場面跳ばし機能を使用しますか?  振り下ろす一閃――  分類上、それは斬り伏せるという行為に属すが、及ぼす効果は砕き散らす爆発に等しい。刃物による攻撃なので斬撃と言える。などとは到底形容できぬ激烈な猛撃だった。  ゆえに、弾き返したその一閃も同じく爆撃。およそ鋼と鋼が噛み合うものとは思えぬ轟音を響かせて、大気が断末魔の絶叫をあげている。 「はッ―――」  伝播する衝撃に四肢を震わせ、初手の一刀を放った側はこの事態を歓迎していた。  己の攻撃、己の牙、それを真っ向受け止めて撥ね返した存在に、満腔の喜びを向けている。呆れと怒りと微量の驚愕が混じっているが、総て喜悦の亜種に他ならない。  そう、こんな嬉しいことが何処にある。己に触れても易々壊れぬ存在とは、ただそれだけで愛おしいと。 「失敗、だったか。悪ぃな、実際舐めてたよ」  男の業は人の範疇を超えている。手にした得物を標的目掛け、力任せに叩きつけたというだけのことだが、速さと膂力が魔性の域だ。ゆえに武器が耐えられない。  失敗とはそれ。蟻を相手に本気を出すなど無粋の極みと思っていたこと。  しかし、現実の敵は獅子だった。これでは逆に、真価を発揮できないことこそ遺憾である。 「まあ、いざとなりゃあ素手っていうのも有りだよな。あと何発保つか知らねえが……」  軋みあげる刀の精。一般には名刀と呼ばれる類だが、男にとっては〈鈍刀〉《ナマクラ》である。  何の法儀式も特殊な鍛造も施していない、時代が下れば文化財にはなるだろうという程度の代物。人外に足を踏み入れた者同士の戦いには、言うまでもなく不足している。  だから、〈刀〉《これ》が死ねば殴り合おう。きっとその方が面白い。  口角を吊り上げ、牙を剥き、凶猛な笑みを浮かべて男は言った。声はもはや、餓獣の唸りにしか聞こえない。  酷烈な主によって塵同然に使い捨てられる刀の嘆き……そんなものを〈斟酌〉《しんしゃく》してやる感傷など、この男には微塵もなかった。  道具はただ道具として、すり潰されるまで働けばいい。友だの情人だの兄弟だのと、ワケの分からぬ想いを込めて、凶器を擬人化したところで意味などないと冷酷なまでに弁えている。  死地において、いいや〈行住坐臥〉《ぎょうじゅうざが》総てにおいて、己以外の何かに縋るのは狂気の沙汰だ。天下にただ一人である自分を除き、そも何を信仰しろと言うのだろう。  それがこの時代、この世界における〈共通常識〉《あたりまえ》。誰もが己を神と崇め、絶対と信じる自己の〈姿〉《りそう》にのみ順じている。他者への敬意や友情、愛などは、つまるところ素晴らしき我を彩る風流にすぎない。  ゆえに―― 「ああ、同感だわ。俺もおまえを舐めてたよ」  対峙するこの彼も、そこはまったくの同類だった。得物が耐え切れず悲鳴をあげていることも、その事態を引き起こした敵手の強さも、総て己を演出する風流としか見ていない。 「けどなあ、せっかく華の都で立ち回るんだ。ちっとは型ァ重視した艶を出そうぜ。分かるだろ」  己を良い気分にさせ輝かせること。彼らにとって価値ある者とは、そうした存在に帰結する。 「殴り合う? やめてくれよ、美しくない」 「お互い見立ての甘かった馬鹿同士。条件五分だぜ、こうなりゃいけるとこまでいってみようや」  そして、だからこそ、彼らから見る他者の評価は極端な乱高下を繰り返す。僅かでも不快な真似をした瞬間に、至高の宝石がただの石くれへと変わるのだ。  無論、逆もまた然りだが、ともかくこの場で言えることは一つだけ。 「ふふ、ふふふふふ……」 「はは、ははははは……」  双方噛み合っているうちは、極上の桃源郷に身をおける事実。ならばそれに沿う限り、迷いも恐れもありはしない。 「いいぞ、乗ったぜ。面白ぇ」 「つまり、あれだな? 〈士〉《サムライ》たらいう、頭あったけえ花道演出してみようやと」 「もともとそういう興行だろうが。こりゃ名目上、〈益荒男〉《ますらお》募るってもんじゃねえのかよ」 「なら、それっぽくいってみようや。御前らしくよ、撃剣かましてみようじゃねえの。これを軍記に残るような晴れ舞台に」 「出来たら、なあ、最っ高にいかしてんじゃねえのか、俺たちは」  〈天〉《かみ》を知らぬ。〈地〉《みち》を知らぬ。死後の浄土も奈落も何も、概念自体存在せぬからこの生にのみ総てを欲する。  普遍的信仰というものが何処にもない無道の世。後に天狗道と定義される、魔界の理がそれであった。 「軍記に残る、ねえ……」  己が燦然と輝くためなら、親兄弟はもちろんのこと自分自身すら焼き尽くすことに躊躇しない。  これより始まる一世一代の大戦争。神州の半分を奪い返す東征に先駆ける狼煙として。  数十万の兵どもを鼓舞する益荒男――士道の華を演じてみるのも、なるほど、なかなか悪くはないと。  芝居がかった抑揚で。 しかしこの上なく真摯に、苛烈に、容赦なく―― 「いざ尋常に――」 「――勝負しようかァッ!」  今、ここに餓獣が二匹、その自己愛を爆発させる。  合意は成された。もはや会話は一切不要。  俺が輝くためにおまえは死ねと――両者は千年の朋友を抱きしめるかのように激突した。  乱れ飛ぶ火花。吹き荒ぶ暴風。常人には視認どころか、音を正確に聴き取ることさえ出来ないだろう。  両者の剣速、体捌きは、共に常軌を逸している。真っ当な動体視力で捉えられるものではないし、剣戟の轟音は大気の爆発によって掻き消されるのだ。  その様は、言わば雷光。稲妻に乗った魔性同士のぶつかり合い。他者が介入できるものではないし、触れようものなら微塵に砕かれる鋼の嵐だ。  事実、互いの剣が唸るたび、発生する衝撃波が四方に弾け、爆ぜている。未だ刃は肉に届いていないというのに、二人の皮膚が、衣が、裂けていくのだ。  後退は共にない。ネジを外していると言うよりは、初めから付いていないと見るべきだろう。両者の気質と戦い方は、戦慄を通り越して滑稽なほど似通っていた。  薙ぎ払う一閃。抉り貫く一刺し。叩き割って両断どころか、四散させようという打ち下ろし。そのどれもが達人域の冴えである。  しかし、それでありながら、徹底的に型を無視した変則だ。順手、逆手は無論のこと、時には投擲さえ混ざるほどに掴みが千変万化しながらも、奇術のように柄が手の平から離れない。  有り得ぬ角度と機の連続は野生の獣そのもので、にも拘らず技の連絡自体は呆れるほどに流麗だった。基本を熟知し、かつそれを飛び越えるのが巧者の術理とするならば、この二人は共に同じ結論へと至ったらしい。  すなわち、技は力の中にあり。  膂力、握力、反応速度に、それらを支える耐久力――土台となる身体性能を最重要視した上で、だからこそ可能な技を突き詰めている。  柔よく剛を制すではなく、剛よく柔を断つでもない。  〈剛〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈柔〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈至〉《 、》〈高〉《 、》。  その答えに、異を挿ませない。挿める者などいないだろうと言えるほどに、彼らの戦闘技術は極まっていた。  強いて言うなら前述の通り、真っ当な武器では使用に耐えられないということだろうが……  嵐は血を巻き、真紅と化して、なお一層その激しさを増していく。  すでに二人の得物は砕ける寸前。如何な業物であろうとも、人が使うことを前提にしている以上は限界がある。  だが、あと一歩というところで両者の剣は壊れない。加減をしているわけではないし、刃の衝突を避けているわけでもないというのに。 「ああ……」  なるほど、つまりそういうことかと、ただ一人の観客として彼らを見守る少女は思った。  この者らは、命を懸けて遊んでいるのだ。  先に言っていた、あくまで撃剣を演じるという言葉通りに。  最初の一合を交えたとき、互いの得物がどこまで保つかを悟ったはず。相手の力量も察したはず。  そこから逆算し、絵図を描き、終局までの手を総て瞬時に決めたのだろう。あとはそれに倣うだけの、言わば約束組み手と変わらない。  恐るべきは、その思考的瞬発力より、導き出した流れに双方まったく差異がないこと。相手がどう攻め、どう受けるか、初対面にも拘らず完璧に読んでいるのだ。  驚異の〈慧眼〉《けいがん》。そして異常な信頼と言えるだろう。己以外を一切信じていないくせに、いや、だからこそと言うべきなのか。俺の目に狂いはない。俺が見込んだおまえなら、天地が砕けようとそれくらいはやるだろうと……  一手読みを誤れば、即致命となる剣舞に喜々として興じているのだ。  そんな信頼、なんて歪な…… 「馬鹿どもが……」  理解できない。理解できないがゆえに認めたくない。  常と異常の線引きを支持者の数で行うなら、異端はむしろ自分のほうだと分かっている。この世の当たり前たる価値観から、漏れているのは己なのだと知っている。  だがどうしても、少女はどうしても彼らが正しき人間だとは思えない。それを認めることに抵抗がある。  己よりも大事なものがなぜ存在しない。純粋に他者を想い、誰かのために何かをしてやりたいという気をなぜ持てない。  つまるところ彼らの情など、水面に映った自分を見ているだけではないか。  そんな醜く、愚かな性で…… 「なぜこれほど、形ばかりとはいえ信頼を実現することが出来るのだ」 「私はおまえ達ほど、他者を信じたことも信じられたこともないというのに」 「はああァァァッ―――」 「おおおォォォッ―――」  裂帛の気合い。弾ける轟音。終局はもう間近。  ここまで完璧に互いの手を読みあっていた彼らだが、決着にだけは差異が生じる。  すなわち、俺こそ至高。それを絶対の法則として信ずるゆえに、己が勝利を疑わない。  俺はあと一撃だけ保つように打ってきた。  しかし奴の得物はこの一撃で砕け散る。  双方、微塵の疑いもなくそう信じているからこそ、終局の一手に防御はない。  今、彼らが思い描いている様は、己の剣が相手を切り裂き、相手の剣は己を断てずに粉砕されるという光景だろう。  だが、実際はどうなのか。少女は確信をもってこう思う。  ここまで伯仲している二人の勝負だ、どちらか一方だけが読み誤るなど有り得ない。  ゆえに答えは、双方読みきって読み誤る。  すなわち共に斬られる相討ちか、共に武器が砕ける引き分けか。  どちらに転ぶか分からないが、間違いなくそうなるだろうことが分かっていて……  その結果がもたらすものは、つまり彼らが相手を信じぬいたという事実。  少なくとも形だけは、そのようなものとなって世に残る現実。  誰が何と言おうとも、そう捉えてしまうことを少女自身が否定できない。  だから…… 「やめろ……」  呪うように、縋るように、少女は軋る声を絞り出す。 「おまえ達は、間違っている……!」  溢れ出る憤激の波と共に、叫びあげたい己を止められない。 「絶対に、絶対に、絶対に、絶対に……」 「御前を、〈御稜威〉《みいつ》を、誇りを、国を……」 「そんな歪んだ血と思想に染めるなど――」 「許さん、汚すな! 貴様らは下郎だッ!」 「益荒男などでは断じてないッ!」  だが、叫びを無視して、共に振り下ろされる最後の一刀。 「やめろおおォォォッ――――!」  その、結末は…… 「ああああああぁぁッ―――」  絶叫と共に目を明ければ、そこは見知った自室だった。 「は、ぁ……ぁ……」 「今、のは……」  喘ぐような声と共に、胸を押さえて周囲を見回す。  広すぎて落ち着かぬと文句を言い、強引に部屋替えをさせてから以来数年……今や畳の編み目すら記憶している、天下でただ一つ安息に浸ることを許された自分の聖域。  のはずだったが、そこに異分子の侵入を許してしまった。遺憾と言うか、不覚である。 「夢、か……」  それも悪夢。とびきりに嫌な悪夢。寝汗で髪と着物が肌に貼り付く。気持ちが悪い。  その不快さに呻きながら、少女は苛立ちに眉を顰めて呟いた。 「冗談では、ない」  なぜこんな気分を味わわねばならないのだ。臆病な町娘でもあるまいに、夢でうなされるなど屈辱だと。  まして、先見たあれはガラクタではない。まず間違いなく正夢になることを、彼女はよく知っている。  であれば、つまり、脅威に感じている未来に対し、精神が悲鳴をあげているということなのか。それを避けたい、見たくないと、自分自身に訴えかけている本音なのか? 「馬鹿馬鹿しい」  恐れてなどいないし、逃避も論外。不愉快な催しだとは思っているが、もとより公務とはそういうものだ。この世の諸々は少女にとって、ほぼ例外なく度し難いうえに汚らわしい。  だが、だからといって殻に篭ってもいられないだろう。現状に不満があるなら立ち向かわねばならない。彼女はそうした責任を負っている。  問題は、そうした違和を抱えているのがどうも自分くらいしかいないということなのだが…… 「結局私も、要は己か」  自嘲して、溜息をつく。この世のあり方、価値観が、歪んでいるように思えて仕方ない。ゆえにそれを正したいと常々思うが、他の者らは何ら疑問に思ってないのだ。これでは空回りというものだろう。 「私が心安くなるためだけに、こんな感情を振り回しているのなら、しょせん同じ穴の狢だな」 「しかし、どうしても認められん。毎度ながら、堂々巡り……」 「まったく、こんな様で何が……」 「竜胆様」 「お目覚めになられましたか? 〈朝餉〉《あさげ》の用意が出来ております」 「―――――」  障子の向こうから掛けられる、控え目な侍女の声で我に返った。それで気を切り替えて、〈久雅竜胆〉《こがりんどう》――この国における武門の長たる家の姫――は、その立場に相応しい凛とした声音で応じた。 「分かった。だが先に湯浴みをする。朝餉の後は、〈中院〉《なかのいん》か?」 「は、その予定でしたが、〈御門〉《みかど》のご当主様が参られております」 「なに?」  その名を聞いて、竜胆の目が僅かに細まる。声も若干険を帯びた。それに恐縮したような侍女の気配。 「なんだ、またぞろ私に説教でもしにきたか」 「いえ、ただ、来たる御前試合についてとのこと」 「つまり、そういうことであろう。しかし早いな。ろくに食事をする暇もない」 「すまぬが、〈龍明〉《りゅうめい》殿の膳も用意してくれ。どうせあの方も、朝餉は摂っておらぬだろうし。話は食いながらでも出来る」 「ですが竜胆様、そのような……」 「構わぬ。今さら礼法を気に掛けるような仲でもない。そもそも無粋なのはあちらであろうが」  事前になんの断りもなく、このような早朝から面会を求めるなど無礼を通り越している。ならば応じる代わりにこちらも相応の対処をするだけ。  些か大人気ないきらいもあるが、別に構わないと思っているのだろう。言ったように、そうした付き合いが許容される仲なのかもしれない。 「まず、言ったように私は風呂だ。龍明殿は待たせておけよ。心配するな、半刻もかけん」 「かしこまりました」 「ああ。では、さて……」  去っていく侍女の気配を見送って、乱れた髪を掻きあげる竜胆。心なしか楽しげに独りごちる。 「私が揺れているときに限って、狙ったように現れる」 「あの怪物め、屋敷に式でも放っているのではないか」  そんな悪態を吐きながらも、口調は軽い。  やはりその客人は彼女にとって、数少ない懇意な人物であるようだ。  ここに建国の伝説がある。  今は昔、そうとしか形容できない遥かな過去の日、この世は異形の者らが跋扈していた。  何をもって異形とするかは諸説入り乱れて不明だが、早い話が今現在の常識では理解できないモノらの総称。まさしく見たことも聞いたこともない法理が存在していたということらしい。  それが、始祖によって討伐される。異形の法は一掃され、世は塗り替えられて今に至った。これを公正に分析するなら、渡来人による先住民への侵略戦争。要はそうしたものに違いあるまい。  英雄が悪鬼を斃して平和を築いた……などと、聞こえのいい歴史を妄信するほど、もはや素朴で未発達な文明ではなくなっている。  いらぬ幻想を排除して、現実と伝説の虚実を弁えられる程度には人も文化も成熟していた。そしてだからこそ、自分たちが侵略者の系譜であることに負い目を抱く者も存在しない。  誰しも今の生活があり、立場があり、それを自己の〈常識〉《せかい》として認識している。遠い祖先の行状など、知ったことではないというのが当たり前の反応だろう。  これは正邪を論ずる次元の問題ではないのだから。人に限らず、万物自然淘汰の理とはそういうもので、早い話が栄枯盛衰。繁栄があれば衰退があり、誕生があれば死も存在する。  湖の暮らしに慣れた鯉が、そこはもともと鰐のものだったのだから海に戻せと言われても困るだろう。つまり要はそういうことで、口さがない言い方をすれば勝者の論理というやつだ。  そして敗者……奪われ、追われた鰐の名を〈化外〉《けがい》という。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』 『因改号其邑曰葛城』  建国の伝説……それを記した書物にはそうした一節が存在し、これが葦原中津という国家の起源として認識されているのが現状だ。  その原典は誰の手によるものか分からない。昨今ではそれを探るのが学術の徒たちの間で流行らしいが、おそらく答えは出ないだろう。  重要なのは、そこに記されている征服の歴史。曰く土蜘蛛討伐という名の戦いである。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』――かつて土蜘蛛と呼ばれるモノらがおり、その様は異形にして卑しく汚らわしい存在だった。 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』――よって、〈皇〉《すめらぎ》の軍勢がこれを捕らえ、責め苛んで誅戮……すなわち殺害する。 『因改号其邑曰葛城』――この覇業により世は平定され、土蜘蛛が生きた地を我が物として塗り替えた。  要約すればそういうこと。筆者の趣味か、何かの揶揄か。ひたすら長大で回りくどい内容の書であるが、建国の起源を語るならばこの三項目で片がつく。  つまり侵略、虐殺、旧世界の抹消。  哀れなる土蜘蛛は、まつろわぬ化外の民として排されたというただ一点。  無論、言ったように、そのことを指して我らは外道だと悔いる者など一人もいない。  すでに海は湖となり、幾らかの不都合を抱えながらも皆その水に適応している。今さら鰐のために泣く鯉は、天下に存在しないのだ。  海を隔てた諸外国でも、そこは同じ。  何処も似たような伝説があり、似たような歴史を辿っている。それが世の習いというもので、おかしなことは何もない。  現存する総ての国家は、みな化外を斃した過去を持つのだ。各々の文化的背景により、それが竜であったり蛇であったり、あるいは蜘蛛であったりと様々だが、異種討伐の果てに今があるということは変わらない。  ゆえに大事なのは現実で、もはやこの世に彼らが生きる場所など在りはしないという事実。  化外は旧世界の遺物であり、別法理の亡霊。鰐にとっての楽園は、鯉にとっての毒でしかない。  湖に塩は不要。それが混ざれば必然として戦が生じる。  たとえば、今。  この中津国……〈秀真〉《ほつま》を都とする神州が、世界で唯一そうした均衡の上にあるように。  ことの起こりは、三百年ほど前になる。  諸将が天子の奉戴を競い合い、領土拡張の戦に明け暮れていた動乱の時代。  当時、彼らが認識していた神州は、西半分が総てであった。いや、正しく言えば東半分が不明だった。  その原因は、〈近淡海〉《ちかつあわうみ》。  国土の中央に穴を穿つ、巨大な〈断崖〉《うみ》の存在である。  濃霧に包まれたこれを越えることが長らく出来ず、その先にある領域を確認することが不可能だった。  外海もまた荒れており、やはり同様に踏破不可能。まるで侵入を拒んでいるかのような自然だったが、結果としてここより先には何もないと、そう誤認させるだけの条件はそろっていたのだ。  有るか無きか分からぬものを、命懸けで確認しようとする者などそういない。  いたとしてもそれには技術と資金が必要で、権力者がその気にならねば実現できないことだった。  そう、権力者。  当時、群雄が奉戴を競い合っていた天子その人。  国の実権からはとうに離れていたものの、武家の総ては名目上、残らず皇主陛下の臣である。名分を何よりも重んじるこの国の気風に照らせば、より強固な形で忠を示した者こそが玉を握れる。その論理展開は自明であったと言えるだろう。  ゆえに、ここで求められるのは英雄譚。 建国の伝説たる、東征である。  上洛を果たし、天子を抱えたのは竜胆紋。武家の最大勢力であった久雅家だが、もはやそれだけではこの乱世にけりは着かない。  東へ。勅命を帯びて東へ攻める、征夷の将とならねばならない。  逆に言えば、久雅に先んじて東を征することにより、一手遅れた者達の巻き返しも可能になる。  後はもはや、説明不要というものだろう。  戦乱があらゆる技術を進歩させるということは、言うまでもなく常識だ。  百年続いた乱世の果て、当時の極限にまで達していた技術の粋は、ついに天嶮を越えるに至る。  だが――淡海の先に待っていたのは栄光でなく、異形そのものとの邂逅だった。  久雅を筆頭とする有力武家。総勢二十万を超える西軍は、東の軍勢によって大敗する。それは人知を超えたものであり、常軌を逸する魔であったという。  曰く、死者が骸のまま動きだした。  曰く、鎧も刀槍も腐り落ちた。  曰く、炎と〈雷〉《イカヅチ》の風に蹂躙された。  神州の東には妖異が棲む。土蜘蛛、鬼神、まつろわぬ化外の国。  〈穢土〉《えど》と名付けられた地に君臨する八柱の大天魔は、こう呼ばれた。  〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》。  すなわち〈悪路〉《あくろ》、〈母禮〉《もれい》、〈奴奈比売〉《ぬまひめ》、〈宿儺〉《すくな》、〈紅葉〉《もみじ》、〈常世〉《とこよ》、〈大獄〉《おおたけ》、〈夜刀〉《やと》。  潰走した東征軍で、西の人界に帰りつけた者はごく僅かだったという。  東の鬼どもは追撃をしてこなかったが、一度境界を踏み越えた影響か、後の西側には異能を持った者らが生まれ始める。  それは呪いであり、毒であろうか。堤防をこじ開けたことで、湖に塩が混じりだしたということなのか。  真相は分からない。  だが、だからこそ――  屈辱の敗戦より、三百年を経た今だからこそ―― 「化外は排除せねばならない」  鉄芯を呑んだように揺るぎなく強い声が、それこそ絶対の方針なのだと告げていた。 「〈御国〉《みくに》の開闢より今この時まで、奴らは存在し続けている。国土の東半を異形の領域にさせたままなど、武門の名折れであろう、烏帽子殿」  口調に一切の抑揚を混ぜず、率直すぎる言を述べたのは妙齢の美女だった。  〈御門龍明〉《みかどりゅうめい》――この国において、あらゆる術師を統べる言わば裏の総帥である。  武の頂点である五つの将家。 すなわち久雅を核とする〈中院〉《なかのいん》、〈六条〉《ろくじょう》、〈岩倉〉《いわくら》、〈千種〉《ちぐさ》と同じく、国家鎮守を担う両輪の片側と言っていい。  烏帽子とは、そうした立場の長として、昇殿を許された久雅の当主に対する敬称だ。もとより高位の貴人は名を秘すもので、みだりに呼ぶことは許されない。  竜胆というのも、五将の連合である武の象徴、五つ竜胆車を指している号にすぎない。呪いの的にならぬよう、彼女の名は厳重に隠匿されている。殿上人にとっては当たり前の自衛であり権利であろう。 「私は別に、戦そのものを否定しているわけではないよ龍明殿」 「ただ、な。悪趣味を悪趣味と言っているだけだ」  そうした立場をことさら強調するでもなく、淡々とした口調で答える竜胆。対面に座す龍明は礼則の教本にそのまま載せられるほど姿勢を正して不動だが、別に畏まっているわけではない。  これがこの女性にとっての日常的な態度なのだ。慇懃無礼と評せば分かりやすい。 「つまり、武門の長たる身でありながら血がお嫌いと?」 「無駄な流血ならばな。好まないよ、当たり前だろう」 「この時期、〈御〉《 、》〈前〉《 、》〈死〉《 、》〈合〉《 、》など戯けている。陛下は神楽の生贄だとでも仰るつもりか」  そう言って、視線をあげる。声音はやはり抑えたものだが、先とは異なり内心の憤りが滲み出ていた。 「あなたにとっても、これは他人事ではないはずだ。化外を滅ぼす? ああそれについては異論などない。もとより我らの役目はそのためにある」 「だが、その先駆けとして、なぜ同胞同士殺し合わねばならん。まして御前における武芸の上覧を許されるほどの者達だ。最低でもその半数を失うなど、有り体に言って惜しい。ゆえに馬鹿げている、度し難い」 「あなたはそう思わぬのか、龍明殿」 「無論、思う。だがこれも勝利のためと心得られよ」 「それはどういう――」 「まあ、聞かれるがよい。今日はそのために参ったのだ」  手をあげて竜胆を制し、宥めるように声の調子を和らげる。まるで子に対する親を思わせる態度だったが、二人の関係は事実それに極めて近い。 「烏帽子殿、初めてお会いしてから何年が経ったかな」 「……十五年だが、それがいったい?」 「そう、十五年になる。当時の御身は三つか四つであったかな。よく覚えているよ」 「……私も、当然覚えている」  と言うより、現在進行形で痛感している。そう胸中で呟きつつ、竜胆は言った。 「流石は御門のご当主殿。これは化生の者に違いない。歳をまったく取らぬとね」 「若作りが上手いだけだが。ともかく今、それは関係ない話」  記録上、八十に届こうかという歳のはずだが、軽く五十年は若く見えるのが御門龍明の不可思議だ。しかしそんなことはどうでもいいと、妖しの術師は含み笑って言葉を継いだ。 「私は先代の烏帽子殿、すなわち御身のお父上から後見役を頼まれた。あの方は御内儀共々病弱であったからね。どうか竜胆を守ってくれと。このままでは他の四家に久雅の家は潰されると」 「結果、まあ、些か利かん気な姫君にお育ち遊ばされたのは不徳のいたすところと猛省するが、友の遺言は概ね守ってこれたと思う。武も、教養も、ご立派になられた」 「それで?」 「世辞を言いたいわけではないだろう。あなたは話をもったいぶる悪い癖がある」 「これは失礼。そうしたところはおそらく師の影響でね。昔は毛嫌いしていた相手なのだが、困ったことに歳を取ると似てくるらしい。我ながら痛恨と言わざるをえない」 「だが、改める気もないのだろう」 「然り。よく分かっておいでだ。嬉しい限り」 「では、そう、一つ訊かせてもらおう。今現在の我が国が直面している難事について、御身はどう捉えておられるのか」 「…………」 「私の意見は、論と理をもって述べさせてもらおう。ゆえその前に、御身がどの程度事態を認識しているのか知る必要がある。そう嫌な顔をされるな」 「私は教育係でもあるのだから、その一環と思われればよい。物事を順序だてていくのは大事なことだ」 「これもまた、将には必要な資質なれば」 「……分かった」  正直、面倒どころの話ではないが、抗議は暖簾に腕押しというものだろう。竜胆は観念した。 「では……」  まず、最大の難事と言えば決まっている。 「あなたも言ったように、東の化外、蜘蛛どもだ。あれが天下に在る限り、我らは無能の誹りを免れない」 「それは我々の面子に関わる話であって、国家の難事とするには些か弱いな。事実奴らはこの三百年、先の大戦から一切姿を見せていない。引き篭もっている」 「まだ話は途中だ」 「ほぅ、ならば?」 「決まっているだろう、歪みだ」  つまり、目に見えぬ〈陰〉《かげ》の流入。汚染のことだと、苦々しげに吐き捨てた。 「三百年前の東征に敗れたことで、良くも悪くも乱世は終わった。武家の大半が潰れたのだから、続行不可能になったと言ったほうが正しいが」 「ともかくそうした経緯によって、陛下を中心にした今の体制が確立したのだ。国を〈鎖〉《とざ》し、弱みを外に知られぬよう、隠匿しつつ回復を図る」 「だが、それも時間切れが近い」 「あちら側から流れ込む陰気とやら、蜘蛛がこちらに直接関わってこなくとも、奴らの吐く息は毒でしかない。一度境界を踏み越えたことで、それが人界を侵している」 「特に昨今、歪みを身に宿す者どもが増えているというではないか。この目で実際に見てはいないが、噂だけは耳に入るし誇張でもあるまい」 「国家の〈基〉《もとい》を危うくするほど、剣呑な歪みが生まれだした。ならば病の源を絶たねばならない」 「今がまさに、その分水嶺だと聞いている。そこはあなたのほうが詳しいのではないか?」 「確かに」  御門龍明は術師の頭領。いわゆる異能と呼ばれる者たちは、彼女の監視下に置かれている。  厳密に言えば呪術と異能は別であり、一括りにされるものではない。  前者は習い覚える技術にすぎず、分類的には武術や学問と同じものだ。出来ることと出来ないことが存在し、この世の理に則ったもの。単に説明のつく力と言い換えてもいい。  対して後者、異能とは、説明のつかない超常である。世の理を無視した現象、すなわち歪み。異界の法則。  本来まったく別種なのだが、物質主義の武門よりは御門のほうが異能に近い。  そうした事実を踏まえた上で、今が分水嶺だと竜胆は言い、龍明はその通りだと頷いた。  つまり。 「歪みが戦力として機能し得るギリギリの天秤。実際、彼らが蜘蛛を斃すのに効果的な武器となることは疑いようもない。元はあちらの力なのだから」 「さしずめ、〈屏〉《 、》〈風〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈虎〉《 、》〈を〉《 、》〈斃〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈力〉《 、》か。異能はそういうものだと聞いている」 「だがこれ以上汚染が進めば、獅子身中の虫にしかならん。我らの世界は、内から腸を喰い破られる羽目になる。ゆえに今やるしかない」 「これがまあ、私の認識している最大の難事だ。化外を一掃しなければ国が滅ぶ」 「他には?」  まだあるだろう、と意地悪く笑う龍明に、竜胆は苦りきった顔で小さく呻いた。どうやらあまり口にしたくないことらしい。 「……決まっている、黒船だ。威丈高に開国を迫る異人ども」 「先の汚染が内憂ならば、これは外患にあたること」  いわゆる、悪いことは連続するというやつだろう。それを単なる偶然とは言い切れない。  弱っている生き物は、単に狙われやすいという自然の摂理だ。山犬はそうした嗅覚に長けており、当たり前だが執拗に追い詰めてくるものだから。 「今、国を開くなど論外だ。そんな真似をしたら最後、御国は嘲笑の的だろう。異人どもは嵩にかかって攻めるはずだ。未だに国一つ平定できぬ土人めとな」 「奴らは、自国の化外をとうに滅ぼしているのだから」  遅れた社会と蔑まれても仕方なく、事実こちらも劣等感を抱えている。これでは対等の関係など、到底望むべくもない。 「かといって、頑なに鎖国を続けても意味がない。我らは三百年前に天嶮を越えているのだから、今の異人どもなら容易に東地へ至るだろう」 「結果、予想できるのは泥沼の奪い合いだ。今まで隠し通せたのが、むしろ奇跡に近いと言える。もはや世界は狭い時代になった」 「だから――」 「そう、速やかに、我らの手で、東征を成し遂げなければならない。開国云々、異人云々、それらは残らずその後だ」  竜胆の後を引き継ぎ、龍明はそう断言する。実際のところその意見が、現状における大勢を占めているのだ。  反対意見は無論ある。列強の脅威を前にして、いたずらに国力を低下させるだけだというのも確かに然り。否定できないことだろう。  しかし、異人と手を組んでの東征というのは有り得ない。よほど上手く立ち回って理想的な同盟を築き、勝利しても、待っているのは東地の領土割譲だろう。それを許すのは弱腰であり、認めてしまえば禍根を残す。早い話が舐められる。  庇を貸して母屋を取られるの喩え通り、外異に対して譲歩するのは危険なのだ。一を許せば十も二十も要求してくるに違いない。  そしてそういう事態になったとき、自力で平定を成せなかった事実が誇りを挫く。奮い立つための気力を削ぐ。牙に自信を持てなくなれば犬となり、首輪を甘受する羽目になるだけ。  ゆえに、まずは独力による東夷征伐。尻に火がついている今だからこそやるしかない。先ほど竜胆が言ったように、もはや穴熊を決め込んでいられる情勢ではないのだから。 「ひとまず丁重にお帰りいただくことには成功したが、〈黒船〉《ぺるり》殿は中々の人物だ。これで終わりとはいかぬだろう」 「まず間違いなく数年の内、早くて一年、遅くとも二年か三年、その間に再度やってこられるはず。おそらく東地の存在にも気付いておられるに違いない」 「次回は、陛下に親書を渡すだけとはいかぬだろうな。それであっさり引き下がったところからも、すでに今頃、一足先に蜘蛛と接触している可能性もある」 「いっそのこと、それで滅ぼされてくれれば嬉しいが」 「私もそう思っているよ、烏帽子殿。だがその場合、何にせよ戦だな。あちらは我々がやったと信じる。再度の来航はもはや防ぎようもない」 「……ふむ、しかし整理すればするほどに、なんとも最悪な状況だ。気鬱の病にかかりそうだよ」 「自らその話をさせて今さら何を」 「それで、龍明殿。結局何が言いたいのだ。私の疑問には未だ答えを貰っていない」  つまりこの時期、この逼迫した状況下で、否応ない戦に踏み切る前だというのに―― 「一月後に執り行われる御前試合。来たる東征に先駆けて兵を鼓舞し、尚武の心を取り戻すべく益荒男を募る撃剣の神楽」 「それを、真剣による死合とするなど有り得んだろう。先も言ったが、士の損失だ。いったい誰が――」 「陛下にいらぬことを吹き込んだのかと? 他ならぬ私だよ」  何ら悪びれもせず当たり前のように言われたため、竜胆は一瞬意味を判じかねた。 「なっ――、え……はあ?」 「だから、私の発案だ。その反応は愛らしいが、些かはしたないぞ烏帽子殿。久雅の鬼姫ともあろう方が、人前で大口など開けるものではない」 「な、な……だけど、あなたは……いや、あなただって……」 「ああ、もしかして本人から聞かれたか。ならばその通り、私の娘も上覧の栄誉を授かった」 「未だ嘴の黄色い雛にすぎんが、〈義母〉《はは》としては恐悦至極と思っているよ」 「――龍明殿!」  知らず声を荒げていた。それはある種の失望に対する憤激だったと言っていい。 「結局、あなたも同じなのか……!」  この国に生きる者らは、皆一様に自分のことしか考えない。要は己を輝かせるということにのみ執心している。  その観測者もやはり己。つまるところ、自分が自分を愛するためなら何でもやるのだ。  竜胆の父は龍明に後見を頼んだが、それは武門の長たる久雅の当主としての『己』を守るためであり、娘の将来を純粋に案じていたわけでは断じてない。  身体弱く、男子も成せず、自分の代で家を潰すという恥辱に耐えかねただけである。他の四家が介入してくるのを防ぐため、御門の一門に庇護を願った。そして結果、功を奏した。  ゆえに最低限の格好はつけたと、勝手に満足して逝っただろう。行為がどのようなものであろうが、動機は利己で、利他ではない。  仮に、恋人を守って死んだ男がいたとする。  しかし彼の本音はこういうものだ。  〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈方〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  そして、守られた女の本音はこういうものだ。  〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈涙〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  あくまでも我。どこまでも自己愛。突き詰めれば他者を必要としておらず、愛や信頼という概念自体がただの装飾品と変わらない。  ゆえに、喪失や裏切りを体験しても真実のところでは平気なのだ。唯一無二かつ絶対である己が存在すればそれでよく、そうした考えがこの世における当たり前。  だが竜胆には、そのことが汚らわしく見えてしょうがない。 「娘が武芸上覧の栄に浴せば、どうなろうと知ったことではないとでも?」 「否定は出来ぬね。そも東征に参加するという時点で、身の安全も何もない」 「要は戦。殺し合いだ。その本質も理解せぬまま、お遊戯で勘違いされても困るだろう。皆の規範として、益荒男かくあるべしという栄誉を賜るのが御前なら、命で魅せるのが華というもの」 「そんな程度も懸かっていないじゃれ合いで、いったい何処の誰を鼓舞できると? 仲間同士、互いに認め、友情を育むための通過儀礼的にまずは模擬戦? 笑止だよ。そういったものを茶番と言う」 「今時、頭の残念な小童でもそんなお芝居に燃えたりはせん。導火線には緊迫感が、そして火薬には激情が必要なのだ。殺意なくして、なんの勝負」 「しかし、だからといって……」 「まあ、詭弁だがね。言いたいことは分かっているよ。我々が、御身から見れば狂人の集団に見えるというあれだろう?」 「…………」 「しかしな、その感覚に照らして言うなら、この国はマシなほうだぞ。たとえどのような形であれ、大儀や名分が存在する」 「先の黒船にしてもそうだが、異国で絶対の法となっているのはあくまで力だ。周囲をねじ伏せた者が盟主となり、それを斃した者が後を継ぐ。血筋、家柄など塵芥だよ。ある意味先進的とも言えるだろうが」 「少なくとも御国のように、祭り上げられているだけの存在が、象徴として敬われるなど有り得ないな。……いや、失礼。別に御身や陛下を愚弄しているわけではない」 「要はともかく、そう頑なに嫌うものではないということだ。言ったように、ここは大分マシなところだよ。御身にとって」 「なぜそうなのかは、分からんがね」  含むように間を置いて、最後にそう付け足しつつ笑う龍明。竜胆は何ともいえない気分になる。  この相手は怪人物。〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈属〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  自分と相容れないように見えて、理解者のようでもある。  〈異常〉《まとも》のような、〈正常〉《きょうき》のような……  考えても分からないゆえ、結局のところいつも通りに竜胆は降伏した。 「……分かった。私も論を急ぎすぎたと自覚している」 「それで、結局何がしたいのだ龍明殿。先の言を詭弁と言うなら、真意は別にあるのだろう」 「私の意見は変わらないが、それを抑え込む何かがあると?」 「無論。だが、せめて翻意と言ってほしいものだな。私はそう嫌な人間ではないよ」  来たる大戦を前にして、無意味にすぎる武芸者同士の殺し合い……それを容認させる札とは何か。  実際のところ、もはや竜胆がどれだけ反対しても覆らない案件なのだが、御門龍明は強引であっても一方的ではない。  何のかんのと、最終的には納得させられてしまうのだ。それは竜胆も分かっている。  ついと視線を逸らしてから、独り言のように龍明は言った。 「東征の総大将は、誰なのでしょうな」 「歴史的には、言うまでもなく久雅の御当主。であるはずなのだが……」 「残念なことに、彼の御方は未だ年若い姫君だ。実力云々、家格云々、言いたいことは色々あろうが、これが隙である事実は否定できない」 「〈千種〉《ちぐさ》、〈六条〉《ろくじょう》、〈岩倉〉《いわくら》、そして〈中院〉《なかのいん》……武門四家は、当然そこを狙ってくるだろう。何せ今は、三百年ぶりに訪れた乱世だ」 「この期に他家を追い落とし、玉を担ぐ征夷の将となりたかろう。であれば、分かりやすく力を示す必要がある」 「そう、たとえば、陛下の御前で華々しく、家門の武威を披露し奉る……などというのは、なかなか有効ではないだろうか」 「―――――」 「そこで無双の腕を見せ付ければ、天晴れ御国随一の武辺者よ――と、陛下は称えられるに違いない。敗北した家は何も言えぬ。最小限の犠牲をもって、他家の面目を潰すわけだ」 「つまり――」  続きは、言われずとも理解した。 「政治だと?」 「そう、これは代理戦争だ。避けられぬ争いならば速やかに、最大の効率をもって終わらせる。大事の前なら、なおさらに」 「だが、将は相応しい者がなるべきだろう。あなたは先ほど、これが勝利のために必要なことだと言われたが、この身にそのような将器があるとでも?」 「ないのかね?」  問われ、逆に竜胆は押し黙る。そんなことを言われても、答えようがない。 「私が分かっているのは、他の連中では話にならぬということだ。六条や千種、岩倉……あれらは純粋な武技のみを信じている。まあ、それが矜持というやつなのだろうが」 「彼らが征夷の軍を掌握すれば、我ら御門の一門は厄介者だよ。吉凶を判じて差し上げるくらいしか役目を与えられぬだろうし、それすらそもそも信じまい」 「まして、歪み者を戦線に投入するような柔軟さなど、欠片すら持ち合わせんさ。恥だ誇りだ格好悪いだ何だかんだと、餓鬼のように駄々をこねる様が目に浮かぶ」 「彼らの思い描く東征とは、煌びやかな甲冑に身を包んだ精兵による、壮麗な絵巻物なのだよ。〈厳〉《いかめ》しく〈武張〉《ぶば》っているのは〈形〉《なり》だけで、頭の中は夢見る乙女だ。これでは始める前から敗北の足音が聞こえるというもの」 「ゆえにだ。こちらとしても見せ付けてやる必要がある。冷酷で容赦なく、間抜けは討ち死ぬという戦場の現実を」 「このままではこうなるぞと、実際に血を見せねば到底理解せぬだろう。御身もそうだが、武家というのは頭が固いものだから」 「まあ、中院はいくらか賢明であろうがね。それでもあの家に軍権を渡すのは気が進まない」 「なぜ?」 「なぜと? 愚問だな。御身はあそこの若当主殿を毛嫌いしているだろう。輿入れの話が引きも切らぬこと、私が知らないとでも?」 「…………」 「ここで地位を確立せねば潰されるからだ。正確には、輿入れせねばならなくなる」 「さしずめ、景品に近かろう。東征の将には、久雅の姫を組み伏す権利が与えられるというわけだ」 「…………」 「予想していなかったわけではあるまい?」  心なしか面白がっているようなその問いに、竜胆は眉を顰めるだけで何も言わない。それは肯定の意でもある。  浅ましい権力争いに興味はないが、景品という喩えは的を射ているだけに不愉快だ。自分は女で、力もないから、そんな道具のような扱いをされる。  正直、許容できる運命ではない。 「御身のご気性は分かっているし、私も女だ。舐め腐っている男どもに、一泡吹かせてやりたくなってね」 「ああ、無論、先代に後事を頼まれたということもあるが、私の本音はそんなものだよ。男の思い通りになる女など、この世にいないということを教えてやろう」 「潰してやろうではないか。思い上がった馬鹿どもの面目を」 「しかし……」  それは同感だが、と付け足して竜胆は言った。 「本当に、そこまでやる必要があるのだろうか。千種、六条、そして岩倉……あれらの家が御門を軽んじているのは知っているし、そういう意味では将に相応しくないのだろう。東征に必勝するため、排除すべきというあなたの意見はきっと正しい」 「そして中院……ああ確かに、私は景品になどなりたくないが、そうした私情を度外視してもなぜかあの男は認められない」 「であれば、征夷の将は誰がなるか、答えは一択だと分かっているし」 「怖気づいている、わけでもない」  国の命運を懸けた東征の総大将。その座はもともと久雅のもので、自分にはそれを果たす責任があると竜胆は思っている。生半可な重圧ではないが、だからといって逃げるという選択肢は許されないのだ。 「役者として足りているか否かは分からない。だがやらなければならないのだから、やるのみだろう」 「そうだ、よい覚悟だよ烏帽子殿。しかしならば、いったい何が気に入らぬ。軍を率いる身となれば、死ねと下知することなど日常だぞ」 「有り体に言って、戦はもう始まっている。先ほど惜しいと言われていたが、それは無駄な流血がという話だろう。これは違う。無駄ではない」 「分かっている」 「ならば」 「私は――」  さらに何事か言わんとする龍明を制すように、竜胆は語気を強めて思いを吐露した。  理解してもらえるとは、到底思っていなかったが。 「私は、信じたいのだ」 「私の采配で、私の意志で、死ぬやもしれぬ益荒男たちを信じたい」 「彼らの忠義、彼らの勇気……誠、御国の〈兵〉《つわもの》よと、その美々しさを称えたいし誇りたいのだ」 「そして、それに恥じぬ私でありたい。将とは、そういうものではないのか、龍明殿」  結局自分も別方向で、夢見る乙女なのかもしれない。竜胆はそう思いつつも、これは必要なことだと信じている。  烈士、英傑、そして益荒男……勇者を意味する言葉は数あれど、正しく使われているのを見たことがない。少なくとも、竜胆にとってはそう感じるのだ。 「国を愛し、家族を愛し、友や女を守るため、命を懸けるというなら〈否〉《いや》はない。たとえ市井の民百姓、歪みの者であろうとも、その志があれば私の同志だ。死ねとも言おう、久雅の当主として彼らの想いを背負ってみせる」 「しかし、現実は違うだろう。自己愛に酔った者ども、仁も義も礼も智も、信も忠も孝悌もない。あるのはただ、我の一文字だ」 「そんな者らに死ねとは言えない。ある意味喜んで死ぬかもしれんが、見つめる先が違う者の想いは酌めない。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈愉〉《 、》〈快〉《 、》〈だ〉《 、》、ではなく?」 「理解してもらおうとは思っていないよ」  低く、諦観を込めて、しかし凛として声音で言葉を継いだ。 「繋がりとか、絆とか、私にはそういうものが大事なのだよ。何と言うのか心の奥底、胸の根幹にある部分で触れ合いたいと強く望む」 「そんなものは見たことがないし、世に有り得ないと言われても納得できん。……ああ確かに、私は狂っているかもしれないな。だがこれだけは断固譲れん」 「東征そのものは、もはや否応のない生存競争と化している。やらねばならぬことだから、そこから私は逃げないよ。不満もあるが、是非もない」 「しかし現実問題として、家中に益荒男がいないのだ。武芸の腕がという意味ではなく、私が想いを酌んでやれる忠臣がおらぬ」 「この身が征夷の将となる――そのために御前の死合が要るのなら、すなわち当家の代表は、私が最初に死ねと下知せねばならぬ者だ。であれば、せめてそこだけは」  その者の気持ちだけは、十全に酌んでやりたい。竜胆はそう言って、表情一つ変えぬ龍明を見た。 「たった一人でいい」 「これから数万、数十万の死を生む立場になるというなら、たった一人でも抱いてやりたいと思うのだ。それを何と言うのか言葉を知らぬし、概念自体存在しないのかもしれないが……」  どう説明すればいいのだろう。言いながら心の中でかぶりを負って、自分自身、何を言っているのか分からなくなりかけたとき―― 「魂、か。御身はその救済を望んでいると」  ぽつりと呟かれたその言葉に、竜胆ははっとした。 「たましい……?」 「そう、御身が言っておられた胸の奥にある何がしか。それを指して魂と言う。廃れた言葉で、消えた言葉だ。今では私くらいしか知らぬだろう」 「なぜなら常識、死ぬということは死ぬということ以上も以下もないからな。そこで環を閉じ完結する。ゆえに生き様と死に様が等価なのだよ。断崖から先は無いから見ない」 「だんすまかぶる、とぉてんたんつ……異国ではそう言うらしいぞ、死者の踊りだ」 「死者の、踊り……」  鸚鵡返して、それが今世の在り方だと言う龍明を見る。正直、戸惑いを禁じ得ない。  この相手の博識ぶりは知っているし、加えて相当の年長者だ。自分が知らなかった魂とやら、その単語とその概念を、古びた書物から知識として汲み取っていたとしても不思議はない。  だが、本当にそうなのだろうか。今のはもっと、別のような…… 「まあ、御身の気持ちは分かったよ。この世の常識でない考えを、言葉にして説明するのは難しかろう。当然私にも出来ないし、同じ深度で理解も出来ん」 「だから年の功で纏めると、つまりこういうことになるのか」 「御身は死した後にも先があると思っている」 「胸の魂は不滅であり、それが良きところへ行けるようにと願っている」 「だが、私を含めた世の馬鹿どもは、魂を知らず死後を思わず、ただ痴呆のように踊っているだけ。哀れ暗黒に帰す定めなら、それを救ってやりたいと」 「そうした業を可能にするのが絆であり、将にとっての益荒男とは、かくあるべしだと思っている」 「せめてたった一人でも……とな。違うかな?」 「いや……」  まさにその通りだと言っていい。自分にも説明できないと言いながら、龍明の纏め方は当の竜胆が驚くほどに的確だった。  今さらながら困惑する。いったいこの相手は何者なのかと。 「しかし、困ったな。これでは埒があきそうにない。御身を将とすることで意見は一致しているのに、その手段を容認出来んとなればどうするか」 「久雅の代表には勝ってもらわねばならぬのに、そのための人材がいないとはね」 「困ったな。ああ本当に困ったよ」  詩歌でも口ずさむように嘯きながら、肩を揺らして笑う龍明。言葉の内容は嘆きでありつつ、しかし同時に竜胆を称賛しているかのような……  それでこそだと言わんばかりの、意味ありげな流し目を向けて龍明は座を締めた。 「まあよい。まだ僅かだが時間はある。年が明けるそのときに、使いを出すから答えをお聞かせ願いたい」 「絆で繋がる臣とやら、感じるままに選ばれるがよかろうよ。いっそ恋でもしてくれれば、大いに助かる」 「…………ッ」 「おっと、そう怖い顔をされるな」  向けられた怒りを逸らすように、ゆらりと龍明は立ち上がった。懐から紙を取り出し、無造作に渡してくる。  それを手にして、竜胆は驚愕した。 「これは……」 「今現在、出場が確定している者らの名だよ。そうそうたる面子だろう」 「〈玖錠〉《くじょう》、〈凶月〉《きょうげつ》、伝説の武に伝説の歪みだ。まだ組み合わせは不明だが、これらと当たれば私の娘、死ぬかもしれんな」 「………ッ」  なるほど、確かにそうなりかねない。龍明が言った二つの名が、どういうものかは竜胆とて知っている。まさかこんな者たちまで出てくるとは、いよいよ冗談事ではすまされない。  ある少女の顔が、脳裏に浮かんだ。姉妹のように育った少女が…… 「〈龍水〉《りゅうすい》を殺されたくなかったら、一刻も早く相応しい者を見繕えと?」 「ふむ、まあそう取ってもらっても構わんが」 「あなたは龍水の母だろうッ」 「だからなんだね? 私は御身が思うところの狂人だぞ。国体のため、娘を犠牲に捧げる母というのも悪くない。結構な陶酔感だ」 「ともかく、龍水に限らず言わせてもらえば」  無情にも突き放すように冷めた声で、龍明は言った。 「御身は将だ。間違われるなよ、烏帽子殿。信を望むなら探すのではなく、その〈狂気〉《りそう》とやらで〈兵〉《つわもの》どもを酔わし、勝ち取れ。それが久雅の、竜胆車の主たる者の王道だ」 「―――――」 「では、これにて。人選が決まったら、それに記して使いの者に渡してくれ」 「よいお年を、烏帽子殿」 「待っ――」  思わず呼び止めようとしたがそれも叶わず、御門龍明は去っていった。後にはただ、竜胆だけが残される。 「…………」  自分はどうするべきなのだろう。何を成さねばならぬのだろう。考えたところで堂々巡り、答えはいっかな出てこない。  一般に、己はおかしいと自覚している者はまともだという。真に混じり気のない狂気なら、自分が間違っているだの正しいだのと思い悩んだりはしないとのこと。  その通りかもしれない。なぜなら先の龍明も、他の総ての者たちも、強固に自分を持って疑うことを知らぬから。無様に揺れて懊悩するのは、天下に己、ただ一人。  ならば久雅竜胆は正常なのか? しかし現実的に異端は自分で、あちらが正しいとされているのはどういうわけだ? そも何をもって線を引くかは、同類が多いか少ないかの話だろう。  常識とはそういうもので、ゆえに形がどうであっても、社会が維持され集団を作る。  国とはその最大単位で、それを愛していると言いながらも、その在り方を許容できない。 「何なんだ、私は……」  分からない。分からない。分からない。分からない。  結局自分が気に入らぬから、自分の都合で駄々をこねているだけなのか?  少々系統が特殊なだけで、久雅竜胆も自己愛に酔った者の一人だと? 「違う……!」  違うと、信じさせてほしい。そう思わせてくれる益荒男を抱きたい。  天下にただ一人でいいのだ。魂で繋がる同志が欲しいと願いながら……  言いようのない寂寥感に囚われて、いっそ溶けてしまいたいと竜胆は思っていた。  年の瀬の喧騒に少なからず触発されて、心は浮き足立っている。こんな大勢の人を見るのは、いったい何年ぶりだろう。  流石は〈秀真〉《ほつま》、華の都だ。異国だ化外だ何だのと、騒ぎ立てる空気までもが妙に垢抜けて綺羅綺羅しい。じめじめと陰湿なだけの田舎とは、どうやら根本から違うようだ。  この騒々しさと明るさは、晦日の夜に相応しい。そろそろ除夜の鐘でも鳴り始める刻限だろうが、それもいい風流となるはずだ。  ――が。 「そういや、除夜の鐘って何なんだ?」  わりとどうでもいい疑問だったがふと気になって、思わず独りごちていた。 「確か百八発鳴らすんだよな。じゃあ百八って何の数字よ?」  俺の素晴らしさを天下に称えるためだとしたら、百八ごときじゃ足りんだろう。せめてその十倍は鳴らしてもらわにゃ釣り合わない。  いやまあ、千八百発鳴らすというのも、鐘突きの小僧が辛いだろうが。  そこはほら、どうにか頑張ってもらわんと。 「ん? 何か違うか? 計算、あれ?」  ちょっと気になったが、面倒になったので考えるのやめた。除夜の鐘の起源も意味も、どうせみんな遥か彼方に吹っ飛ばしている。  鐘を鳴らしたいから鳴らしている奴がいて、それがまたいい感じだから真似する奴が増えてきて、いつの間にやら文化っぽくなってるだけにすぎないはずだ。意味も意図もないのなら、聴く奴それぞれ勝手に解釈すればいい。  結局のところ歌謡と一緒だ。気持ちよくなることが目的だから、俺も気持ちよく受け取らせてもらうまで。ごーんと一発鳴るたびに、そこらの姉ちゃんが恋に落ちてくれるとかね。  そういう展開をただの妄想で終わらせないため、さっさと用事を済ませるべきだと考える。 「て、言ってもなあ……」  咥えた〈煙管〉《キセル》を燻らせつつ、現実に帰った俺は少々うんざりしながら呟いた。 「ちょっとこれ、おっかねえぞ」  眼前に聳え立つ――と言ったほうが絶対正しいだろうふざけた規模の、庶民に喧嘩を売ってるかのような大伽藍。その敷地に入ることが躊躇われる。 「御門の本家。洒落なってねえわ、色んな意味で」  だって俺の田舎にあったのは、この百分の一くらいだったし。  大きさも、厳つさも、そして漂う雰囲気も。  全然違う。別次元。  引くわ実際。どうしよう。 「ん~~~~~」  頭を掻きつつ、思案する。  この国には、下手すりゃ殺人よりも重い罪が一つあって、それはこうして年始のときに、御門の所へ赴くという義務の不履行。バックレである。  皇主陛下や〈公達〉《きんだち》や、五つ竜胆やらのお偉方には逆に御門が出向くんだろうが、その他はこうして、わざわざやって来なけりゃならない決まりだ。  正直、かなり嫌すぎる。面倒くさいという意味じゃなく、人によっては審判に他ならない瞬間だから。  この中で何があるのか、端的に言うと調べられる。老若男女例外なく、そいつに陰気が宿っているか、宿っているならどれだけ濃いか。  大概は、まず間違いなく白だろう。仮に運悪くそうじゃなくても、ほとんどは灰色に留まるはず。  だが、黒と判断されたら最悪死刑。いや、むしろそれで済んだら幸せと言うべきかもしれない。  なぜなら、黒すぎる者らは殺せないのだ。〈も〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  だから監視されて封印されて、要するに一生涯囚人の憂き目。自由も何もあったもんじゃない。  そんなのは、誰だって嫌だろう? 俺だって嫌だ。  ゆえに―― 「帰りてぇ……」  心底、俺はそう零していた。  こうしている間にも、何人もが脇をすり抜けて御門の家に入っていくけど、そりゃおまえらはいいだろうよ。言ったように、高濃度の陰が入ってる奴などそういない。  だが俺は、はっきり言ってやばいんだ。今まで田舎のシケた〈術屋〉《みかど》を相手にしてりゃあよかったから、何とか隠し通せていただけで……  この雰囲気、この霊気、やべえよ母ちゃん、ここにいる奴ホンマもんだよ。 「かといって、マジに帰ったら終わりだよな」  懐から手紙を取り出し、忌々しさに眉を顰める。  御門龍明――当代のご当主様から、じきじきにやって来いと言われたからには逃げられない。  田舎じゃしっかり隠していたのに、なんで今さら名指しを食らったのか分からないが、やっぱりバレていると見るべきだろうか。  いや、いやいや希望は捨てるな。俺の偽装は結構なもんだと自負している。  いくら三下同然の末端とはいえ、これまで御門の術師を〈誑〉《たぶら》かしてきたのは伊達じゃない。現に今このときだって、髪の色が少々特殊だからという理由以上で人目を引いてはいないはずだ。  これが汚染されている異形の証拠か、単に傾いた婆娑羅な趣味か、ぱっと見で判断することは出来ないだろう。本来、ある一定値を超えたら素人相手でも隠し通せなくなる陰気の濃さを、気付かれないようにするのが俺の特技なわけだから。  正確に量られたことも実際ないし、もしかしたら本当に大したことないかもしれないじゃん?  母ちゃんとか、祖父ちゃんとか、先祖代々やべえ領域だったりしたけれど。  そういう嫌な遺伝系譜も、そろそろ昇華される頃合だろうよ。そう思おうぜ。 「なあ――」 「え?」 「あ………」  脇を通り過ぎようとした何処かの誰かに同意を求めて、肩を思いっきり叩いちまった。  ズガンバガンドンガラガシャンと、派手な音を立てて名も知らぬ人が吹っ飛んでいく。 「うわ、やっべ…」  手加減、全然してなかったよ。 「えっと、その……死んでねえよな?」  ここで逝かれたら、流石に言い訳きかねえんだけども。 「あ、つ……うーん……」 「なんですか、いきなり、酷いじゃないですか……」 「――おおっ」  良かった。何とか無事だった。その様子に安堵しつつ、即座に駆け寄って頭を下げる。 「いやほんと、俺のために生きててくれてありがとう!」 「……は?」 「すみません、待ってください。何だか少し、混乱しちゃって」 「これって普通、謝るところのような気が……」 「へ? なんで?」 「なんでって、そりゃあ、僕はいきなり痛い思いをしたわけで」 「心配するな。俺は凄く幸せだ」  ゆえに何も問題はない。世界は今日も美しい。  そんな当たり前のことを言っているのに、目の前の優男はどうやら理解できなかったらしい。ほややんとした顔で首を傾げている。ちょっとトロいのかもしれない。 「まあ、なんだ。色々大変だろうけど、頑張って生きてくれよ」 「はあ……どうもありがとうございます」  なんだか哀れになってきたので、服の埃を払ってやる。その間も優男はぼーっとしていて、正直ふらふらと頼りない。  頭でも打ったのだろうか。いや、きっと天然ってやつなんだろうな。色んな意味でネジが緩い系統に見える。  正直、よくも今まで無事にやってこれたもんだよ。こんなんじゃ苦労することも多かったろうに。 「おまえ、あれだろ。お上りさんだろ。しかも超がつくド田舎から、やってきたばかりと見た」 「え、なんで分かるんですか?」 「そりゃあなあ……見てりゃもろバレっていうか」 「そんなおまえ、のんびりしてたら都でやっていけねえぞ。ここは村人十人とかいう、山ん中じゃねえんだからさ」 「なんだっけ、ほら、生き馬の目を抜くってやつだ。舐められないようにしゃんとしないと、目ん玉どころか〈命〉《タマ》抜かれるぞ」 「ははあ、なるほど」 「いや、おまえなあ……」  人が心配してやってるのに、こいつは変わらず呑気な様子で、感心なんかしてたりする。  言ってる意味が通じてんのか不安になったが、やがて何を得心したのか、にっこり笑って分かりましたと言ってきた。 「あなたも、お上りさんなんですね」 「む……」  ちょっと待て。なんでそうなる。  いや確かに、間違っちゃいねえけども。 「えーっと、つまり、僕と同じで、ずいぶん狭い世界にいたんだろうなって思いました。今まで関わってきた人の数は、どうせ十人そこらか、そんなもんだと」 「見たとこ地方豪族の末か何か、めちゃくちゃ零落しちゃったけれど、ド田舎じゃあよいしょされてきたってとこですか。端的に、いわゆる御山の大将ってやつじゃないかと」 「…………」 「違いましたか?」 「違うとか、違わないとか、そういう問題じゃなくてだな……」  そんな初対面で恐れ気もなく、にこにこ笑いながら毒を吐くなよ。まったくこれっぽちも悪気は無いのか、仲間ですね、などと言ってくる。  激しく調子の狂う奴だった。その態度に呆れながらも、しかし言うべきことは言っておく。 「御山の大将云々は、どうなんだろうな。俺も世間知らずなのは認めるが、井戸の中にいたのが蛙とは限んないだろ」 「もちろん、そんなつもりで言ったわけじゃないですよ。お気を悪くさせちゃいましたか?」 「別に。実際には蛙どころかアメンボかもしれねえしな」 「ははは、面白い人ですね。謙遜なんて、殿上人の雅なのかと思ってましたが」 「意外にいい血筋だったりするのでしょうか。だとしたら光栄ですよ、僕は〈壬生〉《みぶ》――」  言って、優男は俺のほうに手を差し伸べると―― 「〈壬生宗次郎〉《みぶそうじろう》――これもきっと何かの縁だ。よければお名前を聞かせてください。井戸に棲んでいたという龍の人」  その瞬間、首筋に氷刃を突きつけられたような気になった。 「……おい」  気のせい……ではないだろう。一瞬すぎて分からなかったし、今はただの和み系にしか見えないが、こいつは何か奇妙な奴だ。 「……おまえ、親戚にカラクリ人形でもいたりしないか?」 「どういう意味です?」  上手く言えないが、特定の条件に嵌れば特定の行動に移るみたいな、ある種歯車めいたものを感じる。さっきの悪寒は、それがカチっと嵌りかけた気配のようで……  平たく言えば、危ない匂いがするのだが…… 「いや、なんでもない。気にしないでくれ」  考えてみれば、別におかしなことじゃないだろう。  上京したてで、御門の本家に呼び出されるという同じ境遇。ならばその背景も、俺と似たようなものであるに違いない。  だから思わず、笑みがこぼれた。 「流石は秀真、華の都だ」  こんな変人にいきなり出会う。  その事実に嬉しくなって、差し出された手を取り、名乗った。 「俺は〈覇吐〉《はばき》――」 「〈坂上覇吐〉《さかがみはばき》だ。よろしくな、宗次郎」 「はい。よろしくです、覇吐さん」  いったいこいつのよろしくとは、どんなよろしくなのだろうか。  なんとも先行き怪しすぎるが、退屈だけはしないだろうと確信できた。 「ほっほ~う」  それはその、当座の運命共同体が得られたことの、安堵と言うか何と言うか。 「坂上覇吐に壬生宗次郎。確かにそう言ったな、おまえたち」  ここが何処で、俺たちそもそも何しに来て、これから何が待ち受けてるかって言やあ、そりゃつまり―― 「いつまでそんな所で突っ立っている。邪魔になるだろう、さっさと来んか!」  当然、御門の審判が待ってるわけだが、それはそうとさっきから、きんきんやかましいこの声、なんだよ。 「今夜は我々も忙しいのだ。つまらん手間を掛けさせるなよ、この〈虚〉《うつ》けども!」 「…………」 「…………」 「な、なんだその目は、反抗するのか? 私を誰だと思っている!」 「…………」 「…………」 「な、なんとか言わんかぁっ!」 「おい」 「はい」 「なんだこのチンチクリン」 「ち、チンチクリンだとぉぉっ!」  きしゃー、と髪の毛逆立てて、チンチクリンが絶叫した。 「き、き、きさ、貴様、貴様貴様貴様ぁぁ―――!」 「ようも言うたな、言いよったな! 言ってはならんことを言ったな貴様ぁぁ――!」 「まあ、落ち着きなさいよ」  どこから迷い込んできたのか知らないが、父ちゃん母ちゃんとはぐれたのだろうか。  だったらそう言えばいいものを、素直に迷子だと白状するのが恥ずかしい年頃ってことかもしれない。俺はとっておきの笑顔を浮かべて、この愛らしい生物を保護してやろうと考えた。 「お嬢ちゃん、声を掛けてもらったのは光栄だし、本来なら蕎麦の一つでもご馳走してやりたいところなんだが、俺は清く正しいスケベというのを信条にしている男なんだ」 「は、はあ?」 「うん、だからね、君はまだ何というか若いだろう。もちろんその上で魅力的だとは思うけど、大人の階段を上るには、親御さんを納得させなきゃいけないんだよ。でないとお互い不幸になる」 「そういうわけで、まずはお父さんかお母さんに報告をしてきなさい。そして許可を貰ってくるんだ」 「私、とっても素敵な殿方に出会ったから、彼と姫始めしてもいいかしらって」 「心配要らない。勇気を出そう。俺も一緒についていってあげるから」  と言い終えて、我ながら完璧な男前ぶりに陶酔する。ああ、どうして俺って奴は、こうも危険なほどに罪作りなのだろう。 「あの、覇吐さん?」  許可貰ってよし。駄目出されてよし。どう転ぼうが問題なし。これでこの子は大義名分のもとに親を捜せて、俺に惚れること間違いなし! 「すみません、聞いてますか?」  すなわち我が人生に、新たな伝説が刻まれる。坂上覇吐、上京したてで幼女を一人、虜にしたと――そんな達成感に痺れていたのに。 「覇吐さーん」 「うるせえなっ! ごちゃごちゃやかましいんだよ宗次郎!」 「いや、なんだかこの子、震えてますよ」 「あん?」  見れば、なるほどチンチクリンは、さらに身を縮めてぷるぷるしていた。 「えーっと、どうした? 便所か?」 「いきなり変なこと言われて、怖くなったんですよきっと」 「俺は変なことなんか言ってねえだろ」 「言ってましたよ。頭大丈夫ですか、あなたは」 「とにかく、このままほっとけないし、親を捜すか家まで送るか」 「おお、まあ、そりゃそうだ」  そんなの、言われなくてもそのつもりだったし。 「それで嬢ちゃん、聞こえてるか? 親が何処にいるのか分かんないなら、家まで送ってってやるから場所教えろよ」 「僕らもこの辺に詳しいわけじゃないですが、夜に子供の一人歩きは危険ですから気にしないでください」 「なあ」 「ほら」 「こ……」 「こ?」  こってなんだ? 俺に恋煩いか? 「こ……こ……」 「はい?」  小声で聞き取りにくかったので、宗次郎と一緒に耳を寄せた瞬間だった。 「私の家は、ここだ馬鹿者ぉぉぉ――――――ッ!」  のー、ものー、かものー。  素晴らしい山彦が頭蓋骨の中で木霊する。 「あっ、つ……」 「やばい、やばい、鼓膜やばい」 「貴様ら、貴様ら本当に、どこまでも私のことを舐め腐りおって!」 「家は何処だと? 親は何処だと? 虚け虚け大虚け! 私の家も、私の親も、天下に一つ、ここにしかない!」 「御門家、そして龍明の〈母刀自〉《おもとじ》殿だ! 分かったか、愚か者どもッ!」  怒髪天を衝きながら、反り返って吼え猛るチンチクリン。どこからそんな声が出るんだよという、大声量にもびびったが。 「え、あ、じゃあ、あなたは……」  先の言が本当なら、こいつが御門の世継ぎだと? 「ええええええええ、うっそおおおおおお」 「嘘ではない!」  今にも泣きそうな勢いで、チンチク……もとい、お嬢様はご立腹であらせられる。 「〈御門龍水〉《みかどりゅうすい》! 私の名だ! 覚えておけよ坂上覇吐、壬生宗次郎!」 「なんで俺らの名前知ってんだよ」 「貴様らが自分で名乗りあっておったのであろうがああああ!」  キレる。キレる。超沸騰してる。術屋ってのはもうちょっと、冷静沈着なもんじゃないのかよ。 「まあ、まあまあ、覇吐さん、あんまり刺激しないでくださいよ」 「それで、その、龍水さん? ご無礼はお詫びしますよ。僕らは――」 「分かっておるわ。陰気の査定に来たのであろう。面倒だから、この場で私がやってやる」 「へ? なに、おまえがやんの?」 「文句があるのか?」 「いや、ねえけども」  むしろ好都合と言えるかもしれない。こんなチンチクリンが相手なら、今まで同様、誤魔化せると思うし。 「そこに並べ」  言われた通り、その場に並ぶ。龍水は、そんな俺と宗次郎をじろじろと〈睨〉《ね》め上げてから、即座に一言、言ってのけた。 「黒い」 「はあ?」 「黒い、黒いぞおまえたち。いと歪んでおる。特に覇吐」 「呼び捨てかよ」 「おまえの陰気は洒落にならん。これまでは上手く誤魔化してきたのであろうが、御門を舐めるな。ぷんぷん匂うわ」 「ちょ――」  おまえそんな速攻で、人を病原菌みたいに言いやがって。 「それから宗次郎」 「は、はい」 「おまえは危うい。陰気はともかく、性根が崖っ淵に立っておる。そんなことでは、早晩歪みに呑まれるぞ」 「…………」 「とまあ、そういうことだ。感謝しろよ。等級は追って告知してやるゆえ、私について来るがいい」  威丈高にそう言って、踵を返し歩く龍水。  いや、いやいや、ちょっと待てよ。 「――おい」 「ん?」 「なんだよ今のは。あれで終わりか?」 「そうだ。疑うのか覇吐。私は嘘など言わないぞ」 「まだ未熟だが、仮にも母刀自殿から仕込まれた〈見鬼〉《けんき》だ――間違いなどない」 「じゃあ、僕たちはあれですか?」  困っていると言うよりは、感情の込もってない声で宗次郎が割って入った。 「ここで〈御門家〉《あなたがた》に拘束されると? そうするために、わざわざ本家まで呼び寄せたのですか?」 「……まあ、ついて来いって言ってるしなあ」  こりゃ、最悪の展開かもしれない。不本意だが、もうバックレるしかなさそうだ。  宗次郎がどうなのかは知らないが、俺は洒落にならんとまで言われた以上、どのみち愉快な結果にはならないだろう。  そんなこちらの意図を察したのか、龍水は嫌そうに手を振って鼻を鳴らした。 「早まるなよ。おまえたちをどうするかなど、私は知らん」 「そもそも、手紙を寄越したのは母刀自殿であろうがよ。ならば待つ運命が何であれ、会っていくのが筋というもの。違うか?」 「……それは確かに、そうですがね」 「要はおまえたちの男次第だ」  こまっしゃくれた感じに一笑し、挑発めいた口調で言ってくる。 「母刀自殿が怖いというなら逃げればよいさ。まだどうなるかも分からんのに、敵前逃亡した腰抜けよと、私がおまえたちの名を記憶するだけのこと」 「それで構わんのならな、好きにしろ」 「さあ、どうする?」 「このガキ……」  ずいぶん言ってくれるじゃねえか。ちょっと聞き捨てならないぞ、今の台詞は。 「なるほど」 「そうまで言われては立つ瀬がない。いいですよ、行きましょう。そもそも僕は、それほどでもないとのことですし」 「あなたはどうされますか、覇吐さん」 「俺は……」  そんなの、決まってる話だろう。  俺にとって、何より我慢ならんのは舐められることだ。自由を制限されるのも確かに嫌だが、そもそも自由ってのは天衣無縫であることだろう。  誰かに舐められ、侮られ、それでも構わんと達観するような境地に俺が求める自由はない。御門の当主だが何だか知らんが、ご要望なら正面から受けて立ってやろうじゃないか。  坂上覇吐は拘束不可能だと、天下に知らしめてやるにはちょうどいい。 「ああいいぜ。行ってやるよ。おまえの母ちゃんとやらを、俺の魅力でメロメロにしてやる」 「ほほう、言うたな。身のほど知らずが」 「あの、覇吐さん……そういう問題じゃないと僕は思うんですが」 「なんでもいいだろ。とにかく行くって言ってんだから、案内しろよ」 「相分かった。では参れ」  言って、俺たちを促す龍水。それに続こうと、一歩踏みだした時だった。  こんな見え見えの手に乗るなんて、安すぎるし軽すぎる。舐められるのは好きじゃないが、大局的に見ればここで引っかかるほうがショボいだろう。いわゆる手の平の上ってやつだ。 「誰が行くかよ。俺を手玉に取ろうなんざ十年早ぇぞチンチクリン」 「そういうのは、女の魔性を身に付けてからやってくれ。そんときゃ喜んで踊ってやるが、今のおまえじゃ駄目だ」  色っぺえ姉ちゃんだろうと、こまっしゃくれたガキだろうと、女全般は等しく好きだが、系統が違えば愛でかたも変わるのが当たり前だ。  少なくとも俺の辞書には、幼女すなわち弄り倒すべき者と書いてある。 「というわけで、俺は帰る。おまえは母ちゃんに説教されて、尻でも叩かれるのがお似合いだよ。さようなら」 「あ、待たんか――」  慌てて呼び止めてくる龍水を〈無視〉《シカト》して、踵を返した瞬間だった。  しゃん、と耳を震わす鈴の音。そして同時に、周囲から静かなどよめきの声があがる。 「これは……」  俺と宗次郎は驚いて息を呑み、龍水は舌打ちするように呻いていた。 「……やはり来おったか。傍迷惑な」  その目と言葉が向けられた先に、現れたのは……  〈牛車〉《ぎっしゃ》……それも殿上人が乗るような、華美で絢爛な〈檳榔毛〉《びろうげ》だ。こんな物は当然今まで見たことがないし、都生まれでも日常見る物じゃないだろう。  そんな別世界とでも言うべきモノが、門を潜って俺たちの前をゆっくりと横切っていく。  それに合わせて流れる冷気。地を這い広がるその気配に、背筋の毛がぞわぞわと逆立っていくのを自覚した。 「……下がれ、おまえたち。目も合わせるな、死ぬぞ」  抑えた声でそう告げる龍水は、隠しようもないほどに緊張していた。それは周囲の者らも同様で、水を打ったような静寂の中をある種の感情が満たしていく。  恐怖。嫌悪。忌避といった負の諸々。この場の連中は一人残らず、目の前の存在が何者なのかを理解していた。  俺とても、説明不要で感じ取る。そこは宗次郎も同じだろう。  たとえどれだけ鈍い者でも、この違和感に気付かないなど有り得ない。 「おい、ありゃなんだ。人間か?」  百鬼夜行――俺の目にはそうとしか映らなかった。  あまりに陰が強く濃すぎて、牛車の形すら歪んで見える。  供をしている男のほうも相当だが、何よりも尋常じゃないのは牛車の主だ。あの〈御簾〉《みす》の向こう、薄っぺらな幕の先に、どれだけの異常が座っていても何ら不思議はないだろう。  してみれば、金糸銀糸に彩られたその豪勢さも、どこか呪術的な結界を思わせた。牛は牛でこの寒空に、一切白い息を吐いていない。 「〈牛〉《あれ》は式ですか。命あるものは近づけないほどの歪みだと?」 「そうだ。しかもだいぶ低俗で〈人形〉《カラクリ》と変わらん。意志を持った高位の式では、逆に何が起こるか分からんからな」 「アレはそういう、因果を狂わす。聞いたことくらいあるだろう」  忌々しげに、畏怖を込めて、存在そのものを否定するかのように、龍水は言った。 「〈禍憑〉《まがつ》き――〈凶月〉《きょうげつ》一族だ」 「へえ……」  それに感嘆の吐息を漏らす宗次郎。 「そりゃまた……」  俺は俺で、思わず口笛のひとつも吹きたくなる。 「な、なんだおまえたち、分かっているのか? あれは凶月だぞ? 知らないのか?」 「いいえ、当然知っていますよ」 「有名だもんな。田舎もんの俺らでも知ってるほどに」 「ええ。〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈凶〉《 、》〈運〉《 、》〈に〉《 、》〈憑〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》」 「〈周〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈不〉《 、》〈幸〉《 、》〈を〉《 、》〈ば〉《 、》〈ら〉《 、》〈撒〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》、〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》」 「ふふ、ふふふふふ……」  楽しげに、本当に楽しげに笑う宗次郎。  なるほどやはりこいつはこういう奴で、俺の目に狂いはなかった。  そして凶月…… 「おまえたち……」  呆気に取られた様子の龍水だったが、そんなものは無視して思う。 「いいなあ、あれ。斬りたいなあ。絶対死なないだなんて、燃えるなあ」 「そうだよ、何が絶対だ」  この世に俺一人を除き、そんな概念許さねえよ。 「馬鹿じゃねえのか。目立ちすぎなんだよ、腹が立つぜ」  素直に、心からそう思うのを、止められようはずもなかった。 「チッ……」  自らに向けられる様々な感情に舌打ちして、男は盛大に眉を顰めた。 「虚けどもが、誰に喧嘩を売っていやがる」  久しく経験していなかった感覚だが、だからといってそれが愉快なものとは限らない。  慣れ親しんだ恐怖も嫌悪も、等しく鬱陶しい上に不快だが、遠巻きに忌避してくれる分にはまだ処しやすい。そういう消極的な感情なら、互いの領域を侵さない限り事態は不変だ。平たく言って無視できる。  しかし、積極的では困るのだ。凶月を恐れるにしろ嫌うにしろ、だから滅ぼせという論理展開は不都合を生む。そういう輩は速やかに、この手で殺してやらねばならないだろう。  それが自分の使命であると、男は思っているのだが…… 「うふふ、そう憤らずに。〈刑士郎〉《けいしろう》兄様」  御簾の向こうから、優しく窘めるようにそんな声。 「お気持ちは理解しますが、この場ではなりません。大事の前ではないですか」 「ああ、そんなことくらい分かってる」  だから目を合わせないのだと、凶月刑士郎は吐き捨てた。顔を見てしまったらその瞬間に、自分を抑えきれる自信がない。 「おまえのほうは、大事ないか〈咲耶〉《さくや》。遠慮はいらねえ。言ってみろ」 「そうですねえ。些か窮屈ではありますが、まずまず快適と言えますわ。都の雪景色すら見せていただくことも叶わぬのは、寂しい限りと思いますけど」 「外はどのような様子です?」 「変わらねえさ。中途半端で薄汚くて、薄っぺらだから嘘くせえ。率直に言って反吐が出る」 「また兄様は、そのような」 「手に入らぬものだからと、貶めて考えるのはよくありませんよ。届かぬ柿はきっと渋いと、自分に言い聞かせている子供のよう」 「我々が触れ得ぬ世界。ゆえに美しいのではないですか。咲耶の夢を壊さないでくださいまし」 「…………」 「兄様、もう一度窺います。外の様子は?」 「白い」  短く、端的すぎるほど簡単に、刑士郎はそう言った。 「それをおまえが良いと言うんならそうなんだろうさ。仮に違っても心配するな。俺がそのように変えてやる」 「都の雪景色、存分に見られるような世の中にな」 「はい。咲耶は兄様を信じております」  頷く気配を御簾の向こうから漂わせ、神州最大の歪みを宿す異能の少女――凶月咲耶は微笑したようだった。  常人の何者にも恐れられ、忌避されて、ただ一人孤立した異世界そのものであるにも拘らず、この少女に嘆きはない。  先ほど言った言葉通り、同族であり想い人である兄を信じているのだろう。境遇からは想像できないほど華やかに、娘らしく、しかし楚々とした慎みを持って、彼女は恋に生きていた。  己は兄を想うことが幸せなのだと、決定しており揺るがない。  その華やかさを維持したまま、小鳥が歌うように咲耶は言った。 「あらまあ、兄様、ご覧になって。先の物騒な御方たち、彼らも邸内に来るようですよ」 「分かっている。だがご覧になってはねえだろう。顔を見たら殺したくなると、ついさっき言ったはずだぞ」 「ああ、そうでしたね。困りましたね。広いお屋敷ですけれど、偶然行き当たったらどうしましょう。そこは龍明様のお計らいを期待するようにいたしましょうか」 「もともと野郎が呼んだ、野郎の家だ。起こったことは家主の責任ってのが筋だろうよ」 「本当に。ええ、そうするよりありませんわね。まあ、おそらく大丈夫でしょう」  牛車が邸内に入り、停止する。上がっていく御簾のほうへと刑士郎は手を伸ばし、現れた少女を優しく壊れ物のように抱き下ろした。 「あの方たちも、ここに呼ばれた理由は同じなのかもしれませんしね」 「しかしまあ、礼も趣もあったもんじゃねえな、これは」  御門家邸内の長い廊下を歩きつつ、刑士郎はそう零す。  彼らの前方、数間先には、拳大ほどの土か金属か分からぬ球が、ころころと転がっているのみだった。これが案内役ということらしい。  こんなものは式神ですらない。徹底的にただの無機物。おそらくは龍明という磁力に引きずられているだけなのだろう。 「てめえで呼び出しておいてこれかよ」 「仕方ありませんわよ。ここで女中の方など来られては、逆にわたくしが恐縮します。龍明様は龍明様なりに、気を遣ってくださったのだと思いますが」 「何にせよ、気に入らねえ。そもそもこの家は窮屈なんだ」 「まあ、そんな利かん気なこと。兄様は辛抱というものが足りません」  それは特級の禍憑きであり、歪み者の頂点と言える咲耶ならではの言い分であり感覚だった。  衣服や髪結い、爪の切り方から呼吸の仕方に至るまで、彼女はあらゆる面での呪的拘束を受けている。御門家邸内が、霊域として歪みを抑える場であることに刑士郎は堅苦しさを覚えているが、咲耶にとっては今さら大差ない変化なのだ。  血を凍らせるように常時強要された者が、氷室に入れられたところで何も感じないという理屈であろう。  そうした意味を読み取って、刑士郎は決まりの悪い顔になった。 「ああ、すまん。別に当て擦ってるわけじゃねえ」 「要は大袈裟だって言いたいんだよ。びびりすぎっつーか、逆効果っつーか」 「変に触るのが怖ぇなら、放っといてもらいたいんだがな。実際よ」  彼ら凶月――禍憑きとは、原則として身を守るために凶事を起こす。それが意図的であろうとなかろうと、発動するのは本人に危険が及んだときなのだ。  凶事の種類も、方向性も、起きてみなければ分からない。確実なのはその結果として、凶月だけが一切被害を受けないこと。  仮に刃物を持った暴漢に襲われても、刃は凶月に届かない。暴漢本人がしくじるか、あるいは別の誰かが妨害するか、それとも天災がいきなり起こるか。  何にしろ、〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈幸〉《 、》〈を〉《 、》〈被〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈事〉《 、》〈態〉《 、》〈は〉《 、》〈収〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》。  その際の悲惨さは、高位の禍憑きほど増していくのだ。咲耶ほどの凶月ならば、文字通り何が起こるか見当もつかない規模になるだろう。  そういう意味で、下手に触れるなという刑士郎の意見は正しいと言える。拘束が咲耶の重荷として一定値を超えてしまえば、それを排除する禍が発生してしまいかねない。 「仕方ありませんわよ。わたくしは兄様のように、機を選ぶことが出来ません」 「もともと臆病な性質ですし、虫を見ただけで卒倒するかもしれないでしょう? 客観的に見て、そんなわたくしが迷惑だというのは分かります」 「発動を抑えたいと思っているのは、〈凶月〉《われわれ》にとっても同じなわけですし」 「まあ、な……」  刑士郎は禍憑きが起きる機を制御できるが、咲耶はできない。ゆえに突発的な事態のため、基本封じておく必要がある。  それは公にとって当然の処置だろうが、凶運に守られている咲耶たちが大人しく従っている理由は別にある。  返し風――つまり不幸の帳尻合わせだ。 「俺だって、こんなもんは出来る限り使わねえよ。反動でおまえに何が飛んでいくか分からねえ」 「それはわたくしも同じです」  何が起ころうが守られるという凶月は、因果を確実に歪ませている。その不条理を埋めるため、無関係の誰かが被った分と同じ不幸が、別の凶月を直撃するのだ。  すなわち刑士郎が禍憑きを使った場合、咲耶を含めた一族の誰かがツケを支払う羽目になる。ある意味彼らは群体で、一蓮托生と言っていい。  ただ、唯一の例外として、咲耶の返し風は何処に吹くか分からない。まさに彼女はあらゆる意味で、歩く爆弾そのものなのだ。 「満天、日や月、星やそして雪の下、誰はばかりなく兄様と歩けるように……こんな力は消えてなくなったほうがよいのです」 「だからこその化外討伐。成さねばなりません。でなくばこの身の存在意義を世に示せぬから」 「龍明様は一筋縄でいかぬ御方ではありますが、そんな我々の立場を理解してもくれています。ですから兄様もよく弁えて、どうかご寛恕くださいますよう。短気を起こしてはなりませんよ」 「ふん……」  物柔らかに窘めてくる妹の言葉を心地良さ気に聞きながら、刑士郎は鼻で笑った。 「俺はそれほど虚けじゃねえよ。おまえの説教好きは何とかならねえもんなのか」 「なりません。これはわたくしの趣味ですから」 「不詳の妹を持ったものだと、どうか諦観してくださいまし。兄様を困らせるのが、咲耶はとても楽しいのです」 「ゆえにあとは、お分かりでしょう?」 「ああ……」  それきり二人は口を噤むと、無言のまま歩を進める。先導役の球が転がる音のみが、薄暗い廊下の中に響いていた。  そう、ころころと、ころころと、転がりながら進み行く。決まった道順を通らぬ限り、目的の場所へは決して辿り着けないとでも言うように。  だから今、この廊下は咲耶と刑士郎のために用意された〈径〉《みち》なのだろう。何せ術師の最高峰である御門の屋敷だ。門外漢の常識で推し量ってはいけない。  それだけに―― 「――おい」  立ち止まった刑士郎が口にしたのは、本来この場にあってはならぬ者への誰何だった。 「止まれよ、てめえ。それ以上近づくな」  見据える先は、ただの暗がり。そこには何もありなどしない。  だが刑士郎は一切気にせず、見えぬ何者かに語りかけた。 「聞いてただろう。妹は事を荒立てたくねえんだとさ。俺も出来れば従ってやりたい」 「だが、決めるのはてめえだよ。分かるな? 最後通牒ってやつだ」 「二度は言わねえ。出て来い」  静かながらも険を帯びたその言葉に、応えた者は……  女……それも二十歳そこらの、まだ少女と言って差し支えないような存在が、暗がりの中から浮き出るように現れた。 「ほぉ……」  刑士郎が低い感嘆の吐息を漏らす。野性的だがどこか品のある面立ちと、引き締まった長身の体躯はなかなか魅力的な美女だと言えるが、重要なのはそこではない。  強いて言うなら、匂いだろうか。何事においても、ある一定線を超えた者に共通する質の空気をこの女は纏っている。つまり端的に言って、只者ではない。  登場の仕方が充分すぎるほど異常であることを差し引いても、それは刑士郎をして感心せしめるほどのものだった。 「てめえ、どうやってここに来た?龍明の術も案外当てにならねえな」 「別に。私は隙間を抜けるのが得意なだけだよ。一応あの人に断りも入れたし」 「後学のためにね、この目で凶月ってのを見たかったんだ。怒らせたんなら、すまないね」  だから他意は何もないと、気安い口調で詫びる声には本気の親しみが込っている。それは先の行動を鑑みれば、刑士郎が激昂しても不思議でないような態度だろう。  龍明に断りを入れたとは言っていたが、邸内の陣は解かれていない。その上で術の隙間をすり抜けるとは、つまり予告した上で脱獄したに等しいのだ。  加え、姿そのものが視認できなくなるほど桁の外れた隠形の法――まさしく暗殺のためにだけあるような技能と言える。そんな技を揮いつつ接近しながら悪気はないと言い放つのは、いったいどういう神経なのか。 「ふふ、ふふふふ……」 「なるほどねえ、つまりあれかい。手加減したつもりだってか」 「値踏みされるのは好きじゃねえが、まあいいさ。俺らはお眼鏡に適ったかい?」 「そうだねえ。凶月なんて運頼みのつまんない奴らだとばかり思ってたから、嬉しい誤算って言えるかな」 「そういうわけで、ごめんってば。流石にこれ以上調子に乗ると、龍明さんが怒っちゃう。私、あの人を敵に回したくはないんだよ」  鉄格子は潜り抜けたが、〈邏卒〉《らそつ》までは出されていない。つまり自分の行動は、あるていど龍明が容認してくれたからこそ可能だったのだと、女は殊勝に笑っていた。 「続きはいずれね、出来るかもしれないし」 「――と、いうと」 「あなた様も、我々と同じ立場にあるのですか? 先ほど後学のためと仰っておられましたし、よければお名前をお聞かせください」 「わたくしは凶月咲耶。こちらは兄の刑士郎」 「〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈同〉《 、》〈志〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》――」 「うん。そうね。いずれは〈刎頚〉《ふんけい》の交わりってやつだ」  ほがらかに頷いて、女は刑士郎と咲耶を見る。  自分たちは生死を共にし、互いに首を切り落とそうとも後悔しない関係にいずれなると言いながら。 「私は〈玖錠〉《くじょう》――」 「〈玖錠紫織〉《くじょうしおり》だよ。よろしくね、凶月のお二人さん」  やはり気安く、気負いなく、己が何者なのかを名乗っていた。 「玖錠……」 「へえ、こりゃ珍しい」  実物を見るのは初めてだと、口笛でも吹きかねない調子で笑う刑士郎。咲耶はただ、素直な反応で驚いている。  なぜなら、その名が意味するところを知らぬ者はおそらく神州に存在しない。それは凶月の悪名とは対極をなす威名にして雷名だった。  九条大路から一条大路、これが都の正門から最奥の大内裏までに存在する横向きの大道であり、皇主陛下の御所を囲む壁である。  その一つ一つを不落とするもの。すなわち秀真と皇室そのものを守護する盾であり結界だ。  玖層からなる皇都の錠――  彼らはそうした任を帯びた一族で、名目上神州最強とされている。五つ竜胆のような将家の武は軍事力だが、玖錠はあくまで皇家の私兵。ゆえに個の技という意味であり、流派の強さと言い換えてもいい。  もっとも、そうした性質から表に出たことがほとんどなく、実在共々伝説視されているのが現状だ。玖錠が戦うのは皇室の危機に他ならないわけだから、おいそれと喧嘩を売ることも買うことも出来ない。  そうした存在が、いま目の前にいる。 刑士郎は愉快気に喉を鳴らした。 「面白ぇ。かび臭いただの噂だと思ってたが、どうやら実のある話だったみたいだな」 「そんなツチノコみたいに言われてもねえ。別に日頃潜伏してるわけじゃないから、いる所にはいるし出る所には出るよ」 「で、あれば紫織様、あなたは今このときが皇主陛下の危機であると仰るのですか?」 「そりゃそうでしょうよ、危機も危機。大事だ」 「異人、化外、そしてあんたらみたいな歪みの連中……私にだってちょっとそういうのが混じってるしね。陛下どころか神州の危機だよ。正直もうこの国は、いつぶっ壊れてもおかしくない」 「そのわりには嬉しそうだな。おおっぴらに暴れられるのが、堪らねえって顔してるぜ」 「まあ、それも否定はしないけど」  照れたように笑いながら、紫織は刑士郎の指摘を肯定しつつも、完全な正解ではないと暗に匂わす。 「あんた達にも色々あるでしょ。そこは私だって同じだよ」 「玖錠が出るってなれば五つ竜胆の連中が騒ぐだろうけど、それはそれでね。龍明さんには感謝もしてる」 「まだ会ってはいないけど、世継ぎの子と当たったら手加減してやってもいい」 「つまり――」  これまであえて誰も言わなかった事柄を、咲耶はこのとき口にした。 「あなたも御前試合に出られるのですね、紫織様」 「そうだよ。そっちは二人かい?」 「いいや、出るのは俺だけだ。こいつが出たら洒落にならんし、させねえよ」 「だろうねえ」  凶月咲耶は爆弾だ。触れれば何が起こるか分からない。  そうした事実を弁えた上で言葉にしない慎みは、彼女なりの礼儀だろう。代わりに紫織は静謐な声で、ある種の宣戦を布告した。 「来たる東征に先駆けて、神州の益荒男を募る撃剣の神楽――」 「玖錠降神流、玖錠紫織――〈皇家〉《すめらぎ》の代表として出させてもらうよ。あとは御門の代表と、竜胆紋の五家」 「さしずめ〈凶月〉《おれ》は、仮想化外か」 「そうだよ。だからあんたを斃した奴の主家が、おそらく東征の将になる」 「どこも目の色変えて狙ってくるから、気をつけたほうがいいね」 「ふん――」  ならば自分が勝ち抜いた場合はどうなるのか。無論のことそうする気だしそうなるだろうが、落とし所が剣呑になってきたのを自覚して、刑士郎は失笑した。  まあいい。どうあっても凶月を排さなければ収まりがつかないというのなら、皆殺しにしてやるまでである。それで東征そのものが瓦解しようと、知ったことではないのだ。  こちらを見つめる咲耶に対し、安心しろと目配せする。化外であろうと何であろうと、自分一人いれば斃しきれるという狂信にも似た自負があった。 「ではまたそのとき、ご武運を紫織様。わたくしはただの箱入りでございますが、戦場の〈慣〉《ならい》は弁えているつもりです」 「うん、そうだね。いいお姫様だよ咲耶。要は恨みっこなしってやつ」 「表であんたらに喧嘩売ったのが、どうも二人ほどいたようだけどさ。案外そいつらも御前試合に出るんじゃないかな」 「だったらその二人と刑士郎、三人全員と戦ってみたいもんだよ」  さらりと言った言葉に邪気はない。しかしだからといって、その目にお遊戯めいた親善の色は皆無だった。  きっとこの女はこういうノリで、何ら躊躇なく死合に臨む。 殺すことも殺されることも、覚悟という概念が入り込む余地すらない日常なのだ。  不敵な台詞を刑士郎が許容したのは、そういう在り方に自己と近しいものを感じたからだろう。紫織もそれを理解したのか、楽しげに言葉を継いだ。 「どうやら今、この屋敷にいる中で、あんたと龍明さんを除けばそれが全部みたいだからね、ちょっとおかしい域にいる奴は」 「いいえ」 「もうお一方、いらっしゃいます」 「……なに?」  咲耶が漏らした不意の否定に、紫織と刑士郎は訝しむ。どうやらそれは彼らにとって、認識の外だったらしい。 「もう一人ってな、誰だ?」 「もしかして、御門の世継ぎ? 言ったように会ってないけど、まだ修行中のチンチクリンだって聞いたんだけどな」 「それは、分かりませんけれど……」  注目されて照れたのか、困ったように視線を宙に彷徨わせつつ、ぽつぽつと歯切れ悪く咲耶は続けた。 「なんと申しますか、先ほどから、どこかに穴が空いているように思うのです。ゆえに男であるのか、女であるのか、そもそもこれは、人であるのか……確かなことは何も言えませんけれど」 「そうした御方が、おられます。そのことだけは、確かかと」 「ふーん?」  問い質すような紫織の目に、刑士郎はかぶりを振って溜息をついた。 「知らねえよ。だが嘘じゃないだろうしマジなんだろうさ。こいつのこういうところは図抜けてる」 「そう。じゃあ期待だけはしておこうか」  ――穴。  咲耶は歪みでなく穴と言った。  それは究極的に別種という意味ではないのか。世界という画布の上、異能が色彩を乱す染みだとしたら、穴とは画布そのものを穿つ概念。まったく存在が異なるものだと…… 「ま、ともかくそれはそれで、今日のところはもう帰るよ。家で弟に蕎麦でも作ってあげなきゃいけないし」 「よいお年を、お二人さん。来年もよろしくね」 「ええ、こちらこそと言いたいのですが……」  咲耶は刑士郎に向き直ると、やや途方に暮れた声で言った。 「どうしましょう、兄様。何時の間にか、案内役が何処にも見えなくなっています」 「あ……」 「げ……」  龍明の所へ案内するため、二人を先導していた球がない。おそらくここで話している間に、さっさと行ってしまったのだ。考えてみれば、ごく当たり前のことである。  目を逸らしてこの場を去ろうとする紫織を見咎め、刑士郎は怒号した。 「てめえこの馬鹿女、どうしてくれんだ責任取れ!」 「や、ややや、ちょい待ってよ。だってここは、普通空気読むとこでしょうよ」 「あれはただの球です」  ごもっとも極まりない。人でも式でもない物体に、そんな高尚な精神活動は不可能である。  にこりと可憐に微笑んでから、咲耶は言った。 「案内してください、紫織様」 「ええええーー」 「自業自得だ。諦めろ」 「そんなこと言われてもーーー」  単独で遁甲破りをした紫織だが、咲耶と刑士郎を連れてとなればそうもいかない。おそらく相当な時間を要することになるだろう。  してみればこの末路は、勝手な真似をした紫織に対する罰かもしれない。今夜複数の客を相手にする龍明にとって、来客の順を調整するという意味合いもあるのだろう。 「弟がお腹空かせて待ってるんだよおおーー」  果ての見えない廊下の闇に、紫織の嘆きが虚しく尾を引きながら呑まれていった。 「ふふ、ふふふふ、はははははは」 「はははは、ははははは、はははははははははは」  その様子を天眼で眺めつつ、ソレは腹を抱えて笑っていた。 「素晴らしいな、麗しいな。退屈せぬぞ、いと愉快なり」 「兄であり妹であり、姉であり弟か。なんともなんとも、滑稽よな。陰に塗れた身でありながら、その人がましさは愛しくさえある」  伽藍の屋上、高楼の端にある奇怪な棟飾りに身を預け、美麗の〈公達〉《きんだち》が謳うように眼下の者らを評していた。 「流石は〈秀真〉《ほつま》――華の都だ。奇人変人勢ぞろいときたものよ」  降り積もる雪の白さに相反し、闇を刳り貫いたかのごとき漆黒の〈狩衣〉《かりぎぬ》姿は、まるで人型をした奈落のよう。  なるほど、確かにこれは穴だ。咲耶が茫漠と感じ取っていた違和感とは、この男に他ならない。  手にした杯には〈満々〉《なみなみ》と黄酒が注がれ、それを浴びるように飲んでいる。強かな酔いに身を任せているようでいて、同時にどこまでも醒めたような……見る者にこそ酩酊感を与えかねない男だった。 「あなたがそんなことを仰っては、他の者らは立つ瀬がないでしょう、〈夜行〉《やこう》様」  そしてその脇には、侍従と思しき童子が一人。主とは対照的に謹厳な面持ちで、しかしずばりと思ったことを言ってのける。 「奇人変人……恐れながらこの私が知る限り、それはあなたのことだと存じます」 「そうか? なんだどうした〈丁禮〉《ていれい》よ。せっかくの晦日にその暗さ、〈爾子〉《にこ》が共におらぬので寂しいか」 「いいえ。ただ一つだけ忠言をお許しください。どうかご自重くださいますよう」 「あまり引っ掻き回されては、龍明殿の面目も立ちますまい」 「ああ、分かっておるさ。まだ何もせん」  くつくつと喉を鳴らし、夜行と呼ばれた男は意地悪げに目を細める。そしてふざけたことにそういう顔が、また息を呑むほどに麗しい。もはや存在の根本からして、他者を玩具にしか見れない者であるようだ。 「しかしおまえも酷いな丁禮。私に自重しろということは、つまり龍水を見殺しにしろということだろう」 「あれは死ぬぞ。運が悪ければの話だが、良いほうにも見えんからな。おまえは私を〈鰥〉《やもめ》にする気か」 「……そういうわけでは、ありませぬが」 「そこはまだ、龍明殿の領分ではないかと」 「確かにな。だがあの方に、そんな安い情が宿っているかと言われれば……」  もちろんのこと、否だろう。  そう言いつつ再度杯を傾けながら、夜行は芝居がかった口調で嘯いた。 「では、一つ占って進ぜようか。龍水、秀真、この神州の命運をば――」 「まず何よりも恐るるべきは、化外どもの怨念よ。かつてこの地を征しながら、無常にも奪われ、追われた敗残の蜘蛛」 「血涙が見える。憎悪が香る。怨嗟が聞こえる。ああ感じるぞ」 「無念なり。あな口惜しや。〈鏝〉《こて》で臓腑を焼かれるようじゃと、東の果てで哭いておるわ」 「うふふ、はははは、わはははははははははははは――――!」  同時に、神明な音色をもって除夜の鐘が鳴り響く。それに合わせて吟するように、夜行の〈呪歌〉《うた》が流れ出した。  それは既存のどんな術体系にも含まれない、ともすればこの場で彼が適当に口ずさんでいるとしか思えないものだった。  しかしにも拘らず、〈呪歌〉《うた》は雪を溶かし空を穿ち、咲耶が評した穴が密度を増していく。  主従はそのまま、そろって〈拍手〉《かしわで》を打ち合った。 「謹賀新年」 「さあ、吉凶は如何に?」  そして今、神州・秀真のみならず、この世に生ける総ての者にとって運命の年が幕を開けた。 「よく来た、坂上覇吐。おまえに頼みたいことがある」  これより、激動となる一年間の物語―― 「約束どおり、参りましたですの烏帽子殿。お心は決まりましたか?」  その始まりは、御前における死合をもって火蓋を切る。 「掛けまくも〈畏〉《かしこ》き〈吾〉《あ》が〈皇〉《すめらぎ》の大前に畏み〈白〉《もう》さく、御世、神州に化外有りて、〈月日佐麻弥〉《ひさむね》く〈病臥〉《やみとこ》せり、〈故是〉《かれここ》を以て益荒男に〈事議〉《ことはか》りて〈雖恐〉《これけど》」 「吾が皇の大前を〈斎〉《いつ》き〈奉〉《まつ》りて〈蒼生〉《あおひとくさ》を恵み給う」 「〈恩頼〉《みたまのふゆ》を乞い〈祈奉〉《のみまつ》らむとして、今日の〈吉日〉《よきひ》、〈吉時〉《よきとき》こそば、神州に〈礼代〉《いやしろ》の〈幣〉《みてぐら》を捧げ持ちて恐み恐み〈称辞竟〉《たたえごとお》え、奉らしむなり」  年が明けて十と五日が経った後、朗々と響き渡る祝詞と共にその時はやってきた。  待ち望んでいた者、厭うていた者、懸ける思惑と心情は様々だが、絶対に覆らない事実としてあるのは一つだけだ。  すなわち、本日この場をもって戦が始まる。歪んだ形ではあったものの三百年続いた太平が、物理的な意味をもって終わるのだ。  命を捧げる死合によって、以降始まる大戦を占う最初の流血。  してみれば先月より降り続いているこの雪も、天が纏わせた死装束ということかもしれない。 「浮かない顔ですな、烏帽子殿」  神楽の祭壇と化す御所の庭には、都の文武百官がそろっていた。上座に位置する殿上には皇主陛下が御簾向こうに座しており、その一段下には〈藩屏〉《はんぺい》たる竜胆紋の五大当主。  その中で沈思していた竜胆に、隣の男が落とした声音で話し掛けてきた。 「見ればなにやら、物憂げなご様子。この我に出来ることがあれば何なりと」  〈中院冷泉〉《なかのいんれいぜん》――五大竜胆紋の次席であり、家格においては久雅に劣らぬ大諸侯だ。いや現実的には、この男が武家の最大勢力と言って問題ない。  現当主が女であり、本来武門と相容れぬ御門と通じている今の久雅家は、明らかに求心力を失っている。五家筆頭の立場こそは維持しているが、半ばお飾りに近くなり始めているのが現状だ。 「御身に何かあっては意味がない。暮れからの寒気は厳しゅうございましたからな。もし体調が優れぬのならば――」 「よい。要らぬ心配だ冷泉殿」 「つまらぬことに心を砕かず、口を噤んでおられるがよい。今は祭事の最中だ。私語など不謹慎であろう」 「ああ、これは確かに。仰せの通り。相も変わらず猛々しいご気性、頼もしくあります」  そう言下に一蹴されていながらも、冷泉は気分を害した風もない。むしろ竜胆の反応を楽しむように、その横顔を眺めている。  私語も、慎む気はないようだった。 「あれは治病祈祷の祝詞でしたか」  死合の場となる御所の中央、雪に覆われてなお一層白さを増した庭に立ち、御門龍明が祈祷を謳いあげている。その声音は玲瓏にして厳格、たとえどのような病魔であれ払ってみせるという矜持のほどが窺えた。  神州に取り憑いた病を絶つ。すなわち化外を討伐し、人の世を揺るぎないものにするという大前提。国を滅びから救うため、〈皇〉《すめらぎ》のもとへ集うがいい益荒男よ――  平たく言えば、祝詞の内容はそういうものだ。東征に先駆ける神楽として、本日この場をもって戦端が開かれるという祝福にして激励。御門の当主による峻厳な〈命和利〉《みことわり》は、この手の祭事に疎い者でも引き込まれる清冽さを備えていた。  ――が、それだけに。 「酷い話ではありますな。つまるところ喜んで死ねと龍明殿は仰っている」  感じ入るどころか失笑を隠さずそう言ってのける冷泉は、確かにある種の肝が据わっていた。なるほど武家の男子なら、斯くあるべしと言えるかもしれない。  こんな〈祈祷〉《もの》は茶番であると、言外にだが断じている。これより命を懸けるのは、この場で戦う者たちだ。彼らの生にも死にも何もかも、物質的な意味以外が入り込む余地などない。  ただ強い者が勝ち、弱い者が負ける。畏まった儀式で神秘な雰囲気を作り出そうが、それ以上も以下もないのだ。その点、冷泉はよく弁えているのだろう。  高位の武家として〈公達〉《きんだち》めいた趣味も嗜む男だが、芯の部分は殺しを生業とする者である。ゆえに死と流血を殊更美化して捉えはしない。  これはそうしたものに耐性のない皇主や公達、いわゆる物の哀れとやらいう高貴な雅を好む者らへの演出である。それが証拠に龍明は、死ねというただ一言で済む話を無駄に仰々しく語っているのだ。これが茶番でなくてなんだと言うのか。 「まこと滑稽であることよ。そう思われぬか」 「こんなことをするくらいなら、一人一人に声を掛けていただきたいと我は思う。陛下ご自身が面と向かい、言えばよいのだ。死ねよと」 「そうしたほうが、幾らか気が利いているというものではありませんかな、烏帽子殿」 「…………」 「それとも御身、これはこれで風流であると? まあ我も否定はしませぬが――」 「いや」  無視を決め込もうと思ったが、放っておけば際限なく喋り続けるに違いない。すぐ間近に皇主陛下がおわすというのに、不敬を通り越した台詞が聞き捨てならぬということもある。  結局竜胆は、黙れという意味合いで会話に応じた。 「私も幾らかは同感だ。しかし冷泉殿、そこまでになされい。先も言ったが、場を弁えられるがよろしい」 「どだい我々のごとき武辺のみで、国体など立ち行かぬ。龍明殿も然りだが、この身はそれを回す歯車の一つだろう。ならばこそ、我を押し通すのみで事は成せん」 「己が事象の中心に立っている――などと思い上がらぬのが賢明だ」 「無論、それは御身に言われるまでもなく」 「ご気分を害されたのなら許されよ。我はただ、可能な限り〈兵〉《つわもの》どもを慰撫してやりたいと思っただけ」 「将たらば、それが当たり前の考えではありませんかな」 「であれば、なおのこと軽口は慎まれよ」  そう冷ややかに切って捨てる竜胆だが、心の中では〈忸怩〉《じくじ》たるものが渦巻いていた。  冷泉は、おそらく〈佳〉《い》い男なのだろう。些か洒脱がすぎるものの、見方を変えれば剛毅な性質と言えなくもない。  そして実際、彼は声望も高かった。知勇兼ね備えた中院の若当主は、宮中において不動の地位を確立している。先の不敬な発言など、仮に皇主陛下に聞かれたところで何ほどのこともあるまい。  天子とは玉であり権威だが、同時にそうでなければ生きられない人間でもあるのだから。早い話、力ある家臣を排斥することに利はないのだ。己は担がれてこそ輝けるのだと、陛下は弁えておられるだろう。  ゆえに冷泉は、皇室という威光に怖じない。この国の社会機構上、必要な道具であるという認識しか持っていない。己を取り巻く総てのものを、彼はそういう風に捉えている。その上で問題ないと認められている。  つまり、どこまでもらしい男なのだ。まともであると言い換えてもいい。  この国、この世界において至極真っ当かつ優秀な男……それが中院冷泉の客観的な評価であろう。しかしだからこそ、竜胆は吐き気を催すほどこの貴公子が嫌いだった。 「…………」  忸怩たる内心は、その嫌悪感が単なる嫉妬ではないのかという疑念。鬼子と呼ばれ鬼姫と呼ばれ、自分の扱いは珍獣だ。そうした己が、冷泉を妬んでいないと言い切れる根拠はない。  彼の求婚を拒み続ける理由が結局それなら、そこに大儀はなくなってしまう。よって見極めなければならないのだ。もう時間がない。 「掛けまくも畏き皇。此の〈状〉《さま》を平らけく安らけく聞こえし召して、御国が悩む病を速やかに直し給い、癒し給い、〈堅盤〉《かきわ》に〈常盤〉《ときわ》に命長く〈夜守日守〉《よもりひもり》に守り給い〈幸〉《さきわ》い給えと畏み畏みもうす」  祝詞が終わる。いよいよ血の神楽が幕を開ける。数瞬訪れた静寂の間、竜胆はこの死合の果てに何を得て何を失い、何にならねばならぬのか、意志を固めねばならなかった。  運命とやらいう曖昧な何がしかを受諾するわけではなく、自ら選び手に入れたと誇れるような……  断じて流されたわけではないと、胸を張って言えるような結果を求めて…… 「ふふん、始まりますぞ」  今、久雅竜胆は、東征戦争の狼煙をその目で見届ける。 「では御国の益荒男どもよ、出ませい!」  立ち上がった龍明が大喝し、出場者たちの入場を促す。同時に、御所は凍結したような緊張に包まれた。  益荒男たちの数は八名――それぞれ主家の威信を背負い、その剣として流血の代行を果たす。  竜胆紋の五家より五人、御門より一人と皇家より一人。  そして、仮想化外とも言える歪みの象徴が一人。  御前試合という武の祭典に、龍明が行司を務める理由は最後の一人を抑えるためだ。文武百官そろったこの場で、人外の技が炸裂しても被害を出さないよう立ち回ること。それが可能な者は御門の当主以外に有り得まい。 「ほう、あれが凶月……」  それぞれ控えの間から白幕を潜って現れた者たちの中、一際異彩を放っている男を見咎め、冷泉は低く呻いた。流石の彼も、声音に畏怖が混じっているのは無理からぬことだろう。 「なんという……」  なんという血臭、なんという歪み、そしてなんという凶念か。瘴気とも形容すべき暗い陽炎を纏いつかせ、その男は悠然と歩いてくる。  白蝋のごとき髪と肌の色からして一目瞭然。あれが異形の域まで汚染されている〈蛭子〉《ひるこ》なのは間違いなく、御所を恐怖が満たしていくのを竜胆は肌で感じ取っていた。 「これは些か、予想以上だ。陛下には厳しいのではありませんかな」 「だが、仕方ありますまい。これより我々が討とうというモノどもは、おそらくあの比ではない」  東から流れ込んできた陰気を数割宿しているというだけであの様だ。では純粋な化外とは如何ほどか、想像するだにおぞましい。  竜胆や冷泉を始めとする武家筆頭や、その他高位の武官たちは流石に耐えているものの、気の弱い文官たちは恐怖に気死しかけている。彼らも当然知っているのだ。  凶月を生き死にの場で戦わせるというのがどういうことか。その結果に何が予想されるのか。  いかに龍明が守るとはいえ、絶対に安全だという保障はない。まさにこの場はあらゆる意味で、総ての者にとっての死地となり得る。  そういう意味では、確かに公正な前哨戦と言えるかもしれない。彼ら凶月は仮想化外であると同時に、生きた爆弾として東征に組み込まれることが検討されているのだから。  アレを東の鬼どもに放り込んだらどうなるか――その試金石としてこの死合は、言うまでもなく重要な意味を持つだろう。 「汚らわしい下賎よな。見るに耐えぬわ」 「誠、この場に相応しくない者であることよ」 「誰があのような穢れを御前に招き入れたのやら」  不快さを隠しもせず、吐き捨てるようにそう言ったのは千種、岩倉、六条の当主たち。彼らは歪みを毛嫌いしており、東征には必要ないと断じている。  ゆえに、いっそこの場で何人か、アレの陰気に当てられて死ぬ者が出れば好都合。その事実をもって竜胆や冷泉、龍明のような層を軍権から遠ざけるつもりでいる。毒はあくまでも毒であり、別の毒を制せるのなら便利であるという柔軟さなど、彼らは欠片も持ち合わせない。  現実を見ず、理想の中に生きている。なるほど、夢見る乙女とはよく言ったものだと竜胆は思いながら、しかし〈面〉《おもて》には一切出さない。自分も彼らと、さほど変わらないかもしれないのだから。 「しかしまあ、他の者らは流石に勇壮でありますな。皆、中々に華がある」 「左様。それぞれ当代一の達者であると、音に聞こえた者ばかり」 「まずはお褒めいたそうか。太平の世に倦むことなく、これほどの士を育て上げていた各々方の手腕と見識を」 「然り、然り」 「誠、御国の精兵よ」 「猛々しくも、美々しくある。見られい。御門の代表など、まだあのような稚児ではないか」 「やれやれ……」  六条らが褒め合っているのは、互いの家中の者だけだ。それを横目にしながら呆れ果てたと言わんばかりに、冷泉は苦笑している。 「なにやら堪りませんな。男同士の〈阿〉《おもね》りというやつは」 「では先ほどから、御身が私にしているのは何だ」 「さて、一般に求愛と呼ばれるものであると、我は自覚しておりますが」 「痴れ言を」  そんなことを言っている場合ではない。六条らの会話は確かに呆れ返るものもあるが、現実に彼らの代行者として現れた者らは強壮だ。神州に知らぬ者はいないほどの名門流派、各々の家中で武芸指南役を務める達人たちである。  対して、笑う冷泉はどうなのか。中院の代表として現れた者は、あまりにも…… 「勝負を捨てられたのか、冷泉殿」  竜胆が抱いた印象と同じことを、岩倉が指摘していた。 「あれは何ぞ? まるで〈女子〉《おなご》ではありませぬか。御身はあのような者がこの死合を勝ち抜けるとでも?」 「さぁて。我はただ、面白き噂を耳にしたゆえ、あの者を呼び寄せたにすぎませぬ」 「面白きとは?」 「あの細腕で、我ら家中きっての武辺者らをどう相手取る?」 「まあそこはそれ。百聞は一見にしかず。我も楽しみでなりませぬ」 「そもそもからして、真の女子なら他にもいるではありませぬか」 「玖錠か……」  そう、緊張のためか、心なしか硬い面持ちを隠せない龍水の他にもう一人。  中院の代表であるという優男のすぐ隣、端正な女が瞑目したまま立っている。あれが玖錠であるということは、この場の皆が知っていた。 「伝説と言えば陳腐だが、玖錠の技をこの目で見られるとは眼福よ。さらに見た目麗しい女子ときては、期待せずにおれますまい」 「ふん……」 「せいぜい鍍金が剥がれねばよいがな」 「あれの最強など眉唾も甚だしかろう」  玖錠流は皇家の私兵。ゆえに彼女が勝ち残ることなど六条らは望んでいない。それは冷泉も同様だろう。  何を思って出場してきたのか知らないが、これは皇室にとって諸刃の選択ではないだろうか。まさか陛下ご自身が軍権を握ろうとしているとは思えぬものの、このような争いの場に玖錠が出れば、皆はその可能性を思い描く。  すなわち東征が成った後、否が応にも国際化していくだろう神州において、旧態依然とした武門の存在は不要であると。  陛下がそう考えておられるのなら、既得権を持つ五つ竜胆は警戒を禁じ得ない。殊に六条らのような守旧派は、そうした思いが強いだろう。  針の〈莚〉《むしろ》に晒されているはずなのに、しかし玖錠の女は何処吹く風だ。一切の気負いも硬さも見受けられない。ことによれば、これから何が起こるのか理解していないようにさえ見える。  霞のようだと、そんな彼女を見て竜胆は思った。ある種羨ましく思えるほどに、この玖錠は達観を友としている。 「しかし、それはともかくとして」  龍明の号令に従い、〈出〉《 、》〈揃〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈七〉《 、》〈名〉《 、》〈は〉《 、》〈膝〉《 、》〈を〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。これより御前に神楽を捧げると宣誓し、平伏して拝礼している。  そう、数が一人足りないのだ。 「どういうことですかな、烏帽子殿」  冷泉の問いは当然と言えるだろう。武門の長である久雅の代表だけがいない。 「放棄と見なしてよろしいか」  そう取られても仕方ない。そしてそれは、一つの事実を意味している。 「征夷の将の伴侶となること、ご了承頂けたのですな?」  つまり、我の嫁になるのだなと。 「言ったはずだ。私語は慎まれよ、冷泉殿」 「私は誰のものでもない。だが強いて言えば国のもので、その基となる民草のものだ。そしてこの身を預ける伴侶とは、真の益荒男に他ならん」 「御身がそうであると言うならば、それを示してくれればよい」 「ふむ……」  要領を得ない返答ではあったものの、冷泉は鷹揚に頷いて理解を示したようだった。 「ではそうさせて頂こう。何を考えておられるのか分からぬが、我は我の望むがままに」 「そうされるがよい。どうせ御身らはそんなことしか出来ぬ」  皮肉として機能しないことを分かった上で、竜胆はそう告げるのを止められなかった。 「益荒男など一人もおらぬわ」  ゆえに見ているがいい。続く言葉を胸の中で呟きつつ―― 「ではこれより、第一の比武を始める」  今ついに、血戦の火蓋が切られようとしていた。 「西方、皇主光明帝直属禁軍兵――玖錠降神流、玖錠紫織!」  その組み合わせは武道性を重視するため、当事者たちも名を呼ばれるまで分からない。それぞれの主が無作為に引いた〈籤〉《くじ》の結果を、この場で龍明が口にすることにより初めて知れる。  結果、第一番手から玖錠が出た。その事実に、居並ぶ者たちは驚きを禁じ得ない。 「さて……」  ならば対手となる者はいったい誰か。  この死合は全体として、皇主陛下と五大竜胆紋が良しと言うまで続行する。つまり一回戦で終了することも充分有り得、逆に最後の一人が残るまでの勝ち抜き戦と化すことも有り得るのだ。  そうしたことから、初戦となるこの勝負は重要な意味を持つ。神州最強、伝説の玖錠流――それを相手取るのは何者か。 「東方、〈雍州〉《ようしゅう》大納言、中院冷泉公が〈麾下〉《きか》の一―――」  ざわりと――その瞬間、場に緊張が走り抜けた。 「〈石上神道流〉《いそがみしんとうりゅう》、壬生宗次郎!」  そしてそれは、掛け値なしの戦慄と化して顕現する。 「―――――――」  竜胆には何が起きたのか分からない。 そこは他の者らも同様だろう。 「な、ん……」  あまりに突拍子がなさすぎて。あまりに理解の範疇を超えていて。  起こった事態を脳が認識するまでの間、無限に等しい数瞬を要したのだ。  当初竜胆は、その色彩を花吹雪と見紛った。いや、事実その通りなのかもしれない。  雪が、降り積もる白がみるみる真紅に染まっていく。それはまるで、舞い散る花弁。桜のようにはらはらと、牡丹のように頭を落として…… 「石上神道流、丙の第三――首飛ばしの〈颶風〉《かぜ》」  壬生宗次郎の一閃が、過剰なまでの流血をもって神楽の始まりを告げていた。 「馬鹿な……!」  有り得なさすぎて信じられない。  いったい何を考えて何をしている。  その暴挙と呼ぶもおこがましい蛮行に、千種、岩倉、六条らも呆然として声もない。なぜなら今、首を飛ばされたのは彼らの代表である三名なのだ。 「はッ―――、見事」  ただ一人、冷泉だけが愉快げに、手を打ち鳴らし喝采していた。 「天晴れよ、〈武士〉《もののふ》とはそうでなくてはならん!」 「開始の合図? 対戦相手? 知らぬ知らぬ聞こえぬ見えん!此処を何処だと心得ておる」 「〈戦場〉《いくさば》であろう。死に場所であろう。命を賭して武心を燃やす、晴れの舞台であろうがよ!」 「そうした場に立ちながら、油断だ卑怯だ笑止千万!〈呆〉《ぼ》けられたかお歴々、ならば〈疾〉《と》く思い出されるがよろしい」  常在戦場――それが武に生きる者の在り方だろうと、呵呵大笑して嘲る冷泉。ここにきて、ようやく正気を取り戻した六条らが激昂した。 「貴様、冷泉――!」 「見苦しい。弁えられよ、ご老体」  しかしそんな抗議の声も、この男には通じない。掴みかかってきた手を侮蔑も露わに払いながら、惨劇の場を指し示す。 「躱せぬほうが悪いのだ。それが証拠に、ほれ、見られるがよい」 「玖錠、凶月、あれらは生きているではないか」 「………ッ」  確かに冷泉の言う通り、二人は弾かれたように飛び退いて死の一閃を回避している。つまりこれはそういうことだ。 「御身らの代表は力が足りなかっただけのこと。弱かったのだ。ゆえに死ぬ。そこに言い訳は通用しない」 「それは……ッ」 「しかし……ッ」 「しかし、何ぞ?」  反論は不可能だ。躱せる者がいた以上、躱せなかった者らは劣っていた。覆しようのない事実である。  もとより死合。ならば順序が狂おうと結果は同じであると言う。その論法に異は挿めない。 「まあよいではありませぬか。これよりが真の見物」 「雑魚が淘汰された後、兵たるを見極めるのが我らの務めというものよ」  それきり六条らを一切無視し、冷泉は庭の中央に視線を戻す。楽しくて堪らないと、含み笑いを浮かべながら―― 「そうであろう、烏帽子殿」  竜胆は、これより先がさらなる修羅の場となることを予感した。 「あの者……」  壬生宗次郎と言っていたか。女のような細面と矮躯であるにも拘らず、一撃で三名の達者を斬り倒した武練の程――断じて尋常なものではない。  半眼に開いた瞳の色は静謐そのもの。凪いだ湖面のように茫洋と、秋風のごとく透明に、しかし緩く捧げ持った白刃は、紅の凶気に濡れている。  妖々と吹きつけてくる殺意の濃さに、竜胆は総身を締め上げられるような悪寒を覚えた。  アレは間違いなく違っている。壊れていると表現するのは、元がまともであった者だけだ。最初から何かがズレて生まれた者を、そのようには評せない。  ゆえに先の蛮行も、あの男自身の意志だろう。  冷泉は、奇妙な噂を聞いたと言った。  ならばそれを当てに呼び寄せて、好きなように振舞わせた結果がこれだと見るべき。下知を受けたわけでもなく、アレはそういうものなのだ。  剣鬼――強いて言うならその類。  思わず、竜胆の口から喘ぎにも似た声が漏れた。 「逃げろ、龍水……ッ」  おまえの手に負える相手ではないと、妹のような少女に呼びかけるが…… 「おかしいですねえ。なんであなた、生きてるんです?」  剣鬼は今、尻餅をついて放心している少女の顔を不思議そうに見下ろしていた。 「あなたが躱せるようなものじゃなかったはずだ。僕はそのように撃ちましたよ」 「無駄な剣は揮いたくない性分なんです。一生は短い。時間は有限なのだから、戦うに値する相手は選ばないといけません」 「でないと僕は、生きてるうちに夢を叶えることが出来なくなる」 「………ッ」  その口調もその顔も、過日出会ったときのまま変わらない。しかし全身から立ち昇る気の凄烈さは、もはや完全な別物だった。 「宗、次郎……」  これがこの優男の本性なのだ。剣に狂い、剣に生き、強者を斬殺することにしか興味がない鬼想の持ち主。  龍水がまだ幼いとさえ言える女子だから。曲がりなりにも知己だから。そんなことはまったく何の意味もないのだ。  そもそもこの場にいる以上、神州の益荒男という誉れを名目上授かっている。ならばもうそれだけで、宗次郎の斬殺対象になるのは避けられない事実だろう。 「僕が天下最強の剣士である。それを証明するためには、まずこの場の全員を殺さないといけませんよね」 「だから差し当たって、取るに足らない人たちを排除しようと思ったのですが……」 「龍水さん、あなたについてはどうも読み誤ったみたいです。こんなことは初めてだし、解せませんが、まあいいでしょう」 「流石は御門の世継ぎ殿、何かがあるということで」  凶剣がゆらりと泳ぐ。刹那のうちにそれは走り、少女をただの肉塊へと変えしまうに違いない。 「次はそれなりに、気を入れていきます。抵抗はご自由に、どうせ意味はありませんから」 「しょせん女性などというものは、弱すぎて話にならない生き物でしょう」 「――――――」  瞬間―― 「―――おい」 「今、なんて言ったのよ、あんた」  爆発に等しい轟音と共に、御所を揺るがしたのは踏み込みで発生した衝撃だった。比喩ではなくそれだけで、地震が起きたのかとこの場の全員が錯覚したほどの体術である。 「女が? 弱い? それは私も含めて言ってるわけ?」  玖錠紫織――割って入った彼女の一撃が宗次郎を吹き飛ばしていた。先の踏み込みが地震なら、続く拳は落雷だったと言うしかない。その速度もその威力も、常人が理解できる域を遥かに超えて余りある。 「あんたの相手は私だろう。何を一人で勝手に〈羨〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈さ〉《 、》」 「そっちがその気なら、別にいいんだよ。ぐちゃぐちゃに始めちゃってもさあ」 「その通りだ」 「すまねえな龍明。ムカついたぜ、少し本気出す」 「舐め腐りやがってクソガキが。上等だよブチ殺してやらあァッ!」  怒号に先立ち、庭の四方に撃ち込まれたのは鉄杭と形容できるほど巨大な苦無だ。それはこの場における地脈を絶ち、限定した領域内の自然を殺した。  その効果は術封じ。すなわち結界破壊に他ならない。外に被害が及ばぬよう、龍明が張り巡らせていた鎖を消失させたのだ。  これによって刑士郎は、曰く窮屈な思いをせずに戦える。ことによれば、禍憑きを発生させる気かもしれない。 「まったく、この問題児ども……」  しかし、そんな場にあってなお、龍明はどこか楽しげに苦笑していた。やれやれと溜息さえつきながら、まるでうっかり茶を零したという程度の反応しかしていない。  そのまま周囲を見回して、騒然となっている百官を窘めるように言葉を継いだ。 「ああ、落ち着かれよお歴々。逃げるのは猛獣を刺激するようなものだから逆に危ない」 「遺憾だが、これもまたいい機会と思われよ。我々が成すべき東征とは、いったいどれほどのものなのか。その熱量を直に感じ取ってみるのも悪くない経験だろう」 「どだい机上の空論では、戦場など理解できはしないのだからな」  ゆえに等しく命を懸けて見守れと、慇懃無礼に言い放つ。皆の安全を確保するという職務を放棄した言動だが、誰もそこに文句は言えない。言えるような状況ではないのだ。  はたして周囲は、衝撃による〈騒擾〉《そうじょう》から恐怖による静寂へと移り行く。それをゆるりと見届けて、龍明は己が娘へと目を向けた。 「さあ、立ち上がれよ龍水。何をだらしなく呆けている」 「再び結界を張り直すのに、私は少々時間を取られる。おまえがやるべきことはその間、馬鹿どもの暴発を防ぐことだ。出来るだろう?」 「頼むから、失望させないでくれよ、我が娘」 「………ッ」  だが、それに応えようとした龍水より早く―― 「痛いなぁ……」  茫とした、しかし血も凍るような声が響く。  紫織に殴り飛ばされて大の字になっていた宗次郎が、むくりと上体を起こしたのだ。 「おかしな技を使いますね。確かに躱したと思った刹那、まったく別の方向から見えない拳打が飛んできた」 「うふ、ふははは……凄い、本当に凄いなあ。自分が何をされたか分からない。こんなことがあるなんて」  掛け値なしに感動したと、武者震いに痺れながら立ち上がる宗次郎。彼が言った言葉の意味を、理解した者がはたしてこの場に何人いたのか。  先の攻撃、紫織が踏み込んだのは宗次郎の右後方で、繰り出したのは何の変哲もない直突きだ。  しかし、にも拘らず〈宗〉《 、》〈次〉《 、》〈郎〉《 、》〈は〉《 、》〈真〉《 、》〈後〉《 、》〈ろ〉《 、》〈に〉《 、》〈飛〉《 、》〈ば〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。まるで真正面から殴られたとでも言わんばかりに。 「遁甲……ではないですよね。もちろん錯覚でも有り得ない。だってどちらにも気配があったし、どちらにも実体があった」 「あなたは、腕が五・六本でもあるんですか。玖錠の……ええっと」 「紫織だよ」  快活に応える声は、だが同時に掠れてもいた。どうやらこちらも、武者震いに痺れているらしい。 「怖いね、あんた。おっかない。二発目まで躱そうとした奴なんか初めて見た」 「しかも……」  そのとき、前方に構えたままであった右の拳……そこから微かに血が滴った。 「私の身体に触れるなんて」  それがさも有り得ないことであるかのように、紫織は宗次郎へ畏怖と称賛の意を送っている。 「理屈じゃないんだけどなあ、私のコレは」 「それを破るってことは、つまりあんたも同類なわけだ」  遁甲――すなわち空間を捻って繋げたわけではないと、宗次郎は推察した。そしておそらく、その通りだろう。  入り口と出口を設けた上で距離を縮め、もしくは広げ、またあるいは角度を狂わす。それが遁甲と呼ばれる技術であり、御門の屋敷に張ってあったものがその典型だ。  これを戦闘に応用するなら、拳や剣を穴に潜らせ、別の場所から吐き出させること。つまり空間的な晦ましによる死角攻撃に他ならない。  避けたと思ったのに別の方向から殴られた――宗次郎が評した紫織の技は、そこだけ見れば遁甲に極めて似ている。だが違うのだ。  なぜならどちらにも気配があり、実体があったと彼は言う。それは二連撃を意味するもので、事実紫織も二発目という言葉を口にした。  遁甲ならば、どれだけ機や角度が面妖だろうと一発は一発だ。しょせん晦ましである以上、最初の軌道は虚にすぎない。むしろ使うと見破られれば、そこに殺傷力はないのだから特攻されると不利になる。  虚と実。武道の基本だが、それも一対一において手数を増やす苦肉の策と言っていい。兵法上、多勢で無勢を押し潰すのが必勝の型であるのだから、もっとも恐ろしいのは総てが実。  すなわち、たった一人による同時多角攻撃だ。腕が五本も六本もある者ならば、その不条理を実現できる。  無論、紫織の技が本当にそうであるならの話だが。 「――ふん」 「虚けが、だから何だってんだ。知るかよ、てめえらのシケた歪みの種明かしなんぞよォ」 「〈凶月〉《おれ》に攻撃しかけるような奴は生かしちゃおけねえ。見逃せねえんだよ、立場上なあ」  膨れ上がる凶猛な怒気と殺意。その奔流に晒されながら、紫織は困ったように苦笑した。 「あんた意外と可愛い奴だね、刑士郎。そんなに咲耶が大事かい?」 「あの子に害が及ぶかもしれない未来は、欠片も許せないっていうわけだ」 「でもね――」  再度大地を踏み鳴らす衝撃を轟かせ、視認できるほどの闘気が爆ぜる。  神州最強と謳われた玖錠の武威は、決して偽りの看板ではないのだと。  その激しさとは対照的に、どこまでも気楽な調子で―― 「知らないよ、バーカ。文句あるなら掛かっといで」  いったい何処の風習なのか、悪戯っぽく中指を立てて嘯いた。 「ほらこれで、私も〈凶月〉《あんた》の敵ってわけだ」 「――面白ぇ!」  怒声一喝。こちらも地を陥没させる勢いで蹴り上げると、五間の距離をただの一足で詰めて来る。  その所業は、体捌きを練り上げた縮地と呼ばれる技術に非ず。高濃度の陰気によって、人の埒外へと身体能力を変容させた法則外の運動だ。  凶月を代表とする高位の歪みは、己を一つの異世界へと変えている。ゆえに骨格や筋量がどうだのという理屈や常識など受け付けない。  まさに超常強化と呼べるだろう。それは五感総てに及んでおり、ならば無論言うまでもなく―― 「横取りはやめてくださいよ、彼女は僕の獲物です」  こちらは縮地で踏み込んできた宗次郎の一閃を、高速疾走中にも拘らず視認もしないで躱していた。 「抜かしやがれ、おとぼけ野郎。それをぶっ壊した張本人がよく言うぜ」 「ああ、そう言えばそうですね。じゃあこうしましょう。二人まとめて遊んであげます」 「最初に斬られたいのはどっちですか?」 「クハッ―――」 「あっはっは」 「ん? 僕は何かおかしなことを言ったでしょうか」 「いい冗談だ」  同時に、風を巻いて刑士郎の裏拳が走る。 「てゆーかあんたら隙だらけすぎ」  呆れ気味な口調とは裏腹に苛烈極まる紫織の蹴りが、なぜか一発で二人の男を左右対称に弾き飛ばす。 「こらァ……」 「ちょっと洒落にならないですね。一度ならず二度までも」  紅蓮に燃える刑士郎の目と、深く静かに凍っていく宗次郎の目。  まったく正反対でありながら、ほぼ同量かつ同等に剣呑な殺意を浴びて、紫織は晴れやかに破顔した。 「わーお、私ってモテモテぇ」  事実それは彼女にとって、素晴らしく魅力的な色男からの求愛と同じ意味を持つのだろう。 「優しくしてね。まだ殿方を知らないの」 「そりゃいいこった」 「じゃあ穴だらけにしてあげましょう」  にこやかに、涼やかに、滾るように――三者三様の態ながら、その目は等しく他者の絶命を見据えている。  小手調べはこれで終わった。今より本気の勝負が始まる。  現状、紫織の怪能力が一手先んじているように見えるが、宗次郎はまだ真価の片鱗すら見せていない。まして刑士郎が禍憑きを発生させれば、あらゆる意味で何が起こるか分からないのだ。〈趨勢〉《すうせい》は誰にも読めない。  ゆえに、この均衡を崩す要素があるとすれば…… 「母刀自殿……」  今ようやく立ち上がり、自分のことなど忘れているかのような三人を見る御門龍水。  当初、宗次郎は彼女を取るに足らないものだと断じた。しかしその一閃は、なぜか龍水の命に届いていない。  単に仕損じたわけではないだろう。剣鬼の牙は凶悪なだけに精妙で、そうした狂いと無縁である。  では、なぜ? 「竜胆様……」  母と、そして姉のような女性へと、自らが絶対の敬意を抱く二人に向けて少女は頷く。 「大丈夫です。私とて」  この場にこうして立った以上、覚悟は決めているのだと。 「私とて、そう易々と終わるほど簡単ではありません」  印を結ぶ。そして流れるように指が動き、術の形を組み上げていく。  龍明は暴発を防げと言った。ならばまず前提として、今まさに荒れ狂おうとしている歪みそのものを抑えねばならない。  本来まったく別の法則下にある力とはいえ、人の身体に宿っているのだからこちらの理も通じ得る。要は彼らの人間部分に訴えればいい話だ。  そのためにこの場の何を利用するかは、考えるまでもなく決まっていた。 「私は龍水」  龍とは〈蛟〉《こう》――流れる水の化身である。  降り積もる雪の総て、水氣なら腐るほど溢れているのだ。 「チンチクリンではないぞ、御門の世継ぎだ」 「少しばかり年長だからと、舐めるなよこの虚けども!」  術の発動に伴い瞑想へと入るその刹那、些細な邪念が胸を焦がす。  そういうところが未熟なのだと言われるだろうが、それは彼女にとって必要不可欠なものだった。 「夜行様……」  どうか私を見てください。  龍水は、あなたに相応しい女になってみせます。  ――と、祈って誓う恋心。  彼こそ天下最高の男であると、勝手に決めている自分の法則に順ずることだ。 「あー、あー、あー」  そんな眼下の展開を眺めながら、呑気に間延びした声が流れる。 「危ないですの。やばいですの。龍水このままじゃ死んじゃうですの」 「ねえ夜行様、いいんですの? 無視するですの? ほんとに手助けしないんですの?」 「ああ、そう言っただろう。何もせんよ。あれもそれを望んでいる」 「むぅ~~~」  ごろごろと唸りながら、納得いかなげに首を捻っているのは犬だった。  いや、これは本当に犬なのか? 「夜行様は、悪ですの」 「ははははは、そうかそうか。私は悪か。爾子は今日も今日とて愉快よな」  爾子と呼ばれたそのモノは、白くむくむくとした仔犬に見える。だが比率を間違っているとしか思えない。  巨大な頭、短い脚、太く寸胴な体格は、確かに仔犬のそれである。しかし全体として牛ほどもあるとすればどうだろう。  言わば、十倍に拡大した仔犬だった。無論そんな生き物は自然界に存在しないし、そもそも犬は人語で悪態など吐きはしない。  見る者を和ませるような容姿だが、これは紛れもない異形のモノ。常とは違う条理で在る、神秘と幻想の具現なのだ。 「丁禮、丁禮、ちょっとそっちからも言うですの。夜行様は今日も外道で、爾子はやってられないですの」 「無駄だよ。意味がないから諦めたほうがいい」  水を向けられた童子は落ち着き払い、犬とは対照的な静けさで首を横に振っている。 「そもそも爾子、君だって本当は龍水殿を案じているわけじゃないだろう。単に夜行様を絡ませたほうが、より面白くなりそうだから。違うかい?」 「あれ、なんで分かったんですの?」 「……君の考えていることくらい当たり前に分かる」  日頃から相当苦労しているのだろう。童子が吐いた溜息には、疲れと諦観が滲み出ていた。 「しかし、とはいえ夜行様。私も正直これはどうかと思います」 「先日は龍明殿の領分と思い、自重を求めたわけですが……恥ずかしながら私の見込み違いでした。このままでは本当に殺されます」 「龍水殿を軽く見ているわけではありません。年齢と経験を考慮すれば、現状の実力でも大したもの。御門の世継ぎに相応しい才の持ち主であると言えるでしょう」 「ただ、あの三人は違いすぎます。武も、歪みも、そしてその精神性も……」 「いくらか健闘できたとしても、今はまだ荷が重い。割って入れば……」 「ぐちゃぐちゃばらばらどっかーん、ですの!」 「爾子、頼むから黙っていてくれるかい」 「うぅ~、丁禮が冷たいですのぉ……」  前足で瓦をぺしぺし叩きながら、爾子は拗ねたように愚痴っている。 「そもそもからして、あれですのよ。最初から夜行様が出場してれば何の問題も無かったですのに」 「そりゃあ龍水は世継ぎだけれど、御門の最強は夜行様に決まってますのよ。ぶっちぎりの、敵無しの、他とは変態的なほど差があるですの」 「だからそうしてさえいればこんなことにはならなかったし、他の連中に舐められることもなかったですの。御門の代表はチンチクリ~ン、ぷぷぷーなんて誰にも笑われなかったですのよ」 「それは言ってもしょうがないだろう。夜行様がこんな催しに出るわけがない。そこは龍明殿も分かっている」 「丁禮、ちょっとさっきからなんなんですの。意味がないから諦めろとか言っておいて、自分も夜行様を説得しようとしてるのは変ですの。矛盾ですの」 「私は別に説得しようとなどしていない」 「ふにゃ、ていうと?」 「つまり――」  丁禮は、先ほどからにやにや笑って二童子の言い合いを眺めている夜行のほうへと向き直った。 「ただ、許しを頂きたく思うのです。私があの場へ参ずることへの」 「すでに御前試合の体裁などないも同然。仮に何か言われようと、私の助勢は龍水殿の立場と人望に起因するもの。ならばそれも、彼女の力と言えるでしょう」 「なるほど。まあ確かにそうかも」 「だけど丁禮、どうしてそんなに龍水の味方をしようとするですの?」 「決まっている。龍水殿は夜行様の許婚だ」  ゆえに助けるのは当たり前のことだろうと、眼光鋭く言い放つ。 「我々にとって、未来の母御となる方ならば」 「はにゃあ、どうでもいいけど貧相な母様ですのね~」 「どうか夜行様、お許しを――」  と、懇願する丁禮に。 「ならぬ」  夜行は変わらぬ笑みを湛えて、無情にそれを切って捨てた。 「私は何もせぬと言った。つまりおまえたちもしてはならぬのだ、丁禮よ。履き違えてはいけないな」 「その身は私と同体ゆえに、切り離して扱う気は微塵もない。ああ実のところ本音を言えば、困るおまえが愛らしくて堪らないのだ。げに甘露だよ」 「変態! 変態! あんたどうしようもないド変態ですの!」 「しかし、このままでは龍水殿が――」 「死ぬるなら、あの者らは皆そうよ」 「え?」 「はい?」  それは彼らが全員相討つということなのか、もしくは別の意味があるのか。放心する童子たちの疑問も視線も置き去りにして、夜行の瞳はぎらぎらと、ぎらぎらと輝きながら眼下の御所を見下ろしている。  まるでそう、天上の視界を持つ者のように。 「〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》」 「うふふ、ふふふふふ、はははははははははははは」  そして初めは呻くように、次第に轟き爆発していく哄笑が、〈秀真〉《みやこ》の空を揺るがしながら溶けていく。  俗に天狗笑というものがあり、まさにこれこそがそうだと言える享楽の塊めいた笑い声。  それに合わせて、ぼう、ぼう、ぼうと、周囲に獣面の田楽者らが浮き出てきた。これも夜行の〈僕〉《しもべ》であるに違いない。  彼らが歌う。舞って踊る。 狂想的な曲調で、神楽を礼賛するかように。 「心配無用だ。なるようになる。龍明殿は何かと気の利く御方だよ」 「彼女がああしておられるから、私はおまえたちと戯れ続けることが出来るのだからな」 「感謝して、ほら歌うがいい。龍水を激励してやろうではないか」 「ああ、案ずるなよ――〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈さ〉《 、》!」  酔い始めた、あるいは覚醒し始めた主に何を言っても無駄だと悟っているのだろう。爾子と丁禮は言われた通り、田楽者の中に混じって歌いだした。  曰く、このままいけば全員死ぬという戦いの場を見下ろして。 「〈天〉《あめ》切る、〈地〉《つち》切る、八方切る。天に〈八偉〉《やちがい》、地に十の〈文字〉《ふみ》――」 「ふっ切って放つ、さんびらり」  そこに何が起こるのかを見届けるべく、そろって拍手を打ち唱和した。 「よおおおぉぉ、――はッ!」 「今さらに雪降らめやも〈陽炎〉《かぎろい》の燃ゆる春へと成りにしものを――」 「〈唵〉《おん》・〈摩利支曳〉《まりしえい》〈娑婆訶〉《そわか》――」  それはある種の瞬間自己催眠を意味するのか、唱え終わるのとほぼ同時に紫織の気が変質していく。  猛烈に、だが曖昧に、存在そのものがズレるような。まるで陽炎か〈蜃〉《しん》の夢。  二重、三重、四重、五重――際限なくぶれて重なっていく彼女のどれが本体なのか分からない。否、もしかしたら、総てが本体なのではないだろうか。  多重身――これまでの技を鑑みても、玖錠の秘伝はおそらくそれに違いあるまい。だが紫織は歪みを宿している。  ただの分身とは根本から異なる何がしか……未だその正体は不明だが、間違いなくこれより明らかとなるだろう。そう断言できるほど、ここは苛烈な死地と化していた。  それが証拠に―― 「〈如医善方便〉《にょいぜんほうべん》、〈為治狂子故〉《いじおうしこ》、〈顛狂荒乱〉《てんおうこうらん》、〈作大正念〉《さくだいしょうねん》」 「〈心墜醍悟〉《しんついしょうご》、〈是人意清浄〉《ぜにんいしょうじょう》、〈明利無穢濁〉《みょうりむえじょく》、〈欲令衆生〉《よくりょうしゅうじょう》、〈使得清浄〉《しとくせいじょう》」 「〈諸余怨敵皆悉摧滅〉《しょよおんてきかいしつざいめつ》――」  いま宗次郎が口にしたのは、狂気を正気に変ずる祈念である。無論のことその意図は、自身の鬼想を当たり前の常識であると正当化することに他ならない。  その上で、皆悉く敵を滅すと宣言した。彼にこの場の敵を生かして帰すつもりは毛頭ない。  剣が揺らぐ。〈鬼哭啾啾〉《きこくしゅうしゅう》と刃鳴りを起こす。それは清澄な風のようでありながら、斬人の鎌鼬を発生させる前奏なのだ。およそ獣性とは無縁の冷涼たる血嵐こそ、壬生宗次郎の本領と言って構わない。 「アホか」  そしてだからこそ、この場の刑士郎は完全に異質だった。全力全霊の戦いに際し、言わば識域を切り替えた紫織と宗次郎の変質を、何かの茶番であるかのように鼻で笑う。 「いちいちぶつぶつと面倒くせえ。寒い演出で格好つけなきゃ殺し合いも出来ねえか」 「大変だよなあ、兎ってのはよ」  口調に哀れみさえ混ぜながら、侮蔑も露わに言ってのける。自分に〈儀式〉《そんなもの》は必要ない。生来の虎を自認しているからこそ、雰囲気作りや自己催眠で変身しなければ戦えない人種を軽蔑しているのだろう。 「さぁて……」  全身の筋肉が蠕動する。今、彼の体内でどのようなことが起こっているかは誰にも理解できないはずだ。  骨の形、筋密度、内臓の位置や経絡に至るまで、常人とは隔絶した異界の法則に則る活性は、運動において力学の限界に囚われない。  低く構えた前傾姿勢で一瞬身をたわめると、地を抉る加速の第一歩を踏みだした。 「――いくぜェッ!」  その疾走は蛇のように、野獣のように、本来両立しない二つの属性を兼ね備えている。すなわち、滑るように跳ねているのだ。  大和人の平均を大きく上回る体躯でありながら、刑士郎の全身は子供の股下さえ潜れるほどの低空に収まっている。つまり、成人から見れば膝より下。  地を這う跳躍と言えば矛盾して聞こえるが、他に表現のしようがなかった。  それが向かう先は、言うまでもない。 「―――――」  先ほど、紫織に一発もらったことを刑士郎は覚えていた。彼の気性を考慮すれば、まずはその意趣返しを優先するのがごく当たり前の選択である。  ゆえに迎え撃つ玖錠流。とはいえ迫り来る敵の位置は膝より低く、かつ速い。刑士郎の身体能力を鑑みれば、回避を選ぶのは論外だろう。間違いなく瞬時に方向を切り替えて、不充分な体勢のところを追撃される羽目になる。  よって、ここでの選択は二つに一つ。蹴り上げるか踏み潰すか。  前者は危険が大きすぎる。真っ向からの交差法など、下手をすれば脚ごと吹き飛ばされかねない。狙う場所が顔しかないという事実からも、この選択で結果を出すのは限りなく不可能に近かった。  しかし、かといって踏み潰すというのはどうか。  およそあらゆる武道において、下段への打ち下ろしは止めの技だ。必殺の威力は持つものの、それは相手が静の状態だからこそ可能なこと。逆に言えば、動体に打ち下ろしを決める術理は存在しない。  まともに考えて、詰みのようなものだった。その総ては、常識の埒外にある刑士郎の体術が原因と言える。想定の範囲から逸脱したモノを相手に、技術は効果を発揮できない。  だが、常識を外れているのは紫織も同じだ。 「ふッ―――」  短い呼気一つで繰り出した一撃は、〈下〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈を〉《 、》〈か〉《 、》〈ち〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》。それもほぼ地面に密接していた胴の部分、心臓、肝臓、鳩尾を撃ち抜く形で―― 「あんた私の何を見てたの」  有り得ぬ角度からの奇襲を受け、身体ごと跳ね上げられた刑士郎に容赦のない追撃が走る。  今度は眉間、こめかみ、人中、喉―― 総て言うまでもない急所であり、内の一発でもまともに食らえば致命となり得る四連撃が全弾命中。  たかが女の攻撃だと、侮れるようなものではない。硬気で強化され、貫気で推力を増している紫織の拳足は鉄板さえ容易に貫く。たとえ大熊であろうとも、今の連撃は頭部を四散させて然るべき威力があった。 「くッ、はッはァ――」  しかし、にも拘らず刑士郎は笑っていた。かち上げられた勢いを利用するどころかまったく無視し、反り返った体勢から跳ね戻るように打ち下ろしが放たれる。 「ぐゥッ――」  防御はした。なのにまったく意味がない。交差した腕ごと背骨を押し潰すような圧力に、紫織は前のめり地面に叩きつけられる。  僥倖は、今のが打撃であったことだろう。あの速度とあの威力で刃物を叩き付けられたら、いかに気功で剛体を維持していようが両断は免れない。  顔面が大地にめり込むその刹那、間一髪両手をついた紫織は前方回転の要領で両足を跳ね上げる。倒立しながらの蹴撃が、下から刑士郎の顎を撃ち抜いた。 「効かねえよ」  断じて非力なわけではない。紫織の攻撃力も充分すぎるほど常人離れしたものだ。しかし刑士郎の耐久力は桁が違う。  一般に、陰気の濃さには十の段階が設けられ、五を超えた者らは理屈を無視した身体能力を獲得する。その基準に照らした上で、刑士郎の汚染度は等級六だ。もはや怪物じみていると言っていい。  神州において五本の指に入る高位の歪み、それが凶月刑士郎という男である。加えて言うなら、その中で達人域の武練を有する者は現状分かっている範囲で彼しかいない。  純粋な武術の腕なら紫織のほうが勝るのかもしれないが、土台の性能が反則的だ。些細な差は覆してしまう。 「おらァッ――」  そのまま紫織の足首を掴みあげると、人形のように振り回して投げ捨てる刑士郎。放る瞬間に延髄を蹴られたが、やはりまったく意に介していない。素手の打突では、おそらく意味などないのだろう。  それが証拠に、宗次郎の一閃は受けることなく躱してのけた。のみならず腰の双剣を抜いて応戦し、剣鬼の刃を紫織の拳以上には警戒している。  ならば後は剣術の腕比べだが、そこは宗次郎が上回った。  速い――とはいえ、刑士郎でも反応できないほどの速度ではない。並の者なら閃光にしか見えないだろうが、あくまで万に一人か二人は辿り着ける域である。真に恐るべきところは別にあった。  〈宗〉《 、》〈次〉《 、》〈郎〉《 、》〈の〉《 、》〈剣〉《 、》〈は〉《 、》〈殺〉《 、》〈気〉《 、》〈の〉《 、》〈塊〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈意〉《 、》〈が〉《 、》〈読〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。その一撃一撃を正確に捌くのは、喩えるなら大瀑布の中から氷柱を見つけるに等しい作業だ。つまり有り体に言うと、木を隠すなら森である。  放射している殺気の密度が常軌を逸して濃すぎるため、攻撃に伴う意が消されている。達人になればなるほど重要になる読み合いが、この優男にはまったく通用しないのだ。  必然、刑士郎は後手に回り、防戦へと追い込まれる。数合続いた打ち合いの末、無理な姿勢から躱したことで僅かに重心の乱れが生じた。  見逃す宗次郎ではない。  大気を突き破る轟風と共に、繰り出されたのは渾身の刺突。ここに必殺を予感して、鬼剣は驚異的な冴えを見せる。  これまで一度も出していなかった点の攻撃をこの刹那に、ただでさえ読みにくい剣筋をさらに幻惑する周到な一閃だ。おそらく総てを計算した上なのだろう。  なぜなら、刑士郎の頑強さを前に斬撃は効果が怪しい。いかに利刀の一撃を叩き込もうと、折られる可能性が生じてしまう。  ゆえに突く。刺して抉る。殺人技として弾丸のごとく放たれる点より怖いものはない。  宗次郎をして会心と言える一撃は、狙い過たず刑士郎の左胸を背中まで貫いた。後は刃を返して心臓と動脈を引き裂けば総てが終わる。 「で?」  はずだったが、刃はぴくりとも動かない。筋肉に絡め取られて抜くことも出来ず、逆に宗次郎が縫い付けられる羽目になった。 「―――――ッ」  その一瞬生じた停滞を、刑士郎は見逃さない。横殴りに放たれた一撃を回避すべく、宗次郎は刀を手放して後方に飛び退った。 「なぜ……」  いったいどういうことだ?  困惑する彼に向けて、刑士郎は冷笑ししつ賛辞を送った。 「そんな顔すんな。大したもんだぜ。てめえの血を見るのは久々だ」  ずるずると左胸から剣を抜いて、刀身にこびりついた血を舐め取る。その所業云々よりも、不思議なのはあまりに出血が少ないこと。 「天下最強が夢だったか。ああ、おまえさんならなれるかもしれねえな。だがまだ経験が足りねえよ。俺みたいなのと殺り合うのは初めてか?」 「狙うなら首にしとけ。こっちは胴の中身なんざ好きなように弄れるんだ」  つまり、先の刺突は心臓を捉えていない。のみならずあらゆる大動脈、急所の位置を刑士郎はずらしているのだ。これでは首を切断でもしない限り、必殺とはなり得ないだろう。 「つっても、来ると分かってるもんを易々食らうほどトロくはねえがよ」  嘯いて、刑士郎は引き抜いた宗次郎の刀を放り渡した。 「拾いな。それがなきゃ戦えねえだろう」 「………ッ」  恐るべき屈辱に、宗次郎の肩が大きく〈戦慄〉《わなな》く。無論それは戦意の発露で、怖気づいているわけではない。そこはもう一人とて同じはずだ。 「なんとまあ、本当に出鱈目だね」  立ち上がり、再び構えを取った紫織の拳には、凶悪な手甲鉤が握られていた。その先端にまで硬気が及び、金剛石すら砕く域まで武器が強化されていく。  現状、総ての攻撃を命中させている彼女なら、これで話は変わってくるかもしれない。 「あんまりこういうもんに頼るのは好きじゃないんだけど、こりゃしゃあないね。もとより真剣勝負ってのが名目だ」 「そのにやついた顔、整形してやるよ刑士郎」  言うが早いか、紫織は地を蹴って攻撃に移る。 「後悔しますよ。僕にこれを返したこと」  走りながら刀を拾い上げた宗次郎もそれに続く。 「おお、いいぜ。掛かってきなァ」  口角を吊り上げ笑いながら、今度は迎え撃つ形を取る刑士郎。  しかし実際のところ、三者の力量にそれほど差があるわけではない。先の攻防が刑士郎の有利に働いたのは、ひとえに高位の歪みというものを紫織と宗次郎が正しく理解していなかったためである。  その誤差は、もう修正された。そうなれば形勢は変わってくる。  少なくとも技においては、紫織と宗次郎のほうが上手なのだ。刑士郎が彼らの攻めを完全に捌ききれないのは先ほど証明されており、ならば後はどのように有効打を与えるか避けるかの勝負となる。  唸りをあげる紫織の拳と、空を切り裂く宗次郎の剣。二人は協力し合っているわけではないが、第一に刑士郎を斃すという点で方針が一致していた。ゆえに必然、攻めは連携と化していく。 「はああァァッ――」  抉るような左の鉤突き。肝臓が何処に移動しているかは不明だったが、紫織はそんなことに頓着していない。渾身の力で放たれた一発は、寸でのところで防御されたがそのまま振りぬく。  結果として、刑士郎の身体は横に流れた。そこには当たり前のように宗次郎が待ち受けている。  刃を寝かせた首への刺突は、命中と同時に薙ぎ払って斬首する気に違いない。刑士郎はその軌道上に、一髪千鈞の際どさで自らの短刀を滑り込ませた。  鋼が高速で擦れ合い、耳を覆う金切り音が響き渡る。軌道を逸らされた剣先は紫織に向かうが、首と肩の中間を削り飛ばされても彼女は意に介さない。再び追撃へと移行して、宗次郎もまたそれに倣う。  なぜここまで徹底的に、彼らは刑士郎を狙うのか。真意はその首級に価値があるからというわけでも、まして先の意趣返しを優先しているからというわけでもない。  単純に、この相手は速殺しなければならないという強迫観念。 「早く――」 「早く――」  一刻も早く殺してしまう必要がある。それこそ電光石火の早業で、彼が脅威を感じる暇もないほど速やかに。 「ふ、ふはは……」  今、刑士郎は劣勢だ。そしてそういう状況を、この男は自ら作り出した。それが何を意味するのかは、深く考えるまでもない。  禍憑きを出される。  凶月を追い詰めるとはそういうことで、そうなってしまえばどうにもならない。直接禍憑きを体験したことはない二人だったが、刑士郎と切り結ぶことで否が応にも理解していた。  常識外れの身体能力と勘働き、それだけでも有り得ないほど厄介なのに――  このうえ凶運まで武器にされたら、まったく手に負えなくなってしまう。 「つまり時間との勝負か」  麗々しい雅楽でも聴き入るような表情で、冷泉は陶酔に目を細めながら独りごちた。 「げに恐ろしいものよな、凶月とは。禍憑きという鬼札で、兵法を崩しておる」 「なあ烏帽子殿、御身とてそう思うだろう?」 「……確かに」  頷く竜胆も、問い掛ける冷泉も、眼前の戦いを総て把握しきれているわけではない。だが大局としてどういう流れになっているかは、彼らとて分かっていた。  順当に考えるなら、ある程度実力の伯仲した者を相手に一撃必殺など狙うべきではない。まずはその戦力を微量でも削いでいくことが重要で、そうした積み重ねのうえに勝利をもぎ取るのが当たり前の筋道だろう。  しかし、ここで常道は選べないのだ。刑士郎にとっての危機的状況を深刻化させればさせるほど、それを覆すご都合主義が発生する。  してみれば、冷泉の言った通り凶月の怖さはこれなのだろう。禍憑きという反則の存在が、戦いの論理性を崩している。必然、どんな達人でも攻めが大味にならざるを得ない。 「で、あればだ。可能性として二つの答えが予想される。一つは額面通りそのままに、凶運の発動を防ぐか否かという勝負」 「もう一つは――」 「それを餌に、釣ろうとしている」 「そう、我にはどうもそちらに見えるが」  禍憑きを意識させるだけさせておいて、攻撃が荒くなったところを一網打尽にする戦法。刑士郎の狙いはそうしたものではないのかと、冷泉は言っていた。 「ふふふ、いったいどうでありましょうな。これは実に悩ましい」 「我らでも思い至れる程度のこと、あれだけの武辺者らが気付かぬはずはありますまい。しかしだからといって、事態が変わるわけでもない」 「万が一、もしかして、その疑念がある限りどうにもならず、事前に答えを知る手段はないのだ。あの凶月、見た目に反して切れ者ですな。まるで敵手の運気を奪い取っているかのようだ」  つまり、それも含めて凶月であると。  事の真偽はまだ分からない。だが薄ら笑う冷泉の神経が異様に太いことだけは確かだろう。  仮に禍憑きが発生すれば、この場の全員に予測不可能な災厄が降りかかるかもしれないのだ。事態をまともに鑑みれば、呑気に戦況など分析している場合ではない。  慌てふためいて逃げるような腰抜けでは武門の長など務まらぬが、かといって一切の緊張と無縁の態度は異常に過ぎた。  おそらく、自分が死ぬことは絶対にないと盲信しているのだろう。己の中の真実にのみ酔いしれている典型例と言っていい。  それを豪放と評するのは絶対に違うし、いま目の前で戦っている者たちにもまったく同じことが言える。  なるほど、彼らの武威は大したもので、凄まじい。しかし、勇壮で華々しいと思えないのはどういうわけか。  この齟齬はどこからくるのか。  自問するうち、脳裏に過ぎった一つの言葉を、知らず竜胆は呟いていた。 「死者の、踊り……」  そうだ、彼らの在り方は浮遊している。まるで虚構の世界の住人であるかのごとく、行動に立体感を与える要素が欠けているのだ。  それを指して何と言うのか、その概念は何だったか……  いま竜胆は、長年に渡る違和感の正体を実感として受け止めた。そして同時に、強く悟る。 「だからか……」  〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈三〉《 、》〈百〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈は〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》。  どこまでも虚ろな者ども、浮遊しているその死生観。そんな様では、生き残ることも勝利することも叶わない。  確信をもって、間違いないと思えるから……  自分が何をするべきかは、決まっている。いつか龍明に言われた通り、将たる者の王道はただ一つで、他には無い。  信を望むなら探すのではなく、その〈狂気〉《りそう》とやらで〈兵〉《つわもの》どもを酔わし、勝ち取れ。 「そうだ」 「私は……」 「ぬ? どうされた烏帽子殿」  いきなり立ち上がった彼女を、訝しげに冷泉が見上げたその刹那。 「づおらァァッ!」  ついに生じた隙を衝いて、繰り出した刑士郎の一撃が袈裟切りに紫織の身体を両断していた。やはり彼は最初から、禍憑きを餌にこの瞬間を狙っていたことになる。 「――がッ」  噴き出る鮮血が御所の雪景色を真紅に染めた。先ほど冷泉が言った通り、刑士郎が凶運を発動させるか否かを事前に見破る術はない。よってこの結末は必然であり、紫織はどう足掻こうとこうなるより他になく――  そうした運命の蟻地獄……他者の希望的未来を恣意的に奪い取ることも含めて、なるほど凶月恐るべし。そう言わざるを得ないだろう。 「か、は、はは、は……」  いや、本当にそうなのか? 「あは、ははは、はははは……」  紫織の死は、もはや疑いようもない。刑士郎の怪力で胸郭を完全に断ち割られ、肺も心臓も致命の損傷を受けている。それは間違いないはずなのに――  なぜ今、彼女は笑っているのか。 「「絶対、そうだと思ったよ」」 「―――――ッ」  そのとき、驚愕の事態が起こった。 「あんたみたいな妹大好きお兄ちゃんが、やるはずないってことくらい分かってんのよ!」 「なッ―――」  刑士郎の右後方斜め上――〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈無〉《 、》〈傷〉《 、》〈の〉《 、》〈紫〉《 、》〈織〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。血を噴いて、血を吐いて、今まさに〈頽〉《くずお》れようとしている彼女も存在しているはずなのに。  分身ではない。幻覚でもない。紛れもなく紫織は死んだし殺された。刑士郎ほどの武芸者が、血の匂いと肉の感触を誤認するなど有り得ない。  では、いったいこれは何だ? 「よくも私を一人殺ってくれたね!流石に殺されたのは初めてだよ!」  怒号と共に、振り抜かれる渾身の右正拳――自身が斬り倒した存在と、自身を殴り倒そうという二人の存在を前にして、ようやく刑士郎は理解した。  これまで幾度か見せてきた玖錠紫織の怪能力は、すなわち可能性の拡大なのだと。  無限に存在する平行世界とでも呼ぶべきもの、そこには今の攻撃で死んだ紫織も存在すれば、躱して反撃に移れる紫織もいる。  どちらも本物で、どちらも実体。僅か一挙動であらゆる角度から複数発食らわせるという攻撃も、そうした無数の〈可能性〉《おのれ》を並列起動させていたからに他ならない。  ゆえに、この女を完全に殺すなら、何人いるか分からない玖錠紫織を同時に滅ぼすしかないということ。  それは総てが実体でありながら、同時に本物は一人もいないのと同じである。  まさに陽炎。彼女は触れ得ぬ蜃気楼。  理屈も常識も通用しない。術でも技能でも無論ない。  この不条理極まる歪みこそが、玖錠紫織の異能だった。  硬気を纏った手甲鉤に側頭部を強打され、刑士郎の意識が闇に沈む。彼ら高位の歪みは尋常ならざる再生能力を有しているが、それでも瞬時には回復できない重度の損傷を受けてしまった。  ならば――  続く鬼剣の一閃は、紛れもない必殺と化す。今の刑士郎に彼の刃を防ぐ手段は皆無だろう。 「―――――」  だが、しかし宗次郎は、ここで意図的に一拍の間を置いた。  その行動に明確な理由はない。傍から見れば愚行としか思えぬもので、千載一遇の機をみすみす逃したようなものだろう。ここで余計な間を空ければ、刑士郎は復活するのだ。  ではなぜ? 強いて言うなら勘である。  宗次郎の第六感が、ここで攻めることの危険を察した。意識をなくした凶月こそが、もっとも恐ろしいという事実に本能で気付いたのだ。  刑士郎に禍憑きを使う気はない。しかしそれは彼が起きている状態でのみ言えることで、意識をなくせば制御を離れる。  つまり、ここで止めの一撃を放つことは、逆に自分の首を刎ねるに等しい。  ほぼ無意識にそれを弁え、宗次郎は機を待った。  何を? もちろん―― 「てめえらァッ!」  刑士郎が意識を取り戻し、禍憑き発生の可能性が激減する瞬間―― ではない。 「東海、〈阿明〉《あめい》――西海、〈祝良〉《しゅくりょう》――南海、〈巨乗〉《きょじょう》――北海、〈禺強〉《ぐきょう》――四海、百鬼を退けて凶災を〈蕩〉《はら》う! 急々如律令!」  先刻から龍水が何かを試みていたことに、宗次郎だけは気付いていた。今この場において、彼がもっとも御門の少女を評価していたと言っていい。  よって彼女の乱入を許し、誘った。結果がどうなるかは知らないが、間違いなく何らかの決め手になると確信して揺るがない。  特筆すべきは、その歪んだ信頼にあると言える。龍水の力量ではなく、自分の剣を逃れた者だという事実のみ、〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈腕〉《 、》〈を〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「禁! 〈水位之精〉《すいいしせい》――悪星退散!」  はたして、それは覿面の効果を発揮した。 「なッ、にィ――」  印を結んだ龍水の指が振り下ろされるのとまったく同時に、降り積もった雪が蛇のように跳ね上がって刑士郎を禁縛する。その拘束は物理的な意味のみならず、精神的な面にも及んでいた。  俗に冷水を浴びせるという比喩があり、頭を冷やすという言葉がある。だから龍水は〈雪〉《みず》を使った。彼の行動だけでなく、沸騰した〈心〉《あたま》を縛って無理矢理鎮静させたのだ。  ゆえに、今の刑士郎は禍憑きどころか戦意そのものを解かれている。 「やった!」  自らをして会心の手応えに、思わず歓喜の声をあげる龍水。だが、彼女は分かっているのか。 「――お見事」  血に濡れた賛辞の声。それが引き起こす最終的な結末を。  宗次郎が一拍の間を空けたことで起きる事態は、刑士郎の無力化だけに留まらない。彼の斬撃は、その軌道上にもう一人の敵をも捉えている。  今、紫織と刑士郎の位置は完全に重なっていた。放たれた鬼剣の一撃は二人を諸共に両断し――  その後で、この男が龍水を見逃すことなど有り得ない。  敬愛する母の命を果たしたと、浮かれる少女はそこまで思い至らなかった。現状、これが御門龍水の限界だったと言えるだろう。  だから代わりに、別の者が反応した。 「くッ、このォ――」  紫織とて回避は不可能。だがそれはこの場合に限っての話である。先刻同様、〈可能性〉《じぶん》の一人が殺される事実を受け止めて、別の〈可能性〉《じぶん》に託せば宗次郎を斃せるかもしれない。  しかしなぜか、紫織は彼に斬られることを異様に嫌った。  次の瞬間、蜃気楼が出現したのは龍水のすぐ目の前。七・八間近く離れた位置にいきなり己を飛ばすのは、言うまでもなくかなり出鱈目な確率だろう。可能性としては、千の中に一つあればいいという域に違いない。  そんな離れ業を実現させることのほうが、紫織にとって宗次郎の剣を処するより易いというのか。  真相は分からない。ただ結果だけは明確に現れる。 「あっ、きゃあ――!」  放たれた拳に吹き飛ばされて、龍水の術が掻き消えた。同時に繋がれていた獣が常態を取り戻す。 「ぐッ、づおらァッ――」  今さら回避は出来ないと踏んだのか、刑士郎は躱すどころか前に出て、宗次郎の脇腹に廻し蹴りを叩き込んだ。それによって軌道が揺らぎ、剣は必殺を僅かに外れる。 「ぐッ――」 「つァ――」  弾かれるその場の全員。刑士郎に斬られた紫織も、龍水を殴った紫織も姿を消して、正しく四人だけが雪の御所に深手を負って倒れていた。  息を呑むような静寂が、ほんのしばらく流れた後…… 「面、白いなあ……本当に、皆さん中々、斬れませんね」  立ち上がった宗次郎は吐血した。彼の肉体は気功で強化もされてなければ、歪みで異形と化してもいない。ただの一発蹴られただけで、砕けた肋骨が内臓に刺さっているのだ。もはや瀕死と言っていい。 「ああ、くそ……てめえら真剣にイラつくぜ」  憤怒に歯軋りする刑士郎も、そこは同じようなものだった。先の一閃が首を掠め、頚動脈を裂かれている。おそらく戦意を絶たれたことで、急所も元に戻されたのだ。これは再度の肉体変異が間に合わなかったということだろう。 「まあそれを言うなら、私が一番ムカついてんだけどね……」  そして紫織の消耗も深刻だ。何せ一度、冗談抜きに殺されている。  その事実が少なからぬ疲弊を生むのか、滝のような汗をかいて呼吸も荒く、下肢はふらついて覚束ない。 「で……」 「そっちは」 「どうよ、御門のお嬢ちゃん」  問い掛けられた龍水は、しかし答えられる状況になかった。 「あ、つ……」  意識ははっきりしているのに、四肢が痺れて動けない。人に殴られたと言うよりは、転がる巨岩に撥ね飛ばされたようだった。何処が痛くて何処を負傷しているのかも分からない。 「ごめんねえ。加減する余裕なんかなかったし、そんなタマでもないでしょあんた」 「いや、驚いたよ。大したもんだ。そもそもなんでまだ生きてんの?」  先ほど宗次郎が言った台詞と、まったく同じ疑問を紫織は投げる。加減などしていないし、殺す気で攻撃したのになぜ息をしているのだと。 「おそらく、予知か何かでしょう。ほんの一瞬先だけなら、見えているんじゃないですか。だから躱せた」  だからさっきも、そして今も、致命傷を間一髪で免れた。土台の運動能力が貧相なせいで有効利用は出来ていないが、それでも役に立つ力と言っていい。事実その証明はもうしている。  ゆえに紫織と宗次郎は彼女の異能を賞賛し、同時に危険だと判断していた。誰にも分からない未来の情報を、たとえ一瞬先でも持つ者などは…… 「生かしちゃおけねえな」  混沌としたこの戦況で、もっとも剣呑と言えるのだから。 「てなわけで、悪いねチンチクリン」 「あなたも覚悟はしているのでしょう?」  個々ばらばらの乱戦で、もっとも劣勢に陥った者が一番最初に脱落する。龍水はその条件に合致しており、放置も出来ない特異性すら有しているのだ。実戦においてとことんまで現実的なこの三名が、小さな術師を見逃す理由はどこにもない。  向けられる三つの殺意に、数瞬先の死を感じながらも、龍水は…… 「く、あ……」  動かない四肢に力を込めて、立ち上がろうとしていた。感覚を取り戻せば特大の激痛に襲われるだろうことも踏まえた上で、このまま倒れている自分というものを許さない。 「ふざ、けるな……」  なぜなら彼女は怒っていた。どうしようもないほど恥じていた。 「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな虚け……!」  こんな様で、何が龍明の娘なものか。何が夜行の許婚か。  大した能もない自分にたった一つ許された力すらまともに使えず、一度術を成功させたくらいで緊張を解いた間抜けさ加減に目眩すら覚える。  屈辱だ。自分自身に激昂するほど腹が立つ――と猛りながら。 「誰が、チンチクリンだ。もう一度、言ってみろ……!」 「貴様らの背が、ちょっと私より高いだけであろうが!」 「ぐッ、づ、あああああァァァッ―――」  身体がバラバラになるような激痛に叫びながら、仁王立ちに立ち上がった。  その時に―― 「―――それまでだッ」  凛と響いた女の声が、四人の視線を釘付けにする。 「よく来た、坂上覇吐。おまえに頼みたいことがある」  風雲急を告げる事態を前に、俺はあの日、御門屋敷で龍明に言われたことを回想していた。 「御前試合だあ?」  そんなものが催されるとは知らなかったし、俺に関係あるとも思えない。  だが、御門のご当主様は含み笑って、えげつない交換条件を出してきたのだ。 「そう、御前試合だよ。おまえ、それに出てくれぬか?」 「なんで?」 「凶月の者に妙な対抗意識が湧いたのだろう? おまえのような頭が単純な輩の考えなど見え透いている。実に典型的な馬鹿だ」 「ならば鋏と同程度の役には立ってもらわんとな。断れば拘束するぞ。おまえの陰気は野放しにできる域を超えている」 「答えは?」  などと、有無を言わせぬ悪役ぶり。しかし当然この俺だって、はい分かりましたと易々頷くタマじゃない。 「答えも何も、無理だろう。俺は御門の人間じゃないし――」 「誰が私の一門から出ろと言った。おまえは久雅の代表として出ろ」 「まさか知らぬとでも思っているのか? 坂上は、久雅の立派な分家であろうが」 「ぐっ……」  立派、と言うには凄まじく無理があるような気もするのだが、確かにそれはその通りで、俺は久雅の家に繋がりがある。 「けど、かれこれ三百年放置だぜ? 別に恨み言いう気もねえし、むしろ堅苦しいのは嫌いだから感謝してるくらいだけどさあ」 「今さら俺が、久雅のために身体張る義理なんかねえよ。そもそも、あっちだってお呼びじゃないに決まってるだろ」 「それは先方が決めることだ」 「いやだったら、あんたが決めることでもねえじゃねえか」 「わざわざ俺なんぞ引っ張らんでも、久雅のお殿様ならご立派な家臣の方々をそろえるんじゃねーの? それくらいの駒は、幾らでもいるだろうし」  だから俺には関係ない。重ねてそう言っているにも拘らず―― 「駒はいない」 「はあ?」  御門のご当主様は、そんなことを―― 「そして、殿ではなく姫だ」 「はあああ?」  嘆いているのか笑っているのか、なんとも判別のつかない顔で言ったのだ。 「姫さんだあ?」 「そうだよ。おまえはそんなことも知らなかったのか。相当な虚けと言うか、間抜けだな。山の中で猿とでも暮らしていたのかと呆れ果てる」 「ともかく、件の姫君は些か以上に奇矯な方でな。頭は悪くないのだが、非常に頑固で物分りが悪い」 「曰く、家中に益荒男などいないとさ。それで家を破るばかりか、自身も不本意な目に遭うというのに、どうしても譲れぬものがあるらしい」 「正直、見かねてね。保険をかけておきたいのだ」 「それが俺だと?」 「ああ、細工はしておいてやる。後はおまえが判断しろ」 「つまり――」  俺がこの目でその姫を見て、主に足ると思えれば―― 「晴れ舞台だ。男なら格好よく踊ってみせろよ」 「私を敵に回すより、ずいぶん気の利いた道であろうと思うがな」  御前試合に出場しろと、最後に意地悪く脅迫しつつ、御門龍明は笑いやがった。 「―――それまでだッ」  そして今――御所を囲む木の上から俺は問題の姫君とやらを目におさめている。  変人だか変態だか知らないが、ともかく一風変わったお方であるらしい立場上のご主君様。 「……ふん」  いったい何をするつもりと言うか、何を考えていらっしゃるやら。  玖錠、凶月、そして宗次郎の奴らは半端じゃない。それはこれまで見物していた俺にも当然分かっているし、そこはあの姫さんだって同じだろう。  まあ、龍水のチンチクリンには少しばかり驚いたが、事態はいわゆる修羅場ってやつだ。もはや白黒つけなきゃ治まるまい。  ゆえに、さあ、いったいどうする? 「何がしたいんだ、お姫様」  龍明に言われたことなど関係なしに、眼下の状況から目を離せなくなっている俺がいた。  そう、覚悟はすでに固めたのだと〈眦〉《まなじり》を決し、竜胆は自らの意志を矢に番えて弓を引く。 「剣を下ろせ。以降僅かでも続ける気なら、この私が容赦なく射る!」  益荒男などおらぬ。〈兵〉《つわもの》など幻想。この世の諸々は異界の法則めいていて、自分一人が孤立しているのだと分かっている。  しかし、だからといって染まる気はないし、拗ねて背を向けるつもりもない。自分の意地と価値観にだけ固執して、後は勝手にやれなどという無責任……そんなことでは、他の〈奴儕〉《やつばら》と何ら変わらぬことになるのだから。  考えて、考えて、ずっとずっと考えて、ついに竜胆は己がどうするかを決めたのだ。 「烏帽子殿、御身は何を……?」  傍らで、訝しげな顔をしている中院冷泉……この男には到底理解できぬことだろう。 「別に。おかしなことなど何もない。なぜなら当家の代表は、他ならぬ私なのだから」 「あの者らを私が制せば、それで神楽は終わりであろう」 「なッ……」  来たる東征には、必勝しなければならない。生きるため、国体を守るため、理由や動機が何であれ、それがこの国に住まう者たちの総意である。  ならば、将は相応しい者がなるべきだろう。千種や六条、岩倉では、龍明が言った通り話にならない。  であれば後は、久雅か中院の二者択一。  そこで筋や伝統を振りかざすなら久雅の一択となるのだが、今までの竜胆には迷いがあった。武家筆頭の責任という言葉を盾にして、我を通しているだけなのではと懊悩していた。  ゆえに、事はそんな感情論が入り込む余地のない次元で、公正に決めなければいけない。  仮に、冷泉がもっとも将に相応しく、彼の指揮で御国が救われるなら否はない。たとえ景品として扱われても、嫌いな男に抱かれても、それで救国が成せるなら喜んで受け入れよう。  真実、民の幸せを思い選択すること。そこに覚悟を持って誇りとすること。武家の本懐とはそうしたもので、それこそ尊き利他だと久雅竜胆は信じている。  だから、この場で見極めんとした。神州に平安をもたらす東征軍の総大将は、いったい誰であるべきなのか。  結論として、冷泉にその資格はない。放っておけば全滅必至なこの惨状を、薄ら笑って見物しているのが何よりの証。  兵の死も己の死も、浮遊した感覚でしか捉えられない者に勝利はないし、だからこそ三百年前は大敗したのだと断言できる。  なぜならこれは、世の者どもから根本的に欠けている視点。  他者を労わり、愛せぬ者に、どうして国が救えると言うのか―― 「さあおまえたち、聞いた通りだ。矛を収めよ」  そして、そういう理由から冷泉を認めぬ以上―― 「出来ぬというなら、この私を見事斃してみるがいい」  これより自分自身のことを、公正に試さなければならないだろう。 「竜胆様……」 「何を唐突に」 「噂で聞いてはいたけどさ」  正気ではない――言外にそう言われているのを自覚して、竜胆は苦笑した。 「頭大丈夫か、お姫さんよ」  ああ確かに、そちらからはそう見えるかもしれない。  だがもはや迷わぬと威勢を高め、強く覇気をもって問い質す。 「おまえたちの見つめているものは、いったい何だ?」 「それだけの腕を持ち、この場に選ばれ、神楽を舞い何を思う?」 「何を望み、何を成し、何者たらんとしているのか」 「答えよ、玖錠! 凶月! 壬生宗次郎!」 「そして龍水! 貴様もだ!」  細い外見からは想像もつかない大喝に、龍水は息を呑んで押し黙る。刑士郎ら三名もいきなりのことに困惑し、咄嗟の言葉が出てこない。  それは他の者たちも同様で、いま竜胆は紛れもなく回転軸の中心にいた。この場における皆が皆、彼女の一挙一動に引き付けられて目を離せない。 「己の意地か? 沽券が大事か? 目先の勝ち負けにしか思いが行かず、ただ気分よく好きなようにやりたいだけか?」 「愚かしい――小さいわ、戯けども! 貴様らの狭窄した視野で成せるものなど何もない!」 「我ら、真に目指すべき地平は何処だ? その武は? 心は?何をもって満ち足りる?」 「ここが貴様らの死に場所ならば、なんとも安い! 軽すぎる!そんな魂に何があるのだ!」  本来誰もが持っているべき、胸の奥にある何がしか……それを魂と呼ぶのだと、龍明は言っていた。  そして、今では廃れた概念だとも。 「その身に詰まっているのは血と肉だけか? 他には無いのか?心は自己への狂信のみで、不滅なるものは持ち合わせぬか?」 「だとしたら、ガランドウだよ貴様らは。生きながらにして死んでいる」 「死んでいるから、何も怖いものがないのだろう。殺すことも、殺されることも、その意味というものを感じられない」 「だから……」  一歩、また一歩と前に出て、雪の降り積もる白砂の庭に竜胆は降り立った。  それはすなわち、彼女もまた血戦の舞台に足を踏み入れたという事実の証明。  殿上にある貴人としての立場を捨てて、真に命を懸けるという覚悟の発露に他ならなかった。 「今から、私が教えてやる」 「へえ……」  それに、もっとも早く応じたのは宗次郎だった。自らの負傷など意にも介さず、痛みすら感じていないような涼やかさで斬人の気を立ち昇らせる。  冷泉が何か叫んでいたようだったが、彼の耳には入らなかった。もとより壬生宗次郎は剣の鬼――この場に足を踏み入れれば、たとえ何者であろうと斬殺するべく動きだすのみ。  その単純極まる公式こそが、彼の宇宙を回す法則ゆえに迷いはない。 「いいでしょう、久雅のご当主……何を教えてくれるのか知りませんが、興味が湧きましたよ。面白い人だ」 「あなたは、とても斬りたくなる」 「馬鹿な、させぬぞ宗次郎……!」  二人の間に割って入るべく、龍水もまた負傷を忘れて前に出た。竜胆の奇行にはいくらか耐性があったものの、流石に今回のこれは度を超えている。看過していいわけがない。 「私が至らぬから、何かご不興を買ったのなら詫びまする。ですからどうか、竜胆様、〈ワ〉《 、》〈ケ〉《 、》〈の〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈く〉《 、》〈だ〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》!」  泣訴に近い声で止めに入る彼女ですら、竜胆の理屈は分からないのだ。ならば無論、残る二人は言うまでもない。 「まあ、なんか知らないけど、馬鹿にされてんだよね私たち」 「とにかく、止めろって言うなら止めさせてみてよ。出来るとは思えないけど、実は凶月だったりするのかな?」 「笑えない冗談だ」  紫織は困惑しつつもからかうように、刑士郎は憮然と吐き捨てるように言い放った。 「視野が狭い、ねえ……随分とまあ、言ってくれたが、てめえの力量さえ見えてねえ虚けには言われたかねえな」 「心配するな。十二分に見えているよ」  そんな、数々の言葉と反応を受け止めて、竜胆は薄く笑った。  呆れと諦観からくる自嘲の亜種には違いなく、しかしだからと言って捨て鉢とはまったく無縁の、力ある笑み。  それは恐怖を知って、なお挫けない。死を感じて、なお奮い立つ。  曰く久雅竜胆が思うところの、魂を持つとはそうしたことで…… 「おまえたちと私では、覚悟の意味と重さがまったく違う」 「無論、身分や立場ゆえのことではない。勇気の有無を論じているのだ」 「言っただろう。おまえたちは軽いと」  平然と殺す。平然と捨てる。死ぬということは死ぬということ以上も以下もないものだから、雄々しく振舞っているように見えてもその行動には重みがない。  命を懸けて、死合に臨んでいるなど空言だ。どこまでも茶番であり実がない。  彼らは魂を知らないのだから。いかに勇壮で華々しかろうと、本質は死者の踊り。  そこには覚悟も何もありはしない。 「だが私は違うぞ。白状してやる。おまえたちが怖くて堪らぬし、死にたくない」 「ああ、足が震えるよ。正直少し泣きそうだ。こんなことを口にするのは久雅の当主として恥ずべきだろうが、あまりにおまえたちが馬鹿ぞろいなので言葉にせねば分からんだろう」 「その上で、このように行動しなければまるで認められぬだろう」 「おまえたちがその武威を、何のために手に入れたかはもはや問わん。だがこれだけは聞くがいい」 「〈至〉《 、》〈高〉《 、》〈の〉《 、》〈芸〉《 、》〈と〉《 、》〈誇〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈魂〉《 、》〈を〉《 、》〈懸〉《 、》〈け〉《 、》〈ろ〉《 、》」 「私は今、私の魂を信念のもと懸けている。おまえたちのそれと違い、この我ながらの無鉄砲さは死者の踊りではないのだよ」 「だから告げる。剣を引け。こんな実のない乱痴気騒ぎで、それほどの芸を浪費するなど許さない」 「おまえたちが魂を持ち、芯から燃焼を求めるようになったなら、そのときこそ相応しい死に場所を与えてやろう」 「つまり――」  死を賭すことの、意味と価値を与えてやると竜胆は言う。  その権限を有するのは何者か。己はそうした者であると宣誓するのはどういうことか。  それら言葉の意味するところは、この場の全員が理解した。 「私が東征の将となる」 「ゆえにここで、これ以上一人たりとも死ぬことは許さない」  何も恐れていないから、何も懸けていないただの蛮勇……そんな虚ろで空っぽなものは、久雅竜胆の率いる兵が揮っていいものではないと断言する。  総てはそう、東征に必勝するため―― 「私にはおまえたち全員の武が必要で、それを十全に指揮するならば……」 「まずはこの思い、理解してもらわねば始まらん!」  凛と響き渡ったその宣言は、はたして聞く者の胸に届いたのか。 「なんと……」 「こりゃまた……」 「不思議なことを仰る御方」  ただそれが、この場に何らかの変化を生んだことは確かだった。 「なるほど、だから口だけではないところを証明すると?」 「要するに、自分を試せって言うんでしょ?」 「てめえに俺を連れ回すだけの器があるのか」  無謀、無策、自殺行為。竜胆の行動は傍から見ればそうしたもので、この死者たちを生き返らせることは言うまでもなく容易くない。  だが、魂の何たるかを知らしめるには、真に命を懸けてみせねば意味などないと思ったのだ。  なぜなら、来たる東征は生存権を賭けた戦いである。この奇怪な人界とはまったく異なる化外の鬼と対する以上、死を恐れてなお立ち向かう気概を持たねば勝利は出来ない。 「竜胆様、私は……」 「ああ、おまえもだぞ龍水。いつもいつも人から言われたことや、与えられた立場だけを甘受して、思考を停止するのは悪い癖だ」 「自分が何をしたいのかは自分で選べ。誰を想っているのか己に問え。最初から出来あがっている状況だから、その中に在るのが御門龍水の王道なのか? あまり自分を甘やかすなよ」 「私は真実、選んだぞ。おまえもそうした問いの果てに、なお私を慕ってくれると言うのなら……」  言葉を切って皆を見据え、久雅の鬼姫は次の瞬間、腹の底から大喝した。 「ついて来い、いくらでも抱いてやるわ!」 「おまえたち全員――」  紫織も、刑士郎も、宗次郎も、そしてこの場を見極めんとしている他の者らも、等しくそのとき、我が身の内で奮える何かを感じ取った。 「益荒男ならば〈率いて〉《愛して》やる。さあ口上はこれで終わりだ!」 「おまえたちの将たる者を、今こそ見極めてみるがいい――私は死なんぞ!」 「仮にもしそうなったとて、我が一命が火を灯すと信じている。そのときおまえたちは、もう死者ではない!」  自分の死の先にある事象を思い、それを信じていると言う竜胆。その思考も論法も、この世の異端であり常識外には違いない。  だが少なくとも彼女の言葉は、一切の衒いがない本気だということだけは伝わっていた。  なぜならその、烈しくも暖かい情―― 「そんなおまえたちならば、必ずや化外に勝てよう」 「私はそう確信している。ゆえに魂を知ってくれ」  降り積もる雪の総てを溶かすような……これほどの輝きを目にしたのは、皆初めてのことだったから。 「――いいだろう」  刹那――彼女を守り、包むように、一陣の烈風が御所の庭へと舞い降りる。 「惚れたぜ、久雅の姫さん。〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈の〉《 、》〈う〉《 、》」  征夷の将となる姫のため、身命を賭すと誓った初めの一人が、現れていた。 「―――――――」  最初の反応は、ただひたすらの驚愕一色。そりゃそうだろう。このおかしな勇ましい姫さんには、まったく予想外だったに違いない。 「自分で呼びかけといて驚くなよ。ほんとに無鉄砲だな、ご主君様」  だがその潔さ、実に凛々しい。誰かが助けてくれるかもとか、奴らが退いてくれるかもとか、そんな打算は一切持っていなかったのだ。  その上で、捨て鉢だったわけでも無論ない。恐怖が麻痺していたなんて有り得ない。強いて言うなら信じていたのだ。  何をって、そりゃあその、生憎まだ俺には分かんねえけど……  興味が湧いた。それを知りたい。だから今ここにいる。  いい女だと思い、惚れたから。理由としちゃあ、そんなもんで充分だろう。 「おま、えは……」 「坂上覇吐。あんたの家臣だよ、お姫様」 「坂上……?」 「なんだ? 本家じゃもう忘れられてんの?」  まあ、仮にそうでも無理はない。何せ俺のご先祖様は、三百年前にどぎつい陰気を被ったせいで所払いを食らっている。  まず何よりも俺自身、今まで家が続いたことを不思議に思ってるくらいだから、五大竜胆の筆頭様に忘れられても仕方がないわな。当たり前だろ。 「一応昔は、それなりに高い地位だったって聞いてんだけどな」 「ありゃ母ちゃんのフカシなんかね。別に真偽はどうでもいいけど、俺みたいなのに担がれるのは不服かい?」 「……いや」  問いに、お姫様は首をゆっくり横に振って、それからまじまじと俺を見た。 「知っているぞ、坂上か。おまえは私の、家臣なのだな」 「ああ、そうだよ」 「私についてくると、そう言うのだな」 「もちろん、言ったろ。あんたのために俺は死ぬ」 「おまえのためではなく?」 「あんたのためにだ」  この姫様特有の理屈ってやつは、正直ピンとこないところもまだあるが。 「あんたは面白い。俺にとっちゃあ、それが何より大事なんだよ」 「いいじゃねえか、酔わしてくれよ。あんたが大将なら退屈せずにすみそうだし」 「その、なんだったか。ほら、言ってただろ」  胸の奥に生じる何がしかを指していう言葉。 「そう思うのが俺のタマシイ?てことで、一つ納得しちゃくれないか」 「あんたが見ているものを俺も見たい」 「――――――」  はたして思いは通じたのか。そしてお気に召してくれたのか。  分からないが、一拍の間を置いた後に静かな声で。 「竜胆だ。以後私をそう呼ぶがいい、覇吐」 「なにやらまだズレもあろうが、おまえを信じよう。我が剣となれ」  姫は微かな笑みを浮かべて、同時に力強く言ったのだ。 「ならばその魂、将たる私が抱いてやる」 「よし来たァッ!」  聞きたかったのはその言葉だ。欲しかったのはその許しだ。こんないい女に抱いてやるとまで言われた以上、俺のするべきことは決まっている。  向き直って竜胆を背にし、哀れにもさっきから舞台背景と化している端役どもを睨み据えた。  まあおまえらも今日のところは、大人しく俺たち二人の引き立て役になっておけよ。 「見せてやるから覚えとけ。今から俺の〈覇〉《き》を吐いてやる」 「なあ、てめえらも、一緒に東へ征こうじゃねえかッ!」  みなぎる覇気は大気を震わし、〈秀真〉《みやこ》の空へと響き渡る。  ゆえに無論、その呼びかけが向かう先は御所の舞台だけに留まらず―― 「夜行様……」 「あの者、こちらに気付いております」  西の人界における奈落の穴にも、確と熱を帯びたまま届いていた。 「面白い。私を呼ぶか」  ぎらぎらと、ぎらぎらと、空の深淵より覗く天上の瞳。  それが見据える先の者らは、あまりに眩しく輝いて見えて―― 「あなや、愉快なり。これはいよいよ末法も近いか」 「本当に、なんと破天荒な方々でしょう」  神州最大の歪みを宿す少女の胸にも、何か不明なものが揺らぎ始める。 「どうしてでしょう。なぜか我々が空虚なものに見えるのは……」 「ねえ兄様、わたくしどもは本当にこのままで……」  問いの答えはまだ出せない。出せないからこそ始めねばならない。  そう、これより真なる東征の神楽を。 「北方、久雅竜胆公が〈麾下〉《きか》の一―――坂上覇吐!」  流石、仕掛け人だけあってノリは弁えているらしい。龍明が声高らかに威厳をもって、俺の参戦を公式に承認する。  当然、書類上の諸々なんかはとっくに改竄済みなのだろう。まったく、頼もしいと言うか恐ろしいと言うか、確かにあれを敵に回すのはやべえよな。 「彼の者は紛れもなく久雅家の臣。よって御姫君の代行となり、神楽の益荒男となるべく参上した。各々、異存はあるまいかッ!」  捻じ伏せるような大音声に、小賢しい異を唱えられる奴などいるわけがない。六条どもでは格が違うし、中院とてもはやどうにもならないだろう。  陛下は、まあ、言っちゃ悪いがお飾りだ。後は俺が速やかに、この場を治めれば全部終わる。 「は、覇吐……」 「ああ、おまえも頑張ってたなチンチクリン。見直したぜ大したもんだ」 「後は任せて、休んどけよ。それともあのおっかねえ母ちゃんに、まだいいとこ見せたいか?」 「な、ぐ――、だ、誰がチンチクリンだ。この大虚け!」 「い、痛い。こら馬鹿、頭をぐりぐりするでない!」 「まあ、ともかくそんなこんなでよ」  ぎゃーぎゃー喚いているチビを放置し、こいつほど簡単にはいかない連中へと目を向ける。 「やるかい、宗次郎。それから玖錠のお姉ちゃん」 「愚問ですよ、覇吐さん」 「あんたはこう、何て言うかあったまくるわ」 「そりゃ、あれだけいいとこ取られたらなあ。カッコよかったろ、俺様」 「んで、俺よりイカしてんのはうちのおかしなお姫様だ。そのお方が言ってんだよ、くだらねえことでぽんぽん命捨てんじゃねえ」 「今のおまえら、ぼろぼろだろうが。そんな奴ら捻ったところで自慢にならんし、何より〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈株〉《 、》〈を〉《 、》〈下〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》」 「喧嘩なら、この先いくらでも出来るだろ。どう見ても弱ってる状態で勝ったの負けたの、どっちが強ぇの、周りの連中におまえらを値踏みさせたかねえんだよ」 「そういうのは、俺と竜胆の王道じゃない」 「恥かくぜ、やめとけよ」 「――笑止」 「ならば僕の王道も教えましょう。ひとたび抜けば、誰であろうと斬ることです」 「それに覇吐さん、覚えているでしょう。僕は最初から、あなたを斬りたくて堪らなかった」 「そこのご主君流に言わせてもらえば、そうした僕の気持ちを酌んでくださいよ。将であるなら」 「むっ……」  なるほど、確かにその通りで、そういう理屈も成り立つわけだ。なんだか堂々巡りになりそうだな。  するとやっぱりこの考えは、構造的にでかい欠陥があるらしい。主流じゃないのも当然で、口には出せないが狂った論理なのだろう。  だが、それでこそ面白い。姫は俺を飽きさせない。  その証明が、いま成されたように思えたから…… 「何が可笑しいんです?」 「いやなに、ちょっと運命ってのを感じてな」 「それで、そっちは?」 「こっちも愚問」  玖錠の女は鼻で笑って、宗次郎とはまた質の違う気勢を叩き付けてくる。 「退けないんだよね、無理な相談。こんないい男たちが一杯いるのに、なんで遠慮しなきゃいけないの」 「私も益荒男に恋してる。お姫様とはきっと違うんだろうけど、譲りたくないってそう思う」 「だから正直、嫉妬しちゃうね。こっち向かせたくて堪らない」 「おまえはもっとふらふらと、掴み所ないのが味じゃねーのか」 「そうだよ、惑わせたいと思うのが私の王道」 「そりゃまた、なんつーか……」  こいつはこいつで変態的だわ、いい女だわ、アレをコレしてナニをそうしつつヌキヌキポンとかやりたくなるけど。 「あーもう分かった。いいぜ、来いよ」  どだいもとから、俺は口が達者な人種じゃない。こいつら大人しくさせるんだったら、手段は一つしかないだろう。 「じゃあ……」 「行きますよ」  二人が踏み込んでくるその直前、そういや言っておくべきことを思い出したんで、口にした。 「俺って実は、まともに陰気を測られたことがなくてよぉ」  現にあの大晦日、御門の屋敷に行くまでは自分自身でも知らなかった。 「龍明が見た限り、俺の等級――」 「七、だってよ。そこの凶月より上らしいぜ」 「なッ―――」  背後から伝わる、龍水の驚愕。  ああ、おまえの見鬼も相当だろうが、流石にそこまでいっちゃってるとは、いくらなんでも思わなかったわけだよな。 「馬鹿な……」  麗しの姫君が呆気に取られているのを苦笑で受け止め、瞬間――俺は全力で地を蹴った。  宗次郎に、それから玖錠の、おまえらの気持ちってやつを酌んでやるよ。手加減はしない。 「――はあああァァッ!」  迫り来る刺突の一閃は精妙にして無謬、いっそ華麗とさえ言えるだろう。並みの人間なら立つことさえ出来ないほどの怪我と消耗を抱えながら、こんな技を出せる宗次郎の腕には心の底から感心する。  確かに竜胆が言うように、これはもったいなさすぎるよな。おまえの剣には、もっと相応しい晴れ舞台ってのがあるだろうよ。  だから、なあ、一緒にそれを探しにいこうぜ。きっと滅茶苦茶熱くなれる気がするから。  走る剣先が額を掠めて通り過ぎる。そのまま潜り込むような形で懐へ入ったのとまったく同時に、俺は宗次郎の鳩尾へ肘の一発を叩き込んだ。 「ぐァッ―――」  まあ、こいつならきっと死にはしないだろう。二・三日メシが食えなくなるかもしれないが、それくらいは勘弁してくれ。  〈太陽神経叢〉《たいようしんけいそう》を貫かれ、吹き飛ばされた宗次郎はもう動けまい。あいつの歪みは異形を発生させるほどじゃなく、肉体的には至極真っ当な範囲のはずだ。  ゆえに次は、もう一人――  俺が顔をあげるよりなお早く、囲い込むような突きと蹴りが実に八方向から飛んできた。凄ぇな、これ。いったい全体どうやってんだよ。  惑わせたいと、確かそう言っていたのを思い出す。なるほど実に幻惑的で、もはや魔性とすら言いたくなった。こんなものを見せられたら、否が応にも目が吸い付いて離れない。  その上で、だけど自分には触らせないって? まったく何だよ淑女すぎる。ツボ弁えすぎて鼻血出るわ。  あまりに色っぽいものだから、躱すのなんて惜しかった。八発全部まともに受けて、それら丸ごと女の身体を抱きしめる。 「いいいいぃぃ」  玖錠の、確か紫織だったか。うん、こうしてすぐ間近に見ると、中々結構な美人じゃないか。化粧っ気ないけど良い匂いだし、胸でかいし。思わずくんかくんかしてしまう。 「ちょ、ちょ、ちょちょちょ――」 「あ、悪ぃ。つい癖で」  今はそんな場合じゃないよな。心なしか背後から、竜胆の凄い殺気が飛んできたような気もするし。 「おやすみっと」 「あ、がッ―――」  そのまま締め上げるように力を込めて、落とすことに成功した。硬気の剛体は打撃や斬撃に強い反面、こういうところに脆さが出る。  さあ、それじゃあそんなわけで―― 「後はおまえだけなんだが、どうするよ凶月の」  最後に残った一人へ向けて、俺は油断なく問いを投げた。 「おまえは正直、別物だからな。やるなら一対一に持ち込む必要があったわけでよ」  それは紫織や宗次郎に比べて、実力がどうのという話じゃない。俺とほぼ変わらない規模で汚染された歪みがどういうものか、知りすぎるほど知っているがゆえのことだ。  今のこいつには、怪我も疲れも何もない。あの僅かほんのちょっとの間だけで、先の負傷が残らず帳消しになっている。  俺の乱入でこいつに回復の機を与えてしまったわけだから、先に宗次郎らを退場させたのはごく当然の対応だろう。そうしなければ勝負に公正性を欠いたまま、あいつらは殺されていたことになる。  よって必然、後は俺がこいつをどうにかしなければならない道理で…… 「喧嘩してえんなら、受けて立つぜ」  だから、よお、どうするチンピラ。  共に戦意を目に込めて、俺と凶月は睨み合った。 「……………」  一触即発の状況に呼吸も忘れ、竜胆は二人の男を見つめている。  まるでそう、いつかの夢の再現だ。  あの時は途中で目覚めた。ゆえに結末まで至らなかったが、今度のこれはそうもいかない。  ではいったい、どうするべきか。  この場をどのように見るべきか。  固唾を呑んでいたその時に、ついと袖を引かれて我に返った。 「竜胆様、どこも大事無いですか?」 「……ん、ああ。私は何も」  見れば、なんとも複雑な目でこちらを見上げる少女の視線とぶつかった。乱れた髪と汚れた顔が痛々しい。 「おまえこそ、平気なのか龍水。強かに殴られただろう」 「それは、まあ、そうですが……私のことなどはいいのです 」 「本当に、肝が潰れるかと思いました。なぜいきなりあんなことを……」 「竜胆様は、常々私にも不満を持っておられたのですか?」 「…………」 「私も他の者らと変わらない。そう苦々しく思っておられたのですか?」 「いや……」  そういうわけではないのだが、この少女の献身ぶりもどこか歪んで見えたのは事実。 「それについては、また話そう。今は一つだけ言わせてくれ」 「私はおまえが好きだよ、龍水。気苦労かけて、すまなかったな」 「あ……は、はい」  手を伸ばして頬の汚れを拭ってやると、龍水は驚いたように硬直したが、やがて目を細めて安らいだ表情を浮かべていた。竜胆もまた、微笑する。  そう、今はこれでいい。  自分とて、ずいぶん殻に篭っていた。他者に心を開かなかった。  結局世界を狭めていたのは自分自身で、ほんの少しでも勇気を出せば景色は変わっていたかもしれない。  それが証拠に、こうやって、いま自分を案じてくれる者がいる。剣となってくれた者もいる。  だから、それらの現実を信じよう。もはや夢とは違うのだ。 「あの時とは、違う」  あの夢の再現とはならない。  そう、強く心から信じ抜いて……  竜胆は神楽の終焉を見届けるべく、ただ決然と顔をあげた。  そして迎えたこの局面、ひりつくような静寂を破ったのは、地を這う含み笑いだった。 「ふふ、ふふふ、はははははははは」 「ははは、はははははははははははははは……」  堪えきれぬとばかりに肩を震わせ、凶に憑かれた男が俺を見る。  その目はある種の喜びに染まりながら、同時に怒気と殺意の混交だった。これがこいつの、人格として基本となる在り方というやつなのだろう。  低く、静けさすら感じさせつつ、しかし暴力への興奮を隠そうともしない。 「ボケが、何をいきなりしゃしゃり出て、気持ちよく仕切ってやがる。阿片でも食ってんのか、よォ」 「てめえのほうが阿片食ってるみたいなノリじゃねえか。いちいち最初に絡まねえと喧嘩できねえのか、タコ」  天下の嫌われ者である凶月だということが、こいつにとっての自負なのだ。その好戦性も、排他性も、喜々として発揮することが存在証明になっている。  まあ、言われなくてもこいつの背景なんてものは、容易に想像できるところだ。  いつも周りは敵だらけ。悪意に悪意をぶつけ返して潰し続けてきた人生だから、そうする以外は何も知らない。  そこらへんは似た者同士、理解できるし酌んでやれないこともない。  が、しかしだ。 「あんまりカッコよくねえな、そういうのは」  好き勝手に暴れ回るだけならガキでも出来る。稚気を否定するつもりはまったくないが、ムカついたから殴りますじゃあ白けるだろう。  どうせやるなら小粋に洒落て、魅せる舞台じゃなければ意味がない。 「おまえも俺も、漢なら――」  同じガキ臭いノリでいくなら華のように―― 「せめてもうちっと〈傾〉《かぶ》いていこうや」 「〈御前〉《ここ》は何処だ? 〈神楽〉《これ》は何だ? 俺らァそもそも、なんつー名目で戦り合うんだよ」  神州の命運を懸けた、益荒男を募る撃剣の神楽。アホ臭い欺瞞だらけのお題目だが、それを信じようとしている姫さんがいる。  〈東征〉《まつり》の大将がそうだと言うなら、乗ってやるのが筋だろう。だったらこの場を、単なる私戦にしちまったらつまらない。 「分かるか、要は気分の話だ。今の俺は久雅の家紋を背負った益荒男なんだぜ。じゃあてめえはなんだよ?」 「何も背負ってなければ懸けてもねえ、たかが野良犬みてえな凶月一匹ぶちのめす? ――はン、笑わせんなよそんな茶番じゃ、俺のタマシイは燃えねえのよォ」 「ほぉ……」 「たかが、と言ったか。田舎モン」  瞬間、明らかに空気が変わった。 「ああ、思い出したぞ。ありゃてめえか。龍明の屋敷じゃ随分調子付いた真似してくれたよなぁ」 「真似っつーか、俺はてめえに声もかけちゃいねえんだがな」  どうやらそういう問題でもないらしい。  ぎりぎりと、ぎちぎちと、音を立てて奴の筋肉が蠕動していく。そこにどれだけの力が込もっているのか、握った得物の柄が軋み、今にもひしゃげかかっているのが容易に分かった。 「たまにな、出てくるんだよ、てめえみたいな虚けモンが。〈凶月〉《うち》に喧嘩売るのが男の証だとでも勘違いしてやがる阿呆ども」 「迷惑だ。鬱陶しいんだよ邪魔臭え。だから俺はそういう奴らにいっつも言う」 「後悔はしなくていい」 「する暇すら与えねえよ。なあ、その頭沸いた夢心地のままよ」  同時に、雪と白砂を噴流のように巻き上げて奴が消えた。 「――消えちまいなッ!」 「――――――」  速い――こいつの体術は一通り観ていたはずだが、それでも瞬間的に見失った。  何事も実地に体験しないと分からない。それは確かにその通りだが、こいつの武力は中でも特級ということなのか。  まったく、なんとも―― 「面白ぇ!」  瞬時に身を翻し、側背からの唐竹割りを受け止める。防御が成功したのは半分以上ただの勘だが、だからといって冷や汗なんぞはかいちゃいねえ。  そういう諸々、丸ごとひっくるめて俺様だ。偶然だろうが何だろうが、一度凌げたなら百でも千でも同じだろう。俺はこいつに殺られるタマじゃないってことだ。  が―― 「何を安心してやがる」  次の瞬間、押し切るような圧力が刀身に加わった。そのまま武器ごと両断しようと重さが増して、刃金が軋み…… 「阿呆が、誰と力比べしてんだよ。――死ねやァッ!」  鈍く響いた音と同時に、俺の得物は中ほどからへし折れた。 「馬鹿な――」 「とかいう三下御用達の糞台詞――」  同時に、カラクリよろしく折れた刀身が組み変わる。これは俺がやったんだよ。  同じ高位の歪み同士、こんなあっさり力負けするとでも思ったか。 「言うわけねえだろ、相手見て物言えタコがァッ!」  直角に折れ曲がった刀身が、さらに〈撓〉《しな》りながら凶月を襲う。その様は、喩えるなら獲物を絡め取ろうとする蛇の動きに見えたろう。  もとより俺は最初から、自分が剣士だなんて一度たりとも言っちゃいない。  押し切る力を逆利用され、首を巻き切るように迫る刃は常人ならば即死ものだ。普通は意味も分からないまま引き裂かれて終わるはず。  だが、しかしそこはそれ。 「てめえ……」  言うまでもなく、こいつは常人じゃないわけで、即座に飛び退き躱している。俺もあれで決まると思っていたわけじゃないが、一泡噴かせるくらいの効果はあっただろう。  まあ、最初の一合としては中々の演出だったと言えるんじゃないか。 「どうしたよ、凶月の。後悔する暇も与えねえんじゃなかったか」 「このままじゃあしそうだぜ。てめえが思いのほかショボいんでよ」  挑発に、奴は乗らない。ただじっと無言のまま、しかし抉るような鬼気を込めて俺の得物を凝視している。 「気になるかい、これが」 「こんなもんはただの玩具だ。術にもならねえ宴会芸のびっくり箱だぜ? あんま大仰に驚くなよ、こっちが恥ずかしくなってくらァ」  最大で二十の刃に分裂し、蛇腹のように伸縮する剣であり鞭。これはこういう武具なだけで、何も特別なものじゃない。  ちょいと手品めいた器用さは要るものの、結局はそれだけの代物だ。 「おまえさんの禍憑きに比べりゃあ、カスみたいなもんさ」 「だから、びびってないで来いよ。悪名が廃るぜ」 「それとも――」  うねくる刃を従えて、そのまま一歩、前に出る。 「こっちから行こうか?」  鋼が擦れ合う金属音を響かせて、地を跳ねるように蛇行しながら刃が走る。  こいつの射程は十間に達し、その角度は変幻自在だ。初見でそう易々と対応できるものじゃない。  足元から跳ね上がった一閃を躱す凶月。しかし次の瞬間に切っ先は向きを変え、奴の背へと襲い掛かる。  だが当然、まだ王手にゃ早いだろう。 「はッ――」 「へッ――」  躱す。躱す。躱し続ける。  鞭状の武器はただでさえ速さを増し、使い手が常人でも先端速度が音の壁を突き破るのだ。龍明曰く七等級の俺が揮えば、この乱舞は音速など欠伸が出る代物となっているに違いない。  しかし、それでも奴は躱す。うちの何割かは勘だろうが、だからといって偶然でもない。刃そのものより俺の手元、そこを注視することで攻撃の先読みをやっていやがる。  その技量、素直にお見事。称賛してやっていいだろう。  だが、それだけだ。  こいつは俺に近づけない。躱し続けるのに手一杯で、次の行動を起こせない。  まあ、そこを言うなら俺とても、現状維持に手一杯と言えるのだろうが。 「クソが、うぜえッ!」  悪罵は、そっくりそのまま返したかった。  ひょいひょいひょいひょい飛び回りやがる。どうやら速さは奴が上だが、そこは武器の特性で相殺できた。  勝負は、近づきたい凶月と突き放したい俺の間で、間合いの取り合いと化している。それが膠着しているということは、すなわち技量が伯仲している証だろう。  その事実に少なからず驚嘆しながら、しかし俺の心は焦りの類と無縁だった。  むしろこうでなくちゃつまらない。 「まったく――」  自然と口元が緩み、笑みがこぼれる。  柄を背に回しながら手元を隠し、俺の股下から跳ね上げた変則さえこの馬鹿野郎は躱しやがった。 「なあ、おい――」  さらに御所の柱を経由させ、副次的な角度を生じさせても当たらない。立ち回りながら周囲の地形を、しっかりを記憶していたというのだろうか。  そのしぶとさ、鬱陶しさ、一髪千鈞の鬩ぎ合い。  ぎりぎりの淵で感じるこの緊迫感―― 「やるねえ。悪ぃな、舐めてたよ」 「だから言ったろうが、田舎モン」  ああ本当に、綺羅綺羅しいじゃねえか華の〈秀真〉《みやこ》よ。逢う奴どいつも変態ばかりで退屈しない。  宗次郎なら、紫織なら、あの二人だったらこの攻撃をどう捌くだろう。たぶんこういう根競べにはならないはずだ。  あいつらは俺たちほど強健じゃないが、同時に俺たちより技が切れる。  ならばおそらく、いや確実に、もっと早い段階で見切ってしまうに違いない。  すなわち―― 「ぐ、ッラァッ」  一閃――ここで初めて凶月は、俺の攻撃を武器で弾いた。  高速で宙を走り、変幻自在に襲い来る二十の刃。その中で流動的に変化する芯の一枚を看破したのだ。これをやられると総ての刃は制御を失う。  瞬前まで毒蛇の鋭さを具現していた刃の群れが、途端に糸くずのごとく萎れて落ちた。そこに雷光の速さで踏み込んでくる影―― 「見せすぎなんだよ、井の中の蛙がァッ」  刹那のうちに間合いを詰めた凶月が、膝より低い位置から跳ね上がるように迫り来る。  なるほど確かに、俺は上京したての田舎モンで、井戸の中にいたんだろうよ。世間知らずなのは認めてやる。  だがな―― 「違ぇぞ、よく見ろ。俺は龍だ」  蛙じゃなければアメンボでもねえ。  制御を失った刃がうねくり戻り、再度得物が組み変わった。まさしく龍のごとき巨大な〈顎〉《アギト》へ。  〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈型〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》。 「いらっしゃい、お馬鹿さん」  さっきはわざと弾かせたんだ。宗次郎らにゃ劣るだろうが、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈よ〉《 、》。  弾く刃も、その角度も、誘導されたとは思わなかったか? 俺の手元をやたら警戒してやがるから、この変形はおまえ自身にやらせたんだよ。 「事前に〈傾〉《かぶ》いていこうと言ったじゃねえか」  クソ退屈な膠着なんぞ、だらだら続けてられっかよ。 「上等だてめえェッ!」 「よっしゃ来いやァッ!」  基本は大剣、次は刃鞭、そして第三の型はこの大鋏だ。中距離、遠距離、近距離全部にこの三種で対応できる。  下から迫る凶月を、俺は上から迎え撃った。機の面ではほぼ同時。  ならば後は、単純な力勝負―― 「おらあああァァッ―――!」  渾身の一撃に咆哮を乗せて、大気を砕く轟音が御所の庭を震撼させた。 「……ん」  その衝撃に四肢を震わせ、玖錠紫織は瞼を開いた。 「あ、っ……何よ、今のは……」  気絶していても心臓を潰されるかと思った戦意の爆発。あんな気合いを間近で受けて、眠っていられるほど鈍感ではない。 「目が覚めましたか、紫織さん」  ゆえに、傍らから掛けられた声にも特に驚きはしなかった。落ちる前に何があったかは記憶してるし、今がどうなっているかも想像はつく。  まあ、強いて言うなら、この相手が自分より先に目覚めていたというのが少しばかり悔しいだけで。 「やあ、おはよう宗次郎」 「はい。大事ないようで安心しました」  双方、ふざけていると言えば、これほどふざけた会話はあるまい。つい先刻まで殺し合っていた者同士、呑気だのさばけているだのいう次元を通り越した態度である。  だが、少なくとも二人の間に、衒った空気は皆無だった。再び戦えないわけでもないが、一度舞台から落ちた以上は乱入の資格などないと思っている。ならば続きは棚に上げるということで、いっそ気持ちがよいほど潔く、そういうところを割り切っていた。  そのまま、世間話に近い口調で宗次郎が訊いてきた。 「経緯の説明は要りますか?」 「いや、いいよ。観ればなんとなく分かるから」  それは、つまり今の状況。 「かー、惜しいね。もうちっとだったんだがな」 「図に乗るんじゃねえぞ、このペテン師野郎が」  御所の中央を鬼気で染め上げ、向かい合っている二人の益荒男。先の激突は互いに必殺を逃しており、両者の勝負はまだ終わっていない。  だが双方の気勢、呼吸、目に見える負傷も見えない消耗も残らず含めて、紫織は戦況を看破した。 「覇吐、だっけ? あいつがちょっと押してるね」 「今のところは。ですが微々たるものですよ」  差はほとんど無いに等しい。言って宗次郎は付け加えた。 「速さは刑士郎さん。力は覇吐さん。戦術に関しては、やや後者。とはいえそれは事前情報の差でしかない」 「つまりあれでしょ、あの傾奇もんは登場するまで私らの勝負を見物してた。だから刑士郎のことが少しは分かる」 「対して逆は、そうもいかない」 「ええ。ですから逆に言えば、その優位性を発揮できるうちにさっさと斃すべきだった。いやまあ、出来なかったからこうなっているのでしょうが」 「ほんとに?」 「というと?」 「わざと引き伸ばしてんじゃないの、ってこと。加減してるわけじゃないだろうし、実際にさっさと殺れたとも思えないけど、確実に楽しんでるよね、あれ」 「まるで初めて馬に乗った子供みたい」  高位の歪み同士による戦いなど、お互い未知であるに違いない。  ゆえに己が手にある馬力を楽しみ、その限界値を探る作業に興じている。紫織の目には、覇吐がそのように映っていた。  それが良いか悪いかはともかくとして。 「なるほど。気持ちは分かるとだけ言っておきましょうか」 「ただ何にせよ、もう誤魔化しは効かない」 「えらくけったいな得物だけど、流石にこれ以上はやらせないでしょ」  三段変形する覇吐の武器は、それを操る技術も含めて確かに凶悪と言っていい。もしかしたら第四・第五の型すら存在するのかもしれないが、組み立ての難易度は間違いなく跳ね上がるだろう。  特異な武器には違いないが、それ自体は常識に属する拵えである。ならばその扱いは一般の法則に則るもので、変形を重ねるごとに手順が複雑となっていくのは避けられない。  刑士郎ほどの敵を前に、戦いながらこれ以上の型を出すのは困難だろう。単純な意味での難度に加え、種はもはや割れているのだ。  覇吐の手癖がどれだけ巧く、悪辣でも、さらに騙しを打てる可能性は限りなく低い。  つまり、武技と身体性能に差がないことを踏まえつつ、理屈で観るなら手詰まっている。 「ですがそれは、あくまでも理屈上での話」  冷静に、ここまでの考察をただの前提と断ずる宗次郎。そこは紫織も弁えていた。  なぜなら、彼らは共に鬼札を持っているから…… 「勝負は常識を打ち破る反則技のぶつかり合い。してみれば覇吐さんは、あえてその土俵を作り上げようとしたのかもしれませんね」 「彼流に言うならば、〈傾〉《かぶ》いた舞台を演出するための、お膳立てというところでしょうか」 「でも、刑士郎は禍憑きを使わないよ」 「そのようですが、しかし、それでは……」  曰く、七等級という桁外れの歪みである覇吐。彼の異能に対する術が、禍憑きを封じた刑士郎には存在しない。 「もとより伯仲した実力同士、必殺の札を伏せたまま戦えるわけがないでしょう」 「何の事情で封じているのかは知りませんが、刑士郎さんも馬鹿ではない」 「〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》」  心なしか責めるように、意地悪げな流し目を向けつつ、紫織は言った。 「まあともかく――」 「私はあのお兄ちゃんが、妹遺してくたばるとも、無碍に扱うとも思えないなあ」  では、いったいどうなると言うのか。見守る視線の先で、今―― 「いくぜェェッ―――!」  重なり響く咆哮と共に、おそらくは終局となるだろう第二の幕があがっていた。  乱れ飛ぶ火花。吹き荒ぶ暴風。常人には視認どころか、音を正確に聴き取ることさえ出来ないだろう。  覇吐の得物は基本の大剣に戻っている。三種試してこれが一番に刑士郎に適していると判じたのか、再び変形させる気はないらしい。  ただ速く、どこまでも重く、容赦ない苛烈さで打ちかかり攻めかかる。  そして対する刑士郎も、それら悉くを真っ向から弾き返した。まさに文字通り一歩も退かない。  その様は、言わば雷光。稲妻に乗った魔性同士のぶつかり合い。他者が介入できるものではないし、触れようものなら微塵に砕かれる鋼の嵐だ。  薙ぎ払う一閃。抉り貫く一刺し。叩き割って両断どころか、四散させようという打ち下ろし。そのどれもが達人域の冴えである。  しかし、それでありながら、徹底的に型を無視した変則だ。順手、逆手は無論のこと、時には投擲さえ混ざるほどに掴みが千変万化しながらも、奇術のように柄が手の平から離れない。  有り得ぬ角度と機の連続は野生の獣そのもので、にも拘らず技の連絡自体は呆れるほどに流麗だった。基本を熟知し、かつそれを飛び越えるのが巧者の術理とするならば、二人は共に同じ結論へと至ったらしい。  すなわち、技は力の中にあり。  膂力、握力、反応速度に、それらを支える耐久力――土台となる身体性能を最重要視した上で、だからこそ可能な技を突き詰めている。  柔よく剛を制すではなく、剛よく柔を断つでもない。  〈剛〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈柔〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈至〉《 、》〈高〉《 、》。  その答えに、異を挿ませない。挿める者などいないだろうと言えるほどに、彼らの戦闘技術は極まっていた。  そう、誰の目にもそれは明らか。ゆえに見る者の技量に関係なく皆が思う。  この後、いったい何がどうなる――?  神楽の結末はどこに向かう――?  嵐は血を巻き、真紅と化して……  なお一層、その激しさを増していき…… 「〈憂〉《う》けれども、生けるはさても、あるものを、死ぬるのみこそ、悲しかりけれ」  奈落は嗤い、詠嘆しながら御所を見下ろす。 「さあ魅せてくれよ、まだ温いぞ」  そして、禍津の少女はただ密やかに。 「兄様、あなたはそうまでして……」 「少々、わたくし腹が立って参りました」  しとやかだが、強い心を込めて呟いていた。 「覇吐……」  竜胆は目を逸らさない。傍らにある龍水の手を強く握り、事態の趨勢を見守っている。  あのときと同じ。あの夢の再現。だが信じているのだ。決してあの通りにはならないと。 「そうだろう? なあ、分かっているよな?おまえが誠、我が剣ならば……」 「まだ私は、誰にも死ねとは言っていないぞ」  ゆえに、その荒れ狂う歪みの奔流、見事制してみせてくれ。  それでこそ―― 「それでこそ、我らは東征に必勝できるはずだから」 「おまえの考えは分からぬが、私はただ信じている」  主君の期待に見事応えよ。その凛烈な信頼を〈背中〉《せな》で受け止め―― 「そりゃ抱いてもらいてえもんなァッ!」  迫る一刀を渾身の力で弾き返し、俺はあらん限りの声で叫んだ。  眼前の野郎は仮想化外であると同時に、東の鬼どもへ撃ち込む矢の一本だ。我が麗しの姫君へ俺が捧げる、最初の武功でなければならない。 「てめえの王道は何処にあるッ」  そのタマシイ、その信念――曝け出せよ、〈東征〉《まつり》に相応しい益荒男か否か。 「てめえはいったい何のために――」  凶月であるという自負の総ては、いったい何を主として存在するのか。 「言わなきゃぶっ殺しちまうぞ、出し惜しみ野郎がァッ!」  同時に、叩き降ろした乾坤一擲。それを躱しもせずに真っ向受け止め、野郎の膝が崩れかける。  その中で―― 「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ……」  軋るような、声と共に―― 「やかましいんだよ、虚けモンがァッ!」  ぶつかり合う爆発に等しい衝撃が、俺たち二人を弾き飛ばした。 「つゥッ――」 「ぐゥゥッ――」  そして再び、距離を開けて睨み合う。共に肩で息をしながら、しかし戦意は倍増し以上に高まっていた。  ばりばりと音を鳴らす歯軋りが聞こえる。立ち昇る怒気の陽炎が視認できる。  狂おしいほどの激情を纏わせて、凶月一族の頭領が俺を見る。 「黙って聞いてりゃ、くだらねえことばかりペラ回しやがる。出し惜しんでるのは、てめえじゃねえのか」 「出せよ。ほらよォ、チンケな歪みを見せてみろよォ!ぶっ潰してやるぜ、俺は負けねえ!」 「誰にも、何処のどいつだろうと、舐められるわけにはいかねえんだよォッ!」  その憤激。天下の総てに牙を剥くような戦意の発露は、ただの面子に関わる矜持のみとは思えない。  こいつら凶月がどんな集団であるのかは、噂だけだが聞いている。そこから想像する限り、野郎にとっての芯の部分が仄見えた。 「つまり、要は返し風か?」  禍憑きという歪みの性質、その特性。 「てめえら凶月は一蓮托生らしいじゃねえか。珍しい概念だ」  紫織や宗次郎のような〈常〉《 、》〈識〉《 、》〈人〉《 、》は、基本として個だ。 自分を他者に重ねなどしない。  そういうことをマジにやれるのはおそらく天下に竜胆だけで、俺はその狂気じみた在り方を面白いと思う。だがこいつはどうだ?  強いて言うなら、龍水に近いのか。利他的なようで利己的。自分を保つための献身というやつ。  それが個人の思想でも、社会機構上の法でもなく、より現実的な縛りとなっている共依存の群体。この世においてそんな奴らは、他に類がまったくない。  言わば、凶月の中でのみ機能している絶対的な因果応報。  やったらやり返されるから大人しくしましょうなんてのは、誰でもガキの時分に教わることだが、こいつらはそれを文字通り強制されてる。 「てめえが禍憑き使うと別の凶月がおっ死んじまう。なら一人一人は無敵でも、丸ごと攻められりゃあ将棋倒しの全滅だわな」 「だから凶月一族は大したことねえ。そんな風に思われたらお終いだってのはよく分かるぜ。でもよ……」  深く、息を吐いて―― 「確認させろや。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈を〉《 、》〈守〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈を〉《 、》〈封〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」 「ああァ?」 「だからよ、結局のところてめえの身可愛さが全部なのかって訊いてんだよ」  あの日、初めてこいつを見たとき、晦日の夜を回想する。  まるで主君に対する侍従のように、いや、崇拝する天意か何かの信徒のように、こいつは牛車の何者かを守っていた。  詳しい事情は知らないが、確か紫織も似たようなことを突っ込んでたろう。  こいつには、単純な保身と異なる事情がある。  まあ、俺の見たところ…… 「女だろうが。恥ずかしがんなよ、言ってみろ」 「そっちのほうが、まだしもカッコいいんじゃねえのかい?」 「――うるせえッ!」  怒号と共に大気を震わし、仮借ない殺意の一閃が放たれる。今まで受けた攻撃の中で、これがもっとも強烈だった。 「――図星かよ」 「てめえに何の関係があるッ!」 「ないこともねえよ」  こいつが凶月を不可侵の存在にしたがる理由。それが結局のところ、自分に返し風が吹くのを避けるためならばどうしようもない。  そのときは、この沸騰脳みそ野郎を切り倒すしか事態を治める術がなくなる。そうなれば、俺の姫君はあまりいい顔をしないだろう。  仕方ないとは言うだろうが。  よくやったとも言うだろうが。  やはり駄目だったかと肩を落とす。自分の理想は戯言なのかと、一人悩むに違いない。  そんな顔をあいつにさせたら、俺が俺自身に失望するだろ。  こういう理屈は姫にとっちゃあまだズレてるだろうが、そこは追々修正するから、とりあえずは大目に見てくれ。  まずは結果だけでも出さねえとよ―― 「つーわけで、なあ、教えろっての!」  剣戟の最中、乱れ舞う轟風と衝撃を俺の〈言霊〉《こえ》が透過した。 「てめえが禍憑きを封じる理由は?」 「俺だって、余裕こいて訊いてるわけじゃねえんだぞ」  負けるなんて思っちゃいないが、このまま続けて易々勝てるとも思っちゃいない。  なぜなら、〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈状〉《 、》〈態〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈使〉《 、》〈え〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  無敵と自負はしちゃいるが、笑っちまうほど使い勝手が悪いんだよ。 「だから――」 「てめえ、いつまでも恥ずかしがってねえで……」  迫る一刀――身をねじ切るようにして躱しざま。 「――言えっつってんだコラァッ!」  その勢いを回転に乗せて、交差法の一撃を叩き返した。 「ぐうううゥゥッ――」  吹っ飛ぶ凶月。手ごたえ、いま確かにあった。  受け止めた刀身ごと腕はへし折れ、アバラの四・五本もブチ折れたろう。腹の中がどうなってるかは知らないが、どこかの内臓も間違いなくいったはず。 「さあ、これでお膳立ては整ったぜ。その様、危機に陥ったんじゃねえのかよ」  無茶な動きをしたせいで、俺のほうも骨だの靭帯だのがいっちまったが、そんな消耗はおくびにも出さない。 「俺の歪みが見てえんなら、いっちょ〈告白大会〉《ハズバナ》してみろや。使うかどうかは、そのうえで判断してやる」 「ボケがぁ……」  血走る双眸は〈赫怒〉《かくど》を燃やし、我慢の限界を告げている。  我ながらしつこいほどの挑発に、ようやく奴は乗ってきた。 「俺は死ぬのなんざ怖くねえ」 「そもそも死んだりなんかしやしねえ」 「〈凶月〉《うち》のもんらが何をやって、どんな返し風が俺に吹こうが、どうでもいいんだよそんなことは」 「つまり――」  その意味するところはただ一つだ。 「てめえ、死なせたくない奴がいるんだな?」 「――悪いかッ」 「守るだの、幸せだの、知らねえ見えねえ何だそりゃあ食いもんか! 小賢しいこと抜かしてんじゃねえぞ!」 「俺の王道? タマシイだあ? ワケの分からねえ小理屈こねて、穢すんじゃねえよ単純なことだ」 「俺のせいで俺の女殺しちまったら、俺が俺を許せねえだろうがよッ!」  吐き出されたその激情。  凶災と呼ばれ、異形と呼ばれ、それに相応しい羅刹のごとき男が口にした真実は、この場を見守る全員の胸に響き渡った。 「なるほど」  俺が俺が俺が俺が、一回の台詞に『俺』を四回も言いやがってこの馬鹿野郎。清々しいほどの自己中ぶりだが、共感してやる。俺もまったく同感だ。 「安心したぜ。ならいいんだよ」  肩越しに、ちらりと竜胆を見て確認する。色々複雑なご面相だが、まあ今の段階じゃあ俺たちなんざこんなもんだよ。さっきも言ったが、この場はこれで妥協してくれ。  だってこいつが、心底他人なんかどうでもいいと思っている輩なら、マジに収まりつかなかったところなんだぜ?  何より、自分は返し風を食らうことなど恐れていないし、それで死ぬなど有り得ないと言い切ったこと。その強固な自負は、まさか口だけじゃあるまいよ。  だったら――なあ、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈俺〉《 、》〈も〉《 、》〈本〉《 、》〈気〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈か〉《 、》。 「禍憑きを出しな」  声は低く、重さを持って御所を流れた。さっきまでの挑発とは明らかに次元の違う要求だと、いくらこいつがクソ阿呆でも分かるだろう。 「心配するな。てめえの女に返し風は吹かねえよ」 「〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》」 「なに……?」  それはハッタリでも、方便でも、希望的観測でもない絶対的事実。俺の発言に周囲が戦慄しているのを感じ取るが、嘘じゃないからビビるんじゃねえよ。 「まさか――」 「本当に?」 「そんなことが……」 「出来るとでも……?」  ああ出来るとも。ガチな話だ。  と言っても信じるのは困難だろうが、なぁに、おまえなら分かるだろ。 「どうせここでやられちまったら、女は路頭に迷うだけだぜ」 「そんな自分は、てめえ自身が許せねえだろ?」  だから出せ。六等級というおまえなら、理屈すっ飛ばして俺の言葉を信じられるはず。  あとはせいぜい龍明と、こいつ以上であろう凶月の女。  それから、なあ、ずっと高みの見物決め込んでやがるてめえもよ。 「いいだろう、見極めてやる」 「どう〈傾〉《かぶ》くか見せてくれ」  目と、耳と、肌と心で感じ取る諸々の視線、思惑。それら総てを受け止めて、俺は言った。 「来いよ凶月、刑士郎――」 「―――――」  瞬間、竜胆に言わせれば歪な信頼というやつが結ばれた。  俺の言葉そのものを信じるのじゃなく、自分と互角以上にやり合えた相手だからこそという論法で、こいつはいま決断したのだ。  そして、これは天佑か。あるいは凶事の一つなのか。期せずして駄目押しとなる引き金が引かれる。 「やってくださいませ、兄様」 「咲耶は、見とうございます」  声だけ届く、こいつにとって絶対の〈懇願〉《めいれい》。もはやこうなれば躊躇はするまい。 「……いいだろう」 「本当に、何が起きるか分かんねえぞ」  そのとき、紛れもなく世界が震えた。この世の法則を総て無視する、何の理屈もつけられない非常識な歪みの発現。  それを前に、捻じ曲げられる理が叫喚しているのを感じ取った。〈西側〉《こちらがわ》の法では断じてない、〈穢土〉《えど》の瘴気に呼吸も忘れる。  骨まで染み透ってくる凶事の予兆に、鳥肌どころじゃない〈怖気〉《おぞけ》が走った。  同時に。 「〈禍津〉《まがつ》――」  ぼそりと、別世界の何者かに宣誓するかのごとく呟いて。 「〈日神禁厭〉《ひのかみのかしり》」  身構える俺に目掛けて、白い凶影が攻め込んできた。 「つううゥゥッ―――」  迫り来る圧力は、無論これまでの比ではない。今のこいつは文字通り、有り得ない領域の凶運を纏っている。  振り抜かれる斬の一閃。俺の首を刈り飛ばすべく走るそれは、ただでさえ回避は怪しい鋭さを持っていた。  そしておそらく、〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》〈回〉《 、》〈避〉《 、》〈は〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  足が滑るか、目が眩むか、それとも、いいや――きっとそんなものじゃねえ。  仮にも凶月の頭領が放つ禍だ。もっと何か、目玉吹っ飛ぶようなふざけたことが、起こるはずで……  何にせよ、まずはそいつを受けなきゃ始まらねえ! 「さあ――」 「さあ――」 「見せろ覇吐! おまえの大言、見届けてやる!」  ――瞬間。 「あ……」 「――これは」  目を焼く閃光。次いで衝撃。そして鼓膜を破壊する大轟音が迸る。  発生した〈禍事〉《マガゴト》は高津神の災――こともあろうに脈絡もなく、俺の頭上にいきなり落雷が起きやがった。 「がああああぁぁァァァッ―――」  全身を蹂躙する〈厳津霊〉《イカズチ》の鉄槌に、血が沸騰して肉が燃える。  有り得ねえ、有り得ねえ、ふざけてるだろ。雪の日に雷なんか落ちて堪るか! それが狙い済ましたように俺へだなんて、悪夢どころか馬鹿げた冗談としか思えない。  ――が、それを起こすからこそ凶月の面目躍如。まさに噂以上の出鱈目ぶりで、続く本命など躱せるわけねえ。 「思い知ったか、てめえの負けだ」  雷撃だけでも常人なら即死。俺であっても瀕死は免れない衝撃に加え、首を切り裂く刃の一閃が止めとなって絶命を悟った。  ゆえに―― 「……そうかよ」  崩れ落ちかかるその刹那、俺は勝利を確信する。  〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈く〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 「伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭」  弾け、身を焼く紫電の奔流。青く瞬く世界の中で〈咒〉《しゅ》を唱える。  それは言うなれば、俺が俺自身のために謳う凱歌であり宣誓だ。  斯く在れという、自己に対する絶対命令。不可能だとか有り得ないとか、無粋な常識は残らず捻じ伏せる自負の発露。 「爾伊邪那岐命詔 愛我那迩妹命 汝爲然者 吾一日立千五百産屋」  たとえ千の凶災、万の絶望、億の不条理が襲い掛かろうと関係ない。俺は必ず、それら総てを上回るから。  他者の歪みを食らうことで、俺の歪みは発動する。 「是以一日必千人死 一日必千五百人生也」  奇しくも、その意味するところは返し風。 「〈禊祓〉《みそぎはらえ》――〈黄泉返〉《よもつがえ》り」  受けた穢れを、のし付けて叩き返す。絶対不可避の因果応報に他ならなかった。 「なッ、にィ―――」  再度炸裂した轟音に、驚愕の叫びが重なった。  てめえが呼んだ斬も雷も、数割増しで返杯されては堪るまい。俺の負傷が消えてなくなるわけじゃないが、千の死を食らえば千五百の命が生じる。ゆえに即死だけは絶対にしない。  そのあたり、反則なのはお互い様だ。お望み通りおまえに凶災を返したのだから、まさか文句はねえだろう。 「がッ、ぐゥゥッ……」  火と血煙を噴き上げながら倒れる凶月。俺でさえ死を垣間見たほどの攻撃なんだ。もはやどう足掻こうと立てないだろう。  だからやれやれ、ぎりぎりだったがようやくこれで―― 「――それまでだ!」  神楽は、いま終結を迎えていた。 「これをもって、勝負ありと私は断ずる。異論ある者は前に出られい!」  未だ落雷の余韻が木霊する中、凛然とした姫の声音が響き渡る。どうやら龍明も最低限の仕事だけはしたらしく、致死の領域で巻き込まれた奴は一人もいない。  とはいえ、大の男が気絶するほどの感電はしたはずだろう。そんな状況で毅然と立ち、場を取り仕切る竜胆の器量は大したもんで、まさに惚れ直したと言うしかない。  そして、その呼びかけに応えるかのごとく。 「ありません、お見事でございます」 「誠に眼福。良い神楽でありました」  御所の中央に吹く旋風。舞い上がる雪の渦が、人型となってそこに生じた。 「これなるは凶月一族、当主刑士郎の妹――〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》・凶月咲耶」 「久雅の御姫君、竜胆様に申し上げます。本日今このときをもって、我らがあなた様の臣となること、伏してお許しくださいますようお願いしたく、ここに参上いたしました」 「同じく、御門一門が陰陽頭、〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》・摩多羅夜行」 「この場を借りて、皇主光明帝陛下に奏上いたす。征夷の将は、久雅の御当主こそが相応しいと存じますが如何に?」  現れた〈黒白〉《こくびゃく》の二人は、明らかに常人じゃない。だいぶ前から存在を感じ取ってはいたものの、こうして間近に見ると人語を話しているのが不思議に思えるほどの連中だ。  女のほうは刑士郎が可愛く見えるほどの歪みを纏い、男のほうはそもそも生き物にすら思えない。 「はいはい、賛成ー、異議なしですのー!」 「……爾子、本当に頼むから、少し空気を読んでくれ。真剣に、お願いだから……」  そして、ええっと、何だこりゃあ? 犬っていうか熊っていうか、よく分かんない不思議物体が子供を乗っけて飛び跳ねてるし。 「夜行様……」 「咲耶、あんたは……」 「これで勢ぞろい……というところでしょうか」  そんな、それぞれの思いが交錯するなか、呻き声と共に刑士郎が目を覚ました。 「あ、ぐッ……咲耶……」 「はい。ご無事で何よりです、兄様。ですがもう終わりました」 「俺は――」 「分かっております。兄様は負けてなどいません。わたくしの期待に応えてくださったのですから」 「ねえ、覇吐様?」 「むっ……」  唐突に水を向けられ、何と返すべきか言い淀む。そこに竜胆が、静かな声で割って入った。 「聞かせてくれ、覇吐。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》は単なる結果論か?」 「おまえ、この者を討つ気だったのか?」 「あ、つか、そりゃあ……」 「そんなはずはありませんわよね?」  一方は真摯な顔で詰め寄るように、そしてもう一方は微笑しながらも脅迫するように、二人の女がずずいと圧力をかけてくる。  おい、ちょっと待てよ何だこれ。どうして俺が説教されてるみたいな空気なんだよ。 「いや、だってよ、こいつが自分は返し風じゃあ死なねえなんて言うもんだから……」 「つまり、なんだ?」 「仰ってください」 「あー、もう!」  苦手だ、こういうの。勝てる気がしないし勝ってもいけない気がするし。 「分かった。言うよ。言うったら」  頭をばりばり掻きながら、降参の意を表明して俺は叫んだ。 「信じたんだよ、こいつのことを。あれだけ豪語しておっ死んだら、いくらなんでもダサすぎるもん、なあ!」 「なにィ――」 「兄様」  ぴしゃりと、ただの一言で狂犬を抑え、さらにその、こっちを見ながら深くなっていく笑顔が怖ぇんだよ、この咲耶とかいう女。 「つまり、認めたわけですね。兄様が起こした禍に、全力であなた様の武威を乗せても、凶月刑士郎は死になどしないと。そして事実、そうなっている」 「それはすなわち、兄様の勝利ということではないでしょうか」 「なッ――」  いやいやいやいや、ちょい待てや。 「おぉー、これまた凄い屁理屈ですの」 「いや、どうだろう。実際のところ判断が難しいと言うか……」 「まあ、あくまでそういう見方も有り得るという話」 「第三者の身で勝敗を弄ぶのは、当事者として身命を賭した益荒男に対する侮辱であると弁えております。ゆえに兄様、覇吐様」 「真実は、おまえたちの間で競い合っていけばよい。これより先、いくらでも出来る」 「紫織様、宗次郎様」 「おまえたちもだ。異論はなかろう」 「まあ、確かに」 「無論ですね」 「だって、よ」 「ちッ……」  お互い惚れた弱みってやつか。こいつもこの場は牙を収めることにしたらしく、俺は俺で超絶あちこち痛かったから、さっさと尻餅をつかせてもらった。 「ではそういうことで、各々収まりはついたようだが」  にやにやと笑いながら、まるでお気に入りの愛玩動物でも見るように周囲を睥睨している黒衣の男。問題があるとすればこの野郎だ。  嫌な、というわけじゃないが、なんとも奇怪な目をしてやがる。御門にこんな奴が存在して、この神楽にこいつが参加しなかったことは、ある意味僥倖だったのかもしれない。 「龍水、そして龍明殿……私もまた、東征に加えさせていただきたい」 「久雅竜胆公、烏帽子殿の〈麾下〉《きか》として」 「これも含めた先の奏上、再度畏みて申し上げる」 「皇家及び五大竜胆紋の承認なくば、神楽は終われぬのでありますが?」 「――よかろう」 「我としても異論はない。征夷の将には、烏帽子殿を推挙いたそう」  夜行とやらの奏上に、もっとも速く応じたのは中院冷泉だった。  こいつはこいつでどうやら抜け目が無いらしく、即座に計算して動いている。きっと油断がならない奴なのだろう。  だが、しかしそんなことはどうでもいい。 「よろしいかな、各々方」  千種、六条、岩倉の三家、渋々といった表情で肯定の意を返しているこいつらも、中院や陛下も含めた神州の総てが敵になっても。 「ならばここに、神楽は決した。陛下の玉言を代行し、東征の始まりを謳うがよろしい。麗しき我らが将よ!」 「さあ」 「どうぞ遠慮なく」 「ばしっと決めてね」 「これが始まりだというのなら」 「竜胆様……」  俺が、俺たちが命を懸けて、何があろうとこの姫を守り抜こう。 「こら、てめえもなんか言えよ」 「うるせえ。馴れ馴れしく話し掛けんな」  まあその、連帯感やら仲間意識は、先が思いやられるどころじゃないけどよ。 「見られるがよい、烏帽子殿。これが御身の勝ち取った益荒男たちだ」 「龍明殿……」  この姫さんがいなければ、この〈結末〉《はじまり》は生まれなかった。その事実を、今はただ誇ってほしい。  なぜなら俺にとってそれこそが、最初の褒美というやつだから。 「相、分かった」  いつの間にか雪は止んで雲は晴れ、蒼穹が覗く光の下で我らの姫君が宣言する。  雄々しく、凛々しく、天にその気概を煌かして―― 「天晴れ。御国の益荒男たちよ、大儀である!」 「来たる東征、本年卯の月に我らは淡海を越え化外を攻める! 敵は人外法理の鬼どもゆえに、穢土は苛烈な死地と化すであろう!」 「だが負けぬ――我らは勝つと断言する! なぜなら其の方ら益荒男が、我が剣となり勇武を示すと信ずるゆえに他ならん!」 「いざ参ろう、魂を胸に!」 「その烈しさ、その矜持、私に託し抱かせてくれ!」 「我は征夷大将軍――」  そこで間を置き、俺たちを見て。 「久雅竜胆鈴鹿なり!」  貴人にとって、伏せるべき真名を声高らかに名乗り上げた。その意味するところが何なのか、分からないボンクラなどいるわけがない。 「よっしゃー、ですのー!」  同時に、膨れ上がる大歓声。明らかに素性が怪しい奴も多数混じっているこの場において、それは最上級の信頼を形にしたものなのだろう。  こりゃいよいよマジで、期待裏切るわけにはいかねえよな。 「だから、君は――空気を読めって、私が、あれほど……!」  飛び跳ねる犬の背中で悪戦苦闘しながら子供は抗議しているが、あれはあれで空気を読んでるはずだろう。おまえが堅物すぎるだけだ。 「感服いたしました、竜胆様」 「来たる東征、誠に楽しみでなりませぬ」 「まあ、それまでは養生するかな」 「卯月ですか。長いと言えば長いですし」 「わ、私は、さらに修練をいたします。もうチンチクリンとか、誰にも言われたくはありませぬから!」  いやそれは、まず背丈を伸ばさんことにはどうにもならんように思うのだが。 「そうか。励めよ、龍水」 「はいっ!」  まあ、いいや。夢は見させておいてやろう。 「で、おまえはまた何も言わねえの?」 「知るか」 「そうかい」  こいつは本当に可愛くねえな。共に黒焦げ、血だらけで、舌打ちしながらそっぽを向き合う俺たちの間に、咲耶が苦笑しながら割って入った。 「お二人とも、喧嘩はやめてくださいまし。強がっておられますが、どちらも立つことさえ出来ぬでしょうに」 「そうだな。まずは休んで、傷をしっかりと癒すべきだ。何ならば、私が祈祷のひとつでもしてやろうか?」 「要らねえよ!」 「まあ、仲が本当によろしいことで」 「あのなあ……」  もはや脱力しすぎて怒る気にもなれねえ。それは刑士郎も同じなようで、勝手にしやがれと言わんばかりに不貞腐れていた。 「ともあれ、これでひとまず片はついたことになりますな。本来なら、景気付けに酒宴など開きたいところでもありますが……そうもいくまい、なあ烏帽子殿」 「え、ああ……それは確かに、その通り」  ええー、と俺も含めた不真面目組から声があがるが、竜胆は清々しいほど一顧だにしない。こういうところは、もうちょっと柔らかくなってほしいもんだった。 「皆消耗している。覇吐は当家へ。凶月は……」 「私が引き受けよう。夜行、分かるな?ここまで来たのだ、少しは働け」 「御意に、お任せいただきたい」 「そして宗次郎は……冷泉殿、よろしいか?」 「構いませぬが、よいのかな?」 「何がだ? この者は、中院の家臣であろうに」 「ふむ、さはさりながら……」  ちらりと、感情のこもらない目で俺を見てから、中院は首をゆるりと横に振った。 「いや、やはり遠慮いたそう。なに、別段これといった理由があるわけでもありませぬが、強いて申さば臣の意を汲んでやろうと思う次第」 「つまりは褒美の一環ということで。玖錠の娘よ、頼まれてくれぬか?」 「え、私?」 「其の方の技、玄妙であった。我が臣も、そこは感服しておるだろう。よければ春までの間、共に切磋してもらいたい」 「そうしたほうが宗次郎は喜ぶであろうし、陛下の衛士である玖錠と縁を持つのは当家にとっても誉れである。まあ、無理にとは言わぬがな」 「いや、まあ、そういうことなら私はいいけど……」 「どうする宗次郎、うちに来る?」 「……………」  問いに、宗次郎はしばらく無言を通してから、頷いた。 「ええ、でしたら申し訳ありませんが、お世話になります」 「……て、なんですか、覇吐さん。妙な顔をして」 「んー、別に。ただやべえんじゃねえの、色々と」  中院は明らかに何かを考えてやがるんだろうが、そんなことはともかく単に状況がやばいだろう。 「心配は要りません。僕も常時斬り合いばかりを渇望しているわけではありませんし、あなたのご主君に言われたことも多少は考えています。大丈夫ですよ」 「いや、そうじゃなくてよ……」  むしろそうだからこそあれっつーか。 「分かんないな。なに言ってんのあんた」 「まあ、いいです。どうせろくでもないことでしょうし」 「冷泉様、宗次郎はそのようにさせていただきます」 「うむ、さらなる飛躍を期待しよう」 「では、これにて」  当座の身の振り方が各々決まったことにより、龍明が座を締めた。 「最後に御門家当主として、誉れ高き益荒男たちの未来を占ってしんぜよう。なに、難しいことではない」  ばらら、と懐から無造作に札を数枚取り出して、不敵に告げる。 「今よりこれを宙に投げる。ゆえにそれぞれ、好きなもの選んで掴み取るがいい。その結果が、おまえたちの未来を暗示したものとなるだろう」 「己が何者で、何を成し、何処より生じて何処に行くのか。当たるも八卦、当たらぬも八卦の遊びだが、あまり堅苦しいのは嫌であろうと思うしな」 「では参るぞ、爾子、丁禮」 「はいですの」 「心得ました、龍明殿」  頷く犬と子供が飛び跳ねて、声高らかに音頭を取る。 「〈天〉《あめ》切る、〈地〉《つち》切る、八方切る。天に〈八偉〉《やちがい》、地に十の〈文字〉《ふみ》――」 「ふっ切って放つ、さんびらり」 「よおおおぉぉ、――はッ!」  そして、空に霊符が舞い上がった。  はらはらと落ちるそれを、皆が選んで掴み取る。  俺、竜胆、宗次郎、紫織、夜行、龍水、咲耶に、刑士郎――  当たるも八卦、当たらぬも八卦。各々の未来を暗示し、己が何者なのかを判ずるという札の結果が、示したものは……  ………………  ………………  ………………  ……………… 「にゃもろーん、ですの!」 「もぎゅわあっ」  唐突に上から覆い被さってきた重量に驚愕して、一気に眠りから飛び起きた。 「ふんふふ~ん、にょにょにょ~、うりうりー、ですのー」 「まっ、ぐ、ちょ――もがが、が……」  いや、目は覚めたが起き上がれない。それどころか息が出来ない。 「ただいま帰って参りましたですのー。〈母様〉《かかさま》ー、〈母様〉《かかさま》ー、爾子はお役目を果たしですのよー。褒めてー。褒めてー」 「う、あ、ぎぎ、ぎぎぎぎぎぎ……」  死ぬ。毛が口に入って窒息するというか、重すぎて圧死する。 「はにゃ? なんか痙攣しだしたですのよ。爾子の愛に感激して、震えるほど嬉しいですのか?」 「う、が、がが、がががが……」 「ああ、そこ、そこですの。母様の貧相ながりがり肢体が、丁度いい感じにツボを刺激するですの。お陰でコリがほぐれるわぁ……ごろごろ」 「ぎゃ、ぎ……げぁ、ぶぶ……」 「これは好きなように甘えろってことですのか? だったらこのまま遠慮なく、思いっきり全体重を預けますのよ?」 「――――――」 「せーっのぉ」  人体には、切羽詰ったときに発揮される、火事場の馬鹿力という神秘の御業があるらしい。 「うがあああああぁぁっ、どかんかあァッ!」 「ほぎゅわああ」  命を懸けた全身全霊の爆発で、軽く米俵四つぶんはあろう重さを撥ね飛ばした。真っ白い毛玉の巨大生物が、地響きを立てながら畳の上を転がっていく。 「ぶっ、はあ――、はあ、がはっ、はあ――」 「き、貴様、いきなり、ごほっ――なにをっ」  胸を押さえて咳き込みながら、なんとか気息を整える。いきなり命を奪われかけては、到底穏やかじゃいられない。 「なんのつもりだこの大虚け! 貴様私を殺す気かっ!」 「はにゃあ?」  真剣、本気で怒号したのに、起き上がった犬――みたいなもの――は、首を傾げてきょとんとしている。そのつぶらな瞳が、また余計に腹立たしい。 「何を怒ってるんですの、母様。照れ隠しのつんでれですのか?」 「やかましい! 誰が母様だふざけるな! つんだのでれだの、ワケの分からぬ下賎な言葉を使うでない!」 「貴様、いったい何を企んで私の寝室に踏み入った! まさか食らう気だったのではあるまいな!」 「母様みたいながりがりちびのチンチクリン、食べたところでお腹の足しにはなりませんのよ。まあ、うどんのダシくらいにはなるかもしれないと思うけれども」 「ち、チンチクリンだとぉぉ―――!」 「そのほっそい手足、かったい関節、うっすい胸板。丸みの欠片もなければ威厳の兆候すら見受けられない、ちびで貧弱で色気も食い気も皆無極まった有り様を、他にどう表現すればいいですのか」 「ああ、それに汁気もよく見ればないですのね。やっぱダシにもならんですのよ」 「き、き、き、き……」 「というわけで、爾子が母様を食べようとしたって指摘は、濡れ衣言いがかりの勘違いぽんぽこりんですの」 「お願いなので、頭の中までチンチクリンなのはやめてほしいと思いますのよ」 「貴様ぁぁぁ―――、ようもそこまで言いよったなああああっ!」  もう許さん。もう怒った。誇りに懸けてこいつは滅さなければ気がすまんと立ち上がる。 「決闘だ、〈爾子多童子〉《にしたどうじ》! 今日という今日は勘弁ならんぞ! 毛玉の一つたりともこの世に残さんから覚悟しろ!」 「そういう無粋な名で呼ばないで、爾子は爾子と可愛く呼んでほしいですのよ。これでも乙女なんですのよ?」 「ですのですのですのですのと……」  暖簾に腕押しを地でいく態度に、いよいよ血圧が危険な領域にまで跳ね上がった。 「貴様、無理矢理その語尾使っておるだけであろうが! たまに文法無視しておるわっ! それで乙女になったつもりかっ!」 「とにかく、今すぐ表に出ろ! それだけ私に喧嘩を売って、まさか逃げなどするまいな!」 「むー、別にそんなつもりはないですのが」  ちっとも困ったように見えない様子で、爾子は大仰に溜息をつく。  そして、さらりと爆弾発言。 「夜行様がお呼びしているというのに、母様は無視するですの? それじゃあただの龍水に戻るということで、お望み通りこてんぱんにしてあげるけれども」 「な、な、なにィ――?」  いきなりそんな、寝耳に水というか早く言えというか。とにかく一気に、怒りは何処かへ吹き飛んだ。 「あっ、ちょ、ちょま――」 「着替えなら、そっちの箪笥にあるですの。鏡はあっち。櫛はそこ」 「わ、分かっておるわ! ええい、もう――あいたぁ!」 「ああ、そんな慌ててばたばたやるから」  転んだり喚いたり大騒ぎのしっちゃかめっちゃかやりながら、とにかくようやっとのことで諸々の乱れを正す龍水。爾子はお座りの姿勢で行儀よく見守りながら、肩で息をしている少女に深呼吸を促す。 「はい大きく息を吸ってー、吐いてー」 「ついでに息を止めてー、永眠してー」 「――するかっ!」  ついさっき窒息させられかけたことを思い出し、再び怒りが込み上げかけるがぐっと堪える。今はそれどころじゃない。 「で、でだ」 「そ、それはほんとか? 夜行様が……」 「嘘言ってどうするんですの。そもそも爾子がここにいるという時点で、分かりそうなもんですの」 「え、ああ、それは確かに、そうであるな……」 「ん? その反応はもしかして、単に夜だから寝ていたわけじゃないですのか?」 「うっ……」  痛いところを突かれて、言い淀む。正直情けない話なので、出来れば知られたくなかったことだが。 「まあ、その、そうだ。察しの通り」 「しかし、あれだぞ。別にずっと寝ていたわけではないのだぞ。ちょくちょくと起きてはいた。ちょくちょく、だが……」 「今日は何月何日ですの?」 「うぐっ……」 「あれから何日経ったか分かるかですの?」 「むぐぐ……」 「つまり消耗が激しすぎて、あれから今までほとんど寝たきりだったということですのね?」 「ああああ、そうだ悪いか、その通りだっ」  笑わば笑えと言いながら、ふくれて龍水はそっぽを向いた。 「私とて恥じておるわ。しかし、今現在で未熟なのは仕方あるまい。逸る心はあるものの、修行を再開するには神気の回復に努めねばならん。そうした物の順序くらい分かっている」 「だから、なんだ。今は休むのが私の戦と弁えてだな、こうして大人しくしていたというのに、いきなり貴様が……」 「決闘だー、とか言ってたくせに転嫁ですの。神気の回復云々は、どこいったって話ですの」 「うるさい。それで」 「あれから四日が経っております」  そのとき、音もなく障子が開き、龍水よりさらに幼く見える〈禿〉《かむろ》髪の童子が入ってきた。  〈丁禮多童子〉《ていれいたどうじ》……爾子と同じく夜行の従者であるこの式神は、謹厳実直な性質なので犬よりかは相手にしやすい。 「爾子、君は何をやっているんだい。あまりに来るのが遅いから、心配になって来てみれば……」 「あー、それは龍水が」 「ご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません龍水殿。爾子に代わってお詫びします」 「ちょっと丁禮、なんですのそれ。爾子の言い分は無視ですのか?」 「聞く耳持たない。やはり君に行かせたのは失敗だったと悔いている」 「むががー、ですのー!」  贔屓だ、差別だ、冤罪だと喚きながら、爾子がそこらを転げまわる。絵面としては仔犬の行動なので微笑ましいはずなのだが、この巨体でやられるのは色々間違っているだろう。 「私の部屋を破壊する気か、この馬鹿犬は」 「誠に申し訳ない。下手に構うより、放っておいたほうがすぐに収まりますのでご容赦を」 「ぷんぷんですの。つんつんですの。二度とでれでれしてやらないから、後悔すればいいですの」 「後悔ならずっとしている。それで龍水殿、我々は……」 「凶月の者らを送り届けて、今帰ってきたところなのだよ。覚えているだろう?」 「あ……」  続いて現れた御門家当主に、龍水は飛び上がるような勢いで姿勢を正した。 「お、お帰りなさいませ。母刀自殿……」 「ああ、ずいぶん怒鳴り散らしていたが、元気になったようで何よりだよ。大儀だったな、爾子」 「はいですの。爾子を気遣ってくれるのは、龍明さんしかいないですの」 「龍明殿、あまり甘やかされては困ります。ただでさえいつも私が…」 「なんだ丁禮、まだ機嫌が悪いのか? 珍しいこともあったものだよ。なあ龍水」 「え、あ……」  珍しいと言うならば、今の龍明のほうが珍しい。今夜の彼女は、殊のほか上機嫌に思える。 「凶月の二人が、こやつはどうも気に入らんらしい。まあ、好かれるような者らでもないが、いつも冷静沈着な丁禮多童子ともあろう者が、相方の爾子にまで八つ当たりとはね。これはいったいどうしたことかな」 「……別に。そういうわけではありません。強いて言うなら、危険物の運搬に気疲れしたというだけです」 「ふむ? そうなのか?」 「なんですか、龍明殿。あなた、面白がっているでしょう。意味が分からない」 「ともかく、今後はなるべく、私をあの者らに関わらせないでいただきたいと思います」 「あー、それは爾子も同感ですの。なんて言うか、近くに寄るとビリビリっていうか、イライラっとするですの」 「向こうも、私たちに同じような感想を抱いたようですし」 「つまり、犬猿というやつかな。初対面だというのに、不思議なこともあるものだが……そこは夜行が判断するところだろう」 「あまり期待はしないほうがいいと思うがね」 「うわー……」 「そう言われると、不吉な予感しかしないのでやめてください」 「えっと、その……」  一応、ここは自分の寝室なのだけど……なぜか蚊帳の外に置かれたような気分を味わい、龍水は手持ち無沙汰になってしまった。  そんな彼女をちらりと見やって、龍明は意地悪く笑う。 「なんだ、まだそこにいたのか。さっさと化粧でもして、夜行のところに行ってこい。なんなら、白無垢も用意しようか?」 「な、――お、母刀自殿!」 「喚くな。惚れた男に誘われているのだ、一も二もなく乗らんでどうする。私も若い頃はそうしたものだぞ」 「まあ、その男がどういう人種かにもよる話だがな」 「あ、駄目。それを言うなら、夜行様は危険度最高潮ですの」 「否定できないのが、なんともあれな話ではあります……」 「ともあれ、おまえは私の娘だ、龍水」  二童子のぼやきを笑って横に流しつつ、龍明は開け放たれた障子の向こう、天を指して言葉を継いだ。 「ならば、ああいう手強い男を追いかけるのも有りであろうよ。周りは色々と言うだろうが、なに心配するな。そう悪いものでもない」 「と思って、許婚にしてやったのだ。それとも、要らぬ親心だったかな?」 「そ、そんなことはありませぬ!」  その反応は半ば以上脊髄だったが、だからといって追従したというわけでもない。龍明の真意は量りかねるところが多々あるものの、迷惑などと思ったことは一度もないのだ。  親も、許婚も、稀代の傑物。ならばそれを誇りこそすれ、不満に感じるなど有り得ない話だろう。 「そうか。ならよい。烏帽子殿の影響で、おまえは悩んでいるかもしれんと思ったものでな」 「考えてみれば、私はおまえに選択肢など与えていない。御門の養女にした時点で、他の生き方は有り得んわけだし……色々自省するところもあるのだよ」 「まあ、だからといって方針は変えんがね」 「…………」  おまえは自分で選んでいない――竜胆にそう言われたことを思い出したが、そのことに対する答えはとうに出ていた。  自分にとって、確かに周囲の諸々は与えられたものばかりかもしれないが、だからといってそれが下劣なものであれば誇ったりはしないのだ。  ゆえにこの先、たとえ穢土で何を見ようと、正邪の判断くらいつけられるはず。  そう信じて、龍水は己が母に一礼した。 「至らぬ身ではありますが、今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします、母刀自殿」 「では、私は行かせていただきますので」 「ああ、何なら朝帰りしても構わんぞ。今宵は月が美しいゆえ、私はこやつらと飲むことにする」 「えー、龍明さんは酒癖悪いから嫌ですのー」 「加えて言うなら、あまり月も好きではないです」 「固いことを言うな。つれない奴らだ。それから龍水」  場を辞そうとしたところを呼び止められ、なんでしょうかと振り向いたとき―― 「先の神楽、よく奮戦した。東征においても期待しているぞ、我が娘」 「――――――」  そんな、夢かと思うような言葉が贈られた。 「ぁ、え……」  今夜の彼女は、本当にだいぶおかしい。だってこんな風に褒められたのは、初めてのことだったから。 「……はい」  思わず放心しかけたものの、湧き上がる嬉しさがすぐさま心を満たしていく。 「はい――ご期待に添えるよう、龍水は励みます。母刀自殿の娘として、恥ずかしくないように」  感極まるあまり、そのときはそう返すのが精一杯で……  肝心の夜行が何処にいるのか、龍水は訊くのをすっかり忘れていた。  いや正確には、教えられたのに気付いていなかっただけなのだが。 「ふむ……なるほど」  それらの状況を見下ろして、低く愉快げな声が流れる。 「今宵は眩しい。誰もが浮かれ、気も緩むか。お陰で珍奇なものを目に出来たな」  そこは天。まさしく龍明が指し示した先に彼はいた。  月光に浮かぶ美貌の凄まじさ。悪辣としか思えぬ笑みを湛えているが、この男にはそうした〈貌〉《かお》こそ相応しい。御門一門の陰陽頭にして、次期当主の許婚、摩多羅夜行その人である。  眼下では、龍水が独楽鼠のように走り回って彼を捜しているのだが、夜行は薄ら笑うだけで何もしない。そもそも、何を思って彼女を呼んだのかが不明であった。用があるなら、さっさと声をかけてやるべきだろう。  なのにゆるゆると、手酌で月見酒などをやりながら、時が流れること一刻以上。その間、飽くことなく眼下を見続けている彼も彼なら、捜し続けている龍水も龍水だ。見方によっては、お似合いの二人と言えるのかもしれない。  そうして、ようやく龍水が許婚のいる場所に気付いたのは、さらに半刻経った後だった。 「――夜行様っ」  すみませぬとか、遅れましたとか、色々大慌てで詫びながら、悪戦苦闘しつつも彼女は高楼の屋根によじ登ってくる。  言うまでもなくそこはかなりの高所であり、手でも滑らせたら命に関わる大事だろう。しかし夜行は相変わらずで、何の手助けもしようとしない。  第三者がこれを見れば、満場一致でその男はやめろと言うはずだ。獅子の子落としという言葉もあるが、夜行は明らかに少女の奮闘を肴にしており、平たく言えば愛情がない。  ただ、蟻の行列を眺める子供のように。自重の数十倍はあろう餌を牽引する小さき者へ抱くような……次元の違う世界からの感心を覚えている。  圧倒的に上からの目線は、しかし他者への侮蔑や失望という形を決して取らない。彼は今の龍水や、他の者らが直面している壁や障害を知らないゆえに、ある意味で己の器量に懐疑的なのだった。  蝉を運べる蟻の器量は、疑いの余地なく素晴らしい。己は容易く摘み上げることが出来るものの、それは相対比として当たり前のことである。誇るようなことでなければ、蟻を見下げる理由にもならない。  つまり、夜行にとっての蝉とは何か。それを前にしたとき、運ぶことが出来るか否か。  論点はそこであり、答えはまだ出ていない。ゆえに彼は、世の諸々を愛でている。教師と仰ぎ、敬いながら、同時に玩具と断じている。  自己愛に酔った者どもが溢れ返っているこの世において、我こそ至高と自負するのは決して珍しいことではない。しかし彼ほど、他者と己を断絶して考えている者は皆無だった。  それをただの思想的自慰。少児的全能感と嗤うことは出来ないだろう。大なる者が我は大なりと思うことに、何の滑稽さも不自然さもないのだから。  傑出した人物特有の屈折だと言われたところで、当の本人からすれば曲がっているつもりなどまったくない。  ゆえに摩多羅夜行は正確に観ていた。 己が他者と違う階層に在ることを弁えて、分に合った――つまり手に負えぬような蝉を探している。  それを前にして、この少女のように挑戦することが出来るのかと。  小さき教師であり玩具に対し、夜行が求めたのはそういうことなのかもしれなかった。 「なあ、龍水よ」  そして、だからこそ―― 「お、遅くなりまして、誠に――申し訳、ありません」  息も絶え絶えに、ようやく這い上がってきた龍水へ、彼は己の目線を見せることにしたのである。 「――太・極――」  紡がれた〈咒〉《しゅ》はただの一言。彼しか到達した者が存在せず、ゆえにこれより上があるのかまったく読めない世界の門が、今開く。 「え、あっ――」  そこは、無限の卍の中心にある宇宙の座だった。これが夜行の存在する階層であり、彼の目線に他ならない。  そういう意味では、門を開くという表現は正確性に欠けていた。夜行は常時ここに在り、そしてここから出られない。今、入室したというわけではなく、彼の目には万象がこのように見えているというだけなのだ。  つまり、先の〈咒〉《しゅ》によって弄ったものは、むしろ龍水の視点である。彼女の存在を摘み上げ、己の目線に合わせたこと。  人の視界を見た蟻は意味が分からなくなるだろうし、夜行の視界を見た龍水は同様の現象に陥っている。  瞬く銀河も、天体も、一つ一つが途轍もない巨大さを持つ森羅の一片。それが点描と化し世界を象る大曼荼羅。  まさしく〈現世〉《うつよ》を俯瞰する、天上とも言うべき世界である。 「ここ、は……」 「驚かせたかな、まあ許せ。慣れてしまえば大したものでもない」  放心する龍水の反応はごく自然で、逆に意外と言えるかもしれない。理解を絶した物事には、奇矯な反応こそ当たり前という見方もある。  が、裏の裏は面であり、今の龍水はそれが何周回ったのか分からないのだ。ゆえに結局のところ、考えるだけ無駄であるのはこの世界と同じだろう。 「これは私流の労いだよ。一種、親愛の表現とでも思ってもらえばそれでよい」 「し、親愛などと――」  いきなりの甘い言葉に、顔中真っ赤にして狼狽える龍水。彼女にとっては、それがこの世界云々よりも衝撃的だったのかもしれない。 「そんな、私ごときに恐れ多い……もったいのうございます」 「なんだ? では嬉しくないと? おまえはこの眺めがお気に召さぬというのかな」 「い、いいえ。そういうわけではありませぬ。ただ、なんと申しますか、びっくりしすぎて……」 「それで、あの、夜行様……これはいったい、何なのです?」 「知らん」 「はい?」  即行で返ってきたいい加減なその答えに、龍水は目を丸くした。 「少なくとも言葉以上は。だからこそおまえを招いたと言ってもいい。先の神楽には感じ入ったし、東征を前にした私なりの予感もある」 「そもそも、いつからこうなのか分からんのだよ。ただ私は、気付いたときからここにいて、要はそれだけのことでしかない」 「私はこんなものだから、御門に拾われたと言えばよいのかな。龍明殿曰く、太極だ。おまえも知っているだろう」 「それは、まあ……」  太極――陰陽道における万物の元始であり、宇宙の中心点を指す概念。彼ら御門の人間にとっては常識的な単語だが、その意味するとこは茫漠としてはっきりしない。  陳腐に言えば究極のようなものだから、そこがどのようなものであり、知れば何が出来るようになるというのか、具体的な解がないのである。 「真理を悟るだの、何だのと、まあそういうことを言われているがな。では真理とは何だ? 知らんよ、そんなもの」 「俗に考えれば、不可能なことがなくなるのかもしれん。万物の元始には総ての事象の元があるゆえ、そこに触れればあらゆる知と力を引き出せる。総てを悟り、総てを成せる」 「――と、いうことならば、なんとも小人の好みそうな座ではないか。単なる金銀財宝と何が違う。そういうものが真理なのかね」 「龍水、おまえはどう思う?」 「私は……」  問われ、龍水は恐る恐るといった風に周囲の情景を見回している。そして彼女流の考えが纏まったのか、遠慮がちに語りだした。 「夜行様が、天眼を持っておられるというのは聞いています。それはつまり、何もかもが見えていらっしゃるということでしょう?」 「私には、ここにあるものの一片たりとも分かりませんが、視点の違いがそのような差を生んでいると……そのことだけは理解できます」 「そういう意味で、ここと一般に言われる太極は、合致しているのではないでしょうか。夜行様はお好みでないのかもしれませんが、らしい荘厳さであるとも思いますし」 「ただ……」  と、言葉を切って、上目遣いに夜行を見る。そのまま、叱られるのを恐れているような態度で、おずおずと続けた。 「あの、ご気分を害さないでほしいのですが……最初の印象でこう感じました。ひどく狭いと」 「ほう?」  それは斬新、と言うより極度に矛盾した意見である。那由多の宇宙を見通すこの場で、〈狭隘〉《きょうあい》な感覚に囚われるなど有り得ない。 「そういえば、おまえも目に関しては一家言ある身だったな。先見の視力は、ここをそのように捉えるのか」 「い、いいえそんなとんでもない! 私の目など、夜行様に比べればゴミ虫みたいなものでして、いつも見えるわけじゃないし、見えても本当に一瞬先だし、しかも結構外れるし」 「よい、感想を訊いたのは私だ。それがおまえの本音であれば、別に間違った答えでもあるまい」 「しかし、そうか。狭いか、なるほど……」 「あうう……」  哀れなほど縮こまっている龍水を無視したまま、夜行は思索に耽っていく。  実際にここが狭いかどうかは関係ない。ただ、なぜ龍水がそう感じ、夜行はそう思わないのか、問題はその齟齬だろう。  では逆に考えて、広いと感じたことはあったろうか。 「ない」  そもそも空間の概念自体を意識したことがない。思えば有り得ない話である。  その意味するところは何なのか。視点の違う見方が何を生むのか。  揺らめく卍の綾模様に囲まれて、森羅を解きほぐすようにしながら物思う。 「広がりとは、己を中心にした世界に対して言うものだ。それを一切感じぬとは、すなわち、ああ、なるほどこれは……」  ぼそりと、夜行は呟いた。 「もしや、型に嵌ったか」 「え?」 「そうであるなら、ふむ、兆しかな。そもそも今宵は、らしくないことが多すぎる。龍明殿然り、爾子丁禮然り、凶月然り、そして私も……」 「ふふ、ふふふ、ふふふふふふ……」 「あ、あのぉ……」  いい加減、置き去りすぎて不安です。  そんな龍水の意を汲み取ったわけでもないだろうが、夜行は唐突に顔をあげると、まさにらしくないことを口にした。 「礼を言おう、龍水。おまえをここに招いて良かった」 「あ、や、そんないいえ、もったいない!」  何を感謝されているのかまったく理解できない様子だったが、ともかく龍水は恐縮している。そんな彼女を見やりながら、夜行は意味深に含み笑った。 「まあ、分からんでもいい。とにかく貴重な意見であったよ」 「〈爾〉《 、》〈子〉《 、》〈と〉《 、》〈丁〉《 、》〈禮〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈拾〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈が〉《 、》、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈道〉《 、》〈理〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「そしておそらく、龍明殿もな」 「母刀自殿が? どうしたのです?」 「彼女らはおまえと違うということだよ。なに、気にするな。悪い意味ではない」 「…………」 「では、先ほど、型に嵌ったと仰っていたのは……」 「ああ、それか」  問いに、夜行は意地悪く目を細めると、龍水を指差した。 「おまえは御門龍水だ」 「はい?」 「ゆえに御門龍水であり、御門龍水という〈咒〉《かた》に嵌る。半ば騙しに近いものだが、真実の創造には違いあるまい」 「分かるな? この程度のことで質問返しなどしてくれるなよ。陰陽道の基本だぞ」 「あ、それはもちろん、分かりますが……」  訊きたいのは、そんなことを言い出す意味だろう。しかし困惑した龍水を放置したまま、夜行の弁舌は回転率を上げていく。 「要は、何事も分かりやすくしてやるということだ。誰も見たことも聞いたこともない独創というものがあるとして、それは何も分からぬということに他ならん。なぜなら誰も知らんのだからな」 「ゆえに、たとえ無理矢理だろうと、既存の型に嵌めてしまう。そうすることで属性を帯び、理解できるものに変質する」 「その逆に、手垢のついた既存品を、神秘に見せる手段はこうだ。何か別の〈咒〉《な》で呼べばいい」 「火をふぁいやー、月をむーん、これは異人の言葉だが、そう呼ばれれば摩訶不思議なものに感じるだろう。馬鹿馬鹿しい限りだが、これには皆が騙される。私とて例外ではない」 「歪みを陰気などと呼んでいるのもその一環だ。陰は暗い。よろしくない。だからこそ、剣呑な不条理はその型に嵌りやすい。かくして化外は、大衆にとって分かりやすい悪となる」  そこで一旦言葉を切り、夜行は呵呵と大笑した。この上もなく楽しそうに、蝉が見つかるかもしれないと言いながら。 「〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》、〈万〉《 、》〈象〉《 、》〈を〉《 、》〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈龍〉《 、》〈水〉《 、》――〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈の〉《 、》〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈を〉《 、》〈狭〉《 、》〈隘〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》」 「夜行様の、太極……?」  それではまるで、複数の太極があるような言い草ではないか。総ての中心であり元始であるという概念にそぐわない。 「前に母刀自殿が、言っていました。夜行様の術は、夜行様だけのものであると……」 「私は今まで、それを才の話だと思っていました。違うのでしょうか?」 「さてな。だが結局は、やはり型の話であろうよ」  言いつつも、夜行は大雑把な手つきで杯に酒を注ぐ。しかしそれを途中で止めて、何かを思い出したように龍水を見た。 「時に、おまえは私を好いていると思うのだが、相違ないか?」 「へ? え、――ええええっ? 」 「相違ないなら、酌でもしてくれ。丁禮はやってくれぬし、爾子では色々と話にならん」 「あ、あああはい、ただいまぁっ!」  叫ぶと同時に、滑り込むような勢いで酒瓶を受け取りつつ座る龍水。緊張なのか照れなのか、とにかくがちがちと震えている。  こんな様で酌などされては、酒がどれだけ飛び散るか分からない。しかし夜行は、特に気にもしていないようだった。 「なあ龍水よ、私にはおまえの気持ちが分からん」 「太極に座し、天眼を持ち、総てが見えていると言われても、おまえの視界は理解できんよ。ゆえに慕われても応えられぬ」 「私にとって、万象はこの曼荼羅だ。景色は遠い。美しいが掛け離れている」 「ここから一歩も動けぬのが、摩多羅夜行という男なのだぞ?」 「……構いません。ならば私が昇りますから」  もとより自分は追いかける者。少女はそう返答して、なんとかぎこちくなく酌をした。 「先ほどああは言いましたが、一応少しは目に自負があります。私から見た夜行様は、初めから明らかに他と違う方でありました」 「ゆえに追いつきたいと思います。対等、などとは申しませんが、せめてチンチクリンと呼ばれるくらいの距離感には……」 「夜行様にそう言われるなら、正直……悪くはないかもしれぬと思うのです」 「そうか」  注がれた酒を飲み干して、夜行は己が太極を顧みる。  これが彼の世界。彼の天座。  〈未〉《 、》〈だ〉《 、》〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、〈無〉《 、》〈形〉《 、》〈な〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈の〉《 、》〈阿〉《 、》〈頼〉《 、》〈耶〉《 、》〈識〉《 、》〈だ〉《 、》。  人界の穴とはよく言ったもの。彼は現世の何者とも交わらぬまま、ただ一人の〈宙〉《ソラ》を見ている特異点に他ならない。  であればきっと、この座の外にはさらに巨大なものがある。  彼以外の総てを呑み込み、己が宇宙を創りだしたモノが蠢いているに違いない。  龍水という異物を招いたことで、その違和感を自覚した。  狭いと言った、先の指摘。それはすなわち、彼女を型に嵌めたモノが途方もない証であろう。  そんな存在を、何と定義するべきなのかは知らないが…… 「あちらから見れば、私こそが蟻以下か」 「くくく、これは面白い」  吊り上がる口元は、魔的に、美的に亀裂を深める。どうやら自分にとっての蝉というやつ、〈巨熊〉《きょゆう》どころではないやもしれぬと。  はたして蟻一匹で抗し得るのか、さあお立会い。 「夜行様?」 「ああ何でもない。俄然、東征が楽しみになってきたというだけだ」 「奪われ、追われ、蜘蛛と型に嵌められた者ども、おそらくは……」  再度注がれた酒を飲み干し、夜行はそこに思いを馳せる。  総ては今春、それ以降――  淡海の先、穢土の地に答えが待ち受けているのだろう。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行・御門龍水、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  初めてそれを自覚したのは、三つかそこらの時分だった。  どうやら世には、他人というものがいるらしい。その意味するところを解した瞬間、途轍もない違和感に襲われたのを覚えている。  まだ幼い心であったから、輪郭は曖昧なものの感覚は激烈だった。まるで揺り篭の中に、いきなり冷水をぶち撒けられたような気分がして……  有り体に言えば、非情に迷惑だったのである。 「どうやら、いくらか傷は癒えたようだな」  神楽の儀から十日ほど経った後、玖錠の屋敷で療養していた宗次郎の許に、中院冷泉が訪れた。名目は、見舞いということらしい。 「まだ全快というわけでもなさそうだが、それでも恐るべき回復力と言うべきか。正直、驚嘆しておるよ」 「おまえたちのような者は、皆そうなのかな? だとしたら、羨ましくもある」 「ご冗談を」  本気でそう思っているわけでは断じてない。いわゆる建前というやつで、さらに言えば気遣いの一種だろう。人と人が、他人同士無用な衝突を避けるための便法だ。  社交辞令――宗次郎が嫌いなものの代表である。 「中院の御当主様が、僕のような者に恐れ多い。不甲斐ない身に、もったいなくあります」 「何を言うか。おまえはよく尽くしてくれたぞ、宗次郎」 「下知など一つもしていないがな。それでも我の望むようにおまえは動いた。忠臣とは、斯くあるべしよ」 「いつも思うのだ。無駄に人の顔色など窺わず、各々好きにやればよいのに。それでもこの世は、巧く回るように出来ているはずだろうと」 「おまえもそういう人種であろうと思ったから呼んだ。そして実際、そうだった。ならば目出度い。それが総てよ」 「…………」 「腰の軽い男だ、などと思っているかな?」 「いいえ。決してそういうわけでは」  冷泉のような立場の者が、ろくに共も連れず一剣士の許へ、しかも玖錠という政治的に難しい家へと気軽い調子でやってくる。まともに考えれば有り得ない話であり、腰が軽いどころではない。  してみれば、いま自分自身で言ったように、この男も他人という者を見ていない人種なのか。  そう思い、宗次郎は先の感想を僅かながら修正した。  彼は社交辞令など口にしない。あれは諧謔の類だろうと。 「僕よりは、遥かに〈武士〉《もののふ》然としておられます。それは当たり前のことであり、このようなことを言うのは不敬なのでしょうが」 「お察しの通り、こちらも遠慮というものが苦手です。宗次郎は飾ることが不得手なので、礼をあまり知りません」 「構わんよ。奥ゆかしさとやらは害悪だ。男子が身に付けるものではない」 「飾る。化ける。誤魔化す。隠す。女子の専売特許であろうが、それは女子に備わっているからこそ美点なのだ。そこを離れれば単なる化生の属性よ」 「ゆえに抜き身であること、悪いとは思わん。しょせん如何に取り繕おうと、疑心の暗鬼は生じるものだ」 「究極、解決手段は古今まるで変わらぬのに、そこまでの道程は時代を経るごとに回りくどくなっていく」 「それを文明的、文化的進歩とでも言うのなら性に合わんよ。我にも、そしておまえにも」  つまり、先ほどから彼が言っているのはこういうことだ。 「障害になるなら斬ればよいのだ。なあ、宗次郎」  見据えているのは我が道のみ。そこに邪魔が入れば斬り捨てる。  それが男子たる在り方であろうと冷泉は言い、宗次郎は苦笑で返した。 「ならば今、僕に胸襟を開いて厚遇してくださるのも、いざ邪魔となれば斬り捨てると決めていらっしゃるからですか」 「おまえとてそうであろう。言ったではないか。我らは同じ人種であると」 「でしたら冷泉様、僕はあなたの期待に十全な形で添えなかったと思うのですが」 「それは将の座についての話かな? ふむ、まあ確かに残念ではあったが、別によい」  東征の将は、久雅竜胆に決定した。その事実に関してなら冷泉は挫折しており、宗次郎は忠を果たせなかったと言えるだろう。  だというのに、不首尾を咎めるつもりはないと言う。これまでの話を統合すれば、それほど寛容な男でもないだろうに。  そこで、ふと宗次郎は思い当たることがあったので口にした。 「まさか代わりに、玖錠を取り込むつもりですか?」 「と言うより、その上だな」 「では……」  さらりと言った言葉に少なからず驚いたが、それ以上は面に出さない。ただ首を振りつつ溜息だけつく。 「本当に、〈武士〉《もののふ》でありますね。清々しいほど」 「個人的に、冷泉様は生まれるのが三百年以上遅かったのだと思います」 「それは、我に天運なしということかな?」 「さあ、どうでしょう。今も乱世と言えばそうですし、そもそも冷泉様は天運など歯牙にも掛けておられぬでしょう」 「道を切り開くのは、ただ我意のみ」 「ほう、よく分かるな」 「〈僕〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈よ〉《 、》」  ゆえに何も迷いなどしない。そちらはそちらで勝手にやれ。  似た者同士と言うならその通りで、冷泉はここで危険なことを口走っても、それに宗次郎が興味を持たないと知り抜いている。  ゆえに口止めをする必要性がまったくない。彼に言わせれば訊かれたから答えたのみで、宗次郎としてもさらに知りたいとは思わなかった。  つまり、もはや話は終わりである。  冷泉は楽しげに一笑した。 「天下最強の剣士が夢か。よいな、それは。我も心惹かれるものがある」 「この地上にただ一人、壬生宗次郎だけが残るまで……斬って斬って斬りまくるがいい。穢土の天魔も、何もかも」 「そうなると、冷泉様も斬ることになりますが」 「それはそれで面白かろう。我は我の道の征くのみよ」 「ではな、まずはしっかりと養生せい。ああ、それから……」  立ち上がって場を辞す間際、振り返った冷泉は弄うような声で言った。 「好きなようにしろとは言ったが、多少は我を利するように、滅私を心得てくれると有り難い」 「これは烏帽子殿の論理だが、それに一杯食わされた者同士だ。真似てみるのも有りだろう」 「時に狂気も、また善き哉だ」 「……………」  言われ、数瞬だけ考える。まあ、確かに件の姫とその家臣にはやられたわけで、ある種の敬意は抱いているし。 「聞くだけ聞きましょう。なんですか?」 「うむ、それはだな」  しかつめらしく間を置く冷泉。いったい何を言うかと思いきや。 「玖錠の娘、何なら〈誑〉《たら》し込んでくれぬかな」 「お断りします」  やはり、他人など迷惑以外の何者でない。 「………さて」  冷泉が去った後、謁見の間として通された道場に一人残された宗次郎は、これからどうするべきか考える。  それは別に、中院がどうだの東征がなんだのという意味ではなく、単に当座の方針だ。  傷はまだ癒えきっていない。肋骨を粉砕され、内臓にも甚大な損傷を被ったのだから、本来は絶対安静のはずである。むしろ現在の医療的には、半ば致命傷とさえ言えるだろう。  しかし、宗次郎は常人と異なっている。刑士郎や覇吐ほどのものではないが、それでも決定的に違っている。  彼の歪みは等級四――御門龍明にそう評され、曰く『おまえはギリギリだ』とのことらしい。  五を超えれば紛れもない異形と化すが、だからといって四が真人間なわけでもない。  まさにギリギリで、人と鬼の境界に立っている。どちらでもあり、どちらでもなく、どちらからもおまえは違うと言われそうな領域だ。  ゆえに、なんとも中途半端な傷の治り具合に関しても、そうした特性の表れというやつなのだろう。 「……ふぅ」  まあ、ともかく、もう寝たきりでいるほどきついというわけでもないし、この状況に飽きがきていることも確かである。  だから、再び部屋に戻って寝直すという選択肢は排除した。せっかく玖錠の道場にいるのだから、何かしら実になることをしたいと思う。  剣を振れるかどうかは不明だが、ここは座禅でもしてみるか? 頭の中で先の神楽を再演し、もう一度戦ってみるのも有りだろう。  と、思いつつ瞑目しようとしたときに…… 「――――と」  いきなり鼻先を掠めてクナイが走り、道場の壁に突き立った。しかもさらによく見れば、なにやら紙片が結び付けられている。 「矢文……?」  のようなものらしいが、これは自分に宛てた物か?  訝りつつも、とにかく内容を見ることにしてみた。クナイを抜いて結び目を解き、畳まれていた紙を広げてみる。  すると…… 「えーっと……」  なんだろう、これは。ひどくその、何と言うか色々と酷い。 「紫織さん……字、下手ですね」  女性たるもの、それなりに麗筆でなければならないと思うのだが、こういう大雑把というか文化的側面の残念さ加減は、よくよく考えると彼女の印象に合致していると言えなくもない。  きっとあれだ、今まで身体を鍛えることばかりやっていて、他は完全にお留守なのだろう。自分とて教養があるわけではないけれど、いくらなんでもこれよりはマシな字を書く。 「というか、これは文章としてもどうなのですか」 「再戦の戦が線。決着の決が欠。候が……その、あの、これわざと間違ってるわけじゃないですよね」  だが、まあ、呼び出された以上は無視できない。この玖錠家に来て以来、一度も顔を合わせていなかったが、どうやらあちらは回復したということらしい。  こちらはまだだが、同条件下の休憩を挿んだのだから文句を言っては駄目だろう。  自分の回復が遅れたのは、より負傷が重かった自分の不明。そこに付け込むのはまるで卑怯なことじゃなく、むしろ当たり前の兵法だ。  ゆえに、この挑戦は受けなければならない。背を向けては男が廃り、壬生宗次郎の自負が地に落ちる。 「自分を嘲って生きるのは、ガラじゃないので……」 「やれやれ、厳しいことになりそうですが、行きますか」  立ち上がり、図で説明されている決闘の場所とやらへ行くことにした。 「愚痴を言うなら、せめてもう少し趣のある果たし状を貰いたかったものなのだけど……」  と、ぼやく宗次郎ではあったものの。 「ふっふ、ふふふふ、ふふふふふ……」  彼は彼で、もう少し疑うことを覚えておく必要があったと思う。 「――――――」  頭から被った井戸水の容赦ない冷たさで縮こまりそうになりながら、紫織は歯を食いしばってもう一杯、再び思いっきりぶっ被る。 「ぃぃぃィィ―――~~~」  全身を針で刺されるどころか、鈍器で殴打されたような気分になった。これでは血行が良くなるどころか、その前に心臓が止まってしまいそうに思う。 「やばっ、寒っ、ちょっと何これありえない」  こんな荒行、いったい何処の誰が考えたのか。まったく見当もつかないが、間違いなくそいつは人間じゃないと断言できる。 「うぎゃあああああ」 「ずああああああああ」 「どりゃああああああ」 「ああああああばばばばばばばばば……」  もはや気合いなのか悲鳴なのか分からぬ声をあげながら、しかし手は止まらない。ほとんど意地に近かった。 「ああ、でも、なんか変な気分になるよ、これ」  自虐的快感とでも言うのだろうか。ひたすら自分を苛め抜き、それに耐えることで妙な門が開きそうな気がする。  そういう点は武道の修行と似通った部分もあるにはあるが、こっちはより観念的だ。寒さに耐えることで克己心を養うのは立派だけれど、あまり実際的とは思えない。  現実において、精神の鍛え抜かれた下手糞は精神の緩みきった巧者にボロ負けする。高潔な人間性などは鍛える過程で偶発的に発生するおまけのようなものであり、あくまでも付属品だ。  ゆえにそれが目的となってしまえば技が死ぬ。踊りになる。そもそも他人を叩き伏せるために血道をあげる武芸者などが人格者であるはずはないし、そうなる必要性も感じられない。 「だから、寒いのを我慢するんじゃなくて、寒い日でも戦えるように、装備整えたりするほうが、重っ要!」  などと言いながら、また被る。言動が矛盾しているが、紫織はその矛盾を体現しようとしているのだった。  先の神楽の結果が不本意である。それなりに練れているつもりだったが、最善を尽くしても納得のいかない事態になった以上、今のままでは駄目だということだろう。  なので、とりあえず物は試し。ぱっと思いつく不条理なことをやってみようと考えたのだが、想像以上に馬鹿らしくてどうしようかと思っている。  しかし、何かしら行動を起こさずにはいられない。まだ完全回復したわけでもなかったが、動けるのだから動くべきだ。 「それに、うん……この先面白くなりそうだしさ」 「というか、面白い奴らが一杯いるしさ」  指折り数えながら、紫織はごちた。 「覇吐でしょ。刑士郎でしょ。咲耶、お姫様、龍水……はいいとして、夜行だっけ? あいつは変だわ」 「それに、あとは宗次郎かぁ……」  ほう、と溜息をつきながら宙を仰ぐ。今挙げた一人一人に思うところはあるものの、強いて言うなら一番印象に残っているのは最後の一人だ。 「天下最強ねえ」 「ド単純だねえ」  だが悪くない。それを求める動機は色々あるのだろうけれど、他の連中に比べれば共感できる部分が多かった。 「ま、私の夢はもうちょっと感傷的って言うか、情緒深いノリだけど、男はあれくらい真っ直ぐなほうがいいかな」  世間的には弩級の危険人物なのだろうが、ああいう男だからこそ成せることもきっとある。 「そうじゃなければ私が困るし」 「だから、こっちはこっちで初志貫徹をっと、しましょうか」  最初に百回被ると決めたので、馬鹿みたいだろうが何だろうがとにかくやろう。  気合いを入れなおした紫織は桶を勢いよく持ち上げようとしたのだが、間を空けたことで表面の水が凍っており、手が滑った。 「あっ――」  そして――  指定の場所へ向かうべく屋敷の裏手に回った宗次郎は、角を曲がった瞬間に予想外の攻撃を受けた。 「―――――」  冷たい。かなり途轍もなく。  何をされたのかは分かっているが、なぜこんなことをされたのか分からない。  滴る冷水をぽたぽた垂らし、幽霊みたいに立ち尽くす。  だが、とりあえず何か言わなければいけない。思って、ゆっくりと目を開いたら…… 「あ、ごめん……」  これは、その、いったいどういう状況なのか。 「大丈夫、宗次郎? なんか、固まっちゃってるけど」  まさに比喩でもなんでもなく、このとき彼の頭は完全に止まっていた。 「出歩いちゃって、怪我はもういいの? 私に何か用でもあった?」 「ねえ、ちょっと本当にどうしたのよ? もしかして、怒ってる?」  問いに宗次郎は答えないが、おそらくそういう次元の問題ではないだろう。 「だったら私、謝ったじゃない。あー、誠意足りなかったかな。じゃあ言い直すよ。ごめんなさい」 「私の不注意でした。少し考え事してたし、そもそも慣れないことやってたから、ぼろが出たんだね。反省してます」 「だからほら、機嫌直して? ねえ、宗次郎」  言いつつ、控えめに頭を下げる紫織の態度は真摯なもので、表面だけのものではない。  だが、そもそも公正に見るならば、これは何もそこまで低い姿勢で謝罪することでもなかった。  なぜならここは紫織の家で、その彼女がいつ何をしていようと勝手である。むしろ居候である宗次郎が無遠慮にうろつくことこそ礼を失した行為であり、その結果としてこの様ならば、それは自業自得とさえ言えるだろう。  加えて、紫織の格好だ。 「あのー、流石にそこまで無視されると、私もちょっと辛いんだけど」  井戸の前で〈禊〉《みそぎ》めいた真似をしていた彼女の姿は、薄く白い襦袢一枚。言うまでもなく肌に張り付いた布は大部分が透けており、もはや裸体同然と言っていい。  そんな乙女の肢体をまじまじと――見ているかどうかは別にして、先ほどから短くない時間二人が向き合っている事実に変わりはない。  ゆえにこの状況、気配りが足りないのは明らかに宗次郎のほうであり、普通は悲鳴と共に張り手の三・四発でも叩き込んでやるべきではないのか。 「紫織、さん……?」 「うん、どうしたの?」  なのに、紫織は怒らない。それどころか恥じらいもしない。  豪放で男勝りな性格ゆえとか、そういう理屈ならまだ分かる。だがそれだと、先の態度に説明がつかない。  その場合、おまえも不注意だったのだからお互い様だと言うだろう。しかし彼女の低姿勢は慎み深さに似たもので、別の言い方をすれば淑やかさだ。これは普通同居しない。 「な、な、なんで……」  玖錠紫織は、戦いになれば誰であろうと殴り倒す。刑士郎然り、宗次郎然り、そして龍水のような少女であろうと容赦しない。  そんな彼女が、しかし平時になれば男を立てる。今どき化石かと思うほどに、三歩近くは下がってくれる。  そんな一面を持っているのに、なぜか羞恥心は欠片もない。  何が虚で、何が実か、いったいどれだけの顔を持っているのか。  その不確かさは、彼女の歪みとそっくり同じで、捉えどころがまるでなく―― 「これは、どういう……勝負、です、か」 「ああぁーー、ちょおぉーっ」  鼻血を噴いてぶっ倒れる宗次郎と大差ない、変な奴だと言うしかなかった。  ………………  ………………  ……………… 「ほっんとごめん、ちょーごめん!」  そして半刻後、目覚めた宗次郎の前で、紫織はまた謝っていた。 「うちのバカ弟、絶対きつく言っとくから。何ならお尻叩くから。許してやってよ、ね?」 「……いや、僕のことはもういいですから」 「弟さんのことも、叱らないでやってください。いきなり僕みたいなのが居着いたら、面白くないのは当然でしょうし」 「違う。違うよ宗次郎。あれはただの悪戯盛りなんだから、締めるときに締めないと癖になっちゃう。躾は大事っ」 「今だって、直接謝れって言ったのに顔出さないしさ。ほんと最近、どんどん手に負えなくなってるのよね」 「はあ……まあその、なんというか……姉弟仲がいいんですね」  紫織の愚痴になんと返していいか分からなくて、宗次郎は曖昧に微笑する。  先の果たし状は要するにそういう事情で、彼女の弟による悪戯だったということらしい。考えてみれば見破れる種はあったのだから、騙された自分が迂闊だっただけだろう。 「それに、将来有望じゃないですか。飛んできたクナイがそこの壁に刺さるまで、僕は反応できませんでしたし……もし本気で狙われたら危なかったですよ」 「あー、あいつそういうことだけは上手いんだよね。でもいざってなったら別もんでしょ。謙遜謙遜」 「だけどあんたにそう言ってもらえると、お姉ちゃんとしては嬉しいかな。あんなんでも、うちの次期当主様だしね」 「……え?」  それはつまり、紫織は玖錠を継がないということなのか。意外に思って、宗次郎は質問した。 「どうして紫織さんが継がないんですか、もったいない」 「どうしてって」  呆れたようなその失笑は、何を分かりきったことを訊くのだと言わんばかりのものだった。 「あのね宗次郎。私は女だよ? 将来お嫁に行くんだから、自分の家継いでどうすんの」 「あんただって言ってたじゃない。女なんか弱い。話にならんって」 「それは……」  確かに、言いはしたが…… 「紫織さんは、強いでしょう」  むしろ、驚異的な域の達人だ。代々の玖錠がどうだったかは知らないが、それに劣っているとは絶対に思えない。 「過去の無礼は詫びましょう。その上で言わせていただきますが、何事においても重要なのは実力だ。それが武の、ましてや伝統ある流派ならなおのこと」 「そもそも、女だから継がないと言うのなら、何を思って玖錠の技を修めたのですか? 今のあなたになるまでの道は、決して甘くなどなかったはずです」 「正直、意味が分かりません」  人生の時間を無駄にしている。嫁に行くなどと言っていたが、それが最終的に落ち着く場所なら料理の修業でもしていればいい。そのほうが、まだしも気が利いているというものだろう。  目指す先と、そこへ至るまでの道筋に、不要な物を混ぜる感性が宗次郎には分からなかった。 「ん~~、そう言われると辛いんだけどなあ」 「そこはほら、人それぞれってことでよくない? 理由は色々あって複雑なんだよ」 「たとえば、そうね。私の技は玖錠の正統じゃないってのも一つ」 「ご存知の通り、陰が混じっちゃってるからさ。邪拳なんだよ。後継を育てられないし、陛下の〈御宸襟〉《ごしんきん》を安んじ奉るには相応しくない」 「だから鉄砲玉志願。何だかんだで神楽に出られるよう無理言って、東征に行こうと思った。化外を斃せば邪道の玖錠はもう生まれないし、それが私みたいな奴の責任なのかなと」 「女云々と、関係ないように思いますが」 「え? そこはほら、あんたと似たようなもんだよ。きっと」  言って、紫織は宗次郎の顔をまじまじと見てくる。えらくぶしつけな視線なので、思わず仰け反ってしまったほどだ。  そして―― 「かーわいーよねー。女の子みたい」 「なッ―――」 「――と、こらこらちょい待ち。こんなんでキレないでよ」  瞬間的に血が上りかけたが、寸前で堪える。柄に手が行きそうになった宗次郎を見て、紫織はからからと笑っていた。 「ふふん、やっぱりこういうのが怒りのツボなの?分かりやすいなあ」 「要するにね、そういうことだよ。私もあんたも、見た目に強者の属性ってやつを持っていない」 「苦労してきたんでしょ、あんただって。だから女に手厳しいわけだ。一緒にされたくないから」 「そこはすぐに見当ついたよ」 「……………」  その指摘に、宗次郎は何も言わない。だがそれは肯定の意でもある。 「どこのどいつを倒してもさー、なかなか認めてくれないんだよねー。ていうか、勘違いされちゃうのかな」 「あれは勝ったほうが強いんじゃない。負けたほうが弱いんだ」 「そういうのって、堪んないよね」 「……………」 「でしょ?」 「……ええ」  再度促され、今度は静かに頷く宗次郎。  そうだ、確かに堪らない。  女であったり、女のような優男であったり、見かけ上に強者の属性がない者は、どうしても色眼鏡で見られる。これは避けられないことだろう。  そして、実を示せばいいかと言われれば、これもやはり違うのだ。 「女に負けてやんの、だっせー」 「とかね、言われちゃうでしょ。私が玖錠を継いだら、それこそずっと。過去も未来も」  それが現実で、普通はそうなる。女子供が鍛えて辿り着ける領域などは実際たかが知れており、大の男が同様に鍛えていれば勝負にならない。ゆえに女子供に負けた者は、才も修練の度合いも男の底辺層たる雑魚であろうと見なされる。  偏見には違いないが、同時にこれはあらゆる分野の九割九分に適用される常識だ。何事にも例外は存在するといったところで、そんな極度に稀なものが今目の前で起こったのだと、即座に認められる人間はそういない。  つまり紫織や宗次郎のような存在は、己を含めた周囲総ての格を歪めてしまう典型なのだ。 「だからですか?」 「そ。看板を守るためには、女が継げるような玖錠流であっちゃいけない。先達や後継や、好敵手の沽券に関わる」 「流石に性別は変えられないしね。あんたよりかは、もういくらか根が深い問題なのよ。まあ、久雅のお姫様なら分かってくれるかもしれないし、そんな彼女を担ぐのは面白そう」 「てね。それも間違いなく本音だけど、最初のやつと合わせてみたら、微妙に矛盾がちょろちょろ出るから突っ込まれると困っちゃう」 「だからこのへんでもう許してよ。私の態度や、言い方が気に入らなかったんなら謝るからさ」 「……いえ」  間を置き、宗次郎はゆるりと首を横に振った。 「僕のほうこそ申し訳ない。らしくないことを言いました」  おそらく、今喋ったことが全部ではないだろう。まだ何かがあるような気もするが、そこは彼女が言ったように人それぞれだ。外野が口を出すことではない。  久雅の姫君も、冷泉のような者と確執を抱えているし、御門もそこは同様だ。  あの龍明とて若い頃は苦労したに違いなく、だからこそ夜行で帳尻を合わせている。要らぬ周囲の嘴を封じるため、龍水の立場が許されるよう配慮した政治判断。そういう面はきっとあろう。 「まったく……」  本当に面倒くさい。これだから他人とはなんとも――  と思いながら、そんな自分が紫織の事情に口を挿んだことがおかしかった。自嘲してしまう。  これでは、彼女の道が何処かで自分とぶつかりそうだと予感したみたいではないか。一見してあれやこれやと、何が本当か分からない女性だというのに。 「詮索めいた真似をするつもりはなかったのです。ご迷惑だったでしょう」 「ん、別に。私はあんたに興味があるから、話をするのは面白かったよ。個人的には、もっとしたい」 「それはどういう……」  いったい、何を言っているのか。この人は…… 「僕に語って聞かせるようなことはありませんよ」 「うっわー、何それ。自分だけ秘密主義ってのはどうなのよ」 「私は私で、一個だけあんたに訊きたいことがあるんだけどな」 「と、いうと?」  本当に見当がつかなかったので促してみれば、紫織はすっと表情を改めた。  そして、問う。 「宗次郎は、〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈使〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》?」 「……………」 「〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》」  そんな、ともすれば曖昧で、何のことかはっきりしない言い様。  だが宗次郎には、紫織の言わんとしていることが飲み込めた。 「僕の歪み……ですか?」 「そう。返答次第によっては、出てってもらうよ。私はそれが知りたいから、中院のお願いを聞いたんだからね」  強い口調ではなかったものの、だからといって軽くもない。紫織の声には、微かに責めるような響きがあった。 「困りましたね……」  そういえばあのときも、暗に訊かれて責められた気がする。禍憑きを出すまいとする刑士郎を批評したら、おまえがそんなことを言うのかと。  なるほど確かに、神楽の儀では宗次郎だけがその歪みを見せていない。真っ先に開陳したのはこの紫織だし、次いで龍水。刑士郎でさえが禍憑きを起こし、それを覇吐が迎え撃った。  ゆえに紫織の憤りは正当であろう。あれは死合だったのだから、誰もが手加減抜きに本気を出したし、出さなければならない。  その苛烈さも、真剣さも、中途半端にのらりくらりと凌げるような舞台ではなかった。もしそんな者がいたというなら、それはあの場の全員に対する侮辱である。  だから宗次郎は、正直に答えた。 「分からないんですよ」 「え?」 「だから、分からない。僕には、自分がどう歪んでいるのか見えないんです」  壬生宗次郎は剣である。ただ斬人の刃である。そう思って、そう在ることが総てだから、他のことは分からない。 「龍明さんは?」 「訊いてませんし、訊く気もないし、訊いても教えてくれないでしょう。ただ、そうですね」  これは関係あるのかどうか分からないし、意味のないことかもしれないが、あまりに紫織が途方に暮れた顔をするので困ってしまい、何か言わなければいけない気になったから、口にした。 「僕と剣を交えた人は、皆例外なく死んでいます。その場で斬り殺したという意味じゃなく、道場の竹刀稽古や、子供の時分にやったチャンバラ遊びに至るまで」 「今、生きている人は一人もいません。そういう事実だけが、あるんです」 「一人も?」 「ええ、……いや正確に言えば、あなた達がいるんですけど」  紫織、覇吐、龍水、刑士郎……  宗次郎の斬撃にたとえ一度でも狙われて、現在生きているのはこの四人だけ。しかし先がどうなるかは分からない。  東征という大戦を間近に控えている以上、全員が死に直面していると言ってもいいのだ。 「ただ、分かりませんよ。何の根拠もないですし、単なる偶然かもしれません」 「今までの人たちは、どういう死に方を?」 「ばらばらです。病気だったり、事故だったり」 「時期的にも、早くて数日、遅くて一年」 「だから、僕だって最初は意識していませんでした。暇で想像力の豊かな人が、ただ一つの共通点を見つけるまでは」  壬生宗次郎と遊んだ者は死んでいく。 「それにしたって、初めは誰も信じてなんかいませんでしたよ。だけど、その人が亡くなってからは……」  戯言が冗談ではなくなり、疑惑は恐怖に変わっていった。冷泉が宗次郎を呼び寄せたのは、おそらくそうした噂を聞いたからだろう。  剣気で人の命を刈り落とす。それは直接的な意味に留まらず、もっと観念的な存在の次元にまで効果が及ぶ。  そんなことがもしも可能であったなら、それは歩く死の鎌に他ならない。  常に抜き身で血に濡れた、妖刀魔剣とでも言うべきだろうか。 「田舎なんですよ、僕の故郷は」  黙りこんでしまった紫織を安心させるように、宗次郎は屈託のない調子で肩を竦めた。 「迷信深いし、噂が好きだし、そもそも人が少ないですしね。ちょっとしたことでもあれこれごちゃごちゃ結びつけて、いつの間にやら大事件です。困りものですよ、本当に」 「だから、そんな大したものじゃないでしょう。僕は単に未熟なだけで、自分自身を操れない。そういうことじゃないでしょうか」  ゆえに、言えることは一つだけ。その一点だけは、しっかり主張しなければと思ったから…… 「あのときは、誓って全身全霊戦いましたよ」  手など微塵も抜いていないと、宗次郎は断言した。 「そう。分かった、ならいいよ」  紫織も頷き、微笑する。 「まあ結局、総ては春か」 「ええ、正直楽しみでなりません」  事実、今現在の宗次郎にとって最大の興味はそこにあった。  紫織も覇吐も刑士郎も、今まで見たことがないほどの強者だった。いずれ借りは返すと決めているが、彼らの強さを思えば行き当たる事象はただ一つ。  すなわち歪み――自分にもあるらしいが自覚できない、東から流れてきたという異界の法則。  ならば穢土の天魔とはどれほどのものか。斬りたくて斬りたくて堪らない。  まるで童子のように、そう焦がれて…… 「じゃあ、せっかくだし組み手でもする?」  と、持ちかけてきた紫織に、頷こうとしたときだった。 「――あたっ」「――いたっ」  いきなり横から、頭に硬い物が飛んできた。二人ともまったく同時に声をあげて、こめかみを押さえつつ〈蹲〉《うずくま》る。 「あ、つぅぅ~~~」 「これは……碁石、ですか?」  ならば誰かが投げた物で、彼らがまったく察知できなかったというのは素直に凄い。 「お~き~つ~ぐ~~~っ!」 「あんた、ちょっといい加減にしなさいよ! 忍者じゃあるまいし、いつもこそこそと、この馬鹿っ!」  叫んで、紫織は道場を飛び出ると庭に降り立ち、周囲をきょろきょろと見回してから。 「――見つけたっ!」  再び叫ぶと、目にも留まらぬ速さで飛んで行った。それをぽかんと見送る宗次郎。 「……………」  オキツグとは、弟のことか。いや実際、凄い腕前と言うしかない。 「諸々、彼のためでもあるんですかね」  竜胆なら、そんな風に言うかもしれない。事実がどうかはさておきとして。 「解せませんよ、〈他人〉《ひと》のためになど」  呟いて、宗次郎もまた道場を出た。 どのみち己の生き方は変わらない。  雪が降る。だがいずれ血が降るだろう。  そのときは、もう間近に迫っているのだ。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎・玖錠紫織、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  彼らは、よく夢を見る。  闇の中でひらひらと、微かな光を孕んで奇妙に映え、踊るように落下していく小さな花弁。  それが何なのかは分からない。  こんなものは現実で見たことがない。  少なくとも彼らが知る常識の中で、該当するものが他にまったくない無二のもの。  花弁は、赤かった。まるで血のように〈紅〉《あか》かった。  ゆえに彼ら、凶月の者はこの花を指して言う。  〈血染花〉《けっせんか》―― 我ら禍津の一族を繋ぐ、これは血盟の花なのだと。 「咲耶、起きろ。着いたぞ」  開けられた御簾の先から声と光を感じ取って、凶月咲耶は目を覚ました。 「どうした、呆けた顔をして。俺の顔に何かついているか?」 「あ、いえ……そういうわけではありません」 「ただ、夢を見ていたものですから」 「ああ……」  それだけで、刑士郎は委細承知したらしい。彼も凶月である以上、夢という単語が何を指すかは知っている。  彼はあの夢を快く思っていないようだったが、咲耶は逆に好いていた。ゆえに暇さえあればよく眠っている。  血に染まったかのように赤い花弁……それは一族という形をとっていても血縁などなく、単に禍憑きという異能者の寄り合いである凶月を、真に家族たらしめている繋がりのように思うのだ。  すなわち、自分とこの兄を分かち難く結び付けている宿縁の象徴……ならば愛着を持つのが自然であろう。 「わたくしのことなどより、兄様のお加減はどうなのですか?流石にまだ本調子ではないように思いますが」 「俺はそんなに柔じゃねえ。歩いてるうちに、粗方治った」 「そもそも、丸一日寝かされたこと自体気に入らねえんだ。それから三日もかけてここに帰ってきたんだから、もうなんでもねえよ。要らん気を回すな」 「そうですか。ならばよいのですが」  神楽の儀のあと、即座に帰ると言い出した刑士郎を半ば無理矢理休ませたのは咲耶である。しかしそれも一日が限界で、以降は帰路だ。この兄の、こういう短気な性格まではどうしようもない。 「まあ、ゆったりとした道中であったことも幸いでしたね。その点は感謝しております」  ちらりと視線を横に流して、咲耶は自分たちをここまで送ってくれた人物に頭を下げた。 「あなた様がたなら、半日も掛からず往復できるだろう道行きですのに……お気遣い痛み入ります、龍明様」 「いや、私は別に、おまえたちを気遣ったわけではないのだがな」 「単純に、危険物の運搬だから慎重を期したというだけのこと。神速通など試みて、融爆されては堪らん」 「なあ、夜行」 「御意に。我々はともかく、民に危険が及んでしまう。それはそちらにとっても不本意であろう、咲耶殿」 「咲耶で構いませぬ、夜行様」  龍明に話を振られて応えた美麗な男――摩多羅夜行にそう微笑で返しつつも、咲耶はこの陰陽師が本気で民がどうこうと言っているようには思えなかった。  無論、竜胆のような特殊例を除いて、それは珍しいことではない。だがこの男は、どこか違う。  何よりも自分を中心に置いているのは確かだろうが、度合いの次元が違うような……  強いて言うなら、まともすぎておかしい。出会ってまだ日が浅く、言葉も数度交わしただけにすぎない彼に対する、それが咲耶の印象だった。 「ともかく、あなた様のお手並みには感服いたしました。これほど安らいだ旅路は初めてでこざいます」 「おお、まるで窮屈じゃなかったぜ。誰かさんの家とは偉い違いだ。具体的にどうやったんだよ?」 「別に。特殊なことなど何もしていない。だが賛辞はありがたく受け取ろう。良い神楽を見せてもらった礼でもある」 「ただし、龍明殿を貶めるような発言はやめてもらいたいな、刑士郎。立場上、素直に喜べん」 「ふん、本当のこと言って何が悪いんだよ」  この道中、歪みを封じる禁縛は主に夜行が取り仕切っていた。それがこれまで龍明に施されていたものより遥かに軽く、また強い効果を示したことで刑士郎は機嫌がいい。この、どこか異様な陰陽師に好印象を抱いている。 「もういっそのこと、おまえが御門の頭領になっちまえよ。あのチビスケには荷が重いぜ」 「兄様、またそのようなことを。失礼にあたります」 「どうかお許しください、龍明様。兄はこの通り、どうにも粗忽な性質ですので」 「構わんよ。これが図抜けているのは事実だからな。刑士郎のそういうところは率直で良い」 「だが、御門の当主云々は別の話だ。夜行はそういうのに向かん」 「まあ、そうでありますな。私には人望が無い」 「陰陽頭と伺いましたが」 「それは名目だよ。飾りにすぎん。つまり実際には、何もするなと言われている」 「上に龍明殿という当主がいるからこそ許される立場であり、〈陰陽寮〉《うらのつかさ》も機能するのさ。私個人としても、それでよいと思う。気楽であるしな」 「つまり、なんだ。おまえは放蕩公家みたいな身分かよ、夜行」 「ああ、それは的を射た喩えだな。私は日がな一日酒でも飲んで世を眺め、歌を詠みつつゆるゆると……そんなものだ」  優雅だろう、と肩を竦める夜行の態度に嘘はないように思う。だがそれなら、どうして自分も東征に参加するなどと言いだしたのか。  疑問に思っている咲耶の横から、ずばり刑士郎がそこを突いた。 「じゃあおまえは、物見遊山で東に行くのか?」 「そうなるな。だから龍明殿にも窺いを立てたのだ。流石に私も、断りなしで遊びに紛れ込むほど勝手ではないよ」 「……遊びか。まったくおまえは言ってくれるよ、本当に」  苦笑する龍明。それが彼女の、この弟子に対する諸々の感情らしい。 「だが二人とも、これでよく分かっただろう。この男はこういう人種だ。当主の座など与えたところで、早晩飽きて放り出す」 「それにそもそも、人を育てるということの適性がまったくない。肩書きは陰陽師だが、こやつは陰陽術など使わんぞ」 「あん?」 「それはどういうことでしょう?」 「だから言っただろう、飽きやすいのだ。いや、分に合わぬと言ったほうがいいのかな」 「おまえたちも体験したように、夜行の業は既存の術体系を容易く凌ぐ。おそらくこやつの目には、酷く不合理なものに見えるのだろうよ。ゆえに変えてしまうのだ。勝手に。自分が思うように」 「だがそれはこやつだけのもので、誰にも真似できんし伝えられん。そんな者が上に立ったら、おい、下の者はどうしたらいい?」 「なるほど……」  それは確かに、どうしようもない問題か。要は飛び抜けすぎて迷惑なのだろう。何もするなと言われているのも頷ける。  そこは刑士郎も呆れたようで、東征を遊び呼ばわりされたことに憤る気持ちはないようだった。 「なんかまあ別にいいがよ。おまえんとこのチビ娘はこいつをしっかり扱えんのか? 上に立つ身で、てめえより上の下がいるって認めるのは、そんな簡単じゃねえぞ」 「他所の事情に口出しするのは趣味じゃねえが、御門が割れた日にゃあ俺らも困る。だからどうなんだよ、そこらへん」 「それならば問題ない。龍明殿を軽く見るなと言っただろう」 「忠言、ありがたい限りだが、そこについてはおまえ達と同じだよ」 「なに?」  意味が分からないといった風の刑士郎に、龍明が答えた。  しかも、かなり驚愕的なことを。 「〈龍水〉《あれ》には、〈夜行〉《これ》と娶わせることにしている」 「はあああ?」 「まあ、そうでしたの」 「うむ。伴侶を敬い、立てるのは当たり前だ。まさにおまえたちと同じだよ。どちらが上とか、そういう問題は関係ない」 「いや、しかし待てよ。これとあれって、おまえ、そりゃあ……」 「龍水様は、素直に受け入れていらっしゃるんでしょうね。思えば、夜行様にはそのような態度を取っておられましたし」 「ですが……」 「私か? まあ面白いからいいだろう。正直困っていないでもないが、構うまい。重要なのは刑士郎が言ったような問題を起こさぬことで、それは〈龍水〉《あれ》が納得しているなら回避できる。私の生活は何も変わらん」 「愛してはいらっしゃらないのですか?」 「愛しておるよ。あれは見ていて飽きぬから、ある種尊敬すらしているほどだ。不屈で懲りもしないところなど、素晴らしい」 「……………」 「童女趣味はないがね。と言うよりも女色自体、自分にあるのかどうか分からんが」 「ともかく、そういうことだ。夜行も、本気でそう思っているなら少しは龍水を労ってやれ。おまえに愛がどうだのと言われたら、墓の下からでも這い出てきて飛び跳ねるだろう」 「あれが陰陽道にやたらと〈気触〉《かぶ》れて、本来の適性を歪めておるのもおまえのせいだ。未来の妻なら、正しい方向に導いてやれよ」 「そうだな、何なら〈天眼〉《め》を見せてやれ。少しは視点が変わるかもしれん」 「目……?」  不明な言葉に咲耶と刑士郎は訝しむが、夜行は薄く笑って問いを返した。 「それは当主としての命令ですかな? それとも母としての願いですかな?」 「どちらもだが、どちらでもない面もある。要はおまえが決めろということだ。よいな?」 「ふむ……とりあえず承りました。考えておきましょう」 「では考えろ。咲耶、刑士郎、神楽は大儀であった。しばしの別れだが、次は春にな」 「おう」 「こちらこそ、お送りいただいてありがとうございます」  頭を下げた咲耶に頷き、龍明は自らの牛車へと戻っていく。術師の乗り物としてそれがまともな物であるはずはなく、おそらく今夜半には秀真へ帰り着くのだろう。 「ならば私も行かせてもらうか。だがその前に」  ぱん、と夜行は手を鳴らした。そして呼ばわる。 「出て来い、爾子・丁禮。挨拶ひとつ出来ぬようでは恥ずかしいぞ」 「な―――」 「それは……」  刑士郎の目が吊り上がり、咲耶の顔も僅かに強張る。そんな二人の頭上から―― 「いやーん、いやいや、いやですのー」 「いくら夜行様のお言葉でも、そればかりは……」  重なり合い響くように、木立を振るわせる二つの声。 「出て来ぬならば、これより毎食の〈索餅〉《さくへい》に〈山葵〉《わさび》でも塗り込んでやろうか」 「――――――」 「うぎゃーっ、そればかりはご勘弁ですのー!」  同時に、木の上から雪と共に巨大なものが落ちてきた。 「―――――」 「…………」  絶句する二人の前に現れたのは、犬と人間。仔犬と童子だ。しかし犬のほうは牛ほどもある巨体であり、子供のほうも正確なところ人間ではない。  爾子多童子に丁禮多童子……夜行の僕を務める式神だという。  奇怪な外見も登場の仕方も、そういった背景を持つなら別にいい。  そう、それは問題じゃないのだが…… 「う~~~、うるうるうるるるるるる」 「……………」  毛を逆立てて威嚇してくる爾子に、無言のまま冷たい眼光を飛ばしてくる丁禮。この一人と一匹は、明らかに咲耶と刑士郎を嫌っていた。  そしてそれは、一方的なものではない。 「てめえ夜行、ふざけんなよ。なんでこいつら呼びやがんだ」 「せっかく龍明様は気を利かしてくださっていたのに……」  咲耶らも、同様に彼らのことが苦手だった。理由はまったく分からないが、なぜか関わりたくないのである。 「そ、それはこっちの台詞ですの。爾子だって、出て来たくなんかなかったですの!」 「同感です。冗談ではない」 「んだこらァッ」 「や、やるかですのー!」  正直、奇妙な話だった。嫌われることには慣れているものの、こちらから――特に咲耶が――嫌い返すというのは珍しい。さらに言えば、好戦的な刑士郎が彼らに対してはいまいち及び腰なのだ。  本来なら有無を言わさず攻撃するはずだろうに、なぜかそこまではいかず、口喧嘩で追っ払おうとする。勝てるとか負けるとかの話ではなく、とにかくお互いに寄りたくないのだ。  これはもう、あらゆる意味で相性が悪いとしか言いようがない。 「はっはっは、あっはっはっはっは」  そして夜行が、そういう彼らを明らかに面白がっていることも。 「何が可笑しいのですか、夜行様」 「趣味が悪すぎます、夜行様」 「てっめえ、終いにゃ本気でキレるぞ」 「変態、変態! 履歴書に趣味は嫌がらせっていうこと以外、書くことないに決まってますの。この万年放蕩実質職歴無し男っ!」 「くく、ふふふふ……まったく酷い言われようだな。しかし、これは……なんとも――くははっ」  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「丁禮、これは当分いじられ続けると思いますのよ」 「覚悟を決めよう。だけど不快であることを示し続けるのは重要だよ、爾子。たとえ暖簾に腕押しであっても」  それは余計に面白がられるだけではないのか。咲耶はそう思ったものの、話し掛けたくないので黙っていた。 「うむ、ははは……ではそういうことで、また会おう凶月のお二人」 「おまえたちは面白い。私は面白いものが好きだし、敬ってもいる。ゆえに友情を受け取ってくれるなら、望外の喜びだ」 「さあ行くぞ、爾子・丁禮。いつまで愛らしく膨れているのだ、秀真で龍水が待っているのだから早く帰ろう」 「うふふ、はははは、あはははははははは」  と、喜色満面高笑いしながら去っていく夜行。二童子もぶつくさ言いながらそれに続いた。 「はあ……しかしこう何と言うか」 「皆まで言わないでくれ、爾子。あれでも私たちを拾ってくれた主人なのだから、もう運が悪かったと諦めよう」 「そういう人生なんですのねー」 「まさに。痛恨だが仕方ない」  そうして、雪の上をてふてふと歩き去っていく。数瞬のうちに、龍明の牛車も含めて夜行と彼らは霧の中に消えていった。 「……………」 「……………」  まあ、ともかく。 「こうして無事に帰郷したわけですから、あまりそういうしかめ面はやめましょう、兄様」 「まずはただいまと、里の者たちに言わなければ」 「ああ、どうやら迎えも来たようだしな」  龍明たちが去ったことで、今まで控えていたのだろう里の者らがこちらのほうにやって来ている。彼らも凶月として当たり前に排他的だし、外部の者に接触するのが怖いのだ。  ここは閉じた隠れ里で、原則外に出られないし出たいとも思わない。全員で三十名ほどの家族であり、血の夢と禍で繋がった運命共同体なのである。  近づいてくる里人たちを遠目に見ながら、咲耶は言った。 「心なしか、皆の顔が明るいですね。兄様の武勇伝などをきっと楽しみにしているのでしょう」 「偉そうに語るようなことはやっちゃいねえがな。ふん、まあいい」 「今夜は酒宴を開くぞ、咲耶。飲まなきゃ色々とやってられねえ。まさか文句はねえだろう」 「ええ、ですがあまり羽目を外しすぎないようにお願いします」 「保証は出来ねえぞ」  と笑う刑士郎は珍しく穏やかな面相だが、彼がこういう顔をしているときに何を考えているかは知っている。  この兄はひどく屈折した性格で、外面が凪いでいるときほど内面では荒れているのだ。無頼に暴れて激発していた神楽のほうが、精神的にはむしろ穏やかだったはずと言っていい。少なくとも、咲耶はそのように彼を見ている。  問題は、なぜそんな真反対のことが成立しているかなのだが…… 「どうした、まだ小言が言い足りねえか?」 「そうですね。ですがそれはゆるゆると……」  兄を内心で苛つかせているのが何なのかを理解しながら、しかし咲耶は詮無いことだと割り切った。どのみち自分のしたいことは止められないし、止めるつもりもない。  ただ、その結果が望みとズレるのが悲しいだけで……  あるいは、自分も楽しんでいるのかもしれなかった。何せこの身は最大の禍を招く女であり、それが男を破滅に導くのは道理だろう。  そんな、奇妙に甘い期待と諦観を抱きながら、咲耶は里人たちの許へ向かう兄の背を追っていった。  ………………  ………………  ………………  酒宴は夜半をすぎるまで、四刻以上に渡って続いていた。  刑士郎は早々酔わない。それどころか酒の旨さをあまり理解していない。  味覚は正確であるものの、美味いも不味いも同じようにしか感じないのだ。しかしそのうえで美酒美食を好み、鯨飲して馬食する。  何のためにと言われれば、本人にも分からなかった。強いて言うなら模倣の類なのかもしれず、自分の感性や感覚を一般のそれに照らし合わせて実験している。  たとえば、今――  凶月の誰もが夢見、安らぎを覚える花弁の舞いに……  どうして自分は苛つくのだと、嘲りながら憎悪するのと同様に。 「お目覚めになられましたか、兄様」 「今宵は少々、飲みすぎだったのではありませんか? お酒に強いのは存じていますが、何事も限度というものがあるでしょう」 「お陰で、皆潰れております。御前の栄に浴した兄様を称えるためとは申しましても、これでは明日が大変です。当主として、ご自重なさってくださいまし」 「ふん……」  真上から降ってくる窘めの声は、先ほどまで夢に見ていた血染花の舞いを想起させて麗々しい。まるで花弁の海に埋もれていくような心地を覚え、その柔らかさが逆に彼の癇性を刺激した。 「二日酔いで起こる凶災もないだろうよ。他の連中が俺に付き合って酔い潰れても、それは勝手だ。共に飲めとは言ってねえ」 「上に立つ者が、下の者から真似をされるのは必然です。子供じみた言い逃れは聞きません」 「ですが、まあ、たまには良いのかもしれませんね。この里が活気に沸くのは珍しいこと。これで兄様が、もういくらかご機嫌麗しければ咲耶も小言は申しませんけど」 「まだ、不安なのですか?」  問いはあまりに端的過ぎて、それのみでは何を指しているのか分からない。だが、この血染めの夢で結ばれた兄妹には、その程度で事足りた。お互いに隠し事は出来ない。 「別におまえがどうこうというわけじゃねえ。性分だ、許せよ」 「許しはしておりますが、時に悲しくなるのは仕方のないことでしょう。咲耶が想えば想うほど、兄様は苛立っていかれます」 「里の者は、皆どこかしら似た部分を持ちますけれど……兄様は特に酷く、病的な」 「これはもう、なにやら呪いめいているやもしれぬと思うほどです」 「幸せなど、知らぬ。見えぬ。分からぬと」 「覇吐様も、面食らっておられたでしょうに」 「あの野郎の話はするな」  それは御前の神楽で、彼が覇吐に言ったこと。決して憤激に任せた暴言ではなく、凶月刑士郎という男の真実を表した言葉だった。  もとよりこの世に生を受けてから今これまで、彼が立ってきたのは悪意と殺意の大地である。  なぜなら人間とは知れば知るほど邪悪で残虐なものであり、ゆえに彼はそうした性質を理解しつつ上回ることが出来た。  悪辣さも卑劣さも総て良し。妥協も利用も猜疑も憎悪も、等しく刑士郎が思う人間世界の縮図であり、大地の構成物質に他ならない。  よって、その渦中に身を置くことこそ彼にとっての安心だった。常に嵐の環境こそが、この男を納得させると言っていい。  だから、むしろその対極――羽毛に包まれ花弁に埋もれるような、咲耶から与えられる安らぎこそが恐怖となる。足場のない空間に放り出されたような不安を覚え、強い苛立ちが増していく。  つまるところ、刑士郎は幸せが苦痛なのだ。それは不慣れなゆえの戸惑いでも、己が相応しくないと思う自虐でもなく、もっと根源的に病んだ人格。咲耶がいみじくも言ったように、呪いを帯びているとしか思えない精神だった。 「わたくしが覇吐様の話をすると、すぐそのような不機嫌に。もしや兄様、嫉妬でしょうか?」 「違ぇよ」  そして、あるいは――  そうであるからこそ、彼は咲耶を求めるのかもしれない。  火に誘われる蛾のように、暗闇で燃える大凶星へと吸い寄せられているのだろう。 「単にくそったれだから気に入らねえ」 「久雅の小娘も同様だ。あいつらは気持ちが悪い」  そうした慢性的な癇性を増幅する不快事として、刑士郎は覇吐らのことを毒づいている。しかしそれは、神楽で不覚を取ったからというだけではないようだった。 「言うに事欠いて、タマシイだとよ。おい、なんともふざけた話じゃねえか」 「ええ、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》〈ね〉《 、》」 「〈凶月〉《われわれ》の一部にしか、伝えられていない概念なのに」 「しかも俺たちだって信じちゃいねえ。正直言うと、忘れてたぜ」  この世で自分たちしか知らないはずであることを、どういう事情か知っていた者がいる。それは少なくとも刑士郎にとって、剣呑な予感を覚えるものだった。  なぜならたとえどんなものでも、凶月の内にあったものが外に流れてよいわけがない。  彼らは禍津、凶災の民。ならばそこに秘匿されていた代物は、特級の危険因子に他ならないはずである。  刑士郎はそう考えるが、しかし咲耶の意見は違ったようだ。 「わたくしは、素直に嬉しゅうございましたよ。まるで道が開けたような……」 「この御方についていけば間違いはない。そのように感じました」 「感じましたって、おめえはなあ……」  そんなその場の閃きで、勝手に臣従など表明されては堪らない。腹立たしくも寝ていた間に、咲耶が久雅に跪いたことは知っている。 「一応、当主は俺なんだがな」 「はい。そして兄様を誰よりも慕っているのがわたくしです。ゆえにわたくしの考えは、すなわち兄様の考えです」 「なんだそりゃあ」 「おかしいですか? 逆もまた然りであると思いますよ」 「そのわりには、よく俺の方針に対してごちゃごちゃと言う」 「それは兄様が、ご自分に素直でないことが多いからです」 「そんなことはねえ」 「いいえ、あります。わたくしがそう思うのだから、兄様はそうに違いないのです」 「なんですか? 続けますか? 子供の頃から一度だって、わたくしに勝てたことがありますか?」 「…………」  もはや何もかも滅茶苦茶である。論もクソもあったものではない。  だが刑士郎は、己が咲耶のこういうところに酷く弱いと自覚していた。いま胸を満たしていく感覚が、狂おしいほどの激痛を与え続けていることも。  彼を包み、埋めていく、無限に舞い散る血染花。安らぎという茨の中で、刑士郎は今も幸福を憎悪している。  いつか耐えられなくなるだろう。総て引き裂きたくなるだろう。  この閉じた花園を破壊して、血風の大地へ塗り替えたくなるに違いない。  それは確信に近かった。度し難く今の延長線にあるものだと分かっていた。  思えば咲耶が言う呪いとやらは、自分の魂に刻み付けられた宿業なのかもしれないと――  そんな思考を弄ぶほど、彼は哀れにも病んでいる。 「ああ……」  ゆえに分かった。どうやら咲耶は正しいらしい。 「おまえの言う通りだ。逆もまた然りか」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈気〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》、〈咲〉《 、》〈耶〉《 、》」 「何のことでございましょう」 「覇吐が気に入ったらしいが、なるほどな。あいつがいれば返し風が曲がる」 「面白ぇじゃねえかよ、くくくく……今から東の空が楽しみだぜ」 「それはよろしゅうございました」  喉を鳴らして笑う刑士郎に、こちらも微笑しながら応える咲耶。そのまま彼女は、先と同じく疑問符のつかない口調で問い掛けた。 「わたくしもお供してよいでしょうか」 「駄目だ」  と、刑士郎は言うものの、そんなことに意味などなく。 「またご自分に素直でない」  そう返されるのは自明の理で、事実その通りなのかもしれなかった。 「困った兄様。愛しい兄様。咲耶が憎いのでございますね」 「ならば東へお連れください。穢れの源泉を見せてください。わたくしは兄様の血染花になりとうございます」 「それが咲耶の望みなれば、すなわち兄様の望みであるはず……」 「じゃあ、ついてきて何をする」 「当然のこと」  膝上にある刑士郎の顔を両手で挟み、咲耶は上から覗き込むようにしながら熱く睦言を囁いた。 「〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》の〈咒〉《な》にかけて、咲耶が〈穢土〉《えど》の災厄を祓ってみせます」  きっとそのとき、この奇妙な感覚の答えも出る。刑士郎をしてそう予感させるほど、それは絶対的な確信だった。  東へ――凶災の二人は駆けるだろう。  血染めの花が、魂に刻まれた紅の毒が呼んでいるのだ。  特別付録・人物等級項目―― 凶月刑士郎・凶月咲耶、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  彼女が回復したと聞いたのは、神楽から五日後のことだった。 「思ったよりも大事ないようで安心した。壮健そうで何よりだよ、龍水」 「はい。お気遣いいただいて、ありがとうございます」  御門の屋敷へ見舞いに訪れた竜胆は、元気な様子の龍水を見て安堵の微笑を浮かべていた。 「しかし竜胆様、よろしいのですか? 今は正直、私のところなどを訪れている暇はないと思うのですが」 「ん、ああ、忙しいのは確かだよ。龍明殿もそうであろうし、諸々やることは多い」 「何せ、春に出陣だからな。軍備を整えるだけで目が回るようだし、政治的なこともある。将になったとはいえ、内心色々と私に言いたいことがある者は多いだろう」 「では――」 「いや、そうなんだが、おまえが思っているほど汲々としているわけでもない。冷泉殿が助勢をしてくれているから、大変ではあるものの予想よりはだいぶ楽だよ。正直、拍子抜けしたほどだ」  五つ竜胆の筆頭と次席が共同歩調を取った以上、大抵のことはどうにかなる。加えて龍明もいるのだから、少なくとも春までは大過なくいけるだろう。神楽の儀で勇武を示し、皇主陛下の覚えが目出度くなったということも大きい。 「流石に孤軍奮闘している状況だったら、ここまで余裕を持ってはいない。だから心配無用だよ、龍水」 「ですが……」  安心させるように宥めたつもりだったのだが、龍水は一層不安げな顔になっていた。  まあ、理由は分かる。 「おまえが言いたいのは、冷泉殿のことだろう」 「はい。中院は油断がなりませぬ。あの男に気を許すのはおやめください」 「気など許してはいないさ。しかし認めているところもある。彼は野心家だし、自信家だし、それに見合う力も持っていて危険なのは間違いないが、だからこそ愚鈍でもない」 「この次期、例えば私が〈弑〉《しい》されるようなことになった場合、もっとも疑われるのは彼だ。ゆえに六条らは何をするか分からんが、そこは己のためにも彼が止めるさ」 「加えて言うなら、まあなんだ。彼は私に懸想していて、久雅の利用価値を分かっている。冷泉殿が思い描いているだろう栄光に、私は必要なのだよ、たぶん」 「だったら是非とも守ってもらうよ。あちらとしても男の見せ所という感じだろう」 「はあ、それはその、何と申しますか……」 「悪女めいたやり口だとでも言いたいのかな、龍水」 「い、いいえ、決してそういうわけでは」  悪戯っぽく笑って問うた竜胆に、龍水は慌てて首を振りつつ否定する。そして、苦笑しながら言葉を継いだ。 「……少し、変わられましたね竜胆様。以前は、そういうお顔をなされなかったように思います」 「そうか? 自覚はないのだが、もしかしてはしたなかったかな」 「より魅力的になられたと申し上げているのです」 「ただ、重ねて言いますが、やはりお気をつけください」 「分かっているさ。私とて冷泉殿を本気で手玉に取れるとは思っていないよ。彼に限った話ではないが、他者とは良くも悪くも理解を超えたところがある」  特に自分には――と付け足して自嘲した。それはあちらから見ても同じだろうし、だからこそ中院冷泉は危険な男だ。舐めていないし油断もしていない。  ただ、向き合う覚悟を固めただけだ。そしてそう決めた以上は迷わない。龍水が言うように、もはや以前の自分と違うのならば。 「冷泉殿とは今後も色々あるだろうが、私は退かぬよ。彼が変わらぬ限り気など許さんし、そうなればいずれ剣呑なことになるかもしれない。だがそれはそれだ」 「私にはおまえたちがいる。ゆえに大丈夫だと断言するよ。これで満足かな、龍水」 「え、ぁ……それは……」  ぽかんと呆気に取られたような龍水を見て、不意に可笑しさがこみ上げてきた。 「なんだ、酷い反応だな。信頼していると言ったのに、そう気持ち悪がらないでくれよ」 「久雅の鬼姫はちょっと頭がおかしいのだ。そんな私を好いてくれると言うのなら、これくらい受け止めてくれよ。悲しくなってくる」 「う、や、いえ――そういうわけでは」 「あのとき、後でちゃんと話そうと言っただろう? 言いっ放しで逃げるのは性に合わんし、おまえから私に言いたいことがあったら聞かせてくれ。知りたいと思う」  もとより、今日はそのためにやってきたのだ。言って竜胆は、あたふたとしている龍水に優しく尋ねた。 「さあ、何かないのか?」 「私は……」  もじもじと、恥ずかしがって困惑しているような態度。その様がとても可愛く、妹がいればきっとこんな感じなのだろうなと竜胆は思った。  が、龍水の感覚は違ったらしい。 「竜胆様は、本当に姫御ですか?」 「は?」  予想外の問いに面食らう。それはどういう意味だろう。 「ですから、ついているのかついていないのかどちらですか?」 「いや、おい……ちょっと待て」  いったいこの娘は、何を分からぬことを言っているのか。さらに訝しむ竜胆の前で、龍水はやはりもじもじしながら語りだした。 「竜胆様の仰りようは、何と申しますか、女子的に痺れるのでございます。私が愛読している和歌集の恋歌より、その……」 「そういうことをさらりと言われる竜胆様は、本当に私と同じ女子なのだろうかな……と。そうであったら良いなというか、困るなというか……」 「……………」 「竜胆様が色々特殊であられるのは、もしや何かの事情があって、殿御が姫御を演じているからではないのかなと。そうであったら、精神的に奇態なところがあるのも頷けますし……」 「お顔も、美丈夫然として凛々しくありますし……」 「つ、つまり――」  ばん、と畳を叩いて少女は叫んだ。 「龍水は、女子として惚れそうになり申したっ!」 「……………」 「ていうか竜胆様は、正直女子に見えませぬっ!」 「よく分かった」  やおら立ち上がった竜胆は、龍水の腕を掴んで引きずるように歩きだした。 「え、あっ、何をなさるんですか竜胆様?」 「風呂に行くぞ」 「はい?」 「だから風呂に行く。おまえの考えはよく分かった。受けて立とう」 「私が真実、女子であると証明してやる。刮目して見るがいい」  言いつつ、笑顔でぐいぐい引っ張る。龍水の顔は青くなった。 「り、竜胆様、目が怖いです。力が強いです。やっぱり、とても女子のものでは……」 「貴様、本当にいい度胸だな。よいよい、俄然やる気が出てきた」 「私が女子に化けた男と言うなら、おまえは逆にしてくれよう。そのただでさえ薄い胸の膨らみ、たわしで削り取ってやる」  声音で本気なのを悟ったのか、龍水は血相変えて絶叫した。 「あーっ、待って待ってすみません、龍水が悪うございました間違っておりましたぁっ!」 「竜胆様は、天下に比類のない大和撫子でございますぅ!」 「はっはっは、こやつめ心にもないことを」 「ぎゃーっ、龍水の乳房は発展途上にあるというのにーっ!」  悲鳴をあげながら引きずられていく龍水と、竜胆の乾いた高笑いが御門の屋敷に木霊した。  そんなこんなで。 「気に入らん」  竜胆は、まだ納得いかなげに眉をひそめて愚痴っていた。 「巡りあわせが悪い。よりによってこんなときに風呂が壊れていただと? いったいどういう偶然だ」 「よ、よかった。そういえばそうだったんだ、忘れてた。ここは奴に感謝しよう」 「奴?」 「あ、いえいえ、こっちのことです。何でもないです」  ぶんぶんと手を振る龍水に竜胆は訝しげな目を向けるが、まあいいと溜息をつく。 「とにかく、あまりくだらぬことを言うなよ。私とて娘らしさが足りぬのは自覚しているが、立場上仕方ないところもあるのだ。そもそも龍明殿とてそうだろう」 「これはこれで矜持だし、恥じてもいないが、それでも面と向かって言われればやはり傷つく。特に凶月の娘のような、しとやかでたおやかで慎ましやかな……ああいう女子の手本めいた者を見た後ではな」 「私にも、多少だが劣等感に似た思いはあるのだ。おまえも女子なら、それくらい察してくれよ」 「……はあ、誠に申し訳ありませぬ」  これで疑惑が晴れたのかどうかは知らないが、竜胆もなにやらどっと疲れたのでこの話をするのはやめにした。 「ではな、私はもう行かせてもらう。おまえも、病み上がりで無茶な修行などするなよ」 「あ、はい。竜胆様はお帰りになってから何を?」 「私か? そうだな、せっかくだからまず風呂にでも入るよ。どうもそういう気分になってきた」 「それが何かしたか?」 「いえ、その……」 「………?」  歯切れの悪い龍水の様子に、軽い困惑を覚える。何を言い淀んでいるのだろう。 「言いたいことがあるなら言えと言ったが? これは今後、永続の命令でお願いだ。二度は言わんぞ」 「……分かりました」  と、促したことで龍水は顔をあげる。そのまま、何かを確かめるような声で言葉を継いだ。 「ならば言わせていただきます。覇吐は如何しておりますか?」 「…………」 「竜胆様は、その後あの男とどう接しておられますか?」 「どう、と言われても……」  そんなこと、どのように答えればいいのだろう。とりあえず竜胆は、現状をありのまま語ることにした。 「あれは私の臣なのだから、当家で預かるのは当たり前だ。ふざけたことに、ほぼ無一文で上京して来おったらしいし、衣食住の面倒くらいは見てやらねばならんだろう」 「だが同時に、あの男は強い歪みだ。私はそんなことなど気にせぬし、実際気になるような違和感もないが、事実として凶月と同等以上ということが家中にも知れ渡っている」 「ゆえに、なんだ。無駄な混乱を生まぬよう、今は離れに閉じ込めておるよ。悪いとは思っているが、実質軟禁に近いかもしれん」 「それで、竜胆様は如何様に?」 「私は、その、それなりに忙しいと言ったではないか。世話は口の硬い侍女数人に任せているし……聞いた話では、もう回復はしているらしい」 「つまり、あれ以降ほぼまともに会っていないのですね?」 「それは、そうだが……」  いったい、だから何だというのだ。龍水の口調は、段々詰問めいたものになってきている。  自分でもよく分からない気分になり、竜胆は僅かに声の調子が高くなった。 「二度は言わんと言ったぞ、龍水。はっきりしろ」 「はい、ですから言わせていただきます。竜胆様は楽観視しすぎです」 「なに?」  一瞬、言葉の意味が分からず呆けてしまった。楽観しているとは、どういうことか。 「覇吐をもっと厚遇しろとか、放り出せとか、ましてや絶対有り得ませぬが、色がどうだのという次元の話でもありません。これは歪みの者を管理する御門の人間として言っております」 「竜胆様、あなたはあの覇吐の歪みを、どう捉えていらっしゃいますか? まさか、都合のよい無敵技とでも思っているのではないでしょうね」 「いや、流石にそこまでは……」  と答えながらも、実際はどうなのか。竜胆は自分自身でも分からなくなった。 「凄いな……とは思ったぞ。あとはそう、便利であるとも……」  受け止めた他者の歪みを、それ以上にして撥ね返す。これだけでも相当に強力だが、何よりも特筆すべきは相手の初撃で死なないことだ。戦いにおいては、実質不死身と言っていい。  苦痛や負傷は残っても、必ず余剰の生命力が生じる特性。ならば覇吐を殺せる者は存在せず、逆に攻めれば攻めるほどやり返される。これが便利でなくて何だと言うのか。 「ただ問題があるとすれば、精神的なものなのか。痛みはあるのだから恐怖もあろうし、度を越えれば耐えられなくなるだろう。死ななければ何でも出来るというものではない」 「実際、あれと同じ力を持っていても、笑って禍憑きを受け止めようとするほど豪胆な人間はそうおるまい。死に無頓着な輩はさほど珍しくないものの、痛みは別だ。誰も好んで受けたくはないだろう」  だから、攻撃されなければ攻撃できないという覇吐の歪みは、逆に重い枷とも言える。通常なら死に到るほどの傷を負って、それでも死ねないのは激烈な拷問であるとも……  そういう意味で、紛れもなく彼は勇士だ。他の者には経験できない域の苦痛を覇吐は知っているはずで、それは簡単に呑めるものではないだろうと評価もしている。 「と、私は思うのだが、違うのか?」 「ええ、確かにそういう面もあるでしょう」 「ですがそれは人間の、〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈側〉《 、》〈の〉《 、》〈常〉《 、》〈識〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」 「こちら側?」 「はい。竜胆様の仰ったことも覇吐にとっては真実でしょうし、あやつめが、顔に似合わず並外れて我慢強いのも確かでしょう。そこは私も、一目置かざるを得ません」 「ただ言ったように、それは我々のような人間の理屈であり、感覚なんです。歪みというものは、そんなものを考慮しません。平たく言えば、痛いのを我慢するという程度の負荷では追いつかないのです」 「〈異〉《 、》〈界〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈異〉《 、》〈界〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈法〉《 、》〈則〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」  つまり、その意味するところは竜胆にも呑み込めた。 「凶月で言う返し風のようなものが吹くとでも?」 「可能性は高いですね。禍憑きはとても分かりやすいので表面化するし、有名ですから、あれが彼らだけのものと思われがちですが…」 「原則、総ての歪みには何かしらの法則性がありますよ。それが私たちには理解できない理屈なだけで」 「玖錠の女も、かなり都合の良いものを持っているように見えますが、実情はそれほど甘くないですよ。あの調子で使い続ければ、いずれ人知の及ばない何かで帳尻を合わせられることになるでしょう」 「まして覇吐は、ぱっと見であまりにもご都合がすぎる。あんなものを揮う以上、何を持っていかれるのか見当もつかない」 「いや実際、足せば引かれるはずだというのはこちら側の理屈ですから、本当のところは分からないのですが……」 「凶月と、あと幾つかの実例から、そうなる確率が高いと私は見ています。ですから竜胆様、あまり覇吐から目を離さないように」 「……………」 「竜胆様?」 「ああ、分かった。忠言感謝するよ龍水」  頷いて、竜胆は先の神楽を回想する。あのとき、自分の前に颯爽と現れたあの男……  あれから今まで、忙しいだの何だのと理屈をつけて彼から遠ざかっていた理由。それが何なのかは、自分自身でも分かっていた。 「本音を言うとな、私は少し照れ臭かったのだ。色々とふざけたような男だが、御前で覇吐が現れたときは嬉しかったし……自信をもらったと感謝もしている」 「だから何かしら労いをかけねばならないのに、どのように伝えればいいのか分からなくて……いかんなこれでは。将として失格だ」 「おまえが覇吐をそこまで案じていることには驚いたが、嬉しいよ龍水」 「いや別に、私はあんな薄ら阿呆なぞどうでもよいのですが」 「本当か? なにやら随分と真摯だったぞ」 「誤解しないでください。私には夜行様がおります!」 「夜行?」  言われ、ああと思い出す。彼女に許婚がいるのは龍明から聞いていたし、どんな男かもつい先日この目で見た。  そのうえで思うのだが…… 「龍水、あの夜行と申す者は、正直……」 「放っておいてください。龍水は聞く耳持ちません!」  まだ皆まで言っていないのに、ぷいとそっぽを向かれてしまった。 「竜胆様までそのようなこと。いいです。いいんです。誰に何を言われようと、龍水の気持ちは変わらないのです」 「昨晩、凄いものを見せていただきました。夜行様は、やはり無窮に無謬な御方なのです。あれほどの殿御は世に二人とおりません!」 「いや、その……」  自分とて言うほど男を知っているわけではないし、むしろまったく知らない部類だが、そんな力いっぱい力説されると逆に不安になってくる。 「竜胆様こそ、覇吐ごときに間違っても気を許さないでくださいませ。先ほどの仰りよう、お顔といい口調といい、なんだか色々と怪しかったです」 「怪しいって……」 「とにかく、あらゆる意味で覇吐には気をつけるようお願いします。この世で夜行様以外の男は、どいつもケダモノですからねっ!」 「そ、そうか。分かった……」  龍水の勢いに気圧されて、思わず仰け反りながら頷く竜胆。  しかし、男から動物的で狩猟的な感性がなくなれば、女も困るのではないだろうか。いや無論、だからといって野獣たれと言っているわけではないが。  礼節を弁えたケダモノならばいいのではないか? と、そんなことを思いながらも、しかしそれってケダモノじゃないよなと真面目に悩む竜胆だった。  ………………  ………………  ………………  ケダモノの鳴き声が夜のしじまに響き渡る中、ついに俺の内なるケダモノも我慢の限界に達していた。 「ああああああ、有り得んわこれえええっ!」  月に吼える。絶叫する。俺の血中興奮物質は最大稼動で駆け回り、もう目から口から怪光線が発射されそうなくらい鬱憤堪ること山の如し。  つまり、有り体に言うと性欲持て余して息子がやべえ。 「ねえよ、こんなの! どんな扱いだよ! 俺は霞かなんか食ってる仙人かっ!」  そりゃあね、最初はね、我慢してたのよ俺だって。高貴なお姫様には雅んな余裕を見せつつ、粋な伊達男っぷりを発揮しようと思ってたのよ、本当に。  だがそれ、もはや挫折。流石に五日も放置されるとは思っちゃいなかったものだから、予定が狂って元気に狼が目を覚ましました。  そもそも俺の立てた予想では、こんな感じになるはずだったっていうのによ。 「覇吐、私のためにこんな傷だらけになって。いったいなんと詫びればいいのか」 「馬鹿、謝るなよ竜胆。俺が見たかったのは、あんたの泣き顔じゃないんだぜ?」 「ただ、優しく笑ってくれればいい。それが何よりの褒美だし、薬になるのさ」 「ああ、ではせめて私に介抱をさせてくれ。おまえの傷を癒したい」 「おっと、迂闊に触れちゃいけねえや。俺に近づきすぎると火傷するぜ、お姫さん?」 「本当だ……こんなに熱い」 「だろう? あんたがそうさせてるんだぜ。まったく罪な女だよ……その目が俺を――惑わせる」 「だ、駄目だ覇吐、そのような……」 「怖いんなら、目を閉じてな。見てるのは、あのお月さんだけさ」 「覇吐……」 「竜胆……」 「抱いてくれ……おまえの熱さを、感じたい」 「よっしゃおらああああぁぁァァッ――――!」  ………………  ………………  ……………… 「やめよ、アホらし」  そういう展開を想定して何回も練習してはいたものの、実現しなかったもんはしょうがない。ここは頭を切り替えて、さっさと次の行動に移るべきだ。 「名付けて、お風呂でばったりヌキヌキポン大作戦っ!」  じゃじゃーん。 「うん。やっぱりヌキヌキポンって、我ながらいい表現だよな」  語呂が良くて言い易いし、そこはかとなく可愛い響きだから下品さも薄れている。しかもそれでありながら、何を指しているのか一発で分かるというのが素晴らしい。  清く正しく美しく、明るいスケベを信条とする俺にとっては、まさにぴったりな表現だろう。これ、真面目な話流行んねえかな。  とかそんなことはいいとして、お風呂でばったり作戦の概要は簡単なことだ。  この家には、なんとまあ大したことに露天のでかい浴場がある。思うに当主専用のやつだから、張ってりゃそのうち竜胆が来るはずだ。  そこでこうなる。 「今日も覇吐に逢えなかった……こんなに避けて、私は嫌われたりしていないだろうか」 「ああ、違うんだ。信じてくれ。私は単に、ちょっと恥かしがり屋さんなだけなんだ。おまえの目で見られると、何も言えなくなってしまうものだから」 「逢いたいんだぞ、ほんとなんだぞ? だけど逃げてしまう臆病な私を許してくれ。こんな様ならいっそのこと、出逢ったあのときと同じように……」 「雄々しく、颯爽と現れて、私を連れ去ってくれないだろうか」 「そう、叶うならば今この瞬間、そこの戸を開けておまえが来てくれたらどんなにか……」 「あれ、竜胆じゃねえか。風呂入ってたのか」 「きゃあっ」 「あっと、悪ぃ。でも、まあいいじゃねえか。今夜は月が綺麗だしよ。二人で見ようぜ」 「は、は、覇吐、私は……」 「おまえに逢いたかったのだ……抱いてくれ」 「よっしゃおらああああぁぁァァッ――――!」  最高。最高。これ超最高! 一点の曇りもないマジ完璧作戦! 「あなや、げに麗しい! いと雅んであらかりけれっ!」  なんか言葉間違ってるような気もするが、別にいいんだよこんなもんは、雰囲気だ雰囲気。 「つーわけで、行ってみようかあああ――!」  必勝の予感を胸に抱き、俺は露天風呂へと向かっていった。  そして…… 「よっしゃああああ、入ってる入ってる。誰か入ってますよー」  柵をよじ登りながら中を確認したことで、俺はそれを確信した。湯気が酷くてはっきりとは分からないが、人がいるのは間違いない。  だって鼻歌とか聞こえるし、これはもうガチで当たりでしょ。ならばあとは楽園へ特攻するのみ。 「行ってまいります、お母さんっ」  〈故郷〉《くに》のお袋に、覇吐は坂上の家門をこれから磐石に建て直しますと誓いつつ、いざ―― 「尋常に――」  勝負のとき――  俺は風呂場へ続く引き戸を力いっぱい開け放った。  すぱーん、と小気味いい音と共に、視界へ飛び込んできたものは。 「はー、こりゃこりゃ、いい湯ですのー。びばのんのん」 「……………」 「やっぱお風呂は広いに越したことはないですのねー。安らぐわぁ」 「……………」 「御門のお風呂は爾子が犬かきして壊しちゃったから。龍水がぶつくさ言ってたけど知ったことじゃないですのー」 「……………」 「だいたい、そもそもからしてあれですのよ。お風呂に入るときくらい人型になれって、いちいち大きなお世話ですの。爾子はこの型が気に入ってるんだから、このままでいいですの」 「なので、見たいと思ってるぷっぷくぷーな奴らは、今すぐ諦めたほうがいいですの。つまんない夢見られると、こっちが迷惑するですの」 「……………」 「はー、それにしてもいい湯ですのねー。今後は爾子の縄張りにしようかと思いますのよ」  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「おお……」  おお、まあ分かった。とにかく待とうや。色々言いたいこと言う前に、ちょっと確かめたいことがあるんだよ。  物は試しなんだが、聞かせてくれ。 「この展開、読んでた奴どれくらいいる?」  ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノ 「おおおおおぉぉォォッ、てっめえコラふざけんなボケカスゥッ!」  有り得ん! 有り得んぞ、ちょっとマジで責任者出て来いっ! 「俺のっ、俺のヌキヌキポンが、ちっくしょおおおおあああっ!」 「なんか頭の哀れな奴が、ふるちんで泣きながら叫んでるですの。キモイですのー」 「やかましいこのクソ犬がぁ! 見てんじゃねえぞ犯すぞコラァ!」 「きゃー、獣姦野郎ですの。貞操の危機ですのー」 「助けて丁禮ー、なんで爾子たちの周りには変態ばっかり集まるんですのー!」  叫んで、犬は飛び跳ねながら逃げていく。俺はその背に桶やら軽石やらを投げつけながら、ある一つのことを強く誓った。 「ほんっっっとにあのボケだきゃあ……」  このままじゃあ割が合わず、ちょっとやそっとのことじゃあ俺の怒りは収まらない。 「てめえ、いつか絶対に人型見てやっからなァ! 覚悟しとけよォ!」  そして、その形態は幼女か? 幼女なんだな? 連れの坊主と同じくらいの年頃とみていいんだな?  だったら上等、余裕で守備範囲内だ。 「獣耳とかついてたら萌えるぜえええぇぇっ!」  月に消えていく犬を追い、俺のタマシイの叫びが再び夜のしじまを震わせていた。  ……ああ、遠吠えが虚しいぜ。 「そんで俺様敗残兵っと……」  なにやらもう性も根も尽き果てて、ぶつくさ言いつつ自分の庵にとぼとぼ帰る。今日はこのまま不貞寝しよう。 「……はあ、しかし金かかってそうな庭だよなあ、おい」  俺の実家が何戸入るか分かんねえぞこれ。しかも秀真の中なんだから、地価も大違いのはずだろうに。 「土地と金と権力ってのは、やっぱある所にはあるんだよなあ」 「こういう家で生まれ育つってのは、実際どういう気分なんだか」  別に妬み嫉みで言ってるわけじゃないんだが、純粋に疑問だわ。  そう思っていたら―― 「別に、言われてみれば意識したことはなかったが、気になるか?」 「……ぉ」  不意に横合いからかけられた声にはっとして立ち止まる。少し間抜けな顔になったかもしれない。 「なんだ? そんな呆けた顔をして」 「あ……っと、いや悪ぃ。何でもねえよ」  今夜はもう何もなしかと思っていたら、意外にも向こうの方から素敵展開がやってきたんで驚いた。そういうことなんで、その通りに言う。 「会えて嬉しいぜ、お姫さん。俺はてっきり、無視されてんのかと思ったからよ」 「ああ……それはすまないことをした。気分を害しているのなら謝罪する。おまえを粗略に扱うつもりはなかったんだが……」 「いいっていいって。まあ、ちーっとばかり寂しかったけどよ、そっちはそっちで色々あんだろ? 大将には大将の仕事があらぁな」 「……そうか。そう言ってもらえるとありがたいよ」  うん、だから今は楽しく話そうや。  と思って続きを待ってるのに、お姫様はなぜか下向いて黙り込んじまった。  あー、……えーっと、なんだよこの沈黙は。 「――で」  ――と。 「悪い。見切り誤った」 「いや、私のほうこそ」 「――それで」  じゃなくて。 「――そっちのほうから」「――そちらのほうから」  て違ぇだろ。 「――何かあるなら言ってくれよ」「――何かあるなら言ってほしい」 「…………」 「…………」  気まずい。何なんだよこれ。俺はこんなに会話が不自由なやつだったか? 「ぷっ」 「ふふふ、ふふふふふ……何だこれは、馬鹿みたいだ。私はこんなに、会話が不自由な性質だったかな」  ああ、それまったく俺も同じこと思ってるわけで。  なんか男としてダっせえところを晒してしまったような気もするが、面白がってくれてるようなんでまあいいか。 「そこはほら、気が合うってことで」 「気が合う? 気が合うだと?」  それなりに無難なことを言ったつもりだったのに、竜胆はさらに面白がって身を捩るようにしながら笑いだした。 「そ、そうか。私とおまえは、気が合うのか……そんなことを言われたのは、ふふふ、初めて、だよ」 「あー」  そういやこの姫さんは、結構な変人だからな。色々とけったいな理屈や価値観をお持ちだし、そもそも俺みたいなのを怖がらないばかりか、こっちはタメ口以前の態度なのに怒りもしない。  よくよく考えれば思想がどうこうより、そういう身分無視な大らかさのほうが立場的にヤバイんじゃないのか。 「お喜びいただいたようで、光栄ですぜ姫様」 「やめろ――馬鹿、おまえの敬語など、気持ち悪い。しかも……くくく、言えてないでは、ないか」 「とんでもねえでありまする。俺はこれでも姫の身を心配してっから、そういうお甘いところを直していただけるようにっつーことを考えましたうえでの努力であり、ます……あれ?」 「ぷっ、くくく、あははははははははははははは」 「いや笑うなよ」 「だ、だっておまえ、いったいどういう――生活をしたら、そこまで言語機能が、狂うのだ」 「絶対、わざとやっておるだろう。私が箱入りだからといって、駄目だぞ。騙されん、騙されんからな……くくくくくく」 「おーい」  欠片も信じちゃくれねえよ。人を信じるのがあんたの美点じゃないのかよ。 「別にいいけどよ。だったら姫さんも俺の言葉遣い真似してみろよ。ぜってー上手くいかねえから」 「なん、だと……そんなことはないだろう」  気丈で勇ましく笑い上戸の姫さんは、当たり前に負けず嫌いでもあったらしい。笑いの発作を収めようと深呼吸を始めたので、俺は適当なお題を用意することにした。 「じゃあ、今日の天気について語ってくれ。なるべく長文で、二・三言じゃ終わらせないように。はいどうぞ」 「……いいだろう。天気だな」  少し考え込むように宙を見上げて、それから俺に視線を戻すと、クソ真面目な顔と声で竜胆は言った。 「雪が降っていやがる。去年からひっきりなしでクソ寒いったらありゃしねえ。こう景色がずっと真っ白だとあれだよな、キレイとか趣とか通り越してつまんねーっつーか飽きるっつーか、ぶっちゃけたとこ白けるよな。って今の洒落じゃね?」 「……………」 「どうだ?」 「すんません。負けました」  てゆーか凄ぇなこいつ。抑揚が堅物だったのはともかくとして、よくもあんな即興で言語変換できるもんだよ。  今まで周りに俺みたいなのはいなかったろうし、大衆本を読んでるわけでもねえだろうから、短期間で覚えたのか。だったら大した記憶力と応用力だわ。素直にお手上げ降伏の姿勢を取る。 「そうだろう、そうだろう。これくらい出来ないほうがおかしいんだ。おまえの嘘には騙されないぞ」 「だがまあ、力が抜けるように私を気遣ってくれたんだろう? お陰で久しぶりに気持ちよく笑ったよ。礼を言う」 「いやー、それほどでもあるけどよ」  ごめんなさい。ほんとはそんなのまったく考えてなかったけど、夢を壊しちゃいけないような気がするんでそういうことにしといてちょうだい。そうすりゃ俺も君も気分がいいしね! 「で、俺になんか用かい。まさか偶然じゃないんだろ?」 「ん、ああ……それは確かに、そうなのだが」 「……?」  話を切り替えて問いを投げると、また竜胆は急に歯切れ悪くなる。いったいどうしたってんだろう。 「その、おまえには、まだ諸々礼を言っていなかったから……用というのはつまりそういうことなんだ」 「こんなに遅くなって申し訳ないし、誠意のない話ではあるが、慣れないことで私も戸惑っていたというか……すまん、これは言い訳だな。とにかく聞いてほしい。いいだろうか?」 「ああ、なんだそういうことね」  たいして気にもしちゃいなかったんだが、竜胆にとっちゃあきっと大事なことなんだろう。俺は頷き、先を促す。 「いいぜ。ご主君様の労いってやつを聞かせてくれよ」 「ああ、聞いてくれ」  言って、竜胆は顔をあげると、表情を改めて真っ直ぐ俺のほうを見る。  ……ごめん。たぶん真面目にやろうとしてるせいなんだろうけど、睨まれてるようにしか思えねえよ。超怖いんだけど。  思わず身構えそうになってる俺の前で、しかし姫は凛とした、そして穏やかな声で話しだした。 「坂上覇吐。久雅家第十五代当主、竜胆鈴鹿はおまえの忠を嬉しく思う。よく我が下に参じてくれた。これは私にとっても誉れである」 「ゆえにおまえの主として、臣に恥かしくない将でありたい。おまえがおまえである限り、私が私である限り、この日の契りを永遠にしたいと思っている」 「これをもって、心中よりの感謝としたい。受け取ってもらえるだろうか?」 「……ああ」  頷いて、俺にしては神妙な声を出す。  こいつはたぶん一種の天然なんだろうが、言葉の端々がたまに凄ぇ男殺しだ。自覚のないタラシとでも言うべきか。  まあ、そういうところも大将の才能ってやつかもしれない。おかげでこっちも、直前までのチャラけたノリがどっか飛んでっちまったよ。  大儀である、以後は気合い入れて働けい――みたいなのでもこっちは全然よかったのに。 「まったく――」  こんな面白くて格好良くて可愛い姫さん、どうにも放っておけなくなるじゃねえか。 「ご厚情、ありがたく受け取らせてもらいますよ、姫。覇吐めは、あなたのために死ぬと言いました。その言葉を信じてください」 「だから、敬語はやめろと言っているだろう。気持ち悪いぞ」 「なんだよ、今のは結構上手く言ってただろ」  俺の目に狂いはない。こいつを担ぐことに間違いはない。きっと最高に楽しいことが、これから待っているに違いない。  それがたとえ、鬼や化け物との殺し合いであったとしても――  勝って生き残って帰ってくれば、総て良しの万々歳だろ? 違わねえよな、この理屈。 「だが覇吐、誤解するなよ。私はおまえに死んでほしいわけではない」 「誰のためでも、喜んで死にに行くようなことは絶対に許さん。それも違えぬとここに誓え」  ああ、そりゃもちろん大丈夫だよ。分かってる。 「心配すんなよ。あんたの好みは何となくだが見えてきた。見当違いやってお冠食らわねえように気ぃつけるから」 「俺は負けねえ。どこのどなた様が相手でもな」  俺が俺であるための、それが唯一絶対の自負だから。 「そうだ覇吐、これは龍水に聞いたんだが」 「んなチンチクリンの話題はどうでもいいって」  そもそも、今の俺にとって一番大事なめっちゃ気になることを、まだ聞いていなかったんだよ。 「なあ、竜胆」 「東征に勝って帰ったら、おまえは俺の嫁さんになるってことでいんだよな?」 「は?」 「え?」  ……?  ちょっと待て。なんだよこの寒い反応。 「そんときは、鈴鹿って呼んでいいよな?」 「なに?」 「はい?」  ……?  あれー、なんかどんどんお顔が険しくなっていってるぞ。 「おまえは何を言っているんだ。意味が分からんぞ」 「いやいや、いやいやいやいや――ちょい待てや!」 「だって竜胆言ったじゃん! 抱いてやるって言ったじゃん!」 「ばっ――、おま、どこまで頭が悪いんだ。あれはそういう意味ではない!」 「じゃあどういう意味だよ」 「それは、その、志と言うか、目標と言うか……そう、あれだ。魂だ! 魂を抱いてやると言ったのだ!」 「断じて私は、なんというか男女の肉欲的な閨の意味で言ったのではない! 誤解するな!」 「はあああああああ、何だそりゃああああああああ」 「超ずっけえよ、知んねえよ。ワケ分かねえよタマシイとか意味不明概念持ち出して逃げんなよォ!」 「し、し、知らんだとォ! 貴様今まで、適当に口裏合わせておっただけかァッ!」 「全部、全部私の身体を目当てに――汚らわしい、そこへ直れェッ! 今すぐこの場で斬り捨ててやるッ!」 「うわーーーーーーーーーー」  やっべえ、この人。超怒ってるよ、本気の目だよ。  うん、そりゃ俺もね、いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないんだよ。ただなんつーか、駄目もとでも試したくなるじゃん、こういうの。抗い難い誘惑あるじゃん、男として――否、漢なら。 「いやー、今夜は月がキレイだなぁ」 「話を逸らすなァ―――っておい、逃げるなァッ!」  あー、追っかけてくるよ。凄い気合いだよ。もう俺いなくても勝てるんじゃねえか、正味な話。  前途多難どころか、こっちのやる気がぶっちゃけ七割くらい落ちたんだけども。  まあ、頑張って東に征くわ。点数稼がんと殺されそうだし。 「待たんか覇吐ぃぃ―――!」  今んところ、あっちにそういう気はこれっぽちもないようだけど。  カッコよすぎる俺様見せたら気も変わるだろ。  だからそうしてみせるよ、タマシイ懸けて。  特別付録・人物等級項目―― 坂上覇吐・久雅竜胆、初伝開放。  場面【極月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【ここで退くのは格好悪い】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【挑発に乗るほうが格好悪い】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・秀真・選択肢後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【睦月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【世界の真理に至る者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【己が求道を貫く者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【逃れえぬ因果の縛りに抗う者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【新たな世界を生みだす者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・淡海】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・不和之関】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【皐月・不和之関】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【男の話を知りたい】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【女の話を知りたい】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【不二――覇吐・竜胆】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【不二――宗次郎・紫織】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【鬼無里――刑士郎・咲耶】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【鬼無里――夜行・龍水】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【水無月・鬼無里】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【水無月・不二】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【文月・穢土諏訪原】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【刑士郎&咲耶組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【夜行&龍水組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【覇吐&竜胆組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【宗次郎&紫織組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【文月・穢土諏訪原・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【東――覇吐】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【西――刑士郎】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【南――夜行】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【北――宗次郎】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【霜月・東外流】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・刑士郎×咲耶】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・宗次郎×紫織】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・夜行×龍水】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・覇吐×竜胆】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【神世創生篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【威烈繚乱篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【咒皇百鬼夜行篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【楽土血染花篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【神咒神威神楽】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【閉幕】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  それは花畑の中にいた。  いつからそうなのかは分からない。ただ、時の流れが不明になるほど永い間、何の疑問もなくずっとずっとそこいたのだ。  それを好み、安らぎと感じ、ゆえに祝福と信じて疑わない。事実そのモノにとってはそうだろうから、これは紛れもない幸せのカタチである。  愛よあれ。光あれ。ここは願い求めた天上楽土。  遥かな過去に一度容赦なく壊されたが、崩れ落ちるそれの世界を守ってくれた者がいる。  それがどれだけの大恩か。結果として無間の牢獄に囚われてはしまったものの、不平不満はまったくない。  なぜなら〈花畑〉《ろうごく》の外こそが、それにとっては度し難い邪悪であり敵だったから。  あのおぞましい〈世界〉《ソラ》になど、呑み込まれて堪るものかと強く思う。  他の記憶は不鮮明。思考は茫漠とした砂のよう。しかし魂に刻まれた恐怖と憤怒の想念だけは、決して薄れることがない。  重要なのは正邪と敵味方の認識で、〈花畑〉《ここ》には幸せがあるということ。  そのことだけ分かっていれば、何も問題はないのである。花を守りたいという願いこそがそれにとっての総てであり、そこを侵す者には全身全霊をもって攻撃するのみ。  ゆえに祈ろう。そして謳おう。己がここに在る総て、愛という名の憎悪をもって。  この楽土は絶対に渡さない。  愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。  〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈を〉《 、》〈守〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  そう一点の曇りもなく〈渇望〉《のぞみ》ながら……  花に守られ花を率い、それは蠢動を開始した。  健気な虫けらが這うように。  敗残の徒が足掻くように。  その〈咒〉《な》を、西では土蜘蛛と言う。  世界が軋みをあげていた。  文字通り水も漏らさぬ堅固さをもって組み上げられた外枠が歪み、内部に構築された空間もろとも粉砕しようと、容赦ない圧力をかけ責め立てられている。  荒れ狂う轟風と激流に痛めつけられ、今にも分解寸前に傾いでいるのは当代最高の造船技術を結集した巨大戦艦であったものの、大自然の暴威を前に人の業など何ほどの意味もない。  そう畏怖をもって言いたくなるほど、巨船は木の葉よりも頼りなく翻弄され、この航海が並大抵のものではないと証明している。  西と東の境界、淡海――人界から魔界へ到る道行は、まさしく両界の間に存在する壁の高さを想起させる難所であり、渡るには異形へ変わる必要性すら感じさせた。過去、この海をもって世界の果てと誤認したのも無理からぬ天嶮として、今現在も機能している。  神州においてもっとも古い記録でも、千八百年の昔から航海不能域として恐れられた帰らずの海。ここに僅かでも踏み込んだなら瞬く間に抜け出せなくなり、あとは嵐に呑まれて藻屑と化すのみである。  ゆえに、古の船乗りたちは言っていた。この海の果ては断崖だと。ここより先には何もないと。  少なくとも、生きて渡ることの出来ない彼岸が待ち受けるという意味で、それは正しかったと言えるだろう。  東西の陸地を隔てる距離は、直線にして五十里ほどしかなかったものの、年間を通して晴れることのない濃霧と大時化が視界を完全に封じている。  何の規則性もなく向きを変える潮流は無数の大渦巻を発生させ、また干潮時にはいたる所で巨大な岩礁が頭を覗かせるという危険海域。淡海を抜けるにはそれら総てを躱さねばならず、結果として極度に蛇行した航路は直線の十倍以上に延びていた。  まともに考えて渡れるような海ではなく、渡ろうと考えることすら狂気の沙汰と言っていい。だが事実としてこの海は、今より三百年前に一度越えられているのである。  そして、現在もまた同様に。東を征すべく集い組織された益荒男たちが、危険極まりない海の墓場を越えようとしていた。  その先にある世界から忘れられた地……穢土に棲むという化外の魔性を滅ぼすために。  それをもって平定を成し、人界を侵す異界の毒を絶つために。  旗艦となる巨大戦艦を筆頭に、三十余隻の大型船で構成された艦隊が、総勢一万の兵力を乗せてこの航路に臨んでいる。  先の御前試合より三月の後、卯月をもってついに出陣と相成った。しかし当然と言うべきか、この船団が東征の全軍というわけでは無論ない。  言ったようにここは危険な海であり、その先にあるのは人跡未踏と表現してよい鬼の大地だ。まずは少数で航路の安全を確認し、その帰還をもって本格的な遠征へと移行するのが常だろう。いかに一度越えたとはいえ、三百年前の情報など頭から信用できるものではない。  ゆえにこの艦隊は、全軍の二十分の一以下である。第一陣として後続に道を開くのが役目だが、しかしそれでも多すぎだった。先遣隊としての規模を、明らかに逸脱している。  航路を確保すると同時に穢土の地へと楔を打ち込み、征服のための橋頭堡を打ち立てる――一万名からなる軍兵はそこまで求められているとしか傍目に思えず、そして事実その通りだった。戦略としては、紛れもなく拙速の部類と言っていい。  無謀と評されても仕方のない蛮勇には違いないが、彼らにはそうしなければならない理由があった。  すなわち、時間的な余裕の無さ。列強との軋轢という外憂を抱えている神州にとって、内憂たる東征は速やかに終わらせなければならない。  よしんば異国の介入を許す羽目になろうとも、その時点で何処まで東に踏み込んでいるか……これが重要な意味を持ってくるのは言うまでもないことだろう。  後の領土問題に関わる以上、一刻も早く僅かでも多く、穢土の領域を皇旗で染め上げる必要があった。これはそのための編成である。  そして、だからこそ――  玉砕、全滅すら視野に入れられているこの第一陣は、同時に何が何でもそうなってはならぬものでもあった。  不沈艦として、この波を越えなければならなかった。  それをただの精神論で終わらせぬため、考えつく限り最良かつ最善の手段も採られている。  いや、あるいは最悪の鬼手と言えるのかもしれないが……  旗艦の船上、暴風と連続する高波に晒された剥き出しの甲板に、身じろぎ一つしないまま佇んでいる影があった。  まるでそこに縫い止められているかのように、どれだけの揺れと波を身に受けようとも動かない。まして、それがたおやかな女性の輪郭を持っていることも踏まえれば、驚異を通り越して幻想的ですらある光景だった。  しかし無論のことこれは現実。迷妄した夢では有り得ない。紛れもなく生身の女人であり、荒ぶる海魔を静めるための人身御供であるかのように思わせる。  そして実際、彼女はそこに繋がれていた。 縛られていると言っていい。  樹齢千年を越える霊木の繊維と、臨月の女数百人分の髪を合わせて編み上げられた封印咒帯――書き込まれた血文字の術式によりその効果は増幅され、常人ならばただの一巻きで肉体ごと潰されかねない拘束が、百合のような儚い肢体に何と百八枚も巻かれていた。  そこまで過剰な禁縛をもって、ようやくこの少女を封じている。彼女が内に抱えた凶星の、破滅的な発動を抑えている。  何層にも渡り重ね掛けされた封咒の力は、同時に少女を外的な危険から隔離するための壁でもあった。ゆえに逆巻く風雨も、大波も、彼女の身体には届かない。まるでそこに見えない膜があるかのように、真白い着物は水滴一つ被ってないのだ。  そのあらゆる意味で異常な扱いは、少女が何者であるかを考慮すれば正当なものだと分かるだろう。禍津の姫、凶月咲耶である。 「取り舵……針路、北北東へ。大波が来ます」  咒帯に覆われた咲耶の腕が静かに上がり、それが示した角度を正確になぞって船体が向きを変える。のみならず、背後に続く船団も連動して動きだした。  直後、咲耶が予告した通りの位置で海面が盛り上がり、大波となって噴き上がる。もしもあのまま進んでいたら、巨船は成す術も無く粉砕されていただろう。九死に一生の瞬間であったはずにも拘らず、彼女の表情は小揺るぎさえしていない。  ただ淡々と、舞いのように優雅な仕草で次なる指示を出していく。そして先ほどと同様に、総ての艦が咲耶を脳とした神経網で繋がっているかのごとく、理想的な連携を発揮していく。  その魔性のものとしか思えぬ操艦力は、無論彼女の技術ではない。正しくは、咲耶を媒介にして得た情報を背後の人物が処理しているのだ。 「良いな、大した手並みだよ咲耶。お加減は如何かな」 「多少窮屈ではありますが、問題ありません龍明様」  咲耶を拘束している咒帯は旗艦全体に張り巡らされ、各艦に導波を飛ばすための送信端末にも繋がっている。龍明はこれを利用して指示を伝え、受信側に待機している御門の人間が瞬時にこれを実行するのだ。  言わば霊信。思念波による通信技術と言えるだろう。信号弾や手旗では、荒天下で正確性を保ち続けるのが困難だし、何よりも伝わるまでの時間落差が発生する。この狂える荒海の只中で、それは致命的な遅れを生みかねない。  この方式ならそれらの不安要素を克服でき、かつ故障することも有り得ないのだ。三十余の艦に対して、同時に念を飛ばすのはかなりの導力を要するものの、それを請け負うのは御門龍明。ゆえに不可能なことではない。  並の術者なら数度の通信を行った時点で心身ともに損耗し、最悪廃人と化すだろう。だが龍明の力は桁が違う。この程度の術行使で擦り切れるほど柔ではない。  出航より今日で十日。流石に常時これを続けていたわけではないが、特に危険な海域に入った昨晩からは不眠不休となっている。しかし彼女に疲弊した様子はまったく見えない。  それどころか、全身から〈横溢〉《おういつ》する精気で他者を癒す活性の咒法さえ同時に行い、身体的には手弱女にすぎない咲耶の疲れを拭っているという余裕ぶり。  その器、その技量、共に絶人の域と言うしかなく、まさに術師の頭領たる御門の主に相応しい。加えて特筆すべき事柄は、それほどの技を持ちながらも他者に合わせることが出来るという点。  彼女の通信を受け取る者らは、各々精鋭には違いないが雑把に言うなら凡人である。少なくとも、龍明に匹敵する技量の持ち主では断じてない。  そうした者らに過不足なく指示を送って従わせるのは、並大抵のことではないだろう。導波の連絡とは意識の交流に他ならないわけだから、精神世界の在り様がもろに出る。つまり人間の格に差があれば、別世界の言語のように感じるのだ。  凡夫に才人の世界は分からず、逆もまた真なりだろう。狂人と常識人に置き換えても同じことが言えるはずだ。  龍明の格は、そういう齟齬を発生させて余りあるほど突出している。しかしにも拘らず、受け取る側に一切の誤解を与えない。ただでさえ高難易度の通信技術を、翻訳作業と並列しながら行っていると言っていい。  これが仮に夜行ならば、通信自体は可能だろう。ことによれば龍明よりも、大量かつ長時間に渡り行うことが出来るかもしれない。  しかし彼は、他者へ合わせるという意識が根本から欠落している。そこが未熟なのではなく無いのだから、たとえ学ばせたところで身につくまい。  よって、この役を負えるのは御門龍明ただ一人。その事実から、彼女は本航海における艦隊総司令の地位に就いていた。  まさに、大胆さと繊細さが紙一重のまま同居している編成と言えよう。熾烈な切り込み役には違いないが、それを可能にするべく人材は選び抜かれている。  洋上において要となるのはこの二人で、穢土の地へと降り立った後に真価を発揮するだろう者らも組み込まれていた。すなわち、先の神楽における花形であった益荒男たちである。  紫織、龍水、刑士郎、宗次郎、夜行、覇吐……そして彼らを率いる将までも。等しくこの艦に同乗していた。  神州が誇る烈士らを無事に対岸へと送るため、咲耶が求められた役割とは、つまるところ目の代わりである。 「面舵……針路、東北東へ。岩礁があります」  再び、まるで初めから知っていたかのように障害の存在を言い当てる。実際、彼女は見えているのだ。  龍水のような先見による予知ではない。それは西側最大の歪みである咲耶ならでは、〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈の〉《 、》〈異〉《 、》〈能〉《 、》〈が〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈道〉《 、》〈筋〉《 、》〈を〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  すなわち、一種の帰巣本能に近いだろう。元来、穢土の理であった歪みの力が、その源泉に吸い寄せられていると言えば分かりやすい。  史上、この航路を最初に見出したのは初代の御門で、『彼女』は化外の離反者だったという伝説がある。亡命した西側で時の天子に穢土の存在を教え聞かせ、三百年前の東征を先導したと……  真相は不明だが、ともかく咲耶は今現在の道を見ていた。それが遺された過去の海図と相違なければ問題なく、ずれがあるなら修正したうえで西に送る。そうすることで、後続も淡海を渡れるようになるだろう。  咲耶を矢面に立たせることによって生じる危険は、過剰なほどの封印咒帯で何とか相殺しようと試みていた。それが十全に機能しているかどうかは別にして、彼女以上に航路を読める者はいないのだから是非もない。  たとえ船室の最奥に匿っていたとしても、船が沈めば起こる事態は同じである。ゆえに龍明は、他ならぬ咲耶の希望でこの方式を採用した。背負う危険性の度合いで言えば、どちらであろうと大差ない。  むしろ、龍明のように豪胆な人間からしてみれば、情報が正確になるぶんこちらのほうがいいだろう。一手も誤れぬ緊張感は倍増し以上になるものの、要は己が間違えなければいいだけの話だから。  揺るがぬ自負と、そして度胸。そうした面で、咲耶と龍明はある種似ていた。並の男なら裸足で逃げ出す女傑然とした御門家当主と、常に柔らかで儚げな佇まいである禍津の姫君……外見上は正反対の二人だが、芯の部分は共に鋼だ。基本、迷いや恐れをまったく持たない。  そうした親近感から出たものでもないだろうが、二人はこの状況を楽しんでいる風だった。両者とも、口元が僅かだが綻んでいる。  世間話をする暇さえあるのか。どこか含み笑うような口調で龍明が言った。 「ところで咲耶、おまえの兄君はどうしたね。まだ膨れているのかな」 「おそらくは……利かん気な兄で誠に申し訳ありません。そもそも、わたくしがついてくることを反対しておりましたから」  応じる咲耶の言葉には、こちらも笑みの成分が混ざっていた。兄、兄と言いながらも、まるで弟か息子を語るような口振りである。  それは男を永遠の悪童と見立てたうえで、呆れながらも慈しむ特有の姿勢……女の多くに共通するものであり、母性と呼ばれる感情だろう。ゆえに龍明にも、似たような感性はあるようだった。 「過保護だな。まったく男とは、いつの世でもそういうところが幼稚だよ。守るという言葉が大好きで、その行為に酔いしれたがる」 「それはそれで可愛いがね。置物のように扱われる女の人格は無視ときた。ああいうノリはつまるところ、自分の矜持を守っているだけであろうにな」 「そのこと自体、わたくしは自然であると思いますよ。間違っているとは感じませぬし、殿御にそうされるのを好む女人もいるでしょう。少なくとも、価値は認められているのですから」 「だが、おまえは違うわけだ」 「ええ……兄様には申し訳ないことですが」 「わたくしはわたくしの理をもって、わたくしが望むように動くのみです。それが互いに想い合ってのものであれば、多少の食い違いはあっても結果はついてくるものでしょう」 「もしついてこなければ?」 「しょせんそれまでの仲ということ。いや、あるいは、そうなることが美しいという意味ではないでしょうか。何にしろ、己を通して後悔するなど有り得ませぬ。常識かと」 「ふむ、確かに『こちら』ならばな」  吹き荒ぶ嵐の向こう、まだ見ぬ穢土の地へと視線を向けて、龍明は続けた。 「あちらでそれが通じるか否かは分かるまい。私も人のことは言えんがね。強固であるとは壊れにくいという反面で、壊れたら修復できぬという意味もある」 「価値観を変えろと言っているわけではないが、見識を広げたほうがいいかもしれんな。何せ我々は、曰く狂気に率いられているらしいから」 「竜胆様のことでございますね」  話しながらも淀みなく操艦の指示を出しつつ、咲耶は同様の作業を続けている龍明を顧みた。姿勢はそのまま、あくまで意識の一部のみを後方に向けて問いを送る。 「わたくしは、軍事や政治の機微についてさほど詳しくもない身でありますが、本当にこれでよかったのかと思います。素人意見でしょうか?」 「ああ。素人にも突っ込まれるほどよろしくないよ。常識外れと言っていい」 「この艦隊に烏帽子殿まで同乗するのは、説明したくもないほど間違っている。迂闊とか無謀とか、もうそうした言葉では追いつかん」 「我々は、平たく言うと貧乏くじを引かされているのだよ」 「貧乏くじ、ですか」  台詞は辛辣であったものの、龍明の口調は楽しげだ。この女傑が途方にくれるような事態が世にあるのかどうかは別として、咲耶は彼女が言った言葉の意味を理解しようと試みる。  総大将である竜胆が、こんな特攻紛いの第一陣に同乗していること自体そもそも異例の状況だろう。そこから察せられるのは政治的な問題で、おそらく厄介払いに近いもの。つまるところ、下手を打たせて彼女の失脚――と言うより死亡――を狙う陰謀の類かもしれない。  だが、件の姫君とて愚者ではないのだ。こんな見え透いた手が読めないはずはないだろうし、馬鹿正直に乗る必要もない。  だいたいからして、どういう理屈で竜胆をこの艦に乗せるという話が出てきたのか、咲耶はその時点で分からなかった。名分というものが何処にもないように思える。 「ふふん、分からんかね。無理もない」  そんな彼女の困惑を楽しむように、背後の龍明は笑っていた。もはや上機嫌に近い風情で、その理由も分からない。何がそんなに面白いのか。 「これは烏帽子殿自身が希望したことなのだよ。別に誰彼から嵌められたというわけではない」 「ま、好都合だと手を叩いた輩は多かろうがね」 「はい?」  自分は今、もしや言葉を聞き違えたか? 咄嗟にそんな疑問さえ抱くほど、答えは予想の埒外だった。慎ましやかな咲耶にしては珍しく、思わず驚いて目を見開く。 「竜胆様が、自ら望んで?」 「そうだよ。率直にどう思うね?」 「どう、と仰られましても……」  だとしたら、いよいよ意味が分からない。恐れ多いことではあるが、馬鹿なのではないだろうかと思ってしまい、そこを龍明に読み取られてしまった。 「うむ、馬鹿だな。しかも弩級の大馬鹿者と言っていい。だから我々は狂気に率いられているというわけだ」 「しかし龍明様は、そんな竜胆様を称えておられるご様子」 「なに、そう見えるのか? ……ふふふ、ならばこれは遺憾だな。立場上、烏帽子殿にはしかつめらしく小言を繰り返したつもりなのだが、伝わっていないかもしれん」 「つまり、どういう意味なのでしょう」  先ほど説明したくもないと言っていたのとは裏腹に、龍明は話したがっているように見える。いや、聞かせたがっているのだろうか。  何にせよ、咲耶も段々と気になってきた。もとより竜胆の奇行には興味があったし、龍明が事情を知っているのなら聞いておきたい。 「ああもう、答えを言ってしまうとだな、烏帽子殿はある種の賭けに出たのだよ。古今、身内の敵を黙らせるのに効果的な手は二つあり、一つは無論殺してしまうことなのだが……」 「あの姫君はそれを好まぬ。恐怖で縛る実力行使は、中院あたりの専売だからな。彼では戦に勝てぬと断じた以上、別のやり方で将器を示さねばなるまいよ」 「それは?」  問いに、龍明はたった一言で返答した。 「軍功だよ」 「この第一陣は無謀に等しい特攻だが、成したときの見返りはとてつもなくでかい。ゆえに先手必勝というやつだな。最初の一撃で黙らせる。実に単純明快だ」 「実際、内輪の揉め事など引き伸ばしていいものではないだろう。穢土の内地に入ってまで、統制が取れぬようでは話にならぬという理屈は分かるな?」 「ええ、確かに……」  竜胆が将として器を示し、軍を完全に掌握するのは早いほうがいい。それはなるほど理解できるが、だからといって軽率であることに変わりはあるまい。何がそこまであの姫君を駆り立てるのか。  久雅竜胆という人物を咲耶なりに推し量り、出した答えを半信半疑ながらも口にした。 「まさか、龍明様を見捨てられなかったということですか?」  この第一陣には、御門の者らが多く最初から組み込まれていた。淡海を越えるには必要な技術者たちということで、そこは妥当な配置だろうが、実情は使い捨てに等しいと言える。  だからこそ、竜胆は彼らを守るためにもあえて乗船したのかもしれない。なぜなら、彼女が動けば人も物資も拡張されて設備は整い、強化され……  生き残る確率が飛躍的に上昇する。  たとえ今は名目が先行している飾りに近いものであろうと、将の立場とはそういうものだ。竜胆がそこにいるというだけで、この艦隊を救う方向へと導ける。  咲耶の推察を否定も肯定もしないまま、龍明は変わらぬ含み笑いで返答した。 「年々、あの姫君は可愛くなくなってくるものだよ。将たる者、腰が軽すぎるのは如何なものかと諌めたのだが、勝つための配置を磐石にしただけだと返しおった」 「なあ、だから貧乏くじだと言っただろう?」 「それは、もしやわたくしのことですか?」 「おまえも、おまえの兄も、他の者らも、神楽で暴れた問題児どもをここに勢ぞろいさせたのは烏帽子殿だ。曰く、これが必勝の布陣ということらしい」 「なんとも、また……」  どう反応していいか分からなくなり、咲耶は思わず口篭もった。つまるところ、自分たちは最大級に評価されているということなのか。  あの者たちが共に在るなら必ず勝てると。そういう理屈で、この第一陣に集められた。なるほど、それは確かに貧乏くじと言えるかもしれない。  知らされた現状を鑑みれば、竜胆の手で死線へ送られたようなものだろう。なのになぜか、まったく腹立たしさを感じない。これはいったいどういうことか。  むしろ逆に、ある種の可笑しみさえ込み上げてくる始末。 「龍明様が、先ほどから愉快げにしておられたのはそういう事情だったのですね。なるほど、わたくしもなにやら頬が緩みます」 「我らの将は、本当に不思議な御方」 「あまり持ち上げるなよ。言ったようにただの馬鹿者だ」 「またそのように辛辣な。立場上、小言も言わねばならぬのでしょうが、笑いながらでは説得力がありません」 「咲耶は今思いました。どうやら竜胆様は、私情が私情でないからこそ面白いのでしょう」  将の立場を確立したい。そのために軍功を勝ち取りたい。それは確かな本音だろうし、御門の者らを救いたいという気持ちも間違いなく入っている。  だが、それらの総ては東征に必勝するという大儀のもとに機能しており、決して己の欲ではないのだ。国を、民草を守るため、彼女流の最善手をつくした結果がこれなのだろう。そこには当然、咲耶らのことも含まれている。なぜなら期待されているようだから。  でなくば、いつ弾けるか分からない爆弾めいた凶月などを、この編成に組みなどすまい。これが生き残るための布陣であると、真実思っているからこそやっている。  つまるところ、竜胆の〈私〉《し》は公なのだ。突き詰めれば己のためという結論にならないところが面白く、それは一般に私情と言わない。  人の上に立つ者が独自の精神構造をしているのは常だろうが、中院を始めとする他の五大竜胆とも違っている。  彼らも芯の部分は他と同じで、己の主はあくまで己だ。天下国家などという得体の知れないものに仕えてはいない。  なるほど久雅竜胆はやはりおかしい。狂気に率いられているとはよく言ったもの。知らず微笑みを深くしながら咲耶は続けた。 「わたくしには、理想の将がどのような者であるかなど分かりません。一般的には、非情に徹するとか現実的であるとか、そのようなことを言われているようですが……」  そういう意味で、久雅竜胆は甘い部類だ。軍とは殺すための装置であり、死ぬための駒である。救うとか守るとか、そうしたものを第一義にしていては罷り通らない局面も出てくるだろう。 「しかしわたくしは、気分がようございます。兄様を不機嫌にさせてはおりますが、やはりついてきて良かったと思うほどに」 「なにやら、楽しくてたまりませぬ。これより死地に向かうというのに……おかしいでしょうか?」 「さてな」  応じた龍明の声は素っ気なかったが、だからといって咲耶の言葉を適当に流したわけでもない。心なしか自嘲するように、粛々と付け加える。 「私が思う理想の将とは、他者を狂奔させる才を持つ者。それが恐怖であろうが利であろうが、はたまた愛とやらであろうが同じ」 「要は伝染、影響力だよ。そしてその手の資質はな、己一人で完結する者になど宿らない。〈と〉《 、》〈か〉《 、》〈く〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈求〉《 、》〈道〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈多〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈重〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》、〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈の〉《 、》〈資〉《 、》〈質〉《 、》〈だ〉《 、》。他者を染めることが出来る者」 「覇道?」  その言葉自体は知っているが、何かまったく別の概念を聞いたような気になって、咲耶は思わず鸚鵡返した。 「では竜胆様が、そういうものだと?」 「そうであったらよいかもしれんな。事実おまえは、烏帽子殿の影響を楽しんでおるようだし」 「結構なことではないかと私は思うが……」  ――と、そこで龍明は言葉を切り、前方に広がる風雨の先を透かし見る。恒常的に続いていた嵐の勢力圏内から、艦隊はついに抜け出そうとしていたのだ。 「龍明様……」  進行方向の視界が急速に明るくなっていく。  咲耶の口から、控えめだが紛れもない安堵の吐息が漏れていた。彼女にしても、この海域に入ってからの連続した緊張状態は少なからず堪えたのだろう。気丈に振舞っていても、やはりまだ少女である。  ついに淡海を抜けられると、微かに気が緩んだその一点――咲耶の精神状態は咒帯を通じて艦隊にも伝播していき、船室からも仄かに見える光を目にした兵たちが、歓びの声を上げ始める。  だが、それは些か早すぎる安堵だった。 「―――――」  絶望とは、希望が覆される一瞬の変転。その落差が大きいほど、直面した者の心を打ち砕く。  してみれば、この狂える海の化身とも言うべき存在は、絶望の何たるかを深く弁えていたのかもしれない。  それはいつ生じたのか。断じて目など離していないし、仮にそうでも今の今まで気付かなかったなど有り得ない。進行方向を完全に塞ぐ形で、巨大な大渦が牙を剥いているのである。  半径だけで数里はあろう、規格外にもほどがあるその巨大さは、もはや渦という概念を逸脱し、何か途轍もない生物の〈顎〉《アギト》にすら見えてくる。三十余からなる艦隊が、気付けば残らず脱出不可能な海の蟻地獄に巻き込まれていた。 「そんな……」  有り得ないことである。咲耶はここまでの航路を正確に見ていたし、過去の海図にもこんな代物は載っていない。まるでたった今、時空を無視していきなり現れたかのような非現実ぶり。悪夢のような死角からの急襲だった。 「抜けられぬか」  呟く龍明の声音には、あらゆる感情が欠落していた。すでに舵の大半は言うことを聞かず、総ての艦は船体を軋ませながら渦の中心へと滑り落ちていく。  このままでは、いくらも待たずに深海の底へと引きずり込まれるだけだろう。いや、そんな未来さえ生温いと、狂気の渦はさらなる絶望を叩きつけてきた。  渦中のいたる所から、凄まじい勢いで迫り上がってくる岩礁の群れ。旗艦の帆柱さえ優に凌ぐ高さを持ち、剣山のごとく聳え立つそれらの威容は、さながら獲物を噛み砕く牙そのものを思わせる。  事実上操艦不能なこの状態で、待ち受ける死の〈顎〉《アギト》から逃れ出る術は無い。  そして、これは果たして海鳴りなのか―――  重なり合って輪唱するかのごとく響き渡り、周囲を木霊する不協和音。歌のように聴こえるが、だとしても断じて人の声ではない。  その音階も、その言語も、少なくとも西では未知のものだった。人間の口はこのような音を紡ぎ出さない。  ならば、導き出される答えは一つであろう。 「ふん、面白い。お出迎えというわけか」 「こやつがここで出張るとはな。〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈三〉《 、》〈百〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈事〉《 、》〈情〉《 、》〈が〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》」  龍明の奇妙な言い回しすら、今の咲耶には意の外だった。押し寄せてくる破滅的な暴威を前に、ただ確信だけを抱いている。  これが化外、これが土蜘蛛――穢土のモノらが自分たちを阻んでいる。ここから一歩も進ませぬと、怨嗟を撒き散らしながら猛っている。  ああそうだ、間違いない。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。身に宿った歪みの異能が、先祖返りに等しい感覚でこの存在を思い出させた。  紅玉のような咲耶の瞳が、右手に聳え立つ岩礁をぎらりと睨む。あれはそう、岩などではなく―― 「取り舵――いっぱァァァいッ!」  瞬間、連なっていた五本の岩塊が、食虫花のごとく閉じられた。 「―――――ッッ」  噴き上がる水飛沫、そして連続する大轟音。操艦が間に合ったのは奇蹟に等しい。咲耶の激情に呼応して、龍明が飛ばした導波は限界以上の鞭となり、半ば不能状態であった舵を無理矢理に切らせたのだ。  結果として第一波は躱したものの、船体に掛かった負荷は甚大極まるものだった。今後そう何度も出来るような曲芸ではなく、依然危機的状況は続いている。  なぜなら―― 「手……」  大渦の中、少なくとも百に達する岩の柱は巨大な手――その指の一本一本に他ならなかった。つまりろくに身動きとれぬ状態で、十人からの巨人に囲まれていると言っていい。  その掌は弩級の戦艦すら包み込み、一撃で握り潰し粉砕する。まさに人知を超えた怪物そのもの、人の世の埒外にある化生の業と言うしかない。  岩が動く。手となって。激流の中を艦隊目掛けて殺到してくる。  そしてその中を響き渡る、あの奇怪な魔物の歌い声―― 「咲耶、胆を潰してはおるまいな」  熟練の船乗りでさえ恐怖で狂い死にしかねぬ光景を前に、しかし龍明の声は平静だった。迫り来る異形のモノどもを睨みすえ、不敵とさえ形容できる調子で言葉を継ぐ。 「こんなものは序の口だぞ。玄関口の番犬程度、多少気の利いている雑兵にすぎん」 「少なくとも天魔と号された者どもは、これくらいのこと小指の先でやってのける」 「――――――」  穢土に君臨するという八柱の大魔・〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》――それを龍明は見知っているかのような言い草だったが、疑問はともかく棚に上げた。 「ならば――」 「そう、ならば――」  この程度の局面、切り抜けられぬようでは先などない。咲耶は気息を整えて、再度目の前の化生を見る。  恐ろしく、凄まじく、そしてどこか哀れを誘う不思議なモノども。なるほど彼らは敗残者で、生くる場を追われた鰐なのだ。  しかし今の世は湖であり、そこに混ざる塩は毒でしかない。彼らの理はただ在るだけで、自分のような歪みを生じさせてしまう。  この身を嘆いたことはないけれど。  人の世が桃源郷だとも思わないけど。  ただ愛する兄と誰はばかりなく、天下を共に歩いていきたい。  ゆえに化外は滅ぼさねばならない。負けるわけにはいかないのだ。  これは双方、生存を懸けた戦いだから―― 「わたくしはわたくしに出来ることをいたします。何としてもこの艦を、維持し続けてみせましょう」 「ですから後は、龍明様……」 「ああ、荒事は専門の者らに任せようか」  覚悟のこもった咲耶の声に、艦隊総司令は微笑で応えた。次いで、襲い来る波浪に劣らぬ大音声を嵐の中に轟かせる。 「出て来い小童ども――戦の時間だッ!」 「御門家当主、龍明が総司令の名において貴様らに命ずる!この小賢しい蜘蛛ども総て、一匹残らず殲滅せしめろ!」 「勝利を我らが御大将のため――」  響く歌声を掻き消すように、御門龍明は宣言した。 「この地を凱歌で染め上げるがいいッ!」  そして、それに応えるかのごとく―― 「――了解」 「はン――」 「面白くなってきました」  吹き荒ぶ暴風を切り裂くように、武が矢となって放たれた。  嵐の甲板へ出ると同時に、宗次郎らは跳躍して帆柱の上へと駆けあがっていく。まったくどいつもせっかちなことで、自分が敵をぶっ殺すことしか考えていやがらない。  そりゃあここまで十日の間、退屈な船旅だったんだから鬱憤たまってるのも分かるけどよ。そんなノリでこの事態が何とかなるのか。  四方を囲む巨大な手の群れ。あれに掛かればこの船だろうと一撃なのは間違いないし、上手く躱したところでいずれは海の底に引きずり込まれる。  ゆえに即断即決、神速で必勝を狙うのは正しいだろう。まごついている場合じゃないことだけは俺にも分かる。  が、本当にそれでいいのか? 何とも言えない違和感に襲われて、俺は先陣切った連中に続くべき足を、一歩踏み出しかねていた。  初めて目にした化外、土蜘蛛――その度外れた異形に驚愕してはいるものの、それにも増して抱いた印象は、もっと別のものだった。  どこからどう見ても人外なのに、野獣の群れという感じがまるでしない。あれは、そう、喩えるなら…… 「わっ――、ぷっ」 「ば、馬鹿者、そんなところで立ち止まるなこの大虚けっ」 「―――とっ」  思案していたところに後ろから軽い衝撃を受けて振り返ってみれば、そこには俺らより三歩くらい遅れてやってきたチンチクリン。 「おい……今なにか、頭にくるようなことを考えておったであろう」 「いや、そんなことはねえけどよ」  つか、そんなことはどうでもいいんだよ。 「わっ、きゃあ――」 「――危ねえ」  再度、船べりを掠めた手の衝撃で、船体が大きく傾ぐ。危うく海へ落下しそうになった龍水を、反射的に受け止めた。 「ちょ、ちょま―― どこを触っておる貴様、離さんか助平っ 」 「私には夜行様がいるのだから、貴様ごときが馴れ馴れしく触るでないわ、無礼者っ」 「だぁー、もう、うるっせえ!」  キンキンキンキン耳元で怒鳴りやがってクソチビが。状況見て物言えよ。 「てめえ生意気なのは構わねえがな、助けてもらったら礼だろうが」 「そこさえ押さえりゃ文句だろうがビンタだろうが受けてやっから、萎える反応するんじゃねえよ。――分かったか」 「ぐっ――」  吼えた瞬間、なんで俺はこんなに苛ついてるんだと疑問を持ったが、ともかくチビは大人しくなった。些か以上に大人気なかったのはまあ置いといて、何にしろ今はじゃれてるような場合じゃねえ。 「そ、そうだな。すまぬ……助かった」 「ああ、そんじゃお利巧さんになったところで訊くけどよ」  ついさっきまで、俺は何を考えていたっけか。ワケの分かんねえ違和感を言葉に出来ず、ともかく反射で龍水の言葉尻を捕まえてみた。 「おまえの夜行様とやらは何処行った? 犬と坊主はチラチラ見てたが、あいつの顔は一回も見てねえぞ」 「あ、そ、それは……」 「いるんだよな?」  問いに龍水は数瞬視線を彷徨わせたが、やがてきっぱりと頷いた。 「いる。いや、いらっしゃる。それは絶対間違いない」 「ただ、夜行様は気紛れなのだ。何処で何をしておられるかは、私ごときの知るところでは……」 「そうかよ」  あの陰陽師野郎、ろくでもない奴に違いないとは思っていたが、やっぱりそういう系統かよ。何をするのか読めない味方は、正直敵より鬱陶しい。  再度上へと視線を向けると、すでに宗次郎らの姿は何処にもない。おそらく各艦の帆柱を足場にして、飛び跳ねつつ移動を続けているのだろう。  全員、物の見事にばらっばらだ。いっそ清々しいほど好き勝手にやっていやがる。  それ自体は当たり前だし俺も本来そういう部類のはずなんだが、なぜか今はそのことが腹立つんだよ。  ああもう、何なんだこのもやもやは。 「――龍明ッ」 「あいつら煽ったのはてめえだろ、本当にこれでいいのかッ」  我ながら意味不明な癇癪に任せて八つ当たり気味に怒鳴り散らすと、返ってきたのはさらに苛つくような失笑だった。 「そんなことは知らん」 「私はこの艦隊を預かる者として、蜘蛛の迎撃を命じたまでだ。後は現場の裁量だろう」 「と言うより、こちらはこちらですでに手一杯だしな」 「――――ッ」  そこで三たび艦全体が大きく傾ぐ。危うく転覆しそうなほどの衝撃で、確かに龍明は手一杯だ。こいつにこれ以上の余裕はない。 「まあ、些か越権行為だったのは認めるがね。単にちょっとした悪戯心だ。愛の鞭とでも思ってくれよ」 「尻は叩いたが手綱には触れん。そこは私の役目ではないだろう」 「つまり――」  吹き荒れる轟風のただ中で、真剣だがどこか楽しげな咲耶の声が流れてきた。 「指揮を執ってください、竜胆様」 「我々は、あなた様に率いられる神州の益荒男です」 「――――――」  その言葉が、意味するもの。  それに俺は思い至って、先ほどからの苛つきが何なのかをようやく悟った。  ああ、そうか。そういうことかよ。慣れないことなんで今までピンとこなかったが…… 「――分かっている」  要は、俺たちが大将に戴いたこの姫さんの下知なくして、戦端など開いてどうするという義憤の類――これはそういうものだったのだ。 「はッ……」  じゃあ、あれか。何だかんだで俺もちっとは、主持ちらしくなってきたってことなのか。我ながら面白い変化の兆しに、知らず笑いが込み上げてくる。  悪くない――そう単純に思える心境が愉快だし、こいつの前でカッコつけるにはそれが一番いいってことだ。 「覇吐、龍水、おまえたちが残っていてくれて嬉しく思う。よく暴走せずに踏み止まった」 「駆けつけるのが遅れたのは私の不明なのだから、あまり龍明殿を責めるなよ」 「むしろ、この段階で問題が表面化したのは僥倖だ」  凛々しい戦装束に身を包み、嵐の空を見上げる竜胆に気後れした様子はない。静かだが覇気のある声で、力強く続ける。 「理屈の上では分かっていたはずなんだがな。あれらの主はあくまで己だ。私の立場や肩書きだけで手綱を握れるわけがなかったのだよ」 「こうなれば実戦で、実地に暴れ馬を乗りこなすしかないだろう。まったく気忙しい話だが、そういうのも嫌いではないよ」 「協力してくれるか、二人とも」 「は、はいっ!」 「そこは偉そうに、命令すりゃいいんだよ」  宗次郎らは言うことなんか聞きやしねえ。別に竜胆を舐め腐ってるわけでもないんだろうが、ぶっちぎった個というのはそういうもんだ。群れることを枷と捉える傾向がある。  そういう奴らの心情は、俺が察して事前に手を打つべきだった。乗船以降、特に用もないと思ってろくに絡まなかったこっちの不手際。家来としちゃあ落第だろう。  だからここで、その失敗ぶんを取り返さないといけないよな。 「衆にあってこその己であると、弁えている者らはそれでいい。〈歯〉《 、》〈車〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》、少なくともこの局面では有効だろう。そこは龍明殿に任せられる」 「艦隊そのものはそれで統一されているのだから、私が口を挿むべきところではない」 「要は、どう攻めるか」  防の面での操艦は、咲耶と龍明で機能している。そして現状、それが限界なのだから、あいつらは逃げ回ることに全精力を注ぎ込んでくれればいい。  ここで竜胆に求められているのは、攻撃の指揮だ。そこで思い返してみる限り、初めて遭遇した化外へ抱いた妙な違和感が引っかかる。  俺自身、まだ上手く掴めていないその印象を、しかし竜胆は理解しているようだった。迷いのない瞳が、そう告げている。 「今、確信したよ。これは私以外に出来ない」 「兵は歯車。それで納得している軍は強いし、駒を揃えるだけなら簡単だろう。一度型にさえ嵌めてしまえば、己の理でそう在りたがる。私情はともかく、優秀な兵だ」 「問題は、そういう枠に嵌らぬ者たち。歯車には大きすぎ、型も奇抜だから噛み合わないという問題児ども」 「これを制御しようなどと考えては駄目だし、かといって放任しすぎても意味がない」 「重要なのは、方向性を与えることで――」  四たび、船体を傾ぐ大波の衝撃。小山のような異形の手を〈睨〉《ね》め上げて、竜胆は大喝した。 「すなわち、魂を狂奔させる将器の質だ!」 「なあ、〈化外〉《おまえたち》もそれに率いられているのだろう! なんとも皮肉な話だな!」  旗艦を丸ごと押し潰そうと、落ちかかってくる蜘蛛の爪。先ほどから連続する攻勢が示すように、こいつらは間違いなくここを第一目標として狙っている。  一つ一つが狂える〈妖〉《アヤカシ》でありながら、その動きに支離滅裂なものはまったくない。そこで俺も、竜胆が言っていることを理解した。  こいつらは歯車なんて柄じゃなく、俺たち以上にぶっ飛んだばらばらの個だ。しかしにも拘らず、たった一つの思考に狂奔している。穢土の地にすら立たせぬと、無言の想いが伝わってくる。  それはおそらく、〈人界〉《にしがわ》への憎悪と憤激。遥かな過去にこいつら化外を追いやった、俺たちの祖に対する呪詛の念に他ならない。  何百年、何千年、下手すりゃもっと古くからの怨讐を、未だこれだけの純度で保ち続けているのは、つまり―― 「どうやら、そちらの将には大した才があるらしい。敵ながらまずは見事――敬服に値する!」  奴らの将が、〈人間〉《おれたち》を恨み抜いて狂い抜いているという証だった。その理が、穢土の総てを染め上げている。  たとえそれが憎悪にしても、思えばそうした繋がりこそが、竜胆の求める絆なのかもしれないと感じるほどに――  艦隊を取り囲む異形の群れは、魂で結ばれた同志であると言わんばかりの個にして全――まさに完全なる群体だった。 「しかし、こちらもおさおさ引けは取らんぞ!」  落ちる爪を迎撃しようと、反射的に抜きかかった俺を制して竜胆がなお叫ぶ。 「導波を飛ばせ、龍水! 凶月の兄に伝えろ!」 「貴様――大局も見えずに妹を危機に晒すのか、愚か者がァッ!」  瞬間――  波涛を粉砕する大音響と共に、眼前まで迫っていた異形の手が横殴りに弾かれた。  それが誰の攻撃によるものなのかは、もはや疑う余地もない。 「言ってくれるじゃねえか、お姫さんよォ」  刑士郎――敵の殲滅を優先して、ただ闇雲に突っ込んでいたこいつが旗艦を守るために戻ってきた。  いや、正確には咲耶を守るためなんだろうが、結果的には同じことだ。ここに妹がいる限り、あいつは何に替えてもこの艦を死守するだろう。 「断っとくが、あんたに呼ばれなくても〈化外〉《こいつら》の狙いには気付いてたぜ。でなきゃこんな一瞬で、戻ってなんかこれるかよ」 「俺がやろうとしてたところに、偶然あんたの突っ込みが重なっただけだ」 「ああ、そうだろうさ。いちいち分かりきったことを主張するな」  口の減らない馬鹿野郎の言い分を、しかし竜胆は軽く流す。そんなことは問題じゃなく、この状況が生まれたことこそ重要なのだと剛胆にも笑っていた。 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈発〉《 、》〈破〉《 、》〈を〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》。頼りにしているぞ、刑士郎。この艦を守れ」 「まあ、言われなくてもそうするだろうが、気も入るだろう。何せ互いに良いところを見せる好機だからな」 「チッ――」 「竜胆様は、意外に人のお悪い方ですね」  舌打ちと苦笑。だがそれは、二人の凶月が竜胆の指揮を受け入れたという事実を意味する。  妹のほうはもとよりそのつもりだったようだし、このチンピラ兄貴が右に倣うなら問題ない。これで旗艦に限った話、だいぶ戦力は充実したと言えるだろう。 「ですが、他はどうされるのです?龍明様の指示にしろ、限界はありますが」 「恐慌をきたして散を乱すことだけは防げるが、裏を返せばそれだけだ。各艦、砲も積んではいるが、言ったようにそちらへ手を回す余裕はない。何せこの渦中だ」  巨大な手による攻撃は言うまでもなく目下最大の脅威だが、実際に一番の問題は艦隊総てが渦に巻き込まれているという点にある。竜胆は頷いて、二人に続く指示を出した。 「そちらは何とかして、ここから抜ける道を見つけろ。出来るな、咲耶。いいやおまえにしか出来まい」 「この渦、どう見ても尋常ではないが、あの手が〈攪拌〉《かくはん》することでさらに激しさを増している。ならばこそ、攻めで痛打を浴びせれば弱まるだろう。その瞬間を見逃さないでくれ」 「龍明殿も、脱出するための操艦にのみ集中してほしい。アレはこちらで引き受ける。文字通り手など出させん」 「ゆえに、あとは分かるな覇吐」  こちらへ向き直った姫の目を見て、俺は頷く。ああ、言いたいことは分かってるよ。 「龍水、おまえは中継役だ。導波の要になってもらうが、やれるな?」 「はい、やってみせます」  言うと、龍水は小刀を取り出して、髪の一房を断ち切った。それを俺に渡して続ける。 「私の波は母刀自殿ほど強くない。この嵐の中、正確性を保つなら媒介が必要だ。これを持っていけ、覇吐」 「無くすなよ。腕にでも括りつけるか、何なら食え。嬉しかろうが、この助平めが」 「おまえ、俺をどんな変態だと思ってんだよ」  流石に髪の切れっ端に欲情する趣味はないが、まあこいつのやる気は伝わった。女の命を貰ったからには無碍にも出来まい。 「紫織と宗次郎のことは任せとけ。それから――」  頭上を見上げて、こちらを見下ろしている〈刑士郎〉《バカ》に言う。 「てめえ、気合い入れろよ。ここにゃあ俺の姫さんも乗ってんだからな。うっかりなんざ通らねえぞ」 「誰に言ってんだ、クソ阿呆が」 「言われなくても指一本触れさせねえよ。てめえのほうこそ、せいぜい海にでも落ちないようにするんだな」  それこそ、言われるまでもねえ。  本音を言うと旗艦の防備は俺がやりたかったところなんだが、こいつと足並み揃えるなんざゾっとしない。不満もあるが、ここは譲ろう。  大将直属の家来なら、もっと広い目で戦場ってやつを見ないとな。 「じゃあ、行くぜ」 「ああ、暴れてこい。一艦たりとて落とさせるな」 「言うことを聞けよ、覇吐。間違っても暴走などするな」 「ご武運を」 「なに、神楽と同じだ。盛り上げてやれば夜行も絡んでくるだろう」 「おおよ、あの引き篭もり野郎。また引きずり出してやる」  応えて、俺は一気に甲板を蹴り上げた。 「てめえも持っとけッ」  駆け上がった帆柱の上、龍水の髪の一部をすれ違い様に刑士郎へと押し付けた。 「禍憑き使いたくなったら俺を呼べ。また風を曲げてやっからよ」  どれくらいの精度で実現できるか分からないが、こいつが撃って俺が受けて、化外に叩きつけるという変則も可能かもしれない。それは神楽からこっち、何度か考えていたことだった。 「ふん、そんなにくたばりてえなら、お望みのときにやってやるさ」  そして、そこはどうやらこいつも同じで、その戦法を前から考えていたんだろう。俺の提案に驚きもせず、憎らしげに笑っていやがる。 「俺の助けが欲しかったら、せいぜい哀れっぽく泣きついてこいよ」 「抜かしやがれ、タコが」  まあ、そんな博打は出来ればやりたくなんかない。いずれ必要になるかもしれんが、まだまだこんな初戦ごとき、華麗に切り抜けてみせないとよ。  なあ、先が思いやられるってもんじゃねえか―― 「いざ――」  壁のような暴雨風と、行く手を阻む蜘蛛の爪――それら纏めて粉砕するべく、抜いた得物に武気を込める。  これが俺たち西軍にとって、東へ撃ち込む第一番槍。 「踊るぜ開戦だぁぁァァッ!」  穢土の理、何するものぞ――狂奔しているのはこちらも同じだ。  俺の、俺たちの魂を、披露してやるから目に物見やがれ。  天魔外道皆仏性・四魔三障成道来 魔界仏界同如理・一相平等無差別に――  こんなところで負けちまったら、俺の〈人生〉《はなし》はクソ面白くもねえだろうよ。  激奔する化生の嵐に囲まれて、そこはすでに第一級の死線上と化していた。  押し寄せる岩塊、襲い来る波涛、総てを引きずり込もうとする大潮流。絶え間なく迫るそれらの規模は山の如く、弩級の戦艦すら木の葉よりも頼りない。  まして人間一人の力など、あらゆる意味で芥子粒以下でしかないだろう。  だが―― 「――はああああぁぁァァッ」  物理的な相対比として冗談でしかない敵を前に、彼女は真っ向戦っていた。  岩を、波を、暴風を、その拳足で打って打って打ち砕く。激流よりもなお烈しく、怒涛を超えて攻め破る。  怪力乱神そのままに、剛波を揮う女自体がもはや幻想としか思えない。艦隊を囲む異形の群れにも劣らぬほど、紫織の武気は現実離れして極まっていた。  そして、そんな彼女と競うようにもう一人。 「つああァッ――」  宗次郎の剣は怜悧に精緻に、紫織とは対照的な鋭さで迫る諸々を斬割する。その動きは緩やかで、静から動への連結に無駄がまったく存在しない。傍目には止まっているように見えるものの、実情は彼の体捌きを誰も捉えられないだけである。  目まぐるしく流れる戦場はすでに海面へと移行しており、今や二人は水の上すら足場にしていた。  極限の域にある体術が、神業めいた体重移動を連続で成している。僅かな表面張力を逃さずに、大地の上と変わらぬ動きを実現している。  噴き上がる水飛沫はそれ以上の闘気で蒸発し、足元の激流は彼らの〈踝〉《くるぶし》さえ濡らせない。  まさに獅子奮迅。修羅のごとき戦ぶりは、共に無双と言って差し支えないだろう。  ゆえに負けることは有り得ないと、二人は等しく思っていた。そして同時に、これでは埒があかないとも。 「かぁー、うざったいねえ」 「流石に、大きすぎますか」  迫る巨手の指一本すら、大人十人が輪になって囲い込めるかどうかという馬鹿げた太さだ。紫織の拳も宗次郎の剣も、それらを相手に中々致命打までは与えられない。  このまま続けて削り殺すことが出来たとしても、その頃には艦隊そのものが深海に引きずり込まれているだろう。早急にケリを着けなければいけないのは、彼らとて分かっていた。 「ねえ宗次郎。あんたはなんか大技ないの?」 「ないこともないですが、そう何度も撃てません。この状況では……」 「事後が隙だらけになっちゃうか。実は私もそうなんだよね」 「少なくとも、一網打尽に出来ないようでは……」 「駄目ってわけかァッ!」  置き土産とばかりに拳を巨手にぶち込んで、紫織は身を翻した。 「しゃあない、一旦退こう宗次郎」 「止むを得ませんね」  こちらも同様に一撃を加えてから、荒れる海面を蹴り上げると手近な艦に駆け戻る。  甲板に降り立った二人は、周囲の状況を見回してから眉を顰めた。 「よく保ってる……と言いたいけど」 「時間の問題ですね、これは」  龍明の仕切りが良いせいか、各艦の混乱は最小限に抑えられているものの、だからといって余裕などない。屈強な乗組員たちが船上に身体を括り付け、持ち場を死守しようと奮闘してはいるのだが、自分たちがアレをどうにかしない限り全滅必至だ。 「数が多すぎる。僕の手は二十本もありません」 「あっちは十人掛かりだからね。しかも何て言うか、知能もあるでしょ。中々誘いに乗ってこないよ」 「なんだ。じゃあやっぱりあなたも、自分に引き付けようとしたわけですか」 「え? いやだって、そういう役はカッコイイじゃん?」 「まあ、気持ちは分かりますが」  きょとんとしたような紫織の顔に、思わず状況を忘れて宗次郎は苦笑をこぼした。  彼らとて何も考えていなかったわけではない。これ見よがしに派手な大暴れをすることで、敵の注意を引き付けようとしていたのだ。そうやって大半の攻撃が自分たちに集中すれば好都合。そのほうがこの二人にとっては戦いやすい。 「上手くすれば、纏めて斃せるかもしれませんしね。時間の余裕がない以上、そうするのが一番いいと僕も思いましたよ」 「でもあいつら、引っかかんないんだわ。可愛くないよね」 「可愛くても困りますよ」  今このときも、三十余の僚艦が二十の巨手に襲われている。それは固まりすぎず、ばらけすぎず、実に理想的な布陣を組んだうえでの攻勢にさえ見えてきた。  強いて言うなら、旗艦が何割増しかで狙われているのが唯一の偏りみたいだが、知能のある敵ならばそれも当然。あちらはこちらの編成や戦力を把握しているということだろう。  ならば、どうする? 「面倒ですね。こういう戦は好みじゃない。船上というだけで、すでにどうしようもない足枷だ」 「なんかお腹のあたりがむずむずするよね」  極論すれば、紫織と宗次郎は自分の生存しか考えないし、そのために他者を支援するという思考がない。自分が強くなって自分を生かす――そういう個を突き詰めてきた者たちだ。  ゆえに、船がなければ生き残れないという海戦そのものを苦手としている。生命線が他者の手にあり、それを守らなければならない状況が居心地悪く、二人の特性を鈍らせていた。 「どうにかして、もっと単純な話にしたいところですが……」  そのためにはどうすればいい? もしや、もう詰んでいるのか?  そんな思考が二人の間を一瞬流れ、停滞したとき―― 『おまえたちがそんなことで悩む必要はない』  突如頭に届いた声が、まさしく霧を払うように凛と響き渡っていた。 「――っとに、マジ探したぞ。このアホども」  ようやく見つけた二人の前に降り立って、開口一番とりあえず毒づかせてもらった。 「覇吐さん……」 「あんたどしたの? そんな一人でぷりぷりしちゃって」 「うっせえバーカ。人の苦労も知らんで、てめえら」  実を言うとあれ以来、結構雷が苦手なんだよ。この嵐の中を飛び回るのは、少なからず心的外傷を刺激される経験だったというだけだ。 「なんでもかんでも自分らだけで片が付けられるなんて思ってんなよ。つーかおまえら立場兵隊なんだからよ、俺の姫さんシカトしたまま好き勝手やってんじゃねーって話だ。分かったか、このバカ」 「は、はあ……」 「そりゃ、まあ、うん……」 「ちっとは恐縮しろや、この自己中ども」  自分のことは凄まじく棚にあげて、上目線の説教するのは心地いいですね。止められませんね。お陰で溜飲も下がってきたよ。  些か竜胆の太鼓もちみたいなノリになっちまったが別にいいや。もう二・三言言っておこう。 「だいたいおまえらときたらそもそもからして――」 『おまえのくだらん話に時間を割いている余裕はないぞ、覇吐』 『二人と合流したのなら、さっさと自分の役目を果たせ。こんな無駄話にも龍水の導力は削れるのだ。いい加減にしろ』 「……はい」  仰る通りなうえに声音も少し怖かったので、ここは大人しく任務を遂行することにする。 「うわ」 「ダっさ」  距離が近いせいか、こいつらも導波の圏内に入っているらしい。俺と竜胆のやり取りに、呆れ返ったような顔をしてやがる。 「あー、はいはい。ダサいですよー。僕パシリなんでー、これ受け取ってくださーい」 「え、わ――ちょっ」  俺は爽やかな笑みと共に、紫織の襟元から胸に手を突っ込んで龍水の髪の毛をお渡しすると、本能の赴くまま揉みしだいた。 『でかっ』 「うわ、マジでかっ」 「あ、うん。そりゃそれなりにあるほうだけど」 『……おまえ、死にたいのか覇吐』 「あまりふざけていると、殺しますよ覇吐さん」 『最低です、覇吐様』 『もう帰れよ、おまえ』 『はっはっはっは』  なんかもうボロクソに言われちまったが、これは俺なりに場の緊張を和らげようと思ったからで、別に邪念とかそういうのはさあ…… 『嘘をつくな』  導波って、考えてることモロばれだから面倒くさいよね。 『よいよい。その馬鹿さ加減、頼もしいよ。動機はともかく、気が紛れたのは確かだろう』 『烏帽子殿もそうだが、皆あまり気負うな。何事も上手くやるコツは楽しむことだよ。そこは少し覇吐を見習ってみればいい』 『断固それだけはお断りします』 『とりあえず、いつまで揉んでいるんだおまえ』 『感触がこちらにも伝わってきて、わたくしなんだか女として打ちのめされてしまいますから、紫織様もいいようにされていないで拒絶してください』 「いや、あまりに堂々としてるから、逆に感心しちゃってさ」 『うぜえ。腕ごとぶった切っちまえよ、宗次郎』 「そうですね」 「――ておい、待て、おまえ本気だろ」  これ以上やってると洒落にならない予感を覚えて、名残惜しかったが胸の谷間から手を引っこ抜いて後退した。 「それで――」  もはや何事もなかったかのように、襟元を正しつつ宗次郎にも髪を渡している紫織は実に冷静だった。これっぽちも感じちゃいなかったのかと少なからず落胆したが、まあ確かにこれ以上ふざけている場合でもない。 「何か案でも、お姫様? 大将の言うことならとりあえず聞くよ。理に適ってればの話だけどね」 『竜胆でいい。実の伴っていない敬称など要らん』 『要は私の方針に、おまえの魂が震えるか否かの話だよ紫織。宗次郎も聞くがいい』 『見ての通り、まずはこの馬鹿げた手の群れをなんとかしないと始まらん』 『理想は各個撃破だが、攻め手の数で負けているのだから反撃されるのは必至だろう。おまえたちも無事では済まぬし、僚艦にも少なくない犠牲が出る』 『私はここで、誰も死なせるつもりはないのだ』 「そりゃあ、そうだけど……」 「戦ですよ、久雅のご当主。そんな甘い話が通るとでも……」 『竜胆だ。何度も言わせるな、宗次郎。私は冷泉殿と違う』 『彼ならば旗艦一つ、いいや己一人生き残れば勝ちだとでも言うだろう。将としてそれはある意味正しいのかもしれんが、私の考えは違う』 『おまえたちは、狂気に率いられているのだと自覚しろ。ワケの分からん常識などクソ食らえだ』 「おい竜胆、言葉遣い言葉遣い」  俺の口調が多少なりとも写ったのか、姫にあるまじき暴言を聞いて紫織と宗次郎はぽかんとしてる。だけど竜胆はまるで気にせず、鼻で笑いながら言葉を継いだ。 『時間もないのだ。単刀直入に言うぞ』 『紫織、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈全〉《 、》〈員〉《 、》〈纏〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈に〉《 、》〈撃〉《 、》〈て〉《 、》』 「え?」 『おまえなら出来るし、おまえにしか出来ん。そうだろう?』 「い、や……ちょっと待ってよ。姫……じゃなくて、えっと」 「無茶だ。どれだけ個々が離れていると思ってるんですか。せめて最低限、敵を固まらせないと」 「そうだよ。それが出来なくてさっきから困ってるのに」  紫織の歪みは強力だが、等級自体は高くない。つまり可能性を飛ばすと言っても、実現できる異常度には限度があるのだ。  個々が数百間は離れた標的を、しかも同時に二十ときては、流石に処理の限界がくるのだろう。まして、それぞれに渾身の一撃を求められるとなればなおのこと。  俺から見ても無茶としか思えない要求だったが、しかし竜胆は言を曲げない。それどころか、さらに突飛なことを言いだした。 『〈今〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈僚〉《 、》〈艦〉《 、》〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈密〉《 、》〈集〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》』 「へ?」 「はああああ?」 「それは、しかし……」 『何か言うことはあるか?』  正気かよ。この場で絶句している俺たち三人はもとより、他の連中も間違いなくそう思ったろう。  敵が一つ所に集まらないなら、逆にこちらが固まることでそうなるように仕向けてしまう。それは確かに理屈だし、むしろ真っ当な筋道だと言えるのだろうが…… 「竜胆、盤上の遊びじゃないんだぞ」 『当たり前だ。私はおまえたちより怖がりだし、命の何たるかも分かっているつもりだよ』 『伊達や酔狂でこんなことは言わん』  こちらが固まるということは、全滅の危険が跳ね上がるということで、同時に動きも壊滅的に効かなくなるという事実を意味している。  いくら理屈がそうだからといって、実行できるかどうかは別次元の話だ。これは戦で、死がそこにある。零か百かの決断など、普通は出来ない。 「冷泉様とは違う、ですか。本当にその通りですね」 「僕も、そしてあの方も、他人というものを見ていません。生きるにしろ、死ぬにしろ、自分と同列には扱わないんですよ。あなたはまた違った意味で、信じられないくらい傲慢な方だ」 「しかも恐ろしいことに、決め手が他力本願に近い」  自分は死なない。自分は無敵だ。そう信じて突っ走り、その結果が他者を大勢巻き込むことは俺たちにだって有り得るだろう。だが今、宗次郎が言ったように、竜胆の理屈は根本から違う。  〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》、〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈頼〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 「失敗したらどうしようとか、考えねえの?」 『考えているよ。人を馬鹿みたいに言うな』 『私は怖がりだとも言っただろう。自分のちっぽけさは、物心ついたときから自覚している。何せ、散々いじめられて育ったからな』 『私は無力で、そして独りで、大したことは何も出来ない。〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》』 『頼るし、扱き使うし、命を貰う代わりに命を預ける。それが私の王道だ』 『だいたいからして、他に手などないだろうが』 「ぷっ――」  カッコいいのかカッコ悪いのか、そんな自説を正々堂々言い放った竜胆に、紫織が腹を抱えて爆笑した。 「あは、あははは、ははははははは―――」 「面白いなあ、めっちゃ受けるよ。最高だわお姫様」 『竜胆』 「ああ、はいはい。そこは徐々に慣らしていくから勘弁してよ。これから長い付き合いなんだし」 『それはつまり、了承したと受け取っていいんだな?』 「もちろん。大将の言うことには従いますよ。覇吐の気持ちがよく分かったわ、ねえ宗次郎?」 「……ええ、見ていて飽きない人だ。そこだけは間違いない」 「おお、いいだろ。けどやんねえぞ」 『とにかく』 『話が纏まったなら行動に移すぞ。操艦そのものはこちらに任せろ』 『理想は奴らと向かい合う形でよろしいな? そのためにはまず引き離さねばならんから、潮に逆らわず渦の中心近くまで滑り降りるぞ。言うまでもなく背水の陣だが』 『ゆえに機は一度しかない。今から勝負に出る』 『紫織は何としても、奴ら全体を一瞬でも無力化しろ』 「了解。それでその後は?」 『おまえの出番だ、宗次郎。殺すことの鼻は一番効くだろう』 「つまり、こういうことですか」  竜胆の言わんとしていることを皆が察し、宗次郎が確認した。 「紫織さんの一撃で奴らを止める。その瞬間の減圧を見極めて、僕が止めを刺せと」 『そういうことだ』  あれだけ巨大な化け物の群れ、一撃で殺しきれるとは思えない。ゆえに狙うのは絶妙の間を置いた二連撃。  なるほど確かに、その見極めは宗次郎が適任だろう。こいつの嗅覚はそうした瞬間を見逃さない。 『もって脅威を排除する。咲耶は言ったように、脱出路の看破だ。奴らが消えれば、間違いなくこの渦も勢力を弱める』 『心得ております。では兄様は、全艦集まるまでの防備に専念してください』 『言われなくても分かってる。はッ――、面白くなってきたじゃねえか』 『龍水は引き続き導波の維持だ。気張れよ、これは連携が要だぞ』 『はい、絶対に途切れさせません。任せてください』 「よっしゃァッ、やるぞォ」  きっとこの嵐は抜けられる。そう確信すると同時に、ちょっとした疑問も湧いてきたので口にした。 「なあ、それで俺の役目は何なんだよ? まだすげえカッコいいのが残ってんだろ?」  まさに真打ち登場な桧舞台が用意されているに違いない。そこらへん、姫は当然のように俺を遇してくれるはずだと、信じて微塵も疑わなかった。  だというのに―― 『そんなものはない』 「は?」 『おまえの役目は、さっき自分でも言っていただろう。パシリだ。そしてそれはもう終わっている』  ゆえにご苦労。大儀である。などと今この姫さん、ごく当たり前のように言っちゃったよ! 「はあああああああ、なんじゃそりゃああああああ!」 「くっ――」 「駄目、駄目だよ宗次郎、笑っちゃあ。あいつあれで、きっと超期待してたはずだから……」 「英雄爆誕、とか……ぷっ、くく、ふふふふふ……」 『あはははははは、もう戻ってきていいそうだぞ、使いっ走り』 『っ、っっ、~~~~~、っ』 『咲耶、可笑しいんならちゃんと笑っとけ。アホはいくらでも馬鹿にしていいに決まってんだろ』 『そうだな。それが虚けのためでもある』 「冗談じゃねえ、ふざけんじゃねえ! なんだてめえら、俺ナメてんのか、ブッ殺すぞ!」  すっげえやる気なくなったじゃんか。どうしてくれんだよ、この切なさは! 『聞く耳持たん。文句があるなら後にしろ』 『おまえは私の直臣だ。多少扱いが他と違うことくらい受け入れろ』 「まあ、見方を変えれば大事にされているということで、いいじゃないですか」  そんな慰めは余計惨めになるんだが、すでに艦は動き始めている。もうそういう状況なのだから、これ以上うだうだ言っている場合でもないか。 「……分かった。今回はもうそれでいいよ。その代わりおまえら、とちるんじゃねえぞ」 「どいつも、死ぬ気で竜胆の期待に応えやがれ」 「はいはい」 「分かっていますよ」  嵐はなお激しさを増し、佳境へと向かっていく。先の神楽と同様に、これは俺たちにとって大きな意味を持つ始まりの局面なのだろう。  なので口惜しいが私情は封じた。主役は竜胆で、あいつに勝利を与えることが俺の王道なんだからと……  そう信じられる心境が、今は悪くないと思えていた。 「ふーん、なかなか思い切ったことをするですのねえ」  眼下で陣を変えていく艦隊を見下ろしつつ、呆れと感心が入り混じったような声が流れる。 「確かに、もうこうするしかないように思えるけれど、それは予想の範疇ってことじゃないですのかね。そのあたり、丁禮はどう思いますの?」 「さあ。猫を噛める窮鼠は非常に稀だと分かっているけど、君の言うように予想できる抵抗ではあるね。問題は、あちらの頭が猫より回るか」 「犬の頭でも分かることだし」 「夜行様はどう思われますか?」  竜胆たちの行動にいまいち辛い二童子だったが、問われた夜行は珍しく、静かな様子で彼らの意見を否定した。 「烏帽子殿とて、それくらい分かっておるさ。万事そのうえでやっておられる」 「彼女の目も、どうしてなかなか立派だよ。化外の本質を、この短時間で見極められた」 「と、言うと?」 「あれらは狂している」  それは絶対の事実であると言いながら、夜行は今まさに固まりつつある異形の群れを指差した。従者共々足場のない宙に浮遊し、どういう理屈か当たり前のように滞空している。彼の〈禹歩〉《うほ》は、重力さえ無視するのかもしれない。 「つまり、我慢など出来んのだよ。怒り狂っていると言えばいい」 「状況だけ見れば、包囲したまま脱出を封じるだけでこちらは詰む。あえて攻撃など仕掛けずとも、逃がさなければあの渦に呑み込まれるのだ。勝負に応じる必要などない」 「だが、それは出来んようだな。ゆえに烏帽子殿もそこを理解し、真っ向からの殴り合いを演出したというわけだ。奴らは意地に懸けて乗るしかあるまい」 「と言うよりは、そうしたかったからこうさせたと見るべきかな。であれば誘われたのは烏帽子殿だが、そこは望むところであるだろうから……」  言葉を切って薄く笑い、夜行は現状を端的に纏めてみせた。 「双方、見事狙い通り。これは要するにそういうことだ」 「なるほど」 「ならば夜行様、このままぶつかればどちらに利があると思われますか?」 「拮抗――だが」 「だが、なんですの?」 「不確定要素を使えるほうが有利であろうな」  言葉の意味を察した丁禮は宙を仰ぎ、爾子は長々と溜息を吐いた。 「自分で仰いますか、そういうことを」 「夜行様がやる気になると、爾子は後が怖いですのよ」 「そう言うな。私は楽しくて堪らない」  ぎらぎらと、ぎらぎらと、夜摩天を号された男の双眸が輝きだす。その目が何を見ているのかは誰にも分からず、その〈咒〉《な》が何を意味するのかも分からない。  ただ、神号――そうとだけ言われて御門龍明から拝領した〈咒〉《モノ》であり、これを授かったのは今のところ、神州に夜行と咲耶の二人しかいなかった。  それほどまでに逸脱していると言われた男が、愉悦しながら動こうとしている。彼の従僕であるはずの二童子ですら、その結果を畏怖しているかのようだった。 「面白いな、面白い。烏帽子殿は私を数に入れているのかな?来ると信じておられるのかな?」 「何にせよ、ある種の運はお持ちのようだ。結果論でも成り行きでも勝利を手繰り寄せる才がある。それに酔わせてくれる天稟がある」 「ならば、初陣は華々しく決めさせてやるのが筋だろうよ」  言って、夜行は二童子の背を抱くようにしながらそっと押した。いつもの悪辣な笑みとは違う、慈父の面相で厳かに告げる。 「多少、やり易くなるように手伝ってやれ。おまえたちの〈咒〉《しゅ》は解かんが、そのままでもやれるだろう」 「……御意に。ご命令、承りました」 「夜行様は、そういう顔をしてるときが一番おっかないですの」 「では……」  応えて、二人は掻き消えるように眼下の座標へと己を飛ばした。後に残された夜行は一人、緩やかな所作で宙に印を描いていく。 「花か……ならば散るのが定めであろうよ。しょせん、〈現世〉《うつよ》に咲くべきではない徒花だ」 「葬送曲は必要かな、いと儚き者どもよ」  そうして、吊り上った口元から独特の韻律が漏れ始めた。彼にしか出来ない彼だけの〈咒〉《しゅ》が紡ぎ出される。  それに合わせて揺らめく太極。組替えられる森羅の理が軋みながら、夜摩の万象が位相を変えてこの世界に顕れだす。 「総て、〈一時〉《ひととき》の夢ぞかし」  狂い咲く〈愛〉《ハナ》、〈幻〉《カゲ》にすぎぬ。そう断罪するかのように、中天から嵐の乱雲が穴を穿たれ、徐々に広がり始めていた。  そして―― 「ただいま参上ー、ですのー!」 「主の命により、我らが助勢いたします」  空からいきなり駆け下りてきた犬の背に跨って、確か丁禮とかいう名前の坊主が俺たちに告げる。 「我ら二人で、奴らの動きを封じましょう。逃げられぬようにいたしますから、後はどうかご随意に」 「さあ、行くぞ爾子ッ!」 「はいですの!」  瞬間、これまで耳にした事がない規模の大轟音が迸った。 「いやあああああぁぁぁァァァッ――――!」  それはその場の全員、鼓膜が吹っ飛んだかと思うほどの衝撃だった。いきなり信じられない高速で駆け始めた犬の姿は、もはや白い閃光にしか思えない。音の壁をいったい何百倍破っているのか、見当もつかない異様な速さだ。  そして、その軌跡は群がりつつあった化外どもを囲むように周回している。あれだけの速度で回られたら、言うまでもなく脱出不可能。台風の目に密集させられ、そこから一歩も動けなくなるに違いない。 「おいおい……」 「なんという……」  夜行の式神、爾子と丁禮――ふざけた外見とは裏腹に、こいつら呆れ返るほど化け物じみたガキどもだ。  あの主人にして、この従者あり。桁が外れているとしか言いようがなく、そんな奴らが味方であるという事実は、ただ単純に頼もしい。 「黙れッ!」 「うるさいですの!」 「不快な歌だ、聞くに堪えん」 「おまえらなんか知らないし――」 「私たちは私たちでしかないッ!」  悲鳴にも似た異形の歌を、さらなる轟風が引き裂いていく。  切り刻み、ばらばらにし、砕き散らして消えてしまえと言わんばかりに―― 「我らの主は摩多羅夜行だ――他のことは諸々総て、那由他の果てに忘却した〈轍〉《わだち》でしかないッ!」 「それだけ分かっていれば問題ないし――」 「我らは抱きしめてもらえればそれでいいんだッ!」  同時に、高速の暴嵐が消えて視界は晴れた。そこに姿を現したのは、捻り切れる寸前まで一纏めにされた十人分の巨大な手。  花のようだと、その様を見て俺は思った。 「さらばだ。夢はもうよかろう」 「いずれ総ての霧は晴れる。新世界で逢おう」  なぜか悼むように落とされた龍明の独白に重なって…… 「――紫織ッ!」  引き絞られていた二本の矢が、いま放たれる。  気脈を司る経絡を制御し、膨大な気を循環させながら圧縮させ、もはや物質化するほどの闘気が拳に集まる。  跳躍と共に弾けた余剰の生命力は周囲一帯に伝播して、艦隊全員の疲労を瞬時に拭い去るほど、紫織が練り上げた気の総量は夥しいものだった。  甲板から宙に舞い、標的目掛けて振り降ろされる渾身の一撃。  こいつはこいつでとんでもなく、それを同時に二十も放つという絶技を繰り出す。  まともに食らえば、たとえどんな奴でも無事では絶対いられまい。 「おおおおおおおぉぉぉォォッ――――」  噴き上がる生気の圧が爆発し、その残光が翼のごとく見えた瞬間。 「玖錠降神流―――陀羅尼孔雀王ォォォッッ!」  まるで天から落ちた災害であるかのごとく、総計二十発に及ぶ鉄槌が総ての妖花を撃ち抜いていた。  毒を浄化し、七難摧滅を成す破魔孔雀――その名に相応しい過剰なまでの生命圧を纏った拳は、人外の異妖に特効的な痛打を浴びせる。  今それを前に、奴らの抵抗力は間違いなく零となり―――  必殺と化す刹那の空隙を、宗次郎の勘は逃さない。  放たれた斬気は先の神楽で見せた技と同じものだが、威力は数段違っていた。この一点だけを狙い澄まして溜め抜いていた刃風は、一切の減速を見せず波を切り裂き宙を走り、獲物の喉笛に喰らいつく。  行為の残虐性とは裏腹に冴え凍るような静の剣気は、完全に宗次郎独特のものだろう。  殺害行為に毛先ほどの躊躇も見せず、何の嫌悪も愉悦も抱かないまま機械のように殺しきれる異形の感性――たとえ誰でも、こいつほど指を鳴らすような気軽さで殺しに踏み切ることは出来ない。  もはや異能に属する域の殺意は、それだけに猟犬を上回る殺しの嗅覚を持っている。狙い過たず会心の瞬間を捉えた斬気は、そのまま走り抜けて妖花の頭を牡丹のように切り落としていた。 「――よし!」 「手ごたえ有りです」  そう、つまりはこれで―― 「期待に応えましたよ、竜胆さん。間違いなく殺りました」 「針路、東へ――道が開けます!」  俺たちは、ついに境界である淡海を抜けたのだった。  甲板に飛び戻った紫織を乗せて、再び艦隊は走り始める。勢力を一気に弱めた大渦は、すでにもう遥か後方。前方の視界には、霧を開いて徐々に穢土の地が見えかけていた。 「やったぞ!」 「よっしゃあッ」 「ま、本番はこれからなんだろうがよ」  確かに刑士郎の言う通りではあるものの、最初の難関を見事越えたことに変わりはない。今回、俺は解説しかしてないような気がするんだが別にいいさ。気分はそう悪くなかった。  勝利という二文字が頭に思い描かれ、誰もが歓声を上げかける。  しかし―― 「まだです、早くここから抜けてください!」  そのとき、それはやってきた。 「―――――」  背後からの切迫した丁禮の声に皆が振り向き、そしてその全員が愕然とする。 「な、ん……」 「だよ、ありゃあ……」  呆然と、気の抜けたとしか言いようのない声が口から漏れた。それほど、目の前の光景に度肝を抜かれていたからだろう。 「なんて、大きさ……」 「あれが、本体……?」 「……いや、それにしても大きすぎます」  その存在が何なのか、どういう理屈でそこに在るのか、欠片も分からないし分かりたくもない。  ただ、哭くようにひしりあげながら俺たちを追ってくる、度外れた異形の巨体。顔のように見え、血涙を流しているように見えるそれは、他に形容のしようがなく山だった。常軌を逸して巨大すぎ、あれが生物などとは天地が引っくり返っても思えない。  ついさっき、総力を結集してようやく斃した手の群れなど、これに比べれば爪楊枝だ。あらゆる意味で規模と次元が違いすぎる。 「馬鹿が、毎度よろしく逃げていればよいものを……」 「本当に救えぬ愚か者だよ。こんなときだけ格好をつけて、いったいどうするというんだ、貴様は」 「龍明……」  こいつが何を言っているのか分からない。しかしその口振りは、目の前の存在を知っているということなのか。 「……おい、何か知ってんなら教えろよ」 「あれは何です、母刀自殿……」  問いに、返答はたった一言。 「天魔さ」 「〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》とは違うがな。穢土の特別であることに変わりはない」 「ああ、参ったな。しかしこれも宿縁か。どだい避けては通れぬ道であろうし……」  龍明は踵を返し、そのまま天魔に背を向けて呟く。  先と同じく、いや、さらに深い惜別の悼みをもって。 「好きにしろ夜行。あれはおまえにくれてやる」 「その儀、しかと承りました」 「――――――ッ」 「夜行様ッ―――」  見あげた上空、そこには奈落のような笑みを湛えて、浮かぶ黒衣の陰陽師。  いつからそれをやっていたのか、虚空に踊る十指の動きが尾を引く蛍光の軌跡となって、何層にも及ぶ立体の大曼荼羅を織り上げている。  そこに集中する極大の神気は天を震わせ、穴を穿ち、まるで何かを通すための道を開いたかのような……  ともかく、こいつが規格外であることだけは間違いない。 「おまえたち、早々に立ち去れ。巻き込まれても知らんぞ」 「なにッ――」 「分からんか、手加減せんと言っておるのよ」 「―――――ッ」  嘯く夜行は、すでに俺たちを見ていない。奇怪な光を放つ双眸は愉悦に濡れて、愛しむかのように眼下の天魔へと注がれている。 「まさか、あいつあれとやる気?」 「信じられない……あんなもの、いったいどうするというんですか」 「しかし、わたくしたちに手はありませんし……」 「いけすかねえ、いけすかねえぞ龍明ッ!」  怒号する者、困惑する者、反応は様々だったが、このままここにいても成す術がないのは皆一様に分かっていた。 「夜行様、龍水は信じております! 心配などしておりませんッ!」 「ですから――」  健気に叫ぶ許婚の声すらも、天上の男には届かない。ただ遠目に分かる咒力の密度は幾何級的に膨れ上がり、途轍もない何かをやるつもりなのだということだけは俺にも分かった。  その中で、総ての疑問を断ち切るように竜胆が決を下す。 「全艦、全速前進! 至急この海域を脱出する!」 「どいつもこいつも、早くさっさと逃げろですのー!」 「夜行様が咒を使われる、振り返るな――死ぬぞォッ!」  嵐の空に、轟き爆発する天狗笑。煙る渦中を顧みた俺が最後に見たものは―― 「穢土の太極に与する者よ、其の方に問う。私の座に降る気はあるか?」 「あるならば、見逃してやってもよいぞ」  狂奔する天魔の咆哮と、その前に立ち塞がって雅楽を指揮するかのような夜行の姿。 「くくく、くくくく……そうか、ないか。潔きこと、あな麗しや」 「では死ぬるがいい」  丁禮が見るなと言い、見れば死ぬと叫んだ奴の咒法が励起される。 「ここに天地〈位〉《くらい》を定む」 「〈八卦相錯〉《はっけあいまじわ》って〈往〉《おう》を〈推〉《お》し、〈来〉《らい》を知る者は〈神〉《しん》と成る」 「天地陰陽、神に非ずんば知ること無し」 「〈計都〉《けいと》・〈天墜〉《てんつい》――凶に敗れし者、凶の星屑へと還るがいい」  そして中天――夜行の呼びかけに応えるかのごとく、〈宙〉《ソラ》の果てから燃える大火球と化して迫り来る計都彗星の威容を俺は見た。  星墜しの衝撃と爆発すら意中から失せるほど……それは俺にとって、避けられない運命を決定付けられた瞬間だったのかもしれない。  消えていく。消えていく。天魔が星に呑まれていく。  呑まれ喰われて光となり、断末魔すらもはやない。  その残響を背に負ったまま……  結論から言うと、俺たちは無事に脱することが出来ていた。  流れ星が地に落ちるという現象そのものは知っていたが、実際目にするのは言うまでもなく初めてだ。ゆえに通常、それがどれくらいの被害を及ぼすものなのか分からない。  だが主観では、規模の割に驚くほど効果が狭かったと思っている。爆風や熱線、津波や諸々の脅威から、あの状況で艦隊が逃げ切れたのは有り得ないことのように感じるのだ。  あれだけ巨大な怪物を、一撃で滅ぼした星の天墜……なのに、まるで激突面の僅かな範囲にしか効果を与えていないような、そういう不自然さが残っている。  だから結局、皆がそこは曖昧なまま呑みこんだ。夜行の術は常識を著しく外れており、まともに考えてもしょうがない。それは徒労だと思って割り切った。  そして何より――  ついに訪れた穢土の地を見て、誰もが仰天していたからというのが本当のところだった。 「これは……」  呆気に取られた竜胆の声が、皆の気持ちを代弁している。ある意味、淡海で見た怪異の数々よりもその光景は驚愕だった。  人外の鬼が棲む穢土……各々がそこに抱いていた印象は当然あって、俺も乏しい想像力なりにあれこれと予想していた。  しかし、この実情を予見していた奴は絶対に一人もいないと断言できる。  空気が毒を帯びているとか、世界がおどろおどろしく染まっているとか、そういうありきたりな異常じゃない。これはもっと決定的で、単純すぎるゆえに戦慄を覚える〈人界〉《にしがわ》との差異。 「秋、だと……」  季節が、流れる時間の概念そのものが違っていたのだ。それは問答無用で、ここが異界であると認識させるに相応しい落差だった。  今は卯月。桜咲く春であり、そこは絶対間違いない。だというのに、この穢土では山が紅葉に染まっている。  〈実〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈長〉《 、》〈月〉《 、》、〈十〉《 、》〈一〉《 、》〈の〉《 、》〈月〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈一〉《 、》〈年〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈秋〉《 、》〈の〉《 、》〈盛〉《 、》〈り〉《 、》。まるでその季節のまま止まっているかのような情景は、赤い夕映えの色彩めいて…… 「世界の総てが、黄昏のようだ」 「終わらない逢魔ヶ刻……か」  俺たちが臨む東征は、真実これより始まるのだと……誰もが確信していたのだ。 「」 「」  総身を貫く衝撃に、ソレは〈魂切〉《たまき》る絶叫をあげていた。  痛い。痛い。狂おしい。今、世界の一部を喰い破られた。  その損傷は規模という意味で言えば軽微であり、万里を誇る蛇体から鱗一枚剥がれた程度のものにすぎない。  ゆえに痛みは心的なもの。悲痛すぎて哭いているのだ。許せなくて苦しいのだ。  物理的な苦痛など、五体砕かれようとソレは微塵も感じない。  なぜなら、もう遥かな昔に殺されている。奪われ、汚され、蹂躙されて、完膚なきまでに潰されている。  今のソレは、夢に近い。  実体など欠片も残らず粉砕されて、それでも消せない想いが総て。  死の瞬間、その刹那を無間の憤怒に染め上げた〈渇望〉《いのり》がソレを象っている。  だからこそ、消された同胞の哀絶に涙した。喪失の全き追体験を味わって、業火に魂が焼かれているのだ。  他の総ては不鮮明。思考は茫漠とした砂のよう。しかしだけどその呪詛は、決して薄れることがない。  許さない――と、ただそれだけを不変にするため、穢土は外界を拒んでいた。刹那を永遠に固定して、憎悪を〈縁〉《よすが》に留まっている。  彼らは化外、敗残の蜘蛛。本来この世に在るべきではなく、とうにいないはずのモノたちゆえに。  まつろわぬ、〈八束〉《やつか》の〈脛〉《はぎ》から成る軍勢は、侵略者の排除を望んでいるのだ。  消えろ。来るな。進ませない。この地は絶対に渡さない。  主柱の太極に呼応して、他の七柱も憤激している。魂で繋がった同志として、彼らも外の理を許容できない。  もはや在りし日の性はなく、蜘蛛に堕とされた化生の情念。誇りも輝きも失せ果てて、魔性に変じた今となっても亡くした黄昏を愛している。  そう、愛しているのだ。ならばこそ―― 「」 「」  蛇体が蠢く。とぐろを巻いた地獄の中から、神威の殺意が牙を噛み鳴らして鎌首を起こした。  旧世界の英雄たる魂たちが、〈祟神〉《たたりがみ》の鬼相に染まって戦に赴く。  愚かしくも恥知らずな侵略者どもが、救国の御旗などを掲げているのは知っていた。そして同時に、真実のところ彼らに理由など有りはしないということも。  生きることも、死ぬことも、何も懸けず道も知らず、ただ酔いに酔い狂った亡者ども。そのあらゆる意味で浮遊した、軽々しすぎる在り方は、震えがくるほど『奴』の〈赤子〉《せきし》に相応しい。  知るまい。何も分かるまい。そのちっぽけな唯我論に基づく〈自己愛〉《どうき》すら、極大の下種から流れ出たものであることを。  しょせんは『奴』の渇望にすぎぬことを。  おまえたちに大儀はない。  ゆえに許さぬ。死ぬがいい。絶望の味を教えてやる。  大天魔・〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》出陣――この永劫神無月を守るため、穢土の太極が声なき声で憎悪を綴った。  〈滅尽滅相〉《めつじんめっそう》―― 誓うぞ、誰も生かして帰さない。  特別付録・人物等級項目―― 御門龍明、丁禮、爾子、初伝開放。  その後、上陸に相応しい場所は思いのほか容易く見つかった。  湾状に抉れた巨大な入り江は半里ほどの砂浜が続いており、そこに数々の揚陸艇が物資を吐き出していく。  荷揚げされた木材や石材等、膨大な建築用資材はすでに成形が完了しており、それを土木部隊と工兵が無駄のない手順で組み上げていく光景は、中々に壮観だった。  この分なら、今夜中にも堅固な砦が築かれるだろう。東に打ち込む楔として、張り子ではない橋頭堡が完成するに違いない。  つまり、竜胆が思い描いた構想は、これでほぼ実現したことになる。加え、今では淡海の嵐も鳴りをひそめ、後続を気遣う必要もなくなった。おそらく天魔を排した影響で、このことも俺たち第一陣の軍功だろう。  これによって竜胆は、間違いなく将の地位を確固たるものにできるはずだ。後は最初の占領地であるここを守りつつ、本隊の到着を待つのが常道。  もしくは……さらに進軍して、東を切り取っていくべきか。  緊急時の退却拠点としてここの砦が完成すれば、それも充分有りだろう。今現在も続々と上陸を続け、隊列を組んでいく一万の軍勢は士気も万全の状態にある。ゆえにこのまま、次なる拠点を確保しながら進んでいく手も悪くない。  ただ問題は、〈化外〉《あちら》の手がまったく読めず、俺たちをどの程度認識しているのか分からないということだった。何せここは未知の大地で、迂闊な真似は死に直結する。  だから攻めるにしろ守るにしろ、必要なのはまず情報。敵はどのくらいの規模で、何処にいて、どんな奴らか……それを見極めるための斥候は、言うまでもなく少数の精鋭でなくてはならない。  となれば無論、そこは俺たちの出番なわけで。  兵隊なんてガラじゃなく、同時に部隊を率いるような人種でもないのだから、こういうところで働く必要があるだろう。今だってこんな余裕を許されている以上、俺らの役目が他と一線を画しているのは明白と言える。 「だったら、ふふん……気合い入れて活躍しないとな」  海の上ではろくに見せ場もなかったので、これから巻き返さないといけない。  と、岩場に座ったままそんなことを呟いていたら、そこらの雑木林からひょっこり顔を出してきた奴がいた。 「おー、いたいた覇吐。あのさあのさ」 「紫織か、なんだよ?」  こいつ、一人でそこらの探検でもしていたのか。軽い調子で笑いながら、俺のほうにやってくる。 「あっちにアケビが生ってたから取ってきたけど、食べる?」 「アケビって、おまえな……」  差し出された物体と紫織の顔を交互に見つつ、呆れの溜息が漏れてきた。 「……おい、ちっとは警戒しろよ」  〈穢土〉《こっち》の物なんか下手に食ったら、腹がどうなるか分かったもんじゃない。 「いいじゃん。固いこと言わないでさ、ほら」 「て、ちょ――おまっ」  俺が何か言う前に、再度差し出されて断る機を逸してしまった。押し付けられたアケビを手にして、どうしようかと思案する。 「…………」  まあ実際、旨そうではあることだし。 「後々考えりゃあ、今のうちに毒見しといたほうがいいか」 「そうそう。こっちで兵糧調達できるかどうかって、何気にすごい大事じゃない? 補給線がいつも磐石とは限らないわけだしさ」 「そんなわけで、まずは一番頑丈そうなあんた、試してみてよ」 「おまえは食ってねえのかよっ」  いい性格してんな、この野郎。なんか色々言ってやりたかったが、あまりに悪びれてないので毒気も抜かれた。仕方なく、手にしたアケビを食ってみることにする。 「どう?」 「ん……別に。旨いぞ、普通に」 「えええ~~~」 「なんで残念そうなんだよ、おまえ」 「だってさあ、なんかつまんないっていうか……」 「あ、咲耶、いいとこ来た。ちょっとこの水飲んでみて」 「おい待てやコラ!」  紫織が呼びかけた先を視線で追えば、とことこと砂浜を歩いていた着物姿は紛れもなく凶月のお嬢様だ。こいつに怪しげなもん飲ませるとか、意味分かってんのかよこの女は。 「紫織様、なんでございましょう。水……ですか?」 「うん。喉渇かない? ほら、ぐいっと」 「はあ、ではいただきます」 「ああああ~~~」  俺の静止も間に合わず、咲耶は紫織から渡された竹の水筒に口をつけて上品に飲み始めた。 「どう?」 「どう、と言われましても、これといって……普通に美味しゅうございましたが」 「えええ~~~」 「だからなんで残念そうなんだよ、おまえはよ!」  運良く何もなかったから良かったものの、もしかしたら大事になってたかもしんねえんだぞ。咲耶がどういうもんか分かってんのか、この馬鹿は。 「だいたいあれだよ。なんでおまえは一人でふらふら歩いてんだよ」 「別にいいじゃんね。いつも籠の鳥じゃ窮屈でしょ」 「はい。皆様にはご迷惑かと思いますが、わたくしも船旅で少々鬱屈しておりましたから。見つからぬようにこっそりと」 「おお、いいね。意外にお転婆しちゃうんだ。そういうあんた、私は好きだよ」 「俺はこいつを乗せる羽目になった輸送船の奴らに同情するよ」  笑顔で乗せてくださいまし、なんて言われた日には断れまい。下手に拒絶するのも怖かろうし、請け負ったら爆弾の運搬をやることになる。さぞかし生きた心地がしなかったろう。 「遅かれ早かれ誰かがやることになるんだから同じじゃない。あんた、見かけによらず神経細いね」 「立場上ってやつだ、阿呆。ちっとは竜胆の面子も考えてくれよ。他に示しがつかねえだろ」 「あ……」  俺の指摘に、咲耶は決まり悪げな顔で一瞬言葉を詰まらせると、深々頭を下げてきた。 「それにつきましては、誠に申し訳ありません。わたくしの浅慮でございました」 「竜胆様や龍明様のお立場を考えていないわけではないのですが、なにやら衝動に負けてしまって……」 「いや、そんな畏まって謝んなくてもいいけどよ」  言ったようにさっきのは立場上の話であって、俺もこんなことでぶつくさ言ってるガラじゃないんだ。本音のところは紫織と同じで、こういうお転婆も嫌いじゃない。 「来ちまったもんはしゃあねえよ。俺らが傍にいりゃあ問題ないし、〈本陣〉《あっち》にゃ断り入れときゃいいだろう」 「確か、導波がまだ繋がってるよね? なら御門のおチビさんに言っとこうよ。怒られるのは、あの子に任せるっていうことで」 「だな。あいつはそういう役回りだよ」 「なんだか、龍水様に悪いですね」  などと言いながらも、咲耶は楽しげに苦笑している。こいつもこいつで、結構ノリがいいらしい。  その身が尋常じゃない歪みなのは分かっているし、今だってそれを肌で感じちゃいるが、同時に咲耶はただの女だ。気晴らしに付き合ってやるくらいの度量がなくては、男が廃るってもんだろう。  それにそもそも…… 「真面目な話、おまえらとはちゃんと交流持とうと思ってたんだよ。そこらへんが甘かったから、海の上じゃあごたついたし」 「竜胆はちょっと変わった奴だから、お互いピンとこないところもまだあるだろう。そのうえ俺たちまでばらばらだったら、色々話になんねえよ。先が思いやられるどころじゃない」 「あー、そりゃそうかもね。実際今だってこんなだし」 「別に団体行動心がけようってわけじゃないけどな」 「我々は、お互いのことをもう少し知る必要があるということですね。それにつきましては同感です」 「要は足引っ張りあうことがないようにって話でしょう? 好みくらいは把握しとけと」 「そういうこと。竜胆の好みは俺がだいたい分かってるし」 「刑士郎は咲耶かな?」 「紫織様は、宗次郎様ですか?」 「んー、どうだろう。あいつあれで結構手強いよ。今だってさ…」  言いつつ、紫織はしばらく考え込むような顔をしてから、肩を竦めて首を大きく横に振った。 「駄目だ。導波切られてる。筋金入りなんだよね、宗次郎の個人主義は」 「人当たりはいい奴だけど、基本あいつは周りをかぼちゃくらいにしか思ってないよ」 「と言うよりは、自分を人間と思ってないような感じかな」 「それはどういうことでしょう?」 「まあ、話せば長くなるんだけど……そこはあいつの口から直接聞いてよ。私がぺらぺら話すのも気が引けるし、そもそも他人の人物評なんか当てになんないでしょ」 「今は、ともかくこの三人。そっち優先したほうが確実じゃない?ねえ覇吐」 「そりゃあな」  紫織も宗次郎と大差ない人種かと思っていたが、どうやらこいつのほうがいくらかは柔軟らしい。俺と咲耶も含めて、この三人が一番懐っこい面子というわけだ。  実際のとこ、お喋り好きの上位三人みたいなもんだろうけど。 「おまえの兄貴はどうしてる、咲耶」 「龍明様のところへ行っておりますね。解せないことが多々あるとのことで」 「あんたはその隙に抜けてきたと」 「はい。ですから事が露見したら、機嫌を悪くするでしょう。状況的に、矛先は覇吐様へ向きそうですが……」 「面倒くせえなあ。自重はするが、保証はできねえぞ」  つーか俺たち、絶対そのうちまたやらかすよな。宗次郎にしても紫織にしても、神楽の決着はほぼ全員棚上げ状態になってるんだから、仲良し軍団というわけには当然いくまい。俺もそういうノリは気持ち悪いし。 「そんな顔をされないで、兄とは忌憚なく付き合っていただきたいと思います。色々と難しい性格ですが、あれで覇吐様を認めているところもあるのですよ」 「もういっそのことさ、喧嘩するときの法度でもお姫様に決めてもらったほうがいいんじゃない? そっちのほうが健全でしょ」 「我々の第一義は東征の勝利ですが、そのために言いたいことも言えないようでは息が詰まりますものね。咲耶もそれには賛成です」 「じゃあ何か、歪み禁止は当然として……」 「武器なし。素手の殴り合い」 「それだと、紫織様がひどく有利に思うのですが。せめて宗次郎様には木剣くらい持たせるべきかと」 「いや、あいつは何か持たせること自体が危ないと思うんだよね。あー、私的には相撲とかでもいいんだけどな」 「おまえが褌一丁になるなら喜んで受けるよ俺は」  とか、まあ。  そういう諸々含めたうえで、お互いを知りつつはっきりさせておくべきことは多かろう。俺は立ち上がって伸びをすると、咲耶の顔を見て言った。 「ともかく、まずはおまえの気晴らしに付き合うって話だからな。行こうぜ。ぐずぐずしてると過保護な兄貴が飛んでくるぞ」 「そうそう。一足先に、穢土の見物でもしてみようよ。確かあっちに、高台っぽいところがあったからさ」 「それは、是非見てみたくありますね」  俺も紫織も、そして咲耶も、今ははっきり言って機嫌がいい。その原因が何なのかは、たぶん三人とも分かっていた。  人外の地、穢土……悪鬼の世界と聞かされ続けた異境なのに、ここの空気は落ち着くのだ。心なしか、力が湧いてくるような気さえしてくる。  そしてそれは、きっと錯覚なんかじゃない。西では異能の扱いだった俺たちだが、ここにはその源泉がある。ゆえに故郷へ帰ってきたような気になって、平たく言うと安らぐのだ。  咲耶が思わず一人で出歩きたくなったのもそのせいだろう。こいつは禍憑きを制御できないとのことらしいが、あるいはこっちならそれも可能になるかもしれない。  まだどうなるかは分からないけど、変化の兆しを確信できる気配がここにはある。だからいてもたってもいられなくなり、ついついお転婆をしてしまった。  気持ちは分かるし、可愛いじゃねえか。そして何より―― 「俺もさっきから、こっちのことが気になってしょうがねえんだよ」  ここはもうそういうことで、少し身勝手な自由行動を許してほしい。あながち無駄でもないことだし、別にいいだろ?  と、その旨断りを入れた際、龍水はブチ切れていたけれど。 『ちゃんと情報を持ち帰れよ』  当の竜胆がそう言うのだから、何も問題はないだろう。 「あんっっの自分勝手全開突っ走り大虚けどもがあああっ!」  砦の完成を待つまでの間に建てられた簡素な小屋の中で、龍水は憤怒の絶叫を上げていた。 「作業の手伝いも、軍議のことも、何もかも放り出して事もあろうに穢土見物だとおおっ! 物見遊山で東に来おったのか、あやつらは!」  その憤りは至極真っ当かつもっともなものだったが、そういう常識に当て嵌めるべき者たちなのかと言われれば大いに疑問で、彼女の剣幕は空回っていると言うしかない。  地団駄踏みながら騒ぎ立てる様子が何だか妙に可笑しくて、竜胆は思わず噴き出してしまっていた。 「な、なぜ笑うのですか竜胆様。もしや私が間違ってるとでも言うのですかっ?」 「いや、いやいや、そんなことはないよ。落ち着け龍水」 「だが、あやつらに手伝わせることなどないだろう。こういうときはただの役立たずなのだから、遊んでくれているほうがまだ楽でいい」 「そもそも私とて、あれらには斥候を命じるつもりだった。手間が省けたくらいだよ」  今回の軍において、覇吐らの立場は竜胆の個人的な親衛隊や隠密のようなものである。広い意味での用兵に関わる存在ではないのだから、戦略を練る軍議の場にも必要ない。  そういうことは、実際に部隊を率いる将兵や龍明のような者と詰めていく。覇吐らは覇吐らで、彼らだからこそ感じ取れるものを見聞きしてくれればそれでいい。  正直、だいぶ甘いとは思っているが、一定以上の束縛は逆にあの者たちの持ち味を削ぐ。不安要素がないわけではないけれど、竜胆はそのように了解していた。未だ納得いかなげな龍水を宥めつつ、傍らのもう一人に目を向ける。 「おまえはいいのか、刑士郎」 「別に。好きにさせるさ。あんたがいいってんならいいんじゃねえか」 「なんだ、随分と理解があるな。てっきりおまえは飛び出していくと思ったんだが」 「あんた、俺を妹の太鼓持ちだとでも思ってんのか?」  咲耶の行動に怒りだすだろうと思われた刑士郎は、しかし意外にも平静だった。機嫌がいいというわけでもないだろうが、特に何か言うつもりもないらしい。 「咲耶もガキじゃねえし、気持ちが分からんでもない。ま、お供が阿呆二人なのは不安だがな」 「し、しかし、実際に危険だろう。ここでは何が起こるか分からんのだぞ」 「何もねえさ。少なくとも今はな」  先の神楽からまだ苦手意識が残っているのか、些か身構えるような口振りで割って入った龍水に、刑士郎は素っ気なく否定で応えた。 「一定以上に陰が入ってる奴なら気付く。まだ何も寄ってきちゃいねえ」 「咲耶も、それを踏まえたうえでの行動だ。連れの頼りなさは、そこらへんで相殺できるだろ」 「つまり、化外どもはまだ私たちを捉えていないと?」 「たぶん、な。それかもしくは……」 「嵐の前というやつかもな」  刑士郎の後を引き継ぎそう言ったのは、たった今やってきたのは龍明だった。彼女に皆の視線が集中する。 「母刀自殿、それは誠ですか?」 「そちらの指示は、もうよろしいのか龍明殿」 「ああ。〈御門〉《うち》の者らに導波で付近一帯を捜索させた。驚いたことに、四方二里に渡って虫一匹おらん。さらにだ」  言いつつ、龍明は軽い所作で小石ほどの何かを投げ渡した。それを受け取り、刑士郎は眉を顰める。 「柿だと……これがどうした?」 「渋いが食える。というのはともかくとして、この近辺に植物以外の生き物はいないのだよ。加えて厳密に言えば、それも生きていない」 「え?」 「どういうことだよ?」  訝しむ竜胆たちに、龍明は苦笑しながら端的に告げた。 「気が止まっている。意味合い的には氷付けに近い」 「つまりだ、〈穢土〉《こちら》の面妖な状況と何か関係があるのだろう。まるで見えない氷河に覆われているかのようだ」 「表面上は実りの季節だが、さながら死の世界だよ」 「何も生きてはいない……か」  〈穢土〉《ここ》は死国……龍明の言葉に、竜胆はこの地に抱いた最初の印象を思い出す。  黄昏のような秋の世界。西では春だったというのに、どういう理屈か季節感が狂っている。現状、それが危険に直結しているわけではないが、だからといって無視できる異常でもない。 「まず最初に見極めるべきは、そこなのかもしれないな。穢土の法理を解き明かせば事を有利に運べるし、逆に言えば解かない限り何が起こるか分からない」 「単に土地柄、気候が違うということではないでしょうか? 常夏や常冬の国もあるのですから、こちらのよく分からない磁場やら何やらでそんな感じになっているとか」 「龍水、私は気が止まっていると言ったぞ。額面通りに受け止めろ」 「つまり、なにか」  胡散臭そうに手の柿を眇め見ながら、刑士郎が呟いた。 「ここは時間が止まっていると?」 「かもしれん」  穢土のものは生命活動をしていない。凍りついたように止まっている。それが本当にその通りなら、確かにそうだとしか思えなかった。 「しかしだとしたら、どうして私たちはその影響を受けない?」 「異物だから、ということで説明はつかんかな。我々にこの世界が分からんように、この世界にも我々が分からない」 「常識が違う。ゆえに理の縛りも受けない。まあ、分からんがね。もしかしたら、明日の朝には全員そろって止まるかもしれん」 「お、脅かさないでください母刀自殿……」 「だが、その可能性も無いではないか」  だとしたら最悪だ。それは全滅と同義だし、防ぐための対応策も思いつかない。今のところ総てが推測の域を出ない以上、やはり何よりもまずは情報が必須だろう。  腹に冷たい石を呑み込んだような気分になったが、竜胆はかぶりを振って気を切り替えた。ともかく出来ることからやっていくしかない。 「それで、とりあえずこの近辺に危険なものはないということでよいのだな? 先ほど、嵐の前と言っておられたが」 「なに、過去と照らし合わせたうえでの予想だよ。三百年前の東征は、初戦で壊滅的打撃を受けている。そこから推察する限り、蜘蛛は小手調べや出し惜しみなどしないだろう」 「来るなら一気に、怒涛のごとくだ」 「だ、大丈夫でしょうか?」 「そのために斥候が出たのだろう? 期せずしてだが、人選はそう悪くない」 「咲耶の感覚が優秀なのはすでに証明されておるし、覇吐と紫織は隠身に長けている。この男が何だかんだでここに留まっているのも、それを分かっているからだ。なあ刑士郎?」 「どうだかな」  水を向けられた刑士郎は、鬱陶しげに溜息をつくだけで否定も肯定もしなかった。が、じろりと底冷えのする目で龍明を睨むと、詰問するような声で続ける。 「俺がここにいるのは、てめえに用があるからだよ。性分でな、決めたことの順序はきっちり通さねえと具合が悪くなる」 「龍明、おまえは何を知ってる?」 「ほう?」 「何、とは何かな? 質問の意図は明確にしてもらいたい」 「とぼけんなよ、てめえはあれを知ってたんだろう」 「つまり?」  その意味するところが何なのかは、竜胆も分かっていた。実際、彼女にしても気になっていたことである。 「天魔か……」  今はまだ影も見えないとのことらしいが、いつ雪崩れ込んでくるか分からない。そしてそうなったときは、戦わなければならないのだ。  淡海で勝利したとはいうものの、化外の脅威はすでに充分すぎるほど分かっている。中でも天魔という存在は、人知を超えるところがあった。  正直、夜行がいなければ全滅していたかもしれない。そう思うからこそ、龍明が何かを知っているのなら聞く必要があるだろう。  出来れば二人のときに問うつもりだったのだが、こうなっては仕方ない。竜胆も刑士郎に倣って質問した。 「あのときあなたは、あれを旧知であるかのように言っておられた。どういうことか、よければ説明してもらいたい」 「おまえが色々物知りなのは結構だがよ。化け物に知り合いがいるような奴は流石に信用できねえな」 「信用? 信用だと?」 「おまえがそういうことを言うとは、驚きだな刑士郎」 「では逆に訊くが、おまえは分からんのか?」 「なに?」  素朴に、さも不思議そうな様子で問い返され、刑士郎はもちろんのこと、竜胆も龍水も鼻白んだ。 「それはどういう意味ですか、母刀自殿?」 「だから、単純な疑問だよ。凶月刑士郎は神州屈指の歪みなのに、天魔のことが分からんのかと問うている」 「元はあちら、いや今はこちらか。とにかくおまえの中には穢土の成分が混ざっているのだ。ならばあれを知っていてもいいはずだがな」 「喩えるなら先祖返りのような感覚を、体験したことがないのかな」 「……………」  刑士郎は何も言わない。ただ眉間に皺を寄せたまま、龍明を睨んでいる。その態度から、彼がそうした感覚を持っているのか窺い知ることは出来なかった。 「つまり、龍明殿はこう言うわけか? 歪みを持っている者ならば、天魔を既知のものとして捉えられる」 「ですがそうだとしても、母刀自殿は陰気を宿していないのでは?」 「ああ、だから私は別の事情だ。とはいえ似たようなものでもある」 「御門の当主は、代々先達の知恵や研究を継承しているのでな。それには記憶の一部も含まれる」 「〈天〉《 、》〈魔〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈初〉《 、》〈代〉《 、》〈様〉《 、》〈だ〉《 、》。ゆえに厳密に言うと、あのときの私は彼女だよ。そういう混在がたまに起こるし、今後は頻繁になるかもしれん」 「もしも初代様が伝承通り、穢土の離反者だったというのならな」 「…………」  龍明の言い分は確証の取りようがないことだったが、この何かと謎めいた人物に抱いてきた諸々は、そういう事情なのだと思えば合点がいった。  要するに御門龍明は、記憶という面において歴代当主の集合体めいたものなのだろう。それだけ膨大な情報をどう処理しているのか知らないが、たまに混線するというのも頷ける話だ。 「では私も、いずれそれを継ぐことになるのですか?」 「そうだよ、怖いか? 実際のところ、自我が弱いと人格が壊れるという危険性もある」 「まあ今のおまえでは難しかろうが、そう構えることもない。そもそもこれは、いずれ化外を討伐するために続けてきたことだからな」 「今回、事を成せば用済みのものでもあるし、そのとき継ぐかどうかはおまえの意思に任せよう」 「じゃあそうなるように、出し惜しみしねえで記憶ってやつを開陳してほしいんだがな」 「無論、そのつもりだよ。ここから先は夜行を上手く使う必要があるわけだし……そのためには、差し当たって烏帽子殿」  と、話を振られ、竜胆は少しばかり嫌な予感がした。  それは勘だが、自分のこういう予感は大概当たると経験上分かっていたから…… 「まずは皆の理解を深め合うという名目で、今宵は酒席でも設けていただきたいと思うのだが」 「絶対駄目だ」  とりあえず即答でそう返したのは、間違いじゃなかったと確信している。 「酒など、馬鹿な……」  あんなものは不謹慎だし、気が緩むし、いいことなんて何もない。  そう思っているのに…… 「あぁ……ははは……」 「堅っ苦しい」 「こういうところばかりはどうにかならんものかと常々……」  なぜそういう反応をされるのか分からなかったし、分かりたくもなかったから無視してしまうことにした。  戦力として夜行が重要なのは分かっているし、あれにはあれで問うべきところもあるのだが、だからといって酒がなければ絡めないなどという理屈は意味がまったく分からない。  酔えば手早く打ち解けられるとかそんなものは、意思の伝達力に欠陥のある社会不適合者の言い訳だと一片の迷いもなく断言できる。 「ともかく、まずは軍議だ龍明殿。今後の方針を固めるうえで、あなたの知識と意見を参考にしたい」 「問題児どもの処遇についてはその後で。姿が見えん夜行然り、宗次郎は……」 「秀真へ折り返す一団の所へ行っておったよ。おおかた中院に書状でも送るのだろう。あれの立場は言ってみれば、間諜のようなものだから」 「そうか……」  自分が誰の下についているとか、そんなことは歯牙にも掛けない人種だろうが、宗次郎は臣下として最低限の役目を果たしているらしい。  そういうところは立場抜きに好感を持てるし、もしかしたら一番真面目なのは彼なのかもしれないな……と、竜胆は少し複雑な気分になっているのを自覚した。  そしてその点、確かに宗次郎は真面目だった。謹厳実直とさえ言っていい。  基本、他人との関係に価値を見出さない彼にとって、そういうしがらみは速やかに片付けるのが信条だった。面倒な事態になるのが嫌だから、無視や引き伸ばすという選択が逆に億劫なのである。  ゆえに必要最低限、怒りを買うことも重用されることもない〈塩梅〉《あんばい》で、相手の要求に応えてやる。それが一番大過ないと経験上分かっていて、要は宗次郎なりの処世術だ。結局のところ自分自身のためでしかない。  だから今も、淡海での顛末と竜胆に対する感想などを主観で忌憚なく書に〈認〉《したた》め、秀真へ連絡のために帰還する船に預けてきた。もはや嵐は晴れたのだから、それが冷泉のもとに無事届くのは確かだろう。これでひとまず、役目を果たしたことになる。  よって後は、ある程度自由にしていて構わないはず。そう見切りをつけた宗次郎は、砦の建設に忙しなく動き回っている者たちの間を縫って、一人になれる場所を探してみることにした。  先の戦、落ち着いて省みるところは無数にある。彼が望み、目指すところである無謬の剣たる己に成るためならば、何よりも自分自身を常に研ぎ上げていなければならない。  心が波打っていては刃が欠ける。そう弁えて宗次郎は、静謐な空間を求めていたわけなのだが…… 「おや、これはまた奇遇だな」  お誂え向きに思えたその場所には、どうやら先客がいたらしい。 「どうしたのかな、こんな所に一人きりで。もし何かを探しているのなら、及ばずながら手伝ってもよいが」 「夜行様、それは正直嫌味です。分かっておられるくせに、お人が悪い」 「宗次郎はひねた一匹狼なんですのよ。それがカッコいいと思ってる年頃なんだから、そっとしておいてやるのが優しさですの。いつか自分で恥かしさに気付くまで、放っておくべきですの」  夜行、そして爾子と丁禮。思いも寄らない者たちが、我が物顔でこの場所を占拠していた。紅葉を肴に、すでに一杯やっているかのような風情である。 「誰かと思えば、あなた達でしたか……」 「うむ、何なら一緒に飲まんかね。お近づきの印だ」 「断るに骨付き肉十本」 「というか、断ったほうがいいですよ宗次郎殿」  にやつきながら酒盃を差し出してくる夜行に、供の童子たちは好き勝手なことを言っている。  この男が途轍もない業前を誇るのは直に見たし、それについて知りたいことがないでもないが、優先順位としては二の次以下だ。自分は自分なのだから、夜行の真似が出来るわけでもないしするべきでもないだろう。  ならば、彼が成した諸々について訊くこと自体、意味がある行為とも思えない。宗次郎は溜息をついて、首を横に振っていた。 「せっかくですが遠慮しましょう。お酒も嫌いではないですが、どうもあなたは底なしのようだ夜行さん。僕にお付き合いはしかねます」 「とにかく、お楽しみのところ邪魔をしたようで申し訳ない。僕は行かせてもらいますので、後はどうぞご自由に」  と、踵を返した宗次郎を、しかし夜行は呼び止めた。 「ああ、待て待て。そう急くこともあるまい」 「ここは誰のものでもないのだから、遠慮などしなくてもよかろうよ。ご自由にと言うのなら、そちらこそだ宗次郎。我らのことなど、気にしなくてよい」 「そうだな、景色の一つだとでも思って結構。私はもう、そのように認識した」 「……?」  よく分からない理屈に、宗次郎は訝しむ。いったいこの男は、何を言っているのだろう。 「逃がさないと言っているのですよ」 「諦めなさい。諦めなさい。夜行様の自己中具合はほんとに半端ないですの。こうなったら何言っても無駄ですの」 「それは……」  呆れと同情が入り混じったような二童子の言葉に眉を顰める。  要するに、こういうことか? 「あなたは僕を、この場の点景か何かだと思っているということですか? 絵なら動くなと」 「それが趣のあるものならばな。穢土の大地に、剣は映えるよ宗次郎。実に結構な肴だ」 「そちらから見て、私はこの場に無粋かな?」 「そうですね」  別に腹を立てたわけではない。ただ問われたことに率直な感想を述べたまでだ。  この男には、おそらくどんな景色もそぐわないと宗次郎は思っている。 「僕の個人的事情は置きましょう。一人で落ち着ける場所を探していたのに、そこには先客がいて落胆したというのは確かです。だがそれは関係ない」 「夜行さん、あなたは何処にいても浮きますよ。まるで〈世界〉《いろ》と喧嘩をしているかのようだ。ひどく虚ろな気分にさせる」 「正直、あなたが傍にいて居心地が良いと思う者など、天下にいないと思いますがね」  喩えるなら、そこに穴が空いている。絵の例に倣うなら、そんな印象を抱かせる男だ。  飾ることが苦手な宗次郎ならでは、思ったことを率直に告げてみれば、はたして夜行は楽しげに笑っていた。 「言うな。口舌もなかなか切れるようで素晴らしいよ。だが私がそういうものであるのなら、おまえもそういうものではないのかな」 「天下一などを切望するのは、つまるところ誰も要らんということだろう。鎬を削る好敵手も、終いには斬ると決めているのなら」 「であれば、剣とは喜劇だな。真価を問うために他者を求め、だが決して共存できん。矛盾だ、美しいよ歪んでいる。おまえの目指す求道とは、ほら、景色から浮くためのものではないか」 「…………」 「私は穴などと言われているがね。おまえはさしずめ切創だ。絵からしてみれば、どちらも同じものだろう? 色ではない。混じれんのだから」  言いつつ、勝手に酒盃を傾け続ける夜行に返すべき言葉はない。確かに彼の言う通りかもしれないし、違うかもしれない。  だが何にしろ、今は夜行が少々以上に鬱陶しいことだけは間違いなかった。まあ、誰でもそう思うような男ではあるけれど。 「で、僕はまだここから出してもらえないのですか? あなたのことです、どうせ口で足止めしているだけではないんでしょう」 「察しがいいですのね。実は宗次郎が来るずっと前から、遁甲のえげつないやつがそこらに張られているですの」 「行きはよいよい帰りは怖い。そういうことですよ、宗次郎殿」 「皆がここへ興味を持ち、容易に来られる半面で、しかし自由意志では帰れない」 「平たく言えば、嵌められたということですか」 「せめて招待したと言ってくれよ。私なりの説明責任があるのかと思ったものでね」  宗次郎は自分でここを選んだつもりだったのだが、どうやら実情は選ばされたということらしい。人を食ったような扱いだが、もはや憤るのも馬鹿らしくなった。  面倒事は速やかに終わらせるのが宗次郎の信条で、その点彼は実に律儀だ。ゆえにここは夜行の遊びに乗るしかあるまい。ここ最近、そういうしがらみがどんどん増えていくのが困りものではあったけど。 「では夜行様、我々は付近の哨戒に戻ります。何か異変があれば知らせますので、それまでどうかごゆるりと」 「なんだ、付き合いが悪いなおまえたち。どうせなら最後までここにおれよ。仲間との交流は大事だぞ」 「その提案、絶っっ対に嫌がらせ目的で言ってるですのね。ほんと冗談じゃないですの」 「どうかここはお許しを。交流しろと仰るなら、必要なときだけ個別にやりますから」 「では宗次郎殿も、ごゆるりと」 「相手したくないのは分かるけれども、無理矢理逃げたらえらいことになるから諦めたほうがいいですのよ」 「では、じゅわっち」 「意味の分からない掛け声はやめようよ、爾子」  と、二童子は慌しくこの場から駆け去っていく。逃げると言うなら今の彼らこそがまさしくそんな感じだったが、一応あれでも夜行の許しを得たことになるのだろうか。 「あれらはどうも、凶月の二人と相性が悪いらしくてな。嫌がる様が可愛らしいから、つい煽りたくなるのだよ」 「趣味が悪いですね」 「よく言われる。だがまあ、今日くらいは大目に見ようさ。これから先、いくらでも機会はあることだしな」  夜行の言葉の合間合間に、後方からこちらへ近づいてくる声が聞こえる。それで面子を察した宗次郎は、肩をすくめて問いを投げた。 「あなたの許婚はいらっしゃらないようですが?」 「そのようだな。痛恨だ。私の愛は届かんという予兆めいて、これは甚だ気鬱になるよ」 「だったらいっそのこと、そのまま引きこもり続けてくれたほうが皆にとってはいいのかもしれませんがね」  戯れ言にそんな揶揄で返しながら、しかし宗次郎は半ば以上に本気でそう思い始めていた。 「じゃあ、あれか。あのテンプラ天とかオリヒメなんとかいう名前は、龍明がつけてくれたわけ?」 「はい、深い意味までは教えていただけませんでしたが、ただ忘れるなと」 「ふーん。なんで私らにはそういうのくれないんだろうね」 「贔屓だな」  道すがら、俺たちはそんなことを話しながら歩いていた。  夜行と咲耶は何かイカス感じの二つ名みたいなのを名乗っていたから、そういやあれは何なんだよという話になって、どうして俺らにはないんだよという突っ込みが今入っている。  ああいうものを持ってると、名乗りあげるときにババンと見栄が効いて、実にこう燃えるじゃない。紫織もそこは同感なようで、不満に口を尖らせていた。 「なんか悔しいな。その、神号だっけ? 絶対私も貰ってくる」 「俺も俺も」 「あんたどんなのがいい?」 「唯一絶対無敵俺様覇吐様」 「……あぁ、うん。頭悪いのは分かったから、もう喋らなくていいよ。可哀想になる」 「決めるのはあくまで龍明様ですから、こちらの希望は通らないと思いますが……」  とにかく、ちょっとした目標が出来たことに変わりはない。どういう基準で選んでるのか知らないが、俺もそのうち神号とやらを貰うと決めた。ゆえに手柄の一つでもさっさとあげたい。  いい加減しつこいようだが、淡海で見せ場なしだった身としては結構切実な問題だった。 「勇んでおられますのね、覇吐様。ですがわたくし思いますに、竜胆様はきっと危惧しておられるのでしょう。その勇敢さが、いつか仇になるのではと」 「そりゃどういう……」  意味だよ、と言いかけたとき、前方に生い茂っている梢の向こうに切れ目が見えた。その先へ行くと同時に視界が晴れて、眩しいばかりの紅葉が目に焼きつく。 「おぉ……」 「絶景ぇ……」  ここが穢土と呼ばれる鬼の大地であることなど、瞬間的に忘却するほどそれは絵になる眺めだった。俺たちは三人並んで感嘆し、次いで一緒に驚愕する。 「ようこそ。来るのを待っておったよ」 「――え?」 「うおっ」 「てあんた、いつからいたのよ」  唐突に声を掛けられ、驚いている俺たちを横目にしながら夜行が酒を飲んでいた。そして、その傍らには宗次郎。 「僕はほんのついさっき、夜行さんはそのさらに前からいたそうですよ。どうもこの人に誘い込まれたらしいです」 「そういうことだ。気を悪くしたなら謝ろう。これより〈銜〉《くつわ》を並べる同志として、お近づきの印がてら一献いかがかと思ってね」 「まあ、そこの宗次郎には丁重に断られてしまったわけだが」 「へえ……」  それはまた、なんとも気の利いた話だな。俺らの理解を深めるにあたり、こいつが一番意味不明な奴だと思っていたが、まさかそっちから振ってくるとは予想していなかった。 「ふぅん、じゃあ私はありがたく、ご相伴に預かろうかな。咲耶はどうする?」 「……そうですね。どうしましょう。わたくしはあまり、お酒に強くないのですが」 「覇吐様はどうされます?」 「俺はいい」 「へ?」 「それから、おまえらも出来ればここは断ってくれ」 「と、申されますと?」  俺の返答は、たぶん予想外だったのだろう。きょとんとしている咲耶と紫織、そして薄笑っている夜行とのんびり構えてる宗次郎へ代わる代わる目を向けながら、思ったことを口にした。 「酒は好きだし、お近づきの印に一杯どうかって案にも賛成だ。けどそういうのは、全員そろってやんねえか? 夜行、おまえはいま同志と言ったな」 「ああ、言ったが?」 「おまえがどこまで本気なのかは知らねえし、それぞれの事情も感情も分かんねえけど、何が同志だってんなら竜胆を頭に戴いた同志だろう。だったら大将不在のまま、固めの杯なんかは交わせねえよ」 「なぜならあの姫さんは、きっと全員呼べって言うだろうしな」  ゆえにここでは、少々惜しいが酒は飲まない。どういうつもりであれ同志という単語を名目にした以上、そこは守るべきだろうと考えた。  宗次郎が断ったと言うなら好都合。なら俺たちもまだ飲むべきではない。 「やるならこんな、おまえの気紛れみたいなノリじゃなくてよ。ちゃんと段取って頭数そろえて、大将の許しを得たうえでやるのが筋じゃねえか? それでこそお近づきの印ってもんだろう」 「ほぉ……なるほどそういうものなのか」 「僕に振られても分かりませんよ。ただ覇吐さんの言い分にしては、珍しく理があるようにも思えますがね」 「まあ、僕はこの場をすでに辞してるわけですから、あなたが本当にそういう席を持ちたいなら改めるしかないでしょう」 「紫織さんは?」 「ぐっ……でもなあ、それすごい美味しそうなんだけどなあ」 「わたくしは覇吐様に賛成です。正直なところ、これ以上兄様を不機嫌にさせる要素は増やしたくないですし」 「よければ、紫織様も弁えてくださいまし。それで事は丸く収まるわけですから」 「あぁ~、もう、分かったよぉ。あんたが妙に格好つけた言い回しするもんだから、覇吐が対抗して格好つけようとしちゃったじゃない」 「よぉ、飲むか? とか、そんなノリでいいんだよ夜行」 「ふふ、ふふふふ……そうか、それはすまないな。以後気をつけよう」 「おまえの言い分は理解したよ覇吐。だが現実問題として、私はすでに飲んでいるのだがこれは別に構わんよな?」 「そこはもうしゃあないだろ。酔っ払いが一人いるだけだ」  こいつが酔っているのか醒めているのか俺にはさっぱり分からんし、見ているほうが酩酊しそうな男ではある。  だが何にせよ、この陰陽師野郎は東征におけるでかい武器だ。ここで遭ったこと自体を無駄にするつもりはなかったので、俺はその場に腰を下ろして胡座をかいた。 「好きに飲んでろ。これだけ色男と色女が目の前にいるんだ。肴代わりの華には困んねえだろ」 「おまえらも、突っ立ってねえでそこに座れよ。どうせこいつが満足するまで、ここから出しちゃくれねえんだから」 「ですね」 「うん、でもちょっと腹立つなあ。人が飲んでるのを見るだけっていうのは」 「そうですか? わたくしはなんだか楽しくなってきましたよ。このように外で車座になることなど、今まで経験がなかったですし」 「本来なら花見に打ってつけなのだがな。まあ、紅葉も悪くはなかろうよ」 「それで覇吐、私からおまえに問いたいことがあるのだが」 「あん?」  いきなり水を向けられ、訝しむ。逆はともかく、こいつが俺に問いたがるようなことが何かあったか? 「龍水が気にかけておってな。烏帽子殿にも言上したようだが、その顔では聞いておるまい。ゆえに私から質問しよう」 「おまえ、自身の歪みが結果的にどういう事態をもたらすか、そこは考慮しているのか?」 「はあ? なんだそりゃ?」  意味が分からず、問い返す。夜行は鼻で笑ってから、次いで紫織に目を向けた。 「おまえもだ、玖錠の。どうも深く考えていないように思うので、老婆心ながら問わせてもらおう」 「ツケがないとでも思っているのか?」 「ツケ?」 「咲耶、おまえなら分かるだろう。宗次郎は……まだそれ以前の問題らしいが」 「どういう意味です?」  そろって困惑する俺たちの中で、しかし咲耶だけは夜行の言わんとしているところを察したらしい。静かに頷いて、呟いた。 「つまり、返し風のことでございますね。あれは我ら凶月だけに吹くものではないと」 「少なくとも、龍水はそう思っておるな。そして私も、その説を否定はしない」 「そこで、当の本人たちはどう考えているのかと思ってな」  からかうように目を細めて、再度俺たちを見る夜行。こいつが言っていることは、要するにあれか? 「俺らが死ぬかもしれないと?」 「ツケってのは、反動があるって言いたいわけ?」 「たとえば凶月のように?」 「分からんよ。だがおまえたちの生き死にで済むのなら、むしろ安い話であろうな」 「例に挙げた凶月だが、これは相当な不条理だぞ。本を正せば血縁でもない赤の他人の行状が、なぜか己に撥ね返ってくるという無茶ぶりだ。ゆえに望むと望まざると、彼らは寄り集まって家族の形態を取らざるを得ん。互いを守るため、監視するため」 「単体では無敵であろうと、その実彼らに個は許されん。凶月の者に自由などなく、喩えるなら烏帽子殿が好みそうな関係を模倣するよう強制されている集団だ」 「どうだ、捻じ曲がっておるだろう。歪みとは、斯くのごときものではないかな」 「確かに、夜行様の仰る通りでございますね」 「特に私など、一族の枠を超えて何処に風が吹くかも分からない身でありますから……ひたすらに不条理であると弁えております」 「が、どうでございましょう。それが覇吐様たちにも適応される理かどうかは、正直……」 「分からん。ゆえ訊いている。おまえたちに自覚症状はないのかと」 「どうかな? 覇吐、紫織、宗次郎」  改めてそう問われ、俺は返答に詰まってしまった。そんなものはこちらだって分からないと言うしかない。  歪みを使えば反動が来る。何処かしらにツケが溜まり、いずれは何かで帳尻を合わされる――かもしれないということだが…… 「俺自身、今まで数えるほどしか使ったことがないから自覚はねえよ。少なくとも、他人に何かを飛ばしてるとは思わないがな」 「私はたぶん、この中で一番使ってるクチだろうけど何もないね。強いて言うなら、神楽のときみたいに殺されるごと寿命が縮んでるのかもしれないけど」 「でもそれは、全然不条理じゃないよねえ。むしろ利点って言うか、死んでるところを命削られる程度で済むんだったら、代価としては余裕だもん」 「俺が痛いの我慢してるのと、大して変わりゃしないわな。おまえが言っているのはそうことじゃないんだろ、夜行」 「無論だ。それで?」 「僕ですか? 紫織さんには話しましたが、生憎と自分の歪みが分からないんですよ。だから何も答えられませんし、さして興味もありません」 「持っていかれるのが何であろうと僕は僕だ。この場でどうしようが推測の域を出ないことに時間を割くなど無粋ですよ。夜行さんの肴になれず、申し訳ないとは思いますがね」  さらりと言い捨てた宗次郎が一番淡白な反応だったが、実際のところ俺も紫織もそこは似たようなものだった。  仮に凶月みたく他人と一蓮托生なら、俺たちとまったく同じ種類の歪みが複数存在しているはずだろう。  だがそんな話は一切聞かず、もしあるなら龍明が言うはずだ。夜行にしろ龍水にしろ、神州の異能を管理している御門の人間がそこを指摘しない以上、俺たちの同種はいないと見ていい。  だったらもう、要らん世話だと言うしかなかった。 「結局自分がやったことは、自分でケツを持つしかないだろう。何がどうなるかは分かんねえけど、納得できるようにやってくだけさ」 「そうだね。私もそこは同感。後悔しないように生きて、死ねればそれでいい」 「わたくしも、その覚悟がなければこの場に居りはしませんから」 「なるほど、よく分かったよ」  俺たちの答えに頷いて、夜行はまた一人で飲み始める。 「でだ」  それはそれで置くとして、気付いたことがあったから口にした。 「もしかして、さっきおまえが言おうとしてたのはこれかよ咲耶」 「そうですね。わたくしも、いま確信しました。竜胆様は覇吐様を気遣っておられるのでしょう。あの方はそういうお人のようですから」 「そうだとしたら、そりゃ光栄な話だけどな」  龍水に妙なことを吹き込まれたせいで、歪みの行使そのものを快く思っていないのかもしれない。  しかしそういう気遣いは、俺にとって牙をへし折られるようなものだった。正直、なんとも複雑な気分になる。 「ねえちょっと、だったら逆に、使えって命令された私はいったい何なのよ?」 「あの場では、それが最善だったからではないですか? 神楽で竜胆様は仰ったでしょう。命の無駄遣いなど許さない」 「皆様勇ましすぎる方々ですから、使いどころを選ぶのはあまり得意でないご様子。ゆえにそういうことではないのかと」 「僕らに相応しい死に場所を与えると、確かそうも言っておられましたね。ならば覇吐さん、もうそれでいいじゃないですか」 「まさか、竜胆は俺に惚れているから云々と、おめでたいことを考えているわけでも……ありそうですね、あなたの場合」  凄まじく放っておいてもらいたい。俺たちの末路を竜胆がどう捉えているかは気になるが、ここでこれ以上推察しても意味はないと思ったので棚に上げた。  むしろ夜行――俺たちにそんな話題を提供し、あれこれ言い合ってる様を面白がってるこの野郎だよ。 「結局おまえ、一から十まで愉快犯だろ。その場その場で楽しけりゃあ、後はなんでもいいんじゃねえの?」 「心外だな。私はそこまで野放図ではないよ」 「同志だと言っただろう? 私は私なりに、おまえたちとの付き合い方を考えている。先の話題にしたところで、動機は友好的な好奇心だ。別に悪意あってのものではない」 「己の選択は己で負い、それに納得すると言った答えは潔いと思ったよ。あまり穿った見方をせんでほしいな」 「じゃあ俺からも訊くぜ」  肴にされてばかりじゃ癪なので、こっちも一つやり返すことにした。先の話を混ぜ返すってわけじゃないが…… 「おまえにツケってやつはこないのかよ、夜行」  こいつの力は、言いたかないが俺らの中でも飛び抜けている。ならば当然、それに見合う帳尻合わせが発生するべきではないのか。  そう思い、訊いた俺に、夜行は変わらぬ笑みを湛えて返答した。 「もう来ている」  あの不可思議な、第一印象からやけに気になっていた目で俺たち全員を見回しながら、素っ気なくそんなことを。  諧謔の塊みたいな男だとは分かっていたが、思わず引き込まれてしまいそうな、それはある種の真摯さが宿った声だった。 「そのモノと如何にして対峙するかが、摩多羅夜行の命題だよ。ゆえおまえたちには教えられた。衒いなく感服している」 「特に覇吐、おまえは私の〈咒〉《しゅ》を見ただろう? ならばいずれ分かるさ、何もかも」  そう言われても、何のことやらさっぱり俺には分からねえが。 「まあ今は、最初に言っていたことを実現させてくれればいい」 「烏帽子殿も交えたうえで、皆の固めとやらを誓うのならばな。それもある意味、〈咒〉《しゅ》の一種だ」 「私はここで待っている。楽しみにしているよ」  ともかくその要求についてなら、当たり前に実行するつもりなんで言われるまでもなかったけどな。 『斥候――臣・覇吐による報告の纏め。代筆者、凶月咲耶』 『本陣より五里ほど先まで捜索した結果、敵はもとより生物と思しき存在は影も無し。鳥や獣はおろか虫すら見当たらぬ様は不気味なことこの上なく、風光は明媚なれど山水画のごとき非現実感を覚えるものなり』 『御門一門陰陽頭、摩多羅夜行の僕たる爾子・丁禮が申すところ、二十里先まで同様の状況が続くらしく、その先も変化があるとは思えぬとのこと』 『これに当方、軍の糧食を案じ候。柿や〈茸〉《たけ》、栗、その他山菜等はそこらに散見されるものの、これら悉く生の拍動が絶無なり。食すことは可能なれど、栄養素という面において効果があるのか甚だ疑問極まりなし』 『穢土では自給がままならぬ。おそらくここでは、生を育むこと自体が不可能なり。ゆえに敵の城邑を攻め落とし、その備蓄を奪うといった戦の常道が意味を成さぬ恐れあり』 『現状、率直に見る限り、化外が食を必要としておらぬのは間違いなく、飲料水を得られることがせめてもの救いと言うより他なし』 『ゆえ、万が一にも〈輜重〉《しちょう》を失ってしまわぬよう、進むにしろ守るにしろ、ご英断を賜りたく、以下に各種情報を列挙いたす所存なり』 『我ら、御大将の下知に粉骨砕身報いること、固く誓うだけの身でありますれば、これをもって勝利の一助となればこの上ない幸いなり』  と、その後もだらだらと言えば語弊はあるが、ともかく堅苦しい調子の報告書は続くわけで、その主旨は要約するとこういうことだ。 「つまりここは慎重にいくべきだと、それがおまえたちの意見とみていいのだな」 「そ。なんだそのツラ、ガラじゃないとでも言いたいのかよ」 「別にそういうわけではない」  言いながら龍水は肩をすくめて、相変わらずこまっしゃくれた感じに溜息なんかを吐いている。 「龍水様は、ご不満なのでしょうか?」 「だから、そういうわけではないと言っているだろう。私がそんな、不機嫌そうに見えるのか?」 「ええ、まあ……」 「いつも通りっちゃ、いつも通りだが」  年明けからこの春まで、俺はこのチンチクリンと顔を合わす機会が何度かあったので、それくらいの機微は分かるし原因も想像はつく。  そこらへんの突っ込みを入れちまったら、こいつは余計に怒りだすだろうから言わぬが花と弁えちゃいるけど。 「咲耶、そう困惑した顔すんな。別にたいしたこっちゃねえ」 「要はただ、嫉妬してやがんのさ。このガキは」 「え?」 「なッ――」  横から入ってきた馬鹿兄貴の言葉に、咲耶はきょとんとして龍水は絶句する。俺は呆れて宙を仰いだ。 「ああ、もう、てめえはいらんこと言ってんなよ」  爆竹に花火ぶっかけるような真似は遠慮願いたいところだったが、咲耶が解せない顔をしていた以上、これは仕方のない流れだったのかもしれない。なおも刑士郎は、にやつきながら続けていく。 「久雅の大将が、おまえらに甘いのがこいつは面白くねえんだよ。加えて、なんだ。夜行の野郎にも会ってきたって? そりゃ腹立つよなあ、嬢ちゃんよ」 「な、わ、私は別に、そんなこと」 「軍議のほうは、とりあえずここに篭城ってことで決まったらしいぜ。聞いた話じゃ、進軍するべきだっつー意見も結構あったらしいがよ。大将は反対してた。そこにおまえらの報告だ」 「つまり、好き勝手やってるだけにしか見えねえ馬鹿連中が、結果だけ見りゃ上手いこと援護をした形ってわけだ」 「まるで愛しの竜胆様と、お心が通じ合ってるみたいによ。察してやれや」 「その間、こいつは特に何がやれたってわけでもねえんだからよ」 「き、貴様が言うなぁァ――!」 「え、偉そうに、なんだ貴様、このチンピラがっ! それを言うならそっちのほうこそ、何もしてなかっただろうが。妹の手綱も握れん分際で」 「余裕ぶるな、大物ぶるな。おまえが今さらどんなに格好つけたところで、しょせんは女の尻に敷かれている軟弱者だと天下に知れ渡っておるのだ、この阿呆めが!」 「あー、あー、あー」  予想通りだよ。始まっちゃったよ。すげえ面倒だよ。帰っていいかな、俺。 「なんだてめえ、ずいぶん威勢がいいじゃねえか。ここにゃあ今、〈龍明〉《ほごしゃ》がいねえってことを分かって口利いてんのか、おい」 「喧嘩なら買ってやるがよ。その気があんのか、てめえによ」 「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬ~~」 「兄様」 「大人気ない真似はやめてくださいまし。話が一向に進みません」 「龍水様、どうか非礼をお許しください。分かりにくかろうとは思いますが、兄はこれで喜んでいるのです。もちろん、このわたくしも」 「〈凶月〉《われわれ》に、そのような態度で接してくださる方は、そうおられませんから」 「あ、う……うむ」 「別に俺は喜んでなんかいねえがよ」 「これ、このように、まったく素直ではないのです。どうか愛嬌と思って、ご寛恕を」 「チッ……」  こいつ、ほんとに尻に敷かれてんな。  と思ったが、それを口にしたらまた一悶着起こりそうだったんで黙っていた。どうもこういうときは、全部咲耶に任せたほうが手早く収まりそうな気がする。 「まあ、その、私は別に、おまえたちのような者に対してこれといった偏見はない。……いや、あったのだが、少し考えを改めた」 「もう知らぬ仲でもないし、ゆくゆくは御門を継ぐ者として、それ相応の器でなければならんのだ。母刀自殿や夜行様に、恥をかかせるわけにはいかない」 「それに咲耶、おまえはたぶん良い奴だ。正直言うと、まだ怖いのだが……それは私の未熟ゆえのことだと思って、慣れぬうちは大目に見てくれると助かる」 「おまえとなら、友人になるのも悪くないと……本気で思っているのだ、私は」 「はい。わたくしも同感です。どうやら龍水様は兄様と同じく、少々困った可愛らしいご気性のようですから」 「一緒にするな! あと言っておくがな、私はおまえの兄とそこの阿呆が大嫌いだっ」 「なんで俺まで……」  こっちはずっと黙ってたのに、連座で一緒くたの扱いかよ。理不尽すぎて泣けてくるぞ。 「なに見てやがる」 「相手してねえよ。絡んでくんな」  しかもこの馬鹿兄貴、何だかんだでやっぱり俺にムカついてやがる。無断で咲耶を連れてったことが、本音じゃ気に入らないんだろう。  兄様と龍水様は、共に困ったご気性ね。なるほど、確かにそんな感じだわ。全然可愛いとは思わねえけど。 「まあともかく、当座は〈砦〉《ここ》を守るという方針になったのでしたら、我々は何をしていればよいのでしょうね」 「地図だよ、地図。実質、それがなきゃ始まんねえだろ」 「そういうことだ」 「ああ……」  と、咲耶も得心したようだった。文字通りの箱入りだから軍事どころか諸事全般に疎かろうこいつでも、それくらいは分かったらしい。 「そもそも、我々は穢土の地理をまったく知らぬ。すでにもうそこからして、今はこうするより他にない」 「そりゃそうだ」  俺たちも可能な限り辺りの地形を見て回って、それを報告に加えもしたが、万単位の軍を動かすにあたって要求される精度のものでは無論ない。まさしく鬼が出るこの地において、そんなものを頼りに進むのは自殺行為でしかないだろう。 「まあ、まったく無理ってわけでもないだろうがな。事実今だって、式を鳥に変えて飛ばしてんだろう?」 「地図を作るためにな」 「とはいえそれでも、限界はある。基本として術者から離れすぎては駄目だし、使役に必要な咒力もそのぶん増すのだ。周辺の地理を把握するだけでも、万全を期すならやはり数日は掛かってしまう」 「俯瞰の視点と連動しつつ軍を進めるという手もないではないし、進軍を主張する者らはそうするつもりだったようだが、母刀自殿が撥ね退けたよ。何せその場合、式が襲われたらどうしようもないからな」 「〈穢土〉《ここ》が現地徴発の出来ぬ地だというならなおのこと。石橋を叩いて悪いことなどない」 「徴発できぬのは、兵糧だけではありませんものね。生の営みが見えぬのならば、地図を持った何者かがいるという可能性すら怪しいと」 「うむ、まあそういうことだ。先ほど、秀真に折り返す一団にも軍議の結果は伝えたはずだし。もはや嵐は晴れたのだから、本隊の到着まではおそらく四・五日」 「最初から全軍揃わせるわけでもなかろうが、やって来る者らに格好はつけておかねばならないだろう。だからその間、我々のやるべきことは大きく二つ」 「守りを固めて、地理把握して、戦略の自由度を広げることだろ? 後から来る奴らに舐められねえように」 「そうだ。武功という意味ではすでに充分な戦果をあげているが、それは極論、運と勢いさえあれば馬鹿でも出来る」 「むしろこういう、一見して地味なことをこなせるかどうかのほうが重要だ。曰く、名将とは兵をいたずらに死なせない者であるそうだから」 「主導権は、常に竜胆様が握らなければならない。特に中院、あの男の風下には、絶対立ってはいけないのだ。分かるだろう?」  と、気炎を吐く龍水だったが、それに対する反応と言えば…… 「わたくしには、そういうことの細かい機微までは分かりませんが」 「同感だな。ていうより興味ねえよ。中院だのなんだのと、別に知ったこっちゃねえ」 「むぅ……」  いまいち以上に反応が悪い二人を前に、眉根を寄せて唸る龍水。 だがそれは、やがて諦めの溜息に変わった。 「……まあ、おまえたちはそれでいい。竜胆様の指揮に従ってくれるなら」 「覇吐、おまえはどうなのだ?」 「俺か? 正直なとこ、半々だな」  竜胆の意向には沿うつもりだが、中院に関しては微妙なところだ。  無論、あいつが竜胆を脅かすなら許さねえし、嫁にくれてやるつもりもない。てめえが権力を握るために、久雅の家を取り込む政略結婚なんてのは、ふざけんなっつー話だ。  そこらへんの政治事情は、この三ヶ月あまりで俺も一応は把握している。  が、しかしだ。 「あいつ、実はマジっ気もあるんじゃねえかと思ってよ」 「あん?」 「それはどういうことでしょう?」 「だから、あれはあれで、ちゃんと竜胆に惚れてんのかもしれねえなって」 「そう思うのか?」 「いや、分かんねえけどよ」  仮にそうなら、俺とあいつは恋敵で、仲間なわけだ。同じ女に参っちまった者同士、ある種の親近感がないわけでもない。 「ガキじゃねえんだ。つまんねえ独占欲でぶん殴るより、一緒に酒でも飲むほうが面白そうだなってよ……思わんこともない」 「まあ、根拠のねえ希望的観測だが」 「…………」 「殿方は、稀にそのようなことを思う場合があるようですね。兄様はどうなのでしょう?」 「知るか」 「こいつは無理だろ」  仮に俺が咲耶にちょっかいなんぞかけた日にゃあ、本気でキレそうだ、この野郎。  俺はそういうノリを好まない性分だが、他の奴らの考えにまでとやかく言うつもりもない。  単に俺個人として、あの竜胆に真剣な気持ちで惚れた男がいるというなら、それは邪魔くさいのと同時に、誇って喜ぶべきことじゃないのかと思うのだ。  何せあの姫様は、だいぶ変な目で見られながら育ったようだし。 「ごちゃごちゃ難しいことは分からんけど、惚れた女がモテるってのはそう悪いもんでもねえだろうよ」 「……そうか」  いまいち納得のいかなげな様子だったが、渋々といった風に龍水は頷いた。 「まあその、おまえの言いたいことは分かった。いや、正直に言うと分からんのだが、とにかく下種で不埒で破廉恥なことを考えているわけではないのは分かった。珍しいことだし、そこは認めてやる」 「……おまえな、もっと言い方ってもんねえのかよ」 「まるで俺が、年がら年中下半身的なことしか考えてないみたいじゃねえか」 「だってそうだろう」 「残念ながら」 「むしろなんで反論できるつもりでいるかが謎だ」 「とにかく」 「〈本陣〉《こっち》の方針は分かったろ。次はそっちだ、咲耶」 「中院のことなんざどうでもいいが、他の奴らは何してる?おまえら、一緒にいたんだろうが」 「はい。それは確かに」 「宗次郎様は、偶然ですがわたくしどもと合流しておりました。あの方は中院のご当主様と繋がりがありますので、先も仰っておられた秀真への連絡船に立ち寄った後、運悪くと言いますか、夜行様に捕まったようです」 「宗次郎が中院に? あやつ、いったい何を報告したのだ?」 「それは存じませんけれど……もしや龍水様は、宗次郎様を獅子身中の虫であるとお考えなのですか?」 「……別にそういうわけではない。奴のことなら多少なりとも分かっているし、あれは走狗が務まるような男ではないだろう」 「そして、だからこそ気を許していないというだけだ。奴は何と言うか、ある日いきなり、その場の気紛れでこちらの首を刎ねにきかねんような男だぞ」 「中院がどうこうではなく、あいつ個人が危ないのだ。というか、率直に苦手だ」 「まあ、そんな直截な」  一度殺されかかった身として至極ごもっともなことを言う龍水に、咲耶は柔らかな微笑で応じていた。 「お気持ちは分かりますが、宗次郎様はご自分に素直すぎるお方のようですし、気持ちの真っ直ぐな良い殿御であるとわたくしは思いますよ。ねえ兄様?」 「なんで俺に振るんだよ」  舌打ちする刑士郎。龍水は龍水で、拗ねたように膨れていた。  まあそりゃ確かに、しょうがねえわな。あの人斬り馬鹿にゃあ、俺でも最初は引いたもんよ。 「でだ、質問の答えがまだねえぞ咲耶。他の奴ら何やってる?」 「ああ、それは……」  宗次郎に、紫織に、夜行。期せずして偵察――と言っていいのか分からんような有り様だったが、とにかくそれに絡んだ五人の中で、この場に戻ってきたのは俺と咲耶の二人だけだ。そこを刑士郎が訝っている。  なんかこいつ、いらんところで勘がいいな。普段なら、おそらくそんなの気にもしない奴なんだろうに。 「おまえよ、周りの連中が気になるような性分なのか?」 「あァ、くだらねえこと混ぜ返すんじゃねえよ。てめえは黙ってろ、ボケ」 「あン、なんだって?」 「だコラ、やんのか?」 「わ、わ、ちょちょちょ、待たんかおまえら」 「お二人とも、今は喧嘩などやめてください。分かっておられるでしょう、覇吐様」 「む……」  いや、そうだが、この野郎がいちいち可愛くねえもんだからよ。  なんかもう面倒になって、がしがし頭を掻きながら俺はぼやいた。 「なあ咲耶、『あの件』に関しちゃあ、もう俺が一人で片付けるってことでいいじゃねえかよ」 「駄目です。わたくしはそういうことについて覇吐様をまったく信用しておりません。これを許しては、女としての沽券に関わります」 「宗次郎様はこのようなことに付き合ってくれる方ではありませんし、紫織様には別の用事がお有りでしょう。龍水様では、いざというときに不安が残りますし、夜行様は論外です」 「なので、適任は兄様しかおりません。ここを譲るつもりはありませんので、どうか覇吐様も、お聞き分けください」 「……? 何を言っているんだ、おまえたち」 「おい、咲耶……」  俺たちの会話に不穏なものを感じたのだろう。二人が目を眇めながらこっちを見ている。 「おまえ、なに考えてんだ。どうもさっきから、この野郎と一緒に含みがあるような態度が気に入らねえ」 「まさか咲耶、俺を妙なことにでも巻き込もうと思ってんじゃねえだろうな? 言っとくが、ごめんだぞ」 「いったいどうしたというのだ? 何かあるのか?」 「ええ、それはもう」  あからさまに警戒してる兄貴と、きょとんとしている龍水を見て、咲耶は可笑しそうに肩を震わす。  そんで俺はというと、正直結構困っていた。  こんなもん、一人で充分だっつーのに、女ってやつは…… 「兄様、これは咲耶にとって、とても真摯なお願いです」 「どうか今から、覇吐様と一緒に竜胆様を攫ってきていただけませんか?」 「なッ――」 「はあ?」  堅物の竜胆を酒席まで引っ張り出す――その状況を作るなら、まずは力ずくで行くのが一番手っ取り早いという話になったのだ。まあ、発案者は俺だけど。 「知るか馬鹿、冗談じゃねえぞ。何で俺が」 「ちょ、ちょ、ちょっと待て。一から詳しく説明しろ」 「はい、それはですね」  何の因果か、だったら兄様も連れて行けと言って咲耶が聞かない。  にこにこしながら事情を説明している様を横目にしながら、しみじみ思う。 「勘弁してくれよ……」 「俺の夜這いでどっきりヌキヌキポン作戦が……」  もういっそのこと、今のうちに一人で行っちまうべきなんじゃねえのかと、俺はかなり真剣に悩んでいた。 「……なんでこうなる?」  そりゃあこっちが一番言いたいことなんだよと、怒鳴りたい気持ちは山々だったが、もはや敵陣に侵入してるんで大騒ぎは出来ない。俺は深く盛大に溜息を吐いて、首だけ後ろの馬鹿に振り返った。 「全部、残らず、一切合切、てめえが悪い。男ならすぱっと断れ。兄貴の威厳、ねえのかよ」 「あァ、うるせえよ馬鹿野郎。それを言うならてめえだって、最初から一人で行っちまえばよかったろうが」 「咲耶は言い出したら聞かねえんだよ。一度あいつから、延々くどくど言われ続ける経験してみやがれ。何処の誰だろうと、あれから逃げられるなら頷いちまうわ」 「だいたい、てめえに信用ねえのが悪いんだろうが」 「つーより、おまえの妹が潔癖すぎるだけなんだよ」  竜胆を攫おう。じゃあ俺が行く。いいえ駄目です、覇吐様はきっとそれだけで終わらせるつもりなどありません。うん、まったくその通り。ならばお目付け役を用意します。以上、終了。実に簡単な流れがそこにあった。 『それにそもそも、皆の固めを行いたいと仰られたのは覇吐様でしょう。ならば兄様とも、打ち解けてもらわねばなりません。傍から見まして、一番ぎくしゃくしておりますよ』 『ですからわたくし、妹として友情の掛け橋になりたく思います。聞いた話によりますと、殿方とはこのような冒険を共に越えることで、絆を育むそうですし』 『まさか、嫌とは仰いませんよね? 竜胆様が求める、魂の繋がりを体現すると誓った覇吐様なら』 『咲耶は信じておりますからね』  なんてな、痛いところ突かれたんでしょうがない。一緒に夜這い、もとい人攫いに行くなんて凄ぇ嫌な絆だが、ここまで来たらもう諦めよう。賽は投げられちまったわけだし。  龍水は大反対するだろうと思ったのだが、意外にも条件付きで同意してくれた。どうやらあいつにとって、『夜行様のお望み』というのは最優先される要素らしい。 「ほら、行くぞ」  そんなわけで夜陰に乗じ、砦の最奥にある幕舎――と言うより簡易建築された木造家屋の前まで俺たちはやって来た。  無骨で質素な造りだが、これはこれで結構でかいし、田舎のちょっとした地主の家くらいはあるだろう。竜胆はこの中にいる。  戦地にある身として当然の警戒から、見張りも相当つけてるようだ。物陰からそれを観察してみた限り、これを突破するのは中々に骨かもしれない。 「参ったな。のしちまえれば楽なんだが」 「やりゃあいいじゃねえかよ。殺さなきゃ別にいいだろ」 「阿呆、そんなわけにもいかねえだろ。〈見張り番〉《あいつら》なんも悪くねえし、下手に怪我でもさせたら竜胆が怒り狂うわ」 「そんなもんかねえ」 「そんなもんだよ。おまえもちっとは平和主義になれっての。なんでも腕っぷしで通る世の中じゃねえんだからさ」 「ふん、別にそんなの俺にゃあどうでもいいが」  投げやり気味に吐き捨てて、刑士郎は俺のほうを睨んでくる。その目は胡乱げながらも苛立たしげで、現状に対する不満がありありと見て取れた。 「おい覇吐、この際だから言っとくぞ」  まあ、こいつが続けて何を言うかは、だいたい想像ついてたけど。 「俺はてめえが気に入らねえ」 「咲耶がなに考えてんのか知らねえが、俺とお友達になったなんて思ってんなら調子乗んな。固めがどうのと、こっちはそんなもんに興味なんぞ欠片もねえんだ」 「…………」 「なんだ、なんとか言ってみろよ」 「……ああ、俺もおまえと仲良くしようなんて思っちゃいねえよ」  人間、相性っていうもんがあるわけで、俺とこいつはどうもそこらへんが最悪だ。そういう奴とは、そういう関係なりの付き合いってのがあるだろう。 「けどま、今回のこれに限って言やあ俺が言い出したことだからよ。おまえ巻き込んじまったことに対する負い目があるわな。だから借りってことにしといてくれ」 「今度は何か、おまえの都合で振り回されることになっても呑みこんでやる。それでいいだろ」 「…………」 「不満か? 男同士、こういうところは公平にいこうぜ。後で喧嘩の相手しろっつーんでも、しっかり受けてやるからよ」 「……ふん」 「面白ぇ、じゃあそれにしようか。逃げるんじゃねえぞ」 「誰に言ってんだ、バーカ」  お互い失笑して、鼻を鳴らす。  面倒と言えば面倒だし、望むところと言えば望むところ。今後、嫌でも面突き合せないといけない相手に対する、これが現実的な処方だった。 『あー、もしもし。聴こえるか? どうぞ』   ――と、不意にそこへ割って入ってきたのは、龍水の〈導波〉《こえ》。 『む、駄目か、通じてないのか? おーい、覇吐ー。馬鹿スケベー』 「この野郎……」  なんで俺の代名詞が馬鹿スケベなんだよ。せめて愛欲戦士と言いやがれ。 「なんか用か、クソチンチクリン」 『ち、ち、チンチクリンだとおおおお―――!』 「あー、はいはい。もういい加減、お腹いっぱいだからそれ」  ぎゃーぎゃー喚いてるお約束を華麗に右から左へ流しつつ、極めて事務的に俺は続けた。 「こっちの状況なら、今から侵入試みるところだ。見張りが結構多いから、ちょっと手間取りそうな感じだけどな」 「ああ、それから心配すんな。誓って荒っぽいことはやらねえよ」 『ぐっ――、そうか。ならよいのだ。てっきり私は、おまえたちのことだから……』  キレて大暴れでもしかねないと思っていたのだろう。導波越しだが、あからさまに安堵している龍水の気配が伝わってきた。 『私は正直、このようなことは反対なのだが、夜行様も望んでおられるとなれば是非もない。片棒を担ぐ以上は協力してやる。ありがたく思うがいい』 「へいへい……」  こいつが付けた条件とは要するにこういうことで、つまるところ誘導役というお目付け役その二だ。 『たーだーし、竜胆様に絶対危害など加えるなよ。分かっておるだろうな、二人とも』 「だから言われるまでもねえってば。おまえ、俺をタチの悪い痴漢とでも思ってんじゃねえだろうな」 『違うのか?』 「てめえのノリは常に変質者丸出しじゃねえか」 「あー、ったく、これだからよぉ」  さっきもそうだが、こいつらまったく分かっちゃいない。しょうがないので、いっちょ講義してやることにした。 「いいか、龍水。刑士郎。まだガキで無粋なおまえらにゃ分かんねえだろうが、夜這いってのは崇高かつ高貴な大人の遊戯で、そこには厳然とした理念と規則と、そして駆け引きが存在すんだよ」 「忍び込む家を壊しちゃいけません。家人に見つかってもいけません。素早く優雅に美しく寝室まで馳せ参じ、姿勢を正して全裸正座で、姫が起きるのを待つんだよ。そして厳かに告げるんだよ」 「今宵、あなたを抱くために、我は千の山を越えて参りました。いざ尋常に、夜の立ち合いを所望いたす」 「この閨という一つの宇宙で、あなたという海に溺れてみたい」 「…………」 『…………』 「やっべえ……この決め台詞、超かっけえ」 『そうか、分かった。相変わらず頭おかしいな、おまえ』 『私が目を覚ましたとき、枕もとでそんなことを抜かす全裸男がいたら間違いなくブチ殺している』 「おい、そんなことより、咲耶はいま何してる?」 『ん、ああそれならば、玖錠の手伝いに行ったようだ。まあ、少々不安だが、それなりに期待できるのではないのかな』 「玖錠の? 手伝い? なんだそりゃ?」 『内緒だ。せいぜい楽しみにしておけよ』 『正直、私も驚いたというか、かなり意外性のある事実が判明してだな――』 「聞けよ、てめえら。キレイさっぱり俺は無視かよっ!」 「あ……」 『ば、馬鹿者、この大虚け――』 「クソが、めんどくせえ」  つい立ち上がって大声出しちまったものだから、見事に不審者丸出しで見つかっちまった。そこら中で警笛が鳴り響き、いくつも松明が近づいてくる。 『に、に、逃げろ。こんなの見つかったら洒落にならんぞ。下手をしたら第一級の謀反罪だっ』 「ああもう、ちっくしょおおお!」  まさか撃退するわけにもいかないし、とにもかくにもここは一旦退くしかねえ。 「最悪だ、てめえ。もう一人で捕まっちまえよ」  逃げる際にそんなことを言われたが、断固拒否させてもらいたい。  だって俺は、まだこれっぽっちも諦めてなんかなかったからな。  そんなこんなで。 「何はともあれ、結果良しだ」  一時は蜂の巣をつついたような騒ぎになったものの、それに乗じて見事屋内に潜入成功。期せずして得たこの幸運を、利用しない手はないだろうと考える。  再び静寂が戻ってきたのを確認し、張り付いていた天井から床に降りた。 「おっしゃ、おまえもう帰っていいぞ」 「はあ?」 「だーかーら、何を馬鹿正直にやってんだよ。おまえだって、いつまでも俺にくっついてんのは不本意だろうが」 「ここまで付き合えば、最低限のかっこはつけただろ。咲耶のやつには、途中ではぐれたとか適当に言っとけ。どうせ確かめる方法なんかねえんだし」 「おまえはあいつの勘の鋭さ分かってねえな。そんな誤魔化し、通じねえよ」 「そりゃおまえが堂々と主張しねえから見破られんだろ」 「そうかもしんねえが、なんにしろ無理だ」  俺の突っ込みに怒りだすかと思ったが、意外にも刑士郎は諦観気味に肩をすくめるだけだった。 「それにだ、ここまで来たらっつーんなら、むしろ途中でケツまくるほうが気持ち悪ぃわ。帰らねえぞ、俺は」 「はあ、なんだおまえ、もしかして真面目なのか? その顔で?」 「顔は関係ねえだろう。性分の話だ」 「きっかけがなんだろうが、やると決めたもんはやり通す主義なんだよ。咲耶がどうたらは、正味なところもう関係ねえ」 「あとはまあ、てめえに都合のいい展開なんざクソ食らえ。てなもんだ」 「はっきり言いやがるな、この野郎……」  無性にムカついたが、ここで感情的になってはいけない。務めて冷静になろうと深呼吸する。 「へえ、思いのほか堪え性があるんだな。俺ゃまたてっきり、キレやがるかと思ったが」 「てめえに都合のいい展開なんざクソ食らえ……そういうことだよ」 「そりゃまた、どうも」  咲耶がこの野郎に頼んだことは、俺の見張りであって作戦の成功ではない。ゆえに首尾がどうなろうと、最後まで俺と一緒なら任務は果たしたことになるのだろう。  屁理屈みたいなもんではあるが、こいつの中ではそれで筋が通っている。だったらさっきの言葉どおり、俺に都合のいい展開がぶっ潰れるのは大歓迎。ここで喧嘩を売れば喜んで買うだろう。そんなのは御免だ。  なら結局ここはこのまま、こいつを連れて作戦続行するしかないわけで、そうなると言うまでもなく、ヌキヌキポンは遠ざかる。 「ああ、ちくしょう」  真面目に詰んでねえか、これ…… 「諦めろ。おまえの頭で咲耶を出し抜こうなんざ身のほど知らずもいいところだ」 「全部読まれてんだよ。俺がどう思ってどうするか。結果何がどうなるか」 「あくまでおまえが俺の傍を離れなきゃあ、俺も素直に事を運ぶしかねえってか。そんでそうなりゃ……」 「ま、〈乳母日傘〉《おんばひがさ》の姫さん一人、掻っ攫うのはそう難しいことでもねえわな」 「否定はしねえよ」  竜胆は世間一般の男以上に気が荒いし、腕のほうもあれはあれでそう捨てたもんでもない。  しかしそれが、俺やこいつと比べられるものじゃないのは当たり前のことだろう。紫織や龍明のような超絶例外を除いて言えば、しょせん女は女ということ。  真剣にね、邪念なくね、咲耶に言わせればそういうノリで事にあたれば、まあ刑士郎の言う通り難しいことでもないんだよ。  だけどそれじゃあつまんねえだろうが。 「おまえ、ほんっとに諦め悪いな」 「哀れむように言ってんじゃねえよ。つか、同情してんなら協力しろよ」 「やなこった。何で俺が」 「それに哀れんでんじゃねえ。呆れてんだ」 「ああ、そうですかい」  おまえは妹のパシリかよと、普段なら嘲り笑ってやるところだが、その状況にハメられてる身としてはグウの音も出ない。  まだ完全に諦めたわけじゃないが、ここでうだうだやってる余裕もそれほどない。とにかくなんとかして、この鬱陶しいのを引き剥がさないといけないんだが、どうするべきか。 「で、御門のチビはどうしたよ? さっきから音沙汰なしだが」 「あ、知んねえよ。これ以上、邪魔臭いのに構ってられるか」 「大方あれだろ。さっきの騒ぎで母ちゃんに捕まって、尻でも叩かれてんじゃねえのかと――」  言いかけて、不吉な予感に背筋が一瞬で寒くなった。 「――やべえッ」 「あん?」 「馬鹿、ぼっとしてんな、急ぐぞコラ! 洒落にならねえ」 「何がだよ?」 「だから――」  理解の遅いアホの胸倉つかんで、今の俺たちがどれだけ薄氷踏んでるのかを認識させる。 「もう夜這いでドッキリとかヌキヌキポンとか、そんな状況じゃねえんだよ!」 「それはてめえが言ってるだけだろうが。んだてめえ、やんならやんぞ!」 「あァ?」 「おォ?」  いやもう、俺自身焦っちまって、何が何やら上手く説明できねえんだけども。 「元気がいいな、小僧ども」 「夜這いがどうだの、面白そうだな。聞かせてくれよ」  現状、この軍で竜胆に次ぐ地位のこいつも、ここに高い確率でいるだろうという、ごく当たり前のことを忘れていたのだ。 「は、覇吐ぃ~、すまぬ。捕まったぁ……」 「ああ、もう……」 「終わったな」  最悪、封印されるかもしれない。俺たちを見る龍明の微笑みは、まさしく蛙を前にした蛇のそれという風情だった。  で。 「ほう、つまり総ての元凶は夜行だと?」 「そう、そうなんだよ。俺もこんなことやるべきじゃないとは思ったんだけど、あいつがどうしてもって聞かねえから成り行きで」  俺は未だかつてない真摯さと情熱をもって、正座しながら大熱弁を振るっていた。 「つまり、こうか? おまえは夜行の剣幕に逆らえず、尻尾を丸めて奴の走狗に甘んじたと?」 「いや、違う。違うんだよ龍明。そうじゃない、そこ違う!」 「俺はね、別にね、夜行が怖いとかそういうわけじゃないんだよ。そりゃあ奴がね、すげえのは認めるよ。流石は御門の秘密兵器? あんなのを飼いならしてるあんたも含めて、一目置いてるよ。確かにね」 「だけどさあ、びびってるとか、ほら、そういうのは違うでしょ。俺様あれだよ? 覇吐様だよ? そんなちょっと強いとか凄いとか、そういうことに腰が退けちゃう奴だなんて、思ってほしくないなあ、切実に」 「びびりまくっておるではないか」  黙れクソガキ。全力で引っ込んでろ。 「これはその、なんていうか、暴の中にも法ありってやつで」 「聞いたことねえよ。そんな理論」  当たり前だろ。いま俺が考えたんだから。とにかく黙れ。俺の話を聞いてろ馬鹿。 「いきなり酒飲みたいから連れて来いとか、確かに夜行はメチャクチャだよ。強引だよ。意味分かんねえよ。変態かよ」 「変態はおまえであろうがっ!」 「そこだけは間違いねえな」 「そういうね、どうしようもない奴だとは思ったけどね、試み自体はそう悪くないと感じたわけよ。だって俺ら、出航以来ろくに口も利いてねえじゃん? 全員そろうこともなかったじゃん?」 「だったらそこらへんに対する埋め合わせをしないとさ。この先まずくなるかもしれないと俺様思ったわけなのよ。だって重要じゃん、そういうの」 「だからここは不本意ながらね、夜行の話に乗ってやることにしたわけよ。もちろん本音は反対だけど、大局的に今はこういうことも必要かなあって」 「喜々として夜這いか?」 「そう。然り――いや違う! 馬鹿言っちゃいけないなあ。あまり偏見で人を見るなよ。上に立つ者はもっと寛容に、海のように!」 「深く、そう、絆ってやつ。人を信じるって素敵だなあ!」 「ふむ、烏帽子殿の信念だな」 「だよ。一の家来として当たり前っていうか、ご主君様をお呼びに行くなら、そりゃ俺の役だろうってか」 「とにかくここは俺を信じて、黙って行かせてくれると嬉しいなあ」 「……信じられん。こいつ、まだ諦めていないのか」 「おい龍明、いつまで言わせとくんだ、これ」 「そんなこんなで諸々あって、俺の行動は至極正当なものなんだよ。だから止めちゃ駄目っつーか、止めないでよ行かせてお願いこのとーり!」 「よく分かった」 「忠道、大儀だ。烏帽子殿も喜ばれるだろう、行くがいい」 「え?」 「なッ……」 「おい、マジか?」 「無論だ」  立ち上がった龍明は頷いて、とても柔らかに微笑んでくれた。 「その壮志、なかなか感激させてもらったよ。そもそも酒宴云々は、私もやるべきだと思っていたことだ。止めはせん」 「久方ぶりに、よいものを見せてもらった。この場は覇吐に任せるとしよう」 「よっしゃおらあああああああ!」  歓喜、感激、大勝利。俺は拳を天に突き上げて勝鬨を謳う。 「ちょ、ちょ、ちょちょちょ――お待ちください母刀自殿。分かっておられるのですか、この阿呆は」 「もう自分でも何言ったのか、絶対覚えちゃいねえぞこいつ」 「なんだおまえたち、疑うのはよくないな。信じろ」 「し、しかし……」 「そうだ、信じろ。信じた者は救われるんだよ、ばーかばーか」 「くッ……」 「こいつが調子乗ってると、異様に腹たってくるなおい」 「まあ、よいではないか。後は久雅の主従の問題だ。酒宴の席で待っているから、覇吐は烏帽子殿を連れて来い」 「行くぞ、龍水、刑士郎。野暮はするな」 「し、しかし……」 「なんだ、まだ説教が足りんのか? あまりくだらんことに手間を取らせるなよ」 「なんなら咲耶にも、少々釘を刺してもよいのだぞ」 「おい」 「それが嫌なら、行くぞ」 「……分かりました」 「チッ……」 「お疲れ様でしたー!」  龍明に連れられて、不承不承という風に去っていく馬鹿どもの背中を満面の笑みで俺は見送る。  信じる。信じる。いい言葉だなあ、最高だ。  じゃあとにかくそういうわけで、色々回り道はあったもののこれからがお待ちかね、本番だ。 「いざ、尋常に――」  勝負のときと弁えて、俺は小躍りしつつ竜胆の寝室へと向かっていった。  そして…… 「こ、この向こうに……」  この向こうに、竜胆があられもない姿で俺が来るのを待っている。  驚くかな? いや驚くだろうが、きっとそれは一瞬で、不安と緊張に胸を高鳴らせながらも、上気した顔で許しの微笑みを浮かべてくれるに違いない。  ああ、すぐ行くよ竜胆。今宵覇吐は、あなたという海に溺れたい。 「俺は、君を信じてる」  誓いの言葉を謳うがごとく、俺は襖を開け放った。  その瞬間。 「ああ。私もおまえを信じている」  冷徹極まる声と共に、頭頂から爪先まで一気に振り下ろされた銀光一閃。 「おまえがこういう奴だということ。信じていたとも、予想通りだ」  あ、あ、あれー?  なんか、ちょっと、待って、痛い。  初めてが痛いのは、女の方じゃねえの、普通。 「死ね。遺体は海に流してやる」  パチンと小気味いい納刀の音と共に、なんか左右の視界が微妙にずれた。 「お、おわああ、ちょ、ちょま――なんじゃこりゃあああああ!」  痛え。血が出る。斬られてる。  洒落なってねえよ、やりすぎだろこれ。 「あれだけそこらで大騒ぎして、いつまでも眠っているような盆暗だとでも思ったか」 「いや、今はそんな説明どうでもいいから。これなんとかしないと、死ぬから俺!」 「だから死ねと言っただろう。命令だ」 「命令かよ!」 「信じているぞ、覇吐」 「どっちに」  俺が死ぬほうか、死なないほうか、満面の(氷の)笑みから予測するのは難しく、確かなことは一つだけ。 「つれえな、信じるって……」  修羅の道だよ。血飛沫すげえ。  今後、気軽い調子で口にするのはマジやばい。それは竜胆の逆鱗なんだと、そのことだけは理解できた。  今後があるかどうかは、知らないけど。 「しかし、本当に頑強だなおまえ」  しみじみと呆れたようなその言い様に、俺は憮然とするしかない。  正真正銘、真っ二つにされたわけではなかったが、かなりそれに近かった。少なくとも、瞬間的に左右がずれたのは間違いなく、それくらいはやられたということで。  未だ顔を両側から押さえ込んでいる俺のほうを、竜胆は興味津々という風に覗き込んでくる。我ながら、世界観を疑いたくなるような有り様だった。 「正直、おまえなら躱すだろうと思っていたから手加減していなかったんだが、痛むか?」 「そりゃあね、痛いですよ。当たり前に」 「不思議だな。おまえたちの身体は、私程度の剣など当たったところで撥ね返すものではないのか?」 「…………」 「油断というか、まあくだらんことに意識が向いてたせいもあるのだろうが、それにしても予想外だ。端的に、おまえ脆いぞ」 「あのなあ……」  流石に嫌気顔で嘆息する。さっきは頑強だって言ったくせに、そういうこと言われると傷つくだろ。 「ああ、すまん。別に嬲っているわけではないんだ。許せ」 「ただ、気になってな。どうも腑に落ちないというか……」 「おまえ、何か気に掛かることはないのか?」 「さあねえ」  曖昧に答えつつも、俺も実際のところ驚いていた。  完全に油断していたのは確かで、そのぶん柔になっていたというのも間違いじゃないだろう。だけど竜胆の言う通り、それにしたってこの様は脆すぎる。  たとえば刑士郎がそうであるように、俺たちの身体は常態で並外れた頑強さを持つはずなのだ。気を抜いていようが何だろうが、竜胆の剣でここまでやられることは有り得ないはず。  それでも生きているのだからやはり出鱈目とは言えるんだろうが、俺としては少々以上に鼻をへし折られた気分だった。格好悪いことこの上ない。 「分かんね。さっぱり見当もつかん」 「拗ねるな。これは大事なことだぞ」 「もし、自覚できない域で何かの異変が起きているなら捨て置けん。ここは穢土だ。西の常識など通じない」 「そりゃあそうだが、でもその理屈だと、俺は逆に強くならないとおかしいんじゃねえの?」 「むっ……」  穢土の法理が、西の存在に異常事態を起こしている。なるほど有りそうな話だが、そうだとしても俺はそこに当て嵌まらない。歪みとは、元々こちらの力なはずだ。  俺が本当に弱体化したというならそれは矛盾で、その不自然さが竜胆を悩ませている。夜這いがどうとか、そういう馬鹿を棚に上げてこっちの心配をしてくるほどに。  それ自体、ありがたいし光栄なことなんだけど…… 「どうでもいいさ。気にすんな」  傷口をくっつけていた手を離して、気楽に笑う。 「ほら見ろ。もう治ったから。大したことねえさ」 「しかし」 「なんだあ? もしかして初めて人斬ったからびびってんの? そんなことで、これから先やってけんのか」 「なんだと」  挑発が効いたのか、竜胆はむっと眉を顰めてこっちを睨む。 「そうそう。あんたはそれでいいんだよ」 「さっき、〈穢土〉《ここ》じゃあ常識は通じないって言ってただろう。だったら理屈に囚われるのもよくないぜ。考えたって分からんことを、考え続けてもいいことはない」 「もう単純に自慢しちゃえよ。いざとなりゃあ俺より強ぇって、噂が広まりゃ大将の株も上がるってもんだ」 「おまえの名誉を踏みつけてか。馬鹿を言うものではない」 「臣下に恥をかかせて得られる武勇伝などいらん。私の誉れは、おまえたちの誉れでもなくてはならない」 「実情がどうであれ、坂上覇吐は神楽の益荒男だ。それが私程度に斬られたと、そんなことを喧伝していったいどうする。宗次郎や刑士郎たちの立場もあるまい」 「おまえの評価は、今やおまえ一人のものではないのだ」 「と言っても、まだ分からんか、おまえには」 「うーん、どうだろ。分かるような分からんような……」  つーか、夜這いに来た賊を手打ちにするのは当たり前のことなんだけどな。どうせ俺は他の奴らからすりゃ油断できない危険物みたいなもんで、化外との本格戦を前に歪みの一人をぶった斬ったとなれば、士気も当然上がるだろう。  俺の名誉? 宗次郎らもひっくるめて、その他大勢が何言ってようが痛くも痒くもねえし別にいいよ。俺が俺を評価してれば問題ない。 「何を考えているのか分かるぞ、覇吐。おまえからは私が奇異に見えるのだろうが、私からすればおまえたちは皆同じだ」 「同じ?」 「そう。歪みであろうとなかろうと、等しく奇異に映っているよ。そこに何の違いもない」 「というわけで、おまえ一人を特別に扱うつもりはない。良かれ悪しかれ、どういう意味でも。そこから変わらん限りはな」 「不届きを働いた罰については、先のでよかろう。しょせん個人同士の問題だ。大仰に触れ回るようなことでもない」 「これに懲りたら、二度と許可なく私の寝室に踏み入ろうなどと思うなよ」 「へーい」  じゃあ許可さえ貰えばいいのかなと思ったが、それを口にするのはやめておこう。またばっさりやられそうだし。  竜胆は咳払いをしつつ立ち上がると、居住まいを正して俺を見る。 「それで、おまえは気にするなと言ったが、私はやはり気に掛かるのでな。龍明殿に訊いてみよう。あの方なら何か知っておられるやもしれん」 「ついてくるか、覇吐」 「あ、や、ちょっと待て」  危ねえ。うっかり当初の目的を忘れてたよ。 「龍明なら、今ごろ――」 「なんだ?」  と、訝る竜胆を前にして思い留まる。  ここで馬鹿正直に言ったところで、はたしてこいつは頷くのか。いいや、まず間違いなく否だろう。何せ堅物が服を着て歩いているような女だし。  だったら余計なことは黙ったまま、このまま連れてったほうが手っ取り早い。もう、全部勝手に夜行と龍明がやっちゃったということにして…… 「おまえ、何かよからぬことを考えているだろう?」 「ばっ、おま――何言ってんだかそんなことねえですよ!」 「本当に?」 「誓ってマジ」  だって龍明に用があると言い出したのは竜胆のほうなんだから、こりゃ不可抗力ってやつだろう。もっと大袈裟に言えば運命みたいなもんだ。 「……まあいい。何か知らんが、乗ってやる。私を怒らせたら怖いことになると、その身で体験したわけだしな」 「龍明殿が何処におられるかは知っているのか?」 「ああ、そりゃ一応」 「なら案内しろ。もう夜も遅いし、兵に要らぬ緊張を強いたくないから忍びになるが、それくらいの骨は折れよ」 「分かってるって」  ぞろぞろ護衛を引き連れて酒など飲めないのは当たり前だ。ゆえに出る際、警護の連中の目を晦ませる必要があるのだが、そのくらいは俺一人でなんとかなるだろ。 「なんだか楽しそうだな、おまえ」 「そりゃあな。竜胆は違うのか?」 「別に、こうするべきだと思っているからしているだけだが、あまり褒められた真似ではないのは自覚している。そういう意味で、楽しむようなことではない」 「ただ……」  と、考え込むように一拍置いて。 「こういう経験は初めてなので、何やら落ち着かぬのは確かなようだ。これを浮き足立っていると言うのなら……」 「あるいは、そういうことかもしれないな」  照れたようなその苦笑に、俺は胸を撃ち抜かれたような気分になり。 「どうした?」 「や、なんでもねえって」  もう一つ、こいつに言わなきゃいけないことがあったのを、綺麗さっぱり忘れていた。 「――――――」  不意に奇妙な違和感を覚えて、宗次郎は空を見上げた。  その先に、不思議なものは何もない。目にも眩しい銀盤の満月が、冷たく冴えた光を地上のものに注いでいるだけ。今まで何度も見てきた通り、ごく当たり前の月夜である。  いや、〈穢土〉《ここ》が鬼の異界であることを鑑みれば、それこそが最大の異常と言うべきなのかもしれないが…… 「どうしたね、宗次郎」 「呆けたように。魅入られたかな?」 「……いえ、別にたいしたことではないのですが」  傍らからの問いかけに、かぶりを振って嘆息する。覇吐らの悪ノリに付き合うつもりはなかったので、この場に残った彼だったが、結果として待つ間、夜行の相手をする羽目になったのは失敗だったのかもしれない。 「なんとなく、誰かに見られているような気がしたので」 「ほう」  面白がるようなその声に、しまったと思ったときにはもう遅い。 夜行は笑いながら、弄うように宗次郎へと語りかける。 「つまり、魅入られたのだろう。私の指摘は正しかったわけだ」 「魅入られた、と言いますが」  いったい、何にという話だ。ここには今、彼ら二人以外の誰もいない。 「揚げ足取りなら、勘弁していただきたい。ただの気のせいですよ」 「ふむ、ならば言うが、おまえはあれの視線に気付いたのだろう?」 「あれ?」  と、夜行が指した先を視線で追えば、そこにあるのは空の満月。やはりからかわれているだけのようで、宗次郎は投げやりに返した。 「月は月でしょう。目ではない」 「いいや、あれは〈天眼〉《め》だ」 「…………」  それは断定。しかも宗次郎とは、また微妙に異なる意味あいを込めているようにも感じられた。 「覗いているよ、こちらをね。凍るように鋭い目だ。おお、背筋が寒い。この私ともあろう者が。ただ事ではない証だよ」 「おまえの目も、相当に優れているようだ宗次郎。単純な剛性では覇吐や刑士郎に一歩譲るが、その眼力、その感性、群を抜いている。自覚したほうがいい」 「超越した域にある感覚で捉えたものを、気のせいなどと断じるのは感心せんな。賢い行為ではない」 「おまえは今、あれに気付いていたし魅入られていた」 「分からぬことを」  夜行の言い様に、何か背筋がざわつくような気分になったが、益体もないと笑っていなす。この男は、暇つぶしに自分で遊んでいるだけなのだ。感覚を信じろと言うのなら、それこそが現状における最大の勘である。  そのまま無視してもよかったが、遊ばれ続けるのも癪だったので、宗次郎は少し意地の悪い問いを投げることにしてみた。 「穢土では時間が止まっていると、あなたはそのように仮定していましたね。ではこの昼夜の流転、どう説明付けるのです?」 「まさか〈月〉《あれ》を目と言った冗談をそのままに、巨大な怪物の瞬きだとでも言うつもりではないでしょうね」 「ほう、流石に鋭いな。その通りだ」 「なんですって?」  宗次郎としては思いつく限りの戯言を口にしたつもりなのに、夜行は至極当たり前のように肯定した。当てが外れるどころか馬鹿馬鹿しすぎて、もはや苦笑すら出てこない。  それを見て、夜行は嘆くような声で続ける。 「なぜ、自ら言っていながら信じない? 力ある者の言葉には、それが戯れ言であろうと〈咒〉《しゅ》がこもるぞ。迂遠なその思考回路は、いつもの直截なおまえらしくない」 「言い方を変えようか、宗次郎。おまえは見抜いていたからそう言ったのだ。逆に見抜いていなければ、先のような言葉は出ん」 「〈月〉《あれ》は、つまりそういうものだ」 「…………」 「とまあ、些か戯れがすぎたかな。そう怖い顔をするなよ。暇だったのでな」 「おまえも退屈そうにしていたし、時を忘れるような遊びをしてみた。ほら耳を澄ませよ。時間を操る程度のこと、そう難しくないと分かっただろう?」 「あなたは……」  怒るべきか、呆れるべきか、それともいっそのこと帰るべきか……  諸々悩ましいところだったが、言われた通り耳を澄ませば、なるほど確かに時を操られた感は否めない。酒宴とやらを始めるべく、戻ってきた者らの声と気配が近づいてくる。  つい先ほどまで、やることもなかったのでぼんやり空を見ていたのが嘘のようだ。まったく業腹な話だが、終始手の平の上だったということだろう。 「ただいま帰りましたですの夜行様。周囲、異常なしですの」 「今宵は何事もなさそうですね。少なくとも付近一帯には、何の兆候もありません」 「ご苦労。ではおまえたちも楽にしろ。これから覇吐の意向でな、皆の固めとして酒宴を開くことになるらしい」 「えー、それはまあ、あいつにしては粋な企画と思うけれども」 「皆というと、全員ですか?」 「無論だ。凶月もおるが、逃げるなよ」 「ぐっ……」 「……分かりました。ご命令ならば、是非もない」  見るからに嫌そうな二童子の様子が可笑しくて、ようやく宗次郎は小さいながらも笑みを漏らした。自分より夜行に遊ばれている者を見て、多少は気も紛れたらしい。 「あー、なんですの宗次郎。すごいヤな感じですの。腹立つですの」 「察するに、同情はしますが、それでも人の不幸を笑うのは感心しませんね」 「いや、申し訳ない。そういう意味ではなく」  他にどういう意味もないのだが、絡まれたくないので再び宙に視線を逃がす。それを見て夜行が笑う。 「やはり、無意識に気になるのかな?」 「しつこいですよ、夜行さん」  天空には巨大な月。穴のように、目のように、穢土の異物である自分たちを見下ろしている。  あれはただの天体だ。他に何の意味もないし、そもそも仮に夜行の戯言が真実ならば…… 「そんな怪物に、僕らが何をしようと勝てるわけがないでしょう。あなたがどれだけの手練であろうと、それを知ってそんな余裕でいられるわけがない」 「ああ。現状、打つ手などないからな」  軽口に軽口。そのまま詩でも吟ずるように、夜行は不吉なことを口にした。 「ゆえに一度、皆々死ぬる必要があるのだよ」  その言葉が不可解すぎて、料理を持ってやってきた紫織と咲耶の声も聞こえない。  もう一度、宗次郎は何かを確かめるように頭上の月を見上げていた。  ともあれ、酒宴自体は滞りなく始まるらしい。 「あ、あー、その、皆々、準備はよいだろうか?」  遠慮気味かつ怯えが多分に混じった声で、龍水がぎこちなく音頭を取る。  本来、それはこいつの役じゃないんだが、主賓がまったく役に立たないのでしょうがない。以下は消去法の連続で、こいつがやることになってしまった。 「ほ、本日、この場を得られたことを嬉しく思う。いや、正直なところちょっと反対だったりもう止めようとか思っていたりするのだが、こうなってはしょうがないというか私のせいではないというか」 「お願いなのでもう勘弁してくださいという気持ちを是非とも汲んでいただきたく思う御門龍水、春の日の憂鬱――でも夜行様のために頑張りますと、それだけは主張したい!」 「長ぇよ」 「まあ兄様、これも余興と思われて」 「龍水ー、声小さいぞ気合い入れろー」 「あなたは逆に、もう少し控えてください紫織さん」 「この程度の場も仕切れんとは、やれやれ」 「先が思いやられるですのー」 「夜行様は、……まあどうでもいいんですね」 「そうでもないが、哀れであろうが。聞いてやれよ」 「と・に・か・く」  ようやく諸々吹っ切ったのか、やけっぱち気味に龍水が叫ぶ。 「唱和しろ虚けども! 我らが御大将、久雅竜胆様の栄光に――」  ギロリと、その瞬間に凄まじい視線が飛んだが、龍水は目を瞑って無視していた。  おお、すげえ度胸だ。並じゃねえ。後でその勇気を褒めてやろう。  俺に後なんてもんがあるならの話だが…… 「か、か、かんぱーーーい」 「かんぱーい」 「――貴様ら全員ふざけるなァッ! 」  唱和の直後に、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈十〉《 、》〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》落雷がぶちかまされた。 「またかよ」 「そろそろ飽きて参りましたね」 「どうやらまだ甘いらしいな。――紫織」 「あー、りょうかーい」 「ちょ、ま――、貴様本当にいい加減にせんと、もがががががが」 「はーい、飲ーんで飲んで飲んで、飲ーんで飲んで飲んで、飲ーんで飲んで飲んで」 「飲んで♪」 「――ごはァッ」 「いきましたかね?」 「逝ってはいないと思いますが……」 「ふむ、そろそろ限界か。思いのほか烏帽子殿は下戸のようだな」 「いや、夜行様、すでに何杯飲まされていると思っているのですか」 「一升の杯で十二杯一気だろう? 何のこともあるまい」 「死にますから、普通。竜胆様の体重の半分くらいの量ですよ!」 「だが、ああして生きている」 「き、貴様ら、よくも、やってくれたな……こんなことをして、許されるとでも……」 「つっよーい、姫さまー。紫織とってもびっくりしちゃ~う」 「見てるこっちが先に酔っ払ってきそうですの~」  ていうか、紫織と犬はもう完全に酔っ払っている。何度も何度も仕切りなおしをしている間に、竜胆の煽りで酒ぶっ被っていたこいつらはすでにやばい状態だった。  なのに当の竜胆は、まだギリギリだが理性らしきものを保ち続けているようで、もはや凄えと言うよりおっかねえ。 「仕方ないな。十三度目の正直というやつに期待しよう。もう一度最初からだ、龍水」 「え、ちょ、またですか?」 「無論。おまえ以外に誰がやるのだ?」 「で、ですが……」 「龍、水、貴様……覚えて、いろよ……」 「ぎゃー、やめてください。もうできません。殺されますー!」  とか、まあ。そういうことで。  この状況の半分くらいはたぶん俺のせいなんだが、あまり考えたくないので現実逃避をすることにした。  いやー、酒うまいなあ。 「そう恨めしそうな顔をするな、烏帽子殿。誰が悪いかと言えば、御身に事情を話さずここへ連れてきた覇吐が一番悪かろう」 「こやつが臣として主君を説得しておらぬから、我々としてもこのような実力行使をせねばならなくなったわけだ」 「ぶほおおおお!」 「なんだ、汚ないな。吐くなら他所でやれよ」 「てめえ、こら、何をさらっと全部俺のせいにしてんだよ!」 「私は事実を言っただけだが」 「は、覇吐……そうだ、元はといえば、すべては貴様が……」 「いや鯉口切るな。話し合おう。てかおい、十三杯目持って来い!」 「悪いがそれは無しだ。十三という数字は、何やら無性に腹が立つので使いたくない」 「同感です。なぜだかそういう気がしますので、ここらが潮時というやつかと」 「俺もそう思うぜ。つーかいい加減飽きてんだよ」 「竜胆様も、もう一暴れされたら落ち着かれるでしょうし」 「というわけで、すまん覇吐。死んでくれ」 「発案者として責任を取るのが当然の筋かと」 「まあ、おまえは死にたくても死ねん身のようだから構うまい」 「構うよ! なに勘違いしてんだてめえ! 俺のはそんな都合のいいもんじゃなくて――」 「爾子ちゃーん、あれやってあれ」 「吹っ切って放つ、さんびらり」 「よおおおぉぉ――」 「はッ!」  普通に、当たり前に攻撃されたら、不死身でもねえし撥ね返したりもできねえんだってば。 「とまあ、些細な漫談はあったものの、落ち着くところに落ち着いたようで何より」 「些か強引だったのでご不興を買ったようだが、それも浅薄ゆえの不調法だと、ご寛恕いただければ幸いだ、烏帽子殿」 「……ああ、分かった。もういい」  苦虫をまとめて十匹噛み潰したような、もう好きにしろと言わんばかりな竜胆の口調が、現状を端的に説明していた。 「私に騙し討ちをかけたことは、覇吐に免じてさし許す。だがこの場を認めたわけではないのだぞ。分かっているな?」 「もちろん。他の兵らを差し置いて、我らだけが酒宴に興じるなど、御身にとっては度し難い暴挙でありましょう」 「単純に、貴重な兵糧を私的に浪費したという面においても、軍律に照らし合わせば重罪は必至」 「そうだ。ゆえに皆、後で罰する。そのことさえ弁えていれば、今や私も同罪なわけだし……」 「ねー、宗次郎ー、なんで私が傍に寄ったらすぐ逃げるのー? 嫌いなのー?」 「も、申し訳ありませんが、勘弁してください紫織さん。今のあなたは、その、色々と無防備すぎる……」 「にゃはははは、照れてるのー? 可愛いー」 「だ、抱きつかないで!」 「今、少しの間だけ、目を瞑って、やらんでも、ない!」  バキリと、杯ごと噛み砕くような勢いで、一気に酒を飲み干す竜胆。あまりに煽り方が男前すぎて、さっきとはまた別の意味的に近寄りがたい。 「注げ、覇吐」 「あ、うぃっす」 「まるで男芸者ですね……」 「すっげえダサいですの。見てらんないですの」 「じゃあ見てんじゃねえよ」 「まあ、よいではないか。大虎の生贄を買って出てくれているのだ。英雄的行為だろう」 「で……」 「あの、母刀自殿も、少し量が過ぎるのではないでしょうか。何やら、心なしかお顔の色も尋常ではないような……」 「まったく、おまえは小五月蝿い奴だな。あまりごちゃごちゃ抜かすなよ。興が削げる」 「おまえはあれか? 実は私が嫌いなのか? 年寄りの楽しみに水を差すなど、残酷だとは思わんのか? 早く死んでほしいのか?」 「い、いいえ、そんなとんでもない。龍水は、母刀自殿を尊敬しておりまする」 「だが、目の上の瘤ではあろうが。よいよい、隠すな。分かっている。師というものは、どうしようがそのように見られるものだ」 「まあ、私の師は心底腐った男だったが……」 「また始まった……」 「あの愚痴、始まると長いんですのよ」 「何か言ったか、爾子。貴様余興代わりに、火輪でも潜ってくれるのか?」 「勘弁してくださいですの…」 「……あれも、結構酔ってんな」 「いつも厳格なお二方が、一番正体をなくしておりますね」 「覇吐、注げ」 「もう飲んだの」 「竜胆様、あまりお酒ばかりをお召しにならず、こちらのほうも」 「ん、ああ……なんだ、旨いな。これはおまえが作ったのか、咲耶」 「多少は。ですが実際のところ大半は……」 「わったしでーす!」 「はあ?」 「なに?」 「嘘でしょう?」 「いや、どうやら本当らしい。私も正直、驚いた」 「これはこれは、意外な一面があったものだな」 「兵糧用の物資など、保存を前提にした味気ないものが常だというのに、それでここまでのものを用意するとは、なるほど、なかなか」 「紫織はいいお嫁さんになれそうですのね。他の連中は女の風上にもおけないけれども」 「……なに?」 「ほう……」 「爾子様、もう一度仰ってください」 「やーやーやー、まあいいじゃない。俺は全員守備範囲内よ?」 「黙れ」 「死ね」 「すっこんでいてください、覇吐様」 「おいなんだよこれ、なんで俺が怒られてんだよ」 「僕に同意を求めないでください。あなたが悪い」 「そんなことより、今の流れでなぜ私を抜かしたのか貴様らに問いたい」 「入れてほしかったのかよ……」 「私はたまに龍明殿が分からなくなる……」 「どうなのだ?」  どうもこうもねえっつーか、そんなことはともかくだ。 「その、なんだ。それなりに、どいつも楽しんでるようじゃねえの」 「なあ竜胆、こういうのも、やってみればそう悪いもんじゃあねえだろう?」 「……ふん」  よほど紫織の料理が気に入ったのか、むくれながらもぱくぱく摘む手は止めず、竜胆は鼻を鳴らす。 「何を言われようと、理性が怪しくなるような場は性に合わん。恥をかくし、不快な目にも遭うし、驚かされるしで身が保たない」 「そして何より腹が立つのは、そこであった物事を正確に覚えていられないということだ」 「人は忘れるべきでないことを、忘れてはいけない」 「ふーん?」 「それは、つまり……」 「烏帽子殿は烏帽子殿なりに、この場を得難い瞬間であると思っていらっしゃるようだ。そう解釈してよろしいか?」 「ああ。おまえたち一人一人の罪状を、しっかり記憶していなければならないだろう。当然のことだ」 「まあ」 「意外と根に持つ人ですね」 「その上で」  言葉を切ると、まず竜胆は俺のほうに目を向ける。また何か怒られるのかと思ったが、すぐに全員へ視線を戻すと、静かに言った。 「この愚臣の思いつきに、付き合ってくれたことには礼を言う。これはこれなりに、私のことを慮ってくれたのだろう」 「色々心得違いはあるものの、確かにそう悪いものでもなかったよ」 「だから……」  そのとき、風が吹いていた。ここが鬼の大地であることなど忘れるような、清涼で心地いい風。  他の奴らはどうだか知らんが、少なくとも俺は、このときのことがやたら深く印象的で…… 「今後こういうことは事前に話せ。今までよりは考慮してやる。分かったな?」  了解の意を示す全員を前に、次回の予約もしたくなった。だってこれ一回で終わらせるのは勿体ねえしよ。 「なあ、だったらちょっといいか?」 「実は俺、今いいもん持っててよ」  伊達男の嗜みとして、出航前になんとなく持ち込んだ物だったんだが、これは使えると思ったので背から取り出し、地面に立てる。 「これは……」 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿とか言うなよ」  そういう突っ込みは期待してない。俺が西から持ち込んだ桜の枝はまだ〈煙管〉《キセル》程度の大きさだけど、きっとそのうちでかくなる。  根を張って、枝を伸ばして、俺らが穢土を征するように。 「この〈東征〉《いくさ》、勝って帰ったらまたここで、〈桜〉《こいつ》見ながら派手に飲もうぜ。祝勝の宴だ」 「なるほど。中々悪くない。私としても異論はないが」 「あんた、こういうときだけいいこと言うよね」 「結局、今回はお花見というわけにもいきませんでしたし」 「化外を祓えば、この奇怪な季節も流れるようになるのだろうか」 「知らねえし、どうでもいいが」 「まあ、いいでしょう。断る理由もありませんので」 「乗らせていただきます」 「賛成ですの」 「とのことだが、どうされる烏帽子殿」  皆の視線を受け止めて、しばらく沈黙していた竜胆だったが、やがて頷く。 「いいだろう。その件、私が確約する。だからそれにあたって言わせてもらおう。まずは夜行――」 「おまえは正直、この中で一番わけが分からん。何を考えているのか、何を見ているのか、そもそも何者なのかと言いたくなるほど、あからさまに怪しすぎる」 「だが、淡海で我らを救ってくれたのは揺るがぬ事実だ。その行いを信じよう。おまえが見据えているものを教えてくれ」 「なに、さして大したことではありませぬ。ただ、蝉を探しているだけのこと」 「私は御身らを崇敬している。皆、私にないものを持っており、私に出来ぬことをやっているとね。ゆえにこの摩多羅夜行、その末席に加わりたいと切に望む所存なり」 「これが偽りない私の〈赤心〉《たましい》。御身に従おう、烏帽子殿」 「相分かった。ならば龍水――」 「おまえの〈許婚〉《おとこ》はこの通り、甚だ不可解で危険だぞ。そして東征もまた然り。覚悟はあるか?」 「愚問です、竜胆様」 「私は自分で考え、自分で選んでここにいます。覚悟という意味、神楽で竜胆様に教わりました。それを汚したくはありません」 「望むのは、御門龍水として今ある諸々、それに恥じぬ私であること、ただ一つ。そのために我が魂というものを懸けましょう」 「では宗次郎、おまえは冷泉殿の家臣だが――」 「お気遣いなく。僕とあの方の関係は、おそらくあなたの思う主従というやつではないでしょう」 「今も昔もこれからも、僕から言えることは一つだけです。この天下に、壬生宗次郎こそ最強の剣であること。たとえ何処の誰であろうと、それが強者であれば斬るのが王道」 「ゆえに冷泉様にもあなたにも、この場の誰にも何かを捧げているわけではないということ。その旨、ご留意願いたい」 「ああ、分かっているさ。構わんよ。心が虚ろでないのなら、おまえの剣には熱が宿る。それを自覚しているなら何をか言わんや、この首いつでも狙うがいい」 「紫織はどうだ? おまえも大概分からん奴だが、料理が得意とは驚いたぞ。いったい何を考えてここにいる?」 「内緒、てわけにもいかないだろうし、じゃあちょっとだけ語っちゃうとね」 「私は花嫁修業をしているの。全部、みんな、それの一環。分からないだろうし、分からなくていいけど、玖錠紫織には大事なのよ。それが私の魂ってことで」 「なんなら今度、家事全般の修行に付き合ってあげてもいいよ?」 「それは全部終わった後でな。ああ、楽しみにしているよ」 「咲耶、おまえは自分の立場を分かっていような?」 「もちろんです、竜胆様。ゆえだからこそ、わたくしは穢土の災厄を祓いたい」 「正直申しまして、もう嫌なのです。自由というものが欲しいのです。好きな所へ行きたいし、好きなものを諦めたくない」 「そして、ええ、何よりも……わたくしの星が愛する殿御の禍となるなど許せない。そのような凶月咲耶でしか在り得ぬ己を、この東征をもって殺したいと願うのです」 「ならば死ぬなよ。おまえの命はおまえだけのものではない」 「聞いていて恥かしくなるような口上だったが、兄としてはどう思うのだ、刑士郎」 「どうだろうが関係ねえだろ。あんたに話すような義理はない」 「ただ、妹のことは俺が一番分かってる。その上でこうしてるんだ、余計なことはもういいだろう。そっちで勝手に判断してくれ」 「俺は単に、このクソったれな歪みの元凶ってやつを潰してえだけなんだよ。〈凶月〉《おれ》のためにな」 「ではそうするがいい。誰のためでも、道を見出しているなら貫き通すべきなのだ。私の幕下にある限り、歪みがどうだの外野に戯言は一切言わせん」 「爾子、それに丁禮は――」 「我らは夜行様に従うのみです。お気遣いなきように」 「烏帽子殿は律儀ですのねー。爾子たちなんて、放っといてもいいですのに」 「そういうわけにもいくまいよ。おまえ達の働きにも期待している」 「それで、龍明殿――」 「私もか? 困ったな。正直、手のかかる小僧どもの世話焼き以外、さして期するものなどないのだが……」 「まあ、強いて言うなら遣り残した仕事だ。これを片付けなくては往生できん。何せもう老体なのでね、後悔というものを皆より多く持っている」 「説得力がまったくないな。あと百年は生きそうなくせに」 「いや、そもそも誰一人として死にそうではないよ」  皆の決意表明を訊いて回った竜胆は、そう柔らかに苦笑する。  どいつも好き勝手なことを言うばっかりで、きっと呆れているんだろう。だがそれと同時に嬉しそうで、頼もしい奴らだと思っているのが俺には分かった。 「それでは覇吐、最後はおまえだ」 「何を思って今ここにいる? 締めに、私を唖然とさせるような放言を聞かせてくれ」 「お安い御用だ」  俺の理由。俺の願い。坂上覇吐が目指すものなら、天下に一つっきゃねえだろう。  胸を張って堂々と、それをこの場で宣言した。 「おまえを俺の女にすることだ、竜胆」 「惚れたからな。前にも言ったろ」 「うわー」 「まあ、好きなように頑張ってくださいとしか言えませんが」 「よいではないか。覇吐らしい」 「身のほど知らずなところがでしょうか」 「て言うより、清々しい馬鹿なところが」 「らしいですか。同感ですね」 「わたくし、感想は控えさせていただきます」 「夢見んなって言いたいんだろ、咲耶」 「というのが、我々の総意と思え」 「うるせえなあ。別におまえらの反応なんて興味ねえしどうでもいいよ」  俺が俺の気持ちをどう判断するかは俺の勝手で、俺の自由だ。外野の意見なんぞは一切知らん。  唯一例外があるとすれば、そりゃ竜胆しかいないわけで。どう応えてくれるのかと思っていたら、たった一言。 「戯けめ」  ……ああ、はい。そうですか。なんとなくそんな風に言われるような気はしてたけど、実際体験するときっついなおい。 「冷泉殿にも言ったことだが、私は誰のものでもない。そういう口振りは好きになれん」 「だが……」  そこで、口調が微かに変わる。今までの冷ややかなものから、どこかはにかむような響きへと。 「私の伴侶となる者は、真の益荒男と決めている。ゆえにおまえがそうだと言うなら、それを示してくれればいい」 「願いを叶えたいのなら、その旨留意して今後も勇戦するがいい」 「よいな、覇吐」 「…………」 「ん、どうした?」 「お、おう。いや、なんでもねえって」  びびった。あんまり綺麗に微笑むもんで、声が裏返っちまったよ。 「鼻の下が伸びておるぞ、みっともない」 「うるっせえな馬鹿、ほっとけよ」 「とにかく、皆もそういうことだ」  咳払いを一つして、手の杯を掲げ持つ竜胆。自然と他の奴らもそれに倣った。 「私が狂気と言われているのは、今さら語るまでもないだろう。ただ誤解しないでもらいたいが、別に各々が己のために生きることを、頭から毛嫌いしているわけではない」 「それはそれで重要だし、我が身を救えぬ者に他者など救えぬと思っている。自分を嫌いな人間に、誰かを愛することなど出来ぬとも」 「少し前まで、私はまさにそれだった。しかし今は違う。おまえたちがいる。そしておまえたちも、今やもう一人ではない」 「私の主張に染まれとは言わん。だが各々、願うものが至高の輝きを持っていると信じるのなら、それが空虚なものであるはずはない。そこには必ず、魂があるのだ」 「そのことだけは、どうか見失わないでくれ。そして誓おう、ここに勝利を」 「勝利を」  示し合わせることもなく、まったく同時に全員の声が重なった。  そしてそのまま、皆が手の杯を一気に干す。 「これをもって、我らの固めの儀を終える。皆々、誠に大儀であった!」 「よっしゃああッ!」  まだ小さいが、確実にここへ根を張った桜を囲んで、俺たちの固めは終わった。あとはこの戦に勝利して、凱歌と共に生還するのみ。  それぞれ、まだ思うところはあるんだろうが、紛れもなくこの一瞬だけ、俺たちは一つとなっていたに違いない。  だから―― 「―――ぬ?」 「え―――?」  続く異常の始まりを、皆がまったく同時に察知することが出来ていたのだ。  それは月。見上げた全員の視線の先には、ぎんと凍るような満月が俺たちを見下ろしている。 「……なんだ?」  それだけ、本当にただそれだけなのに、なぜか全身の毛穴が開く。呼吸が止まり、心臓も止まり、総ての音が消えていく。 「兄様……」 「こりゃあ……」  そして気付いた。〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈月〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》。 「目……」 「来たか」  文字通り、穢土を覆う何者かが、あの目で俺たちを見ているのだ。  まるで先ほどまでのやり取りが、あれにとっての逆鱗だったとでも言うように。 「全員、退がれぇェッ―――!」  竜胆が叫ぶと同時に、世界が一気に変転した。 「  」 「 」 「 」 「 」 「」 「」  声――には違いないが音ではない。まるで俺という存在の芯、対象の中核を直接握って潰すような、それは別位相からの強制介入。  轟く無音の衝撃に、凄まじいまでの咒波嵐が月から放射状に広がっていく。  その規模も密度も桁違いだが、これが何かは知っていた。俺たちのうち何人かには、慣れ親しんだものだった。 「歪み……」 「でも、なんて強さ……」  次元が違う。格が違う。俺たち個々の身に宿り、些細な異常を起こす陰気などとは、比較にならない極大の歪みがそこにある。  その差がいったいどれだけあるのか、単純な質量にしても一目瞭然すぎるだろう。  天に浮かぶ太陰すら、あれにとっては瞳にすぎない。あれの巨大さに比べれば、俺たち全軍合わせたところで〈蟻螻〉《むしけら》の域にすら届かないのだ。  そう本能的に直感するほど、規格外すぎる異界の波動――いいや、覇道。  総て塗り潰してやると言わんばかりのその念は、まさに征圧の力そのもので―― 「 」 「 」 「」 「 」  言語として認識できない別世界からの妖言は、しかしなぜか、そこに込められた想いだけは感じ取れた。 「 」 「」  底抜けの悲憤。狂わんばかりの慟哭。そして―― 「」 「」  西の諸々、死に絶えろという極限の憎悪に他ならなかった。 「    」 「 ――  」  それは月蝕と表現していいのか分からない。だが紛れもなく、いま太陰は塗り替えられた。  天に浮かぶのは、もはや完全に生物の眼球そのもの。比喩表現などでは無論なく、正真正銘そうでしかない大異常が妖麗夢幻と顕現している。  物理的に降り注ぐ零度の殺意は、紅の色と匂いを帯びていて―― 「血の雨……」  いいや、これは血の涙だ。土砂降りに穢土と俺たちを濡らす液体は、今もあの眼球から溢れ出ている。ならば雨とは言えないだろう。  その一滴一滴、残らず総てが、あれの涙であり化外そのもの。俺たちを抹殺するべく解き放たれた軍勢に他ならない。 「だったら……」  おい待て。この状況は―― 「――夜行!」 「御意に。言われるまでもなく」  俺が危険に気付くのとほぼ同時に、夜行と龍明が反応していた。目も眩む閃光と共に、降り注ぐ血涙が飛沫をあげて弾け飛ぶ。 「これは、符界……?」 「てめえ、こんなもんいつの間に……」 「備えあれば、というやつだ。敵地で何の防御もせず、漫然としていたわけではないのだよ」 「ここと、そして本陣まで、事前に壁を用意していた。皆、今のうちに血を拭え」 「一定量集まらせると厄介だぞ、見るがいい」 「あッ―――」  夜行が顎で示した先に、皆の視線が集中する。  符で区切られた境界の向こう側、ここから弾き飛ばされた血が集まって異形の存在へと変じていく。その様はまさに産み落とされた蜘蛛そのもので、一つ一つが大熊の体格と変わらない。  それが数百、数千以上、無尽蔵かと思えるほどに増え続け、牙と爪を噛み鳴らしている。あの涙が降る限り、この増殖は終わらない。 「そう焦るな。あの程度の奴らごときに、夜行の符界は突破できん。まだ時はある」 「とはいえ、いつまでもこの状況を続けるわけにもいきますまい。どうされるか、烏帽子殿」 「……何にせよ、あれをどう撃退するか、か」  未だ衝撃覚めやらぬ中、竜胆は呻くようにそう呟く。きっとその頭の中では、様々な計が浮かんでは消えているのだろう。  全員、大将の決定が下るまでは動かない。先の海戦のときとは違い、皆が竜胆の指示を待っていた。  ――が。 「」 「」  天を揺るがすその声が、またしてもこちらの初動に先んじていた。 「 」 「    」 「 f」 「、、、。」  言葉の意味は、相変わらず分からない。異世界の言語は俺たちの理解を超えていて、その内容を認識することは不可能だったが…… 「  」 「    」 「   」 「」 「 」 「」 「」 「? ? ?」 「、。、。」 「。。。」 「」 「。」 「」 「」  男の声、女の声、それが〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈八〉《 、》〈人〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》呪いの斉唱だということだけは感じ取れた。 「   」 「   、」 「」 「」 「、、・」 「・、――、」 「――!」 「」  瞬間、その密度において今までとは比較にならない血晶が二つ、天の眼球から地表目掛けて零れ落ちた。 「なッ――」 「つァ―――ヴッ」  ただ落下してきた、本当にそれだけのことなのに、間違いなくその衝撃は、淡海で夜行が行った星墜しを数倍上回るものだった。 「これは、また……なんとも豪気な」  距離にして、おそらくここから半里ほど先……  噴煙立ち込める爆心に途轍もないのが二人いると、これだけ離れていても感じ取れる。  噴き上げる鬼気の凄まじさは、火砕流など生易しい。まるで溶けた毒の鋼鉄そのもの。奴らの気炎に直接触れれば、並の人間は跡形すら残るまい。 「なるほど、これが……」 「……〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》」  穢土の大天魔、神州を侵す歪みの元凶―― 「夜行、符界はッ?」 「まだなんとか。しかしあれは無理ですな。おそらく直撃を受ければ壊されましょう」 「ふふはは、まったく面白い。こんなことは初めての経験だ!」  夜行の咒でも、天魔の侵攻は防げない。それがどういう意味を持つのか、俺たち全員が理解していた。  このまま守勢に回れば全滅すると。 「ならば分かった。打って出る!」 「群がるあの蜘蛛どもは我らに任せよ。今より私が本陣に戻り、龍明殿と共に兵を指揮して当たらせる」 「ゆえに夜行、おまえは最低でもその準備がすむまで符界を維持しろ。分かったな?」 「御意に。してその後は?」 「愚問だ。おまえも含めて、紫織、宗次郎、刑士郎――」 「そして覇吐」  竜胆の鋭い目が、俺たちを順に見回す。ああ、言われるまでもねえよ、分かってる。 「天魔狩りだ。各々、最強の自負があるなら武威を見せろ!必ず勝て!」 「当たり前だ!」  強く応じて、共に俺たちは戦闘態勢へと移行する。ここで死ぬ気も負ける気もないのは、誰であろうと同じことだ。 「竜胆様、私は――」 「おまえは我々と来い、龍水。咲耶もそうだ。共に前線へ出るべき特性ではない」 「分かりました。どうか皆様、ご武運を」 「爾子・丁禮、おまえたちもだ。烏帽子殿らを守ってやれ」 「心得ました、夜行様」 「こっちのことは任せるですの」 「では皆、よいか?」  時間はもうない。皆が無言のまま頷いて、まずはここでの勝利を胸に期する。  それは絶対的な前提だから、たとえ一時別れようが沈鬱になることじゃねえんだよ。 「早く行けって。こっちのことは俺らがやるから」 「大将には、大将の仕事ってのがあるだろう?」 「ああ、そうだな」  去り際、竜胆はもう一度俺たちのほうを振り向いて、力強く激励を飛ばした。 「まだ幕は上がったばかりだ。下ろすには早すぎるぞ」 「何せおまえたちには、今夜私を謀った罰を与えねばならんのだからな。断じて死ぬことは許さない」 「ではな。もう行く――また会おう」  そうして竜胆は身を翻すと、龍明らと共に本陣へと駆けて行った。その背が見えなくなってから、俺も残った奴らへ振り返る。 「ふふふ~ん」 「なんだよ、にやついて。気持ち悪ぃな」 「いや別に。やっぱ面白いね、竜胆さん。あれ、どうも本気で私らのこと心配してたよ。自分でやれって言ったのにさ」 「我々が負ければ、当然彼女もただではすまない。指揮官としての立場もある。そういうことでしょう」 「そういうことなの?」 「俺に訊くなよ。だが、きっと違うな」  ありゃあマジで、二心なく俺たちの身を案じている。曰く、おまえの命はおまえだけのものではないってやつか。 「別にそんなもんはどうでもいいが、采配は気に入ったぜ。そこらの雑兵となんざ組んでられねえ」 「咲耶も一応は安全圏だし?」 「うるせえな。減らず口叩いてる暇があんなら、足引っ張らねえように気合い入れろ」 「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ」 「まあ皆、そのくらいにしておけよ。そろそろ真面目に切り替えねば、いざというときに決まらんぞ」 「おまえに言われたくねえよ」「あんたに言われたくないよ」「てめえに言われたかねえよ」「あなたに言われたくないです」  ――と、そんな軽口も確かにここまで。 「来るぜ……」 「ああ……」 「さぁて……」 「いったいどれほどのものか……」 「くくく……面白いなあ」  迫る夜都賀波岐の妖気に押され、夜行の符界がじりじりと後退し始めているのをこの場の皆が理解していた。  血を燃やせ。気力を絞れ。  これよりもう数寸後に、間違いなく過去最大の戦が始まるのだ。  初め、それはただの影だった。  物理的な質量を備えていない映像のようなものであり、実体と評せるものをあらゆる意味で持っていない。  だがそれでありながら、凄まじいまでの鬼気と存在感を放っている。さもあろう。これは怨念の集合体。視認できるほど強く残った、力そのものなのである。  影が厚みを持ち始めた。穢土太極の理に従って、その魂がかつてどのようなものだったか、在りし日の姿に近い形を成していく。  完全な再現はもはや不可能。夢であり、残骸である彼らは根本的に壊れているのだ。過去に喪失した身である以上、それぞれ重度の欠落を抱えている。バラバラの破片を拾い集めて組み直しても、無くした欠片は補填できない。  そう、無くしたものは戻らない。消えたものは帰らない。誰よりも身につまされてそれを知り、ならばこそ成した残留ゆえに、その存在は歪みとなる。  もはやこの穢土を除いて、世界に居場所など有りはしない。かつて海に生きた鰐たちは、湖と化した世に残るため異形の化外となっているのだ。  許さない。認めない。消えてなるものか、時よ止まれ――  ただ一つ、その渇望のみを拠り所にしてここに在るため…… 「……おかしい」  今、血肉を編んだ彼らの姿は、彼ら以外に認識できない。声帯を得たことでいくらか流暢になった声も含めて、その真実は歪みの向こう。あくまで湖側の目線から、彼らという鰐を推し量るのが限界だ。  しかしそれでも――鯉の主観で見ればこそ、妖異の美とも言うべきものが際立っていた。  一瞬の永遠化。刹那の輝きを不滅のものとして固定されているがゆえの、それは必然なのかもしれないが…… 「僅かに侵攻が遅れている。どうやら誰か、食い止めている者がいるようだ」  声に微量の陰りを滲ませて、そう漏らしたのは長身の青年だった。  青灰色の肌に精気はなく、どこか躯のような沈鬱さはあるものの、そこに醜悪さはまったくない。憂いを湛えた瞳は魔性の紅に染まっているが、それら異形の記号がむしろ花を添えるような、妖しいまでの美男である。 「そのようだけど、だからいったいどうだというの。息を吹きかけた程度のこと、紙で止められたなら指で弾けばいい」 「〈滅尽滅相〉《めつじんめっそう》――でしょう、兄さん」  それに応じたのは、西の人間には有り得ない金の髪を靡かせた女だった。まだ少女と言うべき外見なのかもしれないが、禍々しい面鎧に覆われた顔は鬼面のごとく、その双眸は業火のように燃えている。  兄と言われた青年が土葬の屍めいているのと対照的に、こちらは火葬の大輪だった。烈しく、そして〈煌々〉《こうこう》と、滅びの光を身に纏いつつ、凄艶なほど麗しい。  熱という意味においては掛け離れた二人だったが、それでも両者に共通するのは死を連想させる者であること。滅尽滅相と言った台詞そのままに、殺戮を期してこの場に在ることだけは間違いない。  彼らは天魔、夜都賀波岐――穢土最強の怪物であり、西の感覚では三百年前、時の東征軍を壊滅せしめた鬼神なのだ。 「指か、そうだね。まあそれでもいいが……」  青年が苦笑する。端然とした容姿が僅かに崩れ、倒錯的な色気を醸し出すが、同時に浮かんできたのは妖々とした凶の気配だ。 「君はずいぶんと優しいね。誰がそんなもので済ますものか」 「拳の一撃を与えよう。自分が何に牙を剥き、何処に足を踏み入れたのか、彼らには深く思い知ってもらいたい」 「いや、正確に言うと、長く関わりたくないんだよ。外の者はおぞましすぎて、見るに耐えない」  だから最速、最短をもって撃滅する。穏やかな口調とは裏腹に剣呑極まりないことを言ってのけた青年に、女は首肯で同意した。 「じゃあお願い。思い知らせて」 「〈穢土〉《ここ》は私たちの〈世界〉《もの》だということを」 「そのつもりだよ」  同時に、青年を中心にして何かがじわりと広がり始めた。拳を与えると言っていたが、腕一本どころか指一本、眉の一筋すら動かしていない。  だがそれが、先の台詞と異なる行為かと言えば否だった。彼にとっての攻撃とは、傍目に見える動作というものに限定されない。  存在自体が極大の歪みであるがゆえ、感覚そのものが違っている。つまり有り体に言えばこういうことだ。星は猛烈な速度で自転と公転を続けているが、それを認識できる〈塵〉《ヒト》などいない。 「〈種種〉《クサグサ》の〈罪事〉《ツミゴト》は天津罪、国津罪、〈許許太久〉《ココダク》の罪出でむ、〈此〉《カ》く出でよ」  静かだが、地の底から這い出るようなその文言は祝詞であろうか。  青年の周囲に広がる闇は粘性を帯びた泥に似て、まるで原生動物のごとく蠢き、捩れ、溢れ出し―― 「〈此久佐須良比失比氐〉《カクサスライ ウシナイテ》――〈罪登云布罪波在良自〉《ツミトイウツミハアラジ》」  一気に、その質量を数百倍へと爆発させた。  泥が走る。闇が奔る。総てを攫う津波さながら、進行方向に存在するあらゆるものを呑み込んで、音を超える速さで広がり続ける。  それは言うなれば、死滅という概念そのものだった。触れた物は悉く、土も木々も石くれさえも、分解されて腐泥に変わる。  まるで墓穴の侵攻だ。万物、形あるものは崩れ落ちるのが定めならば、腐敗という理からはどう足掻こうと逃げられない。  必然、〈化外〉《かれら》の軍勢を食い止めていた障壁などは、一瞬にして破壊され――  その奥に布陣していた侵略者どもの軍勢は、諸共、腐蝕の津波に呑み込まれた。 「綺麗……」  風に乗って、阿鼻叫喚の調べが聴こえる。信じ難いほど効率の良い大量虐殺と言っていい。  今の一撃で、少なく見積もっても五千強……一万名からなる軍兵の半数以上が死ぬか重傷を負ったはずだ。たとえ即死を免れようと、手足が腐り落ちた人間などはもはや死人と変わらない。  初撃にして大打撃。軍の機能維持という面においても、壊滅以上の有り様だった。まさに青年は言葉通り、敵の本営を直接殴り潰したことになる。  だが―― 「……へえ」  それでも、この結果は彼にとって不本意なものだったらしい。意外そうに眉根を寄せて、僅かながらも驚きの意を覗かせている。 「まだやる気のようだ。士気が折れない」 「一、二、三、四、計五人」 「来るわね、どうも普通じゃない」  先の一撃を食らいながら、食われることなく戦意も消えず、逆襲に転じようという者らがいる。まともに考えて有り得ないことだろう。 「前とは違うか。進化したのか」 「奴の気が濃い。純度があがっている」 「いや、それとも……」  言葉途中に、腐泥の波を突き破って黒衣の男が宙に〈現〉《あらわ》る。二人はそれをじっと見上げる。  ぶつかり合う視線と視線。男の瞳は狂熱を帯び、天魔の瞳は憎悪に燃えた。  不倶戴天。有り得ない。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈は〉《 、》〈許〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と、双方同時に認識して―― 「〈計都〉《けいと》・〈天墜〉《てんつい》――!」  超圧縮され、紡ぎ出される大咒法――腐蝕の津波に対する礼は、摩多羅夜行の星墜しに他ならない。淡海の化外を一撃の下に葬り去った、事実上、東征軍最強の剣である。  眼下の者らを撃滅するべく、天の果てから招かれた計都星は、しかしそれでも―― 「――貴様か」 「その眼、反吐が出る!」  二柱の天魔に触れる寸前、爆轟した気炎によって跡形もなく消え去っていた。 「誓うぞ、一人も生かして帰さない」  続く雷電の閃光が、真一文字に地表をなぞりながら駆け抜けて、穢土の大地を幾何学模様に染め上げる。  魔界。まさしく人智を超えた、ここに地獄の戦場が具現していた。 「ぐおおおおぉぉォッ―――!」  その一撃を回避できたのはただの勘。ほぼ運の領域だったと言っていい。  最初の一波は、夜行の符界が崩されるまでの時間差があったからこそまだ躱せたが、次の二波目は問答無用にやばかった。  まさかあの一発を瞬時に消されるとは誰も予想しておらず、ゆえに完全な想定外。ごく控えめに表現しても、度肝を抜かれたと言うしかない。  奴らが星墜しを耐え切るにしても、相応の効果は見込めるだろうと考えたのは、どうやら甘すぎた楽観でしかなかったらしい。こうして無事に凌げたことが、正直なところ自分でも不思議だった。 「今のは稲妻……? しかし真横に走るなんて」  未だ爆発の粉塵が立ち込めるなか、咄嗟に回避した方向が同じだった宗次郎がすぐ傍らに着地している。そうだ、今のはおそらく雷撃。  地上三尺あたりの高さを真横に薙ぎ払った放電切断。巨大な刃状の閃光が一直線に駆け抜けたのだ。言わば稲妻の斬撃に違いない。 「他の奴らは?」 「さて……いや、健在なようです。しかし全員、よく躱せたものだ」  宗次郎も俺と同じく、自分の無事に困惑している。先の稲妻はそれくらい致命的で、にも拘らず誰も死んでいないのは、奇跡と言っても出来すぎだったが…… 「まあ、今はそんなことを考えてる場合じゃねえか」 「〈悪路〉《あくろ》、〈母禮〉《もれい》……」  腐蝕の波と、〈轟雷〉《イカヅチ》の嵐。それだけ分かれば正体も知れる。西ではガキの御伽噺にすら語られている存在で、知らない奴など一人もいない伝承上の怪物だ。  そいつらが、いま現実のものとしてここにいる。噂にゃ尾ひれがつくものだが、むしろそっちのほうが可愛いくらいだ。まだ直接姿は見ていないのに、近い距離にいるというだけで信じられないくらい消耗していく。  ゆえに、やるなら短期決戦。他の選択は有り得ない。 「考えていることは同じですか」  宗次郎の台詞に笑って頷く。俺たちに下された命は天魔を斃すというただ一つで、今はそれだけを優先すると決めているんだ。  竜胆は死んじゃいない。あんなもので終わってたまるか。だからここで俺たちが、退くことなんて許されねえ。 「行くぞォ――!」  同時に粉塵の帳を引き裂いて、俺と宗次郎は〈疾風〉《はやて》のごとく突貫した。また迎撃の一閃が飛んでこようが躱してやるし、なんとなれば撥ね返してやる。  そうだ、俺に歪みは通じねえ。来ると分かってさえいれば、たとえそれがどんなものでも返杯してやる。  びびるなよ、男は度胸だ。ちっとくらい痛かろうが、要は死ななきゃいいんだよ――!  そして突き破った帳の向こう、ついに俺たちは敵の姿を視認した。 「あれが、天魔――」 「意外に色男じゃねえか、だが分かるぜ」  化け物だ――なまじ人の姿をしているからこそ、どれだけあれが外れているかがよく分かる。目の前にいるのは長身の男だけだったが、もう一人は何処にいるのか。  なんて、そんなことはどうでもいいよな。まずはさっきのお返しをしてやるよ。 「――おらァッ!」  走りながら地面に剣を突き立てて、そのまま一気に振り上げる。再び舞い上がった土砂の帳に、今度は奴がいきなり視界を奪われるという形になった。  しかも、まったく同時に俺と同じことをした奴がいる。あれはおそらく、刑士郎か? いやはや、まったく不本意ながら、考えることが似てるな、おい。  期せずして二方向から巻き上げられた煙幕は、天魔の視界をかなり急激に狭めただろう。たとえどんな怪物だろうが、その刹那は確実な隙になる。  ならば―― 「はあああァァッ!」  そこを他の二人は見逃さない。宗次郎より一瞬早く間合いに踏み込んだ紫織が、膨大な気を練りこんだ拳で打ちかかった。その連携は即興だったが、ほぼ完璧だったと言えるだろう。  叩き込まれた生命圧の振動が轟音となって響き渡り、奇襲の成功を告げていた。先とは違い、間違いなく直撃を食らわしたのだと全員が確信する。  そう、それは間違いじゃなかったのだが…… 「なッ――」  単純な威力においても凄まじく、陰気特効の技でもある降神流の孔雀王――歪みがそれを受けたからには必ず減圧するはずで、前と同じくその瞬間を狙っていた宗次郎は、寸でのところで停止していた。俺と刑士郎も同様に、愕然と固まるしかない。  いや、もっとも戦慄していたのは、紫織だったことだろう。  孔雀の拳を顔面に受け、そいつは小揺るぎもしていなかった。どれだけ地力に差があろうと、陽気を食らって陰気が減じないなど有り得ない。頑強だとか耐久力とか、もはやそういう次元じゃなかった。  ならば、あれは歪みじゃないのか? いいや馬鹿な――絶対違う。誰が何処からどう見ても、陰気の塊にしか思えないのに……  皆が呆けたとも言えるその一瞬、しかしまだそれすらも、さらなる異常の前触れでしかなかった。 「あっ、く、あああああ―――」  〈紫〉《 、》〈織〉《 、》〈の〉《 、》〈拳〉《 、》〈が〉《 、》〈崩〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。のみならず手首も、肘も、肩までも、異界の獣がその〈顎〉《あぎと》で食らい尽くしていくかのように、凄まじい勢いで体細胞を分解していく。  腐っているのだ。あれは視線も呼吸も何もかも、触れるという概念総てにその現象を付随させると見て間違いない。  ゆらりと、紅の瞳が横に動いた。そのまま、絶叫する紫織の姿を視界に収めて…… 「消えろ」  次の瞬間、内から爆発するかのように、紫織の身体は塵になるまで分解された。 「くっ、―――まだまだァッ!」  しかし、それで終わったというわけじゃない。一人殺されたのは確かだが、紫織は無数の〈可能性〉《じぶん》を持っている。消される寸前にその一人を具現化し、今度は逆方向から蹴りを延髄に叩き込んだ。 「ぎ、があああァァ――」  だが、今度も結果は変わらない。蹴りが当たった瞬間に膝から脚が腐り落ちて、傍目には空振りしたようにすら見えてしまう。  なんていう出鱈目さだ。こいつはまるで、猛毒の鎧を纏っているようなものだろう。攻撃することそれ自体が、命取りになってしまう。  迫る追撃――それは睨むというだけのものだが、この一瞬で二度も全身を微塵にされてはいくら紫織でもただじゃすむまい。ならばどうする?  俺と、おそらく刑士郎も、次に採るべき行動を判じていた瞬きにも満たない刹那、それより早く動いていたのは宗次郎だった。  膨れ上がった殺意の奔流が〈颶風〉《ぐふう》となって駆け抜ける。こいつは何の躊躇もなく、紫織が止めを刺される瞬間こそを好機と解釈したらしい。  一人味方が減る危険より、一人敵を減らせる可能性を優先した。腐蝕の魔眼を発する時には、なるほど守りが薄くなるかもしれない。人も獣も、喰らうという行為に際して無防備を晒すのは共通だ。  だから殺す。それは実にこいつらしく、おそらく宗次郎の中では選択肢という概念自体が無かったのだろう。でなくば説明がつかない神速の攻勢だったし、それは結果として紫織を救った。  飛来した斬気は悪路に当たる寸前で消し飛ばされたが、その衝撃で紫織の身体は魔眼の視線上から弾かれる。殺害を意図した宗次郎としては不本意だろうが、少なくとも最悪の流れではない。  そして宗次郎は、まだ必殺を諦めてなどいなかった。 「――邪魔です」  地に転がった紫織を無造作に蹴り上げて、一気に斬人の間合いへと入り込む。前者の行為に俺は何も思わなかったし、そこは蹴られた紫織も同じだろう。このまま戦闘を続行するなら、即座に動けない味方など邪魔な肉塊でしかない。  だからいい。それはいい。俺たちが瞠目したのはむしろ後者。 「馬鹿野郎、てめえ!」  ど正面から攻め込んでいったいどうする。剣が届くということは悪路の間合いにも入ることで、すなわちあれに触れるということ。  そんな真似は、ただの自殺行為でしかないだろうに――  二撃、三撃、走る銀光が清流の滑らかさで、しかし瀑布の勢いで連続する。直後に、宗次郎の剣も肉も腐り落ちる様を幻視した俺だったが、その光景は現れなかった。  当てていない? いいや、違う。あれはまさか…… 「野郎、あの間合いで飛ばしてるのか」  超接近戦での飛び道具。もとより宗次郎の刃とは、その研ぎ上げた殺意の斬気だ。鋼という物質に頼まない攻めだからこそ、あれに真っ向から挑みかかれる。刃風、気閃は腐らない。  加えて、その過剰な殺意は本身を隠す。  双方、肩が触れ合うほどの間合いにいるのに、悪路は宗次郎の位置をおそらく特定できていない。体裁き、虚実のずらし、刹那の単位で死角へ滑り込む視線誘導の技と魔的な勘、洞察力――  それら総てを動員して、魔眼の直撃を躱している。言葉にすると簡単だが、どちらも神技の領域だろう。  殺られずに殺るという面において、その白兵における技量は宗次郎こそ神州最強。歪みの特性や陰気の濃さを頼みにして、守りが大味な俺たちでは辿り着けない武の到達点。一つの形だ。  しかし、だけどそれだけにと言うべきか。この状況に活路は無いと分かってしまった。 「くッ――」  矢継ぎ早に繰り出される斬撃の悉くを、悪路は事も無げに防いでいる。まるで蝿を箸で摘むがごとく、指先の動きだけで総ての斬気を砕いていた。  一歩も動かず、視認もせず、何の困難でもないとばかりに宗次郎渾身の技を無効化している。  つまりそこに存在するのは、絶望的な格差だった。存在としての強度はもちろん、単純な技量においても次元が違う、正攻法でどうにかできる相手じゃない。 「おのれ――」  そして当然、宗次郎もその事実に気付いていた。ゆえに退かない。いいや退けない。屈辱に沸騰している。  それは言うまでもなく、ここまで遊ばれたのは初めてだという憤激だった。死と引き換えにしても一撃食らわし、斬り殺すと、剣気が雄弁に語っている。  そう、あの防御を潜り抜けることが出来ればと、だが―― 「木偶の剣だな。芯が無い」 「なまじ相手をしたので、勘違いをさせたか?」  瞬間、だらりと腕を下げた悪路の首に、宗次郎の斬気が真っ芯で命中した。 「効かんよ。〈穢土〉《われら》の〈太極〉《ことわり》を舐めるな」 「―――――ッ」  なのに無傷。まったく無傷。薄皮一枚切り裂けない。それは紫織の拳を受け止めたときと同様で、頑強さと言うより別位相の物理を目にしたかのようだった。  喩えるなら、絵の中でどれだけ猛火を描写しようと、それが現実の人間を燃やせるわけがないのと同じ。  立っている場所がそもそも違うという断絶感。  そして、絵に現実は害せなくても、現実が絵を破壊することは容易に出来る。  高次元から低次元への攻撃は、赤子の手を捻るよりも通しやすい。 「やべえ、逃げろ宗次郎――!」  衝撃に一瞬硬直したことで、今の宗次郎は魔眼の圏内に入っている。 「さっきのお返しッ!」  ばらばらに分解される寸前だった宗次郎を救ったのは、下から放たれた紫織の蹴りだった。 「がッ―――」  好悪、両方の意味での意趣返し。予期せぬところから加減なしの蹴りを食らって宗次郎は吹っ飛ぶが、粉々にされるよりはましだろう。その反動を利用して紫織も飛び、悪路の視界から離脱を図る。  先ほど失った脚が生えているところから、紫織が再度の可能性を呼び出したのは明白だった。それは無論、あいつに多大な消耗を強いたはずに違いない。  僅か最初の攻防だけで、圧倒的に追い詰められた。この状況でやれることは、ともかく身を隠すしかない。  散開した俺たちは周囲に散って、そのまま一斉に気配を消す。腐った糞のような泥に身を沈めるのは不快だったが、そんなことを気にしているような場合じゃなかった。 「どうした、もう怖気づいたか」  漏れ出るその声すらも、大気を伝播して鼓膜に異常を起こさせる。内耳に抉るような痛みがかかり、頭の中身が腐っていくような感覚に囚われた。  あれが悪路、大墓公……まさしく墓穴の怪物だ。接触すれば死に繋がる。  敵が毒の塊であるってことが、あらゆる意味での問題だった。仮に俺が奴の歪みを撥ね返しても、おそらく意味はないだろう。  なぜなら毒をもって毒を制すと言ったところで、この場合はより強化させてしまう可能性のほうが遥かに高い。  ゆえに何か、別の方法が必要なんだ。そう、たとえば…… 「くそッ……!」  思いつく手がないでもないが、この状況では連携など不可能だ。奴にしたって、いつまでも静観などしていないだろう。 「どうすれば……」  歯噛みする焦燥の中、しかし希望は、予想外のところから現れた。  いきなりの、それも常軌を逸した奇襲を受けて大混乱に陥った本陣だったが、ここにきて徐々にではあるが統制を取り戻しつつあった。 「怪我人は下がれ! 動ける者は前に出ろ! ここを落とされては絶対にならん。押し返すぞ!」  第一波、総てを腐らせる津波によって兵の半数以上が死傷した。のみならず物資の大半が破壊され、その上で数千もの異形が群れを成して殺到してくる。  まともに考えて絶望以外の言葉が見つからない状況であり、恐慌に駆られて自失しても仕方がない。  事実、最初はそうだった。無駄を承知で逃亡する者、自棄に駆られて突貫する者、混沌と化した戦場に救いはなく、全滅は時間の問題と思われていた。  しかし、それでも―― 「恐れるな、思い出せ! 奴らも決して殺せないということはない」  総大将である竜胆が、迎撃の前線に立っている。彼女はその指揮において、特殊な策を講じたわけでも高度な智謀を編んだわけでも断じてない。  むしろ、愚行にさえ近いと言える。指揮官が死ぬとしたらそれは一番最後なはずで、そうでなければ軍という集団などは維持できないのが道理というもの。  しかしそういう理屈と並行して、不合理でなければ成せない事柄も厳然と存在する。ここで必要とされるのは、まさにそうしたものだった。  すなわち、それは士気の問題。この場における最上位者がもっとも危険に身を晒すなら、それを目にした誰もが思う。  自分だけが危機に直面しているわけではないのだと。  しょせんは気分の問題だが、劣勢においてそう思えるか否かというのは雲泥の差だ。  軍とはある意味、極限的な自虐嗜好の集団でもあるのだから、一種の悲壮美に酔いやすい。麗しき姫将軍の神兵として、ここに果てることを良しとした男どもが蛮声をあげて反撃に転じ始める。  竜胆自身の好みはともかくとして、ここではそうした状況が必要だった。悔いるのも悼むのも後でいい。今はそんな贅沢を楽しんでいる余裕などない。 「よし、ひるんだぞ! 全軍、突撃にィ移れェッ!」  氷の鈴が砕けるようなその声に、兵どもの士気はより一層跳ね上がる。将たる者の資質の一つに声というものがあり、その点竜胆は充分以上のものを持っていた。ほぼ天賦の才と言って構わない。  戦況は依然として苦しいものの、絶望と直結しない域にまでは押し返した。そしてだからこそ、ここで次の手を迷ってはいけない。  こちらの状況が五分に近くなったなら、趨勢を決するのは最前線の勝敗だろうと竜胆は弁えている。 「龍水!」 「導波の接続は完了したか? 早く奴らを助勢してやれ!」 「はい!」  自分は無事だから心配するな――などとくだらないことを伝えるつもりは微塵もない。そんな当たり前のことなどより、戦場で修羅に在る漢たちには現実的な処方が必要なのだ。  導波の連絡は超常現象と違うのだから、周囲が乱れている状態では波が混線して上手くいかない。ようやっとのことで接続を完了させた龍水は、最前線への中継役という任を開始した。  この苦戦を、なんとか勝利に導くための一助となるよう。 「どうか、兄様たちのお力添えを願います」 「任せておけ」  強く応えて精神を集中し、念じるままに思いを飛ばして…… 『覇吐、覇吐――聴こえるか、大虚け!』 「……龍水?」  突如頭の中で響いた声に、俺は驚いて目を見開く。 『そうだ私だ、生きておるな? そちらはどうなっている。戦況は』 「どうって……」  一瞬放心したものの、同時に笑いがこみ上げてきた。そうだこれだよ、こいつの助けがあればやれることは一気に増える。 『おい、何を笑っているのだ。私の質問に答えんか』 「ああ、いや悪ぃ。助かったよ」  そして同時に気合いが入った。こいつが助勢にくるってことは、すなわち竜胆も無事だということ。やっぱあの姫さんは、そうそうくたばるタマじゃねえよな。 「戦況は、正直悪い。だが最悪ってほどでもねえ。他の連中も生きてはいるよ。繋いでくれ」 『分かった』  そうして数瞬待ったのち、別の声が頭に届いた。 『よぉ、おまえ何処にいる?』 「野郎の右手側、十間ほど離れた泥ん中だ。そっちは?」 『なるほど、じゃあ俺はてめえの左だな。野郎の背中が見えてるぜ。だからって突っ込む気にゃあなれねえが』  癪だが、まったく同意してやりたい。あれを相手に直接特攻かけるなんてのは自殺行為でしかないのだと、ついさっき思い知った。 『僕は覇吐さんと対称方向。奴を挟んだ形ですね。紫織さんは』 『宗次郎の右ー。ちょっとこの泥、臭いし汚いしで気分最悪。吐いちゃいそう』 「おまえ、大丈夫かよ」 『ああ、うん。なんとかね。てかあんたらさあ、女の私に一番きっつい目遭わせるとか、それ男としてどうなのよ』 『知るかよ。てめえが突っ込んでやられたのはてめえの勝手だ。俺にゃあまったく関係ねえ』 『前から思っていましたが、紫織さんは防御の面が稚拙ですね。技術がどうこうという意味ではなく、単に勘が鈍いですよ』 『ちょっとあんた、さっきのことに礼もなし?』 『頼んだ覚えはありません』  宗次郎の返しは平板な口調だったが、内では激昂しているに違いない。自分の技が悪路に通じず、助けられなければ死ぬところだったという事実に深い屈辱を感じている。  まあ気持ちは分かるが、それを抑えている辺りは流石と言っておくべきか。キレてどうにかなる相手じゃないと、正しく理解はしているわけだし。  全員が特攻主義であることを鑑みれば、この局面でもまずは冷静。 「でもよ、今はそれこそが必要なんじゃねえか?」 「触れもしないし見られても駄目。そんな出鱈目を相手にして、無傷が通るとは思ってねえだろ。少なくとも相打ち覚悟は、どう転ぼうが要るわけでよ」 『あんた、また私に働かせる気?』 「そうだ」  これは避けられない配役というやつ。あれと正面からぶつかって、曲がりなりにも耐えられる奴が最前線に出るしかない。  すなわち、他でもないこの俺が、だ。 「おまえら全員、合図のあとに俺を撃て」 『はあ』 『それは……』 『なるほどな』  刑士郎だけは、俺の狙いを委細承知したらしい。出来るかどうかなんてことは、この局面で推し量ってる場合じゃない。  狙うのは、最大効率の一撃必殺。この面子で可能な一番でかい攻撃をぶつけることのみ。 「上手く嵌れば、絶対効くはずの攻撃だ」 「なあ、ここまで言えば分かるだろ。いつまでも喋くってる余裕はねえんだ」 「伸るか反るか、どうだよてめえら」  問いに、沈黙はほんの一瞬。 『いいでしょう。ただし僕は自分の歪みが分からない。ぶっつけ本番になりますが、どうなろうと知りませんよ』 『同じく。手加減しないから、死んでも文句は言わないでよね』 『分かってるだろうが、保証は一切できねえぞ』  ああ、そんなの言われるまでもねえって馬鹿ども。 「今から俺が特攻かける。それが合図だ。とちるんじゃねえぞ」 「それから龍水」 『なんだ?』 「状況は分かったろう。そういうことで、竜胆に言っとけ。恩賞弾んでくれよってな」 「それから夜行は――」 『おそらく、もう一人と交戦中だ。あの方に私の導波は届き難いが、なんとかして補足する』 『だから覇吐、どうか武運を』 「任せとけって」  自信半分、強がり半分、だが口だけ野郎になる気はない。  さあ、それじゃあいっちょ勝負と行ってみようか。 「汚らわしい異界の者ども。この黄昏に埋もれる塵となれ」  吹き付けてくる腐臭を孕んだ妖気に負けじと、武気をみなぎらせて身体をたわめる。  これから仕掛ける攻撃のため、この全身を火矢そのものへと変ずるように。 「汚らわしい? 異界の者ども?」  ふざけろ――こっちから見りゃあてめえらこそが、ろくでもねえ糞撒き散らす諸悪の根源でしかねえんだよ。  遠目に、それは箒星のようだった。  絡み合い、激突し、共に競うが如く舞い踊りながら、星の〈軛〉《くびき》を破る速度で〈天〉《ソラ》を飛翔する二つの光点。  流星以外の何ものにも形容できず、そして絶対に流星では有り得ない。それは上昇を続けているのだ。  空を飛ぶのは人の夢。ゆえに未だ実現されぬ技術であり、飛行機械はこの時代に存在しない。落下という下方の死点を消す咒を極め、浮くことができる術師ならばごく少数存在するが、これはその領域を数百桁規模で逸脱している。  重力無視に、高速飛翔。加え縦横無尽の機動性――いったいどれだけの理屈をもってその超常を成しているのか、まったく見当がつけられない。あるいは、理屈を取り去ってこそ成せる類の魔性なのか。  すでに雲海すら遥か下。成層圏に達する超高高度の絶空こそが、それらの戦場と化していた。相応しいと、そう言えるのかもしれない。 「名は――名乗るがいい下郎」 「摩多羅夜行――神州西方、御門一門が陰陽頭にして、東征軍総大将、久雅竜胆公〈麾下〉《きか》の末席を汚す者なり」 「御身は夜都賀波岐が一柱――母禮殿とお見受けするが、如何に?」  切り裂く烈風と低酸素、極低温の世界においても、両者は何の影響も受けていない。常人には生存不可能なこの場所こそが、なるほど鬼と魔人の一騎打ちには誂え向きの舞台だろう。 「知らんな、好きに呼んでいろ。貴様ら異界の蛆どもが、勝手に付けた名などに興味はない」 「ではお言葉に甘えよう。どんな〈醜女〉《しこめ》が現れるかと思っていたが、意外にも〈愛〉《う》い容貌の女人であって、まあ正直なところ男の見せ甲斐がある戦だよ」 「ふん――」  挑発めいた軽口に、母禮と号されている東の天魔は失笑一つ漏らさない。そういう性分なのであろうし、何より嚇怒に燃えている。 「私に言わせれば予想通りだ。貴様らは相変わらず醜悪極まる」 「むしろ以前より輪をかけて汚らわしいよ。まるで糞溜めを覗く気分だ」 「これはこれは」  螺旋状に絡みながら上昇するただ中で、母禮の放った腕の一振りを高速の咒で夜行は迎える。  親指を中央へ、人差し指と中指を西方へと向けた構えは土生金。すなわち金気を増幅させる法印であり、木気に属する雷電を防ぐための金剋木に他ならない。  結果、母禮の稲妻は軌道を曲げて、遠雷のごとく遥か彼方に飛び去っていく。その衝撃に両者は弾かれ、高度一万丈の空に浮遊したまま対峙した。 「それは些か、傷つくな。手前味噌だが、今まで容姿を貶されたことなどないのでね」  常通りの諧謔味を滲ませて夜行は微笑を浮かべているが、先の攻防は無論のこと、そんな長閑なものではない。  金は木に〈剋〉《か》つ――道理だが、根本の格が違っている。山をも両断する母禮の〈雷〉《イカヅチ》は異界の法で編まれており、言わば人が知っている稲妻とは別概念のものなのだ。  ゆえにそれを剋すなら世界法則の改変こそが必須となり、並の術者が万人掛かりでも防げるようなものではない。  そんな猛撃を都合十一、ここに至るまで夜行は凌ぎ続けている。初撃において覇吐らが全滅を免れたのも、実のところ彼のお陰に他ならない。  よって現状、母禮は攻撃の総てを無効化されていることになり、そうした意味でも夜行優勢……のように見えるのだが。 「寝起きでまだ冴えぬのかな。御身の力はその程度ではあるまいよ」 「どうやら穢土の破壊を懸念しておられるようだから、このような場所まで〈誘〉《いざな》ったのだ。遊びの時間はもうよかろう」 「さあ、その本領を見せてくれぬか。天魔殿」  母禮はまだ、力の片鱗すら見せていない。夜行はそのように捉えていた。  無論、彼とて余力はある。しかしはたして、それが同規模のものなのか。 「私の力を十として、そちらは幾つだ?」  この傲岸不遜な陰陽師をして、己を十と評すること自体が敵手の異常性を表している。なぜならこれまで彼にとって、自分に近い域の存在などは皆無だった。  夜行を十などという数値に置けば、他の者らは表現できぬほど小さくなって、比較そのものが成り立たなくなる。だが、今は違うのだ。  十二・三か十五ほど、ここに至るまでの母禮を査定するならその辺りだが、前述の通り彼女はそんなものではない。  仮に百なら斃せるだろう。五百であっても封印できると、夜行は冷静に分析している。千に届こうが相打ちは可能だろうし、二・三千でも逃げることはできるかもしれない。  そのくらいの覆し、逆転を成す技量と知識が夜行にはある。  しかし…… 「一万、二万、それ以上か」  万象見通す天眼が、敵をそのように見定めている。いや正確に言うならば、夜行の目を持ってすら完全には測れないのだ。  そもそも星墜しを無効化されたという時点で、窮地以外の何ものでもない。だが、だからこそ未だ浮かべている微笑の正体が謎めいていて、不可解な態度だった。 「……奇妙な男だ」  母禮もそこに無視できぬものを感じたらしい。ここまで様子見に徹していた理由の一つはそれだろう。直情なようでいて、意外に聡い面がある。 「そして危険な男だな。どうやら貴様、座が見えているらしい。でなくば私の技は防げない」 「つまり、それをもっての自惚れか。なるほど、あちら側ではおまえに伍する者などいなかったろうよ。その手の人種なら見たことがある」 「下種め。貴様のような輩が行き着く場所などただ一つだ。総て無に帰す。それしかない」 「まあ、御説ごもっとも。無に云々はともかくとして、大方のところ否定はせぬよ」  苛烈で底冷えのする糾弾に、夜行は肩を竦めて笑うだけだ。変わらぬ慇懃無礼な口振りで、弄うように言い返す。 「だがその態度は、女子特有の悪癖だな。相手を測った気になっているとき、己も測られているという意識が欠落している」 「存外に俗だな母禮殿。自分だけは他者より複雑だとでも思っているのか。可愛らしいぞ」 「〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈娘〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈の〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈ぬ〉《 、》と、思っているのだろうなあ。あはははははははははははは――――!」  哄笑は、爆ぜる轟雷によって掻き消された。 「愉快。愉快。なるほどつまりそういうことか。少し穢土の法理が見えてきたぞ」 「――分からぬことを」  弄言ごと撃ち落してくれると言わんばかりに、拳が、手刀が、空を裂く。それに合わせて雷気が走る。  飛び回る夜行はその悉くを躱し、逸らし、防いでいるが、徐々に追い詰められているのは否めない。母禮の技は一撃ごとに威力を増しているのだから、至極当然のことだろう。  しかしそれでも、精神的な主導権は夜行にあったのかもしれない。ただの虚勢や狂気ではなく、彼は何かを確信している。  迫る過去最大の雷電雨――先の基準に照らして言えば、五百を超える攻めの前にも夜行の態度は変わらない。 「〈阿迦陀〉《あかだ》・〈須多光〉《しゅたこう》・〈刹帝魯〉《さっていろ》――〈唵〉《おん》・〈蘇陀摩抳〉《そだまに》〈娑婆訶〉《そわか》――」 「くっ、ははは――、素晴らしい!」  ついに避雷の咒をもってしても防ぎきれない規模の技に弾かれて、確実に進退窮まってもまだ笑う。連続する猛撃に符は焼き切れ、咒は破壊され、鎧の悉くを剥がされて丸裸となっていくのに――  火達磨と化しても疲弊を見せない。効いていないわけでは断じてなく、むしろ痛みと敗勢こそを楽しんでいるように見える。  そのまま夜行は、対峙する母禮を指差し言葉を継いだ。 「貴様に何が分かるのかと言いたげだが、では一つだけ。〈剣〉《つるぎ》を見せてはくれまいか」 「御身の構えも、その挙動も、それは拳法のものではないよ」 「どうかな。意外に見切られているものだろう?」  これまで母禮の攻撃は、総て徒手空拳によるものだった。それに付与する雷電によって格技の範疇は超えていたが、術理が肉弾であったことに変わりはない。  しかし、夜行は否と言う。おまえの本性は別のものだと、確信をもって告げている。  それが真実だとしたならば、確かに夜行は母禮の見立てよりも彼女に踏み込んでいると言えるだろう。だが、仮にそうだとして何があるのか。  未だ敵が、武器すら抜いていない状態でこの様ということ。  すなわちそこに待っているのは、より隔絶とした両者の力量でしかないというのに。 「言っただろう。そちらが気兼ねせずともよいように、こんな場所へと誘ったのだ」 「もう一度言う。剣を見せてはくれまいか」 「〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》〈役〉《 、》〈者〉《 、》〈風〉《 、》〈情〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈分〉《 、》〈際〉《 、》〈で〉《 、》、〈舞〉《 、》〈台〉《 、》〈を〉《 、》〈慮〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈滑〉《 、》〈稽〉《 、》〈だ〉《 、》〈ぞ〉《 、》」 「―――――」  瞬間――高空の大気が原子に至るまで凝結した。 「貴様……」  漏れた呟きはごく静かで、怒りも恥辱も何もない。  だがそれでありながら、戦慄を喚起する極度の威圧がそこにある。  他者が触れてはならぬもの、胸に秘めている何がしか。  逆鱗という名の起爆装置―― 「まだ確証がないのだ、教えてくれ」  そんな爆裂を前にしても、夜行は飄然としたままだった。今、彼の耳にはようやくこの位置を補足した龍水によって、ある作戦を告げられたのだが、そんなことは関係ない。  ただ優雅に髪を掻き揚げながら、伊達男よろしくおどけた仕草で。  別位相を透かし見る超視力が、一つの言霊を掴みあげた。 「まさか役者が良ければ芝居は至高……などと戯言に縋っているわけでもあるまいよ」 「貴様ぁぁぁァァッ―――――!」  そのとき、そこに恒星が出現した。  成層圏に発生した大熱量は物理法則を裏切って燃え狂い、天地を貫く火炎と稲妻の大柱は、一つ一つが国を消滅させる程の規模にある。  それが都合十数本。母禮を中心に旋回しながら束となって形を成し、両の手へと握られた。  そう、まさしく森羅摧滅を成す二振りの剣として。 「いいだろう。望み通り焼き払ってやる。影の欠片も残さない」 「その驕慢、その在り方……やはり貴様、奴の〈継嗣〉《けいし》だ」 「奴……?」  一瞬、眼前の脅威すら意中から失せたように、夜行は眉を曇らせる。それがこの戦いにおいて初の異常、彼の動揺と言えば動揺だった。 「なぜ貴様のような者が生まれるのだ」 「なぜ貴様のような者が勝利するのだ」 「私たちの黄昏に、そんな罪悪があったというのか」  母禮の目は夜行を見てない。彼を素通りして何か別の、遥か遠方にある事象を見ていた。  業火に燃える赤の剣も。  鬼電が瞬く青の剣も。  今より切り伏せるべきはその存在で、〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  それが稀代の陰陽師にして、人界の穴と評された天才の胸に、曰く言いがたい感情を呼び起こした。 「もう負けない。私は強くなったんだから」  そしてここに、さらなる異常が巻き起こる。 「――行くぜェッ!」  その一瞬に勝負を懸けて、腐泥を蹴散らし俺は駆けた。  紫織は心配していない。宗次郎も大丈夫だろう。問題があるとすれば刑士郎だが、そこはあらゆる意味での運に任せた。  この特攻は、俺たち全員にとっての生死を分かつ。ならば一蓮托生として、禍憑きが起きる条件は満たしている。  ゆえに後は、その方向性さえ誘導できればそれでいい。  すなわち俺に落とすことが、皆の生存に繋がるという結果に結びつきさえすれば―― 「――来ォい!」  悪路がこちらを見るより早く、三つの歪みがそのとき俺を貫いた。 「――――――ッ!」  あまりに度を越えた衝撃に、周囲の音も感覚も消え去った。時間すら止まったかのような世界の中で、自分の身体があるかどうかさえあやふやになる。 「……ぁ、――っ、………!」  もはや何が何で、どれが誰だか分からない。  だが、それでも一つだけ……確かなことは頭上から炎雷が落ちたということ。 「てめえ、マジで刑士郎……」  また雷かよ、この馬鹿野郎。だがよくやったぞ、これは母禮の技に間違いない。  完璧、ここまで想定通り、俺たちに抜き難く存在していた火力不足を、この一手で補える。  同じ夜都賀波岐、化け物同士。だったらこれが効かない道理などあるわけがない。  このまま撥ね返すことが出来さえすれば、それは間違いなく決め手となって――― 「――覇吐!」 「覇吐さん!」 「てめえ、それで終わりかくそったれ!」  声援とは程遠い、むかつく三重奏がしっかり聞こえる。問題ねえ。  いま俺は確実に、総てを受け止め立っている。  ならば―― 「食らええええええぇぇェェッ――――!」  誓った勝利を手にするため、裂帛の気合いと共に振りかぶる。 「禊祓ェ、黄泉返りィィッ!」  全身全霊の叫びを武威に乗せて、最大最強の一撃を送り返した。  その威力に疑うべきところは何もなく、紫織の特性も付加したことで絶対躱せないものと化している。  そして上手く言えないが宗次郎、あいつの歪みはまさしく悪路に対する相剋だと、俺は肌で理解していた。 「――行け」 「決まって」 「ぶちかませェッ!」  ゆえに結論――これは紛れもない必殺だ。  あらゆる面で穴はなく、数瞬後に俺たちが見るものは一つだけ。  この轟音の果て、舞い上がる粉塵が晴れた頃には、対象を消し飛ばした無人の荒野が広がっているに違いない。  確信を持って、誰もがそう思っていた。  他の結末を思い描くことなど不可能だった。  だから―― 「なっ……」  そこに現れた不条理に、誰もが絶句するしかなく。 「――太・極――」  格が違うという言葉の意味を、ここで初めて知ることになる。  それは形を持った一つの宇宙。主たる者の渇望に沿い、絶対の法則として顕現した彼らの本性に他ならない。 「〈随神相〉《カムナガラ》――〈神咒神威〉《カジリカムイ》・無間焦熱」  太極とは、それを定義した者の魂に属した色を帯び、その理をもって他の総てを塗り潰すもの。  曰く、万象を型に嵌める法則そのもの。 「〈随神相〉《カムナガラ》――〈神咒神威〉《カジリカムイ》・無間叫喚」  よって彼らは、神格の座に達している。  西の常識では抹消された概念だが、神の位階に属する者には、人や人もどきの業などあらゆる意味で通用しない。  ゆえにその座へ至らずして、どのような策と力を重ねようが結果は蟷螂の斧にもならぬ。  絶対原則――神格は神格にしか斃せないのだ。 「ふざけろよ……」  先に撥ね返した攻撃などは、低位階の業だったからこそ出来たことに他ならない。  この領域に移行した彼らを傷つけることはもはや不可能。  かつ、その業を再度弾ける可能性もすでに絶無。  そしてそれは、色も形も定まっていない未熟な太極からしても同様で…… 「素晴らしい」  これか、これこそ型に嵌った姿なのかと、夜行は舌を巻きつつ感嘆していた。  まだくすんでいる面はあるものの、大方において見たいものは見たと満足し…… 「御身の勝ちだ。好きにされよ」 「ただ――」  伏し目がちだった両眼が、そのとき凄絶な光を放った。 「少しばかり気に入らんな。いったい誰と戦っているつもりなのだ」 「私を無視した存在など、これまで一人もいなかったというのに」 「落ちろ、波旬――」  神威の法を纏わせて、穢土太極の大炎柱が落ちてくる。  その軌跡、その狂おしさ、美々しさ眩しさ醜さよ――! 「決めたぞ。おまえは私のものだ」  事ここに至ってまだ己を見ていない女にそう告げ、夜行はその総てを目に焼き付ける。  見る。見る――見続ける。  網膜が蒸発しても捉えた〈霊質〉《すがた》を逃さない。 「ああ……なんだ、やはりただの娘ではないか」 「泣いているのかな。笑えるな」 「おまえにだけは、断じて降らん!」  魔天に大輪を咲かす火葬の爆発――鬼面を彩る凄絶哀絶なその顔が、摩多羅夜行の生涯最後に見たものとなった。  そして…… 「総て腐れ。塵となれ」 「この屑でしかない我が身のように」  天を圧する巨人の剣が振り下ろされる。  それを前に、俺たち全員は成す術もなく…… 「つァァッ――」  視界の端で、紫織の両腕が吹き飛ばされた。  あれの繰り出す一撃を前に、どんな理も意味を成さない。無限数存在する可能性を一纏めにして、玖錠紫織というモノ自体が腐毒の法で塗り潰される。 「――おのれェッ!」  そして宗次郎は、発生した衝撃の余波に呑み込まれた。  それは直撃を避けられたとも言えるはずだが、ある意味でより深刻な結末を引き起こすだろう。常軌を逸した規模の陰気に溺れてしまったわけなのだから。 「――くそがァッ!」  加えて、刑士郎も同様だった。  もとから高濃度に汚染されていたこいつにとって、それがどういう事態を招くのかは分からない。ただ決定的な爪痕を刻まれることだけは間違いなく、どのみち無事ですむはずがないだろう。  ならば俺は、いいやだからこそ俺だけは…… 「舐めるな、来いよォッ――!」  一歩も退かず、総てを正面から迎え撃った。 「ぐッ、があああァァッッ」  諦めない。諦めない――死んで堪るか、絶対退かねえ!  たとえ何がどうなろうと、こいつを弾き返してみせるんだ。 「でねえと――」  でねえと、なあおい、背後に守った俺の姫様―― 「竜胆がッ――死んじまうだろうがああァァッ!」 「無駄だ」  自らの絶叫すら掻き消される、濁流のような陰気の中で…… 「おまえは死ぬ。何を置いても殺すべきだと、いま直感した」  無慈悲なその声だけが、耳にいつまでも残っていた。  そして次の瞬間に、何も分からない暗黒の淵へ俺という存在が落ちていく。  溶けて、砕けて、腐りながら。  何処までも、何処までも何処までも…… 「ああ……」  なんだろう。いつか遠い、果ての記憶。  何かを忘れているような、何かを知っているような。  俺の名前は? 坂上覇吐?  誰だよそれは? 〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈俺〉《 、》〈に〉《 、》〈名〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》?  懐かしく忌まわしい〈揺籃〉《ゆりかご》へ、俺はゆっくりと落ちていった。 「うわああああああああ―――!」  委細余さず、総ての状況を見ていた龍水は絶叫して顔を覆った。 「そんな、そんな馬鹿な――夜行様!」  もはや狂乱していたと言っていい。彼女にとって有り得ないもの、一つの世界が音を立てて崩れ去ったのだから無理もない。 「覇吐、紫織、宗次郎、刑士郎……!」  皆、皆、残らず砕けた。あれではおそらく、誰一人として…… 「う、うぅ、うあああああああ!」  ただ事ではない様子に駆けつけてきた者らの声も聞こえない。御門龍水は今このとき、まさしく崩壊したのだろう。たとえ導波越しであろうとも、神格というものに触れてしまった必然だ。 「覇吐たちが……?」 「兄様が……?」  ゆえに龍水が語らずとも、皆が等しく事態を悟った。そもそも異常ならば此処からでも見える。 「なんだあれは……」  おどろに染まった空の向こう、天を衝く異形の怪物が二ついた。  淡海で見たものよりもさらに巨大でおぞましく、吹き付けてくる気の凄まじさも比ではない。こうして遠目に見るだけでも、心がばらばらになりそうだ。  覇吐らが負けた? ではあれをどうする? どうしたらいい?  竜胆の中で、このとき何かの線がぷつりと切れた。それに呼応するかのように、周囲の兵たちも壊乱状態に陥っていく。  駄目だ、これではいけない。立て直さないと――  そう強く思ってはいるものの声が出ない。手足が動かぬ。震えが止まらなくなって視界すらも狭まっていく。 「嘘だ……私は信じない!」  言うが否や相方の背に飛び乗って、主人が消えた方角へと駆け去っていく丁禮を止めることすら出来なかった。  ただ喘ぐような吐息と共に、切れ切れの言葉が漏れるだけで…… 「龍、明……殿…」  この場においてただ一人、自分が頼ってもよさそうな相手。甘えが許されるかもしれない相手。  縋りたいと、無意識にその姿を捜し求めているというのに……  なぜだ、なぜ彼女すら見当たらない! 「薄汚い波旬の細胞ども」 「死に絶えろ。絶望を知れ」 「ここは貴様らが踏み込んでいい世界ではない」 「うっ、く――、ああああああああああァァッ!」  耳を抉り取って捨てたくなるような呪いが辺りを震撼させ、先のものとは比較にならない腐蝕の津波が押し寄せてくる。  絶望――どうしようもないその二文字が、総てを捉えようとしていた瞬間だった。 「――竜胆様ッ!」  乾いた音が響き渡り、強い衝撃に首が揺れる。次いで一拍置いた後に、痺れるような痛みが頬を伝って…… 「お気を確かになさってください。まだ終わってはおりません」 「……咲耶?」  自分は今、もしやこの少女に横っ面を張られたのか? 瞬時に事態を理解できず、思わず呆然としていたところに柔らかな詫び言が続けられた。 「どうかご無礼をお許しください。差し出た真似をいたしました」 「ですが竜胆様は我らの将……強く立っていただかなければなりません。生きていただかなければなりません」 「希望を捨てないでくださいませ。まだ始まったばかりではないですか……そうでしょう?」 「ぁ……」  視界が急激に広がっていく。そうだ、何を自分は呆けていたのだ。  自分は生きて、ここにいて、まだ立っている者もいるというのに。  霧が晴れていくような意識の中で、竜胆は恩人とも言うべき少女の顔をまじまじと見つめてから、頭をさげた。 「すまない……そして礼を言う」 「咲耶、おまえの言う通りだ。将として恥ずべきところを見せてしまった。忘れてくれ」 「いいえ、しっかりと覚えておきます。竜胆様にも姫御然とした、可愛らしい面があったのですね。新鮮でした」 「おまえな……」  この状況で軽口とは恐れ入る。それを言うならこちらのほうこそ、咲耶の強さに驚きだった。  いつも淑やかで慎ましい態度の裏に、これほどの剛胆さを持っていたとは……正直、想像すらしていなかった。 「私もしっかりと覚えておこう。承知だろうが、なにぶん友人が少ないものでな」 「実に貴重な体験をさせてもらった。忘れるのは惜しいし、無にしたくもない」 「そのために、おまえは進言をしたいのだろう?」 「はい」  強く、迷いなく頷く咲耶。竜胆もまた微笑で頷く。 「この局面をどう乗り切るか……試していない手がまだ一つだけ残っていたよ。おまえの口から聞かせてくれ」 「では……」  凛然と顔をあげて、淀みなく綴られた咲耶の言葉は。 「ここでわたくしが、禍憑きを使います。どうかその旨、お許しください」 「認めよう」  短く応えて、竜胆は強く咲耶を抱きしめていた。 「ぁ……」 「なんだその反応は。女同士ではないか、恥ずかしがるなよ」 「これはまあ、なんというかだ。なるべくおまえの傍のほうが、生き残れるかと思ったものでな。別に変な意味はまったくないよ」 「ならば、一緒に龍水様も……」  言って、咲耶は気絶している龍水を抱き寄せた。傍から見れば滑稽な図で、とても戦う者の姿ではない。  だがこれこそが彼女らにとって、この場における最強の策であり生きるための布陣なのだ。 「申し訳ありません。なんだかこんなときだというのに、妙に楽しゅうございます。ご存知でしょうが、わたくし友人が少ないもので」 「人肌とは、これほど安心するものなのですね」 「同感だな。それに龍水が寝ていてくれて助かった」 「こいつはぎゃんぎゃんとうるさいから、起きていたらふざけたことを抜かすに決まっている。竜胆様は、本当に姫御ですかとかなんだとか」 「まあ、それはなんとも」 「失礼な話だろう。前にそう言ったんだぞ、不届きな奴だよ」 「申し訳ありません。わたくしも少し、それは思っておりました」 「ほう……」 「いた、いたたた、あの竜胆様、つねらないで……」  腐蝕の波はすぐ間近に迫っている。これから何がどうなって、どのような収束を見せるのかは分からない。  咲耶の禍憑きは強大だが、それに比例して返し風も強く吹き、また何処に向かうかも分からないのだ。これは博打と言うよりも、単なる爆弾の破裂に等しい。  だが、何もしないよりは遥かにましだ。座して待っていても死しかないなら、一か八かに総てを賭けよう。責任の所在は明白にある。 「いいか咲耶、何があってもおまえは悔やむな。これは私の判断だ」 「何処の誰にも、絶対文句など言わせはせん。大丈夫だよ、きっとみな上手くいくから」 「兄様も、覇吐様も、そして他の方々も……ええ、そうですね。きっと、きっと……」  そして腐泥が押し寄せてきたその瞬間、極限まで張り詰めた危機意識により咲耶の封印は弾け飛び―― 「わたくしも、皆様のことを信じたいと思います」  ここに、最大の禍憑きが発現した。 「―――――――」  主の安否を確かめるべく、宙を駆けていた童子たちの身にそれは起こった。 「えっ―――」  身体が熱い。止める間もなく、内からめくりあがるように存在そのものが反転していく。  爾子と丁禮という外装の下、あまりに手に負えない代物ゆえに、夜行が封印していた本性が曝け出される。  その性は狂。その状は暴。敵も味方も何もなく、ただあるもの悉くを喰らい尽くす魔性の姿が―――― 「あ、あ、あぁ、ああぁぁあああぁぁあぁぁぁぁ――――」  狂乱の咆哮と共に、穢土の空へと解き放たれた。  その衝撃に腐蝕の波は吹き飛ばされて、跡形もなく消え失せる。  代わりに現れたのは山ほどもある巨大な銀狼――右目から血を迸らせて轟哮する、異形の獣に他ならない。  これは紛れもなく〈随神相〉《ずいじんそう》。天魔のそれと同じものだ。でなくば悪路の法を打ち破ったという事実の説明がつけられない。  神格には神格でしか対抗できない道理なら、これがそうだという結論に異を挿むのは不可能だろう。なぜ彼らがという疑問はあるが、それに答えられる者はこの場にいない。  ゆえに……  その破壊衝動の爆発が、さらなる混沌となってこの修羅場を掻き乱す。もはや人の子に出来ることなど、一毫たりとも有りはしないとでも言うように。  そして実際、それは厳然たる事実だった。  大地を砕き、空を割り、人智を超えた法則同士が相剋しながらぶつかり合う。三者は格において近しいからこそ、起きる事態の凄惨度合いは先ほどまでの比にならない。  煮え滾る神威と神威に巻き込まれ、塵屑のごとく散っていく兵の数々と死の嵐。大災害と呼ぶことすらおこがましい悪夢を前に、咲耶はただ呆然とそれを見ていた。 「ぁ、ぁぁ………」  自分たった一人だけが、まったく傷を負うことがない。当たり前だろう、分かっていたはず。なぜならそういうものなのだから。 「わた、くし……」  これが真の禍憑き、真の歪み。  大凶星――禍津瀬織津比売・凶月咲耶。  覚悟はしていたはずなのに、これまで培ってきた自負と人格が木っ端微塵に吹き飛ばされる。  眼前に展開するのはそれほどまでの暴虐で、こんな凶威を内に収めながら生きてきた自分が信じられない。  いったいなんだこの有り様は? ふざけすぎているだろう、爆弾どころの話ではないと――  今、初めてそれを知り、咲耶は己にこそ恐怖した。  何をつけあがっていたのだろう。何を勘違いしていたのだろう。これが何かの幸せにでも繋がると、本気で思っていたのか恥を知れ。  具現するのは、ただ底抜けの凶事、凶災、それしかない。そう弁えていたからこそずっと今まで封印し、この異能を消し去ろうと願ったのではなかったか。 「 」 「 」 「 」 「 」  猛り狂う異界の神々。彼らの言葉は分からないが、同時に分かるような気もしていた。  あれは自分たちを許さない。何があろうと絶対に、ここまで攻め込んでくるだろう。その揺るぎない妄執を強く感じる。  ああ、だったらそれならば、その結末を受け入れればいいではないか。  自分の望みは消えること。凶月咲耶がいなくなれば、この忌まわしい力も霧消するはず。  そうだ、それでよいはずだ。何の不都合もありはしない。  だから早く、一刻も早く、全部お願い終わらせて――  銀狼の吼え声が断末魔へと変わっていった。同格ならば二対一で勝ち目がないのも当然で、そうさせたのは言うまでもなくこの自分。  なんて害悪。有り得ない。まさに疫病神そのものだ。  つい先刻、不思議で素敵な人から言われたことも。  それに感化されたような自分に酔ってみたことも。  すでに何処か、遥か彼方へ飛び去っていて思い出せない。  しょせん人は己一人、自己の都合のみを愛しながら生き死んでいくだけなのだから、こんなものでしかないのだろう。  そう諦観して、目を閉じて…… 「兄様……」  迫り来る凶気の神威に怯えながら、総てを忘却の海に沈めようとしたそのときだった。 「――――――」  強く頬を叩かれて、あまりに容赦ない一撃だったのでその場に倒れる。何事かと、思わず涙を滲ませながら目を明ければ…… 「お返しだ。これで貸し借りなしにしよう」 「そして何度も言わせるな。魂のない死者の踊りなど許さない」 「私はまだ、諦めてなどいないのだからな」 「―――竜胆様!」  叫び、手を伸ばすが届かない。  自分の禍憑きは銀狼が斃れた時点で終わっており、ならばこれはどういうことかと刹那のうちに悟ってしまった。  そうだ、きっとこれこそ返し風。  あれだけの凶事を起こしてまで身を守った代償として、もっとも大きくもっとも輝く星が奪われる。  それが何かは、言うまでもなく―― 「さあ来い! 私はここにいる!」 「貴様ら天魔など恐れていない!」  駄目だ、駄目だ、視界が薄れる。なぜ涙が溢れるのだろう、自分のことではないというのに。  これはどういう感情なのか、自分は狂ってしまったのか。  分からない。分からないまま無情にも―― 「滅尽滅相、一人残らず」 「誰も生かして帰さない」  東征軍総大将、久雅竜胆鈴鹿の死を前にして咲耶も砕けた。  目を覚ましたとき、俺は泥の中にいた。  起き上がってみれば辺りは荒野で、自分の有り様も含めた事態の成り行きを思い出す。  正直なところ、初めは特にこれといったものを感じなかった。  ああ、なんだ。そういうことかと……気抜けしたような感覚が一番強く、寝起きそのままの頭が幾分ましになってきても、湧いてくる思いはただの困惑。  なぜ俺は生きている? 死んだはずじゃなかったのか?  天魔の力は想像を遥かに絶し、どこか暗いところへ落ちていったはずなのに……  あれは死だろう。そうとしか思えなかったし、状況的にも他の解釈は成り立たない。〈死〉《そこ》での記憶はまばらだったが、自分が無になっていくという感覚だけは鮮明に覚えている。  消えたと感じたし、終わったと思った。あの時点で俺は間違いなく零になり、ならばそこからの帰還なんて不可能なことでしかない。  死にかけたことは何度かあっても、本当に死んだのは初めてだ。自分の特性は理解してるが、それにしても現実味がなさすぎる。  なぜなら、天魔の前ではこちらの理屈など通じなかった。まったく撥ね返せずに潰されたという事実がそれを如実に証明していて、だからこそ自分の生が信じられない。  まさか向こうが俺を生かしてくれた……などと、そんな都合のいいことがあるはずもなく……  もしやこれが、夜行の言っていたツケというやつかもしれない。歪みを使い続ければその反動で、何か不条理なことになるはずだとか。  だったらこれは、いったいどういう帳尻合わせだ?  状況だけ見れば途轍もない幸運でしかないのだが、これから何かが変わっていくのか?  悩んだところで仮定に仮定を重ねていくだけ。答えなんか出るはずもない。  何もかも分からないことだらけだったが、ともかくそうして、俺は生き恥を晒す羽目になったわけだ。  軍の被害状況。他の奴らの安否。そして、あれからもう十数日経っていたらしいという事実。  それらを俺は、全部この後で知ることになる。 「ちッ……」  秀真から新たにやって来た中院の本隊により、場所を移された基地になど気分的に居たくもなかった。俺は治療もろくに受けず、近辺にある森の中ですでに二日ほども過ごしている。  あの戦いとは打って変わった静寂で、落差が激しすぎるせいだろう。俺は今ごろになって、言いようのない悔しさが込み上げてくるのを感じていた。  敗北というものは初めての経験だったが、力で劣ったことよりも自分の意を通せなかったことのほうが数段増しで腹立たしい。  勝つと言ったし、任せろと言ったし、守ると言ったのにこの様だ。腹を百回は切りたくなるほどの恥辱であり、なぜそうしないのか自分自身でも不思議に思う。  このままじゃ終われない。やり返したいという気持ちは確かにあったが、どうもそれだけじゃあない気もする。  今の俺は、いったい何を核としてここに在るのか。そういう芯が不明瞭で、やはりこれも初めての経験だったから余計に腹が立ってくるのだ。もはや自嘲すらする気になれない。  本当、分からないことがあまりにも多すぎて…… 「よぉ」  つい俺は、傍らへ声をかけた。返答などはまったく期待していなかったが、そうせずにはいられなかった。  刑士郎に、宗次郎……別に三人仲良く遠足しようぜと示し合わせたわけじゃなく、この状況は単なる偶然でしかない。  俺がここへやって来たとき、すでにこいつらがいただけで、場所を変えるのも面倒だったからそのまま今に至っているだけ。おそらく向こうも似たようなものだろう。  それぞれ腹を立てて、苛々して、ワケ分かんねえよくそったれと思っているから、お互い一言も喋らず自問のみを続けていたのだ。  が、どうやら俺が一番短気だったということらしい。思考の迷路に、いい加減我慢が出来なくなっている。 「なんで俺たち、生きてんだ?」  死んだはずの俺がこうしていること。それも含めてもう一つ。 「なんで〈天魔〉《やつら》は、いなくなったんだ?」  皆殺しにすると言っていた。一人も残さないと言っていた。奴らの殺意はそう告げていたし、それは可能だったはずだろう。  なぜ? どうして? 誰かが撃退した? 有り得ねえよ。  確かに東征の第一陣は壊滅以上の損害を受けたが、それでも俺たちを含めて生き残りは少数いる。  どころか、知己の面子が誰も欠けていないときたもんだ。犬と坊主は少々複雑なことになってるらしいが、そこはあまり問題じゃない。  あれほどの大敗だったにも拘らず、言わば主力の連中が生きている。奇跡的と言うしかないのだろう結果だが、俺はそのことが信じられない。あいつらが残敵の掃討もせずに戦場から消えるものか。  こいつらに問うたところで答えが出ないのは分かっていたが、多すぎる謎のせいで吐き出さなければ破裂しそうな気分だった。  ゆえにこれは、ただの独り言に近いもの。  二人は見るともなく俺を見てから、静かに首を横に振った。 「知らねえよ」 「分かりませんね」  短い一言で、共に『知らない』。 「はっ……」  それは当たり前のことすぎて、嘆息しか出てこなかった。俺はそのままな宙を見上げて、今の気持ちをごく端的に述べるのみだ。 「情けねえなあ……」  そろって役立たずときたもんだ。途方に暮れていると言っていい。  そんな様なものだから、ふとくだらないことまで思い出した。 「そういや刑士郎、すまねえな。喧嘩に付き合ってやるって言ったけど、今はそんな気分になれねえわ」  男の勝負っていうもんは、華がなければ意味がない。こんなシケた空気でやったところで、馬鹿みたいなことになるだけだ。 「ああ、俺もそんな気分にゃなれねえよ」 「それにそもそも、今の俺にそんな力はない」 「え?」  よく分からない口振りに、俺と宗次郎は訝しむ。刑士郎は鼻で笑って言葉を継いだ。 「確証はねえが、歪みが消えちまったみたいでな。これはこれで望んだことの一つではあるんだが、いざとなってみると……」  言いつつ、刑士郎は無造作に髪の数本を引き抜いた。それをこちらに見せて自嘲する。 「笑うぜ。憑き物が落ちるって言うのか?」 「何にせよ、白けちまうよな」 「これは……」  刑士郎の髪の毛は、根元の部分が黒く変色したものになっていた。それが何を意味するのかは、言うまでもない。  俺もそうであるように、高位の歪みは髪と瞳の色がまず真っ先におかしくなる。全部が全部ではないらしいが、異形の証としてもっとも顕著な変質を見せやすいのがその二つだ。  それが黒――つまり大和人にとって常態の色に変わるってことは、すなわち歪みの希薄化、ないし消滅に他ならない。 「なんで、とか言うなよ。俺だって分かんねえんだ」 「けどま、原因の心当たりはあるけどな。理屈は知らねえが、たぶんあのときだ」 「あの一撃を受けたときに……」  天魔の攻撃を受けたとき。死んだはずの俺がいま生きているのと同様に、こいつはこいつで、何か別の不条理に囚われたということか。 「そういうことだ。なあ覇吐よ、どうせおまえもおかしなことになってんだろう」 「ああ……」  頷いて、端的に説明する。結局俺もこいつと同じで、なぜって言うなよと締め括るしかなかったが。 「なるほどね。そりゃあんなもん食らわされて、どうもならねえなんてない話だわな」 「ツケね……他には何か、思い当たることあんのか?」 「いや。表面上、何もないってことが一番ワケ分からねえ」  死の実感。あのときに見たものを説明することはできなかった。なぜなら自分自身、もうほとんど忘れている。 「贅沢な悩みかもしんねえが、流石に俺でも楽観はできねえよ」 「それはそうでしょうね。ある意味、そういうものこそ最悪だ」 「じゃあおまえはどうだ、宗次郎」 「僕ですか。おそらく刑士郎さんの逆ですね。単純な意味で、深い汚染を受けました」 「髪の色は変わってませんが、それはきっと許容を遥かに超えているからでしょう。御せる域のものではないから、陰気に身体が蝕まれていく」 「たぶん、長くはないでしょうね。自分でも分かります」 「そうか」  つまり病人同然。歪み者という人種であれる域を超えたから、汚染は毒としてしか機能しない。実質、殺されたのと同じことだ。  牙を折られた刑士郎も、未来を奪われた宗次郎も、そして文字通り死んだはずのこの俺も。  全員、自負を叩き折られた。先ほど刑士郎が言った通り、白けたという表現こそが今の俺たちに相応しい。  悔しさも腹立たしさも、強く感じているのに芯を掴めない半端な感覚。まるで他人事のように自分の被害状況を口にしているところからも、どこか浮遊感めいたものが場に漂っていた。  だからだろうか。 「おいおい、ここは墓場なのか? 辛気臭すぎて辟易するぞ」  嘲るような声と共に現れた闖入者……その接近に、俺たちは三人とも気付かなかった。 「てめえ……」 「冷泉様……」  中院冷泉……こいつはいったい、何しにきたのか。  まさか偶然でもないだろう。立場的にも状況的にも、こんなところでふらふらとしていられるような奴じゃない。 「うむ、そう構えるな。楽にしろ」 「まったくおまえたちときたら、呼ぼうにも何処におるか分からぬし、人を遣わそうにも使者が恐れて近づきたがらんときたものだ」 「ゆえにこうして、我が直接捜す羽目になってしまった。まあ上陸以来、軍議ばかりでうんざりしていたこともある。ちょうどよい気晴らしにはなったがな」 「俺たちを捜す?」 「処罰でもしようってか」  先の負け戦は誰かが責任を取らねばならず、さらに言うならそれで士気を下げるわけにもいかない。だったら体のいい生贄として、首を切られる役は俺たちが適任だろう。刑士郎の推察は理に適っている。  だが中院は薄く笑って、まったく関係ないようなことを言いだした。 「ときにおまえたち、墓というものをどう思う?」 「はあ?」 「だから墓だ。昔は、そう、初めの東征が起こった頃まで、死骸はそこらに野晒しであったそうではないか」 「浜なり山なり河原なり、あるいは家々の軒下なりか。何にせよ、無知とは恐ろしいものよなあ。そんなことをしていては、瞬く間に疫病が蔓延する。事実、よくそうなったと記録にもある」 「それを止めさせ、今のように土葬の習慣を広めたのが御門の初代殿であったとか。賢人よな。だが初めは奇異に思われたことだろう」 「だから、なんです?」 「なぜ火葬ではなかったのかな?」 「なぜって……」  そんなのは決まってる話だろう。意味の分からない話に苛々しながら俺は答えた。 「薪がもったいねえからだろうが」 「そう、もったいない。その通りだよ。たかが死骸、肉の塊でしかない物体に薪など使う価値はない。食うとなれば別だがな、そういう者は今も昔も一握りだろう」 「だから埋める。よい手だな。穴掘りに労力は使うものの、疫病を防ぐための代価としては最低限だ。かくして土葬は御国にとっての慣例となる」 「そこでだ、思うのだよ。墓とは何だ?」  再度の問いに、俺たちは黙り込む。何を言っているのか未だによく分からないが、ともかく額面どおりに受け止めれば返せる答えは限られている。それを刑士郎が口にした。 「この下に埋まってるっていう印だろ」  土葬が慣例になった以上、何処に埋めるかを制度化しつつ、その場所に印をつけないと面倒なことこの上ない。そうしなければ、おちおち畑も耕せないだろう。 「そうだな。そういう理屈になるのだが、我はあれがどうにも気持ち悪くてな」 「気持ち悪い?」 「ああ、気持ち悪いとも。なにやら自己主張めいていてな」 「まるで、自分はこの下に埋まっているから、どうか忘れないでくれと言わんばかりに」 「何を馬鹿な」 「死んだ者に主張も何もないでしょう。冷泉様ともあろう方が、ずいぶんと奇矯なことを言われますね」 「〈墓〉《あれ》は単に、我々の都合で印をつけているだけのこと。刑士郎さんの言ったこと以上の意味はありませんよ」 「つまり我らは、期せずして死者を忘れぬようにさせられているというわけだ。そう思うと、それはそれで気持ちが悪い」 「あのなあ」  いい加減、鬱憤が溜まってきたのは皆同じか。吐き捨てるように刑士郎が言う。 「てめえおちょくってんのかよ。いったい何が言いたいんだ」 「何も。単なる世間話だ。……ああ、おいおい、そんな顔をするな」 「最初に我は言っただろう。ここは墓場かと」 「おまえたち皆、土中の〈死骸〉《おのれ》を見下ろしている木石のように見えたものでな。墓場に近寄ったときと似た気分になったのだよ」 「つまり、なんだ……」  凄まじく遠まわしで嫌味ったらしい言い草だったが、今のはこの男なりの叱咤激励か? 「おまえは、俺たちが気持ち悪いと」 「そういうことだ。有り体に、覇気がなさすぎてつまらん」 「迂遠すぎるでしょう……」 「逆にわけ分かんなくなるわ」  それは大いに同感だったが、しかし分かったことも一つある。  俺たちの覇気云々に口を出すっていうことは、処罰のために現れたんじゃないということ。  いやまあ、活きがよくなければ殺す気も起きんっていう意味かもしれんが。 「もうちょっとさ、上手い言い方ねえのかよ」 「慣れんものでな。だが本音だよ」 「特に坂上。我はおまえに腑抜けてもらいたくはない」 「別に腑抜けてるわけじゃねえよ」  ただ諸々、今後というやつに迷いが生じてしまったのだ。いくら俺が馬鹿だろうと、この状況で何も思わないほどお気楽じゃない。  不明なことは無数にあって、自負も矜持も砕かれて、それでも生きてる。なんのために?  今、俺に残っているものは何なのだと、あるはずのそれが定義できなくて足掻いている。  だから腑抜けと言われれば、あるいはその通りなのかもしれないが。 「だいたいよぉ」  こいつにそんなことを言われる意味が分からなくて、俺はぶっきらぼうに混ぜ返した。 「あんた、なんで俺が腑抜けだと困るんだよ」 「決まっているだろう。同じ女子に〈恋〉《こゆ》る者同士」 「は?」  一瞬、言葉を聞き違えたかと思ってしまった。 「なんだって?」 「何度でも言おう。おまえも我も、烏帽子殿に惚れている」 「つまり我らは、恋敵というわけだ。競う相手が脆弱ではつまらんだろう。自明のことよ」 「敵とは強い方がいい。それを征し、越えてこその我が王道。男子たるの本懐だ。おまえもそこは同意してくれると思ったのだが、見込み違いか?」 「あ、つか、それは……」  自信満々、傲岸不遜に言い放った中院に、俺は呆気として二の句が継げない。  恋敵って、それはそうだが、今はそういう次元の話なのか?  いや、そういう次元の話なんだな。少なくともこいつの中では。 「宗次郎に、凶月の、おまえたちもだ。なぜ燃えん」 「強かったのだろう、天魔とは。やられたのだろう、手も足も出ぬほど。ならばそれは、むしろ〈欣喜雀躍〉《きんきじゃくやく》すべき事態だ」 「〈寿〉《ことほ》げよ。人生において、おまえたちほどの壁に出会える者などそういない」 「どうして己は生きているのか。どうして奴らは退いたのか。知らんよそんなもの、どうでもよい。ただそうなるべきだからそうなったのだ。くだらん理屈付けなどは、後の歴史家にでも好きにさせておけばよい」 「大敗? 確かにそうだろう。だが未だ我らは生きている。そして戦も終わっておらぬ。過去の東征に比べれば、これは驚くべき進歩ではないか」 「前とは違う。ゆえに勝機、充分に有り。我はそう思うのだが、おまえたちは違うのか?」 「…………」 「…………」  中院の放言に、俺たちは即座に返すべき言葉がない。  直に天魔と向かい合い、その脅威を体験した者にしか分からないことがあると、そう言い返すのは簡単だろう。  だが、ここでそんな言葉に意味はない。事実として中院は知らないのだから、言ったところで泣き言に聞こえるだけだ。  というか、そりゃどういう意味でも泣き言だ。 「……別に僕は、もう止めたとも帰るとも思っていたわけじゃないのですがね」 「まあいいです。どうも下手なことを言えない空気になってしまった。用件をお聞かせください、冷泉様」 「まさか本当に、そんなことを言いに来ただけというわけではないのでしょう」 「ああ、そうだな。これは前振りが長くなった。許せ」 「この野郎……」  好き放題抜かした上で、さくっと切り替えやがったよ。むかつくことこの上ないが、宗次郎が言うように今は下手なことを口に出来ない。ごちゃごちゃ言い返してると男が下がる。  まあそういう意味では三人とも、当座のことに目を向けるられるようになったわけだが。 「言ったように、我らの東征はまだ何も終わっておらぬし、むしろこれから始まるのだから今後の方針というものがある」 「おまえたちそれぞれの問題はそれぞれでどうにかしてもらうとして、本営からの通達だ」 「それは?」  問いに、中院はうむと頷き、懐から取り出した紙を広げて俺たちの前に突き出した。 「こりゃあ……」 「穢土の地図だ。天魔どもとの接触により、その意識から龍明殿が汲み取ったらしい。これはまだ簡易なものだが、すぐに詳細な物も出来あがる」 「どうだ? これ一つをとってみても、緒戦が無駄ではなかったと思えるだろう。確かに一軍の壊滅は手痛いが、紛れもない武功だ」  穢土の地図……戦をするに当たりもっとも必要だったのはまさにこれで、そのためには一軍の犠牲も已む無しと言う。天秤としては、実際そういうものかもしれない。 「これの信憑性は?」 「それを言い出したら切りがあるまい。可能な限り慎重は期すが、疑っているばかりではどうにもならん。兵は拙速を尊ぶだ」 「細かい意味でのズレはあっても、重要なことはかなりの確度で判明している」 「この点ですね。これは?」  地図には幾つか、強調するような紅点が記されている。それは何を意味するのか。  淡海のすぐ先にあるここが現在地なわけだから、そこから見て北東と南東に一つずつ。そしてその先にもう一つ。 「天魔どもの居城……ないし、何らかの重要な場所であるとのことだ。この地に強力な歪みが渦巻いているらしい」  中院が龍明から聞いた話によると、これをそれぞれ〈鬼無里〉《きなさ》、〈不二〉《ふじ》、そして〈諏訪原〉《すわはら》と言うらしい。 「それを念頭に置いてもらった上で、方針を言おう。ここより先、二手に分かれる」 「―――――」  一瞬、視界が暗くなった。つまりあれを相手に各個撃破でいくってことかよ。 「言いたいことは分かるが、仕方がないのだ。この北東にある点……分かっているだけでも道のりが峻険すぎてな。大軍で動くには危険すぎる」 「ゆえに主力は海沿いを進軍していき、その先を目指す」 「分かるだろう。上を放置したまま進んでいけば、挟撃されかねんのだよ。そうなってはどうにもならん」 「確かに……」 「じゃあ〈鬼無里〉《こっち》は、少数精鋭っていうわけか」 「そういうことだな。人選は任せよう」 「ともかく、この二地点を同時に落とし、その先で合流を果たす。理解したかな?」 「ああ……」  そう言われれば、頷くしかない。だがどっちの道にしろ楽じゃないことだけは確かだろう。 「ならばよい」  こちらの気持ちを分かった上で無視しているのか、再び地図を仕舞った中院は、特にどうということもないって顔で座を締めた。 「柄ではないのでな。訓示するような言葉は持たん」 「千種、六条、岩倉には、主力の補給線として海上を攻め上がるよう、秀真へ使いを出しておいた。その準備が整い次第、進軍を開始する」 「猶予はそれまで。諸々、答えを出しておけ。敵がどれほどのものであろうと、おまえたちには後退の選択肢などないのだろうし、我にもない」 「要は気持ち次第だな。……ああ、それから」  去り際、中院はわざとらしく小首を傾げて、一つの情報を残していった。 「あちらに半里ほど行った先で、御門の陰陽頭がなにやら奇妙なことをやっておったよ」 「我にはまったく分からぬことだが、おまえたちには何らかの意味を与えるものかもしれん。気が向いたなら、行ってみろ」 「……さて」  そういうことで残された俺たちだったが、確かに答えは出さなきゃならない。  中院が言った通り、ここでケツをまくるという選択肢は言うまでもなく有り得なかったが、問題になっているのはじゃあどうするということだ。  天魔は強い。洒落にならない。今のままじゃあ逆立ちしたって太刀打ちできないのは分かっていて、東征を続ける以上はそのことに対する解決策が必須になる。  そこで夜行――中院に踊らされてるようで癪な気持ちもあるにはあったが、確かにあいつならこの閉塞した状況に一石を投じることが出来るかもしれない。  俺たちが悪路に負けたのと同じように、あいつも母禮に負けたはずだが、少なくとも何らかの指針は得たのだろうと、中院の言からも予想はできる。  だから俺たちもそれを得るため、夜行を捜すことにした。  けど、そんな中でも気に掛かっていることが一つだけ。 「僕は悪路を斃します。きっとそうしなければ助からない」 「死ぬのは怖くないんですがね。このままじゃあ収まりがつかないんですよ」  誰に言うでもなく、宗次郎が漏らした台詞。  こいつは自分の身体と誇りのために、悪路との再戦を何よりも上位に置いていた。  今まではそれを成すための糸口が見当たらなかったので迷っていたが、微かな可能性を得たことでもはや完全に吹っ切っている。  たとえこの場で期待のものが得られなくても、二度と立ち止まることはないだろう。宗次郎は今の自分が在るための、芯になるものを見つけたのだ。  しかし俺は、いや刑士郎もそうなのか……  強くなるという目的は目的として捉えながらも、そのことに宗次郎ほどのめり込めないままでいる。  何かが足りないのだ。しかしそれが何かは、未だに曖昧として分からない。  ちくしょう、俺はこんなにふらついた奴だったか。やっぱりどこか、壊れちまったんじゃないだろうか。  思いながらも、辿り着いたその先で……俺は一つの驚異的な変質を見ることになる。  そもそもが――  太極とは何ぞやと言われれば、端的に法則と言うしかない。  すなわちその世界における絶対法であり、そうした決まり事を定めた張本人を指す。  無論、世に法則といったものは無限に近く存在するし、それら一つ一つが太極というわけではない。  現実に刃物は切るという法則を帯びているし、火は燃やすという法則がある。水中の法則ならば肺呼吸ができないというものであろうし、そうした細々としたものは単なる物理だ。  重要なのは規模、密度。その法を構成する単位が宇宙という規格であり、ゆえにそれのみをもって独立した世界となり得るものを太極と定義する。  何も難しい話ではない。前述した水中の法が太極と化したなら、全宇宙が水底に変わるというだけのこと。もしくは、宇宙を砕く領域の法でなければ蒸発も凍結もしない水が誕生するだけのこと。  前者を覇道。後者を求道。  己が法則で森羅万象を制圧する太極と、己が法則のみ森羅万象から外れるという太極である。  この法を色と呼び、それを決定するのは人の想念。我は何々がしたい、何々になりたい。そうした祈りや願い、つまり渇望と言われるものが、太極を発生させる原動力となる。  よって、型に嵌めるとはそういうことだ。己を象徴する〈渇望〉《いろ》をもって、自らが願う宇宙の在り様を決定する行為に他ならない。  それは分かった。分かったゆえに摩多羅夜行は考える。  これまでのことは確信に近い推論として東征前から立てており、事実その通りだったと判明した。ならばもう、後に残っているのはただ一つしかないだろう。  己の〈渇望〉《いろ》とは? 我が宇宙を定義する願いとは?  その壁さえ乗り越えれば、夜行は真実の太極へ至れるだろう。最初からその場所へ達しているのだから、後は何がしたいのかを定めるのみ。至極簡単なことに思える。  しかし、夜行には〈渇望〉《それ》が何か分からない。狂おしく希求する何某か、久雅竜胆が言う魂の形というものが見えぬのだ。  そもそもからして、彼の場合は順番が狂っている。太極に至るなら、まず何よりも願いありき。己が理想に焦がれる心を持ってなければ、そこに達することなど出来はしない。  だというのに、夜行は想い無くしてなぜか届いた。〈空〉《カラ》の曼荼羅に一人座し、はて私の色は何なのだろうと、今頃になって考えるという異常事態。  別に何の欲も願いもないというわけではない。むしろどちらかと言えば俗な感性を持っているし、世の諸々にそれなりの興味もある。  だがやはり、始まりから飛び抜けていた彼は根源的にずれていた。今もっとも願うのは、それ自体を探すこと……などという本末転倒の結論へと至っている。  ゆえに夜行は、思わず苦笑を漏らしてしまった。まあよい、これも中々風雅であると楽しみながら、特に落胆もしていない。  なぜなら〈穢土〉《ここ》には、それを解き明かすための要素がごまんとあるのだ。焦る必要などまったくないし、もともとそういう性分でもなかったから。  〈敵〉《セミ》を探す。〈壁〉《セミ》を求める。嬉しや、退屈せずにすみそうだ。  と、不敵に笑いながらもどこかで…… 「落ちろ、波旬――」  あの一言が、拭えぬものとなって今も胸に残っている。有り体に言って不愉快なのだ。  よって、思う。  よかろう。ソレがどのようなモノか見極めてやる。 「――夜行様」  瞑想よりの覚醒は、彼を呼ぶ声と寸分の狂いもなく同じだった。 「おまえも何かを識ったか、龍水」 「はい、夜行様。私が識っていることは、あなたが絶対であるということ、唯一つです」 「それを確認していただけのこと。何ら問題はありません」  いつの間にか背後で禅を組んでいたらしき龍水は、そう力強く断言する。夜行はそれに些細な違和感を覚えながらも、すぐにどうでもよいことだと気を切り替えた。  額が熱い。そこに高まる咒力を感じる。  ああ、これが新しい天眼かと思いながら、新たに得た咒の情報を無意識のうちに編み上げていく。  未だ我が太極に色はないが、万象に対する理解を深めたことで至極単純なことが判明したのだ。  それは自分の好みでないものの、東征における強力な剣となることは間違いない。  ゆえに同志へその可能性を与えてみようと考える。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》という強い思いが、なぜか目覚めと共に溢れてくるのだ。  彼らの芯へ、魂へ、霊的に刻み付けるべく言霊を組んでいく。 「南無大天狗、小天狗、有摩那天狗、数万騎天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随念擁護、怨敵降伏一切成就の加持」 「唵 有摩那天狗 数万騎 娑婆訶・唵 毘羅毘羅欠 毘羅欠曩 娑婆訶」  そこには、巨大な常緑樹の根元に座している夜行がいた。独特の韻律で上下するその唇が、流水の滑らかさで咒を紡ぎあげ続けている。  そう、文字通り紡いでいるのだ。  漏れ出る膨大な咒の数々が、肉眼で視認できる言霊となって周囲の空間に書き込まれていく。複雑に絡み合い、瞬きながら、何重もの立体的な構造体を織り上げている。  それが何を意味しているかは、門外漢の俺たちにも理解できた。  これは咒法の駆動式、その設計図に他ならない。詠唱までも含めて、夜行の脳内に形成されていた法則が、いま完成を見ようとしていた。 「夜行さん……」 「おまえ、目が……」  あのいつも謎めいた、人の奥を見透かすような光を湛えていた双眸が潰れている。  失明だろう。こいつも俺たちと同様に、これまで自分を立たせていた大きなものを先の戦いで失った。  あるいは、自ら捨てたのか。  さらなる高みへ達するため、飛翔に伴う必然的な代償として…… 「太極は非想を経て回帰を巡り、転輪は今、この天狗道に至る」 「されど」 「黄昏の残党が八欠片……歪みか、業だな」  いつの間にか詠唱を終えていた夜行が、常の口調で何事かを呟いていた。  そして、〈無〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈目〉《 、》〈の〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈得〉《 、》〈た〉《 、》〈目〉《 、》〈が〉《 、》〈開〉《 、》〈く〉《 、》。 「――見えたよ。天魔に伍する法」 「〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》」  額を縦に割って開かれた、第三の目。その瞳で見られた瞬間、俺の中でも何かが弾けた。 「………あ」 「咲耶……」 「紫織さん……」  なぜ今まで気付かなかったのだろう。  夜行が座している木の裏側には龍水も座していて、その前には俺たちと同じく竜胆たちも立っていた。  つまり男組と女組が、線対称の構図でいたこと。  視力がおかしくなっていたのだろうか。それともさっきまでのが正常で、今のほうがおかしいのか。  どちらでもあるような。どちらでもないような。  ただ一つだけ言えることは、物の見方が変わったこと。見えないものが見えるようになったこと。  だから分かる。ああ、本当にまったくどうして、俺はこんなことすら分からなかったのかと自分自身で呆れるほどに。 「竜胆……」  俺はただ――〈心〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈ち〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》と、そう思うようになっていたんだ。  負けた悔しさも、腹立たしさも、総ては俺個人の問題ではなく、竜胆の敗北になってしまったことへの憤り。  なんのために再起して、誰のために強くなるのか。  その定義を履き違えていたんだから、そりゃあしっくりくるわけないだろう。もしかして刑士郎の奴もそうだったのか? 「悪い、俺馬鹿だからよ。ちょっと勘違いしちまってた」 「次からちゃんと、しっかりおまえと同じもん見る。そういうことで、一緒に行こうぜ」  竜胆は大将だから、当然軍の主力を率いなければならない。だったら俺もそっち側だ。  夜行が述べた天魔に伍する法とやら。意味はまったく分からないが、感覚として胸に残るものがあった。それは他の奴らも同じだろう。  ああそうだ。もう負けはしないと強く思える。 「では、僕もそちらに付きましょう。勘ですが、そのほうがよい気がするので」 「なら俺は別口だ。咲耶もな、頭数少ねえほうが楽でいい」 「となれば私は、否応もないな。今の刑士郎らを捨て置くわけにもいかぬだろうし」 「爾子と丁禮のこともある。もうしばらくは、身軽なうちにやらねばならんことがありそうだ」 「じゃあそういうことで、決まりだな」 「せっかくだし夜行、そのけったいな目で占いでもしてくれよ」 「おまえはいったいどっちの道が、より派手なことになると思う?」 「さぁて……」  問いに夜行は、肩を竦めて薄く笑う。鬼でも蛇でも、二つに一つ。 「だがどちらにしても、一筋縄ではいかんだろうな」  記憶しているのは、身体を断ち割られた痛みと熱さ、そして死というものの実感。  その中で聞きとがめた、不可解なやり取りだった。 「  」 「  」  それは会話だったのだろうか、誰かが喋っているように思えたが、何を言っているのかは分からない。轟々と渦巻く海鳴りのようで、意味を判じることは不可能だった。  死に瀕した――あるいは死んだ――身の上ならばこその、暴走した感覚が起こす錯覚というやつかもしれない。  しかしなぜか、これは現実だと確信したのを覚えている。 「    」 「  」 「    」 「  」  射るような、嘲罵に等しい大上段からの物言いは、同時に哀れみめいたものを含んでいた。  無論、そのように感じるというだけで、確証はまったくない。しかし誰が言っているのかはともかくとして、誰に言っているのかは想像がついた。  あれだ。あの怪物たちに傲然と命じているのだ。やはりこれは、実体の妖しい迷妄の類かもしれない。あれにそんな態度を取れる者などいるわけがないのだから。 「 」 「  ……」 「 」 「  ……」  誰何、困惑、そのような気配を感じた次の瞬間…… 「 」 「  」 「 」 「  」  絶叫が、爆発した。 「―――――!」 「―――――!」  魂切るような、断末魔を思わせる叫びと共に巨大な気が消えていく。それはまるで、崩れ落ちていく砂上の楼閣を思わせた。 「。、。、」 「、。、」 「 ―――!」 「……! ……」 「。……」 「。、。、」 「、。、」 「、―――!」 「……! ……」 「。……」  怨嗟の声をあげながら、薄れ溶けていく二柱の魔性。びょうびょうと吹き荒ぶ唸りは泣き声のようで、どこか儚さのようなものすら感じていた。 「…………」  そして、後に残ったのはただの暗黒。  それ以外は何もなく、自分がどうなったのかも分からない。  当たり前に考えれば死の運命しかないはずだが、すでに諸々、常識なんてものは遥か遠くに消し飛んでいる。  そもそも、自分に死ぬ気はなかった。死に逃げが許されるような立場ではないし、やらねばならないことは無数にある。  命を惜しんでいるわけではないが、だからといって死が怖くないわけではないし軽んじてもいない。  矛盾と言えば矛盾と言えるこの感覚を、しかし自分は間違っていると思わないから、大事なことだと信じているから……  将としても、久雅竜胆個人としても、まだ生きねばならない。死者の踊りを無くしたいと願う。  そう考えるのは、傲慢な押し付けだろうか? 「いいや、違うな。御身はそれでいい」 「その志、覇道の魂を大事にされよ。私としても期待している」  どこか聞き覚えのある声に優しく諭され、ゆっくりと竜胆の意識は闇に沈んだ。  覚えているのはこれだけ。本当にただこれだけ。  そしてそれも、徐々に思い出せなくなっていく。  まるで、砂上の楼閣が崩れるように……  ………………  ………………  ……………… 「ではそういうことで。私から言えることはそれだけだ」 「自愛? ああ、そうさせてもらうが、要らぬ気遣いは無用だ」 「先の敗戦について、私は如何なる責任も拒むつもりはない。貸しを作った、などとは思わないでもらおう」 「下がられるがよい、冷泉殿。こんな様だが、女の部屋だ」 「その程度の礼は、御身も弁えているだろう」  切り口上でそう言って、招かれざる客を追い返す。必要以上に険のある言い草だったのは自覚していたが、それでも冷泉は慇懃な態度を崩さないまま、微笑で総てを受け止めて退室していった。  嘉永十年、皐月の第六日目……夜都賀波岐・悪路と母禮によって第一陣を壊滅させられてから、実に十三日が経った日の夜だった。 「……くそ」  再び一人となった室内で、竜胆は小さく呻いた。先の態度は我ながら余裕がなさすぎて、自己嫌悪に陥っている。  目覚めてからまだ一日、動けない間に軍権を奪われたかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。冷泉はあくまで一時的な代理としての範疇でしか行動を起こしておらず、その手際は嫌味なほど完璧に近い。  崩壊した前線砦は速やかに捨て去って、竜胆ら生存者と使用可能な物資の救護と搬送、秀真との兵站線を確立しつつ新たな砦を築き上げ、東征の本格的な下拵えを着実に進めている。  まるで、自分たちの敗戦など存在しなかったかのような水際立った指揮ぶりだった。如何についさっきまで寝ていたとはいえ、この第二陣が極めて良好な状態にあることは竜胆にも分かる。  二重の意味での敗北感。居ても居なくても構わないどころか、居ないほうがいいと言われているような状況を見せられながらも、冷泉は竜胆を立てている。彼女の立場を侵害せず、斃れた兵たちの武勇を称え、あくまで二番手としての態度を崩さない。  正直、面と向かって無能を謗られ、罷免されたほうがまだ楽だった。これでは生殺しの道化に近い。  そうした苛立ちから見舞いに現れた冷泉を追い払ってしまったが、しかし竜胆は分かっている。自分にこんな感情を楽しんでいる暇などないということを。  敗北の責任云々とは言ったものの、罷免や切腹で許されるような失態ではない。その手の逃げは、何より彼女自身が唾棄すべきものと心得ている。  冷泉の意図はどうであれ、自分が成すべきは勝利に貢献することなのだ。失地回復などという個人的な意味ではなく、斃れた兵たちを無駄死ににさせないためにも立たねばならない。  それこそが自分の責任。いま考えて、これから成さねばならないこと。その重要性に比べれば、現状味わっている謎や屈辱など取るに足らない。  なぜ己は生きているのか? 知らない。心底どうでもいい。死んでいないなら生者に出来ることをやるのみで、それはこのように悶々としていることではないだろう。  図らずも冷泉に煽られたようで複雑だが、ともかくもう充分に休んだ。特に身体的な異常も〈表〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  謎や不思議の究明などは、全部終わってからやればいいのだ。ゆえにまず、さし当たっては…… 「あやつらを、労わねば……」  自分と同じ戦場に立ち、同様に打ちのめされた者たち……久雅竜胆の指揮下で敗北し、深手を負いながらも生き残った勇士らを称えねばならない。  彼らに詫び、彼らを慰撫し、彼らと共に再起するのが、いま何よりも重要なことだと思っている。  彼らは強く自負に依った人種だから、それを砕かれれば脆いだろう。別に蔑むような意味ではなく、冷静にそう感じる。  他者のそうした性質が、今までは時に不愉快ですらあったのだが、このときの竜胆は妙に悲しく、儚い愛おしさのようなものを感じていた。  傲慢な考えかもしれないが、彼らが迷っているのならそれを救えるのは自分しかいないと、なぜか確信できていたから…… 「いつまでもそんなところに隠れていないで、出てこいよ紫織」  つい今しがた気付いた者へ、優しく竜胆は語りかけた。その呼びかけにびくりと驚いたような気配が生じて、柱の陰から細身の女が現れる。  その姿は、どこか歪なものになっていた。 「……まずった。まさか竜胆さんに見破られるとは、私もヤキが回ったね」 「見舞いにきてくれたんだろう。だったら普通に正面から来ればいいのに、変な奴だな」 「私は別に、そんなつもりじゃなかったんだけど……」  基本、竜胆の前でもまったくへりくだらない紫織だったが、今は流石に所在なさげだ。無理もないだろうと思う。彼女は肩から先の両腕を失っていた。  その様に驚きを覚えなかったと言えば嘘になる。報告は受けていたが、直に目にすることで悲痛な気持ちがこみ上げてきた。武道の大家である玖錠の娘が、腕を失うということの意味が分からないような木石ではない。  だから、あえてそこに触れようとはしなかった。暗くなっても仕方がないし、出来るだけ快活な調子で言葉を継ぐ。すでに先ほどまでの苛立ちは、竜胆の中から消え去っていた。 「冷泉殿から貰った菓子がある。おまえもどうだ、一緒に食おう」 「え、だけどそれは……」 「紫織、おまえは私を太らせたいのか? 命令だ。片付けるのに手を貸せ」 「何なら茶も淹れてやるぞ」 「出来るの?」 「舐めるな。それくらいの娘らしさはある」  得意ではないがなと付け足して、竜胆は寝床から出ると部屋の隅にあった茶道具一式を持ってあれこれと準備を始めた。その手元は怪しかったが、まあそれなりの形にはなっている。  ああ、とか、いや、とか、それを見ながら紫織はぶつぶつとこぼしていた。おそらく諸々の手際について言いたいことがあるのだろう。  これで意外にも料理が得意な娘だし、茶の湯についても一定の腕前があるのかもしれない。竜胆の為様が見るに耐えないということか。  奇妙な可笑しみを覚えながらも、しかし表情だけは拗ねたようなものにして、竜胆は紫織を睨んだ。 「おい、何か言いたいことがあるなら言えよ。というか、不味い茶を飲まされたくなかったら言ったほうがいいぞ」 「龍水など、一度私の茶を飲ませてからは頑として拒絶するようになった」 「あ、あ、じゃあ、えっと――」  渋々、あるいは恐々とか、ともかくそういった態で紫織が口を挿んできた。一度それを許してしまえば、これがまた実に細かく、終いには竜胆がうんざりするくらい駄目を出されて辟易したが…… 「ん、まあ合格かな」  何度目かの挑戦でようやくお墨付きを貰えたようでほっとした。同時に少々腹が立ったので、碗に添えていた手を押し上げて残りを一気に煽らせる。両腕のない紫織は抵抗ができない。 「ちょっ、ま―――、もがが」 「態度がでかい。あと、いつぞやのお返しだ。確かこんな風にして、無理矢理酒を飲ましてくれたな」 「ぐ、ぐ、がはぁっ!」 「しかし、それでも一滴もこぼさんか。変なところで礼儀正しいな」 「あ、あ、あのねえ!」 「なんだ?」  相当に熱かったのだろう。噎せながら睨んでくる紫織を冷然と見返す。無論、内心では噴き出しかかっているのだが。 「お茶の極意はおもてなしの心よ。和の心。こんな乱暴しちゃ駄目でしょうが」 「気にするなよ、私なりのもてなしだ。それでほら、これも食え」 「ん――、もが、もがが」 「かすてらという異国の菓子だ。私も何度か食ったことがあるが、まあ旨い。実は結構気に入っている」 「なあ、おまえはどう思う?」  問いながら、自分は自分でかすてらを摘んでいる竜胆を、紫織は憤然と見つめていた。ようやく喉の物を呑み込んで、呆れ気味に言う。 「別にどうでもいいよ。ていうかそんなことより、中院も意外にマメっていうか、わりかし真面目に口説こうとしてるんだね」 「何がだ?」 「だから、竜胆さんを。傷心の女に甘いもの持参とか、ベタだけど弁えてるっていうか」 「実際、竜胆さんはさ、なんであいつのこと嫌ってんの? そりゃ立場的に色々あるのは分かるけど、そうおかしなもんでもないんじゃないの、客観的に」 「さて、な」  おかしな方向に矛先が向いてきて戸惑いながらも、竜胆は曖昧に答えた。  というよりも、曖昧な言い方しか出来ないのが本音なのだが。 「おまえは彼のような男をどう思うのだ?」 「私は駄目だよ。ああいう気障いの苦手だし、男は腕っ節だと思ってるし」 「でも、竜胆さんはさ」 「ああ、言いたいことは分かっているよ」  確か覇吐にも言ったことだが、自分から見て他の総ては大差ない。冷泉だけが自分と相容れないわけではないのだから、彼を特別嫌う理由など本来ならないはずなのだ。  しかしなぜか、どうしてもあの男は癪に障る。今まで何度か自問したことはあるものの、答えは一度も出ていない。  それを深く考えることも、逆に意識しているようで嫌だったから、結局竜胆は逃げるように話題を変えた。 「何にしろ、かすてらに罪はないのだからしっかり食べるさ。言ったように、好きだしな」 「これのために開国というわけにもいかんだろうが、製法をこちらの職人にも覚えさせたいところだよ。そう難しいものでもないと聞くし」 「卵と砂糖と水飴でしょ。それを小麦粉に混ぜて焼いてお終い。たぶん竜胆さんにだって作れるよ」 「私はまあ、もう無理だけど」 「それは……」  そんなつもりで言ったわけではないのだが、期せずして嫌な流れになってしまった。紫織は今後、菓子作りどころか日常の生活さえ満足にならないかもしれないのだ。  臍をかむような気持ちになりつつ、しかし竜胆はそれを面に出さなかった。紫織は同情など求めてはいないだろうし、自分は先を見なければいけない。  だから努めて平易な口調で、同時に力強く竜胆は言った。 「御門に機工学の分野がある。どの程度のものなのかは分からんが、義手を得ることは出来るだろう」 「すまない、紫織。だけどおまえが生きていてくれてよかった。これは本音だよ」 「う、うん、そりゃまあ、その……」 「なぜ謝られるのか、よく分からないといった顔か、それは」 「え、いや、そういうわけじゃ、ないよ」 「ならばいい。ついでにもう一つ、先の言葉と矛盾するようだが、私は嬉しい」 「はあ?」 「よく私のところに来てくれた。甘えたいなら、甘えていいぞ」 「ばッ―――」  紫織は絶句し、次いで顔中真っ赤にする。ふざけるなと言いたいようだが、口をぱくぱくさせるだけで彼女は二の句を継げられない。たぶん図星なのだろうと、竜胆は勝手に思うことにした。 「おまえはあまり、他者に構わない奴だろう。他の連中も似たようなものだが、その中でも比較的上位というか」 「宗次郎や夜行と似たような系統かな、と思っていたのだ。実際奴らは顔を見せんし、普段纏わりついてくる覇吐や龍水すら同じときた。凶月どもはいつものように人馴れせぬし……」 「まったく、どいつもこいつも一度負けたくらいでじめじめと、殻にこもりおって情けない。その点、紫織、おまえだけだよ。私に可愛いところを見せてくれたのは」 「ちょ、何を勝手に決め付けてんの」 「違うのか?」 「違うったら!」 「じゃあ何をしに来た?」 「そ、そりゃあ別に、何て言うか……」  もごもごと歯切れ悪く、紫織は何か言っていたが、竜胆はあまり聞いていなかった。 「とにかく私がそう思ったのだから、私の中ではそうなのだ。これはおまえたちの理屈だろうに、文句を言うなよ」 「仮におまえが、珍獣の相手をして気を紛らわそうと思っていたのだとしても、意味合い的には同じなのだからな。そうだろう?」 「…………」 「な?」 「あーもう!」  上体ごとぶんぶん頭を振り回して、やけっぱち気味に紫織は叫んだ。 「分かった分かった。それでいいよ」 「でもなんか、そういうことにすると私だけがへたれちゃってるみたいでムカっ腹が立つんだけど」 「そうでもない。言ったように、引き篭もっている奴らよりはマシだと思うぞ」 「でも竜胆さんは違うじゃん」 「当たり前だ。私はおまえたちの将だぞ。一緒にするな」  即答でそう返すと、紫織は目を白黒させていたが、やがて大仰に嘆息した。 「はあ、うん、そうね。はいはい。分かりましたよ、敵いません」 「やっぱ頭おかしいわこの人」 「何か言ったか?」 「いいえ、なんにも」 「まあ、とにかくだ」  東征はまだ終わっていないのだから、立ち止まっている暇もない。生きているのならやることをやるだけだ。  そう言って、次の話に移ろうとしていた瞬間に、遠慮のない笑い声が耳朶を打った。 「はっはっは、いやまったく然り」 「龍明さん……」  いつからそこにいたのだろうか、気付けば御門龍明が、部屋の入口で肩を震わせながら立っていた。 「気落ちしているようなら発破をかけてやろうと思っていたが、どうやら要らぬ世話だったか」 「ああ、やはり御身はこう、実に可愛いな烏帽子殿」 「……何か用でも?」  知らず険を帯びたその口調に、竜胆は自分自身で当惑していた。なぜ彼女に対し、敵でも見るような緊張感を覚えているのか。  記憶、夢、分からない。何かあったように感じるのだが、思い出せない。気のせいかもしれない。  微かな頭痛が走ったが、それが去った頃には先の違和感も消えていた。 「どうした。まだ体調が優れんかね?」 「……いや、なんでもない。それで」 「ああ、幾つか報告があってだな。紫織もいるのなら丁度いい」  言って龍明は、二人の傍までやってくるとそのまま静かに腰を下ろした。 「まずはこうして、再びまみえられたことを嬉しく思うよ。無事にというわけにはいかんようだが、それでも僥倖には変わりない」 「天魔どもがなぜ退いたのかはさっぱり分からんが、事態は前向きに捉えよう。他の者らのことは聞いているかね?」 「冷泉殿から、少しは」 「私はあんまり」 「ではそこからだ」  やってくるなり場を仕切られたような気がしたが、別に異を唱えるようなことでもない。黙って竜胆が促すと、龍明は料理の説明でもするような調子で話しだした。 「第一陣で、死亡者数は九千七百四十八名。生き残った少数も、我々のように皆負傷している。事実上の全滅だ」 「冷泉殿の艦隊が、兵三万を引き連れてやってきたのが八日前。今では七万になっているが、これでようやく三分の一といったところだな。とはいえ全軍揃うまでここに待機するわけではない」 「次の陣が到着した時点でその者たちにここを守らせ、現存の兵は進軍を開始する。兵站線を断たれぬように陸海の連携を要するが、まあそれについては冷泉殿の手腕に任せよう。あの御仁はこういったことの達者だから、我々の役目は依然として変わらない」  つまり切り込み、最前線。先の戦で大敗したことを踏まえれば有り得ない配置だが、ある意味では当然のこととも言えるだろう。  直に化外の脅威を知っている者が前線の指揮を執ることに理はあるし、戦力的にも第一陣の生き残り組は外せない。  龍明はそういう理屈で通したのだろうし、冷泉はともかく他の三家は竜胆が危険に身を晒すことを好都合だと思うはずだ。七万という兵力は、切り込みを成立させつつ玉砕しても立て直せるというギリギリの数なのだろう。  すなわち裏を返せば、竜胆にもう後はない。次に敗北を喫すれば、どうなろうと将の座を追われる。生死を問わず、戦犯として吊るし上げられることになるだろう。  その意味を解して表情が険しくなった竜胆を、龍明は楽しげに見つめていた。 「無論これは仮のもので、最終的な決定権は総大将たる御身にある。どうするね烏帽子殿、気に入らんなら体調の回復を待ってからの再軍議となるが」 「いや、時間もないのだ。これでいい」 「私が起きていてもこの手を主張しただろう。感謝している」 「それで、陣容だが」 「〈勢州〉《せいしゅう》と〈雍州〉《ようしゅう》、つまり久雅と中院の連合だな。内訳は六:四といったところで、私の一門もこれに加わる。まあ、あからさまだが」 「六条らにとっては態のいい捨石か。漁夫の利でも狙っているのだろうが、まったく……」  こんなときにまで、いやこんなときだからこそというべきか。度し難い限りだが、やる気のない者たちと直接組むよりはマシだろう。 「冷泉殿は利用しておけ。色々思うところはあるだろうが、あれはとかく優秀だ。少なくとも東征の間は頼りになる」 「ああ、分かっているよ。利害の一致だ。それくらい分かる」 「だけど私が、真に頼っているのは彼ではない。そこについてはどうなのだ?」 「うむ、それだがな」  龍明は含み笑って、先ほどから居心地悪げに沈黙している紫織のほうへと流し目を向けた。 「どうだ紫織、天魔は強かったか?」 「……………」 「ここで戦線離脱したいと言うなら構わんぞ。何せその様だし、それが普通だ」  両腕を失った者が戦い続ける道理などない。龍明の台詞に、紫織は嫌気顔で鼻を鳴らした。 「倣岸も大概にしてよ龍明さん。私のこと馬鹿にしてるの?」 「もう帰るなんて一言もいってないし、このままでもそこらの奴らよりは充分やれるつもりだよ」 「そこらの奴より、そう言ったか。なるほど確かにそうだろうが」 「その程度で我らが総大将の期待に応えられると思っているわけでもあるまい」 「だから」  冷徹な言い様に、紫織は怖じることなく反駁する。彼女は彼女で、先の敗北が腹に据えかねているのだと竜胆にも分かった。 「義手、ちょうだいよ。御門にはそういう術科もあるんでしょう? そう聞いたよ」 「ああ、傀儡の法というのだが。はっきり言って痛いぞ。寿命も縮まるかもしれん」 「問題無いね。あいつらぶん殴る手が戻るならなんだっていい」 「どうしたら勝てるかなんて、まだ全然分からないけど、まずは立たないと始まらない。そのためにはね、でしょ竜胆さん」 「そうだな」  問題は山積みだが、今はともかくそういうことだ。誰も退くつもりはないのだから、前向きに出来ることからやっていくしかない。 「紫織はこの通りだよ、龍明殿。これ以上意地の悪いことを言っても嫌われるだけだ」 「私が嫌われることで戦に勝てるならいくらでもそうしてやるが、まあ分かったよ。烏帽子殿に泣きついて気も晴れたようだな」 「私は別に泣きついてなんか――」 「他の餓鬼どもは泣きついてこんのかね」 「~~~~っ」  暖簾に腕押しを地でいく態度はいつも通りで、この人は本当に変わらないなと思ってしまい、苦笑が漏れた。 「……ああ、まあ、その通りだよ。可愛げがあるのはどうも紫織だけのようだ」 「ちょっと二人ともいい加減に――」 「分かった分かった。少し黙れ、これでも食ってろ」 「もがが」  再度、紫織の口にかすてらを詰め込んで黙らせる。 「それで、他の者らだが……」  竜胆の問いに、龍明はそれぞれ簡潔に答えてくれた。誰がどういう負傷や異常を抱えたかは、だいたい知っていたから驚かない。  が、現状彼らがどうしているのか、それを聞いて呆れの溜息が漏れてしまった。 「なんとまあ、あの馬鹿ども……」  特に男どもときたら情けない。自分の前に顔を出さないだけではなく、そろって雲隠れを決め込んでいるとは。 「覇吐だけは死んだのかと思われていたが、ちょうど御身が目覚めたのと同じ時期に戻ってきたらしい。その後は何処に行ったやら分からんが」 「おそらく、この近辺におるだろう。宗次郎と刑士郎も似たようなものだ。捜してみるかね?」 「そうしたいのは山々だが、やめておこう。あれらにも面子はあろうし……」  いま会ったら、引っぱたいてしまいそうだ。別に男同士膝を抱えているわけでもあるまいが、絶対そこに雄々しい絵面はないだろうと断言できる。 「まあ、概して男とはそういうものだ。女なら、それを可愛いと思ってやる度量が必要かな。私は無理だが」 「ふふっ、私も無理だ」 「私は別にいいと思うけど」  器用にかすてらを租借し終えた紫織が、とぼけた調子で割って入った。竜胆はじろりと一瞥を与えたが、あまり効果はなかったらしい。 「夜行の奴は?」 「さあな。あれは少々特殊だから、何かやってるのかもしれん。直に天魔と対したことで、変わるとしたらあの男だろう。あるいは、それこそを目的としていたとしても不思議はないしな」  自らの言葉に奇妙な確信めいた含みを持たせて、龍明は続けた。 「龍水もそう思っているようで、あれは夜行を捜しに行ったよ。甘える相手として私と烏帽子殿は振られたわけだが、まあ素直でよい」 「爾子と丁禮は咒を破られ、型を壊された。あれらは式だから死んだという表現は正しくないが、何にせよ夜行が再起せねば復活できん状態だと思えばいい」 「あとは咲耶か……」  自然と声が低くなる。実のところ竜胆にとって、一番気に掛かっているのはあの少女のことだった。  彼女に禍憑きを起こさせたのは自分だし、結果に責任を感じている。あれで気丈な娘なのは知っているが、だからといって平気なわけがないだろう。 「臥せっていると聞いたが、どこか悪くしているのか?」 「いや、身体的に特にはない。ただ心がな」  龍明にしては珍しく、悼むように声を落とした。そして続ける。 「外部からの刺激に一切の反応を示さん。壊れてしまったのかもしれん」 「壊れたって……」  心の負荷が許容を超えた人間は、自己を守るため時に無感の人形と化す。そうした事例があることは、竜胆も知っていた。 「そうか……」  無理もないと言えるだろう。あれはそれだけの禍で、心が壊れても不思議はない。 「咲耶には借りがあるし、見舞いに行こう。紫織も付き合え」 「あ、うん。そりゃいいけど、ねえ龍明さん。今後の方針っていうか、そういうのはもうないの?」 「いいや」  応えて、龍明は懐から紙を取り出すと広げてみせた。 「先の戦で、化外どもの意識から穢土の地理を汲み取った。まだ未完だが、これがそうだ」 「烏帽子殿は、すでに冷泉殿から大方聞いているだろう。私からの説明は必要かね?」 「いい。紫織には私が話す。龍明殿は引き続き、地図の完成に務めてくれ」 「了解した。ではそういうことで、これはここに置いて行こう」 「咲耶の見舞いに行くのなら、気晴らしに外へ連れ出してやってくれ。身体的に異常はないのだ。こんな所に詰められているよりはそのほうがいいだろう」 「出来れば龍水の様子見もな。頼んだよ」  言って、龍明は立ち上がると去って行った。紫織と竜胆は、その場に残された未完の地図に目を落としている。 「ねえ、これって……」 「ああ、つまりこれより先、二手に分かれるということだ」  地図に記された紅点は、化外にとっての重要拠点を意味している。現在地から進むにあたり、北東の地は道のりが険しすぎて大軍を導入できない。  かといってそこを無視したまま進んでしまえば、挟撃の危険が発生する。 「じゃあ上は少数精鋭、そういうことだね」 「問題は、誰が行くか……」  最悪の場合、再びそこで天魔とまみえることになる。竜胆は軍を率いなければならないし、傷の重い紫織も行かせるべきではないだろう。  いいやそもそも、どれだけの戦力を整えようがあれをどうにかする術があるのだろうか?  と考えながらも、竜胆は己の内に生じる不可思議な気持ちに気付いてしまった。 「…………」  正直、心当たりはなくもないと。 「……竜胆さん?」 「ああ、すまん。ともかく冷泉殿から聞き及んでいた方針を伝える」 「〈鬼無里〉《きなさ》、〈不二〉《ふじ》、そして〈諏訪原〉《すわはら》……天魔どもの意識では、この地をそう呼んでいるらしい」 「私は軍と共に不二へ向かわなければならないし、おまえもそちらに来い紫織。鬼無里の面子は、また熟慮する」 「そうしてこれら二点を制し、その先にある諏訪原で全軍集結させるのだ。すでに嵐は晴れたのだから、海上の兵站輸送も機能する。不可能ではない」 「私らが全滅せずに進めたら、でしょ」 「そうだが、やらねばならんだろう」  短く言って、竜胆は立ち上がると素直な気持ちを口にした。 「言うまでもなく困難は予想されるが、それについて私が一番頼っているのはおまえたちだよ。だから私のことも信じてほしいな」 「どんな風に?」 「まだ口にはできないが」  不思議と竜胆の中には確信があった。自分たちは天魔を斃せる。  あれは、あの恐ろしいモノたちは、決して無敵の怪物ではない。  むしろどうしようもないほど脆く儚く、砂上の楼閣のような敗残者の群れなのだと。 「まず言ったように咲耶を見舞うさ。その後に龍水も捕まえよう」 「なあ、せっかくだから女同士、そんな夜も一日くらいいいだろう」  呆れた顔でこちらを見上げる紫織に対して、微笑で応える。  ああ、まったく本当に、どうしてこんな風に思うのだろう。これは狂気なのだろうか。  分からないが、ただの楽観や逃避の類でないことだけは確かだった。  自分は幸せな人間なのだという自覚がある。  幸福の定義とか、そういったことを論じているつもりはないが、単純に嫌な目というものをこれまで自分は見ていない。  別の言い方に替えてしまえば、今まで思う通りにならなかったことが記憶にないのだ。  無論それは、才や努力で道を切り開いたという意味ではない。自分は凡才だと分かっているし、人並みはずれた研鑚を詰んだわけでもないのだから、単に幸運と言うしかないだろう。  なぜか恵まれているだけの人生。諸々。  自分はこれまで、好ましく思える道の上だけを歩いてきた。他の道が目の前に現れることがなぜかなかった。  つまり、幸せな人間であるということ。  それが御門龍水にとって、己に対する認識だったと言っていい。 「では、なぜ……?」  瞑想の中、自問する。幸福という己の世界が初めて破壊された不条理に、少女は困惑を禁じ得ない。  それは自己への了解で、人生に対する契約だった。〈龍水〉《せかい》を構築する秩序の域で彼女は幸福を信じていたし、それが狂わされることなど想像すらしていなかった。  なのに。  現実を知れと誰かが囁く。〈幻想〉《ユメ》を見るなと嘲笑う。何の根拠もない確信など、迷妄の類でしかないのだと糾弾してくる。  言われてみれば、確かにそれはそうだろう。  二十年も生きていない若輩の身で、狭い世界しか知らなかったというだけのこと。  古びた常套句を使うなら、世の中そんなに甘くない。要はそういうことかもしれない。  だが、同時に断固否だと思う自分もいる。そんなものは認めない。この気持ちは嘘じゃないと、強く強く強く強く―――  信じ続ければ、あるいはこの今も変わるのだろうか。  自問は徐々に形を無くし、なにやら形容できぬ層へと繋がっていく。己の内に埋没するほど、御門龍水という〈咒〉《かた》が散逸していく。  ひたすら自分を見つめることで、自分が分からなくなったと言うのが近い。それはつまり忘我の境地で、別の言い方をすれば脱魂、入神……すなわち高次域への接触である。 「――――――」  そこで彼女は、何かを見た。いや、すでに彼我の境が曖昧である以上、それは龍水自身なのかもしれない。  煎じ詰めればこの行為、固我を見失うほどの精神潜行――  それを成す自己探求の深さこそ、御門龍水の最大適性。  龍明にも、夜行にも、他の誰にも成し得ぬ域で己というものを見たがる〈渇望〉《おもい》。  実にそれこそ西側的な、人界の法則に基づく正統な在り方だろう。  だから彼女は、これが何なのか分からない。  この、血走った三つ目がいったいどういう存在なのかを……  がりがりと、ざりざりと……それは偏執的なほどの単調さで自らの顔を掻いている。  痒がって……いるのだろか? 当たり前に考えればそうとしか思えないが、その行為はどこか自壊的にすら見えてしまう。  なぜなら、それは掻くと言うより削っていた。己自身を解体しているかのように、自らをこそぎ取っているのである。  阿片など薬物の一種には、身体に虫が湧いたと錯覚する禁断症状があるらしい。そうしたものと似た雰囲気。何か汚らわしいものを自身から拭い去ろうとする過程で、己もまた破壊している。  そうした病的と言える気配がある反面で、〈同〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈安〉《 、》〈定〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。完全に矛盾するが、己を削ぎ取るという行為が負の方向へと傾いていない。  自己の削ぎ落としは休むことなく続けられているものの、だからといってそれの総体は一向に小さくなっていないのだ。おそらくは、捨てる分と拮抗するかたちで生産も起こっている。  際限なく膨張していく自らを厭うように、削り続けることで均衡を保っているモノ……龍水には、それがそのように見えていた。  そして、それ以上この存在を推し量ろうとはしなかった。  ぼんやりと、漠然と、主観が曖昧なまま在り続ける。彼と我の間に明確な線引きを施さないこと。  それは偶然であり、才能であり、そして最大の幸運だった。これを前にして、無事を保つための唯一絶対と言える手を、龍水は無意識にだが選択していたのである。  よって…… 「〈おまえ〉《わたし》は何がしたいのだろう?」  それを前に、己は他者であると主張しながら立つということ。  その存在に、おまえは誰だと認識されてしまうこと。  それが他者をどう認識しているのか、そのことを理解するという最大の禁忌に龍水は触れずにすんだ。  今、その幸運が形を成す。 「」 「」 「――――――」  僅かな揺らぎ、睫毛の先が震えたほどの念だったが、その質量は膨大という言葉ごときでは追いつかない。  もしも個我を持ったままこれに触れたら、宇宙規模のうねりを前に砂の一粒が呑み込まれていくかのように、龍水は掻き消されていただろう。  だが、今の彼女は彼でもあった。そして彼は彼女だった。ゆえにその奔流を乗り切れる。それが何を念じているのか理解することは出来ないまでも、同化することでやり過ごせる。  それの〈渇望〉《いろ》は、この場において龍水の〈願い〉《いろ》とも繋がっているのだから。 「、」 「、」  意味の分からぬ短い答えに、しかし心から同意する。そうだ。そうだ。そうなのだ。 「わた、しは……」  何を祈り、何を願い、何を求めて何に縋る?  愚問――御門龍水が信じるものは、天上天下に唯一つ。 「  」 「  」 「――夜行様」  己が祈るモノの形を見出して、瞬間――御門龍水は夢から覚めた。 「ぁ………」  開いた視界に映るのは夜の森。そして背から伝わる男の気配。  その感覚を捉えた途端、龍水は今の今まで〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈忘〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  ただ分かるのは、確かなものだと感じているのは一つだけ。 「おまえも何かを識ったか、龍水」  自分が座していた木の裏側に、この男もまた座していたこと。そして、彼が以前の彼ではないということ。  ああ、そうだ。間違いない。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  天魔に負けた? 冗談ではない。摩多羅夜行は無敵無双――天下に比類なき英傑なのだ。これより約束された逆襲を始めるのみ。  と、龍水は微塵の疑いもなく信じていて…… 「はい、夜行様。私が識っていることは、あなたが絶対であるということ、唯一つです」 「それを確認していただけのこと。何ら問題はありません」  蒼く、闇の中で燐火のように薄く輝く瞳が未来の情景を捉えていて、同時に、ようやくと言うべきか――目の前にいる仲間の存在にも思い至った。  竜胆は心配げな顔をして、紫織は不思議そうに小首を傾げ、そんな二人に支えられるようにしながらも、焦点の合わない瞳で虚空を眺めている咲耶の姿。  さらに言えば、自分の背後……夜行の前には覇吐たちもいるらしい。期せずして、この場に全員が集まったのは何かの符号なのだろうか。  分からない。分からないが、ともかく東征はまだ続く。自分が思い描く最高の物語は、こんなところで挫折して終わることなど望んでいない。  自分は幸せな人間だから。それが世界との契約だから。若輩者の万能感だの、現実を知らない思い上がりだの、そんな〈咒〉《ことば》は聞く耳持たない。  起きて見る〈理想〉《ユメ》は叶えようとする意志があり、叶えられるからこそ価値がある。寝て見る〈迷妄〉《ユメ》とは根本から違うのだ。  だから…… 「ご心配をおかけしました、竜胆様。そちらは大事ないですか?」  明朗に微笑みつつ、そう問いかける。竜胆は若干面食らったような顔をしたが、すぐに苦笑しつつ頷いた。 「ああ、まあ、私は見ての通りだよ」 「何があったか知らないが、少し〈面〉《つら》付きが変わったな龍水。頼もしくなったと言うべきか」 「あんたはもっとこう、ぴーぴー言ってるときのほうが私的には可愛げがあってよかったんだけど」 「抜かせ。生憎だが、いつまでもチンチクリンではないのだよ」  不思議と、視界が以前より開けて見える。恐れることは何もないと信じられる。  悲観的なことばかり考えていたら、本当にそうなってしまいそうだと思うから。 「私は、勝利の未来を見ているのだ」 「そうか……」 「ではそのためにも、現実的な話に移ろう」  微笑む竜胆。未だ意識の覚束ない咲耶を刑士郎の手に渡しつつ、彼女はこれからの方針を簡潔に教えてくれた。 「第二陣が揃い、傷が癒え、諸々準備が整った後、二手に分かれる」  ゆえにおまえはどうするかと訊かれて、龍水は即断した。竜胆と紫織が不二に向かうと言うのなら、自分は鬼無里へ行くしかない。  もとより、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈展〉《 、》〈開〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そちらは私にお任せください。竜胆様も、どうか武運を」  思いのほか泰然としている龍水に、やはり竜胆は軽く面食らっているようで、しかし次には、頼むぞと言って微笑んだ。 「では、鬼無里の面子の指揮はおまえが執れ。龍明殿も、きっとそう言われるだろう」 「これより負けは許されぬ。ゆえに何としてでも生き残れ」 「戦場での競争は愚かだが、おまえが見ているという勝利の未来とやらに興味が湧いたので訊こうか、龍水――」 「おまえはこれより、誰が一番武功を立てると予想する?」 「そうですね……」  問いに、しばらく考えて、しかし龍水は見えているものを正直に告げた。 「きっと、私はこうなることと思います」  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後に、俺はお姫様に捕まった。  いや別に、逃げるつもりなんかなかったけど、俺としてはなんつーかこう、ちょっとばかりバツの悪い心情があったわけで……  そこらへん、汲んでくれないかなぁと思ったのは、どうやら甘い楽観でしかなかったらしい。 「で……」  腕を組み、胸を反らし、居丈高に見下ろしてくる我らが大将。はいその威圧感、マジおっかねえ。 「とりあえずおまえ、こっち来い」  なんすか、頭でも撫でてくれるんすかと思って近づいたら。 「この馬鹿者がぁっ!」  容赦なし、全力で、頬にすげえ張り手をもらった。 「――痛ぇ、ちょ、なにすんの!」 「うるさい、この根性なし。ちょっとやられたくらいで女のようにめそめそと引きこもりおって。これはその罰と思え」 「そんなことだからおまえたちは駄目なのだ。俺様最強とかいつも馬鹿みたいに思っておるから、些細な挫折ですぐへこたれる」 「ああもう、分かっていただけに腹立たしいぞ。男同士が雁首そろえて、何を鬱々と愚痴っていたのだ」 「そんなことで、私の臣が務まるとでも思っているのか」 「ああ、うん。そりゃ、はい……」  お怒りはごもっともで、ぐうの音も出ないわけだが、一応俺も俺なりに、思うところがあったわけで…… 「なんだ、文句があるなら言ってみろ」 「……いや、なんもねえよ。全面的に俺がショボい」 「反省してるから、今回はもう勘弁してくれ。これが最後のヘタレ場にするから」 「言われるまでもない。二度は許さん。私はそう寛容でもないぞ」 「それでおまえ、ちゃんとやる気はあるんだろうな? 言ったからには、実践してもらうぞ」 「分かってるって」  俺は、つーか俺たちだって、竜胆曰く男同士で鬱々と愚痴っていただけじゃない。  どうやって天魔に勝つか、具体的な方策はともかくとして、今後に懸ける気の持ちようはしっかり確認したつもりだ。 「俺はその、今までは確かに、てめえの勝った負けたでしか物事考えてなかったかもしれねえ。だから竜胆が言う通り、そういう自信を砕かれたら終わりみたいな、脆さはあったんだと思う」 「でも違う。……ていうか、違ったんだよ」  何が、と問う竜胆を真っ直ぐ見つめて、俺は言った。 「俺はただ、竜胆を勝たせたかった」 「俺が負けて、それが竜胆の負けになって、おまえが駄目な大将みたいに思われるのが嫌だったんだ」 「俺の沽券だけならよ、俺が気合い入れりゃあいいことじゃんか。もう一回、我武者羅やって、ぶっ殺して、ぶっ殺されてもまあいいかって……そういうノリで片が付く問題のはずなのに、なんかしっくりこなくてよ」 「自分でもワケ分かんねえもんだから、その、鬱々悶々としてたんだわ。俺はこれから、何考えて東征を続けんだよって……」  それが自分自身定まらなくて、情けねえとこ見せちまったけど答えは出た。  事態は俺が突っ走ってどうにかなる問題じゃない。俺が格好つければ万々歳って話じゃねえんだ。 「竜胆、言っただろ。俺の名誉は俺だけのものじゃないって」  それはつまり、俺の名誉が竜胆の名誉でなければならないということ。  こいつが笑って喜ぶような、誇って抱いてくれるような、そういう未来を目指さなければ意味がないんだ。 「なんかごちゃごちゃしたことは分かんねえけど、俺はただ、竜胆の笑顔が見てえと思ってたんだ」 「そのことのほうが、俺の目先のああだこうだより大事だったんだなって、分かったんだよ」 「だからすまねえ。これからちゃんと、何が大事か考えていくよ。根拠になってねえことだけど、おまえのことを想ってる限り、俺は負けねえって思えるんだ」  なぜなら、俺が気持ちよく暴れた末に散ったとしても、後に遺したこいつのことを考えたら身震いするだろ。絶対怒り狂うに決まってるから。  そんときのこいつにかけてやれる言葉がない。怒られてやることも、殴られてやることも、何をしてやることもできはしない。  そう考えたら恐ろしい。俺は生まれて初めて死と戦いが怖くなって、それは取り返しのつかないことだと思ったんだ。 「だから俺は、生きたいと思う」 「おまえのためにも、俺のためにも」  と考えるのは、やっぱり竜胆の嫌いな自分本位の言い分にすぎないのだろうか。  我ながら上手く纏めきれないことをうだうだと言ってしまい、耳まで赤くなってきちまったからなんか言ってくれよと思っていたら…… 「あ……その、う、うん……」  よく分かんねえけど、竜胆も耳まで真っ赤になっていた。 「えっと、その、どした?」 「ばっ――、いや、なんでもない」  不安になって手を伸ばしてみたら、ずざざーと音がする勢いで後退する竜胆。  いやそりゃ確かに、今の俺はちょっとキモかったかもしんないけど、そんな全力で引かなくてもいいじゃんかよ。 「な、なんだその目は? 貴様また、不埒なことを考えているのではあるまいな」 「考えてねえよ」  つーか考えてほしいのかよ。 「と、とにかく、まあおまえの心意気は分かった。私もこれ以上過ぎたことを言う気はないから、あとは男らしく行動で証明しろ」 「今後の、差し当たっては不二でのおまえに期待している」 「ああ、失望されねえように頑張るよ」  そこに何が待っているかは分からないが、もう二度とこんな無様は晒さない。  だって俺の姫さんは、この通りとっても厳しい奴だから。 「言うの遅くなったけど、おまえが無事でよかったよ」 「竜胆、どこも怪我とかしてないか?」 「え……?」 「あ、ああ、そうだな。私はまあ、平気だよ」 「……?」 「それより、そちらはどうなのだ? 聞いた話では、おまえだけずっと生死不明だったらしいが」 「あ、いや、そりゃあ……」  平気だよと答えながらも、続く言葉が即座に出ない。このまま適当に空元気張って誤魔化すのは簡単だったが、それはやっちゃいけないことのように思えたんだ。  なぜなら竜胆は、俺のことを信じてくれる。だったらそんなこいつに対し、出来るだけ誠実な自分でいるのが筋だ。  かっこ悪いとかダサいとか、そんな見栄はうっちゃって、びびってる俺のことも話しておこう。  そう決意するのに勇気が要ったが、もう二度とヘタレないと言ったのだからやらなきゃならん。深呼吸を一つして、継ぐのが遅くなった二の句をようやく俺は口にした。 「なあ竜胆、おまえ、俺が歪み使うの反対か?」 「なに?」 「だから、龍水に何か言われてたんだろう。夜行に聞いたよ」  返し風は、凶月だけに吹くものじゃない。形は違えど、歪みを使えば何かしらの反動が必ず来るという推論。  それが真実だったなら、俺の現状はそうしたものの結果なのかもしれないんだ。 「俺はたぶん、一度死んでる。だけどこうして生きている。それがどうしてだか分からねえ」 「そういう特性だっていっても、〈天魔〉《あいつら》には何も通用しなかったんだ。なら理屈は通らねえよな」 「正直、怖ぇよ。意味がまったく分かんねえし。ただ、これが俺流の返し風なのかなって風にも思うから、おまえはどう思うかなって」  気持ち悪がられるだろうか。不吉な奴だと避けられるだろうか。この先何がどうなるか分からないから、俺を危険視するだろうか……  そういうことを見越した上で、俺に歪みを使わせないようにしていたのかなって、ちょっとばかり考えている。  久雅竜胆に、要らないと言われたら嫌だなぁって、要はそういう不安なわけで、これはもしかして早速ヘタレちゃってんじゃねえのかよ。やべえ、シバかれると思っていたら―― 「おまえは強いな、覇吐」 「はい?」  なんか、よく分からんが、俺様感心されているみたい。 「え、えっと……」  ちょっと意味が見えないんだけども。  あれ? もしや今、知らずの内に竜胆の乙女的なツボ突いた?  母性本能がどうたらとか、そういうあたりを?  だったらおい、ちょいちょい待てや。今すぐいい顔作るから。 「竜胆――分かった、皆まで言うな」 「さあ、空を見よう。星が綺麗だ」 「は?」 「でも、おまえのほうが綺麗だ」  やっべえ、最高。超決まったよ。さあこのまま手をとって接吻して押し倒して草の〈褥〉《しとね》があら素敵! 「いざ、めくるめくヌキヌキポンへ――」 「ふ、ふざけるな戯けぇ――!」 「ぐぼはぁっ!」  ばしこーん、と全力のビンタを受けて、俺はきりきり舞いながらぶっ倒れた。 「ひ、ひでえ! なんなの。何するのっ?」 「こ、こっちの台詞だ破廉恥漢! き、貴様のような奴に一瞬でも気を許しかけた自分が腹立たしい!」 「何が空だ! 何が星だ! 何がぬ、ぬ……」 「ヌキヌキポン?」 「うるさい馬鹿! 言わせるな馬鹿!」  すげえ、過去最高にキレてるよ。俺、なんかやばいこと言ったっけ? 「とにかく、貴様がその足りない頭で考えていることは見当違いの杞憂だからさっさと忘れろ。私は別に、おまえがどうだろうと忌避などしないし、それを恐れてなどもいない」 「いま、思いっきり拒絶したじゃん」 「それとこれとは話が別だ」  いや、同じようなもんだと思うんだけど。 「死んでいない? 結構ではないか。おまえが生きるというのなら、その気持ちで前に進め。勝利しろ。私がそれを見届けてやる。分かったな!」 「はい」  有無を言わせぬ剣幕に、思わず犬のように頷く俺。竜胆は鼻を鳴らして、さっさと踵を返し、去っていく。 「ああ、ちょっと待てよ。何処いくの」 「もう寝るんだ。馬鹿の相手をして頭が痛くなってきた」 「じゃあ俺も」 「ついてくるな。おまえはそこで頭を冷やせ。というか、私の寝室まで来る気なのか、また斬るぞ」 「ええ~、それは確かにあれだけどよぉ……」  もうちょっとこう、雰囲気の出る終わり方で今日という日を締めたかった。これじゃあいつかと同じじゃねえかと、愚痴りつつ…… 「すまない、覇吐。ありがとう」 「ん、何か言った?」 「何でもない!」  ともかく竜胆はあの通り健やかで、先の敗北は何の影も落としていないのだと分かったことは収穫だった。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、不意に呼び止められた宗次郎は振り向いた。 「や、元気?」  軽い声に、屈託のない笑み。いつも通りの彼女だが、その見た目は些か以上にいつも通りとは言い難い。  正直言って、よく歩けるものだ。その一点だけを感心して、宗次郎は会釈のみを返し去ろうとする。 「あー、ちょっと待ってよ。何一人でつかつか歩いちゃってんの」 「せっかくだしさ、ほら、ちょい、ここ座りなよ。どうせ眠たいわけでもないんでしょ?」 「…………」 「おーい。聞いてるー?」  まったく、いったい何だというのだ。鬱陶しいとは言わぬまでも、意味の分からない紫織の態度に辟易しつつ、宗次郎は足を止めると振り返る。 「僕に何か用ですか?」 「いや別に、用ってほどじゃないけどさ」 「強いて言うなら、作戦会議? あんたも不二に行くんでしょ?」 「だったら連れの近況くらい、知っときたいと思うじゃない。背中預けるとか、そういう関係じゃあないにしても」 「…………」 「ね?」  立ち止まったまま、数寸の間考える。ここで紫織の相手をすることと、紫織の主張を黙殺すること、どちらがより労力を要するだろうと思案して、結局のところ前者が無難なのかと溜息をつきたい気分になった。 「作戦会議……ですか。まあ、後々を考えれば、無為というわけでもないですね」 「そそ。分かったらこっちおいで」  両腕がないから、器用に顎で手招いている紫織に呆れつつ、その傍まで戻った宗次郎は言われるがまま腰を下ろした。 「で?」 「で、って何よ? 私に話振っちゃうわけ?」 「呼んだのはあなたでしょう」 「そうだけど、こういうときって男が仕切っていくもんじゃない? 覇吐とかだったら、言われなくてもそうしようとするんじゃないかな? 出来るかどうかはともかくとして」 「あの人と一緒にしないでくださいよ」 「いやまあ確かに、あれの真似はするもんじゃないと思うけどさ」  言って、けらけらと笑う紫織の様子に影はない。だがその両腕は欠損していて、断端を覆った包帯からは血が滲んでいる。  今さら確認するまでもなく、彼女は不具となったのだ。その割には悲観した様子がまったくないのを、褒めるべきか呆れるべきか。  分からないので、とりあえず宗次郎は思ったことを口にした。 「怪我をしていない〈可能性〉《じぶん》というものを呼び出すことは出来ないんですか?」 「んー? ああ、そりゃ無理だよ。あの状況で、そんな可能性はマジに一個もなかったし」 「これが最善。この様が限界。正直、生き残ったのが自分でも不思議だわ。なんでだろうね」 「さあ、僕も分かりませんよ」  それはつい先ほどまで、覇吐らとさんざっぱら話したことだ。どう議論しても分からないことは分からないし、ともすればみっともない泣き言になりかねないからここで蒸し返すつもりもない。  紫織も、そういうところは自分と似通った感性だろう。過ぎたことは過ぎたこと。大事なのは、その上でこれからどうするかということにある。  作戦会議と言うのなら、話題の焦点はそこにあてるべきだろうと考えたので、宗次郎は続けて言った。 「あなたも不二に行くと言うのなら、ここで引っ込むつもりもないんでしょう。ならばその様、どうするんです?」 「ああ、龍明さんに義手もらうよ。なんだっけ、傀儡の法? とにかくそういうのがあるらしい」 「どうせなら、こう、じゃきーんと色々隠し武器とかくっついてるような、ごてごてしたのがいいんだけど、どうかな?」 「どう、と言われても」 「実はさ、結構憧れだったんだよね。弟が、そういうカラクリっぽいの好きでさ。私も影響されたっていうか」 「なんだろう、改造人間みたいでカッコよくない?」 「…………」 「ねえねえ、宗次郎もやっぱ男だし、ああいうの好き?」  紫織が言っているものがどういう類かは一応分かる。鋼鉄の骨格を歯車で動かして、ぎりぎり言わせつつ肘や拳から刃が迫り出してくるような、要するにあれだろう。  剛毅というか楽天的というか、恐ろしいほどに前向きな性格だ。無論、自分は彼女の総てを知っているわけではないのだから、裏では色々思うところがあるのかもしれない。  ここで再会する前に、もしかしたら竜胆たちとそういうことを話しあったのかもしれないし、だとしたらここでの印象だけを見て、気楽な奴だと断ずることは出来ないだろう。  いや別に、だからといって何がどうだというわけでもないのだが。 「ねえねえ」 「あぁ、もう」  ともかく今の屈託ない紫織に対し、自分の態度は余裕のない柔弱な男のように感じてしまったものだから、宗次郎は素直に答えた。 「僕は出来るだけ、生身と見分けがつかないものであるべきだと思います」 「へ、なんで?」 「なんで、と言われても……理由は色々あるでしょう」 「まず、あからさまにカラクリっぽい外装だと、誰でも警戒しますよね」 「これは普通の腕じゃないと、宣伝しながら歩いているようなものだから、その、隠し武器ですか? そういったものの効果も薄れると思いますし……」 「ふんふん、それで?」 「あとは単に、日常生活的にも不便でしょう。今の機工学がどの程度のものかは知りませんが、最低限五指があって、精密な動作も出来るようでなければ……」 「紫織さんの技を正確に伝えることが難しくなるのでは? 単に鉄の棒をくっつけるだけで足りるようなら、それはもう武術じゃない。僕はそう思いますし……」 「なるほど。うん、それから?」 「それから、と言われても……」  他にまだ、何かあったか? 思いのほかぐいぐい来る紫織に面食らいながら、宗次郎は考えて……  単純に、そう、もっと単純な話で言えば…… 「仮にも女性の身体です。それを禍々しい武器で飾るのは、美しくないと思いますよ」  と、らしくないと言えばらしくない、一般論的な指摘で締め括っていた。 「あ……」  その点、まったく考えてなかったのか。紫織は放心したようにぽかんとして。 「あ、あぁ、うん。そうだね! そうだよね!」 「ごめん。なんかこう、図々しくて。えっと、その……」 「宗次郎もさ、やっぱ綺麗な女がいいんだよね。当たり前だよね」 「はあ?」  何を慌てているんだろう、この人は。まったく意味が分からない。 「僕がどうこうではなく、紫織さんの身体でしょう」 「いや、そりゃ分かってるけど、あんたごてごてした女は美しくないと思ってるんでしょう?」 「まあ一般論的には」 「何よその言い方。なんか腹立つ」 「そんなことを言われても」  一般論は一般論で、覆しようがないことだ。さっきまであたふたしていたかと思いきや、急に今度は怒り出すし。自分にどうしろと言うのだろう。 「とにかく、義手といえどもあなたの身体だ。紫織さんが納得したものを求めるべきでしょう。妥協はしないほうがいい」 「僕は僕で、いつもそういう気構えでいますから」 「むー」  と恨めしげな視線を向けて、睨んでくる紫織。そのまま拗ねるような口調で問うてくる。 「宗次郎の気構えって、じゃあ何よ? あんた、なんか切羽詰ってんの?」 「まあ、ある意味そうですね」  立ち上がり、自嘲するように笑って言う。 「たぶん、僕はもう長くないです。悪路の陰気を、深くこの身に受けすぎた」  覇吐たちには特に主張しなかったが、今このときも手が震えるし目が霞む。気を抜いたら内臓ごと吐いてしまいそうな嘔吐感が慢性的になくならない。  しかしそれでありながら、力だけは湧き上がってくる始末。なんとなれば星まで跳躍できるような、矛盾した感覚が同居しているのが今の自分だ。  それは言うまでもなく暴走の類。遠からず壊れることを前提にして、限界を超えた駆動をしている証だろう。  陰気汚染による強化が行き過ぎて、自己の肉体を破壊している。それを自覚していればこそ、宗次郎は決めているのだ。  悪路を斃す。そしてこの毒を消し去らねば、自分は生きていくことができないのだと。 「僕を討ち漏らしたこと、必ず後悔させてやる。奴からもらったこの毒で、奴の総てを断ってやる」 「木偶の剣などと言われたからには、こちらとしても退けませんよ。僕はまだまだ、生きなければいけない」  この地上にただ一人、壬生宗次郎だけが残るまで。斬って斬って斬りまくる。その求道を完成させるそのときまで。  悪路を討滅することで、いま湧き上がる力を手放すことになるかもしれないのは惜しいことだが、自分の最終目的は神州の平和でも東征戦争の勝利でもない。もっと先を見ているのだ。 「そういうことです。分かりましたか?」 「ふーん」  と決意のほどを答えたのに、当の紫織はいまいちどうでもいいような顔をしている。 「つまり、こういうことだよね。この東征が終わったら、宗次郎は私たちにも剣を向けると?」 「……? それは当たり前でしょう。第一あの御前試合、決着はまだついていない」 「そうじゃないですか?」 「ま、そりゃそうだけどね」  言って、紫織も立ち上がる。宗次郎に目線を合わせ、ついで含むように笑みを浮かべ。 「でも私、正直言ってあんたには楽勝できそうな気がするんだけど」 「それは、また……」  聞き捨てならないことを言う。宗次郎はその手の冗談を一切認めない性分だし、そこは紫織も同じだろう。数瞬睨み合った二人だが、やがて宗次郎は頷いた。 「分かりました。では最初の相手は紫織さん、あなたにしましょう。もとより御前試合でもそうでしたし」 「言ったからには、必ず受けてもらいますから。つまらないところで死なないように。せいぜい良い義手を見繕ってください」 「ああ、うん。だけど今でもあんたにゃ勝てると思うよ」 「えっと、ほら、ちょっとこう、ここ持って」  言いながら、襟元を掴むように促す紫織。今でも勝てるとはどういうことかと、少なからず腹の立った宗次郎は言われるがままそれに従い、次の瞬間―― 「うりゃ」  唐突に身をよじった紫織によって、掴んでいた襟元ははだけられ、ぷるんとこぼれものが、ものが、ものが、ものが、否応もなく目の前に晒されてしまったから―― 「ごふぅっ!」 「あはははは、ほら一本ー!」  すぱん、と軽くはあったが繰り出された足払いによって、宗次郎はその場にひっくり返されてしまった。 「ちょ、ま――、なんですか今のは、卑怯でしょう!」 「えー、なんでー? すっごく正当な勝負だったような気がしなーい?」 「違う。絶対、こんなの違う。僕は認めませんよ、納得できない」 「そんなこと言われてもなー。あんたの言う女っぽい身体を使っただけなんだけども」 「だから、それは一般論の話であって」 「あんたに通用したんだから、あんたの意見でもあるんじゃない?」  ああ言えばこう言う。口ではどうにも勝てそうにない。  憤慨する宗次郎を見下ろしつつ、紫織は失われた両腕を優雅に振り回す仕草をすると、微笑んだ。 「怖いなー、やっぱり宗次郎は危ない奴だね」 「こりゃあ私も身を守るために、新しい腕は綺麗なやつにしてもらおう。あんたの弱点に付け込めるように」 「ねえ、そういう腕のほうが、宗次郎はぐっとくるでしょ?」 「知りません」  と答えながらも、これは由々しい問題だと宗次郎は痛感していた。  どうもこの女性に対し、自分はとんでもない弱みを晒してしまったようで、早急に手を打たなければならないのだが…… 「いやん、どうしよう。宗次郎が野獣の目で私を見てる。やっぱりちょっと、露出抑えたほうがいいのかなー」  何が楽しいのか、鼻歌交じりそんなことを言っている紫織を見てると、ムキになって怒るのも馬鹿らしく思えるのだ。 「あ、ちょ、宗次郎。胸元またはだけそうだから直してくんない? おっぱいこぼれそう」 「勝手にこぼしてればいいでしょう。というか、常にこぼしてればいい。そうすれば僕も鍛えられる」 「えー、でもそれだと有り難味ってもんがさあ」 「ていうか、常にこぼしてて宗次郎は平気なの?」 「平気じゃないから鍛えるんでしょうが」 「いや、そういう意味じゃなくてさあ」  何の会話だ、これは。  ともかく、後々のことを考えれば、次の不二で覇吐から女に対する気の持ちようでも伝授してもらう必要があるかもしれない。  いやまあ、あれにしたって、自分とは違う意味で女に骨抜きの男なのだが…… 「ねえねえ、宗次郎。おっぱい落ちるよ」 「うるさい!」  ガラにもなく大声を出して、それに紫織が大笑いして。  なんとも締まらない感じだったが、この短期間に二連敗した男の威勢などそんなものかと、不思議と不快ではない自嘲が漏れていたのだ。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、刑士郎は竜胆に引き渡された咲耶と二人で残された。 「…………」  彼女は何も口にしない。瞳は焦点がずれており、自分のことを認識しているのかも分からない。  その様が、どうしようもなく腹立たしかった。自分の無力さを叩きつけられているように思う。  なんてことだ。なんて様だ。正直視界にすら入れたくないが、刑士郎の精神は自分にそれを許していない。  見ろと、見続けて噛み締めろと、己に直視を強いている。この現実を忘れてはならぬと思ったし、忘れるつもりも毛頭なかった。 「おまえ、禍憑き使ったってな……ああ、全部俺のせいだ」  咲耶が正気ならなんと言うか、きっとそんなことはないと言い、それに刑士郎は違うと言い、不毛な水掛け論が延々と続くのだろう。これまでそうしたやり取りを何度も繰り返してきた二人だから、容易くその情景が目に浮かぶ。  ゆえに、そうならない今が許せなかった。これは何の冗談だと、刑士郎をして目眩を覚えるほどの断絶がそこにある。  思えば今まで、咲耶とこれほどまでに切り離された状況は初めてのことだったから、刑士郎はその溝を埋めるようにぽつぽつと話しはじめた。  今まで、面と向かっては言えなかったようなこと。  聞いてもらうべき相手はここに居てここに居ないと、分かっているからこそ言えるような類のことを…… 「おまえ、いつも言ってたよな。俺はどこか病的だってよ」 「ああ、確かにそうかもしれねえ。だってこんなんなっていながらよ、俺はどこかでほっとしてんだ」 「おまえが話さねえ。おまえが笑わねえ。おまえが俺を顧みねえ。そういう今の状況が、なんだか妙に心地いい」 「こりゃなんだろうな。分かんねえよ。腹は立つし、ムカついてんだが、同時に気も抜けた感じでよ……ああこれで、俺はおまえを顧みなくていいなんて……正直言うと、そういう気持ちが多分にある」  だから、凄まじく憤怒している。そして同時に安心している。幸福という恐怖を与える存在がいなくなって、いよいよ自分は一人きりで、何も恐れるものがなくなったのだと、胸を撫で下ろしている下種な己に。 「俺は禍憑きを失った。理屈はまったく分かんねえが、陰気が身体にねえんだよ。その上おまえまでこうなって、ある意味解放されたわけなんだが……」 「笑えねえ。笑えねえな。だから誓うぜ。必ずおまえを戻してやる」  でなくば己の在拠が分からない。こんなある日いきなりやってきた災害のような展開で解放されても、何も呑み込めはしないのだ。  凶月刑士郎にとっての凶月咲耶は何なのか。それを知るためにも取り戻さねばならないと思う。その結果がどうなろうとも、今のままでは糸の切れた凧と同じだ。  自分はこの女をどうしたいのか、その答えを見つけるためにも…… 「俺はこの戦を続けるぜ。今の様じゃあ能無しも同然だが、だからって退くわけにもいかねえ」 「なあ咲耶、おまえもそう思うだろう?」  問いに彼女は答えない。ふらふらと彷徨う視線に釣られるように、木の根に躓いて倒れるその身を刑士郎は抱きとめた。 「あ、ぁあ、あぁう……」  腕の中でか弱くもがく、その力のなんと儚いことだろう。そしてなんと強烈無比な暴力か。  かつて刑士郎はこれほどまでに、痛いと思う〈打擲〉《ちょうちゃく》を受けた経験は記憶になかった。  そうだ、これに比べれば、天魔の強さなどまったく大したものじゃない。 「だからおまえも、早いとこ目ぇ覚ませ。少し休むのは許してやるから、いつまでもこんな様ァ晒してんな」 「何を見て、何を恐れて、どんだけひでえ気分になったのか知らねえが、弱い女は嫌いなんだよ。俺を失望させんな咲耶」 「俺が来んなっつったのに、我が侭言って〈穢土〉《ここ》に来たんだ。ならその目的を果たしてみせろよ」 「おまえは俺の血染花になりてえんだろうが。なあ、そうだろうがよ……!」  軋るように搾り出して、刑士郎は穢土の空へと目を向ける。そこにはいつかと同じ太陰が、無言で彼らを見下ろしていた。 「見てろよ……俺は誰にも負けやしねえ。それをこの先、証明してやる」  鬼無里……なんともふざけた名前だ。ならば己こそがその地を壊す鬼になろうと、壊れた温もりを抱いたまま、刑士郎は誓っていた。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、立ち上がった夜行もこの場を去っていこうとする。  そんな彼の背後から、ちょこちょことついてくる気配はもはや慣れ親しんだものであり、ことさら何かを語らうつもりもなかったのだが、今は少々肩が軽い。  爾子と丁禮の具現に咒を割いていないという状況は、思い返すにいつぶりだったか記憶にないほどだったので、その余剰分が夜行の口を軽くしたのかもしれない。  彼はなんとなく振り返って、気付けば後についてくる少女へと、たいした意味もなく話しかけていた。 「龍水、おまえは何を見た?」  本音のところでは、どうでもいいと思っていることを問う。摩多羅夜行にとって奇行に属する部類だったが、彼にその自覚はない。  そしてさらに言うならば、龍水の見たものがまったく予想できないということも、彼が自覚していない奇妙なことの一つだった。 「あ、え――何を見たと言われましても……」 「その、すみません。まったく覚えていないのです」  自らの不甲斐なさを恥じるように、龍水は恐縮して縮こまる。その反応もまたいつも通りのものなのだが、やはり今の夜行には、それが妙に面白かった。 「覚えていないと? だとしたら解せないな。今のおまえは、少なからず自信を持っているように見えるのだが」 「龍水よ、おまえは何かしら、確信を得るに足るものを掴んだのではないのかな?」 「確信、ですか?」 「まあそれならば、今に始まったことでもないのですが一つだけ」 「ほう、それは?」 「夜行様が、この天下で無敵の御方であるということです」 「正直申しまして、少しばかり、本当に少しですが、私はそれを疑いかけていたのです。先の敗戦が、あまりにも衝撃的だったので……」 「別に現実の夜行様がどうこうではなく、未熟な私に弱気の虫がついたのです。それが自分自身許せなくて、その、ひたすら自罰していたというか……」 「私はなんという虚けなのかと、ここまで駄目な私はそもそも何者なのだろうかと、そんなことを益体もなく、延々考えていたらですね……」 「これがまた、お恥ずかしい話なのですが、自分は誰で何をやっていたのかなと、それすら分からなくなってしまいまして……」 「あれ? あれ、あれ、と思っている間に、私が溶けてなくなっていくような感じがしたので、これはいかんと思ってですね。なんとかしないといけなかったのですが、無様なことに確たる自分というものが見出せず……」  上目遣いで詫びるように、おずおずと龍水はその先を告げた。 「夜行様を、ただ思い浮かべていたのです」 「私を?」 「はい、私が思う無謬の御方。決して崩れることのない夜行様を」 「それに縋って、〈縁〉《よすが》にして、はっと目が覚めたら、そこには現実の夜行様がいらっしゃって……」 「私の妄想など及びもつかない、ご立派な、というわけでして」 「やはり夜行様は夜行様なのだなと、龍水は確信したわけなのです。ゆえに今の私が自信を持っていると仰るのなら、おそらくそのことではなかろうかと……」 「あの、どうされました、夜行様?」 「…………」  問いに、夜行は何も言わない。ただじっと黙したまま、閉じた〈眸〉《まなこ》を龍水に向けて、ふっと溜息をつくと肩をすくめた。 「おまえの中の私というものがどういうことになっているのかは与り知らんが、まあよいわ。せいぜい夢を壊さぬように心がけよう」 「無粋なことを訊いたようだ。許せよ龍水」 「あ、いいえそんな、恐れ多い」 「それであの、夜行様?」 「なんだ」  再び踵を返して歩く夜行に追い縋りながら、龍水は興味を隠せぬといった風に問いを送った。 「夜行様は、いったい何を見ていらっしゃったのでしょうか?」 「きっと私には想像すらできないような、深奥の理を見出されたのではなかろうかと」 「よければその一端でも、教えていただければ嬉しいなと、思うのですが……駄目でしょうか?」 「別に構わん。だが、たいしたことではないぞ」 「と、いうと?」 「天魔どもを滅する法だ。それも至極簡単なものであると分かってしまった」 「ええっ?」  驚天動地の発言にまさしく龍水は飛び上がるが、夜行はまったく意に介さず、歩きながら独り言のように呟いていく。 「もともとそれを探るために一戦交えた。その結果として、初戦は敗北も視野に入れておったわけだし、まあ狙い通りと言えなくもない。業腹なのは、逆襲をかける前に彼らが退散してしまったことなのだが……」 「正直、拍子抜けしておるよ。あれらは骸の型に嵌っているのだ」 「骸の、型?」  それはいつか夜行が言ったこと、万象は型に嵌めることで属性を帯び、何がしかの色に変質する。  理解できないものを理解できる型に押し込めれば、それはもう未知ではない。  捉え、掴み、壊すことも可能であると。  否、あれらはもう壊されている存在なのだと。  骸の型とは、つまりそういうことなのだろうか。 「こちらの土俵に引っ張り込むと言えばよいかな。彼ら天魔は、穢土にあってこそ無敵であれる。こちら側に来れば耐えられんよ」 「それが儚く、呆気なく、私としては面白くない。もとより私には出来ぬことのような気もするし」 「せめて私は、あちらの土俵で勝負するようにしてやろう。そうせねば、蝉と出会うことも出来まいから」 「は、はあ……」  未だ不得要領といった感じの龍水だったが、その足音が僅かに弾んでいるのを夜行の耳は聞きとがめた。 「何が面白いのだ、龍水」 「いえ、ただ嬉しくて。やはり夜行様は、凄い御方なのだなと」 「だから私も、足手まといにならないよう励みます。そしてこの東征を、我らの勝利で終えましょう」 「無論、言われるまでもない。それはただの前提よ」 「次は鬼無里と言ったかな。我らと、そして凶月の四人だけ。いいや実質、私とおまえの二人だけだ」 「御門の世継ぎとして、指揮はおまえが執るのだろう? ならばせいぜい、龍明殿の恥にならぬように奮うのだな」 「はいっ!」  元気に応える龍水に、知らず夜行は苦笑を漏らす。この娘は、本当に分かっているのだろうかと。  自分が何者かも分からなくなるほど、自分の中に埋没した? 挙句の果てに、個我が散逸しかけるほどの深みに入った?  それは咒の奥義に通じるものであるというのに、まったくそのことを分かっていない。この自分であろうとも、そう容易く成せることではないというのに……  まして、そこで摩多羅夜行を取り上げたから目覚めた、などと…… 「まさか、な……」  益体もないことを考えているなと、自分自身を嘲って、夜行はそれら諸々を忘却した。  なぜなら〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  そこは夥しい数の鳥居からなる空間だった。  何千、何万、それ以上か、ひしめき合う鳥居はさながら樹海のように空間全体を埋め尽くし、同時に一定の規則性をもって道を作りながら林立している。  蛇行を繰り返す鳥居の通路は血管、もしくは神経網……赤、青、黄の三色によって構成された道であり、その色によって通る者へ及ぼす効果が違うのかもしれない。  今、青い鳥居が連なる道を歩いているのは二人の男女で、彼らは相当に消耗していた。足取りは淀みなく、呻き声ひとつ漏らさないが、その気配が穴だらけとなっているのがこの空間内では感じ取れる。  喩えるなら、砂で固めた人形が、一瞬だけ水の中に浸ったような……致命的な崩壊は防いだものの、型としては脆くも崩れかけている。  そんな印象を引きずりながら、しかし鉄の克己心で何事も無いように振舞って、凄愴とも言える面持ちで歩いているのは悪路と母禮。先の一戦で東征の第一陣を壊滅させた、天魔二柱に他ならない。  その彼らに、何処からか揶揄するような声が届いた。 「よぉ、お帰りお二人さん。久しぶりの荒事はどうだったい?」  歓待し、労うようなことを言いながらも、その口調には嘲弄の響きがある。悪路はそれに苦笑で応えただけだったが、母禮は冷たく目を細めてから切り口上で言い返した。 「どうも何も、見ての通りよ。奴らの中にあの人がいる」 「これはもう看過できない。傷が治り次第、私がもう一度出向くから、いいわよね?」 「いいも何も、それはオレが決めることじゃねえだろう。もちろん、おまえが決めることでもねえわけで」 「まあ、そう気張んねえで休んどけよ。何されたかは察しもつくし、いま無理こいたら死ぬぞおまえ」 「でも――」 「分かんねえかな。頭冷やせって言ってんのよ。ちっとはお兄ちゃんを見習えや」 「さっさとあいつのとこ行って、その緩みまくった〈神咒〉《カラダ》を固め直してもらってこい。時よ止まれ、時よ止まれ、君はキレイだ、永遠だってな」 「嬉しいだろ。あんなんなっても愛してくれてんだぜ、おまえのことをよ」 「――――――」  それは逆鱗に触れる言葉だったか、母禮の目に怒気が満ちる。しかし声の主にまったく堪えた様子はなく、糠に釘を地でいったまま一向にへらついた態度は改まらない。  結局、嘆息した悪路の手が静かに母禮の肩へ置かれたことで、彼女は憤りを鎮めたようだ。ゆるく頭を振りながら、呆れを混ぜた声で言う。 「あなたって人は、本当に昔から変わらないわね。なぜそんな風に、協調性がないのかしら」 「それはしょうがねえだろう。だってオレはあいつのアレだぜ。おまえらとは、微妙にノリも違ってくるっていうもんよ」 「ええ、それは分かっている。だけどいい? その違いが私たちの亀裂になるなら……」 「心配すんな。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈よ〉《 、》」  含むようにそう言って、再び声は笑いだす。母禮もそれに苦笑で返す。  どれだけ反目しているように見えたところで、結局自分たちは一つのものだ。彼らは互いにそう了解し合っていて、相手のことを信じている。  西の者には到底理解が及ばないだろう、深い深い絆の〈咒〉《カタチ》……彼らはそういうものを持っているのだ。  ゆえに声は変わらず軽薄に、嘲りと親愛を込めて問いを投げる。 「裏切り者が混じってるのはいいとして、あっちの連中自体はどうだったよ?」 「別に。どうということもない。相変わらずの、あのままで、ただただ不快なだけだったわ」 「ふーん」 「それが何か?」 「いや、おまえは時々、嘘言うからな。つーよりか、見えてるもんを見ようとしない悪癖がある」 「まあそんなわけで、実際のところはもうちっと目端の聞く姉ちゃんがたが見極めてくれるだろうよ。あれもこれも、諸々込みで」 「指揮官様がその気なんだ。そっちは任せてみようじゃねえの。だからおまえらは言ったように、無理しねえで休んどけって」 「…………」 「返事は?」  問いに、答えはただ一言。 「分かったわ」  短くそう言って頷くと、母禮は再び悪路と共に歩きだす。傍にいるのだろうが姿を見せない同胞へ、屈折した気遣いに対する感謝と嫌気の念を覗かせながら、鳥居の奥へと消えていく。  その間際に。 「次は見極めだと言っていたけど、それでやはりどうしようもないと分かったら、どうするの?」 「決まってらぁな」  瞬間、常に笑いを帯びていた男の声音が、一気に氷点下のものへと変わった。 「オレが直接、出て潰す」 「あの街は、あの子の墓標だ。それを連中に荒らさせたくねえってのは、このオレだって同じなんだぜ」 「そう……」 「あなたの口からそれが聞けて、私も少し安心した」 「  」 「  」 「ああ、誰が負けたまんま終わるもんかよ」  祈るように、呪うように、誓いの言葉は鳥居の連なりに呑まれていく。誰もいなくなった空間には、ただ慟哭のような風の唸りだけが響いていた。  特別付録・人物等級項目―― 坂上覇吐、中伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎・玖錠紫織、中伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行・御門龍水、中伝開放。  不和之関を出立して十日ほど。竜胆らと別れた刑士郎たちは、まだ目的地に到着していなかった。  行軍ではない少数精鋭。足はそれなりに早いはずだったが、山越えが続く経路がそれを阻んでいる。  放置された人の手が入っていない自然とは、それだけでも天然の要塞なのだ。  せめてもの救いは夜行の術による空間展開により、野営の安全が確保されていることだろうか。こちら側ではない何処か、食料や水など必要な物を備蓄したまま移動できているのが大きい。  必要時にはそこに入り、食事を摂ったり就寝したりする。ただでさえ困難な山越えが続いている身にとって、警戒を解ける瞬間以上にありがたいものはないだろう。同時に夜行が術者として如何に並外れているかを刑士郎は再認識させられる。 「何度も使わせて貰っているが、やっぱりこいつは便利だな」 「然り。だが、これを扱えるのは私ぐらいだ。ゆえに使えぬ、所詮は余技よ」 「他の術者で使える者が現れれば、戦の姿も大いに変わるであろうが」 「未来永劫、無理な話というわけかよ」  夜行の独創を得ることは誰にも出来ぬため、絵に描いた餅でしかないということ。  仮に体系化することが出来たとしても、不和之関に陣を構えた東征軍七万。この穢土の地で活動できるだけの兵糧、弾薬、武器の類。賄うことが可能とはとても思えない。  結局は、大船団を組織した行軍という妥当な形に落ち着くのだろう。 「いやいや。人を入れたまま、というのは術者にとって不都合が多い。やはり理につながったものを別の理で包みきるのは、それはそれで面倒でな」 「……そうかよ」 「とりあえず、休息の合間にも現状を確認したいと思います」 「すでに、私たちは十日の時間を費やしました。ですが、まだ目的地にはたどり着いていません」  刑士郎と夜行の間に入って、龍水が本題を口にする。これで微妙に緊張していた二人の間が若干緩むことになった。  実際のところ夜行は何とも思っていない。だが刑士郎が神経質になっているためか、それを収めたいのだろう。  彼の心を波立たせるもの……それを己も気遣っているがために、珍しく龍水は刑士郎の意識にも配慮しているらしい。  己より歳若い女にそう思われていることに内心歯噛みしながらも、刑士郎も夜行と龍水の会話に参加した。 「だが、俺たちの足で最速だろ。それはおまえもよく分かってるはずだ」 「思った以上に山々を抜けるのが大変で、これはそれだけのことだろうが。そう気負うな」  それは実際に歩いている刑士郎だからこそよく分かっている。そして、あの戦いの後、龍水が急速に成長しているのも見て取れているからこそ出た発言。  何かと言えば龍明を頼っていた龍水が、この探索ではもっとも指導的な立場に立って行動している。それが間違いなく型にはまってきているのだ。手一杯な自らの舵を、少しは預けていいと思えるほどに。 「それで……その、なんだ、刑士郎」 「咲耶の容態だが、少しは改善しているのか……?」 「……迷惑は掛けてねえつもりだ」 「それは、そうだが」  それでも、咲耶に話題が及ぶとどうしても態度が乱暴になる。龍水の方もそこから先に言葉が詰まり、そろって沈黙してしまうのだ。  心神喪失……言葉にすればそれだけの結果が、しかしなんと重いことか。咲耶は今も精神の天秤が砕けたままだ。  本来はこのまま連れて行くなど愚の骨頂だと分かっていても、打つ手がまるで思いつかない。  西に帰すことも労力がいる。ここで一人の女を丁重に送るぐらいなら、敵陣に放り出して発破の代わりにすればいい、というのは凡そ兵法で考えるなら当然の選択だろう。  嫌なら守り、武勲を挙げろ。それしかないと分かっていながら、しかしやり遂げるには無理難題というものだから……  黙り込む二人を見て夜行は小さく含み笑う。この場で彼はただ一人、余裕を湛えてくつろいでいた。 「男の矜持というものだろう。好きにさせておけ、それがいい」 「ですが、ろくに食事も摂れない状態では……やはり本陣で、他の者に世話を任せるべきではないかと」 「他の奴とはいったい誰だよ。凶月の者が、俺らの他にいたとでも?」 「それに咲耶は俺が面倒を見る」 「迷惑は掛けねぇ。俺の歩みがへばっていると見えるなら、ああいいぜ。だったら明日は、その倍進めば帳尻が合う」 「いや、我らの歩みは遅くはない。それに、これ以上の進行速度は無意味だと思う」  索敵に式を用い、地図との整合性を確かめながら、その日定めた距離を行く。それは遅くとも早くとも不都合。正確さを第一にしている以上、現状は何の不都合もない。 「だったら話は終わりだ」 「だが、おまえは、禍憑きを失っている」 「その髪の色……それは、我らと同じ髪の色になり始めているということだ。つまり、完全に抜け落ちている」 「それは隠しているつもりかは知らないが、あまり私を見縊るな。体力がどれほど落ちているのか、見抜けないとでも思ったか」 「その状態で、歩くこともままならない咲耶を負ぶっていくなど、無茶だ」 「今はいい。ただ山道を歩いているだけだ。だが、仮に──」  ここで奴らと遭遇すれば、どうなるのかなど言うまでもない。  逃げる? 戦う? 馬鹿なことだ、現実が見えていないにも程がある。そんな暇すら残されないし、そもそも戦いにすらならないだろう。  ここにいない覇吐や宗次郎、紫織らもまとめて相対しながら悪路に叩き潰されたのだ。その記憶は強く刑士郎にも焼きついている。待っている結果は、二の舞よりさらにひどい。  何一つ理屈では説き伏せることなど出来ない。だからこそ、これ以上は無駄だと首を振った。 「不要な心配だ」 「迷惑はかけねえよ。何かあったとしても、俺と咲耶が死ぬだけだ」  何を言っても取り合わない。そう示した態度を前に、龍水もこれみよがしなため息をつく。 「おまえのことは、それこそ心底どうでもいいが……咲耶のことは死んでも守れ」 「その、私の……な、なんだ」 「友人、なのだからな」 「……阿呆くせえ」  顔を赤らめた龍水を面倒だと言わんばかりに手で追いやり、刑士郎は呻く咲耶に粥を食べさせる。  ほんの少しだけ口を開け、匙をすすっていく咲耶。その瞳は何も映してはおらず、態度も稚児のように幼い。 「あ……あ、ぁぁ……」  言葉をなさぬ声に、胸へよぎった苛立ちは何なのか。  忸怩たる思いで咲耶の食事を続ける。もう少し己に力あればここまでのことにはならなかった、これはつまり不甲斐ない自分への返し風だと刑士郎は歯噛みする。  力が欲しい……などと思うのは、果たして彼にとって何時以来のことだろうか。西では五指に入る強者として君臨していた凶月刑士郎は、久方ぶりに力への渇望が胸の中で渦巻いている。  邪魔な存在を喰い荒らし、己が血肉と変えることで、凶兆を宿しながらより高く飛翔することができたとすれば──  とは思うが、龍水の指摘通り刑士郎に宿った陰気は失われている。実際身体の中を暴れ回っていた力の鼓動は消えうせて、いまや綺麗に抜け落ちていた。  期せず訪れた本懐だが、それを望めるような局面ではない。なんたる皮肉。  歪みなしでこれから先、己は戦うことができるのか?  天魔を打ち破り、咲耶を守ることができるのか? 不安は常に付き纏う。  無くなってしまったものを嘆いてもしょうがない以上、行動に移した結果が今だった。やるべきことをただやるのみ。それが今の自分にできる唯一であり、捨ててはならない矜持というものだろう。 「危惧するのは構わねえし、理屈も通るがその前にだ」  そちらに言われたくはないぞと、盲いた両眼を睨んで告げる。 「一番やばいことになってるのは、おまえだろう。どうなんだよ、そこんところは」 「さてなぁ」  夜行は首を傾げる。それはまさに何を言われているか分からない、という態度そのものだった。 「失明したからといって、別にさほどの問題などない。それともあれか、私が不自由しているように見えると?」 「見えねえな」 「ではそういうことだ」 「音と匂いは感じ取れるし、霊覚までは無くしてはおらん。むしろ精度に関してならば、前より鋭くなったくらいだとも」 「世の広がりを、さらに深く感じられるようになった。僥倖とはこのことよ」  上機嫌、なのだろう。迂遠で感情を読み取りにくいが、視界の消失は夜行にとって単なる損壊ではないらしい。  額に宿した新たな視界。その存在を知っているからこそ、別のものについて言及した。  聞きたいことはもう一つ……咲耶によって枷を解かれたらしい、あの童子たちのことである。 「……あいつらは結局どういうことになったんだ? 死んだのか?」 「いいや、消滅してはおらぬよ。ただし呼び出すことは不可能だがな。仮死のような状態だ」 「まあ再生は試みている。かなり派手にやられたので組み上げるのは容易でないが、何かきっかけがあれば可能であろう」 「もっとも、眠りを起こすだけの何かと出会えるか、そこは運が絡んでくるがな」 「そうか」  要約すればなるようにしかならないということ。賽の目にかかっているなら今やれることはない。夜行は微笑み、晩酌を続けている。  行きがけに竜胆より聞かされた、丁禮と爾子を暴走させた咲耶の禍憑きについてと、その軽い顛末。  この目では見てはいなかったが、いずれにせよあの酷い不和之関の有様を見れば大変なことをしでかしたのだと理解できる。  あのとぼけた式神が如何なる暴威を振るったのかは知らないが、そちらは運次第で回復するらしい。ならば引き金となった咲耶はどうだ? 何をすれば戻るのか、皆目検討つかぬままだ。  こちらも運頼みというのなら、なるほど刑士郎に出来ることはまったくない。その瞬間まで守り抜き、共に旅路を歩むだけだが…… 「……それじゃあ、意味がねぇんだよ」  何も、何一つ、自分は変化を起こせていない。それが歯痒く、このまま狂乱しそうになるほど胸の内をかき混ぜている。 「こういうのは、俺らしくねえだろう」  守る? 脆弱? どれもまるで己の芯に不似合いだ。久雅竜胆の言葉に当てはめれば、魂が喜んでいないということだろうか。  耽美、暴虐、殺戮──それらの方が、なぜか自分には懐かしい。そこから遠ざかる感触が刑士郎を焦燥させる。  水瓶に映る己の顔を衝動的にひしゃくで叩き、咲耶の元に戻った。 「あ、うぅ……あぁ……」  吸い口を差し出すと、半開きの口が水を求めて動く。  だが吸い付くことはできず、ただ震えるだけ。赤子のように飲んでは口端からこぼしていく。  吸い口を動かし咲耶の唇にゆっくりと押し当てた。少し傾け、僅かばかりの水を流し入れる。 「ん、ぅ……げほっ、げほっ!」 「……落ち着け」 「ゆっくり、少しずつ飲め。誰も取らねえよ」  上手く飲み下すということもできない咲耶は、水を飲む度に噎せ返る。そのたびに背中をさすり、飲み下すという行為を一つ一つ教えていた。  咲耶が伏してから当たり前になっている光景だが、やはりそれでもやり辛い。これではまるで、赤子の世話をしているようだ。  〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈似〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そう思っているからか、時折ふと暴力的な衝動が浮かぶ。  このまま何もかもを破壊したいような想いがあるものの、それはいつも形となる前に刑士郎の中で消えた。無くした歪みと同様に像を紡がず霧のように霧散する。  咲耶を招きよせ、膝の上に座らせた。そうすれば自然と彼女は落ち着くから、そのままの姿勢で夜行と龍水の話に耳を傾ける。 「竜胆様は、ご無事でしょうか」 「確か、不二での探索と言うことでしたが……」 「我らが心配せずとも烏帽子殿は上手くやるさ。そうしてくれねば立ち行かん」 「この東征が成立したことそれ自体、そしてあの御前試合から、我らが共に旅をしている今まで。ああ、まったく奇蹟に近いだろう」 「ならばこれ杞憂と信じ、我らは我らのやるべきことをやるしかあるまい」 「〈鬼無里〉《きなさ》か……」  辿り着く手筈の拠点、穢土の重要な地名を口にしたことで……なぜか心の何処かがざわめく。  刑士郎の中にある何かが、この先に待ちかまえているものに対し警鐘を鳴らしているようだった。気味が悪いほどに心臓の鼓動が落ち着かない。  夜都賀波岐か――いや、違う。  そういう不安ではない。もっと別の、何か自分にとって決定的な契機がその地で訪れるような……どこか運命的なものを感じるのだった。  これは自分だけに感じられるものなのか。だとすれば尚更、今の咲耶を連れて行くのは無謀なのではないかと思うものの、同時にある種の確信もあるのだ。  これが契機になりうるということ……咲耶の意思に訴えかける、何か大きな意味があるのではと思っていた。  ──瞼の裏に、白貌の影が浮かぶ。  鬼無里に近づくたび頻繁となった幻にざわめく心を抱えながら、刑士郎は咲耶を抱く手に力をこめた。  何かが起こる──必ず起こる。  心臓がまた、牙を鳴らして悦ぶように、大きく跳ねた。  ──ゆえに、誰も予想ができなかっただろう。  鬼無里の地。化外の民にとっての拠点であり、穢土に存在する紛れもない人外魔境。  そう予想していたし、彼らはそれに身構えてもいた。油断などしていなかったし、真実いまこの時もしていない。たとえ後手を踏もうとも、即座に反撃へ転ずることが出来るはずだ。  しかし、そのような心構えが本当に必要だったか、甚だ疑わしくなってしまう。  木々を抜けた山道の先、そこで見えた光景は── 「こ、これは……一体?」 「おい、何だってこんなものが……」  あまりにありふれた、活気ある変哲のない町だったのだから。  驚くのも無理はなかった、拍子抜けという言葉でも生温い。往来には多くの人々が行き交っており、その明るさが余計に身構えていた彼らを嘲笑っているようだった。  町の入り口は宿場も兼ねているのか、何件か旅籠が軒を連ねている。一服入れるための茶屋まであった。そこでは旅人が世間話に華を咲かせて、茶と団子を楽しんでいる  飛脚も通っており、馬子が役目の終えた早馬の世話をしている。悪路のように腐蝕している箇所などなく、母禮のように稲光と炎もまた見当たらない。  まるっきり何処にでもある、神州の街道町のようになっていた。 「なんだこりゃあ?」 「見ての通りだと、言えば話は早いのだろうが」 「あり得ない。なぜこの地で、このような営みが行なわれている」 「だが、現に……」 「いらっしゃい、いらっしゃい。安いよ安いよ!」 「おっと、どうだい? 粋のいい魚だろう。こいつは朝の獲れたてだが、いつものよしみでお安くしとくよ?」 「馬鹿言っちゃいけねえなぁ、これのどこが偽物なんだよお客さん。お天道様に誓って、あっしは嘘などついてませんさ」  刑士郎が指差した先では威勢のいい商人が客を呼び込み、値切りの声まで飛び交っている。  これが化外の民なのか? 穢れや歪みの元凶だと? とてもじゃないが見えやしない。頭がおかしくなりそうだった。  まさに泰平そのものだ。誰もが笑顔で道を行き、それぞれの人生を謳歌している。  場違いなのは呆気に取られている刑士郎らの方だ。 「ほう……」 「なるほどなるほど、これはまた」  そして、街の喧噪をよそに夜行だけは興味深そうに周囲を伺っている。  鼻を鳴らし、耳を澄ませ、風を感じる。  その一つ一つの動作に優雅さを見せながら、何がおかしいのか悠々と行き交う町人に意識を向けていた。 「……ますます訳が分からねぇ」 「おまえに同意するのも癪だが、私も同感だ。ここは街で、それ以外には決して見えない」 「……そう、ただの街なのだ」  くぐもった言葉にひっかかるものを感じる。 「どうした?」  罠であると言え。それならばこの馬鹿げた状態から脱出できると思いながら、刑士郎はその先を促したが…… 「いや、よく分からない。だがこれは、何だろう」 「上手く言えないが、何か……」  笑顔の行商。談笑する旅人。耳に入る営みの声。  僅かに、龍水は眉を顰めた。 「何か、この風景はおかしくないか?」 「〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、というか。決定的に欠けているものがある……ような気がする」 「何かだの、はずだのと、正鵠射ねえな」 「う、うるさい! デカイだけの木偶の坊に言われたくないわっ」  案の定気炎を吐いてきたのをあしらいながら、刑士郎は再び周囲の様子を眺めてみる。  あるはずのものがない、という発言。それに思い至ったことは何なのかと見回してみても、取り立てて欠けているものが見当たらなかった。  百姓、問屋、町民、どれも取りそろっている以上、少なくとも奇妙な部分は見当たらない。間違いなく危険なものは存在していないと感じる。ここにいる存在が総て敵だとしても、蹴散らせるだけの力は残っているつもりだった。  だが──ふと、そこで何かが刑士郎にもひっかかる。  ここに存在する町民が敵と仮定したこと。いや、〈仮〉《 、》〈定〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈を〉《 、》〈満〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》ということに、何か言い知れない齟齬を感じた時に…… 「おい、咲耶!」  気づけば覚束ない足取りで、咲耶が行商の方へと足を運んでいた。  物珍しそうに辺りを見回しながら、稚児そのものの態度で進む。声を掛けるが止まる気配はなく、導かれるように露店の前で座り込んだ。  花売りの男の前で、焦がれるように、じっと花弁を見つめている。 「お、なんだ。えらいべっぴんのお嬢ちゃんだな」 「この花が欲しいのかい? よし、それじゃあこいつは記念にもっていきな」 「あ……」  そのまま、伸ばした指先に花を一輪受け取った。  後ろでそのやり取りを見ていた刑士郎にも手を振ってから、気前よく往来の中に消えていく。 「あ、は……」 「この花は……」  それがよほど嬉しかったのか、花を見て咲耶は小さく笑っていた。  新雪の如く、純白に彩られた一輪の花。紅葉に彩られた穢土では見当たらない色彩に、刑士郎は若干訝しむ。  何という花……なのだろうか、これは?  どこかで見たことがあるような気もするが、しかし明確な記憶に思い当たらない。咲耶はなぜかその花を見て笑んでいる。取り上げることもできないまま、嬉しそうな表情をした妹から目を逸らした。  似合いすぎていると、なぜか思ったから……  絵になるにも程がある光景を前に、魂から感じる高揚を握り潰した。 「ともかくここでこうしていても仕方あるまい」  このまま下手をすれば町の営みを見るだけで日を跨ぎかねない現状に、区切りをつけるべく夜行が静かに場をまとめる。  閉じた両眼ながら、確かな意識の視線と共に、龍水へ向き直った。 「この場の決定権はおまえにある。御門の次期当主として、どうするかはおまえが決めよ」 「烏帽子殿からもそう仰せつかったのだろう? ならば我らは黙して従うのみよ」 「……分かりました」  言われ、考えることしばし。 「ならば、周囲を探ってみましょう。決して単独にはならず。取りあえずこの町の中心らしいところまで行ってみましょう」  そうすれば見えてくるものがあるかもしれぬと、妥当な案に男たちも同意した。 「分かった」 「結構。問題ない」 「では、行きましょう」  離れぬよう、出来るだけ一塊になりながら……かつ自然な旅人を装って鬼無里の情景を散策していく。  やはり、どう見てもここは宿場町。さらに奥の方は、城下町のように栄えているのが見受けられる。  取りあえず、情報を得るのならば人の多いそこだろう。水面下に警戒を潜めながら、中心部らしき場所をまずは目指して足を運ぶ。  宿場町から城下町の様相へと変わっていく町の作りは神州そのままの情景であり、特に違いが見受けられない。自分たちが何のためにここへ来たのかということすら忘れそうだ。  まったく別の、外国じみた建造物でもあれば感想も違うだろうが。 「しかし、見れば見るほど普通の町だぜ」 「うむ。確かにそうなのだが、やはり何か、どうしても違和感が……」 「ほう、具体的には?」  問われれば、龍水は黙り込むしかない。核心に至らない答えに対し、夜行は愛玩するように喉をくつくつと鳴らしていた。 「ならおまえはどうなんだよ、夜行」 「さてなあ、だが目が見えぬぶん、気になることはある」 「町は町だが、これでは繁栄できんだろうとな。まあよく見れば判ることなのだが」 「あの、それは?」  何なのかと、問いかけたその時に── 「さあさあ、よってらっしゃい。見てらっしゃい!」 「前の方から御順に並んでー、これが天下の語り草。聞いて逃せば、ああ末代までの恥でござーい!」  両替商と反物屋の辻ほどから、威勢のいいよく通る女の声が響いてきた。  号外でもしているのだろう。集まっている人々の中心から活気の良い声が届き、何か催しでもしていると伝えていた。  人混みを割って先に進むと、そこは一段高い演壇のようになっている。その壇上にいる小柄な少女が講談師か、大仰な仕草で町民に何事かを語っているようだった。 「とざいとぉーざい! ここより西、不和之関にて異変が起こった! なんと西から、鬼が攻めてきたって話だ!」 「残虐非道で冷酷非常。わたしたちを皆殺しにしようとしている。怖い怖い。とっても危険」 「だが心配に及ぶこたーねぇってんだ! 我ら護国英雄がたが、不和之関に攻め入ってきた鬼の軍勢を打ち破ったよ。めでたいめでたいめでたいねー!」 「号外、号外! 大勝利だー!」  そうして講談師をやっていた少女は瓦版を配り始める。最後に至っては、ばらまいてみせるという大判振る舞い。気前よく紙の束が風に舞って宙を飛ぶ。  刑士郎も龍水も瓦版を拾って目を走らせた。そこには講談師の少女が言ってた内容が、こと詳細に書かれている。  曰く、西に住まう悪鬼羅刹。  曰く、護国の英雄たちの健闘。  曰く、不和之関には近づくな。犇く鬼の残党に、臓腑を喰われて殺されると── 「は、笑えるぜ。これはあれか、俺たちのほうが鬼らしいだと?」  思わず漏れた嘲笑は、何とも複雑な感情を含んでいた。  呆れのようでもあり、なぜか納得するような響きもある。 「まあ確かに、こちら側から見ればそうなのだろうよ」 「裏から見れば、表の方こそ裏というもの。逆転しておると考えれば、さほど面妖なものではない」 「それは分かりますが……私は、いまいち納得できません」  まあ、それもそうだろうと刑士郎は考える。実際、彼もいい気分はしないものだ。誰だとて虚仮にされれば腹が立つ。  相手の都合は相手の都合、構いもしなければどうでもいいが……見も知らぬ阿呆どもに痴愚と呼ばれるのは苛立つだろう。  瓦版を真剣に読んでいると、さっきの壇上の少女がこうも付け加える。 「ああ、それと最後に」 「鬼どもだけどさ、まだ生き残りがいて、懲りずにこっちへ攻め込んでこようとしているんだってさー!」 「だから、みんなも十分気を付けるんだよー!」  少女の言葉に頷きながら、人々は少しずつ散っていく。  恐い恐い、ああ恐ろしいと。隣にいる者と口々に西の鬼を危惧しながら、それぞれの日常へ戻っていった。  なんとも気味が悪く、また同時に滑稽な光景だと刑士郎は思う。  〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈鬼〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈く〉《 、》〈様〉《 、》〈子〉《 、》〈も〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  見分けで見当がつかない相手を鬼と恐れているなどとは、よくよく皮肉なことだと思ったから。  人垣がまばらになったことで、龍水は視線をめぐらせる。壇上から降りてきた少女を見て、何かを決心したように小さく頷いた。 「あの子に聞いてみることはできないか? 何か分かっているかも知れない」 「そりゃいいが……大丈夫か?」  確かに情報通らしき者に話を聞くのが手っ取り早いが、気づかれる危険性も当然出てくる。  ましてや不和之関について知っている者だ。下手すれば、あの少女だけは西の者だと気づく恐れがあるのだが…… 「まぁ、なんとでもなろう」  一見何も考えていないようにも取れる夜行の言葉に、龍水の方針は決まる。ため息をつきながら刑士郎も同意して、茫洋と傍に立つ咲耶を己の背中におぶさった。  足音を忍ばせて近づき、一度だけ大きく深呼吸してから話しかける。見掛けは特に普通だが、心の中ではまさに緊張の一瞬を迎えていた。 「あの……すみません」 「──ん?」 「ああ。見ない顔だね。何処から来たのかな?」 「え、あ、私たちは、えーっと……」  と、西から来たと気づかれた様子はないが……機転が利かずあろうことか龍水はそこで口ごもる。  何処から来た? 西側の地名は当然言えない。東側の地名に関しても、こちらに知識はほとんどない。  黙してどう言うべきか思案する刑士郎と、言葉を続けられぬ龍水を置いて、夜行が悠々と前に出る。  整った美しい……彼の本質を知っていれば、胡散臭いとしか取れぬ微笑を湛えて語りかけた。 「あいや、済まぬ。このふたりは話し下手で失礼をした。私たちは不和之関の近くに住んでいた者だがな、西から来た鬼に追われたのだ」 「家は壊され、畑は焼かれ、何もかも失ったのでな。この通り、財も持たずに着の身着のままで逃げてきたというわけよ」 「加えて──」  刑士郎に寄り添う咲耶を指し。 「そちらの男の妹は、よほど酷い目にあったらしくてな。心に深い傷を負っておる」 「なので我ら、癒す術があればと思い一路ここまで来たのだが……」  どうしたものかと、肩を竦めて息を吐く姿は実に様になっている。  これで騙されなければ相当なものであり……町娘もまた、感じ入ったように目を丸くして驚いていた。 「ああそりゃ、大変じゃないの」 「うん。そういう事情なら任せてちょうだい。わたしが良い医者紹介してあげるからさ」 「それは深く感謝する。私は、摩陀羅夜行。そっちは、凶月刑士郎。負ぶされているのが、咲耶だ。こっちは――」 「御門龍水と言う。その、あなたのお名前は?」 「翡翠って言うんだ。よろしくね」 「それじゃあ、ついておいで」  早くその子よくなるといいね、と付け足して先導すべく歩き始める。疑っているようには微塵も見えない。  まあ、それはいいのだが…… 「よくもまあ、口から出任せが次から次へと……」 「嘘も方便というであろう?」  そ知らぬ顔で微笑する夜行を見て、刑士郎は何ともいえない感情を抱いた。  背負われたまま首傾げる咲耶になんでもないと返し、翡翠の後を追って刑士郎たちは先を進む。  道を歩む道中、刑士郎と龍水は基本無言で付き添うだけだ。共に彼ら、親しい者以外との会話を端から得意としてはいない。言葉遊びを嗜むよりは、より実直で単純明快な解を求める気性である。  此度のように、一瞬で暦や出自を偽ることには向いていない。ゆえに当然、会話はもっぱら夜行一人が引き受けている状態だった。  年頃の少女と表面上は親しげに会話をする夜行に対し、龍水の心は幾らかざわめくものを感じるのか、その表情はやや険しい。  もしくは単に、先ほどから言っている謎の違和感を探ろうとしているのか。御門の次期当主としてそれなり以上の霊感を有している彼女のことだ、その第六感がどこかで警告を鳴らしているのかもしれない。  であれば、龍水より優れている夜行もまた、より強く── 「翡翠とやら。おまえはこの鬼無里の者か?」 「そうだね。鬼無里の傍の、〈高志〉《こし》って村の人間だよ。この近くの川ではね、翡翠が取れるんだ」 「だから、私の名前も翡翠っていうわけ」 「ほう。では、おまえたちの村は翡翠を集め、加工し、売り捌くのが生業か」 「そうだね。お城にもよく持っていくよ」 「では、先のあれは何だ?」  生業というのなら、先のような号外がとても仕事とは思えない。 「ああ、あれは趣味みたいなものかな。この辺りには全く娯楽とか無いからね」 「翡翠を卸しに来る過程で聞きかじった噂を、瓦版にして売ってるわけ」  そう言って翡翠は軽快に小銭入れを鳴らしてみせる。まずまずの実入りのようで、確かに小遣いと趣味を兼ねた行いとしては申し分ないだろう。 「なるほど。しかし、瓦版が数少ない情報源とは、些か不便ではないのか?」 「この近隣の者たちも、大過が起これば困るだろう」 「件の、鬼が攻めてきたときのように」  近隣の者たちも、大過が起これば逃げられない。有体にいって、危機を想定していない。鈍すぎる。  人の営みに争いは常に付き纏う。何も恐ろしいのは鬼だけではないだろうと、言葉の裏に潜ませたが翡翠は腹を抱えて笑っていた。 「あははは! ないない。今回みたいなこと、そう起こるものじゃないからね」 「西から何かが来ない限り、何にも事件がないのが鬼無里だからねー」 「この辺りは全く変わった話が出てこないから、いつもはせいぜい山のお爺さんに話を聞いて、天気の予想をやったりとか。他には……祭りの知らせを書いたりするぐらいかな」 「そうなると、今は稼ぎ時というわけだな」 「ふふん。そういうこと」  自慢げに小銭入れへ頬ずりする姿は、年頃の娘らしく愛らしい。  だがしかし、そのように呑気な言葉が真実なら、それはなんとも。 「誠、平和なことよ」  離れて聞いている刑士郎もその言葉には同感だった。およそ考え付かないほどに、ここは平和だ。とても穢土とは思えない。  東の地を踏むまで想像もしていなかった。奇妙な気分になってくる。 「そういうこと。それでみんな十分なのさ。だから今回の事件、凄いみんなの興味を引いているんだよ」 「確かに、私たちも焼け出されて、大変なことが起こっていると理解させてもらったとも。ああただ、逃げ惑っていたので姿を見るのは出来なかったが――」  夜行は一拍おいて、言葉をつなぐ。 「西の鬼、あれらはいったい何なのだ?」  東の者よ、おまえら我らをどう思っているのだと──真を覆い隠したまま訊ねてみると、ここで初めて翡翠の表情が悲痛に歪んだ。 「鬼は鬼だよ。すっごい悪い奴らさ」 「あいつらは、この地を破壊しようというとんでもない連中だよ! 悪逆非道、無慈悲で残酷。血も涙もありゃしない」 「人の心や痛みなんて、ちっともわかってないもの」 「それはそれは、背筋の凍る。身震いするな、恐ろしいことだ」 「では、その鬼どもに立ち向かう護国の英雄がたは、大層尊敬されているらしい」 「うん、だってとても可哀想な人たちだから」 「可哀想?」 「そうだよ」  その問いに、翡翠は朗々と古い伝承を語り出す。  彼らに伝わっている英雄の歌。今この時も続いている、八人の益荒男の物語を。  ――今は昔、そうとしか形容できない遥かな過去の日、この世には護国の英雄と呼ばれる者たちがいた。  だが、何時からか、この地におぞましい化け物が現れた。それが何ゆえこの世界に入り込んできたかは分からない。ただ、その圧倒的な力で英雄たちの世界を引き裂いていった。  彼らは戦ったが、それでも鬼は異常なほどに強く、涙ながらに土を噛む。  勝敗が決した瞬間、鬼の法が世界を覆い尽くさんとしていた。正しき理は塗り替えられ、邪に歪んだ法理だけが気づけばそこに残っていった。  それに対して護国の英雄たちは決意する。我ら防波堤となりて、邪なる法理からこの世界を守り抜こう。  麗しき黄昏を穢させないと──鬼の法をはね除けたのだ。  幸いなるかな、力の強い英雄たちは僅かながらも世界を守った。鬼は歯がみして悔しがり、その鬩ぎ合いは未だ拮抗状態を保っている。  それは聞こえのいい歴史ではなく、現在も続く事実なのだという。  まだこの世界には幻想が生き、人々もそれを受け入れ望んでいる。だからこそ、自分たちが英雄によって守られた優しい世界の住人だという自負があるのだ。  誰しも今の生活があり、立場があり、それを自己の〈常識〉《せかい》として認識しているが……遠い時代にあった行状も、つい先頃の出来事も、みな同じ線上にあるもの。  これは正邪を論ずる次元の問題なのだから。鬼の法理はあってはならぬものなのだから。  湖の暮らしに慣れた鯉が、そこはもともと鰐のものだったのだから海に戻せと言われても困るという。しかしそもそも、鯉に鰐を追いやれるはずがない。  そこにはもっと恐ろしく穢らわしい、異形の怪物がすんでいる……しかし世界を形作る勝者の鬼は、己にとって都合よく自らを錦鯉と吹聴して、真実の鯉を鰐と呼び蔑んだ。  だから、その簒奪者に対して、いずれ英雄たちの世界が逆襲する。  〈化外〉《けがい》と名付けられた者たちを、鬼は己が悪辣さを顧みぬまま滅ぼそうと画策している。  その上、このような文言を押しつける輩の何処に正義があろうか。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』 『因改号其邑曰葛城』  国産み。新世界の創造――と称した、ただの簒奪。偽りだけがそこに記されている。  勝手に化外、土蜘蛛と呼ばれ、まつろわぬ化外の民とされて排されたところで何になろう。この土地こそ真実の世界。その刹那が破壊されない限り、東の地にこそ理はあるから。  魂を抱く黄昏の、あの優しさを覚えている。  敗北し、もはやこの地、穢土だけしか守りぬくことはできなかった。ああそれでも── 「だけど、英雄たちは諦めていない。今も抵抗を続けている」 「いつの日か、また平和を手にするために」 「優しい光に包まれた、懐かしい黄昏を取り戻したいから」  誰かが誰かを愛することを、信じることを、当たり前の輝きだと思える。そんな理を再誕すべく、ここに在るに違いない。 「きっとその一環が、この間の不和之関の戦いだったんじゃないかなぁ」  と、翡翠は眩しげに、そしてどこか誇らしげにそう語って締めた。 「…………」 「…………」  だからこそ、各々の理由で刑士郎と龍水は唖然とする。東西逆転したような伝承ならば想像できなくもなかったのだが、これはそのさらに上を突いている。  何だそれは、その理屈は? 誰かを慈しむと口にして、魂の価値を口にして、それを大切だと奉じる様。  知っているし、聞いたことがもちろんある。ああそれはまさしく、あの御前試合にて彼らの将が吐いた言葉、そっくりそのまま当てはまる── 「って、あれ? なになに、どうしたの? 皆おかしな顔して黙っちゃってさ」 「くくく……いやいや、実に面白い話であった。どうにも知識に疎くていかんなと、我が身の無知を嘆いておったわ」 「私も然り、この者らもな」  口を噤む二人に対し、夜行はさも面白いと言わんばかりに翡翠と話を広げていく。 「いやはや面白い。政事の勉学でもしていたのかと思うほどの饒舌っぷり。大した物だ」 「そりゃ、瓦版売りの口上もあるからね。これぐらいは舌が回らないとやってられないよ」 「そう、あの人たちはまだ負けていない。この平穏を、温もりを、絶対誰にも奪わせない」 「そして、いつか必ず外の世界を崩してみせる」 「私たちから奪った生き場を、この手に再び取り戻すんだ」  その時、刑士郎の脇にいた龍水が一歩前に出て口を開く。 「では――」  そのただならぬ気配に刑士郎は止めようとした。しかし、龍水はそれを振り払うように言葉を継ぐ。  ようやく己の中で、何某かの合点がいったかのように。 「この鬼無里にも、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》がいる、ということだな」 「そうよ。ここは紅葉様の直轄領。一番優しい英雄の国だからね」 「なるほどな」 「ならば──〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈名〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》?」  途端、空気が一瞬にして変わった。  翡翠が常に放っていた陽気ともいえる雰囲気が凍りつく。氷水を浴びせたかのように、大気が停止するのを感じた。 「おまえ達から見れば西こそ鬼で、自分達こそ先住の民。ああそれはいいだろう。来歴の正しさをここで論じるつもりはない」 「だが、あくまでそれは過去の東征で我々が勝手に付けた名称だ」 「ゆえにまともに考えるなら、こちら側……穢土の単なる一住人がその名を知っているはずはないだろう」 「だから……ああ、そういうことか」 「この町の住人たちが、どういうものかやっと分かった。何たる悪趣味だ、許し難いぞ」  陥穽はそこだった。穢土、夜都賀波岐、そのような呼ばれ方をあれらは東でされるはずがない。なぜなら、彼らは英雄だから。  国を守るため、世界を守るため、身震いするほどおぞましい悪鬼に立ち向かった彼らが、鬼の名付けた蔑称で呼ばれるわけもなく、また知るはずもないだろう。  そして、その名付けられたことそのものを、一介の町娘が知っているのもまたおかしい。  なぜなら、三百年前の東征以降、東の地に入ったものなどいないのだ。敗走して命からがら生き延びた者たちがあれら天魔、あれら夜都賀波岐、悪路なり母禮なりと勝手に名付けただけに過ぎない。  名付けたという事実すら、東の者が知っているのはおかしいのだ。実際に知ったとすれば、それは不和之関での交戦機会一度きり。  そしてその呼び名を知るのは、あの場にいた、東曰く黄昏の英雄たちだけであり── 「ふふ……」  ならば、つまり。 「……まさか」  目の前にいる、何の変哲もない町娘は、すなわち── 「あははははははははははははは!」  その想像を肯定するかのように、けたたましい笑いを残して翡翠の姿はかき消えた。  烈風が吹き荒び、視界が覆われたと同時──  横合いから突き出された槍の穂先が、刑士郎らを取り囲んでいた。 「あの方の、優しくも慈悲深いお心を……」 「傷つけるのか……嘆かせるのか……」 「穢れた、西の細胞が……」  武器を持った町人が、呻き声のように何事かを呟いて彼らの周りに存在していた。 「は、なるほど。そういうことかよ」  罠も罠──要するに、この町そのものがそうであっただけのこと。  ならば何をどうしたか、何を見せたかったのかなどと欠伸の出る論争をするつもり、刑士郎には微塵もない。  陰気の失せた身だとしても闘争の勘だけは鈍っていない。獣の如き本能が、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈大〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と告げていた。  見た目変わらず、大の大人一人分。そっくり兵に換算してもいいほどだ。ならば咲耶を背負っていようと、この面子なら物の数ではないだろう。  加え、夜行と龍水も結界を作ることはできる。どちらかに咲耶を守る壁を張ってもらえれば、後はこちらの仕事となる。実に容易い。  簡潔な状況の展開に対し、いざ抜き身の刃を放とうとしたところで── 「やめておけ、嬲り殺しにされるぞ」  変わらぬ口調で、しかし真摯に夜行が不可解な言葉を吐いた。 「こんな雑魚ども、どれだけいようが関係ねえだろ」 「雑魚ではない。今の我々では彼らの一人たりとも倒せんよ」 「達している者、〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈主〉《 、》の格が違うのでな」 「……なに?」  言外に、自分でも町人一人を滅ぼせないと語っている。  ありえない言葉は口調の柔らかさに紛れて誤魔化されそうになるが、嘘など欠片も混じっていなかった。それだけに、刑士郎の思考が疑問で埋まる。  少なくとも、夜行に戦闘するという意思は見られない。それも純粋に、勝機が見えないからこそ戦わないと言っていた。 「さて、どうするかな、龍水? 今の我らでは、一矢にも届かぬと思うのだが」  自分はやらんぞ、と微笑をたたえて告げる。自然体の構えに嘘はなく、そうなれば当然先の話も信憑性を帯びる。  そして、だからこそ龍水への問いかけは試しだった。面白がっているようだが、同時にどうするか見たがっているようにも見える。この場の決定権はおまえだと、そう伝えていた。  沈黙は数秒、深く目を閉じてから彼女は考えをまとめた。 「──ここは投降しましょう」 「認めたくはありませんが、我々はそれほど非力な存在だと見なされています」 「ですから、その気ならこの町に入った瞬間皆殺しにされていたはず。つまり裏を返せば、即座に殺す気が無いということでしょう」  でなくば、夜行ですら滅ぼせない雑兵とやらが何百も押し寄せてきたはず。先の喧騒が演出ならば、当然そこには意図がある。  ならば── 「……正気か? あちらの側から、西の鬼に用があると?」 「それこそ、蟻に語りかけるようなもんじゃねえのかよ」 「意外と、それも収穫のあるものだぞ?」 「もとより、この状況はすでに詰みよ。ならばいっそのこと、虎穴の奥まで入ってみるのもまた一興……とは思わぬか?」 「思うか。てめえの諧謔に付き合わされる身にもなれ」  蟻に話しかけて悦に浸るなど、そんな変態はおまえだけだと告げはしたが…… 「だが──今はこれしかねえか」  状況が読めないわけではない。刑士郎もまた、今の自分たちがどういう窮状に陥っているかは察している。  背中でしがみ付いている咲耶の存在もある以上、その目的とやらに乗っかって、うまく利を掠め取るしか道はないのだ。  情けない。腹が立つ。ああだからこそ、またもより強く力への渇望が胸の裡を満たすのだ。  力が欲しい。力が欲しい──〈暗闇〉《チカラ》が欲しい。〈血花〉《チカラ》が欲しい。それが己だったはずだから。  血と暴虐と耽美を具現し、このような状況など溢れんばかりの暴力で蹴散らせるほどの存在に成りたい。無敵の益荒男になりたかった。  それは渇望……飽いて、餓えたまさしく鬼の願いが氾濫する。  西において無敵であり、恐れる者なき魔人たりえた力と自負は、初戦で見事に欠片も残らず砕かれたから。  化外の民を、残らず殲滅するほどの新たな力が欲しいのだ。刑士郎はそれを願う。強く、強く、かつてない純度で願い始めていた。  追い求めたものを手に入れる……そのための衝動こそ、自分にとって相応しいと言わんばかりに。 「あぅ、ぅ……ぁぁ……」  背負う咲耶が泣いていたのは悲しみか、それとも歓喜の震えだったのか。  刑士郎には分からない。  そして──  鬼無里の城の天守閣。欄干の上から見目麗しい女性が一人その情景を見守っていた。  彼女の民、彼女の愛を纏う者らが、波旬の細胞を捕えてここまで連れて来ているのを知覚できる。一見すれば穏やかに、悪路や母禮よりもずっと知性のある輝きを見せて眺めていた。  女は美しく、そして母性に満ちた外見をしていた。  遊女の如き艶やかな出で立ちに、豊満な肢体。泣き黒子に彩られた容姿は官能的でありながら、神聖な母のようでもある。  女と母の両立とでも言うべきか。温和さと冷徹さ、愛情と憎悪、柔和さと苛烈さ、相反する二つの属性が女性的な面で融合している。  それゆえか、遠方から彼女が刑士郎らを見据える視線に暖かさは欠片もないが、憎悪もさほど見受けられない。  言ってみればそれは観察者の視線か……  実験動物を確かめるような透明さと、真価を問いかけるような薄い期待。常に二者択一の内、最善を選び取ろうとする精神性は彼女がそういうものであることの証明かもしれなかった。  だからこそ、今もまた彼女は何かを試そうとしている。それは彼ら黄昏の残照中、もっとも穏健的な立ち位置にある自分の役目だと思っていた。  ここまで踏み入った西の存在、それは以前と同じなのか。  変わったのならば何なのか、東の事情を知ったならどのような心持ちで相対するというのだろうか。  ……そう考えたところで、彼女は小さく自嘲した。ああまたも、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈言〉《 、》〈い〉《 、》〈訳〉《 、》〈を〉《 、》〈口〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》、葛藤好きな性を笑う。  何が期待か、そんなもの自分は欠片も持っていない。話を聞きたい理由など、最初からたった一つしか持っていないのだ。  自らの心を動かす原因は、それこそ〈彼〉《 、》〈女〉《 、》の存在のみ。  自分だけはずっと、黄昏から身を引いて西に紛れた彼女の真意を問いたいと思っていた。 「ねえ、あいつらどうするの?」  姿は見えず、声だけを響かせた同胞の声に軽く首を振る。  そこを問うためにもまず、ここで軽々しく命を絶つわけにはいかなかったから。 「それはもう、いつでもできるでしょう? だから少し、話がしてみたいの」 「どうせまた、自分に酔った一人芝居を見せつけられると思うけど」 「特にあの黒い奴。恐らくだけど……きっとそう」 「ええ、そうね」 「似ているわ。それこそ、怖気の立つほどに」  あの場にいた盲目の男──あれはそうだ、そうとしか思えない。  そしてもう一人、これは自分たちにとっても忘れられない白貌の…… 「けれど、用があるのは私だけではないはずよ。あなたもまた、話を聞いてみたい相手がいるんじゃないの?」 「そうなるかな」  言いたいことはあるだろう。なぜならあの兄妹にとって、思うことは自分より彼女の方が多いだろうから。  ゆえに、あれら二組に対し役割は決まった。 「それじゃあ、またあとで」 「お互いにね。まあ、あなたがどうするかは幾らか想像できるけど」  やりすぎないことを心配して、消えた念へと微笑みかける。  声の主……彼女のやろうとしていることは、想像通りならとても簡単なことだろう。水銀の真似事じみた行いをするのは精神衛生上かなり気分が悪いものだし、成功してもそれはそれで手を焼くことになるかもしれない。  思えば、あの白皮病たる彼は自分たちの集まりをそれなりに愛していたが、だからといって気の合う相手でもなかったから。  何より彼を御せる黄金はすでにいない。黄金の継嗣に呼応するか、それとも仇討ちなりに傾倒してくれれば御の字というものだろう。最悪、内部分裂を誘発してくれればそれで十分。  つまるところ、そんなものだ。総ては万事変わらぬまま、大勢に依然として変化はないしその兆しもない。  だから── 「……そう。きっと本当は、話をする必要なんて、ない」 「けれどなぜか、それは大事なことのような気がするの」  これがただの自壊衝動ではないと信じたい。  そう強く感じたからか、懐かしい言葉が彼女の唇から零れ落ちた。 「」 「」  今は袂を分かった親友の名を。  自分だけはあの友人を信じていると言わんばかりに……  渇いた音と共に、軋みを立てて牢が閉じる。  同じ房に入れられた刑士郎と咲耶に対し、どうやら牢番をつけるつもりもないのか。焦点の合わない視線で一瞥すらすることなく、鍵をかけたままその場を後にした。  龍水と夜行の姿はこの場にない。城につれて来られた矢先、さも当然のように彼らは二組に分けられて、こうして別待遇の扱いを受けている。  それぞれどのような仕打ちを受けているのか、今となっては確認する術もなく、また打開する術も見当たらない。 「笑えるぜ。こんなことになっちまってどうすんだよ」  凶月刑士郎は、非力だ。その事実をこの上なく痛感する。  何一つ我を通せた局面がない窮屈さに対し、心中で牙を研いだまま状況へと意識を寄せる。まずはさしずめ、これら建造物の意匠。 「しかし……この牢、俺たちの知っている牢と変わらねぇな」 「あいつらは別の牢屋か? 何かが分かったような感じだったが」  西側を嫌っている割には、作るものはこちらにどれも似通っている。というより差異がない。技術の問題かとも思うが、どうにもしっくりこないのだ。  意識……根の部分で通じているのだろうか、主が住まうものを城と捕え、民が住まうものを町と認識し、こうして罪人を捕えておく部屋を牢とする。どれも同じ概念と形を有しているのは、いっそ不気味ですらあった。  営みが似通っているということは、精神的な面で通じるものがあるということに他ならない。  ならばもしや──化外の者らの内面は、さほど自分達と違ったものではないとでも?  歪みを喪失して弱体化したからか、敵手を読み取ろうとする側に意識が向いているのを刑士郎は感じている。あの町娘が化外の民というならば尚の事、話はできるということを証明していたから。  ゆえに、ここで相手の心象を推し量るという重要性を龍水らが選んだことも分かる。ただ内心ではそれに納得していないだけだ。だから当然、今にもこの牢を破壊したい気分になるが……そこから先が続かない。  武装を取り上げられているが、壊そうと思えばこの程度の柵は破壊できるのだ。その程度の膂力は持ちえているものの、状況が悪化するだけというのはさすがに分かっていることだった。  何より…… 「そうか、それが気に入っているか」 「…………」  咲耶の存在が総ての行動に足を引く。それがまた安堵と苛立ちを生むからこそ、自分の芯が定まらない。  愛らしい笑顔はそのままに、依然あの花を手に黙って頷く姿は心神を失った憐れな白痴のままだった。  白い一輪の花だけが、咲耶の心を繋ぎ止めている。 「しかし、こうして改めて見ると、本当に見たことのない花だな」 「気に入ったのなら持っていればいいが、棘があるようだから危ねえぞ。気をつけろよ」  その時、ふと──本当に何気なく、その花を見て思った。  白い花弁、純白の彩りは無垢であると同時に、何か別の染料で染められるのを待っているようではないかと。  たとえばこの鋭い棘で握った指の皮膚を裂き、滴り落ちる血の雫を吸って咲き誇ることができたなら──  その花こそまさしく、血染めの花で。  この窮屈で脆弱な身体から、生まれ持った業と共に解き放つ。  自分を新生させる引き金になるのではと…… 目の前にある、無垢で美しい純白の〈咲耶〉《はな》に重ねたところで。 「うふふふふ」  響いた声が、知らず伸ばしていた手を止めたのは……果たして幸運であっただろうか。  後一歩、渇望したものを奪い取られた感覚に〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》と感じながら、檻を挟んで立つ娘の姿を睨みつけた。 「てめえは……」 「お久しぶり。〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈わ〉《 、》〈ね〉《 、》」  化外の民たる町娘、翡翠と名乗っていた少女はにこやかに刑士郎を見つめていた。  嬲るような輝きと──言葉通り、不可思議な懐古の念を織り交ぜて、敵意の視線を受け流している。  そして、刑士郎たちが翡翠と邂逅を果たしているのと同時刻……  龍水と夜行の二人は彼らと逆に城の上層、大広間へと連れてこられていた。  扱いは驚くほど丁重。龍水はどのような仕打ちを受けるかと気を張っていたものの、そのようなことは無くむしろ客人のような待遇だった。  それは確かに幸運で、同時に厄介な一つの事実を指している。  この城の主、おそらくは天魔八柱の内一柱であろうが……その者はただの狂乱した獣ではないということ。  すなわち、強大で荒れ狂う戦神の中に冷静な思考を巡らせられる存在がいる事実に他ならない。やろうと思えば効果的、効率的にこちらを攻めることができるのだと明かされた。  ならばこの誠実な待遇も殊更不気味に思えてくる。気のせいか龍水には、いま自分の立っている場所が骨肉か内臓である光景を幻視したから…… 「真実、私たちは腹の中というわけでしょうか」 「さてなぁ。そうすぐに死ぬことはまず無かろう」 「刑士郎らと別待遇でこの扱いということは、どうやらこれは、我らと話がしたいということかな」 「まあ、刑士郎では化外と会談など出来まい。的確な人選だ」  血の気が多いのに加え、徐々に刑士郎の中で精神の均衡が崩れてきているのを龍水らは感じている。  ゆえに対話の場を設けるなら、なるほどその間は隔離しておくのが一番だろう。まるでここの主が、遠い昔から彼の扱いに慣れているかのようだった。 「そこから察してみる限り、この城の主には明確な理性があるらしい。先の二柱とは毛色が違うな」  知性ある鬼、すでに正体も聞いている。翡翠が告げ、彼らを捕えた町人らがうわ言のように漏らしていた名は…… 「天魔・紅葉。その名は彼ら〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》の中でもかなり著名で、どういう能力を持っているか、その詳細まで知られている」 「それとこれから会えるとは、光栄だとでも思っておけよ。龍水」  不敵に笑う夜行は変わらず怯えも恐れも見せてはいない。その威風堂々とした姿に、龍水の中で不安が消えていくのを感じた。  ああ、やはりこの方は素晴らしい。きっと自分は大丈夫だ。夜行様が傍にいれば、たとえ天魔が相手であろうと恐れる道理などありはせんのだ。  そう心が決まった時、太鼓の音が広間に響いた。  居住まいを正し緩みかけた気を再び強く張り詰める。然りと前を向いた視線の先に…… 「お待たせしたようね。西の方々」  優雅な所作と共に、美しい女性が入室した。  天魔・紅葉。文献にも詳細に残っている夜都賀波岐が一柱であり、見目麗しい絶世の美女が龍水らの前に腰を下ろす。  それは驚くほどの穏やかさだった。気配がないとか、威圧を感じるなどというものは微塵もなく、純粋に理性的な当たり前の態度で視線が向けられる。  客人と顔を合わせる主の態度そのものであり……その佇まいを前に龍水の息が引きつるように詰まった。  化外、異形の者。大鬼神と伝えられてきた女性の、ああなんと美しいことであろうか。  艶やかでありながら、決して下品なわけでも華美装飾が過ぎるわけでもない。雨に濡れた未亡人のような妖しい色気を纏いながら、なのに母性的な側面を強く感じるのはどういうことか。  その身を紡ぐ陰気の深さは間違いなく神の領域にありながら、それでも非常に女性らしさを強く感じる。悪く言えば俗的ということなのだろうが、これは親しみや憧憬の念を集めるものだ。  それこそ龍水にとって嫉妬してしまいそうになるほど、ひたすらに女性らしい。同性の誰もが理想の女と仰ぐほどに完成した母性像がそこにあった。  だが、なぜか。龍水はその姿を見ていると、誰かの姿を垣間見てしまい──  静かに困惑している少女を置いて、夜行が恭しく拝礼する。興味と好奇心の覗く笑みをたたえて、自らの敵わぬものへ訊ねかけた。 「お招きいただき恐悦至極」 「さて……御身は、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱・紅葉殿とお見受けするが、よろしいか?」 「そちらではそのように呼ばれているようね。ええ、ではそう呼びなさい。あなた達は?」 「これは申し訳ない。私は摩多羅夜行。神州西方、御門一門の陰陽頭にして、東征軍総大将、久雅竜胆公の麾下末席を汚す者。お見知りおきを」 「そして、こちらが」 「神州西方――御門一門が当主、龍明の娘であり、偉大な母の跡を継ぐ者」  御門龍水――と名乗った後で、一旦言葉を切った。  気合いで負けてはならぬと紅葉の顔を見れば見る見るほど、さっきから引っかかっていたものが自分の中に芽生えた感想だと気付いたから。  そうだ、ああ間違いない。この女、〈母〉《 、》〈刀〉《 、》〈自〉《 、》〈殿〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈似〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  それが龍水を困惑させていた原因であり、また自分自身ですら信じられぬ感想だった。恐ろしいはずの穢れた天魔から母の様な慈しみを感じること。その不似合いさが分からない。  それは自分が幼いからか。母を持つ子供だからなのか。それは判別つかぬまま、同時にあってはならない感想だった。  頭を振り漠然と感じたものを振り払う、強い語調で言うべきことを睨みながら言い切った。 「貴様らを覆滅するため、この地に来た」  他の天魔と違い、この紅葉から出ている慈母の如き雰囲気をどうにか断ち切りたいと思ったのだ。  どうだ暴言であろう。さあ正体を現すがいい。そう願う龍水の心すらも見透かしているのか、紅葉は微笑むばかりで怒りはしなかった。  むしろそういう子供らしい反応を、微笑ましく眺めているようにすら見える。 「ふふふふ……」 「元気のいいお嬢さんね。なるほど、あなた達の振る舞いに相応しい人選がされているということかしら?」 「そうやも知れませんな」  柳に風。馬耳東風。まったく堪えていない様を見て、龍水は話題を変える。 「……連れの者、刑士郎と咲耶は無事か」 「我々だけを呼び出したのは話を聞くため。それは分かった。ならば彼らはいったいどうなる? それを答えて欲しいのだが」 「彼らのことなら心配要らない。牢に入れているけど、生きているわ」 「あの二人にはまた少し思うところがあるので、別の対応をしているの。まあ、私自身もよく分からない気持ちなのだけど」 「無事、なのだな」 「ええ。誓って」  返答は優しく、思わずそれに安堵してしまう。  この女の言葉に嘘はない。嘘を吐く理由が無い、などという以前に嘘を吐くということを相手に感じさせない。騙すつもりがないのだと、まるで気負っていないその態度が物語っていた。 「それで、我々にいったい何の用かな?」 「舌の回る者を見繕い、御前に引っ張り出してきたこと。よもや伊達や酔狂とは言いますまい」 「聞きたいことは、そう多くない。あなた達が何を思って、こちら側に攻め込んだか。その動機」 「……まずはそれだけ。話の次第によっては、それ以上のこともあり得るけれど」  最初の問答、としてはこのようなところがお互いに順当というものだろう。  答えを促されて、夜行に代わり龍水が声を上げる。 「理由は単純にして明白。この穢土から流れる陰気を止めるためだ」 「淡海を越え、それは我らの神州を侵している。それを食い止め、民の安寧を守ることが御門の定め。それが一つ」 「それから、我らの神州は今、諸外国により圧力を受けている。開国せよと。しかし東の半分は、我らが国にして我らの物にありはせん。それを正すがもう一つ」 「総じるならば、護国のため。私たちは東へ来たのだ」 「まあ、大儀としてはそうですな」 「そうね……理由としては妥当だわ」 「生き場の崩壊を前にして、座して待つのはただの怠慢。祖国存亡とは、つまるところそういうこと。そこに間違いはない」 「けれど女が戦場に出て、前線を往き、殺される。それが愛国心かと問われれば……冗談じゃないと思うけれど」  そこに何を思うのか、ほんの少し紅葉は口の端を歪め自嘲してから、龍水らへと向き直った。  敵意はない。断じてないが── 「あなた達個人として、それはどうなの?」  その静かな詰問に、初めて龍水は場の空気が引き締まり始めたと感じた。 「なぜ、そのようなことを答えねばならない」 「そちら側では、我意が総てなのではなかったかしら?」 「誰かのため、何かのためとあなた達が口にすることほど、実が無く上滑りしているものはない」 「ああ結局のところ、自分自身のためなのでしょう? 先に述べた大義のために、あなたはどうして死ねるというの?」 「私は、それを聞きたいのよ」 「…………それは」  言葉に詰まるのは当然だろう。なぜならそれらは、確かに我意によってこそ動機が成り立っているのだから。  東征の大義は、確かに先ほど述べたとおり政事に携わるものなのだが、龍水にその手の権謀は関係ない。御門の家は陰陽司る家柄なために、その辺りの内外向けに拵えた施政については繊細な立場にある。  よってあらゆる建前を取り払った際、東征において龍水を参加させた名目は母である龍明に認められたいこと。  そして、この隣にいる偉大な益荒男、許嫁となった男の役に立ちたいこと……言ってしまえばそれだけなのだ。  大義を越えた念の所在、たとえば竜胆のような高潔なる誓いを求めていれば胸を張って答えたろうが、龍水にとってそれは黙りこむしかない質問だった。  紅葉が求めている解答を提示できるとは思えない。だからこそ龍水はそこで返答に窮し、それらを意に介さぬ夜行は悠々と言葉を紡ぐ。 「では、こちらも胸の内を答えるゆえ、代わりそちらもこちらの問いに答えること」 「問答とはそういうものかと。御身も、それでよろしいかな?」 「ええ、結構よ」  一問一答形式、それがもっともこの場で適したものであろうと両者共に納得し。 「では、慈悲に甘えて尋よう。人が己のために生きるのは、それほどまでに悪いことかな?」  言わば真芯──紅葉の語り口から、常に会談の中点に存在していた話題を打ち抜いた。  自分のために生きるな、と。まるで身売りじみた答えを言わせたいのかという訴えに、紅葉は微笑しながら首を振った。 「それ自体は、別に悪いことではないけれど」 「人はまず、己というものを確固として持たなければ、何も成せないし何もしてあげられない。自分を愛していない者に何かの結果が出せるほど、世の中というものは甘くない」 「誰しも、芯の部分は自分の都合で生きている。それは私たちにしても同じこと」 「そう、自分が気持ち良いから誰かを愛したり、助けたりするのは間違いじゃない」 「自分の中に喜びを見出し、それを求めることが悪徳と見なされるようなら、ほら、誰も生きていけないでしょう?」 「だから不本意で、嫌なことばかりあえてするのが尊いなんて、そんな理屈はどこにもない」 「そういう生き方をしているように見える人達も、要するに被虐的な快感が好きなだけ。生き物なら何であろうと、まずは自分が笑うために生きている」 「その本能を否定するのは、きっと誰にも出来ないことだもの」  自分もそうだったという経験があるのだろうか。  柔らかい言葉は郷愁に満ち、体験した者特有の重みがある。そして先ほど西側世界を批判していたかのような言葉とは裏腹に、その言い様は自己愛を肯定するものだった。 「けれど──」  ほんの少しだけ瞳に力を込めて、どこか悲しそうにこちらを見つめながら紅葉は言った。 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》」 「はあ?」  静かな否定の言葉に、思わず龍水は尋ねる。何を言っているのか、皆目、さっぱり分からない。  何だそれは、まったく理屈が通じていない── 「何がどう違うという? 別に私が化外と同じであると言われても、嬉しくないし理解できんが、話の筋が通ってないだろう」 「おまえ達はおまえ達で、復讐のために在るのであろうが。違うなどとは言わせんぞ」 「あの翡翠とやらが言っていた、おまえ達から見た歴史。それと同じだ。貴様たちにとって都合のいいことだけを見いだす、ただの方便ではないか」  つまり、連中が西を否定するのは感情論。  自らの生き場を奪われ、それが辛い、だから憎む。言ってしまえばそれだけで、そうとしか感じ取れない口調に龍水は怒りを覚えた。  それはきっと、見当違いだが裏切られたと感じたから。ああそうだ、そのような八つ当たり──母刀自殿がするはずはない。こんな底の浅い女と重ねたことこそ間違いだったと悟ったのだ。 「なるほど、そちらの怒りも理解できるが、だからといって化外の悲劇に付き合ってやらねばならない謂れはない」 「今現在、自分たちは、おまえ達の存在により圧迫を受けている。それはそちらも同じだろうし、つまり共存はできないのだ」 「ならばこんな、どちらの側が正しいだの、過去に受けた屈辱だのと、言い争う議論に意味はない! これは双方、生存を勝ち取るための純粋な闘争で、そこに負け犬の恨み言など混ぜるでないわっ」 「不愉快だし、共感してやるつもりもない」 「戦火によって己が土地が燃やされたなら、なんだ、つまらぬ。その程度、勝利するまでやればいい」 「敗北を辛い辛いと抱きしめて、いつまでも死んだ誰かに拘るな。虫唾が走る!」 「そもそも私は──」  この、母親面をして子供を諌めるように語る女が── 「おまえのことが、気に入らない」  偽らざる心情と共に、龍水は宣戦布告そのものの言葉を叩き付けた。  失敗したと冷静な部分が感じているものの、心から出た啖呵に嘘偽りは微塵もない。もはや取り返しは付かないことに動悸が乱れ出すも、ならばせめて気概だけは譲ってやるものかと前を向く。  見れば、顔を背けた紅葉の肩が震えている。  当たり前だ。自分の過去をひっくるめて何もかも否定した挙げ句、滅亡まで視野に入れれば許さんこともないと言われ、怒らぬ者が何処にいようか。  このままここで戦いの火蓋を切るか、いやしかしと……  目まぐるしく回転する龍水の思考を嘲笑うように、隣の男もまた紅葉と同じように肩を静かに震わせて── 「ふふっ、ふふふふ……」 「く、くくく……」 「──はははははははははははは!」「──あははははははははははは!」  共に、示し合わせたかのように笑い出した。  面白い。なんて愉快と、溢れ出した感情に敵意や殺意は欠片もなく、ただただ純粋に先の言葉に感じ入っているようだ。  龍水には何が起こっているか分からない、思わず呆然と、喉を鳴らしている二人の姿を交互に見やる。 「……ふふふ、どうかな。紅葉殿」 「私の許婚は、中々面白いものだろう?」 「うふふふ……ええ、ええ本当に」 「なんだか懐かしくて、おかしくて、ついつい笑えてきちゃうじゃない」 「負けた側の言いそうなこと、かぁ」 「ああ、本当に。なんて因果。なるほど、そういうところは似ていなくもない」  勝利するまでやればいい──  もう一度、懐かしむように龍水が吼えた言葉を唇でなぞる。その顔がどこか切なく、やはり似ていると感じてしまった。 「……似ている?」  問い返した言葉を前に、何気なく視線を寄こして…… 「今は龍明と、彼女はそう名乗っているのかしら?」  その言葉は一撃で、完全に龍水から言葉を奪った。  なぜ、なにを、どうして今──よりによってそんな言葉が出てくるのか。おまえはあの人を知っているのか。  敵であり、西のことを知らぬはずの夜都賀波岐。彼女の口から発せられた母の名前に、今度こそあらゆる反論を封じられた。  紅葉は変わらず、静かに、真摯に龍水の瞳を眺めている。  態度の一つ一つ、総てつぶさに観察するかのように……ひたすらじっと。 「てめえ、何者だ?」  檻を挟み、咲耶を庇うように立ち位置を変えながら刑士郎は吐き捨てた。  目の前に立つ町娘……さきほどは翡翠と名乗ってた女を前に、最大級の警戒を殺意と共に浴びせてみせる。  肝の小さい者が凶相を浮かべた自分を見れば発狂するか、それでなくとも恐れて惑うか反応はある。  しかし、翡翠は顔を青ざめることすらない。ああこんなもの、〈と〉《 、》〈っ〉《 、》〈く〉《 、》〈の〉《 、》〈昔〉《 、》〈に〉《 、》〈浴〉《 、》〈び〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》といわんばかりに。  視線もそうだ。鬱陶しい。これはまるで、知己に向けるような輝きを有していたから── 「俺はおまえなんか知らないし、懐かしがられる覚えもねえ。さっき会ったばかりだろうが」 「ああそう。やっぱり忘れちゃったのね。そういう風に取っちゃうわけだ。つまんないなぁ、本当に何も残ってない」 「まあわたしも、寝覚めで頭が冴えないうちは感覚曖昧だったけど。でも今はしっかり分かっている」 「わたしたちは時間が止まった存在だから、全部がつい昨日のようよ」 「ねえ、薔薇の〈ご〉《、》〈姉〉《、》〈弟〉《、》」  何か、ひどく齟齬のある言い方をされたような、気がしたからか。  意識が垣間眩みそうになり、僅かにたたらを踏んでしまう。呼気が怪しくなったのはどういうわけだ。何を言われているのか、それとも何かをされたのか皆目理解が及ばなかった。  しかしそれが不快な指摘であるということと……耳を貸すべきではないこと、そして自分を一切見ていないことだけは分かる。  無いものをさもあるように見立てて話すこの女は、〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  こうして言葉を交わしていながらおかしな物言いと自分で分かっているものの、どうしてもその感覚が拭えない。卵の殻を突き抜けようとしている視線に、凄まじい嫌悪感を覚えてしまう。  諧謔に囚われるかと、そう念じたときに背後の咲耶から声が上がった。 「あ……」  咲耶の声にはどうあっても反応してしまう刑士郎。  彼女が声を上げた理由は一目瞭然だった。 「花が……」  純白だった花。芳しい香りを放つ穢れなき白の花が、ゆっくりと赤く染まっていく……  赤く──否、紅く、紅く紅く血潮のように。  この刹那に血飛沫でも浴びたかのごとく真紅に染まっていく光景に、引き摺られるよう空間もまた変調し始めた。 「何だ、こいつは……」  牢屋が、空間が、溢れ出し滲む陰気の波に浸食されて練り変わる。想像を絶する、咲耶を除きついぞ感じた覚えがないほどの穢れが世界そのものを塗り替えていった。  そして──  その発生源、歪みの源泉は紛れもなく、目の前にいる少女だった。  幻覚か? いや違う、疑うことなくこれは真に翡翠の影が蠢いているのだ。何百本もの触手のように足を伸ばし、牢屋全体を蝕みながら取り囲んでいる。  うねる影。歪む景色。捕食する影を自在に操るその光景に──刑士郎もまた、聞いたことのある〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱の名を思い出す。  八柱が内半数はその〈咒〉《な》と〈理〉《カタチ》もよく知られている。三百年前の東征において彼ら四柱、もっとも己が歪みを撒き散らした祟神と畏れられている事実。  腐食の悪路。炎雷の母禮。死兵の紅葉。そして残りもう一柱。  御伽噺に語り継がれる水性の天魔。海上にてもっとも多く、当時の兵団を蹂躙したという影を操る海魔は、すなわち── 「奴奈比売、か」  影のように揺らめき、西の者を絞め殺す存在。神出鬼没の水邪はつまり、こうして無害を装ってかつても紛れ込んだのか。 「そんな名前で呼ばないで」  声色とは裏腹に苦笑するような口元は、相反する嫌悪と友情に満ちていて…… 「──足を引きたくなるじゃないの」  瞬間、刑士郎の足にまとわりついた影が、咲耶もろとも水底へと引き摺り下ろす。  蠢いていた影が牢全体を覆い尽くした更なる下層。そこはまさに、影で出来た海だった。  揺れる気泡に、深海の如き動き辛さ。浮力が身体を覆っていながら、絶対に浮かび上がらせぬという念が纏わりつく異質な世界。  これが奴奈比売の描きし〈渇望〉《セカイ》だった。 「ぐ……っ、がぁッ」  深い、どこまでも深い海、さらにその底へ沈んでいくような感覚が身体を襲う。  まさしく水中同然の動き難さ。そして、呼吸は出来るのに空気すら水の重さを有しているという息苦しさ。総てが刑士郎から動作の精彩を奪い取っていた。  そして──その様を眺めるのは、もはや翡翠という少女ではない。  〈紅〉《べに》色に染まった髪の下、血色に光る両眼を滾らせながら……天魔・奴奈比売が彼らの前へその本性を現した。 「やめてよ。そんな敵意を向けられたらわたしも怒りを抑えられない。殺したくなるじゃない」 「取り込まれても、磨り潰されても、ねえ、今はまだ懐古の念が強いのに。そういう態度はやめなさい」 「それでも分からないと言うのなら……ああ、なんだ。あんたは本当の本当に、遠い刹那の残滓なわけか」  落胆したような声など聞き入れず、刑士郎は静かに周囲を伺う。  すでにここは奴奈比売の領域。抜け出すとするなら、発生源を討つしかないが現状それは不可能だった。  加えて咲耶も牢ごとこの場に囚われている。呼吸が出来なくなっていることはないようだが、明らかに平静を欠いているのは分かっていた。  先の言葉から分かる、殺す気は無いということ。  それがどこまで本気なのか推し量れない刑士郎に対し、奴奈比売は鼻を鳴らす。ここで初めて、自分はこの天魔から視線を向けられたような気がした。 「言ったでしょう。わたしたちにとって、あなた達の世界は仇なのよ。そして今でも鬩ぎ合いは続いている」 「この黄昏に入ってきた波旬の走狗は、例外なく滅ぼすわ。それがわたし達の存在理由」 「ええ。分からないでしょ、なんて悲しい。弄ばれた水銀も、黄金の敗北さえ、あなたの中には残ってない。確かに勝利は尊いけど、それは不義理が過ぎるってもんじゃない?」 「主人を変えて、飼い慣らされた犬みたいよ」 「だからここで、今すぐに、あなた達を殺したいし殺すべきだと思ってる」  そして実際、それは容易いという証明に、空間を覆う〈陰気〉《すいあつ》が徐々に強まり始めている。  肉と骨が軋み、髪の一本、爪の欠片さえもが全方位から締め上げられているようだ。悲鳴すら上げられない水底の牢獄は、けれどこの者にとっては最大限に加減したものなのだろう。  ほんの少しだけ強く、あくまで優しく、摘み取った花を握っているようなもの。  攻撃などと呼ぶのもおこがましい行いで、完全に生殺与奪を握られていた。 「でも……」  その現状に何を思ったか、勿体ないとでも言うように奴奈比売が刑士郎の前に立つ。  呼気が触れ合うほど近く、息遣いを感じるほど傍に激烈な陰気の塊が接近していた。それだけで刑士郎の皮膚が桁違いの質量に粟立っていく。  視線は刑士郎の奥を覗き込むようにして、次に離れた位置の咲耶を見つめつつ微笑んでいる。  それはまるで、採取した昆虫を子供がどう嬲ろうか思案するかのように……  どうするべきか、どうしてやろうか。出来るならば劇的なものがいいと、呟いた瞬間……舌先が唇から覗き。 「せっかくだから、役に立ってもらいたいわね」  刑士郎の胸ぐらを引き寄せて、そのまま深く唇を重ねた。 「ん──っ!」  刹那──かつてない胸のざわめきと悪寒に、魂が慟哭する。  触れた唇と潜り込んでくる舌先、陰気の具現たる体躯と接触したことで口内が一瞬で焼け爛れる。汚染された皮膚と粘膜が溶かされながら癒着していくようだった。  激痛に身体が麻痺する。そして、そこに付随して流れ込むものは──  血と耽美と暴虐を煮詰めたような、非人野獣が如き衝動を前に──  意識に、亀裂が、走った。  薔薇だ――ああ、不夜の薔薇が流れ込んでくる。  噎せ返るような生臭い血の臭い。紅で出来た薔薇の園。そうだ自分はここにいた。この場で常に足掻き流離い奪いつくして、黄金の爪牙であり続けた。  夜に無敵の魔人になりたい。そのために、そうそのためにまずは喰らった最初の獲物を覚えている。己が姉にして母。近親相姦の果てに生まれた畜生児だから、まずはこれを捧げよう。  これにて始まり、これにて足掻く。水銀の薫陶を跳ね除けるため、黄金の修羅道に導かれ永劫に唯一満たされるときを求めて足掻き続けた、そのはずだから──  ──違う、何だそれは? そんなものは知りなどしない。こんな想いを抱いていない。  己はただの一度だとて、こんな道を歩んでいない。  懐かしいなど感じるはずはないだろう。知らない。知らない。だというのに、なぜだどうして。  ……この女を喰い殺してからの〈幸福〉《さつりく》を、痺れるほどに愛おしいと感じているのか?  導くように脳髄へ直接打ち込まれた誘いの波動。いまこの時、凶月刑士郎に何か決定的な〈陰気〉《かつぼう》を流し込んだ女が、深海の底から囁いている。 「、。、。」 「、・。、?」 「。。、」 「、、」 「。。」 「、。、。」 「、・。、?」 「。。、」 「、、」 「。。」  薔薇──闇の不死鳥──共に再び戦おう。  失われたはずの言葉、渦を巻いて荒れ狂う解析不能な単語の羅列は、なぜかその部分のみ読み取ることができていたから。  そして、それを当然と思える我が身に内在する何かが……  ああ、心地いい。懐かしい。誇らしい。我ら修羅の曼荼羅に魂まで捧げた同志なり。  刹那に与する義理などないが、黄金の忠臣として主の無念を晴らしてみせよう。ようやくこれで目が覚めたぞ──  と、凶月刑士郎の中で再誕の産声をあげていた。 「があああああぁあぁぁぁぁ──ッ!」  絶叫を上げながら、奴奈比売から弾ける様に身体を引き剥がす。  喉が渇く。水が欲しい。水が足らない。この不快な口の中を、今直ぐ紅い紅い〈水〉《チ》で濯ぎたい──  流し込まれた穢れは単なる気付けに過ぎないとでもいうのか、自らの中、息を潜めていた何かがゆっくりと目覚めていくのを感じる。自己を侵食しながら、自らに再び力を取り戻そうと猛っていた。  己を組みかえられていくかのような不快感。激痛と共にのたうちながら……しかしなぜだ、どうして自分はこれを行なった女に対し〈借〉《 、》〈り〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈た〉《 、》と感じているのか。あろうことか、感謝の念さえ覚え始めているというのか。  〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈摺〉《 、》〈り〉《 、》〈だ〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》と言わんばかりに、感情さえも制御できぬまま水底の異界にて膝を折った。 「あ……あ……あ……」 「あははははははは、はははははッ!」 「怒ってる。怒ってる。この子、嫉妬してるよ。あはははははは」 「ねえ、ねえ教えてよ。取られたのはいったい誰なの? 弟? 息子? わたしの男を奪うなって? 馬っ鹿じゃないのッ!」 「お兄ちゃんを盗られて悔しいのぉ?」  精神が虚ろでも、自分の男を穢されたのは分かるのだろう。大きく反応する咲耶を、猫撫で声で奴奈比売が嬲る。  漂うように浮かぶ水妖に対し、咲耶の視線は険を増していた。赤子が宝物を取り上げられたような稚拙ともいえる怒りだが、そこには確かな知性の光が見えている。  そして、奴奈比売もまたその姿に対して感じるものがあるからか。  敵意の視線が交差する。彼女らは互い明確に、相手の存在を疎ましいと感じていた。 「ねぇねぇ、妹ちゃん? あのお兄ちゃん大好きなのー? 強くてすごくてカッコイイ、いつでもあんたを守ってくれる。とっても素敵なわたしの恋人」 「それが正しいんなら、なんて皮肉。昔のあいつに見せてやりたい」 「勝手に壊れて、もたれかかって、守られたまま幸せごっこ。素敵ね。けどおかしいな、それはちょっと逆なんじゃない?」 「あんたは、〈捧〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈側〉《 、》の存在でしょうが」 「生まれた順序が違ってしまうと、それすら逆転してしまうって? ふざけるな。薄っぺらいのよ。透けて見える」 「うぅ──ぁ、ぁっ」  陰気に苦しむ刑士郎を無視し、奴奈比売は咲耶の顔を両手で包み込むようにして、静かながら怒気も顕わに告げた。  おまえのような種類の女──わたしは見ていて腹が立つぞ、と。 「あんたとわたしじゃ怒りの次元が違うのよ。馬鹿じゃないの」 「──調子に乗って、自分の男見せびらかしてんじゃないのよッ! ふざけんなァッ!」  突如、秘めた癇性が爆発して咲耶の顔を包んだ手に力が入る。  今まで薄皮一枚下で蠢いていた憎悪と殺意が、決して壊さぬよう、しかし苦しむようにという嗜虐心と共に発現した。  爛々と輝く瞳は憤怒に満ち、潮が引くように今度は蔑の視線が少女を穿つ。 「羨ましい。恥を知らないのね。だから犯されたことさえ忘れてしまえる」 「奪われるというのがどういうことか、都合よく忘れたまま見当違いの怒りかたしてんじゃないわよ」 「それが愛? お安いことね。病んだ売女が、言ってくれるわ」 「あんたには、あんたにしかできないことがあるでしょう。貪らせて、血を与えて、いきり立たせて、好きな男を堕としなさい」  優しく、甘美にさえ感じる声色はその実悪意しか混じっていない。  顔を押さえ込んでいた手を離し、優しくいたわるように咲耶の頬を撫でている。  憐れな女。愚かな女。だからさあ、この言葉に耳を傾けろ。おまえの真実を与えてやると、侮蔑の笑みが語っていた。 「それがあなたの業でしょう。わたしの切れっ端で半端な幸せ感じてんじゃないわよ」 「それでも、まだ目が覚めないと言うのなら。ええいいわ」 「魔法の呪文を教えてあげる」  歪み──怖気立つほど不吉でありながら、艶やかな冷笑と共に。  咲耶と刑士郎、彼ら兄妹の魂をより強く揺り動かすかのように。 「、」 「──」 「、」 「──」  何か、決定的な呪詛を吐き出した。  刹那その脳裏に、白貌の影がより鮮明に甦り── 「あ、────」  同時、咲耶にもまた何かの変化が巻き起こる。  刑士郎と共鳴する陰の波動。凶災と凶運と非業が、少女の魂を確かに振動させた。  だから、ゆっくりと…… 「──っ、く……咲耶!」 「あ……わ──」 「わた、くしは……」  見失い続けた意識、咲耶の瞳に意思の光が戻ってくる。  そして、変革と再誕を迎えた地の出来事と時を同じく、天にて言葉の剣を交わす龍水らもまた異なる局面を迎えていた。  自分の尊敬している最愛の母、それをどうしてこの天魔が知っているというのか、信じられない。受け入れられない。ただ瞠目するばかりであった。  対して紅葉の表情に変わった変化は存在しない。若さを眺めるように、どこか苦笑しながら驚く少女をあしらった。 「もうそちらの質問には答えたでしょう」 「だから、今度はそちらの番。まだ私の問いに答えていない」  一問一答、にべもなく切り捨てて問いかける。 「この黄昏に攻めてきた、あなた達個人の想いとは何?」 「く……それ、は」  そんなことを言っている暇はない。しかし圧力の増した視線が、これ以上食い下がるなと言っていた。  どうしても龍明と紅葉の関係を知りたいからこそ、頭は平静を欠いていく。そちらの方に意識が裂かれ、この問いそのものに応えられなかった。 「なら、あなたはどう?」 「この子とは違って、明確な目的意識を持っている、と思うのだけど」 「その理由を探すため、とでも言うべきですかな」  もう一人、夜行に対して向けられた問いに、やはりこの男はにべもなく答えた。  常の通り。何も気にせず、何も感じず、他所は知らぬ慇懃無礼……とそのような空気だ。  だが、どこかが違う。ただ問われ応じるだけのつもりではないと、総身から滲む稚気が語っていた。  東征に赴いた理由を探すために、東征に赴いた。その真は、すなわち…… 「我らの同志には、御身らのような強者と戦うためだけに生きている者がいる。私もそれに近いと言えば近いのだろうが、ここは探求と表現するのが正しかろう」 「私は湖に棲んでいるが、己を鯉と思ったことはないのでね」 「……そう」 「大した自信をお持ちのようね」  その一瞬、誰の影を見て──誰と似ていると感じたのか。それは紅葉にしかわからない。  感じたものを否定するつもりもないのだろう。夜行の存在を、誰かに重ね合わせていたようだ。 「そしてなるほど、あなたはそれに見合った力があると認めましょう。察するに、もう大分見えているようだけど」 「私の同胞から学ぶことがあったようね」 「母禮殿には、礼をしたいと思っていますな。いやなかなか、あれは鮮烈な体験だった」 「太極の何たるか……然り、今は大方見えている。ただ、己の色を決めかねてはいますがな」 「それさえ分かれば私たちに勝利できると? 探求とは、そのことかしら?」 「否否、それは物のついで。そもそも御身らを斃す法なら、至極単純なものがあると分かっている」  そう口にした途端、場の空気が凍り付いた。  意志による極寒。指先から背骨まで、凍結したかのような錯覚が龍水を襲う。それほどまでに、決定的に、紛れもなく鬼門の言葉だったのだ。  斃す法なら分かっている――つまり、やろうと思えばいつでも斃せるという発言。  一笑に付されて終わるはずの答えに対し、この反応。つまりそういう強大な必殺性を孕んだ業が実在するという事実に他ならない。  しかし、それでも笑みを崩さぬ夜行と紅葉に、龍水は息が詰まりそうだった。いやむしろ、すでに自分は呼吸が止まっていて、そのことを認識できていないだけかもしれない。  圧し潰されそうになる空間の中で、声だけが朗々と響いた。 「だが、それは私の趣味ではないし、そもそも私に可能なことではないとも思える。まあ、同志に出来る者がいたならやるかもしれんが、ともかく置こう。私個人には関係のないこと」 「興味があるのは、この宇宙で穢土以外を支配している法の真実だ、紅葉殿。どうやらそれに、御身らはいたく憤慨しておられるご様子だが」 「栄枯盛衰。盛者必衰。万物流転。自然淘汰……言葉は何でも結構だが、海は湖となり鰐は鯉に追いやられたと、その無念が穢土のすべてではありますまい。違いますかな?」 「でなければ何と?」 「栄枯盛衰、より強い者が現れたなら、大人しく殺されて消え去るのが道理だとあなたは言うつもりかしら?」 「まさか、それは負け犬の諦観というもの。怠惰と潔さの相違くらい、稚児であろうと知っている。いや、この場合は責任の有無と言ったほうがよろしいか」 「何にせよ、大人しく殺されてやる道理などはありますまい。先ほど我が許婚が言ったように、これは生存闘争なのだから」 「憎悪然り、無念然り、闘争にそれらが纏いつくこともまた必然。恨む権利や資格がどうのこうのと、蚊帳の外から飛んできそうな頭の悪い批判などを御身らに向けるつもりは微塵もないのだ」 「ただ、私は思う」 「かつて太極座に達したであろう御身ら穢土の主柱殿は、我らに見えぬ域のものが見えているはずではないのかと」  彼らを東の地に縫い付けた理由。それを看破しながら彼は小さく喉を鳴らした。 「摩多羅夜行が探求せしものはその真理。教えは請わぬし訊きもせぬ。私が調べ、私が見つけ、私がそれを量り、裁く。ゆえ、言うなればこの東征は、私にとってそれを知るための踏み台にすぎない」 「先ほど御身が言われた我ら西人の危うさとは、そこに因があるのだろう」  自己愛そのものは否定しないし、むしろ人に必要なものだと紅葉は言う。だがおまえたちのは違う。駄目だと断定した真意。  自分はそこをこそ探求したいと。 「ご理解いただけたか、紅葉殿」  饒舌な夜行の言葉に対し、紅葉は黙って聞いていた。言われた内容を噛み締めている。  龍水は夜行の言い分が本当かどうか掴みかねていた。しかし、これまでの態度、これまでの行動、そして今の話を総合すれば、間違いなく本心からのものなのだろう。 「うふふふふ……」 「うふふ。なるほど、つまりあなたの望みは……」 「そう、波旬をこの目で見てみたい」  そう答えた瞬間、夜行の額が光と共に左右へ割れる。  両眼の光を失った代償に得た、新たな〈視覚〉《ひかり》。太極見通す天眼を見せながら、口元に浮かぶ笑みを深めた。 「御身、私を信じられぬか?」 「