分を弱く見せることでしか、誰かと繋がれないっ……!」  弱い人には、誰もが優しくしてくれる。  挫いたものには、手を差し伸べてくれる。  でも、それを当たり前と思っては、いけなかった。 「ごめんなさい……ひっぐ……。ごめんなさいっ……でも、やっぱり、私には瑠璃さんしか、いないんです……」  それでもまだ、彼女は俺を求める。 「一人ぼっちです。もう、どうしようもありません。お願いです、私の、お傍に……いて、くれませんか……」  しがみつくように、彼女は懇願した。 「都合のいい女で構いません。だから、私を助けてください。私を、一人にしないで……!」 「…………」  これまで、俺は何度と彼女に懇願されてきた。  彼女の言葉はとても甘く、抗いがたい誘惑を備えていた。  彼女に甘えられるという行為は、とても居心地が良かったんだ。 「わたし、瑠璃さんのことが……本当に、好きなんです」  だから、言わなければならないのだろう。  幕引きは、やはり主人公の手で降ろされるべきなのだ。  だから、口を開く。  この歪な関係を終わらせるために。 「〈甘〉《丶》〈え〉《丶》〈る〉《丶》〈な〉《丶》〈よ〉《丶》」  それは、彼女の懇願を打ち砕く排撃の返し。 「不幸を武器に生きるだなんて、間違っている。それは、幸せを望むものに対する冒涜だ」 「……………………え?」  あっけにとられる彼女。  それは、どこか許されると思っていたからだろうか。 「こんな周りくどい真似をする必要なんて、なかったんだ。普通におしゃべりして、普通に仲良くなって、普通に恋に落ちればよかった」  一歩、下がった。  それは、拒絶反応。 「る、瑠璃さん……? あれ? どうして、距離を開けるんですか?」 「作られた関係性に、望むものはない。これじゃあ俺が、バカみたいじゃないか……」  どぎまぎして、手を握ったことも。  そのぬくもりに、思いを馳せていたことも。  彼女を守ろうとして、決意したことも。 「全てあんたの筋書き通りなら……俺の気持ちは、なんだったんだ」  もう一歩、下がる。  二度と、甘えられたくなかったんだ。 「そんなことを、しなくても」  そんなことを、してくれなくても。 「〈か〉《丶》〈な〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈が〉《丶》〈大〉《丶》〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈に〉《丶》」  それは、振り絞った言葉だった。  言わないようにしてこらえていた愛の言葉。 「だから、もう終わりだ。お終いだよ」 「ま、待ってくださいっ……! 瑠璃さんも私のことを好きでいてくれるなら……私達は、両思いに……!」 「だから、言っただろ。俺は今の関係を続けたくないんだ。納得もできない。それに、ここで終わらせなければ、あんたは何も理解できないだろう?」  この狂言を、成功させてはならないのだ。  弱さを武器にすることは、許されない。 「不幸を望んだのなら、結末まで不幸になるべきだ。あんたの恋模様は、叶わない」 「――っ!?」  その瞬間、彼女の表情は絶望に染まる。  「俺はあんたを助けないし、救いもしない。自分の力で、不幸に抗え」  それが、甘えるなという言葉の意味だ。 「……そん、な」  力なく項垂れて、彼女は言葉を失う。 「わたし……失敗……しちゃったんですね」  夕日を背に、項垂れる彼女。  ようやく、自らの失敗を悟ったのか。 「おかしいなあ、こんなはずじゃなかったのに」  甘えた声ではなく。  ただ、ひたすらに悲しそうな声。  これが本来の、日向かなたの悲しみの色なのかもしれない。 「どこで、間違っちゃったんでしょう。私は、どこで……」 「最初から、間違っていたんだよ」  始まりを違えていたその時点で、終わりは見えていた。  ただ、その結末を見えていなかっただけ。 「瑠璃さんは、私のことが嫌いになりましたか」  それは、純粋な問いかけ。  「弱さを武器に誰かにすがるような女の子は、やっぱり嫌いですよね」  自虐気味に、呟く。 「こういうのを、性悪女っていうんでしょうか。猫被り? 一応、自覚してたんですけどね……だから、隠そうとして……」 「……俺は」  そして。  弱さで繋がれていた関係を、終わらせた後は。 「笑っているあんたの笑顔が、好きだったんだよ」  困ったような笑顔ではなく。  雑談に興じていたときに見せる、あの輝かしい笑顔が好きだった。 「……え?」  そのことを、気付いて欲しかった。  わかって、欲しかった。   俺が彼女を好きになった理由は、弱き者を助けるシチュエーションに憧れていたからではなく。  「俺は、あんたに笑ってもらいたかったから、傍にいたんだ」  弱々しい演技をする必要なんて、なかった。  ただ、その笑顔を見せるたび、彼女の魅力に落ちていったのだから。 「ああ、やっぱりあんたはずるいな。卑怯だろ。こうしている瞬間にも、俺はあんたの笑顔を見たいと思ってしまっている」  泣きはらした瞳から、涙を拭ってあげたかった。  落ち着かせようと、頭をなでてあげたかった。  幸せに抱かれて、笑顔の花を咲かせてあげたかった。 「全て、やり直そうか。最初から全て、やり直そう。俺たちの歪な関係を終わらせて、まっさらなところからリスタートしよう」 「それは……」  驚いた表情が、俺を見つめる。 「ヒロインを助ける主人公ではなく、ただの一人のクラスメイト。四條瑠璃と日向かなたは、どこにでもいる友人として最初の一歩を踏み出そう」  本当に、俺は甘い人間だ。  彼女を拒絶しておきながら、それでも、甘やかすことを辞められなかった。 「友達から……最初から、ですか」 「そうだ。不幸なんて、俺たちの物語には必要ないだろ? 平和な日常が、最も似合ってる」 「普通に笑って、普通に生きて、普通に恋をして。学園生活なんて、それでいいじゃないか」 「それでも、私は」  弱さという仮面を脱ぎ捨てた彼女は、力強く言った。 「やり直したとしても、やっぱりあなたに恋をして、好きになってしまうと思います」 「……それは、しょうがない」  少し、笑って。 「そのときは普通の友達から、普通の恋人に変わればいいだけだ」  はっきりと、そう宣言する。 「やっぱり、瑠璃さんは甘い人ですね。本当、これでも私なんかを見限らないなんて、どうかしていると思います」 「知るかよ。そんなの――知ったことか」  そして。  そして、物語はエンディングに至る。  彼女の不幸を解き明かし、その原因を取っ払い。  さあ、全てを終わらせる儀式を始めよう。  不幸から目覚め、幸せな日常を取り戻す鍵。  夜子は、終わらせ方を教えてくれた。  ――恋物語の結末を彩るのは、王子様の唇よ。  意地悪く。  夜子は、ヒスイのネタバレをしてくれた。 「……え?」  右手を、彼女の頬に当てて。 「この世界には、魔法があるらしいぜ」 「瑠璃さん……?」  それは宝石の名前を冠した魔法。 「不幸を拭う魔法だよ。この関係を終わらせる終止符として、あるいは、新たな出発を祝う門出として」  それはまるで、自分に言い訳するかのように。 「――これで、呪いは終わりだ」 「え、えええ?」  戸惑う彼女を無視して、唇へと向かう。  唇と唇が触れ合う刹那、最後の言葉を彼女に捧げた。 「――大好きだよ」 「んっ――!」  そして、有無をいわさずに、キスを交わした。  それは甘く蕩けそうな、翡翠色の口付けだった。  瞬間、世界のスイッチが切り替わるような感覚に襲われる。  身体中を支配していた何かが解き放たれ、心が随分と軽くなった。  心の中で、彼女の笑顔が霧散する。  先ほどまで抱いていた大いなる情動が、忽然と消えてしまった。 「ん、んんんんんっ――!?」  そして、直後。 「――ぷはっ!?」  日向かなたは、暴れだした。 「な、何するんですかー!!! え? えええっ!? きす? キスしました? 私に?」  疑問符を浮かべながら、混乱する彼女。 「意味不明です! ちょっと瑠璃さん!? 乙女の唇を無理やり奪うだなんて、なんてことを!!」 「……あー」  胸ぐらをつかまれながら、戸惑うばかり。  先ほどの感覚と合わせて、遅れてくる手応え。  ――『ヒスイの排撃原理』が、閉じたのだ。  登場人物は役目を終え、出演者は本来の自分へと返り咲く。  不幸を望み、不幸を不器に、恋を成就しようとした女の子は、もうどこにもいない。  舞台を降ろされた彼女は、その記憶を欠落させてしまう。 「魔法の本は、全てが終わったら記憶をも奪うわ。だから、何の遠慮もなく恥ずかしい立ち振舞をしても大丈夫よ」  それは、夜子が言っていた現象。  魔法の本の影響は、刹那る幻。 「最も――魔法の本を知っている人間には、その効果はないようだけれど」  あくまで整合性を保つための事後処理か。 「――ああ、もうありえません! まさかあなたが、そんな人だったなんて! これは事件ですよ!? 大事件ですよ!?」  そして、その影響は眼前で広がっている。  ヒスイのことを一切覚えていない彼女は、俺が無理やりに襲ったとでも思っているようだ。  記憶をなくしてもらえるのはありがたいが、しかし、どうしたものだろうか。 「裁きを受けてください! 鉄槌を!」  錯乱する彼女へ。  もう、めんどくさくなった俺は、声を低く言った。 「うるせえ、襲われたくなかったらとっとと失せろ」 「……な、なっ!」  顔を真赤にして、怒りを顕にする彼女。  しかし、身の危険を感じたのか、やや距離をとって。 「さ、最低です! 畜生です! こ、これは然るべき罰を受けていただきますからね!?」 「知るか」  一歩、近寄ると。 「ひいぃぃっ! お、覚えておいてくださいねっ!?」  彼女は一目散に、逃げ出した。  その抵抗っぷりは、少し前までの彼女とは違ってて、愉快だった。  作中ではあれほど傍にいることを望んでいたくせに、現実とは非情なものである。 「……こうあるべきだろう」  本来、俺と彼女は単なるクラスメイトにすぎない。  たまたま、本当にたまたま、魔法の本という繋がりを持って近づいてしまっただけ。  故に、事が終われば関係を継続する必要もなく。 「むしろ、好都合」  これで、俺のことを嫌ってくれたら、もう二度と関わろうとはしないはず。  「…………」  だが。  なんだろう、胸の中で僅かに残るしこりのようなものは。  すべての記憶を失くした彼女に、拒絶され――悲しいと思ってしまっているのか。  いや、そんなはずはない。  そんなわけが、あるはずない。  俺が彼女に抱いていた恋心は、まさしく、ヒスイによる演出にすぎないのだから。 「ラッキーですね、おめでとうございます」  背後で、妃が声をかける。 「……うるせえよ」  今は、顔を見ることが出来なかった。 「これで終わったようですね。ご苦労様でした」  その手に握られているのは、一冊の本。  まさしく『ヒスイの排撃原理』そのものだった。 「瑠璃とあの方がキスをした瞬間に、現れました。なるほど、この上なく分かりやすい終わり方です」 「夜子は……これを見越していたんだろうな」  本が閉じた後に残る、寂寞感。  主人公として演じた後の、空虚感。  なるほど、これは確かに、嫌になる。 「夜子さんは性格が悪いですからね……瑠璃が辛い目に合うとわかっていたからこそ、あんなに楽しそうだったのでしょう」 「それでも、あいつは知らなかったんだろうな」  『ヒスイの排撃原理』が、俺にとって、どれほど辛い目に合わせてくれるものだなんて。  日向かなたとの恋愛が、心臓をえぐり取るような痛みをもたらすことを、知らなかったんだろう。 「さすがに、堪えた」 「瑠璃も、人の子ですね」 「お前は、大丈夫なのか?」 「瑠璃が辛そうなところを見ていると、スッキリしました」 「……お前」  相変わらずの鬼畜模様。  しかし、少しだけ気分が楽になった。 「嘘ですよ。これでも、我慢したほうだと自負しています」  無表情のまま、妃は辺りを伺う。  誰も居ないことを、念入りに、本当に念入りに確認する。 「……妃?」  それから、目を瞑って、一息ついた後。 「な、何するん――」 「お黙りなさい」  その声色は、静かな怒りに満ちていた。  冷たすぎる声に、凍りついてしまいそうなほど。 「――本気になって、いないでしょうね」  有無をいわさない、妃の言葉。 「瑠璃とあの人の関係は、舞台上だけの関係のはずです。成りきっていたら、許しませんよ」  その怒りは――しばらく、目にしていなかったもの。 「……当たり前だろ。嘘だったから、辛かったんだよ」  夜子でさえも、知らない真実。 「もし、少しでも惑わされていたのなら――殺しますからね」  壁に押し付けながら、釘を刺す妃。  その行動は、むしろ当たり前の感情だろう。 「お前だって、嫌というほど知ってるだろ」  ああ、もう。  そういうことをしてしまうから、抑えていた気持ちが溢れてしまうじゃないか。  ヒスイの間中、ずっとずっと押し殺していた気持ち。  あるいは――もっと前から、押さえ込んでいた思い。 「俺が恋してるのは、他の誰でもなく、お前なんだから」  それは兄妹の禁忌を平然と無視する所業。  俺と妃だけの禁断の秘密。  「そうですね――私も、知っていますよ。瑠璃には私が必要で、私には瑠璃が必要だということを」  ヒスイに惑わされる俺を見て、心中は穏やかではなかったのだろう。  初めて日向かなたを連れてきた時から、妃は不機嫌だった。  その感情は、むしろ当然。 「おっと、忘れていました」  思いつきのように、妃は笑う。 「物語の幕を閉じるのは、キスでしたっけ」  厭味ったらしい言葉を駆使して、俺を責め立てながら。 「愛の無いキスなんかよりも、ずっとずっと素晴らしいキスをしましょうか。私のことを忘れられないほど、熱烈な口付けを」  そう言って、馬乗り姿勢から、蹲るようにして。  俺の顔を、両手で掴みながら。 「ちゅう」  唇と唇が触れた瞬間、激しい熱が沸き立った。  燃え苦しい程の熱さは、それまでのほろ苦い恋模様を焼きつくしてしまうほど。  翡翠色の爪痕は、舌と舌を絡み合わせる愛情で掻き消されてしまって。 「――ぷはぁっ」  舌と舌が、名残惜しそうに別れを告げる。  唇と唇が、さらなる愛情を求めながら離れていく。  真正面には、妃がいる。  俺を見下ろしながら、珍しく笑顔を浮かべていた。  綺麗だ、と思った。  誰よりも美しく、魅力的な女の子だと思った。  宝石に惑わされたわけではない、ただ己自身が抱いた真心。 「お前が俺の妹じゃなかったら、どんなに良かったか」  それは零れ出た、弱音。 「大丈夫ですよ、苗字は別ですから」 「そんなの、なんのフォローにもなってないぞ」  意味を成していない。 「それでも、愛を囁くことに支障はないでしょう?」  誰にも打ち明けていない、兄妹だけの秘密。  誰もいない放課後の教室で、こらえ続けた愛情が零れ落ちる。  今日ばかりは、触れ合っても良いだろう。  今日くらいは、妃の愛情を教えてくれ。  そうでなければ、俺は間違えてしまいそうだから。  『ヒスイの排撃原理』に、のめり込んでしまいそうだから。  誰かと恋に落ちるという、夜子がもたらした魔法の本。  俺と妃にしてみれば、あまりにも無粋で、あまりにも野暮な代物だった。  後日談。  妃から『ヒスイの排撃原理』を受け取った俺は、そのまま夜子へ返すために書斎にいた。  全てが終わったことを確認して、夜子は満足そうに笑った。 「はい、確かに受け取ったわ。ご苦労様。なかなか面白い物語だったわよ」 「まるで、見てきたかのようにいうんだな」 「そうね、妃に聞かせてもらったの。語るのがとても上手だから、楽しめたわよ」 「……そうかい」  そんなことだろうと思っていたよ。 「不幸を望み、不幸を武器にして愛を求める女の子。矛盾した思考は、とても可愛らしいものだと思わないかしら?」  夜子が語るは、ヒスイの内容。  いつもは俺に厳しい夜子も、上質な物語を読み終えたあとは、感想戦に興じたいのだろう。 「どうだろうな。全てが彼女による演出だって聞かされたときは、心底落ち込んだよ」  それまでの全てを否定されたような気分だった。 「逆に言えば、愛情の深さに感謝するべきではなくて? キミのために、少なくとも一年以上は不幸になり続けたんですもの」  もちろん、現実の彼女は本が開いてから成りきっているわけで、本当に一年以上いじめられていたわけじゃない。  そういう記憶を与えられていた――そういう役割を、振られていたに過ぎなくて。 「それは、違うだろ」  その言い方は、卑怯だと思う。 「努力の方向が、間違っている。本当に恋していると自負するなら、もっと他にやり用があったはずだ」  不幸になって、孤独になりながら、主人公を待ち続ける。  ヒスイのヒロインは、そんな自分の境遇に酔っていたのかもしれない。 「ふぅん? でも、本当に他の方法なんてあったのかしら」 「え?」  夜子は、言う。 「そうね、仮に片思いを続けていたとして、普通の展開で、普通の出会いで、彼女は主人公と結ばれることが出来たのかしら」 「…………」  それは。 「あたしは、不可能だったと思うわよ。キミは、彼女に興味も抱かなかったでしょう」  その通りだ。  確実に、否定できる。 「ヒロインの選択は愚かしくてこの上ないものだったけれど――それでも、普通の選択よりは可能性があったんじゃないかしら」  ヒスイの背表紙を撫でながら。 「結果的に、主人公とヒロインは結ばれたわ。いえ、正確にはやり直したところで話を終えているけれど、瑠璃の演じた内容では、実質的に許したようなものだからね」  そう、俺は許して。 「許して、受け入れた」  彼女の恋に、応えたのだ。  やり直しというのは、あくまで建前にすぎない。 「原本であるヒスイの内容は、もう少し違った意味合いの物語だったのよ。ほんとうの意味でのやり直し。リセット。だから、今後二人が結ばれたどうかは、不明」  それが、俺たちが演じたヒスイと、小説のヒスイとの差異。 「結果だけを見ると、ヒロインは目的を達成してしまっている。だから、不幸を望むやり方は正解だったんじゃないかしら」 「……それでも、俺はそんなやり方を許さないけどな」  望む結果を手に入れたからって、手段が肯定されるわけではない。  そこを履き違えると、本質を見失ってしまう。 「何を格好つけているのかしら。不幸に喘ぐヒロインに興奮していたくせに」 「全て、ヒスイが悪い」  都合の悪いことは、物語のせいにしてしまえ。 「ま、そんなところね」  感想戦は、夜子の何気ない一言で終りを迎える。 「何をしているの?」 「え?」  唐突に、夜子は言う。 「用が済んだのなら、早く出て行きなさい。ここは、キミがいていい場所ではないわ」 「いや、お前が話を始めたんだろ」 「うるさい。ちょっと感想を口にしただけ。勝手に拾ったキミが悪い」 「理不尽」  本のこととなるとついついお喋りになってしまう夜子。  そういうところは昔から何も変わっていない。 「じゃ、俺は部屋に戻るぞ。さすがに、疲れた」 「……ふん」  鼻を鳴らしながら、不機嫌さをアピールする。  変わらないらしさに苦笑いを浮かべながら、退出しようとして。 「……怖く、なかった?」 「あん?」  か細い質問が、飛んできた。 「魔法の本なんてものを知って、キミは、怖くなかったの」 「…………」  その質問は――珍しく、弱々しいもので。 「さあ、どうだろうな」  首だけ振り返って、俺は応える。 「少なくとも、活字中毒を治す薬としては、不適合だったかな」  こんなもので、何を嫌いになれというのだろう。  魔法の本を知った俺が、嫌がって逃げ帰るとでも思っていたのだろうか。 「なにそれ、馬鹿じゃないの」  俺の言葉に満足したか、してないか。 「それっぽい台詞、キミには全然似合っていないわよ」 「うるせー引き篭もり」  そうして、翡翠色の物語は閉じられる。  排撃の理は解明され、世界は白紙に舞い戻った。  さあ、物語は次の本へと向かう。  活字中毒は、一冊を読み終えたら次へと手を伸ばす。 『ルビーの合縁奇縁』  紅く煌めく巡り合わせを、人は運命と呼ぶ。  ごめんなさい。  その言葉を、私は何度も祈るように呟く。  ごめんなさい。  神に祈りはしない。  私の信じる神は、私を幸せにしてくれない。  ごめんなさい。  だから、私は祈るように懺悔する。  たった一人の、私の可愛い夜子へと。  夜子の髪の毛は、神に愛されているんだよ。  夫は、私に囁いた。  何色にも染まり、全てを際立たせる純白の色。  きっとそれは、祝福されるべき奇跡だ。  夜子の瞳は、強い意志を感じさせる。  夫は、私に囁いた。  キミから受け継いだ紅い瞳は、まるで宝石のように煌めいてるね。  きっとそれは、輝かしい未来への布石さ。  美しい言葉だった。  思わず心を奪われてしまうほど、煌めく言葉だった。  それが甘い幻想であることを、私は本当に気付いていなかったのか。  ごめんなさい。  今でも、懺悔は続く。  そんな風に生んでしまった母を、あなたは決して許さなくていい。  ごめんなさい。  だけどそれでも謝らせて欲しい。  私は、私の幸せを求めて――あなたを産むことを決意したのです。  ごめんなさい。  ああ、私の可愛い愛娘。  どんなことがあっても、あなただけは幸せにしてみせるから。  せめて、小さな幸せを。  ――ねえ、知ってる?  それは、心のない言葉。  ――呪われた魔法使いの噂なんだけどね。  知らず知らずに、心を削ぎ落としておいく。  ――魔法使いの正体は、白髪赤目のアルビノ少女なんだって。  小さな不運から、大いなる悲劇へと。  一度坂道を転がり続けると、最悪は肥大していく。  それが、遊行寺夜子の悲劇の始まりである。  瑞々しい青春小説は、割りと好きだった。  特別なことは何も起こらず、ただ日常の一欠片、小さな特別だけをピックアップして、ありふれる時間の素晴らしさを説く。  魔法も奇跡も存在しない普通の中で、人と人が織り成す平和な物語は、最も理想の世界と言える。  小さなこの島には、そんな青春小説が相応しいと思う。  特別な事件なんて必要ない、ただの埋没した日常を。 「たまにはこういうのも、悪くない」  心が穏やかになる文章に、メロメロだった。  読後にも清涼感を与えてくれる本は、上質である証。 「さて」  時計を確認して、約束の時刻を確認する。  そろそろ向かったほうが良いだろう。 「闇子さんが、待っている」  ヒスイが閉じて、数日後。  本土へと仕事に出かけていた闇子さんが帰ってきて、呼び出された。  おそらくそれは、魔法の本に関わるお話。  ――大切なお話があります。  『ヒスイの排撃原理』を読んでしまった俺は、後戻りなど出来ないのだろう。  もちろん、戻るつもりもなかったのだが。 「失礼します」  呼び出された場所は、夜子の書斎だった。  背筋が自然と伸ばされて、僅かな緊張が滲む。 「遅いですよ、瑠璃」  妃が、まずは開口一番に俺を責め立てる。  俺と同様、こいつも呼び出しを受けていたらしい。 「あら、よく来てくれましたね」  夜子のいつも座っている机に、闇子さんは腰掛けていた。  その脇で、不服そうな表情で棒立ちする夜子。  闇子さんが夜子を立たせるなんて、何だか珍しい。 「暫くの間、不在にしていてごめんなさいね。少し、お仕事の方が忙しくて」 「いえ、構いません。特に問題はありませんでしたし」 「……そう?」  闇子さんは、苦笑いを浮かべる。 「瑠璃くんはそう言ってるけれど、夜子ちゃんは何か心当たりはある?」  穏やかな声で、闇子さんは語りかける。 「え、えっと……」  対する夜子は、視線を逸らして口篭る。  なんて珍しい構図だろう……闇子さんが、夜子を責めている。 「も、問題なかった、わよ……」 「嘘」  それは少し、キツめの口調。 「あなた、ヒスイを自分の目的のために使ったでしょう?」 「ち、違う……」  弱々しい夜子の受け答え。  その様子に呆れながら、闇子さんは続ける。 「とぼけても無駄よ。一人で勝手なことをして、取り返しの付かないことになったらどうするつもりだったの?」 「でも、ヒスイは危険なお話じゃないから、問題なかった……」 「そういうことを言っているのではありません」  呆れたように、溜息をつく。 「ごめんなさいね、瑠璃くん。驚かせた上に、混乱させてしまったでしょう? 本来なら、きちんと説明するつもりだったんだけど……」 「大丈夫ですよ。百聞は一見に如かず、これ以上ない説明をされましたから」  もう、無関心ではいられない。  それならば、中途半端に知るよりは、徹底的に知っておいたほうが良いだろう。 「宝石の名前を冠した、魔法の本」  そうして、彼女は語ってくれる。 「魔法の本の物語を望む者の願いに反応して、彼らはこの世に物語を開く」  本の内容が、現実に起きてしまうのだ。 「私たち遊行寺家は、そんな魔法の本を、秘密裏に収集・管理することを生業としているのです」 「なるほど、だからここは図書館だったのですね」  人気のない場所に佇む図書館。  秘密を抱えるには、適した場所だ。 「常軌を逸したものだからこそ、その取扱は慎重にしているつもりです。だから今まで、あなたたち二人には秘密にしていました」  神妙な面持ちのまま、闇子さんは言う。 「いつか、その時が来たら打ち明けましょうと、そういう取り決めをしていました。瑠璃くんが帰ってきた時点で、近々お伝えするつもりだったのですが」  順番が、おかしくなってしまった。  そんな表情で、闇子さんは苦笑いを浮かべる。 「本来、一度収集した本は、誰も開かせないように厳重に保管しているはずなのですが、今回はうちの娘が……」 「だからあたしじゃない……」  不服そうな夜子。 「本の存在を知ってしまった者は、再び本に巡り合う可能性が高いの」 「今後も本による歪みが生まれることを、否定することは出来ません。だからこそ、そのための心構えを持っていて欲しいのです」  そういって、ゆっくりと立ち上がる闇子さん。 「魔法の本について、わからないことがあったら夜子や理央に聞いて頂戴。といっても、これ以上説明できることなんて、あまりないのだけれど」 「どういう意味ですか?」 「魔法の本についてわかっていることなんて、その程度のことなのよ。人の理解を超えた、紙の上の存在なのだから」  故に、魔法の本と呼ばれている。 「説明するよりも、体験したほうが早い。そういう意味では、ヒスイを経験したのは結果的に良かったのかもしれないわね」 「そうですね……」  嫌というほど、理解させられました。 「さて、ここからが本題なのですが」 「……?」  これ以上の本題があるのかと、疑問を浮かべる。 「夜子が、私の許可を得ずにあなたたちを巻き込んでしまった。そのことを、謝罪させてください」  そう言って、深々と頭を下げる。 「ほら、夜子ちゃん」   優しい声色だったが、どこか圧迫感のある声。 「悪いことをしたら、ごめんなさいでしょう?」 「……う」  それは、有無を言わない迫力があった。  母親の剣幕に負けて、夜子は一歩前へ出る。  それは余りにも小さい、消極的な一歩だった。 「…………」  無言で、俺を睨みつける。  屈辱に耐えるような、強烈な瞳だった。 「……あたしのせいじゃないのに、どうして」  まるで親の仇のように、殺意を込めた眼差し。  いや、俺を恨むのはお門違いじゃないか? 「でも、あなたが真実を打ち明けていれば、もっと早くにヒスイは閉じたでしょう?」  背後から、闇子さんが追い打ちをかける。 「ネタバレは、許されないの。絶対に、したくない……」 「それは、あなたの勝手よ。あなたの勝手で、瑠璃くんを困らせた」  そうして、屈辱に肩を震わせて。 「くっ」  瞳に涙を浮かべたまま、夜子は俺を睨んで。 「……巻き込んで、悪かったわね。あたしが、悪かった」 「お、おう……」  まるで感情の篭っていない、棒読みの謝罪をしてくれた。 「――くすっ」  それを横で見ていた妃が、思わす吹き出していた。  笑いをこらえようと、必死になっているが、堪えきれていない。 「き、妃っ……!」  そんな妃を、夜子は恨めしそうに睨む。 「はい、よく出来ました」  そんな夜子の肩を、闇子さんは優しく触れる。 「これに懲りたら、もう勝手なことをしちゃ駄目よ。いずれはあなたが本の担い手になるけれど、今はまだ早いのだから」 「……うん、分かってる」  母のぬくもりに触れた夜子は、少し落ち着いて。 「じゃあ、お詫びとして瑠璃くんのいうことを何でも一つ、聞くように」 「えっ!? ちょっと、母さん!?」  すぐさま、その落ち着きは霧散した。 「だって、謝るだけなら意味がないでしょう? 償わなければ、それは仮初の言葉よ」 「で、でも! どうして瑠璃なんかに!」  大嫌いな、俺なんかに。 「はい、許しません。お母さんのいうことは絶対よ? それはあなたも、よく知っているわよね」  にこっと笑って、夜子を追い詰める闇子さん。 「今日のお母さんは……あたしに、冷たい……」  悔しそうに表情を歪ませながら、俺を睨みなおす。 「く、屈辱よ……! 今すぐ、死にたいくらい……!」  本気で泣きそうになっている夜子。  俺なんかに従僕するなんて、プライドが許さないのだろう。 「俺は、別に」  そんなことをしてもらわなくたって――と、言おうとしたところで。 「駄目ですよ、瑠璃」  笑いながら、妃に止められてしまった。 「こんなに愉快なことを、わざわざ断らなくても」 「き、妃! 余計なことを言わないで」  悲痛な夜子の声が、慈悲を求めるも。 「いい機会じゃありませんか。都合よく、瑠璃の願いを聞き入れてもらえばよいのです」 「その通りよ。今回の夜子には、少しお仕置きが必要なの」  少し甘やかせ過ぎたのかしら、と笑う闇子さん。 「……本当に、何でもお願いを叶えてくれるなら」  王様ゲームのキングのように、命令を口にできるなら。 「ええ、夜子のご主人様にでもなったかのように、好きに命令して結構よ。メイド服でも着させて、理央ちゃんの代わりに給仕させてもよくってよ」 「そんなことをさせたら、あたしは一生キミを許さない」 「そんなことをしなくても、お前は俺を認めないだろ」 「……今以上に、キミの扱いが悪くなると思え」  静かに怒りを込める夜子だったが、この状況だとちっとも怖くない。 「メイド服も魅力的だけれど、それよりも着せたいものがある」  それは、理央が口にしていた願い。 「何かしら? 水着とか? 夜子の身体だと、少し物足りないんじゃないかしら……」 「お母さんっ!!」  真っ赤にさせて、年頃の少女らしく叫ぶ夜子。  ああ、少しは気にしていたのかな? 「おい、夜子」 「……何よ、真性の変態」  苛立ちの籠った声。  理不尽を覚えながらも、我慢するしかない夜子は、ただ俺を睨み続けて。 「――お前、明日から学園に来い」 「え?」  俺が、夜子に願ったもの。  何か一つを命令出来るなら、声を張り上げて下したい。 「メイド服でも水着でもなく――お前が今着るべきなのは、藤壺学園の制服なんだよ」  閉ざされた世界で、活字の世界に溺れるのも良いだろう。  目立つ容姿にコンプレップスを覚えて、引き篭もる気持ちも重々理解している。  けれど、お前は一度だって経験していないはずだ。  学園という舞台に通って、くだらない日常を友達と過ごすという、誰にでもある青春を。  それを知らないまま、今という時間を経過させたくなかった。  一度だけ、図書館の扉を開いてみろ。  他人との交流を、初めてみろ。  それは学園に在籍している、今にしか出来ない挑戦だ。 「あたしが、制服? 学園に通えですって? なにそれ」  今朝読んだ、あの青春小説を思い出す。  あそこまで現実は瑞々しいわけじゃないだろう。  素敵で煌めく青春があるわけでもない。   それでも、現実を知ることが、小説の世界を更に楽しませてくれると思うんだ。  小説が存在するのは、まさしく夜子が嫌う、この現実なのだから。 「明日から、俺と一緒に登校しろ」  その言葉に、嫌悪感を顕にする夜子。  しかし、傍で見守る夜子さんは、優しい瞳で微笑した。 「では、夜子ちゃん。明日から、瑠璃くんと共に学園へ通いなさい。これは、命令よ」 「一生恨んでやる」  めくるめく、青春小説の始まりだ。 「……変わってないようで、変わったようで、けれど、元通りなのかな」  不幸を望んだ少女は、確かにいなくなったが。  それ故に、彼女がイジメられていたという現実も、なくなったのだが。 「けれど、立場はあんまり変わってねえんだな」  日向かなたがクラスメイトと楽しげに会話するシーンを、未だに一度たりとも見ていない。  変人奇人で煙たがられているのは今も昔も同じで、やっぱり彼女には友達がいなかったのだ。  ヒスイのような物語に抜擢されるだけあって、彼女本人も孤立していたらしい。 「新入りくん、どしたのさ?」  そして、本城岬の立場もまた、変わらない。  気さくでフランクな同級生。 これぞ、モブキャラ。 「日向かなたって、やっぱりイジメられてるの?」 「えっ? やだなー何いってんのさー。そんなわけないじゃん」  笑顔のまま、否定する。  ヒスイの影響を、否定した。 「日向さんをイジメる度胸があるやつなんていないっしょー。というか、むしろ日向さんがイジメる方でしょ?」 「なんだっけ、すげー質が悪いとかなんとか言ってたよな」  登校初日に、忠告されていたことを思い出す。  まだヒスイが開いていなかった頃の、ありのままの言葉だったはず。 「絡まれたら面倒だよ。野次馬根性? 知的好奇心? 他人の秘密を暴くのが好きな子だから、遠慮がないっていうのかねー」 「そういえば、俺のことも気にしてたな」  すっかり忘れていたが、彼女はあの図書館について興味津々だった。  ヒスイを開く前の彼女は、あの場所に目をつけていて、調査を繰り返している。  すべてを知った今では、その嗅覚は見事と言わざるを得ないが。 「尚更、拒絶しなきゃだな」  そこにある真実が、まさに驚愕のものであるから。 「……もう二度と、関わらせない」  それで、いい。  それこそが、あるべき姿なのだから。 「なんか、哀愁ちっくな表情してる」 「はい?」 「寂しいの?」 「そんなわけねえだろ」  意味がわからない。 「もしかして、日向さんとなんかあった? っていうか絶対あったよね。だって――」  岬が、苦笑いを浮かべながら指摘する。 「ここ最近、日向さんすっごい睨んでるよ? こりゃもう恨みでも買ったのかってくらい、警戒されてる」 「……たいしたことじゃない」  そう。  ヒスイを閉じて以来――そして、無理やり唇を交わして以来。  日向かなたは、俺のことを避けるようになったのである。  記憶をなくした彼女が覚えているのは、無理やり俺にキスされたことだけ。  しかも、乱暴な言葉で事後対応を済ませてしまったのだから、とんでもなく警戒されてしまっている。 「ちょっと、手篭めにしようとして、反撃されただけだ」 「うわあ、最低なことしてたー!」  オーバーリアクションで岬は驚いてみせる。 「関わってくるのが面倒だったから、無理やりキスした。そしたら、ご覧の有様だよ」 「……え? ていうか冗談じゃないの?」 「さあ、判断はお任せする」  しかし、それが都合のいいというのも、また然り。  不用意な干渉をやめてくれるなら、それは願ったり叶ったりなのだから。  魔法の本という物が存在していた時点で、図書館に関わるべきではない。 「そんなことよりも、今日はサプライズが起きるんじゃないかな」  話を強引に、逸らすことにする。 「さぷらいず?」  隣の空席を見つめながら、やや頬を緩ませて言う。 「今からがとても楽しみだよ」  昨日、俺が下した命令。  夜子に求めたのは、学生としては当たり前の行動。 「どうせ、一日で来なくなるだろうけど」  読書以外の時間を要求されて、夜子は心から憤慨していたけれど、これもまあいい経験になるはずだ。 「……何かが起きるのかな?」  期待に目を輝かせる岬。  そして、教室の扉は無機質に開かれる。  堂々とした姿勢で、夜子が姿を見せた。  白い髪をたなびかせ、恥じることのないそのありようは、少しだけ格好いいと思った。 「…………」  一瞬、教室内の空気が止まった。  遊行寺夜子の登場は、誰もが無呼吸に陥ったのかと錯覚するほど、全てを持っていってしまったのだ。 「――ふん」  無造作に姿を見せた夜子は、下々の者を見下すように、鼻で笑う。  くだらない、と。  そう思っているのが丸分かりなほど、表情は冷めていた。 「あたしの席、どこ?」  こつこつと俺の元まで近づき、質問する。 「俺の隣だよ」 「……謀ったわね」  会話する度に、怒りがこみ上げているのを見て取れた。  だが、それを爆発させることはないらしい。  一応、他人の視線をそれなりには意識しているようだ。 「わーお」  傍にいた岬が、感嘆の声を上げる。 「彼女が、遊行寺夜子さん? うわ、すっご……あれって、なんていうんだっけ……アルビノ?」 「どこにでもいる、普通の女の子だよ」  ちくり、と心が傷んだ。  この反応は、わかりきっていたはずだ。 「よーし、友達になってくる!」  と、岬は立ち上がり息巻いて、夜子の元へと特攻した。 「あの、遊行寺さんだよね? 僕、本城岬っていうんだけど……」  初めて登校した少女に対して、最大限の親しみと優しさを提示する。  それは、クラスメイトが出来る最大限のおもてなしではあったのだが―― 「……ふん」  席に着席するなり、小説を取り出して自分の世界に引き篭もってしまった。  話しかけてきた相手の顔を、一瞥しようとすらしない。 「……あ、あの?」  何者も拒絶するオーラを振りまいて、近づこうとするものを跳ね除ける。  無言のオーラが、関係の拒絶を突きつけてくるのだ。  やがて、それを察した岬はすごすごと下がり、他のクラスメイトたちも目を逸らす。  本能的に、関わってはいけないことを理解したのだ。 「お前は、ぶれないやつだな」  そんな様子が、嬉しくもあり、呆れもあり。 「耳障りよ。話しかけないで」  透き通るような声で、俺にだけ毒突く。  反応してくれるのが、少しだけ嬉しいと思った自分に笑える。 「……下らない。どうして、あたしがこんなところに……」  それでも、口から出て行く言葉以上に、その姿は美しく。  とても、教室の風景とは思えないほど、幻想的な雰囲気を醸し出していた。  そうして夜子の学園生活は始まりを迎えたのだが、やはりというかなんというか、夜子という学生は、思いっきり問題児であった。  授業中も休み時間も関係なく小説を開き続け、他のことなんて一切関係ないと言わんばかりに読書を続ける。 「お前、ちょっと教科書見せてみろ」 「……だから、話しかけないでって」 「いいから」  昼休みに入った瞬間、俺は夜子の机の中を検める。  途中から予感はしていたが、やっぱりこいつ……。 「……おい、教科書はどうした」 「持ってきているわけ無いでしょ。あんな重いもの、どうやって持って来いというのよ」 「お前は箸も持てないお嬢様かよ!?」  しれっと言ってのける夜子。  端から学ぶつもりなんて一切ないようだ。  せめて、学んでいるふりくらいはしてくれよ。 「というか鞄の中も机の中も全部小説じゃねえか。お前は一体、ここへ何をしに来たんだよ!」  小説は持ってこれても、教科書は持ってこれないらしい。  重さが問題じゃないのは明白だった。 「キミこそ、何を勘違いしているのかしら」  わざとらしいため息を付いて、本を閉じる。 「キミが、来いと命令したのよ。それを殊勝にも応えてあげているあたしに、これ以上何を求めるというのかしら」  怒りに満ちた声で、言い放つ。 「何しに来たですって? ええ、そうね。本当に何をしに来たのかしら。出来る事なら、今すぐにでも帰りたいくらいだわ」  鬱陶しそうに周囲を見渡した。 「別に、何も求めてねえよ。強いて言うなら、お前が制服を着てここにいるだけで、俺は満足してる」 「はあ? 遂に頭でも腐ったのかしら。要するに、あたしに嫌がらせをして楽しいってこと?」 「そうじゃねえよ。馬鹿だな、お前」  笑いながら、言う。 「お前がそうしてると、あいつ、喜ぶだろ」 「……はい?」  不理解の表情を浮かべる夜子。  しかし、わざわざ説明しなくたって、すぐに理解できるはずだ。 「たまには、理央を喜ばせてやれよ。あいつは、お前の事が大好きなんだからさ」  と、その言葉と同時に。 「夜ちゃーん! お昼ごはんのお時間ですよー!」  元気な声が、聞こえてきた。  授業が終わってからダッシュで来たのだろうか、若干息切れをしている。 「り、理央……?」 「うわー! すごいすごいすごーい! 夜ちゃんが机に座って瑠璃くんとお喋りしてるー! 夢みたい! 夢かも!」  手には、仰々しい袋。  中身はおそらく、弁当箱だろう。  夜子が学園に通うと聞いて、前日の夜から台所に向かっていたのを、俺は知っている。   理央が夜子との学園生活を望んでいたことも、俺は知っていた。 「あーん、どーして理央は別のクラスなんだろう! でも、いいや! こうして一緒にお昼ごはんを食べられるだけで、幸せだもん!」  ハイテンションなままで、理央は夜子に飛びつく。 「ちょっと、離しなさいっ! 注目を浴びているでしょう!?」 「それは今更だろ。お前がいるだけで、否が応でも注目されてるんだから」 「それを要求したのは、キミよ!!」 「うん、瑠璃くんのお陰で、理央の夢が叶ったー!」  ざわざわと喧騒を強める周囲を放置して。  不登校の少女と、友達を作らなかった少女がじゃれあいながら。 「夢? こんなのが、理央の夢だったの?」  呆気にとられた夜子が、言う。 「うん、そだよー! 夜ちゃんがいない学園なんて、寂しいだけだし。またみんなで遊ぼう?」 「みんなで遊んだことなんて、あったかしら……」  あまりの理央の喜びように、夜子は困惑する。 「……知らなかったわ。理央が、こんなことを望んでいただなんて」  少し、目を伏せて。 「瑠璃は、知っていたのね」  不満というよりも、それは寂しげであった。 「やー、夜ちゃんの制服はとっても可愛らしいですにゃー。本当、キレイキレイ」 「理央の制服と同じものよ? デザインは、何も変わらない……」 「そうじゃなくて、夜ちゃんが着てるから可愛んだよー」  先ほどまでの毅然とした態度は崩壊して、喜びをありったけに示す理央に押されている。  夜子は、知らなかったのだろう。  理央は、昔から夜子や闇子さんには、何も求めなかったから。  自分の願いを口にすることは、なかったから。  自分が、拾われた身であることを、戒めているかのように。 「わかったから、少し離れなさい。人が、見ているから……」  照れくさそうに、理央を押しのける。  満更ではなさそうな表情に、少なからず満足感を覚えた。 「どこか、落ち着いてお昼を取れる場所に移りたいわ。人の目を気にしなくていい、静かなところ」 「ほえ? なして?」 「弱みを誰にも見せたくないのよ」 「そういうもんですかー」  その言葉の意味。  毅然とした態度を、衆目の前で崩したくはないのだろう。  強い言葉を振りかざし、刺のある言葉で武装しなければ、夜子は自分を守れないから。 「それなら、いい場所があるぜ。連れて行ってやろーか?」  遅れて登場した汀が、どや顔で胸を張る。  今日こそは、サボらずにやってきたらしい。 いや、それは当然のことか。 「汀も、来てたの」  短い言葉で、夜子は反応する。 「親愛なる妹の初めてを、俺が逃すわけねーだろ」 「相変わらず、気持ちが悪いのね」  理央に崩された余裕が、汀の登場で復活する。 「それでも、助かったわ。正直、そろそろ辛かったの」  疲れたように、息を吐いて。  それからゆっくりと、俺を睨む。 「……本当に、死ねばいいのに」  恨み事を残して、夜子は立ち上がった。  汀が俺たちを連れていったのは、理科準備室のような間取りをした、小さな部屋だった。 「……何、ここ?」  夜子が、疑いの眼差しで尋ねる。  中々に信用のない兄貴であった。 「昔、どっかの部活動が使ってた部室だよ。今はもう廃部になって、誰も使ってねえらしい」 「ふうん」  どうでも良さそうに、机を指でなぞってみた。  埃はなく、綺麗に掃除されている。 設備も、廃部になったものとしては十分すぎるくらいに整っている。  本当に誰も使っていないのか? 「それじゃーごはんをぱくぱくしよっかー」  ご機嫌な風に、理央は弁当を広げ始める。  大きな重箱から、彩り鮮やかな中身が顔を出した。 「頑張っちゃったよー、気合入れすぎちゃったー」 「ははっ、花見でも始めるつもりか?」 「ちょっと待ちなさい」  嬉しそうに席に座る汀を、夜子が窘める。 「何故、キミがいるわけ?」  その矛先は、俺に向けられた。 「キミがいたら、場所を変えた意味がないでしょう?」 「あ、やっぱり?」  半ば予想していたことである。 「だ、駄目だよー、みんな仲良くしよ?」  怒れる夜子へ、理央はなんとか宥めようとする。 「俺のことは気にせず、理央の弁当を楽しんでくれ」  俺だって、理央の弁当にありつきたいんだよ。 「楽しめるわけないでしょ!」  ばん、と机を叩きつけて、夜子は憤る。 「どうしてキミがここにいるのよ! 誰の許しを得てついてきたの?」  人目が無くなったから、抑え気味だった口調がいつものように戻って。  周囲を気にすることなく、俺を罵れる。 「おーい、先に食べちまうぞ?」 「それは駄目!」  先走る汀を、夜子は慌てて制止させる。  怒ったり、慌てたり、忙しいやつだ。 「心配しなくても、すぐに出て行くさ。ただ、夜子がどこ行くか、確認しておきたかっただけだよ」  学園という、夜子にしてみれば別世界の空間。  そこへひきずり出したのは、他ならぬ俺だから。 「はあ? なにそれ」 「命令した手前、少しは悪いなって思ってるってことだ」  夜子本人は、外の世界を望んでいなかったのだから。  いくら周囲がそれを望んでも、本人にしてみれば有難迷惑。  そういうのを全て承知した上で、俺は学園に来いと命令した。 「……何を今更。気持ち悪いわね」 「それに、世間知らずのお嬢様が、ちゃんと教室に帰れるか心配だったし」 「余計なお世話よ、この木偶の坊」  お嬢様という単語に、敏感に反応する。  こう呼ばれることを、夜子は好まない。 「やっぱり瑠璃くんは優しいねー。夜ちゃんも嬉しそう」 「どこをどうしたらそんな解釈になるのかしら……」  呆れたように、夜子はこめかみを押さえる。 「しかし、本当にここは誰も使っていないのか? どうにも使われている部屋っぽいけど」 「何をものあさりしているのかしら。まあ、キミにはお似合いの姿だけれど」 「いや、何の部室だったのかなって」 「……お前はやけに、気にするのな」  既に弁当に手を付けている汀が、呆れたように言う。 「誰かが使っている部屋なら、勝手に使う訳にはいかないだろ。昼休みだし、途中で鉢合わせしてもおかしくない」 「せ、先客万来?」 「ちょっと違う」 「まあ、邪魔が入るようなら追い出せばいいだろ」 「それは絶対に違う!」 「全てキミの責任にしたらいいのよ」 「……もうそれでいいよ」  それぞれが勝手に声を上げる。  もう、俺を放置してお弁当に端を伸ばしていた。 「瑠璃くんは、食べないの?」 「食べる資格が無いのよ」  即座に夜子が睨んでくる。  早く帰れと、瞳で圧迫していた。 「わかったよ。それじゃあ、俺は先に戻ってるからな」  余りにも夜子の機嫌が悪いので、撤収するべきだと判断して。 「ねえ、瑠璃」  しかし、そんな俺を夜子本人が呼び止める。 「どうして、こんなお願いをしたのかしら」 「え?」  それは、唐突な疑問だった。 「キミは、あたしに嫌がらせをしたかっただけ? 一体、あたしが学園に来て何の得になるというのよ」 「…………」  箸を止めて、汀や理央も静観する。 「キミは、これで満足したのかしら」 「……ああ、そうだな」  学園に通うことの意味。  こうして、教室の片隅で弁当を広げる意味。  それは、夜子本人が見つけるべきものだろうから。 「お前の制服姿が見たかったんだよ」 「……はあ?」  満面の笑顔で、言ってやった。 「とても良く、似合っている」  珍しく、本心からの言葉だった。  この場所に妃がいなくて、良かった。 「いやらしい」  対する夜子は、冷めた瞳で見下す。 「キミは、ろくでもない人間ね」 「それはお前が、一番知ってるだろ」  怒りを顕にする夜子から、逃れようとして。  退出しようと扉に手を伸ばすと――触れる直前に、反対側から開かれてしまった。 「え」  硬直する俺の正面に現れたのは。  否応なしに対面させられた、その相手は。 「……る、瑠璃さん!?」  日向かなただった。 「な、な、なっ――!」  顔面に驚きを際立たせて、咄嗟に開かれる口。  間近で相対したことで、自然の彼女の唇へ目が移る。  思い出したのは、ヒスイの味?  それを、妃の味が上書きする。 「何してるんですかぁあああああっ!!??」  これはなんという因果だろう。  それとも、仕組まれた因果?  思わず、案内をした汀を睨みつけて。 「俺は、知らねえ」  思いっきり目を逸らされてしまった。  俺以上に、夜子が汀を睨みつけている。  「こ、ここは私の部室ですよ!? か、勝手に荒らさないでくれませんか!!」 「あー、いや」 「女の子連れ込んで、神聖なる学び舎で何たる破廉恥を! やっぱり瑠璃さんは、ケダモノです……変態ですっ!」 「ちょっと、向こうで話を」  と、肩を掴もうとして。 「いやああっ! ち、近づかないでくださいっ! 触らないでくださいっ! 妊娠してしまいます!」 「…………」  物凄い嫌われようである。  まさに、ヒスイの爪痕が最悪の方向に残ってしまっていた。  因果応報。 「瑠璃、早く何とかしなさいよ」 「何とかしろって、どうみたって俺たちが悪いんだが」 「知らないわよ。そこは都合よく丸め込みなさい」 「無茶を仰る……」  夜子の冷たい命令を、殊勝に守ろう。 「おい、あんた」 「な、なんですかっ」  息を呑んで、身構える彼女。 「今日は俺たちに、この場所を譲ってくれ」 「はあ!? そんなの、駄目に決まって――」  断られそうであることを察した俺は、腹をくくる。  悪役に徹してやろうじゃありませんか。 「うるせえ、またキスするぞ」 「ひぃぃぃぃっ!?」  その言葉に、真っ赤にさせて驚愕する彼女。  唇を両手で隠し、涙目になりながら、後ずさった。 「お、覚えておいてくださいねっ! 私の恨みを、買ってしまいました! これはもう、タダ事ではありませんよ!」 「知るか」  ダメ押しに、一歩近寄って。 「へ、変質者ーっ! 誰か警察をー!!」  大声を上げて、彼女はその場から立ち去った。  全速力で、逃亡を図ったのである。 「……勝った」  夜子の言いつけ通りに、邪魔者を排除して。  不思議な達成感を得られながら、誇らしく振り向いてみたら。 「最低ね、この性犯罪者」  氷のように冷たい瞳。 「ちょっとは、慰めてくれよ」  直後に広がる、惨めな気持ち。  俺は一体、何をやっているのだろうか……。 「俺の立場が、どんどん悪くなっていっているような気がする」 「その調子で、この島から居場所がなくなればいいのにね」  それだけは、勘弁してほしいものである。 「……と、いうのが今日のほーこくです!」  わたしは、日課である夜ちゃん報告をお館様に伝えていた。 「そう、今日もありがとうね。ふふ、何だか楽しいことになってるみたいね」 「はい! 瑠璃くんのおかげで、夜ちゃんも楽しそーです」  理央の前では見せない表情を、たくさん咲かせてくれる。  瑠璃くんは、花咲瑠璃くんですにゃー。 「ヒスイが閉じても、立ち去るどころか受け入れてくれた。あの子たちには、感謝してもしきれないわね」  これなら、もっと昔から相談しても良かったと、お館様は繰り返し言う。  わたしは、反対することは出来ないから。 「でも、理央ちゃんの報告から見るに、夜子はまだまだ不満たっぷりね。明日にでも、瑠璃くんの命令を反故にしてしまいそう」  困ったように、考えて。 「うーん? スパイスが必要?」  料理でも、調味料を加える事は大切。  理央はいつも、何も考えずにてきとーにしてるけど! 「そうね、夜子の日常を彩るスパイスが必要よ」  それからお館様は一つの本を取り出した。  その瞬間、理央の意識は冷水をかけられたかのように覚醒する。 「……やっぱり、夜子と私は母娘ね。どうしても、本に頼ってしまう」 「お館様、それは」  何をしようとするのか、わたしには理解出来てしまって。 「あなたも協力して頂戴ね。これは、命令よ」 「……はい」  断ることを許されていない私は、頷くしか出来ない。  お館様の言葉は、私にとって絶対だから。  『ルビーの合縁奇縁』 「――次はあなたも、登場人物よ」  わたしは、知っている。  お館様は、大切な人のためなら全てを犠牲に出来る人で。  決して聖人君子ではないことを、知っている。  夜子が学園に登校するようになってから、二日目。  それは、夜子にとって限界日数だった。  仏頂面は昨日よりも増して、不機嫌が募りに募っている。  だが、その怒りを俺にぶちまけるということは、意外にもなかった。 「……今は少し、話しかけないで」  鬱陶しそうに睨み返しながらも、ただ俺の存在を追いやるだけ。  悪態の一つでもついてくれたらいつも通りだと言えるが、それすらなく。 「夜ちゃん、大丈夫かなあ?」  机で小説を読む夜子を遠巻きに見守りながら、理央が呟く。 「疲れてるみたい。やっぱり、無理を言っちゃったのかな……」  ページの進みが、いつもよりも圧倒的に遅い。 「正直、少し後悔してる」  自分の想像以上に、夜子は世間への耐性はなく。  自分の想像以上に、他人といる空間を苦手にしていた。  引き篭もりは、理由があるから、引き篭もっている。  それを無理に引っ張りだすのは、あまりにも不用心だったのではないだろうか。  そういう後悔を、抱き始めたところで。 「あ」  思い立ったように、夜子は小説を閉じる。  それから、手早い動作で鞄に本を仕舞い始め、無表情のまま立ち上がった。 「……ふん」  先ほどまで自分が座っていた机を見下ろしながら、何を考えていたのだろうか。 「ありゃ、もしかして」  夜子は、真っ直ぐと出口へと向かっていく。  丁度、出入口で立ち話をしていた俺と目が合った。 「次は、移動教室じゃないぜ」 「……帰る」  目を合わせないまま。 「もう、疲れた」  端的な説明。 「そうか」  それで全てを、納得した。 「文句、ある?」 「いや、無い」  僅かに、苦笑して。 「悪かったな、無理を言って」 「……だったら最初っから、こんな命令しないで」  そのまま、夜子は通り過ぎて行く。  まるで、一秒も教室という空間にいたくないように。 「あ、理央も、一緒に!」 「必要ないわ。一人で帰りたい気分なの」  慌てる理央を、制して。 「一人になりたい、気分なの」  ごめんなさいね、と。  疲れた声色に、若干の申し訳なさが滲んでいた。  そうして、俺がお願いした夜子の学園生活は、二日目の半ばであっけなく終わってしまった。  体調に異変を覚えたのは、朝起きた瞬間だった。  部屋に吊るされた制服を見た途端、あたしの身体は硬直する。  教室の中のあたしを取り巻く雰囲気。  遅れてやってきた不登校生をまじまじと見つめる視線。  不愉快なものが、一斉に思い出されてしまったのだ。  思い出して、強烈な抵抗感が全身から沸き立った。  あの木偶の坊や、理央はそういうものに鈍感だった。  周囲からどう見られているかなんて、一切気にしていない。  遠巻きに囁かれている陰口すら、意識していないのでしょうね。 「何あれー白っ」 「うさぎみてー」 「トゲトゲしてんなー」 「痛い奴」  ただ、好奇心で思ったことを口にしているだけ。  そんなものが、あたしの心を強く引き裂く。 「……あの頃に比べれば、ずっとマシだったけどね」  だから、二日目もなんとか登校することは出来たけれど。  母さんから貰った白い髪。  両の指で触れながら、ゆっくりと目を閉じた。 「それでも、隠そうとだけは、思わなかった」  隠してしまったら、これが恥じるべき汚点のように思えてしまって。  この髪を隠すあたしの存在を見て、母さんは悲しみを覚えてしまうだろうから。  ただ。  こうしてあっさりと音を上げてしまった自分が、許せなかった。  瑠璃を喜ばせようとは思わないし、むしろ命令したことを恨んでさえいるけれど―― 「――理央が、喜んでくれたから」  だから、二日目も登校しようと思えたのだ。 「あの子は、あたしに何かを求めたりはしないから」  昔から、自分の願いを口にしない。  瑠璃の前では、口にする。  当たり前のように、口にする。  そのことが、少しだけ、悲しかった。 「……ふふふ」  あまりにも脆弱な自分に、思わず笑みが零れ落ちる。  結局のところ、自分は守られる側、世話をされる側の人間で、頼られる側の人間ではないということだ。  図書館に囲われることでしか生きていけない人間。 「瑠璃が、悪い」  それは魔法の言葉。 「全て、瑠璃が悪いのよ」  そう言ってしまえば、全てが許されるような気がして。  わかっている。  それは全て、脆弱な自分を正当化する、ただの虚飾にすぎないのだと。  弱々しい足取りで、ようやく図書館に帰り着いたあたしを迎えたのは、意外な人物だった。 「あら、おかえりなさい。遅かったですね」  一階の広間で、だらしない姿勢で小説を読んでいた。  ロココ調の大きなアンティークソファーに寝転がりながら、漫画でも読むかのような姿勢。  だらけすぎて、逆に感心してしまう。 「遅かった。それは嫌味?」 「いえいえ、そのままの意味ですよ。今朝の表情から、もっと早くに帰ってくると思っていましたので」 「……そういわれると、腹が立つわね」 「そういう妃も、あまり褒められた態度ではなさそうね」  早退したあたしを出迎えるくらいなのだから。 「はい、今日は風邪ということになっています。優等生ですから、休むにも理由が必要なのですよ」  じっと、あたしを見つめながら。 「今日は、私がここにいた方が良いこともあるでしょう?」  見透かしたように、妃は言った。  その言葉を肯定するわけにはいかなかったので、すぐさま否定した。 「あたしは、一人になりたくて帰ってきたのよ。理央の同伴さえ、断って」 「理央さんの申し出を断ったのは、ただただ申し訳なかったからでは?」 「……む」 「夜子さんは、いつもの空間を求めていたのでしょう? だから、この私が残ってあげたのですよ」 「その言い方は、自分の推察が外れたときに、赤っ恥をかく言い方ね」 「では、外れていると?」 「……これ以上、あたしをイジメないで」  呆れたように、息を吐いた。  それは、白旗を上げたのも同然だった。  「妃が居てくれて、安心したわ。あなたが居てくれて、とても安心した。これで、満足かしら?」 「はい、大満足です。夜子さんの本音を見れて、私は幸せものですね」 「うるさいわね……」  あたしの強がりを看破して、見透かす少女。 「――なにせ、夜子さんの数少ないお友達ですからね。全て、分かっていますよ」  本の話題を共有できて、距離感を取るのが絶妙に上手い、聡明な少女。  全てが妃のような人ばかりなら、脆弱なあたしも世間に浸透できるのではないだろうか。 「ところで、夜子さんのお薦めしていた小説、読み終わりましたよ。あれは素晴らしい構成力でしたね」 「当然よ。妃が好きそうだからって、薦めたんだもの。このあたしがピックアップする小説に、外れはないわ」 「といっても、前回の恋愛小説は趣味に合いませんでしたけどね。あれはどちらかというと、理央さん好みの甘々小説です」 「妃は少し、ジャンルを限定し過ぎているわ。そこを打破する意味でお薦めしたんだけれど……ままならないわね」  他愛もない小説談義で、盛り上がる。  ここまで普通に話すことが出来る相手は、たった一人だけ。  母さんは、あたしに甘すぎて、優しすぎて。  理央は、あたしに尽くしすぎて、自分を殺しすぎて。  汀は、単純に鬱陶しい。  瑠璃は、問題外。  閉じた世界の中で、奇跡的に出会った人物。  妃という年下の女の子は、あたしにとって大切な存在だった。 「ようやく、いつもの顔に戻りましたね」  嬉しそうに、笑いかけてくれた。  その瞬間、張り詰めていた何かが解き放たれた気分になった。  やっぱり、学園に行く必要なんて、なかった。  必要な物は、この図書館の中に全てあるのだから。 「そんなに疲れたような顔をしていたのかしら」 「夜子さんは、自分を殺すのが下手っぴですから」  友達、と。  生涯初めて、そう呼ばれた関係性。  妃がそう呼んでくれることに、喜びを感じる自分がいる。  果てしない充実感が、そこに芽吹くのだ。 「次は、私がオススメしてあげましょう。夜子さんでも読んだことのない、素敵な逸品を」 「……前は、グロいだけの内容だったよね。あたし、そういうのはあんまり好きじゃないわ」 「ジャンルを限定せずに、でしたっけ?」  あたしの言葉を、引っ張り出してくる。  口では妃に敵わないことを、見せつけられて。 「恐ろしい文字と悲惨な文章に、溺れさせてあげましょう」  あたしの初めての友人は、とても趣味の悪い女の子でした。  三日目。  案の定、夜子は登校するのをやめてしまった。  朝食の時間になっても、書斎から抜けだして来ない。  理央曰く、昨夜の時点で行かないことを伝え聞いていたらしい。 「……やれやれ」  授業中、肩肘をつきながら隣の空席を眺めて、僅かな学園生活に意味はあったのだろうかと考える。  隣の席同士としては何一つイベントも起きなかったが、それはそれで夜子らしい学園生活にも思えた。 「むしろ、一日だけでも来てくれたことが、驚きだよ」  命令。  お願い。  そんな建前を言ってはみたものの、拒絶されてしまったら、それは叶わなかっただろう。  闇子さんだって、無理をさせるような性格ではない。  ――疲れたの。  疲弊した風に、夜子は漏らした。  悪態でも愚痴でもなく、ただひとつの感想を呟いた。 「お前は、悩み過ぎなんだよ少年」  そんな風に黄昏れる俺へ、汀は笑いかける。 「夜子の制服姿を見れただけで、俺は満足してる。ありがとうよ」 「……あまり嬉しくないお礼の言葉だな」  汀は、愛でるように夜子の机に触れる。 「夜子に学園に来いって言った。それで夜子が来た。でも、すぐにドロップアウトした」  事実を淡々と並べて。 「それだけじゃねーか。それだけのことに、何を悩む必要がある?」 「悩んでるわけじゃないんだけどな。ちょっと軽率だったかなってだけだ」 「軽率なくらいが丁度いいんだよ。軽々しく扱え。あいつのことを、お嬢様みてーに扱う必要なんてないんだからよ」  それは、シスコンの汀にしては、珍しい突き放した言葉。 「お前は、夜子の友達なんだろ? 適当でいいだろ適当で。俺がお前に求めているのは、繊細な心遣いなんかじゃねーし」 「……随分と一方通行なお友達関係だな」  あいつは、赤の他人になりたいだろうけど。 「それにしても、夜子と妃ってどうしてあんなに仲がいいんだろうな。合いそうには見えねえんだが」  妹談義に花を咲かせる兄二人。 「妃は特別に良い女だが、夜子が気に入るかどうかはまた別だろ。何か、特別なもんでも見出したのかね」  投げやり気味に、汀は語る。 「特別なもんなんて、なにもないだろ。妃は、どこにでもいるただの女の子だ」  それは、俺が一番良く知っている。 「ただ、離れることをしなかっただけだろ。あいつはああいう性格だから、夜子のきつい性格にもついていける。そう、それだけ」  共にいる時間が長くなれば、交わす言葉の数も増えていく。  言葉を積み重ねていくと、やがて生れ出づるものがある。  それを、人は友情と呼ぶのではないだろうか。 「……そばに居てくれたら、誰でも良かったってか?」 「もちろん、より好みはするだろうが」  俺は、落選した。 「でも、俺達にしてみれば、ただ傍にいてくれることが特別みたいなもんなんだよ。だから、お前たち兄妹は、やっぱり特別なんだよ」  きざったらしく言ってみせれば、その姿は様になっていて。  「――魔法の本、ねえ」  汀の言葉が指すものは、やはりあの規格外の存在か。 「そうでなくても、俺達は曰くつきだからな」 「森の奥の洋館に潜む、魔法使いの噂――だっけ」  ヒスイのときにも語られた、根も葉もない噂。  あれはヒスイの作り話ではなく、この島に初めから存在していた噂だ。 「で、お前が学園をサボって出掛けてたのも、それ絡みなわけ?」 「ん?」  虚を突かれたように、汀は声を漏らした。 「女遊びっつって、帰って来なかったこともあっただろ。まさか本当に火遊びに夢中だったわけでもないだろうが」 「俺はただ、夜子の欲しがっているモノを探しているだけだ」 「なんだそれ」 「ヒスイの一件を見て、まだわからないのか?」  その声は、やや冷ややかに。 「夜子は、魔法の本を愛してやまないんだよ。まだ見ぬ魔法の本を求めている」  それはまさに、活字中毒とも呼べる衝動。 「だから、あいつは魔法の本に従うことを望んでいる。一度開かれた世界を、読み解くように」 「…………」  ヒスイの時も、それは明らかだった。  誰よりも何よりも本を優先し、登場人物が翻弄されるさまを見物していた。  全てを知りながら、一切合切読者で在り続けた。 「俺が主人公だったからってわけでも、なかったのか」  それが誰であろうが、関係なく。  本の意思を、頑なに優先するのだ。 「あいつにとって、書斎で小説を読み耽るのも、現実で魔法の本が開かれるのも、そう変わりないことなのかもしれねーな」  それはあまりに危険で、恐ろしい認識だ。  電波な女の子というのは、空想上の物語でよく登場する。  奇天烈な性格というのは突拍子のない行動を取らせるには非常に便利で、電波だから、という一言で全てが許されてしまう。  彼女たちの存在は作者にとって非常に都合がよく、いわば物語の便利役、あるいは汚れ役みたいな性質を併せ持っていた。  放課後の帰り道。  人気のない海岸線。  夜子のことを考えていた俺の前に現れたのは、一羽の天使だった。 「キャホー! 天使でーす! 天使ちゃーん! ですよー!」 「…………」  天使の数え方が、一羽でいいのかは不明。  一人、と呼びたくなかったのは、同じ人種であることを区別したかったからか。 「初めまして? NO! お久しぶり? NO! よろしくねー!」 「……理央、何やってんの?」 「ひぃゃぁああああっ! だめっ、めっ! 真名で呼んじゃやーよ」 「…………」  いつから遊行寺家のメイドさんは、頭のネジが吹っ飛んでしまったのだろうか。  いや、もともと緩んでたのは緩んでたが、ここまで手遅れになってはいなかったはず。 「ドン引きしないで! 泣いちゃうから! 天使ちゃん泣いちゃうよー」 「…………」  遊行寺学園の制服を着たまま、天使とか言われましても。 「全国のお悩みを抱えた少年少女のために、ワタシ天使ちゃんはやってきたのですぞー!」 「…………」  うわぁ……。 「瑠璃くん? どしたの?」 「どうかしたのはお前のほうだろ」  突然素に戻られると、逆に驚く。 「なんだよ、それ」 「天使ちゃんですよー。お悩み解決する、天使ちゃんです。貢物、はよー?」 「まだそのキャラ続けるのか」  痛々しくてたまらない。 「貢物はよー」 「あいにく、現金を持ちあわせていない」 「ち、違うよ! 天使ちゃんはぴゅあなので、まねーの話題はいりませぬ」 「じゃあ、魂?」 「それは悪魔ちゃんのお仕事です。管轄外!」  楽しげに笑いながら、続ける。 「貢物といえば! お悩み事でしょー! ほれほれ、はよはよ」  待ちわびるように、理央は手を叩く。 「そうはいってもだな」  と、抵抗する俺を真っ直ぐ見て。 「瑠璃くんのお悩み事、聞きたいよ。今日一日、何か難しいことを考えてた」 「…………」  突然、普通の声色で話すものだから、意識を持っていかれそうになってしまう。 「だからそれ、天使ちゃんが食べちゃってあげるよー。さあ、お悩みを捧げ給え!」 「…………」  悩み事、苦悩。  俺がそれを抱えていると踏んで、理央は電波を装って相談にのってくれようとしていたのか。 「のんのん、言わなくても、天使ちゃんにはわかっております」 「え?」  俺の口を押さえるように、手を突き出す。 「恋じゃろ! 恋じゃろうに! 天使ちゃんは愛のキューピット! 瑠璃くんの恋を成就してあげようではないか!」  ダメだこいつ。  まるでわかっちゃいなかった。 「あ、すみません、人違いです」  他人のふりをして、帰宅を決め込む。  理央の狙いがなんだか分からなかったが、これも夜子の嫌がらせか? 「ああんっ、ちょっとまってよ瑠璃くーん」  今度はのんびりした声で、俺を呼ぶ。  電波な理央と、いつもの理央が忙しなく入れ替わる。 「置いてかないでー」 「話があるなら、図書館で聞くから」  こんなところを誰かに見られてしまったら、後々面倒だ。  特に、日向かなたにでも見られたら、いらぬ噂を流されてしまう。 「天使ちゃんはマジ天使ちゃんなんだよー。本当に赤い糸を結んであげられるんだよー」 「へえ、どうやって?」 「ばきゅーんって」  右手で銃の構えをして見せる。  「……そこは、弓じゃないの?」 「そんなんじゃ、今の恋の戦争に勝てっこないよ?」 「そういうもんじゃねえだろ」  頭を押さえながら、歩みを止めることはない。  図書館の門をくぐり、正面扉を迎える。 「こう、人差し指を意中の相手に向けてー」  尚も、理央は電波を発信する。  おかしいな、受信の申請を出した覚えはないんだけど。 「ばきゅーんと、撃ってみせたらいんだよー?」  べたべたと俺の周囲に絡みつく、自称天使。  羽の一つでも見せてくれたら、信じてあげても良かったが。 「あっ、わかったー! この先に瑠璃くんの好きな女の子がいるんだね」  得心したような、大きく頷いて。 「よーし、見ててあげるから、頑張ってハートをキャッチしてごらん!」 「あーはいはいわかったよ」  面倒になって、適当に頷く。  いつまでこのキャラを続けるつもりなのか、本当。  広間に入ると、先客がいた。  珍しく、夜子が1階にいる。 「……むっ」  黙って不登校に戻ったからか、やや気まずそうに。 「間の悪い男。空気を読んで、帰宅時間を設定して欲しいものね」  どうやら、1階の本を取りに来ただけらしい。  いくつかの本を持って、本棚の周りをうろうろしている。 「……このひとに、ばきゅーん?」  後ろでは、尚も天使が電波を発信。 「引き篭もりには、恋心なんて無縁だろ」 「はあ? 何を言ってるのかしら」  火に油を注ぐように、夜子の機嫌は悪化していく。 「あたしがいつまでも、キミの命令を守るとでも思っていたの? それこそ、何様のつもりかしら」  高飛車に、上から目線。 「ばきゅーん、ばきゅーん、ばきゅーん」  翼のない天使は、後ろから圧迫する。  小さな不満が降り積もり、嫌がらせをしたくなった。  夜子を、思いっきり誂いたい。 反骨してみたくなったのだ。  そのとき、俺がとった行動は。 「なあ、夜子」  右手で、銃の構えをして。 「いつの間にか、理央は天使にジョブチェンジしたらしいぜ」  知ってたか? と笑い。 「はあ? 何を言ってるの?」  案の定、夜子は馬鹿にした。 「おい自称天使。それでここから、どうするんだ?」 「おーいえす! あとは愛をこめて、ばきゅーん、ですよ!」  悪乗りが、すぎるだろうか。  それでも、俺と理央の電波に、夜子を巻き込んでしまえば――面白いだろうかなって。  本当に、何も考えずに起こした行動は。 「オーケイ」  愛ではなく、皮肉を込めて。  若干戸惑う夜子へ向けて、恋の矢もとい恋の弾丸を、放ってみた。  もちろん、それは真似事にすぎないのだけれど。  それでも夜子は、狐につままれたような顔をしていた。 「ばきゅーん」   天使ごっこに、興じてみたら。 「……えっ」  口で表現した射撃音。  しかし、夜子は撃ちぬかれたように、一歩後ずさり。 「り、理央?」 「はて? それは誰のことですか?」  夜子が見つめていた先は、俺ではなく。  真後ろの、自称天使だった。 「ワタシは、ただのしがない天使でござるー」 「え?」  そこで初めて、俺は気がついた。  理央に起きていた変化が、冗談ではなくもっと致命的な何かだと。 「――キミは、今、何をした」  夜子は、すぐさま俺に詰め寄って。 「今の行為の意味を、答えなさい」  その剣幕に押されながら、視線は理央に移る。  混乱したまま、理解が追いつかないでいる。 「――はい、契約完了ですよーん」  手を合わせて、一仕事したかのように、理央は頷いた。 「これで瑠璃くんは、運命の相手と、素敵な未来を迎えることができるよん! 貢物、ありがとー!」 「まさか、これは」 「あらら、なんてことを」  いつからそこにいたのか、闇子さんが見守るようにして笑っている。  笑っている? この状況で――? 「母さん、これって、もしかして」 「そうね、その通り」  それでも、余裕を崩さない闇子さん。 「紛れもなく、魔法の本が開いたのでしょう」  ヒスイに続く、二冊目の本。 「でも大丈夫、今度の本は、ヒスイよりも静かな本」 「母さんは、これを知っているの?」  その口ぶりだと、夜子には心当たりがなく。 「――『ルビーの合縁奇縁』」  次なる煌めきは、鮮やかな紅色。 「面白おかしい、天使が繋ぐラブコメ小説よ」  『ルビーの合縁奇縁』  と、闇子さんは告げた。  ヒスイに続く、2冊目の脅威。 「理央、これはどういうことなの? 説明して」  対する夜子は、自称天使に詰問する。 「はて? なんのことですかの?」  それでも天使は、成りきってしまって。 「ワタシ、無実」  夜子のことを、主とも思っていないようだった。 「キミも! 黙ってないで何か言ったらどうなの!?」 「や、俺だって混乱してる」  それが本である可能性を見落としていた。  理央が、おふざけで天使を自称しているのかと思っていた。 「キミが連れてきたんでしょう!? 理央が本を開いたなら、心当たりは――」 「あらあら、随分慌てているわね。いつものあなたはどうしたの?」  そんな夜子を、闇子さんは窘める。 「生まれて初めて登場人物になったことが、そんなに怖い? 読者側でいたかったの?」 「……そうじゃないけど」  恨めしそうに、俺を睨みつけ。 「こいつが何かしたのかと思うと、腹立たしくて」 「俺は無実だ」  声高に宣言しておきたい。 「さっき、あたしに何かしたでしょう!? あたしの胸を、何かで撃ち抜こうとした!」 「……あ、あれは」  自称天使に、唆されて。 「あれは?」  本当のことを話したら、夜子は怒り狂うのではないだろうか。  想い人を狙いすます、恋のキューピットの話なんて。 「天使が現れて、男の子に心を撃ち抜かせる」  しかし、闇子さんが説明してしまう。 「とても平和的で、牧歌的なお話よ。ヒスイとは比べるまでもなく、平坦なお話。序章が全ての発端で――そして、全ては変わらずに収束する」 「そういえば、さっき、ラブコメって」 「その通り。非日常から始まる恋物語。天使が選んだ少年と、その少年が選んだ相手に生まれる恋模様。ただ、二人は幸せになればそれでいいの」 「……うっ」  そこでようやく、夜子もその言葉の意味を理解した。  瞬く間に表情は歪み、絶望の色へと変わる。 「それって、ねえ、母さん……嘘でしょう?」  青ざめている。  凍りついている。  引き篭もり少女の次なる受難は、学園に通うことよりも困難なもの。 「瑠璃くんと夜子が、恋人になること。そして、幸せになること。それが、この物語の終わらせ方にして――向かうべき、エンディングよ」  闇子さんは、本に拘りもない。  だから、ネタバレを全開で行う。 「ただそれだけの、最も優しい魔法の本というわけね」 「――最ッ悪ッ」  吐き気を催すかのごとく、夜子は零す。 「にゃー? なーんか難しい話ばっかで、ワタシよくわかんなーい」  その中で、立場の違う自称天使だけが、空気を読まずに発言する。 「でも、とりあえず二人は結ばれるから、安心して! 天使様の恋愛力は、人間には抗えないからー」  作中のキャラに成りきってしまった理央は、天使として振る舞い続ける。 「合縁奇縁。素敵な運命をデリバリーする、由緒正しき天使ちゃんですから!」 「……えっと、つまり」  理央が、ルビーを開いて、作中のキャラになりきってしまった。  少年役が俺で、その俺が選んだ結ばれる相手は夜子。  本の結末は、二人のゴールイン。  魔法の本を閉じるためには――理央を元に戻すには、本の内容に準じなければならない。 「また、ヒスイみたいにあらすじを辿らなければいけないのか」 「これは優しい物語だから、あの頃みたいに切羽詰まる必要はないけれどね」 「……キミは、知っててあんなことをしたの?」 「は?」 「だから、理央……天使様から説明を受けて、結ばれる相手としてあたしを選んだのかと聞いているの」 「別に」  正直に言ってしまうなら。 「後ろで理央が騒ぐから、適当に従っただけだ。面白半分、ふざけ半分。お前と言い合いしていたから、丁度目についたから、つい」 「……そう」  その言葉に、果たして満足することが出来たのか。 「ヒスイの事があったのに、キミの分析力のなさには呆れるほかないわね」  辛辣な言葉だけが、置き去りにされた。 「で、どうするんだよ」  ようやく平常を取り戻した夜子へ。 「お前は、ルビーのあらすじを受け入れるのか」  用意されたシナリオは、俺とお前のラブコメディ。  そんなものは、お前は絶対に嫌がるだろうから。 「何も分かっていないようだけれど」  呆れたように、不満気に、見下しながら。 「そうする他、ないのよ。一度開いてしまったら、どうすることも出来ないの。だから、その下らない物語にも付き合ってあげる」  声色に、うんざりとした疲れの色が見えたが。 「……それに、どんなにあたしの意にそぐわない物語でも、それを魔法の本が語りたいのなら――あたしは、抵抗しない」  やや寂しそうに、言い残す。 「どこまでも、本を優先するんだな」  それはやはり、夜子らしくはあったけれど。 「それでも、お前は俺の事が嫌いだから、拒絶するかと思ったよ」 「勘違いしないで。あたしは、キミを受け入れたわけじゃないわ」 「舞台の女優も、嫌いな人間だからといってステージからは逃げないでしょう?」 「スポットライトの下では、いくらでも嘘だらけの仮面を被れるわ」  本が、語りたいというのなら。  それでも夜子は、自分を殺してまで本に従僕するらしい。 「相手を拒絶する心は変わらない。キミのことが嫌いなことには、変わりない。それだけは理解しておきなさいよ」  絶対的な優先順位。  嫌いな人間と馴れ合うことすら、夜子は受け入れられるのか。 「じゃあ、お前は」  そんな、夜子の強い言葉に。  ヒスイの結末を思い出しながら――俺は、ふとした疑問を口にする。 「それが魔法の本のシナリオなら、それが魔法の本の意志ならば、俺とキスすることになっても構わないのか」  ラブコメといえば。  物語の結末といえば。  いつだって、唇と唇の出会いが定番だろう。 「あるいはそれ以上の事になっても、許せるのか」  ひょっとしたら、それ以上の繋がりさえ、求められるかもしれない。  猛々しく互いを求め合うような共同作業さえ――本は語りたがるかもしれないが。 「――構わないわ。それを本が望むというのなら、キミとだって誰とだって、キスしてあげる」  そこに意味などないように。 「だって、これは舞台上の演目のようなもの。難しく考えるほうが間違っている。どこの世界に、キスを拒む女優がいるというのかしら」  達観したように、夜子は言い切った。 「たかがその程度のことで、ドギマギしているんじゃないわよ。だから、キミは木偶の坊なの」 「……うるせぇ」  完敗した俺は、それくらいのことしか言い返すことが出来なかった。 「やーやー、なんかワタシが結ぶまでもなく、お二人様は仲睦まじい夫婦のようですな」 「仮初の演目が結べるのは、物語の結末だけよ」   理央の言葉に、夜子は冷ややかに皮肉って 「さあ、天使様。これからあなたは、あたしと瑠璃をどうしてくれるのかしら?」  ノリノリで、役を張り始めた。  もっとこう、恥じらいながら嫌がりながらになるだろうと思っていただけに、予想外だ。  本のこととなると、こいつは別人のように積極的になるな。 「矢に貫かれたあたしは、瑠璃のことが好きで好きでたまらないんだから」  滅茶苦茶棒読みだった。  心がこもってないどころか、むしろ悪口のようにさえ聞こえるほど、凍りつく声。 「ありゃ? そなの? んなら、えーっと、これからねー」  対する天使様も、超適当。  おいおい、偉大なるルビー様は、こんな茶番をご所望か? 「えーっと、うーんと」  契約が終わったと、喜んでいた天使様。  少年と少女を結ぶ、恋のキューピット。  しかし――彼女の正体は、伏見理央という女の子で。 「――わかんない! 任せる!」  現実、全く頼りにならなかった。 『ルビーの合縁奇縁』  紅色の宝石が紡ぐのは落ちこぼれ天使が織り成す恋模様。  降り立った世界には、平凡な少年。  平凡が少年が望んだのは、気難しい少女との些細な日常だった。  紅色の天使は、縁を繋ぐ。  平凡な繋がり、運命的な繋がり、奇妙な繋がりを。  人と人の間で揺らめく運命の糸を、弓矢という形で手繰るのだ。  そして、少年は少女の心を射抜く。  天使から授けられた矢を放ち、恋に準じることを誓う。  でも、それは単なる契機にすぎない。  紅色の天使がもたらすのは、絶対的な運命の流れではなく、自ら運命をたぐり寄せるきっかけ。  恋路を歩むは、自らの足。  紅色の天使は、傍で見守る水先案内人だ。  少年と少女は、自らのペースで歩幅を合わせていく。  それは互いの運命をすりあわせ、同調するかのように。  彼らの恋路に、不思議なく。  波乱はあっても、それは恋の大波にすぎないのだろう。  あくまでも平和に、そして健やかに。  静かな水面を漂うように、緩やかに恋をしていくのだ。  翌朝。  手痛い目覚まし時計が、俺を起こしてくれる。  目覚めた理由は、重量感。  胸部に押さえつけられるような力を感じて、夢の世界から引っぱり出された。  圧迫感を与えてくれていたものの正体がわからないまま、意識がぶれる。 「鬱陶しいわね」  ぼやける意識に、冷水をかけられたかのように。 「早く起きなさいよ、木偶の坊」 「……あ?」  透き通った繊細な声色は、夜子のもの。  朝、お目覚め一番に夜子がいる――そんな事実が、意識を覚醒させる。 「どうしてこのあたしが、わざわざ瑠璃を起こしてあげなきゃいけないのかしら」 「ちょっと待って、何で、お前が」  状況が理解できないまま、あたふたする俺を。 「まだ意識は眠っているというの? 呆れた馬鹿ね」  容赦なく、夜子の足は俺を踏みつける。  睡眠と覚醒の間で感じた圧迫感は、夜子に踏まれていたせいか。 「早く起きなさいよ」  見下して、愉悦を噛みしめるように。 「それとも、あたしに踏まれたいのかしら」  愚かな者を足蹴にする感覚に溺れてるのか。 「……もう少し、起こし方ってものを考えてくれよ」 「あら、何様のつもり?」  俺の言葉に、かちんときたのか。 「もう少し体重を加えたほうが、いいのかしらね。踏み潰されたカエルのように、内蔵を撒き散らさないで欲しいのだけれど」 「うっ、ぐっ――」  朝、制服姿の幼馴染が。  起こしに来てくれるシチュエーションというのは、なるほど魅力的かもしれないが。 「そういえば、世の中には女の子に踏まれたがる人間もいるそうだけれど、まさかキミもなそうなわけ?」  ぐりぐりと、ぐりぐりと。  いかにしてダメージを与えられるかどうか、それを模索するような踏み方には、決して魅力を感じない。 「……馬鹿言うな」  夜子の足首を、掴み。 「お前こそ、いつから俺を起こしに来てくれるような、可愛らしい行動をするようになったんだよ」 「……はあ?」  呆れたように、夜子は首を傾げる。 「理央……あの天使様が、そうすればいいと命令したのよ。物語を進めるために、そうして欲しいって」 「へえ?」  ようやく事態が飲み込めてきた。 「よくある幼馴染の定番イベントか? 天使ってのは、案外バリエーションに乏しいんだな」  何のひねりもない、短絡的なイベントである。 「定番なの? あまり、小説では見ないシーンだけれど」 「……そうか?」  ジャンルの違い、か?  まあ、確かに起こし方を考えてみれば、定番からは少し外れているようだけれど。 「でも、意味不明ね。キミを起こしに来たくらいで、何の影響が生まれるというのでしょう。何の充実感も得られなかったけれど」 「俺を踏んでるお前は、結構楽しそうだったが?」 「……足が汚れるというデメリットが、見えていなかったのよ」  忌々しそうに、履いていたソックスをはたいた。  なんか、小学生のイジメみたいなことを言い出したぞ。 「自称天使は、ベタベタなイベントを起こして、俺とお前をくっつけさせたいのかな」 「さあ? 生憎、今のところあたしの心は冷えきってるわよ。キミを起こしに来ても、何も感じない」 「恋が、芽生えることはなく?」 「当たり前よ。キミは、あたしに何を期待しているのかしら」  見下し続けながら。 「本が望むなら、あたしは何でもするわ。けれど、それはあくまで本の演出。ゆめゆめ、そのことを忘れないように」 「わかってるよ」  それでも、疑問は晴れない。  本に準じることを選び、こうして天使の言いなりになって俺を起こしに来た夜子。  これからも、本が望めばなんでもしてくれるのだろうが。 「――本は、心まで動かす」  俺が、ヒスイのときに揺るがされたように。  妃よりも、彼女を優先しようとしてしまったように。  演技上だけではなく、その中身さえ、改変してしまう。 「お前は、俺を好きになるのかな」  ルビーの意志に、従って。  そういう作られたお前を、見ることになるのかな。  本に準じて俺を好きになるお前を、俺はどういう心境で見守ればいいのだろう。 「下らない。そんなもの、一時的な演技と受け止めなさいよ。それくらい、簡単じゃないの」 「……それが出来れば、苦労はしない」  現に、ヒスイでは揺るがされてしまったから。  舞台上の演技とは分かっていても、現実が舞台になってしまっている今、その言葉は気休めにすぎない。  お前の口で、お前の顔で、愛を囁かれたら――それはとても、魅力的なことだと思うから。 「ねえ、ところで一つ聞きたいんだけど」  夜子は、少し不満気に。 「いつまでキミは、あたしに踏まれているのかしら」 「…………」  目覚めてから、変わらずに。  今もなお、踏まれ続けて。 「キミは、やっぱり……」 「いや、待て、誤解するな」  ちゃんと、それには理由があって。  どうしたものかと、悩んでいたところなんだ。 「突っ込むべきかどうか、迷ってたんだ」 「……何を?」  不機嫌さが、一層強まって。 「片足を上げてるせいで、下着が見えてるぞ?」  目覚めた時から、変わらずに。  ずっとずっと、見え続けていた。  真面目な顔をして、真面目な話をしていても。  全く、全然、格好というものが付かなくて。 「…………っ」  対する夜子は、一瞬身体をびくつかせ。  少しだけ恥じらいながら、それでも声は低くする。 「――だから、何よ」  意外と、怒らず?  平静?  では、なく―― 「カエルのように、撒き散らしなさい」  下げようとした足を思いっきり踏みつけて、怒りを顕にしてくれた。 「おやすみなさい、瑠璃。二度と下らないことを考えないように、永眠させてあげるわ」 「お前は、起こしに来たんじゃねえのかよ」 「おやすみもおはようも、どちらも似たようなものよ」  夜子に踏まれて、責められ、痛められながら。  平坦な希少シーンが、ラブコメのそれに近付いたのではないかと気付く。 「やっぱり、二人は仲良しさん」  いつの間にか、隣にいた理央。 「ワタシの力で、らぶらぶになっちゃってますな」  そう見えるだけだ。 「引き篭もりは許しません! 健全な男女は、通学路で愛を育むというものですよー!」  と、いう自称天使の妄言が、夜子を再び学園へと導くことになった。  あれだけ疲弊していた夜子だったが、その言葉に対しては少し寛容で。 「……分かってるわよ。昨日の段階からこうなるだろうと思っていたから」  俺を起こしに来た夜子は、既に制服姿だった。 「二度と通わないつもりでいたのに……」  もちろん、不満は継続しているが。 「これが本の意思だというなら、もう少しだけ頑張るわ」  そして。  そして――今、夜子は俺の隣にいて。  肩を並べて、学園への道を歩んでいる。  それは、生まれて初めての出来事だった。 「近い、臭い、ウザい」 「離れて歩くと、自称天使に怒られるぞ」 「……死ね」  俺たちを見守るように、後方では自称天使が監視する。  目論見通り仲良くしているのか、チェックしているのだろう。 「おかしいわね、いつからこの辺りの風景は汚く見えるようになったのかしら」  ふと、思いついたように俺を見て。 「あ、キミがいるからね。この台なし男」 「……おい」  何だその罵倒の仕方は。 「キミがいなければ、学園やこの島ももう少しは過ごしやすいものになってたのでしょうけど、それはあまりにも高望みかしら」  笑いながら、続ける。 「空気が読めなくて、空気を汚してしまう瑠璃は、何かを犯さなければ生きていけないものね」 「……おい」  俺は環境破壊の一端でも担っているのか? 「死ね、死ね、と何度もキミを罵倒していたけれど、今にして思えば反省しているわ」 「次は何だよ」  矢継ぎのように飛んでくる暴言。 「死ねというのは他人任せで、無責任な言葉よ。悪影響を自覚して自殺するなんて、そんな高潔さをキミに求めるほうが愚かなのだし」  夜子は、前を向く。  俺と目を合わせずに、よそよそしさを維持させて。 「だから、死ね、ではなく。キミには、きっとこう言うべきなのでしょうね」  小さな唇が紡ぐ言葉は。 「――殺すわよ」  その可愛らしさとは真逆の、悍ましき言葉だった。 「うん、こっちの方があたしの意志に即しているわね」 「お前はこれから俺と恋仲になるんだよな? 殺し合うような小説じゃなかったよな!?」 「耳元でぎゃーぎゃー五月蝿い。目立つじゃないの」 「発言の内容で言えばお前が一番目立っているんだよ」  殺すとか、死ねとか。  そういう物騒な言葉を、言わないでくれ。 「……はあ、疲れてきた。やっぱり、キミといるとエネルギーを消費する。カロリーが足りないわ」 「それは、お前が疲れない生き方をし過ぎたからだろ。引き篭もってばっかりだと、楽に決まってるからな」 「むっ、かちんと来るわね、その物言い」  そこで、ようやく夜子は俺を見る。 「まるで全てのことを知ってるかのように、キミは語るのね。わあ、すごい」  最後は棒読みで、俺を褒め称える。  喧嘩を売っているのは、明白だ。 「……ちなみに、理央と登校してたときは、疲れなかったのか?」 「疲れなかったわ。理央といると、あたしは落ち着くの。あのときは、妃もいたからね」  でも、と。  空を見上げ、本音を零す。 「……疲れるけれど、帰りたいとは思わないわ。少なくとも、今は」 「えっ?」  それが、あまりにも意外な言葉だったから。 「誤解するんじゃないわよ? これが本だからと思うと、素直に流れに身を任せられるって言ってるの!」  慌てたように、夜子は否定する。  何を、否定したのだろうか。 「少なくとも、これが本のあらすじなら、あたしはまだ耐えられる。そういうこと」 「……俺とのお喋りにも、付き合う余裕があるってことか」 「そうね、そうしなければ何も終わりそうにないし」  夜子の目的は、きちんと物語を語らせてあげること。  そのためならば、たとえ嫌っている相手でも時間を共にすることを厭わない。 「駄目ですよー、こら、そこの少年ッ! ピピッー! いえろーれっどかーど!」  そこで、後方から理央の声が響く。 「余計な登場人物はいりませぬ。空気を読めやあ!」 「おい、待て、理央。目を覚ませ! こんなことは許されねえだろ!」  理央に制止をかけられている男子学生。  その人物を見た途端、逃げ出したくなった。 「あ、おい瑠璃っ! これはどういうことだ? お前がなんで、夜子と仲良さげに歩いてんだよ。殺すぞ!」 「……汀」 「人の妹に手を出すなんて、舐めた根性してるじゃねーか。上等だ、今日こそ決着つけてやるよ」 「……なんのだよ」  というか、怒りすぎだろ。  そして、何かを誤解してる。 「お袋から聞いたぞ! てめぇ、いつから夜子と付き合ってやがった!」 「…………」  あ、はい。  そういうことですか。 「心から鬱陶しいわね。どうにかしなさいよ」 「いいじゃねえか。あんな格好良い兄貴に想われて、妹冥利に尽きるんじゃねえか」 「どうでもいいわよ、そんなの」  兄の愛情を、夜子は一刀両断する。 「あたしたちは兄妹なのよ? 結ばれるはずもない関係に、夢を持ちすぎなのよ。その気持ちは嬉しいけれど、程々にしてほしいわ」 「…………」  さり気なく言った夜子の言葉。  それは、誰もがわかりきっている常識。 「そうだな、お前たちは兄妹だ」  だけど、俺たちは―― 「おい、二人でいい雰囲気作ってんじゃねえよ。とにかく説明しろ! 俺の許可なしに夜子とくっつきやがって!」 「こーらー! 二人の関係を邪魔しないでくださいー! もうちょっとでキスしそうなのに!」 「キス? 兄貴の俺だって、されたことねぇぞ!?」 「……突っ込みどころが多すぎて」  見当違いの目算に、見当違いの言動。 「はっ! わかりましたよわかりました! ワタシのお仕事を邪魔するアナタ! ずばり、悪魔だねっ!」  きゅぴーん、と。  真実に至った名探偵のように、天使はどや顔で指摘する。 「このままだと、遅刻するわね」  冷ややかな瞳は、何かを決断したように。 「面倒だから、すみやかに終わらせる」  俺の隣から、やや後方へ足を向けて。 「おい、夜子! 瑠璃と付き合ってるっていうのは、本当か?」  戸惑いながら、兄貴は尋ねて。 「本当よ」  即答した。  汀の望みを切り捨てるように、即答した。 「……は?」  おい、それはいくらなんでも乱暴な締め方じゃないか。 「だから、邪魔しないで」  圧倒的説明不足の夜子の言葉は、しかし効果てきめんだった。 「この恋物語は、汀が汚していい代物ではないの」 「…………」  絶句する汀の表情を、最後方から見つめる。  実の兄にしてみれば、その驚きは極大だろう。 「それじゃあ、遅刻する訳にはいかないから、先に行くわね」  用は済んだと言わんばかりに、夜子は背を向ける。 「……何をしているの。急いで」  しかし、一人では歩み出さず。 「そうだな、走るか」  俺と共に行くことを選択した。 「無理よ。疲れるから走りたくない」 「……そーかい」  もう疲れてるんじゃなかったのか、と。  言葉にする前に、足を動かすことにする。  前回の登校と決定的に違っていたのは、学園という場での夜子の態度だったろう。  命令を受けて渋々登校していたときは、小説を持参し、机の上に広げ、他人からの干渉を一切拒絶していた。  いや、他人からの干渉を拒絶する、という点には何も変化がないのだが、特筆するべきは俺が他人からクラスアップしたことと、夜子が小説を持ってこなかったことだろう。 「……持って行こうとは、した」  けど、 「母さんと、理央に、止められたの」  小説は、物語を停滞させる。  登場人物が他の物語を読んでいる間、一体どんなイベントを進めさせればいいのか。 「ところで、キミはいつも教室で何をしているの? 読書を禁じられたら、何もすることがないわ」 「……あのなあ」  引き篭もり少女、ここに極まれり。 「誰かと会話するとか、なんかあるだろ?」 「キミは、誰かと会話してるのかしら?」 「…………」  痛いところを突かれてしまった。  ヒスイが開いている間はともかく、あれ以来、極たまに岬と会話するくらいしか、話し相手はいなかった。 「何よ、キミもあたしと同じじゃないの。頼りにならないわね」 「というか、俺とお喋りしとけばいいんだよ。それならまだマシだろ」  もちろん、否定されると思って言った言葉だったけど。 「……そうね、少しはマシかもしれない」  平坦に、夜子は同意した。 「というか、授業聞いてろよ。平然と喋ってるが、今は授業中だぞ?」  何もすることがないとか、堂々と言ってるんじゃねえよ。 「え?」  しかし、夜子はその発想がなかったらしく。 「引き篭もりのあたしが、授業についていけるわけないじゃないの」 「…………」  堂々と、白旗を振った。  いや、まあ、そうだけど……。 「特に、今は英語の時間でしょう? 自慢じゃないけれど、あたし、英語は小学生以下の能力よ。和製英語しかわからないわ」 「和製英語は英語のカテゴリに含まれてねえだろ……」  少なくとも、授業には一切関係ない。  というか、本当に自慢じゃない。 意味のない前置きだ。 「ホッチキスって、和製英語って知ってた? あたし、今まで絶対に英語だと思ってたわ。良かった、海外に行く前に知っておいて」 「すっげえどうでもいい豆知識だな……しかも、海外旅行なんて絶対にしないお前には、不要な心配だろ」 「あと、野球も多いわよね、カタカタで出来た和製英語っぽい何か」 「野球?」  つい最近、理央と野球について語ったのを思い出す。 「フォアボールって、海の向こうじゃ通じないんでしょう? あれだけ気取った横文字を使いながら、結局本家では通じないってどうしようもないわね」 「いや、何でお前はそんなに詳しいんだよ」  俺だって、知らなかったぞ。 「あら? 昔は理央もキミも、あと汀も……野球に興味津々だったじゃないの。図書館の外で、キャッチボールしてたわよね?」 「してたけど……だからって、関係ねえだろ」 「そうね、関係ないわ。でも、そのせいか少しだけ知識はあるの」  昔を思い出すように。 「理央が、興味津々に野球の話をするものだから……あたしも、少しは話し相手になってあげたくてね」 「それで和製英語に詳しくなったってか? 努力する方向を間違えてんだろ」 「……うるさい。別に、それだけのために勉強したわけじゃないし……たまたま、知っただけよ」  恥じらう風に目を逸らすさまが、可愛らしくて。 「でも、今は英語の時間だ」  教科書を、見せつけて。 「せっかく学園に来たんだし、少しは勉強して帰れよ。これも、いい経験だと思ってな。ついていけなくても、ついていく努力をしてみろよ」  ものは試しだ。  学ぶってのは、そういう意味でもあるんだろ。 「……持ってないの」  しかし、夜子は言う。 「教科書、持ってないの。あんなもの、あたしには関係ないと思って、捨てちゃったわ」 「……お前なあ」  呆れて、溜息を付いて。  小説を持ってきたのは、他に持ってくるものがなかったからか。 「本を大切にしても、教科書は大切にしないんだな」  腰を上げて、机をひっつける。  先生に許可をもらうまでもなく、行動に移してしまった。 「な、何を近寄ってるのよ!」 「見せてやるよ、教科書くらいさ」  机を並べて、お互いが見える位置へ。  「……何よ、それ。気持ち悪い優しさを見せないで」  周りの注目が集まるのを感じる。  その視線を、夜子が嫌うことも、知っていた。 「見ても分からないわ」 「構わねえよ。元々、期待してない」 「どうせ、意味不明よ。あたし、特に英語が苦手なの」 「知ってるよ。和製英語を知ってるのも、カタカナだからだろ?」 「……なんだか、腹立たしいわね」  ぐっと堪えて、不満を零すのみ。  それは、受け入れた証だろう。 「何よこれ、本当にアルファベット? ミミズじゃないの」  教科書に記載された俺の文字を見て、夜子が毒突く。 「……いや、これは筆記体っていうんだよ。崩した文字の書き方だ。慣れるとこう書くんだよ」 「字が汚いだけで偉そうにしないでほしいわね。言い訳は見苦しいわよ?」 「お前もう黙ってろ」 「くっ! ムカつくわね……!」  本当に勉強できない……というか、何も知らないんだなあ。  その様子が、少し微笑ましくて。 「これ、なんて読むの?」  ある単語を指差す夜子。 「なんて読むと思う?」  示された単語は、『infamous』 「いなふぁーもうす?」 「……くくっ」  思わず吹き出す俺。 「き、キミっ、失敗を笑うなっ!」  そして怒る夜子。  「じゃ、じゃあ、これは?」  思いついた単語を、書き記してみる。  『psychological』 「ぷしぃーくほーろぎかーる?」 「ははははははははははははは!!」  爆笑した。  おもいっきり爆笑した。 「ほんっとうに英語が苦手なんだな! すげえ、感動的だ!」 「キミ、明らかに楽しんでいるわね!? あたしに勉強させる気なんてないんでしょう!?」  隣り合って、大喧嘩。  下らない英語をめぐって、俺と夜子は今日も仲が悪い。  思いっきり注目を浴びてしまっているけれど、今日ばかりは許して欲しい。 「なんですか、瑠璃さんは」  その後方、日向かなたは呆れ果てる。 「イチャイチャし過ぎです。誰にでも手を出す見境のなさは、程々にして欲しいものですね」  キスしたことを、根に持たれているのだろう。  あるいは、部室から追い出したことを。 「あーあ、暑いですねえ。教室内の温度が不適合に暑いです。誰か冷やかしてくれませんかー?」  しかし、そんな教室内で。  初めて、夜子は学園というものを知ったのではないかと、俺は思った。  授業中、下らないお喋りに興じることも、また学園生活だと思うから。 「何をニヤニヤしているんですか、この変質者は」  同級生から不当な扱いを受けるのも、良い経験なのかな? 「うふふふふふふ」  帰り道、やはり夜子と肩を並べる傍らで。 「ぬふふふふふふふふふ」  気味の悪い笑い声を上げながら、自称天使がにやにやしていた。 「やー、理央が何も言わなくっても、お二人は既に恋人同士のようですな! 気心の知れた幼馴染、みたいな?」  今日一日を観察していた自称天使は、嬉しそうに語る。 「これも愛のキューピットの力だね。運命がぐいぐい引き寄せちゃってるよ! すっごーい」 「今日一日、あたしは怒ってばっかりだったような気がするわ……」  対する夜子は、頭を抱えながら。 「キミといると、どうしてこうも疲れるのかしら」 「嘘つけ、お前も珍しく饒舌だったじゃねえか」  被害者面してんじゃねえぞ。  教室内で、休み時間も授業中も、俺と喋り倒していただろうに。 「それが役割なのだから、当然よ。その上で、疲れたと言ってるの」  やや、顎を引いて。 「こんな機会でもなければ、キミと顔を向き合わせたりはしないわよ」 「そうだな、こんな機会でもなければ、お前は学園にすら来ないもんな」  当たり前の現実を、確認しあう。 「……今日は、あまり学園に来たという気はしないけれどね」  控えめに口を開いて。 「ずっとキミが隣にいたから、学園に来た気がしなかった。あの五月蝿い図書館の広間にいるような気さえした」 「悪くなかったか?」 「まさか。あたしが望むのは、静寂な空間よ。書斎こそが、あたしの居場所」 「ダメダメー、一人はさみしいよー。瑠璃くんといっしょにいよ?」  空気を読まず、自称天使が発言する。 「理央、嬉しかったよ。この前と違って、夜ちゃんは沢山笑ってくれた。あの教室で、理央たちと同じ制服を着て、笑ってくれていた」  満面のほほ笑みで、理央は言う。 「理央は駄目な子だから、いつも失敗ばかりで、みんなに迷惑をかけちゃうの。でも、ようやく願いが叶って嬉しいなー」 「……理央」  その言葉は。  その想いは。  まるで、理央本人のもののように見えてしまう。  「これが、理央が本を開いた理由、か」  開いたものにも理由がある、というヒスイのときに受けていた説明。  それを今回のケースに当てはめるなら、理央が望んだのはラブコメのような日常ということだろう。  当たり前のように、ヒロインが幸せになる世界。  伏見理央は、遊行寺夜子に当たり前の学園生活を送って欲しかったのだろう。 「同じ制服で、同じ通学路を歩けて、同じ笑顔を咲かせて、理央は幸せものですな」 「…………」  不満は、あるだろう。  今だってルビーの影響下にある中で、嫌いな人間相手にラブコメを演じさせられるという屈辱。  だが、それを望んだのもまた、理央だから。 「分かってるわよ」  諦観した表情で、夜子は呟く。 「キミと時間を共有するのは我慢ならないけれど、理央の楽しがる様子が見れるなら、少しはマシというものでしょう」 「相殺はされないか?」 「理央の愛嬌で誤魔化されないほど、あたしはキミが嫌いなの」 「……それは残念だな」  もちろん、知ってたけど。 「ええ、そうよ」  夕日を背に、夜子は呟く。 「キミは大人しく、物語に騙されていなさい」  そう言って、少し嬉しそうにはにかんだ。 「それで? 天使様はこれからあたしたちに何を望むのかしら」 「ほえ?」  少し機嫌がいいように見えた。  外に出て、太陽の日差しを浴びながら、それでも微笑む夜子を見れて、それだけで今日は満足だ。 「あなたは、あたしと瑠璃を恋人同士にさせたいのでしょう? そのために、あなたは何を望むの?」 「えーっと、その」  テンパりながら、自称天使は答えを探す。 「ちゅ、ちゅー?」 「キスをすればいいの?」 「ちゅ、ちゅー……」 「ネズミかよ」  困惑する理央を見て、思わず苦笑。 「……まあいいわ。物語がそれを望むなら、あたしは従うまで」  と、潔い言葉と共に。 「ん」  夜子は、背伸びをして差し出した。  差し出した。  差し出した。  唇を。 「え」  何、この流れ?  こんなに軽々しくしていいのか?  いや、そういう問題ではなく――! 「……何をしているの? こういうのは男性の方からするのがマナーじゃないのかしら」 「いや、お前、キスだぞ? 分かってるのか?」  手を繋ぐのとは、わけが違う。 「キミこそ、あたしの言葉を忘れたのかしら」  淡々と、説明する。 「これはただの演出。込められる意味なんて、どこにもないの。この行為に、意味なんてないわ」 「いや、確かに昨日はそう言ってたが」  しかし、いざその機会になると、普通は尻込みするもんだろ?  何を平然と進めようとしている。  それでも、年頃の女の子か? 「面倒臭いわね。さっさとしなさいよ。天使様が、待ちわびているわよ?」  夜子の言葉に、顔を横向けると。 「ふ、ふぇっ……!」  理央が、顔を真赤にさせながら俺たちを凝視していた。  なんて初な天使だろう……。 「しかし、お前の原理で言うと、お前は俺に何されても平気だっていうのか?」  それが、物語が求めるあらすじなら。  全て、受け入れてしまえるのか? 「くどい。当たり前よ」 「じゃあ、胸を触ってもいいか?」 「…………このっ」  めっちゃ睨まれた。 「お前の身体を、まさぐってもいいのか。それも、肌と肌の触れ合いだろ」 「……キミっ!」  少し、動揺した。  心に波が生まれた。  良かった――夜子にも、恥じらうという感情があったのか。  「こんなときに、どうしてそういう破廉恥な妄想ができるのかしら」 「こんなときだから、そういう下らないことを言いたくなるんだよ」  お前が、あまりに無防備だから。  そうやって、唇を差し出してしまうから。 「俺はそういう行為は、意味を込めて行うもんだと思うぞ。意味もなくやっていい行為じゃない」 「少なくとも俺は、節操なしにキスできるほど軽くないんでな」  妃の顔が、脳裏を過る。  そうだ、軽々にしてはいい行為じゃない。 「――俺からしてみれば、お前はただの物語の奴隷にしか見えないよ」 「それで? キミはヒスイの物語で、最後に何をしたんだっけ?」  見下すように、夜子は言う。 「結局のところ、キミだってキスしたじゃないの。ええ、あれはヒスイがそうさせた、というのは理解しているわ」  魔法の本は、登場人物の行動を方向づけるから。 「本の意志に逆らえないのだから、迷うことすら、恥じることすら無駄なのよ」  諦観。  受動体。  夜子は、全てを委ねてしまっているのだろう。  それが正しいとは、少しも思わなかったし、少しも理解出来なかったが。 「分かった」  その意志が、頑なであるのなら。 「じゃ、キスしようか。お前の言うところの、物語が望むなら」 「……ええ、好きにしなさいよ」  そして、夜子はもう一度唇を差し出した。  顎を上げて、無防備を晒す。 「だけど俺からは、絶対にしない」 「えっ」  強い口調で、いってやった。 「お前が望むなら、お前からしろ。俺は別に、お前とキスをしたいと思わないから」 「は、はあっ?」  驚き呆れる夜子。 「な、何を言ってるのかしら。理央が――天使様が、そうしろと命じたのよ。登場人物なら、それに従いなさいよ!」 「従うだけが、物語じゃねえだろ。逆らうこともまた、物語だ」 「それにお前の言う通りなら、俺が拒絶しても結局はそうなるんだろ? だったら俺は、それを待つよ」  何も自分から、望まない方向へ進む必要はないはずだ。 「それとも何か? お前はそうまでして俺とキスをしたいのか?」 「――っ!」  あ、ヤバイ。  と、思うが遅く、頬に痛み。  強烈な平手打ちが、風を切り裂いた。 「したいわけないでしょう! 勘違いしないでっ!」  大きな声で、夜子は否定した。  当たり前のことを、当たり前ではないかのように、声高に叫ぶ。 「ちょっと仲良くしてたからって、誤解するんじゃないわよ。こんなの、あたしの意志じゃない!」 「ああ、知ってるよ」  その言葉が、本心であることも。 「キス? 冗談じゃないわよ。あたし、したことないのよ? どうしてキミみたいな木偶の坊に、初めてをあげなくちゃいけないのよ!」 「ああ、知ってるよ」  初めてであることも含めて、全部知ってる。 「知ってるから、心配だったんだよ。無理して、今日一日を過ごしたんじゃないかって」 「……え?」  唇を差し出したときに、強烈に襲った不安。 「お前は本当に俺のことが嫌いだからなあ。上辺は楽しそうに見えてたけど、それが逆に負担になってるんじゃないかって思ってさ」  作り笑いは、疲れるんだ。  無理して上辺を取り繕っても、心へのダメージは防げない。 「したくないことを、させられる。それって、結構辛いよな」  仲良くお喋りに興じられたと思ったよ。  今日、夜子と学園に通えて楽しかったとさえ思う。  さっきまで、ある程度楽しんでくれていたと思ったけれど――唐突に、不安になってしまったんだ。 「……何を、今更」  対する夜子は、控えめに。 「キミと一緒にいることは、苦痛よ。でも、本の意志に従うことは歓迎」  その両者が、相反していることが、問題だ。 「……それで、問題ないわよ。嫌いながら、好きな振りをする。別に、負担でも何でもない」 「それなら、いいんだけどな」  命令で、夜子を通わせてしまった時のことを思い出す。  あのときは、一瞬で限界を迎えてしまったから、今回もそうなってしまうのではないかと危惧してて。 「でも、キミの言いたいことも、少しだけ理解したわ」  珍しく、優しい言葉を口にする。 「……キスは、しない。あたしからは、しない」 「なんだそれ。俺からならするかもってことか?」  それこそ、さっき否定しただろうが。 「というより、あたしからは出来そうにもないわ。たぶん、恥ずかしくて……死んでしまいそうだから」  無表情を取り繕おうとして、恥じらいが漏れだすその言葉。 「き、キスなんて……あんなの、自分からできるわけないじゃないの」 「……おお、なんか引き篭もり少女っぽいことを」 「五月蝿い! しょうがないでしょう、初めてなんだから!」  怒りの矛先を向けて、恥じらいを誤魔化そうとする。 「第一、キミだって初めてみたいなものでしょう? 日向かなたが初めてだったくせに!」 「いや、そういうわけじゃ――」  と、否定しようとして。  失言を、してしまっていた。 「……初めてじゃなかったの?」 「あ、や、待て」  この日一番、夜子は驚いた表情を見せる。 「初めてだよ。ザ・ファースト。問題なく初めてに決まってるだろ」 「でも、今、違うって」 「げ、厳密に言えば、ってこともあるだろ? ガキの頃のキスをカウントしてたら、キリがないっていうか……」  まさか、妃と済ませてしまったなんて、口が裂けても言えない。 「……絶対、何かを誤魔化したわ」 「そんなわけねえだろ」 「怪しいわね」  しかし、夜子がその発想に至ることはなく。 「ありゃ? ちゅーしませぬ?」  すっかり放置していた自称天使が、残念そうに首を傾げる。 「しませぬ」  夜子が、理央の口調を真似て答えた。 「ぎゃあー残念ですねー。もうちょっとで落ちそうだったのに」 「何がだよ」 「オチ?」 「てねえな」 「じゃ、代わりにワタシとちゅーしますかぁ?」 「……夜子、ご指名だぞ?」 「残念だけれど、あたしにその趣味はないわ」 「そっかー、趣味じゃないならしょうがないねー」  そうして夜子の二回目の学園生活は、初めて無事に終わることが出来たのである。  図書館へ帰るなり、夜子は書斎へ戻ってしまった。  今日一日俺と一緒にいて、疲れたのだろうか。 「おい、弟」 「…………」  吐き気を催すような二人称が聞こえたが、気のせいか? 「無視するなよ、弟」 「…………」  聞き間違いでなければ、弟と呼ばれたような気がするんだが。 「え? 今から俺は汀を殴ればいいのか?」 「おいおい、ちょっとした冗談じゃねーか。真に受けんじゃねーよ」  というか、今朝の暴走はどうした。  諦めたのか? 「あれから理央に説明してもらって、お袋に説明されて、ようやく状況が飲み込めたぜ」  話しておけよ、と。  そういう意味合いが込められていた。 「……演技だろうが物語だろうが、汀にだけは知られたくないって思ったんだよ」  シスコンの兄貴の前で、嘘でもその妹を奪うなんて。 「ああ? 俺が怒るからってか? 冗談キツイぜ、夜子は俺のもんじゃねーだろ」 「今朝怒り散らしてたのはどこの誰だっけ?」 「はっはー、ま、細かいことは気にすんなよ。俺は、お前と夜子を応援してんだからよ」 「応援も何も、物語に添って関係を続けてるだけだけどな。どうせ、近いうちに終わる」 「どうだろうな。今、お前と夜子が仲良く出来ている。その事実が、そのままお前たちの将来を描いていると思うがな」 「……これは、本の影響による仮初だぞ? 夜子がデレてるのも、今だけだって」  正確には、デレた振りをしているだけ。  今のところは、少しも心は動かされていないようだ。  もっとも、それは俺にしたって同じことだけど。 「ヒスイの時とは違って、結構のんびりしてんだよな。あんまり実感がない」 「ま、最初はぷっつんきちまったけど、こう見えて俺は、お前と夜子を応援してんだぜ?」  訳の分からない許容を見せてくれる。 「俺はシスコンだし、夜子のことが大好きだが」  格好良く、笑っていった。 「――結局、兄貴は妹とは結ばれねえんだよなぁ」 「……そうだな」  無自覚に、無残な言葉だった。  汀でさえ、それを自覚しているというのに、俺は。 「というわけで、ほらよ」  無造作に取り出した何かを、俺に握らせた。 「どうせお前、持ってねえだろ? いざって時のために備えとけ。こういうのは、男が持っとくもんだからな」 「……おい」  汀が、俺に手渡したもの。  それは、コンドームだった。 「お前は! 俺に! 何を期待していたんだ!」 「あっはっは、いいじゃねえか、遅かれ早かれそうなるだろ? 若いんだから、しょうがねえって」 「だからこれは本が開いている間だけで――!」 「何を騒いでいるのですか」 「げ」  最悪のタイミングで、妃が顔を出してくる。 「よう、妃。相変わらず無愛想な面してんな」  咄嗟に、渡されたソレを後ろへ隠す。  こんなものを見つかってしまったら、何を言われるかわかったものではない。 「……ああ、汀もいたんですね。どうりで五月蝿いこと」  呆れるように、溜息をつく。 「全く、夜子さんといい汀といい、自由奔放すぎるのも考えものですね……」  と、いいつつも、妃は俺から視線を外さない。 「で、瑠璃。何を隠しているのです。ほら、右手。今、後ろに隠しました」  目敏く指摘されてしまう。  「何でもない。ただの預かり物だ」  誤魔化そうとする俺を見て、躊躇なく妃は迫ってくる。 「どれどれ」  細身の体を素早く動かして、俺に抱きつくように手を伸ばす。  不用意に肌と肌が触れ合って、胸が高鳴った。 「発見」  右手に握られたソレを。  力強く握りしめていたソレを。 「瑠璃、観念して見せなさい。悪いようにはしませんから」 「……勘弁してくれよ」  そうやって、迫られてしまったら。  お前に、密着されてしまったら。  力なんて、入るわけ無いだろ? 「はい、お利口さんですね」  脱力する俺から、ソレを奪い取って、嬉しそうに笑う。  子供のような無邪気さが、今は恐ろしかった。 「あら、これは」  細くしなやかな指が、ソレの正体を解き明かしてしまって。 「コンドーム?」 「…………」  躊躇なく、ソレの名前を口にした。 「こんなものを持って、誰に何をしようとしていたのでしょうか。なるほど、大変興味深いですね」  涼やかな表情だった。  声色も、楽しげで愉快そう。  でも、俺にとっては、恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。 「最近、夜子と関係が進んでるって言うから、俺がくれてやったんだよ。んなもん隠すようなもんでもねーだろ」 「…………」  隠したくなるような関係なんだよ。 察しろ。 いや、察せられたら不味いけど。 「夜子さんと……瑠璃が?」  ぴくり、と反応して。 「それは聞き逃せないですね。どうしたらこれが必要になる関係に発展するのでしょうか」  じろり、と俺を見下す。 「この、愚兄が」  心底、呆れるように。 「あの、夜子さんと」 「……い、いや」  怒ってる。  超怒ってる。  まるで、浮気現場に遭遇した妻のようだ。 「夜子も、女だったってことだろ。むしろ、健全でいいじゃねえか」 「お前こそ、女っ気あるところを少しは見せてみろよ。どうせ、誰とも付き合ったことねーんだろ?」 「余計なお世話ですよ。汀に心配されるようなことではありません」 「こんなものを妹の前で受け渡しをする男には、何も心配して欲しくはないです」 「げ」  そういって、手にしていたコンドームを掲げ。 「というわけで、これは処分です」  持っていたボールペンを突き刺して、袋の上から貫いてしまった。 「あー、おい、何すんだよ」  折角くれてやったのに、と的はずれな嘆きをする。 「ま、俺には必要ないかな」  せめてもの強がりを言っておく。  自分の意志でもらったんじゃないよ、というアピール。 「おいおい、いざというときはどうすんだよ」 「そんなの、決まっています」   やや微笑みながら、妃は言う。 「中に出してしまえばいい」  魅惑的な声色に、挑発的な眼差しに、一瞬、平衡感覚を奪われて。  ああ、絶対に妃には敵わないと、思い知らされてしまった。 「……それは駄目だろ」  なんとか平静を装いながら、言ってみせる。  この場に汀がいなかったら、押し倒してしまうくらいにやばかった。  妃の一挙一動に、どぎまぎさせられてしまう。 「女を抱くというのなら、それくらいの覚悟を持って臨んで欲しいですね」  それじゃ、と。  妃は二階へ向かう。 「夜子さんと、末永くお幸せに」 「…………」  去り際に残した言葉。  その意味を、額面通りに受け取るのは鈍感過ぎる。  目を閉じて、想像する。  妃が、代わりに言いたかった言葉。 「――私と、末永く不幸になりなさい」  こんな、ところか。  背徳に身を委ねながら、どこまでも落ちていく兄妹には相応しい末路だろう。  間違いだらけのこの世界は、酷く、住み辛い。  神様が勝手に決めたルールが、あまりにも忌々しい。 「夜子に必要なことって、何だと思う?」  夕食後の広間で、闇子さんが話しかけてくる。 「私は夜子のためならなんだってしてきたけれど、それが本当に夜子のためになっているのか、不安で不安で仕方がなかったわ」 「何が正解かなんてわかれば、誰も苦労しませんよ」  灯りを落とした広間で、母親の心境を知る。 「瑠璃くんが、夜子を連れだしてくれたときに、あの子にもまだ普通の幸せがあるのかなって、思ったの」 「そりゃ、そうでしょう。引き篭もり程度で諦めるほど、日常は柔くないですから」 「残念ながら、すぐに音を上げてしまったけれど……それでも、あの子にとっていい経験になったと思うわ」  外の世界を知るということ。  日常を知るということ。  図書館の外に広がる現実を、その目で見て、聞いて、感じて。 「そう考えて見れば、ルビーが開いたタイミングは、狙いすましたかのようですね」  音を上げた夜子を呼び戻すように、本は意志を示した。 「そうね。理央ちゃんは、夜子に何を求めていたのかしら」 「…………」  ルビーを開いたのは、理央。  それが今のところの共通認識。 「今回のお話は、何の山場もない平坦な物語なんですよね」  ヒスイの例をあげるまでもなく。 「驚きの事実が待ち受けているわけもなく」 「突然の急展開もなく」 「陳腐でありきたりなエンディングが待ち受けている」 「勿論、その通りよ。平凡すぎて、平坦すぎて、ネタバレしようもないくらいなの」 「日常系のゆるふわ四コマ漫画みたいなものですかね」  内容なんて、あってないようなもの。  楽しむべきは、その空気。 「瑠璃くんは、何か気になることがあるのかしら」  柔和な笑顔が、質問する。  「意味がある、と考えるなら」  それは、夜子の目の前では見せなかった考え。 「今回に限っては、本の語る内容に意味があるのではなく、その周囲に意図があるのだと思っています」  意味ではなく、意図。  周囲の人間の考え。 「本を開いてしまった理央もしかり――本の内容を唯一知っていた闇子さんもしかり。何かを求めて、何かの意図があって開いている」  こんなの、ただの妄想ですけどね、と笑ってみせた。 「瑠璃くんは、これで夜子の何かが変わると思う? 何かの意図があったのだとしたら、その結果、夜子は変わると思うかしら?」 「変わりませんよ」  即答した。 「夜子は、変わりません。変わったように見えても――本質的なものは変わらないでしょうね」  どのくらい、日常を知っても。  結局、あいつの居場所はこの図書館にしかないのだろうから。  今は新鮮に見える学園も、やがては色褪せるだろう。 「でも、この物語を通して少しでも夜子が笑ってくれるなら、意味はなくとも、意図はなくとも、意義はあったのだと思います」  それこそが、開いた者の願いだったのではないだろうか。  物語を通して、外の世界を見ること。  引き篭もりがちな夜子には、何も彼もが眩しすぎたのだろう。 「瑠璃くんも、妃ちゃんのお兄さんなのね。よく似ているわ――少し、察しが良すぎるくらいに」 「そりゃどうも」  全く嬉しくないが。 「瑠璃くんは――」  少し、間をおいて。 「――夜子のこと、好き?」  それは、試すような物言いだった。 「夜子を一人の女の子として、愛してる?」  実の母が、娘の幼馴染に尋ねるにしては、やや過激な内容。  それはきっと、闇子さんからの問いかけでもあった。  俺の真意を図ろうとしている。  だから、答えた。 「――いえ、好きじゃありません。一人の女の子として、愛していませんよ」  ルビーの影響を、否定した。 「そう、酷いのね」  その言葉に、闇子さんは悲しそうに笑った。 「それでも、友達として愛してくれる?」 「それはもう、喜んで」  この瞬間、確信した。  『ルビーの合縁奇縁』は、まもなく閉じる。  印紙の肌触りを楽しみながら、活字の世界に浸る。  今だけは、この時間だけは、ルビーさえも犯すことの出来ない神聖な時間。  現実に開く物語も好きだけれど、こうして紙の上の物語を読むのも大好きだった。  しかし、落ち着かないのは何故だろう。  いつもと変わらない静寂に、違和感を覚えてしまっている。  ルビーは、邪魔をしていない。  原因は、あたし? 「……やっぱり疲れているのかしら」  今日一日、あの男の近くにいたから。  強がってはみたものの、やはり心は荒れていた。  随分と、長い一日だったように思う。  朝目覚めてから、こうして本をとるまで、通常では考えられない時間を過ごしていた。  疲れに疲れ、参りに参ったと心底思うけれど、どうしてだろう、最初の時とは違った感想を抱いている。 「前は、あんなに辛かったのに」  あいつに命令されて、同じく強要された学園生活。  あのときは、一日目が終わった段階で、もう限界だった。 「……満更でもなかったようですね」  あたしの心を見透かすように、妃は声をかける。 「な、何が? というより、いつの間に……」  幽霊のように突然に現れて、驚かせてくれる。  全く、心臓に悪い。 「ノックをしました。声もかけました。それでも気付かなかった夜子さんが悪いのです」 「……え、ええ?」 「毎度の事ではありませんか。あなたはいつも、読書に夢中で視野が狭まってしまう」  少し、意地悪に笑って。 「もっとも、今回に限っては心ここにあらずといったところでしょうか」 「何のこと」  むすっとしたあたしは、やや子供っぽい反応を返してしまう。 「いえ、今日は一日、大変だったでしょうから。瑠璃と一緒に過ごすなんて、ストレス溜まりっぱなしの一日だったのでは?」 「そうね」  本を閉じて、妃との会話を優先する。  あたしにとって、数少ない読書と同じくらいに大切な時間。 「あの木偶の坊は、好き放題してくれたわ。口を閉じれば少しはマシなのに、どうしてぴーちくぱーちく囀るのかしら」  妃との談笑は、大好物である。 「大体、どうしてあたしがあいつと学園に通わなきゃいけないのよ。どうせなら、他の娘を相手にしてくれたら良かったのに」 「瑠璃が、夜子さんを相手に選んだのですか?」 「そうよ。といっても、あの馬鹿は行動の意味を深くは捉えていなかったようだけど。理解してあたしを選んだなら、殺してやる」  不満が口から溢れれば、止まらなくなる。 「教室でも気安く話しかけてきて、あたしのことを友達とでも勘違いしてるんじゃないのかしら」 「瑠璃は閉塞的な性格をしていますが、一度見初めた相手にはとことん馴れ馴れしいですからね」 「気持ち悪いわ」 「そうですね、とても気持ち悪いです」  でも、と。 「それが魔法の本の仕業であるなら、夜子さんは瑠璃と仲良くすることも厭わないんですね」  微笑みながら、妃は言う。 「瑠璃の命令では受け入れがたかった登校も、ルビーの意志であるなら頑張れてしまう」 「当然よ」  そこに疑問を挟む余地はない。 「そうして、いつの間にか楽しさを覚え始めている」  妃は、予想外の言葉を口にした。 「満更でもなかったのではないですか。瑠璃に不満はあっても、そう悪い時間を過ごしたわけではないのでしょう」 「そんなわけ、ない」 「疲れた。参った。けれど、辛かったわけではないのでしょう?」 「妃まで、変なことを言わないで欲しいわ」  視線を落として、ぶっきらぼうに言う。 「心ここにあらずという言葉の意味は、そういうことですよ」  けれど、あたしが何を言おうとも、妃は自分の言葉を揺るがさない。 「……仮に、楽しかったとしても。あたしが、そう思ったとしても」  だから、話を終わらせるために結論を告げる。 「全ては、ルビーの筋書き通りよ。楽しいという気持ちさえ、魔法の本がもたらした幻想」  あたしの意志に関わらず。  登場人物として、やがては恋仲へまで発展する。  それが、今開いている『ルビーの合縁奇縁』という物語だ。 「ええ、そうですね。それで問題ありません」  結論を受けた妃は、大きく頷いて。 「だから、夜子さんが瑠璃との学園生活を楽しむことは、何の問題もないのですよ」  極めて普通なことだと、妃は言う。 「錯覚でも演技でも、楽しいと思うことは、当たり前のことなのですから」 「……妃が何を言いたいのか、あたしには理解できない」  何を求めているか、理解できない。 「開き直ってみたほうが、物語の進みも早くなるかもしれませんよ?」 「だから……もういいわ」  少し拗ねたように、視線を外す。 「どうして妃と、あの不愉快な男の話をしなくちゃいけないの。もっと楽しい話がしたいわ」 「妃は、瑠璃のことが嫌いだったんじゃないのかしら?」 「嫌いですよ。不幸になって欲しいくらいに、嫌いです」  でも、と。 「1つだけ瑠璃のことを手放しに褒められるところがあります。丁度良いので、教えてさしあげましょう」 「……興味ないんだけれど」  それでも妃は、あたしを無視して語った。 「口を閉じて、瞳を閉じて。寝ているところの瑠璃は、人畜無害で可愛らしいのです」 「どうでもいいわよ、そんなこと」 「つまりは人格さえ否定すれば、瑠璃は良き友人になりえるということですね」 「……さらりと、あなたが一番酷いわね」  瑠璃の寝顔に興味はないけれど、その言葉は愉快だった。 「悪くはない、のかしら」  聞き慣れない優しい囁き。 「……人格は否定するけれどね」  それは、夜子の声だった。 「起きなさい、朝よ。昨日に続いて、どうしてこうも寝起きが悪いの」  夜子の小さな手で、体を揺すられる。  繊細な手つきに、優しさを感じた。  いつもの乱暴さは、欠片もない。 「……あ?」  デジャヴ、ではなく。  夜子が、昨日に続いて起こしに来てくれたようだ。 「……夜子が、どうしてここに……何を、して」 「キミを起こしているの」 「いや……分かってるけど」  寝ぼけ眼をこすりながら、奇妙な違和感を覚える。  何だか、一挙一動が夜子らしくなくて、意外だった。 「今日は、踏まないのか?」 「……何よ、踏んで欲しかったの?」  戸惑うような声で、夜子は尋ねる。 「いや、そういうわけじゃないが」  決してそういうわけではないが。  何だか、肩透かしを食らってしまった気分である。 「変な願望をしないでくれる? そんなに踏まれたかったら、理央にでも要求しなさい。気持ち悪いわ」 「……昨日はお前から踏んできたんだけどな」  優しい目覚まし時計。  乱暴なめざまし時計。  どっちも、悪くはない。 「でも、サンキュー。助かった。昨日も起こしてもらったのに、今日はもっと寝過ぎたらしい」  急がなければ、遅刻しそうな時間。  「また、あの自称天使に言われたんだろ? 面倒なことを任せて、悪いな」  夜子のことだから、本の意思ならと気にしていないだろうが。 「あっ、えっ?」  しかし、意表を突かれたのか、驚き慌てる。 「いや、理央に言われたからだろ? お前が俺の部屋に来るなんて、それくらいしか考えられねえし」 「違う、今日は、天使様に何も言われていない」 「……そうなのか? 珍しいこともあるもんだな」 「言われる前に、来た。そろそろ理央が求めるパターンも読めてきたから」 「はは、お前らしいな」  やや恥ずかしげに、視線をそらす。 「って、急がなきゃヤバイか。朝食を取ってる時間はなさそうだな」  折角起こしてくれたのに、遅刻する訳にはいかない。  だから、慌てて着替えを始めるが。 「ちょっと! あたしの目の前で着替えないでよ。キミの裸なんて、興味ないわ」  やや震えた声色で、指摘される。 「あん? ここは俺の部屋なんだから、他にどこで着替えるんだよ。お前が見なけりゃいい話だろ」 「そ、そうだけど……」 「その反応、なんか年頃の女の子みたいだな」  異性の上半身に、興奮してるのか?  その割には冷静ではあるが、動揺はしているらしい。 「うるさいわね……見慣れていないんだから、しょうがないでしょう」 「お前が見慣れてるのは、肌色じゃなくて、紙の色だもんな」 「と、とにかく! 後ろを向いているから、早く着替えて」 「お、おう……?」  後ろを、向いているから?  夜子らしくもない言葉だな。 「なんか今日のお前、おかしくないか?」 「……変わらないわよ。別に、何も変わらない」  夜子の後ろ姿を見つめながら、着替える。  制服。  制服姿。  今日もまた、学園へ通う気らしい。 「ただ、少しだけ――前向きになっただけよ」 「……そうか」  どういう意識改革をしたのかは分からないが、それでも、そのほうが良いと思った。  着替えを手早く済ませ、鞄を手に取る。  寝ぐせを直している時間は、なさそうだ。 「ところで、部屋の中で待ってもらわなくても、良かったんだぞ? 見たくなけりゃ、外で待ってれば……」 「……あ」  すべてを終わらせた後、指摘してみたら。 「そ、そういうことは早く言いなさいよ! 無駄に恥ずかしかったじゃないの!」 「お前、何も考えてなかったんだな……」 「うるさいわね。遅刻するから、早く行くわよ!」  もはや、当たり前のように俺を促す夜子。  一緒に通うことが、二日目にして当たり前になっている。  これも、前向きになった証なのだろうか。 「そういえば、教科書はちゃんと用意したのか?」 「どうでもいいわよそんなこと」  急かすように、夜子は言う。 「用意していなくても、キミが見せてくれたらそれで十分よ」 「……ま、それもそうか」  それに、これ以上のんびりしていると本当に遅刻してしまいそうだ。  走って学園に向かうのは、御免被りたいところだし。 「じゃ、行くか」  少しずつ変化を見せる夜子とともに、ストーリーラインを歩こう。 「そろそろワタシ、いらない子?」  夜子と肩を並べて歩く、通学路。  その前方で、自称天使がふわふわと笑っていた。 「ワタシが何をしなくても、お二人さんは幸せそうです。楽しそうなのです。お役御免?」 「そう見えるのは……喜ばしい……ことなのかしら」  不満そうに漏らすが、しかし、満更ではなさそうだった。  天使の言葉は、まさにシナリオが進んでいるという証だから。 「なんかねー、そもそもワタシ、いらなかったんじゃないかなーってくらい順調で、もー悔しいよー」 「夜ちゃんもツンツンしなくなってるしー、ワタシを放置して仲良くなっちゃうしー。お仕事完了目前だね」 「……ぶっちゃけ、元々何もしてないけどな」  精々、夜子や俺に何かを要求するくらいで、あとは見守っているだけ。  天使というには、あまりにもそれっぽさが欠けている。 「それじゃ、いよいよ最後の仕上げですかな」  改まったように、天使様は言う。 「……仕上げ?」  夜子は、ぴくりと反応する。 「好感度もばっちりぐんぐん上昇中だし、そろそろ告白イベントだね。頃合いだよ!」 「ふぅん、終わり方はそれ? ありきたりなのね」 「そ、そんなことないよ! ぜんぜん、もう、ばっちりどきどきだよ!」 「告白したら、それで終わるのかしら」 「素敵な告白をして、幸せなカップルが誕生したら、ワタシはさよならです」  それが、結末。  『ルビーの合縁奇縁』の、平和なエンディングだ。 「なんとも普通な終わり方ね。それなら……今日中にでも終われそう」 「それくらい、お二人がらぶらぶだったってことですな」 「……そういうことに、しておくわ」  もはや、役割に染まっている理央に、無駄な言葉は使わない。 「告白、告白、愛の、告白」  確かめるように、夜子は繰り返した。 「あたしはまだ、終わりに向かっているなんて、思いもしていなかったのに……」  俯きながら、言葉を漏らす。 「それでも、今が終われるなら、それでいいのかしら」 「……ま、内面はともかくとして、表面上は仲良くやれてるんじゃないか。お前も、少しは丸くなっただろ」 「そういうあたしを求められていたからよ」  中身は違うと、あくまで夜子は否定する。 「この本が閉じたら、あたしに近付かないでよ。キミとはもう、一生分の会話を済ませたような気がするわ」 「それが気のせいだと、俺は祈ってるよ」  それでも、なんだろう。  いつもと口調が柔らかいのは、思い込み?  それとも、ルビーの影響? 「ねえ、キミはヒスイの時も登場人物になっていたけれど、どうなのかしら」  夜子は、尋ねる。 「登場人物になるのって、こんなにも実感が無いものなのかしら」 「……さあ、俺も二回目だからな」 「キミとの学園生活が、シナリオによって導かれているという実感なんて、どこにもないのよ」 「そういうもんじゃねえのか。ヒスイの時だって、言われるまでわからなかったし」  自覚さえ許さない本の影響力。 「難しいお話はやめましょうよー」  しかし、自称天使様が口を挟む。 「もっとこう、お花畑みたいなお話をしよっ!」 「例えば、どんなお話?」 「瑠璃くんのどこが好きなのか、とか!」 「却下。空っぽの話題は、続かない」 「えええーっ!? 夜ちゃんは、瑠璃くんのことらぶだよね!?」 「……そんなわけ」  ない、と言おうとして。  どうだろう、それは物語的に許されざる台詞じゃないのだろうか。 「る、瑠璃の好きな部分……」 「いーっぱいあるよねー。たくさんあるよー? 夜ちゃんも、あるでしょー?」  笑顔のまま、語らいを続けようとする天使。  悩みに悩みながら、苦悩の果てに生まれた言葉は。 「ね、寝顔」 「何言ってるんだお前」 「今すぐ殺す!」  反射的に突っ込んだ俺に向けて、鞄を振りかざして圧迫する。 「ねがお? 夜ちゃんは、意外な好みをしているんですにゃー」 「明らかに適当に答えただろ。探せ。俺の良い所をもっと探せ」 「あるわけないでしょ? キミのいいところなんて、他に何があるのよ。言ってご覧なさいよ」 「え、ええ?」  俺が自分で、説明するのか? 「あ、理央も聞きたーい。瑠璃くんの素敵なところ、教えて?」 「……ええ」  ちょっと、無茶ぶりが過ぎるだろ。  しかし、ここで何も出さなければ、負けたような気分になってしまう。 「ほ、本が好きなところとか」 「そんなの、文字が読める人間なら当然よ」 「そんなわけあるか!」  全ての人間を自分目線で語るなよ! 「や、優しいところとか」 「それって、特徴のない人間を無理やり褒める形容詞よね?」 「辛辣過ぎるぞ……」  お前は、俺のことが好きな設定なんだぞ? 忘れるなよ? 「あとは、そうだな」  何も思いつかなくて。  いや、自分の長所を臆面もなく語れるなんて、そうそういないとは思うけど。 「何よ、誇れるところもないなんて、呆れた人間性ね」 「わかった、1つだけあった」  意趣返し、というわけではないけれど。 「やっぱり寝顔かな。少なくとも、女の子が褒めてくれるくらいには、魅力があるらしい」 「なっ!」  その言葉に、その内容に。  夜子は、珍しく顔を真赤にさせた。 「そ、そんなわけないでしょ! キミの寝顔なんて、妃に比べれば石像みたいなものよ!」 「お前が言ったんだろ。ていうか、意味不明だ」  確かに妃の寝顔は魅力的だが、俺だって、あいつの兄貴なんだぜ。 「調子に乗らないで。あたしは決して、キミを褒めたわけじゃないんだから」 「さっきから言ってることが滅茶苦茶だぞ」  褒めたり、否定したり。  いや、今に限ったことではないけれど。 「全部、瑠璃のせいだから」 「……もう、それでいいや」  そういえば、と。  夜子の口から出た、妃という言葉に――俺は、昔のことを思い出していた。 「そういえば、妃も」  いつだったか、忘れたが。 「俺の寝顔、好きだって言ってくれてたな」  珍しく、手放しで褒めてくれた事を思い出して、ふと笑顔が漏れる。  心臓が高鳴るのを自覚しながら、目の前の女の子の存在が霞む。  夜子が学園に通うようになっても、クラスに打ち解けているわけではない。  相も変わらず他人を排斥して、相も変わらず浮きまくっていた。  話しかけられたら、無言で返す。  それでも続けられてしまったら、強烈な言葉で突き放す。 「近寄らないで。話しかけないで。あたしは誰とも関わりたくないの」  だから、反発もあるだろうし、嫌われもするだろう。  結局のところ、遊行寺夜子という人間は、教室で生きるには難しいのだと思い知らされてしまう。  思い知らされたが――しかし、だからといって、許容するわけではないが。  理由や経緯はどうあれ、今、夜子がこの教室にいるという事実が、何より大事だ。 「新入りくんは、お嬢様とどういう関係?」 「どこにでもいる幼馴染だよ」 「ふぅん、ただならない関係なのね」  控えめな好奇心が、俺の元へ寄せられる。  本城岬は、そんな夜子を心配してくれているのだろうか。 「難儀な性格だねー。まるでハリネズミみたい」 「そういってやるなよ。可愛いだろ?」 「うわあ……なにそれ惚気? ツンデレは僕の趣味じゃないよー」  でも、と。  今現在、教室の机で寝息をたてている夜子を見つめながら。 「仲良さそうで、何より。教室で一番必要なのは、勉強よりも友達だからねー」 「向こうは、俺のことを友達とは思ってないけどな」 「え、嘘? 嫌われてるの?」  驚いたように、笑う。 「まっさかー? だって、遊行寺さんがお喋りしてるの、新入りくんだけじゃん。嫌いとか、ないない」 「事情があるんだよ。そういう事情が」  まさか魔法の本についてしゃべるわけにもいかないので、適度に誤魔化す。 「でも、そうか」  しみじみと、岬の言葉を噛みしめる。 「俺と夜子は、仲良く見えるか」 「むしろそれ以上の仲にさえ見えるけど? 一緒に登校してるし、一緒に楽しそうに会話してるし、授業中なんか机ひっつけて賑やかだし」  あれも、これも、と。  指折りに指摘する岬。 「恋人って言われても、おかしくないよ。むしろ目障りなバカップル。あーやだやだ」 「なるほど」  客観的に見てみれば、岬の言う通りか。 「でも、付き合ってるわけじゃねえよ。決して、付き合ってるわけじゃない」 「そうなんだろうね。新入りくんは、そうなんだろうと思ってたよ」 「なんだそれ」 「楽しそうに見えるけど、恋人っていうよりは、親友みたいな感じだったから。一見してらぶらぶだけど、ちょっと違うかなーとも感じたよ」 「……へえ」 「恋心みたいなのが、見えなかったんだよね。ああ、この二人は友達どまりだなって、思っちゃった」 「あ、ごめんね? 遊行寺さんのこと狙ってたなら、残念なこと言っちゃった」 「心配なくても、狙ってないから」 「そうなの? まーどーでもいいけど」  興味なさげに、その話を終わらせてしまう。 「ま、精々攻略頑張って。僕は関係ないから、一人でお楽しみー」  手を振って、席を立つ。  丁度、夜子が居眠りから目覚めそうなタイミングだった。 「ニートお嬢様は、それでも楽しそうだったよ」 「え?」  去り際に、岬が漏らした言葉。 「新入りくんといて、楽しそうだった。何も知らない僕からは、間違いなくそう見えたよ」 「……そうか」  ふわふわの白い髪に、視線を這わせる。  なあ、俺たちはそう見えてたらしいぜ。  本当のところは、どうなんだろうな。 「もちろん、それは新入りくんもだけどね」  そうして、他の女子グループへと飲み込まれていく。  お昼時の休み時間、同級生たちは各々のグループで集まり、お弁当をついばむ。 「誰かと、お話していたの?」 「授業中にいちゃつくなって、注意されてたんだよ」 「……いちゃつく? キミは、あたしが寝ている間に他の女子にちょっかいを出していたのかしら」 「さあ、どうだろうな。俺にも心当たりはない」  眠そうに質問するが、割りとどうでもよさそうだった。 「お前は真面目そうな外見をしている割に、思いっきり不真面目だな」 「何を今更……真面目な女の子は、引き篭もりになんてならないわ」 「もっともだ」  外見詐欺は、今に始まったことではない。 「なあ、今日の昼休みはどうする? 食堂は、さすがに嫌だろ」 「……お昼ごはん?」  まだ意識がはっきりしていないのか、ややのんびりとした返し。 「教室も、嫌なんだろ? ここは青春小説定番の、屋上にでも行くか?」 「絶対に嫌。あたし、高いところ苦手なの」 「……我儘なニートお嬢様め」  それでも、一緒に食べることに反対しないだけ、いつもとは違うのだろう。  「あそこがいい」  せがむように、夜子は言う。 「この間と同じ場所。あそこなら、静かに理央のお弁当を楽しめる」 「…………」  無言で、後ろの彼女をチラ見する。  「……どうしても?」 「どうしてもよ」  本日、汀は登校していない。  理央も、空気を読んでかしらないけれど、俺たちと行動を共にしようとしなかった。  つまり、昼休みは俺と夜子の二人っきり。  他に、場所のあてもなく。 「わかったよ」  もう一度、背後の彼女をチラ見する。  いかにして穏便に部屋を貸してもらうか、そればかりが頭を駆け巡る。 「は?嫌ですよ絶対に嫌ですどうして私が瑠璃さんのために尽力しなければいけないんですかしかも女の子を連れ込む目的で神聖な部室を使用するなんて絶対に無理です不潔です汚れてます!」 「というか気安く話しかけてこないで貰えませんか友達だと思われてしまうと私の人生に傷がついてしまいます夜子さんも可哀想ですねこんな男に騙されてしまって」 「お陰様で興味も関心もなくなりましたよ魔法使いの噂なんて心底どうでもいいですそれくらいに瑠璃さんと関わりを持ちたくないですこのキス魔!」 「どうしてもというなら誠意というものを見せて下さいよ地面に頭を擦りつけてかなたちゃんごめんなさいと腹を切って詫て下さい乙女の唇を奪った罪人は呼吸する権利すらないんですし」 「どうしたんですか早くしないと昼休みが終わってしまいますよ女の子連れ込んで長い長い昼休みをエンジョイするつもりだったんですよねほら早く惨めに嘆願してみなさい!」 「うるせえ、黙ってよこせ」  いろいろ考えて、いろいろ悩んで。  なるべく穏便に借りようと思っていたけれど。 「貸さないと、キスするぞ」  全ての想定がパーになる言葉を、ついつい口にしてしまった。  彼女を前にすると、どうも乱暴になってしまう……。 「ひぃぃっ! すみませんすみません、どうぞご利用下さいッ!」  そういって、部室の鍵を明け渡す彼女。  経緯はともかく、目的は達成した!  というわけで、こうして夜子と理央の弁当を囲むに至ったわけだが。 「キミ、最低ね」  どうやって借りたかの説明を受けた夜子が、ドン引きしていた。 「小説の中で出てくる悪漢に相応しいわ。どうしてキミが主人公なのかしら……」 「知るかよ」  お前のためにしたんだよ、なんて恩着せがましい言葉は口にしないが。  しかし、諸悪によって入手した空間を、夜子は遠慮なしに利用する。  机に弁当を広げ、現在進行形で舌鼓をうっていた。 「それじゃ、今すぐにでも部屋の鍵を返しに行くか?」 「む」  元あるべき形へ、戻そうか? 「……いえ、それは駄目。ここがなくなってしまったら、あたしはどこで理央のお弁当を楽しめばいいのよ」 「普通に教室で食べろ」 「無理よ。あそこは、瞳の数が多すぎる」 「つまり、あたしに不都合がなければそれでいい。もっと言えば、キミに不都合があれば、なおよし」 「清々するくらい酷いのな」 「それにしても、日向かなたはここで何をしていたのかしら」 「お?」 「どうみても部活として成立しているようには見えないわ。確かに、ここは部室なのよね?」  夜子が他人に興味を示すなんて、珍しいこともあるものだ。 「文芸部なのかしら? 本やパソコン、ティーポットに冷蔵庫……随分と勝手に使っているようだけれど」 「さあ……そういえば、部活を立ち上げるとはいってたけど、詳しくは聞いてないな。興味もなかったから」 「ま、あたしとしては静かな場所が手に入って好都合よ。本が終わるまで、ここの鍵は頂いておきましょう」 「俺に責任を押し付けながら、利益だけはしっかり享受するんだな……」 「借りっぱなしは無理だろ。さすがに、部活の邪魔はしたくない」  自分の作る部活について、楽しそうに話していたことを思い出すと、いたたまれない気持ちになる。 「部活なんて、青春の象徴だろ。楽しい学園生活は、守られるべきだ」 「……ふぅん」  納得してはないのだろうが、夜子はそれ以上強く言うことはなく。 「楽しい学園生活、か」  淡々と、夜子は言う。 「キミは、あたしを連れだして、楽しい学園生活を送れているのかしら」 「どういう意味だ?」 「そのままの意味よ。あたしよりも、理央や日向かなたみたいな、普通の女の子と話している方が、良かったんじゃないの」  手にしていた箸を、静かに置いた。 「さあ、今が楽しいかどうかなんて、考えもしなかったからなあ」 「なにそれ。何も考えていないのね」 「じゃあ、夜子は考えているのか?」  逆に聞き返す。 「大嫌いな俺と過ごす学園生活は、楽しいか? それとも、つまらないか?」  その質問に対して、浮かない顔を浮かべる夜子。  それは彼女にとって、複雑な問題だったのか。 「……わからないから、聞いてるのよ」  弱々しい、言葉だった。 「わからなくなったから、キミに聞いてる……」  悩みに染まった表情は、硝子のように繊細で。 「どうなんだろうな」  真剣に、答えなければいけないだろう。  不確かな答えを言うべきではない。 「理央と過ごす学園生活、彼女と過ごした学園生活、岬と過ごす学園生活。どれもこれも魅力あるし、楽しいとは思うけど」  なんだかんだで、愉快な毎日になるだろうけれど。 「夜子と過ごさなければ手に入らない青春も、やっぱりあるんじゃないのかな」  それを、分かりやすく一言で言ってしまえば。 「――お前と過ごせて、とても楽しいよ」  真っ直ぐ、芯のある言葉を打ち返してみた。  きっと、おそらく、絶対に、馬鹿にされると思っていたけれど。 「……そう」  その言葉を、噛みしめるように。 「あたしも……僅かに、楽しい……かも、しれない」  頬を赤く染めながら、少しだけ悔しそうにそう漏らした。 「……たぶん、キミとじゃなかったら、もっと楽しかったんだろうけど」 「ま、それもこれも、魔法の本のおかげだな」  ルビーが開かれているからこそ、嫌いな俺とも日常を楽しめる。  少しだけ、普通の幼馴染のように接することが出来る。  こんな機会は――もう、次にいつ訪れるかわからない。 「ねえ、瑠璃」  小さく、名前を呼ぶ。 「瑠璃は、あたしのこと好き?」 「……は?」 「ルビーの物語は進んでいると思うけれど……あたしとキミは、どうなるのかしら。どういう関係に至るのかしら」 「普通に考えて、恋人なんじゃないのか。これは、ラブコメなんだろ」 「なら、やっぱりあたしはキミの事が好きになって、キミはあたしのことが好きになるのよね」  少し、寂しそうな表情を浮かべる。 「あたしは恋をしたことがないから、その気持ちがどういうものかわからないわ。だから、確証というものがないのだけれど」  夜子は、それを口にした。 「あたしが瑠璃に対して抱いている感情は、ルビーに用意されたものなのかしら。あたしには……そうは、思えない」 「…………」  その言葉は、どうとでも取れる言葉。  解釈の仕方次第で、意味が変わってしまう文面。 「何を、悩んでいるんだ?」 「それがわかれば、苦労しない……」  憂鬱、といった声色。  これもまた、ルビーに翻弄されている結果なのかもしれない。 「楽しいと思えただけ、変化なのかしら。では、その次に――」  あれこれ悩みながら、箸を動かし続ける夜子。  その姿が、まさしく夜子が今を生きている証のように見えてしまって、少し、微笑ましかった。 「難しいわね……これが文章だったら、モノローグを読めれば全てわかるのに」 「無粋なことを言うなよ。だから、現実に開く魔法の本が魅力的なんだろ?」 「それも、そうね」  悩み、苦悩する。  だが、それでも俺は、思考することを放棄していた。  この物語に対しては、求められている役割を果たすと決めたから。  脇役は、物語に従僕する。  主人公が、全てを終わらせるまで。  その後の夜子の様子は、やや違和感のあるものだった。  うつらうつらと居眠りをすることもなく、机をくっつけた俺と雑談を交わすわけでもなく、  ぼんやりと黒板を見つめながら、心ここにあらずといった様子である。  考え事をしているのは、明白だった。  悩んでいるのも、明確だった。  こんな夜子を、未だかつて一度も見たことがなかった。  何かを考えている時も、いつもは無表情のまま、その臭いを感じさせることはない。  人形のように無愛想で、キミには関係ないと無言で訴えているのが今までの夜子だったはず。 「……ん、んんっ」  と、思えば突然顔を赤く染めで、目を伏せたりもする。  昔の自分の黒歴史を思い出して、穴に入りたいとでも言わんばかりだ。  はっきり言えば、そんな夜子の様子は可愛らしく、愛らしい。  年頃の女の子のように悩んでいるさまは、学園という舞台に、制服という衣装に相応しかった。  遊行寺夜子が学園に通い、教室で授業を受け、苦悩する。  それは彼女にとって、本来あり得なかった日常。  そうして、放課後が訪れる。  学園生活は、ここで終了だ。  挙動不審だった夜子も、覚悟を決めたような表情に切り替わっている。  いや――それはさすがに、俺の思い込みか。  凛とした無表情が、今はそう見えるだけかもしれない。 「帰りましょうか」  夜子の方から、俺に言う。  共に帰ることを、確認するかのように口にする。 「少し、寄りたいところがあるの。キミに、付き合って欲しい」  命令でもなく、強制でもなく。 「付き合って、くれる?」  穏やかな微笑を浮かべて、夜子は誘う。   天使さんは、落ちこぼれ天使さん。  けれども頑張り屋さんの天使さん、今日も頑張って恋愛成就、合縁奇縁。  あそこに発見、誰かにゃ?  あ、瑠璃くーん。  想い人へ、弓矢ばきゅーん。  それが理央のお仕事。 二人をくっつけるお仕事なの。  それが『ルビーの合縁奇縁』の要求。  そうして、二人は仲良くなっていきます。  天使さん的には、元々仲良かった二人を、これ以上どうしようもないと思うんだけど。  だから、天使さんはまともな役割がなくて、用なし。  天使さんが何を言わなくても、夜ちゃんと瑠璃くんは楽しそう。  瑠璃くんも、天使さんを放置して、夜ちゃんと仲良し。  存在意義が、失われてる。  天使さんが天使さんらしさを見せたのは、一番最初だけ。  あーあ、ワタシ、何してるんだろう。  放課後、二人で寄り添うように歩く二人を見て、天使さんは複雑怪奇な心境。  怪奇? そりゃ違うかー。  バレてはないけれど、覗き見して何になるのだろう。  もうこれ以上、天使さんは天使さんを続けたくないよ。  二人にごめんなさいをしたくなる。  開いてしまって、ごめんなさい。 天使になって、ごめんなさい。  役立たずになるのなら、理央は最初から役立たずだったら良かったのにね。  一番最初に失敗していれば、良かったのに。  ――だから、理央は『ルビーの合縁奇縁』を、開きたくなかったんだよ。  夜ちゃん、怒るだろうな。  今日は、美味しいご飯を作って、いっぱいごめんなさいをしなきゃだね。  教室での様子から変化が生じている。  あれだけ挙動不審だったのに、今では穏やかな表情を浮かべていた。  夜子の中で、何かの結論が出たのだろうか。  一端の登場人物に徹している俺は、それを指摘すること無く水平線を見つめた。 「太陽が海に飲み込まれていくわ」 「日没だからな。水平線に、日は沈む」  潮風に吹かれながら、俺たちは静かに佇んでいた。  夜子に誘われて、この防波堤へ。 「サイコロジカル」 「は?」 「『psycolosical』よ。どうしてあれが、そう読めてしまうのか、あたしは未だに納得していない」  拗ねたような口振りで、夜子は言う。 「どうしてそんなひねくれた読み方をするの? 日本語のように、もっとわかりやすくしてくれてもいいじゃない」 「俺からしたら、別にひねくれた呼び方でもないんだけどな」  世の中にはもっと難しい英単語なんて、いくらでもある。 「それに、日本語だって分かりやすいとは言いがたいだろ。難読文字なんて、それこそいくらでもある。むしろ、日本語のほうが難しいんじゃないか?」 「なら、英語を学ぶ必要なんてないわね」  小学生のような解釈をしだす。 「難しい言語を使うあたしは、英語を学ぶ必要なんてありません」 「……そういえばお前、洋書とか興味ねえの?」  ふと思いついた疑問を、口に出す。 「あれも、本だろ? お前の好きな、小説。あの図書館には、一冊もないよな」 「うっ……」 「翻訳に頼っているのか? それこそらしくねえな。作者の言葉は、原文を読まなきゃ正確には伝わらないだろ」  翻訳者としてのフィルターを介してしまえば、それはまた違ったテイストになる。  それを悪いことだとはいわないし、良い面もあるだろうけれど。 「うるさい。あたしだって、読めるものなら、読んでみたいわよ……」  悔しそうに、言う。 「とにかく無理! 無理なの! あたしには、日本語の小説だけで十分よ。それだけで、読みきれないほどの量があるんだから」 「そうだな。夜子がすらすらと英文を読んでるなんて、全く想像できないし」  引き篭もりお嬢様は、学ばない。  勉強から、逃げ出している。 「今日悩んでたのは、それだったのか?」 「え?」  自然な流れのまま、気が付けば訪ねていた。 「珍しく、浮かない顔をしていただろ。無表情とはまた違う、お前らしくもない表情」 「別に……そんな顔をしてないわ」 「嘘つけ、隠しきれてねえんだよ。あんなの、俺じゃなくたって気付くぜ」  あれで隠しているつもりだったのなら、認識を改めろ。 「……何よ、別になんだっていいでしょ」  否定出来ないまま、夜子は視線を外す。 「ただ、べたつくのは潮風だけで十分だなって、思っただけよ……」  白い髪に、指を伸ばす。  防波堤に吹きさす風が、乱暴に夜子の頭を撫でた。  夕日に照らされて、それは黄金色に染まる。 「ねえ、瑠璃」  それから、ゆっくりと俺の名前を読んだ。  赤い瞳が、つぶらな瞳が、潤みを備えながら俺を捉える。 「……なんだよ」  波打つ音が、嫌に耳に残る。  風の暴れる音が、肌から伝わる。  言いようもない雰囲気が、俺たち二人を包み込んでいた。  夕暮れの、防波堤。  二人っきりの、その空間で。 「すき」  夜子の小さな唇が、何かを伝えた。 「すき」  二度目。  耳が、それが言葉だと理解した。 「だいすき」  三度目。  言葉の響きを確認するように、夜子は続ける。 「あいしてる」  最後。  穏やかな表情のまま、夜子は紡ぐ。 「…………」  言葉を失った俺を、夜子はひたすらに見つめ続ける。  その表情は一切崩すこと無く、まるで俺を観察しているかのように。  長い長い時間が過ぎたような気がした。  夜子の言葉が、全ての感覚を奪い去り――一体どれくらいの時間が経過したのか。  ただ、沈まぬ夕日を見た途端、それが錯覚であることを理解する。 「……なんてね」  少し、吹き出しながら。 「冗談よ。本気だと思った? ふふふっ」  自らの悪戯を語る子供のように、夜子は笑い出す。 「あは、あははははっ、おっかしいっ――本当に、おかしいわ」  何がツボに入ったのか、ひたすらに夜子は笑い続ける。  こんなにも笑う夜子を見たことがなかった俺は、呆気にとられるしか無く。 「……お、おい?」 「うふふふ、あたしが、キミに、告白? なんの冗談よねえ」  けらけらと笑う夜子の姿は。  夕日に照らされて、俺を弄ぶ夜子の姿は。  白髪を靡かせ、紅い瞳を煌めかせる夜子の姿は。  ――さながら、どこかの魔法使いに、見えてしまった。 「あたし、やっとわかったわ。『ルビーの合縁奇縁』が、どういう物語なのか」  ひとしきり笑った後、その余韻を残しながら言った。 「わかった? それは、どういうエンディングを迎えるかってことか?」  それでもまだ。  俺は登場人物に徹する。 「違うわよ。そういう意味じゃない。この物語のエンディングは――全くの、白紙なんだから」  白紙。  真っ白。  何も記されていない――純白。 「あたしは、全ての魔法の本を読んだわけではないわ。精々、遊行寺家が封印したものを、少し読んだ程度」  そうして、夜子は全てを語る。  この物語の主人公は、世界構造を明らかにしてしまう。 「それでも、ルビーの名前を冠した小説は、読んだことがなかった。だから、母さんの知識を信じて、これが瑠璃との恋愛小説だと思っていたけれど」  声色が、とても上機嫌だった。  それは夜子にとって不都合のある結末なはずなのに、あくまで楽しげで。 「――全部、嘘だったのね。母さんと理央が仕組んだ、文字通り台本上の物語。『ルビーの合縁奇縁』なんて本は、この世に存在しない」  「……なんだって?」 「キミもあたしも、騙されていたのよ。謀られていた」  呆れるように、説明する。 「今から考えてみれば、理央の自称天使様要素以外、魔法の本の影響らしいものは何一つなかったのよね。他に、それらしい要素は一切なかった」 「だからって、全部嘘だっていうのか?」 「もちろん、他に理由はあるわよ。あたしが、そう思った理由」 「聞かせてくれよ」  本当に、楽しそうだった。  騙されていた、謀られていた、という割に――何故、こうもハイテンションでいられるのか。  普通なら、怒りそうなものなのに。 「キミは、あたしのことが好き?」  それは、唐突な質問――いや、数時間前にも、聞かれた言葉だ。 「一人の女の子として、愛してる?」  ああ、たぶんそれが。  その言葉が、全てなのだろう。 「……いいや、友達としてしか、思ってない」 「そういうことよ」  予想していた答えに、夜子は満足そうに頷いた。 「キミは、あたしに恋愛感情を持っていない。そしてあたしもキミに恋愛感情は持っていないの。それは、さっき念入りに確認した」 「その意味の、告白だったのか」  すき。  すき。  だいすき。  あいしてる。 「あの言葉に、あの雰囲気に、あたしは何とも想わなかったわ。それらしいシーンを用意しても、キミのことを恋しいとは想わなかった」  そこまで言って――夜子の本意を理解した。 「――キミと恋人になるのがこの物語の本質なら、それはありえないの」 「もし本当に魔法の本が開いているなら、あたしはキミに恋をして、キミはあたしに恋をする。それは、絶対不変の法則」  力強く、続けた。 「魔法の本のあらすじを、歪めることは出来ないのだから」 「……つまり、俺たちが互いに何とも思っていないことが、何よりの証拠だってことか」  ルビーに影響されること無く、ただ日常を過ごしていただけ。  そこに本が開いていると錯覚して、闇子さんの用意した台本に従っていただけ。 「でも、1つだけ、魔法の本のような出来事があったぞ」 「……ん」  そう、見逃してはならない日常との違い。 「お前は俺と、楽しげに学園生活を送っていた。少なくとも、ほんの少しだけは、楽しいという気持ちを持っていた。それは、今日お前が口にしていたことだよな」  俺のことが大嫌いな夜子。  口を利くのも嫌なのに、それでも、魔法の本ならばと我慢していた夜子。  自らルビーを否定するということは―― 「そんなの、簡単でしょう」  だけど夜子は、もう吹っ切れたのだろう――臆すること無く、答えた。 「キミとの学園生活を、あたしは少しでも楽しんでいた。それは、本の影響ではなく、あたし自身がそう思った」  最後に、少しだけ恥じらいを含めて。 「それだけのこと。何か文句あるのかしら」 「……いや、ない、けど」  それを夜子が、納得できるのなら。  認めてしまっても、構わないのなら。 「だから、おかしいのよ。こんなに笑えてくるのよ。あたしが、まさかキミといる時間を楽しいと思えるなんて――馬鹿みたい」 「今日のお前は……なんか、素直だな」 「うるさいわね。勘違いしないで欲しいけれど、キミのことを認めたわけじゃないのよ」 「未知なる世界を体験するときは――その傍らに嫌いな相手がいても、それなりに楽しめるということよ」 「楽しいと思ったのは、俺だからじゃなく、周りの環境のせいだって言いたいのか」 「ええ、もちろん。要するに、吊り橋効果ね」 「……それじゃあ、結局恋してんじゃねえか」 「でも、これで満足したわ。もう思い残すこともない。切り取られた楽しみは、そのままの形でここで終わらせておきましょう」  夜子は、晴れやかな表情のまま言った。 「これ以上続けても、得られるものは何もないわ。非日常は、継続してしまったら日常になってしまう」  夜子にとって、学園は知らない世界。  最初は右も左もわからなくて、ただ疲れるばかり。  ようやく慣れて、少しだけ、楽しさを理解して。  そこで、満足してしまう。 「……もう、来ないつもりか」 「もちろん。その意味もなくなったわ。これが魔法の本でないのなら、こうして無駄な時間を過ごす必要もないし」 「そうだな。お前なら、そういうと思っていたよ」  やっぱり、遊行寺夜子は図書館の中でしか生きられないのか。  こればかりはもう、仕方のない事なのかもしれない。 「しかしまあ、ずっと悩んでたのはそういうことか。てっきり、体調でも悪いのかと思ってたよ」 「……悩んでたのは、別のことよ」  少しだけ、悩ましそうな表情。 「もちろん、そのこともあるけれど……今でもわからないのは、どうして母さんと理央が、こんなことをしたのかということ」 「…………」  それはつまり、動機だった。 「……なんとなく分かったから、少しだけ素直になれたのかしら」 「ごめん、俺にはさっぱりなんだけど」 「キミが、理解する必要はありません」  きっぱりと、拒絶する。 「というより、どうしてそんなに近付いてるのかしら。これからキミと仲良くする必要はなくなりました。今すぐ視界から消えてくれる?」 「何だこの切り替わりの早さ」 「大変苦痛だった、ということよ」 「俺は被害者だ!」  と、大声を上げて主張したところで。 「あ、理央? どうせどこかで隠れているんでしょう? 怒らないから、出てきなさい」  俺のことをほっぽり出して、周囲に呼びかける。 「天使様の降臨と弁明を、待ち侘びているわ」  嬉々とした声色で、続けると。 「……あー、うー、バレてらぁ……」  しょんぼりとした表情で、自称天使が姿を見せる。 「あ、天使様、こんにちは」  にこやかに歓迎する。 「夜子を口説きたいんだけど、俺はどうすればいい?」 「や、やめてよー、もう恥ずかしい……」  今まで天使様を演じておいて、何を恥ずかしがるのか。 「夜ちゃんの口説き方なんて、理央にはわかんないよー」 「恋の弓矢をばきゅーん、だっけ?」 「無理だよできないよー、理央に出来るのは、お料理だけ」  うなだれながら、無力を訴える。  天使の役目も終わり、理央は理央へ戻った。 「思えば、拙い演技だったわね。ところどころ、素が出てたような気がするわ」 「……気付いたのは、最近だけどな」 「うるさい」 「見事に騙されていたのは、夜子だけどな」 「うるさい! それはキミもでしょう!」  かっとして、怒鳴る夜子。 「て、天使なんて理央には似合わないよ。もっとこう、ちんまいものが良かったです」 「例えば?」 「神様とか!」 「…………」  天使では満足できねえか。  大した度量である。 「夜ちゃん、怒ってる?」 「当然よ」 「ぎゃー……どうしよ、瑠璃くん?」 「俺だって、騙された側なんだけど」  助けを求めるな。 「あ、そーでした……ごめんなさい」 「いや、気にしてないから」  そう、何も気にしていない。  結果的に夜子が楽しんでくれたのなら、何一つ不満はないのだ。 「ど、どうすれば許してくれるかな? 理央だって、こんなことしたくなかったよー」 「……わかってるわよ。理央に、誰かを騙すような発想ができるわけないもの」 「わーい? 褒められたー?」 「どうかしらね」  呆れながら、夜子は言う。 「でも、怒っているという以上に、それなりに楽しめたから、許してあげる」 「夜ちゃん……」  そっと、頭を撫でて。 「もう二度と、あたしを騙しちゃ駄目よ、天使様?」 「ぎゃ、ぎゃー! それなし! 禁止っ!」 「自分で天使を自称するなんて、恥ずかしくなかったのかしら。あたしなら、演技でも無理だわ」 「ふ、ふかこーりょく! いたしかたないことゆえしょーがなかったのです!」 「その割には、ノリノリだったようなきがするぞ」  演技の内容はともかく、楽しそうだった。 「そんなことありませぬ! もーちょー嫌々だったよ! 理央は悪魔さんに憧れる悪いオンナだからねっ! 天使なんて願い下げだよー」 「さっき神様を志望してなかったか」 「悪魔も神様も似たようなものじゃないかにゃ?」 「……そうだな」  意味ありげに意味のない言葉を言わないで欲しい。  はっとなって考えてしまうじゃないか。 「それじゃ、そろそろ戻りましょうか」 「ほえ? どこに?」 「図書館に決まってるだろ。夕食の用意、大丈夫か?」 「ああー、忘れてたー!」 「早めに天使を廃業できて、良かったわね、思う存分、料理に専念できる」  夜子にとっての非日常は、これで終了。  俺にとっての平和な日常も、これで終了。  こうして――『ルビーの合縁奇縁』は、何の波乱もなく、何の特別もなく、唐突に終わってしまった。  日常なんて、そういうものである。  図書館へ帰った俺たちを、闇子さんは涼しい顔で迎えてくれた。  白々しさ満点の笑顔に、夜子はすぐさま詰め寄った。 「母さん、これはどういうつもりなの?」 「あらあら?」 「しらばっくれても無駄よ。もう全部わかったんだから」 「まあ、早かったのね」  勿体ないと言わんばかりの調子だ。 「夜子ちゃんがいつ気付くかなって予想していたんだけれど、一人じゃ一週間はかかるかなって思ってたのに」 「違和感ありまくりよ。もう、どうしてこんなことをしたの。母さんが、あたしにこんな悪戯をしかけるなんて……」 「そうね、それくらいは説明してあげましょうか」  にこりと微笑みながら、闇子さんは俺に向かう。 「一つ。瑠璃くんの命令を守らなかった罰よ。途中で投げ出して、駄目じゃない」 「……それは……でも、1度は登校したから」 「瑠璃くんの命令の本当の要求を、あなたは汲みとれていなかったの?」  押し殺される夜子。  不満はあるだろうが、やはり母親には強く返せないらしい。 「二つ。勝手にヒスイを使った罰よ。自分が物語の登場人物にさせられる気持ちが、少しは理解出来たんじゃない?」 「だから、あたしは黙っていただけで、ヒスイを持ちだしたりなんかしてない……」 「悪戯をするなら、最後に笑える悪戯にしなさい。魔法の本は、玩具じゃないの」 「母さんだって……人のことは言えないわ」 「そうね、魔法の本という存在を利用したのは、同じだもの」  実物は使用せずとも、名前を使っている。  まあ、どちらがマシかと言われたら、闇子さんの方だけれど。 「そして、三つ。これは、言わなくたって分かるでしょう?」  指摘は、せずとも。 「あなたが直前まで感じていた気持ち。それを、体感してもらいたかった。それが一番の理由よ」 「……むう」  楽しかった、と。  そう思った事実だけは、揺るがされない。  外の世界を知る。  学園の楽しさを知ってもらう。  そのために、『ルビーの合縁奇縁』を騙ったのだろう。 「瑠璃くんも、家庭の事情に巻き込んでしまってごめんなさい。あなただけは、純粋な被害者だわ」  そう言って、闇子さんは頭を下げる。 「そうでもありませんよ。被害者面はしません」 「そうよ、キミが理央に従ってあたしを射抜いたりしなかったら、母さんの狙いは潰れていたんだから。キミも共犯よ」  「ああ、そうだな」  夜子の言うとおりだ。 「そういう意味では、俺も共犯かな」 「嬉しそうに認めないで! 腹立たしいわ」  素直な怒りを見せる夜子。 「ああ、茶番は終わったんですね」  二階から、喧騒を聞きつけた妃が降りてくる。 「……その口振りからすると、お前も知っていたのか」 「全てを知ったのは、ついさっきですけどね。闇子さんから説明を受けました」  興味なさげに、妃は続ける。 「今回、私は蚊帳の外でしたし、偽物のあらすじには興味ありませんよ」 「とにかく、疲れたわ……早くお風呂に入って、休みたい」  俺の横を通りすぎて、書斎へと向かう。  「そうね、今日は母娘水入らず、一緒に入りましょうか!」 「嫌よ……母さんなんて、嫌い」  ぷいっと顔を背けて、歩を進める。 「あらあら、嫌われちゃったかしら?」 「あれが、夜子のデフォルトでしょう」  大丈夫、問題ない。  楽しかったと、そう口にした夜子の表情は、本物だったから。 「そうね、それじゃあ無理やり押しかけてみようかしら。待ってよ、夜子?」 「だ、抱きつかないでっ、脱がせないでっ! まだ、ここは脱衣室じゃない!」 「気にしない気にしない。今は、誰も見てないから」 「瑠璃が見てるー!」  とまあ、こんな感じで。  微笑ましい親子関係を眺めている俺へ。 「男性は目を背けましょうか」  冷静な妃が、それを邪魔してくるのである。 「はい、こちらへ」 「え?」  だが、目を背けさせるだけにはとどまらず、俺を本棚の影へと連れて行って。  きゃあきゃあ騒ぐ母娘の声が聞こえなくなるまで、無理やり留めさせた。 「おい、妃? もういいだろ?」  夜子の姿は、今から追いかけても見ることは叶わないだろう。  いや、別に見たいというわけではないが。 「俺だって、今日はちょっと疲れたんだ。夕飯の前に、休みた――」 「いつからですか?」  誰もいない、広間。  更に人影のない、本棚の影で。  妃は――妹としてではなく、一人の女の子としての一面を見せる。  二人っきりの空間が約束されなければ見せないはずの、真心を。 「いつから、これが茶番であると気付いていたのですか」  いつ誰が声をかけてくるかもわからない場所。  二人の秘密がバレかねないところで見せるのは、初めての事だった。 「……なんのことだ?」 「惚けないで下さい。これが嘘のお話なんて、明らかでしょう? いくら鈍い瑠璃でも、気付いたはずです」 「お、おい、ここはヤバイって」  本棚に押し倒すように、妃は迫っている。  近い、近すぎる。 これは、恋人の距離だ。 「私の見立てでは、相当早期に気が付いていたと思うのですが」 「…………」  『ルビーの合縁奇縁』  用意された偽りの台本。 「……ふむ」  瞳と瞳が交錯する。  答えない俺を、妃はどう感じただろうか。 「なるほど、わかりました。そういうことでしたか」  まるで心を読んだかのように、妃は納得する。 「私たちは以心伝心ですね。今ので全てを理解しました」 「おい、嘘をつくなよ。俺は何も、言ってねえぞ」 「気を使って、知らない振りをしていたのでしょう?」 「…………」  フリーズした。  驚きに、時間が停止したのかと思った。 「瑠璃が最初に指摘してしまったら、夜子さんは激しく怒ったことでしょうね。理央さんに対して、かなり強烈に振舞っていたことは容易に想像できます」  ああ、こいつの前では。  愛する妹の前では――隠し事なんて、許されないんだな。 「大嫌いな瑠璃に指摘されたら、それはもう面白く無いです。だから、夜子さん本人が解答に至るまで、何も知らないふりをしていたのです」  もっとも、と。 「それは瑠璃の希望でもあったのでしょう? 全てが明らかになれば、夜子さんが引き篭もるのは明白」 「一日でも長く学園へ通わせたければ――黙っている以外に、選択肢はなかった」  まあ、こんなところでしょうと。  妃は、満足したように言った。 「お前は何でも見通すんだな」 「いいえ、先ほど瑠璃から伝わってきたのです。以心伝心です」 「そりゃなんとも、都合のいい一方通行だな」  俺は、お前の意図なんてさっぱり読めないよ。 「優しい人ですね。茶番と知りながら、それに付き合ってあげていた。そういうところも、ういやつです」  そう言って、ぐっと体を寄せる妃。  まるで、自己を主張しているかのようだった。 「また、キスをするのではないかと不安でしたよ」 「嘘だ。面白がっていただろ」 「あれ? バレてました? おかしいですね……ヒスイのときは、気が気でないことをアピールしたつもりなのですが」 「今回は、夜子が相手だったからな」  そう、それが一番の理由。 「お前は、俺と夜子を信じてるだろ?」 「……キスをしないなんて保障、魔法の本の前ではとてもじゃないが信じられませんが」 「違う、そうじゃない」  念入りに、否定する。 「例えキスしても――心まで変わるわけじゃないことを、お前は理解してるだろ。そういう妃を、俺は信じてる」 「……うふふふふ」  俺の言葉に――妃は、満足そうに笑った。 「やはり、以心伝心ではないですか。これ以上ないくらいに、繋がっています」  胸板に、頭を埋めて。 「やはり、ういやつですよ、瑠璃は」 「お前だって、可愛いやつだよ」  やがて、ひっそりと互いを求め合う。  自然と唇が、唇を求めて。  愛に溺れる獣のように、束の間の二人の時間を噛み締める。  ヒスイにもルビーにも、俺たちの関係は揺るがされない。  それを確かめ合うような、ひとときだった。  後日談。  翌朝、学園へ向かう用意を済ませた俺は、朝から夜子と廊下で遭遇する。  一階では理央の朝食が待っているのだろう、それにつられてのこのことやってきたのだ。 「おい、制服を忘れてるぞ引き篭もりお嬢様」 「黙りなさい、もう二度とあんな制服、着ないわよ」  案の定である。  今日もまた、日光から逃れて活字を追い続ける日々が始まるのだろう。 「どうして、そんなにあたしを通わせたいのよ。嫌がらせも程々にして欲しいわ」  見下すように、挑発的に。 「あたしがいなきゃ、そんなに寂しいわけ?」  その姿に、一矢報いたくて。 「ああ、そうだよ」  俺は、満面の笑みで言ってやった。 「お前がいないと、俺は寂しいんだよ」 「なっ――!」  と、すぐさま紅潮して、怒りを顕にする。 「調子の良いことを言わないでくれる? 気持ちが悪いわ!」 「お前が言い出したんだろ……」  相変わらず、勝手なお嬢様だ。 「あの制服、似合ってたのになあ……勿体ない」 「キミに見せるために着ていたわけじゃないから」  まあ、こんな感じで。  夜子と俺の学園生活は、あっけなく終りを迎えてしまったのである。  引き篭もりは、引き篭もりのまま、変わることはなく。  しかし――存外、何も変わらなかったわけではなさそうだ。 「また、気が向いたら来いよ。今度は、英語を教えてやるぜ」 「誰がキミに――!」  偽物の魔法の本。  『ルビーの合縁奇縁』は、闇子さんが生み出した創作物。  しかしその効果は、案外あったのではないだろうか。  合縁奇縁――複雑怪奇な人の縁は、こうして繋がれていくのだろうから。  宝石の輝きが、存在を訴えかける。  次なる物語は、一人の少女の悲劇のお話。  『サファイアの存在証明』  アイスブルーの煌めきが、まるで涙のように輝いた。  月社妃の不幸話、その1。  昔話をしよう。  当時俺の妹は、ピアノを奏でることを生きがいにしていた。  そのとき既に妃と両親の関係は悪化の一途を辿っており、 両親からの金銭面での支援が受けられない妃は、僅かな時間を見つけては、学園の音楽室で一人でピアノを弾いていた。  レッスンに通うことも出来ず、楽譜を買い与えられることもなく、独学で、ひっそりと楽しんでいた。  ――別に、遊んでいるだけですから。  決まって妃はそう言うけれど、楽しそうに弾く様子を思い返してみると、本当に好きだったんだと思う。  俺のお下がりの鉛筆と定規を使って、白紙のA4用紙に手作りの楽譜を何枚も書いていたっけ。  音楽の素養が全くなかった俺には、そのときの妃の技術がどれほどのものだったかは、分からない。  ただ、心地よいピアノの音色を思い出すと、演奏者としてはかなりのものだったのではないかと思う。  誰にも教えられず、誰の力も借りず、楽譜すらない状況で、紙と鉛筆と腕だけでここまで上達する。  もし、ちゃんとした環境と先生が用意できれば、そういう道へも進めるんじゃないのかなって、思っていた。  ――妃は、ピアノを習いたくないの?  ――このままで満足していますから。  当時の俺は、妃の境遇を理解出来ていなかった。  両親から避けられているとは思っても、嫌われているとは思っていなかったし―― 必要以上に妃に厳しいのも、それは期待の現れだと思っていたから。  ――瑠璃のために、弾いているだけですよ。  微笑みかける妃に対して、本意を汲み取ることは出来たのだろうか。  許されるなら、妃はもっと、ピアノに打ち込みたかったのではないだろうか。  それはもう、手遅れで――今更、どうしようもなかった。  いつだったかの、妃の誕生日。  妃の本音を汲みとったわけではないけれど、それでも、ピアノが好きな妹へ。 「これは……」  手書き用の五線譜ノート10冊と、新品の万年筆。  加えて、妃の好きそうなクラシックの、いくつかの楽譜。  本当はピアノでも買ってあげられたら良かったのだけれど、子供の俺には無茶な話だ。 「ありがとうございます」  声色は、決して感激したようなものではなかったが。  それでも、慈しむように受け取る妃を見て、良いプレゼントをしたと確信した。  何よりも、その日から、更にピアノに励むようになって。  プレゼントした五線譜ノートを、みるみるうちに埋めてしまう妃を見て。  やっぱり、ピアノが大好きなんだなあと、俺は笑った。  だからそれ以降も、事ある毎に楽譜をプレゼントした。  けれど、終わりは突然やってくる。  俺からしてみれば、何の前触れもなく、告げられた言葉。 「ピアノ、辞めました」 「……え?」  ある日、突然伝えられてしまった。  あっさりと告げる妃に、俺は理解することが出来なくて。 「もう、飽きてしまいましたから」  淡々とした様子の妃に、何を感じたか。  目を合わせない妃を見て、俺はすぐさま、その理由を探しだす。  ――遊んでないで、勉強をしなさい。  母親は、そう告げて。  ――汚い楽譜、あなた、才能ないわよ。  母親は、そう笑って。  それまで妃が手作りをしてきた、大量の楽譜を、燃やした。  無慈悲に、無自覚に、焼却してしまったのである。  そのための、五線譜ノートも、そのための、万年筆も、そのための、楽譜も。  何もかも全て、葬り去ったのだ。  あとで聞いたことなのだが――母親は昔、ピアノの演奏者を目指していたことがあったらしい。  けれど、家庭の事情で断念せざるを得なかったとか何とか。  本気で打ち込んでいたピアノを取り上げられて、親を憎んだこともあるという。  だからこそ、母親は許せなかったのだろう。  よりにもよって、気に食わない自分の娘が、隠れてこそこそとピアノを楽しんでいるのを。 「仕方がありませんね」  家の庭で、灰になった五線譜ノート。  まるで見せつけるかのように、黒焦げだ。 「これは、仕方のない事です」  全てを達観して、受け入れる妃の様子。  自分の妹がそういう対応をしてしまう、今の家族の現状が――いかに、異常であるかを理解した。  普通なら、こういうとき。  声を上げて、泣くのではないだろうか。  あるいは、怒りに泣き叫ぶのではないだろうか。  悲しみを見せない、妃を見て。  代わりに俺が、泣いてしまった。 「……瑠璃」  すると、そんな俺を見て、妃まで泣いてしまうのだ。  ああ、わかっていた。 わかっていたけど。  どんなに辛いことがあっても、妃は平気な振りをする。  涙をながすのは、いつだって誰も居ないところでだ。 「ごめんなさい……折角、プレゼントしていただいたのに」  冷めた態度を裏返せば、どこにでもいる年頃の女の子。  悲しいことがあると、歳相応に、泣きじゃくる。  黒焦げになった五線譜ノートを直視できない妃は、ぽろぽろと流れる涙を拭い続ける。 「悔しい、です」  漏れだした言葉に、本音を見た。 「私はもう、あの二人を許せそうにありません」  それ以来、妃はピアノを弾くことはなくなった。  ただの一度も、弾かなくなってしまったのである。  しかし、こんなものは、妃にとって日常の一幕に過ぎなかった。  それこそが、月社妃の最大の不幸なのかもしれない。   俺が島に帰ってきてから、一ヶ月の時間が経過した。  最初こそ波乱に満ちた出来事が起きてしまったけれど、それ以降は平穏な日々。  生活にもすっかり慣れた俺は、ある程度の余裕を持てるようになっていた。 「そういえば、闇子さんって、魔法の本に関する仕事をしているんだよな」  夕食時に、思いついたように尋ねる。 「うん、そうだよー」 「母さんの仕事は、魔法の本の収集」 「だから、全国あちこちで、不思議な出来事を追いかけているの。噂話とか、都市伝説とかは、原因が本によるもの、ということは大いにあるから」 「例えば、ホラー系小説が開いてしまったら、都市伝説として世間を賑わせることもあるということですか」 「もちろんよ」  やや目を逸らすように、夜子は肯定した。 「その場合は、本はどういう現象を起こすのでしょうか」 「本当に、幽霊を生み出すの」 「……まじかよ」  思わず、驚嘆した。 「たまらねえな。ホラー小説なら、結末は……」 「――誰かが死ぬことも、あるでしょうね」  平然と、夜子は語るのだ。 「……それは、勘弁したいな」 「だから、それらしい本には迂闊に触らないことね。結局、触らなければ開くことはないのだから」 「一度物語が開いてしまったら、途中で物語を止めることは出来ない」  念押しするように、妃は尋ねる。 「それは、間違いないんですよね?」 「……そうね、間違いないわ」  平坦な口調で、夜子は頷いた。 「なんとも理不尽なことですね」  ため息をつきながら、妃は立ち上がる。 「ごちそうさまでした。今日も、とても美味しかったですよ」  理央に笑いかけながら、食事を切り上げる。 「ありゃ? もうオシマイ? 妃ちゃんは小食ですねー」 「勿体ないから、あたしが貰うわよ?」 「ニートお嬢様は、食い意地が張ってんな」 「うるさい、黙れ」  冷ややかに、軽蔑して。  幼い頃からこんなに美味しい料理を食べていたなら、食事を好きになるのも無理はない。 「夜子さんは、私より小さいのによく食べますね。少し羨ましいです」 「食べてる量の割には、全く生かされてないけどな」 「……ごちゃごちゃ五月蝿いわね」  ナイフをぎゅっと握りながら、震える声で怒りを表す。 「私は十分、満足しましたから。残すのも申し訳ありませんので、食べて頂けると助かります」 「仕方がないわね」  ちょっと嬉しそうな夜子。  奇妙な優越感に浸ってる……。 「こんどから、ちょっぴり量を減らし?」 「そのようにしていただけると助かります」  にっこりと微笑みながら、小さく頭を下げた。 「おーけー、任せといてー」  片手を上げて、元気よく了承する理央。 「ところで、一度聞きたかったのですが」  思い出したように、妃は尋ねる。 「あれから、彼女はいかがですか?」 「彼女?」  その言葉が、誰を指しているのか分からず。 「日向かなたのことよ。キミは、察しが悪いのね」 「ああ、あいつのことか」  まさか日向かなたの話題が、この食卓で出るとは思わなかった。 「さあ、別に報告するような問題は何も起きてねえよ。ヒスイが終わってから、興味本位にこの図書館のことを調べられることもなくなったし」 「キミは、日向かなたに対して過剰に対応してるものね」  少し面白そうに、夜子は言う。 「わざと嫌われるように振舞っているのは、やっぱりキスしたことが影響しているのかしら?」 「……なんのことだ」 「さあ、引き篭もりのあたしには、よくわからないわ」  優雅にお茶を飲みながら言った。 「珍しいな、お前が他人を気にするなんて」 「他人ではありませんよ。一度、巻き込まれた側の人間じゃないですか」  やや、声の調子を落として。 「あの方が再び関わることになっても、私は驚きませんね」 「……それは、根拠があっての言葉か」 「いいえ、私の直感です。女の勘。ふふっ」  小悪魔っぽく笑って、妃は立ち上がった。 「そんなところです。それでは、先に失礼しますね」  話に満足したのか、妃は部屋へと向かう。 「あ、忘れてた」  立ち去る妃の後ろ姿を、理央の声が呼び止める。 「今日は、デザート、あったの。お菓子、作ってみたんだけど……」  出し忘れていました、と。  照れくさそうに、理央ははにかんで。 「もう、お腹いっぱいだよね?」  妃は、少し悩んだように視線を外して。 「理央さんが、わざわざ作ってくれたのですか?」 「う、うん、なんかねー、お店で美味しそうなシュークリームがあったから、理央も作ってみよっかなーって」  買ってくるのではなく、作る。  それを当たり前のようにしてしまうのが、理央の料理スキルの高さ。 「紅茶といっしょにたべると、甘くて幸せな本の世界が広がるかもって!」 「……それはとても、楽しみね」  話を聞いていた夜子が、頬を緩ませる。  こういうところは女の子なんだなあと、しみじみと思う。 「そうですか……わざわざ、私たちのために」  本当にお腹がいっぱいなのだろう、やや腹部をさすりながら、悩み。 「では、これからお風呂に入ってきますので、そのあとに用意してもらえますか」  それでも、妃は食べることを選択した。 「む、無理して食べなくてもいいんだよ? 出し忘れてた理央が悪いんだし!」 「あら、そんなことはありませんよ」  ゆっくりと、微笑みながら。 「理央さんのデザートは、別腹ですから」 「わーい!」 「甘いお菓子は、脳への栄養よ。満ち足りた身体で読んでこそ、十全に物語を楽しめるというもの」  未だ夕食を食べ続けながら、デザートへ思いを馳せる夜子。  一口が小さいとはいえ、本当によく食べるやつだ。 「温かい紅茶も忘れずに、でしょう?」  笑いながら、同意した。 「じゃあ、俺は――」 「ブラックコーヒーだね!」  口にせずとも理解されている、俺の好み。 「淹れてほしかったら、いつでも言ってね。理央特製の挽きたてコーヒーを、ご用意します!」 「この図書館の専属メイドは、本当に優秀だな」 「当然よ、あたしの誇る、理央だもの」  その言葉に、夜子は自分のことのように喜ぶ。  そんな、いつもの幻想図書館の日常だ。  時計の針が刻まれて、気が付けば夜も進んでいく。  入浴を済ませた私は、約束通りデザートを楽しもうと、広間へ腰を下ろしていた。  向かい側には、夜子さん。 どうやら私を待ってくれていたみたいで、少し嬉しかった。 「とてもいい葉を使っていますね。飲む前から、美味しいと分かってしまいます」  理央さんに出された紅茶を、まずは香りから楽しんでいた。 「このシュークリームだって、見た目からとても手作りとは思えないわ。本当は買ってきたんじゃないのかしら」 「あら、理央さんに限ってそんなことはないでしょう。意地悪な主様ですね」  ちなみに、本人はただいま入浴中。  私と夜子さんにデザートを出してくれた後、申し訳なさそうに退出していた。 「理央さんも、ご一緒したら良かったのに。是非とも褒め殺してあげたかった」 「恥ずかしかったんじゃないの? あなたは、手放しで褒めるから」 「良い物は良いと評価する。それは、当たり前のことですよ」   今日は、二人だけの女子会です。  いうまでもなく、瑠璃は夜子さんに追い出されたのでしょうね。 「それでは、いただきましょう」  ナイフとフォークで、上品にカットする夜子さん。  それを尻目に、私は手づかみでシュークリームを手にとった。 「……あまり行儀が良いとは言えないわね」 「だって、こっちの方が食べやすいんですもの」  一口では食べきれないので、齧るように噛み付いた。  ふわふわのクリームが溢れだしてきて、零れそうになってしまう。 「呆れたわ。何のためにナイフとフォークを用意してくれたのかしら」 「さあ? これからケーキでも出してくれるのですか?」 「そんなわけないでしょ」  指にクリームがついてしまって、あやうく垂れてしまいそうだった。  落ちないように丁寧に舐めとって、甘さの全てを堪能する。 「妃って、変な人」 「はて? どこがです?」  一連の食べ方を目撃した夜子さんは、若干引き気味な視線。 「見かけは知的なお姫様のようなのに、中身は全然違うのね」 「おかしいですね。私はお姫様のように粛々としているつもりですが」 「少なくとも食事のマナーは、お姫様のそれではないわよ……」 「いいじゃありませんか。これでも、他人が見ている前ではちゃんとしているんですよ?」  さすがの私でも、学園ではこのようなことはしていませんから。 「前から思っていたのだけれど、どうして妃は猫を被るのかしら?」 「社会で健全に生きていくためですよ」 「……質問を変えるわ。どうしてあなたは、そうまでして社会に溶け込もうとするの? 自分を、偽ってまで」 「おかしなことを言わないでくださいよ。社会で生きなくて、どこで生きようというのですか」 「社会が嫌なら、この図書館で生きればいいじゃない」  正論を振りかざす私に対して。  夜子さんは、圧倒的邪道を提示する。 「ここでなら、好きに生きていけるわよ。ごろごろ寝転がって本を読んでも咎められないし、手掴みでお菓子を食べるあなたを受け入れてくれる」 「ふふふ、何を言うかと思えば――そんなの、不可能でしょう?」  私は夜子さんとは違う。 「いずれ、ここを出て行く事になるのです。今はこうしてご一緒していても、私は所詮、外部の人間」  学園を卒業すれば、頃合いだろう。  一人で生きるための術を探しに、社会へ飛び込まなければなくなる。  その未来を考えて――だから私は、優等生に成りきっているのですよ。 「ずっと、ここにいればいい」  けれど、夜子さんは言う。 「あたしが母さんの後を継げば、妃を一生面倒見るだけのお金はなんとかなるわ。だから――」  そう言ってくれることは、素直に嬉しいけれど。 「あんまり、友達を甘やかすものではありませんよ? 図々しく、利用されてしまいます」 「……妃は既に、あたしたちを好き勝手にご利用していると思うけれど」 「ええ、そうですね。でも、それ以上は欲張りというものです」  私一人では、ありませんから。  瑠璃と二人で、と口にしたら、それでも夜子さんは養ってくれるのでしょうか。  私が優等生を演じる最大の理由は、社会に対して、世間に対して負い目があるからです。  最も愛してはならない人間を愛してしまった、罪深い私の、ほんの細やかな償いのようなもの。  それが何かを成すとは、もちろん思っていませんが。 「あ、そうだ。少し聞きたいことがあって」  少し伺うように、夜子さんは尋ねる。 「瑠璃は、誰かと付き合ってるの?」  一瞬、言葉を失いかけた。  が、なんとか唇を動かす。 動揺を、見抜かれるな。 「それは、どういう意味ですか?」  詰問するような低い声。  知らず知らずのうちに、声が荒ぶっている。  そんな私に対して、夜子さんは気付かないまま。 「別に、興味があるわけじゃないの。ただ、瑠璃が、今まで誰かとキスをしたことがある――みたいなことを言ってたから」 「……なるほど」  全く。  さすがの私でも、怒りを覚えてしまうのは無理のないことだと思いませんか。  慎重に慎重を重ねて思いを押し殺しているというのに、あの男はへらへらと惚気話をしているのです。  まあ、それが私のことだから、嬉しくもあるんですけど。 「それは、何かの間違いではないのですか。妹として瑠璃を見てきましたが、誰かと恋仲になったということは一度もないはずです」  もし、私の知らないところで誰かと恋に落ちていたなら――  いえ、そういう仮定はやめておきましょう。  全く無意味なことだから。 ありえないことです。 「それでも、ここしばらくは離れて暮らしていたのよね。だったら、妃の知らないところで、そういうことがあってもおかしくないんじゃないかしら」 「……そうですね、それは否定できません」  心は、一切揺るがず。  ただ、口先だけは同意した。 「最も、あの木偶の坊を好きになる女の子がいるなんて、あまり想像できないけれどね。騙されているとしか思えないわ」  ノーコメントということで。 「……妃はどうなのかしら」 「へっ?」  矛先は、私に向けられる。 「妃こそ、そういう相手はいないのかしら。付き合っている――とはいわないまでも、好きな相手とか、出来たことはないの?」 「告白されたことは、何度かありますよ。それこそ先ほどお伝えした通り、外では優等生ですからね。男性からは好意を持たれることが多いのです」  もちろん、そのどれもが後腐れのないよう処理してきましたが。  禍根を残さず、恋の芽を刈り取っておきましたが。 「す、凄いのね。あたしからは想像もできない世界よ」  興味深そうに唸る夜子さん。  ああ、彼女も女の子で、この手の話は好きなんだなと――今さらのように気付き、そして笑った。 「そういう恋のお話を、夜子さんも体験してみたいのですか」  これもまた、ルビーの影響なのかもしれない。  瑠璃と接して、学園へ通って、以前よりもその手の話題に近くなったから。 「そういうわけじゃないわ。でも、妃のそういう話には、興味があるというだけ」 「ほうほう?」 「あなたは、あたしの友達よ。友達のことが気にならないなんて、おかしいでしょう」 「なるほど、良い理由です」  そういうことにしておきましょう。 「でも、私は告白をしたこともなければ、誰かに恋したこともありません。残念ですが、夜子さんの待ち侘びているようなお話は出来ませんね」 「ふぅん、そういうものなの? 予想はしていたけれど、何だか勿体ないわね」  紅茶を口元へ運びながら、夜子さんはいう。 「あなたほどの器量があれば、望めば望むほど恋が叶ったでしょう。相手なんて、選り取りみどり」 「それは、誤解です」  少し勘違いをしているらしいので、説明をしなければなりません。 「私の本性は、小難しくて面倒な女の子ですよ。こんな見掛け倒しの女の子を、一体誰が好んでくれるのでしょう」  一人だけ、脳裏に浮かんでしまった。  少し、照れくさい。 「私が好意を寄せられやすいのは、そこを隠しているからです。だから、選べるような身分ではありません」  もっとも、選べたとしても、私の選択は変わらないのですが。  何一つ変わらず、間違った道へと進んでしまうのでしょう。  全く、我ながら愚かしいことですよ。 「そういう、ものなのかしら」 「そういうものなのです。夜子さんのような、素のままの私に親しみを覚えてくれる人なんて、そうはいないのですから」  念を押すように、力を込めて。 「あなたにとって、私が数少ない友人のように――私にとっても、あなたは私の数少ない友人です。どうか、それを忘れないで」 「な、何よ、改まって」  やや恥ずかしそうに、夜子さんは視線を外す。 「いきなりそういうことを言わないで欲しいわ」  この図書館にいる人間は、おしなべて直球に弱いことを私は知っていた。  その反応が初々しくて可愛いことも、知っている。 「ふふふ、からかいがいがある人達ですよ」  全く、ありがたいことですね。  こんな私たちにも、居場所があるなんて。 「紅茶、おかわりを淹れようと思いますが、夜子さんもいかがでしょう?」 「あら、今日は妃があたしのメイドさんなの?」 「この私に、メイド服が似合うとでも?」 「ふふふふ、仏頂面で貧乳のメイドさんも、可愛いんじゃないかしら」 「苦ーいブラックコーヒーにしますけれど、宜しいですか?」 「……待って、それだけはやめて頂戴」  真剣な顔で、夜子さんは止める。 「あんな泥水を啜りながら、楽しい会話を進めるなんて不可能よ」 「あら、それは残念」  飲み込まれそうなほど真っ暗な黒は、とても魅力的なのに。  ちなみに私は、コーヒーも紅茶も大好きです。 「心が落ち着くような紅茶をお願いするわ。真心込めて、淹れて欲しい」 「理央さんのように、甘々に出来る保証はありませんけどね」  あの方は、砂糖を遠慮なしに入れますからね。  無糖という発想がないらしい……よく料理が上手いものですね、本当。  理論の欠片もない感性料理が、どうしてあそこまで美味しいのでしょうか。  魔法の本につぐ、この図書館の謎です。 「では、真心込めて、泥水を汲んできます」 「心がこもっていようと、泥水は飲めません!」  苦味を楽しんでもらうには、まだまだ早かったらしい。   それから、数日後。  闇子さんから呼び出しをもらって、夜子の部屋へと招かれていた。  もちろん、俺が書斎に立ち入ることを夜子はぎゃーぎゃーと拒絶したが、そんなことは全て闇子さんに黙らされてしまって。  娘は母に逆らえず。  いつも通り、なし崩し的に俺の存在を許すことになってしまうのだ。 「――で、用件というのは?」  用件、頼み事。  今回は、そういう名目で呼び出されたのだった。 「ええと、ごめんなさい。わざわざ来てもらったんだけど、ちょっと待っててね。先に、夜子の話をした方がいいと思うから」 「……あたし?」 「そう、夜子ちゃん」  意外そうにする夜子へ、闇子さんは笑いかける。 「ヒスイの一件からずっと考えていたんだけれど、そろそろあなたにもお仕事を手伝ってもらおうと思ってね」 「ほ、本当?」  闇子さんの言葉に、夜子は目を輝かせて迫る。 「お仕事と言っても、雑用みたいなものよ。易しいところから少しずつ、私のお仕事を知ってもらおうと思います」 「闇子さんの仕事というのは、やはり」 「――ええ、魔法の本の収集です」  開いた物語を閉じて、集めること。 「あたしにも、ようやく母さんのお仕事を手伝わせてくれるのね」 「……念を押しておくけれど、母さんのお仕事は魔法の本を読むことではないのよ? そこ、勘違いしちゃ駄目よ?」 「わ、分かってるわよ……」  目が泳ぐ夜子。  ヒスイのように、魔法の本を開いて観測したいんだろうなあ。 「あなたは中身にばっかり興味がありすぎて、任せるのが不安でしかたがないわ。だから今まで、手伝わせたくなかったのだけれど」 「で、でも、開いている本を閉じることだって、母さんの仕事でしょう? そういう仕事なら、任せて」 「そんなの、滅多にありません。第一、図書館からまともに出たことのない夜子ちゃんが、本を閉じるなんて出来るとは思えないわ」 「……う」  図星である。 「そういう仕事を任せるつもりもありません。精々、書類整理だったり、使いっ走りをお願いする程度」 「そ、それは……無理」 「諦めるの早すぎるだろ」  もう少し根性見せろ。 「だって、書類なんか見ても楽しくないわ。使いっ走りなんて、論外よ。外に出るの、怖い」 「さっきまでのテンションの高さはどうした」  冷め切ってやがる。  本当に、魔法の本の中身にしか興味が無いんだな。 「呆れた。こんなんじゃ、担い手の役割も私の代でおしまいよ……」 「心中察します」  自己中を全力で発揮する夜子を前にして、気苦労も耐えなさそうだ。  もっとも、それを許しているのは闇子さんなのだが。  どうせ今回も、無理にやらせたりはしないのだろう。 「というわけで、夜子の補佐は瑠璃くんにお任せするわね。よろしくお願いします」 「……はい?」  思わず、耳を疑ってしまう。 「今、なんと?」 「夜子と二人で、私の仕事を手伝って頂戴。それが、今回のお願いよ」 「…………」  絶句した。  お願いと言いながら、既定路線になってるじゃねえか。 「どうしてここで、こいつが出てくるのかしら? 部外者よ、瑠璃は」 「いいえ、もう部外者ではありません。知ってしまったのなら、もう逃げられないわ。こうなったら徹底的に、関わってもらいます」 「おいおい……」  俺の意志は、関係なしかよ。  こういうところ、闇子さんは強引だなあ。 「第一、補佐もなしではどうしようもないでしょう? 瑠璃くんとのツーマンセルで、頑張りなさい」 「嫌よ、それなら汀に任せればいいじゃない。あの馬鹿なら、喜んで仕事を押し付けられるわ」 「そういうと思って、瑠璃くんにお願いしているのよ。それに、あの子は他の人のところでお手伝いをしているでしょう?」 「……そうだけど、でも、だったら妃で!」 「瑠璃くんが、適任だと私が判断したの。これは決定事項よ」  お願いはどうした。  俺はまだ返答をしていないぞ。 「納得出来ないわ。瑠璃の手伝いなんてなくても、あたしはやれる」 「お前、さっきまで滅茶苦茶駄々こねてただろ」  楽しくないとか無理とか怖いとか。 「うーるーさーいー。キミに手伝われるくらいなら、一人でやったほうがマシってこと」 「だーめ。あなた一人だなんて、絶対に駄目。私が心配で、倒れてしまいそうになるわ」  頑なに譲らない闇子さんは、次に俺を見て。 「瑠璃くんからも、言ってあげてくれる?」 「……俺はまだ、了承していませんが」 「でも、手伝ってくれるのよね?」 「…………」  この人は、中々食えない人だ。  なんだかんだと、自分のペースに物事を進ませていく。 「手伝いますよ、手伝わせていただきます。確かに、夜子一人だと何をしでかすのか不安ですから」 「それ、どういう意味?」 「そのままの意味だよ」 「いらっ」  母親の手前、睨む程度に留められる憎悪。 「良かったー、これで一安心ね」 「待って、まだあたしは納得していない」 「それじゃ、あとは瑠璃くんにお任せするわね。大丈夫、今回のお仕事は、単なるお使いだから」  はい、と。  俺にクリアファイルを渡す。 「母さん、それはあたしが一人でやるから、任せて」 「詳細はそこに書いてあるから、後で読んでおいて頂戴。大丈夫、閉じられた魔法の本を受け取りに行くだけの簡単なお仕事よ」 「それくらいなら、あたし1人でも」 「小さなお仕事から、ちょっとずつ慣れていってね。任せたわよ」 「お、お母さん……」  ガン無視する母。  なんだろうなあ、本来滅茶苦茶甘い人なのに、最近は夜子を適当に扱っているような気がする。 「というわけで、瑠璃くんの邪魔をしちゃ駄目だからね、夜子ちゃん」 「…………」  いつのまにか立ち位置が変わってるんだが?  あくまで俺が、夜子の補佐をするんだよな? 「それじゃ、私は仕事があるから、後はよろしく」  じゃあね、と。  足早に退出していく闇子さん。  残されたのは、俺と夜子だけ。 「…………」 「…………それ」  恨めしそうに、クリアファイルを指差す。 「ちょっと、貸して」 「断る。俺が預かったんだ」 「いいから渡しなさい。キミには荷が重すぎる仕事よ」 「中身も知らないでよく言えたもんだな……」  あれほど無理だと言っていたのは、どこの誰だったか。  呆れながら、クリアファイルの中身を確認する。 「……ふむ」  確かに、これはとても簡単な内容だ。  問題なく、遂行できるだろう。 「一人で読まないで、あたしにも見せなさい。ずるいわよ!」 「お前、外に出るのは嫌じゃないのか?」 「魔法の本のためなら、頑張れるわ」 「例え、その中身が読めなくても?」  今回の仕事は、本が開かれるような類のものではなさそうだ。  先程も闇子さんが言っていた通り、そういう仕事は与えないようにしているのだろう。 「それでも、構わない。魔法の本なんて、いつ開くか分からないわ。それに近いところにいれば、いつか読めるはず」 「本のこととなると、ポジティブだな」  たしかにその通りではあるけれども。 「だが、お前、この場所わかるのか?」  お使いと、闇子さんは説明した。  封印された魔法の本を取りに行く、その待ち合わせ場所。  地図と写真が同封されているので、見せてやると。 「……なにこれ、北海道の地図かしら? 母さんも、適当な資料をよこさないでほしいわね。それとも、まさか本当に北海道へ……?」 「どうみてもこの島だろ」  地図の見方も分からねえのかよ! 弱いのは英語だけじゃなかった! 「う、うるさい、似てるじゃないの! 島っぽさが、特に!」 「北海道はこんなに小さくねえって」  比較したら、豆粒みたいなもんだぞ。 「街外れの丘の上にある、廃教会。どうやらそこに行けばいいらしい」 「丘? 教会? そんなものが、この島に?」 「お前、ちゃんと一人で行けるのか?」  視線を逸らして、お茶を濁す。 「妃に、お願いする」 「俺を頼れ」 「どうして」 「闇子さんが指示したからだ」 「……こ、このっ」  文句は口にしても、拒絶は出来ないらしい。 「それに、これは俺が任された仕事でもある。投げ出すわけにはいかねえだろ」  こちとら、居候させてもらっている身分なんだ。  頼まれごとは、全力で力になりたいと思っている。 「何よ、こんなときだけ格好つけても、意味ないわよ」 「そうじゃねえよ。それにお前、大丈夫か?」 「へ?」 「待ち合わせってことは、知らないやつから本を受け取ることになってるんだろ。見ず知らずの他人相手に、失礼なく対応できるのか?」 「……相手の出方次第ね。失礼がないのなら、あたしも寛大な心で対応してあげます」 「その言葉から、もう何も期待できねえよ」  だめだこりゃ。 「い、いきなりハードル高すぎない?」 「お前のジャンプ力が壊滅的なんだよ」  それくらいのハードル、翔べ。 「仕方がないわね……キミがどうしてもというのなら、手伝わせてあげる。ただし、あたしの邪魔はしないように」 「……ああ、どうしても、手伝わせてくれ」  もう面倒になったから、夜子の言う通りにしておこう。 「ふふん、しょうがないわね。同伴を許してあげましょう」 「…………」  胸を張って、鼻で笑う。  今更そんな態度をとっても、何も誇示できていないぞ。 「それで、受け取りはいつなの?」 「明日の夕方だ」  午後17時丁度、廃教会で待つ――。  印字された文字に備えられていた名前は。 「待ち合わせの相手は、本城奏という人物だ」  驚きは、胸にしまう。 下手に反応すると、夜子が何を言うかわからないから。  日向かなたです!  今日は私の身の回りの不思議について、ご紹介します。  近頃、私の前に現れた不審人物こと、四條瑠璃さん。  本土から入学してきた、所謂外からやってきた人。  曰く、昔はこの島に住んでいたそうですが、私とは面識ありません。  入学したての頃は、とても興味深い調査対象として見ていたのですが、後に驚くべき事実が発覚しました。  なんと、キス魔だったのです。  乙女の可憐な唇を無理矢理に襲う、下劣極まりない性犯罪者。  本来ならばその程度の輩、私の相手ではないのですが、どうにも瑠璃さんの前ではいつもの私を維持できません。  何があったのか、何が変わったのか。  私の中で、不思議と彼の存在が渦巻いているのです。 「……さてはて」  ぼんやりと虚ろに浮かぶ奇妙な光景。  私の知らない私が、私の知らない瑠璃さんと仲良くしている風景。  夢現の間に見たそれは、現実、ありえるはずがないのに。 「どうしてあのとき、私は教室にいたのでしょうか」  瑠璃さんと、ご一緒に。  そういう間柄では、なかったはずなのに。  むしろ、好奇心に目を輝かせる私を、面倒臭がっていたはずなのに。  整合性の取れない記憶。  いや、整合性はとれているのに、あまりにも不自然な繋がりに違和感を拭えないでいる。 「綺麗な綺麗な、翡翠色」  宝石のような煌めきが、宝石のような眩さが、見えたような気がした。  私の中で渦巻く輝きは、何を覆い隠しているのでしょうか。  好奇心が、くすぐられた。  しかし、それは触れてはいけない禁忌のように思えてしまいます。  だから、それ以来、瑠璃さんと言葉をかわすことは殆どなく。  ただ、曖昧な記憶と不穏な瑠璃さんを、遠巻きから訝しむだけ。 「……なんなんですか、もう」  そんな私を、彼はまるで意に介さない。  私にキスをしたことを忘れて、他の女の子といちゃついている。  引き篭もりの遊行寺夜子さんを引っ張り出してきて、楽しそうにしているんだ。 「もう、どうでもよくなりました」  魔法使いの噂なんて。  本当に、興味がなくなってしまった。  あそこに住むという魔法使いも、あそこに引き篭もっているというお嬢様のことも。  今、私が気になっていることは、ただひとつ。 「――どうして、私にキスなんてしたんですか」  翡翠色の名残が、唇を乾かす。  しかし、日常に埋もれる私に、瑠璃さんは見向きもしないのです。  資料に示されていた廃教会というのは、街外れの丘の上にあるらしい。  森の奥に潜む図書館と同じくして、あそこは誰も近付かない寂れた場所だ。  「受け渡しをするのなら、図書館に来たらいいじゃねえか。 何でわざわざ別の場所で」 「知らないわよ。単純に、近寄りたくなかっただけじゃない?」  坂道を登りながら、肩を並べて歩く。  夕焼けの光を浴びる夜子を、久しぶりに見たような気がした。 「部外者を内部に入れることに、抵抗があったのだと思いますよ」  もう一人。  予定していなかった人物が、口を開いた。 「あまり、仲の良い関係ではなさそうですし」  俺から奪った資料を読みながら、妃は言う。 「何でお前までついてきてるんだよ」  予定では、俺と夜子だけのはずだったのに。 「いいじゃありませんか。私としても、いささか興味があります」 「あたしが、頼んだの。文句ある?」 「いや、ないけどさ」  むしろ華々しくて、良いとさえ思うけど。 「文句というのなら、妃が手に持っているそれはなんなのよ」  不満気に、夜子は指摘する。 「この資料がどうかしましたか?」  左手をかざして、クリアファイルを見せる。 「違うわよ。その逆、右手に持っているものよ」  意外そうに、手にしていたものを見て。 「アイスですが、それがどうかしました?」  当たり付き棒アイス。  ソーダ味のしゃくしゃくした咀嚼音が、継続的に発生している。 「歩きながら食べるなんて、行儀悪いわよ?」 「でも、瑠璃も食べてますよ」 「…………」  ちらり、と俺を見て。  同じくアイスを頬張る俺に、責任をなすりつけようとする。 「学園帰りに、瑠璃が買ってきてくれたのです。食べなければ、勿体ないでしょう?」 「本当は、夜子のご機嫌取りに買ってきたんだけどな」 「あたしはそんなもので懐柔されないわ」  ご覧のとおり、受け取りを拒絶して、代わりに妃が受け取った。 「私、体温が高めなので、定期的にアイスを食べなければいけないんですよ」 「意味不明な嘘をつかないで。初耳よ」 「アイス片手に坂道を登るなんて、風情があっていいじゃねえか」 「遠足気分で楽しんでいるんじゃないわよ。これが大切な仕事だと、わかっているのかしら?」 「気を張っても仕方がないだろ。それに、受け取るだけの仕事じゃねえか」  アイス片手にこなせる仕事だろう。 「真面目が必要になるまでには、食べ終えますよ。しゃくしゃくしゃく。冷たくて、美味しいです」 「こ、この兄妹は……本当に……」  呆れたように、言葉を吐く夜子。 「ふふふ、食べたくなったらいつでも仰ってくださいね。一口、食べさせてあげます」 「結構よ」  ぷいっと顔を背けて、拒絶した。 「そんな安っぽいアイスの、何がいいのかしら。理央が作ってくれるお菓子のほうが、美味しいわ」 「どっちが美味しいかなんて、比べるようなもんでもないだろ」  溶け始めた部分を、零さないように口に含んで。 「どちらも美味しくて、どちらにも魅力がある。これは、62円の幸せだよ」  当たりが出たら、もう1回味わえるんだぜ。 「……そんなに、美味しいの?」 「病み付きになる程度には」  ソーダ色のアイスを魅せつける。 「今すぐ、瑠璃のを奪って舐めたいくらいには、美味しいですよ」 「こいつの食べ差しなんて、絶対に食べたくない……」  心底嫌そうに、顔を背けた。 「では、私の唾液でベトベトになったアイスを食べてみますか?」 「どうして美味しくなさそうな言い方をするのかしら」  もちろん、はしたない食べ方をしているわけではないので、べとべとであるはずもなく。  ……いや、食べ歩きの時点で、はしたないか? 「はい、どうぞ」  それでも、妃は差し出して。 「……奪い取るくらいに美味しいのに、あたしにあげてもいいの?」 「62円の幸せは、他人に分け与えても痛みはありません」 「そう」  短く、返事をする。  それから少し迷って――アイスを、受け取った。 「こ、零れかけているのだけど」 「溶け始めていますから。そこは、舐めとって下さい」 「す、スプーンは?」 「カップ式のアイスではありませんので」  引き篭もりお嬢様は、コンビニで売っているようなアイスでさえ、食べたことがなかったのか。 「手についちゃうわ」  躊躇いながらも、慌てるように舌を出す。  小さな赤い舌が、冷ややかなアイスに密着する。 「……冷たい」  それが、第一声。 「すぅっとするわね」  先っちょを、躊躇いがちに口に含んだ。  妃が食べていたように習って、夜子も従った。 「……妃の、味がする」 「唾液でベタベタですからね」 「それでも……悪くない、かも」  初めての感触に、やや迷いながら。 「これが、ソーダ味? 炭酸水のような感じではないけれど」 「そういうもんだよ。それっぽいってだけだ」  62円に、求めすぎるなよ。 「それっぽいだけ? これはソーダを凍らして作っているんじゃないのかしら」 「そんなわけねえだろ」  どこまで無知なんだ。 「お気に召して頂けましたか?」  柔らかな表情が、夜子を捉える。  対して夜子は、照れくさそうにアイスを咥え、視線を外す。 「悪くわないわ、と言ったはずよ。坂道を登って暑くなってきたから、涼をとるには丁度いいわ」  どうやら、返すつもりはないらしい。  それは夜子にとっての、最大級の賛辞なのかもしれない。 「じー」 「……ん?」 「じー」 「…………」  幸せそうにアイスを満喫する夜子の隣。  手持ち無沙汰になった妃が、何かを言いたげに見つめている。 「瑠璃、知っていましたか?」 「なんだよ」 「女の子には優しくするべきなのですよ」  手を差し出して、何かを求める妃。 「口元が寂しくて辛いのです。唇が熱を持って、熱い。早く冷まさなければ、火傷してしまいます」 「夜子にアイスを恵んでやったところで終わっていれば、これは美談になるんだが?」 「そんなものよりも、私は目先にある瑠璃のアイスが欲しいのですよ」 「……わかったよ」  絡みつくような眼差しを向けないで欲しい。  心がざわついてしまうじゃないか。 「はい、よく出来ました」  俺からアイスを奪いとった妃は、幸せそうに口をつける。 「……それは汚れているから、食べるべきではないわよ」  不満気に、その様子を見ていた夜子。  妃からもらったアイスを、早くも完食しつつある。 「地面に落ちたよりはマシですから。それに、瑠璃から奪い取るというのも、構図としては愉快ではありませんか」 「……まあ、瑠璃にはこのアイスは勿体ないわね」 「俺が買ってきたことを、忘れるなよお前ら」  和気藹々と楽しんでくれるなら、その甲斐はあったけれど。 「冷たくて、冷たくて」  アイスを口に運びながら、まるで魅せつけるように。 「熱くなりすぎた私の身体を、落ち着かせてくれますね」  その様子に、若干の艶めかさを覚えた俺は、正常だったのだろうか。  挑発的な妃の眼差しに、釘付けだ。 「……熱くなってしまうだろ」  心も、身体も。  きっとそれは、太陽や坂道だけのせいではないはずだ。 「あ、全部食べてしまったわ……」  棒切れだけを振りかざして、寂しそうな表情を浮かべる夜子。  少し首を振って、やや困惑するように声を上げる。 「ねえ、当たりって書いているのだけど、これは何?」 「もう一度、アイスが楽しめるってことだよ」 「な、なんですって」  嬉しそうに驚愕する夜子。  すっかり、市販のアイスの魅力に取り憑かれてしまったらしい。 「これも、日頃の行いのおかげね」 「それだけは間違っている」  夜子が珍しく外出した日に、小さな幸運が訪れる。  確かにそれは、頬が緩んでしまうような神様のイタズラなのかもしれない。 「さあ、見えてきましたね、教会が」  遅れて完食した妃が、何も描かれていないアイスの棒で、指し示す。  夜子は当たりで、妃は外れ。  しかし本来は――その当たりは妃が受け取るはずだった。 「何が待ち受けているのか、非常に楽しみです」  心弾ませる表情を浮かべる妃。  この中で一番、楽しんでいるようだった。  教会の中は、まるで時間の流れから取り残されたかのように、整っていて。  今もそこに誰かが暮らしているような、そんな雰囲気さえ醸し出していた。  隅には古びたピアノが置いてる。 調律はしていないだろうから、弾くことは叶わないだろう。 「早かったじゃないか、少年少女達」  ステンドグラスの真下、神のお膝元で足を組む女性は、俺たちを歓迎する。 「……初めまして、四條瑠璃です。今日は、遊行寺闇子の代役として参りました」  一歩、先に立つ。  他人を無自覚に排斥する夜子を、軽々と喋らせるべきではないだろうから。 「四條瑠璃? ふぅん……遊行寺家の人間じゃないのか」  奏さんは、ぎろりと俺を見つめる。 「……まあいい、私が用のあるのは君ではない。夜子くん、君だよ」  俺の隣にいる少女へ向けて、奏さんは指をさす。 「これは、キミに渡すように依頼されているからな。ほら、どうした? 早くこちらへ来るんだ」 「……私、ですか?」  そうして指名したのは、夜子ではなく、妃だった。  「他に誰がいる。全く、この程度の仕事、一人でこなしてもらわなければ困るな」 「……ちょ、ちょっと」  背後で、夜子が不満を訴えている。  どうやら、妃のことを夜子だと勘違いしているらしい。 「――ぷっ、くすくすくす」  当然、誤解された妃は吹き出してしまって。 「遊行寺夜子は、私ではありませんよ。私は月社妃と申します。ふふふっ」 「何? そうなのか?」  驚いた風に、奏さんは声を上げる。 「では、こっちの少女が遊行寺夜子か? 何とも――幼いのだな」 「何よ、この女。少し、無礼が過ぎるのではないかしら」  案の定、怒り心頭の夜子。  お子様扱いされて、黙っているような奴ではない。 「失礼、先方からは外見の情報までは貰っていなかったのでな。まさか君のことだとは思わなかった」 「私が、お嬢様に見えましたか? こう見えて、しがない一般人ですよ、私は」 「……一般人だと?」  その言葉に、目敏く奏さんは反応する。 「この少年もそうだが――遊行寺家は一体何を考えている? 一般人を巻き込んで、何をしているのだ。少し、見過ごせないな」  鋭い眼光が、夜子を睨みつける。 「お前には、関係ないことでしょう。人の家の事情に、口出ししないでくれるかしら」  対する夜子も、友達を部外者と扱われて、かちんときたらしい。 「関係ない? それは魔法の本などという、ふざけた存在を前にしても言えるのか」  辛辣な言葉で、奏さんは声を張る。 「無関係な人間をも巻き込む異形の存在。それを担う立場の人間なら、軽々しい発言をしてもらっては困るな」 「お黙りなさい。あたしがどんな人間を周りに置こうが、勝手でしょう? それでお前に迷惑をかけたわけじゃないのだし」 「ほう? 全て説明済みで、君たちはこの件に関わっているのか」  俺と妃を、一瞥する。 「私には、何も知らずに協力させられているようにしか見えないのだがな」 「悪意ある憶測はやめてくれる? そうやって人間関係を荒らすのが、お前の仕事なのかしら」  ここまで声を荒げるのも、珍しい。  夜子が他人を敵視するのは今に始まったことではないけれど、それにしたって気が立っている。 「下らない問答は結構よ。いいから、渡すものを渡してくれる? お前の仕事を、全うしなさい」 「……ふ、そうだな。今の私の仕事は、これを君に渡すことだ」  そう言って、取り出したのは大きめの封筒。  幾重にも包装され、厳重に封をされ、その中身は簡単に開けられないようになっている。 「それは――」 「――魔法の本だよ」  軽蔑するような眼差しで。 「こんなものが存在しているなんて、世の中は狂ってしまっている」  そう言いながら、夜子へと差し出す。  無表情のまま、夜子は手を伸ばすが。 「そして、それを嬉々として受け取ろうとする君も、な」  「――なっ」  受け取る直前に、奏さんは手を引っ込めてしまった。 「子供じみた真似をしないでくれる? いいから早く、渡して」 「渡すとも。それが私の仕事である以上、それを全うするのは当然だ」  しかし、と。 「条件がある」 「……はあ?」  強気な口調のまま。 「これを受け取ったら、一人で帰れ。部外者であるこの二人は、置いていけ」 「え?」  俺と妃は、同時に驚愕した。 「この二人に、少々話したいことがあるんだよ」 「話があるなら、今この場ですればいいじゃない」 「君がいたら、出来ない話もあるのだろう。遊行寺家の人間のいない場所で、伝えたい事実もある」 「――このっ」   対人経験の少ない夜子は、怒ることでしか不満を訴えることは出来ない。 「いいじゃありませんか、夜子さん。この方の言う通りにしたら、万事解決です。何も問題ありません」 「でも、妃」  不満気に、夜子は言い返す。 「あたしはこいつを、信用出来ないわ」 「信用するもしないもないでしょう。条件としては、緩々ではありませんか」 「そうだけど……」  「それとも、一人では帰れませんか?」  やや、挑発めいた声色。 「……わかったわよ」  他でもない妃に諭されて、しぶしぶ夜子は承諾した。 「ほら、受け取り給え。くれぐれも、開くんじゃないぞ?」 「分かってるわよ。当たり前のことを、言わないで」  分厚い封筒を受け取って、ようやく夜子は任務を果たすことが出来た。 「では、こちらの少年少女はしばらく預からせてもらうぞ。少なくとも――君が図書館に帰って、然るべき場所に隠すまでな」 「……ふん」  本を受け取った夜子は、俺たちに背を向ける。 「夕食までには、帰ってきなさいよ。理央が、寂しがるから」 「もちろんだ。お姉さんは、門限を破らせるような真似はしない」 「信用しかねるわ」  それでも、夜子は歩き出した。  あれほど挑発されて、まさか一人で帰れないとは言えないだろうから。 「やれやれ、面倒なことになってきたな」 「望むところですよ。何やら、愉快なお話が聞けそうですから」  奏さんは、尚も夜子の後ろ姿から視線を外さない。  扉の隙間から、完全に姿を消すその時まで。  そうして、俺と妃は廃教会に取り残される。  本城奏の、手によって。 「悪いな、私の我儘に付きあわせてしまって」  夜子が姿を消してから10分後、頃合いと見た奏さんが、口を開いた。 「改めて、自己紹介をしておこうか。私は、本城奏という。遊行寺家に雇われている、私立探偵だ」 「探偵、ですか」  訝しむように、妃は見つめる。 「魔法の本についての情報収集並びに収集を請け負っている。とはいえ――あまり信用はされていないがな」  自嘲気味に、語る。 「遊行寺家から見れば、部外者も同然の存在だからな。特に――担い手である遊行寺闇子からは、警戒されているよ」 「警戒されている、とは?」 「彼女は、周りを信用しないからな。私のことも、金目当ての薄汚い火事場泥棒か、興味本位に近付いた野次馬だとでも思っているのだろう」  上等だ、とでも言わんばかりの口調だった。 「では、雇い主は闇子さんではないんですね」 「形式上の協力関係ではあるが、違うな。私が雇われているのは、本家の方だ」 「…………」  本家、というのは、本土に根を張る遊行寺一族のことだろう。  闇子さんや夜子は、その一族から切り離された存在。  ここでは多くは、語るまい。 「探偵様が、クライアントのことをペラペラとお話しても良いんですか? 何とも口が軽いことですね」 「む? 別に口止めはされていないからな。それに、信用を得るためには、自分のことを話す必要があるだろう」  動じることなく、不敵に微笑む。 「四條瑠璃と、月社妃。自己紹介してもらって悪いが、私は君たちのことを知っていた」  悪びれる様子もなく、釈明した。 「知っていたんだ。いや、四條妃と呼ぶべきかな?」  親しみのある笑顔で、余計な事を指摘する。 「月社妃です。よろしくお願いしますね」  対する笑顔のまま、妃は自己紹介をやり直す。  そこは、どうしても譲れないらしい。 「……ふふふ、可愛いな。まあ、そういうのならそういうことにしておこうか」  年下の強がりを看破して、余裕で受け流す。 「だから私は、ヒスイの一件も知っている。外見はわからなかったから、勘違いしたのは本当だが」  良好な関係はなくとも、協力関係は成立しているのか。 「その一件以降、まるで関係者のように振舞っているのだろう?」 「やけに刺のある言い方をするのですね。私と瑠璃は、闇子さんに頼まれて同伴したまでですよ」  正確には、お前が頼まれたわけではないけどな。 「お姉さんから言わせてもらうなら、君たちは運が良かっただけだ。現状を正しく認識できていない」  一歩、俺に近付いて。 「遊行寺闇子は、君たちに危険を伝えていなかったのか? あの人は、本当に自分の娘のことしか考えていないんだな」 「……どういう意味ですか」  身内のことを悪く言われて、少し頭に血が上る。 「魔法の本というものはだな、決して愉快なエンターテイメント作品ではない。むしろその逆、災いの象徴だ」  ぐっと、言葉に力を込める。 「あれに関わる人間は、すべからく不幸になる。私はこの仕事に携わってから、そういう人間を沢山見てきた」 「忠告、ですか」 「いいや、警告だ」  俺の鼻先まで、接近し、息が吹きかけられるほどの距離で言う。 「今すぐ、関係を断絶しろ。そして二度と、あの図書館に近付くな」 「ハッキリ言っておこう。遊行寺闇子は、娘のためなら他の全てを犠牲にできる人間だ」  念を、押すように。 「魔法の本に演じさせるキャストは、身近にあったほうが便利なんだよ。君たちは、盤面上の駒に過ぎない」 「……なるほど」  声の調子を落として、付け加える。 「少し、過剰な言葉だったかもしれない。だが、そう警告せざるをえないほど、あれは危険な存在なんだよ」 「本の内容が、現実に引き起こされる」  それまで無言で傾聴していた妃は、ここで口を開く。 「その一文で、生み出される危険は想像できますよ。言われるまでもなく、察しています」 「……それでも、君は関わるのか?」 「当たり前じゃないですか。これほど面白いものを、見逃す選択肢はありません」  自信満々に、妃は語る。 「スリルというのは、人間を狂わせます。私はそんなスリルに身を任せながら、生きたいのですよ」 「……スリルに身を任せなくとも、幸せは手に入る。普通に、生きればいいだろう」 「残念ながら、私の幸せは普通に生きても手にはいらないのですよ」  その瞳の奥にちらつく感情。 「どうせ、長く続くとも思っていません。だから、波乱を求めてしまう」 「わからないな。それは――私には理解できない考え方だ」  内に秘めている真実は、例え探偵であっても気付くことはないだろう。 「君も、同じか」 「……ええ、まあ」 「煮え切らない返事だな。お姉さんの話を、聞いていたのか?」 「聞いていましたよ。まあ、だからどうしたとしか言えないというか」  呆れた表情を、奏さんは浮かべている。 「概ね、妃と同意見です。それに、どのみち俺たちには帰る場所なんてありませんから」  そう、あの図書館を飛び出して。  一体、どこへ帰ればいいというのだ。  あそこ以外の居場所なんて、最初からなかったのに。 「関係ないというのなら、それは奏さんにも、当てはまるんですよ」 「俺たちの事情に、外部が口出ししないで欲しい。何も知らないのは、あなたの方だ」 「……ふむ、それも、そうか」 「本城さんは、闇子さんと何か因縁でも? あまり良好な関係とは思えませんが」 「いや、相手の方から警戒されているからな。こちらとしても、腹の探り合いをせざるをえないのだ」  自嘲気味に、笑って。 「私からしてみれば、何故君達二人が信用されているのか、分からないんだよ。だからこそ、信用の裏の打算を疑ってしまう」 「…………」  大人の事情が、あるのだろうか。  とてもじゃないが、俺たちの知る闇子さんの評価とは思えなかった。 「これを、渡しておこう」  奏さんが、名刺を取り出して俺たちに渡す。 「もし何かあったら、連絡してきなさい。少なくとも、ある程度は力になれることを保証する。こう見えて、魔法の本とは付き合いが長いんだ」  私立探偵、本城奏。 「……この名刺を活用する日が来なければいいんだがな」  先の未来を憂うように、呟いた。 「そうだ、最後にもう一つ忠告しておこう」 「警告ではなく?」 「今度は、忠告だ」  声色が緩み、饒舌になっていく。 「宝石を名前を関するのが魔法の本の法則だが――そこに、特徴があるんだよ」 「特徴?」 「そう、傾向とも言うべきかな。決して無意味に、宝石の名前を冠しているわけではない」  やや、トーンを落としてから。 「輝きの色が、本の内容の意味合いを表している。あくまで傾向であり、全部が全部、そうだとは言い切れないが」  そして、更に低く。  最も重要な事を、奏さんは教えてくれた。 「中でも、黒い輝きを持つ宝石の物語は――絶対に開いてはいけない。あれはバッドエンドが約束される、悲劇の本だから」 「へえ」  その言葉に、妃は――まるで獲物を見つけるかのように、笑った。 「いくらスリルが大好きな君でも、不幸になりたいわけではないだろう?」 「もちろんです。これは良い忠告を聞かせて頂きました。ありがとうございます」  と、頭を下げた妃は、にこやかに、微笑みながら。 「先ほど夜子さんに渡した魔法の本。あれは、どんな宝石を冠していたのでしょうか」  その質問に対して――奏さんは、黙りこんでしまう。  言うべきか、言わないべきか。  脳内で葛藤しているのだろうか。 「答えられませんか? それならそれで、構いませんが」  余計なことを言ってしまった。  自らの忠告を後悔しているような、そんな表情とともに。 「蒼き輝きを放つ、悲しい物語」  そうして奏さんは答えてくれた。 「『サファイアの存在証明』だ」  日が沈み、夜を迎える丘の上。  廃教会の祭壇を背にして、俺と妃は互いに寄り添う。  奏さんが帰ってから、30分の時間が経過していた。 「帰らなくても、いいのか」 「帰っても、宜しいのですか」  古寂れてしまった教会で、二人は見つめ合う。  扇情的な雰囲気を醸しだしてしまうのは、何故。 「もう少しだけ、ここにいようか」  神のお膝元で、背徳のシナリオを描いていく。  ここは、終わった場所だ。 俺たちに、お似合いである。 「こんなところに、教会なんてあったとは。もう長いことこの島に住んでいますが、知りませんでした」 「廃れ具合を見ると、かなり前からあったようだが」  宗教が信仰されているという話すら、聞いたことはない。  今はなき、過去の異物か。 「ピアノが、ありますね」 「ああ、懐かしいな」  音楽という分野に、関心を抱いていた頃もあった。  あまり、思い出したくない過去かも知れないが。 「……もう、弾かないのか」 「今は、小説を読むほうが好きなんですよ」 「そうか」  そう、だよな。  もう、ピアノは辞めたのだから。 「わざわざ、丘を登ってまで訪れる人間もいないんだろうな」  知っている人も、極少数ではないだろうか。  あまり人口の多くない場所だから、放置されている土地も多い。 「だからこそ、こうして素直になれるというものです」  甘い吐息を吹きかけながら、俺の肩に頭をのせる。  髪の毛から漂う妃に匂いに、意識を奪われそうになった。 「珍しいな、外でお前が本音を言うなんて」  それでもここは、密室ではない。  誰かが突然現れる可能性を、否定出来ないというのに。 「……今日くらいは、宜しいじゃありませんか。適度に瑠璃の本音を聞かなければ、私の心は枯れてしまいます」 「俺の本音なんて、いつでも見透かされていると思っていたけど」  それくらいには、信じてくれているんだろ? 「瑠璃が私のことを愛してくれているなんて、当たり前のことですからね」 「自信満々だな」  しかし、否定はしない。 「じゃあ、もし俺が他の女の子のことを本気で好きになったら、どうするんだよ」 「ありもしない未来を想像したことはありません。先程も言った通り、私は私自身の魅力と、瑠璃の心を信じていますから」  自分の存在を示すかのように、頭をぐりぐりと擦りつけてくる。 「ただ」  ぴたり、と。  マーキングのような行為が、停止して。 「もし、瑠璃が他の女性を本気で好きになってしまったのなら」  声が、嫌に平坦だった。  そのことが、脳裏にこびりつく。 「――その時は、普通の兄妹に戻るだけですよ。ええ、それだけです」 「……妃」  俺の肩から、頭を離す。  温かな重みがなくなって、少しだけ寂しい。 「そのときは瑠璃のことをお兄様と呼びますし、姓も四條と名乗りましょう。健全な関係に戻るのが、瑠璃の幸せなんですから」 「残念だが、幸せになりたいと思ってるわけじゃない」 「そうですね。瑠璃は私と、不幸せな関係を築いていくのですから」  肩に、指が乗せられる。  服の上を這うようにして、それは頬まで達して。 「神様はどうして生きることを難しくしてしまったのでしょう。もう少し、たやすい世界なら良かったのに」  瞳が交錯する。  互いに求めているものが何かを、心で理解する。  気が付けば――俺の手は、妃の肩を掴んでいて。 「――んっ」  人気のない丘の上。  古錆びた廃教会のステンドグラスを背景に、二人の男女が愛情を確かめ合う。  柔らかで優しい、温かな口付けだ。 「……お前の唇は、麻薬みたいな味がするよ」 「それはまるで、瑠璃が麻薬を口にしたことがあるように聞こえますが」 「そう思ってしまうほど、病み付きなんだ」  神様は、俺たちを見下ろして、怒りに打ち震えているのだろうか。  教会で口付けを交わす兄妹を、断罪しようとするのだろうか。 「心が、枯れてしまうというのは」  それは、先ほど妃の言った言葉の続き。 「言葉にして、態度にして、瑠璃の愛情を教えて欲しいということです」 「……ああ、そうだな」  痛く実感する。  妃の求めているものを、身にしみてわかっているから。 「言葉にしなくても想いは通じますが――それは、言葉にしなくて良いということではありません。私はいつだって、瑠璃の愛情を求めているのですから」 「俺だって、同じだ」  この唇を、この柔肌を、この髪先を、この指先を――全て、堪能したい。  叶うことなら、自慢の妹を彼女だと宣言したい。 「ああ――でも、満たされますね」  幸せに埋もれるように、妃は目を閉じる。 「心が、潤いを取り戻していきます。まるで瑠璃の愛情が、栄養のよう」 「俺は、お前の心の庭師かよ」 「うふふ、それは言い得て妙かもしれません」  甘い吐息に、思いをのせて。 「私は枯れ木のように繊細ですから――愛を注ぐことを、忘れないでくださいね」  束の間のひとときに心を安らげる。  俺たちが戯れることの出来る機会は、ほんの一握りしかなく。  だから、社会の隙間を縫うようにして、愛を確かめ合わなければいけないのだ。 「……それにしても、魔法の本はとても興味深い玩具ですね。夜子さんと同じく、私はそれがもたらす事件が楽しみで仕方がない」 「あいつは中身にしか興味がなかったが、お前はむしろそのものに興味がありそうだな」 「そうですね。魔法の本に関わる全てが、興味の対象です」  日向かなたのことを、悪くは言えない。  ここにもまた一人、好奇心の権化がいる。 「……さて、そろそろ戻りましょうか。夕食の時間が近付いています」 「もうそんな時間か。名残惜しいな」  もう少し、妃の心に触れていたかったが。 「飢えた獣のようですね。興奮し過ぎて、襲い掛からないでくださいね」 「枯れ木を貪る趣味はないからな」 「……ほうほう」  やや不満気な表情を浮かべた妃は、すぐさま行動する。 「枯れ木にも魅力はあるのですよ」  悪戯っぽく笑って、扇情的なポーズを取る。  黒タイツの足がやけに眩しい。 「興味が無い、と?」 「…………」  この野郎。 「これでも、ですか?」  今度は前かがみになって、胸元を広げ始める。  何故だろう、平坦な胸であっても、それが妃のものだと思うと視線を奪われてしまうのは。  艶かしいポーズと無表情さのバランスが、この上ない魅力を醸し出す。 「……わかったよ」  両手を上げて、降参する。 「これ以上は、辞めろ。我慢できなくなる」 「枯れ木に何を我慢するのでしょう?」 「……俺が、悪かった」  全面的に謝罪しよう。 「くすくす、強がりを言うからです。本当は、今すぐにでも私を堪能したいくせに」 「お前は本当に質が悪いな……」 「瑠璃の方こそ、意地を張って変な誓いを立てるのが悪いんです」 「…………」  俺が妃との間に立てた誓い。  それは――学園を卒業するまで、一線を越えないこと。  後戻りできなくなるラインの直前で、堪えているのだ。 「お前がもし、万が一、普通の兄妹に戻りたくなった時の、保険だよ」 「分かっていますよ。同時に、覚悟を計っているのでしょう?」  不幸のどん底に落ちる覚悟。  俺たちの歪な兄妹関係が、どこまで保つことが出来るのか。  もし、卒業までの長い時間、兄妹である俺たちが互いを愛し続けられたなら。  そのときは、全てを失って、妃を我がものとしよう。 「私としても、素敵な誓いだと思います。瑠璃にも、後戻りが出来るという余裕を用意しておきたいですし」  唇に、手を当てて。 「それに、一度踏み越えてしまったら――もう二度と、後戻りはできないのですから」  互いが互いを試すという構図。  だから俺たちは――キスまでの、ささやかな恋人関係。 「まあ、我慢できなくなって襲ってもらうというのも、構いませんよ。誓いを破っても、それは繰り上げをしただけのこと」 「そうだな。むしろ、誓いを破らせるくらいに愛しているとも、解釈できるか」  結局、そんな誓いは形式上のもので。  俺はまだ、妹を愛することに恐怖を感じているのかもしれないが。 「ペナルティは、後戻りができないというだけ。生易しくて、つい破ってしまいそうですね」 「……それらしい理由をつけて、俺たちの関係を正当化したいだけなのかもな」  卒業まで我慢出来たから、本気なんです。  なんて、誰に訴えているのだろうか。  誰に証明しなくとも――それが確固たるものであることくらい、俺たちが一番知っている。 「さて、帰ろうか」  一歩、距離を開けた。  恋人から、妹へと切り替わる合図。 「ええ、帰りましょう」  妃は、表情を切り替えた。  色味のない、淡白な無表情。  兄のことを嫌う、ただの一人の妹へ。  確かめるように、妃は言った。 「あなたは、私が不幸せにしてあげますからね」  それは俺たち二人にしか通じない、愛情の台詞。  忌々しい探偵のことを思い出すと、怒りが込み上げてくる。  腸が煮えくり返るような感情は、私が普段経験していないもの。 「何よ、あの言い草」  これだから、本家の人間は嫌いだ。  いつだって、あたしたちを敵視する。  あのときも、あのときも、あのときも、いつだって。 「挙句の果てに、妃を部外者呼ばわりをして」  たった一人の、友達なのに。  かけがえのない、友達なのに。  除け者のように扱ってしまったことが、とても悲しかった。  だが。  だが、あの探偵の言葉は、間違ってはいなかった。  魔法の本に関わる真実を――1つ、隠していることがある。  聞かれても、絶対に答えないと決めていることがある。  いや、これは知らなくたって構わないことだ。  知っていたところで――必要のあるものではない。  私の伏せている真実。  それは、魔法の本のもう一つの終わらせ方。 「――開いている魔法の本を壊してしまえば、物語は強制的に終了する」  それは、最悪の方法だ。  世界に一つだけしかない貴重な物語を絶滅させる、最も下劣な方法。  燃やしたり、破いたり、破壊という手段でこの世から消してしまえば――全ては元に戻る。  だが、誰よりも本が好きな私は、その方法を絶対に許さない。  読みかけの本を処分するなんて、そんなのは読書家のしていい行動じゃない。  だから――隠している。  お母さんは、その方法が必要になる日は来ないと、言っていた。  そういって、私のことを安心させてくれた。  あたしたちは、本を守る側の人間であって、壊す側の人間じゃない。  もし、母さんが他に何かを伏せているのだとしても。  あたしや、妃に伝えていない事実があったとしても。 「――それは、あたしたちのためを思ってのことのはず」  だから、何も問題ない。  母さんの言う通りにしていれば、大丈夫だ。  そう自分に言い聞かせて、心の平穏を取り戻す。  今頃、あの私立探偵はあることないこと吹き込んでいるのだろう。  あたしたちは、嫌われ者だから。  忌み嫌われる、外見をしているから。  遊行寺家では――白髪赤目は、忌み嫌われる存在なのだ。  余計なことを思い出してしまって、慌てて雑念を振り払う。  手にしていた封筒の重みを思い出して、意識を他のところへ向けよう。 「……理央、いる?」  少し声を上げて、呼んでみた。 「はーいっ、呼ばれて登場でーす!」  あたしの心情を察してか、明るめの調子で登場してくれる。  いつだって、呼べばすぐに来てくれる。 そんな理央は、あたしにとっての清涼剤。 「これ、母さんから頼まれていた本よ。理央に渡せばいいのよね」 「あいあいさー! 責任をもって、保管庫に封印しておきまーす」  保管庫。  それは、母さんの部屋にある魔法の本の隠し場所。  あたしでさえも出入りを許されていない、この図書館の秘中の秘。 「ねえ、理央」  そこの管理と番を任されているのは――あたしではなく、理央だった。 「理央は――あたしの知らない魔法の本についての情報を、なにか知ってるのかしら?」  そこに、疑問を挟んでいるわけではない。  母さんがそうするべきだと判断したから、そうしている。  確かにあたしに任せるよりは、安全かもしれないけれど。 「駄目だよ、夜ちゃん」  理央は、申し訳なさそうに言う。 「お館様から、理央は口封じをされちゃっているのです。いえすものーもいえませぬ」 「口封じじゃなくて、口止めでしょ……」 「ちがいがわかんにゃーい」 「……全く」 「そうね。母さんも、理央に聞くことを禁止していたわね」 「さー?」  脳天気に首を傾げる理央。  可愛らしいのだけれど、なんだかもどかしい気分にさせられる。 「まあいいわ。とにかく、確かに本は預けたわよ」 「はーい。では、いますぐ隠してくるねー」 「あ、ちょっと待って」  駆け出そうとする理央を呼び止める。 「一つ、お願いがあるのだけど」 「にゃ? お願い?」  理央は、意外そうに声を上げる。 「夜ちゃんが、理央に? 命令じゃなく?」 「あたしは、理央に命令しているつもりなんて、今まで一度もなかったわよ」 「そーでしたー」  あはは、と。  申し訳なさそうに笑ってみせる。 「急で申し訳ないのだけれど、何か甘いお菓子を用意してくれるかしら」 「ほえ? 腹ペコー?」 「違うわ」  食べるのは、あたしではなく。 「妃の好きそうなものを、作ってくれると嬉しい。もちろん、簡単なもので構わないから」  こびりついた罪悪感を、拭いたかった。  でもあたしには理央に頼むことでしか、それが出来ない。  一人では何も出来ないお嬢様――そう言われても、仕方がなかった。 「お、おおっ! 夜ちゃんがデレデレだ! でも、瑠璃くんじゃなくて妃ちゃんだった!」 「なんでそこであいつの名前が出てくるのよ」  気分が悪い。 「うーんとね、じゃあ理央からもお願いをしていいかなあ?」 「お願い? 理央が、あたしに?」  それは――本当に、珍しいことだった。  いや、たぶん、初めて、かもしれない。 「えーっとね、妃ちゃんへのプレゼントなら、夜ちゃんにもお手伝いをして欲しいかなって。そっちの方が、幸せだよー」 「……あたしが?」  理央の、手伝い? 「そんなの、足手まといになっちゃうわ。こう見えて、あたしは何も出来ない引き篭もりよ」 「知ってるよー」  にこやかに同意されてしまった。  なんだか、悔しい。 「でも、夜ちゃんが手伝ってくれた方が、妃ちゃんも喜ぶと思うな。理央一人じゃ、むり」 「ますます意味不明よ。美味しいほうが、喜ぶに決まっているじゃない」 「駄目ですかにゃ? 理央のお願い、不許可?」  小説を読む時間が、なくなるから。  理央のお願いは、考慮するまでもなく却下なのだけれど。  ――理央は、あたしと学園に通いたかった。   そんな些細なお願いでさえ、あたしは今までされたことがなかった。  あの馬鹿に言われるまで、理央がそんな風に思っていたことを知りもしなかったのだ。  それを知った時に感じた、あの胸を突き刺すような痛みの正体はなんだったんだろう。  今断ろうとするあたしの唇が、凍りついているのは何故? 「……わかったわ」  小説を読む時間と、それを天秤にかけて。  それでも前者を取るのが、遊行寺夜子という人間だったはず。 「手伝って、あげる。でも、期待しないでよ。やったこと、ないんだし」 「うわーい!! ほんと? まじまじ? きゃー、ゆーめーみーたーい!」  飛び跳ねて喜ぶ理央を見て。  凍りついていた唇が、溶け出すのを感じる。  不意に湧きだしたぬくもりが、胸の心にまで広がっていく。 「大袈裟ね。素人が何の役に立つか、全然わからないわ」 「役に立たなくてもいいよ! 一緒に台所に立てるだけで、理央も幸せ! 妃ちゃんも、嬉しい!」 「そうかしら」  あまりの喜びように、照れくさくなる自分がいる。  理央の感情表現が、激しすぎてたまらない。 「じゃ、ちょっと待ってて、すぐ取ってくる! 急がなきゃ、間に合わないし」 「え? 取ってくるって、何を?」 「夜ちゃん専用の、えぷろん!」 「そんなものまで用意していたの!?」 「うん、暇な時に、ちょこーっと、みしんでぐあーっと作ってましたゆえ」 「しかも、手作りって」  用意周到さに、呆れて声も出なかった。 「でも、サイズが大丈夫かにゃー。結構前に作ったから、不安」 「あなた、いつから用意していたのよ……」  エプロンなんて、こんな気まぐれを起こさない限り、絶対に必要ないものなのに。 「えーっと、2年前くらい?」  あっさりと口にされた数字に、愕然とする。  この子は、どうして――そんなに。  もはや、何も声にならなくて、今はただ頷いた自分を褒めてあげたかった。 「んじゃ、取ってくるー!」  あたしに、何も求めない女の子。  ずっとずっと一緒に暮らしても、お願いの一つも言わない理央。  喜ぶ背中を見つめながら、思い知ってしまった。  あたしは、理央の何もかもを知らないでいる。  毎日ページをめくることにあけくれているときには、疑問さえ思わなかった。  あたしはずっと、ページを眺めていて。  そのとき、傍に居てくれた理央は、どこを向いていたのだろう。  そういえば、と。  瑠璃が図書館に来るようになって――少し、読書の時間が減ってしまった。  代わりに増えたのは、言葉数。  誰かと過ごす時間が、知らず知らずのうちに増えてしまっている。  それが良い変化なのかどうかは、今のあたしには判断できない。  だが、少なくとも――不満は、なかった。    妃の不幸話、その2。  月社妃は、初めから両親との仲が悪かったわけではない。  むしろ、良好な関係を築こうと、両親は努力してくれていたのだと思う。  気難しい娘を前にして、距離感を測りきれず。  冷めた娘を前にして、どのような言葉を語りかけたら良いのか。  あれこれ頭を悩ませる両親を、妃だって憶えているはずだ。  けれど、そんな両親に対して、妃は歩み寄りを見せることはなかった。  そんなことは知ったことではないと、常に思うがままに振る舞い続ける。  妃は、俺のことしか見ていなかったから。  妹は、兄のことばかり見てしまっていたから。  妃と両親の関係が悪化していくのは、仕方がなかったのかもしれない。  そして、その影響が現れ始めたのは、母親だった。  冷めた態度が、気に食わなかったのか。  達観したような振る舞いが、鼻についたのか。  何かにつけて、母親はヒステリックに暴言を吐くようになっていったのである。  例えば、少食の妃に、わざと多量のご飯を盛りつけて、厳しい言葉で食べ残しを許さなかったり。  例えば、毎日のように妃にかけたお金を愚痴愚痴と呟いて、金のかかる娘だと揶揄する。  女の子らしい振る舞いをしろだとか、言葉遣いをちゃんとしろとか、親を敬えだとか、姿勢を正しくしろとか、礼儀作法だとか。  まるで粗探しをするように、目を光らせていたのである。  実際のところ、母親が妃個人にかけたお金は、ほとんど皆無。  息子である俺には喜んでお金を出すが、妃に与えるものは俺のお下がりか、格安のものだけ。  それでも妃は、文句を言わずに従った。  ――瑠璃のお下がりなら、喜んで。  無茶な躾に対しても。  ――私は、女の子ですから。  それで、済ませてしまった。  それで済ませてはいけないことを、妃は余裕を持って、受け流してしまったのである。  結果、溜まりに溜まった悲しみが、ピアノの一件で顕現する。  余裕を持って過ごしていたのは、全て強がりで。  月社妃という女の子は、どこにでもいる普通の女の子だと、思い知ったのだ。  それでも。  それでも、母親との関係が悪化しただけで――それでも、なんとか家族として形は保っていたのだが。  次に、夫婦の関係が狂い始めた。  浮気をしていたわけでもない。 暴力を振るったわけでもない。  日常の小さな不満が降り積もって、歯車は少しずつ狂ってしまった。  愛し合っていたはずの夫婦は、次第に罵声を浴びせ合うようになった。  生活の不満をぶつけあっては、喧嘩を繰り返す日々。  特に、母親の方は妃のことを嫌っていたから、その不満を父親へぶつけていたらしい。  ピアノの件から、俺が目を光らせるようになったから、今度は、父親へストレスをぶつけたのである。  その結果が、もたらしたのは――父親の、致命的な行動。  それなりにマシだった妃と父親の関係は、ここで断絶することになる。  そしてそれは、四條家が家族として終わってしまう、契機でもあったのだろう。  深夜1時、酒に酔いつぶれた父親が、玄関から大声を上げて帰ってくる。  いつもは気が弱いくらいなのに、今日の父は荒れていた。  会社で嫌なことでもあったのか、母親から小言を言われていたのか、それは今でも知らない。  帰ってくるなり、母親や会社の不満を大声で叫んでいる。 うるさい。うるさい。うるさい。  アルコールとストレスの組み合わせは、とても危険なものだった。  そんな父親を迎えたのは、妃だった。  酔い潰れる父親に対して、冷めた瞳で言い放つ。  ――近所迷惑です。  それが、トリガーだったのだろう。  全てを切り捨てる無慈悲な一言が、父親の逆鱗に触れたのだ。  衝動的に、父親は妃に襲いかかっていた。  母親の名前を叫びながら、母親への不満を叫びながら、何故か、娘へ襲いかかる。  寝間着が、薄着だったからいけなかったのだろうか。  家庭内で、無防備を晒してはいけなかったのだろうか。  それとも、成長した妃の姿に、在りし日の妻の面影を見てしまったのか。  ベッドへ押し倒し、服を引き裂いて。  もちろん妃は抵抗したけれど、あのか細い身体で男の暴力に抗えるはずもなく。  だから、近くにあったゴルフクラブで、俺が制裁を下した。  二度と、酒に溺れることがないように。  二度と、俺の誇りに触れないように。  そのときの感触は、今でもはっきりと覚えている。  冷め切った心のありようを、覚えている。  俺も、妃も。  この家族は、もうお終いだと思った。 「……恐怖で動けないのかと、思いましたよ」  全てが終わった後、妃は冷たく言い放った。  父親の豹変に驚いて、妃が襲われるまで動けなかった俺への、最大級の皮肉だろう。  これから父親が何をしようとするのかがわかってから、ようやく動き出したのである。  その負い目は、今でも尚、残っている。  ともかく――こうして大きな傷跡が出来た四條家だが、当然、もはや同居すら許されることはなく。  事態を知った母親が、すぐさま別居を求めたのは当然の成り行きだろう。  以来、母親の父親へ対する軽蔑は、拭えないものとなる。  俺からしてみれば、離婚しないだけ寛大な処置だったとは思うけど。  但し――その別居が、俺と妃と引き離す結果となる。  妃は、母親の元へ。 俺は、父親の元へ。  妃は、島に残って。 俺は、本土へ向かう。  仕事の都合、単身赴任を嫌がった父親の、最後のあがきというべきか。  最後まで拒絶したかったのだけれど、半強制という形で決まってしまった。 「母は、あの一件以来、瑠璃のことも恐れているのですよ」  肉親に、容赦なくゴルフクラブを叩きつけたから?  泣いて謝罪する言葉も聞き入れず、裁きを下したから?  冷ややかな表情で返り血を浴びる俺を、自分の息子とは思えなかったらしい。  だから、追い出されるように本土へ飛ばされた。  妃と引き離され、図書館という居場所も失い、大切な妹を傷付けようとした父親と二人で。  当然、残された妃と母親は、最悪の関係のまま変わることはなく。  過程が過程なものだから、妃を父親の方へ押し付けることも出来ずに、渋々、二人家庭を了承した。  本来なら、暴力息子も鬱陶しい娘も、全て父親に投げ出したかったのだろうけど。  ――私をここへ、置いて頂けませんか。  たぶん、全てはこの一言から始まった。  あろうことか妃は、友達の母親に、助けを求めたのである。  俺がいなくなったことで、妃がこの島にいる意味もなくなった。  けれど、本土の父親のところへ向かうのも、出来なくて。  結果、闇子さんが快く受け入れてくれ、母親を説得し、今の居候が成立したのである。  母親の方も、その頃から別の男と関係を作っており、目障りな妃がいなくなって、清々したことだろう。  そして、俺もまた――妃に便乗する形で、藤壺学園入学を契機にこの島へ戻ってきた。  本土での、父親との生活に耐え切れず、妃のいない日常に嫌気が差して。  それが、今の四條家の家族事情。  ばらばらで、破綻して、もう救いようがないほど終わってしまっている。  母親は、もはやとうの昔に見限って、新しい再婚相手を漁っている。 離婚も、ちゃくちゃくと準備しているはずだ。  父親は、未だ夢見てる。  自らの過ちを許される日が来て、家族4人で幸せになれることを。  現実を見ておらず、迫る終焉に気付かない。  妃は、最初から見限っていた。  今でも何とも思っていない。  全て、嫌気が差してしまっている。  俺は、どうにもならないと諦めている。 俺には妃さえいれば、父も母も必要ない。  とても悲惨ではあるが、しかし取り立てて珍しい訳でもないだろう。  これくらいの家庭なんて、いくらでもある。  だから、悲しいとは思わないし、不幸だとも思わない。 「どうでもいいですよ、家族なんて」  これは、誰が悪いという話ではなく。  巡り合わせが、悪かったのだろう。 「血の繋がった、ただの他人です」  だから、諦めている。  もう、どうすることもできないと。  魔法でも奇跡でも使わなければ――幸せな家族には戻れないのだ。 「何を言ってるんですか」  妃は、嘲笑うように言う。 「最初から、幸せな家族ではありませんでしたよ」  ああ――そうだったな。  兄と妹が恋に落ちてるなんて、その時点で終わっている。 「……なあ」  登校前の朝食時、珍しく同席している夜子へ尋ねる。 「お前、昨日何してたんだ?」 「……何のこと?」  仏頂面のまま、首を傾げる。 「いや、夕食前、理央とぎゃーぎゃー騒いでただろ。お前が書斎に篭もらず厨房にいるなんて、珍しかったから」 「説明する必要がありません」  つんとした態度のまま、小さくちぎったパンを口にする。 「むふふー、まー今回ばかりは、瑠璃くんは関係ないからねー。秘密なのです」 「ふーん?」  嬉しそうにはにかみながら、理央は破顔した。 「……理央、今日もやるわよ。いいわね?」 「おーけーだよ! 制服なんて脱ぎ捨てて、頑張っちゃうぜー!」 「堂々とサボり宣言かよ」  女子二人で、何やら楽しそうなことを初めているらしい。  口に出すまでもなく、俺は部外者なんだろうな。 「……あんなものを、出せるわけがないから。美味しいものが出来るまで、とことんやるわよ」 「理央にお任せあれー」 「それじゃ、また後で」  そうして、夜子は退出していく。  ちょっぴり疎外感を覚えながらも、何かを始めたのなら大いに結構だ。 「楽しそうだな」 「うん、えきさいてぃんぐだよー?」 「あの夜子が、本以外に興味を持ち始めているなんてな」 「そうだねー、理央もびっくり」  ああ、この笑顔は――夜子が初めて学園に通った時にも、見たものだ。  自分ではなく、他人に向けられる感情。  理央は、本当に夜子のことを大切にしているんだな。 「……で、何をしているのかは」 「教えられませぬ」  口元に、バツ印を作って。 「口封じをされてしまいまして」 「物騒な世の中だな」  口止めくらいに、平和だったらいいんだけど。 「それで、理央先生的には、夜子のお菓子作りの腕前はどうなんだ? 上手く出来そうか?」 「はにゃっ!? ばれてらあ!」  ぎょっと驚く理央。  その反応で、ばればれです。 「昨夜、夜食を探してたら変な形のクッキーが捨てられてたからな。すぐにピンときたよ」  妃は料理なんて興味ないし、闇子さんは留守。  理央が失敗なんてするはず無いし――消去法だ。 「あー、あれねー、理央は止めたのにねー、夜ちゃんが捨てちゃったんだよー」  勿体なさそうに、語る。 「美味しかったんだよ? 初めてにしては、上出来で。でも、夜ちゃんは完璧を求めて、作りなおすことになっちゃったの」 「あいつらしいな……」  納得出来ずに苛立つ様子が、容易に想像できた。 「置いてあった材料、ぜーんぶ使っちゃったんだよ。何度も何度も挑戦する夜ちゃん、可愛かったなー」 「是非とも、見てみたかったな」  他の何かに打ち込む夜子を、見てみたかった。 「えへへー、理央の独り占めです。あ、でもね、でもでも」  嬉しそうにはにかみながら、理央はポケットから小包を取り出す。 「失敗作のクッキー、理央にもくれたんだよ。捨てようとする夜ちゃんに、どうしても欲しいってお願いしちゃった」 「失敗作でいいのか?」 「うん、理央にとって、成功も失敗も、違いはないから」  小包を、大事そうに握りしめて。 「夜ちゃんと一緒に作ったクッキーだと思うと、泣いちゃうくらい嬉しいんだー」 「……お前はもう、夜子にめろめろだな」  ぞっこんじゃねえか。 「瑠璃くんも、一枚食べてみる? 一枚なら、分けてやらんこともないですが」  小包から、少し形の歪なクッキーを、取り出す。 「俺に食べさせたら、あいつ怒るぞ。妃のために作ってんだろ?」  自分のため、と思い上がることすら出来ないのがちょっぴり残念。 「幸せの、お裾分けー。ないしょだよ、ないしょ」 「そういうことなら」  是非にでも。  差し出されたクッキーを受け取って、そのまま口へ運ぶ。  一口、舌の上で味が広がって。 「……はは、苦いな」  ほろ苦い、どころではなく。  滅茶苦茶、苦かった。 「いくら妃ちゃんが苦いの好きだからって、駄目だよねー。だから、失敗作」 「そうだな。あいつは、苦いのだけではなく、甘いのも大好きだから」  ああ、でもなんだろう。  これが夜子が作ったものだと思うと、苦味以上に広がる感情。  理央の笑顔の意味を、文字通り味わってしまったのかもしれない。 「はい、幸せのお裾分け、おしまーい」  小包を大切そうにしまって、最後にとびっきりの笑顔を見せてくれた。 「もうだめだよー、あーげない」 「十分だ。これ以上なく、堪能した」  苦さも、甘さも。 「じゃ、秘密だからね。ナイショだよ。しーくれっと」 「おーけい、任せておけ」  何も知らないふりをしておきましょう。  幸い、そういう嘘は得意だから。 「……おはようございます」 「あ、妃ちゃん、おっはよー」  そうこうしているうちに、妃も食堂へと顔を出してくる。  時計を確認すると、思ったよりも時間は進んでいて。 「寝過ごしてしまいました。いけません、今日は理央さんの朝食を堪能している暇はなさそうです」  まだ意識が冷め切っていないのか、やや気だるそうな声色だった。 「優等生が、遅刻する訳にはいかないよな」 「……朝からハイテンションですね。何か良いことでもありましたか」 「さあ、どうだろうな」  鞄を手にとって、一歩踏み出す。 「良いことが待ち受けてるのは、お前のほうじゃないのか」  女の子の手作りプレゼントなんて、とびっきりに幸運だろ。 「それじゃ、いってきま――」  と、声を出そうとして。  広間の方から、電話の呼び出し音が辺り一帯に響く。 「はいはーい」  この館の電話番は、もちろん理央。  なれた動作で受話器をとって、こちらへ小さく手を振る。 「……行きましょうか」 「そうだな」  同時に、歩み始めた俺たちを――しかし、電話の主が許さなかった。 「待って、瑠璃くん、妃ちゃん」  引き締まった表情を浮かべた理央が、俺たちを呼び止めて。 「お父さんからの、電話だよ」 「…………」  妃の表情が、険しく歪む。  瞬間、俺は理央の元へ足を動かしていた。  間違っても、妃に対応をさせる訳にはいかない。 「……わかった。代わってくれ」  ああ、今更なんの用事なのだろうか。  俺たちは、もう二人に対してなんの言葉もないというのに。 「手短にすませて下さい。遅刻してしまいます」 「……長くなるかもしれないから、先に行っててもいいんだぞ?」 「それは、嫌です」  妃は、短く拒絶した。 「私の知らないところで、あの男と接点を持って欲しくはないのです」 「……はい、瑠璃くん」  受話器から、ほそぼそとした声が聞こえる。  妃は、無表情のまま椅子に腰掛けて、電話の声が聞こえるよう俺に身体を寄せる。  そうして俺は、父親と言葉を交わす。  その内容は、幻想に取り付かれた人間の戯言だった。 「はっはっは、久しぶりだなら、瑠璃。いやあ、伏見さんだったかな? 電話番の彼女。素敵で可愛らしい声をしているから、てっきり妃かと思ってしまったよ」 「昔は、あんな風に甘えた声をしていたと思ってな」 「……そうですね」  何を言っているのだろう。  妃があんたに、甘えた声を出したことなんて一度もない。  自分に都合のいい過去の幻想を、押し付けるな。 「元気そうな声だな。お前がそっちにいってから、しっかりやれているか心配していたんだよ。遊行寺さんのところに、迷惑は欠けていないだろうな?」 「……そうですね」  しっかりやれていないのは、あんたの方だろ。  心配できるような立場だと思っているのか。 「他人行儀みたいな話し方をするな。悪いな、こんな朝早くから電話をかけて。どうしても、早くに連絡したかったんだ」 「……そうですか」  登校直前であることを理解して、電話をかけてきたのだろうか。  相変わらず、自分しか見えていない。  いつだって、あんたはそうだった。  妃を襲った後も――謝るより先に、あんたは自己弁護ばかりをしていたな。 「大事な話があるんだ。出来れば、直接会って話したい。今から、こっちに来れるか?」 「無理です」 「そうか……仕方がないな。では、電話で済まそう」  父親は――あまり、饒舌な性格ではなかった。  むしろ気弱で、周りを伺うような性格だったように思う。  何時頃だろう、家族仲が悪化していくに連れて、こんな風に不自然に明るくなっていったんだ。 「父さんも、出来れば元の幸せな家庭に戻りたくて一生懸命頑張ってたんだがな。中々どうにもうまくいかないよ。あいつが、お前や父さんを受け入れてくれないんだ」 「……そうですね」 「全く、父さんだってお前のことを許してるし、もう怒っていない。あとはあいつが受け入れてくれるだけで、幸せな家族に戻れるのに」 「……何の、ことですか」  何が、いいたいんだ?  母親は、もうあんたのことを見限って、他に男を作っている。 それすら、理解出来ていないのか。  あるいは――受け止めきれて、いないのか。 「お前が、父さんに暴力を振るったことだよ。あれは、父さんにも悪いところがあったからな。とっくに、許してやってるぞ。そうでなければ、二年もお前と本土で生活できなかったろ」 「…………」  この男は――何を言っている。  まるで全てが許されたように、語っている?  何がいいたいのか、理解出来なくて。 「父さんはとっくにお前を許している。子供のおいたくらい、笑って許してやらなきゃどうするってものだ」 「…………」 「妃だって、俺のことをとっくに許したのになあ」 「……は?」  理解を超えた言動を、脳みそが受け止める。  たまらず、真横にいる妃を見てしまって。 「…………」  無表情。  氷のように冷め切った妃が、本気で軽蔑していた。  「ま、父さんに色目を使うようなことをしたんだ。妃だって、責任があるよな? お前だって、そう思うよな?」 「…………」 「酔った人間の前で、あんな格好で迎える妃にも非があっただろ。最近の女の子は、危機意識が足りていないんじゃないのか? スカートも、短すぎるしな」  ああ、もうダメだ。 「すみません、そろそろ、時間が」  たまらず、会話を終わらせたくて。  もう、平静を装うことに限界を感じていて。 「待て、本題がまだなんだ」 「……本題?」  見苦しい言い訳を、続けるつもりなのかと、思ったが。 「残念な、知らせだ」  重々しい口調で、言った。 「父さんと母さんは、離婚することになった」 「……そうですか」  心は、少しも揺れ動かなかった。  だから、どうしたというのだろう。 「本当に、すまない。どうにかやり直そうとしたんだが、あいつが、聞く耳を持たなくてな。それどころか、俺やお前を拒絶するんだよ」 「…………」 「何を勘違いしてるんだろうなあ、あんなものは多少の誤解の末に生まれた些細な出来事だ」 「それなのにあいつは、過ぎ去ったことをいつまでも愚痴愚痴と愚痴愚痴と! 俺が、家族のためにどれだけ頑張って働いてたと思ってるんだ!」  電話口で、言葉に熱がこもっている。  それに比例するように、不快感も増していく。 「だから、離婚するにあたって、お前と妃の意志を確認したい。どちらに、ついていくのか」 「……なるほど」  そういう、ことか。 「もちろん、二人とも父さんについてくるよな? お前たちを見捨てた母さんなんて、もう顔も見たくないだろ」 「…………」  確かに、俺は母さんに見限られただろう。  妃だって、切り捨てられたも同然。 「今度、最後の家族会議を行う。そのときに、お前たちの意志を聞く。妃にも――伝えておいてくれるか」 「…………」  今すぐに答えても、良かったが。  余計な会話を増やすだけだと思い、口をつむぐ。 「言っておくが、母さんはお前たちのことなんてどうでもいいと思ってる。お前たちを幸せにしてやれるのは――父さんなんだからな」 「……そうですね」  大嫌いな父親ごと、押し付けられるなら押し付けたいだろうが。 「なあ、また三人でやり直そう。いつまでも、遊行寺さんのところでお世話になってるわけにもいかないだろうが。父さんは、今でもお前たちのことを、愛しているぞ」  薄ら寒い台詞が、飛び出てきて。  おそらく、限界だったのだろう――妃が受話器を横取りして、凛として言い放つ。 「あなたが、愛していたのは――」  それは、決別の言葉でもあった。 「――あなたにとって都合のいい、空想の家族でしょう?」 「き、妃か? ひさしぶ――」  間髪入れずに、続けて。 「もう二度と、会うことはないでしょう。さようなら、お父様」  がちゃり、と。  一方的に、妃は電話を切ってしまった。  暗い暗い静寂が、辺り一帯を包む。 「……さて、行きましょうか」  やはり最初に発言したのは、妃。 「どうでもいいことに時間を取られてしまいました。お陰で、遅刻ですね」  何度目だろう。  もう何度、あの父親の妄言を聞いただろうか。  本土で二人暮らしをしているときに――酒に溺れながら、延々と自分は悪く無いと語り続けていたことを思い出す。  語り続けるうちに、事実と妄想が揺らめいて、自らに都合のいいように解釈してしまって。  まさか、妃が許してくれているなんて、ありえるはずもない現実だ。  色目を使ったなんて、そんな妄言が通用するとでも思っているのか。 「あの男は、ずっとこのような感じに?」 「……そうだよ。もう、ずっとこうだ」  幸せな家庭が、戻ってくると妄信している。  無理して明るく振る舞って、ありもしない希望に追いすがっているのだ。 「哀れな人ですね。その点で言えば、お母様の方がまだ現実を見ている」 「現実を見すぎて、逆にどうしようもねえけどな」  終わった家族を、切り捨てて。  自分は次の幸せを探している。  清々しいほど、切り替えが早かったな。 「ようやく離婚ですか。本当――今更ですよ」 「たぶん、法的手段でも使ったんじゃねえか。じゃなきゃ、あいつが認めるわけねえだろ」  離婚という言葉は、母親の方から何度も聞いたことがある。 「それにしても、驚くほど他人行儀な言葉遣いでしたね。一応、家族なのでしょう?」 「感情的になって反論しても、意味がないんだよ。何を言っても、無駄なんだ」  それはもう、本土にいた二年間で思い知っている。  真実を口にしても、間違っていると口にしても、その現実を認めようとしないから。 「都合のいい会話しか、したくないんだよ」 「なるほど。瑠璃も、苦労していたようですね」  そんな、朝の出来事。  壊れた家族関係の、最後の清算の日は、近い。  のんびりと朝食を取ったあと、まるで優等生のように学園へ向かう瑠璃を、私は感心していた。  あれだけ不快な出来事の後なのに、切り替えが早いことですね。  藤壺学園と鷹山学園の別れ道で、私は1人、立ち尽くしていた。  今更、学園に通うような心境でもないんですよ。  耳障りな声が、今でも脳裏にこびりついている。  あの男の声を久しぶりに聞いて、心が完全に凍りついてしまっていた。  今、学園に向かっても――今日ばかりは仮面を被れそうもありません。  優等生を演じる自信がない。  だから私は、生まれて初めて、無断欠席を実行することにした。  鷹山学園への道から、反転して。  しかし、その足取りは図書館へ向かうことはない。  気のない、静かな場所へ。  自然と思い立ったのは、あの廃教会だった。  あそこは何をするにしろ、丁度いい場所である。  誰にも見つかることもなく、ゆっくり時間を過ごせるだろう。  思い出すのは、お父様の襲われたあの日のこと。  現実を受け入れられないお母様が、私を傷付けた言葉。 「あなたが、父さんを誘ったんでしょう?」 「そうでなきゃ、あの気弱なお父さんが、こんなことをするはずがないわ」  その日、私は少し扇情的なキャミソールを着ていた。  友達からプレゼントしてもらった、とても可愛らしいデザインのお洋服。  瑠璃をからかおうと思って着用していたもので、別に破廉恥なものではなかったのですが。 「なんて下品な女の子。世間様に、顔を向けられないわ」  あとで、知ったことなのだが。  そのとき、お母様は――お父様から、私が誘ってきたから、間違って襲ってしまったと言い訳されたらしい。  ……おそらく、私が見切りをつけたのは、その瞬間。  お母様に、無慈悲な疑惑を向けられて。  お父様に、責任をなすりつけられて。  もういいや、と思ってしまったのだ。  どうして、私があの男を誘ったりするものですか。  それは、瑠璃相手だけの、可愛らしい悪戯。  私はただ、煩く酔いつぶれるお父様を、注意しただけのこと。  ――近所迷惑です。  それだけ。  それ以外に、言葉を発していない。  それからすぐに部屋に戻って、瑠璃の布団にでも潜り込もうと思っていた矢先に――後ろから、羽交い締めにされたのだ。  初めは、怒りに錯乱していただけだった。  生意気な口を利くなとか、すましたような面をして、とか。  まるで日常に溜め込んだ鬱憤を、晴らすかのように怒鳴り続け。  次に――何を思ったのか、私をベッドに押し倒し、瑠璃のために着ていたキャミソールに手をかけたのです。  そのとき、ベッドで瑠璃が寝ていなければ、私はどうなっていたことか。   そう、ベッドには瑠璃がいた。  でも、すぐには助けてくれなかった。  気が付いて、目が冷めて、襲われてる私を見て、しばらく動けなかった。  現実に理解が追いつかず、硬直してしまったのだ。  すぐさま助けてくれていたら――私のお気に入りのキャミソールが、もう二度と着れなくなることはなかったのでしょうね。  それでも、文句をいうのは筋違いですが。  しかし、格好いい王子様を期待しても、それは叶いませんでした。  当時の私は、もう少しだけ愛嬌があって、もう少しだけ可愛らしい性格をしていたので、 一瞬でも動けなかった瑠璃に、裏切られたような気持ちを抱いてしまったのです。  ――我ながら、重い女ですね。  助けてくれたのは、間違いなく瑠璃なのに。  瑠璃のお陰で、私の身は清らかなままで済んだというのに。  けれど、当時の私にしてみれば、一刻も争う状況で――状況を察した瑠璃が、まさか背を向けるとは思いませんでした。  裏切られたどころか、瑠璃に見捨てられたかと、思ったくらいに。  ――見捨てられたのかと、泣きたくなりました。  お父様に襲われた時よりも、お母様に疑われた時よりも、 そして、五線譜ノートが燃やされた時よりも、絶望したかもしれません。  しかし、それは――瑠璃なりに最も早く助ける方法を選んだのでしょう。  瑠璃は、凶器を探していたのです。  目の前の存在を排除する、最も適した武器を、探していました。  故に、裏切られるどころか、見捨てられるわけもなく。  瑠璃は、凡そ白馬の王子さまとは言いがたい所業で、私を助けてくれました。  視界が紅く染まるほど、そこは地獄絵図でした。  手にしていたゴルフクラブで、何度も何度も殴りつけ。  謝り続けるお父様を、それでも何度も殴って。  自分が疲れ果てるまで、制裁という名の暴力は止まりませんでした。  私のお気に入りのキャミソールは、グロテスクにも血に染まり―― 結局、お父様に破かれなくても、駄目にしてしまっていましたね。  あれを間近で見た私としては、お母様が瑠璃に対して抱く感情に、一定の理解は出来ます。  助けるとか、お仕置きとか、そういう枠組みを遥かに超えていた。  もう少し瑠璃の体力があったのなら、殺してしまったのではないかと、本当に思ってしまうほど。  あれを何とも思っていない私のほうが、異常かもしれません。  むしろ、激昂する瑠璃を見れて、少し嬉しかった。  まだ見たことのない瑠璃の一面を見て、細やかな幸せを感じるほど。  そんなことが、あったから。  いや、そんなことがなかったとしても、破綻はしていたのでしょう。  あれは、元々抱えていたものが、爆発したというだけのことだから。  初めから、私は家族から浮いていました。  両親との距離感は他人のように離れていて、家庭内の言葉数もほとんどありません。  私が今、他人の前で仮面をかぶっているのは、そういう反省からなのかもしれませんね。  冷めた表情で知った風な口をきくような女は、嫌われやすく、反感を買われやすい。  それが正論であれば正論であるほど、周りの人間からしたら鬱陶しいものなのです。  ――不器用でしたね、私は。  家族関係において、全てを台無しにした根源は、私です。  あの事件を引き起こすような雰囲気を作ったのは私。  だけど、それが私ですから。  今更どうすることもありません。  それに、悪いとは思っていても、全てが悪かったとも、思っていませんから。  ――それでも、私には瑠璃がいてくれたらそれでいい。  そう、その他には何もいらないのです。  お父様も、お母様も。 あとは精々、素敵な友人がいてくれたら、満足です。 「……ようやく見えてきました。全く、坂道は大変です」  今度来るときは、瑠璃に背負ってもらいましょうか。  それも、次来る時の楽しみかもしれません。  太陽の光から逃れるように、教会の中へと侵入する。  古びた廃教会は、独特な雰囲気と共に私を受け入れてくれる。  そこで私は、気付く。  以前来たときにはなかったものが、目の前にあって。 「これは、どういうことでしょうか」  誰もいない教会の中央に佇む私。  視線の先、ステンドグラスの下、祭殿の真ん前。  前回ここを訪れたときに、瑠璃と口吻をしたその場所に。 「これは、まさか」  綺羅びやかな装飾を施された、一冊の本。  それは私を待ち受けるかのように、君臨する。 「――魔法の、本」  脳裏に、本城奏から受けていた警告を思い出す。  関わってはいけない。 また、安易に本を開いてはいけない。  そう、夜子さんも言っていました。  触らなければ、本は開くことはない。  だから、本の危険なんて――避けようと思えば簡単に避けられるのだと、言っていた。 「……ふふふ」  思わず、笑みがこぼれ落ちた。  警告、ありがとうございます。  忠告、ありがとうございます。  全てを危険を理解した上で、私は。 「私だって、夜子さんと同じ活字中毒者なのですから」  読書家が、本を開くことに躊躇するわけがなく。  私は、私の好奇心に従って、魔法の本を開いた。  開いて、しまいました。 「お、今日も新入りくんは、素敵なお弁当だね。羨ましいよー」  昼休みの始まりとともに、岬が声をかけてくる。 「立派なメイドさんがいるからな」 「そのメイドさんのお陰で、僕もおこぼれを貰えるわけだ」  手早くおにぎりの包装を解いて、ぱくつき始める。  岬と昼ご飯を食べるときは、いつもこんなかんじだ。  向こうからやってきて、何を言うまでもなく食べ始める。 「……少しだけな」 「ありがとー」  岬がやってくるのは、決まって昼ご飯が貧相な時だ。  学食へ行かず、コンビニのおにぎりとお茶だけの日。  要するに、カモられている。 「やー、新入りくんの家庭事情はよくわかんないけど、羨ましいねえ」 「ろくなもんじゃないけどな。今は、家族と暮らしているわけじゃないから」 「そなの? もしかして、あんまり仲が良くない?」 「絶賛離婚調停中」 「わーい、ディープだねー」  それでも軽い調子を崩さない、ノリの良い同級生。  こっちも、気が楽だ。 「わかるよー、新入りくんの気持ち。僕のところも、離婚したからさー、そういう暗いの経験済み」 「ふうん、それは意外」  家庭の事情は、やはり家庭の数だけ色々な形があるのだろうか。 「割りと前の話だからねー。僕のところはちょっとしたとこから仲が悪くなっていったのかな。浮気とかじゃなかったんだ」 「徐々に関係が悪化して、初めは小さなズレだったのが、次第に大きなズレになっていく」 「そう、まさにそれ。もしかして、新入りくんも同じ?」 「近いかな」  あまり、詳細は語らないが――その結果、大きな事件を引き起こしてしまったのだ。 「関係が泥沼になる前に、お父さんもお母さんも察したのかな。このままじゃ駄目って、何度も話し合って、離婚するって結論になったんだよ」 「それは、凄いな。話し合って、解決したのか」 「離婚って結果が解決と呼べるのか、僕にはわかんないよ」  ややさみしげに、言う。 「なるべく僕達に心配させないようにしたかったみたいだよ。そのせいかな……離婚はしたけど、今でもたまに会ったりしてる」 「離婚したのに?」 「離婚の形は、人それぞれだからね。一緒に道を歩めないだけで――嫌いになったわけじゃ、ないんだよ」  それは、俺には想像できない世界のお話だった。  離婚=拒絶という図式が、自分の中で確立していたから。 「だって、お父さんもお母さんも、初めは愛し合ってたから結婚したんだしね」 「ちょっとずつすれ違って、些細なことから喧嘩したり、そうやって二人は一緒にいれなくなっちゃったけど、離婚して、気持ちの整理ができたんだと思う」 「離れることで、何が整理できたんだ?」 「さあ、なんだろうね。でも、喧嘩することもすれ違うこともなくなって、肩の荷が下りたのかな。離婚する前よりも、仲が良くなったのかもしれない」 「……分からない。それじゃ、まるで結婚しなきゃ良かったみたいじゃないか」  離婚して関係が良くなるなんて、ありえるのだろうか。  少なくとも、今の俺には信じることの出来ないお話だ。 「失敗しちゃっただけなんだよ。二人で生きていくことに、失敗しちゃっただけ」 「だから、二人はもう一緒に歩けないけど、それでも、互いを尊重する気持ちだけは取り戻せたんだって」 「…………」  失敗をして、それでも、その先に関係は続いている。  そういう、こともあるのか。  そんな前向きな離婚の仕方が、あるのか。 「って、これ全部お姉ちゃんの受け売りなんだけどね」 「お姉ちゃん、いるんだな」  誰のことか、心当たりはあるけれど。 「でも、前向きな離婚は、俺の家族じゃ無理だろうな」 「……まあ、うちは例外だと思うし」 「違いがあるとするなら、すれ違いのまま時間が過ぎてしまって、決定的に違えてしまったことかな」  不満があったら、解消しよう。  言いたいことがあったら、ちゃんと言おう。  そういう当たり前の家族関係を出来ていなかったから、こうなってしまったのだ。  その責任は、もちろん俺たちにもあって。 「別に、不幸になりたくて不幸になってるわけじゃないからねー。でも、正しい選択肢は毎回選べるわけじゃないし、人は間違っちゃうもんだからね」  もし、俺たちの家族にどうにかなる可能性があったとすれば。  それははるか昔、妃と両親にあった不可視の距離感を、どうにかする以外に他ならなかったのだろう。  気難しい妹と、気弱な父。 普通の母。  誰かが一歩踏み出せば、普通の家族になれていたのだろう。  いや、俺にだって、言えることか。 俺だって、家族の一員だったんだ。 「ま、でも終わったもんはしかたがないよな」 「切り替え早っ、もうちょっとナイーブになってもいいと思うよ?」 「そういうのは、もういいんだよ」  諦めてしまったから。  もう、どうにもならないとわかってしまったから。 「新入りくんって、意外と淡白だよねー。あっさりしてる。割り切れる男だね」 「褒められてるのか?」 「褒めてるよ。このお弁当も、2で割り切れる」 「……いいや、割り切れないな」  ささっと手を伸ばす岬の手を、カットする。 「やだな、あまり女の子の手に気安く触らないで欲しいな。惚れちゃうじゃん」 「お前が惚れているのは、俺の弁当だ」 「2で割り切れる新入りくんの男気にも、惚れてるよ」 「残念だ、余りもので勘弁してもらおうか」 「ちぇー、やっぱり惚れられないかな。優しさを兼ね備えていない人は、駄目だね」 「都合のいいを優しさとイコールにするな。お弁当が欲しいなら、自慢のお姉さんに作ってもらえよ」 「お弁当を求めたら、現金を渡してくれる。僕のお姉ちゃんは、そんな格好良さを持ってるんだ」 「…………」  合理的すぎて、悲しくなってくる。 「というわけで、新入りくんも、別にお弁当でなくて、現金でも構わないけど?」 「援助交際をしているみたいだ……」 「僕、いくらかな?」 「お弁当の値段と考えると、安いのかもしれないな」 「それでいいから、お弁当を分けてよー」 「…………」  こいつ。  どこまで腹を空かせているんだ。 「新入りくんのお弁当って、凄いよね。びっくりするくらいに美味しいかも。生まれて初めて、こんなに美味しいお弁当を食べたかもしんない」 「確かに、あいつの料理は天下一品だからな」  最近、毎日のように食べているから、舌が慣れてしまったのかもしれない。  贅沢をし過ぎて、肥えてしまっているのか。 「このおにぎり、食べてみて? びっくりするよ、味の違いに」 「食べたら食べたで、後から弁当を要求するんだろ」 「あ、バレた?」 「見え見えなんだよ」  コンビニのおにぎりなんて、食べるまでもなく想像できる。 「でも、もしかしたらそのメイドさん、新入りくんのことが好きなのかもね」 「え?」  突拍子のないことを、言い出した。 「愛妻弁当ってね。料理に一番大切なのは、愛情だっていうじゃない?」 「馬鹿言え、それだったら」  今朝のやりとりを、思い出す。 「俺よりも愛されている奴が、うちにはいるんだよ」 「あら、所詮新入りくんは、浮気相手止まりかな」 「それでも、構わないけどな」  毎朝早起きをして、念入りに作ってくれているお弁当。  本当に、感謝しきれない程である。  料理が好きだから、食べてもらうことが好きだから。  そんな理央が、料理の才能を持ち合わせていることに、神様の優しさを感じてしまう。 「だから俺は、少しも残すことなく、食べきるんだよ」  出来れば、一人で全部、平らげたい。  空っぽの弁当を返すことが、俺に出来る最大のお礼だろう。 「おお、新入りくんも、愛しちゃってるねー」 「ああ、もうメロメロだよ」  空のお弁当を引っさげて帰宅した俺を、夜子の唸り声が迎えてくれた。  どうやら厨房に籠って、何かを作っているらしい。 「く、くっ! どうして素直にできないのかしら。ひねくれているわよ、このケーキ!」 「よ、夜ちゃん、そろそろ終わらないと、夜ご飯の支度ができないよー」 「……こんな時間まで、やってたのか」  苦笑いを浮かべながら、食堂に顔を出す。 「ちっ、邪魔者が帰ってきたわ。それじゃ、今日はここまでね」 「人を見るなり、不機嫌そうな顔をするなよ」 「不機嫌そう、ではなくて、不機嫌なの。辛気臭い顔を見せないで欲しいわね」  俺の横を通りすぎて、二階へと向かう。 「あ、お風呂は湧いてるから、いつでも入っておっけーだよ!」 「ありがとう、気が利いてるわね。どこかの誰かさんとは大違い」  ずっとお菓子作りの練習をしていたのか、あちこちが汚れている。 「……お風呂に入るから、二階に上がって来ないでよ。落ち着いて、安らげないから」 「はいはい、わかったよ」  どうやら上手く行かなくて、とても苛立っているらしい。  ここは余計なことは言わず、従っておこう。 「付き合ってくれて、ありがとう。また、明日もお願い」 「うん、勿論だよ! 楽しみにしてるね!」  妃へのプレゼントは、未だに完成せず。  それでも、そんな時間を、理央は心から楽しんでいるようだった。 「大変そうだな、クッキー作り」 「や、そうでもないんだよー。夜ちゃん、意外とお上手さんかも?」 「そうなのか? なら、どうして」 「なんかね、目覚めちゃったっていうのかなー、今度はケーキも作りたいって言うんだよ」  面白おかしく、理央はいう。 「ケーキ? ああ、そういえばそんなことも言ってたか」 「しかも、お店で売ってるようなもの! 夜ちゃんのお菓子心に火を着けちゃったかも! すごいんだよー、やる気まんまん!」 「へえ、あの夜子がねえ……」  それは、あまりにも意外な展開だった。 「クッキーだけだと寂しいかなって話になってね、それでケーキも作ろうってことみたい」  楽しげに説明しながら、料理本を取り出して、ある1ページを開く。 「これだよ、ダミエ柄のチョコレートケーキ! お洒落なケーキさんを、作りたいんだってー」 「……これを? 夜子が? 凄いな」  クッキーとは明らかに難易度が違うだろう。 「そんなに簡単にできるものなのか? 理央が料理本を取り出すくらいのお菓子なんだろ?」  作り方がわからないから、開いたのか。  いや、単に色々なケーキの写真を見て、どれを作るのかを決めていただけか――と思っていると。 「にゃ? このお料理の本は、理央が書いたものだよー?」 「……は?」  さらりと告げた事実に、驚愕する。 「ぜーんぶ、理央が今まで作ったケーキだよーん。写真とって、書き留めておいたの。そしたら、いつか誰かが参考にしてくれるかなーって」 「本当だ……よく見たら、手描きじゃないか」  写真だけ見ていたから、気付かなかった。 「凄いな……いや、本当に……びっくりした」 「えへへー、もっと褒めてくれても、いいんだよ?」 「今回ばかりは、感心したよ。でも、おかげで夜子もやりやすいだろうな」  優秀な先生と、経験に満ちた教材がある。  お菓子作りを学ぶには、これほどうってつけの環境はないだろう。 「夜子がやる気を出すわけだ。こんなものを見せられたら、もっと作りたくなるさ」  おそらくは、夜子のために書き残しておいたのだろう。  いつか、万が一、夜子が料理に興味を覚えたときに、参考になるようにと。 「これなら、きっと喜ぶだろうな」  今からが、楽しみだ。  もてなさられる妃の立場が、羨ましい。 「うんうん、瑠璃くんは幸せものですにゃー。夜ちゃんの手作りを振る舞ってもらえるなんて、世界一の幸せものです」 「は? いや、これは妃のためのもんだろ」  あの夜子が、俺のために何かをしてくれるはずもなく。 「にゃ? きさき?」  理央が、意外そうに反応した瞬間。  広間から、呼び出し音が鳴り響く。 「あ、電話だー、およよ、おてて洗わなきゃ」 「俺が出るよ。理央は、これから夕食の用意だろ?」 「でも、理央が出なきゃ駄目かも? お館様に言われてるし」 「どうせ、相手は俺の親父だろう」  今朝は一方的に切ってしまったから、またかけ直してきたか。  この館に電話をしてくる人間はそうはいないから、間違ってはないだろう。 「……そだね、じゃあお願いするよー」  尚も鳴り響く電話。  それを静めるため、急いで受話器をとる。 「はい、もしもし――」  相手は、名乗る前に声を上げた。 「おお、瑠璃か! 良かった、いたかー」 「……今朝振りですね」  案の定である。  予想はしていたとはいえ、テンションが下がってしまった。 「今朝は酷いな、勝手に切るなんて、父さんだったからよかったものの、失礼だぞ?」 「…………」  あれは妃が切ったわけで、俺が切ったわけではないのだが。  まあ、いいか。 「今、大丈夫か? 少し急な連絡事項が出来てな」  受話器を持ったまま、扉が開かれる音を聞く。  ああ、妃が帰ってきたらしい。 これはまた、荒れるぞ。 「電話……」  すぐに、気付く。  俺が電話していることと、その相手。 「聞いて驚け、びっくりするぞ?」  なんだっろう、父親のテンションがやけに高い。  喜びが漏れだして、気持ちが悪い。 「離婚、取りやめになったんだ。母さん、俺とやり直してくれるらしい」 「――は?」  なんだ、それ。  ちょっと待て、意味不明だ。  お得意の妄想にしては、飛躍し過ぎているぞ? 「というか、何故今まで喧嘩をしていたのか、わからないよ。これも、倦怠期ってやつなのかな?」 「え……いや……さすがにそれは」 「すまないな、お前には迷惑かけたよ。父さんの単身赴任ももうじき終わる。そしたら、また家族全員でやり直そう」  妄想にしては、たちが悪すぎる。  現実にしては、都合が良すぎる。  遂に、父親は壊れてしまったのかと、そう思って。 「し、信じられない」 「ははは、おい、母さん、瑠璃のやつ、俺たちがまだ仲が悪いと思ってるらしいぞ」  電話口の向こうから、誰かに話しかける声がした。  現実、受け入れられない相手が、父親の隣にいる。 「ちょっと、変わって下さいな。もしもし、瑠璃? そういうことだから、離婚はなし。なしよ。あるはずないじゃない。母さんとお父さんは、愛し合っている夫婦だもの」  ああ、その声色は。  その会話は。  いつか、遠い昔――二人が幸せな関係を築けていた時のもの。  もう二度と、聞くことが出来なかったはずの、幸せな声色。 「本当、どうかしていたわ。どうして離婚しようとしていたのかしら――今にして思うと、馬鹿馬鹿しい」 「…………」  もう、何も言えなかった。  何も言えなくて――何も、考えられず。  ただ、電話越しの向こうの世界が、俺の知らない異世界にしか思えなかった。 「変わって下さい、瑠璃」  険しいした顔をした妃が、いつの間にか隣にいた。  半ば奪うような形で、受話器を取る。 「これは、どういうことでしょうか」  詰問するような声色で、妃は問う。  こんな時でも、俺と違って動くことが出来る。 「あら? 瑠璃? じゃなくて――どなた?」 「娘の声を忘れましたか、お母様。これは一体、どういうことなのでしょう?」 「……はい?」  何か、噛み合っていない会話。 「おかしな事を言わないで欲しいわ。お母様だなんて、あ、もしかして瑠璃の彼女さん?」 「ふざけるのもいい加減にして頂けますか。妃ですよ、妃。瑠璃の、妹です」  苛立ちを隠すことなく、説明する。  妹だと自称することは、妃にとって避けたい行為だったのに。  しかし、帰ってきた反応は、悍ましい言葉だった。 「妹? 瑠璃に、妹? ごめんなさい、電話の相手、間違えていないかしら?」  母親は、娘に向かって、言った。 「私の子供は、瑠璃だけです。娘なんて、生んだ覚えありません」 「…………」  絶句、した。  凍りついたと言ってもいい。  父さんと母さんは、妃だけを見捨てた?  「……ふふふ、ふふふふふふふふっ」  その言葉に、妃は、不敵にも笑い出す。  心底おかしくて、おかしくて、もう、我慢できないような、そんな笑い。 「そうでした、そうでしたね。すみません、私が間違っていました」  確かに妃は笑っていた。  この上なく、笑っていたが。 「ごめんなさい、少し誤解をしておりました。私は、あなたたちの家族ではありませんでしたね」  それはどこか、悲しそうに見えてしまったのは、何故だろう。 「そうよ、おかしな事を言わないで欲しいわ。ええっとキサキさん? 悪いけれど、瑠璃に変わってくれるかしら?」 「お断りします」  今生の別れを、口にする。 「邪魔者を切り捨てて幸せになれるとでも、思いましたか。それでも瑠璃は、あなたたち二人を受け入れませんよ」  理央が、近くにいる。  夜子だって、今にでも降りてくるかもしれない。  不意に汀が帰ってくることだって、ありえるのに。 「家族であるお二人よりも、赤の他人である私を、愛してくれていますので」  周りが見えていなかった。  誰よりも混乱していたのは――他ならぬ、妃だったのだ。 「あなた方が望むなら、私は他人になりましょう」  すうっと、息を吸って。 「さようなら」  反論を、一切待つことなく、受話器を置く。  衝動的に発した言葉に、妃自身が一番驚いているらしい。  そのまま電話にもたれかかるように、体勢を崩す。 「なんなんでしょうね……あの人達は。どうしようもない人たちだと思っていましたが、私の存在をなかったことにするとは思いませんでした」  母親は、他の男を探していたはずだ。 もう、今の家庭を見限って。  父親は、過去の妄想に取り付かれていたはずだ。 決して叶わぬ希望に追いすがって。  あるはずのない現実が、起きている。 起きて、しまっている。  ついに、狂ってしまったか。  それとも、何か理由があるのか。 「…………」  もしかして、と。  心当たりに、思い至る。  妄想と現実の境界線を歪める摩訶不思議。 「ちょっと瑠璃、何をしているのかしら。聞き慣れない声がすると思ったら、またやらかしてくれたわね」 「……夜子?」  2階から、見下ろすように立っていた。  手には着替えを持っていて、お風呂に入る直前だったのか。 「聞き慣れない声って、なんだよ。まさか、電話の向こう側の声でも、聞こえたか」 「はあ? 聞こえるわけないでしょう」  呆れるように、溜息を付いて。  そして、ぎろりと睨みつけた。 「……え?」  夜子の敵意の対象は。  何故か、俺ではなく――妃だったのだ。 「そこのお前よ。ここをあたしの図書館と知っての狼藉かしら? 今すぐ出て行きなさい――入館を許した覚えはないわ」 「……はい?」  妃を、指差して。  赤の他人へ向ける敵意を、ありったけに降り注ぐ。 「よ、夜子さん?」 「気安く名前を呼ばないでくれる? お前に名乗った覚えはないわ」  何かの冗談だと思った。  何かの冗談であると思いたかった。  だが、俺ならまだしも――夜子が妃にこんなことをいうなんて、尋常ではない何かが起こっている。 「何をしているの。聞こえなかったの? いい加減にしないと――」  他人を排撃する、言葉の暴力。 「――殺すわよ」  そこまで言われて、ようやく俺たちは理解した。  この異常性を、理解した。  もはや、疑うまでもないのだろう。 「夜子、ちょっと待て、これは、な?」 「結構です。説明をしても、無駄でしょう」  俺の手を、ぎゅっと握って。 「申し訳ありませんでした。今すぐ、ここから立ち去ります」 「御託は結構よ、口を動かす暇があるなら、足を動かして」 「夜子……」  そのまま、反論することなく玄関へと向かう。  俺を連れて、俺に縋るように、ただ逃げるように背を向ける。 「あ、瑠璃くん、おでかけ?」  騒ぎを察した理央が、顔を出して。  更なる追い打ちを口にしてしまう。 「ありゃ? 駄目だよー知らない女の子を連れてきちゃ。そりゃー夜ちゃんもぷんすかだよ」 「…………」  もはや、妃は何も言えずに俯いた。  何を言っても、無駄だと察したのだろう。 「なあ、理央、一つ聞かせてくれ」  それで、答えとしようじゃないか。  十分にわかりきった今の状態に、それでも念入りに確認しよう。 「お前と夜子は、誰のためにお菓子を作っていたんだ」 「えー? 瑠璃くんのためだよー」  即答された。  本来ならば、嬉しいはずのその言葉。 「楽しみにしててよー? 珍しく夜ちゃん、やる気だから!」 「……いや、それは遠慮しておくよ」  言葉を失った、もう何も言えない妃の手を握りしめて。  すがるようなぬくもりを感じながら、言う。 「それは確かな現実じゃ、ないからな」  そうして、俺と妃は逃げるように飛び出した。  居場所を失くした少女とともに、どこへ行くのだろうか。 「これは、そういうことなのでしょうね」  小さく、呟いた。 「ああ、間違いないだろう」  両親だけなら疑惑に過ぎなかったが、これはもう真っ黒だ。  疑うまでもなく、明瞭である。 「魔法の本が、開いている。新しい物語が、始まったんだ」  そうとしか、考えられないだろう。 「そして、今のお前は、まず間違いなく」 「――世界から、私という存在が忘れ去られてしまっています」  記憶の忘却。  月社妃という人間が生きた足跡が、根絶されてしまっている。  両親も、夜子も、理央も、妃のことに見覚えはなく。 「なんということでしょう……これは、悲劇のヒロインですね」  それでも、妃は笑うのだ。  楽しそうに、笑うのだ。 「お前、まさか」  微笑む妃に、一つの可能性に至った。  「――魔法の本を、開いたのか」  咄嗟に思いついた疑問を、口にしてみたら。 「はい、つい先程」  悪びれることもなく、答えてくれた。  俺の妹は、馬鹿なのかもしれない。 『サファイアの存在証明』  蒼い煌めきが映し出す真のストーリー。  魔法の本に魅入られた少女が手にしたのは、一冊の本。  彼女はネタバレを躊躇しない。  手にしていたなら、あらすじを語る。  ――少女が、世界から認識されなくなった世界の物語。  それが、サファイアの紡ぐ物語。  あるところに、二人の男女のカップルがいた。  彼らは相応に愛してあって、相応に互いの気持ちを知っていた。  束の間の幸せが、はるか遠い未来まで続くと盲信していた二人は、ある日、呪われた宝石に魅入られてしまう。  ――沈みゆくような深い蒼色。 まあ、なんて素敵なのでしょう。  それは、少女のもとに降ってきた幸運。  家の倉庫から、見つけてしまった不運。  ちっぽけなアクセサリーを拾ったその日から、彼女の存在は失われてしまった。  所有者を不幸にさせるというその宝石は、遥か過去の時代から忌み嫌われていたもの。  だが、色あせ、風化し、各地を転々としたサファイアは、いつしか時代に置き去りにされてしまっていた。  気が付けば、一般家庭へまで流れつき。  気が付けば、誰にも身につけてもらえることなく、物置に忘れ去られていた。  少女が、それを見つけるまで。  そして少女は、世界から孤立してしまいました。  サファイアの呪いは、一人ぼっちの呪い。  少女が生きていた足跡を、まるでなかったことのようにしてしまう。  誰も、彼も、少女のことを忘れてしまう。  そこに少女が生きていたことを、忘却してしまうのだ。  それはまるで、深海に沈みゆくように――サファイアの煌めきは、少女の存在を飲み込んでしまったのだ。  ――サファイアの呪いは、残酷でした。  全てを忘れ去られても、たった一人の少年だけは覚えていました。  少女のことを、忘れずに覚えていたのです。  けれど、それは束の間の希望。 失われる、希望でした。  水面上でもがいても、サファイアの呪いからは逃れられません。  いずれ少年も、少女のことを忘れてしまうのです。  二人の絆がもたらした、僅かな時間。  他の誰もが忘れてしまっても、少年だけが覚えていてくれる希望。  たやすく打ち砕かれてしまえば、少年もまた沈みゆく途中に過ぎなかった。  そして少年は、少女のことを忘却してしまう。  恋人も、家族も、友達も、みんなが私のことを忘れてしまって。  ああ、それでも少女は諦めませんでした。  失った過去に思いを馳せながら、それでも、前を向いてサファイアの呪いに立ち向かったのです。  全てが沈んでも、自分だけは溺れないように。  光の届かない深海ではなく、燦々と輝く水面へと。  赤の他人へとなってしまった少女は、全てをやり直すことにしました。  ゼロになってしまった関係を、一つ一つ修復していったのです。  いつか、思い出してくれる日を信じて。  ああ、それでも思い出してくれる日は、訪れないと理解して。  それでも、あなたは――私のことを愛してくれるから。  少女のことを忘れた少年は、もう一度、少女のことを好きになりました。  忘却した記憶はそのままでも、少年は少年で、少女は少女だったのです。  一度全てがリセットされても、そこにある恋心は変わらずに。  ――そこで少女は、自らの存在の証明をしたのです。  この世界に、少女は生きて。  この世界で、少年を愛している。  それが、少女が少女であるがゆえの、存在証明。  サファイアがもたらした呪いへの、たった一つの希望です。  ――やっと、思い出してくれたのですか。  そして、最後に少年は思い出します。  全てを、思い出したのです。  存在証明を終えた少女への、サファイアの祝福です。  失くした過去の思い出を噛み締めながら、変わらぬ少年のことを思い続け。  自ら世界に生きる意味を証明した少女は、最後まで強さを貫き通した結果、失くしたものを取り返したのです。 『サファイアの存在証明』  それは、少女の孤独な生き様を記した 奮闘記である。  物語を読み終えた妃は、一つ、息を吐いた。 「ヒスイの時とは違って、ネタバレをさせてくれるのですね。何とも、優しい物語です」  手にしていたのは、魔法の本。  妃が開いた『サファイアの存在証明』だ。 「あのときは、物語が終わるまで本は姿を見せなかったのに」 「ここで私が初めて本を開いたときは、すぐに消えてしまったのですけどね。瑠璃とここへ逃げてきたら、何故か置き去りにされていました」  『サファイアの存在証明』は、まるで俺たちを待ち受けていたかのように、そこに存在していた。 「……ひとまず、安心した。結末も、平和なオチみたいだし」 「そうですね。悲しい物語というには、パンチが効いていません」  サファイアを閉じた妃は、表紙に手を添える。 「しかし、これが主人公を与えられた気分ですか。あまり、実感はありませんね」 「そういうもんだからな。言われて指摘されても、気付かないくらいだ」 「まあ、そのあたりは追々思い知ることになるのでしょうね」 「いや……もう十分に思い知っただろ」  ルビーのようなケースとは明らかに違う明確な異常。  両親や、友達から、忘れ去られてしまっているという現実。 「そうでした。さすがの私も、夜子さんの敵意を向けられたときは、悲しかったです」 「あいつ、本気だったな。本気の本気で、お前を拒絶してた」  まさしく、サファイアが本物であるという証だ。 「そしてこれから、瑠璃も私のことを忘れてしまうんですよね。嘆かわしい」 「……やっぱり、俺が主人公の恋人役か?」  俺だけが忘れていないという事実を考えれば、明白だったが。 「当たり前です。私の恋人役は、瑠璃しかいませんよ」  やや、俯き加減に。 「……しかし、予めネタバレされているとはいえ、瑠璃に忘れられるのは辛いですね。考えるだけで、胸が痛くなります」 「心配するな。忘れても、思い出してやるからさ。俺がお前のことを、本当に忘れるはずがないだろ」 「思い出すことも、本に約束されていますからね。ああ、なんとも緊張感がありません。これなら、ネタバレしなかった方が良かったのでは?」 「そういうな。安心して結末を迎えられるだけ、良かっただろ」  もし、これがバッドエンドだったなら、どうするんだ。 「そうですね。前向きに考えましょうか」  サファイアを大切そうに鞄にしまって、妃は言った。 「忘れられているという状況も、冷静になってみれば愉快です。受け入れてしまえば、なんと生きやすいのでしょうか」 「……?」  妃の言っている意味が、わからなくて。 「この世界では、月社妃という存在は、いないのです。それは、つまり」  唇に、手を当てて。  嬉しそうに、呟いた。 「私が瑠璃の妹だと知っている人間も、いないということです」 「――っ」  思わず、心臓が大きく脈動した。  動揺が、顔に現れる。 「この世界こそが、私と瑠璃が幸せになれる、唯一の可能性なのかもしれませんね」 「やめろよ、そんなことをいうな」  思わず、込み上げてくる感情を押し殺す。  喜んでいい訳が、ないだろ。 「どのみち、本は閉じられるんだ。今に幸せを覚えても、それは夢幻に終わる。変な期待を、するんじゃねえよ」 「そうですね、そうでした。でも、瑠璃?」  それでも、妃は幸せそうに笑う。 「――束の間の夢に想いを馳せるのも、悪くはないと思いますよ」  世界に置き去りにされた兄妹は、時代に置き去りにされた教会で、背徳的な愛情を確かめ合う。  こういう未来があったのかと、夢見心地に至って。  それでも、現実は進行し、無慈悲にも引き裂かれるのだろう。  それは本のシナリオではなく、現実の摂理が故に。  その後、一同を広間に集めて、状況説明を行った。 「『サファイアの存在証明』か」  全てを話し終えた後、汀は頷いた。 「その物語は、俺も聞いたことがあるぜ。手伝っていた仕事先で、それらしい本の話を聞いたことがある」 「私は……ないわね。少なくとも、読んだことはないわ」  夜子は、一貫して妃の方を見ようとはせず、視線を反らし続けていた。  他人の存在が、許せないのだろう。 「でも、確かにサファイアは開かれているみたいね。なんとなく、わかる」 「……分かるもんなのか?」 「なんとなくね」  曖昧さを口にしながら、夜子は頷く。 「状況は理解したが、さて、瑠璃の彼女はどうしたもんかな」 「か、彼女?」  胸が、ドキッとする。 「彼女なんだろ? 妃って女。さっきから仲良く手ぇ繋いでんじゃねーか」 「…………」  そうなのである。  何故か妃は、図書館に戻ってきてから俺にべったりで。  今まで他人の前で見せることのなかった甘えを、遺憾なく発揮している。  「お、おい、まずいだろ、手は!」  小声で、妃に注意すると。 「問題ありません。今は、恋人の役割でしょう? 役割に忠実だと説明すれば、思う存分いちゃいちゃできますよ」 「…………」  おいおい。 「あー、でも元は妹なんだっけ? だとしたら滑稽だな。現実ではあり得ないカップルが、本によって開かれているわけだ」  面白おかしく、汀は指摘する。 「本が開くには、開いたものの願望が必要だ。案外、妹のお前も、兄である瑠璃のことが好きだったりしてな」 「そんなわけないだろ。妃はただ、なんでもいいから本を開きたかっただけだ」  好奇心に、素直すぎた。  そこを、本が見初めたのだろう。  少なくともこの場では、そう説明しておかなければならない。 「……でも、今回ばかりは瑠璃の言ってることは正しいのでしょうね」  夜子が、肯定する。 「忘れている実感はないけれど、これは確かに本の影響。目障りで仕方がないそこの女も、一応はこの図書館の一人だったのでしょうね」 「瑠璃くんに言われて確かめてきたけれど、うん、言うとおりだった」  理央が、賛同する。 「瑠璃くんの隣の部屋が、誰かが長いこと使ってたみたいになってた。もー理央びっくり。毎日掃除してたはずなんだけどなー」 「そこは、妃の部屋だったからな」  どうやら今回の辻褄合わせは、記憶にのみ干渉しているらしい。  ところどころ、妃が存在していた痕跡が残っている。 「本の知識もある。俺達の事も知っている。瑠璃の言葉の裏付けもある」  汀が、真剣な表情で続ける。 「間違っているのは、瑠璃とその女か、俺たちの認識か。ま、俺は信じてやるよ」 「……汀」 「それに、その女はお前の妹なんだろ? だったら、信じてやらなきゃ駄目だろうが。俺は、妹には甘いんだよ」 「……ふふふ、記憶をなくしても、何も変わらないのですね」 「瑠璃が彼氏役で良かったな。信頼して任せられるだろ」 「どーだかな。俺は、妹に嫌われてたからなあ」  白々しく、言ってみた。 「そうは、見えないけれど」  夜子の冷たい視線が、繋いだ手に突き刺さる。 「あー、今は、ちょっと、役にのめり込んでるかな?」  冷や汗をかきながら、手を離そうとするが、指を絡めて離さない。 「嫌いだったはずなのですが――何故でしょうね、胸がドキドキするのです」  密着して、身体を寄せ付ける。  こいつ、調子に乗りすぎだろ。 「妹に愛されるなんて、兄貴冥利に尽きるじゃねーの」 「うんうん、なんか恋人みたいだよねー」 「ははは……」  乾いた笑いしか出てこない。  この状況は、余りにも心臓に悪すぎる。 「呆れた。早くキミも記憶をなくして、物語を進めなさいよ」  辛辣な夜子の一言は、まさにその通りだったのだけど。 「物語では、妃ちゃんはもう一度みんなと仲良くなるんだよね? だったら、これから仲良くしていきましょー」 「……納得しづらいけれど、そうするしかないわね」  忘れ去られた少女は、臆することなく関係を作りなおす。  めげず、挫けず、もう一度友情と愛情を取り戻すのだ。 「いいわ、許可してあげる。お前に、この図書館での滞在許可を出しましょう」 「ありがとうございます。良かった、これで寂しくありません」  ああ、もうだめだ。  声が、色っぽすぎるんだよ。  完全に、恋人モードに切り替わってしまっている。 「おいおい、設定上は恋人でも、実際は兄妹なんだろ? やることやっちゃー駄目だぜ?」 「……やっぱり、禁止にしたほうがいいのかしら?」 「だいじょーぶ、二人とも、仲良さそうだし!」 「良すぎるから、問題なのよ」  許可を貰えた妃は、嬉しそうに頬を朱に染め、俺の方へもたれかかる。  人目をはばかることなく、俺に甘え始めているのだ。 「今日は、可愛がってくださいね」 「お、お前……」  冗談か、本気か。  本による影響か、それとも妃本人か。  サファイアの物語は、いつしか俺と妃の停滞していた関係性まで、揺るがしてしまうのかもしれない。 「私は、瑠璃の恋人でしょう?」 「……そうだな」  人目をはばからず、頷いた。  今まで一度だって出来なかった、禁断の肯定。  けれどそれが許される今は、俺たちにとって幸せな刹那なのかもしれない。  眼の前に並べられた数々のお菓子を見て、理央は小さく頷いた。 「おおー、上手になりましたなー! もはや理央のお手伝い、いりませぬ?」 「……まだまだよ。あなたのお菓子に比べたら、足元にも及ばないわ」  もっとも、初心者のあたしが、熟練者の理央に並べるはずも、ないのだけれど。  それくらいは、弁えている。 「でも、プレゼント用ならこれで十分じゃないかにゃ? 理央だったら、喜びすぎて死んじゃうよー」 「先生が優秀だったのよ。ありがとう、理央」 「これなら、瑠璃くんも大満足です。絶対に、褒めてくれるよー。頭、なでなでしてくれる」  そう、何故かあたしは、あの木偶の坊に手作りお菓子を披露することになっているらしい。  いや、うん、そのことはよく覚えている。  あの日、母さんから任せられた仕事に付きあわせたお礼に、このあたしが自らお菓子を作ろうと思い至ったわけなのだけれど。 「……釈然としないわね」  どうして、あたしがあの馬鹿に? お礼?  そもそも何故、あたしはあいつに感謝しているのよ? 「あり得ないわ」  疑うまでもなく、確かな記憶なのに。  そう思った自分を許せない。 「さっそく、瑠璃くんにご連絡? 呼びだしちゃいますか?」  元々、瑠璃の為を思って作ったわけじゃない。  感謝の気持も何も、篭っていないのだから。  目的と意識のズレが、奇妙な違和感を主張する。 「……今日のお菓子は、理央のために作ったの」 「へ?」  驚いて、目が真ん丸。 「前に、あたしの失敗作を食べていたでしょう? せっかくなら、ちゃんとしたものを食べて欲しいと思って」  あの時の喜びようを、思い出す。  あんな苦いクッキーを、どうして喜んでいたのか。  これがもし美味しいお菓子だったら、どれほど喜んでくれたのだろう。 「あなたには、感謝しているわ。お菓子作りも、なかなか悪くない体験だったし」  エプロンまで、作ってくれて。  料理本まで、用意していて。  この娘ったら、どれだけ料理が楽しみなんだろうと、笑ってしまうくらいだった。 「だから、今日はそのお礼のために、作ったの。理央の好きな、甘々よ?」  対する、理央は。  無言のまま――泣いていた。 「う、ううううっ……」 「え、え?」 「よ、夜ちゃんが、理央のために……ううっ、うっ」 「な、何も泣くことはないでしょう!? ちょっと、どうしたの?」  涙を拭うこともせず、ただ涙を流し続ける理央。 「わ、わかんないよう、でも、なんだか、ぽろぽろ」  あんまり泣くものだから、心配になって手を伸ばす。  柔らかなほっぺに流れるしずくを、指ですくう。 「し、幸せ、すぎてっ、溢れちゃうよおぉ……!」 「理央……」  拭っても、拭っても、理央の涙は止まらなかった。  思い返してみれば、私は理央を泣かせたことなんて、一度もなかったのかもしれない。  泣きたくなるくらいまで、喜ばせたことなんてなかった。 「ねえ、理央」  私が本を読んでいる間に、放置し続けてきたものを突きつけられたような気がした。  狭い図書館の中でさえ、私は見渡せていなかったのだ。 「もし、あたしにして欲しいことがあったら、今度からは正直に言って。無理なお願いでも、簡単な要望でも、構わないから」 「え、ええっ?」 「それをすべて応えるのは、無理よ。あたしにも都合があるし、嫌なことは嫌だって言う」  だから、そう。 「でも、応えられる限りのことは、応えたいから」  伏見理央という女の子は、あたしにとってどういう人物なのか。 「――だってあなたは、あたしの家族でしょう?」  そう言って、あたしは手を伸ばす。  理央の頭を、優しく撫でてみた。  ふと、思い出したのだ。  あいつが、昔、こうして泣きじゃくる理央をなだめていた。  その度に、理央は泣き止んで笑ってくれていた。 「う、うえええん……!」  めそめそと、めそめそと。  ぽろぽろと、ぽろぽろと。  泣きながら、撫でられ続ける理央。 「じゃ、じゃあ」  嗚咽を漏らしながら、 「また、理央とお菓子を作ってくれますか」 「何よ、それ」  思わず、笑ってしまった。  この期に及んで、理央はそんなことをお願いするのか。 「そんなの、当たり前じゃない。むしろ、あたしから頼みたいくらいだわ」  色々、作れるようにはなったけど。  あの料理本の半分も、作っていないのだから。 「ほ、本当? 本当に!?」 「嘘は言わないわ。あたしだって、理央とお菓子を作りたいもの」 「や、やったー!」  そうして、ようやく泣き止んでくれた。  幸せに、花を咲かせてくれた。 「それじゃあ、食べてくれるかしら? 今日は二人で、お茶会よ」 「うん!」  元気よく、返事をして。  幸せな空間に、不思議な感傷を噛み締めていると。 「……あら、夜子さんじゃないですか。珍しいですね、食堂にいるなんて」  瑠璃の彼女が、顔を見せる。  瞬間、とても心がざわついた。  まるで、見られたくないものを見られてしまったような気がして。  別に、この女にお菓子作りを見られることに、抵抗があるはずもないのだけど。 「おや? これは理央さんが作ったのでしょうか。相変わらず、美味しそうですね」 「……それは」  ああ、奇妙な距離感が辛い。  あたしたちはこの女の記憶をなくしているようだけれど、相手はあたしたちのことを覚えている。  そういう立ち位置は、すごく、居心地の悪いものだった。 「そんなに怖い顔をしないでくださいよ。いつも通り接していただければ良いのです」 「いつも通りすら、覚えていないのよ」  というよりも、こいつはどうして平然と館内をうろうろ出来る?  忘れられていることを自覚していたら、中々人に会おうとは思わないだろう。 「お前は、学園へ通わないの?」 「そもそも学生という扱いさえされませんから。通っても、誰? と言われるのがオチです」 「……それもそうね」  ああ、うん、無理だ。  気分が悪くなってくる。  目の前の女のことが、やっぱり赤の他人としか思えない。  傍にいるだけで、胸が苦しくなってきた。 「あ、私も少し頂いてもいいですか? 甘いもの、大好きなんです」  それでも、こいつは何も気付かず平然としている。  他人という存在が、酷く忌々しい。  記憶があった頃のあたしは、こいつとどういう関係だったのだろう。 「では、失礼して」  許可を得ないまま、こいつはクッキーに手を伸ばす。  その気安い距離感が、あたしの中の何かを刺激した。 「駄目」  それは、許されない。  あたしが、理央のために作ったものだから。  理央以外の人間に、食べて欲しくなかった。 「お前に食べさせるものなんて、ここにはないわ。今すぐ、消えなさい」  他に、言いようがあったと思う。  けれど、どんな言葉を使っていいのか、あたしには分からなくて。  驚いた瞳が、あたしを捉えた。  わずかに震え、潤いを帯びている。  あれ、それはどっちの涙? 「……これは申し訳ございません。居候の身で、度が過ぎました」  すぐに表情を切り替えて、申し訳なさそうにはにかんだ。 「大人しく、部屋で静かにしておりますね。それでは」  マイペースを崩すことなく、立ち去った。  恨み事も皮肉も残さず、ただ、自然と。  心の中に、あの失敗作のクッキーの苦さが広がり始める。  ああ、あたしは何をしているのだろう。  そして、何を後悔している。  他人を排斥することなんて、今に始まったことではないというのに。 「月社、妃……」  あたしが拒絶した、女の名前。  どうしてこうも、心が苦しめられるのだろう。  どうしてあたしは、彼女がクッキーを取ろうとしたときに、怒ってしまったのか。 「よ、夜ちゃん? どうしたの?」  厨房の奥で紅茶を淹れていた理央が、驚いたようにやってくる。  いつのまにかあたしは蹲っていたらしい。 「体調が悪いの? どうしよう、夜ちゃん……」 「大丈夫よ、平気だから」  慌てる理央を制して、立ち上がる。 「少し、立ちくらみをしていただけ。何とも、ないわ」  まだ、苦味は広がっている。  苦痛で顔が歪みそうになるけれど、今は平静を装うべきだ。 「ほ、本当? それなら、いいんだけど……」 「少し、心がかき乱されただけよ」  今も、ミキサーでぐちゃぐちゃにされたような気分だけれど。 「ねえ、理央」  テーブルにおいてある、クッキーを1枚手にとって。  今までの、頑張って練習していた時間を思い出す。  誰かのために、始めたお菓子作り。  自分から、頑張ろうって決めたこと。 「あたしは、何のために、お菓子を作っていたのかしら」 「え? それは、だから……」  今、理央のためにお菓子を作って。  瑠璃のためなんていう、冗談を否定して。  月社妃が、クッキーを取ろうとした瞬間を思い出す。  躊躇なく、それを許さなかったのは、あたし。  あたしは彼女を、拒絶して。 「もう、わからなくなっちゃった」  クッキーを、一つ、食べてみた。  それはとても、甘くて、苦い味をしていた。  妃のことがあったから、今日は早めに帰るつもりだった。  岬との雑談も振り切って、気持ち早歩きで帰ってくる俺を、しかし予想外の人物が待ち受けていた。 「ああ、瑠璃か。久しぶりだなあ……元気にしてたか?」 「……親父」  図書館の、門の前で。  まるで待ち伏せるように、存在していた。 「立派なお屋敷だが、学園に通うには少し遠そうだな。全く、父さんも母さんも、どうしてこんなところで一人にさせてたんだかな」 「それは……どういう意味ですか」  一人? それは違う。  ここには素敵な幼馴染と、可愛い彼女がいる。 「もうすぐ、父さんはこっちへ戻ってくるんだ。家族三人で暮らすための、新しい家を購入しようと思ってな」 「…………」 「遊行寺さんのところにも、これ以上迷惑をかけるわけにもいかないだろ」 「…………」  耳をふさぎたい思いだったが、それでも、付き合わなければならないのだろう。  妃がいなくなった四條家の、現状を。 「親父は、俺が殴り殺そうとしたことを、忘れたんですか」 「殴り殺す? おいおい物騒な言葉を使うなよ。あんなの、ただの親子喧嘩だろ。お前、まだ怒ってるのか?」 「怒るって、何を?」 「父さんが酔っ払って帰ってきて、煩く騒いだことをだよ。だからお前は、怒ったんだろ?」 「……そうか」  そういうことか。  その出来事まで――なかったことになっているんだな。  娘を襲った父親は、存在していない。  被害者の娘が、世界から忘れられたからだ。 「もしかして」  声が、震えていた。 「俺の両親は、ずっと仲のいい夫婦だったのかな」  聞いてはいけない、質問だったのかもしれない。  でも、聞かずにはいられなかった。 「何を言ってるんだ、そんなに、離婚話を引きずっているのか?」  父親は、陽気に笑う。  馬鹿馬鹿しいと、否定するのだ。 「そりゃあ喧嘩することもあったが、おしどり夫婦だったろ。家族三人、いつも幸せだったじゃないか」 「じゃあ、なんで別居してたんだ。なんで、今は3人バラバラなんだ」 「単身赴任と、お前の我儘だろう? 思春期も結構だが、そろそろ母さんを心配させるなよ。一人は、寂しいさ」 「……そうですか」  もう、わかったよ。  そういう、ことなのか。  ようやく――父親の幸せそうな表情の意味が、理解出来た。 「なんだ、泣きそうな面をして? そんなに嬉しかったか?」  認めたくなかった。  絶対に、認めなくはなかったけれど。 「もしも、妃がいなかったら――俺たちは、こうなっていたのか」  世界から、月社妃の生きた痕跡がなくなって。  彼女の存在が、なかったことになってしまって。  突如として修復された、四條家の現状。  それは、もしもの世界――俺たち家族が幸せになれる、数少ないルートだった。  それを、思い知らされてしまった。  そのことが、何よりも――心が切り裂かれる思いだった。 「今日は、帰って欲しい」  もう、会話を続けたくなかった。 「お、おい?」 「そんなに急がなくてもいいでしょう。もう少し、待ってくれ」  逃げるように、父親の横を通り過ぎる。 「……やれやれ、とにかく、そういうことだからな」  俺の背中へ、念入りに言う。 「父さんがこっちへ戻ってくるときまでには、お前も帰る準備をしておきなさい」 「……それじゃ」  小さく会釈をして、別れを告げた。  もう、限界いっぱいだった。 「案の定、幸せそうでしたね」  扉の向こう側には、妃が待ち受けていた。 「聞いていたのか」 「面白いくらいに、現実は簡単ですね」 「何がだよ」 「こうして一人の人間を切り離してみたら、あっというまに真実が見えてしまう」  妃も、察したらしい。  四條家が、唯一幸せになれる最後の方法。 「私が存在しなければ、それで良かったのです。 不仲の中心にいたのは、いつだって私ですからね」 「嬉しそうにいうことじゃねえだろ」  どうして、こうも明るく務められるのか。  不思議で不思議て、たまらない。 「私、思ったんですけど」 「……いいよ、言わなくて」  もう、分かってるから。 「もしかすると――このままの方が、誰にとっても幸せなんじゃありませんか?」 「…………」  言わなくていいって、言っただろうが。 「私には、あなたがいればそれでいい。ここには、私があなたの妹であることを知る人物は、いないのです」  そして、そのことで心を痛める人間も――いない。 「もしかしてサファイアというのは、幸せな物語なんじゃありませんか?」 「忘れられることが、幸せか」  でも、お前は一つ忘れている。 「お前が望もうと望まなくとも、物語は進むぞ」  次第に俺は、お前のことを忘れてしまって。  そして、忘れられた世界でお前は一人奮闘する。  その果てに――ようやく、忘却されていた記憶が帰ってくるのだ。  全ては、元通り。 それが定められたシナリオだ。 「ええ、そうですね」  物憂げに、呟く。 「それは、悲しい結末です」  いつから、サファイアはバッドエンドになったのか。  何かが狂い始めている。 「よぉ、瑠璃。あの女の事は、未だ覚えているか?」  移動教室の最中、汀に話しかけられる。  隣には理央がいて、久しぶりに登校しているところを見たような気がした。 「覚えているよ。忘れないよう、心に刻みつけている」 「忘れちまった俺が言うのもあれだが、あまり気負いすぎるなよ」  真顔で、言った。 「シナリオが進まなければ、物語は終わらない。忘れることが、悪いことばかりじゃないんだぜ」 「わかってるよ。だが、それでも忘れたいとだけは、思わないから」  緩やかにすぎる時間の中で、妃を一人にしたくはないから。  今に幸せを感じているあいつも、俺があいつを忘れてしまったら、そこで幸せは終わる。 「……そう簡単に、割り切れるもんじゃないんだよ」 「理央は、早く思い出してあげたいよ」  苦笑いを浮かべながら、言う。 「瑠璃くんが苦しんでいるのを見てると、理央だって、分かるよ。妃ちゃんが、理央たちにとってどういう存在だったのか」 「……理央」 「もしかして夜ちゃんとも仲良しさんだったんじゃないのかな? 最近の夜ちゃん、とても、辛そうだから」  ああ、そうか。  忘れたものも、同じくして重荷を背負っているのか。 「なんとなくね、欠けているような気がするの。つい最近まであったものが、失われている感覚。でも、どんなに思い出そうとしても、記憶はなくて」 「証拠も確証もないのに、奇妙なズレが日常にこびりついてんだよ。あれ? こんなはずじゃなかったのに、どうして? ってな」 「……そうか」  記憶はなくても、分かるのか。 「確かに誰かがいて、確かに誰かと過ごしていた。今まで楽しく笑えてたのは、誰かがいてくれたからなんじゃないのかなって――思ったの」 「なんか、物足んねえんだよ」  それが、俺たちにとって余りにも大きすぎる存在だったのだ。  どんなに整合性を合わせようとしても、どこかで違和感が生まれる。  魔法の本の辻褄合わせがいかに優れていたとしても、それを覆い隠すことは出来ないのだ。 「全部思い出したら、いっぱいごめんなさいをしなきゃだね」  物語の上に引き上げられながら、それでも自分を見失わない。  それこそが、現実に生きるという事なのかもしれない。 「それじゃあな、少年。そろそろ行くわ」 「また、図書室でね」  手を振る二人に、またな、と呟いた。  時計を見ると、次の授業が始まりかけている。  俺も、行かなくちゃ―― 「――何か、お困りのようですね」  後ろから、声をかけられる。  不思議と聞き慣れた声に、懐かしさを覚える。  何故だろう、彼女の声が、酷く愛おしく思えてしまって。 「悩み事があるのなら、この私がご相談にのってあげましょうか?」  ニコニコ顔の、日向かなた。 「探偵部部長の名にかけて、瑠璃さんのお役に立ちますよ!」 「……あんた」  どうして、こういうタイミングで声をかけてくるのだろう。  誰かに頼りたいという、心が弱みを見せそうになる瞬間で、登場するんだ。 「これでも私、優秀なんですよ? 瑠璃さんのことは軽蔑していますが、それは力にならないということではありません」  彼女のことを、頼もしいと思う日がくるなんて。  自信あり気のその言葉に、ついつい相談してしまいそうになって。 「……教室内で深刻な顔をされていると、こちらとしても面白くありませんから」  最後は少し、困ったような笑顔だった。 「ありがとう。でも、悪い」  頼れるものなら、頼りたかったが。  これは、何も知らない一般人に相談しても、どうしようもないことだ。 「これは、あんたに話してもどうにもならないことだから。俺たちの、問題だ」  それに、わかっているんだ。  俺ができる事なんて、物語を進めることだけだって。  あとは、心がついていくかどうか。  そういう、問題だ。 「……そうですか。戦力外通告というわけですね」  残念そうに、俯いて。 「折角、瑠璃さんに貸しを作れると思ったのに」 「ははは、あんたに借りを作ると、後で怖いからな」 「それにしても、探偵部か」  まさか、探偵部なんてものを立ち上げているとは、思わなかった。  この前の部室は、そのためのものだったというわけだ。 「……もしかして、興味があったりしますか? 探偵部!」 「ねえよ、そんなもん」  けれど。 「――あんたらしい、面白い部活動だな」  好奇心旺盛なあんたには、ぴったりだよ。 「そりゃもう、大義名分を掲げてプライバシーに踏み込めますから!」 「おい」  中身は、何も変わっちゃいない。  魔法の本に関係なく、日向かなたは日向かなたのままである。  元気で明るい彼女に、少し、力をもらったような気がした。 「話があるの」  と、夜子に呼ばれた夕食後。 「……来て」  それは生まれて初めての、誘いだった。  真剣な表情をしていた夜子。  冗談を言えるような雰囲気ではなかった。 「お前が俺に、話があるなんてな」 「ねえ、瑠璃」  言われるまでもなく、予想はできていた。 「月社妃について、教えて」 「……やっぱりか」  そうだろうと思っていたよ。  そうでなければ、お前が俺を頼るものか。 「何か、おかしいの。あたし、変」  やや怯えながら、弱音を吐く。 「記憶がないから、あの女のことは他人としか思えない。あたしは他人を排斥する。サファイアが開いていても、それは変わらないはずなのに」  揺れる瞳が、俺を捉えて。 「他人を拒絶することに抵抗はないわ。だから、いつものように振舞っているのに」  悲痛な声が、動揺を隠せずにいる。 「――月社妃を拒絶する度に、泣きたくなっちゃうわ。どうしても、耐えられないの」 「もしかして……覚えているのか?」 「覚えているわけ無いでしょ! 覚えていたら――こんなに、苦しくないはずよ」  それでも、夜子は言う。 「こんなの初めてなの。あたしがあたしでいられない……おかしいわよ、どうなっているの」  これほど乱れる夜子を、俺は一度も見たことがなかった。  ああ、そうか。  理央が、なんとなく覚えていたように。 汀が、違和感を感じていたように。  夜子もまた、何かを感じ始めているのだ。 「とても、大事なことを忘れているのでしょう? あの女は、あたしの、何? キミの妹というだけでは、なかったのかしら」 「……そうだな、全然違ってたよ」  俺の妹というだけの存在では、なかった。  むしろ俺のほうが、単なる妃の兄に過ぎないのかもしれない。 「お前と妃は、友達同士だったよ。お前が一番大切にしている、親友だった」 「……と、友達?」   驚きを隠せないまま、反芻する。 「あたしに、友達? なにそれ、嘘でしょう?」  唇が震えていた。  信じられないと呟いて、俺の言葉を疑う。 「あ、あたしは、今までそんなものを必要としていなかったわ。あたしの回りにいたのは、家族だけ」  夜子も、同じだった。  俺の両親と同じだ。  今までの人生から、妃という存在だけがすっぽりとぬけていた。  妃に関わる全ての思い出が、なくなってしまっているのだ。 「違う。お前には友達がいて、それも、とても仲がいい友達だった」 「ありえないわよ。だって、え、ええ?」 「……どうしてお前は、お菓子作りを始めたんだろうな」  引きこもってばかりの活字中毒者が、どうして理央に教えを請おうと思ったのか。 「その答えを考えれば、月社妃がどういう存在だったのか――それは、明らかだろ」 「……でも」 「それとも、なんだよ」  まだ納得出来ないのなら、止めを刺してやろうか。 「お前は、俺のために毎日頑張ってくれていたのか? 愛情込めて、お菓子作りに励んでいてくれたのか? それならそれで構わないけどな」 「――っ!」  むっと、怒りを顕にして。  もう、その反応が全てなんだよ。 「お前が、俺にお菓子を作るわけねえだろ。いつからお前は、そんなに乙女ちっくになったんだ?」 「うるさい――うるさいわよ!」  声を荒げながら、頭を押さえる。 「しょうがないでしょ! あたしの記憶が、そう憶えているんだから!」 「それで、納得できるのか?」 「出来るわけないでしょう! どうしてこのあたしが、キミに手作りを振る舞わなければならないの!」 「だったらもう、わかっただろ」  考えるまでもなく、明白だ。 「友達かどうか、信じなくてもいいよ。今のお前に、友達を知らないお前に、それを認めることは難しいだろうから」  記憶がないお前は、その暖かさも知らないだろうから。  それは仕方ないことだと思う。 それが、魔法の本の力なのだろう。 「でも、お前はお菓子をプレゼントしようと思う程度には、妃のことを思ってたんだよ。それだけは、憶えておいてくれ」 「……妃」  不安をいっぱいに浮かべ、自らの手を握りしめる。 「早く、サファイアを終わらせて。早く、思い出したいの」 「……ああ」  忘れられた側と、忘れた側。  どっちにも、悲しみは訪れている。  なるほどこれは、悲劇の物語だ。 間違いなく、終わらせなければならない。 「……なあ、本を閉じる方法は、他にもないのか? 一つくらい、裏テクみたいなのがあってもいいだろ」  ふと、思いつきのように訪ねてみた。  この悲劇を一刻も早く終わらせたくて、言ってみた言葉だったのだが。 「……さあ、知らないわ」  夜子は、無表情に否定した。 「知らない。あたしは、知らない……」 「……?」  少し、思いつめるような表情を浮かべていた。  何か、迷っている? 「こういうときに、母さんがいてくれたら良かったのに」  だが、深くは踏み込むことはせず、聞き流してしまった。  それを特に問題とは、思わなかったから。  書斎から退出した後、ふと思いついて妃の部屋に向かうことにした。  愛すべき我が妹の顔が見たくなっての行動。 「あら、瑠璃ではありませんか。どうしました? 夜這いですか?」 「似たようなものかな」 「それは愉快ですね」   案の定、読書中だったらしい。  読んでいる本は――『サファイアの存在証明』だった。 「みんな、お前との記憶がぼんやりと残っているらしい。覚えていないが、それでも、誰かがいたことは分かってるってよ」 「……まあ、それは素敵ですね。この私も、演じ甲斐があるというものです」  妃は、サファイアを俺の目の届かないところへとしまった。 「そういえば、夜子さんからはなにか聞き出せましたか? 例えば、本を終わらせる別の方法とか」 「いや、何も知らないってさ。思いつめるような表情をしていたから、本当に知らないんじゃねえの」 「そうですか……」  妃は、深刻な表情を浮かべた。 「それは、残念です」  言葉以上に、落胆した様子だった。  何を期待していたのだろう? 「ただ、1点気になることがあってな」 「俺がまだ、お前のことを覚えているのはどういうことなんだろうと思ってな」 「原作では、恋人役の少年も、早々に記憶をなくしてただろ? なのに、俺はまだ覚えている」  それは、見過ごせないポイントだった。 「もしかしたら、物語が停滞しているのかもしれない。妃なら――何か分かるか?」 「……何か、とは?」  淡々と、聞き返されてしまう。 「丁度、今読んでいただろ? こう、物語を進めるヒントみたいなものがあるかもって――」 「瑠璃は、私のことを忘れたいのでしょうか」 「……え?」  あれ、なんだろう。  そこで初めて、俺は違和感を覚える。  目的が、一致していないような。  終点が、共有できていないような。 「物語を進めるというのは、そういうことでは?」 「い、いや、そういうわけじゃなくて」  抗えないから、早く終わらせようと、そういうことをいいたいんだ。 「一つ、宣言しておきます」  妃は、俺に言い放つ。  確固たる意志を持って、堂々と。 「私は、この物語を、終わらせる気はありません。冒頭で停滞しているというのなら、それで結構です」 「……は?」 「当たり前でしょう」  淡々と、続ける。 「今の私は、世界から独立した存在です。全てを許される、バグのようなもの」 「お前、何を言い出すんだ」 「前にも言ったじゃありませんか。今の状況は、私たちに都合が良すぎます。人の目を気にせず手を繋げるなんて、まるで夢のようではありませんか」 「でも、本はいずれ閉じるんだぞ? どのみち、終わってしまう。未練がましく追いすがっても仕方がないだろ」 「未練がましくても、追いすがります。少しでも終わりを引き伸ばせるなら、私は本望ですから」  終わらせようとする俺の眼前で、彼女は終わらせないことを宣言する。 「だから、もう協力しません。知恵も貸しません。だらだらと引き伸ばして、物語を腐らせてしまいましょう」 「我儘いうなよ。そんなことをしたって、無駄だろ」 「そんなの、やってみなければわかりません」 「……妃」  それは、妃らしくない言葉だった。  無駄な労力を嫌う、めんどくさがりの妃の台詞とは思えない。 「瑠璃は、快適だとは思わないのですか? 今の、この状況を」 「それは」  堂々と、妹を愛することの出来る今。  たしかにそれは、絶対に手に入らないはずのものだったけど。 「……忘れた側のあいつらのことがあるからな」  思い出したいと、願っていた。 「残念ながら、それは私と瑠璃の、覚悟の相違です」  ただ、妃は胸を張って続ける。 「私は、瑠璃との幸せのためなら、他の全てを犠牲にできる覚悟を持っていますから」 「…………」  なんだよ、俺の妹は。  そんなことを言われてしまったら、もう何も言えなくなってしまうじゃないか。 「別に、忘れたままでいいとは思っていませんよ。でも、自ら望んでまで終わらせることはないと思うのです」 「……でも、俺は」 「お願いですよ、瑠璃。今は終わらせることよりも、私との今を大切にして下さい。こんな機会、もう二度と訪れないのかもしれないのですよ?」  懸命に、妃は語りかける。  真に迫った懇願が、俺が用いる選択肢を次々と否定していく。 「…………」  ずるいなあ。  どうすれば俺の考えを変えられるか、とことん熟知してやがる。 「……わかったよ。好きにしろ。それに、どうせ物語を止めることはできないんだから」  どうあがいても、進んでしまう。  実際のところ、停滞しているように見えて、終わりに向かって近づいているのかもしれないのだから。 「ありがとうございます。さすが私の、恋した人」  それに、俺だって。  今のこの奇跡を、楽しみたいと思っている。 「俺がお前のことを忘れるまで、お前だけを見続ける。今は、恋人関係に浸ろうか」 「はい、いっぱいいっぱい、私のことを愛して下さいね」  サファイアが、始まって。  俺たち兄妹の愛情に、歯止めが効かなくなっているような気がした。  いつ記憶を失うかの恐怖に苛まされながら、今は目の前の女の子を優先する。  やはり、俺にはどうすることも出来ないだろうと、思っていたから。  早く終わらせたいと願う夜子の気持ちをわかっても、その手段がわからなくて、今を選ぶ。  果たして、速やかに終わる方法がわかっていたのだとしたら――俺は、なんと答えただろうか。 「…………」  わからない。  わからない。  わからない。  いつだって、わからないことだらけの世界の中で、俺たちは生きてきたんだから。  それでも何が正解かを考えて、選び続けていたつもりだったけど。  まさか、もうすぐこの物語が終わってしまうなんて、想像もしていなかった。  妃は、変わった。  変わってしまった。  サファイアの物語に便乗して、束の間の関係に浸る。  理央の前でも、夜子の前でも、汀の前でも――妹としてではなく、彼女として俺に寄り添う。  せき止めていた何かが溢れだしたかのように、妃の愛情は止まらなかった。 「妃ちゃんは、すっかり瑠璃くんにめろめろなんだね」  理央は、はにかんだ。 「これも、サファイアの影響なのでしょうか。今は、瑠璃のことが愛しくて愛しくてたまらないのですよ」  席に座って、夕食をとっていた俺の後ろから、抱きつくような形で囁く。 「……おい、食べられないんだが」 「興奮して?」 「邪魔だからだよ」  すらりとした腕が、俺の身体をぎゅっとする。  明らかに、妨害行為だ。 「お前は何がしたいんだよ」  食べにく言ったら、ありゃしない。  顔も見えないから、話しづらいじゃないか。 「キスがしたいです」 「…………」  こんなところで、求めるなよ……。 「き、きす? き、きさきちゃんはおませさんですにゃー」 「せめて、目の届かないところでして欲しいわね。見ても、面白くなさそうだし」 「さて、許可ももらったことですし、早速」 「まて、肝心の本人の許可が出ていない」  今は、食事中だ。  唇の仕事は他にある。 「瑠璃にキスをするのに、どうして瑠璃の許可をもらう必要があるのでしょう」  指先を、俺の唇に這わせて。 「あなたの唇は、全て私のものなのに」  蛇が獲物を捉えるように、艶かしく囁いた。 「……ふ、ふわぁぁぁあ、なんかえっちだよー」  顔を真赤にさせながら、理央が声を上げる。 「よ、夜ちゃん、どーしよ! どーしちゃお! 不純異性交遊だよー?」 「いいじゃないの、健全な男女が愛し合っているのなら、好きに盛らせてあげなさい」 「よ、よくないよ? 公序良俗違反ですぞー?」 「構わないわ。ここはあたしの私有地よ。法律はあたしが決める」  勝手なことを言い出して、夜子は冷たく言う。 「物語に踊らされて、妹に手を出して、物語が閉じた後が楽しみだわ」 「キミは、妹に手を出した大馬鹿者になるけれどね」 「……うるせえよ」  それは、見当違いの指摘だ。  俺はとっくに、妹に手を出している。 「それではご期待にお応えして、私は身体を清めてきますね」 「何のためだよ」 「不純異性交遊のためですが?」 「馬鹿言うな」  冗談っぽく言ってるが、目が真剣だった。 「今は、サファイアに踊らされているだけだろ。取り返しの付かない行動は、やめておけ」 「……むう」  こう言えば、納得せざるをえないだろう。  サファイアによる影響、というのが、今俺達がいちゃついている大義名分なのだから。 「そ、そーだよ! 清らかなお付き合いをするべきです。えっちーのは、いりませぬ」 「……な?」  首だけ振り向いて、納得させようと微笑んでみた。 「意地悪」  対して妃は、いじけたようなことを言う。 「じゃあ他に何をしてくれるんですか。私を、どうやって愛してくれるんです?」 「そりゃ、お前、あれだよ」  ……そういえば。  ひた隠しに来ていたから、公然と愛を育む方法を俺は知らない。  いつも社会の隙間を縫うようにして、僅かな時間の逢瀬を楽しんでいたから。 「……どうしたらいいんだ?」 「でーとしたらいいんだよー、でーと」  にこにこ顔で、理央が手を挙げる。 「おめかししてー、手を繋いでー、街に出て、ご飯食べてー、笑って、楽しんでー」 「……ふむ、なるほど」 「ちょっとろまんちっくなお店に入って、いちゃいちゃして、帰りに公園で、ちゅー」 「そして二人は、夜の街に消えていくわけですね」 「そ、そんなことは言ってないよ!?」 「暗黙の了解でしょう」 「うー、妃ちゃんははれんちですにゃー」  助けを求めるように、俺を向いて。 「それ、いいな」  俺は、大きく頷いた。 「デートしよう。俺と、お前で」  理央の語ったものは、ありきたりなものだったかもしれないが。  そんなありきたりなことさえ出来なかった俺たちには、夢の様なことである。 「ふふふ、ようやくやる気になってくれましたね」 「……邪険に扱ってたのは、お前が食事を邪魔してたからだろ」  嫌だから、じゃない。 「キミに、女の子をエスコートできるのかしら? とても、想像できないのだけれど」 「だったら、お前も俺とデートしてみるか?」  と、軽々しい発言をすると。 「彼女がいる前で、他の女性に手を出さないで下さい」 「いくら夜子さんが魅力的だからって、それは許しませんよ?」 「わかってるよ」  ちょっとした、冗談じゃないか。 「……ねえ、妃」  そんな俺達を見つめていた夜子は、小さく呟く。 「お前にとって、あたしってどういう存在だったの?」  やや俯き加減、控えめな質問だった。 「あたしはお前のことを、他人だと思っているけれど、そうじゃ、なかったのでしょう?」  記憶がないまま、夜子の中で揺らめく感情。 「さあ、私は夜子さんの全てを知っているわけではありませんから、答えようもありません」  目を閉じて、慎重に言葉を選ぶ妃。 「あなたが、私をどのように評価をしていたのか――それは、あなた自身が判断するべきだと思います」 「……それがわからないから、困っている」  夜子の中で、妃はどういう位置づけか。 「余計な説明は、しませんよ。自分語りもしません。その必要はありませんからね」 「どういう意味?」 「あなたと、私が友達だったのなら」  そっと、優しい言葉で。 「忘れられてしまっても、あなたと再び仲良くなれる自信があるからです。たかが、記憶を失っただけですから」  その言葉に、夜子は驚いたように目を見開く。  ああ、やはり、そうなんだな。  夜子に手を差し伸べてやれるのは、夜子の心をわかってあげられるのは、他ならぬ、月社妃なのだ。 「何も心配することはありません。無理に思い出す必要もありません。今の状況を、私は辛いとは思っていませんからね」  そこで、隣の俺を見つめる。 「むしろ、大変幸せです」 「……お前はいつだって、前向きだからな」  俺たちよりも、一歩先を見ている。  あるいは、一歩別の方向を見据えている。  たまに、それがとても遠い存在のように思えてしまうけど。 「月社、妃」  初めて――夜子も理解したのだろう。  記憶を失ってから、妃の事を忘れてから、他人という存在に成り下がった目の前の存在を。 「――あなたは、とても、変な人ね」  ようやく、認めたのかもしれない。 「夜子さんほどでは、ありません」  そうして、二人は破顔した。  円満な家族というものに、憧れがないといえば嘘になる。  笑い合える食卓は、何よりも暖かかったことを幼き日の俺は覚えていた。  何も最初から、母親や父親を嫌っていたわけではない。  産んでくれて、ありがとう。  育ててくれて、ありがとう。  感謝と愛情を持って、俺たち家族は成り立っていた。  少なくとも――最初は。  だから、もしそんな家族に戻れるのなら。  全てをなかったことがなかったことに出来るのなら。  この世に生まれた以上、どうしたって家族が、最も身近な存在なのだから。  出来れば、愛したいじゃないか。 「……また、か」  食後の幸せな空気を台無しにしてくれたのは、親父の突然の訪問。  どうやら、の前の続きをしたいらしい。 「またとかいうんじゃない。父さんだって、仕事で忙しいんだからな?」 「それで、なんの用でしょうか」 「単身赴任が、もうじき終わる。来週末には、こっちへ帰ってくることになった」 「…………」 「お前も、そのときに戻って来い。そうしたら、家族三人で暮らそう」 「…………」  思ったより、早かった。  サファイアが閉じるまでなら大丈夫だと思っていたが、しかし、どうだろう。  「お前には、迷惑かけたと思っている。父さんたちの勝手な都合で、苦しませてしまった。もう少ししっかりした親だったら、お前に家出をさせることはなかったんだろう」  それは、謝罪の言葉だった。  記憶を無くす前には、一度だってされたことのない言葉 「父さんを殴った時のお前の心を、わかってやれなかった。思えばお前とは、会話が足りてなかったように思う」  どうして、今更謝るのだろう。  どうして、良き父親として振る舞うのだ。  それは、過去にだって一度も見せなかったじゃないか。 「すまなかった。俺たちに、やり直すチャンスをくれ。今度はもっと、それぞれがそれぞれを思いやる、家族になろう」  そう言って、父親は深々と頭を下げる。  その光景に、心が一瞬、揺れ動いた。  俺たち家族にも、まだ希望があるのではないかと思って。  一歩、親父に近付こうとして。 「あら、こんばんは。こちらは、瑠璃のお父様でしょうか?」  後ろから、妃が登場した。  他人行儀のような言葉で、他人行儀のような振る舞いで、にこやかに微笑む。 「君は……?」 「これは失礼いたしました。私は、こちらの瑠璃さんと交際をさせていただいております、妃と申します」 「……おい」  どうして、前へ出てくる。  今はお前が出てきても、面倒なだけだろう。 「瑠璃の、恋人? これはまた、美しい方じゃないか」  嬉しそうに、笑ってみせる。 「瑠璃さんから話は伺っておりましたが、家族思いの素敵なお父様ではありませんか。羨ましいですね」 「そうでもないさ。瑠璃をこんなところに追いやっているのは、私だからな。良き父親とは、言えないだろう」 「そんなことはありません。良き父親となろうとしているだけで、十分だと思います」  俺の腕を取って、寄り添うように言う。 「私の父は、ろくでもない人間でしたから、羨ましいです。少なくとも、瑠璃のお父様ならば、私を襲ったりはしないでしょうから」 「……襲う?」  その言葉に、若干表情が引きつる。 「ははは……恐ろしいことをいうお嬢さんだな。自分の娘を襲う父親など、いるわけがないだろう」 「……そうですね。そんな父親は、もはや父親ではありません」  言葉に、殺意が込められている。  目の前の男は、それに気付いていない。 「しかし、妃さんか。面白い偶然があったものだ」  感慨深そうに、父親は話す。 「瑠璃が生まれた後、私と母さんは二人目の子供の名前を考えていたことがあったんだよ。授かってもいないのに、なんて気が早いんだろうな」  授かってもいない、子供の名前。  彼らにとって、娘は存在していないことになっている。 「結局、子供は授からなかったが……そのとき考えていた女の子の名前が、妃だったんだよ」 「……そうですか」  その言葉に、妃は深く、俯いた。 「気品ある女の子に育ってくれるようにって、私が発案したんだっけな。もし、二人目が生まれていたら――きっと、幸せな四人家族になっていただろう」  痛々しい言葉が、突き刺さる。  耳をふさぎたくなったが、それでも、語るのをやめてくれない。 「娘がいたら、俺にも少しは責任感が生まれて、お前にこんな思いをさせなかったのかもしれないな。いや、それは責任転嫁か」 「……さあ、どうなんでしょうね」  娘がいなかったから、こうなっているんだろう。  娘がいないから、四條家は再び家族として成り立とうとしているのだろう。  いなかったほうが、幸せになれる存在。  それは、今のあんたが証明しているんだ。 「いいえ、子供が二人もいると、大変でしょう? 特に女の子となれば、気難しい存在です。きっと、居なくて正解だったと思います」  それをわかっているから、妃も言うんだ。 「もしかすると、家庭内不和の原因になってしまったかもしれないのですから」  その本人が、言ってしまう。  それはなんて、悲しい現実だろう。 「……そうかもしれないな。私のような父親が、二人の子供の面倒が見れるとも思えない」  だから、言ってしまう。  父親は、言ってしまった。  俺が、生涯許すことがないであろう、禁断の台詞を。 「――生まれてこなかったほうが、よかったのかもな」  それは多分、自分の力量では育てきれないからだとか。  あるいは、不幸にしてしまうかもしれないだとか。  そういう親の目線から見た、負い目のようなものかもしれないが。 「それだけは、絶対に許さない」  なるほど、それは確かにそうかもしれない。  月社妃が生まれてこなければ、俺たち三人は上手くやれていたかもしれないのだから。  現実、妃が失われたこの世界では、壊れた関係が修復しつつあるのだから。 「駄目なんですよ、それだけは」  だけども、許せるはずがなかった。  「すみません、俺はやっぱり、ここに残ります。二度と、親父とお袋の元へは帰らない」 「……何?」  これが、たとえ幸せな家庭になるのだとしても。  サファイアが閉じるまで、懐かしい家族のぬくもりを思い出すことが出来るのだとしても。 「俺が今、家族を受け入れてしまったら――」  傍にいる、大切な存在を噛み締めて。 「――月社妃という存在が、不要な存在なのだと認めてしまうことになる」  だから、家族三人の幸せを許容することだけは、絶対に許せない。  俺たちが幸せになるのなら、もっと別の形を目指さなければならない。  けれど――それはもう、叶わないのだろう。  もう、取り返しの付かないところまで、壊れてしまっているのだから。 「俺は、一人で幸せにならないと決めた。そして、一人で不幸にならないと決めたんだ」  そのために、家族はもう、必要ない。  憧れて、憧れて、それは本当に、欲しかったものだけれど。  今の目の前の親父が、本当にやり直そうとしてくれていることは、わかっているけれど。 「だから、あいつのいない家庭に、未練はない」 「ど、どうしてだ、瑠璃? お前が何を言いたいのか、父さんにはわからない! 不満があるなら、言ってくれ。必ず、改善しよう!」 「わからないでしょうね。でも、わからないほうが幸せだと思います」  記憶を失っている今だけなのだから。  分かってしまったら――親父はもう、そんなことが言えなくなる。  もっとも、元より終わってしまった父親は、改善も、謝罪も、希望もないんだろうけど。 「とにかく、今は放っておいて下さい。どのみち、もうしばらくしたら嫌でもわかるでしょうから」  サファイアが閉じてしまったら、全てはあるべきところに帰る。  思いやりを取り戻した父親は、再び独善的な妄執に取り憑かれる。 「1ヶ月後、再び同じことを言えるのなら、そのときは耳を貸しましょう」  その頃には、サファイアも閉じているだろうから。 「る、瑠璃――!」 「それでは、話は終わりです」  妃の手を引いて、別れ際。 「それでも、嬉しかった。まるで、昔の親父に戻ったような気がして」  一瞬でも、昔に思いを馳せてしまった自分がいる。  家族のぬくもりを、思い出してしまったんだ。  それは確かにあった、四條家の幸せの記録。  妃だって、笑っていたこともあったんだよ。 「――さようなら」  今生の別れのつもりで、口にした。  答えを聞かないまま、図書館の中へと逃げこむ。  繋いだ手のぬくもりだけは、継続していた。 「…………」  それから、広間に逃げてきてから。  俺と妃は、複雑な思いを抱えたまま、座り込む。 「私は」  平坦な口調で、妃は言った。 「お父様のことも、お母様のことも、普通に愛していたんですけどね」  けれど、どこか悲しそうな声色で。 「……ただ、子供の私には、それをどう伝えればいいのか、分からなかっただけ」  優秀な子供だった。  賢くて、理解が早く、不言実行で何でもできる女の子だった。  けれど、中身はやっぱり、歳相応。 「それは、あの二人も同じだったのかもしれませんね」  娘と、親。  意思疎通が出来ず、すれ違いを起こしてしまって。  見えないところから、悪いものが溜まっていってしまった。 「私は、罪作りな女です」  蹲って、膝を抱える。  それは珍しい、弱さを見せているシーン。 「なあ、明日はどこへ行こうか」  そんな弱々しい妹の頭を、優しく抱きしめて。 「学園をサボって、デートしよう。そういう、話だったろ?」  腕の中で、妃は驚いたように震える。  俺の言葉が、そんなに意外だったのか。 「……楽しみにしています」  言葉は、それだけだった。  それ以上は何も口にせず、俺の腕の中で頭を沈める。  それこそが、今の妃に出来る、最大の感情表現だった。  深夜、中々寝付けることの出来ない俺は、ベッドの中でもぞもぞすることに耐え切れず、部屋から抜けだした。  幻想図書館の夜は、とても静かだ。  外の音は一切届くことはなく、隔絶された空間を形成している。 「水でも、飲むかな」  なるべく足音を立てないように、広間の方へと向かう。  防音性能の高さは理解しても、無神経に歩くことは出来ないものだ。  染み付いた感覚が、足を引きずる。  しかし、廊下を抜けた先から、氷が転がる音がした。  誰かが、まだ起きているのだろうか? 「…………」  1階の広間のソファーで、グラスを傾けながら琥珀色の液体を飲んでいる。  遊行寺汀は、物憂げにブランデーを開けていた。 「ああ、瑠璃か」  一瞬、視線をこちらに這わせてから、注がれていた液体を一気に飲み干す。 「どうした、寝付けねえのか? それとも、夜遊びか」 「まさか。夜遊びをするのは、お前の専売特許だろ」 「まあ、座れよ。ちょうどいいから、付き合え」  向かい側の席が、開いている。  何故かグラスは、2つ用意されていた。 「こんなもの、どこにあったんだよ。いつからうちは、アルコールを解禁してたんだ」 「とっくの前からだよ。なんだ、知らなかったのか?」  もちろん、咎めることはしないが。 「知らなかったよ。悪いが、明日は用事があるんだ。明日に響いたら、困る」  もちろん、飲めないわけではなかったけれど。  それでもここは、固辞しておくべきだろう。 「夜子は酒臭いのが嫌いだから、あんまり大っぴらには飲めねえけどな」  空になったグラスを、眺めながら。 「……癖になってんだよ、これ。考え事をするときに、いつも転がしてる」 「ま、夜の図書館の雰囲気は、それっぽい感じしてるよな」  絞られた灯りが、バーのような雰囲気を作っているのか。 「注いでやるよ」 「悪いな」  ブランデーの種類には疎いが、それでも高そうであることは理解していた。  けれど、そんなものは構いなしに、なみなみと注ぐ。 「知り合いの……偉そうな女が付き合わせてくんだよ。それ以来、ハマっちまったんだ」  ボトルを、指差して。 「それも、そいつがよこしたもんだよ。グラスやら氷は、理央に用意してもらった。夜子には、ナイショだぜ?」 「タバコとか酒とか、嫌いそうだもんな」  らしいといえば、らしいのだけど。 「……そうなんだ。夜子であるはずが、ねえんだよな」  難しい表情を浮かべながら、汀は呟く。 「何のことだ?」 「お前が帰ってくる前から、こうしてちょくちょくブランデーを転がしてたんだよ。これは、今に始まったことじゃないんだが」  注がれた琥珀色を、覗き込みながら。 「一人じゃ、なかったんだよな。俺は、誰かと飲んでいた。記憶ではそれが、夜子になっている」  念を押して、言った。 「そんなわけ、ねえんだがな」 「……それは、もしかして」  ちなみに。  ちなみに妃は――アルコールを嗜好品として楽しむことが出来る人間だ。  あまり、強くはないけれど。 「俺の記憶の中では、夜子はビールを飲んでいたよ。親父みたいに、良い飲みっぷりをしていた」 「それは、想像できないな」  そもそも夜子が、汀とそんな場を設けるとも思わない。  あいつは、自分の兄に冷めているから。 「最初はブランデーを分けてやってたんだが、弱っちいくせに飲むもんだから、すぐに酔いが回るんだよ」 「…………」  おそらく、というよりも、間違いなく。  それは、妃が相手なのだろう。  俺の知らない、汀と妃の出来事。 「あいつは、次はビールがいいなんて言い出すんだよ。ったく、全部俺に用意させて、自分は何もせず楽しもうって腹だ」 「……想像、出来るよ」  夜子ではなく、妃なら。  そういうやりとりが、思い浮かぶ。 「3回か、4回くらいだ。俺がここで飲んでいる回数に比べたら、二人だったのはほんの少しなんだが」  今日の汀は、饒舌だった。  ブランデーの香りがそうさせているのか。 「印象深い、思い出だったんだよ」 「夜子が相手だと、思ってる?」 「俺の脳みそは、そう記憶してるんだよ」  苦笑いを浮かべながら、再びグラスに口をつける。  アルコールで刺激したら、答えが出てこないかと、模索するように。 「しかし、絶対に、酔っている自分を俺の前で見せようとはしなかったな。少しでも酔いが回ると、すぐに部屋に帰りやがる」 「弱みを見せたくなかったんだろ」 「どうかな」  それでも汀は、確信を得たように言う。 「俺のことを、信用してなかったんじゃねえの」  自嘲気味に笑って、グラスを置いた。  氷が崩れて、音を立てる。 「……ったく、サファイアは下手糞過ぎるんだよ」  天を見上げ、仰ぐ。 「記憶をいじるなら、ちゃんとやりやがれ。中途半端に、やってんじゃねえよ」 「…………」  夜子のときも、そうだった。  理解できない、自らの記憶。  納得出来ない、与えられた記憶。 「変に辛いだけじゃねえか」  もどかしいのだろう。  そういうやるせなさが、汀の声から伝わってくる。 「なあ、瑠璃。お前の妹は――あの、妃って女なんだろ。俺たちが忘れている、今回の主人公」 「ああ、あいつが俺の妹だ。そして、お前たちの友達だ」 「そいつは、誰かと付き合っていたのか」 「……え」  その言葉に、全身が硬直した。 「俺が一緒に酒を飲んでいた相手は――誰かに義理立てしているかのようだった」  淡々と、語る。 「彼氏持ちの女の中には、そういう奴がいるんだよ。他の男友達と酒を飲むときに、無防備な自分を晒さないよう、変に気を使うやつ」  俺の向こう側、遥か遠い誰かを眺めるように。 「酔って、変な雰囲気にならないように。酔って、勘違いを併発させないように。付き合いの中でもケジメをつける、身持ちの堅い女がな」 「……それが、妃だって言いたいのか」 「さあ、あの女かどうかはしらねえよ。俺は、あいつと飲んだなんて確信はねえんだから」  それは俺にはわからない、汀の主観。 「で、どうなんだよ。俺としては、お前に妹が居たんなら――他の男とは、あまりくっついて欲しくねえんだがな」  じっと、見つめて。 「……付き合ってたよ。妃は、付き合っていた」  そうして真実を口にしてみた。 「そうか。ま、顔はいいから、モテるだろうしな」  驚くことはなく、頷いた。 「俺と、付き合っていたよ」 「……は?」  琥珀色の水面が、大きく揺れた。  思わず、テーブルに溢れてしまって。 「瑠璃、お前、何を言って――」  本気で驚く、汀へ向けて。 「サファイア」  命懸けの冗談を、言ってみた。 「俺は今、妃と恋人関係だろ」  兄と妹ではなく。  物語上の設定では、彼氏彼女の関係だ。  それは言われるまでもなく――この館にいる全員が知ってること。 「……てめえ」  たちの悪い冗談に、汀は睨みつける。 「紛らわしいことをいってんじゃねーよ! 驚いて零しちまったじゃねーか! あーあ、アルコールの匂いが残ったらどうしてくれんだよ」 「事実を言ったまでだ」  そして本当に、真実なのだから。 「もう勝手にしてろよ。精々、恋人ごっこに励んでな。羨ましいぜ――俺も、夜子とそうなりたかった」 「当事者の俺としては、命からがらだけどな」  人一人がいなくなった影響は、思いの外大きい。  色々なところで、現実は歪んでいる。 「明日、妃とデートするんだ」 「それもシナリオ通りなのか?」 「分からない。本来なら、とっくに俺の記憶はなくなってもおかしくないからな」  もしかすると本当に――サファイアは停滞しているのかもしれない。  主人公の妃の要求に基づいて、だらだらと引き伸ばしをしているのかもしれない。 「何にせよ、覚悟しとけよ。先行きが不透明な以上、これからどう展開するのか分からねえ。俺は、夜子ほど魔法の本を信用してねえからな」 「それは、どういう意味だ?」 「今知っていることだけが、真実とは思っちゃいねえ。手に負えないものだからこそ――恐ろしく感じるんだよ」 「……だから、汀は」  つい、訪ねてしまった。 「本城奏の探偵業を手伝っているのか?」  闇子さんや、夜子とは別ルート。  情報網を、手広くするために。 「その通りだ。夜子のために本を見つけるのも、目的ではあるが」  ぎらぎらした瞳を、向ける。 「それ以上に、魔法の本の全容を解明することが、俺の目的だ」  まるっきり、信用していないのだ。  異形の存在を、ある種の敵のように見ている。 「もし、それが夜子に危険をもたらすようなものだったら――」  それは、兄貴としての決意。 「あいつに嫌われてでも、魔法の本を根絶やしにする」  揺るぎない、言葉。  それこそが、遊行寺汀の真骨頂なのだろう。  デートをしよう。  そんな言葉から始まった、この瞬間。  本来ならば学園に通っているはずの時間に、俺と妃は街へ往く。  全ての仮面を脱ぎ捨てて、ありのままの心を曝け出しながら。 「学園をサボっての、制服デート。そういうのも、得られない幸せでしたね」  腕を組んで、寄り添い歩く。  人の視線を浴びせられながら、それでも魅せつけるように妃は笑うのだ。 「まだ、少し慣れないな。見られていることが、恐ろしい」 「何を心配しているのですか。何も心配する必要はないでしょうに」 「頭では分かっていても、身体が反応しちゃうんだよ」  ずっと、他人の視線を意識してきたから。  この関係がばれないように、意識を尖らせてきたから。  衆目の中心で、平然と寄り添う今の現状が、信じられないのだ。 「生まれて初めてのことですからね。だからこそ、嬉しいのですよ」 「……ああ、そうだな。お前とこうして歩くことが出来るなんて、俺は幸せだな」  例えこれが、一瞬の夢であっても。  その一瞬を、少しでも長く噛み締めたい。 「必要以上に注目を浴びている気がしますけどね」 「そりゃ、今は普通に授業中だからな」  堂々とした、おサボりである。  注目を浴びるのも仕方がない。 「制服の女の子ってのは、どうしても見ちゃうもんなんだよ。特に、卒業した大人の男はな」 「それは、下世話な意味で?」 「違う……とも言い切れないが」  少し、苦笑いを浮かべて。 「卒業してから初めて気付くこともあるんだよ。制服ってのは青春の象徴で、憧れのもんなんだ」  今の俺は、藤壺学園の学生をしているけれど――やはり、鷹山学園の制服を見ると、沸き立つものがある。  在学時は何とも思っていなかった水色のセーラーが、魅力的に思ってしまうのだ。 「瑠璃は本当に、制服がお好きなんですね」 「制服が嫌いな男は存在しねえよ」  そう言いたくなるくらい、好きだ。 「では、こうしましょう」  悪戯っぽく笑って、妃は提案した。 「私が鷹山学園を卒業したら、この制服を瑠璃にプレゼントしましょう。三年間使い古した私の制服を、ご自由に堪能して下さい」 「……おい」 「心配しなくても、洗わないでおいてあげますよ。なんなら、卒業式が終わった後、すぐに脱いでお渡ししましょうか? 私の香りを嗅ぎながら、ご自由に使って下さい」 「…………」  なんでこう、ときたま物凄く頭の悪いことをいうのかな。  兄の俺が言うのもなんだけど、こいつは馬鹿なんじゃないだろうか。 「サファイアが閉じてしまったら、こうして公然と愛を育むことは出来ませんからね。瑠璃もお年頃ですから、溜まっているものもあるでしょう」 「あのな」  それは大変ありがたい申し出ではあるけれど。  いや、ここで喜んでしまったら、色々と終わってしまいそうだから、絶対に肯定しないんだけども。 「俺が好きなのは、制服単品じゃなくて、着る人間がいてこそだぞ」  そう、服なんてものは、人が着てこそ魅力を発揮するのものである。 「俺にプレゼントしなくても、お前が持ってろ。そして、ときたま着て見せてくれよ。それで十分だ」 「……ふむ」  もう、色々と成長も望めなさそうだし、サイズに関しては問題無いだろう。 「それはつまり、鷹山学園の制服を着させて、ゆくゆくは私とえろいことをしたいという意味ですか?」 「ああ、もうそれでいいよ」  たまらず、頭が痛くなる。  お前、俺をからかいたいだけだろ。 「ふふふ、それなら大切に残しておきましょう。瑠璃の希望なら、喜んで協力しますよ」 「なんかお前、楽しそうだな……」  いつもよりも、一段階テンションが高い。  これも、デートに浮かれているのだろうか。  会話の内容は、とてもじゃないがそれっぽくはなかったけれど。 「当たり前じゃないですか。私は本当に、今が楽しいですよ」  絡めていた腕を、ゆっくりと下へ動かし。  指と指を絡めあって、恋人繋ぎをする。 「あら、平静を装いながら、汗をかいているじゃありませんか。ドキドキしてるんですか?」 「……うるさい。手を繋いでるときに、手汗のことを指摘すんな。デリカシーを知れ」  自分のことを棚に上げたような気がしたが、気のせいだと割り切る。  いや、好きな人が相手だと、緊張するのも無理はない。  なにせ、相手が妃なのだから。 「力、入っていませんよ? ふふふ、可愛いですね」 「お前が、いつもより積極的だからだ」  そう、たったそれだけで。  こうしてどぎまぎして、いつも通り振る舞えない。  デートに高揚していたのは、他ならぬ俺だったのだ。 「会話も、ぎこちないですし」 「……う」 「あんまり、視線を合わせようともしてくれません」 「……いや」 「もしかして、体調でも悪いのでしょうか」  にやにやと、にやにやと。  妃はわかりきったことを、指摘する。 「確認してみましょうか」  そうして、反対側の手で、俺の顔に手を伸ばす。  恋人繋ぎをしたまま、ゆっくりと、おでこに触れて。 「顔が、少し熱いですね」  誰のせいだと思ってる。 「頬も、少し紅いです」  誰のせいだと思ってる。 「唇が、まるで潤いを求めているようですが」  誰のせいだと思ってる。 「先程から、手汗が止まっていませんよ?」 「……体調不良だ」  強がりを、口にしても意味がなく。 「では、聴診といきましょうか」  手を繋いだまま、左手は胸の方へと伸ばされる。  丁度、心臓の位置が、手の平にあたって。 「どき、どき、どき、どき。どうしました? 少し高鳴り過ぎでは?」  だから――誰のせいだと思ってる。 「おい、さすがに、くっつきすぎだ」 「しかし、服の上からではよくわかりませんね」 「……は?」  妃の悪戯は、加速する。  ボタンを外し、シャツの隙間をこじ開けて、素肌へと触れる。  冷たい妃の指が、俺の肌と密接して。 「お、おい――!」  公衆の面前で、お前は何をしているんだ! 「聴診ですよ、聴診。瑠璃の体調を、確認中」  他人の視線が、痛かった。  恋人繋ぎをしたままで、服の中へ手を弄り入れる妃の様子は――まるで、痴女のように見えたのだろうか。 「あらら、先程よりも、心臓の鼓動が早いですね。やはり、どこか悪いのかもしれません」  だけど、逆らえなかった。  なすがまま、それを受け入れてしまっている。  楽しそうな妃の様子が、嬉しくて。  「瑠璃、大丈夫ですか?」  耳元で、囁くのだ。 「もしかして」  ぎゅっと、手が強く握られて。  肌に触れう指を、這うように動かしながら。 「――興奮、してしまいましたか?」  街中で、通行人の視線を浴びながら。  俺と妃は、はしたないカップルを演じてしまっている。  それをサファイアの責任にするには、あまりにも無責任だろうか。 「だ、駄目だ」  このままでは、本当に理性が吹っ飛んでしまいそうだった。  だから、どうにかしようと視線を動かして。 「……あ、妃」 「はい?」  あるものを、俺は見つけた。 「お前の同級生が、こっちを見てるぞ」  視界に飛び込んできたのは、鷹山学園の男子学生。  同級生かは分からなかったが、今は最も気が引くように、言葉を繰る。 「ああ、そうですね。同じクラスの方々です」  妃は一瞥して、頷いた。  今まで染み込んだ習性からか、すぐに手を引っ込めて、俺と距離を取ろうとするが。  兄のことを嫌いな優等生を、演じようとして。 「……いえ、問題ありませんね。何も中断することはありませんでした」  一旦は離れたものの、もう一度手は繋がられる。  同じく、恋人繋ぎだ。 「どうせ、今の私は、彼らにとっては他人も同然なのですから」 「同じ鷹山学園の制服を着ているからか、食い入るように見つめてんぞ」 「それは、当然でしょうね。食い入るどころか、先ほどの私の行動に目を奪われているようですし」  面白おかしく、妃は笑って。 「あちらの、右側の男性は――私のことが、好きだったんですよ」 「え?」  さらりと告げる、驚愕の事実。 「半年ほど前に、告白されましたから。愛の告白を、受けました」 「そ、そんなの俺、知らなかったんだけど?」 「ええ、言ってませんから」  ざわざわと、心が揺らぐ。  揺らぐ必要なんてないことはわかっているのに、それでも動揺してしまう。 「未だに私のことが好きだという話を、最近聞きましたよ。だから、記憶がなくなった今でも、私のことを好きなのかもしれません」  尚も、目を奪われている鷹山学園の男子学生。  一目惚れでもしてしまったのか、一歩も動こうとしていない。 「それで、お前はどう返事を」 「聞くまでも、ないことでしょう?」  当たり目のように、妃は言う。 「後腐れないように、丁重にお断りさせていただきました。だから、何も心配する必要はないのです」 「…………」  けれど、何故だろう。  俺の知らないところで、妃に愛を囁く人間がいたというその事実。 「どうしましたか、瑠璃? もしかして、黙っていたことを怒っているのでしょうか」 「そんなわけ、ないだろ。報告する必要すらない」  何も心配していない。  妃のことは、何も心配していない。  心配しているのは――俺の、自制心。 「なあ、妃。彼はお前に、どんなことを言ったんだ?」  それは、下らない感情だっただろう。  笑われてしまうような、小さなエゴ。 「さあ……あまり憶えてはいませんが、普通に付き合ってくださいと言ったはずですよ」 「それでお前は、なんて返したんだ」  思い出しながら、妃は言う。 「さすがに好きな人がいるからとか、瑠璃のことが好きだから、とは説明できなかったので、きっぱりとすっきりと、思いを切り捨てました」 「……そうか」  そうだろう。  それ以外に、ないだろう。  妃は正しい、断り方をしたと思う。  何一つ文句はない、最高点だ。 「なあ、妃」  少し、声を強めて。 「はい?」  お腹に、力を込めて。 「俺は、お前のことを愛してる」  静かに宣言した。  ああ、ダメだ。  それじゃあ、俺のエゴは満たされない。 「知ってますよ。知りすぎて、おかしくなってしまいそうなくらい」 「そうだな、お前はよく知ってくれているよ。でもな」  お前以外の人間は、誰一人知らないんだよ。  俺が、お前を好きな事を。  お前が、俺を好きな事を。 「俺は、お前のことが大好きだ!」  一回り大きく、声に出した。  周囲の人間が、一斉に振り向いた。  何事かと、ざわめき立つ。 「る、瑠璃? どうしました?」  まだ、届かない。  なら、もう少し声を張り上げよう。  今だけは、今だけは、主張させてくれないか。 「…………」  視界の端に、妃のことが好きだという、男子学生がいた。  視線の先には、妃がいる。  俺の欲望が、大きくうねりを上げて蠢いた。  ――彼、私のことが好きだったんですよ。  たった、それだけ。  その程度の事実で、俺の心は動揺した。  それは初めて聞く、妃の周りの恋愛事情。  普通の学生である妃は、兄の知らないところで好かれていた。  俺がいるから、と。  俺のことが好きだから、と。  妃は断るときに、そう口にすることが出来なかった。  そう口にすることを許されていなかった。 「……今、お前の気持ちが痛いほどわかったよ」 「はい?」  舞い上がっていたのは、当然。  許されなかったことを、許されてしまっているという異常。  今なら、言える。  今だからこそ、言える。  世界の中心で、愛をさけぶわけではないけれど――それでも俺は、本音を叫んだとしても咎められることはない。 「妃」  それはきっと、俺の自己満足だったんだろう。  周りの人間にしてみたら、いい迷惑だったろう。  けれど、許して欲しい。 今までずっと、殺してきた言葉。 「お前は、俺の女だ。他の誰にも、渡さない」  世界のすべての人間へ、主張する。  目の前の少女が、爪先からてっぺんまで、余すことなく俺のものだ。  「――世界で一番、妃のことを愛している」  身勝手な感情に身を任せ、隣にいた妃を抱きしめた。  他の全ての人間に、俺たちの関係を魅せつけるかのように。  もう、あの男子学生の姿は目に入らない。 「……ふふふ、瑠璃も、ようやくらしくなってきましたね」  俺の腕の中で抱かれながら、応えるように抱きしめ返す。 「そうですね。今ならその言葉さえ、許されてしまうのです」  胸いっぱいに広がる悲しみは、なんだろう。  どうしてこれくらいのことで、俺は泣きそうになっているんだ。  当たり目のことを、当たり前に主張する。  それが可能な世界は、なんて素晴らしいのだろう。 「私は、瑠璃のものです」 「身体も、心も、全て」  周囲の視線が、冷ややかだった。  公然と愛を語るカップルが、本当に鬱陶しかったのだろう。  悪態をつきながら、離れていく。  バカップルなんて、最も欲しかった称号を与えてくれて。 「そして、瑠璃は、私のものですよ。少なくとも、今この瞬間は」  たまらない幸せを、味わってしまった。  これ以上になり満足感を、経験してしまった。  そこで、俺はふと思ってしまった。  サファイアが、閉じてしまった後。  俺はまた、秘密と忍耐の関係に戻ることが出来るのだろうか?  自分が、自分を抑えられるのか? 「……浮かれていたのが私だけではなくて、良かったです」  明かせない苦しみを。  口をつむぐ悲しさを。  公然と愛を伝えられない未来を思い浮かべたら、心が引き裂かれそうになってしまう。  幸せの最中に訪れる不安。  それは今が充実していたからこその、喪失への恐怖だった。  それから、妃と色んな所へ行った。  雑貨店へ行って、可愛い小物を見て回り、理央が好きそうだねと笑い合い。  お洒落なショップを巡り、妃に似合う洋服を探したりもした。  昼食は、雰囲気のあるパスタ屋へと赴いて、色々なメニューに目移りをした。  午後は、本屋さんを巡って、好きな小説について意見を交わしたり。  あるいは、落ち着ける喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら幸せを噛みしめる。  一日中、四六時中、時間を忘れて夢中だった。  まるで普通の恋人のように、二人の思い出を作っていった。  太陽が沈みかけるのが惜しいほど、それは煌めくような時間だ。  そして、気が付けば夕方。  俺と妃は、何を言うでもなく水平線を見つめていた。  そろそろ帰らなければならないことをわかっていながら、どちらも帰ろうと口にすることは出来なくて。  ただ、潮風に吹かれながら、無言の空間を味わい続ける。 「…………」  二人の距離は、限りなくゼロに等しいことを知った。  俺たちの気持ちに、一切の曇がないことを思い知った。  それは、サファイアによる影響ではないと、確信している。 「瑠璃は、覚えていますか」  ふと、妃は口にする。  沈みゆく太陽に思いを馳せながら、懐かしさを思い出すように。 「まだ、夜子さんや汀、理央さんと出会っていなかった頃の私たち」 「……懐かしいな。お前はいつも、俺といっしょだったよな」 「瑠璃は、妹のことばかり気にかけるお兄ちゃんでしたからね。こうなる前から、私にべったりだったじゃないですか」 「しょうがねえだろ、心配で心配で仕方がなかったんだから」  幼い日の、俺は。  何の力も知恵もないのに、自分より優秀な妃のことを、守ってあげようと本気で思っていたのだ。 「今も昔も、あなたほど私のことを心配してくれる人は、他にいませんでしたよ」  何が、心配だったのだろう。  それは疑うまでもなく、家庭から孤立していたから。  一人になる妃を放っておけなくて、いつも気にかけていた。 「私が欲しかったのは、ありのままの私を見てくれる、瑠璃のような人だったのでしょうね」  家族としての愛情が、男女としての愛情へ変わったのは、いつだろう。  きっかけは、なんだったんだろう。 「瑠璃は、いつから私のことを愛してくれていたのでしょうか」 「……気付いたのは、4年くらい前かな。俺が、鷹山に入学するくらいのときだよ」  目を閉じて、思い出す。 「お前を残したまま、鷹山学園に入学してしまう。1年も、過ごす場所が変わってしまう。そのとき、俺はお前のことを家族以上の存在だって認識したんだ」  心配を超えた、愛情。  一人だけ別の場所へ向かわされる寂しさ。  その全てがぐちゃぐちゃになって、実感したんだ。 「別に、ドラマなんてねえからな。ただ、思い知らされるように、気が付いただけだ」 「……そうですか、4年前から」  嬉しそうに、妃は微笑んだ。 「だが、気付いたのは4年前でも、いつから好きだったかまでは、正直わからないよ」  別に、入学がきっかけで、好きになったわけじゃないと思う。  その前と後で、妃に対する気持ちは変わらなかったから。  ただ、気付いたというだけで。 「そんなものですよ。自分の気持ちの始まりなんて、わからないものなのです」 「…………」 「恋愛なんてあやふやなもので、よくわからないものですから。適当で、いいんだと思います。気付いたそのときが、始まりでも」 「……そうだな」  こんなあやふやな気持ちを、白黒はっきりさせることは難しい。  色々なものが混ざり合って、悩んだ果てに自らが決めるものだ。 「じゃあ、お前はどうなんだよ。いつから俺のことが、好きだったんだ?」 「いつからと聞かれてしまったら、こう答えることしか出来ません」  夕暮れの太陽に、背を向けて。 「あなたを見た、その瞬間から」  妖しく、笑うのだ。 「あなたが声をかけてくれた、その瞬間から」  自信満々に、宣言する。 「最初から私には、瑠璃しかいなかったんですよ。少なくとも、私の最も古い記憶を紐解いたら――そのきはもう、愛してしまっていたので」 「なんだよそれ、スケールが大きすぎて、逆に胡散臭い」 「私に居場所を与えてくれたのは、瑠璃しかいませんでしたからね」  その言葉が意味するのは、紛れも無くあの家庭のことだろう。 「私は、どこにでもいるか弱い女の子です。誰かに守ってもらわなければ、泣いてしまうのですよ」 「……ああ、そうだったな」  どれだけ、大人びても。  どれだけ、らしく振る舞っても。 「お前は結構、泣き虫だったよなあ」  絶対に、人前では泣かなかった。  両親も、妃の泣いているところなんて見たことがなかっただろう。  でも、俺は何度だって見てきていた。  一人で泣いている妃も、何度だって見つけていた。  ピアノの事件よりも、それはずっと前の話。 「絶対に見つからないところで、誰も居ないと確認して、ひっそりと泣いていたのに――何故か瑠璃は、やってくるのです。あれはもう、ストーカーでしたね」 「知らねえよ。それはあれだ、兄貴パワーってことにしておいてくれ」  嫌なことがあって、家族から避けられて。  幼い妃は、何事もなかったように気丈に振る舞って――少し、姿を消す。  そんなとき、言いようもない不安にかられて、いつも俺は妃を探していた。 「お前は、かくれんぼが下手糞だったよな」 「いいえ、これでも自信はありますよ。見つけてしまう、瑠璃が恐ろしいのです」  だからだろう。  俺が、妃のことを守りたいと思っていたのは。  妃がとても弱い存在であることを、知ってしまっているから。 「でも、いつの間にか泣かなくなっていたよな。やっぱり、夜子たちと知り合えたおかげか?」 「そうですね。私も、いつまでも泣き虫のままではいたくありませんから」  思いを馳せるように、呟く。 「守られてばかりの自分に、決別したのです。ピアノの一件で、瑠璃の涙を見て、そう決めました。だからもう、私は泣きません」 「……それはちょっとだけ、寂しいな」  笑いながら、冗談めいて。 「泣いているお前は、可愛らしかったのに」 「変な趣味を身につけないでくれませんか。泣かせるのは、嬉し涙だけにして下さい」 「それは、骨が折れそうだな」  嬉し泣きは、一番難しいんじゃないのか。 「……そんなことは、ありませんよ」  幸せを噛みしめるように、呟く。 「私を泣かせることが出来るのは、きっと瑠璃だけですから」 「そうだな。いつか、嬉し涙をさせてやる」  幸せには、出来ないかもしれないが。  不幸せなりの嬉し涙を、流させてやる。 「……いつか、ちゃんと告白しないとな」 「はい?」 「いや、なんでもない」  慌てて口をつぐんで、誤魔化した。  その覚悟は、内に秘めていればいいだろう。  俺と妃は、どちらかが告白をして、今の恋人のような関係になったわけではない。  自然と、寄り添うような形で、誕生してしまったカップルだ。  お互いが、お互いのことを好きだということが、切ないほどに分かってしまったから。  兄妹だなぁと皮肉にも笑ってしまうほど、分かってしまったから。  言葉という手段を取ることなく、自然と思いが通じたのである。  最初は、牽制しあうように。 やがて、少しずつ本音を出していって。  子どものような初々しいやりとりを経て、こうなってしまったのである。  だからこそ、いつかはちゃんとした告白をしようと思っている。  ケジメとして、全力で想いを口にしようと思っている。  それが、卒業というタイミングでの、覚悟の告白だ。 「お前は、凄いよ」  噛み締めるように、言う。 「素直じゃない俺を、ここまで素直にさせた唯一の女の子だ」  もう、その魅力にめろめろで。 「それは光栄ですね。瑠璃の心は、私が全て、独り占め」  ゆっくりと、微笑みかける妃。 「今だけは――そうさせていただきましょう」  太陽が、水平線に消えていく。  俺たちの時間が、失われていく。 「もう、帰らなきゃいけないな」  そろそろ夕食の時間だ。 「ええ、でもその前に」  目を伏せて、妃はいった。 「少しだけ、付き合って頂けませんか」  どこへ、と尋ねることはなく。 「いいよ」  俺は、即答した。  人気のない場所へ、連れ込まれてしまった。  人気のない廃教会へ、手を引かれてしまった。  別に、今更他人の目を気にする必要なんて、どこにもないのに。 「……ここは、私のお気に入りの場所なのですよ」  ステンドグラスの真下で、妃は呟いた。 「ここでサファイアを開いたから?」 「それは、関係ありません」  すぐさま、否定する。 「この教会は、まるで神様に見捨てられてしまった場所のように見えませんか」  手を広げて、妃は俺へ語る。 「信仰を失くし、奉る存在は消え、時代に取り残された場所。そういう侘しさが、私の心をくすぐるのです」 「廃墟が、好きなのか?」 「終わった場所が、好きなのかもしれませんね」  嬉しそうに笑う、妃。  少し、テンションが高かった。 「どうして、ここへ連れてきたか、わかりますか?」 「いいや、分からない」  別に、話があるならあの防波堤でも良かっただろう。  ここに用事があるのなら、別の日でも良かったはずだ。 「人気が、ないからですよ」 「……?」  それが、何を気にするようなことがあるのだろうと、俺は首を傾げて。 「その意味が、本当に分からないのですか?」  一歩、妃は踏み込んだ。  俺の瞳を、しっかりと捉える。 「健全な男女が、人目を忍んで何をするかなんて、決まっているでしょう」 「……キス?」 「よりも、情欲に溺れた行為です」 「…………」  まさか、そのために?  予想外の言葉に、俺は眉をひそめる。  妃の言葉の真意が、理解出来なかったからだ。 「お前とは、キス以上の事はしないっていっただろ。悪いが、誓いを破る気にはなれないな」 「そうですね。でも、こうも言ったでしょう?」  俺の手をとって、妃は微笑む。 「我慢できなくなったら、襲って頂いても構わないと」 「俺は、別に我慢なんて――」  してはいないと、いう俺の言葉を、唇で塞がれてしまった。 「ん、ちゅ――」  一方的な、舌と舌を絡ませる口付け。  心臓が大きく脈動して、心の奥底に何かが燻った。 「――ん、あ――」  しばらく、愛情に溺れた口づけを交わし――名残惜しそうに、離れながら。 「欲情、させてあげますよ」 「お、おい――」  しかし、妃はそれだけで終わらなかった。  艶めかしく身体を寄せて、俺の手をとったかと思うと―― 「――小さくて、すみませんね」  自分の胸に、押し付けたのである。  小ぶりだが、柔らかな肌の感触が指にへばりつく。  それは、俺のしらない欲望の感触。 「や、やめろ――!」  それでも、俺は負けることはなかった。  状況に流されずに、抵抗する事ができた。 「そういうのは、やめろ。そういうのは、嫌いだ」  呼吸が、荒ぶっている。  緊張で、汗びっしょりだった。 「今、お前に手を出せば、俺は必ず後悔する。俺は、俺の意志で覚悟を決めたいんだよ」  流れとか、勢いとかで。  雪崩れ込むような展開だけは、御免なんだ。 「……そうですか」  嬉しさと、寂しさが入り混じった表情。  複雑な感情が、妃の表情から伺える。 「これでも瑠璃は、流されませんか。自分の魅力がないのかと、悲しんでしまいますね」 「だから、前にも言っただろ。卒業を、契機としようって」 「……そこに、意味なんてありますか?」  妃は、逆に問いかける。 「もういいじゃありませんか。今どき、健全なカップルが――何もしないなんて、ありえませんよ。進まない関係に、少しもどかしさを感じます」  一歩、後ずさって、大きく手を広げた。  胸の前で手を組むのではなく、大空を飛び立つ鳥のように――何かを訴えるかのように、両手を広げる。  かつて神が崇められていた祭壇を、背に向けて。  まるでそれは、祈りを捧げる聖女のように。 「――ああ、神よ、これはなんという悲劇でしょうか」  まるで妃は、詠うように、祈るんだ。 「どうかこの悲劇を、喜劇にしては頂けないでしょうか。誰もが滑稽だと笑うことの出来る、愉快な喜劇へと」  祈るという行為が、余りにも妃という人物に似合わなくて。 「そして許されるのであれば、私の恋を叶えて下さい。そう、たった一度で、構いませんから」  声を張り上げて、想いを乗せて。  舞台の上で演技をする、女優のように、振る舞うのだ。 「神に誓って、私は生涯をかけてあなたを愛しましょう」 「神に誓って、本懐を遂げましょう」 「――瑠璃、あなたは神に、誓えますか?」  古寂れた教会で、一人の少女が詠うのは、どんな愛の物語なのだろう。  対する俺の答えは、何一つ変わらない。 「神に誓う必要なんてないだろ。俺もお前も、神様よりも、自らを信じている」 「どうした、らしくねえな。今更問いかけるまでもなく、俺はお前のことを愛しているぞ。本当に、わからないのか?」 「……いえ、痛いほど分かっています。どれほど、私のことを愛してくれているか」 「不安になったのか? 急に、迫ったりしてさ」  気が済んだのか、両手を下ろす妃。  溜息を付いて、つまらなさそうに視線を外している。 「瑠璃が、何もしてくれないから寂しいのですよ」  ステンドグラスを背中に、妃は憂いを帯びた瞳で語る。 「あなたには、私を襲う度胸がありませんからね」 「そうだな、今はないのかもしれない」  大きく、首を振って。 「だが、お前の気持ちはよくわかったよ。俺だって、男だ。こうまでお前に迫られて、いつまでも我慢できるわけじゃない」 「サファイアが終わったら、誓いを果たそう。そのときは、お前の全てを食い尽くしてやる」  卒業なんて、待てない。  覚悟なら、もういいだろう。 「サファイアが、閉じてから?」 「ああ、そうだ。今は、サファイアの影響下にいるだろう? どこまで本による感情か、わからねえからな」  俺たちが必要以上に近すぎるのも、それはサファイアのあらすじによるものかもしれない。  そんな曖昧な境界線上で、1歩先へ進みたくはない。 「俺は俺の意志で、お前を抱こう」  恥ずかしがることもなく、ただ凛として。 「もう、後戻りはできねえぞ」  神に誓うことは出来なくても、覚悟を貫こうと決意した。 「……そうですか。覚悟を、決めてくれましたか」  零れた、妃の言葉は。 「もうそれだけで、私は幸せですよ」  瞳を伏せ、やや声を震わせながら。 「――瑠璃がそういってくれて、私は報われました」  本当に幸せそうな笑顔を浮かべて。  本当に幸せそうに、喜んでくれるんだ。  まるで、この廃教会に天使が降り立ったかのように――それは眩い存在だった。 「瑠璃は、いけない子ですね」  幸せな時間を、全身に浴びながら。  溺れそうになるくらいの愛情を、共有する。 「実の妹を愛してしまうなんて、本当に愚かなお兄様です」  珍しく、妃はお兄様と口にした。  他の誰もがいないこの空間で、兄妹の二人称を口走る。  その意味は、今の俺には理解することが出来なくて。 「ああ、全く駄目な兄貴だよ」  幸せに舞い上がった俺は、ただ額面通りにしか解釈せず。 「それでも可愛い妹は、素敵なお兄様を愛することが出来て、幸せでした」  心から幸せそうな妃を見て、何の憂いも感じることはなく。  近い未来、妃と手にする細やかな不幸せを、疑うことはなかった。 「それでは、戻りましょうか。私たちの、図書館へ」 「そうだな」  一歩先に進む、妃。  その手は、珍しく――空っぽだった。 「ところで、新入りくんは自分が物語の主人公だと思ったことはあるかな?」  昼休み、今日も貧相な昼ご飯を曝け出しながら、岬はやってくる。 「僕はねー、本当のところをいうと、自分が主人公だと思ってたんだー」 「へえ?」  面白そうな話題に、関心が行く。 「もーこれは勘違いも甚だしいっていうか、なんちゅーか、でも、そういうお年頃だったからしょうがないよね」 「今では、そうは思っていないのか?」 「うん、そりゃね」  コンビニのおにぎりを慣れたように開きながら。 「思っていたよりも世界は僕に無関心で、思っていた以上に、僕はちっぽけな存在だった」  思いを馳せるように、岬はしゃべる。 「僕はこの島で生まれて、この島で育ってきたけれど、まさか世界はこんなにも広いものだと思わなかったよ」 「……それは、どういう意味?」 「社会というのは、こんな小さな島で完結しているほどちっちゃなものじゃないってことかなー」  そして、岬は問いかける。 「新入りくんは、本土に住んでいたんだっけ。だったら、よーくわかるんじゃない?」 「俺にとっちゃ、この島が全てだからな。本土の生活なんて、覚えてないよ」  無味乾燥の、二年間だったから。 「視野を広くすることはできないし、自分がその中心にいるとも思わない。主人公を演じたことはあっても、主人公であることを想像したことは一度もないかな」 「そうだね、新入りくんは、主人公というよりも、もっと他の役割があるような気がするし」 「なんだよ、それ」  苦笑いを浮かべながら、聞いてみた。 「主人公というのは、新入りくんよりも、誰よりも」  隣の空席を、眺めながら。 「遊行寺夜子さんのことを、言うんじゃないかな」 「……ヒロイン、ではなく?」  たった数日しか夜子を見たことのない岬が、何を評価していたのか。  身にまとう特別性に、狂わされただけかもしれないけれど。 「助けられるのは、案外四條くんの方だったりして」  少し、不敵に微笑みながら。  そういえば、初めて名前で呼ばれたのかもなあと、見当違いのことを考えていた。  そこで。  そこで――不意に、一陣の風が教室内に吹きさした。  張り詰めていた空気が一変し、失われたものを取り戻す感覚が広がって、何事かと辺りをうかがう。  しかし、変化を感じたのは俺だけで、他の全員は何事も無く雑談に興じている。 「どしたの?」 「……いや」  拭い去った感触が、しこりのように残されている。  爽快感も不快感もないままに、一方的に押し付けられてしまったような気がした。  何を? と自らに問いかけて。  しかし、その感覚の正体はわからなかった。 「る、瑠璃くんっ!」  だが、変化はすぐに、訪れる。  教室の出入口から、息を切らした理央がやってきた。  珍しく――俺の教室へやってきて、人目も気にせず声を上げる。 「理央、思い出したよ!」  嬉しそうな声色で。  泣き出しそうな表情で。  理央は、俺へお知らせする。 「妃ちゃんのこと、思い出した! 瑠璃くんの、妹ちゃんっ!!」  聞こえている。  当然、聞こえている。  そんなに大きな声を出さなくても、聞こえているから。 「どうして忘れてたのか、信じられないくらい、思い出した! ごめんね、ごめんね、瑠璃くん――!」  次第に、覚醒する感情。  それまで、理央の声を冷静に受け止めていた俺の心が、揺れ動く。  思い出した。 思い出して、くれたのか。  ようやく――妃は居場所を取り戻した。 「理央……」  嬉しいと、寂しいが入り混じった。  元の日常に帰れる幸せと、元の日常に戻らなければならない不幸せ。  俺と妃が、公然と手を繋げる日は再び訪れるのだろうか。  いや、やめておこう。  今は、思い出してくれたことを喜ぶべきだ。  忘れていた者が抱いていた悲しみを、忘れてはいけない。 「俺も、思い出したぞっ!」  理央の後ろから、汀がやってきた。  複雑そうな表情で、噛み締めるような声色だ。 「妹のことを忘れるなんざ、兄貴として失格だな」 「……妃は、お前の妹じゃねえだろ」 「今日くらい、そう呼ばせてくれ」  間違いないのだろう。  全て、間違いないのだろう。  この二人が思い出してくれたのなら――きっと、夜子だって。  夜子だって、妃のことをお前などと呼ぶこともなくなるはずだ。 「帰るぞ、瑠璃」  手を差し伸べて、汀は言う。 「今日はもう、いいだろ。今日くらい、サボっちまえ。思い出した今、居ても立ってもいられねえんだ」 「うん! 帰っちゃおう! 今すぐ妃ちゃんに、謝らなくちゃだよ! 行こう、瑠璃くん!」  大声で、サボりを勧誘するお二人様。  そうだな――物語が進んだのなら、こうしちゃいられない。 「……帰ろう、今すぐに!」  重い腰を上げて、すぐさま帰る用意を行う。  広げていた弁当をしまって、今すぐ走りだそう。 「なんだか、大変そうだね」  その様子を見ていた岬は、困ったように笑う。 「もしかして新入りくんは、青春してたの?」 「そんなところだよ」  距離感が、心地良い。  こういうとき、岬は深く聞こうとはしないんだ。 「新入りくんにも、妹がいたんだね。僕、知らなかったよ」  手を振りながら、背中を押す。 「…………?」  その言葉に、言いようもない不安感がこびりついた。  何かを、忘れているような気がして。  何かを、見逃している自分がいる。 「行こ! 瑠璃くん!」  しかし、今は気にしている場合ではなかった。  目の前に、思い出してくれた人がいる。  高揚する気持ちを抑えながら、二人に続いて駈け出した。 「とろとろしてると、置いてくぜ」  俺を待つことなく、走りだす。  今すぐにでも妃に会いたいのだろう、そんな心の様子が見て取れる。  ふと、追いかけようとする俺に、一つの疑問が湧いて出た。  本来ならばすぐにでも検討しなければならない、あからさまな疑問。  何故、突然彼らは思い出したのか。  何故、魔法の本のシナリオが進んだのか。  何故、俺はまだ妃のことを忘れていないのか。  だが、全てを飲み込んで、今は妃に会いに行こう。  その疑問は、それから解消すればよいだろう。  一歩、踏み出して。  ――ねえ、知ってる?  どこからか聞こえてきた話し声。  何故か、それだけがクリアに耳に届く。  まるで足に重りでもつけられたかのように、動きが止まった。  汀や理央の背中が、小さくなる。 すぐに、見えなくなってしまった。  ――さっき、交通事故があったんだって。  噂話が、物語に踊る。  ――怖いね。 私も、気をつけなきゃ。  そうだね。  交通ルールは、守らないとね。  不安という鉤爪が、心に食らいつく。  ひたひたと、それは日常を犯していくように、恐ろしくもあった。  ――しかも、鷹山学園の女の子だってさ。 「……よし」  今日も今日とて、あたしは厨房へ篭っていた。  小説を読むこともなく、活字を追うこともなく、目的を失ったお菓子作りを続けていた。  理央は満足してくれていたようだけれど、あたしはまだまだ、納得出来ていなくて。 「悪く、ないんじゃないのかしら」  理央が学園へ行っている間にも、誰がためでもなく練習する。  今日は、珍しく――調子が良かった。  いつもは失敗する行程も、驚くほど上手く行く。  自分でも感心するほど、素敵なお菓子が次々と出来上がるのだ。 「あとは、食べてもらうだけ」  誰に?  と、答えてくれる相手はいない。  だからこれは、目的を失ったお菓子作り。  それでも、どうしてあたしは続けてしまうのだろう。  あの日、月社妃という女が、あたしの作ったお菓子をつまみ食いしようとしたことを思い出す。  他人に食わせるために、あたしはお菓子を作っているわけじゃない。  だから、拒絶したのは当然のことだ。 後悔はしていない。  何故、悲しそうな瞳をしていたのか。  今まで拒絶してきた人間が浮かべたことのない、悲しみの色を見せつけられて。  あたしは、どうしてか納得出来ない日々を過ごし続けている。 「それでは、行ってきますね」  瑠璃たちが、学園へ向かった後。  昼前くらいに、あの女は制服姿で挨拶をしてきた。  お菓子作りに没頭していたあたしは、言葉を交わしたくなくて、閉口する。 「あらあら、恥ずかしがり屋さんですね」  口を開いたら、拒絶してしまいそうで。  また、あの表情をさせてしまうと思ったから。  あれ? それはおかしいでしょう。  あたしが、どうして他人のことを気にしなければいけないのか。 「何処へでも行けばいいじゃないの。いちいち、報告しなくていい」  悩んだ果てに、言葉が飛び出たが。 「……む」  既に、あの女は出て行った後だった。  むなしく響く言葉が、きまり悪い。 「そういえば――何処へ行ったのかしら」  あの女に、行く場所なんてないはずなのに。  鷹山学園の制服を着ていたけれど、忘れ去られている以上、あの女が受け入れられるはずがない。  まあ、どうでもいいことか。  それから、後味の悪さを引き摺りながら、お菓子は完成する。  心のありようとは裏腹に、美味しく出来るものだから驚いた。  それでも、食べてもらえる相手は見つからない。  折角上手に出来ても、虚しさだけが焼き上がり続ける。 「……甘いのに」  クッキーを、ひとかじり。 「甘く、出来たのに」  本当に、美味しく出来たと思うのに。 「どうして満足、出来ないのでしょうね」  天井を見上げて、呟いた。  意識せずに零れた疑問に、もちろん答えてくれるものはいない。 「帰ってきたら、理央に食べさせよう」  捨てるには少し、勿体ない。  そう思って、保存しようとした瞬間だった。 「――っ!」  不意に、視界がとてもクリアになったような気がした。  今まで見えなかった何かが、突然見えるようになったのである。  吹きさした一陣の風が、覆っていた霧を吹き飛ばした。  晴れた先に見つけた思い出に、あたしは生まれて初めて、息が止まるという経験をした。  人は、驚きと喜びの境地に達すると、呼吸が止まるのか。  一度、見つけてしまったら、あとは洪水のように溢れだした。  次々と襲いかかるあたしの記憶に、それまで自分が口にしてきた言葉の鋭さを後悔する。 「……妃」  あたしは、思い出した。  全てを、思い出した。  忘れていた、たった一人の親友のことを。 「妃っ……!」  漏れだず言葉を、押し殺す。  何かを口にしてしまったら、感情が止まらなくなってしまいそうだったから。  ああ、なんということだろう。  どうして、忘れてしまっていたのか。  目的を失くしていたお菓子作りの意味。  あたしが、どうしてお菓子作りを始めたのか。 「作り直しよ」  上手く出来た。  とても美味しく出来ていた。  それでも、これには真心がこもっていない。  あたしのお菓子の先生は、いつだって作り手の感情を大切にしていたから。 「……よし」  帰ってきた妃を、暖かく迎えよう。  それから、今までの非礼を謝らなければならない。  魔法の本の影響だとしても、あたしは妃を傷付けてしまったのだから。  不思議な充実感に湧くあたしへ。  しかし、不意の知らせが舞い込んできた。  焦る気持ちも、静かになり。  平坦な心が、辿々しい足取りを作る。  牛歩のように図書館へ帰ってきた俺を、静寂が迎え入れてくれた。 「…………」  広間には、誰もいない。  誰も、いなかった。 「…………」  食堂へ、顔を出してみた。  そこには美味しそうなクッキーと、ケーキが並べられていた。  まるで忘れ去られたように、取り残されている。  なんだかとても、寂しかったので。  夜子の部屋へ、行ってみた。  けれど夜子は留守にしていて、部屋には鍵がかかっていた。  理央の、部屋も。  汀の、部屋も。  全て、閉ざされていた。  この図書館には、誰もいない。  俺だけしか、いないらしい。 「…………」  いや、それは違うか。  まだ、訪れ忘れている場所がある。  俺の隣の、妃の部屋。  図書館の静寂を、恐ろしいと思ったのは初めてだった。  音も、声も失われた場所というのは、こうまで静かなものなのだろうか。  今まで当たり前に過ごしてきた空間が、まるで別のもののように思えてしまって。 「……お腹、減ったな」  妃の部屋で、妃のベッドで、蹲る。  染み付いた妃の匂いを感じて、俺は何を思っていたのだろう。  本当に、お腹が減っていたのか、それはわからない。  誰もいない。  何処にもいない。  誰もいない。  何処にもいない。  妃が、いない。  どれだけ待ち侘びても、どれだけ夜が深まっても、一人ぼっち。  みんな、何処へ行ったのかな。  俺を置いて、何処へ行ったのだろう。  何もする気にもなれなくて。  何もする気にもなれなくて。  このまま孤独死をしてしまいそうな俺の元へ、ようやく迎えが現れた。  一瞥して、それが待ち人ではないことに落胆した。  一度落ちてしまった心は、奈落の底まで転落する。  俺を見て、汀が怒鳴りつけた。  何を言っているかわからないけれど、とても怒っているらしい。  俺を見て、理央が泣き崩れた。  どうして泣いているのかわからないけれど、俺を見る前から泣いていたんじゃないのかな。  俺を見て、夜子は何も言わなかった。  魂が抜けたように、呆然としている。  何をしていたんだよ、とか。  電話にでろよ、とか。  そういうことを沢山言われた。  怒りに打ち震える汀に、何度も言われたけど。  どうしてだろう、次第に汀は、言葉を失う。  俺を見て、目をそらして、何も言えなくなるのだ。  瑠璃くん。 瑠璃くん、瑠璃くん。  理央が何度も、俺の名前を呼ぶ。  冷めた目で見ることの出来なかった俺を、それでも呼び続ける。  言葉が全て、届かなかった。  何を言われても、何を伝えようとされても、全く耳に入らない。  言葉が言葉として、理解できないのだ。  ただ、今は感じる、妃の残り香を噛み締めて。  ここにはいない彼女へと、主を馳せる俺へ向けて。 「……瑠璃」  夜子が、名前を読んだ。  驚くくらい、生気のない声をしていた。  怒りも、感傷もなく。 「ねえ、瑠璃」  瞳に、光はなく。  言葉に、感情がなかった。  ある意味、それは自らに言い聞かせようとしていたのかもしれない。  夜子と俺、今この状況で、どっちがまともな自分を保つことが出来たのだろうか。 「――妃が、死んだ」 「そうか」  死んだ心が、頷いた。  もう、何も言わなくてもいい。  もう、何も言わないでくれ。  連れて行かれた先の病院で、闇子さんが待っていた。  隣には、白衣を来た男。 誰お前? 「こちらが、遺族の方ですか。良かった、身元が判明するものがなかったから、どうしたものかと」  知り合いである俺へ、無慈悲にもこういった。 「残念ながら、即死でした」  配慮の欠片もない、暴力的な言葉。  それだけで、意識が途切れそうになった。  それでも、どうにか現実に縋り付いて。 「ご覧にならないほうが良いでしょう。もう、原型を留めていません」  死体を見せて欲しいと願う俺へ、またしても無慈悲に伝えた。 「彼女も、醜い姿を見られたくないでしょうからね」  そうして、闇子さんは俺に差し出した。  血塗れた、妃の髪留めを。  瞬間、俺は気を失って。  その場で、倒れこんでしまったらしい。  交通事故。  妃が死んだのは、何の事件性もない偶然の巡り合わせだったらしい。  撥ねた人物には、過失はなかった。  過失があったのは、どうやら妃の方らしい。  事故が起きたのは、昼前頃。  大通りを走っていた乗用車が、突然車道を横切った少女を、跳ねてしまったということらしいのだが―― どうもそのとき、妃は小説を読みながら歩いていたらしい。  歩きながら、読書をしていた。  故に――全く、前方を見てなくて。  交差点のない車道を、堂々と横切ろうとしたのである。  慌ててハンドルを切ったそうだが、それが不運にも避けるどころか、突っ込む形になってしまった。  まさか、歩道を歩いていた少女が、車道を横断するなんて。  それでも、運転手の過失が全くないわけではないだろうが――悪いのは、妃なのだろう。 「これは、誰のせいでもないただの事故よ」  闇子さんが、何度も何度も繰り返す。 「不運な、事故なの。だから、しょうがなかったの」  俺を、説き伏せるかのように。  何度も何度も、続ける。 「――魔法の本の仕業じゃ、ないから」  それが、言いたかったんだろう。  それを、納得させたかったのだろう。  まるで、自分には一切非がないと、そう言わんばかりに。  妃は、身元不明の死体として扱われた。  所持していた荷物から、身分を特定するものが一切出てこなかったらしい。 「サファイアが開かれている間に、登場人物が物語を降ろされた場合」  妃は、未だ世界から忘れ去られたままだったのだ。  思い出したのは、夜子と、理央と、汀だけ。  他の誰もが、妃の存在を覚えていなかった。 「物語は強制的に中断される。終わらされるの。本が見初めた役者がいなくなったら、本は物語を諦めてしまう」  なんだ、それ。  今更、何を教えてくれるというのだ。 「でも、この終わらせ方は酷く中途半端。強制的に終了させたから、本の影響力が残ってしまうの」  ヒスイのときのように、開かれていた間の記憶を消すのではなく。 「本が開かれたたときの影響を残したまま、閉じてしまうのよ。だから、妃ちゃんが亡くなった後も、記憶は戻らない」  忘れられたまま、現実は続行される。 「初めから魔法の本の存在を理解していたものだけ、その影響から解き放されるけど」  だから、夜子たちだけはすべてを思い出し、他のものは忘れたまま。  ヒスイの時とは違って、何も彼もが中途半端のまま終わりを迎えたのである。 「だからこれは、サファイアのせいじゃないの。サファイアの物語が進んでいる間に――運悪く、事故にあってしまっただけ」  言い聞かせるように、何度も言う。 「魔法の本は、悪くないの。誰も、悪くない」  闇子さんの様子は、まるで言い訳をしているみたいだった。 「これは、不幸な事故」  いい加減、黙れよ。  それから。  それからしばらくして、父親と母親が、幸せそうな表情を浮かべて図書館を訪れた。  事情なんて一切知らずに、忘れたことを思い出すこともなく現実を進めていく。  不仲の原因が取り除かれたことによって、付き合いたてのカップルのように、二人は幸せそうだった。  久しぶりの、家族団らん。  外食に連れて行かれた俺は、そこで美味しいご飯を食べた。  四人席のテーブルで、1席が欠けたまま楽しそうな会話をする。  サファイアが閉じた後も、そうして幸せそうな家族を見るとは思わなくて。  滑稽な現実を前にした俺は、その場で食べたものを全て吐き出してしまった。  目の前の現実が、受け入れることが出来ず。  もう二度と、この二人を家族と呼ばない決意をした。  妃を失った現実に、心が朽ち果てていく。   『サファイアの存在証明』は、未だ妃の部屋に残されていた。  とっくに回収されているものだと思っていたが、彼らもまた、妃の部屋に入ることを拒んでいるのかもしれない。 「…………」  ページを、開いてみた。  友達に忘れられた少女がいた。  恋人に忘れられた少女がいた。  少女のことを憶えているものは誰もおらず、孤独な世界で少女は奮闘する。  やがて、長い時間の間に、少女は関係を築き直す。  ゼロからやり直しても、少女の魅力は変わらない。  そして、少年は少女に二回目の恋をする。  少女のことを、もう一度愛してしまったのだ。  長い時間、忘れられた世界で戦った少女は、ついにすべてを取り戻したのである。  サファイアの呪いが奪った記憶以上の、想い出を。  そして、呪いはそこで終りを迎える。  周囲の人々は、少女のことを思い出して――物語は、ハッピーエンドで終りを迎える。  悲運な運命に挫けることなく戦った、少女の孤独な奮闘記。  それが、『サファイアの存在証明』 「ぜんぜん、違うじゃないか」  震える指が、ページを捲る。 「こんなの、全く、違うじゃないか」  現実と原作が一致していない。  あまりにも、かけ離れてしまっている。 「おかしいだろ、こんなの……!」  お前は、これを語りたかったんじゃなかったのか。  だったら、最後まできちんと役目を果たせよ。  どうして、途中で役者が死ぬ。  どうして、途中で物語を投げ出す。  そんな身勝手が、許されるわけ無いだろう! 「はは、はははははは!」  何一つ、納得出来ねえ。  闇子さんの言葉が、何一つ信用できなかった。  そもそも、なんだよ強制終了って。  それさえ、俺たちに伝えてなかったじゃねえか。  心が、理不尽なシナリオへの怒りを発現する。  それまで朽ち果てていた感情が、うねりを上げて沸き立ち始める。  夜子から、妃の死を聞かされて。  死んだように流されていた俺だったが。 「…………」  ようやく、考えることを再開した。  現状に対する疑問を、考え始めたのである。 「――本当に、妃は死んだのか」  今まで思い至ることのなかった、可能性。 「俺も、夜子も、理央も、汀も――あいつの死を、目撃していない」  思い返せば、医者らしき人物は死体を頑なに見せようとはしなかった。  それが、遺族への配慮? 「妃の死体を見たのは、誰だろう。闇子さんは、見たのか」  あのとき、それを確認する覚悟も余裕もなかったから。  今はわからない。 「あの医者は、頑なに見せようとはしなかった」  遺族の配慮? それらしい理由ではあるが。  物語的に考えれば――もしかして、という可能性がある。 「違う、待て、そこじゃない」  そう、間違えているのはその前だ。  もっとあからさまな違和感があるだろう。  原型を留めないほど、死体は損壊していた。  身元を判別するものはなかったと、あの医者らしき人物が口にしていた。  それならば、どうしてその死体が月社妃だと分かったんだ?  月社妃は、サファイアの影響のせいで、俺以外の全ての人間から忘れられていたはずだ。  故に、この世界には妃という存在を示すものは何もない。  記憶も、足跡も、全て魔法の本によって消されてしまっている。  妃の死体は――本来、身元を特定できるはずがないのだ。  しかし、現実はそれを可能にした。  事件が起きてから数時間後には、夜子や汀たちへ、妃の死を連絡する。  あまりにも、早すぎないか、それは?  まるで――そう。  こうなることが、予め分かっていたかのような、手際の良さじゃないか。  別のシナリオが存在して、誰かがそれを把握していたのではないかと、疑ってしまう程。 「――魔法の本」  今、俺が手にしている『サファイアの存在証明』。  ぎゅっと握りしめ、辛辣な現実へ理不尽を募らせる。   「〈別〉《丶》〈の〉《丶》、〈魔〉《丶》〈法〉《丶》〈の〉《丶》〈本〉《丶》〈が〉《丶》、〈開〉《丶》〈い〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》」  そういう仮説を立ててみよう。  そういう前提で、この事件を振り返ってみよう。  妃が、物語から退場した。  それは、死亡という形ではあるが――少なくとも、俺の信用している人物は、それを確認していない。 「邪道の、推理」  妃の手際を、思い出せ。  これが魔法の本であるというのなら、全てのことに意味があるはずだ。  物語的な面白さを考えてみれば。  死亡が確定していない人物の存在は――実に、意味ありげじゃないか。  どうして、死亡が確定してないのか。  妃の死亡には、いくつかの疑問がある。  疑う余地があるのなら――物語的には、真っ黒だ。 「……は、はは、はははは」  なんだ、これは。  まるで俺は、狂っているのだろうか。  妃の死を否定するために、思考が狂い始めている。  ――だが。  それは、その物語的な可能性は、今の俺に生きる力を与えてくれる。  別の物語が、開いているのなら。  別の物語の都合で、妃が失踪をする必要があるのだとしたら。  あいつは苦境に立たされて、身を隠しているのかもしれないのだ。  そうだ、そんな馬鹿な話があるものか。  あの妃が、あっさりと交通事故なんかで逝くはずがないだろう。  「物語的に、解釈しましょう」  そう、今ここに妃がいるのなら、そう言ってくれるはず。 「邪道の推理で、解き明かしてしまえば良いのです」  全てに、意味を求めて。  僅かでも――妃が生存している可能性を求めて。 「――必ず、見つけ出してやる」  月社妃という、存在を。  死亡という形で、終わらせたりはしない。 「ふぅん、満更、ただのお馬鹿さんでもなさそうねぇ。そう、それで正しい。貴方の推測は、概ね正しいわ」 「……え?」  しん、と。  静寂に包めらていたはずの空間で。 「全問正解というわけでは、ないけれどねぇ?」  いつの間にか――妃の部屋の片隅に、そいつはいた。  音もなく、影もなく、気が付けばそこに佇んでいて。 「どうしたのよ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして。今更何も、驚くことなどないでしょお? 何が起きても、不思議じゃないわん」  その出で立ちは、少し夜子に似ていると思った。  髪の毛と、瞳の色が、白く紅い。 「せーかい。正解だと、言ってあげているのよん。貴方の推察通り――別の本が開いていた。残念ながら、そのことに気付いていたのは、あの月社妃だけだったみたいだけど」  そうして何処からか本を取り出した。  目の前の何かは、それを見せびらかせる。 「お前は、誰だ……? 何者だ?」 「あら? そうね、ごめんなさい。自己紹介もなしに、話を進めてしまったわぁ。すっかり、忘れていたわん」  怪しげな、笑みを浮かべて。 「妾の名前は、月社妃よ。お兄様と、呼ばせてもらっても構わないかしら?」 「……黙れ」  挑発であることは分かっていても、怒りを覚えずにはいられなかった。 「お前は、何だ。何者なんだ。いいから、答えろよ――!」  わかっている。  こいつが、普通の存在ではないことくらい、わかっている。  その出で立ちや風貌が、とても同じ存在には思えなくて。 「だめ? 妾が貴方の妹御の代わりになってあげようかなって、思ったんだけど。まあ、断られてしまったら仕方がないわねぇ」 「俺の妹は、もっと可愛いんだよ。出直して来い」 「きゃはははははははは! 惚気けるのも大外にしてくれないかしら? 面白すぎて、続きが語れないじゃないの」  俺の持っていた、『サファイアの存在証明』を指さして。 「月社妃が開いたのは、それではないわ。貴方の妹御はそんな本など開いてはいないの。だから当然、物語もそのように進行しないわけで」 「……やはり、そうか」  思えば、途中から道筋から外れていた。  俺が妃のことを忘れないという時点で、その可能性を考えるべきだったのかもしれない。 「ま、貴方の推察は、全て当たっているというわけではないのだけれども――しかし、妾からしてみれば、及第点よ。褒めてあげるわ」  ぽんぽん、と。  余裕をかましながら、本を叩く。 「その、ご褒美よ。貴方に、真実を教えてあげる。闇子が語らなかった、あるいは闇子さえ知らない、今回の一連の事件の顛末を」 「どういうつもりだ? お前は俺の、敵じゃないのか?」  悪役めいた振る舞いをして、非常に胡散臭い。 「妾は誰の味方もしてないわぁ。精々――夜子の、味方といったところかしらん」  首を振って、続ける。 「貴方の推察通りよ、瑠璃のお兄ちゃん。淡い物語など、開かれていなかった。現実に提示された物語は、もっと残酷な物語だったわ」  声を上げて、宣言する。 「その輝きは、曇りのない漆黒。信念を感じさせるほどの、強い輝きよ。その物語の名は――」  持っていた本を、俺に突きつけて。 「『オニキスの不在証明』――それは、世界から切り離された少女の、覚悟の物語」 「――これが、それか」  真っ黒な、宝石。  開くことを禁じられた、最悪の本。 「貴方は、愛する妹御のため、真実を見つける覚悟を決めたのよね? その純粋な想いに、妾は心打たれたわ。何も知らない貴方に、真実という剣を授けてあげる」  その言葉に――自然と、力が籠もる。  握りしめていたのは、妃の残した髪飾り。 「必ず、妃は生きている。物語らしい筋書きが、あるはずなんだ。今もどこかで、あいつは俺を待っているはず」  物語らしい、真実があるはずだ。  それを裏付けるように、別の物語の存在が明るみになった。  『オニキスの不在証明』の中に――月社妃の幸福を見つけてみせようじゃないか。 「でも――忘れないで欲しいのだけれど。黒い宝石は、どこまでも不幸な物語よん。貴方の望む真実と、そこにある現実は乖離しているかも知れないわ。それでも、問題なくて?」  からかうように、そいつは言う。 「想像していた現実より、悍ましいかもしれないわ。知らなかった方が良かったと思うほど、現実は地獄かもしれないわ。それでも貴方は、真実を確かめるのかしらん?」  まるで俺を試すように、囁くのだ。 「……悪いが、俺にはもう後がないんだ」  悩む暇も、ないくらいなんだ。  今でも、心は死にかけている。  妃のいない現実に、迫害されそうなんだ。 「俺にはもう、都合のいい希望を願うしか――未来はないんだよ。だから、進むしか無いんだ」  僅かな可能性に、追いすがって。  他の誰もが妃の死を肯定しても、俺だけは否定し続ける。  決して、目の前の存在を信用したわけではない。  ただ、現状を省みると、この異形の存在の力を頼る他、俺にはないだろうから。 「貴方もうんざりだろう? 何も教えてくれない状況に、嘘を重ねられる現実に、隠匿される真実に、もう嫌気が差しているはずよ。だから全て、妾が教えてあげる」 「お前、名前は何ていう? まずはそれを、教えてくれ」 「――クリソベリル。古き昔から魔法の本を司る、腐った魔法使いよん。最近では、妾のことを都市伝説のように扱っているらしいけど?」  クリソベリルは、不敵に微笑む。 「全ての真実をプレゼントしてあげる。貴方に、現実と戦う剣をくれてあげる。その刃をどこへ向けるか、それは貴方の自由よ」  クリソベリルの言葉に、従って。  受け取った本を、開いてみた。  『オニキスの不在証明』は、俺に呼応することなく、ただ内容を披露するだけ。 「――さあ、これからが本番ね。日常と非日常の境界線に至って、そこにあった青春の1ページを読み進めていきなさい」  生きる力が、湧いてきた。  クリソベルの言葉が、俺に勇気を与えてくれる。 「貴方の青春には、これからも魔法の本が付きまとう。だからこそ――貴方は知らなければならないわ」  そして、物語は続く。 「物語は、貴方様自身の手で紡ぐのよ。白紙の未来を描くのは、魔法の本ではなく――貴方自身なのだから」  ここから始まる、俺たちの青春活字物語。  瑞々しいほどの青春と、切ない感情に揺さぶられた、小さな図書館の物語を。  遊行寺夜子の、強がりを。  月社妃の、可憐さを。  伏見理央の、健気さを。  日向かなたの、煌めきを。  さぁ――キミと本との恋をしよう。  だけど、それでも、現実は思い通りにならなくて。  クリソベリルが提示した真実に、俺は敗北する。  どうすることもできなくて。  その真実に抗うことが出来なくて。  結局、物語はバッドエンドで終わってしまうんだ。  そして物語は、一年後へ。  完全なる停滞を迎えた俺に、この先何を語ることが出来るのだろう?  枕元で目覚まし時計が鳴り響く。  夢現の意識が刺激され、大きなあくびとともに起床した。 「……夢か」  とても、悲しい夢を見ていたような気がした。  とても、懐かしい夢を見ていたような気がした。  すっきりとしない朝の目覚めが、不思議な感傷をもたらす。 「そうか、なるほど」  壁にかけられたカレンダーを見て、感慨深く呟いた。 「……あれから、丁度一年か」  一年という、長い時間が経過していた。  かくも懐かしい、魔法の本と初めて出会ったあの日々。  『ヒスイの排撃原理』  『ルビーの合縁奇縁』  『サファイアの存在証明』  三冊の物語を、世界は語った。  「ふわぁ……」  大きなあくびが、飛び出てくる。  手の平で抑えながら、面倒くさそうに着替えを始めた。 「早く、食堂へ行かなきゃ……」  あれから、一年の時間が過ぎて。  今日から、藤壺学園二年生としての、二学期が始まる。   いつからだろう、残酷な真実を受け入れることが出来たのは。  いつからだろう、心に平穏を取り戻すことが出来たのは。  月社妃の死を知らされて、それでも否定しようとした日々のことを思い出す。  魔法の本のことを調べ、追求し、自分なりに結論を導いて。  夜子や闇子さんから、聞けるだけの情報を聞き出して。  しかし――俺が手に入れた結論は、とても無慈悲なものだった。  〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》〈は〉《丶》、〈死〉《丶》〈亡〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》。  その事実を、揺るがすことが出来なかったのである。  全てを、納得したわけではないけれど。  今だって、か細い可能性に夢を見ているのかもしれないけれど。  それでも、心の何処かで受け入れてしまったのだろう。  一年という時間が、凍りついた俺の心を溶かしてくれた。 「人間ってのは、慣れちまうもんなんだな」  未だ、悲しいと思う心はあるけれど。  その比重は、随分と変わってしまったように思う。  納得することが出来なくて、地べたを這いずりまわって足掻いてみせた。  半狂乱になりながら、現実から逃げ出そうとしてみたけれど。  もう、どうにもならないのだと、心が理解してしまった。  そこから俺は否定することを諦めてしまった。 「…………」  しかし。  それでも、幻想図書館での生活が変わってしまったのは、確かだろう。  月社妃がいなくなったことで、それまでの和気藹々とした生活は終わってしまった。  遊行寺夜子は、引き篭もりに拍車がかかる。  唯一の友達を失って、心を固く閉ざしてしまった。  時折、思い出したようにお菓子作りを初めては、誰に食べさせるでもなく捨ててしまう。  学園なんて、もっての外だろう。  遊行寺汀は、学園へ通うことはなくなった。  妹のように思っていた妃がいなくなって、笑うことが少なくなったように思う。  どうやら今は、本城奏の元で、精力的に本の収集を手伝っているようだ。  前以上に、図書館を空ける日が多くなった。  自然と、会話を交わすことも減ってしまった。  時折見せる影を落としたような表情に、心がざわつく。  伏見理央は、相変わらずだった。  相変わらず、しゃぼん玉のようにふわふわしていた。  登校の頻度が目減りして、献身的に夜子の世話を続けている。  俺たちの中で一番に立ち直ったように見えたけれど、それは見せかけだけかもしれない。  ふわふわと浮かぶしゃぼん玉は、触れたらはじけてしまう。  遊行寺闇子は、魔法の本の管理を夜子に任せ、長く家をあけている。  取り付かれたように仕事に従事して、もう何ヶ月も姿を見ていない。  夜子に持っている限りの知識を与えて、夜子にこの図書館を任せたらしい。   そして、俺は。  「……離れられなかったのかな」  もう、帰る場所なんてどこにもなかったから。  妃を失って、拠り所さえも失ってしまったから。  もう、この図書館で本を読むくらいしか、俺には残されていない。  教室に入った途端、日向かなたと対面した。  夏休みが明けても、態度は一貫して変わらない。 「――うげっ」  俺の姿を捉えると、露骨に表情を歪ませるのだ。 「……よっ、久しぶり」  夏休みを挟んで、再会を懐かしんでみたら。 「ふんっ」  しかし、虫の居所が悪かったのか――恐れられているのか。  あっけなく、目を逸らされてしまった。 「一年前は、こうまで露骨に嫌われてなかったはずなんだけど」  サファイアが開いているときには、格好良く相談に乗ってくれてたのは、別人だったか? 「……しかし、探偵部ね」  一年ほど前から、彼女が勝手に創部したという部活動。  部員は全員で三人いるようだが、残り二人は名前だけの幽霊部員に過ぎず、実質的なメンバーは彼女一人。  それなのになぜか、立派な部室を借り受けて、充実した設備を揃えていた。 「――悪いことは、してはいけませんねえ」  にこにこ笑顔の彼女が、とある教師を告発した。  その教師はサッカー部の顧問をしていて、どうやら部費を横領していたらしい。 「あなたもこれで、おしまいです」  探偵部部長、日向かなたによる告発劇。  それは愉快痛快ではあったものの、周囲の人間が抱いた感情は、マイナスの方向だった。 「ふふふふふ、天罰ですよ」   その告発劇の、裏事情。  サッカー部の顧問をしていたその教師は、探偵部という胡散臭い部活動を、認可しないよう働きかけていたらしい。  日向かなたのことが気に食わなかったのか、嫌がらせをしたかったのか、徹底的に妨害しようとしたのである。  それが、彼女の逆鱗に触れてしまった。  だから、日向かなたは告発した。  そういう噂が流れたのである。 「私は、清らかな女の子です!」  素敵な笑顔が、眩しくて。  綺麗な薔薇には、刺がある。 「どこにでもいる、可愛らしい女の子ですよ!」  そして彼女は、今も誰かの調査をしている。  探偵部の部室で、誰かの弱みを探っている。  近付くな、他人であれ。  昔、岬から忠告されていた言葉を、俺はその時ようやく理解したのだ。 「……ヒスイが開いている時のほうが、可愛らしいじゃねえか」  今のほうが、ずっと質が悪い。  キス魔と罵られ、恨みを買ってしまった俺へ、彼女はどんな制裁を行うだろう?  一年以上が経過した今も、背中に張り付く疑惑の視線。 「じー」  それでも、何故だろう。  彼女の疑惑を浴びせられながら、それでも怖いとは思えなかった。 「ヒスイの一件が、あったからか」  変に、感情移入をしてしまったからか。  「あんたは俺に、何を求めているんだよ」  結局、わからないまま時が過ぎて、報復も制裁も行われないまま今に至る。 「俺からしてみたら、普通の女の子にしか見えないんだがな」  今更、探偵とか言われても。  既に、日向かなたの可愛い部分を、知ってしまっているから。  時は経ち、翡翠色の味を思い出す。  唇の柔らかさを、思い出してしまった。 「ねえ、瑠璃さん」 「……お、おう?」  突然、声をかけられた。  びっくりして、声が上ずってしまう。 「二学期から、副担任が変わるそうですよ」 「そうなのか?」  あまり興味のない話題だったが。 「綺麗な女性のようなので、調子に乗って襲ったりしないでくださいよ。瑠璃さんは、見境がありませんからね」 「……なんのことだよ」  そして何が言いたいんだ。 「キス魔」 「…………」 「セクハラ」 「…………」 「女性の敵」 「……あのな」  淡々とした言葉攻めに、たまらず振り向いて。 「俺を目の敵にするのなら、もっと手っ取り早い方法をとれよな。キスしたことを根に持ってるなら、それをネタに教師にでも告げ口をしろよ。そしたら俺は、一発で退学だ」  それで本当に退学になるかは不明だが、それでも面倒にはなるだろう。 「そんなことをしても、なんにもなりませんから」  淡々と、彼女は否定する。 「私は、ただ知りたいだけです。いくら調査しても、いくら探索しても、手に入らない情報を」 「……何だ、それは? 悪いが、夜子のことなら――」 「――違います」  短く、彼女は否定した。  手にしたボールペンを、唇に当てて。 「私が知りたいのは、瑠璃さんの本意ですよ」 「…………」  翡翠色の思い出が、胸の中で広がった。  そして、彼女は大きな声で宣言する。  俺にではなく、周りのクラスメイトへお知らせするように。 「私の初めてを奪ったのですから――責任、取っていただきますよ」 「……な」  その声の、大きさに。  一瞬、慌てて周囲を見渡す。  誤解を招きそうな言葉に、危機を感じたのだが。 「…………」  特に、周りの反応はなかった。  声の大きさからして、聞こえていないはずはないのだろうが――スルーしてくれたらしい。  「あ、あんたな――!」  それでも、謂れのない言葉に声が強くなる。 「ごめんなさい、声が大きすぎました」  笑顔で謝罪しながら、彼女は続ける。 「お望み通り、仕返しをしてあげました。どうですか? 可愛らしい仕返しでしょう?」 「おい、五月蝿いぞ」  ざわつき始めた教室に、凛とした声が響く。 「予鈴がなっているのが、聞こえなかったのか。近頃の学生は、ぴーちくぱーちくよく鳴くものだ」  見慣れない人物が、教壇に立っていた。  いや、それは違う。  俺は、彼女を知っている。  知らないはずが、なかった。 「私が喋っているときくらいは、私語を慎め。それくらいの常識を、前副担任は教えていなかったのか?」  なるほど、彼女が新しい副担任。  なるほど、なるほど、なるほど…… 「私の名前は、本城奏だ。今日からお前たちの副担任を任せられている」  本城奏。  本城奏。  ……え、まじ? 「以後、憶えておけ」  本城という苗字から、クラスメイトの視線は岬へと向けられる。  当の本人は気にした様子もなく、へらへら笑いながら。 「あれ、僕のお姉ちゃんだよー。怖いよねー」 「私語を慎めといったはずだ、本城君」  そんなことは関係ないと言わんばかりに、注意して。 「おお、怖っ。これは妹贔屓は期待出来そうにないかなー」  と、苦笑いを浮かべながら、大人しく着席した。 「それと、そこの君」 「……え、俺?」  奏さんの指名を受けた俺は、驚いて。 「先ほどの騒ぎの元凶だな。始業式が終わったら、職員室に来い。直々に説教してやる」 「…………」  責任は、日向かなたにあるんです。  そう言い訳したところで、状況の改善は見込めないか。 「返事はどうした、四條君?」  何よりも、頷くこと以外を許さない奏さんの剣幕に、どうすることも出来ず。 「……はい」  甘んじて、呼び出される以外にないのだろう。 「早速目を付けられるとは、瑠璃さんも運がありませんね」  嬉しそうな小言が、背後から聞こえてくる。 「美人教師と二人っきりなんて、良かったじゃないですか」 「うるせえ」  この巡り合わせに、奇跡と喜ぶほど前向きにはなれなかった。  本城奏と再会するのは、あの教会で、警告を受けて以来であった。 「……不思議なもんだな」  私立探偵と、探偵部部長がいる教室。  なんだこれは、お前らそんなにミステリーが好きなのか? 「久しぶりだな、四條君」 「お久しぶりです、奏さん。いつの間に、転職したんですか?」 「転職ではなく、二足のわらじだ。美人教師とは、この世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだ」 「……さいですか」  さっきの厳格な態度は何処へいった。 「この学園の理事長とは古い付き合いでな。こうしてたまに、利用させてもらっている」 「遊行寺闇子が引退してから、なんとかこっちへホームを移そうと思っていたんだよ。とてもじゃないが、君たちだけでは心配でな」 「可愛い妹もいることですし?」 「それは、関係ないさ」  無表情に、否定した。 「そういうわけで、よろしく頼む。これでも、勉強を教えるのは得意なんだ」  誇らしげに胸を張って、にこやかに笑いかける。  凛とした表情に見惚れかけて、たまらず話題を変えることにした。 「そういえば、汀はどうしているんですか? 今でも、奏さんのところに?」 「汀君か? ああ、一応は私の預かりということになっているな。どうやら、魔法の本に夢中なようだ」  少し、険しい表情で。 「執念、というのかな。前にもまして、魔法の本に対して積極的になったよ。彼は彼で、思うところがあるのだろうな」 「……思うところ、というのは?」 「さぁ? 近頃はあまり会っていないのでな。汀君も、今は勝手に行動しているようだし、もはや今何をしているのかも知らん」 「……そんなもんですか」  随分と、扱いが適当らしい。 「そんなものだ。子供じゃないんだから、いちいち見張ってはおらんよ。あれはあれで、頭の回る奴だしな」 「結構、良い評価なんですね」  奏さんは、他人を褒めるイメージがなかったから、少し意外だ。 「どうしようもない悪餓鬼だが、筋は悪くない。何より、あの無神経さがたまらないぞ」 「それ、褒めているように聞こえません」 「褒めているわけがない。探偵の仕事に向いている人間なんざ、ろくなやつじゃないさ」 「それも、そうですね」  身近な人物が、連想されてしまった。  あれほどたちが悪いとは、さすがに思わないけれど。 「……想像していたよりも、元気そうだな」  空を見上げなら、奏さんは語る。 「もう少し、落ち込んでいるかと思っていたよ」 「……時間は良薬ということです。もう、一年が経ちましたから」 「そうか、一年か」  感慨深そうに、漏らす。 「あれから、もうそんなに経ってしまったか」 「それでも君は、まだあの図書館に残っているんだな。お姉さんは、それが意外だったよ」 「一年前も、言いましたよね。俺の居場所はあそこしかないって」 「そうだったな。一年前も、君はそう答えていた。何も変わらない。変わることはない」  じっと、遠い情景を思い出すように。 「変わったのではなく、欠けてしまった、と言うべきなのかな」 「…………」  隣にいたはずの、人物。  欠けてしまった人物を、思い出して。 「もう、お姉さんは何も言わないことにしたよ。忠告も、警告も、君は理解して選んだのだろうから」 「説教をするために、呼び出したんじゃないんですか?」 「おっと、そうだったな。では、改めて説き教えようか」  声色は、優しいまま。  奏さんは、俺の頭へ手を伸ばし――そっと、抱きしめた。  胸の谷間に埋められながら、奏さんの温もりに包まれる。  その行動が余りにも意外だったから、ろくな反応を返せない。 「……何をしているんですか。セクハラですよ」 「説教中だ。静かにしろ」  言い聞かせるように、奏さんは囁いた。 「世界で一番優しい、お説教だ」 「…………」  てっきり。  怒られると思っていた。  奏さんの忠告に従わず、自ら魔法の本を開きにいって。  わけがわからないまま、大切な存在を失って。  あわせる顔も、口に出来る言葉もなく。 「いいから黙って、今はお姉さんの肌に触れておきなさい」  それは本当に優しい言葉で、心が癒やされるような響きをしていた。  いつもの凛とした声とは、全く別物。 「不幸の後には、幸福が訪れる。美人教師の胸を堪能できるなんて、君はとても幸福な人間なんだから」 「……随分と、俗物的な幸福ですね」  卑怯だなぁ。  そうやって慰められてしまうと、弱い心がやってきてしまう。 「手っ取り早くて、気持ちいいだろう?」 「教師的には、どうなんですか、それ」 「構うものか」  背筋を伸ばして、宣言した。  「美人教師とは、そういうものだよ」 「……やっぱり、俗物的だ」  誰かの温もりに触れたのは、とても、久しぶりだった。  たまにこうして、触れ合うと。  人間て、暖かいなあと、痛感させられてしまうんだ。 「はい、淫行の現場をばっちりと抑えましたよー」 「…………」  奏さんと別れてから、教室へ戻ってきた俺を、日向かなたが待ち受けていた。 「ようやく隙を見せて下さいましたね! もうばっちり撮影しましたよ! 抱きしめあって、きゃー破廉恥ですっ!」  デジタルカメラを振り回しながら、ハイテンションに喜ぶ彼女。 「……よく見ろ、それは俺が抱きしめられているだけだ」  抱きしめ返してなんかないだろ。 「そんな細かいことはどうでもいいんです! これはもう誰がどう見てもアウトですよ! ふふふ、弱みゲットしました!」 「何を恥じるところがあるだろう、それはただのお説教だ」  と、そこに写っている美人教師さんも言っていました。 「何がお説教ですか! こんなお説教あるはずもないでしょう!? 何を教えているというのですか! この状況で教えられることなんて、一つしかないじゃないですか!」 「道徳?」 「情欲です!!」  大きな声で、彼女は否定した。 「不潔ですっ! やっぱり瑠璃さんは不潔でしたっ! そうやってどれほどの女の子を手にかけたのでしょう!」 「…………」  やけにテンションが高くて、驚いた。  俺の弱みを握って、そんなに嬉しいのだろうか。 「それで、あんたは何が望みなんだ?」 「へ?」 「俺の弱みを握って、どうしたいんだって聞いてるんだよ」  目的があるはずだ。 「それでは、淫行を認めると?」 「…………」  この写真が明るみになったら、どう考えても奏さんに迷惑がかかるしなあ。 「認めるんですね? 誰にでも手を出してしまう、不誠実で不義理な人間であると!」 「……それは、認めないが」  ゆっくりと、首を振って。 「俺は、そこまで無差別な人間じゃねえよ」  さっきのは、成り行きだ。 「……よくわからない人ですね、本当」  呆れたように、溜息をつく。 「写真を突きつけても動じる様子もありませんし、これでは脅迫のネタにはなりませんね」 「あんた、俺を脅迫する気だったのかよ!」 「もういいです。ひとまず見逃してあげます。だから、私に感謝してくださいね?」 「あんたが余計なことを口にしなければそれでよかったんだが」 「ところで、代わりと言ってはなんですが、一つお聞きしたいことがあります」 「何だよ?」 「今、藤壺学園に蔓延る幽霊の噂を知っていますか?」 「……幽霊?」  身に覚えのない話に、思わず意識が反応した。 「はい、幽霊です。私もまだよくわからないんですけど、どうにもその手の噂が広がっているようなのです」 「だから、友達の多そうな瑠璃さんに、聞いてみたというわけです。何か知りませんか?」 「知らねえよ。俺だって、幽霊話を噂するような友達はいねえし、そもそも、友達が多いというのが間違っている」 「え? 多いじゃありませんか」  むっとした表情で、彼女は言った。 「本城さん、伏見さん、遊行寺汀さん辺りとは、たまにお喋りしているでしょう?」 「それでも、三人……片手で足りてしまう」  言ってて、悲しくなる。 「え? 三人って、多くないですか?」  しかし、意外そうに彼女は言う。 「友達であると、本気で思える相手が三人もいる。それは、とても幸せなことだと思いませんか」 「…………」  そういわれてしまったら、言葉に詰まる。 「中途半端な関係ではなく、明確に仲良しであると胸を張って口にできる。少なくとも、私にはそういう人はいませんから」 「……あんた、友達いないもんな」 「一身上の都合により」 「性格に難あり、かな」 「一身上の都合です」  ふくれっ面で、頑なに否定した。 「……そういえば、瑠璃さんにはもう一人お友達がいましたね。すっかり忘れていました」  滑らかな口調で、あくまで自然と。 「なんだよ、夜子は友達じゃねえぞ? 残念ながら、片思いだ」 「違いますよー、ええと、名前、何でしたっけ……あれ? 思い出せない」  それから、考えこむように唸って。 「ほら、瑠璃さんが私にキスした日に、鷹山の制服を着て教室でお喋りをしていた女の子ですよ」  瞬間、俺の脳内は完全に硬直した。  目の前の現象が、咄嗟に理解出来なかった。 「……覚えてるのか?」  言葉が、上手く発せられただろうか。  自分の声を耳にして、それでもよくわからなかった。 「覚えていますよー。教室に戻ってきたら、何故かその女の子がいたんですから!」 「……ってあれ? どうして私、そのとき瑠璃さんと放課後を過ごしていたんですか?」  自分で口にして、自分で混乱し始める彼女。 「……私は、あの日、何をして……?」  ヒスイが開いていた頃の記憶は、物語が閉じたときに消えているはずなのに。  「あんたのことだから、取り調べでもしてたんじゃないのか」  サファイアが中断してしまい、世界から忘れたままこの世を去った、俺の妹。  ほんの一握りの人間しか覚えていない、世界の真実。 「そうですかねー」  日向かなたの中に、僅かでも痕跡が残っていた。  月社妃が生きていた証を、ほんの僅かでも見えてしまったのなら。  「ありがとう……覚えていてくれて」  込み上げてくる感情は、何?  ヒスイとサファイアの歪みの中で、なんとなくしか覚えていないことを知って、それで何を思うのだろう。  覚えてくれている人が、いた。  記憶を削がれながらも、ただぼんやりとでも覚えてくれている人がいた。  たったそれだけのことが、今の俺に言葉では言い表せない感情を与えてくれる。 「え、ちょっと、瑠璃さん? どうしてそんなに悲しそうな顔をしてるんですか」 「やめてくださいよ、私がイジメているみたいじゃありませんか! 意味不明です!」  困り果てた彼女は、そんな俺を見て動揺する。 「……いや、なんでもない」  嬉しすぎて、泣きそうになってしまった。  ただ、それだけのことだ。 「あいつは、友達なんかじゃねえよ。俺の、妹だ」 「はあ? 瑠璃さんは一人っ子でしょう? 何を妄想垂れ流しているんですか。もしかして、瑠璃さんは妹萌えーなお人ですか?」 「そうだよ、俺はシスコンなんだ」  恥じることなく、宣言しよう。 「どうしようもなく、妹のことが恋しいんだよ」 「……適当にはぐらされている感じがして、不愉快です」  納得しきれない彼女が、不穏な眼差しを送るが。 「ちなみに、その方のお名前はなんていうのでしょう?」 「月社妃」  世界から失われた名前を、口にしても良いのか迷ったが。  しかし、少しでも妃の事を知ろうとする彼女を見ると、答えてあげたかった。  答えて、そして、妃のことを知っていて欲しかった。 「……苗字が違うじゃありませんか。誰が妹ですか」 「そういうもんなんだよ」  そうでなきゃ、困るんだ。  サファイアの残した影響について。  『サファイアの存在証明』は、ヒロインの女の子が世界から忘れられるというシナリオで、妃の事故死が原因で物語が途中で終わってしまった。  故に、中途半端にサファイアの内容が残ったままで――具体的には、妃が死んだ後も、彼女の存在は忘れられたままとなってしまっている。  その影響を免れたのは、魔法の本の存在を知っていたものだけ。  世界から忘れられたというのは、全ての人間から月社妃に関する全ての記憶が抹消されるということである。  当然、存在が抹消されたら記憶に齟齬が生じるが、そこは記憶の曖昧性にゆだねているようだ。  妃じゃなくて、他の誰かだった。  妃じゃなくて、えーっとあのときの彼女は誰だっけ。  妃の記憶は、他の何かにコンバートされてしまう。  だが、記憶だけをどうにかしても、それで全てが誤魔化されるわけではない。  人が生きていた痕跡というのは、写真として、戸籍として、記録として残されているのだから。  月社妃のことを忘却しても、月社妃がそこに生きた現実は残っており、それは記憶と現実の齟齬を産む。  だから俺は、実験してみた。  戸籍謄本を出してもらって、残されてるであろう妃の生きた証を両親に突きつけてみると。  「……さあ、何かの間違いじゃないか?」  その一点張りだった。  一言一句、変わらない否定の繰り返し。  どうやら、記憶と現実の齟齬を突きつけても、違和感を認識しないようになっているらしい。  疑念を抱かないようになってしまってるのだ。  月社妃という人間が、四條家の家族として存在していた証拠はある。  それなのに、彼らは頑なにそれを認めようとしない。  彼らの中で、月社妃という存在はなかったことになってしまっているらしい。   幼いころの写真に、よく写っている妃を見ても。  「お前のガールフレンドか?」  まだよちよち歩きの頃の写真でも、意味不明なコメントをする。  サファイアの爪痕は、完膚なきまでに現実を狂わせてしまったらしい。  認識しない。  疑問にも思わない。  それはそういうものであると――思い込んでしまっている。   それが、世界から忘れられているという意味だ。 「おおう、瑠璃くんだー」  廊下に出た瞬間、ばったりと遭遇する。  にこやかな笑顔で、嬉しそうに声を上げる。 「今から、出かけるのか?」  財布を片手に、外出する雰囲気をしていた。 「うん、そだよー。今からお買い物!」 「じゃ、俺も行こうかな。荷物持ちくらいは、付き合ってやるよ」 「にゃ、にゃにゃ? いいよ、だーいじょーぶ! 折角の休日なんだから、お休みしよ?」 「残念ながら、お休みするほど平日を頑張って過ごしてない」  それに。 「大体、理央は毎日家事してくれてるだろ? 少しは手伝わなきゃ、バチが当たるってもんだろ」 「そ、そうかにゃー」  困ったように、笑いながら。  それでも、満更ではなさそうに。 「それなら、ほんのちょっぴりだけ、お願いしちゃいましょうかにゃー?」  はにかみながら、理央は頷いた。 「でも出来れば、手伝わなきゃ! とかじゃなくて、手伝いたい! の方が素敵かな!」 「……それって、違いあるか?」 「あるよ! もうめちゃんこあるよ! まったくもう、瑠璃くんはおバカさんですなー」  それでも、何だか楽しそうだった。 「もういいもん、よし、出発だー」 「相変わらず、理央の言動はよくわからない」  それは昔から、何一つ変わらずに。  肩を並べて、俺たちは歩き出した。 「なんだか、瑠璃くんと一緒に歩くのって久しぶりかもー! えへへ、なんかドキドキ」 「そうだな、理央が学園に通わなくなり始めて、登下校も一緒じゃなくなった」 「が、学園はあんまり関係ないんじゃないかな? ほら、瑠璃くんは、妃ちゃんと通ってたし!」 「……そうだな」  妃、という名前が出て、心がしぼみそうになる。  それでも、表情に出さないだけましか。 「あ、私服同士だから、なんだかデートみたいだね。わわ、本当にドキドキしてきちゃった」 「それじゃ、手でも繋いでみるか?」 「だ、駄目だよー! 浮気は駄目ですよ!」 「浮気?」  少し、胸が傷んだ。  いや、それはもう違うだろう。 「そうですよー、夜ちゃんが悲しんじゃうよー?」 「いつから理央の中で、俺は夜子と付き合ってることになってんだ」 「ありゃ? 違ったっけ?」 「ぜんぜん違う。気をつけろよ? それ、夜子の前で言ったら殺されるぞ」 「理央としましては、暗黙の了解的な感じだと思ってました」  幸せそうににやけるながら、お花畑を披露する。 「瑠璃くんは、夜ちゃんのことばっかり気にしてたから、てっきりそうだと思ってたよー」 「……そうだったか?」  全く心当たりがなくて、首を傾げる。 「でも、こうして理央とお散歩してくれるということは、ちゃんと理央のことも見てくれているのですかにゃ」   ステップを踏みように、ご機嫌に歩を進める。 「俺は、お前のことも夜子のことも、見ているつもりだけどな」 「あはは、それはどうかなー」  ナチュラルに、否定されてしまった。  理央はたまに、切れ味のある返しをする。 「それでも大丈夫。瑠璃くんの中での優先順位が一番低くても、瑠璃くんの中に理央という存在がいてくれるだけで、満足なのですから」 「…………」  それは、どういう意味を込めた言葉だったのだろう。  わからなくて、そして踏み込むことが怖くて、思わず話題を逸らしてしまった。 「……そういえば、もう学園には来ないのか?」  めっきり少なくなった、登校。  週に一度か二度、くらいかな? 「夜ちゃんのメイドさんだからね。理央は、家事とかもしなきゃならんですよ」  なんてこともなさそうに、理央は言う。 「一人で家に残しちゃうと、心配だしー。まぁ、理央がいないとねー、ほら、母性本能がビビビッとね」 「…………」  夜子のため、か。 「それでも、昔はもう少し通ってただろ。少なくとも、一年前までは」 「色々、あったから」  簡潔な、言葉。 「色々あって……夜ちゃんの引き篭もりに、拍車が掛かっちゃったから。すっごく、心配なの」 「…………」  前にもまして、部屋から出ないようになった。  夕食も、朝食も、俺に合わないよう時間をずらすようになっている。  放置してたら、飲まず食わずで倒れてしまいそうな時も、あったらしい。 「あ、でも全く行かないわけじゃないよ? たまーに行ってるからね。というか、行かなきゃ夜ちゃんが怒っちゃうのです」 「夜子が?」 「うん、すっごい怒る。理央が学園に行きたいのなら、ちゃんと行きなさい! って怒るの」 「夜ちゃんとしては、自分の不登校に理央を付きあわせてるのが嫌なみたい」 「それだったら、あいつも行けばいいのに……」 「本当、そーだよね。夜ちゃん全然わかってないなぁ……」  空を見上げて、少しだけ愚痴をこぼす。 「理央が行きたいのは、夜ちゃんのいる学園なのに……」 「それは、あいつが一番よく分かってるはずなんだけどな」  ルビーの頃、学園へ通う夜子を見て、どれほど理央がはしゃいでいたか。  そのことに一番驚いていたのは、他ならぬ夜子だろうに。 「あ、でもこうして瑠璃くんと歩いていると、憧れちゃうかも。どうしよう、ちょっぴり行きたくなってきちゃったや」 「……楽しさは、保証しないぞ。さっきはああいったが、今の俺は、学園を楽しめていないしな」  無味乾燥、とまでは言わないけれど。  少なくとも、思いを馳せるような場所ではない。 「うん、そうだね」 「あそこは人が多すぎる。それに、静かに本を読むことも出来ない」  本を読む環境としては不適切。  それなら幻想図書館のほうが、何倍も良いだろう。 「うん、そうだね」 「汀も来なくなっちゃったしな。結局、律儀に学園に通っているのは、俺だけだ」  もう、俺だって夜子のように引き篭もってしまおうか。  そう思ってしまいそうになる時がある。 「うん、そうだね」  だが、それでも、理央は。 「でも、教室でみんなとお喋りとか、したいな」 「…………」  ありふれた青春を、夢見ていた。 「図書館も大好きだけど、机を囲んでご飯を食べたり、文化祭の用意をしたりとか……また、ルビーのときみたいにお喋りしたいよ」  それは、賑やかな思い出。 「……今以上を求めるなんて、理央は欲張りだな」  本当に、欲張りだ。  もうそれは、手に入らない日常だろう。 「だって――制服姿の夜ちゃんや瑠璃くんを見てると、そういう光景を夢見ちゃうのも、仕方ないよ」  少し、間を開けて。 「またあの頃みたいに、みんなで笑い合いたいな」 「……そうだな」  妃の死を皮切りに、それぞれが別々の方向を向いてしまった。  夜子は引き篭もり、汀は違う方向を目指し、俺は変わらず、理央は眺め続けていて。  一人が欠けてしまうだけで、何も彼もが狂ってしまう。 「そのためには、どうしたらいいんだろうな」  二人、肩を並べて歩く。  しかし、答えに至ることは出来ず、互いに無言を垂れ流すだけ。  そんな寂しさが、今の図書館に充満している。  幽霊騒動。  日向かなたから聞かされたその話は、どの学園にでもあるような都市伝説の一端だと思う。  調査しても得られるものはなく、空振りに終わってしまうことは容易に予想できるのだけれど。  しかし、鷹山学園七不思議を、実際に観測した、という彼女の言葉を踏まえると、見過ごせるものでもなかった。  彼女は、意味のない嘘を吐くような人間ではないはずだ。  その因果関係はあろうとなかろうと、同じくして発生した怪奇伝承について、我関せずといった態度をとるべきではないだろうと思う。  俺たちは、知っている。  この世には魔法の本という規格外の代物が存在して、それらは現実を掻き乱すということを。  もし、それが魔法の本による物語なのだとしたら――俺は、黙ってられない。  見て見ぬふりなんて、出来るものか。   ――魔法の本の終わりは決められているが、それでも、物語を導くのは登場人物だ。  あくまで、魔法の本は台本。  登場人物には、アドリブが許されている。  望まない物語を描こうとしているなら――少しでも、なんとかしたい。  魔法の本の存在を知る人間が関わることで、何かできることがあるのなら、力になりたい。  闇子さんがいうところの本の担い手というのは、そういう意味なのだろう。 「……ヒスイのときみたいに」  手順を踏まえて、短く簡潔に物語を終わらせる。  そうすることが、登場人物という役割から彼らは開放される。 「もし、今、どこかで魔法の本が開いているなら」  一日でも早く、閉じてあげたい。  役割を課せられた人がいるのなら、救ってあげたいと思う。  魔法の本というのは〈恣〉《し》〈意〉《い》〈的〉《てき》で、身勝手で、どうしようもない存在なのだから。 「それが、今の俺に出来ることだろう」  理央と別れた後、思い立ったように学園へ訪れる。  休日の学園は、いつもとは少し雰囲気が違う。  グラウンドでは、練習を終えた野球部員がグラウンド整備をしていた。 「……しかし、どうしたものかな」  思うがままに学園へ来てしまったけれど、どうしよう。  幽霊騒動の噂は知っているけれど、その中身を俺は知らないのだ。  どういう噂であるかを知らなければ、これが魔法の本によるものかすら判断できない。 「岬、いるかな」  中庭から、こそこそとグラウンドを伺う。  マネージャーをしていると聞いてたことを思い出して、もしかしてと期待する。  「……いない」  しかし、目当ての人物の姿は見当たらなかった。  どうやら今日は、休みなのかな。 「……週明けに、聞くしかないか」  少なくとも、部活終わりの集団に突撃して、事情聴取を出来るような度胸はなかった。 「…………?」  そこで。  今日は諦めて、帰宅しようと思っていたその時だった。  視界の端に、〈何〉《丶》〈か〉《丶》〈が〉《丶》――というより、〈誰〉《丶》〈か〉《丶》〈が〉《丶》写り込んだような気がしたのだ。  グラウンドではなく、校舎側。  建物の構造から、おそらくはグランドからでは見えないような、そんな教室の一角。  誰かが、空を見上げていた。  日没の空を、見上げていたのである。 「…………」  それが誰なのかは、よくわからなかった。  遠巻きに見て、女の子であるとはわかったものの、ぼんやりとしてよく見えないでいる。  夕暮れの太陽の光と、遠くの教室の窓までの距離のせいなのだろう。 「見上げていた……?」  あれ? 俺はどうして、彼女が空を見上げていると思ったのだろう。  遠巻きで姿形もよくわからないのに、窓から見える女子学生を、どうして空を見上げていると判断したのだ。  グラウンドを見下ろして、部活動を見ていると思うのが普通だろう。 「……いやいやいや」  違う、待て。  グラウンドを見下ろしているはずがない。  何故なら、あの教室からはグラウンドが見えない。 「だからやっぱり、空を見上げているのか」  あの教室から見れるのは、空か、もしくはこの中庭ぐらいのもので。 「…………」  誰かを見ているのだとしたら、それはもしかして、俺なんじゃないだろうか。  そう思うと、少しだけ怖くなった。  視線を逸らすことなく、遠くの教室へ視線を送り続ける。  もし、こちらを見ているのだとしたら、気まずくて窓から引っ込んでしまうくらいに、凝視する。  しかし、どれだけ見つめていても、彼女の姿はぼんやりとしたままだった。 「……しかし、なんだろうな」  よく、わからないのに。  誰かも、わからないのに。  なんとなく――空を見上げているその姿が、どうしてか魅力的に見えてしまうのだ。  思わず、見惚れてしまいそうなくらいなんだ。 「儚くて、儚くて、まるで、あれは――」  ――夜空を見上げる、妃の姿が思い浮かぶ。  そう思った途端、胸の芯が熱く燃え盛る。  燻ったはずの恋心が、めらめらと音を立てて発火する。 「……まてよ、馬鹿か」  ぎゅっと胸を押さえつけて、懐かしい感覚を押し殺す。  あれが妃であるはずがないだろう。  あれは、ただの女子学生。  そうであるはずがない。 「誰だよ、くそ」  紛らわしいんだよ。  理不尽な怒りを覚えながら、俺は彼女の姿を確かめることにした。  校舎の中へ入って、なるべく足音を殺しながら教室へ向かう。  彼女がいた教室は、3階の一番端の教室だ。  構造上、一番端っこということもあって、最短経路で帰宅しようと思ったら俺と鉢合わせになるはずだ。  変な使命感を覚えてしまった俺は、目当ての教室へと辿り着く。 「……ここか」  3年1組、3階の最も端の教室。  おそらくは来年、俺や理央が所属するであろう学年だ。 「さて」  扉に手をかけて、空を見上げていた少女と遭遇しよう。  あの紛らわしい儚さの正体を、確認してみようじゃないか。 「……あれ?」  しかし。  扉はぴくりとも、開くことはなかった。  「え?」  当たり前のように、鍵が閉まっていたのである。  そりゃそうだ、今日は休日で、教室が使われるはずもないのだから。 「…………」  ということは、中には誰もいなくて。  当たり前のように、空き教室であるはずだ。 「……帰ったのか?」  確かに大急ぎで迂回ルートをたどれば、最短距離で向かう俺を躱すことはできるけれど。  しかし、その必要性は? 「こんなところで、なにしてるのさ?」 「え?」  背後から、声をかけられた。  驚きビビリ、変な声が出る。 「あはは、どうしたの? 幽霊でも見たような顔しちゃってさー」  本城岬が、にこやかに笑いかけてくる。 「ど、どうして岬がここに?」 「どうしてって、それは僕の台詞なんだけど? 今日は休日だよ? 僕はマネジの仕事があるから来てたけど、新入りくんは帰宅部でしょ?」 「いや、ちょっと、探しものを」 「探しもの? 三年生の教室に? 変なのー」  けらけらと笑いながら、続ける。 「新入りくんが中庭でぼけーっと空を見ているところを目撃してね、驚かせてやろーとストーキングしちゃったわけよ」  どう、驚いた? と。  茶目っ気に溢れる岬は、相変わらず親しみを覚えるような事を言ってくれる。 「探しものってか、探し人かな。中庭で、この教室に誰かがいるのが見えて、誰だろうなって気になったから来てみただけだよ」 「人? この教室に?」  驚いた表情を浮かべる。 「新入りくんが何を見上げているのか気になって、僕も視線の先を追って見たけれど、誰もいなかったよーな」 「…………」  サバサバと岬は語ってくれたが、俺の心境は全く穏やかではなかった。  それどころか、妙な胸騒ぎを覚える。 「本当に、誰かがいたんだ」  それは、呻くような言葉で。 「誰かが、空を見上げていたんだ……」  幽霊騒動。  日向かなたの言葉を思い出して、頭を抱えた。  その後、職員室に向かって、三年生の教室の鍵の貸出履歴を確認して見た。  休日ということもあって、当直の先生が一人二人しかいなかったけれど、彼らは口をそろえて証言する。   ――今日は、職員室に訪れた人間は一人もいない。  貸出しはおろか、職員室の扉を開いたのは俺だけだったらしい。  そもそも何故俺が居るのかと追求されたが、それは全力でごまかして。  もしかすると、見間違いだったのかもしれない。  もしかすると、教室の中に置いてある何かを、人と間違えたのかもしれない。  そう思って、もう一度中庭へ戻った俺は、再び教室を見上げてみると。 「…………」  少女が、空を見上げていた。  少女が、空を見上げていた。  「……嘘だろ、おい」  その儚さは、変わらずに。  どうしようもなく、その出で立ちが魅力的に見えてしまう。  正体不明の存在を目にして、恐怖よりも魅力を覚えてしまったのはどうしてだろう。  あの儚さが、あの日の妃を思い起こさせてしまうからか。  誰かもわかず、人かも分からず。  空を見上げる少女に、俺は気が付けば心を奪われていたのかもしれない。 「幽霊系の本かにゃ?」  図書館へ帰った俺は、早速理央に相談してみた。  「そう、幽霊。学園を舞台としたホラー系の魔法の本って、ないか?」 「うーん、それだけだったらさっぱりわかんないよー。せめて、どういう幽霊かわかんにゃいと」 「どういうのって言ってもなあ」  その時の感想を、思い出してみた。 「空を見上げる少女の幽霊かな。怖いって言うよりも、儚い。魅力的で、思わず見つめてしまうんだけど、ぼんやりしててよくわからないんだ」 「よくわかんないのに、魅力的? 変なのー」 「よくわからないから、魅力的なんだよ。曖昧さや儚さっていうのは、虚ろなほど魅力的に見えるんだ」 「ふーむ、んじゃ、それを夜ちゃんに相談してみればいいんだね」  わかったのかわからないのか、ひとまず理央は頷いた。 「あっ、そーだ」  理央が、何かを思いついたように声を上げて。 「空を見上げる少女の物語は知らないけど、別の物語なら、知ってるかも!」 「別のって?」 「うん、魔法の本じゃなくて、単純な噂話だよー」  魔法の本では、ない? 「星を見る少女っていう、都市伝説。ありゃ、もしかして瑠璃くん、心当たり無かったり?」 「ないな。都市伝説って言うことは、ポピュラーなのか?」  口裂け女とか、トイレの花子さんとか。  そういう類のもの? 「えっとねー、あるところに男の子がいて、夜空を見上げていたの。するとね、とあるお家の窓から、同じように星空を見上げる少女を発見するの」  たどたどしく、理央は説明してくれる。 「それは何度も何度も続いて、次第に男の子はその子のことが気になり始めちゃってね。可愛いにゃーとか、そんな感じ?」  ぶりっ子っぽく言ってみせるが、本当に可愛いだけである。 「でね、でね、いつのまにか男の子は、夜空よりも少女のことを見るようになっちゃうのですよ。ときめいちゃったのかな。星を見る少女に、恋をしてしまったのです」  それは。 「ある日、告白しようと少女の家を訪れます。でも、男の子を待っていたのは悲惨な現実でした」  確かに、今の状況に似ていた。 「部屋の一室に、首吊り死体が一つ。少女は、星を見上げていたのではなく、死んでしまっていたのです」 「男の子が見ていたのは、少女の死体? それとも幽霊? そしてその日から、星を見る少女を目撃することはなくなりました」  それが、星を見る少女の都市伝説か。 「とまぁこんなわけですが、瑠璃くんのお話を聞いていると、少し似てるかなーって」 「……確かに似ているが、符合しないところも多いな」  例えば、家ではなく教室だったり。  あるいは、夜空ではなく夕焼空だったり。  そもそも、目撃後に俺はすぐに教室を訪ねて―― 「――おいおい」  そういえば、教室の中までは確認していなかった。  まさか、あの扉の向こうでは……? 「少女の首吊り死体がぁっ!? こ、怖いよぉー!」 「……ってそんなわけねえか。だったらとっくに問題になってるだろ」 「にゃー、瑠璃くんはしびあだよー、もっとわーきゃー楽しもうよー」 「お前は俺に何を求めているんだ……」  今はそういう話をしているのではない。 「しかし、魔法の本じゃなく都市伝説か。どちらも似たようなもんだけど、実在するかの違いはあるよな」  都市伝説は、存在しなくて。  魔法の本は、存在する。 「でも、都市伝説の根本が、魔法の本かもー?」 「……メジャーな都市伝説まで、魔法の本の責任にするのはどうかと思うが」  トイレの花子さんは、紛れも無く人の噂が創りだしたものだろう。  口裂け女だって、恐怖が伝播した結果、広まったものだ。  星を見る少女の噂が、それなりに知名度を持っているなら――魔法の本が原因である可能性は低いんじゃないだろうか。 「しっかし、お前は怖いのって苦手じゃなかったのか? よく怪談話なんてしてたなあ」 「ううう……理央は苦手だけど、妃ちゃんが面白がって話してくれたんだよぉ……」  涙目になりながら、理央は語る。 「……怖がる理央をいじめるのは、楽しそうだ」 「ほぇ!? 瑠璃くんまで? 理央を怖がらせちゃうの?」 「さあ、それは展開次第かな」  この物語が、魔法の本によるものか、それとも単なる都市伝説なのか。  それでも、一度目撃してしまった以上、単なる噂話として済ませられるものではないだろう。 「もしかすると、〈騙〉《かた》りの可能性もあるしな」  闇子さんが、『ルビーの合縁奇縁』を〈騙〉《かた》って、夜子を〈騙〉《だま》した時のように。  誰かが、『星を見る少女』を〈騙〉《かた》って、幽霊騒動を起こしているのかもしれない。 「る、瑠璃くんは幽霊が怖くないの? こ、これはもしかすると、本当にお化けが出たのかもしれないんだよ!?」 「……いや、その発想はなかったな」  そうか。  確かに理央の言う通り、魔法の本でも噂でもなく、人為的なものでもない可能性があるのか。  魔法の本とは無関係の、全く別の超常現象。 「もしかして瑠璃くんは、取り憑かれちゃったのかもしれないよ!?」 「笑えてくるな」  これが本当の幽霊だったら、それはそれで面白い。  その存在を、確認してみたくなるじゃないか。 「る、瑠璃くんは、幽霊さんが怖くないの? 理央はもう怖くて泣いちゃいそうだよー」 「全く、怖くないかな」  そう、幽霊という存在が、本当にいてくれるのなら。 「幽霊でもいいから、もう一度会ってみたい奴がいるんだよ」 「……ん」  その言葉に、理央は少し俯いた。  その時の俺の表情は、どんな顔をしていただろうか。 「そだね。理央も、幽霊さんでもいいから、もう一度会ってみたいよ」  言葉が、広間に響く。 「瑠璃くんが、妃ちゃんを怖がるはずないもんね」  当たり前だ。  そして、週が明けた月曜日。  いつのものように学園へ登校する俺へ、いつもの日常が待ち受けていた。  藤壺学園三年一組の教室から、少女の首吊り死体が見つかることはなく。  特に何の事件も起きないまま、学園生活は続く。 「…………」  昼休み、思いついたように三年生の教室を伺う。  鍵がかかっていたあの教室も、平日になれば俺たちの教室とかわりなく賑わっている。  知ったる顔は一つもなかったし、特に意味もないのだろう。  『星を見る少女』  さて、どこまで正しくて、どこから違っているのか。  その見極めが、大事なのかもしれない。 「え? 何を平然とやってきているんですか? 瑠璃さんはここがどこかわかっているのですか? どういう神経をしたら、この私の神聖なる部室へ足を向けようと思うのですか」 「相談? 何をいけしゃあしゃあと訪ねやがっているのですか。私のほうが相談したいくらいですよ。同じクラスの男の子が、突然唇を求めてきて大変なんですー」 「幽霊騒動? 瑠璃さんは小学生にでも衰退したのでしょうか。小学生だったら女の子の唇を奪ってもいいとか思っていません?はあ、面の皮の厚さだけは大したものですね、本当」 「うるせえ、キスするぞ」  と、脅し文句を口にしようとしたが。 「……まあ、いいです。これでも安心、親切をもっとーにしている我が部は、そんな瑠璃さんの相談にも乗ってあげますよ」 「よかったですね、私が天使のように愛らしい女の子で」  日向かなたは、温かいお茶までだしてくれて、話に乗ってくれるらしい。 「いや、相談っていうか、あんたが好きそうな話だから持ってきただけだぞ」  幽霊騒動の話を最初に持ってきたのは、彼女だったから。 「ほほう? 幽霊騒動の詳細がわかりましたか。助かります」 「星を見る少女って都市伝説を知ってるか?」 「知っていますよ。それなりには、有名なお話ですからね」  それなら、話は早い。 「学園に流れている幽霊騒動の噂と繋がりがあるのかは知らないが――しかし、それらしいものは見た」  休日の学園で、鍵の閉められた空き教室。  夕焼空を見上げる少女が、見えたんだ。 「それが、星を見る少女なのかは不明だ。ただ、幽霊騒動っていうのは、おそらくこれのことを指しているんじゃないかな」  俺の他にも、空を見上げる少女を目撃した人物がいる。  そして、彼らがその存在を幽霊だと噂しているのではないだろうか。 「……ふむ、休日の校舎の空き教室で、夕焼けを見つめる少女ですか。ほのかなロマンチックさが、星を見る少女と共通していますね」  俺の説明に対して、彼女は笑い飛ばすことなく真剣に考察してくれた。 「しかしそれならどうなのでしょう、瑠璃さんは、その少女に対して恋をしたのでしょうか。あるいは、魅力的なものを感じたのですか?」 「……さあ、どうだろう」  正直に、答えておこうか。 「それが恋とは思わないが、しかし、何とも思わなかったわけじゃないな」 「といいますと?」 「昔の、誰かに似ているような気がした。儚さが、魅力的に思えてしまった」  あまり、深く説明する気にはならず。 「それだけだ」  簡潔に、まとめた。 「……そうですか」  対する彼女は、物足りなさそうな表情をしたものの、追求はしない。 「しかし、どうしたものですかね。瑠璃さんが見たというのなら、単なる都市伝説と片付けることは出来ませんし……」 「なるべく、詳細が知りたいな。これが、星を見る少女の都市伝説なのか、それとも別のお話なのか」  魔法の本によるものかどうか、特定することが先決だ。 「こればっかりは、地道に調べていくしかありませんね」 「……まあ、そうか」  それに、七不思議よろしく、噂が一つだけとも限らない。  しばらくは、幽霊という存在に対して、アンテナを張る必要があるだろう。 「本城さんにもお話を聞いておいてくださいよー。私、嫌われていますから、上手く情報を聞き出せなくて」 「いや、嫌われているというか、避けられているだけだろ」  主に、あんたの責任で。 「今ではすっかり、誰からも話しかけられなくなりましたから。先生だって、私のことを放置するんです」 「そりゃ、告発劇なんてするもんだから、誰も関わり合いたくないだろうよ」  人間、後ろめたいことの一つや二つ、あるだろうから。 「学園内でお喋りしてくれるの、瑠璃さんだけですからね。全く、困ったものです」 「…………」  しかし、そんな彼女の様子を聞いて、一つ疑問に思ってしまったことがある。  彼女は、誰からも話しかけられず、誰からも避けられている状況で、どうやって情報収集をしているのだろう?  幽霊騒動を、何処から聞いたのだろうか。 「……どうしました? 私の可愛い唇に、見惚れているのでしょうか?」 「うるせえ、キスするぞ」 「は、破廉恥ですっ! 強姦魔!」 「それは言いすぎだろ……」  盗み聞き。  あるいは、それに類する行動。  十中八九、その辺りなんだろうな……。 「それでは、引き続き情報収集はお願いしますね。私の助手として、存分に働いて下さい」 「いや、あんたがやれよ」  あんたは、避けられていようが嫌われていようが、自ら踏み込んでいくタイプの人間だろ。 「わかっていませんね、折角瑠璃さんがいてくれるのですから、甘えたいではありませんか」  にっこりと、笑いかけて。 「瑠璃さんと協力して調査をするというのも、素敵ですから」 「…………」  なんだろう、珍しくストレートな感情表現をしてくれた。  今まではキス魔とか言って、避けていたはずなのに。  いや……そう呼ばれることは、未だ変わりないか。 「私は、安楽椅子探偵のように部室から高みの見物です!」 「それ、滅茶苦茶楽してねえか?」 「適材適所というやつですよ」  だから、聞き込みだってあんたの方が得意だろ。  と、思ったけれど、言葉は飲み込んでおいた。  今は、彼女に協力してもらったほうが、良いだろうから。 「……少し、親しみを憶えているのかな」  彼女が、妃を覚えてくれていることを知って。  なんだか、日向かなたという存在がとても大きくなったように思う。  あれから一年たった今でも、俺の基準は妃なんだなあと思うと、笑えてくる。 「一緒に、幽霊騒動を解決しましょう!」  教室での態度とは違って、彼女は楽しそうだった。  ――夜ちゃんが、来てって。  深夜、眠りにつこうとしている俺の元へ、理央がやって来た。  それはもう申し訳無さそうに、夜子の呼び出しを伝えてくれる。  すぐさま呼び出しに応じようと、俺は書斎の前までやってきて。 「自分で来いよな」   ドアを鳴らして、呼びかける。  「入るぞー」  俺を呼びつけたのだから、返事を待たなくても良いだろうと躊躇なく開くと。 「……えっ」  突然の来訪に、目を丸くして驚く夜子。 「ちょっと、キミ、誰も入ってきていいなんて――!」  絶賛、お着替え中。  計算され尽くしたハプニングが、面白おかしく発生する。 「……なんで、着替えてるんだ?」  しかも、制服に。  着替えるなら、寝間着じゃないのか? 今は、深夜だぞ? 「第一声が、それ?」  頬を赤くしながら、睨みつけるように詰問する夜子。  わーきゃー叫ばないだけ良かったけれど、しかしどうしたものだろうか。 「…………」 「……いい加減にしないと、この家から追い出すわよ?」  尚も凝視する俺に、少しずつ怒りのボルテージが上がっていく。 「お前こそ、着替えるなら早く着替えろよ。風邪引くぞ?」  瞳に映り込む下着の色が、いつまでも離れない。  それに興奮することはなかったけれど、薄着の夜子を見るのは新鮮な気分だった。 「は、早く着替えて欲しいなら、今すぐ退室しなさい! いつまで見ているのよこの木偶の坊っ!」  痺れを切らした夜子は、大きな声を上げて糾弾した。 「キミには常識というものが欠けているというのかしら? いえ、それは分かっていたけれど――!」 「うるせえなあ、お前だって、ルビーのときに俺の着替え見てただろ」  確か、朝起こしに来てくれたときに、そんなことがあったような。 「あ、あのときは不可抗力だったでしょう!? しかも、まじまじとは見ていません! あたしは、後ろを向いていたわ!」 「そうだったっけ」  うろ覚えでした。 「大体、今更着替えを見られて騒ぐような関係でもないだろ。俺だって、お前や理央に見られても何とも思わねえぞ?」 「男の子と一緒にしないでくれる? いつからあたしとキミは、肌を見せ合うような関係になったのよ!」 「そんな色っぽい話でもねえだろ」  ぴん、と指さして。 「お前の着替えを見ても、何も興奮しないしな」 「……言いたいことは、それだけかしら?」  あ、ヤバイ。 「そしてキミは、いつまでこっちを見ているのかしら?」  悪乗りが過ぎたと、今更のように視線をそらそうとする。 「……わかった、それじゃあ後ろを向いてよう。これで、貸し借りはなしだな」 「馬鹿なことを行ってないで、今すぐ退室しなさいっ!」 「はい」  追い出されるように、退出させられてしまった。 「…………」  しかし、なんだろうな、これ。  本来なら恥ずかしがって、どぎまぎするようなラッキーハプニングのはずなのに。  どうしてか、心が揺れ動かない。  女の子の着替えに遭遇するなんて、それはもう降って湧いたような幸運のはずなのに―― 「やっぱり、胸が小さいからかな」 「うるさい黙れ!」 「…………」  聞こえていたらしい。  聞こえてしまっていたらしい。  まあ、それはきっと〈誤〉《あやま》りなのだろう。  たとえ胸は小さくても、俺は彼女に欲情していたこともあったのだから。  それから、しばらくして。  今日はもう話なんてしないんだろうなと思っていた俺を、夜子はあっさりと招き入れた。 「なんで制服?」 「……第一声が、それ?」  さっきと同じ台詞を言われてしまった。 「こういうときは、まず謝罪が最初じゃないのかしら」 「ごめん、すまなかった、許してくれ」 「呆れるほどに感情がこもっていないわね……」  手を広げて、溜息をつく。 「まあいいわ、あたしも鍵をしていなかったのが悪かったのだし。それに、キミに見られたってなんの恥ずかしさもないわ」 「滅茶苦茶顔が赤かったけどな」 「――っ!」  そして、また赤くなってしまう。  目つきだけは、立派に睨みつけて。  そういう反応をするから、軽口を言いたくなっちゃうんだ。 「もう、キミの冗談は相手にしません」  冷静を装ってみるが、若干動揺しているらしい。  夜子もやっぱり女の子だったんだな。 「……悪かったよ、俺も、不注意だった」  まさか、着替えているとは思わなくて。  まさか、制服を着ているとは思わなくて。 「今更謝られたって、どうでもいいわよ」 「そうか。で、話ってのは?」 「……切り替えが早くてムカつくわね」  俺の様子に憤慨しながらも、いつまでも先ほどの話を引きずるわけではないらしい。 「理央から、聞いたわよ。幽霊騒動――星を見る少女について、調べているんですって?」 「ああ、やっぱりその話なんだな」  夜子が積極的になるのは、魔法の本の話だけだ。 「当たり前でしょ。それ以外に、キミを呼びつける理由があって?」 「着替えシーンを見せたかったとか」 「……何? キミ、あたしを怒らせたいの?」 「ごめんなさい」  本気で怖かったので、素直に謝っておいた。  夜子の前では、ついついふざけてしまう。 「……残念ながら、あたしが知っている魔法の本に、類似例はないわね」 「理央から話を聞いた限りでは、あまりホラー小説という感じはしないわね。その幽霊らしき存在を見たキミも、怖いとは思わなかったのでしょう?」 「最初は驚いたけど、怖くはなかったな」  むしろ、その儚さに好意を持ったほどである。 「もしこれがホラー系の魔法の本だったら、それはありえない。登場人物を怖がらせなくては、ホラーである意味が無いでしょうに」 「じゃ、これは、なんだっていうんだ? ホラーじゃなかったら……なんだ?」  もしかして、本当にただの都市伝説か? 「魔法の本に決まっているでしょ。偶然、それらしいものが現れたなんて、あたしは認めない」 「…………」 「頭ごなしに決めつけてかかるべきだわ。もし、違っていたのなら、それはそれで良いもの」 「……そうだな」  むしろ、あとから魔法の本だと分かって、後の祭りという状況にはしたくない。  「都市伝説は、あくまでサブの要素じゃないのかしら。それが星を見る少女である意味なんか、なかったのかもしれない」 「怪奇伝承であれば、何でも良かったってことか」 「それそのものに意味を見出すより、それが存在したことによって変わった現実を見るべきなのかも」 「俺が、その怪奇伝承を聞いて、何が変わったか」  目を閉じて、それはすぐに思いついた。 「……お前と、こうして喋ってること?」 「えっ?」  今度は夜子の方が、驚いた。 「こうでもなきゃ、お前の部屋に招かれることもなかったんじゃないかって、思った。お前の着替えを見ることなんて、なかったんじゃないのかって」 「……ふふっ、なにそれ、馬鹿じゃないの」  しかし夜子は、面白そうに吹き出してしまう。 「別に、語るようなものでもないでしょう、そんなもの。キミとお喋りをしても、そこに物語性はないわ」  どこにでもいる、一人の女の子のように笑う。 「いや、なんとなく思っただけだよ。気にするな」  制服姿の、夜子を見て。  少しだけ、日常が変わってしまったと思ってしまったんだ。 「大体、何でこんな時間に着替えてるんだよ。わけわかんねえぞ」 「……何よ、キャミソール姿で迎えて欲しかったとでも言うの?」  見下すように、夜子は言う。 「あたし、さっきまでお昼寝していたから」 「…………」  びっくりするくらい、悠々自適な生活を送っていやがった。  さすが、引き篭もりは違うな。 「じゃあ、なんで制服?」 「……別に、気まぐれよ。最近は、ずっと着ているわ」 「そうなのか?」  最近、顔を合わせることも少なくなったから、全く気づかなかった。 「一年前は着るのを嫌がってたのに、どういう心境の変化かな」  出来れば、そのまま学園に来てくれないか。 「嫌いじゃない。ただ、学園に行きたくなかっただけ」  ふてくされるように、夜子は言う。 「それに、この制服は、可愛くて好きだから」 「…………?」  やや、寂しそうな声色。 「ただ、それだけよ」  追求を許さない表情に、俺は口をつぐんだ。 「……キミは、まだあたしたちに関わるつもりなの?」 「…………」 「怖くなって逃げ出しても、誰もキミを責めないわ」 「……その件は、答えが出てるだろ」 「闇子さんだって、説明してただろ。サファイアの存在証明は、関係無かったって。誰かが死ぬような要素なんて、何処にも書いてなかったって」 「……そうだけど、それでも、割りきれないのが普通よ」 「万が一、それがサファイアの起こした悲劇だったとしても」  ああ、俺は妃の死を、本当に受け入れてるんだな。  だから、こんなことを言えてしまうんだ。 「あいつは、あいつの意志でサファイアを開いたんだ。それが危険なものであることを承知して、手にとった。だから、それは妃の責任だろ」 「瑠璃……」  わからない。  そのとき、俺がどんな表情をしていたのか。  どんな表情をしていて――夜子が、悲痛な表情で俺を見つめていたのか。 「俺の知らないところで不幸が起きるのは、もうたくさんだ。何が何だかわからないまま、結果だけを突きつけられることにうんざりしたんだ」  何も知らないまま、流れに身を任せて。  気がつけば溺れていた自分に、嫌気が差す。 「中途半端は、やめた。今度からは、致命的に関わろうと決めたんだ」  だから、これからも魔法の本と付き合うことにしたんだ。  魔法の本の担い手を継いでいく、遊行寺夜子の傍を、離れない。  魔法の本に囚われて、望まない悲劇に至る人を、一人でも救えたらと思って。 「魔法の本のあらすじは決められていても、どう演じるかは登場人物次第なんだろ? だったら、都合のいい物語を、描いてみせるさ」  それが、俺の決意で。  この場所に存在している意味なんだ。 「ふぅん、そう」  その言葉に、夜子は小さく頷いた。 「だったら、好きにしたらいい」  それは、夜子なりの優しさだったのか。 「キミのことは大嫌いだけど、それでも、妃の兄というだけで、あたしはキミの存在を許してあげる」 「……夜子にしては、デレてくれた方なのかな」  夜は更けていく。  物語は、静かに進む。 「今日は星空が綺麗ですね」  昔、妃と空を見上げたことがある。  息の詰まる家庭を抜けだして、よく晴れた秋の空を眺めていた。 「お前にも、女の子らしいロマンちっくな感性が存在してるんだな」 「あら、それは心外です」  優雅に微笑みながら、声色だけは拗ねたように。 「この星々を目にしながら、何も思わないでいられる方が不自然でしょう?」  手を広げて、天を仰ぐ。 「……なんとか、流星群」 「獅子座流星群です。それくらい、覚えておいて下さい」 「っても、興味ねえからなあ」  俺たちの視線は、いつだって下に向けられていたから。 「話に聞いていた通り、雨のように降り注ぐのですね」  頭上では、今も大量の流星群が流れている。 「圧倒的というのは、このことをいうのでしょう。今日が晴れた夜で、本当に良かった」  ほんのりと顔を朱に染めながら、うっとりとするように星をみつめていた。  その様子に、思わず視線が奪われてしまう。 「これならば、無感動の瑠璃でも、少しは思うところもあるのでは?」 「……そうだな」  尋ねられて、思わず顔を背けた。  俺の反応に、妃はやや疑いの眼差しを向けて。 「空、見てませんでしたね?」 「……いや?」 「話、聞いていませんでしたね?」 「……そんなことは」 「私に、見惚れていたのでしょう?」 「…………」  思わず、黙殺してしまった。 「――そうなのでしょう?」  思わず、悩殺されてしまったのか。 「呆れました。折角の流星群日和だというのに、何をしているのでしょうか」  そういえば――その頃は、俺と妃は恋人関係ではなかったような気がする。  ただ、俺はそのときから妃のことを愛していて、多分、妃も同じだったのだと思う。 「妹に見惚れないで下さい。勘違いをしてしまいます」 「妹に見惚れる兄貴がいるわけ無いだろ」  ぶっきらぼうに、否定する。 「どうでしょうね。瑠璃の心の中なんて、余りにも見え過ぎていて、白々しいほどなのですから」 「どういう意味だよ……」  いつからだろう。  いつから、好き同士でいることが当たり前になってしまっていたのか。  気が付けば、お互いがお互いの気持ちを痛感し合っていて、そして、寄り添ってしまった。 「……あんまり、夢を見させないでくださいよ。本当に、本当に、勘違いをしたくないのです」  星を見上げながら、悲しげに呟くその姿を思い出す。  その時の俺たちは、兄妹という関係を踏み越えようとはしていなかったはずだ。  聡明な妃は、その行いがいかに許されざる選択であるかを、理解してしまっていたから。 「そうでしょう? お兄様」  釘を差すような言葉を、俺はどう受け取ったのか。  それは、おそらく。 「当たり前だろ、妹よ」  俺たちは、どこにでもいる兄妹。  その時の俺たちは、それが揺るがされる日が来るなんて、夢にも思わなかった。  少なくとも、当時の妃の態度から、俺の愛情を受け入れてくれるとは、少しも思えなかったのである。  妃は、最善の選択ができるから。  実の兄を愛する未来を、選ぶはずもなく。 「……おや?」  流星群に視線を奪われていた妃が、何かに気付く。  茂みの中から顔を出していたのは、小さな猫だった。  「チンチラ? 野良猫にしては、少し上等過ぎるな」 「どこからか逃げ出してきたのでしょうか……」  銀色のふさふさした長い毛は、とても柔らかそうだった。  端正に整った表情は、気品と知性を感じさせる。  野良猫にしては、野性っぽさがまるでなかった。 「おい、触るなよ。病気とか持ってたらどうするんだ」  一歩近付く妃へ、忠告する。 「大丈夫です。触るだけなら、たぶん」 「……おいおい」  最善の選択ができる妹?  前言を撤回したくなってきた。 「にゃー」  無表情のまま、鳴き真似をする。  こちらをじっと伺う猫に対して、警戒心でも解こうとしているのか。 「にゃあー?」  しかし、なんだろう、一言で言ってしまうなら。 「……キャラにあってない」 「うるさいですね」  首を俺の方へ向け、端的な言葉を投げかける。 「ほらほら、私は怖くありませんよ。にゃー、にゃあ?」 「そういうのは、理央がやるべきだと思う」  無言で、睨まれた。  こ、怖い……。 「うにゃにゃにゃにゃにゃー」  やけになっているのか、適当な猫語を連発している。  無表情だから、尚更合っていない。 「あっ」  しかし、どうしてだろう。  無表情で不気味な猫語を口にする妃を、猫は拒むことをしなかった。  慎重に近付く妃の指先に、逃げることなく頬を摺り寄せる。  うにゃあ、と。  甘えるような声で、妃に身を任せるのだ。 「よしよし、あなたは賢い猫ですね。私に程よく従順です」  慣れた手つきで、頭や顎、首を撫で続ける。  次第に猫は気持よさそうな声で寝転んで、全てを投げ出してしまった。  「の、野良猫じゃなさそうだな……人間を怖がっていない」  まさか猫を征服するとは思わなくて、負け惜しみのようなことを言ってしまう。 「ふふふ、こんなものですよ。私の魅力は、猫にまで通じるということです」  その間も、猫は甘え続けていた。  妃のしなやかな指先を舐めたり、うにゃうにゃと歓喜の声を上げてみたり。 「とても、とても、可愛らしいですね」  そして妃は、猫を抱きかかえる。  赤ん坊のようにぎゅっと抱きしめ、頬ずりをするように愛する。 「……どうするつもりだ?」  いつのまにか、流星群は終わっていた。  そんなものだろう。 「放置することは出来ません」 「飼うなんて、言い出すなよ。あの家に、連れて帰れるわけがないだろ」  わかってる、と言わんばかりのふくれっ面。  それでも猫の可愛らしさが、妃の判断を狂わせる。 「お父様やお母様が許してくれないことは分かっています。私だって、それほど馬鹿ではありません」 「ちなみに、図書館も駄目だぞ。あそこが図書館である以上、動物を飼うなんてありえないし……何よりも夜子が許さない」  あいつは、動物が死ぬほど嫌いだ。  煩くて、面倒で、鬱陶しい存在としてしか認知できていない。  例え仲の良い妃の頼みでも、許してはくれないだろう。 「……当然です。誰かに迷惑をかけようとは、思っていませんから」  それは珍しい、妃の我儘。 「だから、誰にも見つからないところで、こっそりと飼います」 「いやいやいやいや」 「もしくは、他に飼ってくれる人を探します。もちろん、定期的に私と会わせる条件付きで」 「……それなら、まだ」  それに。 「もしかしたら、飼い主の家から逃げ出してきたのかもな」 「それなら放置するのではなく、探してあげるべきです」 「…………」  それは、そうだが。  何かに理由をつけて、猫といたいだけなんじゃ? 「誰にも迷惑かけないのであれば、問題ないでしょう?」  訴えるような視線で、見つめてくる。 「私が迷惑をかけるのは――瑠璃だけですから」 「俺も巻き込まれるのが分かってたから、渋ってたんだよ!」  隠れて飼うにしろ、飼い主を探すにしろ。  絶対にお前は、俺に手伝わせるだろうから。  俺にだけは、迷惑をかけても構わないと思っているだろうから。 「あなたを、頼りにしているのですよ」 「それは、卑怯な、言葉だ」  殺し文句。  外道な、甘い誘惑だ。 「きっと、瑠璃も蛍のことを好きになってしまうでしょうから」 「ほたる?」  何だそれは? 「この子の名前です」 「…………」  こいつ、もう命名しやがった。  譲る気はないどころか、飼い主見つけても手放す気がなさそうだ……。 「この子の瞳の色は、まるでフローライトのように輝きを放っています。きっと、知的で聡明な猫なのでしょう」 「ああ、それで蛍……」  フローライトの和名は、蛍石だ。 「ほら、猫。あなたの名前は、今日から蛍ですよ」  猫を抱きしめながら、妃は嬉しそうに囁いた。  猫も、にゃあ? と首を傾げて、頬を寄せる妃に甘え続ける。 「ほら、蛍もとても喜んでいます。瑠璃も、そう呼んであげて下さいね」 「……わかったよ」  全てのことを飲み込んで、白旗を上げた。  そうまで嬉しそうにされてしまうと、こちらとしてはどうすることもできない。  何よりも、幸せそうに笑う妃を、もっと見たかったから。 「獅子座流星群は、素敵な贈り物をしてくれましたね」  星降る夜に出会った、一匹の猫。  しかし、その出会いは幸せでも、その行く果てに物語性はなく。  結局、どこぞの誰かに引き取られて、あえなく蛍は妃の手元からはなれてしまう。  それを見据えながら、それでも名付けてしまったのは、やっぱり妃のミスなのだろう。  最初から、俺たちが猫を飼うなんて、出来るはずがなかったのだから。 「そんなことも、あったっけか」  夜の廃教会へ向かう俺は、星空を見上げながら昔のことを思い出していた。 「……別に、用事なんかないんだけどな」  夜の散歩がてら、ぶらりと訪れた廃教会。  いや、もちろん理由はある。  今起きている幽霊騒動が、本当に魔法の本であるのなら――よりそれらしい場所を訪れてみた方が、進展があるのではないかと思ったのだ。  太陽の消えた、夜の闇。  朽ち果てた教会を舞台にしてみれば、いかにもでそうではないか? 「そう思ってきてみたけど、やっぱり何か起こるわけもないか」  夜の教会は、確かにらしい雰囲気はあったけれど。  しかし、怖いという感情は、既にもう欠落しているんだよ。  「…………」  ふと、教会の隅にあるピアノを目にした。  少し古びているものの、立派なグランドピアノである。 「……ピアノを見ると、思い出してしまうな」  星々と、猫と、ピアノ。  それらが繋がる人間は、たった一人だけ。 「妃」  埃の被ったピアノを、指でなぞる。  放置された存在に、侘しさを覚えながら――ばたん。  教会の扉が、開かれた。  突然、誰かが訪れたのである。 「あれ? 瑠璃さんですか? どうしてこんなところに」 「……あんた」  驚きが、言葉を殺す。  教会の扉から現れたのは、日向かなただった。 「あんたこそ、どうして」 「調査ですよ調査! この教会にも幽霊が出るという噂を聞きつけ、この私が直々に調べてきたんです!」 「この教会に、幽霊?」  そんなものは、初耳である。 「瑠璃さんこそ、どうしてここへ? 幽霊の話を知らないということは、調査しに来たわけではないんですよね?」 「いや、俺は」 「もしかして、神様にお祈りでも? ははぁ、それは少し意外ですね」 「……違う。俺は、神様に願うものなんて何もない」  祈るのではなく、許しを請わなければならなかったのだろう。 「ここは、思い出深い場所だったから、散歩がてらに来ただけだ。特に意味は無い」 「ふーん」  話半分に、彼女は流す。 「ま、そういうことにしてあげましょう。何やら訳ありのようですからね」  そのまま、話題を切り替える。 「ちなみに私の聞いた幽霊騒動というのはですね――」  手帳を取り出して、読み上げてくれた。 「――深夜、誰もいない教会で、幽霊がピアノを奏でる。それを聞いた人間は、近いうちに死ぬ」 「…………」  なんだそれは。 「聞いた人間が死ぬっていうのに、どうして噂が流れますかねー。そういう矛盾を孕んでいるところが、いかにも都市伝説みたいですけど」 「……ピアノ、か」  センチメンタルな気持ちが、一人の女の子を浮かび上がらせる。 「どうやら、誰かがピアノを使った形跡はないみたいですね。誰かが本当に弾いていたわけではなさそうです」 「そうだな」  まあ、都市伝説なんて殆どガゼなんだろうし。 「ってか、一つ聞きたかったんだが」  それは、少し前にも感じた疑問。 「幽霊騒動にあたって、あんたが俺を頼る必要なんてあったのか?」 「あんたに話しかける人間はいなくても、あんたが無理やり話しかければ、誰だって正直に答えるさ」  少なくとも、それくらいのアグレッシブさを持っていただろう。  初めてあった頃は、うんざりする俺にしつこくつきまとってきていたじゃないか。 「そうですかね。案外、瑠璃さん以外の人は私を無視するかもしれませんよ……?」 「確かに、最近のあんたは輪を掛けて避けられてるが、それでも無視するわけにはいかねぇだろ」  何かを聞かれたら、答えるさ。  それが探偵部部長・日向かなたであるのなら、下手に嘘をつくより、下手に逃げるよりもずっとマシだろう。  関わりたくないなら、手早く答えてしまえばいいだけなのだから。 「……ええと、んー」  対する彼女は、困ったように首を傾げている。  どう答えたものかと、迷っているようだった。 「……何も聞かないで、協力してくれませんか? 私の都合の良い形で、手伝って下さい」 「おいおい」  何を言い出すんだ、この探偵様は。  そこで初めて、俺は幽霊騒動に対して疑問を持つ。 「そういえば、幽霊騒動の話を持ってきたのも、あんただったな。何を、企んでる?」 「な、何も企んでいませんよー。今は信じて、協力して下さい。きっと、いえ、必ず、悪いようにはしませんから」 「それは悪いことをする奴の台詞だ」 「訂正します。必ず、悪い目に合わせますから」 「尚、悪い」  しかし、なんだろう。  切羽詰まっている様子もなく、確たる意志もあるように見えない。  緩やかで、どこか適当な雰囲気に、全くの焦燥を覚えなかった。 「……どうしたものかな」  新たに生まれた疑問が、解消されないまま時間だけが過ぎていく。  目の前の少女は、俺に対して何の説明もしてくれそうにないらしい。  「…………」  そういえば、今日の遭遇だって、やや不自然ではないだろうか。  たまたま俺が訪れたところで幽霊騒動があって、たまたまその話を彼女が調べていて、たまたま出くわした。  作為的な演出が、一つの可能性を思い起こさせる。 「……やはり、本か」  そう決めつければ、納得がいく。  彼女もまた、物語上の駒にすぎないのかもしれない。  ヒスイに続く、何かの物語。 「つまんなーい。なんだか、煮え切らない展開よね。このままじゃ、読者は退屈してしまうわよぉ?」  それは突然の出来事だった。  俺と彼女しかいない空間で、第三者の声がしたのである。 「そういうのはヒスイのときに終わったんじゃなくて? 面倒だから、早く終わらせましょうよ」  〈艶〉《えん》〈美〉《び》な声だった。  それは、惚気けるような〈艶〉《なま》めかしさを備えていた。 「呼ばれて飛び出て参上でーす。はろー、瑠璃のお兄ちゃん?」  そいつは、ピアノに座っていた。  いつからか、そこにいるのが当たり前のように座っている。  驚きが声にならないまま、それは言葉を続ける。 「あら? やっぱり青少年には刺激が過ぎる登場の仕方だったかしらん? ごめんねぇ、ちょっと退屈で、驚かせたかったの」  そいつは、夜子を思い出させるような容姿をしていた。 「――初めまして、瑠璃のお兄ちゃん。私、月社妃っていうの。宜しくね?」   「黙れ、殺すぞ」  脊髄反射に、凄んでしまった。 「きゃーん、こわいー。殺されちゃうー」  目の前の存在は、そうやっておどけてみせる。 「なんてね。そろそろ真面目に行かないと、威厳というものがなくなってしまうわぁ」  こほん、と。  咳払いが一つ。 「妾は、クリソベリル。貴方たちの手助けをする、素敵な魔法使いよん」  相手を威圧するような、凄みのある〈佇〉《たたず》まい。 「あ、でも今は、ピアノを弾くだけの幽霊少女だけどね? きゃははははっ」  転じて、よくわからない女の子。 「クリソベリル……?」  聞いたことのない名前だった。  藤壺学園の制服を着ていても、その顔に見覚えはない。 「瑠璃のお兄ちゃんが探しているのは、これだよね」  挑発的な笑みを浮かべながら、彼女が取り出したのは。 「――それはっ!?」  一冊の、本だった。 「『アメシストの怪奇伝承』――これが、今開かれている魔法の本よ」  彼女は、雄弁に語る。 「正解よ、瑠璃のお兄ちゃん。確かにこれは、魔法の本の紡ぐ物語だ」 「……お前は、何者だ?」  提示された情報を考察する前に、聞かなければならないだろう。  登場人物というだけでは、納得出来ないほど事情に精通している。  それもおそらく、俺や夜子以上に――こいつは魔法の本の近い位置に存在しているらしい。 「紙の上の魔法使いよん」 「…………」  どうやら、説明してくれるつもりはないらしい。 「ちょっとちょっと、どういうことですからこれは! さっきから黙って見ていれば、意味がわかりませんよ!」  耐えかねた彼女が、抗議する。 「誰ですかこの可愛らしい女の子は! お兄ちゃん呼ばわりさせて、変態ですか!」 「…………」  面倒な人物が、いた。  魔法の本の知らない彼女の前で、これ以上追求するのは危険かもしれない。 「いや、俺も知ら――」  しかし、魔法使いは悪戯をする。 「ネタバレ、してあげるわ」  悪魔のようなほほ笑みで、ページを開く。 「『アメシストの怪奇伝承』のヒロインは、日向かなただ」  〈紫〉《ア》〈結〉《メシ》〈晶〉《スト》の輝きが語りかけるは。 「これは、幽霊少女の悲恋の物語」  指し示す先には、彼女が居て。 「貴女は既に死んでいる。幽霊少女は、日向かなたよ」 「……え?」  彼女は、驚きに目を丸くさせる。 「おい、ちょっと、待て」  死、というキーワードに、思わず硬直する俺。  この女は、今なんて言った? 「否定できるものなら、してみなさいな」  尚も、悪魔的微笑を浮かべるクリソベリル。  対して、彼女は―― 「な、何の証拠があって、そんな……」  目を見開いたまま、驚きに支配された表情で、俺を見つめた。 「生者のふりをして、楽しい探偵ごっこをしたかったみたいだけれどぉ、残念、つまんないので打ち切りでーす」 「どういう、ことだ」  クリソベリルの言葉の意味が、分からなかった。  怒涛に繰り出される新しい情報に、ただ打ちひしがれる。 「る、瑠璃さん……!」  尚も、彼女は縋るような眼差しを向ける。 「幽霊騒動なんて、そもそも起きてないし。他に友達がいない瑠璃のお兄ちゃんなら騙せるかもしれないけど、残念、妾には全て、お見通し」 「……幽霊騒動は、起きてない? だったら、星を見る少女は――?」 「そこの幽霊の、自作自演。瑠璃のお兄ちゃんと、話題を共有するために一芝居打ったのよぉ。ピアノの幽霊なんかも、作り話」 「そうなのか……?」  たまらず、彼女を見つめて。  彼女は、気まずそうに視線を外す。 「な、なんですかこの人は……わ、私の、何を知って――!」 「全て、知っている」  短く、クリソベリルは宣言する。 「目的も動機も、全て知っている。貴女はただ、楽しい時間を過ごしたかったのよねぇ――」  幽霊騒動を、自演して?  俺を、巻き込んで?  一体彼女は、何をしようとしていたんだ?  自演というキーワードに、翡翠の残り香を感じた。  また、彼女は物語を開いてしまったのだろうか。 「あ、あんた……」  戸惑いの眼差しを、向けてみると。 「る、瑠璃さん……ごめんなさい……」  彼女は儚げに、言ってしまうんだ。 「どうやら、私、死んじゃっているようなんです」   困ったような笑顔を浮かべて、なんて事のないように言う。  彼女を笑わせたいと願った、あの翡翠色の日々を思い出してしまった。 『アメシストの怪奇伝承』  〈紫〉《ア》〈結〉《メシ》〈晶〉《スト》の煌めきは、妖しく揺らめく幽霊譚。  アメシストは、自殺した少女の物語だった。  陰湿ないじめを受けた少女は、誰からも助けてもらえることはなく。  教師や他の学生が見て見ぬふりをし続けている日々に、苦しめられていて。  どうしたら、この状況を改善できるのかと考えたらしい。  ――どうしたら、奴らに目に物を見せてあげられるか。  被害者の少女が考えたのは、復讐だった。  受けた苦痛を何倍にも返して、胸をすくような反撃を。  しかし、少女には暴力に訴えるような力も、何かを計画するような賢さもありませんでした。  そんな少女は、ある日ニュースを見てしまいます。  某日某所、イジメを苦に自殺した学生の報道。  陰惨なイジメがメディアに取り上げられ、ネット上では加害者や学園へのバッシングが行われ続ける。  個人情報などは隠そうとしても無駄で、彼らの悪行は全国ネットで報道されていた。  彼らにしてみたら、ほんの些細なイジメだったのだろう。  しかしそれが、その後の人生にまで影響するような、致命的なものへと至ってしまう。  これだ、と。  少女は、思いました。  復讐することの出来ない自分は、改善を待てなかった自分は、その方法しかないのだと言い聞かせて、ある日の教室で首を吊ります。  今まで受けていた苦しみを、遺言に残して。  自殺という復讐を、少女は選んでしまいました。  けれど、その後の顛末は、少女が目論んだ通りにはなりませんでした。  彼女が死を持って残した爪痕は、大人の事情で隠蔽されてしまったのです。  第一発見者は、少女のクラスの担任でした。  彼は、少女の遺言を見て、すぐさま処分してしまったのです。  学園も、隠蔽に必死でした。  イジメの存在を明るみにせず、進学についての悩みを自殺の理由だと説明します。  全国ネットに取り上げられるどころか、新聞の隅っこ程度にしか載せられず。  そして何よりも、加害者の学生たちは、自殺した少女のことを忘れ去ってしまったのです。  ――そんなとこともあったよね。  とか。  ――昔はやんちゃしてたなあ。  とか。  その程度のことしか、思っていなかったのです。  少女の死は、日常に何の影響も与えることはありませんでした。  まるで最初からなくてもよかったかのように、何事も無く世界は回り続けているのです。  死後、自らの死の無意味さを悟った少女は、幽霊の姿になって痛感しました。  ああ、私は、馬鹿な女の子ですね。  最も愚かな復讐を、選んでしまった。  最も意味のない復讐を、選んでしまった。  愕然とする事実に、もはや絶望を通り越して呆れ笑うことしか出来ません。  そして少女は、自らの意味を失ったまま、浮遊霊として学園に残り続けます。  空っぽの教室で、自らの存在を失ったまま、まるで自分の存在を認めて欲しいかのように騒ぎを起こすのです。  幽霊騒動、学園七不思議。  こんな自分でも、確かにここにいる。  幽霊になってしまったことに、ちゃんと意味があるんだって。  半ば訴えるかのように、少女は幽霊騒動を起こすのです。  けれど、やっぱり少女は死んでいて。  幽霊である少女の姿は、誰にも見えないのです。  ――そう、彼にしか、見えていませんでした。 「理由を問われたら、構って欲しかった、という他にありませんよ。愛して欲しかったのでしょうか」  アメシストの内容を教えられた俺は、改めて日向かなたと対峙する。 「びっくりしましたか? 私、幽霊なんですよ」  まるで現実味のない言葉を口にする。  儚げに微笑みながら、悟ったような表情をして。 「ゆ、幽霊って――あんたが、自殺?」  おおよそ信じられない現実を、突きつけられてしまった。 「はい、吊っちゃいました。ハングドマンです。あ、ウーマンですか?」 「笑えねえよ……」  そんなの、手遅れじゃねえか。  もう死んでしまっているのなら――本を閉じたところで、助けようがない。 「違う違う、間違えないでくれるかしらん?」  しかし、クリソベリルは否定する。 「アメシストは、誰かを殺すような野蛮な物語じゃないわ。彼女は物語の冒頭から、既に幽霊なのよ。そういう、設定」 「ってことは」  その意味を、すぐに察した。 「あくまで、幽霊という役割を与えられて、幽霊として振る舞えるように本が現実を変えているだけ。本を閉じれば、元通りよ」 「あくまで演出上ってことか?」 「そうよん。最も、本人は幽霊だと思い込んでいるのだから、やっぱり今は幽霊なんでしょうけど」 「そうか……それなら、良かった」  物語に殺されて、本当に幽霊になったわけじゃないのなら。  安心して、物語を閉じることが出来る。 「騙すつもりはなかったんですけど……親しげに話しかけてくれるものだから、ついつい言いそびれてしまいまして」  「俺は、あんたに親しくしていたっけか」 「誰にも認知されない私からしてみれば、全てが嬉しかったんです」 「…………」  どこまでアメシストに歪められた記憶か、わからないが。  どこまでアメシストになりきっているのか、わからないが。  それでも、その光景に、翡翠のころの彼女を思い出した。  恋に盲目で、そのためなら不幸をも利用する、翡翠色の日向かなたを。 「あんたの存在は、本当に誰にも見えていないのか?」 「その通りです。あんまり普通にしてくれているものですから、てっきり私まで、生きていると錯覚しそうになりました」  そういえば、近頃の彼女は文字通り、誰からも相手にされていなかった。  嫌うとか、避けられているとか、そういう以前の問題の扱いだった。  元々クラスから孤立していたせいで、その変化に気が付かなかった。  少なくとも、二学期が始まって以来、彼女が誰かと会話をしているシーンを見たことがない。 「アメシストが開いてから、その子は認識されなくなったのよ。開いたのは、おそらく夏休み中かしらぁ?」  クリソベリルが、口を挟む。 「そ、それで! そこの彼女はどちら様ですか! どうして私の事情を知っているんです! もう、びっくりしちゃいましたよ」 「妾は、魔法使いよ。幽霊のことなんて、何でも知っているわ」 「なるほど! 凄いんですね! さすがです!」  意外とちょろかった。 「……アメシストを閉じたいのであれば、もう、わかるわよねえ?」  クリソベリルが、小声で囁く。 「この世に未練を遺す幽霊の物語。その結末は、案外ワンパターンよね」  イジメを苦に自殺した少女の未練。 「俺が、彼女を成仏させればいいんだな」  心を満たしてあげて、そこに生きた意味を与えればいい。 「正解。よく出来ました」  そう言って、クリソベリルは嬉しそうに笑う。  それから、ゆっくりと彼女を見つめて。 「あとのことは、瑠璃のお兄ちゃんに任せるからね。ちゃんと、自分の思うように行動するのよ?」  盤上の登場人物へ向けて、優しく囁いた。 「え、あの……」 「そういうわけで、妾はお邪魔でしょうから、退散するねん。後は、若い人たちでお楽しみを~」  手を振りながら、外へと歩き出す。 「おい、待て」  しかし、俺は呼び止める。 「色々説明して欲しいし、聞きたいこともあるんだが……まずは、魔法の本を、置いていけ」 「翡翠のときように、一部だけ語られるのは御免なんだ」 「……ふぅん」  流し目のまま、俺を品定めするように眺める。 「別に、いいケド」  どうでも良さそうに呟いて、意外とすぐに渡してくれた。 「でも、本当にさっき言った通りのお話よん? あとは、瑠璃のお兄ちゃんが幽霊少女を満足させておしまい。本当にそれだけの物語」  それに、と。 「安心しなさいな。どうせ、すぐに忘れてしまうから」 「……は?」  去り際に、クリソベリルが遺した不穏な言葉。 「妾は、本来関わっちゃいけないのよん。今回は、ぐだぐだな幽霊騒動を見させられるかと心配して、介入しただけだし」  妖しく笑いながら。 「これから物語に不都合が出たら嫌だし、きれいサッパリ忘れさせてあげる」 「お、おい――っ!」  そう言って、クリソベリルは消えていく。  その刹那、何か別の本を、手にしていたような気がした。  「……なんなんだ、あいつは」  頭を抱えて、彼女の方へと振り返る。 「意味不明だ。帰って、夜子に聞かないとな……」  最も、夜子が何かを知っているとは思えないが。  あれは、本当に異質な存在だったから。 「あいつ? それって誰のことですか?」 「え?」  きょとん、と。  彼女は、変な顔をして訪ねている。 「いや、だから」  そして、俺は、何かを説明しようとして。 「……なんだっけ?」  何かを忘却してしまった。 「もう、ぼんやりしすぎですよー。幽霊であることをカミングアウトしたのに、上の空ですっ!」 「あ、ああ……そうだったな」  『アメシストの怪奇伝承』が、開いて。  日向かなたから、自分が幽霊少女であるという事実を聞かされた。  彼女が所有していた魔法の本を見せてもらって、物語の全容を理解したんだ。  そう、それが今までの流れだ。  深夜の廃教会で、俺と彼女の二人の間で起きたイベント。 「というわけで、オチとしましては、取り憑かれたのは瑠璃さんでしたー! ということですね! さすが、私の名推理」 「加害者が探偵役みたいなオチは辞めろ」  しこりのような違和感が残るものの、今はおいておこう。  目の前の物語を閉じることが、先決だ。 「というわけで、宜しくお願いしますね、瑠璃さん」 「……え、何を?」 「だから、先ほど了承してくれたではありませんか――私を成仏させるために、満足させてくれるって」 「そういう、話だったな……」  そういう、話だったか?  何だか、物凄い勢いで展開をスキップしているようなきがするぞ。  必要な行程をすっ飛ばして、まるでダイジェストのように進んでしまっているような感覚。  そもそも、俺はどうして彼女が幽霊少女だと知ったのだろう。  何故、彼女がカミングアウトしてきたのだろう。  流れが無理やりすぎて、違和感を覚える。  そう、これはまるで。  〈つ〉《丶》〈ま〉《丶》〈ら〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》〈小〉《丶》〈説〉《丶》〈を〉《丶》、〈適〉《丶》〈当〉《丶》〈に〉《丶》〈読〉《丶》〈み〉《丶》〈進〉《丶》〈め〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》〈感〉《丶》〈覚〉《丶》〈に〉《丶》〈似〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈る〉《丶》。  長い情景文や、説明文を適当に飛ばして。  要点だけを呼んで話を理解しようとする。  丁寧な伏線とか、丁寧な描写とか、そういうものを置き去りにする乱雑な読書姿勢だ。 「それであんたは、現世になんの不満があるんだ? あんたをイジメた奴らへの、復讐か?」  それでも、飲み込まざるをえないだろう。  俺の記憶が、それで正しいと主張しているのだから。 「いえ、そういう乱暴なのはもういいんです。というか、そもそもそこが間違っていたんですよね」  彼女は、穏やかな表情で語る。 「辛い日々が、私の心を歪めてしまっていました。そんなことしても、もうどうにもならないというのにです」 「だったら、あんたは何が望みだ?」 「生きているときに、手に入らなかったもの」  真っ直ぐ、俺を見て。 「幸せな日々、充実した時間を――私は、望みます」 「……わからないな。要望が抽象的過ぎる」 「え、ここまで言っても、本当に分かっていないんですか? 瑠璃さんは、意外と鈍感さんですね」  くすくすと笑いながら、彼女は言った。 「簡単ですよ。空っぽの心を満たすのは、水ではなく、愛なのですから」 「え?」  そうして彼女は願いを口にした。 「――私の、彼氏になってください」  「と、いうわけで俺たち付き合うことになりました」  それから、そのまま日向かなたを連れて、図書館へと戻った俺は、夜子を呼び出して報告する。 「だから、『アメシストの怪奇伝承』に従って、こいつと付き合うことになったから」  アメシストを手渡して、凡その説明は完了したつもりだ。 「キミは、そんなことを伝えるために、わざわざあたしを呼び出したの?」  ぎろり、と。  隣にいる彼女を睨みつけて。 「ストーリーはわかったわ。それで、どうしてその女がここにいるって聞いているのよ」 「キミが誰とイチャイチャしようが勝手だけれど、図書館に持ち込まないでくれる? 目障りよ」 「ひぃっ!ほら、瑠璃さん、やっぱり駄目だって言ったじゃないですかー! 前もこうして、怒られた覚えがあります」  滅茶苦茶不機嫌だった。  しかし、引き下がる訳にはいかない。 「アメシストを読めばわかるが、こいつ、幽霊なんだよ。誰にも見え……あれ?」  そこで、すぐに疑問に至る。 「夜子、なんでお前は、彼女が見えるんだ?」 「はい? 見えるに決まっているでしょう? そこにいるのだから」 「いや、そういうことじゃなくて……」  そもそも設定として、俺以外に見えていないはずだ。  彼女は、俺にしか見えない幽霊少女なのだから。 「……あたしは、影響下になりづらいのよ。本の担い手というのは、そういうもの」  曖昧な説明をした夜子は、すぐに話題を切り替える。 「で、どうしてその女を連れてきたの? あたしに喧嘩を売るため?」 「違う違う、今から説明するって」  今にでも噛み付きそうな夜子をなだめながら、彼女を示す。 「幽霊だから、誰にも見えないんだ。ってことは、帰る場所がないんだよ」 「……だから?」 「一人は寂しいだろうから、居場所を与えてあげたくて。そういうのも、成仏するための一歩にならないか?」  どうやら、幽霊である彼女はあの廃教会を家のように扱っていたらしい。  あそこは一人で心地がよく、余計な感情を刺激しないから。  下手に実家にこっそり侵入したら、きっと泣いてしまうだろうからって。 「…………」  しかし、夜子は俺のことを睨み続けたまま、微動だにせず。 「……好きに、すれば?」  苦虫を噛み潰したような表情で、畝るように呟いた。 「客間しか、使わせない。二階にも、上がらせない。それでいいな?」 「当然よ」 「す、すみません……なんだか、お邪魔みたいで」 「そうよ、邪魔なの。だから早く成仏しなさい」  不機嫌さを込めて、彼女へ告げる。 「恋人なんだか知らないけれど、特別待遇は今だけ。さっさと終わらして、この図書館から去りなさい!」 「は、はい……」  強烈な剣幕に、おののく彼女。 「よ、夜子……」 「キミも、さっさと解決する! 不愉快だから、あたしはこの本に関わらないわよっ」  話は終わったからと、背を向けて書斎に戻ろうとする。 「……ちょっと、タイミングが悪かったかな」  相当に、不機嫌だったらしい。 「よ、夜子さんは」  控えめな口調で、彼女は言う。 「瑠璃さんに恋人ができて、不機嫌だったのでは……?」 「ああ、そうか。一時的な関係とはいえ、そういう幸せそうな目にあうのがうざったいだろうからな」  嫌いな人間には、不幸が訪れて欲しい。  幸福が訪れていると、虫の居所が悪い。  それは人間として、普通の感情だ。 「い、いえ、そういうことじゃないです……」  苦笑いを浮かべたまま、彼女は首を振るが。 「瑠璃」  怒りは隠れて、やや大人しめに。 「確かに、アメシストは開いているわ。それは間違いないから」 「……分かるのか?」 「触ったら、本の鼓動を感じたの。感覚的なものだから、信用しなくてもいいけれど」 「わかった、信じる」  不機嫌さを押し殺して伝えてくれた情報なら、信じよう。 「……そう、好きにすれば」  ぷいっと、顔を背けて。 「何かあったら、すぐに報告して。アメシスト絡みなら、書斎に訪れても構わないから」 「ああ、そうする」  それから、少し声を大きくして。 「ありがとう、夜子」 「……何のことかしら」  そう言い残して、奥の廊下へと行ってしまった。 「浮気ですか?」 「は?」  背後で、彼女がジト目を向ける。 「今、とてもいい雰囲気でした。何でも分かり合ってる幼馴染みたいなやつです!」 「あ、あのなあ……」  見当違いな指摘を前に、思わず頭を抱える。  魔法の本に関してだけは、優先度がおかしんだよ、あいつ。 「成仏するまでの限定的なものとはいえ、恋人ですよ恋人! 浮気は許しません!」 「喋るだけで浮気とは、束縛の強い彼女だな……」 「か、かのじょ! 俺の彼女ですか! なんか素敵な響きですねー!」 「いや、俺のとは言ってないけど」  一人で怒って、一人で舞い上がっている。  なんか楽しそうだ。 「……でも、本当にそれでよかったのか?」  改めて、聞いてみる。 「彼氏が欲しいなんて、よく分からない願いで……あんたは満たされるのか?」  俺のことを、生前から愛していたわけではないだろう。  事実、原作のアメシストでも、そういう記述は一切ない。  原作での幽霊の無念は、恋焦がれる青春であったから、まあ間違ってはいないのだろうけど。 「な、舐めないで下さい! 若者の恋に対する欲求は凄いんですよ! 性欲とかもうむらむらです」 「幽霊にも性欲があるのか?」 「きゃーセクハラー!」  叩かれた。  何故。 「……結構じゃありませんか、恋人が欲しいで。若者らしい、純粋な願いだと思いますよ」 「そりゃ、そうだが」  ヒスイを経験して、あんたとの恋愛はもうこりごりなんだがな。  どこか二番煎じ臭がしているし。 「少なくとも、誰かを殺して欲しいとか、そういうことじゃないだけ素敵じゃありませんか?」 「そんな物語は、御免被るよ」  紫色に輝く輝石は、野蛮ではないらしいけど。 「特別は求めていません。ただ、私が手に入られなかった日常がほしいだけ」  彼女は手を差し伸べて、笑ってみせた。 「恋人と登校して、授業を受けて、雑談をする。そんな極自然の毎日を、私は送りたかった」 「…………」  自殺をするほどイジメられていた。  その背景を、思わず忘れそうになってしまう。  彼女の華やかな笑顔が、そういう影を感じさせないのだ。 「幽霊になったまま、ずっとずっと教室を眺め続けて……本当に、羨ましかったんですよ」  思いを馳せる、日向かなた。 「もし、自殺しなければ――いつか、こんな風に学園を楽しめたかなって」 「後悔しているのか」  思わず、愚かな質問をしてしまった。 「当たり前じゃないですか。何の意味のない自殺をしてしまって、死にたくなるくらい後悔しています」  だから、と。 「せめて、幽霊になった意味が欲しい。幽霊になったからこそ手に入った幸せを、私に下さい」  懇願するように、彼女は言った。 「……何であんたは幽霊騒動なんて言い出したんだ? あれは、何の目的だったんだ?」  星を見る少女とか、教会のピアノとか。  結局、全ては彼女の騙りだったし、幽霊騒動というのは、日向かなた本人のことだったのだから。 「……瑠璃さんと、二人で共同作業がしたかった」  ひっそりと、胸中を語る。 「同じ話題を共有して、同じ目的を見据えて、和気藹々と過ごすことができたらいいなって――だから、幽霊騒動のお話を持ちかけたのです」 「そういうことか」  イジメを苦にした女子学生、という設定だったか。  生前に手にすることの出来なかった、学生としての充実感。 「私も、どうして瑠璃さんのようなキス魔に憧れたのか、よくわかりません。我ながら、変な趣味をしているかと思います」 「……おい」  さり気なく、〈貶〉《おとし》めないでくれないか。 「いつからでしょうか。警戒や不快感が、切ない気持ちに変わってしまったのは、いつからなんでしょう」  ぎゅっと、手を握りしめて。 「幽霊の私でも、新しい恋を見つけることが、出来るんですね――」  そうして、彼女は俺に、告白した。 「――あなたのことが、大好きです」  それが、彼女の願い。  それが、彼女の未練。  アメシストが語る、怪奇伝承。  幽霊少女は日向かなた。  取り憑かれたのは、四條瑠璃。 「わかったよ」  だけど、俺は言葉を返すことは出来なかった。  嘘でも、好きだと返すことが出来なかった。  魔法の本のことを考えるなら、ここは彼女の気持ちを受け入れてあげる方が手っ取り早いのに。  ――月社妃。  どうしても、彼女の想い出が、俺の胸を締め付ける。  どうやら、彼女の姿は本当に見えないらしい。  実は、幽霊なんて全て嘘で、はったりだったんだよ、という展開にはならず。 「え、かなたちゃんが? うっそだー、瑠璃くんったら、理央を騙そうとしてるんでしょー?」  にこやかに笑いながら、理央はそう言ってみせる。  「ちなみに、見えていないということは、私が物を動かすとこうなります」  広間のソファーに手をついて、彼女は思いっきり押した。  鈍い音を立てながら、ソファーが揺さぶられて。 「ひ、ひぃいいいいいっ!? る、瑠璃くん! い、今、ソファーが!!!」 「……なるほど」  ポルターガイストというわけか。 「なるほどじゃないよー!? どうして冷静なのー!?」 「恐ろしいもんだな」  本当に目に見えていないことを確認して、少し驚き。 「る、瑠璃くーん……!」 「大丈夫だって」  涙目になっている理央の頭を、優しく撫でる。 「さっき説明したろ? アメシストが開いたんだ。そういうことだ」 「で、でも、怖いものは怖いよー」 「そういうなよ」  彼女の姿を、横目で見て。 「あいつだって、幽霊になりたくてなったわけじゃないんだからな」 「うー、そうだけど……」  分かっていても、納得出来ないような表情。  そりゃそうか、見えないっていうのは、怖いもんな。 「……しかし」  幽霊になりたくて、なったわけじゃないのなら、 日向かなたは何故、『アメシストの怪奇伝承』の登場人物に選ばれたのだろうか。  最初から、夜子も言っていただろう。  本に見初められる理由と、本を開く願いが必要だと。  日向かなたは、何を理由に本に選ばれ、何を理由に本を開いたのか。  死にたいとも、幽霊になりたいとも、思っていたとは思えない。 「どうしました? 瑠璃さん?」 「……いや」  『ヒスイの排撃原理』と『アメシストの怪奇伝承』。  テーマはそれぞれ違っても、気が付けば俺たちは恋仲のような関係にいた。  「心当たり、ないんだけどな」  彼女に好かれる理由は、どこにもない。  ヒスイのときに、面識があるようなことを言ってたが――閉じた後は、その記憶は消えている。  それはつまり、本に用意された演出の記憶であって、本当の記憶ではなかったのだ。  俺と、彼女は初対面。  それなのに何故、魔法の本は、こうも開いてしまうのか。 「瑠璃さん、瑠璃さん」  彼女が、俺の名前を呼ぶ。 「私も、撫で撫でしてくださいよー」 「……嫌だ」 「けち」  それもまた、物語が進めば見えてくるのだろうか。 「瑠璃さんは、いつもいつも私に冷たすぎるのです」  原作に、これ以上の展開は記されていなかったが。  彼女の真実、紫水晶の物語を理解して、何が変わったかといえば。  それは、彼女に遠慮という言葉がなくなった。  周囲の人物から見えないという利点を最大限に生かして、好き勝手に行動し始めたのである。 「ねーねー、瑠璃さん、遊びましょうよー」  授業中も、昼休みも。  「ねーねー、瑠璃さーん、お話しましょー」  べたべたと周りをつきまとい、遠慮なく関わろうとしてくるのだ。 「……おい、あんた」  昼休み、目立たないようにうつ伏せになりながら、真横にいる彼女へ毒づいた。 「こっちの事情も考えろ。あんたの姿は見えなくても、俺は周りから見られているんだからな」 「それは自意識過剰じゃありません? 瑠璃さんを見ている人なんて、私くらいしかいませんよ」 「……それは否定できないが」  元々、俺だって馴染めているわけではないのだから。 「それでも、一人で会話をしているところを見られたら、俺はもう二度とこの教室に来れなくなる」 「いいじゃありませんか、どのみち居場所なんてないんですから」  にやにやと、笑いながら。 「ちなみに、どうして瑠璃さんが避けられているかって、知っています?」 「無愛想だから?」  打ち解けた仲間の前では軽口を言えても、初対面の相手の前では表情が硬くなる。  それとも、こちらから積極的に仲良くなろうとしていないのが、一番の理由か? 「瑠璃さんの、悪い噂が広まってしまっているのです」 「噂? そんなの、あったのか?」  初耳である。 「知らないのは、本人だけというわけですか。いいですよ、教えて差し上げましょう」  ぴん、と指を立てて。 「つまみ食い感覚で女子学生を襲う、不浄のキス魔野郎という噂を、私が広めていたからですよ!」 「……おい」  いま、なんつった? 「他の女子学生が被害者にならないよう、未然に事件を防いでこその名探偵です!」 「うわあ……思った以上に、最悪だった」  平然と語られる内容に、愕然とする。  どうりで、女の子からの視線が引き気味だったわけだ。 「ん……?」  そこで、今更のように疑問が一つ。 「随分クラスの事情に精通しているようだけど、あんたはいつから幽霊なんだ? 俺はてっきり、かなり昔に自殺したんだと思っていたが」  もちろん、それは物語上の設定ではあるが。  今の日向かなたは、アメシストの自殺した幽霊少女なのだから。 「えっ……それは、幽霊として見ていたからで……」 「幽霊だったら、どうやって噂を広めるんだよ」  その言葉に、彼女は深刻そうに俯いた。 「……わかりません。何故でしょう、でも、確かに私は……」  嘘を言っている様子ではなかった。  本当に、悩んでいるような素振り。 「記憶が……少し、変ですね。私は確かに死んでいるはずなのに……どうしてか、生きていた頃の記憶がたくさんあるのです」 「思った以上に、成りきっていないのか」  俺が、自分を見失わないように現実を捉えているように。  彼女もまた、本来の自分を残しながら、役割を果たそうとしているのかもしれない。  アメシストの自分と、現実の自分。  二つの人格、二つの記憶が入り混じってしまっている。 「やっほー、新入りくん。一人でぶつぶつと、気持ち悪いよ?」 「……岬」  考え事をしているうちに、気が付けば第三者が隣にいて。  俺はすぐに、彼女から視線を切った。 「あ、また私を無視するつもりですか。許しませんよー」  ぺしぺしと俺の頭を叩く。  変な動きをしないようこらえながら、全力で彼女を無視しよう。 「何? どうしたの? なんか今日、変だけど」 「寝不足なんだよ。そういうことにしておいてくれ」 「ふぅん、まあいいけど」  深くは聞かないでいてくれる。  それが、岬の良い所だ。 「そういや、俺に関する変な噂、知ってるか?」 「おおう、私の言葉の裏付けを取ろうっていうのですか。信用ありませんねー」  うるせえ、黙ってろ。 「変な噂? 面白い噂なら知ってるかも」  それは、からかうような口調で。 「妹を襲った変態キス魔野郎って」 「…………」  色々混ざっているが、間違いなさそうだ。 「ほらー言ったでしょう? ね? 私、嘘は言っていません」  どれほど嘘であればいいと思ったことか。 「ろくでもない奴が流しているらしいんだが……本当に、困ったものだよ」 「え? あれって嘘なの?」  心底驚いたように、岬は言う。 「みんなすっごい信じてるから、僕も本当だと思ってたよー」  あはは、と。  〈明〉《めい》〈朗〉《ろう》に笑い飛ばす。 「噂を信じていながら、よくもまあ俺と仲良く出来るな」 「ん? だって僕、新入りくんの妹じゃないし」 「…………」  ああ、噂が歪曲されて妹が対象と思っているのか。  元々は、彼女に対して行なった所業なのだけど。 「瑠璃さーん? かなたちゃん、そろそろ寂しくて泣いちゃいますよ? 無視よくないです」  無視する以外にどうしろっていうんだよ。 無茶言うな。 「それに、僕に手を出すほど酔狂な輩でもないだろーし。ふふふ」 「なんかいい感じに理解しあってるんですか! 腹立たしいですね!」  ちょろちょろと動きまわる彼女が、鬱陶しくなって。 「あ、虫が」  と、下手な言い訳をして、彼女の頭を押さえつけた。  黙れ、と、言い聞かせるつもりで。 「ぐえっ……ぼ、暴力ですか? 女の子に暴力をふるいますか? うー、酷いです」 「何してんのさ……」  虫を潰したにしてはおかしな行動に、岬もたまらず苦笑い。 「いや、ちょっと不細工な虫が」 「むっかー! 誰が不細工ですか! もう、怒りましたよ!!」  一歩、俺から距離をおいて。  ニッコリと微笑みながら、彼女は岬の肩をたたいた。  まるで、後ろから話しかけるように。 「ん?」  当然、誰かに肩を叩かれた岬は、振り向くが。  当然、そこには誰もおらず。 「あれ?」  疑問符を浮かべるのは、当然であったが。  背後にいた彼女は、振り向いた岬の背後に回って、後ろから手を伸ばして―― 「――ひゃあぁっ!」  岬の胸を、触った。  這うような指使いで、セクハラじみた手付きだった。 「ちょ、ちょっと――何するのっ!?」  たまらず、胸を抑えながら、抵抗する岬。  その言葉の矛先は、俺へと向けられていた。 「……え?」 「すっとぼけた顔をしないでくれるかな。後ろから僕の胸を触っておいて……」 「…………」  ぎろり、と。  傍にいたかなたを睨みつける。 「ふふーん、私を怒らせるからこうなるのです。セクハラ、ダメ、絶対です」 「劣情を覚えるのは、妹だけじゃなかったの? はあ、これだから新入りくんの悪評が、なくならないんだよ」 「……色々と納得しかねると思うけど、俺じゃないからな?」  その言葉が無駄なことは、わかっている。  周囲には他に誰もおらず、彼女の視点からは俺しかありえないのだから。 「ふーん、あっそう」  ジト目で〈糾〉《きゅう》〈弾〉《だん》されてしまうが、今はじっと耐えるしかない。 「これ以上悪戯されたくなかったら、もっと私に優しくして下さいね」  ご機嫌に声をはずませる、彼女。  これで楽しそうにしてくれているのなら、許してやるかと思い直す。  「瑠璃さんは、私の彼氏なのですから」 「……そういえば、そうだったな」  そういう、約束だった。  あんまりにもいつも通りすぎるから、すっかり忘れてしまっていたけれど。  彼女を幸せにして、彼女を満足させてあげることが、俺の役割なのだから。 「彼女がいるのに、他の女の子に色目を使ってはいけません。これはその、警告です」  聞き分けのない子供を叱るように。 「そして、愛する彼女のことを無視したら、駄目ですよ?」 「……理不尽」  岬に聞こえないような声で呟くことしか、その時の俺には許されていなかった。  結局、今日一日は彼女に振り回されてしまった。  うかつに岬と会話をしていると、幽霊である彼女はすぐに悪戯を仕掛けてきそうで。  また、そうでなくとも、構って欲しそうに食らいついてくるのだ。  見た目がそれなりに可愛らしいからこそ、満更でもないのだが、やっぱり迷惑なことには変わりなく。 「少年、疲れたような面をしてるじゃねーの」  久しぶりに顔を見せる汀は、おもしろおかしそうに声をかけてきた。 「……疲れてるんじゃなくて、憑かれてるんだよ」 「あん? そんなもん一緒だろ」  適当に、笑い飛ばす。 「夜子から聞いちゃいるけど、随分のんびりした話じゃねえか。お前なら、適当に解決できるだろ」 「さあ、どうだかね……」  彼女を満足させる方法は、あまり上手く行ってないのかもしれない。 「お前は、俺よりも強いからな」 「…………?」  その言い回しに理解が追いつかなくて、疑問符を浮かべる。 「お前は、割り切れる男だよな。今もこうして、普通に生活していられる」 「…………」  割り切れる。  納得できる。  諦められる? 「っかしいな、俺の方がしっかりしてると思ってたのに、そんなことはなかったみてーだよ」 「馬鹿言うなよ、しっかりしている奴が幽霊ごときに悩むもんか」  今だって、手一杯なんだ。  悩んでいる場合じゃないんだよ。 「お前は、最近何をしてんだよ。図書館に、全然帰っていないだろ?」 「色々だよ」  視線を、外して。 「……やりきれない感情の矛先を、探しているだけだ」  その瞳に、何を捉えているのか。  汀が、何を思い悩んでいるのか――それは、わかっていたけれど。  「瑠璃さん瑠璃さん、この人と何かあったんですか?」  脇にいる彼女が、興味津々に訪ねてくる。 「何かあったのは、俺たちじゃない」  汀に聞こえないよう、小声で答える。 「俺たちを取り巻く環境が、変わったんだ」  人が、一人欠けてしまった。  ただ、それだけ。 「……『アメシストの怪奇伝承』だったか?」  ふと、汀は今回の本のタイトルを口にする。 「もしかして、そこにお前の彼女が憑いてたりすんのか?」 「きゃー、彼女! 彼女ですって! ほら、瑠璃さんったら、ぐずぐずしてないで答えてくださいよー!」 「……知らん」  条件反射的に、目を逸らす。 「ばかー! どうして肯定してくれないんですか!! これだから瑠璃さんは、クラスから避けられるんですよ!」 「それは、あんたのせいだろ……」  俺の悪い噂を、流しているからだ。 「どうやら、本当にいるみてーだな」  苦笑いを浮かべながら、汀は言う。 「正直、半信半疑だが……ま、本当にいるんだろう。お前が、つまらない嘘なんてつくはずねえしな」 「幻覚を見ているという説は?」 「そんときは、俺が目を覚まさせてやるから問題ない」 「幻覚じゃないですよー、現実ですよー」  ぺしぺしと、俺の頭を叩きながら。 「ここにいるので、愛してあげてくださいよー」  ちょっとだけ可愛らしくて、笑いそうになってしまった。  悔しかったから、何も言わずにそっぽを向く。  幽霊の彼女に、掻き乱されてしまうんだな。 「平和なもんだな……少年は」  やれやれと、半ば呆れながら。 「一つ、お前の知らない裏技を教えてやるよ」  それは、和みかけていた雰囲気を、一変する一言だった。 「――魔法の本には、無理やり終わらせる方法があるんだぜ」 「……え?」  全身が、硬直した。  意識が汀の方へ、張り詰めるのを自覚する。 「それは、確かなのか? 確かな、方法?」  半信半疑だった。  今更になって、そんな真実が浮き彫りになるなんて。 「間違いねえよ。既に試し終えた実証もある。俺はこの目で、本を閉じる以外の方法を目にしてきたからな」 「……それは、闇子さんや夜子も知っていたのか」 「知ってたと思うぜ。知っていたからこそ、教えなかった。お前には、教えたくない理由があったんだよ」  あの人は、俺に全てを語ったと言っていたけれど。  それでもまだ、秘密を抱えていたのか? 「なあ、瑠璃。あんまりお袋を恨まないでやってくれ。俺もお袋の立場だったら、教えなかっただろうしな」 「どういうことだ?」 「魔法の本の担い手として、管理者として、失格の行為だからだ」  真剣な眼差しで。 「本に逆らうには――本を殺せばいい。台本を失った舞台で、語られる物語は存在しない」  それは、つまり。 「魔法の本そのものを、破壊してしまえばいい。燃やすなり、破り捨てるなり、それそのものを壊してしまえば、それで全てが終わる」 「なんだそれ、それじゃあ、さっさと全部処分してしまえば――」  それで、全てが解決するじゃないか。 「出来ねえんだよ。お袋は、本を守る存在なんだぜ。先祖代々、あの図書館に魔法の本を収集し続けている。そんな事ができるはずねえだろ」 「…………」  魔法の本の担い手。  遊行寺家の役割。  「……だが、お前は躊躇しなくてもいいんだぜ。必要だと判断したら、お前の自由に壊せばいい」  乱暴な言葉で、吐き捨てる。 「壊すことを躊躇して、最悪の事態に陥るよりかは百倍マシだ」 「たしかにな」  実に現実的で、実に論理的だと思う。 「……なあ」  だから俺は、聞かなきゃいけないと思った。  今、この場で聞かなければ、次に聞けるか自信がなかったから。 「もし、あのときサファイアを殺していたら――妃は、死ななかったのかな」  その可能性を、尋ねたくなってしまったのだ。 「……サファイアは、関係ないんだろ」  目を伏せて、汀は答える。 「関係、なかった。サファイアには、そんな展開は用意されていなかったからな」 「…………」  それは、予想していた答え。  あるいは、用意されていた答えだ。 「だったら、やっぱりあれは、ただの事故だったのかな」 「さあ、どうだろうな」  汀の声色が、全てを物語ってしまっている。  俺は、すぐに痛感した。 「それで納得出来てたら、こんなにも苦しくねえんだよ」 「……そうだな」  無意味な事件と、思いたくなかった。  何かあったのだと、可能性を探ってしまう。  遊行寺汀は――未だ、妃の死を受け入れられていないのである。  それもおそらくは、俺以上に。 「じゃあな、俺はもう行くぜ。これでも忙しいんだよ」 「へえ、名探偵にでもこき使われてるのか?」 「そんなところだ」  適当にはぐらかされて、背を向ける。 「ちゃんと、終わらせてやれよ。出来れば壊すことなく、穏便に」 「……なんだ、一応、壊したくはないんだな」  汀のことだから、それで解決するのであれば、喜んで本を処分しそうだったけど。 「バカ、俺だってそんなことはしたくねえんだ」  複雑な感情が入り混じった瞳を、揺らめかせて。 「――夜子が、嫌がるだろ」 「…………」  誰よりも本が好きな夜子。  誰よりも魔法の本を愛している夜子。  ああ、そうだ――夜子はきっと、本を傷付ける行為を、酷く嫌うだろうから。  新しい情報がもたらしたのは、穏やかに静まった水面へ、石を投げ入れるような振動。 「……えっと」  戸惑うような、声。 「瑠璃さんは、一体何のお話をしていらしたのですか? ゲーム?」  今更のように、彼女の存在を思い出す。  無駄なお喋りを、聞かせてしまったか。 「最近読んだ、小説のお話だよ」  それで果たして、誤魔化せているのかどうか。 「壊すとか壊さないとか、何やら不穏なお話でしたね。名探偵である私にも、一枚噛ませてくれません?」 「残念、幽霊はお呼びじゃない」 「ぶー、もっとちやほやしてくださいよー、ケチですねー!」 「俺に優しさを求めるのは、筋違いだ」  ため息を付きながら、話題を変えてみる。 「ところであんた、いつになったら成仏するんだ? そろそろ、満足してこないか?」 「何を言ってるんですか!」  その言葉に、怒り心頭の彼女。 「瑠璃さんたら、私の対応がおざなりすぎます! 適当すぎるんです! 何ですか、私、彼女ですよ!?」  満面のほほ笑みで、宣言する。 「私を愛してくれない限り、ずっとずーっと成仏しませんから!」 「……それは、困る」  本当に、困る。 「でも、瑠璃さんは相当奥手のようですから、しょうがないですからアプローチをしてあげましょう」  不穏な言葉を口にして。 「今日から、かなたちゃんの可愛いところを、お見せします!」 「結構だ」  それで本当に好きになってしまったら、どうするんだよ。 「浮気をしたくなるという気持ちは、どういうものなのでしょうね」  ある日、妃とそういう話をした。 「一人の女性を愛していながら、他の女性を愛してしまうという衝動。そういった気持ちを抱いてしまう事があるのは何故でしょう」 「……やっぱり、怒ってるのか?」  その、少し前。  俺は、『ヒスイの排撃原理』の登場人物として、日向かなたとキスをしたから。 「怒っていませんよ。本気になってしまったわけではないのでしょう?」  全てが終わった後の、教室で、  翡翠色の恋の味は、妃色に塗り替えられてしまったから。  俺という存在が、誰のものなのかを致命的に教えてくれた。 「もし、立場が逆だったらどうだったのでしょうね」  ふと、妃は呟く。 「物語に選ばれたのは私で――瑠璃の知らない男性と、恋を強いられてしまったなら」 「それは絶対に許さない」 「……ふふふ、そう考えると、私の器の大きさが計り知れるでしょう」  嬉しそうに笑う妃に、思わず頭が垂れてしまう。  やはり、怒っているのだろう。 「これから、もし同じようなことがあっても」  そっと、俺に語りかけるように。 「私はもう、嫉妬をしないようにします。あれこれ小煩いことも、言いません」 「……ヒスイのときだって、お前は何も言わなかっただろ」  少なくとも、物語が続いている間は。 「それ以上に、どうすることもないですよ、ということです」  優雅に、笑いかけながら。 「見苦しいところを、見せたくないのです。嫉妬なんて、つまらない感情ですから」 「そういえば、お前が真剣に俺に怒りを見せるのは、あんまりなかったな」  ――本気になって、いないでしょうね。  ヒスイが閉じた直後の、あの言葉。  紛れも無い、素の妃が垣間見えていた。 「……キャラじゃありませんでした。私はもっと、余裕たっぷりでいたいのです」  だから、と。 「あなたの気持ちが変わらないことを、信じています。だからもう、私は嫉妬をしません」 「嫉妬するかどうかなんて、コントロールできるのか?」 「出来なくても、それを表に出さないようにするまでです。私の愛の寛大さを、思い知らせてあげましょう」 「…………」  馬鹿だな、本当。  そんなことをしなくても、切なくなるくらいにわかっているっていうのに。  だからこそ、ヒスイが本当に苦しかったんだ。 「許されるなら――誰の前でも、堂々と嫉妬をしてみたかったですけどね」  束の間の会話。  二人だけの会話。  在りし日の幸せを思い出し、微睡みは夢を見せる。  目が醒めたのは、侵入者の気配を感じたから。  違和感を覚えたのは、侵入者が俺のベッドへ潜り込んできたから。  暑苦しいほどの密接に、たまらず意識は覚醒する。 「……あんた、何やってんだ?」  朝っぱらから、頭の螺子でも吹っ飛んだのか。 「夜這いですよー夜這い」 「もう、朝だっての」 「幽霊ですから、不法侵入もお手の物。やー、瑠璃さんの隣は素敵にあたたかいですね」  寄り添いながら、まるで恋人のように囁く。 「何の、つもりだよ」  無理やり抵抗すれば、力ずくで排除することも可能だったけれど。  今は、彼女に逆らわないほうが良いと思ったんだ。 「……瑠璃さんは、私に優しくしてくれません。だから、こっちからアプローチすることにしたんです」 「それが、これか?」 「その通りです! こういうのは、男心が〈擽〉《くすぐ》られたりしませんか? 朝から可愛い女の子に言い寄られて、胸がときめきません?」 「……残念だな」  冷たい心が、冷めた言葉を返す。 「二番煎じだ。朝起こしに来る幼馴染イベントは、既に発生済みなんだよ。今更あんたに来られても、胸はときめかない」  ルビーで、夜子が二回も来てくれた。  あっちのほうが、ずっと楽しいイベントだった。 「な、なんですと! この私が、二番煎じですと! ぐぬぬ……」  悔しそうに、唇を噛みしめる。 「でも、こんなに可愛らしいケースは、稀でしょう!? ぐっとくるのは、私の方じゃないですか!?」 「…………」 「密着して、肌が触れ合って、それでも興奮しないというのはありえません。ほらほら、私を襲ってくれてもいいんですよ?」 「……悪い」  分かってるんだ。  アメシストの流れを汲むのなら、今は彼女と恋人らしい語らいや触れ合いをした方がいいのは、分かってるのに。 「邪魔だから、どいてくれないか」  どうしても、妃の顔がちらつくんだ。  夢にまで出てきたあいつの言葉が、胸をよぎる。 「……嫌です」  だが、彼女は抵抗する。 「いちゃいちゃしたいです。らぶらぶしたいです。望むなら、えっちなことでも、しちゃいましょう」 「男女が二人、布団にくるまって――なにもしないほうが、おかしいんです」  瞳を、うるませて。 「これじゃあ私が、魅力のない女の子みたいじゃないですか」 「ちょっとくらい、慌ててくださいよ。恥ずかしがってくださいよ。私はこんなに、どきどきしてるのに……」 「……なあ、あんた」  そんな彼女へ、今まだ聞かなかった質問をする。 「どうして俺に、拘るんだ? どうして俺のことが、そんなに好きなんだよ」 「言っちゃなんだが、俺とあんたの間で、そういうイベントは何もなかったはずなんだよ」  ヒスイを覚えていない彼女にとって、俺はキスをされたクラスメイトにしか過ぎなかったはずだ。  アメシストが開いてから、ただ見える、という要素が加わっただけ。 「だ、だって……瑠璃さんは、私を認識できるたった一人の方ですから」 「他の人にも見えたら、あんたは俺じゃなくても構わないということになるんだが」  それでも、いいのか?  それが、正しい姿なのか? 「……それは、言わないで下さい」  その言葉に、彼女は俯いてしまう。 「瑠璃さんには、理解出来ないんですよ。誰からも認識されず、たった一人で現世をさまよう、幽霊の心境なんて」  更に、悲しい声で。 「瑠璃さんだけなんですよ――一人の世界を、二人の世界に変えてくれたのは」 「……すまない」  咄嗟に溢れる、謝罪の言葉。 「少し、無神経だった」  どうにも、これがアメシストの影響下であることを、忘れてしまうんだ。 「でも、俺は――」  そう、続けようとして。  誰かが、扉を叩く音がした。 「瑠璃くーん、まだおねむかなー? 今日はお休みだけど、朝食いるー?」 「……お呼びだ」  わざわざ、理央が呼びに来てくれた。  それなら、行かなきゃいけないだろう。  陰鬱したこの場から、逃げ出したくて。 「瑠璃さん、私は……」  名残惜しそうに、布団の温もりを噛み締める彼女。 「あなたに、愛して欲しい……それだけなんです」 「…………」  翡翠色の味よりも、欲しいものがあった。  それはもう、二度と手に入らないものなのに――どうしても、欲してしまうんだ。 「朝ご飯、食べてくるよ」 「……はい」  彼女と触れ合おうとする度に、妃の想い出がフラッシュバックする。  そうすると、彼女に対して抱きかけていた気持ちが、萎んでしまうんだ。  演技でさえも、許されざる行為に思ってしまって。 「俺は、あいつに義理立てをしようってのか」  それはとてつもない、自己満足なんだろう。  理央と二人の朝食を取った後、珍しく理央の方から誘いをくれた。 「久しぶりに、遊ぼう?」  幸せそうに、はにかみむ理央へ、勿論俺は即答した。 「あのねーあのねー、昨日、倉庫のお掃除をしてたらねー、こんなものが出てきちゃいました!」  じゃじゃーん、と理央が掲げたのは。  古びたグローブと、野球ボールだった。 「一年くらい前、瑠璃くんと素振りしたでしょー? ふと思い出して、今度はキャッチボールをしたくなりました!」 「懐かしいな……これって、だいぶ昔に、汀が用意したやつだろ? うわ、ボロボロじゃねえか」  何年も前に、俺と妃が〈足〉《あし》〈繁〉《しげ》くここへ通っていた頃――よく、汀と理央と俺で、野球ごっこをして遊んでいたんだ。  妃と夜子は、既にその頃から本の虫だったけれど、二階の書斎から俺たちの様子を眺めていたっけ。 「というわけでー」  もちろん、図書館の中でやるわけにもいかなかったので。  外へ出て、俺と理央は離れた距離で立ち向かう。 「れっつ、きゃっちぼーる!」 「おう、行くぞー」  第一球は、俺から。  なるべく取りやすいような、ゆっくりで山なりのボールを投げてみる。  グローブを動かさなくても取れるような、優しいボールを。  ぱす、と音を立てて、ボールはグローブへと吸い込まれる。  見事、理央はキャッチすることが出来たらしい。 「うむ、勘は鈍っていないようですな」 「……いや、まさか取れるとは」  普通に、驚いた。 「ふふん、理央、キャッチするのは上手だったよー?」  誇らしげな表情のまま、腕をグルグルと回す。  めっちゃくちゃ力が入ってるけど、大丈夫なのか? 「いくよー、ごーそっきゅー!」  と、元気な掛け声とともに。 「おりゃー」  白球は、明後日の方向へ飛んでいった。 「……っ!」  予想はしていたので、動き出しは早かった。  あらぬ方向へ飛んでしまったけれど、ボールがゆっくりだったため、なんとか追いつくことが出来て。 「おー!」  ぱす、と気の抜けたような音とともに、なんとかノーバウンドでのキャッチに成功した。 「すごい、ぷろふぇっしょなるだね! よくとれました!」 「……ああ、思い出したよ」  昔のキャッチボールも、こんな感じだった。  キャッチングは上手いし、ボールも普通に投げられるんだけど……理央は、コントロールが壊滅的だったんだ。 「ほれほれ、かもーん!」  言われて、ゆっくりと投げ返す。  これがお手本だよと見せてみるけど、それは活かされることがないのだろうね。 「ないすきゃーっち! さー、次は取れるかなー!」 「いつの間にか、ノックみたいになってるんだが」  狙ってやっているのではなく、本当にコントロールが悪いのだ。  でも、ノーバンドでキャッチをすると、理央は本当に喜んでくれるから。 「――っ!」 「うー、瑠璃くんはすごいね! ウサギさんみたいなふっとわーくだよ!」  右左へと全速力を強要される、ハードなキャッチーボールを続けてしまうんだ。  息を切らしながらボールを追いかける懐かしき日々。  それは、何も部活動体験者だけの特権ではない。 「なんか、懐かしいねー」  ボールを投げながら、理央は語る。  ナチュラルに喋っているが、俺は追うのに必死でろくに返せない。 「そ、そうだな……っ」  でも、理央が楽しそうなら、それでいい。  それが俺たちの、キャッチボールだったから。  そして何より、俺が楽しいんだ。 「夜ちゃんは、絶対にやんなかったけれど、後は汀くんや妃ちゃんの4人で、昔は外で遊んだねー」 「……いや、妃は、書斎にいただろ」  息を切らしながら、答える。 「そうだっけ? でも、グローブ4つあったし、確かに妃ちゃんもやってたと思うよー? あ、瑠璃くんがいないときだったかも」 「それは驚き、だな……まさかあいつが、キャッチボールなんて」  それはいまいち、想像できない光景だ。 「でも、夜ちゃんも、結構羨ましそうに見てたよね。二階の書斎から!」 「……羨ましがってたかなあ」  馬鹿らしいと、見下されていたような気がするが。 「汀くん、また理央ときゃっちぼーるしてくれないかなー……昔はあんなに、野球好きだったのに」 「あいつは何やらせても、上手かったからな。でも、全部長続きしなかっただろ」  野球だけじゃない。  色々なジャンルに手を付けて、あっさりと見限ってしまっていた。  一つのことにのめり込むことが、出来ない性分なのだろう。 「そうかも。瑠璃くんは、そんな汀くんに、いつも振り回されていたもんね」 「あいつは、この図書館に来る前からの関係だったからな」  それほど長い付き合いではなかったが、いや、今にして思うと随分と長くなるのかな。 「……今も、好き勝手にやっているよ。違うのは、俺を巻き込まなくなっただけだ」  一人で勝手に、突っ走っていっている。  学園をほっぽり出して、図書館から抜けだして、あいつは今、何をしているんだろう。 「瑠璃くんは、いなくなっちゃ駄目だよ」  寂しげな、声。 「瑠璃くんまでいなくなっちゃったら、夜ちゃんが悲しむから。もちろん、理央だって」 「……縁起でもないことを言うなよ。俺は、どこにも行かない」  それは、妃がいなくなっても変わらない。 「もう、他に行く場所なんてないんだ」  それは、自らに言い聞かせるような言葉だった。 「――あっ!」  理央の手から、白球はあさっての方向へ飛んで行く。  それはいつものことではあったのだけど、いつも以上に、コントロールが悪く。 「……くそっ」  さすがの俺も、取り損ねてしまった。  グローブの先で白球を弾いてしまい、更に遠く離れていく。 「ごめんねー!」 「大丈夫」  小走りに追いかける、その先に。 「…………」  遠巻きで、こちらを眺めている彼女の姿を発見した。  何を言うでもなく、穏やかな表情。 「楽しそうですね」  何処へ行ったのかと思ってたら。 「私も、混ぜてくれませんか」 「……それは、出来ないだろ」  姿は、見えなくて。 「そうですね、今ボールを投げてしまうと、理央さんを驚かせてしまいそうです」 「……そういうことだ。悪いな」  転がったボールを拾い上げて、理央の元へ戻ろうとする。 「瑠璃さんは、そうやって楽しそうに笑うことも出来るんですね」 「……え?」  それは、自覚していなかった指摘。 「私、瑠璃さんのことを誤解していました。無愛想で、素っ気ない、態度の悪い男性かと」 「まあ、学園ではそういう風に見られるのもしかたがないかもな」  図書館は、俺の居場所だから。  素の自分を、出すことが出来る。 「私といても、瑠璃さんは笑ってくれなかった」  その言葉に、思わず振り返る。 「――そうやって、いつも面倒くさそうな表情をするんですね」  白球を、握りしめる。  彼女の言葉が、深く突き刺さる。  理央とのキャッチボールを楽しんだ後。  全身汗だくになった俺は、汗を流そうと浴室へ向かう矢先。 「………げ」  タイミングが良いのか悪いのか、夜子と出くわしてしまった。 「汗臭い、気持ち悪い。やめてくれる? 本にキミの匂いがついてしまったらどうするの」 「早速、言ってくれるな……」  今日も夜子は、平常運転だった。 「理央も、どうしてキャッチボールなんか……子供の遊戯は、もう卒業したんじゃなかったのかしら」 「あん? 見てたのか?」  何度か書斎を伺ったけれど、こちらを見ている様子ではなかったが。 「キミを見ていたわけじゃないから、勘違いしないでよ。理央の様子を少し観察していただけ」  それに、と。 「……少し前に、理央に誘われたからね。誘われたのは、キミだけじゃないの。自惚れないで」 「いや、そんなつもりはないんだけど」  どうして胸を張る。 「せめて、屋内で出来ることなら付き合ってあげてもいいんだけど……汗をかくのは遠慮したいわ」 「清々しいほど、引き篭もりだな」 「うるさい。それよりも、アメシストの方はどうなっているのかしら? 理央と遊んでいる余裕があるの?」 「……どうしたもんかなって感じだよ」  正直な感想を、口にする。 「どうも、俺が役になりきれていないのかな。彼女の恋人役として、振る舞えていない」 「……へえ、ヒスイのときは、あんなに溺愛していたのに?」 「うるせえよ……」  思い出させてくれるな。 「それに、原作に書いてないような展開が多いような気がするんだよな。流れそのものは、アメシストなんだろうけど……」  幽霊であることを、発見して。  彼女を成仏させるために、未練を晴らす。  そのために、彼女の恋人になった。  並べてみれば、それだけで。  ゴールも既に見えているはずなのに。 「アドリブ……登場人物に委ねられている部分が、多いのかしら? 原作でも、別に恋人になって何かを遂げるようでもなかったわよね」 「なんか、必要な手順をすっ飛ばして、無理やり話を進めているような気がするんだよな……」  いつのまにか、彼女が幽霊であることを知って。  いつのまにか、彼女と恋人になっていたような気さえする。  あの廃教会を訪れた日から、物語が語りきれていないようだった。  大切な伏線を、貼り忘れたり。  それまで積み重ねる過程を、なくしてしまったような気が。 「元々、特に語るべき要素の多いお話ではなかったのだから、展開はそれぞれに任せられているのでしょう」 「だからこそ、キミがどうエンディングまで持っていくのかが大事なんじゃなくて?」  どうやって、彼女を成仏させるのか。  どうやって、彼女を満足させるのか。 「上手く、やりなさいよ。アドリブは、主人公の見せ所でしょう?」 「……わかったよ」  ヒスイのときを思い出すと、憂鬱になる。  あの時はのめり込みすぎて、想いを重ねてしまっていたけれど。 「何かあったら、すぐに報告しなさい。手に負えなかったら、〈躊〉《ちゅう》〈躇〉《ちょ》なく知らせること」 「……? 珍しいな、お前が俺に、そんなことを言うなんて」  もっと突き放されると、思っていたけれど。 「キミに何かあったら、理央が悲しむでしょう」  目を合わせずに、夜子は言う。 「妃もいなくなって、汀も帰ってこなくなって、あの子、とても寂しがっているから」  優しい言葉を、口にする。 「だから珍しく、キャッチボールをしたいなんて言ったのでしょう」 「そこまでわかっているなら、付き合ってやれよ」 「キミが、いるから」  少し、悪戯っぽく。 「キミが、理央を楽しませてくれるから――あたしは、安心して本が読めるのよ」  すぐさま夜子は、俺から視線を外した。  少し、照れたのだろうか。 「というわけで、理央を寂しくさせないことが、キミの役割なんだから。サボったら、承知しないわよ」 「……了解」  通りすぎて、夜子は立ち去っていく。  妃がいなくなってから、やはり夜子も変わりつつあるのだろう。  他人に対して、意識が向けられるようになっていた。  俺に対しても、少しだけ寛容になったと思う。  その変化は嬉しくもあり――そして、寂しくもあって。 「……瑠璃さん」  背後から、幽霊がこんにちは。 「ああ、あんたか」  気が付けば、そこにいて。  気が付けば、話しかけられていて。  驚くことも、なくなってしまった。 「瑠璃さんは、嘘吐きですね」 「……何のことだ?」  俯きながら、彼女は言う。 「私のこと、好きじゃないんですよね。好きじゃないのに、彼氏になった」 「…………」  ああ、今の話も、聞いていたのか?  それは少し、不味いような。 「付き合ってくれたのに、全然デレてくれません。他の女の子と、仲良くしています。こんなの、私、嫌です……」 「……そんな、つもりは」  そんな彼女の様子を見て、初めて俺は自らのミスに気が付いた。  思えば俺は、魔法の本ばかり見てしまっていたのかもしれない。  話を進めようとするばかりに、現実を疎かにしていたのかもしれない。 「よく、わかりましたよ……瑠璃さんの気持ちは、私に向いていないって。ただ、邪魔者の私を成仏させたいから、話を合わせているだけだって」  その言葉を、否定することが出来なかった。  俺はただ、魔法の本を閉じることばかり、意識を向けてしまっていたから。 「そんなので、満足できるはずがありません! 付き合ってくれるなら、それ相応の見返りを求めますよ!」 「ねえ、はっきりしてくださいよ。あなたは、私を愛してくれるんですか?」  切実な、声。 「嘘でも愛してくれるなら――ちゃんと、態度で示してくださいよ。騙すなら、本気で騙してくれませんか」  嘘でもいい、と。  彼女はそういう。  だから、物語的には、酷く簡単なんだ。  ヒスイのときのように、俺は登場人物に徹しればいい。  物語が閉じるまで彼女を愛して、全てが終わったら何食わぬ顔で現実に戻るだけ。  それが、最も良い手段。  そんなことは、わかっていた。 「……俺、な」  中途半端だったな、俺。  付き合うと口にしても、何もしてこなかった。  本を追うことばかりに夢中になってしまっていた。  ちゃんとしろ。  これが本の展開だとしても――確かに、現実なのだから。 「――好きな人が、いるんだ」 「……え?」  生まれて初めて、誰かに言ったと思う。 「心から愛している人がいる。だから、あんたとは付き合えない」  生まれて初めて――その存在を、口にしてしまった。  すべてが終わってから、今更のように。 「な、なんですか……それ。誰ですか? 夜子さん? 理央さん? それとも――」  動揺する彼女は、はっとしたような表情で答えを口にした。 「――あのとき、教室にいた妹さんですか。月社、妃」 「え」  今度は逆に、俺が驚いた。  サファイアの爪痕が残って、彼女はそれを忘れてしまっているはずなのに。  ヒスイのことのイベントを、憶えているはずがないのに。 「な、なんで妃のことを、知ってるんだ……?」 「知っていますよ! 知らないはずがないでしょう! 鷹山学園の才媛として、有名ですから!」  いや、そういうことじゃなくって。  何故、覚えていられるんだ。  しかも、そんなに明瞭に。  前も、似たようなことがあったっけ。  うろ覚えに、妃のことを記憶していたが――しかし、今回ははっきりと口にした。 「あ、あんたは――」 「そんなことは、どうだっていいんです!!」  しかし、全ての問いかけをシャットアウトして。 「好きな人が居て、私と付き合うなんてほざいたんですか。女の子の気持ちをなんだと思っているのでしょうか」  苛立ちが募るのが、見て取れる。  明らかな失策を犯してしまったことを、痛感しながら。 「それじゃあ、瑠璃さんはどうしてくれるんですか。付き合ってくれないなら、どうするつもりなんです。私のことは、放置ですか?」 「……それは」 「出来ませんよね。瑠璃さんは、どうやら私のことを成仏させたいようですから」  その通りだ。  アメシストは閉じなければいけない。  日向かなたを、魔法の本から解き放つために。 「好きな人がいるなら、しょうがないですね。今更義理立てするのもおかしな話ですが、それでも瑠璃さんが私を受け入れてくれないのなら」  悲しそうな表情のまま、彼女はまくし立てる。 「他の方法を、考えなきゃいけませんね」 「……そう、なるな」  付き合う以外での、未練を晴らす方法。  心を満足させて、成仏させるための方法を。  しかし――こんな手順を踏んでしまって、今更俺たちの間でそれが叶うのだろうか。  俺は、彼女の気持ちを甘く見ていたのかもしれない。  台本に用意されたものとして、無機質に扱ってしまっていたのだろう。  魔法の本ばかりを見て、現実をおざなりにしてしまっていた。  もし、この態度を貫くなら、最初からすべきだったんだ。  いまさらのように妃のことを思い出して、彼女の気持ちを無下にして。 「瑠璃さんは、本当に嘘吐きです。もう、二度と信用しませんからね」  ここから、どうしようというのだろう。  先の見えない不安が、俺の胸中を満たしていく。  星を眺めた日に出会った、一匹の猫。  妃は彼女のことを蛍と名付け、定期的に会いに行くようになっていた。  野良猫は、毎回初めてあった場所にいるわけではなかったけれど、段ボールで自作した小屋を与えてあげると、すぐに住み着くようになった。  野性味が欠けているというか、やはり、人懐っこすぎるところに違和感を覚えなくはなかったけれど、可愛らしい猫の仕草を見ていると、それでもいいかと思ってしまった。 「こら、髪を食べないで下さい。駄目ですよ、これは猫じゃらしではありません」  近くの雑貨屋で買ってきた玩具よりも、妃の髪の毛にじゃれつく蛍。 「ああっ、駄目ですよ……もう、唾液でべとべとになってしまったではありませんか」  少し怒ったように声色を変えながら、それでも嬉しそうだった。 「お前は、自由気ままな猫ですね。羨ましくなるほどに」  妃が喉を撫でてあげると、気持よさそうな声を上げる。  すっかり、仲良くなってしまったらしい。 「猫缶を与えてあげましょう。感謝してくださいよ? 私の一日のご飯より、お金がかかっているのですから」  自分の昼ご飯を抜いてまで、猫の嗜好品を買ってくる。  それも、一番高いやつを。 「……猫を飼ってくれる人は、見つからなかったよ」  背を向ける妃へ、俺は報告した。 「可愛い、触りたい、そういう言葉はくれても、責任を持って引き取ってくれる人は見つからなかった。やっぱり、難しいな」 「お金が、かかりますからね」 「手間も、責任も、な」  ペットを飼うということは、色々なものが必要になるのだ。 「……わかっていますよ。だから、瑠璃にも引き取り手を探してもらっているのです」  それも、現状では上手く行っていない。 「人生というのは、本当にままならないものですね」  悲しそうな瞳で、蛍の額をぐりぐりと撫でる。  蛍だけは、幸せそうな顔をして、束の間の気持よさを堪能していた。 「……ふふっ」  そんな蛍を見て、思わず妃も笑ってしまう。  「瑠璃も、触ってみませんか? 怖がらないで、蛍を愛でてあげてくださいよ」 「いや、俺は」  動物が苦手なことを、知っているくせに。 「確かに可愛いけど、なんか苦手なんだよ」  見る分には構わないけれど、触るというのはまた別だ。 「そう言わずに、少しだけ。今だけしか、過ごせないのかもしれないのですよ?」 「……わかった」  猫絡みになると、いつもより強情になる妃。  本当に蛍のことが好きなんだなあって、わかってしまうから。 「ほら、蛍。今から私のお兄様が、蛍の身体を触りますよー」 「なんか、悪意のある言い回しだな……」 「思う存分、可愛がってあげて下さい」 「はいはい」  やや緊張をしながら、慎重に指を伸ばす。  だらけたポーズで寝そべる蛍は、とても無防備。  それでも、恐る恐る、近付いて。 「…………」  指先が、ふわふわの毛並みに触れた。  瞬間、蛍は横目で俺を見て、首を起こすが。  ……みゃあ。  と、一言だけ鳴いて、そのまま俺の指を拒むことはなかった。 「良かったですね、嫌われていなかったようです」 「これは、触ってもいいよってことなのか?」 「さあ? 私は猫語を理解していませんので」 「…………」  しょっちゅう、にゃあにゃあ声をかけているのはなんなんだ。 「でも、凄いな……びっくりするくらい、柔らかい毛だな」 「とても野良猫のそれではありません。一応、こまめにブラッシングはしてあげていますが……やはりこのままだと、汚れてしまいます」 「そうか……」  ちゃんとした家で、飼ってあげれば。  どうしても、そう思わざるを得なかった。 「ちなみに、私の髪の毛もふわふわしていますよ。蛍のように、愛でてみますか?」 「何を言ってるんだか」  半ば呆れながら、笑い飛ばす。 「猫と妃じゃ、比べ物にならないだろう」 「それは、どちらの意味で?」 「…………」   一歩踏み込んだ質問に、言葉が詰まって。 「……さあ、どっちだろうな」  その時の俺たちは、健全な兄妹だったから。 「馬鹿言ってないで、蛍の引き取り手を探さなきゃな」 「私は、至極真面目な事を言ったつもりですけど」  やや不満気な表情で、妃は言い放つ。  そうして蛍を愛でていた俺たちの日常は、あっけなく終りを迎えてしまう。  引き取り手が決まって、涙もなく感動もなく、安堵に包まれながら蛍を見送って。  妃も嬉しそうに笑っていたのだけれど――どうしてかな。   俺たちは、その日以来、蛍と会うことはなかった。  どこか遠いところへ、行ってしまったらしい。  日向かなたが、いなくなった。  朝起きても、目の届く範囲にはおらず、昼になっても姿を見せない。  最初はどこかへ行っているのだと思っていたけれど、夕方になっても姿を見せないとなると、そう判断せざるをえないと思う。 「……何故?」  成仏したわけではないのだろう。  成仏する理由を、何も満たしていないのだから。 「となると、やっぱり昨日のやりとりか」  好きな人がいると、言ってしまったから。  恋人を望む彼女の、願いに答えられなかったから。 「……他の望みを、叶えに行ったのかな」  そう考えるのが、自然?  そもそも俺に憑いていたのは、恋人になって欲しかったからというだけ。  それが叶わないのであれば、ともに存在する理由もないということになる。 「しかし、こんな展開はアメシストにはなかったぞ」  この感じは、少しサファイアの時にも似ていた。  台本からずれているような感覚。 「……ねえ、そこのキミ」  考えこんでいる俺へ、意外な人物が声をかけてきた。 「日向かなたは、どうしたの?」  いつものように制服を着て、夜子は尋ねる。 「いなくなった。突然、姿を消したんだよ。こんな展開、アメシストにはなかったんだがな……」 「そう」  無表情に、頷いて。 「なんとなく、だけれど……今回はあのときによく似ていると思うの」 「あのとき?」 「『ヒスイの排撃原理』よ」 「だってそうでしょう? 演じている人も同じだし、恋愛というのも同じよ。もちろん、違うところはあるけれど」 「それは、どうなんだ? 確かに似ているけれど、台本は別もんなんだろ?」 「別よ。ヒスイとアメシストは、続きものというわけではないし、順番に考える必要はないわ」 「だったら、切り離して考えたほうがいいんじゃ?」 「……そうは言っても、なかなか無いのよ、こんなこと」  夜子は、真剣な面持ちで語る。 「同じテーマで、同じ配役で、似たような本が開くということは。まるで、強い願いでもあるかのように」 「強い、願い?」 「魔法の本は、開いたものの願いに答えるのは知っているでしょう? 一冊目で叶わなかったから、もう一度。まるで、そんな意志を感じるのよ」  一冊目と、二冊目。  ヒスイと、アメシスト。 「……そういえば、彼女はどこでアメシストを開いたんだろうな。今回は、その経緯も不明だ」 「わからないどころだらけじゃないの。キミ、本当にやる気あるのかしら?」  はあ、と。  これみよがしに溜息を付いて。 「日向かなたは、一般人のくせに、本との関わりを持ちすぎているわ。ヒスイに続いて、二冊目――それが、嫌な方向に作用しなければいいけれど」 「嫌な方向って?」 「知らないわよ。魔法の本が何を引き起こすかなんて、あたしにはわからない」 「……そういえば、あいつの記憶には、綻びが生まれてたな」  それも、重要な要素かもしれない。 「妃のことを、覚えていた。ヒスイの時にしか出会っていないはずの妃を――あいつは、覚えてたんだよ」  サファイアの爪痕が、俺たち以外の部外者の記憶を葬り去って。  ヒスイの後処理が、当事者だった彼女の記憶を消し去ったはずだった。 「それも、二冊の本に関わってしまった、影響なのかな」  一般人の側ではなく、こちら側へ近くなってしまった。  本に触れる機会が多くなってしまい、知っている者の立場になりつつある。 「妃のことを、憶えている……確かにそれは、見過ごせない事実ね」  俺の言葉に、夜子は真剣に推測する。 「原作通りに進まない展開、二冊目の日向かなた、記憶の蘇り……」 「日向かなたの求めているものが、何一つ分かっていないのかな。俺はまだ、彼女の願いを理解してあげられていないのかもしれない」  原作通りに進められていないのは、俺の方か。  役者が下手糞過ぎて、魔法の本は、展開に納得していないのかもしれない。 「彼女は、どうしてこんな物語を望んだんだろう。どうして、俺なんだ」 「……それはやっぱり、キミと恋人になりたかっただけじゃないの?」 「それが、納得出来ないんだよ」  何度も繰り返される、その言葉。 「俺たちは、恋をするような関係じゃなかったぞ? 出会って間もない関係で――とてもじゃないが、恋愛沙汰が起きるようなものではなかった」 「それは、キミから見たら、でしょう? 日向かなたからしてみれば、そうじゃなかったのかもしれないわよ」 「二冊の本を開いて、俺に拘るほど?」  黙る夜子。  答えに窮している。 「そういう意味じゃ、ヒスイだって同じだよ。何故、彼女はヒスイを開くことができたんだろうな」  俺と、日向かなたの間には――背景が、欠けているのだ。  語るべき伏線も、想い出もないのに、物語だけは進む。 「好奇心が、物語を開くこともあるわ。魔法の本を開きたいという願いがあったなら、望まない物語を開いても不思議じゃない」 「でも、日向かなたは魔法の本の存在を知らなかったぞ」 「知らなくても、異変を望むくらいのことは出来るでしょう」  静かに、夜子は語る。 「何か、凄いことが起きて欲しい。今の日常を壊して欲しい。そういう漠然とした願いに応える物語も、この世には存在するのだから」 「……でも」  そんなことで、連続して似たような本が続くのだろうか。  やはり、ヒスイとアメシストの根底には、何か強い感情が働いているのではないのか――。 「とにかく、きっちりしっかり終わらせて頂戴よ。ヒロインに逃げられる主人公なんて、格好悪いだけだわ」 「……ん、何だよ」  少し、面白おかしく。 「お前は俺に、格好良さを求めているのか?」 「――っ!?」  もちろん、激昂するのは予想ができていて。 「勘違いするんじゃないわよ、この木偶の坊」  ぱしん、と。  切れ味抜群の平手打ちが、俺の頬を襲った。 「……っつ、久しぶりに、やられた気がしたな」 「謝らないわよ。キミが、変なことを言うのが悪いから」 「わかってるよ」  こうなると思って、言ったのだから。 「でも、格好悪いのは駄目だな」  頬をさすりながら、頷く。 「ヒロインが消えたなら、見つけてこその主人公だろうと思う」 「……そうね、それはその通りよ」  未だ苛立ちを残しながら、同意する夜子。 「んじゃま、取り敢えず探してくるか。図書館から出て行ったところで、あいつがいそうな場所なんて限られているしな」 「心当たり、あるのかしら?」 「廃教会とか、いかにも幽霊が出そうとは思わないか?」  初めて、彼女が幽霊であることを知った場所。 「ふん、精々呪い殺されないようにすることね」 「心配、してくれてるのか?」 「あたしが心配しているのは、キミの失敗で物語がつまらなくなってしまわないかということだけ」 「……そうかい」  変わらない夜子の有り様を見せつけられて、思わず笑ってしまう。 「それじゃ、ちょっと行ってくるよ。夕飯までには、戻るから」 「別に、そんなことを報告しなくてもいい。帰ってこなくても、問題ないわ」 「じゃなきゃ、理央が寂しがるからな」  なるべく、みんなで食べたいらしいから。  汀が家を留守にするようになって、妃がいなくなってから。  遊行寺家の食卓は、随分と寂しくなってしまったのだ。 「……好きにしなさいよ」 「ああ、そうする」  投げやりな言葉。  けれど、夜子が俺へ向ける中では、トップクラスに優しい言葉だ。  彼女のために、何が出来るだろう。  そう考えたとき、思い浮かんだのは真摯であれ、という言葉だった。  目の前の彼女のことを考えて、誠実に対応する。  それはあまりにも今更のことだったけれど、しかし、今更でも実践しなければならないだろう。  間違いは、正さなければ。  それでも俺は、アメシストを閉じなければならないのだから。  それは何よりも、日向かなたのためであると、信じている。 「……やっぱり、ここか」  教会に到着する。  彼女は、ステンドグラスの真下で、にこやかに微笑みながら俺を迎える。 「あら、瑠璃さんじゃありませんか。どうしました?」 「どうしたって……急にいなくなるから、心配になったんだよ」  なんてこともなさそうに、彼女は笑っていた。  そのことに、少し安堵する俺がいる。 「ふふふ、嬉しいじゃありませんか――この私を探してくれるだなんて。ようやく、瑠璃さんもその気になりましたか?」  なにやら、彼女はご機嫌だった。  昨日のことがなかったかのように、楽しげだ。 「なんて、分かっていますよ。それでも瑠璃さんは、私を愛してくれないんでしょう? 実の妹のことを、愛しちゃっていますから」 「…………」 「あ、気にしないで下さい。そういうのはもう、諦めましたから」  ちょいちょい、と、俺を手招きする彼女。  何の疑問に思うこともなく、近付く。 「諦めた? それは、どういう意味だ?」 「叶うことのない恋愛であることは分かっていましたが、ごっこ遊びさえ付き合ってくれないとは、思いませんでした」  俺の質問には答えない彼女。  くりくりとした瞳が、俺を捉えて。 「丁度、呼び出そうと思っていたのです。手間が省けて良かった」  にこやかな、笑顔のまま。 「ちょっと、後ろを向いてもらえますか?」 「……? いいけど」  言われるまま、振り返って。 「大丈夫です、痛いのは、一瞬ですから」 「え?」  首筋に、何かが当てられて。 「ふふふふふ、こうなったらもう、実力行使しかありませんね」  彼女のその言葉とともに、俺の身体に衝撃が迸る。 「――ッ!?」  首筋に当てられていたのは、スタンガン。  身体を襲った衝撃の正体は、高圧電流。  がっくりと崩れ落ちながら、意識を失う刹那、再び彼女の笑顔が瞳に映り込む。 「瑠璃さんが愛してくれなくても、私が愛してあげればそれで問題ないのです」  ああ――その笑顔の違和感は。  凝り固まったような、笑顔は。  まるで仮面のように、張り付いているだけだった。  心は、全く笑っておらず。  どころか、泣いてさえいるように見えてしまった。  近頃の幻想図書館は、とても静かだ。  事件も起こらず、ハプニングも起こらず、ただページを捲る音だけが心地良く響く。  物語に没頭している時だけ、全てを忘れていられる。  失ったものの存在に、思いを馳せることはなくなる。  だからあたしは、前よりも活字に目を落とすことが多くなった。  ――この本は、外れね。  面白くなかった。  とても冗長な展開で、心がときめかなかった。  閉塞した気持ちを揺さぶる一冊になるだろうと期待していたけれど、とんだ期待はずれに終わってしまう。  夜7時。  幻想図書館の夕食は、いつも決まってこの時間。  最近では、瑠璃と顔を合わせたくなくて、食事の時間をずらしていたけれど――。  腹の虫が、空腹を訴え始めていた。  集中も途切れたことだし、と。  読み終わった本を本棚にしまって、あたしは食堂へ向かうことにした。  立ち上がったときに、鏡に写った自分の姿が目に入って。  藤壺学園の制服を着ている自分が、とても奇妙な存在に見えてしまった。  通うこともしないくせに、あたしは毎日制服を着ている。  どうして、だろう。  それは、もちろん。  ――可愛いから。  それが、理由のすべて。  過ぎ去りし日々が、あたしの心を鷲掴む。  いただきますをする時間から少し遅れて、食道へと顔を出す。  てっきり、あの不快な木偶の坊と、あたしの可愛い理央がいるものだと思っていたけど、現実は違っていた。 「……あ、夜ちゃん」  食堂にいたのは、理央だけだった。  豪華に並べられた夕食を前にして、一人ぼっちで座っていた。  一番端の席にちょこんと座って、広い食堂を肩身狭く使う。 「理央……」  だだっ広い空間が、余計に孤独感を煽っていた。  寂しそうに俯く理央を見て、あたしの心の奥底から、奇妙な感覚が沸き立ち始める。  何故、ここに瑠璃がいないのだ。  どうして、理央を一人ぼっちにさせている。  理央を寂しくさせないようにと、あれほど言っておいたのに――! 「……って、馬鹿。あたしは、何をしてるのよ」  見当違いの認識に、腹立たしくなってしまった。  部屋に引き篭もっていたのは、あたし。  理央を寂しくさせているのは、他ならぬあたしだ。 「瑠璃は、どこ?」  動揺を表情に出さないよう、なんて事のないように聞いてみた。 「えーっと、わかんない。時間になっても来てくれないし、呼びに行っても、お留守だった」  日頃の様子から、なるべく食事を一緒に取ろうとしていることはよく知っている。  あたしの知る限り、ほとんど毎日、瑠璃は夕食をここで摂っていたし、  そのおかげで理央に寂しい思いをさせることなく、あたしは本を読むことができていた。 「よ、夜ちゃんも一緒に食べる? 瑠璃くん来ないかなーって待ってたから、まだいただきますしてないよ!」  その言葉は、本当だったのでしょう。  一切手を付けられてない夕食が、理央の心情を表している。  誰かを待ちわびて、誰かを願っていた。  豪華な食卓と、寂しい椅子が、嫌に際立ってしまっている。 「一人なら……あたしを、呼びなさいよ」 「でも、夜ちゃんの邪魔したら悪いかなって」 「瑠璃は、呼びに行くのに?」 「あはは……瑠璃くんは、毎回一緒に食べてくれたから」  気まずそうに、笑ってごまかすけれど。  また、理央はあたしに遠慮しているのだ。  一年前に、そういうものを克服できたと思っていたけれど、いつのまにか元に戻ってしまっていたらしい。  あたしは、我儘なお嬢様。  理央は、甲斐甲斐しい使用人。  その立ち位置を、あたしは嫌っていたはずなのに。 「夜ちゃんの気持ちも、わかるから。妃ちゃんがいなくなっちゃってから、辛そうだったもん」 「り、理央は夜ちゃんが快適に暮らせるようにするためにここにいるからね! 無理をさせたくはないのです」 「……そういう表情をされるのが、一番辛いのよ」  やっぱりあたしは、周りをちゃんと見れていない。  嫌なことがあると引き篭もってしまう大馬鹿者だ。 「お菓子作りを始めたあの日に、あたしは分かっていたはずなのに」  もう、一年前になってしまうのか。 「食べるわよ。一緒に、食べましょう。あたしだって、理央と食べるのが嫌で、引き篭もっていたわけじゃないのだし」  むしろ、理央と食べることは、幸せだ。 「うん、知ってるよ。夜ちゃんは、途中で本を読むのをやめられないだけだもんね」 「……今度からは、なるべく一緒に食べるから」  引き篭もってばかりだと、視界が狭まってしまう。  視線を本ばかりに向けていると、側にいてくれる人のことを見失ってしまう。 「もし、あたしが本に集中して食事の時間を忘れていたら、そのときは呼びに来てくれるかしら」 「……いいの? 読書ちうに、邪魔しちゃっても?」 「邪魔なんかじゃないわよ。こんな素敵な夕食を用意してくれるあなたを、邪魔者扱いするもんですか」  それは、嘘偽りない〈真〉《ま》〈心〉《ごころ》の言葉だ。 「うん! わかった!」  そして、ようやく理央は、笑ってくれた。 「それにしても、瑠璃は何をしているのかしら。あいつが理央との食事をすっぽかすなんて、珍しいわね」  認めたくないことだが、この図書館で、最も理央のことに気を配っているのはあの男だった。  妃がいなくなり、汀が殆ど帰ってこなくなってから、今まで以上に理央と一緒にいるようしていたと思う。  それは、瑠璃の長所で、だからあたしは、あいつの存在を拒めないのだ。 「わかんない。瑠璃くんが用事がある時は、前もって教えてくれてたし……こんなこと、初めて」  瑠璃と魔法の本についての会話をしたことを思い出す。  確かあいつは、日向かなたを探しに行ったはずだ。 「もういいわ、二人で始めちゃいましょう。あたしとしては、瑠璃がいない方が快適だわ」 「うう、理央は瑠璃くんにも居てほしいよぉ……」  肩を落としながら、理央は言う。 「今頃、幽霊と愛の語らいでもしているんじゃないのかしら」  ヒスイでも、好きだったと気安く誓っていたことだし。 「かなたちゃん……」  帰らぬ人のことは、それまでにして。  あたしたちは、夕食をとり始める。  待つ義理も、寂しくなることもなく。  しかし、胸を過る不安が晴れないのは、何故だろう。  その疑問に、答えてくれるものはいない。 「……う」  一体どれくらいの間、気を失っていたのだろうか。  首筋に残る電流の衝撃に唇を噛みながら、身体を起こそうとする。 「縛られてる……」  教会の柱を背もたれにして、ぐるっと手を回して固結び。  どうやら、動けない状態らしい。 「聞いてねえぞ、こんな展開」  誰が得するんだよ、これ。  せめて縛られるのは、ヒロインであって欲しかった。  未だ、スタンガンの衝撃があちこちに残っている。  日向かなたは、予想以上に暴力的だった。 「なんて乱暴なアドリブだよ」  本当に、なんでもありじゃねえか。 「あ、目が覚めましたか」  そんな俺の様子に気付いた彼女は、嬉しそうに駆け寄ってくる。 「ちょっとばかし、電流が強すぎましたね」  ひらひらと、真っ黒なスタンガンを見せつけてくる。  「随分と、危険なものを持っているんだな」 「これでも、か弱い女の子ですから。自衛のための手段は、常に携帯しています」 「本来の用途とは、別の使われ方をしたみたいだけど」  自衛、どころか。  自分から、襲ってるじゃねえか。 「……意外と、動じていないんですね。少し、びっくりです」 「別に、殺されたりするわけじゃないんだろ。というか、まだ少し頭が回っていない……」  電流の後遺症か、思考か鈍い。 「簡単に説明するとですねー」  楽しげな表情は、変わらずに。 「移り気で私を愛してくれない瑠璃さんは、一生ここに閉じ込めて、たくさんたくさん愛でてあげようと思ったのです」 「…………」  まあ。  流れ的には、そういうところに落ち着くのだろう。 「逃げないように、足を切り落としてあげようかとも思ったんですけど、私の手を汚したくはないんですよねえ」 「……ジャンルが、変わってるじゃねえか」  いつからこの物語は、ヤンデレ少女のストーカー劇になったんだよ。 「あの図書館には、もう二度と戻らないで下さいよ。あんなところにいたら、瑠璃さんを独り占めできませんから」  ぐっと、顔を近づけて命令する。 「他の女の子を見つめる瑠璃さんなんて、この世に必要ないのです」 「…………」  やはり、俺は失敗してしまったんだろうな。  中途半端に彼女の恋人役を引き受けて、妃のことを忘れられないままに日常を過ごし、その役割を放棄してしまった。  その結果、彼女の恋心を悪戯に掻き乱してしまって――報復されてしまっている。 「瑠璃さんが悪いんですよ……最初に、気を持たせるようなことを言うから」 「……悪かった」 「今更謝られても、取り返しはつきません」  じっと、俺を見つめて。 「私を弄んだ、相応の報いを受けてもらいます」  それから、彼女は背を向ける。  何かを企んでいるような、楽しげな声色だ。 「ちょっと付き合ってやれば、適当なところで開放してくれるだろうって思っているんでしょう?」 「…………」 「残念ですが、私、成仏するつもりなんて、さらさらありませんから」  にっこりと、微笑んだまま。 「あなたが私を愛してくれるまで、私は呪い続けましょう」  幽霊らしく、立ち振舞う。  幽霊らしく、呪詛の言葉を吐く。 「私、とても嬉しかったんですよ? 瑠璃さんに告白をして、一時的にでも、付き合ってくれることになって」  胸に、手を当てながら。 「嬉しくて嬉しくて、そのまま成仏してしまいそうになるくらいでした。私は幸せになれると、本気でそう思っていたのに――」  それから、俺は。 「楽しそうにしているのは、他の女の子の前だけ。私の前では、笑顔さえ見せてくれません。そんなの、満足できるわけ無いでしょう」  彼女と仲良くしようとすると、どうしても妃の顔がちらついてしまったのだ。  一時的な恋人関係を、楽しんではいけない。  喜んではいけない。  そう、あるべきだと思ってしまったんだ。 「私のことを一人の女の子として見てくれないのなら、無責任に恋人になったりしないでくださいよ」 「彼氏だと、自称しないでくださいよ。大好きだって、嘘をつかないで下さい」  大好き?  俺は、そんな言葉を彼女に言ったっけ? 「だから瑠璃さんは、呪われて当然なのです。監禁されて、当然です。これは私の、復讐なのですから」 「……これが、あんたの復讐?」  縛りつけて、動けなくして、独占。  確かにこれでは、図書館へ帰ることもままならない。 「ええ、そうです。このまま死ぬまでここに閉じ込めて、ずっとずっと、私と暮らしてもらいます。今日から瑠璃さんは、私の愛玩動物ですよ」 「それは……困るな」  帰れない、という言葉を聞いて。  まず、夕食のことに思い至った。  時間の感覚ははっきりしていないけれど、お腹のヘリ具合からすると、とっくに夜になってしまっているのだろう。 「困る? そんなの、知りませんよ。瑠璃さんの希望は、聞いていませんから」  構うことなく、彼女は続ける。  監禁という行動に打って出た以上、もはや迷いはないのか。 「なあ、一つ、聞いていいか」  帰る、帰れないの話は、終りが見えないだろうから。  ひとまず、話題を変えてみる。 「あんたは、どうして幽霊騒動を起こしたんだよ。どうして、星を見る少女なんて演じようと思ったんだ」 「……星を見る少女のように、自殺した私の存在を、そのまま好きになってくれるようにと願ったからですよ」  青年が、アパートの窓から見た少女。  星空を見上げて、儚げなその様子に、青年は恋をするが。 「死んだ私にも、意味があるんだなって、思えたから。瑠璃さんも、そういう私に恋してくれないかなって」  恋していたのは少女の死体で、彼女はすでに、幽霊になってしまっていた。  それが、星を見る少女の怪奇伝承。 「現実の瑠璃さんは、少女のことを見ようともしてくれませんでしたけどね」 「……そうか」  プロセスが、欠けていたんだと思う。  俺と彼女の間で、仲良くなるためのステップが足りていなかった。  だから俺は、ヒスイの時のように感情移入することが出来ず、中途半端なまま物語を進めてしまった。 「興味を持って貰いたかったんですよ。色々と、構ってもらえるように頑張ったんですよ。でも、全て無駄でしたね」  悲しげに、瞳を震わせて。 「それでも私のことを見てくれない。どうして? 私は胸が苦しくなるくらい、瑠璃さんのことが好きなのに」  今にも泣きそうな声で。 「私はただ、生きている間に出来なかったことを、果たしたかっただけなのに」 「…………」  生者と、死者。  幽霊と、人間。  「生前に、やりのことしたこと――か」  それでも、やっぱり俺は、こういうとき。  死んだ妃のことを、思い出してしまうんだ。 「生きている者が、死んでいる者に対してしてあげられることなんて、あるのかな」  今、ここにいる彼女を見ず。  遠いところへ行ってしまった、妃へ問いかける。 「いくら探しても、それは見つからないんだ」  義理立てして、彼女と仲良くならないこと?  それは、死んだものへの義理立てなどではなく、生きている自分の、純然たる未練だ。  無意味な行為に意味をこじつけ、痛みのない妄想を選択する逃避。  そういうのは、あいつが一番、嫌うことだった。  ――死というのは、絶対ですからね。  だから私は、幽霊系の感動話が嫌いです。  昔、本の感想をめぐって、そんなやりとりをしたことがある。  ――特に、死者を言い訳にぐだぐだ尾を引くような主人公とか、虫唾が走りますね。  はっきりと、言った。  ――瑠璃は、そういう男性になってはいけませんよ。  淡い、遠い日の思い出。  思い出したら泣いてしまいたくなる、辛辣な言葉だ。 「……ぼーっとして、随分と余裕じゃないですか」  過去を追想する俺へ、彼女は不機嫌に唇をとがらせる。 「まあ、こうなってしまった以上、瑠璃さんの意志も、希望も関係ありませんからね。私が勝手に、瑠璃さんを愛するだけですから」  愛玩動物と、先ほど言っていたが。 「……このままだと、俺は死んでしまうぞ」 「それでも別に、構いません。生きているか死んでいるかなんて、些細な違いですし」 「些細じゃ、ねえよ」  声を押し殺して、言う。 「それは、致命的な違いなんだ」 「だったら、死んでくださいよ」  冷徹に、彼女は続ける。 「死んで、私と同じ幽霊になって下さい。そうすれば、何の気兼ねもなく私といちゃいちゃできるんじゃないですか」 「…………」  死んで、同じ立場に。  ああ――なるほど、そういう考えもあるのか。  妃の後を追って、俺が死んだら。  あの世でまた、再び再会することが出来るのかな。 「……それは、怒られそうだなあ」  滅茶苦茶、怒られそうだ。  下手をすれば、無視されるかもしれない。 「でも、いいなあ……」  怒られたいし、無視されたい。  死んで、それが叶うなら――それも、いいかもしれない。 「何を、笑っていますか。少し、気味が悪いです」 「……わかってるよ」  ブツブツと、自分の中の葛藤と戦い続ける。  そう、何を考えるまでもなくわかっている。 「すぐにでも、あいつの事を忘れて前を向く。あいつの遺した志を胸に抱いて、あいつが生きた意味を証明する」  そういうキャラクター像こそが、妃が俺に求めるものなのだろう。  後を追って、自殺したり。  まして、未練がましく尾を引いて、後ろ向きに生きるなど、問題外で。  「どこまでも現実的で、そして、何よりも前を見据えた、妃らしい考え方だ」  その強さは、まぶしすぎて到底、真似を出来ない。 「一人で、盛り上がらないでくれますか。目の前の私を、ちゃんと見て下さい」 「……ああ、そうだったな」  今の俺の現実は、これだ。  まずはこれを、解決しなきゃだな。 「もう、殺してあげたほうが良いような気がしてきました。何だか上の空です」  幽霊らしい、凶暴な言葉を繰る。 「死ねば、他の女の子に目移りすることもないでしょうから、そうしましょうか?」  そういって、彼女はスタンガンを取り出した。 「……何をするつもりだ」 「生憎、血を見るのは嫌なので……これで瑠璃さんを調教しようかと思いまして」  電圧の調整レバーを、俺に見せつけて。  力強く、振りきれるほどレバーを捻った。 「電力全開、改造スタンガンですから、痺れますよー」  試しに彼女がスイッチを押すと、電流が視覚的に迸る。  ばちっという音は、背筋を凍りつかせる程度には威力があった。 「ちょっとでも不誠実な態度をとったら、1ポチですよ。ビリビリです。ふふふ、少しは監禁らしくなってきました」 「……ヤンデレっぽくなってきたじゃねえか」  余裕ぶった受け答えをするも、冷や汗はだらだらだった。  気持ちは前向きに変わったけれど、現状何も解決していない。  そして彼女は悪魔のようなほほ笑みで、スタンガン片手に訪ねてきた。 「ねえ、瑠璃さん。私のこと、好きですか?」 「…………」  イエス、と答えたら、ウソを付くことになって不誠実。  ノー、と答えたら、脊髄反射的に罰ゲーム。  これは、どうすることも出来ない質問だ。 「ふふふ、今更イエスということすら、出来ませんか。残念です」  スタンガンを、こちらに向けながら。 「もし、イエスと即答していたら――すぐにでも、押し当ててあげましたのに」 「……沈黙が、正解か?」  伺うように、訪ねてみたが。 「そんなわけ、ないです」  一転して冷ややかな瞳を向けた彼女は、スタンガンを振り下ろす。 「大丈夫ですよ。電流で頭がおかしくなったとしても、私は瑠璃さんを愛しますから」  立派なヤンデレ少女と化した日向かなたは、一切の躊躇なく。  こうなるのも、必罰だったのかと、過去の自分に唇を噛む。  これが、アメシストの末路で、彼女の気持ちを台無しにした結果。  自己責任という、言い逃れの出来ないエンディングかと、ぎゅっと目を閉じた。  その、刹那。  教会の入り口から、誰かが扉を開く音がした。 「…………え」  スタンガンが俺に触れる直前、彼女の手は止まって。  そして俺は、来訪者の姿を見て、腰が抜けるくらいに驚いてしまった。 「あら、こんなところでかくれんぼかしら。中々、悪趣味ね」  夜子、だった。  制服姿の夜子が、さも図書館の廊下ですれ違うかのように、声をかけてくる。 「何よ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして。キミ、今とても面白い顔をしているわよ」 「……ど、どうして」  言葉が、言葉にならなかった。  何故、夜子が図書館を抜けだして、ここに来たのか。  何故、夜子はこうも自然と振る舞っていられるのか。  一切の現実味のない展開が、俺の思考を置いていく。 「どうしてって……そんなの、決まっているでしょう」  そこで、夜子は少し罰が悪そうに、視線を逸らして。  気恥ずかしさを交えながら、それでも、柔らかく言ってくれた。 「夕食の時間よ。理央が待っているから――早く、帰ってきなさい」  理解の追いつかない展開に、目を丸くさせながら。  それでも、胸に去来した衝動は、たった一つ。  帰りたい。 あの、図書館へ。  夜子が招いてくれる、その喜びとともに。 「全く、余計な手間をかけさせないで欲しいわね。案の定、面倒なことになってるじゃないの」  日向かなたのことを一瞥した後、恐れることなく夜子は近付く。 「大根役者も、いい加減にしなさい。どうしてこんな風に物語がねじ曲がるのかしら」  見据えるのは、俺だけ。  スタンガンを手にする彼女のことは、気にもとめず。 「ち、近付かないで下さいっ! 駄目ですよ! 瑠璃さんはもう、私のものなのですから!」  対する彼女は、スタンガンを夜子へ向け、威嚇する。 「あー、はいはいアメシストが閉じた後ならいくらでも好きにしていいから、今は黙ってて」 「何を分けのわからないことを!」  第三者の登場に、彼女の方は震えていた。 「やめてくださいよ……! どうして、次から次へと女の子が現れますか。どうして、私じゃないんですか」  怒りに従って、彼女は夜子へスタンガンを突きつける。  その威力を身を持って体験した俺は、その危険に焦るが。 「お、おい、夜子、危ないって」 「危ない? 何のことかしら」  夜子は、それを見えているはずなのに。  彼女が、スタンガンを持って、対峙していることは明瞭なはずなのに。 「一歩でも近付いたら、容赦なく電流を流しますからね……!」 「ふぅん」  一歩、近付いた。  躊躇うことなく、迷うことなく、夜子は俺へ、近付いた。 「馬鹿っ――!」  そして、本当に――彼女は、スタンガンをつきだした。  身を守る獣のように、迫り来る脅威に逆らおうとして。 「――え?」  しかし、夜子の身体に、電流が流されることはなかった。 「いつまで、夢を見ているのかしら」  彼女の持っていたスタンガンは、夜子の身体を通りすぎてしまった。  迸る稲妻も、黒い凶器も、彼女の腕も。  一切、干渉することが出来ず――彼女は夜子へ、触ることすら出来なかったのだ。 「そ、そんな……」 「貴女のような悪霊が傷付けられるのは、精々とり憑いた人間だけでしょう」  そうして、あっけなく、夜子は俺の眼前へ到達する。  無様にも縛られた俺を、冷めた瞳で見下しながら。 「キミは、何をしているのかしら」  言葉尻に、いらいらが込み上げていた。 「悪いな、上手くいかなくて」  これは、俺が招いた結果である。 「キミは、女の子の扱い、下手そうだものね」  少し、含み笑いを浮かべながら。 「その姿、よく似合っているわよ」 「うるせえよ」  罰の悪そうに視線を背けた俺へ、夜子は屈みこむ。 「……なにこれ、解けないんだけど」 「固結びで、適当に縛られたらしい。指じゃ、きついか」 「頑張ったら出来るかもしれないけど、指を痛めそうだから、嫌」 「…………」  俺の救世主は、思った以上に自分本位だった。 「どうして……幽霊になっても、私は……」  夜子の背後で、彼女は泣きそうになっていた。 「私は、欲しいものを手に入れられないんですか……!」 「……何? まだ成仏していなかったの?」  面倒くさそうに、夜子は振り返る。  俺の縄は、解けていないまま。 「こんなことで、成仏できるわけがないでしょう! 夜子さんは、私の気持ちを何だと思ってるんですか!?」 「可哀想な、女の子」  冷めた声の調子で、続ける。 「愚かにも自殺してしまった、可哀想な幽霊少女と、思っているけど?」  まるで煽るような口ぶりに、冷や汗が止まらない。 「何ですかその言い方は! 私だって、自殺なんかしたくなかったですよ! ただ、幸せになりたかっただけで……!」 「でも、幸せになれなかった」  現実を、突きつける。 「自殺して、現実から逃げ出したお前は、二度と幸せになれないのよ」 「なっ……!」  残酷な、言葉だった。 「お、おい、夜子……!」  いくらなんでも、その言葉はどうだろう。  今、この場で言うべきことなのか? 「あなたの願う幸せは、絶対に叶わないわ。瑠璃は、あなたに恋をしないし、あなたと幸せにもなれないの。だって、あなたはもう死んでいるのだから」 「そ、そんなの、分かっていますよ……! 分かっていますとも!」  対する彼女は、反論する。 「だから、成仏するまでの時間だけでいい! その間だけでも、恋人になってくれたら、私は、満足だったんです……!」  彼女は、俺を睨みつけながら。 「でも、瑠璃さんは、それさえも許してくれませんでした。束の間の夢さえ、打ち砕いてしまうのです。それも、最悪の形でですよ!?」 「……あなたは、それで本当に満足だったのかしら」  少し、優しい口調だった。 「あたしには、とてもそうは見えないのだけど」 「……どういう、意味ですか」 「瑠璃があなたと付き合っても、きっと満足しないということよ。渇望していた幸福を手にしたあなたは、本当に成仏することが出来るのかしらね」 「手にした幸福を、今度は手放したくないというのが、人間らしい欲望だと思うけれど」  付き合って、満足できるのか。  思いが通じて、満足できるのか。  目先の幸福を経験したら、更に次の幸福が欲しくなる。 「そ、そんなことはありません! 私だって、謙虚で、弁えているつもりです……」 「今まで幸せを知らなかった幽霊少女が、降って湧いた幸せを、手放せるとは思えないわね」 「……っ」  なるほど、日向かなたという人間性を、見てみたら。  こうやって、俺を縛り付けている状況を考えたら。  俺が彼女の恋に応えても、そう上手くいっていなかったのかもしれない。 「突然やってきたと思ったら、何なんですか、あなたは! 知った風な口を聞いてくれますね……!」  当然、彼女も憤る。 「あなたが私の、何を知っているというのですか! 引き篭もりの夜子さんには、私の気持ちなんて絶対にわかりませんよ!」 「当たり前じゃないの。お前の気持ちなんて、わかりたくもない」 「むっかー! お嬢様だからって、態度が大きすぎますよ! 恋もしたことのなさそうなあなたが、よくもまあ言ってくれたものですね!」   無神経な夜子の言葉に、彼女は怒っていた。  不幸な自分と、夜子を対比させていたのだろうか。 「ただ幸せになりたかっただけの、不幸な女の子の気持ちなんて、絶対にわからないんですよ!」 「報われない生き方をして、報われないまま死んでしまった自分に、意味を見出したいという気持ちなんて理解できないでしょう?」  無言で、夜子は見据える。 「生と死の境界線なんて、知ったことじゃないですよ……幽霊になってでも、果たしたい願いがあったんです……!」  彼女は、やはり怒っていたのだが。  同時に、涙していた。 「……あなたの胸の内を、ちゃんと曝け出して。まだ、話していないことがあるでしょう?」  鋭い視線で、言及する。 「たまたま、瑠璃が自分のことを見えていたから。確か、そう説明していたようだけれど――違うんでしょう?」  彼女が、初めて幽霊であることをカミング・アウトし、俺に交際を迫ったとき。  自分のことが見えたのは、俺だけで。  だから、一人ぼっちの自分を見つけてもらった俺に、恋をしたのだと。 「最初から、あなたの目的は瑠璃だった。だから、瑠璃だけに見てもらえればそれでよかった。ただ、それだけのこと」 「…………」  俺が、選ばれたのには、理由があって。  でも、その理由に、心当たりはなかった。 「駄目ですよ、夜子さん」  静かに、彼女は零す。  ゆっくりと、首を振って。 「瑠璃さんは、全部なかったことにしたいらしいから――今まで、何も言わなかったのに」  声が、震えていた。  今までで、一番悲しそうな表情をしている。  全てを、悟ったかのように。  全てを、諦めたかのように。 「お、おい、それは、どういう意味だ?」  たまらず、俺は聞き返す。  彼女から、好意を持たれるような心当たりがなかったから。  本当に、何もなくて。 「嘘吐き」  日向かなたは、吐き捨てるように。 「瑠璃さんは――どうしてそんなに、嘘吐きなんですか」  くしゃっと。  彼女の表情が、悲しみに歪んだ。 「私のことを、大好きだって、言ってくれたくせに――!」 「……えっ?」  なんの、ことだ?  俺は、アメシストが始まってから、彼女にそんな言葉を囁いた記憶はない。  だって、俺は妃のことで、頭がいっぱいだったから。  嘘でさえ、口にしたことはない。 「キミ、本当に覚えがないのかしら」  責めるような表情で、夜子は尋ねる。 「い、いや……俺は」 「本当に、瑠璃さんは最低ですね。だけど、どんなに最低な男の子でも、好きになっちゃったら、しょうがないじゃないですか」  手の平で、顔を隠しながら。 「だから、幽霊になっても、瑠璃さんのことを諦められなかった……!」  泣きじゃくる彼女を前にして、途方に暮れる。  それでもまだ、彼女の言葉が理解できない俺は、最低か。  泣かせてしまっている理由が、わからないんだ。 「私は、悪い子でした」  そして、遂に。 「自分で不幸を望むような、構ってちゃんの面倒な女の子でした」  彼女が俺を望み続けていた理由に、至る。 「それでも、そんな私を許してくれて――甘える私に、大好きだって、囁いてくれて」 「あの夕暮れの教室で、瑠璃さんはキスをしてくれました。間違った関係を修復して、一からやり直そうと約束してくれたじゃないですか」 「――あ、あああっ!」  ようやく、理解した。  心当たりがなかったのは、忘れていたからではなく。 「翡翠色の愛を、私に囁いてくれました。あの日々は、全て嘘だったんですか――?」  その日々がなかったことになっているのだと、思い込んでいたからだ。  魔法の本が閉じたら、その記憶は失われる。  『ヒスイの排撃原理』は、確かに彼女から記憶を奪っていたはずなのに。 「覚えて、いるのか……?」 「忘れるわけが、ないじゃないですか。私にとって、それは確かな初恋だったのですから」  ヒスイの記憶が、残っていて。  アメシストの物語に、影響している? 「今回、思うように物語が進んでいなかったのは――2つの物語の影響が、混ざり合っていたからよ」  ヒスイ。  不幸を望んだ少女の、狂言イジメ。  アメシスト。  幸福を望んだ少女の、狂言騒動。  並べてみれば、よく似ていて。  どちらも俺が、傍にいた。 「物語としては矛盾だらけだし、辻褄もあっていない。けれど、納得はできたわ」  本来、既に死んでいるはずの幽霊少女と、生前の面識なんてあるはずがない。  しかし、ヒスイの物語の爪痕が残ってしまったまま、彼女がアメシストを開いてしまったことによって――ヒスイの設定をのこしたまま、アメシストが開いてしまったのである。 「続きものではないのに、続き物のように展開してしまっている。だから、アメシストは、台本通りに進んでいなかったのね」 「あのときは、私のことを愛してくれるって言ってくれたじゃないですか」  要するに。  日向かなたは、『ヒスイの排撃原理』の記憶を残したまま、『アメシストの怪奇伝承』のヒロイン役になってしまっていて。  更に、それが同一の物語だと思い込み、矛盾を孕んだ展開を見せてしまっている。 「瑠璃さんの、馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿ッ! どうして、私が忘れただなんて、思えたんですか――わたしの愛の深さを、見くびらないで下さい」 「…………」  ああ、物語は破綻してしまっている。  アメシストは矛盾を生じさせて、本来の物語から逸脱していた。  今眼の前にあるのは、ヒスイとアメシストに踊らされた、一人の少女。 「……ごめん」  確かに俺は、ヒスイの最後で彼女の愛を受け入れた。  全てをやり直して、二人の関係を作っていこうと。  しかしそれは、ヒスイの配役として囁いた、その場限りの言葉だったのだ。  まさか、それが続いているとは、思っていなくて。  なるほど、彼女からしてみれば――ヒスイが閉じて以降の俺は、酷く不誠実に見えたのだろうな。  ルビーでは、夜子と仲良く登校していて。  サファイアでは、妃と最後の愛を育んだ。  アメシストでは、幽霊になった彼女へ、適当な対応で悲しませて。  ヒスイの物語を覚えていた彼女からしてみれば、それは裏切り行為に他ならなかっただろう。  恨みも募って、当然か。 「どうして、それを隠していたのかしら。覚えていたのなら、瑠璃に問い詰めることも出来たでしょう」 「……私でさえ、あれは夢だったのかと、思ってしまっていたからです」  視線を合わせないまま。 「夢のように、幸せだったから。その後の瑠璃さんの対応を見ても、現実とは思えなくて……」  奇妙な距離感だった。  それだけは、印象深く憶えている。 「でも、幽霊になってからは、明確に思い出すことが出来るようになりました。あれは、夢ではなく現実だったと。今更のように、確信しました」 「だから、復讐みたいなものですよ、これは」  スタンガンと、ロープに視線を向ける。  尚も俺は、縛りつけられたまま。 「移り気な瑠璃さんを懲らしめるための、罰。償って、もらいますからね――」 「残念だけれど」  間髪淹れず、夜子が口を挟む。 「それでも、お前の恋は叶わない」  立ちふさがるように、宣言した。 「……どうしてですか? 私は、瑠璃さんに弄ばれた被害者ですよ?」 「あなたを失恋させることが、この物語の終わらせ方だと思うから」  指をさして、指摘する。 「ヒスイから続く瑠璃への想いを諦めなければ、お前は未練をなくして成仏することは出来ない」  イコール、アメシストは終わらない。 「……それは、夜子さんには関係のないことですよ」  彼女は、俺を見つめながら。 「ねえ、瑠璃さん――私の全ての胸中を知って、それでも私のことを愛してくれませんか?」  屈み込んで。 「私は、それくらいの償いを求めても、許されると思うのですが」 「…………」  そこで、俺は考えこむ。  彼女に、どういう言葉を返してあげるのが、一番良いのか。  ヒスイの登場人物でも、アメシストの登場人物でもなく。  四條瑠璃が、日向かなたへどういう言葉を渡せばよいのかを。 「……俺は」  翡翠の恋の味を、思い出す。 「あんたのこと、好きだったよ。確かにあのとき、不幸に苛まされるあんたを助けようとした日々は、とても印象深かった」  妃という、想い人がいながらも。  翡翠色の恋心が芽吹いていたことを、今更否定はできないだろう。   それが、ヒスイの影響だったかどうか、それは誰にもわからない。  多分、わからないままにしておくほうが、都合が良かったのだろう。 「嘘を、口にしたつもりはない。たしかに俺は、そういう感情を抱いた」  どんなに否定しても、それは事実だろう。  だから妃は、ああまで俺に嫉妬を示したのだ。 「でも」  やっぱり俺は、彼女の気持ちには答えられない。  四條瑠璃は、月社妃のことを愛しているのだから。 「俺、好きな人がいるんだよ。その気持ちに、嘘はつけない」 「……それは、前にも、聞きました」 「そうだな。でも、それが全てなんだよ」  だから俺は、あんたを愛せないし。  あんたの気持ちにも、答えられない。 「……それでもまた、私は振られてしまうんですね」  もはや、諦めきったような声だった。 「こうも嫌われてしまったら、私の存在していた意味なんて、なかったのかと思ってしまいます」  そう言って、涙を浮かべたまま俺を見つめる。 「……お前の恋は、叶わない。けれど、無意味だなんて、思わないで欲しいわ」  それは珍しい、夜子の優しい言葉だった。 「……私だって、分かっていましたよ」  静かに、語る。 「瑠璃さんが、私のことを愛してくれないことなんて、明白でしたから。全然、楽しそうじゃないですし」 「……それは」 「理央さんや、本城さんとは、あんなに楽しげにお喋りするのに……だから、不満をぶつけたかっただけなのかもしれません」  復讐、と。  彼女は先ほど、そういった。 「私にああいうことをしておきながら、他の女の子といちゃいちゃして。気持ちが滅入って滅入って、仕方がありませんでした」  スタンガンを弄びながら、乾いた笑いを浮かべる。 「一つ、誤解をしている」  訂正しておかなければ、ならないだろう。 「俺は、確かにあんたといるときは、面倒くさそうな表情をしていたが――」  それは、否定しないが。 「――決して、楽しくなかったわけじゃ、ないからな」 「……え?」  それだけは、天に誓って宣言しよう。 「あんた、面白い奴だよ。普通の奴らにはない、愉快さを持ってる。ま、面倒くさいことには変わりないけどな」  それでも。  面倒くさいと思っても――嫌いになんて、なれなくて。  あけすけのない距離感が、少しずつ病み付きになっていく。 「俺が不機嫌そうな表情をしていたのは……ほら、今更楽しそうに笑うのも、変じゃねえか? っていう……」  弱みを見せるような、気がして。  彼女にだけは、それを見せたくなくて。 「それだけは、誤解してくれるなよ」  その言葉に、彼女はただ。 「……今更、そんなことを言われても、どうしろっていうんですか」  本当に困ったように、笑うんだ。 「あーあ、拍子抜けしてしまいましたよ。本当なら、忘れていたことをネチネチと攻め立てようと思っていたのに」 「……悪かったな」 「結局、私は何がしたかったんでしょうね」  天を見上げながら、一人呟く。 「病んでみても、中途半端に終ってしまって。復讐しようとしても、やっぱり果たせないでいる」  横目で、俺を見て。 「――あのときの言葉が、瑠璃さんの本音だって聞いて、嬉しいと思ってしまう自分がちょろくて困ってしまいます」  ヒスイも、アメシストもかわりなく。  日向かなたは、日向かなたなのである。 「私にも、そういう甘酸っぱい想い出があったんだなって思うと――こんな私でも、幸せに思ってしまいますね」 「瑠璃は、あのときのことは忘れない。お前と恋した想い出を、忘れない。だから、今は眠りなさい」  夜子は、静かに成仏を諭す。  そういえば、これはそういう物語だった。 「まるで、邪魔者のようですね、私」 「死後も尚、幽霊として彷徨う存在を、邪魔者ではなくなんと呼ぶのかしら」 「……冷たいですね」  さすがの彼女も、苦笑い。 「それでも、あんたとの想い出は、決して邪魔なんかじゃなかったぞ。無駄なんかじゃなかった」 「全て過去のように言われてしまうと、切ないですね」  目を伏せながら、彼女は呟く。 「私が幽霊であることを、突きつけられているような気がします」  それが、『アメシストの怪奇伝承』 「ねぇ――瑠璃さん」  それから、彼女は。  ゆっくりと、俺の方へ向かってくる。 「立って下さい」  どこからか取り出したハサミで、ロープを切る。  言われるがまま、俺は彼女に相対して。 「本当は、分かっていたんですよ。私の、未練の正体」 「……ああ、聞こう」  そして、『アメシストの怪奇伝承』を、終わらせようじゃないか。  『ヒスイの排撃原理』のケジメを、つけよう。 「あなたともっと、恋をしたかった。でも、それが叶わないことを理解しても、どうしても諦められなくて」  震える声が、切実に。 「どうして私は、自殺なんてしてしまったのでしょうか。輝かしい思い出を持っていながら、愚かなことをしてしまいました」  それは、ヒスイの爪痕が残した矛盾。  アメシストの筋書きには存在していない、生前の少女の記憶。  「だから、私に、瑠璃さんのことを諦めさせて下さい。そうでなくちゃ、私はずっと、恋に囚われてしまいます」  そして、彼女は。 「――大好きです。私と、結婚を前提に付き合って下さい」  告白、した。 「私と一緒に、死んでくれませんか」  呪いのような、想いとともに。 「――ごめん、俺は」  だから、俺も真心を込めて。 「俺は、あんたと付き合うことは出来ない。あんたのことは、大事な友達だと、思っているから」  ヒスイでは、恋をしかけたこともあったけど。  それでも俺は、彼女の愛を受け入れることは出来ないんだ。 「ごめんな――今の俺は、あんたのことは愛していないけど……それでも、あのときの言葉に、嘘はなかった」 「……本当に、酷い人ですね」  拒絶された彼女は、乾いた笑みを浮かべたまま。 「呪ってあげますからね。こんな可愛い女の子を振るなんて、罰当たりな」 「いいよ、存分に呪ってくれ。それで、あんたが安らかに逝けるなら」  そうして、彼女はゆっくりと、頷いた。 「もし、生まれ変わりというのが実在するのなら」  神様に願う、祈り子のように。 「今度こそ、好きな人と寄り添う人生を送れますように」 「二度と、悲しい恋をしないように」 「せめて小さな幸せを――私に授けて下さい」  切ないほどの声で、願った。 「お願い、神様」  そして、最後に。 「本当に、大好きだったんです――」  言葉を一つ、置き去りにして、彼女は意識を失った。  一陣の風がふきさして、それまで流れていた空気を一変させる。  まるで、世界が変わったかのように、物語は終わりを迎えたのだろう。 「――今度こそ、終わったんだな」  意識を失った彼女を抱きしめて、俺は天を見上げる。  教会のステンドグラスは、変わらず煌めいていた。  かくして、『アメシストの怪奇伝承』は終りを迎える。  それは『ヒスイの排撃原理』から続いていた、彼女との恋物語の終焉でもあったのだろう。 「早く、帰らせなさいよ」  図書館へ帰ってきた夜子は、開口一番にそういう。  アメシストが閉じて、気を失った彼女を、ソファーへと寝かせて。 「……目が覚めるまでは、ゆっくりさせてやれよ。二冊目なんだからさ」  ヒスイとアメシストに振り回された、静かに眠る彼女へ。  今は、万感の思いがこみ上げてくる。 「あれで、アメシストは満足したのかな」  何かを、満たされるような終わり方ではなかった。  それは多分、ハッピーエンドとは程遠い物語ではあったけど。 「満足したから、閉じたの」  短く、夜子は説明する。 「瑠璃との思い出を忘れることが出来なかった、失恋話なのだから」  もし、ヒスイが彼女から記憶を失わせていなかったのなら。  あるいは、忘れていたとしても、時間の流れとともに思い出し始めていたのだとしたら。 「少しずつ、ヒスイの日々を思い出して――まるでなかったことのように振る舞う瑠璃へ、不満を募らせていたのよ」  愛をささやき、口付けを交わして。  しかし全てが、なかったことにされている。  親しい関係性は、失われてしまったいたのだ。 「それが、日向かなたの不満。解消できていない、願いよ。それを、アメシストが汲み取ったのでしょうね」  アメシストが、開かれた理由。  紫水晶の物語は、未練を残した幽霊少女の願いを叶えてあげる物語だった。 「ヒスイの要素が加わって、かなり改変されてしまっていたけれど、根底は何も変わらない」  それが、少女の願いだった。  それが、少女の不満だったのだ。  ヒスイで演じた、俺たちの。  そこにあった想いを確かめるために、彼女はアメシストに見出された。 「……彼女は、白黒はっきりさせたかったのか」  曖昧なまま、後を濁すことに我慢できず。 「俺の真意を、知りたかったんだな」  当時の、気持ちを。  そして今の気持ちを。 「だからこれは、ヒスイから続く一年越しの物語」  そしてこれで、全てが終わったのだろう。 「……キミが、悪いのよ。いつまでも気を持たせるようなことを口にするから、変に物語が拗れたのだし」 「まさか、ヒスイのことを憶えているなんて思いもよらなかったんだよ。ていうか、そもそも何で覚えてたんだよ」  魔法の本に係る記憶は、本が閉じた後に閉じられるはずだろう。  現に、ヒスイが閉じた直後の彼女は、記憶をなくしているようだったし。 「知りすぎたのかもしれないわね。あるいは、近付き過ぎたのかも」  神妙な面持ちで、夜子は語る。  その言葉は、不穏な響きを備えていた。 「ともかく、無事『アメシストの怪奇伝承』を収集することが出来たわ」  少し、嬉しそうに笑う夜子。 「……そういや、初めてだったな」  夜子が当主代理を努めるようになって、一冊目に回収した本だ。 「あたしだって、やればできるということよ。キミ一人なら、まだ物語に囚われていたんじゃなくて?」 「……否定はしない」  実際のところ、俺の立ち振舞は下の下もいいところだったのだし。  あのとき、夜子が来てくれなかったら――あ、そうだ。 「まさか、助けに来てくれるとは思わなかったよ」 「……助けたわけじゃない。あたしは、あたしのすべきことをしただけよ」  少し膨れっ面。 「キミのことはどうなっても構わないけど、物語は、ちゃんと終わらせてあげたかったから」 「知ってるよ」  そういうと思った。 「……ちなみに、何日ぶりの外出だ?」 「最後にいつ図書館を出たかなんて、覚えていないわよ」 「そうだろうなあ」  教会の扉が開かれて、そこに、夜子を見つけた瞬間。  泣きそうになるくらい、嬉しかったのはどうしてだろう。 「あー! 瑠璃くんいたー!」  と、しみじみと当時の感傷を噛み締めていると。 「もー! 探したんだよー?」  間延びするような声が、俺を攻め立てる。 「……あなたも、どこ行ってたのよ。別行動をしたつもりはなかったのだけど」  こめかみを抑えながら、夜子はいう。 「教会につくまで、後ろについて来てると思ったのに、いつのまにか勝手にはぐれて……」 「だって夜ちゃん、ちっこくて見失っちゃう……」  無表情で顔をひきつらせる夜子。  思うところもあるだろうが、今は何も言わないことを選んだらしい。 「それに、夜ちゃんなら大丈夫かなって」  柔らかなほほ笑みとともに。 「夜ちゃんを図書館から連れ出せるのは、いつだって瑠璃くんだけだからねー」 「……なんだよそれは、説明になってないぞ」  連れだしたわけはない。 「呆れてものも言えないわ。今回のことにしたって、この木偶の坊は何の役にも立ってないのよ?」 「否定出来ないのが辛い」  まさしく、その通り。  話をややこしくしていたばかりである。 「えー、でも」  幸せに花を咲かせながら。 「瑠璃くんがいなかったら、夜ちゃんはこんなに頑張り屋さんになってなかったと思うけどー」 「こ、この子は……」  顔をひきつらせながらも、理央に怒りを向けることはない。  いつだって、そういうときは俺を睨むんだ。 「ふんっ、精々次の物語では、ちゃんとすることね」 「……はいよ」  次、ね。 「夜ちゃんは、瑠璃くんのことならなんでもお見通しですな。居場所だって、すぐわかったみたいだし!」 「……そんなことないわよ」  俯いたまま。 「キミのことなんて、わからないことだらけ」  戸惑いと、不安が入り混じったような表情。 「……わかりたいとは、思わないけど」  夜子らしい言葉を付け加えて、ひとまずアメシストの物語は終了する。  ヒスイから続く、日向かなたをヒロインとした物語は、ここで幕を閉じた。  さあ、物語は次の本へと向かう。  活字中毒は、一冊を読み終えたら次へと手を伸ばす。 『アパタイトの怠惰現象』  ブルーグリーンの輝きが、今は亡き少女の夢を描く。  魔法の本。  それは、書かれている内容を現実に引き起こしてしまう、摩訶不思議な異形の存在。  宝石の名前を関して、本を開いた人間の願いに共鳴して、彼らは物語を現実に開いてしまう。  恋を願う少女には、〈悲〉《ひ》〈喜〉《き》〈劇〉《げき》〈喜〉《き》〈劇〉《げき》の恋物語を。  復讐を願う少年には、〈陰〉《いん》〈惨〉《さん》〈凄〉《せい》〈惨〉《さん》な復讐劇を。  夢見がちな乙女には、幽霊伝承を語ってくれる。   ――ある種の願望機のようなものと、解釈していいのかもしれないけど。  物語が開くと、魔法の本は最も適役と判断した人物に、役割を与える。  彼らは物語の登場人物として、本の内容を演じる義務が生じてしまうのだ。  ヒスイでは、イジメを狂言する不幸少女という役割を、日向かなたへ与えた。  サファイアでは、世界から存在を忘れられてしまう、孤独な少女という役割を、月社妃に与えた。  登場人物になった人間は、意識の有無に関わらず、登場人物の人格、記憶に近づいて行く。  まるで成り切るかのように――物語を、語る。  ――同じ本を台本としていても、語る物語は演じる人間によって変わる。   ――同じアメシストが開いても、ヒロインが理央だった場合は、もっと別の物語になっていたのでしょうね。  日向かなたという人間と、『アメシストの怪奇伝承』が合わさったからこそ、今回の事件は生まれたのである。  決して、魔法の本が一方的に物語を開いているわけではない。 「そして、それらの魔法の本を収集・保管しているのが、あたしたち遊行寺家ということよ」  いつから始まったのかもわからない、その活動。  何を起源として行なっているのかも不明。 「全くもう、全くもう! 瑠璃さんたら、こんな面白そうなことを私に隠していたんですね! 怒り心頭ですよ!」  魔法の本に関しての説明を終えた後、彼女は予想通りの反応を示す。 「……いや、面白いって……」 「とても面白いじゃありませんか! 物語が現実になるなんて、まるで小説のような出来事です!」  目を輝かせて、彼女は語る。  そうなるだろうと思っていたから、真実を打ち明けたくなかったんだよ。  アメシストが閉じてから、彼女は魔法の本に関わる記憶を喪失しなかった。  全ての記憶を有したまま、目が醒めた俺たちに説明を要求したのである。  ――下手に隠すよりも、納得させる方が良いだろう。  苦渋の決断だったのは見て取れたが、それしか選択肢がなかったのもまた事実。 「納得したなら、帰りなさい。もう二度と、この図書館にこないでくれる?」 「あはは、そんなの無理に決まってるじゃないですか」  夜子の言葉も、彼女には一切通じず。 「私も混ぜてくださいよー、名探偵かなたちゃんは、きっと事件解決にお役立ちすると思いますよ?」 「……案の定だな」  こうなると、思っていたよ。  そういうと、思っていた。 「あたしたちの仕事に、お前の力は不要。どうしてもというのなら、お前の存在価値を見せてみなさいよ。それが出来るものなら、ね」  上から目線で、夜子は見下す。  出来るわけがないだろうと、決め付けるような物言いだ。 「名探偵というけれど、自称するだけでは意味が無いのではなくて? その称号は、誰かに呼ばれて初めて意味があるものだと思うけど」 「……珍しくまともなことを言うじゃん」 「うるさい、黙れ」  子供のように口を尖らせて、夜子は怒る。 「なるほど、一理あります。私は、私の力を示してはいませんでしたね」  だが、彼女は臆することなく、むしろ一歩前へ出る。 「それではこれから、私は自らの価値を証明していこうと思います。お役に立てる存在であることを、言葉ではなく行動で示しましょう」  胸を張って、堂々と宣言する。 「ですが、それを証明するには少し時間がかかります。というわけで、私の価値を判断する時間を下さいませんか」 「……時間?」  口八丁手八丁、彼女は譲歩のラインを引き出させ始める。 「価値を見せろと言い出したのは夜子さんですよ。何事も、証明するには時間が必要です。それくらいの猶予は、いただけますよね?」 「……む」  やや、丸め込まれそうになる夜子。  口を出そうかと悩んでいたが、彼女の無言の笑顔を向けられて、思わず口が閉じる。  黙ってろ、と。  言われたような気がした。 「そ、そうなるの……かしら? でも、あたしは、お前と関わりたくない」  余裕ぶっていた態度が一転、やや戸惑う夜子。  調子に乗って上から目線で振舞っていたが、予想だにしない彼女の切り返しに動揺しているらしい。 「部外者を関わらせるほど、この図書館の敷居は低くないの。お前のような人間がいると、落ち着いて本も読めないわ」  個人的な理由から、彼女の存在を否定し始める夜子。  役に立つとか、存在価値とか、そういうものを口にしていたけれど……最初から、それだけだろ。  変に余裕ぶった態度を見せるから、つけ込まれるんだ。 「駄目ですよ-、人を見かけで判断してはいけません。夜子さんにとって、私はとても素敵な存在になれるかもしれないのに」 「……少なくとも、あたしはお前のような人間が、苦手よ」 「もう、強がっちゃってー、本当に可愛らしい方ですね」  冗談で受け流され、真っ直ぐな言葉を向けられる。  そういう切り返しに、夜子はあまり耐性がない。 「……な、何を言っているのよ、こいつは」 「やっぱり駄目、瑠璃、キミに任せるから」  白旗を上げて、俺にぶん投げてくる。 「今のキミの役目は、この女を図書館から追い出すことよ」 「いや、そう言われても」  俺にどうしろっていうんだよ。  納得させないまま追い出して、魔法の本の秘密をペラペラ喋られたらどうするんだ。 「ふふふふ、結局、瑠璃さんたちが折れるしかないんですよ」  自らのアドバンテージを理解している彼女は、にこにこと楽しげである。 「私が記憶を残していた時点で、関り合いを拒絶することは不可能なんです。諦めて、一緒に楽しみましょう?」 「……あたしがいうのもどうかと思うけれど、お前は本当に性格が悪いわね」 「名探偵に、それは褒め言葉ですよ?」  誇らしげに、胸を張る彼女。 「何で嬉しそうなんだよ……」  絶対に、褒め言葉じゃねえから。 「とにかく、後は任せたから」  そそくさと立ち上がり、逃げるようにして去っていく。  そうして、夜子は二階へと消えていってしまった。 「行っちゃいましたねー。でも、無理やり追い出されることはありませんでした。私の粘り勝ちですかね?」 「あんたも大概だな……」  別に、関わることを許されたわけじゃないけどな。 「でも、本当に可愛らしい方でしたね。お人形さんみたいです。瑠璃さんが気にかけるのも、よくわかりますね」 「…………」  そういえば。  ヒスイの頃に彼女が夜子へ抱いていた認識も、そういうものだったっけ。  意外と、好意的に見られているのかな。 「夜子さんは私のことを苦手にしているみたいですが、私は夜子さんみたいな人、大好きですよ」  嬉しそうに、彼女は言う。 「妹みたいで、ぎゅっとしたいですねー」 「同級生だけどな……」  本人を前にしたら、絶対にキレられるだろう。 「あ、そうそう、瑠璃さん。他の人も、紹介してくれませんか」  すっかり距離が縮まった彼女は、遠慮することなく次の言葉を続ける。 「ヒスイやらアメシストやらで面識はあっても、ありのままの私と接するのは、初めてだと思いますので」 「あんた……関わる気満々じゃねえか」 「そりゃそーですよ!」  本当に、めげないやつだ。  そうでなきゃ、探偵を自称することは出来ないか。 「別に、いいけど。俺だって、もうあんたを邪険にするのは難しいと思ってるし」  彼女もまた、俺や妃と同じなのだろう。  魔法の本の存在を知って、認識して、関わってしまった。  いわゆる、こちら側の人間へとなってしまったのだから。 「とりあえず、理央でも呼んでくるか。今は、他に誰もいないしな」 「あ、理央さんも気にはなりますが、それよりも先に、お会いしたい人がいます」  にやにやと、笑みを浮かべながら。  無邪気な様子で、彼女は俺の心をえぐってしまう。 「アメシストの時に、打ち明けてくれた好きな人。瑠璃さんの妹さんと、是非ともお会いしたいです!」 「…………っ」  そういえば、俺は彼女に打ち明けてしまっていたんだった。  〈紫〉《ア》〈水〉《メシ》〈晶〉《スト》が彼女の記憶を奪わなかった以上、覚えているのもまた自然か。 「安心してくださいよー、別に、誰に他言するわけでもありません。私だって、言っちゃいけないことの区別はついてますから」  悪意のない言葉が、逆に心を締め付ける。  それを俺の口から言わせるのは、余りにも酷なことではないだろうか。 「しかし瑠璃さんも、まさか妹さんを好きになってしまうとは!」 「安心して下さい。私はそういうの全然気にしない人なので! むしろ応援しますよー?」  とても嬉しい言葉を、言ってくれているのだけど。  そのたびに、何度心が震えるか。 「……あれ? 瑠璃さん? どうしました?」  やがて俺の様子に気付いた彼女は、心配そうに声を細めて。 「とても、辛そうな顔をしています。私、なにかまずいことを言ってしまいましたか」 「いや……問題ない」  何も、問題はない。  問題があるのは、俺の心だけ。 「残念だけど、妃を紹介することは、出来ない」  小さな驚きを見せる、彼女へ。 「――あいつは、もうこの世にいないから」  初めて、言葉にしたんじゃないのかな。  誰かにそれを、説明した。  たったそれだけの言葉を口にすることが、俺にとってどれだけの痛みを伴うものだったか。 「……そういう、ことでしたか」  彼女は俯いて、声を絞る。 「ごめんなさい、残酷なことを聞いてしまいました」  俺が、妹を好きだったこと。  そして、その妹は既に亡くなっていること。  2つの真実を知る最初の人間が、まさか日向かなたになるなんて。 「自然に振る舞っていらっしゃるから、全く気が付きませんでした」 「そう見えたか? ……こうなるまでに、長い時間をかけてしまったかな」  今でさえ、限界ギリギリなんだ。 「……なるほど、これはとても難しい問題です」  迷いながら、そう口にする彼女の真意は、そのときの俺にはわからなくて。 「瑠璃さんは……まだ」  その言葉の続きは、たぶん、言われるまでもなく理解していた。 「……私と恋人ごっこをする余裕なんて、全然ないじゃないですか」  自嘲気味な笑顔が花開く。 「それにしても、どうしてみなさん、引き篭もりますかね。制服を着て学園に通える日々は、今しかないというのに」  妃との通学路を共にしていたときの記憶。 「夜子は、本にしか興味ないからな。汀だって、学園そのものには思い入れはないらしいし」 「この世界は、決して活字だけで事足りるようなものではないと思うのです」 「言いたいことは、わかるけど」  本を読むばかりでは、手に入らないものもある。 「そのあたりのことは、理央さんが一番良くわかっているかもしれませんね。あの方は、夜子さんとの学園生活を願っていますから」 「健気だよな、本当に」  甲斐甲斐しく夜子の世話をして、不平不満を漏らさない。 「……そういえば、理央さんと夜子さんの間にある、見えない遠慮の正体は何なんでしょうね」 「それは、どういう意味だ?」  別にあの二人は、互いに遠慮しあっているようには見えないけど。  理央は、見た通り夜子のことが大好きで。  言葉にはしないものの、夜子だって理央のことを大切にしていることはよく分かる。 「いえ、確証があるわけではないのですが」  やや、声を細めて。 「遠慮して、弁えている。大好きではあっても、主と従者の関係を決して忘れない。そういう意志を、理央さんからは感じてしまうのですよ」 「……そうか?」  理央がそういう性格だから、で済む話に見えるけれど。 「理央さんは、私たちがここへ来る前から、幻想図書館に住んでいましたからね。長い付き合いだからこそ、踏み込めない部分があるのでしょう」  じっと、俺を見つめて。 「だからこそ、夜子さんを引っ張ってあげられるのは、瑠璃の役目になるのです」   念入りに、妃は言う。 「例え今が無味乾燥であったとしても、いつか来る甘酸っぱい青春を夢見て下さい」 「そうでなければ、夜子さんが学園に通いたくなったとき、誰が手を引いてあげられるのですか」 「……そんな日が来るとは、思えないが」  でも、と。 「もしそんな日々が訪れたら――それはとても幸せなことではありませんか」  指をさして、未来を示す。 「瑠璃と夜子さんは、二年一組。理央さんと汀は、その隣のクラス。休み時間には汀がやってきて、仲の良いお二人に嫉妬します」  それは、妃の思い浮かぶ、幸せの青春。 「昼休みには理央さんのお弁当を広げて、みんなで華やかな昼食を取るのです。夜子さんは素直ではありませんが、それでも、笑顔が絶えません」  次に、自分を示して。 「一つ年下である私は、一年生。瑠璃と同じ制服を来て、昼休みなったら皆さんのもとへ伺います。仏頂面の私を、夜子さんの笑顔が迎えてくれて」  今は、俺たちはまだ一年生。  妃は、藤壺学園にすら入学していない、鷹山学園三年生。 「それが、お前の思い浮かぶ一年後の俺たちか」 「妄想するくらいは、許してください。だからは私は、早く鷹山を卒業して、瑠璃たちと同じ教室に行きたいです」 「現実は、そう甘くねえぞ」 「分かっていますよ。ですが、その程度の青春くらいは、願わせてくださいな」  じっと、俺を見つめて。 「せめて瑠璃だけは、私を待っていて下さいよ。一人だけ、水色セーラーは仲間外れなのですから」  だから、妃は俺に願う。  夜子のように引きこもらず、無味乾燥でも、学園へ通えと。 「そろそろ、寂しいのですよ」  鷹山学園と、藤壺学園の別れ道。  俺は右へ、妃は左へ。 「ここで、瑠璃と別れてしまうのは」 「…………」  とても、平坦な声。  寂しいなんて、微塵も思っていないような、表情で。 「仲間外れは、よくないです」 「……そうだな」  いつだって、妃は一年、遅れていた。  入学するのも、卒業するのも、ずれてしまって。 「それでは、放課後に」 「ああ、またな」  毎朝繰り返される、さようなら。  別々の制服が物語る、分岐点。  一年後、俺たちは同じ制服を着て、同じ学園へ。  通うことが出来なくなった今、そんな思い出は鋭利な刃物となって心を刺す。  毎日のように見る夢の痛みに、慣れてしまった。  ずきずきと痛みはするけれど、その痛みに対して不満を覚えることはなくなった。  痛みを感じているうちは、妃のことを忘れていないということだから。 「おお、珍しいな」  登校の用意を済ませた俺が、食堂へ顔を出すと。 「相変わらずクソ真面目なんだな、少年?」  遊行寺汀が、腰掛けていた。  「いつのまに、帰ってきてたんだ?」 「昨夜にな。俺の上司が勝手にこっちへホームを移したもんだから、俺も気になって戻ってきたんだ」  汀は、サファイア以降、学園へ通わずに、本城奏の元で魔法の本の収集活動を手伝っていた。  だからこそ、長く図書館を不在にすることも多かったのだが。 「中々、振り回されてるみたいじゃないか」  いつもは振り回す側の汀だけに、なんだか新鮮である。  あの二人は、案外相性が良いのかもしれないな。 「……まぁな。それに、気になることがあるしな」  神妙な面持ちで、汀は語る。 「少し前から、あの女、俺に何か隠れて調査してやがるんだよ。俺に大量の雑用を任せて、その隙に別の依頼にあたっているらしい」 「奏さんが?」 「あの女は、徹底的なほど秘密主義だからな。俺にだって、何の情報も寄越さねえ。一体、何をしてやがるんだかな」 「お前と奏さんって、あんまり良好な関係じゃないんだな」 「……俺のことを、いいように使ってくれてやがるよ。雑用係もいいところだ」  自嘲的に、笑い飛ばして。 「ま、このまま終わるつもりはねえけどな」  ここからが、遊行寺汀の真骨頂なのだろう。 「あの女が俺を利用しているように、俺もあの女を利用してやるさ」  うちに秘めたる、確かな志。  決意を含む瞳に宿るのは、燃え盛る炎。 「……危ないことだけは、するなよ」 「はっ! 手段を選んでるようじゃ、俺の目的は一生叶わねえよ」 「……目的?」  その言葉に、どうしてか引っかかる。 「お前が奏さんの元で働いてるのは、夜子のために魔法の本を集めたいからだよな? それなら、別に」  焦ることなくとも、問題ないのでは。  しかし、汀は口を閉ざす。 「……違うのか?」  図書館を不在にして、学園を休学して、美人探偵の雑用を任されていたのは、愛する妹のためじゃなく? 「だったら、何の目的で――」  何も言わない、汀の表情。 「……さあ、なんだろうな」  何も答えない、汀の表情に。 「お前、何をしようとしている」  泥沼のような感情が見えたのは、気のせいだったのだろうか。 「俺は、ただ」  俺と、汀の距離。  それが今までで、一番遠くに感じるようになってしまっていた。 「――この世界に蔓延る理不尽を、断ち切りたいだけだ」  言いようもない不安にかられるのは、何故。  そろそろ、俺と汀の出会いについて語ろうと思う。  初めて俺と汀が出会ったのは、汀がこの島にやって来たその日のこと。  といっても、その事自体は語るべき物語はなにもない。  ただ、初めて島に訪れた汀が、たまたま近くにいた俺に、道を尋ねただけ。 「おい、このへんに図書館があるだろ。そこへは、どうやって行けばいい?」  不遜な態度で道を聞かれたのを憶えている。  その時の俺は、遊行寺家との何の繋がりもなかったから、そのとき通っていた鷹山学園の図書室のことだと勘違いをして。 「それなら、こっちかな」  真逆の道を、教えたんだっけ。  今にして思うと、笑えてくる。  次に会ったのは、それから少し後のこと。  ちなみに当時の俺は、同学年の男子からとても嫌われていて、上級生からは目を付けられていた。  その理由は、学園の高嶺の花である妃が、実の兄を軽蔑しているという噂を流していて、その煽りをモロに食らっていたからである。  当時の俺は、そのことを知らず、不当な扱いに困り果てていたけれど、その日は扱いが悪いとかそういうレベルを超えていた。  一言で言えば、リンチされていたのである。  嫌いな兄をシメて、妃の前で頼れる上級生を演じたかったのだろうか――しかし、いい迷惑である。  人気のないところに連れて行かれて、暴行を受ける俺。  そこへ通りがかったのが、遊行寺汀である。  当時から、唯我独尊、喧嘩上等のスタイルで問題児だった汀だが、その時は加害者でもなく被害者でもなく、第三者。  ボコられている俺を、見つけて、しかし何をするでもなく、ぼんやりとこちらを眺めるだけであった。    汀は、俺を助けなかった。  なんとなく傍観して、ボコられる俺を笑うでもなく観察する。  その一挙一動に、何故かムカついて。  助けろよ、助けないなら他人のふりして立ち去れよ、何高みの見物してるんだよ畜生が! と、思ったのである。  不当な暴力を受けていることに対して、いい加減我慢が出来なくなって。  生まれて初めて、暴力に対して暴力で反撃した。  傍にあった棒きれを振り回して、クソみたいな理由で絡んできた連中をボコり返したのである。  ボコボコにされながらも、なんとか連中を撃退した俺へ。 「よう、災難だったな」  汀は、面白おかしく話しかけてきたのである。  リンチされていた俺が、撃退したことに対して驚きもなく。  傍観者であったことを、特に気にしている素振りもなく。  あくまで気軽に、声をかけたのだ。 「いや、助けろよ」  もちろん、俺は言った。 「嫌だよ、面倒くせえ」  もちろん、汀はそういった。 「お前が悪いかも知れねーだろーが」 「……その発想は、なかったな」  助けなかったことに対して、怒りはない。  冷静になって考えてみれば、助ける義理もないのだから。 「ていうか、助けてくれって言わなかったじゃねえか」 「言ったら助けてくれたのか」 「…………ふん」 「黙るなよ、嘘でも肯定しろ」  変な、距離感だった。  「殴られてたんだから、助けを求める余裕すらなかったんだよ。それくらい、察しろ」 「どうだかな。お前の瞳は、助けを求める弱者のものじゃなかったぜ」 「嘘つけ、興味なさそうに見てたじゃねえか」  だけど、何故か、居心地が良かったんだ。  あけすけのない会話が、あまりにも自然すぎて。 「この世の中は、つまんねえ人間ばっかりだ。俺は、そういう奴らに関わりを持ちたくねえんだよ」  ボコられている風景を、ぼんやりと見ていた汀は。  しかし、今は瞳を煌めかせていた。  それは、何かを期待するかのように。 「――少年」  初めて、汀はそう呼んだ。 「お前は、愉快な人間か?」  危うさを秘めている、汀のニヒルな笑い方。  そこに、それまで俺の日常にはなかった、刺激を見つけたような気がして。 「知らねえよ」  年上であることは知っていた。  悪童・遊行寺汀の噂は、少なからず知っていたけれど。 「お前こそ、愉快なやつなのかよ」  不思議な距離感が、会話を滑らかにさせる。 「いうじゃねえか、少年?」  それが、俺と汀の関係の始まり。  その日から汀と過ごすようになって、刺々しい日常を送ることになる。  どこにでもいる読書少年と、一匹狼の悪童が、友情と呼べる何かを形成して。 「ところでお前、俺に会ったことはねえか? なんとなく、見覚えあるんだが」 「……さあ?」  そのときは、全く心当たりがなくて。  というか完膚なきまでに、忘れていた。 「いつだったか、俺に嘘の道を教えた生意気なクソ野郎に、よく似てやがるんだ」 「俺は他人に道を聞かれるほど、外を出歩いてないよ」 「意味がわからねえ」  汀の顔を久しぶりに見て、こみ上げてくるのは懐かしさ。 「あの、瑠璃さん?」  過去に思いを馳せていると、後ろから呼び止められる。 「お暇でしたら少しお付き合いをしていただきたいのですが」 「また、変なことでも企んでるんじゃねえだろうな」  嫌な予感が、びんびんだ。 「いえいえ! スタンガンで気絶させたり、監禁したりなんてしませんから!」 「怪しいもんだな……っていうか、何であんた、あんなもん持ってんだよ。学生が持つようなもんじゃないだろ?」 「私は可愛らしい女の子なので、いざというときの護身用です! 女の子はか弱いのです!」 「そういや、そんなことも言ってたな……」  それにしたって、あの電流はいささか強すぎるとは思うけど。 「瑠璃さんも、私を無理やり手篭めにしようとしたら、遠慮なく電流をプレゼントしますからね?」 「あんたを襲える奴なんて、そうはいねえよ……」  後が怖すぎる。 「で、用事ってなんだよ?」 「うふふ、丸くなりましたね瑠璃さん! ようやく、私にデレてくれましたか?」 「はあ?」  この女は、何を言ってるんだろう……。 「今まででしたら、知るかよ、とか、興味ねえ、とか、ニヒルな主人公を気取って拒否ってたじゃないですかー。それが今や、自分から言い出す始末です!」 「…………」  う、うぜえ……。 「よきかなよきかな、ようやく瑠璃さんも、私の可愛らしさに気が付いたようですね!」 「全てを諦めただけだっての」  あんたのとの関わりを断ち切ることは、難しいみたいだから。 「はいはーい、そういうことにしておいてあげます。強がりも、素敵ですね」 「…………」  この女……。 「では、ついてきて下さい」  制服の裾を掴んで、ぐいぐいと引っ張る彼女。  教室を出て、廊下を抜け、目指したのはとある一室。 「あ、ここって」  その場所に、心当たりがあった。  がらりと扉を開いて、見知った部屋へ招き入れられる。 「探偵部の部室――私の、拠点ですよ」  ルビーのときに、夜子と昼食を取った場所だ。 「実はですね、瑠璃さんにお願いがあるのです」 「お願い?」  部室に連れて来られて、開口一番。 「私の助手に、なってくださいませんか」  さらりと口にする、勧誘の言葉。 「要は、入部してくれませんかと――そう申し上げています」 「……はい?」  予想していなかった言葉に、うろたえる。 「実はですねー、地味に部員不足なんです。幽霊部員でごまかしてましたが、そろそろなんとかしなくちゃならなくて」  後2人足りないと、指を立てて説明する。 「瑠璃さんなら、私とも気心の知れた間柄ですし、入部は大歓迎! というわけで、よろしくお願いします!」 「……俺が、入部すると思ったのかよ」  勧誘してくれる事自体は、それなりに嬉しかったけど。 「俺だって、夜子と変わらねえんだよ。本にしか、興味が無い」  だから、探偵部なんて怪しい部活動、論外なんだ。 「でも、瑠璃さんにもメリットは有りますよ?」  それでも彼女は、にこやかに説明する。 「この部活に入っていただければ、私の情報ネットワークを活用することが出来ます。この島に起きている事件、人間などなど、簡単に調べることが出来ますよ」 「別に、俺はそんなことを知ろうとは思わない」 「――魔法の本に関する情報だって、集めることが出来ますよ?」 「…………」  その言葉に、俺の意識が傾いた。 「例えば、現在は鷹山学園で、失踪事件が起きているのを知っていますか?」 「失踪事件?」  人が消える。  その言葉に、妃を連想してしまった。 「神隠しのように、人が消える。どうやらアメシストより前から、人知れず噂になっていたようです」 「私がアメシストに囚われてしまっていたせいで、情報の収集が遅れていましたが……」  歯がゆそうに、彼女が語る。 「こんな風に、魔法の本に関わるなら、探偵部の力は瑠璃さんの力になれると思いますよ」 「私がこれまで培ってきた、個々人の秘密や、情報など、この島に関することならいくらでも情報提供が出来ます」  まくし立てるように、彼女は続けた。 「いかがでしょうか? かなたちゃんがとても心強い探偵であることは、これから証明してみせますよ?」 「…………」  提示されたメリットは、確かに素晴らしいものかもしれない。  悪名高き日向かなたを味方にすることが出来れば、この先なにかの役に立つかもしれない。 「……いや、だが」  首を振って。 「そういうのは、図書館だけで十分だ。部活動なら、青春を感じさせるような物がいい」  ふと、妃の言葉を思い出してしまった。  賑わいのある学園生活に、魔法の本は不要なのだ。 「……部活に入りたくないくせに、変なことを言わないでくださいよー」  不満気な彼女が、口を膨らませて言う。 「運動部に入るわけでもありませんし、別にいいんじゃないですかー」 「断るって言ってるだろ。俺の居場所は、図書館だけで十分なんだ」 「……強情な人ですね……むむむ」  しかし彼女は、めげることはなく。 「それでは、とっておきの情報を差し上げましょう! 入部特典ですよ! とっておきなんですから!」  彼女は、胸からUSBメモリを取り出した。  「なんだ、それは?」 「ふふふ、この学園のトップシークレットですよ」  得意顔で、彼女は笑う。  その〈様〉《よう》〈相〉《そう》に、思わず尻込みをしてしまう。  悪名高き日向かなたの所有する、機密情報。  一体、その中身は何だという? 「この中に、入っている情報――それは!」  目を輝かせて、彼女は言った。 「この学園に所属する全ての女子の、プロフィールです!」 「……は?」 「身長体重はもちろん、スリーサイズまで詳細に刻まれていますよ!」 「ついでに好きな物から今までの恋愛遍歴、家族構成やら何まで詰まっております! 個人情報の塊ですね!」 「…………」 「使い方によっては、脅したりも出来ますし、やりたい放題です! きゃー、瑠璃さんたら悪役が似合うんですから!」  一人で舞い上がる彼女を目にして、俺は心底呆れ果てる。 「いや、俺は……」 「あ、それでも一部の方の情報はありませんけどね。夜子さんなんかは、私よりも瑠璃さんが知っているのでは? 胸のサイズとか!」 「……いやいや」  いやいやいやいや。 「どうでしょう、素晴らしい特典じゃありませんか? これがあれば、瑠璃さんの学園生活はバラ色です!」 「いや、明らかに犯罪だから」  何でそこまで詳細な情報を集めたんだよ。  今日ほど日向かなたを恐ろしいと思ったことはない。 「……女子のってことは、つまり男子の分もあるってことか? 俺の、情報も?」 「それは現在進行形で、集めているところです」 「集めなくていいから……」  想定以上のたちの悪さを感じて、辟易する。 「それに、他の女子の情報なんてどうでもいい。俺の役に立つとは、思えない」 「……むぅ、そうですか? 本当に? 実は欲しいのを、隠しているだけだったり?」 「あんたは俺のことを、どんな風に評価してるんだよ」  それにつられて入部するなんて、変態野郎もいいところじゃねえか。 「それに、どうせそのUSBメモリには、あんたの情報は何も入っていないんだろ?」 「へっ?」  驚いたような瞳で、俺を見る彼女。 「もし俺が誰かの個人情報を知りたいと思うことがあるのなら、それはたぶん、あんただろうから」  あんたの弱みを握ったら、それは便利だろうと、そういう意味を込めての言葉だったが。 「――っ!」  彼女は顔を赤らめて、言葉を詰まらせた。 「や、やですね、瑠璃さんたら……私の個人情報なんて、もう味わっちゃってるじゃないですか」  誤魔化すように笑って、彼女は言う。 「恋愛遍歴も、初キッスも、瑠璃さんが身を持って体験させてくれたじゃないですか。今更、知る必要もないことでしょう?」 「…………」  自ら、墓穴を掘ってしまった。  そういえば、そうでした。 「うふふ、それでも私のスリーサイズ等を知りたくなったら、是非ともご自分でお確かめを」  からかうような口調は、いつもの彼女のもの。 「かなたちゃんは、いつだって瑠璃さんの入部を歓迎しています」 「…………」  この流れは、まずいと思った。  下手をすれば、入部させられてしまいそうだ。  日向かなたという女の子には、そういう有無を言わせない力がある。 「あっ、ちょっと待ててくださいますか? 入部届を取ってきますので」  やや恥じらいを残したまま、彼女は言う。 「いや、俺は……」 「何も言わなくても、大丈夫です。入部してくれたら、かなたちゃんの全てを教えてあげますよ」  語尾にハートが付きそうなほど、色っぽい声で。 「ですが、体重だけは、ナイショにさせてくださいね」  まるで気恥ずかしさを隠すように、彼女は小走りに立ち去った。  どうやら、職員室にでも行ったらしい。 「……参ったな」  本当に、参った。  入部特典が魅力的だから……ではなく。  思っていた以上に、日向かなたという存在が、強かったから。 「逃げるか」  今は不在の、探偵部部室。  彼女が入部届を持ってくる前に、立ち去ったほうが良さそうだ。 「このまま彼女の魅力に当てられると、間違えてしまいそうだし」  危険信号を、脳みそが発していた。  だから、身体はすぐに動いた。 「……悪いな」  傍にあったメモ用紙に、用事ができたとだけ書き残し。  「やっぱり俺は、探偵よりも読書家に向いてるんだよ」  ワトソンくんには、なれないんだ。  甘い空気の漂う探偵部部室。  若干の名残惜しさを感じつつも、今はその誘惑を振り切ることに成功した。 「妃ちゃんは、今日の晩ご飯は何がいいかの?」  ある日の夕方、理央が妃に尋ねる。 「たまには妃ちゃんの食べたいものとか、聞きたいなーって」 「……ふむ、突然そう言われても、困ってしまいますね」  少し、悩んだように首を傾げて、それでも妃は答える。  この辺りの対応を面倒臭がらないのが、妃という女の子だ。 「では、鯖の味噌煮が食べたいです。ちまちまと骨を取りながら、滲み出る魚の味わいを堪能してみたい」 「さらりと、手間の掛かりそうなものを要求するなよ」  割りとすぐに、要望が出てくるのな。 「お魚さん?」 「でも、それなら夜子さんには別のものを出してあげないと、へそを曲げてしまいそうですね」  笑いをこらえて、妃は言う。 「ああいう日本食の定番のようなものは、お気に召さないでしょうから」  夜子食生活は、一言で言えば雑。  よく食べるという意味では大変結構なのだけれど、食べる料理は一辺倒。  好き嫌いは激しく、取り分け和風の味付けは、あまり好きじゃない。  ミソとか、嫌な顔をして俺に移すんだ。 「その前に、夜ちゃんはお魚さんの骨をとるのが、出来なそう……」 「ふふふ、そうかもしれません」  二人して笑いながら、夜子の話題を共有する。  相も変わらず、仲が良い。 「でも、なんだか面白そうだし頑張って作っちゃお! 瑠璃くんと妃ちゃんがいてくれると、夜ちゃんも楽しそうだし」 「……楽しそうだったか?」  俺たちの好みを採用した結果、自分の苦手な料理が出てきたとき。  あいつは唇を尖らせて、俺に押し付けようとしていたっけ。  ああ、でも、それは確かに、楽しかったかも。 「楽しかったよ。理央は、とっても楽しかった!」 「笑うだけが、楽しいということじゃないということですよ。そんなのは、瑠璃本人がわかっていることでしょう」  見透かすように微笑みながら、妃は言った。 「理央はね、理央に出来ることをやろうと思うのです! お料理しかとりえのない理央は、せめてお料理だけでも頑張ろっかなって」 「……これが、普通の幸せなのでしょうね」  ソファーを撫でながら、噛み締めるように妃は言った。 「人と人が交わる人間関係。この幻想図書館には、特別ではない普通の幸せが、散らばっているのです」  夜子がいて、理央がいて、妃がいて、汀がいて、俺がいて。 「閉塞した場所ではあっても、それは必要不可欠ということ」 「それ?」  疑問符を浮かべる俺へ。 「図書館には、笑顔が必要なのですよ」  そのときの妃の笑顔が、本当に純粋な幸せに満ちていて。  ああ、食事の献立を決めるだけで、胸が暖かくなる今を大切に思う。  何があっても、変わらない俺たちでいたい。  未来の果てまで、そんな幸せが散りばめられていたら――。 「うん、わかった!」  理央は、元気よく笑って。 「それでは今日の献立は、理央特製の笑顔あふれる鯖の味噌煮で決定!」  それは叶わなかった、幻想?  それともまだ、取り戻せる現実か。 「あなたが、この図書館の笑顔を、守ってくださいね」  今はただ、その言葉だけが繰り返される。  明晰夢のような感覚を抱きながら、もう一度あの頃の記憶に浸りたかった。  このままもう一度意識を沈めれば、再び夢の世界に戻れるのだろうか。   最近、昔を思い返すことが多くなったように思う。  ……いや、それは違うか。  最近になって、ようやく昔を思い返すことが出来るようになったのだろう。  過去を過去として、見つめることが出来るようになった。 「……見つけましたよ」   不穏な声が、耳に届いたような気がした。 「呑気にうたた寝なんてして……この人、最低ですね……」  何やら、怒りの感じさせる声色。 「むむむ……! 腹立たしいです、心から、腹立たしい……!」  声が、近くなったような気がした。  すぐそこに、誰かがいる? 「……せーの」  すうっと、息を吸って。 「天罰ですっ!」 「――ッ!?」  ばん、と。  後頭部を、何かで思いっきり殴られた。  防御することも出来なかった俺は、そのまま広間の机に正面から衝突する。 「だ、誰だよ!?」  いきなり、なにしやがる! 「うるさいです! 天罰です! 瑠璃さんたら、こんなところで何をしてやがりますか!」  日向かなたが、何故かいた。  誰の許しを得て入ってきたのか、問いただす暇はなく。 「部室で待っててくださいって言ったじゃありませんか! かなたちゃんのお願いを無視して逃げ帰るなんて、鬼畜もいいところですよ!!」 「いや、だから俺は断っただろ……って、問題はそこじゃねえ! なんであんたがここにいるんだよ!」 「何故かなんて、決まっているでしょう! 瑠璃さんの不誠実な行動をとがめようと、押しかけてきただけです!」 「いやいや、ここは夜子の個人図書館だぞ? いいから、早く帰ってろ。見つかったら、怒られるどころじゃすまねえぞ!」  今回ばかりは、何の言い訳も出来ない。  魔法の本すら関わっていない状況で、他人が足を踏み入れてみろ。  あの活字中毒は、怒り狂うぞ。 「今更部外者扱いをしないでくれますか。私は、巻き込まれた被害者です! 関わる権利があります!」 「部外者なんだよ! 本が閉じたら、被害者も加害者もなくなる。とにかく、今は帰っとけって!」  俺のためにも、あんたのためにも。  本当にこれからも関わるつもりがあるのなら、下手に夜子の機嫌を損ねるようなことはするんじゃない。 「いいえ、許可なら頂いていますから」 「……は?」  予想もしていなかった返しを、されてしまった。 「こちらの理央さんに、招いてもらったのです。いくら名探偵の私でも、無断で押しかけたりはしませんよ」 「いや、あんたなら平気な顔をしてやりそうだけど」 「躊躇なく出来ますが、場所は選びます。ね、理央さん?」 「ふぇ? 理央?」  いつの間にか、隣にいた理央。  どうやら真剣に読書をしていたらしく、全く状況についていけてなかった。 「理央さんが、私を招いてくれたんですよね!」 「え、えっとーうん、理央が、扉を開けたんだよー。かなたちゃんが、遊びに来たって聞いて!」 「……おいおい」  いいのか、それで。 「瑠璃くんいるー? って言われたから、広間にいるって答えて、中に入れて欲しいって言われたので、中に入れてあげちゃいました」 「理央さんと私は、既にマブダチというわけですよ。ふっふっふ、我ながらコミュ力の高さが恐ろしいです」 「…………」  しかしそれは、学園生活では全く生かされてないけどな。 「いいのか、理央。これが、夜子にバレたら」 「問題あり? でも、理央はそういう命令を受けてなかったから」  あっさりと、理央はいう。 「かなたちゃんなら大丈夫だって、頭の中の理央がそういってたよー」 「……理央が判断したのなら、それでいいのかな。なんだかんだで、お前の判断はいつも正しいからな」  料理の味付けと同じように。  理央の選択する行動は、いつだって夜子の許しの中にあったから。  主様に忠実な、優秀なメイド様なのである。 「しかし、こうして改めて見渡してみますと、中々壮大な光景ですね」 「今更だな。ここを訪れるのは、初めてじゃないだろ?」 「初めてのようなものですよ。今までは、普通に訪れたわけではありませんし」 「……それもそうか」  成り行き上、役割を抱えながら。  そういう経緯で、訪れていただけだったか。 「えへへー、凄いよねー。1階の広間には、本がいっぱい! 夜ちゃんなんてここにあるものはぜーんぶ読んじゃってるんだよ!」 「え? この数の本をですか?」 「うん!」  友達自慢をするように、理央は語る。 「ここには魔法の本はないけれど、それでも夜ちゃんが残したいと思った本ばっかり置いてあるの。瑠璃くんや妃ちゃんは、毎日のようにここにある本を読んでたよね」 「そうだな。ここ以外にも、夜子の書斎には厳選された小説もあるし、まさに活字中毒者の天国だよ」 「夜ちゃんが広間で読書をすることはあまりないけれど、もし良かったらかなたちゃんも読んでいってね。素敵な本に巡り会えると思うから!」 「それは、面白そうですね。私だって、結構小説は嗜む方なんですよ?」 「そういえば、前にそういう話を聞いたことがあるような気がする」  物語には、興味が無いタイプの人間だと思っていた。 「何を言いますか。名探偵なんて、ミステリー小説でも読まなければ、憧れませんよ。S〈h〉《シャー》er〈l〉《ロ》〈o〉《ッ》〈c〉《ク》k〈 〉《・》H〈o〉《ホー》l〈m〉《ム》〈e〉《ズ》sは、私の師匠ですから!」 「ミステリー! そういえば、妃ちゃんも大好きだったよね」 「……そうだな」   そして、俺も大好きだった。 「瑠璃さんも読まれるなら、是非語り合いましょうよ! 私、ミステリー小説を読む友人なんて、いませんでしたからねー」 「それ以前に、あんたに友達はいねえだろ」 「うふふ、実はですね、一人だけいたりしちゃうんですよー、これが!」  したり顔で、彼女は言う。 「今度、紹介してあげますよ。次の機会の、お楽しみということで!」 「な、なんのお話かな! 理央も気になるー!」  そわそわと、仲間外れになりかけていると自覚して、焦り気味。 「理央さんも、是非部室にいらして下さい。いつでも、歓迎しますから」 「おおー! 部室! 凄い! 青春の匂いがぷんぷんだよー?」  目を輝かせて、興味を示す。 「ここの品揃えには負けますが、本棚には小説もありますよ。もちろんすべて、ミステリー小説ですが」 「きょ、興味ねえし……」 「声、震えてますが」 「うるせえ」  その誘惑の方法は、卑怯だ。 「ちなみに、ミステリー小説を置いてある棚は、どちらでしょうか?」 「こっちだよー、妃ちゃんがよく読んでたから、ソファーに一番近い場所!」  面倒くさがりの妃は、なるべく近い位置に置くようにお願いしていたっけ。  こうしてみると、あいつ、すげえ傍若無人に振る舞ってたな……遠慮というものを知らねえ。 「ほほう、ここですか。さすがに、壮観ですね」  並べられた本の量に、簡単の声を漏らす。 「有名なものから、私の知らないタイトルまで、様々です。少し、興味が湧いてきましたね」 「らいんなっぷは、あんまり変わってないんだけどねー。妃ちゃんがいなくなっちゃってから、みすてりーを読む人もいなくなっちゃったから」 「あれ? 瑠璃さんも?」 「……まあ、最近は違うジャンルをな」  あまり、その棚には近付きたくなかったんだ。  そこまでの強さは、持っていないから。 「本は読まれてこそ価値がある。夜ちゃんはそう思って、読み終わった本も大切に保管しているの。だから、かなたちゃんが読んでも、大丈夫だと思うな」 「あんたがミステリーを語れる人間なら、夜子もそう邪険にはしねえだろう」  あいつは、本を愛しているから。  あいつと仲良くなれるのは、同じく本を愛しているものだけ。  ひとまず、最低ラインはクリア、といったところかな。 「あはは……いえ、読書狂の夜子さんと肩を並べるには、まだまだですけどね。そんなにたくさんの本を読んでいるわけではありませんから」  困ったように、笑って。 「私が本を好きだと言っても、それは夜子さんからしてみれば、その程度で好きなんて語れるかーって怒られてしまいそうです」 「それは、問題ない」  そう、勘違いをして欲しくはない。 「本を愛することと、今まで読んできた本の量は、必ずしも比例しているわけじゃないんだから」  俺だって、妃だって。  これまで夜子が読んできた本の数の、半分どころか1割も読んでないと思う。  妃に至っては、一時期までピアノの方がメインだったし。 「夜子は確かに読書狂だが、それでも、そこを理解していないようなやつじゃねえよ」  好きなら好きと、言えばいい。  そこそこ好きなら、そこそこ好きでもいい。  正直に本と向き合う人間であることが、最低ラインなのだから。 「……純粋に、本が好きなんですね」 「そして、本が好きな人間を、あいつは好きになる」  欠かすことの出来ない、大前提だ。 「……あれ、理央さん?」  本棚を見上げていた彼女が、何かに気付いたように指をさす。 「ここって、ミステリーの棚ですよね? 普通の本しか置いていない、一般書籍のカテゴリの中の」 「うん、そだよー? あれれ、もしかして他のジャンルの本が混ざっちゃってたかな?」  少し慌てて、理央が対応する。 「ここは妃ちゃんが使ってたから、そんなことはないと思うんだけどな……」  あいつは、本を読む姿勢はだらしなかったけど、整理整頓は心がけているタイプだから。 「でも、これ」  本棚の、一番上。  綺麗に縦に並べられた本の上に、無造作に横向きに置かれている本。 「ちょっと高いよー、届かないー」 「こりゃ、夜子じゃなくても、脚立がいるな」  笑いながら、手を伸ばす。  女の子の身長では届かなくても、俺ならばぎりぎり問題ない。 「ジャンル違いかは、わからないんですけど……ギリギリ、タイトルの一部分だけが見えて」  その本を回収した俺へ、彼女は真剣な面持ちで語る。 「――アパタイト」  その、名前は。 「確か魔法の本って、宝石の名前を冠しているのですよね」 「――ッ!?」  条件反射的に、手を離した。  触れてはいけないと、開いてはいけないと直感して。   俺の手を離れた本は、静かに床に落ちる。  その際に、丁度、表を向くように着地して。 「――『アパタイトの怠惰現象』」  瑞々しい、宝石の輝きが飛び込んでくる。  「こ、これは――!」  戦慄する俺は、咄嗟に理央の方を向いた。 「……瑠璃くん!」  理央も、同じ考えだったらしい。  どういう経緯でこれがここにあるかはわからないけれど、しかし、緊急事態だ。  すぐさま夜子を呼んできて、この物語に心あたりがあるかを確かめなければならない。 「ほほう、アパタイトですか」  しかし、そんな中。  緊張を張り詰める俺と理央とは対照的に、あくまでマイペースなまま彼女は言う。 「こうしてみると、他の本とは違いますね。特別な存在感があります」   一歩、彼女は近付いて。 「おい、待て。それに、触るな」 「大丈夫ですよ、そんなに怖い顔をしないで下さい」  にこやかに、笑って。 「どのみち、中身は〈検〉《あらた》めなければいけないのでしょう? だったら、この私がその役目を負いましょう。任せて下さい」  有無を言わせないまま、彼女は続ける。 「それに、不思議と危険を感じないのですよ。この煌めきを見ていると、むしろ心が落ち着くような」 「だからって――!」 「それに」  短く、彼女は言った。 「何か起こったとしても、瑠璃さんが守ってくれるのでしょう?」  満面のほほ笑みで、言いやがる。  そうして、彼女はそれを、手にとって。  躊躇なく、開いてしまった。 「…………」  緊張が走る中、特に何の異常も感じることはなく。 「……ふむ」  彼女だけが、納得したように頷いた。 「ちょっと、さっきっから何を騒いでいるのかしら? いつからここは、動物園になったの?」  騒ぎを聞きつけた夜子も、やってくる。  タイミングは中々に面倒だったが、ある意味手間が省けた。  当然、夜子の視界には、あの本が飛び込んできて。 「それ」  彼女が手にしていた、瑞々しい煌めきに気付いたのだ。 「この図書館の、ミステリーの棚に置いてありまして」  なんて事のないように、彼女は本を差し出した。  夜子ではなく、俺へ。 「渡しなさい。それは、お前が手にしていい代物ではないわ」 「いいえ、渡しません」  凛として、彼女は拒絶した。 「これは、夜子さんよりも先に、瑠璃さんが読むべきです」 「……どういう意味?」  眉を顰める夜子。  困惑する俺。  彼女は、何を言っている――? 「どうやらこれは、魔法の本ではないようです。真似て作られた、偽物」  渡すことを拒絶した彼女へ、尚も疑いの視線を送るが。  しかし、彼女は気にせず、俺へ本を差し出した。 「読んで下さい。瑠璃さんには、読む義務があるのでしょう」  真剣な表情だった。  有無を言わせない迫力がある。 「どういう、意味だ」 「ページを開けば、わかりますから」 「……わかったよ」  言われて、腹をくくる。  彼女の剣幕が、それが決して冗談や嘘ではないことを、如実に物語っていたから。 「瑠璃、待って」  夜子が、俺を呼ぶが。  しかし、その先を聞く前に、ページを開いた。 「……なっ」  冒頭の文章が、瞳に触れた瞬間。  俺はすぐに、続きを読むことが出来なくなってしまった。 「ど、どうしたの、瑠璃くん?」  駆け寄ろうとする理央。  しかし、俺はその本を隠すように、胸に抱く。 「これは、そうか――」  じわじわとこみ上げてくる感情。  懐かしい文字を見て、切なさで胸が引き裂かれそうになってしまった。 「冒頭のまえがきには、こうかかれていました」  彼女が、まだ知らぬ二人へ説明する。 「これは、魔法の本ではなく、単なる日記帳」  そう、これはあくまで、魔法の本を似せただけの、まがい物。  よくよく見れば、装丁に物足りなさがあった。  宝石の煌めきも、どこか作り物のように見えてしまう。  よく似せてあるとは思うけれど、しかし、どこか手作り感は否めなかった。 「あいつ、らしいな。あいつらしい――質の悪い真似事だよ」  あいつなら、やりかねない。  面白おかしく、制作しているところが目に浮かんだ。 「一人で納得してないで、説明しなさいよ。それは――何?」  簡単だ。 「月社妃の、日記帳です」  懐かしい文字が、失われた思い出を蘇らせていく。  『アパタイトの怠惰現象』  月社妃が綴った、怠惰な日常記録だ。  前略。  思った以上に上手く作れてしまったので、もしかすると誤解を生んでしまうかもと思いまして、最初に記しておきましょう。  『アパタイトの怠惰現象』こと、私の日記帳は、魔法の本ではありません。  魔法の本を似せて作った、偽物です。  どうしてこんなものを作ったのかと言われたら、気まぐれとしか答えられません。  私の中のちょっとした出来心が、それならば筆を執らせたと、そういうことにして下さい。  しかし、日記帳と記しましたが、厳密には違うと思います。  何月何日、何々をした。  そういう内容を書いているわけではありません。  だからこれは、日記帳というよりも。  私の、妄想帳というべきなのかもしれませんね。  魔法の本に、よく似ている。  けれど、いつか実現して欲しいと願う、私の祈り。  舞台は、もちろん幻想図書館。  登場人物は、私のよく知る友人達。  彼らが織り成すのは、物語的ではなく、あくまで普遍的な日常です。  私の知っている幻想図書館は、物静かで寡黙な場所でした。  しかし、それは孤独で寂しいという意味ではなく、落ち着きがあって、安らぎがある、素敵な空間なのです。  そんな中で、ときたま、笑顔が咲くことがありました。  幸せを噛み締めながら、ありきたりな時間を共有する。  閉鎖的な空間の中で、それは蜜のように甘いひとときでした。  今でも思いを馳せる、これまでの日々。  幻想図書館には、笑顔が必要不可欠でした。  そこは素晴らしき、青春の場所。  本という存在が繋ぐのは、健やかで楽しげな未来。  魔法の本は、内容を現実に引き起こすのなら。  魔法の本に似せて作ったこの本も、いつか実現したら良いですね。  この図書館が、いつまでも幸せに満ちていますように――。  そう願いをこめて、私は妄想を垂れ流すのです。  瑠璃に連れられて、図書館にやって来た日のことを思い出します。  まさか、こうまで致命的に関わるとは、思っていませんでしたよ。  こんな私に、居場所が出来るなんて。  家族とも呼びたくなるほど、親しみを覚える相手が出来るなんて。  だから、私は願うのです。  願いをこめて、妄想帳を魔法の本に見立てながら、これからの幻想図書館を語ります。  四條瑠璃が、どのような恋をするのかとか。  遊行寺夜子が、どのような笑顔を見せてくれるのかとか。  伏見理央が、どのような幸せの花を咲かせてくれるのかとか。  遊行寺汀が、どうやってシスコンを克服するのかとか。  あるいは、月社妃が、どのような幸せに包まれるのかとか。  そういう妄想を、記しました。  実現したら良いとは思いつつ。  実現しなくても、それはそれで良いのかなとも思ったり。  ええ、そうですね。  結局のところ、私が未来に願うのは――具体的な展望などではなく、ただ、みんなが笑っていられる世界なのですから。  それくらいは、叶えていただきたいものですよ。  例え、私がいなくなったとしても。  例え、一時でも、図書館から笑顔がなくなっても。  ――宜しくお願いしますよ、瑠璃。  怠け者の私が願う、普通の現象を。  生き急ぐこともなく、死に行くこともなく、怠惰な現象を伴いながら、幸せの海に溺れましょう。  それから、アパタイトの内容は、ただひたすらの日常譚だった。  小さなハプニングは起きても、大きな事件は起こらない。  ゆるふわ系の4コマ漫画のようなまったりさで、アパタイトの中の俺たちは、幸せな時間を紡いでいく。  四條瑠璃が、少しずつ学園での立ち位置を得始めて、楽しい学園生活を送ったりとか。  遊行寺夜子が、引き篭もりをやめて学園に登校し始めるも、勉強ができなくて留年しそうになってるとか。  伏見理央が、お料理研究会を立ち上げて、趣味に精を出したりとか。  月社妃の視点で、あり得た幸せの日常が、これでもかと記されていた。  物語の中盤で、妃が藤壺学園に入学する。  妃の念願だった、みんなで同じ制服を着ての学園生活。  昼休みには理央のお弁当に箸を伸ばしながら、ささやかな幸せを謳歌して。  思わず、涙が零れそうになるほど、切ない物語だった。 「…………」  そして、今。  『アパタイトの怠惰現象』は、まるで効力を発揮していない。  内容は現実に引き起こされることはなく、全く別の未来を進めている。  妃が死んでから、あり得たはずの幸せから、少しずつ離れてしまっているような。  四條瑠璃は、前以上に教室で浮いている。改善するつもりもないらしい。  遊行寺夜子は、引き篭もりに拍車がかかる。制服を着ているのは、学園へ通うためではない。  伏見理央は、何をするでもなく静観し続けるし、 遊行寺汀に至っては、別の道を歩み始めてしまっていた。 「……いつの間に、こんなものを書いてたんだよ」  確かに、妃は文章を書くのは好きだったけれど。  この展開は、予想していなかった。 「他には、ないのか」  あれから、彼女からアパタイトを受け取って。  俺はすぐに、一人になって中身を読んだ。  それは妃の残した遺品であり、切実に求めていた、あいつ自身の言葉だったから。  噛み締めるように文章を追いかけ、あっというまに終わってしまう。  妃の物語に、どんでん返しはなく。  最後まで、幸せを語り続けるだけの物語だった。 「…………」  俺との関係性には、一切触れず。  あくまで、図書館の中での立ち位置に言及した内容。  それはまるで、もう俺達の関係は終わってしまったのだと、そう言われているように見えてしまった。  そして、半ば衝動的に、妃の部屋を訪れて。  他に、アパタイトのようなものがないかを探してみた。  残念ながら、類似品は見つからなかったけれど。 「……瑠璃?」  扉の向こうから、声がした。 「やっぱり、ここにいたのね。入って、いい?」  夜子の、細々とした声。 「ここは俺の部屋じゃないからな。好きにしろよ」 「……それもそうね」  がちゃり、と。  落ち着いた足取りで、夜子は姿を表した。 「…………」  いつになく、気落ちした様子。  何かを遠慮しているのか、言葉を探しているようなもどかしさを感じる。  「読みたいのか?」 「……う」  それが目当てで、やってきたんだろう。  それくらい、わかっている。 「読みたかったら、好きに読めばいい。これは、誰かに読まれる前提で書いてたものだから」  前書きから、語りかけてくるし。  差し出してみたものの、しかし夜子は受け取らず。 「……ううん、やめておく」  少し悩んでから、夜子は首を振った。  「今は少し、怖いから」  それは素直な、言葉だった。 「もう少し落ち着いたら、読ませて。それまで、キミが持ってなさい」 「……わかった」  読みたそうな様子が見て取れた。  うずうずしながら、興味深そうに視線を向けている。  しかし、その言葉に嘘はなく、一方で戸惑いがあるようだった。 「別に、物騒な内容じゃねえけどな」 「わかっているわよ……むしろ、内容が想像できるから、恐ろしいの」 「……そうなのか?」 「そういえば昔、妃が言っていたわ。怠惰を伴う、幸せを引き伸ばした物語を、書いているって」 「今のあたしは、それを読むには相応しくないのでしょう」 「……それは、思い込み過ぎだと思うけどな」 「うるさい。キミには、わからないわ」  少し、睨み返して。 「キミには、あたしの気持ちなんて分からないわよ」  気落ちした心に、栄養を与えるかのように、夜子は言葉を強めていく。 「キミこそ、妃に嫌われていたのに、どうしてそれを読もうと思えたのかしら。きっと、悪口ばかりじゃないの?」 「うるせえよ、悪口ばかりでもいいじゃねえか」  実際は、一言もそんなものはなかったが。 「悪口でも褒め言葉でも、それが妃の紡いだ言葉なら、何だって触れてみたかったんだ」  もう、聞くことは叶わないから。 「あいつの遺した、言葉をな」 「……そう」  少し、目を伏せて。 「そうね、キミの、言うとおりだわ……」  夜子にしては珍しく、俺に同意した。  咄嗟に出てきた文句は、あっさりと撤回される。 「なあ、夜子」  なんとなく、夜子の気持ちを切り替えさせたかった。  妃のこととなると、俺以上に俯いて、見ていられなくなってしまうから。 「お前、昔ほど俺のことを嫌わなくなったよな」 「……はい?」  目を見開いて、夜子は驚いた。 「丸くなったっていうか、優しくなったっていうか。今だって、ここが妃の部屋とはいえ――夜遅くに、俺を訪ねてくるなんてさ」 「何を勘違いしているのかしら。今回は、特例に決まっているでしょう」  念を押すように。 「変わらなく、大っ嫌い」  久しぶりに、大嫌いを頂きました。  声が大きく、怒りを込めて。  いつもの夜子が、こんにちは。 「……でも」  と、思っていた俺へ。 「妃はそれを、望んではいなかった」  想定外の言葉が向けられる。 「キミのことを嫌うのは、妃の楽しみのように思うのよ」 「……楽しみ?」  なんだ、それは? 「キミの悪口を言う妃は、楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうだったから」 「…………」  容易に、想像することが出来た。  冷ややかなほほ笑みを浮かべながら、俺をなじる妃の姿。  あいつは、俺をイジメるのが大好きだったから。 「同じ嫌いでも、どうしてこう差がつくのかしら。あたしはキミを嫌っても、楽しくも嬉しくもない……」  あいつは、俺のことが本当に好きだったから。 「あたしは変わらなく、キミのことが嫌いだけれど」  それは、今までのような感情的な言葉ではなく。 「妃はあたしに、キミのことを好きになって欲しかったのでしょうね」 「…………」  それは、わかっていた。  アパタイトでも、妃の思い描く図書館では、俺と夜子は仲良くなってしまっているから。  それがあいつの望む、日常。 「それは、叶えられない未来なの」 「お前は、本当に俺のことが嫌いだからな」 「……そうね」  悲しそうな、声で。 「簡単には、好きになれないのよ」  それが、今まで積み重ねてきた時間の重みだ。  夜子が帰った後、もう一度『アパタイトの怠惰現象』を読了した。  ゆるやかに流れる時間の中で、それぞれがまるで生きているかのように物語に動いている。  よくもまあここまで忠実に描けるなと感心するほど、妃の描写は自然だった。  そして、気が付けば、眠ってしまっていた。  子守唄のように居心地が良い物語は、夢の中でも開いていく。   あり得たはずの、幻想図書館の日常が、微睡みの中に広がる。  あの日、妃が欠けていなければ、これは現実のものとなったのだろう。  笑顔が絶えないその世界は、きっと幸せなんだろうね。 「…………」  思えば、今が幸せだと、最後に思ったのはいつだろうか。  ここ一年は、今が幸せであるかすら自問自答することはない。  考えるまでもなく、明白だったから。  「一年前、そういえば俺は、そんな青春を求めていたんだっけな」  本土から、島に戻ってきて。  久しぶりに、幻想図書館を訪れて。  変わらない夜子や理央たちと、楽しい日々を送りたかったんだ。  『アパタイトの怠惰現象』のような、毎日を。  つい先日、『アメシストの怪奇伝承』が開かれた。  久しぶりの魔法の本に振り回される日常は、まるであの日を思い起こさせる。  少し、活力を取り戻したような気がした。  ただ時間に流されるだけではなく、何かに抗う力を振るったような気がして。 「……妃」  あいつが、願い記した物語。  これが、今ここにあるという意味を、俺は本当に理解していないのだろうか。  月社妃が願った光景。  それは、本当に、もう叶わないものなのだろうか。  大切な人が、消えてしまいました。  彼女はもう戻りません。  けれど、俺たちはまだ、ここにいて。  俺たちの人生は、閉じられることなく続いている。  ――よろしくお願いしますよ、瑠璃。  目を閉じれば、そんな声が聞こえてくる。  もし、妃がこの場にいたのなら、今の幻想図書館をどう思うだろうか。  そんなの、わかりきっているじゃないか。  だからアパタイトは、幸せな日々を願っていたのだ。 「もう、一年経ったんだな」  それでも、前を向くことが出来ないまま、方向を見失った俺たちへ。 「これが、道標か」  ぎゅっと、妃の妄想帳を握りしめた。 「……わかったよ、妃」  だから俺は、行動しよう。  悲しみに暮れて背中を向けることを辞め、先陣を切って、前を見据えようじゃないか。  妃が好きだった図書館を、取り戻そう。  「俺が、アパタイトを真実にしてやるよ」  暗がりに惑う俺達の前へ、光のように現れたような気がしたんだ。  夜子視点  久しぶりに夜風に当たりたくて、あたしは足音を殺しながら書斎を抜けだした。  別に誰かに見つかっても問題はないのだけれど、何故かこういうときに限って瑠璃と出会うことが多いから、念のため。  あたしの書斎は二階の一番奥にあるから、どうしても瑠璃の部屋の前を通る必要がある。  妃の遺した日記帳。  その存在が脳裏にこびりつく。  あいつは、アパタイトを読んで何を思ったのだろう。  一年前、妃が死んだ知らせを聞いて、あそこまで取り乱した瑠璃を思い出す。  よく、ここまで立ち直ったと、驚くくらいにあいつは元に戻った。  兄妹、だったのよね。  悲しまないはずが、ない。  妃は、瑠璃のことを嫌っていたけれど。  あの嫌いは、どういう意味の嫌いだったのだろう。  今となっては、それさえも確認することは出来なかった。  そして、あたしは。  まだ、引きずっている。  理央は、切り替えてあたしのお世話をしてくれている。  瑠璃は、一年という時間の中で、ゆるやかに心を落ち着かせた。  ようやく図書館から、少しずつそういう雰囲気が消えていく中で、あたしだけが未だに妃の面影を探している。  未だに、心が空っぽになったような気分。  遊行寺夜子という人間の、欠けてはならない部分が亡くなったような感覚。  いつまでも、いつまでも。  それは治らない心の傷。  そういえば。  そういえば、もう一人、変わってしまったような人物がいた。  遊行寺汀――あたしの、実兄。  あたしのことが好きで好きでたまらないという、とても気持ちが悪い男のことだ。  妃が死んでから、汀はあたしに、そういう態度になることが少なくなったように思う。  妃がいた頃は、新しいお洋服やアクセサリーなんかを、いっぱい着させようとしたり、あたしを喜ばせようと新しい本を書斎まで持ってきてくれたものである。  それはたまらなく鬱陶しい干渉だったけれど、かといって拒絶するほど嫌だったわけでもない。  そういう不用意な干渉が、いつのまにかなくなって。  そういえばあたしは、汀とめっきり会っていないことに気付く。  会っていない、というのは語弊があるわね。  あたしは一度だって、自分から汀に会いに行ったことなんて、ないのだから。  偶然か、汀から会いに来るかのどちらかで。  そのどちらもが、今ではなくなっている。 「シスコンって、治る病気なのかしら」  道理で、あたしの周りは静かなわけだ。  今まで気付いていなかったことが、逆に驚き。  だから、どうしたという話でもあるけれど。  寂しいとは、別に思わないのだけど。 「……少し、気になる」  そう、思って、廊下の角を曲がった瞬間。  広間の方で、誰かの気配を感じた。  明かりがついたまま……誰かが本でも読んでいるのかしら? 「まさか、あの木偶の坊?」  理央であるはずがないから、やはり瑠璃なのだろう。  やっぱり、間の悪い男だ。  こういうときに限って、あたしの前に立ちはだかる。 「……散歩は、明日にしましょう」  気分を害したので、回れ右。  ……しようとして、脳裏に浮かんだのは、悲しげな瑠璃の表情。  妃の日記帳を読んだ後の、あのなんとも言えない苦笑い。  どうしてだかそれは、あたしの胸を苦しめる。  気まぐれに、足が動いた。  声をかけるつもりはない。  目を合わせるつもりもない。  ただ、少しだけ、様子見を。  今の瑠璃の様子が気になって――あたしは、こっそりと広間の方を覗き見る。 「……え」  がっかりしたのは、一瞬。  え、がっかりって何? いや、今はそういうことじゃなくて。 「……チッ、クソが」   広間にいたのは、汀だった。  たくさんの書類をテーブルにぶちまけて、物凄い形相で文字を追っている。  鬼気迫るような表情で、ブツブツと何かを呟きながら、調べ事をしているらしい。  はっきりいって、その光景はあたしに恐ろしいという感想を抱かせるものだった。 「……っ」  あんなに怖い汀を見たのは、初めてで。  それは少し、狂気を感じさせる〈様〉《よう》〈相〉《そう》だった。  何を言うことも出来ず、何も考えることが出来ず、ただ覗き見ることだけしか出来なかった。 「何を、しているのかしら……」  不安が、〈胸〉《きょう》〈中〉《ちゅう》を〈埋〉《うず》めく。  遠くからでは何をしているか、分からないが。  しかし、遠くからでも見知った表紙のファイルが視界に飛び込んでくる。  ――この図書館に保管されている、魔法の本のリスト。  汀は何を調べ、何をしようとしているのか。  妹であるあたしにも、一切わからない。   息を殺して、書斎へ戻ろう。  今日見たことは特に気にせず、活字の海に溺れましょう。  元々、汀に興味があったわけでもない。  あいつはいつも、あたしの知らないところで勝手に楽しくやっているの。   それがいつもの遊行寺汀で、あたしの知る、遊行寺汀。  けれど言いようのない不安の正体は、何?  どうしてこうも、胸がざわつくの?  翌朝、食道へと顔を出すと、制服姿の理央がいた。 「おっはよー! 今日はいつもより早起きだね!」 「おはよ。今日は、学園へ登校するのか?」 「うん! 昨日ね、夜ちゃんが行ってこーい! っていうんだもん。理央としましても、致し方ない事ゆえというわけです」 「致し方ない? 嫌なのか?」 「いやいや! 夜ちゃんを残してというのが、気になっただけだよー」 「……ああ、そういう意味か」  夜子にも通ってほしいってことだな。 「なあ、理央」 「はにゃ?」 「理央は、今の幻想図書館について、どう思う?」  ずばり、聞いてみた。 「ど、どうって? いつもどおーり、だと思うけど!」 「俺は、こうじゃないと思うんだよな」  あるべき姿から、離れていっているような気がする。 「今でも、こうして理央とお喋りをしたり、たまに夜子に怒られたりして、いつも通りかもしれないけど」  しかし。 「俺たちは、何ひとつ前を向いていないような気がするんだよな」  妃の死を、受け入れたかもしれないけど。  決して、乗り越えたわけではないんだ。 「……その筆頭だった俺が言うのもどうかと思うけどさ」  目を閉じると、アパタイトが蘇る。  妃の願いが、自然と頭に思い浮かぶのだ。 「もっと、笑顔が絶えないような場所に、したいんだ」 「えがお?」 「今が幸せであると、胸を張って生きたいんだ」  過去に後悔を引き摺るのではなく。  未練に想いを残すのではなく。  前を見て、今あるものを見つめたい。 「妃が好きだったのは、そういう世界だと思う」  結局、俺のすべての中心は、妃なんだよな。  死して尚、影響力は変わらない。  でも、これが最初の1歩になるのだろう。  月社妃という女の子を、思い出にしていくんだ。 「……えへへ、理央はよくわかんないけどね」  嬉しそうに、理央は笑った。 「瑠璃くんが、そう決心してくれてるなら、それで十分じゃないかな。やっと、昔みたいに格好良くなったね」 「か、格好いい?」 「うん! 最近の瑠璃くんは、後ろ向き過ぎてだらーんとしてたよー。夜ちゃんほどじゃないけど」 「そうか……」 「ふとしたときに、寂しそうな表情をするし……ぼんやりすることも増えたよね。強がりは、まるっとお見通しなの」 「意外と、察しが良いんだな」 「瑠璃くんと夜ちゃんが、わかりやすいだけー」  あはは、と。  理央は笑ってみせる。 「笑顔の作り方は、かーんたーん!」  理央が、指を立てて解説する。  まるで、料理を教えるかのような、気軽さで。 「みんなで仲良く、楽しく! 底抜けに明るい時間を作ろうよ!」  手を広げて。 「妃ちゃんはいなくなっちゃったけど、それでも、瑠璃くんはここにいるよ」  明るい声が、俺を肯定してくれる。 「夜ちゃんも、待ってる。理央も、願ってる。汀くんだっていつか戻ってくるよ。それに――かなたちゃんだって」  それは、予想外の人物の名前。 「理央、かなたちゃんのこと、すきだよ。一緒に、仲良くなりたい。一緒に、もっと笑いたい」 「……そうだな。俺も、嫌いじゃないよ」  あまりないタイプの人間だ。  厄介な人間ではあるけれど、しかし、愉快な人物だと思う。 「理央ね、嬉しかったんだよ。かなたちゃんが本の真実を知って、怖がらずに興味を持ってくれたこと」 「ああいう風に、成り行き上、秘密を知ってしまう人もいたんだけど……やっぱり、そういう人は二度と関わらなくなっちゃうから」 「誰だって、危険には近付きたくないだろうからな」  むしろ当然の反応とも思える。 「かなたちゃんがいるとね、理央、とっても楽しいの。色々お喋りしてくれて、お話も面白いから」 「……いつのまにか、べた惚れだな」 「かなたちゃんなら、瑠璃くんみたいに、なってくれるかも」 「俺みたい、に?」  笑顔は、崩さず。 「全てを受け入れて、理解して、夜ちゃんと仲良くしてくれる優しい人」  続けて、言った。 「新しい可能性を、見せてくれる」  妃が、いなくなって。  そして、彼女が現れた。  ぽっかりと開いた隙間を埋めるかのように、彼女は存在感を示し始めて。 「かなたちゃんと、もっと仲良くなりたいよー」  初めて出来た、藤壺学園の友達に思いを馳せる理央を見て。 「……そうだな」  珍しく、同意することにした。  これもまた、彼女の前では絶対にできないけれど。 「あいつは、どうしようもなく面倒だし、鬱陶しい性格をしているけど」  少し、笑って。 「なんだか、憎めない奴だよな」  気が付けば、そばに居て。  ムカつくことはあるけれど、居心地の良さを感じさせられるのだ。 「ありゃっ! もしかして瑠璃くんもべた惚れですか!?」 「はは、恋愛対象としては、見れねえよ」  そういうもんじゃ、ねえからな。 「にゃ、それなら、安心ですにゃー」  照れるように笑う理央を見て、俺は一つのことを心に決めた。  楽しい青春を、追い求めて。  色あせた日々を、彩ろう。 「なあ、理央。提案があるんだけど」 「瑠璃さーん、おはようございまーす!」  教室に入るなり、元気よく挨拶される。  それがあまりにもはきはきとした声だったせいで、周囲からの注目を一身に浴びた。 「……お、おう」  当然、そんな挨拶をされたことがなかった俺は、戸惑いながらも苦笑い。  それでも、注目は一瞬で終わり、すぐにいつもの賑わいを取り戻す。  問題児である日向かなたに、関わろうとする人は誰もいない。  俺を、除いては。 「なんですかー、元気ないですよー? 笑顔の作り方、忘れちゃいました?」 「なんであんたは、朝っぱらからハイテンションなんだよ……」 「うふふ、今は、元気なかなたちゃんが、必要だと思ってまして」 「……はあ?」  こいつは何を言ってるんだ。 「でも、気分が沈んでいるようには見えないので、少々意外でした」 「何の話だ?」  彼女は、何を意識しているのだろう。 「昨日、月社さんの遺品が見つかったばかりじゃないですか。色々思うところもあったでしょうから」 「ああ、そういう」  そういえば、あんたもあの場所にいたんだったな。  あの後、すぐに部屋に篭ったから、すっかり忘れていた。 「……好きだったんですよね」  それは、妹として? 「声が大きい」 「秘密、なんですよね」  そういえば、彼女にだけは知られてしまっていた。 「周囲の人たちが、妹さんのことを忘れてしまっている。それも、魔法の本の仕業なんですよね」 「……そうだよ」 「本の中身とか、聞いてもいいんでしょうか」 「……これと言って、語るようなものじゃなかったから」  ただ、印象深い内容だったけど。 「って、駄目ですね、私」  バツの悪そうな表情を浮かべて。 「元気に瑠璃さんを慰めてあげようと思っていたのに、これでは逆に落ち込ませてしまっています」 「深く考え過ぎなんだよ。別に、あんたに心配されるようなことでもない」  そう、今は。  昔よりも、前を向いていられているから。  幻想図書館での楽しい日々を、もう一度築いていきたい。 「と、いうわけで! 元気の良薬を瑠璃さんにプレゼントします」  にこにこと、にこにこと。  差し出されたのは、一枚の紙切れだった。 「昨日は渡しそびれてしまいましたが、はい、これ」  「……入部希望届け、か」  探偵部と銘打たれた、非常に胡散臭い部活動。  青春の匂いは、一切しない。 「きっと、楽しいですよ。瑠璃さんと私なら、素敵な時間を過ごすことが出来ます」  じっと、俺を見つめたまま。 「瑠璃さんたちは、図書館に引きこもりすぎなのです。もっと、遊びましょう?」 「…………」  見透かしたようなタイミングで、誘ってくれるものだな。  苦笑いを浮かべた俺は、深く息を吐く。 「というわけで、入部してみませんか?」 「いいよ」 「そうですかー、瑠璃さんも強情ですねえ……って、え?」  驚きに、表情が切り替わる。  まるで想定外の切り返しに、一瞬言葉を忘れていた。 「入部しよう。探偵部、入部してやる。楽しいに触れることが出来るなら、悪くない選択肢だ」  脳裏によぎったのは、妃の遺した言葉。  笑顔あふれる幻想図書館。  幸せな青春を過ごすためには、退廃的な日々から脱却する必要があると思ったのだ。 「他に部員はいないんだよな。それだったら俺も気楽に出来るし、条件としてはそう悪くない」  今更、他の部活に入るのは難しい。  けれど、顔見知りの彼女しかいない部なら、何とかやっていけると思う。 「……あは」  そんな俺を、じっと見つめた彼女は。 「うふふふ、ようやく、正直になってくれましたね」  安堵したように、笑ったのだ。 「本当は、最初から入りたかったくせにー! こんなに可愛いかなたちゃんと過ごせるのですから、嫌なはずはありませんよねえ!」 「……あのな」  それは全く、関係ないぞ。 「あと」  更に、追加して。 「理央も、入りたいってさ」  楽しいを探すことを、俺たちは始めたんだ。 「あいつは、昔から部活にあこがれを持っていたからな」 「これは朗報です」  にっこりと、笑って。 「まるで、幻想図書館の支部のようになってきましたね。良きかな良きかな」 「図書館の中では出来ないことを、体験したいがな」  そのために、俺は入部しようと思ったのだから。  新しい風を、感じたかったんだ。 「ふふふ、そして私も、遂に図書館への出入りが正式に認められたというわけですね!」 「どうしてそんな解釈になる」 「瑠璃さんが部室を自由に使う。私が図書館を自由に出入りする。おあいこじゃないですか!」 「……いやいやいや」  その理論は、おかしいだろ。  意味不明だ。 「ていうか、あんたは許可があろうがなかろうが、ほっといても来るんだろ」  昨日だって、そうだったじゃないか。  こちらの意志に関わらず、一歩踏み込んでくるんだ。 「何を言ってるんですか、瑠璃さん」  にんまりと、笑って。 「そんな私を、受け入れてしまってるくせに?」  満面のほほ笑みに、囚われる。 「すっかり、私にめろめろなんですから!」 「……うるせえよ、馬鹿」  自意識過剰も良い所だ。  まあ、そんな過程を踏みながら、俺と理央は探偵部に入部することになる。  初めて、その部活の存在を耳にした時は、まさか入部することになるとは思わなかったけど。  これも、変化を求めるがゆえの、貴重な第一歩になるのだろう。  これでいいんだよな、妃?  そんなこんなで、その後。  珍しく理央も登校していて、初めての探偵部としての顔合わせだ。 「ようこそ探偵部へ! お二人とも、よく入部してくれましたね!」 「わーい! 部活だー!」  彼女のテンションに引き上げられるように、初っ端から理央のテンションも高い。 「いやはや、それにしても理央さんまで入部してくれるとは思っていませんでしたよ。いつかは、とは思っていましたが」 「えっとーね、瑠璃くんがねー?」  ちらちらと、俺を伺って。 「理央にどうしても入って欲しいっていうんだよぉー! そんなの言われちゃったら、入るしかないよねー!」  びしばしと恥じらいながら、余計なことを口走る。 「ほほう?」  もちろん、彼女はニヤリと笑う。 「たんてーぶって、何をするのかよくわかんにゃいけど、理央もこういうのに憧れてたし、喜んで! って感じでねー」 「…………」  あんまり、彼女を調子に乗らせないでくれよ。  さっきっから、にやにやが鬱陶しい。 「それにしても、あっさりオッケーしたけど、大丈夫なのか?」  思いつきで行動したけれど、問題はあるだろう。 「夜子の世話とか、夕食の用意とか……そういうのがあったからこそ、今まで部活に入らなかったんだろ?」 「……んーと、そういうわけじゃ、ないけどね」  転じて、やや苦笑い。 「部活は、許されませぬ。でも、かなたちゃんなら、おっけーかなって」 「ふふふ、やっぱり私のような人望のある探偵ならばこそ、ですね!」 「いや、絶対に違うと思うけど」 「なんですとー!」   適切なツッコミに、騒ぎ出す彼女。 「かなたちゃんの部活に入ることが、夜ちゃんのためにもなるかなって、思ったの」 「……なるほど」 「夜子さんも、入部させちゃいましょーってことですね!」 「夜ちゃんだって、過ごしやすい場所があったなら、学園にも通ってくれるんじゃないかなって……」  本人が、どこまでそれを求めているかは、わからないが。  もしかしたら、理央や俺がしようとしていることは、夜子にとっていい迷惑なのかもしれないけど。  ルビーでのことを思い出すと、心から学園という場所を拒絶しているわけではないと思う。 「では、次は汀さんを入部させちゃいますか? お兄さんがいると、更に過ごしやすいはず!」 「さすがにあいつは無理だろ……聞くまでもねえよ」  それ以前の問題だ。 「適当に、脅してみれば良いのでは? 弱みの一つや二つ、すぐに見つけますよ」 「駄目だ」  恐ろしいことを、口走りやがった。 「手綱を握ってしまえば、こっちのものです」 「それが探偵の台詞か」 「それでは、色仕掛けなんてどうでしょう? 可愛いかなたちゃんがいれば、オールオッケーです!」 「それは、無理だな」 「無理ってなんですかー! 魅力びんびん、色気むんむんのかなたちゃんが、可愛く無いとでも!?」 「危険な匂いしか、あんたからはしねえんだよ」  脅すとか、弱みとか。  普通の会話の中で出てくる単語じゃねえから。 「むむむ、瑠璃さんはすっかり、私の魅力に堕ちてしまっているはずだったのですが」 「どこをどう分析したら、そういう結論に至るんだよ」 「駄目だよー、瑠璃くんは夜ちゃんのものなんだからー」 「それはそれで、意味不明だな」  脳天気な理央の言葉が、ひとまず場を落ち着かせる。 「そういえば、しつもーん!」  唐突に、手を上げて。 「探偵部は、何をするのかにゃ? 部活だから、放課後集まって、お茶すればいいの?」 「普段は、学生の弱み……ではなくて、情報を収集しています」  危ない単語を口走ったような気がした。気のせい。 「後をつけ……たりとかではなく、聞き込みを行なったり、盗撮……ではなくて、証拠を集めたり」 「今からでも、入部を取りやめるべきかもしれない」  気のせいじゃなかった。 「うそうそ、嘘ばっかりです! やだなー、瑠璃さん。冗談に決まってるじゃないですかー」 「あんたがいうと、冗談にならねえんだよ」  本気でやってそうなんだが。 「本当なら、探偵っぽく依頼人からの相談を受け付けたいんですけど……どうにも、誰もこなくて」  しょんぼりしながら、彼女は言う。 「折角、良い具合に探偵部をこしらえたのに、依頼人がいなくてはどうしようもありません」 「……それも、あんたの人徳だな」  当たり前だ。  教師の横領を摘発し、大立ち振舞を見せたあんたに、誰も関わりたくないんだよ。  だから、今も教室では誰からも話しかけれない。 「今までも、何人か相談しに来てくれた人はいたんですけど……皆さん、この部活を勘違いしているようでして」 「というと?」 「誰かの弱みを握って欲しいとか、とある恋人を別れさせて欲しいとか、とある教師を辞めさせて欲しいとか、そんなのばかりです」 「…………」  お、恐ろしい。  類は友を呼ぶ、かな。 「だから、ようやく部活動らしくなってきたって感じですね。今からが始まりです!」  彼女も彼女で、思うところもあるのだろう。  一人で切り盛りしてきたなりの、背景があるということか。 「ひとまず今は、魔法の本らしい噂を集めているところです。瑠璃さん的にはそちらの方が興味深いのでしょう?」  PCを起動させて、彼女はpdfファイルを開く。 「先日伝えした失踪事件について、覚えていらっしゃいますか?」 「ああ、そういう話もあったな」   確か、鷹山学園の学生が、神隠しのように消えてしまう事件が発生しているとのこと。  家出が本線として見られているが、彼女が注目するからにはそれだけの理由があるのだろう。 「曰く、死神隠しと呼ばれているそうですよ」 「しにがみ、かくし?」  理央の間延びした声と、死神という単語は、やけにアンバランスで。  PCの画面に映しだされたのは、死神隠しと銘打たれた噂の概要だった。  一人目、8月21日。  夏休みのグラウンドで、野球部のマネージャーが、給水用のドリンクを作っている間に、忽然と姿を消した。  前触れもなく、書き置きもなく、唐突に。以後、消息不明。  穏やかな性格で、周りに迷惑をかけるような子ではなかったらしい。  二人目。9月1日。  始業式、校長先生の挨拶中。列に並んでいたはずの男子学生が、忽然と姿を消した。  一人目同様、前触れなしに、突然。消える瞬間を、誰も見ていない。以後、消息不明。  クラスでは愛されやすい、可愛がられるタイプだったという。  「現在、分かっている段階で、これだけです。最も、伝聞による情報なので、話半分でいいとは思いますけど」 「……どう思う、理央?」 「うーん、難しいかなあ」  わかんないよー、と。  そう言いたげな表情だった。 「かなたちゃんの言う通り、噂だからにゃー。突然消えちゃったことばっかし注目してるけど、それもなんだか怪しいよー」 「だよなぁ。それよりも気になるのは、続けて消えたという連続性かな」  一人なら、ともかく。  二人続けてということが、注目べき点だ。 「そうですね、二人目の噂を聞いて、ようやく私も興味を持ちましたから」  じっと、ディスプレイを見つめたまま。 「これが魔法の本に関わっている可能性は、5%くらいでしょうか。他にそれらしい情報がなかったので、とりあえずお知らせしたということです」 「リアルな可能性だな」  5%もあるか、怪しいけれど。 「場所が鷹山であることも、詳細が調査しきれていない理由です。やはり、他学園にはそうそう入れませんし」 「あんたなら、忍びこむくらいやりそうだけど」 「ええ、まあ。近々、調査には伺うつもりです。もう少し続報が入りましたら、ご報告しますね」 「調べるにあたって、必要なことがあれば協力する。もし魔法の本が関わっているなら、あんた一人に任せるわけにはいかねえしな」 「あはは、2回も開いちゃっていますしね」 「それに、失踪の内容次第では、とてもじゃないが手に負えない物語になってしまう」 「な、なんだか探偵部っぽくなってきたね!」 「ふふふ、お仲間がいると、探偵団という感じになります」 「かなたちゃんは、探偵役? 瑠璃くんは、助手さんかな?」 「それなら、理央さんは、ヒロインですね!」 「にゃ? 理央が、ヒロイン?」  意外そうに、驚いて。 「お色気担当の、死体を見つけて悲鳴を上げてもらう大事な仕事がありますから!」 「やー、そんな怖い御役目は嫌だよー……」 「物騒なことを言うんじゃねえって」  苦笑いを、浮かべて。 「理央は、笑顔を振りまく大切な仕事があるだろ」 「むむむ、それは重要な任務ですな!」 「……思ったんですけど、瑠璃さんって、理央さんと私で態度が違いません? もっと優しくしてくれてもいいんですよ?」 「相手によって、態度を変えるのは当然だろ」  あんたに優しさは、勿体無い。 「ふーん! そんなことを言っても、無駄ですよーだ!」  ぷんすか怒りながら、彼女は言う。 「そのうち、嫌でも優しくしたくなりますからね! 素敵で頼れるかなたちゃんの力が必要になるでしょう!」 「……その日を、楽しみにしているよ」  こなくて、いいけどな。 「首を洗って、待ってて下さいねっ!」  探偵部に、入部して。  もう一度、俺と彼女は接近する。  代わり映えのしなかった日々に石を投じて、広がる波紋の影響はどう出るのだろう。 「あははー、かなたちゃんと瑠璃くんは、仲良しさんだねー」  少なくともそれは、悪影響ではないはずだ。   探偵部に入部を決めたその夜、食卓で。 「おい、夜子」 「……何よ」  アメシスト以降、夕食を共にするようになった夜子へ、何気なく言ってみた。 「お前も、探偵部に入れよ」 「はあ?」  馬鹿みたいに、呆れられた。  どうしようもなく、冷笑される。 「キミ、正気で言ってるの? あたしを、笑わせたいだけじゃなくて?」 「俺はいたって真面目なんだがな」  そう言われると、思ってたけどさ。 「り、理央も夜ちゃんが入ってくれたら、嬉しいかなって……」 「出来ることと出来ないことがあって、それは後者。どうしてあたしが、時間を〈溝〉《どぶ》に捨てるような真似をしなければいけないのかしら」 「ルビーの時は、通えてたじゃないか」 「あれは、魔法の本だったから」 「実態は、魔法の本でも何でもなかったけどな」  闇子さんと理央が演じた、偽物の物語だったんだから。  紛れも無く、あの一瞬の時間の中で、お前は学園生活を過ごすことが出来た。 「思い込みでも、演技でも、お前は学生として生きられるってことだろ。その制服を、部屋着にするのは少し勿体ないんじゃないか」  何故、今でも制服を着ているのかは、不明だが。  それは図書館よりも、学園のほうが似合うはずだ。 「うるさい。ルビーの件があったからこそ、あたしはもうこりごりなの」  じっと、俺を見つめて。  いや、睨みつけて――か。 「無理よ、無理。あたしが学園に通うなんて――部活なんて、無理。それに、もう学園は辞めたも同じ」 「まだ籍はあるんだろ。登校しなくても、勝手に進級させてくれている。闇子さんの働きかな」  いつか、夜子が学園に通いたくなったとき。  留年したら、居場所がないからと――闇子さんが、手回しを行なっている。  遊行寺家は、この島の中でもそのくらいのことを干渉出来る地位にある。 「それこそ、余計なお世話」 「で、でも、夜ちゃんは学園に行きたいから、制服を着ているんじゃあ……?」  珍しく理央が、口を挟む。 「ま、前までは、そうじゃなかったよね……?」  恐る恐るといった、様子で。  対する夜子は、俯いてしまう。 「未練でも、あるのか」 「何を言っているのかしら」  夜子は、切り捨てた。 「本当は、学園に通いたいとか」 「あるわけないじゃないの」  同じく、切り捨てた。 「……じゃあ」  うすうすは感じていた可能性。 「お前はどうして、今になってもその制服を着ているのか」  それは。 「妃が、藤壺学園へ憧れを持っていたからか?」 「――ッ!」  その言葉に、明確な答えを示してくれた。 「うるさい、何を言ってるの!」  妃は、その制服を着て、俺たちとの学園生活に憧れていたから。  もう、それが叶うことが亡くなって、その未練に尾を引かれているのではないのか。  その制服は、もう二度と妃が着ることの出来ないもの。 「違う、変な想像をしないで」  首を振って、夜子は否定する。 「あたしはただ、気に入っただけなの」  誰に、言い訳しているのか。 「ただ、デザインが少し、可愛いと思っただけ」  こちらを向かず、明後日の方向へ言い訳する。 「し、白は……あたしの、好きな色だから」  その髪のように、純白。 「それだけ……よ」  言い訳は、か細く痩せて。 「……だったら」  打開案、妥協案。  せめて閉塞した何かを変えたかったから。 「何か、悩み事があったら、相談してみろよ。探偵部は、お前みたいな引きこもりのニートお嬢様でも、依頼を受け付けてるぜ」  夜子は、この図書館から一歩も出ようとはしない。  それこそ本がらみの用事があるときだけは例外として、その他全て、理央に任せっきり。  闇子さんが在宅している時には、本家の人間や外部の人間とやりとりをして、情報を集めていたようだけれど――  彼女が姿をくらましてからは、それすら行なっていない。  夜子が、当主として外部の人間と接触できるはずもなく。  故に今、夜子が頼れる人間は、理央しかいないのだ。 「……悩み?」  閉じられた空間内で、どんな悩みが生まれるか。  それは、俺の知り及ぶことではないだろうが――夜子なりの、苦悩があると期待して。 「あたしの願いを、キミが叶えてくれるというの?」 「ああ、探偵部総出でな」  もちろん、部長の許可をとっては無いけど。 「理央一人じゃ難しいことも、やってやれるぜ」 「理央は、頼りがいがないからねー」 「自分で言うなよ……」  料理面では頼りまくりだし、適材適所ということで。 「……ん、でも」  俺を見て、難色を示そうとした夜子を見て。  先に、反論を潰しておくことにする。 「頼るという言葉は、語弊があるかな。願いを叶えるというのも、ちょっと違う」  それじゃ、夜子は納得しないだろう。  大嫌いな俺を相手に、そういう弱みを見せる行為が嫌いだから。 「これは、取引だ。契約だ。交渉だ。お前は俺たちに、やりがいのある仕事を依頼する。それを一定の見返りを貰い受けることによって、遂行する」  悩む夜子の反応を見て、確信した。  お金持ちの一人娘、我儘の限りを尽くしてきたニートお嬢様にも、何か悩みがあって。  それは夜子自身や、理央では難しいようなことが、あるのだと。 「お互い対等な立場だ。俺たちは今、そういうクライアントを求めてるんだよ」 「…………ん」  言葉でいくらでも取り繕ってみせようか。  いかに、夜子の興味を惹かせるか。  いかに、探偵部という場所へ夜子を関わらせるか。  夜子なしでは、妃の願った幸せの日々を実現することは出来ないだろうから。 「み、見返りは?」  そして、譲歩の一歩。  条件の確認を、夜子は行う。 「それは、部長に聞いてみないとな。まあ、あいつのことだから――大したもんは要求しないと思うけど」  もちろん、嘘だ。  彼女が、要求するものなんて、ろくなもんじゃないとおもうけど。 「わかった……考えておく」  思いつめたような表情を浮かべたまま、夜子は頷いた。  それは、今のこの場で得られる最大限の肯定である。 「よ、夜ちゃんのお願いなら、かなたちゃんが何でも叶えてくれるよー! だって、かなたちゃんは優秀な探偵さんだから!」 「日向かなた……あまり、積極的に関わりたい相手ではないけれど」  しかし、まるっきり知らない相手でもないから、まだ抵抗は薄いのだろう。 「あの女は、あたしを見ても普通に接してくれる。それだけ、他の人間よりマシだから……」 「…………」  それは、白髪と赤い瞳のことを指している。  夜子は昔、その外見で嫌な目にあったから、変に注目されることを、極端に恐れているのだ。 「お前は気にし過ぎなんだよ。お前の髪も、お前の瞳も、闇子さんからもらった自慢のもんだろうが」 「……うるさい、言われなくてもわかってる」  自らの髪の毛を、優しく掴んで。 「だから、あたしは染髪もカラコンもしないのよ。あたしも、あたしのこの色が好きだから」  複雑そうな表情を浮かべていたけれど。  しかし、嘘が混じっているような様子ではなかった。 「それを不当に評価する連中に、吐き気を催すだけ」  曰く、忌むべき者の象徴だと、誰かは言ったらしい。  遊行寺家における、遊行寺夜子の立ち位置について、俺は何一つ知らないでいる。  彼女が、どういう経緯でここに来たのか。  何故、こんな辺鄙な島で引き篭もっているのか。  いや、何一つ――というのは、間違いか。  夜子と闇子さんは、本家から追い出されるように、この島へやってきたという話を、聞いたことがあったか。 「それでも、一定の協力関係にはあったというか」  魔法の本の情報を調べるにあたって、闇子さんは本家の人間と繋がりを持っていたということは、間違いない。  遊行寺家の中でも、闇子さんは魔法の本における特別な役割を担っているようで――だからこそ、切っても切れない関係だったのか。  追い出されはしたものの、されど全てを切り捨てることは出来ず。  半ば呪いのように、闇子さんは魔法の本に関わり続けていた。 「……そして」  闇子さんが、夜子にこの図書館を任せて、長く家を空けるようになってから。  この図書館に、本家の人間と繋がりを持つものは誰一人としていない。  夜子は、ああいう性格な上に、本家の人間を忌み嫌っていて。  理央は、そもそも初めからこの図書館のメイドでしかない。  例外といえば、汀くらいものか。  本家に雇われた私立探偵――本城奏と、関り合いを持っているのだから。  だから夜子は、魔法の本を集めるにあたって、ほとんど無力だった。  闇子さんが持っていた情報網さえも、引き継がれることはなく。  「……だから、夜子は夜子のやり方で、本との付き合い方を模索していかなきゃならない」  待っているだけでは、事件は解決しない。  図書館に引き篭もっているだけでは、到底集めることなんて出来ないだろう。  闇子さんがいなくなった今、夜子には頼れる人がいないのだから。  だから、外部との接触を持つ、一環として。  新しい居場所を作れたらいいなとか、甘い幻想をいだいてみたりして。  日向かなたに期待をしてしまっている俺は、間違っているのかな。 「……やあ、こんなところで奇遇じゃないか」  翌朝、悩みにふけりながら登校していると、奏さんと出くわしてしまった。 「どうした、浮かないような顔をして? 悩み事があるのなら、お姉さんに相談してみるか?」 「いえ、そういうわけじゃないですよ」  不意打ちのように現れてくれるものである。 「なんだか、久しぶりに会いましたね」 「少し、野暮用が出来てな。ここのところ、少し忙しい」 「野暮用?」  一歩、踏み込んでみた。 「それは、教師としての仕事でしょうか」 「ふぅん、お姉さんの動向を、詮索しようっていうのかな」  しかし、奏さんには通用しない。 「残念ながら、君には教えられない。君には少し早すぎる、オトナの世界の事情だよ」 「学生だからって、ガキ扱いしないで欲しいですね……」  前回の抱擁といい、対等な扱いはされていなかった。 「はっはっは、背伸びしたがる年頃なのは理解できるが、身を弁えたほうがいいぞ?」  明朗に笑いながら、あっさりと流されてしまう。  話題転換。 「時に、君。君はどうやら、私の妹と仲が良いらしいが、それは本当か?」 「岬のことですか」  ああ、さすがにこの段階になると、知られているのかな。 「そうだよ、岬のことだ。岬も、変な男に懐いてしまったものだよ」 「懐かれているというより、適度に仲良くしてくれてるって感じですけどね」  絶妙な距離感が、居心地が良くて。 「しかし、私と面識があることは伝えていなかったようだな? 全て話していると思っていたよ」 「……まあ、事情が事情ですから、説明しづらくて」  それに、探偵であることを、岬が知っているのかさえ、知らなかったから。 「ふむ、それは懸命な判断だ」  唇に手を当てて。 「岬は、普通の一般人だ。願わくば、このままその領域から出させたくないと思っている」 「それは、どういう意味ですか?」 「魔法の本に、一切の関わりを持たせたくないということだよ。大切な家族なんだ、当たり前だろう?」 「…………」  当たり前。  その言葉を、俺たちは正しく理解することが出来ていなかったから。 「……そうですね。それは、普通の発想だと思います」  関わったら、不幸になる。  そういう触れ込みだったな。 「そんな顔をするな。また、お説教をして欲しいのか?」 「いえ、通学路でアレは、勘弁」 「はっはっは、君にも羞恥心というものがあるのだな。お姉さんは、驚きだ」 「俺をどんな人間だと思っていたんですか……」  なんとなく感じる、岬の面影。  つかみ所のない感触と、絶妙な距離感が、よく似ている。 「少なくとも、汀くんよりは、利口な人間だと思っているよ」  そして、話題は汀へ。 「これでも、手を焼いているんだよ、あの悪ガキには。私のことでさえ利用しようと、虎視眈々と機会を伺っている」 「利用? それは、何の目的に?」 「さあ、なんだろうな。分からないから、手に余っている」  一息、ついてから。 「汀くんは、少し前から変わったように感じるよ。螺子が一本、外れたとでも言うべきか。今の私には、彼が何を考え、何を目的としているかが分からない」 「……汀は、夜子のために魔法の本を集めている。そう、説明されています」 「それは、間違っていないだろう。だが、本当にそれだけだろうか」  可能性を、提示する。 「もし、私の知っている彼ならば、遊行寺闇子がいなくなった図書館で、夜子くんを一人にさせるはずがないと思うんだが」 「…………」 「いや、厳密に言えば、君もいるし、理央くんもいる。人間関係という意味では、決して不満も不安もないだろうが――」  そうして、奏さんは言及する。  今の、汀の行動の不審点を。 「今の夜子くんは、何の力も持たない少女に過ぎない。彼女がいかに無力であるかは、君が一番知っているだろう」  夜子は、人目の多いところへ外出することすらしようとしない。  他人と話すことが致命的に苦手。  外部との情報だって、やりとりすら出来るはずもなく。 「彼女は、魔法の本の担い手として、あまりに足りないものが多すぎる。それは誰の目にも明らかで――それを補えるのは、汀くんしかいないだろう?」 「……そうですね」  汀は、数年前から奏さんの元で働いて、知識と経験を蓄えている。  俺や理央なんかよりも、ずっと詳しいはずだ。  闇子さんに置き去りにされてしまった夜子の力になれるのは、汀を置いて他にはいない。 「それなのに、何故、未だ私のもとで雑用をこなすのか。悪知恵の働く彼のことだ、それすら気がついていないはずもないだろうに」 「まして、汀は夜子のことを溺愛していますからね。それは確かに、不自然だ」  汀は、変わらないと思っていたけれど。  状況が変わっても、変わらないその姿そのものが――既に、変わってしまったということなのかな。 「ちなみにだが」  凛とした表情で、さらりと言った。 「お姉さんに隠し事をすると、あとできついお仕置きが待っているからな?」 「…………」 「何かを知っているのなら、正直に話しておいた方が懸命だ。お姉さんを怒らせると、とてもとても、怖いから」 「……そりゃ、もちろん」  作り笑いを浮かべて、頷いた。 「そうか、ならいい。今日も元気に、勉学に励めよ」  颯爽と、立ち去ろうとする奏さん。 「え? 学園はこっちですけど?」 「いいんだ。教師なんて、柄じゃないからな」 「……はあ?」  あんた、何のためにこの島に来たんだ。 「探偵部といったかな? あれは中々愉快そうな部活じゃないか。精々、青春を楽しめよ」  先生が、堂々とサボる瞬間を目撃する。  本城奏は、まさにいい加減な教師だった。 「私が今日、学園をサボったことを、誰にも言っちゃ、駄目だからね」  耳元で、囁くように念を押されて。 「わかりました……それじゃ、また」  いつ、会うのだろう。  教師を自称しながら、まるで教師として振る舞わない彼女へ。  ああ――まさに探偵じゃないかと、そう納得してしまった。 「……あれ?」  昼休みの、部室で。  昼ご飯でも取ろうかと、やってきてみると。 「汀? 何で、ここに?」  今まさに外出しようとする汀と、ばったり出くわしてしまった。 「お、瑠璃か。悪いな、ちょっと急いでるんだ」  手には、プリントされたA4用紙が、クリアファイルにまとめられている。 「お、おい――!」 「っと、そうだ、瑠璃にも聞いておくか」  足早に去ろうとして、立ち止まる。 「奏が今、どこで何をしているのか、知ってっか?」 「いや……知らないけど」  今朝のことを、思い出す。 「ただ、学園には来てないみたいだな。用事でも、あったのかな」  サボっているとは、言っちゃ駄目だけど。  それ以外は、口止めされていない。 「へぇ、あの女、やっぱり来てねーのか」  冷たく笑いながら、汀は言う。 「職員室の連中に聞いても、留守にしてるとか別の仕事中だとかはぐらされたが……そもそも、いねえんだな」 「え、そうなの?」  もしかして、言っちゃ駄目だったかな。 「安心しろ。お前に迷惑はかけねーから。それに、今は」  忙しなく、続けて。 「あの女の居場所に、心当たりはある。ようやく、掴んだぜ――奏がこの島に帰ってきた理由を」  瞳に、熱意が宿っていた。  俺のことは視界に入らず、ただ目的に向かって突き進むかのように。 「じゃあな、瑠璃。今回の件に限ったら、お前は無関係だ。そのままそこで、日向といちゃついてろ」 「……はあ?」 「安心しろよ。俺が全部、片付けてやるから」  そう言って、追いすがるまもなく、行ってしまった。 「何やらわけありのようですね」  紅茶を飲みながら、彼女は苦笑いを浮かべる。 「俺も、さっぱり分からねえよ。俺の知らないところで、事件が起きているのか……?」 「事件なら、毎日のように起きています。まるで自分を中心に、物語が進んでいると思ってはいけませんよ」 「いや、それは分かっているけど」  納得出来ないまま、釈然としない心のわだかまり。 「汀は、何をしにここへ来たんだ?」 「依頼ですよ、依頼。調べてほしいことがあるからと、憮然とした態度でやってきました」 「……まあ、頭を下げたりはしないだろうな」  そういうキャラじゃないし。 「この島に起きている、最もきな臭い事件があったら、教えて欲しいとのことでした」 「提供した情報は、以前にもお話した、死神隠しの事件ですね」 「あの、鷹山学園で起きているという失踪事件か?」  一人消え、二人消え。  今も、消息が分かっていないというもの。 「細かいことは調査中……というか、前回からまるで進展がなかったのですが、最も怪しい事件となるとこれしかないかなと」  手元の資料を見ながら、彼女は続ける。 「私としても、裏付けのとれていない情報をお渡しするのは心苦しかったのですが、汀さんにしてみれば、それで十分だったようです」 「提供した情報ってのは、それだけか?」 「それだけです。瑠璃さんにもお話した、何かありそうな、可能性のレベルでのお話です」 「それであいつは、あんなに息を巻いて出て行ったのか」  やはりあの失踪事件は、何かあるのだろうか。 「関わっているに違いありません。ここまで来て、はい無関係でしたーというのは、あまりにも肩すかしです」 「……だろうな」  そうでなければ、納得出来ない。 「それで、どうします?」  わくわくしたような表情で、彼女は問いかける。 「私たちも、首を突っ込みますか? 楽しい事件の香りがしますよ?」 「…………」  まるで、玩具を見つけた子供のようだった。  遊びたがりの、ガキのよう。 「……いや、今は保留だ」  首を振って、却下する。 「汀や、奏さんが関わっているのなら、俺たちの出る幕はないだろ。下手に首を突っ込んで、状況をややこしくするわけにはいかないし」  それは焦りすぎのような気がして。 「それに、今回は俺の出番はないって、汀が言ったんだ。だったら俺の出る幕なんか、用意されてないんだよ」  俺に何が出来るとも、思えないし。 「ぶー、それじゃあつまんないですー!」  駄々をこね始める彼女だったが、俺の意見は変わらない。 「必要になったら、俺達の力を借りに来るだろ。今はまだ、そういう時期じゃないってだけだ」  俺と汀は、そういう関係だったんだ。  あいつは、俺が必要な時は、必ず関わらせるやつだったから。  そしていざというときは、俺の方から勝手に関わる。  今はまだ、いざというときではない。 「というわけで、俺はここでご飯食べてるから、邪魔するなよ」 「な、なんですかその言い草は! というか、入部して早々、我が物顔で部室を使い過ぎじゃないですか?」 「あんたに遠慮しても、意味ないだろ……」 「何をー!」  がやがやと、がやがやと。  二人だけの部室が、賑やかになっていく。  日向かなたの明るさに、次第に慣れ始めている自分が居て。 「あ、あのー」  彼女と会話をしていたせいか、ノックの音を聞き逃していたらしい。 「こんにちは!」  出入口には、理央がいた。  それも、満面の笑みを浮かべている。 「あら、ようこそ理央さん! 今日はお休みだと思っていましたよ」 「えーっとね、そうだね、お休みする予定だったんだけど」  笑顔が、隠しきれていない。  喜びから、頬が零れ落ちそうだ。 「ぬふふふ、はい、夜ちゃん、恥ずかしがらずにね」 「え?」  今、夜子って言ったか? 「……べ、別に、恥ずかしいとかそういうことはないから」  聞き慣れた声がした。  理央の後方から、小さな矮躯が顔を出す。 「それに、いつまでも廊下に立っていると、余計な視線を浴びてしまうわ。入るなら、早く入りましょう」  慣れ親しんだ、夜子の白髪。  慣れ親しんだ、藤壺学園の制服。  それなのに、場所が変わるだけで、どうしてここまで新鮮に思えてしまうのだろう。 「お前、どうして……」  ここへ。  声にならない驚きが、俺に表情を忘れさせる。 「瑠璃さん」  真横で、彼女は笑顔を示してくれた。 「こういうときは、何も言わずに歓迎してあげなければいけません」 「……そうだな」  今も夜子は、気まずそうに視線を落としている。  来たことを後悔しているような、そんな様子で。 「何よ、不満?」  口を尖らせて、強がる。 「今日は、体調が良かったのよ。だから、きまぐれに散歩をしたくなっただけ。これは、そのついでよ」 「ああ、わかってる」 「理央が喜ぶものだから、後に引けなくなっただけ。別に、キミが来て欲しそうだったからとか、そういうのは無関係」 「もちろん、わかってる」 「それに、これは対等な立場の上でのことよ。決して、弱みを見せるわけじゃなくて」  じっと、俺を見て。  まっすぐと、俺を見て。  夜子は、その言葉を口にした。 「依頼があるの。お金はいくらでも払うから、あたしの力になりなさい」 「――喜んで!」  待ってたかのように、彼女は大きく頷いた。  その反応が余りにも早かったから、夜子は驚いてしまう。 「夜子さんのお悩みは、この名探偵かなたちゃんがすぱぱっと解決してあげましょう! 存分にご期待ください!」 「……う、ん……よ、よろしく、お願いするわ……」  今もまだ、気恥ずかしさが拭えなくて。  こういうとき、どうすればいいのか、まるでわからなくて。  それでも懸命に、周りと関わりを持ち始めていた。 「やっぱり、瑠璃くんなんだね」  一歩、後ろにいた理央が、噛み締めるように言った。 「夜ちゃんを連れ出せるのは、瑠璃くんだけなんだ」  自分でも驚愕の出来事に、鷹山学園の失踪事件のお話は、すっとんでしまった。 「依頼があるの」  確かに、夜子はそういった。 「もちろん、歓迎ですよ? さあさあ、事情をお話下さい!」  ちゃかすこともなく、からかうこともなく、中へ案内する。 「ちょっと、瑠璃さん! あんまり呆けた顔をしないて下さい。夜子さんが気分を悪くしますよ?」 「……そんなに、腑抜けた表情をしていたか」 「ええ、それはもうボケーとしてましたね!」  想定外の流れに飲み込まれて、脳が正常に働かない。  だが、紛れも無くこの展開は、俺自身が望んでいたものではなかったか。 「なんだか、落ち着かないわね」  そわそわと、視線を動かす夜子。  それは、無理もないことだろう。 「それで、何かお悩みでしょうか?」 「……キミは、邪魔」  本題に入る前に、夜子は俺を排撃しようとする。 「邪魔なものは、邪魔なの。気分が悪い」 「……わかったよ」  嫌われ役というのも、辛いもんだな。 「瑠璃さんにはお話しづらい内容でしょうか?」 「そういうわけじゃないけど……なんだか、ムカつくから」 「……あはは」  苦笑いを浮かべながら、彼女は続けた。 「しかし、瑠璃さんは私の大切な助手ですから、どのみち、事情を説明することになりますが?」 「え」 「探偵部は、一人で切り盛りしているわけではありませんからね。仲間と情報を共有するのは当然のことですよ」 「……む」  それは、でまかせだ。  彼女が本当の意味で、俺の力を頼ったことなんて一度もない。 「そ、そうなの……?」  だから、これは。  夜子と俺を繋ぎとめようとしてくれる、彼女なりの配慮だったのだろう。 「それなら、仕方がないわね……特別に、キミの同席を許します」 「そりゃどうも」  対等な立場、と言い聞かせながらも、やはり俺に悩みを聞かれたくはないらしい。  けれど、その気持ちを押し殺してでも、解決したいことがあるということか。 「調べて欲しい人がいる」  依頼の内容は、果たして。 「――遊行寺汀の、身辺調査をお願いしたいの」 「…………」  出てきた名前は、身内の名前。 「夜子さんの、お兄さんですか」 「ええ、そうよ。あのシスコン馬鹿兄貴のことを、調べて欲しい」  そうして夜子は不安そうに視線を落とす。 「ここのところ、ずっと変なのよ。数年前から女遊びで彷徨っているとは聞いていたけれど、なんだか様子がおかしくて」 「……様子が? それはどんな風に?」 「あのシスコンは、あたしのことを溺愛しているわ。いつもなら鬱陶しいほど絡んでくるのに、近頃は顔も合わせようとしないのよ」 「それは、妹離れをしたというわけではないのか?」 「違うと思う……たまに顔を合わせると、気持ち悪い言葉をかけられるから」 「気持ち悪いって……」  思わず、苦笑い。 「腰が引けてるというか、あたしに遠慮をしているのか、とても距離が開いたように感じてしまって」  それは、意外な言葉だった。  夜子は汀のことを邪険にしていると思っていたけれど、それでも、ちゃんと見ていたんだな。 「それはとても楽で快適だったから、特に疑問じゃなかったんだけど」  そうして、夜子は語る。 「数日前、あたしは見てしまったの」  怯えた表情を、していた。 「汀が、物凄い形相で、何かを調べているのを見てしまったの。あれはたぶん、魔法の本の収集リスト」 「……何?」  汀が、魔法の本を? 「その収集リストというのは、どういうものですか?」 「今まで遊行寺家が集めた本のタイトルと、その簡易内容がリスト化されているものよ」 「ものすごい形相というのは?」 「……人を殺してしまいそうな、悍ましい瞳」 「それは物騒な言葉ですね」  真剣な表情で、彼女は手帳に書き留めていく。 「目の色を変えて、汀は何かをしようとしている。あたしは、それが何かを知りたいの」  それが、夜子の依頼の内容。 「大好きな夜ちゃんと距離をおいてまで、何かをしようとしているみたいなの。瑠璃くんは、何かしらない?」 「ああ、特に何も聞いていないな。元々、何でも話すような関係じゃなかったし」 「友達なのに、ですか?」 「友達だからって、何でも話すわけがないだろ。俺たちの関係は、それほど馴れ馴れしい物じゃなかったからな」 「……そういうものですか。男の子の友情は、よくわかりませんね」  不満気な表情の、彼女。 「俺に何の説明もないってことは、俺に知られたくないってことなんだろう。関わって欲しくないってことだ」  そしてそれは、おそらく。 「夜子にも、知られたくないことがあるんだろう」 「だとすれば、いよいよ鷹山学園失踪事件について、きな臭くなってきましたね」  先ほど、彼女に頼んで情報を受け取っていた事を思い出す。 「あまり首を突っ込みたくはないが、そうも言ってられなくなってきたな」 「……依頼、受けてくれるの?」  今後の対応の話へ向かおうとする俺たちへ、夜子は恐る恐る訪ねてきた。 「当たり前じゃないですか。名探偵かなたちゃんに、お任せ下さい!」 「……そう、助かるわ」  少し、安心したように、頬がゆるむ。 「それで、報酬はどうなっているのかしら? あたしはいくら、お前に払えばいいの?」 「嫌ですねー。これでも部活動なんですから、お金を取ったりはしませんよ」 「……お金、いらないの?」  少し、顔が険しくなる。 「それは、困る。立場が平等じゃなくなるわ」 「…………」  頼るという行為を、嫌っているから。  代償を背負いたいのだろうか。  しかし、その金はお前が稼いだものじゃないぞと、空気の読めない発言をしそうになったが、やめておこう。 「んーそれなら、報酬はこれでどうでしょう」  彼女は、一枚の紙切れを取り出した。 「何よ、これ」  受け取った夜子は、難しい表情を浮かべた。 「にゅーぶ、とどけ?」 「はい! ご依頼を完遂した暁には、夜子さんも仲間に加わって下さい!」 「無理」 「ぎゃふん!」  即断だった。  まあ、当然だろうなあ。 「残念だけれど、あたしはとても忙しいの。部活なんて、入っている余裕はないわ」 「うー、お願いしますよー、別に、幽霊部員でも構いませんから!」  縋るように、彼女は言う。 「実はですね、とある先生に目を付けられてしまって、規定数以上の部員が必要なんですよ」 「規定数? 瑠璃と理央だけじゃ、足りないのかしら?」 「4人必要なんですよ! だから、是非とも夜子さんの力をお借りしたくて」 「……ふぅん、そう」  ……あれ? 確か、最低人数って3人じゃなかったっけ? 「ね、そうですよね、瑠璃さん?」  にっこりと、微笑みを向けられて。  同意しろと、暗に示されてしまった。 「あ、ああ……むしろ、探偵部的には死活問題なんだよ」 「俺たちはお前の悩みを解決する。お前は、俺の悩みを解決する。それは理想的な、対等な関係じゃないか?」 「しかも、名義貸しだけで、顔を出す必要はないんだぜ」 「……むむむ」  少し、考えこんでから。 「そんなに、厳しいのかしら? 後一人くらい、どうにかなりそうだけど」 「万策尽きちゃってます。もう誰も、検討すらしてくれなくて」 「ここで夜子さんが入部してくれたら、私のヒーローです! 正直、夜子さん以外頼れる人はいないんです」 「そ、そう? そこまで言われてしまったら、あたしとしてもやぶさかではないけれど」  そして、あっけなく騙される夜子。  いろいろと、ちょろい女の子である。 「それなら、顔を出さなくていいという条件で、入部してあげましょう。このあたしが、困っているお前に力を貸してあげる」  自慢気に胸を張って、のせられてしまう夜子。  彼女は既に、夜子の使い方を熟知してしまっているらしい。 「ふふん、感謝することね。その代わり、しっかりあたしの依頼をこなすのよ? 入部するのは、それからよ」 「それはもちろんです! わーい、やりましたねー!」  小躍りしながら喜ぶ彼女。  ナチュラルに夜子を騙すその様子に、恐ろしさを覚える。 「さて、それでは早速、作戦会議といきましょうか!」 「にゃ? かいぎ?」  隣で静かに座っていた理央が、首を傾げた。 「そーですよ! いかにして汀さんのプライバシーをぐちゃぐちゃにするか、私たちの活動方針を決めるのです!」 「むむむ、そういえば理央も、探偵部の下っ端でしたね! 何か、お仕事を?」 「理央さんは嘘とか隠し事は下手そうなので、今回の依頼には向いてませんねー」 「うにゃ……」  しょんぼりと落ち込む、理央。  いや、それでいいんだよ。汚い探偵の仕事なんて、しなくていいから。 「理央さんは、秘書みたいなものですよ。笑っていただければ、私たちの元気になりますので!」 「なるほど、にこー! って、してればいいんだね!」 「……理央が探偵なんて、不向きにも程が有るわね」  じっと、見つめながら。 「キミのような不遜で失礼な男の方が、似合っているような気がするわ」 「そりゃどーも」 「……褒めてないわよ?」 「わかってるっての」  普通に、部室にいる光景が、嬉しくて。  悪口も、悪口に聞こえない。 「しかし、汀は警戒心の強い奴だから、そうそう調べてもボロが出るとは思えないんだよな」 「俺たちに隠し事があるなら、絶対にばれないように立ちまわるような気がする」  悪童とまで呼ばれ、好き勝手に過ごしてきた遊行寺汀。  悪目立ちをすることも多く、その度に上級生にシメられそうになるが、その全てを返り討ちにしてきた。  悪知恵が働き、喧嘩も強く、敵に回すとこの上なく厄介な相手。  それ故に、同級生からは関わりを避けられ続けていた。 「何を言ってるんですか、私たちは、探偵ですよ? この程度の問題、クリアしなくてどうするのですか!」  難敵だ、と頭を抱える俺へ、彼女はキーホールダーを手渡す。 「……なにこれ?」 「にゃ? おねこさん?」  それは、チンチラを模した、子猫のキーホルダーだった。 「可愛いでしょう? うちで飼っている猫ちゃんによくにたキーホルダーです。前にちらっとお話した、私の数少ない親友です」  友達って、猫のことだったのかよ。 「かなたちゃん、猫ちゃん飼ってるの? うわーい、見たいな!」 「ふふふ、自慢の友達です。今度、部室に連れてきてあげますよ」 「……その猫が、何の関係があるのかしら。とても、依頼には関係なさそうだけど」  猫、と聞いて、たちまち不機嫌になる夜子。  動物の類は、全て嫌いだから。 「このキーホルダーを、なんとかして汀さんに携帯させて下さい。もしくは、鞄に仕込むとかでも構いませんが」 「にゃ? 汀くんへのプレゼント? いいなー、理央も欲しいよー」 「……おい、まさか」  嫌な予感がしてしまった。 「残念ですが、理央さん。これは見かけほど可愛らしいものではありません」  悪びれもなく、彼女は言う。 「この中には、盗聴器と発信機が仕込んでありますから。相手に知られずに情報を集めるには、これが一番でしょう」 「…………」  俺と夜子は、ドン引きした。  意味の分かっていない理央だけが、疑問符を浮かべている。 「にゃ? どゆこと?」 「……何、お前、いつもそういうことをしてたわけ?」  さすがの夜子も、彼女のイカレ具合を察したらしい。  頬がひきつっている。 「いつも、というわけではありませんよ。たまーに、たまーにです」 「……ちょっと待て」  不意に立ち上がり、自らの身体を確認する。  何かついていないか。何か仕込まれていないか。 「嫌ですね、瑠璃さんには付けていませんよー? そんなに警戒しないで下さい」 「恐ろしすぎて、その言葉が信じられない」 「だって、理由がありませんから! 私だって、見境なくプライバシーに踏み込むほどお馬鹿さんではありませんよ?」 「必要と判断したら、やるのか……」 「え? 当たり前じゃないですか」 「…………」  この女が、怖い……。 「と、とにかく、あたしは何も見なかったことにするから、あとは宜しくね」  あ、この野郎、無関係を装う気か。 「調査方法に関しては、全面的にお任せよ。何が起きても、あたしは関係ないわ」 「ええ、それはもちろん! 大船に乗った気持ちでいて下さい」 「……あたし、相談する相手を間違えたような気がするけれど」 「もう、撤回はできねえぞ……」  日向かなたの心をに、火を付けてしまったらしいから。 「ふっふっふー、いやぁ、楽しみですねー!」  これから俺は、日向かなたの恐ろしいところを嫌でも知ることになるのだろう。  そして、放課後。  日向かなたから盗聴器付きキーホルダーを渡された俺は、汀への仕掛けを厳命されてしまっていた。 「いいですか! これも立派な探偵になるためのステップです! ばっちりお任せしましたよ!」  なんて、言いやがるんだ。 「……自分の手を汚したくないだけじゃ」  バレたときのリスクを考えて、まるで鉄砲玉のような扱い。  なるほど、助手というものは便利な役割なんだな。 「でもなあ」  猫のキーホルダーを掲げて、思う。 「……これ、汀は受け取らねえだろ」  銀色の毛並みが美しい、チンチラのキーホルダー。  どうみても、汀の趣味じゃない。  少なくとも、常に身近に付けてくれるとは、思えなかった。 「じゃあ、こっそり忍ばせる?」  それも、無理だろう。  警戒心の強い汀は、そう簡単に隙を見せてくれるとも思えない。 「最初はナイスアイディアだと思ったけど、現実的ではないかな」  手段は非人道的でも。  結果を求めるなら、それなりにありかなと思っていた。  最初はドン引きしてみせたけど、実のところ、それほど仁義を重視してはいない。  それが必要なことであれば、躊躇なく手に染める。  彼女のその考え自体には、同意しているから。 「でも、自然に仕掛ける手段がないんじゃ、どうしようもねえよ」  せめて、もっと別のものに仕掛けとけよ。  「どうしよう、これ」  今も、作動しているのかな? 「それ、いらないの?」 「持て余してる」  慣れ親しんだ声がした。  思わず、普通に対応してしまったけど。 「じゃ、もーらいっ!」  掲げていたキーホルダーを、ひったくられる。  思わず、驚きに振り向いて。 「み、岬……!」  本城岬が、例のキーホルダーを奪い去る。 「新入りくんにしては、ちょっと可愛すぎるんじゃないかな? というわけで、これは僕が貰っておくよ!」 「おい、待て、それは駄目だ」  色々と、やばい。 「ええー? でもいらないって言ったのは、新入りくんだよね?」 「不必要だけど、岬には渡したくないんだよ」  女の子に、盗聴器をプレゼントする男。  これは、さすがにアウトじゃないか? 「天邪鬼な岬ちゃんは、そういわれると意地悪したくなっちゃうんだ!」  にこやかな、笑顔を浮かべて。 「それじゃあ、新入りくん、また明日!」  よーいスタート。  そんな掛け声を呟いて、岬は一目散に走りだしてしまう。 「お、おい、ちょっと待て!」  慌てて荷物をまとめて、廊下へと飛び出す。  既に岬の姿は、かなり遠く。 「くそっ、さすがに駄目だろ、これは!」  大慌てて追いかけていく。  階段を一段とばしで駆け下りて、校門を全力で抜ける。  そして、いつもの通学路に飛び出たところで。 「……見失った」  ものの見事に、逃げられてしまったのである。 「やばい、どうしよう、どうにかして取り戻さなきゃ」  色々と、危険だ。  とても香ばしい、犯罪臭がする。 「い、いや、岬が悪いんだよな? 勝手に人のものをパクるから、盗聴されるんだ……」  ダメだ。  どう言い訳したところで、盗聴という非日常な単語が全てを台無しにしてしまう。  女の子。盗聴。この2ワードで、俺の言葉の正当性は容易に失われる。 「……ともかく、居場所だ、居場所」  明日を待っていられない。  今すぐ彼女に連絡をして、岬の居場所を教えてもらおう。  ――と、振り返って。  「っ」  誰かに、ぶつかった。  誰かが、背後にいた。 「……あれ?」  考え事をして、気が付かなかったけれど。  「奏さん?」  本城奏が、そこにはいた。  それもどうしてか、凍るような無表情。  いつもの柔和な様子とは、かけ離れていた。 「か、奏さん?」  もしかして考え事が口に出ていて、それを聞かれたか? 「……遊行寺汀は何処にいる」  だが、その推測は、間違っていたらしい。 「えっと」  現実は、もっと鬼気迫るものだった。 「答えろ。遊行寺汀の居場所を、教えろ」 「……汀が、何かしたんですか」  氷のような表情から汲み取れたのは、純粋な怒り。  ああ、奏さんを怒らせると、こうも背筋が凍るのかと、呑気に考えていると。 「おい、聞こえなかったのか?」 「――へ?」  どうやら俺は、誤解をしていたらしい。  あるいは、履き違えていた。  本城奏という人間は――想像以上に、暴力的だと。 「ッ!?」  首根っこを、掴まれた。  女性のものとは思えない握力で、思わず呼吸が止まる。  その勢いに押され、アスファルトに押さえつけられたまま、質問という名の尋問は続く。  馬乗りになって俺を制圧したまま、奏さんは力を緩めることをしない。 「汀の居場所を教えろ!」  氷の表情に、亀裂が入っていた。  この人は、本気で怒っている。ブチ切れてしまっている。  あの野郎、何をしやがった――! 「ちょ、ちょっと――」  ぎりぎりと、体重が加えられ、首が締まっていく。  ヤバイヤバイヤバイ!  弁明の余地もなく、このままでは意識が落とされる!  知的なイメージが覆り、単なる暴力女に成り果てて。 「こ、の――!」  説明することを諦めた俺は、身を捻って、学生鞄を脇腹へ振り回した。 「おらっ!」  予想外の反撃に、拘束が緩む。  その隙をついて、全身をバネのように跳ね返らせ、馬乗りの姿勢から脱却する。 「……あれ?」  つもり、だったのだが。  思った以上に拘束は強く、抜け出すことが出来なかった。  組み伏せられている姿勢から抜け出せば、対等に話してくれるかなと。  少しは冷静になってくれるかなと思った、俺の抵抗は、一切の無駄に終わる。 「やはり、心当たりがあるのか。だったら、その体に教えてもらうしかなさそうだ」  首根っこに、力がこもる。 「抵抗するな。逆らうな。貴様は知っていることだけを答えればいい」 「ちょっと、待ってくださいよ。俺には、何が、なんだか」 「は? 答えになっていないぞ」  ぎゅっと、首を絞められた。  気管が押しつぶされ、まるで息ができない。 「子供のお遊びに付き合っている暇はない。私の質問に対する答え以外、口にするな」  心が凍るような、声で。 「遊行寺汀はどこにいる?」 「し……知らない……」 「貴様は遊行寺汀の目的を、知っていたのか?」 「知らねえ、って……」 「私は、貴様なら上手くやってくれると思っていたのだがな」 「…………?」  少しやわらかな声。  それもすぐに、消え失せる。 「何も知らなかったとは、言わせない。貴様は汀の、親友だったのだろう」 「親友だからって、何でもは、知らない……」 「ほう、それでも貴様らは、親友なのか?」  尋常ではない握力が、尚も俺を苦しめ続ける。  知らないという俺を、ひたすらにイジメ続ける奏さんは。 「今は、誰でもいい気分なんだ」  心臓まで凍りつくような、声だった。 「八つ当たりの対象は、別に貴様でも」 「……!」  あの野郎、本当に何をしやがったんだ!  この人を、ここまで怒らせるなんて。 「それとも、あれかな」  背筋は、尚も凍り続けて。 「貴様をいためつけたら、汀は姿を現してくれるのか?」  ぐっと、押し殺すように。 「友達のピンチには、駆けつけてくれるだろう?」 「――ああ、そうだな」  俺は、頷いた。  初めて、奏さんの言葉に、同意した。 「っ!?」  奏さんの後方1メートル。  金属バットを振りかざした汀が、今まさに、そこにいて。 「相変わらずだな、暴力探偵」  躊躇のない一撃が、奏さんの頭部へと振り下ろされる。 「……ようやく、逃げるのを辞めたか」  瞬間、俺を振り払って、奏さんは標的を変える。  本命へと、牙を向いて。 「おっと、ここで暴れない方がいいぜ? 学生たちが見てる前で、まさか暴力はいけねえよなあ?」  がやがやとした喧騒が、すぐそこにまで迫っていた。  これ以上争うのは、得策ではないのは明らかである。 「後でゆっくり、ケリを付けてやっから、今は引いとけよ。いくらなんでも、場所が悪いだろ?」 「……ちっ」  舌打ちをして、苛立ちを込めた言葉を続ける。 「今の私が、そこまで冷静になれると思うなよ。論理も義理も関係ない。貴様の言うとおり、ただの暴力女だ」 「ははっ、だってよ、瑠璃」  そう言って、汀は俺に何かを投げ渡す。 「……警棒?」  よくもまあ、金属バットに警棒と、常備しているもんじゃねえか。  こいつ、この状況を予想してやがったな。 「お前と二人なら、女一人ボコるくらい余裕だろ。それが例え、奏でも」 「いや、俺を巻き込むな。犯罪の道連れにするなよ」  同級生女子に盗聴機を仕掛け、その姉を二人がかりで襲った。  もはや、人生一発レッドカードだ。 「貴様は、親友を巻き込むことに躊躇しないのか。たまげた友愛精神だな」 「奏こそ、俺を炙り出すために瑠璃を襲うなんて、探偵というよりも犯人がやりそうな手口だな」  がやがやとした声が、大きくなる。  下校中の学生か、汀の友達か。  ここでの第三者の登場は、俺にしてもありがたい。 「……いいだろう、今日のところは引き下がってやる。だが、覚えておけよ」  汀を、指差して。 「私は、貴様を許さない。必ず、報いを受けてもらう」 「俺はただ、最善の行動をとっただけだ」 「最善? 貴様の言う最善は、依頼人の感情を踏みにじることか? 反吐が出る」  吐き捨てるように、奏さんは言った。 「汀……お前は一体、何をしたんだ?」 「最低最悪の所業」  睨みつけたまま、奏さんは言った。 「私が解決しようとしていた魔法の本の事件を、最も下劣な手段で終わらせたのだ」  それは、つまり。 「遊行寺汀は、魔法の本を殺したんだ」  『メラナイトの死神模様』  一連の事件の背後にあったのは、やはり魔法の本だったらしい。  俺の知らないところで、夜子の知らないところで、それはひっそりと開いていたそうだ。  汀によると、最初から奏さんの目的は、メラナイトの収集にあったらしい。  様子を見に来たとか、教師としての表の顔とか、それらは全て、嘘だったのである。  全てが全て、仕事のため。  探偵業を、全うするために、彼女はこの島へ帰ってきた。  しかし、俺たちに隠そうとしたのは、自分一人でも問題なく遂行できるという驕りや、手柄を奪われたくないからという理由ではなく。  メラナイトの物語が、いわゆる黒い宝石に当たる内容――すなわち、災いをもたらす類のものだったからである。  『メラナイトの死神模様』  それは、死神が登場人物を連れ去って、命を奪っていくというホラー系の本だった。  日向かなたが調べていた失踪事件は、このメラナイトが裏側に開いていたらしい。  忽然と消えていたのは、死神が連れ去ったから。  命を奪う、鎌を振るって。  文字通り、死神隠しにあってしまっていたのである。 「俺が関与した段階で、二人消えていた。物語は既に、佳境を迎えていたんだ」  メラナイトの主人公は、一連の事件の最後の犠牲者でもある。  死神に見初められた三人の、最後の一人。  彼らはたいした共通点もなく、特別な間柄というわけではなかったのだが。 「ま、そこは物語的な裏側があって、事情があったらしいが、俺は知らねえ。なんたって、中身には一切関わらなかったからな」  そう、汀が失踪事件の存在を知ったのは、今日の昼だ。  やれることなんて、たかが知れていた。 「俺があの女を見つけたとき、メラナイトの実物を入手していた。経緯は知らねえけど、どうやら3人目が消される直前だったらしい」  消える。  消失する。  死神隠し。  それが実際に、どういう形で現実に訪れるかは、わからない。  俺は、その物語を観測したわけではないから。  しかし――それが黒い宝石の物語だったとしたら。  現世から退場すると言い換えて、問題ないのだろう。  死ぬと言い換えて、間違いあるまい。 「あの女は、このまま何もせず本を閉じるのを待っているようだった。現れた俺に対して、もうすぐ終わるから、何もしなくていいなんていいやがる」  失踪事件の始まりは、夏休みが開ける前。  時期的にも、終りを迎えてもおかしくない頃合いか。 「そんなの納得出来ねえだろうが。三人目が犠牲になってもねえのに、あの女は閉じるのを待てばいいなんていいやがった」  閉じて、何が変わるのだろう。  閉じれば、人が死ぬ。 「――だったら、迷う必要がねえだろ」  聞かなくても、わかった。  次の汀の行動は、明らかだ。 「呑気に見物する奏の背後から、『メラナイトの死神模様』を奪い取って、持っていたナイフで引き裂いたんだよ」  本を、殺した。  それが、以前汀から聞かされていた、魔法の本を無理矢理に終わらせる方法。 「当然、物語は強制終了される。犠牲者になるはずの三人目も救われて、めでたしめでたしだ。俺がしたことは、それだけだよ」  実際に、何ら悪意はないのだろう。  正しいことをしたという、気概さえ感じられた。 「俺は、事件を可及的速やかに終わらせたんだぜ」 「それなのに、どうして責められる必要がある? 奏の方法なら、三人目も消失してたかもしれねえんだぞ?」  どうしてだろう。  それを語る汀の表情が、満足気だったのは。  一仕事を終え、充実ささえ感じさせる表情。  嬉しそうなんだ。 「……奏さんが怒ったってことは、何か理由があるんだろ」 「理由? そりゃあるだろ。クライアントから引き受けていたのは、魔法の本の回収。それは果たせなかったんだから、報酬も全てぱぁだな」  饒舌に、騙って。 「で、それがどうした? その理由は、人を見殺しにする理由に足りえるのか?」 「……不足しているな」  今の情報だけでは、そう言わざるをえない。 「なあ、汀。お前、ちゃんと俺に語ってるのか? 要点、はぐらかしてねえか?」 「……あ?」 「なんか、納得出来ねえんだよ。お前、本当に全てを察した上で、合理的な判断に基づいて本を殺したのか?」  少し、俺を睨みつけて。 「お前はお前の都合で、魔法の本を殺したんじゃないのか?」  なんとなく、感じていた可能性。  この事件の背景にかいま見える、遊行寺汀の目的。 「……俺が、俺の都合で? なんだよそりゃ、意味不明だろ」  くくく、と、笑いながら。 「ま、ちょっと、俺より過ぎる説明だったかな」  どうしても、奏さんの怒る理由が納得出来ないんだ。  依頼を失敗して、報酬が受け取れなくなったというだけで、ああまで怒ることはないだろう。 「さっきした説明は、全て後付だよ。メラナイトの内容も、その後にブチ切れる奏から聞いたもんだ」  やはり、悪びれることはなく。 「俺は何も知らないまま、ただ目の前の魔法の本を壊しただけ」  事情も、背景も、一切知らず。 「――黒い本がそこにあるだけで、俺がナイフを振るうには十分過ぎる理由になるんだよ」 「俺はただ、魔法の本を壊したかったんだ。この手で、バラバラに引き裂きたかっただけさ」  登場人物を助けるためとか。  奏さんが、静観しているだとか。  それらを判断するまもなく、衝動的に襲ったのか。 「それだけだよ。俺がしたことなんざ、その程度さ」  故に、勝手に本を殺した汀を恨み、怒り狂っているのか。  勝手に介入し、勝手に終わらせてしまった、身勝手な少年を。 「……お前は、何がしたいんだ?」  それが、まず最初の感想だった。 「事情を知らずに、衝動的に壊したっていうんなら、誰かを助けたかったわけでもないんだろ? どうしてお前は、そんなことをした」  奏さんの仕事を引っ掻き回して、台無しにしているだけ。  結果的に物語は閉じてしまっているけれど、それは決して、穏便な方法ではないはずだ。 「しかも、問答無用での不意打ちだ。そりゃ、落とし前をつけさせたくもなるだろうな」  そこに、全くの論理性がないから。  状況を理解した上で、それが正しいと思って取った行動ならともかく。 「ここまで来たら教えろよ。お前の、目的をさ」  夜子の依頼が、あったからではなく。  ただ、汀の親友として、聞いて置かなければならないだろう。 「……お前は、納得出来ているのか?」 「……?」  しかし、帰ってきた言葉は意外なものだった。 「お前は、妃が死んだ理由に、本当に納得出来ているのかよ」 「――っ!?」  それは、心を抉るような言葉だった。 「妃が、交通事故なんて馬鹿な死に方をするかよ。どう考えたって、どう説明されたって、それで納得できるわきゃねえだろ」  言葉に、熱が篭る汀。 「魔法の本の仕業に決まってんだろ。そうでなくちゃ、あの女が死ぬはずなんかねえだろうが!」  闇子さんは、魔法の本の関わりを否定した。  サファイアによるものではないと、否定したはずなのに。 「おかしいだろこんなの。許せるはずがねえだろ。何故、妃が死ぬ必要があった」 「あいつの死を必要とする物語なんざ――俺は絶対に、許さない」  汀が囚われているものが、今にしてようやく理解した。 「汀……お前は」  その衝動は、間違いなく。  うちに秘めた感情は、疑うまでもなく。 「俺は、お前ほど切り替えられねえんだよ。一年経った今でも、あの日のことを昨日のように覚えている」  それは深く深く底知れない、燃え上がるような復讐心。 「もう二度と、魔法の本に悲劇は語らせない。陰惨な物語を開こうとするのなら、俺が全て根絶やしにしてやるよ」  だから、汀はナイフを振るったのだ。  黒い宝石を冠した本を見つけた途端、理性が吹っ飛んでしまったのだ。  背景も、事情も、知ったことではなく。  故に――奏さんから本を奪い、一方的に物語を終わらした。 「だからお前は、復讐するんだな」  理不尽なあらすじを語る、黒い宝石を潰す。 「悲劇を語る本なんざ、この世に存在しちゃいけねえんだよ。他の誰が許しても、この俺が許さねえ」  復讐心は、収まることはなく。 「許せるかよ……妃が死ななければいけない理由なんて、どこにもなかったはずだ。あの女が、死ぬ理由なんて、何処にも……!」 「汀……」  堪えるように、表情を歪ませて。 「正義感も欠片もない、ただの私怨だ。そんなことは、俺だってわかってる」 「だからこそ、今回ばかりは平和的な解決なんて望めねえよ。なんたってこれは、子供の喧嘩なんだからな」 「……そうだな」  汀は既に、論理で動いてはいなかった。  ただ、自分の衝動に従っているだけなのである。  許せなくて、否定したい。  ただ、魔法の本を殺したいだけなのだ。 「それで何が変わるなんて、思ってねえよ。だけど俺は、走り続けなければ壊れてしまいそうなんだ」 「……頼むから、このことは夜子に言うんじゃねえぞ。どうあっても、夜子にだけは伝えるな」   縋るような、声色だった。 「あいつは、魔法の本のことが大好きだからな」  シスコンは、変わらないまま。  けれど、変わり果てたものもある。 「夜子は俺のことを、許さねえだろう。絶対に、許さねえ。そんなことは、わかっている」  ようやく、合点がいった。  どうして、汀が夜子から距離をおいているのか。  どうして、以前ほどべったりしなくなったのか。 「後ろめたいのか」  本当は、夜子のために、本を集めようとしていたはずだ。  それがいつのまにか、逆の立場になってしまっている。 「もう、顔も見れないくらいだ」  その表情は、あまりにも悲痛なもので。  これが、遊行寺汀の表情なのか、俺は判断できなかった。  弱々しい汀は、まるで別人のように儚げだった。 「……止めても、無駄なんだろな」 「ああ、お前には止められねえよ」  汀というのは、そういう男だ。  俺に出来るのは、汀を止めることじゃない。 「わかったよ。今日聞いたことは、夜子には話さないと約束する」 「ああ、それでいい。お前だから、話したんだ。信用してるぜ」  ぐっと、胸を小突かれて。 「時期を見て、覚悟が決まったら、俺から夜子に打ち明ける。それまで、あいつには言うなよ」  神妙な面持ちで、汀は言った。 「覚悟? なんのだよ」 「決まってるだろ」  なるべく、普通に言おうとして。  けれど、悲しみをこらえきれていなかった。 「妹に、嫌われる覚悟だよ」  本を殺すことを決めた兄と、本を愛することを貫く妹。  両者の対立は、夜子が知らない間に浮き彫りになっていく。  遊行寺汀の行いは、私にとって許しがたいものだった。  私個人が請け負っていた仕事に介入し、一方的に事件を終わらせてしまった。  それは、構わない。事件が解決するなら、早いほうが良いに決まっている。  請け負っていた依頼の内容を果たすことが出来ず、報酬がもらえなくなってしまった。  それは、構わない。元々、お金にがめつくやっているわけではない。  貴重な魔法の本を破壊して、この世から消滅させてしまった。  それは、構わない。私は最初から、あの本は存在するべきではないと思っていたから。  遊行寺汀が傷付けたのは、私の探偵としての誇りだ。  『メラナイトの死神模様』は、確かに黒い宝石を冠しているが、それでも、誰かが死ぬような物語ではない。  メラナイトは、酷く適当な物語なのだ。  ご都合主義的とも言えばよいのか――いわゆる、デウス・エクス・マキナ。  夢オチというわけではないが、そのオチは杜撰の一言に尽きる。  一人、また一人、登場人物が失踪し、遂には主人公まで死神に攫われてしまう。  けれど、死神は登場人物を殺したかったわけではなく、ただ、遊びたかっただけ。  怖がらせたかった。震えさせてあげたかった。  ひとしきり事件を楽しんだ死神は、それまで失踪した人間を元の場所に返してしまう。  何がしたかったのか、何を伝えたかったのか。  友情パワーで奇跡でも起きたのかもしれないが、その内容は突拍子もない展開で、伏線もなく、物語としては二流以下。  そんなオチで納得できるか! と声を大きくして訴えたいが、しかしそれは仕方のない事だろう。  魔法の本の内容も、千差万別。  よく出来た内容のものもあれば、こうして素人が考えたような展開もある。  黒い宝石を冠した、災いの本ではあるものの――しかし、見せかけだけの、なりそこねの物語なのだ。  そして、この本を閉じる方法は、死神を満足させてあげること。  死神の役目を与えられた、真の主人公を満足させること。  つまりは――物語を見守るだけで十分。  それ以上、何もする必要はなかったのだ。  ただ、物語の障害になるものを排除し、円滑に進むようにするだけで、全てが丸く収まる。  たやすい、物語だった。  そして、ここからが本題だ。  ここからが、私の矜持に関わるお話。  この本の収集を依頼されたのは、私の懇意にしている古き友人だった。  彼は遊行寺家とはまた別の、魔法の本を収集している人物。  最も――その規模は小さく、図書館をこしらえてまで隠匿する遊行寺の足元にも及ばない。  それに、彼が魔法の本を所有していたのは、それが魔法の本だからというわけではなく、とても思い入れがあるという理由からだったのだ。  『メラナイトの死神模様』は、彼の祖父の遺品だった。  生前、祖父は魔法の本に対して大きな興味を抱いていて、個人単位での収集活動に勤しんでいたらしい。  遊行寺家という存在があったがゆえに、その収集は芳しくはなかったが、それでも、数冊は手に入れることができて。  中でもメラナイトは、祖父のお気に入りだったらしい。  災いの象徴とも呼ばれる、黒い宝石を冠した本。  けれどその見た目に反して、下らなくて適当な、思わず呆れてしまうようなオチが待っている。  そういう滑稽さが、そういう馬鹿馬鹿しさが、祖父は気に入ったらしい。  メラナイトが開くたび、祖父は嬉しそうに物語を見守り、何の犠牲も出すことなく閉じていく。  そういう祖父を生まれながらに見てきた私の友人は、やはりメラナイトに対して強い思い入れを抱いていたという。  祖父が逝去して、残された魔法の本を託されて。  そして、遂に、メラナイトは再び現実に物語を開く。  彼は依頼人として私の元へ訪れて、穏やかな表情で言った。  ――祖父の愛した物語を、見守って欲しい。  そういう依頼だった。  本を閉じるでもなく、殺すでもなく、ただ、見守って欲しい。  祖父の愛した物語が、その全てを満足に語り終える手助けをして欲しいと、依頼を受けたのである。  例えば、登場人物に選ばれた人へ、最大限の配慮と事後対応を。  本が閉じた後で、本の影響が出ないようにして欲しいとか。  誰にも迷惑をかけず、ただ、ひっそりと本を閉じて欲しいとか、その程度の依頼。  魔法の本の存在を疎ましいと思っていた私だが、それでも、力になりたいと思った。  忌み嫌っていた魔法の本にも、人は何かを見出すことが出来るのだと、思うようになっていたから。  だから、許せなかった。  事情も知らないまま、己の衝動に従ってメラナイトを殺した遊行寺汀のことが、心から許せなかった。   彼の破壊衝動は、なんとなく察していた。  彼の中にある渦巻いた感情の正体に、気付いていなかったわけではない。  以前にも、似たようなことがあって――そのときも、本を殺した彼は、どこか嬉しそうに笑っていたから。  今回の事件だけは、関わらせるべきではないと、判断したのに。   わかっている。今更怒り散らしたところで、意味のないことは。  それでも、許せるはずがなかった。  探偵として、依頼人の感情を踏みにじってしまったことが、何よりも許せなかった。  私は、どんな顔をして、依頼人に会えばいい。  見守ることすら出来なかった私は、古き友人の前でなんと詫びればいいのだ。  ――仕方がないさ。  彼はそう言ってくれた。  謝罪する私へ、仕方がないと笑ってみせる。  けれど、失意の眼差しが、私の心臓を凍りつかせる。  ――もう、気にしないでくれ。魔法の本なんて、ない方がいいんだから。  そういう問題じゃない。  これは、そういう問題じゃないんだ。  依頼人が許したとしても、私が許さない。  これは感情の問題だ。  あの世間知らずのおぼっちゃまに、お仕置きをする必要があるのだろう。  いや、それは違うか。  これはお仕置きではなく――ただの、報復だ。  ちゃり、と。  携帯につけていたキーホルダーが、揺れる。  堅物の私には似合わない、可愛いネコのアクセサリー。  昨夜、怒り散らす私に、妹がくれたものだ。  ――怒っているお姉ちゃんは嫌いだから、可愛い物でも見て落ち着いてね。  優しい言葉とともに、受け取ったものだ。  心から可愛がっている妹からの贈り物に、心は癒やされたのだが。 「……残念ながら、効力はないぞ」  妹の配慮は、無に帰す。 「依頼人も、納得した。これは、私の私怨。そんなことは理解している」  可愛らしい、お猫さんへ。 「それで結構だ。遊行寺汀は、私の敵になった」  禍々しい感情が埋めく最中、明確な怒りだけは収まることはない。 「――いいこと、聞いちゃいました」  盗聴器の、受信機をいじくりながら、私は満足気に頷いた。 「ふふふふ、瑠璃さんもやるじゃないですか。これは行幸」  本城奏の盗聴記録を残しつつ、今は明日に備えることにしましょうか。  事情も経緯もわかりませんが、おそらく、明日、瑠璃さんが私に説明してくれることでしょう。 「やっぱり、盗聴器は可愛い物に仕掛けるべきですね」  まるで、悪意を紛らわせてくれているかのように。  その猫の名前――蛍の姿を思い出す。 「今度、部室に連れて行ってあげましょうかね。私の可愛い、飼い猫を」  遊行寺夜子と遊行寺汀の関係は、俺の知るところではない。  俺が二人に知り合った時から、汀は夜子のことを大切にしていて、夜子はそんな汀のことを、適当に扱っていた。  けれど、二人の仲が険悪なものであったかどうかについては、確実に否定できる。  鬱陶しいとは思いつつも、夜子は自らの兄を、嫌ってはいなかっただろうから。 「……じろじろ見ないでよ、気持ち悪い」  いつだったかの、有食事。  美味しそうに夕食に手を付けている夜子を、汀はぼんやりと眺めていた。 「うっせーな、んなもん俺の自由だろ」 「いいえ、自由じゃないわ。汀に見つめられると、せっかくの理央の料理が不味くなる」 「名前で呼ぶなよ、兄を敬え」 「単にお兄ちゃんと呼ばれたいだけじゃないの?」  冷ややかな視線を、汀に向ける。 「それが分かっているなら、そう呼びやがれ」 「それが分かっているから、呼ばないのよ」 「相変わらず、連れねえな」  笑い飛ばしながら、汀は俺を見つめる。 「困った妹だよ。こんな優秀な兄がいるのに、何が不満なんだか」 「お前こそ、夜子に熱中しすぎだろ。学園の連中が図書館でのお前のシスコン振りを見たら、驚いて腰を抜かすぞ」 「別に、隠しているわけじゃねえんだがな」  平然と、汀は言う。 「兄というものは、妹から嫌われるものですからね」  くすくすと、妃が笑う。 「お兄ちゃん大好き! なんていうのは、とても珍しいんですよ」 「…………」  お前がそれを言うと、とても意味深だな。 「あまり肩入れしすぎていると、夜子さんがお嫁に行く時に、悲しむことになりますし」 「ふざけた冗談は辞めろ。そんな日が来るわけねーだろ」 「……そういうのに憧れはないけれど、そう言い切られるのはムカつくわね」 「本にしか興味ねえお前が、誰かと付き合ったりなんか出来るかよ」  ちらりと、俺を見て。 「それでもお前にそういう相手が出来たなら、それは喜ばしいことだろうしな」 「あら、意外と割り切っているんですね」 「当然だ。妹は愛するものではなく、愛でるもんだからな」 「……あたしは別に、愛でられたくなんかない」  子供扱いを嫌う夜子は、やはり不満そうだ。 「……というわけだ」  その後、俺は汀から聞かされた話を、そのまま探偵部の面々に打ち明けた。  汀が抱く、復讐心。妃の弔い合戦という目的を。 「うわあ……瑠璃さんて、口が軽いんですね……」  しかし、その反応は弱々しい物で。 「そういうのって、普通は黙っていませんか? 即座に言いふらせるなんて、瑠璃さんくらいのものですよ」 「そうか?」  問題を対処するには、必要なことだと思ったが。 「な、汀くんは、理央やかなたちゃんには喋って欲しくなかったんじゃないかなー」 「いい格好しておきながら、裏では策略ですか。瑠璃さんってば、本当に質が悪いですね」 「……何処がだよ」  俺はただ、夜子や汀のためを思って、ぶちまけたんだ。 「しかし、私たちの知らないところでずいぶんと物語が語られていたようですね。参加しそこねて、悔しいです」 「夜子や理央でさえ、知らなかったみたいだからな。もう閉じてしまっている……というか、汀が無理やり終わらせてしまったから、今更どうしようもないんだが」  メラナイトは、人知れず終わってしまったのである。 「汀くん……やっぱりまだ、引きずってたんだね」  悲しげに、理央はいう。 「理央も、汀の胸中は知らなかったのか」 「知らなかったよ。だって、理央には何も言わないで、いつも一人で行っちゃうんだから」 「……そうか」  本城奏の元で、働くようになった時も。  俺たちには、何も言わなかったよな。 「これから私たちはどうしましょう? 夜子さんの依頼に関しては、もはや達成したも同然ですけど……」 「でもでも、夜ちゃんだけには言っちゃ駄目なんだよね?」 「ああ、そうだな」  それが、汀との約束だった。  本を殺すという目的を、伝えないで欲しい。  それは、兄として、男として、祈るような気持ちだったのだろう。 「私としては、約束を破ることに抵抗はないのですが」 「それは、許さない」 「……ですよね」  それが、汀の条件だったから。  いくら薄情な俺でも、対等な関係を崩す事はできない。 「うーむ、もどかしいですねえ。答えは分かっているのに、解答用紙にそれが書けないなんて」 「夜子の依頼は、俺に任せておいて欲しい。8割がた、大丈夫だと思うから」 「ふむ」 「だからその前に、汀と奏さんの揉め事を解決したい。こっちは、あんまり悠長なことをしてられないだろうし」  あのキレようは、半端無く。  そして、汀も何をしでかすか分からないから。 「つまるところ、喧嘩の仲裁というわけですか」 「そういうことになるかな」  喧嘩というには、あまりに暴力的過ぎるところはあるけれど。 「理央も、賛成! 今の状態の汀くんを、放っておけないのです」  ひとまず、行動の方針が決まったところで、彼女は 「ふふふ、そろそろかなたちゃんの真骨頂を見せる時ですね!」  何やら、不穏に笑う、彼女。 「瑠璃さん、あの盗聴器を岬さんに仕掛けましたね?」 「……あれはただの、偶然だ。俺が仕掛けたわけじゃない」  あいつが勝手に、奪っていったんだ。  ゴタゴタしていて、すっかり忘れてしまっていた。 「てかお前、まさか……盗聴したのか? 岬の会話を?」 「ええ、もちろん! 当たり前じゃないですか!」 「…………」  ドン引きした。  こいつには、倫理観というものはないのだろうか。  ……ないから、盗聴器なんて使っているのか。 「しかしですよ、これまた驚きの展開が!」  にこにこと笑いながら、俺と理央へクリアファイルを差し出した。 「盗聴した会話の文章を、文字に起こしたものになります。意外な展開になっていましたよ」  自慢気に、胸を張って。 「なんと、例のキーホルダーは本城先生の手に渡っていたようです」 「……何?」  促されるままに、手渡されたクリアファイルの中身を検める。  汀が破壊した『メラナイトの死神模様』は、依頼人の思い入れのある大切な代物だったことや、依頼人はそのことを諦め気味に受け入れていること、  そして奏さんの激昂は私怨に近いものであり、個人的な感情によるものであるということなど。  後は精々、妹である岬との良好な関係――辺りが、盗聴内容から分かったことだろうか。 「盗聴内容から、問題は奏さんと汀さんの個人間のものというのがはっきりしましたね」 「……これが依頼人や遊行寺家の本家まで関わる問題だったら、俺達には手に負えなかっただろうな」 「そうですね……どうにかするなら、本城先生本人を、ということになります」  だからこれは、ただの喧嘩にすぎないのだろう。  汀のことが許せないから、制裁する。  探偵らしくない行為であり、論理ではなく感情による衝動だ。 「……面倒だな」  それが、第一の感想。 「正しいとか、間違っているとか、そういうレベルのお話ではなさそうです」 「許せないから、怒ってる。ムカつくから、ぶん殴る。明確すぎて、正論では太刀打ち出来ないでしょう」  それは、奏さん本人も理解しているのだろう。 「もしかすると、そのクライアント以上に、魔法の本に対して思い入れがあったのかもしれません」 「……でも、それなら」  そこで、無言だった理央が、声を上げる。 「理央たちは、何もしなくてもいいんじゃないのかな」  それは、思いもよらない指摘だった。 「汀くんは、しちゃいけないことをして、探偵さんに怒られてる。お仕置きされてもしかたがないんじゃないかなって、理央は思うのです」 「理央も、駄目だと思う。魔法の本を、駄目にしちゃうなんて……理央も、許せない」 「理央……」  それは珍しい、理央自身の感情だった。 「夜ちゃんじゃなくたって、本を大切にしない人は嫌いになっちゃうよ。瑠璃くんは……そうは、ならないでね」 「……ああ、そうだな」  そう言われると、何も言えなくなってしまう。 「本城先生が思う存分、汀さんをボコボコにして、それで気が晴れてもらえば、確かに解決しそうです」 「それは、解決なのか?」  投げっぱなしにしか、見えないが。 「それが嫌なのであれば、あとは、実力行使でしょうか」   自信満々に、彼女はいった。 「本城岬を誘拐して、脅してみるのはいかがですか?」 「…………」  ドン引きした。  苦笑いすら、出来なかった。 「い、いやですねえ! 突っ込んでくださいよ! 今のは冗談ですよー!?」 「あんたがいうと、本気でやりそうで怖いんだよ……」 「誘拐なんて、手間がかかる上に効率の悪い脅し文句です! 私ならもっとスマートな方法を取りますよ!」 「その反論の内容が、実にあんたらしいな……」  それが最も適した手段なら、選んでしまいそうな言い方である。 「……ごほん! とにかく、瑠璃さんの希望としては、穏便に解決したいということですね」 「汀のした行為は、確かに許されない行為なのかもしれないが……それでも、論理のない暴力で終わらせるのは、間違っている」  それに。 「――あいつは、ボコボコに傷めつけられたくらいで、信念を曲げるような奴じゃない。その解決は、意味が無いんだ」  自分が悪いことを、理解している。  正当性が欠けていることくらい、理解しているのだろう。  だからこそ、昨日、あいつは言わなかった。  助けてくれ、と言わなかった。 「だから、助けると?」 「ああ、そうだな。話し合いで解決する」  それが、汀との付き合い方だったから。 「本城奏を説得しよう。それが、最も平和的な解決手段だ」 「……それが、最も面倒くさい解決手段ですよ……」  呆れるように、彼女は言う。 「ひとまず、話し合いをするなら段取りが必要ですね。現在位置は発信機が教えてくれますが……」 「あまり、これの存在はバレてほしくないですね。盗聴しているなんて知られたら、話し合いにならないです」 「ってことは、押しかけるのは得策じゃないな。何故場所がわかったのか、不審がられそうだ。呼び出すのが、丸い」 「でも、電話番号がわかりません。本城先生のプロフィールは手に入っているんですが、学園に登録してある情報の殆どが適当なんですよねー……」 「それなら問題はない」  ポケットから、一枚の名刺を取り出した。  一年前に初めて出会った時に、渡されたもの。  たぶん、まだ繋がるだろう。 「さすが、瑠璃さんですね! 女性の連絡先を調べることに関しては、一級品です!」 「どういう意味だよ……」  適当に喋ってんじゃねえよ。  と、そこで。  早速電話を掛けようとする俺達の元へ、意外な人物が現れた。 「おおー、なんか楽しそうだね」  突然、扉が開かれる。  響き渡る、のんびりした声。 「ここが探偵部? 凄い凄い! 野球部の部室より充実してる!」 「……岬?」 「えっと、何か御用でしょうか? 本城さん」 「うんとね、新入りくんに聞きたいことがあって」  俺を指さす岬。 「お姉ちゃんと喧嘩してるよね。最近、お姉ちゃん、荒れててさ。新入りくんのこととか、めっちゃ聞いてくるんだよー」 「…………」  それは、盗聴した記録内容にも書かれていたっけ。  根掘り葉掘り、俺たちの印象を聞いていた。 「怒ってるお姉ちゃん、僕、嫌いなんだよね。だから、新入りくんにどうにかしてもらいたいの」 「……悪いけど、岬には何も話せない。これは、俺や奏さん個人のことだから」  魔法の本が関わっているから、うかつに説明はできない。  奏さんも、岬には関わって欲しくなさそうだったし。 「あはは……やっぱり? 僕はいつも、部外者だもんね」  気まずそうに、笑って見せて。 「お姉ちゃんは、とっても頑固。簡単に自分の考えを曲げないし、一度決めたら猪みたいに突っ走るの。手がつけられないね」 「……?」 「そんなお姉ちゃんにも弱点はあって、可愛い物が大好き。物で釣ったりとか露骨なことは駄目だけれど、可愛さで誤魔化す方法は結構ありかもね」  ぺらぺらと、語りだす岬。  それは、本城奏の情報だった。 「だから僕とかにすっごい弱いんだよ。可愛い妹には頭が上がらない。新入りくんが何かを望むなら、いつだって力になるよ」 「…………」 「込み入った事情なのは見て取れるからさー。説明もいらないし、解説も不要。ただ便利な駒のように、僕を使ってくれたらいいんだよ」 「岬……」 「僕だって、あそこまで怒るお姉ちゃんを見たのは、とても久しぶりだから」  饒舌に語る、同級生。  事情を知らないというのに、ここまで健気に協力を申し出てくれるなんて。  もうそれだけで、満足だ。  「事情を知らないのに、そういうことを言うなよな。もしかしたら、正しいのは奏さんで、悪いのは俺の方かもしれないんだぜ」 「え? それはないでしょ。ないない、絶対にないよー」  あっさりと、否定する岬。 「……本城さんは、事情を知っているんですか?」  疑うように、彼女は質問するけれど。 「ぜんぜーん! お姉ちゃんは何も教えてくれないし、新入りくんも教えてくれない。僕が知っているのは、ただひとつ」  にっこりと、笑って。 「四條くんが、とても困っている。だから、その力になりたいというだけ」 「……困っているのは、奏さんじゃ?」 「お姉ちゃんは、怒ってるだけ。怒ってる人は、好きじゃないし」  そりゃそうだ。  誰だって、近寄りたくないよな。 「なんだ、お前。いつのまに頼れる同級生になったんだ」 「最初に出会った時から、僕は新入りくんの、頼れる同級生だったけど?」 「……違いねえな」  喜びを噛み締めながら、しかし、言葉を慎重に選ぶ。  どうしたって、俺は事情を話すことは出来なくて。  その状態で、岬を利用したくはなかったから。 「ありがとう。でも、大丈夫」  そう言ってくれるだけで、十分だった。 「ええー、本当に? 僕を誘拐してお姉ちゃんを脅すとか、そういうのでも協力するよ?」 「…………」  おい、聞いてたんじゃねえだろうな。 「平和的に、解決するから」 「そっかー。そこまでいうなら、しょうがないね。あんまり強く言うのも、それまた新入りくんの迷惑になっちゃうか」  あっさりと、引き下がる岬。  そういうところも、実に彼女らしかった。 「じゃ、僕は行くね。精々、お姉ちゃんにボコボコにされないように!」  小さく手を振りながら、岬は軽口を言う。 「わざわざありがとうな」 「ばいばーい」  最後まで明るい調子を崩すことなく、岬は去っていった。 「……いやはや、台風のように突然でしたね。さすがの私も、驚きました」 「断ったのは、懸命だと思います。もしかすると、お姉さんである奏さんと繋がっているかもしれませんし」 「それはないだろ。盗聴した会話でも、その様子はなかったんだし」 「……そうですけど」  何やら、不満そうに。 「色々とタイミングが良すぎて、警戒してしまいますね」  自分に言い聞かせるような言葉だった。 「ま、とりあえず奏さんを呼び出して、話し合いの場を設けるとしようか。格好良く、決着を付けてやろう」 「おっ、やる気ですねー。同級生にも格好つけた手前、しっかりやってくださいよー?」 「そうだな。ここで失敗したら、格好悪すぎるしなあ」  だが、自信は湧いてきた。  話の決着を、何処に持っていくか。  それを設定して話をすれば、なんとかなると思う。 「それと、あんたに一つ、頼み事がある」  別件の、夜子の依頼。  それを果たすには、彼女の協力が必要不可欠だった。 「それは――」  汀と奏さんの、師弟喧嘩。  夜子から請け負った、調査依頼。  そのどちらも、同時に解決してしまおう。  懐かしさを噛み締めながら、背後で足音がした。  振り返るまでもなく、その相手は分かっていた。 「……のこのこと来てやったぞ。覚悟は、出来たのか?」  冷静ではあったが、平静ではない。  声色が、落ち着きすぎていて、怖かった。 「先に言っておきますが、ここには汀はいません。俺とあなたの、二人きりです」 「……それならば、何故私を呼び出した? これからどうなるかくらい、理解していただろうに」  一歩、大きく詰め寄った。  それだけで、有無をいわさない迫力を備えている。 「穏便に、いきましょう。平和的に、解決しようではありませんか」  今回の、俺の目的。  それは、奏さんの怒りを静めることだ。 「ははっ、今更何を言っている。あの馬鹿は、やってはならないことをした。その報いは、受けさせなければならないんだよ」  歯ぎしりをしながら、呻く。 「逃げ足だけは、優秀だよ。この島の何処かにいるはずなのに、足取りが見えない。やはり、親友の君を使うべきなのかな」 「使う?」 「先日のときのように――君を傷めつけたら、あの馬鹿は姿を見せるんじゃないのか」 「……さあ、どうでしょうね」  なるべく平静を装って。 「俺が、何の策もなしに、怒り狂うあなたの前に現れたと思ってるんですか。そこまで馬鹿じゃありませんよ」  ポケットの中の、黒光りするそれを握りしめる。  日向かなたから借り受けた、改造スタンガンだ。  ……もちろん、これを使用する展開にするつもりはないが。 「ちゃんと、話し合いをしたい。ことと内容次第では、奏さんに協力することもやぶさかではありませんよ」 「あいつは貴様の友達なのだろう? いいのか、裏切るようなことを口走っても」 「友達だからって、裏切ってはいけないというルールはありません」 「……平気な顔で、残酷なことを言うものではない。もう少し、平和な言葉を口にしろ」  それからやや寂しそうに、目を伏せて。 「本を殺したところで、何も解決はしない。あいつがその身に委ねている復讐心は、いつか自分の身を焦がすぞ」  怒りとは、また別のベクトルの感情。 「友達として親友として、今あいつがしようとしていることを、辞めさせるべきだとは思わないのか?」  月社妃の仇討ち。  同じような不幸を二度と起こさないために、黒い本を絶滅させる。  一見、それは理想として正しいものかもしれないけれど。 「既にあいつは、一番大事なものよりも、復讐を優先してしまっている。その時点で、俺があいつに言えることは何もない」  魔法の本を愛する夜子。  汀が今行おうとしていることは、その夜子に嫌われるということ。  それを自覚しながら、汀はそれでもこの道を選んでしまったんだ。  止めるというのは、もう手遅れだと思う。 「止めてやるのが、友達だと思うがな。魔法の本を殺すというのは、それほど危なっかしい行為なんだよ」 「魔法の本が、自らを害する存在を、敵視しないとも限らない。あれは、生きているのだから」  迷ったような言葉が、奏さんが少しでも汀の心配をしていることが見て取れる。 「俺の役目は、あいつを止めることじゃない」  そう、いつだって。  自分のやりたいようにしている汀を、俺は一歩後ろから追いかけていた。  「俺も汀も、大切なものを失ってしまってるんです。何かを止めることが出来るなら、それは今ではなく一年前だった」  一年前に、何か変化をもたらすことができていたら。  それは悲しくなるくらいに無意味な仮定だ。 「破綻になった依頼料の補填はします。奏さんが受けた損害は、夜子が負担してくれるでしょう」  でまかせだった。  夜子に一切話しは通していないが、しかし、今はこういうしかない。 「金輪際、汀とは関係を断ち切ってもらって構いません。自ら招いた危険は、自らに尻拭いをさせればよいのです」  そう例え、その復讐がその身を焦がすことになったとしても。  魔法の本が、遊行寺汀という人物に対して、何らかのアクションをとったとしても。 「――見殺しにして下さい。それは当然の報いだと、笑ってやってくれませんか」  迷惑がかかるなら、無視してくれ。  どんなに窮地でも、他人のふりをして欲しい。 「だが、貴様はそうはしないのだろう?」  きりっとした視線を、直視して。 「私があいつを見捨てても、貴様達は見捨てない。結局、あいつの行いは周囲の人間に迷惑をかける事になる」  それに、と。 「これでも私は、激怒していてな。甘っちょろい終わり方を許せそうにもないんだ」  日向かなたが、盗聴した内容では。  汀が殺した魔法の本は、そのクライアントや奏さんの、思い入れのある代物だったらしい。 「報いというなら、今がまさに報いだ。あいつの無責任な行動を咎めるべきなのは、今なんだよ。今、わからせてやらなければならない」  見捨てる、のではなく。  切り捨てる、とでもいうのかな。 「……激怒しているのは」  やはり、納得してくれそうにもなかったか。  当然だな。  奏さんは、ただひたすらに怒っているだけなのだから。 「探偵としての感情なのか、それとも、個人としての感情なのでしょうか」 「……どういう意味だ」  眉が、ぴくりと反応した。 「これ以上は、泥沼になるだけだと思うんですよ。汀も譲らない。奏さんも譲らない。そして俺も、譲らない」  そうなってしまえば、あとは目を覆いたくなるような惨状。 「許せとは、いいません。ただ、汀のことを見捨ててくれませんか。あの馬鹿は、思い知らなければ理解できないタイプの人間なんです」  汀に対して、怒っているというのは――それはつまり、まだ汀のことをどこか心配しているという裏返しでもある。  許せない行為を続ける汀を、止めたくて。  いつか痛い目にあうことを予想できるから、それを何とかして止めたいのだ。  だから、彼女は怒り続けているのだろう。 「見捨てる? 私はとうの昔に、遊行寺汀を見限っているつもりだよ」 「見限れていないから、こうなってるんじゃないですか」  このまま怒り続けたとしても、何も変わらないのだろう。  汀は信念を変えることはないだろうし、奏さんは何の解決も得ることは出来ない。  はっきり言えば――今のこの大喧嘩は、無意味なんだ。  だから、さっさと終わらせたい。 「親友を見捨てろとか、見限れとか、見殺しにしろだとか――君の方が、随分と恐ろしく思えるな」  それを理解できない、奏さんではないだろう。  此処から先に、意味が無いことをわかっているはずだ。  わかっていて――無視をしてきただけなのだから。  それも、汀と同じ。 「もちろん、汀のしたことを不問にするつもりはありません。しかるべき手順を持って、自らのしたことを償わせます」  けれど汀を裁くのは、奏さんじゃない。 「少なくとも、暴力で解決するようなものよりは、ずっとよい落としどころだと思いますよ」  天を見上げるように、奏さんは目を閉じる。  頭のなかで、思考を張り巡らせているような、そんな雰囲気。  少し、迷っているように見えた。  自分はこれからどうするべきか、二者択一。  俺の言葉が効いたのか、効いていないのか。  たまらず俺は、声をかけてしまった。 「……分かって、くれましたか?」  ここで引き下がってくれれば、どんなに良かったか。  俺の祈るような問いかけは、無情にも届かない。 「……いや」  至った結論は。 「それでも私は、怒りを収めることが出来そうにない」 「…………」  俺を、睨みつけて。 「それに、お姉さんは思うんだ。汀くんよりも、そういう残酷な考えをする君こそが、今すぐ懲らしめるべき存在なのではないかと」 「……はい?」  予想外の指摘をされた俺は、何がなんだか理解できなくて。 「キミこそ、放置してはいけない人間ではないかと」  身の危険が迫っていることに気付いたのは、間合いを詰められた後だった。  咄嗟の反応が遅れた俺は、ポケットに忍ばせていたスタンガンに手を伸ばすも、伸ばした手首を掴まれる。  女性とは思えない握力に締め付けられて、思わずスタンガンを落としてしまった。 「ッ――!?」 「ほう、いけないモノを持っているじゃないか。これは、没収だ」  なんつー握力だよこの人!  と、文句を言うまでもなく、足を払われて、地面に組み伏せられてしまった。  関節がばっちり決まっていて、下手に抜けだそうとしたら、骨折してしまいそうだ。 「君は、弱いな。その程度で、私と渡り合えるとでも思っていたのか」  見せつけるように、スタンガンの出力バーを調節する。 「……ぐっ」  突然の衝撃に、言葉が出ない。  どうにか態勢を立て直そうとするが、完璧に決められてしまっていた。 「黙るなよ、寂しいだろう」  耳元で、囁くように言われる。  ぞっとするような寒気が、背筋を襲った。 「悪いが、やっぱり私は身勝手な馬鹿なんだ。賢く生きるのは、難しいらしい」  穏便な解決が、許せなくて。  その衝動に身を任せずにはいられない。 「……あなたは」  そういう、止まらないところとか。  言っても、耳をかさないところとか。 「汀と、よく似ていますね」  本当に、痛々しいほど似ていると思ったんだ。 「その言葉は、今の私には逆効果だぞ?」 「わかっていますよ」  もうどうしようもないから、諦めるように言ったんだよ。  結局、俺は誰かを止めることが出来なくて。  いつも、誰かに助けられるばかりなんだろう。 「……誰だ?」  奏さんが、声の方へと視線を向けた。 「ああーっ! お姉ちゃんと新入りくんが、いちゃいちゃしてるー!」 「……岬?」  親愛なる同級生が、登場した。 「どうして、ここに?」 「なんとなく、友達のピンチを予感して! というか、お姉ちゃんの帰りが遅いから、GPS使って様子を見に来たの」  携帯を見せながら、岬は説明する。 「お前には関係ないから、家に帰っていろ。これは、お前の嫌いな私の仕事に関わることだぞ」 「うん、そだね」  流れるように、岬は頷いて。 「じゃ、帰るー」 「……おい」  当たり前のように、帰ろうとする岬。 「あ、そうそう、忘れてた」  それから、とことこと俺達の元へ駆け寄る。  ニコニコ顔は、一切崩すことはなく。 「四條くんも、一緒に帰ろっか。夜遊びはイケナイヨー」  奏さんに関節を決められたままの俺へ、手を差し伸べる。 「……お前、私の話を聞いていたのか? これは、お前には関係のないことだ。先に帰っていろ」 「お姉ちゃんこそ、何を勘違いしているのかな」  多分、それは。  俺の知らない、岬の一面だったと思う。 「僕の大事な友達に、何をしようとしているの? たしかに僕は部外者だけど、友達を捨てて家に帰るほど、人間やめていないから」 「……う」  強烈な切り返しだった。  本城岬が見せた、意外な表情。  「全く、僕はこういうのに関わりたくないんだから、ちゃんと最後まで部外者にさせてよ」 「あーあ、だから怒ってるお姉ちゃんは、嫌いなんだ」 「き、嫌い? 私がか!?」  妙に焦り始める奏さん。  「うん、怒ってるお姉ちゃんのこと、僕は嫌いだよ」 「…………!!」  驚愕。  心外。  まあ、そんな表情だったかな。 「昔から、お姉ちゃんが怒る時って、自分に正当性がないからだったよね」 「正しくないから、怒ることしか出来ないの。正しいときのお姉ちゃんは、冷静なまま問題を解決するもん」  呆れるような、溜息を付いて。 「どこかで自分が正しくないってわかってるから、子供みたいに怒っちゃう。そういうお姉ちゃんのことが、僕は昔から嫌いだよ」 「……み、岬」  あからさまに狼狽える奏さん。  この人もこういう風に取り乱すんだなあと、この状況を他人ごとのように見つめていた。 「はいはい、分かったから帰ろうね。そろそろ怒るのも疲れてきたでしょ? よくわかんないけど、もういいじゃん」 「お、おい……」 「四條くんも、駄目だよ、これじゃ。怒ってるときのお姉ちゃんは子供なんだから、まともに相手しちゃ駄目」 「こ、子供じゃないぞ。オトナだぞ」 「わかったから続きは家で聞くよー」  首根っこを掴んで、無理やり奏さんを引っ張る岬。  簡単に拘束は解かれて、俺は自由になった。 「そういうわけで、お姉ちゃんが迷惑をかけてごめんね。あとは僕が、きつーく言っておくから」 「ま、待て、これでは私の威厳が損なわれる」 「怒った時点で、お姉ちゃんの負け。名誉は次の機会に挽回しようね」 「…………」  大人と子供の力関係だった。  確かに、岬本人が言っていた通り……姉は妹に頭が上がらないらしい。  しかし、本当にこれでよかったのだろうか。  こんな、適当な終わらせ方で。 「し、しかし……」  それでも怒りが滾る奏さんは、俺を睨みつけて。 「お姉ちゃん」  冷たい声色の岬に、咎められる。 「僕の前で、まだ怒ったままでいられるなら、そうしてよ」 「今さっき、四條くんに何をしようとしていたのか知らないけど、その続きをしてくれていいよ。そして僕は、お姉ちゃんを嫌いになるから」 「わ、私だって……ちゃんとした理由があって、怒っている。だから、そう簡単に引き下がる訳にはいかない」 「それは、お姉ちゃんの勝手なプライドの問題じゃなくて?」  鋭い一撃だった。 「……ぐっ」  息を飲む、奏さん。  この人も、こういう表情をするのかと、少し意外だった。 「どうするの? まだ、大人げなく子供のように怒り散らすのかな?」  迫るような、訪ね方だった。 「…………」 「早く、答えてよ。僕、夕飯の支度があるんだから」  有無を言わせない岬の言葉に、もはや奏さんは抗うことが出来ず。 「……わかったよ」  観念したかのように、頷いた。 「はい、それでこそ僕の大好きなお姉ちゃん。じゃ、帰ろっか」 「お、おい……!」  奏さんの腕を掴んで、岬はぐいぐいと歩き出す。  なすがままにされながらも、しかしこちらを向いて。 「……言っておくが」  悔しそうな表情で、言葉を残す。 「私は、君に負けたわけでも、汀くんを許したわけでもない。ただ、妹に免じてこの場は見逃してやるということだ。そのことを、忘れるなよ」 「分かってますよ。何も解決してないことくらいは、一目瞭然です」  汀は変わらず復讐心を身に宿し。  奏さんと汀の縁は、ここで切れてしまったのだろうから。 「いつまでも、勝手な行いが許されると思うなよ。汀君の行動は、いつか咎められる」  だから。 「――君が、いざというときには力になってやれ。最悪を止める、防波堤になってやれ。それが、親友というものじゃないか?」 「……はい」  俺に何が止められるかは、不明だが。 「あ、そうだ」  去り際に、岬が思い出したように言う。 「ごめんね、これ大事なものだったんだよね。返すよ」  ごそごそと、奏さんの携帯を弄くり回して。  日向かなた特製の、盗聴器付きキーホルダーを、俺に手渡した。 「おい、それは私にくれたはずでは」 「だーめ、お姉ちゃんには勿体無い代物だし」 「……サンキュ、助かった」  手遅れになる前に回収できて、安心した。 「んじゃ、また学園で!」 「ああ、また明日」  そうして、二人の姉妹は退場する。  不格好な形になってしまったけれど、遊行寺汀と本城奏の大喧嘩は、ひとまず収まったといえるだろう。  そこに、俺の力が役立ったかどうかは、甚だ疑問ではあったが。 「……よし、次は」  夜子の依頼を、果たしましょうか。  夜の坂道を下りながら、図書館までの帰路につく。  予想外の展開ではあったが、なんとか落ち着くべきところに落ち着いたといえるだろう。  これで、当面の危険性はなくなった。 「……おい、少年」  下り坂の真ん中で、大きく足を広げながら、ガラの悪い少年が待ち伏せていた。 「お前、何してんだよ」  少し、怒っているように見えた。  声色が、いつもよりも刺々しい。 「別に。余計なお世話を、少し」 「なんだよそれ。お前の力は借りねえっつったろーが」  ……まあ、結局のところ岬がすべてを収めさせてしまったので、俺の力はあってないようなものだったのだが。 「ひとまず、終わらせたよ。汀がやったことの後始末は、つけた」 「だからそれが、余計だっつってんだよ」 「お前は、したかったのか?」 「あん?」  軽口を、叩き合おう。 「つまらない喧嘩ごっこ、したかったのか?」 「……ちっ」  吐き捨てるように、汀は不機嫌さを示す。 「お前はいっつもそうだよな。俺の抱えてる問題を、俺の知らねえところで勝手にケリをつけやがる。なんだよそれ、お前は俺の世話係か?」 「だってそれが、一番手っ取り早いんだよ」  お前が好き勝手に行動して、しかも後始末をしようとしないから、俺がこうして出張ってたんだろ。 「それに、なんの問題がある。お前に迷惑はかけてないだろ」 「いいや、迷惑だ」  きっぱりと、汀は言う。 「お前が俺の勝手を許してしまうから、俺は我儘を貫けてしまうんだよ」 「……なんだそりゃ」 「だから、お前が悪い。全部お前の、責任だ」 「そんなバカな」  呆れるほど、責任転嫁もいいところである。 「案外、このまま奏に殴り殺される寸前になってた方が、良かったのかもしれねえぜ」  やや、悲しそうな眼差しだった。 「そうしたら俺は、魔法の本を殺すことを、諦められたのかもしれない」  魔法の本を、殺す。  それが、遊行寺汀の目的だ。 「お前は、今も許せないのか」 「……前にも言っただろ。二度も、言わせるなよ」 「二度も、言わせる。お前の信念がどこまで硬いのかを、聞かせろよ」  その必要が、あるんだよ。 「お前は、そこまでして魔法の本に復讐をしたいのか」  それから、少し考えて。 「……俺はあのくそったれの魔法の本が、憎くて憎くて堪らねえ」  声が、震えていた。  その震えまで、伝わるのだろうか。 「あいつが死ななければいけない理由なんざ、この世の何処にもねえだろ。だから俺は、妃の仇討ちを決めたんだよ、一年前に」 「奏さん、言ってたぞ。その報いは、いつか受けることになるだろうって。魔法の本は、自らを害するお前を許さないだろうって」 「上等だよ糞野郎。こちとら背水の陣を敷いてんだよ。メラナイトを殺した時点で、遊行寺家も奏も俺の敵だ。今更怖がることなんてねえんだよ」 「……その割には、辛そうに見えるがな」  後悔しているようにさえ、見える。 「うるせぇよ、ムカつくやつだな、お前は。俺の口から言わせんじゃねえ」  真に迫る、か擦り切れそうな声で。 「そんな俺でも後悔があるんなら、そんなもん決まってるだろうが」  ただ、切実。 「――夜子に嫌われるようなことだけは、したくなかった」  魔法の本を、殺すということ。  それは、遊行寺夜子と敵対するということでもある。 「お前は、俺に止めて欲しかったのか?」 「はっ、無理だろ、それは。お前に俺が止められるとは思えねえよ」 「そうだな。俺にはお前を止めることは出来ないな」  いつだって、後始末をすることしかしてこなかったから。  止めるという行為の方法が、わからない。  今回だって、そうだ。奏さんの暴走は止められなかった。 「いつか、夜子は知ることになるだろうな。俺が、何をしてきたのかを、知る時が来るんだろう」  引きこもりのニートお嬢様が、それを知ったとき。  そのときは、汀に対して、どんな感情を示すのか。 「その時を想像すると、怖えよ。今だって好かれちゃいねえのに、俺が本を殺したことを知ったとき、あいつは俺を兄とすら呼ぶことはなくなる」 「……お前は、本当に……」 「馬鹿なやつだよ。不器用だよな。でも、復讐に身を焦がしてなきゃ、気が狂いそうなんだ。妃がいなくなった日常を、俺は許すことがきねえ」  ぎゅっと、俺を見つめて。 「だから、夜子にだけは何も言わないでくれ。俺の一生の、お願いだよ」 「……ああ、そうだな」  白々しく、頷いた。 「俺は、何も言わねえよ」  でも。  俺はそのとき、思ったんだ。  たしかに俺には、汀を止めることは出来ないだろう。  その復讐心が、羨ましいとさえ思ってしまうくらい、気持ちを理解してしまえるから。  だから、そう。  汀を止めることが出来る人物が、いるとするのなら。  それは、遊行寺夜子を除いて、他にはいないのだろう。 「悪い、先に帰っててくれるか。今は、夜子に会わす顔がねえ」 「……ああ、わかった」  汀が泣いているところを見たとこは、一度だってなかった。  だが、そんな汀の様子に、こいつはいつも、人知れず一人で泣いていたのかと思ってしまった。  常に傍若無人で、悠々自適に嗤う汀に、涙というものはあまりにも似合わなさすぎて。 「ごめんな、汀」  騙し騙されあいながらの友人関係。  しかしここまでの行いを、汀は許してくれるのだろうか。 「真実を伝えたのは、俺の口ではなく、お前の口だ。そういう詭弁を、きっとお前は許さねえだろうけど」  先ほどまで持っていたのは、岬から返してもらった猫のキーホルダー。  盗聴器付きの、優れものだ。 「以上、依頼は果たしたぞ、夜子」  猫に向かって、囁いた。  発信はできても受信することの出来ないこれは、向こう側にいる人物の反応を窺い知ることは出来ないが。 「それでも、汀の思っているような反応じゃないと思うぞ」  確かに夜子は、魔法の本が好きだけど。  それ以上に、大切な物もあっただろうから。  何も言うことが出来なかった。  何も言うことが出来なかった。   何をいう言葉も見つからなかった。  突然押しかけて、受信機を設置した日向かなたが提示したのは、遊行寺汀の胸中。  瑠璃を相手にして語る本音は、あたしが想像していた以上の深い闇だった。 「……許せない」  汀が、魔法の本を壊していた。  そして、これらからも次々と壊そうとしている。  その行いを、許せるはずもなかったけれど。  ――だから俺は、妃の仇討ちを決めたんだよ、一年前にな!  その言葉が、重くのしかかる。  少しも、気付かなかった。  あの汀が、一人の女の子がいなくなっただけで、こうも変わってしまうのか。  汀にとって、そこまで妃という存在は大きなもので、その気持ちが痛いほどにわかってしまうから、あたしはこうまで泣きそうになっている。 「あの、ばか……」  あたしの実兄は、どうしてこうまで愚かなのだろう。  復讐なんてして、それで何を得られるわけでもないでしょうに。  けれど、何を得ることは出来なくても。  自分を保つことは、出来るのだ。 「妃のこと、本当の妹のように、可愛がっていたものね」  瑠璃が、汀を止めない理由が、よくわかる。  多分、瑠璃もあたしと同じ気持ちなのだ。   本当に、汀の心情が理解してしまうから――止めることが、出来ないのだ。  許せない感情、やるせない情動が、その復讐心に共感さえ抱かせてしまうから。  あたしは、遊行寺夜子。  魔法の本を、収集する立場。  故に、遊行寺汀の所業は、決して許せるものではないけれど。 「――ただ、なるべく壊さないで」  手にしていた本をぎゅっと抱きしめて、あたしは切に願った。  「瑠璃さんは本当に、あくどいです! あくどすぎます! かなたちゃんはビックリですよ!!」  一連の説明を終えた途端、彼女は大きく声を上げた。 「あなたはどれほどお友達を裏切っているんですか! よくもまあいけしゃあしゃあと嘘をつきましたね!」 「……いや、嘘じゃない。俺は夜子に、汀の目的をばらしてないぞ」  あくまで汀本人が語ったことで、俺は知らん。 「真相を知ったら、汀さんは怒りますよー? これは明確な裏切りですからね!」 「そういうもんなんだよ、俺と汀の関係って」  今更、どうするつもりはない。 「……もう!」  のんびりと構える俺に、彼女は少し呆れてみせる。 「私は、瑠璃さんのことを心配していってるのに!」 「はは、あんたに心配されるようなことじゃねえよ」  少なくとも、怖い怖い私立探偵と対峙するよりは、マシだ。 「……それでも、なんとか一件落着はしましたね。とても微妙な終わり方ですが、これはこれでよしとしておきましょう」 「悪いようにはならなかったしな」  ちなみに。  本城奏は、学園を辞めることなく今もこの島に滞在している。  相変わらず学園に顔を出していることは少ないが、辞めるつもりはないらしい。  当然のように汀には縁切り状を送りつけ、二度と関わらないようにはしているらしいが。 「おー、理央もとうちゃーく!」  そうこうしていると、理央がやってくる。 「お待ちしてましたよーって、あれ?」  その奥にいる人物に、彼女が気付いたらしい。 「はい、夜ちゃん! ささーっと入っちゃお?」 「……わかってるわよ」  制服に身を包んだ夜子が、照れ臭そうに立っていた。 「約束、だから」  依頼を果たしたら、入部するという約束のことか。  まさか、本気で守ってくれるとは、思わなかった……。 「ようこそ、探偵部へ! これで4人、部として成立ですよ!」  夜子を招き入れる彼女。  気が変わらないうちに、署名をさせる腹積もりなのだろう。 「言っておくけれど、幽霊部員よ。ほんのたまにしか、顔を出さないから」 「構いません、お好きにどうぞ!」 「ちゃんと面白い本を仕入れておくこと。そうでなきゃ、あたしは来ないから」 「はいはい、任せておいてくださいな」 「それから……後は……」  えっと、えっと、と。  他に何かを探しながら。 「……美味しい紅茶を、用意しろ。だろ?」  後ろから、答えてやった。 「……うるさい。キミに指摘されると、不愉快よ」 「んじゃ、今すぐ淹れるよー! 任せて!」 「お願いするわ」  しかし、夜子は気付いているのだろうか。  幽霊部員で構わないと言いながら、たまには顔を出すという言葉の食い違い。  少なくとも、ある程度は来てくれる気があるという、そんな些細な事実が、言いようのない満足感に浸らせてくれる。 「何をにやにやしているの? 気持ち悪い」 「夜子さんが来てくれて、きっと嬉しいんですよー」 「……別に、キミを喜ばせるために来たわけじゃないわ」  不本意を見せつけるように、不満気な表情を見せつける。 「ただ、少し、思っただけ」  そっと、夜子は語る。 「妃が夢見た日常は、きっとこんな風だったのかなって。理央がいて、かなたがいて、しかたがないけど、瑠璃がいる」 「アパタイトは魔法の本ではなかったけれど、いつか、魔法の本のように実現したらいいなって」  先日、見つかった月社妃の日記帳。  そこには、みんなが笑顔になれる空間が揃っていて。 「よ、よ、よ、夜子さん!」  そんな中、彼女は目を丸くして驚いていた。 「い、今、私のことをかなたって、呼んでくれました! 呼び捨てで!」 「えっ? ……あ、う……」  それは、意図していなかったのだろう。  気がついた夜子は、顔を真赤にさせて恥じらっている。 「今のは、違う……日向かなたと呼ぶのが、長ったらしかっただけ」 「でも、苗字ではなく名前でした!」 「それは、そっちの方が、呼びやすくて……」 「しかも、夜子さんの日常の末席に、私も加えられていましたよ! 遂に、心を開いてくれましたね!」  感極まって、抱きつく彼女。 「こ、こら、離しなさい、近寄るな! お前はスキンシップが馴れ馴れしいのよ!」 「お前じゃなくて、かなたって呼んで下さーい! 呼んでくれなきゃ離しませんよー?」 「か、かなた! 離しなさいっ!」 「いやーん、可愛すぎですよー!」 「離してえええええ……!」 「……はは」  仲睦まじい様子を魅せつけられて、思わず破顔する。  夜子が彼女を受け入れる日が来るなんて、まさか訪れるとは思わなかった。  思わず気を許してしまう何かが、日向かなたにはあるのかもしれない。 「わわっ! 夜ちゃんとかなたちゃんが、らぶらぶだよ! ぐぬぬ、理央も混ざるべき?」 「いいから、このっ!」 「お人形さんみたいで卑怯ですよー! こういう妹、私も欲しかったですー!」 「同い年よっ!」  今は日向かなたの存在に、ひたすら感謝していた。  この空気を作ってくれたのは、間違いなく彼女だろうから。 「……なあ、妃。見ているか」  天国とか地獄とか、そういう死後の世界は信じていなかったけど。 「お前の遺した偽物の本は、それでも確かに機能しているよ」  もしかすると、こういう未来を想定して、お前はあれを遺したのかな。  妃を失って、道に迷った俺達を示す、光のように。  『アパタイトの怠惰現象』  それは、一人の少女が夢見た、気ままで怠惰な日常の物語。  そして、物語は急転を迎えることになる。   かの本の名前は『ローズクォーツの永年隔絶』   永年の世を生きる吸血鬼が、そこにあった日常を隔絶する。  あり得ない存在が顕現する物語――人はそれを、ファンタジーと呼ぶ。  初めて、彼を意識したのはいつだろうな。  抱いている気持ちの始まりを考えてみても、それはよく分からなかった。  最初から意識していたのかもしれないし、実はついさっき、意識し始めたのかもしれない。  理央は頭の悪い女の子なので、自分の気持ちはよーわからないのです。  でも。  理央の手料理を美味しそうに食べてくれる瑠璃くんは、理央にとって癒やしでした。  食べ終わった後、美味しいねって言ってくれるだけで、全てが報われたような気持ちになったのです。  たったそれだけの、どこにでもありそうな普通のことが、理央にとっての幸せの瞬間でした。  初めて知った、外の世界の人。  理央にとっては、本来交わるはずのない赤の他人。  普通の友達という存在は、理央にはいませんでした。  遊行寺家でお世話になっているけれど、突き詰めてしまえば、夜ちゃんや汀くんは、理央にとってのご主人様。  普段は意識しないようにしていても、そこにある明確な線は越えられないのです。  少なくとも、お館様は――超えることを許してくれません。  だから、瑠璃くんは、理央の初めての男の子。  理央が初めてであった、同世代の普通の男の子。  自分でも、あっさりと。  驚くほどに、あっけなく。  伏見理央は、彼に恋をしてしまっていたのでしょう。  それは、憧れから始まった、小さくて〈慎〉《つつ》ましい星屑のような思い。  自覚したところで、何も変わることはありません。  理央は、自分が置かれている立場を誰よりも理解しています。  お館様に、命じられるまでもなく。  理央は、夜ちゃんと同じ立場ではありません。  まして、誰かと恋に落ちるなどと、尚更あり得ないことなのです。  その気持ちに気付いたところで、何が変わるわけでもありません。  瑠璃くんに、恋をした理央は、けれどそこでおしまいなのです。  想いを伝えることも、恋に励むことも一切なく。  ただ、いつものように夜ちゃんの傍で働くだけ。  それで、満足です。  それが、理央が手に入れることのできる最上級の幸せだから。  夜ちゃんのお世話をして、瑠璃くんとお喋りをして、それだけで理央は笑っていられるから。  友達という関係が、幸せの頂点。  恋人という関係を、望めばそれが崩れていく。  ……理央が、一番自覚してるよ。  そっと、胸に手を当てて。  墓の下まで持っていかなければならない秘密を、噛み締める。  絶対に、知られたくないそれは。  しかし、知られても、受け入れてくれるだろうとは思う。  けれど、知られれば、何かが変わってしまうことは間違いなくて。  理央は、魔法の本の秘密に口を〈噤〉《つぐ》む。  物語が閉じるまで、誰にも明かすことはない。  〈理〉《丶》〈央〉《丶》〈は〉《丶》―― 「そういえば、理央さんってどのような経緯でここにいるのでしょうね」  夏の暑い日に、妃はソファにー寝転がりながらぼやく。 「孤児だった理央を、闇子さんが引き取った、っていうのは聞いたことがあるけど」  夜子か、汀か、どちらかは忘れたけど。  出会い初めの頃に、そう教えてくれたはずだ。  世話係を必要として、理央に白羽の矢が立ったとかなんとか。 「そのせいか、理央は闇子さんには頭が上がらないんだろうな」  お館様と呼びながら、決して敬うことを忘れない。  拾ってくれたことに感謝をしているのは、ありありと見て取れる。 「そうですね。とても従順なメイド様だと思います」 「従順って……もう少し、言葉を選べよ」  ペットじゃねえんだから。 「それにしても、理央さんと瑠璃は、とっても仲良しですよね」 「え?」 「だって、この館で理央さんとの会話が一番多いのは、間違いなく瑠璃ですよ」 「……そうか?」  そんな自覚は、全くなかったけど。  びしっと、俺を指さして。 「少なくとも、理央さんが楽しそうに笑っている時には、いつも瑠璃がいたように思います」 「それは、どうだろうな」  言われてみれば、確かに心当たりは多いが。 「むしろ、理央は誰とでも仲良くなれる素質があるんだと思うけど。愛嬌があって、面倒見がいいし、一緒にいて落ち着く」  それに、あのふわふわとした雰囲気は、特別な魅力を備えていると思う。  思わず、抱きしめたくなるような柔らかさ。 「……確かに、瑠璃の言うとおりかもしません」 「学園では友達も作らず、周りに対して壁を作っているようですから、ついつい、そう思ってしまいます」  図書館では底抜けに明るく、笑顔を振りまく理央も。  学園では、影の薄い、寡黙な女の子になってしまっている。  正確には、俺達の前以外では、というべきか。  学園で俺達と会ったときには、全く問題なく笑ってくれるから。 「友達を作らないようにしているのでしょうか。それとも、見ず知らずの相手と関わるのは苦手なのか」 「……それこそ、余計なお世話なんだろうな」  ちらりと、食堂の方を伺うと、理央の姿が見える。  そろそろ、夕食の時間かな。 「ここまでにしておこう。例え事情があったとしても、俺達に何も言わないということは、知られたくないことがあるんだろ」  立ち上がりながら、妃へ。 「俺達は、お世話になっている身だ。無神経な詮索は、やめておくべきだろ」  普段はへらへら笑っていても、弁えておかなくてはならない。 「……そうですね」  心残りがありそうな、少なくとも納得はしていない表情を浮かべながらも。 「瑠璃が言うのなら、不要な憶測は、胸の内にしまっておきましょう」 「ああ、それが客人のマナーだからな」  少なくとも、現状の理央に、特に不満そうな様子が見えなかった。  学園で友達がいないことを、嘆いているわけでもなさそうだったから。  その笑顔の裏側に、どのような感情を抱いていたのか。  それは誰にもわからない。 「引き篭もってばかりではいけません! 今すぐ太陽の下を駆け巡るべきです!」  アパタイトが見つかってから、数週間後。  すっかり図書館の顔なじみとなった日向かなたが、息を巻いて馬鹿なことを言い出した。  たまたま、広間に顔を出していた夜子は、心底軽蔑するような視線を向けた。 「突然現れて、許可もなしにやってきて、言うことがそれ?」  といいながらも、追い出したりはしない。  もはや、彼女を追い出すことを諦めてしまっている。 「夜子さんは、もっと外に出るべきなのですよ! この図書館も素晴らしいですが、外もきっと楽しいですよ?」 「考えておくわ」  露骨に適当な態度で流そうとする夜子。  最近になって、彼女の対処法を理解したらしい。 「というか、あれ以来部室に来てくれないじゃないですかー! 私、ずっと夜子さんのことを待っていたんですよ?」 「……う」  少し、狼狽える夜子。 「あの言葉は嘘だったんですかー!?」 「う、嘘じゃないわよ。別に、毎日来るとは言ってないでしょう。気が向いた時だけ。そう、最近は気乗りがしなかったのよ」 「でも夜ちゃん、昨日は学園に行ったよねー?」 「えっ?」  彼女は小さく声を出して驚いて。  俺は、声に出せない大きな驚きに襲われる。 「ちょ、ちょっと、理央?」  顔を赤らめる夜子。  その様子だと、理央の言ってることに間違いはないらしい。 「探偵部の前まで来たんだけどねー、なんだか照れ照れになって、入れなかったんだー」 「そ、そういうわけじゃないわよ!」  テーブルをおもいっきり叩いて、断固否定する。 「ただ、あれはキミの声がしたからよ!」 「……俺?」  どうやら責任は、俺にあるらしい。 「キミの不愉快な声が聞こえたから、中に入りたくなくなったの! それだけ!」  ふんっ、と。  顔を背けて、不機嫌さを誇示する。 「あらら……つまりは瑠璃さんのせいでしたか」 「いや、そこで俺のせいにするのは、理不尽だろ」 「でも、嬉しいですね。顔を出さなくとも、出してくれようとしたその事実に、かなたちゃんは感激です」 「……ん」  照れ臭そうに、視線を外す夜子。  こういうストレートな物言いに、弱いんだ。 「だからこれは、お礼ですよ。最近、学生街にオープンしたケーキ屋さんの、人気メニューです!」  白い箱を取り出して、誇らしげに掲げた。 「読書に欠かせないアイテムは、暖かい紅茶と甘いケーキ! でしょう?」  なるほど、ツボを得ている作戦だ。  夜子の好みを把握している、彼女ならではの接待法。 「ケーキ? それは市販のもの?」 「理央さんのケーキも格別ですが、それに負けず劣らずの逸品ですよ。ささ、理央さんもどうぞ! たまには接待されてくださいな」 「わ、理央も? そ、それなら紅茶を入れなきゃだねー!」  そそくさと、紅茶の準備を始める理央。  慣れた手つきが少し弾むように見えたのは、気のせいか?  そして、数分後。  素敵な香りとともに、小さなお茶会の準備が整った。 「お待ちどうさま!」  満面の笑顔を向けられながら、まずは紅茶に口をつける。 「うん、やっぱり理央の入れる紅茶は落ち着くな。さすがは俺の誇る理央だ」 「どうしてキミが偉そうにしてるのよ」  ぎろり、と睨まれて。 「それに、キミの誇る理央ではなく、あたしの誇る理央よ。勘違いしないで」 「にゃ? 理央は誰のもの?」  疑問符を浮かべながら、可愛らしく首を傾げる。 「別に私の理央さんでも、いいんですよ?」  ニコニコ顔の彼女が、それに加わって。 「それよりも、ケーキのお味はいかがですか? 夜子さんの好きそうなのを見繕ってきたのですが」 「……ふんっ」  皿に載せられたのは、至極まっとうないちごのショートケーキ。  ありきたりといえばありきたりだが、王道といえば王道でもある。 「ケーキが、美味しくないわけがないでしょう。とっても、素敵な味よ」  強がりながらも、気に入った様子だ。  市販のものを口にすることが少ない夜子にとって、それは新鮮だったのかもしれない。  いつも、理央が作ったものを食べてるからな。 「すっごいよー、このケーキ! めちゃんこ美味しい! 理央のよりも美味しいよ!」 「そ、それはないわ! 理央のより美味しいケーキなんて、この世にあるはずがないもの」 「えー? 理央はそんなにお上手さんじゃないよー」  苦笑いを浮かべながら、理央は言う。 「理央さんも、全く負けていないとは思いますけどね。それぞれの良さがあるということです」  幸せそうにはにかみながら、彼女もケーキをついばんでいる。  どうして女の子って、甘いモノを食べるとこんなに幸せそうにするんだろうな。 「かなたにしては、中々悪くない選択をしたわね。少し、侮っていたわ」  あっという間にケーキを平らげた夜子は、紅茶を飲みながら優雅に言う。 「ケーキを持ってきてくれたことには、感謝します」  やや、恥ずかしそうに。 「……ありがとう」  それは、かすれるような小さな声だった。 「ふふふ、並んだ甲斐があるというものです」  学生街にある、ケーキ屋さん。  藤壺学園から、図書館とは逆の方向に存在しているため、行って帰ってきてのかなりの手間だったはずだが。  彼女も彼女なりに、気を使っているのかな。 「それでも、夜子が満足するのは、結構珍しいよな」  小さな頃から理央の料理に慣れているため、中々高評価は得られない。  例外は、62円のアイスくらいのものである。  ……お菓子系に、弱いのかな? 「箱入り娘というわけですかー、可愛らしいです。まさに、夜子さんにぴったりですね!」 「実情は、ただのニートお嬢様だけどな」 「うるさい」  今にも襲いかからんばかりの勢いで、夜子は俺を睨みつけた。 「け、喧嘩は駄目だよ? 仲良くしよ?」 「……別に、喧嘩をするつもりはないわ。仲良くするつもりもないけれど」  ぷいっとそっぽを向いて、吐き捨てるように言う。 「うー、夜ちゃんも素直じゃないなぁ……」  小さな声で、言葉をこぼす理央へ。 「理央さんも、苦労しているようですね」 「そ、そんなことないよー? 理央は、こうしてることが楽しいから!」  天使のような笑顔で、返す。 「夜ちゃんや瑠璃くんと一緒にいられて、理央は幸せだよ!」 「お前は、変わらねえな。最初に会ったときからいつだって変わってねえよ」 「そうかにゃ? 瑠璃くんには、そうみえちゃうかな?」  くるり、と、一回転して見せて。 「これでもいろいろ、成長したんだよ?」 「……なるほど」  色々と、納得する。 「あたしの理央を、変な目で見ないでくれる?」 「それは誤解だ」 「あはは、だいじょうぶだよー。瑠璃くんは、理央を守ってくれるんだから!」  じっと、俺を見つめながら。 「初めて瑠璃くんと出会った時も、瑠璃くんは理央を助けてくれたもんねー」 「……そういや、そんなこともあったか」  俺と理央の出会い。 「ほほう、何やらわけありで? 事件の匂いがしますよ?」 「別に、大したことじゃねえよ」  案の定関心を抱く彼女を、適当にあしらおうとする。 「……確か、理央が変な男に付き纏われていたんだっけ?」 「汀はストーカーとか言ってたけど、同級生の行き過ぎた片思いの延長線上のものみたいな感じだよ。その犯人を俺が突き止めて、辞めさせたってだけの話」  確か、そう。  汀に、隣のクラスの伏見理央について、相談があると持ちかけられたんだ。  最初は、相談というよりも話を聞く程度のものだった。  理央に片思いをしている奴はいねえかとか、特定の誰かが理央に近づいてないかとか、その程度の質問をされて。 「べ、別に大したことじゃなかったんだよ。ただ、こんな理央にも、好きになってくれる人がいたってだけのお話で……」 「ちょこっとだけ、それが理央にとって困ったさんだったから、その……瑠璃くんが……」 「ボコボコにして、排除したの」 「……うわあ」  思いっきり、彼女に引かれてしまった。  いやいやいや! 「誤解するなよ。迷惑行為は辞めろっつったら、逆ギレされたからやり返しただけだ」 「瑠璃さんって、思ったよりも暴力的なんですね……」 「汀と仲が良いくらいだもの。よくボロボロになって帰ってきてたわよ。誰と喧嘩したのか知らないけれど、よく付き合うものだわ」 「汀くんやんちゃ時代だねー」  そういうことも、ありました。  「ま、そいつには俺が彼氏だって説明して、それで全部終わらせた。その後で、汀にキレられたよ」 「え、どうしてです?」 「俺の知らないところで、勝手に解決してんじゃねえ、って」  それが、俺と汀の関係の始まりだったと思う。  あいつは何も言わないから、俺も何も言わず、勝手に行動する。  お互いが良かれと思ったことを選択する、そういう関係。 「ま、それで理央と話すようになって、それから汀に招待されて、図書館に初めて訪れたんだよな」 「それから夜ちゃんとも仲良くなって、今に至るんだよー?」 「ちょっと待って。誰が、誰と仲良くなったの?」 「さー?」  律儀に、夜子は反応する。  流してしまえばいいのになあ。 「なるほど、そんな風に瑠璃さんはこの図書館に関わっていったんですね」 「あんたとは違って、魔法の本に関わってからというわけではないんだよな」  むしろ、魔法の本の存在を知ったのは、わりかし最近だ。 「瑠璃さんは、理央さんにとっての王子様だったんですね! 困っている不審者を撃退し、お守りする騎士様! 素敵です!」 「にゃ」  その言葉に、やや顔を赤らめる理央。 「な、なんだかそーいわれると恥ずかしいよぉー。べ、別に、大したことじゃなかったんだからね」 「なんだか、無性に腹立たしいのは何故かしら」  見るからにイライラしながら、俺を睨みつける。 「そりゃ、嫉妬だろ」  即答してやった。 「はあ? なんであたしが――!」  即座に、激昂。 「当たり前だろ」  間髪入れずに、続けた。 「お前の大事な理央を、まるで俺のものみたいに言ってんだからな。そりゃ嫉妬もすし、虫の居所も悪いだろ」  だからお前は、俺に嫉妬してるんだ。  対する夜子は、少し、驚いた風に。 「そ、そうね……その通りよ。勝手に、あたしの理央を奪わないでくれるかしら。キミのその汚れた手で、触らないで」 「あはは、夜子さんはどういう意味の嫉妬だと思ったんですかねー」  楽しそうに笑いながら、彼女は言う。 「だいじょーぶだよ、夜ちゃん」  にっこりと、花が咲く。 「理央はいつまでも、夜ちゃんのお傍にいるからね」  それは、少し変な意味にも聞こえてしまって。 「夜ちゃんが理央を必要としなくなるまで、ずっとずっと、夜ちゃんのものだから」   少し、胸がざわつくような言い回しだった。 「……そうね。理央は、あたしの理央だもの。傍を離れたら、許さないんだから」 「うーん、仲が良すぎて困りものですね。これでは、瑠璃さんが踏み入る余地はありませんよ?」 「そんなの、最初からだろ」  ここのところ、表面化してきただけで。  最初から、この二人の仲の良さはこんなものである。 「夜ちゃんのこと、だーいすき!」  甘えたような声で、甘えたような言葉を口にして。  それはさきほど食べたケーキよりも、ずっと深みのある味だった。 「あ、瑠璃さん、いらっしゃいです」  放課後、部室に顔を出した俺を、彼女が出迎える。  「今日は理央さんも来られないようでしたので、一人になるかと思ってました」  きまぐれだ。  正式な部員になったはいいものの、出席率は、まあ半分といったところである。  探偵部とは銘打ったものの、俺は別に、それらしい行動は何一つしていない。  部室に顔を出した時も、紅茶を飲みながら雑談をするか、本を読むかの二択である。 「ん、まあ部員としての体裁を整えておこうかなってな」 「またまたー、本当は私に会いたかっただけでしょう? ぐふふっ」  変な笑い方をして、彼女は冗談を口にする。 「阿呆らしい」  やれやれ、と、わざとらしく溜息を付いて、椅子に腰掛けた。  鞄から小説を取り出して、早速開いたところで。 「ストーップ! はい停止です」  彼女の大きな声が、それを遮った。 「相変わらず読書好きですね! 何しにここへ来たんですか!」 「……なんだよ?」  本を読みに来たに決まってるだろうが。 「折角なので、お話しましょうよ! 今日はですね、私のお友達を紹介しようと思いまして」 「友達? あんたに友達がいたなんて、初耳だな」  冗談でも何でもなく、普通に驚いて。 「あはは、瑠璃さんは辛辣ですねー。ちょっと待ってて下さい」  そして彼女は、ごそごそとスポーツバッグを取り出した。  通学用ではなく、バレー部が使っていそうな、大きいカバンだ。  ……気のせいが、中身がもぞもぞと動いている。 「じゃじゃーん!」  そして、笑顔の彼女が、そこから取り出したのは。 「――っ」  一匹の、猫だった。 「どうですかー? 可愛くないですかー? 毛並みなんてふわっふわで、私の次くらいに可愛いですよ!!」  その猫の毛並みは、つややかな銀。  愛くるしい瞳をキョロキョロさせて、ベタベタに甘える彼女のなすがままにされている。  鳴き声を上げることもなく、初めて訪れるだろう場所を、興味本位に眺めていた。 「どうしても瑠璃さんに見せたくて、連れて来ちゃったんですよー! どうですか、もうめろめろですよね!」  野良猫ではなく、気品のある風貌。  ペットショップだと、うん万円という値段がつくだろう、その猫の種別は。  ――チンチラ、だった。  いつか、妃が拾った猫と、余りにも酷似していて。 「……なんだ、これは」  思わず飛び出る呟き。  あのときの猫の風貌を、俺は事細かに憶えているわけではない。  同じチンチラであったとしても、似たような猫はこの世にいくらでもいるはずなのに。 「ちなみにですね」  どうしてか、同一に思えてしまって。 「この子の名前は――蛍っていうんですよ!」  同一であったことに、奇妙な納得を覚えてしまった。 「……そうか」  言葉に力が入らなかった。  けれど、なんとか平静を装うとして。 「ちなみにその猫は、何処で手に入れたんだ?」 「蛍なら、数年前に捨てられているところを拾ったのです。あれこそ、運命の出会いですね」  嬉しそうに語る彼女は、俺の様子に気付かない。  気づかれないよう、堪えたから。 「蛍って名前は、どういう由来だ?」 「瞳の色が、フローライトのように輝いているからです。とても、素敵な名前でしょう?」  あの日の妃と、同じ言葉。 「夜子さんは、お猫さんが苦手なんですよね。こんなに可愛いのに、もったいないですねー」 「……そうだな」  奇妙な偶然に、悶え死にそうになる。  星降る夜に、妃が出会った一匹の猫。  家庭内に問題を抱えていた俺たちは、結局、どう足掻いても飼うことが出来なくて。 「猫と出会って、名前を付けたところで終わっていれば、美しい思い出だったのかもしれないのに」  けれど、現実は残酷だ。  妃と猫が過ごした時間は、ほんの一瞬。  出会って、名付けて、笑って――次に、泣いて、別れなければならなかった。  「何か、言いましたか?」 「いや、ひとりごとだ」  妃が蛍とじゃれているところを、母親に見つかってしまった。  たったそれだけの、ケアレスミスで。  母親は、妃に命じた。  ――捨てろ、と。  それが、数え切れないほど存在する、月社妃の受難の一つ。  ピアノに続く、母親との決定的な亀裂だ。 「……見たところ、あんたにはあまり懐いてないようだな。猫ってのは、甘えるもんじゃなかったか」  苦渋の果てに、妃は自らの手で蛍を捨てた。  おそらくはそれを、彼女が拾ったのだろう。  良き飼い主が訪れますようにと願った果てに、今、蛍はここへ至る。  これこそ、一体何の因果だろうか? 「蛍はツンとして優雅に振舞っていますが、結構寂しがりやさんなのです。今こうしてしれっとしてるのも、ただの見栄ですから」  そう言って、彼女は指先を蛍の頬へ向ける。 「うりうりー、ういやつめー! もっと私に甘えてもいいんだぞ?」  彼女に撫でられながらも、嫌がるわけでもなく甘えるわけでもなく、ただ漫然と受け入れている。 「みたところ、しっかり育てているみたいだな。可愛がられているみたいで、安心したよ」  捨てた俺たちが、何を言えたわけでもないけれど。  「瑠璃さんも触ってみてくださいよー! ふわっふわですよ?」 「……いや」  蛍に、俺と妃の記憶が残っているかは分からない。  けれど、後ろめたさと〈寂〉《せき》〈寞〉《ばく》〈感〉《かん》が、俺と蛍の距離を開かせる。 「悪いけど、俺も猫は苦手でな。遠慮させてくれ」 「ええー? そんなの初耳ですよ?」 「嫌いなわけじゃないんだけどな」  ただ、蛍にだけは、触れなかった。  触る資格すら、ないと思ったんだ。 「それは残念ですねー。折角、蛍も瑠璃さんのことを嫌がってなさそうだったのに」 「え?」  ため息を付きながら、彼女は言う。 「蛍って、結構人見知りするんですよねー。私以外の人が近付くと、ふしゃーっ! って威嚇するんです。でも、今の蛍はとっても穏やかです」 「……そういえば、鳴かないな」  俺の記憶の中の蛍も、全く鳴かない猫だった。 「この子が黙ってじっとしているときは、心を許しているサインです。ふふっ、気張っているように見えるのに、おかしいですよね」  蛍を優しく撫でながら。 「お姫様のように凛としているのが、蛍ちゃんなのですよ」 「……そうか」  色々、思うところはあったが。  一瞬、彼女に打ち明けてしまおうかと思ったけれど。  おそらくそれは、必要のない昔話だ。  蛍が今、ちゃんとした飼い主の元で幸せに暮らせているなら、妃も安心するだろう。 「でも、夜子さんも瑠璃さんも苦手だったら、蛍はあんまり連れてこれませんね」 「……あんまり、無理はさせるなよ。知らないところに連れてこられるのって、結構怖いことだろうし」 「それなら、平気です」  にんまりと、笑って。 「お姫様のように気品はありますけど、中身はおてんばさんですから。拾ったからですかねー? 外とか、あんまり怖がらないんです」 「…………」  そういえば、そうだったな。  妃が出会ったのも、外だったし。  蛍はずっと、外の世界で捨てられてきたのだから。 「邪魔するぜ」  と、しんみりとした雰囲気を吹き飛ばす人物が、唐突にやってきた。  遠慮無く扉を開けて、がさつな登場だ。  さすがの蛍も驚いたのか、先程まで入っていたスポーツバッグへ、一目散に逃げ出した。 「な、汀さん!! 探しましたよ! 以前の鷹山学園の調査案件の報酬、さっさとお支払い下さい! 踏み倒す気ですか?」 「ああん? うっせーな、んなもん夜子に請求しとけ。あいつ、金ならいっぱい持ってっから」 「なんでそうなるんですかー! しかも私、お金を請求した覚えはありません」  睨みつける汀に対して、全く臆することなく物申す。  それが出来る人物は、意外と少ないんだよな。 「お前がここに来るなんて、どうしたんだ? 入部希望か?」 「はっ、バカも休み休み言え。んなわけねーだろ」  シニカルに、笑って。 「鷹山学園ときみてーな情報がねえか、チェックしに来たんだよ。おら、早く情報だせよ」 「誰が出しますか! というより、報酬も未払いのくせに、次の依頼なんて受けると思いますか!?」 「いや、依頼云々じゃなくて、俺はお前の持ってる情報が欲しいだけだ」 「誰がくれてやりますかー!!」 「……ああ、面倒くせぇ」  全く物怖じしない彼女。  この手の強情なタイプの女の子って、汀の苦手なタイプだったよなあ。  男なら殴って黙らせるくせに。 「おい、瑠璃、なんとかしろ」 「……予想通り過ぎて呆れるばかりだよ」  やれやれと、これみよがしに溜息を付いて。 「どうみてもお前が悪い。ここは大人しく、彼女の言うとおりにしておけ」 「そうですよ、まずは報酬を頂いてからです」  そういって、彼女は笑顔で一枚の紙切れを差し出した。  言うまでもなくそれは、入部届だ。 「私、言いましたよね? 情報を提供する代わりに、入部してくださいって。嘘つきはお仕置きですよ?」 「……この女」  苛立たしそうに、眉をひそめる汀。 「好き勝手に情報を持っていかれるわけにはいきませんからね。しっかり筋を通して、お好きにご利用なさってくださいな」 「別に、入部くらいしてやれよ。どうせお前のことだから、まともに顔も出さねえだろうし、それで彼女が満足するんだからさ」  それでも渋る、汀。  それは、夜子と対立してしまっているがゆえに、同じ部員になることに抵抗があるからだろうか? 「部員には、無償で情報を提供しますよ。もちろん、部員の情報も、しっかり提供していただきますが」 「……クソ、うぜえ女だな、お前は」  苦虫を噛み潰したように、汀は言う。 「話だけ合わせておけばいいんだよ。入部するだけ、な? あとは情報だけ持ってとんずらしたらいいんだよ」 「……わかってるっつーの」  それでも苛立ちは収まらず、不機嫌は止まらない。  「ほら、これでいいいんだろ」  結局、汀は入部届にサインをする。  サインをする選択肢以外、残されていなかった。 「……堕ちた!」  ぐっとガッツポーズをする彼女。  たくましいやつだよ、あんたは。 「はい、よく出来ました。これで入部者は5人! 素敵な数字ですねー。戦隊ヒーローでも組めそうですよ!」  にこにこと、彼女は嬉しそうに語る。 「瑠璃さんは、レッド! みんなの隊長さんですね。理央さんはピンク! マスコットでしょうか。汀さんはブルー? ちょっと似合いませんか」  からかうような言葉は、止まらない。 「夜子さんは、ホワイトでしょうか。安直すぎて、怒られてしまいそうです」 「だったらあんたは、ブラックだな」  間髪いれず、ぶっ刺した。 「腹黒いあんたには、お似合いのカラーリングだよ」 「ひ、酷いですっ!! 事実無根ですよ!!」  事実そのものだ。 「……おい、くっちゃべってる暇があったら、早く情報をよこせよ。何のために入部したと思っている」 「冗談の通じない人ですねー、生き急ぎすぎですよ」  ぶつぶつと不満気な、彼女。 「魔法の本が関わってそうな、きな臭え事件の情報だよ。あるだけ全部、出せ」  全く感謝の意の感じない態度の汀へ。  彼女は、満面の微笑みでやり返した。 「――ありません」 「……は?」  汀を入部させて、満足な状況を手に入れてから。 「今のところこの島では、魔法の本が関わっていそうな事件は一切ありません。何事も無く平和な一日でしょう」 「…………」  あ、キレてるキレてる。  彼女の情報を当てにしていたからこそ入部したのに、この返しじゃな。 「魔法の本なんて、ぽんぽん開くものじゃないのでしょう? 情報なんて、早々あるわけがないじゃないですか」 「上等だよこの野郎」  堪忍袋の緒が切れた汀は、彼女に手を上げるわけにもいかず、その怒りを持て余す。 「クソッ! 不愉快だ、俺は帰る!」 「はーい、またいらしてくださいねー」 「誰が来るか馬鹿野郎!!」  そうして、入った時よりも更に荒々しく、遊行寺汀は去っていった。 「ぐふふ、やりましたよ瑠璃さん、これで汀さんも部員ですよ!」 「いや……たぶん、もう二度と来ないと思うぞ……」 「それは、問題ありませんよ」  会心の笑みで。 「魔法の本に関わる情報が見つかったーとか言ってみたら、のこのこやってくるでしょうから。汀さんって、結構簡単ですよね」 「…………」  やはり、腹黒ブラックである。 「それに、全く情報がないというのは嘘ですよ。それっぽい噂は、実はあったりするんです」 「……本当、質が悪いな」  恐ろしいものである。 「瑠璃さんとしては、汀さんの目的は達成されないほうが好ましいんでしょう? 魔法の本は壊さずに、収集したいと」 「……どうして、そう思う?」 「夜子さんが嫌がりますからね。単なる復讐なんて無意味ですし、ともすれば達成されないほうが色々と都合が良いはずです」  それに、と。 「魔法の本を殺す度に、汀さんと夜子さんの関係は悪化していくでしょう。それを止めたいと思うのは、友人として当然のことだと思います」  全てを見透かしたような、その言葉に。 「参ったよ、その通りだ」  俺は、感服せざるを得なかった。 「汀さんには、生かさず殺さずのらりくらりこの部活で遊んでいただきたいですね。そのために、入部していただいたのですから」 「……もしかして、あんた」  今の口ぶりに、思い至った考え。 「汀に情報を与えたことを、後悔しているのか」  メラナイトの物語は、汀が関わらなければ無事に収束していた。  その原因は間違いなく汀だし、誰が悪いかといえば汀に決まっているけれど。  汀が、メラナイトに至ったのは、彼女の情報があったが故である。 「後悔はしていませんが、ちょっぴり申し訳ないと思っています。その申し訳なさが、今後、夜子さんたちと付き合っていく上で少し邪魔でして」  優しい、言葉だった。 「なんとか、瑠璃さんや夜子さんの力になりたいんですよ。 こんな私にも出来ることがあるのなら、頑張りたいです」 「……あんた」 「かなたちゃんを味方につけたら、向かうところ敵なし! ですからね!」 「そうだな……あんたは確かに、頼もしすぎるくらいに頼もしいよ」  すっかり、図書館の連中とも打ち解けてしまって。  夜子とだって、普通に接してしてしまうんだよな。 「で、汀に伝えなかった情報というのは?」 「それは、ですね――」  さあ、探偵部の行動を始めようか。  健全に、平和に、穏やかな結末を求めて。  夜子も汀も満足するような、魔法の本の終わり方を。 「――藤壺学園七不思議についてです」  「七不思議って言っても、別に目新しいものじゃなくてね、昔かあるような都市伝説の一つなの」  本城岬は、にこやかに語る。 「二宮金次郎像が歩き出すとか、音楽室のベートーベンの目が光るとか、そんな感じ。王道中の王道だね」  この話を最初に持ってきたのは、岬だった。  日向かなた率いる探偵部の、初めての外部依頼ということになる。 「最近になって、その手の話をするような人が増えたんだー」 「見たとか、見てないとか、怖いとか、怖くないとか、眉唾ものの盛り上がりに欠ける噂なんだけど……」 「学園七不思議とかさ、今やもうオワコンでしょ? この手の怪談話って、正直うんざりしてるんだけど」  どうでもよさそうに、岬は言う。 「僕の友達がさー、部活帰りに見たっていうんだよ。『何か』を見たって」 「……『何か』?」  その言い方が、いまいちわからなくて。 「『何か』ってなんだよ。もっと具体的に説明してくれ」 「言葉じゃ言い表せない『何か』なんだって。その手の目撃情報があって、七不思議の噂が盛り上がり始めたっていうのかな」 「……本質的な問題は、七不思議じゃないってことか?」 「ぶっちゃけ七不思議が実在しているかとか、そういう話じゃないね。僕が気にしているのは、僕の友達が見たっていう『何か』だから」 「その『何か』の噂話が発展して、現在この学園では、七不思議ネタが流行っているというわけですね」 「……ふむ」  アメシストのときを省みるまでもなく、この手の非日常ネタに魔法の本が絡んでいることは多々ある。  あまり見過ごせない話ではあるが。 「ちなみに、七不思議そのものは、実在しないと思うよ。ついこの間、クラスメイトたちで七不思議の検証実験をしたからね」 「ちなみに、その『何か』を見たお友達さんは、どういう感想を抱いていましたか?」 「うーん、感想かあ。なんていうかな、恐ろしいとか、怖いとか、そういう感情はもちろんあったらしいけど、どちらかといえば、あれかな」  悩んだ果てに、岬は言う。 「不理解。それが全く不明瞭で、不明確だった。理解の届かないものに対する戸惑いみたいなものを、抱いたらしいよ」 「怖いっていうのも、幽霊とかの恐怖というより、未知のものに対する物怖じみたいなもんだと思う」 「雲を掴むような話だな」 「その子は嘘を付くような子じゃないし、見栄張って強がるような子でもないから、『何か』を見たっていうのは本当だと思うよ」 「ただし、その『何か』の正体が、見間違えに相当するものかもしれないけどね」 「幽霊の目撃情報も、単純な光の加減などによる見間違えというケースは、多々ありますからね……」  だが、どうだろう。  幽霊を見た、という言葉よりも、理解できない『何か』を見た、という方が、ずっと具体性を秘めているのではないだろうか。  幽霊ではなく、『何か』。 「どうかな? 僕の情報はお気に召したかな? 別に調査してくれーとは言わないけど、気が向いたら調べてみてよ」 「はい、ありがとうございます。とても興味深い話でした」  彼女はぺこり、と頭を下げて。 「七不思議のお話ならともかく、その『何か』に関しては調べる価値がありそうです。探偵心に、火がつきました!」 「あはは……日向さんらしいよね。じゃ、僕はそろそろ帰るね。マネジの仕事もあるし」 「おう、わざわざありがとな」  岬は立ち上がり、鞄を手にとった。 「それじゃ、あとは頑張ってねー。調査報告とかも、いらないから。ぶっちゃけ僕、あんまり興味ないしー」  軽く手を振りながら、岬は退室する。 「……どう思いました?」 「さあ、なんとも。だが、『何か』って言い回しには、ちょっと引っかかったかな」 「魔法の本が関わっているかといえば、多分無関係っぽいけれど……他にこれといってないのなら、調べてみたいかな」  それに、と。 「ホラー系の魔法の本だとしたら、尚更ほっとけないしな」  人の生き死にを語ることも、あるのだから。 「では、私は目撃者の聞き込み調査を行いますので、瑠璃さんは本である可能性をあたって頂けますか」 「夜子や理央に聞いてみろってことだな」  その手の情報を、図書館側から当たれということだろう。  俺の言葉に大きく頷いた彼女は、すうっと息を吸って。 「さあ! 探偵部の初仕事です! 事件を解決しちゃいましょー!」  おー! と、拳を振り上げる彼女。 「俄然やる気が湧いてきましたよ!」  もちろんそれに付き合うことはしないけれど、少しだけ楽しいと感じる自分がいて、少し驚いた。  部室で彼女と別れた後、図書館へと帰ろうとしている俺へ、呼びかける声。 「もしもし、君」  手招きをしながら、にっこり笑顔。  「……うっ」  トラウマが蘇る、本城奏の呼び出しだった。  あれからちょくちょく姿を見かけてはいたが、直接言葉を交わすのは初めてだ。  ……逃げてたし。 「俺、何も悪いことはしてませんよ? 奏さんにシメられるようなことは、何も……」 「君は私のことをどういう目で見ているんだ。呆れたよ」 「…………」  そういわれても、汀との一件ですっかり恐怖心が植え付けられてしまっている。  あのときは、いきなり襲い掛かられたりしたからな。 「あれから、汀くんはどうしている? 平常か?」  呼び出しの内容は、もちろん汀の事だった。 「また怪しい行動をしていないか? ちゃんと目は光らせているだろうな?」  その様子は、探偵というよりも、むしろ。 「……出来の悪い弟を心配する、お姉さんみたいですね」  うっかり、声に出してしまって。 「君は、私に喧嘩を売っているのか?」  笑顔のまま、少しボルテージの上がった声で、詰問されてしまう。 「いえいえ、単なる冗談ですよ。気にしないでください」  それを適当に流しながら、質問に答えよう。 「あいつなら、探偵部に所属してのんびりやってますよ。一応、今のところは問題ありません」 「俺や夜子が近くにいれば、軽はずみなことはしないかと。あいつだって、無差別に本を壊したいわけではありませんから」  黒い宝石の本が、あいつのターゲットだ。 「普通の本が開いている間は、問題無いということか。ま、黒い宝石の本なんて、そうそうあるものではないしな」 「その通りです」  それも、人の生き死に関わる本なんて、そうはお目にかかれないはずだ。 「そういえば、岬に変な噂の相談をされたんですが……あれは、奏さんの差金ですか?」 「ほお?」  思いつきで、言ってみた。 「確信があるわけではないですが、なんとなく。岬なら、俺よりも先に奏さんに相談しそうだし」  俺のその言葉に、奏さんは緩やかに首を振った。 「さあ、どうだろうな」  穏やかな表情を見ると、間違ってはいないらしい。 「その『何か』に関して、私は興味が沸かなかった。所詮、学生の怪談ごっこの範疇だろう」 「……やはり、知ってたんですね」 「そんなものを調べているほど、オトナは暇じゃないんだよ。ただ、全く気にならないかといえば、嘘になる」  妹が持ってきた、妙な情報。  本腰を入れて調べるには、〈信〉《しん》〈憑〉《ぴょう》〈性〉《せい》がなく。 「――怪談ごっこに興じるのは、学生だけの特権だ。少なくとも、魔法の本と戯れるより、ずっと健全だと思うぞ」  「……だから、俺たちに調べさせようってわけですか」  99%、魔法の本と無関係だから。  ごっこ遊びのような仕事を回しておけば、少なくとも危険な本を遭遇することはないだろうという、考え。  「調べるか調べないかは、君たちの好きにすればいい。でも、悪くはないと思うがな」  見守るような、視線。 「……私も学生の頃は、そういう不思議探しに興じたものだ。大した成果は得られなかったが、あれはまさしく、青春の思い出だよ」  奏さんの、学生時代。  それは、あまり想像できないものだったけれど。 「お姉さんは、そういう楽しげな日々を、君たちに送ってほしいんだよ」 「実在する危険な本よりも、実在しない空想の物語に夢見て欲しい」  ないものを、探せと。  あるものは、探すなと。 「無茶を言いますね。そう言われて、俺が『何か』の噂を調べる気になるとでも思いましたか」  何もないと、前置きされて、どうして調べようと思えるのか。 「思うよ。君は、あの噂を調査する。だって、君はそういう何でもない日常を、求めているのだから」  少し、間を開けて。 「願わくば、汀くんもそうなって欲しいものだがな。学園に蔓延る怪談話を探るなんて、いかにも青春らしいイベントじゃないか」  だから奏さんは、この話を俺たちに流したのか。 「どうやら、冷静になれたみたいですね。ようやく、怒りは鎮まりましたか」 「いいや、汀くんを前にすると、たぶん逆上するだろうな。だから、彼のことは君に任せるよ」  やや、俯いて。 「私だって、分かっているつもりさ。怒ったって、苛立ったって、何の意味もないことくらい」 「……奏さん」  それでも、彼女の中で許しがたい感情が渦巻いて。  今でも、汀のしでかしたことに怒りを忘れられないのだろう。 「……すまなかったな。君には、迷惑をかけた」  あれから、少し時間は経ってから。 「すっかり謝りそびれていた。君に、不当な暴力を振るったことを、私は恥じるべきだった」  怒っていたときとは、まさに別人。  こうまでしおらしく謝罪されてしまうと、こちらとしてももどかしい気持ちになってしまう。 「いえ、過ぎたことですから」  あれはもう、終わったことだ。  今更、掘り返したりはしない。 「これでも私は、君に期待しているんだ。遊行寺家に関わることが出来る、第三者の君に」 「……期待されても、応えられるかはわかりませんが」  その努力だけは、しようと思う。 「大丈夫。君なら出来る」  力強い言葉で。 「君にはそう思わせる不思議な魅力があるんだよ。妹も、そういうところに引き込まれてしまったのかな」 「あいつは、俺をそういう目で見てませんよ」  そうでなくちゃ、あの立ち位置にはとどまれない。 「『何か』? 『何か』って何よ?」  それから、図書館へと帰った俺は、夜子にことのあらましを説明する。  彼女に指示された通り、夜子の意見を聞いてみたというわけである。 「いや、それが分かったら苦労はしない。不理解のようなものが関わる物語を、お前は知らないか?」 「知らない。分かるわけない。もっと情報を〈精〉《せい》〈査〉《さ》してから、持って来なさい」  曖昧な説明に、夜子は少し怒り気味。 「うーん、理央もよくわかんにゃいよー。『何か』? 何だろうねー」 「あまり無駄な時間は取らせないで欲しいわ。何でも魔法の本の仕業にしないでくれる?」  わざとらしく呆れ返り、夜子は俺を責め立てる。 「それをこれから、確かめようと思ってる。お前も、手伝えよ」 「はあ? 何を馬鹿げたことを言ってるの。あたしがどうしてキミの力になんかならなきゃいけないのよ」 「にゃ、理央がお手伝う?」 「理央はいいの。あたしのお茶の相手をなさい」 「……だってさー」  えへへー。 「もう少し、魔法の本である可能性を高めてから、あたしに相談しなさい。どうでもいい情報ばかり聞かせられても、困るわ」 「……わかったよ」  ま、こうなるとは思っていたけれど。 「それに、特に実害が出ているわけでもないんでしょう? その話に何も感じないし、魔法の本の関わりは薄いと思うけど」 「実害が出てからじゃ、遅いからな」  それが本当に、危険性のない物語なのかどうか。  手遅れになってからでは、許されない。 「と・に・か・く!」  やっぱり、上から目線で。 「そういう面倒臭そうなことは、キミの役目。穀潰しになりたくなければ、働きなさい」 「お前だって、遊行寺家の財産を食いつぶしてるだろ」  偉そうにしてるけど、お前、ただのニートだからな? 「うるさい! あたしの仕事は、本を読むことなの!」  大声で一括されてしまい、一方的に会話を終わらされてしまう。  そのまま階段を上がり、書斎の方へと行ってしまった。 「うーん、夜ちゃんご機嫌ななめ?」 「かもな」 「でも、理央もあんまり気にならないかな。魔本の本っぽくないよ」 「ぽくない、か……」  奏さんも、ここに可能性はないと見ていた。  やはり、これは無駄足なのだろうか。 「でも、『何か』については気にならないけど、瑠璃くんがしようとしてることは気になるかな」 「……へ?」 「なんか、楽しそうなことをするんだよね? ちょうさ? それは、素敵だね!」  調べるという行為そのものを、楽しそうだと言う理央を見て。 「……ああ、俺も悪く無いと思ってる」  奏さんが俺に求めた、青春の一欠片を思い返す。  「それでも、あいつは調べる気だからな。探偵部として、せめて理央も手伝ってくれるか」 「うん! もちろんだよ!」  満面の微笑みで、理央が大きく頷いて。  丁度そのタイミングで、図書館の入り口から彼女がやってきた。 「ただいまですー」 「あ、かなたちゃんだ! おかえりー」 「……いや、ナチュラルに挨拶してんじゃねえよ」  ここは、お前の家じゃねえ。 「いいじゃないですかー、我が家のようにくつろいでも! 私と瑠璃さんの間柄なんですから!」 「滅茶苦茶言ってるなこいつ」  ま、こいつを怒るとしたら夜子だろうから、構わないけど。 「目撃者の方にお話を訪ねてきましたが、なんとも微妙な感じでしたね。よくわかんないとか、そういう戸惑いの言葉しか聞けませんでした」 「……にゃ? 『何か』のお話?」 「ああ、その話だ」  相変わらず、手早い仕事ぶりである。 「夜子の方は、興味なさげだったぜ。現時点では、関係ないと見ているらしい。情報も限られてるからな」 「そうですか……まあ、予想通りですね」  対して落ち込んだふうでもなく、彼女は言う。 「やはりここは、自らの手で調べるしかないのでしょう」  意気揚々と、彼女は笑った。 「やっぱり、そうなるか」  もう、それしか手はなさそうだしな。 「なんか楽しそうだよー、理央も行きたいなー」 「……おや? 夜子さんに釘でも刺されてしまいましたか? しかし問題はありません」  胸を張って、彼女は続ける。 「ただの調査では面白くありませんから、そこに味付けを行いましょう! 探偵部の、最初のイベントですよ!」 「……イベント?」  何を企んでいるのか、何を計画しているのか。 「ええ、そうです。何もないとつまらないので、何もなくても楽しめるように」  それはまるで、奏さんの狙いを読み取った上での、言葉のように聞こえて。 「第一回、肝試し大会を開催します!」 「はい?」  ぐいぐいと引っ張っていってしまう、そんな彼女の力強さが。  この図書館の中で、眩く輝いていた。  それはまさしく、彼女にしか出来ない、彼女なりの存在証明なのだろう。  彼女が『何か』を目撃したのは、日が沈みかけている夕刻のこと。  太陽が地平線に消えていく最中、彼女はふと校舎の時計を見上げた。  学園のモチーフでもある、大きな時計。  その上に君臨していた、『何か』   立っていたのか、座っていたのか、漂っていたのか、浮いていたのか。  不理解を突き詰めたその不明瞭な存在は、夕陽を浴びながらそこにいた。  自分が、何か見てはいけないようなものを見たような気がして。  目を凝らして、もう一度あの時計の上を見てみたが――しかし、何も存在せず。   『何か』は、太陽とともに、闇に沈んだ。 「時間はばらばらだったりしますが、大なり小なり夕方から夜ですね。『何か』を見たという学生は少なからずいて、気味悪がられているようです」  夜の海岸線通りに集まった俺たちは、彼女からことの詳細を聞く。 「そのどれもが、人気のない場所。ふとした瞬間に、目撃してしまうそうです」  そして、彼女は声を潜めて行った。 「――曰く、それは宝石の煌めきのようなものを残して消えたと」 「……へえ」  眉唾な感想だけれど、運命じみたものを感じるじゃないか。  あれだけ無関係と言われていながらも、少しだけ可能性を見出してしまう。 「というわけで、さあ行きましょうか! レッツ肝試し!」 「……ちょっと待ちなさい」  元気よく声を上げる彼女に対して。  夜の闇に、白い髪の毛が揺らめいた。 「あたし、そんなの聞いてないんだけど。肝試し? 何のこと?」  不服そうな夜子が、口をとがらせる。  どうやら夜子は、彼女に騙されて釣り出されたらしい。 「……お前、なんて言われてきたんだ?」 「魔法の本が、ここにあるって聞いたから……」 「…………」  馬鹿かこいつ。  そんな簡単にほいほいついてきてんじゃねえよ!  俺が何を言っても興味を持たなかったくせに! 「え? まさか嘘だったの?」  少し、驚いた風に、夜子は言う。 「嘘じゃありませんよー、今からみんなで取りに行くんですよー」 「ほら、嘘じゃないっていってるじゃない」 「……それでいいのか」  あっさりと、彼女の言葉を鵜呑みにする夜子。  俺とのあからさまな対応の違いに、苦笑いが出る。 「にゃー、夜の海って怖いよー」  傍らで、水平線をびくびくしながら眺めているのは、理央。  夜子が外出するときには、当然のように横に控えている。 「肝試す? 肝試し? やだなー、怖いのはやだよー」  あからさまに、苦手そうだもんなあ。  その震えっぷりが、また可愛らしいんだけどさ。 「……おい、日向」  そして、最後は。 「お前、これはなんのつもりだよ」  顔が引き攣っていた。  ひくひくと口端は釣り上がり、こらえきれない怒りが漏れだしている。 「はてはて?」  その拳には、何かが握られている。 「この手紙の内容だよ! てめぇ、何のつもりで呼び出しやがった! つーか、なんで全員揃ってるんだよ!」  物凄い怒っている。  相手が男だったら、間違いなく殴りかかってるくらいには。 「……おいあんた、何したんだよ。ここまで汀を怒らせるなんて、またなにかやらかしたのか?」 「いえ、大したことじゃありませんよ」  にっこりと、囁く。 「ただ、汀さんの目的を夜子さんにバラされたくなければ、言うことを聞いて下さいとお願いしたまでです」 「…………」  あの手紙は、呼出状か。  あるいは、脅迫状。 「やだなー、瑠璃さん、そんなに感心しないでくださいよー。私はただ、汀さんに是非とも参加していただきたかっただけです」 「いや、俺は全く感心してないんだが」  むしろ、ドン引きしている。 「てめぇ、調子に乗るのもいい加減にしておけよ? こんなんで俺が言いなりになるとでも――」 「あ、夜子さーん、ちょっとお話が」 「……待て」  ぎょっと、焦った様子で、汀は。 「待て、待て、待て」  躊躇ない彼女の手際に、飲み込まれてしまっていた。 「いいか、よく聞け。冷静になれ。そんなことをしても、俺はてめえのいうことなんて聞かねえ。だから大人しく、引き下がってろ」  冷や汗をかきながらの言葉に、まるで説得力はなかった。  やっぱりこいつ、女に弱い。 「夜子さーん!」 「あ、おい!」  その傍ら、理央と談笑していた夜子は、こちらに振り返って。 「……何?」  彼女と俺を見た途端、不機嫌面になる。 「えっとですねー、汀さんがですねー?」  ちらっちらっと、汀の様子をうかがって。 「……ぐっ」 「汀がどうかしたのかしら。また馬鹿なことを口走っているの?」 「いえ、そうではなく――」  ちらっ、ちらっ、と。 「このクソアマが……!」  腹の底から吐き出した悪態を呟きながら。 「あー、わかったわかったっつーの! 今日だけ付き合ってやっから、もう余計なことは言うんじゃねえよ」 「はい、よく出来ました」  手を合わせて、ごちそうさま。  したり顔で、俺を見つめる彼女。 「これで、探偵部全員参加ですね! やりましたよ!」 「……強引すぎるだろうに」  呆れるほど、無理やりだ。  けれど、そうでもしなければ、こうして5人揃うこともないんだろうな。  俺達に欠けていたのは、そういう力強さなのだ。 「何? 結局何なのよ? 冷やかし?」  ただ呼ばれただけの夜子は戸惑い、そして。 「……夜子」  実の兄と、目が合った。  俺は、知っている。  汀は、夜子の嫌がる行為をしようとしていること。  そして、その目的を、未だに知られていないと思っていること。  俺は、知っている。  夜子は、汀の目的を知っていること。  それに対して、怒るわけでも止めるわけでもなく、ただ悲しい目をするだけだ。 「お前も、参加するのか」 「……魔法の本があるらしいから、しょうがなく」 「はっ、あの女がそういったのか」  力なく、汀は笑った。 「あんまり変な奴と関わるんじゃねえよ。どうなっても、しらねえからな」 「汀こそ」  兄妹の会話は、どこどなくぎこちない。  いつもなら、もっと馴れ馴れしい会話が繰り広げられるはずなのに。 「……あんまり危険なこと、しないで」  その言葉の意味を、汀がどう捉えたかは分からない。  夜子の言葉に、どんな意味を込められていたのか。 「珍しいな、お前が俺を心配するなんて」  夜子を愛する汀にとって、それは心躍るほど嬉しい気遣いなのに。 「ちょっとは可愛げってもんが、出てきたみてえだな」  まるで妹離れをしたかのように、引いた目線で言うんだ。 「……前ほど、馴れ馴れしくなくなったのね」 「だって、お前が嫌がるだろ」 「そうね、滅茶苦茶嫌だったわ」  ためらいもなく、夜子は言う。 「俺は、嫌がるお前の表情が、大好きだったよ」  それは、おそらく。  いつもの癖だったんだろう。  可愛げのある表情を見た汀は、いつものように頭を撫でようとして。  撫でられた夜子が、怒りながら手を振り払い、罵倒するまでがいつもの日常だったけど。 「……っ」  夜子の頭に伸ばされた手が、ぴたりと静止した。  理性が、それを止めたのだろう。  夜子の頭を、撫でることはなく。  夜子もまた、一連の動作に何も言うことはなく。 「……折角参加するんだから、お前も楽しめよ」 「別に、あたしは肝試しになんて興味ないから」  気まずさから、汀が視線を外してしまった。  それを合図にして、夜子も理央の元へ振り返る。  何も言わない後ろ姿が、少し色あせて感じてしまう。 「……なんだよ、あいつ」  俺と二人になった、汀は、少し悲しそうに。 「やっぱり俺の妹は、滅茶苦茶可愛いよな……」  伸ばした手の平を、まじまじと見つめる。 「撫でたら良かったじゃねえか。いつも通り、頭を撫でて、可愛さに見惚れて、そして嫌がられたら良かっただろ」 「嫌がられてねえよ。喜ばれていたっつーの」 「それはお前の妄想だ」  夜子はお前の過剰なスキンシップを、嫌がってたからな。  もちろん、分かっている上の言葉だろうけど。 「……今、夜子に触れたら」  広げた手の平を、ぎゅっと握る。 「決意が、揺るいでしまいそうだ」 「…………」  本を殺す、決意。  心に決めた、復讐。 「もう後には引けねえ。決めたことは、最後までやり通す」  それはまるで、自分に言い聞かせているようだった。 「……ま、好きにしろよ」  俺は俺で、好きにやらせてもらうからさ。  お前が復讐をするなら、俺はそれとなく止めよう。 「それでも、今日くらいは割りきって楽しめよ。こうして大人数で集まるなんて、いつ以来かわかんねえことだし」  そういう場を作ってくれた彼女には、感謝している。 「……ちっ。だから、嫌だったんだ」  またしても、汀は吐き捨てる。 「お前らといると、火種が消えてしまいそうなんだっての」  遊行寺汀とて、迷うこともあるのだろう。  復讐を決意して、尚も迷い続けている。 「お前や理央は、この手のイベントが大好きだったもんな」  そうだ。俺は大好きだった。  図書館の仲間たちと、なんでもなく戯れる日常が。  キャッチボールをしたり、小説の感想を言い合ったり、つまらない喧嘩をしたりして。 「はーい、準備出来ましたよー!」  彼女の呼ぶ声がする。  楽しげな、声がした。 「先ほどもお話した通り、今回の肝試しは『何か』を目撃し、その正体を掴むことです!」 「そこで、肝試しというそれっぽい雰囲気を作って、舞台をお膳立てしちゃいましょう!」  ぐっと、拳を握って。 「『何か』が〈幽〉《ゆう》〈霊〉《れい》〈怪〉《かい》〈奇〉《き》〈譚〉《たん》のなにそれであるのなら、この機会を見逃すはずはありません! きっと、何かが起こるはず!」 「……なんか胡散臭いなあ」  彼女も彼女で、肝試しをやりたいだけじゃないのかなとか、思わなくもないが。 「というわけで、二人一組になって、ばらばらに行動しましょう! それでこそ肝試しです!」 「奇数なんだけど?」  後一人は、どうするんだ? 「一人の人は、一人で行動! ふふふ、ぼっちはだれですかねー?」  そうして、彼女は割り箸を取り出した。  全部で5本。先端は、彼女の手に隠れている。 「これで、ペアを決めましょう! くじを引いて、同じ色の二人がペアで、無色の人がぼっちちゃんです!」 「……ぼっち」  その言葉に、夜子が少し反応する。 「うう、一人は嫌だよー。瑠璃くんとがいいよー」  理央は、震えながら祈るように願う。 「夜子だけは、一人にさせられねえな」  彼女に、ボソリとつぶやく。 「……大丈夫です、ぼっちにはさせません」  彼女は俺にだけ聞こえる声で、そういった。 「仕掛けは……」  咄嗟に、耳打ち。  簡潔な仕掛けではあったが、それなら問題はなさそうだった。  特に複雑なわけでもないし、俺と彼女が協力すれば、夜子を一人にさせることはないだろう。 「……了解」  言われるまでもなく、彼女は用意周到だった。  さすが、頼りになる部長様だ。 「それでは、順番に引いてくださいねー」  そうして、俺たちの肝試しが始まった。 「……どうして、キミなのかしら」 「さあ、どうしてだろうな」  しらばっくれながら、俺は夜子と夜の校舎を歩いていた。  横に並ぶのではなく、夜子が後ろについて行く形。  三歩ほど、距離が空いている。  「何か、作為的なものを感じるわ。あたしは、理央とペアになりたかったのに……」 「公平にくじ引きで決めたんだから、あんまり文句言うなよ」  しかし、その結果は思ったよりも芳しくはなかった。  最低条件こそクリアしたものの、彼女の狙いは外れてしまう。 「それにしても、夜の廊下って結構不気味だよな。俺は幽霊とか信じないけど、それでも物怖じするだけの雰囲気があると思う」  飲み込まれそうな雰囲気が、人の恐怖心を煽る。 「……ふん」  そんな俺の言葉に、夜子は鼻で笑うのみ。  いつもの強気な言葉が、今回は出てこなかった。 「何かが出そうな感じはするけど、『何か』が出そうな感じはしないな。不理解とか言われても、探す方にしてみたらちんぷんかんぷんだよ」 「……そうね」 「…………?」  またしても、肩透かしな返答。  「どうした? 何かあったのか?」  少し心配で、振り返ってみると。  先ほどまで離れていた夜子が、すぐ後ろにいた。 「…………何よ」  言葉の鋭さが、鈍い。 「離れて歩くと、キミの声が聞こえなかったから」 「いや、俺は何も言ってないけど」  そんな言い訳をされてしまっても。 「だったら、隣を歩けよ。この学園の廊下は、二人並べる位には横幅はあるぞ」 「……そ、そうね。キミの隣に並ぶのはとても不愉快だけど、不便なのはいただけないわ」 「…………」  こいつ、もしかして。 「……怖いのか?」 「――ッ!?」  かああああっと、赤面する夜子。  凄いわかりやすい反応をありがとう。 「べ、別に、そういうわけじゃ」 「怖いなら、怖いって言えよ。それは別に、弱みを晒すことだとは思わないが」 「う……」  それに、もしかしたらと思ってたよ。  夜子はどこか子供っぽいところがあるからな。 「ま、怖くないならそれでいいけどさ」  ここで大声を出されて否定されても、面倒なだけだし。 「……真っ暗は、嫌い。ただ、それだけよ」 「そうか」  その気持ちは、極めて自然なことだろう。 「く、暗すぎるのよこの廊下は……! あたしの図書館を見習いなさい!」 「でもお前、ホラー小説とかは大丈夫だよな。あれは、怖くないのか?」 「活字は、怖くない。文字に溺れていると、安心できるから。恐怖という感情は読むことは出来ても、恐怖を体験できるわけじゃないの」 「ふぅん……まあ、実体験とはまた違うか」  夜子ならではの意見かもしれない。 「本を読んで理解できたのは、幽霊や暗闇という存在は、怖いということだけよ」  心細そうに、目を伏せる。 「登場人物は、みんな怖がっていたんだもの」 「……なるほどな」  それが怖いものであるという、先入観も含まれているのか。 「手、握ってやろうか?」 「……へ?」 「怖いなら、手を握れば安心するぞ」  それは、肝試しのテンプレート。 「手を繋いで会話をしてれば、怖さも紛れるだろ」 「……何を、馬鹿なことを」  それでも夜子は、拒絶する。 「キミと手を繋いでも、安心しないわ。むしろ、気持ち悪くなってしまう」 「……だろうな」  そういうと、思ってたよ。 「キミこそ、怖くなってきてるんじゃなくて? だからあたしと、手を繋ぎたいと」 「馬鹿を言うな、俺に恐怖心という感情はない」 「なによそれ、胡散臭い」  でも、まあ。  こうして悪態をついておけば、少しは気も紛れるだろう。  「……冗談だよ、本当は結構、怖い」 「あら?」  少し、夜子は嬉しそうに。 「キミも案外、臆病なのね。せめて男なら、こういうときくらいは格好付けなさいよ」 「しょうがないだろ、怖いものは怖いんだから」  俺が、臆面もなく怖いといったなら。 「……まあ、それは確かに、そうね」  お前も、少しは気が楽になるだろう? 「だからお前の存在に縋りたくて、手を繋ぎたくなった。ピンポイントで言い当てられて、驚いたよ」 「ふふん、キミは単純なのよ」  少し、得意げになって。  ああ、そういうところは本当に可愛らしいな。 「でも、キミがあたしの手に触れるなんて、許されないわ。身の程を知りなさい」 「……はいよー」  すっかり、いつもの調子に戻った夜子。  活き活きとしながら、お喋りを続ける。 「でも、嬉しいわ。キミにも苦手なものがあるなんて」  少女のように、微笑みながら。 「キミはあたしの前で強がってばかりだから、素直にそういうことをいうの、珍しいわね」 「…………」  少し、驚いた。  その言葉は、夜子が俺をよく見ていたという意味でもあったから。 「強がっても、キミの愚かなところは滲み出ているから、何の意味もないのにね」 「……うるせえよ、馬鹿」  そのことが、やけに嬉しくて。 「――?」  微笑みが零れ落ちそうになった瞬間、校舎のどこからか、声がした。 「……な、何、今の?」  声。  それは、どこかで聞いたことがあるような、されど聞いたことがないような、不明瞭な声。  誘うような響きが、やけに脳裏にこびりつく。  それは、本当に声なのか?  廊下に蔓延る暗闇が、俺達を手招きする。 「『何か』、か?」   咄嗟に出たのは、例の名前。  まさか本当に現れたのかと、驚きながら。  一歩、そちらの方向へ歩を進める。 「る、瑠璃……?」  背中から、夜子の震える声がした。 「ま、待って……」  声のした方へと向かう俺を、夜子が止めようとする。 「行かないと。それが、俺たちの目的だ」  臆することもなく、震えることもなく。  ただ、『何か』に吸い込まれるように進む俺を、夜子はどう見ていたのか。 「怖く、ないの?」  怖がっている場合じゃ、なくなった。 「怖いけど、進まなくちゃ」 「……っ」  止まらない、俺を見て。  あからさまに恐怖する夜子に、俺は気付いていなくて。 「……わかった、ついていく」  前を歩く俺の、手を掴むことはなく。  ただ、制服の裾を、その小さな指先でぎゅっと握った。 「触れるのは、嫌じゃなかったのか?」 「触れてない。ノーカウントよ」 「……そういうもんか」  着衣ならセーフ? 「キミでも、いないよりはマシだから」 「おお、随分と評価が上がったんだな」  軽口を叩きながら、暗闇へ向けて歩き出す。  少しだけ、夜子との距離が縮まったような気がしたけれど、たぶん気のせいだ。 「……ぶぅ」  想定外のペアリングに、思わずいじけてしまう私。 「どうして汀さんとペアになってしまいますかー。私が、一人になるはずだったのに」 「ああ? てめえ何か細工してたのか?」  同じく不機嫌そうな表情で、汀さんは疑問を呈します。 「細工ってほどのことでもないですよ……」  用意してあったのは、赤と黒の二色が塗られた箸。  それぞれ、赤、赤、黒、黒、黒、と着色し、手の中に握りこむ。  引く順番は、瑠璃さんが3番目。私が一番最後で、それとなく望みの相手に引かせるように誘導します。  そこは、私の押しの強さが有利に働きますね。  瑠璃さんが引くまでに、赤、赤、という出目なら、残りは全て黒なので、4人目が引いた段階で私のぼっちが確定します。  瑠璃さんが引くまでに、赤、黒、という出目なら、瑠璃さんには赤を引いて頂いて、4人目の時点で私のぼっちが確定します。  瑠璃さんが引くまでに、黒、黒、という出目なら、瑠璃さんには黒を引いて頂いて、ひっくり返して無色を提示してもらいます。  色が塗られているのは、片方だけ。引く方の先端には、何も塗られていませんから。  無色=ぼっち色。ここで、瑠璃さんのぼっちが確定します。  私がぼっち確定の2パターンでも、最後はひっくり返して無色を提示します。  夜の暗闇で、明かりも乏しいですから、まずばれないでしょう。いざとなれば、手持ちの塗られていない割り箸と交換すれば事足りますし。  瑠璃さんに望みの色を引かせるのは、簡単です。  意にそぐわない色を引こうとしたときに、サインを送ればよいだけですから。  問題があるといえば……瑠璃さんの引く順番が、ずれたときくらい。  「だから、大丈夫だと思ったんですが……」  少なくとも、私か瑠璃さんが、ぼっちになる手筈だったのに。 「理央さんの行動は読めませんね……」  最初に夜子さんが赤を引いて、次に汀さんが黒を引きました。  瑠璃さんに赤を引いてもらうまでは想定通りだったのですが……。 「よーし、引くぞー」  気合を入れて、理央さんは黒しかない二つのくじを一生懸命選びます。  どちらを選んでも、汀さんとの組み合わさるはずでしたのに。 「これだー!」  そうして、引いたくじを、一人でこっそり開封して。 「あーん、無色だー、理央がぼっちだよー」 「……え?」  先端に何も塗られていない、割り箸を掲げたのです。 「ということは、かなたちゃんが黒だねー」  一瞬、状況に飲み込めず、力の抜けていた私の拳を、理央さんは開封します。  当然、残っているのは黒の割り箸。  「……あ」  汀さんと、私。  2つ目の組み合わせが確定した瞬間でした。  「一人はやだなー、怖いよー……」 「理央さん……」  遅れて、私は理解しました。  彼女が手にしているのは、嘘偽りなく黒の割り箸のはず。  それを、私よりも先にひっくりがえして、無色であると宣言してしまったのです。  私のミスは、くじ引きを引かせる前に、無色をぼっちの色であると伝えてしまったこと。 「でもしょーがないねー、ルールだからねー」  苦笑いを浮かべながら、うんうんと頷く理央さん。  彼女が私の仕掛けを看破して、自らぼっちを選択したのは明らかです。 「……中々、侮れません」  天然さんの、マスコットキャラだと思っていましたが。 「んー?」  存外、強敵でした。  可愛らしい笑顔に、騙されてしまいそうです。 「しかし、解せませんねー。どうして自分が一人になる必要があったのでしょうか」  あそこまで読めていたのなら、仕掛けを打った理由を看破しているはずです。  夜子さんを、一人にさせたくなかった。言い出しっぺの私が、ぼっちになるべきだって。  ……私のため、ですかね。  普段の理央さんの性格を考えるなら、それ以外になさそうです。  自分以外の人に、肝試しを楽しんで欲しい。それはいかにも理央さんらしい、奉仕の真心です。 「……なんだよ、さっきっからブツブツと。薄気味悪いな」 「差し出された気持ちの中身を、噛み締めていただけですよ」 「理央さんは――本当に素敵な方ですね」 「今更気付いたのか? そうでなきゃ、あの図書館にはいられねえっての」  シニカルに、笑ってみせます。 「しっかし、お前と肝試しなんざ、まるで雰囲気ねーな。むしろ幽霊なんかより、お前の方がおっかねえよ」 「それは私の台詞です。瑠璃さんならともかく、汀さんと歩いても、どきどきしませんよ」 「へえ?」  興味深そうに、汀さんは笑います。 「違う意味で、ドキドキはしますけど。襲ってきたりなんかしたら、スタンガンでビリビリですからね!」 「誰がお前なんかを襲うかよ。俺はもっと、妹らしい女の子が好きなんだ」 「なるほど、ロリコンですか」 「シスコンと呼べ」 「胸を張られましても……」  気持ち悪いだけです。 「そういえば、一つお尋ねしたいことがあるのですが」  ちょうどいい機会だから、少し深入りしてみましょうか。 「月社妃さんというのは、どういう女性だったのでしょうか。相手が相手だけに、瑠璃さんからは聞きづらくて」  月社妃。  瑠璃さんの、想い人にして、妹。  おおよそ、瑠璃さんからは説明を受けていたけれど。  それは大筋だけをピックアップした、ざっくばらんなあらすじでしかない。 「そうか、お前は憶えているんだったな。妃がいたことを、覚えていられる」  それは、『サファイアの存在証明』が遺した爪痕。  作中の登場人物が死亡したことによって、強制的に物語が閉じて、魔法の本の影響力を残してしまった結果です。 「だが、俺に聞くかよ。俺は、あいつの復讐をしようっていうんだぞ? そんな相手に、気軽に聞けるのか?」 「瑠璃さんよりは、マシですから……」  家族=恋人を失って。  さすがの私でも、そこだけは触れられない。  瑠璃さんは、仲の良い人たちにさえ、秘密にしていたのですから。  その胸に抱える悲しみを、一人で殺してきたのでしょう。 「だが、俺に話せることなんて、大したもんはねえぞ。俺は別に、あいつと仲が良かったわけじゃねえからな」 「え? そうなんですか?」  それは少し、意外だった。 「いや、仲は良かったのかな……今となっては、それすらわからねえ」  肝試しという名目を忘れた私たちは、話を続けます。 「掴みどころのないやつだったよ。本心を見せねえ奴だった。あの女ほど変わった奴を、俺は未だかつて見たことはねえ」  その声色は、ただ親しげに。 「常に一歩先にいるって感じだ。俺が何を言っても、あいつは全てを見透かしたように笑う。それがたまらなく、不愉快だったよ」 「……中々妖艶な方だったんですね」  私が知っている彼女のイメージは、僅かばかりのもの。  ヒスイが開かれているときに、少し言葉をかわした程度だ。  ……随分刺のある態度だと思っていましたが、今にして思えば、当然でしたね。  月社さんからしてみれば、私は浮気相手、泥棒猫のようなものでしたから。 「何故か、瑠璃に対してだけは辛辣にあたってやがったな。あいつの基準はよく分からねえが、瑠璃のいないところでは、瑠璃の悪口ばかり言ってたぜ」 「悪口ですか」 「ああ、悪口だ。掛け値なし、悪口ばかり。夜子のような直情的な罵倒じゃなくて、絡みつくような毒舌だよ」  瑠璃さんも、中々言われ放題ですね。  全てを知っている私からしてみれば、それはカムフラージュのつもりだったのだと理解できますが。 「……しかし、あいつも毎回毎回、よく飽きもせずに悪口を続けられたもんだな」  半ば、自嘲的に笑います。 「瑠璃のことを、よく見てやがんだよな……」 「汀さんも、よく見ていたんですね」  それはもしかすると、余計な言葉だったのかもしれません。 「――月社さんのことを、とてもよく理解されています」 「――っ」  罰の悪そうに、俯いてしまって。 「うるせえ、そろそろ黙ってろよ」  会話を、一方的に終わらせてしまうのです。  さっき引いたくじびきの割り箸を指揮者のように振り回して、夜の学園をお散歩します。 「怖くなーい、怖くなーい」  一人。  隣には誰もいない。  それは自ら望んだことでもあった。 「……かなたちゃんも、楽しまきゃだよ」  自分の役割。  ここに、芽吹いている意義。 「一人ぼっちは、理央にお任せあれ」  にゃんにゃんにゃーん。 「怖くなーい、ぜんぜん、怖くなーい」  お化けよりも怖いものだって、あるんだし。  うん、全然平気だよね。 「夜ちゃん、大丈夫かなあ……」  結構、怖がりだから。  私なんかよりも、すっごい怖がりさんだから。  瑠璃くんがついているから、ダイジョブだよね。 「汀くんとかなたちゃんは、大丈夫かな」  いろいろな意味で、心配です。  喧嘩してなきゃいいなあ。 「……にゃ」  どうしても、ひとりごとが多くなってしまう。  それは寂しさから生まれる弱音なのか、恐怖を誤魔化す強がりなのか。 「……みんなが楽しんでくれてたら、理央は幸せだよ」  くじびきの結果、理央が一人になることが決まった瞬間。  瑠璃くんは、強く反対してくれました。  女の子を夜の学園で一人にさせる訳にはいかないって。  それに対して、かなたちゃんが、私はいいんですかー! と怒ってたのが印象的です。  でも、肝試しは男の子と女の子のペアで行うべきなのです。  理央が読んできた小説でも、みんなそういうペアリングでした。  渋る瑠璃くんに無理をお願いして、このまま一人で行かせてもらって。  それで他の二組が、どきどきで楽しい肝試しが出来たらなって。  そう願ったから、理央は一人を強行させてもらったのです。  暗がりの学園で、二人、肩を並べる肝試し。 「……にゃああああ」  それはとっても、仲良しさん。  羨ましいという気持ちが声に出てしまいそうで、一生懸命堪えました。  理央は誰のことを、想像しちゃったのかな。 「だから一人は、理央の役目」  不満なんて、ありません。  それが理央の、毎日だったから。  夜ちゃんのお世話をして、闇子さんに任されて、そういう立ち位置なの。  闇子さんから与えられた伏見という姓は、決して遊行寺と並ぶことはない。 「今、こうして一緒に遊んでるだけで、十分過ぎるよね」  それが、理央にとって想定以上の幸せだったから。  あんまり楽しい時間だったから、少し欲張りさんになってしまいます。  暗がりの、学園で。  一人、鼻歌を歌いながら肝試しをして。  理央は自分を振り返ります。  自分が、何者であるのかを。 「――こんばんはぁ」  ぼんやりと見つめていたその先に。  得体の知れない『何か』を見たような気がした。  恐怖心はなく、されど戸惑いがこみ上げてきて。 「……え、え」  あやふやで〈靄〉《もや》がかかったような『何か』は、次第に〈輪〉《りん》〈郭〉《かく》を形作ります。  不定形ではなく、固形へ。 「こ、これが瑠璃くんの言ってた、『何か』?」  挨拶されたことも忘れて、ただ疑問を〈呈〉《てい》する私へ。 「礼儀のなっていない子ね。それでも、遊行寺に仕える道具なのかしらん?」  そして、『何か』は、『何か』ではなくなって。  『誰か』へと姿を表しました。 「ごっこ遊びは、楽しかったのかしら? 醜い醜いアヒルの子。さあ、化けの皮を剥いであげましょう」  彼女の髪の毛は、私の大好きな夜ちゃんのものとよく似ていました。  眩いほどに輝く、白髪。  紅く燃える宝石のような瞳は、ぎらぎらと私を捉えていて。 「あ、あなたは……?」  七不思議でも、都市伝説でもなく。  それはもっと強烈で、もっと恐ろしい物。  私の中で、潜在的な意識が警鐘を鳴らしています。 「初めまして、妾の名前はクリソベリル。宜しくお願いするわね――伏見理央」 「えっ、理央の名前……どうして」 「知ってるわよ。知っているとも。知らないはずがないわ。きゃははっ」  幼い子供のように、彼女は笑います。 「本当は、理解しているくせに。不理解の存在と呼ばれようとも、理央ちゃんだけはよく分かっているはず」 「ひっ!」  1歩、彼女は近付いて。 「妾は何でも知っている。そう、理央ちゃんが、とてもとても残酷な秘密を抱えているということを」  ――醜い醜い、アヒルの子。 「貴女たちは、友達なんでしょう? 隠し事なんて、しちゃだーめ」  彼女の非合法な存在に、おののく理央は何も出来ず。  動くことも、逆らうことも出来ず。  ただ、震えていることしか出来ませんでした。 「貴方の願いを、叶えてあげる」  まるで神様のように――いえ、まるで魔法使いのように。 「だから安心して、妾に利用されなさい」  牙を剥く、クリソベリルさん。  その左の手の平にあったのは、ローズクォーツの煌めき。  そして、右手にあったのは。  ――銀のナイフ。  彼女はをそれを、理央へ振りかざし。  突然の凶刃に、思わず悲鳴を上げてしまいました。  理央の悲鳴が聞こえた瞬間、俺は弾けるように駆け出していた。  夜子すらも放置して、ただ全力で校舎を走り抜ける。 「……理央!」  直感的に、声のした方向へ。  迷うことなく辿りいた俺が見たのは、腕から血を流す理央の姿。  ぽたぽたと流れ落ちる血液が、俺の思考を真っ赤にさせる。 「手当を!」 「る、瑠璃くんっ!?」  俺の姿を見た理央は、助けを求めるわけではなく。 「駄目、見ないで」  ただ、切実にそういった。 「お願い……見ないでッ!」  それは、不思議な言葉だった。  来ないで、でもなく。  助けて、でもなく。  見ないで。 「……理央?」  傷口の箇所は左肩。  そこから流れ出す血の量が、深手であることを容易に想像させる。 「大丈夫だよ、瑠璃のお兄ちゃん」  そうして、もう一人の人物が。 「大丈夫なことは、見てたらわかるから」 「……は?」  見ず知らずの少女に、お兄ちゃんと呼ばれて。  不思議な格好をした少女は、嘲笑っていた。  「お前が、やったのか」  右手に握られているのは、銀色のナイフ。  刃先に、血が付着していた。 「きゃはっ、妾のことよりも、気にかけてあげなくていいのかしらん?」  否定するどころか、半ば認めるようなその言葉。 「……くっ!」  少女を視界に収めたまま、理央の様子を確認する。  右手で傷口を抑え、俺に背を向けている。 「大丈夫か、理央?」 「……大丈夫だから」  泣きそうな声で、理央は言う。 「今は、何も見ないで」  再び繰り返される、見ないでという言葉。 「馬鹿、そういうわけにはいかないだろ!」  そこで、俺は。  少女から視線を外し、頑なに傷口を見せようとしない理央へ、向き直る。  「今、止血してやるからな」  ――そこで。  違和感に気が付いてしまった。 「あれ、血が」  流れて、いない?  肩から腕、指先へ。  滴り落ちるように流れていた血が、今は途絶えてしまっている。  「え?」  血が、止まってる?  止血してないのに? 「見ないで、瑠璃くん、お願いだから……!」  懇願するように、理央は傷口を隠し。  悲しみに歪んだ表情が、痛みによる恐怖ではなく、俺自身に向けられていることへ、今更のように気付いた。 「理央は、大丈夫だから」  そこで俺は、見てしまった。  先ほどまで流れていたはずの血液が、滴り落ちていたはずの血液が、煙のように消えていく。  世界に溶けるかのごとく、蒸発してしまって。 「なんだ、これは」  痛みとともに、消滅する。  抉られた傷口は、やがて柔らかな素肌へ、返り咲く。  傷付けられた過去を、変えるかのように。  左肩の傷口は、完全に治癒してしまっていた。 「だから、言ったのに」  理央が、悲しみに伏せる瞳を、ある方向へ向けた。  そこに落ちていたのは、一冊の本。 「理央、お前まさか」  愛情の象徴、紅水晶が煌めく物語。  「――『ローズクォーツの永年隔絶』」  背後で、少女の声がした。 「吸血鬼が語るは、永年を生きる孤独の悲哀」  紅水晶の煌めきが、スポットライトのように、理央を照らす。  桃色の輝きを受けた理央は、傷口を隠すことを辞める。  それから、全てを諦めたかのように、こういった。 「理央、化け物になっちゃった」  目に、涙を浮かべて。  ただ、誤魔化すような笑い方で。 「ごめんね、ごめんね、ごめんね。こんな理央、嫌いになっちゃうよね」  既に完治した左肩が、否応なく魅せつけられてしまう。  あれほど流れていた血液も、今や全て消えてしまって。  傷付けられたことなんて、なかったことになってしまっている。  桁外れの自然治癒。  それはお伽話でよく見る異形の力。 「……うううっ」  呆気にとられている俺へ、それ以上の言葉はなく。  ただ、涙をこぼしながら、夜の闇へと消えていく。  「……理央!」  理央が、俺から逃げ出したことを理解し、すぐさま理央を追おうとするが。  目の前に立ちふさがる少女が、妖しく笑うのだ。 「――吸血鬼狩りの、時間だよ」  挑発するような声色で。 「瑠璃のお兄ちゃんに、紅水晶が止められるかしらん?」  怒涛の展開に、俺はただ流されるばかりだった。 「見られちゃった、見られちゃった、見られちゃったよ」  学園から逃げ出して、夜の闇に彷徨う私。  痛みも傷口もなくなったけれど、それでもずきずきと心が悲鳴をあげていた。 「どうしてこうなっちゃったんだろう……どうして」  逃げ出す直前、衝動的に拾ったそれ。  紅水晶に輝く魔法の本に、今は恨みを覚えてしまう。 「……開いちゃった」  開くことを、望んでしまった。  永年の果てに隔絶される、吸血鬼を望んでしまった。  その本が紡ぐ未来を、私は知っていたはずなのに。  ――吸血鬼。  完全に治ってしまった傷口を、何度も何度も、確かめるように触る。  それから次に、口を開いて、牙の存在を確認してみた。 「……とげとげ」  血を吸うための、牙。  魔法の本が与えた吸血鬼という役割は、決して名前だけのものではない。 「うううっ……」  〈蹲〉《うずくま》って、膝を抱えることしか出来なくて。 「怖いよぉ……」  迫る恐怖に、悲しみにくれる。  あるいは、既に終わってしまった〈事〉《じ》〈象〉《しょう》に涙をこぼす。 「瑠璃くん……」  大好きな彼に、見られてしまった。  自分が、人外の存在であったことを。  彼は、魔法の本だからと笑ってくれるだろうか。 「見られたく、なかったよ」  一人の女の子として、見せたくなかった。  そういう部分を、絶対に見られたくなかった。  もう全て、遅いのだけど。 「魔法の本の、終わらせ方」  理央は、知っています。  今、この場で魔法の本を壊してしまえば、すぐにでも物語は終わるのでしょう。  吸血鬼という役目から開放され、一人の少女に戻る。   でも。  伏見理央という女の子には、魔法の本を壊すことは出来ません。  夜ちゃんの嫌がることだけは、絶対にしたくないというのもあるけれど。  理央は、誰に求められたって、本を壊したくはありません。  本を壊すくらいなら、殺される方がいい。本気でそう思ってるから。 「……それに」  私の中の私が、理解していた。  悲哀の物語を開いてしまったという、最悪の中にありながら、それでも、その中で得られたものと向き合います。 「にゃ、にゃ……」  生まれて初めて、理央は主人公になりました。  自らの意志で本を望み、物語を現実に開いて。  ――自由で孤高の吸血鬼になった私は、全ての枷から解き放たれていたのです。 「もしかして」  ふと、『ローズクォーツの永年隔絶』を見つめます。  それは、幻想図書館に封じられていたはずの、魔法の本。  理央はその物語を読んだことがあって、その結末も知っています。  紅水晶の物語は、悲しい結末を迎えてしまうことも。 「今なら、理央は」  それは、長年恋焦がれていて、けれどくすぶり続けていた感情。  伏見理央という女の子に許されていなかった、誰にでも持ち合わせるほろ苦い恋心。  今なら、許されているのではないだろうか。  与えられていたルール、命ぜられた言葉に、従う必要がないのかもしれない。  本が開いている間は、私はただの吸血鬼。  遊行寺家の使用人ではなくなります。 「理央は――自由?」  『ローズクォーツの永年隔絶』の物語を、思い出します。  それは吸血鬼と人間の、悲しい恋模様。 「……っ」  それは、理央が永劫許されることはないだろう、禁断の果実。  魔法の本は、束の間の夢を見せてくれるのです。  今から始まるのは、現実ではなく物語。  本が閉じれば、全てがなかったことになるのです。  それでもいい。  それでも、一時でも、理央の思うがままに出来るなら。 「私は、吸血鬼になっても、構わない」  その果てに、物語が理央を殺しても。吸血鬼が、朽ち果てても。  もしかすると理央は、心からこの物語を望んでいたのかもしれません。 「これはどういうことなのよ!」  図書館へ戻った夜子が、真っ先に俺に詰問する。 「キミがついていながら、どうしてこんなことになるのよ!」  今にも掴みかからんとする勢いで、俺を責め立てる。 「落ち着いて下さい、夜子さん! 今は瑠璃さんを責めてもしかたがないでしょう?」 「わかってるけど!」  苛立ちを抑えられないまま、夜子は唇を噛む。 「それよりも、お前がみた本は、確かに紅水晶だったのか? そっちの方が重要な問題だろ」 「それは、間違いない」  『ローズクォーツの永年隔絶』  そのタイトルを、この目に見たから。 「……ちっ、そうかよ」  肯定の返事に、汀は苛立ちを隠そうともしない。  「……?」  それは、予想外の反応だった。  汀が探しているのは、黒い本。  破壊の対象ではない紅水晶の物語に、何の不満があるのだろう? 「ローズクォーツ?」  その俺の疑問に、応えるように。 「本当に……ローズクォーツなの?」  夜子は青ざめて。 「お、おい、夜子? どうした?」  先ほどまでの勢いはすっかり鳴りを潜めて、今はただ動揺する。 「そんなはずは……ない。だって、あれは」  小さな唇が、震えていた。 「え、どういうこと? 理央、あなたは……」  困惑しきった様子。 「紅水晶に、心当たりがあるのか?」 「あるぜ」  代わりに、汀が応える。 「だってそれは、遊行寺家が過去に収集した本だからな」 「……何?」  その言葉の意味は。 「本来ならこの図書館に封印されているはずの代物だよ。あの馬鹿……まさか、持ちだしやがったのか」 「そ、そんなはずはないわ。理央が、母さんの命令を無視できるはずがない」 「んなこと言ったって、現に禁書室から持ちだされてんだろーが! あそこに立ち入りを許されてるのは、理央だけだろ?」 「でも、理央は……!」  言い争いを始めようとする二人へ。 「すみません、少々状況が飲み込めないのですが」  彼女が手を上げて続ける。 「過去に収集した本でしたら、そのあらすじは知っているはずなんですよね。だったら、特に問題ないのでは?」 「……確かに」  あらすじも、筋書きも、経験しているのなら。  あとは本の意志に赴くまま、物語を上演させてやればいい。  変に抗わず、変に誤魔化さず。  役者に成りきって、『ローズクォーツの永年隔絶』を遂行しよう。 「それは、駄目」  だが。  そこに、夜子が震えるだけの理由があって。 「そんなの、絶対に嫌よ」  こうして、怯え惑う原因があるのだ。 「……ローズクォーツの物語は、特別なんだよ」  苦虫の噛み潰したような表情で、汀は言った。 「あの物語は、人を殺す」 「……え」  驚愕に、呼吸が詰まる。 「紅水晶が与える物語は、狂おしいほどの恋物語。故に、黒い宝石とは輝きの色は違うが――」  恋愛が、テーマであっても。  「――その物語のオチが、死別という名の失恋なら、それは恋物語の中でも、残酷な物語になる」  死別。  失恋。  恋愛のテーマにした物語の中では、人の死が関わることもあるけれど。 「だから、駄目なの」  夜子は、怯えたまま。  ようやく、俺も理解した。  この物語で、誰が悲劇にあうのかを、遅れて理解した。 「――このままだと、理央が死んじゃう」 「……そういうことですか」  彼女は、途中から察していたのだろう。  僅かに俯いて、悲痛な表情を浮かべている。  対する俺の胸中は、動揺にあふれていて。 「一度開いた物語は、本が語り終えるまで閉じることは出来ないんだよな」  そういう、ルールだったはずだ。  物語がエンディングを迎えるまで、通常の手段では終わらせることが出来ないもの。 「決まりだな」  全員に理解が行き届いたところで、汀は宣言する。 「俺たちが今、何をやらねばならないのか、そんなもんは明らかすぎるよな。まさか、分かってねえ奴はいねえだろ?」 「……っ」  その言葉に、真っ先に反応したのは夜子だった。  びくんと体を震わせて、汀から視線を外す。 「物語を放置すると、理央が死ぬ。それなら、物語を別の方法で終わらせなければいけねえ」  切羽詰まった中でも、汀は早かった。  すぐに解決方法を選び取り、俺たちに提示する。 「――紅水晶の物語を、破壊する。魔法の本を切り裂いて、現実に蔓延る本の支配を終わらせるぞ」  魔法の本そのものを破壊してしまえば、その効力は一方的に失われる。  本のもたらした不思議から開放され、何事もなかったように現実は再開する。 「誰か、異論のある奴はいるか?」 「……い、いっ」  俺と彼女に、異論があるわけがなかった。 「いや、でも、あたしは……あたしはっ……!」  だけど、夜子は。  それでも夜子は、今にも泣き出しそうに、顔を歪ませる。  彼女にとって、魔法の本は大切で。 「それでもお前は、魔法の本を優先するのか?」  汀の鋭い瞳が、夜子へ向けられた。  それは多分、生まれて初めてだったと思う。  明確な対立の意志を、実の妹へ向けて。 「……っ!」  汀の胸中を、既に夜子は知っている。  汀の中にくすぶる復讐心を、知ってしまっているから。 「……異論なんて、ないわよ。好きに、しなさい」  苦渋の果てに、絞り出した言葉だった。  究極の択一問題に、心から悩み果てて。 「理央と、比べられるはず、ないでしょう」  それでも夜子は、納得しきれていなかったようだ。  理央より、魔法の本が大事というわけじゃない。  ただ、どっちも心から大切だから、容赦の無い二択に心を締め付けられているのだ。 「……瑠璃さんは、どうしますか?」  隣で、彼女が微笑んだ。  どのような選択をしても、彼女はついてきてくれるような気がした。  ふと、『サファイアの存在証明』を思い出す。  あのときはまだ、魔法の本に振り回されているだけだった。  本を壊すという選択肢を、あのときの俺は持っていなかったけど。  もし、あの時本を壊すという選択をとれていたら、妃は死ななかったのだろうか。  そんなもしもの話をしてしまうと、後悔ばかりが募っていく。  二度と味わいたくない未練が、いつまでも心を曇らせる。  だから、俺は。 「この物語は、最後まで語られることはない」  力づくで、止めよう。  エンディングを迎えてからでは、何もかもが手遅れなんだ。 「了解です。私も、お手伝いしますからね!」  頼りにしてくださいね、と。  彼女は俺を安心させるように、笑ってみせた。 「それならまずは、あらすじを説明しましょうか」  決して乗り気ではなかったが、それでも、夜子は前を向く。 「あたしと汀は知っているけれど、瑠璃とかなたは知らないのよね。ネタバレはしたくないのだけど……そういう状況でもないから」  夜に沈む図書館で、まるで怪談話でも始めるかのように、夜子は口を開く。 「『ローズクォーツの永年隔絶』。それは、永年の孤独を生きた、悲しき吸血鬼の最後の恋物語よ」  原作の舞台は、吸血鬼が全盛だった中世ヨーロッパではなく、俺たちにも馴染み深い現代だったらしい。  恐れられていたのは今も昔、物語の冒頭時点で、吸血鬼という種は絶滅寸前だった。  紅水晶の主人公は、そんな吸血鬼の最後の生き残り。  人間との生存競争に敗れ、長い長い時間を孤独に生きた、か弱い吸血鬼少女である。  少女の障害は、逃走と暴力の日々だったという。  異種の存在を許さない人間は、常に吸血鬼の足跡を追い続け、その血を根絶しようとする。  種として弱きに当たる少女は、立ち向かうこともせず、抗うこともせず、ただただ逃げ続けたのだ。  家族も、仲間も、先に死に。  ただ、生きるということだけを盲目に続けるだけの生涯だった。  そして、幾日に重なる逃亡生活の中で、彼女は一人の人間と運命的な出会いを果たす。  逃げ惑う彼女へ、何のためらいもなく差し伸ばされた手。  狩られるはずの吸血鬼は、狩るはずの人間から救いをもたらされてしまった。 「そして吸血鬼は、恋をした」  あっけなく、恋をしてしまったらしい。  永年の時間のなかで、一人孤独に身を潜め続けた吸血鬼は、かくも容易く恋に落ちてしまった。  それは、きっと無理もないことだったのだろう。  一人が嫌なのは、人も鬼も同じなのだから。  運命的な出会いに遭遇し、〈耽〉《たん》〈美〉《び》〈的〉《てき》な恋の味を知った少女。  しかし、人と吸血鬼は相容れない。  種として既に敗北を〈喫〉《きっ》している吸血鬼に、未来はなかった。 「彼は、そんな彼女のことを愛していたみたいだけど、狩る側の人間にしてみれば、それは裏切りよね」  そして、悲劇は起こってしまった。  彼女を殺そうとした狩人が、彼に狙いを変えてしまいます。  向けられたのは、シルバーバレット。  裏切り者には、死を。 「ここまで来ると、オチが見えてくるでしょう」  当然、ともいうべきなのかな。  吸血鬼は身を挺して彼を守り、そして銀の弾丸に貫かれる。  吸血鬼が衰退した一番の原因――致命的な弱点。  銀色の輝きは、紅水晶の煌めきさえ奪ってしまう。 「そして、最後に吸血鬼は願う」  最後に、愛して欲しいと願って。  彼は、愛すると言った。  吸血鬼の特性、彼らの持ちうる中でも最も恐れられていた能力。  吸血行為による、眷属作り。  彼の血を吸えば、生き長らえることが出来るかもしれない。  人間性を奪うほどの吸血、彼を眷属化して、人としての未来を奪ってしまえば。  人としての存在を全て、彼女の糧としてしまえば。  人間と吸血鬼の恋は叶わなくても、鬼と鬼の関係なら、永年の時を二人で生きていけるだろう。  隔絶された時の中で、一人ぼっちだった彼女は、ただ願う。  ――同じ吸血鬼になって、莫大な時間の中で共に生きてもらえますか?  瀕死の彼女は、返事の分かりきった質問をした。  そして。 「……彼女は最後に、一人で死に果てたわ」  結末を語る夜子は、ただ短く。 「隔絶されたのは、想いか、生か。それが、紅水晶の語る物語よ」  彼は、人間を辞めることは出来ず、一人で生きる。  それが彼の、選んだ未来。 「だからこれは、悲恋なの。救われないまま隔絶された、可哀想な吸血鬼のお伽話」  そして、その物語は現実に開いてしまった。  死にゆく定めの、吸血鬼。  主人公の座は、伏見理央に与えられた。  では、彼女が愛した人間は?  最後に、彼女を見捨てた選択をした、彼女の恋人は?  彼女と恋に落ちながら、それでも彼女を救えなかった彼の配役は? 「――理央が誰かに恋人役を望むなら、それはキミ以外にありえないわ」  苛立ちながら。 「キミは、理央を見捨てないよね」  ただ、縋るように。 「理央を、助けてあげて」  本の意志に、逆らえるのか?  「理央さん、何処へいったんでしょうねー」 「さあな」  それから、1時間後。  俺と彼女は、夜の闇を手探るように、島を徘徊していた。 「図書館にも帰っていませんし、心配です」 「……そうだな」  吸血鬼に成り果てた理央は、俺達の前から姿を消した。  肝試しの最中、失意の表情を浮かべて、まるで逃げるように去っていった。 「見つけてあげるのも、ある意味物語らしいですけどね。運命的なものを感じてしまいます」 「……そうだな」  夜子は、断言した。  理央が願った相手、紅水晶の恋人役は、俺であると。  それが正しいのなら、俺と理央は自然に巡り合うはず。 「むむっ」  だから、俺と彼女は、こうして夜の島を徘徊している。 「瑠璃さん? なんだか、元気がありませんね」 「……ああ?」  不意に、指摘されてしまう。 「当たり前だろ。これは、笑って済まされるような結末には至らないんだぞ。俺は、この先が不安でたまらない」  理央が死ぬと、定められた物語。  孤独の吸血鬼は、最後には恋した人にさえ見捨てられ、一人朽ち果てていく。  そして俺が、理央を見捨てる恋人役。 「あんたこそ、よく笑ってられるよな。俺は、全く笑えねえよ」  未来に憂いて、今に苦しむ。  ただ、過去の日常が羨ましくて。 「そうですね。瑠璃さんのいう通りです」  あっさりと、彼女は頷いて。 「だから私は、瑠璃さんの隣でにこにこしてるんですよ。笑えない瑠璃さんを、癒やしてあげるために!」 「……はあ?」 「私まで辛気くさい顔をしていたら、まるで希望がないみたいじゃないですか。かなたちゃんは、いつもにこにこ!」 「…………」  全く、この女は。 「確かに最悪の可能性は存在していますが、そうでない可能性も存在しているはずです。そのために、心を明るく頑張っていきましょう!」  呆れるほどに、まっすぐだ。 「理央さんを、見つけます。紅水晶の運命から、救ってあげましょう」  ぴんと、指を立てて。 「一人になんか、させません。怖い物語は、ノーサンキューです」  そして、最後に。 「瑠璃さんは、理央さんを見捨てません。そんなの当たり前の未来じゃないですか」 「……そうだな」  訪れるかもしれない最悪に憂いているよりも、訪れるかもしれない希望に笑っている方が、心に優しい。  なるほど、だから彼女はいつも笑っているのかと、不意に納得してしまった。 「それにしても、少し気になりますね」 「……何がだ?」 「理央さんが本を開いた原因ですよ。瑠璃さんから聞いた話だと、開くことを望んでいなかったようではありませんか」  夜の学園で、傷を負った理央を目撃したとき。  理央は、心の底から悲しそうな表情を浮かべて、俺に見ないでと叫んだ。  あれは、拒絶の感情。  決して、自ら望んで吸血鬼になったわけではないのだろう。 「魔法の本は、開いたものの願いに応えるんですよね。それなら、どうして――」 「……潜在的な願いが、本当に実現して欲しい願いかどうかは別なんだよ」  それが、果たして彼女の満足する答えかどうかは分からない。 「例えば夜子は俺のことを心から嫌って、死んで欲しいと思っているけれど、その願いを叶えてくれると言われても、あいつはそれを拒むだろう」  それは、あいつが俺のことを好きだったとか、そういう問題ではない。  心の中では、何度もそう願うし、本気で殺したくなるくらいに嫌ったことはあるだろうし、それくらい嫌われていることは間違いないが。  だからといって、それを実現されても困るのだ。 「困る?」 「困るだろ、そんな馬鹿な願いを叶えられたら」  自分の願いが現実に叶ったとして、例えば俺が本当に死んだとして。  少しは夜子の気持ちもせいせいするかもしれないけれど、そこまでだ。  世界は別に、夜子と俺を中心に回っているわけではない。  理央はきっと悲しむだろうし、汀は更に怒りを募らせるだろう。  俺が死ぬことによってもたらされる影響は、世界レベルでは極小であっても、あの図書館においては大きなものとなる。  それは自分を過大評価しているのではなく、ただ絶対的な人数の違いの話だ。  一人欠けるだけで、それは大きな変化なのだ。 「だから、紅水晶そのものを理央が望んだわけではなく、ただ、紅水晶が勝手に解釈してしまっただけだと思う」  彼女はすぐに、察した。 「――理央さんの抱えている潜在的な願い事を、望まない形で叶えようとしているわけですか」 「俺は、そう思っている」  願い事は叶えてあげましょう。  ただし、最悪の形で。 「そんな理不尽な過程を経なきゃ、自分が死ぬような物語を望むはずがないだろ」  あの時見た、理央の悲しい顔が全てだと思う。 「……どうでしょうかね」  それでも、彼女は。 「触れなければ、本は開かない。そこに自発的な意志が必要であるかぎり、望まない物語は拒絶できると思うんですよ」  俺の考えとは、違っていた。 「自分が死んでもいいと思えるくらい、叶えたい願い事があったのかもしれません。少なくとも私は、そっちの方がしっくりきます」 「……それは、二度も本を開いた経験則か」 「うふふ、どうでしょうね」  彼女は、誤魔化すように笑った。 「ヒスイや、アメシストのときも、あんたには強い意志があったのか?」  ヒスイが開いた理由は、単なる好奇心。  アメシストが開いた理由は、ヒスイの影響が残っていたから。  俺はそう、結論づけていたけれど。 「ただ、私は――」  彼女は、初めて当時の胸中を明かす。 「瑠璃さんたちと、遊びたかっただけなんですよ。そう願って、『ヒスイの排撃原理』を手に取りました」 「遊びたかった……?」 「秘密を抱えていることは明白でしたし、面白そうな匂いがしましたから。楽しそうな輪の中に、混ぜて欲しかったのです」  ぺろっと、舌を出して。 「開いた宝箱の中身は、思っていたよりもずっと凄いものでしたけどね」 「私はまだまだ、楽しいことがしたいんですよ。だから、早く理央さんを見つけなければ!」  力強く、拳を上げて。 「理央さーん、今行きますからねー!」  と、大きな声で叫んだ。  夜であるというのに、遠慮のない声。 「あんたな……」  驚き呆れて、それを咎めようとした俺は。 「はーい! 待ってるよー!」  やまびこのように跳ね返ってきた声に、心底驚いてしまう。 「り、理央!?」  その声は、思っていたよりもずっと近く。 「あ、しまった!」  いつから、そこにいたのだろうか。  目を凝らして、その声の先を見つめてみれば、探し人。 「こっそりこっそり、見てたのにー」  夜の闇に隠れた吸血鬼。  だが、かくれんぼは苦手だったようだ。 「……お前なあ」  色々と、いいたいことがあった。  色々と、聞きたいこともあった。  けれど、変わらない理央の様子に、すっかり毒気を抜かれてしまって。 「いるならさっさと、出てこいよ。ずっと、探してたんだからな?」  一瞬、物語のことなんて忘れてしまって、いつものように笑ってしまった。 「だ、駄目だよ! 理央は吸血鬼さんだよ! にんげんとは相容れぬー」 「…………」  やばい。  ぜんぜん吸血鬼っぽくない。  単なる電波少女にしか見えないぞ。 「がおー! きゅーけつしちゃうぞー!」 「…………」  本当にこれは、死ぬ定めにある物語なのかと、疑問。  あまりにも理央らしさが残っていて、戸惑ってしまう。 「り、理央さんは、本当に紅水晶を開いちゃったんですか?」  そんな中、彼女は的確な質問を向ける。 「うん、そだよ。開いちゃった、えへへー」  悪びれもなく、笑ってみせる。  子供が悪戯をして、言い訳するかのように。  あんなに悲しそうな顔をしていたのに、今はどうして笑っていられる? 「だから瑠璃くんにはごめんなさいなんだけど、最後まで付き合って欲しいかな」  踏み込んだ、その距離は。 「り、理央?」  友達同士のスキンシップの、更に上をいくものだった。  手をとって、腕を絡ませ、身体を寄せ付ける。  肌と肌の感触がストレートに伝わってくる、親愛の零距離だ。 「瑠璃くんが、理央の恋人役ー! わわっ、照れますなー」  甘えん坊な、赤子のように。  理央の調子は、いつもの様に見えていたけれど。 「……何か、あったのか?」  いつもは、こうじゃなかったはずだ。  甘えたような態度をするときも、決して距離は離れていて。  理央からべたべた触ってくることなんて、よっぽどのことだった。 「わー、生瑠璃くんだー。理央と違って、がっちりしてるー」  俺の身体を楽しそうに触って、零距離を楽しんでいる。 「格好良いね、素敵だね。瑠璃くん、いい匂いがするから……」  甘えた声のまま。 「このまま瑠璃くんを、食べちゃいたいくらいだよ」 「…………っ」  吸血鬼。  その単語が、真っ先に浮かんだ。 「なーんてねっ!」  楽しげに笑いながら、舌を出す。 「というわけで、理央は夜の女王さまである、吸血鬼ちゃんになったのです! ばんぱいあ!」 「……それは、もう聞いた」 「そして瑠璃くんが、理央の恋人さん!」 「それも、さっき聞いた」  俺が聞きたいのは、その先だ。 「お前は、どうしたいんだ」 「……理央と一緒にいてくれたら、それでいいよ」  少し、俯いて。 「理央ね、ずっと一人で寂しかったんだよ。寂しくて寂しくて、死んじゃいそうだったの。でもねー、ようやく二人になったんだー。それが嬉しくてー」  永年の時間を孤独に生きた吸血鬼。  確か、紅水晶の役割はそんなだったよな。 「瑠璃くんは、理央の隣にいてくれるよね? 理央を安心させてくれる?」 「当たり前だろ」  即座に、頷いた。 「俺がお前を、一人にさせるかよ。そもそもいつから、お前は孤独になったんだ」  それは、物語が与えた設定だ。  お前には、友達も、家族も、いたじゃないか。 「とにかく、まずは『ローズクォーツの永年隔絶』を渡せよ」 「なにゆえに?」  きょとん、と理央は聞き返す。 「あれは、語らせてはならない物語だ。お前もそれは知ってるだろ?」  だから、あのとき悲しい顔を浮かべていたんだろうに。  そんな物語は、この世に存在してはいけないんだ。 「だから、今すぐ渡してくれ。速やかに終わらせる」  だが、理央は。 「しーらない」 「は?」 「理央は、知らないよーん。本なんて、持ってないもんっ!」  バレバレの嘘で、誤魔化そうとする。 「持ってないって……そんなわけないだろ」 「知らないよー! どっかいっちゃったし、なくしちゃったし、落としちゃったし!」 「…………っ」  ここでどうして、拒絶される。  嫌々に開いた物語なんだろう、これは?  だったら、本を庇い立てする理由はないだろうに。 「知らない知らない理央は何も知らないもん。知ってるのは、瑠璃くんが格好いいってことだけー!!」  呆れたデレっぷりを魅せつけられながら、真正面から抵抗される。 「どういうことだよ、これ」  縋るように、彼女を見つめる。 「そうですね……見たところ所有しているわけでもありませんし、今は理央さんが無事だったことに安堵する他は……」 「にゃ?」 「物語の進行具合が心配ですが、本人がそう言ってるのなら今は仕方がありませんね……」 「にゃにゃ?」  彼女をまじまじと見つめた理央は、おもむろに。 「ねえ、瑠璃くん」  それは少し、冷たい声色だった。 「どうしてここに、ニンゲンがいるのかな? もしかして、食べちゃってもいいの?」 「なっ……!」  斜め上の疑問に、後頭部をぶん殴られたような気がした。 「ニンゲンは、吸血鬼を殺しちゃうんだよ。だから、身を守らないと」 「り、理央さんっ!?」  魔法の本の影響を、甘く見ていたつもりはなかった。 「よく見ろ! こいつは日向かなた! お前の友達だろ!?」 「知らないよ。瑠璃くん以外のニンゲンは、理央の敵なんだから」  一歩、彼女へ近付いた。 「さっきも、変なロリっ娘に襲われてたんだよ。やっぱり、瑠璃くん以外のニンゲンは、理央を殺そうとする」  じっと、彼女を見つめて。 「彼女のことを、覚えていないのか……?」  日向かなたのことを。  あるいは、遊行寺夜子のことを。 「特別なのは、瑠璃くんだけ。今の理央にとって、瑠璃くん以外はどうでもいいの」  だから。  そっと、俺の胸に埋もれて。 「図書館には、帰らない。夜ちゃんもかなたちゃんも、今は知らないから」 「……ッ!」  覚えてるじゃねえか。  苦虫を噛み潰したように、俺は唇を噛む。 「瑠璃くんは、理央の恋人役なんだから、他の人と一緒にいちゃ駄目。じゃなきゃ理央、嫉妬して食べちゃうかもよ?」  それは、間違いなく伏見理央であるはずなのに。  他人の存在を利用して、利己的な選択を迫るその様子は。 「お前は、理央なのか、それとも、吸血鬼なのか」  どこまでお前の、意志はある? 「私は吸血鬼で、理央は理央。それは孤独で自由な、悲しい女の子」  理央が、果たして何を物語に望んだのか――俺にはさっぱり、分からなかった。 「それで、この廃教会に来たわけね」  その後、図書館へ帰ることを嫌がった理央は、俺と二人になれる場所を望んだ。  強情な理央に引き連れられ、丘の上の教会へ。  一部始終を見ていた彼女が、夜子に事情を説明して、駆けつけたというのが現在である。 「あいつは今何をしている」  夜子の後ろに控えていた汀が、鋭い眼差して詰問した。 「とりあえず、適当な理由をつけて出てきているけど、戻るのが遅いと痺れを切らしてやってきてしまうかも」  日向かなたを見て、食べ物? と聞いた理央。  どこまで吸血鬼として染まりきっているのか、判断しかねるところだ。 「理央は、俺以外の人間を全く信用していないらしいんだよ。これも、紅水晶の影響だろう」 「……あたしも、なの?」 「おそらくは」  その言葉に、夜子はひどく俯いた。 「だが、好き勝手させるわけにはいかねえだろ。さっさと本の在処を吐き出させて、終わらしてしまえよ」 「だ、駄目よ、暴力は許さないわ」  穏やかではない汀の言葉に、夜子は即座に反応した。 「理央を傷付けるようなことだけは、絶対に駄目だから」 「……あのなぁ、このまま放置してたら、傷付けるどころじゃすまねえんだぞ? 無理にでもいうことを聞かせる以外、方法はねえだろうが」 「だからって、時間がないわけじゃないでしょう? なんとか、穏便に」  どうにかして平和的解決を望む夜子は、縋るように俺を見る。 「本の話題を向けると、惚けられてしまう。のらりくらり、適当にかわされてしまうんだ。俺じゃ、駄目みたい」  理央は、吸血鬼に成りきってしまっているけれど。  それでも夜子なら、なんとか説得できるのではないだろうか。 「あたしが、話す」  きりっとした表情で、教会を見据えた。 「汀はここで、待ってて」 「……俺も行く」 「嫌よ」  短く、拒絶する。 「理央の嫌がるようなことだけは、させないから」  睨み合う両者。  譲らない夜子。  数秒、お互いがお互いの意志を主張し合い、そして。 「……ちっ、今だけだぞ」  いらいらを募らせても、やはり夜子には甘かった。 「俺だって、出来る事なら平和的に終わらせたいからな。お前にそれが出来るなら、問題ねえよ」 「ありがと」 「お前が俺に礼を言うなんて、珍しいこともあるもんだな」  汀は、含み笑いを浮かべる。 「瑠璃、キミはついてきなさい。あたしが一人で姿を現すと、理央も警戒してしまうわ」 「了解」  どのみち、一人でいかせるつもりはない。  汀とはまた別の意味で、心配なのだ。  俺よりも一歩前へ出て、教会の入口へと向かう。  ぼろぼろの古びた扉に手をかけて、夜子は堂々と扉を開いた。 「あ、瑠璃くーん! 遅いよもう!」  頬をふくらませた理央が、出入口の真正面から出迎える。 「り、理央……!」  扉を開けて、目と鼻の先。  まさかすぐに現れるとは思っていなくて、俺は驚愕する。 「出待ちしてたんだー、出待ち! 瑠璃くんを驚かせようと思って!」 「……ああ、結構驚いた」  隣の夜子は、もっと驚いている。  その理由は、理央が突然姿を表したからではない。 「遅いから心配しちゃったよー。どこ行ってたの? 本屋さん?」 「ちょっと、野暮用だ」  俺の隣にいる夜子のことが、全く視界に入っていない。  まるで存在していないかのように扱うさまは、今までの理央の対応ではあり得なかったものだ。 「り、理央」 「にゃ? この女の子は? 理央への、おみやげ?」  おみやげ。  それは、どういう意味の? 「何を言ってるのよ、あなたは! あたしのことを忘れたとは言わせないわよ!」  たちまち激昂する夜子。  それが理央に向けられるのを、俺は初めて見たかもしれない。 「よ、夜ちゃん……そんなに、怒らないでよ」  少し驚いた様子で、理央は笑う。  忘れているわけがない。  忘れられるはずがない。  そんな忘却劇は、ただの茶番だ。 「今の理央は、吸血鬼さん。夜ちゃんは、理央の敵なんだよ。ニンゲンさん」 「……やっぱり、覚えてた。あなたが、あたしに嘘を付くなんて……」 「初めてかもね、理央が悪い子になっちゃったのって。にゃはは、素敵だよね」  記憶は確かに、存在している。  忘れた風に、振舞っているだけだ。  吸血鬼として染まりながらも、そこに確かな意志がある。  ただ、原作通りの吸血鬼になろうとしているだけなのだ。  だからこそ――理央の本心が、わからなかった。 「ローズクォーツを開いたのは、あなたなの?」 「うん、そだよ。理央が、この物語を開きました」 「あなたは、この物語を知っていたはず。紅水晶の結末を、知っているわよね?」 「うん、そだね。知ってるよ、孤独で寂しがりやな吸血鬼さんは、死んじゃうんだよね」  極自然な様子で、理央は答えた。  今晩の夕食を説明しているような、そんな軽さ。 「……あなたは、あなたの意志で本を開いたのかしら」  3つめの、質問は。 「にゃ、えーっと、致し方なく開いてしまいましたけれども」  少し、曖昧な答え。  煮え切らない回答だった。 「だったら、今すぐ原作を渡しなさい。原作の本を、まさか持っていないとは言わせないわ」 「……渡したら、どうするのかな」  対する理央は、一歩も引かなかった。 「それは……」  本を殺して、破壊して、この物語に終止符を打つ。  忌み嫌うその行為を、夜子は口にすることを〈躊〉《ため》〈躇〉《ら》っているようだった。  それが今、最善の手段であることを理解していても、心が受け入れきれていないのだろう。  だから、助け舟。 「紅水晶を、終わらせる。そのために、魔法の本を破壊する。当然だろ」  夜子の代わりに、いってやった。 「理央は、夜ちゃんに聞いたんだよ。瑠璃くんは、静かにしてて」  柔らかい声色のまま、文面だけははっきりと拒絶される。  すっこんでろと、言われたような気がした。  理央の言葉に刺を感じたのは、初めて。 「る、瑠璃の言う通りよ……」 「何が?」 「本を……壊すの」 「夜ちゃんが?」 「そう……あたし、が……」  弱々しい、口ぶりで。  嫌々なのが、あまりにもストレートに伝わってくる。 「もう、夜ちゃんは正直だよね。そういうところ、理央は大好きだよ」  だけど夜子の戸惑いに、気分を害したわけではないらしい。  むしろ、安心したようにも見える。 「本を壊したくないのなら、壊さなきゃいいんだよ。無理にそうすることないんだよ」 「……それは、駄目」  立場が少し、おかしく見えた。  理央が本を守り、夜子が壊そうとしている現状。 「このまま物語を進めてしまったら、あなたは消えてしまうのだから。それだけは、絶対に嫌」  確かに夜子は、嫌々だった。  本を破壊するという選択肢に対して、心底腰が引け、掛け値なしに〈躊〉《ため》〈躇〉《ら》っていたけれど。 「――もう、誰かがいなくなるのは、嫌なの。だからお願い、本を渡して頂戴」  それでも、理央を失うことだけは、許せなかった。  だからこそ今も、苦しんでいる。 「魔法の本を、渡しなさい」  全てを拭い去る、強い言葉だったと思う。  宝石のような煌めきを見せる夜子を見て、理央は少し驚いたように目を見開いた。 「……夜ちゃん」  少し、噛み締めるように名前を読んで。 「それは、命令かな?」  悲しそうに、尋ねる。 「……違うわ。あたしは、あなたに命令したことなんて一度もない」 「そうだね、夜ちゃんは理央に、いつもお願いしてただけだもんね」  うんうんと、大きく頷く。 「でも、駄目。今回ばかりは、夜ちゃんのお願いも聞けないよ。ごめんね、理央は今日から、悪い子になったの」  心から、申し訳無さそうに。  されど、明確な拒絶。  思えば、理央が夜子のお願いを断ったのは、初めてのことかもしれない。 「どうして」  夜子もまた、譲らない。  納得して、頷いて、引き下がるという選択肢を選ばない。 「このままだと、あなたは消えてしまうのよ。そんな結末を、理央は望んでたの?」 「……にゃ」  困ったような、苦笑い。 「本を壊すのは、絶対に嫌。そんなの、絶対にしたくない。でも、あなたを守るためなら、あたしは自分の信念さえも曲げてみせるわよ」  失うことの恐怖を、俺達は既に知っている。  一年前、大切な人を失って、その痛みは癒えてはいない。 「間違ってるよ、夜ちゃん」  それでも理央は、笑った。  面白おかしく、底抜けに明るく、まるでジョークでも言うように。 「夜ちゃんの気持ちはとっても嬉しいけど、泣いちゃうくらいに嬉しいけど、そーじゃない。思い出してよ、夜ちゃん」  俺には、理解できなかった。  理央が、どうしてそういう言葉を口に出来たのか。 「――理央の存在なんて、最初から消えちゃってもいいようなものだったじゃない」  しん、と。  空気が静まった、恐ろしい言葉。 「理央の存在と、夜ちゃんの拘りだったら、夜ちゃんの拘りの方が大事だよね」 「それが、伏見理央という女の子だった。ここで理央を優先したら、駄目なんだよ」  自分よりも、本の方が大事。  故に、自分が死ぬような物語であっても、主である夜子の本意にそぐわないことは出来ないのか。  それを見上げた忠義心だと評価するのは、あまりに間違っていると思う。 「……何を巫山戯たことを口にしているのかしら」  底知れない怒りに、満ち溢れていた。  自分の価値を軽んじる理央へ、明確な怒りを示す。 「いい加減にしなさいよ! あたしはそういう言葉を聞きたかったんじゃないわ!」 「あたしが何を優先するのかは、このあたしが決めるのよ。理央が勝手に、決めないで」 「き、決めたのは理央じゃないもんっ! り、理央じゃ、ないもん……」 「今、身勝手に決めつけているのは、あなたでしょ!」  激しい剣幕だった。  怒涛の勢いだった。 「ああ、もう、どうしてこうなのかしら。どうしてこんなに、お馬鹿さんなの!」  けど、その怒りは。  いつも俺に向けられているような、刺々しい怒りではなかった。 「あなたが望まないことを強いられているのなら、あたしはそれを許さない。語りたくない物語があるのなら、力づくでも止めましょう」  それはもっと別のベクトルの、思いやりに満ちている怒り。 「……でも、夜ちゃんは」  恐る恐る、夜子の表情を伺って。 「わからず屋には、はっきり言った方が良さそうね」  呆れたように、宣言した。 「――あたしは、魔法の本を壊したいの。あなたを縛りつけ、あなたを消し去ってしまうような残酷な本なんて――大嫌いだから」  その言葉を聞いた瞬間、俺は大丈夫だと確信した。  理央がもし、夜子のために本を守ろうとしているのなら――これで納得してくれるだろう。  それを、疑っていなかった。  だから。 「ごめんなさい、夜ちゃん」  その後の理央の反応が、余りにも予想外過ぎて。 「理央、嘘ついてた。ごめんね、ちゃんとするから」  事態は既に、遥か深みへ進行していることに気づく。 「……何? どういうこと?」  怪訝な表情を、浮かべる。 「でも、きっと理解してくれないと思ったの。そういう理由なら、夜ちゃんは理央よりも魔法の本を優先してくれるかなって、思ってて」 「馬鹿を言わないで。それこそ、あたしへの最大級の侮辱よ」 「……うん、そうだった。だから、ごめんなさい」  本を守りたかったわけでは、ない……?  夜子が本心では、本を壊すことを望んでいないと思ったから、本を渡さなかったんじゃなかったのか? 「理央はね」  そして、多分ここからが、理央の本心。 「――最後まで、物語を続けたいんだよ。ただ、それだけなの」 「……え?」  俺も、夜子も、呆気にとられてしまう。 「吸血鬼っぽくないかもしれないけど、それでも理央は、最後まで吸血鬼役を頑張るよ」 「駄目よ、理央。それで得られる結末は――」 「わかってるよ!」  理央が、夜子の言葉を遮った。  大きな声で、強く叫んだ。 「そんなの、全部わかってる。わかった上で、最後まで頑張るの」 「い、意味がわからない……あなた、消えたいの!?」 「……消えたくはないかな。でも、消えてもいいと思えるくらい、優先したいことがあるの」  それから理央は夜子を見つめ、次に俺を見つめた。 「それはきっと、理央以外の誰にも分からない気持ちだよ。瑠璃くんも、かなたちゃんも、妃ちゃんも、汀くんも、理解してくれない」 「そうまでして、理央は何をしたいのよ!? お願い、あたしにちゃんと説明して? 今からでも、遅くないわ」 「やーだよ、教えなーい」  明るく、巫山戯たような声色で、理央は拒絶した。 「それでも夜ちゃんなら、わかっちゃうかもだけど」  付け加えるように、そういった。  理央らしくない、からかうような振る舞いに、少しずつ夜子のボルテージも上がっていく。 「……何よ、それ」  まるで取り付く島もない対応に、業を煮やした夜子は。 「いいから、あたしに全てを語りなさい。本を渡したくない理由、あなたの本心を晒しなさい!」  言葉に熱がこもり始める。 「隠し事があるのなら、その全てを打ち明けてよ!」 「……それは」  けれど、理央の切り返しは。 「命令、かな?」  先ほどと同じ、確認の言葉だった。 「お願いだったら、聞けないよ」  それは、多分。  魔法の本を殺したくないというものと、同じくらい忌み嫌っていたこと。  俺は、知っている。  夜子は、理央との対等な関係を望んでいたことを、知っている。  主従関係ではなく、どこにでもいるような、友達として。  だから、命令という言葉は、大っ嫌いで。 「――そうよ、命令よ」  けれどこのとき、夜子はその拘りを捨てた。  強情な理央に対して、最後のジョーカーを切るように。 「隠していることを、全て教えなさい。あなたが本を閉じたくない理由を、語りなさい。断ることは許さない――そういう命令よ」  機械のような冷たさで、そう告げた。 「……どうして、あたしに言わせるのよ。こんなの、あたしは望んでないのに」  直後に出てきた、凍えるような悲しみ。  自分で口にした言葉を、自分で軽蔑しているように見えてしまった。  夜子と理央の間で結ばれていた主従契約。  俺はその内容を知らないけれど――想像していたよりも重いものだったらしい。  命令というのは、それほど重要なキーワードだったのか。 「どうしたの、理央。聞こえなかったのかしら」  黙したまま、俯く理央に対して。 「聞こえなかったのなら、もう一度――」  追い打ちを掛けようとした、夜子に対して。 「……えへへ」  理央は、心から嬉しそうに、笑って。 「嫌だよ、お断りします」  はっきりと、拒絶した。 「理央はもう、夜ちゃんの命令は聞かないんだー」 「――え」  絶句。  目を大きく見開いて、夜子は驚愕する。  それはまるで、死んだ人の幽霊を見たような、あり得ないものを見るような瞳。 「だから拒絶するの。夜ちゃんを、拒絶する! だって、理央はね――」  見せつけるように、口を開けた。  奥歯に煌めく、牙は、人間にしては攻撃的な形をしている。  そう、それはまるで、吸血鬼のような。 「夜ちゃんの世話係じゃなくて、吸血鬼さんなんだから! 理央は、夜ちゃんの敵なんだよ!」 「……そんな……嘘……!」  それはまるで、物語に準ずるように。  今までのやりとりを、打ち切るように。 「そろそろ物語を再開してもいいかな? あんまり無防備にしていると、理央が食べちゃうからね?」  忘れていたとは、言わさない。  今の理央が与えられたのは、人間の敵であるはずの吸血鬼だ。  夜の支配者にして、最後の化物。  今の理央にとって、夜子は主でも何でもなく――ただの食料にすぎないのだから。 「どういう、ことなの……!」  放心する夜子を見て。  俺は、静かに事態の悪化を悟った。 「ぬふふー、理央の勝ちー!」  物語は、止まらない。  魔法の本は、壊されない。   伏見理央と遊行寺夜子は、主従関係にある。  それが形式的なものにすぎないのか、あるいは書面で正式に交わした契約なのかは不明。  それでも俺が過ごしてきた日々を思い返すと、闇子さんや夜子、それに当の本人でさえ、それは承知のようだった。  伏見理央は、天涯孤独の身だったらしい。  身寄りはなく、孤児院暮らしの日々の中、たまたま夜子の世話係を探していた闇子さんが、彼女を図書館へ招待した。  それはもう、何年も前の昔話。  俺と妃が、図書館へ来る前の話。  一人ぼっちだった少女は、世話係。  仕事に従事する代わりに、充実した生活を得ることが出来た。  衣食住のすべてを遊行寺家が提供し、理央は一夜にしてそれまでの暮らしとは比べ物にならない水準の生活を送る。  そして何よりも、一人ぼっちではなくなった。  夜子がいて、汀がいて、家族のようなものが出来た。  そのことが何よりも幸せだと、教えてくれたことがある。  ――ここが、理央の全てなんだよー。  小さな島の奥底にある、寂れた屋敷。  その中はたくさんの本が貯めこまれ、そこは幻想図書館と呼ばれていた。   ――理央は、幸せ者さんだねー。  笑顔が、忘れられなかった。  あの笑顔を、疑ったことはない。 「お前は、何か不満を抱えていたのかな」  何を願って、『ローズクォーツの永年隔絶』を求めたのだろう。  夜子の意志に逆らって、夜子の世話係を放棄して、その代わりに得たのが死にゆく定めの物語。  夜子は、苦悶の表情を浮かべながら、命令した。  本を渡せと、命令した。  二人にとって、命令という単語には、俺の想像する以上の重みが含まれていたのだろう。  理央を家族のように思う夜子は、いつだって理央に対し、命令なんてものはしていなかったから。  それでも、命令せざるを得なかった。  無理矢理にでも、言うことを聞かせなければいけなかった。  そうでなければ――理央は。 「……なあ、理央」  失意に堕ちた夜子が、逃げるように教会を去ってから。  理央もまた、ひどく傷付いたような顔で、夜子の消えていた先を見つめていた。 「お前、まだ何か隠しているだろ。でなきゃ、こんな展開はありえない」  俺の知らない何かが、存在している。 「どうしてお前は、こんな本を受け入れたんだよ。誰も得をしないような、悲しい物語を進めようとする」  その結果、悲劇に落ちるのはお前なのに。 「誰も得をしないけど、理央はそれでハッピーなんだよ」  俺の目を、見つめて。 「……うん、そだね。理央がしていることは、みんなにとって嫌なことかもしれないよ」  でも。 「だけど理央は、それでも満足しているの。心から、充実している。それは、ずっと叶わないことだったから」 「どういう意味だよ。俺にはもう、さっぱりだ」  何があって、理央は本を開いて。  何があって、理央は吸血鬼になったのか。 「……教えてあげよっか?」  そして理央は、優しく笑う。 「教えてあげても、いいよ。瑠璃くんになら、教えてあげる」 「……本当?」 「うん、嘘はつかないよ。ただし」  少し、照れ臭そうに視線を外す。 「そろそろ理央、我慢できなくなってきちゃった。さっきっから、喉が渇いて仕方がないの。もうずっと、何も食べてないから……」  もじもじと、せわしなく。 「だったら、コンビニで何か買ってくるか? ちょっと、行ってくる」 「ま、待って……そうじゃないよ、違うの」  俺の手を掴んで、手繰り寄せる。 「近くに来て……お願い」 「……理央?」  頬が、少し朱に染まっている。  いつもはおっとりとした理央の表情が、いつになく艶かしい。 「やだ、本当に、我慢できない……ごめんね、瑠璃くん。もう、限界」  掴んだ腕を、くるりと捻られ、俺は強制的に正面を向かされる。  自然、理央とまっすぐ向き合う形になって。 「まさか、お前」  すっかり、忘れかけていたけれど。  そういえばこれは、そういう設定だったな。 「――血、吸わせて?」  伏見理央は、吸血鬼だった。  故に、その吸血衝動も存在する。  名前だけではなく、その中身も吸血鬼。  魔法の本は、見せかけだけを許さない。 「待て、血を吸ったら、俺は」  吸血鬼の、眷属に? 「だいじょーぶ、ちょっと飲むだけ、ちゅってするだけだから」 「ちょっとだけって」  本当にそれで、大丈夫なのか? 「一定量の血を吸わないと、眷属にはならないから。ちょっとだけなら、貧血になるくらいだよ」 「……でも」  色々と、抵抗が。 「お願いだよぉ、ほんとにほんとに、我慢できないの。さっきだって、夜ちゃんの白い肌に、がぶりとしたかったんだもん」 「それは、見過ごせないな」  そういえば、日向かなたを連れてきた時も、理央は食料? と聞いていたか。  あのときから既に、渇きを我慢していたのかもしれない。 「吸血衝動、か。不死性を維持するために、吸血鬼は生きた人間の血を求める」  ふと、俺は疑問に思った。 「孤独な吸血鬼であるお前は、人間を眷属にすることで、寂しさを紛らわせようとはしなかったのかな」  永年のときに隔絶された、吸血鬼。  それが、紅水晶の設定だったはずだ。  文明の発達を遂げた人間相手に、絶滅寸前にまで追い込まれて。  でもそれは、眷属作りを行えば反撃できたのではないだろうか。 「だ、誰でもちゅーしちゃうような、はしたない女の子じゃないもんっ!」 「いや、でも、血が食糧なんだろ?」 「食べるためならいいんだよ! でも、け、眷属作りは……駄目だよ」  顔が、真っ赤っ赤。 「か、家族みたいなものなんだから、ちゃんと相手は選ばなきゃ。瑠璃くんだって誰とでも結婚したりしないよね?」 「……なるほど」  そういう認識なのか。  眷属というからには、もっと支配的な印象だったんだけど。 「も、もちろん眷属としていっぱい手下を作る吸血鬼もいたけども! 理央は、あんな真似できないよー……」  もちろん、それは紅水晶の記憶だろうが。  あの物語の吸血鬼は、随分と純情だったんだな。  いや、それは演じる人間が、理央だからか? 「そ、そんなことよりも! ね、ちょっとだけ、血を飲ませて欲しいなっ!」  俺の唇……ではなく、首筋をガン見して、今にもかぶりつきそうな勢いだ。 「痛くないよ! むしろ気持ち良いはず!」 「意味不明だよ」  しかし、しょうがないか。  渇きに飢える理央の様子が、余りにも切羽詰まっていたから。 「ほらよ、程々にな」  上着を開けさせて、首筋を露出する。  汚れないように、無防備を晒して。 「あ、ありがと!」  言うやいなや、理央はものすごい勢いで抱きついてきた。  気が変わらないうちに、吸血してしまおうという腹積もりか。  その距離があまりにも近すぎて、心臓がびくんと飛び跳ねる。 「お、おい……近いって」 「でも、こーしなきゃちゅーできないよ」 「そうだけど」  上半身裸の俺に、甘えるように抱きつく理央。  大きな胸が肌に触れて、理央のしなやかな指が肌を伝う。 「それじゃ、遠慮なく」 「……おう」  得体の知れない緊張感に、自然と力んでしまう。  俺の力をほぐすよう、理央は優しい手付きで俺を抱きしめながら。 「いただきます」  かぷ、と。  小さな唇が、首筋に触れた。  瞬間、触れられた部分が熱を上げて異常を訴える。  「――ッ!」  鋭い痛みが、一閃。 「ん、ちゅう」  けれど、直後に襲った膨大な感覚は、果てしない喪失感だった。  身体の中に貯められたエネルギーが、渦を巻いて吸い込まれていくような感覚。  理性も、意識も、何もかもが奪われるような一方的な暴力。 「んくっ、んん、んちゅ……」  耳元で、喉を鳴らす音がした。  美味しそうに、理央が何かを飲み干そうとしている。  ああ、それは紛れも無く吸血鬼の衝動。 「――ぷはぁっ!」  得体の知れない感覚に、揉まれ続けた数秒間だった。  開放された瞬間、なんとも奇妙な喪失感が身体を満たしていた。 「ご馳走様でした! 瑠璃くんの血液、すっごく美味しかったよー」  口元を手で隠しながら、嬉しそうに語るけれど。 「……そ、そうか」  解放された俺は、力なく項垂れるばかりだった。 「あっ、ごめんね、ちょっと飲み過ぎちゃったかも……」  身体に力が、入らない。  精魂尽き果てたかのように、ただ座り込んでしまう。 「でも、おかげさまで理央は元気になったよー。やっぱり、喉が渇くと元気がなくなるね!」  少しハイテンション気味。 「美味しいってことは、栄養をしっかりとってるんだね。瑠璃くんは健康さんですな」 「当然だ。なにせ、優秀な料理人いるからな」 「……あ、理央が作ってるんだった」  何を今更。 「でもでも、なんだか面白いよね。理央が瑠璃くんにご飯を作って、理央は瑠璃くんを食べちゃうの。養殖してるみたい!」 「いや、それは思っても口にするなよ」  冗談になってない。 「……ったく」  理央らしい会話に苦笑いを浮かべながら、噛まれた傷口を指でなぞる。  小さな歯型が、二つ。  唾液とともに、吸血された証を残していた。 「あっ、ごめんね、べたべただ。でも、拭かないでね、その方が治るのが早いと思うから」 「……そういうもんか」  女の子の唾液が、傷薬。  なんか、色々と背徳的なものを感じるけど。 「にゃー、今更になって恥ずかしくなってきたよー。理央、抱きついちゃったし……瑠璃くんは、上半身裸だし……」 「本当に今更だよ」    服を着ながら、呆れ果てる。 「喉が渇くと、理性も乾いちゃうからねー。どうしても、夢中になっちゃうのです」  照れ笑いを浮かべる理央。 「しかし、本当に吸血鬼なんだな」  それらしいことがなかったから、正直ピンときていなかったが。  実際に血を吸われて、初めて現実が狂っていることを理解した。 「うん、理央は吸血鬼さんになってしまいました」  それは、少し悲しそうな声色で。 「……瑠璃くんとは違う、化物なんだよ」 「理央……」  夜の学園で、紅水晶を開いてしまったときに、同じことを言っていた。  化け物になった自分を、見ないで欲しい。  明るく振る舞っているけれど、その気持ちは今でも変わらない。 「理央は、今でも瑠璃くんたちと同じ人間って言えるのかな」  明るい雰囲気は、消え失せた。  吸血鬼衝動が、俺達に今を突きつける。 「瑠璃くんは、こんな理央でも人間扱いしてくれるの?」 「……当たり前だろ。お前はただ、吸血鬼という役割を与えられただけだ。中身まで、別物になったわけじゃない」  そんなのは、言うまでもなく明らかなことだろう?  伏見理央そのものが吸血鬼になったわけじゃない。 「……良かった」  その言葉に、理央はただ。 「瑠璃くんがそう言ってくれた、本当に良かった」  心から安心したように、笑った。 「…………」  やはり、不安だったのだろう。  吸血鬼になってしまって、そして今、自分が吸血鬼であることを実感して。  まるで暦年の吸血鬼のように説明していたけれど、実際に吸血したのは、これが初めてだろうから。  友達の血を吸うという行為に、何より恐れを抱いたのは理央本人だ。 「やっぱり、ろくでもねえ物語だ」  理央本人だって、何も得ていないじゃないか。  化け物になったことを、心から嫌がっている。  さっきから、理央のメリットが見当たらない。  それどころか、デメリットばかりじゃないか。 「……まだ、わかんないかな」  けれど、そんな俺を見つめて。 「なりたくもない吸血鬼になって、夜ちゃんに逆らって、それでも理央が物語を続ける意味はね」  それは。 「――瑠璃くんと、一緒にいたかったの」 「え?」  何だ、それは? 「伏見理央という女の子には、決して許されていないことがあったのです。絶対に許されない、禁じられた感情です」  血を吸った、影響か。  理央の頬は、少し赤みがかっていた。  緊張を紛らわせるように、拳に力が入っている。  けれどその震えが、たまらなく弱さを伝えてくれた。 「理央の、願い」  そして、理央は告白した。 「理央はね、ずっとずっと、瑠璃くんのことが好きだったんだー」  くしゃっとした、笑顔。  さらりと告げられた気持ちに、俺はすぐに反応することが出来なくて。 「だから、そういうことなんだよ。夜ちゃんの世話係には許されていなくて、孤独な吸血鬼なら許される、恋心」  理央が、俺のことを好き?  それは、男女の間の感情か? 「あはは、驚いてる驚いてる! 瑠璃くんもそういう表情、するんだね。珍しいな」  俺に恋するために、本を開いた?  吸血鬼になら、許される?  それこそ、意味不明じゃないか。 「お、おい……ちょっと待て。ちゃんと説明しろ」 「理央が、どうして瑠璃くんを好きかって理由?」 「違う――俺を好きなことと、物語を開くことの因果関係についてだ」  それらは全く、別物のはずだ。 「にぶちんさんですな。瑠璃くんは、紅水晶のあらすじを知らないのかにゃ?」 「……夜子からは、おおよその説明は受けている」 「それなら、わかんなかったのかもね。夜ちゃん、小説の大事なところはぼかして説明する癖があるから」  瞳は俺を捉えて離さない。 「孤独な吸血鬼の恋は、最後に叶うんだよ。一瞬でも、刹那でも、彼は吸血鬼のことを愛してくれるのです」  『ローズクォーツの永年隔絶』  それは人間と吸血鬼の小さな恋物語。  最後に吸血鬼は孤独に死んでしまうが――それは、彼が彼女を愛さなかったということではなく。 「二人はちゃんと、通じあっていたんだよ。だから、吸血鬼は一人最後に死んじゃっても、消して孤独じゃなかった」  死別という結果は、悲しい物で終わってしまったけれど。  吸血鬼は、救われたわけではなかったけど。  その想いが、通じなかったというわけではないらしい。 「悲恋の物語だよ。でも、確かに吸血鬼は恋してた。その物語に身を捧げれば、理央だってヒロインになることが出来る」  まるで、自身に資格が無いようなその言葉。 「……本当は、かなたちゃんが羨ましかったんだ。ヒスイと、アメシスト。瑠璃くんのヒロインになって、可愛らしく演じてみせて」 「理央だって、本を開くことで演技でも瑠璃くんと恋できるなら――」  ただ、真っ直ぐな感情を俺に向ける。 「――理央が消えちゃったとしても、すべてを捧げる価値があるんじゃないかなって、思ったの」  俺と、恋をするために。  紅水晶のような、悲恋であっても、確かな恋を。 「……俺にはさっぱりわからない。お前が俺に恋してたとして、それがどうして本を開く必要があるんだよ」  明確な説明を、してくれない。  さっきから、この質問にだけは答えてくれない。 「なあ、理央。お前、もしかして――」  だが、ここまで来たら、ある程度察することは出来るだろう。  夜子と理央の関係。あるいは、伏見理央と遊行寺家の関係。  夜子との会話――命令という言葉の重み。 「――お前は、誰かに恋を禁止されていたのか」  誰か、という言葉は少し卑怯だ。  その人物は、一人しかいない。 「お前はそういう命令を受けて、恋愛を禁止されていた。伏見理央は、恋ができない」 「だからお前は、伏見理央という遊行寺家の使いではなく――吸血鬼という化け物になったのか」  命令に縛られない、別物の存在へ。  ルールの裏を抜ける、裏ワザ。  魔法の本が開かれている時だけは、自分自身ではない別物の何かになること許される。  理央は、恋をしたかったんだ。 「だったら、そんな命令を律儀に守る必要なんかねえだろ! 少なくとも自分が消えるような運命を飲み込んでまで、守るもんじゃない」 「こんな方法じゃなくたって、恋をすることは出来るだろ。下らない命令なんて、無視してしまえばいい」  そんな身勝手な命令なんて、許されるはずがない。  夜子だって、理央がそんな命令を受けていると知れば、同じことを言うはずだ。  あいつは誰よりも、理央にそういうしがらみを拭い去って欲しがっていたから。 「ごめんなさい」  それでも、理央は。 「きっと、瑠璃くんにはわからない。他の誰にも、理央の気持ちは分からないの」  明確に、拒絶した。 「……瑠璃くんの言うとおりには、出来ない。理央は、こうすることでしか好きだって言えないから」 「――ッ!」  それは二度目のメッセージ。  ほのかに滾る熱に、俺は何を感じたのだろう。  妃を失ってから忘れてかけていた感情が、目覚めようとしているのかもしれない。 「大好きなの。瑠璃くんのことが、だいだいだーい好き! うん、理央は、それが言えるだけで幸せ!」 「……理央」  こんなに近くにいるのに、どこか遠いところにいる。  目の前の女の子は、どうして傍にいてくれないのか。  遠くから告白されても、悲しみは隠せていない。 「身勝手なことをしてるのは、わかってるよ。瑠璃くんだっていきなり理央に告白されてもどうしたらいいのかわからないよね」  だから、と。 「魔法の本が、教えてくれるよ。ただ、紅水晶に身を任せてくれたらいいの」 「演技でも、嘘でもいいから――かなたちゃんと物語を詠ったときのように、吸血鬼と恋をしてくれたら」  ただ、切実に理央は願った。  「演技だと分かって、用意された物語だと分かって、お前はそれでも満足できるのか」  魔法の本が創りだした物語に、真実はないんだ。  本が閉じれば、全てが元通り。 「うん、それでもいい」  少女は、頷いた。 「理央は、数少ない選択肢の中で、自分が最も納得できるもの選んだんだよ。考えて、迷って、満足する道を選んだの」  だから、と。 「わからないこともあると思うし、理解できないことがあると思う。でも、今は理央を信じて、物語を進めて欲しい」 「……それは俺に、お前を殺す手伝いをしろということか」 「違うよ。どうしてそう解釈しちゃうのかな。瑠璃くんは意地悪さんだよ」  ふてくされたように、頬を膨らませる。 「お前は、最後までお前の意志で、この結末を望むのか」 「うん。消えちゃうところを含めて、理央は本望かな」 「俺や夜子を、悲しませても?」 「……うー、瑠璃くんは本当に意地悪さんだ」  それはやはり、心残りだったらしい。 「そうだね、そればっかりはごめんなさいだよ。でも、何を選んだって、万事解決するわけじゃないから」 「…………」 「全てが上手くいく未来なんて、小説の中にしかないんだよ。その中で理央は、自分が納得する結末を望んだだけ」 「……だったら、俺は」  理央に、それ以上説明する気がないことは理解した。 「俺が納得する結末を、望む」 「……むぅ」 「大切な友達を――しかも、自分を好きになってくれた女の子を、魔法の本の好きなようにさせるかよ。ここで頷いて、諦めるような人間になったつもりもない」  お前が自分の納得する結末を望むなら、俺だって俺の納得する結末を望もうじゃないか。 「にゃ、それはとっても、瑠璃くんらしいですにゃ」 「お前は、物語を遂げさせる。俺は、物語を終わらせる。舞台は同じでも、目指すエンディングは別だ」  こんな素敵な友達を、手放してなるものか。 「そうだね、それでこそ理央の大好きな瑠璃くんだ!」  満面の笑顔。  心に深く刻まれる、素敵な大輪。  枯らせたくなくて、散らせたくなくて、今は唇を噛みしめる。  古びた教会で、吸血鬼が本音を語る。  けれど俺がどんなに嫌がっても、魔法の本は語り続ける。  本を破壊しない限り、最悪なエンディングはもうすぐそこにまで来ているのだ。  疲れていたのか、気が付けば瑠璃くんは眠ってしまっていた。  教会の壁にもたれかかりながら、穏やかに寝顔を晒す。  魅力的で無防備なその様子に、理央はちょっぴりどきどきして。  なんとか思い通りになっている現実に、安心します。 「笑顔、笑顔」  気が緩み、思わず険しい顔が飛び出そうになりました。  誰も見ていないからといって、気を抜いてはいけません。  一度我慢することをやめてしまったら、次に強がるときに辛くなる。 「ちょっぴり、怖いよ」  震える指先を、ぎゅっと抱きしめます。 「……笑顔、笑顔」  にこにこ、しなきゃ。 「吸血鬼さんはね、寂しかったんだよ」  様々な感情をこらえながら、零した弱音。 「瑠璃くん……」  孤独な吸血鬼の前に現れた、一人の少年。  彼との出会いは、彼女に生きる意味を与えました。  人生の目的――彼とともに生きるという、目的をくれたのです。 「大好き」  そんな吸血鬼に、理央は自分を重ねてしまうのです。  吸血鬼さんのように、美しいわけでも格好いいわけでもないけれど、絶対に許されない相手に恋をしたという、ただそれだけのことだけで、他人のようには思えませんでした。  誰かに恋をする。  それは人生において、あまりにも劇的なことでした。  我を忘れて相手を思うその気持ちは、それまでの孤独な生涯を吹き飛ばしてしまうのです。  吸血鬼さんは、その想いを遂げる覚悟をします。  彼とともに、生きる覚悟。  それが、どんなに僅かな時間だったとしても――。 「理央も、そういう恋がしたかった」  その恋が、やがて自らの身を滅ぼすものであったとしても。  例え、その恋が報われなかったとしても。  芽生えた恋心が原因で、生涯を閉ざすことになったとしても。  吸血鬼さんは、本望だったのでしょう。  最後に、生きる意味が、生まれたのですから。 「……にゃはは、理央はここまでロマンチックじゃないんだけどにゃ」  消えてもいい。  僅かでもいい。  あの吸血鬼のように、全てを投げ打ってでも、誰かを好きになりたくて。  何者にも縛られない、自由な理央になりたくて。 「――だから理央は、自分の恋を貫くのです」  それは多分、理央の我儘。  瑠璃くんや夜ちゃんには、いっぱいごめんなさいをしなきゃだけど。 「だから、言ったわよねぇ、開いた方が素敵だからって」  いつかのときのように、彼女は理央の前に現れます。 「おかげで、瑠璃のお兄ちゃんに好きだと伝えることが出来た。それは、本を開いてなければ叶わなかった出来事よね」  少女を前にすると、思わず笑顔が引っ込んでしまいます。  結果的に、理央の望む未来になったのは確かですけど、しかし油断はできません。 「しかし、これは意味のある行いかどうかは、また別かもしれないわね」 「叶わない恋をするくらいなら、最初から禁じられたほうが良かったんじゃないのかしらん」 「その点でいえば、理央ちゃんのやっていることは子供のお遊びのようだわ」 「……違うもん。叶わなくたって、通じ合わなかったって、恋をすることが大事なの」  瑠璃くんの気持ちが、理央に向いていないことくらい、知ってる。 「まるで被害者のように言うけれど、あなたは誰のお陰で、普通の女の子のように生きられたのかしらね」  嫌らしい口調で、攻め立てます。 「あなた、もう少し弁えたほうがよくってよ? きゃはは、本当に今更すぎて、もう手遅れだけどね」  嬉しそうに、楽しそうに、少女は銀のナイフを取り出しました。 「さあ、そろそろ血生臭い物語を始めましょうか。吸血鬼は、今や狩られる側なんだから」  それが彼女の役目。  そして、理央の役目。 「理央ちゃんの恋心ごと、妾が全てを終わらせてあげる」  悪役に徹した魔法使いは、狩人に変わります。  それが茶番であることを理解しながら、理央も意識を切り替えよう。  傍らで眠る瑠璃くんへ。  ただ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「――瑠璃さん!」 「……あ?」  微睡みの中で名前を呼ばれたような気がして、意識が引っ張られる。 「起きてください、瑠璃さん! どうしてこんなところで寝ているんですか!」 「こんな、ところ……?」  鈍い意識を動かして、周囲を確認する。  丘の上の廃教会。  どうやら理央に血を吸わせた後、そのまま寝てしまったようだ。 「あれ、今何時だ? というか、理央は?」 「もう夕方です! 理央さんについては、こっちが聞きたいくらいですよ!」 「……何?」 「理央さんが、何処にもいないんですよ! 瑠璃さんを起こそうとしてもぜんぜん起きませんし、こっちはもう大慌てです」 「おいおい、嘘だろ……?」  理央が、消えた?  「どうなってる。これも、物語の流れなのか……?」  わからない。  理央の考えていることも、紅水晶の展開も、俺には何一つ分からなかった。 「私にだって、わかりません。理央さんは一体、何を考えているのか……」 「あいつは、お前のことが昔から好きだったんだよ」  汀が、静かに語る。 「だけどそうであることを絶対に認めない奴だった。俺が指摘しても、あいつはすぐに首を横に振るんだよ」  許されて、いなかった。  その言葉の意味。 「汀は、何か心当たりがあるのか?」 「あったら、こんなに困ってねえよ」  ため息を付きながら、続ける。 「瑠璃がいないときなんか、いっつもお前の話をすんだぜ? 好きじゃないっつー方がおかしいくらいだったのに、本当、何を考えていたんだか」  それから、やや考えこんでから。 「……昨夜、理央と話してから、夜子は引き篭もっちまったよ。理央に何を言われたかしらねえが、ありゃもうどうしようもねえ」 「夜子が?」  理央へ、命令を下したことによる罪悪感。  それに加えて、理央が命令を拒絶したことへの驚き。  夜子の中で、そこで何かが折れてしまったらしい。 「あいつはもう、諦めちまってる。理央が本当にそれを望むなら、好きにさせればいいってさ」  今もまた、書斎に引き篭もって本を読んでいるのだろうか。  その間にも、理央の物語は終わりに向かって進むというのに? 「だからもう、夜子は頼れねえ」 「もし、理央の覚悟を変えられる奴がいるとしたら、やっぱりお前しかいねえんだよな」  この中で唯一、紅水晶に見初められた恋人相手。  何かを変えられるとしたら、俺しかいないのだろう。  志が、前を向く。  理央を探さなくちゃという思いが、燃え上がる。 「瑠璃さんに、恋する乙女心が理解できるとは思えませんが」  ぴと、と。  心臓を、指差して。 「かなたちゃんを攻略したときのようにしてみれば、なんとかなるかもしれませんね」 「無茶苦茶なアドバイスをありがとう」  何の参考にもならねえよ。 「私のときとは違って、今回は理央さん本人のことを一番に考えてください。あの吸血鬼は、理央さんそのものですよ」  理央自身の願いを反映させた物語。  そこには、確かな意志がある。 「じゃ、私は安心してお風呂にでも入ってますから、格好良く解決してきてくださいね!」  勇気づけるような、満点の笑顔だった。 「瑠璃さんには私が付いているのですから、勝利は約束されたようなものですよ!」 「勝利の女神というには、少し腹黒いかな」 「むかー!」  そうして、仲間に見送られて、力が湧いてくる。  俺が理央のために何が出来るかなんてわからないけど、ただ一つ、俺を突き動かしている思い。 「――一人ぼっちの理央を、放っておけない」  ただただ、心配なんだよ、馬鹿。  物語を進める、必然として。  作為的に仕組まれたそれを、運命と読んでみたりして。  何処へ行ったかすらわからなくても、物語が俺たちを結びつけてくれる。  出会わなければ、物語は始まらない。  出会ってから、本番なんだ。 「……ああ、瑠璃のお兄ちゃん」  やはり、と思ったのがまずはじめ。 「早かったね。それとも、遅かったのかしらん」 「お前」  最初に視界に飛び込んできたのは、いつか会ったはずの少女だった。  吸血鬼を狩る役目の、ハンター。 「……理央!」  そして、少女が見つめるその先に。 「瑠璃……くん?」  理央が、いた。 「瑠璃くんだぁ……! 迎えに来てくれたのかな?」  その表情は、理央らしい明るさを持ち合わせていたけれど。  どこか、疲弊した笑顔だった。 「嬉しい、なあ……」  俺の方へ駆け寄って、倒れこむように抱きつく理央。 「お、おい?」 「……えへへ」  安堵したような笑顔を浮かべる理央は、そのまま全身を俺に委ねる。  倒れないように踏ん張りながら、理央の肩を抱き止めた。 「あ、やばっ……安心したら、気が抜けちゃった……」 「大丈夫か!?」 「………ごめん……ちょっと、疲れちゃった」  掠れたような声のまま。 「少しだけ、休ませて」 「おいっ……!」 「…………すぅ」  そして、理央は、俺の腕の中で意識を失った。  まるでそこだけが、落ち着いて安らげる場所であるかのように。  理央の身体を優しく扱いながら、俺は目の前の敵と対峙する。 「お前、理央に何をした」 「まだ、何もしていない。追いかけまわして、遊んでいただけだよん?」  敵意がないことをアピールするクリソベリル。  その言い方が、胡散臭い。 「ちょっとした鬼ごっこをしていただけ。好きな人に再会出来て、安心しちゃったのかしら」 「鬼ごっこ……?」  とびっきりの悪戯を、誇るかのように。 「銀ナイフを突きつけて追い回したらね、理央ちゃんは可愛い表情で逃げていくのよぉ。それがとっても、楽しくって、楽しくって」 「……お前」  ぎりっと、唇を噛む。 「昨夜も、瑠璃のお兄ちゃんといちゃついてたから、ちょっと邪魔してやろうかなって思ってね。せっかくの吸血鬼の生き残りだもん、楽しまなきゃだよね」  こんなにも、疲弊して。  気を失うほど、追い詰めて。   明確な怒りが込み上がる。 「ねえ、瑠璃のお兄ちゃんは、吸血鬼の殺し方って知ってるかしらぁ?」 「……吸血鬼の殺し方? そんなもん、銀色の凶器で死ぬんじゃないのか」 「その通り。百点満点の大正解! でも、他にも方法があるのよねん」  艶めかしく、少女は言った。 「――心を、殺す」  ただ、冷たく。 「吸血鬼の少女は、永年の時を孤独に生きながらえてきたわ」  永年隔絶。  この物語に名付けられた、その意味である。 「一年、二年じゃないのよ。十年、二十年、はたまたそれ以上の永年にも感じられるその時間を、無味乾燥の如く捨てていく」 「その痛みと苦しみは、人間が理解できる範疇を超えているわ」  ずっとずっと、命を狙われ続け。  ずっとずっと、排斥され続けていただけの日々。 「だからね、もう限界だったのよ」  原作の中での吸血鬼は、既に現世に飽きていて。  その乾きを癒してくれたのは、一人の少年だった。 「吸血鬼少女の、最初で最後の恋の相手。幸か不幸か、彼は乾燥した彼女の日々を、埋めていく」 「恋という劇薬をもって、人生は過激であることを教えてくれた」  だが、物語は二人の恋を許さない。  狩人に狙われた少年を助けるため、吸血鬼は身を持って彼を守り――そして死に行く。  最後、彼を眷属化して吸血すれば、生きながらえることは出来たのに。  それすら、許されることはなかった。 「それがどうした。吸血鬼の殺し方に、何の関係が――」 「一度幸せの味を占めてしまったら、もう二度と一人ぼっちには耐えられない」 「…………」  孤独な吸血鬼が、恋をした。  その恋によって、生きる意味を見つけたとしても。 「その恋が失われてしまったら、吸血鬼の心は壊れてしまうでしょうね。失恋の痛みに、息絶える」 「でもそれは、伏見理央にだって、同じことが言えるのよん」  尚も、少女は続ける。 「紅水晶を開いてしまって、誰かに恋する幸せを知ってしまった。恋の甘さを、味わってしまった」 「それは甘い甘い経験だったかもしれないが――それは苦い苦い毒でもあったのよん」 「……恋」  昨夜、理央に気持ちを伝えられて。  好きだと、あまりにも自然に告白されてしまった。 「だからもう、理央ちゃんは戻れないの。再び、恋愛と隔絶された現実を生きることが出来ないの」 「それが、吸血鬼の殺し方の何の関係がある」  両者の共通点をあげただけじゃないか。 「あら、まだわからないのかしら」  妖艶に、嘲笑う。 「胸一杯の恋心を知った少女は、次に引き裂かれるような痛みを味わうことになってしまう」  その視線は、理央を捉えて話さない。 「――果たして理央ちゃんは、瑠璃のお兄ちゃんに振られて尚、自分を保っていられるのかしら?」 「――っ!」 「吸血鬼の想いを隔絶するのは、妾ではなく、瑠璃のお兄ちゃんではなくて?」 「そんな、馬鹿な」  惑わされるな、翻弄されるな。  目の前の少女は、俺の敵に決まっている。  そんなものの言葉を真に受ける必要なんて、ないんだから。 「それでも、理央ちゃんの思いを受け入れてあげることが出来たなら、この物語は幸せに終われるのかも?」 「――ッ!」  受け入れる、という意味。 「もっとも、そんなこと瑠璃のお兄ちゃんが出来るはずもないんだけどね? きゃははっ!」 「それは、違うよ」  腕の中から、声がした。 「勝手なことを言って、瑠璃くんを惑わせないで。消えちゃう原因を作ったのは、他でもない理央自身なんだよ」  よろよろと、立ち上がる。  心配そうな表情を浮かべる俺へ、にこやかに微笑んだ。 「大丈夫だよ、瑠璃くん。あなたは、何も心配しなくて大丈夫」  その笑顔は、やはりいつもの理央だったけど。 「……なあ、理央」  少女の言葉に、揺れ動いた言葉。 「お前は、俺が全てを受け入れたら――」 「出来ないよ」  理央は、断言した。  言葉の先を、許してくれなかったのだ。 「瑠璃くんには、絶対に出来ないの。瑠璃くんに、その手段は無理なんだよ。大丈夫――全部わかった上でのことだから」 「どうして断言できる」  俺が、お前のことを好きにならないと、何故確信出来る。  それともお前は、知っているのか?  俺が、妃のことを愛していたことを。 「どうしてもだよ。瑠璃くんのことなんか、なんでもお見通しだし!」  そう言われてしまうと、黙るしかなくて。 「そろそろ、お喋りの時間はお終いかしら。鬼ごっこ、再び?」 「敵が目を覚ますのを待ってくれるなんて、優しいハンターさんだね」 「あら、それは敵役としての嗜みよ? 寝込みを襲うなんて、興醒めもいいところ。その辺りは魔法使いとして弁えているわ」 「……そう。だったら、もういいよね」  理央が、一歩前へ出る。  俺を下がらせて、クリソベリルと対面する。 「ハンターさんは、瑠璃くんを唆す悪い子です。理央の物語をかき乱す、悪い魔法使いさんですね」 「あらあら」  可愛らしく逃げ惑う。  先ほどそう聞いていたけれど、しかし全く様相が違っていた。  逆に距離を詰めているのは、理央の方じゃないか。 「思っていたより、早かったわね。良かったわ、これで下らない茶番劇も終わるのねん」 「やっぱり、魔法使いさんは参加するべきではなかった。瑠璃くんに、余計なことを語りすぎだよ」  対するクリソベリルは、それでも余裕。  納得したように、頷いていた。 「それなら、最後は敵役らしく、派手に散ってあげましょう!」  少女は何かを理解して、大見得を切る。 「邪魔者を排除する、化物らしいその考え方に、妾も応えよう」  取り出した銀のナイフの切っ先が、俺の方へ向けられていた。 「……え?」 「止めて」  理央が、小さく叫ぶ。 「吸血鬼の殺し方」  もとい。 「伏見理央の、殺し方」 「止めて!」  クリソベリルは、にやりと笑う。 「――好きな人を、狙えばいい。それだけのこと」  銀色のナイフが、紅水晶の煌めきを。  一直線に、少女は襲いかかる。 「神風特攻――かしら?」  ああ、そういえば、原作では。  少年を狙ったハンター役は、逆上した吸血鬼に殺される。 「駄目、それは駄目っ」  理央が、動き出す。 「瑠璃くんには、手を出させない!」  だけど、俺は知っている。  これは最初から、起きることが定められていた物語。  これから理央は、俺を庇って、致命傷を受けるのだろう。  いくら鬼気迫った表情をしても、最初から覚悟していた未来。  これは、魔法の本によって用意されたストーリー。  理央が、望んだストーリー。  下らない茶番劇だ。  ――魔法の本は、演じる人間によって様々な物語を描く。  夜子の言葉を、思い出した。  ――だから、必ず定められた出来事が起きるわけじゃない。  変えられるものが、あるのだろうか。  魔法の本の運命から、逃れられることが出来るのだろうか。  なんて、そんなことは全て後付で。  俺はただ、理央が傷つく瞬間を見たくなかったんだ。 「――え?」 「――は?」  驚きが、二つ。  クリソベリルと、理央のもの。  その中で俺は、何一つ驚きはなく。  俺を庇おうとした理央の手を引っ張り、位置を入れ替えたのだ。 「どうして」  理央の声が、頭に響いたと同時、クリソベリルのナイフが俺を貫く。 「こんなの、あらすじにないよ」  ああ、知ったこっちゃねえよ。  ただ、一つ言えることは。 「ざまあみろ」  魔法の本の運命なんて、糞食らえ。  好き勝手に語ってんじゃねえよ。 「これが、主人公補正だ」  女の子の一人くらい、守らせてくれ。  そしての俺の意識は、闇に沈んだ。   空が、泣いているような気がした。  大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、心の痛みの声がする。  音のない書斎の中で、あたしは一人、閉じこもる。  引きこもりお嬢様と呼ばれても、否定することは出来ないだろう。  ……理央。  遠い物語へ、旅立ってしまった女の子。  その少女が願ったのは、物語の継続。   理央が、あたしの命令を拒んだ。  伏見理央が、遊行寺夜子の命令を拒んだ。  たったそれだけのことで、あたしの心は怯え惑う。  あたしは、理央に対して何かを命令するということが大嫌いだった。  それはお互いの関係を壊してしまう、無慈悲なものであるし、あたしは理央のことを、家族のように思っているから。  理央の事情を知っているが故に、理央があたしの命令に逆らえないことを知っていて。  身に沁みて知っていたからこそ、何でもいうことを聞いてくれる、ランプの精のような扱いだけはしないと決めていた。  もちろん、ついそういう口振りになってしまうことはあったけど、本心から命令したことは一度もない。  ――でも。  命令してしまった。  ――魔法の本を、渡しなさい。  自分で口にした言葉に、自分自身が傷付いていく。  今までの時間を否定するかのような言葉は、けれどこれからの時間を求めるあたしには、どうしても必要なもの。  魔法の本が理央を消すというのなら、あたしはそれに抗いたかった。  ――駄目だよ、夜ちゃん。  しかし。  理央は、命令を拒絶した。  真正面からその命令を聞きながら、まるで意に介すことなく拒絶した。  それは、伏見理央という女の子が形成していた全てを、根底から覆す事象。  そして何よりも、自由を手に入れた少女が、余りにも満ち足りたような表情を浮かべるから。  それまで理央を縛り付けていたものの重さが、わかってしまって。 「だったら、好きにすればいいじゃない」  どんな不満を抱えて、どんな想いを秘めて、これまで生きてきたのか。  それさえも打ち明けてくれなかった理央のことが、少しだけ腹立たしくもあり。 「……好きに、語ればいいじゃない」  今のあたしには、引き篭もることしか出来ないことを痛感する。 「紅水晶が、煌めいて……もうすぐ、終わってしまうのかしら」  少し、迷いを帯びた視線。  けれど、窓の外へ向ける意志は薄弱だ。 「おい、俺の可愛い妹」  真後ろで、声がした。 「ひゃぁっ!? ど、どうして汀があたしの部屋にいるのよ! 誰の許しを得て――」 「兄貴が妹の部屋に入るのに、許可なんざいらねえだろ」 「いるに決まっているでしょう! 毎回毎回、汀はあたしに馴れ馴れしすぎるのよ!」 「ああん? そりゃ俺とお前の関係だからな」 「親密な関係になった覚えはないわよ……」  強情な汀に、次第にあたしの語尾は弱まる。  汀の様子が、妃が死ぬ前のものに戻ったように見えてしまったから。  どうしようもなくシスコンで、あたしのことばかり気にかける、愚兄。 「着替えでもしてくれたら、丁度良かったんだがな」 「ナチュラルに気持ち悪いことを言わないで」  真顔で、そういうことを言う。 「俺に気持ち悪いセリフを言わせるのは、世界でお前一人だよ。どうだ、少しは誇らしいだろ」 「うるさいわね。あたしは今、とても機嫌が悪いの」  軽薄な態度は、嫌いだった。 「第一、最近はあたしを避けていたんじゃないの? ようやくシスコンが治ったと思っていたら、またこの調子? 呆れるわね」  あたしは、知っている。  瑠璃から、知らされていた。  汀がどうして、あたしを避けていたのか。  汀がこれから、何をしようとしているのか。  汀が、あたしに嫌われる覚悟を決めたということを。 「色々と、事情があるんだよ」 「……ふぅん」  知らないふりを続けることにしていた。  汀の目的、覚悟、それを遊行寺夜子は知らない。  そうしていれば、汀のしようとしていることから目を反らせるような気がしたから。  止めることも辞めさせることも出来ないあたしには、他にどうすることも出来ない。 「紅水晶は、諦めたのかしら?」  殺すことを、とは言わず。 「さあな」  歯がゆそうに、表情を歪めて。 「俺には理央を説得することなんて、出来ねえんだよ。俺は、あいつの気持ちなんざ全くわかんねえからな」 「理央の意志を変えさせる誰かがいるとしたら……それは、やっぱり」  瑠璃、なのだろう。  そうあたしが、言おうとした矢先。 「お前なんだろうな――夜子」 「へっ?」  汀は、あたしの表情を見据える。 「お前しか、あいつを理解してやれねえよ。あいつを救ってやれるのは、俺でもなく、瑠璃でもなく、お前なんだろう」 「でも、あたしは……」  とっくに、理央に拒絶されて。 「なんだ? 喧嘩でもしたのか? ははっ、結構じゃねえか」  あたしの落胆した様子に、汀は声を上げて喜んだ。 「お前と理央って、一度も喧嘩をしたことがねえんじゃねえのか? こんだけ同じ時間を過ごして、俺は一度も見たことねえぞ」 「だって、理央は喧嘩をするような女の子じゃない」 「だけど理央だって、一人の人間だ。お前に対して不満も欲求もあったに決まってるだろ」 「………ん」  その言葉に、無言で頷いて。 「さっきっから、似合わねえしかめっ面しやがって! そんなに理央のことが心配なら、お前が助けに行けばいいだろうが」 「それは、元々よ。あたしはいつも、こんな顔」 「いつものお前は、俺に優しく笑いかけてくれる可愛い妹だったぜ」 「……馬鹿じゃないの」  全くもう、この愚兄は。 「納得してねえなら、引き篭もるんじゃねえよ。お前は、遊行寺夜子だろ? 本に愛されたお前なら、何かを変えられるはずだ」  それは、とても力強い言葉だった。 「それともお前は、理央のことが心配じゃないってのか?」  その、言葉は。 「そんなわけ、ないでしょう!」  見逃せる言葉ではなかった。 「言われなくても、わかってるわよ。このまま紅水晶を終わらせる気なんて、あたしにはありません」  嘘だ。  さっきまで、自らの殻に閉じこもろうとしていたのに。 「あのまま、理央を放置できるわけないわ。勝手なことは、させない」 「……そうか。だったら余計なお世話だったな」  汀は、薄っすら笑みを浮かべる。 「当たり前よ! もういいから、黙っててっ!」  納得している自分は、どこにもいない。  満足している自分も、どこにもいない。  ただ、理央に拒絶されたことが、恐ろしかった。  いつも傍にいてくれた理央が、あたしを嫌いになったみたいに思えてしまって。 「もう一度、理央に会ってくる」 「……場所は、分かるのか?」 「――ふん、見つけてみせるわよ」  相手が理央で、これが魔法の本の舞台上ならば。  魔法の本の担い手である、遊行寺夜子が望むなら。 「紅水晶の続きを、確かめましょう」  勢いに身を任せ、書斎を出ようとしたあたしは、それから汀に振り返って。 「あ? なんだよ、尾行なんてしねえから安心しろ」 「……そうじゃないわ」  書斎で、二人。  昔のように、お喋りをした。 「汀の顔を見たの、久しぶりなような気がするの」 「……あん?」 「理央が、寂しがるから」  遠くなった距離。  対立した目的だが、それでもあたしと汀は兄妹だった。 「これからは、なるべく家を空けないように。夕飯も、共にするように」  汀のやろうとしていることは、許せない。  だが、遊行寺汀という存在は、数少ないあたしの家族だから。  気持ち悪くて、鬱陶しい、どうしようもないシスコンでも。  「わかったかしら、汀お兄ちゃん?」 「――っ!」  驚く汀の表情を見つめて。  少し、してやったりという満足感を得る。 「よ、夜子……」  背後で、熱を帯びる汀の声。   ――汀お兄ちゃん。  幼い頃のあたしは、汀のことをそのように呼んでいた。  何気ない二人称が生んだ、汀の妹主義思想。  喜ぶ汀が気持ち悪くて、呼ぶのを辞めた。  以来、一度も口にすることはなかったけれど。 「たまには兄らしいことを見せてくれた、お礼よ」 「……それは、卑怯だろ」  投げ捨てられた言葉が、少し心地よかった。  ナイフが胸を抉る感覚は、体の芯が凍りついてしまうような恐怖を伴っていた。  身体の中に、異物が混入してくる感覚。  それは、生まれて初めて体験するものだった。  痛みよりも恐怖。  走馬灯のような何かが頭のなかを駆け巡り、鮮血が視界を覆う。  切断された意識が正常を求めても、狂った世界に道標はなく。  けれど、ぶつぶつに途切れた意識が繋がりを求め合い、次第に意識が蘇る。 「……あ?」  生きていた。  生きていた。  虚ろな意識の中で、それだけは明確に理解できた。 「良かった……瑠璃くん」  隣には、理央がいて。  表情は、にこやかだった。 「あれ、俺……」  混濁する記憶を整理しようと、まずは傷口を確認するが。 「……は?」  抉られた箇所に指を向けると、そこには何の損傷もなかった。  「嘘だろ……どうなってる」  たしかに俺は、刺されたはずなのに。  あのときの恐怖は、まるで違えるはずもなく本物だったはずなのに。  傷口どころか、着ている衣服でさえ、傷付けられたことを否定していた。 「大丈夫? ちょっと、混乱しちゃってるのかな……」  心配そうに覗きこむ理央。  額には、うっすらと汗が滲んでいた。 「俺は、刺されたはずじゃ……?」  恐怖を植え付けられた、傷口。  しかし、その痕跡は一切なく。 「刺されてないよ、大丈夫」 「そんな馬鹿な。俺は確かに、あのとき!」  ナイフの冷たさと、痛みの恐怖を体験した。  あれが夢だとでも言うのか? 「理央を庇ってくれたよね。本当に、嬉しかった。まるで、理央の王子様みたいで……」 「……理央?」 「俺は、理央を庇って……それで、刺されたはずじゃ」 「そんなわけないよ。だって、紅水晶の物語では、吸血鬼さんが瑠璃くんを庇うんだよ。刺されるのは、瑠璃くんじゃない」  確かにそれが、紅水晶の物語だったけど。  それでも、俺はあの時。 「瑠璃くんも、憶えているよね? あの後、どうなったか」 「あのあと……?」  切断された意識が、忘却の果てに遺した過去。 「あのとき、瑠璃くんは理央を庇ってくれたけど」 「……あのとき、俺は理央を庇おうとして」 「それでも理央は、盾になって瑠璃くんを守った」 「……それでも理央は、俺に庇われることなく俺を守った」 「だけどハンターさんは、諦めずに瑠璃くんを狙おうとするから」 「……だけどハンターは、諦めることなく俺を狙って」 「――理央が」  脳裏に浮かんだ、凄惨たる光景。  導かれた言葉の先に、見つけた記憶。  怒りに狂った吸血鬼が、捨て身で反撃に出る瞬間。  本能的な凶暴性が顔を出し、狩る側であったはずの少女をxxしてしまった。 「……えへへ、思い出した?」 「…………」  戦慄する記憶のゆらぎ。  吸血鬼の本能を垣間見た俺は、自らその現実から逃げ出し、一時の忘却を選んだのか。  少し、身体が震えた。  血の匂いを、鼻は憶えている。  あれは、俺の血の匂いじゃなくて――少女の。 「でも、これで瑠璃くんは理央が独り占め。もう、邪魔する人はいないね」  吸血鬼は、その事実を意にも介さない。  「……そ、そうだな」  根付いた感情の正体は、恐怖? 「夜ちゃんも来ない。ハンターさんもいなくなった。そして誰もいなくなった」  そして物語は、夜の教室へと至る。 「瑠璃くんと、お話したいことがあったんだよ」 「話?」 「そう、お話。昨日の続きがしたいかな」 「何も、こんなときに」 「こんなときだからだよ」  二人っきりの、夜の教室。  気絶した俺を、理央が運んでくれただろうその場所で、彼女は何を話すのだろうか。 「き、昨日、理央が言った言葉、覚えてる?」 「……そ、それは」  どぎまぎする理央の様子から、すぐに察する。 「す、好きだって、言ったこと」  顔を真っ赤にさせながら、それでも羞恥心を耐える。 「覚えてるよ。忘れるものか」  大事な友達が、俺のことを好いてくれていた。  その感情は、とても嬉しいことだと思うから。 「い、いつからだと思う? 心当たりとか、あるかな?」 「……正直、理央の前では格好良い男だった記憶はないからなぁ」  当たり前のように時間を過ごして、よくおしゃべりしていたことだけ。  特別な何かを、共有したわけではないと思う。 「うん、そーだね。瑠璃くんにとっては、理央はその辺の女の子と同じように見えてたかもしれないけど……」  じっと、俺を見つめて。 「理央にとっては、そんな普通の瑠璃くんが、特別だったんだよ」 「……どういう意味だ?」 「誤解されちゃうかもだけど……同い年の男の子の友達なんて、瑠璃くんが初めてだったの」  少し、うつむき気味に。 「だから、そこにいるだけで意識しちゃって……ですね……でした……」  滅茶苦茶照れている理央の様子が、とてもかわいらしく。 「夜ご飯を作ると、美味しいって言ってくれて。理央が困っていると、すぐに手を差し伸べてくれる」 「普通の友達として、普通の女の子として、瑠璃くんは接してくれたよね。それだけで、理央はときめいちゃってたんだよ」 「……夜子や汀だって、別にお前を腫れ物のように扱ってたわけじゃねえだろ」 「えへへ、二人との距離感は、瑠璃くんとはちょっぴり違うんだよ」  そして理央は、誤魔化すように笑った。 「よく考えてみれば、理央は誰でも良かったのかもしれませんな。たまたまた瑠璃くんが身近にいてくれたから、好きになっちゃっただけかも?」 「それを自分で言うか」  言われた方の俺は、どう反応すればいい。 「理央はお馬鹿さんだし、ちょろい女の子だし、ダメダメさんですからー」  至って気にしてないように、自虐する。 「だから、瑠璃くんでよかった」  俺しかいなかった。  特別な理由が、あったわけでもない。  もしかすると、消去法的に、理央は恋をしてしまったのかもしれないけれど。 「――身近にいてくれたのが、瑠璃くんで良かった! だって瑠璃くんは、こんなに素敵な男の子だもん!」  満面の笑みで、笑いながら。  俺の脇腹を、指でなぞった。 「…………?」  その行為の意味が、分からなくて。 「嬉しかったよ、泣いちゃうくらいに嬉しかった。やっぱり瑠璃くんは、理央の王子様だ」 「り、理央……?」 「でも、駄目なんだ」  泣きそうになる理央の様子に、少しだけ何かが引っかかる。 「紅水晶を、ちゃんと進めなきゃ」  零れ落ちそうになる涙を、拭って。 「……そろそろ、理央の気持ちに、答えが欲しいよ」 「え?」  疑念の正体を改めるまもなく、物語は次のページを開く。  停滞は許されない。  じっくりと考えることさえ、今の俺には許されていなかった。 「本当は、何もかもわかっているけれど、それでも形式として、ちゃんとして欲しいかな」  俺に恋する、女の子。  少女が思いを打ち明けて、俺に求めるものといえば。 「瑠璃くんには、大切に思ってくれる人がたくさんいる。夜ちゃんや、かなたちゃん……岬ちゃんも」  俺の周りにいる、身近な女の子。 「他のみんなに、理央が勝てるものは何もありません。その資格さえないことは、わかってるの」  でも。 「――紅水晶の煌めきに照らされてる間だけ、貴方に恋をすることを許してください」  あるいは、願うように。 「瑠璃くんのことが、大好きです。結婚を前提に、付き合ってください」  伏見理央は、はっきりと告白した。  二度目の告白をした。 「俺は――」  もはや、疑問の検証や思考をしている場合ではない。  今は、この告白の返事をしなければならない。  それこそが、伏見理央が紅水晶に求めた願いなのだろうから。 「今は、余計なことは考えずに、理央だけを見て欲しい」  うっとりとしたような顔を浮かべ、答えを望まれる。  俺のことを愛してくれる少女は、あまりにも魅力的に見えてしまう。  それから、伏見理央という少女が俺にとって、どういう存在かどうかを考えてみて。 「――そこまでよ」  だけど、理央の願った告白劇は、中断させられてしまう。 「何を物語に流されているの。キミまで役に成りきってるんじゃないわ」 「よ、夜ちゃん!?」  教室の入口から、静かに現れる白銀の少女。  赤い瞳の煌めきは、紅水晶の輝きをも上書きしてしまう。 「どうして……!」 「どうしてもよ。このまま好きに語らせてしまったら、あなたは消えてしまうのでしょう? それだけは、絶対に許さないわ」 「……そうだ、そうだった」  事態の急転に、思考が追いついていなかったけれど。  俺が今しなくちゃいけないのは、理央から本を受け取ること。そして、物語を閉じること! 「夜ちゃんは……まだ、理央の邪魔をするの?」 「するわよ。当たり前でしょう。あなたを失いたくはないの」 「それが、理央の望みでも?」 「ええ、もちろん。あたしはそれを望まないから」 「……そっか」  声を低く、不満を込めて。 「それは、ずるいよ」  ただ、切実に鳴く。 「理央にだって、叶えたい望みくらい、あったのに」 「……理央?」 「もしも夜ちゃんが、理央の前に立ちふさがるなら」 「おい、理央?」  俺の隣に立っていたのは、少女か、吸血鬼か。 「――夜ちゃんは、理央の敵になっちゃうね。倒すべき、敵」  ああ、それは考えるまでもないことか。 「敵は、排除するしかないんだよ。あの、ハンターさんみたいに」  そして紅水晶は、最後の輝きを放つ。  むかしむかしあるところに、一人のお嬢様がいました。  お嬢様は本が大好きで、けれど本以外のことに興味のない引きこもりさんでした。  心を閉ざし、周囲に関心はなく、ただ空想に居場所を求め続ける飛べない鳥。  お嬢様はとっても可愛らしいのに、いつも無表情で活字を追うだけ。  お嬢様のお母様は、そんなお嬢様のことを溺愛し、本を読むために適切な環境を用意したのです。  本土から切り離された小さな島。  森の奥にひっそりと佇む古めかしい図書館。  外部からの干渉を拒絶する、お嬢様だけの世界です。  けれど、それだけでは成り立ちません。  お嬢様の世界は、決して一人では維持できるものではありませんでした。  お母様にも、やらなければならない仕事があります。  多忙の身ですから、常にお嬢様とともにあることはできないのです。 「今日からここが、あなたのお家よ」  用意された少女。 「名前は――そうね、伏見理央」  新しい名前。 「あなたはここで、夜子の世話をして頂戴」 「よるこ?」 「私の宝物の名前よ。貴方とは、同い年だけど――くれぐれも、粗相のないように」  念を押して、警告されます。 「あなたの生涯を、夜子に捧げてくれるかしら」 「……はい」  お母様に、信じて頼れる相手というのはいませんでした。  だからこそ、最初からそういう風に育てられた存在を用意することで、自らの代わりに仕立てあげようとしたのです。  いうなら、私は。 「――夜子のためだけに、生きなさい」  道具なようなものなのです。 「ルールを破ったらどうなるかくらい、言うまでもないことよね」  刻まれた契約。  抗うことの出来ない制約。  「わ、私は、ルールなんて、破るつもりは……」  「そうね。それこそ言うまでもなく、貴方はルールを破れない。そういう女の子を、私は用意したのだから」  私に、行く場所も帰る場所もあるはずはなく。 「分かったからしら、理央ちゃん」 「…………?」  その言葉の意味が、分からなくて。 「少し、覚えが悪いみたいね。貴方のことよ、伏見理央ちゃん」 「……あ、そうでした」  伏見、理央。  伏見、理央。  理央、理央、理央。  今日からそれが、私の名前。 「……理央」  忘れないように、これを一人称にしよう。  最初の命令なのだから、きちんとこなさなきゃ。 「ルールを守り続けている間は、あなたの生涯を遊行寺家が負担しましょう。私が許す範囲内なら、お金も自由に使って構わないから」  その時は、この関係に不満なんてなかった。  むしろ、理央をここに連れてきてくれたお館様に、感謝をしてたくらいだ。  だから、最初に理央に与えられた命令群を見たときも、ただ漫然と受け入れていて。 「それでは、案内するからついてきなさい」  お館様は、理央にいいます。 「ゆりかごから墓場まで」  命令を下すかのように。 「貴女が、死ぬまで仕える場所よ。貴方の全てを尽くして、夜子を幸せにしなさい」  その日から今に続く、伏見理央の不自由の始まりです。  明確な敵意を持って、理央は夜子と対峙する。  一度は退けたはずの相手が、再び覚悟を決めてやってきた。  それは、理央にとっても想定外の事だったらしい。 「……敵? あたしが、理央の?」  突きつけられた言葉を、夜子は咀嚼する。 「そうだよ! 今の理央は吸血鬼さん! 夜ちゃんのお世話係じゃないんだよ!」  紅水晶に塗り替えられた立場が、理央の自由を約束する。 「例えば、お館様から受けていた、"夜ちゃんを傷付けるな"っていう命令だって、今は無効なんだから!」 「……ふぅん?」  けれど、夜子は臆さない。 「ほ、本当だよ! 物語が開いている間は、理央は登場人物なんだから! 定められたルールも、舞台の上では意味が無いの!」  舞台の幕が上がっている間は、現実とは切り離された世界が展開する。  不自由に縛られた少女は、自由な吸血鬼へ。  それが、伏見理央の願いだった。 「だったら、好きにしなさいな」  まっすぐと、理央を睨み返して。 「あたしを拒絶するなら、実力行使でもしてみれば? 引きこもりのお嬢様くらい、片手で倒せてしまうんじゃないのかしら」  一歩、夜子は踏み出して。 「こう見えて、運動神経なんか欠片も持ち合わせていないの」  堂々と、胸を張る。 「こう見えても何も、夜ちゃんは運動音痴さんにしか見えないよ!」  腰が引けながら、理央は夜子の接近に抗おうとする。 「こっちこないで。ここは、理央と瑠璃くんだけの場所。エキストラさんは、不要だよ」 「魔法の本を渡してくれたら、考えてあげる」 「――っ!!」  余裕ぶった態度の夜子が、一歩近付いた瞬間。  険しい顔のまま、理央は重心を深く静める。  それは、敵を迎撃するかのような、本能的な構えである。 「理央は、吸血鬼なんだよ」  それ以上、近付いたら。 「やめろ、理央」 「近付いたら? どうなるの?」  火に油を注ぐように、挑発する。 「……さっきのハンターさんみたいになっちゃうよ」  気を失っていた間に起きた事件。  原作では、ハンターを撃退したというけれど。 「ああ、もうそこまで物語が進んでいるのね。だったら、急がなければならないわ」 「だから、近付かないでよ!!」  その叫び声は、悲しい色をしていた。 「本当に……夜ちゃんを傷付けちゃうよ。理央は、悪い吸血鬼さんなんだよ」  望みを叶えるために、血を流す。  冷徹で残酷な宵闇の支配者を、人は吸血鬼と呼ぶ。 「よく、聞こえないわ」  けれど、夜子は。 「あなたの本音が、聞こえない」 「――ッ!」  大きな一歩。  それは、不用意な一歩だったように思う。  近付かないでと叫ぶ吸血鬼へ、無防備を晒す人間は。 「やめろ、理央ッ!」  自らの障壁となる存在を、吸血鬼は許さない。  理性を捨てて、本能が語る。  吸血鬼にとって、人間とは食料であるのだから。 「夜ちゃんの、馬鹿」  掠れるような文句が、風を切り裂いて聞こえてくる。  危険領域へと踏み込んだ夜子に対し、実力行使で排除する。  「……それ以上は、ダメだ!」  近づくな、と。  夜子に対して訴えかけようとした。  けれど、それよりも先に理央は行動した。 「あっ……」  真正面から、抱きかかえるように捕まる夜子。  その勢いのまま、教室の床へと倒れこむ。  余りにも容易く捕まった夜子は、一連の動きに全くついて行く事ができず、ただ呆然としているだけ。  夜の教室に、吸血鬼の白い牙が星のように輝いた。  夜子の白い首筋へ、躊躇のない噛み付きが迫っていた。  人外染みた行動に、何も出来なかった俺は。 「……理央」  噛み付かれる直前、それでも尚微笑む夜子を見た。  その表情は、とても穏やかで。 「――かぷっ!」  首筋への到達を許して尚、それは変わることがなかった。  その光景は、傍から見るとひどく異様な光景に見えてしまう。  理央が、夜子に噛み付いて。  夜子は微笑み、理央は涙を流している。  どちらが加害者で、どちらが被害者なのか――不覚にも、俺はその光景に見惚れてしまっていた。 「……だから、言ったじゃない」  噛み付かれながら、夜子は呟いた。 「あなたは、あたしを傷付けることなんて出来ないわ」 「……え?」  驚きが、まず初めに。 「……うううっ」  それから、遅れて理解がやってきた。 「熱烈な口付けをしてくれるなんて、確かに今日の理央は一味違うのね」  噛み付いて、いなかった。  確かに唇は夜子の首筋を捉えていたけれど、しかし牙を差し込むまでには至らなかったらしい。  寸前まで、凶器をつきつけながら――結局、最後の一歩が踏み出せなかったのか。 「……どうして……理央は、もう命令なんて関係ないのに……どうして、夜ちゃんは自信満々なの……っ」  狂気を振りかざし、暴力を魅せつけて尚、立ち向かってくる夜子へ。  理央は、逆らうすべを失ってしまった。  「わかんないよ……! どうして、理央は噛みつけないのかなあ……?」  抱きついて、首筋に唇を近づけたまま、理央は悲しみにくれる。  「命令があろうがなかろうが、関係ないのよ。あなたは、誰かを傷付けられるような女の子じゃないわ」  泣きじゃくる理央を、そっと抱きしめて。  「本を渡したくないなら、その理由をちゃんと聞かせて。あなたの本音をちゃんと語りなさい」 「あなたが何に悲しんで、何を求めているのか――心を裸にして、教えてほしいわ」 「……でも、理央はっ……!」 「思えば、理央の本音を聞いたことがなかった気がするわ。本音で語り合ったことなんて、ないような気がする」 「あたしは、理央との関係の上に、あぐらをかいていたのかもしれないわね」  ああ、やはりこうなるのだろう。  理央のことを一番近くで見ていたのは、ほかならぬ夜子なんだ。  夜子こそが、理央を救ってあげられる人物。 「あなたはいつも、何を思って生きて、何に不満を抱えていたのかしら」 「うううっ……夜ちゃん……」  もはや、泣きじゃくることしか出来ない理央へ。 「真心を、教えて欲しい」  吸血鬼という肩書が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。  一皮むけて見れば、やっぱりそこにいるのは一人の少女でしかなく。 「……そ、それは……命令?」 「いいえ、お願いよ」  続けて、夜子は言った。 「家族に命令なんて、おかしいでしょう?」 「――う、ああっ」  その一言は、おそらくは――理央の全てだったのだろう。  理央の抱えていた不満が、少しづつ溶けていく。 「理央は……理央は、ね……」 「夜ちゃんが、羨ましかったの。いつも自由に生きて、楽しそうに好きなことをする。周りには、素敵な人がいてくれる」 「……それは、理央も同じだと思っていたのだけど」 「理央は、立場が違うから……みんなよりもずっと後ろの位置にいたんだよ。理央は本当の意味でみんなとお友達にはなれないから」 「どういう意味?」  その言葉を聞いた瞬間、夜子の表情が険しくなる。  「お母さんから何を命令されていたのかは知らないけれど、少なくともあたしは、あなたと対等な立場だと思っていたつもりよ」 「そーじゃないよ。みんながそう思ってくれてることは、知ってるつもり」  そっと、言葉を選びながら。 「やっぱり理央は、駄目駄目さんだから。みんなとは違うから、憧れちゃうのです」 「…………」 「夜ちゃんと瑠璃くんのような関係が、理央の理想だったんだよ。普通のお友達。普通の青春。普通の、恋」  決して。  決して、俺や夜子の人生が、一般的な普通とは言いがたいとは思うけど。 「……お前がそうまで引け目を感じているのは、孤児である理央を遊行寺家が引き取ってくれたからか?」  夜子の世話係を探していた闇子さんが、孤児院から最も適した人物を連れてきたと聞いている。  幼少の頃からここで働く道を与えられた理央は、立派にその役目を遂げているが。 「闇子さんの命令とやらを律儀に聞いているのも、そのせいなんだろ? でも、お前を苦しめるようなものであるのなら――」  聞く必要なんて、ないだろ。  闇子さんに拾われて、お金持ちの家に連れて来られて、たとえ使用人として扱われても。  伏見理央は一人の人間で、そこまで自らを貶める必要はないだろうに。 「……そうだね。でも、理央にはそれが出来ないんだよ」  すっと、力を抜いて。  理央は、夜子から離れた。 「理央は、夜ちゃんのために生きてるからね! 理央は、夜ちゃんよりも幸せになっちゃ駄目なのです」  そうして笑顔を浮かべる理央を見て、俺は少し恐ろしくなった。  理央に、こうまで意識付けさせるようなことを、闇子さんは言ったのだろうか。  お願いでもなく頼みでもなく、命令。  あの人は、幼少の頃の理央へ、何をしたのだろう。 「……ねえ、理央。貴方は、お母さんからどういう命令を受けていたの? その内容は、いつだって教えてくれなかったわよね」 「お母さんから口止めの命令をされていたことは分かってる。だからこそ今、聞いてみたいのだけど」 「……多すぎるから、ちょっとだけ、ね」  複雑な表情のまま、理央は口を開く。  多すぎて? 「いつも、笑顔でいること」  1つ、受けた命令がこぼれ落ち。  続いて、洪水のように溢れていく。 「夜子を危険に晒すな、家族以外の人間と仲良くなるな、夜子の意志に従え、夜子の嫌がることをするな、夜子の快適な暮らしを支えろ、他の全てよりも夜子を優先しろ」 「夜子を不愉快にさせるな、夜子を喜ばせろ、夜子を楽しませろ、夜子の都合のいい存在になりなさい、夜子のために全てを捧げてそして死ね」  雪崩れ込む命令群に、一瞬耳を疑って。  俺も夜子も、ただ目を見開いて驚くことしか出来なかった。 「夜子より幸せになるな。夜子に幸せだと思われるな。夜子よりも孤独であれ。夜子よりも不幸せであれ。伏見理央は羨ましがられる人生を送るな」 「伏見理央の人生には常に夜子を中心に過ごせ。伏見理央の人生は、夜子の邪魔であってはならない」 「――徹頭徹尾、遊行寺夜子のためだけに生きろ。それが、伏見理央の人生だ」  止まることはなく。 「そしてどれよりも、何よりも――これが、辛かったかなぁ」  俺を、見つめて。 「伏見理央は誰かと恋をしてはならない。夜子以外の人間と共に生きるなど、許されない」 「何よ、それ……」  さすがの夜子も、信じられないといった様相。 「伏見理央が、四條瑠璃に恋をすることを禁ずる――ってさ」 「……は?」  俺との?  なんだ、それは? 「理央の恋が、夜ちゃんの人生の妨げになるらしいって思われちゃったのかな」 「あ、あたしがどうして、理央の恋を邪魔だと思うのよ……!」  さすがの夜子も、こればっかりは意味不明だったらしい。  納得出来ないような、判断しかねるような、そんな様子だ。 「理由や原因なんかは、理央にも分かっちゃうくらい簡単だけど……お館様が、夜ちゃんの心配をして、余計なお世話をしちゃうのも気持ち的には、わかるんだけどね」 「わ、わからないわよ! あたしにも分かるように、説明しなさい!」 「んーと、それは秘密だよ。だいじょーぶ、いつか夜ちゃんも気付く日がくるから」  適当な言葉でごまかしながら。 「でも、お館様の親心なんか、理央には関係ないよね」  そして恋を奪われた少女は、何を思ったか。 「想像してみて? 理央はね、ずっとずっと瑠璃くんのことが好きだったんだよ」 「でも、それが夜ちゃんの邪魔になるなら、この気持ちは胸に閉まっておこうと思ってた」 「どのみち、命令に関係なく、理央の気持ちが叶うはずなんてなかったんだし」  でも、と。 「それでも恋をする気持ちは素敵だったし、陰ながら瑠璃くんを見守ってるだけで、理央は満足だったのに……」  後から付け加えた命令だと、言っていた。 「理央の気持ちに気付いたお館様が、一方的に命令した。理央は、ただ片思いを続けてるだけで良かったのに……!」  目には涙を浮かべ、彼女の本音は語られる。 「あなたは、そこまで瑠璃のことを……」  睨むのではなく、悲しげに。  ただ、俺を見た。 「……理央が、本を閉じたくない気持ち、もう分かるんじゃないかなぁ?」  共感を求めるように、理央は語る。 「何もかも封じられてきた理央が、唯一自分らしく生きれるのが、この紅水晶の物語なんだよ」 「物語が開いている間だけは、私は私自身でいられるの。命令という鎖から、解き放たれて」  それから、俺を見つめた。 「この恋が再び封じられてしまうくらいなら、たとえ消えてしまっても、最後まで遂げたいと思ったの。それって、何かおかしいことかなぁ?」  涙声だった。  懇願を求めるような、必死さがにじみ出ている。 「お母さんが……理央に、そこまで酷い命令をしていただなんて」  怯えるような、夜子の表情。 「か、勘違いしないでよ! お館様は、悪いようにしたかったわけじゃないと思うの。理央への命令だって、夜ちゃんを思うがあまりに――」 「それは、違う」  慌ててフォローする理央へ、俺は言った。 「理央がいいように扱われているのだけは、確かだろ。どうみたってその命令は、異常すぎる」  一人の少女から、名指しで恋心を剥奪するという行為。  それがどこまで残酷なものであるかは、今を見てみれば一目瞭然だろう。  こんなにも苦しんでいるのは、ほかならぬお前じゃないか。 「……そうかもね。そうかも。あはは、そうだね……」  乾いた笑い声が、虚しく響く。 「でも、これが理央の本音だよ。今まで抱えてきた不満と、これから望むこと全て」  紅水晶を続ける、理由。 「……それがあなたの本当の気持ちというわけね」  噛みしめるように、夜子は口を開く。 「よく、わかったわ。あなたの抱えていたものは、あたしが想像していたものよりずっと重いものだったのね」 「……夜子」 「平穏な図書館は、理央がいてくれたからこそ成り立っていたのに……あたしは何も知らなかった」  そうして夜子はすっと遠くの方を見つめた。  悲しみに暮れて、半ば諦観するようなその視線は、俺に奇妙な焦燥感をもたらす。  理央の本音を聞いて、ようやく向き合えたのに。 「だからあなたは紅水晶を最後まで語りたいというわけなのね」 「……うん、そうだよ」 「他の誰でもなく、あなた自身の望みなのね?」 「私自身の願いだよ」 「……そう」  ゆっくりと頷いて。 「だったら、貴方が望むようなエンディングを迎えなさい。あたしはここで、舞台を降りましょう」 「……夜ちゃん!」 「よ、夜子!?」  予想外の反応が、飛び出してきた。  「どういうつもりだよ!? お前は、理央を失ってもいいのかよ!?」  ここで物語を継続するということは、つまり。  理央が、死ぬということだ。 「いいわけないでしょう!? だけど今、理央は生まれて初めて正直に願いを口にしてくれたのよ! あたしはそれに応えてあげたいの!」 「だからって、こんなんじゃ駄目だろ! 命令が原因で苦しんでいたのなら、その命令を撤回させればいいだけだろ!」  逃げる先に、魔法の本を選ぶのは、間違っている。 「撤回? それは、どうするの?」 「そんなの、命令を下した闇子さんに、直接――」  言ってから、気付いた。  遊行寺闇子は、既にこの図書館にいない。 「で、でも、いつかは帰ってくるだろ!? そのときに、改めて命令を撤回させれば」 「いつかって、いつよ。それに本当に、撤回してくれるのかしら? お母さんが、あの強情なお母さんが、そう簡単に応じてくれるとも思えない」 「だけどこのまま理央を見殺しにするよりは、ずっと筋が通ってるだろ!」 「大体、なんで理央は律儀に命令なんて聞いてんだよ!? そうまで苦しい命令なら、無視してしまえよ!」 「……あはは、それが出来ないから困ってるんだよ。命令は、逆らえないから命令っていうんだよ?」  夜子という味方をつけた理央は少し安堵した様子。 「ねえ、瑠璃――あなたは」  言わせないで欲しいと、瞳が言っていた。  うんざりだと、吐き捨てるように。 「キミは、理央の取り戻した恋心を、もう一度奪おうというのかしら」 「……えっ?」 「本を閉じるということは、もう一度、理央に恋を禁じられる苦しみを味合わせるということよ」  魔法の本を破壊して、物語を終わらせてしまったら。  理央は命令に縛られた生活に戻され、今まで通りに戻ってしまう。 「今までの日常に戻れてキミは嬉しいのかもしれないけれど、それは理央にとって苦痛なのよ。だからこそ、こんなに抗っているのでしょう?」 「……夜ちゃん」 「それが理央にとって、自らの消滅よりも優先するものだった。それだけのことよ」 「だけど……でも!」  納得なんて、出来なかった。  ここで頷くほど、俺は自分の気持ちを整理できていない。 「少なくともあたしは、さっきの理央の本音を聞いて、本を渡してなんて口が裂けても言えないわ」  夜子は、俺を見下す。  強烈な物言いに、言葉を失ってしまった。 「後のことは、何も心配する必要はないわ。さっきの話で、全部わかったから」 「うん……夜ちゃんなら、安心して任せられる。理央を最後まで、伏見理央でいさせてね」 「……わかってるってば」  少し、俯いて。 「あたしは、あなたがあたしにしてくれたことに対して、何か一つくらい返してあげることが出来たのかしらね。それだけが、心残りよ」  噛みしめるように言葉を囁いて、夜子はそっと抱きしめた。 「さようなら、あたしの大切な理央。最後に、あなた自身の言葉が聞けて、良かったわ」  もはや、俺は何も言うことが出来ず。 「うん、ばいばいだね。そして、いつか――また」  二人は別れの言葉を告げた。  理解を共有した二人を見つめながら、俺は途方に暮れていた。  自分の存在の継続よりも、自分の存在の有り様を優先する理央の気持ちが、理解できなくて。  それを理解できないのは、俺が理央の立場になったことがないからだろうか?  何が正しくて、何が間違っているのか。  幸せそうに理解し合う二人を見ていると、わからなくなってしまう。 「此処から先は、二人だけの物語よ。邪魔者のあたしは、舞台を降りましょう」  そして、物語はラストシーンを迎える。  果たして俺は、何を選択すべきだろう。   それはまるで、置いてけぼりをくらったような感覚だった。  夜子と理央は互いに理解を共有し、納得し、それぞれの意志を尊重した。  けれど俺には、未だに紅水晶の物語を許せなくて。 「……俺は、まだ」  夜子が去ってから、奇妙な静寂が俺達を包む。  ぎこちない距離感が、今の心情を表しているようだった。 「色々とハプニングが起きちゃったけど、これでようやく続けられるね」  それでも理央は、継続を望む。 「一応、今からクライマックスなんだけど、いいかな?」 「……何がだよ」  本当に、何がだよ。 「紅水晶の吸血鬼さんは、最後に告白をするのです。永年の果てに見つけた、小さな恋心を、ありったけに込めて」  そして、少年は吸血鬼を拒絶して。  そこで、物語が終わるのだろう。 「瑠璃くんは、読んだことがないんだよね? だったら、最後の選択肢も知らないのかな」 「……選択肢?」 「ちょっと、こっち来て?」  招き猫のように、手を振って、椅子を指さした。  「何をするつもりだ? 言っておくけど、俺はまだ、終わらせるつもりなんて――」 「そんなんじゃなくて、ちょっぴり甘えたくなっただけー」 「…………」  ゆるやかな笑顔が、俺に不思議な圧力をもたらす。 「ここ、座って?」  俺がいつも使っている、何の変哲もない椅子。  そういえば、理央とは同じクラスになることはなかったなと、今更のように思う。 「わかったよ」  これで、何が終わるわけでもないだろうし。  理央の言うとおり、俺は腰を下ろす。 「えへへ、それじゃー理央も」 「……は?」  少し恥ずかしそうな声が、こぼれ落ちる。 「お邪魔します」  言うなり、俺の膝の上にちょこんと座った。  太腿の上にのしかかる理央の熱。  間近に迫る小さな背中に、理央の匂いを感じた。 「重くないかな? だいじょーぶ?」  それはまるで、子供のような甘えっぷり。 「一度、こーしてみたかったんだー。一つの椅子に、二人でお座り!」  遠慮がちに座っていた理央だったが、次第に重心は深みに移り変わる。  背中を俺の胸に預け、甘えるように顔を寄せる。  「お、おい……」  不意に与えられた理央のぬくもりが、俺を硬直させる。  ゼロ距離での関係が、とでも危なげなものに思えてならない。 「ちょっと、疲れちゃった」  俺の膝の上に座って、俺に身体を投げ出して。  零れ落ちた言葉の弱々しさが、不安をかき乱す。 「どうした、理央……?」 「んー? どうもしないよ。ただ、瑠璃くんの近くにいることが出来て、嬉しいなって」  頭を埋めたまま。 「理央は、瑠璃くんのことが大好きだから、いちゃいちゃしてみたかったんだよー」  極々自然に、愛情を表現してくれる。  そんな言葉ひとつに、俺の心は動揺する。 「ねえ、瑠璃くんは紅水晶を終わらせたいんだよね? 早く閉じたくて、仕方がない」  そして話は、真面目な方向へ。 「ああ。俺は夜子にみたいに、物分かりがいいわけじゃないからな。何一つ納得していない」  お前がこのまま消えてしまうくらいなら、お前に恨まれてもいいと思ってる。 「もちろんそれは、物語を最後まで語らせないという意味だ」  最後までシナリオを語り終えるのではなく。  無慈悲に本を破壊して、寸劇を中断させたいだけだ。 「瑠璃くんは、紅水晶の物語に抗えないの。どんなに逆らっても、理央の告白は止められないんだよ」 「だって――最後のシーンこそが、紅水晶の最も語りたかったものだから」 「……それは」  わかっている、つもりだ。  黙ってたって、何をしたって、物語は進んでいく。  俺がここにいるのも、それは間違いなく俺の意志だけれど。  同時に、魔法の本の意志でもあるのだ。 「人間と、吸血鬼は決して相容れない。姿形は似ていても、その本質は全くの正反対。だから、どんなに吸血鬼が恋をしても、決して結ばれない」 「どういう意味だ」 「全てにおいて、価値観って違うから。食べ物も、生活リズムも、考え方も、ぜんぜん違う。それは、関係を破壊してしまうほどの違いなの」  吸血鬼と、人間の違い。  その障害は、恋を阻むには十分すぎるもの。 「生きた人間の血を吸い続ければ、永年の時でさえ生きることが出来るんだから」  それが、夜の支配者、吸血鬼の不死性。 「もう、わかっちゃったかな? このままじゃ、理央と瑠璃くんは、絶対に結ばれないんだよ」 「……?」  気持ちとは、また別問題の事項を上げて。  理央は、何を伝えようとしていたのか。 「だったら、簡単だよね」  その可能性に気づかなかった俺は。  理央の言葉を聞いて、紅水晶の少年が、吸血鬼を見捨てた理由を思い知る。 「瑠璃くんを理央の眷属にして、同じ吸血鬼にしてしまえばいいんだよ。そうすれば、二人で永年の時を過ごすことが出来るよね」  人間を、辞めさせて。  同じ吸血鬼に成り果てろ。  「……それでお前は、俺を無理やり眷属にするのか。血を吸って、吸血鬼にしてしまうのか」 「嫌だなー、理央が瑠璃くんに、そんな酷いことするわけないよー?」 「……そう、だろうな」  もし、そんなことをしてしまったら。  拒絶する俺に、無理やり吸血鬼化を施してしまったら。  俺はきっと、理央を恨むことになるだろうから。  恋をするどころの物語ではなくなる。 「選択肢は、瑠璃くんにあるの」  そっと、囁く。 「理央は決して、無理強いをしない。大好きな瑠璃くんの気持ちを、尊重する」 「……やめろ」  本能的に、危険を察知する。  このまま理央に語らせてしまったら、きっとよくないことになる。  それをわかっていながら、俺は身動ぎ一つできないでいた。 「さっきは、夜ちゃんが来ちゃったから……やり直さなきゃだね。あはは、何度目でも恥ずかしいよぉ……」  終わりの足音が、すぐそこまで聞こえてくる。  魔法の本の嘲笑う声が、今にも聞こえてきそうだ。 「瑠璃くんのことを、心から愛しています。理央と生涯をともに過ごして欲しいです」  縋るような告白を、一つ。  それから、残酷な選択肢を、俺に与えた。 「――だから、理央のために、人間をやめて吸血鬼になってくれませんか?」  人間をやめて、吸血鬼になって。 「そして、理央を愛して下さい」  生涯を共に、愛し合おう。 「……理央」  今なら、夜子の語った結末が、理解できた。  愛情を、左皿へ。  人間性を、右皿へ。  半ば脅しにも似た選択肢を突きつけられた少年は、愛情を捨てることによって人間性を求めたのだろう。  「もし俺が断ったら――お前はどうするんだ」 「あはは、聞いちゃってもいいのかな。断りづらくなっちゃうよ?」 「…………」  永年の時を、孤独に生きてきた吸血鬼。  その最果てに見つけたのは、小さな恋心だった。  愛情を知った吸血鬼は、乾いた人生に彩りを与えられ、生きる活力が湧いた。   そう、それはまるで、今の理央と同じ。   もし、再びその彩りが失われるということになってしまったら。  恋心を失った吸血鬼は、どういう結末に至るのか。 「……自殺、か」  荒んだ精神が、膨大な時間の本流に耐え切れず。  死して楽になることを、選んだのだろう。  それが、誰かが語った、吸血鬼の殺し方だ。 「余計なことを、考えなくていいんだよ。瑠璃くんは、瑠璃くん自身の気持ちを話してくれたらいいの。瑠璃くんは、理央のこと、好き?」 「……好きに決まってるだろ」 「それは、友達として?」 「もちろん、友達として」 「じゃあ、一人の女の子としては?」 「…………」  答えに、詰まってしまった。  ここは嘘でも、頷いておくべきだったのだろうか。  それでも、懸命な理央を前にして、俺は少しでも誠実でありたかったのか。 「人間をやめてまで、理央のことを愛してくれるのかな」 「……それは」  脳にちらつく、妃の面影。  こんなときでさえ、あいつのことを思い出してしまうのか。 「瑠璃くん――」  理央が、うっとりとしたように見つめる。  俺に、答えを求めている。  考えろ、考えろ、考えろ。ただ、俺の気持ちに正直にあれ。  四條瑠璃は、伏見理央のことを愛してるのだろうか?  妃のことを過去として受け止め、目の前の少女のことを好いているだろうか?  嘘を、ついてしまえば。  それはきっと、理央が悲しんでしまって。  けれど断ってしまったら、理央は物語に消されてしまうのだろう。  逃げ出したかった。  本を閉じて、栞を挟んで、逃げ出したかった。  けれど、ページを捲る手は止まらない。  今の俺に、二つの選択肢のどちらを取るかしか、許されていない。  原作である魔法の本では、少年は人間性を選び、少女の思いを拒絶している。  俺もまた、その選択肢を選ばされることになるのだろうか?  考えに考えた果てに、俺は理央を見捨てるのか? 「……それは、嫌だ」  ああ、絶対に嫌だ。  俺はまだ、納得していない。  夜子とは違って、相手よりも自分の都合を優先してしまう。  俺はただ、目の前の少女を守りたいんだ。  ずっと傍で、笑っていて欲しい。  だから、物語に逆らおう。  想いを拒絶することだけは、絶対にしたくない。  俺は、原作の少年とは違う。  俺は、吸血鬼を見捨てない。   四條瑠璃には、伏見理央という存在が必要なんだ。 「……瑠璃くん?」 「理央……」  小さな唇が、潤いに満ちていた。  にじみ出てくる、理央への気持ち。  理央が必要だというこの気持ちの根源は――  理央が必要だというこの気持ちの根源は――「……共に、生きようか」 「えっ?」  驚いた顔で、理央は瞳を丸くさせる。 「生涯を共に生きようじゃないか。お前が望むなら、俺は人間性を捨てて、お前を選ぶ」  けれど、それは。  物語に抗いたいだけの、悲しい台詞だった。  きっと、理央を傷付けるような選択だっただろう。 「瑠璃くん……」  悲しそうな瞳が、全てを察していた。  俺の言葉から、俺の気持ちを全て汲み取ったのだろう。  それでも、理央は。 「おかしいな、理央の予想では、瑠璃くんは断ると思ってたのに」  喜びは欠片も見えず、ただ悲哀に満ちた涙。 「瑠璃くんは、凄いね……ここに来ても、まだ物語に抗うんだ」  原作の少年は、ここで吸血鬼を見捨てたが。 「だからこそ余計に、悲しいよ。理央は、ちゃんとした失恋すら、出来なかったんだ……」  ぼそりと呟いた小声に、俺は気付かないふりをした。  その言葉を真正面から受け止めてしまったら、きっと俺は壊れしまうと思ったから。  理央は、全てを察している。  俺が、物語に抗うためだけに、承諾したことを。 「じゃあ、キスしてくれる?」  まるで俺を試すように、唇を差し出した。 「理央を愛してくれるなら、その証明をください」 「……ああ、いいよ」  ここまで来たら、後に引くつもりはない。  どこまで最低な男に成り下がっても、俺は俺の都合を優先する。  ただ、失いたくなかったんだ。  物語に、理央を殺させたくない。  理央の告白を断ってしまったら――お前は消えてしまうんだろう?  原作の、吸血鬼のように。 「……ん、ちゅ」  理央の唇の味は、覚えていない。  ただ、心の痛みだけがずきずきと主張して、何も感じられなくて。 「ちゅ……ん……っ」  それでも、俺はキスをした。  伏見理央と、キスをした。  それが、彼女を生かす唯一の道だと、信じて。 「ぷはぁっ!」  そして、数秒の口吻が、終りを迎えて。 「……あはは、初ちゅー……」  照れ臭そうに、理央は笑う。 「…………」  唇に手を当てて、自らしてしまった行為の重さに、自己嫌悪する。 「……それじゃあ、ほら」  シャツのボタンを外し、首筋を露わにする。 「俺の血を吸って、眷属化しろよ。それで、物語は終了だ」  誰も、死ぬ必要はなく物語が終わる。  紅水晶に定められた物語とは、全く違うエンディング。 「……瑠璃くんは、しょうがない人ですな」  それでもまだ、理央は俯いて。 「わかったよ。付き合ってあげる。これが理央の、最後の優しさだよ」  そう言って、そっと俺に抱きついた。 「最後? 何のことだよ。これで誰も死ぬことがなく物語は終わる。俺は最後に、物語に抗ったんだよ」 「……そうだね」  ただ、相槌を打つだけ。 「いっぱい血を吸ったら、意識が薄くなると思うけど……心配しないでね」 「ああ、わかった」  これは、既に原作にはない展開だ。  俺は今、盤外の存在として物語を語っている。  吸血鬼と人間は、遂に結ばれて。  紅水晶は、ハッピーエンドに終わるんだ。 「ゆっくりおやすみなさい。理央の大好きな、瑠璃くん。目覚めたらあなたも、永年を生きる吸血鬼」  それはまるで、文章を読み上げるような台詞だった。 「物語は、これでお終いです」 「……ようやく、終わるんだな」  眼前には、理央の小さな唇が。  瞳は、俺の首筋を捉えている。 「じゃ、いくよ」 「ああ、好きにやれ」  そして吸血鬼は、仲間づくりを敢行する。  異形の存在としての真価を見せる、繁殖行為。 「――かぷっ」  首筋に、痛みが走る。  それは二度目の吸血ではあったが、最初のものとは格別の痛みだった。 「――っ!」  身体の中にある全てのものが、吸い取られていく感覚。  思いも、感情も、何もかもが急速に駆け巡る。 「う、あ……」  意識が、次第に薄れていく。  時間の感覚が奪われて、どのくらいの時間、理央に噛まれているのかさえわからなくなって。  これが、吸血鬼になるということなのだろうか。  これから俺も、生きた人間の血を吸わなければいけないのだろうか。  なんて――物語が閉じてしまったら、俺も理央も、吸血鬼ではなくなるのだから、考えても仕方がない。 「言葉にしなくても、全部伝わっちゃったよ」  掠れる視界の中で、雫が落ちる。  ぽたぽたと、誰かが俺の顔を覗き込みながら、泣いているのか? 「瑠璃くんは、酷い人だね。でも、そういうところも、大好きでした」  理央が、泣いている。  言葉が脳に、届かない。  何を言っているのだろう? 「理央と生きてくれるとは言ってくれたけど、理央のことが好きだとは言ってくれなかった。そんなんじゃ、理央は納得できるはずがないんだよ」  共に生きようとは、言ったけど。  好きだとも、愛してるとも言えなかった。  それは、何故なのか。 「血を吸ったときに、全部伝わってきちゃったよ。あはは、下手に逆らわなくても、はっきりいってくれたらいいのにね」  ああ、ダメだ。  物語の流れが、悪い方向へと向かっている。  どこだ? 何処で間違えた――? 「何も、間違ってないよ。瑠璃くんは、理央のことが好きじゃないんだから。そんなのは、理央も承知の上での事だったんだから」  ぽたぽたと、涙。  理央は、笑顔で泣いている。 「思っていたより、痛いんだね」  ああ、ダメだ。  それは、駄目なんだ。 「失恋の痛みに、死んじゃいそうだよ」  遠く、遠くへ意識が果てる。  俺の強情な意地なんて、物語は意にも介していなかった。  選択肢は、与えられているようで与えられていなかった。  結局、何を選んだところで、俺は理央を手放すことになってしまうんだ。 「でも、痛いと思える今が、とっても嬉しいんだよ。この痛みだけは、理央だけのもの」  恋することを禁じられた少女は、幸せそうにはにかんで。 「――ようやく理央は、自分の恋を全うできたんだね」  待てよ、駄目だ。  そんな終わり方があってたまるか。  ここで終わってしまったら、俺はただの糞野郎に終わってしまう。  ちゃんとした返事を、言葉にすることが出来ていなくて。 「さよなら、瑠璃くん。夜ちゃんのことは、任せたから」  意識が闇に沈みゆく最中でも、少女はいつまでも笑っていた。  満足そうに、幸せそうに、こんな結末を喜んでいた。  瑠璃くんが眠りについたのを確認した理央は、最後の後始末をしようと、図書館を訪れます。  息を殺し、気配を殺して。  今だけの特権を、理央は彼のために使おうと思います。  物語は、エンディングを迎えました。  理央は恋を全うし、もはや心残りはありません。  最初の本懐は遂げたのですから、いつまでもふらふらしている必要ないでしょう。  後は、失恋した吸血鬼が自殺を計って終了です。  魔法の本は、今か今かと理央が死ぬのを待っています。   ……でも。  その前に、一つだけ我儘を貫かせて貰おう。  何にも縛られない今だからこそ出来る、理央の小さな反逆です。 「幸せになってね、瑠璃くん」  それは、本来あってはならないもの。 「もう二度と、会うことがありませんように」  それは、遊行寺闇子が遺したもの。 「……お館様の遺志を、理央は否定します」  ページを破り捨てる音がした。 「さようなら」  太陽の日差しを、浴びに行こう。  そういえば――自らの意志で死ぬことさえ、理央は禁じられていたんだっけ。  最後の最後まで、お館様の意志に逆らって。 「本当に、理央は悪い子さんですにゃー」  さようなら、理央の愛した幻想図書館。  どうすることも出来ない無力な少年は、結末を傍観することだけしか出来なかった。  物語の最前線に立ちながら、物語の意志に従うだけの存在。  結局、1年前から何も変わらない。  目覚めると、理央は消えていた。  何処にも、いなかった。  痛みの残る首筋を確認しても、そこに傷跡はなく。  俺は未だ、人間のままだった。  理央は、俺の気持ちを察知して。  眷属作りではなく、ただの吸血行為を行ったんだ。  ああ、わかっていたよ。  これだから魔法の本は、最悪なんだ。 「……俺は、格好悪いな」  抗うことも、立ち向かうことも出来ないまま。  ただ、一人の読者のように、物語を見ていただけ。  もしも、俺に許されるなら――魔法の本に、抗う力が欲しかった。 「……ああ、そうか」  だから汀は、殺す立場になったのか。  開かせるまでもなく、終わらせる立場になったのか。  その気持ちは、痛いほどにわかったよ。  かくして、紅水晶の物語は終わりを迎えた。  伏見理央は、最後まで語り終えてしまった。  それでも、物語はまだ続く。  一人の少女が消え去っても、幻想図書館は物語を開いていく。  狂おしい程の感情が、彼の衝動を突き動かす。  次なる魔法の本は、冷たく黒光りする災いの象徴。 『ブラックパールの求愛信号』  孤高の少年の、復讐劇が始まる。  月社妃という女が、俺にとってどういう存在だったかなんて、今はもうわからない。  消えちまった奴のことを思い返してみても、得られるものはなにもなかった。  それなのに過去を振り返ってしまうのは、何故なのか。  自問自答を繰り返す中で、ざわざわと心が荒んでいく。  思い出すのは、妃の笑顔だ。  瑠璃のことを語るあいつは、いつも笑っていた。  人は、どうしたらこうまで幸せそうにはにかむのだろう。  妹は、どうしたらこうまで笑わすことが出来る?  夜子は、そんな微笑みを向けてはくれなかった。  笑ってくれることはもちろんあって、嫌われているはずはないけれど。  ――全てに満ち足りた、幸福な笑顔だけは、一度だって見せてくれない。  心を動かすような、表情。  幸せに溺れそうな、笑顔。  月社妃と出会ったその日から。  俺の中で、何かが変わりつつあった。  遊行寺夜子は、俺にとって大切な妹だ。  心から愛している、目に入れても痛くない可愛い妹だ。  だが、月社妃は何だ?  俺にとって、月社妃とはどういう存在なのだろう?  それが、分からなかった。  全く、分からなくて。  だから俺は、あいつのことを妹のように思うことにした。  妹なら、大切に思っても不思議じゃないんだと、自らに言い聞かせて。  妃を妹と思うと、とても心が楽になった。  それが自然な形だと、日常に安息を覚えたのだ。  夜子と、妃。  二人の妹が、俺の世界にはいて。  それが矛盾を孕んだ思い込みであることは、理解していたけれど。  ……しょうがねえだろうが。  そう言い聞かせなきゃ、どうしようもなかった。  妹と呼ばなければ、何になる?  ぐちゃぐちゃな気持ちに無理やり答えを渡せば、それ以上悩むことはなかったから。  妹なら、問題ない。  家族を大切にするのは、当たり前だろ?  誰に対して、何に対して、言い訳をしているのか。  やがて、月社妃がこの世からいなくなっても、俺の迷走は続いていく。  ゴールのない迷路に彷徨って。  ただ、不条理への怒りを晴らさんとす。  吸血鬼の死体は、この世に残らなかった。  太陽の光を浴びた理央は、溶けるようにこの世から蒸発したらしい。  元々、天涯孤独の身の上だった理央は、その存在が消え去ったとしても、取り立てて騒ぎ立てられることはなく。   理央の死が、特別な変化を生み出すということは、なかったのだ。  人が一人死んで、何も変わらない。  それは、とても恐ろしいことだと思う。  日常は、続いていく。  非日常は、俺たちの背後で牙を研ぐ。  夜子は、今まで以上に部屋から出てくることはなくなった。  妃を失って、理央を失って、拠り所としていた相手をなくしてしまって。  そして―― 「まるで、最初からいなかったみたいじゃねえか」  貧相な朝食を取りながら、汀は吐き捨てる。 「そんなわけないだろ」  心に残された爪痕は、今も痛みを発している。 「世界は、俺たちには無関心だ。誰かが死んだところで、何も影響しねえ」  衣食住を支えてくれた理央が消えて、食卓に彩りが失われた。  それぞれがそれぞれの食べる分だけを適当に用意して、昔の幸せを懐かしむ。 「……恐ろしいよな。妃が死んだ時も、こうだった。俺たちを置き去りにして、日常は続いていく」  悲しみを抱えているのは、俺たちだけ。  それで世界がどうにかなるわけではない。 「やっぱ、世界は理不尽だ。不公平で、不条理で、許容できるもんじゃねえ」  苛立ちは、限界まで振り切っている。 「お前はこれから、どうすんだ? 夜子みてぇに、殻の中に閉じこもるのか?」 「……俺は」  それもいいだろうなと、思ってしまった。  だけど、それは駄目なんだろうな。 「わかってる。わかってるさ」  ぐっと、唇を噛みしめる。 「これは、あいつの望んだ結果で、あいつの望んだシナリオだ。理央が消えちまった責任を、お前が背負う必要はねえんだぞ」  紅水晶の物語。  あれこそが、伏見理央の願いだった。 「俺は、今の現状を受け入れてる。あいつが望んだのなら、それでよかったと思ってる。夜子だってお前だって、それは解ってるんだろ?」  正しくは、分からなければいけない。  納得しなければ、いけない。 「頭では理解しても、心が受け入れられないんだよ」  目を閉じれば、あのやわらかな笑顔がこみ上げてくる。  見ているだけで心が和む、理央の笑顔が。  立ち上がりながら、汀は言う。 「理央の選択に対して、どうこう言おうとは思わねえ。否定も、肯定もしねえ」  しかし、汀は。  確固たる意志を持って、宣言した。 「だがな、瑠璃。俺はもう、本を殺すことに、躊躇はしない」 「…………」 「目の前に夜子がいたところで関係ねえよ。これまで、心の何処かで抵抗があったし、何度も止めようと思ったが、それも、昨日までだ」  理央の語った物語の、結果がこれだ。 「これ以上、夜子の世界を壊されるわけにはいかねえんだよ」  月社妃が、サファイアの悲しみに沈んだ。  伏見理央が、ローズクォーツの煌めきにかき消された。  さあ、次は? 「しばらく、俺は帰らない。夜子のことは、お前に任せたぜ」 「……何処へいくんだ?」  わかりきっていたことだけど。 「魔法の本を、皆殺しにしてくるんだよ」  瞳に殺意が宿っていた。  復讐を誓った少年は、もう止まらないのだろう。 「……そうか」  でも、俺は。 「それでも俺は、本を殺そうとは思えないけどな」  汀の気持ちは痛いほどに理解できたし、共感さえもできるけど。  どうしても、応援することが出来なかったんだ。  そうして、遊行寺汀は図書館から去っていく。  俺と、夜子を残して、みんなみんな消えてしまう。  習慣というのは、とても恐ろしいものである。  あんなことがあった後でも、俺は決められた手順を踏むように、制服に着替え、登校の準備をしていた。  日常に戻り、毎日を普通に過ごそうと。  そこにあったはずのものは、とってくに失われてしまったのにね。 「あっ、瑠璃さーん!」 「……どうして、あんたが」  制服を身にまとって、元気に手を振る日向かなた。 「かなたちゃんが、迎えに来てあげましたよー!」  失われていない日常の片鱗が、そこにあった。 「昨日の今日ですから、とても心配で、来ちゃいました」  笑顔を、決して崩さないその姿勢。  張り詰めていた心が、溶かされるようだった。 「こういうときにこそ、私の笑顔が必要かと思います。可愛い女の子に癒やされて、元気出しましょう?」  俺の手を引っ張って、学園へと指をさす。 「だから自分で言うなよな」  自信たっぷりは、相変わらずか。  変わらない彼女の振る舞いに、自然と笑みが零れ落ちた。 「ふっふっふー、瑠璃さんが照れていることくらい、ばっちり見抜いていますから!」 「馬鹿か」  いつからだろう。  彼女がいてくれる日常が、こんなに尊いものに思えてしまうなんて。  それは、恋心ではないもっと身近な感情。 「……俺は」  心から、彼女のことを頼もしく思ってしまってるんだな。  頼れる友達として、彼女のことを好きになってしまったらしい。  女の子としては、全く趣味じゃないけどな。  伏見理央の物語は、遊行寺汀から詳細を聞いていたらしい。  事情を知った上で、それでも笑顔を向けてくれたことに、今は感謝でいっぱいだった。 「色々と、瑠璃さんも思うところがあると思います。それでも、今は前を向くしかないんですよね」  肩を並べて、道を歩く。  俺はまだ、全てを失ったわけじゃないことを実感しながら。 「ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。今で区切ってしまえば、その判断はとても難しいですけど……」 「大事なのは、理央がどう思っていたかだな」  あいつは、本当に満足していたのだろうか。  この終りを、望んでいたのか。 「いくつか気になる点は、ありますけどね……」  少し、不安の色を見せる彼女。 「あの物語の裏には、何かがあったように思うのです。でも、それが全く見えてきません。だから私達は、振り回されるばかりだった」 「…………」  振り回されるばかり。  それは、サファイアのときと同じだった。 「……そういえば」  最初に、学園で物語が開いたとき。 「理央は、泣いていた」  見ないで、と。  吸血鬼になってしまった自分を、隠そうとしていた。  あれが、自らの意志で物語を開いた人間の反応だろうか?  どうみても、嫌がっていたじゃないか。 「でも、その次は」  次に、理央と出会ったとき。  既に、吸血鬼としての役割に徹していた。  隠すことなく受け入れて、俺の首筋に噛み付いた。  それは、役割に成りきっていたから? いいや――最初から最後まで、理央は自らの意志で行動していた。 「……と、今は止めておきましょうか」  悩み耽る俺をみて、慌てたように話題を変える。 「瑠璃さんに元気になってもらおうと迎えに来たのに、これでは逆効果ですね」 「……いや、そんなことはない」  少なくとも、閉じこもってうじうじ考えるより、ずっと前向きだと思うから。 「大丈夫だよ、俺は。落ち込んでることもあったけど、今は自分でも驚くくらい冷静だ」  悲しいと思う気持ちは、確かにあって。  自分を責める気持ちも、いくらでもあるけれど。  それでも普通に登校できる程度には、立ち直っている。  彼女が迎えに来てくれて、心がだいぶ救われた。 「……二度目だから、ってのもあるかな」  大切な人を失ったのは、二回目だから。 「私が思っているよりも、瑠璃さんは強いのかもしれませんね」 「いいや、それは違う」  二回目だから、大丈夫なんて。  「それを強さというには、間違っていると思う」  それはただ、既に壊れているだけなのかもしれない。  壊れたものをもう一度壊しても、その影響は少ないから。  じっと、彼女が俺を見つめて。 「……この話は、止めておきましょう」  二度目の、打ち切りの言葉。 「それよりも、今はかなたちゃんの可愛らしさについて、語りませんか? 私の魅力を指摘しあうゲームをしましょう」  不自然な明るさを、ひねり出して。 「いいぜ、付き合ってやる」  彼女の心遣いを、受け取ることにした。 「では、私から! かなたちゃんの魅力その1、顔が可愛いところ!」 「…………」  自信過剰すぎるだろ。 「ささ、次は瑠璃さんですよ?」 「……おう」  無理やり踏み込んだアクセルが、空回りしているような気がしたけど。 「日向かなたの魅力その2」  そういう無意味な楽しみが、今の俺には必要だと思ったんだ。 「眩しいくらいの、笑顔」 「……っ」  考えるよりも先に、言葉が出ていた。 「理央の柔らかさとはまた違った、キラキラするような笑顔。ぐいぐいと引っ張られるような力強さが、あんたの笑顔にはあるんだよな」  今は、それに救われている。  だからこそ、魅力的に思うのだ。 「あんたはそうやって、ずっと笑っててくれよ。魅力を失わないでくれ」  妃や、理央のように、いなくならないで欲しい。  それは、切実な願いだった。 「……あ、あはは……普通に、照れるんですが」  対する彼女は、動揺を隠せず、顔が真っ赤だった。 「す、ストレートな愛情表現は、私の専売特許ですよ? 瑠璃さんは、もっとクールぶってくださいよ!」 「……まさか、褒めて注意されるとは思わなかった」  予想外の反応である。 「か、かなたちゃんの魅力は、大きなおっぱい! とかふざけたことでも良かったのに……」 「それは魅力その3だな」 「外見ばっかりじゃないですかー!」  顔と、胸ばっかりである。 「中身は、腹黒い残念系女子だからな」  これで中身が普通の女の子だったら―― 「…………」  もし、そうだったら、きっとこうまで仲良くなれなかっただろう。  そう考えれば、この性格も可愛らしいと思えてくる。 「でも、その笑顔にめろめろだと」 「……言っておくが、女の子としての笑顔は理央の方が上だからな?」 「そういえばおっぱいも、負けてました……」  何故か、落胆する彼女。 「あんたが女だったら、俺はあんたのことが好きになってたかもな」 「私、女の子として扱われていなかったんですか!?」 「何を今更」 「い、今からでも女の子として認識してくれてもいいんですよ?」 「何を言ってんだか。今の距離感が、心地良んだよ」 「……ふふっ、確かにそうかもですね」  彼女は、嬉しそうに笑った。 「今更瑠璃さんが、私に色目を使い始めたり、口説き始めたりなんかしてくれちゃったら、違和感が物凄いですし」 「あんたも、俺にそういうものを求めていなかっただろ」  冗談として、その手の話題を口にしても。 「あはっ、よくお分かりで」  決して、色恋沙汰に発展することはなかったんだ。  ヒスイとアメシストの反動なのかもしれない。 「いつも通りでいいんです。瑠璃さんは私のことを雑に扱って、私は瑠璃さんで楽しく遊ばせてもらいます。それが、私と瑠璃さんの関係ですから」  きらきらの笑顔が、煌めいた。 「瑠璃さんは、私の助手ですし! 〈所〉《いわ》〈謂〉《ゆる》、相棒というやつですよ!」 「……相棒」  恋人よりは、お似合いの言葉に見えてしまう。 「さあ、今日も元気に行きますよ! ワトソンくん!」 「それはやめてくれ、迷探偵」  頼もしささえ覚える、少女探偵。  ボロボロの日常の中で、日向かなたの笑顔は曇らずに光り続ける。  あれは、いつの日の事だったろうか。  妃が図書館に住み始めたあたりのことだろう。  親の都合で瑠璃だけが本土へ転校してしまってから、数週間後のこと。  すっかり図書館での生活も慣れはじめた妃は、毎日のように広間で読書をしていたのだが。  不機嫌、に見えた。  いつも通りのすまし顔が、瑠璃が消えてからより強くなったようにみえる。 「何かあったのか?」 「いえ、別に」  ロココ調のソファー、今では妃の定位置に寝転びながら、言葉を投げる。 「約束を破られるというのは、何度経験しても慣れないものですね」 「は?」  俺じゃ、ないよな?  約束? それは、誰のものだろう。 「汀には関係のないことですよ。私の、個人的な愚痴です」  はあ、と。  ため息が一つ、零れ落ちる。 「……連絡の一つも寄越さないなんて、見上げた心がけですね」  どうでもよさそうに、妃は本を手にとった。 「新しい学園で、イジメられてしまえばいいのに」  そんな〈呪〉《じゅ》〈言〉《げん》を呟いた瞬間だった。  じりりりりりり、と、喧しく電話が鳴り響く。 「――っ」  最も反応が早かったのは、妃だった。 「はいはいはーい、今出るよーん」  理央が電話に出る姿を、食い入るように見つめる。  俺の視線に気付いたのか、妃は視線を逸そうとするが、どうしても気になるらしく、横目で理央の様子を伺い続けていた。 「あっ、お館様! 今日も問題なく、夜ちゃんは可愛いですよー!」  落胆。  普段は表情の読めない妃だったが、今日ばかりは分かりやすく。 「……お前、どうした?」  思わず、心配したくなるような有り様だった。 「だから、汀さんには関係のないことですよ。放っておいて下さい」  本を開きながらだったが、弱音は隠しきれていない。 「けっ、わかったよ。一人で不機嫌に嵌ってろ」  あからさまに冷たい態度を取られると、俺も気分が悪かった。  ぶっきらぼうに、立ち去ろうとするが。 「……汀さんには、好きな人はいますか?」  本を開いたまま、不意に尋ねられてしまう。 「ああ、いるぜ」  躊躇なく、答えた。 「その人と最後に会ったのは、いつですか?」 「ここへ来る前に、会ってきた。邪魔だから出て行けと、罵られたよ」  夜子に似合いそうな服を買ってきて、プレゼントしに行ってきた。  案の定、邪険にされてしまったのである。 「それはとても、幸せなことですね」  羨ましそうに、言葉をこぼす。 「……向こうの暮らしが落ち着いたら、連絡するって言ってたくせに。全くもう、全くもうですよ」  愚痴愚痴と呟き続ける妃の様子が。 「本当に、どうしようもない人なんですから」  誰かのことを語る、妃の様子は。 「……ふふふっ」  俺の知らない、別人のように見えてしまった。  それは、今まで一度も見せたことのない、妃の表情。  俺の前では一切見せることのない、とても魅力的な横顔だった。 「……おっと」  思わず、凝視してしまった俺をみて。  妃は、本で顔を隠した。 「私としたことが、余計なことを口走ってしまいました。本に熱中するあまり、変な想像をしてしまっていたようです」  誤魔化したのは、明らかだった。  活字なんて、全く読んでいなかっただろ。  俺の知らない妃が、そこにはいたような気がして。 「お前、もしかして、好きな奴でもいんのか」  ぐちゃぐちゃと分けの分からない感情が渦巻いて、俺は質問をしていた。 「……いいえ、いませんよ」  無表情で、妃は否定する。 「私には、嫌いな人しかいません。大嫌いな人なら、一人だけいます」  適当にはぐらかされたことは、明白だ。  「あんまり、瑠璃のことを嫌ってやるんじゃねえよ。あいつ、結構お前のこと好きなんだぜ?」  困ったら、あいつの名前を出すのはやめろ。 「ええ、わかっていますよ」  無表情が、崩れた。  嬉しそうに、楽しそうに、瑠璃の悪口を言うのだろう。 「兄というものは、妹のことが大好きですからね。本当、いつになったらシスコンを卒業するのでしょうか」 「シスコンは、卒業するようなもんじゃねえんだよ」  終わりがあるものではなく。 「貫き通すものなんだ」 「……ただただ、気持ち悪いだけじゃないですか」  不機嫌が、少しだけ晴れたらしい。  そのことに、安堵を覚える俺がいた。  人は誰しも秘密を抱えていて、誰かのすべてを知ることなんてありえない。  親しき仲にも礼儀あり、と、この俺が礼儀を語るのは少し間違っている気がするが、  それでも秘密を抱えあい、不干渉を求めることは当たり前のことだと思っている。  例えば、俺と瑠璃の関係は、一般的には親友とも呼べる関係ではあるし、俺も瑠璃もそのことを否定はしないだろう。  何気なく気があって、信頼できる関係。  あいつなら夜子のことを任せられると思っているし、その結果に対して一定の期待はしている。  だが。  それでも俺たちは、気安い仲ではないと思ってる。  友達だから、親友だからと、慣れ合うことによって生まれる依存を拒絶している。  月社妃は、違っていた。  あいつは、秘密主義な女だった。  必要のないことは話さないどころか――必要なことさえ話そうとはしない。  だからこそ、あの日、不意に見せた妃の女としての側面が、嫌に印象に残っていた。  これまで自分の恋を語ろうとしなかったあいつが、突然、好きな人についての話題を持ちかけてきた。  ソファーの上で、何かを待ち続けている月社妃は。  あのときの、何かに焦がれている月社妃は。  間違いなく、恋する少女だったのだろう。  復讐を誓ったあの日から、あのときの記憶が何度もリフレインされる。  あの妃に好きな相手がいたことが、とても恐ろしく思えてしまうのだ。  誰だって、秘密を抱えて生きている。  好きな人なんて、気安く教えられるようなものでもないだろう。  だから、隠すのは当たり前。  いう必要のないことだけど。  ……ちっ。  他のどんなことは許せても、それだけは許せなかった。  不毛な感情が込み上げていて、それはやがて怒りへと昇華する。 「……はい?」  俺のその相談に、日向かなたは素っ頓狂な声を上げた。 「わざわざ呼び出したかと思ったら、なんですかもう」  今は、ちょうど昼休みといったところだろうか。  突然の連絡に対応してくれただけ、マシなのかもしれないが。 「うるせえ、黙って協力しろ」  これだから、この方法は取りたくなかった。  この女はとても優秀な奴だが、協力を願うにはやや面倒な性格をしている。 「いえ、まあ、学生の色恋沙汰に関しての情報は、とても利用価値が高いので収集していますが……まさか汀さんが、そのような物を求めるなんて」  俺が、日向に相談したのは。 「――とある女子の恋愛遍歴を調べて欲しい」  過去に、どんな男を好きになって、どんな男と付き合っていたのか。  そういう調査を依頼しようとしていた。 「なんだか少し、意外ですね。汀さんって、こそこそした方法で女の子を落とすんですか? ねちっこいんですねー」 「誤解するんじゃねえよ」  そう、これは。 「別に、俺の恋愛を叶えるために調査して欲しい訳じゃねえ。第一、俺はそういう方法が嫌いだ」 「……なんですかそれ」  思わず苦笑いを浮かべる日向。 「うるせえ、黙って協力しろ」 「ぶー、便利に利用されすぎているような気がします」  そう言いつつも、日向は拒絶しなかった。 「それで、お相手の女性はどなたですか? はっ、まさか私!?」 「興味ねえ」 「私も、汀さんには興味ありません。趣味じゃないですから」  ナチュラルに、否定しあう。 「男の子というのは、やっぱり支えてあげなくちゃ! と思うような人がいいですよねー! 私がいなくちゃ駄目なんだからって人が、素敵ですっ」  聞いてもないのに、語り始める。 「それでいて、本人は頑張り屋さんがいいですね! 頑張って、格好つけて、それでも私に頼っちゃってくれるとずっきゅーん! です!」  身近に似たような人物がいるのは気のせいか? 「私って、尽くしてあげたい系女子なので、そういう人が好みなんですよー」 「……結構、駄目な女なんだな」  ヒモを掴まされるぞ。 「あっ、でも駄目駄目な人は嫌なので、ご心配なく! 利用されてばっかりだと、萎えちゃいますよね」 「……ふん、俺を責めてるつもりか?」  散々、日向を利用しまくっているからな。 「話が逸れましたが、調べて欲しいお相手というのはどなたでしょう?」  手帳を取り出して、ペンを握る日向へ。 「月社妃」  調べて欲しい相手の名前を告げた。  瞬間、日向の目は僅かに揺れた。 「お前も、知らない名前じゃねえだろ」 「月社さんの……その、好きな人が、知りたいというわけですか」 「正確には、好きだった相手だな」  付き合ってたか、付き合っていないのか。  あいつの恋愛事情を、知りたい。 「しかしそれは、私なんかよりも汀さんの方が知っているのではないでしょうか」 「俺は何にもしらねえよ」  しらねえから、聞いている。 「知らなかったからこそ――今、知りたいだけだ」 「でも……その、月社さんは、もう……」 「死んだ奴の情報は、調べられねえか?」 「…………えっと」  動揺が、見て取れる。  さすがの日向も、予想していない相手だったらしい。 「どうして、今になって、そんなことを?」 「ああん?」 「だって、今更じゃないですか。知ったとしても、それでどうにかなるわけじゃないですよね? 終わってしまったことなんですから」  その口振りは、まるで俺を咎めているようだった。 「根掘り葉掘り調べても……それは無意味なことのように思います」  日向の言葉は、一見して正しいようにみえるかもしれないが。 「……確証があるわけじゃねえ。ただ、なんとなく、そういう気がしただけだ」  記憶の断片を拾い上げて、可能性の糸を手繰る。 「あの女の一挙一動を思い出すと、誰かの影が見えるんだ。その影の正体を、確かめたいんだよ」  あいつが女らしい側面を、見せたこと。  誰かに想いを寄せる瞬間が、あったように思うのだ。 「例え月社さんに好きな人がいたとしても、汀さんの好奇心を満たすだけですよね。自己満足のために、故人の情報を掘り出したくはないですよ」  思いの外、抵抗されてしまっている。  心から、調べることを嫌がっているように見えてしまった。 「それは開けてはならない、パンドラの箱です」  仰々しく表現したところで、無駄だ。 「だが、調べなきゃならねえんだよ。もし、あいつに好きな人がいて、もし、付き合ってたりしたとしたら――」  そう、無意味なことではない。  黙認していい事柄ではないんだ。 「そいつは今、何処で何をしている? サファイアの物語にそいつが関係していたとしたら、あのときの背景が見えてくるかもしれねえだろうが」 「……魔法の本が中断されて、記憶は失われてしまっています。その方も、全てを忘れてしまっているのでしょう」 「ふざけるな」  それは、許されねえことだろ。 「そんな奴がいるんだとしたら、この俺が無理矢理にでも思い出させてやる。すべてを忘れて、のうのうと暮らしているなんて許さねえ」 「……それは、理不尽では」 「はっ、理不尽なのはこの世界のほうだろ。理不尽なのは、魔法の本そのものだ」 「どうして汀さんは、そこまでその方に拘るんですか? そもそも、月社さんが恋してたかどうかすら、確定はしていませんよね?」 「……妹の心配をするのは、兄として当然だろ」 「月社さんは、汀さんの妹ではありません」  少し、躊躇いがちに。 「あの方は、瑠璃さんの妹です」 「気乗りがしねえのなら、無理にとは言わねえよ。どうせ、そこまで期待してるわけじゃねえからな」  妃の記憶は、世界から失われている。  調べようにも、中々調べられないだろうからな。  ただ、少しでも可能性を高めるために、彼女に声をかけただけで。 「お前が駄目なら、別のやつに頼むだけだ。あまり気乗りはしねえが、瑠璃に聞いてみるのが良さそうか」 「……それは、駄目です」  しかし、日向は制する。 「瑠璃さんに聞くくらいなら、私が調べます」  瞳が、有無を言わせない力強さに満ちていた。  それだけは絶対に許さないという、確かな意思を感じさせる。 「下手に月社さんのことを調べようとして、思い出させてどうするんですか。誰よりも悲しんだのは、瑠璃さんでしょう?」  その勢いに、たじろぐ。  彼女の反応が、余りにも激しく、強烈だったから。 「そんな残酷なこと、絶対にしないで下さい」  残酷と、日向はそう表現した。  オーバーな表現にも思えたが、確かに俺は、残酷だったのかもしれない。 「……そうだな、あいつも、俺と同じシスコンだからな」  今更、妹の恋愛についてなんて、話したくはないか。  そう納得する俺へ、日向は複雑そうな視線を送る。 「あん? なんだよ」 「いえ……ただ、悲しくなっただけです」  瞳を伏せて、日向は言った。 「では、調査をしておきましょう。情報が入りましたら、ご連絡しますね。それまでは、他の方を頼らないでくださいよ?」 「あんたが調査をしているうちは、な」 「やっほーやっほー元気にしてたー?」  いつにもまして元気な声で、岬は登場する。 「お邪魔するよー、お邪魔するね。あ、紅茶でいいからー」 「はーい」  遠慮の知らない客人に、日向かなたは愛想よく対応する。 「砂糖多めの、甘々で?」 「うむ、苦しゅうない」 「…………」  本城岬と日向かなたは、本来仲の良いわけではなかった。  それどころか、彼女の悪い噂に関して、なるべく関わらないスタイルを貫いていたはずなのだけど。 「んー? どしたの? 僕の顔に、何かついてる?」 「いや、別に」  気が付けば、こうしてちょくちょく部室に遊びに来るようになっていた。  おそらくは今日も、マネージャーの仕事を放り投げて、サボりに来たのだろう。 「いやあ、ここは居心地がいいよねー。何でも揃ってるし、先生の目はないし、快適快適」 「ふっふっふー、私に注意を出来る先生なんて、いませんから!」 「排除したからな」 「人聞きの悪い事を言わないでくださいよ!」 「間違ってはねえだろ」  昔、創部を反対していた教師の悪行をバラして解雇させた武勇伝を聞いたことがあるのだが。 「そーだねー、僕の友達も、日向さんのことはちょー避けてるし」 「お前もじゃねーか」 「いやあ、そこは否定出来ないけど、ほら、僕って都合のいい関係を作るの好きだから」  紅茶に口をつけながら、しれっと言う。 「僕個人としては日向さんは面白い女子だと思うし、こうして紅茶を飲みに来るくらいならいいかなって」 「日向さんのことを嫌ってる友達も、そこまでは何も言ってこないでしょ」 「女の子の裏側は恐ろしいですからねー。私くらい開き直れば、何も気にならなくなりますよ?」 「日向さんは、開き直りすぎ。あはははは!」  本城岬という女子は、相手によって付き合い方を変えることの出来る人間だ。  周囲の視線を機敏に感じ取って、その中で上手く立ちまわる。 「でも、最近は面白い噂を聞くようになったかな」  にやにやと、岬は語る。 「日向さんと新入りくんが、付き合ってるんじゃないかって」 「ぶっ!?」 「きゃー!」  驚く俺と、大袈裟に騒ぎ立てる彼女。 「聞きましたー? ねえねえ瑠璃さん、私達付き合ってるようにみえるらしいですよー!」 「……おい、どうしてそんな噂が流れる」 「いやいや、当然でしょ。怪しい部室で、二人っきりで楽しんでるんだから。ぼっちが傷を舐め合うように、付き合っちゃってるんじゃなかってさ」 「大体正しいですねー」 「そこは否定しろよ……」  確かに仲はいいかもしれないが……そうか、そう見えるのか。 「というわけで、今日はその噂の〈真〉《しん》〈贋〉《がん》を確かめに来たんだけど、その様子じゃ聞くまでもなさそうだね?」 「当たり前だろ!」  呆れてものも言えない。 「ええ、なんだか瑠璃さんの反応が面白くないですー! もっと恥ずかしがってくださいよー」  傍らで不満を訴える彼女は、この際無視だ。 「ふーん、そう。じゃあ、新入りくんは?」 「俺?」 「うむ。日向さんと付き合ってないなら、他の誰かと付き合ったりしてないの? 面白い恋話を聞かせてよ」 「…………」  思い出せば、心に暗雲が訪れる。  けれど、一方で忘れていないことに安心する自分がいる。 「……瑠璃さん」  妃のことを思い出すのに、痛みは伴うが。  痛みそのものは、決して嫌いじゃない。  嫌いなのは、その直後に滲み出る悲しみだ。 「どうしてあんたが、そんな顔をする」  俺を見つめていた、彼女は。 「根掘り葉掘り聞きたがるあんただが、この手の話題だけはやけに不干渉だよな」 「……それは」  彼女だけは、知っている。  俺と妃が付き合っていて、そのことで、どれほどの痛みを味わってきたのかを。  だからこそ、彼女はその話題に触れようとはしないんだ。 「らしくねえな。いつものあんたでいてくれた方が、俺も楽なんだけど」  似合わない気遣いよりも、あけすけのない態度でいてくれ。  深い悲しみは晴らすことが出来ないが、それでも、慣れることは出来るんだ。 「そう、ですね……」  時が経つにつれて、失った事実に慣れていく。  あいつのいない日常が、今は当たり前のように感じている。  そうしていつかは、この痛みさえもなくなってしまうのかな。  それは、喜ぶべき成長か? それとも、悲しむべき不義理か? 「僕としては、新入りくんは遊行寺さんに恋してるかなって思ってるけどね」 「……は? 夜子?」  これまた意外な名前が飛び出してきた。 「遊行寺夜子さん。だーいぶ前に、教室に遊びに来たことがあったよね。あのときはビックリしたなあ」  ルビーのときのお話か。  夜子が、最後に学生として過ごした時期だ。  それは瞬く間のことだったが、楽しい思い出だった。 「あいつとは、そういう関係じゃねえよ。何せ俺は、嫌われているからな」 「ふぅん、そうなんだ。意外だね」  余り興味なさそうに、岬は次の話題へ進む。 「遊行寺さんといえば、隣のクラスの遊行寺汀くんが、彼女のお兄さんだよね。あの、悪童の」  遊行寺汀といえば、教師にも手を付けられない悪童として、有名だった。  他人の言うことを聞かず、自ら正しいと思ったことを突き進む。  遊行寺家という家柄もあって、汀を止められるものはなく、勝手に振る舞うさまから反感を持たれることも多かった。 「夜な夜な、年上の女性と遊び回っているという噂もありましたよね」 「……あながち間違ってもないけど」  排他的な性格をしている割に、昔から女性にモテることが多かった。  特に、年上の女性からは、かなりの頻度でお誘いを受けていたらしい。  自分のシスコンを自覚するまでは、割りと夜遊びにくれていた。 「へえ、面白いね。僕からすると、遊行寺の人と関わることがないから、なんだか新鮮だよ」  汀の話題に、岬は食いつきを見せる。 「汀くんって、好きな子とかいないのかな? 夜遊びしてる噂は聞いても、特定の誰かと付き合っているって噂は聞いたことがなかったな」 「さあ、どうだろうなあ。短期間ならともかく、あいつと付き合っていられる女の子は、そうそういないんじゃねえの」  女の子の扱いは、適当だったから。  仲の良い女性が出来ても、少し経ってしまったら、いつのまにか連絡を取らないようになっていた。  飽きたとか、つまんねえとか、いつもそんなことを口走っていた記憶がある。 「……あいつの女の子の好みからして、長持ちするはずもないんだよな」 「汀さんの、好きな人」  俺のその言葉に、彼女は神妙な顔を浮かべた。 「瑠璃さんは、その方に心当たりがあるのでしょうか」 「…………」  何を分かりきったことを聞くのだろうと思ったが。  しかし、彼女のその言葉は、その先に踏み込む言葉だったのだと、すぐに気がついた。  だから俺は、首を振る。 「人の気持ちなんて、俺には分からねえよ」  今はそれで、いいんだよ。  そういうことにしておこうか。 「……そうですね」  彼女はそれ以上、何も言わなかった。  明るい雑談の時でさえ、ときたま暗い表情を浮かべる彼女。  何かあったのかと気になったが、今は何も言わないでおこう。 「そういう岬は、どうなんだよ」 「え?」 「お前は、恋をしたりしないのか? お前だって、年頃の女の子だろ」  聞くばっかりじゃ、不公平だぜ。  たまにはお前も、自分のことを語ってみろよ。 「あははー、いや、ほら、僕のことはどうでもいいよね! みたいな?」 「誤魔化すなよ」 「誤魔化してないし! 本当だし!」  恥ずかしがっている様子はなく、ただ面白おかしく言ってのける。 「僕は全然モテないし、女の子っぽくないし、可愛くないから、その手の話とは無縁だね」 「いえいえ、そうでもありませんよ? 私の調べによるところ、本城さんはうちのクラスでも――」 「わー! やめてやめてっ! そういうのは聞きたくなーい!」 「うふふ、可愛い反応じゃないですかー!」  手帳を取り出して、ページを捲る彼女。 「ぼ、僕はそういうのはいらないんだよ! なんとなく、そういう雰囲気を分けてもらうくらいでいいの!」  珍しく狼狽える岬は。 「こうして話を聞かせてもらうだけで十分。僕は自分のこと、語りたくないし……作者よりも登場人物よりも、読者がいいんだよ」 「……ふむ」  傍観者であることを望むのか。 「みんなの恋話を聞かせてもらうくらいが、丁度いいかな」  分が悪くなったと判断したのか、岬は立ち上がる。  いつの間にか、紅茶のカップは空になっていた。 「というわけで、そろそろ僕もマネジに戻るね。紅茶、ご馳走様でした」 「いえいえ、また来てくださいね! お待ちしております!」  嬉しそうにはにかむ彼女へ。  岬は、ぽん、と肩をたたいた。 「僕は、日向さんのライバルにはなりたくないんだよ。だから、頑張ってね」 「う、うえっ!?」  変な声で、狼狽し始める彼女。 「今度は、もっと色々聞きたいかな」  にやにやと、笑みを浮かべて。 「新入りくんと、日向さんの恋話を――今度、聞かせてね」 「だから、その噂は違うだろって」  苦笑いを浮かべながら、俺は岬を見送る。 「ご、誤解しないでくださいよー、そういうのじゃありませんからー」  恥ずかしがりながら、小声で反論する彼女。  いまいち、声に力がこもっていない。 「あはは、やっぱり日向さんは、可愛いな。本当、羨ましいくらいに、可愛いね」 「か、可愛いのは知ってますけど……」 「そこは謙遜しておけ」 「あう」  ぽん、と頭を軽く叩く。 「ふふふ、末永く、お幸せに」  からかい混じりの声で、最後までそのネタを引き摺る岬。  少ししつこいかなと思ったが、珍しく照れる彼女を見れたので、よしとしよう。 「自分で言うのは平気なのに、他人から言われると恥ずかしいですね……」  案外、攻められたら弱いのかなと、どうでもいい感想を抱く。  「ただいま」  慣れ親しんだ図書館に帰ってきても、声に応えてくれる奴はいない。  声が、ただ虚しく響くだけだった。 「…………」  たった一人の人間がいなくなるだけで、こうも孤独になってしまうのか。  冷静になってみれば、ここにはもう、俺と夜子しかいないのだ。 「破廉恥です!」 「……あのなあ」  けれど。 「理央さんがいなくなって、瑠璃さんと夜子さんが二人っきりなんて駄目ですよ! かなたちゃんは許せません!」  そんな孤独を紛らわせようと、彼女はここまでついて来た。 「そういう関係じゃねえから」 「そんな言葉では騙されませんよ!? 箱入り娘の夜子さんを、夜這いし放題じゃありませんか! これはもう監視が必要ですね」  前にもまして、無遠慮な様子で図書館へ踏み入る。 「こーんな広いお屋敷で、二人っきりというのは寂しすぎるでしょう?」  視線を逸らして、苦笑い。 「フジュンイセーコーユー禁止ですっ! というわけで、しばらく私もここに泊まらせて頂きますね」 「は?」  持っていた荷物を、ドサリと下ろす。  登下校の荷物にしては大掛かりだとは思っていたけれど、最初からそのつもりだったのか? 「待て待て、そんなもん夜子が許すわけねえだろ!」  聞くまでもなく確認するまでも、明らかで。 「そうでしょうか?」  しかし彼女は、反論する。 「大嫌いな瑠璃さんでさえ、滞在を許してくれているではありませんか。夜子さんのお友達である私なら、万事オッケーだと思いますよ!」 「どこからその自信が湧いてくるんだよ……」  俺の場合は、特別だ。  長く住み着いてしまって、今更追い出すに追い出せないだけだろう。 「……何よ、騒がしいわね」  噂をしていたら、なんとやら。 「あっ、夜子さーん! こんにちは!」 「……こんにちは」  既に、彼女を拒絶することを諦めている彼女は、しぶしぶ挨拶をする。 「今日は何の用かしら。また、ろくでもないことを企んでいるのではないでしょうね」 「いえいえ、大したことではありませんよー」  ニコニコ顔の、彼女は。 「ところで、一つお伺いしたいのですが」  さて、日向かなたはどうやって夜子の心を落とすのだろうと、興味がわく。 「今晩の献立は、何でしょうか?」 「さあ?」  ごく自然な、その質問の流れに。 「そんなのは、理央に――」  広間の方へ、視線を向けようとした夜子は。 「…………ッ」  失態だった。  既に失われている存在を、失念していたらしい。 「瑠璃」 「あ?」 「こういうとき、どうしたらいいのかしら?」 「…………お前」  やや不安げな眼差しに。 「あたしの夕食は、誰が作ってくれるの?」 「…………」  絶句した。  どこまでこいつは、お嬢様なんだ。 「朝食と、それに昼食はどうしたんだ?」 「……食べてない」  ひ弱そうに、お腹を撫でる。 「お腹、空いたわ」 「…………」  信じられないものを見たような気がした。  本当に、全てのことを理央に任せてきたんだな。  この調子では、食事以外の生活にも、不具合が発生しそうである。 「ふっふっふっふー」  その様子を見つめていた彼女が、自慢気に笑う。 「そうだろうと思っていましたよ。だからこそ、かなたちゃんがここにいるのです!」  胸を張って、堂々と。 「ねえ、夜子さん。今日から私を、ここへ置いてくれませんか?」  彼女は、臆することなく言った。 「はあ? 嫌に決まっているでしょう? うるさい人は、邪魔だから」 「私をここへ置いていただけたら、今まで理央さんがしてきたお仕事を、お手伝いしてあげても構いませんよ」 「え?」  それは夜子にとって、想定外の申し出だった。 「炊事、洗濯、お掃除など。こう見えてかなたちゃんは、立派な女の子ですから! 色々と、便利に活用できるかと思いますよ?」 「もちろん、理央さんの作る料理ほど、美味しいわけではないですが、そこはご勘弁していただければ!」 「……え、えっと……」  考えこむような仕草を、夜子は取る。 「あんた……本気か?」  先ほどの言葉は、俺を困らせるための冗談だと思っていたが。 「当たり前じゃないですか。汀さんから事情を聞いて以来、とーっても心配してたんですから!」  確かに、貧弱を極める夜子が、誰かの助力なしで生きていけるとは思えない。  自由気ままに生きていた小鳥は、愛でられ続けて育てられていたのだから。 「……わかった」  そして、夜子は頷いた。 「結構よ。かなたの好きになさい」  承諾の返事をしたのである。 「きゃー! 夜子さんが私の存在を認めてくださいました! これ程嬉しいことは他にはないですよ-! きゃはー!」  俺の肩をばんばんと叩いて、彼女は歓喜の声を上げる。 「ただし、余計なことはしないで頂戴。あくまで客人として迎えているだけで、勝手な振る舞いはしないように。物漁りをしたら、すぐに追い出すわよ」 「はーい!」  きつい口調で念押しするが、滞在を許可した時点で、彼女は夜子から一定の信頼を得たということになる。 「状況が状況だから、仕方がなく、なんだから。〈喧〉《やかま》しいかなたでも、全く知らない人よりはマシだと思っただけ」  喜ぶ彼女へ釘を差すような夜子の言葉。 「そ、それに、かなたはどうせ、最初からそのつもりだったのでしょう? その荷物、どう見てもその気よね……?」 「はい、断られてもどうにかして言いくるめるつもりでした!」 「……でしょうね」  拒絶しても、どうしようもないからと。  変な諦めを見せる夜子。  それは、夜子もまた、日向かなたという人間に染まりつつあるということだ。  日向かなたは、意外とスキルに長けている人物だった。  それは、彼女がこの館に来てからすぐに理解させられることになる。  「……へえ、かなたがこれを作ったのかしら」  食卓に並べられた料理を見た夜子は、目を丸くさせて驚いた。 「当たり前じゃないですか! といっても、理央さんのものとは比べないでくださいよ?」 「いや、それでも大したもんだよ」  彼女の作った料理は、一言で言えば家庭的な料理だった。  主に和風のテイストで仕上がったラインナップは、丹精込めて作ったことが伺えるこじんまりとしたもの。  理央の料理は、お店で出せるような背筋の伸びる料理だったけれど、彼女の料理は心温まるお袋の味。 「ささ、どうぞどうぞ」  一概に料理と言っても、作り手の色が発揮される。  伏見理央の料理には伏見理央らしい魅力があって、日向かなたの料理には日向かなたの魅力があった。  そのことを如実に物語るのは、夜子の表情だ。 「……変な、感じ」  恐る恐る口にした夜子が、蒸かしたじゃがいもを口に入れた途端。 「ほっぺが落ちるくらい、蕩けそうだわ」  美味しい、ではなく。 「貴女の料理は、あたたかいのね」  ただ、零れ落ちるような感想だった。 「ありがとうございます。私も、頑張った甲斐があるというものですよ!」 「……これなら、毎日が楽しみね。ふふふっ」  珍しく、素直な笑みが零れ落ちる。  明日の料理を夢見て、自然に出た笑顔だろう。 「る、瑠璃さんはいかがですか?」 「ん? ああ、ふつうに美味しいよ」 「ふ、ふつう?」  物足りなさそうな表情で、彼女は苦笑い。  予想以上の反応を見せた夜子の後では、ちょっと誤解をさせてしまうか。 「いや、美味しいよ。とっても、美味しい。なんていうか、普通の味がして、普通に美味しいんだよな」  まるで、昔からこの味に慣れ親しんだような、居心地の良さ。  「理央だって、こういう和風なものは何度だって作ってたけど、ちょっと違うんだよな」  上手く言語化することが出来なくて、もやもやするが。 「うん……なんとなく、分かる。料理というのは、作る人によって全然出来が違うのね」 「そ、そろそろ褒められすぎて、恐縮ですけども」 「意外だったな。あんたは探偵とか推理とか調査とか、そういうのばっかり夢中で、女の子らしいことは苦手だと思ってた」  料理だって、今でも出来そうに見えないもん。 「ぶー! それは心外ですよ! こう見えて私は、一人で生きていけるくらいには、何でも出来ますから!」 「今日ばっかりは、その通りだと認めるしかないな」  思ってた以上に、日向かなたはすごかった。  うむ、認めよう。 「本当、どこかの穀潰しみたいに、住まわせてやってるのに何の利益も生み出さない木偶の坊とは大違いね」 「……あん?」 「あら、何か聞こえたかしら?」  忙しなく箸を動かしながら、夜子は嫌みを口にする。 「さあ? 引き篭もりお嬢様の言葉は、よくわからないな」 「き、キミッ!」  言い返してみたら、すぐに逆上する。 「あまりあたしを怒らせないことね! そのうち、追い出すわよ!」 「それは勘弁してくれ」  今はもう、他に行くところなんてないんだから。 「ふんっ、だったら口の聞き方に気をつけることね! 理央がいなくなった今、キミの存在価値なんて何もないんだから!」 「キミがいないと理央が寂しがるから、ここにおいてあげたんだし」  そんなの、解ってるよ。  「……俺は、本気でお前が出て行けって言うなら、いつでも出て行くよ」  もし、夜子が俺のことを本気で疎ましいと思っているのなら。  出ていかなければ、いけないのだろう。 「あ、あのー、そろそろそこまでにしませんか? ご飯、冷めちゃいますよ?」  いつもの言い合いが、少し険悪な方向になるのを察知して、彼女は切り替えようとするが。 「へえ? だったら、今すぐ出て行きなさいよ」 「よ、夜子さん!?」  夜子の口は、止まらなかった。 「妃がいなくなってから、引き摺るようにキミを住まわせてきたけれど、そろそろ間違いを正すべきなんじゃないのかしら」 「そもそも、女の子が暮らしている家に転がり込むなんて、常識的におかしいでしょう?」  今日の夜子は、ノリノリだった。  いつも以上に、言葉に鋭さがあって。  きっとそれは、心が荒んでいるからだろうと思った。 「あたしはキミのことが大嫌いよ。そろそろキミも、帰るべき場所に帰りなさい」  帰る場所なんて、なかったから。  俺は今も、ここにいるのに。 「……何よ、目を逸らしたりなんかして。捨てられそうになってる子犬のつもりかしら?」  理央を失って、行き場のない感情が渦巻いている。  彼女が来てくれて、彼女の料理の暖かさを知って、安心したのかな。 「お前は、俺に出て行って欲しいのか」 「そう言ってるの、聞こえなかった?」  妃が、いなくなってから。  その言葉を、初めて言われたように思う。  不必要な存在――出て行けという拒絶の言葉。 「キミは今まで、なんの役にも立っていないわ。あたしの心を害するだけ。今までよく、滞在を許してきたと思わない?」 「…………」  おかしいな、その言葉は聞き慣れているはずなのに。  夜子がそう言って、俺が受け流すのが、今までの一連のスタイルだったのに。  どうして今日は、その言葉に頭をぶん殴られた気持ちにさせられる? 「……わかったよ」  言われるがまま、立ち上がる。 「る、瑠璃さん!?」 「出て行けばいんだろ」  それはまるで、子供の喧嘩だった。 「あら、珍しく素直ね」  直情的な言葉が繰り返されて、事態は悪化していく。 「……確かに、お前の言うとおりだな」  俺はただ、寄生虫のように遊行寺家に取り付いている。  全てのお世話をしてもらって、何一つ返す事が出来ていない。 「ほ、本当に出て行くつもりですか!?」 「仕方がないだろ、それが夜子の望みなんだから」  それがたとえ、子供のような喧嘩の流れでも。 「……ふんっ」  対する夜子は、俺を見ようともしない。 「本当に出て行くのなら、早くして。どうせ、キミは――」  後になって、思い返してみれば。  その時の夜子の言葉は、全てが全て強がりだったのかもしれない。  理央を失った悲しみが、彼女が来てくれたことによって和らいで。  安心したからこそ生まれた軽口の一つ。  もしかすると、夜子としてはそのつもりだったのかもしれないが。 「…………」  理央が、消えてしまって。  心にぽっかりと穴が開いた状態で。  夜子の辛辣な言葉が、胸の奥に突き刺さる。  可愛げのある冗談だと受け流せないほど、弱ってしまっていたのかな。 「えっ?」  無言で背を向けた、俺へ。 「ほ、本当に……?」  初めて、声が震えていた。  いや、震えていたのは俺の方か?   強がっているのは、俺の方? 「…………」  追い出される? 自分から出て行く? あれ? これはどっち?  つまらない言い合いから、俺はどうしてこうなっているのだろう。  ああ、でも。  なんだろうなぁ。  人に拒絶されることって、こんなに辛いものだったっけ。  ――出て行きなさいよ。  夜子の言葉が、繰り返される。  その言葉が、いつまでも胸を苦しめる。  弱り切っていたのは、案外俺の方かもしれないな。  もしかすると、夜子がその言葉を撤回してくれるのではないかなと。  思わず、振り返ってみたら。 「…………」  気づけば、図書館の外へ出てしまっていた。  意識とは裏腹に、俺の足は退出を選択していたらしい。 「……なにしてるんだ、俺」  あてもなく、図書館を出て行って。  これから何処へ行こうというのだろう?  折角、彼女が泊まりがけで、来てくれたというのに。 「頭を下げたら、許してくれるかな」  もう一度、図書館に戻りたいと思ったけど。  次に、拒絶されてしまったら――二度と立ち直れないような気がして。  夜子に拒絶されることが、こんなにも辛いことだったんだって、初めて知った。 「本当に、あいつは俺のことが嫌いなのか」  冷たい空気の風に、心が痛む。  少なくとも今は、帰れないと思ってしまった。 「ああ、でも」  これが最後になるのなら、せめて彼女の料理を食べきってからにしたら良かったと、そんな見当違いの後悔が芽吹く。  自分でも思っていた以上に、心は疲弊していたのかもしれない。  苛立ちを抑える方法というものがあれば、教えて欲しい。  感情のコントロールの方法があれば、是非とも学んでみたいものだ。  それはいつだって、制御すれば制御するほどに、俺の手を離れて暴走する。  誰もいない夜の海を眺めながら、闇の深さをこの目に留める。  吸い込まれそうな深海は、底なし沼のようにも見えた。  いつから、安息を忘れてしまったのだろう。  いつから、息を切らせて走り続けていたのだろう。  足を止めてしまえば、そこで全てが終わってしまうような気がした。  早く、殺さなければ。  次の喪失に、きっと夜子は耐えられない。  耐えられないのは、本当に夜子なのか?  胸にざわめく不快感。  それは、理央が消えてから、更に加速している。  悪化していると言っても、いいのかもしれない。  紅水晶の物語は、理央が望んだ結末だった。  俺にはあいつの心情なんてこれっぽっちも理解できねえが、それでも納得の果てに選んだ結末らしい。  自分を失ってまで、叶えたい願いがあったのか?   ――釈然としねえ。  妃の死と同じだ。  まるで舞台に上るピエロのように、俺たちは踊らされているだけなのではないのか。  ああ、だから、俺は。 「――どうしても、許せねえんだよ」  ぎらついた殺意が、第三者の存在を捉える。  俺をここに呼び出した奴が、ようやく姿を表したらしい。 「こんばんはぁ」  ――黒い宝石を関する本が、手に入った。  その連絡が俺の携帯に届いたのは、数時間前の出来事だった。  極めて怪しいその知らせだったが、それでも俺は呼び出しに応じる他なく。 「……お前がクリソベリルか」  届いたメールの末尾に記述された名前。  紙の上の魔法使い、クリソベリル。 「はぁーい、そうよん。そんなに情熱的な目で、見つめないで欲しいわ」  俺を呼び出したのは、どうみても年下のガキだった。  奇妙な格好をしながら、魔法使いを自称する。 「見ねえ顔だな。この島の住人か?」 「きゃははっ、女の子の素性を調べるなんて、あんまり感心しないわよぉ?」  それは、俺が日向に頼んだことを指しているのか? 「まっ、いいけどねー? 妾にはどうでもいいことだしぃ?」 「……余計なことを〈囀〉《さえず》るな。用件を果たせ」  どうでもいい雑談に興じたいわけではない。  「用件? きゃはは、汀お兄ちゃんは、せっかちさんなのね」 「黙れよ、クソガキ。俺をお兄ちゃんと呼んでいいのは、夜子だけだ」 「うわぁ、普通に気持ち悪いよ、汀お兄ちゃん?」  挑発するかのように、その呼び方を続けるクリソベリル。 「というより、よくもまぁノコノコと誘いに応じたのね。これが罠だとか、危険だとか、思わなかったのかしらん?」 「知るか」  そういう駆け引きみたいなものは、今は不要だろ。 「汀お兄ちゃんには不要でも、妾には必要なのかもしれないわよ? 汀お兄ちゃんは、魔法の本を殺す大罪人なんだから。きゃははっ!」  それはとても嬉しそうなはしゃぎ方だった。 「例えば妾がとても悪い魔法使いで、魔法の本を殺す汀お兄ちゃんを、懲らしめにやってきたのかもしれないわけだしぃ?」 「それならそれで、構わねえ」  お前が俺の敵対者であるのなら、対応を変えるまでだ。  腰に隠してあったナイフを抜いて、目の前の少女へ突きつける。 「どのみち、テメエは碌でもない人間なんだろ? 魔法の本を知っていて、俺たちの事情を知っていて、俺をここへ呼び出した」 「協力者なら歓迎するし、敵対者なら排除する。ただ、それだけだ」  ぎらぎらした殺意に戸惑うことなく、魔法使いは笑みを浮かべた。 「……女の子にナイフを向けるなんて、最低よん?」 「さあ、答えろよ。お前は俺の敵対者か? そうでないなら、目的の物を差し出せ。それはお前が言い出したことだぜ?」  それが嘘であるのなら、それ相応の対応をするだけだ。  真実か嘘かなんて、どっちでもいい。  そのどちらにせよ、目の前の怪しい存在を、見逃すわけがねえってことだ。 「持ってるけど、渡すなんて言ってないし-」 「……そんな言葉が通用するとでも思ってるのか?」  お前に突きつけられている刃が、見えてないのか? 「女の子相手なのに、暴力を行使するのかしら」 「女子供だからなんて、そんなもんは理由にならねえよ」  それは、魔法の本だって同じだろ。  誰かれ構わず巻き込んで、大切なモノを奪っていく。 「ねえ、汀お兄ちゃん」  少し、艶かしい笑みを浮かべたクリソベリルは。 「妾と、取引をしましょう?」  取引。  その言葉に、俺の眉間にしわがよる。 「汀お兄ちゃんも、まさかすんなり渡してくれると思っていたわけではないわよね? それほど楽観視をしていたわけではないと思うの」  くすくすと、笑いながら。 「貴方に、目的の本を渡してあげましょう。だけどその前に一つ、妾の願いを果たしてもらうわ」 「……言ってみろ」  刃先に力がこもる。  目の前の少女の要求が予想できない。  クリソベリルは一冊の本を掲げる。  何処に持っていたのか、それとも最初から持っていたのか――それは突然、現れた。  「――っ!」  表紙が瞳に飛び込んでくる。  少女が掲げた本。  『ブラックパールの求愛信号』と、表紙に刻まれていた。 「この本を、開いて欲しいの。汀お兄ちゃんに、物語の主人公になって欲しい。それはきっと、素敵な物語だから」 「はっ! 馬鹿言ってんじゃねえよ」  そんな要求が、まかり通るとでも思ってんのか? 「生憎だが、俺は中身には興味ねえんだよ。その本を引き裂くことしか興味はねえ。誰がそんなもん、開くかよ」  黒の宝石が導く物語に、幸福はなく。  好き好んで開くバカが、どこにいるっていうんだ?  「あらら、そんなに嫌?」 「お前、馬鹿だろ。んな要求に答えるくらいなら、無理やり奪えばいい話じゃねえか」  重心を、低く。  刃先は、少女に向けて。  殺意が滾るのを感じていた。  クリソベリルが魔法の本を取り出した瞬間、俺は獣のように飢えていた。  ページを切り裂く、あの感覚。  復讐心が、燃え上がる。 「あら、そう。じゃ、汀お兄ちゃんにあげるわ。開いてくれないのなら、妾が持っていても仕方がないし」 「……は?」  刃先が、一瞬戸惑った。  少女の手のひら返しに、俺は声を失いかける。 「〈幼〉《いたい》〈気〉《け》な少女を刃物で脅すなんて、怖いわぁ! 無理矢理なんて、ごめんなさいなの」  それはまるで、見かけどおりの弱さを見せて。  先ほどまで見せていた怪しさが、霧散している。  無防備で、無邪気で、無抵抗。  それが逆に、俺の心に躊躇いをもたらした。 「お前、何を考えている」  それは俺にとって、あまりにも都合のいい展開すぎたから。 「悪いことを、たくさんたくさん考えてるわ」  それでも少女は、笑っていた。 「汀お兄ちゃんには、黒真珠は殺せないもの。殺せるものなら、殺してみなさいな」  そう言って、少女は俺に、本を差し出した。 「それは、どういう意味だ?」 「この本は、大切な物を引き換えに、失ったものを取り戻せる本だから」  興味がないはずの、魔法の本の物語。 「あのね、汀お兄ちゃん」  一歩、本を受け取ろうと俺が踏み出した瞬間。  少女は嬉しそうに、教えてくれた。 「この本は、死んでしまった人を生き返らせる本なんだよ」 「ッ!?」  受け取ろうとする指が、凍りついたように停止した。  驚きに満ちた俺は、少女の表情を直視してしまう。  震え惑う俺を、少女は笑って呆れていた。   「月社妃を、生き返らせたくないかしらん?」  魔法の本を開いてみれば――それが叶うらしい。  それは間違いなく、腐れ魔法使いの〈甘〉《かん》〈言〉《げん》だ。  図書館を追い出された俺に、帰る場所がないのは明白だった。  それでも戻ることの許されなかった俺は、気が付けば丘の上の教会へ向かっていて。  そこで、一夜を過ごすことにしたのである。 「……っ」  目覚めは、最悪に近かった。  硬い床の上で眠っても、疲れは取れることはなく。 「今日は、不登校かな」  荷物も持たずに飛び出してしまったから、学園へ通うことすら出来ず。 「……どうすっかな」  まさか、ここに住み着くわけにもいかないよな。  どうにかして図書館に戻りたいと思ったが、それもしばらくは難しそうだった。 「これじゃ、本当に子供の家出じゃねえか」  行く当てもなく、帰る場所もなく。  俺は、遊行寺家に縋ることでしか生きていけないのに。 「……違うのは、遊行寺家に俺を受け入れる義務も責任もないってことか」  それは、甘えなのだろうか。  やはり、甘えなのだろう。  本来あるべき形に戻るなら――俺は、俺の家族の元へ帰るべきなのだし。 「…………」  家族。  その言葉を思い浮かべた途端、脳裏にノイズが過る。  思い出したくもない過去を刺激して、心が悲鳴を上げた。 「……無理だ」  もう、無理なんだよ。  俺は二度と、あの人達と会うことはない。 「こんなところで、何をしている?」 「……え?」  中途半端な現状に悩んでいると、どこからか奏さんの声がした。 「日向かなたから連絡を受けて、君を探していたよ。ふむ、本当に追い出されてしまったのか」 「ああ、そういう……」  それは、いらぬ心配をかけてしまったのかもしれない。 「全く、何をしているんだか。早く仲直りをして、図書館へ帰れ。君がいなくて、誰が夜子くんの面倒を見る?」 「俺は別に、世話係だったわけじゃありませんよ……」  軋む身体を動かして、奏さんの正面に立つ。 「それに、本人から拒絶されてしまいましたから。居候の身で、無理を言えないんですよ」  出て行けといえば、出て行くしかない。  あの図書館は、夜子のものなのだから。 「だが、幼馴染の身で通す我儘もあるんじゃないのか」  ふっと、柔らかな笑みを浮かべる奏さん。 「何を言われたか知らないが、大事な友達を放っておくのはお勧めしない。あの強がりお嬢様が、一人で生きていけるわけがないのだからな」 「……わかってますよ」  確かに、俺は拒絶されて、追い出されてしまったけれど。 「これくらいで、無関係を取り繕おうとは思いませんから」  ただ、それだけだ。  それでも俺は、夜子と関わりを持ち続ける。 「へえ? なんだ、追い出されていじけていたわけじゃないのか」 「……悲しいことが、ありましたから。誰かに厳しくあたりたいのは、理解できます」  嫌いな俺の顔が、日常にちらついてしまったら。  あいつは、嫌な気分になってしまうだろうから。 「今は、距離を開けておいたほうがいいのかなって、思ったんですよ」  日向かなたが、いてくれるから。  それなら、任せてもいいだろうと、思ったんだ。 「ふふふ、君は君で、それなりに考えていたようだな。しかし、図書館を追い出されてこれからどうする? 君は、遊行寺家に世話になっていた身だろう?」 「それは、大丈夫です」  それは、最終手段。 「……お金は、ありますから。しばらくはそれで食いつないでいきます」  妃が、事故にあってから。  闇子さんが俺に渡した、学生には重すぎる桁の額。  俺が魔法の本と関わる限り、必要になったときに使えるよう、託してくれていたものだ。  ――夜子のためを思ってなら、このお金を好きに使いなさい。 「俺にはもう、何もありませんからね」  家族も、恋人も、何もかも失って。  あの小さな図書館だけが、拠り所なのだ。 「結局、追い出された今でも、俺は闇子さんのお世話になっている」  その庇護下である限り、闇子さんの意志に応えようと思う。  夜子のために、魔法の本と関わり続けよう。  それが、四條瑠璃の人生なのだ。 「……別に、魔法の本だけが人生のすべてじゃないんだぞ? 君には、他の生き方もあるように見えるが」 「ありませんよ。とっくの昔に、失われましたから」 「君は、もしかして」  俺の言葉に、不理解を携えながら、問いかける。 「――夜子くんのことが、好きなのか?」  それは、とても大きな危険をはらむ質問だったと思う。 「大好きな幼馴染のために、生きようというのか」 「……さあ、どうでしょうね」  俺の夜子への気持ちの根底には、一体何があるんだろう。  「好きとか、嫌いとか、そういう風に考える段階は、もう過ぎてしまったんだと思いますよ」  俺が、四條瑠璃で。  あいつが、遊行寺夜子なら。 「それが、とても居心地良い関係なんです」  図書館を追い出されて、明確な拒絶の意思を示されてしまった。  そのことで、心が軋む音がしたけれど。 「忠実なんだな、君は」 「ペットのように、言わないでくれますか」 「好きな女の子のために頑張るというのなら――それは自然な答えなんだがな」  やれやれ、と。  困ったように首を振って。 「しかし、君の先生として言わせてもらうなら、こんな場所で暮らすのだけはいただけない。生活指導も、私の役目だからな」 「……はい」  有無を言わせない上からの言葉に、やはり逆らえず。 「早く、図書館に戻りなさい。少なくとも君は、夜子くんの隣にいるべきなんだ」  まるで、それが自然な形であるかのように、奏さんは言い切った。 「でなければあのお嬢様は、何をしでかすかわからんぞ?」 「あいつに出来るのなんて、引きこもって本を読むことくらいですよ」  それだけが、あいつの人生だから。 「ふふふっ、分かっていないのは君の方だ」  やわらかな微笑みが、胸いっぱいに広がった。 「弱々しいお嬢様が、君を排撃して平気な顔でいられると思ったら、大間違いだ」 「……そう、でしょうか」 「それが出来なかったから、今まで君はここに存在し続けたんだ。君を排撃するのなら、出会ったときにしなければいけなかった」  とん、と。  俺の胸を、指で突いた。 「君は本当に、罪作りな男の子だな。今度、一発殴らせてくれるかな?」 「ど、どうしてそうなるんですか!」  突然の宣告に、思わずたじろぐ。 「はははっ、そうまで怯えてくれるなよ。お姉さんの可愛いジョークじゃないか」  明朗に笑いながらも、怖さは拭えず。 「今日のおサボりは、見逃しておいてやろう。だけど明日は、許さないからな?」 「…………」  それは、今日中に何とかしろということか。  それが出来るなら、俺だってしたいけれど。 「奏さんは、どうしたらいいと思いますか?」  もう一度、図書館に戻りたいのは、当たり前。  お冠の夜子を、いかに説得する? 「簡単だ」  優雅に、笑って。 「彼女の目を見て、手を握って、一言でいいから囁けばいい」  冗談交じりに、言った。 「お前のことが、好きだ、と」 「…………却下で」 「あっはっはっはー、照れすぎだ、可愛いなぁ、君は」 「照れてませんって……」  そういう冗談は、やめて欲しい。  あんまり、心に優しくないからさ。 「けれど、そんなもんなんだよ、君と夜子くんの喧嘩なんて」  何も知らないはずの奏さんは、それでも見知ったような口振りで、笑う。 「部外者の私でも、話しに聞くだけで分かってしまうよ。可愛らしい、関係じゃないか」 「…………」  可愛らしい。  そう言われてしまうような、些細なものか。 「結局、これも日常のひとひらに過ぎないのかな。そういう意味では、何も心配していないよ」 「俺からしてみると、死活問題なんですけど」  それでも、やっぱり奏さんの言う通りなのかもしれない。  現に、あれほど落ち込んだ心でさえ、一晩過ぎれば元通りなんだ。  夜子に拒絶されて、逃げるように出てきてしまったけれども……今は、戻りたいと思っている。 「お姉さんも、そういう初々しい思い出を、経験してみたかったかな」  思っているような何かとは違うような気がしたが、それは案外、的外れではないのかもしれない。  奏さんが帰った後、俺は一人時間を潰そうと街へ繰り出した。  暇さえあれば読書をしていた図書館生活とは違って、あの廃教会には何もない。  寂れ廃れ終わった場所である教会は、本来住むにはそぐわないに決まっていた。 「それでも、当面はここで生活しなきゃ駄目だしな」  必要な物を買い揃えて、教会を我が家のように使用する。  罰当たりな行為をしているかと思ったが、背に腹は代えられないものである。 「こういうとき、男でよかったと思う」  身の軽さこそが、自慢だった。 「……はあ、心配した私が馬鹿みたいですね」 「ああ?」  そして、放課後。  様子を見に来た日向かなたが、呆れ気味にそういった。 「心配してすぐに駆けつけてみたら、相変わらず読書ですか。勝手に荷物を持ち込んで、お気楽さんですね」 「……しょうがないだろ、追い出されたんだから」  買い出しの途中、寄った本屋。  気になっていたシリーズの続刊を見つけた俺は、ついついそれに手を伸ばしてしまった。 「全くもう、どうしてあそこで本当に出て行っちゃうんですか……」  不満を、ストレートに訴える彼女。 「折角、かなたちゃんが住み込みでお世話をしてあげようとしてるのに、どうして瑠璃さんが出て行っちゃいますか。私、泣いちゃいますよ?」 「夜子が心配で、申し出てくれたんじゃないのかよ」 「そーですけど、そーじゃありません!」  よく分からない言い回しで、彼女は俺を攻め続ける。 「帰ってこないつもりじゃないですよね?」 「そんなわけないだろ。俺はもう、魔法の本に関わることしか出来ないからな。今更、離れられないよ」 「だったら、早く戻ってきて下さい。後味が悪いです」 「後味?」 「……これじゃあまるで、私が瑠璃さんを押しのけたみたいじゃないですか」  心細そうに、視線を落とした。 「ところてんみたいに、ぐにゅっと」 「その表現は、意味不明だ」  食べ物で例えるなよ。 「……あれから、夜子さんはとっても不機嫌です。大嫌いな瑠璃さんを追い出しても、全然笑ってくれません。やっぱり、駄目ですよ」 「分かってる」  後味が悪いのは、夜子も同じか。 「それに、汀さんのこともありますから」  そこで、彼女は意外な人物の名前を挙げた。 「汀が、どうかしたのか?」 「……言いそびれていたのですが……というより、言うタイミングを図っていたといいますか」  やや、気まずそうな口振りだ。 「汀さんに、依頼を受けたのです」 「……またかよ」  それがどうかしたのかと、軽い気持ちで耳を傾けた俺は。 「――月社妃の好きな人を、調べて欲しいと」  心が、凍りついた。 「……それで、あんたは?」 「もちろん、引き受けましたよ。そして、調査結果は誤魔化しておきました」  誤魔化して、曖昧にして、追求から逃れた。 「それで、良かったんですよね? 私も、悩みに悩みましたが……今更、どうすることも出来なくて」  申し訳無さそうに目を伏せる彼女へ、俺はそっと微笑んだ。 「いや、それで問題ない。ありがとう、助かった」  何が、助かったのだろうか。  何が、良かったのだろう。 「終わったことを知ろうとするなんて、あいつも何を考えてるんだろうな」  分かっている。  分かっているけど、分かりたくはなかった。 「……汀さんは」  答えなくても、いんだよ。  今の疑問は、ただ体裁を整えるための一言だから。 「月社さんの想い人を見つけたら、良くないことを起こしてしまいそうです」  良くないこと。  そうだな、良くないことになりそうだ。 「ははっ、本当に今更すぎるだろ」  頭を抱えて、失笑する。  知られたくないから、秘密にしてたんだ。  それをわざわざ、調べようとしてくれるなよ。  全くあいつは、遠慮に欠けるやつだよな。 「間違ったことが、大嫌いだ。自分の許せねえ相手に対しては、鋭い刃物のように立ち向かう。だからこそ、魔法の本がもたらした理不尽さに、怒りを覚えているんだろう」  一人の女の子が、消えてしまった現実に。  そんな理不尽な物語を、あいつは憎んでいる。 「あいつは、不良みたいに見えるけど、そういう自分の信念だけは曲げないんだよ。だから、一度決めたことは最後まで貫き通す」  もし、汀が妃の好きな人を見つけたら、どうするだろう?  その人が、妃と恋人同士になっていたら?  ――怒るだろうな。  怒るどころか、ボコボコにされるかもしれない。  理不尽な世界を間近で見ていたはずの俺が、真っ先に妃のことを忘れようと藻掻いているのだから。  あの理不尽な事件から逃げている俺を、あいつは殴るだろう。  そういうやつなんだ。 「好きだったからこそ、もう、辛いのに」  あいつが、全てを知ってしまったら。  きっと、俺に対して間違っていると叫ぶはずだ。  「……最後まで、隠し通すおつもりですか?」 「当たり前だろ。幸い、この世界は妃の存在を忘れているからな。俺かあんたがボロを出さない限り、バレることはない」  手がかりすら、どこにもないんだ。  妃の記憶は、既に失われている。  「もう二度と、この話は口にしないでくれ。そうすれば、知られることもなくなるから」  いつどこで、聞かれるかも分からない。  警戒は、最大限に行っていこう。 「……わかりました」  渋々といった風な表情で、彼女は頷いた。 「瑠璃さんと汀さんの関係は、とっても不思議ですね。仲良さそうなのに、仲良くなさそうな感じがします。近付いたり離れたり、自由気ままな距離感です」 「お互いがお互いにとって、都合のいい関係を築けるような友情だったからな」  友達だから、どうこうするとか、そういう甘さは一切なく。 「駆け引きや騙し合い上等の、対等な関係だ」  秘密もあれば、隠し事もする。  嘘もつくし、相手を騙すことだっていざというときは躊躇なく選ぶ。  お互いに譲れないものがあるからこそ、それは成り立つ関係である。 「おっかねえなぁ、本当」  まさか、今になって掘り当ててくるとは思わなかった。 「だからこそ、お二人は友達になれたんですね」  半ば惹かれ合うようにして、俺たちは出会って。  気が付けば、図書館の仲間として過ごしてきた。 「今頃、何をしているんですかね。色々と裏で動くのが好きそうな方ですから、不安ではありますが」 「さあな。メラナイトのときみたいに、また猪突猛進に動いているかもな」 「そう言う割には、あまり心配そうに見えませんが?」  茶化すように、彼女は指摘した。 「当然だ。こう見えて俺は、あいつのことを信頼してるんだぜ」  間違ったことを正す、その志。  目的のためなら手段を選ばない合理性。  あいつなら、所在も行動も不明でも、そうそう心配になることはない。 「あいつは、自分の信念に間違った行為だけは、絶対にしねえから」  正しいと思ったことを、選択する。  自分の心に従って、決断する。  他者から見えて間違いに見えることもあるけれど、自分自身がそれを疑っていないから、迷いがなく真っ直ぐで。 「それこそが、遊行寺汀の強さだと思う」  真似したいとも、羨ましいとは思わないが。  あいつは、あいつの思う正しさを裏切らない。  その共通認識があるからこそ、俺はあいつの友達でいられるんだ。 「……男の子の友情って、なんだか変なんですね」  彼女は、にこやかに微笑んで。 「少しだけ、羨ましいと思っちゃいました」 「結構、特別なパターンだけどな」  少なくとも、お互いの信念や考え方が対立してしまったとき。  騙し合いや駆け引きで問題解決を図ろうとするのは、健全な関係と呼べるのだろうか?  羨ましいというその言葉は、絶対に当てはまらないと思うんだが。 「いえいえ、私だってそういうの、好きですから」 「…………」  そういえば、そうだな。  問題解決に、盗聴などという手段を使うような容赦の無い女の子だったよ、あんたは。  だからこそ、俺と時間を共にしても、平気なのかもしれない。  図書館の静寂に安心感を覚えたのは、何時ぶりだろうか。  あの木偶の坊が消え去ったおかげで、普段よりも3割増しで静かさに包まれていると感じる。  書斎を出てのんびりお散歩に出かけても、誰の声もしない。  理央も、妃も、汀も、そして、あいつもいない幻想図書館は、こんなにも静かだったのだ。 「……あ、夜子さん!」  そして、今はかなたがいる。  他の全てがいなくなった代わりに、あたしの面倒を見ると立候補してくれた変わり者。  貧弱で脆弱なあたしとしては、とってもありがたい申し出だったのだけど。 「うるさい」  喧しいことだけが、唯一の欠点だった。  理央とはまた別のベクトルで、元気な女の子だから。 「夕食の用意が出来たので、呼びに行こうと思っていたんですよー! 今から、ごはんですよー」 「……まだ、小説の続きが残っているの。後にして頂戴」 「ダメですダメです、今からです! 理央さんがいてくれたときは、いつもこの時間に夕食だったのでしょう?」 「そうだけど……」 「それに、私一人だと寂しいじゃありませんか! 是非とも、夜子さんと食べたいです!」 「……う」  かなたは、とても押しが強い女の子だ。  ぐいぐいと引っ張るような力強さが、今までのあたしの周りにはいないタイプの人間。 「早く行きましょうよー、ね?」 「わ、わかったから……」  理央は、あたしにどこか遠慮することがあって。  妃は、あたしを誘導するように扱う。  汀や瑠璃のいうことなんて、全く聞かなかったし。  まるで普通の友達のように、かなたは接するのだ。 「そういえば、先ほど瑠璃さんに会いに行ってきましたよ」  突然飛び出した、不快な名前。 「どうやら今は、丘の上の廃教会で野宿をしているようです。ホームレス少年ですね!」 「ふぅん」  極めてどうでもいいことだった。 「あの木偶の坊には、お似合いの環境じゃないの」  少し悩んだように、かなたは言う。 「そろそろ、許してあげませんか? 私、瑠璃さんがいなくて寂しいです」 「許す? 別にあたしは、瑠璃と喧嘩をしたわけじゃないけど」  ただ、邪魔だったから出て行かせただけ。 「そもそも、どうしてあいつはこの図書館に住んでたのかしら。異性と一つ屋根の下で暮らすなんて、はしたないにもほどがあります」 「……それは、ただ」  あたしの疑問に、かなたは答える。 「瑠璃さんは、ここにいたかっただけだと思いますよ」  それは、諭すような口調。 「瑠璃さんにとって、ここが最後の居場所だったから。大切な家族がいた、思い出の場所です。瑠璃さんにしてみれば、ここ以外になかったんですよ」 「……ん」  その言葉に、思わず気持ちが萎びていく。  かなたの言葉の奥底に、妃の面影がちらついた。 「それに、最近の瑠璃さんはとても頑張っていましたからね」 「頑張る? 何をかしら?」 「『アパタイトの怠惰現象』です」  かなたが口にしたのは、妃の遺した妄想日記だった。 「月社さんが夢見た、幸せの日常です。何故、瑠璃さんがここに残り続けていたのかと言われたら、これを叶えるためというのが一番の理由でしょう」  そういえば、あの本が見つかってから。  あいつは、息を吹き返したように前向きになった。 「探偵部に入部して、みなさんを誘って、なんとか楽しい思い出をつくろうとして。あの方は、今できる楽しいを探そうとしてましたからね」 「……でも、それも叶わなくなったわ」  次に、理央が消えてしまって。  もはや、妄想日記の夢は、崩壊してしまったのだ。  かなたの瞳に、悲しみが宿る。 「だから、こそです」  やがて悲しみは、力強い意志に変わる。 「だからこそ――これ以上、瑠璃さんの大切なモノを奪わないであげてほしいと思ったのです」 「……それは、何?」 「思い出の詰まった幻想図書館と、夜子さんです」  かなたは、少し意地悪そうに笑って。 「知らなかったんですか? 瑠璃さんって――夜子さんのことが大好きなんですよ!」 「――なっ、何を、急に!」  かああっと、顔を赤らめるあたし。  何を恥ずかしがっているのかしら? 「本当は、夜子さんも気付いているのでしょう?」 「……それは」  あの木偶の坊は、どんなに嫌っても笑って受け流してばっかりで。 「る、瑠璃のことなんてどうでもいいわよ! あいつがあたしのことをどう思おうと、あたしはあいつのことが大嫌いなんだから!」  変わらないものがあるとしたら、それだ。  あたしが許せないのは、あいつの存在そのもの。 「それに、私はですね」  かなたは、笑顔で言うんだ。 「困ったことに、瑠璃さんが大好きなので、やっぱり図書館にいて欲しいんですよ。私もまた、瑠璃さんがいなくて寂しいと思ってしまう人間なのです」 「……みんな、みんな、どうしてあのバカを評価してるのよ」  本当に、本当に、本当に、わっかんない! 「それでも夜子さんが、瑠璃さんのことを嫌で嫌でたまらないというのなら、仕方がないですけどね」 「嫌で嫌で仕方がないわよ。いてもいなくてもあたしを苦しめるような瑠璃なんて、あたしは大嫌いなんだから!」  泣きそうになりながら、夜子さんははっきりと言った。 「……でも、確かに昨日は、大人気なかったのかもしれないわ」  気まずそうに、視線を逸らして。 「お母さんは、瑠璃と妃を、卒業まで受け入れると約束していたわ。それなのにあたしは、一方的に瑠璃を追い出した」 「それはきっと、理不尽なことだと思う」 「……あはっ」  嬉しそうな笑みがこぼれ落ちて、たちまち頬が膨らむ。  本音を引きずり出されたような気がして、居心地が悪い。 「そ、それに、かなたが寂しがりなのがいけないわ。理央もかなたも、あたしだけじゃ不満なのかしら……」 「えーと、好きなモノはたくさんあったほうがいいとは思いませんか? 本も、料理も、人も」 「……わからなくは、ない」  理央がいてくれたら、あたしは何一つ不満なく暮らしていけたけど。  だからといって、妃が不要だったわけではない。  それは、かなたも同じこと。 「それじゃあ、瑠璃さんを迎えに行きましょうか。今頃、固い固い教会の床で、お眠になっているでしょうから」 「それは、嫌よ」  明確に、拒絶の意思を示す。 「あっちから戻ってくるまで、あたしは何もしない。なんだか、負けたような気がするから」 「……あはは、夜子さんらしいですね」  それが、あたしに出来る最大限の譲歩だ。 「この図書館は、二人で使うには少し広すぎるの」  それは少し、言い訳じみた言葉だったかもしれないけど。 「本当の本当の本当に、夜子さんは素直じゃないんですからっ!」 「……うるさい」  何を言っても無駄であると察して、そっぽを向く。  そういう仕草が子供っぽいのかと思ったけれど、これがあたしなのだから仕方がない。  かなたと話す前と後。  色々と感情が揺さぶられてしまったけれど、気持ちが楽になったのは確かだった。  それを自覚して、あたしは少し戸惑った。 「変な、気持ち」  ぺたんこの胸に手を当てて、目を閉じて自覚する。  ようやく、いつものあたしの平穏が戻ってきたような気がして、思わず笑ってしまって。 「お腹が空いたわ。早く、食事にしましょう」  誤魔化すように、あたしは歩を進めた。 「――この本は、死んだ人間を生き返らせる本なのよん」  そいつがその言葉を口にした瞬間、俺の心は凍りついた。  呼吸さえも忘れるほど意識は持って行かれ、めまぐるしく思考は混雑する。 「……人を生き返らせる、だと?」  平衡感覚が失われ、ぐらりと視線が傾いた。  歯をぐっと噛み締めて、自分を見失わないようにする。  「そんな本は、聞いたことがねえな」 「貴方たちが全ての本を知っているのだと思っているのなら、それは傲慢という他ないわねえ」  くすくすと、楽しそうに奴は笑う。 「汀お兄ちゃんが知らない物語なんて、この世にいくらでもあるのよ?」 「……だが、お前の言葉には証拠がねえ」  揺れる意識を、保つため。  ただ、敵意だけを手繰り寄せる。  わけのわからねえ動揺を受けたが、目の前のこいつはあからさまに怪しい。 「月社妃」  瞬間、俺の心臓は大きく跳ね上がる。  悪魔のような、微笑みを。 「生き返らせたく、ないのかしら?」 「……黙れッ」  全身の細胞が、歓喜の声を上げていた。  ぶら下げられたわかりやすい餌に、すぐさま飛びつこうとするのを、どうにか抑えていて。 「俺の目的は、あいつを生き返らせることじゃねえ。黒い本を、殺すことだ……!」  ギラつく殺意が、鈍らぬよう。  差し出された餌を、振り切って。 「生き返らせて、本人に聞けばいいのにね」 「……あ?」  しかし、奴は。  更に俺の心を揺さぶり始める。 「月社妃の恋人を、教えてもらえばいいじゃないの。確か、どこかの少女探偵に、調査を依頼してたわよねえ?」 「――てめぇ!」  衝動的に、足が動いていた。  一歩、大きく踏み出して、手にしていたナイフでなぎ払う。  刃が肉を断つことはなかったが、俺の意志を表すには十分だったろう。 「月社妃には、確かに恋人がいた」 「……っ!」  容赦なく振り下ろされる真実の剣。  ちっぽけなナイフよりも、それは殺傷力に満ちていた。 「そんなことも知らないで、よくお兄ちゃんと自称してたわよねえ。当の本人は、汀お兄ちゃんの知らないところでいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ」 「だから、黙れっつってんだろ!」  心の隙間から、だらだらと感情が漏れだしていた。  涙というには混濁しているそれは、確かな痛みを伴っている。 「今も彼は、のうのうとこの世に暮らしている」  もう一度、ナイフを振るった。  奴は面白おかしく後退して、歌うように続ける。 「汀お兄ちゃんは、その相手を知りたくはないのかしらん?」 「うるせえ!」  それ以上、口を開くなよ。  お前のことを、このまま殺してしまいそうだ。 「気になって気になって、仕方がなかったんでしょう? 真実を知って、もう一度月社妃に出会って、全てに決着を付けましょう」  魔法使いは、甘く笑う。 「――そうでなくちゃ、このまま物語を進めても、夜子が幸せになれそうにないのよね」  そうして、奴は俺の元へ、差し出した。  無防備を晒す、『ブラックパールの求愛信号』  このままナイフを振り下ろせば、一瞬にしてそれは壊れるのだろう。  これを手にとってしまったら、物語は開くんだろう。 「人を生き返らせる物語」  ああ、なんて都合がいい設定だろうか。  その物語の裏側に、どれだけの悲劇が隠されているのだろう?  蘇生を詠った物語は、おしなべて悲しみに満ちているはずだ。  これを開くことが、俺の正しさか?  遊行寺汀という人間は、ここでその選択を取るべきなのか。 「もう一度、月社妃に会いたくないのかしら?」 「会って、伝えたいことの一つや二つ、あるんじゃなのかしら?」 「……いや」  大きく、首を振って。 「俺が今更、あいつに伝えたい言葉なんて、何一つねえんだよ」  もう一度、腰を深く沈めて、刃を奴に向けた。 「死んだ人間に、想いも言葉も届かねえからな」  初志貫徹をしようか。  それがなんであれ――俺の復讐は止まらない。 「へぇ、格好良いねえ、汀お兄ちゃん。ちょっぴり、じーんと来ちゃったわ」  それでも、奴は笑いながら。 「ああ、そういえば」  思い出したように、言った。 「黒真珠の主人公も、最初は全く同じことを言ってたわよ?」 「倫理や正義感に取り憑かれて、必死にそれを否定して。でも、結局は欲望に従っちゃうのよ」  そう言って、奴は黒真珠を地べたに置いた。 「煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ。このまま海に突き落としても構わないし、そのナイフで切り裂いても構わない。でも――」  無邪気な笑顔は、あまりにも恐ろしく。 「ページを開くことなく殺してしまえば、汀お兄ちゃんの知りたかった真実は、永遠に失われる」  闇に蠢く魔法使いは、最後に可愛らしく笑った。  その表情が、ありし日の夜子と重なって見えた。 「汀お兄ちゃんが、黒真珠の物語をどう演じてくれるのか、とっても楽しみよ」  その言葉を最後に残して、奴は闇の中へ消えていった。  残されたのは、俺と、殺意と、一冊の本。  中には真実が刻まれていて、ここには復讐心が滾っていて、俺は、選択を迫られている。  理不尽な存在を抹消するために、俺は復讐を決意して。  そこで理不尽な存在に頼る俺は、最も不平等な存在ではないか。  わかっている。  頭の中では、わかっていた。  俺が俺であるのなら、このナイフを突き立てるべきなのに。 「畜生ッ」  妃の顔が、虚ろに見える。  あいつが蘇ってくれるなんて、馬鹿な妄想はしていない。  都合のいい現実なんてあるはずもなく、クリソベリルの甘言に惑わされたりはしていないが。  ――妃には、恋人がいた。  そのことが、俺の心を大いに苦しめていた。  何よりもそれが、俺が俺として存在させてくれない。  心当たりなんて、一切なく。 「あいつが、あの女が、誰かを好きになるなんて」  あの笑顔が、誰かに向けられて。  誰かに、愛をささやいていた。  そんな現実――俺は、知らない。  ナイフの煌めきは、鈍く闇の中で光り続ける。  からん、と。  気が付けば俺は、ナイフを捨ててしまっていた。 「……馬鹿だな、俺は」  だから、いつまでも瑠璃に助けられてばっかりなんだ。  そうして、俺は『ブラックパールの求愛信号』を手にとった。  優しい手つきのまま、ページを開く。  はらり、と落ちる一枚の紙切れ。  それは魔法使いからの、俺へのメッセージ。  本を開く意志を見せた俺へ、奴はとんでもない爆弾を残していった。  ――妃ちゃんの恋人は、瑠璃のお兄ちゃんが知ってるわよん。  黒真珠がどす黒く輝いた。 「やあやあ新入りくん、今日はちゃんと登校してきたみたいだね」 「まあな」  廃教会での生活も3日目を迎えて、俺は以前の通りの学園生活に舞い戻る。  制服や私服は、こっそり彼女に届けてもらって、なんとか今までどおりの生活を維持することができていた。 「……そういうお前は、ちゃんと授業を受ける気はないみたいだな」  岬が手にしている本を見つめて、思わず苦笑した。 「えー、休み時間なんだからいいじゃん!」  それは、とても有名な少年漫画だった。  幻想図書館にはこういった本は置いていないので、少し新鮮。 「次の授業は、小テストじゃなかったっけ……」  紛いなりにも、この学園の偏差値は高い。  頻繁にテストを繰り返して、迫る受験に向けて教育を施す方針だ。 「ふむ、新入りくんはそのために登校してきたのかな? お利口さんだね」  余裕をひけらかしながら、岬はなおも漫画を開き続ける。 「新入りくんも、読んでみる? ちょー面白いよー?」 「……いや、残念ながら読んだことがあるんでな」  決して、漫画に興味が無いわけではなかったから。 「錬金術の物語だろ」  金を錬成するという、狭義的な意味合いではなく。  人の肉体や魂をも錬成しようとする、禁忌の物語だ。 「人を生き返らせる業の深さとか、それでも現実は厳しいというリアリティとか、様々な伏線がからみ合って、とっても面白いよね」  その口振りからして、岬は初めて読むわけではないらしい。  とすると、よほど気に入っているのか。 「新入りくんは、誰かのことを生き返って欲しいと思うことはあるかな」 「…………」  何気なく尋ねられた質問の鋭さに、たまらず俺は閉口する。 「でも、それって必ず代償というものを求められる行為なんだよね。人を生き返らせるためには、エネルギーが必要。だから、こういうのって悲しいお話ばっかりだ」 「……そうだな」  その行為が齎す未来なんて、ろくなものではない。 「何の代償もなしに、大切な人を蘇らせることが出来るのだとしたら――四條くんは、どうするんだろう」 「…………」 「そういう都合の良さを、受け入れられるのかな」 「……さあ、俺はあんまり、夢見がちな性格をしていないから」  ありもしない仮定の話は、好きじゃないんだよ。 「教室に漫画を持ち込んでたら、奏先生に怒られるぞ」  あの人は、中々に厳しそうだから。 「あはは、お姉ちゃんもこの漫画、大好きだからなあ」  明朗に笑いながら、岬は本を閉じた。 「押し入れにしまってたのを引っ張ってきたのは、お姉ちゃんだし。久しぶりに読みたくなったのかな。昨日は遅くまで読んでたみたいだよ」 「あの人は、漫画を読むようには見えないけど」 「ふふふ、ああ見えてお姉ちゃんは、けっこー俗物的だよ?」  笑いながら、いたずらっぽく言う。 「人は生き返らない。死んだらそれまで。四條くんは、そのことを忘れないでね」 「……ああ、そうだな」  最近、わかったことがある。  岬が俺のことを苗字で呼ぶときは、心からの言葉であると。  いつもはマイペースな彼女が、そのとき何を思っていたのか。 「都合のいい設定なんてのは、いつか必ず、破綻する」  それは、誰にもわからない。  あたしが望む平穏は、どういうものだったのだろうか。  ただ、本を読むだけで幸せだったし、それ以外のものは必要としていなかったし、そんな日々が続いたら良かったと思っていた。  遊行寺本家に戻ることはなく、お母さんの庇護下の元、小さな図書館で生をまっとうする。  それが、あたしの幸せだったはずだ。  伏見理央。  一冊の本を撫でながら、いなくなった人のことを思う。  あたしが、最初に願っていた平穏に、理央の存在はいなかった。  他人のぬくもりを知らず、活字だけに何かを求めたあたしは、他の感情を知ることになる。  月社妃。  今でも、どうして仲良くなれたのか、よくわからない。  不用意に近付かれることは怖かったし、ああいうタイプの人間は、本来苦手だったはず。  少し前に、大広間のミステリーの棚に隠してあった、偽物の魔法の本。  ただ体裁だけを真似した、妃らしい可愛らしい仕掛け。  そこに描かれていたのは、あたしが初めに望んだ幸せよりも、もっと賑やかな日常だった。  あたしは、何故か学園に通っている。留年しそうらしい。失礼ね。  ……あたしだって勉強には自信がないし、そんなのわかってるけど。  年下の妃に勉強を教えてもらって、毎日毎日頑張って。  それは、うん、なんだろう。 「……悪くはない、妄想ね」  遊行寺夜子にも、こういう未来の可能性があったのかな。  今はもう、期待することさえしていないけれど、本だけではない幸せがあったのだと信じたい。  駄目だ、と思った。  この中身を、羨ましがってはいけないのだ。  それはもう手に入らない日常で、願えば願うほど、辛くなる。  だが。  ここで全てを拒絶してしまったら、全てが台無しになってしまうのではないだろうか。  理央や妃が好きだったこの図書館が、消えてなくなってしまいそうな気がして――それは、心から申し訳なくて。  わかっていた。  わかっている。  四條瑠璃と言う人間は、この図書館に必要なのだ。  あたしの好き嫌いに関わらず、いなければならない人間なのだ。  何よりも、誰よりも、みんな瑠璃のことを気にかけて、あいつを中心に笑っていたから。  現に、あいつが本土へ行っている間と、帰ってきてからでは――笑顔の数が、桁違い。 「ねえ――理央」  慈しむように、表紙に触れた。 「本当にこれで良かったのかしら」  紅水晶の終わらせ方を、間違ったんじゃないかしら。  後悔ばかりの呟きを、すくい上げてくれる人はいなかった。  幻想図書館で、一人ぼっち。  寂しがりやは、孤独の恐ろしさを知ってしまった。 「だから、そろそろ帰ってきてくださいよー!」  学園の帰り道、日向かなたは俺の手を引いて、懇願する。 「瑠璃さんだって、戻りたいっていってたじゃありませんか! 夜子さんだって、そろそろ寂しがっているはずですよ?」 「タイミングというものがあるだろ」  戻れるものなら、今すぐ戻りたいが。 「……なんか、恥ずかしいんだよ」 「ええー」  非難めいた視線を、送られてしまう。 「それに、あそこで生活するのも楽しくなってきたしな。このまま永住するのも悪くないかも」 「駄目ですよー! そんなの私が許しませんからね!」  もちろん、冗談だ。 「今、瑠璃さんが戻ってきてくれたら、夜子さんはきっと歓迎してくれますよ。それは、かなたちゃんが保証しますから!」 「例え許してくれたとしても、歓迎はしねえだろ」  しょうがないからとか、そういう口振りでしか認められないはずだ。  最も、それすらも楽観的希望ではあるのだが。 「……まあ、俺は俺のペースで、あいつと仲直りをしようと思ってる」  こういのは初めてだから、焦らずにいきたいんだ。 「折角私が仲立ちをしてあげているというのに、瑠璃さんは意気地なしです」 「うるせえよ」  苦笑いを浮かべながら、先を歩いて行く。 「どこまでついてくるんだ? 図書館はこっちじゃねえぞ」 「あの教会から出払う準備のお手伝いをしようかと」 「あのなあ……」  本当に、急かさせてくれる。 「……おい」  何かを言おうとする、そのときだった。 「随分と楽しそうにしてんじゃねーか。夜子は放置か? ああん?」  坂の上に立つ、遊行寺汀を見つけてしまった。 「……俺に、何か用か?」  纏う雰囲気に、刺のようなものを感じたのは気のせいだろうか?  いつもギラギラしたその瞳が、今日は少し濁りが見える。  不用意に間合いに入ってはいけないと、本能が告げていた。 「偶然出会うような場所じゃないだろ。この先には、教会しかないんだから」 「今日は少年に、話があってきたんだよ。少し、付き合え」 「……話?」  それは、大事なこと? わざわざ会いに来たのだから、重い話か。 「要は優先順位の話を、少年に尋ねたい」 「……優先順位?」  なんだ、それは?  汀は、何の話をしようとしている? 「少年にとって、一番大切なものはなんだ?」  それは、軽い冗談話などではなく。 「プライドか? 金か? 自己の命か? それとも――女だったりするのか?」  優先順位と、汀は言った。  今はその話に、真摯に考えよう。 「優先順位なんて、自分でも分からねえよ。そういうのは、比較するようなものじゃねえだろ」 「比較しなきゃいけねえことが、訪れないとも限らねえ」  そして汀は、陳腐な台詞を提示した。 「家族と友達、お前はどっちが大切だ?」 「……そういう話、お前は嫌いそうなものだが」  不条理な二択は、不毛な話題だ。 「別に、恋人と友達でも構わねえがな」  家族から、恋人へ。  その切り替わりに、とても嫌な印象を抱く。  心の奥に、火が突いたような。  焦燥感を、滾らせ始める。 「理不尽を正すには、理不尽を行うしかねえのかもな。目には目を、歯には歯を――本には、本を」 「……汀?」  復讐にこがれる少年は、ただ悲痛な表情を浮かべた。 「なあ、瑠璃。お前はあいつに嫌われてたから、こうまで苦しむことはなかったのかと、俺は考えたことがあったんだ」  その瞳が、暗く、暗く、沈むように色を失う。 「だが、それは違うだろうな。苦しむことさえ出来ないほど、お前は壊れてしまったんだ」 「何の、話だ」 「こんな俺を、お前や妃は恨むだろう。憎んで憎んで、許さねえだろうな。けど、俺にとってそれは、何物にも代えがたい大事なものだったんだ」  気が付けば、汀は一歩踏み出していた。  極々自然に距離を詰めて、数m先にまで接近する。 「瑠璃さん」  彼女が、何かを察知して、俺の袖を掴む。 「喩え話をしようか」  もう一度、不毛な話題を提供する。 「誰かを犠牲に、月社妃を生き返らせることが出来るのだとしたら――お前は、どうする?」  その瞳は、俺ではなく日向かなたを捉えていた。 「お前にとって、月社妃は何番目に大切だ?」 「――お前っ!?」  明確な殺意が、肌に触れた。  抜身のナイフの切っ先が、彼女に向けられていて。 「『ブラックパールの求愛信号』」  そして、汀はタイトルを告げる。 「なあ、日向」  その声は、異様に優しく。 「月社妃を生き返らせるために、殺されてくれねえか?」 「……はい?」  それが、冗談ではないことを脳髄はすぐに理解した。  彼女と汀の間に割って入り、盾となってけん制する。 「どういうつもりだよ」 「そういうつもりだよ」  告げられたタイトルを刻みつけて、汀の行動を予想する。 「さっきから言ってるだろ? これは優先順位の問題だ。お前にとって、月社妃と日向かなたは、どっちが大事だ?」  汀は、開いてしまったのだろう。  魔法の本を、開いてしまった。  その結果が――これである。 「もし、妃の方が大切だとしたら、手伝えよ。日向を、一緒に殺そう」 「……バカ言ってんじゃねえよ」 「それじゃあお前は、日向の方が大切なのか? 妃よりも、大切なのか?」 「お前なあッ!」  それは、そういう問題じゃねえだろうが!  らしくない考えに染まりやがって、畜生。 「死んだ人間と、生きている人間だったら、後者を優先するに決まっている。お前は、そんなこともわからないのか?」  わからないほど、魔法の本に狂わされたか。 「わっかんねぇな」 「……?」  あれ、おかしい。  最初は、最初の殺意は、確かに日向かなたに向けられていたはずなのに。  気が付けば――ナイフの切っ先は俺に向けられていて。 「なあ、瑠璃――俺は理解できねえよ。不条理に死んだ妃のために、お前が何かしてやろうとも思わないことに」 「だから、あいつにしてやれることなんざ何も――!」  ねえだろ、と。  もはや、汀が理解しているはずの、当たり前のようなことを口にして。 「妃に」  ぽつり、と。 「妃、好きな奴がいたんだ」 「ッ!」  恐ろしいほど、冷たい声色。 「妃に好きな奴がいたことを、お前は知ってたか?」 「…………っ」  これは、非常にまずい状況だ。  この口振りは、この問い掛けは、まず間違いなく。 「俺はなあ、そいつのことが許せねんだよ。たまらなく、許せねえんだ」  悲痛に表情を歪ませながら、行き場のない感情に乱されていく。 「何が許せねえかすらわからねえほど、苛つくんだ。畜生、畜生、畜生ッ……!」  壊れたのは、誰だ。  狂ったのは、誰だ。  戸惑いが溢れだし、後悔が渦巻いていく。 「お前は――妃の恋人を知ってたんじゃねえのか」 「……っ!」  どうなってるんだ、これは。  いつどこで、汀は確信した? これまではちゃんと、隠しきれたというのに! 「いいから、教えろ。そいつを教えてくれたら――殺すのは、日向じゃなくてもいい」 「……知って、どうする」 「日向の代わりに、そいつを殺して、失ったものを取り戻すんだよ」  狂気に満ちる汀は、ただ殺意をひけらかす。  妃を失ったことで、理性をも失って。  次に、生き返らせる手段を知って、殺意を滾らせた。  殺意の矛先が、ふらふらと彷徨い続けている。  本への復讐心や、理不尽への怒りが募りに募って、爆発したのだろうか。  生き返らせるためという大義名分を経て、全ての感情を刃にのせていた。 「ダメです、瑠璃さん」  後ろで、彼女の声がした。 「今は、逃げましょう!」  強く手を引っ張られる感覚がしたその直後。 「ちっ――!?」  彼女が何かを投げたような動作をして、汀の眼前で衝撃音が響く。 「今です、早く!」  それが爆竹であると気付いたのは、坂道を下る途中。  全速力で駆け抜けながら、彼女が自慢げな表情を浮かべる。 「スタンガンだけじゃ、ないんですよ」  背後で、汀の声がする。  復讐に折れた少年は、ふらふらと、ふらふらと、迷い続けるのだ。  まさか、このような形でここに戻ってくることになるとは思わなかった。  だが、今はつまらない意地の張り合いをしている場合ではなく、成すべきことを成さねば、俺はまた大切なモノを失ってしまう。 「夜子!」 「えっ、瑠璃!?」  書斎の扉を強く開いて、俺は夜子に会いに来た。 「え、あ、ちょっと……何を突然っ!」  予想通り、驚愕の表情で俺を糾弾し始める。 「キミは、ここにいてはならない人間よ。この間のこと、もう忘れたのかしら?」  強がりが顔を出す。 「いや、今は……」  それどころじゃない。 「そ、それでも? キミがどうしてもというのなら、考えなおさないことはないけれど? あたしも、鬼じゃないわ」  珍しく可愛げのある姿を見せてくれるのは、本当に嬉しいが。 「か、かなたも寂しがっていることだし、あたしの気分を害さないと誓えるなら、ここに居ても――」 「そんなことよりも、大事な話がある」 「そ、そんなことよりも!? キミ、あたしの譲歩を無下にするつもりっ!?」 「その話は、あとでじっくりさせてくれ」  今はそれよりも、もっと重要な話題があるんだ。 「あの、夜子さん」 「あ、かなた……いたのね」  代わりに彼女が、説明する。 「汀さんが、魔法の本を開いてしまったようです。それもどうやら、黒い宝石の」 「……え?」  目を丸くさせた夜子は、心から驚きを放つ。 「どういう、こと?」 「名前は、『ブラックパールの求愛信号』だ。どうやら、人を蘇らせる話しらしい」  優先順位と、犠牲の話をした。  それが、生きかえらせるために必要な条件なのだろう。 「黒真珠……残念ながら、あたしの記憶にはないわね。少なくとも、この図書館には収められていない本よ」 「ってことは、中身を知らずに対応しなきゃならねえのか」  ネタバレを許してくれるほど、現実は甘くなかった。 「汀の目的は、間違いなく妃を蘇らせることだろうな」 「……そうですね。私を殺すのは、物語的にどういう意味があるのでしょうね。私の死体を使って、月社さんっぽく仕立てあげる感じでしょうか」 「本当に錬成するのかもしれないし、着飾って悦に入るくらいの狂人っぷりを見せるかもしれない。どちらにせよ、それが語る物語は間違いなく不幸だ」  ろくな話なわけがないだろ。  人を殺して、蘇らせるなんて――その時点で、終わっている。 「る、瑠璃」 「……なんだ?」 「キミは……まだ、魔法の本に関わるの?」 「はあ? 何を当たり前のことを」  この状況で、話すことか? 「あたしが、出て行けって言ったから……もう、関わるつもりがないんだと思ってた」 「……何を言うんだよ」  気弱な一面を見せる夜子へ、俺は語りかける。 「お前になんと言われようと、俺はもう本に関わり続けるよ。図書館から追い出されたって、それは変わらない。お前は俺のことが嫌いだから、追い出したい気持ちも理解できるしな」  鬱陶しいのは、本音だろうから。 「俺にはもう、これしかないんだよ。だから、お前に嫌われたって、関わり続けるつもりだぜ」  闇子さんとの約束もある。  妃の志を、繋いでいきたいというのもある。  そして何よりも――夜子のことが、心配だから。 「……あたしは、キミのことが嫌いだけれど」  その言葉に、夜子は懸命に答えてくれた。 「あたし一人じゃ、たぶん、ダメだから。引き篭もりのお嬢様は、何にも出来ないことくらい、あたしが一番わかってる」 「夜子……」 「か、勘違いしないでよ!? あたしは、今も君のことが大嫌いだし、そこに変化はないけれど」  少女は、震える声で、願った。 「キミは、ここにいなさい。あたしの傍で、あたしの力になりなさい。そういう理由なら……うん、あたしは、キミの存在を許せると思う」  ぷいっと、背を向けて。 「今だって、あたしじゃどうしたらいいのかわからないの。あたし一人じゃダメだから……この図書館にはキミが必要なんだわ」 「……ありがとう、夜子」  もしかすると、初めてだったかもしれない。  こうまで俺のことを受け入れて、認めてくれたのは――こみ上げるものがある。 「言われなくたって、そのつもりだったけど……言われてますます、その気になった」  男というのは、単純な生き物だ。  嫌われていたとしても、女の子に優しい言葉を言われただけで、力が湧いてくるのだから。 「本が閉じれば、全ては儚く散っていく。だから、本に蘇生の夢を見るのは、とても愚かな行為だわ」 「とにかく、目的は紅水晶の時と同じだな」  それが語らせてはいけない物語である以上、破壊は必須だ。 「どうしますか? 理央さんのときとは違って、話し合いが通じそうにもありません。下手をしたら、取り押さえる必要がありますが」 「大丈夫だ」  何故だろう、自信があるんだ。  理央のときは、その胸に抱えているものがわからなくて、俺は迷い続けていたけど。  「あいつの痛みは、狂おしいほどに、わかるから」  俺たちの抱えている感情は、本質的には同じだろう。  あとは、俺が真正面からあいつと向き合えるかどうかなんだよ。 「今でも俺は、信じてる。汀は、物語に屈するようなやつじゃないってな」  今はただ、戸惑いに打ちひしがれているだけで。  「これは、本当に単純な話なんだ」  じっくりと、かなたの目を見つめた。 「――〈汀〉《丶》〈は〉《丶》、〈妃〉《丶》〈の〉《丶》〈こ〉《丶》〈と〉《丶》〈が〉《丶》〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈過〉《丶》〈ぎ〉《丶》〈た〉《丶》〈だ〉《丶》〈け〉《丶》〈な〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》」  妹として、ではなくて。  単に、一人の女の子として――愛してしまっていたんだ。 「これは、俺が今までごまかし続けてきたことへの、清算になるのかな」  こうなってしまった以上、もう誤魔化すのはムリだろう。  正面から、あいつの気持ちを向き合うしかない。 「どこ行くんですか」  彼女の尋ねる声に。 「折角逃げてきたのに、また危険な目にあうつもりですか」 「最初から、逃げるつもりなんてなかったさ。ただ、あのときはあんたの事が心配で、逃げただけで」  汀が、意志を持って立ちふさがるのなら、俺は逃げずに戦うよ。  俺たちは、そういう風に、互いに意志を張り合いながら、過ごしてきたんだから。 「瑠璃さん……!」  戸惑う瞳に、理解はなく。  女の子には、わからないのかもしれないなと、笑ってしまった。 「ちょっくら、あいつと喧嘩してくるよ」  たまには、青春っぽいことをしようじゃないか。  色褪せて、枯れ果てて、もう終わってしまった恋心を、掘り返そう。  書斎を抜けだした俺は、しっかりとした足取りで玄関へと向かっていた。  それは、黒真珠の物語に囚われた、遊行寺汀と対峙するため。  だが。 「――よぉ、瑠璃」  先手を取られたのは、俺の方だった。 「汀!」  だだっ広い大広間の中央で、汀はシニカルに笑っていた。  瞳は、もちろん笑っていない。 「さっきはよくも逃げてくれたじゃねーか。話もまだ、途中だってのによ」 「あいつを巻き込もうとするお前が悪い。俺に用があるのなら、最初からそうしてろよ」  だが、悪い状況というわけではなかった。  むしろ、望むところである。 「とりあえず、もう一度聞かせてもらうぜ?」  遊行寺汀は、繰り返す。 「――妃の恋人が誰だったか、お前は知ってるよな?」 「…………」  漂う殺意が、そのまま言葉にしたような響き。  確信めいた物言いが、俺に覚悟を決めさせる。  「それを聞いて、どうする」 「さあ、どうすっかな? 色々問い詰めたいところではあるが――」  いろいろ。  いろいろな、手段を用いて。 「まずはそいつをぶっ殺して、妃を蘇らせてみようかと思ってんだよ」 「……バカも休み休み言えよ。そんなこと、出来るわけがないだろ」 「出来んじゃねーの? ほら、魔法の本がどうたらこうたらで、なんか都合のいい設定があったりするらしいぜ」 「投げやりかよ」  これじゃあ、黒真珠もがっかりだろ。 「誰かの死と引き換えに、誰かの生を取り戻す。この上なく明確な等価交換じゃねーか」 「誰が一番ふさわしいかって考えるなら――やっぱり、妃の恋人をぶっ殺すのが一番まっとうだろ」  苛立ちを言葉に込めて、汀はそういった。 「まっとうなもんか。どうみたって、狂ってるとしか言いようがない」  汀の行動は、滅茶苦茶だ。  妃を蘇らせたいのか、恋人を殺したいのか、何がしたいのかわからない。  ただ、衝動に身を任せて、暴走しているようにしか見えないから。 「お前は、一体何に怒ってるんだ?」 「……あ?」 「妃が、隠れて付き合っていたことか?」 「は? 妃が俺に隠れて付き合ってたからって、どうして俺がキレなきゃいけねえんだよ」 「じゃあ、何に怒っている?」  それを、言語化してみせろ。 「この世の理不尽に決まっているだろ。ずっとずっとずっと、そればかりを恨んできた」  だから、魔法の本を殺そうとした。  大好きな夜子の意志に逆らって、復讐を始めたんだ。  そこまでは、理解できる。  「だったら、どうして物語に屈して、黒真珠を開いんたんだ。それこそ、汀らしくないだろ」  遊行寺汀のことが、わからなくなってしまったんだ。  今の展開が、信じられないくらいだ。 「……なあ、瑠璃。お前は妃に、生き返って欲しいとは思わないのか?」 「思う」  即答した。 「妃の死に、不条理を感じなかったのか?」 「今だって、納得できていない」  当たり前だろ。 「だったら――それを変えたくなるのが、人間ってもんじゃねえのか?」  汀の声は、悲痛に鳴く。  「それが、このざまか」  復讐にとりつかれた少年は、狂い惑わされ間違いを犯していく。  見るに耐えない、落ちぶれた姿である。 「……お前は、妃の恋人を知ってるんだな」 「知ってるよ。ずっとずっと、知ってたな」 「そして、それを教える気がないわけだ」 「当たり前だ。教えたらお前、そいつを殺しに行くんだろ?」 「そいつが本当に妃のことが好きだったんなら、本望だろ」  ナイフをかざして、汀は笑った。 「好きな女のために死ねるなんて、男冥利に尽きるよな」 「……馬鹿か」  ああ、もう、なんだろうこの失望感は。  俺の知っている遊行寺汀は、こういう男だったのか。  「お前、自分が何を言ってるのかわかってんのか?」  呆れ果てながらも、この場を無視するわけにはいかなくて。 「人を殺すという意味を、無闇に使ってるんじゃねえよ」  誰かを殺すということは、誰かの存在を奪うということで。  奪われる側の苦しみを、俺たちは既に知っているはずだろう? 「これじゃあお前は、単なる気狂いの馬鹿だよ。それが例え魔法の本によるものだからって――本当に妃が生き返ると思ってるのか?」 「……これが、本の上の物語であることくらい、重々承知の上だ」  うんざりするような、口振りだ。 「魔法の本は、決して俺たちに優しくしねえ。妃はたぶん、生き返らねえんだろうなあ。そんなことは、わかってる。わかってる。わかってるっていってんだろ!」  理解と欲望が、反対を向いているのだ。 「わかっていても――どうしようもないことだって、あるだろうが!」  もはや、理性で考えることが出来ないくらい、汀は追い詰められていた。 「……汀はさ」  だから、言ってやった。 「妃を生き返らせたいとか、そういう目的で開いたんじゃないんだろ」  それは、誰だって分かっちゃう簡単なこと。 「ただ、妃のことが好きだっただけなんだ。お前は、一人の女の子として、妃のことを愛していたから」  失った悲しみに、復讐心を滾らせて。  恋人の存在を知って、嫉妬に狂って暴走して。  そのくせ、自分自身でその気持ちに気付いていないから――わけがわからなくなってるんだ。 「お前はただ、自分が知らないところで、妃が恋をしていたことを、許せないだけなんだよ」  だから、こうまでして恋人を知ろうとやっきになって。  生きかえらせるという大義名分があれば、その怒りを恋人に晴らせると思ったんだろ。  抑えきれないほどの感情のぶつける先を、探していただけだ。 「――〈お〉《丶》〈前〉《丶》〈は〉《丶》、〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》〈が〉《丶》〈大〉《丶》〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》」  何度も、言ってやる。  思い知るまで、何度だって。 「〈そ〉《丶》〈ん〉《丶》〈な〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈誰〉《丶》〈の〉《丶》〈目〉《丶》〈に〉《丶》〈も〉《丶》〈明〉《丶》〈ら〉《丶》〈か〉《丶》〈だ〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》」  夜子と同じくらい、大切にしていただろ。  妹なんて呼んだのは、その気持ちから目をそらすためか?  妃がお前だけには教えたくなかったのも、その気持ちを察していたからだろう。  あまりにも、わかりやすすぎて。  当の本人だけが、気が付いていなかった。  遊行寺汀の、片思い。  理不尽な世界に弄ばれた、悲しい恋物語だ。 「……うるせえ、馬鹿かお前」  ぞっとするような重低音。 「それ以上、何も言うんじゃねえよ」 「……っ」  否定ではなく、黙らせることを選択して。 「てめぇはさっさと、恋人の名前を教えろよ――!」  莫大な殺意が、行動に変わる。  豹変した汀の様子に目を奪われた俺は、ワンテンポ反応が遅れてしまって。 「――ッ!!」  汀の拳が頬を捉えた感覚が、痛みとなって理解させられる。  冷たい床、走る痛み、ああ、殴り飛ばされたのだ。 「吐けよ」 「……う、あっ……!」  たった一撃で、意識が持って行かれそうになっていた。  自分が倒れてることにすら気付かないくらい、鮮やかな暴力をくらってしまった。 「吐くまで、殴るぞ」 「ぐ……ッ!」  決して気絶させるわけではなく、痛みを植え付ける殴り方。  言葉ではなく暴力で、従わせることを選んだのだ。 「お前はもう、俺の質問に答えること以外、喋らなくていい」  先ほどの指摘が、地雷だったのか。  もはや、抵抗することも出来ないまま、汀に殴られ続けるだけ。 「…………」  一定の間隔で、拳を振り下ろし続ける汀。  殴る方の拳だって、痛みがあるはずなのに――無表情のままだった。 「……俺は、それでも、言わねえぞ……」 「あっそ」  今度は、蹴りだった。  「ぐはっ……!」  鳩尾に一発、別方向の痛みが迸る。  「げほっ、げほっ……!」  それでも、何故だろう。  今の汀に屈することが出来なかったのは、何故なんだ?  こうまでしてボコボコにされても、真実を伝えることだけは出来なかった。 「……ぐっ」  こうなったら、打ち明けるしかないだろうと思っていたのに。  それでも、理不尽な世界に身を投げた汀への不満が、俺の口を閉ざしてしまう。  こんな展開で、俺は妃の思い出を語りたくはなかった。  こんな経緯で、大切な秘密を打ち明けたくはなかった。  それもこれも、隠し続けようとした俺たちが悪いのかな。 「――瑠璃さんっ!」  掠れゆく意識の中で、捉えた姿。 「な、なんてことを……!」  耳に届く彼女の声が、俺の意識を繋ぎ止めた。 「丁度いいところにきたな、日向」  俺への暴力を止めて、汀は彼女へ向き直る。  そのことに、たまらない不安感を植え付けられたのは、何故。 「る、瑠璃さん、大丈夫ですか……?」 「……大丈夫だ」  駆け寄ろうとする彼女を制する。  俺と彼女の間に立つのは、本に囚われた復讐鬼。 「なあ、日向よぉ。お前も、妃の恋人を知ってたんじゃねえのか」 「……え?」  この状況下でも尚、汀はそのことにこだわり続ける。 「お前は俺の調査を受けると約束しながら、適当な調査結果で誤魔化しやがったよな。彼氏がいたことなんざ、そこのバカが答えてくれたぜ?」 「そ、それは……!」  汀から依頼を受けて、適当な結果で誤魔化しておきました。  そういう事情だと、彼女からは聞いていたが。 「俺に、何を隠している」  暴力を振るったばかりの汀は、既に理性は外れている。 「女だからなんて理由、今の俺には通用しねえぞ」 「……っ!」  明確な敵意と苛立ちが、警鐘を鳴らし始める。  ぼろぼろになった身体を懸命に動かそうとするけれど、うんともすんともいわなかった。 「はい、私は嘘をつきました。調査結果はまるっと適当です」  でも、彼女は。 「私は、全てを知っています。汀さんの知りたいこと、全部ですよ」  そんな汀を前にしても、いつもどおりの笑顔だった。 「……へえ」  獲物を見つけた猛獣のように、汀は笑った。 「待て、汀」  このままでは、彼女の身が危ない。  いくら彼女が強がろうとも、身体的な強さには敵わないのだから。 「いいからてめぇは、黙ってろよ」  立ち上がろとする俺を、思いっきり蹴り飛ばす。  サッカーボールになった気分だったが、コミカルなイメージとは裏腹に、意識が吹っ飛びそうになる。 「……乱暴なことは、しないでください」 「それは、お前次第だよ」  シニカルに、汀は笑う。 「この馬鹿は、ほんっとうに口だけは硬いから、俺も困ってたんだよ。なあ、日向。そろそろ、依頼を遂行してもらおうか」  俺から、彼女へと標的を変える汀。  もはや立ち上がることすら出来なくて、唇を噛みしめる。 「お断りします」  だけど、彼女ははっきりと断った。 「瑠璃さんが沈黙を貫くのなら、私は何一つ情報は漏らしません。守秘義務がありますので」 「この状況で、断れると思ってんのか?」  ポケットから、小型のナイフを取り出す汀。  鮮やかな手つきで刃を向けて、脅迫という手段を選択した。 「可愛い顔に傷を付けられたくなかったら、さっさと吐いてしまえ」  目と鼻の先に向けられる刃。  それでも彼女は、一切の動揺を見せず、凛として立ちふさがる。 「あはっ! そんな脅しになんて、屈しません。私は、脅す側の人間ですよ?」 「おい……いいから、逃げろって……」  強さを見せても、暴力の前には無駄なのに。 「大丈夫ですよ。私は、大丈夫です」  根拠の無い自信を見せつけながら、それでも彼女は笑っていた。 「……お前は、俺が刺せないとでも思ってんのか? だとしたら、とんだ勘違いだ」 「いえいえ、汀さんはやれば出来る子ですからね。私なんてさっくり殺られてしまうでしょう」  それがまるで、冗談でも言うような軽口。  手を大きく広げ、無防備を晒していく。  どうぞ、刺してくださいと言わんばかりのポーズに、汀も俺も、驚きを隠せなかった。 「知ってましたか」  恐怖も、動揺も、どこにもなく。 「――メインヒロインの女の子は、決して死ぬことはないのです」  ただ穏やかに、笑顔のまま。 「……お前、狂ってるよ」  呆れたように、笑う汀。 「瑠璃も、変な女に気に入られちまったみたいだな」 「何を言いますか。身を挺して守ってくれる、頼れる素敵な女の子ですよ、私は!」  そりゃあ、あんたは今まで、何度も助けられてきたけれど。  この状況だけは、駄目だろう? 「今の汀さんは、冷静さを欠いています。物語に囚われて、暴走中です。だから、私が汀さんを落ち着かせてあげますよ」 「おいおい、何を馬鹿なことを言ってんだ? そんなにてめえは、刺されたいのか?」  ナイフの切っ先が、小さく揺れた。  この存在を忘れるなと、意図的に意識を向けさせる。 「刺してみれば、分かりますよ」 「……は?」 「私を刺してしまったら、汀さんは自分のしていることを理解できるでしょう」 「今は興奮状態で何も考えられないのかもしれませんが、ひとたび私を傷付けてしまったら、きっと思い知るはずです」 「思い知る? 何をだよ」 「その行いが、何もかもを失わせてしまうことを」  達観したような、穏やかなほほ笑みを浮かべる。 「瑠璃さんは、かなたちゃんのことが大好きですからね――私を傷付けるようなことをしてしまったら、一生涯、汀さんを許さないでしょう」 「夜子さんだって、大好きな親友を失って、今まで以上に心が塞がれてしまいます。汀さんが踏み込もうとする未来は、そんな茨の道ですよ?」 「それはまさしく、黒い宝石の本の結末です。誰よりもそれを恨んでいた汀さんが、どうしてその末路を辿るんですか」 「うるせえよ」  それでも汀は、止まらない。 「今の俺は、妃の恋人さえ知れたらそれでいいんだよ。それさえ知れば、全てのもやもやが晴れるはずだ!」 「晴れるわけがないじゃないですか。そんなこともわからないくらいに、汀さんは狂ってしまったのですか」  呆れるではなく、淋しげに。 「……早く、本を渡して下さい。汀さんが殺すべきなのは、月社さんの恋人ではなく、魔法の本ですよ」 「渡せるかよ。俺は、俺の意志でこの物語を開いたんだ。今更、引き返せねえよ」  苦虫を噛み潰したような顔で、汀は言った。 「では、その覚悟を試しましょう」  もう一度、彼女は微笑む。 「汀さんの我を通すため、邪魔者を排除するというのなら――私を刺してみてくださいな」 「血塗れた私を見て、それでもまだ本に囚われ続けるというのなら、仕方がないですね」 「……お前、正気か?」  彼女の強さが、光り輝く。  気狂いとは紙一重の、誰にも理解されない恐ろしい強さだ。 「気が狂ってるのはお前だよ。なんでてめえがそこまで身を張る必要があんだよ。ははは、馬鹿じゃねえの?」  その通りだ。  ここで、彼女が立ちふさがることに、何の理由もないはずなのに。 「瑠璃さんが、ピンチだから」  どうして彼女はこの状況でも笑っていられるのだろうか。  震えさえも見せず、刃物を前にして、力強くいられるんだ。  眩しすぎるほどの強さに、心が打ちひしがれていく。 「私は、瑠璃さんのためでしたら――死んでもいいと思っています」 「……何を言ってる」  本当、ああ、もう、なんだよあんたは。  いつもそうやって、笑顔を咲かせながら俺の味方でいてくれる。  頼もしすぎて、心強すぎて、こっちが泣きたくなってくるだろ。 「私は、それほどまでに、瑠璃さんの気持ちを尊重したいのです」  そして、彼女は初めて、悲しい声で言った。 「出来る事なら、私だって――月社さんの恋人の名前を、知りたくはなかったから」 「……どういう意味だ?」 「知ってしまったら、悲しくなるだけですから」  好奇心旺盛の彼女は、それでも妃の話題だけは口にしようとしなかった。  俺に気を使ってなのか、なんなのか、聞きたいこともたくさんあるだろうに、それでも何も聞かないんだ。  たぶん、きっと。  その話題を避けてしまうほど、俺が苦しんでいるように見えたんだろう。  いつまでも妃の思い出に引き摺る俺に、同情してくれたのかな。 「はっ、そんな言葉で、そんな決意で、この俺が諦めると思ってんのかよ」  宝石のような意志の強さを魅せられても、汀は己を曲げることはなかった。  そうだ、汀がこの程度で諦めるはずがないんだ。 「そんなに刺して欲しいなら、望み通りぶっ刺してやるよ。それで死んでも、知らねえからな?」 「あっ、傷が残ると嫌なので、顔とかは止めて下さいね?」 「知るかよ、バーカ」 「……おい、待て」  弱々しい俺の静止は、一切届かず。 「死んで後悔してろ、ドM女」 「後悔するのはあなたですよ、シスコンさん」  汀の刃が、動き始めるのを瞳が捉える。  殺意が芽吹くのを全身で感じて、思わず鳥肌が立ってしまった。  ああ、本当に汀は刺してしまうのだろう。  彼女の強さは本物だったけれど、汀の方だって負けていない。  意志は曲げず、殺意はギラギラと。  「……ッ!」  そこで、俺は気付いてしまった。  階段の上、二階の廊下から様子をうかがう、遊行寺夜子の存在を。  実の兄が、刃物を片手に暴走するのを見ながら、小さく怯えていた。 「……あ」  このままじゃダメだ、と脳が理解した。  後悔するのは他の誰でもなく、俺自身ではないのかと。  夜子が見ている前で、こんな悲劇を語らせてはいけない。  俺だけが、この場を収める手段を持っていて。  俺だけが、その方法を頑なに嫌っていた。  でも。  言わなきゃ、駄目なんだろう。  もはや、どうにもならない所まで来てしまっている。  おかしいな、いつかこういうときがくると思っていたから、覚悟はできていたはずなのに。 「あ、ああっ、あああっ……!」  汀に刃物を突きつけられた時よりも、心は大きくざわめいた。  意識をすれば、心臓が音を立てて苦しみ始める。  心のなかで言葉を形作り、それを音にして喉から口へと運んでいく。  なのに、途中で意志はくじけ、声は掻き消えてしまうのだ。  何かを伝えようとして、何も言えなくなってしまう。  もがくたび、心が血の涙を流して、号泣するんだ。 「待てよ、待て、待ってくれ」  胸を抑えながら、言葉を絞り出す。  汀から受けた暴力の痛みは、とうに忘れた。  今は、一年前から続く痛みに、苛まされていた。 「……あ?」  汀の刃が、停止した。 「る、瑠璃さん……!?」  尋常ではない俺の様子に、彼女は心配そうな表情を浮かべる。 「言う、から……もう、終われ、終わって、終わってくれ……」  歯ががたがたと震えていた。  誰かにそれを伝えるなんて、生まれて初めてのことで。  今はただ、言葉を伝えるという行為の難しさを思い知る。  あるいは、心の制御仕方をも、忘れてしまったのか。 「かなたを、傷付けないでくれ」  その願いは、簡単に口に出来た。  大切な人が傷付けられるのは、嫌なんだ。 「……ああ、俺は」  本当、最高に、格好悪いな。  いつまでたっても、後ろ向きで女々しくて、あいつのことが忘れられないでいる。  切り替えたつもりでも、克服出来たつもりでも、いざというときにこうして怯えてしまうんだ。  痛みをこらえて、告白しよう。 「〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》〈の〉《丶》〈恋〉《丶》〈人〉《丶》〈は〉《丶》、〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》〈の〉《丶》〈好〉《丶》〈き〉《丶》〈な〉《丶》〈人〉《丶》〈は〉《丶》」  今まで、他の誰にもいえなかった、俺たち二人の恋心。  失ってしまった感情を、生まれて初めて、正直に口にした。 「――〈俺〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》」  あ。  痛みが、ふっと、臨界点を突破した。  足腰の力が入らなくなって、糸の切れた人形のように崩れていく。  喉までせり上がった言葉が、ようやく言葉に出来た瞬間。 「俺と妃は、互いのことを愛していた」  続く言葉は、素直に口に出来たと思う。  痛みを感じなかったわけではない。  ただ、痛みを感じなくなるほど、麻痺してしまったのだろう。 「本当に、本当に――あいつのことが、大好きだったんだ」  言葉が、涙の代わりに零れ落ちていく。  口にすれば、言葉が自らの心を傷つけ始める。  好きだった、好きだった、好きだった――今でも、大好きだった。  この思いを、この痛みを、漏らすことなく抱え続けたくて。  きっと、他人に打ち明けてしまったら、どうしようもなく弱くなってしまいそうだから。 「る、瑠璃さん!」  意識の向こう側から、声がした。  ああ、そうだった。そのために、俺は真実を告げたんだった。 「汀さんが……!」  しかし、その言葉は全く予想していなかったもの。 「……?」  傷付いた心を放置して、瞳を動かしてみると。 「……なっ!」  先ほどまでそこにいたはずの汀が、黒い煙を上げて消えかけていた。 「は? え、なんだこれ?」  驚きが、一瞬、痛みを凌駕する。  常識はずれの展開に、理解が全くついていっていなかった。 「瑠璃さんが告白した瞬間から、急に! 一体、何が!?」  汀は、何も言うことなく無言だった。  自らの身体が消え始めているというのに、一切の反応がない。  まるで、消えることを理解していたかのような、そんな様子。 「……どういうことだよ」  どんどん薄れていく汀を見つめながら、俺達はどうすることも出来ず、ただ見守り続けていた。  止めるすべも抗うすべもなく、煙はやがて、空気に溶けていって。  ――からん。  汀の存在が、無に還ったその瞬間。  何かが、床に転げ落ちた。 「……あ、これ」  それは、銀色の毛並みを持つ、可愛らしい猫のキーホルダー。  消える前の汀が、持っていたのか? 「まさか」  すうっと、血の気が引いていく。  もしかしてと、これまでの展開から一つの可能性に思い至る。  「ああ、そうだな」  背後で、声がした。 「――よぉ、少年。湿気た面してんじゃねーか」  遊行寺汀が、シニカルに笑っていた。  玄関の扉を開いて、たった今帰ってきたところらしい。 「俺は今、ご機嫌だぜ? 復讐の一つが完了して、おまけに驚愕の事実も知れたからな」  右手には、黒い本が握られていた。  既にナイフが貫かれて、破壊された後の姿。  その本からは、先ほどと同じ煙が立ち込めていた。本が、薄っすらと消えかけている。 「ああ、これか? ちょうど今、用が済んだからぶっ殺したところだよ。なんでもドッペルゲンガーがどうたらこうたらの、くだらねえ物語だったよ」 「…………」  唖然とするばかりの、俺と彼女。  そして、その右耳に付けられているのは、紛れも無く受信機だった。 「ああ、これはあれだよ。そこの女からパクったヤツでな。猫のキーホルダーに仕掛けられた盗聴器で、他人の秘密を聴き放題なんだよ」  厭味ったらしく、汀は笑った。 「そういえば、いつかの誰かさんも、この方法で俺の目的を夜子にバラしてたんだっけ?」 「……さぁ、どうだったかな」  もう、身体に力が入らない。  抗う気も、反論する気も起きなかった。  へたり込んだ俺は、半笑いになりながら白旗を揚げる。 「本当、奇遇だな。いいタイミングで現れてくれるよ」 「そうだな、いいタイミングで俺は帰ってきたな」  謀られたことに気付いたら、もはや笑うしかなく。  やっぱり汀は汀なんだと、少しだけ安心した。 「ところで、ボロボロのところ悪いんだが、ちょっと俺と付き合えよ」  親指で、外をさして要求する。 「たまには男二人で、好きな女の話でもしようぜ」 「……そうだな」  気が付けば、体の痛みが戻ってきていた。  心の痛みは、少しだけ軽くなっている。  あんなに苦しんで告白したのに、今はもう心は落ち着きを取り戻して。  それはきっと、変わらない汀を見たおかげだろうか。 「瑠璃さん」  背後で、彼女は優しく声をかけてくれた。 「美味しいご飯を作って、待っていますね」 「ああ、楽しみにしているよ」  遊行寺汀は、変わらない。  本でさえも利用して――望むものを手に入れるんだ。  『ブラックパールの求愛信号』  それは、望まない願いを叶えるホラー系のお話だったらしい。  恋人を失くした少年が心を壊してしまい、在りし日の幻想に追いすがる。  いつしか恋人を生き返らせるための方法を模索して、オカルトじみた話に身を落としていく。  ――恋人を生き返らせる、禁じられた魔法。  とあるオカルト本に書いてあったのは、非人道的な手段を用いた狂気の儀式だった。  誰かの死体を使った、気狂いの錬成陣。  人が生き返ることがないことなんて、心の奥底では理解していた。  そんな手法で、奇跡なんて起きるはずがなく。  少年は、狂気に落ちることはなかった。  恋人を失ったことによって、理性ははずれてしまったが。  それでも少年は、人間としての本分を忘れることが出来なかった。  結局、オカルト話も、心の安定を図るためのものでしかなかったのである。  生き返らせる手段を探る間は、自らに生きる価値を見出したような気がして。  死んだ彼女のために、何かできることがあると錯覚していたのだ。  ――けれど、物語は奴を許さなかった。  狂気の世界を知ってしまった少年は、逃れることが出来なかった。  世界の裏側はしっかりと少年を捉えて、逃がさない。  それは、所謂ドッペルゲンガーと呼ばれる代物。  理性を取り戻した少年の目の前に現れたのは、もう一人の自分自身だった。  ドッペルゲンガーは、緩やかに笑って、行動する。  少年の姿を借りながら、少年の意思に背いて、行動する。  ――心の底で、少年が願っていた奇跡。  もしかして、恋人が本当に生き返るかもしれない。  失った恋人のために、何かをしてあげたい。  純粋なその気持ちを、ドッペルゲンガーは最悪の形で叶えてしまうのだ。  心の奥底で願っていたものを、ドッペルゲンガーは勝手に実践してしまう。  心の奥底の小さな願いを勝手に解釈して、乱暴に叶えてくれる悪魔。  恋人が、生き返らないことは分かっていても。  恋人のために、何かをしてあげたくなる心があって。  その心を盗み見たドッペルゲンガーは、少年が調べた儀式を実践してしまう。  身近な人を殺し、新鮮な死体を用意して。  オカルトじみた魔法陣を書いてみて、呪われた呪文の詠唱をしてしまう。  けれど、この世に人を生き返らせる魔法なんて、存在しない。  失敗した。  それでもドッペルゲンガーは、満足したように笑う。  少年と同じ姿形をしていながら、欲望の化身となって笑い続ける。  ――〈本〉《丶》〈当〉《丶》〈は〉《丶》、〈こ〉《丶》〈う〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》〈か〉《丶》〈っ〉《丶》〈た〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈ろ〉《丶》?  ドッペルゲンガーは、語りかけます。  ――ただ、世界の不満を誰かにぶつけたかっただけだ。  恋人を失った少年は、もはや平常心を保つことが出来なくて。  本当の本当に、壊れてしまったのだ。  それが、ブラックパールの物語。  切ないほどの求愛信号は、最後まで恋人に届くことはなかったのである。  場所を変えて、教会に移動したのは、互いに思うことがあったのかもしれない。  月社妃について話すのなら、やっぱりここだろうと思うのだ。 「――それが、黒真珠のあらすじだよ」  先ほど汀が殺した物語の概要を、まずは聞かされる。 「ドッペルゲンガーか。なるほど、汀らしくないと思ったよ」  らしくもなく、理性に欠ける言動をしていた。  本当の本当におかしくなったのかと、思わず失望しかけていたところである。 「結局、黒真珠の物語では、主人公の大切なモノを全て壊してしまうんだぜ。恋人を失った主人公は、恋人のいない世界に耐えられなかったんだ」  心の底で願った破壊願望を、ドッペルゲンガーがかわりに叶えてしまうのか。  「……そう思う気持ちも、わからなくはない」  全てが投げやりになってしまって、どうでもいいと思ってしまう。 「普通は、そういうもんは理性が許さねえ。だが、ドッペルゲンガーにはその理性が存在していない」  だからこそ、純粋無垢に行動する。  自らの欲求を、子供の我儘のように実践していくのだ。 「でも、もう一人の自分っていうくらいなんだから、その言葉や願いは本物なんだろ?」  自らの心が生み出した闇。  それは紛れも無く、自分自身でもあるのだから。  あれが、偽物の汀だったとしても――あいつが語ってたのは、やっぱり汀の本心でもあるのだろう。 「……ま、そうだな」  決まりの悪そうに、汀は苦笑いを浮かべた。 「ちょっとした事情があって、黒真珠を開いちまってな。まあ、すぐにでも殺してよかったんだが、ちょうどいいかと思ったんだ」 「…………」  にやり、と。  皮肉めいた笑みを浮かべる。 「どこかのクソ野郎は、俺の目的を夜子にバラしやがったらしいから、その報復も兼ねて、全部暴いてやろうと思ったわけだ」 「俺が俺自身に許せねえ行動でも、ドッペルゲンガーは実践してくれる。随分と楽させてもらったぜ」  「高みの見物ってわけか」  本当、質が悪い奴だ。  「ってか、俺がバラしたっていつ気付いたんだよ?」 「夜子の態度を見てたら分かるっつーの」 「……それは仕方がないな」  あいつは、嘘が下手だから。 「で、その盗聴器はどうしたわけ? 彼女が貸してくれそうにないんだけど」 「あの女が、少し前に俺に仕掛けてくれやがったんだよ。多分、妃の恋人探しを頼んだ時だ」 「……うわぁ」  味方ながら、恐ろしいやつである。 「ま、そういうわけで親愛なる少年の本音を聞くために、ドッペルゲンガーにその盗聴器をしかけたわけだ」  暴走する影に、盗聴器を仕掛けて俺にけしかける。  本物の汀は、それを背後で見守りながら、いつでも殺せるよう刃を本に向けていた。  そして――俺が秘密を打ち明けた途端、魔法の本にナイフを突き刺したのだろう。 「お前、最悪だな」 「瑠璃にだけは、言われたくねえよ」  二人同時に、破顔した。  本当に、本当に、これでこそ――遊行寺汀である。  騙し、騙されの友情関係。 「さて、そろそろ本題に入ろうか」  魔法の本なんて、どうでもいいと言わんばかりに。 「男らしく、好きな女の話でもしようじゃねーか」 「……恋話は、女の子としたいなあ」 「逃げられると思ってるのか?」 「逃げる気なんて、さらさらないよ」  もう、覚悟は決まっている。  図書館の大広間で吐き出してからは、随分と楽になったから。  手詰まりだと心が理解して、諦めることが出来たのだ。 「お前らは、付き合っていたのか」 「……明確に、今日から付き合いましょうとか、そういう約束はしてなかったかな」  気付いたら、お互いの気持ちを知っていて。  気がついたら、お互いの気持が伝わっていることが、前提になっていた。 「俺は、妃のことを心から愛していた」  ずきん、と。  心が軋む音がした。 「本当に、本当に、本当に――大好きだったんだよ」  あのきれいな髪を、撫でるのが好きだった。  つんとしたすまし顔を、笑顔にさせるのが好きだった。  余裕ぶった口振りなのに、俺のことが好きでたまらないところなんて、愛くるしい。 「……そうか」  対する汀は、無表情で頷いた。 「お前は、妃が死んでから、もう立ち直っているものだと思ってたよ」  遠く、遠くの何かを眺めながら、汀は語る。 「俺がいつまでも引きずって、夜子は後ろ向きに引きこもって、お前だけが――しっかりしているように思っていたんだが」  ゆっくりと、溜息を付くように。 「お前が一番、苦しんでいたんだな」 「…………」  どうしてそこで優しい言葉をよこすんだよ。  もっと恨んでくれたほうが、楽だったのに。 「ったく、これじゃあ俺の立場がねえじゃねえか。どうしろっていうんだよ」  いらいらを誤魔化すように、床を蹴る。 「何も言えねえよ、俺には。もう、本当に何も言えねえ」 「……隠してたのは、悪かったと思ってる。でも――」 「わかってるっての」  語ろうとする俺を、静止させて。 「妃が、そう言ったんだろ。その理由も、意味も、嫌になるくらいわかってるから」  込み上げる何かを、堪えているようだった。  余裕のない表情が、俺の胸を締め付ける。 「だけど、俺は――それでも汀に、謝らなきゃ行けないと思う」  ずっとずっと、知ってたんだよ。  ずっとずっと、分かっていた。  それは多分、妃も同じ。  いや、妃の方は、もっと早くに知っていたんだと思う。  ――汀が、妃へ向けている感情の正体を。 「お前は――妃のことが」 「黙れ」  俺の目を見ようとはせず、溢れる何かを抑えるように、天を見上げて言った。 「もう、何も言うな」  割れそうな、声だった。 「何も、言わないでくれ」  決して、涙を流しているわけではなかった。  思えば俺は、汀が泣いているところを見たことがないように思う。  今だって、声は震えていたけれど――強がりだけは、俺よりも上手だ。 「今更それを自覚しても、意味がねえだろ。今更過ぎる感情だ。いや――それをいつ自覚したところで、意味なんてねえんだよ」  たぶん、汀は。  最近まで、気付いてなかったのだろう。  復讐を心に決めた時ですら、本当の自分の気持ちを知らなかったはずだ。  妃のことを、妹扱いしていたのは。  女として見ることを、心の底で嫌がっていたんじゃないのか? 「妃には、瑠璃がいた。それでもう、話は終わりだ。親友の恋話を聞けて、俺は満足だよ」  満ち足りた様子は、一切なく。  しかし、この問答で、汀が何かに満足することは、永遠に訪れないのだろう。 「……お前は、俺の大事なものをことごとく持って行くんだな」  少し、恨みがましい言葉。 「本当に――お前には敵わねえよ」 「……汀」  その言葉に込められている感情は、言葉では言い表せないものだろう。 「お前は、俺のことがムカつかないのか?」 「は?」 「……俺は、こうなることが分かっていて、黙ってたんだぞ」  汀の気持ちなんて、ずっと前から分かっていたから。  それでも、沈黙を選んだんだ。  すべてを知った汀が、傷付くことを知っていた。 「妃を失って、一番苦しい思いをしたのは、お前だろ」  堪えるように、汀はいった。 「そうやって、格好つけさせろ。今は、そうじゃないと自分を抑えられないんだ」 「……っ」  視線を下に向けると、汀の拳は固く握られていた。  ああ、やっぱり、そうだよな。  その感情は、当然だよ。 「もしも今、黒真珠が開いたままだったら」  それは、ぐちゃぐちゃになった感情のひとひら。 「――きっと、俺はお前を殺している」 「…………」  明確な殺意を向けられても、恐ろしいとは思わなかった。  ただ、心は痛いほど悲鳴を上げている。 「ったく、言わせんじゃねーよ」 「ああ、悪かったよ」  確かめるまでもないことだった。 「しかし、俺が言うのもどうかと思うがよぉ」  無理して笑顔を浮かべながら。 「やっぱり、兄貴ってのはそうなっちまうんだよな」  感慨深そうに、汀は言った。 「妹のことが大切で、大切で――気がついたら、それが愛情に変わっちまう」 「……ああ、そうだな」  俺はもう、汀のことをシスコン野郎とは呼べなくなってしまう。  汀は手を出してはいないのに、俺は妃と恋仲になってしまったのだ。  誰がどう見たって、俺のほうが悪質だ。  ようやく、本音で気持ちを語ることが出来て、今はとても清々しかった。  痛みを〈携〉《たずさ》えながらも、どこか満ち足りた感覚。  ああ――今まで一人で貯めこんでたものを、誰かと共有することが出来て。  少し、救われたような気がしてしまったんだ。  ここで終わっていれば、何もかもが精算されて。  明日から、再び切り替えて日常に戻ることが出来たのだろうが。  それは突然、現れた。  まるで、魔法のように。 「貴方たちは、いつまでたっても引き摺りすぎなのよん!」 「……えっ」  ああ、これはとてつもない既視感。  いつかもまた、こんな風に誰かは現れて、そして去っていった。 「いいはなしだなーって、終わらせないでちょうだいね。つまんないから、台無しにしてあ・げ・るー!」  「現れたな、クソ魔法使い」 「そうそう噛み付かないで欲しいわねぇ。結局、雨降って地固まったでしょぉ? きゃははっ!」 「そのうぜぇ笑い声は、やめろ」  それまでのいらだちを、全て少女にぶつけようとする汀。 「待って待って、汀お兄ちゃん。妾は、お兄さま方にプレゼントをしにやってきただけなのよ?」 「また、魔法の本か?」 「いいえ、真実という狂気よ」 「……真実?」  なんだろう、胸がざわめくこの予感。  目の前の少女の存在は、どうしてこうも不安にさせてくれる?  しかも、初対面であるはずなのに、どこかであったことがあるような感覚。 「黒真珠の物語は、結局誰も生き返らせることは出来なかった」  仰々しく、少女は語る。 「けれども、それはあくまで黒真珠の物語であって、狂った現実には常識さえも覆す邪道が存在するわ」 「……何が、いいたい」  いいや、聞かないでいい。  聞く耳を持っては、いけないんだ。  間違いなく、この少女は悪しき存在で。  俺たちの世界を、壊す側の敵対者だ。 「開いちゃ駄目って、言いつけられてたんだけどね。あの子のためにも、開かないでって」  笑いながら、少女は続ける。 「だったら、どうして最初から用意してたのかしら。少しは、罪悪感を覚えてしまってたのかもね。きゃははは!」  要領の得ない言葉を続ける少女に、圧倒される俺たち。  有無をいわさない雰囲気が、逃走も反抗も許さない。 「でも、妾は気付いちゃったの」  唇に手を当てて、子供らしい口振りで。 「いつまでたっても目的が達成できないのは、瑠璃のお兄ちゃんが、未だに妃ちゃんのことを忘れられていないからだって」 「……は? 俺?」  予想外の指摘。 「さて、ここで今までの疑問を振り返ってみましょうか」  にんまりと、笑って。 「どうして理央ちゃんは、紅水晶の物語を開いたのかしら?」 「……それは」 「まるで理央ちゃんは、死に急ぐように消えていった。命令に縛られているといいながら、その命令の本質を全く説明されていないまま」  逆らえない命令。  幼い頃から、そういう風にしつけられてきた。  そうじゃ、ないのか? 「でもね、それはしょうがないことなの。お兄さま方の持ち合わせている知識では、回答を得ることは出来ない」  赤い瞳が、俺を凝視する。  夜子と同じくらいにきれいな白髪に、目を奪われて。 「理央ちゃんが、見られたくなかったのは――吸血鬼になった自分じゃなかった」  見ないで、という言葉の意味。 「順番が、逆だったのよ。魔法の本が開いてから、吸血鬼になって、妾に傷付けられて、吸血鬼の不死性によって、自然治癒した――のでは、なく」  ゆっくりと、丁寧な口調で少女は説明して。 「妾に傷を付けられて、自然治癒して、瑠璃のお兄ちゃんに見られてしまって――それから魔法の本を開いたのよ」 「……?」  なんだ、それは?  それで、一体なにが変わるという? 「……いや、おかしいだろ。自然治癒は、吸血鬼の不死性によるものだ。物語が開いたのは、その前でしかありえない」  冷静な汀は、淡々と否定するが。 「たぶん、お兄さま方は永遠に理解できないのでしょう。理央ちゃんが、自らの消滅と引き換えにでも隠したかった秘密と、その動機を」  少女の声は、嫌に同情的だった。  からかうような言葉ではなく、案じるような優しさが感じられる。 「はい、プレゼント」  そうして、咄嗟に渡された一冊の本。 「大切に開いてあげてね」  いつから、取り出したのか。  最初から、少女が持っていたのか。  そのどちらかかはわからないけれど――しかし、軽率に受け取る訳にはいかない。 「……それは、なんだ?」 「瑠璃のお兄ちゃんが、取り戻したかったものの一つ」  そして。 「理央ちゃんが、絶対に知られたくなかった真実よ」 「……それは、受け取れない。無闇に、開く訳にはいかないから」  それでも尚、受け取ろうとしない俺へ。 「女の子は、大好きな男の子に、変な風に見られたくなかったの」 「瑠璃のお兄ちゃんは、それでも理央ちゃんを受け入れてくれると思うけれど、理央ちゃんの方が、そういう目で見られることを嫌がった」 「……?」 「警戒して触りたくないのなら、せめてタイトルだけでも見て欲しいわ。それで全てが理解できると思う」  言葉の重みが、それまでとは一線を画していた。  何よりも、理央を案じるような物言いに、俺の警戒心は薄れていく。 「おい、瑠璃! そのガキの言う通りにすんじゃねえぞ! 俺の時だって――」 「黙りなさい」  少女は、低く唸った。 「理央ちゃんが抱えていたのは、人とは違うという引け目。それは、他人との交流を深める上で、理央ちゃんの心を蝕んでいた」  そっと、タイトルを魅せられて。  俺は、その文字を呼んでしまった。 「『〈伏〉《丶》〈見〉《丶》〈理〉《丶》〈央〉《丶》』」 「……え?」  魔法の本の、題名。  それは、『伏見理央』だった。  宝石ではなく、名前。  それも、俺のよく知る女の子の名前だった。 「〈伏〉《丶》〈見〉《丶》〈理〉《丶》〈央〉《丶》〈は〉《丶》、〈こ〉《丶》〈の〉《丶》〈世〉《丶》〈に〉《丶》〈は〉《丶》〈存〉《丶》〈在〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》〈い〉《丶》〈な〉《丶》〈い〉《丶》、〈魔〉《丶》〈法〉《丶》〈の〉《丶》〈本〉《丶》〈に〉《丶》〈よ〉《丶》〈っ〉《丶》〈て〉《丶》〈生〉《丶》〈み〉《丶》〈出〉《丶》〈さ〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》〈架〉《丶》〈空〉《丶》〈の〉《丶》〈存〉《丶》〈在〉《丶》〈な〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》」 「は?」  理解が追いつかない、俺へ。 「架空の存在を創りだす、人の名前を冠した本。人の姿を模してはいるが、決して人で在らざる〈紙〉《丶》〈の〉《丶》〈上〉《丶》〈の〉《丶》〈存〉《丶》〈在〉《丶》」  にやり、と。  少女は、嘲笑った。 「――紙の上の存在である伏見理央は、最初から傷を負うことが出来ない存在なの」 「……あ」  あのとき、夜の学園で、俺が見たのは、吸血鬼ではなかったのか?  見ないで、という言葉の意味。  不自然に治った傷跡。  止血するまでもなく止まった血。  あれは、吸血鬼の特性ではなく、理央自身の特異性? 「傷付けられても、傷付けられない人間がどこにいる?」 「瑠璃のお兄ちゃんの目の前で、人で在らざる証拠を見つけられてしまった理央ちゃんは、咄嗟に願ってしまったの」  俺があの場に駆けつけた瞬間では、未だ魔法の本は開いておらず。 「傷付けられても、不自然ではない存在になりたくて。それが、たまたま吸血鬼だったのね」 「そんな……!」  少女が、本を指さした。  伏見理央と名付けられた、その本を。 「全ては、吸血鬼だったから。そういう設定が、逃げ道になっていたのよ」  そうして、俺の目を欺きたくて。  俺に、どうしてもバレたくなくて。 「――好きな男の子に、自分の異常さを知られたくなくて」  だから、理央は紅水晶を開いたのだ。 「理央ちゃんが、紙の上の存在であることの意味は――わかるよね? 瑠璃のお兄ちゃん?」  差し出していた本へ、意識を向けさせる。 「紙の上の存在は、現実の死という概念とは無縁なの。魔法の本が存在している限り、理央ちゃんはいつでも戻ってくる」  『伏見理央』と名付けられた、魔法の本。  それが、今俺の目の前にあるのだ。 「だから、こうして――本に願い、本を開いてみたとしたら」  少女は魔法の本を開いて、開いて、語ってしまった。 「――〈お〉《丶》〈か〉《丶》〈え〉《丶》〈り〉《丶》〈な〉《丶》〈さ〉《丶》〈い〉《丶》、〈伏〉《丶》〈見〉《丶》〈理〉《丶》〈央〉《丶》」  開かれた本のページが、一瞬白く瞬いた。  瞬間、とても懐かしい匂いが鼻をかすめる。  柔らかい少女の思い出が、胸いっぱいに広がったような気がしたんだ。  そうして、世界が一瞬、書き換えられたようにぶれたと思ったら。 「…………っ」  まるで初めからそこにいたかのように、少女は舞い降りていた。 「あ、あああ、ああああっ!」  消える前と、寸分変わらぬその姿で――理央は、そこにいてくれた。 「これこそが、倫理観さえも捨て去った、遊行寺家の裏側よ」  けれど。  理央が戻ってきてくれたことで――俺はとても、舞い上がってしまったけれど。 「……瑠璃くん」  ただ、理央は悲しみに目を伏せるばかりだった。 「り、理央……」  一瞬、これはとても危うい状況なのではないかと感じた。  これは、あってはならない現実なのではないかと、思ってしまったのだ。 「理央は……理央は……」  喜べばいいのか、悲しめばいいのか、わからなくて。  けれど、戻ってきた理央の表情は、これが悲劇だと物語っていた。  悲しそうに、ただ、ひたすらに悲しそうに。  まるで、再会を嫌がるかのような表情を浮かべるのだ。 「ここまでなら、まだ良かった。笑えないのは、ここからだよ」 「……え」  まだ、何かあるのか?  これ以上、なにを教えようと言うんだ。  今だって――俺は、混乱しきっているというのに。 「理央ちゃんは、最初から用意された紙の上の存在。夜子のために、都合のいい人間が必要だからと執筆された存在だから――好き勝手にするのは理解できるけど」  もう1冊。  少女の手には、別の本が握られていた。 「ここからが――遊行寺闇子の恐ろしさだよ。これは、人間を冒涜する悪魔の様な所業だ」  その本のタイトルは、ここからでは見えなかった。 「お兄さまのお願いを、叶えてあげる。ただし、最も望まない形でね。きゃはは、さながら妾が、ドッペルゲンガー?」  そして、もう一度。  今度もまた、白い光が視界を覆う。  けれど、先ほどとは違って、柔らかな雰囲気は一切なく。  むしろ逆に、肌を刺すような痛みを携えていた。 「……ああ、なんだよ、これ」  その姿を、一目見た瞬間。  俺は、この世界が壊れてしまっていることを確信した。  ああ――神様、これはどういうことなのでしょうか。 「〈初〉《丶》〈め〉《丶》〈ま〉《丶》〈し〉《丶》〈て〉《丶》」  その声を聞いた瞬間、脳みそが爆発した。  全ての理性が吹っ飛んで、大声で泣いてしまいそうだ。 「なるほど、これは私もびっくりです。状況的に――おおよそ、最悪といったところですね」  『〈月〉《丶》〈社〉《丶》〈妃〉《丶》』  少女の本が傾いて、タイトルが見えてしまった。  もうそれだけで、俺はその場で崩れ落ちてしまう。 「……妃!」  死ぬ前と何も変わらぬ姿のまま、優雅に笑っていて。  ああ――これは、生と死の概念を冒涜する、最悪の本じゃないか。  こんなことが、この世に許されているのか?  許されるわけが、ないのだろう。 「どうしたのかしらん? 降って湧いた奇跡に、舞い上がってもいいんじゃなくて?」  いいや、俺は知っている。  この現実が、ご都合主義で作られていないことを、知っている。  上げて落とすがこの世の常で、この後に恐ろしい現実が待ち受けているはずなのだ。  だから、喜んではいけない。  きっと、それは束の間の出来事で終わるから。 「とにかく、状況を説明してもらえますか? これでも私、混乱しているんです」  そして、物語は次なるページヘとめくられる。  宝石の名前を冠するのではなく、人の名前を冠した新しい魔法の本。  『伏見理央』  『月社妃』  もたらされた奇跡が、今は恐ろしくてたまらない。   「瑠璃は、誰かを生き返らせたいと思ったことはありますか?」  ある日、それは妃が唱えた疑問。 「あるいは、そう願う人の心に共感できますか?」 「……また、変な本でも読んだのか?」  ソファーに寝転がりながら、怠惰な受け答え。 「変な本ではありません。ちゃんとした小説です」  妃は、小説をじっくり読むタイプの人間だ。  作中のキャラの台詞に意味や背景を考えて、自分なりに解釈をする。 「吟遊詩人と人形が旅をして、人の心を探求するお話でした。彼らは道中で、人の生き死にと巡り合い、生の価値を問われます」 「ふぅん?」 「その中で、誰かを生き返らせたいと願い――そして、生と死の遙かなる壁に衝突するのです」  真面目な顔で、妃は語る。 「人は、生き返りません。そんなことは、誰だって知っています。けれども、もしもの世界を夢見て、人はそういう物語を描いてしまうのでしょうね」 「お前は、そういう甘い考えは嫌いだもんな」  人は生き返らない。  現実に夢を持ち込むな。  だからこそ、物語の中でのみ、妃はお伽話を楽しむことが出来る。 「私は、この物語に共感を覚えませんでしたが、それでも考えさせられる物語でした。それだけでも、読んだ甲斐があるというものです」 「お前は、一つ一つの小説に深入りしすぎだ。もっと、娯楽として楽しめよ」 「余計なお世話です。これこそが、私の読書スタイルなのですから」  書き手も様々な人間がいれば、読み手も様々な人間がいる。  夜子のような、一日中気狂いのように読みふける奴もいれば、妃のように、一つ一つを丁寧に読み込む奴もいる。  そういう自分なりのスタイルを見つけたら、一層楽しむことが出来るのかもしれない。 「でも、実際にそういう場合が起きたらどうなんだろうな」  ふと、思いついた疑問を口にする。 「もし、大切な人が死んでしまったら――やっぱり、生き返らせたいと願うのかな」  願って、何かを、行動する?  ここは、図書館の広間。  それを誰かと、口にすることはないだろうけど。 「瑠璃は、どうですか?」 「……願うだろうな」  願って、願って、そして、叶わない。  そんなことは、分かりきっている。 「私は……どうでしょうね」  視線を落として、妃は言う。 「生き返らせるという言葉の定義がわからないので、なんともいえないのですが……それでも私は、その死を受け入れようとすると思います」 「…………」 「人は、生き返りません。生き返っては、いけないのです。それこそが、私が今まで認識していた、世界の厳しさなのですから」 「今更、甘えられないってか?」 「夢を見るには、少しひねくれ過ぎてしまいましたね」  くすくすと、無邪気に微笑む。 「それに、死というものが絶対不可避の存在であるからこそ、生きるということがこんなにも素晴らしいのです。それを、台無しにしてはいけませんよ」 「……ああ、そうかもな」  死を軽いものとして扱ってしまったら、物語に重みがなくなってしまう。  意味も、背景も、説得力も――全ての前提が、崩れてしまうのだ。 「とはいえ――そういう機会が訪れたら、やっぱり願ってしまうのでしょうね。いざその状況になると、そんな奇跡を願ってしまうのでしょう」 「それが、人間だろ。強がったって、無駄なんだ」 「けれど、いずれは諦めなければいけないのです」  最後に、妃は語った。 「奇跡というのは儚くて、一瞬で過ぎ去ってしまうものなのですから。人生は、諦めることの繰り返しです」  その時の妃の物言いが、とても印象深く残っていて。  あれから長い時間が経った後も、根強く残っている。  諦めることを、求められてきた。  妃が死んで、恋が終わって、ようやく諦めることを受け入れ始めたそのときに。  魔法の本は、現実を冒涜し、好き勝手に語り始めてしまうんだ。  次に俺は、何を諦めたらいいのだろう。  『生き返った』月社妃は、それを教えてくれるのだろうか?  今、幻想図書館はかつてないほど緊張感に満ちていた。  それはきっと、どんな魔法の本が開いた時よりも、深刻な様相を呈している。  「…………」  廃教会で、クリソベリルと名乗る少女が提示した奇跡。  伏見理央、月社妃の両名の復活は、俺たちの認識を大幅に覆すものだった。  6人が、一堂に会するこの違和感。  四條瑠璃。月社妃。遊行寺夜子。遊行寺汀。伏見理央。日向かなた。  本来は二度と叶わない顔合わせに、誰もが閉口しきっていた。  伏見理央は、俯いていた。  教会で再会してから、気まずそうに視線を合わせようとはせず、ただ俺の後ろをついてくるばかり。  何一つ、求めることはなく。  何一つ、語ってくれることはなかった。  様々な感情が渦巻いて、自然と言葉を殺されてしまったのだろう。  遊行寺汀は、黙っていた。  驚きの連続に、不満をぶちまけそうなものだったが――驚くほど冷静に、状況を見つめている。  おそらく、頭の中では様々な考察が巡っているのだろう。  過去を思い返して、これまでの事象を検討しているのだ。  遊行寺夜子は、泣きそうになっていた。  けれどそれは、感動という意味合いではなく、もっと利己的な感情だろう。  俺と、汀に、視線を寄越さない。  蘇った理央を見ても、驚きこそあったものの、すぐにその現実を受け入れていた。  夜子が何かを知っていたのは、もはや明らかである。  日向かなたは、わくわくしていた。  不謹慎にも程があるほど、にこやかな笑みを浮かべて事態を見守っている。  本来なら最も部外者であるのだが、もはや誰も追い返すことはないだろう。  彼女にとって、この展開ですら、望むところなのかもしれない。  変わらなさが、今の俺にとってありがたい。  そして。  最も、その中で異彩を放っていたのは、月社妃だった。  夜子は理央のことは理解していたようだけれど。  ――どうして、妃が。  妃と再開した夜子の様子から察するに、それは想定されていなかった現実。  月社妃の本が存在していたことは、この図書館の誰もが知らないことだったらしい。  だからこそ、最も異質なのは月社妃なのだが。  当の本人は、異常な現実の中心にいながらも、のんびりお菓子を食べながらソファーに寝転がっていた。  寝転がって、リラックスして、読書にふけっている。  他の5人が、一人を除いてお互いを牽制しあっている中で、妃だけがいつも通りにしていた。  いつも通りの日常から除外された少女だけが、いつも通りに過ごしている。  それこそが、俺たちを凍りつかせている要因だろう。 「あ、あの」  しかし、沈黙も長くは持たなかった。 「そろそろ、状況の確認をしませんか? いろいろと、説明が必要な状況だと思いますので」  声を上げたのは、もちろん彼女である。 「あ、かなたさんがいいことをいいました。私も、説明が欲しいですね」  理央が出してくれた紅茶に口をつけながら、適当に言う。 「……いや、お前はとりあえず読書をやめろ」 「説明をしてくれるのなら、いつでも背筋を正しますよ」 「…………うう」  妃の言葉が、夜子に向けられていることは明確だった。  けれど、沈黙を守り続ける夜子を見て、妃も白旗を揚げる。 「はぁ……本当に、仕方のない人ですね」  ため息を付いて、妃は本を閉じた。 「まずは、理央さん。そろそろ怯えるのは止めてくれますか」 「え、ええっ、理央?」 「そう、あなたです。何を隠していたかは知りませんが、腹をくくって下さい。言い逃れが出来る状況でないことは、分かりますよね?」 「そ、それはわかってるけど……」  びくびくと怯えながら、横目で夜子を見つめる理央。 「わ、わかってる、から……」  視線を向けられた夜子は、狼狽しながらも言葉を紡ぐ。 「あと、汀さんはあんまり睨まないであげて下さい。目つき悪過ぎです」 「……うるせえ。これは生まれつきだ」  突然指摘された汀は、気まずそうに視線を外した。 「私だって、説明できるほど、何かを知ってるわけじゃない……」 「それでも、私よりは知っていると思いますが」 「……理央」  妃の追求から、逃れようとする夜子は。 「もう、いいんだよ、夜ちゃん」 「どのみちもう、知られちゃったからね。知られちゃったら、しょうがないや。それにもう、理央だけの問題じゃなくなっちゃってるし……」  理央だけの問題ではなく。  妃まで、巻き込んでしまっているのだから。 「瑠璃くんと汀くんが見たように、理央は人間ではありません」  そうして、理央は語った。 「人間じゃないの、人間っぽいけど、人間ではなくて。全然、別物の存在だよ」  声が、悲しみに滲んでいた。  繰り返すことで、わざと自分を痛めつけているような言い方だ。 「ほら、物語に必要だからって、用意される小道具みたいなものだよ。語るために用意する、舞台設定みたいなもの」 「書いた人の都合に合わせて存在して、書いた人の都合い合わせて消されちゃう便利なの」  魔法の本が現実を狂わせるのは、出来事だけではなく。  存在そのものでさえ、揺るがしてしまうのだろう。  配役を、現実の人間に割り振るだけではなく――物語に必要な存在を、創りだしてしまうのだ。 「本の区分としては、自伝になるのかな。だから、理央の本を読んじゃったら、理央の色々な物語だって、知ることができちゃうんだよ」 「……自伝。だからタイトルが、名前なのか」  宝石ではなく、人名。  物語を描くのではなく、人を描いた魔法の本。 「確か、理央さんは闇子さんに連れて来られてきた――ということになっていましたが」 「それは、嘘よ。理央は、私のために用意された、紙の上の存在だから」 「……あはは、そゆこと」  夜子がフォローして、理央は苦笑い。  もう、笑うことしか出来ないのだ。 「母さんは、魔法の本を書く側の人間だったのよ。そもそも遊行寺家は、そういう血筋だったから」 「……ふむ。まあ、それは予想していましたけどね。それが本である以上、書く側の人間がどこかにいるはずですから」  いつか、そんな話をしたこともあったが。 「昔、この島には魔法使いが棲んでいるという噂があったでしょう? それは、魔法の本を書くことの出来る、遊行寺家の人間を指している逸話なのよ」 「なるほど、あの噂はある意味正しかったというわけですか」  一年前に、日向かなたがその噂に執心していたこともあったっけ。  森の奥に住む、腐れ魔法使いの噂。  なるほど、魔法の本を書くことの出来る人間なんて、魔法使いと呼ばれてもおかしくはない。 「だとしたら、夜子さんも書けるのでしょうか?」 「……さあ、書くことに興味が無いから、分からないわ」 「うーむ、魔法の本を書いているところというのを見てみたいものですね。どんな奇跡を駆使しているのでしょう?」 「母さんが言うには、心を込めてかけばいいとか、そんなことしか聞いていなかったけど……」 「……瑠璃や私達が巻き込まれた本は、闇子さんの作ったものなのでしょうか」  冷たい瞳で、妃が切り込んだ。 「その内容次第では、私の認識を変える必要があるのですが」 「……それは」  そうだ、妃の言う通りである。  これまで数々の本が開かれてきたが、それが全て闇子さんが原因であるというのなら――俺は、あの人を許せそうもない。 「違う、と思う。魔法の本を書くのって、身を擦り減らすように大変で、たくさん書けるようなものではないらしいから」  弱々しく、夜子は説明する。 「理央を書いたときも、お母さんはとても衰弱していたわ。それに、殆どの物語は、遊行寺家のご先祖様が書いてきたものらしいから」  夜子の言葉を、丸飲みにしたわけではないだろう。  しかし、それでも一応は納得することが出来たのか。 「では、私の作者は誰ですか?」  端的に、しかし明確な質問。  ナイフのような鋭さを持って、妃は追求する。 「間違いなく、お母さんよ。お母さん以外に、魔法の本を書ける人間がいるとは思えないわ。それに、この文字だって、お母さんのものだし」  『月社妃』と刻まれた本を開いて、夜子は答えた。 「そうでしょうね。では、私を書いた理由は、分かりますか?」 「……わからないわ」  夜子は、呟いた。 「私だって、知らされていなかったもの。いいえ、それが出来るということは知っていたけれど……お母さんは、書くことを嫌っていたし、何より、その行為は……」  言葉が、弱々しく窄んでいく。  その先は、聞こえない。 「……そうですね。死んだ人を都合よく現実に描き出すなんて、死者を冒涜しているようなものですから」 「――っ」  明確な敵意の言葉が、突き刺さった。  遠慮のない妃の言葉は、夜子をより追い詰める。 「理央さんの気持ちが、痛いほど分かりますよ。貴女は、こんな気分で今まで生きてきたのですね」 「……妃ちゃん」  悲しそうな視線を、理央は向ける。 「何故、俺には隠していた」  それまで静観していた汀が、詰問する。 「妃や、瑠璃に隠すのは分かる。部外者だし、警戒するのは理解できるが――俺は、何故だ?」  同じ遊行寺という姓を関していながら、伏せられていた汀。  その不満は、当然だろう。 「家族と思っていたのは、俺だけなのか?」 「……それは、母さんが」  夜子も、そのことに負い目があるのだろう。  それ以上何も言うことが出来ず、黙ってしまった。 「だろうな。あの人にとって、俺なんざ部外者と変わらねえんだろうな」  あの人。  それまで、お袋と呼んでいたはず呼び方が、切り替わった。 「そ、それは、理央が秘密にして欲しいからって、お願いしたから……!」 「理央がそうであることと、人名を冠した本があることは、全くの別問題だろ」 「う、うう……」  フォローしきれずに、理央は撃沈する。 「だけどまぁ、それほど悪いことばかりでもねえんだろ?」 「……え?」 「仮初とはいえ、もう一度全員が揃うことができたんだ。今の状況だけを見たら、俺には不満はねえよ」 「……汀」  確かに。  確かにだ。  それが本であると分かったとしても、理央は理央で、妃は妃だ。  そのことに何にも違いがなくて――今は、闇子さんに感謝するべきではないのだろうか? 「……お気楽ですね、汀は」  今、目の前で妃がいてくれる。  それこそ、降って湧いたような奇跡じゃないのか? 「今の状況を、都合よく解釈し過ぎなのですよ」  あれ?   そういえば、何故、妃と理央の本が開いたのだろう?  一瞬、幼い少女の影が見えたような気がして、けれども正体がつかめない。  前にも、似たようなことがあったような気がする。  けれど、前よりは思い出せそうだった。喉のすぐそこまで、名前が出てきそう。  確か――クリ―― 「他に、隠していることはないのですか?」  思い出しそうになる直前、妃は問いかけた。 「これ以上、何かあるというのでしたら、温厚な私でも怒ってしまいますよ」 「な、ないわよ。本当にもう、私が知っているのはこれまでよ。魔法の本の関することは、これが全て」  慌てるように、夜子は言う。 「前も、そのような言葉を聞いたような気がします」 「今度こそ、本当よ! 今回のことにしたって――理央の気持ちを大切にしたくて、あたしは黙っていたのよ」 「夜ちゃん……」  俺たちに、架空の存在であることを知られたくなかった。  人とは違う異常性を、知られたくはなかった。  それは、俺が人であるからこそ、理解し難い感情なのかもしれない。 「しかし、こうなった以上、いよいよ闇子さん本人に説明してもらいたいところだな。あの人は今、どこにいるんだろう」  遊行寺闇子の爪痕が、俺たちの関係を掻き乱している。  目的と、理由と、背景を、是非とも聞かせてもらいところである。  下手に弄くり回して、夜子を追い詰めるようなことを、あの人が望むとも思えないし。 「一応、私の方でも調べているのですが、驚くほど情報が無いですね。やはり遊行寺家の人だからでしょうか? 少なくとも、この島にはいないようです」   それから、少し考えこんで。 「闇子さんは、夜子さんを寂しがらせないように、月社さんの本を書いたのかもしれませんね」  不意に、彼女は呟いた。 「失った日常の欠片を埋めるため、愛娘の親友を書き上げる。倫理的な問題はさておいて、そういう理由なら納得してしまいます」 「……そうだな」  夜子のために、伏見理央を書き上げたように。  月社妃もまた、夜子のためを思って用意されたのかもしれない。 「…………」  しかし、妃は無表情で受け流す。  肯定も否定もすることはなく、彼女の言葉をスルーした。 「お袋も、何か事情があったんだろ。そんなことは、この場で推測してもしかたねえこった」  立ち上がり、夜子へ近づく汀。 「……何よ?」 「そろそろ、強がるなよ」  ぽん、と。  無造作に、夜子の頭を撫でる汀。 「妃に再会出来て――泣きそうなくせによ」 「――ッ!」  それまで。  そう、それまで、この状況に対しての説明だとか、理解だとか、驚きだとか。  そういう感情が渦巻いて、それは許されていなかったけれど。 「な、何よ、別に、そんな」  ひと通りの理解を共有を終えた後は、我慢する必要はないのである。 「あたしは、この状況を、喜んじゃ駄目なの。だって、そんな」  生と死の境界を覆す邪法。  そもそも、本人である妃が、何とも思ってなさそうが故に、こちらも喜んでいいのかが分からなくて。 「妃は、きっと、こういうのを軽蔑すると、思うから。喜んじゃ、駄目なの。絶対に、駄目なの」  都合のいい奇跡とか、都合のいい展開とか。  そういうものに、常に一石を投じようとするのが月社妃という人間で。 「瑠璃だって、汀だって、喜んでるように、見えないし」  一番の泣き虫が、一生懸命に堪えていた。 「確かに、この状況に対しては、色々と不可解なことばかりで納得しづらいですが」  それが、妃であるのなら。  涙をこらえる夜子へ、優しく言ってくれるのだろう。  立ち上がって、夜子の元へ歩み寄る。  笑顔は、常にかかさずに。 「――夜子さんの泣き顔を見れるというのなら、それは素敵なことだと思います」 「……うっ」  生きた、月社妃を見据えた夜子は、限界だった。 「うわああああんっ!」  今までこらえていた悲しみを爆発させるように、妃の胸へと飛び込んだ。  それは、外見相応の幼さを見せる、子供のような泣きじゃくり方だったが。 「どうして先に死んじゃうのよ! バカ! あたしを、一人にしてっ!」  「よしよし、ごめんなさい、身勝手な親友で」 「ごめんなさいは、あたしだもん! きっと、妃を巻き込んだせいで、死なせちゃった」 「あれは、私が勝手に馬鹿をしただけです。他の誰の責任でもなく、月社妃の失態です」 「そこはあたしに怒りなさいよぉっ!」  交通事故。  魔法の本とは関係のない、死因。  それすらも、今の妃に確かめることが出来るのなら――過去の出来事を、清算できるのかもしれない。 「……羨ましいですか?」 「何をだよ」  いつのまにか、日向かなたが隣にいた。 「瑠璃さんも、本当はああしたいのでしょう?」 「…………」  やめろよ、馬鹿。  夜子や理央は、知らないんだぞ。 「俺は、夜子ほど素直じゃないんでな。今はすまし顔をさせてくれ」  きっと。  少しでも喜びを漏らしてしまったら、何もかもを台無しにしてしまいそうだから。 「もう、どうして男の子はそうやって強がるんですか。汀さんだって、俺は別にどうでもいいし! 見たいな表情をしています」 「はは……そうだな」  こういうときは、夜子に譲ってやるべきなんだよ。  あとからそっと、降って湧いた奇跡を噛みしめるさ。 「それに、それほど単純な話でもないと思うんだよな」 「へっ?」 「月社妃が、生き返りました。きっと、その一言で片付けられる問題じゃないと思うんだよ。喜んで泣いてみても、その後には現実が待ち受けている」  そう、都合のいいことばかりなはずがない。  もし、あれが俺の知ったる妃のままだとしたら、この後の展開が容易に想像できる。 「また、諦めることを繰り返されるだけなんだよな。それが分かっているから、中々喜びを露わにできないだけなんだ」  だけど、まあ。  それでも嬉しい事には変わりがないし、泣きそうなことを否定するわけではない。 「今は、落ちていた幸せを拾い上げて、噛み締めておくかな」  月社妃が存在する、この奇跡を胸に抱いて。  ロスタイムのような日常を、今は怠惰に貪ろう。  死んだはずの少女が戻ってきた。  時空を超えて、落下してくる幸せの正体は、何?  一年前に、戻ったような気がしたんだ。  緩やかに過ぎ去ろうとする時間の流れに、不安定な心地よさを覚えていた。  ゆらゆらと揺らめく現実が、俺の心を浮足立たせているのかもしれない。  「…………」  目の前には、妃の部屋。  直立不動で、固まる俺。   広間で話し合いをして以降、俺たちは会話を交わしていなかった。  まるで、過去の関係は既に終わってしまったかのような扱い。  再会の喜びもそこそこに、あいつは読書を始めてしまったのだ。  それも、広間ではなく、自分の部屋で。 「……はあ」  気まずい、のかな。  妃の部屋に入るなんて、今まで何の抵抗もなかったのに。  二人きりになって、いろいろな話をしたくとも、その勇気が湧いてこない。 「出直すか」  反転して、自分の部屋に向かおうとする俺は。 「……あっ」 「お」  廊下の奥に、理央の姿を発見した。 「わわっ!」  咄嗟に、隠れようとするけれど、この廊下に身を隠せる場所なんて存在しない。 「……どうして避けるんだよ」 「な、なんとなく!」  会話がなかったのは、妃だけではなく。  理央からも、意識的に避けられてしまっていた。 「…………」  知られたくなかった。  ずっとずっと、隠していたかった。  自分が、人とは一線を〈画〉《かく》する、魔法の本によって作られた存在であることに、負い目を感じていたから。 「……理央」  その気持ちを、俺は正しく理解できないだろう。  本人にしかわからない痛みが、今の行動原理を支えている。  軽々しい言葉をかけてしまったら、それこそ理央を傷付けることになるのではないだろうか。 「うー……」  避けられていた。  しかし、逃げようとしているわけではないのか?  視線をこちらに向けながら、それでも離れようとはしないらしい。  そこに、歩み寄りの可能性を見出して、俺は一歩、近付いてみた。 「ひっ……!」  一歩に、怯える野兎のように。 「う、うう……」  体をビクビクと震わせて、俺を見つめる。  恐ろしさとか、切なさとか、色々なものが交じり合って、震えに現れているのだろう。 「俺のことが、怖いか?」  逃げないでいてくれるのなら、俺はお前と話がしたい。 「そ、そういう、ことではなく!」 「俺の気持ちが、怖いのかな」  どう思っているのか、分からなくて。  何を思っているのか、分からなくて。  だけど逃げることも出来ず、怯えるばかり。 「こういうとき、物語の主人公なら、どんな格好いい言葉をかけるんだろう」  それがわからないから、俺は俺の言葉を伝えるしかないのだ。 「俺は、変わらないよ」 「……え?」 「何があったとしても、俺は俺の大切なものを見失わない。俺にとって、この図書館での思い出が、全てだったから」  目を閉じれば、これまでの日常が蘇ってくる。  魔法の本に関わる以前から、楽しい毎日だったと思う。  「俺は、いつも元気な笑顔の理央が好きだったんだよ。怯える理央を見ていると、胸が苦しくなる」  そういう風にして避けられてしまうのは、心が張り裂けそうなんだ。  俺と理央の関係が変わってしまうことを、俺は望まない。 「瑠璃くん……」 「お前が何物であったとしても、これまでの思い出が変わることがない。だから、これからの未来だって、何も変わらないんだよ」  そんなことは、理央自身が一番分かっていただろうに。  お前が架空の存在であったとしても、俺の心を変える要因になるはずもなく。 「……わかってた、けど」  だから問題なのは、俺の認識ではなく、理央の認識。  自分自身の存在を、どう受け止めるかだ。 「それでも、怖かったんだよ……。 瑠璃くんなら大丈夫って、何度も自分に言い聞かせてきたけど……」 「もしも! もしかしたら! それが原因で、理央のことを嫌いになっちゃうかもって、思っちゃって」  脳裏にこびりつく疑問に、いつも苛まれ続けていたのだろう。  1%でもその可能性があるのなら、人はそれに怯えてしまうのだ。  まして――理央は、俺のことを好きだと言ってくれた女の子。  好きな人の心の揺れに恐怖を抱いてしまうのは、とても普通の感情だ。 「もし、瑠璃くんに怖がられちゃったら……理央、もう、だめになっちゃうもん」 「……その気持ちは、わかるから。隠していたことを、咎めるつもりはないさ」  共感できるというのは、理央の気持ちに失礼かもしれない。  けれど、今はそういう風にしか形容することが出来なかった。 「だけど大切なのは、これからだろ。もう、俺は知ってしまったんだから――それはもう、どうにもならないことだ」 「それは、わかってる、けど」  涙目になりながら、理央は言う。 「頭と心が、ぐちゃぐちゃだよぉ……」  分かっていても、納得ができず、  故に、怯えと震えがとまらない。 「どうすれば、理央は笑ってくれるのかな。俺が思うにこの図書館は、理央の笑顔がなければとても味気ないものになっちゃうと思うんだが」 「……瑠璃くんは、ずるいよ」  思わず、視線を外す理央。 「そんなことを言われちゃったら、理央はもうころりと落ちてしまうもん」  恨み言を、可愛らしく呟く。 「全部が全部、理央の我儘だったのかな。最初から覚悟できていれば、みんなに迷惑をかけなくて済んだのかも」 「だから、それはもういいんだって」  隠していたことを、咎める気はないって言っただろうに。  むしろ、隠したい秘密の一つや二つあって当然なんだよ。  お前は、俺と汀の友情を、隣で見ていたはずだろ? 「あたま」  ぼそりとこぼれ出た、要求。 「あたま、撫でて欲しい、よ」  俯く理央は、掠れる声で懇願した。 「理央を、安心させて、欲しい。瑠璃くんに、もう大丈夫だからって、優しくされたいの」  俺がどんなに言葉をかけても、不安は晴れなくて。  それでも、弱々しい心が奮い立ち始めていた。 「わかった」  ふわふわの髪の毛へ向かって、手を伸ばす。  「いっぱい、いっぱい、甘やかせて」  言葉ではなく、気持ちを伝えよう。  大丈夫だ、俺は理央のことを本当に大切に思っているからこそ――伝わらないわけがないと、確信する。  小さな頭に、指が触れた途端。 「う、あ……」  理央が、小さな悲鳴を上げた。 「ううう――っ!」  それでも俺は、止まらなかった。  指先から手のひらまで、優しさにあふれた手つきで、理央の頭を撫で続けた。  親愛、友愛、それから――安心を込めて。  それはまるで、幼い子供をあやすような光景にも見えてしまったかもしれないが。 「――ひっぐ、ひっぐっ!」  呻くように涙を零す理央は、俺の真心を貪るように撫でられ続ける。 「う、ううううっ――!」  泣くのを堪えようと、嗚咽を堪えようとしても、無駄だった。  俺の手が頭を撫でるたび、強がりは1つずつ剥がれ落ちていく。  「あは、あははは、本当に、本当に、理央は、お馬鹿さんだね――」  次第に理央は、堪えることを諦めた。  代わりに、なんとか笑おうとしてくれる。  涙でぐちゃぐちゃになりながら、せめて俺の前では笑おうとしてくれたのかもしれない。 「瑠璃くん、瑠璃くん、瑠璃くん……」  名前を呼ぶ度に、心が熱く燃え始める。  嬉しさと、安心が、同時に攻めこんできたみたいだ。  少しずつ、距離が近づいているような気がした。  それはきっと、気のせいではないはずだ。 「こんなことなら、初めから打ち明けておけばよかったなあ」  ぽろぽろと零れ落ちる涙を、両手で拭って。 「だけど、理央はそんな覚悟さえ、持っていなかったんだよ」  それは過去の話。  これからは、未来の話をしよう。 「なあ、理央」 「……なぁに?」 「理央の髪の毛は、ふわふわで柔らかいんだな」  なんとか、気持ちを楽にさせたくて。 「――これからも、ちょくちょく撫でてもいいかな?」 「……うん、理央も、瑠璃くんに撫でてもらうと、元気が出るから」  目を合わせず、恥じらいを含めて。 「これからも、甘やかせて下さい」  確かにそのとき、涙は止まっていたと思うんだ。 「さて」 「さてはて?」 「色々と、聞きたいこともあったりするんだけれど、聞いてもいいかな」  泣き止んだ理央は、すっかりいつも通りに戻っていて。 「うん、いいよー!」  その笑顔は、今までどおり咲き誇る。 「闇子さんに書かれたのが、伏見理央っていう存在なのは理解できたけど、命令ってのはそこにどう繋がるわけ?」  これは、広間での話し合いの続きだ。  色々ありすぎて、聞きそびれてしまっていたことを、消化しよう。 「あー、うー」  少し、困ったようにはにかんで。 「理央の本にはね、伏見理央っていう女の子の情報が、文字にして刻まれているの」 「文字?」 「例えば、どういう性格の女の子だとか、見た目だとか、口調だとか……書くときに思い描いてたものを、そのまま本にこめるように、刻まれていく」 「人名を冠する本には、設定が刻まれているのか」 「そんな感じかなあ? 身長とか、体重とか、とにかく文字化出来るものは全て活字にして、伏見理央というキャラクターを生成しているの」 「ということは、ふわふわした性格になっているのも、闇子さんがそう設定したから?」  何もかもが、用意されたものだったのか。 「うーん、文字が全てじゃないんだけどね。そのときにお館様がイメージしたものを、反映されていると思うから」 「ふぅん、それじゃあ、どんなことが設定されていなかったの? 几帳面なあの人なら、何でも設定しそうなものだけど」 「え、えっと」  その質問に、理央は顔を赤らめる。 「む、胸、とか?」 「……………………なるほど」  闇子さんは、そこまでは設定してなかったのか。 「じゃあそれは、理央が望んだから大きくなったってこと?」 「ま、真顔で考察しないで欲しいよ! 恥ずかしい!」 「今更だろ……」  本当に、今更のことだ。 「そ、そういうのは知らないよ。おーとまちっく! ということにしておいて!」 「……まあ、闇子さんのイメージが反映されているというなら、活字として設定してなくとも、そのときのイメージ図がそのまま反映されたのかもな」  魔法の本を開くのは、願いを込める必要があって。  魔法の本を書くのも、願いが必要なのだろう。  想いを込めて、託す。  常識の遥か上を行く存在だが、どういうものかは感覚で理解した。 「厳密には、伏見理央という物語は、今も書き続けられているんだよ。理央が一日を生きるたび、ページに刻まれていくから」 「自伝のようなもの、か」  思い出や、記憶が、刻まれて。  まさしく、本そのものが理央自身ということになるのだろう。 「それじゃあ、魔法の本が壊されてしまったら、お前は消えてしまうのか」 「うん、そうだよ。理央は、死んじゃうね」  でも、と。 「それ以外の方法では、死なないんだよ。死なないことを、設定づけされているから」  理央は、紙の上に存在する。  現実に生きているがゆえに、現実に犯されることはなく。  魔法の本が開き続けている以上、理央は死ぬことも傷付くこともないのだろう。 「……そして、命令か」  話の流れで、なんとなく理解することが出来た。  今まで理央が命令と口にしたものは、全て設定と置き換えることが出来るのだろう。 「理央は、夜ちゃんのためにご奉仕をする設定。理央は、瑠璃くんを好きになってはいけない設定」 「そういう風に、ページに刻まれているんだよ。だから、絶対に逆らうことが出来ないの」 「だから、お前は頑なに紅水晶を望んだのか」  別の本に囚われている間は、他の物語が自らを上書きする。  設定に逆らうことなく、他の物語を演じることが出来る。  それは、束の間の幻想。  舞台の上で演技をする人間に、無粋なことを言う観客はいないだろう?  既婚者であってもラブシーンは演じるし、大嫌いな相手が居ても、仲の良い演技をする。  舞台上は、現実から切り離された、別世界なのだから。 「紅水晶が終わると同時に、理央は自分の本を閉じました。ぱたん、と、自分の意志で閉じたのです」 「本当は、吸血鬼になっても死ぬことはないから、結末は怖くなかったけど――」  それでも、悲しげに。 「人じゃないことがバレちゃうのが嫌で、それが何よりも嫌だったから、死んだ風に見せかけたかったのです」  本を閉じて、引き篭もり。  設定に縛られることもなければ、伏見理央として生きることもなく。  ただ、一冊の本として、本棚に隠れ続けていたのか。 「開いていない間の意識はないから、どうして理央が開かれたのかはわからないけどね」 「……夜子が、紅水晶の結末を受け入れたのも、本当の意味で理央が死ぬわけではないことを知っていたからか」 「うん、そうだね。もちろん、理央の気持ちを分かってくれたっていうのもあると思うけど」  でも、と。 「夜ちゃんには瑠璃くんがいてくれるから、夜ちゃんの人生に理央が必要になることなんて、もうないと思ってたや」 「それは、自分を過小評価しすぎだ」  お前はもう、立派な家族なんだよ。  夜子はそう思っているはずだ。 「理央が、瑠璃くんに教えてあげられるのはこのくらいかな。理央のことは、命令に縛られていないから、いくらでも語れるし」 「……他にも、何かあるのか?」  その口振りは、何かを秘めていることを容易に理解させてくれる。 「んー……」  考えこむような仕草をしてから。 「匂わせることが出来る時点で、大丈夫なのかにゃ? 意外とゆるゆるの設定?」  自分でも驚きながら、理央は困惑する。 「例えば、お館様は――」  声が、しかし、切断される。 「……ありゃ」  声が声にならなくて、設定が生きていることを確認させられる。 「理央は、闇子さんの消息を知っているんだな」 「うん、知ってるよ。知っていることを教えるのは、大丈夫みたい」 「……随分と、適当な設定だな」  その時点で、半分喋っているようなものじゃないか。  本当に口をふさぎたければ、それを匂わせることすら不可能なはずなのに。 「あ、そっか。お館様は、こう言わせたいんだね」  納得したように、理央は言った。 「瑠璃くんは、お館様の消息を探す必要はありません。探すだけ、無駄です」 「……何?」  それは、予想外の言葉だった。 「例え見つけたとしても、瑠璃くんが望むものは叶うことがないでしょう。だからこそ、今は夜ちゃんの傍にいて下さい」 「何を言ってる。闇子さんを見つけて、まずはその邪魔な設定を取っ払う必要があるだろ」  刻まれた設定は、作者なら訂正することも出来るはずだ。  何故、妃の本を用意していたのか、その背景を教えてもらわなければいけない。 「理央が許されているのは、ここまでです。ごめんね――瑠璃くん。結局、理央は、瑠璃くんの味方にはなれないんだよ」  残念そうに、言った。 「どうしても、理央はそういう存在だから。無力な理央を、許して」 「……理央」  中途半端に、自由を許されてしまったがゆえに、苦しんで。  今もまだ、その呪いからは解き放たれていないのだ。 「いいや、十分だ。俺は、理央のことを知ることが出来て、嬉しいよ」  知らなかった時よりも、一歩近づくことが出来たと思った。  伏見理央のことが、一段と好きになったように思う。 「これから、瑠璃くんはどうするの?」  唐突に、理央は質問する。 「……今は、物語が開いているわけじゃないからな」  しばらく、本が連続していたせいで、心が疲弊している。 「とにかく、魔法の本に関わって、掛け違えてしまったものを、直していこうと思っている」  その一つが、理央と俺の関係だ。 「のんびりと?」 「そう、ゆっくりと」  事態は急展開を迎えたが、しかし何かに追われているわけではないのだ。  妃と、理央が、戻ってきた。  変わった日常を、認識するところから始めよう。 「なあ、理央。もしかしたら――アパタイトの日常を、語ることが出来るのかもしれないな」  月社妃が生前に遺した、あの妄想日記。  それはもう、二度と叶うことはないと思っていたが。 「うん、瑠璃くんはいつだって、みんなと楽しいことをするのが好きだったもんね」  楽しく、静かで、笑い合える、そんな幻想図書館が大好きだった。 「そのためなら、理央だって頑張るよ!」  笑顔は、散っても二度咲いた。  一度は潰えた可能性を、もう一度掘り起こす時が来たのかもしれない。 「――ねえ、瑠璃くん」  そして、望みを見出した俺に、理央は小さく囁いた。 「紅水晶のときに、理央が告白したことを、覚えてるかな」  ――好きです。  と、そう告白された夜。 「ああ、覚えてるよ」  忘れられるはずもなく、はっきりと覚えている。 「あれは、もう忘れちゃっていいからね。全部が全部、紅水晶の幻想だから」 「…………」  声が震えていた。  嘘を付くのが、あまりにも下手すぎる。 「理央は、瑠璃くんのことが好きじゃないので、安心して下さい」 「…………」  何を安心しようというのだろう。  沸き立つのは、理不尽への怒りのみだ。  今も、理央は設定に縛られている。  年頃の女の子から、恋心を奪うという最悪の命令。  そればっかりは、絶対に許せなくて。  しかし、今はどうにもならないことだ。 「その言葉は、今の俺達には不要だよ」 「……瑠璃くん」 「全部、分かってるから。わざわざ、言わなくてもいいことだろ」  だからこそ、代わりに何か伝えようと思った。  設定に反しない中で、最大限理央の気持ちを汲み取った言葉を、探してみて。  気の利いた言葉を見つけられなかった。  だけど、それも俺らしいかなと思って、耳元で囁いた。 「ありがとう、理央」  上手く、伝えられたのかな。  理央の気持ちを、汲み取ってあげることが出来たのかな。  不安で不安でたまらなかったけれど――それでも、理央は。 「ありがとう、瑠璃くん!」  同じ言葉を、返してくれた。  それだけで、報われたような気がした。   妃と理央が戻ってきてから、数日の時間が経過した。  驚愕の展開を迎えながら、まるで当たり前のように日常が消化されていく。  穏やかで、緩やかで、思わず居心地の良さを覚えてしまう毎日は、まさに俺たちの願っていたもの。 「ふふふ、やはり理央さんのお料理は素敵ですね」  例えば、伏見理央の豪勢な料理に、舌鼓をうったり。 「あなたが、月社妃さんですね! よろしくお願い致します!」  例えば、幻想図書館の新しい仲間と、仲良くなってみたり。 「……はっ、変わんねえな」  汀がそう漏らすのも、無理はない。  今までの非日常が嘘のように、平和な時間だった。 「でも」  変わらなさ過ぎる毎日に、俺は居心地の悪さを覚えていた。  そうじゃなくて、こうじゃなくて、もっと、何かがあるような気がして。  一年前から失われたものが、今もポッカリと抜け落ちてしまっている。  汀が、深入りをしないのは俺に気を使っているのか?  日向かなたが、詮索をしないのは何故?  ほら、見ろ。  下手に知られてしまっているから、余計に難しくなってるじゃないか。 「……妃」  月社妃と、四條瑠璃。  妃が図書館に戻ってきて以降、俺たちは、ただの普通の兄妹だった。  隙を見て、二人っきりになることもなく。  愛に飢えた獣のように、何かを求めることもなく。  あの日のことを、そして、これからの俺達の事を――何一つ、聞けないままだった。 「避けられてるのかな」  意図的に、二人っきりにならないようにされている気がした。  気安い関係を、許されないような感覚がする。  それは、互いの気持ちを知りながらも、未だに理性を保っていた昔のようでもあった。  ただ、変わらないことがほとんどでも、変わってしまったこともある。  未だ、サファイアの影響によって、世界から忘れられたままの妃は、もう学園に登校することはなくなった。  登校しても、そこに居場所はなく、遊行寺闇子によって用意された架空の存在であるのだ。 「……制服を着ているのは、皮肉かな」  通いたくても、通えない。  そう考えてしまうのは、俺の性格が悪いせい?  なんて、そんなことを考えていると。 「もしもし、いますか?」  扉の向こうから、妃の声がした。 「……おう」  心臓が、大きく飛び跳ねた。  上積った声は、扉越しにも届いたのか。 「失礼します」  他人行儀に、妃は入室する。  それは、再会してから初めての、二人きりの逢瀬だ。 「何を考えていたのですか」 「……別に、今日は何を読もうかなって、思っただけだ」  手にしていたのは、最近刊行された推理小説。 「あらら、嘘が下手なんですね。私の事で、頭がいっぱいな癖に」  見透かすように、妃は笑った。 「それを知っていながら、今まで避けていたのは誰だ?」 「避けていたのではありません。機を伺っていただけです」 「そんなことをしなくても、俺はいつだって――」  いつだって、欠かさずに。  お前のことを、忘れてなんかいなかったぞ。 「……それを確かめるために、時間が必要だったのですよ」 「相変わらず、性格悪い妹だよ」  俺を、試していたつもりか?  そんなことをしなくても、お前は分かりきっていただろ。  たかが一年で、何が変わるというのだ。 「もしかすると、過去の女のことは綺麗さっぱり忘れて、新たな恋愛を楽しんでいるのかとも思っていましたが――」  ふっと、視線を落として、ぼやく。 「駄目駄目なくらいに、未練がましい人ですね。ふふふ、そこがまた、可愛らしいんですけど」  ふふふ、ふふふ、と。  本当に面白おかしく、笑うんだ。 「妃」  そうやって、あの日のまま、笑ってくれるから。  胸の奥から、滾る気持ちが抑えきれない。  気が付けば、俺は妃の頬へ手を伸ばしていた。  飢えた獣は、誰なのか。 「そこまでですよ」  だが、俺の指が、妃の柔肌に触れる直前。 「気安く、女性に触らないでくれますか。セクハラで訴えますよ」 「…………」  明確な拒絶の姿勢を、示されてしまった。 「いいことを、教えて差し上げましょう。まだ理解できていないようですから、一つ、はっきりさせておきます」  ぴん、と。  指を立てて、妃は説明する。 「私は、瑠璃の知っている月社妃ではありません。貴方がかつて愛していた、可愛らしい妹とは別の存在なのですよ」 「…………」 「魔法の本によって生み出された、架空の存在だということは、既にご存知のはずです」 「いわば私は、かつての月社妃を原作とした、リメイク作品のようなものなのです。どんなに精巧に作ったとしても、私と彼女は別人ですから」 「…………」 「あくまで、月社妃の記憶をコピーして、月社妃の人格を模した、別個体の存在です」 「分かりますか? 理解していますか? 貴方の好きだった月社妃は、もうとっくに死んでいるのです」 「…………」  そんなことは、わかっている。  最初に説明を受けたときから、分かっているに決まっている。 「生き返った、のではなく。よく似たものが現れた、というのが正しいですね。所詮、私はマガイモノ――偽物なのですよ」  伏見理央は、元々そういう存在だった。  最初から架空の存在として作られたからこそ、今も変わらない。  元から死んだわけではなく、閉じて、また開いただけで。  だから、妃とは違って、別人ではないのだが。 「ここで、別人である私に手を出してしまったら――本物の月社妃に失礼だと思いませんか」 「…………」  あくまで、それは遊行寺闇子が創りだした存在にすぎない。  人は生き返らない。だからこそ、目の前の存在は、それによく似た別物なのだ。  「……そんなことは、分かっている」  分かっているから、汀だって、静観を決め込んでいるんだろう。 「それに、究極的には紙である私は、あなたの寂しさを癒やすことなんて出来ないのですよ。所詮、紙は紙――〈塵〉《ちり》〈芥〉《あくた》です」  なんとなく。  なんとなく――月社妃なら、そういうだろうなあって、思ってた。  元々、都合のいい展開が嫌いなあいつは、それを必ず否定するだろうから。  それが例え、自分の場合であっても、揺るがない。 「だから、馴れ馴れしくしないでくれますか。設定上は、私とお兄様は、兄妹なのです。妹に手を出す兄なんて――最低ですよ?」 「――っ」  だけど、願ってしまった。  期待して、しまったんだ。  最初に、妃が戻ってきて。  図書館の日常が、帰ってきたとき。  もしかすると俺は、また妃との恋を続けられるんじゃないかって。 「ここ数日で、お兄様の様子を確認させていただきましたが――どうにも私のことが気になる様子でしたから、今日はわざわざ警告しにきたのです」  だけど、目の前のこいつは、やっぱり妃にしか見えないんだ。  妃だったら、こういうだろうなあとか。  妃だったら、そうするよなあとか。  一挙一動、仕草の一つが、あいつそのものなのに。 「正しく終わらせることが出来なかったものを、きちんと清算するために、私は書き残されたのでしょうね」  終わらせる。  それは、何を? 「なあ、妃」 「なんでしょう?」  にっこりと、微笑んで。 「お前は、俺のことが好きか?」 「いいえ、好きじゃないです」  少しも悩むことなく、即答した。  そこで、妃は告げてしまったのだ。  やはり、現実は都合の良いものではなくて、魔法の本というのは、たちが悪いものであると、思い知らされる。 「私は、誰のことも好きではないという、設定になっていますから」  それが、昔の妃と、目の前の妃との違い。  伏見理央と同じくして――この妃だって、ルールに縛られていた。 「何も都合よく、戻ってきたわけではありません。都合よく操作される流れの中で、慈悲を分け与えられているだけですよ」 「……そうか」  思い知らされるのは、既にもう俺達の関係が終わっているという現実。  よく似た何かが現れたって、結局は何も報われないのだ。 「そういう、ことか」  目をつぶって、考えてみた。  その意味と、意義と、背景を。  考えるたび、心がきつく締めあげられ、〈嘶〉《いなな》く。 「とはいえ、私としても、お兄様とは仲良くしたいと思っていますので、これからは普通に接して下さいね。私が望むものなんて、お兄様が一番知っているはずですから」  『アパタイトの怠惰現象』  不意に、偽物の本が思い浮かんだ。 「普通の兄妹、普通の関係。ああ、そうだな……それこそが、健全な関係なんだろう」  かくあるべき姿。  常識に則った、当たり前の関係だ。 「何処へ行くのですか?」  気が付けば、俺は立ち上がっていた。 「……外の空気を吸いに」  自分でも、驚いた。  無意識下の行動に、俺の心は限界だったんだろう。 「あっ、そこにある小説を、お借りしても宜しいでしょうか。とても、興味があります」 「勝手にしてくれ」  半ば投げやりに答えて、俺は退出した。 「…………」  扉を閉めて、逃げ出した俺は――一つ、息を吐く。  息絶えそうになる心が、酸素を求めて喘いでいる。  今は、妃から離れたかった。  これ以上、拒絶の言葉を聞かされると、本当にダメになってしまいそうだから。 「……ちくしょう」  よろよろと、彷徨うように歩き出す。  何かを求めて、期待して、叶わなくて。  妃は妃としてそこにいるのに、終わってしまった関係は、既に始まることさえ許されていなかった。  「本当、格好悪ぃ」  わざわざ、妃自身に言われるほど、俺は諦めきれていなかったんだな。  これでも、分かっているつもりだったんだ。  妃は死んで、帰ってこない。  あれは、同じ形をした偽物であることくらい――分かっていたはずなのに。 「あっ、瑠璃さんじゃないですか」  今、一番会いたくない奴に出会ってしまった。  苛立ちが、不遜な態度をハリボテにする。 「今日の夕食は、理央さんと私の共同作業ですよ! あの方は本当に上手いですねぇ! 勉強になります」 「理央の料理は、そういう設定だったからだろ。どうでもいい」 「……えっ、瑠璃さん?」  闇子さんが、夜子の世話係を創るに当たって、必要だと判断したスキル。  あの天才的な料理の腕は、そういう設定付けによって用意されたものだ。  「設定、設定、設定――もう、うんざりだ」 「どうか、したんですか? 顔色が悪いです……」 「うるさい」  八つ当りする俺は、本当に格好悪くて。  それでも俺のことを心配する彼女に、ただただ申し訳なくて。 「もう、放っておいてくれないか」  今は、一人になりたい気分なんだ。  一人にならなきゃ、イタズラに噛み付いてしまうと思うから。  「もう、疲れたんだよ――」  逃げるように、背を向けた。  設定に溢れかえる図書館に、嫌気がさす。 「……わかってるんだよ」  偽物の妃が、何を求めて、何を伝えようとしていたのか。  あの会話に秘められた、あいつの目的を。 「嫌になるほど、妃なんだよな」  別物と、言われても。  何もかもが、おんなじで。  だからこそ、余計に辛くなってしまうんだ。 「嫌になるほど、わかってしまった」  何のために、『月社妃』が開かれたのか。  それは俺自身が、痛いほど知っている。  突きつけられた妃の言葉は、俺の心を折るには十分すぎるものだった。  何にも期待することは許されず、それなのに妃がいる世界。  失ったものは取り戻すことでは来なくて、蜃気楼のように揺らめき続けていた。  「…………」  朝食の時間。  誰が何を言わなくても、全員が勢揃いしていた。  引き篭もりである夜子でさえ、理央に呼ばれるまでもなく顔を出す。  「…………」  だが、食卓に言葉はなく。  どことなく、気まずい空気が漂い続けていた。  誰もが、月社妃を伺っているような、そんな雰囲気。  当の本人だけが、マイペースに朝食を楽しんでいた。 「あの」  決して、気まずいわけではない。  会話だって、普通に行われている。  しかし、なんだろう、俺たちの間にある複雑な感情は。  見えない壁のようなものがあって、思いが遮られているようなきがするのだ。 「ちょっと、いいですか」  こういうとき、そんな状況を打破してくれるのは。 「昨日といい、一昨日といい、辛気臭いですよ! もう少し、楽しい朝食にしましょうよ!」  「……別に、そんなつもりじゃ」  ないんだけど。  否定しつつも、妃の様子を伺って。 「あら? 私のせいでしょうか?」  とぼけるように、妃は言った。 「気落ちしているのは、瑠璃の方にも見えるのですが」  痛いところを突かれると、全く反論できない。 「別に、あたしは……何も求めていないから」  ナイフとフォークを手にしながら、俯いた言葉を零す。 「そう見えないから、こうして私が問題定義をしたんですよ!」  積極的に他人と関わるという、日向かなたの性格は、こういうとき、どういう影響を〈齎〉《もたら》すのだろう。  余計なお節介か、適切な仲介か。 「折角、月社さんが戻ってきてくれたのですから、楽しいことでもしましょうよ! 楽しく、明るく、思い出作りです!」  「そうはいっても、な」  一体これから、俺たちは何をしたらいいんだろう。  目的も、志もないままに、ただ時間だけが過ぎていく。 「何かって、何よ」  言葉を紡いだのは、夜子。 「かなたはあたしに、何を求めているの? あたしは別に、何をしようとは思わないわ。ただ、そこにいてくれるのなら、それでいい」 「その通りですよ。辛気臭いというのなら、それは元からです。初めから、わいわい楽しむような場所ではなかったはず」  小説を好む者達の集まりだった。  よく笑うようになったのは、いつからだっけか。  「…………」  空気を悪くさせているのは、俺なんだろう。  この間、妃に拒絶されてしまってから――妙に、怯えてしまっているのだ。 「それに、お気持ちはありがたいのですが、今の私は別に何かをしたいわけではありません」 「月社さんはそうでも、他の皆さんは違うと思います……」  それでも食らいつく、彼女へ。 「何を焦る必要があるのでしょう」  皮肉を、咲かせた。 「私はもう、魔法の本によって創られた紙の上の存在です。世界の理から外れた人外です。焦らなくても、いくらでも時間はありますから」 「…………それはっ」  そう、理央と同じく、設定によって定められた存在。  人とは違う、紙の上の存在なのだ。 「遊行寺家のみなさんが、私をそういう風にしたのですよ」 「――うっ」  刺のある言葉を耳にして、夜子は思わず動揺した。  妃がそんな風にいうのは、とても珍しいことだった。  「お前をそうしたのは、夜子じゃないぞ」 「分かっていますよ。分かっていても、そう言いたくなることもあるというのです」  「…………そうだな」  知ってるよ。  妃が、都合のいい未来が嫌いだって。  だからこそ、今の自分の状況を、決して歓迎していないのだ。  どころか、執筆した闇子さんを、恨んでいるのかもしれない。 「ちなみに、私は夜子さんに逆らえないように出来ています。もし御用があるのなら、遠慮なくご命令くださいな」 「そんなこと……絶対にしない!」 「ふふふっ、そうしたくなる日だって、いつかは来るのかもしれませんよ?」  恭しく、頭を垂れる。  まるで、主に〈傅〉《かしず》く従者のようだった。 「ともかく今は、何も求めていないのです。私のことなんて気にせずに、緩やかな毎日をお楽しみ下さい」  「それで、お前は」  たまらず、聞いてしまった。  「お前は、それで、幸せか?」  お前がどんなに創られた存在であったとしても、限りなくオリジナルに近い存在なのだ。  願う未来があって、求めるものもあるんじゃないのか。 「さあ、どうでしょうね」  妃は、本音を見せてはくれない。  いつだって煙にまくようにごまかすのだ。 「ああ、そうですね、冷たいものが食べたいです」  心底楽しそうに、言ってみせた。 「62円の幸せが欲しいので、コンビニでアイスを買ってきてくださいな」  それは、妃が生前に好きだった、ソーダ味のアイス。  いつか、坂道を登りながら、夜子と食べていたことを思い出す。 「ほら――私の幸せなんて、お安いものでしょう?」  「……これじゃあ、ただのパシリじゃねえか」  皮肉のような言葉を真に受けて、コンビニへ向かう俺。  思わず愚痴をこぼしてしまうのも、無理はないことだろう。 「うーん、妃ちゃん、お姫様みたいだね」  後ろをひょこひょこと付いてくるのは、理央だった。  一人で行こうとする俺に、ついでだからと同伴を申し出てくれたのだ。 「今日は、ロールキャベツが食べたいってねー。わわっ、張り切って作らなきゃだ」 「理央にまで、ワガママ言ってんのか……」  昔から、あの家では我が家のようにふんぞり返っていたけれど、戻ってきてからは輪にかけて助長しているような気がする。  というよりも、わざとそういう風に振舞っているのか。 「やっぱり、妃ちゃんは嫌だったのかな」  理央がそう思うのも、無理もないことだ。 「都合のいい存在として、紙の上で生きることが、嫌だったのかも」  想いも、運命も、誰かの手のひらの上。  その苦しみは、理央が一番分かっているから。  「だからといって、あいつは周りに当たるようなやつじゃないんだけど」 「あはは、そうかも。むしろ、わざとそういう風に振る舞って、気負いをなくそうとしてくれているのかもね」  不遜に振る舞って、反感を買って。  そういうことに、負い目をなくしてもらいたい。  「……なるほど、それは考えていなかったな」  じっと、理央を見つめて。  「理央って、他の奴のことをよーく見てるよな。たまに、凄いドキッとさせられる」 「えへへ、ありがとー」  自分に負い目を感じていたのは、理央も同じだ。  常にみんなよりも一方後ろに立って、背中を見守ってきた。  だからこそ、見えるものもあったのかもしれない。 「でも、夜ちゃんのことは、どう思ってるんだろう」  「夜子?」 「妃ちゃんって、夜ちゃんとお喋りしているようには見えないから。最初こそ、話とかしてたみたいだけど……」  戻ってきた妃を見て、涙を流した夜子。   妃はそれを、抱きしめて。  「……確かに、それ以降はあんまり関わってない気がするな」  そして、夜子に対して嫌みを言うようになっている。  だからこそ、夜子も距離感に困っているのだろう。 「夜ちゃんには、何も求めていない。何も言わないの。妃ちゃんは、何を考えているんだろう」  昔の二人は、とても仲が良かった。  夜子が唯一、外部の人間と心から笑って過ごせる相手。  純粋無垢な友情関係さえも、どこかおかしくなってしまったのかな。  夜子を残して、死んでしまったことを詫びていた。  けれど、遊行寺家の都合で、利己的に創られたことはどうなんだろう。  その辺りが、妃と夜子の関係を、〈歪〉《いびつ》にさせてしまっているのか。  「……他人を気遣う余裕なんて、なかったな」  再び現れた、月社妃。  その影響は、凄まじい。 「汀くんも、なんだかびっくりするくらいに静かだよね。理央的には、いろいろと騒ぎそうだったのですが」  「ああ、確かに」  タイミングがタイミングだったから、あいつも混乱してるだろな。  俺と妃の関係を知った直後に、起きてしまった事件だから。  「あいつは、どうするんだろうな」  昔と違って、今は自覚してしまっている。  そして、妃は俺との関係を終わらせてしまおうとする。  だとしたら――汀は。  「…………」  危険な思考に至りかけた自分を、制する。  ああ、それはなんて下らない嫉妬だろう。  これと同じものを、汀は堪えていたはずなのに。 「瑠璃くん? だいじょうぶ?」  「ああ、問題ない」  そう口にしたら、なんでもなくなりそうで。  「突然、落下してきたような展開に、頭がイカれかけたのかも」 「全然だいじょぶじゃないよー!」  目の前に、スーパーが見えてくる。  お姫様のために、とにかくパシリを遂行しよう。  「本物の幸せが、62円で買えたら良かったのに」  お金で買えないものがあるから、人生はとても面倒だ。  瑠璃さんがパシラされている間に、私は私のできることをしようと、月社さんに接近します。  いつものように、ソファーの上でだらけている月社さんは、そんな私にこう言いました。 「チェスでも、差しませんか」  読書ではなく、盤面遊戯。  想定外の申し出でしたが、向かうには好都合の展開です。  慣れた手つきで駒を並べる月社さんは、少し面白がっている風でした。 「チェスが、お好きなんですか」 「そこそこ楽しむ程度です。別に、強くはありません」  流れるような手つきで、ゲームは開始する。  美しい外見と相まって、チェスという競技は月社さんによく似合います。  それにしても。  よく私が、ルールを把握していることを知っていましたね。  今どきの学生なら、チェスの存在を知っていたとしても、ルールまで把握している人は少ないと思いますが。  それでも、疑問はそこまでにして、ゲームに〈臨〉《のぞ》みます。  こう見えても負けず嫌いの私は、たとえ目的が違っても勝ちを狙いたいのです。  1手、2手、静かな立ち上がり。  じっくりとした打ち筋は、静寂という時間さえも、心地良く感じてしまいます。  月社さんの打ち筋から、次の一手を予測して。  気が付けば熱中してしまって、勝負を楽しんでしまっていました。 「何か、私に不満がありそうですね」  チェスの盤面を挟んだ向かい側、月社さんは〈舌〉《ぜっ》〈戦〉《せん》を仕掛けてきます。 「……別に、そういうわけではありません。ただ、もう少し他にやりようがあったのではないかと思うくらいです」  言葉は紡いでも、意識は盤面から離れません。  ここで負けたら、他の何かにも負けたような気がするのです。 「あなたは少し、私に何かを求め過ぎていますね。私はただの、年下の女の子ですよ」  ルークが滑るように、自陣に切り込んできた。  それは、予想済みの一手。 「それはあなたが、この図書館でも特別な人だったからです」  その渦中に、いたはずです。 「一つ、お伺いしたいことがあるのですが」  それは、瑠璃さんが未だに聞けないでいること。  受け身だった盤面を覆そうと、私は攻勢に転じた。 「――あなたの死因は、何ですか?」 「交通事故ですよ。猫の本を読んでいたら、うっかり〈轢〉《ひ》かれてしまいました」  あっさりと、対応されてしまう。 「思えば、運転手の方には申し訳ないことをしてしまいました。それだけが、気がかりです」 「……そうですか」  言葉では頷いても、心は納得していません。  分が悪い攻撃を、今はイタズラに続けましょう。 「設定によって、本当のことを話せないのでしょうか」 「設定なんて、ありませんよ。私は、真実を語っていますから」  ふっと、微笑を浮かべて。  私の攻勢を、自らの反撃の機とする。 「どうしてみなさん、そこに物語性を求めるのでしょうか。私は普通に、事故にあってしまっただけで――その他に、何もないというのにです」  予想していた、一手。 「特別な死因だったら、納得できますか。いい加減、現実を見て欲しいものですね」  予想外だったのは、その次の一手。 「私は別に、あそこで死んだままでも良かったのですよ」 「……え」 「交通事故にあった時点で、月社妃の人生は全うできましたから。もちろん、心残りもありましたが、それ以上に自分の死を受け入れて、納得したのです」  穏やかな盤面が、じわりじわりと制圧されていく。  そこで、ようやく私は気がついた。  月社さんは、次の一手を打つスピードを、意図的に上げている。  私が指したら、間をおかず打ち返す。  休む暇も与えずに、機械のように切り返してきた。 「だから、今更私自身がしたいことなんて、何もないのです。あれはもう、一年も前の出来事――今更、瑠璃との続きという気分でもないですし」 「……でも」 「紙の上の存在として、今を生きている人たちの礎にでもなりましょうか。いっそのこと、この私を好き勝手にご利用してくれたら、楽なんですけど」  そこで、月社さんの手が止まった。 「それじゃあ、他の皆さんの気持ちはどうなるんですか」  私は、どうしてこんなに期待をしてしまうのだろう。  月社さんなら、閉塞した空気を変えてくれそうな気がする。  停滞しかけた関係を、壊してくれるような気がして、縋ってしまう。 「他のみなさんは、今でも月社さんのことを思っているのですよ」  あなたがいなくなって、どれだけ〈歪〉《いびつ》が生まれてしまったか。  汀さんは迷走し、夜子さんは引き篭もり、瑠璃さんは折れてしまっていた。  壊れたものを修復する、またとないチャンスだというのに――どうして何もしようとしないのか。 「……そうですね」  月社さんは、熟考する。  次の一手を、次の言葉を、噛みしめるように考えて。 「私のせいで狂ってしまった歯車は、確かに直す必要がありますね」  その言葉に、可能性を見出した私は。 「おそらくはそのために、私は書き残されたのでしょうから」  優しい笑顔とともに、流れるように最後の一手を置いた。 「では、これにて」 「えっ?」  対戦も途中だというのに、月社さんは立ち上がりました。 「まだ、チェックメイトではありませんよ? 確かに状況は私の方が悪いですが、まだ決したわけでは――」 「いいえ、盤面は既に死んでいます。ここからどうあっても、あなたは勝てません」  煌めく髪の毛を、翻して。 「数手先に、あなたのキングは詰まされます。未来のない盤面に、興味はないのです」 「……そんな」  一方的に突きつけられる、敗北。  それに未だに気付かないのは、私は馬鹿だからでしょうか? 「今の私は、その盤面のようなものなのですよ。何をしても、やがて詰まされる未来しかないのです。続ける必要なんて、これっぽっちもありません」  去り際に、一言。 「私は確かに設定に縛られてはいませんが――それでも、紙の上の存在は、本が見せる〈夢〉《ゆめ》〈現〉《うつつ》なのですよ」  残された盤面と、今もなお戦わんとする駒たち。  ゲームは続いているのに、月社さんは詰んでいると宣告されてしまった。 「……私は、それでも」  チェックメイトをかけられるその瞬間までは、抗いたいと思った。 「スマイル、スマイル、にこー」  笑顔が消えそうになるのを自覚して、精一杯笑ってみた。  月社さんにこっぴどくやられた自分を、励まして。  未来のない盤面に、可能性を探してみよう。 「ちゃんちゃかちゃーん! 第一回、かなたちゃん主催によるティーパーティーを開催しまーす!」  「……はぁ?」  夕方、学園から帰ってきた俺を、彼女は笑顔で迎え入れる。  「珍しく足早に帰るもんだから、何を企んでいるとおもいきや……」  テーブルの上に並べられたお菓子の数々を見て、呆れ笑い。 「月社さんが帰ってきてくれた記念に、ここは一つ、催し物をと考えまして! きゃーかなたちゃん気が利くー!」  「勝手にこんなことをして、夜子に怒られても知らねえぞ」 「そこは問題ありません! 理央さんの手作りお菓子で、めろめろですから!」  「あんたが作ったんじゃねえのかよ」  見事に盛りつけられたクッキーやケーキ、チョコレートの山。  理央の気合いの入りようが、伺えた。 「ふん、別にキミは、参加しなくてもいいのだけど?」  「……お?」  背後で、夜子が胸を張っていた。 「というより、空気を読んでくれるのなら、自室で引き篭もっていなさいな。キミには、不相応のお茶会よ」  「ノリノリかよ」  まあ、妃と普段通りに接したいというのは、本音だろうし。  彼女の申し出もまた、夜子にしてみれば有難かったのかな。 「私は、女子会にしても構わないのですが」  すぐに、妃も現れる。 「今日くらいは、許してあげてもいいんじゃないですか」  本人は、とっくに知らされていたらしく、当然のように着席した。 「……まあ、妃がそういうのなら」  渋々と言った風に、夜子も頷いて。 「ふふふ、どうでしょうどうでしょう、この私の企画力! これでばっちり、青春ですよ!」  俺の隣で、彼女はこそこそと耳打ちする。  「二人とも、ノリノリなのが本当にビックリした」  特に妃は、なるべく距離を置こうとしているみたいだったから、余計に。 「かなたちゃんは、こう見えて頑張っているのです。今日のために、夜子さんにゴマをすってきましたから!」  「そういえば、毎日のようにケーキを買ってきていたっけ……」  以前、学生街にあるケーキ屋をプレゼントしてから、味を占めたように何度も持ってくるようになっていた。  甘いものに目がない夜子は、ほいほいと餌付けされている。 「はいはーい、とーっても美味しい、理央の紅茶ができたよー」  ティーカップは、5つ。   「……汀は?」 「そういう気分じゃないって、断られちゃいました」  色々と、考えがまとまっていないのだろうか。  妃が戻ってきてから、実にあいつらしくないと思う。 「と、いうわけで! 全員が揃ったところで、今回のお茶会のテーマを発表します!」  全員の前にカップが揃ったところで、意気揚々と宣言する。 「テーマ? なんのこと? 聞いていないわよ?」 「ふっふっふー、普通に楽しむのも良いですが、折角ですから何か話題を決めてから、お喋りを楽しもうと思いまして」 「……ふむ、それは興味深いですね」  いつもとは一風違ったテイストに、妃の関心が刺激される。 「わーい、面白そうー! なんのお話? 好きな小説のお話とか?」  「それは毎日喋ってるだろ」  飽きることなく、繰り返しているはずだ。 「瑠璃の悪口大会なら、朝まで続けられそうだわ」 「終わりが見えないので、止めておきましょう」  「……お前らな」  楽しそうにしているのなら、それでいいけどさ。 「今回のテーマは、ズバリ!」  指を天高く掲げ、声を伸ばす。 「――暴露大会です!」 「……はい?」  なんだ、それは? 「ほらほらー、折角再会出来たのですから、色々と思うところもあると思うんですよね。展開が展開ですし、しかたがないことなのですけども」  にこにこと、彼女は笑って。 「ここは一丁、見えない壁を取っ払って、裸の気持ちでお喋りをしましょうよ! 気になること、知りたいこと、全部吐き出して!」  小さく頷いてから、妃は言った。 「なるほど、それがあなたの、次の一手ですか」 「美味しいお菓子と、温かい紅茶で幸せな気分に浸りながら、楽しいおしゃべりをしましょうよ!」 「ば、暴露だなんて……そんなの、困る……」  戸惑う夜子を横目で見て、俺は口を開く。 「そういうのなら、まずはあんたからだな」 「へっ?」 「こういうのは、言い出しっぺから暴露するもんだろ? 面白いネタ、吐き出してみろよ」 「おー、かなたちゃん、ばくろ?」 「え、あっ、それは卑怯です!」  途端に、慌てふためく彼女。 「卑怯ではありませんね。至極真っ当な論理です。では、何から暴露してくれるのでしょう? とても、楽しみです」 「月社さんの笑顔が怖いっ!」  まさか自分が矛先になるとは考えていなかったのか、困惑する彼女へ。 「ねえ、かなた」  予想外の人物が、もじもじとしながら質問した。 「かなたは、彼氏とか、いたことあるの?」 「え、ええええっ! そんなこと、聞いちゃうんですか!」 「……ははっ」  まさか、夜子が切り込むとは思わなかったな。  それも、悪戯めいた様子ではなく、恥じらいながら、興味津々に聞くなんて。  なんだかんだで、あいつもその手の話題に興味が有るのかな。 「こ、答えなさいよ! 今日は、暴露がテーマなのでしょう?」  だけど、いいのかな。  それは、諸刃の剣だぞ? 「い、一度も、いたのことないです……か、彼氏なんて、一度もないです」 「あら、寂しい女の子なのね」 「夜子さんだけには言われたくありません!!」  もー! と、本気で慌てふためく様子の彼女。 「でも、初恋くらいはしたことあるだろ? それはいつ?」 「瑠璃さんも、さり気に掘り下げないでください!」 「今日のテーマはなんだっけ?」 「うぎゃー! 自爆した-!」  ごろごろともがき喚く彼女の様子に、一同は笑顔を咲かせる。 「翡翠のときですよー! そんなの、知ってるくせにー!」 「照れてるかなたちゃん、可愛いねー。もっともっと、聞きたいよ-」  ナチュラルに追撃しようとする理央。  だが、深手を負った彼女は、次の標的を捉えてしまった。 「……私の話は、ここまででいいでしょう。次は、理央さんです」 「ほえ?」 「恥ずかしいことを、暴露して下さい」 「え、ええっ!?」  無理矢理なフリに、困惑する理央は、横目で夜子に助けを求めるが。 「ちゃんと、答えて上げなさいよ」  助け舟を出すことなく、突き放した。  なんだか、楽しそうだ。 「は、恥ずかしいこと? いっぱいありすぎて、ううっ、照れるよぉ……」 「昔のことでも構いませんよ! 赤裸々な体験を語って下さい!」 「う、ううっ……じゃあ、えっと、結構前のお話ね」  ぼそぼそと、暴露を始める理央。  不肖、男の端くれである俺も、理央の語るエピソードに、胸をときめかせていたが。 「瑠璃くんに、ばってぃんぐを教えてもらってた時にね……こう、理央、下手っぴだから、上手く出来なくて」  うん? 「手取り足取り、びしびし指導をしてくれたんだけど、それでもだめで」  あれ? 「だから……その、瑠璃くんが、理央に、一生懸命教えてくれてたんだけど……そのときの、やりかたが、えっちな感じで」  おい? 「あ、足を開かされたりして、とっても、恥ずかしかったなぁって……その、とっても、今でも、恥ずかしいぃ……」  ちょっと? 「そのとき、理央はスカートだったから……でも、瑠璃くんは気にしなくて、足を開かせて……その、色々、うううっ、だめ、恥ずかしくて、死んじゃいそう」 「……は?」  彼女の冷たい声が、俺に向けられた。 「瑠璃さんは、ナニをしていたのですか」 「ふーん、楽しそうですね」  妃も、恐ろしいほど冷たい声をしていた。 「それが一番、恥ずかしかったかな……吸血鬼になるよりも、瑠璃くんにセクハラされた時のほうが、恥ずかしかった」 「せ、セクハラじゃないだろ!!」  そんなエロいイベントじゃなかったはずだ!  事実無根、記憶改ざんだ! 「ていうか、理央の暴露話で、なんで俺が困らされてるんだ!? そもそもおかしくないか!?」  無実を、夜子に訴えようとするが。 「近寄らないで、下郎が」  吐き捨てるように、言われてしまう。 「……これは他にも、余罪がありそうですね。夜子さんは、何かありませんか?」 「おい、まて、お茶会の趣旨が変わってるぞ。本筋にもどれ」 「あれれ、瑠璃さん? どうしてそこで狼狽えるんですか? なにかやましいことでも?」 「あってもなくても、この状況は理不尽だ!」 「……着替えを覗かれたこともあるし、踏まれて気持ち悪く喜ばれたこともある。色々、変態じみた所業はたくさんされてきたわ」 「おい」  恥ずかしいことは、言わないほうがいいぞ?  掘り返しても、無意味な過去だ! 「あと、無理やり押し倒されたこともあるわね。思い出したくもないけど……」  かああっと真っ赤にして、夜子は漏らした。 「全く、瑠璃さんは見境のない人ですね! 私に手を出さないのが不思議なくらいです!」 「ほら、あんたは後が怖そうだから」 「きゃあ! 本音が出ましたよー!!」 「……待て、冗談だ」  ノリで答えた内容を、真に受けないでくれ。 「まあ、理央なんてのは、強引に迫ればいけそうだものね」 「夜子さんだって、押しには弱そうですが」 「……お前ら、楽しそうだな……」  まあ、会話が楽しめているのなら、本望だけどさ。 「妃は、何もなかったのかしら? 愚兄を持つと、いろいろ迫られたこともあるんじゃないのかしら。寝込みを、襲われたりとか」 「ありませんよ。少なくとも、無理やりどうこうということは一度もありませんでした」  朗らかに、笑いながら。 「どちらかといえば、私のほうが迫ってばかりでしたね。キスも、エッチなことも、いつだって私から誘っていましたから」 「えっ」  夜子の表情が、〈膠〉《こう》〈着〉《ちゃく》した。 「最も、エッチなことに関しては、応えてくれませんでしたが」 「き、妃!?」  たまらず俺は、大声を出してしまう。 「お前、何を」  さらりと飛び出した真実に、空気は完全に凍りついた。 「あら? 今日は暴露大会なのでしょう? 聞かされてばかりも悪いですから、私も語らせていただこうと思いまして」 「え……冗談……じゃなくて?」  驚きに、表情がこわばる夜子へ。 「はい、本当ですよ。実を言えば、私たち――」  それまで、長く長く伏せてきた真実。  隠すことの必至になっていた日々を、嘲笑うかのように。 「私たち兄妹は、付き合っていたのですよ」  妃のその一言で、何もかもがぶち壊しにされてしまった。  がちゃん、と。  ティーカップが落ちる音がした。 「うそ」  夜子が、完全に固まっていた。 「そんなの、うそよ」  縋るように、俺を見る夜子  今すぐ否定しろと、瞳が訴えていたが。 「……っ」  何も言うことが出来ず、視線を逸らした。  今ここで、それを否定できる強さは俺にはない。 「えっ、じゃあ、妃は、ずっと……?」 「はい、瑠璃のことを、一人の男性として愛していました」  ました。  過去形であることに、心は鋭敏だった。 「……月社さん」  突然の暴露に、唇を噛みしめる彼女。 「何とも荒い、切り返しじゃありませんか」  想定していなかったことは、明白。  困惑と動揺に満ちながら、今はどうすることも出来ず。 「……染みになる前に、拭かなきゃだね」  夜子がこぼした紅茶の後片付けを始める理央。 「お前は、本当に性格の悪い妹だよ」 「いいじゃないですか、私たちはもう、終わってしまった関係なのですから」  優雅に、紅茶を飲み干して。 「ご安心下さい。それはあくまで過去の出来事で――今の私は、この愚兄に対して何とも思っていませんし」  手を合わせて、はにかんでから。 「くすくす、過去の恋愛を語るというのは、何とも恥ずかしいことですね」  あくまで、暴露大会を楽しむ体を崩さない。  「……くそっ」  そして、何よりも俺が辛かったのは。  もはや、妃にとってその関係は、過去として振り返るようなものであることであり、 茶飲み話のネタとして扱われてしまう程度のことだったこと。  秘密を隠していたのは、その関係を続けるためだった。  だからこそ、終わってしまった以上、もはや隠す意味はなく。 「素敵な青春でしたね――お兄様?」  ただ、無慈悲な二人称が、俺の心を貫いた。  胸を、杭で打たれたような気がした。  心臓に穴が空いてしまって、そこからたくさんの感情が流れ落ちていく。  閉じこもった書斎の中でも、安らぎの時は訪れない。  ――瑠璃と、妃が付き合っていた。  意味が、わからない。  妃の言葉が、理解できない。  付き合うって、何?  好きって、こと?  凍りついた感情が、大きく揺さぶられる。  信じがたい現実を前にして、あたしは我を忘れていた。  ――瑠璃のことが嫌いです。  いつも、口癖のように言っていた。  妃のその言葉を真に受けていたわけではないけれど、それでも、まさか。  指先が、震えていた。  心の弱音を露呈して、何かに縋り付きたくなる自分に気付く。  けれど、こういうとき、どうすればいいのか。  歯痒いほどの思いが、切実に痛みを訴える。  経験したことのない感覚に、今はただ恐怖をしていた。  今はただ、耳をふさいで、瞳を閉じて。  全てのことに目を背けていれば、何かが解決すると思っていた。  ――瑠璃。  だから私は、あいつのことが嫌いなのよ。  書斎の奥に隠されている、魔法の本の置き場所。  そこに、一人の少女が立っていた。  彼女の名前は、伏見理央。  純然たる紙の上の存在であり、遊行寺闇子に縛られた人外だ。  傍らにあるのは、人名を冠した魔法の本。  『月社妃』と書かれたそれに、少女は何を思うのか。  ぼんやりと、それを見つめた後――少女は、手を伸ばして。 「――本である私たちは、切り裂かれてしまえば死んでしまいます」 「えっ!?」  背後から現れたのは、まさしくその本の上に生きる存在。 「理央さんがそれを望むのなら、お好きにして頂いても結構ですよ」 「そ、そんなつもりは、ないよ……」  予想外の人物の登場に、少女は戸惑う。  しかし、相手もまた自分と同じ、紙の上の存在だ。 「分かっていますよ。ええ、もちろん、理央さんは何も悪くありません」  少女の隣に、近付いて。 「しかし、この本は私が預かっておきますね。誰かに悪戯でもされてしまったら、大変なことになってしまうので」 「う、うん……」  自らの本をつまみ上げて、適当に拾い上げる。 「理央さんも、自分の本は自分で管理したほうが良いと思いますよ? 新しい設定を付け加えて、都合のいい存在にされてしまいますから」 「……そうだね」  少女の本は、ここにはありません。  遊行寺夜子の書斎に、隠されているのです。  彼女とは違って、少女は正真正銘、夜子のための存在だ。  自分の運命は、自分で設定することな許されない。 「妃ちゃんは、どうしてそんなに普通でいられるのかな」  気が付けば、少女は問うていました。 「紙の上の存在なんて、本当にどうしようもないくらいに不幸なのに、それでも妃ちゃんはいつも通り。それって凄いと思うから」 「さぁ、どうしてでしょう。月社妃という人間は、こういうときに、余裕ぶるような人じゃないのですか」  そうだけど、と。  それ以上の答えてを求めていた少女は、更なる回答を欲しがります。 「――本当は、色々なものを押し殺しながら、私はここにいるのかもしれませんよ」  少女の気持ちを察した彼女は、微笑みながらそういいます。 「妃ちゃんは、瑠璃くんとお付き合いをしていたんだよね」 「ええ、その通りです。でも、それは理央さんも知っていたことでしょう?」 「うん……知ってた」  知ってて、静観していた。 「隠し通せているつもりでも、そう上手くはいかないものなのですね」  少女は、彼女の言葉に目を逸らした。  後ろめたい思いがにじみ出て、口を閉ざす。 「妃ちゃんは、今も瑠璃くんのことが好き?」 「分かりきったことを、聞かないで頂けますか」  刺のある言葉が、飛び出てきた。 「同じ男性を好きになってしまった者同士――思うところもあるでしょうが、そこは口をつぐんでおきましょう」  恋の戦争を始めるわけではなく。  両者とも、すでに終わってしまっている思いが故に。 「これ以上は、蛇足というものですから」  そして、彼女は背を向けて、その場から立ち去った。  一人、残された少女は、何を思うのだろうか。  そして彼女は、次なる人物と遭遇します。 「……あ、妃」  顔を合わせた瞬間、目をそらされてしまいます。  先日の暴露大会が、少女に重くのしかかっていることは、明白だった。 「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ」  にこやかに、彼女はいいます。 「私たちの関係は、もう終わってしまったものです。だからこそ、過去のお話として喋ったにすぎませんから」  彼女にとって、その話に未来がなく。  そのことを伝えるために、あの場で語ったのだ。 「でも……だって」 「私のことが、恨めしいですか?」  それでも俯く少女へ、彼女は問います。 「親友にさえ秘密にしていたこと――そして、実の兄を愛してしまったこと。それは、夜子さんからしてみれば、裏切りにも似た行為かもしれません」  彼女は気づいていた。  少女の抱える本当の気持ちや、少女自身が自らの気持ちに気付いていないことを。  湧き上がる感情の正体が、失意、失望、そして嫉妬であることを――少女は知らないのです。 「わからないわ。本当に、わからないの」  閉ざされた世界の中で生きてきた少女は、あまりにも経験が乏しすぎた。 「あたしはこういうとき、妃になんて声をかけたらいいのかしら?」 「……さあ?」  白々しく、彼女はとぼける。 「頬をひっぱたいて、バカ! と罵ればいいのではないでしょうか」 「そんなこと、出来るはずがないわ」  〈躊〉《ため》〈躇〉《ら》う少女へ、彼女は微笑みを返す。 「私は、今に何も求めてはいません。私のことなど気にせずに、自分のしたいようにすればいいと思います」  月社妃は、何も求めない。 「一人で生きていけるほど強くなれば――きっと、この物語は幸せに終わるでしょうから」  ただ、待ち続けるだけだ。 「……そんなの、無理」  脆弱な少女は、首を振って諦める。  短い生涯の中で、自分の弱さは痛いほど知っていたから。  そんな少女を見て、変わらないことに安堵を覚えながら、彼女はこの先の未来に一抹の不安を覚えてしまう。  そして次は、探偵少女。 「私に、御用ですか?」  ノートパソコンを開きながら、広間で頭を抱えている少女は、一体何をしていたのだろう。 「チェスの続きでも、しようかと」 「今は、用意が出来ていないです。借りてきましょうか?」 「その必要はありません。かなたさんと、お話がしたかっただけですから」 「……むう、そういうことですか」  額面通りの言葉ではないことを、少女は悟る。  彼女は、少女のような人間が大好きでした。  少女のような友人がほしいと、願ったことさえあります。  今は、慣れ合うことは許されませんが――しかし、託すに値する人物であることは、知っていた。 「これを、受け取って頂けませんか」  差し出したのは、一冊の本。  途端に、警戒の色を露わにする少女。 「ご安心下さい。これは私が書いた、偽物の本ですから」 「アパタイトのような、日記帳ですか」 「その通りです」  『フローライトの時空落下』  まるで時を越えた如く、かの存在は唐突に現れた。 「今の私が思うことや願いを書いた、アパタイトの続きの物語です」 「……なるほど」  警戒を解いた少女は、躊躇なく受け取ります。  受け取って、すぐさまページを捲って、そこにある文字を確認した。  そこに書いてあったのは、紙の上の存在として開かれてからの、数日間の思い出。  新たな存在として開かれた妃が、何を思っていたのかを書き記されています。 「ただ、私がいたことを思い返してくれればいい。そんな願いを込めて、かなたさんにこれをお渡しします」 「……どういう、つもりでしょうか。これを渡すなら、私よりも適任がいるはずです」  名前を出さなくても、明白だった。 「いいえ、かなたさん以外にありえないのです。あなただけが、託すことの出来る相手だから」  有無を言わせない、妃の言葉。 「まるで、一つ一つ後片付けをしているように見えます。思い残していたことを、清算しているような」  これじゃあまるで、身辺整理じゃないか。  機敏な少女は、すぐさま意図に気が付きます。 「月社さんは、紙の上の存在なのですよね? だったら、焦ることなんて、一つもないはずです」  紙の上の存在は、本がそこにあるかぎり、死ぬことはない。  生と死の観念は、人間とは全く別物で。  そんな少女の問いに、逡巡した彼女は、ゆっくりと口を開く。 「――瑠璃のことを、宜しくお願い致します」  優しい瞳が、少女を捉えて。 「お兄様には、かなたさんが必要だと思いますから」  それ以上、彼女は語ることしなかった。  必要なことは全て終わらせて、後は託すだけ。  さて、次は。  次は、何を清算しよう? 「少し、夜風にあたりませんか」  夕食後の緩やかな時間に、妃に声をかけられる。  向こうから話しかけてくれることなんてなかったから、胸が高鳴った。  期待してはいけないことは理解しているのに、心というのはこういうときだけ単純だ。  断るはずもなく、二つ返事に同意した。  読みかけていた小説を放ったらかしにして、妃の後を追うようにして図書館を出る。 「今日は、月が綺麗な夜ですね」  夜風に靡いた髪の毛が、やけに幻想的だった。 「……どうして、制服?」 「これが、私の象徴かと思ったので」 「いいけどさ」  俺は、妃の制服姿が好きだったから。  もしかして、覚えてくれて、意識してくれていたのかなと――妄想をしてしまう。 「夜のこの島は、とても静かですよね。私好みの素敵な雰囲気です」  昼と夜では、同じ場所でも何かが違う。  陰と陽、光と影、太陽と月。  「お前は、太陽よりも月が似合うよ」  月社妃。  別に、それを意識したわけではないけれど。 「あら、それは褒めてくれているのでしょうか? 判断が難しいところですね」  くすくすと、楽しげな様子だ。  ここしばらく見せてくれなかった表情が、今日はやけに顔を出す。 「……どうして、夜子に暴露した?」  ふと、訪ねてみた。  今のこの雰囲気なら、自然に話せると思ったから。 「どうしても何も、かなたさんの暴露大会に、華を添えたかったからですが」 「…………」  ただの、話のネタとして、口にした。  俺たちの秘密は、いつのまに軽くなってしまったんだろう。 「お願いが、あるんだ」 「何でしょう?」 「手を繋いでくれないか」  弱々しい、言葉だったと思う。 「ただ、手を繋いで欲しい」  妃に何かを求めることが、いつからこんなに苦しくなったんだろう。  目を見ることが出来なくて、目を合わせることが出来なくて、今すぐ逃げ出したい気分になる。 「繋いで、どうしようというのです?」 「お前の存在を、噛み締めたいんだ」  今ここに、月社妃が存在しているということを。  紙の上の別物であっても、妃という存在がいてくれることを。  決して、忘れたくなくて。 「……少しだけですよ」  やや、恥ずかしそうに。 「それ以上の慣れ合いは、禁止です」 「わかっている」  それでも、それだけで、構わない。  触ることの出来なかった毎日が、変わったことを思い知りたくて。 「全部わかってるから……せめて、今だけは」 「本当に、仕方のない人ですね」  そして、俺たちは一年半振りに、繋がった。   指と指が触れ合って、心臓が高鳴った。  このまま抱きしめたくなる衝動に襲われるが、必死で我慢する。  その代わり、妃の一歩先を行くように、踏み出した。  手をギュッと握りしめて、力強く引いていく。 「あらあら」  手は、鎖のようなものかもしれない。  妃が飼い主で、俺が飼い犬。  先を行こうとする俺を、後ろから見守ってくれている。 「やっぱり俺は」  ぼそり、と。  心が弱音を、吐き出した。 「お前のことが、好きなんだよ」  望まれていない言葉だということは、理解していた。  こうまで未練がましい男は、ただただ惨めなだけで。 「手」  そんな俺へ、妃は笑いかける。 「汗をかいていますね。とても、緊張しています」 「……うるさい」  デリカシーうんたらかんたら。 「触れ合ってしまうと、お互いの気持ちが分かってしまいます。兄妹というのは、本当に難儀なものですね」 「ああ、全くだ」  妃の手の感触は、あの時とほぼ変わらない。  だけどその中で、変わってしまったものもある。 「お前は、嘘が上手だよな」 「生粋の、嘘付きですから」 「お前は、嘘が下手だよな」 「生粋の、正直者ですから」 「……もう」  いいかな、って、思ってしまった。  手を繋いで、温もりを知って、あの日から変わらないことを知って。  「どうにもならないんだな」  それが、妃であるのなら。  お前が、月社妃なら。  それはきっと、許されないことなのだろう。  それは設定でも、命令でもなく。  彼女自身が望んだ、最果ての結末。 「だけどまだ、瑠璃の番ではなかったりして」 「え?」 「瑠璃の前に、もう一人、終わらせなければいけないものがあります」 「……そうか」  誰かだなんて、明白だった。  妃が開いたタイミングを考えれば、すぐさまあいつの顔が思い浮かぶ。 「だから……今だけは、自分にご褒美をあげようかと思っていました」 「ご褒美?」 「嘘付きで正直者の私にも、頑張るための元気が必要ですから」  ぎゅっと、手を強く握り返す。  決して、俺だけが願っているだけではなかったことを、思い知らされる。 「今だけは、私たちだけの時間です」  夜の静寂は、とても居心地がよく。 「お前は本当に、美しいな」  月の煌めきが俺たちを照らして、束の間の夢を見せるんだ。 「幻想的で、耽美的で、そんなお前に、俺は恋してしまったんだろう」  夜風に拭かれて、肌に冷気が触れた。  帯びた熱を覚ますには、十分過ぎる。 「……さて」  繋いでいた手が、離れた。  月に雲が陰り、煌めきが失われていく。   手と手が離れた瞬間、俺はもう一度、妃の手を掴もうとしたが――それは、空を切るだけに終わる。 「こんばんは」  妃が、挨拶をした。 「よぉ、こんなところで奇遇だな」  汀が、優しい笑みで答える。 「悪いが、妃に話があるんだ。お前は少し、席を外してくれねえか」 「ああ、分かってる」  ここに、汀が現れた意味を理解できないほど、俺は馬鹿じゃない。  順番だって、言ってただろ。  だから今は、何も言わず我慢しろ。 「では、失礼しますね」  汀の後に、妃がついていく。  残された俺は、ただその後姿を悲しそうに見守っていた。  月社妃が開かれてから、俺の心は完膚なきまでに浮ついていた。  それは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、俺のつまらない心はぐちゃぐちゃになってしまう。  瑠璃と妃が、付き合っていた。  互いに互いを愛しあい、兄妹の禁忌を犯す。  そのことを知ったばかりだというのに――なんだこの仕打ちは?  紙の上の存在を前にして、俺はどうしたらいい?  どうしても、それが分からなくて。  妃の前で、どういう顔をしたらいいのか――さっぱりわからなかったんだ。 「出しゃばっても、構いませんか」 「ああん?」  日向かなたが、そんな俺に声をかける。 「というよりも、お節介をします! 汀さんは、きちんと自分の心にケリをつけるべきなんですよ!」 「ぶち殺すぞクソ女」  知った風な口を聞くんじゃねえよ。 「いつまで、及び腰でいるつもりですか? 傍若無人な汀さんは、何処へ行ったのです? これじゃあまるで、恋を知らない初な子供ですよ?」 「関係ねーだろ」  余計な干渉は、ご法度だ。 「……折角、機会が訪れたのです。汀さんだって、いつまでも月社さんを避けるわけにはいかないでしょう?」  悲しげに、奴は言う。 「この奇跡が、いつまで続くかもわからないのです。もし、それを先送りにして――機会そのものが失われてしまったら、汀さんは、一生後悔することになりますよ」 「……うるせぇっつってんだろ」  一生後悔する。  その言葉を聞いて、何故か瑠璃の顔を思い浮かべてしまった。 「しっかりと、立ち向かいましょう。そして、自分の気持ちと向き合うべきなのです。そうでなければ――次の物語へ、進むことが出来ませんよ」  この女は、いちいち分かりきったことを言いやがる。  それが正しいからこそ、苛立ちが止まらないんだ。 「どうしていまさら、及び腰になってるんですか。とてもじゃありませんが、年上の女性を誑かせていた人には見えませんね」 「……おい」  なんで、知ってんだよ。  個人情報保護って、知ってるか? 「それはもう、かなたちゃんの情報網は天下一ですから!」  でも、確かにこいつの言うとおりだ。  たかが恋愛事情に、どうして俺はここまで苦しめられているのか。  今までだって、適当にしているだけでどうにかなってきたのに――今回だけは、自分が自分でないみたいだ。 「ああ、そうか」  何故だろうと、疑問に思って。 「――今まで俺は、言い寄られたことしかなかったんだ」 「……自慢ですか?」  だから、わからないんだ。  こういうとき、どうすればいいのかがわからなくて。  いつも、向こうが俺を、追いかけてきてくれていたから。 「ふふふ、汀さんもカワイイところがあるじゃないですか! 実に、私好みです!」 「勘弁してくれ。俺は、お前みたいな女が一番嫌いだ」  瑠璃も、さぞ大変だろうな。  この女は厄介すぎて、扱いに困ってしまう。  だが、こういうタイプの女こそ、瑠璃には相応しいのかもしれない。 「手伝いましょうか?」  何を、とは言わず。 「うるせえ、黙ってろ」  しかし、決着は付けておくべきなのだろう。  この先、俺が生きていく中で――わだかまりや、後悔は残しておくべきじゃない。  その点だけは、どうあがいてもこいつの言うとおりだ。 「――妃」  自分の気持ちを知った。  瑠璃の気持ちを知った。   それが叶わないことは、とうに理解しているけれど。 「叶わないことを思い知らなければ、俺は停滞したままだ」  魔法の本に、復讐心を焦がし。  ただ、凶暴な牙を研ぎ澄ませ、周りに迷惑をかけ続ける。  そういう馬鹿みたいなことは、終わらせなければいけないんだろう。 「全くもう、瑠璃は本当に仕方のない人ですね」 「ふむ、この本はとても瑠璃好みだと思います。是非とも読んでみてください」 「瑠璃、瑠璃、瑠璃。ふふっ、本当に、私はあなたのことが大嫌いですよ」  大嫌いだと言うくせに、眩しい笑顔が咲いていた。  その笑顔の意味に気付かなかったのは、あいつが上手く隠していたから?  俺は本当に、気付いていなかったのだろうか。  気付きたくなかっただけじゃないのか。  瑠璃が、あの日、本音をぶちまけた瞬間。  何故俺は、冷静なままそれを受け入れることが出来たのだろう。 「付き合っている人なんて、いませんよ。好きな人も、いません」 「ええ、そういうことには興味が無いのです。私はただの、妹ですから」  俺が焦がれた月社妃。  心奪われた笑顔は――いつだって、瑠璃の隣で花開く。  俺の隣では、あんなに幸せそうには笑わない。  瑠璃だけが引き出せる、月社妃の魅力。  ――瑠璃を好きなあいつを、俺は好きになってしまったんだろう。  好きな人に、笑いかけて。  冷静さを取り繕いながら、軽口でお喋りをする。  瑠璃という存在がいなければ、こんな思いをすることはなかったのかもしれない。  瑠璃がいなければ、妃はあんな風な笑顔を俺に見せなかっただろう。  そうすれば、俺はあいつを好きになることなんて、なくて。  ――あの笑顔を、自分に向けてほしいと願うことも、なかったんだろう。 「汀さん?」  優雅に笑う、月社妃。  だけどあの幸せな微笑みは、俺という存在を必要としていない。  その視線の先にあるのは、いつだって瑠璃だったのだ。  あいつが幸せになるためには――瑠璃がいてくれたら、それでよかった。  知らなければ、良かった。  この気持ちを、抱かなければよかった。  そう思ったとしても――やっぱり俺は、あいつの笑顔を思い浮かばずに入られない。  例え、その視線が俺に向けられていなくても。  俺が恋した笑顔を、決して失いたくはない。  いつまでも、いつまでも、〈路〉《ろ》〈傍〉《ぼう》の草のようでも構わない。  視界の端っこにさえ、俺という存在がいなくても、構わないから。  ただ、許して欲しい。  その隣で、月社妃の笑顔を、いつまでも見つめていたいのだ。 「――そうしてお前は、俺の思い出になってくれ」  目の前には、妃がいる。  二人っきり、夜の時間。  緊張で、胸が高鳴ることはなかった。  息をするように、俺は俺で在り続けていられる。 「思い出、ですか」  瑠璃との逢瀬を邪魔した俺を、妃は恨んでいるかもしれない。  だけど、今しかないと、思ったんだ。 「随分とロマンチックな言葉を使うのですね。汀さんらしくありません」 「うるせえ、黙ってろ」  らしくねえことを、今からするんだよ。 「……お前は、変な女だな」 「はい?」 「よくわかんねえ女だって言ってんだよ。どうしてお前は、お前なんだ?」 「知りませんよ。これが私なのですから、しょうがないでしょう?」  心外そうに、妃は唇をとがらせる。 「第一、変というのなら、汀さんこそ変でしょう? 重度のシスコンです」 「シスコンは、普通の兄貴だったら普通に持っている性癖だ」 「私のことを、自分の妹のように扱う汀さんは、もう手遅れですね」  くすくすと、面白おかしく笑う。 「……いや、それはもう辞めた」  ぐっと、感情を堪えながら。 「お前のことを妹扱いするのは、今日でお終いだ」  それが、駄目だったんだろう。  俺の停滞を生んだ、原因そのもの。 「お前は今日から、俺の妹でも何でもねえ。ただの一人の、女だよ」 「最初から、私はただの女でしたが」 「うるせえ、お前もわかってんだろ」  全てわかった上で、付き合ってくれてんだ。  冷たい風が、包むように吹き差し始める。  月の光から逃れるように、夜の空から背を向ける。  感情を、悟られたくなかった。  けれど、妃の目を見なければならないと思う。  この先の展開が、分かっていたから。  妃の笑顔が、最後まで俺に向けられることがないと、分かりきっていたから。  ああ――震えが込み上げてきそうだ。  悲しみの大波が心に打ち寄せて、言葉を飲み込もうとする。 「知ってたか」  怯えていることを、知られたくなかった。  悲しみや、切なさを、どうにか隠したくて。  俺は、精一杯の強がりで笑ってみせた。 「――どうやら俺は、お前のことが好きだったらしいんだ」  笑えてたのか。  歪んでいたのか。  それはもう、月さえも分からない。  月の光の影の中で、俺は妃に告白した。  そのときの俺の表情を知っているのは、目の前にいた妃だけだ。  夜に浮かぶ月にさえ、俺の心は見通せない。 「知っていましたよ」  端的な、言葉。  「ずっと前から――知っていました」  見透かされていたことに、驚きはない。 「そうか。俺は、ついこの間、気付いたばっかりなんだがな」  気付かされたばかりなんだ。 「だから、お前は」  さあ、続きを言え。  中途半端で終わってしまったら、意味が無いだろ。 「俺だけを見て、いつまでも笑っていてくれ」  月社妃が持っているその魅力を、独り占めさせてくれないか。  「知っていましたか」 「――どうやら私は、瑠璃のことを愛してしまっているようなのです」  現在進行形の、その言葉。  分かっていた。  分かっていた。  分かっていたよ。   けれど――分かっていなかったのは、その後だ。  言葉は予想していても、襲いかかる心の痛みは、分かっていなかった。  他人を愛するという、その言葉。  目の前に俺がいるというのに、その笑顔は俺の向こう側の誰かを見つめていた。  二人っきりでさえ、その笑顔は俺に向けられておらず。  その事実が齎す痛みは、遥か膨大だった。 「知ってたよ」  知ってたとも。  分かりきっていた、ことだろう。 「嫌になるくらいに、思い知らされたから」  強がりは、未だ保てていたのだろうか。  それは、目の前の妃だけが、知っていること。  今の俺は、俺自身がどういう表情をしているのか、分からない。 「ですので、汀さんの求めには応えられません」  はっきりと、きっぱりと。  もしかしてすら残さない言葉に、心は真っ二つに割られてしまう。 「……ごめんなさい」  最後のその言葉は、初めて妃が見せた心のぶれ。  掻き消えそうな弱々しい声に、妃の強がりを見つけた。 「いいや、謝ることじゃねえよ。そう、謝ることじゃねえさ」  人が人を好きになることに、特別はなく。  ただ、当たり前のように恋をして、叶っては散っていく。  もはや、俺の恋にこれ以上の言葉は必要ないのだろう。  これ以上語ってしまったら、きっと蛇足になるはずだ。 「はっ……笑えねえ」  誰もいないところ。  誰の目のないところで。  恋が終わってしまったことを噛み締めて、今はただ心の叫びに耳を傾けようか。  そうして、遊行寺汀の初恋は、完膚なきまでに潰えてしまった。 「どうして、瑠璃が私の部屋にいるんですか」  帰ってきた妃が、不満気に言った。 「お前が、俺を待っていて欲しそうな気がしたからだよ」 「……余計なお世話ですよ。女の子の部屋に無断で入るなんて、変態さんですね」 「…………」  隠しているつもりなんだろうな。  強がれているつもりなんだろう。  しかし、俺の目を欺くことは出来ない。  ほんのりと充血した瞳と、ひび割れた無表情。  僅かに掠れた妃の声が、この空白の時間の中身を教えてくれていた。 「本当に邪魔だったら、帰るけど」  でも、帰ってくる前に、ひと通り泣き腫らしたんじゃないのか?  今必要なのは、第三者だと思ったんだけど。 「……嘘付き。本当は、瑠璃の方が私に会いたかっただけでしょう」 「否定はしないけど」  汀に呼び出されて、不安にならなかったというと嘘になるが。 「ちなみに、別に泣いていたわけではありませんから」 「…………」  おいおい、何だその強がりは? 「俺は、お前が泣き虫なことを知ってるぞ」 「……むっ」  不満気に睨んでくるが、今日は迫力がない。 「はぁ……今日は少し、旗色が悪いですね。少し待って下さい、いつもの私に戻りますから」 「なんだそりゃ」 「本懐を取り戻しましょう。私には、やらなければならないことが残っていますから」  スイッチが切り替わるように、妃の表情はいつもに戻る。  感情を見せない、普段通りの月社妃だ。 「――瑠璃も、覚悟を決めた上で、私を待ってくれていたのでしょう?」 「…………」  夜道に、手を繋いで、月を見上げた。  繋がった心から、俺は妃の心情を理解してしまったから。  汀も、こんな気持ちだったのかな。  切なさで、心が潰れそうになってしまうよ。 「お前は、どうして死んじまったんだ」 「それは以前にも申し上げたはずですよ。単なる事故でした。私の不注意による、私の責任によるものです。あそこに、物語性はございません」 「……本当に?」 「ええ、本当です。だから、誰のせいにしてほしくないのですよ。もちろん、本のせいにさえも」  汀が復讐心を滾らせていたことにも、言及しているのだろう。 「現実は、驚くような偶然だって起きてしまうのです。それが信じられないからといって、無闇に空想の存在に頼らないでくれませんか」  妃自身が、否定する。  設定でも、命令でも、本の意志でもなく。  月社妃の意志が、頑なに現れていた。 「邪道の推理は、物語だけに適用されるものです。現実には、偶然なんていくらでも転がっているのですから――それを、そろそろ受け入れましょう」  受け入れなければ、始まらない。  それを教えるために、妃はここにいるのだろう。 「それと、もう一つ」  指に手を当てて、いたずらっぽく囁いた。 「私たちは、本当に付き合っていたのでしょうか?」 「……え?」  なんだ、それは? 「いえ、誤解しないでくださいよ。決して、私たちの気持ちを疑っているわけではありません」  ですが、と。 「いつから私たちは、付き合うようになったのでしょう。何をきっかけに、開き直ることが出来たのでしょう」 「昔の私は、兄妹の禁忌を犯さないように、心を封じていたはずなのに」  お互いが、お互いのことを好きになったのは、遥か以前。  しかし、付き合っていると呼ぶほど、関係が近付いたのは、そう昔の話ではない。  何を契機に、俺達は結ばれたのか。 「……気が付けば、そうなっていた。俺達は、告白さえも、していなかった」  自然発生したカップル。 「だから」  妃は、薄っすらと笑って。 「ちゃんと、告白をやり直しましょうか」 「…………」  ああ、そうか。  分かって、しまった。  これから月社妃が、何をしようとして。  何を、終わらせようとしているのかを。  要するに――俺の番が来たということか。 「お前は、本当に自分の考えを曲げないやつだな」  降って湧いた機会さえも、手放してしまうのか。 「私は、こんなものを望んでいたわけではありません。私という存在は、都合のいい展開が大嫌いなのです」 「俺の気持ちも、分かっているのに?」 「瑠璃だって、私の気持ちが分かっているはずです」  終わってしまったものを、再び始める必要はない。 「――月社妃は、もうこの世にはいないのです。ここにいる私は、それを似せて創られた偽物です」  同じ顔をして、同じ声をして、同じ記憶を持っていて、同じ考えに至って。  何もかもが同一であるというのに、根本的に違う存在。 「あなたはいつまで、過去の恋愛に囚われているのですか。いい加減、私のことを諦めて下さい」  根本的に違うということを、妃は許せないのだ。  本来の自分ではなく、偽物の自分を愛そうとする俺を許せない。  自分が死んだ時点で、全てを受け入れてしまっている。  自分が死んだことも、俺との関係が、終わってしまったことも。 「だから、告白します」  妃は、笑顔を作った。  それはとても自然な笑顔で、胸が高鳴った。 「――瑠璃のことが、大嫌いです。一人で勝手に、幸せになって下さい」  幸せになれと、言ってしまうんだ。  不幸になりましょうと、言ってくれない。  遠く、遠く、離れてしまった俺の妹は――帰ってきてくれたように見えても、結局は届かないところにいる。 「ずっとずっと、お前のことが忘れられなかったんだよ」  この一年と少しという時間の中で、引き摺り続けていた感情。 「ああ、でも、そうだな。お前はそういう俺を、許してはくれないんだよな」  未練がましい男なんて、お前が嫌うようなタイプの人間だ。 「死というのは、全てを分かつ絶対的なものなのです。魔法の本で誤魔化して見せても、その本質は揺るぎません」  だけどさあ。  偽物というには、よく出来過ぎているんだよ。  そういう言葉を紡ぐのは、やっぱり妃しか居なくて。  だからこんなにも、胸が苦しいんだろうなあ。 「死を軽んじる物語なんて、私は大っ嫌いですから」  魔法の本による奇跡を、許してくれない。  それが、月社妃という、俺の大好きな女の子なんだ。 「答えを聞かせて、いただけますか?」  さあ、選択の時だ。  大嫌いだという妃へ、俺はどう応えよう。  俺にとって、何が必要で、何を成すべきなのか。  真に正しいものは、何なのだ?  引き摺り続けた感情を、それでも未練がましくぶつけるのか。  あるいは、妃の意志を汲み取って、最後まで格好つけてみせるのか。  どちらを選んでも、後悔するんだろう。  だから、後悔することを覚悟した上で、答える必要があるのだ。 「俺は」  さっきまで、泣いてたくせに。  今だって、本当は泣きそうなくせに。  泣き虫な俺の妹は、笑顔を咲かせ続けていた。  さっきまで、泣いてたくせに。  今だって、本当は泣きそうなくせに。  泣き虫な俺の妹は、笑顔を咲かせ続けていた。「――お前のことなんて、大っ嫌いだ」  自分の心を、ナイフで抉ったような感覚がした。 「本当に本当に、大っ嫌いだ……!」  その言葉を、待ちわびていたんだろう。  俺にそう言わせたくて、ここに存在する。 「ごめんなさい、瑠璃。あなたを、辛い目に合わせてしまいました」  嬉しそうに、笑った。  それはとても、優しい笑み。 「だったら、こんなことを望むんじゃねえよ……! この、馬鹿妹が」  勝手なやつだ。  本当に、勝手なやつだよ。  だけど、風のように自由なお前が、大好きだったんだ。 「瑠璃の青春は、これからも続くのです。過去にとらわれて、いつまでも引きずる必要なんてありませんから」  それはもう、終わってしまった物語。 「私を愛してくれたことだけを、覚えてくれていたら――私はそれで、満足ですよ」  好きになったことが、なくなるわけじゃない。  俺はこれからも、ずっとずっと覚えていようと思う。 「思い出にしてください。過去にして下さい。でなければ――次にある恋の機会を、失ってしまいますから」  一歩。  妃は、俺から距離をとった。 「瑠璃との日々が、雪解けのような冷たさとともに、心に染みます」  薄っすらと、瞳には涙があふれていた。 「ああ、思い返してみれば――なんと私は、幸せな女の子だったのでしょうか」  強がりが、壊れかけていた。  無理をしていたことは、あまりにも明白で。  しかし――俺はもう、見守ることしか出来ないのだ。 「あなたと恋をして、あなたとの日々を共有できて、こんなにも幸せでした。だから、瑠璃も――どうか、お幸せに」  妃の手には、一冊の本。  『月社妃』を、手に持っていて。 「馬鹿」  気が付けば、大粒の涙がこぼれ落ちていた。  いつから自分が泣いてたのか、わからなくて。 「――さようなら」  そして妃は、自らの名前が刻まれた本を、躊躇なく、盛大に――破り捨ててしまう。  びりびりと、切り裂かれたページが宙に舞った。  残酷な運命を嘲笑うかのように、妃は最後まで妃で在り続けるのだ。  「本当にお前は、馬鹿だよ」  部屋中に舞い散るページ群。  紙の上の存在として、妃を形成していたものたちは、完膚なきまでに壊されてしまって。 「……あ」  薄っすらと、消え行く妃の身体。  無慈悲に、残酷に――その存在は世界から失われる。  現実に〈顕〉《けん》〈現〉《げん》した非存在は、本によって否定される。  幻想に甘えることは許さずに、ただ現実ばかりを突きつけて。 「泣かないで。私は、笑っている瑠璃の方が、大好きでしたよ」  舞い散るページが、全て落ちてしまったその瞬間。  最後の言葉とともに、妃はこの世から消滅した。 「う――あああああっ!」  〈蹲〉《うずくま》るように、落ちたページに手を伸ばす。  妃の前では強がっても、一人になってしまったら、弱さが顔を出し始める。 「妃ッ……! 妃っ……!」  俺達は、やっぱり似たもの兄妹だったんだよ。  いつも泣くときは、一人ぼっち。  だけど、ここで折れてしまったら、駄目なんだ。  妃が残してくれたものを胸に抱いて、明日からは前を向いて生きていかなければならない。  「今日、四條瑠璃は失恋をしました」  言い聞かせるように、声に出す。 「完膚なきまでに、俺の恋は終わってしまった」  妃が死んでから、引き摺り続けたこの想いに、ようやく決着を着けることができたんだと思う。 「だけど、今だけは」  今だけは、許して欲しい。  二度目の喪失と、初めての失恋に、大声で泣かせて欲しい。  そうして明日から、俺は強くなろう。  好きな人が、俺の幸せを願ってくれたのだ。  そこで頑張らなきゃ、駄目だよな。  心の叫び声を、文字に表現するにはどうすればよいのだろう。  身を切り裂く痛みを知ってしまった俺は、ただ消化不良の感情を抱えて、微睡みに沈む。  瞳を閉じて、思い浮かぶは最愛の妹の最期。  折れた心が渇き果て、辛辣な現実と直面する。 「…………」  失恋。  恋に敗れ、愛を失い、空っぽになってしまった。  現実は、とうに受け入れることが出来た。  もう、一年前のときのように、取り乱すことはないだろうが。 「……痛い」  痛みが、止まらない。  涙が、枯れ果てた。  後はただ、緩やかな時の流れに身を任せ、喪失感を薄れさせていくしかないのだろう。  負けない。  折れない。  妃が俺に望んでいたのは、前を向いて生きる志だろうから。 「…………」  だから、別のことを考えよう。  別の物語に、思いを馳せてみよう。  このまま痛みに堪えるだけでは、頭がぐちゃぐちゃになりそうだから。 「『月社妃』」  人名を関する、魔法の本。  何故、俺の妹が、記されていたのか。  遊行寺闇子は、どういう感情を持ってそれを書き上げたのか。  理央のこともあって。  『伏見理央』という本を、見てきたから。  断続的に訪れるのは、ただひとひらの不安。  そして、微かに芽生えた猜疑心。 「夜子……」  今は、瞳を閉じてかみしめよう。  それでも俺は、この図書館が大好きなのだから。 「お前は、何かを知っていたんじゃないのか」  妃が自らの本を破り捨てた後、死んだような声で訪ねていた。 「遊行寺家であるお前なら、何かを知っていたはずだろ」  無関係とは、思えなくて。  今はただ、誰かに責任を求めてみたかった。 「知らないわよ……本当に、何も知らないの」  けれど、一部始終を説明した後、夜子は自らの頭を抱えてしまった。 「どうして、自分で自分の本を破くのよ……! 全然、意味がわからないわ……!」  再び出会えた親友は、自らの都合で退場した。  突然知らされた悲報に、冷静さは崩れ去ってしまっていた。 「だけどこれは、闇子さんが書いたものなんだろ。そこに、身勝手な設定が付加されていたんじゃないのか」  紙の上の存在を認めないなんて、それは妃らしい選択だと思ったが。  それでも、隠された思惑を探らざるをえないのだ。 「知らないって、言ってるでしょう……! 私だって、本当の本当に、混乱しているのだから……!」  頭を抱えながら、パニクる夜子。  声が割れそうに響き、少しだけ冷静にさせられてしまう。 「お母さんは何処にもいないし、妃は勝手に消えてしまうし……何が起こっているのよ……」  ただでさえ精神的に弱い夜子は、見るからに衰弱していた。 「最期の最期まで、私は妃の本心が分からなかった……」  突然現れて、場をかき乱し、唐突に消えていった妃。 「……それじゃあ、理央はどうだ?」  同じ紙の上の存在の理央なら、何かを聞けるかと思っていたけれど。 「それを私に聞くなんて、反則でしょう」  糾弾するような瞳で、俺を撃ちぬいた。  たまらず、言葉を失ってしまう。 「あの子は何も語らないし、何も語れないの。そんなの、キミは分かっているはずよ」 「そう……だったな」  紙の上の存在として扱うことを、夜子は嫌っていた。  そのことを失念した俺は、思わず罰が悪くなる。 「魔法の本」  俺たちをかき乱し、悩ませる渦中の存在。 「――俺は、ちゃんとその存在と向き合わなければならないんだろうな」  全てを知って、全てを理解し、向きあおう。  そうでなければ、いつまでも悲劇は繰り返されるんだ。 「まずは俺たちの物語に介入する、あの魔法使いの正体を突き止めなきゃならないか」  神出鬼没の希薄な存在。  たまに現れたかと思えば、記憶とともに忽然と姿を眩ませる。  魔法の本が開く度に少女は現れ、悪戯に物語を刺激して。 「……不確かな記憶の中で、それでも誰かがいたんだよ」  はっきりと、覚えているわけではない。  今でも、その存在が不透明なのだけど。 「あいつを捕まえることが、全てを説明する鍵だと思うんだ」 「魔法、使い……」  俺の言葉を咀嚼するように噛みしめる。 「あたしは、魔法使いではないけれど」  目を伏せて、夜子は言った。 「少なくとも、キミや妃は不幸にしてしまったわね」  自らの存在を下卑する夜子からは、いつもの強がりが消えてしまっていた。  今表に出ているものが、夜子の抱える弱みなのだろう。 「そんなこと、あるものか」  確かに、終わりは悲しく結ばれてしまったけれど。 「俺も妃も、お前と出会えて、本当に楽しかったんだから」  息詰まるような家族から、逃げ出せて。  暖かく迎えてくれたのは、遊行寺家だ。  垣間見える思惑も、利己的な感情も、わかった上で。 「妃が消えたことは、妃の問題だ。お前が気にするようなことは何もねえよ」  鳥かごに囚われた鳥は、自らが閉じ込められている理由すら、知らないのではないだろうか。 「……そう」  けれど俺の言葉に、夜子は何も言わなかった。  暗く沈みゆく図書館の中、封じられた禁書室。  一人の少女が音を殺してやって来て、そこに収められた一冊の本を手にとった。  『パンドラの狂乱劇場』  遊行寺闇子が遺した魔法の本は、既に鈍く輝いている。  少女はそれを一瞥した後、無表情でページを破り取る。  そのことに、紙の上の魔法使いは気付かない。  気付かないから、事態は混乱していくのだろう。  月社妃が、消えた。  月社妃が、二度消えた。  瑠璃からそれを聞かされたとき、あたしは2つの感情に襲われる。  1つは、言葉を奪うような驚愕。  悲しみと絶望の間で、魔法の本の恐ろしさを突きつけられてしまった。  一度死んだ友達を、勝手な都合で弄び、そして人知れず消えていく。  他人を冒涜する所業に、心が折れそうになっていた。  2つ目は、やっぱり、という納得だった。  妃なら、そうしてしまうんだろう。  誰にでも自分にも厳しい妃なら、そういう不条理な展開は許してくれないんだろうなって、思った。  生き返ったように錯覚して、再び会えたことに泣き喜ぶあたしを見ても、妃は変わらない。  それが許せない存在ならば、自殺さえも出来てしまうのだ。  瑠璃が、あたしの元を尋ねた直後。  張り詰めていた強がりが壊れ始め、思わず蹲ってしまっていた。 「う、うううう――」  あの馬鹿の前では、絶対に見せないようにしていたけれど。 「き、妃ぃ……」  やっぱり妃は、紙の上の存在であることを拒んでいたことを思い知って、泣きそうになってしまう。  そして。  そして、何よりも。 「……瑠璃」  気にしていないとか。  楽しかったとか。  後悔していないような口振りで話してはいたけれど……恨まないはずが、ない。  瑠璃も、妃も、あたしに関わることがなかったら、もっと普通の人生を送ることが出来たのだから。  間違っても、魔法の本などに関わらず、二人で仲睦まじく生きていけたはずなのに。  ――〈壊〉《丶》〈し〉《丶》〈た〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈誰〉《丶》?  魔法の本。  ――〈そ〉《丶》〈れ〉《丶》〈を〉《丶》〈望〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈誰〉《丶》?  あたし。  ――〈一〉《丶》〈番〉《丶》〈悪〉《丶》〈い〉《丶》〈の〉《丶》〈は〉《丶》、〈誰〉《丶》?  遊行寺、夜子。 「……う、ううううううううううっ」  思わず込み上げる嘔吐感を、必死に堪える。  感情なんて、とうの昔に殺されていたはずなのに、どうして今更揺るがされてしまうのだろうか。 「瑠璃は、きっと、恨んでいる」  妃の事が、大好きで。  妃のことを、愛していて。  瑠璃から妃を奪った魔法の本を――そして、それを望んだあたしを恨まないはずがないのだから。   魔法の本に見初められた、遊行寺家の因果。  何のために人目を隠して引き篭もり、何のために孤独であろうとしていたのか。  結局は――他者を巻き込み、壊すことが出来なくて。  傍にいてくれるのは、家族か、紙の上の存在だけなのだ。 「全て、あたしのせい」  口にしたら、恐ろしくなった。 「お母さんが妃を書いたのも、きっと、絶対、あたしのため」  どうして?  大嫌いな瑠璃のことを思い浮かべて、涙が零れそうになる。 「どうしてあたしは、瑠璃に恨まれることを、怖がっているのかしら」  乾いた声が、枯れた心をさらけ出す。 「わかんない。もう、わかんない……」  かなたが、図書館に来てくれるようになってから。  なんだか、とても毎日が楽しくて、毎日が幸せで、笑うことも増えていっていたけれど。  それじゃあ、駄目なんだなって、思った。  あたしは、あたしらしく。  引き篭もりは、引き篭もりらしく。  身の丈にあったものだけを、かき集めればいいと思う。 「この書斎に居れば、あたしは幸せ」  支えてくれる理央がいてくれたら、それでいい。  親愛なる茶飲み友達は、消えていく。  腹立つ馬鹿は、離れていけ。  そうして一人になっていれば、これ以上嫌な思いをすることがないのだから。 「活字だけが、あたしの幸せなのだから」  どんなに不幸せでも、文字を読んでいれば幸せになれる気がして。  自分がさも、物語の中の幸せを追体験しているように思えるから。  だから、あたしは活字が好きで。  だから、あたしは、他に何もいらない。 「元気そうで、よかった」  広間で本を読む俺へ、理央がはにかみながらそういった。 「……そうか?」  予想外の問いかけに硬直した俺は、活字から目を離す。 「瑠璃くんのことだから、もっと塞ぎこんじゃうと思ってたや。でも、なんだか平気そう」 「理央がそんなことをいうなんて、珍しいな」 「そかな? でも、そう思ったことは本当だよ」  安心したような微笑みに、心配かけてしまっていたことを思い知る。 「瑠璃さんも、強くなったということでしょうか。苦しみながらも切り替えられたみたいですね」  隣に座る彼女が、指摘した。 「……妃は、一年前に死んだんだよ。俺の前に現れたのは、束の間の奇跡みたいなものだ」  失われることが分かりきっていた、刹那的な現象。  現れたときから、別れは約束されていた。 「汀だって、そうだろ」  妃が消えたことを知った汀は、何も言わなかった。  何も言わず、今は自室に閉じこもっている。  「あいつだって、最初から分かっていた。分かっていたから、覚悟はしていたと思う」  だけどまだ、心の整理がつかない。  今、冷静になるために懸命なのだ。 「何も心配いらないよ。俺はもう、前を向いて生きていけるから」  それが、恋に破れるということ。  そうして、俺の初恋は終わったんだ。 「心配なのは……やはり、夜子さんですか」  彼女は、俯きがちに漏らす。 「……あいつは、弱音を見せることが嫌いなくせに、心底弱虫だからな。あいつが一番、心の整理がつけられていないとは思う」  二度目の別れは、俺に覚悟をもたらしたが。  夜子にとって、二度目の別れは、痛みばかりが伴っていたのだと思う。 「夜ちゃんは、きっと自分のせいで、妃ちゃんをああいう目に遭わせてしまったんだと思ってるんじゃないかな」  心細そうな、理央の眼差し。 「巻き込んで、書き上げて、開いてしまって――振り回し続けて、迷惑をかけてしまったから」  これも、遊行寺家と関わってしまった結果か。 「かなたちゃんも、無理をしないでね。怖くなったら、いつでも背を向けてくれて構わないんだよ。それは、普通のことだと思うから」  巻き込んでしまった、もう一人の人物へ。  しかし、彼女は予想通りの反応を示した。 「え? やですよやです! 頼まれたって、離れませんからね!」  それはあまりにも、日向かなたらしい言葉だった。 「名探偵かなたちゃんが、そんなことで臆するとでも? いやはや、私を見くびらないでくださいなー」 「……まあ、それがあんたらしいよな」  それが本心だから、困ったものである。 「第一、それくらいのことで逃げ出すなら、最初の時点で尻尾を巻いて逃げてましたから! ふっふっふー、私に目をつけられた時点で、おしまいですね」 「かなたちゃん……」  力強い言葉に、思わず理央も涙腺が緩む。  弱味が零れ出そうなことに気付き、咄嗟に拭った。 「夜ちゃんは、今でも自分のことを責めてると思う。だから今日も引き篭もって、朝ごはんにも来てくれなくて」 「……自分の責任だという、心当たりでもあるのか?」  妃を書いたのは、あくまで闇子さんだ。  その目的はどうあれ、夜子がその責任を背負う必要なんてないはずなのに。  いや、それは違うのか。  俺がどう思ったところで、夜子自身がそう思っているのなら、どうしようもない。 「昔から、こうだったの」  しかし、理央は別角度からの言葉をくれた。 「夜ちゃんと関わる人は、みんなみんな不幸になるの。それは本家にいたときも、この島にいる時も、同じ」  ふと。  そういえば、夜子も似たようなことを言っていたと、思い出す。  曰く、腐れ魔法使いの、呪われた噂。 「理央は、所詮代用品でしかないから――きっとこれは、瑠璃くんにしか出来ないことだと思う」  立ち上がって、背を向けながら。  朝食の後片付けをするために、台所へ向かう理央。  振り返って、笑った。 「夜ちゃんのこと、助けてあげて欲しいな。それが出来るのは、もう瑠璃くんしかいないんだよ」 「……それは、魔法の本のことか?」 「かもしれないね。なんだろうね」  誤魔化しながら、立ち去る理央。  そして、最後に遺した言葉は。 「本に囲われて、本に埋められて、本に留められて――夜ちゃんだって、本心でそれを望んでいるわけじゃないと思うから……」  魔法の本に刻まれた、人名を関する本としてではなく。  遊行寺夜子の一人の友達として、心から彼女を思う言葉のように聞こえた。 「……魔法の本って、何なんでしょうね」  悲しい表情を浮かべながら、彼女は言う。 「紅水晶は、理央さんを退場させようとして」  思い立ったように、彼女は語り始める。 「黒真珠では汀さんを煽り、瑠璃さんの初恋を掘り起こそうとして」  クリソベリルが干渉した、それぞれの物語。 「蛍石では、二人の少女を現実に開き、瑠璃さんの初恋に終止符を打った」  関わったのは、一瞬。  けれど、その影響力は計り知れなくて。 「夜子さんの周囲の人間が、尽く排撃されていっているように見えますよね」 「……何が、いいたい?」  人間関係が、複雑化されていく。  それを、あの魔法使いが望んでいたとでもいのだろうか。 「瑠璃さんは、もしかして忘れてしまっているのでしょうか?」 「何をだよ」  にっこりと、彼女が微笑んで。 「瑠璃さんのお傍には、もう一人可愛らしい女の子がいてくれて――順番的に、次はその娘の番じゃないでしょうか?」 「…………」  可愛らしいかは、ともかくとして。  誇らしく自分を指差す彼女の余裕に、思わず苦笑してしまった。 「次は自分が狙われると、言いたいのか」 「いえいえ、恐れ多くもそうはいってません」 「だが、あんたはもう二回も開いているだろ。三度目のターンを期待するには、主役を張りすぎだ」  ヒスイと、アメシスト。  それでもう、十分だろう。 「あの二冊は、出会うための本。ヒスイとアメシストがあったから、私は瑠璃さんと出会うことが出来ましたが」  それは、推測というよりも確信めいた指摘。 「調子に乗りすぎた可愛らしい女の子は、そろそろ咎められるような気がしてならないのです」 「…………」  咎められる。  それは、どういう意味を指しているのだろう? 「最近、私は瑠璃さんと仲良くなりすぎてしまっているような気がしますし。何せ、瑠璃さんはデレデレですからね! 目をつけられてもしかたがないかと」 「残念ながら、心当たりはないが」 「ぶー! そこはノリで、頷いてくださいよー!」 「……ったく」  狙われる可能性を自覚して、それでもいつもの調子は崩さないか。  精神的に一番強いのは、もしかすると彼女なのかもしれないな。 「そうまで理解してながら、それでもあんたは逃げないのか」  もしかしたら本当に、身の危険が迫るかもしれないのに。 「もちろんですよ! だって、瑠璃さんがそばに居てくれますからね」  臆面もなく、ニッコリと笑って。 「あなたが、守ってくれるんですよね?」 「………………ああ」  目を逸らして、頷いた。 「きゃー! デレてくれましたよー! たまには素直なところもあるじゃないですか-! ふふふっ!」 「うるさい、静かにしてろ」  否定したらしたで、不平不満をたれるくせに。 「それに私がいないと、瑠璃さんが寂しがりますからね」 「はあ?」  面白いことを言ってくれるじゃないか。 「それを言うなら、逆だろ?」  冗談を、冗談で言い返そう。 「あんたこそ、俺がいなきゃ寂しがるんだろーが」 「はい、そうですね」 「……え?」  さらりと同意されたことに、反応が遅れて。 「私、瑠璃さんがいないと寂しいんですよね。だから、もっともっとお傍にいさせて下さいね」  真っ直ぐな言葉の輝きに、思わず目が眩んだ。 「ふふふ、それを確かめようとしたのは、瑠璃さんですよ?」 「ああ、いや、そうだけど」  どうしてそう、恥ずかしがらずに言えるのかな。  素直な彼女の一面に、思わず面食らってしまっていた。 「だからこそ……次は、私の番だと思っているのですけども」  瞳に影がさし、不穏な呟き。 「あんまり物騒な想像はするもんじゃねえぞ」 「警戒はしておきませんと!」 「あんたは一人で暴走しそうだから、それだけが怖い」 「ふふふふふふ」 「不敵な笑みが、恐ろしい」  ともあれ、彼女はいつも通りの彼女であって。  今は夜子の心配をするべきだと、言い聞かせる。  日向かなたなら、紙の上の魔法使いにも抗えるのではないかと、無根拠な予感が脳裏をよぎる。  それはあまりにも浅薄な、妄想にすぎないことは理解していた。   奇妙な距離感が生まれているような気がした。  夜子に嫌われることは今に始まったことではないけれど、それでも、今までとは違う何かを感じてしまったのである。  嫌い、と面と向かって言われ、逃げるように閉じこもることはあったとしても。  自ら俺と離れようとすることは、今まで一度もなかったのに。 「……夜子?」  夜。  日が沈み、夜子が活動しているであろう時間帯に、訪れてみたのだが。 「いないのか?」  書斎の扉を鳴らしてみても、返事が帰ってくることはなかった。  夜子の居場所は、書斎と、書斎の奥にある寝室のみ。  一日の大半をそこで過ごしているため、書斎にいないということは、今も眠っているということなのだろう。  「……大丈夫かよ」 「おーい」  半ば返事は諦めて、ドアノブに手を伸ばしてみた俺は。 「……お?」  素直に開かれる扉に、驚きを隠すことが出来なかった。 「…………」  重厚な扉が、軋む声を上げながら書斎へと案内する。  一瞬、中へ入っていいものかと迷ったが、書斎にいるかどうかの確認くらいなら良いだろうと、足を踏み入れる。  書斎に夜子がいないのなら、今は寝ているということ。 「……いない、か」  書斎は、主の不在を嘆いていた。  空っぽの椅子が、どことなく儚さを湧きてている。   きょろきょろと辺りを見渡して、何も問題がないことを確認した俺は、踵を返して背を向ける。  物あさりも詮索も、今はよしておこうか。  「…………」  横目に確認する、寝室への扉。  もしかしたら、書斎の扉のように開いているかもしれないとは思ったが、そこまで無礼を通す訳にはいかない。  目を離し、書斎から出ていこうと、一歩踏み出した途端。 「あらぁ、女の子の部屋に無断侵入をして、ナニをしようというのかしらん」 「なっ――!?」  艶かしい声が耳を刺し、思わず振り返ってみれば。 「はろー、瑠璃のお兄ちゃん。クリソベリルちゃんの登場よん」  夜子がいつも座っている椅子へ、深々と鎮座する魔法使い。  悪びれる様子もなく、ただ当たり前のように少女はそこにいた。  いつから? 「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、どうしたの? こんなの、いつものことじゃないの」 「そうだな、確かに、いつも通りだ」  いつも通りの、神出鬼没。  いつも通りの、魔法使い。 「瑠璃のお兄ちゃんも、ようやく妾のことを忘れないようになってきたわね。きゃはは、うーれーしーいー! なんてね!」 「それでも、こんなところに現れたのは初めてだろ。お前、夜子に何かしたのか?」  いつもいるはずのここには不在。  代わりに振る舞う、紙の上の魔法使い。 「いやん、人聞きの悪い事を言わないで。妾は、夜子の味方なのよん? 酷いことをするわけないじゃないの」 「白々しい言葉だな」  夜子の味方というのなら、どうして人間関係を壊そうとするのだ。  今、夜子が苦しんでいる時点で、お前は夜子の敵なんだよ。 「信用してもらうつもりなんてないけれど、でも、一つだけ言っておいてあげる」  妖艶な眼差しを、向けて。 「妾がこうしなければ、夜子はもっと悲しい目にあっていた。それだけは、胸を張って保証する」 「…………」  本当に、白々しい言葉だ。 「それに、今日は瑠璃のお兄ちゃんに、お礼をしに来たの」 「お礼?」  不穏な言葉に、思わず身構えてしまうのは無理もない。 「そ。妃ちゃんの物語を、ちゃんと終わらせてくれたお礼よん」 「……ちゃんと、だと?」  含みのある物言いに、苛立ちがこみ上げてくるのは無理もない。 「これでもう、瑠璃のお兄ちゃんの初恋は終わったからね。あれはとても、鬱陶しくて鬱陶しくて邪魔だったのよん」 「…………っ」  わざと煽っていることなんて、百も承知。  怒りに身を任せて行動しても、利益なんて一つもないことはわかっていた。  だから、我慢だ。  今日の魔法使いは、一段と饒舌なのだから。 「……俺の初恋と、お前の目的に何の関係がある」  だから、今は会話を続けろ。  怒りを堪えることが、今は一番大切だ。 「さぁ? きゃはははははは!」 「…………」  捻くれた魔法使いは、正直に語ってはくれない。 「瑠璃のお兄ちゃんは、事実と小説、どっちが魅力的?」 「なんだ、その質問は」  事実は小説よりも奇なり。  その言葉について、語りたいのか? 「べっつにぃー、ちょっとだけ思うところがあったのねん。夜子は小説の方が好きだったけれど――果たして、どちらの方が良いのかしら」  少し、考えたように首を傾げる。 「小説には夢があふれていて、活字には希望が刻まれている。だから、夜子の気持ちは痛いほど理解できるのだけれど」  そこで、クリソベリルは言葉を切った。 「事実からしか味わえないものも確かにあって、だから妾はここにいるのよね」 「……?」  少し自嘲的な微笑み。 「魔法の本ってものが開いている以上、事実も小説もあったもんじゃねえだろ。その境界線は、限りなく歪んでしまっている」  小説の世界が現実に開いたり。  一度死んだ人間が、もう一度戻ってきたり。  架空の存在を作り上げて、家族のように暑かったり。  この幻想図書館では、何もかもが壊れてしまっている。 「……それでも、それらは所詮、台本をなぞっただけのまがいもの。現実に起きているけれど、その本質は人工的なものなのだから」  儚げな表情を浮かべたクリソベリルは、しかし表情を一転させる。 「と、いうわけで! 妾のお願いに答えてくれた瑠璃のお兄ちゃんに、いくつかの謎の正体を教えてあげようと思ったのよん」 「……え?」  それは、予想外の申し出だった。 「過去に、この幻想図書館で何が起こったか。それを知ることなくして、瑠璃のお兄ちゃんには夜子を救えない」 「信じられないな。お前が何を企んでいるかは知らないが、鵜呑みにするほど素直じゃないんだよ」  警戒せざるをえないだろうが。  はいそうですかと、簡単に耳を傾ける訳にはいかない。 「信じるも何も、聞いてから判断すればいいでしょう? その選択肢は、いつだって瑠璃のお兄ちゃんにあるのだから」 「……そりゃ、そうだが」  でも、なんだろう。  幻想図書館の過去と聞いて、とても、とても、聞いてはいけないような気がしてしまうのだ。  耳を貸しては、行けないような気がするのだ。  それはまるで、悪魔の囁きのよう。 「聞きましょう、瑠璃さん」 「……え?」  背後に、声一つ。 「折角の申し出です。彼女が嘘を付くにせよ、ここで耳を傾けることはマイナスにはならないと思います」 「な、なんであんたが、ここに……!」  日向かなたは、さも当たり前ように控えているのだ。 「緊張した様子の瑠璃さんが、書斎の扉を叩いているところを目撃してしまって、こっそり盗み聞きさせていただきました」 「あんたなぁ……!」  本当の本当に、相変わらずだな! 「初めまして、かなたちゃん。悪戯猫も、妾は歓迎するわよん?」  知ってたよ、と言わんばかりに、余裕のクリソベリル。 「いいえ、初めましてではありません。アメシストのときに、お会いしましたよね?」 「あらあら、そうだったかしら?」  とぼけあい、化かし合い。 「ともかく、聞いてくれるなら妾はそれで構わないわ。それが夜子のためになると、確信しているから」 「…………」  それでも、判断に迷う俺は。 「大丈夫ですよ、瑠璃さん。この私が、ついています!」  傍らに寄り添う彼女の存在を見て、少しだけ、本当の少しだけ、安心した。 「瑠璃さんが私を守ってくれるなら、私が瑠璃さんを守りましょう! 大丈夫、大丈夫、大丈夫です!」 「……そうだな」  それだけで、心が強くなれたような気がするよ。 「不愉快ね。とっても、不愉快よ」  無表情で、そう呟いたクリソベリルは――一冊の本を、取り出した。 「白真珠」  『ホワイトバールの泡沫恋慕』  そう記されたのは、紛れも無く魔法の本なのだろう。 「やはり、そう来たか」  過去を教えるとか言いながら、またしても魔法の本を開かせるつもりか。  その手には乗らないと、強く心を引き締めた俺へ、クリソベリルは囁いた。 「これは、事実を記したノンフィクション小説」  その出で立ちに、その振る舞いに、その声色に、敵意はなく。  ただ、悲哀を込めた表情で、白真珠の物語を提示した。 「見てみて? ホワイトパールの真実を、夜子の抱える、苦しみを。そうして、夜子を愛してあげて」  吸い込まれるように、視線が向く。  触れてはいけないと理解しながら、優しいクリソベリルの声に、導かれていく。 「大丈夫ですよ、瑠璃さん」  惑う俺へ、彼女は笑う。 「私が、開きますから」  それで危険はないだろうと、言わんばかりの表情だ。 「ふざけるなよ」  一歩、踏み出した彼女の腕を掴み。 「これは、俺の物語だ」  そう、勘違いしてはいけない。  彼女は確かに、次は自分の番だと推測していたようだけれど――それは間違いだった。  クリソベリルが目をつけたのは、四條瑠璃。 「だから俺が開く」  俺の意志で、開こう。 「……わかりました」  強い言葉に、さすがの彼女も身を引いてくれた。  有無を言わせない表情が、初めて彼女の意志を殺したのかもしれない。 「そんなに警戒しなくても、ただ事実を見せてくれるだけなのに。現実に開くのは、過去の思い出だけ」 「その言葉を信用できるほどの何かがあったら、こうまで覚悟を決めることはなかっただろうよ」  何もないから、疑うんだ。  無垢に信じるほうが、気狂いだ。 「あら、そう。まあ、過去を知ってくれるなら、妾は何でもいんだけどぉー」  適当な魔法使いから視線を外し、ホワイトパールと対面する。  差し出された真っ白な本は、何物にも染められていない、夜子の美しい髪のようにも見えた。  ごくり、と。  緊張が場を支配する中で、手を伸ばす。  不思議と、震えはなく。恐怖は、どこかへ消えていた。  背後に見守る彼女の存在が、俺に勇気を分けてくれたのかもしれない。 「今まで俺は、遊行寺家の過去を、詮索しようとは思わなかったが」  居候の身で、差し出がましい真似だけはしないと誓っていたけれど。 「――もう、そういうわけにもいかなくなったんだな」  知らなければ、戦えない。  目の前にあるピースだけでは、現場のすべてを把握することが出来ないのだ。  そして、指先が、本に触れて。  ゆっくりと表紙が傾いて、最初のページがめくれる。  瞬間、まばゆい光が書斎を置い、真っ白なキャンパスを写しだしたような気がした。  白真珠のように、美しく。  汚れの知らない、純粋な白。  それがどのように濁っていくかなんて、想像すらしたくない。  儚く泡は、消えていく。  人の恋と、同じように。  遊行寺夜子。  遊行寺夜子。  遊行寺夜子。  それは、私の可愛い愛娘の名前。  心から愛した、たった一人の可愛い娘。  遊行寺家の娘として、あるいは遊行寺闇子の娘として、産んでしまってごめんなさい。  曰くつきの血を継がせ、その重荷を背負わせてしまってごめんなさい。  呪いにも似た本の魔性に、あなたは囚われてしまうのでしょう。  それはまだ、私が幸せだった頃のお話です。  それを幸せと呼ぶにはあまりにも抵抗があるけれど、確かにあの頃は幸せだったのだと思います。  愛する夫と結ばれて、遊行寺家に迎え入れられた私は、これからの未来になんの憂いもありませんでした。  遊行寺家の当主の伴侶として。  あるいは、魔法の本の担い手として、この身を捧げる覚悟でした。  心のない周囲の人達からは、疎まれた結婚だったと思います。  曰くつきの血筋を迎え入れることに、抵抗があったのでしょう。  それでも夫は私を受け入れてくれて、それでも私たちは、愛する家庭を築いていこうと約束したのです。  遊行寺家の妻となった私は、婚姻以前からの担い手の仕事を続けながら、静かに本を収集します。  魔法の本の存在は、遊行寺家の中でも最も忌み嫌われていたものであり、その仕事に従事する私も避けられてはいましたが、夫が私を守ってくれることで、事なきを得ていました。  紙の上の魔法使いの伝承。  この島では、腐れ魔法使いの噂とも呼ばれているあの噂は、遊行寺家にとって恐れられていたのです。  伝承の中で語られる魔法使いは、呪いを散りばめる悪しき存在。  白髪を闇夜に翻し、幸福な人間を赤く捉えた瞳を向けて、おぞましい呪いをかけてゆく。  この私の赤目が、周囲の人々に恐れを抱かせるには十分すぎました。  誰しもが忌み嫌う魔法の本の収集に携わり、赤目を光らせて遊行寺家に取り入って。  遊行寺闇子は、紙の上の魔法使いの生まれ変わりで、この家を潰すためにやってきたのだと、馬鹿みたいな噂を立てるのです。  そんな噂が流れるたび、夫は顔を真っ赤にさせて怒ってくれました。  私を傷付けるような言葉をやめさせて、一心不乱に私を守ってくれたのです。  頼もしい夫の背中を見る度に、私の人生は幸せなのだと、実感して。  結婚から、一年後。  私は、愛の結晶を身籠りました。  その知らせを受けた夫は、涙を流しながらありがとうと囁いて、私をぎゅっと抱きしめてくれます。  幸せは、確かな形となって訪れて。  ああ――幸せですと、神様に感謝していたけれど。  生まれてきた赤子を目にした途端、私の心は凍りついてしまいました。  可愛らしい赤ん坊は、しかし、私とよく似た瞳の色をしていて。  まばらに生える髪の毛は、あの魔法使い伝承のように、真っ白だったのです。  ――白髪赤目の娘が、産まれ堕ちた。  私の愛娘、夜子の噂は、一瞬にして遊行寺家に広まってしまいました。  彼らにとって、あの伝承は心から恐怖する対象だったようで、夜子の様相を聞いた前当主は、幼子を殺そうなどと言い始める始末。  私と夜子を、紙の上の魔法使いの生まれ変わりだと蔑み、今すぐ出て行けと迫害をしようとして。  それを止めてくれたのは、たった一人。  愛する夫が、そのときも私と夜子をかばってくれたのです。  そのときのことは、昨日のように覚えていますよ。  普段は穏やかなあの人が、目を充血させて必死に声を張り上げてくれていました。  だから私は、今でも夜子の母親として、生きることが出来たのでしょう。  夜子の髪の毛は、神に愛されているんだよ。  夫は、私に囁いた。  何色にも染まり、全てを際立たせる純白の色。  きっとそれは、祝福されるべき奇跡だ。  夜子の瞳は、強い意志を感じさせる。  夫は、私に囁いた。  キミから受け継いだ紅い瞳は、まるで宝石のように煌めいてるね。  きっとそれは、輝かしい未来への布石さ。  夫の言葉が、夫の気持ちが、枯れ果てようとしていた私の心を満たしていきます。   けれど、夜子の悲劇は、ここからが本当の始まりでした。  夜子は、普通の女の子として生きることは許されていませんでした。  白髪赤目の姿をしている夜子は、魔法使い伝承を信じる遊行寺家にとって、汚点そのものでしたから。  夜子を育てる条件として、屋敷の部屋から一歩も出さないことを誓わされたのです。  生まれてすぐ、小さな鳥かごの中に囲われて。  本に埋もれながら、閉じた世界に囚われてしまって。  それでも夜子は不平も不満も訴えることなく、遊行寺家の屋敷にあった本を読み続けました。  本を読む以外に、何もすることがなくて。  誰の目にも触れさせたくない前当主の意向から、私と夫と、限られた使用人のみの面会しか許されませんでした。  それでも、藁をもつかむ思いで過ごした10年間は、夜子にとって比較的マシなものだったと思います。  母親である私も、なるべく夜子の傍を離れないように心掛けていましたし、夫も時間の合間を縫って、夜子に会いに来てくれました。  他人との接触や外出を禁じられていたけれど、そもそも他人も外の世界も知らない夜子は、現状にすら違和感を持っていなかったのでしょう。  友達や、恋人。  誰かと喋る楽しみや、美味しいものを食べる喜び。  学校に通ったり、買い物に出かけたり、誰にも平等にあるはずのものがなくても、ただ本があれば夜子は満足でした。  満足?  満足しなければいけない状況にしてしまったのは、私たち。  それを幸福と呼ぶには、あまりにも傲慢です。  不幸の下り坂は、夜子が11歳の誕生日を迎えた頃でした。  そのとき、魔法の本の収集活動が忙しく、屋敷を留守にしがちだった私は、そのことに気が付かなかったのです。  まさか、私が留守の間にそのようなことが行われていると知らなくて。  前述した、夜子と会うことを許されている、限られた使用人。  彼女は、昔から遊行寺家に仕えている信頼できる方でしたし、私はこれっぽっちも疑ってはいなかったのですが。  私や夫の知らないところで、ストレス解消に夜子を迫害していたのです。  顔を合わせるたび、心のない言葉を吐いていたらしく。  ――薄汚れた白髪は、とても汚し甲斐があるわね。  夜子の髪を引っ張って、乱暴して。  ――あなたのお母さんの髪を見てみなさい? どうしてあなたと色が違うんでしょうね?  耳元で、わざとらしく囁いて。  ――あなたは誰の子? 他の男の子供? 自分が望まれて生まれてきていないこと、知ってる?  夜子の心を殺そうと、精神を迫害していきます。  ――お母さん、鬱陶しがってたわ。お父さん、疎ましがっていたわ。普通の娘だったら、良かったのに。  涙が枯れるまで、それは続いたようでした。  使用人の素行にさえ、私は一切気付くことなく。  ただでさえ、ほとんど喋ることがなかった夜子は、その頃からめっきり喋らなくなってしまいます。  人形のように本を読み続け、小さな部屋に閉じこもり続けます。  極めつけは、遊行寺家に近しい者だけが集まる、報告会の宴の途中。  酔いも進み、無礼講が許されるような雰囲気の中で、ある者がこう言いました。  ――アルビノのアレ、連れてこいよ。  そのときほど、私と夫が席を外していたことを、悔いることはありません。  前当主がいてくれたら、関わることさえ恐れているあの方なら、言語道断と切り捨てていたはずなのに。  若さとアルコールの組み合わせは、とても恐ろしい物でした。  迫害されるだけなら、良かった。嫌われるだけなら、良かった。  しかしこの日だけは、それすらも超えた晒し者として、扱われたのです。  10人そこらの若い衆。  例の使用人に、夜子を呼びに行かせるように命令します。  無理やり連れて来られた夜子は、生まれて初めての場所に、困惑して。  ――マジで白い、すげえ!  ――ぎゃはは、気持ち悪いなぁおぃ!  ただ、じっと立ったまま。  彼らが飽きるまで、見せ物として酒のつまみにされたのです。  彼らも遊行寺家の人間ですから、野蛮な行為をしたわけではありません。  関わることさえタブーとされている夜子に対しても、好奇心の感情しか持ち合わせていなかったのだと思いますが。  他人を知らない夜子にとって、その夜子の出来事は心に大きな負荷をもたらしました。  使用人だけではなく――他の大勢に、笑われて、指を刺されて、馬鹿にされて。  心から絶望した夜子は、考えることをやめました。  そして、帰ってきた私は戦慄したのです。  絨毯に染み込んだ墨汁。  鼻をつんざく炭の匂いが、夜子の危険を教えてくれました。  いつものように、椅子に座って小説を読む夜子。  その髪の毛は、真っ黒に塗りつぶされていたのです。  ――お母さんと、同じ色。  私が何かを言う前に、縋るように囁いて。  私はもう、何も言うことが出来ず、夜子を抱きしめて泣いてしまいました。  ごめんなさい。  ごめんなさい。  ごめんなさい。  ――普通の女の子として産んであげられなくて、ごめんなさい。  夜子から事情を聞いた私は、全てを決意します。  可愛い娘を守るためなら、なんだってすると。  訪れたのは、魔法の本を収集している禁書室。  つい数週間前に、とある本を封印したばかりでした。  震える指先が、二択を迷わせます。  開くか、開かないか。  守るか、耐え忍ぶか。  やるか、やらないか。  黒い宝石を関する、魔法の本。  何度も躊躇しながら、終ぞ開いてしまいました。  以後。  この館に、夜子を害する使用人も、夜子を嘲笑う若者も、いなくなりました。  みんな、みんな、消えてしまいました。  ――〈ざ〉《丶》〈ま〉《丶》〈あ〉《丶》〈み〉《丶》〈ろ〉《丶》。  罪というものは恐ろしく、一度経験してしまえば二度目は容易かった。  夜子に害をなそうとする連中が現れるたび、私は何度も何度も本を開きます。  現実に開く魔法の本は、束の間の夢幻。  閉じてしまえば元通りですが――途中の物語が与えた影響は、修復されずに残るのです。  夜子を守るための名目として、私は本を開き続け。  そうすることでしか、愛する娘を守ることが出来なかった。  しかし、そんな私の行いは、めぐりに巡って夜子へと返ってしまうのです。  夜子を守ろうとした私の行いは、他者から見れば夜子自身が振りまく呪いのように写ったようでした。  近づけば、不幸が訪れる。  白髪赤目の少女には、関わってはならない。  初めは空っぽの言葉だったのに、私が魔法の本に頼ったことで、信憑性が生まれてしまって。  結果的に――夜子の立ち位置は、ますます悪くなってしまったのです。  不当な扱いをされるたび、私は本を開く。  私が本を開くと、呪いの噂が強くなる。  噂が流れ始めると、更に夜子は扱いが悪くなる。  堂々巡りの繰り返しに、歯止めが聞かなくなってしまった。  そして、限界を迎えたのは、夫でした。  ――夜子が、怖い。  それは、私の信じてきた愛情が、崩れ去る言葉でした。  何も知らない夫は、それでも夜子を愛してくれると思っていたのに。  ――キミと夜子は、もうここにいるべきではない。  それは保身のため?  それとも、私たちのため?  遊行寺家の所有する、小さな島の森の奥。  古びた小さな洋館を与えられ、そこで生涯を終えろと通告されたのです。  ――いつか、迎えに来るから。  ――お金の心配はするな。全部、遊行寺家が負担する。  ――もう、夜子に呪われるのが怖いんだよ。  私が守ろうとした目的が、失われてしまって。  私と夜子の島流しという形で、事態は強制的に決まってしまったのです。  ――だから、いったじゃろ。  前当主は、今も殺意を持って、夜子をにらみます。  ――産まれたときに、殺しておけば。  その一言によって、私はもう従う他ありませんでした。  遊行寺家を出て行くことが、残された道なのだと思い知ったのです。  それでも、いつか夫が迎えに来てくれると信じて。  私の愛した夫は、ただ少しの恐れを抱いただけだと、必死に信じようとして。  息詰まる本家よりも、小さな孤島で暮らすほうが、夜子にとってもいいのかもしれないと、自分に言い聞かせました。  島での暮らしは、想像していたよりも穏やかな生活でした。  ここには、私と夜子だけしかおらず、わざわざ森の奥にまで訪れる変わり種もいなかったのです。  結果的に、夜子にとって良い生活になったのかもしれませんが――私にとっては、それでも愛する夫と離れていることが、辛くて辛くてたまりませんでした。  だから、魔法の本の収集にかこつけて、度々夫に会いに行こうとして。  門前払いを食らうばかりの、悲しい結末に終わるのです。  島での暮らしが一月経過した頃、私は一人の女の子を迎え入れることにしました。  といっても、彼女は人間ではありません。  紙の上の存在――魔法の本によって創られた、架空の存在として、夜子に付き従わせようと考えたのです。  魔法の本は、開くばかりではなく。  担い手という存在は、自ら望む物語を書き記すことが出来たのです。  私たちが収集しているかの本たちも、おそらくは私のご先祖様たちが書き上げたのでしょう。  だからこそ私たちは、自らまいた不幸の種を集めようとしているのです。  『伏見理央』  人名を関した魔法の本は、私にとって都合の良い存在を語ってみせます。  女の子なら、夜子の傍においてあげられるね。  設定によって縛られた彼女なら、夜子を迫害することもないでしょう。  料理好き、掃除好き、世話好きの設定にしなくちゃね。  可愛らしくて、穏やかで、人懐っこくて、夜子に優しい子がいいわ。  でも命令に従順で、心から忠誠を誓ってもらわなくちゃ。  それに、そんな素敵な女の子なら、夜子以外にかまけてしまいそうだから、いろいろ制限しておかないと。  友達禁止、恋人禁止、夜子を愛して夜子に尽くし、夜子のためだけに生きなさい。  夜子が死ぬ時まで一緒で、夜子が死んだら、閉じてしまっても構わないわ。  命を削り、願いを震わせて書き記す、魔法の本という存在。  書き上がった頃には、何年も走り続けたような疲労感に襲われて、生命の炎が燃え尽きていくのを実感しました。  魔法の本は、生きている。  その生命は、与えられたからこそ芽吹くもの。  魔法の本を書き記すということは――自分の生命を削るのと、同義でした。  かくして、現れた伏見理央は、私の予定通りの少女でした。  初めこそ警戒していた夜子も、次第に笑顔が増えていって、少しずつ心をひらいていくようでした。  それでも、主と使用人という関係の違いだけは、口を酸っぱく言い聞かせてはいたけれども。  以後、夜子の心はゆっくりと癒やされていき、以前のような苦痛を味わうことはありませんでした。  この図書館こそ、夜子の生きていける場所なのだと思うようになっていましたが、私は未だに夫のことを思い続けていて……。  伏見理央を描いてから、一年後のことでした。  本家の前当主から、私に直通の電話がかかってきたのです。  曰く、本家の事情によって、こっちで面倒見れなくなった子供がいるから、そっちに任せるという、何とも身勝手な言いつけ。  折角の夜子との二人の生活に、邪魔者を押し付けられてしまったのです。  邪魔者の名は、遊行寺汀。  夫と、不倫相手との息子でした。  そのときの私の感情は、言葉では言い表せないものだったでしょう。  怒りのあまり、失意のあまりに泣くことしか出来なくて、もう何も信じることができなくなりました。  遊行寺汀は、夜子より年上でした。  つまり、夜子よりも先にこの世に生まれていたのです。  浮気は、いつから?  あれ? 浮気? 不倫? 私は――何?  現れた遊行寺汀は、夫によく似た顔つきをしていました。  傍若無人な対応で、私の許可を出さないまま、勝手に居座ってしまって。  けれど、細かい気配りが出来ているところとか、乱雑さが鼻につかないさりげなさが、夫のことを思い出させてしまうのです。  遊行寺汀と、まともに言葉をかわすことが出来ません。  彼をみる度に、夫の裏切りを見せつけられている気がして、頭がおかしくなりそうでした。  彼自身に、悪いところはないことは自覚しています。  けれどこれは、自覚するしないの問題では無いのです。  許せないという、怒りの問題でした。  しかし、彼の到来は、思いの外良い方向へと働いたのです。  心を閉ざした夜子に対して、社交的で馴れ馴れしい彼は、白髪赤目の呪われた魔法使いとしてではなく、一人の妹として接しようとしてくれました。  哀れみや、同情をすることはなく。  しかし、かといって無礼を働いたり、心のない言葉を口にしない。  普通の兄として、普通に接するというその行為に、夜子は少しずつ彼の存在を受け入れるようになりました。   今でこそ疎ましがっているけれど、夜子は彼のことを、家族として大事に思っているのですよ。  夜子と、理央ちゃんと、汀くん。  アンバランスにも見えた関係図に、それでも安定が生まれてしまったのは何故?  あんなにも疎ましくて仕方がなかった彼の存在に、助けられていると自覚して。  ああ――ようやく、私は全てを諦めることが出来たのかもしれません。  この島で、この図書館で、夜子の生涯を見守り続けようと。  夫に迎えに来てもらうなどという、夢物語を、捨ててしまって。  今まで手に入らなかった何かが、夜子に周りに煌めき始めたのだと、私は理解したのです。  そして。  そして、その次に。  あなたが、この図書館の扉を叩いてくれたのです。  覚えていますか? 覚えて、いないのでしょうね。  それこそが私の罪で、それこそが私の愚かしい部分。  〈泡〉《うた》〈沫〉《かた》の彼方に消えた、淡い恋模様を、語りましょう。  四條瑠璃が、本土からこの島へ帰ってくる3年前。  遊行寺汀が、初めて夜子と出会った1年後。  四條瑠璃と、遊行寺夜子は、出会った。  その出会いは、瑠璃のことを認めた汀の発案ではあったものの、  後にそれは彼女の人生を大きく変えるものとなってしまったのだろう。  遊行寺夜子と出会ってから。  四條瑠璃と出会ってから。  彼が、家庭の事情で本土へ赴くまでの一年間で、夜子とどのような思い出を作ってきたのか。  二人はそれを、覚えていない。  具体的な過去を、記憶していないのだ。  泡のように消えた過去。  ぼんやりと浮かぶ、楽しかった情景。  ページが、捲られる。  遊行寺汀との間に芽生えた関係に、居心地の良さを覚え始めたのはいつだったろうか。  悪童とも評されることもあった彼だけれど、気兼ねなく接することが出来る相手というのは、他にはなく。  まさか自分の妹まで紹介することになるとは思わなかった。  妹。  月社妃。  可愛い、妹。  けれど、それだけだ。  仲が良いか悪いかは、酷く怪しいところ。  妃はいつだって俺のことを小馬鹿にして、可愛らしい姿なんて見せやしない。  最初こそ強がりだと思っていたこともあったけれど、後にそれが彼女なりの拒絶であることに気付いたのだ。  嫌われては、ないけれど。  決して、好かれてはいないのだろう。  だけど、兄妹なんてそんなものだと思う。  俺にしたって、家族として妃のことは大切に思っているけれど、それ以上でも、以下でもないのだから。  ただ、一人の兄として――守ってやりたいと思うだけ。  気難しい妹は、しかし汀のことを思いの外気に入ったらしい。  あけすけもない態度が居心地がいいと言ってたのは、やはり俺たちが兄妹であることを知らしめてくれる。  そして。  俺たちの仲が気安く適当な間柄になってきた頃。  出会ってから初めて、一歩踏み込んだ関係を求めてきたのだ。  ――紹介したい奴がいる。  そうして俺は、あの幻想図書館へと招待されることになったのだ。  美しい白い髪の、お人形のような少女と出会う。  今よりも、弱々しいままだった夜子。  辛辣な言葉が少なくて、俺にだって弱味を晒していた夜子。  何も最初から、嫌われていたわけではないのだから。 「……う、あ」  予想外の美しさと、想像以上の儚さに、身を震わせたことを強く覚えている。  足を組んで、本を読むその姿勢に、目が釘付けにさせられてしまったのだ。  人は、読書をするだけでこんなにも美しくなれるのだろうか?  彼女の所有する魅力が散りばめられたこの空間が、別世界のように思えてならない。 「……だれ?」  目を奪われて、数十秒。  俺の存在に気付いた彼女は、活字から目を離さずに呟いた。  か細い声だった。  他人に対しての怯えを含めるような、そんな声。 「あ、俺は……」  ふと、汀の力を頼ろうとして。  振り返ってみると、誰もいない。 「読書の邪魔だから、出て行って。……出て行きなさい」  弱々しい言葉を訂正し、無理やり強い言葉を言い直す。  その一文だけで、少女の弱さが露呈していた。 「いや、俺は、汀に連れて来られて」 「汀お兄ちゃんに?」 「お兄ちゃん?」  俺の知ってる汀という男は、そう呼ばれているイメージが一切なかったから、笑いそうになってしまった。 「あ……っ、汀、お兄様」  言い直して、恥ずかしそうに俯く少女。  しかし、数秒後には表情を引き締めて。 「お前は、誰なのよ。ここはあたしの部屋なの。勝手に入らないでくれる?」  気丈な態度で、物申す。  全く迫力がないことを除けば、上出来だった。 「四條瑠璃。汀の友達だよ。あいつに連れられて、ここへ来た」 「瑠璃?」  怯えや、警戒や、敵視とは初めての感情を、垣間魅せる少女。 「それが、お前の名前なの?」 「ああ、そうだよ。頭の隅っこにでも覚えておいてくれ」 「……瑠璃」  俺の名前が気に入ったのか、嬉しそうに微笑む少女。  ラピスラズリに、思い出でもあるのだろうか? 「お前にしては、良い名前ね」 「そりゃどうも」  だけど少し、距離が近くなったような気がした。  そのことに、嬉しさを覚えていたのは何故だろう? 「汀からは、何も聞いてないのか? 俺はてっきり、話が通ってるものだと思ってたからな」  紹介したい奴がいる。  引き篭もりの読書少女で、会わせてみたいとかなんとか。  仲良くしてくれなくていい。  ただ、お前らしく、振る舞ってくれるだけでいい。  だけどもし気が合うようなら、友達になってやってくれ。  普段のあいつからは想像もできない優しさを、魅せつけられたっけ。 「知らない。最近の汀お兄ちゃんは、気持ちが悪いから……距離をおいてるの」 「気持ち悪い?」 「あたしのこと、変な目で見てくるの」 「…………」  そういえば、妹の可愛さを力説されたこともあったっけ。  そのときはシスコン呼ばわりしてやったが、まさか開き直ったのか? 「でも……汀お兄ちゃんが誰かを招くなんて、驚きだわ。本当に……信じられない」 「俺だって、驚いたよ。あいつは、気軽に自分のことを晒すようなやつじゃないからな」  警戒心は、一級品。  妹の溺愛っぷりを思い返してみると、何故この場所へ招いてくれたか、わからなくなる。 「気にかけてくれるのは嬉しいけれど、度が過ぎるのは困る……」 「だったら、お兄ちゃんって呼ぶのを止めてみたらどうだ?」  思いつきの提案をしてみる。 「あいつ、妹にお兄ちゃん呼ばわりされるの好きらしいから、そのへんから拒否ってみろよ」  汀には悪いが、ここは効果的な進言をさせてもらおうか。  兄と妹は、結ばれないことを教えてやろう。 「へえ、そうなの? それは面白いわね」  微笑を浮かべながら、少女は頷いた。 「二人称の違いは、確かに大きいものね。じゃ、これからは汀と呼び捨てにすることにしましょう」 「いきなり馴れ馴れしくなったな」 「そのくらいの雑な扱いで、構わないわ。ふふっ」  お互い同時に、破顔した。  無邪気な笑顔に、少しだけ心がときめいた。 「……そろそろ、名前を教えてもらってもいいかな」 「汀から、聞いていなかったのかしら?」 「自己紹介は、自分でするものだろ」 「それもそうね」  何故だろう。  気難しい女の子と、聞いていた。  他人を恐れ、他人に興味がなく、閉鎖的な性格をしているだろうと思っていたのに。 「あたしは、遊行寺夜子。好きな様に呼んでくれても構わないけれど……お前の好きに、呼んでくれていいわよ」  イメージと、全く違っていた。  話しやすくて、居心地が良くて、そして何よりも、かわいい女の子。 「キミの好きなように呼んでくれたら、嬉しいわ」  普通の女の子じゃないか。  普通に可愛くて、普通に魅力的で、普通に面白い女の子。 「わかったよ、夜子」 「宜しくね、瑠璃」  素敵な笑顔を、魅せつけられて。  俺はその時、生まれて初めて恋に落ちたのだと気付いたのだ。  白髪赤目の、読書少女。  その感情は、まぎれもない一目惚れなのだろう。 「……どうしたの、そんなにあたしの顔を見つめて?」  怪訝そうな、夜子の言葉。 「いや、少し、見惚れただけ」 「……髪を、見てたの?」  短い単語に、明確な悲壮感。  楽しそうにしていた表情が一変して、怯えに変わる。  落ち着かないように自らの髪を撫でながら、目を伏せる。 「髪じゃなくて、顔」 「……それじゃあ、瞳?」  気落ちした言葉とともに、下を向く。  まるで俺と目を合わせないようにしているようだった。 「いや、口」 「……はい?」  だから、素直に答えた。 「とても小さな唇だから、可愛いなって思ったんだよ」 「か、かわっ、いい!?」  素っ頓狂な声を上げて、戸惑う夜子。 「なるほど、妹みたいに可愛がる汀の気持ちが、よくわかったよ」 「か、可愛がらなくて結構よ! 恥ずかしい言葉を平然と言わないで!」  恥じらいながら、声が荒ぶる夜子の様子に、思わず笑みが零れ落ちる。 「それに、あたしはキミと一つしか違わないわ! あんまり子供扱いしないで頂戴」 「え、そうなのか?」  1つ違いとは、驚いた。  っていうか、どうして俺の年齢を知ってるんだ? 「てっきり3つ4つ下くらいかと思ってたよ。ほら、夜子って幼そうだからな」 「う、うるさい! 最近成長が止まってきたこと、気にしてるのに!」 「とっくの昔に、成長は止まってそうだけどな」  小さな〈矮〉《わい》〈躯〉《く》が、物悲しい。 「でも、どうして俺の年齢を知ってたんだ? 汀からは、聞いてないんだろ?」 「汀の友達なら、汀と同じ年齢に決まってるじゃないの。同じ学園なのでしょう?」 「……いや、それは違う」  微妙なズレに気付いて、苦笑い。 「俺は、汀の一つ下だ。関係は対等だけど、学園では一つ上の先輩だな」  ということは、つまり。 「あたしと、同い年?」 「には全く見えないがな」  吹き出しそうになるのを懸命に堪えるばかり。 「……だったら、敬語を使おうとしたあたしの努力はムダだったわけね」 「お前は最初っから、敬語なんて使ってなかっただろ」  ついでに言えば、敬意なんて毛頭ない。 「同い年……同い年……」  その言葉を、妙に繰り返す夜子。 「あたし……同い年の知り合いなんて、初めて」 「……そうか」  引き篭もりであると、聞いていた。  過去に嫌なことがあって、塞ぎこんでいると聞いていた。  だから、そのあたりの事情については、深入りしないように決めていたが。 「俺が、初めてか」  これまで生きてきて、同い年の知り合いがいなかったなんて、それはとても異常なことだと思う。  学園にさえ通ったことがないということは、ずっとこの狭い書斎の中で、生きてきたのだろうか。 「キミが、初めて」  ……下衆の勘ぐりは、やめておこう。  過去に踏み込まず、今は目の前の友達を大事にしよう。  「なあ、夜子」  先ほどの反応。  髪と、目に、敏感だった。 「……何?」  白い髪と、赤い瞳。  汀からは外見に関して聞いていなくて、驚いたけれど。 「髪、触らせてくれないか」 「えっ……」  それを含めて、試されていたのかな。  初対面で踏み込み過ぎたとは思うけれど、しかし、態度は明確にしておこうと思ったのだ。 「夜子の美しい髪に、触ってみたくなったんだ。駄目か?」 「…………」  頭を抑えながら、戸惑う夜子。  対応に困っていることは明白だったが、ここはじっくりと答えを待つことにした。  勇み足だったかもしれない。  不用意だったかもしれない。  でも、そう思った俺の気持ちを、ありのまま伝えたほうがいいと思ったんだ。 「白く流れるような髪の毛が、本当に魅力的だ。誇るべき、純白だよ」 「――っ」  恋に落ちた俺の衝動は、自分でも驚くほど真っ直ぐだった。  いつから俺は、こんなに積極的になってしまったんだろう。  夜子の白さに、心さえも奪われてしまったのだろうか。 「……キミは、怖くないの?」 「何が?」 「あたしの、見た目」 「素敵だとしか、思わなかった」  見惚れてしまった程なんだよ。 「白い髪も、赤い瞳も、よく似合ってる」 「……ううっ」  心の中で、葛藤しているように見えた夜子は。 「す、好きに、すれば……?」  頭を抱えたまま、小さく唇を結んだ。  恥じらいや、怯えを堪えるような、そんな表情に。 「ありがとう、夜子」  優しく、ゆっくりな動作で手を伸ばして。  純白の髪の毛を、汚す事のないように、丁寧に触れてみた。 「ん……っ」  指先から伝わる感触は、想像以上に艷やかだった。  引っかかることすら一切なくて、吸い込まれるように流れていく。  人の髪の毛というのは、こうまで魅力的になれるのだろうか。  見た目の美しさだけではない、毛先の一本一本が、丁寧に整えられていて。 「瑠璃……触り過ぎよ」 「でも、病み付きになる髪の毛なんだ」  何度も何度も頭をなでて、感触を楽しんで。  手を動かす度に、夜子の肌の赤みが強まっていく。 「恥ずかしい、恥ずかしい……」  悶えるような声の震えに、今は愛おしさしか感じない。  それでも、慈しむような撫で続けていると、夜子の方に限界が来たらしく。 「も、もういいでしょう? また今度、触らせてあげるからっ……!」 「あ」  大きく後ろに飛び退いて、逃げられてしまった。 「残念、じゃ、また今度だな」  確かに、そういう言葉を聞きましたから。 「こ、今度じゃなくて、もう触らせないわよ! これ以上触られると、危険なの!」 「危険? 何が?」 「~~っ!? 全然危険なんかじゃないわよ! 黙っててっ!」 「なんだか理不尽……」  それでも、指先の感触を思い出して、思わず笑みが零れ落ちる。 「第一、初対面の女の子に気安すぎるのよ! キミは、誰にでもこういうことをするのかしら?」 「するわけないだろ」  即答した。 「心奪われるほど魅力を感じたから、思わず口にしちゃったんだよ。俺にそうさせた夜子が悪い」 「い、意味不明じゃないの……」  不平を隠さない夜子の表情も、また可愛らしい。 「ん、そろそろ時間だな」  時計を確認すると、思いの外時間が経過していた。 「読書中、色々邪魔したな」 「えっ、ちょっと、もう帰るの?」  それは、不意にこぼれた言葉なのだろう。 「い、いや! 別に残念とかじゃなくて、忙しないのね……」 「元々、今日は顔見せくらいに済ませる予定だったしな。汀も、その辺りは了承してるはずだが」  二人っきりにさせてくれて、本当に何を考えてるんだか。 「そう……」  露骨に落胆する様子に、思わず抱きしめたくなるけれど。  それはさすがに、駄目だろう? 「じゃ、またな」  踵を返して、退室しようとすると。 「待って」  腕の裾を掴まれて、静止させられてしまった。 「……次は、いつ来てくれるのかしら?」  次、という言葉の意味は。 「汀は、あたしとキミを仲良くさせたいのでしょう? なら、兄の望みには答えてあげなくちゃ」 「なんだよ、その解釈」 「キミと仲良くしてあげることが、馬鹿兄貴への感謝かなって、思っただけ」 「……ははっ」  本当に、意味不明だぞ。  けれど、それを望んでくれるなら、俺だって大歓迎だ。 「明日」 「え?」 「明日の放課後、また来るよ。その時は、オススメの本を教えてくれ」 「……明日の、放課後」  その言葉を噛みしめるように、夜子は微笑んだ。 「ここは図書館なんだろ? 俺も、小説はかなり好きなんだ」  今日は遅い時間だったけど、明日はもっと早く来よう。  そうして、この愛らしい少女と、もっと時間を過ごしたいと思ったから。 「分かった。楽しみにしてる」 「そのときはまた、髪を撫でさせてくれよ」 「……知らないっ」  ぷいっと顔を背ける夜子を見て。  ああ、俺は本当にこの娘に一目惚れしてしまったんだなと、確信した。  その後も、夜子との逢瀬は、毎日のように行われた。  放課後のチャイムがなると、一目散に教室から飛び出して、幻想図書館へ通う日々。  書斎の扉をノックする度に、胸の鼓動は高鳴っていた。 「今日も、来てくれたのね」  柔らかな微笑とともに、歓迎の意を示してくれる夜子。  大好きな読書を中断して、俺とのお喋りに興じてくれる。 「いい匂いだな」  部屋に微かに残る、紅茶の香り。 「ああ、理央が淹れてきてくれたのよ。あたしの自慢の理央よ」  伏見理央。  初めてこの館に招かれた際に、汀に紹介された女の子。  この広い屋敷の使用人で、夜子の身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれているらしい。 「なんだか、珍しいタイプの女の子だよな。ふわふわで、柔らかい」 「……理央はあたしのものだから、キミにはあげないわよ?」 「わかってるって」  苦笑しながら、一歩近づく。 「そういえば、汀に感謝されたよ。お前が最近、よく笑うようになったってな」 「そうかしら? 自覚なんて、これっぽっちもないんだけど」 「不満そうだな」 「当たり前よ。とても、気味が悪いから」 「汀も、中々大変なんだな」  いよいよもって、避けられ気味である。  それも、ある意味俺のせいなのかもしれないが。 「でも、キミが来てくれるようになってからは、今までに感じたことのない気分にはなっているのかも」 「……へえ?」 「上手く言葉に出来ないけれど……キミが会いに来てくれると、安心するの」 「…………」  真っ直ぐで素直な言葉は、俺の心を震えさせるのに、十分過ぎる破壊力を秘めている。 「キミがいないと、時間が無味乾燥に思えてしまって。キミが来てくれた日は、鮮やかに彩られていく」 「それは決して、悪いもんじゃないんだろ?」 「そうね。とても、悪く無いわ」  嬉しそうに、花が咲く。 「本に触れていない時間にも、こんなに価値が有るものだったなんて――あたしは、何も知らなかったのね」  やや憂いを帯びた視線は。 「これが、幸せという気持ちなのかしら?」  やがて、熱を帯びたものへと変わっていく。 「俺がいることで、お前が少しでも幸せだと思えるようになったのなら――それは、とても誇らしいことだよ」  好きな女の子にそう思ってもらえるなんて、男冥利に尽きるだろうが。 「キミも、あたしといて楽しい?」  甘えるような、声だった。 「楽しくて、嬉しくて、幸せだよ」  臆面もなく、答える。 「……よく、そんな恥ずかしいことを真顔で言えるわね。恐ろしいわ」 「お前が聞いたんだろうが……」  それに、今抱いている気持ちを、恥ずかしいと思ったことは一度もないから。 「ま、まあ、瑠璃は女の子好きそうな性格をしているもの。誰にだって、そういうことを言ってるんでしょうね」  誤魔化すように、言葉を濁す夜子。 「理央みたいな可愛らしい女の子、男の子はみんな好きなんでしょう?」 「さあ、それに答えられるほど、俺には友だちがいないからな」  でも、と。 「確かに理央は可愛いと思うけれど、だからといって、お前に魅力がないわけじゃないからな」  忘れてはいけない、重要なこと。 「夜子だって、理央に劣らないほど、可愛らしい女の子じゃないか」 「――なっ!」  瞬く間に、赤面する夜子。 「何よ、そういう気安い言葉を言わないで。お世辞なんて、言われても嬉しくないわっ」 「そんなつもりで言ったわけじゃないんだけどな」 「そ、それは、分かってる……けど! でも、だめ、真面目な顔で、恥ずかしいことを言わないで欲しいのっ」  俺の顔を見れなくなった夜子は、俯きながら抵抗する。 「ひ、卑怯よ……瑠璃は、本当に、ずるい……」  か弱い声で恥ずかしがるその様子に、たまらなく込み上げるものがあったけれど。 「今日のあたし、変」 「いつも変だけどな」 「うるさい、黙ってて」 「……わかったよ」  数秒、黙ってみると。 「……嫌ぁ。黙らないでっ……!」 「本当に変だな、今日の夜子は」  その様子がまた、可愛らしくて仕方がない。 「全部、キミが悪いのよ」  口を尖らせながら、不満を漏らすが。  仄かに赤みがささった表情は、説得力というものを失わさせる。 「本当に、あたしはどうしちゃったのかしら……」  生まれて初めての友達に、正体不明の感覚を抱き始める夜子。  その感情が、俺が夜子に抱いているものと同じであればと、切に願いたくて。 「少し、怖いわ」  弱音を漏らしてみせるけど、やっぱり頬は笑っていた。  そして。  初めて夜子と出会った日から、幾ばくかの時間が経過した。  小さな喧嘩をすることもあったけれど、俺たちは仲の良い友達同士になれていたと思う。  伏見理央という女の子には、ありがとうと感謝され。  遊行寺汀という親友には、夜子の笑顔の多さに驚かれた。  楽しい時間は、変わらずに。  しかし、いつまでも関係性は持続されることはない。  変化を求めたのは、どちらから?  初めて夜子を見たときから抱き続けた恋心と、向き合う時が来たのかもしれない。  もっともっと、幸せにしてあげたくて。  もっともっと、幸せにして欲しくて。  数え切れないほどの逢瀬の果てに、最初に一歩を踏み出したのは、夜子だった。 「……ねえ、キミは」  夜更けの書斎。  健全な男女が、二人っきり。  汀の提案で、図書館に泊まることになった俺は、いつもよりも長く夜子の部屋に訪れていた。 「キミは、いつまでここに来てくれるのかしら」 「え?」 「キミだって、いつまでもこうして足繁く通ってくれるわけではないでしょう? ふと、それが怖くなったの」 「…………」  怖い、と。  失う恐怖を、口にする。 「あたしにとって、キミの存在は唯一無二だから……キミがこれからどうなっていくか、不安で、不安で」  女の子らしい弱音を魅せつけて。  俺に、何を求めているのだろうか? 「夜子……」  ぎゅっと、抱きしめたくなる衝動を、必死で堪える。  壊れやすいガラスのような少女を、限りなく繊細に扱いたかったのだ。 「大丈夫。ずっと、傍にいるよ」  根拠の無い台詞を、吐いてみよう。 「俺は、夜子との時間に幸せを見つけちゃったんだよ。だから、俺から離れようとは思わない」  離れるどころか。  もっと近づきたいとさえ、思っているのに。 「キミは、あたしの傍にいてくれるの?」 「ずっとずっと、そういってるだろ」  こうして夜子が弱気になるのは、初めてのことではない。  幸せそうに笑っていても、ふとしたときに弱音を吐いてしまうのだ。 「そうだけど……」  漠然とした俺の言葉が、信じられないのかもしれない。  けれど未来の話に、保証なんてどう提示すればいい? 「約束」  だから、どうにか夜子を安心させたくて、きれいな言葉を口にした。 「約束しよう。俺は、何があっても夜子の傍から離れない。夜子の隣に、居続けるよ」  俺の言葉を、目を細めて聞き入る夜子。  視線と視線が絡み合い、心が揺さぶられた。 「だって俺たちは、とても仲の良い友達だろ? これからも、変わることはないさ」 「……っ」  しかし。 「……夜子?」  俺の言葉に、夜子は満足しなかった。 「それじゃ、駄目なの。キミの言葉が、信じられないわ」  安心させることが出来なくて。  震えさせることしか出来なくて。  無根拠な約束も、無意味なのだろうか? 「本当にキミは、木偶の坊ね」  悲しげな瞳を浮かべながら、口元だけは笑っていた。  震えた唇が、言葉を紡ぐ。 「あたしが、キミから聞きたかった言葉は、そういうことじゃなくて」  今にも泣きそうな、声色だ。 「友達じゃなくて、そういうのじゃなくて――もっと確かな安心が、欲しかった」 「……え」  そして、夜子は告白した。 「――キミのことが、大好きなの。だから、だから、ずっと傍にいて欲しい」  硬直する脳みそを、鈍器で殴られたように錯覚した。 「あたしを、愛して」 「……う、あっ!」  耳元で囁かれる、愛の言葉。  唐突な告白に、しかし自分でも驚くほど、正しく返すことが出来たと思う。 「俺は、最初っから」  夜子の肩をしっかりと掴みながら、目を見て囁いた。 「ずっとずっと、心奪われていたんだよ」  知らないとは、言わせない。  気付かなかったとは、言わせない。  好きな女の子だからこそ――傍にいたいと願ったのだから。 「ん……」  俺の言葉に、今更のように恥じらいを取り戻した夜子は。 「知ってた……うん、知ってたわ」  噛みしめるように、頷いた。 「だけど、不安で、不安で、言葉にしてくれなきゃ、伝わらなくて……」 「言葉にすべきじゃないと思ってたんだ。夜子のことを、もっと大事にしたかったから」  大事。  壊れそうな少女は、愛を注ぎすぎると受けきれなくなりそうで。  歯止めが効かなくなるのが、怖かったんだ。 「好きだよ、夜子」 「うん……あたしも、瑠璃のことが好き」  耳元で甘く囁いて。 「ん、ちゅ……っ」  流れるように、キスをした。  優しさ溢れる、触れるだけのキス。 「んあっ……んちゅ……」  そして、舌先を触れ合わせる、確かめ合うようなディープキス。 「ちゅ……ん、んんっ……!」  意識も身体も火照り始め、危惧していた理性が外れかかっていた。  それはもしかすると、お互い様なのかも知れなかったが。 「ずっと、傍にいるから」 「うん……約束」  見つめ合い、抱き合ったまま誓い合った俺たちは。 「ごめんな、夜子」  もう、我慢することが出来なかった。 「本当に本当に、大好きなんだよ」 「……ん、瑠璃……」  優しく、腰に手を回し。  自然に、さり気なく、寝室へと誘導する。  書斎の奥にある、夜子の寝床だ。 「え、えっと……」  戸惑う夜子も、俺の意図に気づいたらしくて。 「駄目か?」 「駄目じゃ、ないけど」  それでも迷う夜子に向けて、もう一度口吻を交わす。 「ん、あっ……!」  有無をいわさない、甘く蕩けるような口付けは。 「やぁっ、ん、ちゅ……っ!」  夜子の理性を失わせるには、十分すぎて。 「わかった……キミなら、あたしの全部、あげてもいい」 「ありがとう、夜子」  既に高ぶる気持ちを必死に抑えながら、優しく夜子の手を引いていく。  壊さないように、慎重に。  けれど、雄の本能には、逆らえない。 「や、優しくしなきゃ、悲鳴あげるから」 「そうしてくれ。俺は決して、お前を悲しませたいわけじゃないからな」  むしろ。  もっともっと愛したいから、夜子を抱きたいと思うのだ。 「じゃあ、好きに、すればいいわ……」  衝動。  夜子と口付けを交わしたことで、俺の中の欲望が顔を出し始めていた。  壊れそうなほど華奢な身体を、好き勝手に貪りたくて。  込み上げる性欲を、夜子にぶつけたかったのかもい知れない。 「や……恥ずかしい」 「大丈夫、大丈夫」  恥ずかしがる夜子の衣服を、慣れた手つきで剥ぎとって。 「も、もう少し、落ち着いて……」  「…………」  あっけなく、白い肌を晒す夜子の身体。  「足、広げて」 「う、ううう……っ」  有無をいわさない俺の声に、夜子は言われるがまま。 「きれいだよ、夜子」  耳元で囁きながら、すべすべの太ももを撫で回す。 「やっ、くすぐったい……っ!」  足の間に、身体を挟む。  いつでも挿入できる態勢を維持したまま、夜子の裸を堪能する。 「キス、してぇ……」 「どうしようかな」  恥ずかしさを誤魔化そうとする夜子に、意地悪をしながら。 「俺はもう少し、夜子を観察してたいな」 「いじわる、しないで」 「嫌だ」  俺の拒絶に、夜子は切なそうに表情を歪めた。  シーツをぎゅっと握り、気持ちを堪えているかのよう。 「さあ、挿れるぞ」 「えっ……もう?」 「我慢できないんだよ」  キスした時から、夜子を抱きたくて仕方がなかった。  今こうして肌を撫でまわしても、俺の昂りは収まる気配がない。 「でも、えっと……まだ、その、気持ちの準備が……」 「嫌か?」  今度は、俺から訪ねてみた。 「嫌じゃ、ない、けど……」  身体が強ばっていた。  処女喪失の時が迫った瞬間、強烈な恐怖が訪れたのだろう。 「大丈夫、夜子のここはもう濡れてるよ。前戯なしでも、大丈夫さ」 「や、やめてっ、そんなこと、いわないで!」 「事実だろ?」  触らなくても、見て取れる。  身体はもう、準備万端だ。  「恥ずかしいから、何も言わないでよぉ!」  涙を目に浮かべながら、夜子は声を上げる。 「嘘はいってないぞ?」  指を、そっと触れさせる。  撫でるような指使いで、割れ目にそって這わせてみた。 「ひっ、うう――!」  泣いているのか。  恥ずかしがっているのか。  気持ちいいのか。  それを俺が、判断できるすべはないけれど。 「行くぞ」 「……んっ」  触れている時間が、惜しかった。  一刻も早く、挿れたかった。  だから、入り口に先をあてがって、ぐっとお腹に力を入れる。 「好きだよ、夜子」  不安がらせないよう、耳元で囁いた。 「あたしも、キミが……好き」  思いは通じて、身体を繋げる。  そうして、ゆっくりと夜子のなかに侵入した。 「ひっぐぅ――!」  ずぶずぶと、侵食するような感覚。 「い、いた――!」  夜子の中は、とても狭く、狭く、窮屈で。  入り込んだ異物を、そのまま押し出そうとしているようだった。 「ん、んん、んんん――!」  シーツをさらに強く握りしめ、痛みにこらえながら。 「もっと、優しく、ゆっくりしてよぉ……!」 「これでも、やっている……!」  だけど、腰は奥へ奥へ、入りたがって。 「ばかぁ、ばかぁ……!」  夜子の痛みを押しのけて、埋められることを求めていた。 「力、抜いて……!」  そうして、険しい道程を超えた先。 「挿入ったよ、奥まで」 「……ぐぅ、キミは、本当に、もう……!」  痛みの果てに、ついに挿入を果たしたのだ。  心が、夜子を抱いたことを、歓喜していた。  少しの満足感を得た俺の欲望は、しかしさらなる快楽を求め始める。 「ちょっ……もうちょっと、待って……っ!」 「ごめん、我慢できないんだ」 「もうっ!」  このまま挿れてるだけで果てそうなほど。  乾き飢える欲望が、夜子の全てを貪ろうとしていた。 「んっ! あっ、ん、んんっ!」  スローペースのストローク。  何とか、出来る範囲で夜子を気遣いながらも。 「本当っ! もぉ、キミは、獣なんだからっ……!」  突かれる度、声が押し上げられて。 「もっと優しくしなさいよぉ……!」  俺への不満を口にしながらも、少しずつ、少しずつ、声が色めいていく。 「許さないんだからっ! もう、あたしのこと、離さないでっ!」  正常位で突かれながら、俺への想いを口にする。 「好きっ……!  好きぃっ……! 瑠璃っ……!」  切なそうな声に、思いは高ぶって。  腰の動きが、声に押されて加速する。 「あん、んっ、んんっ、いやっ、ああっ! もう、また、早くなってるんだからぁっ!」  もはや、夜子への優しさは一切なく。 「はあっ、はあっ! いやぁっ、変に、なっちゃうっ……!」  ただ、己の欲望が腰を突き動かしていた。 「夜子……! 夜子……!」  色っぽく声を上げる夜子に、欲情していた。  腰の動きは一切止まらず、その全てを俺色に染め上げてしまいたくて。 「あっ、やっ、んっっ――! ん、ああっ! だめ、だめっ、瑠璃ぃっ――!」  抱かれながら、口付けを求める夜子。  けれど俺は、腰をふるだけで、夜子を貪るだけで、精一杯だった。 「ぐっ……気持ち良すぎる――!」  女の子の中を、初めて知ってしまって。  身体が、夜子の全てを欲しがっていた。 「ごめん、もう、無理――!」  限界は、早かった。  それは、俺が未熟だからか、夜子が良すぎるのかは、わからないけれど。 「あっ、んっ――! やあ、もっと、もっとっ! お願いっ!」  痛みは、直ぐに消えていて。  夜子もまた、乱れに乱れていた。 「あ――あああああああっ! だめだめだめだめぇっ!」 「うっ!」  そうして、全ての欲望を、夜子の中に吐き出した。  どろどろと、どろどろと、白濁液が注ぎ込まれていく。 「やぁっ……! 中に、挿入ってる……!」  注がれる感覚を噛み締めながら、息を荒らげて悶える夜子。 「瑠璃のが、あたしの、中に……」  そうして、射精の感覚を味わいながら、そっと引き抜く。  欲望のまま突き進んだ俺を、夜子は少しだけ不満気に見つめて。 「……勝手なんだから」  ぐったりとした声に、強さはなかったが。 「中に出しちゃった……だめ、なのに……」 「ごめん、どうしても抑えられなくて」  夜子の全てが、欲しかったから。 「責任、取ってくれるのよね」  甘えるように、夜子は口にした。 「もちろんだよ」 「なら、いい」  手を広げて、抱擁を求める夜子。  今度こそ、俺はそれに従った。 「あたしの初めてに、興奮しすぎ」 「……ごめん」 「勝手に好き放題し過ぎよ。とても、痛かったんだから」 「ごめん」 「でも、キミだから許してあげる」  下手くそな俺の初めてを、それでも夜子は嬉しそうに笑った。 「泣きそうなほど大変だったけど、最後の方は……その、良かったし」  それから耳元で、甘く、甘く。 「――瑠璃に抱かれて、良かった。今のあたしは、とっても幸せ」 「ああ、俺もだよ」  強く、強く、抱き返して。  夜子を抱いたことを胸に刻んで、忘れずに生きていこう。  この日、俺は夜子の初めてを奪って。  すべての責任を取ると、心に決めたのだから。 「次はもっと、優しくしてね」  疲れたように笑う夜子を見て、生涯愛すると神に誓った。  かくして、私の可愛い愛娘は、幸せに結ばれました。  物語の終わりを結ぶには、この一文が相応しいのだと思いますが、しかし、当然ながらここで終わりなわけではありません。  幼少の頃から迫害され続けた夜子が、兄や友人に支えなられながら、心を治していき。  やがて、現れた男の子と恋をして、心も体も重ねてしまって。  何も不都合なことはありませんでした。  二人の関係を周囲は祝福してくれるでしょうし、それで全ては丸く収まるはずでした。  いつからでしょう。  いつから私は、変わってしまったのか。  最愛の娘であるはずの夜子が、少しずつ幸せになるにつれて。 「私の傍から、あなたは消えてしまうの?」  芽生えた感情は、膨大な喪失感でした。  遊行寺本家から追い出され、夫の愛からも見放された私には、もう夜子しかいなかったのに。 「その夜子でさえ、どこの馬の骨とも分からない男の子に、奪われてしまうのか」  夜子を抱く彼の姿を思い浮かべると、殺意にもにた感情が込み上げてきます。  私の夜子を奪う彼に、たまらない苛立ちを覚えました。  ああ、なんで醜い女なのでしょう。  娘の幸せを願っていたのは、嘘だったのかしら?  結局、私は夜子を所有物のように扱って、愛でていたいだけだったのか。  愛情と親愛の本質を見失った私の矛先は、自然と彼へ向けられてしまいます。 「――不幸を彩る、魔法の本」  遊行寺家の担い手は、代々魔法の本に見初められています。  集めるのが私たちの責務。  しかし――物語を紡ぐのもまた、担い手の力なのです。  自然と、筆を執っていました。  かつて、夜子を迫害しようとした彼らに対して、凄惨な物語を書き記した時のように。  かつて、伏見理央という少女を想像して、都合の良い使用人へと仕立てあげたように。  命を削る、禁断の執筆。  果てしない喪失感を恐れた私は、3度目の過ちに手を出してしまいます。  夜子の幸せを、損ねないように。  そして、夜子が私の手から、離れていかないように。  どうすればいい?  どうすればいいのかしら? 「あ、二人の関係を引き裂けばいいのね」  友達のままにしておきなさい。  恋人なんて、許しません。 「夜子の恋心を、失わせましょう」  夜子にとって、四條瑠璃は気兼ねなく接する幼馴染。  嫌いという感情をベースにしつつ、しかし本気で嫌わない程度の関係性を。  これなら、好きになることもないでしょう。 「瑠璃くんの恋心を、失わせましょう」  夜子を愛していいのは、私だけ。  けれど、唐突に恋心を奪っただけでは、再びその気持ちを芽吹かせるかもしれない。 「代わりの女を用意しましょう」  瑠璃くんに恋人がいたほうが、夜子も万が一の感情を覚えないはずです。  そういえば――彼の妹は、仄かに恋心を抱いていたはずです。  兄妹という関係から、その気持ちを伝えないように我慢しているようですが、それを利用させていただきましょう。 「夜子と過ごした思い出は、全て月社妃と差し替えて」  恋人なのは、四條瑠璃と、月社妃です。  それが私の、真実です。 「これで、私の夜子は、私だけの大事な娘」  他の誰にも渡さない。  私だけの可愛い夜子。  そこにあった恋心を奪い去り、代わりの恋を植えつけた。  その行為は、吐き気を催すほどの不愉快な目的であることは、十二分に分かっていた。 「あっ……私、どうして泣いてるの」  これで、夜子は奪われなくて。  いつまでも、私の傍にいてくれる。  なのにどうして、涙が流れていくのかしら。 「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」  どうして悔いているのかさえ、分からずに。  身勝手な物語を、私は紡ぐ。  恨まれても、憎まれても、仕方がない。  だけどそうすることでしか、私は私を保つことが出来なかったから。 「ごめんなさい、夜子」  最初から最後まで、あなたを幸せにできなかった。  描き上げられた魔法の本に、水滴が落ちる。  『パンドラの狂乱劇場』  幻想図書館を舞台とした、私の望む、私の理想の優しい世界。  それで誰が幸せになれるのか、開いた自分でも、分からなかった。  そして、瑠璃は夜子への恋心を失って、妃との禁断の関係を結ぶ。  お互いに踏み越え内容としていたラインを、闇子の後押しによって、無理やり超えさせられ。  それで幸せになれたのかといえば、幸せになれなかったのだろう。  瑠璃が、本土から帰ってきて。  サファイアの物語が開いている間に、月社妃は事故にあって亡くなった。  その物語に、遊行寺闇子が絡んでいたかは、白真珠の記述内では分からない。  彼女が何かをして、妃は〈落〉《らく》〈命〉《めい》したのか。  彼女は何もせず、本当に事故にあっただけなのか。  もしくは、第三者の関わりが働いていたのかもしれない。  しかし。  月社妃が欠けた図書館を見て、遊行寺闇子は再び筆を取った。  『月社妃』を書き記し、命を削るように魔法の本を紡いだのだ。  決して、彼女は妃の死を望んでいたわけではなくて。  自らの命を削ってまでも、『月社妃』という存在を遺したかったのだ。  それは、後悔からか、懺悔なのか。  今はもう、誰にもわからないけれど。 「――遊行寺闇子は、詰めが甘すぎるのよね。やるなら徹底的に、やらなくちゃ!」  紙の上の魔法使いは、嘲笑う。 「闇子の代わりに、妾が夜子を幸せにしてあげる」  白真珠が物語を語っても、物語は終わらない。  「というわけで、闇子が遺した過去語りはこれでおしまい。これをどう解釈するかは、お兄さま方のご自由よ?」  パンドラの箱は、未だ開かれたままなのだから。  提示された過去は、おおよそ受け入れがたいものだった。  心を吹きさすほどの悲劇は、これまでの自分の認識を大きく揺るがす。 「……俺が、夜子と?」  白真珠が見せた甘い夢。  開かれたページの向こう側に、夜子の柔肌の感触を思い出す。 「妃じゃ、なくて?」  今にも倒れそうなほど、現実は錯綜する。  覆い隠されたものの正体を知って、かつてないほどの失意に堕ちていた。 「瑠璃さん……」  傍らには、彼女がいた。  クリソベリルの姿は、今はもう無く。  ただ眼前には、語り終えた『ホワイトパールの泡沫恋慕』が残されている。  現実に、物語を開くのではなく。  現実に、過去を教えてくれる魔法の本。 「う……」  激しい焦燥感に襲われながら、認識していた世界と過去の齟齬を、上手く受け入れることが出来なくて。 「しっかりして下さい、瑠璃さん!」 「あ、あんた……」  彼女がいてくれなければ、俺の心は折れてしまっていたのかもしれない。 「何も全てが正しいと、決まったわけじゃないですよ! あくまでこれは、先ほどの少女の語る真実です」  何が正しくて、何が間違っているのか。 「だから今は、心を乱されないで下さい。それを含めて、あの娘の狙いなのかもしれないのですから」  狙い。  謀略。  ああ、たしかにそれは、あるだろうけれど。 「だけどな、ずっとずっと、疑問だったんだ」  何故、俺と妃は恋人関係だったのか。  兄妹という関係であることを理解して、二人が結ばれるはずがないものと知りながら、それ以上の関係に踏み込んでしまったのか。  冷静沈着の妃が、自らの衝動に負けて、俺を求めたなんて、あるはずはなく。 「俺たちは、いつのまにか付き合っていたんだよ」  それは本来、ありえなかった事象。  互いに恋をしていたとしても、俺達の性格上、一歩を踏み出すわけがなかったのに。 「それでも俺達は好きだと確かめ合って、恋人のような何かになっていた」  どちらから、告白したんだろう。  それすらも、覚えていないんだ。  そんなことが、あるのだろうか? 「好きな人との始まりを、忘れるわけがないだろうに」  だから、これは儚い悲劇。  遊行寺闇子が利己的に紡いだ、〈欺〉《ぎ》〈瞞〉《まん》の物語なのだ。 「それが、魔法の本の担い手ということか」  自らの望みをページに刻み、現実を歪めて希望を叶える。  現実と空想の境界線を曖昧にして、そこから手に入る物は何? 「俺も夜子も、振り回されっぱなしだ」  どこからどこまで、闇子さんの筋書き通りなのだろう。  新しい真実を知りながら、それでも不明なことが増えていく。  変わらずに、踊らされるばかりの空白の上。  じんわりと広がる倦怠感が、活力をなくしていく。 「――だけど、瑠璃さん」  そんな俺の隣で、強い瞳を輝かせながら、彼女は声を張り上げる。 「私はまだ、何も納得していませんよ?」 「……あんた」 「全てを盲目的に受け入れてはいけません。落ち着いて考えてみれば、物語の違和感は明白です」 「違和感?」 「夜子さんを独り占めしたいというのなら――何故、一年前に、瑠璃さんを受け入れてくれたのでしょうか?」 「……あ」  そうだ、それはあからさまな矛盾じゃないか。  俺から夜子を守りたかったのであれば、わざわざ図書館に置いてあげることはない。  ヒスイが開く直前にしたって――闇子さんの強い後押しがあったからこそ、俺はここへ置いてもらうことになったのだ。 「白真珠の全てが真実なら、瑠璃さんを忌み嫌う闇子さんなら、決してそのようにはならなかったはずですよ」 「…………」  ヒスイと、ルビーと、サファイア。  一年前、闇子さんが図書館にいる間、3つの本が開いていて。  その間、あの人は俺をどう扱ってくれた?  夜子と引き合わせ、同じ時間を共有させ、関係を取り持ってくれたようにさえ見えていたはずだ。 「特にルビーのときなんて、いたずら好きも大概だったな」  そんな闇子さんの記憶を思い返しても、白真珠の内容には違和感を覚える。 「それに、あの魔法使いの存在も謎のままです。立ち位置は、どこなのでしょう? 正体不明の存在がみせる過去なんて、真に受けるほうがどうかしてますよ」  俺たちの関係をかき乱していくばかりの、悪戯魔法使い。  その行動は、闇子さんの狙いと符合しているのだろうか? 「確かに、真実も語っているのだと思います。けれど、全てが全て、本当というわけでもなさそうですよ」  白真珠のどこに、真実があって。  白真珠のどこが、嘘なのか。  あるいは更に、何かが隠されているのかも知れなくて。 「嘘付きは、真実と嘘を交えて語りかけてきます。どうか瑠璃さんも、惑わされないで下さい」 「……そうだな」  納得しきれていないところがあるのなら、考えるべきだ。  思考を停止して、立ち止まってはならない。 「大丈夫です! こういうときにこそ、名探偵かなたちゃんは、あなたのお傍で煌めきますよ! 是非、頼ってあげてくださいな!」  手を差し伸べながら、強く俺を導いてくれる。  そういう眩しさが、宝石のように輝かしい。 「『パンドラの狂乱劇場』」  白真珠の中に書かれていた、遊行寺闇子が遺した魔法の本。  それは彼女の描く都合の良い世界で、妃との恋愛関係はそれによって与えられたものだという。 「たまらなく不愉快だが、まずはその本を探してみようか」  探して、引き裂いて、現実をあるべき場所に戻そうか。  白真珠がどこまで真実だったかは、そのときに明らかになるはずだ。  俺が誰を想って、誰に恋をしていたのか。  どうあったって、それは悲しい結末になりそうだけれど。 「大丈夫ですよ、瑠璃さん」  にこやかに、彼女が笑いかけて。 「魔法の本なんかが、他人の恋心を犯せるものですか。まぎれもなく、月社さんに恋していたのだと思いますよ」 「そう、思うか?」 「はい! そうでなければ、あんなに幸せそうに出来ませんよ!」  俺が最も不安がっているところを、拾ってくれる。 「あんたは本当に、頼もしいな」  先ほどまで落ち込んでいた気持ちが、一瞬にして救われる。  彼女がいてくれて本当に良かったと、今はただ感謝するばかりで。 「……何を騒いでいるのかしら? ここ、あたしの部屋なんだけど」 「――っ!」  がちゃり、と寝室のドアが開かれて。  ローテンションの夜子が顔を出す。 「瑠璃と……かなた? 何か用? 全く、勝手に入らないで欲しいんだけれど……」  普段なら、怒鳴り立てて来そうなものだったが、寝起きの様子はいつもより幾分かマイルドだった。  それでも、白真珠がみせてくれた、ただデレてばかりの夜子とは雲泥の差だったけれど。 「なあ、夜子」  いつもと変わらない様子に安堵しながらも、やはり意識するのは情事の記憶。  俺は、夜子と身体を重ねて、愛を確かめ合ったのか。  ああ、不安定な心が揺れ動き、まともに夜子の顔を見れなくなってしまう。 「……お前は、俺のことをどう思ってる?」 「はい? 何を寝ぼけたことを行ってるのかしら……頭、大丈夫?」 「お前は、俺のこと、好きか?」 「そんなわけないじゃない」  必死になって否定するわけでもなく。  淡々と、いつもの様に否定した。 「あたしは、キミのことが嫌いよ。不愉快で、馴れ馴れしくて、大嫌い。そんなの、今更でしょう?」  だけどそんないつもの様子に、嬉しさを覚えたのは何故?  夜子の俺を嫌う振る舞いが、白真珠の物語を否定してくれているような気がして。 「ああ、今更だな」  涙が出そうなくらい、心が痛いのはどうしてだろう。  俺の気持ちの所在が、わからなくなってしまうんだ。 「本当に、今更だ」  あの日から、魔法の本に踊らされていたのだとしたら。  ヒスイのときに、俺が初めて関わることになったのも、偶然ではないのだろう。  出会いはもっと早く、囚われていて。  魔法の本は、いつだって俺の身近に存在していたのだ。 「……さっきから、見つめられているようで恥ずかしいのだけれど」 「えっ?」  それは、俺ではなく。 「あたしの顔に、何かついているのかしら――かなた?」 「あっ……いえ、そういうわけでは」  夜子に指摘されて、気付いた俺は、目を見開いて、驚いた様子の彼女の表情を確認した。 「そう、それならいいのだけど」  納得はしていない様子だったが、低いテンションが故に、深く追求することはなく。 「じゃ、あたしはもう一眠りするから、キミもかなたも早めに出て行って。次に勝手に入ってきたら、怒るから」 「わかったよ」  眠そうにあくびをしながら、寝室へと消えていく夜子。  あの扉の向こうの記憶がちらつくのが、たまらなく厳しくて。 「同じ、でしたね」  夜子が消えてから、しばらくして。  彼女は、恐る恐る唇を開く。 「瑠璃さんと夜子さんが初めて出会ったのは、今から何年前のことでしょうか」 「……えっと、三年くらい前かな」  細かい日時は覚えていないから、はっきりしないが。 「白真珠の物語は、三年前の物語」  その声色は、低く、静か。 「なのにどうして、夜子さんは今と同じ姿のままなのでしょう?」 「――え」 「まるで時間に取り残されたかのように、成長していないんですね」 「……いや、でも」  昔から、夜子はあの姿のままだった。  そりゃ、全く一緒ってわけではないとは思うけど、外見的な容姿は殆ど変わることがなくて。 「別に白真珠がどうこうというより、夜子はとっくの昔から成長が止まっているだけだと思うが?」 「三年前から?」 「その物言いは、卑怯だろ」  人より幼い外見のまま、成長してしまったのなら仕方がなくて。 「……そこに、白真珠の違和感の答えがあるような気がします」 「はあ?」  いくらなんでも、それはこじつけだろうに。  夜子の外見が幼いことに、何の意味がある。 「瑠璃さんの言う通り、気にし過ぎなのかもしれませんが……もう少し、一人で考えてみます。この可能性は、当たって欲しくはありませんから」 「……わかった」  彼女も彼女なりに、考えてくれているのだろう。  今はただ、親身になって考えてくれていることに感謝しよう。 「杞憂であれば、それで良いのですが」  けれど、彼女の表情に影が差すのを見て、たまらない不安感を覚えたのは何故だろうか。  四條瑠璃が、一人考えにふけっているとき。  日向かなたは、伏見理央とともに夕食の用意をしていた。  遊行寺汀は遊行寺夜子の元へ訪れて、珍しく兄妹で語り合う。  いつも通りの、いつもと同じ幻想図書館の奥深く。 「瑠璃のお兄ちゃんは、どこで何をしているのかしらん?」  禁書室の中央で、クリソベリルは笑っていた。 「白真珠を見せた時の反応は、予想通り。でもやっぱり、日向かなたは邪魔かも」  目の前には、一冊の本。  『パンドラの狂乱劇場』が、燦々と煌めいていた。  遊行寺闇子の遺した物語が、今まさに演じられている途中。 「妾の可愛い夜子が、幸せになれる日も近いのかしら」  順調快調絶好調。  紆余曲折がありながら、目指す着地点はすぐそこだ。  確認のため、クリソベリルはパンドラを手にとって。  次なるページを、目にしようとして。 「……え?」  続きのページが失われていることに、気付いてしまった。 「嘘、え? 何よ、どうなってるの……?」  ごっそりと抜け落ちた、未来への道標。  語る先を失った物語は、完全に停滞してしまっている。 「――っ!」  誰かが、邪魔を働いていることは明白だった。  停滞を望む誰かが、パンドラの意志を否定して、ページを消し去って。 「やって、くれるわねえ……!」  思い通りにいかない現実に腹を立てながら、暴走する現実に不敵な笑みを浮かべた。  予想不可避な展開は、クリソベリルの望むところ。  過程を楽しんでこそ、物語というものだから。 「探さなくちゃ、探さなくちゃ、探さなくちゃあ。続きのページを持ち去った、悪戯っ子さん?」  このままでは、パンドラが語られない。  ひいては、夜子が幸せになれないからこそ、クリソベリルは行動する。 「見つけたら、たあっぷり、お仕置きしてあげなきゃね?」  続きの内容が、四條瑠璃に露見するまでに。  今すぐページを、見つけなければならない。 「うふふふふふふふっ」  面白おかしく、笑いながら。  しかしクリソベリルは、明確に焦っている。  そのことを自覚していないからこそ――破られたページより以前、とある記述が書き換えられてしまっていることに、気付かないのだ。 「――ページを破いたのは、だぁれ?」 「……ん?」  夕食を終えた夜過ぎ。  広間にある本棚から、いくつかの本を見繕ってきた俺は、自分の部屋に戻ろうとしていたとき。  妃の部屋に入る、日向かなたの姿を目撃した。 「……どうしたんだ?」  主不在の部屋ではあれ、あそこは妃の部屋だ。  亡くなってからも、そのままの状態で残している。 「…………」  少し、逡巡した後。  俺は、彼女の後を追うことにした。  疑いや、訝しんでいるわけはなく、ただ、何をしているのかが気になったがゆえに。 「こんなところで、何をしてるんだ」 「ひやぁっ!?」  音を殺して、背後から。 「る、瑠璃さんですか! 驚かせないでくださいよー」  少し怒ったようにはにかみながら、彼女は振り返る。 「悪いな。妃の部屋に入るあんたを目撃したから、つい」 「女の子の後をつけるだなんて、瑠璃さんも立派な変質者になりましたね」 「いや、それはオカシイ」  認めないぞ。 「これといって、目的があったわけではありませんよ」  第一声の疑問に、彼女は答えてくれた。 「ただ、月社さんはミステリアスな方だったので、何かヒントのようなものが残されていないかと、思っただけです」 「……なるほど」  はにかみながら笑っている彼女。  その右手には、一冊の本が握られていた。 「そういえば、白真珠の物語の内容を、夜子さんには伝えたりはしないのでしょうか?」 「…………」  唐突に、難しい質問をされてしまった。 「あの場では、私も瑠璃さんも何も言うことが出来ませんでしたが……これは私たちだけの問題ではありません。その意味では、夜子さんにも伝えたほうが良いと思うのですが」 「……どうだろうな」  伝えて、何が変わるだろうか。  パンドラの箱も開いたまま、果たして夜子はそれを信じてくれるだろうか?  何も知らないまま踊らされているのは、俺だけじゃない。 「俺はまだ、知らせなくていいと思ってる。少なくともそれは、白真珠の真贋を見極めてからでも遅くはないんじゃないか」  その内容がどうであれ、闇子さんの勝手な行動を知ってしまったら、あいつは深く傷付くだろうから。  悪戯に知らせて、落ち込ませたくはないんだよ。 「瑠璃さんがそう仰るのなら、異論はありませんが……」  それでも、納得しているわけではなさそうだ。 「それにしたって、妃の部屋を調べたって、何かが出てくるとは思わないんだが」 「そうでしょうか。私は、そうは思いませんよ」  ゆっくりと、俺を見つめて。 「白真珠の過去を知って、私は一つ、確信しています。一年前の事故が、ただの偶然ではなかったと」 「…………」  確信めいた物言いは、あまりにも様になっていた。 「無関係だと思う方が、不自然です。そこに意味を、見出さなくちゃいけません」  それは、いつだったか。  妃が俺に、してくれた考え方。 「……でも、今更どうしろっていうんだよ」 「どうにもならないように見えて、どうにかなることだってあるかもしれませんよ」  いつだって、偶然は転がっているのだと。  頼もしささえ見せてくれる日向かなたに、導かれる。 「……そういえば、さっきから持ってるその本は、何だ? 妃の部屋にあったのか?」  見慣れない装飾の、一冊の本。  彼女は本を読む方だとは聞いていたが、こうして持ち歩いている姿は珍しい。 「これは……」  やや、悩んだように苦笑い。  言いづらいことでも、あるのだろうか。 「――あ」  会話の途中。  苦笑いが中断して、彼女の小さな声が漏れた。 「どうした?」 「本棚の裏側に、何かが貼り付けられています。手紙? でしょうか」  妃の部屋をくまなく探していた彼女が、目ざとく何かを発見したらしい。 「んっ、しょ……っ!」 「大丈夫か?」 「平気……ですっ!」  背伸びをしながら、懸命に指を伸ばして。 「――取れましたっ!」  宝物を発見したかのように、彼女は掲げた。  「封筒、か」  コンビニに売っているような、味気ない茶色の封筒。  見たところ、特に大事そうなものがあったわけではないのだが。 「――ッ!?」  瑠璃へ。  ――妃より。  表面に記された文字列を見た途端、心が暴発しそうになってしまう。  「これは……」 「月社さんのものですね」  苦笑いが引き締められ、真一文字に唇を結ぶ。 「……大丈夫でしょうか?」 「問題ないよ。俺は、もう妃のことは受け入れてしまってるから」  あいつが、一年前に死んだことも。  その時点で、俺の恋が終わってしまったことも。  あるいは――もしかするとその恋が、与えられた偽物だったのかも知れなくとも。 「では、どうぞ」  優しく差し出されたその封筒。  女の子らしくないところも含めて、妃らしいと思ってしまった。  薄っぺらい封筒を手にした瞬間。  熱を帯びたように錯覚する。  「妃」  俺の妹の名前を、呼びながら。  蛍石の煌めきを感じて、手紙を開く。 「夜の坂道に肩を並べて歩くなんて、まるでデートのようではありませんか!」  日向かなたの元気な声が、夜の闇に消えていく。 「デート! デート! デート!!」 「……元気な奴だよ」  太陽が登っている間とは、打って変わっての雰囲気。  確かに、色っぽさが含まれるかもしれないけれど。 「俺とあんたは、別にそういう関係じゃないだろうが」 「ぶー! 照れ隠しもほどほどにしてくださいよー?」 「駄目だこりゃ」  夜道にハイになった彼女の鬱陶しさは、収まることはない。 「最近、大変なことばかりでしたから、たまにはイチャイチャするのもいいと思いますよ? これでは息が詰まってしまいます!」 「俺は、あんたとイチャイチャしてた記憶なんて、ないんだがな……」 「ヒスイ」 「…………」 「アメシスト」 「……そうでした」  容赦の無い二つの物語が、そういう関係に至ったことを思い出させる。 「しかしあれは、終わった物語だろ。あんたも、あんまり俺をからかってくれるな」  不用意な距離に、込み上げる気持ちもあるのだから。 「ふふふっ、そう言われると、もっとからかいたくなってしまいますよー! 可愛いですねえ!」 「勘弁してくれ」  坂道を登りながら、隣にいる彼女のことを思い返す。  ずっとそばに居てくれて、この俺を支えてくれて。  笑顔を絶やさない彼女に、唐突な感謝への気持ちが込み上げてきた。 「……あんたが、いてくれてよかったよ」 「へっ?」 「おかげで、俺も強くなれた」  白真珠の記憶を目にしてから、恐ろしいほど気持ちが落ち着いている。  覚悟も、完璧に決まっている。  だからこそ、これ以上の真実を求めているんだ。 「ふふふっ、たまには瑠璃さんも素直ですね!」  照れくさそうに視線を逸らしながら、話題をそらそう。 「……見えてきたな」  丘の上の寂れた教会。  そこに、俺たちが求めるものがあるらしい。  妃が、俺に当てた手紙。  その内容は、あまりにも簡素だった。  ――真実は、神のお膝元へ。  それだけ。  本当に、それだけだった。  俺へのメッセージも、何もなく。  たった一文だけの手紙に、肩透かしを食らってしまって。 「……だからこそ、探す価値があるんだよな」  神のお膝元、というのなら。  この島において、それは丘の上の教会以外にありえない。 「いやーん、夜遅くに人気のない場所で、何をしようっていうんですかー! 瑠璃さんのえっちー!」 「いくぞ」 「……はぁい。本当、ノリが悪いですね-」 「付き合ってられるかよ」  苦笑いを浮かべながら、俺たちは中へと踏み入った。 「さて、妃はここに何を示してくれたのかな」  手紙の内容に、具体性はない。  ここからは、俺たちで探すしかないのだが。 「せめて、真実がどういう形で収められているかを、書いてくれてたら良かったんですけどね」 「ま、欲張るものではないだろう」  それに、まんざら心当りがないわけでもない。  これまでの物語を振り返ってみたら、その形状は容易に予想ができる。 「そういえば、あの魔法使いの名前も、宝石なんだよな」  二人で教会堂をくまなく調べながら、思いついた雑談を語る。 「金緑石」  隣にいた彼女が、不意に言葉を漏らす。 「クリソベリルという名前は、鉱物を指している言葉でしたね」  魔法の本の、法則にも漏れず。  「あいつは、何者なんだろうか」  普通の人間ではないことは、明白。  神出鬼没に現れては、魔法の本を手にして嘲笑う。  理央や妃と同じように、ただの紙の上の存在?  それとも――本物の、魔法使いだったりして? 「彼女もまた、紙の上の存在なのでしょうね。神出鬼没に現れるのも、何かの設定に縛られているはずです」 「そうだろうな」  理央や、妃と同じ。  だが、立ち位置が違うことだけは見過ごせない。  二人は本の上に踊らされる立場だったが、彼女は手の平で踊らせる側の存在だ。 「むむむ……しかし、めぼしいものはありませんねー。何かこう、月社さんなら! ってのはありませんか?」 「そんなこといわれてもな」  手がかりの乏しさに辟易しかけている俺は、ふと気づく。 「あ……ピアノ」  妃といえば、ピアノ。  あいつが好きだった、あいつの愛した、白黒の鍵盤。 「月社さんって、ピアノが好きだったんですか?」 「ああ……昔、ちょっとだけな」  あいつが何かを、示すなら。  この教会で、あいつに関わるものがあるとしたら。 「――もう使われていない、調律の狂ったピアノ」  誰も、触ろうとしない。  調律を、治そうとはしない。  ならば―― 「よい、しょっとっ!」  正面のパネルに力を入れて、中を開いてみよう。  思った通り――誇りかぶっていたはずのピアノだが、今はとてもきれいである。  まるで、最近になって、誰かがピアノを触ったかのように。 「私、ピアノの中身って、初めて見ます!」  目を輝かせて、近づく彼女。 「――あった」  複雑な構造になっている、その傍ら。  中身を傷付けまいと、避けるように仕舞われていた幾つもの紙束。 「これは、本のページ?」  てっきり、真実を語る魔法の本が、隠されていると思っていた。  他の本のように、仰々しい装丁をしているのではなく。  裸になった紙切れが、不意に俺の瞳を惹きつけていく。 「――妃」  不意に、甘い香りがしたような気がした。  懐かしい気持ちに、させられたような気がして。  それは、蛍石の煌めきか?  あるいは、幻想と現実の境界に迷ってしまった、白昼夢?  収められていたページを、手にとって。  ああ――誰かの存在を、間近で感じたんだ。  視界が、蛍色に輝いて。  さあ、小さな奇跡が、束の間の夢を見せる。 「瑠璃さん!」  彼女の声は、聞こえない。  代わりに誰の声が、聞こえたのだろう?  視覚情報から流れ込む蛍色の輝きの最果て。  それを見た途端、これが現実でないことを強く理解した。  ああ、甘い夢の幻。  けれど、心が揺さぶられることはなかった。 「――妃」  優雅に佇むは、最愛の妹。 「瑠璃がそれを見つけたということは、おおよその事情は予想出来ています」  にこやかな笑顔のまま、語りかけてきて。 「何かを探さなくてはならない状況に、追い込まれてしまったのでしょう?」 「……これは、なんなんだ」  ふわふわと、宙に浮かぶような感覚。  驚くほど現実感のない世界で、死んだはずの妹と対峙していた。 「さあ、なんなんでしょうね。魔法の本が魅せる、束の間の夢かもしれません」  教会のピアノに隠されていた、何かのページ群。  そこに込められていたのは、妃の意志? 「これは、単なる現象です。だからこそ、深く捉える必要はないのです」  微笑を浮かべながら、妃は生前のように佇んでいた。 「これが、幻想図書館の真実です。瑠璃が確かめたがっていた、パンドラの箱の中身です」  差し出された、ページ。  「……お前が、どうしてこんなものを持っているんだ」  事故で命を落とし、紙の上の存在になってからも、自らの意志で世界から退場して。  俺の知らないところで、お前はなにをしていたんだよ。 「瑠璃が思っているほど、私は何も知らなかったわけではないということです。そして、その状況を見過ごすわけにはいかなかった」  そっと、微笑みかける。 「お前は、やっぱり何かを知っていたんだな」  そして、何かに関わっていた。 「知らなかったのは、俺だけということか」 「いいえ、それは違います。瑠璃だって、全てを知っていたはずなのです。なのに今は、忘れてしまっている」  遊行寺闇子が刻んだ、パンドラの物語によって。 「人が記憶を忘却するのは、何故だと思いますか」 「……何故だ?」 「忘れたほうが、心に優しいからですよ」  その瞳は、心の奥を見据えていた。  必死に、何かを伝えようとしてくれている。 「覚えていることが苦しいから、忘れるのです。忘れることが、自分を守る行為になってしまっているんですよ」 「それは、忠告ということか」 「その通りです」  真実を提示しながらも、釘を差しているのは。 「今も、悩んでいるのですよ。瑠璃が、真実を知るべきか否かということに」  パンドラの中身が、想像以上に凄惨だからである。 「でも、俺は思い出さなくちゃいけない。あるいは、白真珠の真贋をはっきりさせなければならない」 「……本当は、なんとなく想像付いているのでしょう?」  ちくり、と。  痛みの伴う、指摘だった。 「何が偽物で、何が真実なのか。そして、何を隠そうとしているのか。わかっていながら惚けるのは、瑠璃の常套手段でしたね」 「買いかぶり過ぎなんだよ。答えを予想しても、それが当たっているかどうかが、不安なんだ」 「だから、確かめたいと」 「そうだ。確かめて、答えを明確にしなくちゃいけない」  例え、その中身に心が悲鳴を上げたとしても、だ。 「では、一つだけお教えしましょう」  人差し指を、立てて。 「私と瑠璃は、正しい恋人関係ではありませんでした。あれは、パンドラのあらすじが紡いだ、引き合わされた恋心です」 「……そうか」  やっぱり、そうなんだな。 「ですが、きっかけは偽物だったとしても、その中身は真実ですよ」  どちらから告白したのかが、曖昧だった。  いつから付き合っているのかも、不明瞭だった。  気が付けば、お互いの気持を分かり合っていて。  気が付けば、恋人のような関係だった。  そのことに疑問すら持たなかったのは、やはり本によって引き合わされたからなのだろう。 「私が知っておいて欲しい真実は、それだけです。これ以上は、知ったところでどうしようもない物語」  悲しそうに、目を伏せて。 「――クリソベリルが紡ぐ物語は、瑠璃が思っていほど悲しいわけではないのです」  悲しくは、なくて。 「だからまあ、開くときはちゃんとした覚悟を持って、確認して下さい。中途半端に開いてしまえば、今度こそおしまいでしょう」 「……お前は結局、開いて欲しいのか、開いて欲しくないのか?」 「どちらでも、構いません。その結果、瑠璃が幸せになってくれればそれで良いのですよ」  優雅に、笑いながら。 「私はもう、生きていませんからね。今を生きている瑠璃自身が、納得する選択をして下さい」 「そうか」  俺らしく、選べということか。  「このページは、『パンドラの狂乱劇場』の続きなんだよな」  これを見たら、真実がわかるということ。  それはつまり、闇子さんがどういう物語を望んでいたかを、知れるということだ。 「未来であり、過去でもあります。パンドラが隠していた秘密でさえ、記述されていますから」 「どうして、お前が持っていたんだ? 本来ならこれは、お前が持っていられるはずもない代物だろ?」 「それはもちろん、あれですよ」  悪戯っぽく、笑って。 「こっそり忍び込んで、破いて持ち去ってしまいました。闇子さんのいない図書館は、探索しがいがありましたね」 「……お前ってやつは」  本当に、お前らしいよ。 「パンドラが紡ぐ未来を、私は許せなくて持ち去りましたが――それは、あくまで私の選択です」 「お前が許せない未来、か」  その時点で、ある程度想像が出来てしまうよ。 「もし、知る必要がないと思ったら、中身を検めずに破り捨ててください。あるいは、元ある場所に返してしまってもよいでしょう」 「お前はそれで、いいのか?」 「瑠璃がそれを望むなら、一向に構いません」 「……そうか」  本当に、お前は俺を信用してくれているんだな。  俺が考えた未来を、尊重してくれる。 「なあ、妃」 「なんでしょう?」 「俺は、本当にお前のことが好きだったんだぞ」  唐突に、告白してみた。 「たしかに俺は、お前に対してそういう感情を抱いていた。その気持ちの根源に、魔法の本が働いていたかは、わからないけど」  ひょっとしたら、お前のことを好きになるように、導かれていただけなのかもしれないけど。 「例え、真実がどうあっても――お前を好きになった日は、確かなものだ。お前を好きになった感情は、決して偽物じゃない」 「……瑠璃」  本当は、夜子のことを愛していたのかもしれない。  けれど、そういうシーンを見せられたって、今の俺が持つ記憶は、別物なんだ。 「ようやく、お前を過去にすることが出来たよ。今なら、笑顔でそう口にできる」  そしてそれが、お前が俺に望んだ、最期の願いだろう? 「――はい、それでこそ、私の愛したお兄様です」  お兄様。  妹が兄に対して呼ぶ、二人称。  もう、俺たちは恋人じゃないんだ。 「今、俺の目の前にいる妃は、本物なのかな」 「さあ? 本物の定義付けから、始めなければいけません」 「それは面倒だから、遠慮しておこうかな」 「そうですね。あまり、時間もないことですし」  生きていた頃の妃は、間違いなく本物だ。  それじゃあ、紙の上の存在として、創られた妃は?  今、夢現の間で出会った、この妃は? 「どちらも、同じです。本物か偽物か、それを特定することにさしたる意味はありません」 「ああ、そうだな」  その通りだ。 「何をもって、認識するかということです。あなたが私のことを月社妃だと認めてくれるなら、それで全てが満たされます」  ゆるやかに流れる時の流れ。  妃と過ごす時間は、まるで安らぎを与えてくれる、自然のようだ。 「さあ、そろそろ魔法使いがお待ちかねですよ」  蛍色の煌めきが、薄れていく。 「甘い夢は程々に終わって、目の前の現実と向きあいましょう」 「夢……やっぱりこれは、夢なのか?」  未だお前を忘れられない、哀れな男が望んだ夢? 「さあ? それもまた、瑠璃自身が決めることですよ」  優しい言葉が、俺に力を与えてくれる。 「これから何があったとしても、揺るがされないで下さいね。いつまでも強いあなたでいてください」 「――ああ、わかった」  心に、誓って立ち向かおう。  前を向いて、向き合おうじゃないか。 「それじゃあ、最期に一言だけ」  耳元で、声がした。 「お兄ちゃん、朝だよ、起きて?」  甘い甘い、囁きが。 「早くしないと、遅刻しちゃうよ!」  最後までおふざけの過ぎる一言一句。  お前らしいなあと苦笑いを浮かべた後、『おう!』と大きな声を出して、俺の意識が覚醒する。 「――瑠璃さん!」 「……あ?」  彼女の強い呼びかけに、意識が引っ張られて。 「ど、どうしたんですか!? いきなりぼーっとしてしまって! ボケてしまったのかと、びっくりしましたよ!」 「あれ? ここは……?」  先ほどまで、蛍色の輝きに包まれていたはずなのに。  周囲を見渡してみても、妃の姿はどこにもない。  ああ、そうだ、あたりまえじゃないか。  あいつはもう、どこにもいないんだから。 「悪い、ちょっと、寝てた」  そして、可愛い妹に起こされていた。  ふわふわと心は浮いたまま、力強さがこみ上げてくる。 「もう、しっかりしてくださいよ! ……で、後生大事に握っているそれは、なんだったんですか?」 「これか? いや、中身はまだ見ていない」  ピアノの中から出てきた、沢山のページ群。  妃が破り、持ち去ったというパンドラの中身だ。 「あれ? そうなんですか? てっきり、中身に衝撃を受けて、ぼーっとしているのだと思ってました」 「……少し、昔を懐かしんでいただけだ。気にするな」  適当に誤魔化しながら、握りしめていたページについて考える。  確かめるか、確かめないべきか。  その選択で、これからの未来は変わってしまうのだろう。 「早く見ましょーよー? 私、うずうずします!」 「いや……これは多分、軽々に見るべきものじゃないと思う。覚悟を決めて、〈検〉《あらた》めるべきだ」 「よく解ってるじゃないの、瑠璃のお兄ちゃん?」 「――っ!?」  刹那。  ピアノの中から飛び出すように、クリソベリルが姿を見せる。  あまりにも突発的な登場に驚くも、すぐに距離をとった。 「相変わらず、突然出てきやがって……!」  本当に、神出鬼没なやつである。 「きゃははっ、ごめんねぇ。デート中に悪いんだけどぉ、ちょっとそれ、返してくれないかしら?」 「それ? なんのことだ?」 「惚けないで。瑠璃のお兄ちゃんが持ってる、紙束よ」  一段階、低い声。  脅すような変調に、思わず目が見開く。 「それは、妾の大切な大切な道標なの。本来なら瑠璃のお兄ちゃんが持ってていいものじゃなくってよ?」 「だからって、はいそうですかと渡す訳にはいかないな。お前が必死になる位だから、大事なもんなんだろ?」  余裕を持った態度だけれど、しかし、切羽詰まっているように見えた。  本当の本当に、クリソベリルにとって重要なものなのだろう。 「ひとのものをとったら、泥棒よ? そんなことも、わからないのかしら?」 「これがお前のものだっていう証拠がないな。中身を見れば、わかるのか?」  わざと挑発して、視線を落とそうとしてみると。 「待ちなさい」  空気を切り裂くように、少女の声が鈍く響いた。 「渡さなくてもいいから、少し待ちなさいっていってるの。これは忠告ではなく、警告よ」 「……へえ」  なるほど、そういう表情も出来るのかと。  クリソベリルの変容を、今は観察する。 「俺に、知られたくないことでも書いているのか?」 「瑠璃のお兄ちゃんが、知ってはいけないことが書かれているの。それは何も、妾のためじゃなくて、もっと大事なもののためのね」 「もっと大事なもののため?」  お前はお前の目的のために、行動しているんだろう? 「最初に、明言しておくわ」  腹を割って離さなければ、俺を止められないことを察したのだろう。 「――その中身を読んでしまったら、夜子は必ず不幸になる」 「…………」 「断言じゃなくて、確定よ。今でさえ、夜子の心は不安定なのに、これ以上追い詰めるつもり?」 「……そんなに言われると、気になるな」 「瑠璃のお兄ちゃんの好奇心を刺激するために、言ったんじゃないわ。いいからお願い、それを返して」  警告が、懇願に変わっていた。  そのことに、クリソベリルは気付いているのか? 「どうしてお前が夜子の心配をするんだ? そもそも、お前は夜子のなんなんだよ。そろそろ、教えてくれてもいんじゃないか?」 「――っ」  俺の指摘に、明確な敵意を向ける。  手にするページを人質に取って、情報を引き出させようとしているのは明白だ。 「妾はただ……夜子の幸せを導く魔法使い。それ以上でもそれ以下でもないわ」 「だったらどうして、魔法の本を使って俺達の関係をかき乱した?」 「別に……かき乱そうとしてかき乱したわけじゃない」  渋々という風に、クリソベリルは語る。 「それが必要だから、そうしただけ。それはいつだって、変わらない」 「闇子さんとは、どういう関係だったんだ? 闇子さんは、お前の存在を知っているのか?」 「知っているわよ。だって妾は、遊行寺家にとり憑く悪霊のようなものなのだから」  悪霊。  少女は自らのことを、そう形容した。 「悪い悪い、腐れ魔法使いよ。ほら、白真珠の物語でも見たでしょう? 遊行寺家が忌み嫌う、白髪赤目の魔法使い」 「…………」  なるほど。  あの噂は、まんざら無根拠でもなかったのか。 「もういいでしょう? 瑠璃のお兄ちゃんの質問には、たくさん応えてあげたわ。そろそろ、ページを渡しなさい」 「疑問が解消されたわけじゃないんだが」  適当に、はぐらかされただけにしか思えない。 「じゃあ、どうして――お前は、夜子を幸せにしようとするんだ。お前にとって、夜子はなんなんだ?」  それがわからないから、少女の意志に同意したくない。  少女の言葉が、信用出来ない。  「…………」  沈黙。  俺の質問に、少女はしばらく、沈黙して。 「……夜子は、きっと幸せにはなれないから」  掠れるような、声だった。 「弱々しくて、貧弱て、か細くて、頼りなくて、一人じゃ生きていけない夜子。どうしたって、このままじゃ不幸になっていく」 「…………」 「それは瑠璃のお兄ちゃんも、見たはずでしょう? 遊行寺家で、夜子がどういう風に扱われてきたか……今、瑠璃のお兄ちゃんの前で笑っていられるのも、奇跡みたいで」  少女は懸命に、紡いでいる。  まるで夜子のことを、自分のように語るんだ。 「でも、お前の行動は、夜子を幸せにしようとしている風には見えないがな」  いくつもの魔法の本が語ったシナリオの中で、夜子はいつだって傷付いてきた。 「……それは、仕方がないの。更なる幸せを求めるためには、痛みも必要だから」 「話にならないな」  少女の語る内容は、とても一方通行のもの。 「夜子さんの、変わらない容姿」  ふと、日向かなたが声を上げる。  神妙な面持ちで、何かを確信したような瞳。  一瞬、クリソベリルは怯えの表情を魅せる。  日向かなたに、怯えている。 「お人形のような振る舞いに、溺愛する闇子さん」  俺と、少女の視線が、彼女へ向けられて。 「硝子のように繊細な夜子さんには、知られてはいけない秘密があったのではないでしょうか」 「――黙りなさい」  日向かなたは、黙らない。  クリソベリルの反応に、確信を得たように続ける。 「知られたくない秘密といえば――最近、よく似たことがありましたね。彼女もまた、それを知られることに怯えていた」  それ。  彼女。  何を指しているのやら。 「いいから、もう、黙りなさい」 「まるで、物語の登場人物のように、儚く魅力的な女の子ですよね」  日向かなたは、悲しげに。  遊行寺夜子のことを、そう評した。 「お願いだから、何も言わないで」 「もしかして、闇子さんは――もう一人分、魔法の本を書いていたんじゃないですか」  人の名前を冠する魔法の本。  もう一人分。  それは、誰の? 「お願いだから、残酷なことを、言わないで」  日向かなたの指摘に、崩れそうになる少女。  それを静かに見つめながら、俺は彼女の言葉を止めさせた。 「もういいよ」 「……え?」 「あんたはもう、何も言わなくていい」 「瑠璃さん……」 「その推理は、あんたには似合わないよ」  いつまでも、頼りがいのある名探偵でいてくれよ。  だから今は、黙っていて欲しい。 「瑠璃お兄ちゃんは、夜子のことが大事なんじゃないの?」 「ああ、大事だよ」  心から大事だと思っている。 「だったら、どうして夜子のことを守ってあげられないの? 秘密に踏み込む行為が、誰かを傷付けるとは思わなくて?」 「ああ、そうだな。俺だって、踏み込まれたくない秘密だって、あるだろうし」  心が冷めていくのを感じる。  世界の厳しさを、目の当たりにした気分だ。  先ほど、妃に勇気をもらっていなければ――どうなっていたか、わからないくらいに。 「それでも瑠璃のお兄ちゃんは、パンドラの箱を開いてしまうの?」  切実な声で、少女は願う。 「夜子のために、妾にページを渡して欲しい……」 「…………」  ここで、ページを渡してしまったら。  全ての真相は闇の中に消え去り、今までの日常が帰ってくるのだろう。  もっともっと夜子を笑わせて、もっともっと夜子を幸せにして。  そういう未来も、あるんじゃないのかな。 「…………」  じゃあ、ここでページを渡さなかったら。  すべての真相を知った俺は、これからどうするんだろう。  分かっているだろ?  妃にだって、言われたじゃないか。  もう、ある程度中身に予想が付いているって。  それをわざわざ確かめて、悲劇を確定させるのか? 「俺が大切なものって、何なんだろう」  クリソベリルは、夜子を心から大切に思っているのだろう。  やり方が間違っていると思うけど、その気持だけは伝わってきていた。  少女と俺の中にある目的は、思っているほど違っていないのではないだろうか。  確かに。  予想する通りの内容であるのなら、それは確かめないほうがいい過去だ。  有耶無耶のまま、忘れ去ることが出来るだろう。  中身を検める行為は、ひょっとすると独善的な行動なのかも知れなくて。  真実を明らかにする好意は確かに正義に満ちあふれているとは思うけれど、正義が他人を殺すことだってあるじゃないか。  正しいことばっかりが、正しい訳じゃなくて。  〈清〉《せい》〈濁〉《だく》〈併〉《あわ》せ〈呑〉《の》まなければ、現実とはかくも厳しいものである。 「瑠璃のお兄ちゃんは、どうするの?」 「――俺は」  何が大切で。  何が不要か。  誰が好きで。  誰が大切なのか。  さあ、選んでみようか。  どちらを選んでもきっと後悔し、どちらを選んでも幸せになれない、不自由な二択だ。  さあ、選んでみようか。  どちらを選んでもきっと後悔し、どちらを選んでも幸せになれない、不自由な二択だ。「――俺は、俺の真実を確かめよう」 「……そんな」  その言葉とともに、クリソベリルは絶望の表情を浮かべる。  日向かなたは、安心したように笑っていたけれど。 「ああ、でも、違うんだよ」  一つだけ、訂正しておこうか。  日向かなたへ、言付ける。 「真実はきっと、あんたの思うようなものじゃなくて」 「え?」 「もっと普通に、辛いだけものだと思うぞ」  開けてはならないパンドラの箱。 「あんたの推理は、間違っている」  だから、間違いを語らせたくなかったんだよ。  そして、ページの中身を開いてみた。  余りにも黒々しい文字が、見るものを不快にさせる。 「――お前のことが、大好きだ」  自分の心に、それでも嘘を付くことは出来なかった。  妃が伝えたいことも分かっている。  ここで嫌いと応えなければいけないことも、わかっている。  それでも、目の前に降って湧いた奇跡に、すがりつかざるを得なかったんだ。 「本当に、大好きだったんだ……!」  今でもまだ、忘れられなくて。  あの日々を、もう一度願っている。  未練がましく、惨めで、ただただ後ろ向きな俺に、妃は―― 「――ッ!」  生まれて、初めて。  妹に、叩かれてしまった。 「あなたという人は、本当にわからず屋ですね……!」  瞳に涙を溜めながら、歯を食いしばり。 「そんなこと、言われるまでもなく分かっていますよ……!」  心から、俺のことを呪っていた。 「き、妃……」  痛みを受け入れる余裕はなく。  ただ、その怒りを呆然と見つめ続けて。 「私の心を揺さぶって、何が楽しいのですか」 「全部、わかってる。わかってて、それでも俺は」 「結構です。瑠璃には失望しました」  これ以上の問答を諦めた妃は、踵を返す。 「死ぬほど反省して、出直してきて下さいね」 「ま、待てよ……!」  追いすがる俺の手をすり抜けるように、妃は退出した。 「…………」  残された俺は、一連の出来事にただ呆然とするのみ。  妃の残り香を感じながら、それでも悲しいと思わなかったのは何故だろう。 「馬鹿だな、俺は」  天井を見上げながら、気づけば笑みを浮かべていた。 「本当に、大馬鹿者だよ」  それでも好きだと伝えることが出来て、心の中は充実していたんだ。  それこそが、俺が克服しなければいけない痛みなのだろう。  馬鹿な人。  私の愛した人は、本当の大馬鹿者でした。  全部全部気付いていながら、どうして私の願いを汲んでくれないのでしょうか。  私がどういう気持ちでその場にいて、どういう言葉を求めていたのか、本当は理解しているはずなのに。  理解してくれないような人を、好きになったつもりはありませんから。  生と死の境界を狂わせる魔法の本。  生き返ったように見えた私でも、オリジナルではないのです。  よく似た紛い物。  設定だけを張り巡らされた人格。  『月社妃』という少女は、そういう存在を許すことが出来ない少女でした。  偽物を、紛い物を、本物として扱うことが出来ない厳しさを持っていたのです。  人は死んだら無に還る。  そこに物語なんてありえない。  代用品をかき集めたところで、そんな行為は虚しいだけなのです。  だから、『私』は許せなかった。  死者を冒涜する魔法の本を開きながら、それでも『紛い物』の『私』を愛する瑠璃のことが、心から許せなかったのです。  あなたが好きになったのは、『私』ではなく。  あなたが好きになったのは『月社妃』でしょう?  ああ、本当、だから困るのですよ。  だからこんなに、辛いのですよ。  あまりにもよく出来た偽物は、やっぱり瑠璃のことが大好きで。  許せないことをわかっていながら、それでも思いが溢れてしまう。 「世界は、残酷ですね」  『私』は、『月社妃』に似すぎてしまいました。 「それ故に、それ故に」  『月社妃』が抱えていた恋心さえ――作り上げてしまったのですから。 「――こんなにも愛おしくて、愛おしくて、泣いてしまいそうですよ」  全てを知ったときに、覚悟していたはず。  いかにしてこの世界から退場するかだけを、考えてきたはずなのに。 「これじゃあ、諦めきれないじゃないですか」  それでもまだ、好きだと言ってくれて。  好きな人に、偽物ごと愛されてしまったら。 「私とて、心が揺るがないはずないのです」  他人が思っているより、強くはなく。  いつもひっそり、泣いていた少女。  ふと、思ってしまった。  それでも、いいのかなって――思ってしまった、その瞬間。 「……瑠璃」  一人で泣かせてくれない。  やっぱり瑠璃は、私を逃してくれないのです。  泣いてるような気がしたから、追いかけていた。  大馬鹿者であると自覚すると、開き直れたような気がする。  妃の姿を視界に収めた途端、心から安堵した。  妃は泣いていなかったけれど、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。 「……少しでも」  限界を悟った妃は、観念したように俯いた。 「少しでも近付いたら、大声を上げて泣き叫びます。だから、近付かないで下さい」 「お前は俺が、嫌いなのか」 「……うるさいです」  肯定も否定もしない。  いや、出来ないのか。 「昔みたいな距離で接するのが、怖いんだろ?」  全てを理解しているから。  理解している上で、迫ろうと思う。 「だから冷たくして、だから距離をおいて、徹底的に避けてたんだ。もし、俺がお前に触れてしまったら――もう、歯止めが効かなくなるから」  妃の心は、鋼で出来ているわけではない。  それどころか、昔から泣き虫の少女だったろうに。 「自信満々な言葉は、違っていたときに薄ら寒いだけですが」  目を逸らして、妃は言う。 「じゃあ、否定してみろよ」 「……だから、それは」  いつものように、振る舞えず。  「お前が俺にかけた呪いは、それくらいじゃ断ち切れないほど強かったんだよ」  俺はきっと、お前のことが好き過ぎた。  もうどうにもならないほど、愛してしまったんだよ。 「私は紛い物。私は偽物。瑠璃は、本物の私に、胸を張って誇れるのでしょうか」 「不幸せを、誇れるぞ」  それはきっと、とても悲しい行いだ。  惨めで、哀れで、どうしようもなく弱い人間。 「お前が、お前であるのなら――俺は妹と、二度目の恋を始めたい」  胸を張って、宣言しよう。 「物事はとっても簡単なんだよ。これ以上になく、簡単なんだ」  俺は、お前の事が好きだから。  だから、どこまでも堕ちていってもいいと思っている。 「……そう、ですか」  俺の言葉を咀嚼する。  ゆっくりと、ゆっくりと、頭を働かせて、思考して。 「――不幸のどん底に、ともに散っていただけるのですか?」 「お前がそれを、望むのなら」  もう、見えてるんだよ、全部。 「後悔しませんか?」 「不幸せを望むのなんて、今更だろ?」  どれだけ俺たちは、それを望んできたか。 「……そうですか」  俯きながら、悲しそうな瞳を携えて。 「我ながら、罪作りな女ですね。こうまで瑠璃を駄目にしてしまうとは、思いませんでした」 「仕方がないだろ。もう、今更のことなんだから」  間違えてたのは、最初から。  俺とお前が恋人のような関係になっていた時点で、何かが狂っていたんだ。 「今にして思えば、どうして一線を越えようとしてしまったのか。あの時の私を、許せそうもありません」  互いが互いの気持ちに気付いたところで、終わっていれば。  それぞれの思いを伝え合うことなく、健全な関係でいられたかもしれないのに。 「私とこうなることが、どういう意味を孕んでいるかを、わかっているのなら」  そして妃は、唇を差し出した。 「不幸なキスを、してください」  それは、それまで逃げ続けた妃が見せた、諦めの色。  決して嬉しそうではなく、観念したような瞳だ。 「ああ、もちろん」  即答した。  唇は、妃を渇望している。  差し出されたものへ、襲いかかるように、覚悟を示す。 「――ん、んんっ」  それは、貪り合うような情欲のくちづけなどではなく。 「――んっ」  ただ、何かを確かめ合うだけの、触れ合いの口付けだった。  漏れ落ちる吐息が、やけに甘い。 「これで、もう」  頬が蒸気して、理性が外れる。 「何もかも、お終いです」 「ああ、そうだな」  そうして俺たちは、ドロドロの関係を継続していく。  このまま愛を貪りあって、不幸に落ちていくのだろう。 「束の間の怠惰現象に、興じましょう」  俺の頬を、撫でながら。 「私たちの、アディショナルタイム。さあ、ページを捲って、生き急がなければなりません」  手を引いて、本棚の影へ導く妃。 「残されたページは、僅かなのですから」  手を引かれた先、本棚の影。  「今更、臆さないでくださいよ?」 「ちょっ……」  握る手は、熱く燃えていた。 「何も、こんな場所で」 「背徳的な場所こそが、私たちに似合うのではないでしょうか」  視界の影の、薄暗い場所。  めったに人が寄り付かないそこは、愛を確かめ合うには十分かもしれないが。  可能であることと、やるかどうかは別問題である。 「……嫌そうな顔をして、そんなに魅力的ではありませんか?」  恥ずかしそうに、顔を赤らめて。  妃は、スカートをたくし上げる。 「これでも勇気を出して、お誘いしているのですけど。女の子にこうまでさせて、それでも男性でしょうか?」 「っ……」  黒のストッキングが、いやに艶美だ。  自らたくし上げさせているその構図は、確かにそそられるものがあったけれど。 「ほんとに、ここでするのか」 「ほんとに、ここでします」  淫らな声で、囁いて。 「私を、女にしてくれませんか」 「……ああ、わかったよ」  そうまで言われてしまったなら、覚悟を決めようじゃないか。  妃の背後に回り込み、後ろから抱きしめるような場所に位置取って。 「正面からではなく?」 「お前の顔を見てたら、恥ずかしくて何も出来そうにないんだ」 「意気地なし」  反論して、勝てる余地はなく。  こうなったら行動で示すしかないと、妃の身体に指を這わせる。 「んっ……」  妃の腰を、そっと触り。 「どこを……触っているのですかっ……!」  その感触を、撫でるように確認する。 「本当に細い身体だな」 「肉付きがなくて、申し訳ありませんねっ……」  むずがゆいのか、逃げるように腰をくねらせる。 「ひょっとしたら、この図書館で一番細いんじゃないのか」  そう心配になるほど、痩せている。 「あら、瑠璃のことですから……妹のスリーサイズなんて、熟知していると思っていましたがっ……んっ!」 「いや、しらねえよ」  腰から、お腹、おヘソまで。  さするような動きは、触る場所が健全でも不健全な雰囲気を匂わせていた。 「もっと、たくしあげて。下がってきてるぞ?」 「なっ……瑠璃のくせに、生意気です」  そういいながら、ぐっとスカートをたくし上げる妃。  下がっていたことに、全く気付いていなかったらしい。 「実の妹を撫で回すなんて……変態もいいところですねっ……!」 「ああ、そうだな」  もう、それでいいよ。  存分に、妃の感触を味わおう。 「やっ、瑠璃っ……くすぐったいっ……!」 「気持ちいいのではなく?」 「ただ、くすぐったいだけっ……!」  ならば、と。  たくし上げられたその先に、指を向けてみようじゃないか。 「あっ……!」  期待するような、漏れだす吐息。  その喘ぎ声は、俺の興奮をかきたてていく。 「何だか、背徳的だな」  場所が、妹が、今が、とても。  黒ストが指先に触れて、その奥を求めたくなってしまう。 「触るぞ」 「い、いいから早く、触ってくださいっ……」  強がりの言葉は、しかしはりぼてで。  妃が怖がっていることは、手に取るようにわかってしまう。 「おう」  だから、そう。  なるべく、優しくしようと思った。  じらすのではなく、丁寧に――まずは黒ストの上から、そっと撫でよう。 「ひうっ……! やっ、これは、むず痒いです、ねっ……!」  まずは人差し指で、中央部分に触れてみた。  途端、妃は逃げるように腰をくねらせて、何かを誤魔化そうとする。 「ん、んっ……! くすぐったくて、笑ってしまい、そうですっ……!」  けれど、笑い声が聞こえることはなく。 「ふぁっ……! 瑠璃の指、とても、熱い……!」  甘色吐息以外、何者でもなかっただろう。 「妃の髪の毛は、ふわふわでいい匂いだな」 「……へっ? ん、ぁっ……匂い、嗅がないでくださいっ……!」  意識が下の方ばかりに向いていると、上が疎かになる。  恥ずかしさを堪えるように俯くから、首筋が丸見えだ。 「舐めていい?」 「ぇ? や、何を、ですか……?」 「ここを」  そう言って、無防備な首筋に、舌を這わせてみた。 「ひぁっ――!?」  びくん、と。  弾むように身体を踊らせて、妃は嬌声を上げた。 「い、今っ、何を――!」 「舐めただけ」 「う、嘘でしょう! 舐めただけで、そんな――」 「気持ちいハズが、ないってか?」 「ち、違います……」  堪えるように、抗議の声を口にして。 「しかし、身体は気持ちいいって言ってるぞ?」  じんわりと。  だが、確かに濡れ始めた妃の局部。 「――っ!! それは、言わない約束です。空気、呼んでくださいっ……!」  首筋に意識を傾けている間も、ずっと這わせていた指先に、湿った感覚が訪れる。  下着と、黒スト越しにでもわかるということは、随分と濡れてしまっているのかな。 「やぁっ、とても、とても、恥ずかしいですねっ……! 瑠璃のくせに、本当に、本当に、生意気ですっ……!」 「それは、もっと触って欲しいということかな」 「ち、違います……」  息は、荒く。 「そ、そんなことは……言ってません」  肩が、上下して。 「もう、苦しいだけですからっ……んんっ……!!」  言葉に説得力が、何もない。 「妃は、優しくされるのが弱いのかな?」  まだ、直接触ったわけでもないのに。 「それとも、首筋が弱いのかな?」 「し、知りませんよ……!」  どちらだろうね。  どちらでもいいかな。  どちらも試す、だけだから。 「俺の妹は、本当に可愛いな」 「やっ……こんなときに、変なことを言わないでくださいっ……!」  喘ぐ声を、押し殺そうとしてみても。 「こんな時だから言うんだよ」 「ん、あっ……だめ、何も考えられませんっ……!」 「考えなくていいよ」  何も考えることなく、身を任せればいい。  そして、黒ストを脱がせようと、指をかけたところで。 「……それじゃ、ダメなんです」  不満そうな声で、妃は言った。 「これ以上、いいようにされては我慢なりません。私だって、プライドというものがあります」  それは、恥ずかしさが限界を迎えたのか。 「……妃?」  顔を真っ赤にさせた妃は、自ら。 「さ、触らせてあげますよ……! 好きに、触りなさいなっ……!」  だから。 「瑠璃……?」  ズボンをずらして、ペニスをあてがう。  真後ろから、妃の腰を曲げさせて、本棚に手をつかせた。 「そろそろ、挿れてもいいか」  破り、開けさせ、無防備を曝け出させる。 「なっ――!?」  虚をつくような言葉で、妃をかき乱そう。  混乱した妃は、案外脆いんだよな。 「それは、まだっ……心の、準備がっ……!」  焦る妃は、それでも嫌とはいえず。  「てっきり、準備万端かと思ったんだけど」  触らずともわかるくらい、そこは濡れていて。 「だ、だからって……このままでは、私のプライドが」 「俺は、妃を抱きたいよ」  あてがう腰に、力を込めて。 「挿れて、いいか?」 「……もう、先程はあんなに躊躇していたのに、一度火がついたら止まりませんね」  観念した妃は、笑ってから。 「だけど私だって、負けませんからね」 「ああ、俺だって」  そうして、ぐっと腰に意識を向けて。  妃の細い腰を掴んで、ゆっくりと前につきだした。 「んっ――んんんっ!!??」  深く、深く、その先は果てしなく。  狭く、狭く、道をかけわけるような過程。 「ひやぁあああっ――! やっ、これ、無理ですっ、入らないっ……!」  あまりの窮屈さに、思わず弱音を吐く妃。 「瑠璃っ、抜いてっ、抜いてくださいっ……少し、休憩をっ……!」 「ごめん、無理っ……!」  こんなところで、辞められるか。 「ひぐっ……! あっ、あっ、あああっ……!」  本棚をつかむ妃の手が、震えていた。  「う、ぐうっ……! ひ、ひどいですよ、瑠璃っ……!」  涙目になりながら、微笑を浮かべて。 「……大丈夫、もう奥まで入ったよ」  処女喪失の痛みに耐えながら、俺たちはとりあえず、初めてを通り抜けたのだ。 「こ、これは、恐ろしい行為ですねっ……! 異物が入っている感覚が、ものすごいですっ……」  少し、余裕を取り戻したのか、冷静に現状を確認するけれど。 「って、もうっ――!」  僅かに腰を動かしてしまえば、その余裕は吹き飛んでしまった。 「本当にっ……! 身勝手な人ですねっ……!」 「妃の中が、狭くて気持ちよすぎるんだよ……!」  腰が、動きたくてたまらないと主張するんだよ。  妃の声が、もっと動いてと求めているように聞こえるんだ。  それが、男の身勝手な感情であることは分かっていた。  けれど、それでも動かざるをえないんだ。  愛したくて、仕方がなくて。 「んっ、んっ、んあっ……! ひぐっ……!」  あくまで少しずつ、少しずつ。 「やぁっ……! んっ……! あっ……! ああんっ……!」  それでも、僅かに甘い声が漏れだしてきて。 「まだ、痛い?」 「しっ――! 知らないですっ――!」  泣きそうになりながら、首を振り続けるのだ。 「痛いといえば、もっと優しくしてくれるのですかっ……?」 「妃は、優しくして欲しいのか?」 「……っ!」  さぁて、どうだろう。 「案外、無茶苦茶にされるくらいの方が好きだったりして」 「そっ、そんなことはありませんよっ――!」  さすがの妃も、それを認めようとはしない。 「ご自分の性欲を、んっ……! 私の責任、にぃっ……! やっ、喋ら、せてっ……!」 「嫌だ」  抗議の声は、一切受け付けない。 「本当に嫌だったら、どうしたらいいのかわかるだろ?」  俺は、決して無理強いはしていない。  妃が本当に辛い時は、もっと厳格な態度を取るだろうに。 「うっ、あっ……瑠璃は、意地悪ですッ……!」 「意気地なしとかいうからだ」 「そんなっ……根に持ってるなんてっ……! あんっ、男らしくないですっ……!」  気が付けば、腰を降る動きは激しさを増していた。  ぱんぱんと、淫らの音が響いてしまって、隠れた意味が薄くなっている。 「ふぁっ――! んっ、あっ、やぁぁっ……!」  もはや妃は、何もいうことができなくなっていて。 「あっ、あっ、あっ――ダメッ、これ、凄い、ですっ……!」  喘ぎ声が、更なる快楽を欲していた。 「変な感じが……してっ……! 白く、白く、白くうっ……!」  絶頂が、すぐそこまできていた。 「そろそろ、イくぞっ――!」 「んっ……それなら、中にっ――!」  ねだるように、妃は求める。 「好きなだけ中に、出してくださいっ……!」 「……わかったよ」  そうだな。  それで、いいもんな。 「くっ――!」  欲望の全てを、吐き出そうとして。  妃を、俺の全てで染め上げてあげたくて――渾身のストロークを行った。 「やぁっ――! あんっ、んっ、くっ……ふぁっ――!!!」  突き上げる度、嬌声は響き。 「やっ、ん、ああああっ――!!」  意識は彼方へ、吹っ飛びそうになってしまって。 「イくぞっ――!」 「はいっ――!」  ともに、登りつめようか。 「あっ、あっ、やぁっ――ん、ぁぁぁああああああああああああああっ!!!」  真っ白な光景がちらついて、どくどくと性欲の塊をぶち撒けてしまった。 「んっ……あっ……! はげ、し、かったですっ……」  力なく、うなだれる妃は。 「中に、でてる……瑠璃の、精液……」  甘色の声は疲れを帯びていて。 「とても、良かったよ」 「当たり前ですよ……好き放題、してくれましたから……」 「それが、好きなんだろ?」 「……うるさいですね」  それは肯定とも取れる、文句の言葉だ。 「だけど、良かったです」  息が上がりながら、最後に妃は言った。 「とても、幸せでしたから」  その言葉で、全てが報われたような気がしたんだ。 「瑠璃さんも、罪作りな人ですね」 「うるせえよ」  日向かなたとの通学路。  俺は既に、彼女に一連の出来事を説明していた。 「状況は把握させていただきました。事態は落ち着くところに落ち着いたというわけですね」 「ああ、ひとまずはな」  妃と、超えられない一線を超えてしまった。  それを後悔することはないけれど、しかし覚悟しなければならないのだろう。 「これは最悪の選択肢だったと思うがな」  明白な事実。 「この選択肢で、一体誰が幸せになれるんだよ」  おそらく誰も、幸せになれない。 「……誰が、というよりも、まずは瑠璃さんが幸せになるべきかと」 「それはもう、諦めているよ」  俺は、不幸せになりたいんだ。 「あらー、ヤンデレになりつつありますね」 「ああ、上等だっての」  心狂わされなければ、こうはならないはずだ。 「夜子や理央には、知られないようにしてもらえるか。今更、どう説明したらいいのかわからないんだ」 「……黙っているつもりですか?」  彼女は、悲しそうな色をしていた。 「ああ、最後まで黙ってるつもりだ」  現状を伝える意味はないだろう。 「いつか、言わなければいけないことだと思いますが」 「……わかってるよ」  わかっていても、実践できるかどうかは別なんだ。  心が深く深く沈んでいく。  遠く見ゆる不幸を眺めながら、それでも俺は向かってしまうのだろう。 「わかってる、つもりだよ」  狂い始めた理性を見つめながら、自らの情動を噛みしめる。 「優先順位なんて、ぶっ壊れちまってるんだよ。あの日、妃が戻ってきてくれた瞬間にな」  ずっとずっと、好きだった。  ずっとずっと、想っていた。  ある種の呪いのように、俺の心を絡めとる。 「俺はもう、妃なしでは生きていけないんだ」  同情めいた視線を向けられて、狂った人生を笑い飛ばす。   蛍。  それは、過去に俺と妃が出会った、一匹の猫の名前。  チンチラの純血種であり、野良猫とは思えないほど艶やかな毛並みをしていた。  蛍を可愛がっていた妃だけれど、二人はすぐに引き離されることになってしまう。  母親に見つかって。  捨てて来いと、命令されて。  ああ、そこからはもううろ覚えだ。  思い出したくもない瞬間が訪れて、妃の頬は濡れたんだ。 「……蛍が?」 「ああ、そうだ。あれは間違いなく蛍だったよ」  忘れかけていたもの。  不意に巡りあった、一匹の猫。  皮肉にも彼女が、日向かなたに拾われていたことを思い出した。 「忘れてるわけないよな? あれだけ可愛がっていたんだし」 「当然です。いつも、心配していました」  読書中の妃の邪魔をしてまで、伝えたかったこと。 「俺たちの手から離れた後、蛍は日向かなたに拾われたらしい。面白い縁もあったもんだろ?」 「それは……確かに驚きですね」  驚嘆する妃は、読みかけの本を脇に置いた。 「聞いたところによると、かなりの溺愛っぷりらしい」  部室に連れてきたことを思い出して、含み笑い。  心から可愛がっていることは、一挙一動から見て取れた。 「どうだ? 頼めば連れてきてもらえると思うけど」  お前が望むなら、彼女は喜んで会わせてくれるはずだが。 「いえ、結構です」  妃は短く、拒絶した。 「蛍が今の生活に満足しているというのなら、何も問題ありません。素敵な飼い主さんがいらっしゃるなら、私は安心ですよ」 「でも、お前」  あんなに可愛がっていたというのに。 「……蛍を可愛がっていたのは、私ではありません。オリジナルの月社妃です」 「その言い訳はやめろ」  暴力的なまでに、無慈悲な言葉だ。  けれど妃は、ゆっくりと首を振った。 「今更、どんな顔をして蛍に会えばいいんですか」  俺の言葉に、天を見上げて呟いた。 「私は、蛍を捨てたんですよ? 笑顔で手を差し伸べておきながら、都合が悪くなったら手放したのです」 「そんな性悪女が、のこのこと現れてどうしようというのでしょう」 「……妃」  お前なら、そういうと思ってたよ。  けれど、それでも会わせたいと思ってしまったんだ。 「でも、そうですか」  脇に置いた小説を、再び手にとって。 「蛍は今も、幸せでしたか」  声が、弾んでいた。  それだけで、全ての思いが伝わってくる。 「それは本当に、本当に、頬が緩んでしまいそうなほど嬉しい事実ですね」  表情を小説で隠そうとしても、弾む声は隠せない。  なんてことのないように振る舞っても、蛍のことが大好きなのだ。 「この世の巡り合わせというのは、本当にどうなっているのでしょうね。叶ったり、叶わなかったり、不思議なことばかりです」 「事実は小説よりも奇なりとはよく言いますが、本当に色々ありすぎました」  偶然性が折り重なって紡ぐ未来。  これからも、こういうことが起きていくのだろうか。 「瑠璃の妹でなければ良かったのに、と思うことはたくさんありましたが、それでもやはり、こう考えてしまうのです」  妃は優しく、微笑んで。 「瑠璃の妹でなければ、この想いを抱くことがなかったのかもしれません。そう考えるなら、やっぱり妹というのも、悪くはないのでしょうね」 「普通の男女関係なら、こうはならなかったか?」 「なったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。だからこそ、こうなってしまった今を、受け入れることが出来たのです」   あれほど妹であることを嫌がっても、思いが叶えば認められる。  それを開き直りと人は呼ぶのだろうけれど、少しくらいは許して欲しい。 「後悔はしていないみたいだな」 「もちろんです。心から全て、不幸せに満たされていますよ」  月社妃は、それ以上を求めない。  蛍に会える機会を与えられても、一切動ずることはなく。 「欲張りは、似合いませんから」  不幸せを望み続ける恋人のことを、今はただ抱きしめたい。 「……あ」  深夜遅く。  中々寝付けないままに自室を抜けだした俺は、夜子とばったり遭遇する。 「何よ、子供は寝る時間よ」  珍しく、書斎ではなく広間での読書。  誰かを求めて、ここにいるのだろうか? 「少しくらい、夜更かししたって構わないだろ。それよりもどうした? お前がここで本を読むなんて、珍しいな」 「別に。あたしは、静かに読めるならどこだっていいもの」  それは、嘘だ。  わざわざ書斎から出てくるということは、何かあるはず。  心の機微、感情の変化。  しかし、今の夜子からは、その影を見つけることは出来なかった。 「ねえ、瑠璃」 「あん?」 「瑠璃は、妃のことが好きだったの?」  日向かなたが提唱した暴露会で、妃が口にしてしまった真実。  それを知って、夜子はどう思っているのだろうか。 「あのときは驚いて……なんだか、辛くて、聞けなかったのだけれど……それでも、ごちゃごちゃしてて」  弱い心が顔を出す。  何に迷い、何に戸惑っているのだろうか。 「……好きだよ」  隠すことは、もう無理だ。  ならば開き直るしかないのだろう。 「一人の女の子として、俺はあいつのことが大好きなんだ」 「……そう」  驚きも、怒りもなく。 「だとしたら、キミと妃はこれからどうなるのかしら」 「…………」 「どうなって、しまうのかしら」  未来を憂う夜子は、弱々しい言葉を紡ぐ。 「さあな。そんなものは、神のみぞ知るってところだろ」  紙のみぞ知る未来。 「どうなるにせよ、あいつは俺の妹で、あいつは俺の好きな人であることには変わらない」 「そう。キミはそれでも、変わらないのね」  宙ぶらりんの感情に、浮かぶ。 「……妃は、怒っていなかった? 紙の上の存在なんかにして、好き勝手に弄んで」  憂いているのは、それだろうな。  俺や妃はともかく、夜子は遊行寺家の人間なのだから。  妃の本を書いたであろう、遊行寺闇子の娘なのだから。 「人は生き返らない。人は死んだらそれまで。なのに――お母さんはそれを誤魔化そうとして」  よく似た紛い物を、この場に残す。  それは、夜子のために? 「キミは、その辺りをどう思っているのかしら。とても、聞かせて欲しい」 「不安がることなんてないだろ。今のあいつは、それほど辛そうに見えたか?」 「見えないから、不安なの。普通なら、あたしのことを恨んでもいいくらいだわ」 「それこそ、見当違いだ。『月社妃』を書いたのは、お前じゃないんだろ?」 「そうだけど……でも、お母さんはあたしのために……」  妃を、記した。  言葉が言葉にならないが、想いは伝わる。 「妃は、今を生き遂げようとしているよ。誰を恨むこともなく、ただ自分のやりたいことをしているだけ。お前が気に病むことは、何もない」  今までも、そして、これからも。   俺の言葉に考えこむ夜子は、しかしそれ以上何も言うことはなかった。  これ以上、俺と言葉をかわしたくないのだろうと、立ち去ろうとしたその瞬間。 「そういえば」  夜子の声が、俺の足を止めた。 「さっき、かなたと猫の話をしていたわよね」 「ああ、聞いていたのか?」  夕食後に、広間で彼女と会話をして。  あの場所には夜子はいなかったはずだけれど、扉の向こうで聞いていたのだろうか。 「かなたも、猫好きなのかしら」 「ああ、そうみたいだぜ。夜子が苦手じゃなかったら、ここに連れてくる勢いで好きだぞ」  少なくとも、部室には連れてきていたことだし。 「綺麗な毛並みをしたチンチラだよ。本当の本当に、可愛い猫だ」  目を閉じれば思い浮かぶ蛍の愛らしさ。  それを見せてやれないのが、残念で仕方がない。 「別に、あたしは猫なんて興味が無いから」  冷たい声で、しかし話は続ける。 「理央も」 「あ?」 「理央も、猫が好きなのよ」 「……知ってるけど」  目を合わせないまま、夜子はもどかしそうに口を開く。 「だから……理央に、見せてあげて」  読書姿勢は貫いても、感情は駄々漏れだった。 「いつか果たせなかった幸せを、理央にあげたいの。誰かの猫でも、少しでも触れ合って欲しい。ただ、それだけ」 「…………」  いつか果たせなかった、幸せ?  俺の知らないところで、理央や夜子に何かあったのだろうか。  しかしそれは、俺が軽々に踏み入っていいことではないのだろう。 「きっと、あの子は喜んでくれるわ。理央を笑わせることがキミの仕事なんだから、ちゃんと果たしなさいよ」 「……わかったよ」  夜子が何を見て、そう願うかはわからない。  けれど、珍しく頼み事をするものだから、一切の冗談すら言うことが出来なかった。 「瑠璃くん瑠璃くん、何かな何かな?」 「……いや」  放課後の教室。  理央を呼び出して、待ち合わせをしていた。 「たまには理央とのんびりするのもいいかなって」  時計の時刻を確認する。  もう少し、時間を稼いだほうが良さそうだった。 「おおー! なんだか今日は優しいね! 理央も、瑠璃くんとのんびりするー」  夕暮れの教室に腰掛けて、華やかな笑顔を浮かべた。 「どうした? 今日はやけにご機嫌だな」 「そーかな? そー見える?」  にこにこと、にこにこと。  咲き誇る笑顔はいつもと同じでも、声の弾みようは1段階上だった。 「やっぱりねー、こういう青春ちっくなことは素敵だにゃって」 「青春?」 「大好きな友達と、教室でおだべりー」 「……ははっ」  思わず笑みが零れ落ちる。  なんて、理央らしい言葉だろう。 「だーれもいない教室に、二人ぼっち! でも、寂しくなんてないんだよね」  空っぽの教室をきょろきょろと見渡して、忙しなく動き続ける。 「夕暮れの光りに包まれながら、幸せを噛みしめるのです。その先を求めていたころもありましたけれど、やっぱりこの距離感が素敵ですにゃ」  どこかで、紅水晶が輝いたような気がした。  失われた光は、もう二度と戻らない。 「ところで、瑠璃くんは何用で? 理央を呼び出したのは、お話したいだけじゃないよね」 「ああ、まあ、そうなんだけどさ」  隠すことじゃないし、正直に話しておこうか。 「はっ!? もしかして、理央をぼこぼこにする気だったり!?」 「締め上げない」 「それとも、お金くれくれ?」 「カツアゲない」 「だったら、理央にでれでれ?」 「かもしれないけど」  大きく、首を振って。 「今日はただ、理央に紹介したい奴がいるだけなんだ」  名前は、蛍。  日向かなたの、友達だ。 「――毛並みの美しい、チンチラだよ。理央は、猫が好きなんだろ? 会わせてあげたいと思ってな」 「……猫?」  その言葉に、理央の表情は固まった。 「お猫、さん?」  わずかに目を見開いて、動揺している。  何故、こんな表情をするのだろう。 「日向かなたが猫を飼っているって話をしたら、夜子がお前にも見せてやって欲しいっていうんだよ。だから、今日はそういうこと」  彼女は今、猫を連れてきている最中だ。  もうそろそろ、部室に着いた頃合いだろうか? 「そっか、夜ちゃんが……」  その時の理央の表情は、どう形容したら良いのだろうか。  微笑みながら、悲しんで、安心して、慈しんで。  沢山の感情が入り混じって、理央は笑ったんだ。 「あはは、本当に、夜ちゃんには悪いことをしちゃったなあ……っていっても、理央は覚えてないんだけど」  瞬間的に、かいま見えたもの。  そこへ手を突っ込む度胸は、俺にはなく。 「うん! それじゃあ、理央も楽しみだな! かなたちゃんのお猫さん、とーっても会いたいよ!」  それまでの諸々を吹き飛ばすかのように、声を上げて。 「なんたって理央は、お猫さんがだーいすきなんだから!」  その頃にはもう、いつもの理央に戻っていた。 「ちなみに、妃も呼んである。理央には悪いけれど、今回は妃の方がメインなんだ」 「ほえ?」 「その猫は、妃の昔の旧友みたいなもんなんだ。遠い昔に、離れ離れになってしまった」 「……そっか」  その言葉に、理央は優しく微笑んだ。 「そういうことなら、お任せあれ! 空気びしびし読んじゃって、癒やしちゃうよー?」  ころころと、笑顔を見せて。 「お猫さんは、みんなから愛され放題だよねー」  夜子以外に、愛されている。 「あ、そーだ。あのね、理央ね」  唐突に、理央は声を上げて。  何でもない風に、1歩踏み込んだ質問をしてくる。 「瑠璃くんと妃ちゃんが付き合っていたこと、実は知っていたのです」 「え?」  心臓が、止まった。ような気がした。 「あはは、ごめんね。でも、瑠璃くんも妃ちゃんも、理央が知らない方がいいと思ってるみたいだから、黙ってたの」 「は? え、本当に?」 「うん。ずっとずっと、知ってたよ。もちろん、夜ちゃんは知らなかっただろうけどねー」  さもあたりまえのことのように、理央は語った。 「で、でも!」  あまりの予想外のカミングアウトに、戸惑う俺へ。 「だいじょーぶ」  理央は、優しく言ってくれた。 「理央は、紙の上の存在です。瑠璃くんたちのあれこれに、とやかく言うつもりはないんだよ」  嫌に自虐的な言葉を、口にした。 「それどころか、応援しているくらいだし。今の妃ちゃんは――理央と、同じだから」  同じ。  イコール、紙の上の存在。  作り上げられた、偽物の何か。 「瑠璃くんがそれでいいと思ったから、こうなったんだよね。だったら理央も、救われるの」  今にして、カミングアウトをした理由。 「瑠璃くんは、紙の上の存在でも愛してくれる人だったって思うだけで――本当に、心から、良かったと思えるから」  自分ではなく、他人でも。  自らの存在に後ろめたさを抱えていた理央は、嬉しそうに言うんだ。 「俺は、そんなところで他人の評価を変えないぞ」 「うん、知ってるよ。瑠璃くんがそういう人だってことは、知ってた。だから弱かったのは、理央自身なんだろうね」  自分が人外であることを知られたくて、紅水晶の物語を開いた。  そうまでして、理央は自分の存在を隠したかった。  それはひとえに、他人とは違うという引け目を抱えていたからで。 「やっぱり妃ちゃんは凄いなあ。理央が出来なかったことを、平気でやっちゃうんだから。本当に、強い女の子だ」 「……あいつは、それほど強くはないけどな」  弱いところを、たくさん知っている。  ただ、強がりなだけなんだ。 「弱いところだらけの、普通の女の子だよ。生きていたころも、紙の上の存在になった今でも、何も変わらない」  変わらないんだ。  それが、月社妃という存在なのだから。 「さて」  扉の向こう側、廊下の先。  聞き慣れた足音が、聞こえてきた。  「そろそろ、移動の時間だ」  荷物をまとめて、立ち上がろう。  理央との語らいは楽しいけれど、今は一番の目的を忘れずに。 「わざわざ私を呼び出したと思ったら、なんですか」  姿を表した妃は、開口一番不満を漏らす。 「これでも私、忘れられている存在なんですよ? そして、この学園の人間ですらないんですよ? 全く、呼び出す場所くらい考えて下さい」 「悪かったな。でも、ここが一番都合がいいって思ってさ」  現れた妃に近付いて、手を差し伸ばす。 「お前に、俺たちの部活動のことを、紹介しようと思う」 「とっても素敵な、探偵部!」  お前が知らない間に、俺たちが見つけた小さな居場所。 「ふふふっ、また昔のように、青春ごっこでも始めたのですか」 「何を言ってんだか」  思いだせ、入部のきっかけとなった存在を。 「お前の残した妄想日記を見て、俺は頑張ろうと思ったんだぜ」 「さてはて、一体何のことやら」  白々しく惚けても、意味はなく。 「早速、向かおうじゃないか。妃の到着を、俺たちの部長が今か今かと待ち受けているぜ」  そのすまし顔を、笑わせてやる。 「――っ!」  息を呑む音が聞こえた。  すまし顔の妃が、素の自分を晒した瞬間だったと思う。  探偵部の部室に入った瞬間、世界が凍りついてしまったのか。 「何処へ行くのでしょうか?」 「何を企んでいるのです?」 「理央さんまで、そんなに嬉しそうにして」  ここへ連れてこられる前までは、口を開けば不満ばかり。  突然の呼び出しに応じてくれても、そこまで乗り気ではなかったらしい。  楽しみにしていた小説でもあったのか。  はたまた、二人っきりだとでも勘違いしていたのか、不機嫌な表情。  そんな不満や余裕が、一切合切崩れ落ちる。 「う、あ……!」  開いた唇からは、うめき声。  懐かしい存在を目にした妃は、もはや着飾ることすら忘れてしまっている。  彼女は確かに、偽物なのかもしれない。  月社妃を形作った、紙の上の存在にすぎないのかもしれない。  けれど。  それでも、俺は声を大にして胸を張って宣言したい。  目の前の女の子は、やっぱり月社妃に変わりはなく。  彼女もまた、一人の女の子にすぎないのだろう。  ――数年ぶりに、蛍が鳴いた。  妃の姿を見て、嬉しそうに鳴いたんだ。 「ほ、ほたる」  くりくりの瞳が、妃を捉える。  視線を一瞬足りともそらすことなく、小さな足を動かして、蛍は妃の元へと歩み寄る。  隔てられた時間など、一切気にすることはなく。  にゃあ、と。  ただ、再会を喜ぶように、声をかけて。  蛍は、妃が妃であることを、教えてくれたように思うのだ。 「わ、わたしは……」  捨てた自分を、恥じていて。  無事に生きていることを知った今でも、そっけないふりをしていても。  にゃあ、と。  蛍が鳴き声を上げるたび、妃の強がりは剥がれ落ちていく。 「俺には猫語が理解できていないけれど」  いつだって、人の言葉しか話すことが出来なかったけど。 「それでも蛍は、お前のことを覚えていたんじゃないのかな」  何かを期待するその瞳。  愛くるしさはそのままに、これまで結構に生きていたのだろう。   にゃあ、と。  何度目だろう、その鳴き声。  耳に届くたび、妃の震えは大きくなっていく。 「…………う」  人の目を、気にしているのか。  そうだな、お前はいつだって、一人ぼっちで泣いていた。  母親に嫌がらせをされた時も、父親に乱暴されそうになった時も、他人の目を〈偲〉《しの》んで泣いていた。  でも、もういいだろう。  再会を喜んで、咽び泣くことを――一体誰が咎めるというのだろうか。  にゃあ、と。  その鳴き声で、限界だったのか。 「にゃあ」  長い時間の経過の果てに、妃は蛍に声をかける。 「にゃあ、にゃあ、にゃあ……!」  すましたような声は、どこにもなかった。  他人の目を気にする余裕は、とっくになくしてしまっている。  おそらくはずっと、願っていた衝動。 「本当に、本当に、ごめんなさい……!」  月社妃の生涯は、我慢の連続だったように思う。  母親には蔑まれ、父親には乱暴され、実の兄とは隔てられ。  奪われ、離され、遠ざけられてばっかりだったが故に、降って湧いた幸運。 「ほ、ほたるぅ……っ!!」  ふわふわの毛並みを、力いっぱい抱きしめて。  我慢し続けてきた感情を、大粒の涙と言葉に変えて、吐き出していく。  「会いたかった、会いたかった、会いたかった……! ずっとずっと、会いたかった!」  毛並みが涙で濡れても、遠慮のない頬ずりを受けても、蛍はなすがまま。  全身をゆだねながら、ただただ泣きじゃくる妃を受け入れる。 「妃ちゃんは、やっぱり強がりさんだったんだね」  涙ぐんだ理央が、そっと呟く。  はるか後方から見守りながら、優しげに微笑んだ。 「こんな風に見ているだけで、満たされたような気持ちになっちゃった。やっぱり、お猫さんは素敵だね」 「……ああ、そうだな」  妃と蛍の向こう側では、日向かなたが微笑んでいた。  慈しむようなその表情に、今はただ感謝する。 「忘れて下さい」  がしっと、俺の頭を掴んで妃は言う。 「今すぐすべての記憶を消去して下さい。デリートです」  足元には蛍がいて、寄り添うように座っている。 「そう言われても、お前が泣くところなんて、今まで何度も見てきたし」 「それは子供の頃の話でしょう? 今は、違います」  人目も憚らず泣き腫らしたことを、今更ながらに恥じているらしい。 「大体、会わせる必要はないと言ったでしょう。瑠璃は、私のいうことを聞いていなかったのでしょうか」 「聞いていたが、強がりだと思っただけだ」  その判断が正しかったかどうかなんて、現状を見たら一発だろ? 「それくらいにしてあげてくださいよー。瑠璃さんだって、悪気があったわけではありませんから」 「……それは、分かっています」  日向かなたから諭されて、口をとがらせる妃。  蛍の現飼い主に、今は強く当たれないらしい。 「わかっているから、尚更怒っているのですよ」 「そんなことを言われても」 「……ちなみに、これからどうしましょうか?」  やや気まずそうに、彼女は声を上げる。 「月社さんとしましては、蛍との再会を済ませたわけですし……やっぱり、もう一度引き取りたいというのが本音だと思うのですが」 「あんた……」  それを、自分から言い出すのか。 「私は、蛍が幸せになれるならそれでもいいと思っています。どれほど蛍が愛されているかは、既に確認させていただいたところですし」  元飼い主と、現飼い主。  その狭間に存在する、一匹の猫。 「何を言っているのでしょうか」  だが、月社妃は迷わない。 「過去がどうあれ、今はかなたさんが飼い主です。私の出る幕なんて、ないのですよ」  一度捨てたから、という意味でもあり。  この先の未来を考えるなら、それが自然な形である。 「これ以上、欲張りはいいません。何も求めていないのです。だから――蛍のことは、お任せしましたよ」 「……月社さんは、本当にそれでいいんですか?」 「私がどうかではなく、蛍にとってどうするのが良いかというお話です。今が幸せであるのなら、何も変える必要なんてないのです」  尚も、妃に懐きながら。  しかし、この二人が共に暮らす日は、二度と訪れない。 「……わかりました。それでは、月社さんの分まで、責任をもって蛍のお世話をしますね!」  妃の覚悟を受け取った彼女は、元気よく声を上げる。 「それでも、定期的に会ってあげて下さい。見たところ、蛍も月社さんのことが大好きなようですし」 「……そうですね」  足元の蛍を抱きかかえて、妃は微笑んだ。 「こんなに、大きくなって。出会ったころはあんなに小さかったのに」  頭をぐしぐしと撫でながら、優しい言葉。  そして、次に、俺にだけ聞こえるような小さな声で。 「――もう、思い残すことはありませんね」 「…………」  ゆるやかな表情が引き締まり、蛍をかなたへ手渡した。 「もう、いいんですか?」 「はい、大変満足させていただきました」  名残惜しさは、一抹も見せず。 「あ、じゃあ次は理央の番だよ! お猫さん、触るー!」 「ふふふ、私ばかり独占しては、申し訳ありませんから」 「どうぞどうぞ!」  理央が蛍に触れて。  蛍は少し驚いたようだったけれど、愛嬌のある理央に、必要以上の警戒心を抱くことはなかった。 「にゃー! にゃー!」  むしろ、底抜けの明るさに戸惑うような、そんな瞳。 「にゃー?」  妃やかなたとは違った振る舞いを魅せつけられて、理央もまた蛍と仲良くなっていくのだろう。 「……瑠璃」  それを遠巻きに見守りながら、妃は囁く。 「余計なお世話でしたよ」 「ああ、わかってる」 「ちっとも嬉しくなかったですから」 「当たり前のように、わかってる」  念押し、念押し、念押しして。 「……それでも、ありがとうございます」  最後に、本音を見せてくれた。 「瑠璃の前では、強がることさえ出来ないのですね。泣いている私なんて、もう二度と見せないつもりでしたのに」 「馬鹿言えよ、お前は俺の妹だろ」  紙の上の存在になったって、本当の恋人になったって、それは変わらない。 「兄貴は、妹のことなんて何でもお見通しさ」 「……ふふっ、そうですね」  静かに、肩を寄せあって。 「だからこの先の未来まで、お見通しなのでしょうね」 「…………」  ああ、そうだな。  不思議な雰囲気が、俺達二人の間に流れていく。  もう、言葉は要らない。 「あの日のデートの続きをしましょうか」  あの日。  生前、俺達が最後にデートを交わしたあの日か。  思えばあの瞬間から、妃は別れを告げようとしたようにも見えていた。  ようやく、サファイアの真実が語られようというのか? 「思い残すことはありません。明日、全てを終わらせましょう」  いつから、デートは終わる前に行われるものになったのだろうか。  まるで、最後の晩餐じゃないか。 「それすら理解していたから、貴方は私を愛してくれたのですよね」 「そうだよ」  お前が、月社妃であるのなら。  もう、その他に何もいらない。 「明日がとても、楽しみです」 「俺だって、楽しみだ」  紙の上に、踊らされ。  それでも俺達は、我を貫く。  されど月社妃は変わらない。  恋が実っても、変わらないんだ。 「瑠璃のお兄ちゃんは、本当に妃ちゃんのことが好きなのかしら?」  まどろみの中で、不躾な質問が響く。 「あれはただの紙切れなのよ? 愛しても、乾くばかりの道具そのもの。あまりに空虚すぎなくて?」  誰かが俺に問いかけて、何を揺るがそうというのか。  大嫌いと宣言することが出来なかった俺は、もはや自らの心に疑うまでもないのに。 「今はそれで良くっても、紙の上の存在は必ず二人の関係を壊してゆく。所詮、書き換えられるだけで恋心は忘れるのよ?」  伏見理央の受難を思い出した。  好きである気持ちさえも封じられた少女は、生涯その設定に縛られ続けていた。 「誰かが、『月社妃』の設定を書き換えるだけで――たやすく全ては崩れ去る」 「そもそも紙の上の存在は、実在しない空想の産物よん。テレビの中のアイドルに恋するのと同じこと」  それでも。  それでも妃はそばにいて、手を伸ばせば触れられる。 「魔法の本に惑わされているのは、一体誰なのかしら」  誰なんだろう。  いつから俺達はこうなって、いつまで俺達はこうしてるのだろう。 「今は、束の間の不幸に溺れていなさいな。その程度の情事を、妾は許してあげましょう」  しかし、と。  魔法使いは、嘲笑う。 「終わった恋愛に未練を垂れ流しても、近い将来、必ず終わりが訪れるわ」  色っぽい声。  そして、恐ろしい声だった。 「遊行寺家は、二人の恋路を許さない。それは、妾たちが求める幸運ではないのだから」  耳元で、囁いた。 「月社妃と結ばれることは、永遠にありえないのよ」 「――うるせえ、黙ってろ」  吐き気を催す夢から醒めて、今日も妃を愛そうか。  それは、今朝の出来事である。  不愉快な夢を見たような気がして、意識はとても鈍く、倦怠感が襲っていたのだけれど。 「……ん、ちゅっ……」  それさえも吹き飛ばす何かが、今俺を襲っているような気がした。 「……え?」  朝。  ベッド。  布団の中。 「妃?」  金髪の妹が、俺のイチモツを加えていた。 「にゃあ?」  猫真似をして、上機嫌である。 「にゃあー」 「おいっ――!」  ぺろぺろと、舌を出して舐め続ける。  いつから咥えられていたのだろうか――もう、ギンギンに興奮しきってしまっていた。 「ご奉仕するにゃん」 「…………」 「ご主人様に、ご奉仕してあげるにゃん」 「…………」 「……何ですか、変な顔をして。折角だから、朝から気持よくさせてあげようと思ったのに」 「に、似合ってない……」 「うるさいです。噛みちぎりますよ?」  そういって、甘噛をしてみせる妃。  戦々恐々だ。 「んっ、ちゅうっ……蛍と引きあわせてくれたお礼ですよ。はむっ……」  そういって、丁寧にご奉仕を再開する。 「お礼って……くっ」  目が覚めてから、既に意識は全力で勃起してしまって。  「それと、前回はいいようにやられてしまいましたから……今回は、私がリードしてあげますよ」  それが、朝フェラか。  飛んだドッキリも、あったものである。 「というわけで、おとなしく気持ちよくなっていてくださいな」 「わ、わかったよっ……!」  それでも、男の俺としては、好きな女の子に咥えてもらうことは嬉しくてたまらない。 「はむっ……ん、ちゅうっ……臭い、ですけれども……面白くは、ありますね……ん、ちゅ……」  妃の瞳は、好奇心に輝いている。 「どんな風にしてみたら良いのか……ん、あむっ……れろっ……じゅるるっ……」  喋りながらの奉仕は、舌が棒に絡みつき、意識外の快楽を産んでしまう。 「まったくふぁかりまふぇんが……んじゅるるるっ……これで、よいのでひょうか……?」  咥えながらの、上目遣い。  その破壊力は、語らずとも理解できよう。 「ひもちひひなら、ひもちひひといってくらふぁい……っ!!」 「気持ち、いいに決まってんだろ――!」  声を押し殺すのに、必死なんだよ。 「ほれはよかったれす……ん、じゅるるるっ、じゅるっ、ん、ちゅううううっ……!」  舌と唾液を淫らに絡めさせ、口をすぼめて上下する。  手の動きと合わさって、それはプロ級にうまかった。 「ん、ちゅるっ……れろれろれろれろ……ん、ふっ……! 瑠璃は、単純で分かりやすいですね」  一端口を話して、指の動きで弄ぶ。  竿や頭を巧みに刺激して、変化のある快楽を産んでいく。 「反応の一つ一つが、はっきりしていて……どこが弱いのか、何が気持ちいのか、一目瞭然」 「なっ……お前は、責められるのが好きなくせに……!」  激しくされるのが、好きなくせに……! 「あら? 心外ですね。どちらも、ばっちりこなしてしまえるのが、この私ですから。はむっ……!」  もう一度、大きく咥え込む。 「ろうれふか……? これでもう、わらひにつおきなことはいえまふぇんね……?」 「あっ……くぅっ……!」  朝っぱらというだけではなくて。  もう、本当に……刺激が強すぎて。 「んりゅっ……あら? もひかひて、もうひっちゃうのれすか? んちゅうっ……ん、あっ……」  首を激しく縦に振る俺に、妃は嬉しそうに笑う。 「それなら、存分に――果ててしまってください」  唇で、亀頭を包み込み。 「ん……っ、れろれろれろ……っ!」  舌をてっぺんの部分に絡め合わせて、唾液を擦りつけていく。 「じゅるっ……ん、ぁっ……れろれろっ……!」  唾液とカウパーが交じり合って、艶美な音を奏でている。 「んっ、じゅるっ……じゅるるるるっ……」  亀頭から、根本へと。  丸呑みするかのように咥え込んだ妃は、吸い付くように刺激して。 「あっ……やばい、それっ……!」  腰砕けになるほどの快楽を、俺に与えつけるのだ。 「じゅるるっ、ん、じゅるっ、じゅるっ、じゅるるるるるるっ……!」  下品な音が、部屋に響いて。 「ん、あっ……ちゅ、んっ……!」  刺激が弱まった瞬間、堪えたと思ったその矢先。 「ひって、くらはい?」  隙を見せた俺の意識を、根こそぎ刈り取る刺激を与えてしまう。 「ん――ちゅうううううっ、じゅるるっ、じゅるっ、ん、くうぅっ、じゅるるるるるるっ……!」 「うあっ――!」  ヤバイ、と思ったが矢先。  とっさに腰を引いてみたけれど、射精を止めることが出来なくて。 「ひぁっ――! んっ、あっ……!」  妃の顔面へ、遠慮なく精液を吐き出すこととなってしまった。  射精の熱を感じながら、満足そうに妃は微笑む。 「あっけない幕切れでしたね」 「うるさいよ、ばか」  息も絶え絶えになる俺を、嬉しそうに見つめていた。 「んちゅっ……」  吐き出した精液を、丁寧に舐めとって。 「お掃除する理央さんが、大変ですからね……」 「いや、これは俺が洗濯する」  当たり前だろうと笑いながら、そのままベッドに突っ伏してしまう。 「あら、もう一度お眠りするのですか? それなら、また起こさなければいけませんね」 「頼むから、勘弁してくれ」  余りにフェラが巧すぎて、毎朝これでは死んでしまうだろうが。 「枯れて尽きるまで、絞り出してあげますが?」 「参ったよ、降参だ」  月社妃は、マゾにもエスにもなれる、エキスパートだと認めよう。  妃の歓待を受けた俺は、食堂に顔を出す。  いつもよりも遅い時間ではあったが、問題なく食事を出してくれた。 「よう、寝坊か? 珍しいな」  正面の席に座っていた汀が、明るく声をかける。 「寝ていたわけじゃないんだけどな」  まさか本当のことを言うわけにもいかず、適当にお茶を濁しておいた。 「平和ぼけしてんのかと思ったよ。色々なことにケリをつけたはいいが、実際のところ何も分かってねえんだからな」  既に食べ終えていた汀は、鋭い眼光で語り始める。 「ちらつく腐れ魔法使いの影と、お袋が妃の本を残した意味。有耶無耶になっている部分はまだ多い」 「クリソベリル――だっけか」  うつろな記憶の間に見える、宝石の名前。 「このまま、お前と妃が惚気けているだけに終わるとは思えねえんだよ。どうにもあの魔法使いは、俺たちの関係を引っ掻き回してえみたいだからな」  ローズクォーツでは、理央の心をかき乱し。  ブラックパールでは、汀の感情を揺さぶった。  フローライトでは本の秘密を曝け出し、紙の上の存在を見せつけた。  流されるままの俺たちへ、あの魔法使いは次にどんなアクションを起こすのだろうか。 「行動には意味があり、目的があるはずだ。何のために妃の本が存在して、何のために開かれたのか。確かに気になるところだな」  伏見理央の本が存在するのは、夜子にとって都合の良い従者を用意するためだった。  だからこそ彼女は役割に徹し、毎日を捧げている。  なら、妃は? 「もう一度俺に恋をさせてくれるためだなんて、自惚れた予想はできないな」   妃が戻ってきて、汀の初恋が完了することが出来た。  好きと嫌いの選択の果てに、嫌いを選ぶことができていたとすれば――良い形で、俺は失恋できたと思うけれど。 「お前は、それでも妃を愛するんだろ」  大好きだと、答えてしまった。  もう一度、妃と共に生きたいと願ってしまった。  それは、あの魔法使いの望む選択だったのだろうか?  そうでなかったとしたら――これから、俺たちはどうなるんだろう。 「……まあ、どうでもいいか」 「は? なんだよ、気でも狂ったか? お前らしくもない適当な答えだな」 「いや、そういうわけじゃないけど。何をされても、別に大丈夫かなって思っただけだ」  もう、覚悟を決めてしまったから。  なんとなく、未来に憂うこともなくなった。 「へえ……全くの無根拠ってわけでもねえのか」 「ああ」  それを、お前に伝えることはしない。  他の誰にも、伝えることはしないよ。  俺と妃は、利己的になると決めたんだから。 「ごめんな、汀」  だから、謝っておこう。 「色々と、迷惑かけたよ」 「はっ、似合わねえ台詞を口にするんじゃねーよ」  突然の言葉に気恥ずかしくなったのか、汀は視線をそらし、立ち上がる。 「うるさい女も来たことだし、部屋に戻るわ。何かあったら、すぐに言えよ」 「おう。お前は本当に、あいつのことが苦手なんだな」  食堂の入り口に見えた、満面の笑顔。  俺と汀の姿を確認して、まっすぐこちらへ向かってくる。 「食えねえ女は、嫌いなんだ。俺を、弱くさせちまう」 「あー! 汀さん、露骨に視線を外しましたね? どうして逃げるんですか-!」 「うるせえ、黙ってろ」  彼女の対処法は、まともに相手をしないこと。  それを理解した汀は、今までよりも自然に彼女から逃れていく。 「もう、何なんですかね! こんなに可愛い女の子に、黙れだなんて!」 「あんたがうるさすぎるのが悪いんだろ」  一目散に逃げ出した汀の選択は、きっと正解。 「ひーどーいーでーすー! 最近、かなたちゃんの扱いが酷くなってませんか? 訴えますよー!」 「あんたはいつでも、変わらねえんだな……」  そこだけは、誇らしいとさえ思う。 「……? どうしましたか瑠璃さん? なんだか、とても気持ちが落ち着いていますね。落ち込んでいるわけではなさそうですけど……」 「そう見えるか?」  否定は、しない。 「余裕があるというか、風格があるというか。なんだか、格好良さに磨きがかかりましたね!」 「褒められてるのか貶されているのか、判断に困るな」 「どうみても褒めてるでしょうがー!!」  ぷんすか怒りながら、しかし楽しそうである。  そんな彼女の姿を見て、安心したと同時。  ふと、込み上げる感情が、一つの質問を口にさせてしまっていた。  本来なら、誰にも聞くつもりがなかったのに。  彼女には、聞いてみたくなったんだ。 「……あんたは、妃の気持ちが理解できるか?」 「えっ?」  突然の質問に、硬直する彼女。 「紙の上の存在になった妃が、何を思っていたのかをあんたは分かってあげられるのかな」  俺に、大嫌いになるように求めたときの、心境。  もし、あのとき大嫌いと答えていたら――妃は、どういう行動をとったのだろうか。  俺の恋心を潰して、妃は、きっと。  ――自らの手で、『月社妃』を破り捨てたのだろう。 「あいつは、紙の上の存在である自分を許せないんだよ。偽物であることを許せないのが、月社妃という人間なんだ」  だから、再びこの世界に現れた時も、不機嫌だったんだ。  生と死の境界を狂わせた――いや、狂ったように錯覚させてしまう自らの存在が、たまらなく許せない。  「生き死にを軽んじる物語が、あいつは嫌いだった。絶対的な隔絶であるからこそ、人の死は悲しいのだと言う」 「そんな考え方をしていたあいつは、自分自身の存在さえ、無慈悲に扱うことが出来るんだよ」  それが、フローライトでの妃の行動原理。  人間らしくない、無慈悲で不条理な、月社妃らしい考え方である。 「あんただったら、どうだ? もし、あんたが死んで、紙の上の存在として生まれ変わったなら――同じように、自分の存在を許せなくなっちまうか?」  俺が何を思って、こういう質問をしているのか。  それさえも、探偵は察してしまえるのだろうか。 「……実際、そのようになってしまったら、判断というのは変わってしまうのかもしれませんが」  彼女は、そう、前置きして。 「私が同じようになったとしたら、何の迷いもなく、紙の上の存在として生きるのだと思います」  真摯な瞳が、やけに眩しい。 「理央さんのように、他人との違いに苦しむこともあるでしょう。月社さんのように、それが許せなくなることが訪れるかもしれません」  けれど、彼女は。 「――与えられた存在を、大切にしたいです。私は私のことが大好きですから、どんな存在になっても幸せになってみせますよ」 「その先に、不幸しかなくてもか?」 「何を言いますか! 不幸しかないと決めつけないでくださいよ! かなたちゃんは、この手で幸せを掴んでみせるのですからね!」  提示された未来を、無視する。  日向かなたは、そういう選択ができる女の子だった。 「それは、あんたらしい答えだな」  妃とは全く違う、考え方。  それぞれに別の考え方があって、信念がある。  多分、そのどれをも否定することは出来ないんだろうな。 「そんなあんただからこそ、この図書館に存在することができたんだろう」  夜子にさえ、存在を認められて。  今ではもう、無くてはならない存在になってしまっている。 「なあ、あんたに頼みがある」 「いいですとも! どんなお願いでも、私は力になりますよ!」  中身を聞く前に、引き受けてくれる頼もしさ。  口先だけではなく、本当に何でも引き受けてくれるんだろうなって、伝わってくる。 「夜子を、頼むよ」  お願いごと、一つ。 「今の俺が何を話しても、たぶん、悪影響にしかならないと思う。あの日、妃が暴露してから、あいつはどこか変なんだよ」 「それは……確かにそうですけど」 「それはきっと、あんたにしか出来ないことで、あんただからこそ任せられることだ」  俺と妃に出来なかったことを、お願いする。 「……言われるまでもなく、私は夜子さんのお友達です。本人が、どんなに否定しようとも!」 「その意気だよ」  それがあんたの、一番の魅力だ。 「でも、私だけじゃ、足りませんからね。瑠璃さんがいてこそ、夜子さんは笑えるんだと思います」 「……ああ、そうかもな」  そろそろ、この辺りで打ち切っておこうか。  これ以上、思い知りたくないんだよ。 「悪いな、そろそろ時間だ」  妃との待ち合わせが、近付いていた。 「そういえば、今日は月社さんとのデートでしたか」 「なんで知ってるんだよ」  思わず、苦笑いを浮かべる。 「そりゃもう、探偵部の力を舐めないでくださいよ!」  にっこりと、笑いながら。 「ご安心下さい。二人の時間を邪魔しようとは思っていませんから。尾行も盗聴も、一切行いません」 「そんなのは当たり前なんだけどな……」  普通の人間は、そんなことをしない。 「楽しんできて下さいね。精一杯、幸せになってきて下さい」 「ああ、もちろんだよ」  少しだけ、心がちくりと痛む。 「帰ったら、惚気話を期待していますから!」  彼女に背を向けて、扉を見据える。  幻想図書館に背を向けて、さあ、あの日やり残したことを清算しよう。  きっと、これが最後になるのだろう。  だから、心から楽しもうと思った。 「遅いですよ」  と、月社妃は口をとがらせる。 「女の子を待たせるなんて、駄目ですね。いけませんよ?」 「……お前が早かっただけだろ」  時計の針を確認すると、待ち合わせ時刻の五分前を示していた。 「私は、一時間前からここにいましたが」 「そりゃ、一時間前に図書館をでていたからな」  今日は、妃とのデートの日。  待ち合わせは、図書館の玄関ではない。 「お前も、女の子らしい感性もあったんだな。そんなに俺と、待ち合わせをしたかったのか?」  一緒に家を出るのではなく、時間と場所を決めた待ち合わせ。  それを初めに言い出したのは、他ならぬ妃である。 「あら、これでもしっかりとした女の子ですから、最初から最後まで楽しみたいのですよ」  指摘されても、恥ずかしがることなく答える。 「瑠璃を待つ時間が、とても恋しかったですよ。何年も待ち続けていましたが、この一時間は格別でした」 「……そうか」  朗らかに笑う妃を見ていると、いつのまにか笑顔がこぼれ落ちていた。 「それじゃあ、行くか」  隣に立つ彼女へ、手を差し出して。 「ええ、参りましょう」  何処へ、ではなく。  何処かへ、歩み出す。  デートをしようと言い出したけれど、明確に何処へ行きたいかという話はしなかった。  それらしい単語を使ってみても、俺と妃が求めていたのは、ただ二人になれる時間だったから。  この島のあらゆるデートスポットを巡るよりも、お互いの存在を噛みしめることがしたくて。 「あなたとともに、歩きたい」  妃は、ただそれだけを求めたのである。 「色々場所を、歩きたいのです」  だから、今日はそれに務めることにしようと決めていた。  二人、ともに歩きながら、この島の色々なところを見て回る。  笑って、楽しんで、微笑みながら、そんな二人の道を進もうとして。 「思えば、私たちはこういう場所で遊ぶということをしてきませんでしたね」  待ち合わせをした場所から、少し歩いたところ。  放課後のチャイムがなった後、帰宅部の学生たちが目指す学生街。 「お前も、俺も、図書館に足を向けてばかりだったからな。こういう場所には、無縁だったよ」 「特に瑠璃は、遊びに行くような友人さえいらっしゃらなかったですからね」 「うるせえよ」  お前は、俺と違って普通に友だちがいるもんな。 「普通のデートだったら、喫茶店に入ったり、ウィンドウショッピングなんかをしたりするのでしょうか」 「カラオケとか、ボーリング? 夜になったら、ちょっとお洒落なレストラン?」 「それはあまりにも、私たちらしくないですね」  くすくすと、笑いこける。 「私はそういうのに興味がないですから。瑠璃がそういうことを求めてみても、応えてあげることは出来ません」 「知ってるよ。俺たちが一番楽しめるのは、あの幻想図書館だけだから」  何処で、楽しむのではなく。  誰と、を求めるため、今はこうしているのだから。 「本を読むだけの女の子でした。それを不幸だとは思ったことはありませんが、それでも、そういう風に生きることが出来たのかなと、思うことはありますね」 「…………」  趣味のピアノに、打ち込んだり?  それはもう、叶わない願い。 「前に、ここでお前と歩いた時は」  サファイアが閉じる直前にしたデートのような何かの時は。 「制服姿で、とても注目を浴びていたよな」 「クラスの男の子に、見惚れられていましたね。そして瑠璃は嫉妬していました」 「……うるさい」  そこまでは思い出さなくていいんだよ。 「あのときとは、心の持ちようが違います。確かによく似た状況ではあるのですが、瑠璃が私を受け入れてくれただけで、こうも違うのですね」 「……あのとき」  目を閉じて、思い出す。  すべてを悟ったかのような言葉とともに、妃は俺に告白した。 「あのときお前は、何を思って俺とのデートに〈臨〉《のぞ》んでいたんだ?」 「……さあ? それを語る言葉は、持ち合わせていないのです」  指に手を当てて、沈黙を選ぶ妃。 「ただ、今と少し似ていたというだけですから、気にしないでください」  語る言葉は持っておらず。  それは、誰かに剥奪されているのではないかと、少し不安になった。  俺たちの足は、自然と学生街から海岸通に向いていた。  人気の苦手な俺たちは、やはりこっちへ向かってしまうのだろう。 「この道を歩くのは、もう何度目でしょうか」 「学園に登校する度に、共に歩いていたからな」  それでも、それは一年前で止まっている。  今日、この日、この場所を歩くというのは、とても久しぶりのことだった。 「毎日のように歩いていた道も、今や懐かしく思います。この道に、私が生きた足跡があると思うと、感慨深いですね」 「いつもは、図書館から学園へ向かっていて、今日はその逆だ」  学生街から、図書館への戻る道。  「でも、今は図書館には帰りませんよ」  そっと、囁く。 「私は、あの場所から抜け出したくて、今日このデートを望んだのですから」 「……そうだな」  あの場所は、居心地が良い場所だと思うけれど。  きっと、あの場所では俺たちは不幸になれないのだと思う。  「夜子さんも、理央さんも、かなたさんも、汀さんも、私はとても大切に想っていますが――もう、それは関係ないのです」  寂しそうな視線に、何かが秘める。 「そういう覚悟を、決めてしまいましたから。本来、私はもう終わっている存在ですからね」  終わっている。  無くなっている。  亡くなっている。 「瑠璃の覚悟を改めようとは思いませんが――図書館に帰りたくなったら、いつでもどうぞ」 「バカいえ、そういうレベルの話じゃなくなってんだろうが」  もう、事態は取り返しの付かない所まで来てしまっている。 「あの時、俺がお前に好きだと伝えたことで、全ては終わってしまったんだからな」  変わるとしたら、あそこしかなくて。  あとはもう、消化試合のようなものである。 「……そうですね」  妃は、静かに頷いて。  歯切れ悪い言葉を取り繕って、話題を変えることにした。 「瑠璃は、自分が何故この場所にいるかを、考えたことはありますか?」 「どういう意味だ?」 「今、この場所で、こういう立ち回りを見せていることに、必然性を感じたことがあるかということです」 「……いや、そんなことは考えたことはないな」  いくつもの偶然が折り重なって、人の人生は紡がれていく。  運命めいたように感じることもあるけれど、人生とはそういうものである。  一つの偶然が、一つの大きな変化を与えることもよくあることだ。 「私が、紙の上の存在としてここの生きる意味。瑠璃が、この狭い鳥かごの中で、存在している意味。考えれば考えるほど、様々な感情が込み上げてきます」 「……妃」 「神の見えざる手は、知っていますよね」 「アダム・スミスか」  経済論の、基礎中の基礎。  個人の行動の集積が社会全体の利益をもたらすという調整機能のことである。  見えざる手に導かれるように、調整されるという小洒落た言い回しだ。 「紙の見えざる手――しかしそれは、原文のように自然に生まれたものではないのでしょう」 「神ではなく、紙、か」 「その運命を描いたのは、紙の上の魔法使い。その運命を動かすのは、魔法の本。さながら私たちは、駒のようなものですから」  緩やかに、そして、自嘲的に微笑んだ。 「私を選んだ以上、見えざる手による修正が始まります。だから――分かっていますね?」 「…………」  分かっている。  分かっているとも。 「私がここに存在する意味は、そういうことなのですよ。描いた未来図をなぞるように――瑠璃に、失恋をさせたかったということです」  一年前の別離を、いつまでも引きずって。  あの腐れ魔法使いは、俺に何を求めていたのだろう。  クリソベリルの目的は、何? 「本当はもう、気が付いているくせに。なんとなく、察しが付いているはずですよ。だからこそ、覚悟を持って私についてきてくれているのでしょう?」 「……そうだな」  これ以上、魔法の本に踊らされたくはない。  白髪赤目の魔法使いに、俺たちの関係を邪魔されたくはないんだ。 「どうして生きるってのは、こんなにままならないものなのかな」  もっと、生きやすい世の中だったら良かったのに。 「瑠璃は、後悔しているのですか?」  何を、とは言わず。 「いいや、何も後悔していないよ。これまで悲しいことはたくさんあったけど、楽しいこともたくさんあったから」  生きることは、大変で。  想う気持ちは、息苦しい。 「……少し、歩き疲れてしまいましたね」  歩くペースが落ち始めた妃は、やや疲れたように言った。 「慣れないことは、するもんじゃないな」 「それでも、瑠璃と歩いているだけで、楽しいのですよ」  潮風が、吹きさす。 「疲れはしましたが、まだまだ元気です。ちゃんと、連れて行って下さいね」 「もちろんだ」  さぁ、次は、何処へ行こう?  休憩の出来る場所。  ああ、海の見える防波堤へ行こうかな。  月社妃が、四條瑠璃のどこに恋したかを考えてみました。  いつから好きだったのかなんてわからないほど、それは原始的な感情だったように思いますが、  しかしそれは、乙女心に溺れた私の錯覚なのかもしれません。  原因があるから、結果がある。  私が瑠璃を好きなことに、必ずきっかけがあるのでしょう。 「こんな私に、優しくしてくれたこと」  ひねくれ者の私に、嫌な顔ひとつせずに接してくれた。  兄として、男として、頼りがいのあるところを見せてくれた。  何でもないそういう一面に、まず私は惹かれていったのでしょう。 「ありのままの自分を、認めてくれた」  私は、とても性格の悪い女の子だと思います。  口を開けば皮肉を言い、生活態度はだらしなく、そのくせ素直ではありません。  けれど、こんな私のことを、こんなどうしようもない私のことを、そのままで受け入れてくれたのです。  生まれて初めての対応に、心は溶かされていきました。 「私が唯一、本音で語れる相手だった」  家族の中で孤立する私は、全てを曝け出せる友人がいませんでした。  学園の友達も、仲が良い止まりの関係性。  夜子さんと知り合っていない頃の私は、とてもとても、誰かに甘えたかったのです。 「いつでも、私のことを気にかけてくれること」  頼りないところも多いけれど、それでも私が泣きそうなとき、必ずそばに居てくれました。  両親に見放され、辛辣な扱いを受けた時にも、瑠璃だけは手を差し伸べてくれたのです。  兄が見せた小さな背中は、とても頼りなかったけれど、とても、頼もしく思えてしまった。 「そういう当たり前のことが、そういう普通なあなたに、そういう素敵な瑠璃のことを、愛して愛してやまないのです」  理由を挙げれば、沢山見つかった。  けれど、どれを欠けたとしても、やっぱり私は瑠璃のことが好きになったと想うのです。  貴方の前では、私はただの女の子。  どんなに強がっても、貴方のことを思うと胸が苦しくなってしまうのです。  それは、いつだって感じていた心。  毒舌を吐きながら、皮肉を交えながら、不幸を望んでも――ずっとずっと、想っていましたよ。 「――瑠璃のことが、心から好き」  今日を逃したら、もう二度と伝えることは敵わないだろうから。  防波堤の端に腰を下ろしながら、面食らっている瑠璃へ、何度も何度も伝えましょう。 「そして、私のことを愛してくれて、ありがとうございます」  兄であり続けた瑠璃に対して、兄以上の想いを芽生えさせてしまった愚かな妹の、真心です。  休憩がてらに、腰を落ち着ける場所として選んだ場所。  二人並んで座り、しばらく好きな小説について語り合った後、不意に妃が口にした想い。  昔のことを思い出しながら、俺の好きなところを恥ずかしげに語る妃は、いつにもまして魅力的に見えてしまった。 『――瑠璃のことが、心から好き』  珍しい、ど真ん中の言葉。 『そして、私のことを愛してくれて、ありがとうございます』  ただ、思いを伝えることだけに必死になった、女の子の等身大の気持ち。 「本当に、不幸にさせてくれましたね……!」  ずっとずっと、この気持ちを伝えようとしてくれてたのだろうか。  今日はそのために、お散歩デートと銘打って、タイミングを見計らっていたのだろうか。  特大の可愛さを見せる妃を前にして、俺の心は撃ちぬかれてしまったらしい。 「……何か言って下さい。これでも、とても恥ずかしいのですが」  無言の俺を前にして、恥じらう妃。  そういう仕草は、とても珍しくて――とても、愛おしくて。  だから、衝動的に行動してしまっていた。 「……え?」  肩を掴み、顎を引き寄せて。 「わ――ちょっと――!」  その唇を、一方的に奪ってみせる。  言葉では伝えられない、沢山の気持ちを、そういうふうにしか伝えられなかった。  「ん、あっ……!」  それは舌と舌を絡ませる、濃厚なくちづけ。  逃れるように顔を背けようとするけれど、辞めるつもりは一切なく。 「ちゅ……ん、んんっ……!」  次第に抵抗を諦めた妃は、為すがまま俺の気持ちを受け入れる。  唾液と唾液が絡まり合って、艶かしい音がする。  そうして貪るような愛情を繰り返した後、ようやくその口付けは終了した。 「……無理やりなんて、酷い人です」  唇に手を当てながら、顔を赤らめて糾弾する。 「言葉じゃなくて、行動で示したかった」  何を言えばいいのか、わからなかったから。 「おかしいですね、いつもは私のほうがいいように振舞っているはずなのに……」  俺に先手を取られたことが、歯痒いらしい。 「いや……素直に、嬉しくて」  息を呑んで、妃を見つめる。 「ただ、ただ、嬉しかったから」  兄としての自分。  男としての自分。  その全てを愛してくれていて、心から嬉しいと思ったんだ。 「お前は、妹じゃなかったら良かったのにとか、言ってたから……本当に、そういってくれたのは、嬉しい」 「……今日くらいは、素直な自分を晒してもいいかなと思っただけです。蛍に巡り会わせて頂いて、正直になれたのかもしれません」 「まあ、お前はか弱い女の子だったからな」  だから、ひねくれて、強がってみせるんだろ? 「……誰にでも、こんなことをしているわけではありませんよね?」 「は?」 「衝動的にキスをするなんて、恐ろしい人ですよ」 「責任は、お前にある。お前が可愛いことを言うから、悪いんだ」 「……う」  口付けを交わしてから、強くなれない妃。  取り繕っていた仮面がぼろぼろ剥がれ落ち、素直な部分が曝け出されてしまっていた。 「おかしいですね……私は、こんなことで恥じらうようなキャラではなかったはずなのに」 「それはもう、今更だろ」  今に始まったことではない。 「私をこうさせてしまえるのは、世界でたった一人、瑠璃だけですよ」 「当たり前だ。他の男に、可愛らしいお前を見せたくないからな」  いつまでも、俺の前だけで咲き誇ってくれ。 「伝える言葉は、全て伝えて。話すことも、全てお話しました。だからもう、特に何があるわけではありません」  全ての気持ちをさらけ出した後、妃は立ち上がった。 「……今日は、そういうつもりではなかったのですが……瑠璃のせいで、火が着いてしまいました」 「え?」  手を差し出した妃は、艶かしく笑った。 「女の子に、これ以上口にさせるつもりですか? 殿方でしたら、機敏に察して頂きたいものですね」 「……あ」  夕陽に揺れる、妃の髪が印象的だった。  差し出された手を取ると、異様なまでに熱く迸る。 「図書館へ帰るのは、もう少し後にしましょう」  立ち上がった俺の耳元で、甘く囁く。 「私の心の熱を、鎮めさせてくださいな」  誰もいない。  二人だけの自由な世界。  小さな鳥かごに戻る前に、愛を確かめ合う。  夜の茂みで、野性的なまぐわいを。  妃に導かれるように、俺たちは人目を隠れて繋がり合う。 「んっ……あっ……!」  前戯は、不要なほどに濡れていて。 「ふぁっ……! ん、あぁぁっ……!」  妃の中は、驚くほどに暖かかった。  向かい合うようにして二人。  妃の身体を持ち上げるように、対面の格好でつながり合っている。 「ふ、ふ、ふっ……! こんなところで、いけませんね」 「ああ、全くだよ」  いつ、誰が現れるともわからないこんな場所で。  「背徳感に、ぞくぞくしますっ……!」  淫靡な行為を、重ねてしまっているのだから。 「本当に妃は、こういうのが好きなんだなっ……!」  背徳感。  制圧感。  潜在的な性癖が、にじみ出てしまっている。 「なっ……酷いことを、言わないでくださいッ……! 瑠璃の方こそ、今を楽しんでいるくせに? んっ、あっ……!」  腕を絡めながら、突かれ続ける妃。 「興奮しているから、猿のように腰を振っているのでしょう?」 「お前こそ、興奮しているからこんなに濡れてるんだろ?」  腰を動かす度、ぐちゅぐちゅと淫靡な音が聞こえてくる。  それは、妃の快感を教えてくれるには、よいバロメーターである。 「んっ、やぁっ……! 耳元でっ……酷いことを囁かないでくださっ……!」  短い悲鳴を上げながら、快楽に耐える妃。 「わ、私が興奮なんて、しているはずがないでしょうっ……!」 「こうまで乱れておいて、よく言うよ」  ここへ誘ったのは、誰だっけか。 「それは、瑠璃の性癖に合わせてあげているだけっ……! 瑠璃は、女の子をよがらせるのが好きなのでしょうっ……?」 「そりゃ、ご苦労なことだ」  付きあわせてしまっているところ、悪いんだが。 「じゃあ、もっと喘いでくれよ?」  深く、深く、抉るような腰の動きを意識して。  ぐっと力を込めて、削るようなストロークを開始した。 「ひゃぁっ――! らめ、今の、中が凄くてっ……!」  案の定、妃は嬌声を上げて悶える。 「は、激しいのは、だめっ……女の子は、優しく、扱うものですよ……?」 「中には、滅茶苦茶にされたがる酔狂な女の子もいるらしいぜ」  誰とは、言わないけれど。 「ふっ、ぁっ……! わ、私のことじゃ、ないですよっ……!」  懸命に、強がりは継続される。  「嫌よ嫌よも好きのうち」 「つっ、都合の良い解釈を、しないでくださいっ……! ん、ふぁっ……!」  絶え間なく続く快楽の連続。  甘い吐息が、とろとろと溢れだしていた。 「あああっ!! んっ、んっ――あんっ……!」  ぎゅっと。  首に回された手が、締めあげられる。  妃の最奥を突き上げる度、呼応するように力が入って。 「あんっ……! やっ、やっ、やぁっ……! はげ、しっ……!」  突き上げられる喜びに、すっかり目覚めてしまっている。 「妃は、潜在的にマゾの傾向があるのかなっ……?」  激しくされるのが、好きだなんてね。 「ち、違いますっ……! た、確かに? 少し、乱暴なくらいの方が、あっ、んっ……!」  言葉は、なかなか文章にできない。 「感じ、易いのかもしれませんけどっ……! 決して、決してっ……! マゾなんかでは、ありま……っ! ひゃんっ……!」 「え? 聞こえない」  わざと、深々と突き上げて。 「だっ、だからっ……違うと、仰っているのですっ……んっ……んんっ……!」  掻き消えるような声で、必死に否定を訴えた。 「す、好きな人の存在を、強くっ、強くっ……実感できるからぁっ……! だから、少しくらい荒っぽいほうが、好きなだけですっ……!」 「ははっ、嬉しい事を言ってくれるな」  喜びは、さあ、行動に変換しよう。  もっともっと、妃を喘がせてあげたくて。 「ん、くぅっ……! はっ、はげしっ……! 激し、すぎてっ……やっ……やぁっ……!!」  絶頂まで、連れて行ってあげたかった。 「だめっ、凄くて、凄くてっ……! 私、もうっ……!!」  ぎゅうっと、膣内が収縮して、果てが近いことを訴えて。 「イって、しまいますっ……!!」 「俺も、そろそろだっ……!」  何度も何度も、腰を打ち付けて。  「んっ! あっ! あんっ……!! んっ、くぁっ……!!」  がくがくと快楽に震える妃は、瞬く間に昇天する。 「ふぁっ――んっ、あああああああぁぁぁぁぁぁっ――!! やっ、んっ……ああぁっ……!」 「くぅっ……!」  そのまま、ありったけの欲望を、妃の中へと吐き出してしまう。 「ああっ、中に、出てます……」  俺の胸に頭を埋めて、絶頂の余韻に浸る。 「もう……乱暴なんですから……」 「だけど、気持よかったろ?」 「……酷い人ですよ」  それでも妃は嬉しそうに、笑っていて。 「だけどな、妃」  射精後の余韻に、浸るまもなく。  「俺はまだ、満足してないんだ」 「えっ?」  勃起状態は収まることはなく。  妃という女の子の全てを、もう一度望んでいた。 「二回戦だ」  戸惑う妃を、仰向けに寝かせ、足をぐいっと開かせる。  両手を押さえつけながら、正常位の形で二度目の挿入をして。 「んっ……る、瑠璃っ……!?」  聞き分けのないこどもを叱るように、妃は不満の声を漏らすけれど。 「あっ……だめですっ……! イったばかりで、とても、敏感でっ……!」 「だから、いいんだろ?」  強引に押し倒して、快楽を貪ろう。  「もうっ!! 本当に、身勝手な人なんですからっ……!」 「お前だって、満更じゃないくせに」 「んっ、やぁっ! 私は、別にっ……!」  顔を背けながら、恥ずかしがって。 「押し倒されて、興奮してるようにしか見えないんだが」 「ぅ――っ! そ、そんなことは、ありませんっ……!!」  なのに、物欲しそうな切ない視線が、俺へと向けられる。 「大丈夫、妃が気持ちよくなれるように、激しくしてやるからさ」 「だ、誰が――ん、ひゃぁっ……!! あっ、あっ、あっ――!」  先ほどの体位よりも、動きやすい正常位は。 「ひぐっ……やっ、先よりも、激しっ……!! だめっ、気持ち、良すぎてっ……!!」  妃の乱れる顔をじっくりと見ながら、腰を振ることが出来る。 「はっ、恥ずかしいから、見ないでくださいっ……こんな私を、見ないでっ……!」 「嫌だな。もっともっと、妃の恥ずかしいところを見せてくれ」  突き上げられる度、喘ぎ声を出すさまを、見せて欲しい。 「やんっ……! やぁっ……! おかしく、なっちゃいますっ……!! 見ないでくださいっ……!!」  その変化は、僅かに訪れていた。 「だめっ、だめですっ……!! これ以上は、わたしっ……!!」  両手で顔を隠そうとしても、手は俺に塞がれていて。  だから、その可愛い顔を、隠すことは出来ない。 「今が、本当に……幸せすぎてっ……! だめ、なのですっ……!!」  つうっと。  雫が、流れ落ちる。 「やっ……! だぁめぇっ……! あっ、あっ……瑠璃っ、見ないでっ……!!」  それは、涙。  両の目からこぼれ落ちたのは、妃の涙だった。 「大丈夫か?」 「大丈夫ですよっ……! ただ、少しっ、嬉しすぎてっ……!」  拭うことも出来ないまま、妃は言う。 「瑠璃を、こんなにも身近に感じることが出来て……本当に、嬉しいのですっ……!」 「……そうか」  こんなときに、妃の泣き顔が見れるなんて。  強がりを剥ぎとってしまったら、妃はどこにでもいる普通の女の子だもんな。  「やっぱり妃は、泣き虫だもんな」 「うっ、うるさいですよっ……!! だから、見られたくなかったのにぃっ……!」  裸の付き合いでは、強がりは通じない。  素のままの表情が、現れてしまうんだ。 「んっ……くぁっ……! 涙、止まらないっ……! あはっ……もう、おかしくなってしまいましたっ……!」 「そのまま、果てまで連れて行ってやるよ」  喜びを感じながら、もう一度。  「あんっ……あんっ……! もう、激しすぎてっ……よくわからないですっ……! 私の心、滅茶苦茶ですッ……!!」  さあ、ラストスパートだ。 「私っ、私っ……瑠璃を好きになれて、よかったですっ……本当に、良かったっ……! んっ……!」 「ああ、俺もだよ!」  愛を囁きながら、愛を刻みつけて。 「だから、だから、だからっ……! その気持ちは、最後まで忘れないで下さいねっ……!」 「もちろんだ」  激しい快楽の果てに、確認しあう互いの気持ち。  ともに果てることで、分かり合うものもある。 「やぁっ! もう、だめっ……あたま、なにも、かんがえられませんっ……! ひゃっ、んっ、あああんっっ……!」 「くっ、イくぞ!」 「はいっ! 来てくださいっ、私も、もう、だめですっ……! あっ、あっ、ああんっ、やぁあっ!!」  ぐっと、お腹に力を込めて。 「ぐっ――!」 「ひぅっ――んっ……やあぁぁぁぁぁぁぁっ――!!!」  事切れたかのような嬌声を上げて、妃は果ててしまった。  声に導かれるように、二度目の精液が妃の膣内を染め上げる。  「ぅ、あっ……! 二度目、なのに……凄い量、ですっ……」  朦朧としながらも、膣内に吐出されている精液を自覚する。 「ちゃんと、中に出してくれて……嬉しかったですよ……」  女を抱くつもりなら、中に出す覚悟を持ってから抱きなさい。  それは、妃の言葉だったよな。 「瑠璃……キスを、してくださいっ……」  切なそうな声で、唇を求める妃。 「激しいのではなく、優しいキスをお願いします」 「ああ、喜んで」  性行為は、激しいのが好きでも。  キスは、優しいのが好き。 「ん、ちゅっ……」  触れ合う唇は、熱く、熱く。  「大好きですよ、瑠璃……ん、ちゅう……」  その想いは、永遠に続く愛情と、今の俺達は確信していたはずだ。  夜の茂みの中、燃えるような行為を行って。  そしてデートは終わり、物語は収束して行くのだ。  束の間の幸せを噛み締めながら、俺たちは手を繋いで帰宅する。  二人だけの時間は終わり、図書館へと舞い戻る。 「瑠璃……」  大広間にいた夜子が、俺たちの姿を捉える。  俺と、妃の顔を見て、その次に、繋がれた手を見つめる。  唇を噛み締めて、そっと視線を外した。 「……夜ご飯、もう終わったわよ」 「ああ、今日は遅くなるって、理央には言っておいたはずだが」 「こんな時間まで、何をしていたの?」 「お前には関係ないことだろう」 「…………そうね」  夜子は、妃と目を合わせない。  渦巻く感情の正体を、測りかねているのだろうか。 「ねえ、妃」 「なんでしょう?」 「お母さんは、本当にあなたを設定で縛り付けていないのかしら」  設定。  命令とも、言い換えて良いだろう。  理央を縛り付けたときのように、妃もまた、何かに縛られているとでもいうのだろうか。 「お母さんが、何のために妃を記したのかはわからないけれど……そこに目的があるのなら、お母さんは何かを刻んだはずよ」  その推測は、おそらく正しい。  直接は聞いていないけれど、俺はその設定に目星をつけていた。 「例え何かを刻まれていたとして、それを伝えることが許されると思いますか?」 「それは……そうだけど」  冷たい妃の言葉に、どもる夜子。 「ご安心下さい。あなたが憂うことはなにもないのです。むしろ私は――夜子さんに謝らなければならないのかもしれません」 「謝る? 何を?」 「利己的な私で、ごめんなさい」  それは、きっと。  様々な感情が込められた、真心の謝罪だろう。 「だけどもう、決めたのです。私は、私の望むことをする。不幸せに堕ちていくと、決めたのですから」  妃は、夜子の頭を優しく撫でる。  何度も何度も、慈しむように。 「先に、部屋に戻ってるからな」  邪魔しちゃ悪いと、思い至り。 「ええ、それではまた後ほど」 「ああ、わかってる」  再会の約束をして、二階の階段へと上る。  部屋に戻って、身支度を整えて。  全てを終わらせに、行くんだよ。 「おかえり、瑠璃くん」  階段を登った先に、ニコニコ顔の女の子がいた。  偶然会ったにしては待ち受けているみたいで、 狙っていたとは思えないくらい自然な対応。 「妃ちゃんとのデートは、楽しかったかな」 「ああ、不幸せだったよ」  心から、そう思うくらいに。 「理央はね、なんとなーくわかっているのですよ。というより、みんなもわかっているんじゃないのかな」 「…………」 「今の幻想図書館は、どこか寂しさに包まれてます。それをいつも払ってくれるはずの瑠璃くんが、その寂しさを受け入れてしまってる」  それでも、尚。  理央は、笑顔を崩さなかった。 「あはは……結局、理央は瑠璃くんたちの味方にはなれないもんね。なんだかんだで、それが一番辛かったのかも」 「理央……」  妃と同じ、魔法の本に創られた存在として。  理央もまた、妃の気持ちに共感できるのかもしれない。 「紅水晶を開いた時も、そうだったから。だから理央には、まるっとお見通し」  笑顔が強張り始める。  それを隠そうと、理央は俯いた。 「理央には、いつも迷惑かけてしまうな」  これからも、大いに大変だろうから。 「ううん、それが、理央の役目だから!」  不意に襲いかかる感情を振り払って、満面の笑みで答える。 「あとは、任せたよ」  夜子のことは、任せたぞ。  机の上に置いてあった、読みかけの小説を手にとった。  まだ半分程度しか呼んでいないけれど、今はその中への興味はなくなっている。  栞を外して、本棚へ。  きれいに整頓された本棚を見ると、心が安らぐ。  そういえば。  そういえば――最初の魔法の本、『ヒスイの排撃原理』は、この本棚に収められていたことを思い出した。  数年ぶりに、この図書館へ帰ってきた日の当日。  妃が、興味深そうに見つけたんだ。 「……あれが、始まりか」  ヒスイ。  日向かなたが、狂言イジメを働いた。  それは狂おしい程の、違えた片思い。  ルビー。  遊行寺闇子が、偽りの物語を語った。  娘の夜子のための、優しい嘘だ。  サファイア。  ……あれは、なんだったんだろう。  何のために開かれて、誰がための物語だったのか。  終ぞそれがわかることはなかったけれど――もう、いいだろう。  アメシスト、アパタイト、ローズクォーツにブラックパール。  そして、蛍石の輝きが、今もそこにあるのだろうか。 「妃」  一年前と変わらぬまま、時を超えて訪れた最愛の妹。  今俺は、彼女と怠惰な時間を過ごしている。  生まれてから、ともに過ごしてきた時間の総量は莫大だ。  この世で最も、あいつの素顔を知っている人間だと俺は思う。  だから、あいつが何を思って行動し、何をしようとしているのか、とても良くわかるのだ。   紙の上の存在として、あいつの選ぶ答え。  「……お前は、やっぱり変わらないな」  乾いた笑みがこぼれ落ちて、悲しさが枯れてしまったことに気付く。  「そして俺の心も、お見通しなんだろうな」  俺があいつの気持ちを理解できるように。  あいつもまた、俺の気持ちを察しているのだろう。  呆れるほどの、以心伝心。  しかしそれは、悲劇へと向かうほかないことを、俺たちは嫌というほど知っている。  こん、こん。  ノックの音が、響いた。 「そろそろ、向かいましょうか」  澄み渡る妃の声が、俺の意識を尖らせる。  デートは終わり、言葉をかわし、そして向かう先は、一つだけ。 「私とあなたの、最期の逢瀬です」 「……ああ、行こうか」  「結局のところ、どんな選択肢を選んだって、妃ちゃんは抗えない」  先ほど図書館へ帰ってきた、紙の上の少女のことを思いながら、クリソベリルは嘲笑う。 「瑠璃のお兄ちゃんが、どんなに妃ちゃんを望んだって、何も意味がないの。決して、初恋を語らせたいわけではないのだから」  遊行寺闇子が、月社妃を記したのは、単なる利己的な目的がため。 「終われなかった恋を、終わらせましょう。どんなに先延ばしにしても、二人は別れる定めなのよん」  伏見理央が、設定に縛られ続けて恋を忘れるように。  月社妃もまた、そうなるはずだと、クリソベリルは確信していた。  紙の上の魔法からは、誰も逃れられない。  だからこそ――一年前の恋心を燃やす二人を見ても、クリソベリルは焦らなかった。   しかし、少女は見落としていた。  二人の兄妹の覚悟の重さを、見誤っていたのだろう。 「……あれ?」  それはきっと、不確かな直感だったのだろう。  安心しきっていて、確信しきっていて、もう何の憂いもないと感じていたはずなのに、不意に訪れた根拠なき不安。  虫の知らせ、というべき何かは、見過ごすには恐ろしく、何かを突き止めようとしても分からない。 「いいえ、何が起こるはずもないはずよ」  何が起こって、たまるものか。  そう自分に言い聞かせながら、不安を一蹴しようとする。 「……月社、妃」  思い出したのは、一年前の物語。  あのときも彼女は、自分の予想を超える選択を取り続けていたことを、不意にフラッシュバックする。  忘れられ、全てを失いながらも――本当に大切な物だけは、守りぬいた少女。  今、物語に踊らされているのは、その少女の存在を形どった者。  あれが、まさしく月社妃であるのなら、再び想像を絶する覚悟を決めてくるのではないだろうか。 「確認、した方が良さそうね」  あのときも、月社妃の選択が――おおよそ最悪とも呼べる方向へ傾いてしまったのだから。 「おとなしく、弄ばれてればいいものを」  月社妃は、本当に大事なもののためには、他の全てを捨てられる。  甘く見てはいけないということを、妾は失念していたのかもしれない。 「こうして夜の坂道を歩いていると、蛍と出会った日のことを思い出します」  踊るように歩く妃が、振り返りながら囁いた。 「あの日は、なんたら流星群が来ていたんだっけ」  星空に興味のない夜子は、誘いに乗らず。  そのため理央も、申し訳無さそうに辞退して。 「蛍に気を取られていたら、いつのまにか流れ落ちてしまっていましたね」 「一目見たときから、お前は蛍のことが大好きだったよな」  気むずかしい女の子の、意外な一面。 「他人には素直に好意を示さないくせに、猫にだけは正直だった」  ひねくれないのは、何故だろう? 「猫に、強がったって無駄なのですよ。動物的本能は、仮面の下を感情を機敏に察します」  嬉しそうに、妃は囁く。 「隠しても無駄というのなら、私は素顔を晒すことにいささかの抵抗もございません」 「それにしたって、違いすぎるだろ」  人と猫に、そうまで違いがあるのだろうか。 「……たまには、素直になりたいこともあるということですよ」 「へえ?」 「当たり前のように感情をさらけ出して、普通の女の子のように振る舞いたいこともありますから」  じっと、俺を見つめて。 「私が普通の女の子であることは、瑠璃が一番知っているでしょう?」 「ま、そうだな」  そんなことは、生まれたときから知っている。 「今だって、そうですよ」  宵闇に踊る、金色の髪の毛。 「言葉にしなくとも、私のことをなんでも分かってくれている」 「……ああ、そうだな」  なんでも。  本当になんでも、わかってしまうから。 「好き」  短く、端的な言葉。 「瑠璃のことが、心から好き」  それは妃にしては珍しい、甘えた言葉である。 「誰よりも、何よりも、瑠璃のことを愛しています」  蛍と出会った日のように、今日もまた、俺の前で素顔を晒す。 「俺も、お前のことが大好きだよ」 「ふふふっ」  満足気に微笑みながら、丘の上の教会を見据えた。 「――ああ、もうそろそろ、潮時なのですね」  蕩けるような表情が、一転して影を刺す。  けれど、不安なわけではないと思う。 「私は、私のハッピーエンドを守るために、終わろうと思います」 「…………」  初めて、だったかもしれない。  明確に、何かを終えると告げたことは、初めてだったと思う。 「俺とお前は、紙の上からは何も許されていないんだな」  諦めと、恨みにも似た感情が湧き上がる。 「いいえ、今を許されているというだけで、現実とは案外甘いのかもしれませんよ」 「この状況を甘いだなんて、口が裂けても言えねえよ」 「私と、愛しあうことが出来たのに?」 「…………」  そう言われると、何も言えなくなってしまう。 「用意は全て、済ませています。だからあとは、覚悟を決めるだけ」  そっと、微笑みかける妃は。 「いいや、覚悟だって、とうの昔に決まっている」  お前を愛すると決めた、瞬間に。  寂れた教会が、神様の不在を嘆いている。  終わってしまったその場所こそが、俺たちの関係の終焉に相応しいと思ったのだ。 「中に入ったら、もう二度と戻ることは出来ませんよ」 「それで、いい」  言ってから、少し首を振って。 「それが、いい」 「……ありがとうございます」  重い扉に、手をかけて。  最期のページを、めくろうか。 「神様に祈りを捧げても、何も解決しない」  妃の細腕が、忙しなく動いている。  手伝おうかと申し出たが、妃は明確に拒絶する。 「それはこの教会に、神様が不在だからでしょうか? それとも、この教会の神様が、私たちの運命を呪っているのでしょうか」  液体を撒き散らす音。  自然と、片手で鼻を覆っていた。 「……こんなところでしょうかね」  水浸しになった教会だが、1点だけで濡れていない場所がある。  それは、教会の隅に放置されていた、ピアノ。 「ここまで大々的にやる必要があるのか?」 「華々しく、終わりたいだけですよ。別に意味はありません」  行為の後の、迷惑さえ顧みず。  自分がしたいと思ったことを、しようとしているのだ。 「ピアノ」  気が付けば、声に出していた。 「最期くらい、ピアノを弾いてくれないか。お前の音色を、聞いておきたいんだ」  一瞬、表情に影がさして。 「……無理ですよ。あのピアノは、放置されてしまって、調律が狂っていますから」  それでも、妃はピアノに近付いた。  流れるような動作で着席して、鍵盤に触れる。  人差し指が沈み、鈍い音が響く。 「ね?」  美しいとは程遠い、歪な音色だった。 「……残念だな」  だが、久しぶりにピアノに腰掛ける妃を見て、とても懐かしい感情がこみ上げてくる。  やっぱり、お前にはピアノが似合っているよ。 「久しぶりに、触りました」 「あれ以来、か?」 「ええ、もう指の運び方さえ、覚えていませんよ」  母親に、ピアノという楽しみを奪われたあの日。  妃の人生から、鍵盤は失われた。 「……そろそろ、頃合いですね」  撒き散らかされた液体を流し見て、覚悟を決めたように呟いた。 「ああ、そうだな」  ピアノに腰掛ける妃の隣へ、並び立つ。 「さよならの時間だ」  ポケットから取り出したのは、マッチ箱。  ガソリンまみれになった教会で、炎を燃やそうか。 「もう、どうにもならないんだな」 「ええ、どうにもなりません」  気が付けば、妃は一冊の本を手にしていた。  宝石を関する本ではなく、人名を関する魔法の本。  『月社妃』を、手にとって。 「最期の1ページ」  与えられた、設定は。 「四條瑠璃に失恋をさせること」  それが、『月社妃』が残された意味。 「役目を果たしたら、自害すること」  それが、『月社妃』が消える意味。 「私だって、理央さんと同じ――紙の上の存在です。都合の良いように使われて、不要になったら破り捨てられるだけなのですよ」  妃の性格上、生と死の境界を覆す禁忌など、そもそも受け入れるはずはないのだが。  例え、今の自分の存在を許すことが出来たとしても、魔法の本がそれを許さない。 「理央も、お前も、最後まで縛られ続けて」  結局、記述された設定に、従う他なかったのか。 「今は、物語の揺らぎの中で、束の間の幸せが許されているだけに過ぎません。時が来たら、いずれ私と瑠璃は別れざるをえないのです」  存在し続ける限り、設定からは逃れられない。  今を誤魔化すことが出来ても、その終わりは間近に迫っていた。 「……とはいえ、それほど悲しいとも思ってはいないのですよ。私の性格上、紙の上の存在になんて何も期待していませんから」  人間ではなく、空想上の存在。  よく似てはいたとしても、結局は紛い物。 「だからこそ、物語から逃れたい」  与えられた設定から、背を向けたい。  それが――物語を放棄するということ。  つまりは、世界からの退場だ。 「あなたまで、付き合う必要はなかったのですが」 「お前を失った世界に、何の興味もないんだよ」  それに、俺はもう。  お前をこういう風に縛り付けたあの場所を、許せそうにもないから。 「このままじゃ、遊行寺家の全てが嫌になっちまいそうだ」  夜子、さえも。 「それにもう、俺は満たされているんだよ。お前に会えて、お前のことが好きになれて、本当に良かった。だから、ここで終わりにしてもいいと、思ったんだ」  一人で行くなら、俺も連れて行け。  くだらない設定ばかりのこの世界から、逃げ出そう。 「それほどまでに、お前のことが好きになっちゃったんだよ」  お前のいない時間に、きっと俺は耐えられないだろうから。  覚悟を決めてしまえば、恐怖はなく。  恐ろしいほど穏やかな心で、俺は終わりを望み始めていた。  俺の告白を、受け入れてもらったあの瞬間から。  俺たちは、こうなるだろうって、わかっていたから。 「――火を、放つぞ」 「はい、嫌なことは、全て燃やしてしまいましょう」  もはや、特別な言葉は何もいらない。  唇を重ねて、身体を重ねて、想いを重ねた俺たちは――ただ、側にいるだけで、全てが満たされているのだから。  マッチ棒の先に、小さな火が灯る。  今からこれが、下らない全てを焼き払ってしまうのだ。 「紙の上の物語なんて、ここで全て終わらせてやる」 「幸せな瞬間に、死ぬことが出来れば――それはハッピーエンドになるのかもしれません」  恋人二人、兄妹二人。  寄り添い、儚く、燃え上がろう。  マッチ棒が、指から離れた。  揺れるように火は落ちていき、やがてガソリンと巡り合う。  小さな火は、やがてすべてを飲み込む炎になって。 「逃げ出したければ、逃げても構いませんよ」  めまぐるしく炎が燃え盛り始める中で、妃は嬉しそうに、笑っていた。  両の手は、鍵盤へ。  音の出ないピアノで、見えない旋律を奏でるのだ。 「ああ……そうだ、そういう音色だったな」  音は、歪。  メロディは、〈杜〉《ず》〈撰〉《さん》。  けれど、思い返すのは幼い日に聞かせてもらった、心地よい響き。  炎が燃え盛る音は、聞こえない。  ただ、在りし日のピアノの音色だけが、俺の脳内を駆け巡っていた。 「――どうして」  遠くの果て、誰かがこちらを見ていた。 「何を、しているの」  愕然とした表情を浮かべながら、紙の上の魔法使いは項垂れていた。  燃え盛る炎を前に、少女は何もすることが出来ず。 「もっと、私の音色を聞いてて下さい」  炎に包まれながらも、熱さを感じることなく指を運び続ける妃。  魔法使いが、視界から消えた。  遠くで、誰かが吠えていた。けれど、もう声は聞こえない。  ああ、これを幸せと呼ぶには、あまりにも寂しすぎると思う。  けれど俺と妃には、こうすることでしか互いを愛することが出来なくて。  他にどうしたら良かったのだろう?  きっと、馬鹿なことをしていると、見ている人は思うのだ。  〈浅〉《せん》〈慮〉《りょ》な選択で、心中をしているのだろうと、鼻で笑ってくれ。 「愛するものは、死んだのですから」  〈春〉《しゅん》〈日〉《じつ》〈狂〉《きょう》〈想〉《そう》を、妃は〈詠〉《うた》う。 「たしかにそれは、死んだのですから」  貴方はもう、死んでしまったのですから。 「もはやどうにも、ならぬのですから」  紙の上の運命に、抗うことは出来なくて。 「そのもののために、そのもののために」  ああ、気が付けば。  ピアノを奏でながら、妃は泣いているじゃないか。  炎に包まれながら、心苦しく泣いているじゃないか。 「私は……!」  〈春〉《しゅん》〈日〉《じつ》〈狂〉《きょう》〈想〉《そう》は、もっと前向きな詩だったような気がして。  どうしてそんな詩を、口ずさんだのだろう。  痛みを感じることもなく、熱を感じることもなく。  炎の音は、音色にかき消され。  音色は、妃の泣き声でかき消される。 「瑠璃と普通に恋をして、普通に生きていられたら、良かったのに……!」  もう逃げることが敵わない、炎の中。  一心不乱に、ピアノを引き続ける妃。  「大丈夫。俺は、ここにいるよ」  後ろから、そっと抱きしめて。  決して一人ではないことを、教えてあげる。 「お前は何度も、不幸せを望んでいたけれど」  頬が、濡れていた。 「やっぱり俺は、お前のことを幸せにしてあげたかった」 「……瑠璃っ」  物語から退場することでしか、今の想いを継続できなくて。  俺を失恋させるためだけに開かれた少女は、魔法の本を恨んでいるのだろう。  だから、そう。  せめて、都合良く生み出された時間の中でも、精一杯意味を与えてあげたくて。  『月社妃』は、決してそのためだけに現れたわけではないと教えよう。 「幸せにも、不幸せにもなれなかったけど――俺はこれで、満足しているよ」  好きな人と、最後の瞬間を迎えられたんだ。 「私も、私も、最期に瑠璃がそばに居てくれて、良かったです」  意識が揺らぎ、視界がぼやける。  炎の熱さはなくとも、身体のうちから何かが削がれ始めていた。  ああ、それが死ぬっていうことなのかなと、ぼんやりと考えていた俺へ。 「好き……瑠璃のことが、大好きですっ!」  最期に、愛情の言葉を口にした妃は。  そのまま、項垂れるように倒れ伏す。  脇においてあった本に、炎が灯る。   本当に終わってしまうのだと、心が悟った。 「大丈夫、俺も、限界だから」  苦しくはない。  辛くもない。  ただ、終わるという実感が、確かに訪れるばかり。  これで良かったのかなと、疑問に思うことはあるけれど。  俺自身が何も後悔していないのだから、それでいいと思うことにした。  結局、全てがうまくいくことなんて、そうそうあるはずがなく。  自分の置かれた環境の中で、何が出来るかを必死に探していくだけなのだ。  病的なまでに狂い始めた俺たちの恋愛は、それでも、ただ必死にお互いを愛そうとした結果なのだ。  不器用な俺たちが、唯一認識した着地点。  それはどうしようもなく愚かなことだったと思うけど、それくらいしか出来なかったんだ。  結局。  兄と妹は結ばれることはないのかなあと、悲しい思考に揉まれた後、俺の意識は完全に停止した。  燃える、燃える、何処までも。  惑う、惑う、何度でも。  違える、違える、痛みとともに。  やっぱり私は、不器用で、馬鹿で、愚かな人間だと思ってしまいます。  自分の運命に愛する人を巻き込んで、そこに幸せを感じてしまっているのですから。  沢山の憤りや不満はあるけれど、それほど悪くない結末だと思っているのが、私という存在です。  月社妃は、身勝手な女の子でした。  「幸せに飢えていた私は、こんな結末でさえ、ハッピーエンドだと思ってしまう」  泣いていたけれど。  弱気になってしまったけれど。  幸せに涙は、つきものでしょう?  最期の最期に、紙の上から逃げ出せた。  半ば反則のような手段でしたが、それでも私の勝利です。  死して消えてしまうなら、瑠璃の心は私だけのもの。  あの魔法使いが何をしようとも、全ては無駄なことなのです。  誰のために、瑠璃を失恋させたかったのでしょうか。  誰の恋を叶えるために、私のことを諦めさせたかったのでしょうか。 「本当に、罪作りな人ですね」  もはや、何をいう必要もないでしょう。  このまま緩やかに、消えて逝きたいと思います。 「さよなら、瑠璃。あなたのこと、心から愛していましたよ」  願わくば、二度と紙の上に縛り付けられないことを、最期に願っておきまして。  置き去りにしてしまった夜子さんのことを心配しながら、私は先におやすみなさい。  = KISAKI END =  芽生えた感情の正体に気付いた俺は、もう迷うことはなかった。  意識してしまえば、それはもう疑うまでもない確かな気持ち。 「好きだ」  真心を、ありったけに込めて。 「俺は、理央のことが好きなんだ」  いつも健気に、尽くしてくれて。  落ち込むことがあっても、笑顔を忘れず元気づけてくれる。  そういう理央の魅力に、俺は心を奪われていた。 「好きな人が、物語に消されそうとしているなら、俺はそれに抗いたい。お前の気持ちを蔑ろにしても、俺は俺の望みを貫きたい」 「る、瑠璃くん……」  信じられないといった、驚きの表情。  この展開は、端から想定していなかったらしい。 「う、嘘だよ、だって瑠璃くんは――!」 「嘘じゃない」  何故、俺の気持ちを疑う。  何故、自らの恋が叶わないと確信している。  そんなんだから、この物語は悲劇に終わってしまうのだろう。 「俺のために、物語を諦めろ。そして、ずっと俺の傍にいてくれよ」  親しい友達としてではなく。  たった一人の、愛する伴侶として。 「……う、あ……」  動揺が、瞳に溢れている。  真正面から見据える俺の視線から、今にも逃げ出しそうだ。 「どうして、お前は俺の気持ちを疑うんだよ。それは、とっても辛いことなんだぞ」  好きだという言葉が、信じてもらえないなんて。  この気持ちが、偽物だと言われているような気がして。 「それは酷く、傷つくな」 「――でもっ!」  それでも、理央は。 「それは、紅水晶に惑わされてるだけだよ! 瑠璃くんは、物語の役割として、理央のことを好きになってくれてるだけで――」 「だったら、お前もそうなのか?」  返す言葉が、一閃。 「お前も、物語の役割として、俺に告白したのか」 「それは……違うよ!」 「そうだろうな。その程度の違いがわからなくなるほど、俺は落ちぶれていないぜ」  あれが、伏見理央の本心だと知って。  そして、これが四條瑠璃の本心だと感じたんだ。 「それでも、俺の気持ちを疑うってんなら」  怯え戸惑う、少女の肩を掴み。 「この気持ちを、身を持って伝えてやるよ」 「ひゃぁっ!?」  半ば無理やり、覆いかぶさるように口吻を。  小さな理央の唇から、俺の熱情を伝えよう。 「ん――!」  熱が熱を呼び、心が熱く滾っていく。  心臓がばくばくと音を鳴らし、触れ合う距離にざわめいた。  恥ずかしさと愛おしさが入り混じり、腕の中の少女の存在を噛みしめる。 「……これでも、伝わらないか?」  男らしく、積極的に行動してみた。  けれど、余裕を見せているのは言葉だけ。 「……瑠璃くん」  手が、僅かに震えていた。  緊張に、胸が張り裂けそうだ。 「思えば、初めて誰かに好きだと口にしたような気がする」  直情的な行動を、初めてとったのかもしれない。 「瑠璃くんは……本当に……」  なすがままの理央は、悲痛な表情で涙を流す。  唇に指を当てて、キスの残り香に触れながら、噛みしめるようにつぶやく。 「伝わってきた……瑠璃くんの、気持ちが……まさか、まさか……」  けれど戸惑いは、次第に確信へと変わる。 「どうしたんだよ、理央」 「……この奇跡を、理央は信じてもいいのかなぁ」  乾いた笑い声。 「あは、あはは……どうしよう、理央、よくわかんなくなっちゃった」  混乱の渦に飲まれながら、ただ言葉を吐き出していく。 「わっかんないよぉ……こんなの、ちょっとも、想像してなかったから……」  ぽろぽろと零れ落ちる本音。 「振られると、思ってたか?」 「失恋しようと、思ってたのに……!」 「馬鹿だな、理央は」  神風特攻じゃないんだから、散って消えることはないだろう。  これから生まれる恋物語も、あるだろうから。 「瑠璃くんが、理央のことを好きになって、くれるなんて」  嗚咽混じりに、漏らす。 「本当の、本当に、瑠璃くんがそう思ってくれるなら」 「……だから、そうだって言ってるだろ」  その気持ちまで、魔法の本に侵させやしない。  俺の気持ちは、俺が決める。 「こんなに幸せなことって、ないよ……!」  今が幸せだと、思えたなら。 「だから、ここで消える選択肢を、選んでほしくないんだよ」  未来に生きようと、思えるだろう? 「俺のために、紅水晶を諦めてくれ」  耳元で、小さくお願いした。  愛する人を失いたくない。  ずっと、傍にいて欲しい。  一から十まで、自分の都合のお願いだった。 「そんなこと、いわれたら」  言葉が、割れそうだ。 「理央はもう、逆らえないよ」  いつもの笑顔は、何処かへ消えて。 「たとえ紅水晶がなくたって、俺はお前を好きになる。それが、俺の選択だ」  ぎゅっと、抱きしめる。  愛しい少女を、もう二度と離さないように。 「……う、あ……ああ……」  やがて、少女は。 「……う、ううううっ、うわぁぁあああんっ!」  苦しそうに、ただただ泣きじゃくる。  それまで抱えていた不満を、洗いざらい吐き出すように。 「理央も、瑠璃くんと一緒にいたいよぉ……!」  『ローズクォーツの永年隔絶』は、終わりを語ることはない。  登場人物が選んだのは、悲しい別離の物語ではなく。  ただ、二人が幸せに笑うことの出来る、未来なのだから。  それは理央にとって、奇跡のような出来事だったと思います。  1%も期待していなかった、想定外の結末。  瑠璃くんが、理央のことを好きだって言ってくれた。  初めて彼を好きになってから、ずっとずっと願い続けていた言葉を、彼は口にしてくれたのです。  理央と、生きたいといってくれました。  それが理央にとって、全てを変えてしまう台詞になってしまいます。  もし、このまま紅水晶を破壊して、物語を強制終了してしまったら。  理央はまた、命令に縛られた生活に戻ってしまいます。  瑠璃くんへの恋心を抱きながら、それを押し殺し続ける日々。  そして――その他にも。  決して見逃せない矛盾を、解決する必要がありました。 「やっぱり、変わってない」  それから、図書館へ帰ってきた理央は、ひっそりとそれを確認します。  儚い希望を添えて開いてみたけれど、やはりそれは今も健在なのです。 「だったら、どうして……」  今、紅水晶を破壊してしまえば、その疑問の答えは明らかになりますが。  しかし、その答えがもし意にそぐわないものだったら、手遅れになってしまいます。  どのくらいの時間、それの前に佇んでいたでしょう。  考えに考えて、悩みに悩んで、理央が辿り着いた選択は。 「このままじゃ、駄目だね」  同じことの繰り返しになってしまう。  それは、嫌だった。  一瞬でも、瑠璃くんが自分を好きだと言ってくれて。  共に生きることを願ってくれて――もう、理央はその魅力に抗えません。 「嘘は、真に」  真は、嘘に。 「夜はたち消え、理を記す」  そうして理央は、禁忌を犯してしまったのです。  刻まれたそれを見つめながら、震えが止まりませんでした。  遊行寺家に仕える者として、してはならない反逆行為。  けれど、闇子さんがいない今――それを咎める人は、いないのです。 「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」  芽生えた奇跡を、掴み取るために。 「理央は、夜ちゃんよりも瑠璃くんを選びます」  そして、禁書室に置かれていた『ローズクォーツの永年隔絶』を手にとって。 「貴方を殺して、理央は生きます」  二度と物語が語られることがないように、ページを破り捨てた。  目が覚めると、隣で理央が眠っていた。  すやすやと、気持ちよさそうに眠る横顔が、とても愛おしく思えてしまう。 「……俺は、本当に」  この娘のことが、好きになっちゃったんだな。  一夜明けてから、今更のように実感する。  あれから、図書館に帰ってきた俺達は、すぐさま夜子や汀に事情説明を求められた。  起きた出来事を包み隠さず伝え、恋人関係になったことを報告した時も、いつにもまして冷たい態度だった。 「そう、良かったわね」  けれど、理央が生きる未来が訪れたことに対しては、素直に安心しているみたいで。 「理央の選択を受け入れた私にしてみれば、この展開は予想外だったけど……これで、良かったのかも」  しかし、全てを納得しているわけではなさそうだった。  俺と理央が付き合うことになった件に関しては、冷たい眼差しを向けるだけ。 「……そして、紅水晶は砕け散った」  原本は、図書館の禁書室に隠してあったらしい。  木を隠すなら森の中、闇子さんから管理を任せられている理央だからこその隠し場所だった。  禁書室から原本を持ってきたとき、既に『ローズクォーツの永年隔絶』は破壊されていた。  考えるまでもなく、理央自身の手によって行われたものだろう。  それを目にした夜子は、悲痛な眼差しを向けたけれど、しかし何も言うことはなかった。  そうして、伏見理央は吸血鬼ではなくなった。  異形の存在などではなく、どこにでもいる普通の少女。  そして――俺の大切な恋人だ。 「ん……にゃ」  そうこうしているうちに、理央が目を覚ます。 「ありゃ、瑠璃くん? どうして理央は、瑠璃くんの部屋に?」 「お前が寂しいからって、俺から離れようとしなかったからだろ」  説明を終えた俺は、そのまま部屋に戻ろうとして、  しかし、デレデレにデレる理央が、べったりとくっついて離さなかった。 「着替えも風呂も入らず、死んだように眠っちまったな」  ベッドに座って、少し雑談して。  しかし、気が付けばお互いに、眠ってしまったらしい。 「にゃー、瑠璃くんのベッドは寝心地良すぎだよー」 「お前の部屋のベッドも、同じもんだろうが」 「違う違う、匂いが違うよ! くんくん、はすはす、いい匂い!」 「…………」  俺からしてみれば、理央の匂いの方がよっぽどいい匂いなんだけどな。  どうして女の子って、あんなにいい匂いがするんだろう? 「えへへ、瑠璃くーん!」  そのまま、理央は俺に抱きついてくる。 「瑠璃くんは、理央のことが好きなんだよね?」 「……言わせんなよ、恥ずかしいから」 「理央も大好きだよー?」 「俺も、大好きだって」  本が閉じた途端、物凄い甘えっぷりである。  元々の甘えたがりの性格だったが、今はその数段上、ストッパーが外れたようなデレっぷりである。 「ちゅーする? ちゅー」 「ちゅー」  そして、俺もまた。 「……ん、ちゅ」  そんな理央の可愛らしさに、溶かされていた。  甘えられるという立場が、とても幸せと思う。 「なんだか、とっても素直だね! 瑠璃くんは、もっとこうクールに躱すと思ってた!」 「ここには、理央しかいないからな。他の奴らがいたら、たぶん無理だ」  強がる必要も、格好つける必要もない。  好きな人の愛情表現に答えて、何がおかしいというのだ。 「えへへ、瑠璃くんは、もしかして理央にめろめろ?」 「骨の髄までめろめろだよ」  紅水晶の意志じゃなく。  俺自身が、恋をしたんだ。 「ふっふっふー、理央は元吸血鬼さんだからね! 男の子を魅了するのは大の得意だよ!」 「チャーム、だっけ? そういえば吸血鬼には、そういう設定もあったよな」  異性の心を惑わす、精神操作。  不死性や繁殖性だけではなく、精神さえも支配してしまう怪物だ。 「そして瑠璃くんは、理央の眷属さんだよ。理央の方がお偉いさん!」 「血でも吸いたくなったか?」  軽口を、叩き合う。 「元気なら、ばっちり貰ったよ!」  幸せそうに、唇をなぞった。  確かめ合った愛情が、熱となって再燃する。 「やっばいよー、今の理央、ちょー幸せだよー」 「……そういえば、闇子さんの命令とやらはどうなったんだ?」  好意を全面的に押し出す理央へ、ふと湧いて出てきた疑問。 「お前はあれがあったから、頑なに魔法の本を閉じようとしなかったんじゃ?」 「過ぎたことはよいではないかー」  けれど理央は、さらりと流す。 「理央にも、命令に逆らう意志を持つことが出来たのです。それは間違いなく、瑠璃くんのおかげだよ」 「……惚気か」  その言葉は、ずるい。 「人を好きになるパワーは奇跡を起こしちゃうのですよ! だから、もうだいじょーぶ!」  ぐっと、元気いっぱいのポーズをとって。 「これからは、理央との甘い甘い蜂蜜のような時間を過ごそ!」 「ああ、大歓迎だ」  それを願って、願って、求めてきたのだから。  もう誰にも、俺達を邪魔することは出来ない。 「それじゃ、理央は朝食の準備があるから先に行くね。今日は何にも用意してないから、簡単なものになっちゃうけど……」 「ああ、もうそんな時間か」  定められた時刻が、迫っていた。 「昨日の今日なんだから、無理すんなよ」 「ふふふ、愛情込めて作るから、お楽しみに!」  それはきっと、いつもの朝食風景とは何も変わらないはずなのに。 「作ってくれる女の子が、ただ彼女になっただけで、更に楽しみになっちゃうな」 「……カノジョ」  はっきりした言葉に、少し理央は恥ずかしがり。 「その響き! とっても、素敵、だね!」 「……好きとかは平気で言えるのに、彼女って言葉は苦手なのか」 「そ、そんなことなし! 彼女、ですから!」 「じゃ、俺は?」 「か、かれ……」  言葉に詰まる、理央は。 「瑠璃くんは、理央の……彼氏さん」  あわわと恥ずかしがりながら、自分の言葉に赤面する。 「な、なんだか響きが、恥ずかしいよぉ……」 「変なところで、純情だなあ……」  その価値観は、よく分からない。 「と、とにかく! 行ってくるね!」 「おー、大切な彼氏にとっておきの朝食を頼むよ」 「わ、わかった! か、彼女、頑張る……!」  ぎこちない言葉を残して、理央は退出していった。 「……やれやれ」  なんだ、俺の恋人は。  死ぬほど可愛い生き物じゃないか。 「俺はこんな可愛い女の子と、一つ屋根の下で暮らしてきたんだな」  女の子として、あまり意識したことはなくて。  「……伏見理央」  だからこそ、今更のように想ってしまうのだ。  目を閉じれば思い浮かぶ、彼女の笑顔。  天真爛漫な笑顔と、むっちりとした体。  抱きしめたときに伝わる体温。  甘く囁く可愛らしい声。 「本当に、心奪われてるんだな」  一人になって、孤独になって、自分の気持ちを振り返る。  「……妃」  言葉に出てきたのは、かつて俺が好きだった少女の名前。  もうこの世にはいない、たった一人の妹だ。 「俺は、伏見理央のことが好きだ」  確認するように、声に出す。 「それだけは、間違いない」  妃が死んでから、俺たちの関係は一方的に終わってしまって。  一年以上、それを引き摺りながら生きてきた。  俺はまだ、俺の妹のことを想っていたのかもしれないが。 「変わらなければならない」  変わらなければいけないのだと、思った。  いつまでも過去に縛られて、前を向いていないようでは――それこそ、妃に怒られてしまうだろう。  あいつは、そういう奴だった。  もし、死んだあいつがここにいたら、自分のことを忘れろっていうんだろうな。 「忘れないよ。絶対に、忘れない」  確かにあった、妃との日々。  けれど、今はもうそれに縋り付いてはいけない。 「全ては、過去にしなきゃな」  終わってしまったんだ。  完膚なきまでに、終わってしまったんだ。  変わらなければいけない。  変わらなきゃいけないときが、訪れたんだ。 「そうか、俺は」  そっと、胸に手を当てて。 「――ようやく俺は、お前を思い出にすることが出来たらしい」  過去にすることが、出来たよ。  前を向いて、新しい恋を見つけたんだ。  月社妃という少女のことを好きになって、よかった。  そして今度は、伏見理央という少女を愛するんだ。 「ああ、どうしてだろう、駄目だな、俺は」  頬を伝う一滴の涙。  最後の悲しみが、形となって流れていく。 「さよなら、妃」  それはとても、悲しくて。  だけど前向きな涙だと、自らに言い聞かせた。  生まれて初めて、恋をした。  生まれて初めての恋が、終わりを迎えた。  初恋は、ほろ苦く。  散って、儚くたち消える。  俺は、正しい失恋を、果たせたらしい。  物語は開いても、現実は待ってはくれない。  吸血鬼の物語が終わった翌日も、学園は登校義務を主張する。  支度を済ませた俺は、廊下へ出て。 「……お?」  その先に、夜子の姿を確認した。  ぼんやりとした表情で、俺を見つめて。  いつもの悪態は、飛び出しては来なかった。 「今日は、制服じゃないのか」  部屋着の代わりじゃなかったらしい。 「……別に」 「?」  疲れたような様子。  気落ちした声。  いつもと違うその様子に、少し不安を覚えるが。 「キミは、理央の事が好きだったの?」 「……どうしたんだよ、急に」  何に、動揺しているのか。 「だって……急だったから」  〈侘〉《わび》しそうに、視線を落として。 「いろいろあって、よく、わからない……」  ぎゅっと胸に手を当てて、弱音をこぼす。 「問題は解決した。理央は、ここにいる。それが、全てだろ」  もう、終わったんだ。  全てが、終わった。 「ちなみに、俺は」  そして、質問に答えよう。  恥ずかしさを堪えながら、確かに主張しよう。  「――理央のことが、好きだよ。一人の女の子として、大好きだ」 「……そう」  怒られると、思っていた。 「理央はもう、あたしの傍にはいてくれないのね」 「え?」 「キミのものに、なっちゃった」 「……馬鹿言うなよ」  それはそれとして、これはこれだ。  お前は何を勘違いしている。 「理央は、これからも変わらなくお前の傍にいるだろ。今までと同じで、尽くしてくれる。理央は、お前のことが大好きなんだから」  命令されたから、ではなく。  夜子のことが、好きだから。  あいつはあいつの意志で、夜子の傍にいる。 「変わらなく……」  けれど、夜子は。 「だったら、どうして」  それでも心細そうに、弱音を吐く。 「――こんなにも、あたしの心は喪失感で満ちてるのかしら」 「……夜子?」 「もう、いい……疲れたわ」  ふらふらと、書斎の方へと向かう夜子。 「おい、朝食はいいのか?」 「いらない。何も、食べたくない」  小さな背中は、遠のいていく。 「キミのことは、嫌いなの。だから、話しかけてこないで」 「…………」  その言葉は、いつも聞かされる拒絶の言葉。 「キミといると、気分が悪い」  けれどそのときは、どうして悲しく聞こえてしまったのだろうか。 「夜子……」  よろよろと姿を消す夜子を見つめながら、俺は途方に暮れてしまう。  どくん、どくん、どくん。  心臓が、激しく鳴り響く。  自分の体がおかしくなったのかと思うほど、物凄い動悸だ。  瑠璃と理央が手を繋いで帰ってきた昨夜から、この胸に襲いかかる感情は何? 「……はっ、はっ……」  息が、乱れていた。  上手く現実に、立っていられない。  安定していたはずのあたしの世界が、音を立てて崩れ去っていくようだった。 「本を、読めば……」  治るの、かしら。  今はすがるように、それに頼る他ない。  黙っていたら、変なことを考えてしまいそうで。  理央と瑠璃の仲の良さが、頭からはなれないのだ。 「うるさい、うるさい、うるさいっ……」  耳元で、嫌な声が囁く。  正体不明な感情が、あたしの心を貪り始めた。 「物語は、ハッピーエンドで終わったの。あたしなんかよりも、瑠璃は上手く終わらせてくれた。だから、それで何も問題ない」  理央の気持ちを受け入れて、任せることがしか出来なかったあたし。  けれど瑠璃は、理央の心を開かせて、最後まで物語を語らせることはなかった。  その、違い。  あたしと瑠璃との、決定的な違いは―― 「理央……」  あたしの傍を離れていく。  誰もがあたしを置いて、去っていく。  それは、理央も同じ。  死ぬまで側にいると約束してくれても、結局はこうなってしまうのだ。 「失うことが、怖い」  今だって、理央はそばに居てくれる。  けれど、心はあたしの傍にあるのかしら? 「寂しい」  理央の、一番になれなかったことが。 「いつか理央は、瑠璃といっしょに……この家から……」  幸せを、望むなら。  考えただけで、心が空っぽになってしまう。  やっぱり、現実はとても息苦しい。  どうして生きることは、こんなに大変なのだろう。 「本は、全てを忘れさせてくれる」  楽しいお伽話。  愉快な語り手。  魅力的な事件の数々。  弱い心が、檻に篭る。  喪失に怯えるならば、初めから何も必要なくて。  本当の本当に、最悪な奴だ。  二度と、顔も見たくない。 「……なあ、お前ら」  苛立ちの篭った声が、耳に届く。 「目障りだから、今すぐ消えろ」  遊行寺汀は、怒っていた。 「……どして?」  きょとんと疑問符を浮かべる理央は、その怒りの意味がわかっていない。 「みんなで朝ごはん、楽しいよ?」  俺と理央と、汀。  夜子を欠いた3人での朝食ではあったのだが。 「みんな? 違うだろ。お前が楽しいのは――二人だからだろうが」  向かい合うように座った、汀。  そして、理央は俺の左隣にいて。 「うんにゃ、よくわからんですな。もしかして、味付けがいけない子?」 「いけないのは、お前だろ……」  もはや怒りを通して、呆れる汀は。 「理央、いけない子? やーん、どーしよー?」  はしゃぎながら、理央は俺に甘えてくる。  べったりと、べったりと、べったりと。 「…………」  肘がぶつかるほど椅子を寄せて、頬が密着するほどすり寄せながら。  砂糖を頭からぶっかけたような、あるいは蜂蜜を撒き散らかしたような、過剰な甘えっぷりを発揮していた。 「はい、瑠璃くん、あーん!」 「あーん」  差し出されたお箸に、俺は素直に口を開く。  「……うん、美味しい」 「理央も、嬉しい!」  もぐもぐと口を動かしながら、理央の甘えん坊に付き合う俺。 「お前、分かってやってるだろ」 「当たり前だろ」 「ぶっ殺す!」  テーブルを乗り越えて襲いかかろうとする汀。 「こら、汀くん! はしたないよ!」 「てめえらの方がはしたねえだろ! 目の前で吐き気がするほどイチャイチャしやがって!」 「別に、羨ましがることはないだろ。女に飢えてるわけでもないだろうに」   彼女なら、とっかえひっかえ作れるくせに。 「そういう問題じゃねえよ! 朝っぱらから、うんざりするようなもん見せんじゃねえ! 乳繰り合いたかったら、部屋でやってろ!」  ばん、と、テーブルを叩いて。 「大体、なんだ瑠璃! お前は公然とイチャつくような性格じゃなかっただろ! クール気取って受け流せって!」 「いや、お前に見せつけるのも面白いかなって」  これが学園とかなら、拒否ってたけど。  図書館なら、問題ないだろう。 「可愛い彼女を自慢したいんだ」 「か、かわっ!」  俺の言葉に、理央は敏感に反応する。 「る、瑠璃くんは、釣った魚にもちゃんと餌を与えてくれる素敵な人だね!」 「その褒め方はなんか嫌だな……」  妙に自虐的だ。 「……ったく、俺はまだ腑に落ちてねえし、納得もしてねえんだがな」  真面目な顔で、汀は言う。 「なんだろうな、とにかく乱雑に終わらせたような気がするんだよ。この終わり方は、きっとまともじゃねえ」 「……汀?」 「あんま、色ボケしてんじゃねぇぞ? 他にも本があるんだから、常に意識してろよ」 「お前こそ、何を警戒してるんだよ」 「何故、禁書室にあったはずの魔法の本が、夜の藤壺学園にあったのか」  さらりと、それを指摘する。 「理央が持ちだしたんじゃないとしたら、一体誰が? それとも、魔法の本が自らの意志で消えたとでも?」 「…………」  確かにそれは、明かされていない疑問だが。  だが、俺は。  持ちだした犯人を咎めようとは、思わなかった。 「……にゃ?」  ちらりと、理央を見て。  それでも、にっこりと笑いかける。 「にゃー、瑠璃くんが理央に見惚れてる!」 「ああ、べた惚れだよ」  恋を願い、恋物語を開いた理央。 「……けっ、勝手にしてろよ」  吐き捨てるように、汀は言う。 「俺は先に行くぞ。お前らと登校なんてしたくねえ」 「あ、気を使ってくれてんのか。サンキュー」 「ぶっ殺すぞてめえ……」  殺意を込めながら、汀は退出する。 「わーい、二人っきりだー」  汀が消えた途端、更に密接してくる理央。 「そうだな、二人っきりだ」  広い食堂で、二人っきり。  この図書館で、二人っきり。 「あーん、する?」 「いいや、そろそろ食べ終わらないとまずいから」  のんびりしてられないだろう。  俺たちも、そろそろ登校しなくちゃ。 「そだね。瑠璃くんと登校だー!」 「お、おい」  俺に抱きついて、フルスロットルの甘えを発揮する理央。 「さすがに、くっつき過ぎだ」  理央の身体が、押し付けられて。  柔らかい部分が、押しつぶされる。 「にゃー?」 「胸が、当たってる。ちょっとは、恥ずかしがれ」 「……む、胸がッ!?」  それまで意識してなかったのが、急に離れる理央。 「る、瑠璃くんも男の子だった!」 「何を当たり前のことを……」  いや、別に今日が初めてじゃないけどな。  甘えて擦り寄ってくる度に、毎回のようにあたっていたけれど。 「あ、当ててるんだよ! 瑠璃くんを、理央の身体でめろめろにするために!」 「んなことされなくても、とっくにメロメロだっての」 「でも、急に瑠璃くんの態度が冷たくなったよ?」 「それは……」  胸を意識した途端、さすがに我慢できなくなったから。  なんて、口にできるはずもなく。 「……そんなことよりも、そろそろ行くぞ。遅刻すんぞ」 「はぐらかされた!」  楽しげに笑う俺たちは、束の間の日常に蕩けていく。 「あ、そーだ、瑠璃くん! 理央、お願いがあるの」 「どうした?」 「今日の放課後、教室に残っていて欲しいの! 駄目かな……?」 「問題ない。何だ、デートにでも行くか?」  まさか理央の方から誘ってくれるとは、思わなくて。 「んーと、デートもしたいけど、まずはもっと青春ぽいことがしたくて」 「青春?」  ああ、そういえば――理央は、そういうのに憧れを持っていたんだっけ。  「好きな男の子と、放課後の教室でお喋りがしたい! 夕陽が差し込む教室で、それはとっても、ロマンチックかなって!」  その願いは、あまりにも些細なものだった。  普通の学生にしてみたら、ありきたりな内容。 「図書館じゃ、駄目なのか?」 「だ、駄目だよ! 理央はまず、普通のことがしたいんだから」 「……そうか」  学園で、友達をつくることも許されていなかった。  そんな少女が、恋人に願うもの。  「わかったよ。まずは、小さな青春を積み上げていこう」  今までできなかったことを、二人でしよう。  焦らず、手を繋いで、肩を並べて。 「理央の笑顔が見られるなら、大歓迎だ」 「やったー!」  いつか、もっと、欲張りになろう。  些細な幸せだけではなく、大きな幸せさえも望んでしまうほど、幸せに溺れさせてあげたい。  もっと、もっと、やりたいことを遂げていこう。  俺の彼女が、世界で一番満たされていると、胸を張れるように。 「……まいったな」 「にゃ?」  可愛らしく、首を傾げる理央を見て。 「理央は少し、可愛すぎる。どうやら俺は、お前に骨抜きにされてしまったらしいな」 「は、はぅ……!」  恥ずかしがる、理央を見つめて。 「す、ストレートに、恥ずかしいよ……」 「俺も、恥ずかしい」  バカップルが、ここにいた。  そんな扱いでさえ、今は喜べるような気がする。  幸せは、人を盲目にする。  けれど、それで何も問題はない。  満たされた心が、蕩けていく。  憂いも、不安も、悩みも消えて―― 「――理央がいてくれるだけで、幸せだ」  お腹が、いっぱいだよ。 「しかし、瑠璃さんも中々手際が良いですねー」 「あん?」  自習、と刻まれた黒板を前にして、彼女は口を開く。 「理央さんのことですよ。すっかりバカップルですね」 「……なんのことだか」  惚けても無駄なことは、理解しているけど。 「またまたー、今日だって、お手手を繋いで登校していたじゃありませんか。わりと噂になっているんですよ?」 「そうなのか?」  周囲は俺たちなんて、見ていないと思ってたが。 「瑠璃さんはともかく、理央さんはとても可愛らしい女の子ですからね。実は、影で人気あるんですよ?」 「……ふぅん」  まあ、当然か。 「それに、あの無防備な胸はもはや凶器です。盛りがちな男子にとって、ついつい目を奪われてしまうのも仕方がありません」 「でも、理央は別に、もててるわけじゃないんだろ?」  友達すら、いなかったんだから。 「んーと、そこは微妙なラインですね。人気はあったと思いますが……その、どうしても理央さんは、周囲に壁を作って、周りの人を遠ざけていますから」  友達を、作らないようにしていた。 「そこは、事情ありということなのでしょう。その辺りは、瑠璃さんの方がご存知では?」  いたずらっぽく。 「彼氏なんですから」 「……ああ、そうだな」  そしてその事情も、乗り越えようとしているのだから。 「でも、男子のえっちな視線から逃げていたのは、正解かもしれませんね。理央さん、結構押しに弱そうですから、そのまま襲われたりでもしたら……」 「そんなことは、俺が許さない」 「……あはは、怒らないでくださいよ」  俺の剣幕に、呆れ笑う彼女。 「男子は、おっぱいが大好きですからねー。瑠璃さんも、例外ではないのでしょう」 「…………」  ノーコメントだ。 「おかげ様で、理央さんの身体は瑠璃さんのものですよ! あのむっちりボディにむしゃぶりつき放題です! いやあ、羨ましいですねー」 「どうしてあんたがうらやましがる……」  言動が、ただのエロオヤジに成り下がってるぞ。 「いいじゃありませんかー。ピロートークしましょ? 私と瑠璃さんの仲じゃないですかー!」 「絶対にそんな関係じゃなかったはずだ……」  こういう話題も、好みなんだな。 「ちなみに、もうえっちはしたんですか?」 「…………」  もう嫌だこいつ。  友達辞めたくなる……。 「どうして黙るんですかー! 教えてくれたっていいじゃないですか! 理央さんの胸の揉み心地とか、聞かせて下さいよ!」 「……頭が痛くなってきた」  下半身全開の男子と喋ってるような気がしてきた。  お前の性別、本当に女か? 「えっ、何? 新入りくんに彼女が出来たの?」  そこで、予想外の人物が会話に乱入してきた。 「あ、本城さん! いいところです、いっしょに尋問しましょう!」 「いいね、付き合うよ。ちなみに彼女って、日向さんじゃないんだね。てっきり僕は、日向さんと爛れた関係になると思ってたのに」 「ふっふっふ、私の心を奪える男性なんて、そうはいませんよ? それよりも今は、瑠璃さんです!」 「……お前ら」  本当に、女の子はこういうの好きなんだな。 「瑠璃さんの彼女は、隣のクラスの伏見理央さんです」 「……伏見? ああ、あのマスコットみたいな子だね」  どうやら、岬も理央のことは知っていたらしい。 「そういえば、学園でもおしゃべりしているところを見かけるね。あの対人恐怖症の伏見さんをものにするとは、新入りくんもやるじゃん」 「……対人恐怖症、か」  なるほど、周囲からはそう思われているんだな。 「ちなみに、もうやることはやっちゃった? 初体験はどんな体位だったの?」 「だからどうしてすぐその話になるんだよ!」  揃いも揃って、脳内花畑かよ! 「伏見さんは見事なものをお持ちだから、さぞ腰の振りがいがあるんじゃないの?」 「…………」  訂正。  岬は、彼女よりも更に面倒だった。 「それがですね、瑠璃さんったら黙秘権を行使するんです。口を割ってくれません」 「ははーん、さては相当マニアックなプレイを要求しているね? 新入りくんは、全く呆れた変態性を持っているんだなぁ」 「頼むから、それ以上馬鹿な台詞を口にするな……俺の中で、女子学生という存在が汚れていく……」 「は? 女子なんて裏ではこんなもんだよ? エロエロ全開だから」 「だったら、せめて幻想の女子像に騙されたままにしてくれ……」  女の子の裏の様子なんて、知りたくない……。 「女の子だって、えっちなことに興味があるのは当然じゃないですか! だから早く、理央さんの乱れっぷりをお話してくださいよー」 「お前らは必死過ぎるんだよ」  入れ食いじゃねえか……。 「……ちなみに、昨夜はお楽しみでしたよね? だって、朝まで同じ寝室で、夜を過ごしていたではありませんか」 「おい、余計なことを言うな!」  岬の目が、きらーんと光る。 「ああ、そうか」  ぽんと、手を当てて。 「もしかして、最初だからと挿入はせず、咥えさせるに留まったのかな?」 「誰かこいつを黙らせろ」  いつからお前は、エロネタ担当になりやがった! 「そういう反応するから、僕も柄になくえろえろなことを口にしちゃうんだよー。女の子に恥ずかしい言葉を言わせるの、好きなんだからー」 「なんだかんだと、瑠璃さんは楽しんでいますよね」 「あのなあ……!」  もう、勘弁してくれよ。 「でも、真面目な話、伏見さんってそのへん疎そうだし、処女っぽいから、新入りくんがちゃんとリードしてあげなきゃね。不安にさせちゃいけないよ?」 「急に真面目になられても」 「……ていうか、俺のことばっかり聞くのは卑怯だろ」  攻められることに我慢ならなくなった俺は、反撃を心に決める。 「お前らこそ、どうなんだよ! 彼氏の一つや二つ、自慢してみろよ」  二人に、恋人がいないことを承知のうえで、聞いてみた。 「いやいや、あいにく様、僕はまだ処女だから」 「あ、私もですー。これでも全年齢な女の子なので」 「……お前ら」  経験もなしに、偉そうに語ってたのか。 「経験がないから、体験談を聞いてみたいんだよー。関心は、いっぱいだからね」 「私は、それが瑠璃さんの弱みになったらいいなと思って」 「…………」  ろくでもない本音に、思わずため息が出る。 「伏見さんと、仲良くしてよね。簡単に別れちゃったら、怒るから!」 「それは、心配するなよ」  なんの、不安もなく。 「理央のこと、俺は本気で愛してるから」  臆面もなく言い放った俺へ。 「そういうのは、本人に言ってあげなよ」  困ったように、岬は笑みを浮かべた。 「そうですよ、愛を囁きながら押し倒してしまえばよいのです」  彼女も、同意して。 「末永く――お幸せになってくださいね」  遠く、見守るような眼差しが、いつもの彼女らしくはなく。 「本当に、本当に、おめでとうございます」  その言葉に、少し距離を感じてしまった。 「あ、ちゃんと初えっち後のお話は、聞かせてくださいよ?」 「誰がするか」  そして、時計の針は約束の放課後へと進んでいく。  伏見理央が、ありふれた日常の一幕に何を求めていたかなんて、あまりにも明白だ。  例えば、放課後の教室でお喋りをしたいということに関しても、特別な何かを願ったわけではないのだろう。 「だからね、あのとき夜ちゃんがね」  がらんどうの教室。 「とっても、とっても、可愛かったんだよ?」  夕陽が差し込む隅っこで、俺と理央は時を過ごす。 「そういえば、この間の数学の試験、満点だったんだー! 頑張っちゃった」  待ち合わせはしたけれど、特別な段取りは不要だ。  自然と、流れに従って、俺たちは机に座り、会話を始めていた。  それは今更取り上げるような会話ではなく。 「瑠璃くんは、お勉強も得意だったよね。今度、勝負する?」  切り取られた日常の一幕が、今はただ、燦然と輝いていた。 「あーん、でも理央、国語は苦手なんだよー」  もの寂しい、二人だけの教室。  だけどどこか、居心地がよく、不思議な暖かさに包まれていた。 「……ただ、話してるだけなのに」  とりとめのない会話を、延々と続けているだけなのに。 「いつまでもここにいたくなる魅力がある」  制服を着て、学園へ通って。  別々のクラスの男女が、恋人になって。  放課後は、離れていた時間を埋めるように、他愛のない会話に花を咲かせる。 「にゃにゃ、瑠璃くん?」  普段の教室は、喧しくて騒々しい。  何十人もの同級生が入り混じり、あちこちで好き勝手に時間を過ごす。  授業中を除いた時間、笑い声は絶えることはなく。  しかし、今だけは、そんな教室という場所が、俺たちの逢瀬の場になっていた。 「……不思議なもんだな」  放課後という時間帯が、心をセンチメンタルにさせているのか。  それとも、オレンジ色に染まる教室が、俺たちの心を狂わせているのか。  いや、違う。  俺の心を奪ったのは、他ならぬ伏見理央じゃないか。 「どしたの?」 「いや、ちょっとな」  ゆっくりと、笑いかけて。 「この時間に、特に目的もなく教室に残るなんて、今まで経験したことなかったからな」  足早に、図書館に帰ることが多かった。  今では、探偵部に向かうことも増えてしまったけど。 「本当はもう、帰らなくちゃいけない時間なのに――それでも俺たちは、ここにいる」  離れたくないのだろうか。  もっと一緒にいたいのだろうか。  甘酸っぱい恋模様のような青春が、鼻をかすめた。 「今だけしか過ごすことの出来ない、限られた空間。理央は、そんな今を大切にしたいな」  学生服を着ている、今。  学生であるのは、あと1年と少し。  それが過ぎ去れば――俺たちはもう、教室に立つことはできなくなる。 「理央は、瑠璃くんと二人で過ごす学園生活に、憧れてたんだよ」  はにかみながら、理央は続ける。 「一緒の制服を着て、一緒に登校して、一緒に休み時間を過ごして、一緒にお昼ごはんを食べる。一緒の部活に励んで、一緒に下校しながら、一緒に笑いあって――」  指折りながら、夢を紡ぐ。 「いっしょに、恋をするの」  恥じらいながらも、瞳は真摯に輝いていた。 「一つ一つが、理央の大切な思い出になるんだよ。こうして、ただなんとなーく、瑠璃くんと放課後を過ごしていることも、全部」  ゆるやかな時の流れに身を任せ、俺たちは雰囲気を堪能する。  〈寂〉《せき》〈寞〉《ばく》〈感〉《かん》に満たされた教室の中で、恋人二人は確かな幸せに満たされていた。 「運動部の、頑張る声が聞こえてきます」  歌うように、理央は囁いた。 「吹奏楽部の音色が、遠く、遠くに反響して」  そこにある幸せを、咀嚼する。 「夕暮れの教室は、暖かさと侘びしさに包まれて」  心から、笑っていた。 「――ふと顔を見上げると、瑠璃くんがいてくれます」 「理央……」 「ここは、夢の世界みたいだね。理央、幸せすぎて死んじゃいそう」 「……馬鹿言うなよ」  誰もいない教室で、理央の肩を抱く。  放課後の雰囲気に、あてられてしまったのかな。 「ずっと、ここにいたいくらい」  小さな願いを呟いた。 「帰りたく、ないよ」 「……そうだな」  同じ気持ちだった。  帰ろうという一言が、口にできないでいる。  いつまでも、誰も居ない教室で愛を語りたい。  そういう衝動に、駆られてしまうのだ。 「瑠璃くん……」  うっとりとした目で、理央は何かを求める。 「理央」  まるで気持ちが通じあったのかと、俺はすぐに行動した。  小さな唇に、触れて。 「……んっ」  夕暮れの教室で、幸せのキスをする。  何度も何度も、お互いの気持ちを確かめ合うように。 「瑠璃くぅん……」  蕩けるような声で、理央はねだる。 「理央は……」  ああ、やっぱり、今日の俺たちは駄目だな。  もう、ストッパーが効かないらしい。 「……いいのか?」  何を、と。  明確な言葉は不要だろう。 「うん……理央は、まだしてないことを、したいかな」  真っ赤に恥じらいながら、それでも俺を求め続ける。 「それに、瑠璃くんは理央の眷属さんだからね」  照れ隠しに、笑顔を咲かせた。 「吸血鬼の命令には、絶対なのです」 「……はは、そうだったな」  そんなことも、あったな。 「理央は、もう瑠璃くんのものなんだから……理央を愛してみせて?」 「それは、命令か?」  いつかの、夜子とのやりとりを思い出して。 「ううん、違うよ」  理央は、笑いながら続けた。 「ただの、求愛です」 「それなら、仕方がないな」  優しく、理央を抱きしめて。  俺たちは、淫らな関係に至ってしまおう。  理央を椅子に座らせて、後ろから手を伸ばす。  制服のボタンを外す度、理央の肩は小刻みに震えていた。 「は、恥ずかしいよぉ……」  顔を真っ赤にさせながら、とろけるような声で囁く。 「大丈夫、優しくするから」  誰よりも大きい、豊満な胸。  宝箱を開けるかのように、息を呑みながら指を這わせる。  下着から弾けるように、零れ落ちた肌。 「やっ……瑠璃、くぅん……っ!」  むに、と。  三本の指で、僅かに掴んでみた。  驚くほど柔らかい感触が、指先に伝わって。 「なんだか、えっちだよぉ……」  身を捩りながら、くすぐったさに悶える理央。 「理央の胸、おっきいね」  片手で掴んだら、零れ落ちそうなほどのサイズ。  指先にのしかかる重量が、とても病みつきにさせられてしまう。 「あっ……んっ」  もう片方の腕は、理央の太ももに這わせて。 「やっ、やっ、やぁっ……!」 「俺に任せて」  耳元で、囁きながら。  ゆっくりと、足を広げさせた。 「は、恥ずかしいよぉっ……」  内腿へ伸ばす手は、艶美な手つきをしていたと思う。 「おっぱい、触って……そこも、触られてるのぉ……」  人差し指が、下着に触れる。  大切な部分に到達した感動に、思わず息を呑む。 「足、閉じちゃ駄目だよ」 「う、うん……」  その間も、片方の腕では胸を愛撫し続ける。  大きな理央の胸は、なるほどずっと弄くり回して痛いほど、柔らかさが心地よい。 「魔性の胸だな」  馬鹿なことを口走りながら、下着を脱がそうと試みる。 「る、瑠璃くん……!」  切なそうな声が、若干の抵抗を試みるも。 「少し、腰を浮かそうか」 「わ、かった……」  有無をいわさない俺の言葉に、理央は為すがままだった。 「す、すーすーするよぅ……」  放課後の教室で、下着を脱ぎ捨てて。 「うううっ、理央、変態さんだぁ……」  甘い甘い関係に、溺れよう。  「どこ、触られたい?」 「えっ、えええっ……どこって、言われても……わかんないよぉ」   むずむずと、身をくねらせながら。 「瑠璃くんが触りたいところを、触って欲しいかな……」 「そうか」  ならば、一旦下は放っておいて、両の胸を揉みしだこう。  めちゃくちゃに、柔らかさを堪能させていただこうか。 「にゃっ、そんなにぎゅっとされると、変な感じするよぉ」  片手では掴みきれない、理央の胸。  一心不乱に指を沈ませ、つかみ、這わせたりして。 「やぁっ、瑠璃くん、えっちだよぉ……! じんじん、するのっ……!」  弄られるだけで、理央の熱は高ぶっていく。 「理央の胸、凄く柔らかいんだな。もっともっと、触っていいか?」  耳元で、囁いて。 「う、うんっ、理央のおっぱい、瑠璃くんの好きにしていいよぉっ……!」  色めいた声を口にして、恥ずかしい言葉を続けてしまう。 「むにむにされるの、いいのぉっ……! 瑠璃くんの手が、あったかくて、えっちで、好きぃっ……!」  明らかに、身体の体温が上昇していた。  胸を揉みしだかられることによって、理央のエンジンも全開のようだ。 「やんっ……! もっと、もっと、もっと……っ!」  やがて、指先の動きは乳首へと向けられる。  人差し指と親指で、摘むように触れてみると。 「ひゃうんっ! い、いまの、何かなっ……?」  強い刺激に、混乱する理央。 「理央の身体、敏感になっちゃってるよぉ……!」  熱くて、熱くて。  刺激が快感へと、変わっていく。 「理央は、エロいな」  わざと、そういう言い回しをしてみたら。 「し、仕方ないよっ、瑠璃くんのことが、大大大好きなんだもんっ……!」  恥ずかしそうに、声をひねり出す。 「好きな人に触られて、嬉しくないはずがないんだから……!」 「そうだな」  嬉しい事を、言ってくれる。  だったらもっと気持ちよくさせたげたいと、再び指を下半身へ伸ばす。  下着を剥ぎとったそこは、空気に晒されていたけれど。 「……うっ、うううっ」  乾いているのではなく、じんわりと湿っていた。 「や、やっぱり理央は……えっちな女の子、かもしれません……」 「そうみたいだな」  指を触れて、なぞるだけで。  とろとろの愛液が、どんどん零れ落ちていく。 「瑠璃くんに触られてるだけで、もう、駄目なの」  だめ、だめ、だめ。 「瑠璃くんの全てが、欲しくなっちゃった」  這わせる指だけでは、満足できず。 「理央は、もっと、もっと、欲しいんだよ」  甘えるように。 「はつじょーしてる理央に、瑠璃くんのをくださいっ……!」 「……もちろんだよ」  急かす理央に、お預けを口にできるほど忍耐力があるわけでもない。  こうまで乱れる理央を見て、滾る熱を抑えられるものか。 「もう少し、胸を楽しませてもらおうと思ったが、それはまた今度だな」  一端、身体を離して、理央を立ち上がらせる。  よろよろとふらつく身体を、優しく机に寝かせる。 「いくよ」 「……うん」  少しだけ、緊張したような面持ちで、挿入を待つ理央。  全てが見通せる位置取りをして、理央の豊満な身体を直視した俺は、食い入るように見つめていて。 「大好きだよ」 「理央も……好き」  ペニスを理央の性器にあてがって、ゆっくりと体重を預けた。 「んっ……あああっ! ひ、ぐぅっ……!」  辛そうな声を出しながら、唇を真一文字に結ぶ理央。  「え、遠慮しないで、奥までっ……! お願いっ……!」 「ぐっ、わかってる!」  ここで、中途半端にもたつくよりも。  少しずつでいいから、進むべきだと思って。 「ん、あっ……! ん……いたい、よぉっ……!」  膣内のぬくもりを、感じるまもなく。  半ば強引に、俺は理央の最奥にまで突き進んだ。 「はぁっ! ん、んんっ……! は、挿入った……の、かな?」 「ああ、挿入ったよ」  根本まで、しっかりと。  優しく包み込まれるような感覚が、脳髄にまで駆け巡る。 「これは、凄い、な……!」  溶かされるような、快楽。  肉付きの良い理央の身体は、何て素晴らしい感触をしているのだろうか。 「えへへ……理央、これで瑠璃くんのものになっちゃったね」  嬉しそうに、はにかみながら。 「瑠璃くんのが、理央の中に這入ってるよ。すっごい、おっきい……んっ……!」  僅かに、理央が腰をくねらせると。 「やぁっ……! ちょっと動くだけで、気持よくて泣いちゃいそうだよ」 「……全く、大丈夫かよ」  初めての経験に、痛みを覚えているはずなのに。 「だいじょーぶ! 理央は、え、えっちな女の子なので、痛くないのです」  確かに、色っぽい吐息は漏れでているけれど。 「もっともっと、瑠璃くんを強く感じていたいかな……」  気遣って、動かないようとしている俺に対して。  理央は、自分から腰を動かし始めていた。 「んっ……上手く、動け、ないよっ……!」 「理央……」 「あははっ、理央、へたっぴさんだね……! どうしたら、いいのかな」  切なそうに、理央は喘ぐ。 「どうしたら、瑠璃くんにもっと気持ちよくなってもらえるの……?」  俺のために、動かそうとして。 「この体勢じゃ、動きづらいだろ」  正常位は、男のほうが動いてやるべきものだろうに。 「うん……だから……んっ」  それでも、もぞもぞと腰を動かす理央。  何かを求めて、何かを欲しがっている。  刺激を――そして、快楽を。 「わかったよ。だけど痛かったら、言うんだぞ?」  この女の子は、無理をしてしまいそうだから、それまで紳士ぶった態度をしていたけれど。  そうまでエロさを全面に押し出されてしまったら、もう我慢できない。 「うん、動いて。激しく、理央をいじめて?」  その言葉が、理性のストッパーを外してしまう。  ゆっくりと、だが、確実に――俺は、腰を振り始めたのだ。 「あっ、あっ、あんっ――! なかで、うごいてるっ……! やんっ!」  感触を、確かめるような腰の動かし方。  理央の中にこすりつけるように、俺は何度も抜き差しを繰り返す。 「やあっ、さっきより、全然凄いのっ……! 瑠璃くん、瑠璃くん、瑠璃くんっ……! やあ、理央、気持ちいよぉっ……!」  そんなゆっくりなストロークにも、一突きする度に身体を撥ねさせて、悶える理央。  教室の中に響く嬌声が、実に性欲を掻き立てる。 「はっ、はっ、はっ――!」 「あうっ、んんっ、やぁんっ……! んぐっ、んっ、ん、んんっ……!」   自分の声の大きさに気付いたのか、それを押し殺そうとするけれど。 「や、やぁっ、出ちゃうの、声、出ちゃうのぉっ……! だめぇっ……!」  乱れる理央に、もはや何かを我慢することは出来なくて。 「もっと、激しくしてっ、瑠璃くんの好きに、暴れて欲しいよぉっ……!」  底なしの性欲が、理央の口から飛び出していく。  初めての経験なのに、何て敏感で濃厚な身体なのだろうか。 「うぁっ……」  腰をふる度に、性器がこすれる音がする。  びちゃびちゃとした淫らな音が、理央の頭を狂わせてしまったのか。 「ひやぁっ……いいのっ……理央、とっても、いいのっ……!」  奥まで突き上げる度、胸が大きく跳ね上がる。  その光景は俺だけが許されたものだと思うと、腰の動きは更に加速する。 「激しいのが好きなら、もっと激しくしてやるよ」  腰をギュッと掴んで、逃さない。 「やぁっ……! めちゃくちゃに、されちゃうよぉ……! 理央、いじめられちゃうんだぁっ……!」  豊満なボディは、男の理性を完全に崩壊させる。  大きな胸は、むしゃぶりつきたくなるほど弾んでいて。 「あっ、あっ、あんっ、あんんっ、ひうっ、ひやぁっ……! ん、んん、んぁあああっ……!」  腰のくびれは扇情的で、太ももは程よい肉付きでむっちりして。  理央の膣内は、おどろくほど優しく包み込み、俺を快楽の彼方へ誘っていく。 「はぁんっ! すごっ、はげしっ……! はげしすぎて、もう、わかんないよぁっ……!」  熟した身体は、あどけない笑顔に不釣合い。  だけどもそのアンバランスさが、これ以上なく淫らで興奮する。 「気持ちいいよぉ……! すっごく、気持ちいいんだよぉ……! もっともっと、気持ちよくなりたいよぉ……!」  やがて。  理央の意識は、最高点へと向かっていく。 「しんじゃいそうなくらい、気持ち、よくてっ……! もう、だめなのっ……!」 「俺も、そろそろ限界だ……!」  激しさを求められる余り。  瞬く間に、自分のほうが限界を迎えてしまった。 「いいよっ、お願い、好きに出してっ、……! 大丈夫だからっ!」 「わかった、膣内に、出すぞ――!」  快楽の虜になった俺たちは、更なる快感を求めて腰をふる。  放課後の教室は、淫らな二人だけの世界を形成していた。 「きてっ、きてっ、理央の中に、全部出してっ……! 理央も、もう逝っちゃうからぁっ!!」 「ぐっ……!」  そして、最後に大きく、振りかぶるように腰を振って。 「ひう――ん、あああっ、ひぁぁあああああああああああああんっ!!!!」  校内に響き渡るほど、大きなイき声を出してしまって。  どくどくと、精液は吐出されてしまった。 「ふぁっ……ん、くぅ……」  噛みしめるように、射精の感覚に悶える理央。 「ああっ……ん、ぁ……とっても、凄くて、凄くて、気持ち、よかったぁ……」  セックスの余韻に浸りながら、まどろむように笑った。 「理央、エロすぎ」 「うううっ……今だけは、何も言えないよぉ……」  抱き合いながら、互いの愛情を確かめ合って。 「もう少し、このままでいいかな。瑠璃くんの感覚を、ずっとずっと覚えていたいから」 「ああ、いいよ」  射精後、挿入したまま触れ合う俺たち。  そうして肌を重ねあわせたことで、更に愛し合えるような、そんな気がした。 「…………」  二人で帰る、下校道。  初体験の残滓に気恥ずかしさを感じながら、満ち足りた気持ちのまま、歩を進める。  言葉はなくとも、気持ちは伝わっていた。  今はただ、無言の時間でさえも愛おしい。 「……瑠璃くん」  ぎゅっと、手を握ってみたら。  すぐに、理央が反応する。 「どうしよう、心が落ち着かないよぉ……」  頭のなかで、情事を思い出しているのだろうか。  表情が真っ赤っ赤である。 「こ、このままだと、夜ちゃんに怪しまれちゃう」 「怪しむも何も、隠し切れないだろ?」  健全な男女が恋人同士になったら。  遅かれ早かれ、繋がり合うものなのだから。 「そ、そうだけど……でも、なんだかあだるてぃっくな雰囲気に、イケナイ感じがしちゃうのです」 「……気持ちは、分かるけど」  あんまり、そういう話は夜子に悟られたくはないよな。 「うう……思い出しただけでも、消えちゃいそうなくらい恥ずかしい……」 「結構、ノリノリだったけど」 「瑠璃くんは、意地悪だよぉ……」  涙目で、何かを訴える理央。  そういう表情もまた、可愛らしい。 「後悔してる?」  少し、意地悪な質問をしてみた。 「……し、して……ない、けど」  もじもじと恥ずかしがりながら。 「むしろ、とっても、喜ばしいですけども」  言葉を、手探る。 「心と気持ちのバランスが、大変なのです。瑠璃くんは、普通にしてるけど……理央はもう、めろめろだよ」 「めろめろ?」  それはつまり。 「癖になりそうって、ことか?」 「そ、そんなこといってないもん! 理央は、えっちな女の子じゃないよ!?」 「でも、今、めろめろって」 「それは言葉の綾ってやつだから! 気にしないで!」  激しい剣幕で否定する理央。  ついつい面白くて、二度目の意地悪。 「俺は、えっちな女の子のほうが好きだけど」 「理央は、とってもえっちな女の子だよ!!」 「……ははっ」  思わず、吹き出してしまった。 「わ、笑った! る、瑠璃くんが言わせたくせにー!」 「いや、本当にそういうと思わなかったから」  言いそうだとは、思ったけど。 「冗談だよ。どっちだって構わないさ」  理央が理央であるのなら、何ら不満はない。 「むむむ……」  悔しそうに、俺をじっと見て。 「瑠璃くんは、理央をからかったんだ」  ちょっぴり、膨れ面。 「眷属なのに、ご主人様に逆らう悪い吸血鬼さんなんだ」 「その設定、まだ生きてるのか」  驚きである。 「こうなったら、お仕置きが必要だね」  うんうんと、理央は頷く。 「お仕置き?」 「意地悪な瑠璃くんには、理央がお仕置きをしなくちゃだよ。今度、考えておこうっと」  そして理央は、楽しげに笑った。 「えっちなお仕置きか!」 「どうしてそうなるのー!?」 「流れ的に」 「瑠璃くんは狼さんだった!」  驚き慌てる、理央の手を掴んで。 「違うよ」  ちょっぴり、格好つけてみた。 「俺はお前の、眷属だろ」  目を見て、心を見つめて。 「永年の時を共に過ごす、最初で最後の恋人だ」 「……ず、ずるいよぉ」  目を逸らしながら、愚痴るように漏らす。 「格好良い言葉、禁止。このままだと、また我慢できなくなっちゃうよ」 「やっぱり、めろめろじゃねえか」  そして俺もまた、めろめろなんだけどな。 「だって……理央は、瑠璃くんのことが大好きなんだもん」  もはや、互いの気持ちを確かめ合うだけの、バカップルだった。  「本当、どうしようもなく幸せだな」 「うん、理央は今が、人生の中で一番幸せ!」  繋ぎ止められた指が、俺たちの未来の行く末を保障する。  この気持ちは、いつまでも色褪せることはないだろうと、俺たちは確信していた。  初めての恋人、初めての体験を重ねながら、着実に恋の芽は育っていく。  それを若さが故だと表現するのか、はたまた恋に盲目なだけだったのか。  それでも、何一つ疑うことはなく。  今は、理央のことだけを愛して愛して愛し続けようと心に誓う。  けれど、帰宅した俺を待ち構えていたのは。 「瑠璃のお兄ちゃんは、幸せそうだね」  どこかで見たことのある、幼い魔法使いだった。 「その幸せの裏側にあるものを知らずに、のうのうとしていられるなんて――人間は恐ろしいものだわね」  手に持っているのは、一冊の本。  魔法使いは、嘲笑う。 「物語は、これ以上の本を必要としていない。今、必要としているのは――現実にふさわしい、天罰のみ」  その本を、開いてみせる魔法使い。  そこにあるのは、白紙のページ群だった。 「魔法の本は、語らない。現実を語るのは、いつだって人間でしょう?」  きゃはは、黄色い笑い声。 「これから起きるのは、その報い。決して、魔法の本のせいにしないで欲しいわ」 「お前は、何を言っている」  突然現れて、突然、語ってきて。 「ここからはじまる物語は、魔法の本ではないけれど――それでも、今までの形式に則って、それらしい名前をつけてみようかしら」  艶めかしく、魔法使いは笑う。 「『ローズクォーツの終末輪廻』。なぁんて皮肉が効いてて素敵な名前だと思わない?」 「お前は、何者だ」  白い髪に、赤い瞳。  夜子に似た少女は、緩やかに答えた。 「魔法の本の、原作者よ」  そして、魔法使いは闇に消える。  俺の記憶も、無に消える。  目が覚めると、隣に理央が眠っていた。 「…………」  当たり前のように、すやすやと。  幸せそうに、すやすやと。 「……おい」 「んにゃ……」  私服姿のまま、惰眠を貪っている。  その姿は、昨日と全く同じものだった。 「……今日もかよ」  おかしいな、昨日は別々に眠ったはずなんだけど。 「さてはこいつ、潜り込んできやがったな?」  小動物のような可愛さが、少し心に来るものがあるが。  今は、朝を迎えなければならないだろう。 「おい、起きろ」  今は、目覚めさせるべきだ。 「……にゃ?」 「朝だぞ、遅刻するぞー」  寝ぼけ顔を、突っついて。 「ほぇ?」  ちょっぴり、驚き顔。 「理央はどうして、瑠璃くんとおねむ?」 「俺が聞きたいくらいだよ」  頭を掻きながら、言い返す。 「にゃー、瑠璃くんのベッドは寝心地良すぎだよー」 「お前の部屋のベッドも、同じもんだろうが」 「違う違う、匂いが違うよ! くんくん、はすはす、いい匂い!」 「……昨日も同じこと言ってたよーな」  呆れながら笑う俺へ、理央が抱きついてくる。  重量感のある胸が、そのまま背中に押し付けられて。 「えへへ、瑠璃くーん!」  懐かれるのは、嫌いじゃないが。 「瑠璃くんは、理央のことが好きなんだよね?」 「……大好きだ」  べたべたに甘える理央を、適当に流しつつ。 「ちゅーする? ちゅー」 「毎日でも、喜んで」  そして、俺もまた。 「……ん、ちゅ」  流れに身を任せながら、朝っぱらからベタベタで甘い蜜を啜る。  身体に染み付いた愛情が、勝手に答えてしまったらしい。 「――なんだか、とっても素直だね! 瑠璃くんは、もっとこうクールにかわすと思ってた!」 「だから、昨日もいっただろ? お前だけしかいないんだから、恥ずかしがる必要はないって」 「えへへ、瑠璃くんは、もしかして理央にめろめろ?」 「骨の髄までめろめろだよ」  しかし、いつまでものんびりするわけにはいかない。  今日も今日とて、俺たちは学生なのだから。 「ふっふっふー、理央は元吸血鬼さんだからね! 男の子を魅了するのは大の得意だよ!」 「それはもう、いいよ」  吸血鬼は、終わったんだ。  二日前に、紅水晶は閉じられた。 「ありゃ? ご機嫌斜め?」 「そんなことはない」  ただ、なんとなく不毛なやりとりに思えてしまって。 「昨日の今日なのに、瑠璃くんは切り替えが早いね」 「…………?」  そこはかとなく漂う違和感に、俺は気付けないでいた。 「そういえば、なんでまた今日も潜り込んできたんだよ。お前の部屋は、向こうだろ?」 「にゃ? だって、昨日はいっしょにお眠したよ?」 「え?」  そうだったっけ? 「忘れん坊な瑠璃くんには、お仕置きが必要ですな」  そっと、甘えた声のまま。 「あのね、今日ね」  恥ずかしがって。  遠慮がちのまま。 「放課後、教室に残ってて欲しいの。一緒に、お喋りしたいかなーって」 「……また?」 「ま、またじゃないよ! 今日のは理央との、思い出づくりだから!」  焦ったように、首をふる理央。 「だ、駄目かな? おいそがし?」 「うーん、折角だから、別の場所がいいかな」  そこまで、放課後の教室が気に入ったのだろうか。  それでも、2日続けて同じ場所というのは、少し味気ないような気がして。 「それに、今日は探偵部に顔を出しておきたいしな。あんまりサボってると、あいつにまた絡まれる」  何気なく、断ったつもりだった。  そのことに対して、深い意味なんてあると思わなかったから。 「……そっか」  心底残念そうに、俯く理央を見て、罪悪感に心が痛む。  楽しみにしていたのだろうか、断られると思っていなかったのか、落胆の色がありありと見えた。 「そっか……そっかぁ……」  まるで失恋したかのような、気落ちっぷり。 「そ、それじゃー放課後は部室だね! 部室でちゅー!」 「出来るか!」  あいつもいるんだぞ。 「うええ……なんだか瑠璃くん、冷たいよう」 「人前では、自重しよう」  バカップルなのは、二人の時だけでいいだろうが。 「焦ることはないだろう。ゆっくり、確実に、二人の時間を作ればいい」  初体験を済ませたことで、心にゆとりがあって。 「……うん、そだね」  今はそれでいいと、思ったんだ。 「ちょっぴり焦ってた、のかな……」  理央のその表情の意味を、俺は理解することが出来なかった。 「えええ、そんなのできないよー!」 「でも、こういうのは女の子の方から積極的にいかないと、駄目ですから!」 「でも、でも……」 「安心して下さい! 理央さんの自慢の武器を使えば、どんな男性もいちころですよ!」 「うう……」  教室の廊下で、女子二人がかしましい話をしていた。 「か、かなたちゃんは、オトナだね! あだるちっくだよ!」 「これも、探偵の嗜みというやつですよ」 「経験、おありで?」 「…………うっ」  あ、黙った。 「お前ら、何を話してんだよ。丸聞こえだぞ」  我慢できなくなった俺は、声をかけることにする。 「る、るるるる瑠璃くん!!」 「あらあら、女の子の会話を盗み聞きするなんて、宜しくないですよ?」 「廊下で大声で話してんじゃねえよ……」  それでも、惚けながら訪ねてみよう。 「……で、一体何の話をしてたんだ? 俺も混ぜてくれよ」 「あ、あうあうあう……!」  面白いように狼狽する理央。  よっぽど恥ずかしいことをしゃべっていたのか? 「ご、ごめんね瑠璃くん! かなたちゃん! 理央は先生に呼ばれてました! 行ってきます!!」 「あ、おい」 「というわけで、おさらば!!」  顔を真っ赤にさせながら、一目散に逃亡する。 「うふふ、初な人ですねー」 「処女が何をほざいている」  どうせ、ろくでもないことを吹き込んでいたのだろう。 「いえ、理央さんが、愛を確かめるにはどうしたらいいのかにゃ! なんて可愛らしい相談をしてくれるものですから、力になってあげただけですよ」 「あんたに恋愛の相談をして、どうする……」  人選ミスにも程がある。 「瑠璃さんはえっちな女の子が好きだから、積極的に仕掛けてあげるべきだとアドバイスをしておきました!」 「余計なお世話だよ」  それにもう、初めては済ませてあるんだ。  その相談は、今更と言わざるをえない。 「ぶー! ちょっとくらいは感謝してくださいよー! どうせ瑠璃さんのことだから、中々手を出せずにどぎまぎしてたんでしょう?」 「……黙秘する」  語る必要はなし。 「理央さんは色々とやる気満々でしたよ? どうしたらそういう雰囲気になるのかとか、興味津々に訪ねてきていましたし!」 「女子同士の会話を赤裸々に語るな」 「具体的に言えば、どうしたら襲ってくれるかなと」 「お前はもう口を塞げ!」  ここは学園だぞ! 「だから私は、自分から襲うべきだと提案しておきました。瑠璃さんも一人の男の子ですから、可愛い女の子に迫られたら、呆気無く手を出すでしょうと」 「……あんたな」  頭痛がしてきた。 「瑠璃さんがして欲しそうなことを、いくつか言い含めておきましたから、今日の夜はお楽しみ! ですね!」 「…………」  付き合い始めて2日のカップルに、何を求めているんだよ。  理央も、意味不明なくらいに焦りすぎだろう。  昨日、初めてを終えたばかりじゃないか。 「……物足りなかったのかな」  そう思うと、少し申し訳なく。 「瑠璃さんは、女の子と付き合ったら、そこで満足するタイプの人ですか?」  「どういう意味だ?」 「いえ、そのままの意味ですけど。あんまり、理央さんを不安にさせないほうがいいですよ? あの方、結構な寂しがりやさんですから」 「……それは、分かっているつもりだけど」  そもそも、満足なんてしていない。  昨日だって、二人の時間を過ごしながら、幸せの花を咲かせていたはずだ。  付き合ったことがスタートラインであることは、理解しているつもりだ。 「初めてのデートくらい、好きにさせてあげてくださいよ。探偵部よりも、理央さんを優先してくださいな」 「…………」  それは、放課後のお喋りのことを言っているのだろうか。  たしかに俺は、今日の申し出を断って、探偵部を優先したけれど。 「初デートは、済ませたつもりなんだけどな」 「付き合ったばっかりのときくらいは、イチャイチャしたらいいんです。鬱陶しいくらいのほうが、ちょうどいいと思いますよ?」 「……言われなくても、俺と理央はらぶらぶだよ」  少なくとも俺は、そう思っている。 「だったら、それを直接伝えて下さい。どうやら理央さん、断られたことを引き摺っているようですから」 「……ええ?」  驚きが、声に出る。  それを気にして、彼女に相談を持ちかけたのか? 「なんか、こう……ちぐはぐというか、なんだろな。俺としては、この上ない恋人の過ごし方をしているつもりなのに、あいつはそうじゃなかったのか」  理央の願った通り、教室で幸せの時間を過ごして。  何度もキスを重ねて、想いも身体も、一つになって。  満ち足りた気持ちのまま、今日を迎えたつもりだったのだが。 「さてはて、もしかすると瑠璃さんは、どこかで理央さんのご機嫌を損ねてしまったのかもしれませんね」 「そんなことはないと思うけど」 「そうでしょうか? 乙女心は、いつだって理解されない代物ですから」 「特に、あんたの考えはわからねえな」 「というわけで、今日は探偵部の活動はありません。かなたちゃんは、気を利かせて不在になります」  笑顔のまま。 「好きなだけ、いちゃついてくださいな。何なら、えっちなことをしちゃっても構いませんよ? 後片付けさえ、してくれれば!」 「それはもう、昨日したんだけどな」 「なんですとー!」  ついうっかり、口が滑ってみたけれど。 「……って、そんなはずありませんよね。瑠璃さんが、早々に手を出せるとは思いませんし!」 「うるせえよ」  冗談と思ってくれたらしくて、安心した。  ピロートークを行うには、未だ抵抗感が残る。 「折角の可愛い彼女が出来たんですから、幸せにしてあげてくださいよ!」 「当たり前だ」  その気持ちを忘れたことなど、一度もない。  奇妙な既視感と違和感が、俺の背中に張り付いている。  日向かなたが不在の部室で、俺と理央は、寄り添いながら、共に過ごす。 「だからね、あのとき夜ちゃんがね」  二人っきりの部室。 「とっても、とっても、可愛かったんだよ?」  笑顔の、理央。 「そういえば、この間の数学の試験、満点だったんだー! 頑張っちゃった」  ざわめく旨の焦燥感の正体は、何? 「瑠璃くんは、お勉強も得意だったよね。今後、勝負する?」  切り取られた日常の一幕へ、ふつふつと沸き立つ疑問。 「あーん、でも理央、国語は苦手なんだよー」  柔らかな雰囲気に包まれて、それでも理央は語る。 「……なあ、理央」  とりとめのない会話を、延々と続けているだけなのに。 「その話、昨日もしなかったか?」  場所は違っても、内容は同じ。  昨日の今日、俺たちは同じ会話をしたはずだ。 「にゃにゃ、瑠璃くん?」  対して、理央は。 「してないよー! したとしたら、別の女の子です。もしかして、浮気かにゃ?」 「それはないから……」  変なところで、嫉妬するんだな。 「昨日はそれどころじゃなかったもん。瑠璃くんは、もうお忘れ?」 「…………」  昨日。  藤壺学園の教室。  俺と理央は、初めてを重ねた。 「……忘れるかよ」  口にだすのは、少し恥ずかしく。 「忘れられるはずがないだろう」  これからも、二人の初めてを積み重ねていくのだから。 「えへへー、良かったー」  幸せそうに笑う理央。 「そういえば、かなたちゃんはどうしたんだろ? おサボりさん?」 「俺たちに気を利かせて、帰ったよ。あいつのことだから、どっかで隠れて覗き見してるかもしれないけど」 「なんと!」  小さく、驚いて。 「それじゃぁ今日は、二人っきり?」 「そだな。といっても、特にすることもないけどな」  適当に本を読んだり、雑談して。  緩やかな日常を過ごすだけ。 「……それなら、教室でも良かったかな」  2日続けて、理央がそれを望むなら。  答えてあげても良かったかなと、今更のように思う。 「……ふたりっ、きり……」 「……どうした?」  顔を赤らめ、恥ずかしがる理央は。 「な、なんでもないよ!」 「そうか? ならいいけど」  少し様子が変だなとは思いつつ、足を組んで本を開く。  昨日の夜から読みかけていた、とある推理小説だ。 「……にゃ」  部室で集まって、読書をするというのはいつもの俺の行動だった。  一人だろうと、二人だろうと、三人だろうと。  雑談に興じることもあったりするが、割りとベーシックな行動だ。  ただ、一つだけ。  少しだけ意識していたことが、あったりして。  二人っきりであることを意識してしまうと、昨日の理央の感触を思い出してしまう。  指に触れた肌の感触や、見た目以上に華奢な腰つき。  思い出すだけで、顔が真っ赤に染まってしまいそうだ。  「色呆けしてんじゃねえよな」  恥ずかしい。  言ってしまえば、ただそれだけのことだった。  また、昨日のように触れたくて。  でも、がっついているような気がして、及び腰。  大切にしたいと思う気持ちが、読書という逃げの行為を選ばせてしまう。 「…………」  けれど、そんな俺の行動は、理央にとってどう見えていたのか。 「瑠璃くんは、釣った魚に餌をあげない人ですか」 「……へ?」  むっとした理央の表情が、嫌に可愛らしかった。 「り、理央はいつでも準備万端だよ? いちゃいちゃするの、大歓迎!」 「いや、それは」  昨日、十二分にしただろう?  それとも今日も、求めているのか? 「俺はただ、理央の身体とか、心配で」  昨日、初めてを失ったばかりなのに。  あまり無理をしたくはないというのも、本音だ。 「か、かなたちゃんの言う通りだ!」 「はい?」  どうしてそこで、あいつの名前が出てくる。 「やっぱりこういうときは、女の子からぐいぐいいかねばならんです!」 「――うわっ!?」  わけのわからないことを口にして、俺に襲いかかる。  勢いや力はなくとも、人一人に抱きつかれた衝撃は結構なもの。  思わず持っていた本を落として、理央に抱きつかれた俺は。 「今日の理央は、肉食系だよ!」 「お、おいっ!」 「がおー」  日向かなたから何を吹きこまれたのか。 「恋人同士が、当たり前にすることをしたいのです」  じっと、俺を見つめて。 「理央ね、瑠璃くんとえっちなことがしたいんだー」  満面の微笑みから、ベルトに手を伸ばす。  積極的な理央に押し切られ、抵抗することが出来ないまま。  的確な動きで、いつのまにかズボンを下ろされてしまっていた。 「えっへっへー! 瑠璃くんも、なんだかんだで興奮しているじゃありませぬか!」  顕になったペニスを目にして、驚きながらも笑っている。  身体は既に、臨戦態勢だった。 「り、理央……!」  スイッチが入ってしまった理央に、躊躇という文字はなく。 「男の子って、こういうのがして欲しいんだってね」  どこから仕入れてきたのか、恥ずかしそうに胸をはだけさせ。  両の手で掴みながら、ゆっくりと俺のものを包み込んだ。  所謂、パイズリだ。 「ぐっ、それは、危険だ……!」 「えっと、それからどうするんだっけ……まずは、舐めて濡らしてあげるんだった!」  嬉しそうに、舌を出して舐めようとする。 「ごほーし、します!」 「うう……」  やられっぱなしであったものの、嬉しい事にかわりなく。  なんだかんだで、身を任せてしまうのが男の悲しい性である。 「れろっ……ん、ちゅっ……」  迷いなく、亀頭を舐め始める理央。  下を這わせ、優しく唇を付けてみたりと、積極的なご奉仕は。 「ちゅっ、んっ……! はぁむっ……! ん、どう、かな……?」  上目遣いに、覗きこんで。 「れろれろっ……理央の、んちゅうっ……! ふぇら、どうかな?」 「うあっ……そんなの、見たらわかるだろっ」  喋ることも、ままならなくて。  このまま、腰が砕けてしまいそうだ。 「ぬふふっ! それは……ちゅう……嬉しいよっ……!」  嬉しそうな声を上げた理央は、次に手を動かし始める。  大きな胸で挟み込み、じっくりと擦り上げる。  柔らかな理央の胸に包まれながら、それは別世界の快楽。 「こうして、こうして……お口でも、ごほーし、だねっ! ん、あむっ……」  挟まれて、擦られて。  舐められて、咥えられて。 「じゅるっ……ん、ちゅううううっ……! ん、くっ……あっ……!」  激しい理央のパイズリに、もはや喘ぐことしかできないでいた。 「うまく、できてるかなっ? 理央、一人でれんしゅーしてたんだよ?」  合間合間に、尋ねられても。 「瑠璃くんのために、頑張りたくて! ん、ちゅうっ……あむっ、じゅる、じゅるるっ……!」  何も、応えられない。  「あははっ、きゅーだいてん、なのかにゃ!」  無反応な俺だったけれど、理央はそれで満足したらしい。  そういうところだけは、しっかりと伝わってしまっているんだ。 「もっともっと、気持よくさせたげるね」  意気揚々と、パイズリを続行する。 「はむっ……! んっ、んんっ、じゅるっ……! んちゅっ、んちゅうっ……ふぁ……」  吐息が、敏感な部分にかけられて、別の刺激が生まれる。  強弱の突いたその動きが、たまらなく気持ちがいい。 「じゅるっ! ん、んんんっ、れろれろっ……!」  柔らかな理央の胸と、温かい理央の口内が、ベストマッチ。 「あっ、もう、ダメだって……」  腰砕けに、果ててしまいそうだ。 「えっ、は、早いよっ、まだ理央、ごほーしまだまだできるよ!?」  思わず抗議の声を上げるが、その間も手は止まらない。  「くっ、いや、気持ちよすぎて、もう無理」 「だ、だめっ、もうちょっと我慢してっ!」  必死な様子で、パイズリを再会する理央。 「もっともっと、瑠璃くんに尽くしてあげたいの……!」 「いや、もう十分っ……してくれてるって……!」  だから、もうイきそうなんだよ! 「じゅるる……じゅぽっ……じゅるるるるっ……!!」  一心不乱に、ご奉仕を続ける理央。 「んちゅっ、ちゅううっ! ん、はぁっ……! はむっ、ちゅっ……!」  その胸と唇によって、意識は果てまで駆け上がっていく。 「駄目だ、理央、もう……逝く!」 「ふぇっ……!? あむっ、んちゅううううっ! ひひよ、だひて……っ! いっぱひ、だひてっ……!!!」  一際強い、吸い付き。  「ぐっ……!」 「ん――んんんんんんんんんんんんっ!!!!」  思わず腰を引いて、理央の胸と顔面へ向けて、多量の射精をしてしまう。  白濁液が、理央の白い肌を染め上げて、淫靡に彩る。 「ふ、あ……っ! いっぱい、でた……」  頬についた精液を指ですくって、嬉しそうにはにかむ理央。 「気持ちよすぎだから……」  一回のパイズリだけで、精魂尽き果てそうだ。  「あはは、気持ちよくなってくれて、理央も嬉しいよ」  ポケットから取り出したティッシュで、精液を拭い取る。 「むらむら、した?」  乱れた制服を正しながら、理央は甘く囁く。 「このまま最後まで、していいよ?」  蒸気した頬は、更なる魅力を醸し出す。  耽美な理央の振る舞いが、今の俺には抗いがたい魅力を備えていた。 「どうして……お前は」  理性を解き放ち、このまま理央に襲いかかりたかった。  けれど、どうしても俺は本能に従うことが出来なかった。  今の理央を、理解しきれていなかったから。  そこにある違和感の正体が、見えなくて。 「だって、瑠璃くんのことが大好きなんだもん」  何度も繰り返されてきた、好きだという言葉。 「理央はね、とっても不安なの。瑠璃くんと恋人になれたっていう今が、どんなに奇跡なことかを知ってるから、いつそれがなくなるか、怖くて、怖くて」 「理央……?」 「だから、思いが通じた今だからこそ、たくさん愛して欲しいの」  すがるように、ただ。 「理央の初めて、貰って欲しいよ。理央を、瑠璃くんのものにして?」 「……え?」  そこで、初めて。  違和感の芽を、見つけたような気がした。 「初めて? 理央、今、初めてって言ったか?」  そんなはずはないだろう。  伏見理央の初めては、既に奪われてしまっている。  まぎれもなく、俺自身の手によって。 「むむむ! り、理央はえっちな経験なんて、したことないよぉ! いくら瑠璃くんでも、怒っちゃうよ?」 「はい?」  いや、でも、お前。 「瑠璃くんが、理央の初恋なの! だから、瑠璃くんに初めてを貰って欲しくて……」 「…………」  恥じらいながらも、必死に思いを伝えようとする理央を見て。  今朝から続く違和感の正体に、心当たりがつく。 「一つ、聞かせてくれ。お前は、昨日のこの時間、何処で何をしていた?」  放課後に、言葉をかわし、想いを確認して、身体を重ねたはずだけれど。  しかし、理央は別の答えを口にした。 「この学園の教室で、吸血鬼の理央は、瑠璃くんに告白したんだよ。夜ちゃんと、喧嘩もしちゃったね」  それは、俺を戦慄させるには十分の言葉だった。 「それで瑠璃くんが理央のことを好きだって言ってくれて、理央たちは恋人になったんだよ」  何も言うことが出来なかった。  言葉が、黙殺されてしまっていて。 「だから理央は、恋人初日の今日に、瑠璃くんとの思い出を作りたかったの」  放課後の空間に、思いを馳せ。  蕩けるような愛を確かめ合うために、肌を重ねたくて。  だから、今日の理央はいつになく積極的だったのか。  恋人になって、それで終わりたくなかった。  恋人になったからこそ、それ以上の関係へと発展させたかった。 「だから、噛み合わなかったのか」  けれど、それはもう終わってしまったことなんだ。  俺たちの初めては、昨日のうちに終わってしまっている。  放課後に思いを馳せることも、肌と肌で愛を確認することも、経験済み。  それなのに理央だけが、昨日のことをなかったように振舞っている。 「……瑠璃くん?」  凍りついた俺を、心配そうに覗きこむ理央。 「ごめんね、理央、無茶なお願いをしちゃったかな。そうだよね、そうだよね、えっちなことばっかり考えてる女の子なんて、嫌だよね……」 「そうじゃない……そうじゃないんだ」  不安そうにする理央の肩を掴み、今は安心させるようとする。  失われた昨日の記憶。  正しいのは俺か、それとも理央なのか。 「なあ、理央」  確かめるには、一つ質問すればいい。 「今日は、何日だ?」  ためらいがちに理央は首を傾げ。 「えーっと、確か……」  そして。  理央が口にした日付は、まぎれもなく昨日のものだった。  嘘を付いているわけではなく。  それを疑うことはなく、普通に答えてくれた。 「それがどうしたのかな?」 「…………」  今は、何も応えることが出来ず。  ただ、頭のなかで目の前の現実の意味を問う。  抜け落ちた初めての記憶は、何処へ消えた? 「それは、魔法の本の仕業じゃないと思うわ」  その後、書斎に駆け込み、事情を説明した俺へ、夜子は言う。 「記憶の欠落だけでは、物語性があるとはいえないもの」 「そんなはずがないだろ」  一歩、夜子へ詰め寄って。 「明らかに異常だろ! 人の記憶がぽんぽん失われてたまるか!」 「……落ち着きなさいよ。本当、苛々させてくれるわね……」  今日の夜子は、かなり不機嫌だったらしいが、そんなことで臆している状況ではない。 「キミこそ、何でもかんでも魔法の本の仕業にしないで。今、説明してあげるから」  本当に、面倒臭そうな様子だった。  理央の問題は、夜子にしたって切羽詰まる問題であるはずなのに。 「理央のその症状は、昔からなのよ」 「……え?」 「記憶障害があるの。ここ数年はあまり起きていなかったから、すっかり忘れてしまっていたけれど……理央は、昔から記憶の乱れが激しくて」 「そんなの、初耳だ」 「だって、キミや妃が来てからは、ほとんど発生してなかったもの。それに、理央だってあまり知られたくないことでしょうから」 「……それは、そうだけど」  思わず、拳に力が籠もる。 「何より、自覚症状がないのよね。本人は、記憶を失ったことに対して驚くほど無自覚なの。だから、キミも言葉には気を付けなさい」 「どういう意味だ?」 「忘れたということを、責めてあげないで欲しいの。というより、忘れたという事実を伝えないで頂戴」 「……わからないな。忘れてしまったのなら、思い出せばいいだろ。そこで黙認することに、何の意味がある?」  忘れたことに気付かないまま、有耶無耶にする方が恐ろしいのではないだろうか。  本当にそれが、理央のためになるのか? 「一度も、ないのよ」  しかし、夜子は語る。 「失った記憶を取り戻せたことなんて――今まで一度もないの」 「……え」 「どんなにあたしが思い出させようと頑張っても、一度も思い出すことはなかった。その結果に、何度も理央は傷付いてきたわ」  思い出すことが、出来ないから。  忘れたことを、黙っておいて欲しい。  そういう、ことか。 「キミが忘れた思い出を伝えたら、あの子はどうにか思い出そうとするのでしょう。大好きな瑠璃との思い出を、取り戻そうとあがくのでしょう」 「けれど、それは叶わない。失ったものは、取り戻すことが出来ないの」  悲しそうに、俯いて。 「失ったという事実に、取り戻せないという事実に、理央はまた心を痛めてしまうわ。もう二度と、理央にそういう思いをさせたくないの」  その口振りは、過去にも、同じような痛みがあったことを示唆していた。  夜子も何かを忘れられ、そして、取り戻すことが出来なかったのだ。 「どうして理央は、そんな障害を?」 「……理央が忘れる記憶というのは」  けれど、黙ることが許されなことを、夜子は理解していた。 「理央にとって、不都合なものであるということよ」 「……なんだよ、それ」 「……理央は、母さんの命令に縛られているのよ。その呪縛は、今も理央を苦しめている」  命令。  遊行寺夜子に仕える身として、都合の良い存在に仕立て上げるための契約。 「命令に違反する行動をしたら、理央は忘れてしまう。欠落してしまう。そういう風に、刻まれ続けてきたから……」 「おい、ちょっと待て」  命令という言葉の、裏側。  刻まれるという言葉の、実像。 「闇子さんは、理央に何をした」  命令には抗えないと、かつて理央はそういった。  だからこそ、紅水晶が開いている間に気持ちを伝えたかったと。  「義理立てとか、誓いとか、そういう意味ではなく――物理的に、理央は命令に従わされていたのか」  その身に、刻まれて。  不都合な記憶、命令違反を犯せば――自らそれを、忘却するように。  その身に、教えこまれていたのか。 「あたしだって……それを良しと思ったこと何て、一度もないんだから……」 「…………」  遊行寺家の闇を、垣間見たような気がした。 「最後に理央が記憶をなくしたのは、キミが図書館へ初めて来た日の、少し前」  俯いたまま、夜子は語る。 「猫を飼いたがっていた理央に、日頃のお礼として、あたしは珍しく本以外のものを買ったわ」  それは、俺の知らない頃の、幻想図書館の物語。 「小さな猫。生まれたての、可愛い猫だった。理央にプレゼントすると物凄く喜んでくれたのを、今でも覚えている」  薄っすらと、微笑み。 「でも、その翌日、理央はその記憶を欠落させていたわ。猫の記憶、あたしのプレゼント、その他全て。ついでに、子猫もどこかへ消えてしまって」 「母さん曰く、理央と喧嘩して、逃げちゃったらしいけど」  夜子はゆっくりと、俺を見つめる。 「あたしがそのことを理央に伝えると、理央は泣きながら猫を探しに行ったわ。忘れていた記憶と一緒に、いつまでもいつまでも探し続けたの」 「折角のあたしからのプレゼントを、忘れた上に逃がしてしまうなんて、と泣きじゃくって」  夜子からのプレゼントを、理央が喜ぶさまは目に浮かび。  記憶をなくした理央が、そのことに対して傷付いている様子も、同じように目に浮かんだ。 「結局、理央は猫も記憶も見つけることは出来なかったわ。そして、直後――泣きながら探した記憶さえも、欠落した」 「子猫をプレゼントされたことも、子猫と喧嘩したことも、子猫を探しまわったことも、記憶をなくして泣いたことも」 「全てはなかったことになって、理央はいつもどおりに戻ったわ。あたしはもう、そのことを伝えることはしなかった」  忘れたことは、なかったことに。  指摘してしまうと、再び理央は傷付くだろうから。 「今回も、同じようなことが起きてしまうと思うから――だから、理央には伝えないで欲しいのよ。もう、傷付く理央を見るのは、御免なの」 「……どうして、理央は忘れてしまったんだ?」  何が彼女にとって、不都合だったのだろうか。 「実は、あたし」  夜子は、応える。 「軽微な猫アレルギーなの」 「…………」  猫を飼うことによって、夜子の快適な空間が失われる。  それが、トリガーか。 「書斎に籠もるだけだし、理央の部屋の中で飼う分には何も問題ないはずだった。あたしのアレルギーにしたって、深刻なものではないのだから」 「……だからお前は、動物が嫌いなのか」  昔のことを、思い出すから。  嫌な思い出が、あったから。 「じゃあ、猫を探す理央が、記憶を失ったのは?」  夜子の話の、二回目の記憶欠落。  一度目の記憶の喪失を指摘されて、理央が泣きながら探しに出かけたときは? 「理央の仕事は、図書館の生活を支えること。職務放棄は許されないわ」  それは、冷たい言い方だった。  意図的に、そう表現したのだろう。 「……闇子さんは、何処だよ」  沸々と湧き上がる怒りが、抑えられそうになかった。 「分からない。知らない。何処かへ、行ってしまったわ……」  消息不明、音信不通。  散々理央を縛りつけて、当の本人は消えてしまって。 「きっと、もう帰ってこないわ。そんな気が、するの……」  不安そうに、夜子は言う。 「理央への命令を、撤回させなきゃ。じゃなきゃ、理央は……!」 「無理よ。きっと、母さんはもう帰ってこない……」  何かへ怯える夜子は、弱音を吐き続ける。 「だったら、理央はどうするんだよ!」  縛られたままの少女は、いつまでも幸せになれない。 「キミが、なんとかしてあげて」  夜子は、俺に願う。 「記憶を欠落させても、それ以上に理央を幸せにしてあげて」 「……それは」  手の打ちようがないということじゃないか。 「あたしじゃ、駄目なのよ。あたしは、遊行寺夜子。理央を縛り付けていた側の人間だから」  ただ、ひたすらに願う。 「キミは理央の、彼氏なのだから」  その言葉を、繰り返すばかりだった。  書斎を出た俺を待っていたのは、理央だった。 「……理央」  申し訳無さそうに視線を落としながら、ただただそこにいるだけで。 「お前、聞いていたのか」  扉の向こうでの、夜子との会話。 「だって……瑠璃くんが、心配そうにするから」  不安そうに、表情を歪める。  今にも泣き出しそうな、弱々しさがあふれていた。 「理央は、何を忘れちゃってるのかな」  昨日という一日のすべて。 「瑠璃くんは、昨日の理央に何をしてくれたの……?」  付き合って最初の一日が、消滅してしまっている。 「…………」  そのとき、俺は迷っていた。  理央に対して、どういう言葉をかけてやるべきなのか。  そこにあった事実を、ただ伝えればよいのか。 「ごめんなさい……幸せだったことを全部忘れちゃうような女の子、瑠璃くんはきっと嫌いになっちゃうよね」  俺の沈黙を、勝手な解釈として受け止める理央は。 「今日が過ぎて、明日が来て、明後日が待っていて。煌めくような幸せが、少しづつ欠落していく」  心が、弱り切っていた。  俺と夜子の会話を聞いて、心から絶望している。 「やっぱり理央は、幸せになれないのかなぁ……?」  肩を震わせる、一人の少女。  記憶の障害を抱え、それでも不自由な少女に対して、俺は。 「忘れても、構わない」  ただ、本音を伝えることしかでいないのだろう。 「……瑠璃くん?」 「忘れてしまったところで、全てがなかったことになるわけじゃない」  例え、理央の記憶が失われたとしても。  昨日の俺たちが幸せだったことを、今の俺が覚えている。 「忘れてしまったのなら、もう一度幸せになればいい。楽しい思い出が消えていくなら、忘れることが出来ないくらい、二人の思い出をいっぱいつくろう」  今でも、俺との幸せを望んでくれるなら。 「それでも俺は、お前を幸せにしてみせるよ」 「――っ!」  それまで抱えていた何かが、溢れだしていく。  震える肩と唇が、ただひたすらに弱音を紡ぐ。 「理央は、また忘れちゃうかもだよ」  掻き消えそうな、声だった。 「その度に、瑠璃くんは悲しい気持ちになるんじゃないかな……」 「忘れられないくらい、強烈な思い出を作ってやる」  それでも忘れてしまうなら、何度だって。  その程度の障害で終わってしまうほど、俺たちは軽い気持ちで付き合ったわけじゃないだろう? 「瑠璃くぅん……!」  弱々しくすすり泣く少女を見て、俺はこの気持ちに殉じることを誓った。 「……ふむふむ」  その後、しばらくして。  夕食を食べたあとの広間で、俺は日向かなたと顔を向きあわせていた。 「私の知らないところで、そんなことが……」  アメシスト以降、彼女はこうしてちょくちょく図書館に顔を出している。  今日も図々しく夕食を同席し、この時間までくつろいでいたのである。 「あんたにも伝えておいた方がいいって思ってな。もちろん、他言無用で頼むぞ」  伏見理央の記憶障害。  この図書館に出入りするあんたなら、知っておくべきだと判断した。 「付き合い始めたと思ったら、いきなり問題発生ですか。とても、やりきれませんね」 「……そうだな」  彼女の気遣いなど、それどころではなくなってしまった。 「言うまでもないことですが」  一言、彼女は改めて口にする。 「瑠璃さんは、理央さんのことを特別に扱う必要なんてありませんからね? 記憶障害だからって、不必要に大切にすることはありません」 「その症状はとても辛いものですが、だからといって変に意識する必要なんてないのですから」 「いつも通りの瑠璃さんでいてください。いつも通り、理央さんに優しくしてあげて下さい。そういう普通の瑠璃さんに、理央さんは恋したのでしょうから」 「……わかってる」  忘れることを、忘れてしまったことを、振り返らないようにしようと思う。  思い出せないなら、思い出さなくてもいいと思おう。 「でも、今の理央は、忘れることに対してとても怖がっていると思うんだよな。それをどうにか和らげさせたいと思ってる」  手を握っても、肩を抱いても、怯えは止まらなかった。  安心させようとすればするほど、更なる喪失感に怯えているみたいだった。 「……だからこそ夜子さんは、理央さんの記憶障害を自覚させたくなかったのでしょうね」  あの会話を、聞かれていなければ。  理央は自ら忘れていることに気づかず、今も笑えてただろうから。 「でも、それはなんだか誤魔化しているみたいで嫌だな」  それは果たして、幸せと呼べるものだろうか? 「本人が幸せならそれでいい――と、そういう考えはあまり好きではありませんが」  彼女は、言う。 「今の状況を鑑みると、当面は誤魔化しておいたほうが良かったと思います」  現に、今の理央は気落ちしている。  記憶を失うことに対して、怯えを抱えたまま暮らしている。 「彼氏として、彼女の手を握り続けてあげてくださいよ? 少しでも、理央さんの心を支えてあげて下さい」 「……そのつもりだ」  けれど、一方で不安でもあった。  ただ側にいるだけで、理央の怯えを拭えるのか。  あいつは無理して笑ってくれるかもしれないけど、それじゃあ足りないのではないだろうか。  何か、あいつのためにできることが、あったなら―― 「日記帳をプレゼントしてみてはどうでしょう?」  彼女が、提案する。 「日記帳?」 「瑠璃さんと理央さんの、幸せの日記帳です。その日にあったことを書き留めて、忘れてもいいように活字として記録するのです」 「……それは、いいアイディアかもしれない」  思い出は形として残すことが出来る。  それは、今の理央に必要なものではないだろうか? 「ふふふ、流石は頼れるかなたちゃんですね! えっへん!」  胸を張る彼女。 「早速、実践してみるよ。喜んでくれたらいいんだがな」 「はい、きっと喜んでいただけるかと!」  すぐさま部屋に戻ろうとする俺へ、彼女は思い出したようにつぶやく。 「……それにしても、記憶障害ってなんなんでしょうね」 「え?」 「それはとても――都合のいい病気だなって、思ってしまいました」  都合のいい? 「それは本当に、命令によるものなのでしょうか。そもそも命令というのが、どうしてそこまで他人を縛れるのでしょう」  紅水晶の中で、中途半端に説明されたままの『命令』という言葉の意味。 「理央さんが瑠璃さんと結ばれて、突然その『設定』が出てきました。何とも、〈恣〉《し》〈意〉《い》〈的〉《てき》な展開ではありませんか」  最後に、彼女は呟いた。 「……早く調査をしたほうがよさそうですね。手遅れになる前に」  思い立ったら、すぐに行動したくなる。  今日が終わってしまう前に、実行したかった。  日向かなたの提案に賛同した俺は、すぐに自室へ戻り、心当たりを探る。  日記帳。  そういうものを記す癖など、俺にはなかったが。 「……昔、書こうとしたことはあったな」  開封さえされていない、まっさらの日記帳。  ちゃんとした文具店で購入した、少しお洒落な装丁をしている。  〈唆〉《そそのか》されたのだ。  月社妃に、〈唆〉《そそのか》された。  活字を読むことだけではなく、書き記すことに楽しみを覚えていた妃は、俺に筆を執ることを薦めたことがある。  ――読むだけでは勿体ないと、思ったことはないのしょうか?。  『アパタイトの怠惰現象』  あれを例に出すまでもなく、妃は日記をつけるタイプの女の子だったから。  ――幸せを書き留めたいと思うことに、理由は必要ありません。  漠然としたイメージとして、年頃の女の子は日記を記すものというのはあって。  触発された俺は、ついつい日記帳を購入してしまったのだけど。 「……俺が、続くわけねえよな」  始まってすら、なかった。  形から入ろうとして、少し値の張る日記帳まで買ってみて。  けれど、その封を切ることは一度もなく。 「お前に仕事をくれてやる」  触れられることのなかった、日記帳を握りしめ。 「これを、理央にプレゼントしよう」  喜んでもらえるか、面倒臭がられるか。  反応が少しだけ怖かったけれど、それもプレゼントの楽しみ方だと言い聞かせる。  「……よし」  その足で、理央の部屋で向かおうか。  思えばこれが、最初のプレゼントになるのだと――妙な感傷を携えて。 「……あ、瑠璃くん?」 「うげ」  部屋を出た瞬間、廊下で鉢合わせ。  何たる偶然か、奇遇か、不意をついて遭遇してしまう。 「り、理央」  咄嗟に、持っていた日記帳を後ろへ隠す。 「ありゃ? 何かお隠し?」 「いや、別に」  目敏い。 「それよりも、こんな時間にどうしたんだ?」 「……えっと」  少し、もじもじしながら。 「なんだかとても寂しくて、瑠璃くんのお部屋にお邪魔しようかと」  寂しくて。  不安で。  心細くて。 「め、迷惑かなって、思ったけど、でも……」  夜に、女の子が来てくれる。  なのに、艶めかしい期待に胸が膨らまないのは、何故か。 「ああ、それなら丁度良かった」  スマイル、スマイル、スマイル。  〈歓〉《かん》〈待〉《たい》の意を示そうか。 「俺も、理央とお喋りがしたかったところなんだ。何もない部屋だけど、ゆっくりしていけ」  本を隠したまま、部屋の中へ招き入れる。  こんなときでも俺を頼ってくれたことが、確かに嬉しかった。 「ほ、本当? えへへ、嬉しいな」  照れ笑いながら、ぎこちない動作で中へ入る理央。  異性の部屋であることを、少しは意識してくれているのかな。 「わ、なんだか散らかってるね」 「あー、それは」  本棚はぐちゃぐちゃになり、引き出しは開けっ放しのまま。  買って以来どこかに放置していた日記帳を探すため、部屋を引っ掻き回していたところだった。 「理央のお掃除精神に火がついちゃうよ! 掃除していい? 掃除させて? おねがーい!」 「いや、自分の部屋くらいは自分でするさ」  それよりも、今は。 「まあ、座れよ。今日は理央が、俺のお客様だろ?」  部屋の主は、俺で。  訪れた客が、お前だ。 「う、うむ!」  なるべく明るくしようとしているのか、若干ぎこちない笑顔。  記憶障害の話を、気にしないようにしているのか。 「うわぁ、瑠璃くんの匂いでいっぱいだよー。ベッドに、ごろごろしていい? 理央の匂い、つけちゃおー」 「マーキング?」 「これで女の子を部屋に呼んでも、理央の匂いがしちゃうねー」 「馬鹿いえ、そんなことがあるわけないだろ」  何の心配をしているんだか。 「どーだろー」  けらけらと笑いながら、自然に話す。 「瑠璃くんは素敵な人だから、女の子をめろめろにしちゃうよ。みんな、いちころ」 「悪いけど、モテた試しはないんだよ。まともに告白されたことだって――」  ほとんど、なくて。 「それは、運が悪かっただけ。放っておいたら、理央よりも可愛くて素敵な女の子が、瑠璃くんのことを好きになっちゃう」 「……あんまりそういう話はしたくないな」  他の女の子の話しなんて、どうでもいい。  理央はどういうつもりでこの話を振る? 「……いつか、理央が全部忘れちゃったら」  そして、その真意が顔を出す。 「瑠璃くんを好きなことさえ忘れちゃったら、どうしよ」 「…………」  自覚された記憶障害は、未来に不安を遺し続ける。  仕込まれた爆弾が、いつ爆発してしまうのか、理央は不安でしかたがないのだろう。 「なーんて! 瑠璃くんは、理央を幸せにしてくれるんだもんね! 約束してくれたし!」  弱音をこぼした自分を、〈諫〉《いさ》めるかのように。 「ごめんね、ちょっぴり変なコト言っちゃった。だめな子です」 「いや、不安になるのもしょうがないだろ」  俺がどんなに言葉をかけても、苦しみを享受するのは理央自身なのだから。  本当の意味で、その苦しみを理解してあげることは出来ない。 「なあ、理央」 「思い出は、形として残すべきだと思うんだ。忘れないように、忘れてもいいように、いつか、振り返ることが出来るように」  恥ずかしいと思う心を、切り捨てる。  じっと瞳を見つめたまま、ただ真摯に言葉を口にする。 「急だったから、ちゃんとしたものが用意できなかったけど……これ」  背後に隠してあった、まっさらな日記帳を差し出した。  目を丸くする理央は、それがなんだか理解出来ていないらしい。 「さっきは、これを渡しに行こうと思ってたんだよ。ばったり理央と出くわしたから、びっくりしちゃったけど」  照れ隠しを誤魔化すかのように、饒舌になってしまう。  でも、視線だけは絶対に外さないよう、頑張ってみた。 「これからも、伏見理央と付き合っていきたい。忘れん坊な女の子を、きちんと支えてあげたい。だからこれは、そのためのプロセスだ」  格好いいことを言おうとして、上手く言葉が紡げない。  理央の反応が怖くて、心臓が高鳴っている。 「幸せを活字に残そう。今日という日が幸せだったことを、この日記帳に残していこう。そうすれば、理央が何かを忘れてしまったとき――それを振り返ることが出来るだろう?」  忘れて、悲しむことはなく。  確かにあった幸せに、安堵できるよう。 「……と、思ってこの日記帳をプレゼントしようと思ったんだけど……どうかな? 面倒くさい?」  あんまりに理央の反応がなかったから、怖くなって。  伺うように、表情を除くと。 「……書く」  小さな、声。  ふと油断すれば、聞き逃してしまうような微かな声だった。 「理央、いっぱい、書くよ」  声とともに、溢れる涙。  大粒が邪魔をして、上手く声にできていない。 「絶対に、書くもんっっ!!」 「うわっ!?」  大きな声で、宣言して。  理央は俺に、抱きついてきた。  全身を投げ出すような、力いっぱいのダイブ。  その衝撃で倒れそうになったけど、ぐっと力を入れて、抱きとめた。 「うわあああん、なんでこんなに嬉しいんだろぉっ! ひっぐ、ひっぐっ!」 「り、理央……! そんな、大袈裟な……」  たかが、日記帳をプレゼントしただけで、どうしてそんなに泣くんだよ。 「だって、だって……! うええええん!」  泣きじゃくりながら、さめざめと泣き続ける理央。  予想外の反応が、俺を硬直させる。 「大切にするね……! いっぱい、描くから! 瑠璃くんとの思い出、大切にするよ……!」  だけど、嬉しかった。  記憶障害が発覚して、気落ちしていた理央をこうまで喜ばせることが出来たのだ。  それだけで、勇気を振り絞った甲斐があるというものだ。 「今日から、書くよ! 毎日、書くよ! 一度だって欠かすことなく、幸せになるもん!」 「……ああ、そうだな。毎日記していこう」  それは幸せの確認作業だ。 「瑠璃くんは、ずるいよぉ……理央を喜ばせる方法、何でも知ってるんだから」 「そうか?」  そんなつもりはないんだけど。 「側にいてくれるだけでも嬉しいのに、もっともっと、たくさんの幸せを分けてくれる。もう、大好きだよぉぉおお!」 「……それは、照れる」  耳元で宣言される大好きに、心が蕩けそうだ。 「理央も、そんな瑠璃くんに応えたいよ! 大好きな瑠璃くんに、大好きを返してあげたい!」 「……これでも十分、受け取ってるよ」  昨日だって、今日だって。  俺の方が、理央の愛情をたくさんもらっている。  付き合い始めて二日目にして、甘々すぎるほどだ。 「理央、瑠璃くんの傍にいてもいいんだね」  耳元でささやかれる、甘い言葉。 「……ああ、ずっとそばに居てくれ」  心から、それを願ってる。 「その程度の障害、二人で乗り越えようぜ」  闇子さんが遺した命令という呪縛。  幸せになることを許されなかった少女は、そうして幸せになっていく。  それが俺の使命だと、今は心からそう思うんだ。 「――うん!」  腕の中のか弱い少女。  俺の大切な、愛しい人。  記憶という欠片が消えてしまっても、紡がれる恋物語はある。  今はただ、理央を幸せにするために。  俺の全てを、捧げたい。 「理央のことが、心から好きなんだ」  切実に、心がはちきれそうなほど。  今日は、付き合って初めての日。  朝の目覚めとともに、いちゃいちゃしました。  キスをしたり、愛の言葉を囁いたり、それはもうバカップルなほど。  それから、二人で約束をしました。  初めてのデートいうのかな、放課後の教室で、学生らしい逢瀬をしたいという理央の願いでした。  夕暮れの光がライトアップをして、二人だけの教室は素敵なムードを醸し出す。  そして二人は、初めてを実践しました。  二人だけの教室で、契りを交わしたのです。  ああ、それは幸せのぬくもり。  熱を帯びた愛情に焼かれながら、幸せに包まれていく。 「ふわぁぁぁぁぁあっ!」  それは俺が記した、昨日の日記内容だった。  理央が忘れてしまった、あったはずの昨日。 「は、初めて!? 理央、瑠璃くんと!?」 「……まあ、そうだ」  全てを話すことを、決心したから。  既に理央が忘れてしまった昨日については、詳細に書き記した。 「は、恥ずかしいよぉおおっ! 理央と瑠璃くんは、もうオトナの関係だったー!」 「だから俺は、2日続けての理央の行動に、ついていけてなかったんだよ」 「むー、なるほど。瑠璃くんが理央のお誘いに乗り気ではなかった理由が、ようやくわかったよー」  その結果、焦らされた理央が、俺に迫って。  本番ではなく、ご奉仕までということになってしまった。 「で、でも、今日だっていろいろしちゃったね」  放課後の部室で、色々と。 「理央が予想以上に積極的で、驚いた」 「いわないでーっ!」  真っ赤にしながら、恥ずかしがる。 「……ちなみに、他の誰かに絶対に内容を見られるなよ? 詳細に書きまくったから、恥ずかしいどころの話じゃないからな?」  夜子や彼女に見られたら、どんな非難をされるか。 「り、理央だって見せられませぬ! 恥ずかし死んじゃうよー!」 「これ以上にないバカップルの証拠だからな……」 「よーし、早速今日の日記を書かなきゃだね」  ご機嫌に声を弾ませながら、ペンを取った理央。 「えっと、今日は……」  そうして理央は、今日の幸せを記す。 「瑠璃くんと、えっちなことをしてー」  部室で、奉仕をしてもらったこと。 「理央が、昨日を忘れてしまったことが分かってー」  不安に、胸が焦がれたこと。 「それでも瑠璃くんは、理央を幸せにしてくれるって言ってくれてー」  その中で、小さな希望を見つけたこと。 「そして、素敵な日記帳をプレゼントしてくれた」  今に至る、俺たちの思い出。 「文字にして、振り返ってみたら……不思議だね」  にっこりと、理央は笑いかける。 「もしかして理央ってとびっきりに幸せなのでは!」 「そう言ってくれると、嬉しい」  女の子特有の、丸みを帯びた可愛らしい文字。  それらが理央の気持ちを書き記すと、胸の底で何かがこみ上げてくる。  今日という一日を、理央が何を思って過ごしてきたのか。  その詳細が、何文字も使って残されていく。 「好き、好き、だーい好き」  伝わってくるのは、極大の愛情。  ちょっぴりの、不安。  最後に忘れず、満点の幸福。 「……ありゃ、書きすぎ?」  数ページ以上も使った垂れ流しの幸福。 「いや、好きなだけ書こう」  書ききれないほど思い出があるのなら、書ききれるまで書こう。  大丈夫、今日という時間はまだまだあるんだ。  一日を振り返るには、十分だ。 「えへへー、そうだね。いっぱい書くぞー!」 「……二冊目は、近日中にプレゼントしなくちゃな」  このペースだと、早々に使い果たしてしまいそうだ。 「あっ、瑠璃くん瑠璃くん! 大変だよ!」  ご機嫌にペンを走らせる理央は、俺へ。 「今日、あんまりちゅーしてない! 昨日の方が、してるみたい!」 「……あはは」  俺の描いた昨日の思い出と照らしあわせて、焦るようにねだる理央。 「わ、笑われたー! でも、理央としてはちゅーをご所望です」 「喜んで」 「んっ……!」  そうして、この瞬間もまた、思い出が一つ生まれていく。  日記を書きながら、やさしいキスをしたこと。  それは確かな幸せ。 「……キスの味、書いちゃお」  忘れないために。  忘れてもいいように。  振り返ることが出来るように。  思い出が、そこにあったことを証明するために。  この日記帳は、俺たちを繋ぎ止める大切なもの。 「『忘れな日記』って名前をつけてみたよ!」  笑顔の理央が、大事に大事に、日記を撫でる。 「ずっとずっと、大切にするね!」  付き合って、二日目。  一日目を失った少女が、絶望を味わった二日目。  けれどその日も、俺たちは幸せに終わることが出来た。   一冊の『忘れな日記』が、幸せを約束する。  思いつきで生まれたプレゼントが、こうまで効果を発揮してくれるなんて。 「……俺も、嬉しい」  心から、その存在に感謝する。  そして、ページを破る音がした。  目が覚めると、隣で理央が眠っていた。 「…………」  目が覚めると、隣で理央が眠っていた。 「…………」  こみ上げる既視感。  慣れ親しんだ服装は、寝るにはやや不適合。  いつの日かの繰り返しを、既に俺は確信していた。 「……ん」  だからそう、これは頻度の問題なのだ。  理央の記憶障害が、どの程度の頻度で行われているのか。  幸せであればあるほど頻発するのであれば――きっと、今日だって。 「理央」  三度目の、一昨日が始まるのか。  『ローズクォーツの永年隔絶』が閉じた翌日。  俺と理央が、付き合うことを始めた日。   目が覚めると、理央は俺との日々を忘れているのだろう。  あたかも、今日が初日であるかのように。  そうしてまた、放課後デートを求めるのだ。 「……大丈夫」  それでも、失われた日々は確かに存在していた。  理央の記憶が忘却されても、それだけは不変である。  「瑠璃くん……」  寝言で俺の名前を呼ぶ。  可愛らしい寝顔に見とれながら、抱きかかえていた日記帳へ視線を落とした。 「んにゃ……」  薄っすらと、瞳が開く。  理央にとっての初めての日。  俺にとっての三日目が、今から始まる。 「おはよう、理央」  ゆっくりと、微笑んだ。  全てを優しく受け止めようじゃないか。 「おはよう、瑠璃くん。なんだか今日は、素敵だね」  もぞもぞと身体を動かしながら、起床する。 「ありゃ、瑠璃くん? どうして理央は、瑠璃くんの部屋に?」  三度目の疑問符。  「昨日は俺と眠ったからだよ」  けれど不安にさせない受け答えをしよう。  記憶を失っていることに、負い目を感じさせないようにしよう。 「にゃにゃっ!? そ、そうでした……!」  赤らめながら、照れる理央。 「で、でも、なんだか瑠璃くん、ちょっぴり変な感じだね。なんだか優しいよ」 「そうか? 俺はいたって、いつも通りだが」  そしていつも通り、理央を愛している。 「えへへ、そうかなー?」  ころころと、表情は踊る。 「理央と恋人になれて、俺は幸せだよ」 「……あう」  頭をぐりぐりと撫でながら。 「ただ、それだけのこと」 「今日の瑠璃くん、甘々だよぉ……」  それでも、声は嬉しそうだった。 「でも、付き合い始めて、初日だもんね! ちょっとくらい甘々なくらいが、ちょうどいいかも!」 「……そうだな」  初日。  ああ、覚悟はしていたけれど。  実際に口にされてしまうと、寂しい物があるな。 「あっ、そうだー! 理央ねー、瑠璃くんにお願いがあるんだー」  ともすれば、次の言葉は、きっと。  放課後の教室で、二人だけの語らいの時間を求めるのだろう。  三度目の日常ともなれば、受け答えは容易い。 「……なあ、理央」  ちゃんと、伝えなきゃ。  お前が記憶を失っていること、その記憶が文字にして残されていること。  そして、それでも俺は理央のことが大好きなこと。  全てを忘れた理央に、ちゃんと伝えなければ。  記憶を失う度に課される、俺の仕事だろう。 「何かな何かな?」  名前を呼ばれた理央は、人懐っこい犬のように、立ち上がる。  その際、枕元に置いてあって『忘れな日記』が、ぶつかり床に落ちる。 「……ありゃ? ご、ごめんね!」  視線は、自然と日記帳へ。 「日記帳? あははー、瑠璃くんも日記なんて書くんだねー!」  拾い上げて物珍しさに目を丸くする。 「それは、俺の日記帳じゃないよ」 「ほえ? そうなの?」 「ああ――それは、お前の日記帳だ」  この一言で、果たして伝わるのだろうか。  もっと直接的な言葉のほうが、良かったのだろうか。  正しい言葉を口にすることが出来たがどうか、そのときの俺にはわからない。 「理央の、日記帳?」  首を傾げ、困惑する。  ああ、やはり、言葉が足りていない。  それじゃ、何も伝わらない。 「中身を、見て欲しい」  きっと、それで全てが伝わると思って。  俺は、そう促した。 「……う、うん」  戸惑いながらも、ページを開く理央。  その間、反応を待つ俺の胸中は、とても、とても、耐え難いもどかしさがあると思っていたのに。  理央の反応は、早かった。 「ありゃ?」  小さな声が、空気を切り裂く。 「ねえねえ、瑠璃くん」  ページを開いて、俺に見せる。 「何もかいてないよ?」 「……え?」  突きつけられた現実は。  突きつけられた内容は。  俺の拠り所を奪うには、十分過ぎるものだった。 「……え? ええ、えええ?」  確かに、白紙だった。  何も書かれていない。  昨夜、理央と和気藹々と書き合いをした、あの思い出まで消えてしまったかのように。  あるはずのものがない現実に、思わず目眩がしてしまう。 「る、瑠璃くん!? どうしたの!?」  だが。  俺を驚かせたのは、白紙のページそのものではなく。  ああ、違うんだ。  よく見たら、明白じゃないか。  何故、何も書かれていないのか。  俺たちが書き記した内容が、なかったことになったわけじゃない。  よく見て、理解しろ。  ――〈ペ〉《丶》〈ー〉《丶》〈ジ〉《丶》〈が〉《丶》、〈破〉《丶》〈り〉《丶》〈捨〉《丶》〈て〉《丶》〈ら〉《丶》〈れ〉《丶》〈た〉《丶》〈ん〉《丶》〈だ〉《丶》〈よ〉《丶》。 「……そんな」  それは、明らかに乱雑な手際。  無理やり引きちぎったかのような痕跡が、痛々しいほど残っている。  なかったことになったわけではなく。  ただ、直接的な手段を用いられただけ。  では、誰が? 「どうしたの? 瑠璃くん?」  心配そうに、覗きこむ理央。  未だ状況を理解してない理央は、事の重要性に気付いていない。  何かを伝えようとした俺が、何かに惑っているさまを見て、どう思ったか。 「……嘘だろ」  そこまで来て、なんとなく、真実が見えてきた。  失われたページの真実を、理解してしまった。  これはきっと、誰かが悪意を持って行ったものではなく。 「瑠璃くん? 大丈夫?」  部屋の隅に、視線を向ける。  その先にあるのは、小さなゴミ箱。  見るのが、怖かった。  改めるのが、怖かった。  でも――不確定要素を抱えたまま、前を向けそうになかったから。 「ちょっと、待ってろ」  恐る恐る、ゴミ箱を覗きこむ。  全てを覚悟して、全てを許そうと、俺は腹を括ったつもりだった。  これも全て、遊行寺闇子の命令の範疇なのだろう。  理央は、不幸になることを強いられていて――幸せを引き継ぐことが、出来ないのだ。  思い出も、思い入れも、なにもかもすべて。  捨てることを、強要されているのだ。 「…………」  ゴミ箱の中にあったのは、大いなる喪失感だった。  ぐしゃぐしゃに丸められ、無造作に捨てられたページを見たとき、俺の心はどす黒く塗りつぶされる。  ああ、どうしてこんなことが起きてしまうのだろう。  震える指先が、破り捨てられたページを拾い上げる。  皺だらけで、潰された俺たちの記憶。  「う、あ……」  それでも、縋るように広げてみたら、また、心が落ちる。  破られ、捨てられただけではなく。  文字が、黒く塗りつぶされていた。  恨みでもあるのだろうか。  苛立ちでもあったのだろうか。  全てを否定するかのように、ぐちゃぐちゃに潰されてしまっていた。 「……どうして、こんな」  こんなことが起きてしまうのか。  こんなことが、現実に許されてしまっているのか。  縋るように、俺は理央を見つめてしまう。  失意の眼差しで、見つめてしまう。  それが、間違いだったことに気付かないくらい、俺の心は乱されていた。 「……瑠璃くん」 「……………………」  困惑していたはずの理央は、やがて俺の一挙一動の意味を悟る。 「知ってる……理央、これ、知ってる」  震えながら、怯えながら、理解してしまった。 「前も、こんなことがあった。夜ちゃんが、こんなふうに理央を見てたの。可哀想に、なんて瞳で」 「ち、違う……これは、なんでもない」 「もしかして、理央は」  咄嗟に、ページを後ろに隠す。  もはやこの真実は、理央に伝える必要はないと確信して。  忘れたままのほうが良いことも、あるのだと。 「――大事なことを、また忘れちゃった?」  気付いてしまった。  いや、気付かせてしまった、という方が正しいか。  記憶障害自体は、昔から抱えていたもののようだから、理央がそこに至るのも無理はなく。 「そのときの理央は、何がなんだか分からなかったけど……あとで、お館様に教えてもらった。理央は、全てを忘れてしまってたんだって」 「そうじゃない! そうじゃねえよ!」 「きっと、そうなんだよね。久しぶりだから、最初はわかんなかったけど……日記帳と、瑠璃くんの反応……それに、その紙切れ」  さっと、指差す。 「だって瑠璃くん、理央のこと凄い悲しそうな目で見るんだもん。お馬鹿さんな理央でも、すぐにわかっちゃったよ」 「違うって! だからこれは――」  ――なんだって、いうんだ?  今更何を、誤魔化せるのか。 「違わないよ。きっと理央は、瑠璃くんとの大切な何かを忘れちゃったんだよね。それを日記に繋ぎとめようとしたけど、それも失敗した」 「もう、何も言うな。お前は何もいう必要がない」  それ以上、言葉にするのはやめろ。  ただ、辛くなるだけだ。 「――きっと、理央が破いちゃったんだろうね。忘れちゃうのも、なかったことにしようとしちゃうのも、ぜーんぶ理央がしてることだし」 「っ!」  「理央は何回、瑠璃くんとの思い出を忘れちゃったのかな?」 「…………」  何が悪かったのかと言われたら、間違いなく俺の対応が悪かったのだと思う。  破られた日記帳を見て、心を乱し、理央の心に不安の種を植え付けてしまった。  鉄の心で耐えることができていれば、何の憂いもなく今日を過ごせたのだろう。  ――〈そ〉《丶》〈れ〉《丶》〈は〉《丶》、〈本〉《丶》〈当〉《丶》〈か〉《丶》?  結局、伏見理央が記憶障害を抱えている事実は変わらずに。  毎日のように、その症状に襲われている。  例え、今を誤魔化すことが出来たとしても。  明日もそれを、繰り返すのか? 「おかしいなあ……理央の予定では、今朝は人生で一番幸せな朝になるはずだったのに」  根本的な問題を解決しなければ、何も変わらない。  何も、意味が無いのだと、俺は痛感した。 「それとも忘れ去った昨日の理央は、ちゃんと幸せだったのかな?」 「……理央」  3度目の朝。  それなのに、3回目が一番失敗してしまっている。  繰り返すことで、間違えてしまっている。  一つ、歯車が狂えば、立ちどころに全てが駄目になっていく。 「それ、貸して欲しいな」 「……でも」 「貸して、欲しいの」  冷たい指先が、俺の手からページを奪う。 「うわぁ……ぐっちゃぐちゃだよ。こんなの、人が出来ることじゃないね」  無理に笑ってみせる理央の声。 「本当に……こんなことをするなんて……最低だよね……」  涙が混じり、決壊する。 「ごめんね……! こんな理央で、本当にごめんなさい……っ!」  神様に懺悔するかのように、泣き崩れる理央へ。  俺は、ただひとつの言葉を掛けることも出来なかった。  捨てられたページの絶望感が、俺に声を失わせ。  理央が抱えているものの重さに、打ちひしがれてしまっていた。  そういうところが、駄目だったのだろう。  無力な俺が、このとき理央に対して、何かをしてあげることができれば――それ以上理央を泣かせることはなかったのに。 「ごめんね、瑠璃くんっ」  ポロポロと溢れる涙を拭いながら、理央は走り去っていく。 「り、理央!」  遠く、遠く、去っていくその背中は、小さく淋しげで。  一人にしてしまうには不安でたまらなかったのに、その時は叫ぶことしか出来なかった。   残された日記帳が、侘しそうに白紙のページを晒し続ける。  この先に、俺たちの未来を記す時が来るのだろうか。  今は幸せな未来さえ、思い浮かべることが出来なかった。  理央は、お猫さんが大好きです。  愛くるしい仕草と、蕩けるような鳴き声は、とても他の動物さんには真似できない可愛らしさがあります。  理央も、あんなお猫さんみたいに可愛くなれたらなーって思ったりして。  これは、お館様から聞いたお話で、理央は全く覚えていない昔のお話です。  本来なら忘れてしかるべき記憶だけれど、覚えていた方が今後の戒めになるからと、後からお館様に教えられたもの。  理央と、夜ちゃんと、子猫の思い出。  理央自身に記憶が無いけれど、それは他人ごとのようには聞こえませんでした。  ある日、夜ちゃんが理央にプレゼントをしてくれました。  気まぐれに、なんとなく、かもしれないけれど、それでも理央はとても喜んだ……らしいです。  うん、そりゃ喜ぶよね、夜ちゃんからのプレゼントだもん! プレゼントの内容は、小さなお猫さんでした。  何でも、夜ちゃんがお館様にお願いしてくれたらしいのです。  理央の部屋から出さずに、しっかりしつけをする条件で許された理央のお猫さん。  そのときの理央は、とっても幸せで、とっても嬉しくて、泣いちゃったらしいです。  しかし、それも長くは続きませんでした。  その日から、夜ちゃんの体調が悪くなってしまったのです。  元から、あまり健康な方じゃなかった夜ちゃんは、理央と会う度に症状が悪くなってしまって。  理央も、夜ちゃんも、その意味に気付かなかったけれど、お館様だけは気付いてしまいました。  理央に付着した猫の毛。  それが、原因でした。  そう、夜ちゃんは猫アレルギーだったのです。  状況を理解したお館様はすぐに猫を手放すことを選択しようとしますが、それでも、お館様は無理やり理央から猫を奪うということはしなかったのです。   お館様が大切なのは、夜ちゃんです。  けれど、お館様は、理央のことだってどうでもいいと思っているわけではありません。  猫をプレゼントしてもらって、あんなにも喜んだ理央を、お館様は知っているのです。  だから――全てをなかったことにしようとしました。  そのあいだの記憶を忘れるようにと『命令』を下したのです。  『遊行寺夜子を不幸にさせていはいけない』  当時の理央は、過去にくだされた命令に抵触していました。  猫を飼うことによって、間接的に夜ちゃんの生活を乱していたのです。  故に、お館様がそれを望めば、理央は従う他なく。  最初から猫なんていなければ、誰も悲しむことはないだろう。  故に、お館様は理央から直接猫を奪うのではなく、記憶そのものを奪ったのです。  それが、理央とお館様の契約故に。  けれど、事態はそれで収まりませんでした。  理央が記憶を失って、猫は捨てられ、お館様は夜ちゃんに適当な理由で誤魔化して、それで事態が丸く収まると思っていたのに。  理央が忘れたことに対して、夜ちゃんはいつまでも食い下がったのです。  お館様は、後に理央に教えてくれました。  まさか、夜ちゃんが理央のことを、そこまで大切に思っていたなんて、と。  気まぐれにプレゼントをしたわけではなく、きちんと想いを込めて送ったものだったのだと。  それが自分の失敗だと、お館様は語りました。  そして、夜ちゃんは理央の記憶障害を指摘します。  その後は、語るまでもなく明白です。  せっかくの夜ちゃんからのプレゼントを失ってしまった理央は、泣きながら猫ちゃんを探しに行きます。  あてもなく、心当たりもなく、それでも居ても立ってもいられなくて、ふらふらと探しに行きました。  失った夜ちゃんの気持ちが、大事だから。  絶対に、もう一度見つけたかったのです。  それを見たお館様は、もう一度命令を下しました。  理央が図書館からいなくなって、猫探しに必死になるというのは、許されることではありません。  理央は、幻想図書館のメイドさんです。職務放棄はタブーでした。  そして、理央は二度目の記憶を喪失します。  夜ちゃんからプレゼントされたことも、猫探しに必死になったことも、全て忘れて。  お館様は、今度こそ繰り返さないようにと夜ちゃんに説明します。  記憶障害がある。忘れさせたままの方がいい。とかなんとか。  そのときのことは、今でも覚えておいます。 「……理央、あなた」  当時の理央は、夜ちゃんの悲しみの瞳の意味がわからなくて。 「にゃ? どしたの夜ちゃん?」 「あなた……猫のことを……また」 「お猫さん? 夜ちゃんも猫ちゃんの魅力に気付いちゃったかにゃ?」 「……そう」  そのときの夜ちゃんには、理央のことがとても痛々しく見えていたのでしょう。  猫をプレゼントされて、大喜びしたこと。  記憶障害を指摘され、ぼろぼろになるまで探しに言ったこと。  そして全てを忘れて呑気に笑っていること。  その全てが重なりあって、同時に想起して、悲しみ以外の感情は生まれません。  その他があるとしたら、きっと同情くらいのものです。 「ごめんなさい、理央」 「にゃ?」  そのときは、何を言わず抱きしめてくれて。 「勝手な私達で、ごめなさい。許してくれとは、言わないから」  後にお館様に説明されるまで、ただただ謝り続ける夜ちゃんの言葉の意味が、わかりませんでした。 「本来なら、忘れたままの方が良いのでしょう。でも、このことは忘れてはならない私の失敗よ」  しばらくして、書斎に呼び出された理央は、お館様に教えられました。  あのときの、夜ちゃんの言葉の意味。  忘れてしまっていた、記憶のすべて。 「もう二度と、忘却という手段で解決を図ることをしないわ」  それは、無理やり水に流したような方法。  きっと、夜ちゃんは今でも疑問に思っているはず。 「私は決して、あなたのことが嫌いなわけじゃないの」  何度も何度も、お館様は語ります。 「あなたのことは、大好きだし、大切にしたいと思っている」  でも。 「――ただ、それ以上に夜子のことを愛しているの。そのためなら、大好きなものも犠牲にできるほど」  何度も聞いた、お館様の言葉。 「分かっています、だって、理央は」  いつも、こう返していた。 「夜ちゃんを幸せにするために、ここにいるんですから」  夜ちゃんの不幸せの要因になってはいけない。  猫アレルギーの女の子。  夜ちゃんのためなら、大好きな猫だって捨ててしまえる。  体調を崩しちゃったら、本が読めないよ。  理央を心配してくれる女の子。  夜ちゃんのためなら、記憶を喪失してへらへらと笑っていられる。  女の子を不安にさせちゃいけないよ。  本が大好きな女の子に、生まれて初めて仲の良い男の子が出来ました。  きっと、本人は気付いていないのでしょう。  周りの人はみんな気付いているのに、当人だけがツンツンツン。  そのためなら、大好きな男の子だって諦めることが―― 「――できなかったから、こうなってるんだよね」  けれど、咎めるお館様は、ここにはいない。  確かに命令は下されていたけれど、罰する人間はもういない。  「だって、お館様は既に亡くなっているんだから」  ならば誰が、理央を咎めているのだろう?  紙の上で、理央は踊らされているばっかりだ。  あの日は、今日に似ているのかもしれないね。  そう思いながら、理央は図書館を飛び出していました。  目覚めた理央の対応に、心を乱す瑠璃くんの様子。  それがどうしても、あのときの夜ちゃんに重なってしまった。 「……やっぱり、理央は」  ぐしゃぐしゃになった、日記の切れ端を広げながら、涙ながらに思う。 「瑠璃くんと、恋人になれないのかな」  マジックペンで、黒く塗りつぶされた思い出たち。  おそらくはこれが、そこにあったはずの理央の記憶たち。  乱雑な潰され方が、痛々しい。 「放課後……教室……恋人……」  それでも、文字の全てが潰されていたわけではなく。  所々、微かに文字が見えるのです。 「……昨日の理央、とっても幸せそうだよ」  図書館を抜けだす前に、今日の日付を確認した。  自分の認識とのずれが、2日分あったことを知る。  そうして今ここにあるページも、どうやらその2日分。 「こっちは、瑠璃くんが書いてくれたのかな……理央の文字じゃないし」  目を閉じれば、思い浮かぶ。  一日目。  順風満帆な恋人として、楽しい日々を過ごせたのでしょう。  二日目。  理央の記憶障害が発覚して、それでも瑠璃くんは受け入れてくれた。  そして、今日。  ぼろぼろになったページの切れ端が、酷く愛おしく思えてしまう。 「瑠璃くん、失望してた」  誰に? 「理央に」  失望していた。 「……そりゃそうだよ。あたりまえだよ」  誰だって、そうなってしまうものだ。  必死に繋ぎとめようとした結果、更なる仕打ちが待ち受けていたのだから。  このボロボロの日記片を読み解いてみると、どうやらこの日記帳は瑠璃くんがプレゼントしてくれたらしい。  何度も何度も書いてあって、その全てを塗りつぶすことは出来ていない。 「恋人として、初めてのプレゼント」  ぎゅっと、抱きしめる。 「……理央は、破いて捨てちゃった」  自分でも、自覚しないまま。  無自覚に、行動したのだろう。  記憶と同じで――幸せの象徴は、あってはならないものだから。  それが理央の、運命である。 「これからどうしよう」  どうあっても、幸せな理央は明日を迎えることが出来ない。  不幸せな理央しか、明日を待つことが許されていないのだから。  きっと、このまま時が過ぎれば、普通に夜が明けるのだろう。  今をとても悲しむ理央は、何の記憶障害も起こらないはずだ。 「う……ううっ」  ぽたぽたと、気付けば涙が頬を伝う。  水平線を見つめながら、心細い未来にただただ悲しみが襲いかかる。  何もかも、大切な思い出たちが消えていく。  掴みとった幸せが、指の隙間から砂となって零れ落ちていく。  どんなに頑張って抗ってみても、結局は紙の上の魔法から解き放たれることはない。  幸せだと思うたび、理央は何かを失い続けるのだ。  理央の記憶は、永年隔絶から止まっている。  瑠璃くんに告白してから、何もかもが進まない。  まるで、理央の未来は存在していないよって、神様に言われているみたいだった。 「……思い出さなきゃ」  止まらない涙を、何度も拭う。 「それでも理央は、思い出さなきゃ」  抗わなければ、未来は切り開くことはない。  それに、理央は知っている。  何もかもすべてが、絶対のものではないのだから。  もし、闇子さんの命令が理央を完全に縛っているのなら――そもそも、瑠璃くんと付き合うことすら出来ないのだから。  それこそが、闇子さんにしてみれば、許しがたい現状なのに。 「一昨日と、昨日の理央の記憶。絶対に、絶対に、取り戻してみせるもん」  瑠璃くんと二人、笑顔で思い出話に花を咲かせたい。  それが何よりの、理央の幸せだから。  音がなく、声がなく。  ただ、ページをめくる音だけが響く。  あたしは、そういう静寂の中を切り裂く紙の音が、たまらなく好きだった。  紙の手触りや、質感、匂いまで。  インクの染みでさえ、愛すべきものだと思っている。  だが。  今日は、違う。  頭が、重い。  とても、胸が苦しい。 「風邪、かしら」  体中に襲いかかる倦怠感が、読書さえも許してくれない。  何をする気にもなれなくて、ただ息が荒ぶり続ける。 「理央……」  紅水晶が閉じてから、ここのところずっと気分が悪かった。  特に、大嫌いな瑠璃の顔を見る度に、どんどん心が削られて言ったような気さえしたけれど。  しかし、今日は今までの比じゃない。 「ちょっと、まずいわね」  書斎には、呼び出しベルが置いてある。  これを押すと、理央の持っている携帯につながって、あたしが呼び出していることが伝わる。  あたしの引き篭もりを許してくれる、大切な繋がりだ。 「理央……ちょっと、来てくれる?」  たまらなく、ベルを押して。  しかし、応答はなかった。 「……参ったわ、買い物でも、行ってるのかしら……」  繋がらない。  繋がらない。  繋がらない。  こんなこと、滅多になかったのに。 「……う、うう」  理央が来てくれないとわかった途端、更なる倦怠感に襲われる。  脆弱なあたしの身体は、今にも蒸発しそうだ。 「本当、薄情者の使用人よね。身分を弁えて欲しいわよん」  代わりに、誰かがそこにいた。  倦怠感に苛まされるあたしは、機敏に反応することは出来なくて。 「……あなた、誰?」 「きゃははっ、いつもならもっと刺々しい反応を見せてくれるのに、今日に限っては少し優しいのねん?」  現れた誰かは、楽しげに笑う。  だけど、何故だろう。  目の前の人物に対して、妙な親近感を覚えてしまった。  いつものあたしなら、目くじらを立てて追い出すというのに、近くにいることに対して不快感を覚えない。 「……瑠璃とは、逆だ」  本当、どうしたのだろう。  これも全て、風邪のせいなのかしら。 「風邪じゃ、ないわよ?」 「えっ」  誰かが、指摘する。 「ちょっと、心身に負荷がかかっただけ。引き篭もりちゃんは、ちょっとしたことでストレスに参ってしまうからねえー」 「……あたしを、怒らせたいの?」 「きゃははっ、妾の夜子は、とっても脆いから」  あたしの全てを知ってるかのように、誰かは語る。 「嫌なことがあると、すぐに引き篭もる。目を閉じて耳をふさいで、知らないふりをする」 「傷を負わなければ痛みを知ることはないけれど、傷の治し方を学ぶこともなくなる」 「だから……何が、いいたいのよ」  もう、やめて欲しい。  こっちは、とってもしんどいの。 「大丈夫、貴女は強くなる必要なんて、ないのだから」  どうしてだろう。  誰かの言葉は、とても優しさに満ちていて。  そう、お母さんのぬくもりを、垣間見たような気がしたのだ。 「でもね、残念なお知らせがあるのよ」 「……何よ」  誰かは、あたしに語りかける。 「もう、手遅れかしら。夜子の知らないところで、すっかり事態は続いてしまっている」 「どういうこと?」  意味がわからず、たちまち聞き返す。 「瑠璃のお兄ちゃんと、理央ちゃんのこと」  ずきん、と。  胸が、酷く傷んだ。 「きゃははっ、自分の気持ちなんて、自分が一番理解しているってよく言うけれど、夜子に限ってはそうじゃないのよね」  赤い瞳が、交錯する。 「いつか、自分の気持ちを理解したとき、全ての可能性が失われたことに気付いて、貴女は絶望するの。彼の心は、他人の物になってしまって」  意味が、分からなかった。  彼? 誰? 心? 「本当に奪われたのは、別のもの。奪ったのは――誰?」  少女は、あたしの胸を指差す。 「……あたしは、その認識が間違ってるとは思わない。確かに瑠璃は、あたしから理央を奪い去ろうとしてるもの」 「違うわ。それは全て、逆なの。奪ったのは、理央ちゃん」 「馬鹿じゃないの」  それじゃあ、まるで。  それじゃあ、まるで。  あたしが、あの馬鹿のことを好きだって言ってるように聞こえる。  それだけは――絶対に有り得なくて。 「ねえ、夜子。理央ちゃんのなくした記憶の中身、知ってるかしらん?」 「幸せな記憶を失ったとは聞いたけれど、瑠璃のお兄ちゃんから、ちゃんとした内容は聞いていないでしょう?」 「……大雑把に」  当り障りのない日常の欠片を、聞いただけ。 「じゃあ、放課後の教室で語り合ったことは?」 「聞いた。お喋りをするなら、図書館ですればいいのにって思ったわ」 「……きゃははっ」  あたしのその答えに、少女は無邪気に笑った。 「それじゃあ、次の日、日向かなたの計らいで、探偵部の部室で何をしていたかは?」 「さあ、知らないわよ。二人で読書していたんじゃないのかしら」 「きゃはははははっ!」  少女は、賑やかに笑い声を上げる。 「世界はもっと残酷で、貴女の望む幸せを毟り取っていく」  笑いすぎて、泣きそうになりながら、少女はそれを口にした。 「健全な男女が密室で時を過ごすのなら、互いの身体を貪り合うのが普通なのよ?」 「――っ!?」  瞬間、不快感が胃の奥からせり上がってくる。  耐え難い苦痛に襲われたあたしは、思わず倒れそうになって。 「舌と舌を絡め合う濃厚な口付けから始まって、次に彼女の服を脱がしていく。優しい愛撫に嬌声をあげさせられて、彼女は快楽をその身に刻まれていく」 「……やめて」  咄嗟に、耳を覆った。 「彼は大好きだよと囁いて、首筋に口づけをするの。そのまま舌を這わせながら、彼女の胸へむしゃぶりつく。それは、夜子にはない彼女だけの魅力」  悪魔の言葉が、心を犯す。 「やがて彼女は全てを脱がされ、無防備を晒すわ。足を開いて、彼のすべてを受け入れる。そういうのを、人は愛の契と呼ぶのでしょう?」 「もう、やめて」  気付けば、目尻に涙が浮かぶ。 「どうして? 大切な理央ちゃんの、処女喪失の思い出よ?」 「そんなの……聞きたくないっ!」  痛みに、心が叫び声を上げている。 「どうしてそんな話を聞かせるの? あなたは、あたしをいじめたいの?」 「んー、夜子の嫌がる表情は大好きだけれど、そうじゃないわ。嫌がるようなことが起きてしまっていることを、伝えたかっただけ」 「伝えてどうなるのよ! 二人がどうなろうと、あたしには関係ないわ!」 「……自分に正直になりなさいな。いつまでも知らんぷりをしているから、泥棒猫に運命の相手を掻っ攫われてしまうのよん?」 「何を……言って……」 「用意された台本から、大きく逸脱してしまっている。これはもう、修復できないくらいに」  そっと、彼女は呟いた。 「本来なら、瑠璃のお兄ちゃんが、理央ちゃんに恋をすることなんてありえなかったのにね」 「どういう意味……?」  何が何だか、わからないくて。  説明を求めてみても、彼女は答えてくれない。 「もはや、物語は誰もが幸せになれないバッドエンドに向かっているわよん。どうあがいても、恋人になった二人でさえ幸せになれない方向へ進んでるの」  他のだれでもなく。 「瑠璃のお兄ちゃんも、理央ちゃんも、このままじゃどうしようもない負のスパイラルへ堕ちていく」  そして、彼女は言った。 「それに、いずれ瑠璃のお兄ちゃんは気付いてしまうわよ?」 「……何を?」 「紅水晶の物語の中で、理央ちゃんと夜子が、最後まで隠そうとした秘密について」  秘密。  他ならぬ理央のために――口を閉ざし続けていた真実。 「理央は」  絶対に、それを知られたくなかった。 「自分がこの図書館から消えてでも、その秘密を守りたかった」  その覚悟を悟ったあたしは、全てを受け入れた。 「……そうね。でも、理央ちゃんは自ら物語を破壊して、瑠璃のお兄ちゃんを奪っていった」 「それでも夜子は、理央ちゃんのために、その秘密を守りたい?」  試すような、その言葉。 「当然よ」  あたしは、即答した。 「……夜子は、理央ちゃんに感情移入をしすぎたわね。闇子の最初の失敗は、もしかしたらそこなのかもしれない」  呆れながら、彼女は笑った。 「あなたは、何をしようとしているの」 「運命に逆らった少女と、運命に踊らされる少年を、元ある場所に返してあげるだけ」  少し、含み笑い。 「誰もが幸せになれない輪廻より、夜子だけでも幸せになれる終末を。ああ――やっぱりこれは、バッドエンドになっちゃうわね」  天を見上げて、魔法使いは囁く。 「理央ちゃん。貴女が望んだものは、どうしようもない不幸の繰り返し。今、それを実感しているのではなくて?」 「貴女は、理央を助けてくれるの?」 「いいえ、助けない」  魔法使いは、拒絶した。 「少なくとも理央ちゃんは、余計なことをするなと怒るでしょうね。恋愛ごっこに興じていられる自分が、可愛いと思っているからねん」 「……恋愛、ごっこ」 「大丈夫、悪役は全て妾が担ってあげるから。夜子はただ、幸せになればいいのよん」  小さな胸を、張って見せて。 「二人の恋路に、妾が終末を突きつけてあげるから」  きっと、それが。 「――今の不幸の輪廻を終わらせる、唯一の方法だから」  昔、読んだことのある小説に、男の子がなくしものを探すお話がありました。  鍵っ子だったその男の子は、お母さんから渡されていたお家のカギを、どこかで落としてしまったのです。  学校からの下校道や、教室、グラウンド、遊びに出かけた公園を、隅から隅までくまなく探してみたけれど。  日が沈むまで見つけることが出来ませんでした。  涙目になりながら、時間に追われるように探し続ける男の子。  心当たりをすべて探して、それでも見つからなくて、何度も何度も同じ場所を探します。  ここ以外に、どこにあるのかな。  そこにないことは、分かってる。  でも、他に心当たりがなくて。  探さないわけには、いかなかった。  大切な、大切な、何か。  薄っすらと夜が訪れて、男の子の心は不安でいっぱいになります。  このまま見つからなかったら、どうしよう。  お家に帰れなくなるのかな。  泣き出しそうになる男の子。  そして彼は――。 「……ううっ」  探しものは、見つかりません。 「どうしよう……」  昨日や一昨日に訪れたであろう場所を巡っても、理央の記憶はうんともすんともいいません。  ぐしゃぐしゃに捨てられたページ片を、精一杯伸ばし。  黒塗りに潰された思い出を、なんとか読み取って。   一昨日の理央は、昨日の理央は、どんな幸せを見つけてたのだろう。  通学路を辿っても、探偵部の部室にいっても、放課後の教室に来てみても。  なくした記憶を取り戻すことは出来ません。 「一昨日の、理央は、何をしたかったのかな」  そう、自分のことなのだ。  一昨日の理央は、何を望んでいただろう。  それは、今の理央が望んでいることでもある。  瑠璃くんと、放課後でいちゃいちゃしました。  黒く塗りつぶされたとしても、そこにあった文字が容易に思い浮かぶ。 「理央だったら、ここで瑠璃くんとどんなお喋りをしたのだろう」  失った思い出。  その即席を、辿りたい。  目をつぶって、想像してみた。  放課後の教室で、瑠璃くんと二人っきり。  恋人になれた最初の日、理央はありふれた空間を求めました。 「だからね、あのとき夜ちゃんがね」  自然と口に出てきたのは、大切な女の子の名前。  気が付けば口にしてしまう、家族のように思っている女の子。  やっぱり、なんだか照れくさくて、理央はその子の話をしちゃうんじゃないかな。 「とっても、とっても、可愛かったんだよ?」  隣には、誰もいない。  ここには、一人っきり。  それでも、思い出を繋ぎあわせてみることは出来る。  きっと、瑠璃くんは嬉しそうに話を聞いてくれるんだ。  嫌な顔なんて、少しも浮かべずに。 「そういえば、この間の数学の試験、満点だったんだー! 頑張っちゃった」  少し前の、小テスト。  定期試験に向けた大事な内容で、とってもいい成績を残すことが出来た。  そのことがとっても嬉しくて、ついつい瑠璃くんに自慢しちゃう。 「瑠璃くんは、お勉強も得意だったよね。今度、勝負する?」  驚く瑠璃くんに、勝負を申し込んじゃったりして。  意外そうに目を丸くするけれど、瑠璃くんはどうせならと総合成績で勝負を受けてくれるんだ。  瑠璃くんは、お勉強も出来る人だから、きっと理央じゃ敵わない。 「あーん、でも理央、国語は苦手なんだよー」  もの寂しい、二人だけの教室が目に浮かぶ。  だけどどこか、居心地がよく、不思議な暖かさに包まれているみたいで。  眼を開くと、夢の世界は散っていく。  放課後の教室に一人佇む理央。  孤独で、一人ぼっちで、隣には誰も居ない。 「ぜんぜん、ちがう……」  理央が望んでいたのは、そうじゃない。  もっと確かな暖かさが、そこにあったはずなのに。  記憶の欠落が、少しずつ狂わせていく。  幸せが、音を立てて崩れ落ちてしまった。 「……明日も、明後日も、忘れていくのかな」  それとも、不幸な理央だけは、紙の上の魔法使いは許してくれる?  幸せな記憶ばかりを失わせて、不幸せな記憶ばかり残していく。  生きるのは――語るのは、本当に辛い。  図書館に、帰りたくなかった。  何も言わずに飛び出した理央を、もしかすると夜ちゃんは怒っているかもしれない。  瑠璃くんは、何をしているのかな。  見たところ、学園には通っていなかったみたいだけれど。 「そりゃそうだよね」  恋人の有り様に、失望して。  もしかすると、嫌になっちゃったのかもしれない。  破り捨てられたページを見たときに、瑠璃くんの気持ちが伝わってきちゃったから。  失意。  このまま、瑠璃くんが理央を受け入れてくれたとしても。  きっと、これから何度もああいう気持ちにさせてしまうんだろう。  二人の思い出を、理央だけが忘れていく。  積み重ねるほど、瑠璃くんと理央の記憶の違いは大きくなって。  彼は、どの程度、その差に耐えてくれるのだろう?  今は納得してくれても、いつかは―― 「……理央、悪い子だ」  図書館から、逃げ出して。  一人、嫌な想像をしてしまっている。  ほろり、ほろり。  瑠璃くんのことを思うたび、何かが涙となって落ちていく。  悲しめば悲しむほど、記憶も失われるような気がした。  この涙の一粒に、思い出が詰め込まれているような気がして。 「泣いちゃだめ」  そう思っても、ほろりほろりは止まらない。  昔から泣き虫だった女の子は、今でも変わらずに泣き虫だ。  泣いたところで、何も変わらず。 「う―うううううっ」  変わらないことを理解していながら、それでも泣いてしまう。 「理央は、悪い子だ」  二度目の、自虐。  心から、自らを貶めるようなその言葉を―― 「いいや、理央は悪くない」  否定してくれるのが、瑠璃くんなんだ。 「――どうして、ここに」  まさか、瑠璃くんが来てくれるなんて。  目を丸くする、理央へ、瑠璃くんは、格好良く言ってくれました。 「一昨日から、約束していたからな」  一昨日の、朝。  理央は、瑠璃くんと約束したらしいのです。 「今日、放課後でお喋りしようって」  彼にとっては、一昨日。  でも、それは理央にとって、今日なのです。 「まずは、夜子の可愛らしさから語ろうか」  涙目の、理央へ。 「そして次は、数学のテストについてだな」  やっぱり理央は、瑠璃くんのことが大好きです。  伏見理央のことを、俺自身がどう思っているのか。  これから彼女を救うために、何をしたら良いのか。  明確な答えを探し続けていたけれど、現実は停滞を許してくれない。   失望。  俺を見る理央の瞳の色が、失われていた。  記憶をなくした理央に対して、正しい対応をすることが出来なかった。  だから。  失敗を、取り返そう。  一人ぼっちは、寂しいだろう? 「ごめんな」  いろいろな感情を込めて、ただ一言。 「ごめん、理央」 「……瑠璃くん」  不安にさせてしまって、とか。  気遣いがたりなかった、とか。  「覚悟はしていたつもりだったんだ。でも、俺の認識が甘かったらしい」  昨日、俺は理央に気安い言葉を口にして。  今日、その言葉を果たすことが出来なかった。 「だけど、一人で泣くことはないだろう? 俺にも、その悲しみを背負わせてくれよ」  その責任が、あるんだから。 「でも、理央は」  涙を浮かべながら、戸惑う理央。 「失くしたものを、見つけられないの。瑠璃くんとの思い出、どこにもないみたい。このページに書いてあることも、全部妄想みたいで」  ボロボロのページ片を、慈しむように抱えて。 「今日一日、ずっとずっと探してみたけれど……やっぱり、駄目だった」  過去の足跡を辿っても、それは見つからず。 「理央は、欠陥品なんだね。いつか、瑠璃くんが好きだってことさえも、忘れてしまうのかな」  不幸せなその笑顔が、たまらなく俺の心を締め付ける。 「それでも、今のお前は覚えている」  そう、例え思い出を忘れてしまったのだとしても。 「少なくとも、今の理央は、全てを失ったわけじゃない」  悲しんでくれるということは――まだ、俺のことを想ってくれていて。 「気安い言葉は、なしにする」  俺が、ここに来て。 「ただ、一つだけ――約束しよう」   今、お前と対峙している意味を、分かってくれ。 「俺は、伏見理央のことが大好きなんだ。思い出を忘れられてしまったとしても、そのことだけは不変だ」 「――っ」  一人で思い出そうとしないで欲しい。  無理に思い出すことなんて、ないんだ。  忘れたものは、補填しよう。  想いがなくなるわけではない。  痛みを抱えながら――それでも愛した人がいる。  俺は。 「――お前を好きになって、心から良かったと思ってる」  忘れられてしまったことは、素直に寂しい。  でも、忘れたことに悲しんでくれることが、少しだけ嬉しいんだ。  理央にとって、それはかけがえのない思い出だったんだって、痛いほど伝わってくるから。 「理央も……理央だって」  記憶障害。  でも今は、そのことは関係ない。  今必要なのは、互いの意志を確認しあうこと。  失意と失望の間に見失いかけたものを、もう一度見つめ合おう。 「瑠璃くんが思っている以上に、瑠璃くんが大好きなんだからっ!」  崩れ落ちるように、俺の胸に頭をあずける。  すすり泣くような声が、耳に残る。  「俺は、お前を泣かせてばっかだな」  たまには、笑わせてあげたいよ。 「理央だって、瑠璃くんをつらい目に合わせてばっかだよ」 「そうでもないさ」  そっと、頭を撫でてやる。 「記憶は失っても、想いは失っていないのなら、それで大丈夫」  安心させるように、何度も何度も、頭をなでた。 「幸せばかりを忘れてしまう理央は、とても不幸な女の子なのかな」  呟いた、弱音。 「もしかすると、理央の幸せの受け皿は、他の人よりもとっても小さいのかもしれないね」  涙は未だ、止まらない。  声が震えてままでいる。 「瑠璃くんがくれる幸せがたくさんだから、どんどん溢れ出ちゃっていく」 「幸せは、共有するものだろ。受け皿が小さくても、俺の幸せを分けてやるから」  二人で一つの受け皿を。  一緒に、想いを共有しよう。 「でも、忘れられることは、悲しいよね」 「……ああ。でも、それ以上に、理央自身を失うことの方がもっと悲しい」  このぬくもりを、永久に手放したくない。 「今日一日、彷徨ってて気付いたの。実感、したのかな」  涙声に、理央は語る。 「きっと、理央は思い出せないよ。二度と、瑠璃くんとの思い出を取り戻すことはない。記憶障害を乗り越えるのも、出来ないと思う」 「…………」 「これからも理央は、たくさんの幸せを忘れていく。たくさんの思い出を失っていくの。それは、仕方のない事だと思うから」 「……そんなこと、いうな」  お前を縛っている命令をなんとかしたら、それもどうにかなるはずだ。  根拠の無い言葉を、口にすることは出来なくて。 「でもね、無理なことだって叶うこともあるんだよ。現に今、理央は瑠璃くんと恋人になってるもん。それだって、本当は叶わない夢物語だったから」  何かを覚悟したような、理央の言葉。 「何を失っても、この気持ちだけは忘れない。瑠璃くんが、理央を愛してくれるなら、理央はきっと大丈夫」  夢を語る、少女は。 「でも、何度も喪失を繰り返す理央を見て、瑠璃くんの気持ちが色褪せた日が来ちゃったら、そのときは、この関係を続けてくれなくてもいいからね」 「……理央」  思わず、こみ上げるものがあった。 「時は過ぎて、想いは薄れていく。それは決して、非難されるよなことじゃないんだから」 「人の気持ちは移り変わる――そうしたら、理央と瑠璃くんは、またいつもの関係に戻るんだ」  恋人ではなく、友達として。 「そのことに、罪悪感を覚えないで欲しいの。それが、今の理央の本心だよ」 「……わかった」  ぐっと、唇を噛みしめて、俺は頷いだ。  理央だってそんな未来が訪れて欲しくはないに決まっている。  でも、それを口にせざるを得ないのだ。  理想だけでは、現実は語れないのだから。 「でも、理央は知ってるんだよ」  声の震えが、止まった。 「瑠璃くんは――理央のことをずっと愛してくれるって。ずっとずっと、理央だけを愛してくれるの」  珍しく、強気な言葉は、しかし強がりで生まれたものなのだろう。 「それが分かってるからこそ……理央は、辛くて、辛くて」  震えが再び、顔を出す。 「何度も何度も、悲しい気持ちにさせちゃうんだ。思い出を忘れる理央を見て、瑠璃くんは嫌な気持ちになっちゃうの。それは永年に続く、喪失の輪廻」 「……理央?」 「ごめんね、瑠璃くん。本当に、ごめんなさい」 「……いいよ。気にするな」  明日もまた、忘れるのかな。  明後日もまた、忘れるのだろう。  近い未来に訪れる、喪失への恐怖が入り混じり、理央は咽び泣く。 「覚悟は、決めた。本当は昨日の時点で、決めてたはずなんだけどな」  だけど、明日からは大丈夫。  喪失を抱えた少女と、きちんと付き合ってみせようじゃないか。  もしかすると、何度も失敗するかもしれない。  けれど、挫けることなく好きでいようと思う。  不思議な確証が、あるんだよ。  俺は、ずっとずっとお前のことを好きでいられるだろうっていう――惚気染みた確証が。 「瑠璃くんが好きになった女の子が、こんな出来損ないで、ごめんなさい」  腕の中で、懺悔する理央。  もう、俺は何も言うことなく、優しく抱きしめる。  女の子というのは、こんなにも華奢で、もろく壊れやすいものなんだ。  だからこそ、俺は理央を守らなければいけない。  思い出を失って。  それでも――ちっぽけな幸せだけは、守ろうと思う。 「図書館に、帰ろうか。きっと、夜子も待ってるぞ」 「……ん、わかった」  俺たちの、ホームへ。  さあ、帰ろう。  気持ちの昂ぶりがもたらしたのは、淫靡な雰囲気。  無言で俺の部屋までついてきた理央は、入室して扉がしまった途端、俺に抱きついてきた。 「瑠璃くぅん……!」 「お、おい、どうした?」  腕を絡めさせて、胸を押し付けて。  そのまま、淫靡な雰囲気を醸し出していた。 「もう、ダメなの。理央、我慢できない」  身体を擦り付けて、性欲を訴える。 「俺だって、もう我慢できないよ」  理央と仲直り出来た時から、ここへ来るまで。  もう一度、理央と身体を重ねあわせようと、願っていたから。  だけどまさか、こうまで理央が積極的だとは思わなくて。 「お前にとって、これは初めてなんだろう?」 「いいよぉ、きっともう、何度も瑠璃くんとしてるんだろうし……!」 「いや、何度もっていうくらいはしてないけどな」  理央には、記憶が無いから。  今の理央にしてみれば、これは初めての行為のはずなのに。 「気持ちが、抑えられないの」  火の着いた理央の身体は、もうとまらない。 「早く、挿れて?」  前戯も、何もなく。  「わかったよ」  最初から、ラストスパートだった。 「このまま瑠璃くんと抱き合いながら、したいよぉ」  首に腕をからませたまま、ゆっくりと足をあげようとして。 「下着、脱がせるぞ」  勢い良くずらして、挿入しやすいように太ももに手を回す。  片脚をあげさせられて、不安定な体制になった理央は、思いっきり俺へ体を預けて。 「いただきます」  なんて小洒落たジョークを口にして、俺のペニスを飲み込もうとする。  ずぶずぶと、沈み込んでいく。  理央の膣内は、まるで初めてのときと同じように、真っ白な感覚だった。 「ぐうっ……這入ってる、よぉっ……!」  痛み、ではなく。 「瑠璃くんのが、奥まで、這入ってるよぉ……!」  快楽に、堪えた表情だ。 「おっきいよぉ……すごいよぉ……! んっ、あっ……!」  ゆっくりと、自ら腰を動かす理央。  ペニスの感覚を、体の奥まで刻みつけようとしているふうに見えてしまって。 「この感覚を、ずっとずっと忘れたくない……! 瑠璃くんのくれた気持ちよさを、ずっとずっと覚えていたいよぉ……!」 「理央ッ……!」  打ち付ける腰に、熱が篭る。  刹那の快楽を、ずっとずっと理央に刻みつけてあげたいと心から思う。  「忘れられても、また刻みつけてやるさ」  そうやって、俺たちは喪失を繰り返しながら、愛を育んでいくんだから。 「うんっ、うんっ……! 好きぃっ……! 大好きぃっ……!」  目尻に涙が浮かんでいた。  抱きつきながら、性器をすり合わせる快楽とともに、理央の中からこぼれた感情。 「好き過ぎて……だから、辛いんだよぉ……っ」  嬌声を上げながら、快楽をむさぼりながら、涙をたたえて訴える。  俺への愛情を、心から訴えるんだ。 「もっとっ、もっとっ、いっぱい、刻みつけてっ、めちゃくちゃにっ、無理矢理にっ、してぇ……!」  そうやって、鮮烈な思い出をつくろうとして。 「こんなに幸せで、理央、もう、泣きそうだからッ……!」  そうやって、幸せを沢山噛み締めて。 「ずっとずっと、理央のことを見てて欲しいのっ……!」  耳元で、切実な願いを口にして。  なんとも思わない男が、この世にいるとでも言うのか? 「当たり前だろっ!」  本当の本当に、好きになってしまったんだ。  今も理央への愛情が、止まらないんだ。 「んっ、んんっ、んあぁあぁあああっ! いいのっ、いいのっ、すごっ……!」  汗が滴り、愛液は溢れる。 「ふあっ、あっ、やあっ、気持ちいのっ!! これ、好きっ! 深いの、好きっっ!!!!」  肉付きの良い、理央の身体。  しかし、抱きしめると思っている異常に、小さくて。 「もっとっ、もっとっ、もっと……! 瑠璃くんの、愛を教えてよぉっ……!」  腰を振って、刻みつけて。 「深くまで、教えてっ、教えてっ、教えてぇっ……!」  果て無き性欲に、飢えてしまっている。 「くっ、俺、そろそろっ……!」  最高潮に乱れる理央の前に、限界は早く。 「だめっ、まだ、まだっ……!」  満たされない理央は、腰を擦りつけて快楽を貪るが。 「もっと気持ちよくなりたいのっ! もっと瑠璃くんに抱かれたいのぉっ! もっと、もっと、もっと――!」  その行為が、俺の限界をさらに早めてしまうことに、理央は気付かない。 「うっ、イく……!」 「ふ、ああっ、ああああああっ!!! イかないでっ、まだ、まだぁっ!!」  どくん、どくん、と。  大きな脈動とともに、理央の中に吐出される濃厚な精液。  生きてきた中で、最も大量の射精をしたような気がして、思わず意識が飛びそうになったけれど。 「あああ……っ、中で、どろどろ、染まっちゃう……」  物足りなさそうな理央の表情が、俺を現実にとどめてしまう。 「まだ、まだ、だいじょうぶだよね」  射精後の余韻に浸らせてはもらえない。  挿入したままのペニスを、腰をくねらせて刺激して、もう一度を要求される。 「り、理央っ……」  ふらっと、足元がおぼつかない。  けれどもまだまだ興奮状態にある俺たちに、ここで止めるという選択肢は存在していないようだ。 「理央は、満足してないもん」  ふくれっ面で、背を向けて。 「だから、お願い……もっと激しく、突いて?」  おしりを俺に突きつけて、後ろからの挿入を乞い願う。 「喜んで」  ぐっと、力を込めてあてがう。  その頃にはもう、ギンギンにいきり立ってしまっていた。 「んっ、はうっ……!!」  どろどろにとろける理央の中は、もうたまらない。 「二回目、すごっ……! 最初から、びんかんだよぉ……!」 「俺、だって……っ!」  これはやばいな、と本能が悟る。  早めに理央をいかせないと、またしても俺が果ててしまう。 「ひうっ……んっ……! 後ろからだと、奥まで、もっともっと、深いっ……!」  より密着したせいか、腰を降るたびの反応が強くなって。 「突き上げられるのっ……理央の意識も、中もっ……! あんっ、ああんっ……!!」  俺が振るだけではなく。 「瑠璃くんの、気持ちいっ……! とっても、気持ちいいのぉっ!!!」   自らも腰をくねらせて、更なる快楽を求めていた。 「本当に、エロいんだから……!」  ますます、エロさに拍車がかかっているような、そんな気さえしてしまって。 「瑠璃くんの、せいなんだからぁっ!! 好きな人とのえっちは、すっごいのぉっ……!」  呼吸も絶え絶えに、喘ぎながら。 「ひうんっ! やっ、やぁんっ……! あんっ、あんっ……ひぁああああっ……!!」  1度目に出した精液と愛液が交じり合って、ぐっちゃぐちゃだ。 「刻まれてるっ、すっごく、刻まれてるのぉっ……! 理央の身体、もう、瑠璃くんのものになっちゃってるぅっ……!!」 「ああ、そうだな! 理央は、俺のものだっ!!」 「だからっ、ちゃんと毎日、愛してあげてよぉ! もっともっと、瑠璃くんの愛情を刻んであげてねっ……!」  腰の動きは、止まらない。  快楽は、止まらない。 「理央は、もう瑠璃くんなしでは生きていけないんだからぁ……!!」  切ない声で、喘ぐ。  様々な感情が入り混じり、混沌とする。 「好きだよ――好きだ、好きだ、好きだっ!!」  前かがみに、腰を振りながら。  なるべく理央の近いところで、愛をささやこう。 「やあぁっ、嬉しっ、嬉しいっ! ん、あっ、もっともっと、気持よくなっちゃうよぉ……!!」 「だからほら――そろそろ、だろ?」  膣内の感覚が、伝わってくるようで。  理央の息も、上がってしまっていた。 「ふぁっ、ああああっ……! ん、もう、イっちゃいそうっ! 理央、イっちゃうのぉっ……!」  足が震えていた。  もう、立っているのも限界なのかもしれない。 「いっぱい、刻まれちゃった……! 瑠璃くんの愛に、満たされちゃったのっ……!」  腰に、ぐっと力を込めて。  深く、深く、突き上げていく。 「だから瑠璃くんも……ね、いっしょにっ……!」 「ああ、俺ももう限界だっ!」  互いに、互いの気持ちが伝わって。  ともに、果ててしまおうじゃないか。 「やっ! やっ! やぁっ……! ほんとにほんとに、もう、だめぇっ――!」  そうして、理央の膣内がきゅっと締めあげたその瞬間。 「ぐっ――!」  ともに、限界点に到達する。 「ひぁっ――――やああああああああああああああああああああんんっっ!!!!!」  背中をのけぞらせ、絶叫する理央。  躊躇なく、二度目の膣内射精を行う俺。  汗まみれ、愛液まみれになりながら、壮絶なエクスタシーを共有する。 「ふひぃっ……はっ、はぁっ……!」  逝った直後の理央は、疲労困憊に息が上がっていたけれど。 「あぅっ……すっごく、いまの、理央……幸せだよぉ……」  そのままベッドに崩れ落ちるように、倒れてしまった。 「最高に気持ちよかったよ」 「理央も……さいこうだった」  言葉に、力はなく。 「……頑張り過ぎちゃったかな。このまま眠っても、いいんだぞ」 「やぁっ……もっと瑠璃くんとのえっちの余韻を、たのしみたいの……」  そうはいいながら、身体を起こすことの出来ない理央。  そっと寄り添いながら、頭を撫でて。 「おやすみ、理央。また明日も、よろしくな」 「……うん」  最後にはにかみながら、理央の意識は闇に沈む。  小さな寝息を聞いた俺は、安心したように理央の寝顔を見つめて。  その寝顔をいつまでも見ていたくて、見ていたくて。 「本当に、凄い性欲の女の子だよ」  記憶のない理央は、今回が初めてと認識しているはずだろうに。  二度も中出しをしてしまって、大丈夫かなと理央の股に視線を伸ばしたところで。 「……あれ?」  理央の内股に、うっすら流れていたもの。  行為中は気付かなかったその証が、俺の脳みそを硬直させてしまう。  それは、今の理央にはあるはずのないもので。  それは、少し前に、失ったはずの証だ。  その疑問を、ゆっくりと解消しようとしたところで。  声がした。 「……ああ、気付いちゃったんだ」  声が、聞こえてきた。 「瑠璃のお兄ちゃんは、気付いちゃった」  終わりの声が、聞こえてきた。 「駄目なのよん、それは」  魔法使いは、囁いた。 「――それは開けてはならない、パンドラの箱」  そして、終わりの音が、鳴り響く。 「これから瑠璃のお兄ちゃんは、全てを台無しにしちゃうだろうから、その前にここで本を閉じちゃおうと思うのよ」  声が、出なかった。  今はただ、目の前の異質な存在に釘付けにされている。 「最初から、紙の上で踊らされていれば良かったのに、どうしてこうなるのかしら。本当、現実はままならないものよね」  何を言っているのか、理解できず。  思考は、硬直しきっていた。 「――夜子だけでも幸せになれる未来の為に」  魔法使いは、呟いた。 「さようなら、瑠璃のお兄ちゃん。〈所〉《いわ》〈謂〉《ゆる》これは、あれよあれ」  物語の幕引きを。 「〈B〉《ハ》〈A〉《ッ》〈D〉《ピー》 〈E〉《エ》〈N〉《ン》〈D〉《ド》」  びりびりと、ページを破る音がした。  無慈悲に、無自覚に、破り捨てられていく。  何を間違い、何に失敗したのかさえ、わからないまま。 「理……央……!」  無意識のうちに、手を伸ばしてみたけれど、何も掴むことは出来ないまま。  俺の意識は、闇に葬り去られてしまった。  落ちる、落ちる、何処までも。  敗れる、敗れる、何度でも。  千切れる、千切れる、痛みとともに。  こうなることは、わかってた。  けれど、理央が思っているよりも早く、現実は幕を引く。  後悔はしていない。  少しでも幸せを感じることが出来て、良かったとさえ思っている。  だけど、やっぱりこれは駄目な終わり方なんだよね。  理央は、とっても我儘な女の子でした。  暗闇の中で、一人孤独に果てて逝く。  掠れゆく視界が収めたのは、理央にとって辛い現実。  翌日に喪失するのは、幸福の思い出ではなく。  忘れられてしまったのは、世界。  忘れられてしまったのは、理央。  世界から、伏見理央という存在が抹消されて、なかったことになるのです。  不必要な存在は排除され、これで反逆者は消滅です。  大丈夫、誰も悲しむことはありません。  夜ちゃんも、瑠璃くんも、理央のことなんて覚えていないのですから。  ああ、でも、少しだけ辛いよ。  遠く、遠くに見える現実で、夜ちゃんと幸せそうに笑う瑠璃くん。  二人はこれから、付き合っちゃうのかな。  恋人になって、仲睦まじい家族になるのかな。  だけど、間違いを犯したのは理央の方。  これは必然の結末なのです。  理央のことを、同情しないで下さい。  理央のことを、非難して下さい。 「理央は、瑠璃くんを騙していました」  この世には、運命というものが確かに存在します。  抗えない運命は、物語を支配してしまっているのです。  例えば。  誰が、誰と結ばれるかとか。  そういう未来が、あったとして。 「――そこに、瑠璃くんと理央が結ばれる未来は、存在していませんでした」  だから、理央は。  運命を、ねじ曲げたのです。  それは絶対にしてはならない、禁じられた行為。 「自分の都合のいい未来に、変えてしまったのです」  ――四條瑠璃が、伏見理央を生涯愛するように。  けれど運命は、そう安々と改変を許してくれません。  紙の上の魔法使いは、そんな理央に鉄槌を下すのです。  運命は、元ある形に戻ってしまう。  その結果、今があって。  その結果、数日の理央の恋物語は終わりを迎えたのです。  ああ、でも、後悔はしていません。  これで理央が消滅することになっても、瑠璃くんと過ごした時間は本物だから。  唇を重ね、身体を重ね、想いを通わせたこと。  例えそれが、運命に従わされたがゆえの感情だったとしても、瑠璃くんが愛をささやいてくれただけで十分なのです。  これから瑠璃くんが、夜ちゃんと愛を重ねたとしても。  たとえ本人が、全てを忘れたとしても。  記憶がなくなって、感情を忘れ、何もかもがなかったことにされたとしても――その事実だけは、変えられない。  だから理央は、幸せだったのでしょう。  不自由な人生の中で、理央だけの幸せを見つけることが出来ました。   だからこれは、ハッピーエンド。 「バッドエンドなんて、呼ばないで」  だって理央は、こんなにも満ち足りた気持ちのまま、消えることが出来たんだから。   これが幸せじゃないというのなら、幸せって、何なのかな?  短い理央の人生の中で、それ以上のものなんて見つからなかったんだよ。 「瑠璃くん、だーい好きっ!」  最後に笑っていられたら、それでオッケーなんだもん。  何かの物語で、誰かがそう言ってたよ?  = RIO END =  ※本編クリア後のシナリオになります。ネタバレ注意。  これは、猫が見た現実か、それとも幻想か。  番外で語られる、あやふやなストーリー。  『紙の上の魔法使い』の舞台裏、蛍色の瞳が見た風景は、嘘か真か。  鵜呑みにしては、いけない。  けれども――まるっきり幻想では、ないのかもしれないね。  にゃんたる言葉をもって、ぼくは説明すればいいのだろうか。  喋ることが苦手にゃぼくに、今の状況を伝えることはむずかしい。 「あははは、これ、夜子さんが書いたんですか?」  これは、全てが終わった後のおまけのようにゃものだにゃ。  猫であるぼくに、語り部の役割が回ってくるだにゃんて、よっぽど持て余しているのかにゃ? 「べ、別に、記録しておいただけよ」  『まほーのほん』にゃるものが、全て閉じた後のにちじょう。  すっかり平和ぼけしたニンゲンどもは、今日も和気あいあいとお喋りをしている。  ――タイトル『紙の上の魔法使い』  誰かが、そっと本の名前を読み上げる。  どうやら、かなたちゃんたちは、その本の周りに群がっているらしい。  にゃ。  のっそりと、寝転がっていたからだを伸ばして、近付く。 「か、かなたっ……蛍が、出てるわよ」  猫アレルギーの当主ちゃんだけれど、ぼくに限っては、連れてくることを許された。  それは、ぼくが特別かわいいお猫様だから――というわけではにゃくて、ただ、ご主人が可愛がっていた猫だからである。 「あはは、蛍も気になるんですよねー」  ――にゃあ。  ぎゅっと、抱き上げられたぼくは、かなたちゃんの胸に押しつぶされる。  相変わらず、ご主人と違って大きい胸をしているにゃ。  ちょっとくらい、ご主人に分けてあげて欲しい。 「やーん、可愛いっ!」  ぎゅっと抱きしめられにゃがら、満更でもにゃい感覚に身を預ける。  猫というものは、罪深いものだにゃ。 「あんまり、馴れ馴れしくするものではないわよ。瑠璃が、嫉妬するわ」 「ええ? 瑠璃さんだって、お猫さんに嫉妬はしないでしょう! それに、蛍は女の子ですから!」  びろーん、と前足を掴まされて、ぶら下げられ。  無防備にゃお腹を晒されて、メスであることを示される。  ――にゃっ!!  かなたちゃんは、飼い主としてとても面倒を見てくれるけれど、ぼくをぼくとして扱ってくれにゃい。  同じ女の子であるのだから、他人にお腹を見せられることが恥ずかしいとわかってほしいのに。 「うあー! お猫さんだー!!」  紅茶を持ってきた給仕ちゃんが、ぼくを見て甘い声を上げる。 「かーわーいーいー!!」  ぼくの頭に鼻をぴとっとくっつけて、顔を間近に寄せる。  ぷにぷにしたお鼻が、ちょっと気持ちいい。 「あははっ、理央さんは蛍のことが大好きですからねえ!」 「うんうん、大好きだよーっ!!」  給仕ちゃんのスキンシップは、激しい。  理不尽に大きにゃ胸を見つめにゃがら、人の成長の差はどうしてこうまで残酷にゃのだろうかと、少しだけ悲しくにゃる。  ――にゃあ。  いたたまれにゃい気持ちににゃったぼくは、もがいてニンゲンたちの手から逃れる。  音もにゃく着地したぼくは、ソファーの影に隠れて引き篭もった。 「にゃっ、理央、嫌われ?」  そんにゃことにゃい。  だけど、好きににゃりたくはにゃいんだ。  喋りかけられることは、嬉しい。  触れられたりすると、気持ちが良くて。  ついつい、大好きににゃってしまいそうだから。  だけども、ぼくは、きみたちを好きににゃることはにゃい。  とてもいいニンゲンだとは思うけれど、ぼくはぼくにゃりの矜持がある。  にゃ。  そういえば、自己紹介が遅れたにゃ。  ぼくは、蛍という。  ニンゲンからはチンチラという種別を与えられ、メスとしてこの世に生を受け。  そして、大好きにゃご主人のことが忘れられにゃい、どこにでもいる普通の猫だにゃ。  何やらかなたちゃんたちは、一冊の本を眺めている。  それは、思い出を語るようにゃ、にゃつかしさを感じさせて――にゃんともノスタルジーっぽさが漂っていた。  振り返る、物語。  そして少女たちは、当時の記憶を思い返していく――。  『サファイアの存在証明』  一人の少女が世界から忘れられ、思い出を取り戻していく奮闘記。  蒼色の物語に魅入られたのは、元気で明るい、少女だった。 「と、いうわけでー! 今から物語を振り返っていきましょう!」 「わー、何だかテンション高いねー!」  開かれたページは、『サファイアの存在証明』 「フィクションともノンフィクションとも言えない曖昧な世界観なので、色々ぶっちゃけトークしちゃいますよー?」 「えー、そんなこと言っちゃっていいのかな?」  おい、駄目だにゃ。  予約特典だからって、まじめにやるにゃ。 「いいに決まっていますよ! 本編なんて薄暗くて気が滅入るようなストーリーなんですから、こういうところで発散しないと!!」 「え、ええ……滅茶苦茶だよぉ……」  相変わらず、かなたちゃんは破天荒だにゃ。  突き合わせる給仕ちゃんも、可愛そう。 「ま・ず・は! この最強最悪の美少女かなたちゃんがメインを務めた、『サファイアの存在証明』から行きますよー!」  最悪であることは自覚してるんだにゃ。 「サファイアは、最初は妃ちゃんのシナリオだと思ってたんだけど、実はそうじゃなかったんだよねー」 「そうですよ! そうなんです! 忘れられていたのは、この私! かなたちゃんだったというわけで!」  ぐいっと、身を乗り出して。 「瑠璃さんなんか、物語後半までちっとも思い出してくれないんですから、もうメソメソしてましたよー!」 「え、でも、かなたちゃんもずっと忘れてたんじゃ……」  その通りにゃ。 「おっほん!! 細かいことはどうでもいいんですよ! そして? そして? サファイアといえば、はいこれっ!」 「わー、かなたちゃんの子供の頃のだね」 「見て下さいよ、この初々しい感じっ! きゃー、ロリですよロリっ! かーわーいーいー!!」  こいつ、うるさすぎるにゃ。  ちょっと黙るにゃ。 「しかも今と違って、鷹山学園の制服を着ているんですよ! セーラー服です! ふっふっふ、月社さんのアイデンティティを奪ってしまいましたね!」 「えーっと、妃ちゃんの魅力は、制服だけじゃないと思うな……?」 「この頃の私は、とても純粋でしたからねー。瑠璃さんのことを追いかけ続けて、好き好きアピールを続けまくっていたのです」 「あ、ようやく舞台裏っぽい発言だ-!」  本懐を思い出したのか、かなたちゃんは当時の記憶を口にする。 「作中では語られていないんですけど、当時の私はそれはもう瑠璃さんにメロメロで、時間を見つけては構って構ってとつきまとっていたりして」 「えーっと」 「盗聴器とか、探偵とか、そういうのもこのときに覚えたんですよね。いやー、眩しいほどの青春時代でしたね」 「あれ? 今とあんまり変わらないんじゃ?」 「そんなことはありません! 昔はもう少し丸かったのは、本当ですから!」  嘘にゃ。  ぼくは当時のかなたちゃんを知っているけれど、当時からこんにゃ感じだったにゃ。 「大体、探偵とか推理小説とかに目覚めたのは、月社さんのせいなんです! あの方に薦められて、私は興味をもったんですから」 「二人は、知り合いだったんだよね-」  ぼくを手放さざるをえにゃくにゃった、ご主人。  その引き取り手として名乗りを上げたのがかなたちゃんで、そこから縁は結ばれたにゃ。 「ぶっちゃけると、瑠璃さんとの接点を多くしたいがための申し出だったんですけどね!」 「え、えええええっ! そういうのは聞きたくなかったよ-、ぶっちゃけ過ぎだよ-」 「こう見えて、卑怯な女の子なんですよ、私は」  知ってるにゃ。  だけど、それでも構わにゃい。  かなたちゃんがぼくを引き取ってくれたことで、ご主人は安心することが出来たのだから。 「あっ、これはかなたちゃんが、瑠璃くんに告白したシーンだね! うむうむ、やっぱり可愛いよー」 「さ、さすがにこれは恥ずかしいですね……」  元気にゃかなたちゃんも、そこはおんにゃのこ。 「このときは、サファイアに邪魔をされて、返事を貰えないまま全ての記憶が閉じられちゃいました」 「うん……」  しんみりする二人。  さすがに、笑うことが出来にゃいと、同情しようとしたところで。 「なーんて、それでもかなたちゃんは最強なので、頑張れちゃうんですけどねー!」 「ほらほら、それでもこうして瑠璃さんを求めちゃうんですよっ! やーん、一途で素敵ですっ!!」 「あはは……自分で言うのが、凄いよね……」  理央ちゃんは、すっかり引き笑いだにゃ。  気持ちはよーくわかるにゃ。 「でも、かなたちゃんは本当に凄かったよね。どんな時でも瑠璃くんのことを好きで居続けて……それは、とっても羨ましかったな」 「私は、私の恋心に正直ですから!」 「ヒスイや、アメシストもそういう背景があったから、かなたちゃんは関わり続けることができたんだよね」 「あー、そんなこともありましたね」  ヒスイは、狂言イジメの歪んだ愛情。  アメシストは、自殺した幽霊少女の、叶わにゃかった想い。 「あれも、かなたちゃんらしい物語だったなぁ。真っ直ぐで一途で、手段を選ばないところなんか、まさにそうだよね!」 「うっ、理央さんに真っ直ぐな瞳で言われてしまうと、胸が痛いです……」 「これは、ヒスイのときのだね。いいなぁ、羨ましいなぁ……」 「ちょっと、聞いてくださいよ理央さん!!」 「ほえ?」 「このとき、私すっごい頑張ってたんですよ! 指とか絡めようとして、肩とかあたったりして、ボディタッチを多めにしようと必死で!」 「う、うん……」 「なのに瑠璃さんったら、全然手を出してくれないんですよ! ばかー! ってかんじですよ私としては!」 「そ、そうなんだ……」 「好き好きアピールしまくっているというのに、この木偶の坊はなんにもわかってないんです! あ、木偶の坊って、夜子さんがよく言いますよね」 「瑠璃くんのことだよねー。そうやってわざと変な言い方をして、強がってる夜ちゃん! 可愛いなあ」 「キミ、とかも、そうですよね。あははっ、夜子さんらしいですね」  二人が楽しげに語る、夜子ちゃんという人柄。  決して、誰からも好かれるようにゃタイプではにゃいけれど、愛されているんだにゃ。 「そういえば、そんなこともありましたね」  平然と目を向けるかなたちゃん。  暴走する汀くんの狂気を前にしても、怯えることにゃく立ちふさがった。  ――殺すなら、殺してみろ。  男気あふれるその姿は、あまりにも強すぎた。 「今だから言うけれど、正直このときのかなたちゃんは怖いよね」 「こ、怖いですかっ!?」 「だって、普通だったらこうまで出来ないもん。汀くんにあそこまで啖呵を切って、身を挺して瑠璃くんを庇って……」  それは、おんにゃのこがするようにゃ立ち振舞ではにゃかったはずだ。 「瑠璃くんだって、ちゃんと格好いい男の子なのに……かなたちゃんが格好良すぎて、強すぎるから……」 「あはは……私は、尽くしたがりな女の子なので」 「その一言で済ませちゃうのが、かなたちゃんの凄いところだと理央は思うよー」  尽くすの次元を、超えてるにゃ。  ぶっちゃけるとかなたちゃんは、優先順位が狂ってしまっている。 「このときとかも、そうだよね」  魔法使いに刻まれた命令によって、手を挙げる瑠璃。  それでもかなたちゃんは、自分の信念を曲げにゃかった。 「私は、ただ」  噛みしめるように、かなたちゃんは言う。 「瑠璃さんの前で、いつもにこにこ可愛くいることが、自分の役割だと思っていましたから」  絶えず咲かせる、笑顔という花。  かなたちゃんがいてくれたからこそ、瑠璃はそこそこ頑張れたんだろうにゃ。 「やっぱり、敵わないなあ……」  諦めるように、理央ちゃんは呟く。 「それしか、取り柄がないもので」 「そうそう、聞いてくださいよ!!」  再び、声を荒らげて。 「なんなんですかね瑠璃さんは、 これは正直、ショックでしたよ!!」 「え、ええっと……」  またか。  辟易したぼくは、思わずため息を付いてしまう。 「こーんなに可愛い女の子がベッドに潜り込んで、しかもぎゅーってしてるのに! あの木偶の坊はどうして何もしないんですか!!」 「ええと、それは瑠璃くんが、紳士な人だから……」 「こんなもん紳士なんかじゃないですよ! 紳士のふりをした臆病者ですっ! ひどい!」 「う、うん……理央も、そう思うけどね……」  あまりの剣幕に、理央ちゃんもフォローを諦める。 「だけど、そのときの瑠璃くんは妃ちゃんに義理立てをしていたから……やっぱり、どうしようもないんじゃないかな」 「わかってますけど! それでも、ベッドで! 抱きついて! はだけているのに! 襲わない男子がどこにいるんですかー!!」 「ほ、ほら、朝起こしに来るシチュエーションだったら、夜ちゃんが先にやっちゃってるし?」 「夜子さんのより、私の方がずっと可愛らしいでしょうがー! 暴力は反対ですよー!!」 「だけど、それがいいっていう人も中にはいるかもだし……」 「そんなはずは! 踏まれて起こされるよりも、添い寝されて優しくされる方が世の中の男性は喜ぶはずです!」  あ、でも、それよりもにゃ。  ご主人の起こしにくるシーンのほうが、人気じゃにゃいかにゃ? 「…………いえ」  恥ずかしがるかなたちゃんは。 「ほ、ほら、そういう状況と、朝起こすシーンは別なので……」 「そ、そうだね……!」 「そんなこんなで、そろそろおしまいの時間だね」 「そっ、そんな! まだまだ、かなたちゃんの可愛らしさアピールは終わっていませんよ!」 「だけど、ぶっちゃけトークが余りにも身勝手なので、この辺で終わらないと収集がつかないから……」 「うっ……ひどいですっ……!」  およよ、と泣き真似をするかなたちゃん。 「あっ、まだもうワンシーンあるじゃないですか! これを語りましょう!!」 「きゃー! 蛍と私のラブラブシーンですよー! 蛍も楽しそうですっ!!」 「これは、瑠璃くんが蛍ちゃんと再会するシーンだね。じみーに、重要なシーンだったりして!」  そこには、ぼくがいた。  ぼくが、かなたちゃんの膝の上に乗っていて、顔を出している。 「ほ、蛍ちゃん、楽しそう……?」 「楽しそうに決まっています! しかも蛍ったら、私の太ももとか胸とか、めっちゃくちゃに触ってくるんですよー? いやーん、えっちっ!」  ぼくの名誉にかけて宣言しておくが、かなたちゃんが押し付けてくるだけにゃ。  だいたいぼくはメスにゃので、興味にゃいにゃ。 「きっとこのときの蛍は、【ええ胸しとるのぉ、この小娘!】と考えながら、私に甘えていたのでしょうね!」 「そ、それはないんじゃないかな……」  ありえにゃいにゃ……。 「それじゃあ、このとき蛍は何を考えてたっていうんですかっ!」 「わ、わかんないけど……ほら、瑠璃くんと再会したんだし、会えて嬉しい……とか?」 「なるほど、【この女の胸も太ももも、俺のものだぜうっひっひ、邪魔すんじゃねーよ】というわけですね!」 「絶対に違うと思う……」  本当に違うにゃ……。  そういえば、あいつは僕に触れようともしなかったにゃ。  あいつは、ぼくに遠慮をしていたんだにゃ。  捨てたという事実だけが色濃く残っていて、申し訳無さでいっぱいだったにゃ。  ぼくとしては、瑠璃にゃんてどうでもいいばかやろーにゃので、知ったことではけれど。  ……まぁ、邪険にしてはいにゃかったし、逃げたら負けかと思ったから、睨みつけてやったにゃ。 「きっと、蛍も瑠璃くんを覚えていて、受け入れてたんだよね」 「そうでしたっけー? 蛍が男性に興味があるようには思えませんが」 「蛍ちゃん、女の子だから……」  いろいろと、滅茶苦茶だにゃ。 「蛍は、私のことが大好きですからー!」  呑気に惚気けるかなたちゃんを見て、あのときのことを思い出す。  瑠璃はとても懐かしんでいたけれど、ぼくはそうじゃにゃかった。  ぼくは、色々にゃものを見てきて、傍観者でいつづけたから……知っていたのにゃ。  『まほーのほん』が、良くにゃい風に、開いていることを。  ぼくは、その影響下から外れていて……ずっと、見てきたから。  ――早く思いだせよ、馬鹿瑠璃。  ぼくはただ、恨みにも似た感情を、向けていただけだ。 「ぶー、もう終わりですかー! まだまだ語り足りないですよー!」 「ほ、ほら、次は別の人の番だから、ね?」  懐かしいものを見てしまったぼくは、当時の感情を思い出して、俯いてしまう。  ご主人がいにゃくにゃった後の世界は、酷く色あせていて、息苦しかったから。  ――にゃあ。 「あっ、蛍! 蛍も、見てたんですね-?」  かなたちゃんが、ぼくを抱きしめて、頬を擦り付ける。 「気持ちいいーっ!!」  もう幾度と無く繰り返された愛情表現に、心が動くことはにゃい。  かなたちゃんのことは、とてもいい飼い主様だと思っているけれど。  ぼくにとっての、ご主人は――妃ちゃんだけしかいにゃいのだから。  どんにゃに待ち侘びても現れてくれにゃいあの人へ、ぼくは今日も思いを募らせていく。  思い出語りは、次のページヘ。  さあ、次はどんにゃ裏事情を、少女たちは語ってくれるのかにゃ。  いつもどおり、ぼくは傍観者で居続けて。  いつもどおり、ぼくは何もしにゃいでじっとしてよう。  『ローズクォーツの永年隔絶』  吸血鬼少女が願ったのは、偉業の存在としての愛。  伏見理央は、ただただ誰かを愛していたくて、物語を開く。 「と、いうわけで、次は理央の番だね!」  かなたちゃんが退場して、今度は当主ちゃんが現れる。 「全く、かなたったら好き勝手にぶっちゃけて、後を任される身にもなって欲しいわ」 「でもでも、すっごく面白かったよ? これぞ、舞台裏っ! って感じだったし!」 「あの子は滅茶苦茶すぎるのよ……というわけで、あたしと理央の番では、落ち着いていくわよ」 「おけー!」 「おおう、やきうのときのやつだね! 懐かしいなー」  きゃっちぼーる、と。  嬉しそうに、給仕ちゃんは笑う。 「あなたは、そういう遊びが大好きだったわね。付き合ってあげられなかったのが、申し訳ないわ」 「あはは、夜ちゃんは引き篭もりさんだからねー、しょうがないよねー」 「そういわれると、返す言葉もないわ……」  ナチュラルに口にされる言葉に、閉口する当主ちゃん。 「理央は、運動はちょっぴり苦手なので、瑠璃くんに迷惑かけっぱなしだったんだけどね」 「あの木偶の坊になら、いくらでも迷惑をかけてしまいなさい」 「あはは……それは酷いよー」  うむ、当主ちゃんの言うとおりだにゃ。 「お館様も、どうせならスポーツの得意な女の子の設定にしてくれたらよかったのになぁ……」 「思い返してみると、図書館にいる女の子みんな、運動音痴ばっかりよね」 「うえ」  とっさに苦笑いを浮かべる給仕ちゃん。 「妃も、汗をかくことが大嫌いだったし……かなたも、あまり得意ではないと聞いたことがあるわ。虚弱な子ばかりね」 「妃ちゃんは、自信満々な顔でスポーツは出来ませんって、胸を張ってたもんね……」  ご主人は、運動の必要はにゃいと常日頃から口にしていたにゃ。  ぼくと遊ぶときでさえ、自分は少しも動こうとしにゃい。  だからぼくは、必死にご主人の周りをぐるぐる回って、楽しんでもらおうとしてたんだ。 「でも、岬は運動できるって言ってたかも」 「おー、岬ちゃん!」  給仕ちゃんが、目を丸くさせて驚いている。 「夜ちゃんも、遂にお外の友達が出来たんだもんねー! うんうん、理央は感激だよぉおお!!」 「その感動が、酷く屈辱的だわ」  照れ隠しに目を逸らして、はにかむ当主ちゃん。 「思えば、岬については最後まで部外者で通し続けたわね。なんとなく、物語に関わりそうなものだったけど」 「瑠璃くんとも仲よかったのにねー! 珍し珍し?」 「あそこまで凛として第三者を貫けるからこそ、瑠璃の友達になれたかもしれないわね。あいつ、変な干渉は嫌うタイプだし」 「そっかなぁ? 理央はそうじゃないと思うよー」  にこにこと、笑いにゃがら。 「岬ちゃんは、誰とでも仲良くなれるタイプだったから、瑠璃くんのお友達になれただけ。そこに、特別な理由なんて必要ないんじゃないかな」 「……そうかもしれないわね」  優しく、笑ってから。 「でも、岬は誰とでも仲良くなれるけれど、誰とでも深く関わらないタイプのような気がするけど」 「そこは、本人に聞いてみないとね」  脇役は、脇役のまま物語を終えたにゃ。  ぼくだって、語り部の番が回って来るとは思っていにゃかったけれども。 「あれ? どうして、あたし?」 「あーっ、これは、ルビーのときのやつだね!」  『ルビーの合縁奇縁』  遊行寺闇子が騙った、偽物の『まほーのほん』だにゃ。 「自称天使様」 「あうっ!」 「よくもまあ、堂々と語れたものね」 「ひうっ!!」 「すっかり、騙されてしまったわよ」 「ううう……」  当主ちゃんの、潜在的にゃ願い。  瑠璃と通う学園生活は、満更でもにゃかったのだろう。 「だけど、何だか少し腹立たしいわね」 「ふえ?」 「瑠璃のやつ、これが偽物の本って知っていたんでしょう? 知ってて、あたしに気遣って惚けていた。とても、とても、ムカつく」 「……ふ、普通の人ならすぐ気付くんじゃないかなー」  小声の、給仕ちゃんの言葉。 「何か言ったかしら?」 「な、何も言ってないよ! 騙される夜ちゃんは可愛らしかったなーって!」 「……あなたって、ナチュラルに黒いところがあるわよね」 「なんのことかなー?」  ぼくも、知ってる。  給仕ちゃんは、純粋にゃだけではにゃいということを、知っている。 「だけどあのときは、ごめんなさいって気持ちでいっぱいだったんだよ?」 「それも、わかってるわよ。あなたが、あたしを騙すのにノリ気なわけがないんだから」  にゃんだかんだで、分かり合っている二人。 「思えばこの頃から、夜ちゃんは瑠璃くんのことが大好きだったんだよねー」 「な、なっ――!」 「一緒に学園に通うのが楽しくて、楽しくて――毎日が、宝石のように煌めいていたんだよね!」 「そ、そんなことは……!」 「違うの?」 「ない、とは、言い難いというか、えっと……その……っ」 「好きだったんだよねー?」 「――っ! そ、そうよ! 好きだったわ! それがどうしたっていうのよ! 何がいけないのかしら!」 「何もいけなくないよ」  給仕ちゃんは、笑って。 「いけないのは、その気持ちに嘘を吐いちゃうことだから」 「……そうね」  そうだ。  当主ちゃんは、それを忘れてはいけにゃい。  ご主人が最後まで伝えようとしたのは、恋の残酷さにゃのだから。 「思えばあたしは、ルビーの時に、気付いておくべきだったのね」  そうすれば、それ以上物語がこじれることも、にゃかったのだろう。 「理央の怯えてたり、泣いている表情って、小動物みたいよね」 「え、えええ?」  当主ちゃんは、突然ネジの外れたようにゃことを言い始めた。 「これなんか、物凄く弱々しくて、とても魅力的だわ」 「よ、夜ちゃん……? これ、理央、けっこう大変なシーンなんだけどなー?」 「し、知ってるわよ。けれど、ドキドキするから仕方がないじゃないの!」  変にゃ性癖でもあるのかにゃ?  こわいこわい。 「可愛らしくて、可愛らしくて……本当に、あなたはあたしの誇りだわ」 「こ、この流れで自慢気に言われても、怖いだけだよー!!」 「……これ、駄目だと思うの」  恥ずかしそうに、うつむきにゃがら。 「どうみたってこれは、イケナイわ」 「う、ううっ……理央だって、恥ずかしかったんだよぉ……」 「裸で抱き合っているようにも見えるし……何だか、背徳的だし……理央は、その、えっち、だし……」 「えっちじゃないよ!? 普通のシーンだよ!? 健全さんなんだからっ!!」 「何処をどう見たって、これは健全じゃないでしょう……」  ぼくも、そう思うにゃ。  オスだったら、羨ましいと思うかもにゃ。 「きゅ、吸血鬼さんなんだから、しょーがないんだよぉー!! ふ、ふかこーりょく!」 「ま、そういうことにしておいてあげるわ」 「含みある言い方だー……」  だけどえっちにゃのだから、仕方がにゃい。 「そういえば、紅水晶ではクリソベリルに襲われるシーンが有ったの、覚えてる?」  銀のナイフを手にして、瑠璃に襲いかかるハンター役。  瑠璃をかばうため、吸血鬼は身を挺して守ろうとして。 「……うん、忘れるわけがないよ」  それが紅水晶の定められた物語で、揺るがすことの出来にゃいストーリー。  弱点を突かれた吸血鬼は、やがて命の花を散らせるにゃ。 「瑠璃が、魔法の本に逆らって、理央を庇った」  本のあらすじに、抵抗した。 「ちゃんと、覚えてる。あれは、とても印象的だったから」  ざまあみろ、と笑う瑠璃。  驚く給仕ちゃんとハンター役。 「結局、瑠璃も紙の上の存在で、物語に飲まれてしまって、それはなかったことになってしまったけれど――あれこそ、意志の強さなのかしらね」  瑠璃が目を覚ました時、吸血鬼を庇って刺されたという事実は隠された。  元あるべきストーリーに、紙の上の魔法使いが戻したのだ。  瑠璃が意識を失った時、クリソベリルと給仕ちゃんはにゃにをしたのだろう。 「嬉しかった。瑠璃くんは、理央の王子様のように見えてしまって」 「あれこそ、瑠璃の最初の反乱なのかも」 「本当、瑠璃くんは格好良いね。やっぱり、大好きだ」 「今更のことだけれど、瑠璃は本当に八方美人よね。誰かれ構わず、いい顔をし過ぎなの」 「あはは……夜ちゃん、厳しい」  そして時系列は、吸血鬼の告白に移るにゃ。 「このときだって、そうじゃないの。このときはまだ、妃のことを引きずっていたくせに……理央の告白を受け入れて、繋ぎとめようとした」  失恋して、自殺する物語に逆らうため。  瑠璃は、表面上、告白を受け入れたんだにゃ。 「それこそ、瑠璃くんの優しいところだよ。だけどそのときは、ちょっぴり残念だったよ」  〈寂〉《せき》〈寞〉《ばく》にゃ想いは、変わらにゃい。 「すっぱりと失恋することができたら良かったのに、瑠璃くんはそれさえさせてくれなかったんだもん」 「駄目駄目ね。さすが、木偶の坊」 「意気地なしだねって、思ったのは内緒だよー?」 「理央は、本当にろくでもない男を好きになってしまったわね」 「あはは、それは夜ちゃんもだけどにゃー!!」  〈和〉《わ》〈気〉《き》〈藹〉《あい》〈々〉《あい》と、笑いあい。 「完璧な人間よりも、何かが欠けている人間のほうが、魅力的に映るのかもしれないわね」 「にゃ?」 「駄目なところもあるけれど、そういうところもあわせ飲んで、好きになってしまったのかもしれないわ」 「……そうだね」 「理央の番は、こんなところだね! やー、楽しかったよー。いろいろ、懐かしかった!」 「改めて思い返してみると、何だか心が痛かったわ。その痛みさえ、とても大切なものだけれど」  ちらり、と。  当主ちゃんは、ぼくを見つめる。 「鼻がムズムズすると思ったら、いつの間に近づいてきてたのよ。ダメよ、蛍。あたし、お前が苦手なの」  にゃんと辛辣にゃことを口にするおんにゃの子だ。  さすがのぼくも、面と向かって言われると、にゃきそうににゃる。 「でも、蛍ちゃんを追い出したりしないんだもんね」  猫アレルギー。  それはとても、軽微にゃものと聞いてはいるが。 「蛍だけは、特別よ。それに――」  ちらりと、給仕ちゃんを伺って。 「――今まで、あなたから奪ってしまったものを、少しずつ返していきたいの」  ねこ。  そういえば昔、この図書館には一匹のねこがいた。  当主ちゃんが、寂しがり屋にゃ給仕ちゃんに送った、新しいお友達として。 「あたしは今でも、そのことを後悔している」  軽微にゃ猫アレルギーと判明した瞬間、闇子は給仕ちゃんから猫を取り上げた。  記憶とともに取り上げて――その存在をにゃかったことにしてしまったのにゃ。 「破れたページは、もう二度と元には戻せないけれど」  猫の思い出は、取り戻せにゃいけれど。 「これから、新しく刻みつけて欲しい。伏見理央としての、自由気ままな人生を」 「……うん。ありがとう、夜ちゃん」  嬉しくて、笑顔を隠すかのように、給仕ちゃんはぼくを抱きしめる。  フサフサの毛に鼻を埋めて、ぬくもりを欲するように。 「理央、お猫さん、大好き」  さすがのぼくも、ドキッとして。 「だけどそれ以上に、夜ちゃんのことが大好きだよ」  にゃんだよ、引き合いに出しただけかよ。  にゃあんて、そこまで悪態をつくほど、馬鹿じゃにゃいにゃ。  給仕ちゃんのぬくもりは、とても温かいものだったけど。  しかし、それはご主人のぬくもりにはかにゃはにゃい。  思い出語りは、次のページヘ。  さあ、次はどんにゃ裏事情を、少女たちは語ってくれるのかにゃ。  いつもどおり、ぼくは傍観者で居続けて。  いつもどおり、ぼくは何もしにゃいでじっとしてよう。 「お次は夜子さんですね! 夜子さんのあられもない過去を振り返っちゃいましょう!」 「わ、私は別にいいわよ……」  給仕ちゃんと変わって、かなたちゃんが再登場。 「い、今更過去の自分のことなんて、見たくはないし……」 「まあまあ、いいじゃありませんかー! 順番ですよ順番。私は、夜子さんの恥ずかしいお話とか聞きたいです!!」  えろ親父のようにゃテンションで、かなたちゃんは絡んでいく。 「というわけで、はいっ!!」 「なっ、なっ、なっ――!!」  かなたちゃんが提示したのは、当主ちゃんのお着替えシーン。  貧相な身体が、あられもにゃく晒されている。 「ちょっと、どうしてこんなところを出す必要があるのよ! 振り返る必要なんてないでしょうに!!」 「ありますよーありますとも! 夜子さんの肌のきめ細やかさとかー、すべすべの感触とかー、きっと需要がありますよ!」 「意味がわからないわっ! 今日のかなたはどうかしている!」 「舐めまわしたいですねー、抱きしめたいですねー。どうしてこう、夜子さんは美味しそうな身体をしているのでしょうか?」 「……誰か助けて」 「やーん!」  かなたちゃんが褒めても、嫌味にしか聞こえにゃいにゃ。  当主ちゃんの身体は、美味しそうにゃんて言えるはずもにゃいと思うのに。 「だけどこのとき、あまり驚いていませんでしたよね? 定番なら、馬鹿ぁ! って泣いて恥ずかしがるところなのに」 「どうしてあたしが泣かなければいけないのよ。こういうのは、泣いてあたふたしたら駄目なの。毅然とした態度で、拒絶しなきゃ」 「とかいいつつ、一人では恥ずかしくて頭を抱える夜子さんでした」 「ち、違うわよー!!」  それも、強がりにゃのかにゃ。 「少し時間は巻き戻して、一番最初の再会のシーンです。いやあ、このときの夜子さんは、とても美しいですね」 「瑠璃に見られていたと知っていたら、もっと険しい表情をしていたのに」 「足を組んだりなんかして、エロいですよねー。誘ってるんですか?」 「……っ! かなたって、こんな性格だったかしら……?」 「舞台裏のぶっちゃけ話なので、いつもよりも正直なのですよ!」 「つまりいつもは、頭の中で考えてたということね……」 「当たり前じゃないですか! 足! 太もも! 膝! やーん、愛でたいですよー!!」 「自分の足を触ってたらいいのに……」  ぶつぶつと不満気にゃ当主ちゃん。 「じっと見られていたなんて……不快だわ」 「ふふふっ、だけどそうまで嫌いながらも、瑠璃さんのことが大好きなんですよねー?」 「……うるさいっ」  そっぽを向いて、目を逸らす。 「嫌いなところや、好きなところがいっぱいで……よく、分からなかっただけ」 「ちなみに瑠璃さんのどんなところが好きになったのでしょうか?」 「嫌いなところなら、楽しくお話できそうだけれど」 「じゃあ、そっちで」  おい、それでいいのかにゃ。  余りにも瑠璃が不憫だにゃ。 「あたしを、小馬鹿にするところとか。ちょっと英語が読めないだけで、けらけら笑うのよ? デリカシーに欠けると思わない?」 「夜子さんからデリカシーという言葉が出てくるのが驚きです」 「そ、それくらい知っているわよ! とにかく、とっても無礼なやつなのよ!」  荒々しく、当主ちゃんは続ける。 「あとは、馴れ馴れしいところとか! 気安いし、距離感がわからなくなっちゃうし、いつもへらへらしてあたしに構おうとするのよ」 「ふむふむ」 「極めつけは、読書が好きなところね。あたしと同じ趣味をして、その上で感想も似たり寄ったりだから、とても屈辱的なの」  嫌いにゃところ、たくさんあって。 「理央やお母さんはあいつに甘いから、すぐに調子に乗って。本当、なんて性格の悪いやつなのかしら」 「でも」  かなたちゃんは、嬉しそうに。 「そんな瑠璃さんに、惹かれてしまったんですよね」 「…………そう、ね」  嫌いにゃところも、たくさんあって。  それでも、好きにゃところもたくさんある。  何が嫌いで、何が好きか。  当主ちゃんは、その区別がつかにゃかったんだ。 「本当、呆れるくらいに、バカなんだから」  それは、自分に向けられた嘲笑。 「どうして、自分の気持ちに気付かなかったのかしら……」 「今、それを自覚しているだけで、十分だと思いますよ」 「……これは、フローライトの時のお話ね」  映しだされたページは、『フローライトの時空落下』  遊行寺汀が、紙の上の存在とにゃった月社妃へ、告白しようとするシーンだ。 「思えばこの時から、月社さんは終わりを覚悟していたんですね」  ご主人は。  きっと、紙の上の存在とにゃった瞬間から、自ら破り捨てる未来を覚悟していて。 「終われなかったものを終わらせるために、現れた」  それは、違うにゃ。  亡くなったご主人を利用したのは、あいつだにゃ。  腐れ魔法使いは、ぼくの誇りを傷つけた。 「汀の果てしない片思いは、とても、とても、他人ごとのようには思えないわ」  ぎゅっと、手を強く握りにゃがら。 「気付かなくちゃいけなかったものを、見落とし続けていたわ。あたしはそのことを、死ぬまで後悔し続けるのでしょう」 「夜子さん……」  当然だにゃ。  当主ちゃんには、その義務が課せられているんだにゃ。 「ソーダ味のアイスが、美味しかったの」  儚く、懐かしむような声。 「舌に触れる冷たさと、その次にくる特有のしゃくしゃく感が、本当に美味しくて」 「……これは、月社さんが生きていた頃の光景ですね」  瑠璃と、当主ちゃんと、ご主人とで。  坂の上の教会に、向かっていた時のこと。 「妃は、あたしにとても優しくしてくれて……あたしの弱味を許してくれて、とても素敵な友達だったけど」  ページをなぞりながら、当主ちゃんは呟く。 「あたしは、妃の心の内側なんて、何も知らなかったのね」  そうだにゃ。  秘密主義のご主人は、その内情を全く晒すことはにゃく、口を閉ざし続けたにゃ。  大好きにゃ瑠璃にさえ、真実を告げることはにゃく一人で終わらせてしまって。 「どうしてそんなに、強くなれるのかしら。あたしは、妃の強さが羨ましいわ」  だから、当主ちゃんは知らにゃい。  ご主人は、これっぽっちも強くにゃんかにゃい、どこにでもいる普通のおんにゃの子にゃのに。 「これから、強くなっていけばいいんですよ。その強さは、直接その目で見てきたはずですから」 「そうね。それしか、ないわ」  ソーダ味のアイスの思い出に、浸りにゃがら。 「あれほど美味しいアイスは、もう二度と食べられないでしょうね」  『――恋に敗れて、死んでしまえ』 「恐ろしいほど壮絶な言葉です。まさしく、月社さんの恋愛を物語っていましたね」 「他の誰でもなく、妃だからこそ響いた言葉だった」  誰よりも最初に、恋に敗れて死んでしまったご主人。  生きて迷い続ける当主ちゃんが、許せにゃかったのだろう。 「本当に、妃もかなたも、どうしてそんなに凄いのかしらね。二人と比べてしまうと、あたしという人間がとても愚かしく思えてしまうわ」 「ええっ、月社さんはともかく、私も入れちゃいますかー??」 「当然よ」  ぼくも、頷くにゃ。 「かなたがいなければ、この結末を迎えることは出来なかった。今、あたしがここにいるのは、かなたのおかげなのよ」 「陰鬱な図書館の中で、絶えず笑顔を咲かせ続けていたわ。かなたが笑ってくれるだけで、どれほど心が軽くなったか」  積極的すぎる明るさは、消極的すぎる暗さを持つ当主ちゃんを引っ張っていく。 「あはは……素直に褒められて、嬉しいような恥ずかしいような」 「褒めているのだから、素直に受け取っておきなさい」 「はーい!」 「……ところで話は変わるのだけれど、本屋大賞ってあるじゃない? あれの選考基準ってどうなっているのかしらね」 「え?」 「本屋さんの店員が選ぶという前触れだったけれど、最近のラインナップを見る限り、売りたいものを並べているようなそんな企みが見え隠れするわ」 「ええっと……」 「かなたは、ミステリーばかり読むなら、あまりその辺りの賞はチェックしていないのかしら? このミスや江戸川乱歩賞くらいは、チェックしている?」 「わ、私は、賞とかにはあまり興味がなくて」 「あら、そうなの? 確かに、先入観を持って活字に触れるのはよくないというのは一理あるけれど、存外こういうのも悪くわないわよ?」 「そういえば、瑠璃さんは直木賞作品は毎回チェックしているとか何とか」 「当たり前じゃないの! あたしも幅広く小説は読んでいるけれど、有名所は絶対に抑えておくもの!」  熱弁する当主ちゃん。  話題そらしに、必死じゃにゃいか。 「ところで、このシーンでの夜子さんは――」 「あああっと! そうよ、理央は甘酸っぱい恋愛小説が大好きだから――」 「――素敵な、告白シーンでしたね!」 「うっ……」  冷や汗、たらり。 「女の子は、恋をして美しくなるのです。このときの夜子さんは、本当に素敵でしたね」 「やっ、やめっ!! なしよ、なし! もっと別のお話にしましょう!!」  顔を真赤にさせて、ページをめくる。 「って、なっ、なっ、何よこれっ……!!!」 「あら」  それは、『ホワイトパールの泡沫恋慕』が見せた、偽物の思い出。 「あっ、あたしが、どうして、は、裸でっ……! あ、足開いてっ……!! えええ!???」 「そういえば夜子さんは、白真珠の幻を見ていないんでしたね」  闇子によって紡がれた、瑠璃と夜子が付き合っていたという幻想。  結局それらは全てまやかしだったが、それも語られた物語であることに変わりはにゃい。 「ちょっと待って!! しかもこれ、瑠璃がっ……あたしにっ……!」 「はい、襲いかかっちゃっていますね! やーん、ワイルドな獣さんですねー。夜子さんの目にも涙が浮かんでいます」 「あっ、ありえないわっ!!! こんな物語が語られていたなんて、発禁よ! 発禁ものよ!!」 「いいじゃないですか、これらはただの妄想なのですから」 「妄想だって、していいことと悪いことがあるわよぉ!!」 「ふふふ、照れてる夜子さんも可愛いですねえ!」 「どうしてかなたが嬉しそうなのよー!!」 「カットよ、カット」 「はい?」 「さっきのページは、カットすること。編集して、切り取りなさい」 「い、意味不明です……」 「それくらいの都合を付けなければ、駄目なのよ! 個別ルートも入らないで、どうしてあたしが攻略されなければいけないの!」 「身も蓋もない発言は駄目ですよー、いくらこれが舞台裏の物語だからって、台無しですって!」  舞台裏発言も、台無しだけどにゃ。 「ああもう! 折角いい感じで振り返れていたのに!」 「まぁこれも、私たちらしいということで」 「嫌よこんなのー!!」  賑やかな声が大きくなり、舞台裏の物語はただの雑談へと変わっていく。  興味を失ったぼくは、ゆるやかに目を瞑った。  思い出語りは、もうおしまい。  何も語ることはないと雑談に変わる雰囲気に、少し嫌気が差して。  いつもどおり、ぼくは傍観者で居続けて。  いつもどおり、ぼくは何もしにゃいでじっとしてよう。  夢を見ていたようにゃ気がする。  ご主人の匂いが染み付いたソファーの上でまるまるぼくは、どうやらいつの間にか眠っていたらしい。  見上げると、三人の女の子たちがわーきゃー楽しそうに話していた。  ふにゃあ。  思いっきり身体を伸ばして、無防備な声を上げる。  その声に気づくことのにゃい彼女たちは、今も夢中。  夢。  見ていた夢と、それは同じ光景。  これにゃら夢で見る必要がにゃいじゃにゃいかと、ぼくはとても不満気だったが。  寂しい。  遠く、遠くに聞こえる笑い声。  楽しそうに過去を語る少女たちを見ると、ぼくはとても悲しくなってしまったにゃ。  だって、それはもう完成された光景で。  本来ならもう一人、ここにいるはずのおんにゃの子が、どこにもいにゃかったから。  本当に、過去になってしまっている。  それをご主人が望んでいることはわかっているけれど、ぼくはいつだって、そうは思えにゃい。  だからこそ、少女たちが語らにゃいのなら、ぼくが語ろうと思う。  思い出語りを、してみるにゃ。  ぼくの語りだとにゃーにゃーうるさくて申し訳ないけれど、そこは許してくださいにゃ。  ご主人と初めて出会ったのは、にゃんたら流星群が観測できるという日。  草むらで隠れるぼくを見つけたご主人が、空を見上げることも忘れて手を差し伸ばしてくれた。 『にゃー』 『にゃあー?』 『ほらほら、私は怖くありませんよ。にゃー、にゃあ?』 『うにゃにゃにゃにゃにゃー』  正直に言ってみれば、このときからご主人のことを好きににゃったわけではにゃい。  構ってくれることが嬉しくて、にゃーにゃー鳴いたりはしたけれど、それはにゃんとかして餌が欲しかったからにゃ。 『ほら、猫。あなたの名前は、今日から蛍ですよ』  はぁ?  と、ぼくは首を傾げてみたけれど、にゃんだかご主人は嬉しそうだったんだにゃ。  特別にゃことなんてにゃにもにゃい。  一人のおんにゃのこが、一匹の猫を拾ったというだけ。  迫害されていたお父さんとお母さんから逃れるように、その日からぼくのご主人になってくれた。 「あなたは、鳴かない猫ですね」  そうしてぼくとご主人の、ささいな時間がはじまった。  ぼくをこっそり飼うと決めたご主人が、まず最初にしたことは。 「ちょっと、失礼しますよ」  ぼくの手を両手で持ち上げて、そのままお腹を晒させたんだにゃ。  いきなりにゃにをする! とさすがのぼくも憤ったけれど、ご主人はただ確認したかったらしい。 「良かった」  心から、安堵したように。 「蛍は、女の子なんですね」  にゃ? 「これなら、抱きしめても浮気になりません。本当に、良かったです」  さすがのぼくも、絶句したにゃ。  このおんにゃの子は、何を言っているのだろう。 「いえ、別に付き合っているわけではないんですけどね。ただ、なんとなく――心を裏切りたくないのです」  この子は、どんだけ一途にゃんだよと、少し引いた。  飼い猫にまでそれを求めるにゃんて、正直頭がおかしいと思う。  だけど同時に、面白いおんにゃの子だとも、思ったにゃ。 「聞いてくださいよ、蛍。最近、瑠璃があまり構ってくれないんですよ。昔は私のことを、常に考えていてくれていたのに」  瑠璃? 「あ、瑠璃というのは、私の兄のことです。ほら、蛍も会ったことがあるでしょう?」  ああ、あのとき隣にいたやつか。  そういえば、にゃんどかぼくの様子を見に来ている。 「放課後は、どこぞの悪そうなお友達と遊んでいるようです。全く、けしからんですね」  寂しそうに俯くご主人は、ぼくをたぐり寄せる。 「だから今日は、蛍に慰めてもらおうと思います」  ぎゅーっと力を込めて、ぼくのひ弱な身体に顔を埋めて。 「もっともっと、私を見て欲しい……」  弱音を零すご主人は、とても弱々しくて。  この子は、とても弱いおんにゃの子だと知ったのである。  それからご主人は、頻繁に僕の元を訪れるようになった。  初めて出会った時は、すまし顔が印象的なクールなおんにゃの子だと思っていたど、その中身は滅茶苦茶だ。 「お手」  え。 「おすわり」  にゃにいってるんだにゃ。 「踊って見せてください。ほら、手をとって?」  いやいやいや。 「むう、全然駄目ですね」  ぼくに芸を仕込ませようとして、失敗する。  無理だにゃ。ぼくは猫だから、と困ったような声を出してみても、ご主人は楽しそうに笑うばかり。 「大丈夫ですよ、今は出来なくても、いつかできるようになりますから」  別に、出来るようににゃりたくにゃいんだけどにゃ。 「ふふふふふっ、蛍と過ごす時間は、楽しいですね」  ぼくを玩具のように扱いながら、それでも楽しい日々だったにゃ。  だけどご主人は、時間が経つに連れて、笑顔が目に見えて減っていった。 「蛍」  また、別の日。 「……蛍」  ぼくの元へ現れたご主人は、とても元気がなくて。 「蛍は、ずっとずっと、私の傍にいて下さいね」  泣きそうな声で、ぼくの頭を撫で続ける。 「どうやら、私は諦めなければいけないようですよ」  泣きそうな声、ではにゃくて。  ご主人は、本当に泣いていた。  頬からあふれる涙は、止まらなくて。 「瑠璃に、好きな人が出来たみたいです。同じクラスの、とても明るい女の子です」  ご主人がぼくに何かを話してくれる時は、いつも瑠璃のことばっかりだった。 「遂に、ともいうべき時が来たんですね。私は生まれついての、二番手ですから」  思えば、そう。  その日以来、ご主人は毎日毎日、ぼくの前で涙を晒していたように思う。  何かあったら報告して、少し笑って、それから瑠璃の話をする。  決まって最後は涙を流しながら、ぼくを抱きしめて。  まるで、弱味を全て吐き出して、強くあろうとするかのようなその姿勢は、とても、とても、儚く見える。 「こうして泣いているなんて、誰にも言っては駄目ですよ?」  言えるわけがにゃいから、安心して欲しい。  そうやってご主人は、ぼくの前では涙を流し、他の人の前では笑顔を続けていたのだ。  きっとぼくは、ご主人のそういう弱さに、惹かれてしまったんだと思う。  どうしようもなく弱々しくて、泣いてばっかりのご主人を、何とか笑わせてあげたくて。  だけど、わかってたんだにゃ。  ぼくは所詮、寂しさを紛らわせるだけの代用品に過ぎなくて――ご主人は、ぼくという猫は求めても、ぼくという存在は求めていにゃかった。  そして、ご主人の家庭の事情が、関係の終わりをもたらしてしまう。  ぼくという存在にかまけるご主人を、気に食わない母親が、捨てて来いと命令して。 「ごめんなさい、蛍」  最期の日まで、ご主人は泣いていた。  日向かなたに引き渡すことが決まった後も、ただただ泣き続けて。 「あなたを手放そうとする私を、ずっとずっと恨んで構わないから」  日向かなたに引き渡すときは、さも普通に振る舞ったりして。 「――あとは、宜しくお願いします」  瑠璃も、かなたちゃんも気が付いていにゃかった。  平常心を装うその裏側に、ご主人がどういう感情を覚えていたかなんて、知りもしない。  強がりなご主人は、ぼく以外の前では涙を見せず。  そしてぼくの意志とは関係なく、ご主人との関係は遠く遠くににゃってしまった。  かなたちゃんは、とてもいい飼い主だったと思う。  ぼくを引き取った後も、定期的にご主人と会わせてくれたり、そうでない間もぼくを一生懸命お世話してくれたりなんかして。  それまでの生活環境が一変して、ぼくは飼い猫として、幸せな人生を歩むことが出来るようになったとは思うけれど。  嫌いじゃにゃい。  むしろ、かなたちゃんのことは、好ましく思っているけれど。  ――ぼくがいにゃくなってしまったら、ご主人は誰の前で涙を晒すんだにゃ?  その疑問を抱える限り、かなたちゃんをご主人と呼ぶことは出来にゃかった。  微睡みから覚めて、眼を開く。  すると、さっきまで賑やかだった広間が、静まり返っていた。  ぽつん、と放置されている『紙の上の魔法使い』という名の小説。  それが気になったぼくは、机に飛び乗って、開こうとするけれど。 「……蛍?」  背後から、声がした。  聞きたくない奴の、声がした。 「貴方も、思い出を語りたいのかしら」  赤い瞳が、ぼくを囚えて。  思わず、思考が停止した。  クリソベリルを見て、忘れかけていた野生がこみ上げてくるのを感じる。 「おいで」  腐れ魔法使いが、ぼくの身体を抱きかかえて。 「っ――!」  ふしゃあ!!! と大きく声を上げて、思いっきり引っ掻いてやる。  爪を立て、牙を向き、恨みを込めて、痛みを刻み込む。  離せよ。  触らにゃいでくれ。  ご主人が抱いてくれたぬくもりを、打ち壊してくれるにゃよ。 「ほ、蛍……」  悲しそうに、しかし抱きかかえたままの腐れ女。  決して許すことはないと、爪を食い込ませて血をにじませる。  ――ふしゃああっ!! にゃあ!! 「妾は、妾は……!」  ぼくは生涯、お前を許さにゃい。  例え当主ちゃんや瑠璃の馬鹿野郎が、お前を許したとしても――お前さえいにゃければ、ご主人はいにゃくにゃることなんてにゃかったから。  ――お前のせいで、お前のせいで、お前が余計なことをしたから! 「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!」  改心したって、他の誰が許したって。  お前は、ご主人の死ぬ理由を、直接与えた腐れ魔法使いだ。  なあなあのハッピーエンドに甘えて、これから幸せににゃれるにゃんて思うにゃよ。  少なくともぼくだけは、お前を呪い続けてやるんだから。 「妾は、こうなるなんて、思ってなかったから……!」  尚ももがき続ける、ぼくを。  爪を立てて、牙を向いて噛み付いて、どれほど傷付いたとしても。  腐れ女は、ぼくを抱きしめ続けて、痛みを与えられ続けていた。 「ごめんなさいっ……!!」  罰することを望む罪人のような、その悔恨。  見る人が見れば、それは同情するようにゃものかもしれないが。  笑わせるにゃよ。  だったらもっと、苦しめよ。 「蛍っ……!!」  ぼくの恨みを受け止めながら、抱きしめ続けて。  余りに強くもがくから、その衝撃で本のページがめくれていく。  『まほーのほん』が開いても、ぼくはぼくの思い出を失うことはにゃかった。  みんながかなたちゃんのことを忘れてしまってからも、ぼくは全てを知っていて。  ご主人が瑠璃といい感じになっていくのを後ろで見つめながら、不思議な現実を傍観していたのだ。  あれほど涙を流していたご主人は、にゃにやら瑠璃と恋人みたいな関係ににゃっていて。  ぼくのいにゃいところでも、ちゃんと笑っていられることに、満足気に見守っていたんだにゃ。  本当は、ご主人に抱きしめて欲しかったけれど。  ぼくが現れることで悪影響が出てしまったら嫌だったし――何より、いまのご主人にぼくは不要だと思ったんだにゃ。  だけど。  だけど、紙の上の魔法使いは、ご主人と瑠璃の関係を許さにゃかった。  恋心を忘れて、他の男と恋に落ちる物語を強要されたご主人は、『オニキスの不在証明』に囚われてしまって。  ぼくは、見ていた。  お散歩が許されている間、ずっとずっと、ご主人の姿を追い求めていたから。  すまし顔のご主人の後ろに、嫌味な顔で囁くクリソベリル。  少しも涙を見せることはにゃく、最後まで笑っていた。 『ざまあみろ』  そしてぼくは、ご主人がただの肉塊になる瞬間を、蛍色の瞳で見てしまった。   それはどうすることもない、無情な別れ。  物語に中指を突き立てて退場したご主人は、確かに最後までご主人らしくはあったけど。  ――きっと、にゃいていたんだ。  ぼくは、知っている。  ご主人が、影では泣いてばかりの弱々しいおんにゃの子だと、知っているんだ。  だから、そのときのご主人の内側が、どんなに壊れやすくて、傷付いて、ぐちゃぐちゃな気持ちだったのか、わかってしまって。  にゃにもすることができにゃかった自分が、無力に思えて仕方がにゃかった。  それからご主人は紙の上の存在として生まれ変わったりもしたけれど。  それは、高貴なご主人の覚悟を踏みにじるような、最悪の筋書きだった。  腐れ女の手から抜けだしたぼくは、ご主人の愛したソファーへと逃げ込んだ。  あいつはぼくを悲しげに見つめていたけれど、最後はどうしようもなく目を逸らして、立ち去っていく。  もうご主人のぬくもりは失っているけれど、それでもここにご主人がいたと思うと、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。  何も出来ない猫であるぼくは、物語には関わることが出来ない。  ぼくはただの、ねこだから。  そして、ご主人は別に、ぼくに何も求めてはいなかったから。  あの日、ぼくを拾い上げてくれたご主人は、別にぼくをどうこうしようと思ってくれていたわけではにゃい。  あそこにいたのがぼくじゃにゃくたって、他の猫だって、それこそ犬だったとして――結果は、にゃにもかわらにゃい。  同じようにご主人はソレに手を伸ばし、同じように涙を見せていたはずだ。  ぼくは、最後まで自惚れることができにゃかった。  ご主人にとって、瑠璃の代用品でしかないぼくは、要するにぬいぐるみのようにゃもの。  愛してくれていたかといえば、それなりに愛してくれて。  だけどそれはぼくじゃなくて、ねこをあいしてくれていただけにゃんだ。  ご主人が見つめていたのは――ご主人が、ぼくの向こう側に見つめていたのは、いつだって瑠璃色の世界。  ラピスラズリに恋するご主人は、フローライトの輝きに気付かにゃい。  だけど、それでいい。  それに不満にゃんて、ぼくは覚えていなかった。  代用品でも、ぬいぐるみでも、にゃんでもいい。  それがご主人が楽しいのにゃら、好き勝手にぼくを使ってやって欲しい。  ご主人が、ぼくを寂しさを紛らわせるために拾ってくれたのと同じように。  ぼくだって、一人ぼっちの世界は、寂しかったんだにゃ。  どんにゃに身勝手な理由で、ぼくに手を差し伸ばしてくれたとしても――結果として、ぼくはとても嬉しかったから。  何者にもにゃれにゃいぼくに、せめて代用品としての役割をくれたご主人に、応えてあげたくて。  かなたちゃんに引き取られてから、頑張って練習した二足歩行。  お手も、お座りも、ぎこちなく頑張って覚えてみせた。  猫としてのプライドにゃんかどうでもよくって、いつか、ご主人がぼくにそれを求めた時に、いつでも応えられるように、頑張って。  かなたちゃんは、頑張るぼくをみて首を傾げて笑っていたにゃ。  失敗して転ぶぼくを見て、心配そうに止めようとしてくれたけれど。  転んでも、滑稽でも、笑われても。  それがご主人の寂しさが少しでも紛れるなら、ぼくはそれでいい。  そう想い続けて、ぼくはこれまで生きてきたのだから。  ――にゃあ。  その気持ちだけは、失われることはにゃい。  結局、ぼくはご主人の寂しさを拭ってあげることはできにゃかった。  芸を披露する機会もにゃく、ただ無常にもいなくなってしまったご主人に、ぼくはにゃにもできなくて。  そのことが、本当に、こころにょこりで、つらくて、かにゃしくて。  愛した人に、全てを捧げたかったけれど、ぼくのこの小さな身体では何も出来にゃい。  だけどぼくは、ここにいる。  最愛の人が失われた世界の中で――灰色を観察し続けている。  ここは、ご主人が愛した場所だから。  ご主人が生きたかった、煌めくようにゃ世界だから。  ぼくのこの蛍色の瞳で、ご主人の代わりに見続けていこうと思っている。  二度と、ぼくの気持ちは満たされることはにゃいだろうけれど、だけどもそれが、ぼくがここにいる唯一の意味に思えたから。  ご主人の残り香を感じるソファーにくるまりながら、微睡みに沈んでいくぼく。  今日も、今は亡きご主人への愛を想いながら、ぬくもりにくるまって眠ろうか。  蛍色の景色は閉ざされて、意識は果てに沈んでいく。  フローライトの輝きが消えていくのを感じながら、最後にぬくもりを感じたような気がした。  それはきっと、ぼくの想いが創りだした、幻想のようにゃものだとは思うけれど。 「――ありがとう、蛍」  ぶわっと込み上げるぬくもりに、思わず涙が溢れていて。  そうしてぼくは、これからもご主人のことを愛し続けていくのだろう。 「と、いうわけで! 紙の上の魔法使い、体験版のプレイありがとうございましたー!」 「あの」 「これからどうなるのか!? そしてかなたちゃんの可愛さはどうなっていくのか!?」 「あの、私」 「それは皆様の目で、ぜひぜひご確認して下さいな!」 「あの、私……死んじゃったみたいなんですが」 「はい?」 「いや、だから……死んじゃったみたいなんです」 「大丈夫ですよー、月社さんは攻略ヒロインですから、なんとかなりますって!」 「そ、それはいわないおやくそくなんじゃないのかな……」 「大丈夫よ、ほら、公式ページや雑誌には、まだまだ出てきてないCGが掲載されてるし」 「台無しですよ!」 「ほっ、それなら安心ですね。私の活躍は保証されたものですよ!」 「実は全部過去の回想だったりするかもしれないけどねー」 「さらりと酷いことを言うわね……」 「さてさて、ここの辺りで予約特典の紹介に入りますよー」 「よやくとくてん?」 「発売日前に予約しなければ手に入らない特典のことですよ」 「今作の予約特典は、クリア後の追加シナリオとなっております!」 「何でも、あたしたちが作品の内容を振り返りながらお喋りする、座談会のようなものだと聞いているけれど」 「よーするに、こんな感じでぴーちくぱーちくお喋りしてるんだねー?」 「そういうことです! しかも、舞台の裏側を暴く座談会だけには留まらず、とあるキャラクターに焦点を当てたシナリオも含まれていて、いい感じで充実してるらしいですよ!」 「タイトルは?」 「『蛍色の光景』」  蛍色の物語が、裏側に隠れた想いを刻む。 「これはもう予約するしかありませんね! 予約しましょう!!」 「新聞のセールスみたいになってるわよ……」 「笑いあり、涙ありの痛快特典! これはもう予約するしかありませんね! かなたちゃんとのお約束ですよ!」 「私への手向けと思って、予約してやってくださいな」 「お願いが暗すぎるよー!!」 「というわけで、ここまでね」 「体験版をプレイして頂いて、ありがとうございました! 物語はこれからが本番になりますので、是非是非続きをプレイして下さいね!」 「体験版では地味子ちゃんな理央ですけども、本編ではばりばりですよ!! うむ!」 「私だって、本編ではきっと……瑠璃が助けてくれるのでしょう」 「あ、あたしは……! えっと、その、頑張る、から!」 「それでは、また本編でお会いしましょう!」 「これが夜子のためになるというなら、俺は中身を確認しない」  手にしていたページを、クリソベリルに差し出して。 「お前の全てを信用するわけじゃないが、それでいいと思ったんだ」 「る、瑠璃さん? 本当にそれでいいんですか?」  俺の選択に、彼女は慌てる。 「月社さんが託してくれた、貴重な情報ですよ? 瑠璃さんは、それを無為にしようと言うんですか?」 「無為にするわけじゃない。あいつから託されたものは、ちゃんと受け取ったつもりだ」  けれど。  確かにこの世には、知らなければいい事もたくさんある。  なんとなく、わかっちゃったんだ。  俺は、パンドラの箱を開けてはならないって。 「瑠璃のお兄ちゃんは、それでいいんだね」  俺の選択に、神妙な表情を浮かべながら。 「――ありがとう。これでようやく、物語をあるべき姿に戻すことが出来る」 「その代わり、教えてくれよ。お前は結局、何が目的だったんだ?」 「だから、何度も言ってるわよね。夜子を、幸せにしてあげたいって。その気持ちに、偽りはないの」 「そうか」  その言葉を信じたからこそ、俺は中身を見るのをやめたんだ。 「未来は知らない方がいい。ページを渡してくれて、本当にありがとう」  少女の無垢な笑顔に、自らの選択への後悔は霧散する。 「安心して。未来はきっと、悪いようにはならないから。それは、瑠璃のお兄ちゃんも含めてよん?」 「ああ、もし誰かを傷付けるようなことをしたら、俺はお前を許さない」  どうかこの選択を、後悔させないで欲しい。 「きゃははっ! 瑠璃のお兄ちゃんがこうしてくれた時点で、妾はもう何も心配していないわ」  一歩、後ずさる魔法使い。 「夜子の幸せを、願ってくれた。それこそが、一番欲しかった気持ちなのかもしれないわね」 「……何処へ行く?」 「あるべきところへ、還るのよ」  用は済んだとばかりに、クリソベリルは消えようとする。 「それじゃあ、夜子のこと、宜しくお願いするわね。妾はもう、表舞台に立つことはないでしょうから」  最後にそう言い残して、現れた時と同じように、クリソベリルは消え去った。 「……本当に、これで良かったのでしょうか。真実を明らかにしないなんて、私は……」 「名探偵の誇りが、この展開を許せねえか?」 「そうじゃないですけど……やっぱり、納得するのは難しいです」  不安そうな面持ちのまま、正直な感想を零す彼女。 「瑠璃さんの中で、何かが決着がついたのであれば、それで良いのですが……」 「ああ、心配するな」  中身を見たところで、過去を変えられるわけではなく。  予想通りの中身なら、知らない方が幸せになれると思う。  真実は不確定のままにしておいて、軽い気持ちで確かめられないよう、遠く遠くに隠しておきたいんだ。 「大丈夫。もう、大丈夫」  まるで自らに言い聞かせるよう、大丈夫と繰り返して。 「今は夜子のことを、大切にしたいんだ」  愛すべき、幼馴染を。  健やかな気持ちを抱きながら、この部屋を訪れたのは初めてだな、と。  柄にもない感傷を抱きながら、クリソベリルは姿を現す。 「……瑠璃のお兄ちゃん」  あそこまで真実に近付きながら、夜子のためならとページを返してくれたこと。  それは、少女に取って驚きの展開でもあった。  「これで、遊行寺闇子の願いが叶う……」  欠けたページを一枚一枚当てはめていくと、『パンドラの狂乱劇場』は息を吹き返すように輝き出す。  奪われた未来を示しながら、この先の物語を語りたがる。 「……あれ?」  そこで、少女は気がついた。  瑠璃から受け取ったページの全てを当てはめても、完全に元通りにはなっていないということ。  未来ではなく、現在に影響する一文が、きれいなまま抜け落ちてしまっている。 「不届き者が、まだいるのね」  瑠璃に託されたページは、全てではなかった。  では、残りは何処へ?  夜子の幸せを思うのなら、最も大事な一文が消えてしまっている。  このままでは、空っぽの物語が始まってしまう。  瑠璃が、全てのページが渡さなかったのか?  いや、それはないだろうと少女は考える。  一部のみを隠すのなら、最初から渡す必要なんてないはずだ。 「理央だよ」 「――っ!」  背後から、声がした。  いつからそこにいたのか、緩やかな笑顔の少女が立っていて。 「神出鬼没は、魔法使いちゃんの専売特許じゃないんだよー」 「伏見、理央。貴女が、ページを盗んだのかしら?」  逃げも隠れもせず、前に踏み出したこと。  普段とは違う少女の様子に、クリソベリルは訝しむ。 「うん、そだよー。紅水晶が開いている間なら、理央は自由に動けるからね。びりびりー」  掲げられた、1ページ。  それはまさしく、欠けていたの最期のページ。 「理央はね、どうしてもこのページが許せなかったの。このページがなくて、その物語を語るなら……それでもいいかなって、思ってたけど」  一歩、少女は魔法使いに近付いて。 「だって、こんなの卑怯だよ。許せるわけが、ないんだよ。初めてこの記述を見たとき、理央は泣いちゃいそうだった」  少女が奪ったのは、1ページ。  その1ページに刻まれている内容は、たった一文。 「四條瑠璃が、遊行寺夜子のことを好きになる」  『パンドラの狂乱劇場』が用意した物語。  そして、至るべき未来として――二人の恋路が定められていた。 「妾に文句を言われても、それが作者の意思だから仕方がなくって? 貴女も紙の上の存在なら、きちんと物語に従僕なさいな」 「駄目だよ。こんな方法で、夜ちゃんは幸せになれない」  きっぱりと、少女は否定する。 「与えられた幸せなんて、退屈なだけ。それは、今までの私たちを思い返してみれば、わかるんじゃないのかな」  悲しげな瞳に、過去が映る。 「仮初めの幸せが、続くとは思えない。ページを破るだけで、魔法使いさんの生み出す幸せは、消えてしまうんだよ?」 「それは、貴女も同じこと。けれど幻想に頼ることを、悪いことだと決めつけないで欲しいわね」  彼女の存在意義すらをも否定することだから。 「でも、のこのこと現れてきてくれたってことは、ページを返してくれる気になったのかしら? きゃははっ、そうじゃなくたって、無理やり奪うんだけど!」 「返さない」  明確に、少女は否定した。 「というよりも、返す意味がないんじゃないかな」 「はぁ?」  素っ頓狂な声を、魔法使いは上げた。 「瑠璃くんが、パンドラの中身を見ないでページを返した時点で、もう何もかもが終わっちゃったんだよ。瑠璃くんの中で、選択が終わってしまっている」 「……なんのこと?」 「こうして仮初めの恋心を植えつけなくたって、問題ないんだよ」  悲しそうに、笑って?  嬉しそうに、泣いている?  伏見理央は、ぐちゃぐちゃに語っていた。 「きっと、もう、大丈夫。だから、瑠璃くんを信じてあげて欲しいの。魔法の本の記述に頼ることなく、夜ちゃんのことを幸せにしてくれると思うから」 「…………」 「それとも魔法使いさんは、瑠璃くんが夜ちゃんのことを好きになってくれるって、信じられないのかな?」 「……それは」  それは? 「余りに都合の良い、未来図だから」 「酷いなあ。夜ちゃんだって魅力的な女の子なんだよ? もう、昔とは違うんだ」  遠い眼差しを、虚空へ向けて。 「何もしなくても、幸せになれる。それこそが、お館様の望んだ幸せのカタチなんじゃないかな」  それが出来なくて、魔法の力の本を頼り。  ずぶずぶと、泥沼へ沈んでいってしまった。 「……弱い夜子は、一人じゃ生きていけないわ。魔法の本の後押しがなければ、一歩を踏み出すことすら出来ないでしょう」 「そうかもね。でも、そうじゃないかもしれない。結局、夜ちゃんのことを信じてあげられていないのは、魔法使いさんの方じゃないのかな」  容赦のない指摘が、突き刺さる。 「最善を尽くして何が悪いのかしら? 99%間違いがなくたって、1%に躓くかもしれない! リスクを犯す必要なんて、どこにもなくて」 「けれどリスクを犯して手に入る幸福が、夜ちゃんを本当の意味で救ってあげられる」 「架空の存在風情に、何がわかるのかしら」 「それでも理央は、夜ちゃんのことをずっとずっと見守ってきたつもりだから」  一歩も引かない、伏見理央。  こうまで意志の固いところを、魔法使いは初めて見た。 「ページ、置いてくね」  奪い去った最後のピースを、テーブルに置いた。 「これをどうするかは、魔法使いさんにお任せ。でも、うん、理央はそれをしないって信じてるから」 「……っ」  魔法使いに迫られた、二択。  魔法の本の力によって、二人の意志をねじ曲げて、強引に結び合わせるか。  それとも、二人の心を信じて、ただひたすらに待っているか。 「パンドラの箱の中に真実を閉ざしてもいいけれど――未来を騙る必要はないんじゃないかな」  未来を騙って、想いを騙るのではなく。  未来を語って、想いを語ろう。 「それが、人を好きになるってことだと、理央は思ったのです」  そうして、伏見理央は立ち去った。  音も立てず、瞬く間に消え去った。  残ったのは、たった一つのページ。 「……馬鹿な娘」  冷ややかな瞳を携えて、魔法使いはページを受け取った。 「どうして妾を信じてるだなんて、言えるのかしらね」  これまで自由気ままに出しゃばった、腐れ魔法使いなのに。  パンドラは、続きのあらすじを手にして語り始めようとしている。  しかし、四條瑠璃の気持ちが伴わないまま語り始めて、正常にシナリオは進むのか? 「ヒロインのことを好きじゃない設定の物語なんて、ありえないわ」  これを持って、二人は結ばれる運命なのに。  あとは、それを語り終えるだけなのに。 「――どうして妾は、迷っているの?」  魔法の本は、〈恣〉《し》〈意〉《い》〈的〉《てき》に物語を綴る。  あらすじの指定が甘ければ、予想外の結末を演じてしまうこともあるのだから。  ――四條瑠璃が、遊行寺夜子を好きになる。  この一文を、結末として加えて置かなければ、願う未来に着地できないかもしれない。 「ああ、その通り。妾は、何も信じていない」  四條瑠璃が、遊行寺夜子を愛するなんて。  遊行寺夜子の気持ちが、魔法の本なしに報われる日がくるなんて。 「妾の可愛い夜子――お前は妾に似て、最後まで悲劇の渦中に沈んでしまうと思ってるから」  だから、信じることが出来ない。  迷うことなく、魔法使いはページを取って。  かけられたページを当てはめようと、パンドラに近付いた。 「魔法の本の夢に抱かれて、幸せに包まれて眠りなさい」  それが、夜子に残された最後の幸せだと、魔法使いは信じていた。  クリソベリルにページを返してから、数日が経過した。  その間も、特に何も変わることはなく、ゆるやかに日常が流れていく。  妃が消えてから、夜子はずいぶん参っていたようだけれど、最近は少しそれも落ち着いて。  ようやく、いつものあいつに戻れたように見えていた。 「ねえ、瑠璃さん。結局、夜子さんの正体は――」 「その話は、もう終わったはずだぞ」  真実はパンドラの箱に閉ざされて、もう二度と確かめるすべはない。 「……そうでした。申し訳ございません」 「いや、いいんだ」  真実を探求することを生きがいにしていた彼女にしてみれば、俺の選択は甘くぬるいものだったのだろう。 「瑠璃さんが決めたことでしたら、私もそれを受け入れないと。少し、私らしくありませんでしたね」 「どうだろうな。それもまた、あんたらしいと思うけど」  いいながら、自然と笑みが零れ落ちる。 「白真珠の過去については、どうするおつもりでしょうか。夜子さんに、伝えないのですか?」  それは、有耶無耶になりかけている点だ。 「やはり私は、あの物語だけは確かめる必要があると思うのです」 「……そりゃそうだ」  何せ、あの物語が正しいとなれば、俺は夜子と関係を持ってしまっていて。  それを忘れてしまっている、最低野郎になるのだから。 「確かめる術は、ないんだろうな」  それが魔法の本の影響によるものなのだとしたら。  そのための手段を、俺は自ら手放してしまったのだから。 「やっぱり俺は、確定させたくなかったんだろうな。確定させることが、何より怖くて」  苦笑いを浮かべながら。 「それでも俺は、夜子のことが好きだから――ちゃんと責任を取ろうと思ってるよ」  あれが、本当でも。  あれが、偽物でも。  「今の俺が、夜子のことを大切にしたいと思うことに、間違いはないのだから」  妃との恋が、吹っ切れて。  次に思い至ったのは、虚弱な少女のことだった。 「俺は、薄情者かな」 「いいえ、そんなことはないと思いますよ」  嬉しそうに、彼女ははにかんでくれる。 「瑠璃さんが前を向いてくれるなら、私は応援しますから! 恋の相談も、かなたちゃんにお任せあれ!」 「いや、別にそれが恋愛感情だとは言ってないけど」 「ええっ? ここまできてそういうことをいっちゃうんですかー? 瑠璃さんは素直じゃありませんねー」 「あのなあ……」  どうしてそう、何事も恋愛に絡めて考えてしまうかな。  答えは早急に出さなくたって、構わないだろ? 「でも、良かったです。どうやら瑠璃さんは、本当に後悔していない様子でしたから」 「心配だったか?」 「ええ、そうりゃもう! いつだって私は、瑠璃さんのことを心配していましたからね」 「そりゃ、気苦労をかけたな」 「それを含めて、私の役目ですから!」  吹っ切れたように、明るい表情を浮かべる彼女。 「あーあ、私も瑠璃さんみたいに、素敵な恋がしたいですねー!」 「だから俺は、恋してるなんて言ってないだろ!」 「きゃー、照れ屋さんーっ!!」  きゃあきゃあとはしゃぐ彼女の様子に、癒やされながら。  そろそろ自分の気持と向き合う時が来たのだろう。  引き篭もりの、お嬢様。  狭い鳥かごから、連れ出してあげたいと思ったんだ。  翌日。  扉をノックする音で、俺の意識は覚醒する。 「……よう、少年」 「なんだ、汀か」  寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドから起き上がる。 「なんだよ、こんな朝っぱらから……」  時計を見ると、朝の7時を示している。 「いや、少年とお喋りに興じたいと思ってな」 「……そうか」  緩やかに惚ける意識の最中、汀の表情を見つめる。  いつも通り、シニカルな笑い方だったけれど、その瞳には穏やかさが含まれていた。 「なんか、印象変わったな」  それは、素直な感想だ。 「そうか? 俺としては、いつも通りなんだがな」 「清々しそうに感じたよ。なにか良いことでもあったのか?」 「いや、嫌なことばっかりだっつーの」  そう言って、汀は笑った。 「それでも、少し前に比べれば、ちゃんと前を向けてると思うぜ。それもこれも、あいつのおかげだな」 「…………」  あいつ。  その言葉が示す相手は、言うまでもなく。 「もう、魔法の本を壊すのは止めることにした」 「え?」 「止めるってのは、間違いか。別の方法で、俺はあの馬鹿げた本に対向するって、決めた」  鋭い眼光が、しかし優しさを携えながら、輝く。 「俺だって、遊行寺家の端くれだ。身内の不始末は、身内でつけるべきだろうしな」 「……そうか」  遊行寺家が受け継いできた、担い手という役割。  その血筋が、魔法の本の作者足り得るものであり。 「お前も、らしくなってきたじゃないか」  だからこそ、遊行寺家は魔法の本を収集する。  過去、身内が描いてしまった本を、封じるために。 「夜子のことは、お前に任せても大丈夫なんだろ?」  見透かすように、汀は言う。 「瑠璃がここにいるから、俺はもう一度あのクソ探偵の元で働くって決めたんだからな?」  無造作に投げつけられた名刺。  そこには、本城奏の事務所先が記されていた。 「奏さん、許してくれたんだな」 「ああ? 許されようとなんか思ってねーよ。ただ、俺をもう一度雇えと言っただけだ」 「……おいおい」  その辺りは、変わらないんだな。 「あいつの近くにいたら、魔法の本との向き合い方を身に付けることが出来るだろ。今の俺に大切なのは、そういうもんだと思ったわけさ」 「向かい方、か」  現実と空想の境界を狂わせる摩訶不思議。  かつての汀は、壊すことによって、現実を正そうとしていたけれど。 「妃が、語られて……それまで抱えていた重荷から、解放されたような気がしたんだ。魔法の本が何かのためになることだって、あるんだよな」  想いに、気付かされて。  もう一度、向き合う機会をくれて。  遊行寺汀は、己の初恋を全うすることが出来たのだ。 「俺だって、同じだ。妃が現れてくれなければ、いつまでも引きずってただろうし」  俺も、汀も、同じこと。  やりきれぬまま死別してしまって、いつまでも過去に囚われてしまっていたのだから。 「お互い、次こそ成就するといいな」 「馬鹿か、あんなもんもう味わいたくねーよ」  吐き捨てるように、汀は言った。 「なんだよ、誰かを好きになるのがそんなに辛かったのか? 中学生みたいなことを言うんじゃねえよ」 「うっせぇ、お前こそ、夜子のことをちゃんと見てやれよ?」  矛先が自分の方に向いたと察した汀は、話題を無理やり転換させた。 「夜子?」 「俺の愛すべき妹を、お前はこれからどうしてくれるんだろうな?」 「……どうしてって」  何が、いいたいんだ。 「お前は、俺の大事なもんを、全部持っていってしまうんだな」 「含みのある言い方はやめろ」 「いいや? わざと皮肉ってるだけだから、止めやしねえよ」  あくまで汀は、クールさを揺るがさずに。 「……俺だって、どうしたらいいかなんて、わからないんだ」  その答えは、ずっとずっと見えないまま。 「一つだけ、お前の親友じゃなくて、夜子の兄貴として言っておいてやる」  ふらふらと彷徨う、俺に向けて。 「――可愛い妹を泣かせたら、許さねえからな?」 「…………」  その言葉は、真に迫った声色だった。  様々な感情が渦巻きながら、それでも抑えてはいたのだろうけど。 「しっかりしろよ、少年。俺はお前に、期待してるんだからな」 「……わかってるよ」  ただし、その期待に添えられるかどうかは、別問題だ。 「俺だって、夜子を泣かせたいわけじゃないんだよ」  大事な大事な、幼馴染なんだから。  夜子のことを考えるとき、まず初めに連想するのは白真珠が見せた甘い記憶だ。  魅せつけられたその過去は、正常な思考を妨げるには十分過ぎる破壊力を持っていた。  柔らかな肌。  透き通るような瞳。  滑らかな髪の毛。  そして――。 「…………」  あの思い出は、なんだったんだろう。  記憶を与えられても尚、実感が伴わないのは何故? 「……何よ、気持ち悪い目で見ないでくれる?」 「ああ、悪い」  夕食時、二人っきり。  こういう日に限って、理央もかなたも同席せずに。 「キミがいると、理央の料理がまずくなってしまうわ。どうしてくれるの?」 「……うるせえよ」  白真珠が見せた頃の夢とは、まるで別人のように尖っている。  あのときのデレっぷりは、何処へ行ったのだろう? 「全く……妃も、キミのような男の何が良かったのかしら。理解に苦しみます」  ちまちまと料理を口に運びながら、俺への悪口を続ける。 「それをいうなら、理央もよ。瑠璃に対して、気を許しすぎね。もっと警戒しなきゃ、襲われてしまいそう」 「おいおい」 「かなたなんて、逆に瑠璃のことをからかっているようにさえ見えるわよ。本当に、見る目がないとしか言いようがないわ」 「あのなあ」  いつにもまして、悪口の全力。  デレる様子は、一切なくて。 「……でも、よかったよ。最近、引きこもりがちだったから……元気そうで何よりだ」 「はい? どうしてキミが、あたしの心配をするのかしら。気持ち悪いわ」 「…………」  フローライトが終わってから、妃が完全に消滅して。  その反動から、夜子は少し、引き篭もってしまっていたけれど。 「……いつまでも閉じこもることを望まないって、分かってるから。妃は、そういうあたしを嫌ってしまう」 「その通りだよ。分かっているなら、十分だ」  夜子にも、多少の心境の変化が生まれていたらしい。  ようやく、立ち直ることが出来たのだ。 「キミの方こそ、随分と平気そうな顔をしてるわね。もっと、うじうじしているものだと思ってた」 「それは、お互い様ってことだ」  俺だって、あいつの後ろ姿を追い求めるのは、もうやめたんだ。  その先に、未来なんて存在しないことを思い知ってしまったから。 「ちゃんと、あいつを思い出にすることができたんだよ」  だから今は、喪失感よりも、充実感のほうが大きいんだ。 「……あっそ。あたしには、どうでもいいことだけれどね」  興味なさげに、夜子はハンカチで口を拭って。 「ご馳走様。とても不愉快な食卓を、ありがとう」  立ち上がり、俺を一瞥してから部屋へ戻ろうとする。  思わず俺は、声をかけてしまっていた。 「なあ、夜子」 「何」  鬱陶しそうに、顔をひきつらせて。 「お前は、俺と出会った時のことを覚えているか?」  それは、白真珠の問いかけだ。 「キミと、出会った時のこと? 何、思い出に浸ろうとでも言うのかしら?」 「いや、最初に出会ったときの夜子って、こんな風に尖っていたかなって思ったんだよ」  白真珠の記憶では、少しの刺はあったものの、基本的には気を許してくれていたと思うから。 「最初から、印象最悪だったけれど? 不用意で馴れ馴れしい人間が、あたしは大嫌いなの」 「……こりゃまた、手厳しいな」  やはり、白真珠の記憶は夜子にはないのか。  しかしそれさえも、パンドラの影響か? 「俺は、お前と仲良かった頃があったような気がするんだが」  もう一歩、踏み込んでみた。  記憶を、刺激してみようとした。 「戯言はここまでにしてくれる? それはキミの妄想で、それはキミの思い込みよ。笑わせないで頂戴」 「……そうか」  やっぱり、お前は覚えていなくて。  白真珠は、偽物だったのかな。 「あたしはずっと、キミのことが大嫌いだったんだから」  その瞳に、迷いはなく。 「この図書館に来て、馴れ馴れしく関わってきたときから、嫌いだった」  最初の思い出。 「妃を連れて、我が物顔で通うようになってから、更に嫌いになって」  そんなことも、あったっけ。 「キミが家庭の事情で本土へ流された時は、心が踊るようだったわ」  俺にしてみれば、最悪だったけど。 「キミが帰ってきて、あたしの静寂は崩れてしまった。居心地悪いとは、思わなかったけど」  そうして俺は、魔法の本を知ったんだ。 「妃が死んで、理央が消えて、それでも紙の上で、集まって。また、消えて。失ってばかりだった気がする」  過去の思い出に浸ろうとしているのは、俺だけではなく。 「どうしてキミは、消えないのかしら」 「え?」 「あたしの周囲の大切な人は、次々に消えていく。それなのに、一番嫌いなキミだけが、消えてくれないのよ」 「…………」  悪かったな、と。  冗談を口にできる雰囲気では、なかった。 「あたしはたぶん、一人では生きていけない、弱い人間だから」  人間。  人間。  ニンゲン。 「大嫌いなキミだって、いないよりはマシなのかもしれないわね」 「……はは」  それは、ツンデレを気取ってみたのかな?  か細すぎるデレは、ついついからかいたくなってしまうだろうが。 「なあ、夜子」  だから、聞いてみよう。  白真珠の記憶を、踏み込んで刺激してみよう。  きっと、お前は怒るだろうな。  それでも、今は気恥ずかしさを誤魔化させてくれ。 「誰かとキスをしたことって、あるか?」  ファースト・キス。 「は、はぁっ!?」  驚きに、紅潮する。 「あ、あるわけないでしょう! き、キミは突然、何を言い出すの!」 「それじゃあ、お前はまだ、処女なのか?」 「~~~~~っ!?」  声にならない悲鳴が、夜子の喉から飛び出てくる。 「なっ! にっ をっ! 言ってるのよっっ!!??」  心底動揺しながら、それでも夜子は否定する。 「あ、ああ、あるわけないでしょう!! あ、あたしが、そんなはしたない女の子だとでも思ってるの!?」 「……はしたなくは、ないよな」  そういうのは、とてもとても苦手だから。 「官能小説すら読めないお前が、経験あるわけがないか」 「うるさいっ!! こ、これ以上セクハラまがいのことを口にしたら、本当に追い出すからっ!」 「それは勘弁して欲しい」  予想通りの反応が帰ってきて、少しだけ安心した。 「変なことを聞いて、悪かったな。別に、辱めようと思ったわけじゃないんだよ」 「どういう心境になったら、女の子にそういうことを聞けるのかしら! 本当にキミは、最低ッ!」 「……悪かったって」  それでも答えてくれるところが、お前らしいんだけどさ。 「じゃ、悪かったついでにもう一つ」 「……絶対に反省してないでしょう」 「してるしてる」  軽口を叩きながら。 「お前は、俺のことが好きだったことって、あるのかな」 「……は?」  それは、とても危険な質問だったと思う。 「夜子が、俺のことを異性として見てくれてたことって、一度でもあったか?」 「答える気にもならない愚問ね。それを聞いて、キミは答えが予想できなかったの?」 「……予想できるけどさ」  わかっていても、聞きたいことってあるだろうが。 「大嫌いよ。キミのことは、最初から最後まで大嫌い。だから、そんな感情を持ったことなんて、一度もないわ」  恥ずかしがる様子もなく、すらすらと否定してみせる夜子。  その様子に、悲しみを覚えなかったのは何故だろう。  それが遊行寺夜子だからと、身に沁みて分かっているからなのかな。 「キミは、どうなの?」  そして、夜子は無表情に訪ねてきた。 「そういう質問をするということは、逆にそう思ったことがあるのかしら? ふふっ、気持ち悪いわね」  恥ずかしがる様子もなく、切り返してみせるその様子は。 「俺は、お前のこと、嫌いじゃないよ」  俺に、冷静さを失わせることなく、答えることを可能にさせた。 「俺は、お前のこと、好きなんだ」 「……知ってるわよ」  目を伏せながら、夜子は呟く。 「そんなことは、知ってたわ」  友達として。  友達として、大事にしてきたから。  それが伝わっていないとは、言わせない。 「それでもお前は、俺のことを嫌い続けるんだろうな」  それが、遊行寺夜子だから。  変わらない、遊行寺夜子だから。  俺を嫌うことを、強いられてしまっているのだろうね。 「……だいきらい」  「知ってるよ」  知りすぎて、おかしくなるくらいに。  その夜、夢を見た。  金緑の輝きに包まれる、淡い幻のような夢。  閉ざされた書庫の中で、俺は一人の少女と相対していた。 「瑠璃のお兄ちゃんは、誰のことが好きなのかな」  少女は、不安そうに尋ねる。 「今、誰のことが一番大切?」  さあ、分からない。  わからないことだらけの日常だ。 「妾が、答えてあげようか?」  少女は一枚の紙切れを取り出して、俺に問いかける。 「……いや、言われるまでもなく分かっているつもりだ」  言われて気付くような気持ちじゃないと思うんだ。 「こういう気持ちは、本当に難しいと思う。恋心の根源って、何なんだろうな」 「妾にだって、それはわからない。わからないから、こうなっているのよ」  少女は憂いを帯びた視線で、ページをしまう。 「本当、物語というものはよく分からないわね。妾が懸命に語ろうとしていたものが、気が付けば勝手に語られようとしている」 「なんのことだ?」 「妾の存在価値についてのお話よん。瑠璃のお兄ちゃんには、難しすぎたかしらん? きゃははっ!」  可愛らしく、笑ってみせるが。 「きゃははっ! 本当に、おっかしいわぁっ! これじゃあ、理央ちゃんの言う通りじゃないの」  それが次第に、崩れそうになる。 「きゃは、はははは……まさか、こうなるなんて、思わなかった」  乾いた笑いに、変わっていて。 「ねえ、教えてよ瑠璃のお兄ちゃん。今、瑠璃のお兄ちゃんが持っている気持ちは、何?」 「…………」  少女はどうして、そこに拘るのだろうか。  夢の中に流されながら、鈍った嗜好が口を開く。 「嫌われてるとか、そういうのは関係なくて」  ああ、うん、違うんだろう。 「弱々しいとか、そういうのも関係なくて」  ああ、うん、そうじゃなくて。 「――初めて会ったときから、心奪われてたんだ。夜子の持つ雰囲気に、飲み込まれていたと思う。思えばそれが、最初だった」  白真珠の物語の中で、唯一確信して間違いないと思っていること。  それは、初めて夜子と出会った時に抱いた感想だ。 「全部終わって、心に整理がついたとき。最初に思い浮かんだのが、夜子だった」  無防備な心が願ったのは、あの引き篭もり少女だったんだろう。 「汀だって、それを気付いていたんだろうな。かなただって、分かっていたと思う。分かっていなかったのは、俺だけか――」  いつだって、気にしていた。  いつだって、心配していた。  それが友情の果てにあるものだと思っていたけれど、気が付けばその境界を踏み越えてしまっていたのだ。 「貴方は、夜子のことが好きなのかしら」 「俺は、夜子のこをが大好きなんだよ」  あとはその気持ちを、受け入れるだけだった。  そればかりを意識した数日間だったと思う。 「きっと、答えはページを返したときから、決まっていた」  あの時点で、俺の心は夜子に向いていたんだろう。 「……そう。それなら妾も、余計な真似はしないでおくわ」  息を吐いて、少女は俺の瞳をまっすぐ見据えた。 「もう二度と、瑠璃のお兄ちゃんの前に現れることはないでしょう。パンドラの影は、二度と姿を見せないから」 「……どういう意味だ?」 「それから、不用意に本が開かれることも、ないはずよ。もう、パンドラを語り続ける意味もないのだから」  ゆっくりと、少女は魔法の本を手にとった。  それが、『パンドラの狂乱劇場』か? 「本を閉じるわけではなく、本を保留し続けて。与えた影響だけを、現実に残しておくわ」  停滞。  戻るでもなく進むでもなく、留まることを望んだのか。 「全部忘れて、全部愛して、夜子のことを幸せにしてあげて」  優しい微笑を、見せてくれた少女は。 「妾は、二人の未来を陰ながら見守っておくことにするわね」 「お前は結局、何だったんだ?」  紙の上の魔法使いとは、何者だ? 「さあ、それを知る未来は、もう残されていないの。知る必要もなくて、知る可能性もない。ただ、夜子だけを見てればいいの」 「……最後まで、何も教えてくれなんだな」  あまりにも不公平な魔法使いだ。 「あら、知らなかったの? 魔法使いって、すべからく意地悪なのよ」 「知ってたよ。それは、お前を見てれば明白だ」  不幸をもたらす、腐れ魔法使い。  味方なのか、敵なのか、何もわからないままだったが。 「それじゃ、あとは任せたよ、瑠璃のお兄ちゃん」 「ああ、俺は俺なりに、夜子の傍にいようと思う」  夜子を思う気持ちだけは、本物だと思ったんだ。 「ばいばい、さよなら。紙の上の魔法使いに、二度と出会いませんように――」  金緑の輝きに包まれて、少女は魔法の本とともに消えていく。  届かない領域へと映る少女を見て、少しだけ胸が傷んでしまったのは何故? 「幸せに、幸せに」  好きな女の子を幸せにしたいという気持ちに、間違いはないはずだ。  微睡みの中で揺られ続けて、夜子に告白することを決意した。  心が妙に落ち着いているのは、決意を固めることが出来たからだろうか。  あるいは、自分の気持ちを受け入れることが出来たから?   けれどもそれは目覚めてからの一瞬だけで、その日は顔を合わせるだけでどぎまぎしていた。  「……? 変なの」  そんな夜子と顔を合わせるたび、怪訝な表情をされてしまって。 「何をしているんだか」  予想以上にテンパっている自分を見つけて、思わず苦笑いを浮かべていた。  告白する決意を決めてから、言葉と場所に悩んでいた。  どこが相応しいだろうか。  どんな言葉が良いのだろうか。  初恋を楽しむ中学生のような、新鮮な気持ちになっている。  はっきりしていることは、一つ。  日の沈んだ時間帯ということだけは、最初から決めていた。 「…………」  そして。  理央の食事をみんなで食べた後の、宵闇の時間。  俺は、夜子の部屋の前で、心を落ち着かせていた。 「結局、言葉は用意できなかったな」  場所はもう、仕方がない。  呼び出したとしても、夜子がそれに応じてくれる可能性は、限りなく低いだろうから。 「なるようになれってか」  この緊張さえも楽しみながら、決意に従おう。  そして、扉をノックした。 「夜子、俺だ」  以前みたいに、着替えを覗くようなことがないように。  返事があるまで、トアノブには手を触れない。 「……あれ?」  しかし、どれだけ待っても返事がなく。  もしかすると読書に集中しているのかなと、焦り始めた俺は。 「ま、いっか」  先ほどの配慮を忘れて、無遠慮にドアノブに手を伸ばす。  がちゃり、と開くはずのドアノブは、予想外に施錠されていた。 「…………」  鍵がかかっていた。  施錠されていた。  ということはつまり、中にはいないということか。  夜子は、読書中だって、寝る時だって、書斎の鍵を閉めたりはしない。  鍵を閉めるのは、外出するときだけである。 「参ったな」  食堂か、広間か。  そのどちらにしたって、二人っきりで話すというのは難しそうだった。  こうなるのであれば、彼女に相談しておいたほうが良かっただろうか?  しかし、余計なお節介を焼いてしまいそうで、腰が引けてしまう。 「……探すか」  空振りに終わったことで、肩の力が抜けてくれた。  ありのままの自然体に戻れたような気がして、気分が落ち着いている。  しかし、俺の予想に反して、食堂にも広間にも、夜子の姿を見つけることは出来なかった。  理央や彼女に行方を訪ねてみても、首を傾げるばかりだった。  「まさか」  図書館の外は、ありえないからと高をくくっていたけれど。  そういえば、あいつは全く外出しないというわけではなかったんだっけ。 「確かに、今の時間ならありえるか」  人気のない静まった夜。  月夜の光る森のなかで、夜子は踊るように散歩する。  他者の瞳のないところでのみ、彼女は素直になれるのだから。 「……見つけた」  夜子は、図書館外の、小脇の外れにいた。  樹木を背もたれにして、可愛らしく座り込んでいる。  読書をしようと小説を持ってきていたのだろうが、今は視線を落とすことはなく、むしろ虚空を見上げていた。  心ここにあらずといったような、ふわふわした雰囲気。  珍しく、考え事でもしているのだろうか? 「こんなところで、何してるんだよ」 「……瑠璃?」  鈍い反応が、帰ってきた。 「どうしてキミが、ここに」 「理由なんて、どうだっていいだろ。強いて言えば、外の風に当たりたくなっただけだ」  嘘である。 「ふぅん、そう。だったら、あたしのいないところへいきなさいよ」 「……?」  言葉自体はいつも通りだけれど、今日は少し丸い。  声が優しいというか、本気で毒舌を吐いているように聞こえないのだ。 「何か、考え事か?」  心配になって、聞いてみた。 「……別に」  いつもなら、そこであしらわれるだけなのに。 「ちょっと、昔のことを思い出していただけ」 「…………」  昔。  それは、夜子の辛い幼少時代なのだろうか。 「キミが、余計なことを聞くからよ」  しかし、俺の予想は外れていたらしい。 「どういう意味だ?」 「キミが変なことを聞くから……キミと初めて会った日のことを、思い出していたの」 「――っ」  なんだろう。  言葉には上手く出来ない喜びが、突然降って湧いてきた。  優しい夜子の言葉のせいだろうか。 「あたしも、キミも、全然変わっていないわ」 「珍しく、ノスタルジックな気分に浸ってるんだな」 「うるさいわね……そういう日もあるのよ」  つぶつぶと不満をたれながらも、俺には向けてこない。 「紆余曲折あっても、キミはここにいてくれる。そう思うと、少しだけ不思議な気分だわ」 「俺だって、同じだよ。この図書館が、今は自分の家のように思えてしまう」 「……ちょっと、そこは訂正なさい。ここは、あたしの家。キミの帰る場所ではないわ」 「わかってるって」  だけどそう思うくらい、大切なんだ。 「ねえ、瑠璃。聞いて欲しいことがあるんだけど」 「何だよ」 「あたし、呪われてるんだって」 「…………」 「不幸を運ぶ、呪われた女の子。昔から、ずっとずっとそう言われてきたの」  いつか聞いた、夜子の不幸話。 「白い髪と、赤い瞳は、よくないものの象徴らしいわよ。だから、誰もがあたしに切っ先を向ける」  だから夜子は、他人を嫌う。  好奇心を向かれることに、怯えているのだ。 「あたしは今まで、そんなことはないって、思ってたけど……最近、わからなくなっちゃった」  弱々しく、語尾が消えそうになる。 「理央を辛い目に合わせて、お母さんは、消えて。妃が、亡くなって。瑠璃に、悲しい思いをさせたわ。次は、誰に何が起こるのかしら」 「……夜子」 「やっぱりあたしは、呪われてるのかなって、思って。別にそのことが辛いわけじゃなくて……そのことで、キミやかなたに悲劇を与えてしまうのが、怖い」 「日向かなたのこと、好きなんだな」 「好きよ。鬱陶しいことも多いけれど、それ以上にかなたと過ごす時間は楽しいわ」 「だからこそ、か」  ほんとうに自分が呪われていて、次の不幸を振りまいてしまったら。  魔法の本に関わり続けて、必要以上に怯えてしまっている。 「あたしは、弱い弱い人間だから……そう考えてしまうと、辛いの」  読書も手をつかず、憂いを帯びた視線で月を見上げてしまうほど。  魔法の本の引き起こした事件は、夜子の気持ちを削っていたのか。 「……だったら今度からは、幸福を振りまけばいいんじゃないのか」 「え?」 「人は、互いに影響しあうもんだろ。悲しい思いをさせたと思ったなら、それ以上に楽しい思いをさせたらいいんだよ。それが、人間関係ってもんだろ」  マイナス面ばかり、見てるんじゃねえよ。 「でも、こんなあたしが、誰かを楽しませられるとは思えないわ。かなたのような明るさも、キミのような馴れ馴れしさも、理央のような可愛らしさも、妃のような魅力も持っていないから」 「馬鹿言うなよ」  それは、あまりにも分かっていなさ過ぎる。 「今、夜子の周りにいる人間が、慈善活動でお前と関わっているとでも思ってるのか? お前に何かを感じて、一緒にいたいから共にいるんだよ」  俺だって、かなただって、理央だって――妃だって、そうだった。 「お前は、十分面白いやつだよ。それは俺が保証する。馴れ馴れしく話しかけるのだって、俺がお前と喋りたいからなんだぜ」  そのことを、間違えないで欲しい。  決して、自らの魅力を見失わないで欲しい。 「遊行寺夜子は、周りから愛される人間なんだよ」 「……う」  思わず、声が漏れる夜子。  予想外の言葉に、感情がぶれまくっているらしい。 「キミは、あたしに嫌がらせをしたいだけだと思ってた」 「それは、心外だ」  本当にそう思っていたのなら、今すぐ訂正して欲しい。 「俺は――」  あ。  ここだ、と。  俺の本能が、機会を知らせてくれた。 「……何?」  言葉を止めた俺へ、夜子は首を傾げて。 「夜子」 「だから、何」 「少し、真面目な話をするぞ。だから、ちゃんと最後まで聞いてくれ」 「……? わかった」  それまでも、十分に真面目な話だったけれど。  それ以上に、大切な話をしよう。  俺が夜子のことをどう思っているのか、精一杯に伝えるから。 「俺は、さ」  そして俺は、言葉を探る。 「初めて夜子と出会った時から、夜子の持つ雰囲気に、見惚れていたんだよ」 「……ん」  誠意を持って、伝えよう。 「なんだろうなあ、それを簡単な言葉で表したくはないんだけれど……それでも、魅力に思ったことだけは間違いなくて」 「……瑠璃?」  一歩、踏み込んだ言葉に。  夜子の表情は、少しだけ強張った。  緊張が、手に取るように感じられる。 「妃が死んでから、俺の恋に終わりが訪れて。少し前に、ようやくそれを思い出にできて」  人は、俺のことを移り気で不義理な男だと罵るだろうか。  だけど、不意に気付いてしまったんだから、どうしようもないだろう。  その想いから目を逸らす方が、よっぽど駄目だと思ったから。 「自分でも分からないくらい、夜子のことを大切にしたいと思ったんだ」  夜子は、何も言えないでいた。  硬直したまま、俺を見つめていて。 「俺が、今ここにいるのは」  さあ、告白しろ。  想いを、言葉にしてみせろ。 「――お前がいるから、なんだよ」  もっと直接的に。  もっと直情的に。 「一人の女の子として、夜子のことが大好きなんだ。俺と恋人になってくれないか」 「――っ!」  はっきりとした言葉を口にした、その瞬間だった。 「あたしは!」  それまで硬直していたはずの夜子は、突然思い出したように口を開く。 「キミのことが、大っ嫌いって言ってるでしょう!!」 「……っ!」  頬に走る痛みは、夜子の手の平から発せられたもの。  夜の森に響くほど、澄み渡る声。  ナイフのような切れ味は、切り捨てられたことすら気付かせてくれない。 「夜子――」 「止めて」  口を開こうとする俺を、睨みつけて。 「何度も言わせないで。何度も伝えようとしないで。キミのことなんか、大っ嫌いなんだから……!」  目に涙を溜めながら、必死に拒絶を口にする夜子。 「どうしてキミは、それでもそういうことが言えるのかしら……? あたしはこんなにも、キミのことが嫌いなのに……!」 「…………」  叩かれた頬を包みながら、混乱する夜子を見つめる。  どうすれば心を落ち着かせてあげられるだろうと、思い悩んで。 「――近付かないでッ!」  一歩、足をあげようとした瞬間、更に拒絶。 「もう、嫌なの」  堪えきれなくなった夜子は、俺から逃れるように、走りだす。 「待てよ、夜子――!」 「もうあたしに、話しかけてこないでっ!!」 「それでも俺は!」  逃げようとする夜子の背中へ、大声で叫ぶ。 「お前のことが、好きなんだ!」 「知らないっ! 聞きたくないッ!!」  涙声になりながら、図書館へ帰ってしまった夜子。  一人取り残された俺は、失敗してしまった感覚を噛みしめる。 「……知ってたさ。お前は、そう言うよな」  俺のことが大嫌いな夜子。  やっぱりお前は、俺のことを拒絶して。 「そんなお前を、俺は好きになってしまったんだな――」  こうなるだろうと思っていた。  万が一にも、素直に受け入れてくれるとは思っていなかったから。  そういう部分にも魅力を感じながら、しかし、あからさまに拒絶されてしまったことに、悲しみを感じて。 「これは、辛い、なあ……」  取り付く島もない反応が、俺の心を締め付ける。 「瑠璃くん……」  夜風に悲しみを流してもらってから、図書館へ帰ってきた俺を。 「大丈夫、かな……?」  心配そうに、理央が迎えてくれた。 「何がだ? それよりも、夜子の様子は……?」 「夜ちゃんなら、書斎に戻ったよ。たくさん、泣いてた」 「そうか……」  俺が何をしようとしたのかくらい、理央も察しているのだろう。  だからこそ、俺のことをも心配してくれている。 「あ、あの、理央は、まだまだ諦めちゃ駄目だと思う、よ!!」  そのまま二階へ上がろうとする俺へ、勇気付けようとしてくれたのか。 「夜ちゃんは、きっと突然のことで、混乱しちゃっただけだと思うから……!」 「……そうだな」  そうだと、いいな。 「瑠璃くん……本当に、大丈夫?」 「何がだ?」  もう一度聞かれたから、もう一度答えてみた。 「泣きそうな顔、してるから……」 「…………」  好きな人に、拒絶されて。  それが予想通りな返しとはいえ。  「泣くにはまだ、早いだろ」  強がりが崩れかけていることを自覚して、自らに言い聞かせる。 「返事は、まだもらっていないからな」  最後通牒を突きつけられるまで、俺はお前を諦めない。   翌朝。  夜子に拒絶されてしまったからといって、何が変わるわけでもない。  それでも朝はやって来て、顔を合わせる時が訪れる。  なるべく意識しないように心がけて、食堂の扉を開けてみると。 「……夜子」  珍しく、朝早い時間から、夜子が朝食を摂っている。  いつものこの時間だと、だいたい寝ているはずなのだが。 「…………」  さて。  どういう態度で顔を合わせるべきなのか。  へらへらした笑顔で向かい合ったら、また夜子は機嫌を損ねそうである。  「んー」  どうしたものかと、悩む俺へ。  しかし、夜子は予想外の行動に出た。 「おはよう、瑠璃。そんなところで何をしているのかしら?」  俺の存在に気付いた夜子は、柔らかな笑みを浮かべて。 「早くしないと、理央の朝食が冷めてしまうわよ」 「あ、ああ……」  え? なんだこれ?  何かの罠?  見たことのないような優雅な笑顔が、この俺に向けられている? 「早くしないと、遅刻してしまうわ。今日も、学園でしょう?」 「……へ?」  あれ?  そういえば、制服を着ている。  ノスタルジックに昔を懐かしんでいた頃とは違って、最近は私服だったはずなのに。 「待っててあげるから、早く準備してよね」  花のように咲き乱れる笑顔は、いつだったかの夜子を思い出させる柔らかさ。  表情も、声も、優しくて、つんけんした態度が消えてしまっていた。 「お前、変なものでも食べたのか?」  待っててあげる?  俺を、お前が?  それは、今まで一度も見せられたことのない優しさ。 「……失礼ね。あたしは、いつも通りのあたしよ?」  少し不満気な様子を見せたものの、すぐに笑顔に切り替わる。  これも、昨日の告白の影響なのだろうか。 「待っててあげるって……お前も、学園に通うつもりか?」 「当たり前よ。学生が通うことに、何の不思議もなくて?」  これは、何の冗談だ。 「あれほど、外にでるのを嫌がってたじゃないか。それなのに、どうして突然」 「……だって」  少し、恥じらうように。 「キミと通う学園に、少し、夢を見てしまって」 「え?」 「もう、全てを言わせないでくれるかしら。恥ずかしいじゃないの!」  照れ照れに見える夜子の様子。  しかしそれは、冗談で言っている風にも見えなくて。 「お前、どうしたんだよ」  本当に、どうしてしまったんだ。  その髪を晒すことを、あれほど嫌がっていたはずなのに。 「どうしたのかって言われても……あたしは、いつも通りだけれど? ふふっ」 「…………」  そうやって、優雅に笑うようなキャラじゃなかったような気がするぞ。 「……ん?」 「瑠璃さん、瑠璃さん……! ちょっと、こっちへ!」  食堂の出入口で、日向かなたが手招きする。 「夜子さんのことで、お話が!」 「……わかった」  どうやら、夜子の異変に気付いているのは、俺だけではないらしい。  向かいの夜子には席を外すと伝えて、立ち上げると。 「今日は一緒に通うんだから、勝手に出発しちゃ駄目よ?」 「あ、ああ……」 「うん、楽しみにしてる」  にっこり、と。  彩り鮮やかに、可愛らしく笑ってくれた。  なんだろう。  たしかにそれは、大好きな夜子の笑顔のはずなのに。  どうしてこう、いつもの様に心が揺れ動かなかったんだろう。  活気づいた草花の若々しさではなく、造花のような作り物を見ているような錯覚。  確かに彼女は遊行寺夜子だけれど、俺の知っている遊行寺夜子ではないような気がして。  無理をしているのだろうか。  強がっているのだろうか。  どちらにせよ、昨夜に与えた影響は、予想以上に大きいらしい。 「なんなんですかこれは!!」  彼女が追求する。 「朝っぱらからずっとこうですよ! 何をどうしたらあんな風になるんですか!」 「……俺だって、困惑してる」  彼女が言っているのは、夜子の変わりようについてだろう。 「あの夜子さんが通学するなんて!? それ自体はとても喜ばしいですが、経緯が謎すぎて喜べませんよ!」 「だから俺も、わかんないんだって」  あんな風に笑いかけられるなんて、今まで一度もなかったから。 「いつもはもっとツンツンして、強がりで、引き篭もりで、消極的でしたのに……何をしたんですか!?」 「何をしたかと聞かれたら」  話さない訳にはいかないか。 「……告白して、拒絶されただけだよ」 「……え? きょぜつ?」  目を丸くして、彼女は驚いた。 「こ、断られちゃったんですか? 恋人になったわけじゃなく?」 「断られてはないが、大嫌いだって言われて叩かれたな。そして拒絶されて、逃げられた」 「それって、断られてません?」 「……嫌われてるだけだよ」  それは、いつも通りだから。 「そしたら、朝起きて食堂に来てみたら、何故かこうなってたんだよ。だから俺も、本気で戸惑っている」  告白が受け入れられて、恋人になれたなら――そういう変化もわからなくはないが。  あの別れ方をして、どうしてこうなるんだろう。 「昨日、殴られた痛みをはっきりと覚えてる」  あれは、明確な拒絶だった。  渾身の、嫌悪感だった。  それならば、尚更俺のことを避けるようになるのが自然だろうに。 「……夜子さんも、変わろうとしているのでしょうか。それにしては、ぎこちなさが一切なくて、見ていて不安になるのですが」  不器用なあいつが、意識改革をして素直に変われるとも思えない。  変わろうと思う心の変化すら、似合わないというのに。 「ひとまず、様子を見るしかないな。あいつが無理をしているなら、どっかでボロが出るだろう」 「色々と納得出来ないものもありますが、仕方がないですね……」  歯がゆそうに表情を歪め、落胆する彼女。 「本当は影でこっそり恋人になってるとか、そういうことだったりしてー」 「それなら隠す必要なんてないだろうが」  苦笑いを浮かべながら、この場はそれで納得しよう。  とはいえ、いくら夜子の様子が変わろうとも、夜子は夜子のままである。  少しの変化を見出したくらいで騒ぎ立てるのもどうかと、俺はぼんやりと考えていた。  魔法の本の一件が落ち着いて、心も休まる日常。  俺の余計な干渉はあったけれど、夜子なりに青春を楽しもうと思ったのかもしれないと、そう言い聞かせていたのだが。 「どうしたの、瑠璃?」 「……いや」  潮風吹きさす海岸線。  傍らにぴったりと寄り添う少女。  俺の腕に絡みつき、身を寄せて歩く様子は、どうみてもバカップルのそれだ。 「ふふふーん!」  ご機嫌に腕を組んで歩く夜子は、やっぱり異常そのものである。  大嫌いなはずの俺と、肩を組んでの通学。  人目を一切気にすることなく、いちゃいちゃしていた。 「お前、本当にどうしたんだよ」 「何のことかしら?」 「いつからお前は、男と手を組んで歩くようになったんだ」 「そ、そんなの、今からに決まっているわよ! キミだけにしか、したことないわ!」 「……いや、あの」  微妙に質問の意図を履き違えている。 「瑠璃の指って、想像以上にたくましいのね」 「…………」 「触っているだけで、落ち着くわ。もっともっと触っていたい」 「…………」 「ねえ、どうしたの? 何か言ってくれないと、寂しいわ」 「…………」 「……あたし、何か変かしら? 髪の毛とか? 制服の着こなし? いやあ、不安になる……」 「…………」 「瑠璃……」 「…………」 「……好き」 「――っ」  脳天をかち割られたかのような衝撃に、襲われた。  黙殺することで夜子の本音を引き出そうとしてみたら、想像以上の言葉を探り当ててしまった。 「お前は、何を、言ってる」 「本当に分からないの? 好きな人にしか、こんなことしないわ」 「いや、そうじゃなくて」  そうじゃなくてだよ。  そうじゃなくてだな!! 「お前、どうしたんだ? 昨日は俺を拒絶して、逃げて、それなのに甘えてきて。お前らしくないぞ」 「拒絶? 告白? なんのこと?」  きょとん、と。  狐につままれたような表情をしている。 「キミは、昨日、あたしに告白をしてくれたの?」  心底驚いたような表情だった。 「……ごめんなさい、少し、記憶があやふやで……自分でも、戸惑っているの」  不安そうな面持ちのまま、俺の言葉を咀嚼する。 「記憶があやふやって、どういうことだ」 「覚えているような、覚えていないような、そんな感じ。でも、嬉しい……」  顔を朱に染めながら、夜子ははにかむ。 「キミがあたしに告白してくれるなんて、まるで夢のよう」 「――っ」  駄目だ、これは。  破壊力が、ありすぎる。  好きな人にこうまで甘えられてしまったら、冷静さも瞬く間に狂わされてしまう。 「…………」  防衛本能が危機を察知して、夜子から離れようとしてみせるが。 「駄目よ、もう」  振り解こうとした腕を、小さな腕でぎゅっと捉える。 「恥ずかしがらないで。本当に嫌だったら、直接言って欲しい。キミに、迷惑をかけたいわけじゃないから」 「……わかったよ」  脳みそがクラクラしてきて、正常な判断を出来なくさせる。  隣にいる夜子を直視することが出来なくて、自然と視線は上を向く。 「本当に、どうしちゃったんだよ」  夜子ではなく、空へ呟いて。  そこで俺は、一つ気が付いてしまった。  もし。  夜子が、ずっとこのままだったら。  今までの閉塞した人生が大きく変わり、充実した人生を送ることが出来るのではないだろうか。  確かに、白い髪も赤い目も、人の注目は浴びてしまうだろうけれど。  「――こんなに魅力的な女の子が、幸せになれないはずがない」  明るく、社交的に、本を手放し心をひらいて見せたらなら。  誰からも愛してくれる存在になるんじゃなかろうか。  そして、その予想が当たっていることを、すぐに目にすることになる。  それは、異様な光景だった。 「初めまして、遊行寺夜子です。今日からこの学園に復学致しました。何卒宜しくお願いします」  職員室の前で俺と別れてから数十分後。  副担任である本城奏先生に連れられてやってきた夜子は、クラスメイト全員の視線を浴びる中、頭を下げてそう述べた。 「わーお、さすがの僕もこれはびっくりだー!」  からかい混じりに、岬が声を上げて。  他のクラスメイトたちも、大なり小なりそのような感想を抱いていたと思う。 「色々と未熟で、至らないところもありますが、優しくして頂けると嬉しいです」 「…………」  誰だお前。  最初に姿を表してから、常に抱き続けてきた言葉。   だが、本当に異様だったのは、その後の光景だった。 「よろしくねー、遊行寺さん!」  岬を始めとした、クラスメイトたちが、夜子を取り囲んで談笑する。  嫌な顔をひとつせず、むしろ嬉しそうに夜子は笑って。 「あたし、あまり愛想よくないけど、気にしないで欲しい……」  自ら歩み寄り、交流を図ろうとしていた。 「ねーねー、遊行寺さん、朝、新入り……四條くんとラブラブに登校してたよね?」 「……えっ、それは……」  恥ずかしそうに、俯いて。 「あれは、あたしが勝手にしているだけで……瑠璃は、受け入れてなくて」 「いやーん、可愛いなあ! 四條くんはこんな可愛い子を今まで独り占めしてたのかあ!」  ちらっちらっと、俺に聞こえるような声で喋る岬。  好奇の視線に、今は歯を食いしばって耐える。 「今、授業はこのへんなんだけど、遊行寺さんわかるかな?」 「わかんなかったら僕が教えてあげるよー」 「あっはっはー、いやいや気にしないで! 困ったときはお互い様さー!」  女子同士の朗らかな談笑。  それも、本に関係のない学生らしい和気藹々としたもの。  中でも岬が、夜子のことをとても気にして声をかけてくれてて。 「あははははっ!」  気が付けば、楽しそうに教室の中で笑っていた。 「夜子……」  それを遠巻き見つめる俺は、どういった心境だったんだろう。  昔から、思い描いていた光景。  ついにそれが実現したのかと、感慨深いものはあったけれど。 「……どうしてなんでしょうね」  背後のかなたが、ぼそりと呟く。 「喜ばしいことなのに……とても、嬉しいはずなのに、嫌な予感がしてしまいます」  夜子が幸せなら、それでいいと思ってる。  今を笑えているなら、何もおかしくはないはずだ。 「本当に……別人のようですね」  別人。  夜子の見た目をした、赤の他人。  残酷な表現を、しかし俺は咎めることができないでいた。 「瑠璃さんは、そう思いませんか?」 「……わからねえよ」  ただ、この段階になってくると、俺も彼女も一つの答えに至っている。  それを口にしないのは、夜子への遠慮があったのだろうか。  願わくば、そうじゃなくて欲しい。  そう予想することが、今の夜子への冒涜に思えてしまう。 「魔法の本」  変わってしまったのは、夜子が成長したから、ではなく。  無理やり、変えられてしまっただけではないのかと――そう思ってしまう自分が嫌になる。 「あっ、瑠璃!」  ぼんやりと見つめていた俺を、夜子は嬉しそうに呼ぶ。 「お昼なんだけど、本城さんとも一緒でいいかしら? キミと二人も素敵だけれど、今日は彼女も一緒に過ごしたくて」 「一緒に食べる約束なんて、してたっけ」 「……あっ」  恥ずかしそうに、俯いて。 「あ、あたしは、そのつもり、だったから……」 「……いいよ。気にするな。俺だって、そのつもりだったから」 「やった!」  素直に喜んでみせる夜子。  一挙一動が可愛らしくて、魅力的で、抱きしめたくなるほどに、愛おしい。 「あらら、僕が邪魔してもいいのかな? 後で四條くんに怒られないかな?」 「瑠璃はそんなことをしないわ! 大丈夫っ」  すっかりデレてしまった夜子を前にして、嬉しさと不安が入り交じる。  二人っきりじゃないのは、むしろ好都合。  このままだと、間違えてしまいそうだったから。 「しっかりしてくださいね、瑠璃さん」  後ろで、彼女の声がする。 「もしも魔法の本が開いているなら――夜子さんの心のケアが、最も大切なのですから」 「わかってるよ」  本が閉じたとき、夜子は何を思うだろうか。  それを考えると、今から気が重くて重くて仕方がない。  「願わくば、これが本と関係のない変化だったらいいのにな」  それでも、夜子の変化の根源がわからないが。  遊行寺夜子という女の子は、どういう性格をしていたのでしょう。  強がりで、弱々しくて、ネガティブで虚弱体質の碌でもない女の子。  意志は折れやすく、心は腐りやすくて、いつだって閉じられた世界の中でしか生きることが出来なかった。  他人が怖い。  他人の視線が怖い。  他人の何が怖い?  ――他人の好意が、信じられないんだ。  あるいは、誰かを好きになったり、誰かを愛するという気持ちが、わからないのかもしれない。  お母さんは、あたしのことを愛してくれていたと思う。  あたしのことを、心から愛してくれていたはずだ。  疑問の余地のないくらいに確信しているけれど、それは家族という明確な理由があるからだ。  あたしが、お母さんの娘だったから、愛してくれている。  だからあたしも、お母さんを愛することができていて。  じゃあ、瑠璃は?  瑠莉は、私のことを好きなの?  月夜の浮かぶ、庭の中。  不用意に迫る瑠璃の言葉に、胸を突き刺されたあの日。  自分でも驚くほど、瑠璃のことを拒絶したくなったのはどうしてなのかしら。  大嫌いだって、知ってるはずなのに。  どうして瑠璃は、一方通行の感情をぶつけてくるのよ。  どんなに嫌っても、嫌っても、構わずに笑って。  そういうところもまた、大嫌いだった。  好きという感情って、何?  愛って、空想上のものじゃないの?  どんな物語を見てきても、その存在に実感がなかった。  本の中の登場人物は、いつだって幸せそうに愛を語る。  それをファンタジーと捉えてしまったあたしは、心が枯れてしまっているのかもしれないわね。 「大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌いっ!!」  愛を語る瑠璃から、逃げ出した。  思いっきり頬を打って、一目散に背を向けた。 「何なのよ、もう……!」  図書館の椅子に膝を抱えて座り込み、泣きそうな瞳を強くこする。  強く叩いた手の平が、痛みよりも熱を主張している。 「手が、熱い」  じんじんして、じんしんして。 「心が、痛い」  ばらばらに、ばらばらに、壊れてしまいそう。 「あたしは、何がしたかったの」  わからなくて、わからなくて、どうして泣きそうになっているのかもわからない。  この感情は、一体どう処理したらいい?  どうすれば、いつものあたしに戻れるのだろう。  救いを求めるあたしは、そこで間違ったものを求めてしまう。 「……魔法の、本」   気が付けばあたしは、禁書室からとある本を持ちだしていた。  お母さんに立ち入りを禁止されたのも忘れて、ただ利己的に物語を探す。 「クリスタル」  鏡のように煌めく宝石は、いつだって都合の良い現実を見せてくれる。  多面鏡が映しだすは、望むままの形の自分。 「瑠璃が、悪いの」  気持ち悪い言葉を囁いて、踏み込んできたりなんかして。 「あたしはキミに、好かれたくなんかない――!」  その気持ちが、信じられなくて。  他人を愛するという行為の意味を、最後まで理解することが出来なかった。  『ファントムクリスタルの運命連鎖』 「最低のやり方で、キミの恋心を潰してあげる」  ああ、やっぱりあたしは最悪だ。  不幸を振りまくことでしか生きていけない、腐れ魔法使い。  自分を好きだと言ってくれた人にさえ――刃を向けてしまうのだから。 「だってだって、しょうがないじゃない」  錯乱する心が、言い訳をする。 「キミの気持ちが、怖くて、怖くて――信じられないから」  クリスタルの表紙に、手を触れた。  透明な反射光が、あたしの何かを上書きしていく。 「キミの恋心を、否定してあげる」  痛みが、全身に走る。  心が悲鳴を上げながら、それでもページをめくる。 「遊行寺夜子は、こんなにも最悪な女の子なの」  キミは、あたしのことが好きじゃなくて。  ただ、守ってあげたいだけなんでしょう?  クリスタルの輝きが魅せるのは、キミの恋心の正体。 「――失恋したばかりで寂しかったから、近くにいた哀れな女の子に手を出しただけ」  その考えは、あたしの中で答えとなった染みこんで。  四條瑠璃の言葉や想いを、真っ向から否定していく。 「キミがそのことに気付くまで――キミが、あたしのことを嫌うまで」  クリスタルは、輝き続けるだろう。  夜子の変化について、悪く無いと思い始めている自分がいることに、驚いた。  丸くなった、というべきなのか、女の子らしくなったというべきなのか。  普通に笑って、普通に恥ずかしがって、普通に頑張ろうとする夜子の姿は、それまでの生活にはかけていた、健全さを携えていたと思う。 「瑠璃、起きて」  例えば。 「朝よ。一緒に朝食を食べましょう?」  休日には、決まった時間に起こしに来てくれて。 「もう、起きて頂戴よ。あたし、キミと一緒に朝食を取りたいの」 「……おう」  頬を朱に染めながら、嬉しい事を言ってくれるんだ。  「足蹴にして、起こしたりはしないんだな」  それは、いつだったかの思い出。  腫れ物に触るかのような起こし方は、今の夜子とは無縁だ。 「そ、そんなこと、出来ない……」  しゅん、と。  落ち込みながら、夜子は言う。 「好きな人を踏みつけるなんて、出来るはずがないわよ……」 「――っ」  デレデレのデレデレに、甘えん坊。  例えば、その2。 「一緒に、本を読みましょう!」  一人で時間を過ごすことが、極端に減ってしまった。  暇があれば広間に顔を出し、俺の隣で同じ本を読もうとする。  身体を密着させることに抵抗はなく、むしろ自分からすり寄せてくる始末。 「膝の上に、のっていいかしら」 「……駄目」  駄々をこねる赤子のように、目一杯に甘えてくるのだ。 「一人じゃ寝られないから、一緒に寝ちゃ駄目?」 「駄目に決まってるだろ」 「うう……」  夜遅くに自室へ戻ろうとする俺の裾を掴み、無防備を晒す。  以前の夜子では絶対にしなかった行動を、なんの躊躇いもなくぶつけてくるのだ。 「最近、本を読むことが少なくなったんじゃないか?」  そういう生活を続けていれば、必然的にそれ以外の時間も増えてくる。  具体的に言えば、俺とお喋りをしている時間――あるいは、イチャイチャしている時間が。 「いいのよ、それでも。物語を読まなくたって、素敵なものは身近にあるもの」 「…………」  じっと。  誘うような視線で、俺を見つめる。 「うふふふっ、少し、恥ずかしいわね」  ツンツンしていた夜子は、消えてしまって。  素直になって、甘えたがりの夜子に変わって。  次第に、恥ずかしさよりも、直接的な感情表現が増えていく。 「なんだ、これは」  急速な変化に、脳みそがついていけていない。  夜子の変わりように、魅力を感じ始めている自分が信じられなくて。 「ねえ、瑠璃。もっとあたしのこと、見ててよね」  本を手放して、俺の手を握りながら、夜子は囁く。 「あたしは、だってキミのことが――」  それが、どんなに危険な状況であるか、現実は後から教えてくれるのだ。 「何をしているんですか、瑠璃さんは!!」 「――っ、なんだよ?」  休み時間の廊下で、彼女は大声で糾弾する。 「あんなにデレデレしちゃって、あんなにイチャイチャしちゃって! すっかりモテモテさんですね!!」 「いや、あれは不可抗力だろ」  どうしろっていうんだ。 「夜子さんの突然の変化を、受け入れようとしていませんか? これでもいいかなーって、思ってません? これは、原因を突き詰めて、解決しなければいけないものだと思うのです!」 「声、声! 落ち着けって」  息を巻いて訴える彼女の様子に、僅かに腰が引けていた。 「でも、しょうがねえだろ! 別に、今の状態が何か問題を起こしているわけじゃないし、もしかしたら夜子も変わろうとしているのかもしれないんだぞ?」 「あの夜子さんが、素直に変わろうとするもんですか!」 「いや、それはちょっとひどい」  思わず、夜子を庇ってしまうくらいには。 「それは冗談としても、流されちゃ駄目です! だって、どう考えてもおかしいじゃないですか!」  懸命に、彼女は言う。 「瑠璃さんが告白して、それを拒絶したと思ったら、今度はデレデレに切り替わる。付き合うのかと思ったら、そうじゃなくてイチャイチャするだけ。何がしたいんですか!!」 「心の変化が、追い付いていないのかもしれない。ああ見えて、夜子は感受性が高いから」 「それに、瑠璃さんもですよ!」  次の矛先は、俺へと向けられる。 「夜子さんの変化に慣れないで下さい! 常に、周りに気を配って、本の影を探して下さい! 流されてしまったら、駄目ですよ……!」 「……あんたの言いたいことだって、理解できるけどさ」  確かに俺も、夜子の変化の裏には魔法の本が影響していたと疑っていたけれど。 「あいつがあいつなりに頑張ろうとして変わったのなら、それを受け入れてやるべきだと思うんだよ。端から魔法の本による影響だと疑うことが、失礼に思えてしまうんだ」  今まで、変わることを恐れていた夜子が、告白をきっかけに変わろうとしてくれたのなら。  それは、告白を受け入れてもらえる以上に、嬉しい事だと思うのだ。 「それは、瑠璃さんにとって都合がいいからでは?」 「あ?」  彼女の物言いに、いらだちが募る。 「今の瑠璃さんは、不満を口にしつつも楽しそうです。甘えたがりで優しい夜子さんが、そんなに魅力的でしたか?」 「どういう意味だよ」  やけに、厭味ったらしい言葉じゃないか。 「他意はありません。そのままの意味です」  一歩引いたような視線で、彼女は俺を見つめた。 「確かにこれは、魔法の本の仕業ではないかもしれません。ですが、この変化はやっぱり突然過ぎて、異常なんです」 「……わかってるよ」  否応なく現実を伝える彼女は、やはり手厳しい。 「あまり、夜子さんと仲良くしない方が良いと思います。突然の変化に流されず、いつもの瑠璃さんでいて下さいね」 「…………」  仲良くしない方がいい、か。  果たしてそれは、どうなんだろうな。 「考えておくよ」  〈曖〉《あい》〈昧〉《まい》〈模〉《も》〈糊〉《こ》なその言葉に、彼女はもう何をも言うことなく、目を伏せる。  確かに彼女の言う通り、夜子の変化は唐突だったが。  背景や周囲に目が行き過ぎて、夜子本人を蔑ろにしてはいけないと思うんだ。  変わった後の、夜子を見てあげなくちゃ、駄目だろう。 「だって俺は、夜子のことが好きなんだから」  優しい笑顔が、目に浮かぶ。  心臓が、高鳴っていた。  夜子が変わり始めてから、二週間の時間が経ってしまった。  その二週間の中でも、夜子は少しずつ甘えっぷりが強くなり、恥ずかしさを押し通して愛情を伝えてくれるようになっていた。  その姿は嬉しくもあり、また、幸せなものではあったけれど。 「……今日は、先に帰ってる、か」  夜子が登校するのがもはや当たり前。  登下校のときだって、いつも腕を絡ませて通っていたというのに。 「一人」  空っぽの手が、やけに寂しい。  それが当たり前だったと感じる自分に驚いて、笑ってしまった。 「だからって、僕を付き合わせないでよねー」 「岬が勝手について来たんじゃねえか」  理央からの頼まれごと。  何でも一人でやろうとする理央が、珍しく今日はお使いを求めてきた。  二つ返事で了解した俺は、校門を出て反対方向へと歩いていると、同級生に声をかけられたのだ。 「いいじゃんいいじゃん、最近、新入りくんは夜子ちゃんに独占されてたから、寂しくて。あはっ!」 「夜子ちゃん?」  それまた聞きなれない呼び名だな。 「うむ、僕と夜子ちゃんはもうマブダチだからねー? へっへーん!」 「かなり仲良さそうにしてるもんな」  変わり始めた夜子は、今はもう完全にクラスに溶け込んでしまっている。  俺よりもずっと、健全な学園生活を送れているのだ。 「なんかさー、もっと強烈な性格だと思ってたから、びっくり。これだったら、もっと早くにきてたら良かったのにね」 「……まあ、事情があるんだよ」  俺だって、その事情を知りたいくらいだが。 「優しくて、可愛らしくて、愛想よくて。仲良くなってから、もっともっとそういうところを見せてくれるようになったかな」  岬の語る夜子像は、今の俺が抱いているものと同一。  そして、かつての夜子からは考えられなかったものだ。 「新入りくんの話を振ると、かああっ! って赤らめちゃうんだよ! テレテレ! もえー!」 「…………」 「あ、恥ずかしがってる」 「うるさい黙れ」  余計な情報を教えてくれるなよ。 「素敵だね、夜子ちゃん」  感慨深く、岬は言う。 「最初は日向さんとお似合いかなーって思ってたけど、夜子ちゃんともお似合いだよ。本命は、どっち?」 「答える必要はない」  夜子に決まってるけどな。  彼女はあくまで、親友だ。 「またまたー! バレバレだけどね。夜子ちゃんラブなくっせにー?」 「…………」 「あ、図星だ-!」 「もうこの流れに嫌気が差してきた」  親愛なる同級生の口を黙らせるには、どうしたらいいんだよ。 「夜子ちゃんは本当にいい女の子だと思うから、ちゃんと大切にしてあげるんだよ。泣かせちゃったら、許さないから」 「……随分、肩入れしてるんだな」  まだ、仲良くなって二週間だろうに。 「あっはっは、何を隠そうこの僕だって、夜子ちゃんにぞっこんだからね。らぶらぶ」 「まあ、気持ちはわからなくもない」  今の夜子は、他人から愛される魅力満載の女の子だから。  それは、同性異性に関係なく。 「んで、買い物のご予定って何なのさ-?」 「明日の夕食の材料だって」  理央から渡されたメモには、びっちりと文字が書かれている。  どこのお店で何を買うかまで書かれているから、迷う必要はなさそうだ。 「うはぁ、結構お店を巡らなきゃいけないね。僕は面倒だからここまでかなー」 「付き合い悪すぎるだろ……」  別に、どっちでもいいけどさ。 「門限が迫ってるので、仕方なし!」 「箱入り娘のように言っても、らしくねえぞ」 「あっはっはー、こう見えて、お姉ちゃんは僕を溺愛してるからね!」 「それは、知ってる」 「それじゃ、頑張ってねー!」 「おう、またな」  理央のメモに、再び視線を落とす。  図書館への帰宅は、いつもより1時間ほどかかってしまいそうだ。 「感謝感謝、だな」  いつも尽くしてくれている理央への感謝を忘れないよう、しっかりとお使いを果たそうじゃないか。  お使いを済ませた俺は、いつもよりも遅い時間に帰宅する。  にこやかな表情を浮かべる理央は、お礼を言いながらもいそいそと荷物を受け取った。  初めてそこで、何かを企んでいることに気がつく。  「……なんだろうな」  珍しく、お使いをお願いしたかと思ったら。  それはおそらく、俺を図書館から遠ざけるため?  自惚れなら恥ずかしいことこの上ないが、理央のぎこちない笑顔が確信をもたらしてくれる。 「ま、気にする必要はないか」  それが何であれ、悪いものではないだろうと。  呑気に構えながら、食堂へ向かったところで。 「おかえりなさい、瑠璃」 「――っ」  テーブルに並べられた、華やかなお菓子たち。  微笑みながら迎えてくれる夜子に、俺は面食らってしまった。 「ど、どうしたんだ、これ」  まさかとは思いながら、訪ねてみると。 「理央に教わって、あたしが作ってみたの。瑠璃に、食べてもらいたくて」  恥ずかしそうに俯きながら、上目遣いに囁く。 「じ、自分でも……少し、上手く出来たと思うのだけど」 「……驚いたよ」  なるほど、俺をお使いに向かわせたのは、この時間を作るためか。  「でも、どうして急に」  広げられた愛情を前にして、思わず目眩がしそうなくらい。  恥ずかしさを誤魔化すように、今は口を動かそう。 「だから、瑠璃に食べてもらいたかったのよ。こんなあたしでも、何かしてあげられることがないかなって……」  もじもじと、いじらしいことを口にする。 「優秀な先生がいてくれたから、不器用なあたしにも何とか作れたことだし……」  じっと、目を交錯させる。 「食べて、くれるかしら?」 「喜んで」  あの夜子が、ここまで頑張ってくれたというのなら、応えてやらなきゃ男じゃない。  誰かのために、何かをしてあげるという気持ちの優しさに触れて、思わず笑みが零れ落ちる。 「座って」  椅子を引いて、俺を座らせる夜子。  頷いて従い、鮮やかに彩られたお菓子をじっと見つめた。 「じゃ、早速いただくよ」 「……うん!」  まずは、綺麗な焼き色をした小さなクッキーを手にとった。 「これはね、瑠璃の好みに合わせた甘さ控えめのクッキーなのよ? きっと、気に入ってくれると思うわ」 「どれどれ」  可愛らしいサイズのクッキーを、そのまま口元へと運ぶ。  クッキー特有の食感が口腔内に広がって、マイルドな香りが染みわたる。 「ど、どうかしら? く、クッキーだったら、ちゃんと美味しく作れたと思うのだけど……」 「美味しいよ」  掛け値なく、お世辞なく、そう思った。 「やった!」  短い俺の言葉を受け取った瞬間、夜子は小躍りするかのように喜んだ。  「やったわ! 理央に教えてもらった成果が出たのね!」  無邪気にはしゃぐその様子が、あまりにも可愛らしくて。 「出来たてなのかな? 僅かに熱が帯びてて、暖かい。それでいて甘さも控えめだから、いくらでも食べられそうだ」 「嬉しい! もっと食べてくれていいのよ!」  それは、かつての夜子なら見せないような笑顔。  「そういえば、一年前は妃に手作りお菓子を振る舞おうとしていたっけ」 「今日は、瑠璃のためだけに作ったの。あの時以上に、心を込めて作ったわ」 「あの時だって十分心をこめていたように思うけど」 「あの時と違うのは、たった一つ」  熱を帯びた頬が、やけに赤い。 「――愛情込めて、作ったから」 「っ!」  ど真ん中直球、ストレート。  逃げも隠れもできない言葉に、脳がくらくらした。 「次は、チョコレートケーキね。こっちも、そんなに甘くないはず!」  切り分けられたダミエ柄のチョコケーキが、取り皿に寄せられて。 「……えっと」 「?」  しかし、俺に渡そうとするのではなく、少し逡巡してから瞳を揺らせて。 「あ」 「あ?」 「……あーん」 「…………」  小さなフォークで切り寄せたケーキを、俺の眼前に差し出した。 「あ、あーん……!」  硬直する俺は、夜子の突然の行動に驚く他なく。 「あーん!!」 「……あーん」  泣きそうになりながら語尾を強める夜子の声を聞いて、ようやく応えることが出来た。 「もー……」  ケーキを俺の口に運びながら、涙目で不満を訴える夜子。 「あたしだって恥ずかしいんだから、何度も言わせないで欲しいわ」 「いや、だったらしなければいいのでは」 「したいのよ!」  ケーキの甘さよりも、夜子の甘さを堪能しながら、一喜一憂する夜子を見守る。 「したいと思ったんだから……しょうがないじゃないの」  いじけるように俯いた。 「蕩けるくらいに、甘かった」  まずは感想を口にしよう。 「夜子が作ってくれたってだけで、満たされるものがあるよ。本当に美味しかった」  願わくば、これからもたまに作って欲しいと思うくらいに。 「食べてもらう人のことを想って作ると、美味しく出来上がるんだって」  おそらくは理央から聞いたであろう、アドバイス。 「キミのことを想いながら、頑張ったの。本当に、頑張ったんだから……」  幸せそうに、はにかんで。  今はこの甘い時間を共に過ごそう。 「なあ、夜子」 「なぁに?」 「頭、撫でていいかな」 「えっと……」  少し、恥ずかしそうにして。  答えを待つ時間を堪えきれなくて、衝動的に手を伸ばしていた。 「あう……」  艶やかな髪の毛の感触が、指に絡まる。  何者にも染まらない、鮮やかな白は、夜子の代名詞とも呼べる美しさだ。 「瑠璃」  うっとりとしながら、視線を向けて。 「瑠璃……」  夜子の小さな唇が、目についた。  途端、どうしようもない欲求が込み上げてきたけれど、今はぐっと我慢する。 「ありがとな」  俺のために、作ってくれて。  そうして、好意を向けてくれて。 「いつの間にか、惹かれてしまっている自分がいるんだな」  目の前に散りばめられた宝石箱のようなお菓子たち。  その全てに俺への愛情が込められていると思うと、頭が沸騰しそうだ。 「…………」  しかし。  しかし、俺は今の夜子を受け入れてはいけないんだと思う。  日向かなたに忠告された通り、これが魔法の本による影響なのだとしたら、これは全部台本上の代物で。 「本当に、魔法の本なのかな?」  変わったのは、夜子だけ。  もしかしたら、これが本当の夜子かもしれなくて。 「……どうしたの、瑠璃?」 「いや」  何でもないと、首を振る。 「夜子のくれた甘さを、噛み締めていただけだよ」 「……ばか」  グッとこらえて、意識を保て。  今は答を出すべきではない。  引き篭もりで、弱々しくて、俺のことが嫌いな夜子。  そんな彼女に恋をして、好きになって、愛してしまったのはいいけれど。  今の夜子は、俺の愛した夜子なのだろうか?  変わってしまったのは、何?  以前の夜子からはかけ離れて、ずっとずっと甘々で魅力的になってしまって。  心が大きく揺れながら、今は昔の夜子を思い出す。  ――大っ嫌い。  そういえば、久しくその言葉を聞いていないと思うと、少しだけ寂しくなってしまった。  そして、俺の理性が崩れたのはその夜のことだった。  夜の帳が下りた頃、寝ようとしていた俺の元へ忍び寄る影。  扉が空いたことにも気づかずに、瞼を閉じていた。 「……瑠璃」  吐息のような声が、耳元で聞こえる。 「夜子?」 「あ……起こしちゃった?」  ベッドに腰掛けた夜子は、柔らかな笑みを浮かべた。 「どうしたんだよ、こんな時間に」  突然の来訪に驚きながら、身体を起こそうとすると。 「いいの。寝てて」 「でも」 「この暗がりが、丁度いいの。これならあたし、素直になれるから」 「……わかったよ」  この距離は、まずい。  そう自覚しながらも、逆らう気が一切起きず。 「おやすみなさい」 「……いや、普通に考えて寝れないから」  当たり前のようにおやすみという夜子。  本当に、何を考えているんだろう。 「今日はいっぱいドキドキしたから、寝れなくて」 「それで、夜這いにやって来たってわけか」 「よ、夜這いじゃないわよ! ちょっと、様子を見に来ただけ」 「それを夜這いと呼ぶんじゃないのか?」 「じゃあ、夜這いでいいわよ……」  不満気に、唇をとがらせる。 「……キミは、あたしのことが嫌い?」 「は?」  神妙な声で、意味不明なことを聞かれてしまった。 「お前……どうしたんだ?」  体を起こして、問いただそうとして。 「いいから、寝てて……!」  夜子が俺の身体をぎゅっと押さえつけて、隣にいることを拒む。  あくまで、寝ている俺に、話しかける風にしたいらしい。 「顔を、見られたくないの」  少しだけ、声が震えていたことに、今更気付く。 「だから、この暗がりがいい」  もしかして。  もしかして夜子は、怯えてしまっているのだろうか。 「最近、キミとの距離感が遠いような気がするの。素直な気持ちになれてるのに、肝心のキミが離れて行くような気がして」 「俺が、遠くに?」  どきっと、痛みのような刺が刺さる。  そこまで見据えられているのだろうか? 「あたしが何をしても、キミは壁を作っているようなきがするわ。もちろん、楽しんでくれているとは思っているのだけど」 「壁、か」  夜子の読みは、正しい。  確かに俺は、今の夜子のことをどうしたらいいのかわからなくなってしまっている。  魅力的だとは思いながらも、今の夜子を受け入れてはいけないような気がして。 「キミは、あたしのこと……嫌いじゃないよね」  大きく、声が震えて。 「あたしのこと、嫌わないで欲しい……!」  ぎゅっと、布団の下に、夜子の手が潜り込む。  小さな指が見つけたのは、俺の骨ばった手。 「夜子……もしかして、泣いてるのか?」  震えていたのは、声だけではなく。  「俺は、お前を不安がらせてしまっていたのか?」  すべすべの手が、小刻みに震えていたのだ。  驚くほど冷たくて、ぬくもりを欲する寂しい指だ。 「泣いてなんか、ないっ」  反対側の手で、目尻をこする夜子。  否定しながらも、否定できていない。 「だって、近頃のあたしはとっても幸せだもん。キミとたくさんの時間を共有して、学園にだって通えて」  それは、かつての夜子が絶対に望まなかった行為。 「クラスメイトの友達が出来たわ。素直に笑えるようになったの。それを嬉しくこそ思っても、悲しいとは思わないわ」 「だったら、どうして」  泣いている? 「わからない。わかったら、苦労しないわよ……うううっ」  もはや、隠し切ることが出来なくて。 「わかんない……!」  混乱して、自分の感情が制御できていないのだ。 「さっきも、一人で寝ようとしてたけど、心が落ち着かなくて。キミに嫌われてたらって考えると、いてもたってもいられなくて」 「それで、俺の部屋に来たのか」 「寝顔を見て、安心しようと思ったの。キミの寝顔は、とても素敵だから」 「……寝顔、か」  いつか、夜子に言われたような気がしたその言葉。 「な、なんでもないわよ!? 今のは、なし!」  素敵という言葉に反応して、慌てて取り繕う。 「ごめんなさい……今日のあたし、おかしいわ。変なこと、口にしそうだし」 「変なことって、なんだよ」 「……今、言うべきではないことよ。暗がりで誤魔化してはいけない気持ち……泣いてちゃ駄目な言葉」  鼻をすする音が聞こえて、未だ涙が止まらないことを耳から知る。 「俺は、夜子を不安にさせてしまってたのか」  確かに、迷いと戸惑いを抱えながら、お前と過ごしていたけれど。 「それは、反省しないとな」  そうやって、心を晒されてしまったら、正直になるしかないだろう? 「俺がお前のことを嫌うなんて、あってたまるかよ」  それは、余りにも笑えない冗談だ。 「本当? じゃあ、どうして距離をとってたの」 「距離感をはかりかねていたんだよ。お前が魅力的すぎて、テンパってたんだ。俺も、常に余裕が有るわけじゃないかからな」  魔法の本のことは、口にしない。  その単語は、今の時間にふさわしくない言葉だからだ。 「お前に手作りお菓子を振る舞ってもらえるなんて、初めての事だったからな」  何かをしてくれることなんて、今まで一度だってなかったから。 「……そっか。それなら、良かった」  安心したように、息を吐いて。 「あたしのこと、嫌わないでね。逃げないで……傍にいて欲しい」  ぎゅっと。  繋いだ手を、強く握られる。 「……ああ、もちろんだよ」  弱々しいところは、変わらない。  夜子は夜子のまま、そばに居てくれる。  これはもう、受け入れるしかないのではないだろうか。  受け入れて、ありのままを見てあげるべきなのではないか。  「……ふふっ」  もう、泣いてはいないようだ。  夜の暗がりに隠れながら、夜子は嬉しそうに笑っている。 「…………」  その姿を見つめながら、心が堕ちていくのを自覚する。  もういいか、と。  諦めにも似た感情がこみ上げて、正直になってしまおうか。  やわらかな笑顔を向けてくれる女の子。  可愛くて、恥ずかしがり屋で、まっすぐに好意を向けてくれる女の子。  あまりにも魅力的な夜子を前に、心はドキドキしっぱなしで。 「……好きになっても、いいのかな」  変わった後の夜子が、今は愛おしく、切ない。  手を伸ばして抱き寄せたい衝動をこらえながら、今は眠ることにしよう。  そして、いよいよ関係を踏み越える時が訪れる。  夜子が夜這いにやってきた日の翌朝、テーブルにはメモ書きが残されていた。  ――今日の夕食後、伝えたい言葉があります。  夜子の文字。  夜子の言葉。  それが何を意味するかなんて、余りにも明白だ。  驚くほど落ち着いている自分がいる。  休日である今日は、噛みしめるようにその時を待てると思ったのだ。 「瑠璃さん……」  廊下で、彼女とすれ違う。  不安げな瞳が何を意味するか、その時の俺にはわからない。 「俺はもう、受け入れることにしたよ」  今の、夜子を。  魔法の本の仕業と、疑わずに。 「きっとそれは、今のあいつに失礼だと思うから」  真っ直ぐな気持ちが、魅力的すぎて。 「それでも、私は……」 「好きなんだ」  力強く、宣言した。 「今の夜子が、大好きなんだ」 「……そうですか」  彼女は、力なく項垂れる。 「瑠璃さんは、どうして夜子さんのことを好きになったんでしょうね」  俺はもう、何を言うことなく歩を進める。  今はただ、夜子の言葉を心待ちにしていた。  夕食後、いつもなら書斎へ戻ろうとする夜子が、俺に手を差し伸べた。 「きて」  短い言葉だったが、恥ずかしさは隠せていない。 「何処へ行くんだ?」 「そと」  具体性を帯びていない言葉だったが、夜子の緊張は見て取れる。  下手に茶化そうとすることなく、おとなしくついていく。 「…………」  何処かへ向かおうとする夜子の後ろ姿を、視線で追う。  隣に歩こうとはしないで、こちらを見ようともしない。  しかし、緊張しているものの、決して機嫌が悪いわけではなさそう。 「……悪くはない、かな」  静寂に包まれながらも、距離感に頭を悩ませながら過ごす二人。  初々しさや恥ずかしさがにじみ出て、この沈黙でさえも幸せに思える。  ――伝えたい言葉があります。  メモ書きを、思い出して。  「すっかり、外にでることに抵抗がなくなったな」  学園に登校するようになって、引き篭もりが解消された。 「……変わりたいと、思ったの」  小さく、口を開く夜子。 「もっともっと、普通の女の子になりたかった。今までのあたしは、好きになってもらえるような女の子じゃなかったから」  引き篭もりで、口が悪くて、他人を寄せ付けない女の子。 「全部、キミのおかげよ」  にっこりと。  振り返って、笑顔を魅せつける。 「俺が何かしたわけじゃないと思うが」  それでも、感謝されることは嬉しい。 「元々、外を歩くのは好きだったのもあるわ」 「そういえば、たまに散歩とかもしていたっけ」  人目のない夜に、人目から逃れるように出歩いていたこともあった。 「あの頃は、今とは少し違う。一人が好きで、誰かと歩くのなんて嫌いだったから」 「今は、俺と歩いている」  楽しそうに、歩いてくれている。 「髪の毛が、風に吹かれるのが好き」  白い髪が、闇に煌めく。 「夜の静かさが、好き」  目を瞑って、静寂に耳を傾ける。 「隣に誰かがいてくれると、安心するわ」  瞳と瞳が交錯する。  熱を感じたのは、俺だけではないのだろう。 「潮風は、嫌いじゃないのか?」 「嫌いになるほど、吹かれているわけではないから」  ベタつき加減も、楽しんでいるのか。 「海なんて、あたしには無縁なものだったし。泳いだことさえ、ないわよ」 「はは、夜子が泳いでいる姿なんて、想像できないな」  運動しているところとか、似合わないにも程がある。  けれど、こうして変わることが出来たのなら――いつか、そういう日が来るのかもしれない。 「……み、水着なんて、嫌い」  恥ずかしそうに、声が震える。  「似合わないから?」 「に、似合わないに決まっているでしょう! 言わせないで!」  ぷんすか怒りながら、唇を曲げる夜子。  気が付けば、前ではなく隣にいた。 「……海は、眺めるものよ。水平線の彼方まで、水面の輝きを堪能するの」  防波堤に、到着して。 「足を踏み入れるよりも、遠くから眺めるべきものもあるということ」  海に入って、その冷たさを味わうよりも、眺めている方が良いということか。 「夜の海は、少し怖いがな」  底が見えなくて、どこまでも沈みそうな暗さを湛えている。 「あら、キミにも怖いものがあるのね」  吹き出すように、夜子は笑う。 「当たり前だろ。世の中、怖いものだらけだよ」  夜の海のように、底が見えないものばかりだ。 「人の、気持ちとか?」  一歩。  踏み込んだ言葉を、夜子は口にした。 「……そうだな。人の心は、分からない。外側からだと、予想することしか出来ないんだ」  わかりにくいよりも、分かりやすいほうが好きなんだ。 「だったら、今のあたしの方が瑠璃好みなのかもね」 「……?」  なんだろう。  その言葉が、とても不可解なものに聞こえてしまって。 「前にもまして、分かりやすくなったと思うのだけれど」  魅せる余裕は、本物か偽物か。  不意に、わからなくなってくる。 「ふふふっ、やっぱり普通のあたしの方が良いのかしら」  嬉しそうに笑いながら、向き合った。 「……普通の夜子って、なんだ?」 「今、キミが認識しているあたし」  変わってしまった、お前のことか。 「キミに、伝えたい言葉があります」  一言一言を大切にするように、夜子は囁いた。 「――聞いて、くれるかしら?」 「ああ、聞かせてくれ」  夜風に吹かれながら、心臓の鼓動が高鳴り始める。  いよいよだ、と。  改めて、緊張感が正常な思考を失わせる。 「素直になって、自分の気持ちと向き合って……すぐにわかったけれど、それでもじっくり考えて、ようやくわかった」  真っ直ぐ、俺を見ている。  恥ずかしさはありながら、臆することなく前を見続けて。  それは、以前の夜子にはなかった強さだ。 「きっと、あたしは」  きっと、夜子は?  心待ちにしていた言葉を、聞かせて欲しい。  昨夜、俺が聞きたかった言葉を、教えてくれ。 「――キミが、好き」  噛みしめるように、呟いた。 「一人の男の子として、大好きなの」  そして夜子は、思いを告白した。  瞬間、心が大きく揺れるのを感じた。  縦に、横に、身体の中にあるものがごちゃごちゃになるような感覚。  それが喜びであることを知ったのは、少し遅れてから。 「それは、俺の告白の返事と思っていいのかな」  喜びを噛み締めながら、確認する。 「告白? なんのことかしら」  うっとりとした視線が、絡みつく。 「あたしは、キミが好き。だから、告白したの。返事をするのはキミの方よ?」 「……そうか」  あくまで、自分から告白したという風にしたいんだな。  今までの自分をリセットして、新しい自分としての告白。  その気持ちは、わからないでもないけれど。 「好きに、決まっているだろ」  まっすぐと、夜子の目を見て返事する。 「お前のことを、一人の女の子として愛している。本当に、好きなんだ」  ああ、込み上げる充実感はなんだろう。  ようやく、ようやく、願いが叶ったような気がして。 「……それは、本当?」 「嘘偽りない真実だ」  思わず泣いてしまいそうになっている自分に、気がつかない。  気がつかない。  だから――夜子の変化にも、気がつかない。 「あたしのどういうところが好き?」  甘い声で、聞かれたから。  素直に、答えた。 「毎日、恥ずかしがりながらも甘えてくれるところとか」  学園に通うとき、腕を絡めて寄り添おうとしてくれる。  それは、今までの夜子からは考えられなかった行動。 「よく笑って、楽しそうにお喋りしてくれるところとか」  俺のことを想っていることが、痛いほど伝わってくる。  それは、今までの夜子からは考えられなかった行動。 「時間を共有しようとしてくれるところも、好きだ」  書斎に閉じこもることはなく、同じテーブルを囲んだり、部屋訪れてきてくれたり。  それは、今までの夜子からは考えられなかった行動。 「優しくて、気を配ってくれて、素直な夜子のことが大好きだ」  物腰が柔らかくなった。  言葉に棘がなくなった。  それは、今までの夜子からは考えられなかった行動。 「そういうあたしのことが、好きなの?」 「――そうだ。だってお前は、誰から見ても魅力的な女の子じゃないか」  好きにならない方が、無理があるくらいだ。 「好きにならないはずがない」  今のお前は、それほど魅力的なんだよ。  遊行寺夜子は、そういう人間なんだ。 「そう」  そして、変わらず気付かない。  夜子の声が、次第に冷たくなっていっていることを。 「キミは、そういうあたしのことが、好きだったのね」 「ああ、そうだ」  何度も何度も、確認される。  何を、確認されてるんだろう? 「キミがいうあたしの好きなところって」  あれ?  いつのまに、夜子の手には、魔法の本? 「――この本が魅せる、偽物のあたしのことばかりなのね」 「え?」  フリーズ、した。 「本物の遊行寺夜子にはない特徴ばかり。キミは、あたし自身のことを何も好きじゃなかった」  顔を上げた。  優しい笑みを携えていた夜子は消えて、冷ややかな視線を俺に送る。  それは、俺がよく知る、いつもの夜子。 「あたしのこと、何も分かっていないじゃないの」  仮面が剥がれ落ちたように、夜子は冷笑する。  心底、俺を軽蔑するように。 「あ、ああ……っ!」  え? ええ?  あれ、夜子はやっぱり、変わっていなくて。  今までのは、本が見せた舞台上の演技? 「キミは、あたしが好きだというけれど……どの辺りが好きなのかしら?」  全力で、夜子は俺を否定する。  俺の恋心を否定する。 「いつもしかめっ面で、怒りっぽくて、引き篭もりのあたしは――さぞかし嫌いなんでしょうね」  今の夜子を好きだといったのは、他ならぬ俺で。 「そりゃそうよ。あたりまえよね。何処の世界に、人を嵌めるようなことをする、性格の悪い女の子を好きになってくれる人がいるのかしら」  悲しそうに、夜子は笑って。 「これでわかったでしょう? キミは別に、あたしのことが好きじゃないのよ。ほんの少しの変化で騙されるくらいの軽い気持ち」  優しさを見せられたら、ころっと鞍替えするような気持ち。  結局――俺は、ありのままの夜子を好きじゃなかったのか。  あの日、図書館の庭で告白したのはなんだったのか。 「クリスタルの煌めきに騙されて、醜い本音を晒す」  『ファントムクリスタルの運命連鎖』  鏡に乱反射する姿のどれが、本物だったんだろう。 「――キミは、最低だね」  ああ、その通りだ。  それを自覚してしまったが最後、俺の心はへし折れる。  鏡の割れる音がして、偽物の夢は消えていく。  でも、仕方がないじゃないか。  お前の姿で、変わろうとするお前を見ていたら、とても、嬉しくて。 「――あたしも、本当に……最低」  吐き捨てるような声を最後に、本の輝きは失われる。  映し出されたまやかしが消えた先にあるのは、どういう感情なのだろう?  『ファントムクリスタルの運命連鎖』  それは、主人公にとって都合の良い夢を見せてくれる、鏡のような物語だった。  こうありたい自分を写し、願いを叶えて夢に浸る。  妄想を具現化することによって、何かをなそうとする物語だ。  あたしがクリスタルに願ったのは、正反対のあたし。  愛想よくて、魅力的で、優しくて、健気で、素直な、かつてのあたしとは比べ物にもならない女の子らしい自分だ。  こんなにも性格の悪いあたしのことを、好きだと嘯く瑠璃は、どういう反応を見せてくれるのだろう。  仮面の下の素顔を見たくて、逆さ鏡の自分を望んだ。  クリスタルの映し出す変わり果てたあたしを見て、どういう反応を見せるのか。  妃のような妖艶さや、かなたのような積極性、理央のような愛らしさを持ち合わせていないあたしは、誰かに愛される存在ではないのだから。  それは、幼少の頃から嫌というほど知っている。  迫害され、  軽蔑され、  閉じ込められ、  疎まれ、  排撃されてしまったあたしが、今更自分に自身が持てるはずもなく。  知りたくて、知りたくて。  キミが本当に、あたしのことを好きでいてくれたのか――知りたくて。 「――だからあたしは、瑠璃を騙すことにした」  騙して、試そうとした。  それはきっと、最低最悪の行為だと思う。  相手の気持ちを疑って、相手の想いを否定して、鼻で笑おうとしているのだ。  ああ、やっぱりそれは偽物で、あたしは瑠璃のことが嫌いなんだって、実感したくて。 「こんなあたしが、愛されるはずなんてなかったのよ」  自分が一番醜いことは、あたしがよくよく知っている。  疎まれ、嫌われ、迫害されてきたのだって、あたしにも原因があるのだから。  女の子らしい、遊行寺夜子が映し出されて。  案の定、瑠璃はその虚像に引っかかる。  けれど、映しだされた姿は鏡に写った逆さまのあたし。  手を伸ばして掴もうとしても、捕まえることは出来ないの。  ぱりん、と。  鏡が割れる音がして、虚像は消えていく。   そして、瑠璃の本音を確認しよう。  自らの揺れ動く気持ちを突きつけられてしまった。  吐き出してしまいそうなほどの自己嫌悪が身を襲いながら、戸惑いの渦に飲み込まれていく。  あの日、夜子に好きだと伝えた自分と、今日、夜子に好きだと伝えた自分。  何が変わって、何が違っているのだろう。  前者は本物、後者は偽物。  俺は――夜子のどこに、恋したのだろうか。  ――キミは、最低ね。  気が付けば、図書館裏の林の前に立ち尽くしていた。  目の前には、冷笑を浮かべる夜子がいる。  もう、優しく笑ってくれることもないのだろう。 「そういえば」  何も口を開けない俺へ、夜子は語る。 「いつだったか――キミは、あたしに奇妙なことを口にしたわよね」  ねちっこく、攻め立てるような言葉だ。 「好き……とか? 大切……とか? 身の毛もよだつような台詞を吐いてくれたような気がするけれど……あれは、なんだったのかしら?」 「……っ」  すぐさま、理解した。  夜子は、あの日のやり直しを求めている。  もう一度、同じ状況を作って――そして、今度こそ自らに都合の良い展開にしたくて。 「キミは、キミの気持ちを誇れるというなら、是非とも聞かせてくれるかしら? あの日のことは、あまり覚えていなくてね」  言えるものなら、どうぞ言ってごらんなさい。  夜子の高飛車な声が、言葉にしないでも伝わってくる。 「……俺は」  俺は、何を口にしたら良かったんだろう。  どうすることが、正しかったんだろう。  本当の夜子ではなくて、逆さ鏡に写った夜子に、べた惚れして。  じゃあ、本当の夜子のことは、どう想っているんだろう。 「優しくて、可愛らしくて、甘えてくれる女の子が、キミの好みなんでしょう?」 「……っ!」  胸を抉るような、嫌み。 「あたしの急な変化に疑問を挟むことはなく、据え膳を頂いてしまうくらいに、見境なくて」  毒舌を吐く夜子が、今はとても恐ろしい。 「結局、あたしの中身を見てくれていなかったのよ。可哀想な女の子に、同情していただけじゃなくて? それとも、〈与〉《くみ》し易いとでも思ったのかしら」 「そんな……はずが、ない」  違う、と。  大声で否定したかったけど。  説得力も、振り絞る力も、何もかもがかけてしまった。 「俺は……」  不誠実な人間だったのだろうか。  夜子に対して、真摯な想いを抱いていなかったのだろうか。  幻想に迷い、戸惑い、振り乱されて――俺は、何を抱いていたのか。 「本当に、キミは恥さらしの人生を歩んでいるわね。どうしてそう、生き恥をさらしてまで生きていけるのかしら」  しかし。  ノリノリで毒を履いていた夜子の声が、僅かに揺れていることに、気付いた途端。 「本当に本当に、大嫌いだわ!」  全ての疑問が、一瞬にして無に帰ってしまった。  ああ、そうだ、そうだった。  俺は最初、好きとかじゃなくて――こう思ったんだ。  ――遊行寺夜子を、幸せにしてあげたい。  俺の手で、幸せにしてあげたい。  その時抱いていた気持ちに、嘘はあっただろうか?  少なくとも――こんな悲しい毒舌を、許していいのだろうか?  それは、最初の願いに反することじゃないのか? 「ねえ、聞いてるのかしら?」  どういう気持ちで、夜子は俺を罵っているのだろう。  どうして夜子の声は、こんなにも悲痛なのだろう。  何かもがわからないまま、しかし、自分の心のあるべき姿だけは、思い出せたような気がした。 「本当にキミは、最低――」 「好きだ」 「……は?」  夜子の表情が、凍りついた。 「それでも俺は、お前のことが大好きだよ」  恥を忍んで、罪悪感を背にして、それでも言葉を吐き出した。 「き、キミは、自分で何を言っているのか分かっているのかしら」  当然、夜子は眉間に皺を寄せて、反論する。 「分かってるに決まってるだろ。全部わかった上で、それでも開き直って言ってるんだ」  夜子が、俺の気持ちを疑って、否定していることも。  クリスタルの輝きに当てられて、夜子への行為がぶれてしまっていることも。 「でも仕方がないだろう。俺はやっぱりお前のことが好きで――お前のことが、欲しいんだから」  そんな夜子が、変わろうとして、変われたんだとしたら。 「前向きになったお前を見て、頑張れよと応援したくなって、新しいお前だって、好きになっちゃうんだよ」  結局、それは偽りだったとしても。  前を向くお前は、とても素敵だったから。 「けれど、だからって本当のお前に伝えた言葉が、嘘になるわけじゃない」  本物だろうが偽物だろうが、夜子には違いがない。  変わらないお前のことも、大好きだ。  変わろうとするお前も、大好きだ。  夜子自身を好きになったのだから――お前がお前であるのなら、好きだと胸を張ることが出来る。 「性格が悪いとか、良いとか。愛想あるとか、ないとか。ツンツンしたり、デレデレしたり」 「たしかにそれらはお前の特徴だけれど、それがなくなったからって、夜子じゃなくなるわけじゃないんだ」  全てをひっくるめて、夜子だから。 「だから俺は、開き直るぞ。お前に否定されたとしても、しらねえよ、馬鹿! って反論する。その否定は、俺には通じないからな」  やりかたが、そもそも甘いんだよ。  本当に心を揺さぶるなら、もっと別の方法を取るべきだった。  詰めの甘いところは、夜子らしいと思うけど。 「ばっ――馬鹿じゃないの!? 開き直るとか、何よそれ!」  そして、夜子も怒りを露わにする。 「キミが分からず屋だから、教えてあげようとしているのに! 大体、あたしはキミのことが大嫌いなの! だから、キミにも嫌って欲しくて!」 「だから、こんな周りくどい真似をしたのかよ」 「そうよ! キミは結局、可愛らしい女の子が大好きなんでしょ!」 「馬鹿」  そんなの当たり前だ。 「夜子だって、可愛らしい女の子に違いないだろうが」 「――っ!」  何を勘違いしているのだろう。  ずっとずっと、言ってるじゃないか。 「お前は他人から愛される人間だ。性格が悪くても、愛想なくても、関係ない」  そんなことは、この図書館にいる全員が知っていることなのに。  どうして当の本人が、それをわかってあげられないんだ。 「……嘘ばっかり。本に書いてあるような台詞ばかり言わないで。何も、信じられないわ」  それでも尚、夜子は否定し続ける。 「言葉は本に書いてあっても、意味は自分で見つけるしかない」  小説で味わうことの出来るものに、限界はあるのだから。 「物語には、たくさんのことが空想として存在する。お伽話は、都合の良いシナリオを用意することもあるけれど」  どうか、分かっていて欲しい。 「――それでも、俺の気持ちは嘘じゃない」  空想ではなく、現実。  魔法の本にさえ揺るがすことの出来ない、確かな感情だ。 「う――ううっ!」  真っ直ぐな言葉の嵐に、たちまち夜子は顔をしかめて。 「知らない、知らない、知らないわよっ!」  あの日と同じように、背を向けて逃げ出す。  「どこいくんだよ!」 「うるさいっ! キミがあまりにもわからずやだから、もう一度開くのよ!」  開く? 「魔法の本を開いて、キミの気持ちが偽物であることを証明するの!」  掠れる声が、懸命に訴えてくる。 「そんなことをしても、無駄だ!」  夜子を追いかけながら、忠告する。 「何度開いたって、俺は見失わないぞ」 「さっきは、揺さぶられていたくせに!」  正門前に辿り着いた夜子は、ドアを開こうとして。 「――っ!?」  開かないことに、目を見開いて驚く。 「ど、どうして!? 理央! いるなら開けて頂戴!」  夜子が外に出ているのに、鍵がかかっているはずがなく。  それなのに施錠されていることに、夜子の怯えは加速する。 「……どういうことだ?」  もちろん、俺が施錠したわけではなく。  戸惑うように、夜子の背中に追いついた。 「駄目ですよ、夜子さん」  扉の向こうから、声がした。 「瑠璃さんの気持ちから、逃げてはいけません。決着が付くまで、鍵は開けませんからね」 「か、かなたっ……!」  予想外の人物が、後押しをしてくれて。 「まったくもう、瑠璃さんも夜子さんも、かなたちゃんがいなければ駄目駄目なんですから!」 「じょ、冗談は大概にして! 今すぐ開けなさい!」 「しーらーなーいーでーすー! では、お楽しみあれー」  わざとらしく音を立てて、扉の前から離れる彼女。 「そ、そんな……」  逃げられないことを自覚した夜子は、恐る恐る振り返る。  「どうしてわからないんだよ」 「瑠璃……」  彼女が用意してくれたシーンを、大切にしよう。 「お前が俺の気持ちを否定したいなら――終わらせたいのなら、こんな周りくどい真似なんか、しなくたってよかっただろ」  別の自分を好きにならせようとしたり。  間接的に、諦めさせようとしたり。  そんなことをしなくても、もっと簡単な方法があるじゃないか。 「やめて」  駄々をこねるように、首を振るが。 「一言、拒絶してくれたらいい。俺の告白を、受け入れることが出来ないと拒絶してくれたらいいんだよ」  俺だって、いつまでも未練がましく付きまとおうとは思わない。  俺にお前を諦めさせてくれたなら、それがおしまいなんだ。 「うるさい、うるさい、うるさいっ! もう、喋らないで!」 「なあ、夜子」  こっちを見て欲しい。  目を見て、聞いて欲しい。 「――それでも俺は、お前を愛してる。これからずっと、お前の傍にいさせてくれないか」  たった一つの、お願い。  その他に何も望まなくて――それだけを懸命に伝えたかった。 「恋人になってほしいんだ」 「――う、うううううううっ、うう……」  うめき声を上げながら、今にも泣きそうになるけれど。  決して、涙を流さないよう堪える夜子は。 「なん、ども……いってる、でしょう」  震えながら、いつもの様に口にする。 「キミのことは、大っ嫌い、だって……!」 「……ああ、そうだな」  何度も何度も、聞いてきた。 「本当に、大っ嫌いなんだからぁ……!」  ただそれだけを、伝えようとする夜子。 「知ってるよ」  そう、知ってるんだ。  ずっとずっと、痛いくらいに知っていた。 「お前は俺のことが、大嫌いなんだよな」  胸に広がる感情は、悲しいものではなく。  大いなる安心感が、じんわりと染みわたる。  大嫌い。  それは、どういう意味? 「ずっとずっと、大っ嫌いなんだから……!」  その言葉に、耐えられなくなった俺は、ゆっくりと夜子を抱きしめた。  肩に触れた瞬間、びくん、と反応したけれど。 「どうして、触るのよ……! 大嫌いだって、言ってるのに……!」 「どうして、抱きしめられたままなんだよ。本当に嫌いなら、振り払えばいいだろ」 「う、ううううっ!」  何度も何度も、大嫌いと言われ続けてきた。  それこそ、顔を合わせるように言われてきた言葉だけれど。 「なあ、夜子」  強く強く、抱きしめながら囁く。 「俺は、お前に嫌われてると思ったことなんて、一度もないんだよ」 「う、ぇ……?」  それどころか、言われる度に嬉しいとさえ思っていた。 「俺のことを、嫌いだと罵って構わない。大嫌いだと、口にし続けてもいい」  きっと、それが夜子の心の安定を担う役割をしていたのだろう。  額面通り受け取るほど、俺も馬鹿じゃない。 「それでも、俺を傍においてくれるなら、幸せなんだ」 「なんでよぉ……! どうして、瑠璃は……!」  堪えきれない涙が、流れ始めていた。  一度決壊した感情の波は、生半可な我慢では抑えきることが出来ない。 「わかるさ。わかるに決まってるだろ。お前は本当に、わかりやすいもんな」  さめざめと泣き続ける夜子は、気が付けば俺を抱き返していた。  夜子の細い腕は、どんなに力を込めたとしても、弱々しい物だったけど。  触れることで、熱が伝わる。  想いは、痛いほどに伝わってきた。 「好きだよ、夜子」 「ううううっ! それ以上言わないでよぉっ!」  何かを伝える度、夜子はびくんと反応する。  誤魔化すように抱きしめて、涙を流す。 「好きにしたらいいじゃないのっ! あたしは、キミのことなんて大っ嫌いだけど……!」  それは、たぶん。  夜子なりの、最大限素直になった言葉じゃないだろうか。 「それでも、傍にいてくれるなら、全然、別に、構わない、からぁ……!」  ぎゅううっと。  その日一番、夜子らしくない言葉を口にして。  その日一番、俺のことを強く、強く、抱きしめた。 「うわあああああああああああんっ!」  それ以上、夜子は言葉を口にすることが出来なかった。  ただただ俺の胸で泣き続けて、それまでの強がりを吐き出しているかのよう。  大嫌いと言われ続けて、最後まで大嫌いのままだったけれど。 「……どうしてこんなに愛おしいと思えるのかな」  言葉にしなくたって、伝わるものもある。  一度触れてしまえば、嫌というほど伝わってしまうから。  だから、夜子は俺のことを嫌いになり続けようとしたのだろうね。 「責任、とりなさいよぉ……!」  わんわんと泣き腫らす夜子。  言葉も、気持ちも、伝わって、ようやく、繋がったような気がしたんだ。  想い繋がる幻想図書館。  その日、俺と夜子の関係は、大きく一歩、前進した。  四條瑠璃は、嫌な人間だ。  馴れ馴れしくて、意地悪で、ニヤニヤ笑顔が気持ち悪い。  あたしのことを何でも見通しても言わんばかりに、距離を詰めてくる。  大嫌いと言い続けても、気にすることはなく。  ――好きだ。  何度も、耳元で囁かれてしまった。  気持ち悪くて、気持ち悪くて、拒絶しても、あいつは伝え続ける。    ――馬鹿じゃないの。  あたしは、何度もそう言って。  知ってるよ、と瑠璃は笑う。  どんなに嫌いだって言っても、それでもいいよと言われてしまって。  そういうところが、大嫌いなのに。  そういうところが、本当に本当に大嫌いなのに。  ――大嫌い。  気が付けば、泣いていた。  どうしようもなく、泣いていた。  どんなにあいつのことを嫌っても、それが現実になることはなく。  いつだって、心の奥底を見透かされてしまうのだ。  わかっている。  自分の気持ちなんて、本当はわかっていた。  それでも、あたしはそれを信じることが出来なくて、真逆のことを思うようにしていた。  ――知ってるよ。  どうあがいても、逃げられず。  嘘をついても、誤魔化しても、瑠璃は追いかけてくる。  ――好きだ。  ぽろぽろと、強がりが剥がれ落ちていく。  瑠璃の言葉が、あたしの仮面を取り上げる。  溶かされ剥き出しになった心は、少しの刺激にも耐えられない。  ――大嫌い。  言葉だけが、強がって。  ――大好き。  本当の言葉を伝えられない。  ――知ってるよ。  本当に、嫌なやつだ。  本当の本当に、大嫌い。  これからもずっとずっと、嫌い続けてあげるんだから。 「おはよう」  夜子へ二度目の告白をした翌日、何食わぬ顔で食堂へ顔を出す。  自分でも驚くほど意識していないまま、平静だった。 「……う」  制服姿の夜子と、目があった。  それだけで、夜子は気まずそうに視線を逸らす。 「なんだ、今日も登校するのか?」  本が終わったから、てっきり元の引き篭もりに戻ると思っていたが。 「う、うるさい……別に、キミには関係ないでしょう!」  顔を真っ赤にさせながら、強がりは継続中。  でも、いいんだ。  本当の気持ちは、もう身に沁みて分かっているから。 「関係あるさ。だって、一緒に登校してくれるんだろ?」 「そ、そうだけど……」  強がりの中にも、デレが存在する。  俺と通うために、頑張りを継続してくれていることくらい、明白だ。 「ただの、気まぐれなんだから!」 「知ってるよ」  いつも通りの、何気ない言葉。  しかし、その言葉を聞いた夜子は、頭を抱えて悶え始める。 「う、ううううっ」 「どうしたんだ?」 「その言葉、苦手」 「……なんだそりゃ」  意味不明だっての。 「だから、禁止ね」 「わかったわかった」  これからも、多用していこう。 「ところでさ」  恥ずかしがる夜子を前にして、聞いてみようと思った。  わかってはいるけれど、言葉にしてみないといけないこともあると思うから。 「俺たち、恋人になったんだよな」 「――っ!!??」  突然の問いかけに、大げさなリアクションで驚く夜子。 「な、なななな、突然、何言ってるのよ!? 馬鹿じゃないの!」 「違うのか?」 「ち、ちが……! 違わ、ない、けど! よくもそんな言葉を口にできるわね!」 「…………」  ……面白いなあ。 「だからって、調子に乗らないように! 別に、キミと馴れ合おうとなんて思っていないし、かわらなくキミのことが大嫌いなんだから!」 「ああ、知ってるよ」  色々矛盾を孕んでいることも、わかっているさ。 「先に、用意してるからっ。キミも早く朝食を食べて、支度なさいっ!」 「はいよ」  怒り散らした夜子は、食堂から逃げるように出ていく。  それでも、俺との登校を願っているのは、たまらなく嬉しい。 「すっかり、夜ちゃんも丸くなっちゃったねー」  その様子を見つめていた理央が、嬉しそうに声をかける。 「瑠璃くんの前では、たじたじだよ! さすがー!」 「理央も、嬉しそうだな」  まるで自分のことのように、喜んでいる。 「嬉しいに決まってるよー! だって、夜ちゃんのことだもん!」  朝食の後片付けをしながら、振り返って。 「これからも夜ちゃんのこと、いっぱい愛してあげてね」 「……当たり前だよ」  言われなくても、そのつもりだ。  クリスタルが開いていた時のように、学園へ通うと口にした夜子。  しかし、それはあくまで素直になった夜子ができていた行動で、本来の夜子には難易度の高いことだった。 「……何よ、これ」  むすっとした表情のまま、夜子は言う。 「こんな恥ずかしいことを、あたしはしていたの?」  手を繋ぎながらの、登校。  その緊張感に、すっかり参ってしまっているらしい。 「人の目とか、好奇心とか気にする以前の問題……これじゃ、心が持たないわ」 「相変わらず、弱いなあ……」  しかし、クリスタルの行動をなぞりたいと口にしたのは、夜子である。 「嫌だったら、離せばいいんだぞ。俺は別に、強要をしたわけじゃない」 「何よその言い草は! あたしと繋ぐのが嫌だっていうの!?」 「お前がそれに耐えられるなら、いつまででも繋いでやるけどな」  言葉以外は、かなり頑張っているようだが。 「しかし、教室に入る前には離してくれるとありがたい」  さすがに、そこまでバカップルになりきれる自信はない。 「……だったら、キミから離せばいいでしょう」  いじけるように、夜子は言う。 「クールに振舞っているけれど、キミだって緊張しているくせに」 「…………」  うるせえよ。 「ふんっ!」  言葉は、今までどおり冷たい。  変わったのは、それでも手を繋いでいるということ。  クリスタルに写った夜子と決定的に違ったのは、俺以外の人間の前での対応だ。  物腰柔らかく接することで来ていたが、本来の夜子は他人という存在が苦手で。 「……無理」  俺の隣から少しも離れず、怯える子供のように過ごし続けた。 「あ、夜子ちゃーん!」 「ひぃっ!」  岬が気軽に話しかけても、恐れるばかり。  仲良くしていた頃の記憶はあるだろうに、それでも普通にすることが出来ないらしい。 「ありゃ?」 「悪いな、コミュ障モードに戻っちまった」 「ありゃりゃりゃりゃー」  それでも、嫌な顔ひとつせず、笑って受け流してくれた。 「……大丈夫か?」 「だ、大丈夫よ、何を心配しているのかしら」  ぎゅううっと。  遠慮無く、俺の腕を抱きしめていた。  言葉や態度は変わらないのに、行動が素直になっている。  その変化に、もしかすると夜子自身が気付いていないのかもしれない。 「…………」  こうして寄り添っている方が、目立つんだけどな。  そのことを理解していない夜子は、俺にしがみつくことが不安を誤魔化そうとしている。 「つっ……」  つ? 「吊り橋効果……っ!」 「…………」  何を言ってるんだろう。  突っ込む気も失せた俺は、静かに座る。 「やっぱり、人の目は怖いわね」  素直に、弱音を零したけれど。 「……キミがいるから、何とか我慢できるわ」 「っ」  不意打ちの素直な言葉は、クリスタルの輝きを思い出させる。  焦りや不安が、思いの外本音を引き出してしまっているのかもしれない。 「あの夜子も、やっぱり夜子なんだな」  面影を見つけて、笑顔が浮かぶ。  偽物だったかもしれないが、しかし、夜子だったことに変わりはない。 「そういや、読書はしないのか?」  ルビーの頃は、何かにつけて、読書をしようとしていたが。 「……持ってきてないの」  それは、驚きの言葉。 「小説を読みたければ、書斎にこもればいいの。今は、読書の時間じゃないから」 「そうか」  思わず、俯いた。  笑顔を隠すように、噛みしめる。 「英語」  夜子が示したのは、次の授業。  学園指定の教科書を取り出して、最初のページを開いてみせた。 「あたしは、英語が苦手だから……キミが、教えなさいよ」 「もちろんだ」  いつか、願っていた光景だ。  いつか、思い描いていた風景。  ようやく叶った奇跡を噛み締めて、ノートを開く。 「ちなみに、これは読める?」  懐かしい単語を、書き記してみる。  『psychological』  それは、ルビーの煌めきに笑いあった単語だ。 「さいころじかる!!」  怒ったように膨れながらも、嬉しそうに声を上げて。  俺達にとって、それは忘れられない英単語になっていたのだろう。 「とても、疲れたわ」  夕暮れの岐路につきながら、疲弊した言葉を口にする。  だが、頬が緩んでいたことに、俺は気付いていた。 「明日は、どうする?」  世間一般には、平日だけれども。 「え? 何を言っているのかしら?」  きょとん、と。  素の驚きを見せてくれる。 「明日も、キミと通うわよ。当たり前じゃない」  疑問を一切挟むことなく、夜子は答えてみせる。  その様子に驚きながら、思わず笑顔になる。 「クリスタルの虚像は、もう消えたんじゃなかったのか?」 「うるさいわね。別に、あたしの勝手でしょう」  気恥ずかしそうに、視線を逸らして。 「……別に、全くの偽物というわけじゃ、なかったんだから」  小声で、夜子は呟いた。 「ああいう風になれたらなって……思ってたから。だから、そう、それだけなの」  それだけ。  それだけで――十分だ。 「キミも、あのときのあたしは魅力的に思えていたんでしょう?」 「ああ、そうだな」  それを否定することはしない。 「夜子は、俺に好かれようとしてくれているのかな」 「そ、そういうわけじゃないわよ! 変な風に勘違いしないでっ!」  素直じゃないところは、変わらない。  夜子らしい強がりを、見せてくれる。 「恋人同士になったって、それは変わらないんだな」  変わらなくても、いいと思うけど。 「き、キミがあたしのことを好きだから、どうしてもというから、付き合ってあげているだけ。あたしは、キミのことなんて大嫌いだから」 「そうだな、痛いくらいに知っているよ」  心が、温まるくらいにな。 「うう……」  恥ずかしそうに、声を漏らす。 「キミは、本当に、変な男の子」  困りながらの言葉。 「本当に……おかしな人ね」  くすっと。  微かに、笑ってくれた。 「恋人らしいことなんて、何一つしてあげられないのに……それでも、文句言わないのね」 「……そうか?」  お前は今、変わろうとしているじゃないか。  それだって、俺と付き合い始めてからだろう? 「あたしだって、いつまでもこのままじゃいけないとは思ってるわ。もう少し……もう少しだけ、素直になれたらなって」 「…………」  そんなことはない。  今だって、そういう弱さを出せているだけで、今までとは明確に違う。 「素直に、素直に」  言い聞かせるように、胸をなでて。  夜子はもっともっと、変わろうとしているのだ。  だから俺は、静かにその様子を見守ろう。 「……瑠璃」  夜子の足が、停止した。  図書館はもう目の前だというのに、入ろうとはせず。 「こっち、見て」 「夜子……」  夕焼けに照らされた白い髪が、鮮やかなオレンジ色に染まっている。  つい見惚れてしまうような美しさを携えて、赤い瞳は俺を捉えていた。 「ん」  目を、瞑って。 「ん!」  恥ずかしさを誤魔化すように、目を瞑って。 「……どうした?」  わけのわからないまま、聞き返すと。 「ばか」  閉じた目を開いて、夜子は一歩、踏み出した。  白い髪が靡いて、視界に迫る。  流れるような動きに、俺は反応することが出来ず。 「キミと、キスが、したいの」 「っ!?」  素直になると、言い聞かせた本当の意味。  夜子が一番願っていたのは、言葉ではなく行動だった。 「ん!!!」  今にも泣き出しそうな声で、訴えて。  これ以上待たせたら男が廃ると、覚悟を決めた。 「ん、ちゅ……っ」  それはとても、優しいキス。  唇と唇が柔らかく触れ合って、互いの思いを確認するもの。  扇情的ではなく、耽美的でもなく、ただただやわらかな口吻を。 「る、り……っ」  甘い吐息が零れ落ち、夜子はうっとりとしたような表情を魅せる。 「すなおに、なれた」  呂律の回っていない、夜子の言葉。 「うう……嬉しい、よぉ……」  涙を瞳にためながら、喜びを露わにする。 「もっともっと、素直になりたい。今ならもっと、素直になれる」  今まで。  遊行寺夜子は、一人孤独に本を読んできた。  恋人と呼べるものは、現れず。  友だちに囲まれていても、特別な相手はいなかったから。 「瑠璃、瑠璃、瑠璃ぃ…!」  スイッチが切り替わったかのように、俺を求める夜子。 「もっと、もっと、もっとぉ……!」 「……ああ、喜んで」  愛情に飢えていたのだろうか。  冷たい態度で拒絶しても、それは寂しがりやの裏返し? 「来て……」  手を引いて、図書館の中へ。  これから踏み越える向こう側の関係に、今は胸を高鳴らせよう。  恥ずかしそうに、ベッドに座る夜子。  これから行われることを覚悟してか、少し緊張の面持ちだ。 「な、何よ、見ないでよ」 「見なきゃ何も出来ないんだが」  シーツに沈む足に、目が行ってしまう。  黒いニーソックスが、やけに扇情的だ。 「さ、触らないで! じ、自分で脱ぐから」 「脱がせる楽しみもあるんだよ」  後ろに回りこんで、包み込むように手を回す。  小さな夜子の身体は、少しだけ震えていた。 「んっ……」  ボタンを外す度、夜子の吐息が聞こえてくる。  恥ずかしさで、首筋が真っ赤になっていた。 「後ろからなら、恥ずかしく無いだろ?」 「やっ……そうだけどっ」  制服を剥がされ、肩が顕になる夜子。  白い肌に、下を這わせたい衝動に駆られていく。 「キミの手、何だかえっち」  半裸のように剥かれた夜子は、為すがまま。  「どうしてそんなに、手馴れているのよ」 「イメージトレーニングのかいがあったかな」 「もう、何を言って――ひゃぁっ!?」  冷たい指が、夜子の下乳に触れた途端、短い悲鳴のような声を、上げる。 「恥ずかしい?」 「う、うるさいっ! 触るなら触るって、言いなさいよ!」 「触るよ」  事前に深刻をしておいて、返事を聞かずに手を伸ばす。  控えめな胸は自己主張が弱いけれど、それでも柔らかく、弾みのある質感をしていた。  「ひっ……!」  つーっと、なぞるように指を這わせていく。  胸の形を確かめるように、優しく撫でるような手つきで、何度も何度もなぞり続ける。 「く、くすぐったいんだけどっ……! ねえ、むずむず、する……!」  羽箒で、肌を撫でるような。 「ひゃっ……んっ、キミは、キミの指は、少し怖い……!」  慈愛の優しさを持ってして、丁寧な愛撫を続けていく。 「舐めるよ」 「えっ? ――ひゃうっ!!??」  無防備にさらされた、夜子の首筋。  白い肌が色っぽく傾いたのを目にした途端、舌の先を慎重に触れさせた。 「な、な、な、何をするの!」  夜子の抗議は、一切受け付けず。  その間も、両の手は夜子の身体を確かめ続ける。  「あっ、やっ、それは、卑怯、だからぁっ……!」  身を捩るように逃げようとするけれど、がっちりと後ろから回され、どうしようもなく。 「はうっ……ん、ぁっ……!」  徐々に、徐々に、感覚の揺らぎが大きくなっていく。  意図的に、指の動きを変えてみよう。  撫でるのではなく、沈ませる。 「う、ん……っ」  無骨な指が、目標を変えた。  左手の手は、乳首の周囲をまわりまわる。 「やっ、ダメッ……!」  尖った先端部は、やけに敏感に声を吐き出させる。 「だめだめだめ、ストップ! ストップしてぇ……!」  夜子がそう口にしたのは、指が乳首に触れたからではなく。 「そこは、駄目だからッ……!」  一方の手、俺の右手が――胸ではなく、夜子の下腹部を目指していたからだ。 「どうして?」 「どうしても、よ!」  震えは、止まっていた。  声も、甘く色っぽい。  ヘソをの周囲をめぐる右手は、少し迷った後。 「あ、んっ――!」  左手の乳首を強く擦った途端、矯正が上がるのを聞いた途端。  「やあっ――!」  迷うことをやめて、目的地へ進み始める。  可愛らしい下着に、滑りこむように。 「いやぁぁぁぁぁ……」  真っ赤になった夜子は、泣きわめいていたその理由。  それは、割れ目をなぞった指先に、湿った感覚があったからか。 「濡れてる」 「いうなぁ……!」  今にも死にそうな声で、夜子は恥じらって。 「あたしは何も、知らないんだからぁ……!」  感じ始めていたことが、恥ずかしくて。  自分でもどうしたらいいのかわからなくて、戸惑っていたのだろう。 「どうして欲しい?」 「忘れなさいよぉ……!」 「わかった。もっと触るよ」 「えっ、違っ――!」  そうして、自然な動きで下着を剥ぎとった。  弱々しい夜子の声は、とても心をくすぐってくれる。  もっともっと濡れさせてあげたくて、指の動きを活発にさせる。  繊細な身体に、傷をつけないように。  入り口の部分を、わずかに沈めてみたり、表層を撫でてみたり――触れるような愛撫だ。 「んっ、んんっ、だから、くすぐったいってぇっ……!」 「くすぐったい声じゃないような気がするけど」 「うるさ、いっ……! もう、やだぁっ!」  やだやだと、駄々をこね始める夜子。  抵抗が強いということは、それだけ感じてくれているのだろうか? 「本当に嫌だったら、ちゃんと言えよ」  それでも、指は動かしたまま。 「その時は、直ぐにやめるから」 「――っ! 馬鹿っ!!」  強く、糾弾するような声で。 「知らないわよぉ……!」  もはや泣きそうになっている夜子は、為すがままを受け入れてしまう。 「瑠璃の、変態っっ……」  掻き消えるような声は、とても心地が良い。 「やああぁぁぁぁ……」  もはや身体に力は入っておらず、抵抗する余力もないらしい。  指先が、たっぷり濡れたことを確認した俺は、そこで覚悟を決めた。 「そろそろ、だな」 「……あ」  夜子の耳元で、優しく囁いた。 「そろそろ俺も、我慢できなくなってきた」 「ん……」  言葉の真意を察した夜子は、やや俯きながら頷いて。 「わかった。あたしも最初から、そのつもりだったし」  一度、立ち上がり、ポジションを変える。  やっぱり最初は正常位かなと、夜子を正面から押し倒そうとして。 「恥ずかしから、嫌」  足の間に潜り込もうとした俺を、寝転がって回避した。 「おいおい……」  蹲るように、寝転がる夜子。  ならばと、そのポーズのまま行うことを決意する。 「足、上げるぞ」 「……えっ?」  寝転がる夜子の後ろから、体を添わせるようにして。  夜子の右足を大きくあげさせ、その間に位置取る。  「こっち、向いて?」 「やっ、瑠璃っ……!」  いわゆる側位の形をとって、自分の性器をあてがった。 「これなら、恥ずかしく無いだろ?」 「こっちの方が普通に恥ずかしいわよ……!」  足を持たれているのが、とても屈辱的なのか。  暴れようとしていないだけ、良かったのかもしれない。 「挿れるよ」 「うん……きて」  初体験にしては、色々と不格好だったかもしれない。  でも、そういう不手際も、何だか少しうれしくて。 「夜子……大好きだぞ」 「うん……!」  そして、ゆっくりと体重を前に預ける。  ずぶずぶと、夜子の中を押し分けて行くような感触が広がって。 「ぐっ……ん、痛っ……!」  痛みに、表情を歪ませて。 「ん、んん――っ、ん、ん――!」  唇をきゅっと結んで、痛みの声を挙げないよう必死だった。  そんな夜子を見て、侵入を中止しようと動きを止めたけれど。 「早くっ、最後までっ……!」 「……わかった」  懸命に、繋がろうとする夜子の言葉が嬉しくて。  それなら、痛みを少しでも抑えてあげられるように、優しく、慎重に、沈ませることにする。 「ひんっ……! あっ、これが、これが、大人の、行為っ……」  今を噛みしめるように、夜子は言葉を漏らす。 「う、ううっ……」  目尻には涙が浮かんでいて。 「うれ、しい」  それでも懸命に、気持ちを教えてくれた。  そして、狭い夜子の最奥に、到達して。 「全部、入ったよ」 「……うん」  大いなる満足感が、二人を包み込むように。  遂に結ばれたと思うと、少しばかり込み上げる感情があった。 「瑠璃は、下手っぴね。とても痛かった」 「俺のせいじゃない。夜子の身体が小さいのが悪いんだ」 「小さくない、から……」  繋がったままの状態で、軽口を叩き合う。 「そろそろ動くぞ。大丈夫か?」 「大丈夫。どうせ、もう我慢できないくせに」 「実は、そうなんだ」  確かに、満足感は込み上げてきたけれど。  それ以上に、更に夜子を欲してしまっているんだ。  腰を動かして、愛情を刻みつけたい。 「やっぱりキミは、木偶の坊ね」  その言葉を合図に、再び俺の腰は動き出す。  それでも激しい動きにならないよう、慎重なストロークを心がける。 「んっ、痛っ……くないっ!」  強がりか、気遣いか。 「全然、痛く、ないんだからっ……!」  夜子はぎゅっと力を入れて、俺の愛情を一心に受け続ける。  「あっ、あっ、ぁ、んっ……! や、やぁんっ……!」  身を捩らせて、何かを堪えるかのように。 「んぁっ、ぁっ、ん、んんっ……!」  少しずつ、中の感触が変わり始めていた。  狭いから、温かいへ。  狭いから、艶かしいへ。  愛液が、ストロークを潤滑にさせる。 「可愛いよ、夜子」  耳元で、囁いてみると。 「やっ! 変なこと、言わないでッ……! 可愛くなんか、ないからっ……! あっ……!」  恥ずかしそうに、身をくねらせる。 「好きだよ、夜子」  何度もそうやって、囁き続けて。 「あっ、あたしもっ……瑠璃が……っ!」  滑らかになっていく動き。  いつの間にか、痛みを堪えるような声ではなく、甘い吐息が溢れていて。 「気持ちよくなってきた?」 「し、知らないっ……! 知らないわよぉ……!」  明らかに、夜子の表情は蕩けていた。  愛情に、蕩けてしまっていたのだろう。 「ひゃぁんっ、変に、なる、からぁっ……! よくわかんないから、何も、言わないでっ……!」  活字を愛する夜子は。  おそらく――言葉に、弱いのだろう。 「夜子のここ、気持ちが良いよ」 「やぁっ……! やだ、やだ、聞きたくないわ……!」  首を振って、否定しようとするけれど。 「夜子の身体の、虜になってしまいそうだ」 「そんなわけ、ないからぁっ……! やぁ、やぁ、ん、あっ……!」  いつの間にか、ストロークは激しい物へと変わっていた。  腰を打ち付ける音が室内に響き、淫靡な匂いを醸し出す。 「エロいな、夜子は」 「えろいのは、瑠璃だからっ……! あたっ……あたしは、何も、知らないもんっ……!」  壊れるくらいに乱れ始めた夜子は、美しく。 「全部全部、瑠璃が悪いのっ……! 瑠璃のせいっ……! あんっ、あんっっ!」  高ぶる気持ちが、より上の快楽へと導いていく。  夜子の余裕をそぎ落とし、淫らにさせている今が、とても満ち足りていて。 「もう、果てそうだ」 「早く、イっちゃいなさいよっ……!」  吐き出したいと、思った。  「あたしも、もう、わかんないっ……やっ、変なの、嫌ぁっ……!」  ラストスパートだと心に決めて、一心不乱に腰を振り続ける。  その時ばかりは、夜子を気遣ってあげることは出来なくて。 「んっ、あんっ、ああっ、あああああっ……! ん、んんっ……だめ、だめ、だめだめだめっ……!」  淫らに乱れて、果ててしまえ。  気持ちが昂ぶり、快楽は頂点に上ってしまって。 「や――やあ、やああああああああああああああああああっ!!!!」 「ぐっ――!」  夜子が一際大きな喘ぎ声を出した途端、引っ張られるように果ててしまう。  とっさに引き抜いて、大きな脈動とともに、精液は夜子を彩っていく。 「あっ……あああああ……」  びくん、びくんと、身体を二度痙攣させて。  肌に滴る精液が、どろりと染め上げていく。 「熱い……とっても、熱いわ……」  力果てた夜子は、身体を起こすことも出来ないまま、快楽の余韻に浸る。 「遂に、あたしは処女ではなくなったのね……」 「ああ、そうだな」  力尽きたのは、俺も同じ。  そのまま夜子を抱きしめるように添い寝して、余韻を楽しもうじゃないか。 「ねえ、瑠璃」 「何だ?」 「気持ち良かった」 「そうか」  短い感想を終えた俺たちは、そうして大人への階段を登り切ってしまった。  白真珠の光景ではなく、今ここにある現実として、夜子を抱いたのだ。  そこに、一切の不満はなく。  むしろ満ち足りた気持ちで、いっぱいだ。  幸福。  今の気持ちを口にすることはとても簡単な事だと思う。  夜子の想いを抱きながら、心を通わせて。  知り尽くした感情を噛み締めて、幸せであることを実感する。  少しだけ、記憶に差し込む疑問符が、ある。  それは、白真珠が見せた甘い幻。  俺の腕に抱かれた夜子は、痛がりながら初めての感覚に堪えていた。  処女。  つまりは――白真珠の記憶を否定する現実。  あの記憶は、やはり偽物だった。  偽物、 偽物、 偽物。  ならば、どこまで真実が含まれていたのだろうかと、疑問符が浮かび上がるが。 「……今は、いいか」  何かを疑うことに、疲れてしまったのだ。  白真珠がなにを隠そうとしていたかなんて、今の俺にはどうでもいい。  夜子が、真心の気持ちを向けてくれるなら、それで満足だ。 「悩み事か?」  休日の夕方、珍しく静かな広間の隅で、汀が笑っていた。  近頃は奏さんのところでお世話になっているらしいが、今日は休みだとか。 「幸せな悩みだよ」  幸せだからこそ、色々考えてしまうだけ。 「はっ、随分と丸くなったんじゃねえのか、少年も? ったく、惚気けやがって」 「…………」  あれ?  汀にはまだ、俺と夜子の関係を知られていないと思ってたんだが。 「なんだよその顔? 残念だが、理央からいろいろ聞いてるんだぜ。お前らのことは、全部筒抜けだっつーの」 「……まじかよ」  昨夜のことまでバレてないか、冷や冷やものである。 「仲良くやってるみてーだな。ま、心配なんざこれっぽっちもしてなかったが」  足を組みながら、鋭い眼光を輝かせる。 「お前は俺を信用し過ぎなんだよ」  夜子のことを溺愛しているのに、俺に託そうとしている。  それは、今になっての話ではない。 「あん? し過ぎて不都合なことでもあんのかよ」 「俺を少しは疑えよ。信頼されすぎて、怖いくらいだ」 「怖いねえ……それを自覚しているなら、問題ないんじゃねーのか」  当たり前のように、汀は言う。 「安心しろ。夜子を泣かせるような真似をしやがったら、俺がお前を殺してやるから」  冗談っぽく口にしているが、瞳は真剣だった。 「精々、俺の殺意を向けられないようにするこったな」 「……わかってるよ」  その信頼には、応えるつもりだから。  最悪の未来は、訪れない。 「その覚悟もなしに、お前の妹に恋したりなんかしねえから」 「言うじゃねえか」  同時に、破顔した。  相変わらず、俺と汀の距離感は心地いい。  久しぶりに顔を合わしても、それは変わらない。 「そういや、あの女はどうしたんだ?」 「女?」  その言葉が誰を指しているか分からずに、聞き返す。 「日向かなただよ。あの女のことだから、うるさくしてんじゃねーかと思ってたが」 「……さあ?」  四六時中広間に顔を出しているわけではないので、俺の知ったことじゃない。 「俺のイメージでは、あいつはお前にべったりだった印象が強いからな」  予想外の言葉に、戸惑う。 「ま、あの女のことだから、気にしなくても問題ねえか」 「どうせ、誰かの秘密でも探ってるんだろ」  それに、あまり彼女と仲良くしすぎるのも問題だろう。  夜子は嫉妬するようなタイプではないと思うけれど、それでも今は夜子のことだけを見ていたいから。 「不思議なもんだな」  汀が、俺を見つめながら。 「夜子がお前に惹かれてることくらい、ずっとわかっていたが――お前が、それに応えてくれる日がくるなんてな」 「……そんなに、意外だったか?」 「お前の反応は、あまりにも友達すぎたんだよ。あるいは、家族にも似た親しさにも見えたよ。そこから恋愛に発展するのは、意外と難しいからな」 「そういうもんか」  俺には、一切の自覚はなかったけれど。 「仲が良すぎても、上手くいかないことがある。お前と夜子は、そういう組み合わせにしか見えなかった」  初めから、恋愛感情に始まった関係ではなく。  むしろ、それを自覚する前から、近すぎたのか。 「一つ屋根の下で暮らして、あいつを家族のように見てたことは、否定しない」  あるいは――妹のように思っていたのかも知れなかったほど。 「だから、不思議なもんだよ。そう願っていたし、そうなってくれればとは思ったが、いざ叶ってみると驚きさ」  噛みしめるように、汀は微笑んで。 「こうなったからには、最後まで責任を果たしやがれ。俺の最愛の妹は、お前にこそ相応しいんだからな」 「ああ、もちろんだ」  男二人の、図書館広間。  夜子の兄と、夜子の恋人は、静かに空間を共有する。 「俺が、夜子を幸せにしてみせるよ」  それこそが、兄から妹を奪い去る覚悟というものだ。 「お前は本当に、ムカつくやつだな」  そういって、汀は笑って。  それ以上、何を言うこともなかった。  その日は、珍しく誰もいない日だった。  理央は買い物に出かけ、かなたは岬に遊びに誘われて、町の方へ繰り出している。  だから、いつもの広間ではなく、今日は夜子の書斎に訪れていた。 「……ん」  甘い息遣いに、緊張を感じる。  いつもは一人の書斎に、俺がいるという現実は、夜子の集中を乱しているらしい。  本を開いているものの、全くページが進んでいない。 「な、何よっ! キミは、あたしのことを見過ぎなの」  だから、責任を俺に押し付けようと声を上げる。 「そんなことを言っても、俺、お前が読書しているところを見るの、好きだから」 「な、なっ……!」  かああっ、と。  瞬く間に、紅潮。 「それは、一番最初からだぞ? 近頃こういう機会が少なかったから、今日は思う存分見させてくれ」 「嫌よ、恥ずかしい」  ぷいっと、そっぽを向いて。 「キミがいたら、読めるものも読めなくなってしまうわ。もう、どうしてくれるの」 「そんなことをいわれても」  一体、どうしろっていうんだよ。 「キミも、読書に集中しなさい。今日は小説を読みたいといったのは、キミの方でしょう?」 「そうだっけ」  白々しく、とぼけよう。 「じゃ、読むか」  このまま言い合ってても、夜子は本に視線を落とせそうにもないから。 「わかったらそれでいいのよ」  呆れたように、再び読書を開始する。 「…………」  1分、 2分、 3分。  一応、読書をしたかったのは本当なので、しばらく活字に目を落としていると。 「……?」  なんだか、視線を感じる。  俺ではなく、夜子の視線。 「……じー」  人に散々読書を促していながら、当の本人が集中できていない。  それどころか、俺のことをまじまじと見つめていた。 「おい」 「……何?」 「読書するんじゃなかったのか」 「しっ、してるわよっ!」 「この嘘付きめ」  目を見て、真っ直ぐいってやる。 「俺のこと、ガン見してただろうが」 「うるさい! キミがじろじろ見ていたから、やり返したくなっただけよ!」 「はいはい、そうですかー。ていうか、俺の読んでる姿なんて見ても、つまらねえだろ」  お前のような美しさが、あるわけでもないだろうに。 「……そんなこと、ない」  しおらしく、声を絞って。 「キミの真顔は、とても……良いわ。寝顔の、次くらいに」 「…………」  不意打ちの褒め言葉に、思わず脳みそが揺れた。 「でも、駄目。やっぱりキミがいると、活字に集中できないわ。もう、どうしてくれるのよ……」  何度も何度も読書をしようとしても、つい顔を上げてしまうんだ。 「キミのせいで、あたしの心は揺さぶられっぱなしだわ……」 「だったら」  夜子の邪魔に、なっているというのなら。 「今日は、別々に読書するか。俺も、お前の読書を邪魔したいわけじゃないからな」 「え?」  ソファーから、立ち上がって。 「んじゃ、またあとで」 「えっ、ちょっと、えええ?」  慌てふためく夜子から視線を切って、背を向ける。  いつでもベタベタすることを、夜子が望むとも思えなくて。 「だめ」  とん、と。  背を向けた後ろに、重みを感じた。  柔らかな腕が、回されて。  夜子に抱きしめられたことを、遅れて理解した。 「……キミがいなくなったら、それはそれで集中できなくなる」 「おいおい」  何だこの可愛い女の子は。  強がりは、何処へ行った? 「俺のこと、嫌いなんじゃなかったのか?」 「……き、嫌いっ……だけど!」  真後ろで、夜子はいじける。 「いじわる……」 「参ったな」  胸がドキドキして、たまらなく辛い。  確かにこれでは、全く集中できなくて。 「瑠璃……こっち、向いて」 「……抱きしめられて、動けないんだけど」 「頑張って、こっち向いて」 「わかったよ」  ゆるめてくれる気はないみたいで、何とか身を捩って相対する。  夜子は、既に蕩けた顔をしていた。 「キス」 「……ん」  以前よりも、直接的な言葉で求められ。 「ちゅう、して?」 「喜んで」  小説を手放して、今は愛情の確認をしよう。 「ちゅ……ん……っ!」  じっくりと、触れ合わせた長いキス。 「んー……っ」  相手のことを好きだと想いながら、1秒1秒に愛情を込めて。 「ふ、あぁ……っ」  唇が離れる頃には、すっかり身体が火照ってしまっていた。 「これじゃ、ますます集中できないな」 「……今日は、誰もいなくて」  喉が渇いてくるじゃないか。 「だから、だから……」  もじもじと、夜子は身をすり寄せてきた。 「だから、何?」 「うう……っ! わかってる、くせにぃ!!」  悲痛な声で、訴えてきて。 「エロいことばかり考えてるから、今日は集中できなかったんだな」 「――っ!!!」  今にも泣きそうな表情で俺を睨みつけ、打たれるかな、と思ったが。 「ばか」  手の平ではなく。 「ちゅ」  唇で、不意打ちを食らわされてしまった。 「――っ」  その一挙一動に、心臓は脈動する。  全てを喰らい尽くしたいと、夜子を抱きしめて――それから。 「今日は、あたしがしてあげる」  俺を椅子に座らせて、膝立ちで足の間に顔を埋める夜子。  顔を真赤に染め上げながらも、決意を固めたような表情で凝視していた。 「気持ち悪いわ」 「……いくらなんでもそれはひどい」  しょっぱなから心がへし折れそうになったものの、興奮は冷めやまない。 「びくびくしてるんだけど」  恐る恐る、握って。  視線が、釘付けだ。 「あったかいのね」 「体の一部だからな」 「もう少し可愛らしい見た目をしてたら良かったのに」  ぶつぶつと文句をたれながら、少しずつ握る手が強くなっていく。 「……で? これからどうしたらいいのよ」  上目遣いに、無知を晒して。 「お前の好きにしてみろよ」  高みの見物を、させてもらおうか。 「あ、あたしの好きにって……」  躊躇いながら、握る手をわずかに動かして。 「こ、擦ったらいいのかしら」  ゆっくりと、はれものを扱うような手つき。  あの夜子が俺の性器を握ってると思うと、それだけで興奮してしまうが、表にはそれを出さないようにする。  今は戸惑う夜子を、にやにやと観察させてもらおうか。  「な、なんか違うような気がする……」 「涎、垂らしてみるといい」  少し、欲が出てきて。 「潤滑油の代わりに、使うんだ」 「……なんだか、はしたないわ」 「それがいいんだろ」 「こ、こっち見ないでよ」  小さな口を、真上に持ってきて。  口内の涎を抽出するかのように、一滴、一滴と垂らしていく。 「まどろっこしいわね」  と、地道な行為に業を煮やした夜子は。 「……あむっ」 「なっ!?」  餌に食いつく魚のように、間髪入れず咥え入れた。  突然包み込まれる粘膜に、思わず腰が浮きそうになってしまって。 「ど、どうはひは? ほれふぇいい?」  咥えたまま、もごもごと喋ろうとするけれど。 「よ、夜子、ちょっと、いきなり――!」 「どおへ、んっ…後から咥えはへるふほひふぁったのれしょう? ほれなら一気にした方は、んっ…。恥ずかひくないわ」 「だからって、いきなり過ぎるだろっ!」  心の準備とか、何もできてなかったから。  もう既に、いっぱいいっぱいだ。 「ん、ぷはぁっ……これで、べとべとよ。どう? あたしもやればできるでしょう?」  得意げな台詞だけれど、顔は真っ赤だ。  夜子とて、いきなり咥えたことに恥じらいが遅れてやって来ているらしい。 「……確かに、唾液を絡ませると擦りやすくなったわね」  一度咥えたせいか、触れることに対してためらいがなくなっていた。  どころか、興味深そうに手コキを開始する。 「ちょ、夜子……いきなり、激しすぎだから」  遠慮のない早い手コキは、直ぐに快楽のかなたへ連れ去ろうとしてくる。 「ふんっ、キミはこういうのに興奮しやすいのね。女の子を屈服させたつもりかしら?」  俺の反応が楽しいのか、夜子も饒舌になり始めている。 「気持ち悪い声なんか出して、恥ずかしくないの? あたしだったら、死にたくなるような声ね」 「そ、それは、夜子が激しくするから……!」  一気に咥えられたことで、主導権を握られてしまった。 「まあ、このまま果てられてしまうのも物足りない気がするし」  手の動きは、一時的に停止して。 「もう少し、ゆっくりしてあげましょう」  その言葉とは、裏腹に。  夜子は再び、小さな口を開けて、性器を包み込む。 「はむっ……ん、じゅるるるるるっ……」 「なっ――!」  アイスを舐めるかのように、下を強く絡ませ、吸う。  その行為がとても淫靡な音を立てて、この場を演出していく。 「ん、くっ! じゅるるるっ、んあっ」  吸い付くようなフェラチオは、先程までの躊躇いは一切なかった。 「はぁん……ん、ちゅっ……」  咥えて、吸って、離して、キスをして。 「れろれろっ……ん、んーっ、ちゅ、んちゅっ、はむっ」  亀頭の部分を舐めたり、竿の部分をしごいたり。 「じゅるるる……ん、くっ、んちゅっ、ちゅぱっ……! ふ、ぁっ……!」  かと思えば、再び加えて吸い付いて、それはもう丁寧なご奉仕だった。 「……ぐっ」  もはや、呻くことしか出来なくて。 「もっと、もっと、フェラしてあげる」  ペニスを、優しく優しく刺激して。 「あんっ……んくっ! ちゅ、ううううっ! れろっ、じゅるっ……」  やがて、夜子に連れられて、俺の限界はもうすぐそこまで近付いていた。  それを察知したのか、夜子は少し笑って、さらなる刺激を与えようとする。 「じゅるっ! んちゅうううっ! れろれろれろっ……! んじゅるっ、んちゅっ、んんんんっっ!!」 「夜子、夜子、夜子っ……!」 「ひひよ、ひって」  そして、一際強い吸引を施して。 「んちゅううっ、じゅぼっ、じゅるるるるるるるるっ!!」 「くっ、あっ――!」  強烈な夜子のフェラチオに、俺の性欲は果てを迎えてしまった。 「んっ、んんんんんんんんんっ!!!??」  夜子の口の中で、吐出される多量の精液。 「――けほっ、けほっ、ちょっと、出し過ぎよ……!」  口元から、精液が垂れ落ちる。  その光景が、やけに淫らで、艶かしい。 「悪い、余りにも気持ちよすぎて」 「そ、そりゃそうよ! あたしが珍しく、頑張ってあげたんだから!」  口元の精液に指を伸ばして、感触を確かめている。 「ベトベト……うわぁ、変な匂い……」  その仕草が、とても無垢な少女に見えてしまって。  みるみるうちに、性欲は繰り返しを要求する。 「なあ、夜子」 「わかってるわよ。そんなに自己主張しないで」  興奮冷めやらないペニスを、つんと突っついて。 「だけど今日は、あたしが主導権を握るのよ」  手を引いて、奥の寝室へ連れて行かれる。  そのままベッドに仰向けに寝かされて、俺の上にまたがる夜子。 「キミは為すがまま、気持ちよくなっていればいいの」  それは、所謂騎乗位という姿勢。 「ん、ここ、かしらっ……?」  激しいフェラチオでエンジン全開の夜子は、直ぐに挿入しようとするが、上手く行かなくて。 「ここだよっ!」  位置を迷っていた夜子に、突き上げるように一気に挿入する。 「んあっ――!」  一気に突っ込んでしまって、悲鳴のような矯正を上げるが。 「あ、あたしが導いてあげようと思ったのにっ……!」  真っ赤にさせたままの顔で、切なそうに睨みつける。 「動いちゃ、駄目なんだからね……! 今日はあたしが、頑張るのっ……!」  腰をぎこちなくくねらせて、左右の動きで刺激を与えようとする。  自分で腰を振るのとは違った快感が、頭を駆け巡る。 「んあっ、ほら、どうかしらっ……! 瑠璃のような木偶の坊には、これで十分でしょうっ!?」  だけど腰を動かして主導権を握ろうとしても、自ら気持ちよくなってしまって、それどころではなく。 「あっ、あんっ……! 駄目、上手く、動けないっ……!」  少し動く度、甘い声が出てしまって。 「気持ち、いいのぉっ……!」  直ぐに動けなくなってしまっている。 「濡れまくってるじゃないか。さてはフェラしてる時から、うずいていたんだな?」 「ち、違うからっっ!!」  切なそうな声で否定されても、説得力はない。 「だったら、夜子の性欲を満たしてあげなきゃな」 「だ、だめっ……!」  腰を強く握って、下から強く押し上げる。 「あああんっ!!」  脳まで突き刺さらんと、勢いをつけ。 「やっ! それ、深くて、ダメッ!」  優しい動きではなく、激しい突き上げだ。 「ひぐっ……! あ、あたしが、動く、つもりだったのにぃっ!」  気持ちよくなってしまった夜子は、為すがまま。 「でも、いいのっ、これ、凄いのッ!」  突き上げられる感覚が、とても気に入ってしまったらしい。 「エロエロな文学少女もいたものだ」  腰を、一度引いて。  「やっ、あたしは、えっちじゃないっ!」  しならせてから、大きく突き上げる。 「ん、ああっ!! ふか、いっ!」  突き上げられた夜子の身体は、重力に従って沈む。  意図しないままこすれるような動きになってしまって、快楽は収まることはない。 「夜子、えろすぎ」  膣内は、俺のものを咥えて離そうとはしない。  突き上げても突き上げても、飲み込もうと深々と沈む。 「やあっ、やあっ、やなの、やなのっ……!」  それが重力のせいとは分かっていながら、悶える夜子。 「瑠璃が、動くから悪いのよぉ……!」  快楽に狂わされた夜子の理性は、もうとまらない。 「……もっと、もっと」  切なそうに、小さく乞い願う。 「激しく、突き上げてっ」 「もちろんだ!」  了承を得たからには、気合を入れて動かなきゃな。  腰に手を当てて、動きやすい形を取りながら。 「あんっ、ああっ、ああああっ、や、やあんっ、すごっ、すごひっ、のっ……!」  そこからは、獣のように狂い乱れていく。 「おくまでっ、きてるのっ! 瑠璃のが、深々と、すごひっ!! やっ、あんっ! もっと、もっっ!」  だが、激しさは終わりをより近づけてしまう。  二度目とはいえ、こうまで乱れる夜子を前にして、いつまでも我慢できるはずもなく。 「そろそろ、イくぞっ!」 「んっ! いいよ、きて、きて、きてっ!」  終わりの合図を口にして、最後だからとより深々と動かそう。 「瑠璃っ、瑠璃っ! 瑠璃ぃっ! 気持ちいの、とっても、気持ちいいのっ!」  名前を呼ばれて、更に遠く。 「あたまっ、しろっ……! 真っ白に、なっちゃうのっ! ダメッ……!」 「イくっ!」  そうして、この日、もっとも勢い良く突き上げたその瞬間。 「はぁん――ああああああっ、あああっ、んっ――!」  背筋が反り返った夜子は、激しくイってしまって。  その中へ、大量の白濁液をぶちまけてしまう。 「……ふ、あっ……あっ、ん……」  全力を使い果たした夜子は、そのまま俺に手をついて、うなだれる。 「あっつい……中にいっぱい、どろどろよ……」  射精の感覚に酔いながら、夜子のぬくもりを噛みしめる。 「好きだよ、夜子」 「……ん」  それから夜子は、力なく俺に抱きついてくる。  セックス後の裸の抱擁は、とても優しさに満ちていて、そのまま眠ってしまいそうなほどだったが。  ――お幸せに。  遠くで、金緑石の輝きを見たような。  夜子に似た少女がそこにいたような気がして、とても懐かしいような気持ちになってしまったが。 「気のせいか」  ここには、俺と夜子しかいなくて。  これからも、俺と夜子だけで幸せだ。 「ねえ、瑠璃」  肌と肌を重ねあわせて。  ようやく、素直になれたのだろうか。  夜子は生まれて初めて俺に、こういった。 「愛してる」  それはどんな一言よりも嬉しい、最愛の人からのあいのメッセージ。  「瑠璃のこと、大好きだから」  そして俺は、静かに眠る。  これからの夜子との未来を想像して、ほのかに笑いながら。  別れて、出会って、恋をして。  開いて、閉じて、願ったりして。  訪れた幸せの背景には何があったのか、あなたは知ることはないのでしょう。   この結末に、悲しみを覚えている人は一人もいません。  この私にしても、あなたが前を向いて生きてくれることに嬉しさを覚えているのですから。  夜子さんと結ばれて、本当に良かった。  けど。  確かに、誰も悲しみを覚えてはいませんが。  しかし、誰かは満たされていないのです。  あなたが目を逸らした箱の中身には、一体何が隠されていたのでしょうね。  それを咎めるようなことはしませんし、これは最善だったのかもしれませんが――最良ではなかったということです。  さようなら、瑠璃。  二度と、会うことはないでしょう。  私から、二人に送る最後の言葉。  ――台本上の幸せから、どうか覚めないで。  何も知らないまま、いつまでも恋していられますように。  = YORUKO END =