『霞外籠逗留記』        〜遍《あまね》く〈活字〉《おはなし》愛好家に捧ぐ〜 『冒頭詩』    ―――〈寂寞〉《じゃくまく》たるこの風景の〈間隙〉《かんげき》にこの躯《み》を介《お》いて    〈表現〉《あら》はしがたい哀愁の淵に沈み    咄《ああ》 なにゆゑに心忙《せ》かれる    閃《きら》めく星の怕《こは》きゆゑ與《か》    己《おの》が内心に愴《おび》えたの與《か》             『悲哀』              日夏耿之介  ―――ジジ……ジッ、と。焦げる音が、銀の小さな火皿の中であえかに鳴き、火口はさながら抉《えぐ》られた傷痕めいて、熱く熾《おこ》った。  灯りというにもつましい火口が薄暗がりを泳いで、いまひとつの火をとぼす。しばし揺らいでいた新たな火が落ち着いて、丸く据《す》わったかと見ると〈行灯〉《あんどん》の蝋燭だ。おんもらと照らしだしたは、銀の延べ煙管をくわえた女の半面の、後ろの障子戸へと、揺らぐ影を置いて。  まるでどこかの料理屋の二階の座敷を掌に握り、ぎゅうと縮めてみせたかのような、鰻《うなぎ》の寝床がごとき小さく細長い一間である。  こういう半端な一間というのは、いかがわしくも人目を忍ぶための隠し部屋か、さもなくば―――ゆら、ゆらと影が躍るに合わせ、とぷ、たぷと、障子戸の外で鈍く水音が拍子を取る―――水音。そう、これなるは水の上に浮かんだ一間。つまるところ小舟の上に設えられた、胴の間というやつなので。  銀延べの煙管の吸い口を離した、女の朱唇の隙間から白く細く長く煙が滑り出て、一時火灯りの中に留まる。女は煙草の煙をしばし〈恍惚〉《うっとり》と目で追う風情だったが、ふと心づいたように、帯を緩めて〈衣紋〉《えもん》を抜いた。  暗がりの中で、いっそう濃い墨染めの衣が肩口にわだかまる。浮かび上がる、優しい膏《あぶら》を塗りこめたような肌えが―――白々と、暗がりの中に。  そして女は、胴の間に延べられた〈煎餅布団〉《せんべいぶとん》に〈仰臥〉《ぎょうが》している、しとどに濡れた青年へ、そのたるみなく実った肢体を覆いかぶせていく。  ―――厭、だったのだ―――  厭で厭で、たまらなくって、だから逃げ出したかったのだ―――  もうあんなところにはいたくない。  いられない。  あそこに居つづけたら、きっと自分は壊れて、ひび割れ、ぼろぼろになってしまう。  だから、自分は―――  青年がまず感じたのは、体にしっとりと降りた優しい重みと、そしてぬくもり、だった。まだ己が〈頑是〉《がんぜ》なき〈嬰児〉《みどりご》であった頃、それさえあれば他のなにもいらなかった、母の胸の暖かさにも似た―――  はだけられた肌に滲《にじ》みこむぬくもりは柔《やわ》く、凍えて鈍《にぶ》った細胞の一粒一粒を、優しく解きほぐしていくかのよう。死を予感させるほどの冷たさに、生を繋ぎとめんため〈意固地〉《いこじ》なほど強ばっていた肉が、やっと安堵を得てほぐれていく。ふぅ、と、そろそろ息を吐き出した時になってようやく青年は、自分が呼吸さえもか細くしていたことに気づいた始末であった。危ういまで死に近づき、その黯《かぐろ》い淵ばかりを覗きこんでいたせいか、視界がろくに利かず、青年はただ身近なぬくもりばかりを全身で〈手繰〉《たぐ》りよせようとする。 「……冷たい、体ですねぇ……」  〈耳朶〉《じだ》にくすぐるように囁かれた女の声が、深みを含んで、青年は母猫に額を慈《いつく》しんで舐められた仔の気持ちになったという。思わず涙ぐみそうになるほど、寄り添うぬくもりも声も有り難く、青年は女の身にすがりつこうとして―――肌と肌とが、じかに触れ合っていることを知った。  自分ばかりか女も衣装を解き、体を寄せ合っている―――!?  そうと気づいた青年が反射的に身を遠ざけようとしたのは、凍え死に瀕《ひん》してなお、『異性と肌を重ねる』事への畏《おそ》れが勝《まさ》ったからだが、その肩口は押さえられた。やんわりと、彼を安心させるような穏やかな手で。 「いいから。じっとしてなさいな。  お前さんは土左衛門になりかけていらっしったんでさ」 「そんなのが、なにを気恥ずかしがることがある」 「体がぬくまるまで、抱かれているがいい」  たしなめる言葉に甘えてしまいたい、ああでも、こんな風に見ず知らずの女性に迷惑ではないだろうか……〈逡巡〉《しゅんじゅん》する青年ではあったが、そもそも起きあがろうにも、ようやくほぐれ始めたばかりの四肢が彼の意に添うはずもなく、結局、いまだ〈明瞭〉《めいりょう》ならざる視界と意識の中、女の厚意に甘えてしまう。怖々と、頑《かたく》なまでのためらいを残したまま。  肌伝えにしてまで自分に温もりを分け与えてくれる女の顔を、せめてこの目で確かめたいと念じても、今の青年には瞼を上げる力さえ乏しい。〈呻吟〉《しんぎん》する彼の口元に、押し当てられたなにかが、ある。 「―――ほら、これをお呑みな、ね?  〈回生〉《きつけ》、ですよ……」  こちらも力が入らぬ唇をそっとわけるようにして、押しこまれたのは木の匙《さじ》のようだった。反射的に〈戦慄〉《わななか》かせた舌の上に、滑りこんできた液体、熱くもなく冷たくもない人肌で、とろりとしているのに味は透明だった。  透明なのに、花の蜜よりも精妙に甘く、野の果実よりも薫り高い、えもいわれぬ至福の味わい。天与の霊泉というものがあったとして、この飲み物こそがそこから汲《く》まれたに違いあるまい。  流しこまれ、浸みた舌からたちまちに溶けて、身の裡《うち》に温かな火を置いていくような、青年は気づけば夢中で匙《さじ》に吸いついて、喉を鳴らしさえして飲み下す。  一つ舐めて不思議の〈微薫〉《びくん》が満ち、  一つ啜《すす》って天人の楽の音さえ耳の中に聴き、  一つ呑み下して心も体も生まれ変わるようにとろけてゆき―――  二度・三度と匙《さじ》にしゃぶりつく青年に、しかし浅ましさはなかった。母の乳房を求める赤子が無心であるのと同じく。またその〈都度〉《つど》匙《さじ》に注ぎ足し、青年に含ませる女にも、かく一心に求められる事への法悦があったに違いない。朱唇の端にたゆたうような微笑みが、まるでフレスコ画の聖母像さながらの。  どれだけ啜《すす》ったのか、ようやく匙《さじ》から口を離して青年の漏らした溜息は、満たされきって、稚《いとけな》かった、という。  ……女の肌えと不思議の飲み物にて青年の体が温みを取り戻していくにつれ、眠気もまた立ち戻ってくる。がしかし今度の眠気は、死神の刃を隠して黒々と冷たく危うい類のものではなく、春の午後にたっぷり腹を満たして日溜まりに横たわった時に訪れるそれ。深い安堵を伴った眠たさに、青年はやすやすと意識を手放して、溶けて…暗く……。  ……。  …………。  ………………。  ……だから青年の次の目覚めは、忙しない朝に〈安寝〉《やすい》を無理矢理に中断されるようなではなく、あくまで自然に、満たされきって、気がつけば瞼が上下に分かれていた―――というまことあやかりたいくらいものであった。が。 「……! ……ッ!?」  眠りの名残がへばりついてぼやける視界の、焦点が定まったとき青年は、文字通り跳びあがらんばかりに仰天したことだ。  ―――なんとなれば―――  安らかなる眠りの時間はそこまで、ここから先は悪夢の世界かと青年は〈狼狽〉《うろた》える、動揺する、身を引こうとする。そうやって見苦しくばたつかせた手に、布団の手触りがしっかりと生々しい。なればそれは夢などではない。  ないけれどそれでは、なんなのだ、これは。  人を脅《おびや》かし、その身を損ない、その心をば蝕《むしば》んで了《おわ》る時なしと書にも伝う、それは、鬼。異形の面貌。  青年の眼前にぬうと突き出されたその貌。猛々しい眼で睨《にら》み、眦《まなじり》の隈《くま》が暗く濃く、傷口のように耳まで裂けた口蓋に刃の牙を覗かせ、なにより額に角、もっとも見やすき異形の象徴としての。  きっとだ、きっと次の瞬間だ。自分はあの牙で喉を裂かれ啜《すす》られるか、さもなくばあの角で目玉を刳《く》り抜かれてしゃぶられる。  その瞬間の苦痛が想像の中で無限大に膨れあがり、そしてなお耐えがたいのはその惨劇が襲いかかってくるまでのこの数瞬。引き延ばされた時の中で、青年は思わず目を固く縛った、その無明の中で研ぎ澄まされた耳に、 「ああ、ようやく、頬ッぺたにも色が戻りましたねえ」  届いた声は、心を柔らかく撫でるように深く響いた―――女の声だった。  鼻先をかすめた吐息だって、生肉を噛み慣れて臭気を孕《はら》ませているどころか、むしろ熟した果実を思わせて芳《かぐわ》しい。 「もう大丈夫だ。  お前さん、一度起きたなら、そんな風に寝たふりはお止しなさいよ」  砕けて伝法な物言いに、青年を害そうという心は窺えない。窺えないのであるが、魔物はよく人を誑《たぶら》かすもの。優しげな声音に気を許した途端に牙を突き立てられてからでは、恨み言にも意味がない、とは言っても。〈猜疑〉《さいぎ》も過ぎれば人を損なう害となる。  青年はどこか縋《すが》るような気持ちで、怖々と目を見開いて、そして。 「どうです、気分は」  ……鬼の貌は、あいにく夢幻とは消えてくれずにそのままな、ただし―――半分。  半分、だけ。  貌の縦、〈正中〉《せいちゅう》に割り、その半分だけを着けた、そうそれは、半欠けの鬼女の面、〈般若〉《はんにゃ》の面だったという種明かし。  半割れの、〈般若〉《はんにゃ》の面を被った女。  ああ女だとも。  しどけなくずり上がった褄《つま》から覗く脚、青年の下半身にすり寄せられた脹《ふく》ら脛《はぎ》だって、年増の〈婀娜〉《あだ》を描いて優美。なによりも見やすく、緩んだ〈衣紋〉《えもん》からこぼれ落ちんばかりの双乳が、ふっくら丸く、みっしり重たげに息づいていようではないか。  照らすものといっては狭い一間の端の、〈行灯〉《あんどん》の火灯りばかり。古風な光源からでは光までも古びているようで、闇を照らしだすどころか陰を濃く見せている趣《おもむき》がある。  般若の面の女がまとうた衣は、着崩して今は褪せてはいるけれど、元は墨染めの僧衣の類らしい。その黒々とした衣の、袖やまくれ加減の褄《つま》、緩んだ〈前身頃〉《まえみごろ》から覗く肌は優しい白。暗がりの中で切り取られたように〈際立〉《きわだ》ち浮かび上がる、女の肌の色合いだ。  そんなのが、柔らかな肉が、自分にのしかかるようにして覗きこんでいる。ようやく二人の体勢を把握した青年の胸中に、疚《やま》しさとも後ろめたさともつかぬ想いが膨れあがったのがたちまちのうち。  では自分がいぎたなくもしがみついてたこの温もりは、女の肌に通う血潮の熱だったというわけか? 馴染んだ布団の、自分の体熱が移った温かさだとばかり信じこんで身を委ねていたのに、なんて自分は……いやらしい。 「も、申し訳ない……っ、俺はその、あなたになんてことを……っ」  気の利いた体裁など整いもしない、ただ舌ばかりが勝手に動いて無様な詫びの言葉を押し出した、またも手足がわなないた。 「……ふふっ」  自分の体の下で、隠れ潜《ひそ》んでいた石をひっくり返された這《は》い虫のように縮こまる青年に、女は面で覆われていない方、生身の顔の唇の端をほころばせ、笑う。細められた眼差しはいたづらな、そして気やすげな。 「……なぁんにも」 「え?」 「なんにも、すまながる事などござんせんよ」 「お前さんは死にかけていなすった。  恥ずかしがることなどありゃァしません」 「助けるほうも、必死ですもの」  〈奇態〉《きたい》ななりではあるにしても、女の言葉の端々に、親切な心根が滲《にじ》んでいた。かくとりなしているにもかかわらず、いかにも申し訳なさげに己の肌から目を逸《そ》らし続ける青年に、女は苦笑混じりに衣の前を整え、ようやく彼の上から身を起こす。その僅かな動きにも小舟の胴の間はゆらゆら傾《かし》いだのだが、ここが水の上にあると思い至らぬ青年は、まだ自分が深酔いを引きずっており、それで頭がぐらついているのかと臍《ほぞ》を噛む。  そうだ―――自分はひどく酔っていたのだ。  そうなのだ―――もう、あんな暮らしには耐えられず、あんな生活が厭で厭でたまらなくって、その憂さを慣れない深酒で紛《まぎ》らわそうとしたのがまずかった。どれだけの悪酒を喰らい、どんな暴挙に出たものか、情景の断片くらいは記憶にありそうなのだが、それが、〈欠片〉《かけら》もない。泥酔による意識の中断と記憶の混濁。アルコール中毒症状の初期段階だ。  胸の奥に澱んでいるのは、ただただ耐えられない逃げ出したいあそこにはいたくないという苦く重く鈍い感情ばかりであり、自分がなにをどうしてこうなったのか―――  砂の中にまぎれた小石を探すようにして、ようやく想い出せたことと言えば、おそらくはどこぞの店でしたたかに酔いしれて、そこから駆け出してそれから……ああ、河、だ。黒黒と流れる水面を覗きこむうちに……吸いこまれるように……我と我が身が落ちていったのは、誤ってなのか、あるいはこんな人生が続くならばいっそのことと思いあまっての挙げ句なのか……それさえももう判然としていない。  どちらにしろ自分は死にかけたようだ、と、他人事のように思い返してから、喉元まで迫り上がってきた事実の重みに呆然となる。 「俺は……たしか河に落ちて……、それで……なんで、ここに……というか、ここは……?」  寸断された記憶は、どうしたって繋がらない。そもそもここはどこで、なんなのだと青年が周囲をぐるり見回したのが、今さらながらだ。  薄暗がりが奥行きと輪郭を曖昧にしているけれど、両脇を障子戸で区切られた細長い一間らしい。人一人がかろうじて立てるくらいの高さに、屋根板がじかに見えている。  ―――と、ゆらり。また揺れた、どうやら青年の脳が酒精を残して揺らいでいるのではなく、床からして定まっていない。それにたぷ、とぷと障子戸のすぐそばまでゆるく迫る水音、を、聴いた段に気づいたのだがさらさらと流れるせせらぎは、ずっと青年達を取り巻いている。  それで青年は、この狭い一間が水の上にあるのだとようやく心づいた次第なので。  磨《す》りきれ加減の布団の上に半身を起こし、衣装を整えながら端座する。見れば着ているのだって、身に覚えのない、粗末な〈単衣〉《ひとえ》の着物だった。  女が一間の端に据えてあった〈行灯〉《あんどん》を畳に滑らせ、二人のそばまで引き寄せた、灯りが動けば影も従い、障子戸の二人の影絵を芝居のように蠢《うごめ》かす。 「ええ、ここはあたしの舟でござんすよ」 「あなたの、舟」  おうむ返しなのが我ながら間抜けていると知りつつも、まだろくに働かない頭では満足な受け答えもできやしない。 「渡し守ですからね、あたしは」 「それで、えっちらおっちら漕いでいるところにお前さんが流れてきたんでさ」 「てっきりもうくたばっていると見えたが、櫂でつついてみれば水を吹いた」 「まだ息がある。おお大変だ、てェんで慌《あわ》てて引きあげて、部屋に引き入れ寝かして差し上げたんです」 「〈一時〉《いっとき》は、肌が氷みたいでしたっけ……でも、もう大丈夫のご様子だ」 「なんにしたって、〈命冥加〉《いのちみょうが》なお方だよ。  運がようございましたねえ」  ああ、渡し守。なるほどだから舟の上。〈小体〉《こてい》ながらも座敷舟というやつか。おかげで泥酔の川流れ、そのままなら流れ着く先は彼岸の縁《へり》であったところを、だから助かった、一命を得た。 「くすりもちゃんと効いたようだ。体の中味はどんな〈塩梅〉《あんばい》です?」  問われて青年は、やっとその奇妙にも気がついた。意識と記憶を失うほど泥酔していたにもかかわらず、挙げ句死にかけていたのにも関わらず、〈宿酔〉《ふつかよ》いの不快極まる頭痛もむかつきもない。後頭部に僅《わず》かに〈鈍痛〉《どんつう》がへばりついているようだが、気になるほどではない。  それどころか、〈回生〉《きつけ》薬の効き目というのか、〈身裡〉《みのうち》には陶然とした酔いにも似た〈昂揚〉《こうよう》が通うてあった。酒の酔いに似て酒ではない。広く蒼い草原の中で、野の息吹を肺一杯に満たした時のような酩酊感だ。いやはや、薬効あらたかな飲み物もあったもの。 「なにか、痛いところ苦しいところでも、おありですかい?」 「いや、体はとても楽だ。そうか俺は、あなたに助けられたのか……」  やっと腑《ふ》に落ちて、落ちてしまうと疑念はむらむらと〈慚愧〉《ざんき》に塗り替えられて、青年はがっくり〈項垂〉《うなだ》れた。渡し守の女と目を合わせていることすらこらえられないほど気恥ずかしい、情けない、みっともない。〈慚愧〉《ざんき》の念で、胸の裡側がちりちりと焦げるよう。 「申し訳……ないです……っ!  誰とも知らない人にとんだ迷惑をかけた」 「なんと詫びたらいいか……その、あんな」 「いや、そのあの……っ」  あんな事までしてもらってと唇の端まで上った台詞を、慌てて奥歯に噛み殺した。最前まで重ねていた肌の温もりと重みは、離れてなお青年の胸に四肢に名残をしっとり置いてある。女の肌の感触は、まだ年若な青年には甘やかに過ぎ、つい恍惚と思い返したくなるけれど、彼には甘ければ甘い分だけ、同時に自分を責めたてた。  なぜ見ず知らずの人間に、そこまでさせてしまったのか、と。  ―――この青年、どうにも堅物に過ぎる感がある。  女の前で情けなくも〈項垂〉《うなだ》れてしまったのだって、青年としては詫びと礼の形のつもりだったが、こうなってみるといよいよ面を上げられない。  かく青年が押し黙っていても、渡し守には彼の胸中などおのが掌を指してみせるように判りやすかったことだろう。青年の耳元や首筋が〈行灯〉《あんどん》の〈仄明〉《ほのあ》かりにも見てとれるくらい朱を帯びて、彼が無言のままなのに関わらず内心を物語って、雄弁な。  ……渡し守は、火の消えかけた銀煙管を唇に挟み、半面の口元へほろ苦い笑みを溜めつ、 「なにをそんな、かしこまりますかねェ」 「まあたしかに、助けた後で『なにを余計な真似してけつかる』とか、居直られるよりは好もしい」 「でも俺は、あなたをどれだけ厄介な目に遭わせたか……」 「……溺れた者を見たならば、そいつが親の仇でもまずは助けてやれ、てぇのが船頭のならいでしてね」  青年の繰り言めいた詫びを〈鷹揚〉《おうよう》に遮《さえぎ》って、渡し守は傍らの煙草盆の〈灰吹〉《はいふ》きへ、煙管の灰の冷えた奴を落としこんだ。刻みの葉を新しく詰めて、火を点じて見せたのがかます(煙管入れ)の蒲《がま》の穂の〈火口〉《ほくち》と火打ち石を遣《つか》って、だ。どう考えても前時代の遺物をこの渡し守、実に慣れた手で用いるのである。その様子に青年の俯《うつむ》けていた眼差しが、物珍しさもあって自然に惹《ひ》きつけられる。 「まあでも、お前さんは見たところ、堅い躾《しつけ》を受けたお人のご様子」 「そんな風に言われたって、はいそうですかと落ち着いてもいられんでしょう」  言いながら吸い口を含み、語尾と一緒に押し出した、紫煙が二人の間にゆるく漂う。その煙管の遣《つか》いようが堂に入っていて、青年は〈銀鱗〉《ぎんりん》をきらめかす若魚のような煙管につい見入った、と思うと、その銀管がすい、と。吸い口を向けて青年に差し出される。 「まずは一服やって、気を落ち着けるがいい」  といきなり回されても、そんな〈煙管煙草〉《きせるたばこ》の呑み方など判らないと、大いに恐縮して断れば、渡し守は面白げに目を細め、また一吸い肺に落とした。 「ほうら、ね。一頃前の男なら、女に煙管を勧《すす》められるってのが、なんの合図なんだか知っていたもんさ」 「なのにお前さんときたら、きょとんと押し返しちまう―――そういう時はね」  言いざまずいと身を乗り出せば、二人の間が一息に縮まり、割れ般若の面の畏《おそろ》しさが〈剣呑〉《けんのん》なくらいに迫ったが、青年がたじろいだのはそのせいだけではない。彼女はたしかに片貌は魔なる面に覆われているけれど、もう片貌は〈婀娜〉《あだ》な年増女の艶なる顔立ち、紅を刷《は》いているとも思えないのに唇は紅く、眸《ひとみ》は〈意気地〉《いくじ》を示して冴えて黒い。  そんなのが、息がかかるくらいにそばにあっては、そんなのが、優美な首筋から胸元までを白々させてすぐそばまですり寄ってきたとあっては。  人並みの男なら、妖しい胸騒ぎに囚われるのが当たり前なのだが、青年はこの時も思わず背を後ろに反らし、彼女と距離を置こうとした―――この〈朴念仁〉《ぼくねんじん》め。  とはいえ彼とても、胸の底に息苦しいような情火の疼《うず》きを、ほんの少しばかりは憶えてはいたのだが。 「こんな風に、煙管を勧められた時にゃ、並みの男ならば、差し出した袂《たもと》を搦《から》めて引き寄せて、胸に抱きすくめちまうもんさ」 「女の方だって、そうされてもいい覚悟なんだから、さ」 「ところがお前さんと来た日には、そんな時でも膝一つ、崩しちゃないじゃァありませんか」 「よっぽど身持ちの堅い家で、しっかり躾《しつけ》られてきたんでしょうな」  あ、これはついなんとなくと、青年は揃えたままの膝を崩そうとしたが、こう女に迫られたままでは上手にいかぬ。ころりと仰向けざまに転がりそうになったのを、慌てて手をつがえてこらえた。渡し守はそんな青年を、さすがにこれ以上いじりはせずに身を引いた、そうして間を開けてみれば彼女の〈淫靡〉《いんび》な風情は失せて、ただ気やすげな優しさが目元に残っている。 「ただそれでも―――」  これまでのどこか面白がっていた風は鳴りを潜め、気の毒げな色が声音に浮かぶ。 「よっぽどお厭だったと見える」 「え……?」  厭だ、という言葉一つだけで、胸中を覗かれでもしたように青年が身構える。 「なにがあったかなんて、無論あたしは存じませんよ」 「それでも、身投げしちまうくらいお厭だったんですかね」 「お前さんは、気ィ失っている間、何度も魘《うな》されてましたっけ―――」 「『厭だ、もうあんな所は厭だ……』って」  どうやら〈譫言〉《うわごと》で口走っていたらしい。意識を失った時の無防備の言葉を他者に聴かれてしまうことくらい、恥ずかしいことと言うのもそうはあるまい。いったんは退いた羞恥の朱が、また青年の首から上を染めていく、唇も、埒《らち》なくそこら中に当たり散らしてやりたくなるところを、懸命に封じこんでぶるぶる震えた。  そうだ。あなたの言う通りだ。厭だったのだ。厭だったから、飛び出したのだ。逃げ出したのだ。  自分はみじめで〈意気地〉《いくじ》のない、逃亡者なのだ、臆病者なのだ。厭だから厭だからと、正面から向き合うこともせずに。              ―――しかし。  青年から、     零れて、        落ちていった、              何かがあった。  ……から逃げたのだ。……から?         自分は    一体              なにから?    『自分は何から逃げ出そうとしたのだろう』    そう思考するまで、頭蓋の中とぐろを巻く脳髄に、答えは当然のように居座っていたのにも関わらず―――  何から逃げ出そうとしていたのか、自分以上に知っている者はなかった筈なのに―――  ―――青年の脳裏からは。  その記憶が、すっぱりと脱落していた。  まるで思い出そうとしたのを〈契機〉《きっかけ》にしたかのように、自分の中に宿っていた記憶が掌に汲《く》んでいた水が零《こぼ》れるにも似て、失われていったのがまさにこの瞬間だったのだ。  よく物事の記憶というのは、なにか一つを思い出したのを足がかりにして、連鎖的に引きだされるものだ。  この時の青年の中で、それとは真逆の現象が生じていた。  他の心当たりの記憶から、自分が何から逃げ出そうとしていたのか、想起せしめんとしたところ、最初の忘却したのを起点として、次々と彼の記憶が―――解け、散り散りになり、どれだけ意識の糸を手繰ろうとしても繋がらず―――失われていく、無くなっていく、消えていく。ただ『厭で厭で逃げ出したかったのだ』という情動のみを残して。  奇妙なのは、青年は自分内部のその現象を、ある種の平静さをもって見守っていたことである。  人間の自己というのは、過去からの記憶の〈堆積〉《たいせき》によって成り立っており、それが失われると言うことはある種の死にも等しい。だと言うのに青年は、不思議なほど凪《な》いだ心でもって、自分の記憶が失われていることを実感していたのだ。  もっと動揺すべきなのかも知れない。〈狼狽〉《うろた》えて、頭をかきむしって『記憶よ戻れ、還れ』と苦悶しつつのたうち回るくらいで適当なのかも知れない。なのに青年が意識していたのは、渡し守の〈回生〉《きつけ》薬の効き目だという、身の裡に満ちた活力とも酩酊感ともつかぬその感覚ばかり。  極度のアルコールの酔いは、記憶を断絶させるという。しかしそればかりでは、この記憶の脱落は説明がつかない。また、こうして記憶を失ってなお、平然としていられる自分自身のことだって奇妙この上ない。  だがそれら全てを、杜《もり》の奥から漏れ聞こえてくる祭の音のように、青年はどこか遠く感じていた。さながら、渡し守の飲み物の酩酊感に麻酔されたかのように。  そうやって自分の中の異常を見過ごしにしてなお残るのは、やはり『厭で、厭で、逃げ出したかったのだ』という切なる願いとそして、この渡し守の女に下らない迷惑をかけてしまったの〈慚愧〉《ざんき》の念なので、この青年はどうにも堅物で〈潔癖〉《けっぺき》に出来上がっていると見える。若い男にはむしろ得となる、いけ〈図々〉《ずうずう》しさという資質に欠けてしまっている。  記憶が失われた事による混乱と、〈慚愧〉《ざんき》の念をどうにか整理しようと貝に押し黙る青年の膝元へ、渡し守が膝を寄せた。先程のように、男の欲をそそるようなではなく、年上の女の親身が、そっと覗きこむ仕草から漂う。 「どうなさいましたね、黙《だんま》りを決めこんじまって」 「どうにも、妙だ……思い出せない」 「と、〈仰有〉《おっしゃ》いますと?」 「自分が一体何をそんなに厭だったのか、何から逃げ出そうとしていたのか、それが思い出せない」 「記憶喪失って奴か、これは」 「はあ……あああの、おつむの病気でござんすね?」  いささか〈不躾〉《ぶしつけ》な言葉であるが、それで渡し守の気遣う心が減ずるわけでなく、青年は素直に頷いた。だいたい、自分で言い出した事に憤《いきどお》ったところで詮《せん》なきこと。 「どうにもそうらしい。水に落ちたときに頭でも打ったか……違うな、どこにも怪我はない」  と瘤《こぶ》でもあるかと探しながら、 「それとも脳に空気が回らなくって、頭の中のどこかが壊れたか……」  そう自己診断を試みつつも首を捻る。記憶喪失も重度のものになると言葉さえも失ってしまうと聞く。ところが自分は、今のような台詞を吐けるくらいには知能も知識も残している。失われているのは、自分を物語る過去の記憶だけのようだ。 「そうは見えませんが。少なくともお前さんの喋りぶりは綺麗だ。筋も通っていなさる」 「でも不思議なのは、それでいて俺は、あまり〈狼狽〉《うろた》えていないようなんです……もちろんあなたにご迷惑をかけた、それは申し訳ないと思ってるが」 「だからそいつは、まず脇へ置きねぇ、ってばさ」 「それと、残っているのは逃げ出したいって気持ちばかりだ―――」  もしや自分が記憶をなくしたのは、今までいたところなど思い出したくもないと、無意識にそう強く強く願ったからなのかと、さえ。  そこまで語って、青年の言葉が途切れた。それ以上語る言葉を持たなかったのである。空っぽだっのである。  故意か過失かは知らず、ともあれ自分は河にはまって死にかけた、さて、それで?  それで……どうすればいいのだろう、これから自分はどこに行けばいい、どこに戻ればいい……戻る? あれほど厭《いと》うていたどこやらへか? だいたい自分は、帰る道筋さえ見失っているではないか。知らず視線は宙を〈彷徨〉《さまよ》い、かぐらい天井を眺めて、ぼんやり。薄暗がりになずんだ目であっても、天板の木目がなにやら地図のようにも見える。しかし地図のように見えたとして、それは自分の地図ではない。ありていに言えば青年は、この時途方に暮れていたのである。会話がどこか白けた谷間に落ちこんだ、その接ぎ穂を引き取った渡し守の声音が、青年の胸に柔らかい湯のように暖かくしみこんできた。 「そんなら、そんなにお厭なら、あたしが連れて行って差し上げましょうか?」  渡し守の言葉に導かれ、空しく宙を仰いでいた視線がすとんと彼女の顔に落ち着く。不思議だった。人を脅かすような割れ面を着けているというのに、畏怖を感じさせない。 「今、なんて……?」 「逃げたいというなら、案内して差し上げると、そう言っているんですよ」 「おつむのほうが、これまでのことを無くしちまったというのなら、その療養にも良い〈場処〉《ばしょ》を存じておりやす」 「佳い『旅籠』がある」 「そこまで、案内して差し上げやしょう。  ……いかがです?」  この奇妙な女が、どうしてここまで親切なのか判らないが、青年にはそれが抗いがたい誘惑のように響く。だいたいまだまだ頭も記憶もはっきりしておらず、自分の判断力も怪しい、けれど、青年はすとんと頷いてしまう。  どうせ行くあてもなく、帰る途もなく、三界に置き所もないこの身の上だ、ままよと、渡し守の申し出を受け入れたのが、青年には賽《さい》を投げ出すようにも思われてさて、この目は一体いずれと出ることだろう。  神仏ならぬ身の上とて知りうる由もなく、それでも青年は、 「はい―――お願いします」  と頷いた。頷いてしまってから、今さらながらあなたは何者なのか、どうしてそんなことまでしてくれるのかと女に問う青年へ、 「渡し守ですからねえ、あたしは。  ご所望とあれば、お渡しするのが仕事なんだもの」  そうか、そういうものかと、あまり深く考えることもできずに納得してしまう青年である。まだ酔いがしつこく脳髄を荒らしているのかも知れない。 「まあ、着くまでもう一眠りするがいいでしょう。  その前に、ほら、これをお呑みな、ね」  腰帯に下げた〈瓢箪〉《ふすべ》は、見事なまでの艶を帯びていて、手渡されたそれは持ちごたえがして、中でちゃぷり、重たげに鳴る。 「いや、その、酒は当分けっこうで……」 「違いますわい。お前さんが伸びている間にも呑ませてさしあげた、あれなんで」  そういうことならと、〈瓢箪〉《ふすべ》の吸い口を渡し守と共にすることに些《いささ》かの疚《やま》しさを残しつつ、一口含んで飲み下せば、ああ、まさにこれだった、と青年は嘆息した。  あの暗く冷たい眠りの中、渡し守の肌と同じくらい自分の体に命の火を呼び覚ましてくれた〈玄妙〉《げんみょう》な味わいが、今一度青年の舌の上に香りたつ。  ……回復したといっても、溺死しかけた体はやはり消耗していたようで、不思議の飲み物の薬効か、青年は程なくして眠りの足音をすぐかたえに聞いた。渡し守に促《うなが》されるままに布団に潜りこもうとして、そういえば自分がどうしてこんな着物を着ているのだと、怪訝に思ったのだが、そんなのは問わずもがな。  この女が着せてくれたに決まっている。その意味に思い当たった青年が、今さらながらにぎょっと半身を起こしかけた、その口元に押し当てられた女の指がひんやりしたのは、顔が熱くなっていたから。埒《らち》もない羞恥で。 「お召し物のことなら、気にしなさるな。雫《しずく》を搾《しぼ》って外に干してありますのさ」 「そりゃあ〈夜露〉《よつゆ》がちっとは浸みようが、今さらたいして変わりもない」 「〈明日〉《あした》の陽を浴びれば、すぐにも乾く」 「それまでお前さんは、その床で養生するんだよ。あたしの〈煎餅布団〉《せんべいぶとん》ですみませんがね」  糸車から絹糸を巻き取るように滑らかな、女の言葉に青年の意識が恥も〈慚愧〉《ざんき》も一時忘れて遠ざかる。 「空気が籠《こ》もるようなら、障子をお開けしててもようがすが……いや、やめておこう」 「とりあえずお前さん、この夜は、もう水気を浴びないほうがいい」  眠りに落ちる寸前で、渡し守がかく言い残して胴の間をそっと出た気配を聴いた。やがて障子越しに伝わってきたのは、木が擦《こす》れ合い軋《きし》む響き、渡し守が操る櫂の音であろう。青年はどこか懐かしい櫂の音を聞きながら、また眠りに落ちていく、遡《さかのぼ》っているのか下っているのか、川の流れを運ばれていく―――  ………………。  …………。  ……。 「……お前さん、そろそろ起きなさいな、ね」  ……声をかけられるより先に、瞼に落ちる光で体は目覚めかかっていたように思われる。半睡半覚の状態で青年がまず味わったのは、一種〈茫漠〉《ぼうばく》とした頼りなさ、だった。  布団にこもった、この嗅ぎ慣れぬ女の匂いは渡し守だという彼女の残り香だろう。奇怪異様な打見と裏腹に、心遣いも細やかに、世話好きらしい不思議の女。自分の生命の恩人。  かつこの、潜りこんで惰眠を貪っている布団が、巨人の掌に乗せられたかに右へとゆらり、ゆらりと左へ揺らいでいるのは、この一間が小舟に設《しつら》えられた胴の間であるからだと聞いた。河を行く渡し船の。  これらの経験が、新奇なものであるのかあるいは誰もが出会うようなものなのか、あいにく青年には判別がつかぬ。判断の基準となるべき過去の記憶が、彼の脳髄から抜け落ちている故だ。 (いや……それでもこれは、普通なら想像もしないような事態じゃないか……?)  青年はぼんやりとかく考える。  記憶喪失という〈曖昧模糊〉《あいまいもこ》たる自分、奇妙な女の操る時代遅れの小舟に運ばれている状況、どうにも現実味に乏しく、夢がいまだ続いているかのようだ。  河に嵌《はま》って生命を失いかけたのだって、こうしてぬくぬくとした布団の居心地の良さにしがみついていると、それこそ夢の中の出来事のように思えてくる。  いましばらく、まどろみを満喫しようと布団を目までひき被ろうとした鼻先に、ひやり、ときた。 「起きなっていうのに……もうじきですよ」  もぞもぞと、布団の〈蓑虫〉《みのむし》じみてしゃんとしようとせぬ青年に焦れたのか、渡し守がたっぷり水を含ませた〈手巾〉《ハンケチ》を、青年の鼻先に軽く押し当てたによって、ぽたり、一雫が落ちる。  滴り落ちた冷たさに、曖昧としていた意識がたちまち体の輪郭なりに定まって、それで青年の第二の本能とも言うべき堅苦しい貞節が蘇った。着せられているのは自分の衣装ではなく、布団に染みついているのも嗅ぎ慣れた己の体臭ではなく女の匂いなのだと改めて認識したとあっては、怠惰に眠気を弄んでいるどころではない。青年を叩き起こしたのは実に水滴の冷たさではなく、ほとんど脅迫的なまでに高まった申し訳なさ、罪悪感、気後れなのだった。  ―――女の持ち物を着て、女の寝床で寝こけている―――それだけの事実が青年には、空恐ろしいまでに、重い。  掛け布団を弾いて半身が跳ね上がった青年の様はばね仕掛けの人形と異ならず、そんな彼を『渡し守』を名乗った女が眺めている。片袖の袂《たもと》で口元を押さえているから、笑んでいるのかどうかは判らないにしても、目元に青年の様子を興がる風が浮いていた。 「なんです、コメツキムシみたいに、ぎっくり飛び起きて」 「さだめし、よほどぐっつり眠りこんでおられたとみえる。も少し寝かせておいてあげてもよかったが―――」 「じきに着きます。そろそろ目を覚ましておかれるがよろしい」  障子戸越しで光は和らげられ、胴の間の中はどこか緩んだ風情が垂れこめている。けれど片膝立ちの渡し守は変わらず恐ろしげな割れ般若の面を着け、青年は昨夜の初見ほどではないにしろ、動揺を禁じえない。平然と呑みこむには彼女の異貌は角が尖りすぎている。だから青年が、渡し守の言葉の意味を〈咀嚼〉《そしゃく》するまでにはしばしの間があった。 (着くって、どこへ……?)  意味を計りかねて小首を傾げた青年に、渡し守は辛抱強く言い聞かせる。 「……〈昨ン夜〉《ゆんべ》約束したじゃあありませんかね」 「お前さんを、『旅籠』まで案内して差し上げると、そう約束しましたよ、あたしは」  そうだったと、昨夜の会話を思い出して青年は、右手の障子戸へ手を伸ばした。まず自分が浮かんでいるのはどんな河なのか、岸の情景はどんな様子なのか、そしてじきに着くという、その『旅籠』とやらが見えていないかと期待したのである。  繰り開けばさらさらと、陽焼けして黄ばんだ障子戸は思いのほか軽く滑った。身を乗り出し打ち眺めて、青年は。 「―――ふは?」  いかにも間抜けた、軽く抜けた鼻息。を、青年は我がことながら遠く聴いていた。間抜けていようが口元の力が抜けて半開きなのがみっともなかろうが知ったことかと、青年はただただ風景に呑みこまれる。  たとえば粗末な小屋と思いこんで開けた扉の先が巨人の国であったかのような、さもなくばせいぜい一またぎの幅と踏み越えた溝が、実は底無しの深淵であった時のような、衝撃は不意打ちであり、青年は〈瞠目〉《どうもく》した。  障子戸の向こう、小舟の〈舷側〉《ふなばた》を越えれば水、河に浮いてるのなら水など当たり前だとしたり顔に頷く輩はただちに水面に頭をざんぶり漬けて冷やすがいい。  水も水、視界が展《ひら》ける限りの水、世界を天地と呼び慣わすがここでは地はなく水あるのみ。これほど広大な水の域にあってはたとえこの小舟が鋼《くろがね》の軍艦であったとしても、笹の葉で作ったままごとの舟のように、頼りなさに変わりない。  青年は一瞬川から海に流れ出したのかと考えたのだが、にしては鼻に潮の香はなく、広大な水面からただ涼気ばかりを吸いこんだ。 「これは……ここは、なんなんだ……」 「なにッて。河でさァ」 「そう言われても、俺はこんな広い河なんて見たこともない」 「なにごとにも『初めて』ってのはありますわ。今まで見た事なくっても、河は河です」 「ずっとここで渡しをやってるあたしが言うんだ。嘘はない」  ずっきり言いきられては頷くしかなく、青年は目を細め川面の果てを見透かそうとする。それで水平線でも見えたならいっそ清々しく無限の水面と納得できるものを、果ては霞《かす》みに靄《もや》って曖昧と、天と水の境が溶けこんでいるのが、もどかしいやら落ち着かないやら。  空は雲もないのに陽が見えず、高いところを薄い〈紗幕〉《しゃまく》で蓋をしたようなお日和の、こんなどっちつかずの空模様を高曇り、と言う。水面を乱すような風もなく、穏やか、というより停滞の〈気韻〉《きいん》が緩みきって、広がっている。川面も空を映し、とろりと沈んだ碧色。これだけ広いと流れているのか止水なのかも判然としない。 「それにしても、なんてだだっ広い……」  果たして自分が落ちこんだのは、ここまで広大な河であったろうかと記憶を浚えど明らかにはならない。川面を眺めるまでは、なんとなく岸の風景などを期待していた青年だが、全くもって裏切られた。これでは『じきに着く』と告げられても、全く実感が湧かない。旅籠を連想させるような事物などなにも見えやしないではないか。  そう渡し守に訴えたところ――― 「ああ、逆です、逆。そっちじゃありませんってば」  胴の間の中で、渡し守は袂をば軽く捌きながら、青年が開けた側と反対の、左の障子戸を開いて見せた。たん、と障子の音が小気味よい。小気味よかったのだが、青年はまたしても―――というか今度こそ、驚愕という言葉の本当の意味を知ったのである。 「え……? う……あ!?」  渡し守の所作につりこまれるように、膝の向きを変えて眺め渡して、そこで青年の腰がぺたんと擦り切れ気味の畳に落ちた。  ……この後青年は、景色に圧倒されるという経験を幾度となく味わうことになるのだが、それでもこの最初にして最大の衝撃を上回るものはなかったのである。  ―――『それ』は、ただ構造物の集合というのを通り越し、〈顕現〉《けんげん》した一種の混沌ですらあった。  並はずれて鋭い鷹の目が、あるいは動くモノに聡い猫族の目が、一つの景色の全貌をいかにして掴むのか、さほど威力のない視覚しか持たない人間には科学的検証は為しえても実際に知りうることはない。言えるのは、どれだけ視覚的鍛錬を経たとしても人間には、あまりに巨大で濃密な場面の全体を、一度に把握するのは不可能だということだ。  事実青年ははじめ、重なり合い、密集し、かつ連なり視界の左右に広がりゆくそれを、色彩と形の集合としか認識できず、それ以上でも以下でもなかった。川面の果てを閉ざす靄よりは密度は濃いものの、青年にとっては細部を判別できないという点においては同レヴェルの天然自然の情景であったのだ。人工の建築とは認識しえず、岩壁かさもなくば川面に迫る山林かと思いこんでいたのであるが。 『それ』は、巌《いわお》と言うには雑然としすぎてあり、森と言うにも人の手を感じさせすぎる。自然が織りなす〈模様〉《パターン》と見えたものの一部分へ、おずおずと焦点を当てた時に初めてそれが建物の外壁だと判別が着いたによって青年の脳内で、景色が意味を持ち始める。  あのくすんだ色合いは―――木造、板張りの壁だ。ところどころ鮮やかなのは、〈紅殻〉《べんがら》を施した〈欄干〉《らんかん》か。するとあちらは〈海鼠壁〉《なまこかべ》の渡り廊下、そしてこっちは格子を嵌め込んだ窓、〈漆喰〉《しっくい》の白壁、日焼けした〈煉瓦〉《れんが》、積み上げられた石垣は緑に苔むして―――漠然としていた色合いと形状が、ほんの一点を把握したことにより次々と意味を持ち始め、舞台を丸く狭く区切っていたスポットライトが拡大されて全容を明らかにしていくように、景色が細部から周縁へと拡がって、拡がりゆき、また拡がり、そして青年は、途中で〈目眩〉《めまい》に襲われ知らず瞼を押さえたことである。蟻の目で〈伽藍〉《がらん》の壁面を埋めつくす細密画に向かいあうようなものだ。全容が掴めない。 「どうしましたね、お前さん。うずくまっちまって。今さら舟に酔いでもしましたかい」  渡し守はいかにもこの圧倒的な景色に馴染んだ風に、心やすげに青年へ声をかけてきたものだが、それが彼にとって余計な傷となる仇となる。眼前の風景だけでも飲み下すには巨大で密で重すぎるのに、そんなことを言われたせいで小舟の揺れまでが改めて三半規管に響いてきて、青年はようよう言葉を押し出した、呻くように、くぐもっている。 「やめてくれ、変なことを言うのは。ただでさえ目が痛くなってきてるってのに」  小舟がゆらゆらゆっくり進んでいくにつれ、巻物を広げるように展開されていく情景の濃度ときたら、うっかり目で追いかけるだけで慢性の眼精疲労を患いそう。 「悪いけど、さっきのハンカチを貸して欲しい……」  起きがけに自分の鼻筋を冷やした、例の〈手巾〉《ハンケチ》を借り受け、目頭を冷やす。二度・三度と深呼吸して気を整え、青年は〈臍下丹田〉《せいかたんでん》に力を落として今一度景色に向かいあう。ただ風景を眺めるに随分の労力を必要としたが、それでようやく彼は、芯を据えてこの異様の建築物と対峙できた。しかしやはり図式としては、砂漠の直中で人類以前の種族がこしらえた超古代都市を偶然見出して魂消える心地の遭難者か、雲中に浮かぶ城塞都市を見出した旅行者に等しい。  舷の片側、茫漠と続く川面を眺めた時は、その広大さに頼りなささえ覚えたものの、それは一種の視覚的解放感を伴っていた。しかしこちら、この異様混沌の建築物の集合体から押し寄せてくるのは、一種偏執的なまでの空間の密度、圧力だ。 「なにをぱちくりなさっておいでだ。幻でも見たような顔で」 「マボロシっていうほうがまだ納得がいくと思う、これは……こんな、でかい、途方もない……出鱈目な」 「さようで? しかしあすこが、あたしがご案内さしあげようっていう『旅籠』なんですがね」 「え」  渡し守の言葉を辿れば、大河に聳《そび》えるようなその建築物こそ『旅籠』であることは容易に知れるのだが、青年が漠然と思い描いていた『旅の宿』、『旅荘』とはあまりにイメージの隔絶が大きく、こう眼前にしていても実感に乏しい。 「あなたが、俺を、あそこに?」 「さいで。ゆっくり養生するには格好のお宿ですよ」 「はあ……」  気の利いた受けというのが全く浮かばず、青年は渡し守の鬼面の横顔と『旅籠』を交互に眺め、この建築物の中で過ごしている自分を想像しようとしたが、それも無駄。 「それはどうも……ありがたく思います」  そうするりと口にして、青年自身意外だったのは、自分があの中に踏みこんでいくのを受け入れつつある事だ。異様異体の建築物で、得体など知れたものではなく、だというのに青年は心の水底から不思議の感慨が泡立つのを覚えている。  それは多分、不安と言っていいだろう。けれど不安は期待と表裏を為しており、未知なるものへの憧れもどこかに潜ませて、青年は改めて『旅籠』をつくづくと見上げる。 (俺はこれから、あそこに行くのか―――)  たとえ記憶を失っているにしても、たとえ衣装以外は無一物だとしても、それで怖じ気づいて渡し守に引き返すよう懇願するなど、はなから考えもしていない自分に、青年は新鮮なものさえ覚えた。  ―――まだ彼も、若さという不安定にしてしなやかな年代にあるということ――― 「どういたしまして。  ……さ、繰り返すがもうじきだ」 「着替えておくといいですよ。お前さんの衣装も、眠っている間にあらかた乾いている」  屋根にでも露天干しにしていたか、渡し守は胴の間の外に出てごそごそやってから、障子越しに青年の衣服を手渡し外から閉めた。この空模様では糊《のり》を利かせたみたいにぱりっと乾いたとまではいかなかったけれど、それでも着るに差し支えはなく、青年は障子戸に映る渡し守の影に一つ頭を下げ、着替え直す。天井の低さに首をすくめながら〈襯衣〉《シャツ》のボタンを留めていると、唐突に一つの考えが頭を過ぎった。少々空恐ろしい推測である。『旅籠』のことだ。  あの建築物は、たくさんの建物の集合というには余りに密に重なり合いすぎている。外壁におよそ切れ間というものが見当たらない。 「その……もしかしてあの『旅籠』ってのは、一つなのか?  ただ一個の『旅籠』なんですか?」  つい外の渡し守に投げかけた問いはいささか要領を得なかったものの、着物の色を訊ねられたのと同じほど、気やすい答えがあった。 「ええそうですとも。  建て増しに建て増しを重ねた挙げ句、あんなにごちゃごちゃしてますがね」 「中はどこもかしこも、みィんな繋がってますわ」 「――――――」  何度目かの絶句をまた繰り返し、やれやれと諦めたように頭を打ち振り、拍子に低さを忘れた天井に頭をぶつけて顔をしかめる、その唇に浮かんだ笑みの、ほろ苦い。  そんな青年を乗せ、小舟は渡し守を水先案内に進んでいく、水脈に乗っているのか、彼女の櫂捌きなくとも『旅籠』に滑りこんでいくのが吸い寄せられるように、さもなくば、あらかじめ定められていたかの如くに―――  青年は胴の間から出て〈舳先〉《へさき》の横木に腰を据えていたのだが、『旅籠』が眼前に迫り来るにつれ、背筋がむずむずするような〈痛痒感〉《つうようかん》に襲われていた。感覚としては、夢の中で崖から足を踏み外し、止める術もなく一直線に地表に落下していくあの恐怖に近い。  渡し守としては慣れた手順をこなしているだけなのだろうが、青年は氷山という名の破滅を前にしているのに舵も切らずに突進していく豪華客船の船客の心持ちである。艫《とも》で櫂取る渡し守へ、ぶつかる危ない船を返せと詰め寄ろうと、据えたばかりの腰をつい浮かし加減にしても時既に遅し。  小舟は『旅籠』の外壁に激突し、あとはばらばらに砕けて自分は川面に投げ出されるだけだ、そう覚悟してきつく目を閉じ奥歯を食いしばった青年の頬を、風が撫でて涼しい。覚悟していた衝撃もなにもなく、身を堅くして待ちかまえた激突の瞬間はいっかな訪れず、恐る恐る目を開ければ。  いまだ〈恐慌〉《きょうこう》を引きずった青年には、小舟の〈舷側〉《ふなばた》を擦らんばかりの僅《わず》かな〈狭隘〉《きょうあい》と見えたが、実際にはこの小舟ならもう一・二艘は並んで通れた水路であったろう。小舟は青年の覚悟などどこ吹く風と、『旅籠』の外壁部の隙間を抜け、内へと入りこんでいたのである。青年の目には切れ間無く続くかに見えた旅籠の周縁にも、船を導き入れる開口部は当然区切られており、なるほどさすがは渡し守、字で書けば渡すものを守るものであり、櫂捌きに間違いはなく小舟を進めただけのこと。  いったん狭い開口部を潜り抜けてしまえば後は水脈に乗って速い、速い、両脇へのしかからんばかりの内壁が視界の中で後へ後へと流れていく。もし蜃気楼の中に突入したならばこうもあろうかの、それは浮遊感にも似た感覚だった。  我知らず胸を撫で下ろし、安堵の吐息に半立ちの腰がすとんと横木に落ちる。そうやって心が定まると、構造物の狭間を滑るように運ばれていくのはなかなかに爽快な体験で、〈舳先〉《へさき》から〈飛沫〉《しぶ》いた水滴が頬にかかるのも味わいとなる。ふと来し方を振り返れば、翳《かげ》った水面に白く泡立つ小舟の軌跡とそして、水路の開口部なりに切り取られた大河の情景が、望遠鏡を逆さに覗いたようで、ほんの数瞬前までその川面に揺られていたというのに、遠い、そう、ひどく遠かったのだ。 (これから俺が案内されるのは、どんな〈場処〉《ばしょ》なんだ……)  不安と期待がない交ぜになった独言を胸の中で呟いてから前に向き直った時にはもう、小舟は『旅籠』の中に入りこんでいた。 「……そろそろ降りる準備をして下さいよ」 「っても、荷物も無かったっけか。こいつぁ失敬失敬。ともかく、今から船着きに寄せますからね」  櫂を大きく遣い、小舟をば水脈から逸らして、船足を緩めつ渡し守は呼びかけたが、青年の視線がしばし定まらなかったのが、またしても、というやつで。青年にしてみれば、船を『旅籠』に横付けすると言って、せいぜいこの細長の水路が終着点を迎え、どん詰まりで堅い床を踏みしめるというイメージしか持たなかった。  だというのにまたしても―――広々と展《ひら》けた空間だ、大広間だ、大声で呼ばわれば谺《こだま》さえ返ってきそうな、外から内に入ったはずが屋内という印象には程遠い。 「え……? 船着き場って……どれだ?」  むべなるかなむべなるかな、彼の声音が些か白っ茶けていたとしてもむべなるかなの、『旅籠』の船着き場は、よくあるように川岸から板組の桟橋が一本突き出してそれきりの殺風景なのではなかったからだ。どちらかといえば巨大なドームの内とか、くたびれた船を憩わせる船渠というのに近い。それもこんな小舟どころか、外洋を巡る大貨物船にふさわしいようなだ。 「どれって。異な事を言いなさる。ここが全部船着き場でさ」 「はぁ……」  人間、あんまりにも広い空間にあっては、かえって身の置きどころをなくすもの。殻を無くしたヤドカリとおんなじで、自分の居る場所を区切ってくれるものがない事にはどうにも落ち着かぬ。青年は胴の間の狭苦しさが恋しくなり、引っこんでしまおうかと思案した、けれどもそれも束の間のこと。  大河の上から『旅籠』を眺めたときと同じ式で目の焦点を合わせてみると、この無駄なくらいに広い船着き場はこれでなかなか生活臭というか、人間味がちらほら見受けられたのだった。人の営みというのはどうしたってどこかしら〈猥雑〉《わいざつ》で、澄みきった星空を〈審美〉《しんび》する眼で眺めてしまうと鼻につく。  たとえばほら、あちらの、と青年が目を凝らした先、水面に沈みこんでいく階《きざはし》のたもとでは雑巾を浸し洗いにしている女がいて、それからと視線を返せば、船着き場を取り巻く部屋部屋の窓に染みだらけの布団を干している女があり、かと思うと通廊の片隅でお喋りに興じているのもあり―――皆が立ち働いている中でサボり屋め。  こうして活写してみせるとむきつけでむさ苦しげな有り様だが、大河と『旅籠』とで巨人の視点ばかりを強いられてきた青年の心に、ようやく人間大の営みを思い出させ、人心地を取り戻させたのだった。そしてそれは、周りがどこもかしこも木造の、ところどころに漆喰の壁や石組みも見受けられたにせよ、手ずれした木で建てられていたせいもあるだろう。無機物である鉄骨やコンクリートの建物が本質的に有している、生物とは相容れない冷たさとは対極に位置している。  青年は今初めて『旅籠』の空気を吸いこみ、いずれここで長い時間を過ごすことになるのだが、時に忘れ去るにせよ時に改めて意識し直すにせよ、常に感じ続けるであろう感慨で肺を深く満たした。  ―――いわくそれは―――  ―――旅愁―――とか、  ―――重ねて言葉にするなら、  ―――郷愁―――とも。  ―――そのように名づけられる、古めかしく物哀しく懐かしい響きの言の葉で、心の水面に波紋を置き重ねていく、そんな感慨。  木枠の窓、板張りの壁、褪《あ》せた風合いの通廊に渡り廊下、張り巡らされた欄干がいまだ紅殻の名残り香を留め、柱は黒ずんでなお堅牢な、横木の虫喰い跡さえ風情に見ゆる。  船上でただただ目を見張る青年の全身へ、過去からの気配がひたひたと手を伸ばし、柔らかくくるみこんでいき、彼は心が去りにし日々の中へと連れ去られていくかの酩酊感に囚われ―――ちゃぷり、と舷側に魚の跳ねる音で我に返った。古い時代の残響の中から。  覚めながら視る夢とはこういうものかと瞼をしばたかせたが、軽い見当識の喪失感が眼の奥に残った。囁いた〈独言〉《ひとりごと》も、虚脱したかに頼りない。 「ここは、一体……『何時』なんだ……」 「ま、見たとおり古くっさい旅籠ですがね、心配ない、雨露くらいはしのげるから」  独りごちたつもりが渡し守に耳ざとく聞き咎《とが》められたようで、青年は慌てて取《と》り繕《つくろ》う。 「いや、なんだ、こういうのはただ古ぼけて老朽化してるっていうんじゃなく、由緒ありそうって言うかなんて言うか」 「そうかしこまって取りつくろわんでもよろしい」 「……とまれ、由緒なんて小洒落れたもんはどうだか知らんが、養生するに不便はない」 「温泉だって湧いてますから、中に通されたら、さっそく湯を遣うのも良いでしょう」 「河の水をさんざ潜った後じゃあ、ぬくい湯はまた格別ってもんサ……よっと」  如才なく口を使うだけでなく、渡し守の手は櫂をぐっと押しこんだかと思うと、小舟は一揺れ、収まった時には桟橋の一つに横着きになっている。〈舫綱〉《もやいづな》を杭に投げかけ、さぁ、と青年を促した。 「あ、どうも」  船縁を乗り越える際小舟は僅《わず》かに傾いだが、危なげはなく青年は〈足下〉《あしもと》に確かな板の感触を踏みしめていた。陸に上がった舟幽霊でもあるまいに、そうしてみると揺るぎない床に軽い違和感さえ覚えてしまうくらい、体の方はゆらゆら小舟に慣れきってしまっていたらしい。  青年が降り立ったのを認めたか、小鳥回しに働いていた女の一人が、小走りでこちら桟橋を目指してくる。それで彼は気づいたのだが、あちこちに見えかつ隠れしている女たちは、いずれも同じ衣装で揃えていた。地味な色合いのお仕着せの。 「あの人達は……?」 「ああ、あれはこのお宿のお女中連ですな」 「お前さんが、新しいお客が来たてェんで、ほら、お迎えにござったわ」 『旅籠』の女達の衣装は、どちらかと言えば古い洋画に出てきそうな『メイド』のそれに近かったのに、渡し守の口から聞くとたちまち『宿の女中』だの『お手伝いさん』だのと地に足着いた印象に青年の中で固定されてしまった。  こちゃこちゃと巡らされた通廊伝いに駆け寄ってくるお手伝いさんを見守る青年へ、 「さ、お行きなさい。あたしが連れてきたんだから、大丈夫、なにも心配なく迎えてもらえるはずでござんすよ」  かく言い置いて渡し守は〈舫綱〉《もやいづな》を解き、櫂を取り上げた。てっきり逗留の手続きあれこれまで付き合ってくれるものと思いこんでいた青年にとっては唐突な別れに思え、引き留めようと差しのべた手、途中で引き戻される。考えてみれば彼女にはもう随分と世話になったし、なりすぎた。これ以上は善意にだだ甘えとなると、青年は自戒する。とはいえ、こんなところで放り出されてもと困惑する気持ちがあったのも事実で、それがいくらか顔に漏れてしまったのだろうか。  割れ般若の面から覗いた片貌に、あのいたづらな、眼を細めた猫のような笑みを溜め、青年へ懐こく頷きかけたのだった。 「なにを今生の別れ見たような顔だね。あたしはここの渡し守だ」 「顔を合わせる機会などいくらでもありまさァ……そン時にゃあ、もちっと色っぽい話の一つもできるくらい、きっとよくなっていますよ」 「え、あ……色っぽいってな、なんなんですよっ?」  どうやらその手の振りにはとことん不得手と見えて、たちまち狼狽する青年に見守るように笑みかけた、そこで彼女は、ふと真顔を取り戻す。 「そうそう、こいつを預けておきます。  宿の人と話す時ァ、まず最初にこれをお見せなさいよ」  衣の合わせに無造作に手を差し入れれば〈身頃〉《みごろ》が乱れて乳房の白く円《まろ》やかなるが、墨染めの黒の合間に〈殊更〉《ことさら》映えて、青年は否応なしに視線を奪われた。のも束の間、女人の素肌を〈窃視〉《ぬすみみ》する事への強烈な後ろめたさで必死に眼を逸らした、視界の隅で。  小ぶりの月が、闇の雲間を分けて現れたかと思ったほどだった。  銀無垢らしい下げ鎖の緒を引いて、渡し守が取り出したのは、これも〈銀側〉《ぎんがわ》の蓋付きの懐中時計だった。銀地は使いこまれ良く磨きこまれ、自《おの》ずからかそけき光を放っているかに見えたという。  青年が銀の懐中時計の鮮やかなる登場を呆然と見守るうちにも、渡し守は〈発条〉《ゼンマイ》を巻き上げ直して彼に握らせた、肌の温もりを残した重みで、しっくりと掌中に収まる。  蓋に施された唐草模様の浮かし彫りは、それだけでも精緻巧妙な工芸品であり、そんな物を手渡されても青年は戸惑うばかりなる。なのに渡し守は、もう用を達したとて踵を返してしまう。 「そんじゃあ、ごゆっくり。  ―――飽きるまで、気のすむまで逗留なされるといい―――」  毒気を抜かれた体で、掌中の銀細工を見つめるばかりの青年がはと心づいた時にはもう、渡し守の小舟は桟橋を離れ漂い出たところ。  櫂を操る後ろ姿も美しく、墨染めの僧衣という潤いとか水気に欠けるなりなのに、女の腰はなよやかでふくよかで、青年は間違いなく見惚れていたのだ。が、美しい女を美しいと愛でる心さえ彼には邪念の類として排すべきものらしく、妄想を振り払うように強く首を打ち払う、拍子に思い当たった。大切なことを忘れている、大音声で呼ばわる、後ろ姿の渡し守へ。 「あ、そうだ! おおい、あなた!」 「この船の、渡し賃とか代銭とかそういったのは、どうすればいい―――!?」  お銭《あし》だの〈鳥目〉《ちょうもく》だのと、あの不思議な女との別れに〈点睛〉《てんせい》するにはいかにも不粋な言問いだ、などとは考えもしないのがこの青年なのである。自分が文無しであることなど意識になく、呼びかけてから狼狽したとしても。  対して渡し守は淡白なものだった。振り返りもせず言葉にもせなんだが、耳の横まで持ち上げた片手をひらひらさせたのがいかにも〈鷹揚〉《おうよう》の、    そんな事、今は気に病まずともいい―――    仕草で示して小舟を漕いでいく、〈飄々〉《ひょうひょう》と、その異様な面体にいっそふさわしいほど〈飄々〉《ひょうひょう》と〈遠離〉《とおざか》っていき、やがて細い水路にまぎれて見えなくなる。  後には桟橋に取り残されたかたちの青年一人、彼はこの段になってあの渡し守に名乗りもしていなかった非礼にようやく気がついたのだが、追いかけようにも水の隔たりを渡れる器用な足でない。〈忸怩〉《じくじ》たる思いで途方に暮れて汀《みぎわ》に立ちつくす、背後から橋板を踏む気配で、呼びかけられた。 「ようこそ、いらっしゃいませ」  弾かれたように振り返れば、よほど通廊が入り組んでいたのか、ようやく辿り着いたお手伝いさんだ。ぺこりと一つお辞儀で出迎えの挨拶を繰り返した彼女に、青年はこういう場面での作法は果たしてどんなのが適当だったかと記憶をさらえども、もとより漂白されたように自分の過去一切が抜け落ちている。頼りにならないこと夥《おびただ》しく、〈逡巡〉《しゅんじゅん》した。 「それでは、ご案内いたします。  どうぞこちらへ」  だがお手伝いさんには渡し守が連れてきた人間という事で事情は折り込み済みらしく、余計な気を遣わせず青年を誘《いざな》う。  ……青年が驚きかつ呆れ果てたことには、大河の水は『旅籠』の至るところから引きこまれ、この巨大建築の内部を縦横に流れているようなのだ。  お手伝いさんに案内されて青年が歩いているのが、そういう『旅籠』の内部水路を脇に眺めた通廊である。 「お靴はこちらにどうぞ」  手渡された巾着袋に靴を納め、これも向こうが用意の室内履きに履きかえる。 (しかし……なんて建物だ……)  こうまで出鱈目だと屋内であることが怪しく感じられ、確認するように上を振り仰げば、視線はさすがに空までは届かず天井で遮られたが、それが高い。周囲は柱や梁、手摺りのついた渡り廊下に板張りの階段等々、確かに屋内であることを示す調度立てで構成されてはいるけれど、それらが桁外れに延々と連なり複雑に層を成して果てしない。物差し、尺度が通常の家屋敷とは馬鹿馬鹿しいまでに隔たっているのだ。古い時代の様式の部屋部屋ばかりを寄せ集め、一つの街を作りあげたようなと言えばいいのか、いやそれよりむしろ迷路か、立体構造の。  そうやってあまりにあちらこちらをきょろきょろやりながら歩いていたものだから、青年はいつしかお手伝いさんに引き離されており、慌てて追いかける。これでは都の掘り割りに初めて上った〈山家〉《やまが》の蛙が、その複雑怪奇に驚きひっくり返るのとそう変わりはない。  お手伝いさんは、足を止めて青年が追いついてくるのを待っていた。  あちらを折れこちらを曲がり、階段を昇って降りてまた降りて、繰り返すうちに青年は早々に船着き場からの道筋を覚えきれなくなっていたが、お手伝いさんはさすがに心得たもので足取りに澱《よど》みはない。どこまで歩くのか青年が訝《いぶか》しみだした頃に辿り着いた一室は、この『旅籠』のお帳場らしかった。歳月に黒々と艶を帯びた結界で区切られた帳簿机を中心に配された、舟箪笥や重ね棚、柱時計等々が、いかにも大店の帳場らしい。ここにもお手伝いさんが一人詰めており、案内されてきた青年を見て腰を浮かせていらっしゃいませの挨拶だが、その顔に青年は首を傾げた。傍らの、ご案内のお手伝いさんを見やる。  同じ、顔を、していた。 (双子かなにかだろうか)  まあそれくらいならさして珍しいことでもないのだが、同じお仕着せで同じ顔となると多少妙な気分になる。人の顔をしげしげ眺めては失礼と知りつつもつい見比べずにいられぬ青年へ、お帳場詰めのお手伝いさんが文箱と宿帳を畳の上に滑らせてきた。文箱は〈黒漆〉《くろうるし》に〈螺鈿〉《らでん》をちりばめた上物で、宿帳もまたずしりと持ちごたえがする。綴じこまれた頁の一枚一枚にこの『旅籠』の歴史が堆積しているのだろう。 「遠路お疲れさまでした。それでは、こちらにご芳名のご記入をよろしく」  文箱の中には硯と毛筆、青年はさしたる抵抗も覚えず手に取ったが、お手伝いさんの方は少し詫び顔で、 「すいません。ただ今ちょっと万年筆のほう、インキを切らしておりまして」  とこれは、お帳場にいた方、 「筆で書きづらいようでしたら、あたしが換えのインキを取りに行ってきます。  それまでお待ちいただければ」  とこっちは案内の方。  かわるがわるに詫びを入れられて青年は、手の中の筆の持ち心地を改めて確かめたが、違和感はない。というより既に宿帳に書きこもうと筆を下ろしたところだったのである。 「いや……大丈夫だと思います」  空を舞う鳥に、改めて飛び方を問うたところ、それまでは呼吸するように羽ばたいていたのがかえって難しく意識されてしまい、たちどころに飛べなくなってしまった、などという寓話があったりするが、青年の筆はそのような轍は踏まずに自然に滑った。  ついと筆先が帳面から離れると、まだ滲みを残して書きこまれた墨跡は、        築宮 清修    の―――〈四文字〉《よんもんじ》。  心の水底から実に自然に素直に浮かび上がってきたその名前が、彼の名なのだった。着慣れた肌着のように馴染む、否それどころか肌と同じの自分の一部。目でなぞり舌に転がして確かめ、彼は深く息を吸いこんだ。己の名前を〈契機〉《きっかけ》として、過去が〈手繰〉《たぐ》りよせられないかまた試してみたのだが。  打てば響く、というわけにはいかないらしい。ただ自分の名ばかりが心の中で宙づりで、やはり以前の自分を少しでも明らかにしてくれるような記憶は、一切蘇ってはこなかった。臍《ほぞ》を噛む想いの築宮をよそに、 「ああ、佳いお手ですねぇ」  お手伝いさんはおっとりした口ぶりで彼の筆跡を褒めたものの、築宮本人にはなんの感慨も湧いてこない。巧いと言えば言えるのかも知れないが、ただ整っているだけで面白味のない筆跡だと、自分の字をまるで他人事のように評価する。字には人となりが表れるもの、という。であるのなら、かつての自分はただ体裁ばかりが整って、人間的魅力に乏しいつまらない奴だったのではないかと澱《よど》んだ気持ちになる。たかだか書き字一つで、よくまあそこまで陰に籠もってしまうものだこの青年も。 「ええと、こちらは『つきみや』……と訓《くん》じられるのですか?」 「あ、ああそうです。  俺は、『つきみや・せいしゅう』と申します」  名前だけは忘れていなかったようだが、といってそれで彼の気持ちは一向に明るくはならない。 「申し訳ない、自分はどうやら以前の記憶を無くしているようで。名前以外の、その、住所職業の類は書けないみたいだ……」  医者でもない口で記憶喪失だと他人に告げるのは、なんと説得力に欠けるのかと築宮はこっそりお手伝いさん達を窺った。なにやら自分が、大っぴらに身の証も立てられないような凶状持ちでございと暗に語っているようではないか。なのにお手伝いさん二人に、特に疑念を差し挟んだ様子もみられず、ただ、 「以前のこと、全然覚えてらっしゃらないんですか」 「はぁ、それはお気の毒ですねぇ……」  気の毒そうに〈相槌〉《あいずち》うって、それ以上の、築宮が予想していたような身分の詮議はなにもない。実にあっさりしたものである。拍子抜けの感を悟られたか、お手伝いさんは前の頁を繰って見せた。 「まあ、そのあたりのことは無理に書かずとも結構です。ほら」  宿帳には以前の客達の、様々な字面で様々な言語(中には築宮にはどこの国の文字か見当もつかないようなのもあった)が並んでいたが、名前しか記入していない者も多かった。 「お名前しかご記帳されないお客さまも多いですから」 「そういうものなのか……」  なんとも〈鷹揚〉《おうよう》な宿もあったもので、そんないい加減な事でいいのかとむしろ築宮の方が案じてしまうくらいのところへ、 「それで、お部屋のほうのご希望なんかはありますか?」 「え? いや、ええと、いや、特には……」  いきなり訊ねられても、部屋の選り好みなどできるような立場ではないだろうと口ごもる築宮である。そもそもここにどんな部屋があるのか判らないのだ。 「そんなら、女将さんに決めてもらいましょうかね」 「お任せします」  と、他人任せに下駄を預けた、築宮、次から次の驚きの連続で、実はこの時少々気疲れを覚えてはじめていたのである。けれどそれを顔に出さないくらいのお行儀の良さは持ち合わせており、彼を案内するべく机の上を片づけ始めたお手伝いさんを待つ間、お帳場の中をあれこれ見回して―――と、目が合った。戸口の方から覗きこんでいたお手伝いさんと。  お手伝いさんの中でも物見高い手合いが、新しい客の品定めと思しく、築宮は反射的に会釈した、会釈してから、すとんと下顎が落ちた。傍らを見やる。彼をここまで案内してきたお手伝いさんが大人しく控えている。そして番台には帳簿道具を並べ直しているお手伝いさんがある。二人が同じ顔なのはいずれ双生児だろうと勝手にあたりをつけた訳だが、では、戸口で立っている、今ひとつの顔もまた同じなのは、なんなのか? (三つ子―――!?)  そういうものもあるとは知っていても、実際にはそうそう見られるものではなく、どうしても好奇の眼差しが向かってしまう――― (? !? !!)  悪びれた様子もなくそのままこちらを覗き続けるお手伝いさんの後の廊下を、また別のお手伝いさんが横切っていって、彼女もちらりと視線をよこした、それがまた、同じ顔。寸分違わないと言って過言でない。 「な、そ……ちょっ、えええ!?」  四つ子……などと都合の良い話がそうそうあってたまるか。こうなってはお行儀良くかしこまってもいられず、築宮は番台の、隣の、戸口に立つの、と目まぐるしく視線の置きどころを回転させる。思わずあっちとこっちと向こうが、と指差しまでしてしまいつつ。  番台のお手伝いさんは、はじめそんな築宮を不審そうな顔で見上げたが、ああ、と得心して手を打った。 「気になりますか?」 「それはどうしたって……ご姉妹かなにかなのか? 三つ子、四つ子とか……」 「違いますよ」  あっさり否定されて築宮はいよいよ困惑する。無理もあるまい。なにしろ、こうも〈判子〉《はんこ》で捺《お》したような同じ顔が次から次へでは、誰だって自分の目を疑いたくもなろう。赤の他人でここまでの相似は有り得ず、果たしてどう説明をつけてくれるものやら待ち受ける彼へ、お手伝いさんがこともなげに言い放ったというのが、 「あまり深く考えこまないように。  あたしたちはそういうモノなんで」  これである、これだけである。とはいえ少々のもっともらしい言説では受け入れられたかどうかはあやふやで、謎は謎のままに築宮はそういうモノなのかと頷くしかなかった。〈物怪顔〉《もっけがお》で。  更に築宮は思い当たる。今彼女は『私たち』と言うたが、それはきっと……この『旅籠』のお手伝いさん達は、全員同じ外見を共有しているということなのではなかろうか。船着き場では遠目で判然としなかったけれど、あそこにいた彼女たちはみな同じ顔だったのかと思うと築宮の〈物怪顔〉《もっけがお》、余計に深くなる。 「それでは、参りましょうか。ついてきて下さい……ああ、あなた、後、よろしく」 「はいはい。交替ね」  帳場にいた方が、先に築宮を案内してきた方と入れ違いに築宮に〈随伴〉《ずいはん》で部屋を出る。入れ違いといっても同じ顔なのだから替わった気がしない。どうやら不条理は不条理として呑みこむしかなさそうだが、 「……」 「すぐに慣れますよ」  〈随伴〉《ずいはん》の彼女は築宮の〈憮然〉《ぶぜん》とした胸の裡を汲み取ったか、容易そうに告げたが、そうだろうかと振り返り見れば、見送るお手伝いさん達がやっぱり皆して、同じ顔。  どうしたってシュールに過ぎる光景と言う他ない。  板張りの床独特の、微かに弾むような〈反撥感〉《はんぱつかん》で、踏みしめる足元が、きしきし軋《きし》む。お手伝いさんの足音と築宮の物が輪唱する。廊下は、右に折れ左に曲がりしながら時に段差で〈勾配〉《こうばい》を造り、分岐し、そして交わる。〈廻廊〉《かいろう》もこうまで長く広大であると、床板が軋む音もたちまち空間に吸いこまれて静寂をより際立たせるのみ。あちこちから物音が聞こえてこないでもないけれど、それが〈紗幕越〉《しゃまくご》しであるかのように遠かった。 「足元、気をつけて下さいね。  時々段差があるんで、蹴っつまずく人があります」 「あ、はい……」  お手伝いさんは当然慣れきったもので、二・三段の段差をまとめて大股に踏み越えたが、築宮はそこも一々覗きこんだ。見れば段には引き出しありの、階段箪笥じみた造りで、中には何が収納されているのやらと青年の想像をくすぐる。廊下の両脇は風通しのためにか、〈襖戸〉《ふすまど》や〈障子戸〉《しょうじと》が開け放たれていて、中を何気なしに覗きこめば、座敷の連なりの果ての〈櫺子〉《れんじ》窓まで視界が通る。窓はそれ自体光を放っているかにぼんやりと輪郭を滲ませており、続きの座敷を仕切る〈中抜襖〉《なかぬきふすま》の角や床の間の隅に、優しく物柔らかな陰を与えている。こういう物陰にこそ、家の富貴を司る童子型の精霊や柱を軋ませる小鬼の類が潜むものなのだろう。ただ利便的な明るさばかりを良しとした近代建築が忘れ去った陰翳が、この『旅籠』ではそこらここらに〈遍在〉《へんざい》しているのだ。  一体世の中には何々〈道楽〉《どうらく》と云って、その魔性に見こまれて耽《ふけ》ってしまうと身代を傾ける趣味の類は幾らでもある。比較的身近な食い道楽だの衣装道楽だのからして入れあげるとただ事には終わらないのに、中でも〈目方〉《めかた》と嵩《かさ》そして、磨り減らす財貨からして最大級なのが〈普請道楽〉《ふしんどうらく》という、それ。  要は建て増しに建て増しを重ねて、屋を徒《いたづら》に広くし入り組んだ造りに拡張していく事をもって道楽にするのだと、文字言葉にするとそれまで、なのだが。この〈普請道楽〉《ふしんどうらく》ほど〈形象〉《かたち》としてその人間の妄執偏執が〈見易〉《みやす》く現れるものもそうはあるまい。  またこれは深みに嵌《はま》れば嵌《はま》るほど、贅を集め意匠を凝らしたものになる。それなのに、起き臥ししよう人もないのに数ばかりある部屋部屋、行き来することもほとんど無かろうに延ばした廊下、たてきった窓の並びは硝子の面を虚しくくすませていくだけだ。こうなると単に無意味を越えて空恐ろしい実相を孕んでくる。  本邦では『黒死館』と不吉な渾名を送られた旧〈降矢木〉《ふりやぎ》邸、四国山中に存在を噂される一名『真珠邸』こと〈那越〉《なごし》邸等々、洋の東西を問わないなら米国のウィンチェスター館が凄まじい。その名を冠した銃火器で一代を築いたウィンチェスター一族の未亡人が建てた巨大建築であるが、これなどは、 『人間が通れないほど狭い通路』 『どこにも通じていない扉』 『上がった先が行き止まりの階段』  といった意味不明の造りが散在しており、建築当初から幽霊屋敷の名を恣《ほしいまま》にしていたほどだ。  しかしかといって、築宮青年にはこの『旅籠』が狂気を〈根太〉《ねだ》として、妄念を柱組にして成り立っているようには、なぜか思えなかったのである。なるほど外から〈一瞥〉《いちべつ》した『旅籠』はたしかに一種異様な混沌の重みを突きつけたかも知れないし、築宮を濃密な〈眩暈〉《めまい》に惑わせたのも否めない。今こうして多重積層構造を為す屋内背景の直中に放りこまれて、視覚と位置感覚に軽い失調を来し、酔ったようになっているのも事実だ―――けれどもその酩酊感は、秘やかな悦びを伴っていたのもまた事実なのだった。  築宮は、到着して間もないというのに、かつ圧倒され通しだと言うのに、どうやらこの奇妙な『旅籠』へ愛着を抱きつつあるらしい。  それを取りこまれたと言うのなら、言えよかし。愛着は執着にも通じ、執着は悟りの妨げになるという式で、〈釈迦牟尼仏〉《おしゃかさま》などは捨てよ遠ざけよと有り難くお説きなされる。  されど愛着も執着もなくしてなんの俗世か人界か。愛書家は書棚の〈蒐集品〉《コレクション》の背表紙を指でなぞる時まぎれもない満足と幸福感に酔っている。  少女が足繁く通いの〈細物屋〉《こまものや》で小綺麗な香水瓶を品定めする、耳飾りを試しに着けては鏡に映す、たとえ買おうが買うまいが、彼女には喜悦の一時であり、猫ならば喉を鳴らしているに違いない。細工物や化粧品それ自体より、細々としたあれこれに満ちた小世界が愛おしい。  愛すべき物、世界を持ちえないのは身軽かも知れないが、それは軽々とした寂しさと隣り合わせではあるまいか。  築宮はあらかたの記憶を無くしてしまったけれども、一つの世界を愛することができる程度の人間らしい情動は残しているようだった。とはいえ彼自身にも、初めてやってきた筈の『旅籠』に、なぜこの郷愁にも似た念を覚えるのか、その理由までには掴めずにいる―――今のところは。  それとも、記憶を失っているからこそ、こういう過ぎ去りし昔を思わせる事物ばかりで構成されている空間に気持ちが傾いていくのかも知れない―――時間が経た木肌は、どれもこれも手ずれして磨きこまれて、優しい輪郭を帯びているということ―――  そんな風にあちこちを懐古、好古家の視点で眺めやっていたものだから築宮は、お手伝いさんからまたしても少し遅れてしまっている。どうしたって彼女たち相手では、なぜ同じ顔ばかりなのかの月並みな疑問符ばかりが頭の中を占めてしまうし、他に話しかけるような話題も考えつかなかったから、会話は〈五月雨〉《さみだれ》式でふるわず、つい周りの事物ばかりに目がいってしまうのだ。 (まずい、ここであの人からはぐれたら、この廊下迷路で遭難するぞ俺は……)  気を取り直して〈歩度〉《ほど》を速める前方で、廊下は二股に分かれお手伝いさんは、 「こちらです―――」  肩越しに呼びかけ右手へと折れていくところ。築宮、その後を心定めて追いかける、追いかけようとして、もう一方の廊下から微かな物音を聞いたような気がした。お仕着せのスカートを捌《さば》く衣擦れの。 「……あ?」 「どうしました? こっちですよ」  左のこちらからも、見返り気味にお手伝いさんである。築宮大いにまごついて右と左とを見比べた、そこへ今度は背後から、である。 「どうかしましたか? いきなり走り出したりして」  全くの予想外の向きから呼びかけられた声に肝を潰し、築宮、肩をびくりと震わせた。立ちつくす〈襯衣〉《シャツ》の袖を軽く引かれたに振り返ると、お手伝いさんが怪訝そうな。 「あ、う……っ? な、なんで後に?」  正気づく、というのはこの事で、改めて見れば廊下は二股に分かれてなどいない。それどころか少し行った先で行き止まりとなっている始末である。 「あれ!? じゃあ今の、廊下、右左に別れてたのは……っ?」  どうにも納得いかない様子の築宮から、お手伝いさんは事情を察したか、ああ、と頷く。 「お客さん、『偽廊下』に引っかかりそうになりましたね?」 「……なんです、そりゃあ……」 「廊下がありもしない様子に見えてたんでしょう? 時々あるんですよ、そういうの」 「特に来たばっかりの、ここに慣れてないお客さんがそうやってよくからかわれるの」 「信じこんで進もうとすると、壁に頭をぶつけて痛いです」  なるほど彼女の言う通り、築宮が右左いずれを選ぼうとも、焦って駆け出せば鼻先を厭というほど打ちつけたに違いない。〈傍目〉《はため》には大の男が壁にへばりついた構図は漫画じみて〈滑稽〉《こっけい》だろうが、当人にとっては混乱の極みであろう。 「なんでそんなことが……一体……」 「古い建物には、色々と変なことが起きるって言いますね?  うちも似たようなもんなんです」 「確かにそういう事もあるとは聞くが……」  生命無き器物でも百年経てば魂を宿すに至り、変事を為すと伝えられる。これを一名『〈付喪神〉《つくもがみ》』と名づくるが、建物だって同じ事だろう。歳月の裡《うち》に様々な物事を経て、住まいしていた人々の記憶を積み重ねてきた部屋部屋、調度の数々が、多少の不思議を引き起こすようになる、というのはありそうな話だ。  ただそれを自分の身をもって味わうとなるといささか突飛に過ぎる。真に怪事に遭遇した人間というのは、それを受け入れるより「自分の気のせい、気の迷い」にして現実には無かった事にしてしまいたくなるもの。この時の築宮も似たり寄ったりな気持ちであったが、お手伝いさんがあっさりと肯定してしまった。  むしろ白昼夢でも見ましたかと冗談でまぎらわせて欲しかったのにと、毒気を抜かれた体の築宮へ、お手伝いさんは励ますように笑みかけた。得体の知れないところのある女性達ながら、気性は穏和であると見え、俄かの怪事に動揺を押さえきれぬ築宮にはそれが頼もしい。 「大丈夫ですよ。気をしっかり持ってれば、そんなのにはまず引っかかりません。  ……さ、行きましょ」  引き返して正しい方へすたすた歩き出す後を、もうよそ見などはするまいと彼女にだけ視線を据えてついていく築宮である。 「よくあるんですか、あんな事が……」 「ま、たまにはね」  さてそうやって脇目も振らずにいたつもりでいたのに、今度は周囲の物音がやけに耳につくようになってくる。全然集中しきれていないではないかと、意識から雑音を締め出そうとしたのに、まず足元で二人の足音、頭上で軋む音これは上の階でも誰かが歩いているのだろう、背後でたん、と鳴ったのは、襖が開け放たれた響きか、言葉は聴き取れないが何事か呼び交わす声がどこかから、築宮の耳朶へ実に色々の物音が届いてくる。  こうしてみると『旅籠』を満たしている静けさというのは、そこかしこに様々な生活音を潜ませた、生きている静寂とも言うべきものであることが感じられる。たとえ人一人が動かず物も言わずに座していたとしても、顔を寄せれば息遣いが、脈を取れば心音が鳴っているのと同じだ。  そんな物音を拾っていくうちに、他より築宮の気を惹いたのが、廊下の脇の座敷から漏れてくる〈賑々〉《にぎにぎ》しい響きだった。宴でも催されているのか、華やいで、浮ついて、かといって耳に障るというほどけたたましくはない。他人事の宴会の騒がしさというのは、なにやらこちらに当てつけにされているようで居心地悪く聞こえるのが普通だが、この切れ切れに伝わってくるざわめきには、清涼感さえ入り交じっている。いかにも楽しそうなに引き寄せられて、襖で隔てた向こうへと耳から体がつい傾いてしまいそうになる、のを我慢して座敷の前を通り過ごした。  と宴のざわめきは追いすがってくるかで、後ろ髪を引かれる強さと言ったらない。まるで修学旅行のバスに乗り損ねてしまったようなやりきれなさまで湧いてくる始末で、これは下手に気持ちを残しては足が止まってしまうと、築宮は唇軽く噛んで聞かない振りをしたほどだ。  だと言うのに―――宴のざわめきが聞こえなくなったあたりで、またである。廊下が長いのがいけないのか、また別の座敷で宴会模様である。  先に聞いたのと同じくらい、いやそれよりも楽しそうな様子で、音声だけで親しげに誘われているような……いや、いや、いや、そんなわけなどないのだと、青年は自らに固く言い聞かせて無視し続ける、聴こえてこなくなるまではやく〈遠離〉《とおざか》ってしまえと歯噛みまでしたのに、お手伝いさんの足取りは〈悠揚〉《ゆうよう》と迫らず、築宮の焦りに気づく気配もない。 「もうじきに、女将さんのお座敷に着きますからねえ」 「ああ。なるべくはやいところ、頼むよ……」  それが心からの願いで、なぜただの宴会のざわめきがこうも心を揺さぶるのかと首を捻り捻り歩を進める築宮だったが、ぎくりと〈空唾〉《からつば》を飲みこんだ。  宴会の響き、離れて遠くなるどころか、傍らについて、きている……?  そんな莫迦な、これは未練を残した自分の空耳で、現実にはないはずの音なのだと耳を澄ませた、澄ませてしまったのが―――いけなかったのだ。いったんそうやって聴き入ってしまった宴会のざわめきは、もう耳から抜けてはくれず、抗いがたい魅惑力でもって築宮を〈容易〉《たやす》く虜にした。〈誘蛾灯〉《ゆうがとう》に飛びこみ我が身を焦がす夜虫は、その危険を教えてやったところで逆らえない。まして宴の華やぎには危険の危の字も険の字もなく、築宮はもうその場へ釘付けの、いな、打ちつけられた釘というなら動くもままならないだろうが、ふらふらと他愛なく座敷へと引き寄せられた。  ちょっと〈垣間見〉《かいまみ》するだけ、どんな面々がどんな〈遊興〉《ゆうきょう》に耽《ふけ》っているのか、それを確かめるだけ、仲間に入れてもらいたいなど針の尖り程も夢見ちゃいない。幸いお手伝いさんはこちらを振り返る気配はなく、廊下は一直線に長い。ちょっとだけなら足を止めたって見失うこともなかろうさと、築宮は襖の引き手に手を掛ける、そろそろと力をこめる―――襖縁が滑って紙一枚の幅、薄い雑誌の幅へと隙間をじりじり拡げていく時の、青年の昂《たか》ぶりというのは、舶来の天体望遠鏡を覗きこむ男の子の、純粋無垢な憧れにも通じていたろう。  が、憧れというのは、その尾に幻滅と失望をぶら下げている事もままあって、〈嫦娥〉《じょうが》と観えた月の模様も、望遠鏡にかかっては荒涼の〈隕石孔〉《クレーター》の集積という実体を晒してしまうように、詳《つまびら》かにせぬままの方が心に優しい場合がある。  築宮が僅かな隙間から覗いた情景はさて、〈白粉〉《おしろい》で〈老斑〉《ろうはん》塗りこめたごうつく婆が〈諸肌〉《もろはだ》脱ぎで〈臍踊〉《へそおど》りを、脂浮かせた親爺たち取り囲みのしゃんしゃん手拍子足拍子―――などであったらまだ良し。そうではない。  では、劫《ごう》経た老猿どもが、あちこちの山から下りてきて、憎い仇の岩見重太郎討伐をもくろんだ寄り合いぶって、前祝いに酒樽を回し呑みの化け物宴会―――というのでもない。それでさえ、築宮はオチの一つと納得しただろう。  期待に胸膨らませ、覗いた襖の向こうは。  蛻《もぬけ》の殻《から》、殻《から》の空《から》、〈格天井〉《ごうてんじょう》から吊られた、乳白色の硝子笠かけた四〇〈燭光〉《カンデラ》ばかりの丸電球の下に、冷えきった畳が目もつぶさに照らし出されているばかりの、誰もいないせいで広さが余計に寒々しい。肩透かしも極まれりである。 「な、なんだよそりゃあ……」  読みふけった探偵小説の、名探偵が皆を集めて「さて」を言った次の頁が丸々落丁しているようなもので、この空しさの遣《や》り場をどうしてくれると憤慨した、そこに、宴会の音。  ……蛻《もぬけ》の座敷続きの、次の間から、だった。ご丁寧にも〈中抜襖〉《なかぬきふすま》で閉じ切られて、また音ばかりが漏れてくる。探偵小説の犯人明かしも落語のオチも、聞かずにおれない人の性《さが》を見事にくすぐる、もしやこれはこちらを巧みに誘導する宴会芸かと築宮、鼻息荒くして座敷へと踏みこんだ。  こうなったらなにがどうあれ宴の有り様を確かめずにおられない。駆け寄って、両手開きに一気に繰り開いた襖の音、 たぁんと冴えて、胸に涼しいくらい、なのにまたしても、逃げられた、空だった、裏切られた。座敷に人気なく、〈樽酒〉《たるさけ》の杉の香《か》も〈三味線〉《しゃみ》の余韻さえも残しているのに、肝心の宴はどこにもない。ないないないのない尽くし。  眉根に皺を寄せる築宮の鼻を、むっとするほどの水気が覆った。生暖かい。宴会に空逃げされたむかっ腹ばかりが先に立ち、彼はしばらくその異状には気がつかないでおったのだが、考えてみればこれも〈胡乱〉《うろん》な話である。  襖を叩き開け踏みこんだ先が、大きな大きな湯殿であったというのは―――  この『旅籠』に見合った規模で広大である上、〈濛々〉《もうもう》漂う湯気は芳《かぐわ》しい、湯船も洗い場も槇《まき》造りの、だが湯殿それ自体には、取り立ておかしげなところはないように見受けられる。  しかし考えてもみよ。脱衣場もなにもなく、座敷のすぐ続きに湯屋が続いているというのは無理があるし、なにより洗い場にも浴槽にも誰もいないというのは、いかさま奇妙な話ではないか。ただなみなみと湛《たた》えられた真《ま》っ新《さら》のお湯に暖かな靄《もや》が揺らいでいるばかりで、こういう湯屋に付き物の客の鼻歌も桶を使う響きも聞こえない。  あるのは遙か向こうから、まだ続いていると思しき宴会の音、それも湯気に霞み、温気がたゆたう湯屋の奥に消えゆくように遠ざかっていく。それがまた、いましも掴み損ねただけに、心憎いまでに築宮の気をそそること!  どうやら突き止めようとすればする分だけ、宴会は気ばかり持たせてするりと身をかわす、釈迢空が歌にも詠んだ武蔵野の逃げ水のような代物らしいと、そこで築宮に物の喩《たと》えを思い浮かべられるだけの分別が残っていたならあるいは、かくも熱を上げずに済んだのかも知れない。しかしそれこそ喩《たと》えの話だ。  もういよいよいきりたって、お手伝いさんからはぐれてしまった事も忘れて、絶対に宴会の姿を見届けてやると〈襯衣〉《シャツ》の袖を腕まくりし、両頬を叩いて気合いを入れ直し、いざ湯殿の奥へと―――              ぱぁん! 「うわあ!?」  彼が自ら頬を拍った音ではない―――!  両手を挙げたなりに踵を浮かせてしまうくらい青年の意表を衝く、透き徹って硬質の手拍子、一音。ただ一音で宴会の乱調子など微塵も残さず浄め払う。  背後からだった。  神君家康公の〈奥津城〉《おくつき》なる東照宮の泣き龍の間でもあるまいに、残響を重ねて拡散していく余韻のしまいに、ぽたり、と築宮の頬へ落ちたのが、〈硝子〉《ガラス》を鈍く固めたような水の一雫。  その一粒が呼び水になったか、ぽたり、ぽたり、二粒三粒と後は数え得ず、        ざぁ―――!  と、天井の下だというのに時ならぬ〈驟雨〉《しゅうう》が築宮を見舞った。見る間に肩口を濡らし、前髪の先から滴り、顎《おとがい》に伝う、それがいっそ冷たいのであれば雪解け水が〈山葵〉《わさび》を洗うように、青年の〈身裡〉《みうち》を〈清冽〉《せいれつ》に締めて正気づかせただろう。しかしこの俄かの雨は悪く生温い。おそらくは先の〈裂帛〉《れっぱく》の手拍子一発で湯殿に満ちた水気が飽和点に達し、雫と凝って降りしきったものなのだろうが、まるで頭上に潜んだ巨大な魔物が、貪り食おうと舌なめずりした、その唾のようではないか。  今にも頭上の湯気たちこめる暗がりから頭を囓《かじ》られるのではないかと、身を固くした築宮の耳元へ、 「それ以上行っては、だめ」  声は、鈴を転がしたようだった。それも清浄と霊威を宿した巫女の〈神楽鈴〉《かぐらのすず》のように、築宮の心気をたちどころに鎮めたのである。これで活が入って、朽《く》ち藁《わら》のように頼りなかった膝の裏にも臍の下にも心の張りが戻って、見ると、なんともいかさまな、湯殿どころか彼が佇《たたず》んでいたのは廊下なのであった。  べっとりと貼りつくくらいに雫を浴びたはずの服にも、濡れ染み一つ残っていない。 「あれは『〈空宴会〉《そらえんかい》』って言うのよ」  銀鈴の声が背後から追い抜いてすっと進み出る。同じ板張りの床を踏んでいるのに、足元は雲間に住まう〈飛天霊〉《ひてんりょう》もかくあるかで、軋み一つ鳴らさなかった。 「うかうかついていくと、穴に落ちます」  そうその通り、築宮の足先では巨人が拳を叩きつけたかに廊下がぎざぎざとした破《や》れ口を開けてあり、下の階層が覗けるほど。内履きの爪先がかかるすれすれで、築宮は今さらのようにはっと飛び退く。 「新しいお客さんが、時々騙されます」  なるほど彼女の言うように、あのまま築宮が有りもしない宴を追って後一歩でも踏み進めていれば、今頃彼は一階層下の廊下に叩きつけられ軽く済んで打ち身、下手をすれば頭から逆落ちの、今度は自分の名前さえよく言わない〈脳天馬鹿〉《ぼけなすかぼちゃ》に成り果てていたのかも知れなかった。憮然呆然の色で塗り固められた顔になるのも止む無しの彼と裏腹に、傍らに立つ娘の姿は、目が洗われるように清《すが》しかった。  さて、娘としたが、どうなのだろう。産《む》す女《め》に通ずるその語を宛てるには蕾の初々しい〈生硬〉《せいこう》さを残し、かといって少女と言い直すには、鼻梁にかかる陰翳が物思わしげに情味深い。どっちつかずの狭間の年頃、そう曖昧に形容するしかない風情をたたえ、築宮を見上げる眼差しが、彼の肩口よりまだ低かった。青年の上背が六尺に及ぶ事もさりながら、彼女の体躯が小柄で華奢なのだ。伸び盛りの若木と高山に咲く花とを並べた有り様である。 「でもこんな大きな穴。  見過ごしにしていては危なっかしいですね」  よく人の知性は眼差しに育ちは物言いに、品性は物腰に表れるとは言うが、その僅《わず》かな〈挙措〉《きょそ》と台詞だけでも彼女は、さだめし良家の令嬢なのだろうと知れる。築宮は最前宴の惑わしから目覚めた時、一瞬お手伝いさんなのかと思ったものだが、そんな生易しい相手ではない。だいたい恰好からして異なる。  ボレロというのか、裾短かな上着を羽織った体の輪郭がまた繊細を極め、果たして真実血と肉が通った生き物なのかどうか、一瞬危ぶむ築宮の前でつと繊手を差しのべて廊下脇の柱を指の節で叩いてこつこつ、こつこつこつと、風変わりな旋律を付けて鳴らした。いかなる意味があるのかは知らず、ただ音を生むくらいには、現し世の実体はあるらしい。それでも築宮には、彼女の素直で丈長い〈磨墨〉《するすみ》の髪の、深緑を重ねたような髪艶が、身じろぎの度に〈燐火仄〉《りんかほの》めくように揺らぐのが、あまりにも幻想的に見えてならなかった。長い長い時を経る間に、『旅籠』自体の霊質(essence)とも言うべきものが醸成され精製され、たまさか人の象《かたち》をとって彼の前に顕《あらわ》れいでたように思われてならなかったのである。  だいたい令嬢の面差し身のこなしは、心構えなく向かいあうには端麗典雅に過ぎた。いっそ人間離れして人形めいているといってもいい。それも天界の匠が技の限りを尽くして造り上げたような、だ。  であるからして、築宮が人間を相手にするようなまともな口を聞けるようになるまで、いささか賦抜けた遅滞があったが、なんにしても穴に転げ落ちるところを救ってくれた相手であるのは確かなわけで――― select  なにがなんだとて、偽の廊下と嘘の宴会とで続いて欺《あざむ》かれそうになった。大の大人の男のくせして不甲斐ないことよと、築宮のきまり悪さと言ったらない。しかも今度の相手は、自分より年下と思しき可憐〈楚々〉《そそ》たる令嬢だ。それでも恩は恩、礼を伝えるべき場面を見誤るような、そんな〈矜持〉《きょうじ》などは毒にも薬にもしたくない。なにより彼女は自分を助けてくれた。見ず知らずの、無視したって構わない相手を、だ。志の美しさは、なにより貴い。築宮は令嬢に謙虚に深々と頭を下げた。 「あの……有難うございました。  あのままだと俺、きっとひどい目に遭っていたに違いない」 「あなたが声を掛けてくれたおかげで、助かった」 「なにかもっとちゃんとしたお礼がしたいところだけど、いかんせんここに着いたばかりで右も左も判らなくて―――」  彼としては現在の自分にあたう限りの誠意を口にしたばかりで、なにも特殊の礼拝の形式を取ったわけではない。なのに令嬢はそんな築宮をむしろ意外そうに見つめ、小首を傾げた、その所作にこめかみから鬢《びん》の一筋二筋が流れた、のがさらさら鳴るのさえ聴き取れそうなほど深みのある沈黙をしばし置いて、礼を返してきたのである。  淑やかに、穏やかに、年頃に似合わぬ落ち着きをもって。 「お気になさらないで下さいな。  いらしたばかりのお客さまにもしもの事があっては、私たちの方こそ、申し訳が立ちません」  そう築宮の身を立てるような物言いなのは、いずれ彼女も『旅籠』の者だからだろうと推し量られたけれど、青年は令嬢の取りなしに、客あしらい以上の床《ゆか》しさを〈垣間〉《かいま》見た。これまで自分がどんな人々と関わってきたのかさえ覚束ない築宮にも、人間同士のやりとりなど、砂糖衣にくるまれたように甘っちょろいものではなく、礼儀だって報われること少ないと判っている。それだけに、令嬢が見せた気遣いは、得難い潤いをもって胸に迫った、真摯に向かい合わねばという気持ちにさせられた。築宮はそれに従ったまでである。それなのに、 「けれど……今時珍しい方ね、貴方。  そんな風に丁寧にされると、まるで自分が偉い人になったみたい」  そうして唇に含ませたあえかな笑みが、作り物めいて硬質な秀貌を、薄紅の葩《はなびら》のように柔らかくしたけれど、それも一時の華やぎ、夢のようにかき消えた。ただほんの一瞬間のことであっただけに余計築宮へ鮮やかな印象を残し、彼の緊張を緩めた。そろそろと息が漏れたので、彼は自分が相当緊張していたのだと気づく。ただ、初めて会い、口も聞いたことない令嬢を前に、礼に適った所作と順序で振る舞えたはずと、彼女の微笑みからそんな確信を得たと思う。  長大な〈廻廊〉《かいろう》を構成する幾千・幾万もの木材達が構成する静謐も、是、と満悦の吐息を漏らしたように和らいだ、とさえ感じられた。実にこれが築宮へ、見知らぬ異様な場処にあっても、人として行い正しくできるのだという自負を与えたのだった。 「それで貴方は……?」 「ああ俺は、泊まる部屋を決めてもらうって、ここの女将さんの所に連れていってもらうところで」 「それが途中ではぐれてしまった―――  情けないですよ、こんな」 「無理もありません。  来たばかりの人はよく迷子になります」 「ともかく、『女将さん』のところに行くのなら、私と一緒に参りましょう。  ただ……ちょっと待って下さいね」  なにがなんだとて、偽の廊下と嘘の宴会とで続いて欺《あざむ》かれそうになった。大の大人の男のくせして不甲斐ないことだと、築宮のきまり悪さと言ったらない。しかも今度の相手は、自分より年下と思しき可憐〈楚々〉《そそ》たる令嬢だ。こういう相手にへりくだった表情を晒せば〈下手〉《したて》に見られるのではないかと、ぶちまけたところ築宮は自分勝手にそう思いこんでしまったのである。それは記憶を失い、見知らぬ土地に放り出されたことで気弱になっていた事の、裏返しの虚勢だったとも言える。良きにつけ悪しきにつけ、一人の人間としての〈矜持〉《きょうじ》なのであり、素直な心で礼を言うことの妨げとなったとしても、彼を責められたものでなかろう。とにかく内心はどうあれ、築宮は言葉を並べようとして口ごもった。 「その……案内してくれていたお手伝いさんからはぐれてしまって……」  言い訳じみた繰《く》り言《ごと》も〈滑舌〉《かつぜつ》悪い、下手に体裁を付けようとするとかえってみっともないではないかと、後から悔やんだところでもう遅い。掌に厭な汗を握り、築宮は令嬢から顔を背けて眉間に皺、情けなし。 「案内……と申されますと、お部屋はもうお決まりに?」  自己嫌悪まみれの築宮の内心を知ってか知らずか、令嬢は特に気を悪くした風はなく、問いかけた。だいたい彼女の双眸は清らかなのはいいとしてそれが〈硝子〉《ガラス》の無機質、感情が容易に窺えない。 「いや、それを決めてもらうために、女将さんの所に向かう途中でした」 「左様でしたか。それなら私と一緒に参りましょう。  ただ……ちょっと待って下さいね」  と令嬢は、なにかに耳を澄ますようなどこか遠くを眺めるような眼差しになり、最前と同じように傍らの柱を指の節で叩こうとした、そこに、 『ああこっちだ、こっち』  廊下の曲がり角から、既に築宮にも見知りの顔のお手伝いさんが、担いで来たのが〈嵩張〉《かさば》りの、大工道具だ。 「お待たせしましたぁ」  すぐ近くの障子戸が、内側から影差したかと見るとたたんと滑って、こちらは両手一杯に板材抱えたの。手が塞がっていたのに障子戸を開けられたのは、足先をはしたなくも器用に使ったかららしい。  そんな調子でわらわらと湧いて出た二・三人ものお手伝いさん達、令嬢が廊下の大穴を無言の身振りで示しただけで了解したのか、はいと良いお返事、声が揃った。襷《たすき》からげて一斉に修理に取りかかる。してみると先程令嬢が柱を鳴らしたのがおそらく彼女たちの間の符丁で、おおよそは伝わっていたのだろう。  言うまでもなくお手伝い連は揃って同じ顔だが、築宮を途中まで引っぱってきたのはいないようで、彼に〈一瞥〉《いちべつ》投げかけたきり、後は作業の手を止める者はいなかった。  令嬢はお手伝いさん達の仕事ぶりをしばし見守り、ややあって、 「お待たせしました。  では、行きましょう」  築宮を促し、とんかんぎいぎいの時ならぬ〈槌音〉《つちおと》〈木挽〉《こび》き音を後に歩き出す、背筋はぴんと伸びて〈正中線〉《せいちゅうせん》にもぶれがない、青年もつい姿勢を正さないと申し訳ない気分に囚われる。その言葉遣い、立ち居振る舞いが実に正しく美しいだけに、こちらも襟元直さないと居心地悪くなるような、そんな息苦しさを感じさせるのだこの令嬢は。  先程お手伝いさんに下知した様子といい態度といい、『旅籠』の中でも人を使う側にあると見え、さしずめ女将さんとやらの娘か、さもなくば親戚の類だろうと、築宮は適当に見当をつけたことである。  それからは、幾らも歩かなかったのが、築宮には有り難かった。自分は思ったより健脚のようであったが、さすがに足を引きずり加減になっていたのだ。  令嬢に案内された先が『旅籠』の中のどのあたりに位置しているのか、もうとうに見失っていたけれど、築宮としてはそろそろ腰を下ろして一息つきたくなっていた頃合いで、道筋から注意も逸れがちになっていた。先導の令嬢と会話らしい会話がなく間が保たなかったのもある。案内役がお手伝いさんの時はさほど苦でもなかった沈黙が、この令嬢が相手だと重いというか息苦しいというか。それであるから、 「長々と引きまわしてご免なさい。  でも、あと少しで『女将さん』の座敷に着きますから、もう少しのご辛抱を」 「あ、いえ、お気遣いなく」  こう咄嗟に受け答えした、彼の声音が解放感に弾んでいたのもまあ致し方なかろう。  やがて廊下の奥まった一画の座敷の前で、令嬢の足が止まった―――  障子戸開け放たれた座敷の前で、一人のお手伝いさんが所在なげに立ちつくしており、築宮を認めるなりほっと肩を下げた。 「もう、またはぐれて……!  勝手に迷子になられちゃ、あたし、困ってしまいます」  困惑気味の表情浮かべていたのが安堵に晴れる。宿帳を小脇にしているところを見ると、彼女が築宮を案内してきたお手伝いさんだったようだ(とはいえ彼にはいまだはっきりと見分けはつかないのだが)。  そうは言われても、と築宮不満を表情に映しそうになったが、次の台詞で怪訝な想いが先立った。 「でも、途中で、女将さんに会えたみたいですね。そんならそれはそれで幸い、ってやつです」  女将さんなどどこにいるのだと、つい背後を振り返る築宮をよそに、お手伝いさんが宿帳を手渡した相手が令嬢である。  ―――と、いうことは、つまり。  青年にもなかば事情が〈諒解〉《りょうかい》されてきたのだが、それでもにわかに受け入れがたく、まじまじと見つめ直すと、ついと座敷に先に上がって膝をつき、今一度深々と頭を下げたのが令嬢なので。 「それでは―――改めて。  いらっしゃいませ、ようこそ、私どものところへ、いらして下さいました」  所作は正座から入って流れるような、かつ一分の隙もなく、両の人差し指、中指、親指の三爪を合わせて六つ、畳の目横一直線にぴたりと揃った、三ツ指ついてのお出迎え。  僅かな重みにもしなうような肩、腰など築宮が両手で作った輪に収まってしまいそう、たわやかな、か細い、この『旅籠』の女主人などと名乗ってしまうだけでも重圧に潰されてしまいそうなのに―――  ……いっそ廊下の袖から拍子木の一つでも打って欲しくなるほど、令嬢の三ツ指姿一点へ、『旅籠』の存在感全てが見事に凝縮、〈収斂〉《しゅうれん》されていたのだった。  ……。  …………。  ………………。 「お客さまは、  築宮様、とおっしゃるのですね」  ―――築宮の正面に座した令嬢の、宿帳を繰り改める手さばきが堂に入ったもので、ここまでくるといよいよ間違いはあるまい。  そもそも、『女将さんの部屋』と連れて来られたこの座敷に他に人気無く、また後から誰かが来る様子もなかった。 「はい―――で、君、いやあなたがこの宿の『女将』さんなんですか?」  確信しつつも、口に出して訊ねずにはいられぬ築宮で、なにしろ差し向かいの令嬢は、彼が知るところの宿の女将のイメージには到底当てはまらない。  脳裏に浮かぶ女将の姿といったら、〈恰幅〉《かっぷく》のいい女豪傑か、和装に身を固めた年増の美女あたりで、いずれにしても令嬢には豪の字はそぐわず年だって足りていないだろう。 「そういうことになるんでしょう。  私がここのあれこれを、取りしきっているのは本当なのだし、お手伝いさん達も、私を『女将さん』……なんて呼びますけど」 「でも―――どう考えたって、  似合いませんよね?」  内心ではその通りと感じていたとしても、当の本人から面と向かって問いかけられて、はいそう思いますとぶちまけられる神経の太さは築宮にない。それでなくとも令嬢の、磨き抜かれた色硝子のような眸《ひとみ》は、青年の詮索心を鏡のように弾き返してくるようで、どうにもいたたまれなくなる。 「まあでも、そちらにはそちらの事情もあるんだろうし……俺は、別に変だとは……」 「お気遣い、ありがとうぞんじます」  築宮の〈狼狽〉《ろうばい》をいたわるつもりか、令嬢は〈莞爾〉《かんじ》と笑んだ。細筆に紅を含ませそっと置いたような唇が繊細にたゆむ、やはり年に不釣り合いな大人びた笑み、と言えば言えるのだが、造花の花めいた『お客さま向けの笑顔』。  それでも素の顔でじっと見つめられているよりは多少気が楽になる。 「それと、足、崩しても構わないですよ。  どうか楽にして下さいな」 「あ……ええっと……」  改めて膝元に目を落とせば、きちんと揃えて正座している自分に気がつく。  言うまでもなく令嬢は端座しているわけだが、合わせてやったことではない。意識せず座ったらこうなっていたのであり、特に窮屈さも覚えず背筋も自然に伸びている。おそらく記憶を失いながらも身に染みついて抜け落ちる事のない、彼の第二の本能なのだろう。  してみると自分は、こういう畳の部屋で座る暮らしに慣れていたのだろうかと、念のため記憶を探ってみたが、やはり思い出されることはなにもない。もとより期待はしておらず、大して落胆もせず答えた。 「いや、平気です。  どうやら自分は正座に慣れていたようで」 「そのようですね。  姿勢もとっても綺麗です」 「そんなものかな……」  綺麗という言葉は貴女のためにある、など歯が浮く台詞は唇が縦に裂けても吐けない築宮は、空咳を漏らして座敷を見回した。  別に自分でなくっても、この座敷に招じられられた者は、座ること一つ取っても居ずまいを正すだろう、と築宮は考える。  女の子の私室に付き物の、〈糖蜜〉《とうみつ》めいた甘ったるさが微塵も感じられないのだ。自分の領域を趣味で満たして埋めつくして飾り付けることに心砕くのが年頃の少女の性分というもので、年若な故の過剰な自意識が落ち着きを得るのはまだ〈未来〉《さき》のこと。  なのにこの座敷ときたら、簡にして素なること、潔さまで感じさせるほどで、大人びた、を通り越して侘《わ》びと寂《さ》びの域にまで突入している。  畳は爪も立ちそうにない硬い〈上床〉《じょうどこ》、掃き浄められ塵一つ見えず、堅牢な柱は狂いもくすみもなく顔が映りこみそうなほど磨かれ、要するに座敷を満たしているのは清冽、清浄であり、余計な調度など乱雑の元と言わんばかりに、必要最低限のモノしか置かれていない。  片隅の鏡台ただ一つが女性の嗜《たしな》みを物語り、それも正絹の覆いを掛けられ慎み深い。  どうにも色気や潤いに乏しい部屋ではあるが、築宮にとっては好もしいと感じられた。少女趣味の人形やら天蓋付きの寝台やら刺繍の飾り布やらでごてごて所狭しと占領された部屋などよりは、この簡素な清々しさの方がよほど目に優しいし心も静まる。  まるで隠棲の枯れた尼の庵《いおり》じみた一間だが、令嬢が浮いているかというと、さに非ず。彼女の姿は必要欠くべからざる最重要の部品のように室内の景色と調和しており、やはりここは彼女の私の領域なのであった。 「いけない、肝心の用を忘れてた。  あなたのお部屋を決めないといけないのでしたっけ」 「……なにかお部屋の方の、ご希望などはございますか?」  北極から旅に出て南極を経てまた北極に戻ってくる、とまではさすがに大げさだが、お帳場で訊ねられてから、築宮にとっては巡礼のようにも感じられるほど長い道程を経て、また同じ問いである。つい苦笑を漏らし、 「いいや。特にそういうのはないです。  ただ……」  全てを向こう任せにするのは芸がないし、よもやとは思うがろくに意思表示もできない意気地なしと侮られ、湿った布団部屋に押しこまれ、腐り枕に自生する茸と床を共にすることにもなりかねぬと、築宮は心の中に自分の部屋好みを求めた。畳の目を何とはなしに眺めながら、言い添える。 「そんなに大きな部屋だと、落ち着かない。  あとはできればだけど、ええと、そう、清潔な部屋をお願いします」  令嬢の座敷の清浄に惹かれ、起《お》き臥《ふ》しするなら自分もこのような部屋が良いと、〈漠然〉《ばくぜん》と願ったまでなのだが、言ってから〈不躾〉《ぶしつけ》なことを吐いたと後悔する。いやしくも旅籠を名乗って、客に供する部屋部屋を浄めておくのは自分などに言われるまでもない事ではないか。  ……などと、一々気に病むあたり、この青年も考えすぎというもので。  令嬢だって築宮の言葉を底意地悪く取る風など見せず、脳裏の地図をざっと描くように宙に眼差しを〈彷徨〉《さまよ》わせること〈暫時〉《しばらく》、頷いて、 「承りました。  ちょうどいいのが空いているはず……お気に召すといいのですが」 「あとでお手伝いさんに案内させます。  大丈夫。  ここからそんなに離れていませんよ」  一瞬ちらりと頭をもたげかけた、また長いこと歩くのじゃあるまいなの危惧は令嬢の言葉で引っこんだものの、まだ伝えておかねばならないことが築宮に残っている。  何度も口にするのは気が進まないが、 「それから、あまりみっともいい話じゃないんだけど―――」  こう前置きして、築宮は自分が記憶を失っていることを告げる。わざわざ吹聴して回ることでもないのだが、令嬢がそれを知らないことで無駄な行き違いが生じないかとも考えた、その用心で。 「それは……はい。  そちらも〈諒解〉《りょうかい》いたしました」 「こちらは、できる限りあなたに不自由がないように致します」 「なにか至らぬ点があったら、遠慮なく申しつけ下さいませね」  痛々しげな顔で気の毒がられたり、出物腫れ物に触れるような扱いをされては、かえって気詰まりだったろうが、そういう湿度高い反応はなく、彼の状態を確認してそれにふさわしい対応をとると約束してくれただけだったのが有り難い。 「こっちこそ、よろしく頼みます……なにしろ以前のことも思い出せないのもそうなんだが、持ち物の類も一切なくしたようでいろいろ〈戸惑〉《とまど》って―――あ」  気が緩んだ弾みで〈難渋〉《なんじゅう》していた事を告げるうち、築宮の舌がぴたりと止まった。旅籠の女将の部屋まで通され、自分の部屋が決まった段になってなぜ思い出してしまったのか。こんな事なら忘れたままにしておいた方がよかった、いやそんなのは時間の問題で、と〈狼狽〉《うろた》える彼に、令嬢が不審そうに小首を傾げる。  えいままよと白状した。都合の悪い事に気づいて黙っていられるほど肝が太くないのだ。 「その……持ち物が何にもないって事は要するに俺は……財布も金も持ち合わせてないんです」 「宿代の方、どうすれば……」  どうすればもなにも、『旅籠』はあくまで旅籠でしかなく、宿無し文無し三界に寄る辺無しの根無し草に一夜の宿りを提供して〈功徳〉《くどく》に致す慈善の教団などではなかろう。無銭でお〈遍路〉《へんろ》を泊めるような〈善根宿〉《ぜんこんやど》というのもあるにはあるのだが、頭からそれを期待するのも〈烏滸〉《おこ》がましいというものだ。  ところが令嬢はなぜか表情を変えず、それが咎めだてしているように見えてしまうのは築宮の焦りがそうさせているのだが、いよいよ進退窮《きわ》まって、銭などないと知りつつ〈泰然〉《たいぜん》と構えていられないのがこの青年、服のあちこちをはたきだしたのが傍目からだと新手の無言劇のような、否、否、本人は演技どころの騒ぎではない―――と、ポケットから、確かな重みが返ってきた。  自分が無一物であることを誰より知り抜いていたつもりの築宮には、ポケットにいつの間にか湧いて出たとしか思えず、中に差し入れた指先にしゃらりと絡む細いのがある。  銀の鎖だった。引き出してみれば先にはこれも銀の円盤―――なんで今まで忘れていたのだろう、この頭の中に詰まっているのはおが屑かと情けなくなる築宮で、渡し守から預けられた懐中時計ではないか。  宿の者に会ったら、まずこれを見せろとも言い含められていたではないか。 「そう、そうだこれを。  あの人、渡し守から預かっていた。  宿の人に見せろ、と」  自分の体熱でしっとり温まった銀細工が果たしてどんな意味を持つのかは知らず、手渡しすると、令嬢は心得たように頷いた。  というより、既に予想済みのようだった。 「はい、確かに改めました。  これで宿銭のことなどは、心配しなくっても大丈夫」 「まあ、もともとお金のことは、あまり気にしていただかなくて構わなかったんです。  ここは、そういうところなので」  聞けばあの渡し守が導いてくる者に対しては、ほとんど無条件で門戸を開くのがこの『旅籠』の代々の習わしなのだ、という。  それでも―――と令嬢は、銀の懐中時計を〈左見右見〉《とみこうみ》してから築宮に返し、 「それでも、あの人が、これを誰かに預けるなんて、ついぞなかったことよ」 「この懐中、ここではところ構わずの、通行手形みたいなものなんです」 「築宮様、よほどあの人に気に入られたんですねえ」  築宮の予想を超えて〈霊験〉《れいけん》あらたかなこの銀の懐中時計、渡し守と旅籠の〈重代〉《ちょうだい》の契約の証のような品らしい。旅籠の中ではほとんど無制限のフリーパスのようにみなされているのだとかで、見た目にも貴重な銀の細工物を渡し守がなぜああも無造作に自分に委ねてきたのか。令嬢にはそう言われたけれど、本当にそこまで自分があの割れ面の女に見こまれているのか……実感に乏しい。  乏しいがしかし、懐中時計は間違いなく彼の手の裡《うち》にある。  築宮がいまだ知らざる想いでも籠められていたのか、不意にずしりと〈万鈞〉《まんきん》の重みが生じたような気がして、取り落とすまいと慌てて握りしめたが、やはり懐中時計は時計なりの重さしかなく、ただ指の隙間から零れた鎖が放つ艶が、強く濃くなった……ように見えたのは、座敷の影が深くなってきていたからだった。午後は何時しか通りすぎ、夕まぐれの暗さが増しつつある。 「ご苦労様でした。  これで面倒なあれこれはおしまいです。  あとはお部屋で、おくつろぎ下さいませ」  令嬢の言葉に懐中時計から顔を挙げれば、何時の間に呼び出していたものやら、座敷の戸口には、築宮を案内するべくお手伝いさんが既に控えていたのだった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  築宮へ宛われたのは、令嬢の言葉通り彼女の私室から程遠からぬ、旅籠内部の水路沿いの二階の一間だった。なるほどこの旅籠の中では随分こぢんまりした座敷だったが、それは築宮が望んだこと。  そしてこちらも注文通り、こざっぱりして風通しも良さげな、男やもめに蛆が湧く式の湿っぽさとは無縁なのも嬉しい。  見た目の贅沢さはない座敷であったが、かといって粗末なのかというと全く異なり、畳も柱も令嬢の座敷に劣らぬ上の物、殊更に鑑定眼を持ち合わせぬ築宮をして『本物』だと悟らせる。気取りがない替わりに誤魔化しもない、掛け値なしに佳い部屋なので、男一人の仮住まいとしては身に余る部屋と言えよう。  ……ただ、窓の下に、水路へ降りていく段が取り付けなのが、変わっていると言えば言えたが。  先程済ませたばかりの夕食が、築宮を満腹感でひ怠くしている。お手伝いさんが部屋まで運んできてくれた箱膳を、貪るように食べ尽くして飯などはお代わりを重ねた。つい昨夜には、生きるか死ぬかの瀬戸際にあったはずの自分の意地汚いまでの〈健啖〉《けんたん》に、築宮は自嘲の笑みを浮かべようとしたが、それも滑稽なのでぼんやりと視線を〈彷徨〉《さまよ》わせた、その先では配膳のお手伝いさんと入れ違いになったのが、てきぱきと布団を延べている―――上げ膳下げ膳の上に寝床の世話まで人任せ。 (また俺も、大層な身分になったもんだな)  夜も更けて、座敷に点された裸電球の灯りが、お手伝いさんの延べる布団を白々際立たせていた。窓から望める旅籠内部の景色にも点々と灯りが連なり、夜更かしの客にはこれから本番なのだろうが、繰り出していく元気はさすがに築宮にはない。夕餉の前に風呂を遣ったことで、疲労が肌の表面に浮き出してきた感じだ。 (ちなみにその際案内された大浴場というのが、築宮が『空宴会』に騙されそうになった時目の当たりにした湯殿と全く同じもので、旅籠の惑わしも有りものの景色を使い回したとおぼゆる) (大浴場は、日によって後先は変わるらしいが、時間を決めての男女交代制で、それぞれの順番が巡った後、夜も晩《おそ》い時間になると、交替の別も終わって混浴になるのだとか) (とまれ、柔らかで佳いお湯で、全身の毛穴から肉体の澱《おり》とか疲労の凝《こご》りが溶けて流れるかの、得も言われぬ快があった) 「ええ、まだあんなにお若いのに、  女将さんは、一人でここを切り盛りしてらっしゃいます」  お手伝いさんは先程築宮に問われたことに、布団に上掛けを被せながら答えたが、その手は止まらずぴんと布地を綺麗に伸ばした。  これまで築宮が見たところ、令嬢の他は旅籠を営む者は見当たらず、彼女とお手伝いさんしか従業員はいないのだろうかと少しく奇妙に感じたのだ。 「じゃあ、ご令嬢のご家族なんかは……?」 「先代様も、ご親戚の方も全員みまかっておられましてねぇ」 「女将さんの一族は、代々お宿を守ってこられましたが、女将さんがその最後の一人なんです」 「あんなお優しい、細いお手でお宿を一人守っていくのは、まこと難儀なことでしょう」 「もちろん、わたしたちも女将さんを一生懸命支えていくつもりですけどね……っと」  ふん、と踏んばって掛け布団を下ろし、えいやっと重ねた、まめまめしく立ち働くお手伝いさんの物言いからは〈真摯〉《しんし》な思いやりが窺える。築宮がこれまで相手にしてきたお手伝いさん達より、情動の触れ幅が大きそうだ。 「お待たせしましたぁっ。  はい、これで何時でも寝られますからね」 「大浴場の方は、真夜中には灯りを落としてしまいますけど、それから後は朝まで混浴になりますんで、ご自由にどうぞ」  さらに旅籠には、男女時間交代制の大浴場の他、いくつかの湯屋(中には部屋付きの物もあるらしい)があるそうだが、それらのお作法はそれぞれ番付いているお手伝いさんに訊ねてくれ、とのことだった。 「それでは、ごゆっくりぃ〜!」  築宮には眩《まぶ》しいくらい威勢が良いというか、満面の笑顔でお辞儀して下がっていったお手伝いさんを、 (あの人達……見た目はほとんど一緒だが、個性には微妙な差があるようだな……)  とかなんとかよしなしごとで見送る築宮である。さて―――  お手伝いさんも下がり、当然のことだが訪《おと》のうてくる者などいる筈もなく、築宮はこの巨大建築物の中に一人島流しにあった体である。  見知らぬ土地で一人なのだ―――と思えば、身には孤独がひしひし沁みてこようものだが、奇妙にもせいせいと体が軽い。心だって、過去の記憶なんどは精神の錘《おもり》の別名なのだと言わんばかりに、解放感さえ去来してはいないか。  自分という人間は、湯を遣って腹も満たされたとなると、重たげな事柄を考えてもいられない現金屋だったのかと自戒するも、かといってそれで失われた過去が戻ってくるでもない。  たぶんきっと、名前以外は己に属する事柄は思い出せないと言うのに、日常生活を送るのに差し支えない程度の知識が残されているのも、今のところ築宮をそこまで深刻にはしない要因の一つだろう。読み書きもできるようだし、他の人文的な教養などもこのおつむの中には残っているらしい。  見知らぬ旅籠に一人、記憶も不完全、頼りないこと夥《おびただ》しい状況であるにもかかわらず、奇妙な安心感さえあるのは―――  きっとこの部屋が、自分に〈馴染〉《なじ》みすぎるせいだろうと青年は窓際に背中をもたせかけ、首の関節をかきこき鳴らす。するとどうだ、なにも体裁を繕《つくろ》わず窓枠に凭《もた》れただけの青年をもし廊下から覗く者があったら、その目にはまるで十年も起き臥ししてきた座敷の主としか映らないであろう。  それどころか、この一間は初めから築宮のために、彼の身の丈に合わせ、趣味嗜好も十二分以上に反映させるよう誂えられたと言われても違和感はない。もちろんそんなはずはないのだが―――  刀を納めるのは同じ反りの鞘、貝合わせの上蓋には一つ貝から分かたれた下の殻、してみると人間にも相合う部屋というのはあるものだと、築宮も自分とこの部屋の和合を実感していたが、それを不可解とは思わずに、令嬢の人を見る眼と似合いの部屋を選ぶ眼力に、ただただ敬意の念を払った。なんとなく指を這わせた窓の木枠の肌だって、指先を滑らかに優しく迎え、吸いつくかのよう。  兎にも角にも。色々と不明な事だらけの築宮にも明らかなのが一つある。  この部屋にある限り、自分は龍の秘中の珠のように安泰であると言うこと。  とりあえずはそれさえ知っていればいいではないかと、築宮は床に入ることにする。  黴臭さなど毫《ごう》の先程もないのは、潜りこむ前から予想がついていたし、枕の高さ硬さ、掛け布団の重さ柔らかさだって、寝返りのない熟睡と安らかな目覚めを確約しており、体温が馴染んでいくのと歩度を合わせて眠気が全身を包みこんでいく。  それでなくとも今日一日色々なことがあった、ありすぎた。  築宮に刻みこまれた躾は相当に厳格な性質のようだが、それさえ、もう良い、もう休んでいいと許しを出している。  先のことを考えるにしても明日になってからだと、築宮は睡魔に己を預けた。  部屋に面した水路からの絶え間ないせせらぎも、眠りを妨げるどころか揺りかごを揺らす手のように心地よい。  ただ……眠りに落ちる寸前、水路を渡って、なにか物音の連なり、というか切れ切れの旋律が届いてきたようにも、ぼんやりと。  ぽつんぽつんと―――弾くような、絃《いと》の音、だろうか―――これは―――琵琶―――とか、そんな楽器が―――  聴き分けるまで踏み止まれずそうしようとも思わず、意識は途切れて、それなりけり。  ……。  …………。  ………………。  明くる日築宮は、布団の中に半身を起こして銀の懐中時計を眺めている自分を見出し、いつの間にか目覚めていたことを知った。布団の中に起き出したのも、枕元へ置いてあった懐中時計を手に取ったのも、意識より先に目覚めた体が勝手にやったことらしい。だから懐中時計を見つめていたといっても蓋を閉めたまま。  眺めている物の判別がつくくらいには意識の輪郭も定まってきていたけれど、築宮が〈漠然〉《ばくぜん》とした不安でもって周囲を見回したのは、眠りがごく自然であまりにも安らかなせいだったからかも知れない。そら、物事はよいことばかり続かないという悲観的な心理作用の、それだ。  つまり彼は、自分がこれまで体験してきたのは全てが夢であり、こうしてうち眺める座敷の景色も、気を許した途端に色彩の混沌へと溶け崩れ、たちまち悪夢の世界に変幻するのではないかと恐れたのである。  ……が、幸いというか気の回しすぎというか、壁も柱も畳も彼の好みにぴたりとそぐう調度も、泰然とそのままの位置にあり、揺るぐ気配など蚊の目玉ほどもない。築宮が目覚めきるのを見守るかの如く、と言っては表現が詩的に過ぎるが、実際彼は座敷の事物があるべき位置に収まっていることに安堵したので、ようやくしゃんと目を覚ますことにしたのだった。  悪意ある悪戯の例として、人の一番個人的な領域である部屋の家具の配置を、当人の知らないところで少しずつずらしていくというのがある。些細な悪さのように思われるが、これを巧妙にやられた場合、悪くすると人は容易く発狂する……と、物語が横道に逸れた。  要は築宮が、部屋がここに決まった翌日早々だというのに、旅先の部屋特有のよそよそしさに悩まされることもなく、居着いてしまったという事。だいたい過去のおおよそを失った築宮にとっては、目覚めて違和感を抱けるほど、自分の部屋の記憶を残していない。ともかく、このまま布団の中に座りこんだままでは、尻から根が生えたように動けなくなりそうな。  窓の外はぼんやりとした明るさで、まだ旅籠が動き出すまで少し間がありそうだが起き出すかと、築宮は時間を確かめるため懐中時計の蓋を弾いて、ふは、と漏らした鼻息が、気の抜けている。  もう、正午近かった。朝まだきどころか。  そういえば、朝というには腹時計の具合が随分ずれているではないか。  ……青年の預かり知らぬところだが、この朝布団を上げに来たお手伝いさんは、声を掛けても瞼を乱しもせず眠りを貪《むさぼ》り続ける築宮を配慮して、起こすことを差し控えたのである(彼女がかつて寝起きの悪い客を起こそうとして逆上され、布団の中に押しこまれて布団蒸《む》しにされ窒息しかけたという暗い過去も手伝った)。  なおこのお手伝いさんは、築宮の寝顔があまりにも静寂を湛《たた》え微動だにせぬのに不安になり、彼の鼻先に寝息を確かめようとしたところ、寝ながらに大くさめをかまされ腰を抜かしかけたという〈顛末〉《てんまつ》もあるのだがそちらもさておき―――  さては外が曖昧な模様だからここまで寝こけん坊《ぼ》だったかと築宮、たとえ座敷の外にどれだけ景観が広がろうとも屋内にあっては天気がどうこうはなかろうに、やや慌て加減で掛け布団をはねのける。  こう朝を無駄に寝過ごすことに罪悪感を覚えてしまうのは、元々の自分の性分なのか慣れない土地にある故か。立ち上がったものの次の行動に戸惑い布団の上でもぞもぞ二の足を踏む彼の耳に、窓の外から、      こつこつ        こつこつ……。    森の中に聴く〈啄木鳥〉《キツツキ》の幹を打つ音というのは、朝なら生き生きと、午後ならどこか物哀しく響くという不思議な特色がある。かの岩手生まれの歌人が自分の号にこの鳥の名をとったのもあながちその辺と無関係ではあるまいが、窓の外にあるのは座敷の並びと水路であり、木立に住まう鳥もあるまい、さては水路伝いに獺《カハウソ》でも上がってきて悪戯かとあらぬ妄想を繰り広げてしまうあたり、築宮まだまだ頭がはっきりしていない。  なおもこつこつ窓枠を打つ音は鳴りやまず、手をつくねていても始まらないと開け放とうとして、 「旦那ァ……築宮の旦那?  もしやまだお寝むなんで?」  聞き覚えた声だった。獺《カハウソ》が採った魚を水際に並べていくのを一名〈獺祭〉《だっさい》という。築宮の脳裏に繰り広げられていたそんなけったいな幻想は一遍に吹き払われて、窓辺に駆け寄った。 「なんだい、ホントに寝てたんですかい」  窓の外に取りつけられていた〈梯子段〉《はしごだん》は、こういう風に使うのかと築宮は納得する。窓の下の水路には、あの小舟が留まっていた。  水路から上がってきて、片手を段にかけ、もう一方を窓枠を打つ形に伸ばした異様な風体の女。割れ般若の面の恐ろしさは変わらず、それでも築宮は、こうして再会した渡し守が、〈星霜〉《せいそう》の年月を経た後のように懐かしい。 「お、おはよう……」  なにやら喉に迫る感慨があって、それを押し出すようにしてようやく言えたのが、我が事ながら間抜けた挨拶だった。  が、渡し守はいかにもさばさばしたもので、からかうような笑みを浮かべながら、 「なにが早いものかね。もうお昼だ」  築宮には異国で旧知の友を見出したような再会を、渡し守は実にさらりと流したものだ。  かといって薄情と誹《そし》るものでもない。そもそも彼女は旅籠と縁深い渡し守であり、青年とも顔つき合わせる機会など幾らでもあると告げたのも、つい昨日ではなかったか。 「……ても、まあお日さまも出てこないんじゃ朝昼の別もわかりやしませんよねえ。ええ、ここからじゃあわからんでしょうが、外はお天道様、休みなんです」  とちょっと真顔になって、 「というより、明け方ひどく降りましてね、あたしもここに降り籠められちゃった」  名乗りもしなかった青年の名前を、渡し守がいつの間にか心得ていたのは、昨夜降り籠められているその間に耳にしたものと覚ゆる。  築宮は、雨が降った? と窓から振り仰いだが、視線は上のほうで天井に遮られ、空模様などわかりはしない。なんにしても旅籠の屋根は彼の座敷から遙か高いところにあり、たとい雨が降ったところで雨垂れの音など届きもしないだろう。だいたい築宮だってその頃深い眠りに就いてあり、じかに雨の中に放り出されでもしない限りは目覚めもしなかっただろう。 「なんで……すいませんが、旦那がもし、もう今日ここを発ちたいと、そう申されても、ちょっと舟は出せないんですよ」 「なんしろ外はえらい大水になっちまってましてね、きっと〈水脈〉《みお》も変わっちまってるよ、これぁ」  言われてみれば旅籠の中の水路も、やや水かさが増しているような気がする。  正直これからどうするか、まだ決めあぐねていた築宮だったが、このアクシデントを逆手にとって、少なくとも今日一日はこの旅籠でゆっくりできるものと受け入れた。  そうでなくとも、冬に追い立てられる渡り鳥のように、〈気忙〉《きぜわ》にこの旅籠を発つ意志など、既に築宮の中から失せている。 「まあそういうわけなんで。  そんじゃまあ、ごゆっくり。  お邪魔さまでしたよ」  伝えることだけ伝えると、段を降りていこうとする渡し守、を築宮、〈後襟〉《うしろえり》を掴むように呼びとめた。 「ちょっと、貴女!」 「はいね?」 「その……懐中時計を有難う。  これのお陰で宿代の心配が無くなった。  ……本当に、有難うございました」 「なァんだ、そんなこと」 「いや、あなたはそうは言うけれど、貴重なものなんだろう?  ここの令嬢も、そういう口ぶりだった」 「だから、改めてお礼が言いたくって……」  渡し守はやっぱり〈飄々〉《ひょうひょう》としたものだったけれど、築宮にはこの恩、おいそれと忽《ゆるが》せにできたものではない。窓の柵から身を乗り出すように、深々頭を下げた、とそれで間抜けにもバランスを崩し損ねたところを渡し守がさっと支える。  どうにも締まらないことこの上ない。 「うわったた……!?」 「おやおや、なにも顔を洗うのに、〈水潜〉《みずくぐ》りを決めこまずともようございましょう」  台詞にこそからかいの薬味を効かせていたが、つと腕を差しのべて築宮の肩口を支える彼女の、生身の半面が、優しくて、情味に満ちて。  かつ渡し守を上から覗きこむ形の築宮には、肩口にたわんだ墨染めの衣の袂から伸びる腕のしなやかな白が眩《まぶ》しくて、そして袂の奥の暗がりの見え隠れする腋下の素肌、曲線が彼女のおんなを秘やかに匂わせて。  体を引きあげる彼が目を逸《そ》らし気味だったのも、頬を薄く紅潮させていたのも無理からぬ話である。  感謝と疚《やま》しさとで微妙な表情の青年に、 「……懐中のことですが、なにもそんなに堅苦しくなくってもいい……ただ」 「ただ……?」 「ゼンマイを巻き忘れると、時間がわからなくなりまさぁ」 「ここにはあちこち時計があるが、正しいものは、滅多にないって話でね。まあお帳場のは、狂いが少ない」 「あとはどこだかに、何時でもぴったり合ってる、時計台があるてェのが、あてにもならん噂だが」 「ま、そこまで時間にこだわらずともよい、といえばその通りですが」 「ただ……」と言葉尻が少しばかり深刻味を帯びたのに、築宮も釣り込まれたが、結局彼女が語ったのは〈洒脱〉《しゃだつ》なよしなし事ばかり。  どこまでいっても、とらえどころのない女がこの渡し守なのである。  真面目くさって力を入れた腕で、〈暖簾〉《のれん》をめくったように甲斐がない。が、懐中を預けたことをそんなに重圧にするなと渡し守が暗に言っているのだと、さしもの築宮にも〈諒解〉《りょうかい》されてくる。  ならばこれ以上の感謝の言葉は、むしろ手前勝手な押しつけになろう。  せめて自分にできることは、いつか返すその時まで、傷つけぬよう壊さぬよう、渡し守の分身とも念じて大切にするばかりと、築宮はポケットの上から懐中を撫でた。 「そうですよ。  旦那が持っているのが一番良い。  それにね、そいつを持っていると―――」  段を伸び上がるように顔を寄せると、般若の面が脅かすようだったが、声が世界の摂理的秘密を口伝するかの如く潜《ひそ》められ、 「なんと、ただ酒が呑み放題です。  ただ、ロハ、代銭要らず。  酒場でそいつを見せてやるだけでいい」  ……酒好きにとって素晴らしき贈り物三つを挙げて下から数え上げれば、    ・三位:たくさんのただ酒。  ・二位:もっとたくさんのただ酒。  ・一位:酒の代わりにニトログリセリンを      たらふく呑ませて、あの世まで尻      を蹴っ飛ばして差し上げること。    ……というのが決まり相場だという。いずれにしても深酒の挙げ句自分がどうなったのか、身に沁みている築宮である。忘れてしまいたいことだけを覚えているというのは、どんな天の皮肉かと思わないでもないが。  酒と聞いて、一山の塩でも舐めたような顔つきになった築宮へ、こりゃしくじったと苦笑を零《こぼ》して渡し守は段を降りていく。  櫂を取り上げ、築宮へ掌をひらひらさせて、細い水路を漕ぎ出していく。  渡し守の小舟が角を曲がり、艫《とも》が見えなくなっても、築宮はしばらく窓際に彳《たたず》んだままでいた。  ……。  …………。  ………………。  旅籠の中には廊下や階段が無数にあって果てしなく交錯しているかのように思われ(事実もさほど異ならなかったろう)、退屈を持て余して廊下とんびを決めこんだにもかかわらず、〈迂闊〉《うかつ》に遠出すれば慣れない築宮はあっさり迷子になったろう。むしろ遭難と言うべきか。〈錯綜〉《さくそう》する廊下の端々には人通りが絶えてない区域もあるに違いない。そんな場所で携行食糧と飲料水もなく帰り道を見失ったら、と築宮は軽い恐怖を催した。  ―――そこは、払う手もなく埃が死衣のように積もり重なった、見捨てられた旅籠の一画だ。入り組んで、奥まって、廊下はゴルディアスの結び目のように〈錯綜〉《さくそう》している。死んだような静寂に沈んだ廊下は、エントロピーの飽和的な調和がとれていると言えたが、片隅に釣り合いを乱すように埃の中浮き上がるオブジェが一つ。  乾ききり、干からびた、かつてはここの客であったろう死体だ。死の苦悶を物語るようにその一画だけ埃の膜が乱れ、色褪せてワニスも剥げた床板を露わにしている。  萎《しな》びて木の細根のようになり果てた指先が、床板にぎざぎざと痕を残して食いこんでいる。死体が残した痕は、      ――― ひ も じ い ―――    と読み取れた――― (うああ……)  己が勝手に呼び起こした妄想にこれまた身勝手な怖気を振るいつつ、築宮はあたりを見回して、そしてほっとした。  彼が腰を下ろしているあたりは、自分の部屋から程遠からぬ辺りで、時折お手伝いさんも行き交えば、近くの座敷からは柱時計のものと思しき振り子の音も伝う、人の営みの気配がすぐそばに感じられる。  遠くから漏れ伝わる静かな生活音は、まるで冬の夜更け、雪の降り積む静寂の中ですっぽり〈炬燵〉《こたつ》に嵌《はま》り、祖母から絵本を読み聴かせをしてもらった幼年時代に帰ったような、郷愁めいた安心感を誘う。  だいたいにして築宮が、旅籠を樹海もかくやの〈魔処〉《ましょ》とするような好き放題な妄想に耽《ふけ》っていられたのは、今座っているのが彼を脅かすものなど何一つ無い、安心してくつろげる空間だったからこそ。  そこは階段の脇の空隙を利用して、革張りのソファや洒脱な円卓などを配し、ちょっとした休憩所に仕立てられた小空間。  漫然と廊下を歩いていた築宮は暗がりに設えられた休憩所に、秘密の隠れ家を見出した気持ちになった。こういう階段下に引っこんだ小区画を、洋館ではイングルヌックなどというそうだが、よほど造りに余裕がある館でないとそうそう設けられるものでもない。  しかしこの旅籠にはこの手の小区画をこしらえられそうな隙間がどれだけある事やら、数えようとするだけで馬鹿らしい。  まあイングルヌックだろうがなんだろうが、呼び方など築宮には重要ではなく、階段と廊下が造り上げたこの休憩所に宿る、優しい暗がりがなんとも得がたいもののように感じられた。ソファに張られた革地も、擦り切れかかっているが本革で、合成皮革のビニル臭い奴ではない。  円卓に置かれた優美な曲線に形造られた読書灯の光りも、暗がりを不粋に吹き散らかすというより、そっと手で分けるような風情で奥ゆかしい。旅籠を取り巻く大河が雨天後の〈薄曇〉《うすぐもり》に覆われているせいか、内にもぼんやりとした薄暗さが〈横溢〉《おういつ》しており、時間感覚を惑わせる。懐中時計を確かめれば、午後のさほど遅い時間でもないことが判るはずだが、築宮はあえてそうしようとはしなかった。黄昏時が長く引き延ばされているようなこの曖昧な雰囲気を、あえて自ら台無しにする事もあるまい―――そんな風に考える辺り、この青年は記憶を失う以前から、日進月歩どころか秒刻みで時間を浸食していく浮き世には、いささか相容れない人間だったのかも知れない。  しばらくあてどもなく廊下に視線を遊ばせていた築宮だったが、ふと思い出したように先程から読み差しにしたままの小説本に眼を戻した。  書見台脇の雑誌入れに放りこまれていた、表紙が擦り切れかかった大衆小説本である。古本屋であれば店先の台に何冊幾らで〈野晒〉《のざら》しにされているような、まあ毒にも薬にもならない類の時代遅れの小説であり、〈消閑〉《しょうかん》の具になるかと引っぱり出して開いてみたものの、どの頁を斜め読みしてもたいして築宮の興味を惹くようなくだりはない。雑誌入れには数冊が収まっていたが、他は婦人雑誌の類ばかりで、こちらはもっと彼の興味の外にある。新聞の綴じ込みなどは見られず、読むともなしに頁を行ったり来たりしているうちに、折り癖がついている裏表紙がめくれた。  見れば紙片が貼りつけられの、一つ二つ人名が書きこまれている事から、貸出票であるらしい。名前の後には貸出中か返却済みを示す判子印だけで、日付はない。 「なんだか図書館の本みたいだな……」  頭上に被さる低めの天井の暗がりに独り言を吸わせながら、古本をあれこれひっくり返してみると、なるほど、頁を閉じた天と地に、 『図書室収蔵』  の判子が捺されてある。してみるとこの旅籠、どこかに図書室まで設けられているのだろう。築宮、この本はさして気を惹く内容ではないが、図書室まで行けば自分が読めるような本があるかも知れぬ、暇潰しになるかも知れぬとソファから浮かせかけた腰が、中途でまごついた。  そもそも道筋を知らないのだ。こうまで広い旅籠の中、当てずっぽうに歩いて辿り着くには、よほど巧いこと幸運の女神を口説き落とす必要があろうが、こと女の扱いにかけては渡し守や令嬢を相手にした時の彼を見れば、その腕の冴えがわかろうというもの、つまりが脈はない。  旅籠内部を示す建屋配置図などがどこかにあるにしても、まずはそれを探し当てないことにはどうしようもなく、がっかりしてソファに沈みこみそうになった、そこへ折良く通りかかったのがお手伝いさんである。  こちらならば、渡し守や令嬢よりはまだ与《くみ》しやすい相手と見た。  お仕着せのスカートの裾を翻《ひるがえ》し、小走りなのからして用向きの途中と見えて気が退けないでもなかったが、たいして手間はとらせないはず、と築宮彼女を呼びとめた。 「あの、申し訳ないが、ちょっと訊ねたいことがあるんです―――」  きゅ、とワニス塗りの廊下を鳴らして立ち止まったお手伝いさんは、階段脇からぬっと顔を突き出してきた築宮をしげしげ見つめ、  そして、  ほんのり、  目元に浮かべた、薄紅色。 「やぁん、駄目ですよお客さまったら。  こんな昼間っから―――いえ、薄暗いですけどね?」  照れたように胸元の掌を留まらせ、体をしならせる、声がコケティッシュに弾んでいた。  そして唐突と言うのがこれである。  築宮が差し上げた手を取ったとみるや、素早く腕を絡ませ、階段下の暗がりに押し入って来て、ひたりと身を寄せた、面食らう間もなく青年は柔らかなのと抱き合う形になる。 「は……? いや俺は、その」  旅籠のお仕着せは浮ついたところの無い、地味で厚ぼったい物だが、その〈裡側〉《うちがわ》はまぎれもなく女の子の優しげで華奢な体。  彼より頭一つ小柄なのが、見上げてくる眼差しが思わせぶりで、けれども築宮にはいきなりの事とて、まだピンと心が動かない。  抱きしめられているのだ、と彼が実感するまでいささかの間があった。  実感した途端に、さっと頬が熱くなる。 「それにウチも、用足しの途中なんですよぅ……でも」 「お客さまだったら、イイ……かな」  見上げつ、胸の膨らみを押し当てつ、薫ったのは〈石鹸〉《せっけん》の匂いとそして薄甘い、肌の匂い。背なに廻された彼女の腕に指に、しっとりして、媚びを含めた力が籠もって、愛おしげな。 「用事なんて、すぐに済ませちゃいますからね。そしたらすぐに落ち逢いましょ、ね?  ちょうど良いお部屋を知ってるの」 「そこなら誰も来ませんし、佳いお酒だって隠してるから。  そこで、ゆっくり―――ね?  今から地図を描くわ。すぐに」  眼差しは築宮にさえその意味が看て取れるくらいに艶を帯び潤《うる》み、軽く開いた唇を、ちらりと舐めた舌が濡れて赤い。  そんなのが、腰に提げていた大福帳を取り、『逢い引き用のお部屋』とやらの地図を描き出そうとするとあっては。  抱擁はいったん解いたものの、腰はまだ擦り寄せたままとあっては。  ―――この唐突な展開に、築宮は著《いちじる》しく動揺したという。 「ちょっと待ってほしい、落ち合うってなんで……っ!?」  慌てて手を翳《かざ》して押し止めようとしたが、お手伝いさんの解釈は斜め上に突き抜けた。 「えぇー……そこまで待てないってですか。  こんなところで、しちゃいたいんです?」 「ウチ、忙しないのは、好きじゃないんですけど……ま、お客さんならそういうのもありかなー……」  とまたきゅっと抱きしめて、そればかりか築宮の脚の間に割りこませてきた太腿の、厚ぼったいスカートの地を通してなのに柔らかく、既に熱を含んで―――  太腿のむっちりしたのが、股ぐらに押し当てられるそれだけで、青年の男の器官にずくりと響いた、くすぐったいようなやるせないような疼きは、久しく覚えなかった性感へのときめきだと不意に覚った、築宮の心を煽るように、お手伝いさんの吐息がまた熱く、情火を催した女独特の、小さく短《みじか》な喘ぎまで含んでいたとあっては。  階段下の秘やかな暗がりが、たちまち淫靡な熱を孕《はら》みはじめ、ついに築宮はたまりかねて叫んだことである。 「ち、違うッ、なにを勘違いしているのか知らないがとにかくそうじゃない、  そうじゃ、なイィィッ」  彼の語尾が裏返っていたのも、この場合、むべなるかな。  ………………。  …………。  ……。  ……お手伝いさんの誤解(?)を解くまで、築宮はかつてないほどの努力を要した。  とにかく自分は図書室を探していること、道筋を知っていたなら教えて欲しいことを伝える築宮の、あまりに必死な様子にお手伝いさんもようやく引き下がったのだが、それがなんとも不満そうな、軽く頬を膨らませているのも愛嬌だとはいえ。 「もー……そういうことなら、はやく言って下さいよぅ。女の子をその気にさせといて、ホントは本なんかが、お目当てですかあ?」  スカートの腰の辺りをもぞもぞやって、何事か直している風なのは、もしや青年がたじろぐばかりであった間にも、下着をずらして『準備』していたのかと思えば、彼女の性へ果敢なのに恐れ入るばかり。 「お客さん、ひどい人ですよね」 「……ごめんなさい」  ぷりぷり膨れ加減の相手に、どこか理不尽を覚えつつも築宮素直に謝るほか術を知らず。それでも、こんな風でも根は親切と見えて、お手伝いはぶつくさ漏らしながらも大福帳の一枚を引き破り、さらさらと地図を引いてくれた。  もちろん、図書室までの地図である。  ざっと見たところ、この休憩所から結構離れていそうだが、お手伝いさんの地図はこれでなかなか要を捉えていて、築宮でも辿ることはできそうだった。 「右、左、左、と曲がって一階上がって、渡り廊下があるのか……渡って……うん、行けそうだ」 「あの……有難う。仕事中だったのに、手間を取らせてしまった」 「別にいいですけどねっ」  唇を尖らせて横を向いて拗《す》ねた顔、は長く続かず、向き直って屈託なく〈頬笑〉《ほおえん》んだ。  と、築宮がなにか言うより先に一歩踏みこんで、二人の〈間境〉《まざかい》を楽々踏み越え、きゅ、と。  もう一度築宮の背中に腕を回し、抱きしめ、ばかりか彼の胸板へ唇を押し当ててきたのが、彼女の情愛を示して積極的だった。  布地越しに通った息の温度に、言葉を失い硬直する築宮をよそに身を離し、お手伝いさんはさっと踵を返す。 「それじゃあウチはお仕事があるんで」  すたすた歩き去っていく―――かに見えて、いったん立ち止まり、 「あのね、お客さん。ウチはたいてい、こっから七時の方角の第五リネン室にいます」 「暇になったらいつでも来てね。  お客さんだったら、ウチ、いつでもオーケーですよ?」  言い置いて、あとは小走りに足を速め、あっと言う間もなく休憩所の上の階段を昇って見えなくなった。  頭上に響く足音が聞こえなくなっても、築宮は呆然と佇《たたず》んであり、あまりにあけすけな彼女の深情けに当てられて、しばし思考が凍結してしまう。  あのまま彼女となりゆきに身を任せていたらどうなった事やら。あるいは今から追いかけて、腕をつかめばそのまま近くの空き座敷へ二人で崩れて、布団も延べないまま衣装も解かないまま性急に、胸と胸が重なり脚と脚とが絡んで吐息が燃えて―――と、情欲が湧き起こりそうになるところを、懸命に抑えこんだ。  思えばお手伝いさん達にもそれぞれ個性があるようだとは感じとりつつも、彼が見てきたのはどちらというと真面目なタイプばかりであの手のはいなかった。それだけに同じ顔でああも解放的なアプローチを寄せられた衝撃は、大きい。 「……行くか」  わざわざ独りごちたのも、そうやって口にしないと図書室を探していたことさえ忘れそうだったからだが、休憩室から歩き出そうとして、一幕の騒動に卓上に置いてけぼりにされていた小説本が目に止まった。  自分は今から図書室に向かうつもりである。  そしてこの本は図書室から持ち出されたものらしい。  あるべきものはあるべき〈場処〉《ばしょ》へ、とも言う。  築宮は――― select  円卓から古本を取り上げた。図書室を探すついでに、この本も返してやる心算だ。こんなところに放置されたままというのは、どう見ても以前の客が、借りッ放しで置き忘れていったとしか思われないから。  思案した末に、結局古本はここに置いていくことにした。  図書室の印は捺《お》してあるけれど、もしかしてこの休憩所に備え付け用にしてあるかも知れないから、そういうのを持っていってはよけいなお世話というものだろう。  ……。  …………。  ………………。  道中、少々廊下の曲がり順を間違えたか、引き返したりもしたけれど、築宮はどうにか目的の図書室と思しき部屋を見出していた。  旅籠の中は区画によって様々な様式が混在しているのか、お手伝いさんから渡された地図に従い進むにつれ、目に〈馴染〉《なず》んだ和様の造りにところどころ洋風の造りが入り混じるようになった。図書室の位置している一画も、前近代的湿潤の純日本家屋というよりは乾性の、西洋建築が流入し始めた頃の官舎や学校を連想させる雰囲気で建て付けられている。思えば旅籠を大河からうち眺めた時にも、洋の東西を様々に取り混ぜた建築様式が混在しており、まるで折衷料理的な……を通り越して闇鍋式の。  さてそうやって探し当てた一室にて―――  扉に特に図書室を示すプレートなどはかかっておらず、なのにここは、まぎれもなく図書室なのだと築宮は確信する。  使いこまれた書棚へみっしり収められた書物の背表紙の並びは、色とりどり、版型も多様で、さながら興趣と変化に富んだモザイク模様のよう。  一体、満載された書棚というのは、それ一架でも知の散逸へ備えた〈方舟〉《はこぶね》じみて物々しいものだが、更に何列も並ぶとなると物々しいを通り越して仰々しい。  巷間には三一書房という〈書肆〉《しょし》があり、ここの〈上梓〉《じょうし》する小説全集は、知名度の低い(憚りながら)、あるいは異色とされる作家のものばかりである。  すなわち書肆名の由来は、彼らの諸作が忘れ去られることのなきように、もって三一ならぬ散逸(を防ぐための)書房と号すと皮肉られる事もあったり……いや、そんなのは〈却説〉《さておき》。  とまれ、ここの図書室の書棚の列は、ありがちな窮屈な印象を押しつけてこないのだ。 (……なんて言うのか、逆に珍しいんじゃないのか、こういうのは……)  室内を満たす静寂へ敬意を払うようにして、後ろ手に閉める扉を音立てぬように、足運びも騒々しいのは控えつつ、書架の〈峪間〉《たにま》を巡り、ざっと背表紙の並びに視線を走らせる。それだけでも表題がすらすらと頭に入ってくるのは、書物の大半が小説や物語本だったから。ただいずれも中途半端に時代遅れの。  漢字だらけで〈一瞥〉《いちべつ》して専門書、研究書と判別がつくのもあるにはあるが、それらより小説本の版図の方が広い。  そういった書物の分布が、この図書室に一種砕けた印象を与えているのだ。 (こういう図書室ってのは、もっとこう、小難しい本ばかりがありそうなもんだが)  築宮は蔵書のうちから適当に何冊か引き出し、裏表紙をめくってみれば、『何々某氏寄贈』の記入が多く見受けられ、しかもそれらがまとまった数を寄贈したのではなく、幾人もの個人が数冊ずつ細々と納めていったのではないかと推測される。  もしかするとここの蔵書群は―――  かつてこの旅籠に宿を取り、そして去っていた旅人達が、それぞれ鞄の底などに忍ばせていた暇潰しのよすがを、そのままこの図書室へ預けていったのではないかと、そんな経緯が築宮の脳裏をよぎっていったものだ。  古い図書室に特有の、どれだけ換気に気を払っていても籠もりがちな古い紙の匂いと微かな黴臭さを、いかな名香に勝る至福の香気とする人種がある。  〈書痴〉《しょち》と呼ばれる者達で、さすがに痴とまでは〈渾名〉《あだな》されかねるとしても、築宮にも幾らかはそのきらいがあるらしい。  実際、古紙の匂いで〈胸郭〉《きょうかく》を満たしていくのに微かな快味を催している築宮で、誰もいない書架の合間の静謐も、彼に秘やかな悦びをもたらす。  ―――と、その足取りが留まった。書棚の一番上の列を仰いだ形で。 「……え?」  思わず声を漏らしてしまってから、耳を澄ますように固まったのは、書架の隙間あちこちに潜みいた書物の化身や紙魚の精どもが、絶えて無かった人声を厭《いと》い、「しぃ……」と唇に指で蓋して咎めだてしてくるのを恐れたためではない。  彼の眼差しは、書棚最上列の一点、とある物語本の背表紙に吸いつけにされたまま動かず、かつ、その題名を通り越して遙か向こうを眺めているような、遠い色合いを浮かべていた。  その〈題名〉《タイトル》自体は、なにも〈蒐集家〉《コレクター》〈垂涎〉《すいぜん》の稀少本というのではなく、そこらの市井の図書館でも閉架あたりに収めてありそうなもので、問題は―――  築宮は、その題名に覚えがあったのである。  自分の過去にまつわる記憶一切を、どこかにそっくり置き去りにしてしまった彼が、だ。  瞬きにそよぐ睫毛の音さえ聞き取れそうな無音の中暫時、やがて青年は周囲をゆっくり見回し、手頃の脚立を見つけて引き寄せたのが、何者かに糸繰りされるように人形めいた動作だった。  意識からその書物以外の事象が追い出され、踏み板に足を載せたのだって、傍目から見れば歩き始めの赤子が木登りするように危なっかしいといったら! 「知ってるぞ、俺は……!」  しかし危うい足取りのまま一段二段と上がっていく青年の目に映るのは、ただ書物それあるのみ。  もしかしたら。  もしかしたら―――!  なんの変哲もない一冊の単行本が、己の記憶を解き明かしてくれる魔法書ともなるかも知れないではないか。  一冊の書物を、自分の過去を手繰りよせるように手を伸ばそうとして、そこで。  昇ってみて初めて気がつく高どころ、上に立てば床は遙かに下に―――実際の高さよりももっと下に見えて、なぜ自分が脚立なんぞに乗っかっているのか、築宮は初めて気づいたように激しく〈狼狽〉《うろた》えた、のがいけなかった。  あるいは書物に気を取られたままなら、見えていない者の怖いもの知らずでいられたのかも知れないが、もういけない。  床が揺らいだと見えたのは、彼の体勢が揺らいだのである。  あっけなくバランスを崩し、脚立の上で羽ばたくように両腕を振り回し、傍目には滑稽なパントマイム、本人には至って深刻な重力への抵抗は、空しかった。  足元が脚立の段から離れて、あっさり。  視界の中で背表紙の列が逆しまに流れる。  もし築宮が、銀の吸い口の法螺貝を唇に当て、床板が迫るや背を弓なりに反らし、書棚の天板をかすめて鞍馬のお山の天狗はだしに仙界へと飛翔できるだけの器量を持ち合わせていたなら、落下の瞬間という恐怖を味合わずに済んだものを。  そして言うまでもなくそんな怪しげな通力など持ち合わせるはずもない青年は、真っ逆様の、待ち受けるのは床板に脳天直撃の衝撃、かくて旅籠の逗留の日々の残りを、床から立つ事もままならず、割れてしまった頭蓋骨をつなぐことに費やしておしまいの、一巻の終わりというにはなんとも情けなく―――  一瞬のうちに後悔がみじめに駆け巡ったが、走馬燈は廻らなかった。  なかば覚悟していた苦痛もなかった。  あったのは、薄い羽二重を何枚も重ねたように柔らかな感触。  舞ったのは、床板の隙間に溜まっていた埃どころか、色硝子を細く滑らかに引き伸ばしたような、波打つ髪の。 「危ないわ」  声もまた、蜜を含ませたように耳に甘い。  墜落の恐怖に強ばっていた筋肉が、緩く溶かされていく。  築宮を包んだのは、失墜感と似て非なる浮遊感であり、彼はそろそろと瞼を押し開いた。  足はまだ地に着いていない。  姫抱きというのか、築宮はあの、壊れものに等しい乙女を扱う形で横様に抱えられ、もう危うげはなく、なかったけれど、腑に落ちかねる。  自分は一体なにがどうしてどうなった?  なぜ転落せずに事なきを得た? 「気をつけて。  高いところの本が見たいのなら、  係りの者に声を掛けて。ね?」 「大丈夫と思うのだけど。  傷めたところ、ないかしら?」  築宮を覗きこむ彼女の肩口から背中に、艶を帯びた髪が〈紗幕〉《ヴェール》のように緩く波打つ。  だがそれら匂びやかに〈臈長〉《ろうた》けた打ち見より、築宮の心を捉えて呑みこみ魔に魅入られた修行者のように言葉を失わせしめたのは、綺麗に手入れされた眼鏡の向こうの眸《ひとみ》。  澄んだ〈琥珀〉《こはく》を幾層も重ねたような深味を帯びた眸の奥で、揺らぎ、時に煌めき〈揺曳〉《ようえい》するかと思うと遠ざかる、夜の果てに遠く点《とも》されたような星のような光。双眸が心の窓だというなら、一体この女性は、その裡にどれだけの深さと広がりを蔵しているのか空恐ろしくなるほど。  原初の大森林、天に駕《が》す〈峻険絶壁〉《しゅんけんぜっぺき》、果てなく広がる海原、といった人間の力及ばぬ絶景と裸で向かい合ったのと同質の心細さに囚われ、築宮は唇に応《いら》えの一つだにまともにのぼせず立ちつくしたが、 「……大丈夫?  もしかして、どこか酷《ひど》く打ったりしたの?」  と重ねての、案ずる声音に人間味が満ちており、築宮が二・三度瞬きするうちに、途方もない質量を想起させる印象は消え失せ、女性は何事もなく等身大の姿に収まっていた。  そうやって気が鎮まってみると、なりに派手さはないが、いかにも図書室係、司書というにふさわしい、しっとり淑やかな大人の落ち着きを備えた女性である。  思えばこれだけの図書室だもの、司書の一人くらい置かれていて当然なのだが、この女性のお陰で助かったのだとようやく自覚されてくる。  ただそれにしてもと、舌の上にまだ残る疑問というか違和感は、自分がいかに書物に気を取られていたとは言え、周囲に人の気配は全く感じられなかったこと、それに、随分と派手に転げ落ちたはずなのに、この司書はやけに軽々自分を受け止めたということ。  いずれにしても彼女がいなかったら……と改めて肝を冷やす。  築宮が感謝の言葉を延べようとするより、司書の方が先だった。 「ありがとう―――貴方でしょう?  これをわざわざ持ってきてくれたのは」  こちらが言うつもりだったはずの感謝の言葉を先に取られて、少なからず戸惑ってしまった築宮だ。  礼を述べようとした、言葉の枕を押さえられ、感謝される謂われなどあったかと、不審な眼の彼に、司書が顎で示したのが、休憩所に放置されていた小説本である。  図書室の中を見て回る前に、築宮が書見台に置いておいたのを、司書はめざとく見つけていたらしい。首肯する築宮へ、 「ここは、最近では利用する人も少なくなってね。  貸し出した本が戻らずじまいなんて事も、よくあることなのよ」 「―――だから、嬉しい」  〈柔媚〉《にゅうび》に微笑む司書から、幽かな香りが漂って、胸元をくすぐる髪の感触に、築宮は今更になって自分の状態に気づいた。美しい人に抱きかかえられているという。  一拍遅れて、薄いブラウスの地を通して彼女の肌の温もりと、豊かな起伏の柔らかさが伝わってくるのに、お堅い築宮のこと、大いに戸惑った。 「その……受け止めてくれて、本当に有難う。で、その……そろそろ下ろしていただけませんか……?」  相手の機嫌を損ねないように願ったが、青年自身は今少しこの良い香りして柔らかな胸の中に留まりたい心地であったのを、否定しきれない。  けれど築宮は、状況に流されるままよりも、そんな情動に駆られそうな自分をまず恥じて、司書の腕の中で身じろぎをする。  もちろん、相手に失礼のないように、だが。 「貴方に怪我がなかったのなら、それがなにより。  ……でも、もう少しこのままでいるというのは、いかが?」 「え……いや、その」 「……冗談よ。  私としては、少ぅしもったいないような、そんな気もするけれど」  冗談とは言いながら、どこかに本気の情火も窺わせていたのには築宮、重ねて胸騒ぎを覚える。  と、ふと、鼻先をかすめる〈微薫〉《びくん》に奇妙な匂いが混ざっていることを感じとった。  古紙の匂い―――それもあるが、この図書室の司書ならば仕方ないだろう。そんな枯れて淡い匂いではなく、もっと〈稠密〉《ちゅうみつ》で生々しい、それは……血の、匂い?  はっきりと嗅ぎ分ける前に、司書はさり気なく築宮を下ろし、さて、と書棚を見上げた。  さらさらと軽やかな衣擦れの、ブラウスは皓《しろ》く、襞《ひだ》に溜まる翳《かげり》が薄蒼く見えるほど、脹《ふく》ら脛《はぎ》まで覆ったロングのタイトスカートが慎み深そうに見えて、肌に張りつく寒色の布地はむしろ彼女の腰から脚の豊麗な曲線を浮き彫りにしている。  両手に着けた茶色の薄手の革手袋が、室内ではやや珍しいと言えた。  身の丈六尺の築宮と比べれば低いが、それでも女性にしては上背のある。  ブラウスの胸元やタイトスカートに包まれた腰の肉付きなどは、男どもの夢想を結実させたかに〈艶冶〉《えんや》で。 「それで、貴方は、どの本を取ろうとしていたの?」  築宮が脚立を掛けてよじ登っていた辺りを眺めながら、問いかける。 「あれなんですが……」 「ええ……と。  ああ、あの本……」  無様に転落しかけたからと言って、それで見覚えのある書物を諦められたものでない。  指差し、右の端から数えて何冊目と、司書の脇に並んで示す、築宮の片頬をひゅ、と風が撫でた。これまでは空気の動きもなく鎮まっていた室内なのに、はてどこかに窓でも開いたかしらんと、注意を書棚から逸らす、と。 「はい、どうぞ」  差し出してきた彼女の掌の上から、造花が開くか鳩でも飛んだ方が、まだ築宮には種も仕掛けもある手品として苦笑もできたろう。  なんの、そんなお〈巫山戯〉《ふざけ》などであるものか。  差し出してきたのは、言うまでもない築宮が下ろそうとしていた本である。  わざわざ取ってくれて有り難い、有り難いはいいとして、この司書、一体いつの間に脚立を上がった? 少なくとも築宮の目にはとまらなかった。彼でさえ届かない最上列、背伸びや〈猿臂〉《えんぴ》を伸ばしたくらいで届くわけはないのに。  自分を受けとめた際のやり方といい、今本を下ろしたのといい、それぞれは眼を瞑《つむ》れるくらいの不思議でも、重なるといささか〈薄鬼魅〉《うすきみ》の悪さを帯びてくるのだが、それで恩人を〈不躾〉《ぶしつけ》に見られる築宮ではなく、恐縮しつつ書物を押し頂いた。さっそく頁を繰り開き、活字へざっと眼を走らせる。 「恐縮です。ご面倒をかけた」 「いいのよ、そんな。  これも私のお仕事なのだし。  あら、その本は……」 「うん?」  確かにその小説本には見覚えがあったし、こうして字面を追えば、ところどころ知った文章を見出し、粗筋も思い浮かぶ。  しかしやはりというか、覚えがあるというだけに留まり、いつその本を読んだのか、自分の蔵書だったのかどうかさえも判然とせず、期待していた記憶の連鎖反応は、残念、生じえなかった。  やはり物事そうそう上手くはいかないものだと、さして失望もせずに流せた築宮を、それなりに大人だったのだとするべきか、記憶喪失なのに危機感が足りないと責めるべきかはさておくとして、司書と二人して首を傾げたのは、表題の後に『上巻』の文字が並んでいたためである。そういえば確かにこの物語は上下二分冊であったように思われる。 「上巻だけ、ねえ。  続きの巻は―――」  また揃って本を抜いた辺りを探し眺めたけれど、同じ列にも棚全体にも、左右隣り合う書棚にも続きの巻は見えず、司書女史は軽く眉根に皺《しわ》寄せ顎《おとがい》に拳を当てた。 「どこかに貸し出し中なのか、  それとも紛失してしまったのか」 「帯出帳を確かめてみないと、判らないわね、これは」 「ごめんなさい、ちょっとお時間、いただいていいかしら? 検索してみるから」  もとより暇を持て余して部屋から彷徨いでてきた築宮であり、ここで多少足留めを喰らおうとも一向に構わないのであるが、司書の手を煩わせるのは気が引けた。  その本だって、記憶を失った中で見覚えを残していたという点が気になっただけで、なにももう一度読み返そうとしたわけではない。 「俺の方は全然構わないんだが、貴女がその……他に仕事があるんだったら、後回しにしてくれていいんですが」 「いいのよ。滅多にお客も来ないって言ったじゃない。手伝わせて?」  築宮が暇なら司書女史も時間を持て余していたらしく、手間を苦にするどころかいい退屈しのぎとばかりに向こうから乗り気な、などと見透かすようなのは失礼か。  いやそのと築宮が歯切れ悪い間にも、彼女の姿、いつの間にやら傍らから消えており、単にフットワークが軽いというより、まるで図書室の影溜まりの中に溶けてしまったかの唐突さ。  さては今まで自分が相対していたのは、書物を求める心に感応した図書室そのものが、過去務めていた司書の記憶を、幻灯のように現在へ投影したものだったろうかと、こんな〈胡乱〉《うろん》げな想像まで湧いてくる……幸い想像はあくまで想像にとどまり、呼びかけてくる声があった。 「貴方、よかったら、一緒にお茶でもいかが? ただ待っているのは退屈でしょう」  しかしその声は、遠くから? あるいはすぐそばから?  〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》が多い場所では、音はあちこち跳ね返り発生源の位置が捉えづらい。まるで傍らの書棚それ自体が司書女史の声真似をして語りかけてきたようでもあり、離れた壁際から呼びかけられたようでもあり。  挙動不審気味にきょろきょろして築宮は耳を澄ませたが、司書の姿は書架の谷間には見えず、声が途切れると室内の静寂が、耳の中にシンと音が鳴るほどに際立つ。 「こっちよ、こっち……」  再びの呼びかけは書棚の列を越えて図書室の奥から、引っぱられるように振り返るとようやく、室内の片隅の扉に手を掛け、待っている司書を捜し当てた。どうやら開架部と続きの司書室らしいけれど、築宮が納得いかなかったのは、先程その辺りもよくよく眺めたにもかかわらず、動く者などいなかった筈だからで、いつの間に―――?  どうやら訪問客などほとんど持たない図書室で、司書は話し相手に飢えていたらしい。司書室に青年を招き入れ、機嫌良さげにあれこれお茶の準備を進めている。  司書室は、もちろん細々とした事務用品なども揃えられていたけれど、司書の私物らしきのがあちこち目につくところを見ると、ほとんど彼女の私室と化しているらしい。 「お茶に好き嫌いはあって?」 「ええと……ない……と、思います」  答えが頼りないのは、言うまでもなく今の青年には食べ物飲み物の〈嗜好〉《このみ》も曖昧だからであるが、茶の名がついていればよほど〈奇天烈〉《きてれつ》なものでも突き出されない限りは付き合えるだろう。  勧めてきた椅子に腰を下ろし、ついしげしげと司書の動きを目で追ってしまうのは、先程の開架部での彼女の立ち居振る舞いに腑に落ちかねるところがあったからだ。得体の知れなさ、と言うべきか。  彼女の挙動というのは、すぐ隣に居た筈が、中間のコマを抜いたように、出し抜けに離れたところへその姿を移していたり、手の届かない高い書棚の書物を、気がつくと造作もなく下ろしていたりと、築宮の注意が散漫というだけでは片づけられない異様な面を見せる瞬間がある。  抑えきれない訝《いぶかし》しさに駆られ、司書の一挙一動も見逃すまいと司書を見つめていた築宮であったが、そうでなくとも彼女から目を離せなくなりつつあった。  美しいものがしなやかに動く様は、それだけで目を悦《よろこ》ばせるもの。司書室の中を埋めつくした整理棚や運搬用のカート、積み重ねられた未分類の蔵書の狭間を、司書が動き回るところに静かな優雅さが生まれ、ゆったりした香気となって室内に漂い出す。  ただ、彼女がまとう淑やかな典雅の裡には、どこか生々しく男心をそそる艶香が風味を付けており、築宮は僅かに鼓動早まる想いして、〈襯衣〉《シャツ》の一番上の釦《ボタン》外しているのになおも首元を緩めたくなる。  こうして眺めれば、シンプルな白のブラウスというのは、光線の具合によっては〈蜉蝣〉《カゲロウ》の翅《はね》のように薄い〈羅衣〉《うすもの》に劣らぬくらい、包んだ肌を艶めかしく透かすし、長めのタイトスカートもまた、ただ素肌の脚をあけすけに晒すより、ずっとずっと艶《あで》やかな女らしさを強調するではないか。  こうも艶麗な女の体である、築宮が懸念したような幽霊、幻影の類と言うには、しかと実感伴う肉の重みがあり、かといって手品師がまとう〈外連〉《けれん》みもなく、やはり図書室での意表をつくような動きは見間違いだったという事でけりをつけようとした時、 「ちょっと待っていて。  お客さま用のカップは確か―――ああ、この上にしまってあった」  踵を浮かせて腕を差し延べ、頭上の戸棚をごとごとやり始めたので、築宮は客と迎えてもらったことに甘え、彼女ばかりに働かせてるのは〈烏滸〉《おこ》がましいと立ち上がった、は、いいのだが――― 「大丈夫よ。届くわ」  背中に目でもついているのか、振り返りもせなんだが、どう見ても背丈は足りず、かといって適当な台を使う様子もなく、司書がやってのけたのは。  手首までブラウスの袖下ろした左腕を、もう一方の手で掴み、捻《ひね》った、  留め具が外れるような硬い音、  続いて、          ずるり―――  築宮の喉の奥で悲鳴が濁り、歯列の内側で押し殺されて消える。  無理もない無理もあるまいてや。  司書の左腕が、肩と肘の中途から、断ち斬られたように離れてしまった、とあっては。  ブラウスの袖が張りを失いたわんで、儚《はかな》げに揺らめいたのがたまらなく陰惨だった。 「それ……それは……腕、  貴女のは……っ!?」 「ご覧の通り―――」  なぜそう、草原を波打たせて涼やかな風のように物を言えるのか、振り向いた横顔がそんなに悠然と構えていられるのか、築宮ならずとも〈唖然〉《あぜん》とせずにはいられまい。  外した左腕を、平然と横顔の唇の前まで持ち上げて、 「義手よ」  濡れたような艶、女が男の血を呑んだ時にはこう絖《ぬめ》光るのだろうと妖しいくらい深紅の唇へ寄せられた、対照的に穏やかな質感の、よくよく手入れされて光沢を帯びる、木製の、それは義手。  人体の〈缺落〉《けつらく》した部分を補う物のイメージといっては、どうしたって悲とか惨のきらいを免れないのに、司書の優美な横顔に擬《ぎ》せられると、奇妙な、典雅と評してもいいほどの造型の妙を見せていた。それはどこか背徳的な造形美ではあったけれど。 「は、はぁ……なるほど、そうとは知らず、失礼なことを……」  ブラウスの袖で手首まで覆い、両手に革手袋を着けているため見た目にはそうと知れないとはいえ、片腕が義手であることを気取らせる素振りなど司書に欠片もなく、そうやって取り外してみせてなお〈泰然〉《たいぜん》とした女史の態度が、築宮の方を気後れさせてしまうほど。  埒もなく動揺してしまった自分の方が気恥ずかしくなり、口ごもる。 「失礼な事なんて、なにもないわ。  私はこれで不便ないしね。  貴方だってそうでしょう?」 「……え?」  知らぬ間に手なり足なりどこかに落っことしてきたかと、手足をつい確かめた築宮へ、 「以前のことを、覚えてない様子だけれど、  それで不都合があるわけでなし、  そうなると無くしているからって、大して苦にもならない―――違って?」  青年は氷の彫像と化した。  司書とは今回が初見であり、記憶喪失の一件は伝えるまでもなかろうとまだ口にはしていない、にもかかわらず、掌《たなごころ》に握りこんだ賽《さい》の目を透視するように、言い当ててきたのだ。  ごくり、と生唾を呑みこむ築宮へ、司書女史が向ける眼差しは、だからといって痛ましいでも皮肉めかすでもない。途切れた世間話の、会話の接ぎ穂を待つようなのんびりした風情である。  乾いた唇をぎこちなく湿しながら築宮は、 「……誰かから、俺の事、聞いたりしてたんですか……?」 「いいえ。  けれども、貴方の目を見ていると、  なんとなく……そう、なんとなくそんな気がしたから」 「気に障《さわ》ったのなら、ごめんなさいね」 「気に障《さわ》るなんてそんな……ただ、判るもんですかね、そんなことまで」 「まぁね」  手相見の運勢占いのように、くだくだしく解説することもなく、控え目に流して女史は再び戸棚を振りあおいで、そして。  ……やはりこの女性は容易ならぬ相手と、築宮に強い強い感銘を刻んだのは、図書室での異様な動きではなく、隻腕と義手の事でもなく、また更には〈一瞥〉《いちべつ》しただけで青年の記憶の件を透視してみせたことでもなかった。  彼女の義手の、その使いぶりだった。  ―――司書は外した義手を、それは器用に遣って、背の届かない戸棚を木製の指先で開けたばかりか、中の茶道具一式を下ろしてのけて、それが危うげなくいかにも慣れたもの。  見た目単なる義手であり、物を掴んだり保持したりするような複雑精妙なからくりなど、仕込まれている様子もなさそうなのに。  義手を便利使いの道具にするやり方は、老婆が孫の手で離れた薬盆を引き寄せるようなのと異ならず、それがまた凄まじいまでの〈諧謔味〉《かいぎゃくみ》を漂わせており、築宮をいわく言い難い微妙な気持ちにした。  ………………。  …………。  ……。  ……司書女史が淹《い》れたお茶は、緑茶でも紅茶でもなく、大陸渡りの、どこやらの雲間に聳《そび》え立つ岩山の岩間にしか生えないという、なにやら大層な名前の茶木から年に一度しか生えない新芽を、その為に訓練された小猿を登らせ摘みとらせて焙《ほう》じたもの―――とかで、そんな由来を帯出帳をめくる〈徒然〉《つれづれ》に語った後で、彼女は、 「と口上を並べたのは、ちょっとおふざけ。  本当は、なんのことはない、普段づかいの鉄観音茶よ。それもお徳用の」  などとさらりとぶちまけて、また築宮を煙に巻いたが、彼女の口上はそれだけで一篇の物語のように興趣に富んで、茶の香の中に〈峨々〉《がが》たる山塊をまざまざと目に浮かばせ、器からたちのぼる湯気が、岩肌を濡らす霧か雲かと見ゆるほど。  実際お茶は、液体を啜《すす》ると言うより香りの精髄を飲みこんでいるような精妙な味わいで、余韻が長く口中に薫った。  美しい手が淹れたから味も美しい、という訳でもなかろうがと、築宮は横目に司書の手元を見やる。革手袋はもう外されており、素肌と義手の木の肌がさらさらと滑らかに帯出帳の頁をめくっている。……義手の方にも血と神経が通っているのではないかと疑わしくなるくらい、自然な手つきだった。  と、手が止まり、 「……誰かが借りていったまま、じゃあないみたい」 「ノートに書きこみはないようね。  どこかに、まぎれているのか……、  ちょっとすぐには、わからない」  彼女が気に病むことなどなかろうに、軽く伏せた目元へあえかに翳った申し訳なさげな色合いに、築宮は無体な注文を突きつけでもしたように疚《やま》しくなる。 「いや、別にいいんだ。なにもそんなすぐに読みたい、というわけでもないし……」 「だいたいその本は、どうやら昔読んだことがあるみたいで、それで気になったって言うだけのこと」 「この図書室へは、なにか暇潰しの本でも、と思って来てみて、それで目についたもんだから、つい手に取ろうとしただけなんです」 「だからそんな、わざわざ探すほどのものでも……」  青年があれこれ慰めるように並べ立てるのを聞くうち、司書は〈愁眉〉《しゅうび》を開いて、それならと心得たように傍らの卓上に積まれていた翻訳物の文庫本の二・三冊を差し出した。 「それなら、この本をどうぞ。  肩の凝らない掌編ばかりを編んだ本だから、暇潰しやナイトキャップ代わりにちょうどいい筈」 「貴方が探していた本の下巻のほうも、探しておくから。  見つかるまで、そっちを借りていってはいかが」 「そういう事なら、借りていきます」  築宮はその上下巻本をそこまで切望しているわけでもなし、あるいは―――  上・下巻はそれぞれ雌雄にあたり、離れているとお互いを求める心のあまりに夜泣きして、図書室の夜を湿っぽく乱す、為にちゃんと揃えておかないといけないのだ―――  とかそんな、古い草双紙本的な怪異があるでもなかろう。  そこまで熱心に探さずとも、と思わないでもなかったけれど、それが司書の仕事であろうし、そこに口を挟むのは彼女の職分を侵す無礼にも当たろう。  司書女史が勧める本を借り受けることにして、帯出帳に名前を書きこんでみると、彼以前に書きこまれた筆跡は相当古く、よくよくこの図書室を訪れる者は少ないらしい。  ―――もっともここに客が少ない理由を、築宮は後から耳にすることになるのだが。  やがてお茶もお積りとなり、女史はなおも話したげな様子であったが、築宮は図書室を辞すことにする。  去り際、司書が呼びとめてきた。  これ以上なにかあるだろうかと足を留めた彼に、女史が手渡ししてきたのは一枚の硬い紙切れと見えた。事実それは硬い紙切れで、上質の、正式の招待状などにしか用いられない類の。  彼女の革手袋とよく似た上品な茶の地を縁取っているのは金箔ではなかろうか、しかしそれより築宮の目を見張らせたのは、典雅な〈花文字〉《カリグラフ》にて自分の名前が記されていたこと。 「それが、ここの会員証。  ……当室をご利用の際は、こちらをご提示下さい」  改まった、というよりどこかはにかんだようにそう告げる女史とカードを、幾度か見比べた。  カードにはローマ字の自分の名、会話の中では名乗り損ねたけれど、帯出帳には記入しており、司書はそれで知ったのだろうが、そのあたりの順序はまだよし。  草模様風に流麗に意匠化された花文字は、彼が帯出帳に書きこんでから拵《こしら》えたというには、あまりに細密で手が混みすぎていた。  だいたいにして、司書がカードを書きこんでいるところなど見た覚えがない。  森の小径で目覚ましいような美女と出会い、一夜の歓楽を尽くした後に心づけまでもらってうきうき帰ると、その札は懐で木の葉に成っていたというのが狐惑わしの定番であるが、その際渡す貨幣はさり気ないものでないと気づかれてしまう。あんまりに〈変梃〉《へんてこ》な金を渡して何度も見直しされてしまう狐は下手くそなのだ。  よって逆説的に、築宮が受け取ったカードは間違いのない正のもの、という事になる。こうしげしげ確かめさせてしまっては、木の葉のお札ならすぐに正体は知れてしまおう。  それでも〈襯衣〉《シャツ》のポケットにしまう時、どうにも不安定な気持ちに囚われてしまう築宮だった。  それであるから、 「貴方がお探しの本の事、なにかわかったら伝えるわね」 「気が向いたら、またいらして。  いつでも、歓迎するから―――」  淡く頷きながら、司書が、築宮の頬へ手を差しのべ、指先で軽く撫で上げたという、図書室係と利用客というには親しさいささか〈稠密〉《ちゅうみつ》に過ぎる別れの挨拶をよこしてきたのにも、彼らしからぬ生返事を呟いただけで図書室を後にした、後にして扉が閉じた響きで多少気が落ち着いて顧みるに。  司書が触れてきたのは左手の方、義手の方ではなかったか? なのに指先は滑らかに曲がり、動きはしなかったか?  ……指先は離れてなお、ほんのりと頬に感触を残し、築宮を悩ましむる。  ……。  …………。  ………………。  司書が勧めてきた短編集は、『泊り客の枕もとに、O・ヘンリーかあるいはこの本、あるいはその両方を備えていなければ、女主人として完璧とはいえない』などとも表されたこともある作家の手になるもので、その奇妙な味の短編は築宮をほどよく没頭させた。  一作一作が短いのも〈適宜〉《てきぎ》を得ており、お手伝いさんが夕食の用意を窺いに来た時、ちょうど一篇を読み終えたところで、いい区切りだと築宮は例のカードを栞《しおり》代わりに挟もうとして、結局思い直した。  その紙片を、そんなぞんざいに扱うのは冒涜のように感じられたのだ。 「お客さん、今晩の御夕食なんですが……。  って、え、その本に、それ、会員証……」 「うん、今日図書室に行ってきてね。  そこでこの本を借りて、会員証も作ってもらった」  旅籠の中にあれほどの図書室があることはさておき、本を借りてきたこと自体は特別珍しいことでもなかろうに、お手伝いさんはいたく驚いて築宮をつくづく見つめている。  それがただ図書室と本を前にした反応にしては、随分と大仰で、築宮を不審がらせた。 「この本に、なにかまずいことでも……?」 「いいえ、そんなんじゃないんですが」  と一応は〈躊躇〉《ためら》ってみせたものの、そこまで口が堅いお手伝いさんでもなかったようで、あっさり打ち明けた、はいいが、築宮の安否をひどく気遣うようで、面食らってしまう。 「あすこの図書室係は、お客さん、人間とは違うんです」  ……なにを言い出すのか、眉を八の字にして呆れ顔の築宮を余所に、お手伝いさんは大真面目もいいところ。 「鬼女、なんですよ、彼女は。  それも若い男の肉が、めっぽう好物だって噂です」 「だから、近づく人はあんまりいません。  男の方は特に」 「いつの頃からか、あの図書室に勝手に住み着いて、図書室係をやっているんですが」  築宮へ道を教えてくれた同僚は、忙しさに周知の事情を失念していたのだろうと結んだ。  もちろんそうは言われても、青年には悪い冗談としか聞こえず、笑い飛ばそうとして、苦笑は尻すぼまりに立ち消える。  お手伝いさんの話は突飛であるけれど、さりとてあの司書にも、完全に否定しきれない不思議がつきまとってはいなかったか。  図書室の司書ならぬ、図書室の鬼女―――  深山幽谷の、紅葉に取りまかれた岩屋、さもなければ陰風寂しく吹きすさぶ、荒れ野原の一つ屋あたりに潜んで、迷い人を餌食にせんと手ぐすね引いているのが似合いな、〈血腥〉《ちなまぐさ》い妖《あやかし》を配するには、書物で満たした部屋は風変わりな舞台立てと言えよう。  それでも、もしかしたらそういう事もあるのかしらんと、怪異を受け入れさせる土壌が、この旅籠には十二分以上にある。 「無事に帰ってこられて、ようございましたねえ……」 「…………」  景気の悪い沈黙が、死んだ魚の尾のように垂れこめそうになったところで、お手伝いさんが思いだしたように言葉を継いだ。 「ああわたし、そんな話をしに来たんじゃなかったのです」 「女将さんから、お客さんに伝えるように言われまして」 「ご都合がよろしいようでしたら、夕食をご一緒しませんか、との事です」 「彼女が、俺と食事を?」  いきなりの誘いで実感が湧きかねる。  それでなくとも築宮にとってあの令嬢は、麗貌が秀抜すぎて近づき難いというか、年下に見えるのにその前に出るには心構えが必要というか、ちょっと堅苦しく思えてしまう相手である。 「もちろん、お客さんのご都合次第なので、無理にとは言いません、っておっしゃっておられましたけど……どうなさいます?」  昨夜も部屋で一人夕食を摂った時、静けさを味気ないとするより気楽に感じた築宮だ。  それで心が動かないかと言えば、否。  旅籠の主なる女の子からのせっかくの誘いをすげなくできるほど、〈傲岸不遜〉《ごうがんふそん》な感性を持ち合わせていないし、どういうつもりで誘ってきたのか、少しく興味を覚える。それに彼女なら、旅籠の色々の話も聞かせてもらえるだろう。  しばし思案の後、 「そういうことなら有り難く―――」  快諾しようとした時に、 「あのゥ、ちょっといいですか〜?」  廊下から呼びかけてきた、今一人のお手伝いさんがある。一人一人を分けて相手にするならまだともかく、こうして同じ顔に並ばれると、眼の焦点がおかしくなったようでまだまだ慣れず瞬きした築宮に、後から来たお手伝いさんが二つ折りの紙片を差し出した。 「これ、預かってきました。  図書室のあの方《かた》から」 「なんですと」  開いてみると、〈水茎〉《みづくき》も麗しく、 『    謹上  お探しの書物、見つかりました。  是非に、と申しては押しつけがましく存じますが、お越し下されば幸いです。                かしこ                 図書係    築宮清修様                  ご尊前に 』    文面は簡潔に結ばれていたけれど、あの司書の〈深情〉《ふかなさ》けが行間から滲んでいるように思えたのは、あながち築宮の穿《うが》ち過ぎとも限るまい。なにしろ図書室を辞してから、一晩と明けぬうちにこの言伝である。  きっと築宮と別れてから、すぐさま図書室と司書室の捜索に取りかかったのだろう。久方ぶりの客の、当人にはさして自覚もないほど些細な願いに真摯に応えて。  それを考えると、すぐさま図書室へ馳せ参じるのが相応の礼儀だが、令嬢の言伝を携えてきたお手伝いさんも返答を待ち受け顔だ。  まさか自分を知る者一人としてないはずの旅籠で、二つのお誘いの声がぶつかる羽目を見るとは予想だにしなかった築宮は、それはもう、初めての舞踏会で二人の相手から同時にダンスの誘いを受けた乙女のように、大いに悩んで――― select  ……考えてみれば、書物のことはそこまで焦る必要はない、と築宮は考えた。たとえこの目で直接改めたとしても、それで記憶が蘇るかどうかは怪しいもの。  加えて、こうやって陽が落ちてからあの司書の待つ図書室に出向くのが、なんとなく憚《はばか》られたのだ。心から信じたわけではないが、お手伝いさんが明かした司書の素性が築宮に微妙に二の足を踏ませている。  夜の影の中で、あの図書室がどういう風情を見せるものか、それには気を惹かれないでもないがと築宮、天井の等高線のような木目を見上げて沈思黙考しばしの間。  結局、令嬢の〈夕餐〉《ゆうさん》の誘いを受ける事にする。使い走りに往復させるのが気の毒ではあったが、司書からのメッセージを携えてきたお手伝いさんには、『日を改めて〈伺候〉《しこう》いたします』の返答を預け、戻ってもらう事にした。  てっきり築宮は、食事というからには令嬢の座敷へ招かれると漠然と決めつけていた。もちろんこの旅籠なれば大食堂や会食の間の類は、これから会戦に赴こうという一個師団を収めて余るくらいに幾らでもあるだろうが、令嬢の人となりからして、私室へ膳を運ばせて差し向かいに静々と、という段取りがふさわしく思えたからだ。  ところが、差し向かいは差し向かいであるのだが―――  視線は、見上げれば見上げただけ延びていった。吹き抜けの廻廊のあちこちに句読点のように配された灯りの数は、広さに比べれば、大戦下の灯火管制のご時世でもあるまいに、どうにも点々として頼りない。  それでもここまでの廊下の道々の薄暗さになずんだ築宮の目には差し支えなく、吹き抜けの大広間のあちこちに溜まる影を、穏やかで艶めかしいものと見た。  広間の頭上も、幾層にも廻廊を重ねて果ては暗がりに溶けていき、視線が突き当たるはずの天井も、判然としない。 「今晩は、私などの招きにご応じいただき、わざわざご足労下すった事、心根からのお礼を申し上げます」  そして令嬢が小柄な体を折り畳むように深々頭を下げて、また三つ指ついての出迎えは、吹き抜け広間の底部、中央の〈四阿〉《あずまや》にて。  〈緋毛氈〉《ひのもうせん》敷いて設けた席は、水に浮かぶような趣の、吹き抜けの広間の基底部は旅籠を流れる水路の合流点になっており、〈四阿〉《あずまや》はそのほぼ真中に造られている。 「いや、こっちこそ。  ご招待、光栄に思います」  〈四阿〉《あずまや》の周囲の水面には、なんの〈精霊流〉《しょうろうなが》しか〈行灯〉《あんどん》の小さな小さな船が取り巻くように幾つも浮かべられており、間接的な灯りを二人へ柔らかく投げかけているというのに、どうにも雰囲気の方が硬い。  やはりこの令嬢の前だと肩に力が入ってしまい、挨拶を返す舌から堅苦しくなってしまう築宮だ。とりあえず促されるまま令嬢の対面に座したものの、そこからなにをすればいいものやらで。  自分がもう少し世慣れて気の利いた男であれば、如才なく言葉を繋げて、令嬢と会話の小舞踏でもこなせたのだろうかと、所在なく視線を落とした二人の間の緋色の毛氈は空。まだなにも料理の類は並べられていない。  挨拶の後の、皿が出てくるまでを埋める時候の言葉も思いつかず、築宮がきまり悪く呼びこんでしまった沈黙へ、会話の接ぎ穂を淹れたのは令嬢の方だった。 「ご存じかも知れませんが、昨夜晩《おそ》くに、雨が降りました」 「ええ、そうらしい。  自分は気づきもせず寝こけていたが、渡し守から聞きました」  ここで禅の公案的な、礼儀作法の世界に〈通暁〉《つうぎょう》した者でないと意味さえ取れない隠喩と仄《ほの》めかしに満ちた挨拶が続いたなら、築宮ますます往生したろうが、まだ自分にもついていかれる話題であったことに、ほっとする。 「お天気番のお手伝いさんの話では、温かな、〈山川草木〉《さんせんそうもく》を潤し、育てるような、そんな雨だったのですって」 「私たちは、そういう雨が上がった後で、お空からの恵みを祝うため、ささやかな宴席を設けることにしているの」 「ですからこれは、堅苦しい〈正餐〉《せいさん》なんかじゃありません。  築宮様にも、あまり堅くならず、愉しんでくだされば、と思います」  それは節気で言うところの春の『〈穀雨〉《こくう》』にも似た観念であったが、かといって今がその季節なのかというと、そうであるようにも思えるし異なるようにも感じられる。  まだ築宮は一日二日を過ごしたばかりではあるが、旅籠の空気は暑からず寒からず、季節感はあやふやなのを感じとっている。  だから折々の節を見て、というよりは、この時の流れから〈乖離〉《かいり》したような旅籠の日々にアクセントを付けるため、些細な物事、ただ天気の変わりなどであっても丁寧に愛でるような慣わしを持っているのかもしれない。  いかにも前時代的となおざりにするのが世の流れだが、築宮にはそんな祭事が、どこか床しく懐かしい。  なにより、訳もわからず唐突に招かれた宴席にはかくの如き意味があったのかと知れたことで、少しばかりわだかまっていた不審の念も晴れた。 「まあ、口上はこれくらいにして。  築宮様もお腹が空いたでしょう。  今、料理を運ばせますね」  築宮を案内してきたお手伝いさんは、既に板橋を渡って持ち場へ戻っていった後だったが、令嬢がふと〈四阿〉《あずまや》の柱の影へ僅かに目線を投げたと見ると、即座に別のお手伝いさんが進み出る。今までは身じろぎ息遣い、気配もなかったので、突如影が〈蝟集〉《いしゅう》して湧いて出たような、手には朱塗りの盆、まずはお客の築宮の前に置いてから、今一度影に下がって令嬢の盆。 「まずは、前菜の代わりに、  こんなものばかりですが」  頭上の梁に下げられた〈洋燈〉《ランプ》と水面の〈行灯〉《あんどん》からの仄灯りに盆の深い朱色が目覚ましく、かつ並べられた食べ物にも築宮は面食らった。  細根に薄紅いのが和えられているのは〈山牛蒡〉《やまごぼう》の梅漬けか、緑の茎に花が散っているのは菜の花というには細く、おそらくは〈花山葵〉《はなわさび》の湯通しで、柔らかそうな枝芽のおしたしはコシアブラだろう……とそのあたりまではどうにか見当がつくが、後は名前さえ知れぬ菜のものが二・三品。  そんなたくさんを一つの盆に盛りきれるかであるが、一品一品がとにかく小盛りなのである。盛った器も、〈胡瓜〉《きうり》を刻んで合わせて鉢にしたの、大葉を巧みに折って小皿にしたの、あるいは蕎麦を揚げて小椀にしたのと、食材ものばかりで少しく意外の、こういう古い旅籠のこういう席ではさぞ凝った陶器や漆器が出てくるものと独り決めしていた築宮だ。 「これは……見たこともない料理ばかりで、食べてしまうのがもったいないような……」 「なんの。  お恥ずかしい、田舎料理ばかりです。  それでも、お酒で舌を洗いながらなら、  ゆるゆる食べられるでしょう……」  〈小体〉《こてい》で彩り豊かな品目は目からも食欲を刺激して、令嬢の「いただきます」に合わせて繰り返した築宮の声に、美味への悦びの予感が滲んでいる。 「さ。まずはご一献」  それで築宮がやや躊躇ったのは、差し出された杯が〈鼈盞〉《べっさん》で、深い黒曜の中に〈飴色〉《あめいろ》の釉《ゆう》が炎の如く静かに躍っているのがいかにも貴重そうでひるんだから、それもあるが、やはり酒ということで、旅籠に辿り着くに至った経緯を思い出し、舌に悪酔いの苦さが蘇ったからである。  思わず辞退しようとしたけれど、注ごうと酒器を手に、築宮へ真っ直ぐの令嬢の双眸が、硝子を溶かしたように一切の濁りなく透明なのに気圧され、機を逸した。人間、あまりに澄みきった水には軽い畏怖さえ覚えるもの。  命令されたでもないけれど、従うように杯を押し頂き、築宮は覚悟を決めた、といえば大げさだったか。 「自分はあまり呑める口じゃないと思うが、  少しだけなら……」  ……だが、満たされた酒に映じた、灯りが星のように魅惑的だった。また漂う香りが果実めいて甘く、なのにくどくなく、築宮はままよと口をつけた―――ら、するりと舌の上に解れる。  悪酔いの後に酒精を流しこんだ際にままこみあげる、喉のえづきは一切なく、ただただ酒の旨味ばかりが香りに昇華して、口中から鼻に軽く抜けた。 「ああ……」  〈美味〉《うま》いという字は甘《うま》いとも当てる。  溜息は知らずに漏れて、目が細まったのが、長い航海で遠ざかっていた甘味に久方ぶりにありついた船乗りと変わらず、酒とはこれほど美味であったかと、以前の記憶のない青年にはここで初めて開眼したのに等しい。  詠嘆の築宮と裏腹に、表情を変えたとも見えなかったが、それでも令嬢の線が和らいだように思えたのは、あながち背にした水面の〈行灯〉《あんどん》の火灯りの柔らかな効果ばかりでもないだろう。  誰だって、勧めた酒を美味いと歓ぶのに悪意を覚えたりはしないもの。旨さを語る美食家の表現は築宮になかったけれど、その嘆息が言葉以上に語っている。 「お気に召して下さったようで、  とっても、嬉しい」 「そのお酒、うちで造ったものなのよ。  醸《かも》したお手伝いさんも、喜んでくれると思います」 「はあ……こんな美味い酒を、ここのお手伝いさん達が」  どうやら旅籠でのお手伝いさんの働きは、築宮が想像する以上に〈多岐〉《たき》に渡るらしかった。  なんにしろその酒の一口が築宮の緊張を幾らかなりと緩ませて、料理に箸を運ばせる気持ちを起こす。  しかし緩んだといっても彫りたての石の地蔵に苔がむして見た目の角が取れた程度のもので、根底の堅苦しさは変わらずの、だいたい令嬢が客として青年を招いておきながら、箸を使っている間に一言もないのだ。  料理は種類も数も多かったけれど、前置きしたように小盛りのものばかりで、どれも一箸二箸つけただけで空になる、男の築宮なら自然に〈頬張〉《ほおば》れば一口でなくなったろうで、盆の上は早々に平らげられた。  築宮が食べたような食べないような腹持ちに物足りなさを持て余していると、やや遅れて小鉢を空にした令嬢が、それらの器まで食べ始めたのには呆気にとられた。  確かにどれもこれも食材でできた食べられる器だ。しかしこういう堅い席の作法としては許されるのかと思わないでもないが、考えてみれば正式の夕餐などではないと最初に告げられたではないか。  築宮も真似るようにして器を口に運ぶ。  そうしてみると器の味わいは、野草や葉物に合わせられたものであり、味わいと歯ごたえの変化が口中にアクセントとなる。  盆の上が朱色の塗りばかりとなった段で、ようやく令嬢が口を開いた。 「昨日は随分と、お疲れの様子でしたが。  少しは落ち着きましたか?」 「それはもう。今日などは、昼近くまで寝こけてしまって……」 「だから、夜半雨が降ったのだって、全然気づかなかった」 「それでなくとも築宮様のお部屋は、屋根や外からは、遠いですしね」 「外に近いお部屋の、お客様くらいでしょうか。雨の音を、聴かれた方は」  これだけ広大な旅籠であれば、なるほどそういうものであろう。  そうやって旅籠のことを思いやると、興味が蘇る。 「なるほど、むやみやたらと広いこの宿だ。  そういうものかも知れない。  一体この旅籠は……」 「どれくらい長いこと続いているんですか」 「さあ―――私にも、よく判らないんです」  と首を仄暗い水路に巡らせながらの言葉は、旅籠の小女主人にしてはいささか頼りないものであったのに、それなのに築宮は彼女の肩口から、ただの清楚な少女というには似つかわしからぬ、代を重ねた歳月を幻視せしめる気配を嗅ぎとった。故にやはり彼女は、この旅籠の女主人なのであった。  経てきた時間というのは、ただその人間の年齢ばかりが示すものではないので、だからこの少女とも娘ともつかぬ年頃の令嬢を前にするといつも、築宮は等身大の彼女をというより、この旅籠が積み重ねてきた時間そのものと対峙しているような錯覚に囚われるのである。 「判らないけれど、それでも長い―――  そう、とっても長いこと、ここが続いてるのは、確かなこと」  紡ぎだされる言の葉の、悠揚と迫らぬ調子が、遙けき時の流れを思わせて。  そう言えば〈四阿〉《あずまや》を取り巻くような〈行灯〉《あんどん》の小舟が、水路にあって流れ去ることもなく浮いているばかりなのは、悪目立ちはせぬがいささか妖しくはないかと、ようやく築宮はその違和感に気づく。  ただゆらゆら揺らめいて留まっているのが、この宴の座が時の流れから〈乖離〉《かいり》してたゆたっているように、演出していた。 「ずっと昔からここにあって、  そして私達は、たくさんのお客さまをお迎えし、おもてなししてきた―――」 「……今では訪れるお客さまも、  前よりずっと少なくなってますけれどね」  そう言われてみると、この吹き抜けを囲む廻廊にも、まだ夜の盛りの頃であろうに、足を運んでくる客の姿が見えず、人払いでもされているかの有り様。  以前は眼下の水路の眺めを肴に、夜通し酒を舐めた客も多くあったろうにと、青年がそこはかとなくしんみりなった時、令嬢がまた無言の合図を物陰に送った。  神おわす社仕えの狐のようにするすると、次なる盆を捧げてお手伝いさんが進み出てくるまで、築宮はその存在を全く失念していた。  どうやら柱の影と人間の視界・心理両面の死角領域を巧みに利し、黄表紙でいう忍者はだしに隠身しているらしいが、それでもお手伝いさん達の多芸ぶりには舌を巻かされる。 「次の料理は、もう少し味が濃いものを。  お箸も替えましょう」  と今度は、焼いたの、〈時雨煮〉《しぐれに》にしたの、蒸したのと、築宮には名前も知らないような獣類の肉を主にしたのが、また先程と同じ種類多く小鉢盛り。その小鉢も口に入れて差し支えないものばかりで、案の定令嬢は盛られていた料理を空にしてから、器の方も綺麗に食べる。その辺りで築宮にも段取りが諒解されてきており、箸の合間に酒を、食事の区切りに器を、句読点のように挟みながらで〈夕餐〉《ゆうさん》を過ごした。  相変わらず、会話は料理の谷間でしか交わされず、宴というには口数の少ない。しかし口に物〈頬張〉《ほおば》りながら、聞き苦しく忙《せわ》しなくやりとりするよりは、こういう落ち着いたのも好もしいではないか、と料理が尽きる頃にはそのように思えるようになってきていた。  さてどれだけ一品一品が少ないとはいえ、前菜から肉の物、川魚のお造り、羮《あつもの》、ご飯ものに香の物とずらずら続くと、さしもの青年の腹も十二分に満たされて、令嬢が同じ量を収めて平然としているのが不思議なくらい。  普通なら食べた量を示す器は、全て腹の中にあり、〈緋毛氈〉《ひもうせん》の脇に積まれた朱の盆がなければ、夢の中の食事のように料理の痕跡は消え去っている。  盆を替える都度新しくした割り木の箸は何膳にも及んだが、給仕を終えて傍らに侍したお手伝いさんが、小刀で細片にと削り落としており、宴の終わりとしてはやや奇妙か。  料理はいささか奇異なのもあったがおおむね〈美味佳肴〉《びみかこう》で、口中の味わい深い名残と〈旨酒〉《うまざけ》の穏やかな酔いに、ぼんやりとお手伝いさんの小刀の手元を眺めていた築宮へ、 「恵みの雨に感謝する、  というのがお題目だから」 「お皿も、雨が育てた食べ物で作って、  最後まで食べて」 「お箸も無駄にしないように、  こうして削って、焚き付けにするんです」  削り終えた木片を、毛氈に据えた小振りの〈風炉〉《ふうろ》に入れて火を置いた。茶釜も彫り物入ってどっしりした風格ながら、童女のおままごとのように小さなので微笑ましい。 「自然の恵みに感謝する―――言われてみると、何かを食べるというのは厳粛な行為かもしれない……」  ちろちろと躍る火が、釜を温めていくのを眺めながら、 「ちょっと、身が引き締まる思いがする。  ―――いい晩餐でした」  〈自然〉《じねん》に興った感謝の念で、誰にともなく頭を下げた築宮に、くすり―――  はっと目をあげた時にはもう見えなくなっているくらいの、令嬢の目元に残照のようにたゆたっていたのは、そんな幽かな笑みの。  築宮が我が目を疑ったのは、自分の言葉を笑われたと言うより、造りものかと見まごうほどに整った令嬢の貌《かんばせ》に、よもやそんな人めいた表情が浮かぶことなどあるまいと決めてかかっていたからである。 「ごめんなさい。でもきっと、あなたが言ったような、そんな大真面目な理由からじゃないと思うの」 「こうやって、器もお箸も残さないようにするのは……たぶん、お手伝いさん達の洗い物が、楽なようにと」 「この会席の次第を決めた、何代も前のご先祖様が、そんな風に考えたからだと、私はそう見ています」 「ええ。ご飯の後の洗い物が楽なのは、  とってもとっても助かります」 「……左様で」  ……わざわざ小難しいことを考えて、〈鹿爪〉《しかつめ》らしく口にしてしまった自分が滑稽に思えて、つい表情を渋くした築宮だが、不満は長く続かず苦笑に変わった。  腹が満たされている心持ちでは、角はなかなか立ちづらい。  令嬢はふと真顔になって、 「笑い話はさておいて。  築宮様をお招きしたのは、お座敷ではなく、こういう場処で食事を摂るのも、気分が変わって一興かと―――」 「手前勝手ながら、そう思ったからなんですが……もしかして、築宮様にはかえって、窮屈な思いをさせてしまったかしら?」 「え? いや別に、そんなことは……。  ああ、俺がずっと正座でいたのは、どっちかというとこの姿勢が慣れているからで、別に特別かしこまった訳じゃない」  椅子のないところで座ると自然に正座になる質《たち》のようで、同じく正座の令嬢に合わせたわけでない。  ……それでも実のところ、令嬢の台詞は少なからず的を射ており、築宮がこの静かな〈夕餐〉《ゆうさん》を好もしいと感じ静かな満足を得ていたのは事実だが、最後の最後まで気を抜く事ができなかったのもまた確か。  しかし「自分は全然寛《くつろ》げませんでした」などと、招いてくれた相手に口にできる図々しさを、この青年、持ち合わせていない。 「正座のことだけじゃ、ないと思います」  指摘は意外な方向から。 「築宮さまは、お作法もきっちり守っておられて、まるで『食事の正しい礼法読本』の、見本写真みたいでした」 「俺が? まさか。  普通に食べてたつもりなんだけれども」 「左様ですか?  けれど、お箸を削ったときも、  お箸の先、一寸よりお汁《つゆ》で汚しているのは、ありませんでしたよ」 「私もそう思います。  なんて行儀正しい人なんだろうって、  感心してしまって」 「でもそれは、女将さんもおんなじなのですが」 「…………」 「…………」  ばつの悪い沈黙が、二人の動きを糊のように固めて、〈風炉〉《ふうろ》の中で燃ゆる炎の方が、よっぽど生あるものらしく揺らめいていた。 「別にそこまでして、女将さんに合わせなくっても、ようございましたに―――」 「まあそのなんです、料理が綺麗だったから、つい改まった気持ちになったのは確かなんだが。  それはともかく……」  実際、客を心から寛《くつろ》がせるにはこの令嬢、人間らしい揺らぎというか、ぶれというかにまるで欠けており、それを前にしては安酒場で漫然と肴《さかな》をつつくようなは、やりづらい。  大体、お手伝いさんのように令嬢と近しい間柄ならまだともかく、遠慮もなしにずっきりそれを指摘などなかなかできるものか。  このままでは会話が気まずさの岩壁にぶち当たって粉々に砕けると、話題の〈舳先〉《へさき》を変えようとしたのが、彼自身わざとらしいとは覚りつつも、 「今晩は、俺を呼んでくれて、本当にお礼を言いたいです。  ―――ありがとう」 「君のご家族は、その、もう皆みまかられて、一人でこの旅籠をとりまわしていると聞いた」 「色々仕事も多いはず。  大変だろうに、そんな中、俺一人のため、  わざわざ気を遣ってもらったようで」 「なんの。築宮様も大事なお客さま。  お客さまをおもてなしすることこそ、私達のお仕事だから」 「母さまも父さまも、その父母たちも、それよりずっと先のご先祖たちも。  何代も続けてきたお仕事です」 「私一人が大変なんて、言えないわよね?」  お手伝いさんに同意を求めるように小首を傾げた仕草、表情の変化はやはり乏しく、それでも身内の者同士ならではの親しみが〈揺曳〉《ようえい》していたのが、ふっと虚しくかき消えた。 「どうでしょう。私たちには、女将さんの苦労は、どうしたってわかりません」 「ただできることを、お手伝いさせていただくばかりで」 「――――――」  お手伝いさん達にも各様の個性がある。中には情に厚いのもあるようだし、中には飛び抜けて〈奔放〉《ほんぽう》なのもあった。  だから今晩この席に控えていた彼女が、たまさかガラスの板のようにとりつく島もない性質だっただけだと、築宮もそう思いたかったのだけれど。  それでも二人の間にどんな言葉が行き交い、どんな心が通わなかったのか、彼は気づいた、気づいてしまった。  結局はお手伝いさんと令嬢は、どこまでいっても使用人とその主でしかないのだということ―――  使用人には使用人の分があり、主人も彼らに必要以上の人間関係を求めてはいけない、などというのは建前にしても表層的だろう。敬意と信頼の中で育まれる情愛だってあっていいはず。  なのに、令嬢とお手伝いさん達は同じ旅籠で働き、同じ時間を過ごしてきたとしても、それでも結局は他人で、真に情の通った間柄にはなりえないのだと―――  令嬢の頬に僅《わず》かばかり浮いていた親しげな色合いが、お手伝いさんのすげない言葉で、儚《はかな》く消え失せてしまったことで、築宮にそれと察せられたのだった。  令嬢は、一体お手伝いさんを相手に、どれだけ同じようなやりとりを繰り返してきたのだろうか。  おそらくは彼女自身、虚しい問いだと悟るまで、そして悟ってなお、繰り返したくなる気持ちを抑えられない瞬間もあるのだろう。 「俺は、あの渡し守に案内されてここにきたはいいけれど、特に目的もあったわけじゃなし―――」 「……築宮様?」  築宮は旅籠に着いて間もなく、見知らぬ池に移された魚と同じに慣れない水に翻弄されるばかりで、あの砂を噛むような、孤独の味を知る暇がないだけなのかも知れない。  それでも、この精緻に造りこまれた美術品のような令嬢こそが、大勢の中にあってなお一人という、耐えがたい孤独にあるように見えてしまったから。そう思ってしまったから。  ただ築宮が知らないだけで、もしかしたら親身な友人だってあるのかも知れないが、それならそれで幸いではないか。  舌は、ほとんど勝手に動いて言葉を為した。 「今日だって、やることもなくって暇だったんです。だから」 「俺にもし、何か手伝えるようなことがあるのなら、いつでも声を掛けてほしい」  ―――乙女ラプンツェルは、魔女に封じこめられ塔の中。しかし彼女には窓から垂らした長い髪を梯子にして、逢瀬を重ねる若君があったというし、なにより窓の外には広い広い空が展《ひら》けていたではないか。  この吹き抜けの広間の底にあっては、天井からして暗がりの高みに溶けて曖昧で、空などは預言者の語る至福の国と同様、絵空事のように遠くて思いさえ届かない。  吹き抜けの底、水路に浮かぶ〈四阿〉《あずまや》で築宮を饗応した令嬢は、さながら塔の高さも及ばぬ深い水底の、〈水府〉《すいふ》の姫君か。  〈水府〉《すいふ》の姫君を取り巻く、古い血の縁と慣《なら》わしは、塔の石の壁より分厚く果てしなく、令嬢を他者から隔絶しているかのように思えて、築宮は胸が苦しくなったのである。  青年には旅愁と郷愁で造られて生温かな、〈揺籠〉《ゆりかご》のようなこの旅籠も、令嬢にとっては檻《おり》なのかもしれないと――― 「え、あ……築宮様、そんな……」  牢獄の空気抜きから思いもかけず外界の鳥が迷いこんできたのを見たように、令嬢は一瞬、そう一瞬だけきょとんと、無防備な眼差しをしてみせた。  その表情に、本来の彼女の年相応の、生《き》のままのあどけなさ、可憐さが現れていて、築宮は〈吐胸〉《とむね》衝《つ》かれた想いした、という。  けれどそれも、刹那の幻のように儚《はかな》い。 「……いいえ、いいの。  私などのこと、気にやまなくっても。  築宮様こそ、色々と大変でしょう」 「ただゆっくりと、  骨休めしていって下さい」  そう築宮をとりなした令嬢の双眸は、あの容易には感情を気取らせない、最硬度の貴石の透明さが立ち戻っていて、青年はそれ以上差し出がましい口を挟めなくなる。 「……夜も晩《おそ》くになったみたい。  あんまり引き留めるのも、失礼よね」 「湯も沸きました。  お茶を煎じて、  それでおしまいにしましょう」  築宮の申し出をやんわりいなし、〈風炉〉《ふうろ》で〈松風〉《しょうふう》の湯音を鳴らす釜の具合に、茶の準備をお手伝いさんに申しつける令嬢だったが。  そんな令嬢が、どこかしら疲れて倦《う》んだような色合いを、華奢な輪郭に滲ませているような気がしてならなかったのは、青年の感傷的な思いこみに過ぎなかったのだろうか。  ……やはり、件の上下巻本の、いまだ見ぬかたわれを思えば、焦りと期待が入り交じったさざ波に心乱される築宮である。  さしあたっての不自由はなく、また、これまでは旅籠への到着そして滞在と、環境の大きな変化に対応するのに精一杯で、落ち着いて顧《かえり》みる余裕がなかったとはいえ、やはり記憶が失われているというのは、建物の基礎が欠けているのに等しい。  令嬢の使いと図書室からの報《しら》せをもたらしたお手伝いさんを右左と眺め、しばし考えこんだ後結局築宮青年は、 「ああ、その……ご令嬢には申し訳ないが、御夕食のお誘いは、その……」 「辞退させていただきます、と。  なにしろ図書室の方に、先に頼み事をしていたので」 「なので、重ねて申し訳ないんだが、  ご令嬢にはよろしく伝えて欲しい」 「はい。承りました。  築宮さまの方には、ご先約があって外せないご様子と、そう伝えておきます」 「頼むよ」  よろしく了解の、令嬢の使者なるお手伝いさんへ一つ頭を下げてから築宮は、図書室からのお手伝いさんへ頷いた。 「というわけで、図書室からの報《しら》せは了解しました。  ああ、返報は伝えなくっていい」 「俺が自分で、あっちに行きますので」  そういって早速に支度を始める築宮へ、お手伝いさんは二人ともなにか言いたげな、だが客のすることとて深くは口を挟まず、ただ、ふぅ、と鼻先に小さな溜め息を。  おそらくは図書室の司書は人食いの鬼女であるという風説を気に病んだものだろうが、なんの、築宮青年には真実とは思われず、彼を躊躇わせるものではない。  図書室を満たした夜は、書架の谷底を影の王国と為していた。昼間でさえ森閑として、忘れ去られた隠れ部屋の趣を漂わせていた書物の空間は、夜ともなれば真実旅籠の通廊と地続きに結ばれているのか怪しく思われるほどに、異界めいた相貌へと変じている。  書物が傷むのを慮《おもんぱか》ってか、抑え目の灯りが投げかける影が、書架や書見台に、曖昧でそして有機的な輪郭を与えていた。  漂泊の旅籠に独り眠れぬ夜は、この図書室の柔らかな影に身を沈めて、つれづれに選んだ本の頁をめくるのも、あるいは書物の懐に抱かれてただ漫然と心を遊ばせるのも快なのではないかと、築宮は夜の香気に絡めとられたかのように書架を見回し立ちつくしたが、やがて気をとりなして足を運ぶ、奥へ、書架の合間は暗いけれど、足先は導かれたように危うげなく、奥へ。  図書室の主である、あの不思議な女性の待つ司書室へ。  だが、司書室の扉を叩くまでもなく、書架の合間、書見台が設えられた一画に、卓上燈が光の輪を投げて、果たして、待ち受けていたのは、柔らかで性の佳い灯りに〈縁取〉《ふちど》られた、〈臈長〉《ろうた》けた立ち姿。 「いらっしゃい。  急に呼びたてて、すまなかったかしら?」 「いやそんなことは。  それどころか、こっちの勝手なお願いに、わざわざ骨を折ってくれて、感謝しています」 「いいのよ。それが私のお仕事なのだし、なによりあなたは、久方ぶりのお客さま」 「大事にしないことには、図書室係の甲斐もないもの」 「それで、こちらがご所望の本の下巻です。  お茶も用意したわ。  どうぞ、ごゆっくり」  胸元に抱きとめていた単行本の、つと差し出されて、司書の厚意に有り難く押し頂けば、温もりと服の薫りが移ってか、ほんのりと手触りが柔らかい、匂いも古紙のだけでなく、かすかに甘い。  だがさらに薫り高かったのは、卓上で夜目にも白々と湯気をたゆたわせる紅茶の杯。  築宮青年が訪れる、その時間まで見越していたのか、ちょうど飲み頃を迎えて、薫りが無形の花と咲いていた。  いかにも図書室然とした室内で、飲み物を啜《すす》るというのは不作法と思われなくもなかったが、そんな咎めだては不粋というもの。  もとより他に誰がある気遣いはなく、なにより図書室の主が手づから淹れた香花である。 「なんと礼を言ったらいいのか……。  ただただ恐縮です」  司書女史の心映えがひたすらに有り難く身に沁みて、深く一礼して彼女と向き合う、が、目の前から消えている。  あ? と戸惑う間もなく、肩にふわりと置かれて、つと軽く押されて、優しい力なのに体が流れる。  とんと納まったのが、紅茶の卓の椅子の中。  青年の心の隙間を縫うようにして、背後に回った司書女史が、彼の背なを椅子へと押しやっただけなのだが、築宮は魔法で操られる仔犬の心地したという。 「まあまあ。図書室係の前で、そんなに畏まらなくってもいいのよ」 「まずは座って、その本で良いのか、ゆっくり改めて、ね?」 「それじゃ、お言葉に甘えて……」  と腰を落ち着けようとして、築宮はふっと思い出す。好意に甘えるにも、いや好意だからこそ、守りたい礼はある。胸のポケットから、部屋を出る前に落としこんでいた紙片を取りだした。 「……ああ、その前に、一応こちらを提示しておきます」  司書に示したのは、あの〈瀟洒〉《しょうしゃ》なカード、図書室の会員証として築宮に送られた花文字のカードで。控えめな灯りの下で、縁取りの金が映えて美しい。 「はい。確かに」  ―――柔和にほころばせた、女史の唇が紅く、瞳に萌《きざ》した喜びの色は、築宮がまさに彼女が好むような、礼儀に適った答えを返したことを示していた。  ……。  …………。  ………………。 「……ふぅ……」  頁に栞《しおり》を差し挟み、はたりと閉じていくに任せたまま、青年は目頭を押さえ小さく息をついた。  漏らした吐息には、紅茶に洋酒でも垂らしてあったか、果実を思わせる匂いとそして、かすかな失望かつ奇妙な安堵が籠もっていた。  見いだされたもう一冊を、ざっと斜め読みしては見たのだが、結局のところ、築宮青年の失われた記憶が解けてくる兆しはない。  内容に覚えはあるのだが、それだけだ。連なって蘇ってくるような、他の記憶がない。  失望はそれ故に。  安堵は―――やはりそれ故に。  全て思い出してしまう事への、奇妙な畏怖が築宮の中にあった。  す、と対面に身じろぎの気配の、向かいで司書が、読んでいた書物から目を挙げたところ。  問いかけるような眼差しに、 「ああ、やっぱり駄目みたいです。  中味に覚えはあるんだが、その他のことはさっぱり思い出せない……せっかく探してくれたのに、なんとも不甲斐ないことだが」 「いいのよ、そんなことは。  まあ、焦らない事よ。  ……なぁんて、下手な慰めは野暮ね」  確かにこればかりは、他人が深く踏みこめることでなし、築宮はそれ以上答えず、未練がましく記憶のよすがを求めるように、もう一度表紙に目を落とす。  その、物思わしげな、どこか悩ましげな青年の風情に、司書女史は胸うたれたように目を伏して、深く息を吸いこんだ。  それがただ同情からでなく、もっと生々しい、そう、いっそ情火と言っていい心の動きに根差した〈挙措〉《きょそ》であったことに、築宮が気づいたか、どうか。  深々と呼吸した、ブラウスの下の乳房が豊かに息づき、波打ち―――  身を起こした司書女史の、しかし椅子の軋みも立てず、青年は気づかず、彼が衣擦れを聴いたのは、背後から。 「なにも焦ることはないでしょう?  思い出すときには思い出す。  思い出せなくっても、ここでは不自由はない」 「え……? あ……っ」  彼女から視線を外したといっても、ほんの一瞬のこと、その隙にいかにして書見台を回りこんだのか、首筋にかかって〈耳朶〉《じだ》をくすぐる、低い囁きは後ろから。  耳元で囁かれる声が、微妙な震えとなって肌に降りる、それほどの近しい距離、なのに声も距離も不快でない、それどころかぞくりと身の奥に呼応する疼きがあって、築宮は激しく狼狽した。  近い、を通り越し、肌が触れ合うほどに寄り添った司書女史に、強く女性を意識してしまったのだ。 「それは確かに……っ。  まあ、焦ったところでどうしようもないんですが……っ」  泡を食ったように身を引こうとする、椅子の足元が夜の静謐にかぎ裂きをつけるように軋む、女史がすぐそばに身を寄せ、卓に手をついて覗きこんでくる、その近しさが息苦しく、そして、疚《やま》しい、後ろめたい。  司書はただ自分のことを案じてくれただけだろうに、そんな彼女に女性を、男の情欲の対象としての女性を見てしまいそうで、怖い。  ……渡し守の〈胸乳〉《むなぢ》に抱かれ、死の淵から蘇ってきた時もそうなのであるが、こと男女の間の秘め事というのに禁忌にも近い気後れを感じているのがこの青年なのだ。  女性に対し、そういう情動を覚えてはいけないのだと、それは〈道心堅固〉《どうしんけんご》と言えば言えるのだろうが、ある意味臆病とも言っていい。  が、そんな躊躇いなど既に見抜いて、その上で司書の、築宮青年が身を遠ざけるのを封じるように腕をつかんだ掌が、柔らかく、そして既に―――熱を孕《はら》んでいた。 「過去がない、というのはたしかに不安なことでしょうね。  なら、そんなに不安なら―――」  細められた目は、優しい形なのに、築宮をこの上なくいたたまれなくさせる。もう明らかな情火が灯《とも》り、潤《うる》み、とろけつつあるから。  言葉を紡いだ唇だって艶を増して、目を奪うほどに艶やかな。  唇がゆっくり動いて―――  舌が淫靡にそよめいて――― 「その不安を、おんなの肉で、まぎらわせるっていうのは―――どう?」  おんなの肉。……誰の?  問うも愚かしい。そう告げた目の前の女性以外に誰がある。  不安をまぎらわせる。……どうやって?  言うまでもない。  豊かで、柔らかで、そして温かい、肌でもって、乳房でもって、唇で、そしておとこを迎え入れる、肉の入口でもって。  抱きしめあい、絡み合い、とろけ合う、その快美の底に、不安など沈めてしまえと。  司書は、そう囁いたのだ。 「なにを、いったい、急に、そんな……っ」  つい先程までは、心騒がせられる風情ながらも淑やかに同席していた彼女が、いったいどうしてこんな変貌してしまったのか、展開の急についていかれず、〈爪弾〉《つまび》きだした声がうわずっていたのもむべなること。  立ち上がろうにも動揺が手足を縛り、ただ椅子の上で身を竦《すく》ませるばかりの築宮の前で、司書の体がすと降りる。  膝をついていた。  青年の脚の間に、みっしりと張りつめた腰元に、タイトスカートの皺も艶めかしく。  手を、差しのべる。  築宮の膝に掌を被せる。  それだけで―――ずきりときた。  腰の奥にとぐろを巻いていた疼きが、突然方向を見定めたように、一気に流れこむ。  築宮の雄の器官へ、重く圧倒的な圧力を持って。みりみりと、ズボンの内側でふくれあがっていく、と思った時にはもう、硬く熱くいきりたっていた。  この旅籠について以来、かつてなかったほどの性への、肉の快楽への欲求だった。  築宮は、その情欲を必死で抑えこもうと、歯を食いしばりながら首を振る。 「冗談は、やめてほしい。  だって貴女と俺は、まだ会って間もなくって、そんな間柄なんかじゃ、ない……」  鎮める、抑える、股間の膨らみを覚られまいと懸命に椅子の背に腰を引きつつ、司書を、というよりあらぬ期待に流されそうな自分を、どうにか抑えようとする。  けれど、制止の言葉を押し出そうとするだけで、喉がひりつく、目が乾く、手が〈戦慄〉《わなな》く。  紅茶に入っていた酒がそんなにも強かったというのか、強烈な酔いにも似た〈眩暈〉《めまい》で、目の前の司書が揺れる。  いや、司書の体は、実際に微かに揺らいでいた。右に、左に、鎌首をもたげ、獲物を幻惑する蛇のように。 「貴方こそ、冗談なんかで、済ませてしまわないで。  急かもしれない。  でも私は、貴方がほしい」 「もうだめよ。もういけないの。  火が……私の身体に、火が入ってしまったもの」 「貴方の目。さっきの。  悩ましそうな、心細いような。  それを見たとき、うずいた。  この人と寝たいって」 「もうそれは、理屈なんかじゃないんだから、急だろうとなんだろうと、止められなんか、しないんだから」  湧き起こった、女の情欲が、目の前の青年に焦点を合わせた瞬間、司書の胸元が一息に飛びついてしまいそうに膨らむ。  その時の彼女は、血の匂いを嗅いだ肉食獣みたいな貌をしていて―――いや、獲物を前にした妖《あやかし》とはっきりと言うに相応しい。  図書室の司書は鬼女だ、と人の云う。  それは真実だったのだろうと、築宮は銅鐘のようなこめかみの鼓動の中、思う。  不意に燃え盛り、男を捕らえる鬼の女。  司書から漂い出す淫ら熱にあてられたか、図書室の景色が歪み、流れ、異界に流されたかのようだ。  司書が跪《ひざまづ》いたまま、ゆらりと築宮の脚の間に身を倒す。波打つ髪が豪奢に流れる、指先が、青年の内腿に降りて、ゆっくりと這う。      かり、かり、と。  爪の先が、秘やかに、掻く。  ズボンの布地越し、だと言うのに爪の刺激は途方もなく淫靡で、築宮の自制も躊躇いも、たちまちのうちにひびが入り、割れて、あとからもたげたものは巨大な欲望。  逆らうことなど、できそうにないくらいの。 「綺麗よ。貴方の肌は……」  ズボンを下ろされ、くつろげられた青年の腿《もも》の肌を、やわやわとあえかな刺激なのに、なぞっていく爪は淫靡で、身の裡に潜む欲望を掘り起こしていくかのような。 「若い男の、肌ね。  張りつめて、弛みもなくって、  とても素敵……」  そして爪の愛撫よりもっと淫靡な、喉にかかった声。声と共に息づかいがかかって、ぬるい柔らかさが尖端を包み、築宮は声もなく身悶えした。  椅子に座したままの彼の脚の間で。  剥き出しになった剛直に、司書が舌を絡めているのだった――― 「……っ、  どうして、こんな事を、貴女が……」  ズボンのベルトを解かれた時、築宮はまだ抵抗を残していた。  あくまで自分は押し流されただけで、邪な欲望を抱いているわけではないのだ、と。けれどその抵抗だって、形ばかりのポーズでしかなかったのかも知れない。そうすることによって、強引に流される事への期待を育てていたのかもしれない。 「そんなの、ただしてあげたくなったからよ。ううん、私がしたくなったの」 「貴方の、男の人のものを、  こうして―――ん」 「でもこんなところで……誰かが来たなら」 「こんな夜更けに、こんなところに、だあれも来るはずなんて、ないわ。  お客さまは少ないって、言ったでしょう」 「私と貴方の二人だけだから。  なにも気にしないで、愉しんで」  そんな風に口にし、それだけでなく熱心に、細やかに男のモノを愛撫する司書が、築宮には信じられなかった。なのに、頭が煮え立つような興奮を覚える。  下着を下ろされた途端に、築宮自身が呆れかえるくらいに、筋さえ浮かせて硬くいきりたった剛直が反り返る。  臍の下を打たんばかりの勢いだった。 「貴方だって、こんなになっているんだから。……このままだと、辛いままよ?」  ついと唇を上げ、ふぅ、と亀頭に息を吹きかけた。  羽毛を払うような優しい息がくすぐったく、同時にぞくぞくするような快感の予兆も秘めていて、肩を息んでこらえればいいのか、力を抜いて身を委ねればいいのか、築宮は迷う。 「それは、俺だってその……男なんだし、貴女のような人に、こんな風に迫られたら、どうしたって感じてしまう……」 「嬉しいこと。  少しでも、感じてくれてるのなら、このまま任せて、ね」 「いや……待ってくれ、  俺も、本当に我慢できなくなってしまうから……」 「それは私も同じ。  もう我慢なんて、できない」  離した舌のかわりに茎にからめる指が少しひんやりして―――いや、彼女の指がひんやりしているのではなく、青年の剛直が熱くなっているだけなのだろう。  こんな風にされて、口では躊躇いを言葉にしつつも、青年は痛いくらいに〈屹立〉《きつりつ》させてしまっているのだから。 「ね、女の前で、あんな目をしたから、  いけないのよ……?」 「あんなって……」 「ン……」  答えるより先に、ちゅむ、と唇の間で軽く挟んで、舌先を平らにして鈴口に押しつける。  どうなっているのか、自分のそこは、と青年は司書の唇に潜りこんで見えなくなっている自分の尖端に意識を集中する。  もう先走りを滲ませているのか、司書は唾液とそれを混ぜ合わせているのか、それとも滲み出すのを待っているのか。  鈴口に押しつけた舌をそのままに、幾度か上下に滑らせてきて、舌の粘膜を馴染ませるように。 「んは……ぁ」  離れていくとたちまち冷えて、尖端に奇妙な喪失感。  そう感じてしまうのは、躊躇う素振りを残しながらも、築宮は司書の温かく滑った唇を、舌を欲しがっているからだ。 「本から目を離した時の、あの目よ。  寂しそうな、迷子のような。  あれを見た時に、もう私は」 「貴方を抱きしめたくなった。  いいえ、抱きしめるだけじゃ足りない、  もっと、もっとって」 「こんな女は、怖い?」 「…………怖いと言うより、  俺みたいな男に、貴女のようなひとがと、  信じられない」 「ふふ……っ」  喉の奥で笑んで、 「信じられなくってもいい。  ただ、感じて。そのまま味わって。  貴方が厭って言っても―――」 「もう、やめない」  ぞくりと、言葉だけで項《うなじ》を撫で上げられるような。薄く笑んで、司書は剛直をくるみこんだ指を波打たせた。  男が手慰みに乱暴にしごきたてるのとは違う、どこまでも繊細な刺激。  繊細な中に、胸がぞくぞくするくらい快感の予感が潜んでいる。あくまで予感であって、本当の快感ではない。  だから築宮は、まだ引き返せるという理性と、そのまま続けてもらって、早くもっと強い刺激を欲しいような、そんな中途半端な気持ちに宙づりにされる。  だがそのままに求めてしまうのは、なにか築宮の男としての〈矜持〉《きょうじ》とも言うべきが引っかかる……たやすく痴情に流されてはいけない、というのが彼の行動理念の底にあるらしい。 「そう。その顔も、いい。  ―――怖い事をされるんじゃないかって、少し怯えてるくらいの顔も、ぞくぞくする」  笑みなのに、どこか不穏な気配を秘めた表情、同時にそのまま流されてみたくなるような〈蠱惑〉《こわく》をたたえて、艶やかな。  怖いと、築宮は感じた。己のちっぽけな男の〈矜持〉《きょうじ》など、司書が紡ぎ出す快感にはきっと脆《もろ》く崩れてしまうのが明らかなだけに、怖い。 「私をこんな気持ちにさせたんだから。  そういう顔をしてみせたのが、運の尽きだったと思いなさい」 「…………」  またも無言で返すしかなかった。  なにか言ったところで、この敗北感とも期待ともつかぬ胸の裡を覚られそうで。  いや、きっともう覚られていたのだろう。 「う……ん……」  なにしろ司書は、青年と一瞬目を合わせて、それだけで軽く目を伏せて、ふるる、と身を震わせてみせたのだ。  喉を内側から突き上げられたような、感極まった表情だった。  見つめる青年が目を疑うくらいの。 「やっぱり貴方―――素敵よ。  こんな気持ちになったのは、どんなにか久しぶりのことか」  待ち望んでいたように開いた唇の紅が、さらに深みを増したように見えて、そして司書は、深く口に含んだ。  それだけで意識を持っていかれたように、築宮の思考が止まる、息が詰まる。  普通なら隠して人目を憚《はばか》る器官が、司書のふっくらした唇の中に潜りこんでいる。  初めて会った時から、尊敬とも畏怖ともつかない気持ちを抱いていた、年上の女性に、こんな浅ましい雄の器官を呑みこませてしまっている。  それは、冒涜感に近い想いだ。 「むく……ぅ……ず……ちゅ」 「……そんな、深く……いきなり……っ」  そんな口を吐きながら、なのに剛直は熱く猛っている。〈坩堝〉《るつぼ》のような司書の口腔の熱に、もっと熱くなる。 「くちゅ……ちゅ……ずぅ……」  にゅるにゅる、とうごめく司書の唇に舌に、もっともっと舐めずってもらいたい吸ってもらいたい、溶けるような熱さ、いや、心は、理性はもう溶けだしている。 「れるぅ……えぅぅ……」  強く吸い立てながら亀頭まで引き抜かれる。  尖端を含んだまま、内部で亀頭の周りを舌が蠢《うごめ》く。 「ン……うあ……っ」  尖端の雁首に沿って、舌がなぞる。  尖端の丸みから舌を這わせ下ろし、張り出したえらの下にそっと差しこんで、ぬるり。  柔らかで優しい舌遣いなのに、体の中の致命的な部分が剥き出しになったような危うさを伴った、そんな巨大な快感だった。  押し殺そうとしても声が歯列の隙間から漏れてしまう。 「はく……っ……ぁ、ぁ……」 「ンむ……むくぅ……ふうう……」  なおもひとしきり、尖端を執拗に舌でとろかしてから、司書はついと唇を離した。 「……貴方のは、こっちも奇麗ね。  ここの肌の色、まだ薄くて……。  もしかして、女の人を、知らない?」  むきつけと言えばむきつけな問いに、しかし築宮はそうと感じる余裕もなく、快楽の合間でようやく息をつきながら、答える。  隠しだてするまでもないと思った。 「どうなんだろう……わからない。  なにしろ、ここに来るまでの記憶がないんだ。だから、こういう経験も、有るのか無いのか……」  答えながらも築宮は、おそらく自分はまだ童貞なのではないかと考えている。  これほどの快楽なら、たとえ自分の記憶が失われているとしても、肌が覚えていよう、肉に刷り込まれていよう。 「……ただもう、ひたすらに気持ちいいとしか、言えない」 「そう―――でも、ここに来てからは、私が初めてなのね。  だったら、もっといいこと、してあげる」  また何か企んでいるような顔つきに。  青年の内腿に這わせていた手、中指を唇に含んでたっぷりと湿らせ、そろそろと腰の後に回し、尻の下に潜りこませようとしていた。 「今度は、なにを……?」  不穏な予感に、指から逃れようとした築宮を、悪戯な顔で、そっと、しかし強い力で押し止める。 「あんまり、緊張しない方がいいって思うんだけど……」  ぬめる指が、青年の腰元から、臀《しり》の狭間に潜りこみ、そのまま這い進み――― 「ちょ、まさ、か……」  とてつもない厭な予感に、築宮の後孔が反射的にすぼまる。 「抜いて、力。怖がらないでいいから」 「む、無理だそんなの―――ひあ!?」  青年の抵抗などどこ吹く風と、またつるりと剛直を呑みこみ、そして生暖かな口内の粘膜で溶かそうとするかの舌遣い。  飢えたような口淫は、青年の警戒心を崩そうとしての激しさ。でもそれがわかっていても、快楽の渦に飲みこまれていく築宮の、逃げられ、ない――― 「大丈夫だからね、貴方」 「ここでの初めてが、私になるのかって思ったら、呑みたくってたまらなくなった」 「貴方の、お口で受けたいのよ。  貴方の、男のおつゆ」 「どうせなら、たくさん、呑みきれないくらい欲しいから」 「こうすれば、ね?  ―――あぁ―――むぅ―――」  口いっぱいに含み、空いた手で幹も袋もいっしょくたに包み、しわ一本逃がしたくないというように、舌と指先で細やかに愛撫し抜く、その快美な事といったら!  もう少しだけ、この、自制心が雲散霧消してしまったみたいな司書の求め方を味わっていたい―――と、そんな風な心の弱さが築宮の仇となった。 「ひ?」  づるり、ときた。  司書は青年のモノを吸い立てながら、先ほどしっかりと塗りこめた唾液のねめりを頼りに、指先で位置をまさぐったと思うや、一気に―――後孔に挿入してきたのだった。  築宮に拒む隙を与えず――― 「うやぁぁぁ……っ」  女の子みたいな悲鳴だ、と、自分の声なのに違和感が著しい。しかし違和感は後孔の方がひどかった。  ひどい、でおさまるような感覚ではない。 「お……ふ……っ」  青年の鼻から、口から、息が勝手に漏れる。  ひどい騙し打ちの―――いや、身構えていたらかえって力が入って、後孔の粘膜が傷ついていたかもしれないだろうが。 「ごめん……もう、悪かった、俺がっ。  ほんとに……すまなかった……か、は。  ……あ……やまるから、抜いて……くれ、  こんなの、ひど、い……くふぅぅ……」  これは―――痛みなのか?  ―――不快感? ―――圧迫感?  わかるものか、こんなごちゃ混ぜの神経伝達、脳だってパニックに揺らされ、処理しきれたものでない。 「ああ……切なそう。  でもいやらしい、素敵な声、表情―――  わた……私―――そんな顔、されたら…」  司書も〈恍惚〉《こうこつ》とした声で呟くが、築宮にはよく聞き取れない。 「ひはぁあ……」  身悶えを抑えるのに全身の力を使う。  飛び上がって逃げたい、けれど。今そんなに急激に動いたら、潜りこんだ指のせいで、自分の中はひどいことになるだろう。  爪が折れそうなくらい、椅子の肘掛けを強く握りこむ、どこかの骨が軋む――― 「息を吸って―――吐きなさい。  そんなに固くなると、貴方、壊れてしまうかもね……」  壊れ……る? と違和感に塗りこめられた意識の中、ぼんやりと恐怖する。 「でもそうなったら、貴方をここに閉じこめて、ずっと面倒見てあげられるかしら。  それでもいいかな―――なんて」  何やらとてつもなく恐ろしい口を吐く司書に、力の限り力を抜こうという、アンビヴァレンツな努力を築宮がするうちに。 「この……あたり……?」 「こっち……?」 「ひゅはぁぁ……っ」  力を抜いたって無駄だった。  椅子と腰の狭間の狭いところで巧みに手首を返しながら、深々と埋め、そのしなやかな指先を後孔の内壁に押し当てるように、なおも司書は築宮をえぐり続けた。  異様な感覚にもはや言葉もない。  ―――初めての女性が、指や異物を受け入れる感覚だろうか、これは、と倒錯した想いが築宮のどこかをよぎった。 「それとも……ここかしら?」 「ひああああ!」  耳慣れない、人間とも屠殺される家畜ともつかぬ悲鳴を聞いた。まさかこれが、こんなのが自分の声か。  司書の指が、直腸の中のある一点を捕らえた瞬間。  それまでの異様な感覚を押しのけて、ある感覚がいきなり浮かび上がったのだ。  それはあまりに強烈すぎて、ある方向性を持った感覚だと、築宮は一瞬わからなかった。 「あ、ここみたい―――  ここ、男の人の、気持良いところの、核よ。聞いたこと、ある?」 「ここをこういう風にする、と―――」 「くふ! くはぁ!」  剛直への愛撫は止んでいる。なのにどうしてその感覚が胎内を突き上げる―――射精感というそれが。  己の中にそんな神経のターミナルがあるなど知る由《よし》もなかった築宮は、ほとんど白目をむかんばかりにのけぞるしかない。 「震えが、きてる。貴方の。  ―――お露もこんなに―――  泣いてるみたいに。―――もうすぐね」 「あう、う……っ」 「なら呑ませて。  私のお口に、たくさんよ?」  待ちかねたように唇に含み、奥まで呑みこんで、吸い立てた、快楽と未知の感覚に、鼻の奥にシンとした痛みさえ走って、もはや築宮は目を開けていられない、息さえ止まった。 「む……ぐむぅ―――」  ぐっぷりと根元まで飲みこまれ、頬がへこむくらいの強烈な、司書の吸引が剛直を襲う。  口内のぞよめきに加え、後孔の異質すぎる快絶に、含まれて吸われる雄の器官から、そして抉られ押される後孔から、ざわざわと這い登る。這い登る、快楽。  口淫が短い快楽の連続なら、これは一つながりの長い快絶だった。  長くて、深くて、あまりに強烈で。 「溢れ……る……っ、  だめ、だ、こんな―――」  爆発―――弾ける―――  叫びながらもどうすることもできず―――激しく射精した。  びくんびくんと腰を震わせて、意識も吹っ飛びそうな白い快感を、何度も司書の口内に叩きつけた。 「んむ―――!」 「む、ふぅ……んくぅぅんんっ!」  快感の爆発に暴れ回る青年の腰を、その淑やかな腕からは信じられないような、飢えた力で、司書はしっかりと築宮の股間をしゃぶり、吸いあげて続ける。  それはもう、拷問にも近いなかば強制的な射精。青年の脳裏に思い浮かんだのは、脚の筋肉に電極を差されて己の意志とは無関係に痙攣させられる解剖台の上のカエル。 「……んく……んっ、……んくん……」  実験行為にも似た射精は、青年自身でも空恐ろしくなるくらいの精液を吐き出させ、その全てが司書の口の中に撃ちこまれていく。 「―――ん、こく……ん、こく……っ」  口の奥で見えないけれど、その量の凄まじさは、異様なくらい長く、一回一回が深い脈動で感じられる。  それを司書は受け止めるはしから喉の奥へ、流しこむたび〈嚥下〉《えんか》の動きに吸い出されて、精の噴き上がりは後から後から際限なく。  呑み下すのがすぐに間に合わなくなり、強く築宮を包んだ唇の隙間からもとろりと溢れ出した。 「―――ぜ……っ、はあっ、はあっ、はあっ……」  ようやくのことで息をつく。  まだ余韻に痺れたような腰から、司書は離れない。何度も何度も飲み下して、ようやく顔を上げた。 「ふぅ―――すごかった。濃くて、一杯で」  顎の先に滴った精を指に取り、それさえもぴちゅりと舐めとった。  薄赤い舌のそよぎを、呆然と築宮は眺める。 「中で揺れてる感じ。私のお腹。  貴方が、出してくれたので」  くすり、と媚びに目じりを染めて、笑う。  ぞくり、と青年の背中に戦慄が走る。  しかし青年の戦慄は司書の表情のせいばかりではない。 「あの……なんと言ったらいいのか……。  でも、とにかく、その」 「なあに」 「お願いします、抜いて……下さい……」  まだ指先が、青年の中、深くに差しこまれたままだったから。  それが、くりくりと中から刺激するから、築宮の雄のモノは、あれだけ激しい絶頂を迎えてなお、萎《な》えることを許されていない。 「あら」 「あらじゃなくって―――!  気持ちよかったのは本当なんだが、もう、その、良すぎて痛いくらいだから……抜いてくれ……」 「でも、まだこんなに大きいのに」 「だからそれは、貴女のせいだと」 「おっきなままなのに?」  司書の目が、そこに降りてしまって離れない。しまった、と思った。注意を向けさせるべきじゃなかったと後悔のほぞを噛む築宮だったが、もう遅い――― 「大きくて、濡れて。  私の唾《つばき》と、貴方の出したもので―――こんなに濡れてるのなら、きっと」 「きっと、このまま、続けられそうね」  ああ―――  女性にも性欲はあるのだと、築宮はこの時初めて思い知らされていた。  なにしろといって、あれほど搾《しぼ》りとったのに、あれほど呑み干したのに、司書はまだ足りなさそうにしていて―――  ……。  …………。  ………………。  ひどく、喉が渇いていた。  ずきんずきんとこめかみが脈打って、同じくらい、いやもっと強く切実な脈動が剛直に走っていた。  築宮の雄の器官はいまだ萎えず、震えているのは先ほどの快絶の余韻のせいばかりではない。これからの甘美を思うが故にも、だ。 「いいんですか……本当に。  貴女と、最後まで、してしまっても」  下から見上げる司書の肉体は、白亜の女神像もかくやの豊麗な威容を誇り、築宮は圧倒されんばかりであったという。  青年の精を呑み干す事一度では飽きたらず、司書は飢えた眼差しもしるけく築宮を椅子から引きずり下ろし、双臀の下に組み敷き、情欲の順序が常の男女と逆になっているようだが、そんな理《ことわり》など薬にもしたくない様子の、彼女は恍惚と、潤みきった表情を憚りもしない。  服を脱ぐさえもどかしいのか、ブラウスは適当にはだけたなり、タイトスカートは腰の上まで捲りあげたなり、ショーツは足首のあたりに引っかかっているなりの、〈放恣〉《ほうし》に乱れた着衣は、全裸を晒すより卑猥ですらあった。  半裸の体は卓上燈に映えて瑞々しいのに、青年の喉はひりついて、まるで司書に精ばかりか全身の水気まで吸い取られたかのよう。 「なにを、いまさら。  言ったはずじゃない。  冗談ではこんな事、しないって」 「貴方が欲しいのよ。  なのに貴方は、まだ尻ごみ」 「私からじゃないと、  始まらないみたいだもの。  だからね、こうして、私から、するのよ」  そういってまた〈嫣然〉《えんぜん》と笑み崩れた、司書の笑顔、ただ艶美と言うだけでなく、笑みにとろみが、混ざっていた。あからさまに情交を連想させるとろみで、築宮の胸に気圧されたような躊躇いが蘇る。 「ほら、ためらってる。  だから、貴方じゃなくって、私がする」 「それとも、本当に厭?  私が相手なのが、厭《いと》わしいというのなら、  貴方の口から聞かせて」 「一言そう言ってくれたなら、  貴方から、離れるから」 「そんなことは……」  口ごもる。気持ちの整理などそうあっさりとつく筈もなく、会ったばかりの女性と、男女の間柄になってしまっていいのかという常識が、賢《さか》しげに邪魔している。  だがそれでも、情交への欲望は、雄の器官の脈動と共にいやましに膨れ上がっていくばかり。それがはっきりとした拒絶を口にもできず、〈怯懦〉《きょうだ》にも言葉を濁らせる。 「そういうことじゃなくって、ただ―――む、ぷ!?」  しかし築宮の〈逡巡〉《しゅんじゅん》はそこまで、決めかねている間にも針は振り切れた、遠慮の砂は最後の一粒まで零れて落ちた。  司書が身を二つ折りに、司書が寄せてきた唇の下に、逡巡などたやすく押し潰された。  唇に唇が重なる感触、それを割って、潜りこんでくるのは―――舌。 「ふぅ……ふうぅぅ……」  荒々しいくらいに舌をぞよめかせて、築宮の口内を蹂躙する。  そう、蹂躙されているのは築宮の方だ。  呼吸も困難なくらいの、口づけなどいう生やさしい言葉からは想像も出来ないほど、生の粘膜のせめぎ合い。 「む、む……むぅ……く!?」  司書の眼鏡のフレームが青年の頬に冷たい。いや、フレームが冷えてるのではなく、築宮の頬が熱く紅潮しているのだ。司書はそうやって築宮の動きを封じながら、のしかかった体を、豊麗な太腿をくねらせる。  ―――ぞくり、と青年の首筋が粟立った。  剛直にしなやかな指が巻きついていた。 「あむ……ぴちゅ……」  指で、先ほどしたようにしごきたてようとするのかと思ったのは築宮の浅はかな思い違いの、それこそ誤算だった。  のしかかって噛みつくみたいに口づけしながら、指先で築宮の尖端の位置を調整するようにして――― 「ふ……くぅ……!?」  つぷり、と潜った。  熱くぬかるむ、まったく経験したことのない粘膜の中に。  それが女の一番秘めやかな部分だと、目で見ずとも雄の器官が、男の本能が伝えてくる。 (これは……熱い!? ぬるって、まさかここは、この人の、そんな、もう濡れて……?) 「ちゅ……ぽ……」  司書がようやく口を離せば、一つに溶け合った粘膜を剥がすみたいに、舌の根元に軽い〈疼痛〉《とうつう》さえ走る。 「もう時間切れ。  ここから先は、もう私の好きにさせてもらうから」 「だって我慢できないんですもの。  もう、仕方ないでしょう?」  その通りだった。  襞肉にくるまれた尖端に滲んだ先走りは、司書の熱い蜜の中に溶かされていた。 「……よく見ていて。  貴方と私の、一番最初の、その時を」 「あの―――う……っ?」  身を起こし、築宮に据《す》えた眼差しの、その〈凄艶〉《せいえん》な、背筋に沿って肌が粟立つくらいで、戦慄が収まる間もなく―――  築宮の目が、吸い寄せられる。  司書の両脚の付け根の、〈和毛〉《にこげ》の翳りと、その奥で濡れて息づく、女のもう一つの唇に。  添えられた指が、肉のあわいの入口に、剛直を導いていく様に、魅せられたように、視線が外せない外したくない。 「―――もらうわ、ね―――」  ゆっくりと、しかし着実に、司書が腰を落とす―――尖端に、媚肉の狭間の柔らかさと、熱がかぶさる。  肉の襞が寄り合わさったような感触が、尖端の圧力に口を開いて、くわえこむ。 「―――――――――あ、は―――」  最後は、腰全体をぶつけるように一気に沈みこませてきて。  ぬぷりと亀頭が肉襞の重なりの中に潜りこみ、四方からの強い抵抗を感じる。  抵抗と同時に、奥へと引きこむような〈蠕動〉《ぜんどう》があって、司書は慎みの欠片もなく築宮を最奥まで、呑みこんでいたのだった。 「あ、はああぁ……」 「これ、俺はもう、  貴女の中に……?」 「……ええ。  いちばん奥まで。  でも……これ……思っていたより、  ずっと、深く、届く……ぅ」  司書の語尾が掠《かす》れる。  築宮が入っていった分だけ、〈胸郭〉《きょうかく》の空気が押し出されたみたいに息を吐く。  築宮を呑みこんでいくのに合わせて、背中をしなやかに反らせ、その形で固まった。  象牙細工みたいな白い喉を不安なくらいの角度でそらし、ふるふると震えている。 「あ、は……あんなに、ぐずぐずしてたのに。こっちのほうは、私の一番奥まで届いて、一杯よ……」  細い震えを帯びた、しかしとても綺麗で、そして淫らが香る声音だった。  魂をそっと愛撫するように淫らな声。 「貴方は、どう?  私の、中」 「わからない、……でも熱いよ、熱くてぬるぬるして……っ」  築宮が最初に感じたのは、ただ温度。  熱湯に浸しような熱さが強張り全体を隈無く包みこんで、一瞬感触が掴めなかった。  その熱が陰茎の皮膚に馴染んでいくにつれ、粘膜の感触が伝わってきて―――  極限まで張りつめた肉茎が、狭くて幾重にも折り重なった、熱くぬめる肉のつづら折りにくまなくくるみこまれていた。 「俺はこんなの、知らない、  いや、きっと知らなかった。  だってこんなの……なんて言えばいいんだ……っ」  築宮は再び確信する。  間違いなく、自分はこれが初めての経験なのだと。  たとえ記憶を失っていようが、自分が女性に声をかけたりアプローチしたりと、積極的に関わりを持とうという性質だとは思えないし、ましてやこのように深い仲になっていた相手などいよう筈もない。  だからこれが、きっと自分の初めてだ。  強引に、奪われるような童貞喪失ではあったが、この快感は、この甘美は、この悦楽は、築宮の中からそれを感じる以外の神経全てを焼き切ったかのようですらあった。  今まで知らなかった。知らなかったのが無性に悔しかった。  女性の中がこれほどまでに素晴らしいと知っていれば、自分は女性を観る目がもう少し変わっていたかもしれない、と。 「ふふ……なら、もっと愉しんで。  私が、動くから。  貴方は、ただ、気持ちよくなって」  司書がゆるゆる腰を持ち上げれば、茎全体、特に裏の筋を舐め上げる襞のぞよめきがずろりと―――目が眩《くら》みそうなほど、甘美。  彼女はしばし築宮の剛直と自分の胎内の深さを測るように、穏やかな律動を繰り返していたが、やがて〈馴染〉《なじ》んだのか、本格的に腰を遣いはじめる。 「う、それ、そんな風に動かれた、らっ」  呑みこまれていくときの、茎全体が司書の中に合わせて角度を変える感覚と、亀頭が粘質の肉の重なりをこじ開けていく感触がたまらない。 「あふぁ、ふ、深い、奥まで届いて―――  私、どうしよう―――気持ち、いいの」 「くぁ、は、貴方をを、良くしてあげるつもりなのに、私が、流される……ぅ」  築宮の〈鼠径部〉《そけいぶ》と司書の脚の付け根が重なって、彼女の震えが伝わってくる。  大きく背をしならせて、司書のたるみなく張りつめた乳房が突きだされて、ふるふると。 「いい、いいよ、気持いいよ……ッ。  女性の中が、こんな、いいなんて」  もう、会って間もないとか、そんな自制などとうに築宮の中から失せていた。  快楽のみが築宮を支配し、支配されるままに夢中で下から腰を突きあげ、引き抜いた。  動かし方に慣れてなくて、もどかしさすら覚えつつ、それでもひたすらに。 「あ……ふあ……っ、  ……ふぁぁ、はうう……」  築宮の突き上げの度に、司書の口から意味を為さない喘ぎが紡ぎ出される。  彼女も感じているのだろうか。  こんな身勝手な動きに、応えてくれているのだろうかと、ふっと兆した懸念は、女史のまぎれもない嬌声が吹き払う。  自分の快楽が彼女の快楽と二重螺旋のように絡まり合っていることが、また青年の新たな快楽の彩りとなる。 「ふぅー……ぐ、ううっっ」  築宮の口から零れている呻き声だって、司書と同じような快楽に濁った喘ぎだ。  ここまで来たら、良識や貞操観念など丸めて捨てて遠くに蹴り飛ばしてしまえと、快楽のみに衝き動かされ、根元まで突きこむと、強烈な締めつけが襲う。  剛直を絞りつける軟質の肉には細かな粒々が、その一つ一つに快絶が詰まっていて、尖端を通して脊髄、脳まで駆け抜ける。  深く突きこんだ時、尖端を他の柔肉より堅めの感触が擦り上げた。  その途端に、司書の息がひっと短くつまる。 「う、うっ? この、奥の、ちょっと固い感じのところは……」 「あ……は、ひゅ、ふ……え……?」  司書は空気が足りないみたいに、はくはくとなかば乾いた唇を開閉させていたけど、築宮の問いにうっとりと、かろうじて顔を上げ、瞳の焦点を取り戻す。  乱暴にしすぎてしまったかと、一瞬気持ちが萎えかけたが、 「そこは……奥の……子宮の……入口。  ……私ね、そこ、弱いの」 「もっと、そっとしたほうが、いいのかな」 「違うってば。  とっても気持いいところ、ってことよ。  だから、して。もっと、してぇ……」  動きの止んだ青年をけしかけるように、自らも深く呑みこんで、奥に奥にと押しつけるような腰遣いに、気を取り直して、抉り返す。  肉の〈狭隘〉《きょうあい》の天井を、こそげ取るようにして抽送すれば、その果ての軟骨のような感触が応える。  尖端で擦り上げるようにすると、司書の喉がオクターブを上げた媚声を奏でだす。 「あー……っっ。奥、奥、に、当た…って、 ―――いい。  どうして、こんなに、いいの……」  二人分の体重と律動を受け、図書室の床がぎしぎしと軋む。  司書が築宮の脇腹に手をついて、食いこませた爪が、彼女の胎内に突きあげる刺激を表していた。 「……当たってる……何度も……。  ごつんごつんて……んんぅ」  茎にまとわりつく肉襞の感触とは異質の、こりこりとした子宮口に尖端がこすれる感触は、築宮にとっても司書にとってもぞくぞくするほどの快楽を生み出す。  だから何度も突き上げ、抉り、擦りあげた。  より深く、根元までねじこんで、何度も。 「あぁ―――あぁ―――  よかった、本当に。  貴方と、気持いいこと、できて」  司書も築宮に合わせ、双臀をうごめかせる。  築宮などよりずっと巧みな、舞踏のように。  それはとてつもなく淫らな踊りで、二人の動きが一致した時の快楽は、深淵を覗きこむように深い。 「そう、私の中、色んなところ、  突いて、好きにして、滅茶苦茶に。  私も貴方を、好きにするから」  築宮は、剛直を突き入れながら少しずつ、侵入角度を様々に試す事を覚えはじめる。  と、その都度肉襞の具合が違ってきて、新たな快楽を与えてくれる。 「ここか……?   貴女の、ここは……?」 「……ええ、そこ、も―――いい―――ふぅくっ」  角度を変え、中を抉りつくす。  司書の体と声が跳ね上がるところを探り出し、そこを重点的に雁首で擦り上げる。 「わた……し、そんなに、されたら……だめ、そこ、そんな……ふ、く、私の方が、先に……っ」  司書が夢中で腰をうねらせれば、膣の中がうねり、感触が様々に変化する、締めつけが緩んだり強まったり、飽きる事がない。 「いや、俺だってもう、  こんなの、こんな気持いいのに、  いつまで我慢できるか―――」 「はぁぁ……いい、使って。  ん、あふっ、私のあそこで、気持ちよくなって、ねぇ……」  かすれた声と裏腹に、司書の内部がいっそう粘つきを増す。  それまでも素晴らしく締めつけ、〈翻弄〉《ほんろう》していた肉襞が、絶妙にほぐれて、まるで一枚一枚が独立した生き物みたいに剛直を舐め、しごき、呑みこみつくそうと蠢き始めたのだ。  ぐちゅぐちゅと、接合部から立ちのぼる稠密な音が、こんな時でなければ耳を塞ぎたくなるくらいに淫靡にかき鳴らされる。 「こんな……まだ、気持ちよくなるのか、  この中は……っ」  もし司書の肉壺がもう少し緩かったら、蜜ももう少し薄かったら、築宮は呑みこまれた瞬間にあっけなく果てていたのだと思う。  けれど彼女の膣内はあまりに素晴らしすぎて、快楽が針を振り切って一種の断線を起こしていたのだ。  臨界に触れる事なく、際限なしに快楽と射精欲ばかり高まっていくという、一種の拷問めいた。  それが更なる高みを迎えて、一気に射精感が蘇る。 「もう駄目だ、本当に、  また、出そうに……っ!」 「抜かないと……中、に……ぃっ」  することをすれば、できるものができる。  それはたとえ記憶を失っていたところで、忘れようもない生命の大原則で、築宮はかろうじて寸前で腰を引こうとした、のに。 「いいのよ、貴方は。  なにも気にしないで、いいの……。  だからね、中に、貴方の熱いのを、  私の〈膣内〉《なか》に―――」  膣内に流しこまれるのを厭《いと》うどころか、体を逃そうとした築宮の腰を押さえつけ、太腿でぎゅうと締めつけてきたのだ。  中もぞよぞよと淫らに吸いついて、築宮を捉え、離すまいと収縮する。 「はぁぁ……ちょうだい。  女だって、欲しい時があるんだから。  今、そういう気持ちになってる―――」  その一言が引き金だった。  力の限りに下から突き上げる。  膣壁をこそぎあげ――――  杭でも打ちこむように奥に到達させれば、尖端を子宮口のゴムのような質感がついばみ、精を吸い出すみたいにざわめく。 「吸われる……吸いとられるッ……」 「ええ……また、たくさんね?  もらってしまうから―――」  最奥を尖端が抉った時、二人の体が硬直した。築宮の出鱈目な抽送とペニスが、彼女にどれくらいの快楽を刻んだのか、それは判らないけれど、繋がってからもっとも激しい反応だった。  無限に引き延ばされた一瞬の中で、あるのはただ収束していく快楽の渦。  高密度の快楽の塊が、尖端に向けて駆け上がっていく―――そのままこらえきれずに築宮は、司書の膣内に精を噴きこぼした。 「ひ、う…っ、出て―――るぅ、出て、中っ、中にぃぃ、かかって、飛び散って」 「してぇ……。  もっと、最後まで、私の中で―――」  最初の噴射を受け、ひくひくと痙攣しながら、司書は築宮の熱く粘つく、白濁の〈飛沫〉《しぶき》を子宮口で受けとめた。  築宮も射精しながらも律動を止めず、膣の隅々にまで精液を行き渡らせようと。  築宮の身体の一部は死後の硬直のように強ばり、その一方でとろとろにとろけてしまっている部分もある。  やがて、長い、間をおかずの二度目とは思えないほどの、長く激しい吐精も終わりを迎え、ぐったりと弛緩する築宮と、彼に跨《またが》ったまま司書が、甘やかな吐息を漏らした。 「はぁ……なんて、すてき……」  射精の後の気だるさに、女の吐息は照れくさくて、築宮は両目を腕で覆う。自分がどれだけ呆けた面をしているのか、彼女に見せるのが気恥ずかしくて。  ―――と。  ひゅくり、ときた。  まだ繋がったままの、司書の中の、尖端に。  最奥がひゅくりと蠢き、吸いあげる。 「え……あ、これ、貴女の中、  まだ、動いて」 「ふふっ。そう、よ。  こんなのは、どう……?」  喉の中の笑みに会わせて、ひゅく、ひゅくりと子宮口が啄《ついば》み、尖端に口づけをする。  休んでいる暇などないのだと、もっともっと私にちょうだい、と―――  腕を払い、見上げれば、舌が唇を舐めた。  司書の、図書室の鬼だという女の、舌なめずりだった。  築宮の胸中に走った予感は、不穏に青らみ、なのに受け身なときめきさえ伴っていた。  性の官能と結びついたときめき。  したたかに吐き出し、なかば麻痺していた雄の器官が、またそそりたっていく。女の柔肉にしごかれ、舐めずられ、青年の意志を離れて、欲望が再び流れこむ。 「あんなによかったのだもの。  一度きりなんて、つまらないでしょう?」 「それは……少し、休ませてくれ」 「休む暇さえ惜しい、この今は」 「夜は、まだ続くわ。  その夜の間、ずっと、貴方―――  今夜は私のところに、泊まりなさい。ね」  再び張りつめていく、怒張の硬さを確かめるように、ゆるゆると腰をうねらせ始めた司書の肌も髪も唇も、男の精を吸っていよいよ艶を帯び、暗がりの中におのずと燐光を漂よわせんばかり。  下半身から溶けだし、液状となって、司書の中に吸いこまれていくかの幻想に囚われながらも、彼女の情炎から逃れる術も持たず築宮は―――  旅籠の図書室係は、若い男の肉を好んで喰らう鬼女というのも、なるほど、あながち根拠のない噂ではなかったのかもしれないと、〈賦抜〉《ふぬ》けた笑いを頬に貼りつけつつ、〈朦朧〉《もうろう》と。  いつしか、司書の動きに合わせ、快楽の沼の中に再び沈んでいくのだった―――  ……。  …………。  ………………。  築宮が旅籠に宿を投じてから、数日が経った。昼は牧場の牛の夢想のようにのんびり夕へと暮れて、夜は梟《フクロウ》の羽ばたきのような静けさのうちに暁に明けていった。  聞けば旅籠のそこここには、それなりに遊興の場もあるとかで、それこそ梟のような宵っ張りの客は、夜な夜な思い思いにお気に入りの場所で時を過ごすらしい。  お酒を出すところだってありますよ、とは膳を運んでくるお手伝いさんの弁で、多少気が動かないでもない築宮だ。深酒の果てに自滅しかけたというのが、現在の築宮の記憶の始点であるが、それはそもそも朧気な情景であり、苦い教訓を心に刻みつつも、少しずつ薄れつつある。  しかし酒場に繰り出すといって、それにはまずどこにあるのかを確かめなければいけないところから始まり、為に今ひとつ踏み出せないでいる。  というのも、築宮も明るいうちなら平気だろうと、暇の徒然に旅籠の中を散策してみたのだが、その都度迷って己の方向感覚の乏しさが物哀しくなったせいである。  いや、迷うこと自体は、この廻廊と部屋部屋の迷宮じみた旅籠の中では一種の気楽な冒険のようで苦にはならず、たとえ帰りの道筋を失ったところで、とにかく水路を見つけだしてそれを下流へ辿れば、件の吹き抜けの多層廻廊かさもなくば始めの船着き場に程近いところまで行き着けるということが判明し、迷子になるのもそこまで恐怖ではなくなった。  それに、無人でうら寂しい一画に迷いこんだと思いきや、他の客が湯道具下げてのんびり通って、すれ違い様会釈していったこともあるし、よくよく見ればお手伝いさんだってあちこちに行き来している。  よほど奥地に入りこまないことには、当初恐れていたような遭難の憂き目に泣くことはあるまい。  それでも夜ともなれば陽は落ちて、影の〈版図〉《はんと》が勝れば旅籠の景色は様相を変える。廊下の連なりの中には電灯が点されているところばかりではない。  そういう暗がりの中で、かつて自分が惑わされた偽りの廊下や幻の物音の類に行き遭ったとして、心強くして踏み破れるかどうか怪しいものだと自分を見定め警戒し、〈迂闊〉《うかつ》な夜歩きを避けるのは、あながち臆病、〈怯懦〉《きょうだ》と言いきれまい。猫も狐も鼠も兎も、臆病者ほど賢く、生きながらえるという。  それ故に旅籠における築宮青年の既知範囲は遅々としてなかなか広がらない。  今日も座敷から出てきたものの、遠出するには多少気疲れして、見慣れた辺りで空き座敷の縁に腰下ろし水路を眺めて、うかうかと、過ごす時間は水の流れと同じく〈緩慢〉《かんまん》で。 (そもそもがだ、これだけだだっ広い宿で案内図の一つも見かけないってのは、ちょっと妙じゃないか?)  彼が訝《いぶか》しく考えるとおり、こういう宿の中の主だった分岐点には普通置かれて然《しか》るべきの、案内図・地図の類はこれまで見たことがなく、道を知るには一々お手伝いさんか誰かを頼るしかない。  それも相手にご苦労だし、かといってこうして水路のせせらぎさらさら静かに歌うのに身を委ねていては眠くなるばかりだし。  それなら、失われた記憶を掘り起こそうと試みるのはどうか、それさえしないのは怠惰だと、築宮を誹《そし》るなかれ。既に彼は自分の頭の中を今の心力が及ぶ限り、探りつくした後であり、ある一日などは知恵熱で床から起きあがれなくなったくらいなのだ。そもそも思い出そうとして思い出せるくらいなら、〈記憶喪失〉《アムネジア》が病名にはならないだろう。 (記憶の方も、ここまでくると、なにかのきっかけかショックでもないことには復活しそうにないぜ、これは……)  襖《ふすま》の桟《さん》に後ろ手ついて振り仰ぎ、鯨が潮吹く如く天井へ溜め息を噴き上げようとした時だった、彼の耳になにごとか言い合う声が届いたのは。 「……でもあたしは、女将さんの言いつけの途中なんですってば、本当に」 「まぁたそんなコト言って。  貴女ね、こないだもそれで干し魚の番、サボったでしょう」  見ればやや離れた水路の際で、お手伝いさんが同僚をつかまえて、一方があれこれと逃げ出そうとしているのを引き留めの、言い合う二人が同じ顔では混乱を来すので、以降言い逃れようとしているのを甲、逃すまいとしている方を乙としてやりとりを追ってみよう。 「あの時は貴女が持ち場を離れたお陰で、蝿が寄ってきて、ぶんぶん唸るわ卵を産むわで、そりゃもう大騒ぎだったわけよ?」 「危うく干場の一竿全部が、蛆ちゃんの揺りかごになるところだったわ」 「おまけに、匂いにつられたのか、猫の〈宗右衛門〉《そうえもん》さんまでやってきて、干したばっかりのを、二・三匹持ってかれちゃったし……」 「だからそれはごめんなさいってば。  でもあの時あたし、お客さんから〈丹前〉《たんぜん》の洗い張りを頼まれてて」 「〈癇性〉《かんしょう》持ちの人だから、呼ばれた時、すぐお伺いしないと折檻されるのよ」 「柱に縛りつけられて、二時間放置よ?  泣きの涙を足の指で伸ばして、床に鼠の絵を描いちゃうわよ?」 「他にも、水張ったおっきな盥《タライ》をまたがされて、スカート持ち上げたまま、廊下に二時間放置とか、考えるだけで恐ろしい―――」 「ふぅん? けれどお客さまの用を足しているはずの貴女が、その時南のお台所の方で、余り物をつまみ食いしてたの見たコがいるのだけど―――?」 「ぎく」  身振り手振りも大げさに、同僚の追及を必死にかわそうとしていたお手伝いさんの手が、宙でぴたりと止まり、力なく垂れていく。 「そればかりかその余り物、日が経ってたのを始末し忘れたやつで、うっかり口にした貴女はその後はもう、見るも無残聞くも無残、嗅ぐも無残なザマになり果てて―――」 「わあああ、わああっっ、  なんでそんなことまで知ってるの〜!?」 「挙げ句、自分の部屋から、立って出ることもできなくなる始末で、そんな貴女は、さてどうしたでしょう」 「どーして……あなたそれを……っ?」  どこにそんなものが置いてあったか、築宮には見えなかったのに、お手伝いさん・乙はずぅるりと、引っぱり出したのが白かった。  翼もついていた。嘴《くちばし》もあった。そして座りやすそうだった。  ありていに言えば白鳥型のおまるの――― 「ここにこういう証拠物件が」 「きゃああああああっっ!!」  同僚が引っぱり出した白鳥型を、悲鳴で台詞を遮りひったくり、お手伝い・甲は水路に投げ捨てれば〈水飛沫〉《みずしぶき》も軽快な、のんびりくちばし揺らして流れ去っていくのを築宮は〈唖然〉《あぜん》と見送ったのだが。 「貴女それ、渡し守さんに見つかったら、それこそ折檻ものだと思うけど」 「ともかく。前一回そうやってサボってるんだから、今度こそちゃんと手伝いなさい」 「私は先に行くけれど、今度は逃げないで、ちゃんと来るのよ?」 「さもないと、女将さんに、北西の〈味噌蔵〉《みそぐら》から不審火が出た件についても、色々と報告しなくちゃいけなくなるからね……?」 「ちょ、待……なんでその事まで……っ」  後は皆まで言わせず、お手伝いさん・乙はスカートを翻《ひるがえ》し持ち場の方角へすたすたすた、残された方はがっくり〈項垂〉《うなだ》れて佇《たたず》んで、事の〈顛末〉《てんまつ》はああではあるが、哀れを誘う姿には違いなく、築宮はなるほど彼女たちの間にも諸事情あるのだなと、長々見守っていたのが、まずかった。  やがてお手伝いさんは、諦めたように顔を挙げ、同僚の後を追おうとして、そこで築宮の視線に気づいたらしい。 「やですよ、お客さん、変なところ、見られちゃった」  振り返って、決まり悪そうに〈会釈〉《えしゃく》したが、なぜかそれで築宮から視線が外れない。 「でもどうしよう……今度ばっかりは、女将さんの言いつけっていうの、本当なんですよね……」  呟きながら考えこんだ様子が、やっぱり視線は築宮にためたまま。なぜか青年に不穏な予感を抱かせる眼差しの、やがて彼女が頭上に裸電球でも点したように瞳を輝かせた時、築宮の予感は現実化した。 「お客さん、暇そうですねぇ……?」  顔はどれもこれも同じのくせして、お手伝いさん達には本当に色々な〈個性〉《キャラクター》持ったのがいるようで―――  ……。  …………。  ………………。 (ここの……五回目の分岐は、左に折れるんで、よかったよな?)  と廊下の曲がり角に立った築宮は、参謀本部〈編纂〉《へんさん》の地図を繰り開いた旅僧のように、お手伝いさんが書きつけたのを〈襯衣〉《シャツ》のポケットから取りだし、確認した。  小脇には、お手伝いさんから預けられた〈袱紗〉《ふくさ》包みが色艶やかに。これらを見るに、築宮が彼女の用事とやらを体よく押しつけられたのは明白である。 『いや本当、悪いですねお客さん、  あたし、見ての通り、別のお仕事が入っちゃいまして』  頭を下げるだけなら〈無料〉《ただ》だと言わんばかりにぺこぺことお礼を連発し、それで彼女に悪びれた風など一切無いのがいっそ潔《いさぎよ》いくらいだった。 『でも、途中でどっかにうっちゃったりしないで、ちゃんと届けてくださいよ?』  用事というのは届け物、それを押しつけておいてしっかり釘を差す、言い草がまた凄い。 『言いつけをちゃんと果たしてないと、あたし、女将さんに、それはもう物凄い折檻を受けるんです』 『鞭でお尻を叩かれるんです。  何度も何度も叩かれるんです。  泣いても叫んでも、漏らしても。  ……こほん。  あらやだ、あたしったらはしたない』  わざとらしい空咳で取り繕うお手伝いさんに、さすがにそれはないだろうと築宮は顔の前で掌を打ち振って無言の抗議を送った。  あの令嬢が、なんぼ仕事不行き届きの使用人相手だからとて、鞭を振るうというのは考えづらい。  そんな―――あの硝子のような眸の色は、そんな時でも変わらない。ただうっすらと紅潮させた頬のみが、鞭を振るう血のたぎりを示す。両手でしならせた鞭が空を裂くたび、お手伝いさんの白いお臀に格子状の痕が刻みこまれては、血の雫を痛ましく滲ませる。悲鳴も哀訴も聴く耳持たず、楚々たる唇には一欠片の言葉も上《のぼ》せない代わりに、お手伝いさんの切な吐息が絞り出される時だけ、あえかな笑みを浮かばせる。  そして―――肌に滴る朱の筋に唇降ろしては舌鼓を鳴らし、浄めてあげましょうと、神官が榊《サカキ》の枝で霊水を撒《ま》くように、振り零してやるのが強い強い〈酒精〉《アルコール》、冷たいのに傷口に沁みては炎の責め苦と、お手伝いさんは苦悶に喘ぎ、髪を振り乱して、浮かべる哀訴の涙を令嬢は、朝靄の中に煌めく露の珠のように愛でる。  〈嗜虐〉《しぎゃく》と〈被虐〉《ひぎゃく》の絡み合いはもつれて、まだ始まったばかり、こうしてお手伝いさんは性も根も尽きはてるまでいたぶられ、旅籠の女主人の慰みに使い捨てにされ、後は飢えた男達に払い下げにされてしまう―――  ―――だなんて、あの令嬢が?  と一体どこからそんな妄想が忍びこんだものやら築宮の脳内に、いつしか繰り広げられていた、あまりにあんまりな情景に我が事ながらたじろいで、打ち消そうと激しく宙をかきむしって、ぶんぶんぶん。  そんな築宮とお手伝いさんのやりとりを、傍らの水路の面が逆しまに映しだしていたのもずいぶん前のこと。  その時跳ねた魚が水面を乱し、鎮まった時にはお手伝いさんと築宮の影像は消え去って、いま青年の姿は旅籠の中でも上層部の廻廊の〈直中〉《ただなか》にある。  断る間もなく用事を押しつけられた形だが、どのみち他にする事があったわけでもない。  地図を見るので立ち止まったついでに銀時計の蓋を弾けば、かの女王陛下のお国ならば午後の茶の時間であり、随分と歩いた青年の喉も渇きを訴えている。  実はお手伝いさんも目印代わりに書きこんでいたのだが、来る道すがらの廊下の片隅に、長椅子と小卓が置かれた無人の休憩場があった。それだけなら腰を下ろして休める場処というだけ、そしてそれだけではない。  あったのは長椅子と小卓と、いかにも温泉宿らしい、ひなびた〈硝子〉《ガラス》引き戸の冷蔵庫。中には冷えた麦湯で満たされた水差しだってちゃんとある。  人気もないのに宿の〈心映〉《こころば》えらしい、電気も通っていたし、麦湯もまめに替えるのか、傷んだ様子もなく、涼やかな香りをたたえていた。  当然築宮の胸は高鳴った。歩き疲れたところに冷たいさっぱりした飲み物。  ―――なんて素敵だ。  では、用事を済ませて、届け先を待たせているという憂いをなくした後での冷たい飲み物はどうだろう。  ―――おお、もっと素敵だ!  禁欲的というのか馬鹿正直というのか、築宮は冷えた麦湯をいったん見送って、届け先へとひたむきに進んでいるのが今である。  この角を曲がればもう直だと、地図と時計をポケットに戻して、また歩き出す。  が、その足元が徐々に鈍り、止まったのはいったい何故。 「……なんだ、これは」  疑問が抑えきれず口をついて出たのも仕方なしと言えたろう。届け先の部屋に向かうにつれ、周囲の様式はあの図書室の辺りと同じように、和洋が〈混淆〉《こんこう》したものとなり、洋風の部屋も散見せられていたのだが、それでも築宮が行き当たったそこは、様式以前の問題として、存在自体が異彩を放っていた。  築宮は、はじめ外を横手に眺めながら歩いていると思っていたのだ。旅籠の周縁部に位置しており、一方の壁面が総〈硝子〉《ガラス》張りの窓になっている廻廊を歩んでいるのだと。窓の向こうから触れなんばかりに迫ってきている緑も、旅籠に隣接して生い茂る樹々なのだと。  だが、しかし―――――― 「ちょっと、待て」  次第に膨れあがる違和感が、青年の歩調を鈍らせ、しまいに立ち止まらせるに至った。  この階層は、旅籠の中でも上層に位置しているはず、なのに大〈硝子〉《ガラス》の向こうの濃緑の重なりの中、地面が見えてはいないか?  加えて屋外であるならば、滴らんばかりに繁る緑の葉ずれが一つとして、風に揺らぎもそよぎもせぬのはどうしてだ? 屋外である以上、完全な無風状態というのは有り得ない。  ……ある結論が、脳裏にぼんやりと形を得ていく。 「これは……もしかして、『中』なのか?」  疑問として吐いた独言ながら、確信めいた予感が含まれていて、築宮は鼻先擦りつけんばかりに〈硝子〉《ガラス》へ取りつき、目を凝らす、と。  ……いやはや、予断というのはたやすく目を曇らせるもので、なんであの樹々が旅籠の外のものであったろう。  大体にして築宮が渡し守の小舟から遠望した旅籠は、大河の直中に聳えており、この巨大建築物を〈囲繞〉《いにょう》するような森林などなかったはずではないか。外縁部に木々の色合いがなかったとは言わない。外壁のあちこちの綻びにいじましくも逞しく根づいた樹々が、ちらほらと枝葉を広げているのは見かけた。  しかし今〈硝子〉《ガラス》越しに眺めているのとは、幹や枝葉の様子からして、植生がまるで違う。  〈硝子〉《ガラス》の向こうで〈放恣〉《ほうし》に繁茂している樹々の葉というのは、たとえばハレムの奥で〈微睡〉《まどろ》む王侯が〈側女〉《そばめ》に〈団扇〉《うちわ》代わりに扇《あお》がせるのが似合いの、幅広で大なるものや、あるいは生のバナナを包んで焚き火の傍に埋めこんで蒸し焼きにするのに塩梅よさげなものばかり。  総じて導き出される幻景は―――熱帯。 (これも一つの部屋というか、広間なのか?  だったら入口は―――)  と、行き方へと目を向けてみる。人の手になる構造で埋め尽くされた旅籠の中には珍しい、生きた緑に心を奪われて気づかなかったが、廻廊の前方に、〈硝子〉《ガラス》張りの内側へと切れこんでいる入口が目に入った。  止まっていた足元が吸い寄せられるように動き出し、やがて小走りになって、築宮の緑の裡側へ呑みこまれていく様、花に惹かれた虻《アブ》か蜂かで。  ―――かくして築宮は、匙《さじ》ですくえそうなほどに濃い緑のいきれに押し包まれ、なかば喘ぎつつ熱帯の樹々を見上げることとなった。  背後には入口の大扉が控え、廻廊と地続きの広間であることには間違いないのだが、いかんせん空気からして異なりすぎる。それまで小川を泳いでいた筈の魚が、次の瞬間粥の海で溺れまいともがいている自分を発見した、というのに等しい。  青年にはまた例によって例の如く、旅籠の妖《あやかし》が仕掛けてきた、室内の情景を全然別なものに錯覚させるドグラマグラ(幻術目眩まし)ではないかと疑わしく、拳を強く握りこんで肌を破らんばかりに掌に爪を食いこませてみたのだが、緑の〈幔幕〉《まんまく》は〈依然〉《いぜん》として様々な色合いで重なり合い、変わり舞台の背景のように消え去りはせず、生温かな息吹で圧倒的なまでに包みこんでくる。 (温室……なんだろうが、これは……)  いったい何者なのだ、熱帯の一部を切り取り、まるで色の合わないパズルの〈切片〉《ピース》のようにこの旅籠の一画へ嵌めこんだのは。  いったいどんな心なのだ。この巨大な旅籠を形作る材の大半は、確かにかつては生きて呼吸し、天へ梢を差し延べていた木ではあったろう。しかし今では様々な形に製材され、歳月と代々の人の手によって角を削られ磨かれて、眠りに憩うてある。そんな旅籠の一画に、いまだ生のまま現存し続ける熱帯の森を封じこんだのは、いかなる心だというのか。  ……答えるものはない。  けたたましく呼び交わす〈狒狒〉《ヒヒ》の声も、梢から葉をまき散らしつつ飛翔する〈鸚鵡〉《オウム》の羽ばたきもない。  空気は樹皮に滲む脂の匂いと、〈葉群〉《はむら》の気孔から吐き出される濃厚な緑の香気に満たされ、植物以外の動くものは呼吸するだけで〈嗜眠症〉《レタルギア》じみた麻酔作用を及ぼしそうだった。  かつてラオスの北、ビルマの境近くに、 『伽羅絶境』  と畏怖をこめて呼ばれる魔境あり。  〈伽羅〉《きゃら》の香木が地下一面に埋まり、麻薬の如き得も言われぬ芳香を醸《かも》し出しているという〈峪間〉《たにま》あり。  その天然の財宝を求めて挑んだ命知らずも多くあるというが、みな香気に〈酩酊〉《めいてい》し、進むも退くもままならなくなり、ついには緑の褥《しとね》の中に尽き果てるのが〈必定〉《ひつじょう》の、〈峪間〉《たにま》の下生えには〈食肉蟻〉《マラブンタ》に肉食い尽くされ白い骨ばかりとなったのが点々としているとか。  そんな魔境秘境ならずとも、深く緑濃い森林というのは、まだ世界に地を歩き空を飛ぶ生き物が生まれておらず、地表を覆いつくしていたのが植物ばかりだった神代の昔の記憶を〈堅持〉《けんじ》しており、〈迂闊〉《うかつ》に迷いこんだ者を取りこんで帰さず、〈樹霊〉《こだま》の列に引き入れる事がままあるという。  築宮には自分をそんな緑の生贄に供するつもりなどさらさらなかったが、それでも知らず温室の中へと踏みこんでいくのだし、その足取りが〈覚束〉《おぼつか》ないのも、足元がそれまで歩んでいた堅い板張りの床から、〈天鵞絨〉《ビロウド》のような苔に覆われ、弾力満ちた地面へと変わったせいばかりではないだろう。  人は今の築宮の足取りを指して、魅せられた者のそれと言うのである。 「……息しているだけで、酔っ払いそうだな、ここの空気は……」  無理からぬ話ではあるが、築宮はこの南方を切り取った小世界に自分の他誰かあるとは考えだにせず、心に浮かんだままに呟いただけで、〈相槌〉《あいずち》など期待していたわけではない。  それどころか、誰かにもし聞かれでもしたなら、途端にバツが悪くなるのが、独り言というのの常である。 「そうお?  わたしは、よい匂いだって思うよ」 「なっ!?」  無防備に心の内を吐かせた、自分一人だけという安心感がたちどころに粉々に打ち砕かれて築宮は、理不尽な腹立ちに見舞われる。  どこのどいつが出歯亀に、人のことを覗いていたかと尖りきって、木立の間に間に声の主を求めて探り当てたその姿。  蜜を含んで、光り食《は》んで艶めくような、一群の〈花邑〉《はなむら》を背に、女はいかにも寛《くつろ》ぎきった体で〈胡座〉《あぐら》していた。 「ああ、あんたの髪は、  黒くてまっすぐだねえ」 「……はい?」  いや―――姿がどうこういうより先に、前後の脈絡という語をすっぱり無視した台詞なので、築宮の自分勝手な腹立ちは戸惑いの中に紛れ、〈有耶無耶〉《うやむや》になった。  こういう現実と隔絶したような温室では、唯美派の詩人の筆先のような、幻想と隠喩で不思議めかした台詞が似合いそうなのに、彼女の言葉は即物的に過ぎ、かえって築宮はなにかの暗号でも持ちかけられたかと、額に垂れた前髪を指で挟みつつ。 「こんにちは」  だが女は、なにか子細があって口にした台詞ではないようで、ひょこりと立ち上がって深くお辞儀し、またぺたんと座し、そしてもう青年の髪のことはそれっきりだった。 「こ、こんにち、は……」  挨拶を返すは返したが、戸惑いに舌はもつれて、女はそう意図したでもあるまいに、築宮は完全に機先を制された形である。  こうしてたった二言三言の台詞で、築宮はのっけから調子を思いきり外されたわけだが、物言いもさりながら、やっぱり女は姿からして浮世離れしていた。  白の小袖に浅黄の直垂を重ね、合わせの袴履き。袴も簡易な〈行灯袴〉《あんどんばかま》ではなく、〈嵩張〉《かさば》る〈襠袴〉《まちばかま》―――という、衣装の名だけ挙げても馴染みは薄いかも知れないが、これは本来は男の恰好である。それをまとうような女もないでもなかったが、ほとんどが白拍子の類だ。  いずれにしても、本邦の衣服としては古い部類に属してあり、もはや普段着として身につけるものではない。  それをばこの女は、平然と着こなし、というよりこれ一着の着た切り雀なのが見てとれる有り様だ。  色は浅黄と言ったが、染め上がった時よりどれだけ陽に晒されて水を潜ったのか、元の色合いより数等褪せて、生地だって擦り切れる寸前まで毛羽が立ち、いや、襟元や袖の辺りなどは、既にもうほろほろとほつれ加減で。  それでも不思議と不潔さは感じさせない。  貌立ちはといえば、衣装はこの邦の古いものを着けているのと裏腹に、どこか異国の匂いを感じさせた。  目鼻立ちや目の色が、この邦の純粋なそれと異なるのだが、かといって完全な異邦人の顔というのではない。外国の産であるのをこの邦の水と風物で育んだ、といった情緒だ。 「ねえ、あんたもお座りなよ、ね?」  女の奇異な恰好につい〈不躾〉《ぶしつけ》に視線を置いてしまっていた築宮だが、彼女がつと横に腰をずらし、空けた場をぱたぱたと手払いしたので我に返る。  が、勧められたといっても戸惑った。なにも女が座っていたのが、こちらも擦り切れ加減の粗末な〈茣蓙〉《ござ》であったのに躊躇ったからではない。  彼でなくとも、見も知らぬ女から親しげに隣を勧められて、はい喜んでというわけにはいかないだろうし、それに自分が頼まれ事の途中であったのを思い出したのである。 「いや、その、俺はちょっと……」  言い差して、〈茣蓙〉《ござ》の傍になにやらの木板が置かれているのがようやく目に入った。青年が今まで女ばかりに心奪われていたのが窺えるが、ともかく、木板の面に何事か書きつけられてあり、   『よのなか せけんの     もろもろの よもやまの   おはなしお きかせてください   』    と、またそれが下ッ手くそな、〈み〃寸〉《みみず》が〈食中〉《しょくあた》りを起こしてのたくったような、それでいて、文字を書くことそのものが楽しくてたまらないといった喜びに溢れた筆跡だった。誤字さえご愛嬌の、天真爛漫な筆致が築宮には劣等感さえ抱かしせしめる。  ただ整っているだけの自分の書き文字となんと対照的な筆致なのかと。 「それ、私が書いたンだぁ。  ねえあんた、なんかさ、お話知ってたら、私に教《おせ》えてほしいな」 「……そのお話って言うのは、お〈伽話〉《とぎばなし》とか昔話の類なのか?」 「なんでも、いいんだ。  お話だったらさ」  浮世離れしているのはその風体だけではなく、否、相応しいのか、言っていることがまた、蓮の花に結ばれる露は、お釈迦様が賜われた飴の粒だと心から信じている手合いの言で、地に足がついていないにもほどがある。  これは重い熱病を患った挙げ句に頭が可哀相な事になってしまった女なのかと、築宮失礼千万な疑いを抱いて彼女の顔を覗きこんで、そういう世俗の垢にまみれた考えは返り討ちに遭った。  女はまだ若い、渡し守や図書室の鬼女ほどの年増ではなく、かといって令嬢の少女の年代でもない。というより、築宮と同じ年頃と言ったほうが判りが早い。とにかく、そういう年ともなれば、世界は甘くも優しくもないことを、何度かの幻滅に挙げ句に思い知らされて、いやでも大人の賢《さか》しさを身につけるもの。ただでさえ女という生き物は男より成熟が早いのだ。  ところがこの女に関しては、幻滅も賢《さか》しさも無縁のものであるらしかった。  双眸に、精気が燃えていた。衰えを知らぬ好奇心の証として。  賢《さか》しらな世故の智恵を身につけることをして成熟とするのは、人の物哀しい言い訳ではないかと切なくなる。  その眸の煌《きら》めきは、智恵の原罪に汚されざる、百万兆年は古い、世界の幼年期の住人と類縁関係にある。  世界の暁に歩き始め、周囲の驚異にただただ目を見張っていた頃の生き物の、生の躍動と心のときめきをそのままに伝えていた。  様々な物事を経てなお倦まず、夢を糧に変えて生きているような、こんな女もいるのだと、驚嘆する築宮へ、 「ここに座って、ね?」  しきりに隣を勧めてくる女には、初見の男に対してあって然《しか》るべき警戒心や〈猜疑〉《さいぎ》がまるで欠如しており、こんなろくすっぽ人も通わぬ温室では、女に飛びかかって乱暴狼藉を働いたところで、悲鳴は分厚い〈葉群〉《はむら》に吸われるばかりで、他に聞き分ける者もあるまいと悪心起こす輩は間違いなくいるだろうにと、築宮は他人事ながら心配になったほど。 「待ってくれ、俺はそんなに話が巧い口じゃない。君に聞かせるような物語なんて……」 「いや、それ以前に俺は……」  考えてみれば、ついぞ目にしていなかった生きた緑に心惹かれ、ふらふらとこの温室に入りこんだものの、自分はお手伝いさんからの頼まれ事の途中だったのである。  それを捨ておいて、この妙な女を構いつけていていいものか。  それでも―――  もつれ加減の癖のある髪を払いながら、ねだってくる女は、あくまで屈託なく無心の、遊びをせがんで袖にじゃれついてくる子犬と同じで、これは邪険に振り払いがたい。  思い迷った挙げ句に築宮は、 select  結局、お使いの途中という躊躇いは、女への興味の掌に口を塞がれて沈黙を強いられることになった。 (……まあいいか。適当に一つか二つ、物語するくらいなら、それほど時間もかからんだろうしな)  お手伝いさんも、そこまで差し迫った用向きなら、迂闊に他人任せにはしないだろうと、少々無責任に決めつけて、築宮は女の隣に腰を下ろすことにして、上履きを脱いだ。いかにくたびれた〈茣蓙〉《ござ》といえども、女の持ち物に靴跡を捺《お》していいという法はない。  埃を払おうと無意識に手を下ろした〈茣蓙〉《ござ》は、河原の物乞いの布団より薄くなってはいたけれど、かえってこなれて滑らかで、かといって脂じみたべとつきもなく、肌をちくちく差す毛羽立ちもなく、女の温度で具合良く暖かい。下の苔の弾力で、上等な座布団にも似た座り心地の良さ。  そして築宮の、こんな時でも正座なのが、どこまでも彼らしいと言えたが、女は座り方がどうなと目もくれず、ただ満面の笑みを浮かべた。  おもむろに青年の手を取って――― 「嬉しい、嬉しいよう。  お話聞くの、ほんとに久しぶり。  あんがとう」  大げさな、鼻白んでしまうくらいの喜びようなれど、飾ったものではない、握ってきた掌の柔らかな熱はそのままに女の心の熱さ、なにより、 「あんた、佳いね―――」  短く切り詰めた一言が、その一言が。  彼女には、溢れる気持ちをこうとしか表しようがないのだと察せられ、どんな美辞麗句にも勝って築宮の心を打った。  女の心が感応したのか、二人を取り巻く空気の中に熱帯の花の香りが開いて、その濃さ、甘さ、築宮の意識を現実から一瞬さらい、陶酔境に彷徨わせる。次に気がついた時は、花を敷きつめた中に、酔いしれた顔で倒れている自分を見出すのではないかと危ぶんだが、女が握った手をそっと膝元に戻したので遊離していた心はゆっくり体に戻ってきた。  それでも胸の奥に甘やかな疼きが残ったのは、女の裡《うち》の火が築宮にうつったからか。 「うん。いいよ。  いつでも話して」  立てた片膝に掌重ね、形の佳い卵形の顎《おとがい》を置いてわくわくと、待ち受ける顔が腹を減らした子供と変わらず、この女は食い気色気より物語を養いとして生きているに違いないと信じさせるほど。  このままお預け食わせるだけ食らわせたら、しまいに彼女はべそべそ泣き出すであろうこと請け合いで、どんな涙顔をするのか見てみたい、などというのは、無心に眠る犬猫の仔の腹をつい突ついてみたくなるのと同じ、他愛のない〈嗜虐心〉《しぎゃくしん》なのであるが、築宮は慌ててそれを振り払うと、さて、と心の中へ物語の始まりの言葉をざっと思い描いた。  ところが、ある程度年を重ねた人間が普通に蔵している記憶の蓄えがないのが築宮で、幼年時に聞かせてもらっていたのを繰り返し伝えてやれるような、物語のストックも失われていたことをこの段になって思い出す始末。 (……安請け合いだったか、これは。  ええと――――――)  もしここで、やっぱり駄目だとなった時に、女がそれはそれは哀しそうな顔をするのが容易に目に浮かんで、焦る築宮だったが、図書室から借り受けていた本に思い当たった。  幸いあの本、こういう時にちょっと聞かせてやるのに適当な掌編ばかりが集められていて、築宮はそれに題をとることにする。  図書室の司書女史に感謝の念を送りながら。 「そうだな、こんな話がある」  ちょっと前に読んだ本の話だとちゃんと前置きを、そこで自分の創作と騙《かた》ることなど考えつきもしない築宮である。  あの小説本に描かれていた物語の多くは、英国流のささやかなブラックユーモアに彩られていた物が多く、ことに自分の声で話し聞かせるとなると少々毒が強い。だから築宮は、中でもなるべく幸せな結末のものを選んで話したつもりだが、そういうのに限って他愛ないというか、ありていに言ってしまえば詰まらないものが多いのだと、話し終えてから彼自身にも判る不覚なのだった。  おまけに、女の真摯な勢いに押されて物語りしてみたものの、思い知らされたのは自分の語りの拙《つたな》さまずさ。我が事ながら、これで他人に語り聞かせようなどとは片腹痛いと、築宮自身むず痒くなってしまった次第であり、どうにかこうにか結びの言葉を吐いた時に自分の膝頭に視線が落ちこんでいた。女の失望の顔を恐れる心で。 「――――――」 「……あの?」  が、反応を伺ってみると女は、急性離魂病にでもかかったかと肩を揺さぶりたくなるくらい、遠く、かつ真剣そのものの眼差しで、築宮の語った物語世界へ完全に没我の境にあるらしい。 「―――――――――――――」 「おい、君―――」 「ひう」 「うわあ!?」  たかが口伝えの物語、それも下手の語り口調なのに、女の反応は劇的だった。劇的に過ぎた。遠い眼差しが、徐々に上擦り、しまいにこてんと横様に―――倒れたのだ、座った姿勢のままで。  〈茣蓙〉《ござ》の下の苔が柔らかに受け止め大事なかったようだが、いや築宮の動揺したざまといったら。  泡を食って女を膝に抱きかかえ、軽くはたけば頬がわなないて、唇に息を取り戻した、眸にも焦点が戻る。  ほとほと築宮は安堵に胸撫で下ろしたわけだが、今度は女の体の感触を持て余した。〈直垂〉《ひたたれ》姿からでは判りづらいが、抱えてみれば普段何を食っているのか怪しいほどに痩せて軽く、それなのに猫のように柔らかな、触り心地のよい。心地いいからこそ、築宮は彼女が正気づいて体を離すまで、どうしようもなく緊張してしまい、向こうは柔らかなのにこちらは身を強ばらせたことである。  ……もっとも、彼女の体が離れていったのに、喪失感を全く覚えなかったといえば嘘になるのではあるが。  ……。  …………。  ………………。 「あれ。わたし?  気ィ失ってたんだ?」 「……そうみたいだな。  なんだってそんな、話一つ聞くのにムキになるんだ……」 「だって、とっても面白かったから」  ストックホルム生まれの神霊的巨人スウェデンボルグという人は、幼少の頃からただ者ではなく、思索に耽るあまりに呼吸さえ忘れて〈喪神〉《そうしん》する事しばしばだったという伝説を残しているが、周囲の大人はさぞ扱いに困ったことであろう。  築宮などは、女に悪いことをしたんじゃないかと多少後悔してしまうほどだったが、そんな思いも彼女が実に嬉しそうにしているので慰められる。  女はあんな様を見せた後でも、なお話を聞きたそうにしていたけれど、一つ話を終えるたびにころころぱたり失神されては困りものであるし、なにより築宮はいい加減時間が気になり始めた。  温室に入ってからもう随分経っているのではないかと銀時計を改めれば、思ったより針は動いていなかったにしても、それでもこれ以上道草していられる余裕もない。 「あんなべたな話でも、気に入ってもらえれば幸いだ」 「けれど、実は俺、用事の途中でね。  そろそろ行かないと、先方に申し訳ない」 「あ、そう……。  残念だけど、誰かを待たせちゃ、かあいそうだしね」 「でも、あんがと、ほんとうに。  そうだ、なんかお礼しないと」 「いいよ、そんなのは。  それにあんまり時間もないから」 「そうだね……。  あ、でも」  と女は何か心づいたと見え、腰を浮かせかけの築宮を時間は取らせないからと待たせ、背後の〈花邑〉《はなむら》をかきわけごそごそと、手探りして引っぱり出したのが、〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》である。彼女がかきわけている際、花々の間に、ちょっと興味を催すような何かが覗いたのだが、それを見定める前に、髪や鼻先にかぶった〈花弁〉《かべん》と蕊《しべ》こぼして、女が〈徳利〉《とっくり》から茶碗に注いだのを差し出してきたので、沙汰止みとなった。  茶碗に満たされていたのは、淡い蜂蜜色に透き通った飲み物。 「物語りしてくれて、喉、乾いたでしょ。  呑んでって」 「お酒じゃないよ。  だからこれから人に会うのでも、大丈夫」  確かに女の言う通り、いつになく長いこと喋って口が渇いている。それでなくとも温室まで随分と歩いた。  有り難く茶碗を受けて味を確かめるように一啜《すす》り、透明な味わいの中に、仄かな、野の果実のように爽やかな薄甘さ、花のように淡い香りが喉を滑り、一啜《すす》りから喉を鳴らしてほとんど一息に飲み終える。  温室に置いておいたものとて冷たくはなかったが、生温さがむしろ優しく、築宮は満足の吐息を漏らす。かつて利いたことのない味と香りだった。 「いや美味かった……ごちそうさま。  これは、なんていう飲み物なんだ?」 「これね、花の蜜で造ったの。  わたしが造ったんだよ」 「へえ……」  ただ天然自然の花の蜜をどう仕込めばあんな野趣に富んで、なのに精妙な味わいになるのか、少なからず興味を惹かれた築宮ではあったが、これ以上の長居はさすがに憚《はばか》られ、女に別れを告げて温室を後にする。  そんな青年を、直垂姿の女は、にこにこと、たとえ旧来の親しい友人を見送るのだ、としても過剰に人懐こい笑顔をいつまでも浮かべていたが、それもやがて熱帯の木々の間に間にまぎれた。 「いや、悪いんだけど、俺は用事の途中なんだ。人から頼まれ事の」 「あんまり寄り道もできない」 「そっか……そんなら、仕方ないねえ」  なにも用事がなく、自分一人の気ままな散策の途中であったら相手をしてやってもいいのだが、あいにく今はお使いの途中であり、無駄に寄り道しているわけにはいかない。  どうにも自分は変に生真面目でいけないと自嘲しつつ、申し訳ないと頭を下げてから離れようとする築宮を、女はそれ以上はしつこく引き留めようとはしなかった。 「もしよかったら、また来てね。  わたしはたいがい、ここにいるからさ」  聞き分けよくお別れしたものの、やっぱり女は残念な素振りを隠そうともせず、築宮はそれこそ雨の中に迷子の仔犬を置き去りにするかの罪悪感に駆られ、ひとかたならず振り返ってしまいたくなる後ろ髪、をどうにか引き抜いて、温室を後にする。  思わぬ道草で時間を食ってしまった築宮は、今度こそ脇目を振らず、お遣い先を目指す。  幸い目的の部屋は温室から程遠からぬ所にあり、迷うこともなく無事辿り着いた。  待っていたのは、古い洋画の舞台立てのような一間と、穏和そうな老女。  築宮のノックに答え戸口に立った老女は、始めこそ見知らぬ若い男の突然の〈来訪〉《おとずれ》に始めこそ用心していたものの、お手伝いさんの代理であることを告げ、〈袱紗〉《ふくさ》包みを示すとすぐさま柔和な笑みで迎え入れた。  西洋好みの客のために整えられた部屋なのだろう。一件地味に見える造りながら、目を凝らせばただ事ならぬ趣味と贅沢が〈横溢〉《おういつ》しており、和室の方に慣れた築宮でも、こういう部屋に投宿できたらさぞ気分良かろうなどと、〈暢気〉《のんき》に見回していたところ、老女がお茶の準備などを始めたので慌てて遮る。  もとより長居するつもりはなかったが、老女の年の功か、やんわりとまるめこまれ、彼女と差し向かいで茶を啜《すす》ることになった。  聞けば随分と長逗留したそうだが、そぞろ里心が湧いて、数日中に旅籠を発つつもりなのだそうな。  それで、これを頼んだのです―――と老女は築宮が持ちきたった〈袱紗〉《ふくさ》包みを指した。  これまで旅籠で過ごす間に化粧品を使いきってしまい、出立するにあたっても、満足に身だしなみが整えられない。  それではだらしないというので、旅籠の女将、すなわち令嬢に化粧道具の調達をお願いしたというのが、事の〈顛末〉《てんまつ》なのであった。  もっとも、こんな若い殿方が持ってきて下さるなんて、ちょっと恐縮ですけれどね、と目を細める老女の物腰、容色からは老醜というものがほとんど感じられず、どうせ年を重ねるならば、この人のようにありたいと、性別は違えどそう思わせる品の佳さ。  それはもちろん年相応に衰えはあるけれど、彼女の肌の色艶は、築宮の目にはわざわざ白粉などはたかずともよさそうに思える。それでも男にはなかなか計りがたいのが女の嗜《たしな》みというやつの、そこはそれ、だ。  老女の方は築宮の素性をあえて訊ねる事も、飲み干したお茶のお代わりをしつこく勧めてくるような事もなく、ろくに面識もない女性の部屋に長々腰を据えるのは失礼と、早々に部屋を辞す彼を、戸口まで見送った。  廊下を遠ざかっていく青年の後ろ姿に、老女は何事か気づいた様子で、遅まきながら手をちょっと差しのべたのだが、声を掛けるにもタイミングを逸しており、かすかに苦笑して、扉を閉める。  さて、途中少々手間取ったものの、無事にお手伝いさんからの頼まれ事を果たしたと、心もどこかしら軽く、帰り道を辿る築宮だったが――― (もちろん来る途中の、楽しみを保留しておいた、例の休憩場の冷えた麦湯も忘れず味わっていったけれど、残念、それまで他に飲み物を口にしてしまっていたせいで、渇ききった喉に冷たいのをきゅうとやる感動は薄れてしまっていた) 「おや旦那。奇遇ですな、こんなところで。  お散歩ですかい」  ちゃんと用向きを果たしたことを、一々あのお手伝いさんに伝えるべきか否か、ちょっと考えこんだものの、そもそも彼女が普段はどこら辺で働いているのからして判らない。  まあ細かいことはいいかと、水路の流れる階層まで降りてきて、流れに沿って歩いていたところに、背後からの櫂の音。もう見知った気配に築宮が立ち止まって振り返るより、向こうが声を掛けてくるのが先だった。 「やあ、どうも。  確かにちょっとした遠出だけれど、散歩というのとは違うんだ」 「お使い事です。  お手伝いさんから頼まれた」  水路の緩くて〈長閑〉《のど》けき水面に映る、築宮の姿へ〈舳先〉《へさき》が被さったところで、渡し守が棹を差して船足を留める。艫《とも》の横板に立つ墨染めの衣姿の他に、小舟には客もないとみえ、開け放たれた胴の間の障子戸が、四角なりに向こうの景色を透かしていた。 「なんです、お客の旦那がお女中の代わりをやるってな、どんな本末転倒だ。  それとも旦那、旅籠の丁稚でも始めなさるおつもりか」  懐手から顎に手をやっての渡し守、不思議そうに青年へとちょいと腰を屈めてきた姿が〈婀娜〉《あだ》で、台詞はこう伝法でも声が水音と合わせて涼しい。  それなりに歩き疲れの築宮に、渡し守との行き逢いは一服の清涼剤にも感じられた。 「そんなんじゃあない。  ただ、他にやることもなく暇だった。  なんで、お手伝いさんの頼みを引き受けたってだけで」 「ははあ……どんなに怠け者の猫でも、  鼠を見れば獲るてェいう。  旦那ものんびりしているだけじゃあ、そぞろ退屈を持て余す、ッてなわけだ」  と、からかっているのか大真面目なのか、よく判らない譬《たと》えで納得すると、渡し守は築宮の行く手をうち眺めた。 「そんで旦那の用事とやらは、  これからなんで?  それとももうお済みで?」 「もう済ませてきた後です。  今は帰り道だった」  そんなら、と渡し守が懐手を袂に差し戻し、水路の上に差し延べてきた手を、築宮、一瞬意味が取れずにきょとんと見つめてしまう。 「乗ってお行きな。  どっかに寄り道しようてんなら、適当なところで下ろして差し上げますによって」  寄り道するつもりはなく、自分の部屋まではまだ長いこと廊下を越えなければならず、渡りに船とはまさしくこれで、築宮には有り難い限りである。  渡し守の手を有り難く取って乗りこめば、ゆらりと大きく傾いだが、すぐに鎮まって小舟は水路を滑り出す。  渡し守はしばらく無言で櫂を遣《や》っていたが、艫《とも》の横板に腰を据えた築宮の頭に目をやって、おもむろに、 「旦那、御用向きというのは、温室に?」 「え? いや、用事じゃないが、確かに温室にも寄り道した。  ……なんでわかりますか」  さては渡し守の、露わな生身の方の眸は〈水脈〉《みお》を見透かし、割れ般若の面の鬼眼は事象を見透かす千里眼かと、つい身構えた築宮の、後ろ頭を渡し守はちょいとつまむ風に、髪が軽く引かれてくすぐったい。  なんのまじないかと訝《いぶか》しむ彼へ、渡し守が示してきた指先に、一ひらの葩《はなびら》が。  〈拈華微笑〉《ねんげみしょう》というて、お釈迦様がその貴《たっと》い法をお弟子たちに嗣《つ》がるる時に、言葉にはできない一番大事なところを伝えようと、一輪の花を拈《つま》みあげて微笑まれたそうな。  それではこの割れ般若の面の女が摘《つま》んだ葩《はなびら》なら、一体いかなる秘法のありやなしやと、築宮は眉根に皺《しわ》でまじまじ見つめた、が。 「おつむりの後ろに、こいつがひっついていたからさ。  これは温室に咲いてる花でしょう」  さても渡し守の慧眼には畏れいる―――  櫂が軋んで、水面に立った泡が、白々と小舟の後ろへのんびり流れていって、築宮は早呑み込みに感じた気まずさも、一緒に流れてしまえと唇をへの字にしたことだ。  お使い物の届け先の老女も、青年の後頭部についていたので、向かい合っていた時には気づかなかったのだろう。 「いつの間についたんだか……まあその、そうだ、温室で、なんというのか、一風変わった女性に会ったっけ」 「それは、こういう?」  と、渡し守が評した女の風体が、築宮の会った女と合致したので頷いた。さすがは旅籠と縁の深いという渡し守、細かいことまでよく知っている、というべきなのか、それとも温室の彼女はあれでなかなか有名な、一種の名物なのか、おそらくはその両方と思われた。 「すると旦那も、あの琵琶法師に捕まってたわけだ」 「琵琶、法師……?」  また変わった言葉が飛び出したと呆れかけて、そこで築宮はふっと思い出す。そういえば、あの女が背にしていた〈花邑〉《はなむら》の中に見え隠れしていた布包みがあったが、あれは言われてみると琵琶の形をしていたように思う、いやそうに違いない。見かけた時には見過ごしにしていたが。 「ええ琵琶法師でさァ。  あれでなかなか名手だって話でね」 「話好きなくらいで、悪気のない女だ。  たまにはお相手、しておやんなさい」 「琵琶法師、ねぇ……」  図書室の鬼女に温室の琵琶法師。  よくよくこの旅籠では、妙なところに妙な者がいるもの。考えてみればこの割れ面の渡し守などはその筆頭なのではないかの思いで、見上げてしまったのが少なからず失礼な、彼女が怪訝そうに覗き返してきたのに、築宮、気づかれぬよう知らんふりで首をすくめる。  ……。  …………。  ………………。  ―――旅籠内には、その奥行きの深さと複雑さが災いし、長の歳月の間に伝わらなかったり忘れ去られたりした事柄というのが多々あるようで、ひょんな事を〈契機〉《けいき》として忘却の眠りの中から引きあげられることがしばしばあるという。  たとえば―――  かつては旅籠の中でも泊まり客が多く案内され、それに付随して立ち働くお手伝いさんも沢山いて、大いに賑《にぎ》わっていた区域がある。  しかし歳月の移り変わりの中建て増し建て替えが繰り返されるにつれ、人の流れが移り、徐々に活気を失っていくことになった。  動線からも外れてしまったその区域は、定期的にお手伝いさん達が手入れにやってくる他は、とある建屋を目当てにとある人種が訪れる以外に人声を聞くことは稀になって、栄枯盛衰の例を見るようであったという。  で、とある建屋というのは、廊下の突き当たりが広がって、ちょっとした広間ほどにもなっているところの床に直接造り付けられた、一見すると小さなお社である。〈扁額〉《へんがく》も鳥居もなかったが、格子戸の格好や屋全体の造りからして、なにかの神さまを祀っているのだろうということに落ち着いて久しく、善意で燈籠だの賽銭箱だの〈鰐口〉《わにぐち》だのが持ち寄られ、周りには幟《のぼり》なども張り巡らせられ、格子戸には〈千社札〉《せんじゃふだ》もべたべた貼られ、ささやかながらも神域としての体裁は整った。  なんでも、幟《のぼり》はお手伝いさんと客が協力して織り上げたという、これは至極真っ当なところで良し。で、〈鰐口〉《わにぐち》になると〈金盥〉《かなだらい》を叩き直して造ったというからちっとばかり乱暴な、しかしまだ良し。  これが賽銭箱になると、船着き場に流れ着いていた、元はどこぞの神さまの物だったのを流用したというから、それでは罰の一つも下ろうものではないか。  そして、このお社を訪れるようになったとある人種というのは、いずれも禁酒を願う客たちである。  自らの酒乱に悩むとある客が、気まぐれに参拝した翌日から、嘘のように酒気が抜けて酒など一滴も見るのが厭になったという風聞から始まって、客同士の口伝え、お手伝いさん達の噂伝えに人に広がり、それまでよほど奇特な〈善男善女〉《ぜんなんぜんにょ》が奉仕する以外は、客もまばらだった小さな社へ額《ぬか》ずく姿が増えだした。  そこで参拝客の話題となったのは、一体この社はどの命《ミコト》や媛《ヒメ》を祀《まつ》っているのかということなので。  自分達が拝む相手がどんな神なのか、知っておきたいと願うのが人情だが、先に述べたように〈扁額〉《へんがく》もなければ由来を示す高札も縁起書もない、出処進退定かならぬ不明の社。様式なども後付けの寄せ集めで代々の神職があるわけでなし。  禁酒の神なら本田忠朝さまだ、いやきっともっと古い神だ、いやいやいや、ひょっとしたら渡来の牛頭神に違いないと、素人詮議ばかりがかまびすしくなって埒があかない。  そんな段で、一人の無信心なお手伝いさんが、そんなら社の中を確かめればご神体くらいは明らかになるでしょうと、大胆なことを言い出して、周りを狼狽させた。が、知りたく願う心はみな同じで、二拝二拍一拝してうやうやしく信心を示してから、封印のような〈千社札〉《せんじゃふだ》をべりべりと、破って開けた格子戸の中は暗かった。黴《かび》臭さと埃の匂いも。  結局―――社の中には何もなかったのだ。ご神体や神名を教える類のものは、なにも。  あったのはただ、落とし戸だけ。地下へと降りる階段を塞《ふさ》いだ、落とし戸だけ。  この時にもまだ参拝者達は、さては地下拝殿、いよいよ深秘の神か、などと敬《うやま》い慎む気組みでおり、手に手にランタンやら提灯で、中にはなんのつもりか重い火掻き棒だの薪割りで武装して、並んで降りていったところ、が、だ。  降りた先は、埃にまみれ放題にまみれていたが、長らく放置されていたにしては荒廃の度合いは薄い大きな地下室、アーチ様の梁と、あちこちに大卓、一画には止まり木と〈長台〉《カウンター》に、中二階まで造り付けられているとあって、これでは神域というよりもっと俗な、闇酒場のような―――実際、酒場なのだった。  奥の扉からは、もっと広い地下蔵が続いて、蔵を埋めつくした棚を酒瓶が埋めつくしていた―――  禁酒の神様もなにもあったものか、である。  お帳場の箪笥の裏から古い記録帳が発掘され、数代前の管理人一族の当主、すなわち令嬢のご先祖で、酔狂と〈斗酒〉《としゅ》を辞さじの酒豪で鳴らしたある御前が、呑み助の客達を驚かせるため口の堅いお手伝いさんばかりを駆り出して、その一画の地下へ酒楽園を造るだけ造り、いよいよ開こうというその前日の晩に、〈溢血〉《いっけつ》で急逝したによって諸事情うやむやになっていたのが知れたのは、その少し後の事。  〈爾来〉《じらい》、禁酒のお社は本来の姿に立ち返り、それまでの参拝客とは正反対の客が通うこととなる(とはいいながら、それまで禁酒を祈願した参拝の者の多くが酒場の客へと〈鞍替〉《くらが》えしていたのもありがちな事実だが)。  その当時の酒の蓄えは、いかに大量とはいえ多くは客の喉へと消えていったが、秘蔵の甕《かめ》や樽《たる》はまだ残されているというのがもっぱらの噂。  そして築宮が、片隅に一人座してちびちびと杯を舐めているこの酒場が、つまりその由来の酒場なのだった。  お使いと温室での一件以降、また数日が流れて、築宮はまたしても〈無聊〉《ぶりょう》の時間をかこつてあった。彼を煩わせるような浮き世の雑事もなく、快適なことは快適だがこうなってみると暇を持て余す。図書室から借りてきた本は全て読んでしまったし……古くから、刃物と毒と病気以外で人を殺すのは、恋と恥辱と退屈とで相場は決まりの、なにを大げさなと莫迦にするなかれ。  暇な時間の潰し方をどれだけ心得ているかというのは、真の教養人の条件の一つとして挙げられるくらいなのだから。  ともかく、しまいには日がな一日水路の縁に座して、流れゆく水をぼんやり見つめるばかりとなった築宮をさすがに見かねたか、令嬢が地図と一緒に勧めてきたのである。 『……あんまり水を眺めて、お一人で考えこんでいると、水路の縊《くび》れ鬼にひかれてしまいますよ』 『たまにお酒でも呑みながら、他の人の声、聴いてみるのもいいんじゃないかしら。  ……夕方から開いてます』  いつぞやはお手伝いさんの口から勧められたこともあるし、一人の夜長は言うに及ばず退屈を持て余すしで、その地図に従ってやってきたみたところがこの、禁酒法下の〈非合法酒場〉《ホンキィ・トンク》と、中央亜細亜辺境にでもあるような隊商相手の酒処と、帝都下町の居酒屋の血筋と雰囲気を足して割らずにもっと濃くしたような地下酒場。しかも入口が古さびたお社だったのが胡散臭さに拍車を掛けた。  これでカウンターの奥で酒瓶を磨いていた顔が、頬に傷と苦味を走らせた壮年のバーテンダーで、築宮を見るなり「坊主はお家に帰って、姉さんの指でもしゃぶってな?」とか抜かしそうな手合いであったら、敷居を踏みかけた踵そのまま返して回れ右なのがせいぜいのところ。  幸い瓶へ息を吹きかけ丁寧に埃を拭い拭いしていたのが、既に見慣れたお手伝いさんであったので、とりあえず止まり木に腰を掛けることができたからいいものの。  ズボンのポケットにつっこんでいた銀の懐中時計をカウンターに置いたのは、座る邪魔にならぬようにとのなんの気なしの配慮だったのだが、それを見るなりだった。バーテンダー役のお手伝いさんが、 『心得ましたであります!』  磨きかけの瓶をカウンターに置き去りにし、風を巻くかの勢いで奥の酒蔵に駆けこみ、引っかき回す気配も騒がしく、 『お待たせであります!』  なにがお待たせかの、しばしもカウンターを空けずに飛んで戻ってきて、ごんと築宮の目の前に据えてきたのが、小振りで可愛いげながら、いかにも曰《いわ》くのありそうな小樽だったのには恐れ入った。  荒縄で巻いたのを、急いで拭ったらしく埃の跡は見えなかったが、年季の入りようからしてただ事ではない。 「削りに削ったお米で醸したなんとかを」 「上代なんとかの樽に詰めて」 「二十年以上もなんとかで貯蔵して」  と、酒盗だの干しくちこを炙《あぶ》ったのだの突きだしと一緒に並べてきた口上は、ほとんど異国の言葉のようでろくに理解も及ばなかったが、その古酒だという、酒の旨さは身裡に溶けて雄弁に語った。  他の味の表現を借りるなら、上等のアンダルシア〈白葡萄酒〉《シェリー》・〈老酒〉《ラオチュウ》、バター、キャラメル、〈糖蜜〉《とうみつ》、茸、〈肉桂〉《ニッキ》などなどだろうが、やはり古酒の味は古酒の味としか言いようがない。 『代わりが欲しい時は、  いつでも申しつけてください』  ……旅籠の酒場で一見の客お断りというのもあるまいが、かといって初めて顔を出してこの歓待ぶりでは、かえって面食らう。  もちろんこれも、〈霊験〉《れいけん》いやちこな渡し守の懐中時計のお陰であろうが……そういえば彼女も、これがあればただ酒呑み放題だと言っていたっけがさすがにここまでとは……と半ば〈唖然〉《あぜん》と盃を口に運ぶ築宮を照らす、アーチ状の梁からぶら下がるカンテラの灯りが山荘の奇譚物めいて、手の甲の静脈を影濃く浮き上がらせている。  今夜の客は彼が皮切りだったようで、築宮が呑み始めた時は他に客も居なかったのが、夜が更けるにつれ三々五々、酒場の席は埋まっていくようになる。  こういうところまで来て酒を入れようというのは、やはり男がほとんどのようで、酒精が回っていくうちに酒場の空気に混ざるいきれも、あちこちで飛び回る会話も男くさく、気楽と言えば言えたが、いずれにしても築宮は、酒を呑んでも―――一人。  元来が進んで他人に話しかける質ではないのだろう。それを内気と採るか、思慮深いと評するかは、さておき。  ただ、背後の賑《にぎ》わいを肴《さかな》に一人酒というのもそれはそれで悪くない、辛気くさいと言わば言え。ここしばらく一人でいた身なれば、他人の輪に入って直接やりとりするというのは生《き》のままの蒸留酒のように刺激が強すぎる、こうやって静かに古酒を啜《すす》り、柔らかな舌触りを味わうように、背中に人声を聴くだけで慰められる心というのも確かにあるのだ―――と群衆の中の孤独を贅沢に賞味していられるうちはまだよかったのだが。 「はいよ、雨流れ、お残念さまぁっ」 「しかたねぇ、一杯借りとくわ」 「あーだめだだめだ、札が湿気てよくめくらねえよ」 「手前のツキのねえのを、なに札のせいにしてやがら」  ぱちぱちと、厚紙を弾く音というのは、人の声の中にあって際立ち、ともすれば心をささくれ立たせるきらいがある。そうでなくてもそいつらの声は酒に灼《や》けただみ声の、他を圧してアーチの天井に跳ね返っては割れ、そのやかましさ。 「置きやがれ。  ……姉さん、一杯注いでくれよ。  口が渇いてしかたねえ」  給仕のお手伝いさんを、場末の酌婦を相手にするような、腰をひっつかんで腿の上に載っけるのだって、馴れ馴れしすぎやしないか。  卓の上には酒瓶と皿と入り乱れて花札の、花というなら風情だが、男たちの唾《つばき》と指の脂にまみれては、欲にぬめるようで見苦しい。  勝負に勝っているのも、本人は軽く鼻歌唸っているつもりなのだろうが、酒が入ってはところ構わずの〈放吟〉《ほうぎん》で、調子外れで、いいから歌うくらいならがぶ呑みしていろその方がよほど静かだからと、築宮、盃を握る手に知らず力が籠もって指の節が白く浮いたので、はっと緩める。  ついには、花札なんかじゃ勝負がまだるこしいと〈賽子〉《さいころ》を懐から引っぱり出してちんちろりん、この調子では他の客まで引きずりこんでコオロギ賭博だの闘鶏だのと、けたたましいのを始めかねない勢いよ。  ―――と、要するにそこには極めて現世的な欲望に裏打ちされた生臭な空気が澱んでいるが、ただ酒場全てが同じというのではない。  ちょっと前に、階段降りてくる足音からしてどやどやとざわめかしく下品な連中が陣取った席だけである。  他の客達は、もちろん酔って陽気なのはあるが、あそこまで好き放題に乱れてはいない。  もちろんこの酒場は築宮の持ち物ではない。  色々な客があり、酔い方だって好き好きで、それにけちをつけるのはそれはそれで大人げないではないか――― 「わははははははっ」 「あっは、あっは、あっはっはっ」  哄笑が〈破鐘〉《われがね》―――大人げないだのなんだの受け流していられるか! こっちの盃に波紋さえ立てるくらいに響いて、これでは酒が物理的にも不味くなるわ。  最前から、騒がしさに肩越しに視線がいってしまいそうなのを、じろじろ見るまいとどうにかこらえていたが限界がある。  ついきっと睨んでしまった、視線がぴたりとそのやかましい連中の親分格と計ったように重なって、築宮は彼の濁った目を疎《うと》ましげに、彼は築宮の咎めだての眸を値踏みするように。築宮は気づいていなかったのだが、この年の頃三十がらみの酔漢も、実は先程からたびたび青年へ探るような視線を投げていたのである。新参の客、片隅に引っこんで大人しくはしているが、自分達は見たこともないような佳い酒を抱えこんで、と。  睨み合ううちにいやが上にも高まる緊張の、青年はともかく酔漢は酔漢故に理屈が通ずる相手ではない。  築宮の耳から酒場の喧噪が遠ざかるくらいの〈鎧袖一触〉《がいしゅういっしょく》の視線の応酬―――に、ひびを入れたのは。 「こんばんはぁ……」  〈長閑〉《のどか》で楽しそうな声が、また絶妙のタイミングで、酒場の視線を全て一緒くたにさらっていった。築宮と酔漢の顔が一瞬のうちに横様に、視線が走って入口に。のみならず、居合わせた者ほとんどの視線をヤマアラシのように浴びたにもかかわらず、照れも悪びれもせなんだのは、よほど神経が太いのか、場の雰囲気というものに疎いのか。  白拍子のような姿、温室のあの女だった。  入口の〈矩形〉《くけい》を額のようにして納まっていた直垂姿は、酒場の中のどこかしら気まずげな空気を意にも介せずすたすた踏みこんできて、片隅の築宮に気づくとにっこり懐こい笑みを、投げてきた時には築宮、意識はすっかり酔漢から彼女に奪われていた。  ただ彼女は殊更築宮へ話しかけてきたりはせず、酒場の一画に陣取り、腰を下ろすと背中に担いでいた荷を解きはじめる。粗末な布にくるまれていたそれは、築宮が温室で彼女の背後にちらり見した、琵琶なのだった。  塗りも剥げ、胴に嵌めこまれた〈螺鈿細工〉《らでんざいく》の〈真珠母〉《しんじゅも》もところどころ剥落しているが、廃物という印象はない。よくよく使いこまれた道具のみが放つ、女の腕の中で、ある種の貫禄さえ漂わせているのだった。 (こりゃあ本当に、琵琶法師だ……)  渡し守からそうと聴かされてはいたものの、自分の目で確かめるまでは、白状してしまえば『温室の妙な女』という失礼な認識しかなかった築宮は多少考えを改める。それでもせいぜい、『妙な琵琶法師』だというところで留まっているのは、まあ致し方あるまい。  琵琶法師は〈胡座〉《あぐら》の中に抱えこんだ琵琶の、弦《いと》の具合をあれやこれやと確かめながら、張り直し、締め直し、すっかりその座で弾きはじめるつもりらしい。音を整えるため、撥《ばち》を幾度か当てると、調律中の楽器に特有の、居眠りしているようなどこか気の抜けた音が酒場に零れる。  その緩んだ響きで、拍子を外したように宙ぶらりんにあった酒場の沈黙が解れ、客の一人が浴びせた野次が、親しげではあるが、それ故に遠慮もなかった。 「おおい姉さん、今夜も弾き語りかい」 「そうだよ。すぐに始めるよ」 「でもなあ、あんたが弾くのはいっつも同じのばっかりで、ちょっと飽きちまったよ」 「そうお? でもね、今日は、新しいのがあるんだ。  それを弾いてみたくって、来たの」  無遠慮な野次にも無邪気な笑顔は曇らず、くるりと一同見回し、法師は調律を終えてすっと座り直した。  座り姿の美しさ。  それまでは粗野で無骨な男たちの中に、なよやかな花がまぎれこんだにも似て危うげで頼りなげだったのが、いざ琵琶に心を束ねてみせた途端、天から月の光を固めた白金の管が降りてきて、彼女の背筋に芯として入ったかのよう。彼女の周囲の空気だけが、深山の泉のように澄みわたったかに思われた。 (またこれは……堂に入った姿っていうか。 よくここで演奏しているのか?) (いったいどんな演奏を聴かせてくれる事やら……)  嫋――――――    一音が。ただ一音が。  いつ撥を当てたのか、定かならぬうちに爪弾き出された一音が、築宮の心の裡の隅々まで浸透し、余分な好奇心などを追い出した。     嫋―――――――――――――    耳で聴くというよりも、体全体で一音から始まった音の連なりを受け止め、築宮は自分の肌が細かく粟立ち戦慄していることを知る。  だがやがて、肌えの粟粒は退いていった。感動が慣れて薄まったというのではなく、調べが築宮へより迫り、築宮も調べを求めるようにして、戦慄と響きの周波が、寄り添うように重なったのである。  もはや外部からもたらされる音ではなく、築宮自身の体が、心が共鳴板となったかのように、法師の演奏に合わせ、鳴っていた。響いていた、歌っていた。 「―――――――――」     嫋―――    琵琶の旋律だけでも、築宮に自身が肉の体ではなく音の連なりで成り立っている存在であるかのような幻識を生じせしめたのに、そこへ重なった、法師の声が、謡が。  渦となる、流れとなる、螺旋となる。  演奏というより、典雅な光の川にひたされ、どこまでも流されていくような、いや、気圏を越えて、天の星の高みに導かれていくような―――  その技、まさに至妙にして神技―――  築宮は演奏と同調した意識の中でぼんやりと、法師が琵琶を奏でているというより、法師と琵琶が一つの、世界の摂理・理法を旋律に翻訳して伝えるための装置であるかのようにさえ感じられたことである。 (それにこれは、この物語は……)  認識を変革するようだったとはいえ、法師が奏で、歌っているのは、天人達が天帝に捧げる、地上の人間には高等すぎて理解不能な詩の類ではなく、どこかで聞いたような寓話の類の、ある意味判りやすい物語だったのだ。  それも築宮にはよけい近しかったろう。  法師が奏でていたのは、築宮が先だって温室で彼女に語り聴かせてやった物語を、詞と演奏に換えたものだったのである。  無論彼女なりの解釈と描写を交えてはいたが、人物の配置と物語の構造は同じだった。 (だから彼女は、あんなにも新しい物語を聞きたがっていたのか?)  築宮が語った時よりも、いや、彼がもとにした文章よりも遙かに、物語が本来持つ原初の力、聞いた者の世界を変えてしまうほどの力に満ちた演奏だった。 (ただの物語り、いや弾き語りが、  これほどまでのものとは―――)  まさしく、驚嘆おく能《あた》わざる、などという言葉でも生ぬるいほどの、音楽というものに関してはおそらく素人であるはずの築宮をしてそうと悟らせる至妙至極の演奏で、なのに、信じられないことに。  かくまで深く心の琴線を共鳴させているのは築宮くらいのようで、酒場にはいつしかお喋りの〈夾雑音〉《きょうざつおん》が、あちらこちらに散らばるようになっていたのだ。  ……ほとんどが演奏などどこ吹く風で、自分達の会話に戻っており、法師のことなど気に払っている者は少ない。僅かに感想めいた者を漏らしている者もあるにはあるが、それによると、酔客達にとっては、古くさい琵琶の弾き語りなど、そこまでありがたがって聴き入るほどのものではなく、どうせ背景楽にするのだったら、もっと賑やかで派手な曲が欲しい様子なのだ。 「―――これで―――おしまい」  芸術への無理解が大衆の常だ、などと高説を吐いて悟ったつもりには築宮はなれず、法師が琵琶の胴を押さえて、演奏を終えた時に拍手一つ鳴らなかったのが、なにかひどい冒涜行為のように思えたくらいである。  ―――もっとも、そういう築宮は築宮で、演奏が止んでなお残った〈嫋々〉《じょうじょう》たる余韻に聴き入るあまり、拍手を忘れてしまっていたのであるが。 「どう、だったかなあ。  みんなが、いつも同じのじゃつまらないっていうから」 「新しいのを弾いてみたよ」 「あ。ええと、そこの兄さん……」  と、それまではさして気にも留めていない様子と見えたのは、築宮の思いこみだったようで、客の並びを透かすように指差してきて、 「前、温室で会った……」 「そこの兄さんに、教えてもらったお話なんだ。……面白い、よね?」  たまたま法師の近くにいたお手伝いさんが、彼女に何事か小声で囁きかけた。築宮の方を見やっていたところからして、法師に彼の名を教えてやったものらしい。  客達の視線が今度は自分に集まったので、青年はいたたまれず困惑顔になったが、ほとんどが「物好きな奴もあったものだ」と多少意外そうにしただけで、すぐに無関心に戻ったのは、酒場の与太話には慣れており、それくらいのことでは興も湧かなかったのだろう。 「あのどこかの若いのが、あの変梃な琵琶弾きと馴染みらしい」 「それがどうした? ろくに知りもせん若いの二人が、しっぽりよろしくやってるからって、この酒が減るでも増えるわけでもない」 「そうだ酒だ。それと肴《さかな》だ。  お手伝いさん、〈烏賊〉《イカ》を茹《う》でた奴に塩ふってくれい」  ……というほどのもので、わざわざ波風立てるにも及ばないということなのだろう。  ただそれでも、先程築宮と睨み合った酔漢の親分格は別のようで、好奇心とも苛立ちともつかぬ、微妙な顔をしていたが、それもじきに興味を失ったようで、仲間相手に花札を切り直しはじめる。  彼らだけではない。一くさり演奏を終えた法師を構いつけようとする者はなく、そんな中、彼女は未練げに酒場の客達を見回して、もしや〈代銭〉《だいせん》でも欲しいのだろうか。  無駄だ、と築宮自身、投げてやれるような小銭の一枚も持ち合わせず、バツの悪い思いで法師を見守る。酔えば財布の紐が緩くなる手合いもあろうが、この酒場の客達はそもそも彼女の弾奏をろくに耳に入れていない。聞こえてもいない音楽、ただでさえ呑んだり食ったり手に入れたという実感湧かない無形のものに、金を出そうという〈粋人〉《すいじん》はそうそういないもの。  けれど、法師の求めるところは金銭の別にあったのだった。 「みんなも、なにかお話、物語を知ってたら、わたしに教《おせ》えてぇな」 「そうすれば、  また新しいのが、弾けるからさ」  無駄だ……とまた築宮は、砂を噛むように推し量った。誰かに物語を聞かせてやるというのは、簡単なように見えてなかなか難しいものなのである。  酒の酔いに興じている連中が、そんな労力を割くとは思えない。  案の定法師の求めに応ずる者などなく、彼女は辛抱強く待っていたが、それも虚しいと判ると、わずかに〈項垂〉《うなだ》れる。  が、さしてこたえた様子もなく、 「じゃあ、わたし、今日は帰るよ」  にっこりして、琵琶を片づけ始めた。ぼろ布に大事そうにしまいこんで、端を〈胸乳〉《むなぢ》のあたりで縛ると、ぺこりとお辞儀を一つ、それから築宮の方に判るようにもう一つ。つられるように会釈を返した。  あれだけ寒い反応だったのにも関わらず、来たときと同じように〈長閑〉《のどか》にのんびりと、酒場から出ていこうとする法師へ、声をかけたものか手をこまねく築宮の目前で。  法師の体が、突然に。  前にのめって、手が支えを掴もうと掻いたのがなにもない虚空、投げ出されるように法師は、酒の雫や肴《さかな》の零れたので汚れた床に転倒した。がつんと、拍子で背負った琵琶の包みが彼女のぼんのくぼを打ち据える。  法師の体が床を打つ唐突な音に、酒場には白けた沈黙がおり、彼女はまたも注視を浴びることになったが、手を貸してやろうとする者はいない。 「いたた……」  築宮もまた呆然と、法師の苦痛が感染したかのように身を堅くしていたが、それは彼女が転ぶ寸前にある光景を目にしてしまっていたからである。  あの酔客の親分格が、自分の横を法師が通りすぎるのに合わせて脚を突きだし、引っかけて転ばしたので、これには彼女もひとたまりもあるまい。すぐになに食わぬ顔で脚を引き戻したので、築宮以外気づいた者はいなさそうだったが……。 「この……っ」  いったい法師にどんな因果があって、なにが気に食わなくってそんな底意地の悪さをさらけ出す。築宮は男に食ってかかりそうになったが、まずは法師の方が先決の、助け起こそうとしたときには、彼女は自分で起きあがるところだった。 「いたた、転んじゃったよ……なんにもないところなのに、変だね、わたし」  どうやら彼女自身、男の悪意に気づいていない様子で、床の板張りのわずかの段差にでも〈蹴躓〉《けっつまず》いたと思いこんでいるようだった。  埃を払い、琵琶を担ぎ直してから酒場を出ていくのが、なにやら申し訳なさそうな決まり悪そうな―――彼女が気に病むことなど、なにもないと言うのに。 「なんで―――」  憤然と腰を浮かし、築宮が睨みつけたのもどこ吹く風の、酔漢には花札勝負の方が大事なようで、仲間達と張っためくったのあたり憚《はばか》らぬ、また〈大音声〉《だいおんじょう》。  こういう馬鹿者どもになんと言ってやればいいものか、怒りで言葉がまとまらずに歯噛みした築宮の視界の端に映ったものがある。  拾い上げれば滑らかな手触りの、それは琵琶の撥だった。言うまでもなく法師のものだ。  築宮はこの撥を見て――― select  拾い上げてはみたものの、その撥を琵琶法師の許まで送り届けてやる気にはなれない築宮だった。  法師に対してなんの悪意も不満もあるのではないが、酔漢達の〈傍若無人〉《ぼうじゃくぶじん》な振る舞いに気持ちがささくれだってしまっていたのだ。  結局撥は、バーテンダー役のお手伝いさんに預けることにした。  見たところ、法師はちょくちょくこの地下酒場に顔を見せているようだし、次に来た際にでも手渡してもらえばよかろう。  撥を預けた時、築宮は苦虫を噛みつぶしたような顔になっていたらしく、お手伝いさんは声を潜めて囁いた。 「……あの人達、そうしょっちゅうここに来るわけじゃないんですが。  あんまり、気にしない方がいいですよ?」  気にするなと言われたところで無理というものだと、築宮はこれ以上ここで呑み続ける気にもなれず、呑み差しの〈小甕〉《こがめ》を持ち帰り用の器に移してもらうことにする。  ここは旅籠であり、築宮以外の客もいるだろうし、中には青年にとって不愉快なのもあるだろう。  それは判る、判るがしかし、そういう不愉快な思いをこらえてまで同じ場にいることはないと、築宮はさっさと自分の部屋に引きあげることにする。  ……戸口を抜け、階段を上がっていく時、あの男の視線が背中に絡んでくるような気がしたが、築宮はあえてそれを無視した。  この〈傲岸不遜〉《ごうがんふそん》で〈傍迷惑〉《はためいわく》な酔漢に腹は立つが、こういう手合いはそもそも話からして通じない。話が通じないと言うのは人間以下なので、そんなのを相手にしては、要らぬ怪我を負う事にもなりかねない。馬鹿馬鹿しいと築宮は酔漢を見限った。  そんな事よりこの撥だ。  これがないと法師は、琵琶を弾くにも困るのではないか―――  拾ってしまったからには仕方ない。無下に捨ておくのも後生が悪い。そうでなくとも今晩は、袖《そで》すり合うも多生の縁という、一度は会ったあの女につれない態度を取りすぎたように(自分では)思う、と、築宮腹をくくって撥を届けてやることにする。  まだそれほど間は空いていない。今から追えば、すぐにでも追いつくだろうと、築宮はお手伝いさんに飲み残しの〈小甕〉《こがめ》を預けて、酒場の階段を駆け上がった。  ………………。  …………。  ……。  ところが、である。  酒場に通ずる社から飛び出したはいいが、法師の姿ははや見えなくなってしまっていたのだ。健脚というにもほどがあって、とにかくいったん見失ってしまうと、廊下の分岐のどこに入ったかも判らず、築宮は虚しく酒場に逆戻り。  それでも撥のこと、捨ておくままなのも寝覚めが悪いだろうしで、琵琶法師が旅籠のどこで夜を過ごしているのか、心当たりをバーテンダー役のお手伝いさんに訊ねてみると、 「あの人ならたいがい温室か、さもなければ、その〈下手〉《したて》の庵《いおり》にいるはずです」 「庵《いおり》……? 温室の〈下手〉《したて》って……」 「あの温室は、水路の方まで一気に下る階段が、裏にあるんですよ。  ですから温室まで行けばすぐ判ると思うんですが……温室は、ご存じでしたっけ?」 「ああ、判る―――いや、行ったことはあるんだが、ここからだと位置関係が判らない」  前に辿った道筋は、あの時お手伝いさんに依頼された方面まで戻ってからでないと起点が判らないのだ  それに、今話に聞くと、ここからの方が戻るよりは近いらしい。  なので築宮は、酒場のお手伝いさんに地図を書いてもらって、まずは温室へ向かうことにする。  それにしても、と築宮は握りしめた地図に思う。またこうして旅籠の部分地図が増えた。  自分が旅籠の中の主だった道筋を覚えるまで、一体こういう地図が何枚必要なのだろう、と。  ―――真の熱帯の密林ならば、夜ともなれば昼に勝る物音が溢《あふ》れていようものを、やはりそこは人工の温室の、鳴いているのはどこからかまぎれこんだ虫ばかり。  足元のあちこちが薄ぼんやりと燐光を放っているのは、夜光の苔か〈地蛍〉《ツチボタル》の類であろう。  南方の樹々の眠りを乱しては、どんな障《さわ》りがあるか判らないので、恐る恐る築宮は夜の温室を抜け―――  下り行く階段は、旅籠の階層を貫いて長く、下方が暗がりにまぎれて果てが知れない。  すれ違うものとてなく、聞こえるのは自分の息遣いと踏みしめる板が軋む音だけ。  このまま地の底まで続いているのではないかと、築宮が危ぶみだした頃になってようやく、耳が水路のせせらぎを捉えた。  そろそろ旅籠の下層部、水路が通じている階層が近い。  長大な階段を降りきってみると、酒場のお手伝いさんが教えてくれた通りで、法師の庵《いおり》というのはすぐに知れた。  失礼といえば失礼だが、そのみすぼらしさがどこかしら法師の風体と共通するものがあったからである。  ただし、法師のなりが〈草臥〉《くたぶ》れて擦り切れ加減であっても、よく手入れはされてあって不潔さを感じさせない点が、この庵《いおり》に関しても同じであった。  土間と板間で、狭くてあちこち傷《いた》んでいるものの、補修できるところはちゃんと手が入れられてあり、みすぼらしさはあっても無精、不潔な印象はない。  敢えていうなら『清貧』と、そんな言葉が似合う小さな庵《いおり》だ。  ただ中に彼女の姿は見えず、先んじて着いてしまったか、さもなければ戻ってきた後でまた出かけたか。少なくとも先程通り抜けてきた温室には、この前と同じところに〈茣蓙〉《ござ》は敷かれたままだったが座るものはいなかった。  さてどうしたものかと、築宮が思案顔で腕組みした時、庵《いおり》の裏手から水を跳ねかす清《さや》かな響きと、 『だあれ?』  〈誰何〉《すいか》の声は、法師のものだった。  板間に開いた穴に足をつっこまないように注意して庵《いおり》を抜け、裏手に出て築宮は、 「済まない……っ!  覗くつもりはなかった……っ」  仰天して顔を背けた、庵《いおり》の裏手、水路の縁の暗がりには、濡れて光るような、女の裸身。  大きな浅い桶へ満たした水へ〈胡座〉《あぐら》なり、腰回りにたわんで、花のようにたゆたっているのは〈衣紋〉《えもん》を抜いた〈肌襦袢〉《はだじゅばん》の、すなわち法師は裸身を惜しげもなく晒して、心地好さげに行水の最中なのだった。  庵《いおり》の裏手は暗がりといって、周囲の廊下や座敷に点された灯りが届いて完全な闇ではない、どころか、庵《いおり》の中よりは明るいくらいで、そこに慣れた築宮の目には、夜祭りの天幕に映し出された幻灯のように浮き上がって見えたくらい。  水を珠のように弾く張りの有る肌も、形よい乳房も、そればかりかああ、一瞬で逸らしたし、水に沈んでぼやけていたとはいえ、目に焼きつくような、胡座の太腿のあわいに見え隠れしていた肉の形は、きっと法師の女の部分の――― 「どうしたの? もう今夜のお酒はおしまいにしたんだ?」 「申し訳ない、俺はただその、撥を届けに」 「でもこんな、でもわざとじゃない、こんなところで水浴びしてるなんて思わなくてっ」  予想外の女の裸に、硬直して石のようになにも言えなくならなかっただけ築宮には上出来なのだが、それでもこの言い訳の、なんと聞き苦しく空々しい事よ。  事実を告げている筈なのに、痴漢の言い逃れよりまだ嘘臭いではないか。  築宮は、彼女が使っていた手桶がこめかみにぶち当てられるのを覚悟して歯を食いしばった、それだけならまだよし、旅籠の人間に突き出されたとしても、弁明もできない。  許しも得ていない女の肌を目の当たりにしてしまったのは、事実なのだから。  なのに、投げつけられて瞼の〈裡側〉《うちがわ》に火花散らすような手桶も石つぶてもなく、法師がよこしてきたのは言葉、それも怒りに上ずるでもなく、親しげな声だった。 「撥って、わたしの?」 「君が酒場で転んだとき、落としたんだと思うが……」  目を背けたまま、上から見下ろす形では、桶に座す法師の、女の一番秘めやかな部分を覗きこむことになりかねないと築宮、しゃがんで撥を差し出した、それが言うまでもなく、油が切れたからくり人形よりもっとぎこちない、関節が強ばって軋む音が聞こえそうなくらい。 「ああ、本当だ。わたしのだ。  ぜんぜん気づいてなかったよ。  ありがとうね、わざわざ持ってきてくれて」  ついと桶の縁《へり》越しに身を伸ばして受け取った、のを他意なく見届けるだけのつもりであったのだ築宮は、本当に。  なのに、法師の乳房が身を屈めたので、わずかに揺れた、それが築宮の視界を直撃する、だから青年はこれ以上ないほど焦りに焦ってしゃがんだままであとじさる。  法師には、この夜更けに異性を前にしてあって然《しか》るべきの、乳房をというかそもそも肌を隠そうという警戒心をまるで持ち合わせていないようだった。  もなにも隠そうとしないのだった。乳房の頂点に色づいているところから、水の雫のしたたり落ちて、ぽたり、そしてじわり、青年の額に滲んだのは、脂汗。 (な、んでこの女は、ぜんぜん隠そうともしないんだ!?)  それどころか、どうして青年が挙動不審この上なしになっているのか、さっぱり見当がつかない様子で、必死に逸らしている視線を覗きこんでくる始末で。 「どうして、  そんなにしゃちこっばってる?」 「わたし、なんか変なことでも言っちゃった? そんならごめんね……」 「そうじゃないっ。  君が裸だからだろうがッ。  覗いてしまったのは謝るがッ」  さすがに築宮もこれ以上はこらえきれず、逆上気味の怒声を叩きつけてしまったのだが、まあ止む無しだろう。  彼ぐらいの年頃では、女より男の方が純情だったりすることもある故に。  鼻先にぶつけられた築宮からの怒声に、法師は瞼をしばたかせ、自分の体を見回した。  それでようやく、自分が異性の前で肌も露わにしていることに思い当たったのか、と思いきや。  羞《は》じらい狼狽えるなら、見張った眼差しを青年に置いたままにはしないだろうし、声だってそんな〈暢気〉《のんき》でいられるものか。 「謝るッて、なんで?  だって水浴びしてるんだからさ。  着物着てたら、濡れちゃうでしょ?」 「水浴びしてるとき、裸ンぼなのはあたりまえだもの、あんたが謝ることなんて、なんもないよ」  法師の言葉はそれはそれで正しいと言えるのだが、それはいい歳頃の男と女という要素を取り払えるなら、の仮定の話であって、この堅物の青年のこと、はいそうですねと容易に受け入れられるものではない。 「ええと……築宮、さん?」  いよいよ動悸が激しい、あまり量を入れてはいないが濃厚な酒の後で喉が粘つくよう、肌だってべとついて、築宮はさっさとこの場を退散したくなっていた、そんなところへ不意に名前で呼びかけられ、怪訝に思った。  自分はまだ彼女に名乗ってはいない。 「なんで俺の名前を?」 「酒場で、お手伝いさんに教えてもらったからだよ」 「いいよね、名前で呼んでも。  それでさ、築宮さん、わたしの撥、届けてくれてほんとに有り難う」  もう一度礼を繰り返してきたのはまだいい。  しかし次に持ちかけてきた事で、築宮は呆気に取られた。それどころか法師にからかわれているのではないかと逆ねじな気持ちさえ生まれた。 「あんたもわざわざ酒場から、こんなところまで歩いてきて、大変だったよね。  だからわたし、あんたの背中を流してあげるよ」 「ちょっと待て、  なんでいきなりそうなる!?」 「だってあんた、すっごい汗だもの。  そんなじゃあ、気持ち悪いでしょう」 「いやこの汗は―――」 「いいからいいから。  ほら―――」  押し問答がもう少し長く続いたら、築宮はきっと彼女を振りきって、後ろも見ずに一目散の、後からあれは本気だったのか、いや悪い冗談だったに違いない、人をからかうにもほどがある、でもそれにしては邪気がなかった……などとうじうじ〈悩乱〉《のうらん》したろうが、法師はそもそも考える隙さえ与えなかった。  大またで、桶の縁を踏み越えた、ざっと水が跳ね脹《ふく》ら脛《はぎ》に流れたと見るともう、法師は築宮の目の前の、これは剣の立ち合いならば青年は抜く手もなく斬られてそれきりという呼吸であったが、法師は身に〈寸鉄〉《すんてつ》帯びるどころか、〈肌襦袢〉《はだじゅばん》一枚、それも濡れて大いにはだけたのが腰のあたりに辛うじてまとわりついている有り様。  大陸の伝承にある、南海の深くで機を織るという〈鮫人〉《こうじん》が陸《くが》に揚《あ》がってきたならこうもあろうかと、その風変わりな色香につい心奪われた隙に、〈襯衣〉《シャツ》の釦《ボタン》に法師の指がかかっていた。 「ほら、汗が服まで抜けてきてるよ。  こんなんで冷やしちゃ、体にさわる」 「い、いや、自分で脱ぐから―――っ」  脱ぐのまで女任せにしては情けないと、慌てて自分で釦《ボタン》を外し始める……その段階で既に築宮は、琵琶法師の勢いにすっかり呑まれてしまっているわけで。  さらさらと、背なに落ちる水は軽やかで清《すが》しいのに、築宮は〈専心至〉《せんしんいた》らずと肩口を〈警策〉《きょうさく》でぶっ叩かれた小坊主のように首をすくめた。 「お水、もっと流そうか?」 「ま、任せる、君に……」  人間座って半畳寝て一畳というように、ただ起き臥しするだけならさして場所も取らないものであり、おまけにこの時築宮はそれはもう縮こまって小さくなっていたから、桶は二人、法師と青年を一緒に収めてまだ余った。  なんでこんな事になっているのだと、築宮はもう何度その問いを取り返したか判らぬ。  法師は言わずと知れた半裸、築宮も腰に手ぬぐい巻きつけただけ。  仲良く水に浸かって体を流している裸の男女を見て、その後には睦《むつ》まじく一つ褥《しとね》で〈秋雨終夜〉《しっぽりぬれる》と連想の一つもないのはよくよくの木石であろうし、築宮自身、どうしたって妄想を生々しくさせずには済ませられない。  なのに法師と来たら、 「ああ、あんたの肌はきれいだね。  これ、弁天さまとか彫ったら、きっと似合うよ」  とかそんな台詞でのんびりと、手桶で水を掬《すく》ってはかけてで、色気が有るのか枯れているのか理解に苦しむ。  若い男には、どうかすると女も羨むくらい〈肌理〉《きめ》細かな皮膚をしたのがあるが、築宮もその類のようで、法師は肌の張りを確かめるようについと指を下ろしたのが、背後からで、青年には一指の感触が途方もなく巨大で鮮烈で、わあと叫んで肩越しに視線を投げた。  すると当然ながら目前に、水の雫を遠い灯りに弾き返す露わの肌、息づく乳房にたるみのない腹が鼠渓部まで、若い女にしかない絶妙な曲線で続いているのが大写し、当然ではあるが、絶句して慌てて前にむき直す。落ち着きないこと甚《はなは》だしい。 「え、あ、触られるの、厭だった?」 「違……そうじゃないんだが……ああもう」  自分のこの血の騒ぎを、どう説明すればいいものか、そもそも言葉にしていいものか、築宮はとうとう物哀しさまで覚えたという。  これだけ自分が後ろめたい情動を持て余しているのにも関わらず、法師の方は、こんなに汗まみれではさぞ気持ち悪いだろう、流せばさぞ気持いいだろう、という親切心以外の二心はないらしい。 「君なあ、ちょっとは用心した方がいいって思うぞ」 「こんな簡単に、男の前で肌を晒して、それだけじゃなく、一緒に水浴びまで誘うなんて……どんなよからぬ事されたって、文句は言えない」  普段の築宮なら、情事に関しては言外に匂わせることすら憚《はばか》るところを、さすがにこの時は呆れ果てて法師に苦言した。  まあ誘ってきたのは法師であるし、なにより彼女はお互い肌を晒すことを厭がる様子は毛ほども見せていないしで、築宮も気が大きくなったのである。 「よからぬことって、あんたが、わたしに?」 「いや、別に俺って限った訳じゃなく……」 「やだなんか、そんなコト言われると、  ちょっと、恥ずかしいね」  全く男女のことに関して無知というわけでもなさそうで、法師は築宮の背後で目元へ朱を走らせた。  しかしそれでも肌を隠そうともせず、そして今さら恥ずかしがられても、という奴で。  これで法師がにわかに羞恥心を取り戻し、身を離して水浴びはおしまい、となったしてもやむなし、いっそその方が気が楽だと、築宮はそうも思ったのだが、あにはからずや水をかける手は止まらない。そればかりか、 「くすぐったかったら、ごめん」  わずかにたちこめかけた秘めやかな気配は、法師の素の声で流された。  水をかけてはさらさらと、背、横腹、腕とさすってくれるのが、手ぬぐいは築宮の腰に巻いてあるから、法師の掌柔らかなのが上等の綿のように肌を滑った、その心地よさ。  肌と肌が触れ合っているのに、情事の愛撫の淫靡はなく、ただ穏やかで心が和《なご》むような、心地好さ。 「……どうかな?」 「ああ……ちょうどいい、と思う」  異性と裸でいる事への抵抗は消えてはいないが、法師に受け答えできるくらいの余裕も少しずつついてきて、言葉少なに答える。  法師には青年の汗を流してやろうという以上の二心はないようで、そうと割り切ってしまえば下手に気を揉むこともない。  その気になっていない女をあえてどうこうしようという気組みは築宮にないのである。  それに、それ以上の行為に及ばずとも、水を流して肌えを撫でてもらうだけでも、もう過分なほど幸せでないか。 「わたしも、汗かいたときは、いっつも水浴びするんだよ」 「そうすると、眠るときにも涼しくって気持ちいいから」  毒にも薬にもならないよしなし事だが、肌に伝う水と掌の快にぼんやり聞く分には、それくらいでちょうど良い。  築宮自身の血の熱か、法師の温もりか、手で洗ってくれる水が実にいい具合に体に柔らかく響く。質の佳い水は柔かいという。  さらさら、さらさらと、いつ終わるとも知れぬ水と掌の合奏は眠気を運ぶようで、築宮の意識は恍惚と溶けゆくような、背後の法師の気配も溶けて広がり、全身を包みこむかの不思議な、不思議な。  自分が現《うつつ》にあるのか夢にあるのか、桶の中に座しているのか大きな花の中にくるまれて天界の楽を聴いているのか、判別がつかなくなりつつあった築宮の、肩へピリオドを打つようにぽんと掌が置かれた。 「はい、おしまい。  汗もすっかり落ちて、つるっつるだ」  それで築宮は、自分がどこで何をしていたのか、ようやく意識の順序が戻ってきたのだが、それでもすぐさま立ち上がることはできず、虚《うつ》けたような面持ちを法師に向けてぼんやりと。 「う……? あ、ああ、すまない。  ありがとう……さっぱりした」 「そお? ならよかったけど。  はい、服」  法師は既に肌の水気を切って、〈小袖〉《こそで》だけを軽くまとっている。畳《たた》んであった築宮の服を差し出してきたのを受け取ったが、手足がどうにも頼りない。  酒のほろ酔いなぞとうに抜けて、身体もさっぱり涼やかなのに、まだ先刻の花の薫りの中にあるようで、衣服を着直すのさえ、法師に甲斐甲斐しく手伝ってもらう有り様だった。  ―――別れしな、法師は、 「もしよかったら……またわたしンとこに、遊びに来て」 「そんで、またなにか、お話を聞かせてほしいな……」  とせがんできたのだが、築宮はまだ芯が入らぬ体で、心も無防備だったから、うっかりするりと漏らしてしまったのだった。 「……話くらいなら、大したことでもないんだろうが……でも俺は、記憶を無くしてるようなんだ」 「こないだは、たまたま本を読んだばっかりだったから、話のネタもあったけど」 「それ以外の物語は、もし知っていたとしても、他のことと一緒に忘れてしまってるから……」 「え―――築宮さん、そうなんだ……。  わたし、そういう人に、なんて言ったらいいかわからないけど」 「お話とか、しなくってもいいから。  あんたの気が向いたら、でいいから。  ―――また、来てね」  それでその晩は別れて、築宮が水路伝いに彼の座敷へ戻っていくのを、法師は庵《いおり》の戸口に立って見送った、その眼差しには気の毒そうな色がありありと、でもそれで押しつけがましさを感じさせないのは、彼女の善良な心根によるものだったろう。  ……。  …………。  ………………。  旅籠の中の、複雑に入り組んだ廊下と部屋部屋の連なりは、それだけでも見ていて飽きない眺めであるが、時には目も平坦で遮《さえぎ》るものない広さを求めることもある。  築宮が必要とするものの大概が揃っている旅籠であるが、さすがに屋内にそういう眺めを提供するのは無理というもので―――  だから青年は―――  船着き場を抜けて、大河を望む桟橋まで足を運んだのだった。  築宮が旅籠に着いたその晩には、夜来の雨によって増水したという話だが、今は荒れた様子の名残も見せず、海かと、それも〈大凪〉《おおなぎ》の海かと見まごう静けさのもと流れて広し、微風も通う。  そして、築宮としては別にそれを期待したわけでもないのだが、桟橋の端には小舟がもやわれ、あの割れ般若の面の渡し守が、築宮同様に大河を眺めていた。  といって、青年のように〈空手〉《からて》ではなく〈太公望〉《たいこうぼう》、釣り竿を延べているのである。  別に彼女を驚かせてやろうというのではないが、魚を追い払ってはいけないから、なるべく木板を軋ませないようにして歩み寄って、静かに一言。 「釣れますかね」  釣り人と見物の客の間に、古来から今まで何百万回と繰り返された問いを、自分の口から吐くことにささやかな伝統の意識と照れくささを感じつつ、渡し守に投げたところ、 「お? おおお……っ?」  ちょうど竿を上げようとしていた機と、築宮の声が妙な具合に重なってしまい、渡し守の動作を彼女らしからぬ軽率なものにしてしまった。  ひゅんと竿がしなり、ぴんと糸が張りつめて、針に掛かった重さを示したが、魚のあがきを伝える脈動がない。  つまり首尾よく魚を釣ったのではなく、針が水底のなにかに引っかかって抜けなくなった、〈根掛〉《ねが》かりというやつなので。  自分が余計なタイミングで余計なことを言ったからかと、築宮は気まずさに〈憮然〉《ぶぜん》となる。 「こりゃ築宮の旦那。  まあちょっと待ってて下さいよ。  なんかにひっかかっちまった」  しかし渡し守は殊更築宮を咎め立てることもなく、ちょっと彼に振り返ってから、どうにか〈根掛〉《ねが》かりを外そうと頑張って、竿を上げたり糸を〈手繰〉《たぐ》ったり。  このまま外れなかったら、自分が河に潜って針を抜いてくるべきかと築宮、無駄な責任感にそんなことまで思い詰めはじめた頃に、竿の先が軽くなったようにかくんと跳ねて、糸が張りがやや甘くなった。  どうやら運良く外れたものらしい。 「おお取れた取れた。  ……ても、なんかこりゃあ、引っかかってますわ。針が重い」 「鯰《なまず》だの〈婆鰍〉《ばばかじか》だの、底の魚はこんな風に手応えが重い」 「そういうのならいい、そういう魚になれ、晩の肴《さかな》になれ……」  と呪文のように唱えて竿を立てる渡し守につりこまれ、築宮も水面に震える糸の先を見守った。  糸はぐんぐん上がってきて、渡し守が最後にごぼう抜きに引き揚《あ》げた、水をかきわけて揚《あ》がってきたモノは、薄い茶色を帯びていて。  が、魚にしては丸すぎる、鱗の煌《きら》めきも針から逃れようとする〈足掻〉《あが》きもなく、虚ろな孔を三つばかり晒して―――――― 「ちょ、それ……うわあぁっ!?」  それの正体を悟って築宮は、後ろ様に飛び退いて桟橋の縁から落ちそうになった。  ……まあ、見慣れていない者ならそれだって過敏な反応ではないし、そうそう見慣れている者があるとも思えない。  渡し守が引きあげた釣り糸の先で、〈釣瓶〉《つるべ》井戸の桶のように緩く上下していたのは、  ―――〈髑髏〉《しゃれこうべ》なのであった。  長いこと沈んでいたようで、すっかり水に皮も肉も洗い流され、目と鼻の孔からは泥ばかりが垂れている。 「なんだい、されこうべかい。  こいつァ飛んだゲドウだ」  そんなのを釣り上げておきながら、渡し守は実に平然としたもので、この女の肝が太いのではなく、自分が小心なだけではないかと築宮、無理矢理に心を落ち着かせてみたが、やっぱり骨という、それも頭蓋骨という不気味なのを前にしては、そうそう穏やかでもいられない。 「……見たところ、ずいぶん古い骨のようだが……一体それ、どうするつもりなんです?」  声に嫌悪感が籠もってしまうのが抑えきれぬ、青年は渡し守がそんなモノなどさっさと〈打棄〉《うっちゃっ》てしまうことを期待したのだが、捨てるどころか。  渡し守は、懐から手ぬぐいを取り出すと、まだ雫も切れずぽたぽた垂らしている〈髑髏〉《どくろ》を、鼻先に掲げて丁寧に拭い始めたのである。  とんだヨカナーンもあったもので、築宮は酢でも嗅いだように鼻筋に皺《しわ》を寄せる。 「まあまあ。  そう嫌うもんじゃありませんよ」 「こいつぁこれまで冷《つべ》たい水の底に沈んだっきりだったんだから、かあいそうじゃありませんか」 「ちゃあんと供養してやらないと、  変な妄念をかかえちまうかも知れない」  渡し守は築宮とは裏腹に、〈髑髏〉《どくろ》を〈鬼魅悪〉《きみわる》がる様子もなく、水気と〈深泥〉《みどろ》を取り除いてから手拭いにくるみ、船の中に下ろしてやったことである。  大河に突き出した桟橋は天と水の狭間、小舟は揺れて渡し守の般若の面も変わりなく、水からは〈髑髏〉《どくろ》も揚《あ》がったがそれもしまわれて万事平穏、築宮は一連の情景の中で自分の方が異物なのではないかと危ぶみながら、それでも声を平らにして問いかける。  怯えている風を見せては、大の男が情けないと思ったから。 「そんな古い骨なんかに、妄念なんか宿っているものなのかな……文字通り、水に流されてるんじゃ?」 「なんの。死んだ後も、  その骨に妄念が遺ってるってのは、よくある話ですわ」 「しっかり〈荼毘〉《だび》にしてやって、  肉やらモツやら灰になっちまっても、  コツ(骨)だけは遺《のこ》るんですからね」 「そこにどんな心残りが宿ってるか、知れたもんじゃない」 「だから、ちゃあんと供養してやらないと」  〈髑髏〉《どくろ》を片づけて、渡し守はそれ以上は釣りを続けるつもりもない様子で、銀の延べ煙管を取りだして刻みを詰めた。  紫煙を細く吐きながら、 「ところで旦那、なんか御用ですかい?  もしや渡しをお望みで?」  言われて築宮は、改めて大河の果てを眺めやる。視線は遮られる事なく伸びたけれど、やはり大河の果ては、晴れているというのに霞《かすみ》の中に溶けて、景色はそれ以上判然とはしなかった。 「いや……そうじゃない。  少なくともなにもここで、あなたに船を出してくれるよう、頼むつもりはないです」  築宮も言葉にして気づいた事だけれど、まだ彼は旅籠を発とうという心境には至っていないのである。  確かに旅籠の日々は今のところ平穏で、暇を持て余すし、やることといってはないのであるが、なのにこれまでの起伏ない日々が、嵐の前の凪であるかのような、さもなければ本番の前の準備期間であるかのような、そんな印象をこの時初めて抱いたのは、何故だったのだろう。  築宮は知らず、むしろ渡し守の方が心得顔で頷いたものだった。 「ははあ……旦那が逗留を続けようって言うのは、一向に構いませんが」 「なんぞ、気になること―――さもなければ気になるお人でも、できましたかね」  渡し守にそう問いかけられて、築宮の中に咄嗟に浮かんだのは――― select select select select  令嬢の面影だった。  あの、人を寄せつけないくらい秀でて典雅な面差しの中に、時折疲れて寂しげな色合いを〈揺曳〉《ようえい》させる、旅籠の一族の最後の末裔の。  図書室の鬼女という、あの司書女史の面影だった。  若い男の肉を〈滅法〉《めっぽう》好むという噂を、築宮は始めは出鱈目なものと信じていたのだが、今となってみると、真実を言い当てているように思えなくもない。  恐ろしいと言えば恐ろしいし、けれどそれでいて築宮は、彼女にどこかしら惹かれるものを感じはじめていたのだった。  温室で出会い、酒場でその弾奏の冴えを目の当たりにした、琵琶法師の面影だった。  愚かしいといえば愚か、無垢といえば無垢、いずれにしてもなんとも浮世離れした女だったが、その人懐ッこさが築宮の心にまとわりついて、離れてくれようとしない。  築宮が、そのうち温室か彼女の庵《いおり》に顔を出してみようかと考え始めていることは、今さら否定できないことなのだった。  塗りも〈手艶〉《てづや》の〈飴色〉《あめいろ》帯びて、使いこまれた古琵琶の調べ、撥を遣《つか》う手は無造作に見えて巧手の繊細な、〈律呂〉《りつりょ》〈嫋々〉《じょうじょう》と紡がれて、あるいは花散らす薫風の如く、あるいは月を宿す幽谷のせせらぎの如く、そして〈伴連〉《ともづ》れに歌う声の、高く、時にしめやかに、咽ぶように、歓喜するように、アーチ状の梁に絡み、壁に揺らぐ酔客の影に添うように響き渡り―――  今宵も、温室の琵琶法師の弾き語りは〈技映〉《わざば》え冴えて、〈情趣〉《じょうしゅ》〈纏綿〉《てんめん》と深く、地下の酒場に彩りを添えてある。といっても、客のほとんどが酒精に耽《ふけ》り、あるいは連れとの会話に夢中で、法師の至妙の弾奏も、あえて傾注するまでもない背景楽として流されてしまっているのが、惜しい。  幸いなのは、野次を飛ばすような不粋な客もなく、先だって法師に底意地の悪い悪戯を仕掛けたあの傍若無人な馬鹿者どもも今夜は居合わせていない。客の多くは法師に対して無関心ではあったが、まあ行儀が良いとは言えるだろう。  始めのうちこそ築宮も、法師の巧手に敬意を払うように神妙に聴き入っていたのだが、楽の音にもいつしか空気のように慣れきってしまい、今はただ盃の酒の水面ばかりを見つめているばかり。  ゆるゆる流れる琵琶の音だけでなく、酒場全ての音、話し声から隔絶して、自分の世界に埋没してしまっているのである。  ぐい、と顎を反らすように流しこむ呑み様は、酒という天と地と人の得難い賜物に対してするには、ちと不敬なほど投げやりで。 (俺は……この旅籠に着いて、  何日が経った?)  たとえ数日が数週だろうと、それとも数ヶ月に及んでいたとしても、なにかを為したと実感できる日々であったなら、青年はこうまで〈索漠〉《さくばく》とした想いで酒の味を苦くしてはいないだろう。旅籠での日々になんら不足はなく、大きな災難もなけれども、代わりに築宮の心を奮い立たせるような起伏もない。  これで築宮が負うていたのが外からの怪我や病であったとしたなら、平穏な日々のうちに癒しを見いだしたのだろうが、彼が抱えているのは記憶の欠落という、頭の中の微妙な問題である。外傷などとは異なり時間の経過がもたらすものは、記憶を失っている現状への感覚の鈍麻というか忘却というか。  ―――あるいはそれも形を変えた一種の癒しなのかも知れないけれど―――否、否、と否定しながら築宮は手酌で盃へ注ぎ足す。  望めば手すきのお手伝いさんがついて酒の相手をしてくれなくもないが、築宮は自分のペースで呑む方を好んだ。 (たぶん、こうしている普通に過ごす分には、とりたてて不自由しないのもいけないんだろうな……)  人として普通に日常を送る分には、問題ない程度の知識は彼の頭蓋骨の裡側に残っていて、それゆえについうかうかと旅籠での日々を過ごしてしまっている。  過去のことを想い出せないままに。 (俺は……きっと甘えているな。  ここの居心地の佳さに)  築宮にとって旅籠の日々は穏やかで心地よいけれどしかし、いつまでもだらだらと無為の日々を送っていていいものだろうか。なにより自分の心の奥底に耳を澄ませば、居ても立ってもいられなくなるような息苦しさがあるのだ。  自分はこのままでいいのか、なにかやらなければならないことがあるのではないか。  そう思うと、居ても立っても居られなくなるような焦りに取り憑かれる。  そんな〈漠然〉《ばくぜん》とした焦りとも不安とも胸騒ぎともつかないわだかまりが、酒場の和《なご》やかなざわめきの中にあるというのに、築宮の〈孤絶〉《こぜつ》をいよいよ深くする。  なるほど渡し守はゆっくり養生するといいとは告げてくれたけれど、かといってそれで過去を取り戻すための努力を放棄していいと言うことにはならないだろう。  どれだけ怠慢なのだ自分はと、築宮は迷い道に行き暮れた者のように〈長台〉《カウンター》を眺めれば、自分の酒瓶がカンテラの灯りを鈍く留まらせているのまでもが、その怠惰の象徴のようで苦々しい。  今呑むこの酒だって、正当な労働の代価で得たのではなく、渡し守に預けられた銀時計の威力に拠《よ》ったもの。さすがにここで初めて出されたような、あんな上等の香泉の類は今の自分にはもったいないと、なるべく安い酒がいいと頼んだ時の、お手伝いさんの顔が〈怪訝〉《けげん》そうではあったが。  ……そもそもその考えさえ〈傲慢〉《ごうまん》なのだ。なんぼ安酒だろうと酒には違いなく、このくすんだ瓶の中に詰め込まれているのはつまり、酒造り達の営々たる働きと〈材料〉《もと》になった物の結晶で、本来〈無償〉《ただ》で呑めた物でない。  ……要するに築宮の苦悩は、彼が旅籠での暮らしに慣れてきたという事の裏返しなのだ。到着して間もない頃の、旅籠の風変わりな風景や事柄に驚かされ通し、浮き足立っていた心が、ようやくある程度着地して、己を顧《かえり》みられる余裕が生まれた次第なのだが、かといって悠然と構えていられないのが彼である。  ……自分を内側から腐らすようなわだかまりを、せめて一時なりと酒でまぎらわせようと出てきた筈が、かく果てしなく築宮の悪想念は螺旋を描いて〈沈潜〉《ちんせん》していくばかり。これは一番いけない酒の呑み方で、体にも心にもひどい酔害をもたらす。  だいたい、自分のみならず周囲にもろくな影響を与えない。    たとえば見よ――― 「おい兄さん、なんか一人で黙々呑んでばっかりだが、なにか浮き世の悩みでも―――」 「うわあ、なんてぇ顔だっ」  築宮の隣で呑んでいた五十がらみの〈親爺〉《おやじ》は元来が陽気で世話好きな質で、一人きりで酒杯を重ねる青年の孤独を見過ごせず、声をかけようとしたものの、彼の顔に漂う憂愁の翳りの濃さに、数年前に肺病で死んだ友人のことを思いだし後追い自殺の衝動に駆られ、大河に身投げするためにふらふら酒場を出て行ってしまったり――― (幸い親爺殿は、階段を途中で踏み外してしたたかに向こう臑《ずね》を打ち据え、その泣きたくなるほどの苦痛に生の有り難さを再認識し、厄落としのためにすぐさま酒場に逆戻りした。改めて席を取ったが、築宮とは遠く離れた卓で彼の方向には盛り塩を置いたという)    たとえば見よ――― 「お客さん、なにか心配事でも―――」 「ひ……き……っ!?」  築宮の〈懊悩〉《おうのう》は、木を枯らし土を腐らせる障気のように、終始俯《うつむ》き加減の肩から、もわもわたちこめ台の上にまで垂れてくるかのようで、〈長台〉《カウンター》の向こうで氷を削っていたお手伝いさんが、そのあまりに陰気な雰囲気に肝を潰して手元を誤り、アイスピックで手の甲を深々貫き、しかし客の前とて悲鳴も出せない激痛に顔を泣き笑いにして酒蔵に引っこんでいったりで――― (なおこのお手伝いさんはこれが原因で尖端恐怖症となり、それが癒されるまで長い苦悩の日々を送ることとなったのだが、ある時針の先で天使が何人ダンスを踊れるかという例の古い神学的命題をふと考えだし、そちらに没頭するあまりに尖端への恐怖は置き去りになったという) (ことほど左様に酒場の一夜には様々な悲喜劇が満ちている。酒は人生の受け皿という形容の由縁である)  とにかく、根が真面目な人間が下手に悩み思いつめるとろくな事にならないという見やすい例で、築宮がある意味〈傍迷惑〉《はためいわく》に一人〈煩悶〉《はんもん》していると、酒場の酒場の喧噪が不意に水を打ったように静まりかえった。  一人の世界に沈みこんでいたものだから、築宮はその異常に気がつくのに一拍遅れたわけだが、法師の琵琶まで鳴りやんでいるのに不審に感じ、顔を挙げれば、酒場中の視線が出入り口に集中していた。酒精がもたらしていた、砕けて人間味溢れてる場の雰囲気が張りつめたのが、一瞬のうち。 「お邪魔、しますね」  〈澄明〉《ちょうめい》で〈玻璃〉《はり》を弾いたような声は、蒼らむ月下で聴くのならいい。だがこの人いきれと煙草の烟《けむり》に濁り気味の地下では、人肌めいたその熱を一度二度ほど奪ってしまいそう。  軽く顎を引いての淡《あわ》やかな目礼も、整いすぎた秀貌でやられると、こちらは平伏しなければならないかの緊張感しか生みやしない。  そこだけ月の光が下りてさっと結晶したように空気を張りつめさせて、戸口に令嬢の、立ち姿。〈凛然〉《りんぜん》といえば〈凛然〉《りんぜん》、〈清冽〉《せいれつ》といえば〈清冽〉《せいれつ》、しかし月下の氷原が美しいのは、一切の〈有情〉《いのち》を排して煌《きら》めくからであり、そこに生の息吹は通わない。  酒場の座からはたかだか数歩ほどしか離れていないのに、なにか星々の世界を思わせるほどの隔たりがあった。令嬢がすと踏みこんできた足元さえ、たちどころに薄氷が張って冷たく砕けるのではないかとさえ。 「大した用事じゃ、ありません。  皆さま、お構いなく」  客達の談笑を乱すまいと配慮でそうは言う、言うけれどしかし、皆隠れて酒を盗み呑みでもしている子供にでもなったかの罪悪感に襲われ、一様に酒の杯を手で覆い隠したり視線から卓上を遮るように肩をそびやかしたり。  要するに彼女はこの〈猥雑〉《わいざつ》で人間臭い地下酒場には、とてもとても『場違い』なのだった。  大の大人の男達が、自分の娘いや下手をすると孫くらいも年が離れたこの令嬢に、なにを萎縮しているのか情けないかもしれないが、彼女が年若だからと侮っていい相手ではないと、みな本能的に感じとっているのである。  令嬢がまとう雰囲気の、丁重で物静かな中にその年に似合わぬ、犯しがたい威を秘めているということだ。  ―――一体何のつもりでこんな下々の場にご来臨あそばしやがったかこの姫君は―――  と、客達がそれぞれ異なる喉を、似たり寄ったりな疑念で詰まらせる息苦しさ。  つい先程までは自分の尻の形なりに〈馴染〉《なじ》んでいた筈の椅子や止まり木が、石のように堅く客達には感じられる。  本人には殊更注目を集めるつもりはなかったとしても、令嬢はとにかくひどく悪目立ちして、その一挙一動追わざる目はない。 「ちょっと、いい?」 「はい―――」  それまでも客との酒の〈蘊蓄〉《うんちく》話でそれなりに真剣だったが、呼びかけられたバーテンダー役のお手伝いさんの堅くかしこまった顔は全く別種の、神前審判にでも召喚されたかの。 「そろそろお酒の蓄えのことを、確かめておかなくっちゃいけない頃でしょう」 「そう、ですね。もう、そんな時期ですね」 「なにか、運びこんでおかないといけないものとかは?」 「はい。あの、〈樽酒〉《たるざけ》が、減りがはやいです。  それから……」  小柄〈痩身〉《そうしん》の令嬢との背丈の差も、間を区切るカウンターもお手伝いさんを安心させないと見えて、応ずる口調が傍目にも堅かった。大概のお手伝いさんはそこまで令嬢を畏《おそ》れたりはしないものだが、バーテンダー役の彼女は酒場の客と長いこと時を共にして、感性が彼ら寄りになっていたせいであろうか。  やりとりはなんのことない、酒蔵の具合の、旅籠の主らしい確認なのだが、築宮には令嬢がこんなところに現れた事が素直に珍しい。憂鬱を一時忘れてその横顔についとっくりと眺めいっていたけれど、他の客ほど彼女を煙たげに思ってはいない。  もちろん彼とて令嬢の前では居ずまい改まる心地ではあるにしても、築宮からして他の酔客から見れば相当お行儀良い人種であり、その意味では同類に属してある。  また築宮が知らぬ事ではあるが、初日に令嬢と出会って以来、言葉を交わす事彼には数回、実にこの数回の機会さえ持たない客がほとんどなのである。  それ故か、他の客が令嬢に対して畏怖にも近い〈気後〉《きおく》れを抱いている中で、築宮が彼女に感じる印象はいくらか近しいものといえた。  だから令嬢が、一通りお手伝いさんとやりとりを済ませて話しかけてきた時も、彼ならばこそ、言葉を返すことは出来たのである。  ―――ただ彼へ振り向いてくる時の、まず首《こうべ》だけを〈轆轤〉《ろくろ》に載せたように回して、それからやや遅れて身体がついてくる、という一連の流れの間にも体幹に一切のぶれが無く、床の下に〈面遣〉《おもづか》い〈左遣〉《ひだりづか》い〈足遣〉《あしづか》いの三人の〈人形繰〉《にんぎょうく》りが潜んでいるのではと怪しくなるほどの見事な〈挙動〉《きょどう》に、ややたじろぎはしたものの。 「今晩は、築宮さま。  こちらへは、よくいらっしゃるの?」 「ああいや、まだそんなには。まだ二・三回くらいしか、来てない……かな」  カウンターの端と端とで言葉を投げ合うようなのは無礼と厭《いと》うたか、令嬢は築宮の隣へすらすらと、近づくにあわせて丸め加減であった彼の背筋がしゃんと伸びていったのが判りやすいと言えば判りやすい反応。 「そう……ごゆるりと、愉しんでいってくださいね」  隣に参ったといって、腰を寄り添わせ並んで座るといった、酌婦式の馴れ馴れしさが過ぎるようなのではない。そもそも令嬢の背丈では、止まり木によじ登ったところで足が着かずで、型も着かない。  築宮の傍らで立って見上げてくる……といっては、とんと飲んだくれの兄を連れ戻しに来た妹の図だが、〈上目遣〉《うわめづか》いの中に、ふっと匂わせた〈気遣〉《きつか》わしげな色合いは、あどけないどころか。母のような、姉のような。  令嬢ならずとも、築宮のひどく悩ましげな面差しを見ては、つい案じたくもなろう。  しかし――― (う……っ!?)  ―――築宮は、ひどく唐突に、〈目眩〉《めまい》さえ伴った激しい動揺に見舞われ、思わず目頭を押さえてカウンターの端を掴んだ。  令嬢の眼差しはただ彼の身を案ずるばかりで、青年を損なうような険や悪意など欠片ほども見当たらないというのに。  ただ酔いが回ったと言うには怪しい、今までは安心して寄り掛かっていたカウンターや止まり木が、突如飴のように溶け崩れ、どこまでも流されていきそうなこの失墜感は、なんだ―――!? 「あの、そんなに沢山、御酒を召されたんですか……?」 「……それとも、もしかして、どこかお加減でも悪くしていたりで」 「い、いや……そういうんじゃない。  ただちょっと、考え事をしてただけで」  令嬢の声も答える自分の声も、耳へ薄い真綿で蓋したように遠く、こめかみに伝う〈動悸〉《どうき》の方が〈五月蝿〉《うるさ》くて、築宮はなぜ自分がこんなにも動揺してしまったのかに更に混乱し、それを気取られまいとするあまりに受け答えに注意を割く余裕がない。  だから普段の彼なら、まず口にはせず、しまっておくような心の〈徒然〉《つれづれ》を、つい漏らしてしまったのである。 「その、なんというのか自分が、だらだらと無駄に毎日を送っているような気がして……」 「昔のことだって、ろくに身を入れて思い出そうともしてない」 「……ここでの毎日は、とても安楽で。  俺はそれに甘えてしまっているんじゃないかと―――」 「甘えるだなんて、そんな。  お客さまに安楽だ、と言ってもらえるのは、私たちにとってなによりのこと」 「そんなに気にしなくって、いいんですよ」  築宮の悩ましげな声音に心うたれたものか、真摯な眼差しで答える令嬢に、先程までの不可解な動揺の波も少しずつ退いていく。  しかし彼の心が落ち着いていくにつれ、今度は動揺に取って代わるようにして、いたたまれない気持ちが膨らんでいったのである。  それはたぶん、令嬢がしっかりと聴き入ってくれるからこそ、なのだ。  人にとっては特に縁もない他人の悩みなど、〈鬱陶〉《うっとう》しいものでありこそすれ、一々親身になって相手をしてやるようなものではない。  だというのに令嬢は、歯切れ悪くぼそぼそ声の築宮の台詞を、一言一句聞き逃すまいと言わんばかりに真剣そのもの、それがかえって青年を不甲斐ない気持ちにさせてしまう。  自分のこんな下らない悩みでもって、令嬢の時間を奪ってしまっていいのか、と。  更には令嬢の口数少ないのが、自分を責めているようにさえ感じられてしまう始末の、こんな風に酒を喰らいながら愚痴っているくらいなら、なぜもっと記憶を取り戻すよう努力しないのかと、怠惰と自分を誹《そし》っているのも形を変えた〈自己憐憫〉《じこれんびん》でないのかと、言外に語っているように思えてならない。  もちろん全くもって理不尽な感情なのではあるが、令嬢の端正で清らかで付け入る隙のない佇《たたず》まいは、対峙する築宮にとってはどうしても自分の至らなさばかりを強く強く意識させてしまう。だいたい、止まり木から話しかけるのでは、見下ろす形になるのがどうしようもなく〈不遜〉《ふそん》に感じられてならない。  令嬢の〈烏羽玉〉《うばたま》の黒髪に宿り、頭頂をぐるり取り巻く、淡く滲んだ艶の輪は、酒気と煙草の烟《けむり》混じりで薄く霞《かすみ》がかかったような酒場にあってなお、浄らかに光を弾いているのがさながら聖人の光輪を思わせて、酔いにかこつけて悩みを打ち明けているというより、己の罪を〈懺悔〉《ざんげ》して告解を希《こいねが》う罪人じみた気持ちにさせられる。  胸の裡が余計にますます澱《よど》んでいくような気がして築宮は、苦笑で流して、話を打ち切ろうとした。 「……はは。なにを言っているんだろうな俺は。こんなの、人に話したってどうにかなるものじゃない」 「忘れて下さい、つい愚痴めいたことをぶちまけた。まあ、酔った勢いという事で見逃してほしいです」  酔った勢い、そう、酒精のせいにしてこの場限りのものと笑い飛ばしてしまいたいのに、令嬢と来たら、どこまでも堅苦しい様子を崩さず、 「……あなたは、ご自分に対して、本当に厳格なのね……」 「でも、そんなに思いつめると、  体に毒です」 「それは……そうなんだろうが……」  気まずい思いを奥歯に噛む築宮には、案ずるような台詞はかえって追い討ちで、言葉は尻すぼまりに消えて、もう続かない。これ以上なにか言ったところで、ますます自分がみじめになりそうで、ついに黙りこんでしまう。  と、青年は、会話が途切れた段になってようやく、酒場が妙にひっそりと鎮まっているのに気がついた。声音低く言葉を交わしていた令嬢と築宮は、いつの間にか酒場の耳目をすっかり集めてしまっていたのである。  いや、築宮は結局添え物止まりで、やはり酔客達の視線は令嬢を追いかけて外れない。  ただそれも酔客にしては遠慮がちの、二人を遠巻きにして踏みこまず。  美しく繊細なものを眼福と、ただ眺め〈賞翫〉《しょうがん》するだけで満足するような穏当な手合いならともかく、酔眼にはもっときわどい興味の対象となるのが当たり前で、やれ声をかけてかき口説こうだの一緒に酒を空けよう……とこれがお定まりのところがずいぶん大人しい。  やはり美しいのも整いすぎると人間の情味に乏しく、声をかけるのも憚《はばか》られるのか。  いい加減令嬢の方も、自分がどれだけ酒場の体感温度を下げているのか悟ったようで、 「あの、すいません築宮様、ちょっと中座しますね」  と築宮に失礼を侘びて、他の卓へと足を運んだのが、よせばいいのにというやつで。旅籠の女主人として、築宮一人にかまけず、他の客とも〈馴染〉《なじ》みを持とうとしたつもりなのだろう。しかし令嬢が踏み出した足元がろくに音も立てなかったのに、酒場の中には静かな動揺の波紋が広がった。  酒場の乱雑で無遠慮な空気さえも、令嬢には絡みかねると退いていくような。 「今晩は、お大事ありませんでしたか、〈贄塚〉《にえづか》さま。先だっては風邪を患《わずら》われたと、うかがいました」 「その後お加減の方は?」 「な、直った。もうなんともない……っ」  声をかけられた酔客は、それまで一緒になって令嬢を盗み見していた仲間に助けを求めるよう振り返ったが、つれなくも素早く、さっさと別の席に退避した後の、自分達の酒だけは確保しているのは〈流石〉《さすが》。  それで〈贄塚〉《にえづか》と呼ばれた客は、ふてくされきって酒を徳利から大あおり、げふりと〈熟柿〉《じゅくし》のおくびを吐いて、さあどうにでも料理やがれといわんばかりに開ききった、相手は首に手をかければそれだけで儚《はかな》くなってしまいそうな華奢な女の子だというのに。  ―――令嬢は、そのむきつけな〈排斥〉《はいせき》に、哀しみもせず、かといって殊更微笑みで取り繕おうともせず、ただ見つめるばかりの、淡々とした。 「気にしないでくれ、たいした事なかったんだから」 「それならよかったんですが。  ……皆さんとおくつろぎのところ、お邪魔をしました」  ごゆっくりどうぞと結んで、他の卓にも足を運んだのだが―――  給仕のお手伝いさん相手なら遠慮もなく尻の一つでも撫でそうな手合いが、この時は意気地がないといったら。  酔客には椅子を引き加減に令嬢から身を遠ざけようとする輩さえあった。  会話だって、一言二言の先は見事に硬直して、〈百舌鳥〉《モズ》のはや贄《に》えのように干からびて、それまでの酔いなどあったものか。  それもいたしかたなし。  今まではそれぞれの酔い加減のそれなりに、ご機嫌であった男たちの中に、綺麗は綺麗だが笑いもふくれもしない、真面目を通り越して仏頂面の娘はどうしたって場違いなのだ。  令嬢にしてみれば普段通りの素の表情のつもりなのだろうが。  酒場の空気は、いよいよもってすっかり白茶けた。それも長いこと晒されて色落ちした骨の色で、いやその味気なさといったらない。  おまけにそれは、令嬢があちらの卓からこちらの卓へと渡るにつれて広がっていき、しまいには酒場の中全土が通夜でもあるかの陰気な雰囲気に覆われた。  これで琵琶法師が〈迂闊〉《うかつ》に平曲でも〈爪弾〉《つまびこ》こうものなら、そこいら中の影から手を前に垂らした死霊の一個中隊でもまかり越しそうな塩梅だったが、いかなあの法師とてそこまで愚かではなく、困ったような顔で、撥を絃から離したきりにしている。逆に言えばあの〈暢気〉《のんき》な法師をして躊躇わせるほどの、やりづらい空気が酒場の幅一杯に広がっていた、という事なのだった。 「それでは、お騒がせさまでした。  皆さま、どうぞごゆっくり―――」  最後に令嬢は、バーテンダー役のお手伝いさんに何事か耳打ちすると、静かに〈一揖〉《いちゆう》し、場の体感温度を下げるだけ下げてから立ち去っていく。  令嬢の姿が見えなくなっても、みな〈地縛〉《じしば》りの術にでもかけられたかのように緊張を解かず、バーテンダー役のお手伝いさんがふう、と吐息を漏らしたのが呼び水になって、ようやくあちこちで吐き出された文字通りの一息の、なんと解放感に満ちあふれていた事か。 「なにしに来たんだあの娘……」 「なんてぇ辛気くささだ。  ぶるる、なにやら体が冷えてきたような。  熱燗つけて呑み直そうぜ……」 「なんだなあ……番茶だって〈出花〉《でばな》くらい咲かそうものを、なんぼ綺麗だって、ありゃあ日陰の〈幽霊茸〉《ゆうれいたけ》だぁ。暗えところで人魂めかして光るのが関の山」  酢やら塩やら舐めたような顔つきになっているのはまだしもの方で、中には出入り口を睨みつけて悪態までつく客もあったという。 「なんだよ、せっかく良い気分で呑んでいたのが、酒ぇ酸っぱくなったようだぜ、あの餓鬼のお陰でよ」 「どうだね、ちっと年は足らねえが、あんなでも女は女だ。おまえ口説いてみたら」 「冗談。あんなのと二人寝するくらいだったら、湯たんぽ抱えて寝たほうがましだぁ!」 「あー気分がくさくさしてくら。  悪ィ夢でも見そうだぜ……」  本人の影も見えないところで叩くから陰口と言うのではあるが、令嬢が居る間かしこまっていたのと同じ連中とはとても思われぬ、勝手放題言いたい放題に築宮は呆れかえって溜め息をついたが、あるいは彼らの言い分も無理はないのかも知れなかった。  酒場の客達は、酒を呑んで酔っ払いたいから来るのであり、その酔い心地を邪魔されたとあっては文句の一つもつけたくなろう。  あちこちで令嬢への、遠回しなの〈直截〉《ちょくせつ》的なの入り乱れた悪態が弾けて、酒場の空気はいよいよ澱《よど》み濁っていくかのような、こんなところで酒を入れては悪酔い間違いなしで、つまらない言いがかりから喧嘩の一つや二つも起きかねない、そんな捨て鉢な雰囲気が〈蔓延〉《まんえん》し始めたのを、〈流石〉《さすが》にいけないと踏んだのか、 「ああみなさぁん!  ちょっとよろしいですかぁ!」  口元に片手をラッパ代わりに〈大音声〉《だいおんじょう》、バーテンダー役のお手伝いさんは客達の注意を集めると、 「お客さまの皆さんには、毎度この酒場をご利用いただき、誠に感謝しております」  なんだいきなりと、皆が不審の眼差しを注ぐ中、気を持たせるように深く息を吸って、 「そこで、皆さまの日頃のご〈愛顧〉《あいこ》に感謝して、今夜は皆さまにここのお酒、どれでもお好きなのを一杯ずつ……サアビスさせていただきまぁす!」  一拍の沈黙の後、湧き起こった歓声の景気良さと言ったらなく、それまでの辛気くさいのを一発で吹き飛ばして余りある。酒場に続く酒蔵には、瓶詰めの液体の宝石に等しい貴重なのや、熟成に熟成を重ねて時の〈精髄〉《せいずい》を宿したようなのまで、秘酒、古酒、名酒様々が収められているのは周知の事実であるが、〈流石〉《さすが》にそれらはそう気軽に封を切られる事はなく、客達の噂の端に上るのが関の山。  お手伝いさんは、そんなのまで皆に奢《おご》ると言い切ったのである。これで奮《ふる》い立たぬ酒飲みがいたなら、そいつは台所に入って料理酒でも飲んでいればいい。  客達はさっそく給仕のお手伝いを掴まえて、思い思い好き放題に注文つけだすのもあれば、このまたとない機会にいったいどんな貴重品を供出させたものか、およそそいつはそれまでの人生の中でもそこまで真剣になったのはこれが初めてではないかと疑わしいほど熱に浮かされた目つきでぶつぶつ考えこんでいるのもあり、さっきまで令嬢の登場に口小言いっていたのがちょっと現金に過ぎやしないかと、苦笑気味な客も少しはあったが、大体のところ酒場の活気は戻りつつあった。 (……まあなんというか、現金なことこの上ないが、これはこれで効果的なやり方には違いない)  つまるところバーテンダー役のお手伝いさんは、白けきった場の空気を〈腑活〉《ふかつ》するためにあんな事を言いだしたのは〈明白〉《あきらか》であり、それくらいは客にだって判っていよう。  しかしそれでもただ酒はただ酒、その魔力はあらたかなのだ。 (しかし、な。俺は素直に乗りきれん……)  他の客はただ酒の昂奮で令嬢のことなど念頭から追いやったようだが、青年には彼女と客達の温度差が、どうにもやるせなく感じられて仕方ない。令嬢はなるほど外面はああだが、なにも酔客達を軽蔑しているわけでもなんでもなく、むしろ客達の方が勝手に垣根を造っているだけなのだろう。別の世界の生き物と決めつけているのだろう。  それがどうにも物哀しくて、他の連中のように屈託なく酒を出させる気にもなれず、今夜は引きあげるかと腰を浮かせかけた築宮へ、問いかけてきたのが琵琶法師だった。  変なところで水を差されて、弾奏は中断されたきり、もう今夜は琵琶を弾くのは諦めたようだが、それでもどうにも解せないという顔つきを浮かべていた。他の客は浮かれ加減で自分なんか相手にしてくれないと見て、築宮に話しかけてきたらしい。 「あのね、どうしてあの子、あんなこと言ったのかな?」 「……なんのことだ?」  あの子というのは令嬢のことだろうが、築宮には法師が一体どの台詞を指して不思議がっているのかとんと判らない。 「出てくちょっと前、お手伝いさんに〈内緒話〉《ないしょばなし》したでしょ。あの時」 「あの耳打ちしたときか。でもそんなの、聞こえるものか? 俺はぜんぜん……」 「あたしはほら、音には敏感だから。  でね、あの子、こんなコト言ってた」 「『この場の皆さまに、それぞれ好きな酒を振る舞ってやってほしい』って。 『ただし自分の名前は出さないように』って」 「だからこの奢《おご》りは、みんなあのお嬢さんからなのに、その事、どうして言わないでって言ったんだろう。あたし、それが不思議で」  法師はさも不思議そうに首を捻ったものだが、築宮は言葉を無くし、令嬢が去っていた出入り口をうち眺めた。  もちろん彼女は去っていって間が経ち、残像さえも見いだすことは出来なかったけれど、なにが無し、築宮は令嬢の立ち振る舞いと客への心配りに、その慎みに、〈吐胸〉《とむね》衝かれたような、そんな想いに囚われていたのだった。  結局築宮は、あの後ほど無くして地下酒場を出た。酒場は時ならぬ振舞酒を後押しに、令嬢の〈闖入〉《ちんにゅう》で〈鬱々〉《うつうつ》としてしまった空気を弾き返そうとするかのごとく沸き立っていたが、築宮にはそう単純に騒ぎに同調する気にはなれなかったのである。  かといって酒の味を諦める気にはなれず、残った酒は〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》に詰め直してもらうことにした。 「お持ち帰りですか?  それは構いませんが……」 「これ、あまり良いお酒じゃありませんから、二晩……いいえ一晩置いただけでも、酸っぱくなっちゃいますからね?」 「早めに飲みきって下さいね」  そう念を推《お》すお手伝いさんの言葉を思い返しながら、徳利の重みを確かめれば、とぷ、とぷと、陶器の内で水音は重たげに揺れて、まだずいぶん余しているようだ。確かにそれほど呑んだ覚えはないし酔ってもいない。  下げ緒の麻縄はまだ粗《あら》く、掌をちくちくと刺して、これが〈馴染〉《なじ》むまで通い詰めれば立派に常連と呼ばれるのだろうが、酒場で呑んで部屋でも呑んででは、まるきり酒浸《びた》りの生活である。  自分の座敷までの道筋を辿りながら、あるいはそうやって酒に逃げるのも今の自分にはお似合いかと、漏らした自嘲気味の笑みこそ全然似合っていないことには気づいていない築宮なのだが、おや、と出来の悪い笑みを口元にへばりつかせたまま、左右を見回した。  〈生酔〉《なまよ》い本性を違《たが》えずと言うし、人間よほど泥酔していない限りは帰路を見失うことはそうそうない筈だが、築宮は自分の座敷の方面とは異なる区域を歩いている事に気がついて狼狽する。どこかの岐路で、考えに耽《ふけ》りこむままに身体が逆向きに傾いで道を誤ったということなのだろうが、これでは角を曲がろうとしたつもりがうっかり水路に嵌らないとも限らない。  幸いにして―――というのか、昼と夜とで勝手が違うが周囲の様子には見覚えが有る。  これならどこかの空き座敷に潜りこんで明るくなるのを待ち、お手伝いさんに救助を求めずとも良さそうだと安堵するのが、なんの探検隊か遭難者かだが、この旅籠ではそれが笑い話にはならないから困りものである。  さて自分の部屋までの方角はと見定めようとして、行く手に灯りを長く落としている障子戸のある。暗く長大な廊下に人めかした灯りは嬉しいが、銀時計を確かめれば日が替わる頃合いであり、夜更かしなのもいたものだと歩を進めて、築宮は得心すると同時になんとも微妙な気持ちに囚われたという。  光を廊下に投げかけてその一面を水面のように照らし出しているのは、旅籠のお帳場なのだった。なるほどお帳場なればこの時間まで居残り迫られるくらい仕事が積もっていることもあるかもしらんと納得してから、自分が埒《らち》もない悩み事を酒にまぎらわせている間にも、働いているお手伝いさんがいるのだと申し訳なさが先に立ったのである。  とある漁村の悪評高い怠け者でも、入江に鯨《くじら》の背が見えた時、あるいは葬式が出た時火が出た時には捻《ねじ》り鉢巻きで駆けつけたという、つまり〈口小言〉《くちこごと》で咎めるより、人が忙しくしているのを見せた方がごろごろ者を動かすには得策なので、まして根がお堅い築宮においてをや。  いっその事引き返して道を換えるかとまで気が退けたものの、彼の座敷はその先にある。  お帳場に近づくにつれ重くなる歩度を〈泥濘〉《でいねい》から引き抜くように足早に、それでも中で仕事する人を煩《うるさ》がらせまいと無駄な気配りして、通りすぎようとすると、障子戸が風通しのためか半分ほど開いている。  とその向こうで―――きし、きし、と硬筆の軋むような筆運びが聞こえたくらいだから足音などろくに立てなかったはずだが、視界の端をかすめたその人と、かっちり目線が合ってしまって築宮はぎくりと足を留めた。  帳場机を区切る結界越しなのが、まるで牢獄に封じこめられているかに思えた―――  それがお手伝いさんであったなら、彼だって〈窮屈〉《きゅうくつ》な思いを黙礼一つでどうにか呑みこみ、後は影も残さず足早に行き過ぎたのだろうが、 「あら……今お戻りなのですか?」  相手が令嬢なのだとあっては。  先程酒場で言葉を交わした相手とあっては。  挨拶もなしにやり過ごせるようないけ図々しさを持ち合わせぬ築宮は、悪さを咎められた子供、いやさ蛇に睨まれた蛙、ではなく、海賊にとっ捕まって鱶《フカ》の海に叩きこまれる寸前の哀れな水夫……と譬《たと》えを言い換えれば言い換えるだけ物騒になってしまうのが物哀しい、とにかく身を堅くして令嬢に向かい合った。 「ええ、そんなところです。  ……君も、晩《おそ》くまで大変だ……」  障子の隙間からたまさか目が合っただけなのに、令嬢の硬質な表情は相変わらず、はしたなく覗き見した気持ちにさせられ、きまり悪くなってくる青年だ。  大体、令嬢が酒場から立ち去ってからまだいくらも経っていないではないか。してみると彼女はあれから真っ直ぐここへ来て帳面を広げたと見えるが、勤勉といえば勤勉、悪くとれば働き過ぎの、他のお手伝いさんの姿もなく令嬢一人、華奢な座り姿がお帳場をいよいよ広く厳《いか》めしく見せている。それでなくともこのお帳場の調度立ては、なまじの番頭など顔負けの貫禄を放っているのだ。 「そんな大層なことでもないですよ。  あれやこれやとしているうちに、こんな時間になってしまったの」 「それでも、ちょうど一息入れようしてたところ。  築宮さまも、一休みしていってはいかが」 「酔い覚ましに、お茶などどうですか?」 「そういうことなら、ちょっとばかりお邪魔を……」  内心では彼女の仕事の邪魔をしては申し訳ないとも思いつつも、体よく断る文句も思い浮かばない。黒々した〈鴨居〉《かもい》は長身の築宮の頭よりまだ高いところにあったが、なんとなく首を竦《すく》め加減にして上がりこめば、上履きを脱いだ蹠《あうら》には板の間も畳も冷たく堅く、令嬢が勧めてくれた座布団に収まった時にほっと溜息が漏れた。  令嬢が傍《かた》えへ引き寄せた茶盆も、塗りが床《ゆか》しく褪《あ》せて、使う二人よりも年を経ているのではないかの古さびよう、この座敷の家具はなにからなにまでそれ式に年代物で、この旅籠に生きる令嬢は知らず、築宮は開化の時代の人情本の一節にでも迷いこんだような心地になる。 「お部屋に戻って、のんびり呑み直しするつもりでした?」 「それもよろしいでしょうが、体の障《さわ》りにならない程度に、ほどほどに―――」  築宮が脇に据えた貧乏徳利を横目に、令嬢はもちろん客を気遣う言葉なのだが、その間も、というより帳場に彼を招き入れた時から彼女は一筋も表情を変えず、いやこれは酒場の時から同じ顔のままなのではないかと空恐ろしくなってくるほどで。  もしや渡し守のように〈見易〉《みやす》いのではないが、この端正な顔も仮面なのではないかと、そんな疑いさえ抱き始めた築宮の前で、 「あ―――」  と令嬢は表情を変えてみせたのが、どうにも見はからったようなタイミングである。  といって築宮の失礼な感慨を見抜いて〈柳眉〉《りゅうび》をしならせたわけでもなく、盆の茶筒を覗きこんで幽かに眉根を曇らせただけだが、この娘がそんな顔をすると、黄昏の墓場で濃い霧雨に包まれたかの憂愁がたちこめてきそうな、実に裏寂しい。  さては茶筒の中に、猛毒だという〈斑猫〉《はんみょう》がまぎれこみ、悪く鮮やかな〈甲翅〉《はね》を光らせてでもいたかと築宮も釣られて覗きこもうとしたが、 「お茶、切らしてしまっていたみたい」  ……築宮は、覗きこもうとしたまま前にのめりそうになったという。勝手な思いこみではあるが、拍子抜けの感拭《ぬぐ》えなかったのは、そういう人間めいたしくじりはこの令嬢には似つかわしくないと考えた故の、それもまた築宮の思いこみであったろう。 「ちょっと待ってて下さいね。  たしか予備があったと思うから……」  そこまでせずとも、と強く断ることも出来ず、腰を上げた令嬢を見送る築宮だったが、帳場机の傍に置かれていた〈箱膳〉《はこぜん》がふと目に入った。令嬢の夜食にと用意されたものか、一見簡素な造りだが、黒漆《うるし》の塗りも美事に厚く深みを帯び、横に小さくも繊細に、桜・菖蒲・雪被さった枝先といった浮き彫りが施されて美しい。 (うん……?  桜は春だし、菖蒲は確か夏……だったか?  雪のは言うまでもなく冬で……) (季節がごちゃ混ぜだな。  でも春・夏・冬はあるのに……秋が無い。  ……って、はは、商《あきな》いの語呂合わせか)  かく〈暢気〉《のんき》に感心したのもそこまで。この広く森閑としたお帳場と、そこに一つ置かれた〈箱膳〉《はこぜん》の意味を悟り、築宮はそれこそ梢《こずえ》から葉を吹き落とす秋風に晒されたようなうそ寒さを覚え、肌に微かな粟粒さえたてたのだった。  一人、なのだ、この令嬢は―――  この〈深更〉《しんこう》に、広大な旅籠のただ中にあって、一人で残り仕事を片づけて、そして一人で遅い食事を摂って。  一族の最後の裔だという、この令嬢は、ならばいかにして一人となったのか、兄弟姉妹は始めからない一人子だったとしても、父の、母の、厳しくかつ暖かな〈抱擁〉《ほうよう》をいかなる運命の手に奪われた? 温もりは、全く知らずに育つより、ひとたび触れてから喪《な》くす方がその辛さが冷たく身を刻むという。  令嬢もそうだったのだろうか。ある日を境として、自分を見守っていてくれた眼差しが永遠に喪《うし》なわれた時、彼女は喪失の重さとどう向かい合ったのだろうか。  築宮は幻視する―――これだけ広大な旅籠なのだから、もしかしたら〈何処〉《いず》こかに、喪《な》くした筈の肉親の姿を見いだす奇跡もあり得るのではないかと、〈一縷〉《いちる》の望みにすがって〈彷徨〉《さまよ》う、親を喪《な》くした少女の姿を、在りし日の令嬢の姿を。  彼女の伴《とも》をするのは、己の影法師ただ一つのみ、〈帯金具〉《おびかなぐ》の細工も職人芸の〈舟箪笥〉《ふなだんす》、霧に煙《けぶ》る渓谷を描いた屏風、四季の花を押し花に封じこめた飾り障子、あるいは洋間だってあったかも知れず、それら無数の旅籠の調度へ落つる令嬢の影は、徒《あだ》な望みと知りつつも足早に次の部屋・座敷へとよぎっていったのだろうか、それともどんなに〈足掻〉《あが》いたところで喪《な》くした人は還ってこないという無常な現実を、親も誰もいない無人の空間に突き当たるたびに見せつけられて、〈項垂〉《うなだ》れていたのだろうか―――  白々とした電燈に、濡れたように光る畳に長く伸びる、令嬢の影を眺めやりながら、築宮はそんなことなどを物想う。 「……もう、あんなところに……」  築宮はそうやって影ばかりを眺めていたものだから、焦れたような声音で令嬢の本体が踵を浮かせて背伸びしているのに、遠いところから引き戻されたように気がついた。  吊るし棚の上にある物を取ろうとしているようだが、いかんせん令嬢の背丈では届かないようで、指先が宙を掻いているのが微笑ましいと言えば言えたが、築宮は寂しげな感傷を慌てて脇に置いて立ち上がった。 「ああしばらく。  それくらい、俺が取りますよ」  手頃な段を引き寄せて高いところのを下ろそうとする令嬢を押し留め、吊るし棚に手を伸ばす。どれだけ〈猿臂〉《えんぴ》伸ばしたところで背伸びでは届かないのは、吊るし棚であろうが天の月だろうが令嬢には同じだったろうが、そこは背丈だけはある築宮のこと、たやすく目当ての茶筒を下ろして、令嬢に手渡した。  ただ令嬢はすまなそうであると同時にどこか御〈不興〉《ふきょう》な様子で、横から手を出されたのが気が退けたらしい。 「お手伝いさんも……。  普段遣《づか》いの物は、もう少し便がよいところに置いてもらわないと」 「ありがとうございます……でも、築宮さまも、気にせず休んでいて下すってよかったのに」 「酔っているのに、そんな風に力んでは」  築宮を見上げてくる、澄んで冴えた眼差しの中に、どこかしら叱るような色があるのが、彼女の年頃に似つかわしからぬ、気高い姉めいた風情で、なかなか逆らいがたい。  築宮はただ善意でした事なのに、さては小柄なのをからかわれたように受け取られてしまったかと、多少〈憮然〉《ぶぜん》としなくもなかったがあえて呑みこんで、座布団まで戻ろうとした。  と、お帳場は板の間と畳敷きと区切られてあるのだが、築宮はその境に軽くつまずいてしまったのである。大した段差でもなかったけれど、上履きを脱いでいたので無理に体勢を残せば爪先を痛めてしまいかねぬ、そこであえて逆らわず、倒れこむように手をついたのだが、 「あ……っ!?」  余人には大げさに転倒したように見えたのだろう。令嬢は我が事のように短い悲鳴を〈爪弾〉《つまび》きだして、築宮のもとにしゃがみこんだ。  スカートの裾が空気をはらんでふわり、彼女の膝元にたわんだのが、スローモーションのように〈静謐〉《せいひつ》を秘めていると、本人はいたって平気の築宮が、大丈夫を言う間もない。 「ほら……! だから座っていてと言いました!」 「いや、これは、大げさに見えたろうが…」 「酔った足元じゃ、自分は平気と思っている人ほど、怪我をしたりするものなのに」 「そんな、怪我なんて……」  むしろ令嬢の方が焦り気味、築宮の困惑した様子とは温度差に開きがあって、打ちつけた爪先のあたりを改めようと彼女が手を伸ばしてきたのがかえって気詰まりの。今日一日の汗と脂で蒸れた(とは言っても青年が思っているようには汚れてもおらぬが)足先を、年若な娘に触れられるのは大いに憚《はばか》られる。  もし足指に灼《や》けた鉄串を押し当てられるなら恐ろしい、しかし触れてくるのが令嬢の繊指とあってはこれは畏《おそ》れ多く、平気だからと遮ろうとした、築宮の呼吸を押さえつけるように、    ―――ボォ―――ォ―――ォ―――     ―――ンンン―――ンンンン………    近いのに遠く霞《かすみ》の向こうから渡ってくるような旋音、柱時計が時を告げる鐘の、その唐突に築宮は身を一つ大きく脈打たせ硬直してしまう。が、令嬢は聞き慣れているのかわずかにこめかみを動揺させただけで、耳孔の中に反響する弾力の深い余韻に築宮が動けないでいるうちに、爪先へ向けた手を逸《そ》らした、青年の額に。    ―――ォ―――ォ―――ンンン―――     ―――ンンン―――ンンンン……            ジジ・ジィィ……ッ    余韻がまだ消えやらぬうちに、〈機構〉《ムーヴメント》が巻き戻る音まで聴き取ってしまうほど息を詰めていた築宮だったが、そうしてみるとこのお帳場だけでなく旅籠の近く遠くで似たり寄ったりな時計が夜の中に籠もった鐘を鳴らしているのである。  しかし時鐘の輪唱も一つ一つと鎮まり、しまいに夜の〈静謐〉《せいひつ》が立ち返ってきたが、それでも築宮は動けずにいた。  令嬢に掌を、そっと額にかぶせられて。  身体の底に燻《くすぶ》っていたような酔いが一時に熾《おこ》り、額が白熱したかのような、裏腹に触れ合う令嬢の掌は滑らかな〈繻子〉《しゅす》を重ねたように温度がない。 「どうして、こんなになるまで呑んでしまったの、あなた―――」 (違う、君が言うほど呑んじゃいないんだ俺は、本当なんだ―――っ)  言い返そうとして、口の中で舌が〈海綿〉《かいめん》のように膨れ上がったかのように動かせない。  なにより中腰を浮かせた令嬢の眼差しが、普段とは全く逆に築宮を上から見守る形の、それは、母親が乳母車の中の我が子に注ぐ眸であり、姉が悩みの檻《おり》に囚われた弟を〈叱咤〉《しった》する目であり、全ての女が、道に行き暮れた全ての男の炎を今一度点《とも》す心であり――― 「楽しいお酒なら佳いんです。  哀しいお酒だって、時には仕方ない」 「楽しい時のお酒は、いい彩《いろど》りで、  哀しさだって、お酒が紛《まぎ》らわせてくれることもあるのだから―――」  さらさら、さらさらと、青年の額を滑っていく、かすかかにひんやりと、優しく、柔らかな、令嬢の掌の感触、築宮という存在に降り積もって重くする迷いの塵を払い落として、心の輪郭を露わにしていくような掌の心地、それだけを感じていたくて、築宮は委《ゆだ》ねるように瞼を閉じた。  目を閉じてなにも見えず、瞼の裏には光の残映がしばし揺らいでいたけれど――― 「けれども……迷っている時、不安な時。  そういう時のお酒は、いけないって思うのよ……」 「迷いの答えをお酒に求めたって、なにも判るはず、ないわ。  心はかえって揺れてざわめくばかり、なにも見えなくってしまうだけ」 「……たしかに不安でしょうね。  ……自分が誰なのかも、判らない。  今までの、記憶がない。  でも、それでも」 「あなたはあなたです。  あなたであることにはかわりはない」  瞼を閉じた闇の中、それでも判る、厳しくも案じる言葉に、想いに、自分が懐《いだ》かれ守られてあること―――  感じられる、旅籠の夜気に静けさの中には、〈懊悩〉《おうのう》に強張った心を〈慰撫〉《いぶ》するような清い旅愁が満ちてあり、自分をそっと〈抱擁〉《ほうよう》してくれていること―――  水路のせせらぎ、遠くで〈葉擦〉《はず》れのようにそよぐ誰かの声、廊下のどこかを軋ませて過ぎるお手伝いさんの足音、立体的に交差する梁で夜の生き物が身じろぎする気配。使いこまれてなお健在の調度や畳の放つ香り。  それら全てなにもかもが、そしてなにより額を清《》しく撫でる掌が、いかに自分が消耗していたのか築宮に気づかせ、辛さ苦しさを忘却させるように、静かに迫って、包みこんで。  だが安らかな忘却の中に、もぞりと身じろぎする、巨大な気配があった。 「……あなたの願いは、他ならぬあなた自身が、きっと知っているはずです」  清らかな声に甘え、安らごうとする築宮の胸の奥底につかえているものがあった。  大きくて、得体が知れなくて、重くて、なのに涙が出そうなほど懐かしくて、苦しくて、恐ろしくて、矛盾する感情を一緒くたに孕《はら》んだ、巨大な―――それは。  面影、だった。  失われたはずの記憶の闇の底に横たわる、築宮にとって途方もない意味と質量を秘めたその面影に、意識が引き寄せられる。 「……知って、いる……」  生み落とされる以前の、この世の外にあった自分ならぬ自分が、喉を勝手に操ったような呟きは、しゃがれていた。  令嬢はその呟きを、〈相槌〉《あいずち》だと取ったのか、優しく受け止め言葉を結ぶ。 「ええ……きっと。いずれ。  思い出します。あなたは」 「それまでは、この宿に逗留なさって下さい。誰もあなたを、咎めだてする人なんて、いないのだから……」 「知っている―――俺は。  貴女を―――!?」  もう一歩、後ほんの髪の毛一筋で、心の底によぎった面影に届こうという、その〈焦燥〉《しょうそう》に耐えきれず築宮は、呻きながら眦《まなじり》裂けんばかりに見開いた、視界に〈暫時〉《ざんじ》光の粒が乱舞した。  力を強くこめて目をつぶっていた後にちらつくあの光が、抜けていった視界には、築宮の〈呻吟〉《しんぎん》の意味を測りかねて不思議げな令嬢の〈容貌〉《かんばせ》が、こめかみから一筋二筋髪を彼の鼻先に垂らせていて、くすぐったい。  その瞬間は、心の中の面影が、令嬢とぴたりと重なるような気がしたのだ。迷い酒を叱り、それでも優しく励ましてくれるような言葉も、かつて確かにどこかで聞いた事があると思ったのだ。  だが既視感はたちまち困惑に霞《かす》んで、築宮はとりあえずゆっくりと身を起こす。 「いや……なんと言ったらいいのか……。  君の顔に、見覚えがあったような、  今の口ぶりもどこかで聞いたような……」 「俺は記憶を無くしているけれど、  もしかして以前にも、この旅籠に泊まったことがあるとか……」  いよいよ混乱の度合いを深める築宮から、そっと手を離した掌を胸元に留まらせ、令嬢も自分の中に耳を澄ませるように考えこんだけれど、結局首を振った。 「申し訳ありません。  私が記憶する限りでは、築宮様が以前にこちらへいらしたようなことは……、  無かったかと」 「そうか……そう、だよな。  そんな都合の良いことがあるわけが。  それだったら渡し守だって覚えていそうなものだし」 「すまない、変なことを言ってしまって。  確かに君の言うとおり、酔っているのかも知れない」 「こりゃあ、大人しく部屋に戻って布団に入った方が良さそうです」  しょっぱい顔つきで頭を掻いて、立ち上がった青年を、さっきはだれも咎めないと言い切った令嬢なのに、なにやらもの言いたげな顔つきでしんねりと、見上げてきているのに、髪の間にくぐらせていた指が止まる。  令嬢が、築宮が下ろした茶筒に視線を巡らせたので、なにを言いたいのか見当ついた。 「……でも、その前に、ここでお茶の一杯でも、もしいただけたら……と」  それが正しい答えなので、令嬢もそれがいいですと頷いた、目元もわずかに緩んだ……ように見えなくもなかった。  魔法瓶から汲んだ湯でお茶を淹《い》れながら、彼女は〈箱膳〉《はこぜん》を引き寄せる。その仕草には、判り辛いながらもどこか安堵したような気配が見てとれて、それで遅まきながら築宮にも、もしや彼女が一人の夜食を味気なく感じていたのではないかと察せられた。  もちろんそれを口に出して問うたりはしなかったけれど。  あいもかわらず綺麗な箸遣いの合間に、令嬢は何事か考えこんだ様子で、 「さっきはあんな事を言いましたけど……」 「うん……?」 「どうしたって、考えこんでしまわれるのですね、あなたは」  その通りだろうと築宮も独りごちる。  記憶が戻らない限り、そうやすやすと癒されるような苦悩ではないことは彼自身が一番よく自覚していよう。 「なにか、〈気散〉《きさん》じでも講じないと、きっといつまでも〈悶々〉《もんもん》としてしまう。  それでは〈気鬱〉《きうつ》の病になります。  ―――ええと」  令嬢、そこで何事か思いついたように顔を上げて、 「ええと、そうだ。  遠出してみては、どうかしら」  遠出? と首を傾げる築宮へ、 「はい。たまには景色の違うところに出て、気分を変えてみるのが、いいんじゃないかって」  そう勧められても、どこに行ったらいいのやら、確かに旅籠の中はいまだ築宮の知らざる奇形絶景を隠していそうだが(たとえばあの温室なんぞは、初見の人間は築宮ならずとも絶句するだろう)、そういうのはふらふらあてもなく歩いたところで見つかるものだろうか。戸惑い首を捻る築宮へ、令嬢は佳い場所をお教えしますと請け合った。 「きっと、ご案内しますね。  ……はい、ご馳走様でした」  親指にお箸を挟んで真面目顔の合掌は微笑ましいが、膳椀は空になっているのに築宮には令嬢がものを食べていた経過が今ひとつ明瞭ではなく、やっぱり考え事に夢中になっていたかと苦笑を漏らした。  ……それで、令嬢の夜食のお〈相伴〉《しょうばん》とも酔い覚ましの一服ともつかないお帳場の夜はお積りとなって、彼女の見送りを背に築宮は今度こそ自室へ引き返す。  ……戻ってから、〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》の中味を気にしたけれど、令嬢の言葉を容《い》れることにして今夜はそれ以上の盃を重ねなかった。ただ眠る前に思いついて、窓の外に据え付けの梯子の足に徳利の下げ緒を縛りつけ、水路に沈めることにする。流れに冷やしておけば、いかな足が速い酒とて少しは保つだろう。  ………………。  …………。  ……。  さて―――築宮青年が部屋へ戻っていった、その少し後の事である。  令嬢はお帳場にいまだ独りで居残っているのだった。  障子戸に映る青年の影を見送ってから、彼が座していた座布団をそっと撫で、その温もりの名残に、浮かべた眼差しが、どこか悩ましげで、普段彼女が人前では見せたことのない感情の揺らぎを映していて。  電燈の投げかける灯りも、彼女の肩に溜まる憂愁を払ってはくれず、端座の背後に伸びる影が、独りに戻った今、濃く、寂しい。  その、影、が。  ざわり、と。  妖しく蠢《うごめ》いたと見えたのは。  ぞわり、と。  膨れあがり畳の上に伸びて、他の調度が落とす影と結びつき、暗い〈版図〉《はんと》を一面に拡げたと見えたのは―――  幻でもなければ、帳場が不意の停電に見舞われたせいでもない。  それはまごうかた無き現《うつつ》の情景、灯りの小細工無しに影が自ら蠢《うごめ》き大きさを増したのである。  けれどああけれども、次に起こった怪異は、更に人の心を狂わさんばかりに現実の則《のり》を踏み越えていた。  令嬢の背後で膨れあがったとはいえ、それまで影はあくまで平面、二次元の光学的な現象に留まっていたのに、それが息吹を得たように脈動して、畳の面から―――もぞりと身をもたげたのである。  光通さぬ闇が、茸のように膨れて、伸び上がって粘菌の触手じみたものとなり、それが幾筋も影の面から生えて、令嬢の背後で異様極まりない舞踏のように揺らめき、わだかまり、伸び上がり、ざわざわと。  令嬢がもし振り返れば、いかに旅籠の女主人として相応しい落ち着きを備えた彼女とて、たちまちのうちに正気を無くして絶叫を絞り出すに違いあるまい、それしか為す術もあるまい―――と思われたのだが。  声が、冷たい底冷えを孕《はら》んでいた。 「―――なんですか、こんな時に」  背後で生じていた怪異などとうに気づいており、それでいて全く表情を変えもせず問いかけた令嬢からして常軌を逸していたが、影がそれに応じたのも、現実の枠にひびが入った事を示していたろう。   ―――珍かな。あの男、わざわざお前を訪《おと》のうてきたぞ―――   ―――そればかりか、膳を共にしていきおった―――    それは、声なき声、喉なき音、なのに耳孔の中にへばりついていつまでも残るような、確かな声。  令嬢の背後に生じた幻妖な影は、物言う意志さえ備えていたのだった。 「だから、なにがおっしゃりたいのです」  向き合うことすら疎《うと》ましいというように、令嬢は前を見たまま問い返す。  その貌、声、令嬢に対して〈漠然〉《ばくぜん》とした近しさを抱いている築宮どころか、日頃から彼女をあれはお行儀のいい人形よ、綺麗なだけで血の温もりもない造り物よと陰口叩く手合いでさえ、自分達に普段見せていたのはまだ人間の情味の通った表情だったのだと〈愕然〉《がくぜん》とさせるほど、冷たい無機質で出来上がっていた。  肩で、背中全体で「影」を拒絶していた。  だが影は令嬢がどこまでも頑《かたく》なな姿勢を貫いているのも意に介した様子なく、しつこく粘っこく語りかけて、影というものに温度があるかと問えば、それは腐肉と同じ冷たさで、では臭いはと問わば、底無し沼の障気と変わらずと、令嬢以外の者がもし目の当たりにしていたならそう確信させただろう。   ―――あの男、お前の事を、他の者のように煙たくは思っていないらしい――― ―――お前とて、憎からず思っているのではないか―――   「……やめて……ください」 ―――あの男で、いいだろう?――― 「やめて」  低い、こらえかねたような声音が、可憐な唇を割くようにほとばしり出たが、「影」はそれを笑い飛ばし、令嬢に命じる。  そう、間違いなくそれは命じる声だった。   ―――ふふ、ふっ……ふふっ――― ―――『〈気散〉《きさん》じに遠出』か。ちょうど良い口実になったな―――   「……え?」 ―――お前が、あの男を連れ出すのだよ。お前がいいと思う場処へ―――   ―――そうして後は……わかっているだろう?――― 「……どうしてもと、そう言うんですか?」  声だけで、脳髄の内側に悪甘い腐臭がたちこめるかの不快な影なのに、令嬢は拒絶しながらも会話を続けている。  そればかりか、どういう力関係にあるのか、どちらが従で主なのか聞くだけで明らかな、一体この「影」の正体は、そして令嬢とどういう繋がりがあるというのか。   ―――お前にとっても、悪い話ではあるまい―――    ……その言葉を最後に、背後に〈蝟集〉《いしゅう》した影は〈耳障〉《みみざわ》りな含み笑いを残して〈霧散〉《むさん》していった。  後にはもう、部屋の中に垂れこめているのはなにごともないただの夜の影だけだ。蠢《うごめ》きもしなければ語りかけてもこない。まるで寸前までの令嬢と「影」とのやりとりなど嘘のようにさえ思えてくるほどの空々しさと言ったらなく、もし見た者があったとしても、まずは己の幻覚と思いこんだに違いない。  それでも、虚空を見つめる令嬢の眸はただただ、果てしなく昏《くら》かった。が、その眸の闇は、どこかしらあの「影」達と似通う色はなかったか―――  不意に唇が〈戦慄〉《わなな》いて、吐き出されるのは〈嗚咽〉《おえつ》かそれとも絶望の想いが凝《こご》った鮮血か、いずれにしてもそこには令嬢の真実の感情が現れたに違いないのだが、彼女は誰もいない部屋でも表すをよしとせず、〈咄嗟〉《とっさ》に人差し指の節を噛んだ。  きりきりと、陶器のように白い肌に水晶のような硬い歯が立って、ついには柔《やわ》いところが破れて、伝う一筋の血潮、手首までするする伸びて、袖口に滲んでいく、その紅だけが、寒々しい光に映えて、帳場に唯一の生きた色合いだった。  お帳場で令嬢と一時を過ごした、その明くる日のこと。  今日の築宮は、朝から軽い〈目眩〉《めまい》と頭痛に襲われ、鬱々とした一日を自室に引き籠もった。  〈宿酔〉《ふつかよ》いになるほど酒量を過ごした訳でもなく、風邪の類に捕まるような不摂生をした覚えもない。  汗を吸って気色の悪くなった枕をひっくり返しながら考えるに、前夜令嬢から諫《いさ》められ諭《さと》されている間に蘇りかかった、あの記憶の幻影ともなんとも言い難い面影、あれを思い出しかけたという、予想外の衝撃で脳神経がたじろいだのでは、と思い至る。  そういえば大層なようだが、判りやすく言えば知恵熱のようなものだ。  つまりあの面影のことを突き止めようとすればするだけ、首筋にまといつくようなこの不快感はひどくなるだけであり、ある程度まで試みてから築宮は、潔《いさぎよ》くというか意気地なくというか、とりあえず諦めることにして、座敷から出てすぐのところにある、〈真鍮〉《しんちゅう》の蓋のしてある管でお手伝いさんを呼びつけた。  ……一旦ここで、この〈真鍮〉《しんちゅう》の蓋のなんとやらの事を説明しておこう。  なにかと言えば「伝声管」なのである。  かつては船舶の船橋と機関室を、あるいは工場監督の詰め所と作業場といった隔たった場所を繋いでいた、電気以前の伝達装置だ。  旅籠の座敷、部屋部屋には内線電話を引いてあるところもあるのだが、全てには行き届かぬ。もしあったとしても旅籠の客室全てを相手にするのでは、交換台にお手伝いさんが何人取られるか知れたものでないし、下手すれば過労で気が変になるのだって出てくるだろう。  閑話休題、内線の黒電話が無い区域では、それに替わって、というより電話以前からあるようだが、いまだ現役で使われているのがこの伝声管である。築宮の座敷がある辺りも然《しか》り。  いくら旅籠のそちこち、思わぬ所にいたりするお手伝いさんであっても、用のある時に近くに姿が見えないことだってある。  そういう時には使って下さいと言い含められており、築宮はその〈喇叭〉《ラッパ》のような口に向かって試すように何度か呼びかけた。  電話とは全く違う使い勝手で、築宮がはてちゃんと向こうに通じているのかしらんと、声のボリュウムを上げてやり直そうとした時、響いてきた応答は、思ったよりはっきり聞こえたけれど、なにやら自分が間抜けに思えて仕方なかったのは多分、伝声管を題に採った喜劇もある事が念頭に浮かんだからだろう。  それで、呼びつけたお手伝いさんから薬をもらって、後は難しいことをあまり考えないように、ぼんやり天井の、多島海の地図めいた木目を眺めるうちに効き目も回ってきて、ちょっとうとうとしたつもりが、目を覚ますと夜闇も忍び寄って、既に暮れ時だった。  体の不調は薬とたっぷりの休息ですっかり快癒したが、なんとも〈豪毅〉《ごうき》な一日の過ごし方だと溜め息をつく。  朝食を摂って、昼食は薬のために摂るだけ摂ったが軽いので、今度は夕食、とは言っても寝ては起きてまた眠ってでは、特に空腹というのでもなし―――と、寝間着から着替えはしたものの、敷いたままの布団に寝ころんで、これはいかにも〈怠惰〉《たいだ》だと情けなく〈頬杖〉《ほおづえ》をついたが、そこにお手伝いさんの呼ぶ声が障子越しにかかった。  布団を上げに来たついでに夕食のことでも聞かれるのかと思ったがそうではなく、令嬢が呼んでいるとの由《よし》。 「また夕食の誘いかなにかだろうか?」 「さあ……女将さんは、 『昨夜の約束を果たします』  って言ってましたけど」  昨夜の約束というのはあの、「たまには違った景色でも眺めて気分転換云々」の話か、しかし翌日とはなんとも足回りの軽い、というかそもそもあれは令嬢にとっては本当に約束のつもりだったのかとつい微苦笑した築宮ではあったけれど、考えてみれば断るような理由もない。  これが実に築宮以外の客であったなら、なんのかんの理由をつけて断るのがほとんどで、彼らには令嬢と一緒に時を過ごすというのが、どうにも重苦しく感じられるらしい。  しかし築宮にとって令嬢は、それは多少堅苦しさを覚える相手ではあったけれど、そこまで煙《けむ》たい相手ではなく、むしろ〈漠然〉《ばくぜん》とした近しささえ抱いている。  大体、自分からして他の人間からすれば充分に堅苦しいだろうと言う自覚は築宮にもあって―――〈却説〉《さておき》、令嬢の招待を有り難く受けることにして、青年はお手伝いさんが預かってきた地図を頼りに出発するのだった。  たとえば陽差しの下に眺める小川であれば、深さも瀬の速さも知れるし小魚だの水棲の虫だのが泳ぐのも透かしてみられよう。それがすっかり暮れた夜の、星も月影も届かぬ旅籠の奥深い処の水路とあっては、水面は黒々と深みを秘め、あるいは深淵のようにも思え、もし一歩踏み間違えて落ちたとなれば、浮かび上がることもかなわないのではないかと、築宮は提げていた灯りを突き出して見たりする。とそうすれば水面に宿っていた闇はあっさり散らされて、水路は底無しの谷底などでもなく、見慣れた旅籠の水路で、光に驚いた〈井守〉《いもり》がのたくって逃げていった。水路を照らす灯りは古めかしい。  〈提灯〉《ちょうちん》なので。  令嬢との待ち合わせがずいぶん離れた〈場処〉《ばしょ》とのことで、お手伝いさんに用意したもらった物だが、この和紙と〈竹籤〉《たけひご》細工の〈素朴〉《そぼく》な照明器具は、〈百年〉《ももとせ》に〈一年〉《ひととせ》足らぬ〈付喪〉《つくも》の神となって羽を生やして飛び回ったり破れ目を口にしてにたにた笑ったりの、お化け話の題によく用いられたりするものだから、こうして自分が使うとなるとなんとなく奇妙な感じで、築宮は何度となく鼻先に持ち上げてためつすがめつした。  ただでさえ旅籠の中の眺めは郷愁を誘うのに、それをこの古色懐かしい灯りで照らすとなると、ただ歩いているだけでも古い時代に遡《さかのぼ》っていくかのような、〈胸郭〉《きょうかく》がそんな感慨で満たされる。  それにしてもと、と築宮は、使い慣れない灯りとて何度も蝋燭の減り具合を気にしながらまた〈提灯〉《ちょうちん》へ目を落とす。〈提灯〉《ちょうちん》の胴には蝶を意匠にした紋が染め抜かれているが、これがこの旅籠の紋であろうか。  おそらくは違うだろう。旅籠で使われている品々の中に紋付きの物を他に見た気もするけれど、それらは異なっていたと思う。いずれどこからか紛《まぎ》れこんだ物ではないか。〈提灯〉《ちょうちん》などいう物は、あちらの家からこちらの家への夜間の送り迎えに行ったりきたりするものだからして。ただこの古さびようは造られたのが相当前の時代である事を示し、そういう骨董めいた品を平気で普段遣いしているのがこの旅籠である。 (物保《も》ちがいいというかなんというか……)  なんにしても今はこの古〈提灯〉《ちょうちん》のくすんだような光が頼りの、あたりは電燈も少なくかなり寂《さび》れている。  旅籠の中でも人気の無い区域に踏みこんでいるらしい。先程までは障子戸に影芝居めいて映る影も見たし、昼番と夜番を引き継ぐお手伝いさん達の声も聞いた。しかし今は水路のせせらぎの響きが清《さや》か鳴るばかり、築宮の伴といっては、〈提灯〉《ちょうちん》の明かりに照らし出される影一つである。青年の足取りは時折辺りを確かめるように立ち止まるが、そのたび〈提灯〉《ちょうちん》の揺らぎに合わせて彼の影も右へ左へ揺れて伸びたり縮んだり、早く進めと囃《はやし》したてているように落ち着き無い。  と、〈提灯〉《ちょうちん》の明かりの圏外から一筋のあえかな光が〈浮游〉《ふゆう》してきて、築宮の手前で点《とも》ったかと思えば消えて、またすぐ鼻先で光って漂う。  一瞬その小さな光点の正体を判じかねて、築宮は立ち止まったまま目を凝らした。宙を舞う光―――人魂か、などとにわか怪談めいた発想が浮かんだのは、提げている〈提灯〉《ちょうちん》からして怪談の小道具めいていたせいだが、光は鬼火というには妖気も足らず、むしろ儚《はかな》く床《ゆか》しく懐かしい。  それがため、宙を泳いで胸元に留まった時も不気味は感じられず、そこで蛍だと判った。  熱を持たないのにその〈輝滅〉《きめつ》の様がどこか仄暖かいのは生きているから、そんな蛍の光であった。 (蛍とは……なんだか場違いのような……)  周囲を座敷と梁と廊下に囲まれた中にあって、その淡く優しい光は紛《まぎ》れ物のように場違いに思われたが、この旅籠にはなまなかな常識など通じたものではなく、蛍だって湧きもするだろうと築宮は苦笑する。水路を中心にして、一つの生態系が築かれていてもおかしくはない。この小さな虫の灯りを振り払うのも大人げなく、築宮は胸に蛍を留まらせたまま、いい機会だと地図を引っぱり出す。  蛍雪の功という故事もあるが、さすがに一匹きりではご婦人の指に止まって珠の代わりになることはできても字を照らすには足らず、〈提灯〉《ちょうちん》を地図に寄せて方角を確かめようと照らした―――その途端だった。  脇の下をかすめるような風を切る音、に続いて薄いなにかが手元をはたいたかと見るや、地図が引かれて持っていかれた、あっと叫ぶ間もありはしない。  地図を奪っていったものは、この夜闇に鳥ではあるまい、鳥目ともいう。さもなければ〈蝙蝠〉《コウモリ》……ならば〈蚊食鳥〉《かくいどり》の異名通り、大人しく虫ばかり漁っていればいい、何故くわえて飛ぶには邪魔なばかりの地図などさらった、と詰《なじ》ったところで暗がりの奥に吸いこまれて見えなくなってそれきりの、〈提灯〉《ちょうちん》を翳《かざ》したところで判然とせず、築宮はしばし途方に暮れて立ちつくした。 「おい……参ったなこれは……。  後どのくらいあったっけか……?」  とにかく、そうやって突っ立っていたところで地図が戻ってくるわけでもなし、道筋を覚えている限りで思い浮かべようと心を凝らした時、二筋、三筋、宙をよぎったのがまた蛍である。闇の中に曳《ひ》き残した光の筋に誘われるように、築宮の胸に点っていたのも舞い上がった。青年の眼前で躍るように光の紋様を描き出していたが、やがて暗がりの奥に遠ざかっていく。  それが何とはなしに自分の道案内をしているように思えたのは、とりあえず進む方向が同じだったのと、闇に一時残った蛍の軌跡が、覚えている限りの地図と重なるような気がしたからという、風流ではあるがどうにも頼りないものではあった。  さて、そうやって水路伝いに進んでいくと、蛍の光跡は二筋から三筋、三筋から四筋と後は数え果たさず、次第に増えていき、青年はその幻想的な情景にただただ目を見張る。  水路から露が湧くのか、蛍達の光もぼうと暈《かさ》を帯びて、それが水面にも映じるから、宙を舞うだけではなく足元にも遊泳するようで、築宮は闇の虚空を支えもなしに漂うてあるような、不思議に頼りない心地になった。果たして自分の足はちゃんと床を踏みしめているのかいないのか、蛍のあえかな光は音まで吸うようで、足音も聞こえない。  いつしか彼の足取りがまた止まってしまっていたのは、これまでの世界から切り離され、前も後ろも、上も下もただ淡い光が漂うばかりの夢幻の闇に放りこまれたかの不安定な感覚に陥ったから。  自分が令嬢の招待で出発したことを示すのは、もうこの〈提灯〉《ちょうちん》の蝋燭の明かりばかり、それも蛍の群の中では数でも風情でも負けて、〈光明赫燿〉《こうみょうかくやく》と〈暗夜行路〉《あんやのみちゆき》を明らかにするどころか、筒の中から迷い出て、群舞の仲間入りでもしそうな……と失礼なことを考えたせいか、たちまち祟りがあった。不意に消えてしまったのである。  まるで息が絶えたように。  先程中を覗いた時にはまだ蝋燭の長さは足りていたはず。突風も吹いたでもなく、なにより筒の中の火がなぜこう前触れもなく消えるのだと、軽い怖気を催した築宮の、腕をそっと―――  空気も揺らさぬくらいにそっと、ゆっくりと触れてきたものだから、その手に脅かされるどころか、この妖しい光の乱舞の中で自分の身体がちゃんと存在し、立っている事を教えてもらったように安堵したのである。 「だいじょうぶ。  蛍がこんなに明るいのだから。  灯りが消えても、障《さわ》りはありません」  澄んで、やや時代がかった口ぶりとともに、そうすることがごく自然の成り行きであったかのように、築宮に寄り添っていたのは令嬢であった。  なにか涙ぐんでしまいそうになるほど華奢でたわやかな手が彼の腕に添えられ、振袖の袂《たもと》の〈衣擦〉《きぬず》れがズボンの足にまつろうのも控え目な、そう、先にこの姿を目にしていたなら、築宮は彼女が一瞬誰だか判らなかったろう。  彼女は、胸元高く帯締めて、振袖の袂《たもと》にも焚《た》きしめた香の匂い仄かに残す、姿を和服に替えていたのである。  清楚可憐な佇《たたず》まいは同じでも、やはりあのボレロ風の洋装とは全く異なるシルエット、まず先に声を聞いていたから令嬢と知ったのである。 「君か―――少しびっくりしたかな。  ……いや、そうでもないか」 「わあ、と悪戯で背中をどんと押されたとかなら、それこそ水路にでも転がり落ちたかも知れないが……」  蛍舞う闇の中、出し抜けの声で寄り添われたにしては築宮らしからぬ落ち着きぶりで、まるでなまなかな悪霊など物の数かの大和尚の貫禄であったが、それも長続きはしない。  たちまち新米の小坊主のように落ち着きをなくして、 「あ……もしかしてその、待たせてしまったのだろうか?」 「だったら申し訳ない。  実はその、途中で地図を無くしてしまい」  言い訳めいた台詞を続けたのは、自分が風流めかして〈提灯〉《ちょうちん》の灯りが風情だ蛍の乱舞が美事だとのんびり歩いていた間に、令嬢が痺れを切らして迎えに出てきたのかと気を回したからである。 「そう、地図だ、地図です。  せっかく書いてもらったのに、いきなり持っていかれた」 「暗くて判らなかったけれど、なんだったんだろうあれは」 「鳥のような、蝙蝠のような、大きな蛾のような、とにかくいきなり飛んできて、地図をさらっていかれました」  なんとも真実味に欠ける言葉と築宮自身呆れたが、令嬢はなるほどと頷いた、その眸に〈極微〉《ごくび》の星雲が煌《きら》めいた、蛍の光を映して。 「それはきっと、〈夜雀〉《よすずめ》というモノです。  大した害は為しませんが、そうして時々悪さをするの」  不思議を当たり前のように語る、衣装は洋から和に替えても、その秀麗な顔はいつもと同じで愛想に乏しい。いや和装なればこそ、繊細な人形じみた雰囲気は一層強まっていた。  この少女は果たして本当に生身の血と肉で出来ているのかと、彼女と顔を合わせるたび毎回感じる疑問が先に立ち、自分が何故そんな知識を持ち合わせているのか深くは考えぬままに応じる。 「〈夜雀〉《よすずめ》……聞いたことはある。  たしか妖《あやかし》の一つで、変事や化け物の〈先遣〉《さきや》りだとか」  〈夜雀〉《よすずめ》の飛んだ後には、さらに妖しいことが起こったり、より恐ろしい化け物が現れるのだとか―――  そんなことを呟いた築宮に、令嬢は目を細めつつ、 「ええ。そうも聞きますね。  でも、それなら〈夜雀〉《よすずめ》の後での私は……お化けなのかしら?」  目を細めたのが、どうも咎めだてに睨みつけられたような気がしてならず、言葉に詰まった築宮へ、視線だけ置いたまま、令嬢が踏み出したのは、水路の上、触れれば乱れ、たやすく呑みこむ水面の上。  築宮の首筋の毛が逆立った。 「そうかもしれませんわねえ。  私がお化けでないとは、  言いきれませんもの―――」  水路に踏み出し、下ろした〈木履〉《ぽっくり》は、微かに水面を揺らしはしたものの、まるで硬いものであるかのように踏みしめて。  令嬢は、水路の上に立っていた。  その振り袖姿に、まるで光の糸でもってかがって煌《きら》めく繭の中に封じこめようとでもいうかのように、一斉に蛍がまとわりついて、その物凄さといったら。  そして、くすりと―――  ほどいてみせた、微笑みの〈凄艶〉《せいえん》な様子といったら―――  思えば令嬢の笑顔というのは、左巻きの貝のように珍《めずら》かなので、運良く目にする機会などそうそうあるものではない。  それを思えば自分は幸運なのか、いやどうなのかと混乱してしまうほど、水に立って微笑む令嬢は―――怖い。  ましてやそれが―――したのだ。  手招きを、袂《たもと》を軽く捌《さば》いて、築宮を手招きして呼んだのだ。 「冗談ですよ。こちらにおいでなさいまし」  たとえ霧に霞《かす》む川の向こうから、既に死した一族郎党からそう呼びかけられたとしても、あるいは柳の下で〈経帷子〉《きょうかたびら》の妖婆から招かれたとしても、そこまでの戦慄を呼ぶまい。  額がべたついて、風もないのに気味悪く冷えた、知らずに拭えば薄く粒が結ばれて、水気が凝ったのか己の脂汗か。  後じさりそうになる築宮の前で、令嬢は軽く足を踏み替え―――れば、かろりと、〈木履〉《ぽっくり》が鳴らしたのは、石を踏む音ではないか?  石? と築宮はまじまじ視線を凝らしてみると、なんのことはなかったのである。  たとえば落ちた紅葉がくまなく覆った池の面というのは、一見地面と見分けがつかない。  令嬢が水面に妖しく降り立ったと見えたはその逆で、水路には水面ぎりぎりの深さに飛び石が配されてあったのだ。  薄く水が被さった飛び石を踏んだのを、築宮が勝手に勘違いしただけだ。 「少し滑りますから、気をつけて。  私の後を、ついてきて下さいね……」 「……落ちたら、済まないが引きあげてください」  ……ああ飛び石なのだと納得すればなにほどのことでもなく、そんな軽口さえ交えて、築宮は令嬢に続いて反対岸に渡る。令嬢と待ち合わせた〈場処〉《ばしょ》はそちら側にあるらしい。  おっかなびっくり渡り終えた築宮は、怖い妖しいとばかり思っているから、変な風に目が曇ってしまうのだと自戒しきりだった。  けれど築宮よ、気づいているか?  いくら蛍の灯りがあったからとて、また令嬢の後ろをなぞるようにしたからとて、〈提灯〉《ちょうちん》の灯りすら消えた、暗く飛び飛びの石を一歩も過《あやま》たず渡りおおせたという不思議に、気づいているか?  そればかりではない。  出発した時には普通の上履きだった足元が、飛び石を渡る時には下駄履きになっていたことを、どう考えるのか?  下駄の方が蹠《あうら》を濡らさず、また石をしっかり噛んで滑りづらく、好都合だったにしても、自分では履き替えた覚えもないのに履いていたという事実に、不思議の三文字を思わないか?  令嬢に導かれて飛び石を渡って落ち着いた、水路に面した座敷にて―――  予《かね》て用意の〈酒肴〉《しゅこう》を小振りの盆に乗せていく令嬢の正座姿の腰の下に畳まれた、足袋の蹠《あしうら》の汚れもなく白いのが、薄暗がりに艶めかしい。  蛍を脅かすまいとの心遣いか、灯りは行灯の火皿に灯心一本ばかり、座敷の中は黄昏よりもまだ影が濃い。かつてのまめやかな妻女にはこの灯心を二本に増やしたばかりで着物を一晩で縫い上げたのさえあったそうだが、暮らしの中でそこまで夜目の利いた時代は遠くに過ぎた。  築宮などは不注意に腰を下ろしたら、うっかり盃などを踏み割ってしまいそうでしばしまごついたが、それでもやがて目も慣れてくる。改めて見回した室内は、破《や》れ畳の綻《ほころ》び目からぺんぺん草が突き出してきていたり〈鴨居〉《かもい》の端に蜘蛛の巣が集落を造っているような、そこまで荒廃しているのではなかったけれど、生活感が希薄で、ふだんは使われていない座敷だろうと窺えた。 「ここいら辺りには、お手伝いさんもあまり通わないので」 「私がざっと、埃を払ったばかりですから、  むさ苦しいのは、ご容赦下さいね」  〈酒肴〉《しゅこう》の盆を滑らかに滑らせ、座布団を勧めながら、令嬢は言い訳がましかったが、どうせ築宮には辛うじて不自由が無いという程度で、調度の漆塗りが〈梨子地〉《なしじ》なのか、埃を被っているだけなのかも区別が付かない。  ただ座布団はほっこり乾いて、陽の温もりさえ残しているようだったのが、令嬢の心映えであろう。 「今夜は余興のようなものですから。  お酒もおつまみも、お好きに召し上がってくださいね……」  胸襟を開いて楽にするよう告げられても、酒を注ぐ手も暗がりを透かすように見つめてくる眼差しにもやはり一分の狂い無く、最初の杯を舐める築宮は、どうしたって神妙な顔つきをしてしまう。  随分と年が離れて妹のようななりをしていながら、自分如きの何倍もの世事をこなしてきた経験を匂わせているような気がしてならず、そこらの少女を相手にするような気楽な口を叩くどころではないのだ(もっとも青年自身、年下が相手だからと侮るような口をきく性格ではないのだが)。  ただ、青年が居ずまいを改めたのは、何も令嬢へ畏《かしこ》まったからというのではない―――  なにはなくとも、蛍が妖しくて、美しくて。  こうやって風流を愛でるような催しで皆して集まり、せっかく野辺に緋の〈毛氈〉《もうせん》なんどを整えて、さて星よ月よ風よと心を澄ませたところで、酒が入ってしまうとたちどころに乱れてしまうのがよくある話。そうなると酒器が〈燿変〉《ようへん》の〈天目〉《てんもく》だろうが弁当箱の切り溜めだろうが、がぶがぶ鯨飲する事には変わらず、目当ての筈の蛍だって尻が光るだけの羽虫ではないかと見向きもせず、いやはやそうなると蛍狩りなどいう殊勝なものではない、ただの野面での乱痴気騒ぎに堕してしまう。  だから青年は、水面に舞い、座敷に漂う蛍の灯を、酒で曇らすまいと少しずつ湿す程度に唇をつけたのだが、そうやって身構えずとも、蛍はただただ妖しくて、美しくて―――  〈一群〉《ひとむら》に集まって舞ったかと見れば水面すれすれに降りてふわりと八方へ散る、闇の宙に残した軌跡は筆書きの相聞の歌とも見えたし、座敷の中に舞いこんでは天井のあたりを遊泳している光群は、遠い宇宙の星々の運行をさえ思わせた。  地図を無くして立ちつくした時と同じような、現《うつつ》と幻との境が曖昧になりそうな情景ばかりが心に響いて、築宮は酒に酔うどころか、味さえろくにわかりもしなかったのである。  だが度が過ぎると、物狂おしさを呼ぶのが美しさというもの。  蛍の大群が〈輝滅〉《きめつ》するたびに、心が身体の輪郭を越えて薄く拡散していくかの浮遊感に襲われ、築宮は現実の足がかりを求めるように、傍らに並んで一緒に眺めているはずの令嬢を見やった。  ―――〈慄然〉《りつぜん》とした。  暗がりの中、端座した令嬢のあちこちに蛍が一時〈鞘翅〉《さやはね》を休め、振袖の地や〈容貌〉《かんばせ》の肌を、懐かしくかそけき〈光暈〉《こううん》の中に淡く照らし出しているその姿。  あれは彼女の全身像の中の、僅かな部分部分が蛍の光に照らし出されているのではない。  蛍の朧気な灯りの中に、令嬢の切れ切れの輪郭を、幻影として見せられているのではないか。今は休んでいる蛍達がもし飛び立ったなら、光の中の令嬢の横顔、襦袢を重ねた襟元、膝元で盃を載せた手、それらが蛍の飛翔とともに夜闇の中ばらばらに散開し、彼女が座っていたと築宮が信じこんでいた辺りには、冷えた座布ばかりが残って、座敷には本当は始めから自分一人しかいなかったのではあるまいか―――    ―――でも、それなら夜雀の後での私は、お化けなのかしら?―――    〈耳朶〉《じだ》に先程の令嬢の台詞が俄《にわ》かに現実味を帯びて蘇り、つい蛍達の燐光のもたらす静けさを破って呼びかけた築宮の声、〈胡乱〉《うろん》げな危惧を振り払おうとするように堅かった。 「どうして君は」 「なんのために俺を、こんなところに呼び出したのか―――?」  問い自体にはたいして意味はなく、築宮はただ、令嬢の声を聞く事で、彼女がちゃんと隣に並んでいる事を確認したかったのである。  令嬢はそんな築宮へ、頭だけ巡らせて、たっぷり心臓の鼓動が一五回は脈打つ間、視線だけ撓《た》めてから、 「……〈昨夜〉《ゆうべ》、言ったばかりじゃないですか」  先刻飛び石の上で薄く笑んでみせたのが嘘のような、いつも通りの仏頂面だった。それどころか、なにやら呆れているかのような雰囲気さえある。 「昨夜って、ええと確か……」  築宮はお帳場で彼女と交わした言葉をざっと思い出そうとするが、途端に考えが上滑りした。言葉より、額に触れてきた手の感触の記憶の方が遙かに生々しい。  あれは、自分が悪酔いしたと気遣ってくれただけで(早とちりではあるにせよ)、他にはなにも含むところはあるまい。  それでも築宮の額にかっと熱が戻った。彼女が被せてきた掌の形なりに。 「あなたには、気晴らしが必要だ、と」 「―――あ」  その一言がきっかけで、築宮もようやく昨夜の会話の流れを思い出して、令嬢がなんのためにこんなところまで呼びつけたのか、ようやく見当がついてくる。  この暗がりでは築宮の額の紅潮など見透かせないとは思うのだが、それでも令嬢は僅かに眉をしならせたのが不興げな、それで青年は己の独りよがりを知って、ますます恐縮したところへ、 「たまには違う景色でも眺めて、気分を変えた方が良いでしょうと、私はそう言ったつもりだったのだけど―――」  そこでやっと、すとんと腑に落ちた。  しかし、確かに令嬢は昨晩ああは言ったけれど、そんな言葉など社交辞令でしかないと普通はそう考える。実際築宮にしてからその通りであり、令嬢があの台詞をそこまで『本気』の約束として捉えていたとは、慮外の事というか、まして昨日の今日のことだ。  旅籠の方は歳月の中にどっしりと根差して揺るぎなく見えるが、その主の方は裏腹に足回りが軽敏な。  築宮としてはいささか鼻先を取られて引きずり回されたかの感がなきにしもあらずだが、それでも自分を思って連れ出してくれた厚情が身にしみて、令嬢に頭を下げた。 「あの、ありがとう。  急な話でびっくりしたが、  確かにこれは―――」  そう礼を述べる、築宮と令嬢の間に蛍、二人を取り巻いて蛍、座敷にも水路にも、こうまで物凄いと、なにかしらひたひたと迫りくるような戦慄さえ感じさせられるが、それでも美事には変わりない。  耽美主義を奉ずる一派なら、この情景のためにはそれこそ己の血をもって贖《あがな》う事だろう。 「凄い情景だと想います。  なにしから心の奥底まで迫ってくるような……俺は口が巧みじゃないから、うまくは言えないが」  言い終えてから漏らした詠嘆の溜め息が、言葉以上に彼の感動を表していて、それは令嬢にも伝わったのだろう。 「気に入ってもらえれば、幸いです。  ……ここは、私が見つけた場所なの」 「以前から、どうかするとお帳場の方まで、蛍が迷いこんでくることがあって」 「どこから来るのかと、不思議に思っていたのだけれど、ある時偶然見つけました」  そんな風に由来を語りつつも令嬢は、とりたてて自讃や自慢の色は匂わせぬ。この幻妖怪美の蛍景色などもう既に見慣れて珍しくないと言わんばかりに、平板な声音、平静な表情を崩さず、それは一見しただけでは観光地に元から住む者達の風景への無頓着にも似て、築宮は己の感動に水を差されたような味気なさをいだく。  ―――いつだってそうだ、この娘は。  どれだけ真摯で優しげな言葉を吐こうとも、表情を滅多に変えず、頬を柔らかくほころばせることも、声を暖かくすることもない。  それでは言葉に気持ちは籠もらない。  言葉だけでは言い表せない、そんな想いは伝えられない。  笑顔を知らないわけではないだろう。だがそれだって笑みの形に作った仮面と同じ、「お客さま向けの笑顔」の見本でしかない。  どれだけ容貌が端麗秀抜であろうとも、こう愛嬌とか愛想を知らないのでは、彼女の美は出来のいい工芸品を愛でるようにしか〈賞翫〉《しょうがん》されないだろう。  この蛍の衆舞に取り巻かれてなお感嘆の呟きの一つもない令嬢にそう感じてしまう事は〈僭越〉《せんえつ》と知りつつも、築宮にはしみじみ惜しい。  もちろんだからといって、ここでいきなり令嬢が無駄に黄色い歓声張り上げ、騒がしく手を打ち鳴らしてはしゃぎだしたなら、それはそれでシュールな光景ではあろうが。 「なるほど……とにかく、本当に凄い情景だと思う」 「幻想的って言うのは、こんな情景をいうんだろうか。こんなに綺麗だと、なにか空恐ろしいほどです。  まるでこの世の外の景色のような……」  築宮が慣れない麗句を並べ立ててみせたのは、令嬢への不満めいた感情の、どうやら反動のようなのであるが。  彼の台詞の流出が止むのを待って、 「気に入ってもらえたのなら、  なによりですよ」 「まだ、あなたの他には、誰にも見せたことはなかったから」 「え……ッ?」  ―――横面に軽く当て身をくらったような、そんな衝撃に築宮は絶句した。  いつだってそうなのだ彼女は。  どんな言葉を語る時も、ろくに表情も変えず、今だって同じ。  同じ、なのに。  築宮は、先程までとは令嬢の貌がまるで異なっている事を知った。  微笑んでみせたわけではない、照れたのでもない。  それでも今にして判る。  先程までの令嬢の無表情は、贈り物をつまらないとはねのけられたらどうしようかという心細さで造られており、その不安が築宮がこの蛍景色を賞賛してくれた事で、安堵に変わったのだ。  そう見えたのは、貌の角度を僅かに変えたせいで、陰翳の表現が変化したから?  蛍の光の加減が、今までとは異なる具合で彼女の顔に陰翳を置いたから?  ―――令嬢の無表情は、能面と一脈通ずるものがあるのではないか。あの無表情の中に、豊かな表情が息づいている能面の。  能面は、それ自体の表情は変わらずとも、演者の所作によって千変万化の感情を描き出すという。 「もちろん、景色というのは、誰のものでもないけれど。  もしかしたら、築宮様がご自分で、ここを見つけたかもしれないけれど」 「それでも、私が教えてあげたんだって、そう思うと―――嬉しい」  ―――言葉はさながら刺客のように青年の芯を貫いた。  築宮は思わず大きく息を吸いこんだ、〈胸郭〉《きょうかく》の中に満ちたのは甘やかな、なのにどこかほろ苦さを含ませたおののきだった。  そしてまた、その感覚が全身にさざ波のように広がっていくにつれ、後から湧き起こってきたのは―――既視感。昨夜と同じ、自分はきっとこれを知っているという確信めいた。  きっとこんな風に自分は。  かつて、どこかで。  その人もそうだった。  そっけなく、さもなければ厳しく。  けれどその接し方の底には、自分への確かな思いやりと愛情が根づいていて。  ただそんな風に愛されるのが、自分にとっては重くて、辛くて、しまいには哀しく疎ましくなって。  誰だったのか、その人は。  今はまだ、想い出せないでいる――― (―――あなたは) (だれなのですか―――)  築宮の問いかけは、令嬢にというより彼女を通して、自分の記憶の底、喪《うしな》われて届かない過去へと向かっていたのだろう。  舞い飛ぶ蛍の軌跡のように、青年の胸中は乱れ、ざわめき、そしていよいよ切ないくらいの焦りが彼を締めつける。  こらえきれなかった。  既視感は、過去の幻影は、手繰りよせようとすれば、たちまち遠ざかり薄れてしまう。  〈薄氷〉《うすらい》を踏みしめて渡るような焦燥に取り憑かれ、問いかける。 「なんで……なんで、そこまで俺によくしてくれるんですか?」 「俺には、君にそこまでしてもらえる理由が、まるでわからない……っ」  築宮の語気に圧されたか、彼の肩口に留まっていた蛍がすっと飛び去っていく。燐光の明滅までも、彼の動揺が感染したかのように〈気忙〉《きぜわ》しげに激しかった。 「……良いところでしょう、ここ」  蛍でさえも青年の声音に切迫したものを感じとったというのに、令嬢はまるで問いかけが届いていなかったかの如く、答えの差した向き、見当外れに。  その事、ここの景色が目覚ましいのはもう何度も認めているのではないか、なにをはぐらかすのだと焦れて、なかば睨みつけるような築宮の隣で令嬢は、その、蛍達に注がれた眼差しは―――いや、彼女は眼前の景色だけでなく、この旅籠全てにその眼差しを注いでいたのだ。  深い愛情に満ちた眼差しで、旅籠を見つめていたのだ。  彼女にとっては、世界の全てであるこの旅籠を、見つめていたのだ。 「いいえ。この景色だけのことではなく、旅籠全てのことよ」  ゆっくりと、噛んで含めるように、言い聞かせるような言葉は、築宮だけでなく、令嬢自身にも向けられたもののようだった。 「古びて、色々と不便なところも多いでしょう。中だって、入り組んでいるばかりで、お客さまに、わかりづらいばかりかも知れません」 「それでも私は、この旅籠が好きです。  ここのように素敵な景色だって、  他にもたくさん、見せてくれるのよ」 「でも本当は、素敵な場所がたくさんあるから、というだけじゃないの」 「この旅籠は、旅する人たちをお迎えするためにあるから。  だから私は―――ここが好きです」 「ここへは、本当に色々な方がいらっしゃるわ。  皆、それぞれにいろんな事情がお有りで」 「ひどく疲れた方。  忘れる事も出来ない、哀しみを抱えた方。  重い重い悩みに迷う方。病に苦しむ方」 「―――そしてあなたのように、記憶をなくした方」 「辛いこと、苦しいこと、哀しいこと。  皆、旅のお供にするには、重すぎる荷を抱えていらして」 「そんな旅する方達をお迎えし、逗留していただいて、せめて疲れを、哀しみを忘れてもらう―――そのお手伝いをする」 「この旅籠はそういう場所です」 「―――だから私は、ここが好きです」  この旅籠への愛着を、令嬢は何度も、歌うように繰り返す。それはさながら、築宮に語ると同時に、自分の心を再確認しているようでもあった。 「私もまた、ここにいらしたお客さまの為に尽くしたい。  築宮様に対しても、その気持ちは同じで」 「そう思うのは、そんなに変なことでしょうか……?」  こうしてようやく、令嬢は築宮の問いへ答えを示したのだった。  ただ築宮には、旅籠の若い女主人としてはあまりに模範的すぎる答えをけれんもなく示されたようで、いささか面映ゆいほどだったけれども。  それでも、彼女の真意は間違いなくそこにあった。少なくとも築宮にはそう感じられた。 「君は……凄いな。  自分のやりたいこと、考えをしっかりと持っていて―――引き換え俺は、どうだ?」 「……君に、ここの宿にこんなに〈厚遇〉《こうぐう》してもらっても、自分が何者なのか想い出せない。  なにをしたいのか、それさえも判らない」  令嬢の心の在りようは、まっとうで真っ直ぐで、言い換えれば青臭いと、少しでもすれた風のある者なら茶化して流してしまいたくなるくらい。  ただ根がどこまでも真面目に出来ている築宮には、彼女のその願いがどれだけの重圧を伴うものなのか想像せずにはいられず、そしてそこから目を逸《そ》らさず、正面から向かい合おうとしている令嬢の姿は、今の彼には、気高く〈凛然〉《りんぜん》としすぎていた。  己の〈矮小〉《わいしょう》さ、無力無能を浮き彫りにされるようで、令嬢と面と向かいあうのが辛く、彼女に背を向けるよう座り直すと、膝を引き寄せ抱きかかえる。ふてくされた子供のようでみじめさが増すばかりとは知りつつも。 「自分が焦っているのは判る。  君たちの厚意は、ほんとうに有り難い。  だがそれに甘えすぎるのは、許されない」 「……甘えたまま、  ここに居続けては―――いけない」  ああ、そうなのだ―――いつしか流されるままに居食いの日々にひたってしまっていたけれど、あくまで自分は過客でしかない。  それは忘れてはいけないことなのだと、今さらながらに思い知らされる。鈍い痛みさえ伴って。 「……あなたは、ここにいるのが、お厭なのですか?」  膝頭に顎先を埋めたままの築宮へ、訊ねかける令嬢も、あえて彼の顔を覗きこもうとはせず、その方が今の青年には望ましかった。  もしその端正で乱されることのない貌《かんばせ》で見つめられたなら、きっと反撥してしまい、心にもない毒を吐いてしまうだろう。  これまでも、そうだったのだから――― 『これまでも』―――?  それはいつ、いずこでのことだろう。  自分は一体いつどこで、この令嬢のような美しい貌と向かい合い、それに反撥したというのか? またしても蘇りかかって、そして届く事はないと何故か判りきっている、記憶の底の〈蠢動〉《しゅんどう》だ。  こうして過去の破片は、現れたかと思うと逃げ水のように遠ざかり、築宮を悩ましむる。  けれど想い出せないと判っていても、想わずにいられない―――  そんな過去の影に気を取られていたものだから、築宮が漏らした呟きには、かえって気取りも安っぽい自己嫌悪もない生のままの心情が現れていた。 「……ここが厭だ?  そんな事はない。ありえない。  俺はここが―――とても好きです」  そうだとも。なんでこの旅籠が厭になどなるものか。  渡し守に導かれ、初めて船着き場に降りた時の、全身に押し寄せてくるようなあの旅愁と、嘆息し、放心し、立ちつくしたほどのあの郷愁は、褪《あ》せる事なくこの胸の中に渦巻いている。それどころこの今この時も、呼吸しているのが同じ旅籠の空気ではないか。  記憶を失っていたとしても、自分がいかなるものを好み、いかなるものに対し愛着を覚える人間なのか、この旅籠は教えてくれる。  というよりこの旅籠の全てが、青年を惹きつけ、捉えて離そうとしないのだ。  けれどそれだけに―――苦しくなる。 「この宿は……俺には至極居心地がいい。  いつまでだってここにいたい」 「それなら、なぜ?  どうして、ここに居続けてはいけない、なんて?」 「……いずれ、ここを発つ日の事を考えてしまったから」 「居心地がよければいいほど、好きなら好きなほど、その時が辛くなってしまうものじゃないか……」 「でもだからと言って、記憶を取り戻す努力とか、そういった事をなにもしないまま、ここでのんべんだらりと日を送るのも、耐えられそうにない」  築宮は改めて自覚する―――  もし自分が過去を取り戻す日が来たなら、この旅籠を発たなければならない。  その時自分がどれだけの喪失の痛みに耐えなければならないのか。  かといって記憶を取り戻す努力を放棄し、安逸な日々を貪ることにも耐えられない。  この数週間、どうすれば無くした記憶を取り戻せるのか見当もつかず、他にやるべき事も見当たらず、無為に過ごしてしまった日々の中でどれだけ自分の裡《うち》が澱《よど》んで、焦りともやるせなさともつかぬ心の疲労をためこませた事か。  進むも哀しく、留まるも切なく、引き返すことはもとよりかなわず、迷い、惑い、途方に暮れて―――それが今の自分なのだ。  人と自分を比べてなんになる、とは言うが。  旅人のための旅籠を守り、過客達をもてなし癒すことが望みなのだと、己の願い、居場所を心得て、一途に成し遂げようとしている令嬢の傍らで、この自分は一体なんなのだ。  喉に迫り上がった苦味を押し戻すように、盃に残ってぬるまった酒を大きく呷《あお》る。  令嬢から視線を逸《そ》らして、ただ蛍だけを眺めようとしても、視線は力なく落ちて座敷の隅にわだかまった影ばかりを見つめてしまう。  ―――もうこの目も絢《あや》な蛍幻想も、心には響いてこない――― 「すまない……自分でもわからないことを言っているとは思います」  繰り言連ねてみたところで、なんの解決にもならず、〈索漠〉《さくばく》と空の盃を弄ぶ築宮の背後で、衣擦れが鳴る。  箸をつけられぬまま虚しく乾き始めていた〈酒肴〉《しゅこう》の盆を、脇に滑らす気配を築宮は背中で聴いていた。  こんな愚痴ばかりの自分に愛想を尽かして、さっさと片づけにかかったのか、だがそれも仕方あるまいと、瞼を下ろせば無明。  先行きもなにも見えない無明ばかりを見つめ続けていたから築宮は、自分の背中へ、畳に支《つか》えた後ろ手へ、令嬢がじっと視線を注いでいたのにも気づかない。 「でも俺は―――」  衣擦れの音は聴いても、令嬢がすっと立ち上がり、青年と背中合わせにまた腰を落とした、そんな動きまでは判らない。  彼女にしては珍しく、膝を崩して座った背が、動いたとは見えないほどにゆっくりと傾き出す―――築宮の背中へ。  重荷に倦《う》んだ人のように丸められていたとしても、やはり築宮の背は若い男の広さがあって、かたや振袖に包まれた令嬢の背中は、それこそ日本人形のようにか細く薄く小さい。  青年の〈襯衣〉《シャツ》の背中と令嬢の振袖の絖《ぬめ》の地の背中が、近づいていく―――築宮は、気づいていない。  背中の距離が縮まって、ついには零になり。 「ちょ……君……?」 「―――いずれ、築宮様がここを発つ日が、来るかもしれません」  寄り添ってきた感触は軽々として、身を硬くしただけでも弾き返されそうにか細くて、それで築宮は、令嬢が背中合わせに身体を預けてきたのだと悟ったのだけれど。  反射的に軽く身を退いた、のに合わせるように追いかけてくる薄い背中、令嬢は築宮から離れない。  ―――今ここで青年との触れ合いが途切れたら、彼は抱えこんだ〈懊悩〉《おうのう》の重みに潰れて、この座敷の夜闇と一緒くたに同化してしまうに違いないだろう、それを繋ぎとめようとするかのように、離れない。 「だとしても、いまあなたは。  ここのお客さまです」  築宮が後ろ手に支《つか》えていた掌へ、蛍が留まるように、そっと下ろし、からめてきた、令嬢の指先は、まるで夢の中の触れ合いのように温度が無い。  ―――それでも触れ合いは、蔵の中の、狭く奥行きが深い窓から精一杯腕を伸ばしてかすめ合わせたかと思わせる程巨大で生々しく、それでいてやはり非現実的なのだった。  絡め合わせた二人の指先にも蛍が降りて、夜闇の中に淡やかに浮かび上がらせて。 「私の大切な、大切なお客さまなんです」  囁く声は低く静かで、耳に聴くというより、背中に振動となって伝わり、令嬢が言葉を紡ぐ度にくすぐったく、そしてそれが体の内側を直に愛撫されるかのような、母に抱かれた〈嬰児〉《みどりご》の聴く〈愛子〉《あやし》歌のような、えもいわれぬ心地好さで。 「ここに留まっている間は、かなう限り、  心地よく過ごしてほしいって、  私はそう願います」 「そんな……いいのか……?  俺はそんなで……いいのですか?」 「いいのですよ―――」  面と向かい合えば、その隙のない秀麗さに襟元を正さないといけないかの窮屈さが先に立つ令嬢と、ではこうして背中合わせに密に寄り添った時は?  ……築宮が、首筋といわず腋下といわず、湯の滝の側を歩いたように汗ばんだのは、盃一つばかり干した酒精が急に回ったからでも、あんまり蛍達が沢山なせいで、本来は冷光の筈のその光が臨界点を超えて〈輻射熱〉《ふくしゃねつ》を発するに至ったとかいう昆虫学者卒倒ものの異常現象が勃発したせいでもない。  ―――いいのですよ―――  とこの華奢で小柄な旅籠の〈女主人〉《おんなあるじ》に許されたのが、どこか秘めやかな〈睦言〉《むつごと》めいた響きを帯びていて、青年をいたく動揺させたのだ。  激しくなっていく動悸は、指先まで脈打たせるようで、きっと令嬢に気取られているのに違いない、いやそうでなくともこの重ねた背中のすぐ下で、どくどく乱打しているのが心臓ではないか。  背中合わせでただお互いの声と感触ばかりを聴いているだけなのに、これでは思春期の子供よりも他愛ない。 「ね、あなた。焦るな、と言われても、それはたやすいことではないかも知れません」  令嬢の軽々とした重みばかりを受けていた背中に、いつしか布地を通して肌の温もりが通い出す。  二人の間境を越えて近しすぎる触れ合いに、始めは息さえ殺して微動だに出来なかった築宮にさえ、人肌の暖かさはやはり抗しがたくて、少しずつ少しずつ、令嬢の背中に体重を預けていくようになっていて。  畳についた手に触れてくる指先だって、彼女の方から繊細な遊戯を仕掛けているけれど、もし自分が攻守を替えて握りしめたら、どう答えるだろうかと、築宮は恐れの中にまぎれもない期待を抱くようになっている。  怖々と力をこめれば、かすかに伝わる令嬢の身じろぎが、指先に静かに羽を休めた蝶のようで、脅かさないように、そっと、あくまでそっと―――ぽつりと囁いてきたので、築宮の手はぴたりと止まってしまう。 「だったら、せめて一時の間―――  焦りも悩みも、忘れて下さいな……」  ―――背中の弾力が、不意に失せた。温もりを求めて築宮は、もう戸惑いも忘れて寄り掛かろうとしていたところだからひとたまりもない。不意の動きに蛍が二人から、一斉に飛び去った。  あっさりバランスを崩して、視界の中で蛍の光が流れて、後ろ様に倒れこむ。  幸いというのか、ちょうどよく座布団が敷いてあったので頭を畳に打ちつけるようなことはなかったけれど、台詞とはあべこべの身のかわしように、築宮の情動はみじめに萎えて、一体自分はなにを期待していたのだと〈慚愧〉《ざんき》に打ちひしがれる。  目を固く閉じてそろそろ息を押し出した彼の頭が、優しく持ち上げられて、下ろされた、今度受け止めたのは座布団より固めの弾力の、令嬢の腿《もも》。  後頭部を支える、座布団とは異なる感触に目を開ければ、令嬢の双眸が間近に覗きこんでいて、それで自分が膝枕されているのだと、ようやく―――  彼女のうなじから、黒髪の一筋が流れ落ちる様が、奇妙なほど緩慢だった。  ―――沈黙。  令嬢の眸の中に築宮の呆然とした顔が映りこんで、築宮の眸の中に令嬢のひどく真摯な顔が映りこんで、沈黙。  二人の眸の間に張りつめたものは、築宮にとってはひたすら硬い緊迫感としか思えなかったけれど、さて令嬢の方は、どうだったのだろうか。  なんにしても二人の距離を詰めたのは、また令嬢の方だった。  細筆で引いたような朱唇を、緊張に強張る青年の唇に重ねた事によって。  築宮の鼻先を甘くくすぐるのは、着物に焚きこめられた香の匂いか令嬢の髪の香りか。  夜闇に沈んで墨を薄く溶いたような、座敷の空気がひどく濃密に感じられ、築宮には息苦しいほどだった。 「…………!?」  口づけの時間は、誼《よしみ》を深めた男女ならたっぷりと思い入れが籠もっていようものだが、築宮にとっては唇に重なる比類なき感触を賞味していられる余裕も落ち着きもない。  令嬢が顔を上げた後で彼の喉は微かな風の音を鳴らした。  そこでやっと、膝枕から身を起こし、離れようとして、けれど膝裏から芯が抜けてしまっている。築宮、風に吹かれた朽《く》ち藁《わら》のように腰を落として、後ろ手の、掌に畳表が硬く冷たい。  そして令嬢はなお、青年を逃そうとはせず、裾を軽く直しながら、彼の目の前に膝を進める。いつもなら築宮の目線が上になるところが逆転して、見下ろし気味の令嬢の瞳が、黒々と深みをはらんで、築宮はその底光りに耐えきれず、つい目を逸らしてしまう。  身を離せば伝わるはずはないのに、彼女に心臓の動悸を聴きとられてしまいそうな気がして、目を合わせていられない。 (ふ……ぅ……)  荒くなってしまいそうな呼吸を必死で押し隠し、そろそろと息を吐く。  ……令嬢に比べて、自分の息はひどく生臭くなっているような、そんな気さえした。 「……厭ですか、私がお相手するのは」  築宮の内心の動揺を悟っているのかいないのか、小声ではあったが、令嬢の声音はくつろいでいるような響きさえあった。  ―――こんな、状況に流されるように。  このまま彼女と―――?  ―――して、しまう? 「お相手って……なにを……っ」  なにか言おうとしたって、まともに言い返せるはずがない。しゃがれかかった声を押し出すのが精一杯の。  得体の知れない罪悪感が、ある。  いくら〈朴念仁〉《ぼくねんじん》の築宮といえど、令嬢がなにを始めようとしているのか、それくらいは察しがついて、それが彼の疚《やま》しさをいよいよ煽《あお》りたてるのだ。 「抱いてくださいな、私を」 「待て、待ってくれ……、  そんな、いいのか君は」  声が上擦ったのは、令嬢と男女の情事というのが、事ここに至っても容易には結びつかなかったからだ。  普段の彼女の凛《りん》とした佇《たたず》まいが、乱れて流れる黒髪とか喘ぎ声に反らされる首筋といった、淫らを感じさせる妄想を、どうしたって許さない。  なにより彼女の、花ならまだ蕾がほころびかけたかどうかという、華奢で肉付きの薄い体躯が、その行為に耐えられるかどうか、はなはだ怪しい。 「それに君はまだその……、  若すぎるじゃないか……っ」 「あら、そんなこと」  くくっ……と音には出さず、喉の奥で忍び笑い。弓なりにしなった唇が、夜闇に沈んだ座敷の中、蛍の淡い光より着物の染め色よりもずっと鮮烈だった。 「こんな痩せっぽちの身体だけれど、  それでも、女にはなっているのよ……」 (――――――!)  その言葉は幾つかの意味を持って曖昧で、なのに途方もない現実感をもって築宮を打ちのめし、事はにわかな生々しさを帯びた。  こんな年若な令嬢が、こんなに肉の薄い身体が、肉の交わりに対して開かれている事を示す台詞が築宮にもたらしたのは、ただ驚愕に留まらず、なにかとてつもない禁忌を犯すような、それでいて淫靡を帯びた背徳感。  そこへさらに―――令嬢の顔がくっと下がって、囁きかける。 「だから、大丈夫。  築宮様と、私で―――ね?」  身を乗り出し、築宮の耳もとに唇を寄せ、ゆっくりと区切るように。秘めやかな声が耳朶をくすぐり、築宮に戦慄さえ覚えさせた。  こう間近に迫られては視界から外れているのに、令嬢の形よい唇が、なめらかに動いて音を紡ぎ出すさまが目に浮かぶようだった。  その唇が、性にあえぐときどんな吐息を漏らすのだろうか、とか―――  唇でする愛撫のとき、どんな風にうごめくのだろうか、とか―――  もっと直接に言ってしまえば、築宮は、令嬢が唇に自分の雄の器官を含んでいる情景を、この瞬間に妄想してしまっていたのだ。  ……そして、自分の浅ましさに軽い怖気を催した。こんな年若な娘相手に、一体自分はなにを考えているのかと。 「だめだ、だめです……。  だいたい君は、なんでいきなり、  急にこんな」  自分の中に生まれた妄念を気取られたくなくて、わざと邪険に令嬢から身を遠ざける。 「冗談にしたってたちが悪い。  男をそんな風にからかっちゃ、いつかひどい目に遭ってしまうよ?」 「からかっているつもりなんて、  これっぽっちも」  心中激しい嵐の海の如しの築宮と裏腹に、悪びれた様子は一切なく、耳元から顔をあげた令嬢の髪が、頬を撫でる。  その髪先のむずがゆいような感触さえもが、さらに築宮の心にさざ波を走らせる。 「私、言ったでしょう?  築宮様に、せめて一時、  悩みを忘れてほしいって」 「この何日かのあなたは、  見ていて本当に辛そうで。  放っておいたら、どんなことになってしまうのか―――」 「怖かった。不安でした。  今だって、こんなに」  言いながら差し伸べた、令嬢の腕が二人の間境を、あっさり越える。 「眉根に皺、寄せてるって。  ご自分で、気がついてますか?」 「そう、なのか……?  ……う」  ―――ひやり、ときた。  令嬢のほっそりした指先が、築宮の眉根に降りていた。なるほど、彼自身知らずのうちに眉根はひそめられていたが、それは必ずしも令嬢が言ったような苦悩の表れとは限るまい。  むしろ状況の急転直下に困惑しているからと言うべきなのだろうが、なんにしても眉根に触れてきた指先は、築宮の火照った肌にいっそ冷たいほどで、それが息を詰めさせる。  そのひんやりとした感触が、ゆっくり、ゆっくりと鼻筋を滑って頬に流れる。 「いいのですよ―――」  先程語られたのと同じ、築宮を許すような言葉は短く切りつめられているのに、指先は僅かに触れているだけなのに、頬から首筋にひどく熱いような冷たいような不思議な温度が走る。  その温度を追うように、さっと鳥肌が生じていく。  不快、なのではない。肌に生じた粟粒は、性感とは無関係ではない。 「せめて今夜、この一時は。  私が、あなたの慰めになる事ができたら、  それで私は、嬉しいんです」  頬をそろそろとまさぐる指先に、築宮はいつしか心奪われていて、だからそれがすっと離れたときに感じたのは―――物足りなさ。 「それにね、私だって、  本当に厭な人なら、  こんな風に一緒になりたいなんて、  考えないから」 「けれども、もし。  築宮様が、私を相手にするのがお厭だというのなら……」 「もうこれ以上の無理強いは、  いたしませんから」 (……許されるのか、本当に……)  情交は、独りでは出来ない。交わりというのは己と相手がいてこそ成り立つものだ。  だとすれば築宮が自分の道心が抑えるまま、頑《かたく》なに拒むのは、ある意味令嬢に対する侮辱なのではないか。  彼が悪心を起こして、拒む令嬢を押し倒し、〈落花狼藉〉《らっかろうぜき》、暴力で散らそうというならそれは耳目鼻口、〈七孔噴血〉《しちこうふんけつ》して〈悶死〉《もんし》したとしても許されざる罪業となろうが、ここで誘ってきたのは彼女の方なのだ。  ならばあとは築宮の心次第。  青年自身は、令嬢と一夜を共にすることに、どんな想いをいだいているのだろう。  嫌悪感―――?  そんなものなど、蚤《のみ》の足先一つほどもあったものか。  なるほど面と向かえば、堅苦しさを覚えなくはないけれど、それは冬の澄んだ大気の中に〈身裡〉《みうち》が〈清冽〉《せいれつ》に引き締まる、厳しくも心地好いあの感覚と似通ってはいまいか。  不快感―――?  そんなものなど、〈芥子粒〉《けしつぶ》の、それを砕いた破片ほどもあったものか。  令嬢と会話を交わせば交わすだけ、自分の情けなさが血肉を噛むようだけれども、彼女の行為は全て思い遣りと厚情に由来していることくらい理解できない恩知らずではない。  なにより、彼女の指先が頬から離れていってしまって築宮が味わったのは、これでおしまいなのかという一抹の寂しさの、それは。  ―――妖しい期待があったからこそで。 「……いや、ですか……?」  そしてああ、またその貌だ。  こんな時だというのにやっぱり表情に乏しくて、それでも俯《うつむ》き加減の角度で不安を物語るその貌、もう築宮は―――     ことりと。  築宮の心の天秤が、躊躇いを振り切り、傾いて落ちた音だった。 「……厭じゃない……、  厭であるものか、  君さえいいのなら、俺は」 「良いに決まってます。  私のほうは、さっきから、  お待ちしていたんですから」  ……築宮の頬をいらっていた手を離して、令嬢は後ろ手で帯を緩める。 「ん……」  わずかに手を動かしただけと見えたのに、男にはやりかたも見当つかないくらいしっかり結ばれていたはずの帯が、軽やかに滑る音。  しゅる……と、軽やかなくせして衣擦れの音は艶めかしかった。 「――――――っ!」  今度こそ、息を呑む音を聞かれたに違いないとまごついた。  もうこれまで幾度となく顔を合わせ、近しく言葉を交わした相手なのに、築宮のいまだ知らざる令嬢がそこにいた。  衣服は第二の皮膚だという。築宮の令嬢に対する、行儀のいい身のこなしとか、可憐かつ〈凛然〉《りんぜん》とした姿形という印象は、彼女のまとう衣装によるところが実に大きかったのだと思い知らされる。  ほんの寸前まで令嬢を、〈楚々〉《そそ》とはしているがやや〈生硬〉《せいこう》な可憐さに装っていた振袖は、肌襦袢もろともにゆったり身頃をくつろげられ、肌を露わにした様は、かっちりと包み隠していた分だけ、ひどく扇情的―――いや、はっきりと卑猥で。  身頃の狭間からのぞいた胸元は、その年代の娘にしかありえない、精緻精妙な曲線を描き、性を感じさせないが故に、それをこれから犯すのだという背徳的な実感で築宮を叩きのめした。  こんな至近で、肌の香りさえ届くような間近で、初めて目にした令嬢の、あるかなしかの乳房のふくらみは、口中を干上がらせるくらい、有り体に言って彼を凄まじく昂奮させたのだ。 (俺は―――してしまうのか?  こんな、触っただけでも傷がついてしまいそうな、そんな身体の、彼女と―――?)  躊躇いながらも、築宮の腰の奥底に、生々しい衝動がうねりはじめる。確かに体つきだけを見れば令嬢のような娘と情交に至るのは、人倫にもとる行為と言えるかも知れない。  けれど築宮が彼女に抱いているのは、賢《さか》しげな子供を微笑ましく見守る式の、上から見下ろすような視線ではなく、いっそはっきりと一つの確固たる人格への敬意といっていい。  青年としては立場的には対等どころか、令嬢は自分よりも高いところを〈浩然〉《こうぜん》と孤高に歩みゆく人なので、彼女を抱いたところでその人格が損なわれるとは思いづらかったのだ。  ただ、精神的にはそうであっても、現実的にはいかんせん二人の体格差というのがある。  自分が情欲のままに令嬢を組み敷いたなら、彼女の繊細な身体は脆《もろ》くも崩れてしまうのではないか……だから築宮にはなかなか踏ん切りがつかないでいた、そこへ帯を解いた令嬢の姿、さらけ出された肌、が、彼の迷いを頭蓋の内側から蹴り出そうとしてあった。  予想を超えて―――美しかった。 「ふう……お着物は、着ると背筋が伸びるような感じで、好きなのだけど」 「それでも、帯を解くと、  なんだかほっとします」  令嬢の散文的な感想が、築宮に届いているのかどうか―――  はだけられた〈衣紋〉《えもん》から見え隠れする、雪を薄く被せたような乳房から、目が離れない、離せない。 「昔の女の人たちは、  もっと大変だったでしょうね」  布地の重みで襟が肩先まで滑り、胸元でたわんだ布地の端からの〈胸乳〉《むなぢ》が、夜目にも布地とコントラストを為してさながら雲間からの月。  それは熟れた実った女としての柔らかな円みは確かに欠いていたけれど、けして男のように無骨に平板なのでもなく、かといって未来を予感させるようなふくらみかけというのでもなく、現在の令嬢にしか有り得ない、危うい均衡の上に成り立った絶妙の起伏で、築宮の目を否応なしにすいつけたばかりか、彼の雄を直接淫靡に撫で上げるような―――  ほんの少し視線を潜りこませれば、合わせから乳房の頂きまで覗けそうだった。 「……ご覧の通りの、  骨と皮ばかりの身体で。  暗くてよく見えないでしょうけど、  それがせめても救いかしら」 「いや……さすがにもう目は慣れてます。  だけど……痩せッぽちだなんてそんな、  君はとても……素敵じゃないか」  ただ綺麗なだけであるなら、技を凝らして切り出した貴石だって当てはまるだろう。可愛らしいと言ってやれるほどの余裕は築宮にはない。硬く冷たい宝石のようでもなく、可愛い女の子だと空々しい慰めも吐けず、ただ素敵と、あなたという人は素晴らしいのだと、それしか出てこなかった。  それでも常の築宮ならば、こんな世辞など吐いた先から歯の根ががたがた浮き出して、部屋に戻った時思い出したなら布団引っ被って恥ずかしさのあまり絶叫しただろう。  そんな彼をして、するりと呟かせてしまう、令嬢の姿の美しさ、心を引きさらう妖しさ。 「私が、ですか?  素敵、だなんて―――」  築宮にとって口に慣れぬ賛辞であるなら、令嬢にも聞き慣れない言葉だったらしく、目を見張ってから瞬きを一つだけ、それでも彼女にしては稀な戸惑いの表情だった。  頷いたのも、青年の賛美を噛みしめて呑みこんだとも礼をしたとも取れたが、令嬢はまた築宮に身をかがめる。 「そんな風に言われた事なんて、なかった」 「……なんだか気恥ずかしいような、  そんな気持ちです」 「ちょ……っ」  令嬢が身を屈める形になると、あえかだった乳房の起伏がそれでも慎ましやかな円みを帯びて、なのに視界一杯に迫って、築宮はのけぞる―――  のけぞりそうになった頭を優しく抱きとめる手があった。令嬢の手、築宮を抱きとめて、そのまま髪の中に指先をくぐらせた。 「きっと、大丈夫。  たとえ記憶がなくっても、あなたは。  誰かのことを、そんな風に言ってあげられるあなたなら」 「どこにいたって、なにをしたって、きっと大丈夫だって、そんな気がするの」  さらさら、さらさらと。  令嬢の指が築宮の髪を梳《す》いていく。  男がこんな風に頭を撫でられて、と築宮に抵抗がなかったわけではないけれど。  しなやかな指先が髪の中を滑っていく感触が、えも言われず心地よくて、身を任せてしまう。 「私の方こそ、偉そうだったみたい」 「なにが―――?」 「あなたを慰めたい、だなんて。  お相手する、だなんて。  さっきまでは、確かにそんな気持ちもあったけれど、今は……」  息を継いだ間をおいたのは、令嬢にとっても次の言葉は羞《は》じらいが喉を塞いで言い出しづらかったからで、会話の谷間の中を蛍だけが周遊したが、それでもやっと囁いた。 「今は、私が……抱いてほしいです。  築宮様に……してもらいたい、です」  さらさら、さらさらと―――飽きる様子もなく指をつかう。飽きるどころか、令嬢の手つきは徐々に熱心に、愛おしむように、額の生え際を滑り、耳の付け根を探り―――  愛でて撫でるから愛撫という。  愛撫。男と女の営みの。 「ね、だからあなたも、私に―――」  令嬢の声のトーンが、心なしか低くなったような―――耳元にかかる吐息の生ぬるさが、築宮の理性を溶かしていく。  変わらず髪を撫でる指先が、築宮の妖しい衝動を、いくらかの暴力的な感触とともに呼び戻す。 「ああ、俺だって、もう、そのつもりになってきているから……」  丸みを帯びた肩の輪郭と、華奢に浮き出た鎖骨から流れる乳房の繊細な起伏が、〈長襦袢〉《ながじゅばん》の襟になかば隠されている。  ―――隠されているだけに、よけいに神秘性がいや増しになっている。  築宮にさらされた、瑞々しい生命をひっそりと誇示するかのようなふたつのふくらみ。  令嬢の息づかいにあわせ、わずかに上下していた。  こうまで求められては止められるものではないと、築宮の中の男の〈矜持〉《きょうじ》が、きかん気をもたげはじめる。このまま令嬢にされるがままになっていていいのかと。  はねのけられたらその時だと、築宮は思いきって目の前の乳房に手を伸ばした。 「触るよ」  無造作をよそおって手を伸ばしたのは、いわば虚勢だった。練り絹のような肌に、今令嬢が自分の髪にしているように、柔らかく指先を下ろした――― 「は……ぁっ」 「あ……すまない……っ」  短く詰まった令嬢の息遣いに、きつく咎められたような気がして虚勢などどこへやら、反射的に手を引っこめたけれど。  ほんの少し触れただけなのに、なめらかな肌とその温もりが、離した指先に巨大な余韻と残った。 「違うの……すまない事なんて、  なんにもないのよ」 「私、言いました。  あなたにしてほしいって」 「だからいいんです、  あなたの好きなようにしても」  令嬢が築宮を覗きこむように目線を合わせる。これがあの硝子のような眸かと驚くくらいの潤いを満たして、色合いが深い。  唇も露でも降りたようにしっとりと艶をたたえ、その顔がなにかを待ち望んでいるように―――妖しかった。 「あなたのしたいように……」 「胸だけじゃなく、  もっと他のところだって……ね?」  他のところ。  令嬢が言外に潜ませた意味に、築宮の思考がぐるぐると迷走しはじめる。  乳房以外の他のところ。  女の、秘めやかな部分。  それは男なら、誰もが自分を埋めて、思うままに貫きたいと欲情する部分。  ずくん、と腰の中心が重く鈍く疼いた。 「――――――!」  築宮は自分の男の器官が、ズボンの内側でこれでもかといきりたっている事を、今さらのように自覚した。  芯に骨でも入ったように、硬く、硬く勃起していた。  ひとたびこうなった男は、もう歯止めなど利いたものではない。  視線が〈長襦袢〉《ながじゅばん》の中に潜りこみ、『そこ』を求めてなだらかな腹部の線を這いおりる。  視線が這った後が、ナメクジの跡のように銀色に粘ついて光るのではないかと言うほど、自分の眼差しが浅ましくなるのがわかる。  けれど『そこ』には届かなかった。  帯と着物はゆるめても、〈長襦袢〉《ながじゅばん》はまだ〈伊達巻〉《だてま》きに留められていて、築宮の視線は下半身まで通らない。  ―――女の着物の、なんというややこしさ! (ああ、もう―――っ)  令嬢だってああ言っているのだ、柔らかなはずの座布団が居心地が悪いほど暖かくなっているのだ、そしてなにより目の前に女の体があるのだ。  築宮の情欲はいよいよ沸き立って、もどかしさ一杯に、〈長襦袢〉《ながじゅばん》をかき開こうと手を伸ばして腰を浮かす。 「あ……ちょっと、待って下さいね」 「え……あ!?」  ところがすっと令嬢の体が遠ざかって、宙をかいた手のなんとも言えない、空しさ。  その時築宮が、自分が浮かべた表情を鏡で見たとしたなら、後で首をつりかねなかったろう。それくらい物欲しげで、浅ましい顔をしていた。  築宮の表情とは対照的な、透き通ったままの顔つきで、令嬢が背を向ける。  すり寄ってきたから撫でてやろうとした猫が逃げ出すように、追いかけた分だけ遠ざかる逃げ水のように、令嬢は築宮から身を離す。  もっともよくよく見れば、令嬢にしても行為の中断を焦るように、座敷を見回す仕草が普段よりはいくらか浮き足だっていたのだ。 (俺は、なにか不味いことでもしてしまったのか……?)  焦りとも不安ともつかぬつかぬ思いに、頬がかっと上気したり、冷たくなったり。  いったん針が振り切れた男にお預けを食わせるのは、それくらい残酷なことだ。 「着物、邪魔でしたよね?」  必死に心を落ち着けようと、深く息を吸いこむ、築宮の呼吸の機を見計らったように、気づかいが滲む声だった。  築宮の動揺を見抜いたかのように、さり気ない声だった。 「今、脱ぎます。  少し、待っていて」  座敷の中を舞い飛ぶ蛍が、夜闇の中に移動する小さなスポットライトのような、幾つかの光点が大きく〈衣紋〉《えもん》が抜けて半脱ぎの、令嬢の脆《もろ》そうな背中を照らしつつ、よぎっていく。  蛍の光の中、着物が肩から滑り落ち、帯に留められたたわんだ。 「なにか、〈衣紋〉《えもん》掛けになるようなもの、  あったかしら……」  座敷の中に頭を巡らせた、首筋から背中に流れる線が、美しかった。  慣れた夜目にはまざまざと、令嬢の肌はしみもくすみもなく、陶器のようにおんもらと艶を放ち、あまりに完璧で作り物めいていた。  けれどその体が冷たい石などではなく、血が通っていることを築宮は知っている。  先ほど触れた指で、知っている。  そしてもう、あの刹那の感触だけでは全然足りない。  ふらふらと、憑かれたように立ちあがった。 「普段は人のいない部屋だから、  勝手がわからなくって」 「いいじゃないか、そんなのは―――」 「え、築宮さま……?」  気配を感じたか、令嬢が肩越しに振り返ったときにはもう、築宮は背後から彼女を抱き留めていた。  腕の中に令嬢を抱きすくめ、肩に頬を強く押し当てていた。  小柄な身体は、夜の鳥に覆い隠されたようにすっぽり築宮の体の中に収まる。 「あの、あの……すぐ済みますよ?  脱いで、掛けるのなんて」 「後でもいい、  着物掛けるのなんか……」 「すぐに―――済みます、から―――」  同じ台詞を繰り返したけれど、咎めだてるようなのではない。咎めるどころか、媚びと喜びさえ含んでいた。 「でも、抱きしめてくれた―――あなたが。  やっと。  ……待ってたんですよ」  ………………。  …………  ……。  抱きとめられたまま、それでも着物を取ろうと身じろぎする令嬢を、青年はより強い、でも優しい力で、けれど逃すまいと抱きしめる。 「皺になったらすまないけど、  着たままでも、いい」 「でも、築宮様だって、まだ服のまま……んぅぅ……」  築宮の方はともかく、令嬢はこうまで着付けが乱れると、脱いだのと殆ど替わりなく、かえって細腰や脚に乱れてまとわりついた振袖は、散り敷かれた花のように男心をそそる有り様で。 「あ……は……っ」  背後からやわやわと胸を這う手に、抗議を封じられて令嬢は声を上げる。  もう、一時でも―――たとえば令嬢が着物をたたむ間も、自分が衣服を取り去る合間だって、彼女の体から離れていたくなかった。  築宮は令嬢のきめ細かな肌の張りに、そして普段の彼女からは想像も出来ない、淫らに震えた媚声に、息が荒くなるくらい酔いしれていた。  同じ人間の肉とは思えない程滑らかなふくらみを、指でなぞるように揉みほぐしていく。 「俺がそういう気持ちになるまで、  君のこと、ずいぶん待たせてしまったみたいだし……これ以上手間取らせるのは、いけないかって」 「……ンぅ……今になって、  そんなことを言わなくっても……はぁぁ」 「俺も、変に我慢してたみたい、で。  でももう、収まらない、とまらない」 「我慢なんて、しなくても、  よかったのに……」  そういうことならと、さらさらと滑るような肌触りを堪能しつつ、すくいあげるように令嬢の胸をまさぐる。  たわやかな起伏だったけれど、吸いつくような手触りに、もう掌が離せなくなる。 「柔らかいな―――」  どこまで指先が沈むのか、試すように少し強めに、指を遣えばたちまちに、令嬢の声が跳ね上がる。 「はぁ……っ……あ……あぁ……っ」 「あ……やぁ……っ」  少し強めに握りこまれた手に、ふるふるとむずかるように首を振ったものの、声は艶を帯びている。  なにより彼女は、築宮の手から逃れようとしていない。 「あ、これ……少し、かたくなって……」  揉みほぐしているうちに、掌の中の少し固めの感触、乳首が起きあがってくる。 「だって、そんな風に触れられたら、  女の子の体は、そうなって、しまう……、  ……んぅ……っ、や……ふぅ……ぁ……」  尖りはじめた乳首を指先で挟めば、令嬢は築宮の胸に押しつけるように背を反らし、漏らした吐息が、また熱い。  より〈執拗〉《しつよう》に、でも優しさも忘れないで乳首を摘みあげる、指に挟んで転がす、また摘む。 「あ……は、ふぅ、あ……」  するうちに、火照った築宮の手でもはっきりわかるくらい、令嬢の肌が熱を帯びていく。  乳房から全身に熱が広がっていく。  二人の体がより強く密着し、築宮に令嬢の体温がなじむと同時に、令嬢も築宮の『状態』を感じとる。 「……ぁ」  媚声の中に、なにか面白いものでも見つけたような響きが混ざった。 「あなただって……こんなに……なってる」  体が密着した分だけ、築宮のいきりたったモノも令嬢の細腰に押しつけられるわけで。  別に手で触れられたわけでもないのに、しかも衣服の布地越しに触れ合っているだけなのに、その刺激はまぎれもない快感となって築宮を襲う。 「築宮様も、もしかして……、  感じていますか……?」  押しつけられる築宮の肉塊に、令嬢は腰をうねらせる。  それはけして築宮から体を逃がそうとしたのではなく、むしろ逆で誘いこむような動きだった。 「なにを、今さら訊いているのか……」 「だって、自分だけじゃないって思うと、  なんだか私……もっと熱くなってきて」 「は……ふぅ……こんなに、ぐいぐいって、  押しつけられて……男の、人の―――あ。 ……あぁ」  また体を揺らしたのが、布地を貫いて肌をうがつくらいに押し当てられた剛直を確かめるような仕草で。  彼女も自分の性器に男を感じていると思った瞬間に、築宮はいよいよ昂ぶった。 「う……く……はぁ……っ」 「あぁ…ん……んく……」  昂奮のあまり力加減が暴走しないようにかろうじての自制を残しながら、令嬢の内腿に手を滑らせ、耳元に囁きかける。 「……こっちも、いい?」  〈耳朶〉《じだ》をねぶるように、熱く息を吹きかぶせながら、囁きかける――― 「築宮さ、ま…っ、  そ、ちょ……耳、息が……あぅ……っ」  〈耳朶〉《じだ》をかすめる吐息の熱さで、少し声を上ずらせたけれど、令嬢は逃げない。  逃げないと確かめて、築宮は振袖の合わせをかきわけた。  触っただけで、無骨な男の指先ではすり傷が残るのではないかというくらい、きめ細かな肌の奥を目指す―――と。  ふわ、と柔らかな、ほとんど生えていないと変わりない産毛が指先にからんだのが唐突だった。 「く、ふ……っ」 「あ……君、……その、  下に、なにも着けてない……?」 「ふ、ぁ……?  え、ええ―――着物だもの、下も着けてないわ。〈湯文字〉《ゆもじ》だけ……」 (〈湯文字〉《ゆもじ》って、腰巻きのことか……?  いくら着物だからって……)  こんな風にもつれ合うまでの、きっちりと和装を着こなしていた令嬢が目に浮かぶ。  その時は布地の下には肉の体が隠されていると考えられないくらい、一分の隙もないたたずまいだったのに。  そう考えると、和服というのはひどくいやらしい衣装なのではないかと、築宮はぼんやり思った。  こうして乱してみると、しっかり着付けている時との落差が劣情をひどくそそる、と。 「でも……だから」 「すぐに……届きますよね」 「こうやって―――ね?」  〈睦言〉《むつごと》の合間で、ちょっとまごついていた指に、令嬢の手が添えられる。  ―――続きをして、と添えられる。 「あまり……強くは、  ん……っ、したら、駄目―――」 「ああ……」  築宮に抱きすくめられたままで、令嬢は巧みに脚を開いて、招き入れる。  築宮のやりやすいようにしているのか、それとも彼女自身が肉の快楽を求めているだけなのかわからなかったけれど、もうそんなのはどうでもいいほどに青年は夢中だった。 「あく……あ、あ、指、  あなたの、そんなに動かしたら、ぁ……」 「……」  令嬢の声ももう築宮には届かない。  初めて触れた彼女のその部分の柔らかさに、築宮はそれ以外のことは考えられなくなっていた。 (こんな……柔らかくて、  強くしたら崩れそうな……)  耳たぶのような、いや、やはり他にはたとえようもない柔らかな質感だった。  令嬢の秘裂は慎ましやかに閉じ合わさっていたけれど、指先で割り開けば。 「く、ふぅぅ……っ  指……あなたの、私の中に……、  触ってる……ぅっ」  内側はしっとり露を含んでいた。  つたない愛撫だったかも知れないが、自分の手が彼女の体に露を呼んでいたのだ。  令嬢の女をしっかり感じさせられていた、それが嬉しくて、指先で秘裂の中の露へ、そっと触れ、絡ませる。 「あは……っ……は、ぁ……あ」  なるべく爪を立てないよう、優しくひとしきりこね回す。  たとえ築宮がこれまでの記憶を失っていたとしても、男という生き物はここの扱い方は本能的に心得ているものらしいと、心の片隅で思う。 「……あ、や……っ?  そんな、音……たてないでぇ……」  ちゅくり、ちゅくりと幽かに、けれど確かに令嬢の股間から立ちのぼる、水音。  蜜という呼び方がふさわしい、濃い粘液をかき混ぜる、卑猥な音。 (こんなに華奢な身体なのに、濡れてきてる。彼女も、女だから……?)  指先に熱くとろける蜜に夢中になりながら、そんなことを想う。 「うぁ……は……私……ね、築宮さま……」  首をひねり、額に流れた前髪のあわいから問いかけてきた視線が、築宮の指を止めた。  官能にとろみを帯びているのに、それなのに築宮の内側を静かに推し量るような、そんな眼差しで。 「私は―――いやらしい女の子ですか?」 「あなたを、男の人を、  自分から誘って―――」 「そこ……そんなに濡らして……」 「―――っ」  ―――あるいは、気の利いた答えを返すには、築宮はまだ初《うぶ》でありすぎたのだろう。  こんな時、情事のただ中で、自らの性の浅ましさを問う彼女の胸の裡《うち》を想像できる程、女を知ってはいなかったという事なのだろう。  ―――いや、所詮は男には理解できない命題なのかも知れないけれど。 「……いい。  たとえ、いやらしくても、いい」 「……そう……う、く……っ?」  問いをごまかすように、指を今度は蜜の中をこね回すだけでなく、襞肉の結ばれ、彼女の芯へと指を滑らせた。 「ひぃう……!?  そ、そこ……そ……いきなり……ぃ……」 「俺たち……いやらしいこと、してるんだから……」  女の芯―――そこが女のもっとも感じるところだと、知識としては知っていても、令嬢にもそれが当てはまるのか。  確かめたい気持ちもあって、柔肉の中の少し固めの芯を探ってみる―――途端に。 「う、あ――?」 「ふ――あぁ!?」  反応は、劇的だった。  びくんと身を反らせた、令嬢の瞳の焦点がたちまちぶれる。  反らせた背に、生まれたての小動物じみた戦慄が走っていた。  〈膝裏〉《ひかがみ》もふるふるとわなないて、令嬢の身体が畳に沈みこんでいく―――そして築宮もその体を離さず、くずおれた令嬢の背後からのしかかっていく。 「それ……いけな……い、  ぅ、……ひああっ」 「ひぅ、ふくぅ……っっ」  畳に額を押しつけるように快感をこらえようとした、それでも嬌声は唇を割ってほとばしり、いや、いやと打ち振った頭から、黒髪が流れて散らばる、畳の上に。  彼女の身悶えするのに合わせてうねり、蠢《うごめ》く黒艶の流れは、うなじの白とあいまって、鮮烈なまでに。  ―――快楽の波を示す黒い蛇―――  蛇という生き物につきまとう不気味さよりも、妖しいまでの美しさがまさった。 「くる……きて……う、くっ、ぅ……っっ」  びくんびくんと体が跳ねて、あまりに強烈な刺激に秘裂を築宮の指先を逸《そ》らそうとしていた。だが築宮は、その反応を生み出したことについ悦に入ってしまい、そこばかりをいじくり続ける。  彼女が腰を逃がそうとしても、指先で追いかけて、襞肉が結ばれたように硬めの芯を、転がし、まさぐり、時に弾くように。 「ちょ……あっ……くぅ……っん」 「そこばっかり、そんな、される、と……、  刺激、強……あ、あぁ、ああっっっ」  すこし強めに押しこんだ時、令嬢の喉がひゅっと物哀しげな風の音を鳴らし――― 「ひぅ―――」  〈太腿〉《ふともも》の付け根に筋が浮くくらい、体を固くして―――弛緩。  畳に爪を食いこませるようにして、切なげに吐息を漏らす令嬢に、築宮は奇妙な〈嗜虐心〉《しぎゃくしん》を覚える。 「もう……いけないのに……。  そんなにしたら」 「私のからだ……いじめすぎ、です……」 「きつすぎたかな……?」 「ええ……強すぎて……気持良いのが」 「だから私のここ、もうこんな―――」 「……え、と?」  まだ秘裂に這わせたままの指先に、腰を持ち上げて、彼女の方からある一点を押しつけてきた。  つぷり、と浅く潜った。 「……これ……っ?」  もう形も判らないくらいに潤って、複雑な襞のあわいの中に、指を浅くついばむような、肉の〈狭隘〉《きょうあい》がある。  軽く潜っただけなのに、指先が痺れるくらいにきつくて、きっちりとくわえこむ部分。  そこが令嬢の―――女の入口。  男を、築宮を迎え入れるための。 「ね、もう……ね?」  体をひねらせ、築宮の全てを受け入れるような視線をよこして、令嬢は―――微笑む。 その笑み。  あの、飛び石に立った時と同質の、不可思議で妖しく、はぐらかすようでいて、蠱惑的に誘《いざな》う、そんなあえかな笑み。  だが令嬢の笑みの真の意味など探っている余裕は築宮にすでになく―――  自分の下の、年若な娘の肌が昂ぶって香っている、令嬢も求めている。  築宮などは昂まるどころか、もう令嬢と一つになることそれしか考えられず、持て余すほどに重く堅くなった剛直を、背後からそこへ押しつける。 「築宮様の身体、  私よりずっと、大きいから、  ……ゆっくり……です、よ……?」 「……自信が、ない」  令嬢の下肢の付け根に押し当てられた剛直は、サイズの比率的にほとんど凶器に等しく、築宮も一瞬躊躇わないでもなかったのだが、最早中断できるものでもなかった。  それどころか、こんなにか細い肢体をこれから貫くのだという、そんな予感が彼の雄の炎に油を注ぐ始末で。  ……普段が生真面目な分だけ、こうとなったら突き進むだけの生き物となってしまうのかも知れない。  尖端で位置を探ろうとすると、〈強張〉《こわば》りに押されたように令嬢の体も揺れる。  揺れて、汗をはらみはじめた髪が香る。  産毛も悩ましい首筋に顔を寄せ、覆いかぶさる髪を鼻先でかきわければ、肌はすっかり火照っていた。 「―――俺は、乱暴にしないって言いきれる、自信がない」  令嬢と秘め事に耽《ふけ》るというのは、彼にとって降って湧いたような予想外の機会であり、普段から思い描いて心の中で反復練習できるような行為ではない。  だから自分がどんな風にしてしまうか、築宮自身見当もつかない。  それくらい令嬢を、この華奢に造られた肉を求めてしまっている。 「また……私、自分から言いだしたのに、  わがままですよね……」 「そんなことは……」  囁きながら、うなじから頬を滑らせる。  できる限りは彼女の望むとおりにしたいけれど、どうなるか判らない。  それを詫びるように、柔らかな〈耳朶〉《じだ》を、犬歯の間に挟んで甘く噛むと、令嬢のあごにさざ波が伝う。  「……はぁぁ……そんな、噛んだりしたら」  詫びる、と言うよりむしろ念を推すように、もう一度甘噛みすると――― 「―――ああ―――」  令嬢の顎が小さく落ちた。  それはただ体から力が抜けてしまったせいかもしれない。  でも築宮は頷く仕草だと思いこもうとした。  それに結局―――  畳に手を支えながら―――  腰を差し出してきたのは令嬢の方。築宮になにもかも差し出す合図に見えた。  ぷちゅり、と蜜が小さく鳴る。  そこは暗がりの中でも見てとれるくらい、熱く濡れていた。とろけていた。 「―――あなただけじゃない―――  私だって、たまらない気持ちになってるから」  ―――もうそれ以上見ているだけなのは拷問に等しく、築宮は令嬢の秘部に、腰を押し進めていく。  滴り落ちそうなほど先走りを滲ませた尖端を、そこに押しつける。 「……あぁ……当たって……ます……」  体勢を整えようと手を添えた、令嬢の腰は、築宮の指の輪の中に入ってしまいそうなほど、細く、脆そうで。  だが築宮はとまらない。令嬢もじっとしたまま築宮の腕に体を任せて。  白い腰を憑かれたように見つめながら、築宮は位置を合わせた。  もどかしさを必死に押さえて、先程指で探った位置に尖端を合わせ、ゆっくりと突き入れていく。 「ん……くふ……っ」  肉を割り裂いていくような感触が、築宮の全ての感覚の中でとほうもなく巨大だった。  熱い、湿って柔らかい……吸いつく―――  腰の中心から湧き起こる感覚が築宮を支配して、衝き動かす。  ずる、ときつい抵抗を押しのけて、尖端が肉の扉を開く。  入り口も何もない熱い粘膜を、剛直の尖端で穴を穿《うが》つようにしていくかのようだった。 「あ、あ……来る―――入って―――  築宮さまのが、来る……ぁっ」  尖端が浅く潜れば、後は衝き入れるばかり。  熱い粘膜を突き破るように、一気に埋める。  快楽―――  鈍痛にも近い快楽に奥歯を強く噛む。 「はぁ――っ、そんな……強い」  吐息にかすれる―――令嬢の声。 「入ったよ……やっぱり……強引だったろうか……?」 「はぁぁ……はぁぁ……平気……かしら? ええ、平気みたい―――」  ふと、胸の中をかすめた思いがある。令嬢はこうして男を迎え入れるのは、初めてだったのだろうかと。  繋がった部分を見下ろしても、ちょうど影の中に入ってしまっていてよくわからない。 (別に―――関係ない、か)  もとより令嬢の処女性など云々するつもりもなかった築宮だし、なにより、そんなことは些末事に思えるほど、甘美だった。  令嬢の胎内はそれくらい、素晴らしかった。  剛直はきつくきつく絞り上げられ、根本に歯のない口で噛みつかれているかの軽い痛みさえある。  それくらいに令嬢の膣内は狭くて、本来なら築宮の身体など受け入れられるサイズではないのだが、そのきつさも快絶の一つの要素であった。 「でも、深いところまで……、  あなたが届いてます―――ふぅう」  体を慣らすように、そろそろと息をつくと、それだけで膣内がざわめいて、剛直に快楽をすりこんでくるかのよう。 「……う……」  突き入れたときでさえ、襞の一枚一枚が尖端の返しに引っかかっていくのがわかるほど。  今だっておずおずと、でも確実に築宮を奥へと引きこむように蠕動していて、こうして動かずにいるのが辛くなってくる。  また令嬢の息づかいにあわせて内部がうごめくものだから―――たまらない。 「だめだ……君の中……ッ、  気持ちよくってたまらない」 「じっとしていられない」 「ふくぅ……!?」  尖端近くまで引き抜いて、膣道の角度を探りながら――― 「動かすよ……」  始めの突きこみはゆるめにしたつもりなのに、蜜が弾ける音が湧いたのは、令嬢の中の余裕のなさを示していただろう。 「ひぃぁ……っっ?」  令嬢の体が前にのめる。  肩を前に逃がして、築宮の突き上げの勢いを逸《そ》らそうとしている。  築宮がその腰を掴んで、引き寄せる、彼女の尻の丸みと下腹を密着させる。 「やぁ……く、はっ  ……強……強い……ああっ」  彼女の肉の狭間に、猛り狂った性器が舌肉を巻きこみ埋もれていく、粘液を絡ませて姿を現す。  まるで令嬢の胎内から生えているみたいで、奇妙に卑猥だった。 「……君の中は、ぬるぬるで……、  俺のが、溶けそうな……っ」 「そんなに……、ふくぅ……、  そんなに……私の中、濡れて―――?」 「気持ち、いいですか……。  築宮様は、私で…気持ち……いい?」 「ああ、凄く……。  だから俺も、こんな……乱暴にっ」  言いながら小刻みに、けれど力をこめて腰を持ち上げる。  律動から令嬢を気遣う緩やかさが失せて、激しさを増していく。  突きこみの激しさにぷるぷると波打つ腰を、跡が残ってしまうのではないかというほど強く掴んで、夢中で抽送する。 「君……こんなに体、細くて、俺、ひどい事してるみたいな……でも、とめられない、もう……っ」  始めは令嬢との身の丈の差もあって、築宮の律動もぎごちなかったが、やがて慣れて腰の動きが滑らかになっていく。  奥まで衝き入れると、尖端に他より硬めの感触がこたえる。  そこを突いた時、令嬢の唇が胎内の空気を逃がすように割り開かれ、眼差しの焦点もぶれて、霞《かす》む。 「あ、あ、あ、あぁ……っ、  当たって、る、私の、一番深く、に、  こつん、こつん……て―――んぁぁっ!」  突きこみの前にこりこりと逃げるような、その最奥の部分こそ、令嬢の子を宿す器官の入口なのではないか。  そうと悟った時、築宮は髪の毛が根元から逆立つような異様な昂奮に見舞われた。  こんな小さな身体なのに、こんなに儚げな肉なのに、彼女の中には、しっかりと女だけの命の座が隠されているのだ。 「や、そこ、そんなに圧されると、  お腹の中の、形、変わって―――  く、ふ、くふぅぅ……っ」  他を抉《えぐ》ったときとは異なる質の反応が返ってくるのが、余計に築宮を燃え立たせ、〈執拗〉《しつよう》に子宮口ばかり押しこみ、擦り上げるようにすると、はじめは逃げるようだったのが、築宮の尖端に〈馴染〉《なじ》み、おずおずと吸いついてくるような蠢《うごめ》きに変わり出す。  それは、令嬢が身体の奥底から、青年との交わりに歓びを見いだしているという事。 「あはぁ……ん……私の中……、  築宮さまので……広げられて……  形、つけられて……くぅ……っ」  熱い蜜、複雑なぞよめきは、そこだけ別の生き物のよう。  少しでも気を抜けばすぐにでも達してしまいそうな、甘い肉の罠に築宮は身も心を捕らえらてあった。  もうこの時の築宮は、ただただ肉の快楽に溺れきって、自分が何故この旅籠にいるのか、失ったものはなんなのか、そんなことなど全て慮外に追いやられてあり、令嬢が望んだ通りになってしまっていたのである。  ―――せめて、一夜の慰めを―――  その慰めに流され、溺れる者築宮には、時間などは意味を持たなくなっていた。  ただ腰から背筋をとろかすような、熱い快楽だけに支配されていた。 「ね……いつでも、いいの……。  あん、あ、あっ……あなたの……、  好きなときに……」 「最後まで、いって……」 「〜〜っっ」  令嬢はそう言いながら、腰をくねらせる。  言葉だけでなく、体でも許すような、と思ったのは築宮の身勝手なのだろうか。  いずれにしても令嬢の腰遣いで、剛直が奥まで飲みこまれる、彼女の底をこする、叩く。  叩きこむ、二人に肉の快楽を。  この肉の快楽。  築宮は間違いなく溺れてしまっている。  記憶を失う以前にどれだけの経験が有ろうが無かろうが、令嬢の肉襞、息遣い、肌の薫り、身体のうねりがもたらすこの絶美の快楽に抵抗できるはずもない。  けれど令嬢は―――?  情交の甘美を貪る築宮には、体の中心を叩く快楽に肌を染めながらも令嬢が―――時に醒めた目つきに戻る事になど、気づく心の余裕はない。  そう、どこにも、ない。  築宮に届くのは、爪弾き出される甘やかな媚声ばかり。 「あぁ……は……く……ふ……いい……。  いいの。私、あなたに抱かれて、  こんなに―――いい」  時に小刻みに、時に大きく交わり続ける結合部からは、にちゃにちゃと蜜と築宮の腺液のまじったものが弾ける。  繋がった時に比べてずっと動きが滑らかになっているが、それで快感が減じたかというと、その逆。  築宮に合わせてこなれてきた膣道は、絞りとるように絡みつき、築宮が犯しているのか、彼女が離そうとしないのか。  築宮にとってはどちらでもかまわなかった。  この快楽さえあれば。 「あ……そんな、  胸も一緒なんて……あふ……ぁ」  畳との間に割りこませるように乳房をすくいあげ、手のひらの腹で乳首を押しこむ。 「優しいです、ね……。  あなたの手……優しい」  ―――優しい―――ものかと築宮は歯を食いしばる。ただもう、この肉の快楽に夢中になっているだけなのにと。  乳房をいじれば、まるでそこがスイッチだったように令嬢の中が絞りこまれる。  乳首に爪を立てると、締めつけは引きつったようにきつくなって、無数の快楽の粒に噛みつかれているようだった。  昂まっていく―――射精欲求。  令嬢の中に好きなだけ吐き出して、快楽の絶頂に溺れたいという、抗いがたい衝動。 「あ、あく……っ、築宮さまの、  また、おおきく―――ふああ……」  壁を削るように斜めに突き上げてる。  快楽を高めるために、腰をひねって角度を変え、令嬢の中を様々に味わい尽くす。  ひく、ひく、と射精を待ちかねて、〈強張〉《こわば》りが脈打つ。 「はぁ……築宮さまの、中で震えて……」 「く……は……駄目だ、俺、  もう出そうな……っ」  築宮はどうしてこんなに我慢しているのか、と思う。自分を焦らせば焦らすほど放出の快感が高まるとは知っていたけれど、もう限界だった。  腰の動きが、それだけ切羽詰まったものになっていたのだろう。  令嬢も青年の絶頂がすぐそばまで押し寄せてきているのを感じとって、 「はぁ……あふ、ああ……。  最後は、築宮様の、好きなところに、  ―――いいのよ」 「―――なっ?」  青年の望むがままに―――たとえ、このまま自分の胎内に流しこまれてもいいのだと、囁く言葉くらい、男のただの雄に変えてしまう誘惑はなかったろう。  せめて最後は外にと、彼女を孕《はら》ませてしまう事を危惧する自制心を、どうにか残していた築宮だったけれど、そんな頼りないものは、 「そのまま、私の中にだって―――  ―――いいの」  媚声の中で紡ぎだした言葉で、築宮はあっけなく、自分の快楽のみを求める獣の雄となった。女の中に種を流しこむだけの。 「なら、このまま、君の、中、で―――!」  ひときわ深く突きこんで、奥でねじった。  腰をきつくきつく抱きよせて、すべての体重をかけて令嬢の最奥に自分をめりこませる。  快楽の果てを空しく宙にぶちまけるなど、令嬢との情交に無我夢中の築宮には、所詮できない相談だったのだ。 「あ……築宮様の……が、  来る―――」  蛍も二人の波の高まりを感じているのか、妖しく物狂おしいまでの乱舞を演じ―――  令嬢は胎内に男の脈動を聴き―――  築宮は奥へと引きこむような令嬢の蠢きに。  ―――弾ける。 「……ぐぅぅ……っっ」  最奥まで貫いて、令嬢の子を為す器官の入り口と、築宮の植えつける肉の器官の口がぴたりと重なった思った瞬間、放っていた。  迸《ほとばし》りが、肉茎の中を空恐ろしい勢いで駆け抜けていく。  雄の本能のままに、腰を、剛直を脆く儚げな肉の中に深々と埋めて流しこむ―――極限の快楽。  築宮は雄の器官で令嬢を畳に縫いとめるように、腰を強く突き入れて射精し続ける。  女の体の、生の粘膜に包まれて精を吐き出す快楽に、本能が打ち震えている。 「あ………あん……あは……っ」  快楽に濁る築宮の声と裏腹に、令嬢の声は、膣内を叩く奔流の凄まじさに戸惑ったような、それでいてぞくぞくするくらい艶やかだった。  声すら築宮の耳から快楽中枢をくすぐり、最後の一滴まで吐き出させる。 「……こんなに中で……あぅ……、  まだ脈打って……こんな……一杯……、  一杯……あなたの、大切な……」 「は……ぁ」  くたりと畳に突っ伏して、射精の脈動を数えるように瞼を下ろした―――目元にたまる翳りが情味をたたえて深い。 「築宮さまので―――中が温かい」 「お腹の底に、じんわり、広がって」 「これ……こんなに、素敵だなんて……」 「あなたの―――おたね」 「……あ……俺……、  あんまりにも気持ちよかったから……、  そのまま中に……」  令嬢とまだつながったまま、絶頂の余韻は深くて、築宮はろくに動けずにいたが、微かに立ち戻ってきた理性がとんでもないことをしでかしたのではないかと訴えてくる。  訴えてくるがしかし、余韻に漂うてある彼にはまともに考えられるものでない。  快楽の名残と、彼女を抱いたのだという達成感じみた感慨と、そしてこんなか細い身体を抱いてしまったのだという背徳感とがない交ぜになって混沌とした心地の築宮の手へ、令嬢は許すように自分の手を重ねてきた。 「……いいんですってば。  最後は、私だって中に欲しくなっていたんだから……」  口ごもる築宮をあやすように。 「女の子が、下さいね、って言った時、  男の人がこたえてあげるのに、  いけないことなんか、ないでしょう?」 「そうなのかな……う……?」 「あ……まだ中で、  ひくって……」  胎内は吐精をいつまでも引きのばすように、蠢いて、築宮の精を、最後まで呑みこもうとするかのようだった―――  重ねた身体はいつまでも解きがたかったけれど、令嬢が少し重たそうに身じろぎしたので、築宮はなけなしの体力を絞り出すようにして、身体をずらす。 「からだ、綺麗にしませんと、ね……」  令嬢の呟きも放心の態ではあったが、それでも身を起こしてざっとかきあげた、髪が二人の汗で重たげな。  腰に力が入らぬ様子で、乱れに乱れた振袖の袂《たもと》から〈手巾〉《ハンケチ》をまさぐりだし、ゆっくり立ち上がる。  かろうじて肌に残った〈長襦袢〉《ながじゅばん》一枚のみを肩掛けにした姿は、情事の香りを色濃く残して〈放恣〉《ほうし》な、いつもなら背筋に芯を通した令嬢も、さすがに足元おぼつかない様子で、〈手巾〉《ハンケチ》を水に浸そうと水路に踏み出した、のだが。 「……あっ、  やだ、私……はしたない」 「…………っ!?」  慌てたようにしゃがみこみんだ、〈襦袢〉《じゅばん》の裾の中に隠したつもりでも、その前に築宮の耳にも届いていた。だから彼も言葉をなくした。  ―――ぼた、ぼたり、と。  畳を打った重たげな響きは、なにか〈粘稠〉《ねんちゅう》な液体が令嬢の脚の間からしたたり落ちた音、それも多量の。  なにかと、言うまでもない。  築宮が令嬢の中に、したたかに、これでもかと流しこんだ、精液の戻りだった。 「あの、すぐに拭きます……」  むしろ非というか、原因は築宮にあろうに令嬢はいかにも恐縮したように、水路へ立ち上がろうとしたが、なおしゃがみこんだままの、困ったように面伏せして。  ……どうやら、畳を汚した白濁の〈版図〉《はんと》を、築宮に見られるのが羞恥と、立ち上がれないでいるようだった。  たとえ築宮から出たものであっても、いったん自分の胎内に収まってから零れてしまったのを目の当たりにされるのは、彼女の羞《は》じらいが許さないのだろう。 「い、いやいいから。  俺がその……とりあえずその〈手巾〉《ハンケチ》を貸してくださいっ」  さすがに放ってはおけず、令嬢から〈手巾〉《ハンケチ》を受け取り、座敷の障子戸のすぐ際を流れているせせらぎに浸そうとして、そこで築宮は異状に気がついた。 (あれ……?  蛍は、どこに行った……?)  そうなのだった。  それまでは夜闇か蛍かどちらの密度が濃いかと競うくらいだった蛍が、いつしか一匹と姿を見せず消え失せていたのである。  そればかりではない――― (それに、なんだ、このにおい―――)  蛍の消散と合わせるように、鼻孔に忍び寄ってきたのは、匂いというべきか、臭いと表すべきか。  令嬢の着物や肌の香りとも異なる、ほのかに甘ったるく、それでいてどこかしら生理的な嫌悪をかきたてられる臭気が、座敷に漂いつつあったのだ。  二人の情交の名残でもないはずと、令嬢を振り返れば、彼女はいまだ畳の汚れを気にした様子で、この臭気を感じていないらしい。  というのも、それは水路の方から漂ってきているからであり、座敷の奥の令嬢の方まではまだ至っていないとみえた。  いずれにせよ、これまで旅籠の水路がこんな臭気を発した事はなかったはずだし、座敷に上がる際渡ったときも、ただせせらぎが涼やかなばかりだったと、築宮が〈怪訝〉《けげん》に水路へと頭を突き出し、右、上流―――なにもなし。  では左、下流の方―――築宮の喉がぐびりと奇妙な音を立てた。 「なんだ、あれは……」  疑念が思考に収まらず呟きとなって唇を割って出たのも致し方なし、水路の下流から、その水底を這いずるように遡《さかの》ってきた、ナニかがあったのだ。ナニかとしか言いようがないナニかが。  辺りは暗がりに泥んで、なのに何故見わけられたかと言えば、それが薄暗がりよりもっと濃い暗い影だったからである。  厚みは有るのか無いのか、ただ水路の底にへばりつくようにしてゆっくりと、だが着実に遡《さかのぼ》ってくるそいつ。  輪郭がはっきりと見定められないのは、それ自身が影ともなんとも判別つかぬものだったからもあるが、それが通る時、それまでは流れに澄んでいた水が濁るのだ。  もちろん水流がその濁りを流しやっていくのだが、その影ともなんとも言えぬモノは周囲の水をたちまち変質させるらしく、濁りをまとうようにして這いずってくるのである。  その、濁り水だった。  臭気の源は。  それが座敷のそばまで近づいてくるにつれ、臭気は濃くなりゆき、正体は知れないながらも築宮は〈漠然〉《ばくぜん》とした危惧を抱いて、令嬢に知らせようとしたのだが、 「なんで―――こんなところに―――」  令嬢はいつの間にか彼の傍らに立って、水底の影を眺めやっていたのだった。 「何故……。  まさか、私たちを、見届けに?」  声音に嫌悪が浮かんでいたのは、築宮としても同感できたが、なにか含みのあるその言葉が不審で、覗きこんだ横顔の眸が―――  ただ水路の影を映したとは思えないほど、昏《くら》くて、感情を失っていて、これが先程まで情を交わしていた娘なのかと、築宮をして愕然とさせるほどで。 「君は、あれがなんだか、知っているんですか?」  ―――だが令嬢は、築宮の問いには答えず、ただ彼に、急いで〈身繕〉《みづくろ》いするように告げるのみ。彼女もまた性急に、女の着付けというものを簡単に見せてしまうくらいに素早く振袖をまとい直し、〈酒肴〉《しゅこう》の盆を片づける。  その手早さ、築宮になにか口を挟むことを差し控えさせる真剣さがあって、だからこの夜の情感溢れる蛍狩りを台無しにするくらいの慌ただしさで座敷を離れた時も、青年にはなにか言う勇気はなかった。  ……そもそも蛍からして消え失せていたのではあるが。  令嬢は帰りの道筋を、わざわざ遠回りに旅籠の上の階層、水路が見えない廊下に替えたのは、あの『影』を厭《いと》うからである事は明らかだった。 『影』は二人が水路沿いの通路を離れるまで、水底を〈追随〉《ついずい》してきたのである。  築宮とてこれまで旅籠の中で色々の不思議を目にしてきていたが、しかしあの『影』はどこかそれらとは異質のものであるような印象を抱いた。  まだ鼻孔の奥にあの異臭が残っているようであり、せっかく深く吸いこみ、肌にも〈馴染〉《なじ》ませたと思った令嬢の香りも〈駆逐〉《くちく》されてしまっている。  そしてその令嬢も―――  蛍の座敷を後にしてからこちら、石のように押し黙ったままなのであった。  彼女には沈黙はむしろ似合いの美徳とは言え、この無言は質が違う。  硬くて、息苦しくて、拒絶するような。  長い廊下は電燈が通じた区域に差しかかっており、提灯に頼らなければならない程の闇はなかったけれど、もしそうでなかったら、沈黙と闇の圧力に耐えかね、築宮は〈頑是〉《がんぜ》なく令嬢に当たり散らしていた可能性さえあった。  せっかく、こんな静かな夜更けに、〈情緒纏綿〉《じょうちょてんめん》とした旅籠の片隅を、振り袖姿もたおやかな、綺麗な娘と道行きを伴にしているというのに、この浮かない気分はなんなのだろう。  ……とてもではないが、つい先程まで、男女の営みに耽《ふけ》った相手とは思えないほどの醒《さ》めようなので。  それゆえ、帰りの道筋の居心地の悪さといったらなく、あの幻想的な蛍舞いも、甘美な酒のような情事も、全ては夢か己の勘違いなのではないかと抱きはじめた疑いを、結局令嬢は晴らしてくれもせぬまま、廊下は築宮の座敷の辺りまで差しかかった。  自分の座敷の框《かまち》をまたぐ時にはもう築宮は、令嬢の無言からも歩み行く廊下の軋みからも解放されることさえもが喜ばしく思えてしまうくらい、気分は淵に投げ入れられた重石の如く沈みきっており、後は部屋の外の水路に沈めたままの酒を一息にあおって寝るばかりと捨て鉢になっていた、そこへ、 「あの……」  腕を後ろから、そっと掴んできた手、ただこれを邪険に振り払ってしまえるほど、築宮は冷たい人間ではなかった。  どちらかというと、令嬢がようやく口をきいてくれた喜びの方が大きく、この夜の最後に彼女の声が聞けたなら、まあ最悪の幕引きは避けられたかと安堵してしまったあたりからして、彼はやはり人が好い。  それでも令嬢の眼差しと声は、どうしたってふるわないのであり、青年の方からなにか言うのは憚られた。  令嬢の方も、彼がなにを聞きたいのかは承知と思しく、切り出したのはやはり、あの『影』の事――― 「お訊きになりたいのは、きっとあの水路の影のことですよね……」 「それは、まあ……そうだけれど」 「―――あれは『ニゴリ』というモノなのですが、貴方はあまりお気になされぬように」 「『ニゴリ』……?」  なるほど、舌に転がせばあのモノを呼ぶのにいかにも相応しい、濁って暗く、人外めいた響きだった。  ただその呼び名だけ伝えて、それ以上の由来は語らず、令嬢は一時じっと築宮を見つめたが、それは、この夜のおしまいに、彼に寄り添い抱きしめ合おうかどうかの迷いにたゆたうような、物思わしげな面差しの。  けれど令嬢は、今晩はもう築宮に触れることなく、振袖の袂《たもと》を揺らすばかりにして、静かに身を引いたのだった。  別れの挨拶に、深く一礼してから、 「それから、築宮さま。  記憶のこと、これからの行く末のこと。  どうしても心が定まらないようでしたら」  青年は、彼女がいきなりなにを言い出すのかと〈物怪顔〉《もっけがお》になったが、そういえば自分はそんな悩みに心を腐らせていたなと、他人事のように思い出す。  なにしろ今夜は、そんな苦悩を押し流してしまう出来事が、色々と重なりすぎた。 「あのひとに―――『渡し守』に相談なさってみてはいかが」 「渡し守に、か……たしかにあの人に相談してみるのも、一つのやり方かも知れないな」  頷いた築宮に、令嬢も〈一揖〉《いちゆう》して、それで今夜の二人は〈左様〉《さよう》ならを迎える。  ……自分の座敷にいったん引っこんだ後、築宮はすぐさまこっそりと廊下を覗き見したのは、本当に蛍座敷での一幕が夢ではなかったか、令嬢などそばにいなかったのではないかと自分の認識が頼りなくなったからだが。  令嬢は、〈提灯〉《ちょうちん》と〈酒肴〉《しゅこう》の〈岡持〉《おかもち》を提げて廊下の奥に小さくなっていくところの、振袖の帯も袂《たもと》も匂びやかなのに、明かりの消えた〈提灯〉《ちょうちん》のせいか、どこか侘《わ》びしく、肩口がなにかの心労によりほっそりとしなうようにさえ思えて、築宮は駆け寄って抱きしめたくなったが、もうそれがしてやれる間合いからも遠ざかっていた。  そして青年は、その夜床についてからも、令嬢の柔肌の記憶と水底の怪異と、そしてやはり、自分がこれからどうするべきなのかとの想いに悩まされ、なかなか眠つけずに〈輾転反側〉《てんてんはんそく》したという。  ―――明くる朝―――  座敷で一人摂った朝食は、いつもと同じくらい美味しいのは間違いないはずなのに、偽の具材で形だけ似せてこしらえたように、味気なく感じられた。  といって築宮に対してそんな悪戯を仕掛けようなぞいう暇なお手伝いさんが実際にいるとは考えられず、やはり気の持ちようという、それだ。  良い考えは朝の光が運んでくる、などとはどこかで聞いたような格言だが、実際のところ起きがけの血の巡りの鈍い頭では思考はろくに働かず、築宮がまず思ったのは、そうだ、渡し守のところに行こうというものだったが、それも彼の中から湧いて出た閃《ひらめ》きでなく、昨夜令嬢にも〈示唆〉《しさ》されたもの。  ……まあ、その一事ばかりを考えていたせいで、舌が朝食の味を噛み分けなかったのかも知れない。  そもそもからして、自分をここに連れてきたのはあの渡し守だ。今しばらくここに留まるにせよ、あるいはすぐさま発つにせよ、彼女と会って、渡りをつけておくべきだろう。  とにかく、銀の懐中時計のぜんまいを巻き上げると、築宮は渡し守の姿を求めて部屋を出た、が、彼女の居場所というのは客を水路渡しに旅籠のあちこちを転々として定まらず、お手伝いさんに訊ねても、 「さあ……今日は見てませんねえ」  の由で、まあ船着き場か大河に突き出した桟橋で会えるだろうと、深くは考えずに足を運んだのだが。  あては虚しく外れて、そうなると水面を吹き抜ける微風までもうら寂しく、それでも築宮は待てば来る来る〈愛染桂〉《あいせんかつら》と、古い映画に習ったでもないが〈暢気〉《のんき》に汀《みぎわ》に腰下ろして、たぷ、とぷと緩慢な拍子でさざ波を寄せる水面を眺めて待つこと、どれくらいに及んだのか、漕ぎ出す船もないのに身体が大きく漕いで、危うく頭からずぶ潜りしそうになった。  やはり昨夜なかなか寝つけなかったのが祟っていたようで、今の間抜けな姿を誰かに見られなかったかと〈憮然〉《ぶぜん》と見回したが、彼に注意を払っている者はいなかったけれど、やはり渡し守の姿も見えなかった。  今日は諦めるかと考えないでもなかったけれど、そういう薄弱な意志だから水路に落ちそうになるのだと、軽く頬を叩いて性根を据え直し、もう一度旅籠の中を探してみるかと立ち上がる。  それで午前中一杯、あちらの水路こちらの水路と、餌をほじくる水鳥の忙しなさで歩き回る築宮の姿が旅籠のあちこちで散見されたのだが、とうとう彼が渡し守の小舟と行き会うことはなかった。  これも巡り合わせかと、水路に端に腰かけて上履きと靴下を脱ぎ、いい加減くたびれてきた足を流れに浸して嘆息する。  歩くことには随分慣れたつもりだけれども、今日に限っては身体のあちこちに血が澱《よど》み、筋に鈍痛が残っている。  なんでだろうと原因を探って、途端に築宮は赤面した。  決まっているではないか。  昨夜、使い慣れない筋肉を酷使したせいだ。  一体なんでと我が身に問うも愚か、というかいたたまれなくなるというか、自分は令嬢を相手にどんな夜を過ごしたのだ、という。  やはり今日は、渡し守と見《まみ》えるのに脈なしかとまた思いはじめていたところだったが、上履きを履き直して、築宮はまた彼女を捜し始める。  なんだか意固地になっているのかもしれないが、それならそれでよし。  夜には酒を啖《くら》って、女に耽って、では日中何をしていたのだと思い返した時、人捜しをさっさと諦めて、日が暮れるのを待っていたばかりでしたと句点をつけるより、少しばかり意地長けて歩き回っていた方が、まだお天道様に申し開きがたつというものだ。  それに、そうやって身体を疲れさせれば、少なくとも今夜はよく眠れることだろう。  と、そんな風に、こうなったら暗くなるまで捜し回ってやろうぞと埒《らち》もない覚悟を固めていたものだから、捜す起点を船着き場に決めて戻ってきた時に、築宮いささか拍子抜けの感を味わうことになった。 「やあ旦那……なんやら息せき切らしているご様子だが」 「まずは喉湿しに、一口いかがだね?」  ……いつすれ違いになったものだか、渡し守は船着き場に小舟を漕ぎ寄せていて、ばかりか上機嫌で青年へ愛用の瓢《ひさご》を振ってみせたことである。  どうやら昼間から、聞こし召しているらしいが、酒と女という、先程自らに戒めた組み合わせを捜しあぐねていた渡し守に見て、築宮はいわく微妙な顔になった次第で。 「まあ、まずはお座りな、ね。  船が揺れっちまいます」  擦り切れ加減ではあるが、よく乾いて不潔感はない座布団に腰を下ろす築宮を、渡し守は生身の目の方を細めて見やり、人懐こい微笑みを浮かべた。  その渡し守だが、長火鉢にもたれかかって〈瓢箪〉《ひさご》の酒を〈手酌酒〉《てじゃくざけ》。座布団を何枚か並べた上に長くなり、墨染めの衣の褄《つま》も徒《あだ》にはだけてある。  長火鉢は一名『〈無精炉〉《ぶしょうろ》』とは呼んだものだが、猫板に〈肱枕〉《ひじまくら》した姿は、実際〈怠惰〉《たいだ》な雌猫が化けたかの、それも海千山千で尻尾が割けたような、だ。 「……お邪魔します」  対して築宮は、かっちり揃えた膝元に手を置いて頭を下げて格式張ったのが、彼らしいというか。  これで胴の間には障子戸の替わりに太い格子が嵌っていようものなら、〈牢名主〉《ろうなぬし》に新入りがびくびくものでお目見えの挨拶に参った情景だが、築宮は胴の間に落ち着いて、彼なりにほっとくつろいだ気持ちになっていたという。  なにかというと冗談のように広大な空間を見せつける旅籠の景色は、それはそれで奇観で驚異だが、打ち続けば気疲れも溜まる。  腰を下ろした胴の間は、彼の座敷よりまだ手狭ではあったけれど、それゆえ隠れ家に引っこんだような安心を得る築宮である。 「それで、本日はなんの御用で?」 「それなんですが……」 「……うん? あれえ……?」  なにから切りだしたものか、言い淀《よど》んでいる築宮をのんびり迫らぬ姿勢で見守る渡し守だったが、なにごとか気づいたように小首を傾げた。  長火鉢から身を離すと、手と膝で青年のそばまでにじり寄ったのが、やはり猫のような、おもむろに〈襯衣〉《シャツ》の胸元へ鼻先を寄せてすんすんすん、匂いを嗅いでみせたのには築宮、当惑した。  ひとしきり嗅ぎ分けて、上げた顔は興がる風なほくそ笑みの。 「あれえ、旦那……?」 「なんです、いきなり。  もしかして、汗くさいかな。  午前中、ずっと歩いてたから」 「いえね、そういうんじゃなく。  なんか、いい匂いがしてますよ」 「ははあ。  ……なんぞいいコトをしましたね?  うっふっふ、旦那も隅に置けねえやな」 「いい……!?」  渡し守がなにを感じ取ったのかに思い当たり、築宮は彼女から反射的に身を遠ざけようとのけぞりつつ、自分の襟元の匂いを確かめる―――いくらか汗がついているが、昨夜のことを〈示唆〉《しさ》するような余計な香りは残っていない……はずだと思うけれどなのに何故この人は見抜いたのかと、築宮のこめかみに一粒焦りの汗が湧く。 「お相手は、どなたなんだろうかねえ。  気のいいお手伝いさんあたりと、仲良しになりましたかい? それとも……」  これで追求が、たとえば彼女が横顔向けて、割れ面の鬼女の相だけぐいぐい突きつけられての〈難詰〉《なんきつ》なら、築宮も逆に意固地になって口を噤《つぐ》んだのだろうが、渡し守ははじめから機嫌良さげな、〈艶冶〉《えんや》な唇には酒の香を噛んで、息も間近にかかるくらい。  悪さを問い詰めるでなく、弟がようやく女に開眼しつつあるのを興味と親身を半々にして見守る姉のような味わいの心安さがある。  こういう風な搦《から》め手ですり寄られると、無下には突き放しづらく、いよいよ答えに窮する築宮を、しかし渡し守はそれ以上は問い詰めなかった。 「いやその、ははは……」  ……というより、敢えて訊かずとも、事情を心得ていた風さえあり、この女の勘の良さが空恐ろしくなった築宮は、わざらしい笑みで誤魔化すしかなかった。 「ま、よござんしょ。  深くは訊かんでおこう」 「と、まあ、これで気分もほぐれたところで、改めて、なんの用でしょうかね、旦那」  どこからどこまでが遊びで本気なのか怪しい渡し守だったけれど、築宮の緊張が和らいだのも事実で、あれこれ前置きするより、まずは訊きたい事言いたい事をはっきりさせようと、単刀直入に訊ねた。 「それなんですが―――  まずは、渡しのことです」 「今一度確かめておきたいんだが、  俺が頼めば……例えば今にでも、  舟を川向こうに出してくれるんですね?」  切り口上気味の問いに、渡し守は不審そうに青年を打ち眺め、 「はあ……まあ、  そりゃようござんすがね。  でもこないだとは、ちっと様子が違やしませんか」  先だってのこと、渡し守が桟橋で〈髑髏〉《どくろ》を釣り上げた日の事、あの時の築宮は、「すぐには旅籠を発つつもりはない」ときっぱり告げたではないかと。  全くもって渡し守の言う通りなのではあるが、あの日から築宮の心境も幾分の変化を迎えており、手放しで長逗留を続ける事へいささか抵抗が生まれ始めていたのである。 「つまり旦那、もうここでのご静養に飽いちまったんですかい?  お宿の暮らしに、満足いかないことでもおありなさるのかえ?」  また長火鉢に半身を預けて、よこした眼差しは物問いたげなのであったろうが、その目元が、あくまで酒精が刷《は》いたものとはいえ薄紅色では、思わせぶりな含みを持たせているようで、どう説明したものかと言葉をまとめている築宮を落ち着かなくさせる。  それだけでなく横座りに〈蹴出〉《けだ》した脹《ふく》ら脛《はぎ》もだ、すらりと形佳く、それが身じろぎするたびにちらちらと、大きく裾を割るのがどうしても目に福というか毒というか。 「そうじゃない、そういう訳じゃないんです……ただなんというのか……」 「この宿は、とても良いところだと思う。  それは確かだ―――けれど、その居心地がいいのに甘えて」 「ただのんべんだらりと日を過ごしてしまうのは、どうにもいけない」 「記憶の事だって、俺はこのままだとなおざりにしてしまいそうで」 「だったら、場所を変えてでも、  もっとしっかり〈恢復〉《かいふく》に務めるべきなのじゃないかと」  もともと胸の裡《うち》にわだかまっているのが、はっきりと形にならない焦燥感だけに、言葉で想いが伝わっているかどうか、どうにも自信がない。 「ふむ……」  どうにもつかみどころのない釈明ではあったが、真剣なのは感じ取ったのか、渡し守は茶化したりせずに一々頷いて、しばし沈思黙考の形で、かます(煙草入れ)から銀煙管へ刻みを詰めた。  火を着けて、薫煙を深く肺に落としながら、 「……どうにも生真面目なお人だ、旦那も。  べぇつにどこのどいつが、  あなたを責めたわけでもござりますまい」 「それでもただ居食いしているのは、いたたまれないと、こうおっしゃる」 「まあ、そういうことです」 「なるほど……」  紫煙を細く吹き流す、軽くすぼめた唇が〈婀娜〉《あだ》な、細く流した煙の筋も、一時胴の間にゆらゆらたなびいて風雅なかたちを為した。  化け貝の吐息が海に蜃気楼を呼ぶとも言う。  割れ般若の面に、すっかり順応している築宮ではあったが、この異相の女なら煙草の煙を操って霊妙な幻を描き出すくらいは平気でやってのけそうだと、煙の流れに気を取られまいとする。 「……そりゃあたしは、旦那のお頼みとあらば、いつだって舟くらい出しますがね。  造作もねえことさ」  ただ―――見たところ、前のことをいくらかでも、想い出せたのじゃないご様子だと腕組みして独りごちる、どうやら渡し守は、築宮の言葉を性急に解釈して、すぐさま櫂を取ろうと言うつもりはないようだった。  何服かを重ねて刻み煙草を灰にして、新しいのを詰め替えながらの言葉は、青年を諭すものである。 「そんな空っぽのおつむで―――失礼、口が滑った―――とにかく、自分の在所も、しかとは定まらんその体で、浮き世に戻ったって、これぁどうもならんでしょう」 「そりゃ、そうなんだが……」  彼女の言う通りで、よし旅籠を出たところで、記憶が蘇るという保証などどこにもないのである。それどころか、新たに降り立った町にも見覚えがなかったとして、そこが真実初めてのところなのか、かつて自分と関わりがあったのに思い出せていないだけなのか、どう判別をつけるのだ、という。 「まずは旦那、ご自分の記憶を、欠片なりとも思い出すまでは、もうちっと体を休めたって罰は当たりませんよ」  渡し守の言葉は一々もっともであり、築宮は自分がやくたいもなく駄々をこねている子供であるかのような気分に陥る。  とはいえ、記憶を取り戻すといっても、その方策もわからない。旅籠の中には予想外の施設もあるようだが、それでも脳病院や医者までは揃っていないだろう。  しかし、待てよ……? と築宮は危ぶんだ。 「もしかして……」 「なんです」 「なんぼこの旅籠といったって、ありませんよね……脳病院。  たとえば拘束台に手足戒められて」 「電気当てられて、びりびりびり……、  ですかい?」 「あるんですか!?」 「いや、さすがにそこまでは」  ……二人の頭上を、晒された〈帆布〉《カンバス》のように白茶けた空気がふわふわりと周遊した。 「……電撃治療なんて、またあなたも恐ろしいものを知っている……」 「旦那こそ、脳病院なんてな、  また滅多な言葉をご存じで」 「ともかく、問題はそれじゃない。  宿の人たちも、そしてあなたも」 「みんなが優しい、  皆俺に、なにも気にせず、  まずは身体を休めなさいと言ってくれる」 「けれど―――!」  身体の方は充分に癒された、というよりはっきりと体力を持て余しており、あるいはそれが為の鬱屈なのかも知れなかった。  青年は腹の底から突如として噴出してきた、激情を伴った力に蹴り出されるように腰を浮かせ、膝立ちで渡し守へにじり寄る。 「ただ休んだままでいいんだろうか、俺は」  それは安逸に浸ったままでは、果てしなく堕落していきそうだという、生真面目ではあったがある意味臆病な恐れの表れだった。  うっかりすっくと立ち上がれば天井板をぶち破って、屋根から頭頂が筍《たけのこ》のように突き出しそうな築宮の上背と胴の間の低さであるからして、膝立ちでも渡し守には見越し入道に覆い被さられるようであったろう。  けれど女は慌てず、 「ああ、まずは腰を据えておいでよ、  旦那ってば」 「しかし! ……っぁ?」  色褪《あ》せた畳に繰り出した膝頭の下が、のめりこむ感覚があった。なにも古い畳でちっぽけな舟だからと、畳床が傷んで舟底まで突き抜けそうになったのではない。  築宮は我が事に〈拘泥〉《こうでい》するあまり、自分がいるのが舟の胴の間という事が見えなくなって、しっかりと〈根太〉《ねだ》のある陸の部屋の勘定でいたのである。  下手に騒げば、たちまち揺らぐ小舟の中だという前提を、すっかり失念していたのだ。 「……っと!?  うあ……っ!」  衝いた膝が抜けそうな危うさに、慌てて引っこめようとしたのだが、折悪しく寄せ波でも来たのらしい。  築宮が騒いで傾いだところへ更に波の揺れが被さって、小舟は大いに動揺した。ほとんど寝そべる体だった渡し守はともかく、膝立ちという不安定なかたちだった築宮にはひとたまりもない。掴んで支えようとした指先は、寸前で障子戸に届かず宙に弧線、体は大きく前にのめった。 「うわ、わぁ!」 「ひゃあっ」  船端で水が弾け、起き上がり小法師のように揺らいだ小舟は程なく収まったけれど、胴の間の中では――― 「う……む……?」 「……こぉら。  だから、落ち着きねぇと言ったのサ。  舟ン中じゃあ、船頭の言う事聞かんと、  どうなったって文句は言えませんぜ?」  近しすぎて、目の前を塞ぐような白と黒がなんなのか、ちょっとの間、築宮には判らなかったのだが―――ただ、頬が埋まるような柔らかさが、甘さを含んだ香りが、なにやら恐ろしい予感をもたらした。  もういっそこの柔らかさと香りの中に鼻先を押し当てなにも見ずにいたかったけれど、そうも言っていられず怖々顔を上げれば、 「……大丈夫とは思いますがね、  どこぞ傷めたところ、ありませんね?」  ―――同じような台詞をどこかで聞いた。  ああそうか、あの図書室、あの時だ。  脚立から転がり落ちた時、司書女史の胸の中に受け止められた時。  ―――そして体勢も、殆ど同じなのだった。  築宮は、渡し守をしたたかに押し倒し、その乳房の中に顔を埋めていたのである。  もがいた弾みか墨染めの衣の〈前身頃〉《まえみごろ》は大きくはだけ、艶麗な円みはほぼ剥き出しの、襟元などは辛うじて乳房の頂で引っかかっている有り様で。  築宮の頬から血の気が、音を立てて引いていったことである。 「あ……わ、お、俺、こんな……、  とんでもない、無礼な……っ」  先程までの〈憤懣〉《ふんまん》などどこへやら、もうとにかく身を離し、渡し守に土下座でもしなければ収まるまいとひたすらに〈周章狼狽〉《しゅうしょうろうばい》なのだが、突然のことで身体は硬直してあり、思考に全然ついてこない。  それどころか下手に身あがきすると、余計に乳房のあわいに顔どころか、体ごとめりこませてしまいそうな塩梅で、いよいよ進退窮まって築宮、これは舌でも噛むしかないか、とまでいきなり自殺モノの危機である。  いくらあの優しい渡し守が相手とは言え、物事には限度があり、事故だったとは言えそれを引き起こしたのは自分である。  今まで得ていた知遇もこれきりで、彼女の小舟の碇にくくりつけられ、大河に投げこまれて魚の餌にされたって文句は言えない。 「まったく……。  だから、舟の中で急に動くもんじゃありませんよ、と」  しかし、築宮の危惧と想像を越えて、渡し守は優しかった。  言葉を刃代わりに〈糾弾〉《きゅうだん》して当然の声が、柔らかに窘《たしな》めるばかりで優しかったし、〈天譴〉《てんけん》として、憤怒に〈頬桁〉《ほおげた》を叩きつけて陥没させたはずの手は、しかし拳を握りもせず、青年の背なをぽんぽんとあやして優しかった。  ひたすらに〈恐懼〉《きょうく》し、石灯籠のように硬直させていた体が、穏やかな拍子の手のひら打ちで少しずつ緩んできた、けれどやっぱり身を起こせないのは、今度は〈氷柱〉《つらら》を溶かすように渡し守の肌の温もりが伝わってきたから。  物のはずみとはいえ怪しからん風にまつわりついてきた自分を、割れ面の女は突き放しもせず受け止めたままに、慈しみの心映えさえ寄せて、こうして抱かれていなさい―――優しい手がそう許していて、青年は渡し守に身を委ねた。 「……焦りたくもなる、そのお気持ちもわからんでもないですが―――ほんとに、なんにも想い出せていないんですか?」  声は、青年を心地よくくすぐるよう振動となって、頬を埋めたふっくらした乳房から伝わった。問いかける声も、かき抱いてくれる腕も、受け止める乳房も柔らかで、そのかんばせだって恐ろしい般若の割れ面を被ったままだけれど、それだけに生身の面の優しさがかえって際立つかのようだ。  彼女の腕を振り解くのは野暮に思えるほどで、その胸に体を預けたまま、築宮はなかば陶然となってぼんやり考える。  ……心の水面に浮かぶんできたのは、ひどく曖昧で、面影とさえ言えない、厳格なのにそれでいて愛情を感じさせる、あの女性のイメージだった。 「全く思い出さない、って事はないんです。  折にふれ、なにか弾みでふと思い浮かぶ顔がある―――」 「誰か、わからないが女の人です」 「……その人を、好いていたので?」  迂遠な言い回しを排した、〈直截〉《ちょくせつ》な言葉で訊かれ、築宮は脳裏のその人へ想いを凝らしてみたのだが、好き・嫌いの単純な次元で割り切れる感情とは異なるようだった。 「それも、わからない。  けれど、きっと良かれ悪しかれ、自分にとっては重い意味のある人だと思う」 「ああ、その人のことだけじゃないんだ。  俺の心を乱すのは」 「この旅籠にいると、ふとした拍子に既視感を抱くことがある」 「自分はこの場所を確かに知っているって言う―――はじめは気のせい、で済ましてしまおうとしたんだが、何度も何度も同じ気持ちに襲われる」  訪れたばかりの頃は青年も、旅籠の情景に圧倒されるばかりでそんな余裕はなかったけれど、いつしか折々に心の隙間から滲み出すようになった、その想い。  長い通廊からふと認めた座敷の連なりの様子、散策の途中に目にした些細な置物、あるいは歩き疲れて水路にしゃがみこみ、手を水に浸したときのその感覚、それらはただ古めかしく懐の深い建物が匂わせる郷愁や、仮の宿りであるという意識がもたらす切ない旅愁とは異なって、自分がこの旅籠を知っていたのではないかと築宮をたびたび悩ましめた。  これだけの強い印象を刻みこむ旅籠だ、一度でも足を踏み入れたなら、けして忘れる事などできまいと自分に言い聞かせつつも、『知っていたのではないか』という疑問は心から消し去る事ができず――― 「そうだ、あなたに訊きたい。  俺はかつて、この旅籠に来たことがあるんじゃないのか?」 「あなたは、それを覚えていないか?  以前にも、俺をこの旅籠に渡してくれたことがあるんじゃないんですか……?」  墨染めの衣は着古され、かつては香が焚きしめられていたとしてもすっかり失せて、ただ彼女の肌の匂いばかりを移らせた、青年はそれをまるで母の肌着の感触を慕う乳飲み子のように吸いこみつつ、囁き声で問い質す。 「……残念ながら。それこそ記憶が定かじゃない、ってやつで。  これまで、何人も何人も、数えきれないくらいのお客を渡しましたんでね」 「けれども―――」  と、なにやらの心当たりがありそうな台詞の切り方に、常の築宮なら早く続きをと、待ちきれず促したろうが、敢えてそうして、自分を包みこむこの温もりを乱すのが惜しいような気がして、彼女の方から続けてくれるのを、大人しく待ち受けた。 「旦那が来たことがあるかも知れない、ておっしゃるなら、そういうことも、あるのかも知れませんよ」 「……あたしが失念してるだけで、さ。  だったら、それが手がかり……ってやつになりましょう」 「手がかり……?」  まだ、渡し守は主人公をかき抱いたままだ。  外界の物音はどこか遠く、眠気を誘うような静けさの胴の間でひたりと体を寄り添わせる二人を、水面のさざ波の僅かな振幅が揺り椅子のように揺らす。  もしかして気づかぬ間に、小舟は大河に漂いだし、揺られ揺られしながら霞《かすみ》の中に流されていって、今障子戸を開け放てば、乳を溶かしこんだような濃い靄《もや》の中、永遠に〈彷徨〉《さまよ》う事を運命づけられた自分達を見いだすことになるのではないか―――けれども、いい。この女なら、いい。  異様で奇妙な女であるけれど、彼女にこうして抱かれ、声を秘やかに囁き交わしていられるなら、〈無窮〉《むきゅう》の中、いつ終わるともしれぬ船路を共にしたって構わない―――築宮は渡し守の柔らかな胸の中で、そんな〈茫漠〉《ぼうばく》とした想念にからめとられそうになる。  それゆえ築宮の眼差しは、渡し守を眺めるうちにもだんだんと遠くへ惹きこまれるものになっていったのだが、渡し守はそんな彼の想いを、肌でも聴き分けようとしたのだろう。  より深く体を密着させ、胸に懐《だ》き留めるばかりか、脹《ふく》ら脛《はぎ》まで青年の足に擦り寄せ、絡めようとしているのであった。  そればかりか囁きかけながら、もっと色々いかがわしげな行為を仕掛けていたのだけれど、あまりにさり気なくだったので、青年はまだ気づいていないようだが。 「左様、手がかりでさ」 「このお宿を、もっと歩き回ってご覧《ろう》じろ。  誰かともっと、色々お話してみるがいい」 「そうするうちに、旦那が言ってた誰かのことを、もっと思い出すかも知れない」 「旦那が以前にも、ここへ来た感じするって言う、そのわけもわかるかもしれない」 「あんたがなにか感ずるところ、想い出しそうになるところを、あれこれ訊ねてごらんなさいまし」 「お医者みたいに確かなこたぁ言えませんがね、それがきっかけで、昔を思い出すかも知れませんわな」 「一つを思い出せたなら、それが弾みになって他のことを思い出すことだって、あるやも知れず―――」 「ただのんべんだらりと、日を過ごすことが我慢ならんのなら、そうやって気を張ってあちこち歩いてみるてぇのも、悪くはねェさ」 「……あたしに言われるまでもなく、  もうお試しになったってんなら、  こりゃあ野暮ですが」 「いや、そんなことは……」  築宮は、渡し守の言葉に自分の不覚を悟り、口ごもった。  確かにこれまで既視感を覚えた時も、深く掘り下げようとしたところで頭の奥に疼《うず》くような熱が籠もってしまい、それ以上踏みこもうとはしなかった。  もやもやと奥歯に物の挟まったような感覚は悩ましかったが、それを曖昧にしておいたのは自分なのだ。  ―――途中で、諦めてしまってはいなかったか?  だとすれば、築宮にはまだまだこの旅籠でやり残していることがあると言えるだろう。  実際このように記憶が回復しないままに外界に戻ったところで、どこに行けばいいのかさえもわからない。それならば、渡し守が示してくれたやり方を試みる価値があるのではないか。彼女は頼めばいつだって舟を出してくれるという。だったら、まずはもう少し努力してからでもいいだろう。 「わかった。もう少し、試してみます。  あなたの教えてくれたやり方で。  運が良ければ思い出すかも知れない」 「それまでは、もう少しここに残ってみることにします」  ……と結局築宮が渡し守に相談持ちかけて得られた結論は、問題をすっぱり斬り分けるようにはいかず、進むどころか引き返しているかの有り様だが、時には一歩下がった方が、周りの景色がよく見えることもある。  それに、胸の裡《うち》を話すだけ話してみれば、少しだけさっぱりしたようにも思える。  令嬢相手にも同じような言葉を喋ったかも知れないが、ただ彼女が相手では、自分の不明や至らぬ点を恥じてしまいたくなる気持ちが勝り、こんな風に胸のつかえものを吐き出したようにはいかなかった。  ―――そこまで考えて、いや、勝手だな、と築宮は自分を戒める。  心なんて、気分なんて、その日のお天気や話す相手といった外的要因でたやすく揺れて変化するもの。  令嬢と渡し守では、話す勝手が違っただけで、どちらが相談相手として優れているかという優劣があるわけでは決してない。  それに令嬢は、やり方は異なれ素敵な慰めを与えてくれたではないかと、ついうっかり彼女の身体の感触を思い出してしまって、築宮は不甲斐なく狼狽えた。  だいたい、一人の女性に面と向かって相談持ちかけている時に、別の女性をそんな風に思い出すのは凄まじい非礼にも当たろう。  ことにこんな、ちょっと身じろぎしただけで、お互いの秘めやかな部分が触れ合ってしまいそうにもつれあっている時には。  時には!?  ―――築宮は、ようやく二人がどんな体勢になっているのか気づいて、仰天した。 「ええ、そうなさい。それがいい。  お嬢さんだって、旦那が逗留を延ばされるとあらば、喜びますよ」 「それは、ともかくとして、これは……っ」  なぜそんな好もしげに、令嬢のことを持ち出せるのか築宮には全く謎の、渡し守の下肢が〈臈長〉《ろうた》けた肌も露わに青年の両脚の間に潜りこんでいるとあっては。 「い、いつの間にこんナッ……」  語尾が裏返ってしまったのは、自分の手が渡し守の衣の前身頃の中にいつの間にか導かれて、彼女の〈脾腹〉《ひばら》のしっとりした肌触りに遊んであったから。  ちょっと手を動かせば、生の乳房に触れようかという。  ただ抱かれているだけならともかく、これで築宮が仰天しないはずがない。  おまけにこの暖かいのは、腿の付け根の辺りに被さって暖かいのは渡し守の手、それが淫靡に蠢《うごめ》いて、青年の下半身の〈尾籠〉《びろう》なところを悪戯しよう遊んでやろうと―――指の腹で撫で、手のひらを被せてはやや強めに、時に軽く、手の中で育っていく男のものの感触をじっくり味わうように……。 「その、俺……なんだか急に疚《やま》しくなってきました、離れます―――っ」  青年は、ひきつけたように渡し守の身体から身を起こそうとした。  ―――できなかった。  〈蛇性〉《じゃせい》の淫と言って、蛇が化生した女の〈深情〉《ふかなさ》けの恐ろしさを語った話があるが、あれなどは、相手が魔とはいえそこまで想われるのは、男として本懐ではないかと、情愛至上主義者ならそんな境地にも至れるのかも知れないけれども、築宮はそうもいかず、ましてこうやって、ちょうど白蛇のように絡みつかれているとあっては。  身じろぎすればするほど、お互いの、口では言えないが非常にわかりやすい箇所が一層密着していって。 「あん、いいじゃないですか旦那。  あたしだって、人の温みに触れていたい時だってござんす……あんたがお厭なら、話は別だけどさ……厭?」 「う……、厭とかそんなんじゃ……、  ち、違っ」  そこでそんな眸でそんな声で優しい力を籠めてくるのは卑怯、いやさ女の手練手管に卑怯も禁じ手もあったものではなく、築宮はこのまま流されてしまいたくなる理性に必死で手綱をかけて、 「厭というかその……勢いでこういうのはなんというかそのあの」 「なにも、男女の仲にならずともよい。  こうやってくっついているだけでも、とうても心地好うがす。  そんだけなら……そんなに気が引けないでしょう?」  それくらいならいいか、自分だって彼女と身体を寄り添わせているのが不思議に心地よかったではないかと、一瞬気を許しかけて築宮は、否、否と踏み留まる。  こうやって肌を合わせていれば、きっとそれだけでは収まらない、自分だって女の柔肌を求める情欲はあるのだと、昨夜これでもかと思い知らされた。 「それはそうなんですが、でもそのほら、なんというのかあのそのあの……っ、  あ、あなた酔っていらっしゃるっ!?」 「でも酔い心地のあたしを押してきたなぁ、  旦那じゃあござんせんか」 「ごめんなさい、あれは謝ります、だから」  突き飛ばさないように、かといって〈迂闊〉《うかつ》なところを中途半端な力で圧したのでは、渡し守に別の意図に取られると力の加減に苦心して、どうにかこうにか彼女の身体と隙間を開けたのほど、築宮にとってここ暫くなかったくらいの、莫大な精神集中を要求される苦行はなかった。  手と手がもつれて離れ、肌と肌、脚と脚もようやくほどけて、築宮は座布団の上に正座し直した時には、背をちんまり丸め、情けなくなるほど小さく見えたのだった。  ―――情痴ひとしきり、渡し守が苦笑しながら、それでも衣紋を整え前身頃を見苦しくない程度に合わせて肌を隠してくれたのに、築宮は心底ほっとしたという。 「やっぱり、記憶を無くしてたって、判りまさァ。  旦那が、しっかりと綺麗な躾を受けて育ったってことはね」 「すいません……」  しゅんと〈項垂〉《うなだ》れた、青年を見やる眼差しは、それでもどこか好もしげなのであった。  築宮とて、彼女の事が嫌いというのではなく、いったん溺れてしまったら底無しに堕ちてしまいそうな自分が怖かったのである。 「やれやれ、振られちまいましたか。  仕方ない、あたしはもう少し、呑み直そ」  青年にとって救いというか、あるいは惜しむべきなのか、〈瓢箪〉《ひさご》の栓を引き抜いた音と同じで、渡し守はからりと乾いて、さして未練もないようで、少なくとも気を悪くした様子はない。  ただこのまま一緒にいると、こっちの方が疚《やま》しい気分になるかも知れぬとそろそろ〈暇乞〉《いとまご》いしようとして、築宮はふと思い出した疑問のあり、渡し守へ訊ねてみる。 「そういや話は変わりますが、  昨夜変なモノを見た」 「『ニゴリ』……と彼女は言っていたが……なんなんです、アレは?」  それを聞いて、渡し守が片眉をひそめてみせたのが、彼女には珍しい、憂うような仕草だった。 「アレが出た―――?  旦那が、アレを見なさった?」 「……なにか、まずいことでも?」 「いや……ね。アレにはあまり関わり合いにならないがいい。  いつの頃からかアレが湧いたやらあたしも知らない」 「けれどアレはたぶん―――  よくないモノ、ですよ」  令嬢は害はないというたが、渡し守は不吉なもののように言う。食い違う言葉のどちらが正しいかは青年に判別する術はなく、それでも君子危うきになんとやらという。  そういう事であるのなら、あまり近づかない方がいいのだろう。もともと進んで関わる気持ちもないのであるが。 「まあ、せっかく二人でいたところへあんなモノ見て、災難でしたな。  お嬢さんにも、なにごともないといいんだが……」  どうやら築宮が口には出さずとも、二人が褥《しとね》を共にした時にそれを見たということに、渡し守の中では決定済みらしい。  その通りではあるのだが、そうと見透かされるのもなにやら癪《しゃく》で、言い返そうとして結局思いとどまった。  あまりむきになって否定するのは、令嬢に対して無礼なことなのではないかとも考えたのである。  ただ、渡し守の言葉に微かな不安を感じつつ、青年は旅籠の中へと戻っていく。  転がりゆく一つの車輪の中に輻《や》が幾本もあるように、物語というのも複数の相を持ち、それぞれの場面を展開させている。  築宮青年が、船着き場に寄せられた小舟の中で、渡し守の胸の中に倒れこんだのとほとんど同じ頃、旅籠の奥深くでは―――  旅籠の内部構造の全てに〈通暁〉《つうぎょう》している人物というのは、長い歴史を通しても伝説の中にすら滅多に見えず、世代世代において廃棄されたり忘れられたりする通廊や区域は多い(あの地下酒場のように)。それらの〈変遷〉《へんせん》を辿り検証するには、腕利きの人文学者の一個中隊が必要とされるだろう。  ともかく、いま令嬢が一人歩いているのが、そういう忘れられつつある通路の一つ。つつある、というのは、その通路は旅籠を管理する者たち、すなわち令嬢の一族のみが代々口伝えにして使ってきており、その一族が令嬢のみを残して絶えた今、彼女の後に続く者がいなければ、知る者とてなく失われる事になるだろうからで。  お手伝いさんさえも、この通路には立ち入った事はなく、噂に囁き交わすのみ。  通路は、そのほとんどが木造の長廊下であるところの旅籠の他とは大いに様相を異にして、一面を煉瓦で鎧って薄暗い、〈隧道〉《トンネル》のような、というよりまさしく〈隧道〉《トンネル》で、ここは地下なのである。  一人歩む令嬢の足元が〈煉瓦〉《レンガ》敷きを踏む音は、硬く長く響いて暗がりに吸いこまれ、彼女の孤影を強調する。  花の都なる〈巴里〉《パリ》の石畳の道は根が深く、故に行き交う人々の〈跫音〉《あしおと》は深く響くとか。人通り多い春の午後なら賑々しい声にかき消されるのだろうが、曰くありげな者が足早に行き過ぎるくらいの冬の夜更けなどは、さぞや〈悽愴〉《せいそう》の物寂しさを帯びて、〈跫音〉《あしおと》は長く尾を曳くのだろう。  この地下通路も煉瓦の層が幾重にも厚いようで、〈跫音〉《あしおと》は深く暗く残響した。  だが〈跫音〉《あしおと》より通路の果ての暗がりよりも、まだ昏《くら》く沈鬱なのが、令嬢の双眸なのである。  普段の、感情を気取らせない眼差しの方がましだと思わせるほど、伏し目がちの双眸はまるで底無しの孔。  足取りも注意してみれば、ともすれば止まりがちになるのを意志の力で押し出しているのが窺える。彼女をしてそこまでの気鬱に落としこむほどの、一体なにがこの先に待ち受けているというのか。  やがて、それまでは貯蔵庫や物置と思しき扉が散見されていたのも途絶え、〈煉瓦〉《レンガ》の壁ばかりとなった辺りで、令嬢は足を留めた。  彼女以外は通りかかる者とてない通路を、それでも前後の無人を確認してから、冬眠についた爬虫類の肌を想わせる暗い煉瓦壁に寄り添い、背中を預ける。  果たしてなにごとか―――と、後ろ手に〈煉瓦〉《レンガ》壁に指先を這わせ、操作する仕草。  ごぅ……ん、と内臓を振動させるような重い響きで、彼女が背を預けた一画に〈矩形〉《くけい》の線が走った。  重い〈煉瓦〉《レンガ》と硬く冷たい石が擦れる遠雷の音で、秘されていた扉がゆっくりと開きゆき、奥には巨獣が大口を開けたような、闇。  令嬢のか細い姿が、隠し扉の向こうの闇に呑みこまれていく様は、人知れぬ夜の果てでひっそり散りゆく花を思わせた。  暗がりの中に一つ点じられた〈角燈〉《ランタン》の灯りがおずおずと照らし出した、滑《ぬめ》やかに濡れた質感は、生き物の内臓の粘膜のそれであり、ならば令嬢は旧約聖書のヨナなる預言者の如く、巨獣の腹に呑みこまれてしまったとでもいうのか。  が、〈跫音〉《あしおと》は先程の〈隧道〉《トンネル》と同じく硬く響いて石か岩、つまりここは鍾乳洞なのだった。  歳月というのは不思議なものだ。地中に埋もれた生き物の体を石にするかと思えば、こうして岩壁に生き物めいた肌合いを与えたりもする。  令嬢の歩度と共に移動する光源の中に展開されていく内壁は、無機質の岩塊というより、指先で軽く突いただけで生命の息遣いを取り戻し、秘やかにうねりだしそうな、そんな危うさを秘めた均衡の中に停止した、生き物の胎内と言った方がよほど適当だろう。  ―――胎内洞。生物と無機物、双方の意味を併せ持つ呼び名が相応しい情景だった。  時の停止したような胎内洞は、より地下深くへと傾斜していき、地軸まで通じているのではないかと疑わしいほどの規模であり、洞内を構成する岩塊の質量は、閉所に弱い者なら一歩踏みこんだだけでも気死せしめてしまいそうに圧倒的な。  だが令嬢が、一歩一歩降りゆくにつれ、普段は凛《りん》と正面を見据えて歩む眼差しを、深い憂いに暗くし、沈鬱をたたえて伏し目がちにするのは、胎内洞の偉容を畏怖したから、というのではなさそうだった。  薄い肩は岩と闇の圧力よりもっと重い、運命という十字架を担がされたかのように、ますますほっそり儚《はかな》く哀しく、足取りは暗がりを慎重に進むと言うより、宿命という〈泥濘〉《でいねい》の中をもがき進むように重く―――  それなのに彼女を支えてやれるような伴《とも》はなく、ただ己の影と〈跫音〉《あしおと》のみを道連れにして、降りゆく地底、一人で、たった一人で。  ―――やがて彼女が立ち止まったのは、寺院でもまるごと収まりそうなほど、広大な闇の空間だった。  空間を埋めているのは、内臓に直接響いて平衡感覚をおかしくしそうな重低音と、水流の微かな轟《とどろ》き。おそらく旅籠を取り巻く大河の下方にあると思しく、轟《とどろ》きそれ自体は膨大な量を感じさせたが、遠くとらえどころがないのは、河底より更に地中深くに位置しているからだろう。  広間が闇の中に隠しているのは、溶け落ちそうになったまま制止したような鍾乳石が無数、生え伸びた〈石筍〉《せきじゅん》には鋭きもあり丸きもあり、中には〈屹立〉《きつりつ》する巨大な男根めいたのもあり、そして様々な造型を見せる内壁の起伏のあちこちに、豊麗な乳房めいた膨らみ。カンテラの灯りが差したところに浮かび上がる男性器と女性器じみた造型は、生き物めいた胎内洞の奥底でさらに重ね意匠のように、生命のサイクルの象徴じみた図を構成していたが、やはりそこに熱い血潮は通わず、森閑とした鉱物の沈黙を湛《たた》えて巨大な闇の中にしまいこまれてある。  床は、海綿のような柔らかな曲面の岩畳が幾重にも重なり合い、緩やかに傾斜していき、暗い水の中に沈みこんでそこから先は見えなくなっていた。  地の底の水面の、どれだけの深さを秘めているのか計り知れない暗さは、死と停滞を強く想起させ、澄んだ水が光無きゆえに暗いのではなく、とろりと粘度の濃い、闇そのものが凝ったような黒い液体が湧いているのではないか、とさえ。  令嬢はその暗い汀《みぎわ》まで降りゆくと、そこで〈角燈〉《カンテラ》を傍らに下ろし、肩にのしかかる重みについに耐えかねたように跪《ひざまづ》き、首を垂れたのが、神の前に引きだされた苦行者の様と異ならず。  そうして令嬢が跪《ひざまづ》いて〈幾許〉《いくばく》かの間―――   ―――待っていた―――    響いた声は、音源が捉えがたく、陰に籠もって滅に低く、闇そのものが発したのではないかと思われた。  令嬢の肩がぴくり、と強張り、彼女の前の暗い水面に波紋が湧いて、闇がより濃く凝縮されたような気配が〈蝟集〉《いしゅう》する。  と、見よ―――暗い水のあちこちから、更に濃い黒が、埃を喰らって生育するある種の茸のように膨れあがり、立ち上がる。水面に波面を重ねて。  それとともに、言い難い臭気も漂い出す。  築宮青年も嗅いだ、あの腐り落ちる寸前の果実の甘さと、鼻を使い物にならなくしそうな悪臭とが〈渾然〉《こんぜん》となった、脳髄を浸食していくかの臭い。  形容しがたい腐臭が濃くなる中に、湧き出でて、ぶわぶわと膨れたかと見れば収縮し、しっかりとした輪郭に定まりそうになった寸前で崩れては、を繰り返し、病んだ幻視者の悪夢の中にしか見いだし得ないような、流動し脈打つ、影よりも濃く濁った影、が幾つも幾つも、令嬢へと押し寄せて、〈囲繞〉《いにょう》した。  それは、それこそは何時かの夜お帳場に、あるいは築宮青年と令嬢が情雨に濡れて縺《もつ》れた、蛍狩りの座敷脇の水路へ現れた、あの正体不明の、『ニゴリ』と呼ばれる影の影だった。  令嬢は築宮青年に多くは語らなかったし、ましてそれらと関わりがあることなどおくびにものぼせなんだが、『ニゴリ』達は確かに告げたのだ―――『待っていた』と。  ならば令嬢とこの妖《あやかし》どもの繋がりは如何。  水面から湧きだした『ニゴリ』が、身を脈動させながら一斉に語りかけてくる。   ―――心は、決まったか?―――    問いかける声の中には、一応令嬢の心根を慮《おもんぱか》っているとも取れなくもない響きのものもあったが、それはたちまち他の声なき声によって圧殺された。   ―――『決まったか?』だと? 痴れたことを―――    冷笑的に。   ―――これの心は、我らの存念一つよ―――    傲慢に。   ―――拒める道理などないのさ―――    そして高圧的に、確たる形も輪郭も持たないくせ〈傲岸不遜〉《ごうがんふそん》な意志を〈臭気芬々〉《しゅうきふんぷん》と漲《みなぎ》らせ、大勢として令嬢の意志など眼中にないらしい。  けれどそれは令嬢自身、痛いくらいわかっていた事なのだ。それでも今回は、言い返さずにはいられないようだった。 「……どうして、あの人なのです……!?」 「他にも、この旅籠に留まっている殿方は、  たくさんいらしてるじゃないですか」 「その人達から選べばいい。  なのになぜ、よりにもよって、あの人なのです―――!?」  ニゴリ達にさざ波走り、暗がりの中で影の群は〈烏賊〉《いか》の墨で作られたプディングのように震えたが、しかし動揺したせいであるはずがなく、嘲笑の鳴動、令嬢を頭から〈虚仮〉《こけ》にしているによって。   ―――なにを不平がある―――   『ニゴリ』の一山の、影の肌の一部が隆起し、粘菌の成長を早回しにしたようにするする伸びた、といえば博物学的だが、その影の触手が令嬢の足首に絡みついた様は、肉屋の軒先に置かれて〈漿液〉《しょうえき》滲ませる生肉のように、剥き出しの卑猥さがあった。  ましてそれが、絡みついたばかりか、ゆっくりと、けれど抗いようのない力で引っぱったとあっては。  令嬢はそれでも抵抗しようとしたものの、跪《ひざまづ》いた形では自由が利かぬ、よろめき、たまらず落としてしまった腰に硬い岩畳、薄い肉に食いこむようで、痛みに食いしばった唇が、すぐに割り開かれて羞恥におののいた。 「や……め……っ」  無様に尻餅をついたといっても長めのスカートが脚に被さって、肌を隠した、ところがそのせめてもの慎みを嘲笑うかのように影の触手は布地の内側に潜りこむ。  たまりかねて掴もうとした触手は、掌の中で滑って留められやしない、ずるずると這い進むのみ。  令嬢にできることといったら、スカートの内側でのたくる触手のおぞましさに切ない呻き声を漏らすことだけ。 「うぅ……く―――!」  スカートの中の秘やかな暗がりにも、彼女の肌は儚く白いのだろう、ほっそりした腿の付け根には人目を拒んで隠された聖域があるのだろう。  影の触手は、そんな秘め置かれた肌と令嬢の羞じらいをことさら嘲るように、無遠慮にのたくり、うねり、ついには彼女の中心に辿り着き――― 「ひ……ぅ……っ」  唇は引き結ばれ、双眸も〈毅然〉《きぜん》と『ニゴリ』どもに据えられており、打ち見たところ普段の彼女の無表情を取り戻したかと思える。  けれどその実、鼻から押し出された吐息が哀れに細かったし、眼差しの水気が増して、涙の珠に結ばれる間際で、令嬢が精一杯の自制で悲鳴と涙を抑えているのが窺えるだろう。  ―――たとえ泣いても叫んでも、『ニゴリ』どもが自分を辱める手を緩めることなど有り得ないと、令嬢は哀しく理解していたのだ。  今までどれだけこうした凌辱を受けてきた事だろうか。  かつてはこらえきれず泣き叫んでしまった事もあるけれど、それで『ニゴリ』どもが責め止んでくれた事など一度たりともなく、むしろ〈煩悶〉《はんもん》を糧に、苛《さいな》む手をますます〈執拗〉《しつよう》にしたくらいだ。  悲鳴も涙も無駄でしかないと悟った上での、無表情の、そのいたましさ。  だがそうやって令嬢がせめてと抵抗し、〈矜持〉《きょうじ》を必死に残そうとしていることなど、『ニゴリ』どもにはさしたる問題ではないのだった。  彼女がどんな態度を取ろうとも、影は己の恣《ほしいまま》を無造作に為すばかりであり、令嬢の秘めた部分を覆い隠す下着に触手を押し当てたのも、いとも無遠慮で容赦がなかった。 「―――あ―――っ?」  ―――令嬢の顎先が、秘処を押しこんでくる感触にくん、と跳ね上がり、面差しはそれでもなお無表情を保っていたけれど、それは刺激が唐突すぎて感覚が置いていかれたせい。  無常な刺激が徐々に感覚に追いついてくるにつれ、眸の焦点がわずかにぶれ、眼差しに哀しい露が宿った。  それでも懸命に自分を抑える令嬢のスカートの裡側で、影の触手は蠢き続けて、   ―――ああ、匂うな――― ―――あの若造の、精の名残が―――    ……あまりの屈辱に、令嬢の手が強く握りこまれた。  無論彼女は青年との行為の後で身を浄めており、そこにそんな生々しい〈残滓〉《ざんし》などありはしない。 『ニゴリ』どもが嗅ぎ分けたのも、実際は性臭などではなく、築宮青年の生命の気配とでも言うべきものであったのだろうが、だからといって令嬢の悔しさ情けなさには変わりない。   ―――聞いたとおりだな……――― ―――抱かれたのだな、我らの命じたとおりに――― 「あなた達に、そう命じられたからじゃ、ありません―――」 ―――ならば、お前もまた、あの男を選んだと言うことだろう――― ―――ならば、なんの不満がある?――― 「くぅ……」  唇に指の節を噛んで声を殺したのは、心を言い当てられたからか、触手の陰湿な動きに耐えかねたからか。  嬲られるままでいるのについにこらえかね、身をよじり、逃れようとする令嬢の前で、『ニゴリ』どもは新たな触手を産み落とし、彼女へと這わせ、絡めとっていく。  腕で遠ざけようとすればその腕に、脚で蹴り離そうとすればその脚に、振り解こうと身悶えした肩に、腰に、後から後からおぞましやかに、果てしなく。  しまいに令嬢は、もうほとんど全身を触手に覆われて、かろうじて顔ばかりを覗ませた奇怪なオブジェになり果てた。  影の触手に拘束される悪寒と、強まっていく臭気とが令嬢の息を詰まらせ、思考力までも奪っていくかのようだ。  一体その影なる触手の下では、どれだけの凌辱と無残の限りが尽くされているのか。   ―――いずれにしても、お前の身体が、悦《よろこ》び咽《むせ》び啼《な》いたのは真《まこと》であろうが―――    巻きついた触手がざわざわと〈蠕動〉《ぜんどう》し、令嬢の首筋が粟粒を立ててひきつれる。   ―――我らは、せめてお前の意に添う相手を選んでやっているのではないか―――   ―――心を、許したくなっているのだろう、あの男に?―――   ―――あの若造の種であらば、孕《はら》んでもよかろうよ―――   ―――ここに閉塞し、先のことを思い煩うことすら忘れた凡骨の子を産むよりも、よほどお前にも望ましかろう―――    令嬢の、女としての崇高な力、子を為し産み育てる、女性のみが具えた力を、ただの機能と、自分達の都合通りに左右できる機能としかみなしていない、そんな倨傲に満ち満ちた声音だった。  囁かれたこの露骨な恥辱をこらえかね、抗うように『ニゴリ』に言い返す。 「けれど、もしそうなったとしても―――  その子は私とあの人の赤ちゃんなんかじゃない」 「私のお腹を借りて、  この旅籠に生まれ還ろうとしている、  あなた達じゃないですか……っ」  ―――それは、なんと冒涜的な企てであったろう。なんと人としての倫理にもとる企みであったろう。  女の腹に授かった、大切な生命に取り憑き、宿り、またこの世界に肉の重みを具えた体を取り戻そうという―――  しかし『ニゴリ』は令嬢の糾弾など、風が撫でたほども応えた様子もなく、   ―――それになんの不都合がある――― ―――我らが肉の体もって立ち返り、ここを立て直す――― ―――それに、なんの不都合がある―――    そして『ニゴリ』は、さも当然のように、息をするほど自然の権利のように、言い放つ。  令嬢の生など、彼女自身のものではなく、自分達の駒でしかないのだと、告げるのだ。   ―――そもそもお前は、その為に産み落とされ、生かされてきたのだ―――   ―――己の本分を忘れることこそ、おこがましいというものではないかな――― 「……まるで、生きた者のように、  物を言わないで」 「あなた方なんて……ここでしか、  私には、触れられないというのに」 「私には、生身の人間には、  その影の手足では、触れることすら、  かなわないというのに……っ」 「……ぃ!? ああ……ああっ」  苦鳴が令嬢の言葉を押し潰す。   ―――なるほど、このようにな―――    服の布地の裡側で、華奢な令嬢の背骨や骨盤、肋骨を撫でるように触手が蠢く。  実体とも非実体ともつかない、異様で生理的嫌悪感をこれでもかと煽《あお》る奇怪な感触を肌に擦りこんでいきながら。 「うぁ……やめ……とめ、て……」  唯一自由になる首を、切なげに打ち振り身悶えする令嬢の頬が、内側に火を灯したように薄く紅潮していく。  体の〈裡側〉《うちがわ》から弱火で溶かされていくかの如き苦悶が、令嬢を苛《さいな》む。  声音も切迫して、魂の脆《もろ》い部分に灼《や》けた爪を立てられ、じわじわ削られていくような。   ―――なるほど我らは、この胎内洞でしかお前には触れられぬよ―――   ―――お前が産み落とされたあの時の、血と羊水をたっぷり吸った、この闇の中でしか、な―――   ―――だから、なんだというのだ――― 「くぅ、放して、もう―――」  声が闇を振動させる、その振動が肌を這いずり回る触手の耐えがたい感触と同期して、令嬢の身体を狂った操り師の手になる人形のように震わせて。  薄い乳房が影が戒めたなりに、形が付く。  脚などは普段の彼女なら舌を噛み切りたくなるほど、淫らに割り開かれ、まくれあがるスカートと、その〈裡側〉《うちがわ》で蠢く触手の、たまらない淫猥さよ。   ―――触れることはかなわなくとも、我らは常にお前のそばにある―――   ―――結局お前は、我らと同じ一族なのだよ――― ―――我らなくしては、お前は生まれることさえもなかった――― ―――ゆめ、その事を忘れるな―――    どこにもない―――通じるところなど。  闇の中に月の光が雫となってしたたり落ちたかの令嬢と、〈汚穢〉《おわい》と生臭い欲望を煮詰めたような影なる『ニゴリ』に、繋がりを匂わすようなところなど微塵もない。  なのに令嬢を嬲り抜きながら、『ニゴリ』どもは戦勝宣言のように告げた言葉こそ、血の連なりという絆を示すものだったのである。  同じ一族である、という―――   ―――お前はあの男をここに留め、一族の血を繋ぐことのみを考えていれば、それでいい――   ―――お前とて、一族が絶え、この宿を守る者がいなくなってしまうことは、本意ではなかろうよ――― 「それは―――でも―――」  それまでも凌辱の襲波に晒されつつも、必死に守っていた心の芯が、『ニゴリ』の言葉で揺らいだかのように、眼差しを曇らせた。 『ニゴリ』どもは肉の体を玩弄するよりも、心の防壁を揺るがした事に満足を得たと見え、影の触手の拘束が、やっと緩む。  把握力を緩めた触手は、か細い肢体を黒い水銀のように滑り落ち、離れ、地底の水面に佇《たたず》む本体へと吸いこまれいき、後は岩畳の上で髪も服も傍若無人に乱され、息も絶え絶えに横たわる令嬢の姿が〈角燈〉《カンテラ》の明かりの中に残された。  力入らぬ手を、それでもどうにか岩床について気丈に身を起こす、振り絞られたなけなしの力で肩がふるふると、哀れにふるふると。  乱れた前髪に隠されて、顔のなかばは窺えず、それでも唇に屈辱と悔しさの歯形を残し、絞り出したのは静かで、けれど血の滴るように深い怒りの呟き。 「あなた達は、どうして―――  いつもそうなのですか」  聞こえていないのか、それとも黙殺したのか、影の群は答えず、水面に膨れあがらせていた形も、次第に密度を失い始めていた。  まるで令嬢の体と心を弄ぶだけ弄んで、歪んだ支配欲も一時のまどろみを得て、これ以上会話を続けることに興味を失ったと言わんばかりの無関心で、令嬢もそれ以上の糾弾の言葉は唇の内に押しこめるしかなく、〈悄然〉《しょうぜん》と首を垂れる。  ―――もっとも、彼女も『ニゴリ』どもとそれ以上の会話を交わすことなど、ひたすらに厭《いと》わしく、聞かせるつもりもない言葉だったのだが。 (私は……私が望んでいるのは……。  そんなことじゃないというのに) (あなた達には、永遠にわかりはしないでしょうよ……)  ―――『ニゴリ』どもが沈黙し、その気配が拡散していくのを感じ取り、令嬢は〈蹌踉〉《そうろう》と立ち上がる。  血管の隅々に真綿でも詰め込まれたように重い指先で、髪と衣服を最低限整えたのが、彼女なりのせめても〈矜持〉《きょうじ》だったろう。  影どもにいじり回され嘲弄され、体力などすっかりと消耗し、膝など藁《わら》のように崩れてしまいそうだが、それを気力だけで支えて、地底の湧水に背を向ける。  それでも最後に、   ―――せいぜいあの若造と、よろしく懇《ねんご》ろにすることだ―――    嘲るような言葉を投げつけられた時も、令嬢は行きとは逆の上りの傾斜を遡《さかのぼ》ることでなけなしの精力を磨り減らす、危うげな足取りで、答える言葉さえもなかった。  今彼女に手に必要なのは、闇をかえって圧倒的なものにする〈角燈〉《カンテラ》の光より、すがる杖なのではないかと危ぶまれるほどの頼りない足元で、岩の質量と『ニゴリ』どもの悪心に打ちひしがれているようにしか見えなかったが―――  振り返りもせぬその眼差しに宿る、かぎろいは。  昏《くら》く滾《たぎ》り、熔《と》けた岩のように熱く、密林の王のように獰猛なそのかぎろいは。  それは偽りの表情や陳腐な感情表現もしくは〈定型〉《パターン》化された行動様式を完膚無きまでに弔う弔鐘。  怒り―――あまりに高圧で、他者は愚か自分さえも容易く損ないかねないほどの、〈激越〉《げきえつ》で〈深甚〉《しんじん》たる〈瞋恚〉《しんい》。  それなのだ。  今彼女の、頽《くずお》れてしまいそうな脚を前に運んでいるのは、涙など滲む前に乾かして、眼差しに〈昂然〉《こうぜん》と前を見据える力を与えているのは、その怒り、〈瞋恚〉《しんい》なのだ。  もし今の彼女の前に立ちはだかる者あれば、その者は破滅を覚悟するであろうほどの。  皮肉、なのだろう。  常の令嬢からはうかがうこともできない、生のままの情念が、ここまで強烈な怒りのみによって醸成されているのは。  それともあるいは―――  それこそが、彼女の本質である、とでも?  いずれにせよ『ニゴリ』どもすら、立ち去る令嬢がどんな眼差しを浮かべているのか知らず、彼女の姿が闇の上方に沈んだ後でも、〈汚泥〉《おでい》が地熱に沸き立つような、くぐもった囁きを交わしていた。   ―――どう、なのであろうな。この度はなぜかあれも、どうにも聞き分けが悪い――― ―――なにを愚図っているのか―――   ―――他にも、手を打っておくべきでは?―――   ―――確かに――― ―――温かな血と肉には触れられない我らではあるが―――   ―――方策は、それなりにあるからな―――    ぐつぐつと煮えるような、不快にして傲慢な影どもの詮議、地の底闇の〈奥津城〉《おくつき》で、いつ果てるともなく。  水路の流れの中で無数の〈雲母〉《きらら》の小片が、せせらぎの音を背景楽としていつ終わるとも知れぬ〈旋舞〉《ピルエット》に興じてある。  〈手巾〉《ハンケチ》を濡らすため、流れに突き入れられた築宮の手は、雲母達から見れば天井をぶち破ってきた〈破城鎚〉《はじょうつい》にも比すべき巨大な〈闖入者〉《ちんにゅうしゃ》であったろうが、それに激突してダンスの輪から脱落するような〈粗忽者〉《そこつもの》はなく、皆青年の手の周りで華麗なターンを描いて避けてのけた。  築宮青年にしてみれば、額の汗を拭う涼のために水気を求めただけであり、自分の手が水中に展開されていた極微の舞踏会に対して〈不躾〉《ぶしつけ》な妨害行為を為したとは気づかぬままに、絞った〈手巾〉《ハンケチ》を瞼に被せたし、水流の乱れが収まるとともに雲母達もなにごともなかったかのように群舞を再開した。  かくて旅人は一時の清涼に鼻梁を弛緩させ、水路は変わらず流れて世は事も無し。  変わったと言えば、青年の心境くらいか。  小舟の胴の間の中で渡し守の忠言を受けてから数日。それまでは一日をどう過ごしたものか持て余していた築宮だが、あれ以来少なくとも時間の使い道に困ると言うことはなくなっていた。  と言って、やっているのはそれまでさして変わらずの、廊下から廊下を、座敷から座敷を渡り歩いての旅籠の道中。ただし意味は異なって、それまでが無為の散策なら、それからは手がかりを求めた探索であり、目的の有り無しは士気を大いに左右する。  なんの手がかり、と問うも愚か、彼の記憶を喚起してくれるような〈場処〉《ばしょ》、事物を求めての道行きだ。  築宮としても、直接自分の記憶に連なるような場処が旅籠の中にあるとまでは楽観視はしておらず、たとえば猫と獅子という二者を見た時、同時に類似する一方を想起するように、旅籠の中のとある景色が失われた記憶の中の情景と似通っていれば、それを〈契機〉《きっかけ》になにかしら思い出すものがないかと期待したのである。  余人が聞けば、雲を掴むようなと笑い飛ばすかも知れないが、少なくとも余人ならぬ築宮本人には突飛でも他愛ない空論でもない。  この数日のうち旅籠の中に、これは、と足を留めさせるような景色や風物を幾度か見いだしていたのだから―――  とはいえ、それらの景色も疾走の果てにゴールのテープを胸先で切るようにはいかず、後わずかなところで既視感は霞《かす》み、結局はなにも思い出せないままに終わっていたのだけれど、だからといってそれら一時の失意は、青菜にぶちまけた塩にはならず、築宮の熱意はいまだ衰えざる。  そもそも探索は、まだ始まったばかりなのである、この広大な旅籠の中で。  三・四日不首尾に終わったくらいで投げ出すのは、巻数幾冊を重ねた大河小説を、冒頭の数行どころか見返しの登場人物一覧を眺めただけで挫折するようなものと、それくらいは築宮も心得ている。  それに、そうやって気を張って歩いていると、これまでは看過していた実に色々の事物が、新鮮な興味をもって築宮を驚かせ、愉しませ、時には呆れさせ、とにかく退屈の流砂に脚を囚われることなど無かったのだ。 (あんな処に、あんなものがあるなんてな)  冷えた〈手巾〉《ハンケチ》に憩《いこ》わせる瞼の裏に浮かんでくるのは、たとえば―――  階《きざはし》の果ての一室まで、どの通廊や部屋とも繋がっていない、旅籠の下層部から上層部まで貫く長く狭苦しい螺旋階段。  行き着いた先は、無人の映写室……としか思われない階段状の部屋で、あちこちに貼られたポスターはまだ映画が銀幕と呼ばれていた頃のものばかり、映写室の機材もほとんど骨董品のような品々なのに、綺麗に手入れされて、上映を再開されるまで束の間の〈微睡〉《まどろ》みに休んでいるだけのような。  あるいは、迷路のように入り組んで薄暗い水路の一画に設けられた、水車の部屋。木造の歯車と組み合わせられた杵は、大黒柱ほどもあって、挽《ひ》く粉もないというのに、石臼をごとんごとんと〈無窮〉《むきゅう》につき続けている。 (それにしてもよく判らなかったのは……)  と、先程後にしてきた部屋を思い出す。  その一室を見つけたのは全く偶然の、旅籠の中でも寂れた一画にて。歩き疲れて寄り掛かった廊下の板壁が、青年の体重にぐるりと反転した事で入りこんだのだが。 『あら、いらっしゃあい』  ……築宮は、一瞬前後の脈絡を取り落とし、自分がいかにしてそこに入りこんだのか、それまでなにをしていたのか〈白紙の状態〉《タブラ・ラサ》に陥った。  なにしろ、番台で手持ち無沙汰に紙巻き煙草吹かしていたお手伝いさんはまだよしとしても、他に並んでいたのは、木彫りの人形、こけし、寺院仏閣の小模型、寄せ木細工に桜の木の皮の茶筒、等々を並べた陳列台に、あまり出来のよくない見本を置いた煎餅やら饅頭やらその他乾物諸々の、かと思えば一方にはビールや炭酸水にポケットウイスキイの壜に氷菓子冷凍蜜柑を詰め込んだ冷蔵庫、そして番台の際には今時の子供などは見向きもしないようなちゃちな玩具をわずかばかり、と。  要するにどこの観光地にもありがちの、ありふれた土産物屋なのだった。それも流行っていなさそうなので、中を眺め回す青年が沈黙のうちに確かに耳にしたと思った〈長閑〉《のどか》な鳥の音は、いわゆる〈閑古鳥〉《かんこどり》の声だったろう。 『嬉しいわ、お客さまなんて、  滅多にいらっしゃらないし』  よほど暇と退屈ばかりと親しんでいたようで、人間の客というか話し相手を得た嬉しさにそれこそ零れんばかりの笑み満面、温い渋茶と塩豆なぞを勧めてきたお手伝いさんへ、築宮は一体それは冗句なのか本気なのか指摘していいものやら、酢でも呑まされたような顔つきになったという。 『どうぞごゆっくり、見ていって下さるだけでもいいですからねえ』  旧式の、〈鋳鉄〉《ちゅうてつ》製でごつくて重いレジスターの向こうで煙草を揉み消すお手伝いさんに築宮は、 『土産物屋というのなら、なぜこんな人通りのないところで、いやそれ以前にこんな隠し部屋などで商売しているのか』  という、もっとも至極な問いをぶつけようとして、やっぱり取りやめにした。そんな常識の枠の中から訊ねたところで、所詮話が噛み合わぬだろうと悟ったせいである。  その後土産物屋のお手伝いさんとは無難な会話を二言三言交わしただけで、結局は空手で立ち去った。所狭しと並べられた土産物はどれもこれもが〈益体〉《やくたい》のない品ばかりで、それゆえかえって築宮の物好き心をそそらないでもなかったけれど、まだ逗留はいつまで続くか判らないのにそんな物など背負いこむのは気が早いし、自分の座敷に余分な荷物は増やしたくない。  とまあ、そんな人を食った〈場処〉《ばしょ》にぶち当たったせいだろうか、その後の注意が散漫になって築宮はまたしても帰りの道筋を見失った。  迷った時は水路を見つけて流れ沿いに下れ、の原則は身に染みついていたけれど、隠れ土産物屋の毒気に当てられていたのか水路のある階層まで降りていくのさえ思ったようにはいかず、ようやくせせらぎを聞いた時には、流れに直接頭をぶちこんで冷やしたくなるほど、額は疲労に〈火照〉《ほて》っていた。  それでも疲れがけして重荷ではないのは、青年にとっては無為の中に〈閉塞〉《へいそく》しているよりは、なにかしらの目的の下に活動している方がよほどましだという事だろう。  それに……と築宮は、飽くこと知らず流れの中に踊り続ける雲母片を眺めながら物思う。  今日もまた他愛なく迷子になってしまったけれど、なのに見知らぬ街を探検するのと同じ快味を感じている自分がある。  本当に、気の持ちようで随分変わるものだと、数日前までの焦りと不安に囚われていた自分と比較して、なかば呆れつつ、 (……これで、彼女と一緒に歩いたなら、  もっと色々な処を案内してもらえたんだろうな……)  などと詮ない願いを思い描いている自分に気づき、気恥ずかしさに辺りを見回した。  もちろん近くには誰かいたとしても、口に出してもいない随想を聴きとられる恐れはないのだが、それでも築宮の鼓動が早くなる。  彼がそぞろ歩きをともにと願う彼女が誰なのかとは、言うまでもなく旅籠の年若な女主なので。 (なにを勝手な俺は……。  俺なんぞとは違って、  きっと宿の仕事で忙しい) (出歩く暇など、  そうそう作れやしないさ……)  実のところ、令嬢を誘うという思いつきは不意に立ち現れたもので、青年が自らに言い聞かせた、このもっともらしい理屈は後付けのもの。  そもそも、あの一夜からこちら、令嬢とは顔を合わせてもいない築宮なのである。通廊ですれ違う事もなければ、立ち働く姿を遠くから垣間見する機会もなく、ならば自分から彼女の部屋を訪れるというのも、何故か憚られた。おそらく彼は気後れしていたのである。  令嬢のことを思えば、甘くそして酸味の強い果実を含んだ時のような情動が喉一杯にたちこめる。もちろん彼女に逢いたくないと言うのではない。  けれども、あの情事の後で、そう気軽に令嬢のもとを訪れたのでは、ただ肉の快感を繰り返し求めていると取られかねないのではないか、それでは体裁が悪すぎやしないか。  はっきりと意識したわけではないが、そんな〈漠然〉《ばくぜん》とした決まりの悪さが、築宮の出足を躊躇わせていたのは事実だ。  ―――全くもってこの青年、こうまでくると身持ちが堅いとか〈初心〉《うぶ》とかいう可愛気のあるのではなく、単に自分勝手で『野暮』なだけである。ひとたび抱いたからというだけで、それで相手の全てを手に入れたと舞い上がるよりはましなのかも知れないが。  ただそうして体裁ばかりを取り繕ったところで、いったん彼女の顔を思い浮かべてしまえば向かう気持ちは留められず、この煮え切らない胸中は歩くことでまぎらわせるしかないと、休憩はここまでと浮かせかけた腰が、中途半端に止まった。  ―――ぱしゃん  との水音は、魚が跳ねたというには少し重めで、不審に音の方に首を巡らせて、築宮は我が目を疑った。  やや離れた水路の縁に、半身を流れに浸したままぐったり倒れこんでいるのは―――人?  青年の、見知らぬ女だ。  髪を水流に死衣の如くゆらゆら踊らせ、脇に流した手も力なく沈み、そのまま流されてしまえば、ラファエル前派の画家がよくモティーフにした、死せるオフィーリアを生の身体で描き出したような構図だが、水路にずり落ちそうになった時、むずかるように顔を軽くしかめたので、少なくとも息はある。  ……築宮は慌てて駆け寄った。  髪や衣服を重たげに濡らした水滴が、自分の胸元にも浸みてくるがそんな事など構っていられたものかと抱き起こせば、青年と幾らも変わらぬ年頃の目鼻立ち、閉じられて青味を浴びた瞼の、睫毛の先にまで雫の滴った。 「おい、君……!?」  抱き起こした身体は正体をなくし、胸元に柔らかな重みが不安に持ちごたえして、築宮はまず作法通りに軽く頬を叩いて意識を確認しようとしたのだが、幸いというのか、そうするまでもなく女の瞼がひくついて、ゆっくりうっすらと見開かれる。  全身も覚醒の身じろぎが走り、吐き出された息は細かったけれど、えづいて吐き戻すような事はなく、水は呑んでいないらしい。 「……う……?」 「おい、君、一体どうした」  彼女の体を眺めれば、肌や衣服に怪我や血の滲みはなく、ざっと目で改めただけだが大きな外傷は無い。  女は、築宮の腕の中でしばし〈朧気〉《おぼろげ》な視線をたゆたわせていたが、やがて大儀そうに身を起こした。 「ああ起きられないようなら、無理をしなくっていいです」 「……大丈夫か?  水路に転落でもしたんですか?」 「……よく、判らない……。  気がついたら、こうなってて」  ……長いこと水に浸かってふやけたでもあるまいに、〈水母〉《くらげ》が物を言ったように頼りないことおびただしい声音で、築宮は彼女が覚醒しきっていないのではと危ぶんだ。  とりあえず、と差し出した〈手巾〉《ハンケチ》は先程濡らしたばかりではあったが、それでも顔の水を拭うくらいの役には立つ。  女が〈手巾〉《ハンケチ》を見つめた眼差しもまた、ぼんやり虚脱して、受け取ったはいいものの、鼻梁へ滴る水を拭き取るやり方が、寝ぼけているのかそれとも手の使い方まで水に流してしまったのか、いかにもたどたどしい。  小さな布切れでかなう限り水気を切っている間、築宮青年は彼女をしばし観察したのだが、ただ若い女と、記号のように呼ぶことしかできなそうな風体だった。  目鼻立ちはそれなりに整っているが、美も醜も取り沙汰しようないくらいとにかく特徴が無く、身に着けているのもどこにでもあるような白いブラウスにこれまた面白味のない寒色の巻きスカート、中肉中背、劇中背景に群衆が要求された時には員数合わせとしてもってこいの風貌で、言うまでもなく築宮はこの女性に見覚えはない。  それでも自分と同じような旅籠の客だろうと推理したのは、単にこんなところで行き倒れていたからにはそうに違いあるまいと言う、ベーカー街のパイプくわえた探偵も、よれよれのセルの着物に袴とお釜帽の探偵も〈憤死〉《ふんし》しそうな〈演繹〉《えんえき》によっている。 「ここの泊まり客なんですか?  だったら、部屋まで送りますが……」  なんにしてもそのまま捨ておくのはあまりに非人情、声音が虚ろに響くのも動作がぎくしゃくしているのも、つまりは消耗しているからだろうし身体だって冷たかった。とりあえずは彼女をその部屋まで連れて行ってやるのは、人として当然の仕儀と訊ねたところ、 「部屋……って? ええと、わたしの……」 「その……」 「ごめんなさい、どっちだったかしら」 「たぶんきっと、  今ここに着いたばっかりだから」  となにやらこれも要領を得ず、大河からこの水路に流されて漂着した流木でもあるまいにと、さすがの築宮にも腑に落ちない。  よもや彼女も自分と同じで記憶を失っているのか? しかし今必要なのはそんな取り沙汰よりも、どこか、乾いた衣服に着替えて体を暖められるような〈場処〉《ばしょ》。  まずはもっと人通りのあるところまで連れて行ってから考えようと、差し延べた手を女は、またしても見慣れないもののように眺めて、反応するまでの遅滞がもどかしい。 「あの……ありがとう、ね」  それでもどうにか立ち上がり、踏み出そうとして、やはり足元がおぼつかない。  見かねて貸した腕にすがった身体は、まるで既に死したる肉を引きずるかのように体幹の均衡を欠いていたが、濡れて消耗した女性をそんな風に気味悪がっては失礼と、庇《かば》うように歩き出そうとして、築宮は〈臍〉《ほぞ》を噛んだ。 (俺だって迷子になってたんじゃないか)  見知った区域まで、水路伝いに下っていくという、迂遠な道行きも自分一人ならいい。だがこうして冷えて疲れきった女性を引きずり回すのは、彼女の身体に更なる負担を強いることになる。  まずは自分が先行して、誰かを呼んでくるかとも考えたのだが、いったんここを離れてしまえば、間違いなく同じ道順を辿って戻ってこられるかどうか心許ない。  ならばいっそのこと、背負うかさもなくば姫抱きにして運んでいくか―――  それもやむなし、と氷壁で滑落しかかったザイルパートナーを救う気合いと覚悟で、女を抱き上げようとして築宮はたたらを踏んだ。 「どうなすったんですか、こんなところで」  ご覧の通りで、青年が決めた覚悟は折良くお手伝いさんが現れたによって宙に浮いた。一体どういう用向きだったか知らぬが、お手伝いさんは空の笊《ざる》を山ほど抱えていたけれど、今はその子細は問わぬ。  やる気を削がれた空しさなどは、悪魔の尿溜めにでも投げこんでおくがいいと忘れる事にして、お手伝いさんに頼みこんだ。  ―――のだが。 「ちょうどよかった。この人、どうやら水路に落ちたらしいんですが、どうにも意識がしっかりしてないようで、部屋まで送っていこうにも要領を得ない」 「なんで、どこか適当な、着替えとかがある部屋まで、案内してくれませんか」 「それは災難で……って、え、あ!?」  築宮の言葉に浮かべた気の毒そうな表情は、女の顔を覗きこんだ途端に、毒液滴らせる蛇の顎《あぎと》を覗きこんだように引きつって、そればかりかお手伝いさんはぎくりと一歩後じさったのである。  鼻筋に寄せた皺《しわ》は険と嫌悪感の、日頃は〈暢気〉《のんき》でお気楽なのが身上の彼女たちにしては劇的かつ異常な反応で、そのはなはだしきに築宮もつられて怖々と腕にすがりついた女を覗きこんだ。  が、別段角が生えてきたとか目が三つに増えていたりの百物語もなく、先と同じに女は弱い伏し目で俯いて、せせらぎを微風が渡れば濡れた衣装が冷えて肌寒い。 「……この人に、見覚えでも?  それともなにか、おかしな事でも……」 「いえ、その……ただ、ちょっと」  受け答えも歯切れ悪く、築宮の問いがしっかり耳に届いているのかどうか、お手伝いさんはなおも女に視線を撓《た》めて、不審の眼を隠そうともしない。なにがかくまでお手伝いさんを警戒させるのか、さすがに奇異の念を抱かないでもなかったけれど、優先順位としてはずぶ濡れで冷えきった女をどうにかしてやるのが先。 「なにをそんなに気にしているのか、  俺には判りませんが……」 「なんにしてもこの人、  濡れて疲れて辛そうだ。  担いでいってくれ、とまでは頼まない」 「あの吹き抜けの大広間の辺りまで、  先導してくれるだけでいいんです。  そこから先なら、  俺にもどうにか判るから……」  築宮にしては多弁に、あれこれととりなしている間も女は所在なげに佇《たたず》むのみ、  適当に絞ってだけでよれよれの衣服と合わせて、その哀れな事、風呂に浸けられた猫以上で、つい築宮もむきになって頼みこんだところ、お手伝いさんもようやく頷いた……いまだ警戒心を残したままで。 「……わかりました。  とりあえず、お帳場の方でその人のお部屋を改めます」 「ここに着いたばかりで、まだ部屋が決まっていないというなら、そこで決めましょう」 「……いえその前に、まずはちゃんと体を拭いて、乾いた服に取り替えて……」 「……ありがとう、です」  それで三人は、お手伝いさんを先立ちに歩き出したのだが。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。 「あの、大丈夫。  自分で歩けるから……」  とりあえず女の落ち着けるところまでと、歩き出したものの、どこか微妙な緊張を孕《はら》んだ空気がお手伝いさんの肩口にわだかまっており、それを気に病んだものか、女は築宮の腕から離れた。  だが他人に手間を掛けるまいと気を張ってみせるのは確かに立派だが、時と場合によりにけり、痩せ我慢で〈蒟蒻〉《こんにゃく》が竹のように硬く変わるでもなし、女の膝に力が戻るわけはなく、彼女はどうしても遅れがちになる。  お手伝いさんはそれに気づいていないのか、それともわざとか、というのは邪推だろうかと、築宮、始めは二人の間をつなぐように歩いていたのだが。  角を曲がり、渡り廊下を越え、階段を上り下りするうちに、どういうペースの加減でか、いつしか築宮が先頭になっていたのである。 (……なんで俺が先頭になってるんだ?)  案内役が後になり、道筋を弁《わきま》えない自分が先になっては、航海士が船室に収まり乗客が舵輪に取りついている汽船が山に登りかねないのと等しく、旅籠のどこに迷いこむなら危なっかしい。  まずはお手伝いさんを先に通そうと、足を留めて振り返った築宮は、、見事に肩透かしを食らって賦抜けた鼻息を吐いた。  築宮は一人。後ろには二人ともついてきていなかったのである。 「なんだとて。  二人ともいつの間にはぐれた」  困惑と少しの不安で眉を潜め、引き返そうとした時、曲がり角から女が顔を覗かせた。 「よかった。  いきなり姿が見えなくなったんで、  ちょっと心配しました」 「あ……ごめんなさいね。  ちょっと考え事をしていたから、  遅れちゃったみたい」  で、女は追いついてきたものの、その後が続かない。築宮が二人に先んじていた時間はそれほど長かった筈はなく、現に女がこうしてすぐに追いついてきたというのに、お手伝いさんの方がいっかな出てこないのだ。  待てど暮らせどというやつで、築宮は少し引き返してお手伝いさんの姿を求めたものの、彼女の姿、どこにも見えず。 「あの人のほうは、  ほんとにはぐれちゃったみたいね」 「それはどうにも……参ったな。  彼女がいないと、道がよくわからない」  困惑して口をへの字にした築宮をよそに、女は辺りの景色を見回して、犬が風の中に鼻先を突きだして臭いを嗅ぎ分けるのと同じ仕草をした。 「ん……たぶん、こっちのほうよ」  そしてひたひたひた、廊下に濡れ光りの足跡を置いて、再び歩き出したが築宮に先立って、自分の部屋さえ曖昧だったのに、どうやって行き先の見当をつけたものやら。  築宮には当てずっぽうとしか思えず、追いすがって何度か窘《たしな》めたのだが、〈瓢拈鯰〉《ひょうたんでなまずをつまむ》の公案じみてのらりくらりと聞き入れず、女はあちらに曲がりこちらに折れる。  これはもう二人して旅籠の深部で遭難か、と築宮の心細さが諦めに変わった頃に、周りが覚えのある通廊になっていたというのが、またいかさまな。  狐に惑わされた心持ちなれど、その辺りの座敷の造りと廊下の塩梅が、青年にも馴染みのところであったのは間違いなく、もうここまでくれば大丈夫、まずはお帳場まで出向いて、そこのお手伝いさんにこの後の事を頼もうと、また廊下の角を折れて見えなくなった女へ、呼びかけようとして。 「……って、あれ?  ええ……?」  ほんの二・三歩の遅れだったのに、廊下はただ先を長くするばかりで、女の姿がどこにも見えなくなっていた。  よもやそんな悪ふざけをするわけもなかろうが、と周囲の座敷の襖を繰り開いて確かめても、やはりどこも中は空。  女は、現れた時と同じように、唐突にいなくなっていて―――  そう言えば、今にして思えば、彼女は水路際に倒れこんでいたのだけれど、どうやっていつの間にそこにいたのだ? 流れてきたのではない事は、いかにぼんやりとはいえ築宮はずっと水路を眺めていたのだからわかる。  だからといって、歩いてきたのでもあるまい。そこまで歩いてきて、わざわざ水路に落ちてみせたというのはいかにも妙だ。 「……なんなんだ、これは……」  鼻面を物の怪につままれたように〈心許〉《こころもと》ない気持ちの顔だから、〈物怪顔〉《もっけがお》という。  築宮は、眼前に見えない妖が漂って、自分の目をおかしくしたのかと危ぶむように、鼻先を払いのけてみた。  掌がそよ風を巻いたばかりで、いなくなった女が出てきて、冗談だと微笑みかけてくることは、やっぱりなかった。  それでも、築宮に猟犬の〈執拗〉《しつよう》さと鷹の注意深い目が備わっていれば、彼は見いだしたかも知れない。  道筋の途中、彼が他の二人とはぐれてしまった自分に気づいた辺りでの事、その時はすぐに女が追いついてきた故深くはこだわらなかったけれど、もう少ししつこく引き返してみれば、見いだしたかも知れない。  見いだして〈愕然〉《がくぜん》としただろう。戦慄に絶句しただろう。  ……築宮が見覚えのある辺りまで辿り着き、女の姿をまた見失っていたその頃。  三人が後にしてきた道筋から、少し外れた廊下の片隅で。  廊下のどん詰まりと、そこから上の階に繋がる階段の角度と、更にその手前になんのつもりかでんと据えられた、大きな信楽焼の狸(例のふぐりをユーモラスに丸出しにしたやつだ)とで、はからずも行き来する者には死角となっている〈一隅〉《いちぐう》の陰がある。  その物陰に乱暴に押しこまれ、手足を奇妙な具合にねじ曲げられて横たわっているのは。  ―――お手伝いさん、だった。  築宮と女を、途中まで案内していた彼女だ。  埃まみれに乱れた髪より、押しこまれたはずみが大きくまくれて下着まで晒したスカートのいかがわしさよりも、かっと見開かれてそのくせなにも映さず停止した双眸よりも、なによりも。  その首にくっきりと捺《お》され、巻きついた手指の痕が、彼女が受けた暴虐を残酷に物語っていた。  息をしていないのは明白で、肌は室温と同じに下がり、身体もやがて硬く冷たく強張るだろう。  彼女の〈縊死体〉《いしたい》の手前にあって、廊下を行き来する者から目隠しする、信楽焼の狸との対比が、無残と滑稽とを凄まじいほどに際立たせていた。  令嬢が体調を崩し、この数日床に伏せっているとお手伝いさんから聞いた時、青年の胸に〈去来〉《きょらい》したものはなんだったろう。  不安か? 左様。よもや重篤な病なのではと疑えば不安の薄苦い粥が背筋にへばりつく。  不甲斐なさ? 勿論。ただ客としての過分な厚遇を更に越えて、肌まで許してくれた娘が苦しんでいるのも知らずにいた自分など、不甲斐なさを針にした〈仙人掌〉《サボテン》の畑の上に全裸で転がり回っていればいい。  だがなによりも築宮を駆りたてたものは、焦りだった。  親の死に目を看取り損ねた放蕩者の、愛玩していた生き物の病を見逃していた鈍感な主の、親元へ医者へと着の身着のまま走るもの全ての喉をいぶす焦り。  これを無視する事は、その後一生涯、繰り返される夜の中、夢魔へ巨大な悪夢の種を一つ提供することを意味している。  それ故に築宮は、お手伝いさんの話をみなまで聞かずに座敷を飛び出した。  小学校の徒競走でも開けそうな長大な廊下を、だが実際に今の築宮のように走った者は少なかったろう。疾走に荒々しく踏みつけにされた床板がスタッカートの抗議の軋みを連呼したが、築宮の脚を妨げるには至らなかった。途中お手伝いさんとすれ違う事三回。皆持っている物が違った為別のと知れたが、さもなくば夜道に何度も同じ人物とすれ違うという例の都市伝説じみた状況になったろうが、どちらにせよ築宮の目には入らない。  一人目のお手伝いさんは軽捷に避けた。二人目のお手伝いさんは抱えていた便所紙を風圧に巻き上げられ悲鳴を上げた。三人目のお手伝いさんはすれすれにすれ違った為スカートをひっかけられ、くるくると錐もみに回転して目が回り、側の柱に額をしたたかにぶつけて理不尽な痛みにのたうち回った。しかし青年は全て無視した。築宮清修。突然のこの〈視野狭窄〉《しやきょうさく》は、訳知り顔の者ならこれはしたりと指摘するだろう。彼はある種の精神的状態に陥っていると。それは恋というものなのだと。  こうして築宮は令嬢の座敷に駆け着けた次第だが―――  襖の桟にがっくり手をつき、〈火照〉《ほて》ったこめかみに汗を滴らせ、肩をふいごのように波打たせ、〈喘鳴〉《ぜんめい》に喉をひゅうひゅう喘がせている築宮と、布団に入ってはいるものの、髪にもきちんと櫛を入れ、肩には〈瀟洒〉《しょうしゃ》な〈上掛け〉《ショール》、半身を起こして帳面を静かに繰っている令嬢を並べた場合、十人が十人とも熱病患者と判定するのは青年の方だったろう。 「一体、どうなさったんです。  なにか大変な事でも……!?」  と、言葉からしてあべこべなのに留まらず、まずは汗を拭いてからと薬盆のおしぼりを取って腰を浮かせかけたのを、青年、声も出せず、まだ整わない息の下から慌てて手を翳し遮って、しばらく、しばらく待てよかしと。  ……息を整える間に築宮が見たところ、令嬢は確かに厚く暖かそうな布団に収まり、脇には硝子の吸い飲みと〈頓服薬〉《とんぷくやく》などを載せた薬盆と、病床にある人としての道具立ては揃っている。  けれど、築宮が考える病人というのはもっとこう、力なく枕に頭を埋めているとか、熱がもたらす異夢に瞼をひくつかせているとか、とにかく活力を感じさせないのが常態なので、引き換え令嬢は、布団の中にも端座姿の背筋が伸びて、膝には一応掛け布団を被せているものの、足回りを冷やさないでおくためというより、作業の台替わり、帳面などを膝元に広げて帳簿仕事を進めていたらしい。  座敷の簡素な佇《たたず》まいも相変わらず、空気は病臭に籠もるどころか、床の間に活けた一束の花の香りが淑やかに浄めて芳しい。  築宮が、これでは不摂生ではないかとつい咎めるような調子で物を言ってしまったのは、自分一人が空騒ぎを繰り広げたような空しさに囚われたせいである。 「病気と聞いたんだが……。  こんな時まで、仕事の手を休めないのか、君は」 「今やらなくっても、いずれは済ませないといけないお仕事なので……。  それに、身体のほうも、  もう随分と楽になりました」  またいかにもな模範解答で、そうと言いきられてしまえば築宮も強く諫《いさ》めることもできなくて、なにやら気抜けした心地に陥った。 「まずは上がってくださいな。  ……と言っても、あんまり大したおもてなしもできないんですけど」 「いや、そんなのはいいです。  病人を動かそうというつもりもない」  招き入れられ、とりあえず令嬢の枕もとに端座したはいいが、さて、と築宮、何を話したものやら言葉に迷う。令嬢の顔を見て安堵したというのもある。そう言えばこの数日、自分のことにかまけるばかりで彼女とは顔も合わせていなかった。  自分の非人情が令嬢を病気にした、などということはさすがに有り得ず、自意識過剰だとわかっていても、心苦しさが青年の気持ちを重くする。  令嬢は令嬢で、青年から視線を帳面に戻し、指でなぞりながら項目を確認して頷いているのが、いかにも仕事優先、身体など二の次だと言わんばかりで、それでは床についている意味が薄いではないか。  娘の自分の身体への無頓着ぶりには、築宮ならずとも危なっかしい気持ちにさせられるだろう。 「ちょっとだけ、待っていて下さいね。  きりのいいところまで……すぐだから」  と呟く口の下で、帳簿へ硬筆を走らせ〆《しめ》を入れてぱたり、閉じたは閉じたがまだ膝の上に置いたまま、すぐに再開できるようにと。  たとえ身体が七つに分解しようが務めを疎《おろそ》かにすることは、自分が信ずるものへの冒涜行為だと言わんばかりの精勤ぶりで、だが令嬢はなにを奉じているのだろう。なにがそこまで彼女を駆り立てるのだろう。 「それで、築宮様の御用事は?」 「いや、用事もなにも、君の見舞いに来たつもりだったんだが―――」  さらりと問われたのに築宮が抱いた戸惑いは、軒先でここはなんの店かと訊ねられた本屋の店主のそれ。彼には訊かずもがなの事のつもりであったが、そもそも令嬢本人に誰かから見舞いを受けようほどの大病を患った自覚もない様子だし、だいたい築宮も、花の一束も〈水菓子〉《くだもの》の籠の〈一梱〉《ひとこり》も持たぬ空手であの惑乱の態では、見舞いに訪《おと》のうたというより、火事か地震に叩き出されて飛び出してきたか、である。  その慌てようも、令嬢の落ち着いた仕事ぶりには冷たい息を吹きかけられたようで、築宮は落ち着きを取り戻すとともにだんだん手持ち無沙汰になってきた。  令嬢の大事ないことは確認できたし、それ以外になんの用があったわけでもない。  かといって、それではい左様ならと背を向けてしまうのも他人行儀な気がして、築宮は身の置きどころに窮した。  せっかく令嬢も仕事の手を止めてくれているのだから、もっとこう、彼女の疲れて病んだ体を労《いたわ》ってやれるような、気の利いた文句や小話の一つや二つひねり出せないものかと、心の網目を数えて見たけれど、稚魚ほどの話題も引っかかってこない。  それで仕方なく、当たり障りのない、表面を上滑りするような言葉に終始してしまう。 「体調を崩したと、俺はそれしか聞いてないんだが、一体どこを悪くしたんですか?」 「ああ、大したことはないんです。  お手伝いさんが気を回して、こんな風に布団に押しこめたり、お薬まで置いていったけれど」 「ちょっと、疲れが出ただけだと思うの」 「大丈夫なのか、それは……」 「ええ、こんな風にしていると、どうも〈大事〉《おおごと》に見えてしまうけれど、ちょっと〈目眩〉《めまい》が続いただけなんです。  ……本当よ」 「それは、今も?」 「いいえ、もうすっかりよくなりました。  今日は大事をとっているだけ」 「それだって、お手伝いさん達にそう言われたから。  本当は、こんな風にお布団の中でぐずぐずしているのは、厭なんですけどね」 「そう、ですか―――」 「ええ……」 「…………」 「…………」  燃料に乏しい会話の飛行機は、たちまち失速して落着したのは沈黙の荒野、その不毛なこと表面が〈硝子〉《ガラス》でできているかのようで、会話の接ぎ穂など到底望めそうになかった。  そもそも築宮も、記憶を失っていて話題の引き出しが少ないという以前に、話し上手な人間ではないのだろう。  まず築宮が内心大いに恥じ入ったのは、場の一つも満足に温められない自分の不器用な舌であったけれど、令嬢に対してもいささかの味気なさというか物足りなさを覚えていたのもまた事実。  確かにこの女の子は、日頃から見た目そっけなく、言葉は丁寧だけれど模範的すぎてどうにも愛嬌がない。客の一部はそれを指して『人形姫』だの『冷感症』だの口さがない形容を並べ立てるのだが、築宮はどうやらそれが誤りであるらしいと気づきつつある。  彼女には彼女なりの親愛の表現や潤いというものはちゃんとあって、それが読みとりづらいだけ、根気よく付き合っていないと見えてこないだけなのだ。不慣れな者には判らないだろう。  その築宮の目から見ても、今日の令嬢は透明の壁を間に張り巡らせているように思え、それが青年には切なかった。  ほとんど修飾物がなく、簡潔ゆえに潔《いさぎ》い、〈清冽〉《せいれつ》に結晶化したようなこの座敷は、ただ令嬢一人のみの〈点睛〉《てんせい》によって美しく完結し、こんながさつな自分など邪魔者のようにさえ思えて、情けなくなってくる。自分と令嬢は、そこまで他人行儀な間柄であったのか、と。  そう疑いたくなるほど、この令嬢はあんまりにもそっけなくて―――  本来的に、体や手足や器官をこの世に送り出したのはその持ち主ではなく、二親と天の配剤によっている。それは目鼻立ちも同じで産み出したのはその当人の責任とは言い難く、元々そう形造られているのだから仕方ないが、仕草や表情は異なる。  笑うにもふてくされるにも涙を零すにも、あるいは表情を消してすげなくするのも、それらは全て当人がやっている事なのである。  ならばこの今、令嬢が冷たく見えるとして、それは天与の整いすぎた造型のみに由来するものではなく、彼女が意図的にその貌を築宮に向けているのではないか。  ……令嬢がそんな貌を自分に向けるようになった理由は〈奈辺〉《なへん》と、築宮はあれこれ心を探るが、原因となりうるくらい劇的なイヴェントといっては、あの夜の事くらいしか思い浮かばない。  あの夜蛍の中で過ごした一時は、柔らかな繭の内部に満たされていくような、〈肌理〉《きめ》細かく濃密な時間であり、触れ合うやり方、部分、全てが等しく甘美に築宮を蕩かした。  けれども令嬢には後から見れば、あれで男の身勝手を突きつけられたのかも知れない、と築宮は〈心許〉《こころもと》なくなってくる。  やはり、あの晩に雰囲気に流されるままに抱いてしまったのはまずかったのだろうか、そういう間柄になるにしても、もう少しゆっくりと穏やかに親睦を深めていくべきではなかったか。そんな風にほぞを噛みつつ、令嬢を見守れば―――  ようやく走り通してきた熱も体から抜けて、細部まで気が回るようになった目でしみじみと見つめた令嬢は、懸念していたような大病の腐食作用の痕跡はなかったにしろ、やはり疲労の色が、そこはかと〈漏出〉《もれだ》していたのだ。 「……なにか?」 「なんでもない―――いや、違うんだ。  さっき君が自分でも言っていた事だが、疲れているんだなと、そう思って」  令嬢の容《かんばせ》は、氷で出来た花のようであるといった月並みな感想は論外、神は細部に宿りたもうとも言う事だし、もう少し視線の倍率を上げてみるがいい。  首筋の後れ毛が、〈雪花石膏〉《アラバスター》の肌に曇りを置いていないか? 目元にこづんでいるのは、憂愁の翳りといった幽美に深みを添えるものでなく、単に血行不良の隈《くま》ではないか?  ……築宮が令嬢に、切れる寸前まで張りつめた〈硝子〉《ガラス》の糸を連想したのも無理はあるまい。  不意に築宮は、〈驟雨〉《しゅうう》にも似て唐突の、〈憐憫〉《れんびん》の情を催した。〈硝子〉《ガラス》の糸に弾き飛ばされたとしても、それでもいい。触れたこちらの手が切れたとしても構わない。  立ち上がり、畳の表に蹠《あうら》滑る音が鳴って、青年は令嬢の背後に回っていた。 「失礼―――」 「あ……あの、築宮、様……っ?」  掌《てのひら》の裡《うち》に収めたものは、たとえ軽く力を籠めただけでかさりと解れてしまいそうに儚くとも、龍女が秘守する宝珠より貴くて、築宮はただただそっと、淡い雲の兎を撫でて慰めてやるように、一度は抱いて、肉と骨で出来上がっている体と心得てはいても、そうせずにはいられない、令嬢の肩を〈安撫〉《あんぶ》しようとしたのだ。  はねのけられたらそれまでと思った。若い娘の潔癖で、男の手に触れられた無遠慮に気分を害したとしても、血と気の巡りが多少なりともましになってくれればそれでいい、自分など嫌悪されたっていい。ほんの僅かでも、この旅籠の娘を倦《う》ませる、疲弊、倦怠、諸々の澱《よど》みを散らしてやれるのなら。  青年の両掌にすっぽり隠れてしまいそうな小さい、薄い形、この〈瀟洒〉《しょうしゃ》な〈上掛け〉《ショール》でさえ重荷と堪《こた》えるのではないかと怪しいくらいの肩を、項《うなじ》を、壊してしまわないように、細心の注意とあたう限りの〈愛惜〉《あいせき》を指先に通わせて、押して、さすり、解し――― 「あ……っ、こんな、築宮様、  悪いです、あなたに……あ、  こんな事、していただくなんて……」 「いいから」  肩越しに振り返り、見上げてくる眉がしなうようなは、戸惑いか有り難迷惑か、それでも今日初めて見る、彼女の感情らしい感情で、築宮は揉みほぐす手を止めず、令嬢もついには折れたようで、項垂れ気味に肩を委ねる。  黒髪が、かろく項《うなじ》の両脇に流れて、現れた肌の、静脈さえ透けるような清らかな薄さ、青年は涙ぐみそうにさえなった。 「もう……そんなに気を遣っていただかなくっても、いいのに」 「そっちこそ、気にしないで欲しい。  俺が好きでやっていることです。  ……きつく、ないかな?」 「……もう少し、弱く」 (これでもまだ強いか……。  凄く凝っているんじゃないか、それって)  築宮としては、積もりたての粉雪を払う程度の力しか籠めていないつもりなのに、令嬢の肩にはまだ圧が強いらしく、結局はほとんど撫でているのと同じの、さらさら、と。 「ん……ぅ……、  ―――ふぅ―――」  令嬢の漏らす人肌の吐息で、凛《りん》とした座敷の夜気が、ほんの少しだけ張力を緩める。  令嬢がそうやって自分の手が触れるのを受け入れてくれた事が、青年にはなによりの救いで、知らず、は、と安心の息が鼻に抜けた。  それが首筋にかかったか、 「……ぁ……っ」  令嬢が小さく首をすくめたので、築宮は慌てて呼吸を殺したものの、彼女の肩を掴み壊さないよう、むしろ力を籠めない事に力が必要とされていて、どうしたって息が弾まずにいられない。  果たしてそれだけか、築宮よ。  汝《なれ》の目は、令嬢の襟首の裡《うち》、電燈の灯りを受けて〈氷鏡〉《ひかがみ》と光る首筋から離すことができるか?  彼女の疲れを癒すつもりで肩を慰撫するうちに、その華奢な首筋を、片手の指の輪に収まってしまいそうだとか締めたらどんな風に薄い肌の下で骨が軋むのだろうかとか、そんな不埒な考えを、一度たりとも弄ばなかったと誓えるのか?  よしそこまでの、猟奇の着想はなかったとしても―――今お前に唯々と背後を許している令嬢の素肌が、あの夜は自分の下に組み敷かれて、細く震える声を紡ぎ出した事を、小指の先に透ける血の管一筋ほども思い出さなかったと言い切れるのか?  言い切るかも知れない。  しかし令嬢の肌えは想像を越えて敏感であり、青年自身は意識していなかった情動を感じ分けたのだろう。  きっと、だからこそ令嬢は、築宮が肩を解きほぐし続けるのに、手をそっと被せて留《とど》めた、手と手を重ねてとは言うが、八つ手の葉に紅葉を乗せたような大きさの差。  兎に影法師を踏まれるより軽い手の感触だったけれど、視線がちょうど令嬢の後ろ襟から背筋の暗がりへ吸いこまれていたところだったので、青年には出歯亀の咎を九尾の鞭で撃たれたくらいにも響いた。 「―――築宮様?  ……今夜は、それ以上は、駄目……」 「す、済まない……っ、  痛くしてしまったか……!?」  上擦る声で問うたけれど、令嬢が咎めたのはそんな事ではないと、築宮も薄々感じ取っており、己の浅ましさが怨めしくなる。  ただ純粋に、令嬢の疲れを幾分なりとも和らげてやりたいと念じて始めた行為なのに、いつの間にか間近な彼女の肌から、情事の記憶へ想いを巡らせてしまっている。これでは、異性の匂いに盛《さか》りつく毛だものと変わりないではないか。  もし令嬢が振り向けば、そこに大層見苦しく体裁を取り繕おうとする築宮を見たろうが、彼女は俯《うつむ》いたままで、首を静かに打ち振るばかり。  黒髪の隙間から覗く項《うなじ》へ〈耳朶〉《じだ》へ色づかせた、薄い陶器を裡側から透かすように朱の色合いは、青年の手で血が程よく通ったからとしても、艶めかしさが際立った。 「違うの。  揉んでもらうのは、とても気持いいけれど」 「あんまり上手にしていただくと、肌が〈火照〉《ほて》ってしまいそうで」  どうやら視線が下卑たのを咎められるわけではないらしいと知り、築宮の気が少し緩む。  肌が温まって、それになんの不都合があるのかと少しく奇妙に思った。 「それは、血行がよくなったという事では? 特にまずいこととは思わないが」 「けれど、肌がぬくまると、  汗の匂いが立ってしまいますもの」  汗、と令嬢は言うたが、こうして間近にいても築宮の鼻は床の間の花盆からの微薫をとぎれとぎれに聞くばかりで、そういう人めかしい匂いは届いてこない。それどころか、この座敷まで走ってきた自分の汗の方が匂いそうで、はばかりな。  ついうっかり彼女の襟元へ鼻面を近づけて確かめそうになったのを、寸前で我に返って思いとどまった。 「それに、私は今日はまだ、  お湯を使っていないので」  一体なにを言いたいのかと〈怪訝〉《けげん》になる築宮の前で、令嬢がふ、と息を抜いたので肩の線が僅かに下がった、それだけで羽織っていた上掛けがするする滑って背中にたわむ。  それを脇に畳んで置いた手を、そのまま後ろに回し、服の前を緩めようとしたので空気が揺れて、衣擦れの音と、鼻先に薫った、布地の裡《うち》で温められた肌の匂いは幽かではあったが、まぎれもない令嬢の「女」を意識させて、築宮は彼女が何を勘違いしているのかようやく〈諒解〉《りょうかい》する。 「体、汗じみていると思うのです。  それでも、構わないのなら……」  〈諒解〉《りょうかい》した故に、築宮は激しく動揺し膝立ちで後じさった。  確かに途中からはその、触れた肩口に疚《やま》しい気持ちを全く抱かなかったとは言えないけれど、そこまでなし崩しの展開を願ったつもりはないのだ。 「いやあの、俺が言いたかったのはそういうことではなく……!」 「……え?」  張り上げた声に、令嬢の手は前合わせにかかったところで留まり、物問いたげな眼差しは狼狽えて室内を意味もなく視線を走らせる築宮と出会う。青年はなにかこの切迫した状況を打破できるような材料を求めて、室内を〈目探〉《まさぐ》ったのだが、もとより調度に乏しい彼女の私室のこと、せいぜいが狂いのない柱とか、〈欄間〉《らんま》の質素な浮き彫りや一部の隙間なくはまりこんだ畳の縁くらいしか、目に止まるようなものと言ってはなくて、しかもそれらが物言わぬくせに監視するような表情で押し迫ってくるかに思えたのは青年の焦り故か。  たとえ僅かなりとも青年の心に揺らぐところがあったとしても、それらの無言の圧迫感の中で令嬢を抱くつもりには到底なれたものではない。  だいたい令嬢とて、秘め事を持ちかけるにはどうにも潤いを欠いている。自分の体をそうやって差し出してくるのが陳列してある商品を、遠慮がちに勧めてくるようで、それでは築宮には即物的に過ぎたのだ。 (それに……いくら俺だって、病み上がりの女の子を抱くなんて……!) (というかこれでは俺が、彼女自身は嫌々なのを、一度寝たからって言うのに乗じて、無理矢理流れに持っていこうとしているみたいで、ちょっとやるせないじゃないか……)  流れに身を任せるを肯《がえ》んじない築宮、泡を食ったように令嬢を押しとどめようと、話題を変えたのがいかにもわざとらしかった。 「そういえば、この前!」 「渡し守と少し話したんです。  君に、そう勧められたから」  自分はあなたをなし崩しに抱くような真似はしたくないと暗に言わんばかりに声の調子を強くして、青年はもう少しこの旅籠に滞在したいこと、自分の記憶を取り戻すための努力を続けたいことを令嬢に伝える。 「たしかにそう言いましたけど……。  それで、あの人と、どんなお話を?」  オクターヴを上げて言い連ねる青年の様子はまるきり色気を欠いて、令嬢はようやく衣装から手を離し、替わりに膝元を布団に滑らせて、築宮の話を正面から聞く形に向き直る。  ……。  …………。  ………………。 「そう、ですか……ええ、わかりました」 「それが貴方のご希望ならば、私どもに異存はなく。  ……お好きになさって下さいまし」  青年が決意を一通り聞き終えて令嬢は、あなたの決めたことであるのなら異存なく、気の済むまでそうするといいと承諾する。  以前、帳場で「気の済むまで逗留してくれて構わない」と請け負ってくれた事からしても、そう言ってくれるのはなかば予想はついていたが、築宮はなぜか感じていたのは、食い違いだった。どこがどうと、明白に指摘できたことではない。  それでも、言葉では了承してくれたけれど、どこか令嬢の物腰、目配せ、声の調子には、あの時と微妙な温度差が生じているように思えてならない。  もちろん令嬢は、やはりすぐに出発した方がいいとかそんな、以前とは裏腹な意志をちらりとも匂わせたわけではないのだが。  こうしてつくづくと眺めても、令嬢のほっそりとした姿のどこにも、自分を客として拒絶するような様子は微塵も感じられないのに、この違和感はなんだ……と、青年はさらに目を凝らすのだけれど、衣装の肩口に寄った襞が、夜気に寒々と蒼ざめた陰を晒しているばかりで―――寒々と?  そこで青年は、令嬢の上掛けが脇に畳まれたままなのを思い出し、まだ本復していない体を冷やしてはと、掬《すく》いあげて彼女に羽織らせながら、 「すいません、ありがとうございます」 「なんの。とにかく―――  以前君は、俺がこの旅籠に来た記憶はないとは言っていたけれど」 「それでも俺は、この旅籠のあちこちに、  見覚えというか聞き覚えがある気がしてならない」 「まあ、私の方こそ記憶違いで、  築宮様のことを覚えていないだけ、  ということもあるやも知れませんが……」  自分の記憶違いなだけという可能性もあると言い添える令嬢ではあったが、彼がここの記憶があるというのは思いこみなのではないかと、言外にそう言いたげな。  それでも築宮が、ここに来てから既視感を覚えたことは一度や二度ではないのだ。  それほどまで記憶に引っかかるのならば、直接ここに来た事はないにしても、なにかしら繋がりがあるかも知れず、そこから記憶を辿る術もあろう。  それを語る青年の目は、おそらく自身は気づいていないのだろうが、ここ数日の迷いを振り切ったかの力を、孕《はら》みつつある。 「……やっぱり渡し守に相談なされて、  よかったみたいですね、築宮様」  打ち掛けを羽織り直しながら、令嬢は呟いたものだが、その眼差しの中には複雑な色合いが〈揺曳〉《ようえい》しているのに、青年が気づいたかどうか――― 「とはいえ―――ここの中を、自分に関係のありそうな場所を探して歩き回るというのは、やっぱり広すぎる」 「考えてみれば自分は、この旅籠の中がどんな風に広がっているのか、どこにどんな部屋や場所があるのか、よく知らないんです」 「というより、ちゃんと調べようとしなかったというか……もう何日もここに泊まっているはずなのに」 「だから、もしよかったら、ここの中でもめぼしい場所……というか、名所みたいのがあったら、ざっと教えて欲しい」 「あるいは、案内図……こんなにも広いと、地図といった方がいいのか……でもあればいいのだが……」 「そう言ったのは、ありませんか?」  築宮は、旅館のロビーによくあるような案内図の巨大版みたいなもの想像しながら、なんの気なしに令嬢に持ちかけてみたのだが、それまでは〈諾々〉《だくだく》と相づちを打っていた彼女が、なぜか視線を逸らしてしまったのである。痛い処を突かれてしまったとでも言うように。 「……地図、ですか。  いつか、お訊ねになられるかもしれないと、貴方がこちらにいらした時から考えてはいました……」  と、遺憾といった声音で、令嬢は歯切れ悪く口ごもる。  雰囲気もにわかに深刻味を帯びて、特に深い考えもなく口にした『地図』だったが、旅籠においてのそれは、山中での忌み言葉に通ずるような〈禁忌〉《タブー》であったかと、築宮、いささか動揺してしまう。  令嬢は、まるで過失を打ち明けるような申し訳なさげな口調で、 「うちは、ご存じの通り色々と複雑な造りをしております―――私たち宿の者なら慣れきって、あまり普段は意識せずにあちこちを行き来しておりますけれども」 「とにかく、こう入り組んで広いと、一口に地図と申しましても作るのがどうにも困難でして」 「今まで幾人ものお客さまと、  そして私どもの身内でも、地図を引こうという試みはあったのです……が」 「ところが、です。そうして引き上がった図面を、後から皆で確かめ合わせてみましたところ―――」 「ここはこんな風にはなっていない、  あそこにはあんな部屋はない、  この辺りの廊下は、〈三叉〉《さんさ》だった、  いや〈五叉〉《ごさ》だったなどと、  どうにも、皆の意見が噛み合いません」 「それならば、と実際に行って確かめたところ、今度はその都度結果が食い違うという、これがまた妙な具合に相成りまして」 「結局、私どもでは、これまで正確な地図というのが引けた試しがないのです」  ……令嬢の話に聞きいっている間、自分が、はぁ、とか呆然としたような脱力したような溜息を漏らしていた事にも気がつかない築宮である。  それくらい〈胡散臭〉《うさんくさ》い話なのだ。ただ、そう呆れながらも、いかにもこの宿ならば、それはそれでふさわしい話だとどこかで納得してしまったりしなくもなく―――  ともかく、そういう話なら地図を片手に探索というのは諦めた方がいいかもしれないと、青年は大した執着もなく諦める。  もともとが行き当たり場当たりな探索なのだから。  と、そう築宮はさしたる未練もなく諦めた、いうのに、 「ただ―――私どもでは作れませんでしたが、あるんです。  地図は、あるのです」  再び視線を合わせ、意を決したかのようにそう囁いたのが、まるで大切な秘密を打ち明けるようだった。  否、ようだ、ではなくそれは、事実令嬢にとっては大切な秘密だったのだ。 「他に作ってみたどの地図より、それは正確です」 「それを、いったいどんな誰が作ったのか、それさえも定かではありません」  築宮も、令嬢の秘密めかした態度に吊りこまれるように身を乗り出したものの、 「でも、ごめんなさい。  その地図は、誰にも見せてあげられないんです……」  と、期待したところで肩透かし、築宮はどうにも宙ぶらりんな心持ちに追いやられる。 「……私が、今よりずっと小さい時に、それを見つけました」 「それ以来、その地図は私の『宝物』になったの―――私の一番大切な、宝物―――」 「……もし、私がそれを見せるとすれば、ただ一人のお方だけ、です」  それは? と築宮が促すように身を乗りだせば、やや俯《うつむ》いて、言い淀《よど》んで、そこで青年はおや、と思った。令嬢のしばしの沈黙の中に、羞《は》じらいといってもいい躊躇いを見てとったからである。 「それは、あの。  ……もしいつか、私の旦那様になって下さる方があれば、そのお方にだけは、お見せするつもりなんです。だから……」 「わ、わかった、わかりました。  そういうことなら無理強いなんてしない」 「ごめんなさい」  ひどく申し訳なさそうな顔で頭を下げてくる令嬢を、しかし築宮は別段腹立たしいとも思わなかった。  いつもはややもすると自分よりも大人びた風情を漂わせるこの娘の、宝物へのこだわりと、将来の伴侶へとの想いが、意外にも思えるほど〈稚気〉《おさなさ》を匂わせ、それが微笑ましく好ましかったから。  だから、そんなのは謝る事ではない、秘めておきたい大切なモノというのは誰にだってあるのだから、と慰めようとした、築宮を遮るように、 「『〈朱皿〉《しゅざら》の、〈辻井戸〉《つじいど》』―――」 「なんだって……?」  虚空を少し見上げ、見えない目録を読み上げるような、聞き慣れない言葉だった。  会話の脈絡を断ち切られ、困惑顔の青年をよそに、令嬢は言葉を重ねていく。 「『〈舟箪笥〉《ふなだんす》の階段廊下』―――」  令嬢が次々と唱えていく言葉は、耳慣れない響きながら、それでもどうやら名前なのだと築宮にも察せられる。  それも地名のような……そう、地名なのだろう、それこそが令嬢が語っていた地図に記されていた、この旅籠内の場所の名前なのだろうと、やがて気づいた築宮へ、続けて令嬢はすらすらと。  しかし、そんな藪から棒に並べ上げられたところで、築宮には海神の公子と美女の婚礼の引き出物の目録と大差なく、つまりが実感の伴わない言葉の羅列に留まって―――  が、築宮は聴いた。  言い述べられる名前の中に、鍵が自分さえ知らなかった鍵穴に嵌りこむ響きを、ついに。  築宮は―――聴いたのだった。 「『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』―――」  水面に落ちた釣り針に、深淵の底で身じろぎする気配。  長きの眠りに囚われて、強ばった体に動きを取り戻すように、青年の体の奥深くで蠢《うごめ》きだし、ごつんごつんと、それは空恐ろしいまでの内圧を秘めて。  ゆっくりと、〈瀝青〉《タール》のように濃密な、記憶の分厚い封を、ゆっくりと緩慢に、だが着実にかきわけて、ついには―――  囁いたのは現世の自分ではなく、未生の自己が、その一瞬だけ過去世から蘇って喉を使ったかのように、築宮には己の声が他人のように響いたが、しかしそれでも間違いなく、言葉は彼の唇から。 「『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』……」  その名前こそ鉤針、青年の縺《もつ》れに縺《もつ》れた記憶の糸の一筋を針先に掛けて、ずるりと意識の〈俎上〉《そじょう》に引きずりだしたのだった。 「……『ダンマリの〈納戸〉《なんど》に押しこめられたガラクタには、言い出せなかった言葉が閉じこめられている』……」  どこでそれを聞いたのか、いまだ思い出せないけれども、確かに築宮の記憶の底に眠っていた言葉だった。  それが今という機を得て、蘇ったのだった。 「それを―――どうして、あなたが?」  そして、築宮の言葉を聞いた令嬢の貌もまた見物で、〈瞠目〉《どうもく》したのがいっそいとけないくらいに無防備な。  どうやら彼女の方から聞き慣れぬ名前を並べておきながら、まさか答えがあるとは考えだにしていなかった様子の、してみると戯れのつもりの試みだったのだろう。  それが予想外の反応を築宮から引き出したとなって、やりとりは真剣味を漂わせ始める。  令嬢は、構えた剣の〈眸子〉《きっさき》で、相手の呼吸を計るように。 「『その言葉をもし聞きたいのなら、そのガラクタを壊すといい』」  築宮は、自分が知るはずもないと思いこんでいた〈舞踏〉《ダンス》の足捌《さば》きが、相手の身のこなしに導かれて、考えるより先に体の方が動き出すような感覚になかば呆然となりつつ。 「『ガラクタが最期を迎える時に、閉じこめられていた言葉を語るだろうから』―――」 「そうです。  それが、『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』」 「この宿の一画で、そんな言い伝えとともに眠る、古い物置よ……」  神楽舞の、定められた結びの所作のように言葉をそう締めて、令嬢が青年に撓《た》めた眼差しは、どこか物哀しげな色のある。  まるで言い出したことを、築宮の記憶をほどくきっかけを与えてしまったことを、今さら悔やむかのように。  築宮には令嬢の眼差しが、今にも手の届かぬ深山幽谷の神域に立ち去ろうとしている女神のように思えてならず、その真意を尋ねようとしたのだが、それより先に、 「『銀《しろがね》噴水』……、  『猫たちの寺子屋』……」 「……『一番小さくて、一番たくさんの蔵』」 「あ……それも……。  知っている、俺は……?」  と青年の言問いを封じるように、なおも名前を繰り述べ続けて、それがまた築宮の堅牢に封印された記憶の大樽に穿《うが》つ、一つの孔、小さな孔、しかし確実に道筋をつける孔。  細く流れ出す記憶の味は、築宮自身いま初めて味わう酒のようでいて、それでも間違いなく彼が醸成させたものだったのだ。 「いけないことをした子供は、そこに閉じこめられる―――そうだったな?」 「ええ……。  閉じこめた人以外は、そこを開ける事はできない、頑丈な蔵で―――」 「……真実その蔵が、一番小さいのかどうか、それはわからない。  けれど他のどこよりもたくさん仕舞われている……」  また、かわるがわるに言葉を紡ぐ。 「〈長持〉《ながもち》、〈葛籠〉《つづら》、封印の箱……開けてもいいけれど、開けていいのは、閉じこめられた子供だけ」 「その子が欲しいモノだけが、たくさん仕舞われている―――もちろん、蔵から出してくれるようなモノ以外は、だが。  そんな蔵だ……」  詩の末尾から、別の詩に繋げて互いの機知を競わせるような応酬、あるいは厳格に定められた式に則った歌合わせ、言葉のやりとりはそれらを思わせて澱《よど》みなかったけれど、裏腹に築宮の思いは千々の破片に乱れ、その欠片のいずれもが疑問符を乗せていたのだった。  何故―――?  どうして―――? 「どうして、自分はそれを、  知っている―――?」  人が、記憶を喪失に苦悩するのは当然だが、自分の中に見知らぬ記憶を見いだした時にも大いに混乱するものだと言う事。  築宮は己の頭蓋の中へ、知らない間に異物を差しこまれたような怖気に襲われ、髪をかきむしる。  絞り出すような呻《うめ》きが鈍く切なく、令嬢の座敷の簡素な佇《たたず》まいを、〈煩悶〉《はんもん》の〈暗潮〉《あんちょう》で鈍くかき乱したが、〈呻吟〉《しんぎん》する築宮へ、令嬢が寄せた声はどこか突き放すようですらあった。 「それは、あなたしか、あなたご自身しか、  確かめようのない事なのでしょう」  この一見無造作な言葉、かといって彼女が冷たい人間なのかというと、そうとも言いきれないのだろう。  なまじのお為ごかしや慰めは、相手を安心させるばかりでなく苛立たせてしまう事もまた多く、令嬢は安易な言葉を避けたのであろうと、築宮にはそう感じられた。 「自分が何故知っているのかと、あなたはそんなに悩んでしまっているようだけど」 「それはこの宿が、あなたの無くしてしまった記憶と、やっぱりどこかでつながっているという証に、なりはしませんか?」 「……そうだな。  きっと、そうだ。  君の言うとおりでしょう」  言われてみればその通りで、この場合、なにも閃くものがないよりよほど望みが持てる。  たちまち望みは、青年の背中を蹴り立てるような性急さに変わって、すぐさまその場処へ出かけなくてはと、そんな衝動に駆りたてられた築宮の懐で、自己を主張するように、急に増した重みがあった。  何かと思えば渡し守の銀の懐中時計で、なだめるように取りだし改め見れば、時間はもう晩《おそ》い。  さすがにこの夜更けの暗がりに不用意に飛び出せば、長い廊下のどこかを曲がり損ねて水路に落ちないとも限らない。 (明日だ。明日、明るくなってから早速に出かけてみよう……)  そう一人決めして、築宮は今夜は大人しく部屋へ戻る事にする。不安と希望が入り乱れた混乱は、胸の底に沈めて明日に歩く礎《いしずえ》にしよう……と、築宮は令嬢に退出の辞を少々上の空で述べたのだが、そこで呼びとめられた。 「出かけようとするのを、止めるつもりは毛頭ありませんが。  でも、道筋までご存じですか、築宮様」 「あ……それは……そうだ」  言われて心の中を探っても、名前や言い伝えは昇ってきたが肝心の道順が欠けていて、あてにならぬ事夥《おびただ》しい。  己の記憶の不確かさと〈粗忽〉《そこつ》とに、つい苦笑した築宮の手を、令嬢は自分の掌の中に引き寄せた。 「なら、とりあえず、 『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』までの行き方を、  お伝えしておきますね……」  と、令嬢は青年の掌を紙に見立てて、これこれこういう道筋なのだと語りながら、爪の先で肌にえりつけたのだった。  肌の上を、強く弱く、浅く深く、桜の葩《はなびら》を硬質に結晶化させたような令嬢の爪がなぞっていく感触は、痛いような、むず痒いような、そして秘めやかな快味を伴っていて。  なまじの見易い誘惑より、築宮の情欲をそそるような刺激だったが、青年は敢えてそれを押し殺した。 「すまない、わざわざ丁寧に……。  でも、せっかく教えてもらっても、  こんな風に肌になぞってもらっただけでは、どうも心許ない感じがする」 「忘れないうちに、なにかに書きつけておいた方が……」 「大丈夫です」 「紙と筆を使うよりも、  この方が覚えられるわ」  と弱音の築宮に請け負った令嬢の声音に、逆らえない響きを受けて、青年は口を噤《つぐ》んだ。 「本当は、私もご一緒させていただければ、  もっと確かなのだけど……」 「……ここしばらくは、色々と仕事がお積りになってしまっていて、手が離せません」 「ごめんなさい……」 「そんな、頭なんて下げないで欲しい。  充分です、これだけで。  それに君は、まだ病み上がりだ」  深々と頭を下げられて、築宮は慌てて彼女を取りなす。忙しい中を、無理を言って時間を割いてもらっては、かえって心苦しい。  と、口ではそう言いながら、彼女に同行してもらえそうにない事に、落胆の念が心の隅で疼《うず》いたのもまた確かな事で―――と、その時あちこちの座敷から、柱時計が鳴り始め、輪唱が旅籠に広がっていった。 「……うかうかと話しこんでいるうちに、  もうずいぶんと遅い時間だ。  あまり君を疲れさせるのも、まずい」  いい加減今晩は切り上げることにして、 「では、とりあえず明日、  この場所に行ってみることにします」  ……それでようやく座敷を退出する自分を、やはり令嬢は、床から立ち上がって見送ろうとしたので、築宮はそれを丁重に押し止めなければならなかった。  自室へと戻る道すがら、築宮は今日道に迷った時に出会ったあの女性の事を、脈絡為しに思い出した。  彼女の事を令嬢に報せておいた方がよかったかと軽く悔やまぬでもなかったが、そういう余所事を差し挟めるような話の流れではなかったし、かといって今さらその為に引き返すのも、なにか決まり悪いし面倒くさい。  まあたいした話でもなし、なにかの折りにでも話せばいい事だろう、あるいはお手伝いさんから既に聞き及んでいるかも知れないと、そのままに捨ておき、部屋へと帰る。  ……築宮が立ち去った後の令嬢の座敷にて。  布団に半身を起こしたままで、ぼんやり虚空に視線を〈彷徨〉《さまよ》わせている様は、普段の張りつめた彼女とは別人なのではないかと見まがうほどに精彩を欠き、そればかりか身裡を昏《くら》く冷えさせるくらいの、寒々とした〈寂寥〉《せきりょう》を漂わせていた。 (―――行きたかったのよ、本当は、貴方と一緒に) (でも、もう、これ以上はあなたと近づかない方がいい)  痛々しいほどの哀感、噛みしめられた唇は血を滲ませるのではないかというほど、けれど彼女はけして涙は見せず、そして声にも出さず―――  どの夜陰にニゴリ達が潜み、さもしく見はっているか、耳をそばだてているか、知れたものではなかったから。  ―――木造の迷路のようなこの旅籠のそここには、壁の切れ間と思っていたところへ細い通路が開いて、あるいは窓の下に身を屈めないと潜れないほどの低い扉が切られ、かつまた板張りの床には一見見過ごしてしまいそうな落とし戸が設けられ、いずれもその奥に暗がり、それも迷いこむ事に秘やかな愉びを催させるような暗がりを潜ませている。  けれどそれらは、一体何処へ通じているのだろう。  いかなるものが通り抜けていくのだろう。  時代の波からはぐれたものが、自分が現役だった頃に想いを馳せつつ、時の〈紗幕〉《ヴェール》の向こうに去っていくための〈小径〉《こみち》なのか?  それとも、折に触れて、この旅籠の中には失われたはずの時がいまだ滞留していることを告げるために、立ち現れる為の扉なのか?  築宮が、部屋部屋や通路の連なりを見下ろす階段の、しっくり肌に〈馴染〉《なじ》むように磨り減った木の手すりに凭《もた》れ物想ったのは、懐かしさと少しの切なさをない交ぜにした、そんな感傷なのだった。  彼が今日赴こうとしている、件の納戸へのルートの起点となるのは、この階段の踊り場。  ここから先階段は二叉に分岐し、一方を選ぶ事により、道行きが始まると、昨夜の案内の中でどうにか記憶している。  それから先を、迷うことなく辿れるかどうか、令嬢の言葉を一言残さず記憶しきれているかとなるとさすがに自信はない。掌の傷痕などは、昨夜部屋に戻るまでに消えていた。肌に浅く食いこんだ感触ばかりを残して。  それでも青年の中では、迷う不安より確信の方が大きいのだった。  やはり、どう考えても自分は、過去この旅籠に訪れたことがあるのだ、と。  そうでない事には、ここまで既視感を刺激される理由や旅籠内のあちこちについての知識を持ち合わせている事の説明がつかない。 (さもなくば……。  誰かの口伝えか、あるいは本かなにかで、ここの情報を得ていたとかいう可能性もあるだろうが……) (そういう知識だけで、こうまで切実な既視感ってのは、あり得るものだろうか) (彼女は、俺がここに来た事はない筈だ、  とは言っていたが……)  自分が以前に訪れた際は、まだ彼女は誕生していなかったか物心のつく前であったかの可能性はあるはあるだろうが、実際には考えづらい。確かに彼女は自分よりも年下ではあるようだが、そこまで年の開きもないだろう。なにかがあるのだ。事実の食い違いとか認識のずれとか。  築宮の心の眼が、自分の過去を懐疑しているうちから、ちらちらと見え隠れしていた貌が、一度その名を想った途端に焦点があって固定された、時には心臓の鼓動が一つ跳ねて、思わず深く息を吸いこんでしまう。  階段の中途から見下ろす光景に重なったのは、昨夜の彼女の座敷での事、向かい合う令嬢と自分の二人きり、通りかかる客もなく、諸事のお伺いを立てに来るお手伝いさんもおらずの二人きり。  ―――するり、と上掛けを脱いだ時に薫った彼女の髪の匂いが、今まざまざと鼻先に蘇るかのようで、築宮の息苦しさが増す。 (どうして俺はあの時……拒んだ?)  その時令嬢は、確かに自分に体を差し出そうとしていたのだ。  それを何故拒んだのだと築宮は、後から意地汚く、呑み損ねた最後の一杯を悔やむ酒呑みのように、己の選択を今さら悔いる始末の。  あそこで情欲の流れに身を任せなかったからこそ、旅籠の中で聞き覚えのある〈場処〉《ばしょ》の名を聞き出せたのだと理性では納得しているのに、なぜこうも心は乱れてざわめく。  ざわめくのだ。  乳房の慎ましやかな起伏の中で、感じやすくしこりたっていた、乳首の肉質を指先に想うごとに。  疼《うず》くのだ。  律動の度に跳ね上がる、細く切れ切れの、鳴き声のような喘《あえ》ぎを耳の中に蘇らせれば、腰の底から疼《うず》きが雄の器官に脈打つ。  そして、欲しくなる、求めたくなる。  濡れてきつく絞り上げ、時には揉みしだき、吸いついてくるかの複雑な肉襞のぞよめき、膣内の〈蠕動〉《ぜんどう》は、背筋がとろけてしまうくらいの快美、また味わいたくなる。  たまらない、あの華奢で小柄な体躯に覆い被さり、その胎内を押し潰すかの勢いで精を迸《ほとばし》らせる快感ほど、素晴らしいものはない。  まだ未熟な異性の体の中に、白く濁って粘つく、己の熱い体液を思うままに流しこむ心地好さは、背徳的ですらある故に、一度体験してしまえば麻薬よりも溺れさせる。  ……令嬢の顔を思い出しただけで、あの甘美な交わりの記憶ばかりが膨れあがり、築宮の呼吸は焦げるくらい熱くなり、口の中で舌が犬のように浅ましく乾く。  昨夜の、微妙に温度差のある態度はもちろん気にかかるけれど、それでも情交を先に持ちかけてきたのは令嬢の方なのだ。一度肌を重ねてしまえば、〈火照〉《ほて》る熱に違和感などはたちどころに融《と》かされてしまうに違いない。  ……普段の築宮なら、考えただけでも自己嫌悪に陥りそうな身勝手な欲望で、心臓が乱打し始める。股間にも、心臓に直結したような脈動で、〈目眩〉《めまい》しそうなほどの獣欲でひくつきだしているのだ。  ズボンがひどく窮屈なのは、陽根が異界の魔物の触手のように、醜くおぞましいまでに硬く熱く重くいきりたっているからで、今にも尖端から腺液を涎と滲ませてしまいそう。  このまま令嬢とのセックスを妄想し続ければ、築宮は人通りがないのをいい事に、ちょっと物陰に引っこんだくらいで、立ったまま性急な自慰行為を始めかねない……それくらい、彼はひどく欲情していた。  おかしい……と目の奥に繰り広げられる彼女との痴態の中、ぼんやり僅かながらの疑念を抱く。確かにあの夜以来、自分で性欲を処理する事もなく、  ―――というのは、この青年、なぜか自慰行為に対して不潔をひどく厭《いと》うような嫌悪感が有しているせいもあるのだが―――  若く健康な(少なくとも肉体的には)男子として、溜まってきているモノもあるだろう。  それにしたところで、地底の圧力に耐えかね噴出する溶岩にも似た、この獣欲の暴走は突発的に過ぎる。  一体自分は何故これほどまでに浅ましくなってしまったのだと、青年は発情期の獣のような光で目をかぎろわせつつ、少しでも身内の熱を冷やそうと大きく息を吸いこむのだが、逆効果、ふいごで炎を焚きつけるようにいよいよ抑えが利かなくなりつつあり―――  もしここで下手にお手伝いさんなどが通りかかりでもしたら、一体どのような無残極まる凌辱風景が展開されるのか、築宮はなかば〈怖気〉《おぞけ》を振るうと同時に、それでも構わないと残酷な衝動に取り憑かれ―――  そもそもは、このにおいがいけないのだ。  いつの間にか空気の中に混じり、頬を撫でるようにして鼻先にまとわりついてきている、香りとも臭気ともつかぬこのにおいが。  かすかに甘く、そして萎《な》え饐《す》えた、腐臭を思わせる臭い、それでいて性の愉悦を漂わせたにおいだ。 (このにおい……知ってる、  これはあの時……の……)  この匂いは覚えがある、これは確か、令嬢との情交の絶頂を極めた後に、水路から漂っていた臭気と同じだ。  だからつい思考が臭気に誘われるように、どうしたって肉の交わりの記憶に向かってしまうのだ、これがいけないと、においの源を確かめようとして鼻先を巡らせた時だった。  ごくさりげなく、当然のように腕に寄り添って柔らかさがあったのは。 「ああよかった―――間に合いましたね?」  ―――令嬢、だった。 築宮が、醜い妄想の餌としていた、その当の本人の。 「っひ!? あ、う、あぁ……っ!」  いや、彼の狼狽えたさまといったら。  妄想が目前に具現化したのみならず、涜神行為を糾弾してきたかのような、疚《やま》しさの針で全身を穴だらけにされた心地して、おまけに腕に腕を絡めてきているとくる。  このまま衆人環視の中に有無を言わさず引っ立てられて、自分がどれだけ浅ましい人間かの罪状をあげつらわれてしまうのではないかとの恐れで、彼女の腕をそろそろとほどくのがやっとだ。  ……ほんの数瞬前まで、脳内では身勝手極まる凌辱行為に耽《ふけ》っていたのに、いざ本人が目の前に出て来たとなると、意気地ないというしかなく、まあ不意打ちの出現は差し引くにしても、だ。  言葉にまごつくこと二言三言、失語症じみた呻きを喉から押し出してからやっと、どうにかまともな台詞らしい台詞が通った。 「な、君、ど、え!?  なん、ここ……いて……っ?」 「その、ええとそうだ、  あの、仕事があるんじゃ……?」  そう、令嬢は昨夜、仕事が山積しているので同行はできないと、間違いなく告げたはずなのに何故ここにいる?  そう彼女が言ったからこそ、青年は一人でここまで来たのだから。  しかし令嬢は事もなげに、小首を傾げ微笑みさえ含んで、 「お仕事? はい、お仕事ですね?  大丈夫です。  お手伝いさん達がいますから」 「お仕事は彼女たちに任せました。  あなたがもう出かけたと聞いて、  急いで追いかけてきたの」  ……今、彼女は一体なんと?  築宮は、思わず令嬢を凝視した、自分でもその理由がしかとは掴めないままに。 「―――ご迷惑でした?」  だが視線に籠もった不審の念、そうこれは訝《いぶか》しく思う気持ちだ、なにかが妙だと疑う気持ちなのだと自覚したのだが、それも令嬢の、軽く首を傾げた姿態が醸《かも》し出す、物想わしげな可憐さに、萎《な》えてしまいがちになる。 「いや、そんなことはないが……」  形はどうあれ、想いを寄せる異性にこうして追いかけてこられ、それで胸ときめかない男がいたなら、そいつはなにか幼少期に深刻な〈心理的外傷〉《トラウマ》を負っている事を疑った方がいい。  実際築宮も、令嬢がこうして仕事も棚上げにして自分の許に来てくれた事は、〈面映〉《おもは》ゆくもあり同時に誇らしくもあり、もっと素直に単純に、喜びで心を満たしていいはずなのに。  なのに、一体なんだ、抜き損ねた歯根のように、心の片隅に残る不安は。  木造の階段は、築宮などはどれだけ足を忍ばせて歩いたところで軋みを囁かせる。しかし令嬢が現れた時、彼女の接近を告げるような物音はなかった。  それは、令嬢はそもそも〈跫音〉《あしおと》も物静かな〈挙措〉《きょそ》の娘であるし、自分もまた不埒な妄想に浸りこんでいたから聞き逃したとして、それは突きつめまい。  それでも、有り得ない、彼女ならそんな事はしないと、築宮は拭いきれない不審に眉を潜めさせ、今一度令嬢を見つめる。  気配も感じさせず、自分の腕をかき抱いてきたのは、間違いなく令嬢、なのだと思う。  顔も、姿形も何一つ変わるところがない。  けれども、彼女がそんな風に言うだろうか。  これまで令嬢を見てきて、彼女が責任をもって旅籠の仕事に当たっているのはよくわかっている。  そんな令嬢が、己の仕事を人任せにしてまで自分を追いかけてくるものなのだろうか。  肌に蜘蛛糸が触れたほどの、微細な違和感がある。 「では、参りましょうか。  あなたが探している、その場所へ」  築宮が問い質すより先に、令嬢は足元にしなやかに尾を搦《から》めて親愛の情を示す猫の身のこなし、流麗に青年の腕にまた身を寄せて、その近しさ柔らかさ。  これで違和感に霞《かすみ》がかかった。青年の脳は、肌に降りてくる違和感を無視して、その女が令嬢だという指令を出しているのだ。  違和感と、それを強制的に上書きにするような近しさの間でなかば混乱しながらも、築宮は令嬢が手を取るままに歩き出す。  腕に降りた掌は、どこか奇妙なほど温度を感じさせず、それでいて吸いつくようで、愛撫してくるように、どこかしら淫靡で―――  ―――築宮が令嬢と出会い、階段を昇り始めたのと同時刻、こちらはお帳場である。  しかしながら現在そこは、お帳場というより片田舎の普段は〈暢気〉《のんき》な警察署内に緊急に設けられた捜査本部じみた、時ならぬ緊迫感に騒然と、お手伝いさんの出入りも激しい。  そして捜査本部というなら、陣頭指揮に立ち、入っては出てを繰り返すお手伝いさんから報告を受けているのは、言うまでもなく旅籠の管理人一族の末裔、令嬢である。  ……言うまでもなく?  これは別場面ではあるにせよ、築宮青年と令嬢が連れ立って出発したのと同時刻ではなかったのか?  時に怪異と幻妖を通廊の陰や部屋部屋の隅から覗かせるのがこの旅籠だとは言え、そこまで物の理《ことわり》を、同一時空間内に同一人物は二箇所に存在しえないと言う理《ことわり》を、こうも軽々と無視しさっていいものか?  それとも人類は時間という概念を完全に理解するに至っておらず、この旅籠の中ではいまだ隠れたる法則に則《のっとり》り、ありうべからざる事が可能になるとでも?  焦るまい逸《はや》るまいてや。  板間の縁に中腰になり、緊迫の面持ちでお手伝いさんが話に聞きいる彼女はまごうかたなき旅籠の令嬢であり、そもそも彼女は今日は朝からこの帳場に詰めていて、念頭から彼が事を敢えて締め出していたのかそれとも折にふれ想うていたかは本人以外には定かならぬが、とにかく築宮青年の許へ向かうは愚か、はばかりに中座する以外は座布団を冷やすくらいも席を立たなかったのである。  それは間違いのない真の実、では築宮青年に同行していったあの娘は? というのが川が海に流れるくらいに自然に浮かぶ疑問だが、しばし待たれよ、しばし物語を静観されよ。  静観し、一体いかなる突発事態が帳場の空気をこうまで騒然とさせているのか、飛び交う会話から聴きとられるがよい……。 「それで、間違いないのですね?  お客さまではなく、あなた達の一人なのですね?」 「ええはい、それは確実に。  私たちの中から、あんなコトされた人が出たのは、そりゃもちろん悔しいし怖いし、哀しいですけど……」 「被害に遭ったのがお客さんでなかったのは、せめてもの幸いで―――っ」 「〈場処〉《ばしょ》は……?  西北西の、『〈紅殻格子〉《ベンガラごうし》の七ツ戸』の辺りと聞いたけど」 「それ、間違いです。  方角は同じですけど、ここからもっと離れて『揃い藤棚』と、『〈百拝〉《もがみ》氏遺愛の座敷』の間の階段の辺りだって話で」 「また随分と、離れたところね。  それで―――」  と更に問い質そうとしてはっと戸口へ目線を向けた、先の障子戸に落ちる影、慌ただしく揺れて廊下を踏むのも騒々しければ、戸を勢いよく繰り開いたのもけたたましい。  ぱん、と開いた扉の框《かまち》を踏み越えていった脚は四対八本四人分であったが、人数だけを数えるならもう一人合わせて五人、しからばこの五人目というのはいかにして帳場の戸を潜ったのかというと。  運ばれてきたのである。戸板の上に載せられて、前後左右を四人の同僚に支えられて、冷たい物言わぬ躰《からだ》となり果てて。  戸板を急場しのぎの担架替わりに運ばれてきたのは、あの階段の陰で、信楽の置物の背後でひっそり哀れに縊《くび》り斃《たお》されていたお手伝いさんなのだった。  もうすっかり冷たく、硬く、発見した同僚達のせめてもの情けで、乱れていた衣服を整えてもらっていたけれど、それさえ苦悶の姿勢を覆い隠すには至らず、痛ましい。 「では、改めます……」  それでも、令嬢こそは気丈なる、誰しも骸《むくろ》に向かい合うに際して心中穏やかにいられること少なく、ましてやそれが、どうやら何者かに縊《くび》り殺されたらしい、とあっては。  そしてそれを言葉で報されるより、なによりも露骨なのが、お仕着せの襟元ずらした頸《くび》に不気味に巻きつく掌《てのひら》の痕。 「…………っ」  短く息を呑みこんで、それ以上はなにも言わなかったけれど、かといって令嬢が無情無感動というわけではなく、眼差しいよいよ厳しく、もし下手人が彼女と対峙した暁には、軽く済んだとしても、そやつはこの世に生を受けた事をひたすらに後悔するであろうし、それで済まなければ……下手人がいかなる仕儀に陥るか、描写するには一巻の書物を費やしても足りぬであろうと、そう剣呑に告げていた。  かくの如く、帳場は普段のそれとは異質の、〈殺伐〉《さつばつ》とした騒がしさが充満していたのだが、それも無理は無し、多少の喧嘩騒ぎや盗難事件、あるいは怪我人が出るくらいの不慮の事故などもないでもないが、大体は平穏なのが旅籠の常、そんな中で近年ない兇悪な事件なのである。 「彼女のことは、  丁重に仕舞って差し上げるように」 「時が経てば、また動き出して、  働いて下さるでしょうが、  今は休ませてあげましょうね……」  といささか奇妙かつ不気味な物言いは、しかし令嬢とお手伝いさんたちの間では共通認識であるらしく、誰もが神妙に頷いた。  というのも―――  この旅籠のお手伝いさん達は、人間と言うより座敷童子とか台所の精霊ドモヴォイに近い存在であり、旅籠のその時々の状況によって活気づいたり人数が増減したりする。  出鱈目と言えばそれまでの、だがそういうものなのだから仕方がない。  たとえ〈奇禍〉《きか》に遭って動かなくなってしまったとしても、それは完全な『死』ではなく、一時的な活動停止と言うことらしい。  無茶苦茶と言えばそれまでの、しかしそういうものなのだから仕方がないと重ねて言う他ないのであった。  だが、だからといってそれらの不条理が、彼女達を徒《いたづら》に〈斯様〉《かよう》な暴虐の餌食にしていいとの許可である筈もなく、令嬢にしても許されざる事態である。 「一体、  誰が、  こんな、事を―――?」  短く切られた一言一言の冷たさ硬さは鋼の刃、区切る読点には臨界寸前の怒りが滾《たぎ》り、縊《くび》られたお手伝いさんから顔を上げ、帳場の中に首を巡らせたのが〈轆轤〉《ろくろ》の回転のように機械じみた動きで、令嬢としては別に他のお手伝いさん達を糾弾するつもりでなく、心当たりを訊ねただけのつもりだったろう、ああそれだけだったろう。  しかし――― 「ひきっ!?」  眼光ともろに目が合ってしまったお手伝いさんは、引きつけたような悲鳴で硬直し、よろよろ後じさったところ帳簿机にけつまずいて見事に転倒し、 「ふあっ!?」  ある者は緊張に耐えかね傍らに置かれていた〈大算盤〉《おおそろばん》を意味もなくばちばち弾き始め、 「うなぅっ!?」  他、あっけなく失神する者恐怖のあまり箪笥の陰にしゃがみこみ壁を見つめかたかた震えながら爪を噛み始める者等々、帳場の中はさながらパニック障害の見本市の相を呈した。  これにはさすがの令嬢も気が引けたのか、向敵相は即座に顔の内側に引っこめて(といっても表情自体はたいして変わっていないのだが)、取り繕ったように戸板の上の骸《むくろ》に向き直り、苦悶に見開かれたままの双眸の瞼を下ろしてやろうとした。 「あ、ちょっとお待ちを」  令嬢が冷たく硬直した瞼に掛けた手を、別のお手伝いさんが遮る。  不審げに小首を傾げた令嬢へ、めぼしい手がかりも痕跡もなかった旨をまず伝える。  おそらく下手人はとうに雲隠れした後なのだろう。こうなってしまうと、無駄に複雑で無数の部屋や座敷を擁《よう》している旅籠だけに、下手人の捜索は非常に厄介で、お手伝いさんの言葉はその事実を強調するだけのようであったが、彼女は更に続けた。 「確かに現場には、めぼしいモノはなにも残されていなかったんですが……」 「それでも、手がかりを探る術は、まだあるんです」  と彼女は、冷たい骸《むくろ》を苦労しながらどうにか抱き起こして、他の同僚達に目で合図、すると以心伝心とはこれを指し、皆一斉に動き出した。  ある者は帳場の障子に適当に暗幕を掛け中を暗くして、ある者は壁際の調度をどけて壁の一面広くして、またある者は電気の線と電球をどこかから引いてきて、これらてんでばらばらに見える一連の作業を、何事を始めるのかと見守る令嬢の前で、骸《むくろ》を抱きかかえていたのが、食いしめられた唇を苦労してこじ開けた。  遺骸をそんな風に扱うのは冒涜と、令嬢が止める間もあらばこそで、裸電球を持ってきたのが骸の口へと突っこんで、そして帳場の電燈が落とされる。  暗幕の隙間から光が差しこむようなおざなりな暗がりでも、いきなりでは目が利かない、令嬢が困惑した時、かちりと電源を入れる音、次いでぼうと点る灯り。  骸《むくろ》の口中に差しこまれた電球が、頬の肌を透かすようにして、いや光が漏れだした孔はもう二つあった。  澱《よど》み、停止した骸の眼からだった。  ……真偽は明らかならざる奇説だが、死者の眼球は〈今際〉《いまは》の情景をフィルムのように記録している、とか。  少なくともそれは、旅籠のお手伝いさん達に関しては当てはまるようだった。  なんとなれば―――  先程手早く片づけられた壁面に、冷たい口腔の中から照射された光で映し出されたのだ。  旅籠の情景が、すなわち縊《くび》られたお手伝いさんが最期に見ていた情景が。  ……暗がりの中とてしかとは判別できなかったが、この時の令嬢の貌はある意味見物だったろう。なんとも出鱈目なやり方に、さしもの令嬢も頭痛に襲われたように瞼を押さえたのである。  しかし彼女も、すぐに壁面の映像を見つめ直した。  そこに映し出されていた人物こそ、お手伝いさんを縊《くび》り殺した犯人に違いなかったから。 「……この人、は……確か……?」  画面の中で両手を鉤に構え、まさに迫真の圧力で映し出されているのは、女。  どこといって特徴のある姿貌立ちではなく、そのポーズがなければ非道な行いの張本人とは信じがたい。どうやら旅籠の女性客であり、令嬢も部屋決めの時に一度面通しをしたきりで、どういう人物かまでは知るに至っていない。  ともあれ、その女こそ、昨日築宮が水路から助け起こした娘なのだが、当然それを知る者はここにはおらず、ただ運良く一人のお手伝いさんがその娘を見覚えていた。  見覚えていたが、判明したのは更に奇怪な事実だったのだ。 「そんな、筈ないわ……。  だってこのお客さん……」 「もう、亡くなってる方だもの!」  なんでもそれは。  〈一昨々日〉《さきおととい》お湯と間違え、冷水のお風呂に入ってしまったショックで、ぽっくり逝ってしまった気の毒な娘であるそうで。  そしてその報せは、令嬢も受け取っていて。 「……ああ、その報せなら聞いています。  お気の毒ですが……間違いなく、お亡くなりになっていたのでは?」  その逗留の期間が長きに渡る客達の中には、時にこの旅籠で人生の終焉を迎える者もある。事故で、病で、あるいは老衰でと、その死因は様々だが、旅の空に果つるとはいえ少なくとも〈路傍〉《ろぼう》に見捨てられて骨を露で痛ましむる事は少ない。  大概はすぐにお手伝いさんに発見され、遺体はいったん霊安室に安置され、滞在の間に〈知己〉《ちかづき》が出来ていれば彼らに、またそうでなくともお手伝いさんとその時々の旅籠の主に見送られ、〈荼毘〉《だび》に付されて共同の墓地に葬られる。  その娘もそんな死者の一人で、今は霊安室で〈荼毘〉《だび》の時を待っているはずだが、まずは確認をと連絡を取ろうとした。が、そこには電話は通っておらず、代用の伝声管もあいにくこの前塞いでしまったばかりなのだとか。  ならば直接訊いてくるほか無しという事で、一人のお手伝いさんが急使に仕立てあげられ、帳場から全速力で駆け出す羽目になる。 「なんで塞いじゃったの!?」 「だってあすこの伝声管ってば、誰も使っていないのに、しょっちゅう『寒い』だの、『台が硬くていやになる』だの」 「他にも『〈経帷子〉《きょうかたびら》はもっと上等なのがいい』だの、誰もいないはずなのに、ろくでもない文句ばかりが聞こえてくるから困るって言うんで―――」 「女将さんが塞いでしまうよう、言いつけたんじゃないですか」 「そんなことも……ありましたっけ?」  などと、どうにも緊迫感を削ぎ落とすようなやりとりをしているうち、山間を駆け上がる汽車のように盛大に荒い息をつきながら、駆け戻ってくるお手伝いさんの、どうやら行きも帰りも全力疾走、生真面目な質らしい。  彼女が息を整えるまでの間が、長かった事。  それで――― 「仏さま、いなくなっていたそうです」  帳場に、夏の木立を夕立が鳴らすようなざわめきが広がる――― 「あっちの担当のコが、お通夜をサボってお客さまとちょめちょめしている間に、見えなくなってしまってたって」 「ばれたら、きっとひどくお仕置きされるからって、黙ってたって。  ……そんなの、すぐに知れちゃうのに」  今度帳場を乱したざわめきは、剣闘場で〈粗相〉《そそう》をしでかした闘奴を、観客達がさてどう始末してくれようかと剣呑に思案するようなざわめきであった。 「どうしますそのコ。とりあえず『どぜう責め』の刑にでもしておきますか?」 「そんなのは、とりあえず捨ておきなさい。  でも、一体なにが―――」  起こっているのだろうという、語尾までが続かない。令嬢の目が見開かれる。  骸《むくろ》の最期の映像の端の方に写っている人物にようやく気がついたのだ。廊下の角を通りすぎて行くところであり、横身の後ろ半分が辛うじて見えている程度だったが、令嬢には判る、背丈、体つき、髪の様子、他の者には判別に足る要素ではないけれども、一度肌を重ねた相手だもの、令嬢には判る、否きっと彼女にしか判らない。  それは、築宮青年だった。 「なぜ、あの人が」  ぞわぞわと、猛烈に悪い予感が脇腹から背筋首筋に灰青の黴《かび》と取り憑き、令嬢は帳場の奥に小刻みに駆け寄った。  伝声管が集合している一画だ。迷う事なく築宮青年の座敷の最寄りの伝声管の一管を選び、係りのお手伝いさんを呼び出し問い質したのが、彼が部屋にいるか否か。  伝声管の向こうのお手伝いさんも、張りつめた令嬢の声に大慌てで確かめてきた様子で、返声はほとんど間をおかず、〈真鍮〉《しんちゅう》の管を震わした。  青年の姿は、彼の座敷には見えない、と。  昨夜の様子だと、おそらくは『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』を目指して既に出発した後なのだろう。  彼の不在を聞いて、令嬢の胸の不吉な予感、ますます強くなる。  打ち消そうとしてもそれはますます強まるばかりで、令嬢はやがて意を決したように、一つ強く頷いた。 『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』まで、いくつもの階段を上り下りし、水路に架けられた橋、宙に架け渡された廊下を渡って、もうどれくらい歩いただろう。築宮青年には通った覚えもない道筋だが(あるいは忘れているだけなのかもしれない)、不思議と迷いはしなかった。  昨夜令嬢から腕に彫《え》りつけられた地図が、その痕などもう消えているのに、廊下の分岐や曲がり角に当たるたび、かすかに疼《うず》いて、進むべき道を教えてくれたからである。それを心得ているのか連れなる令嬢は、特に口出しもせず傍らを歩くだけ。あれこれ指図がましい案内するより、青年が間違いそうな時だけ教えるつもりなのだろうか。  そんなわけで、道に迷う不安もなく進む築宮であるが、随分と長いこと歩いてきたにもかかわらず、退屈は感じていない。令嬢といつにないほど言葉を交わしていたからである。常なら口数も少なく、俗な世間話あたりは似合わぬ風情を漂わせているのに、この時は好奇心に駆られているのか青年のことをあれこれ訊ねたりしてきた。  旅籠で過ごした日々で、なにか気に入ったことはあったかしらと笑みを溜めつ、或いはこちらに至らない点はありまして? と懸念を眉に潜め、彼女にしては表情の変化が多いし、なにより常ならそのように積極的に話持ちかけてくること少ない令嬢なのに、である。……どう考えても普段に比べて、はしゃいでいる気色がありはしないか。そう思うせいか、こうやって並んで歩いているうち、まばたきをする度、ふっと彼女から意識を逸らして周りの景色を眺め、また視線を戻したりするたび、令嬢の顔がいつもと違って妙なくらい快活に見える瞬間がある。  築宮はその度に、この娘にもこんな顔を見せる瞬間があるのだ、と新鮮に感じたりする。  というより彼は、いつもと異なる令嬢のの快活さ、人懐こさにすっかり魅せられており、こうして共に歩いているだけで心が浮き立ち、足取りまでも軽くなる。これでは春を迎えたばかりの男の子、異性と一緒に過ごすのは楽しいことなのだと初めて知った、思春期の少年とそう大差はない。  それであるから青年は、果たして歩いた道程が長いのか短いのもときめきの中に曖昧に、どうやら『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』の戸の前に辿り着いたその時にだって、目的の場処を前にした、到達の感慨より二人の道行きをもう少し続けたいなどいう、あべこべの物欲しさを覚えていたりで、これではどうにも足元おぼつかない。  令嬢との共歩きの喜びは喜びとして、それでも大なる引き戸の軋んで重い手応えを振り切るように、背筋に力を籠めて開けていくにつれ築宮の胸には、秋の夜更けに雨音を聴いたが如き、懐かしさともやるせなさともつかぬ胸騒ぎが満ちていった。心臓も早鐘と化し、轟いて、この気持ちの奔流は、狭い〈胸郭〉《きょうかく》の中には収まりきらないと言わんばかりの。  伴の令嬢と一緒に歩を進め、引き戸を閉じる手からして小刻みだったし、完全に室内に我が身を閉じこめるともう、戦きは全身に波及して、青年は体を震わせ〈暫時〉《ざんじ》立ちつくした。  今二人の前に広がっているのは、『納戸』という閉鎖的な語感から程遠い広大な空間なのであるが、奥行きが計れないのは視野の殆どを雑然とした品々が埋めつくしているから。なるほど、その辺りは名前通り納戸なのだろうが。入り口を潜る前から、通廊の横手に一連なりの木壁を眺めながら歩いてきたのではあるが、その裡側が全て一つの空間なのだと推量する者はそうはいるまい。  室内は、高いところに切られた窓から外光が侵入して、様々な品々に一種曖昧な形を持たせてはいたけれど、薄暗さを放逐するには至っていなかった。  生暖かく垂れこめる暗がりをところどころ縫っているぼんやりした光の帯は、秘やかな秩序をもって運行される星界のように、ゆっくりと周遊する塵で満たされてある。  光の帯の一筋が令嬢の服に落ちて、色を音のように〈爪弾〉《つまび》き出し、別の一筋が築宮の肩にかかり、深く吸いこんだ息に大きく膨れあがり、詠嘆の吐息とともに下がっていくさまを浮かび上がらせた。 「ああ―――」  古びて日に焼け、くすんだ木肌の、あの独特の匂いがスープのように、室内の空気に濃密に溶けこんでいる。その匂いを愛おしむように肺一杯に落としこんで、そろそろと吐き出す。  彼の溜め息が葉を散らす秋風ほどにも強調されるほどに、室内は、無音。  吐息は嘆声に変わる。 「ああ、ああ―――ここはやっぱり―――」 「やっぱり俺は、ここを、知っている」  漠とした印象が確信に変化する呟きの、築宮は、ここまで近づくにつれ喉の奥で低く脈打つような、背筋が鈍く疼くような、懐かしさ、切なさを感じてあり、室内を目の当たりにした今、それが最高潮に達したのだった。 『納戸』の中央には、いかなる意図をもって外から導いてきたのか不明だが水路が流れ、板張りの床を大きく左右に区切っている。  水路の両脇に低くあるいは高く、無数のガラクタ、古い民具、用途さえわからぬ古道具が積み上げられ、さながら古い時代が形となって堆積しているかのようだ。  広大な物置は森閑として、積み上げられたガラクタ達が音を吸うのか、水路のせせらぎも聞こえない。  体を包みこむ、静まりかえった空気の中に肌を撫でてくるのは、哀しいほどの郷愁なのだろうか、それとも畏れか―――自分の知られざる過去に触れてしまう事への、畏れなのだろうか。  ガラクタの山が醸し出す無音の気配に圧倒されて立ちすくむ築宮を、令嬢が覗きこむ。 「……なにか、想い出せそうですか?」  そう言われて、築宮は祈るように〈瞑目〉《めいもく》し、瞼の裏に焼きついた納戸の情景を心の底に沈めて、記憶と重なりはしないかと試してはみたのだが―――どうにも照合されないのだ、焼き増しした写真を重ねるように、ぴたりと納まる画がないのだ。  確かに肉を刻み骨を喰《は》むくらい切なる郷愁で、息をするだけでも身の裡の懐かしさは増していくばかり、それなのに、夢でしか見たことのない景色であるかのように、己が実際に足跡を印した場処とは言い切れない曖昧さが拭い去れない。  それは、訪れた記憶を失っているからと言うよりも、青年にとってはなにかもっと異なる意味を持つ〈場処〉《ばしょ》であるからのような。 「どう……なんだ、これは……?  俺は確かに、ここを知っている。  知っているが、しかし……」  どうにも煮え切らないでいる築宮に痺れを切らしたのか、令嬢は何か思案した様子で手頃なガラクタを拾い上げ、秘められた過去を聴こうとするように面伏せして――― 「けれどもあなたは。  忘れていたことを思い出してしまったなら」 「きっとここから、出て行ってしまうのでしょう。私を置き去りにして、一人で行ってしまうのよ」  おもむろに、力を籠めて、元々古びていたガラクタのこと、あっけなく―――壊れてしまって、砕ける音が哀しく乾いていた。  この静かな、かつては生きていた道具達の鎮魂の〈奥津城〉《おくつき》のような空間での彼女のその行為はとんでもない暴挙のように思えて、築宮が思わず令嬢を叱責しようとした瞬間、響いた声のある。響いて、納戸の虚空に波紋を置いていく。まさにガラクタに封じこまれていた言葉が、壊れた途端に解放されたものだとしか、青年には思えなかった。   『今度こそは、間に合う筈だったのに―――』    それがどういう状況で、いかなる思いをもって呟かれた言葉なのかは知りようもない。けれど物哀しさ、侘びしさが浮き彫りになった声音であり、聞いただけで寂寥にとらわれ足を止めてしまった築宮の、その隙をついて手をすり抜けて、令嬢はガラクタの狭間に身を滑りこませ遠ざかっていく、言葉だけを後において。 「もう、厭なんです。  独りぼっちは、厭」 『――――――!』    ……また乾いた音が弾けて、また声が響いて、かそけくてよく聴きとられなかったものの、先ほど彼女が壊したときと同じの哀訴の声で、どうやらまたいずれかのガラクタを砕いたものと覚ゆる。  なんのつもりか令嬢は、あちこちのガラクタを手当たり次第に壊して封じこめられていた言葉を解き放ちながら、納戸の奥へと進んでいるのらしい。  むろん築宮には彼女がなぜそんな蛮行に走ったのか見当もつかない、つかないけれど、ガラクタが壊される音を聞くたびに、寂寥は焦りに代わり、断末魔のような言葉を聞くたびに、その焦燥が膨れあがっていく。いったんは鎮まったはずの焦り、迷いだ。   『―――本は、人形と一緒に埋めてしまってください―――』    様子は見えなかったが今度壊れる音は大きくて、ガラクタが大きかったからか、声もよく届いたけれど聞かない方がよかった、そんな切ない言葉に築宮は耳を塞ぎたくなる。 「私はここで独りぼっち。  ずっと閉じこめられて」  閉じこめられている? 誰が? あなたが? なぜあなたはそんな風に言うのだと、築宮、令嬢の後を追いかけてガラクタの間に駆けこむ。   『――――――……っ』 「あなたがもしこれまでのことを思い出したら―――  代わりに、私のことなんか忘れてしまうんです」  令嬢がガラクタを壊すたび、言葉を聞くたびに膨れあがるのは戸惑いだ。なぜそんな痛ましい事をやる、どうして今になってそんなことを言う。これまでは自分が記憶を取り戻すことについては肯定的だったのに。それを、そんな風に自分を責めるような言葉を並べるなんて、どういう心変わりなのか。それともこれが彼女の本音だというのか? どれだけ気丈そうに見えたとしても、やはり彼女にとってはこの広大な旅籠は檻でしかなかったのだろうか。  ガラクタに隠されて視界は通らないが、それでも音を頼りに追いかけるうちに彼女に近づいてきたようだ。   『―――あの子の病気は、もう治らないよ―――』 「……え、あ、きゃ……っ」  もう少しで追いつくというところで、水を跳ねかす音、に悲鳴が続いた。迷路のようなガラクタの壁を潜り抜けてみると、令嬢は納戸を流れる水路に落ちこんで、尻餅ついてずぶ濡れになったところだった。 「……転んで、しまいました。  みっともないですわね、私」  大して深くもない水路に下肢を沈め、後ろ手に半身を起こした彼女の肢体に濡れた衣装が貼りついて、儚げな曲線を浮き彫りにしている。乳房も透けて、濡れ髪が妖しい。  その姿を見ても、築宮の苛立ちは収まらない。足を濡らすことも厭《いと》わずに水路の中に踏みこみ、令嬢の肩を掴んだ力は、よもや青年自身彼女にそんな力を振るおうとはついぞ考えたこともなかったほど、手荒な。  はじめは、 『きっとここは、見捨てられた、あるいは忘れられてしまった古いモノが静かに眠る場処なのだ』 『なぜそっとしておいてやれない』  とかそんな風に彼女を諫めるつもりだった。  けれど、彼女の肩に触れてしまって、その華奢な感触と濡れた布地に浮き上がる乳房の円みを意識してしまった途端に、苛立ちは情欲に変質する。  不意に湧き起こった獣じみた衝動を、振り払うように、 「あ……っ。  すまない。いきなりこんな、乱暴に。  別に君を責めるような、そんな気持ちじゃないんだ……ただ、その」  〈口迅〉《くちど》に並べた言葉は、青年自身言い訳じみていると思えたし、なにより手を肩から離せない。  か細い肩、掌にすっぽりおさまりそうな肉と骨の感触が、築宮の心の猛々しい部分を、ことさらに揺すぶり自覚させるような。  ―――その上で。  見返す令嬢の眼差しが、不意に意味を帯びた。単なるじゃれあいの域より奥に、秘めやかで湿った行為へと、進んで踏みこんでいこうとする、そんな意味合いを、瞳が囁いた。 「いいんです……そのまま。  そのまま、あなたの思うようになさっても」 「……なにを言い出すつもりかと思えば。  俺は、なにも君をどうこうしようと言うつもりはない……」 「隠さずとも、よろしうございますのに。  私は、もう、構わないのに」 「なにされたって、ここであなたに抱かれたって、構いやしない。  いいえ、抱いてほしいの―――せめて、この今だけは」  乱暴にされているのに令嬢は怯えた風もない。むしろ築宮の情欲に気づいてなお、恍惚とした笑みを浮かべ、築宮の激情に身を任せようとしていたが、築宮、彼女が後ろ手になにかを握りしめていることに気がつく。  奇妙にひっかかるものを感じて覗きこめば、水面を透かしてそれは、子供の小さな筆箱だった。見た瞬間、築宮の体に戦慄が走る。それは、それには、見覚えがある。もっとよく見せてほしいと手を伸ばしたのだが、令嬢は背中に隠して見せてくれない。 「わかりますよ。これに、なにか心に響くものがあったんでしょう」 「これから、あなたの気配がしているのだもの」  そこまでわかっているのなら、なぜ見せてくれないとなおも覗きこむ築宮と、それをかわして遠ざける令嬢の、手と手が伸ばされては遮る。 「これを見て、何か思い出して、それであなたはどうするおつもりですか」 「この宿から出て行くつもりですか? それとも―――  それを聞かせてくれるまでは、お見せできません」  これまでと打って変わって妙に意固地な令嬢に、不審を覚えつつも築宮も頭に血が上りかけていた。そんなのは、見てみるまでわからないとほとんどむきになって、水を跳ねかしながら揉み合う。  浅い水路の中で、彼女を押し倒し、突き放され、その手を引き寄せ、振り払われ、はたから見ると滑稽と言えなくもないが本人達はいたって真剣の、強い気持ちの、お互いに。それでもとうとう築宮の手が筆箱にかかり、もぎとろうとする。  けれど令嬢も離してはくれず、お互い必要以上の力が籠もった、籠もってしまった、とみるや、びしりと肝心の筆箱に、ひび、縦に走って、と見るや割れて―――しまう。  筆箱が壊れてしまう音に、築宮の中に凶暴なまでの衝動が走った。せっかく見つけた自分の記憶のよすが、どうしてくれるのだと、衝動に蹴りつけられるように乳房を握りこむ、まるで先程から令嬢がしていたように、壊す手つきだ。自分の大事なものを壊してしまったのだから、その代償にお前を―――と、築宮が令嬢の服を引き裂こうとした、その刹那に、   『嬉しい―――大事にするね』    聞こえたのは、築宮の声ではなかった。少女の声だった。この納戸にしまいこまれたガラクタにこめられているのは、言えなかった言葉だという。ならその少女は、どんな気持ちでその言葉を呑みこんだのだろう。とにかく、築宮はその言葉を耳にして、記憶の底、自分でもこじ開けられない記憶の扉の向こうで、何か一つつかえが降りたような、そんな安堵を感じたのだった。 「……姉、さん……?」  そう呟いたのは、自分の舌だったのか。生まれてから初めて発した言葉のようであったが、かつての自分にはそう呼ぶ相手があったのか。しかしその呟きは虚空に消えて、それ以上の記憶を引きだしてはくれない。  ―――姉という言葉に、ただ重く切ない感慨がこみあげてくるばかりで。それでも判ったこと、一つ、一つだけ。だがああ、どれくらいの意味を秘めた一つ事だったろう。  この旅籠に着いてから、時として青年の瞼の裏に浮かんではすぐに消えていったあの面影。失われた日々への標《しるべ》となるあの女性―――名前は今だ取り戻せぬ、けれど、きっと。  あの人が、築宮青年の姉なのだ。  築宮の中の衝動は獣じみて暴れていたのに、筆箱の損なわれたとともに解放された言葉を聴いて、嘘のように引いていった。  女性に、こんな風に乱暴なこと、いやらしいことをしてはいけないのだといういかにも彼らしい落ち着きと自制が蘇り、築宮を落ち着かせていく。冷静さを取り戻していく築宮を、けれど娘はどこか不満そうに覗きこんだ。 「今の声は、あなたの―――?  なにか、思い出せて?」 「……いいや。ただ―――駄目だ、やっぱり思い出せない」 「けれど、少し気持ちが楽になった」  筆箱は壊れてしまったけれど、かといってもはや令嬢に怒りも情欲も向ける気は失せてしまった。あの声が聞けただけで、〈欠片〉《かけら》ばかりではあるけれど大事なものを取り戻せたような思いする。  途端に寸前までの劣情が忌まわしいものに感じられて、謝罪の言葉を口ごもりながら身を引こうとしたのだが、その手がぐい、強く引かれて倒れこんでしまったのが令嬢へ、形だけなら、さっきまで襲いかかろうとしていた続きとしか見えない。 「ここまでしておいて、中断するなんて、どうにかしてます。  女の子に恥をかかせてはいけないって、教わりませんでしたか?」  筆箱からの、過去からの声にすっかり正気を取り戻していた築宮にとっては、その時の令嬢の眼差しはぞっとするほど〈淫蕩〉《いんとう》で、言葉につまった。  不意に―――下から唇を奪われる、狼狽している間にも舌が青年の唇を割る、忍びこむと言うより押し入る柔らかな肉が、口中に蠢《うごめ》いて深い、深い、舌で犯されているようなもの。  立場が、完全に逆転していた。  粘膜の感触だけでない。濃く甘い香りが、唇を重ねたところから流れこんでくる。甘美で、蠱惑的で、なのにどこか腐臭を思わせる香りだった。その香りと令嬢の口づけにどれだけ蹂躙されたのか、彼女がいったん顔を上げたのさえ気づかない有り様で築宮、眼差しはきょとんと間抜けていたが、唇を濡らすぬめりは、なんの、間抜けているなどと穏やかなものか。  唾液の雫を連ねた糸を唇に架け渡しながら、 「それに、まだ聞かせてもらっていませんから。どうするんですか」 「全てを思い出したとき、ここから出て行くつもりなのか、それとも―――」 「いいえ。  出て行くなんて、厭」 「ずっといて下さい。  私と一緒に、ずっとずっと―――」  信じられなかった。あの令嬢が、こんな風に哀願してくるとは築宮には到底、信じられないのに、先程の口づけがあまりに強烈で思考に靄がかかったようだ。手足さえ痺れたように利かなくなっている。そんな築宮に、これがあの娘かと目を覆いたくなるほどの淫猥な笑みを浮かべて、体を入れ替えたのも、令嬢の方から。  肩を押された、その力は強くはないのに逆らえず、腰が抜けたように座りこむ築宮だったが、しかし彼の雄の芯は。そんな様子とは裏腹に。熔けた鉛のように熱く鈍く。  樹の節瘤のように堅くごつくいきりたち、これに全身の血と力と神経が全て持っていかれたかの有り様で。  ズボンの上からでもおぞましいほどの隆起を晒していたが、令嬢は臆するどころか恍惚の息を濡れた唇に含んで、彼にまたがり、スカートをたくし上げて――― 「はぁ……あっ、  いい、です……もっと、して。  私に、触って……ぇ」  ―――喘ぎ声が熱を帯びて、甘かった。  令嬢の肌を愛撫しながら、なんでこんな事になったのかと、今さらながらに疑念を抱く築宮だったが、思考は劣情に流され、形を取る前に崩れていく。  ただ令嬢に求められるままに、その柔肌に指を這わせ、唇を寄せて匂いを吸いこんだ時にはもう、築宮の体と心は快楽それのみに塗り潰され、他にはもうなにも要らないとまで酔いしれ果てた。  勢いに流されて、青年にしたところで途中からはそういう展開を期待していたようにも感じていなかったかと、自分が怪しくなってくる。  とにかく今は―――  ―――納戸の薄明かり映える、濡れそぼった令嬢の姿に、胸がつまるような想いがした。  綺麗で、綺麗なだけではなく、とてつもなく淫靡で。  華奢にくびれた腰の稜線も、脆そうな鎖骨も、乳房の下に浮いた骨も、張りのある太腿も、煙るようなくさむらも、薄く朱に染まった肌も、なにもかも。  築宮の欲情を煽りたてた。 「……なにか……俺は、変だ。  心臓が……凄い……動悸で、  苦しいくらいだ……」  そう囁く、彼の息もまた熱い。  獣欲で喉がひりつくように乾いて、心臓の動悸がおびただしい。 「ふふ……ほんとですね……」  令嬢の視線が青年の下半身の方に泳いで、うっとりしたように微笑んだ。  心臓の鼓動でさえ気取られてしまいそうなのに、そちらはもう、浅ましいまでに情欲に逸る彼を主張していた。  令嬢がズボンの前をくつろげ、かきわけたその動きだけで青年の雄の器官がひく、ひくと脈打ってしまい、まろびだされた時のぶるん、との勢いよさ、一つ目の生き物が涙を浮かべるみたいに、先走りの珠を盛り上がらせて。 「そこばかり、そんなに見つめること、ないじゃないか……」 「無理です。  どうしても、目がいってしまいます。  そんなに大きくなってるんですから……」  彼女が温い吐息の下で、既にぎりぎりまで盛り上がっていた先走りの露が、表面張力を越え、つぅ、と滴る。  細く糸を引いて、令嬢の目前で滴り落ちる。 「……あ……」 「あったかい……」  その滴りを、躊躇うことなく指先で拭って、細めた眼差しの、それだけで股ぐらをまさぐられるような淫らがましさといったらない。 「凄いですね……、  こんなに、垂れるくらいに。  女の子みたいに濡れて……」 「ああ、おかしいくらいに昂奮してる、  俺は……う……っ」  築宮が呻いたのは、苦痛ではなく快感で。  滴り落ちた雫に指で掬《すく》い、唇に塗りこめるのを見た、見てしまって、それだけで心地好さが視覚から股間に叩きこまれたから。 「ふぅ……ん……くふ……」  それは普通なら生臭さを放つような行為なのかも知れないけれど、なにしろ築宮の精神状態もまともとは到底言い難い。  最前までの物狂おしさはどこへやら、今は令嬢の淫猥な仕草に、昂奮が高まりゆくばかり。  自分の粘ついた汁で、彼女の唇を汚しているのだという、途方もない感慨があった。 「あぁ……あぁ……」  唇を赤く薄い舌で一舐め、青年の腺液を味わっただけで、声が早くも快楽の震えを帯び始める。  跨《またが》ったままで、スカートをいつ脱ぎ去ったものか、下着をいつ取ったものか、青年が彼女の唇の淫らに魅惑されている間の事なのか。  いずれにせよ、上着一つになって、築宮の太腿に乗り、その下肢の付け根を、彼女の中心を露わにしていた。。  露わになった秘裂は、既に露を含んでほころびかけていた。 「あ……君も……濡れてきて……?」  指摘すると、くふっと喉の奥で鳴らした笑みが、男にとってたまらない媚びを含んで、耳をくすぐる。 「――それは、もう、私だって。  あなたの、そんなのを見せられたら……、  普通じゃ、いられません」 「私だってこんなに、濡れてるんです。  だから―――続けましょう?  このまま……ね……?」  恥じらいもなく、確実に男を求め、快楽を貪る眼差しだった。  それが今は、築宮にとってたまらなく蠱惑的に映った。 「それなら、こうやって……?」 「ん……っ」  こうなっては遠回しな愛撫など鬱陶しいだけだろうとあたりをつけ、いきなり、むきつけに秘裂に手を差し延べ、襞肉の間の蜜へ、そっと指で触れ、絡ませる。  人の身体の中で、こんなにも柔らかい肉があっていいのかと危ぶんでしまうほど、他にはない粘膜の質感が、指先を包む。 「あは……っ……は、ぁ……あ」  なるべく爪を立てないよう、優しくひとしきりこね回すと、たちまちそこは火の傍に置いたバターのように、とろけきった。 「……あ、やぁ……音、してますね……っ」  指を離せばちゅくりと鳴って、銀の糸が伸びる、蜜という言葉に相応しい、濃い粘液が、秘裂と青年の指の間に、糸を引く。 「あ、ひあ―――!」  令嬢の反応が青年の情欲をいよいよ刺激し、彼女の秘裂へもぐりこませた指を、執拗にこね回す。  今度はこね回すだけでなく、二枚の襞肉の結ばれ、彼女の芯へと指を滑らせた。 「あ―――?」 「ふ―――あぁ!?」 「そこ……いいっ、  凄く…………ひああっ」 「ひぅ、ふくぅ……っっ」 「くる……きちゃ……、  びりって……う、くっ」 「う……ふ……っ」  青年の性急な愛撫を反らすどころか、むしろ進んで貪るように腰を指先に合わせて擦り寄せ、それでなお飽きたらぬといわんばかりの、眸のかぎろい、妖しく、ぬめる。 「指だけじゃ、いやです。  あなたので、男の人ので、もっと―――」 「……う?」  まだ秘裂に這わせたままの指をどけて腰を持ち上げて、天を衝くようにそそりたつ雄の器官に、秘裂を押しつけてきたのは令嬢のほうだった。  つぷり、と蜜が弾けた。 「……これ……」  もう形も判らないくらいに潤って、複雑な襞のあわいの中に、待ち望んでいたように、嬉しそうに尖端を呑みこんでいく、肉の輪がある。 「もう、中もとろとろです……。  わかるでしょう……?」 「ああ……」 「だから、ね。  そのまま、ね?」  全てを受け入れるような視線をよこして、令嬢はにこりと微笑んだ、否、受け入れるどころか、求め貪る貪欲な、爛《ただれ》れきった雌そのもの笑み、に、青年の雄の器官が痛いくらいに矢印を指し、呼応する。 「来て―――  欲しいです、築宮様の。  私を―――犯して下さい」  もう言われるまでもなく、築宮の体がほとんど勝手に動いて、彼女の細腰を押さえつけるようにして、下か肉を割り裂くように―――貫いていく。  青年を押し返すようにきつく、それでいてぬめりながら呑みこんでいく粘膜の熱さが。  たまらなかった。最高だった。それしか考えられなくなった。 「ああ……っ!  ―――は、あ……ふかい……っ」  押しこんでは、引きだし、そしてまた押しこんで、最奥まで。  熱くとろけきった粘膜は、きつく、かつ柔らかな弾力に富んでいて、貫通する感触に、二人の吐息が重なる。体を起こし、強く抱きしめ令嬢の乳房に顔を押しつけながら、築宮は中の感触を味わった。  くまなく茎を包む粘膜から、ぷつぷつと愛蜜が産まれて尖端をぬめらせていくのがわかる、襞の一枚一枚が尖端の返しに引っかかる感触までもが、鮮明に感じられる。  築宮は、まだ動けない。今動いたらたちまち達してしまいそう。  令嬢の肉の〈狭隘〉《きょうあい》は、それぐらい素晴らしい。 「動かなくて、いいんですか……?」  ところが、頬を押しつけた乳房が不審そうに上下した。  同時に腰も蠢いて、膣の中がねじれる。  ねじれて剛直を、快楽の詰まった肉で食《は》む。 「う、あ……っ」 「動かないと、  あなたも気持ちよくなれない……あんっ」 「ま、待ってくれ……今、は、まだ……」 「それとも、私の方から、  動いた方がいいのかしら……?」 「くうぁ……っ」  青年に跨《またが》ったまま、令嬢の方から少しずつ、探るように腰を動かしはじめたのだ。 「ちょ……そんな、待って、  いま、そんなに、腰を動かされたら……」 「んぅ……駄目、です。  私、とまれない、みたい―――  ん、ん、あぁ……はぁぁっ」  太腿で築宮の腰を挟みこんで、肉壁にこすりつけるように腰を軽く揺すりたてる令嬢の、濡れた黒髪が額に垂れる、唇に一筋かかる。 「はぁ、う―――や、やっぱりぃ……」 「これ、いい、気持いい……っ」 「私の中で、築宮様の張りだしてる部分、  こすれるのがわかって、わかってぇ……」 「少し、緩めてくれ……、  こんなじゃ、すぐに……っ」  剛直を奥に押しこんだまま、令嬢の腰を押さえて体を固定しようとしたのに、 「いやぁ……いじわる、です……。  私の身体、こんなに、  気持ちよくしておいて」 「なのに……こんな……おあずけ……。  我慢なんて、ひ、ぅ……できない―――」  青年の肉槍に深々と縫いとめられ、それでも令嬢はできる限り腰を動かそうとしている。  その動きの度に肉の輪の連なりが艶めかしく〈蠕動〉《ぜんどう》し、尖端には強く押し返そうとする子宮の入り口がある。  そこもこりこりと鈴口を刺激して、築宮は動かずにいるだけでも、快楽のゲージはぐんぐん高まっていくばかりだ。  ―――不意に、先にも増して兇悪な衝動が、青年の体内に蘇ったかと思うと満ち溢れ、吹き荒れた。  彼女が、そんな風に求めているのなら。  ―――もっと滅茶苦茶にしてしまえ、そう彼女も望んでいるのだ、と――― 「え……あ……なに……きゃっ?」  令嬢の腰を、思いきり引き寄せる、その動きで体を浅く浸した水面がざわめき、〈飛沫〉《しぶき》をたてる。 「やぁ……築宮様、力、強いです……そんなに押さえつけないで……ぁっ」 「君が……そうして欲しいと……っ、  こんなんじゃ、俺だって我慢できない、  すぐに出してしまうかもしれないが、  動いてほしいんだな、君は!?」  腰を引き、尖端まで引き抜いてから一気に。  ―――撃ちこんだ。  たとえ相手の方が求めているとは言え、華奢で脆そうな令嬢にこれは危険だろうというほど、遠慮も容赦もない突きこみだった。 「あ……はぁぁ……っ」  なのに令嬢は、そんな凶暴な突きこみにさえ、幸せそうに目を細め――― 「くぅぅ…………っ、いい、です、  今のだって―――響きました―――」 「喉の奥にまで、ずんって―――  だから、動いて?  あなたの好きなように、して」 「好きな時に、私に吐き出してくださって、  それでいいんですよ……」 「うあああ……っ」 「そう、そこまで言うのか……っ?  なら……っ」  令嬢の細い腰をしっかりとつかみ、乱暴に、傷ついたとて構うものかと、がつりがつりと、穿《うが》つように抉るように突き上げはじめた。 「そっ、そうっ!  いやっ、深い、深すぎです……、  当たる……ぅっ、奥に……」 「当たってるのに―――  私……壊れそうなのに……。  でも……でも……。  ふぁ、っく、はぁぁ……」 「いや、なのか?  自分からして欲しいと、言ったくせに」 「わから……ないんです……。  んっ、あ、ふぁぁっっ」  令嬢が弾きだしているのは、悲鳴なのか、喘ぎなのか。 「きつい、きつくてぬるぬるで、  ざらざらで、熱い―――!」  ただ性器を突きこむだけではない。  腰を中心に体全体で粘膜を擦り合わせ、かき混ぜて、こね回す。  それは築宮自身呆れるくらい卑猥な動き。  そうだ、卑猥なんだと青年は開き直る。  ぬるぬるの粘膜に、どろどろした先走りを擦りこんでいく。  ぬるぬる、どろどろで、どんなに言葉を飾ったところで、卑猥なのには変わらない。  それが、それこそが、肉の交わりそのものなのだ。 「お腹の方の壁、こすれてます、  こすれて、ふっ…あくっ」 「ここがいいのか? なあ、そうなのかっ」 「は、はいぃ……当てて、ください。  ―――もっと、  ごりって―――ごりごりしてぇ……」 「こうか? ここに当てると……っ?」 「ひぅ……! ふ、あ、あっっっ。  私、こんなにいやらしい―――  気持ちよくって、いやらしいこと、  好きぃ……っ」 「そ、こ……っ!   そこ、そんなにかき回されると―――!」  快楽に神経が焼かれ、爛《ただ》れる、それでもより深みを求めて、ぐいぐいと動きを強める。  じゅぷじゅぷと粘液が弾ける音は、こんな時でなければ、耳をふさぎたくなるような不愉快な響きなのに、それさえも快楽を聴覚からかきたてていく。  抜こうとすると彼女の膣内が、責めたてる肉の槍を離すまいと吸いつく。  突き入れば抵抗と同時にぞよぞよと締めつけられる。  どう動いても熱い。背筋をぞくぞくと寒気にも似た絶頂感が駆け上がる。 「出す―――いいな?  どこで出せばいい?」 「出される……あなたの、男の人の―――  中に……っ。  私の中……好きなだけ―――!」  ……令嬢は、無防備にも中に求めたのだが、築宮はこの絶頂を、彼女の肌に注ぐ事で締めたくなっていた。  彼女に子種を植えつける、その結果への恐れなど、今は獣欲にかき消されている。  ただ、その薄く繊細な白の肌えを、己の濁液がどう汚すのか、それを確かめたくなっただけのこと。  ―――引き抜くときの、尖端の雁首をこそいでいくような膣道の引っかかりが、最後の引き金となった。 「う……ぐぅぅ……っ」  獣じみた声を絞り出しながら、  快楽の塊を解き放った―――!  びゅく、びゅくと肉棒が脈打ちながら精を吐き出し、令嬢の白い腹に、濁って汚らしい白を重ねていく。  もうとめられなかった。  とめどもなく噴出した。 「あ……いっぱい……、  こんなに、たくさん―――  私にかかって、熱い……はぁぁ……」  あまりに大量の白濁は、令嬢の肌一面を汚し、あの独特の臭気を立てていた。  膣内に射精するのとはまた異なった、なにか、途方もない実感がある。  まだこんな激しい情交に耐えきられるほど熟しているとは見えない肉体に、排泄物をぶちまけたような―――そんな、背徳的な。  その感慨のせいか、これだけ吐き出したというのに、雄の器官は白濁の雫を垂らしながら、一向に萎える様子がなかった。 「あ……大きい、ままですね……。  築宮様の……」 「もう……本当に私、お腹の中に。  ……欲しかったのに。  でも、そんなに大きいままなら」  肌を汚した精を拭おうともせず、令嬢が寄こしてきた視線に―――理性より先に、雄の器官が反応した。 「今度こそ……ね?」  青年の腰の上で〈放恣〉《ほうし》にくつろげられた脚の付け根で、秘裂がひくりと蠢《うごめ》いた。  蠢《うごめ》いて、「おかわり」を〈強請〉《ねだ》っていた。 「あ、君な……っ。  そんな風に言われたら、  俺は、また―――」  また―――!  まだ、あの肉の快楽に溺れていいのだと、その誘惑に耐える事など、青年にできるはずもなく、前に増して雄の根を固くいきりたたせ、再び令嬢の秘裂に狙いを定める。 「はい―――どうぞ、  好きなだけ、何度でも……」  剛直をつまんだのは、そんな醜悪な器官を直に手にするのが冒涜と思われるほどの繊細な指先、令嬢は自ら尖端を宛いながら、片手で秘部を探り、陰唇をめらりと割り開く。  軽く令嬢の陰唇が青年の尖端を舐めただけで、暴発してしまいそうな熱が掠《かす》める。  また尖端が、たとえようもない熱さと粘液の海にゆっくり潜っていく―――  早く、早く、早く早く早く!  高まる期待に動悸がもの凄い。 最初に軽い抵抗。  後は道筋に従うよう呑みこまれていく。  茎が、令嬢の中の道筋に沿って向きを変えていくのが、侵入していく実感を強化する。 「あ、ふぅぅ……奥まで。  来てますよ、また……。  ん、ん、中でひくひくって、して……」  ……ぷちゃ……っ……。  淫らな音が響き、入口の襞の部分が、青年の肉槍の根元に広がり、包みこむ。  細かく、複雑で、繊細な襞の狭隘に、モノ全体を埋めこんだ感触だけが築宮を支配する。  さっきまでさんざん貪っていたのに、まるで初めて貫いた様に、その快感はどこまでも新鮮で、築宮を夢中にさせていく。 「っふぅ……! くぁぁはっ。  凄い、中で壁、削られそう……。  いい……抉って……壊れるくらい――!」  言われるまでもなく、もうじっとなどしていられない。  令嬢の願いと己の獣欲に急き立てられ、腰を揺すり始める。  とたんに、今まででも窮屈なくらいの肉襞が、さらに収縮して青年を責め上げた。  どこより熱い胎内が―――  絞りこむ、擦り上げる、絡みつく。  幾重にも細かく折り畳まれた襞は、粘り着くほど濃密な蜜をたたえ、雄の器官を奥へ奥へと吸い上げてくる。  すごい、すごいと、この使い心地の良い肉の器官のことしか考えられなくなる。  きもちいい―――きもちいい―――!  馬鹿のように単純な単語しか出てこない。  ……道心堅固であろうとする、日頃の築宮がこの時の自分の顔を目の当たりにしたなら、きっと寸刻みにしてその肉と血と骨の欠片を、炉の中に叩きこんで灰も残さず焼き捨ててしまいたくなること間違いなしの、浅ましく、意地汚く、どうしようもなく汚らわしい青年がそこにあった。  一瞬だけ肉欲への〈慚愧〉《ざんき》が頭をもたげかけたが、この快楽、肉の快楽、単純にして至悦の快楽の前には、理性など赤熱する鉄板の上の水滴に等しい。 一瞬にして蒸発し、もう二度と戻ってこなかった。  青年は今や、狂ったように熱に浮かされたように腰を遣い、ひたすらに快楽を追い求め続けるばかりの、肉の器械に成り果てていた。 「う……ああっ……?」  ―――二度目だと言うのに、絶頂感の訪れは唐突だった。  がむしゃらに腰を振り立てるうちに、青年は快感の臨界点をあっさり踏みまたいでいたのだ。  気がつくともう、精のほとばしりが根元にまでこみあげてきていたのだ。 「また……いく……っ。  また出る、出す、俺は……っ」 「ああ……ああ……っ、  いいです、出して、今度は、中に―――!  熱いおつゆ、私のお腹の奥、に……っ」 「く……ッ、ううぅっっ!」  もはや、中に出したい、という欲望を遮るものはなく。  令嬢の膣内、腹の側の内壁を、削るような角度で限界まで引き抜き―――溜めをつけて貫いて、再び欲望の粘液を撃ち放つ。  びちゃ、びちゃ―――と。  柔肉の最奥に叩きつける音まで、聴こえたと思った。  二回目だと言うのに、ほとんど一回目と変わらない量の、それどころか勢いはさっきよりも強いほどの射精だった。  尖端を、精を迎えて吸いあげようと迫り出してきた、子宮口にぴたりと重ねて、そこ目がけて、なんのためらいもなく、吐き出した。  最大の脈動で撃ち出された精に膣奥を熱く叩かれて、令嬢の肌一面に細かい汗が珠と結ばれた。  ぱぁ、と香りたったのは、彼女の儚げな肢体には不釣り合いなほどの女の匂い、官能的な、それは雄の〈濁汁〉《つゆ》を受けた事で肌の裡《うち》で目覚め、悦びに開いた雌肉の花の香りだったろう。  そのまま令嬢は、まるで乾ききっていた人が、恵みの雨を浴びるような、とろけきった顔で、膣奥の精液の噴射にしばし身を委ねていた。 「あ、は。  凄い、勢い……  熔《と》ける―――熔《と》けます、私のお腹」 「でも……ああ……もっとほしい。  もっと、とかしてほしいんです―――」  令嬢は軽く目を伏せて、ひくり、ひくりと薄い腹を上下させたのが、下の口から呑み干していくかのよう。自分以外の体液、異物を体内に流しこまれたというのに嫌悪の色一つもない、女だけの、男では理解しきれない―――悦びの仕草だった。  その貌のまま、令嬢は手を差しのべる。  二人の繋がっている部分へ。  二人の粘液にまみれて湯気さえ立てるような、潜りこむ雄の器官と、くわえこむ肉襞が繋がっている部分へ。  令嬢は―――まだ求めていた、欲しがっていた、望んでいた。  この獣じみた交わりを、もっともっとと。 「ちょ……さすがにすぐには、  続けられな……ぅうっ?」  ……この時築宮は、とりあえず放出してしまえば肉の交わりへの欲求が尻窄《すぼ》まりになりがちな男よりも、種を流しこまれ植えつけられる快感を知った女の方が、むしろ性に対して貪欲なのではないかと、背筋に伝う、おぞましささえ伴った淫気とともに、悟ったのだ。 「いいえ、もっと……もう一度……。  わかりませんか?  とろとろ、私のあそこ、  こんなに……だから」  射精直後で、いまだ硬度を残した剛直に、添えられた手が、焦れきっていた。 「ここに、また―――ね?」  令嬢が彼女の下腹部、築宮の雄の器官を呑みこんでいるあたりに、掌をかぶせる。胎内の形を外から確かめるようなその仕草が、築宮のやや退きかけていた情欲をこれでもかと直撃し、瞬間的に沸騰させた。  多少ばかり怖気を抱こうが、セックスの快楽は逆らいがたい。  つっこんで、だしたい。  本能に蹴り飛ばされる様に腰を押し出すのと、令嬢が迎え入れる動きを合わせたのが同時だった。 「あはぁぁ……っっ。  そう……これがいいんです……っ。  これが、欲しかった―――ん、あぅ……」 「く……きつ……熱い……ああ……」  令嬢の両脚が罠みたいにたわんで、青年を奪うように呑みこんでいく。  股間に熱いしぶき。  密着した粘膜に押し出された蜜が溢れて、淫らがましい音を弾けさせる。 「いい……なんでこんな―――  築宮様に抱かれていると、  ―――とまらない―――」  歓喜の中に、怯えさえ含んだ嬌声。  それは築宮も同じ事。荒淫に剛直は軋みをあげて痛いくらいなのに、快楽を求めてしまう。とめられない。  先程肌にぶちまけた精液が、築宮にも滴り落ちて粘つくが、彼はそれを汚い、醜いと厭《いと》いつつ、いや厭《いと》うからこそより激しく昂奮して、彼女の体を貪り続ける。 「ひどいな、これは―――」  もう三度目だというのに、立て続けの交わりなのに、多分、じっとしていてもすぐに射精してしまうだろうと、築宮はとろけ、ふやけた意識の中で予感した。 「とまらないのは、俺の方だ。  体の中、空になってしまいそう、な」 「あなたも、私も―――おかしいのね。  おかしく、なっちゃった……ぁ、は」 「でも、それでもいい―――  こんなに素敵なら……おかしくなっても、  いい……いい……あぁ、あはっ」  令嬢の語尾が快楽に溶けて流れる、築宮の突きこみを映して弾む薄い体、令嬢がおかしいのなら、青年もまた同じ。  彼もまた、このまだ青い肉の果実にのめり込んでしまう自分を、抑えられない。  にちゃにちゃ、ぬちぬちと、  密着した二人の内腿の間で粘りつく淫液。  〈火照〉《ほて》った肌に温められて、その匂いが凄まじい。吐き気さえ催すくらい濃密なのに、この時の二人にはその臭気が、まるで媚薬で。 「築宮様、私の、あなた―――  もっと、して―――」 「私もあなたと、もっとしたい、  気持ちよくなりたい……」  青年の律動で後ろに逸《そ》れていく体をとどめようとしたのか、後ろ手に支えた手が薄い水を満ち、波紋を描きだしたのが、快楽の証のようだ。  自分も同じだ、快楽に狂っていると、水に沈んだ彼女の掌の上から、青年は手を被せる。 「暖かい手―――  あそこは溶けてしまいそうなのに。  手が―――優しいんですね……」  令嬢の手を握りながら、その柔らかい肉体を貪り喰らう獣のように、力の限り剛直を律動させる。  形も判らないくらいどろどろに溶けた、でも貪欲に食いついてくる肉の管の一番奥にこりこりした子宮の弾力、そこを抉るのが、築宮にもたまらない快絶となる。 「ひい……んっ……はあっ……、  くふぅ―――」  そうしないと喉の中が喘ぎ声で詰まってしまうとでも言うように白い首筋を反らす、視点が宙に外れ、焦点がぶれている。 「ん……っ」  とろけた眼差し、快楽に霞《かす》んだ瞳が不意に愛おしくなって、体を引き寄せ、唇を重ねる。  ―――その愛おしさは、肉欲が演出する、一時の錯覚ではないかと、疑う心は、あえて無視して。 「ちゅむ……ん、えう……」  唇を押し当てたとき、勢い余って歯がぶつかり合う。  そこをこじ開け、お互いの快楽に時折食いしばる歯で舌を傷つけてしまいそうになるのも構わず、舌先を伸ばして絡み合わせるようにする。 「む……れるぅ……」  ぐいと築宮が腰を突き出せば、令嬢の声がくぐもって、舌先が震える。  青年の手の中で、令嬢のか細い手が愉悦を逃がすまいと縮こまる。  そして肉襞は別の生き物みたいにざわめいて、あれだけ激しい射精の直後だというのに、また新たな悦楽をかきたて、煽る。  手も、舌も、性器も、重なっている部分はそれぞれ異質の快楽を奏でながら、一つの絶頂への予感を秘めて絡み合う。 「れる……は―――はぁぁ―――っ」 「ね、築宮さま―――  いつまでも、こうしていましょう……。  繋がったまま、ずっと……ね?」 「こうして―――ずっと」  額からこぼれた前髪の中に見え隠れする、淫蕩そのものの、しかし真剣な眼差しに、どこまでも流されてしまいたくなった築宮の意志を、弱い、〈惰弱〉《だじゃく》だと責められる者は、この快楽の堕地獄を知らない者なので、幸福と言えば言えたろう。 「ふふ……私、わがままです……  あっ、あはっ!」 「でも、今だけは―――  ―――私に、たくさんして、  出し、て―――」  乱暴な抽送のせいで、時に繋がりが外れてしまいそうな青年の動きを、令嬢が巧みに導いて腰を合わせる。  彼を導いてなのか、自分の快楽を貪ってなのか……どちらにしたところで、築宮には同じなのだった。  令嬢の腰の動きに翻弄されて、射精欲求がまた高まり出す。 「そんなに、されると―――  奥に当たって―――  先が擦られるみたいで、また……っ」 「わかります……。  中で、あなたの、膨らんできて……。  ひぅ……ぅ、あぁは……っ」 「動くのも、激しくなって―――!  ね、また出してくれますよね?  また、奥にたくさん―――」  何度聞いても―――射精をせがむ声は―――  もう空になっていたと思っていたはずの種汁を急速に充填させていく強い効き目があって――― 「ああ、だ、出すよ―――!  また君の中に、思いきり……っ」 「ええ……私が溺れてしまうくらい、  たくさん、  あ、あくぅ―――」 「い、く―――っっ」 「お、ふ……っ!」  これでもかと、胎内にぶちまけた。  びくりびくりと脈動凄まじく、心臓が雄の器官の根元に移動してしまったのではないかと怪しくなるくらいの、強い強い射精だった。  三度目ともなると、剛直全体につれるような痛みが走ったが、それでも快感の方がより素晴らしく、築宮は射精の心地好さに、阿呆のような顔で酔いしれた。 「築宮様の、まだ、こんなに出せる……。  素敵―――奥が、やけてしまいそう……。  それが、素敵なんです……」  射精されながらも体をくねらせる。  まるで、膣奥から胃の腑《ふ》へ精液を吸収しようとするかのような、卑猥な眺めだった。 「―――ふぅぅ……ふ……お、ふ……」  三回目なのに、絶頂は長くて、まるで生命力と意識が精液となって令嬢に絞り取られていくかのよう。 「んぅ、あ、はぁぁ……」  膣内のきつさは変わらないが、したたかに流しこんだ精液のお陰で、尖端の先に液溜まりができ、律動のたびに水を詰め込んだ革袋を揺らすような音が鳴っているのではないかと危ぶまれるほど。  そればかり令嬢の下腹部が、僅かに膨らんできているように見えるのは、気のせいだろうか……気のせいとばかりも、言い切れないようだった。  あまりに激しい絶頂の後の、失神するような虚脱感―――  なのに―――青年は〈慄然〉《りつぜん》とした。 「あ、な、嘘、だ……っ!?」  築宮は下半身に意識を向けて、ぞっとする。  下手をすればコップを1杯満たすくらい、あれほど莫迦みたいに放出したのに。  なのに何故彼の雄の器官は、こんなにも。  浅ましく〈屹立〉《きつりつ》したままなのか―――!?  剛直は令嬢の膣内で、子を宿す器官を矢印のように示したまま、ひくついている。  腰どころか体の中全体が空になった感じなのに、青年はまだ―――  求めていたのだった。 「ふふ……っ」  ああ―――令嬢が笑う。  築宮の動揺を見透かしたように。  築宮の獣欲に呼応したように。 「やっぱり、素敵です。  あなたも、……私とおんなじですねぇ」  令嬢が―――股を開いて、呑みこんだ肉棒から腰を上げ、また膣内に納めた。  あまりにあけすけで、卑猥極まりない腰遣いだった。雄を誘い、求める、性に狂った雌の合図だった。 「まだ……してくれるんでしょう?」 (違う……もう無理なんだ……っ)  と、囁いたつもりなのに、体はふらふらと勝手に動いて、令嬢の乳房に、腰にと伸びていく、伸びてしまう。  腰も独りでに、うねり出す。  四度目の射精を求めて――― 「ほら……私もね、  もっと突っこんでほしいんです。  ずぼずぼって、そして、びゅって、  してもらいたいの」  令嬢があからさまな淫語を吐く。  自らの言葉に酔いしれて、自分から秘裂を指先で割り開いて、繋がった部分を見せつけながら。  駄目だ、もうできない―――  拒絶する自分が、雄の器官からの欲求で築宮の心の片隅に追いやられる。 「あ……はぁぁ……ッ!」  思うに生き物というのは、きっとこの為だけに存在しているのだろう。肉の交わりの為に、その生の意味があるのだと、彼女を四度貫きながら、築宮は快感にただれてうつけた頭でぼんやり思考する。  異性と交わり、性器を重ねて快感を貪る、そのためだけに生きている。  そうとでも考えないと、自分がこんなにもセックスに溺れてしまうわけが説明できない。  そのあと何度精を放ったのか―――  何回、令嬢の奥に吐き出し、撃ちこみ、流しこみ、植えつけたのか―――  築宮は確かにその時、死の淵を覗きこんでいたのだろう。  身勝手に脈打ち、精液を吐き出す雄の器官ばかりがいよいよいきりたつ一方、心臓の鼓動はどう考えても危険な領域に突入していた。  それでも、やめられなかった。 「もっと―――」  令嬢の淫らな吐息に絡めとられ、青年は射精するだけの装置になり果てていた。  歪み、流れる視界には、体の中ほとんどを、築宮青年から流しこまれた精液溜まりにして、それでなんとも幸せそうに微笑む令嬢の貌―――  満たされて、それでも飢えて、築宮の雄のモノを、肉の快楽を求めて誘い、媚び、舌なめずりしていた。 「出て行きたいなんて気持は、みぃんな私が、吐き出させて差し上げますね……」  あたりにたちこめ、鼻孔を浸食する濃密な匂い、腐敗臭寸前の甘い匂いはそう、ニゴリを目の当たりにしたときと同種の匂いなのだったが、快楽に流される築宮にそれがわかろうはずもなかった。  そうして令嬢に犯されてどれだけの時間が流れたのか。築宮の中の、彼自身を構成する意志の核ともいうべきものさえ射精快感にどろどろに溶かされ、令嬢の胎内に吸い寄せられようとしたその寸前に――― 「なにを―――なにをしているのですっっ!!」  快感も意識の霞《かすみ》も一声で掻き消すほどの怒声が、空気を裂く。  どん、という衝撃と共に築宮にまたがっていた体重が失せれば、じゅぼ、と泥濘から足を強引に引き抜いたような音、で、性器が引き抜かれる刺激でしたたかに宙へ精を撃ち放ってしまう。  快感にぼやける視界に映っていたのは、憤怒の炎を眼差しに宿らせ、〈薪棒〉《まきざっぽ》を振り抜いた体の……令嬢だった。  連続絶頂に消耗しきり、状況の急転についていけないでいる築宮だったが、令嬢の眼差しには震え上がった。自分はこの娘と今の今まで交わっていたはずなのに、眸には情事の名残など〈寸毫〉《すんごう》もない。あるのはただ怒り、それだけ。 「そんなものと交わって、  その胎に精など漏らしてはあなた―――」 「取りこまれてしまいます!」  薪で差した先に転がっているのも、また令嬢―――などではなかった。  なんとしたことか、全くの別人の、それでも青年には見覚えがあった。首を奇妙な形にねじ曲げ、水路に突っ伏しているのは、昨日出会ったあの行き倒れの娘だった。  最前までの、あれほど奔放な痴態は今はどこと、もはやぴくりとも動かず、そればかりかおぞましや、よくよく見れば肌は粗び、眼や唇は弛緩しきっているでないか。  その物言わぬ躰にまとわりついている匂い、あの『ニゴリ』につながる臭気に今更ながらに気がついて青年の中に、一つの推測が生まれてくる。薄ら惚けかかった意識ならばこそ、どうにか耐えられる、忌まわしい推測だった。  この日築宮が道行きを共にし、記憶のよすがとなる品を奪い合い、そして交わった相手は、いかにしてそれを為したのかまでは計り知れないが、あの不気味な影の〈蝟集〉《いしゅう》群、『ニゴリ』が取り憑いて令嬢の姿に偽った、誰とも知れぬ娘だったのではないか。  築宮と交わり、快楽の絶頂の中で彼の意志を麻痺させ、意のままにしようと試みたのではないか。  何の為に自分を、と問うたところで答えなど判る筈もなく、ただ築宮は、たじろいだ。  怒りの陽炎を揺らめかせながら、築宮の精にまみれた娘を滅多打ちにする令嬢に、青年はたじろいでいた。唇から吐き出されるのは後じさりしたくなるほどの怒りの気合いだ。肉がへしゃげ骨が砕けるほどの殴打を娘の体に雨あられと浴びせかける令嬢に、築宮ようやく人心地を取り戻し、慌ててその腕を掴む。 「ちょ……やりすぎだ、そんなにしたらその人、死んでしまう!」  一体どういうからくりでその娘を令嬢と思いこんでいたのかさっぱりわからないにしても、このままでは危険だ、娘が死んでしまうと、危機感に掴んだ令嬢の腕は、しかしあっさり振り解かれた。あのひ弱に見える腕のどこに、と疑わしくなるほどの力だった。その力が怒りに由来しているのだと、掴んだ手にブルブルと伝わる震えと、ひりつくような熱が示しており、築宮、告げられた言葉にさらに〈慄然〉《ぞっ》となる。 「既に死んでいるのですその人は!」  大喝はほとんど物理的な衝撃でもって築宮を打ち据えた。  自分が交わっていた体は、既に死したるモノだった、その破倫の事実はいずれ自分を打ちのめすかも知れないが、今はまだ正直なところ実感に乏しい。むしろ築宮を貫いたのは令嬢の怒りそのもので、記憶を失っている自分ではあるが、ここまでの〈瞋恚〉《しんい》の炎と直面した事があるかどうか―――いや、きっとないだろう。  それくらい、令嬢の怒りは巨大だった。怒気に満ちた声で、令嬢は娘の体を引きずり起こして築宮に触れさせると、完全に冷えきって、硬直していた。令嬢が殴りつけた痕からだって、血が流れた様子さえない。それでは、交わっていたときのあの粘膜の熱さはなんだったのだと、いよいよ混乱する築宮に、令嬢はほとんど噛みつくように怒鳴りつける。 「ニゴリがあなたを、取りこもうとして」 「こんな、こんな―――あなたを、死人なんかと!」 「あなたもあなたです!」  怒りの鉾先が今度は自分に向けられ、築宮、睾丸が縮み上がる。剥き出しの股間を庇《かば》い、後じさったのもほとんど無意識のうち、自分よりも年若で小柄な令嬢に完全に〈気圧〉《けお》されていた。 「一度抱いた女の子とそうでない人と、  肌の違いもわかりませんか!?」 「それとも、わかるようになるまで、  刻みこんでさしあげましょうか……?」 (なにをどう刻みこむというのだ!?)  面目次第もないことだけれど、築宮には交わる相手が令嬢としか思えなかったので、それは確かに情けない。だから令嬢が一歩踏みだした、その圧力だけで築宮はある意味観念したという。どうやら自分が交わっていた相手は令嬢ではなかった。その理解を、令嬢の〈業怒〉《ごうど》のせめてもの説明としよう。  なにもわからないままで、〈瞋恚〉《しんい》の顕現と化したこの娘に××されるよりは幾分かは増しだ、という捨て鉢な覚悟さえ決めてしまう。すっと令嬢の手が伸ばされ、影が顔に落ちる。その影がどれほどまでに恐ろしく重かったことか。恐怖に目を固く閉じてしまった築宮の頬に降りた感触は、しかし予想外に優しかった。 「……ごめんなさい。  〈益体〉《やくたい》もない戯言を吐きました」 「そんなの、一度くらいでは、わかるはずもありませんよね」 「それに、アレの誑かしは巧妙です。  アレに心の隙間を衝かれて、逃れられる人なんて、そうそうありませんもの」  令嬢の声音からは、先程までの〈激甚〉《げきじん》なる怒りが嘘のように拭い去られ、すっかりいつも通りの平板な調子に戻っていた。いや、いくらか自嘲のほろ苦さが混じっているようにも思える。  いずれにせよ彼女は普段通りの、表情に乏しい丁重さを取り戻してはいたのだが―――  令嬢が差しだしてきた手を、怖々と掴む。立ち上がったものの、膝ががくがくと笑っている。令嬢の姿を装った娘……というかその身体に、根こそぎ精をしごき出されたせいもあり、加えて先程見せつけられた怒りの巨大さに、心をひしがれていたからもあろうの、とにかく腰に足に、いや総身に力が入らない。  彼女が秘めていた、計り知れぬほどの激情と怒りを―――おそらくはこれでさえその片鱗でしかないのだろうが―――築宮が初めて目にした瞬間だった。  しかしそうやって畏怖を植えつけられて築宮が覚えたのは、奇妙な……そう、奇妙な満足感だったのだ。あの〈瞋恚〉《しんい》の炎こそが彼女の本質であり、今まで秘めていた素顔に初めて触れられたのだという、その実感は世界の秘奥を〈垣間見〉《かいまみ》した者に相通じていて。  築宮は旅籠の最上層の部屋に運び込まれていた。何故かこれまで自分にあてがわれていたのとは、別の部屋だ。 『ダンマリの納戸』での一幕の後、築宮はそのまま気が遠くなったのだ。完全に意識を失ったのではないが、〈疲労困憊〉《ひろうこんぱい》のあまり手足を動かす事すらままならないといった状態である。体が利かない事もあるがそれ以上に、全身にまとわりついたあの甘く萎《な》え饐《す》えたような匂いが築宮を閉口させる。それを意識するたび、体は動かないというのに、いても立ってもいられなくなるような息苦しさに囚われる。その胸苦しさがなんなのか、はっきり意識したのは令嬢から手当を受けている際だった。  令嬢はただ〈真摯〉《しんし》に築宮に染みついた匂いを落とそうと、手ずから〈清拭〉《せいしき》しているのだが、その手が肌を擦るたび撫でるたび、どうにもその……かきたてられてしまうのだ。  有り体に言ってしまえば、女を犯したくてたまらなくなっているのである。おまけに匂いはあの娘が愛撫していた箇所や肌を重ねていたところに強く残り、とりわけ濃いのは性器―――令嬢の手を感じてしまった途端に、あれだけの情事の直後に関わらずいきりたってしまった、雄の象徴に、ニゴリの匂いがきつい。  荒淫にむごく充血し、目を背けたくなるほど浅ましく勃起しているとはいえそれを見逃して〈清拭〉《せいしき》しない訳にもいかず、令嬢は他よりも細やかな手つきでその部分を浄めようとした。がそれは、築宮にとっては愛撫、それも寸止めの愛撫に等しく、もし体が自由であったのなら、彼女を組み敷いて犯してしまったに違いない。  実際、あらんかぎりの意志を両腕に集め、令嬢を抱きすくめようとさえしたのである。  けれども、あくまで平然とした令嬢の横顔が彼をそうさせなかった。押しとどめた。 「申し訳ありません……。  もっとあなたに注意しておくべきでした」  令嬢は、あの怒りの相が幻だったかと勘違いしそうになるほど、ひたすらに詫びながら築宮の世話をしていた。彼女が悪いとは思われないのに。 「こんなことになってしまって。  私が〈迂闊〉《うかつ》だったんです。  ―――ごめんなさい」 「こちらも、こんなに辛そうになって」  情欲の滾《たぎ》りは心を見透かすまでもなく、築宮のその部分は隆々として、疲弊しきった彼自身とは別の生き物であるかの有り様。 「鎮めてさしあげられれば、  よろしいのですが……」 「でも、今のあなたの体には、  かえって毒です。  止められなくなってしまうから」  結局お預けをくらい、〈悄然〉《しょうぜん》となってしまう築宮で、同時にそんな自分がひどく忌々しく、築宮は舌を噛みたくなるが、令嬢はそれさえも細やかにいたわるように拭き浄め続けて、甲斐甲斐しく(それは築宮にとっては、ある意味拷問にも等しい刺激なのだけれど)。  築宮は性欲から意識を逸らしたくて、まだ麻痺加減の口調で問いかけたのは当然の、一体あれはなんだったのかと、自分を誘惑したのはなにが、如何なる意図でと。 「ごめんなさい……『ニゴリ』は、ああやって人を誑かすことがあるの」  だからなぜ貴女が謝るのだと、もう口を開くさえ大儀で、築宮が眼差しで問いかけると、令嬢は痛ましげな表情を浮かべ、〈手巾〉《ハンケチ》を握りしめた手に、激情が通って〈戦慄〉《わなな》いた。 「きっと、私のせいなんです」 「私のせいで、あなたがこんなひどい目にあってしまった」 「もう、こんなことはさせませんから」 「私が、させませんから」 「ごめんなさい―――」  ―――なにかがおかしかった。  詫びる言葉のはずなのに、その言葉は上滑りするようにどこか虚ろで、彼女はそう口にすることで、逆に自分との距離を隔てようとしているように、青年には思えてならなかった。  いずれにしても令嬢はそれ以上はつまびらかにせず、築宮は結局事情がわからないまま。彼女は〈清拭〉《せいしき》を終えて築宮の寝間着を整え直し、 「今晩はこのまま休んでください。  このままでは眠れないでしょうから、お薬をお渡しします」 「何日か安静にしていれば、きっと具合も落ち着くはずです。  これからの事は、その時にお話しすることに致しましょう」  そう言い置いて、粉薬を築宮に服《の》ませ、吸い飲みから水を流し入れてやって、飲み下したのを見届けてから、やや言いづらそうに、 「それと……もしその……どうしてもおさまらないようでしたら……『そちら』のお世話も手配いたします。  遠慮せずにおっしゃって下さい」  するとこの情欲の滾《たぎ》りが、下手をすれば後数日は続くのか。〈暗澹〉《あんたん》たる気持ちに囚われるが、だんだん意識が暗くなっていく。先程の薬は眠り薬だったとみえる。ただ最後に確かめたかった。 「その……世話というのは、誰が……?  あなた……が?」 「いいえ。申し訳ありませんが、それはできません。  お手伝いさんにお願いする事になります」  ……決定的だった。その一言で、令嬢が築宮と距離を置こうとしているのが明らかだった。なぜそうなってしまったのか。自分がニゴリに誑かされ、令嬢ではない相手と致してしまったのがそんなにいけなかったのだろうか。暗澹たる気持ちのまま、意識が眠りの淵に沈みこむ。  ……なおも物問いたげにしていた築宮の双眸が、それでも眠気にぼやけ閉じられたのを見届けてから、令嬢はようやく腰を上げ、最後に沈痛な視線を置いて、部屋を出ていった。  それから数日、築宮は〈馴染〉《なじ》みの薄い床の中で悶々として過ごした。考えることはいくらでもあるような気がするし、実はほとんど無いような気もする。とにかく体がだるく、立ち上がるのも〈億劫〉《おっくう》で、まして出歩くなどもってのほかだ。  床にある間の世話はお手伝いさんが焼いてくれたので不自由はないが、あの日以来令嬢が築宮の部屋を訪れることはなかった。お手伝いさんに令嬢のことを訊ねても、はっきりした答えは得られず、消息は知れないし面会もままならない。自由に歩き回れないのもさりながら、おき火のように〈燻〉《くすぶ》ったままの情欲もまた、彼を責め苛んでいる。  令嬢と話す機会がなかったのは、ある意味で幸いだったろう。かといってお手伝いさんに「お相手」を願うことは、なにか自分の男としての卑劣な部分を思い知らされるようで、浅ましく情けない。ならば自慰……には、強烈な抵抗があった、なぜか。あるいはそれは、記憶を失う以前の彼の自己規範に属しているのかも知れない。とにかく体の不自由と禁欲とが二重に築宮を滅入らせていた。  それでもどうにか立ち上がり、押しこまれた座敷の近辺なら歩き回れるようにはなった。だがそうなって気がついたことがある。常にお手伝いさんの目が、物陰から青年に注がれているのだ。これではまるで監視されているようではないか。というよりこれは、実際に監視されているのではないか?  かくして築宮は、日増しに窮屈な思いを募らせるようになっていく。結局、部屋から出ても行けるのは便所くらいに制限されてしまっている自分を見いだす始末なので。  だいたいそれだって、下手をすれば〈尿瓶〉《しびん》を抱えてお手伝いさんが飛んでくるので、せめてそれだけは勘弁して下さいと半泣きで頼みこんだために許されているようなものだ。  こうなってしまうと、いよいよ訳がわからない。以前の令嬢ならば、記憶を取り戻そうという努力に賛成して手伝ってくれたはず。ところが今はその逆で、自分を軟禁しているみたいではないか。ただ部屋に籠もって鬱々とばかりすることを余儀なくされているため、築宮の想念は日増しに暗い方へと向かい、しまいには令嬢がなんらかの悪意でもって自分をこの旅籠に縛りつけてしているのではないか、とさえ疑うようになっていたとしても、これはしかたないだろう。  ただそれでも、まだ築宮は令嬢を信じようとしていたのだ。なんらかの事情があるのに違いないと。  なにも考えずに誰かを信じきるのは確かに愚かな行為ではあるが、かといって状況も掴めないまま情報も足りないまま疑念ばかり膨らませてしまうのは、それはそれで浅ましいことだ。  ……とそう自分を戒める築宮の、まことに結構な倫理観に溢れた考え方ではあるが、彼は無意識のうちにそうしようと務めている節がある。それが彼の本来の性格なのか、はたまた記憶喪失以前の教育の賜物か。  ともかく、そうやって軟禁の日々にあってなお令嬢を信じようとしていた築宮だったが。  ……遂にある日、その想いをひっくり返されるような言葉を耳にすることになったのである。  それはある日の午後、便所に立ったときのことだった。部屋に戻る途中にお手伝いさん用の伝声管があるのだが、その蓋が開きっぱなしになっており、そこからなにやら呟くような囁くような声が聞こえてきたのだ。なにを言っているのか判別する前に、築宮は総身に粟立つ想いがして後じさった。  伝声管の口から漂ってきていたのは、忌まわしい匂い、あの『ニゴリ』の匂いだったからだ。  ならばその声は、ニゴリに連なる者か、最悪彼ら自身の声という事だってあろう。  いかに危機感覚が鈍い築宮であってもさすがに学習しており、伝声管の前から逃げ出そうとしたが、その足が止まってしまった。  漏れ聞こえる呟きの中に自分の名と令嬢を指している思しき口ぶりを聞きとったからである。伝声管から漏れてきたくぐもった声は、およそこんな事を囁き交わしていた。   ―――旅籠の守人の一族は、あの娘で最後。   ―――彼女が最後の一人。それで血が途絶えてしまったなら、この旅籠は一体どうなってしまうのか?   ―――連れ合いとなる者が、必要なのだ。   ―――この旅籠に残り、彼女の配偶者となって、血を伝えていく為の男が、必要なのだ。   ―――いや、憂えているのは我らばかりではない。   ―――そんな事などあの娘とて判っているのだろう。   ―――だから、あの男を―――   ―――連れ合いにするつもりで―――    陰惨ではあるがどこか切々とした調子で囁き交わされていた言葉は、最後に築宮の名を残してふつりと途絶えた。  後から思えば伝声管の囁きは、青年にわざと聞かせるつもりがあったのではないかと疑わしい。けれどその時の築宮は、ただ愕然とした心持ちになるばかりで、それでも平然を装い部屋へ戻った。  青年は、布団に〈胡座〉《あぐら》をかいてあれこれ考える。確かに令嬢が管理人の一族の最後の一人だと言うことは聞いていた。ただ、だからといってこのあと旅籠を管理する者達がどうなるのかなど、思いわずらったことなどない築宮である。自分は結局のところ、仮初めの客でしかないのだし、旅籠の行く末を憂慮したところで仕方がない。  けれども―――  自分をこの旅籠のため、令嬢の連れ合いに据えようなどという思惑があったとしたなら、話は全然別というものだろう。築宮、〈俄然〉《がぜん》焦燥感に襲われた。  それとともに、これまで腑《ふ》に落ちなかった部分が、新たな観点を得て繋がっていく。記憶もない、着の身着のままだった自分を、なぜ令嬢がこうまで厚遇してくれたのか。それどころかなぜその肌まで許してくれたのか。別の女と交わってしまったことで、なぜあそこまで激怒したのか。そしてここ数日の、この軟禁状態。この状態がいずれ解かれるのならまだよし。これがもし、この先ずっと続いたなら?  ―――自分の伴侶となって欲しい―――と。  そう提案された時に、果たして自分に選択の余地は残されているのだろうか。  ……もし冷静な他者が眺めれば、築宮の推測など根拠に乏しく、自意識過剰まみれの勘違いでしかないと指摘できたのかもしれないが、この時の彼はあいにく冷静な判断能力を欠いていた。数日に渡る軟禁生活と禁欲で、頭の中が熱に浮かされたようになっていたのだから、それも無理なからぬ話なれど。  脱出しなければ、と思いこむ築宮の視線が、ふと部屋の押入に留まった。  そういえば。  この手の木造建築というのは、押入の上に屋根裏に通じる羽目板がよくあったりするものなのだからして―――  ……押入の天井の、ついぞ人目に触れた事のない様な羽目板を、上背だけはある肩で押し上げこじ開け、肘をピッケルにして這い登るそれだけで、今の築宮には〈西蔵〉《チベット》の絶壁に挑むに似た大苦難、埃を被り息を切らし、ようやく潜りこんでおきながら、築宮は屋根裏の薄暗さの中で途方に暮れていた。なにかといえば色々と出鱈目なスケールを見せつけるこの旅籠だが、屋根裏もまたその例に漏れず、その言葉から通常想起されるイメージからは遠く隔たった、奇妙な空間が広がっていた。  大人が悠々立って歩けるどころではなく、天井裏から屋根までが高い。剥き出しの柱は古代樹の化石じみて太く堅牢で、それがそこらここら無秩序に乱立している。建て増し着け増しを繰り返した建物らしく、足元の高さもばらばらで、かつては物置として利用されていたと思しき箇所もあるかと思えば、明らかにごく最近まで人が起き臥《ふ》ししていたらしい痕跡を残す箇所もある。  そういえば酒場で耳にした与太話だが、屋根裏を根城とする正体不明のコミュニテイというのがあるそうで、聞いた時は酔っ払いの戯言と聞き流したけれど、こうして実際に目の当たりにしてみるとあながち根拠のない流言卑語とは思われないほどだ。中にはあのお手伝いさんさえ、この屋根裏空間に特化したタイプがあると噂されている。  なんにしても、軟禁されている部屋から脱出したといっても、明確な目的があるわけではない。  どこか適当な羽目板を外して階下に降りればいいと考え、あたりをつけて覗きこんだ先もまた、折悪しくお手伝いさんが往来している廊下だったので、慌てて顔を引っこめる。  彼女たちが自分の事を報せているかどうか定かならねど、危険を冒すのは得策ではない。  仕方なく、天井板を軋ませながらほとほと歩き回る築宮の、屋根裏の散歩者、などといえばどこか〈窃視〉《ぬすみみ》の猟奇の香り漂う言葉だが、それを気取るには今の青年は疲れ困惑しきっている。  ただ屋根裏といっても、完全な闇ではないのは幸いだった。天井板の隙間から階下の灯りは漏れてくるし、屋根の空気抜きの窓からは光が差してくる。  中には屋根が破れたまま放置されている場所もあり、大きな光の孔を切り抜いている。  やはりこれだけ巨大な建造物では、補修に完璧を期するのは困難なのであろう。  なんとはなしに、打ち棄てられたまま〈竜骨〉《キール》を晒す、帆船時代の巨艦を思い浮かべた築宮の鼻先をかすめ、足元に落ちたモノがあった。屋根裏に住まう〈蝙蝠〉《こうもり》か蛾の類が、いずれ良い気分はせずぎょっとして飛びすさったものの、なにも恐れるほどのものでない、可愛らしい紙飛行機だった。  ―――紙飛行機? と築宮は首を傾げる。なんだってわざわざ屋根裏で紙飛行機で遊んでいる阿呆がいるのだ。その場違いさ加減がかえって不気味で、改めて周囲を探ると、屋根裏に他の誰かがいる気配はない。先程も目にしたような、天井の破れ目から、また一つ紙飛行機が舞いこんだのが、光の筋の中に照らされて鮮烈な。  どうやら、屋根の上で紙飛行機を飛ばしている何者かがいるらしい。  築宮はその飛行機を見て、今までは階下に戻る事ばかりを考えていたが、逆にいっそのこと屋根の上まで這い出して、そこから別の脱出路を見つけるというのも一つの手ではないかと思いついたことだった。  屋根の破《や》れ目を潜り抜け、目は屋根裏に差しこんできていた光で多少は慣れていたものの、青年はそれでもついよろよろ身体を揺らし、危うげに近くの瓦にしがみついた。  というのも旅籠の〈天辺〉《てっぺん》は、様々な様式が混沌と混ざり合った、屋根の海。瓦の大海。苔むして隙間からは草を伸ばしてどこまでもどこまでも―――風は高山に通うのと同じに涼しい、人界から遠い。  そのスケールは距離感が狂うくらいであり、これを横断しろと言われても、無装備の築宮など途中で干からびること請け合いだ。とはいえ、紙飛行機の出所はあっさり知れた。  やや離れた屋根の上に、ぽつんと一つ、観測所のような小屋が張りだしていたのである。白塗りの板壁、多角形のそれぞれの壁面に窓が切られ、小さくはあったが〈瀟洒〉《しょうしゃ》で心地好さげな、立地のせいもあり秘密の隠れ家めいた建物だった。  ……実際、隠れ家だったのだ。  それも―――。  築宮は、窓から今ちょうど新たに紙飛行機を飛ばそうとしていたのが誰かを認めるなり、回れ右してもと出た孔に這いずり込みたくなった。なんとなればその小屋にいたのが、まさに、彼が疑惑を抱くに至ったその人―――令嬢だったからである。  そう、そこはまさしく隠れ家だったのだ。  令嬢の。  逃げようとしたところで時既に遅し、というか、令嬢はおそらく築宮が屋根の孔から出てきたところから眺めていたのに違いない。 「……なにをしておいでなのです、  こんなところで」 「兎も角、中にお入り下さい」 「まだ外の風は、貴方の体に毒なのだから」  築宮、こうなってしまっては逃げるもなにもあるまいと、建物へ向けた足取りの、本人は〈毅然〉《きぜん》としているつもりでも、人はそれを、〈自暴自棄〉《やけっぱち》と呼ぶ。  その小屋は、二人が入れば一杯になってしまうほどのささやかなスペース。けれど素敵な玩具箱のような、趣味の佳いディレッタントならこう言う自分だけの空間を持ちたいと願うような、そんな個室だった。  手沢の卓には、令嬢が淹《い》れたお茶の湯呑みと、紙飛行機のために使うのだろう紙片が何枚も散り敷かれている。向かいあう二人は、はじめのうちはそれぞれ言葉に戸惑うようだった。築宮は、もちろん逃げ出したと思っていた相手がそこにいた驚きであり、令嬢にしてみれば部屋で安静にしているはずの彼がこんなところまで上がってきた困惑があったのだろう。  とりあえずお茶などを勧めてから、令嬢は物問いたげな視線を向ける。その眼差しが築宮にはどうにも自分を責めているように見えて、居心地が佳い個室のはずなのに、座り心地の悪さといったら。  彼女が淹《い》れてくれたお茶だって、妙なくらいに苦い。  そのお茶も、ばつの悪い沈黙に耐えかねて飲み干した頃に、やっと令嬢が口火を切った。 「それで、お体の具合はどうなのです」  一応その言葉は、築宮の体を案じているようではあった。どうにか歩けるぐらいには回復したと反射的に答えて、そこで築宮の感情の堰《せき》がたやすく切れた。  やはり数日間の意に染まない部屋詰めで、神経が参っていたのだろう。 「俺の身体の事くらい、  知っているんでしょうか!」 「あんな風にお手伝いさんを、  四六時中張りつかせて!  便所に立つにも覗きこんでくる始末だ」 「なんなんですかこのやり方は!?  俺はこの宿の客じゃなかったのか!?」 「こんなんじゃあ、  体よく軟禁されているのと違いない!」  築宮がこんな風に令嬢に対して面と向かって感情を爆発させたこと珍しく、同様に令嬢が一瞬面食らったように目を丸くしたのも、珍しい。  なおも一方的にまくしたてようとする築宮の息継ぎの隙を衝いて、口を挟む。 「ですからそれは、あなたが元気になって下さるまで―――」 「元気になって、  それから俺はどうなるのか」 「俺をここの―――  奉公人にでもするつもりですか?」 「このままずっと、  この旅籠に閉じこめたままにして!?」  さすがに面と向かって、自分を連れ合いにでもするつもりなのかと〈難詰〉《なんきつ》するのはおこがましい(それでも充分に恩知らずな言ではあるのだが)。  であるから従業員と、表現を控えてみたのだが、これが令嬢にとっては顔を平手ではたかれたほどにも痛打と見えた。気を落ち着かせようとしたのか、お茶に手を伸ばしたものの、手元が定まらず湯呑みと受け皿が聞き苦しい音を立てる。  重ねて捲《まく》したてようとする築宮の唇へ、塞ぐように一本立てた指を翳《かざ》した。  さすがに築宮も口を噤《つぐ》んだのは、握りこんだ指に、どれだけの力が入っていたのか、ぽつり―――滲んだ真っ赤な雫の、掌の皮を破って、滴って―――ぽたり、幽かな音なのに、巨大に響いた。  このぞっとするほどの赤に押し黙った青年をよそに、令嬢は気を落ち着かせるように深呼吸を数回、それから押し出した声音が、まるで地の底から響いてくるように低かった。 「……それは、  真実あなたが考えた事ですか?」 「訊いて、いるのは、俺だ。  質問に質問で返さないで欲し―――」 「あなたが考えたことなのかと、私が訊いているのですよ?」  俯《うつむ》き加減の、湯呑みの水面に視線を落として、築宮の問いなど意に介した様子もなく訊ねる、平板な声音ながら、内圧を必死に押し殺しているのが判りやすく、築宮は、今さらながらに自分がとんでもない失策を犯したのではないかと後悔しはじめる。  恐ろしい。令嬢がとてつもなく恐ろしい。  彼女が見据えている湯呑みの面が、その視線の熱で沸騰してもおかしくはない。そんな一触即発の危うさが令嬢から揺らめいていた。 「その……。  そういうひそひそ話を訊いたので」 「どんな」  問いは短いながらも斬りこんでくる鋭さに研ぎ上げられており、誤魔化しなどすれば、どんな憂き目を見ようものか知れたものではないのが明らかで、青年がしょうがなく伝声管から耳にした会話の一部始終を伝えると、令嬢は深く溜め息をつき、立ち上がり窓へと向き直った。 「―――ここに、屋根の上に。  こんな小部屋があるなぞ、旅籠の中でも知る人はほとんどおりますまい」 「私がいちばん好きな場所なんです、  ここは」 「なぜだか、おわかりになりまして?」  先程から自分の質問が置き去りにされていることに、なかばむかっ腹を立てた築宮は適当な、否、乱暴に受け答える。 「さあね……あなたの審美眼を、  俺如きがわかるとも思えないが。  ……まあ、見晴らしがいいことは確かだ」 「あら。ご存じじゃない、あなた。  それなのですよ」  築宮のぞんざいな口調を咎めた風もなく、令嬢は視線を窓の外へと投ずる。 「ここは多分、  うちの中でも一番見晴らしが良い場所」  言われてみればその通りで、旅籠の中にあっては〈錯綜〉《さくそう》する多層回廊と座敷や部屋の連なりに阻まれ、視線などろくに通らない。  だが、だからといってどうだというのだ? どれだけ展望がよろしかろうが、旅籠の周囲を取り巻いている大河の果てには〈薄靄〉《うすもや》に霞《かす》み、その果てがどうなっているのかまでは窺いようもない。  それでも令嬢にとっては、この旅籠以外の世界を知らぬ娘にとっては―――  唯一無二の、遙かな展望だったのだろう。 「時々、この窓から、  紙飛行機を飛ばしてみます―――」 「ほとんどは、途中で落ちて、瓦の隙間に挟まったり、風に吹き戻されたりで、いくらも飛ばないわ」 「でもね、中にはうまいこと風に乗って、遠く遠く、見えなくなるくらい、遠く飛んでいくものもあるのよ」 「ただ、どうなのかしらねえ」 「そうやってどれだけ飛んだところで、この河を越えるくらい遠くまでいくものが、あるんでしょうか」  低く静かに呟く言葉の下で、繊指でまた一つ紙飛行機を折って、窓から風に乗せる。  白い紙飛行機の地に、先程の傷痕からの血が点々と散っているのが、異様なほど鮮やかで、不穏なまでのコントラストを為していた。  それを視線で追うと、大して飛ばないうちに屋根に落ちてしまい―――築宮にはそれがやけに気まずく感じられた。 「どれだけうまく気流に乗ったとしても、やっぱり紙の飛行機では、この大河を越えるというのは難しいじゃないかと思う……」  ここで『きっと越えるものもある』などと、下手なおためごかしを打てないのが、いかにも築宮らしいと言えば言える。この青年は、肝心なところで野暮天なきらいがある。  ただ令嬢も気を悪くした風はなく、ですよねと〈首肯〉《しゅこう》して、喉の奥で幽かに笑みを転がした。 「この大河を越えられるのは、あの渡し守の舟と、それから、あなた達だけです」 「あなた達、旅人だけなんです」 「それが―――」 「どれだけ私には」 「羨ましかったことか―――!」 「―――え?」  突然激した語気は、築宮の度肝を抜いて余りあるものだった。  築宮に向き直って睨《ね》めつけた令嬢の、眼差しは埋もれ火が白熱の噴炎と化したように、唐突で荒々しく、その熱で頬の産毛や眉が焦げたとしてもおかしくないほど。  築宮ならずとも、思わず椅子の背もたれに背を押しつけるようにのけぞっただろう。 「私には、まだ誰にも明かしたことのない、  一つの望みがある」 「私ね―――旅に出たいのです」  眼差しは灼熱の牙で噛みつくような、令嬢が打ち明けたその望みは、これまで彼女を見てきた築宮にとって予想外のものだった。 「いつかは、この旅籠から出たいのです。  ここではないどこかを目指して」 「真夜中、ふと目を覚ましてしまったとき。  ふと、仕事の途中に、帳簿から目を挙げたとき」 「出発なされるお客さまを、お見送りするとき」 「不意に、たまらなくなる。  胸が苦しくなる。  行きたい、ここではないどこかに、  遠く、遠く―――」  溢れ出す想い、自分自身持て余しているように、令嬢はもどかしそうに言葉をぶつけてくる。築宮はその烈火の気勢に返す言葉さえなかった。  自分はこの娘のことを、一体どういう人間だと思っていたのだろう。旅籠の娘。客を迎え、見送り、旅籠を守り、続けていく、いわば旅籠の象徴のような、旅籠に根差して動かざる根石のような存在と思いこんでいなかったか。  なのに、令嬢の真の望みというのは、自分と同じなのだった。  ―――ここではないどこかに行きたい。  いまだ記憶は戻らず、過去どういう人生を送ってきたのか曖昧なままの自分である。  記憶を取り戻したいという気持ちは強い。  しかしその願いと同じくらい、いや、それよりももっと強く、体の奥底に染みついているのは、『どこか遠くに行きたかった』という望みだ。  なぜそんな風に願うようになったのか、今ではそれだって定かではないけれど。  この令嬢は、そんな自分と同じ願いを抱いていたというのか。  自分はそんな娘の前で、〈臆面〉《おくめん》もなく彼女の願いを口にし続けてきていたのだ。にわかにいたたまれなくなる築宮を見据える眼差しが、ふっと哀感を帯びた。 「でも、判っているのよ。  私にそんな日なんて、来ないってことは」 「私はここから離れられません。  私はこの旅籠を守ってきた者たちの、最後の一人です」 「その務め、片時たりとも。  忘れた事なんてなかった」 「それでも願わずにはいられない。  どこかへ、どこか遠くへ―――」  ざっと吹きこんできた風が令嬢の髪をたなびかせ、双眸が乱れ髪の下で覆い隠され見えなくなる。  窓からの、高曇りの空を背景にして、令嬢の輪郭は鮮明でいて、なのに築宮の意識は先程から僅かな気だるさを訴えていた。  まるで明け方の醒めかけた意識の中で見る夢のようだと、令嬢の姿はそう感じられた。  不意に湧きそうになった〈生欠伸〉《なまあくび》を、さすがにこの局面で解放するわけにはいかないとどうにか喉の奥に押し返す。  風に吹き散らされたように言葉が途絶え、また沈黙が垂れこめる。掛ける言葉も見つからず、〈項垂〉《うなだ》れてしまう築宮で、一体自分に何が言えたろう。  言えたところでこの無神経な舌は、きっと彼女の心を逆撫でするような言を吐いてしまうに違いない、と。 「……あなたは、ずるいです」 「俺が……?」  乱れた前髪で表情は窺えなかったけれど、低く煮え滾《たぎ》る声音だった。  不意に令嬢は大きく身を乗り出し、かわす隙も与えず築宮の胸ぐらを掴み、引き寄せる。その勢いと力は、単に虚を衝かれたという以上に築宮をたじろがせた。 「だってずるいじゃないですか!  あなたはどこにだって行けるんです!」 「それだけじゃない、どこにも行かないことを選んだっていい」 「あなたには、それを選ぶ自由があるのに」 「それがどんなに素敵なことなのか、素晴らしいことなのか、あなたは知らない。  知ろうともしていない」  はじめは〈鼻白〉《はなじら》むばかりの築宮も、小石を叩きつけられるようなこの糾弾にはさすがに腹に据えかねた。どこにでも行ける自由があるのだ、とか言いながらこの数日の自分への扱いはなんだ? 「そんなことを言いながら、  君は俺に何をした!?」 「部屋に閉じこめて、見張りまでつけて!」  そんな言葉で、先程から湧いてくる〈欠伸〉《あくび》を噛み殺しつつやり返すうちに、築宮も感情のたががだんだん外れてくる。  考えてみれば令嬢の願望というのも、伝声管からのニゴリの会話と符合しているではないか。むしろ腑に落ちるというものだ……と、それは全くの言いがかりなのだが、昂ぶる築宮にはいかにも当然の論理の帰結に思えてしまったのだ。  令嬢は、旅に、そして旅するものに対して憧れを抱いている。なのに彼女自身はどこにも行かれない。  だから彼女は嫉妬するのだ。  旅人達に嫉妬して、親切めかして接しておきながら、裏ではその自由を奪おうとしているのだ……と、そんな風に思いこんでしまったのである―――身勝手にも、恩知らずにも程があるとはこの事なので。 「ああそうか。  君は、旅する人々に―――  嫉妬してるんだな!」  胸ぐらを掴んだままの令嬢の手、こんなか細いのにどこにそんな力がと空恐ろしくなるほどで、振り払うこともできず、青年は視線に反抗の力を籠めた、それだけでは足らず、つい口にしてしまった言葉、声は、彼本人にも他人のように刺々しい。  築宮とて、本当はそんなことなど真実と信じてはいない。だが彼の中で、ここ数日の溜まりに溜まった、行き所をなくした鬱憤が、この機にで噴出してしまったのだった。  それ故に令嬢を傷つけるような言葉と知りつつも、あえて口にしてしまったのだ。 「だから閉じこめる。  この旅籠に縛りつける」 「なにが……なにが、 『お客さまのために尽くしたい』だ!  よくもそんな綺麗事を、  臆面もなく口にできた!」  もはや築宮には、あの蛍の間での令嬢の言葉が、完全に裏返しとしか思えなかった。 「そんな―――っ」  令嬢の言葉が短く詰まる。一際強く吹きこんできた風が、卓に散り敷かれていた紙片をさらっていく。舞い飛ぶ紙片の中で、令嬢が浮かべたのは微笑み、それも凄惨な。  襟元掴まれたままの築宮の首が、下に引かれたのが強く強くで、視線が唐突に流れて、逆らうどころか、何事かと思う間もなく、令嬢に卓上へ引き倒されていた。  どん、と衝撃が肩を撲《う》ち、呼吸を殺された自分を見下ろしの、旅籠の女主人の眼差しと向かい合う、向かい合ってしまった、向かい合わなければよかった、青年の体が暗く冷えていく。  令嬢が唇に貼りつけたのは、獰猛でさえあるほどの、凄まじい、笑みを通り越した別のなにかだ。  〈藻掻〉《もが》こうと歯を食いしばったつもりなのに、築宮の喉に迫り上がってきたのはまたも〈生欠伸〉《なまあくび》だった。  こんな時なのに、なんだって自分はこんな、暢気な。そう言えば、この体の気だるさはなんだ? 今さらながらに体の変調に気づく。混乱する築宮に掛けられた令嬢の言葉は、氷を声にしたように冷たかった。 「……もう、いいです。  私がなにを言ったところで、あなたには」 「馬鹿……本当に、馬鹿……」 「私があなたを閉じこめる……?  あのお部屋で養う程度では、  薬にもならなかったみたいねえ」 「よろしゅうございますよ、あなた。  そこまで言うのなら、本当に。  ―――閉じこめますから」  待て、なにかおかしい、体がなにか変だと訴えようとする築宮の意識が、本格的に遠くなっていく。  その強烈な気だるさがたやすく眠気に結びついたとき、築宮はようやく悟った。  先程干したあのお茶の不自然なまでの苦さ。  あれは―――薬を盛られたのではないか? 「やっとお気づきになられたようですね?  ええ、一服盛らせていただきました」 「またお部屋に、連れ戻さないと……、  って思ったから。  少々失礼な手だと、ちょっとは躊躇ったんですけれど」 「でも、それで正解だったみたい。  あなたがこんなにきかない人だったなんて、考えもしなかったもの」 「でも、もう、お部屋に戻すだけでは。  ……済みませんよ……」 「私、決めました」 「あなたを本当に閉じこめます」 「仕舞っちゃいますから―――」  令嬢がなにを言っているのか、眠り薬の効き目でとろけかかった意識ではほとんど聞き分けられない。ひどく剣呑なことを告げているという危機感はあっても、理解の手も及ばず体も動いてくれないのだ。  ―――だが、瞼が耐えがたく閉じる寸前、視界に入ったあるものが、一瞬だけ築宮の意識を繋ぎとめた。  紙片が吹き飛ばされ、露わになった卓上。  ガラス板を敷いて、天面との間に挟みこんである一葉の。  それは地図。手書きの地図。  それこそ、いつか令嬢が打ち明けた、彼女の宝物だという、この旅籠の地図ではないか?  それだけならばまだいい。  彼女の隠れ場所だというこの小部屋にふさわしい隠しものとして、理に適《かな》う事である。  築宮をなにより驚愕させたのは、地図のあちこちに書きこまれた場所の名前や由来書き、その筆跡には二種類あって。  そのうち一方を、彼は知っていたのだ。  だがそれ知っているのも驚くには当たらない、なんとなればそれは、彼自身の筆致だったのだから。  ただその〈辿々〉《たどたど》しげな様子は、昔の、青年がまだ幼い頃のものと思われた。  だが知っていた、自分の筆跡だったからといって―――なぜ?  何故令嬢の宝物だという地図に、自分の書きこみがあるのか―――  疑念が浮かび上がったのも僅かの間、その理由を探ることも出来ずに、築宮は意識を刈り取られるように―――  眠りに落ちて、それから以降はなにも判らなくなった。  それから、築宮は日を数えることが出来なくなった。  おんもらと闇が垂れこめた、そこは蔵、堅牢堅固でどんな大地震や大火事に見舞われても、頑として損なわれることを拒む〈一刻〉《いっこく》さがある。板敷き畳敷き入り交じった床や、中の間(中二階)に〈長持〉《ながもち》・〈葛籠〉《つづら》・〈舟箪笥〉《ふなだんす》や封印の箱が所狭しと詰めこまれて、足の踏み場もないほどではあるが、それらの隙間を潜り抜けると、森の中にぽつんと開けた広場のように六畳ほどの空間が設けられている。  そこが、令嬢が築宮を『仕舞いこんだ』場所であった。全ての窓を閉め切られている為、蔵の中は昼も夜もない闇が満たされ、灯りといっては一つ置かれた行灯ばかり。  弱く不確かな灯りが照らし出すものは、畳に散り敷かれた花のような花カルタ、〈五十三次〉《ごじゅうさんつぐ》の〈双六〉《すごろく》、艶やかな〈錦絵〉《にしきえ》に〈絵双紙〉《えぞうし》、〈色絢〉《いろあや》な〈手鞠〉《てまり》にお手玉、市松人形もあれば小石に色づけした古いおはじきもあり、他にも様々、古い時代の子供が喜びそうな玩具がさまざまだ。  だが、ちゃりちゃりと硬質な音を立てているのはそれら玩具ではなく、築宮の手足を戒めている鋼の鎖である。鎖の端を繋いだ留め具からは充分以上の長さが取られていて、蔵の中を動き回るのにも差し支えはないほどではあるが、やはりそれが鳴らす金属音が陰惨を漂わせていることを否めない。  このように、どれだけ〈無聊〉《ぶりょう》を慰める遊具に囲まれていても、寄り掛かった座椅子にはふっくら厚く柔らかな座布団を宛われていたとしても、つまるところ築宮はこの蔵の囚われ人でしかないのであった。  あの屋根の上の令嬢の隠れ家から、どのように運びこまれたのかわからない。どのような道筋を辿り、ここが旅籠のどの辺に位置しているのかも、意識を無くしていた築宮にとってはわからない。目を覚ましたときにはここに封じこめられていたのだ。そして目を覚ましたといっても、築宮にとっては魘《うな》された悪夢から、また別の悪夢に迷いこんだも同然。  それなのに、この悪夢のような状況から逃げ出そうと試みなかったのは、目覚めてなお築宮の意識は朦朧としていたからである。  どうしてこんなに意識が定まらないのかと自問する。ああそうか、眠り薬が完全に切れる前に、別の薬を呑まされたからだ。いや、あれは薬ではなく酒だったか? そんな自問自答を、この〈胡乱〉《うろん》げな薄闇の中で繰り返すのも、もう何度目になるだろう。意識は半睡と半覚の狭間の、曖昧であやふやな靄がかかって途切れ無し、さもなくば失神するような眠りに落ちているかのいずれかの。  完全に意識を取り戻すという事は、この蔵に入ってからは絶えてない。  なぜならば、令嬢が訪れるから。  闇を隔てた向こう、箱の並びの向こうで、重々しい軋み音が響く。  蔵の扉が開かれる音は、しかし築宮にとっては解放を教えるものなどではなく、この夢と現の境がとろけた時間が更に引き延ばされることを告げる合図に他ならない。  〈手燭〉《てとぼし》を翳《かざ》して令嬢が〈長持〉《ながもち》と〈葛籠〉《つづら》の障壁を潜り、築宮のもとまで現れる。口元に溜めた幽かな笑みが、行灯に油を注ぎ足す時、火灯りに妖しく映える。薄紅の唇が語りかける言葉は優しげなのに、築宮にとっては今や令嬢は畏れの対象でしかないのであった。 「お世話に参りましたよ……。  〈大人〉《おとな》に、していましたか?」 「それでは失礼いたしまして。  今日も、綺麗にしてあげますからね」  令嬢の築宮へのあしらいは、あくまで優しく、慈しみを感じさせる。まず服をくつろげて、溜まった汗や汚れを拭き浄める。浄めるといって、蔵を訪れるたびに繰り返していることなのでほとんど汚れなどはない。  なのに令嬢は、それこそ母猫が仔を構いつけるように丁寧に全身を拭うのだ。伸びているなら爪を詰み、髭がざらつくようであれば当たり、息を嗅いでは歯を濯《すす》ぐ。  それら細かい事どもを、一つ一つ厭《いと》いもせずに細やかにこなしていってから、次は食事の段となる。  これまでの体の世話だけでも微に入り細に入りすぎており、畏れ多いを通り越して身が縮む思いであるのに、この食事までくると、ほとんど泣きたくなるほど辛いのだった。 「身の養いも、疎《おろそ》かにできません。  赤のお肉に、翠の菜、  青身の魚と、自然薯の白いとろろ」 「口に入れるモノの色は、  色々あったほうがいいのよ」  彼女が運んでくる膳に集められているのは、滋味、〈佳肴〉《かこう》にそして美酒。いずれも舌を歓ばせる味わいばかりである。なのにそれを口にして飲み下すのは、苦い毒を服ませられるにも等しい苦行だった。  これがもし、自分で箸を運び、〈気易〉《きやす》に言葉を交わしながらであれば、どれだけ築宮の心は慰められたろう。意味のあるなしはどうでもいい、ただ言葉が行き来できればそれでいいのだ。令嬢との食事の最中に、会話は成り立っていなかった。  ぽつり、ぽつりと雨だれのように掛けられる言葉は、令嬢からの一方通行。喋っていることといって、他愛なく、 「今日は珍しい事に、  水路から大きな魚《うお》が跳ねて出て、  座敷に飛びこんできたの」  だの、 「お手伝いさんがその腹を裂いたら、綺麗な石を嵌め込んだ指輪が出てきて」  といった害のない〈四方山話〉《よもやまばなし》ばかりだ。  だがそんな話をどれだけ聞かされても、 「これが、その指輪」  と戯れに指に指輪を嵌められても、築宮は言葉らしい言葉をほとんど返せない。それがなにより辛い。  どうやら令嬢は彼に運んでくる酒と食事に、なんらかの薬物を混ぜ込んでいると思しく、それが彼の自由意志と気力を著しく〈減衰〉《げんすい》させているのである。  築宮はそれゆえ、令嬢がいる時もいない時も、四六時中うつらうつらと、化石とも植物ともつかぬ〈胡乱〉《うろん》な意識で時を無為に過ごすしかなかった。  片手を挙げるさえ〈億劫〉《おっくう》で、食事だって令嬢が口元まで盃を運んでくるのを、〈諾々〉《だくだく》と口にしているだけなのである。もちろんこの食事と酒が、自分をこんな甲斐のない体にしてしまっているのだと勘づいてからは、懸命にそれを拒もうとしたこともあった。 「要りませんか?  まあ、そういうときもあるでしょう」 「無理に、とは言わないわ。  いやいやに食べては、  せっかくの美味しいのも、台無しだもの」 「それなら、あとはゆっくりして下さいね。  眠くなるまで、ご〈相伴〉《しょうばん》しますから……」  とその時は令嬢も築宮に無理を強いる事はないのだが、その代わり彼が眠りにつくまで、しんねりと端座して見守るのである。そして築宮が寝入った隙を狙って、薬物を口から流しこんでいくのである。  どれだけ拒絶しても無駄と悟ってからは、築宮は抵抗を諦めた。  こうして彼が、逃げ出そうという意志さえ奪われてからどれくらいたったろう。  食事、というより食餌が終わっても、令嬢はすぐには出て行かない。 「退屈でしょう?」  彼を閉じこめているのが自分だというのに穏やかに囁く。 「だったら、手慰み。  私が相手じゃ、つまらないかも知れないけれど、許してね」 「遊びましょう―――」  と、あちこちの〈葛籠〉《つづら》や箱から玩具を取り出して築宮の前に並べ、手慰みを始める。といっても築宮は遊具に手を伸ばすことさえできない有り様であり、もっぱら令嬢が独りでしているのを眺めるだけ、〈双六〉《すごろく》なら自分の手番と築宮の手番を令嬢が独りで交互に進めるし、〈草紙本〉《そうしほん》なら読み聴かせだ。  まるで死者への斎《とき》に侍《はべ》るように、動くこともままならぬ築宮の傍らで、令嬢は玩具の〈版図〉《はんと》を広げていくのである。  そして手遊びに飽いたとしても(築宮にしてみれば飽きるもなにもないのであるが)、それで終わりではない。どころかそれからが、築宮にはおぞましいほど甘美で、情けないほど蠱惑的な、毒の蜜が滴るような時間の始まりなのだった。食餌も手遊びもおつもりとなり、するといつしか令嬢が傍らに身をすり寄せている。築宮の〈耳朶〉《じだ》に唇を寄せて、合図のように甘噛みを一つ、令嬢の手がするりと彼の〈前身頃〉《まえみごろ》を割り、肌に指先が降りる。はじめは肌が軽く粟立ちそうにひんやりとした指は、すぐに熱がこもり、その熱さが築宮の男性自身に絡みつく―――そこまでされた時にようやく、築宮は性器が剥き出しにされている事に気づく。 「いつもあなたのここは、こんなにも辛そうですねえ……」  やわやわと扱かれて、自分の性器が樹の根のように堅くしこっていることを改めて知り、軽い怖気に襲われる。いつからこうなっているのか。あるいはいつから、ではなく、もうずっとこうなったままなのではないか。 「こちらも、お慰めいたしませんと、ね」  〈耳朶〉《じだ》を舐めるように呟いた唇がそのまま肌を滑り降り、首筋を伝い、胸板をくすぐり、〈脾腹〉《ひばら》を這い―――ついには、築宮の男性自身を含む。 「や……やめ……よして……くれ……」  その部分だけでなく全身が熱い蜜に溶かしこまれたような快絶に、流されてはいけないと心では必死に抗うのだが、体は彼の思いのままにならず、舌だってもつれたようだ。  それに抗う心だって、性器から腰全体に這いずり上がってきた刺激にあっという間もなく追い出された。 「ふ、むぅ…うふ、ぴちゅ……」 「うううっ!?」  令嬢は聞く耳もたず、いきりたった雄の器官を唇に挟み、雁首周りにたわむ包皮の隙間をこそぐように舌を絡めてくる。 「れろぉ……む、く……ん……っ」 「はぁぅ……はむ……あむ……」 「ん……ん……っ、本当に、いやなの?  知ってるんですよ……こうなってしまった男の人は、途中でやめた方が辛いって」 「だから、私のことなんて気にしないで。  あなたはただ、身を任せて」 「一杯、一杯出していいのよ。  男の人の、熱い……おつゆ……あむ」  口ではどれだけ拒もうと、肉の快楽の前には脆い、男の生理など掌《たなごころ》を指すように心得たと言わんばかりの声音。流されてしまっていいのだと誘う言葉が、築宮の理性をどんどんと溶かし、崩していく。  もう、為されるが、ままだ。  青年の衣服はだらしなく乱されているのに、かたや令嬢は着物の〈前身頃〉《まえみごろ》も乱さず、褄《つま》だって慎ましやかに閉じられたまま。  肌さえ見せず、ただ築宮の快感のみを引き出し、奏でるのが、青年にとっては自分だけが堕落しているようで、屈辱的とも被虐的ともつかぬ心持ちにさせられる。  清楚と貞淑の象徴のように整然とした振り袖姿の中、剛直を這いまわる舌と息遣いは裏腹に淫靡で卑猥で、その較差があるだけに、令嬢の口淫はいよいよいやらしく、艶めかしく、青年を快感の流れの中に落としこんでいくのだった。 「ふ……んぅっ、んふぅぅぅ」 「ぷ……はぁ―――ほら、もう、おつゆだってこんなに……」 「あっ……く……」  ずろぉと令嬢の唇の中から引きだされた雄の器官は、彼女の小さな口のどこに収まっていたのか、信じられないくらい節くれ立ち、そして醜怪で、彼女の唾液と築宮の腺液にまみれて濡れて、ほの暗い中に生臭い湯気さえ立てていそうで。  始まった時は拒んでみせたところで、こうして彼女の唇が離れてしまうともう、築宮は、ひこ、ひことみっともなく腰を前に突き出ししまうくらい、令嬢の生温かな粘膜を求めてしまっている。  もう思考より先に体の方が、令嬢の媚毒に当てられて反応してしまっているかのようだ。 「お食事と、手遊びと、お話と。  でも、男の人は、それだけじゃ足りませんものね」 「だから、こちらのお世話も、いたします」  と、上目づかいに投げてきた眼差しに、男を狂わせるような媚びが浮いている。ちろりと、唇を舐めた舌も、淫蜜を含んだように濡れて赤い。 「うん……」  と、令嬢が放つ淫猥な香りに流されて、つい釣り込まれるように頷いてしまったことを、青年は後から少しばかり、いや大いに悔やむことになる。 「ふふ……っ。それでいいの。  じゃあ、あなたもその気になってくれたことだし、もっと―――続けますね……」  にゅう、と唇を笑みの形に吊り上げて、令嬢が頬を剛直に擦り寄せてくる。  染み一つない肌がぴったりと剛直に張り付いて、す、す、と小さく鼻息を漏れる感触が伝わった。  普段はどこまでも透明で、無機質でさえある瞳が、官能でとろりと溶けたように思えたのは、築宮の思いこみだったろうか。  情欲に浮かされたようになっているのは自分だけでなく、令嬢もまた、青年の身の世話と言いつつも口淫によって高ぶっているのだと、思いこみたかったのだろうか。  いずれにしても―――もう、築宮には令嬢の真意を測る余裕などない。  亀頭で唇の上をすりすりとなぞると、熱い舌をねっとりと突き出してきた。その口が熱い吐息とともに小さく囁く。 「男のひとは大変ですよね。  ちゃんと始末しないと、あんな濃いどろどろ、体の奥に溜まっていくばかり」 「でも、ご自分でなさらなくたって、ここにいるなら、私で出してくれて、構わないから」  と、青年の腰に両手を回して、人形じみた打ち見の奥に、底無しの淫らを秘めた令嬢が、喉の奥まで突きそうなほどに膨れあがった雄の器官にむしゃぶりついていく。 「んぁむむぅぅ、んっ、んふ、んむ、んむ、えぅ、るぅ……っ」 「お……おぅぅ……っ!?」  むしゃぶりついてきた、と思ったらもう、彼女の責めは最初から激烈を極め、情けなくも声が、勝手に青年の口を突いて出てしまう。  それくらい、凄まじかった。  一息に飲みこみ、裏筋を舌で包みこんで揉みまわすようにねぶり、唾液で雄くさい潮の味を溶かしだすように〈舌鼓〉《したつづみ》を打つ。  その舌先の蠢きだけで、早くも膝の裏から力が抜けていってしまう。  剛直は早々と射精への準備を整え、彼女の口の中で見えないが、大量の先走りを零しているに違いない。 (う、うそだ……こんなに、すぐに?)  このまま続けられていたら、彼は初めての射精を知った思春期の男子のように、こらえ性もなく放っていただろう。  しかし令嬢は、剛直のわななきで青年の絶頂の兆しを感じ取ったか、 「はふ、ぅ……。あぁ……もう、ひくひくってなってます。すごい元気……先走りのおつゆ、もうこんなに……」 「でも、まだ。  だってすぐに漏らしてしまったら、もったいないものねぇ……」  射精欲求が満ちる手前で唇を離し、ちゅぷちゅぷと口の中で築宮が漏らした腺液を舌なめずりし、陶然と瞳を煙らせた。 「ぅぁ……ぁ、やめないで……もっと……」  やめてくれと吐いていた口が、あっけなく陥落して続きをせがむ。  流されるままに始めて行為だとしても、どうせだったらもう少し楽しみたいと、そんな風に青年が快感を受け入れていられるのも、この辺りまでだった。 「ええ、もちろん続けますよ。  でも、あなたのお種も、もっと濃く、熱く、煮詰めてあげた方が、気持いいから」 「じっくりと、ゆっくりと、ね……」  確かに男の射精というのは、じりじりとその瞬間を引き伸ばし先延ばしにした方が、快感は激しく深く、量も大量になる。  ただ、自慰にしろ口淫にしろ、そして情交にしろ、そうやっていつまでもだらだら続けてると、快感に慣れてしまって絶頂を逃してしまうこともある。  しかし今の築宮に関しては、まだまだその心配はなさそうだった。 「なら……もっと……」  なにしろ彼も、重い腰をどうにか突きだして、おねだりするように令嬢の唇に尖端を押しつけてしまっているのだから。 「ふふ……っ、もちろん。  私だって、もっとしてあげたいもの……」  そして口淫は再開される。  つるりと、蛇が卵を呑みこむように尖端を唇に収め、 「―――くふ、くむ、んっ、んむ、んんぅんぅんぅるるる―――っっ」  じゅるじゅると、あの令嬢がと、実際に今耳にしていても信じられないくらい、聞くに耐えないほど粘ついて生々しい響きとともに唾液ごと息を吸って飲みほした。  少し吐き戻し、丸い亀頭を端正で繊細な唇で丹念に包み、舌先だけ裏に入れて縫い目とくびれをすみずみまで舐め清める。 「んぅ……っ!」  一体こんな年若な彼女が、どうしてこれほどまでに〈閨房〉《けいぼう》の技に巧みなのか―――訝しく思う心などたやすく忘れさせるほどの快感、凄まじいまでの。  いったんは収まりかけていた快楽の波が、再びたちどころに盛り上がり、臨界点に近づいていく。  畳に足の親指を食いこませるように踏ん張り、絶頂の到来を遠ざけようとすると――― 「ん、ふ……っ」  青年のような男の体内のリズムなど心得きっているというのか、射精の手前で愛戯の調子を緩め、また唇を離し、なだめるように指で弱くしごいてくる。  それで絶頂の波がいったん遠ざかり、青年が続きをねだって、艶やかに梳られた黒髪を指で撫でると、心得ましたとばかりにまた吸いついてきて――― 「んふ、くぷっ、はぁ、はふ、んむ、ぅむ、んむぅ……」  しゃぶりたてる喉声に、喜びの色が混ざりはじめる。唇に受ける男根の味が彼女の芯にまで響いているせいか、それとも築宮を快感の波で翻弄するのが嬉しいのか。  舌さばきはいよいよ細やかに、〈執拗〉《しつよう》なものになる。  頬をすぼめてきつく吸いながら、頭を前後に動かして、幹の中ほどまで素早く何度も吸い込み、滑り出し、吸い込み、滑り出しては、またその繰り返し。 「ふぅ……む、はぅ、す、ん……んふ」  可愛らしく鼻を鳴らして息をしながら、熱く濃い唾液で剛直を溶かしてしまおうとしているのではないかと言うくらい、熱心に熱心に絡めてくる舌が、築宮にとってはたまらない、耐えられない。 「あ……ぅ、お……俺……、もう出……っ」  こうまでされては、どれだけこらえたところで限度があって、もう充分に我慢した、もういいだろうと、青年は射精を手繰りよせて、令嬢にも合図する。  と、つるりと。 「あ……っ!?」  築宮の口から思わず漏れてしまったのは、失望の声。なぜ、どうしてここまでしておいて、そうやって後一歩のところで絶頂を取り上げるのだ、と。  今度こそ、精を噴き零す、あの快絶を思う存分味わえると思ったのに―――  けれど令嬢は、吐き戻した剛直に優しく笑みかけながら、軽い、絶頂に達せそうで達せないくらいの絶妙な刺激の口づけを尖端に降らせるだけ。 「な、んで、やめたり、なんか……っ」 「まだよ。まだ。  もっと濃くして。もっと男のひとのくさい匂い、きつくして」 「それくらいにこらえた後じゃないと、あなただって満足できないでしょう……?」  ―――そこで令嬢が返してきた、甘やかで、けれど底無し沼みたいな微笑みに、築宮はこの娘の術中にまんまと嵌ってしまったことを知った訳だが―――もう、遅かった。  彼女の思うがままに絶頂を引き伸ばされ、じりじりと焦らされ、かといって青年から途中で止めさせてしまうことなどできやしない、今さらとても、それは無理の、生殺し。  それくらい、令嬢の口と舌の蜜戯は素晴らしく、男だったら誰であっても逆らえないくらいの甘美を秘めていたから。  もう、そこからは、青年にとって官能の拷問に近かった。 「くぷふ……ぷぁっ。んちゅっ」  もう一度喉の奥まで呑みくわえ、根元まで唇を届かせて、最も心地いい管の根元を歯で切るように擦りながら、全体をきゅっと口内で締めつけてくる。 「あぁ……ああぁ……」  青年が快感を極めようとすると、その都度敏感に察して舌さばきの手綱を緩め、するりとかわす。  そして少しでも落ち着くとまた再開する。  じんわりとしばらく温めて、硬さを楽しみ、ぬらつきを教えてから、吸引しつつ引き抜き、栓を引き抜く音を立てそうな勢いで口を離す。  すぐに尖端の鈴口に口づけ、切れ込みの中に舌を刺し、敏感な部分を徹底的にくすぐり抜いてから、滑らかな舌先を細かく震わせる。  亀頭全体を刺激し尽くし、喉の奥、食道の入口まで届いてるのではないかというくらい、深く呑みこむ。  それで、築宮の腰が震えはじめるとまた離す。離しては含み、含んでは離し、何度も何度も、絶頂がすぐそばまでやってきては遠ざかり、また近づいて、ああ、〈嗚呼〉《ああ》―――  あああ、あああああああっっ、出したい、ぶちまけたい、流しこみたい、脈打たせたい、したいしたいしたいっ、射精、精液、子種の汁―――っ。  ……青年の身体の中は、もはや性器と快感を感じる神経しかなくなっているようなのに、最後の最後がやってこない。  訪れては遠ざかる、その間隔が極限まで短くなってるのに、けしてゼロには重ならない、これは地獄なのか天国なのか。 「い、イかせてくれ―――おねがい、だ、このままじゃ俺は、気が、狂う……っっ」  しまいに青年は、恥も外聞もなく、普段の彼が聞いたなら我が首を捻り切ってやりたいほどの、みっともない声を恥知らずに垂れ流しにするしかできなくなった。 「あ……ぅ……っ?」  焦れた余りに、鈍っていた腕にその瞬間だけ力が戻り、がっと手を伸ばし、さらさらと涼やかな髪をわしづかみにし、杭を穿つように令嬢の口を剛直で深々と犯す。  そのまま喉の奥までねじこんで、そして精を撃ち放してしまえ、と揺すりたてようとした腰は、思いもかけないくらい強い力で、しっかりと掴まれた。  令嬢は青年の暴挙を認めず、腰に手を回し抑えてきたのだ。  いつもなら女の細腕くらいはたやすく振り解ける青年だろうが、この時は出来なかった。  監禁生活に力が萎えていたからでもなく、まして令嬢を気遣ってではなく、もうそれ以上の力が入らないくらい、凄まじいくせして精妙を極めた口淫に骨抜きにされていたのだ。 「んふぅ……ふぅぅぅ……」  それでも、そんな強引なことをしてしまえば歯を立てられたって文句も言えないところだろうに、令嬢は喉奥を突かれたままでじっとしていた。  いな、青年にとっては歯を立てられるくらいの方がよかったかも知れない。少なくともその刺激で絶頂を引き寄せられたろう。  こうして絶頂を堰きとめられたまま令嬢に押し止められている方が、なまじの抵抗にあうよりよほど辛い、耐えられそうにない。 「うう……ぅぅ、ひどい、こんなの、ずるい……」  その時の彼は、悔し涙さえ浮かべていたのだ。令嬢の口深くに浅ましく飢えきった雄の器官を厚かましく強引に埋めたままで。  全然動いてくれない。茎の根元まで口に迎え入れてくれたのはいい、けれども、唇で根元をくわえただけで、舌を遣いも頭を揺すりたててもくれはしない。  そのままあと二・三秒も放置されてたら、築宮は恥も外聞もなく大声で泣き出していただろう。実際、顔が泣き出す寸前にくしゃりと歪んだ。  そんな彼の、情けないことこの上ない顔を見上げて、令嬢は、くわえたままにこりと。目だけで笑って。 「ん……ふ」  溶かした蜜のような熱い息を鼻先に通わせ、瞳に慈愛を浮かべた。  優しい姉のような慈愛と、淫らきわまりない、情欲の溶け合った熱を。  おそらく令嬢は、青年がここまで狂乱するのを、潮の満ち干を探る水先案内人のように計っていたのだろう。  青年がこうまで焦れて狂わないと、絶頂の最後の一押しをするつもりは、最初から無かったのだろう。  ほとんど淫情に気も狂う寸前の築宮を待ち構えていたように、ついに――― 「――――――」 「ちゅく、ちゅふ、ちゅぷ、ちゅる、る、ちゅぷ、むふぅぅぅっ」  一分の隙なく、くわえこまれた剛直を襲ったのは、絶後の吸引力。  しかも舌が何枚にも分裂したように、茎の周りを縦横無尽にうごめき暴れ、喉の吸引とあわせて絶妙の動きで吸い立ててくる。 「ずう……ぢゅぅぅ〜〜ふう〜っっ」 「ひっ……か、かはぁーーーっっっ」 (きつい……きつ……過ぎ……っ)  頭全体をくねらせながら吸い立てる、口の中が剛直を翻弄する熱く湿った小さな真空となり――― 「ふくぅぅっ……ご、ごめんなさい」 「もう、俺、もう……すいません、でしたからぁッ」  尖端が喉の奥まで呑みこまれ、口内どころか食道の入り口の粘膜にこすられ、吸い上げられたとたん。  青年はあっけなく―――そう、これまでの生殺しの快楽の檻から、あっけなく、あまりにあっけなく解放され――― 「で…………るぅぅぅ……っっっ」  射精していた。 「じゅぅっ、ずじゅぅっ、ぢゅぅっっ」  しかも脈動しながらの射精ではなかった。  最初に精を撃ち出すために開いた輸精管が、令嬢のあまりに強力な吸いこみに脈動を許されず、どこか排尿じみた、くぎりのない射精だったのだ。 「ふぇぇ……ひはああ……っ」  情けない呻き声しか出せない。  自発的な射精ではなく、令嬢にまさしく吸い出されていた。  あるいは―――そう、これは食餌だ。肉茎を管にして、青年の身体の中味がどろどろに溶かされ、令嬢に呑み干されていく。 「じゅ、ぅぅ……」  そのうえ令嬢の吸い上げは、程良いところで射精し終えることを許さず、築宮には、普段の二倍、いや三倍ほども、精を放ってしまったようにさえ感じられた。 「ぅん……っ、ふ、はぁ……っ」  どれだけの量を吐き出してしまったのか、築宮には見当もつかないし考えるだけでも空恐ろしい。  剛直が強烈な吸引から解放されると同時に、青年は、がっくりと顎をのけぞらせ、後頭部を床について、漏らした息が、か細い。  予想をはるかに超えた快感に股間から脳髄まで一気に焼かれて、わけもわからないまま射精し狂って、それでまだ終わりでなかった。  令嬢の口から外れてなお、剛直は栓が壊れてしまったように、びくんびくんと脈打ち、さながら断末魔の痙攣のよう。  令嬢の喉の奥へとしたたかに流しこんでおきながら、絶頂はなおも青年の雄の器官に留まり、もはや絞り出す精も枯れたのに、いつまでもひくついて。 「あァ……美味しい……熱くて、喉にからんで……」  美酒を呑み干すように、赤ん坊が乳を飲み尽くすように、んくん、んくんと、うっとり喉を鳴らしながら至福の顔を浮かべる彼女。  築宮はそんな令嬢を眺めながら、体の芯を根こそぎ引き抜かれたような虚脱感に、痴呆のような笑みを浮かべ―――  なおもかくかくと腰を突き出し続けていた。  こうして、この日は令嬢の口での放出だけで済んだけれど―――それだって今日はこの隠し蔵を立ち去った後にも仕事が控えていたとか、そんな理由だろう。  時によってはこれだけで終わらず、令嬢はさらに築宮にのしかかり、無理矢理にそそり立たせ、奪うように体を重ねる、そんな情事に続くことだってままある。築宮が逆らうことなどできず、あとは互いの肌の境目がわからなくなりそうな、淫欲の沼に堕ちていくばかりだ。  交わりは当然のように令嬢が手綱をさばくことがほとんどだが、築宮の体もこの時には劣情に〈附活〉《ふかつ》されるのか、彼女を組み敷くこともある。上になり下になり、絡まり合い縺《もつ》れ合い、互いの体液にまみれて、そして最後は決まって令嬢の中に精をだだ漏らしにしながら、意識を手放すのが常だ。  それは死の縁を覗きこむにも似た、怖気を催すほどの絶頂であり、築宮はその度に、このまま自分は永遠に目覚めないのでないかとさえ思う。  むしろ、目覚めないでいるほうが彼にとっては幸せなのかも知れない。  死んだような眠りの後に、それでも目覚めはやってくる……膿《う》み崩れたような意識の、そして四肢には鉛の如き倦怠感が重く淀《よど》んだ最悪な目覚めではあるが。  このようにして、蔵の中での築宮の時間は過ぎていく。幾度かは、意志の力を必死に掻き集めて、令嬢に懇願した事もある。 「もう……やめてくれ……。  頼む……お願いです……俺が……、  俺が、全部……悪かった……だから」 「出して、下さい……。  ここから……出して……」  その都度懇願は、やんわりと優しい笑みで受け止められ、そして無視された。いや、少なくとも令嬢は、 「よろしいですとも。じきに出してさしあげますよ……じきにね」  と受け答えはするのだが、その台詞から真実味など全く汲み取れず、事実、彼女がどれだけの来訪を重ねても、築宮を解放しようとする様子など気配も見せない。  これが、この旅籠の主に楯突いた報いなのか、それにしたってひどすぎると、憤る気力を残していたのはまだほんの始めのうちだけのこと。憤りは令嬢の得体の知れない優しさと甲斐甲斐しさの前には長く続かずに萎《な》え憎しみに変わった。  なんの権利があって、こんな陰湿の闇の中に封じこめておくのだと。  しかし憎しみは長くは続かない。  もともと築宮はそういう性分であるらしく、誰かを深く憎むということに対して躊躇いを感じる性質らしい。それに、事ここに至っても、彼はなぜだか令嬢を憎みきる事ができないでいたのだ。令嬢の優しさというのも表面的なもので、腹の底にはどんな存念を秘めているか知れたものではないとしても、それでも築宮は彼女に憎しみを抱けないでいる。  かくして、憤る事も憎む事もできない宙ぶらりんな気持ちは、しまいに畏れに変質した。  記憶を失う以前から、男女の情交という行為に対してよほど厳格な倫理観を培っていたのか、この蔵の中での意に染まぬそれは、築宮にとってはおぞましくさえ感じられるほど。  それでも肌を重ねている時の快楽はまぎれもない本物で、いつもいつも濁流に呑まれるように肉の交わりに溺れ、後で苦い自己嫌悪に陥ってしまう。  そんな自己嫌悪さえもが、このままだと酒と薬で去勢され、自分がただ快楽のみを求める肉の塊となり果てるのではないかという畏れが、今の築宮を苛んでいる。  そしてその畏れは、このまま葛藤し続けると心が負荷に耐えきれず、自分は壊れてしまうのではないかという底無しのおぞましささえも呼び覚ます。  築宮は闇の中で、令嬢の訪れを恐れおののき、同時に待ち侘びながら、最終的にはただひたすら逃げ出したい帰りたいと希うようになっていった。  このようにして、蔵の中で過ごす爛れた時間が、いよいよ星々の時間にも等しく永遠にも思えるようになった頃。築宮はなかば諦めの境涯にも達しつつあったのだが、皮肉も少しずつ体の自由を取り戻しかけていた。  長きに渡る薬物の服用で、体に少しずつ耐性がついていたのかも知れない。 (と、言って……。  状況が、たちどころに好転するわけでもないんだがな……)  手足の縛鎖だってそのままだ。せいぜいが蔵の中を〈手燭〉《しゅしょく》を頼りにうろうろするのが関の山、一応扉の方も駄目を承知で開くかどうかを試してはみたのだが、案の定外から固く封じられていて、あがくだけ体力の空費となるのは明らかだった。  大体にして心の方が萎えてしまっている。逃げ出そう逃げ出そうと〈煩悶〉《はんもん》しつつも、令嬢がいない間は玩具を手すさびにするか、用意の箱膳の残りを味気なくつついたりと、結局は漫然と時を食いつぶしてしまっている。  さりとてやはり大の男がじっと〈蟄居〉《ちっきょ》しているにも限度があって、築宮はあれこれとそこらの〈長持〉《ながもち》の類をあざきはじめる。脱出の手段となるような品などは、期待するだけ無駄とわかっている。  この蔵は、閉じこめた人間以外は開けられない蔵なのだという前提を、築宮は〈漠然〉《ばくぜん》と知っていた。こここそが、いつか令嬢と語り合った事もある、 『一番小さくて、一番たくさんの蔵』  なのだ―――  なぜここがそれだとわかるのか、そしてこの蔵の中にまたもや強く『知っている』という感覚を抱くのか、今さらそれを悩んだところで詮なき事のように思えて、深く追及するのは諦めてしまっている。  令嬢の隠れ家で見かけた、あの地図の事だって同様だ。あれにしたところで、眠り薬の効き目が廻って喪神する寸前に〈垣間見〉《かいまみ》しただけであり、あの時は確実に自分の字だと思ったのだが、今となっては怪しいもの。  そんな既視感や疑問を漫然と心の中に転がしながら、開けていく〈葛籠〉《つづら》や〈長持〉《ながもち》は、あいにく全てが空っぽ。  ここの箱の類は『閉じこめられたその子が欲しいモノだけがたくさん仕舞われている』筈なのに……つまり自分は、子供というには育ちすぎているということなのだろうと空しく苦笑する築宮だ。  何個も蓋を開け続け、ほとんど惰性でもう一つ、封印のある小箱の、その封を切ってみると、持ち上げた時にはこそりとも音ひとつ立てなかったのに、なんと中味入りだった。 「って、こりゃあ……。  こんなところで、これか……?」 「……いい感じに、ブラックジョークが利いてるじゃないか……くくっ」 「くく、はは……、  あはは……あぁはっはっはっ……っっ!」  ただ入っていたのが遠眼鏡―――望遠鏡だったという事に、築宮、ついにこらえかねて闇の中に独り爆笑してしまう。  なかなかに〈諧謔〉《かいぎゃく》が効いた冗談ではないか。  眺める窓など閉め切られた蔵の中で見つけだしたのが、望遠鏡とくる。  これでなにをしろというのか。戯れに覗きこんだところで筒の中には言うまでもなく闇ばかりが満ちている。  孫の手の代わりにもなりやしないと覗いた目を外す……外したのだが、今のはなんだ?  目を離す寸前の望遠鏡の視界に、なにかが映らなかったか、蠢《うごめ》かなかったか? 自分の感覚が信じきれず、半信半疑でもう一度望遠鏡を覗いた築宮は、今度こそ確かに『視た』のだった。  始めはもやもやと定まらなかった視界が、次第に定着していく。レンズの向こうに映し出されている情景は、この蔵の中ですらない。あまりにかけ離れている。  ここと同じように薄暗くはあったが―――そこは、どこかの洞窟の中であるようだった。  鍾乳洞内の広間のような空間。海綿のように柔らかな曲面の岩畳が、何枚も波紋のように重なりながら、下の地下水の淵へと傾斜していっている。垂れ下がる鍾乳石や生え延びた石筍が生き物のような質感で、まるで巨大な獣の胎内のようだ。  ……築宮にはあずかり知らぬところであったが、そここそがニゴリの謁見の間であり、令嬢が産み落とされた場所だという、あの胎内洞の情景なのであった。  築宮が眺めるうちにも、無人であった洞内に男女の二人連れがやってくる。女性の方は、今にもこぼれんばかりのお腹をした身重だ。今まさに産みの時を迎えているらしく、その貌は陣痛に引きつり歪んでいるのだが、築宮は彼女の面差しに令嬢と似通ったものを見いだしていた。連れの男性は彼女の夫だろう。これも令嬢との血の繋がりを示す貌立ちである。二人は広間の奥の淵まで降りていき、男性はあれこれと妻を助けながら出産の準備を整え、女性は産みの苦しみに身を震わせる。生命の誕生という崇高な情景を、淵からむらむらと湧きだした影が、たちどころにおぞましやかな雰囲気で塗り替えた。  ―――『ニゴリ』だ。  築宮もぎょっと息を呑むが、ニゴリが湧きだしたのはあくまで望遠鏡の中の情景での事であり、眺めている分には実害はなさそうだ。と、築宮は情景を見守りながらふと不審に眉をひそめる。そういえばこの蔵に封じこめられて以来、ニゴリの気配を感じたことがない。アレが現れる先触れである、あの甘く忌まわしい匂いも嗅いだ憶えもない。  これまでは令嬢への恐ろしさが先に立つばかりで、『ニゴリ』の事など念頭から消え去っていたのだが、一体どういう事だろう……。  首をひねるうちにも、胎内洞の状況は刻一刻と進行していっており、女性はいましも赤子を産み落としたところだった。映るのは映像ばかりで音は伝わってこないが、赤子は無事に〈呱々〉《ここ》の声を上げている様子だ。築宮はあの赤子こそが後の令嬢なのだと直観する。  してみるとこれは、過去の情景、令嬢の誕生の瞬間なのか。  それにしても―――と、築宮が飲み下した唾は、後味の悪さに粘ついている。令嬢の生誕を見守っていたのが、両親だけならばまだよし、なぜニゴリまで立ち会っていたのか? 彼女の両親はなぜそんなところで出産に望んだのか?  築宮の疑問など知らぬげに、情景は〈遷移〉《せんい》していく。  その後も、夫婦は令嬢を伴ってたびたび胎内洞を訪れた。令嬢がまだ〈嬰児〉《みどりご》の時は母親の腕に抱かれ、やや長じて歩けるようになると、父親の手に曳かれ、彼女の成長をニゴリに報告するかのように、胎内洞に通っていた。  もしや、ニゴリというのは、管理人の一族となんらかの関わりを持つモノなのかと築宮が疑い始めた時に、また情景が変化する。  令嬢が父親に連れられてくる事に変わりはないのだが、母親の姿が見えなくなっていた。  その理由を、幼い令嬢が涙の余韻にしゃくりあげながらも懸命に抱えて運んでいる、白布で覆った木箱が告げていた。  母親がみまかったのだ。まだ若くして、伴侶と一人娘を遺して。  父親と令嬢が、遺骨を納めた箱を淵から水面に押しやると、ニゴリ達がむらむらと湧きいでてそれを取り囲む。  箱はニゴリ達に取り巻かれ、奇態にも沈むことも傾くこともなく、ゆらゆらと揺れながら闇の奥に漂っていき、見えなくなる。  どうやらそれが一族の葬礼なのだろう。  この、哀切であると同時にニゴリ達が関わっているせいで、どうにも陰惨の気が否めない葬送風景を、築宮はもう一度目にする事になった。次に胎内洞を訪れたのは、またも遺骨を納めた箱を抱きかかえた、令嬢ただ一人だったのだ。  前回の母親の時からいくらも経っていないようで、令嬢はあまり成長していない。してみると彼女は相次いで二親を失ったのだろう。  が、今度はもう泣いてはいなかった。  幼いなりに気丈に唇を引き結び、背筋を伸ばして、母親にしてやったのと同じように父親の遺骨を見送った。落日の古城を一人支える、幼い女城主のように。  ―――なおも映像は続く。  令嬢は定期的に一人で胎内洞を訪れているようだ。それまではただニゴリと何事かを語り交わしているだけという、悪く言えば退屈な情景が、令嬢が長じていくにつれ、忌まわしい色合いを帯びるようになった。  ニゴリどもが、影の触腕を延ばして令嬢に絡みつくようになったのである。  どうやらそれは、体に直に触れ、彼女の『成熟』の度合いを確かめているらしかった。  令嬢も最初のうちは懸命に拒み、振り解こうとしていたようだが、ニゴリ達は密に幾重にも絡みつき、動きを封じ、抵抗を許さない。  蠢《うごめ》き入り乱れる影の、なんと淫猥でおぞましかった事か。  服の裡側に潜りこみ、まだ蕾の乳房を這いまわり、時には口内に潜りこんで歯並びを改め、腰回りの肉付きを確かめるように撫でまわす。  どれだけ抵抗しても無駄と悟った令嬢は、次第に表情を失っていって、ニゴリ達の凌辱にも人形の仮面でやり過ごすようになる。  ―――ただ一度、その仮面にひびが入った時があった。  それが、最初で、最後の。  過去の情景を〈垣間見〉《かいまみ》する築宮の目にも、令嬢が少女から娘へと変わりつつあるのが見てとれるようになった頃の事だ。  全身を覆いつくさんばかりに群がっていたニゴリの触腕が一筋持ち上がり、兇悪な棒状の形を取った。純潔の娘なら誰しもそれだけ〈怖気〉《おぞけ》を催す、そんな形だった。  それがスカートの裡側に潜りこんだ時、それまではひたすら耐えていた令嬢の貌が嫌悪に引きつる。久しく試みなかった、本気の抵抗を思い出したかのように。  しかしニゴリ達は拘束を緩めず、スカート中に潜りこんだ触椀を奥へ奥へと進ませ、両足の付け根で布地を裡側から盛りあげて、一時の停滞―――が、一息に衝き入れられた瞬間の令嬢の表情から、どうして築宮は目を逸らしてやれなかったのだろうか。  白く脆い〈雪花石膏〉《アラバスター》のような首を、限界までのけぞらせ、唇は戸惑ったように軽く開けられわなないて、見開かれた眸はなにも映しておらず、なのに涙が珠と盛り上がって眦《まなじり》から零れて――― 「そんな……っ」 「あるかよ、そんなのって―――  あるのかよ……っ!!」  築宮は声を上げて〈慟哭〉《どうこく》しそうになった。  その哀しく儚い、破瓜の苦痛の貌は、生涯忘れることはできまい。  望遠鏡の中の情景は、令嬢の貌をご丁寧にも大写しにしたのを最後に、徐々に薄れていって闇に沈んでいったが、築宮は最後に聴いたのだ。それまでは無音無声の情景ばかりだったのが、最後、映像が消える寸前に、   ―――通った―――   ―――月のものの道も、先だって通っていたな―――   ―――これでこの娘も、女だ―――   ―――ようやく、孕《はら》める胎《はら》だ―――   ―――繋げないといけないのだ、なんとしても―――   ―――我らの一族の血を―――   ―――なんとしても―――    音なき声、脳裏に直接意味が浮かぶような声を、築宮は確かに聴いたと思った。  ……どれだけ望遠鏡を覗きこんでいたのか。望遠鏡は手を離れ、座りこんだ膝のそばに転がっている。倦怠をせめてまぎらわせようと覗きこんだだけなのに、その代償としては、あまりに辛く哀しい情景ではないか。見るべきではなかったと後悔すると同時に、いや、自分は観ておくべきだったのだと、強く確信する声が胸の中にある。  確かに飲み下すには苦すぎる過去の情景だった。けれどこれからどうなろうとも、自分は令嬢の生い立ちを知っておかなければならないと、自分の中の知らない部分が強く告げていた。  その為には必要な苦さだったのであり、目を逸らすべきではないと〈叱咤〉《しった》していた。  どうやらニゴリというのは、令嬢達管理人の一族に連なるモノであるらしい。  とはいえ、知ったからといってどうすればいいというのだろう。いまだ自分はこの蔵の中から逃れる術は持たず、令嬢にもう一度必死に頼みこんだとしても、聞き入れてくれるかどうか、見込みは薄い。  どうすればいい、と愚痴りつつ望遠鏡を拾い上げ、思い悩みながら掌の中で転がす。  もう一度目に当てたのには特に意味はなく、無意識の行為だった。  それなのに―――  また別の光景が映っていた。  今度もまた悲惨に胸締めつけられるような場面なのかと、身構える暇もなかったが、幸い望遠鏡の中に展望された情景に、陰鬱な気配はなく。  先程までの、地の底の胎内洞とはうってかわって拓《ひら》けた光景、大河の情景が望遠鏡の中に広がっていたのだ。  〈淙々〉《そうそう》と流れる水面に、一艘の小舟がたゆたっている。悠然と櫂を使っていた舟守が、こちらに気づいて挨拶の手を〈鷹揚〉《おうよう》に挙げた時、つい築宮も当たり前のように手を挙げた、望遠鏡を覗きこんだままで。  これはあくまで望遠鏡の中の光景であり、向こうがこちらに気づく筈はないのだと一拍遅れで仰天したのだが、舟守はなにも不自然な事などないように、口元に手を立て〈喇叭〉《らっぱ》代わりに呼ばわってきたのだ。  ―――望遠鏡の向こうにいたのは、あの割れ般若の面の渡し守だった。 『旦那ァ、なんか御用ですかい?』  築宮、望遠鏡を握ったまま、あわあわと狼狽えるも無理はない。さっきのニゴリの声と同じように脳の中に直接響くようだったが、彼女の語調は呑気そのもので、築宮を脅かすところはない。  それでも人を食った事態なのには間違いなく、築宮は返す言葉を見失い、口をぱくぱくさせるばかりだ。 『ええ? なんとお言いなので?  ああもう、よく聞こえないったら』 『埒があかないたぁこの事だ。  よござんす、今からそっちに行きまさぁ。  しばらくお待ちをば―――』  渡し守は、今なんと言った?  ……かんかんと、締めきられた蔵の窓が外から打ち鳴らされたのは、彼女が呼ばわった言葉の意味を築宮が噛み砕くより、早かった。  鉄格子越しの、久方ぶりの外の光で眩《くら》んだ目が、視力を取り戻すまでしばらくかかった。 「こういう重たい観音開きってな、  開けるのにコツがね、いるんですよ」  青年がどうあがいても開けられなかった窓を〈容易〉《たやす》く開放したその不思議を、まあ今は云々しているつもりはない。  がっちり抜かりなく嵌めこまれた鉄格子に区切られながらだが、渡し守の顔を目にした築宮の心持ちといったら。嬉しさとか懐かしさを通り越し、一種〈宗教的法悦〉《ヌミノーゼ》にも共通する、崇高な感動といっても過言でない。  だが感動は感動として、それよりも、と築宮はいまだ微妙に〈呂律〉《ろれつ》が廻らない口で、切々と訴える。  自分が令嬢にここに閉じこめられてしまった事、このままだと彼女にどうされるのか判らないから、とにかく逃げ出したいと言う事。  渡し守は築宮の訴えを頷きながら聞いていたが、そのうちに小首を傾げた。 「お嬢さんが、旦那を閉じこめる……?  そいつぁまた妙な……。  どうにもいかさまな」  〈如何様〉《いかさま》なと言うて、築宮の必死らしい訴えに賛意示した言でなく、〈賽子賭博〉《ちょぼいち》の、賽《さい》を怪しいと見て叩き割る博徒の不審があって、青年は渡し守へ食い下がった。 「いかさまな、もなにも……。  実際ここから出してもらえてないんだから。外の空気だって何日ぶりに吸ったかわからない」  とまれ渡し守に愚痴るのは筋違いであり、不平不満はそれくらいにしておくとして、築宮はとにかくこの蔵から脱出するのに手を貸してくれないかと頼みこむ。  いかに〈奇天烈〉《きてれつ》な登場を見せてくれた渡し守であっても、彼女一人で、厳重に封印されたこの蔵の扉をどうにかできるかどうか、正直望み薄だと危ぶんだ。  しかし今のところ築宮は、この渡し守以外頼る相手がいないのだ。拝みこむように哀願すると、渡し守は懐手から顎に拳を添えて、やや考えこむ風情ではあったが、なんとも嬉しいことに「ようがす」とうち頷いてくれたことである。 「ただあたしだって、  ここの鍵なんぞ持ち合わせちゃいない。  ……って、あまり情けない貌しなさんな。  男前が台無しですよ」 「ちょっくら行儀のお悪い事になりますが、  ようござんすね?」 「行儀が悪い、というのは?」 「窓から出ていただきます」  監視の目と厳重な戒めを抜いて脱出しようと言う矢先に、行儀など気にしていられたものかなので、それは構わない。 「そんなのは、選り好みしないが……。  だが、この窓からどうやって抜け出すというんです?」  観音開きの戸は開け放たれたと言っても、がっちり鉄格子が嵌めこまれ、隙間からはせいぜい手を突き出すのが関の山だ。まさかこの鉄格子をぶち抜こうというのか? それはあまりにも乱暴だが、体裁を気にしていられる段でもなく、とにかく令嬢が戻ってくる前に早くと、気が急く築宮は渡し守に一任する。  もう一度頷いて、渡し守は帯に下げていた〈瓢箪〉《ひさご》を手に取り、軽く揺らして中味の具合を確かめ、栓を引き抜いた。  〈瓢箪〉《ひさご》の口を、窓に向けながら、 「そんでは、〈僭越〉《せんえつ》ですが、  今から旦那の名前をお呼びするんで、  元気よくお返事なすって下さいよ……」 「―――は?」 「築宮―――清修―――!」  なにを言い出すのかと呆気に取られた築宮をよそに、渡し守、青年の名前を大きく呼ばわる、その声が綺麗で、通りもよく響いたので、築宮はなにかを考えるよりさきに、反射的に、 「ハイ!」  のよいお返事を返した、途端だった。急激に体を引き寄せる力に包まれた。  抗う事などできないほど凄まじい吸引力は、渡し守が構えている〈瓢箪〉《ひさご》の吸い口から発せられており―――悲鳴一声、築宮の視界は闇に閉ざされた、と思うやぼちゃんとけたたましく耳を打つ、水しぶきの音。  水しぶきの音どころか、耳まで水に浸かっている自分に気がつき、なかば恐慌状態で出鱈目に四肢を振り回す。すると今度は天地が逆転するかの失墜感に見舞われ、腰からどんと落ちた。  さっきと同じくらい唐突に、光の中にいる自分を発見する築宮である。いったい何事かと周りを見回せば、自分はどうやら廊下の真ん中にへたりこんでいるようだ。それもずぶ濡れで。  傍らに立っている渡し守が、築宮の頭上にぴっぴっと〈瓢箪〉《ひさご》を口を逆さにして、振り出す仕草をしている。二・三雫水滴をかぶって、築宮はようやく正気づいた。  廊下の一方には、蔵の外壁と、先程まで自分と渡し守がやりとりしていた窓がある。  渡し守の一瞬の早業であり、なにがどうなったのか、今ひとつ把握しきれていない築宮ではあるが、今のは、アレだろうか。あの西遊記は対なる妖魔王、金角銀角の術と同じ……。 「ま、深く考えなさらんほうが、  よろしいでしょうな」 「はあ……でも俺、  手足も鎖に縛られて―――」 「旦那はいったんは、ひさごの口を潜るくらいに縮んじまったんだもの、手枷足枷の輪だって、すっぽ抜けましょうよ」 「はぁ……だったら服の方だって……」  それなら服はどうなのか、見たところすっぽ抜けた様子もなくちゃんと着たままだがとついつっこみを入れそうになって、渡し守の割れ般若の面の奥の眼差しが、物凄く剣呑にかぎろっているのを目撃して、慌てて口に戸を立てた。  その目は、 『ソレイジョウ ヨケイナコトニコダワルナラバ アタシハオマエヲ アタマカラマルカジリ』  と語っているように思われてならず―――  いずれ手段はどうあれ首尾よく抜け出せたことには変わりない、それは嬉しく有り難い。  ……が、この胡散臭さはなんなのだろう。  渡し守は〈瓢箪〉《ひさご》を軽く揺すりながら、 「あいにく、酒を切らしていたところでね。  こいつにゃ代わりに、  水を詰めといたんですが。  ま、旦那には幸いだったでしょう」 「なんでです?」 「水に浸かる代わりに酒に浸かって、  旦那が、体中良い匂いなんかさせてたら」 「あたしは旦那の体中、  ねぶり回してたに違いないからですよ」 「それに、耳まで水に浸かって、  ちょっとは頭もすっきりしたんじゃござんせんか?」  目を糸目にして笑う渡し守の言うとおりで、完全にとは言えないけれど、蔵の中にいた時よりは倦怠感も薄れてきている。  廊下を眺め渡して監視がないかと窺えば、幸い〈人声〉《じんせい》も気配もない。築宮、一時考えこむ。  自分は、最後にはこんな目に遭ったけれど、それでもまだこの旅籠のことを好きなのだ、と思う。  けれど結局は、自分はここの人間ではない、仮初めの過客なのだ。  唐突なきらいはあるにしても、きっとここらが潮時なのだろう。そう心を決めると、再度渡し守に頼みこんだ。 「頼むばかりで、気が引けます。  けれど、ここまで来たら、  付き合いと思って引き受けて欲しい」 「俺をこの宿から連れだして、  河の向こう岸まで渡してくれませんか?」 「ふぅむ……?  ま、確かに。  乗りかかったなんとやらとも言う」 「もののついでってな言葉もあります。  お渡しいたしましょう」  渡し守は妙なくらい安易に引き受けてくれたはいいが、まずそれにはここから船着き場まで辿り着かないとならない。  そこまでの道筋は、この渡し守が心得ているだろう。そう言えば、今さらながらに気づいて、築宮は渡し守を左見右見した。 「いやですよ、じろじろと。  水も滴る旦那に見つめられると、  こっちまで変な気持ちになっちまう」 「いやその、あなたが舟以外の上に立っているのを見るのは、やっぱりなんか違和感があって―――」  築宮が廊下に立つ渡し守の姿に、新鮮というかミスマッチを感じていたのは、つまりはそういう理由によっていた。  隠し蔵はどうやら旅籠の上層部にあるらしい。そして幾つかの例外を除いては水路は最下層にしか流れていない。  さすがに廊下にまで舟を漕ぎ入れるわけには行かない道理である。 「ごもっとも。  あたしも、どうも陸《おか》の上じゃあ落ち着かない」 「そんならとるものとりあえずってことで、  あたしの舟を呼びましょうかね……」  船着き場まで歩くのではなく、小舟を呼ぶとはどういう事だと、いよいよ訳がわからなくなってきた築宮を尻目に、渡し守はまた〈瓢箪〉《ひさご》の栓を抜き、中の水を廊下に垂らしだす。  ところが―――吸い口から滴る水の筋が、たちまち勢いを強めて廊下を水浸しにし、ぐんぐんと水位を増して築宮の膝まで浸かるほど深くなったが鉄砲水の勢いを見るような。  渡し守の不思議の手業も、もはやここまで来ると馬鹿馬鹿しいの域に達しており、ぽかんと〈下顎〉《したあご》を落として見守るばかりの築宮の前で、廊下は一変、水路となった。  そして廊下の奥の方から、〈舳先〉《へさき》に白波逆立て遡《さかのぼ》ってくる孤影悠然、もう言うまでもなく、渡し守の舟である。  築宮がどうにも納得いかぬ気な顔つきで、渡し守の舟に乗りこんだのと同じ頃―――  旅籠の中央部、吹き抜けの多層回廊にて。  その底部は、多くの水路が流れこみ、まだ流れ出していく合流点の水場となっている。  水場の中央には板橋が架け渡され、円形の舞台のような足場が築かれてあり、その中程に建てられた四阿《あずまや》では、かつて築宮青年と令嬢が晩餐を共にした事もあった。  旅籠の中央部という地理的位置上、この多層廻廊は普段からそれなりに人通りもあるのだが、今日はそれどころではなく、廻廊各層とも、人影が埋めつくして密度濃い。  ただしそれらは旅籠の客ではなく、総出のお手伝いさん達なのだった。  回廊の各階にずらり立ち並ぶ、無数のお手伝いさん達の、手に手に携えたるは、銛やヤスや長く大なる針やらの物騒な獲物。  そしてそんな彼女達に取り巻かれ、足場を囲む水路の汀《みぎわ》にすっくと立ちたるは令嬢、和装の、彼女の手には一振りの短刀。  隣には琵琶を抱えこんで座し、弦の具合をあれこれと調えている、琵琶法師の姿も見えた。令嬢が琵琶法師に合図すると、法師は呼吸を整え、琵琶の〈糸倉〉《ネック》に耳を当て、しばし己の相棒の呼吸に耳を澄ます。  待ち受けるような無音の間が〈暫時〉《しばらく》、やがておもむろに撥を弦に当て、法師が謡い始めたのは―――  古い古い、平曲のような調べの謡。  日頃はどちらかといえば純朴な声音の喉も、こと音曲の時に限っては楽神が降臨したかに〈神韻縹渺〉《しんいんひょうびょう》の伸びては下がり、冴えては深まり、琵琶の楽の音と絡まり合いながら、吹き抜け広間に奏でだされる、各方面の水路へと響き渡る。  と、それぞれの水路の奥からは、神楽舞いで使うような鈴が打ち鳴らされる響きが、琵琶の〈音声〉《おんじょう》に照応するように伝わってくる。  お手伝いさんの別働隊が、各方面の水路の両岸に立って、法師の楽に合わせて鈴を鳴らしているのだ。  まるで、法師の謡と楽の音で、なにかを迎え、誘い入れようとしているかのように。  鈴の響きと琵琶の音、法師の声が吹き抜け広間を〈韻々〉《いんいん》と振動させる中、各水路の向こうから、合流口に向かって、黒い影ともなんともつかぬ不定形の塊―――ニゴリだ、ニゴリが水底をするすると這い寄って、不穏の気配と臭気を伴いつ、水を濁らせて。  幾筋ものニゴリは吹き抜け広間まで辿り着くと合流し、その濃さを増していく、そのたびに水の濁りはひどくなり、甘ったるい腐臭も強くなる。  全てのニゴリが吹き抜け広間に入りこんで一つとなった時、神楽鈴のお手伝いさんも法師もぴたりと音を止めた。  打って替わった静寂の中、令嬢が立つ汀《みぎわ》まで近づいたニゴリの束は、ついに水底から立ち上がる。  汀《みぎわ》の令嬢に、その陰とも実体ともつかぬ体をもたげ、脅かすように延ばした触腕に、滴る雫もまた濁って、水路の澄んだ水がここまで汚されてしまったかと思えば、忌まわしさはいや増しに募《つの》る。   ―――心地よい謡いを、聞かせてもらった―――   ―――つい聞き惚れて、こうして罷《まか》り越したが―――   ―――我らへの〈回向〉《えこう》か?―――   ―――いや、〈回向〉《えこう》などという、殊勝な顔ではないな―――   ―――なんの、用だ?―――    令嬢は軽く身を捌《さば》いて触腕の間合いから退くと、極めて平静な声音で告げた。感情が籠もらない平板な声、というのではなくむしろ逆の、ある臨界を振り切ってしまった故に感情の振幅を無くしたような声だった。 「ええ、その通りですわ、『ご先祖様』。  あなた方に回向などと―――  もったいない」 「本日は、訣別の儀でございます」  令嬢は、背筋に鋼の芯を通したかのように立ち姿も正しく、揺らぎだにしなかったのに、反対にニゴリはその巨体をわななかせた。  血族の裔なる娘の不遜に対する怒りが、全身を波紋のように震わせていた。   ―――訣別とは、また異な事を―――   ―――よくよく下らない戯れ言を、垂れてくれる―――   「戯れ言……など申す口はありません」 「否、戯れ言でさえ。  あなた方とはもうこれ以上、  交わす言葉など、持ちたくもない」 「もう、要りません、あなた方は」 「この旅籠に汚物を見るのは不愉快です」 「その姿、臭い、言葉、全て」 「目の、鼻の、耳の穢れでしかない」 「だから。  今日限りで。  あなたがたには―――」 「いなくなってもらいます」 「さようなら、『ご先祖様』」  ―――〈先祖〉《みおや》と、呼んだのだ。ぷわぶわした黒影の粘塊、己の数倍に及ぼうかという嵩《かさ》に、気圧されることもなく、かつ血の縁を語ろうと言うにはおよそらしからぬ、武器の〈眸子〉《きっさき》を突きつけるようなやり方ながらも、〈先祖〉《みおや》と、そう確かに、呼んだのだ。  ……譬《たと》えばこの吹き抜けの多層廻廊を巨大な魔女の鉄鍋に見立て、令嬢や琵琶法師、諸々のお手伝いさんと共に形が無くなるまでに崩したとしても、令嬢の色合いだけはニゴリの〈濁色〉《だくしょく》に混ざることなく、孤高に遊離するだろう。  それくらい、暗く濁って厭《いと》わしい、臭いも忌まわしいニゴリと、金剛石から削り出されたような硬質の美に造り上げられた令嬢と、二者の存在には隔たりがあるというのに、先祖なのだ、と。 「己の分を忘れなければ、  供養も受けられたでしょうにね」  令嬢の声は、このニゴリの前に余韻を残すのも汚らわしいとばかりに平板で、発せられる端から静寂に消えていく。  それでもニゴリの逆鱗を逆撫でするには充分以上の効果を発揮した。  ニゴリの巨体がびりびりと振動し、怒りの咆吼も波動と化して広間を震撼させる。水面に波紋が幾重にも広がり、細かい飛沫がぱちぱちと跳ね上がっては、広間に〈狭霧〉《さぎり》を投げかけた。  けれどもその程度の怒気など、令嬢にとってはせいぜい前髪を揺らすそよ風くらいにしか感じられない。  恐ろしくなどない。死者のせせこましい妄執など。怯えることもない、いまだ生者の世界に固執し、下らない干渉ばかり仕掛けてくる、下種の怒りなど―――この身を裡側から裂いてしまいそうなほど、高圧に滾《たぎ》る我が〈瞋恚〉《しんい》の前では、なに一つ畏るるまでもなし、と、令嬢の立ち姿に揺るぎなし。  ニゴリは怒りに任せ嵐の予兆の黒雲の如く一気に膨張したが、令嬢はすらすらと進み出て、短刀の鞘を払った。ニゴリの怒気と甘く忌まわしい腐臭の中にあって清冽の光と気韻を放つ、よく鍛えこまれた鋼の刃であったが、今度嘲笑したのはニゴリの、笑声だけで心弱い者なら狂気の淵に引きこまれそう。   ―――そんな小針で、なんとする―――   ―――そんな下らぬ光り物などで、どうやって我らを刺すつもりだ―――   ―――ずらずらと数ばかり揃え、女中めらにも持たせたようだが―――   ―――馬鹿馬鹿しい―――   「確かに、いかに鋭い刃物であっても、  影を斬ることなど、  できはしないのでしょうが」 「それでは、こうしたならいかがです……」  臆した様子など毛ほども見せず、短刀を己の二の腕をあてがうと、躊躇いもなく。  ―――裂いた。  流れだした血潮を刃紋に吸わせてから、令嬢がニゴリへ短刀を突き刺した動作に、一切の澱みも動揺もなし、〈何万遍〉《なんまんべん》も繰り返して、細胞の一粒一粒が覚えこんでいない事には為しえない、水銀が流れるような、断ち斬る様で、令嬢が心の中でこの瞬間をどれだけ繰り返してきたことか、思うだけでも気が遠くなろう。  切っ先は手応えもなくニゴリの影なる肉に沈みこんで、空いた一拍の間の、不気味なまでの空々しさよ。  この間、誰も声をあげるものも物音を立てる者もなく、静寂を破ったのは、波動じみた声なき悲鳴だった。   ―――!!!??????―――    ニゴリの苦鳴だった。  苦鳴は回廊に拡散し、あの巨大だった影の塊は、いやあっけないのなんの、一気にばらけ、水中に零れ、沈んでいく、解れていく、溶けていく。 「この血、  私の血、  あなた方から受け継いだ、同じ血潮」 「同じ血に浸された刃は、  痛うございましょう?」  底知れぬ不気味と異様をまとい、数々の邪な〈謀事〉《はかりごと》を巡らせつつも、実にこのニゴリ達は温かな血と肉の生き物に直接触れることはできず、また逆に、生者が彼らを損なうことはできない。  それが実のところ、旅籠における摂理であり、為に〈彼奴等〉《きやつら》、令嬢にもその生まれ落ちた際に流された羊水と血をたっぷり吸った胎内洞でしか、触れることは適《かな》わぬ。あの哀れな娘の骸を〈傀儡〉《あやつり》にしたやり口だって、死体にしか取りつけないと言うことの裏返し。  つまり令嬢は、彼女を闇の中さんざん弄び、凌辱し続けてきた仕掛けを、ニゴリのしてきた事を逆手に取ったのだ。  ただの刃物なら一筋も傷つけられずとも、同じ縁に連なる血潮に濡れた刃ならばニゴリの存在にまで届く―――これが令嬢の用意した策なのだった。  ニゴリどもを、〈追儺〉《ついな》するための。   ―――なんと。そんな―――   ―――不遜な。非道な―――   ―――ああ、あああ―――   ―――これは、痛み、か―――   ―――これが、苦しみか―――   ―――ああああああ―――   ―――我らが、そんな―――  水中に崩れ落ちたニゴリ達は、予想外の一撃に算を乱してばらけたまま、水路の各合流口まで逆送し、奥へ奥へと逃げ去ろうと、それまでの〈倨傲〉《きょごう》を見た者なら滑稽なほどの動揺の波動で流れを乱したが、なんの、これはどこまでも笑い事ではない。  ここですかさず令嬢は、回廊で待機しているお手伝いさん達に手信号で合図、たちまち彼女たちは遅滞ない動作で流れるように得物を構え、各方面に散っていき、逃げ去っていったニゴリの破片達を追い立てていく姿、日頃は穏当な彼女をして、と目を疑いたくなるほどの勇壮の、これは味方ならば心強いが、今や狩り立てられる側となったニゴリには、いかばかりの脅威となったことか。  鈴も再び打ち鳴らされ、琵琶法師もまた謡い出す。ただし今度の謡は、死霊達を〈慰撫〉《いぶ》し楽しませる為のものとは真逆の、妄執に惑い悪霊と化した亡魂を諫《いさ》め、黄泉路へと送り返すために編まれたものだった。  このようにして追跡劇は、ニゴリ達を苛むような法師の謡と鈴の響き以外は、全て無言で旅籠のあちこちで展開されることになる。ニゴリ相手に迂闊に声を立てると、『言葉を盗まれる』と言い伝えられている故に。  さて―――お手伝いさん達が散開し、がらんとした吹き抜け広間の舞台では、一人残った令嬢が、ニゴリを美事退けて、それで誇るでもない、毅然とした顔で首尾を見守っている……と見えたが。  その体が揺らいだ、と見るや、枯れ木のようにくずおれて。 「……っう……あ……あ」  倒れる寸前で、令嬢は懸命にこらえ、けして見せまいと、今だニゴリの気配が嗅ぎ取れる〈場処〉《ばしょ》では、なんとしても己の弱さなど晒してなるものかとの気力だけで、踏みとどまった。 「あんた……大丈夫?  顔色、白いよ」  ぽかんと見上げた法師が、言わずもがなの声を掛けたのにも、作り笑いで平気を装う。  しかし顔はやつれの翳りが、隠しようもなく色濃い。ああして一歩も退かず、ニゴリ達と対峙するのは、やはり彼女を深く消耗させていたに相違あるまい。  否、それだけではあるまいてや。  お手伝いさん達が携えていった得物には全て、ニゴリどもに対する為の処置が講じられてあり、すなわち、令嬢が短刀にしたのと同様の、彼女の血潮を僅かずつ滴らせてあったのだ。  たとえ一つ一つは微細な量であっても、あれだけの数の武器全てに行き渡らせるために、令嬢は一体どれだけの血を失ったことか。  令嬢がよろめいたその段になって、物見高い見物客達がようやくあちこちから顔を出す。物陰に潜んで邪魔にならないようにして、この一幕の一部始終を見物していたと見える。  だが彼らの誰も疲れきった令嬢に手を貸そうとする者はない。と言うより、一体なにが起こっているのかよく呑みこめないでいるのだろう。  それに、令嬢はそんな風になってなおどこかしら犯しがたく近づきづらく、おいそれと触れていいものかどうか危ぶまれるのだ。  結局、二人ばかりのお手伝いさんが、令嬢を助けるため進み出るが、彼女はそれを敢えて拒んだ。  令嬢は、倒れそうになった体を自ら鞭撃つように支え、高みの回廊を見上げていた。  つい今しがた目にした者に、自分の無様を見せまいとしたのか―――  一瞬、を引き留めようとするかの如く天へと諸手を差し延べる。  しかし彼女は想いを振り切るようにその腕を引き戻し、軽く手を振った。  さようなら、と別れを告げる挨拶として。  令嬢の視線の先には、高みの、いまや時ならぬ水路と変じた廻廊を滑りゆく小舟、運ばれていく、築宮の姿。  それを見届けて、令嬢は今度こそ喪神した。琵琶法師が慌ててそんな彼女を抱き起こすも、令嬢の腕は法師の袂から、力なく垂れてぐたり、と。  もともとは廊下であった水路を進む渡し守の小舟。本来の廊下の高さと、水面に沈みこんでいる〈喫水〉《ふなあし》の深さとがどうしても釣り合っていない気もするが、築宮はさしあたってそのあたりの事は深く考えないようにしている。  そんな細かい事などよりも、築宮は小舟が吹き抜けの多層回廊に差しかかった時から、階下の情景から目が離せなくなっていたのだ。  渡し守に頼んで小舟を回廊の〈手摺〉《てす》りの際まで寄せてもらい、船縁から危なかしく身を乗り出し、食い入るように視線を注いでいるのは、令嬢とニゴリの対峙の情景だ。  ―――なお現在水路と化したこの回廊にも、ニゴリを狩り立てるためのお手伝いさんが配置されていたのだが、渡し守が水を呼んだ時に流され損ない、みな腰まで沈んでいる。〈手摺〉《てす》りにしがみついて小舟に注いでいる視線が、微妙に怨みがましかったり。  広間の底部を満たす水路になだれこんで一つとなり、脅かすように膨れあがったニゴリと裏腹に、令嬢は〈孤影蕭然〉《こえいしょうぜん》として、ただでさえ小柄な身体が更に、哀しいくらいに小さく見える。  築宮は息を呑んで思わず〈手摺〉《てす》りにしがみついた途端、小舟はたちまちぐらつき、青年を放り出しそうになるところを、渡し守が櫂を操って揺れを抑える、巧みの手さばきだが口では小言の、船頭ならでは。 「ああもう旦那、危のうございますがな」  迫らぬ調子で〈悠揚〉《ゆうよう》と窘《たしな》める渡し守に、築宮は噛みつくように問いかける。 「ありゃ一体なにをしているんです!?  なんだって彼女が、あのニゴリなんかと対決してるんだ!?」  眼下の様子に釘付けで、このままでは築宮はたやすく舟から転げ落ちるだろうと、渡し守は溜め息一つ、小舟の速度を緩める。 「なにを……って、 『ニゴリ祓いの祭』だそうで」 「お手伝いさん達や手が空いてるの、  総出で駆りだして、  あの黒いモヤモヤを退治するって話でさ」 「だから旦那が、これまで誰にも見とがめられなかったんじゃないですか」  渡し守の言うとおり、ここまで小舟を進めてくる間、旅籠の中は妙に人気が薄くて、いつもはどこかしらに見え隠れしているお手伝いさんの姿も見えなかった。 「……なんだって、いきなりそんなことを始めたんだ、彼女は……」  自分が蔵に封じこめられている間、時間の感覚はあやふやではあったが、令嬢の訪れは日毎夜毎だったと思う。  令嬢しか蔵を出入りする者はなく、食餌も彼女まかせではあったが、築宮は飢えを覚えたことはない。それくらい〈頻繁〉《ひんぱん》に顔を付き合わせていた筈だが、令嬢はそのような事を企てていたなぞ、〈寸毫〉《すんごう》も匂わせた事はなかった。  今でも強烈に体に染みついているのは、二人で絡み合っていた毒の蜜のような甘い肌触りばかりだが、令嬢はそれ以外の時は、何くれとなく築宮に話しかけていたように思う。  なのにこんな『祭』など、これっぽっちも聞いた覚えはない。 「いきなりなんかじゃ、ないのよ」  急に舟が、自分がしがみついている方とは反対の船縁の側に傾いで、築宮はたまらず手をついた、その目の前に濡れて凄艶な貌。  ぎょっとする築宮の前で、小舟を揺るがせながら船縁から這い上がってきたのは、図書室の鬼女だという、あの司書だった。  ブラウスやタイトスカートから盛大にこぼれ落ちる雫を搾《しぼ》ろうともせず、眼鏡ばかりをかけ直すと、ざっと濡れ髪を後に払う。  零れ飛び散る細かな〈水飛沫〉《みずしぶき》で、体の輪郭なりに貴石を砕いて撒き散らしたような、築宮はこの突然かつ鮮やかな出現に度肝を抜かれ、言葉の接ぎ穂を見失う。 「……どうにも妙な客もあったもんですよ。  なんだってあんたも旦那も、ちゃんと船着き場から、乗りこんでこないかねぇ」 「にしたって珍しい。  女史が本棚の部屋から出てくるなんざ」 「まぁ、ね。  たまに出てくれば、  ろくな目に遭わないわ。  廊下で濡れ鼠になるなんて」  口調は穏やかだし、渡し守は許しもなく乗りこんできた司書を咎めるでもなく、向こうもずぶ濡れになった事を気にした風はない、二人の間に行き交うような敵意はない……一見のところは。  だと言うのに、間に挟まれた形の築宮が、非常な居心地の悪さを感じているのは、どうしてだろう……。  アクの強い女二人の磁場の前では、築宮が如き若造など抗すべきもないという事で、どうしてこの旅籠にはこんなおっかない女ばかりが揃っているのだ―――とにかく、この司書も、渡し守が廊下を水路にするべく水を流した際に、たまさか居合わせて巻きこまれた口らしい。  ただしそれはつまるところ築宮が渡し守に頼んだところから始まった事であり、それを追求されるとどんな〈薮蛇〉《やぶへび》を突つき出されるやら知れたものではないので、咳払いして司書の注意を引いて、問いかけた。 「あの……さっき貴女は、 『いきなりなんかじゃない』と言ったが、  それはどういう……?」 「ああ、その事。  あのお嬢様はね、ここしばらくの間、  ずっとこの準備にかかりきりだった、  ていう事」  準備というのは、言うまでもなく『ニゴリ祓いの祭』のそれなのだろうが、してみると令嬢は、青年の前で口にこそせなんだものの、かねてから計画していたと言うことなのだろう。  築宮は、ニゴリと令嬢が結託している……とまでは考えてはいなかったが、二者の間にそこまでの対立があろうとは―――いや、待てと考えを改める。  隠し蔵の望遠鏡にて垣間見した過去が真実ならば、少なくとも令嬢の方にはニゴリを滅し去りたいという存念、憎悪、ありとあらゆる怒りと怨みを抱いてもおかしくはなかろう。  それがこの時期に、〈顕在化〉《けんざいか》したと言う事なのか?  司書は、築宮のそんな思案を〈余所〉《よそ》に言葉を続けていく。 「『耳無し芳市』は、亡霊に毎晩呼び出されたじゃない。その琵琶の音が、亡者の気を惹いたおかげで」 「『そんな風に、亡者を興がらせて気を惹くような曲に、心当たりはないですか』って、訊ねてきたのよねあの娘」 「始めはお嬢様、法師をあたったみたい。  そういう楽曲の事なら、  彼女が本職なのだし」 「けれども法師もご存じない、とかで。  図書室の資料の中になら、手がかりがあるかもしれないって、考えたみたい」  そんな風にして、図書室に日参して司書にも手伝ってもらって資料をあたり、これはと思うものを見つけだしたとなると、今度はその曲を覚えてもらう為に法師の許へと逆戻り。  それでおしまいというわけではなく、今お手伝いさん達が構えている武器の調達と祭の手順の仕込みもあって、この何日かの彼女の活動振りは、腰を落ち着ける間もないくらい、異様なくらいだったそうだ。  築宮はそれを聞いて奇妙なほど心が乱れるのを感じていた。自分を監禁している間、令嬢はいったい何故そんなに奔走していたのだ? おそらく彼女は、ほとんど休息も取らずに図書室や旅籠の各所とそして蔵を往復していたのに違いない。  ただ監禁するのなら、食事だけ運びこんで、後は捨ておいてもよかったはずだ。  それに、どうやらニゴリはこれまでもしばしば旅籠に出現していたと聞く。今までは特に対策もとらずに放置していたそれを、何故こんな急に断固とした処置に及んだのだ?  ただでさえ築宮の頭の中一杯に疑問符が広がっているところへ、司書はまた、更なる謎かけをしでかしてきたからもう、青年の心は揺れに揺れ、嵐に放りこまれた軽木の船の如し。 「まあこれで、彼女も一安心、といったところでしょうね」 「貴方を、ようやく無事に、  送り出せるのだから」  無事に? 送り出せる? 誰が、誰を?  わからないことだらけ、謎がここまで重なるともうお手上げで、築宮は考える努力を放棄したくなった。  青年のうつけ顔に埒《らち》があかないと思ったのか、司書は眉根に小首を傾げると、渡し守に問い質した。 「なにがなんだかわかっていない、  って顔だわ、彼。  どういう事?」 「どういう事と申されましてもね。  旦那は、あの人に閉じこめられてたと、  そう思いこんでるんでさ」 「閉じこめられていた? 誰が? 誰に?」 「旦那はね、お嬢さんにずっと蔵に閉じこめられていて、謂われのない虐待を受けていたと、そうおっしゃっておられる」 「……違うんですか? 今のはどうにも誤解を生みそうな表現ではあるにしても……」  ……どうやら、築宮の認識と現実の間に、大いなる〈齟齬〉《そご》が生じているようだった。  司書は目前の築宮と、眼下の令嬢を交互に眺めやってから、はあ、と肩を下げた。 「貴方が〈朴念仁〉《ぼくねんじん》なのか、  お嬢様が口下手なのか」 「外野がこういうのを教えるのって、とっても野暮よ。  でも、なにかひどい勘違い、しているようだから、話してあげるわね」 「お嬢様は、そりゃあ貴方を蔵の中においていたようだけれど、監禁したかったわけじゃあなくって」 「保護―――だったっていうこと」 「保護って、彼女が、俺を……?  なんの冗談だ、それは……」  がくん、と築宮の体が揺らいだ。  予想外の答えが脇腹にまで響いて、完全に脱力していた。 「旦那はどうやらニゴリから目をつけられていた……って聞きます」 「お嬢さんは、アイツらから旦那を護るために、もう必死だったわけでさ」 「あの蔵は、 『閉じこめた人以外は開けられない』  ってのが、お約束ですからね」 「旅籠のあっちこっちに、  好き放題忍びこむニゴリだって、  あの蔵にゃあ、ちょっかい掛けられませんもの」  保護―――? あれが? あんな頑丈そうな蔵に押しこめておいて? と感情はいまだ納得しかねると文句を垂れているのだが、この新しい観点を理性は少しずつ受け入れ始めていた。確かに単なる監禁と言いきるには、自分の待遇は破格だった。美食と美酒、遊戯にそして夜伽まで、言葉だけ並べればこれはお大尽の〈遊郭遊び〉《くるわもうで》と変わらない。 「でも、そんな……だいたい俺は、鎖まで打たれていたんだ。  それで保護なんて言われても―――!」 「だってそうでもせんことにゃ、  どこにふらふら行っちまうか、  知れたもんじゃないのが旦那だ。  あんたは糸が切れた凧ですかって」 「う……っ」  否定しきれず口ごもった青年は、助け船を求めるように渡し守に司書にと視線を左右させたが生憎、二人はいずれとも眼差しを冷ややかにしたままの。 「たとい無理に旦那が逃げだしたところで、  あいつらはどういう事をしでかすか、  知れたもんじゃあありませんよ」 「おまけに旦那は旦那で、  また誑かされやすいとくる」 「あの娘も、  気が気じゃいられなかったんでしょうよ」 「それならそれで、どうして、初めからそうだと言ってくれなかったのかあの人は!?」  おっかない女の二人して、両方からちくちく責められて、築宮はついに圧迫感にたまりかねて叫んだことである。だがそんな〈癇癪〉《かんしゃく》の暴発など〈痛痒〉《つうよう》も感ぜずさらりと流して、司書はしれっと、それでいて的確に築宮の急所を突いた。 「それで、たとえお嬢様からそう聞かされたとして、  貴方はその言葉を信じてあげられた?」  ―――胸に、錐《きり》で穴を穿《うが》たれた、と思った。 「あの人ね、  私のところで書物と向き合っている間、  別に貴方のこと、  ぺらぺらと話したのはなかったけれど」 「それでもわかってしまうものなのね。  誰かのことを、とってもとっても気にしているのは……それも、殿方の事よ」 「あの娘がそうやって気にするような殿方なんて、貴方くらいしかいない」 「だから、こんなにむきになってまで、  ニゴリをどうこうしようとしているのは、  彼の為なのかと、うっかり訊ねてしまったのだけれど」 「なにも答えなかったっけ……。  隠さずともいいでしょうにと思ったわ。  でもあの娘は―――」 「『自分は、あの人に嫌われていますから』  って。  そう言ったきり、後はなにも言わなくて」  胸に穿《うが》たれた穴が、きりきりと痛みを擦りこまれて広がっていく。言葉もなかった。反論の余地もなく、築宮は令嬢のことをはなから自分を害するものとして決めつけていたのだから。彼女は旅人の自由に嫉妬するあまり、自分を閉じこめているのだと、それ以外には考えられなかったのだから。  後悔が、たまらなかった。そのやり方がいささか極端に走りすぎるきらいはあったけれど、令嬢は最初から最後まで、築宮の為を想って行動していたのだ。旅人を迎え、その為になにかをしてあげることが好きなのだ、という彼女の言葉に偽りはなかったのだ。蛍の間での、屋根の上の隠れ家での、令嬢の言葉が脳裏に蘇る。彼女の言葉には、最初から最後まで、築宮が邪推したような偽りなど欠片《かけら》もなかった。  旅する自由に焦がれた娘は、それがかなわないと知ってなお、その想いを邪に歪めて嫉妬する事もなく、ただ旅人に尽くしたいと願ったのみだったのだ。  ニゴリを討とうとしたのだって、それは私怨も手伝ったかも知れないけれど、奴らが青年にその妄執に穢《けが》れた手を伸ばそうとしたというのが、最大の理由なのだろう。  そんな哀しい娘に、自分はどれくらい残酷な言葉をぶつけて、どれだけ酷い眼差しを向けたのか。どうやって詫びればいい、それ以前に詫びる事さえも許されないのではないか。  自分がしでかしたことに空恐ろしくなり、眼下の令嬢の姿を眺めているのが、辛い。  しかしこの今目を逸らしてはいけない事くらいは、どれだけ迂闊な築宮であってもわかっていた。  いましも令嬢は、〈恫喝〉《どうかつ》にたじろぎもせず、短刀の一刺しを影なるニゴリに落としたところ。儀式の一環なのか、己の肌を裂いて血潮を流してみせたのを目にした時に、築宮は項に冷水を垂らされたような恐ろしさに加え、我が事のように刃物の痛みを味わったという。 「ああ、始まったようですな。  ……しかしあれじゃあ、いけません」 「そうねえ」  ニゴリの心をひしぐような不気味な巨体は、令嬢の一閃にして一転、あっけなく崩れて散り散りとなり、お手伝いさん達に追い立てられていくというのに、渡し守と司書は心得顔で駄目出しをする。上から眺めている分には、どう見ても『ニゴリ』は敗走しているとしか見えないのに、なにがいけないというのか? 「いけないって……見たところ、ニゴリ達はあっさり退散していったようなんですが」  築宮が納得いかぬげな貌をすると、司書は特に〈勿体〉《もったい》もつけず説明しようとしたが、渡し守に視線を投げ、心を替えめ仕草の、軽く肩をすくめた。 「……やめた。  やっぱり、舟の上では船頭に任せるわ」 「〈蘊蓄〉《うんちく》垂れが、そこであたしにふりますかい……ま、よござんしょ」 「早い話が旦那、  あれじゃあニゴリをやっつけるのは、  できないって話ですよ」 「だから、どうしてなんです。  俺には奴らが泡を食って逃げ惑っていくようにしか見えないんだが……って、うわ!」  築宮は水路の向こうを見て悲鳴を漏らす。  どこを辿ってきたものやら、ニゴリがこの水路まで逃げ延びてきたのだ。ニゴリの背後には、横列を組んだお手伝いさんたちが、腰まで水に浸かって追い立てている。  彼女たちは彼女たちで、獲物の切っ先を水に濡らさないように(令嬢の血潮が洗い流されてしまうから)立ち泳ぎで大変らしい。狩り立てられるニゴリが小舟のそばまで来ると、築宮に気づいたのか触腕を未練がましくもたげかけたが――― 「かっ、こっちぃ……くんなっ」 「見苦しい……。  寄ってくるんじゃ、ないわ」  渡し守と司書に歯を剥いて〈威嚇〉《いかく》され、みじめたらしく泳ぎ去っていった。ニゴリならずとも築宮にも、この時の女二人はなまじの妖《あやかし》より恐ろしげに映った。 「はん、なんだい、意気地のない。  ともかく、追い立てられてるように見えたって、いったん退却してるだけですわ、  こんななぁ、ね」 「だいたいあのニゴリの正体ってな、  もうご存じの通り死人の妄念です」 「死人の妄念てヤツは、  骨に宿るもんでして。  ってのは、いつか話しましたっけか?」  ああそう言えば、と築宮は思い出す。  何時かの日、桟橋で太公望を気取っていた渡し守、釣り上げた獲物というのが〈髑髏〉《どくろ》だったが、その際そんな事を言っていたような。 「どっかにあのニゴリの本体というのか……そんな骨が転がっているんでしょうな。  ニゴリは、その骨に宿った妄執なんです」 「とにかく、その骨をどうにかせん事にゃ、  あんな影なんて……、  またいくらでも湧いてきますわい」 「ならそのたんびに、  こうして『祓えば』いい、と思われるかも知れませんが」  築宮、渡し守の話を途中から耳だけで聴くようになっていた。ふと視線をまた下に向けたとき、令嬢がゆらりとよろめくのが見えたのだ。ぎょっと身を乗り出すと、こちらの気配に気がついたのか、令嬢は築宮を見上げてきたのだ。  築宮には見苦しい姿を見せまいと、ふらつく足元を意志の力で支えるようにして。  ―――視線が、通い合う。  蔵に閉じこめられていた時には、あれほど畏れていた相手だったのに、今こみあげてくるのは〈愛惜〉《あいせき》の想いだ。  ―――手が、差し延べられる。令嬢から。  遙か下から伸ばされた手には、届きようもないのに、築宮の手も、握りしめてやりたいとわななく。  そして伸ばされた手は、途中でさようならの形に変わり、ゆっくり振られて―――令嬢は、糸が切れた操り人形のようにぱさりと倒れた。  琵琶法師が抱き上げたものの、ぐったりと生気がない。 「こんなの、何回も続けてれば、あの人ァ死んじまいますって」  不穏というにもほどがある言葉で、いっそ笑い飛ばして聴かなかった事にしたかったのに、眼下の光景が真実を裏づけていた。  築宮、なかば恐慌状態に陥って、渡し守の肩を掴んで「あれ、あれ!」と見苦しく令嬢を指差すばかり。 「……ニゴリって言うのは、肉を持たない影みたいなモノだから、刃物なんかで刺しても斬ってもたいして意味がない」 「なのにお嬢様が用意した得物が、  やつらを狩り立てられる、  その理由というのは―――」 「彼女の血潮をね、  その刃に垂らしてあるからなのよ」 「ニゴリと同じ血脈に連なる、  彼女の血潮なら、その縁《えにし》で彼らを損なう事もできるから……」 「いったいあの人は、  どれだけの血を、失っているのかしらね」  司書も彼女としては珍しく、声の端に苦々しさを滲ませた。  物哀しげにそう結び、舟の上には〈索漠〉《さくばく》とした沈黙が降りる。築宮は倒れ伏した令嬢にただ呆然と視線を送っていると、小舟が大きく揺らいだ。 「よっこいせぇ、っと!」  場違いですらある気合い一声、渡し守は碇《いかり》を引きあげてずるずる繰り込む。長話になりそうなのを見越して、会話の谷間に降ろしていたらしい。 「ともあれ、これで旦那にちょっかい掛けようってニゴリも、しばらくは大人しくしているでしょうよ……さ、行きますかね」  行くってどこへ、と渡し守がなにを言い出したのか、頭に鬆《す》が入ったようになってしまっていてよくわからない。  どんよりと澱《よど》んだ視線を向けると、彼女は櫂を取り直したところだった。 「なにを今さら言ってるんだか……。  旦那、向こう岸まで渡してくれって頼んだなァ、あんたでしょうが」 「途中、妙な足留めをくらっちまいましたが、そろそろ行くとしましょうよ」  ……行くというのか、自分は。  あの令嬢を置いて? ただ自分のために我が身を損ねてまで、尽くしてくれた彼女を置いて? せめて一言なりと別れを告げるべきなのではないか?  いや―――今ここで彼女と顔を合わせてしまえば、どれだけ堅く心に決めていたとしても、旅立ちの決意は脆く崩れ去る。  間違いない。それだけはわかる。  だから、行くと決めたならば、もうなにも言わずにこの旅籠を去るべきなのだろう。それに別れならば、先程済ませたではないか。令嬢は、さようならと最後に手を振っていたではないか。  築宮の心の中で、二つの想いがせめぎあう。 select  やはりというべきなのか―――  築宮はその日旅籠を発つという結末を、選び取りはしなかった。  渡し守に何度も頭を下げて、小舟から降ろしてもらったのである。築宮には、どうしても令嬢の事に目をつぶって旅籠を離れるなどはできそうになかったのだ。  小舟を下りる時、呼びつけるだけ呼びつけ、そして好き勝手に振り回してしまった勝手を平謝りし、この礼は必ずするから、自分にできる事ならなんでもするからと渡し守に約束した。  渡し守はそんな築宮を、特に咎めだてすることもなく、思春期の悩みに右往左往する少年を眺めるような眼差しで眺めていたけれど、築宮の約束には、 「ふふん……?  なら期待させてもらいましょう。  楽しみにしておりますよ、旦那」  となにやら意味ありげな目配せを残し、彼の鼻先を軽くつついたのが、からかう、ではなく優しくて、いずこかへ漕ぎ去っていった。  小舟から飛び降りた築宮が吹き抜けの間の舞台へと駆けつけた時には、令嬢は既に担ぎ出されていった後。  ニゴリをあらかた駆逐し終えて待機しているお手伝いさんをつかまえて訊ねると、令嬢はとりあえず座敷に運ばれていったとの由。  築宮、息つく暇もあらばこそ、踵を返して今度は彼女の座敷へと走る。  令嬢の座敷へ駆けつける途中、水路にかかる板橋の上で佇《たたず》んでいた琵琶法師と出会う。  築宮の姿が見える前にも駆け足の音で、ずいぶん遠くから聴き分けていたようだ。  駆けつけてきた築宮へ向き直ると、痛ましげに目を伏せ哀しみの陰を濃くし、黙って首を振った。  それを見て、築宮は最悪の予感が的中してしまったかと〈愕然〉《がくぜん》となり、こらえきれず膝をついてしまう、獣のような〈慟哭〉《どうこく》が喉を突きあげて――― 「だめ。静かにしていないと、だめ。  あの子の体に響くよう」  それは死者の永遠の憩《いこ》いを、こんな聞き苦しい叫びで乱してはいけないとは知っているが、それでも抑えきれそうになく……いや、今法師はなんと言ったと、築宮は呆けたように顔を上げた。 「さっきようやく、  おふとんに入ったばかりなんだから」  目の前が昏《くら》い帳《とばり》で閉ざされかかっていた青年へ、琵琶法師が囁き声、まるで離れたここからでも、令嬢の耳にはやかましく響くと気遣うような。  命を落としたというにしては、微妙に温度差がある口ぶりで、築宮は鼻水を啜《すす》りあげながらきょとんと眼差しを法師に据える。 「その……『ようやくおふとんに入ったばかり』というのは?」 「大変だったんだ。  あの子、あんなにふらふらなのにさ、  まだお仕事するって言いはって」 「それをよっく言い聞かせて。  いいから、今日はもうお仕事は無しにすることって、よくよく言い聞かせて」 「それでやっと横になってもらったんだ。  ……大変だったよう」  心底苦労したように法師は首を振り、そして築宮は、呆れ果てていたという。 「この上まだ仕事をしようってのか!?  仕事仕事と、それで死んでしまって、  なんの花実が咲くのやら……って」  ほとほと呆れ果て、そこで築宮は自分もがなにやら錯乱した事を口走っていると知った。 「待てよ、すると彼女は―――  まだ、生きて、いる?」  うんと無邪気にこっくり頷いた、琵琶法師の胸ぐらを掴んで、君よりまだ魚の方が話が通じやすい、水の中で話の仕方を教えてもらってこいとそばの水路に叩き落としてやりたくなるという、築宮にしては支離滅裂かつ暴力的な衝動をどうにかやり過ごしたものの、がっくりと脱力してぺたんと尻を落としてしまう。  膝ががくがくと笑っていた。そんな自分を不思議そうに覗きこむ法師に、苦笑できるくらいの心の余裕をようやく取り戻す。 「焦らせないでくれ……。  俺は彼女が助からなかったのかと……。  でもよかった……本当によかった……」 「あんまり、よくないよ。  あの子、ほんとに具合、悪いんだから」 「倒れるところを見てたから、  それはわかってる」 「ああ、だからお見舞いに来たんだね」 「…………なんで俺がこんなに焦って走ってきたと思ってたんだ君は……」  ……この法師は極めて善良であるものの、どうにも話の間合いがずれていることを痛感させられる。立ち上がり、令嬢の座敷へと向かおうとした築宮の袖を、法師が引っぱった。 「お見舞いに行くンなら、あの子に言い聞かせてあげて。  そんなに怒ってばかりいると、体によくないですよって」 「怒ってばかり……なのか、彼女は」  うん、と頷く法師は、令嬢の座敷を困ったように眺めた。 「あの子は、人には決して見せないけれど、 『〈瞋恚〉《しんい》』で動いている人だよう」  〈瞋恚〉《しんい》というのは、怒りのむつかしい言い方だからねと断りをおいてから、法師は続ける。 「でも怒りっぽいとか、いつも誰かを怒っているとか、そういうのとは違うの」 「あんたやあたしが、なにかを好きだとか、  大切にしようって思うことで、いろんなことをするみたいに」 「あの子は、怒ることを、  なにかをするための力にしてるんだ」 「そんなのは、体によくないよって、教えてあげて……ね?」  法師からそんな話を聞かされるとは予想だにしていなかった築宮は、意外そうに彼女を眺めたが、言われてみれば確かに心当たりがあった。  令嬢が時折見せる、あの巨大な内圧、怒りの炎。法師はそれこそが令嬢の原動力なのだと言いたいのだろう。  〈瞋恚〉《しんい》を行動原理とする娘なのだ、と。  法師は築宮に手を貸して立ち上がらせると、きゅ、と軽く彼を抱きしめた。親愛の表現なのだろうが、この手のスキンシップには気後れを覚えるたちの築宮なのに、法師がこういう触れ方をしてくるのには抵抗がない。  人間の行為にどうしたってつきまとうある種の生臭さから、どこか超越しているのが法師なのだ。ぽんぽんと軽く築宮の肩を叩いて、 「息切れ、落ち着いたらあの子のお見舞いに行ってあげて」 「あたしは自分とこに戻るから。  たくさんおいしい物でも食べて、  早く元気になって欲しいね」 「そんじゃ、さいなら」  あとはするりと身を離して、琵琶を抱え上げて温室へと立ち去る法師の、背中で琵琶の〈襤褸〉《ぼろ》包みがのんびり揺れている。彼女の〈恬淡〉《てんたん》とした振る舞いに、築宮がほっとしたもの癒されたものを感じていたのは事実で(最初は肝を潰されたが)、去りゆく背中に一つ頭を下げると、気を取り直して令嬢の座敷の仕切戸に、手をかけた。  音を立てないよう、畳表へ慎重に足を忍ばせ、令嬢の枕もとに膝をつき、覗きこんだ彼女のかんばせは、哀しいほど白くてやつれていて、築宮はまたも落涙しそうになった。凛として美しいとはいえ重く堅苦しい振袖から衣服を替えてはいたといえ、それで彼女の重荷が減ずるわけでもない。  と、彼女は顔に落ちた影の重さを感じたでもあるまいに、ゆっくりと瞼を上げて、 「……どうかしら?  何日かぶりの、外の空気のお味は?」  第一声がこれである。素っ気なさで台詞の始めから最後までを通した。  築宮としては、一体なにをどんな言葉を掛けていいものだか、いざ彼女を目の前にして余計に判らなくなっていたところだったので、向こうから口火を切ってくれたのは、有り難いと言えば言えるのだが。 「どうやって抜け出したものか、存じませんし、それは今さらとがめる気もないけれど」 「わざわざ戻ってきたんなら、  また『仕舞って』しまうわ―――」  半身を起こしながら、続けた言葉がこれである。けれど、下手な〈愁嘆場〉《しゅうたんば》を繰り広げられるより、この脅し文句の方が実に築宮の胸を深く深くえぐった。痛みではなく嬉しさで抉られたのである。  恨み言をぶつけられてもいい、もとより暖かな言葉で迎えられることを期待するなどは、厚顔無恥に過ぎると心得ていた。  築宮が一番に恐れたのは、もちろん令嬢の顔に白布が掛けられていて枕もとには線香台という情景だったが、彼女が生きていたとしても、今までのことはまるでなかった事にされ、客あしらいのいい旅籠の女主人に戻ってしまっている、という想像にもたじろいでいたのである。  それは、築宮に対して再び仮面を着け、近づきがたい障壁を巡らせたことを意味しているのだから。  そしてそうされても仕方がないと覚悟を決めていたのだ。どれだけ冷たくされても構わない、それでもただ一目会って礼を、詫びの言葉を言えたなら、後はどんな態度で迎えられたってそれは仕方がないとまで思いつめていた築宮である。  だというのに、令嬢はまだ脅し文句を吐くくらいには、自分に対して感情を残してくれているのだろう。  遠ざけよう恐れられようと、彼女に思わせるくらいには、まだ自分は……。 「すまなかった……」 「君が俺を……その……『ニゴリ』から遠ざけて、護ってくれようとしていたなんて、考えつきもしなかったから」 「ひどい事を言ったと思います。  だから、すまなかった……」  ひたすらに心を籠めて頭を下げる築宮に、令嬢の眼差しに宿っていたどこか挑発的な色が、戸惑いに揺れ、薄れていく。  大の男がこうして素直に詫びる様は、令嬢には意外なものに映ったようだった。 「ニゴリどもが言っていた、あなたが『一族の血を遺すために』俺をこの宿に縛りつけておこうとしている、なんて戯れ言を真に受けちまって……」 「考えてみればそんなのは、ひどい自意識過剰だ。君が……その……俺を、伴侶にしようとしているなんて」 「勘違いにしたって、おこがましい……」  言葉にすれば余計に〈慚愧〉《ざんき》の念をかきたてられて、築宮はもうまともに令嬢と視線を合わせていることも情けなくて、俯いてしまう。 「まあ、それを願ったモノがあった、というのは事実なので、あながちあなたの勘違いとも、言えないのですけどね……」  は? と築宮は顔を上げた。令嬢は困ったような、物思わしげな翳りを口元に溜めて、築宮を見つめていた。 「それこそ、ニゴリ達の企みだったのですから」 「……奴らが、なにを企んだと?」 「あなたを私の良人にして、この旅籠に血を遺そうと目論んだのは、私ではなくニゴリの方だった、と言うこと、よ」 「妄念だわ、死人達の」 「誑かす、と言う字は、 『言葉で狂わす』と書きます。  あなたはまんまとニゴリの言葉に惑わされた、ということ」 「でも、もう大丈夫……ご覧になっていましたね?  ニゴリは退治しました」 「あなたがあれに悩まされる事は、  もうないから」 「だから、もうあなたは、  この宿を発っていいのよ。  〈恙無〉《つつがな》く、出発してくださいね―――」  令嬢はもう己の務めを果たしたと言わんばかりに、大儀そうに、けれど満足げに、再び体を床に横たえた。しかしけれど、と築宮は考える。この人は、思い違い、早とちりをしている。司書は図書室に通ってくる令嬢に、それを教えてやる機会がなかったのだろうか。  築宮はしばし〈逡巡〉《しゅんじゅん》した。令嬢が事は済んだと思いこんでいるのなら、ここは敢えて真実を告げずに下がるというのも、彼女の為なのではないか。  築宮へ身を起こした時の彼女の、背筋は綺麗に伸びていたけれど、こうして横たわる様を凝視すれば、消耗しているのは否めない。そんな令嬢に事実を伝えるのは、酷なことなのではないか。  だが、今自分が黙っていたとしても、いずれ令嬢も気づくだろう。だとしたら、今黙っているのは思い遣りなどではなく、自分の〈怯懦〉《きょうだ》でしかないのではないか。  令嬢の、押し黙る築宮を不審そうに見上げる、疲労の極にありながらも澄んだ眼差しが、この男は今さらなにをぐずぐずしているのだ、と責めているような気がしてならないのは、築宮の負い目の故だろう。  どうせ黙っていても居心地が悪いのであれば、ぶちまけた方がいい。後悔するのは、言うべき事を言ってからでいい。 「それが、まだなんだそうです」  今度は、令嬢が〈怪訝〉《けげん》な顔をする番だった。 「君がとったような手段では、あのニゴリを完全に退治することはできないらしい」 「な……!?  なんて……今、なんと……?」 「渡し守や鬼女が言うには、あのはっきりしない影みたいなのを退散させても、その妄念の宿った遺骨をどうにかしない事には、すぐにまた湧いて出てくる、と……」 「そんな―――」  令嬢が絶句したのは、僅かな間だった。〈瞑目〉《めいもく》して深呼吸、次に双眼見開いた時には、築宮をたじろがせるあの〈瞋恚〉《しんい》で、底光りしていた。  起きあがり、お手伝いさんを呼び出そうとしたのに築宮仰天して、慌てて令嬢の肩に手を置いて押しとどめた。 「なにをなさいます」 「なにをもなにも、安静にしていないと駄目だろう!?」 「休息なら、これで十分。  駆除が不完全だったなら、  完遂させないといけない……違って?」 「そんなのは、誰か他の……お手伝いさんにでもやらせておけばいい」  駆除、といえば短い二文字だけれど、白蟻や〈油虫〉《ゴキブリ》だって完全に追い払うのは困難事の、ましてやあの底知れぬ悪意宿した亡霊達を相手にしては。 「とにかく君は、どう見たって立って走り回っていいような体じゃない」 「ですから、まずはお手伝いさん達に頼むんです。ニゴリが宿っているっていう、遺骨の有り場所の捜索を。  そこから始めないといけない」 「時間がどれだけかかるか判らないのなら、  今すぐにでも手をつけておかないといけませんもの」  それはどういうことなのだと話の腰を折る築宮の手を、焦れたように肩から外しながら、 「遺骨が納められているのは代々の墓所なのでしょうが、それがどこにあるのか……。  長いこと明らかになっていません」 「いや……そんな、だって君たちは、  代々あの胎内洞から遺骨を流しやってたはず……」 「流して、それからどこに辿り着くのか、そこまでは定かじゃないわ―――って、  どうして貴方があすこの事をご存じなのですか」  それは説明するとなると、蔵の中の望遠鏡がと、話が要領を得ないだろうし長くなるのは判りきっている、だから濁して、築宮は考える。  葬送の場は胎内洞だとして、墓所は明らかになっていない?  いや、そんなことはないだろうと心のどこかが囁く。  代々の墓所は、あそこに作った筈だ……と、心の水面に浮き上がってきた想いが、ついするりと、ほとんど自動的に舌を動かした。 「旅籠の墓所なら、地図にだって書いてあったはずで―――」 「私が持つあの地図にも、  その位置は記されていないのよ」 「そんなことはないだろう?  たしか地図の―――」  これこれこの辺りに書きこまれてた筈だがと、口にしてしまった途端に二人の間の空気が透明な樹脂のように凝結した。  令嬢の沈黙は当然、今まで不明とされていた場所がこともなげに明らかにされてしまった驚き故に。  築宮のそれは、心中に浮上して言葉が一体どの記憶に由来するのか、口にしておきながら自分でもわからない故に。 「待って。待って、築宮様。  いまなんて……言ったの?」 「待って、待ってくれ俺。  なんで俺は、それを知っている―――?」 「いや―――だってあそこは、そんなところはおっかないからって上貼りして―――せっかく書いてもらったんだけど―――書いて、もらった? 誰に―――」 「―――誰に書いてもらったって―――?」 「地図は―――俺と―――誰が作った?」  記憶の混乱の直中に投げこまれたのがあまりに突然で、築宮は頭を抱え〈呻吟〉《しんぎん》したという。  浮かび上がった墓所の在処は、それ以外の他のどの記憶も呼び覚まさず、築宮をただ混乱させるだけ。  髪をかきむしる築宮の前に令嬢は膝でにじり寄り、視線を合わせる。彼の手を取って胸の上におし包んだのが、その〈懊悩〉《おうのう》を労るように見えた―――のは、勘違いだったようだ。 「ここで〈詮議〉《せんぎ》だてしていたって、  なにも始まりません。  心当たりがあるというのなら、  行って確かめたほうが、早いわね」 「……行くって、どこへ、なにしに?」 「決まってるでしょう、  地図で確かめに、よ」  ……この令嬢は、その見た目と裏腹に足回りがやたら軽いのだと、築宮はなかば呆れつつもぞっとした。  彼女はなんと言った?  地図を確かめに、だ。  その地図が置かれているのはどこだ?  令嬢の隠れ家だ。  そしてそれが位置しているのは、この木造多層建築の最上階よりも、更に上なる屋根の上、つまりはこの座敷から遠く隔たった、体調が万全の人間にも侮りがたい距離がある。  冗談だろう? と救いを求めるように令嬢を見つめた、築宮の口元が引きつっていたのにも無理はない。  令嬢も見つめ返す。  冗談事などなに一つもありませんと。議論の余地など一切ない、妥協と躊躇を許さぬ真っ直ぐな、そして苛烈な眼差しで。  たす、と令嬢が突き立てた短刀の下で、悶えながらばらけ、消散していく影の塊は、ニゴリ以外の何物でもない。  お手伝いさん達があらかた駆逐したといっても逃れたモノがあったようで、屋根の上まで駆けのぼる道中、物陰に蟠《わだかま》っているニゴリを見つけるなり、令嬢は駆け寄っていったのが撃ち放たれた矢の如く、短刀一閃にも容赦がない。  胸を押さえて呼吸を整えたがそれも僅かな間で、すぐさま歩き出そうとする令嬢に、声を掛けずにはいられなかった。いい加減無駄とは知りつつも。 「その……もう少し、ゆっくり行ってもいいのじゃないか?」 「お断りします」  にべもなくはねつけられて、築宮は苦い想いで大またに、彼女に〈追随〉《ついずい》した。  とてもではないが、血を大量に失ったはずの娘の行動力とは思えない。築宮がどれだけ言葉を尽くして体力を回復させてからと説得しても、聞き入れる令嬢ではなかった。  琵琶法師も言っていたように、滋養のある物をしっかり摂って安静にしていなければならないところを、令嬢は葡萄酒を一杯煽《あお》っただけで出発したのだ。 「……色が似ているからと言って、あれでは血の養いにはなりもしないと思うんだが」 「ああ、そうでもないですよ」 「たしかにあれ、古いお酒で、それを〈抜栓〉《ばっせん》して、間を空けずに呑んだから、香りもなにも、開いてはいなかったけれど」 「なにも口にしないでいるよりは、  ずっといい」 「お酒は体を暖めてくれます。  あれくらいなら、酔いもしないし、かえって走る力になる」 「そういう事を、言ってるんじゃない……!」  酒の〈蘊蓄〉《うんちく》などに力を無駄使いしていられた状況かと、たまりかねて令嬢の前に回りこみ、行く手を塞ぐように立ちはだかる。 「もう少し、自愛して欲しいと言っている。  一体なにが、君をそこまでさせるんだ!?」 「そんなこと、  もういい加減お判りなんじゃなくって?」  脇をすり抜け、先を急ごうとする令嬢の手首を掴めば、振り解こうとする、それを青年がさらに強く抑える。  令嬢が足元さばいてかわそうと、青年が立ちはだかって塞ごうと、無骨なの華奢なの脚と脚、体と体が入り乱れる、目まぐるしく。 「離してと、言っているのよっ」 「いいから落ち着け!」 「私は落ち着いている、自分がなにをしようとしているのかわかっている!」 「わかっているというのなら、なにをそんなに焦る!?」  言葉が炎を宿した剣尖じみてお互いを突き合い、一歩も引かず、口では通じないと築宮青年が令嬢の暴れる腕ごと抱きすくめようとした、その上腕に。 「う―――痛ぅぅ!?」  強く、強く強く圧迫されたと思った、その圧力が尖って肌を破って食いこんできたのに、始めはただきつさを感じただけ、一拍遅れて襲いかかったこれは、痛みなのだと認識した途端に、青年は反射的に身を捻って突き飛ばした、令嬢の体は薄い、脆そうな、そんな風に手荒にしてはいけないと知りつつも、それほどまでに―――  痛みはひどかった。熱かった。たちまち心臓の鼓動と繋がって、ずくんずくんと熱く重く脈打ち始めた。 「んぐぅぅ〜〜ッッ!?」  突き飛ばしたのは彼なのに、苦鳴するのは青年の、揉み合いの中に袖がまくれあがった、彼の二の腕に、半円の傷。弧に連なって穿たれた傷痕から細く血の朱が肌に流れる。  そして令嬢の口元にも移った血潮。唇の紅が血の朱を噛んで、一瞬青年は彼女が血を吐いたかと危ぶんだのだが、そうではないとすぐに腕の痛みが強く教えた、たじろがせた。  強《したた》かに歯を立て。  きりきりと噛みしめ。  肌を肉を食い破り。  ―――令嬢は、青年の腕に食らいついたのだ。彼の戒めを解こうとして、〈膂力〉《りょりょく》では及ばぬと見ると、白水晶の歯を血に染め、噛みついたのだ。 「はぁ……はぁー……」 「言ったのに―――! 離してって言った、私、でもあなたが、なのにあなたはっ」  声のうちに炎がたばしって、眼差しの中に烈火がかぎろって、彼女の細く壊れ物のような輪郭を、内側から弾けさせてしまうのではと恐ろしくなるほどの激烈な怒りが膨れあがり、そして令嬢は。 「ああ……あぁぁ……」  己の感情なのに、その圧力を扱いかねたように言葉にならない呻《うめ》き声、息遣いもそろそろと、強く吐いただけでも破裂しそうだといわんばかりそっとそっと息を押し出して、胸の中の巨大な爆弾を懸命になだめるように、己をかき抱いた。  歯を立て、力任せに噛みついてきたのだと、築宮の中に相手を思いきり殴り倒したくなるほどのどす黒い怒りが膨れ上がったが、そんなものは令嬢の〈業怒〉《ごうど》に比べれば恒星の前の蝋燭に等しい。  己の胸を抱いて、俯《うつむ》いて、ぶるぶると震えるその細い肩に築宮の怒りなどたちどころに薄らいで、まず感じたのは苦痛だった。噛み傷の痛みなどよりも、令嬢の姿の方が彼にとってはなによりも痛かった、辛かった、切なかった、だから。 「いけない―――」  腕が伸びた。つい先程は突き飛ばす形に伸びた腕が、今度は翻《ひるがえ》って、抱き寄せるために差し延べられて、令嬢の体を引き寄せる。 「―――ぅっ」  白刃を叩きつけるような火花を眼差しに散らし、築宮を睨み返し、激しく首を打ち振る、髪が黒の漆を流したように乱れる。  けれど築宮は僅かに身を震わせたものの、今度は怒りも恐れもなくそのまま抱いた。  構わない。噛みつかれるどころか、目に爪を立てられたとて、〈肺腑〉《はいふ》を彼女の短刀で抉られたとて構うものかと、己を捨てる心で令嬢をただ抱きしめて、築宮は、ついにこらえきれずに、涙した、はらはらと。 「熱いな……」  今さらまでもなく、令嬢の肉の薄さと骨の細さは知っていて、それでも築宮にこらえきれず涙させたのは、彼女の体の熱さだった。  服を通してさえ、肌が灼けそうなほどだった。身裡に渦巻く内圧で、令嬢の体は彼女自身を焦がし、損ないかねないほどに熱っせられていたのだった。  それが築宮には、たまらなかった。 「こんなになるまで―――怒りなのか? 君を燃やして、灰にしてしまいそうなくらいのこれは、怒りなのか?」 「ふぅ……はぁ……あ……」  築宮の涙など、溶岩に零れた数滴の水よりも、彼女の熱を冷ますには無力だったろう。それでも令嬢は、始めは身もがきしていたものの、築宮が離してくれないと悟ると、どうにか、辛うじて呼吸を鎮めていく。  ……その息だって、溶鉱炉から流れてきたように熱かったけれど。  やがて、とん、と青年の胸元に掌を置いて遠ざけようとする、もう大丈夫、落ち着いたとの無言の仕草だったけれど、青年はそれでも離さなかった。離したら、瞬時に令嬢が、切れるフィラメントの輝きを残して消失してしまいそうで恐ろしかった。  それで令嬢は、諦めたように腕を垂らす。 「……ええ」  腕の中で頷いた、その声音にやや理性が戻っていたのに築宮はようやく少しだけ安堵できたという。 「私ね、怒っているんです。  本当に、怒っているのよ―――」 「私はねぇ、怒ってるんです。  私を産み落とした、この古ぼけた血筋に。  私を縛りつけて当然とうそぶく、この古いしがらみに」 「どれだけ私が、怒っているのか―――」  ……天人界には、常に芳香が満ちているという。住まう天人達は、怒りや哀しみ、愁いといった負の感情とは無縁で、〈三昧〉《ざんまい》の心の位、〈領解〉《りょうげ》の境地にあるという。  ところが青年の腕の中の令嬢は、天の者を想わせる薫りをまとい、それでいて彼らとは程遠い怒りを漲《みなぎ》らせ、なのに築宮が旅籠のあちこちの〈欄間〉《らんま》や彫り物細工にこれまで認めた、どの天女よりも、美しく思える、不思議の存在だった。  その〈厖大〉《ぼうだい》な怒り故に、令嬢は気高く美しかったのである。 「貴方にその怒りの丈が、ひとかけでも伝わったならきっと」 「貴方はきっと、燃やされて、灰になってしまうことでしょう……」  言い過ぎ、とは思えない。  令嬢が裡に秘めた〈業怒〉《ごうど》は、それくらい高温・高圧のものであることは、築宮にも薄々感じ取れていた。 「ニゴリがやったことは、  私にとってけして許せるものじゃない」 「自分に流れる血筋が、どれだけ腹立たしいものであっても、それはまだ我慢できる」 「あのニゴリなんぞのたわごとなんて、鼻で笑うことだってできる―――でもね」  みしり、と軋む、令嬢の体の中から軋む、それは重く巨大で鈍い、言葉にするだけで呪詛となりかねない、感情の圧力だ。 「許せないのは、ニゴリどもがあなたに、あなた達旅籠のお客に、その汚らしい手を出したこと」 「ねえ、どうして許せるって思います?  私にとっては、ここにやってくるお客さまより、大切なものはない」 「……私はこの通り、ここより他にはいきどころなど無い身の上だわ。  それでも、構わなかった」 「旅籠に旅してきて、そして旅立つお客さまをお迎えして、見送ることができるのなら、私にはそれが幸せだった―――」 「それは、あのニゴリなんてこれっぽっちも関係ない、私だけの望みで、そして幸せだったのよ」  ……いつかこの娘は言っていたではないか。自分はここより他に在らぬ身の上、旅する人人が羨ましいと。だからこそ、旅人たちのためにこの旅籠を守り、続けていくことが彼女にとっての望みで幸福なのだと。  築宮の心にも、令嬢の怒りの意味が少しずつしみこんでいく。 「なのにあいつらは。あの汚らわしい影は。妄執の塊は。あなたに、大切な大切なお客さまに手を出して」 「……あなたが初めてじゃ、ないんです」 「ニゴリが、お客さまに悪さを仕掛けたのは。今までそれは、幾度かあって、でも今回のあなたみたいに大事にはならないですんだ……」 「でも、大事にならずにすんだからって、それがなんの救いになると言うの!」 「これ以上見過ごしにしていたら、  きっと私は悔しさのあまり、  狂い死んでしまうに違いない」 「狂い死ぬって……そんな、極端な」  やはり、法師の言っていたように、この娘は怒りを原動力にして生きているのだ。  その〈瞋恚〉《しんい》の炎を鎮めることなど、所詮できない相談なのだろう。それは彼女の生命と等しいのだから。  令嬢が見せる、〈瞋恚〉《しんい》の熱に耐えかねたように築宮、瞼を細くする。うっかりすると巻き添えを喰らって火傷しかねない、それでもこの腕、離してはならない。  そんな青年に、胸の中で令嬢が浮かべてみせたのは、自嘲の笑み。 「でも―――私は、この怒りが、憎しみが、怨みがあるから生きてこられたんです」 「消えてしまいそうになる心を、怒りの炎で動かし、憎しみの甘さで奮い立たせ、切ないほどの怨みを支えとして、生きてきた……」 「私には、そういうやり方しか、できなかったから」 「いつの日か、あのニゴリどもに、私の怒りを憎しみを、刃にして突き立ててやれる日が来ることを、それだけを信じて―――」  築宮にとって、そんな令嬢はたまらなく恐ろしく、そして哀しい。  哀《かな》しくて、愛《かな》しい。  怒りや憎しみを行動原理とするものは、得るものより失うもののほうが多い。  良い悪いではなく、要はその得られるものに、多くのものを失う価値があるかどうか、なのだという。彼女が己の怒りのままに生き急いだ果てに、一体なにが得られるというのか。それでも、怒りなくしては彼女は生きていかれまい。  良いも悪いもなく、そう納得するしかないのだと知って、築宮もいい加減に肝が据わった。ほとんど実際の熱さえ感じさせるような令嬢の眼差しに、築宮もまた挑むように頷き返し、彼女の前に背中を向けて腰を落とす。  築宮がどういうつもりなのか、にわかに判じかねているらしい令嬢に、呼びかけた。 「おぶって行くって言ってるんだ。  君は道を教えてくれればそれでいい」 「どうせ俺がなにを言ったところで、  おさまる君じゃないだろう」 「でも俺だって、  君がこれ以上命を削っていくのを見過ごしにするのは、厭なんだ」  だから早くと促《うなが》したのに、令嬢はさすがにそれはと尻込みしたが、築宮としても今さらそんな遠慮などはそれこそ時間の無駄と思えたから強く急き立てた。これ以上まごつくようなら、有無を言わせず小脇に抱えていくと息巻いて、強引に令嬢を背中に押し上げる。  もしかするとこれで、令嬢が内に抱える怒りという重荷を分かち合うことになるか、踏み出す足は床にめりこむかと心構えしたが。  ……やっぱり、哀しいくらい、彼女は軽かったのである。  令嬢の隠れ家の扉を抜けた時には、既に日は落ち四囲は影に輪郭を溶けこませていた。  かつて青年がこの屋を見出した時の、屋根裏からの脱出行とは異なり、令嬢が知る道筋は当然歩きやすくはあったが、それでも彼女を降ろした時には築宮の心臓は悲鳴を上げている。彼とて令嬢を一方的に諫《いさ》められるほど、健康第一を心がけた生活を送ってきたわけではない。だいたいにしてそれまで暗い蔵の中で、結果的には美食を貪り荒淫に耽っていたのと同じなのだ。  けれど疲れた顔をあからさまにするのも不甲斐ないと築宮は、背から下ろした令嬢に気取られぬよう務めて息づかいを押さえる。それでも令嬢はぴしりと一言。 「〈莫迦〉《ばか》です、あなたは」  溜め息をこれみよがし、だが〈手巾〉《ハンケチ》で築宮の額の汗を拭う手に、言葉と裏腹な細やかな情が窺えるのも、また彼女の一つの真なる側面である。  ……青年が背なに運ぶといって、始め彼女はそれは頑迷に拒んだものである。けれど古地図の一件を持ち出され、行を一緒にしなければ、そして背に負われていかなければこれ以上は古地図のことはなにも喋らないと、築宮がこちらも頑強に言い張ったためにさすがの〈一刻〉《いっこく》な娘も渋々と折れた。  背に負われて運ばれる、令嬢は体を硬くしてくつろぐことはなかったけれど、それでも少しは頭も冷えたものと見える……あくまで少しばかりは、だが。  彼女の隠れ家の窓を開け放てば、緩く入りこむ夜気が、令嬢と築宮がそれぞれに張り合う意地など知らぬげに柔《やわ》く優しかったけれど、それでも二人の身裡の熱を冷やすには力が足らず。  令嬢が怒りに燃える心で地図を調べに来たなら、築宮の方は築宮で疑問が満杯で、頭は過熱気味だったから。  卓の上はあの日以来変わった様子はなく、二人で顔を突き合わせるようにして、令嬢が引っぱり出してきた〈角燈〉《ランタン》の灯りを頼りに地図を覗きこめば―――  築宮の心臓が、階段を駆けのぼってきたのは異なる昂奮で〈早鐘〉《はやがね》の如く乱打されていく。 「これは、やっぱり俺の字だ……」  最初に目にした時は、しかと確認するどころではなかったため、半信半疑の気持ちを残していたが、こうして熟視すれば地図の書きこみの多くが築宮の手になる物だった―――ただ、残りの、女の子のものと思しき筆跡については、こうして真剣に眺めても、やはり思い出せない。  記憶がそこだけ意図的にひどく厳重に封鎖されているかのようだ。  これこそ自分の過去の扉の鍵と、必死で記憶を探る築宮だったが、 「ああ……やっぱりそうなんですね?」  という令嬢の嘆息で我に返った。  こういう忘れてしまった記憶というのは、むきになればなるだけ逃げていくもの。どれだけ悩乱し焦慮したところで、きっとふさわしい時機にふさわしい刺激を得ない事には蘇ることのない記憶なのだと、後ろ髪を苦しく振り切る。  それにしても令嬢の口ぶりは、この地図を書いたのが築宮であることを既に知っているようではなかったか。 「あなたが宿帳に書きこんだ字を見た時から、気になっていたの」 「あなたの筆跡に、どこかで覚えがあるような気がしました」 「でもそれがどこで目にしたのか、すぐには思い出せなくて。  抜き損ねた棘《とげ》のように、心に引っかかっていたのだけど」 「あの日、ここに来てぼんやり眺めているうちに、ああこれはあなたの字だ―――って」 「……でも、言い出せなかった。  だってこの地図があなたのものなら、  返さなくてはいけないから……」 「でも、やっぱりこれは、  あなたに返すべきもの。  お返しします―――」  ひどく思いつめた顔つきの、そんな申し出を受けたところで、築宮はむしろ面食らったという。  なるほど自分(と他の誰か一人)が書き上げた地図らしいが、だからといって今は返す返さないのやりとりしている場合でもなかろうというくらいの分別はある。 「いや……今はいいんだ、それについては。  今はそれよりも……俺たちがここになにをしに来たか、忘れてないか、君」  そうでした、と思い出したように顔を生真面目に引き締めたのが、かえって令嬢の本来の年頃らしい稚気を匂わせて、築宮はこんな時なのにそれを微笑ましいと感じたが、彼もすぐに場違いの感傷として振り払った。  さて、と令嬢はむつかしげに眉根に皺を寄せ、まず右上の端あたりから順繰りに確かめようと乗せた指は、大きな地図の上にあっていかにも頼りなかった。いちいち確かめると言っても地図は相当大きな代物で、卓一杯に広げられており、書きこみも無数だ。これを今から一からあたるというのは大いなる手間だろう。それでもやらなければと、令嬢が地図の上に滑らせ始めた指を、築宮が留めた。  ―――奇妙な、確信とも言うべき予感、むしろ〈天啓〉《てんけい》ともいうべき霊感が彼に降りていた。 「そういう風に細かく探していては、  どれだけ時間がかかるか知れない」 「でも、私はこの地図をずっと眺めてきましたし、これを頼りにここの中を色々と歩き回りました」 「だから、心当たりを、少しは絞れるかなって。もちろん、地図の中に記されていれば、なんですが……」  この旅籠しか知らない令嬢にとっては、この地図を頼りにあちこち遠征してみる事が、いわば彼女にとっての小旅行だったのだろう。  そうやって、旅へと焦がれる心を紛《まぎ》らわせてきたのだろうかと思えば物哀しかったが、今はその娘らしい切望に目を向けている時ではないと、繰り返し自分に言い聞かせ、築宮は地図にかぶせられていた〈硝子〉《ガラス》板をおもむろに取り外した。 「あの? なにを急に?」 「地図には、書きこまれてから『なかったことにされた』場所がいくつかあって―――」 「たとえば、『そんな場所はつまらない』とか、『他にも同じような場所がある』とか、そういう理由で―――」 「え―――?  それは、あなた―――いったい―――」  令嬢が、理解し難きものを目の当たりにしたように、眸を不安で曇らせる。  だが築宮は、語っているのは自分のはずなのに、喉がどこか別の異界に繋がって、そこから自分以外のモノが〈託宣〉《たくせん》じみた言葉をよこしているかのように、一種霊媒的な昂揚感に包まれ、彼女の問いかけは右から左に抜けていた。 「ここも、そんな場所だった。  俺はそこが怖くて、せっかく書いてもらったのに、後からこうして―――」  指先を動かしているのは、きっと今ここにある築宮ではない。指先が地図の一点に降りたのは、霊媒の自動書記とかお筆先などの類と同じだったのだ。二人の視線が、引き寄せられたその一点は、しかしなにも書きこまれていない空白地―――と失望したのは令嬢一人。  築宮は爪の先を地図の面に立てて、 「紙を上貼りして、隠したんだ」  二度・三度こそぐようにすると、小さな紙片が剥がれた。糊付けされていたと思しきが、歳月に劣化していて、接着面は損なわれずに綺麗に剥がれた。 「ほら、ここは俺の字じゃない。  でもこの字は、誰のか判らない、思い出せない」  築宮の遠く虚ろな声音が、令嬢の耳に届いていたか、どうか。彼女は鼻先を擦りつけるようにして、露わになった地名をひたすらに見つめていた。この夜この時までこの〈隠蔽〉《いんぺい》された書きこみが見いだされないでいたのは、まるで築宮の到来を地図自身が待ち受けていたかのようだった。  令嬢が、地名を読み上げる。 「『〈髑髏〉《どくろ》の〈内陣〉《ないじん》』――― 『旅籠の、死んだ守人たちの〈髑髏〉《どくろ》でできている』」 「『守人が亡くなるたびに、その〈髑髏〉《どくろ》が収められる』」  読み上げて令嬢は、困惑した表情で築宮に呟いた。 「地図のこの辺りは、これまで何度か通りかかったことがあります」 「でも、こんな場所なんて、  私、知りません。  見たことだってないのよ」 「だからそれは、行ってみるまでどうなっているか判らないって事なんだろうな……」  地図の空白部分が上貼りで、こんな書きこみが隠されていると知っていた―――というか、そこだけ記憶が蘇ったとしても、築宮は実際にそのあたりを歩いた事はない。  だから彼にも確実なことは言えないのだ。  築宮の台詞に、令嬢は悩ましげな視線を地図上に落としていたが、それも僅かな間。  額に流れてきた髪を払い、〈手櫛〉《てぐし》で整えると同時に、困惑も払い落とした。 「その通り、ですね。  行ってみないことには、なにも判らない」 「それでは行きます。  今から行きます」 「あなたは、休んでいても―――」  立ち上がった令嬢の様子を見るまでもなく、彼女の推進力は行きつくところに行きつくまでは止むことはないだろうと、築宮にだって判りきった事だった。彼女を背に負ってここまで来た段階で、とことんまで付き合うと心に決めている。  令嬢の台詞をみなまで言わせず、築宮はまた彼女の前に背を向けてしゃがみこんだ。二度目とあっては築宮がなにをするつもりなのか訊ねるまでもなかったが、だからといってそんなに甘えてはいられないと、令嬢は今度こそ断ろうとしたけれど。 「おんぶが厭だというのなら、姫抱きにしてでも抱えていくから。俺にだって、通したい我っていうのはある」  築宮もこうなると退かず、また座りこんだのが扉の前だから、令嬢も脇を抜けて行くわけにもいかぬ。 「……どいて下さい」 「どかないって言っている」  絵に描いたような、押し問答。 「どうしてあなたが、そこまで躍起になるんです……今日はもう、ここから発とうとしていたあなたが」 「それは―――」  青年は言い淀《よど》んだ。自分でもなぜこれほど、頑《かたく》なまでに、令嬢と行を共にしなければと思うのか。自分を陥《おとしい》れた『ニゴリ』への怨み? それは確かにある。  それもあるがしかし―――結局のところ答えは至ってシンプルに、令嬢のことが〈気懸〉《きが》かりなのだと、彼女から離れてしまうのが不安なのだと、築宮はようやく自分の中の気持ちの輪郭を定めた。 「……君のことが、心配だからだ」  なまじな同情や〈憐憫〉《れんびん》は、彼女の孤高の精神に傷をつけてしまいかねず、そうなった時自分がどれだけの〈激憤〉《げきふん》の嵐に晒されることになるのか、考えただけでも身が竦《すく》むようであったが、それでも青年は、冬の風へ真正面に窓を開けるように、胸のうちを明かした。 「心配……あなたが、私のことを?」  案の定、どことなく剣呑の気を呑んだ、〈怪訝〉《けげん》そうな声音が築宮の背にかかる。しゃがみこんで背中を向けていたからまだしもの、正面から相対していたなら、青年は怯《ひる》んでしまっていたかも知れない。  けれど、気配はすぐに和《やわ》らいだ。  それに戸惑ったような声音が続いた。 「私に、あれだけのことをされたのに?」 「だからそれは、俺の勘違いだったんだろう? ただ君だって良くない。言葉足らずだったと思う」 「いや……やっぱりああするしかなかったんだろうな。そして俺にはなにも告げずにいるしかなかったんだろう」 「とにかく、そのあたりのこと、みんな踏まえた上で、重ねて言う」 「俺は、君のことが心配だ。墓所に向かうつもりなのはわかる。けれどそれからなにをするつもりは知らず、だから心配なんだ」 「だから、君に一人では、行ってほしくはない。なにより君は、見た目よりずっと疲れているのだし……背負っていこうというのは、そんなにおかしい言い草じゃないと思う」 「…………変な、人ね。  あなたは本当に」 「他のお客さまが、私のこと、どう思っているのかご存じでしょうに……いいえ、誰かを責めるつもりなんて、ない」 「私はこの通り、無愛想で人当たりの悪い女です。それは自分でもわかってる」 「私に近づこうなんて人はいなかったけれど、でもそれはしかたないこと。  なのにあなたときたら……」 「俺が変な男かどうか、そんなのはどうでもいい」 「とにかく、ここで押し問答してたって始まらないだろう? 君がこれ以上ぐずぐず行って動かないようなら、無理矢理にでも……」  令嬢がひとたび怒りに身を任せれば、なにをしでかすか知れたものでないのは、今も腕に疼《うず》く噛み跡が告げている。今度は噛まれるに終わらず、短刀を手に突き立てられるかも知れない。それでも構うものかと、一向に動き出そうとしない令嬢に業を煮やして、立ち上がりかけた青年の肩に、ふわりと被さった、腕が軽くて、首に触れる〈衣擦〉《きぬず》れがなかったなら築宮は令嬢がついに折れたとはわからなかったろう。 「もう……わかりましたよ。私の、負けね」 「勝ち負けの話じゃないさ……」  背なに腕を回して、寄り添う体を確かめる、二度三度と軽く揺すって具合の良い位置に華奢な体を落ち着けて立ち上がると、羽を詰めた袋よりもまだ軽い。この隠れ家へ上がってきた時よりもずっと。  それで先ほどおぶっていた時は、令嬢が身を硬くして、不承不承運ばれるがままに任せていたのだと知れた。  今は彼女も、諦めたのか呆れたのか、築宮のやりよいように重心を預けているのがわかる。眠る体が担ぎづらいのは、芯がぐにゃぐにゃと定まらないからだが、身を硬くして重心を固めるのも同じに抱えにくい。  ただ背負う、それ一つでも相手と我の間の了解があるとないとでは大違いなのだと、築宮は背の重さをこの時むしろ愛おしく感じつつ、足を踏み出した。 「ふぅ……正直に言うとね、これ。あなたに運んでもらうのは、楽です」 「だったらもう少し早くだな……」 「私にだって、恥ずかしいって思う心はあるって言うこと」 「だってそうでしょう? もっとふっくらと、女の子らしい体ならまだ良い。あなただってその方が嬉しいでしょうしね」 「けれど私はこんなです。体を押しつけたって、柔らかいどころか骨が当たるだけでしょう。しがみついたって、肘やら膝やらごつごつするばかり」  と、青年の首に廻した腕を所在なげに、しっかりしがみついたものか身を遠ざけるようにした方が良いのか、力の入れ具合に迷う風情も、彼女の〈含羞〉《はにかみ》を表して、胸に迫る。 「こうしてくっつけば、それがあなたに厭でも知れてしまうから。だから恥ずかしいって言うのよ」 「お〈座布団〉《ざぶとん》でも背負った方が、まだましというもの……それともあなたは、骨と皮ばかりの体の方が好きとかいう、そういう変わった趣味が―――」 「ああもう、変にひねた物言いはよしてくれ。そうそう骨だの筋だのばかり言われると、木乃伊でも背負ったような心持ちになってくる」 「けれど君は、自分で言うほど木や石みたいなものじゃないよ。こうして負っていると、ちゃんと女の子の体だし、なにより暖かい」  むしろ怒りの焔を肌の底に沈めて熱いくらいに感じられるが、さすがにそれを口にするほど愚かでなかったし、なによりこうして体を触れ合わせているとわかる。  先に背負ったとき令嬢は、ほとんどむっつり無言で通したけれど、それでも彼女を下ろした築宮は、一抹の寂しさを覚えたもの。たとい令嬢は不機嫌であったにしても、人肌の重み温もり、触れ合う一時は、築宮の心に安らかな雨のようにしみいっていたのだ。 (だからなのか、俺がこんなに『おんぶ』にこだわったのは)  この心地よい重みをもう一度と欲したから? いやいやいや、それではあまりに身勝手に過ぎると、不謹慎な気持ちを押し殺そうとした築宮に、 「……気持良いんですね、おんぶって」 「私、子供の時も、こうしてもらう事なんて、滅多になかったから。まるで初めてみたい」 「君だったら、そんなに重たくない。むしろ軽々として……いつだって担ぐよ……」 「あら、いいんですか。たといお追従でも、その気になりますよ」 「いつまでも、こうして背負ってもらいたくなりますよ?」 「今は軽くたって、そのうち重荷になるかも知れない。下ろしてしまいたくなったって、もう私の方が、降りるの、厭って言うようになるのかも―――」 「それでも、いいんですか?」  言葉には、なにやら言外の深遠な意味がこめられているような気がして築宮は、いささか畏いものを感じないでもなかったが。  それでも、ああ、と頷いた。  この古き血の娘を背に負うという行為が、どうやら多分に象徴的な意味合いを帯びてきていて、その重さに不安にならないでもなかったけれど、それを考えても、今彼女を降ろしてしまうなどいう真似は臆病に過ぎる。  彼女を背負って歩む、歩み続ける。その意味を考える築宮、へ、囁きかける声が、秘やかで濃密な気配を帯びた。 「そういえば、憶えていらして?」 「なんのことです?」 「あの地図を見せるのは、  私の旦那様になる人にだけ、  って言ったことを」 「な……っ!?」 「その人は、きっとあのニゴリなんかに押しつけられる人じゃない。私が自分でそうと願う、その人以外にはまたとない、誰か」 「でも、あなたは、地図を見てしまいましたねえ……」  柳の影から、奇妙な女に、一時で良いから頼むと赤子を背負わされ、それがどんどんと重さを増し、しまいには背の骨砕けんばかりに重くなる、或いは夜の道端で、急病に苦しむ老人と行き遭うて、親切心に追うてやれば痩せた身体にありえないほどの重量で、はっと正気づけば大石を担がされているという、いずれも妖怪、狐狸の手管だが、築宮はそんなお化け話の重荷と直面したよりも、大いに焦り、言葉を失った。 「……っ!?」  背なの令嬢が身をすり寄せてきたのは、心を許したからというよりも、彼女を背負うとの決意が一時の軽挙妄動に過ぎないのではないかと試してきたようにも思われ、築宮の、背中と言わず心の奥底までずんと響いたのは、ただ娘一人の重みでない、旅籠そのものがのしかかってきたかのように、さえ。  そこへ差して、令嬢の声もまた、心の隙間へそっと潜りこませるように秘やかなのが、かえってなんとも、意味深かった。 「―――築宮さま―――  旦那、さま―――」  どんな刃物よりも、男の心を刺し貫く、殺し文句というのがこれである。  築宮の足が止まり、前につんのめりそうになったのも責められまい。危うく令嬢が背から滑り落ちてしまいそうになるのを、気合いを丹田に落としてどうにか踏みとどまった。 「ふっふ……冗談ですよ。けれどやっぱりこれ以上、私をこうして運んでいくのは、無理なんじゃないかしら?」 「君がとんでもないことを言うからだ!」  令嬢は忍び笑いして、それ以上余計な口は叩かなかったけれど、築宮には彼女の今の台詞が、強引に我を通した自分への意趣返しだったのか、それとももっと深い意味があるのか、計りかねた事だった。  つい昨日、話を交わしたばかりの〈知己〉《ちかづき》の、着ていた服の模様はどうであったかと不意に問われ、正確に答えられる者というのは存外少ない。人間の「見る」という行為の頼りなさを示す話だが、その一方、使い慣れて乱雑に散らかした仕事机の、インキの瓶をほんの一寸ずらしただけでも耐えられない違和感を覚えたりもするのもまた、人の視覚だ。  あてにならないようでいて、当人が自覚する以上に目は視ている、とも言える。  そして今築宮青年の足取りは、ほんの一度か二度通りかかった覚えがあるに過ぎない通廊なのに、どうにも見すごしにしかねる不安定な感覚に鈍り、ついには止まってしまった。  背なに負うた令嬢も同じ不安に見舞われたことを、青年の肩をつかんでいた手を、きゅと握りしめた力が伝えていた。  降ろしてほしいと促す令嬢に、青年も今度は素直に腰を屈めて従ったのは、感じていたから、ここが目指していたその場処なのだと、強く直感していたから。  するりと地に足着けて、令嬢が覗きこんだ石の段、廊下の脇から地下へと下る階段を、築宮もまた同じく見下ろす。地図は先ほど道筋を確かめたばかりで、今更広げるまでもない。  おどろおどろしく蜘蛛の巣や封印の〈注連縄〉《しめなわ》、結界なんどが修飾していたわけではない、歳月にすり減り、凹《へこ》みがついていたけれどありふれた石段の、それこそが代々の墓所へと続く道なのだと、見交わし、頷き合ったけれど、それでも二人の顔は〈覚束〉《おぼつか》なげな、やはり築宮青年は、今一度地図を〈角燈〉《ランタン》の灯りに照らして、間違いのないことを確かめる。  間違いはない、ないけれども―――令嬢も脇から地図へ目を走らせ、次いでまだ石段へと向けた視線に、疑念がたゆたうよう。 「いまさらここまで来ておいて、半信半疑を口にするつもりはなかったけれど……」 「それでも、本当に……?」 「君の口じゃないが、俺だって、だ。  このあたりは、一度だけ迷いこんだことがある」 「あのほら、あそこの座敷の、色ガラスの雪見障子。あれがステンドグラスみたいで特徴的で、それで覚えている」 「けれどその時には、たしかにこんな、地下への階段はなかったんだ」 「もしあったら、物珍しさに降りていただろうし……」 「おっしゃることはよくわかります。  私だって、こんなのがあるなんて、  知らなかった……」  青年が指し示した、すぐ脇の色〈硝子〉《ガラス》嵌めこんだ雪見障子など、令嬢だって当然ご存じの調度であったろう。けれどそれを目にした時はこんな石段など無かった。青年一人がそうと主張するなら彼の過誤という事もあろうが、令嬢も然《しか》りという、二人の人間が然《しか》りとするのなら、単なる見過ちでは済まされまい。  それでも依然として、その石段は眼前に。  さながら二人は、そら、舞台劇で背景描いた〈幔幕〉《まんまく》使うが、同じ物を廊下に架け渡された心地して、青年などは確かめるようにその辺りの宙を手で薙いだほど。  が、令嬢はすぐにきっぱりと、疑いの曇りを顔から消して、引き結んだ唇に、信じられない現実を受け入れる心を示した。 「ともあれ……あったのなかったのの詮議立てなんて、今はいい」 「今たしかなのは、間違いなくそこにあるということ。あなたが地図の中から、見つけだしたのと同じに」 「きっと、あなたは。この旅籠の……この旅籠にとっての……」  悩ましげに、惑うように軽くすぼめた唇の、彼女さえ知らざる間隙を地図の中に見出し、また現実にも現した、築宮という存在が旅籠にとっていかなる意味を持つのか、ここの女主人である彼女ならばむべなるかなの問いへの答えは、むしろ青年こそが知りたい。  彼女の混乱が移ったように、築宮は二度・三度と足を踏み替えた。足元が硬く、夢とか幻覚などではない、確とした現実でできていることを確かめたくて。が、令嬢は、 「ううん、それこそ今言ったって、始まらないわよね―――」  直ぐさま迷いを打ち払い、ざっと髪も後ろに直して払い、青年へ呼びかけてから石段へ向き直った、小さな背中なのに、薄い肩なのに、なんときっぱりしていたことか。 「行きましょう、あなた」 (……あるいは女性というのは、どんなときだって男より現実的なのかも知れないな) (正直俺は、とても……えらく困惑している。俺が地図に見つけだしたから、それが現実に反映される……?) (これは、一体どういうからくりだ) 「築宮さま? 疲れたのなら、少し休んでからでも……」  いましも石段へ、始めの一足を降ろしかけたなのに、背後の気配が続かないのに振り返ったが、令嬢は明らかに焦れたご様子の、逸《はや》る心は築宮にも痛いくらいに察せられる。彼女の足を留めてまで自分の事を思い悩んでいる時ではないと、青年は迷いを心の隅へ追いやった。 「いや、なんてことはない、大丈夫だ。  ……行こう」  かくして二人は踏み出して一段、二段、硬い石段なのに、〈跫音〉《あしおと》は奮《ふる》わずくぐもって、二段・三段、築宮青年は途中で令嬢を追い抜いたのは、口には出さなかったが彼女が今やはっきり敵と憎むニゴリの〈陥穽〉《かんせい》がもし途中に仕掛けられていたらと恐れたためだが、地下への階段はなるほど不気味を潜めて静まり返っていたものの、段、段を降りる足取りは遮るものはなし。  下降は、ほとんど地軸へと降りるくらいの覚悟を決めていた二人にとっては物足りないほど短く終わったけれど、それでも地上への入口が見えなくなるくらいは続いていて、頼りとする灯りといっては〈角燈〉《カンテラ》くらいのもの、石段は夜闇よりも不健全な、なにか忌まわしい暗がりの中にどんづまりを迎える。  灯りの輪の中に照らし出されたるは―――  重厚は重厚であったが、いっそ簡素といっていいほどの、飾り気もない両開きの扉。  が、やはりこここそがと標識を着けるように、扉を照らし出した灯りの輪の中に浮かび上がったが、扉の持ち手―――髑髏で、飾られていた。  誰しも自分の頭の中にも一つ収まっているとは言え、闇の地の底でみればやはり異様の、髑髏をば令嬢は恐れもなにもなく、ただ憎しみの念で睨みつけ、数瞬、睨んでいる間も惜しいと持ち手へ手をかけたが、築宮は待てよかしと肩を押さえる。  なにもここに来て怖じ気づいたというのではない。扉や周囲へと〈角燈〉《カンテラ》の灯りを投げるうち、扉の両脇へ据えつけられていた松明を見出していたからである。  〈角燈〉《カンテラ》の油は、令嬢が隠れ家に用意の分を用心深く持ち出して、青年のベルトに下げていたけれど、灯りが多い分に越したことはない。  火の消えた松明へ手を伸ばして、やや築宮が躊躇ったのは、手に取ったその松明、扉を髑髏が飾っているのと同じ式で、長い、持ちごたえのする、人の脛《すね》の骨あたりで作ってあったからなのだが、それでも嫌悪を噛み殺して火を点す。  慣れぬ手つきで火を移す築宮に、令嬢も手を出したのがいかにも待ちかねたような、用心にしくはないと知りつつも、彼女の心は体を突き破って先へ飛び出してしまいそうなほど、待ち望んでいたのである。  ニゴリどもの根拠地へ踏みこむことを。  ……灯りの具えも増やし、ようやく、やっとだと令嬢は髑髏の持ち手へ飛びついて、うん、と力んだのに築宮も慌てて加勢した、二人分の力、は、充分以上で、重いは重かったが扉は鍵も軋みもなく裡《うち》へと開かれて、二人は。  見るより先に、鼻で吸った。  歳月の中に溜まり、毒の障気寸前にまで濃密に濁った、死臭、だった。  う、と詰まった呻きで令嬢は〈手巾〉《ハンケチ》を鼻先に宛おうとした、その手がぴたりと止まり、忌々しさの限りを籠めて投げ捨てる。  まるで、相手と対峙する前から臭いなどに怯えてしまった自分を、叱責するように床に〈手巾〉《ハンケチ》を打ち捨てた力、苛立ちを籠めて強い。  そんな仕草の一々にまで募り積もった令嬢の憎悪にいくらかたじろいだ築宮の目に、内部の場景が迫った。投げ捨てられた令嬢の〈手巾〉《ハンケチ》が、さながら闇を撃ち散らしたとでも言うかのように―――息を、呑んだ。 「不気味、だな、これは」 「ここは……旅籠の中を色々と見てきて、それでもこんなところは、他にない」  視界に飛びこんできた物、まずは一つの髑髏。次に視界が捉えた物、更なる髑髏。そして視界を埋めつくした物、沢山の、〈厖大〉《ぼうだい》の、など言う形容では控え目なほどの髑髏、髑髏、一面の髑髏、壁は髑髏に構成されていた、柱も髑髏を連ねてあった、壁に穿たれた龕《がん》もまた髑髏で埋めつくされていた。  総体としては〈古刹〉《こさつ》の厳《おごそ》かな内陣を思わせる造りなのに、構成要素が全て髑髏、人骨で成り立っているとなると、厳《おごそ》かどころではない、ただただ、忌まわしい、陰惨な、〈汚穢〉《おわい》の万魔殿、これが。  旅籠の守人達代々の墓所、『髑髏の内陣』、なのだった。 「ええ、たしかに、陰鬱で、暗くて、澱んでいて……ここが、私の一族の、本当の奥津城だなんて……」  彼女が足跡を置いてきた、旅籠の多くの場処の中には奇怪な場処など幾らもあったろうに、その令嬢でさえ忌まわしそうに鼻梁に皺を寄せる。  〈欧羅巴〉《ヨーロッパ》や南米の教会の中には、こういう髑髏の〈地下墓所〉《カタコムベ》を蔵しているところもあるにはある。しかしそちらは、どこか乾いた印象さえ漂わせているのに、『髑髏の内陣』は見ているだけでも脳髄が毒気に犯されそうなほどの忌まわしさを放っていた。  多分それは、この場の髑髏一つ一つが、ただの生命無き人骨などではなく、ニゴリという妄執の塊の核なのだからであろう。 「なんで、こんなものを遺したの  それもこうやって、人目に触れないようにして」 「営々とこの旅籠を営んできたこと。  数えきれないお客さまを迎え、そして見送ってきたこと。  それは私たちの誇りだった」 「それだけを誇りにしていればよかった。  なのにどうしてこんな、妄執の証のように骨を遺すの……」 「過ぎし日の想い出は、ただ人の心にあればいい」 「人の心の中で、受け継がれるものは受け継がれる」 「消えていくものは、消えていけばいい。消えてしまうのなら、それだけのものでしかなかったって言うこと」 「こんな墓所がなくたって、私たちの一族の証は、この旅籠として在るというのに」  ……築宮、令嬢をがむしゃらに抱きしめ、己の胸で彼女の目を塞いでしまいたくなったくらいの痛切で哀切な嘆きは、目には涙こそ無かったものの、青年には彼女が怒りを裡に秘めた人生の中で、涙も流さずに〈慟哭〉《どうこく》する術を覚えてしまったとしか思えなかったのだ。  それでも令嬢は、目を逸らしもせず傲然と髑髏の群を見据えていたのは〈天晴〉《あっぱ》れで、だから彼も敬意を表して、抱かずに堪《こら》える。 「……君たちの家系を貶《おとし》めるつもりじゃないが、これはたしかに……怖い」 「あの人が、怖いから隠してしまおうって言ったのも、今ならばわかる」  青年の心の水面に再び蘇るあの面影。しかしまたすぐに記憶の網目をすり抜けて、それ以上は思い出せない。  そんな青年へ令嬢はなにか物問いたげな視線を投げたが、空気に野火の匂いを嗅ぎとった生き物のように、眉を潜めて四囲へ視線を凝らす。  と、声―――   ―――ではとうとうここまで――― ―――やってきたのだな―――    音の源は明らかにならず、空間それ自体が震動しているかのような、声。  〈殷々〉《いんいん》と湧いて、籠もって、聞く者の心を萎縮させ、無意識に後じさらせ、ここから追放してしまいかねないほどの声、を、令嬢も間違いなく耳にしているはずなのに。築宮は、信じられないものを見た心地した。  令嬢は笑っていたのだ。  鮮烈に、表情の端々から滴らせ―――歓喜を、怒りに満ちた歓喜を漲《みなぎ》らせ、艶やかに、嗤っていたのだ。  笑うというのはこれほど恐ろしい感情なのだと青年に思い知らせるような顔で、向かい合う。  ぶよぶよと、動く汚泥のように湧きだした影の影、妄念の成れの果てである濁って暗い群へ、怒りそれのみに形作られた笑みで、向かい合う。   ―――我らに刃を向けただけでは、飽きたらず――― ―――この、鬼子めが―――   「私を鬼子と、そう呼びましたね、ご先祖さま……ハッ」  生者を嘲り尽くすニゴリに令嬢は怯まず、返したのは妄念の邪笑など比較ものにならないほどの、白い歯を見せた笑み。闇などかき消してしまいそうな、白熱の怒りを物語る、皓《しろ》い歯、牙のような。 「呼びたければどうぞご存分に。かえって私には、お褒めの言葉みたいに心地よい」 「あなた達こそ、なんだというの!」  笑みを含んだ声から一転、乾いた樹を一気呵成に割り裂いてしまいそうな、弾けた怒りの声は昂然と高く冴えて苛烈に、青年は耳孔から血が流れるのではないかと危ぶまれる、それほどの。  聞いているだけの青年からしてそれほどの〈業怒〉《ごうど》は、令嬢自身の中ではどれほど猛々しく荒れ狂っていることか。  築宮が彼女の肩を抱きしめたのは、ニゴリの出現に怖れを抱いたからなどではないけして。抱きしめていなければ、令嬢が内側から裂けてしまうのではないかと不安を押さえきれなかった故に。  青年の懸念が腕から伝わったか、令嬢は、は、と一つ息を継いだものの、なおニゴリ達への糾弾は留まるところ知らず、長年の仇敵への〈瞋恚〉《しんい》を思うがままに解き放ち続ける。 「大人しく彼岸で眠っていればいいものを、うようよと迷い出て」 「人を誑かし、生きてる者の世界に口を出し、あれこれ狡っ辛いことばかり企んで……情けない」 「あなた達のようなモノを、未練がましいと言うのよ」 ―――吾らを未練がましいなどと――― ―――責めるところが、まだ若いな――― ―――賢しら口を叩いたが――― ―――所詮は子供で、おなごの考え―――   ―――ここを今まで護ってきたのは――― ―――他ならぬ、吾らであり――― ―――また吾らなくしては、お前も――― ―――この世に生まれ落ちること、なかったと――― ―――これこそ子供でも知るところの――― ―――道理も知らず―――   ―――吾らを未練がましいなどと――― ―――〈烏滸〉《おこ》がましいにもほどがある―――   ―――そもそもお前とて――― ―――その身果つれば――― ―――吾らのもとに来たり――― ―――吾らと共に―――   「冗談じゃない―――!!」 「誰があなた達の仲間になど!」 「こんな妄執の髑髏を遺して、『ニゴリ』風情の仲間になるくらいなら」 「私の骸なんて、屋根に上げて鳥にでも晒したほうがどれだけましか」 「たしかに私は、あなた達の血に連なって、あなた達がいなければ産まれてくることもなかった」 「けれどそれが、なんだというの!」 「私のいのちは私のものだ」 「私だって死者を敬うことくらい知ってます。けれど死者への敬意は、本当は今を生きる人たちのためにあるもの」 「それを忘れた『ニゴリ』など、敬えるはずもない」 「死者は死者の世界に、生きる者は生きる者の世界に」 「こんな見易い道理を忘れて、なにが〈烏滸〉《おこ》がましいだの愚かだの」 「もう私は、あなた達を〈御親〉《みおや》などと思うものか」 「お前たちなど、こうだ―――!!」 「あ、おい……っ、くぅ……!?」  弾き飛ばされた、抱きしめていた筈の手が、瞬間の衝撃に千切れて四散したのではないかと築宮は仰天したが、腕は大事ない、確とつながっている、でもそれくらい、『ニゴリ』たちの呪詛めいた嘲笑に激昂遂に極まった令嬢の、青年の腕振り解いての突進の勢いたるや物凄い。  青年の身体はがくがくと、猛獣の一撃を受けて関節や骨格にぶれが生じてしまった犠牲者のように震え、握りしめていた松明も手から放たれ宙に舞った、のを令嬢は宙にあるうちに掴み取り、指の節が白く浮くほどきつく強く握りしめ、奔《はし》る、駆ける、撃ち出された弩《いしゆみ》の矢弾よりも迅《はや》く。  まさに一筋の光の箭《や》―――!  黒髪の軌跡を彗星の尾と曳いて、ニゴリどもの中に〈欠片〉《かけら》の恐怖もなく、突きこんで、いや敵の脆い事といったら、ぼ、と景気の悪い音でそのまま突き抜けてしまったほどで、影の塊の腹には令嬢の大きさの孔が穿《うが》たれたが、といっていかに令嬢の勢いが慄然とするほどのものであろうと、それで痛みを受ける相手でなかった。   ―――はは。あがけ、あがけよかし――― ―――よしお前がどれほど怒ろうと――― ―――よもやそれしきのことで、我らに傷の一つでも、と?―――    大穴もたちまちのうちに、影が盛り上がって塞がって、ニゴリどもは〈痛痒〉《つうよう》も感じた様子なく―――が令嬢の推進力は留まらなかった。  もとより彼女とて、それでどうにかなるとは露とも考えていなかったろうの、ニゴリどもを突き抜け、走り抜け、疾走の先は内陣の壁に並ぶ龕《がん》、そこにも積み上げられた髑髏の山へ。  令嬢が穿った穴は即座に埋まったものの、影の深さはやや薄く半透明の、そこを通して築宮は、彼女が松明を髑髏の山の中に突き入れたのを見た。燃えろ、燃えてしまえと叫ぶ声も聞いた。  しかしどれだけ乾ききっているとはいえ、そう容易に火が移るものでない。骨というのは遺体を荼毘に付してもなお残るくらいに強固なものなのだ。それ故に『ニゴリ』たちが最後の宿りとしているのだろう。  ニゴリ達の宿る髑髏は令嬢の思惑をはねのけ火の手の上がる気配はなく、それどころか手荒な扱いに炎の勢いが減じかねなかったが、もはや令嬢はお構いなしに、幾度も幾度も火を振り翳す。龕《がん》のが駄目だと見るや壁に擬し、そちらも効き目無しと知れば柱に突きつける。  輪郭はニゴリ達の巨体に阻まれ判然とせず、築宮の目には炎だけが明るく、令嬢が、というより炎自らが乱舞しているかのようにさえ。その妖しく狂おしい眺めに、心では加勢しようと焦っているのに青年の足は床に膠《にかわ》で貼られたように動けなくなっていた。  火の粉が爆ぜる、飛び散る、群れ集う影の向こうに令嬢の姿が幽かに透ける。   ―――なんと愚かな――― ―――なんと情けない―――    それでも。直ぐさま燃え上がる様子はないと言っても『ニゴリ』たちの中に広がったのは、動揺の気配。  どれだけ嘲り笑おうとも、やはり炎は浄化の力の一つの〈顕現〉《けんげん》に相違なく、彼らには厭《いと》わしいものなのだろう。  ただ松明程度に燃やし尽くすほどの火勢はなく、むしろかえってニゴリの憎悪を鞴《ふいご》の風で煽《あお》るようなもの、渦巻いて、影がより濃くなりまさる。   ―――やめよ!――― ―――この奥津城も旅籠の一部――― ―――お前がそのちっぽけな生の中に誇りとしてきた、その旅籠を――― ―――自ら焼こうとは、狂うたか―――   「狂っているのはあなた達!  大切なのは、この旅籠そのものじゃない。  旅籠にやってくる旅人たちだというのに」 「それを忘れて、ただ旅籠を旅籠として繋ぐために、お客さまに手を出し―――」  影の向こうから噴き上がった絶叫、に続いて段と床を蹴る音、築宮の眼前のニゴリの腹が盛り上がり、また突き抜けて、今度は令嬢は青年の方へと駆け戻る。ぐいと、松明を押し預けてきたのに築宮が反射的に受け取ると、令嬢は懐に呑んでいた短刀を引き出し鞘を払った。その動作一つ一つから零れる、全身に満ちる怒りと憎悪。  築宮の制止の手も聞かず、退いては打ちつける荒波のように飛び出して、再三影の塊の中に飛び込み―――  切り払い、突き崩し、薙ぎ、荒れ狂い、暴れ狂い、もう彼女自身が一つの炎と化したかのように。 「憎い―――憎いのよ、あなた達が!  最後の私が、女だったから?」 「弄び、旅籠に辿り着いた男達にあてがい!」 「手駒にして、下らない企みの中に放りこんで、それも自分達が思い通りにできる旅籠にするために―――」 「憎い。なんて下らない事のために、お客さまに害を為し―――憎い」  ―――こんな時なのに、築宮は、令嬢の憎悪と怒りが向けられているのが自分ではないことに、天とか神とかそういったものに感謝したくなったという。  それまで彼は、怒りや怨みの念に男女の別はないと考えていた、けれど―――  これは、なんだ? こんな、大海の水よりも深く、天に駕《が》する巌《いわお》より重く、中天に燃える恒星ほどにも猛《たけ》るこの〈瞋恚〉《しんい》―――  築宮青年には、女だけが、因習と旧弊にがんじがらめにされ、その犠牲となり、弄ばれ続けてきた女だけが、血から血へと営々と伝えてきた怒りが、今の令嬢を通して噴き上がっているようにしか思えなかった。 「いなくなれ、もうここから、この世のどこからも。お前たちに居場所なんてないんだ!」  それでも―――令嬢がどれだけ激昂しようと、手当たり次第に影の群れに突きかかろうと、彼らは霞み、散らばりはしてもけして消滅することはなく、またどろどろと流動物のように〈蝟集〉《いしゅう》するだけ。  短刀にはニゴリを傷つけ得る、令嬢の血潮が塗られていたとはいっても、幾度も鞘に収め、払いするうちに乾いてしまったのだろう。  内陣の中に嘲弄と呪詛の声が満ちて、木霊し、狂乱の舞踏の令嬢と、髑髏と、影の塊と、さながら悪夢の相を呈した。  どれだけ激しいのだ、彼女の怒りは。  どれだけ深いのだ、彼女の憎しみは。  その小さな体とは比べようもないほど巨大な感情の奔流に、築宮はしばし呆然と、手を出すこともできず令嬢の狂態を眺めていたのだが、それでもこのままでは埒が開かないと、徐々に悟る。  令嬢の怒りがどれだけ巨大であろうとも、彼女一人の手ではこの髑髏の内陣を破壊し、『ニゴリ』たちの根源を消滅させることはかなうまい。 (いったいどうしたら―――)  どうしたら、と想いあぐねる青年の脳裏に、風に流される木の葉の如く寄り来たった閃きがあった。  もしかしたらその〈天啓〉《てんけい》は、彼自身だけの心の働きではなく、なにかもっと大きな、運命の流れといったものから一筋解《ほぐ》れて、今の青年へ降りたものかも知れなかったが定かならず、だが定かではなかろうがなんだろうが、令嬢のためならどんな何ものがよこした考えであろうとも、築宮は迷わずすがりつき、心の中で形にした、言葉が口から滑り出る。 「―――地図だ―――!」  呟いたつもりが、思った以上に大声になったらしい。古地図を取りだした築宮を、視界の端に捉えて令嬢が振り返る。 「今、なんて……」 「ここは、俺が地図の中から見つけだしたから、現れた。もしそうだとしたら……」  なまなかな火では灼き尽くすことも適わない骨の内陣を、どうやって滅ぼすか。  地図をいじったことにより、内陣への入り口が出現した。であるのなら、地図に細工をするということは、この旅籠の現実に干渉することではないか? そう推し量った築宮は、令嬢を呼び寄せそれを告げる。 「隠されていたから、見えなかった。  なら、この地図から、どうにかしてこの場所をなくしてしまったとしたら……?」 ――――――   ―――――――――    築宮の囁きに、内陣を満たしていた『ニゴリ』たちの重圧が退いたかに見えた。退いて、細波の後の水面が鎮まっていくにも似て、残ったのは沈黙、恐れを孕んだ沈黙。  ……黙《もだ》したのを、直ぐさまニゴリどもは打ち消し、おめきたてたが、その声は動揺の気配で揺れていなかったか?   ―――世迷い言を――― ―――そんな事で吾らを滅ぼすなど――― ―――あろう筈もないわ―――   「黙っていなさい、この死人風情が!」  一喝し、築宮の下に駆け戻り、地図を凝視する、令嬢の眸が不気味なほどの、昏く、そして強い底光りを宿した。  獲物の退路を断った狩人よりも、その貌を確信で満たして令嬢は頷く。 「たしかに、それならあるいは。たとえなにもならなかったとしても、地図が少し損なわれるくらいで」 ――――――!   ―――――――――!!    ……『ニゴリ』たちの中に波及した声なき声こそが、彼らの恐れを雄弁に語っていた。 「だが君は……いいのか、それで。  あんなでも、ニゴリ達は君の、父祖達なんだろう?」 「彼らを滅ぼすことに、迷いはないのか?」  青年の言葉を聞きつけて、ニゴリ達も令嬢を惑わすような言葉を四方から浴びせかける。   ―――その通りよ。その者の言う通り―――   ―――我ら無くしては、お前が生まれいづる事は、なかった―――   ―――それにな、ここで我らを滅ぼしたならば、その者はどうなる―――   ―――吾らが留めおこうとしたからこそ、その者はこの旅籠に残っていたのだ―――   ―――もし吾らが失せればその者は―――   ―――お前への介添えを終えたとて、旅籠を発ってしまうことだろうて―――   ―――お前を置いてな―――   ―――お前、それでも良いというのか―――   ―――お前、この者に情が移っておる―――   ―――その男を、手放すと?―――    ……結局、ニゴリどもにとっては、単なる傀儡に過ぎなかった令嬢が自分達に牙を剥いたのも不可解なら、彼女の〈瞋恚〉《しんい》がなにに根差しているのか、最後の最後まで理解し得なかったのだろう。  それであるから、理解せぬままに遂に踏みつけにしてしまったのだ。  最後の、令嬢が心の中の大切な在りどころに秘めおいて、護ってきたものを。  それを踏みにじることは、猛虎の尾を踏むよりも危険で無謀な行為とも知らず。  一瞬の沈黙、令嬢の、両腕が力なく垂れる。ニゴリ達へ退くことなく擬せられていた短刀も、切っ先の光を鈍らせて地へ向けられたのが、彼女の落魄を語ると見えた、のだが。  脇に垂らされた腕が、また持ち上げられていく、そろそろと、ゆっくりと、けれどその緩慢さは、けして彼女の心が折れたためではないことは、そばにいた築宮にはよく判った。  両腕に通う〈戦慄〉《わなな》きは、怯《おび》えなどであるものか。限界まで引き絞られた〈弓弦〉《ゆんづる》に満ちるのが、こういう震動なのだ。  令嬢の手はゆっくりと、己の肩を抱き、爪を立て―――たまらない、間。緊張に張りつめた、間。  瞬、点―――!  解き放たれた。  両肩を掻きむしった手が目前のもの全てを薙ぎ払う激しさで打ち振られ、 「うるさい、黙れ、それ以上語(騙)らないでと言っている!」  令嬢の身体を中心に、撃放された怒気は、刹那の速さで内陣を薙ぎ払い、不可視の極大の威力の爆弾の炸裂破にも擬せられよう。  傍らの築宮などは、確かに鼻先を強烈に撃たれたと感じたほどの。 「ええ、そうですとも、私はこの人を好き。  今まで通りすぎていった人、残った人、その中で誰よりも」 「でもそれは、お前たちに仕組まれたからなんかじゃない!」 「私が、私の心で、私の気持ちで好きになったのよ」 「他のなにはお前たちに弄ばれたって、その気持ちだけは絶対に渡してやらない」 ―――ならばこそ、彼を――― 「笑わせないでね、ご先祖さま。  心を寄せてしまえば、別れが辛くなるだけ、そんなことはわかっている」 「けれど―――」 「私が辛いだけなら、耐えられる。  今までだって、何人も何人もお客さまを迎え、見送ってきた私です」 「でも私のせいでこの人が―――旅する自由を失ってしまうなんて、そんなの厭です。  厭なの……!」 「でも、もっと許せないのは、この人を縛りつけようとしたあなた達!」 「―――何様のつもりですか!」  ……ニゴリ達のあがきは、結局令嬢の〈業怒〉《ごうど》を更に更に荒れ狂わせるだけに終わった。  これまで一族の妄執に縛られ続けた彼女。なにより許せないのは、彼女が愛する旅する者たちへの想いを踏みにじられたこと。たとえ同じ一族であっても、そんな相手と訣別することに躊躇いはない。  あったとしてもそれは、ニゴリ達へ向かうものではなく、築宮を案ずる心それあるのみ。 「築宮さま、地図を―――ごめんなさい、きっとこれ、もとはあなたのものなのに」 「……いいんだ」  地図を差し招く令嬢の前に、破邪の札を届ける道士のようにばっと広げてざっと翳して、髑髏の内陣の箇所を示して、そして築宮もまた、内心で、令嬢と同じく詫びていた。  心の中で済まないと詫びたのは、この地図を一緒に書き上げた、いまだ思い出せない誰かへの面影に対しての詫びだったろう。 「今度こそ、本当に、いなくなって。  ―――ご先祖さま」     瞬間が引き伸ばされる。    全ての音と動きが遠ざかった中で。    令嬢の短刀の切っ先だけ、美しく閃いて。    地図の書きこまれたその部分を刺し、切り裂き。          ―――変化は、急激だった。  それまで骨に構築され、妄念の宿りとなっていた墓所を成立させていた法則が、地図の破損と共に失われて―――  内陣に振動。走る、動揺。  ぱらりと、一つ令嬢と築宮の足元に落ちた。古びて黒ずんだ〈欠片〉《かけら》だった。天井にも埋めこまれていた、髑髏の前歯の、小さな〈欠片〉《かけら》。  けれどその小さな小さな〈欠片〉《かけら》が、引き金となり呼び水となった。  築宮の耳が捉えたのは、山脈越しに感ずる津波のような、幽かでいてとてつもない脅威を秘めた遠い物音の、急速に音の圧力を増し―――  内陣の奥で、緩やかに、しかし重苦しい鈍さで、天井から梁が一つ外れ、床に落ちる、衝撃に耐えかね亀裂が走ったのが奇妙なほどはっきり見えたのに、どこか白々しかったが、足元に伝わった震動で俄《にわか》に現実感が立ち返った。  梁だけでない。亀裂が入ったのも床だけでない。青年の肩先へ落ちた破片は軽かったけれど、ばらばらと続いて、見れば天井、壁を問わずに周囲一面が、崩壊の始まりを告げる亀裂が網目のよう。 ―――おお―――   ―――おおオォ―――   ―――オオオヲヲッ!―――    既に死したるモノが、今一度断末魔を放つことがあるとすれば、内陣の中に渦を巻いた重低音がまさにそれの、中に収まりきれず、石段を伝って溢《あふ》れ、通廊に流れ出し、やがて旅籠全土へと拡大していく。  この時旅籠に眠っていた者は悪夢のうちに、いまだ目覚めていた者は夜過ごしの〈徒然〉《つれづれ》のうちに、全ての者がニゴリの呪詛を耳にし、肌に粟粒を走らせたことであろう。  或いは旅籠を襲う未曾有の災いを予感したかも知れない。  しかしそれらも所詮は死者の、この世の外のモノ達のあがきに過ぎず、結局生者たちにはなんら災禍を及ばさず、ただ一夜の変事として、明くる日の話の種とはなったがそこまでのこと。いずれは忘れ去られるだろう。  そして地下の内陣では。  崩れ落ちる髑髏と梁と壁と柱、舞い散る粉塵や瓦礫、破砕音は物凄まじく、下からも突き上げるような震動が加わり、床に大なり小なりの無数の亀裂が走り、たちまちのうちにひびが広くなる、深淵を覗かせる。  崩壊の波によろめきつつ築宮は、ニゴリを滅ぼしたはいいがこのままでは自分達も巻きこまれると背筋に冷たいもの走らせ、地上へと続く階《きざはし》へ振り返り、足元怪しくしながらそれでもどうにか駆け出そうとして、そして令嬢へと手を取り合おうとした。  ―――けれど取り合おうとした手が、届かなかった。 「なにをしている―――!!」  絶叫したが梁が裂ける音が被さって、聞こえたかどうか。    令嬢は―――    力なく首《こうべ》を垂れて―――           膝をつき、くずおれて。    項垂れたその首ががくんと揺れたのは、築宮の声に撃たれたためでない。  二人の間の床に亀裂が生じ、二人を分けて、どんと崩壊の突き上げが来たかと思うと彼女の跪《ひざまづ》いた辺りの床が、沈降したのだ。  落差は見る間に深まり、その深さはまだ手を伸ばせばかろうじて届くくらいのものであるにもかかわらず、青年には底無しの深淵よりもまだ遠く、胸は恐怖の氷の矢で貫かれる。  築宮が駆け寄ろうとするより早く、震動が強く鳴って、ああ、ああ、彼女のくずおれた辺りが深い坑へと落ちこんでいく。 「どうしたんだここまで来て! なにをそんなじっとしている! 早く立って! こっちに来て!」 「……ごめんなさいね」  見たくは、なかった。崩壊の狂騒の最中ににあっても、令嬢の姿は美しい。とうとう緊張の糸が振り切れて、ここに至るまでの消耗が一気に表に現れたのか、肩は一層ほっそりと儚く、前髪も乱れ鼻梁にはやつれが影濃くして、それでも崩れ落ちていく内陣の中にはいっそ相応しいほどに、疲弊しきった姿は映えていた。  寂しげに、どこか諦めたような微笑みは、彼女の麗貌を曇らせるどころか、いよいよ冴えさせるほどであったが、それでも築宮は、見たくなかった。 「もう膝に、力が入らない……立てないみたい」 「けれど私、望みは果たしました。  これでもう、死者の妄執が旅籠を悩ますことはないでしょう」 「おい……莫迦な、諦めたみたいなこと、言うなよっ」 「あいつらがいなくなったって、それで君までいなくなってどうする!」 「言ったじゃないか、君の望みは、幸せは、そして務めは、この旅籠で客を迎え、もてなして、癒すことだって」 「それを投げ出すだなんて―――第一、君がいなくなったなら、この旅籠はどうなる」 「誰が守って、営んでいくんだ!」  築宮をして絶叫させる焦り、切迫し、歯の根が合わなくなる、それを噛み殺して怒鳴り、令嬢に活を入れようとしたけれども。  令嬢が浮かべたのは、放心したような遠い眼差しで、もう過ぎ去ってしまった時間の彼方、手の届かない遠い彼岸の人にしかできないような諦念に浄化された澄んだ眼差しで、怖かった、能面のように無表情な顔より、どんな激憤に猛る彼女よりも、哀しく怖かった。 「誰か、他の人が」 「無責任なこと、言わないでくれ、なあ!」 「無責任かも知れないけれど、でも本当よ。  もし私がいなくなったとしても、きっと他の誰かが現れる」 「この旅籠に留まっている人たちの中には、ここのこと、本当に好きで残ってくれている人がいる」 「私ね、思うんです。旅籠の守人の一族なんて、大層なことを言うけれど、誰だってできるの―――旅籠を大切に想う人ならば」 「物事には代替わりというものがあるでしょう。きっと今がその時」  石さえ砕けるような凍《こお》れる冬夜にも耐え、土さえ割れるような炎熱の酷暑もしのいできた、人の集落の境を護る塞《さい》の神の像が崩れるのは、人が神の加護など無くしても生きていかれると悟り、自ら役目を退くとき。その時に無窮に思えた石像は静かに砕けゆく。築宮には令嬢が、そういった古い時代のモノ達の列に連なり往こうとするかに観じられ、歯がゆく情けなく地団駄を踏み、踏みそうになって自分を抑える。こんな時に不用意に暴れでもしたら、崩落はいよいよ勢いを増すばかりだ。 「だからなにも、心配はいらない。  だからあなたは、もう行って。もう戻って、そして今度こそ、無事な旅立ちを」 「ここまで付き合ってくださったこと、本当に、心からの感謝を―――」 「そんな感謝なぞいるものか! というか、こんな事ぐだぐだやってる暇があったら、もっと立ち上がる努力を!」 「ええくそっ!」  手近な、いまだ崩壊に耐えどうにか残る柱に片腕を絡め、もう一方を令嬢へと差し延べる。段差はどんどん深くなり、乗りだす築宮の身も危ういが構っていられるものか! 「そんな風に潔く諦めてないで、立てないなら這いずってでももっとこっちに! そして手を伸ばせ、伸ばしてくれ」 「さもないと俺の方から、そっちの方に飛びこむぞ―――」 「なんてことを……駄目、それはあなたの身まで危うく―――」  どこまでも、どんな時でも青年を案じて、そのやり方は時に極端に走りすぎ、強引な事もしでかしたけれど、事ここに至ってはそんな心遣いは有り難くもない。自分を案じるなら、立つこと、立って生きる心を見せてくれることと、青年は顔半分を口にして呼びかけ続ける。二人の距離が呼びかけることくらい許さないのが、歯がゆい。 「喋る暇があるならと言っている! ほら、もう待っていられん、行くぞそっちに!」 「どうして……どうして私にそこまで」 「前にも言ったが、俺にも通したい我はある。これに関しちゃ君の指図は受けない」 「君が心配なんだ、離れたくない、そして今はそれ以上喋ってる暇はない!」  もっと差し延べる。さらに伸ばす。柱に絡めた腕がみしみし軋む。青年の額に苦痛の脂汗が浮く。  そして令嬢も、苦笑ともなんともつかぬ表情で、それでも腰を浮かせ、膝でにじり、青年へと手を伸ばし―――  触れ合う指先、僅かな接触なのに、途方もなく巨大な触れ合い、逃すものかと青年の指がつかんで、握りしめて、引き寄せる。  ―――痛みが、走った。  あの時令嬢が廊下で噛んだ傷痕から。  一瞬で、僅かな痛みだったが、青年をたじろがせるには充分で、集中が途切れた、途切れてしまった、そして握り合った手と手も。 「え―――」 「あ―――」  間抜けた声。  令嬢は、全ては予め定められていたことのように、穏やかで、諦念に満ちた笑みを浮かべて、手を引き戻す。  床が崩れて、彼女もまた深淵に呑みこまれていく―――  その前に、築宮が床を蹴った。  普段は茫洋としているきらいのある築宮にしては、驚愕するほかない俊敏さの、令嬢へ向かうひたすらの一念が、彼に向こう見ずな力を与えていたのだ。  彼が立っていた床を、人一人軽く押し潰してしまいそうなほどの柱が撃った。けれどもう青年はそこにいなかった。亀裂の段差を飛び降り、令嬢の傍らに降り立っていた。 「なんてことを―――この、大莫迦もの!」  迎えたのは掌の一撃、を、青年は頬を撃つ前に受け止め、抱きしめる。捕らえられた若鮎のように〈藻掻〉《もが》く力を抑えつけ、腕の中におさめた時に、ようやく築宮は頬を安堵で和らげた。二人分の体重に、より深く落ちこんだ床の上で。  一瞬きっと睨みつけた令嬢だったが、青年の微笑みに言葉を失い、怒りの遣りどころを見失う。 「莫迦はどっちなんだ、この場合」 「ここまで来たら、最後まで一緒にいない方が、ありえないってもんだ」 「でもあなたは、あなた一人だったら逃げられたのに……っ。ごめんなさい、ごめんなさい……っ」 「最後に怯んだ、その傷だって私がつけたものなのに……私は、そのことだって謝ってなかった―――ごめん、なさいぃ……」  気丈なはずの令嬢から、絞り出すような嗚咽と詫びる言葉と。 「そこ、謝るところが、違う」 「え……」 「君が謝らなくっちゃいけないのは、手前勝手に自分の始末をつけようとしたことだ。こっちの気も知らないで」 「これがどこまで堕ちていくやらしれず、でもまあ、これだけは伝えておきたい」 「君のことが、好きだよ。  不思議だな、初めて誰かを、好きだって言えたような気がする」 「築宮、さま―――でもそれは、本当はニゴリ達が仕組んだ好意で―――」 「君、言ったじゃないか。自分の気持ちは自分だけのものって。それは俺も同じだ」 「だから―――君からももう一度、聞かせてほしい」 「その一言があれば、他にはいらない。けれどその一言がないと、俺がこうした意味がない」  二人の四囲を満たすは、古い遺構の砕け散る轟音に、床に落ちては衝撃の勢いのままに跳ね暴れる柱や壁の破片と、転がり回る髑髏と、壮絶極まりない場景にも関わらず、耳をつんざくけたたましさにも関わらず、築宮の耳は静謐を聴いていた。目は、令嬢以外は映らなかった。  だから―――  自分の胸にそっと触れてきた小さな手、想いの限りを籠めて見つめてくる令嬢の貌がはっきりと見えたし、静かに、けれど限りない喜びと思慕を伝える声も、聞き逃しはしなかった。  たとえこの瞬間に全てが終わろうとも、全て報われる、令嬢の言葉。  終末の中にこそ誕生するものが、ここに、あった。 「ああ―――お慕いしています。  あなたを。ただあなただけを」 「嬉しい―――」 「……俺もだ」  ―――そして、最後の轟音と揺れが内陣を見舞い、二人の姿を瓦礫の雪崩の中に覆い隠していく。  堕ちていく二人。もしも二人が愛せるならば、落ちていくのも幸せなのだと歌ったのは誰だったろう。  二人、固く抱き合って闇の底に落ちて、小さくなって遂に見えなくなる。  ―――墜落は、永遠のようにも感じられ、引き伸ばされた分だけ最期の瞬間への絶望と恐怖で狂死してもおかしくはない筈なのに、この時築宮の頬に浮かんでいたものは、微笑の、むしろこの瞬間よいつまでも続けと願っていたのだ。  少なくともその間は、愛しい者との抱擁が続くのだから、と。  次に築宮が目覚めたのは、狭苦しい畳の間だった。と言うより青年、目覚めてなにがなんなのかとんと状況が把握できず、きょろきょろと周囲を見渡して、そこが見覚えのある、渡し守の小舟の胴の間だと気づいた時、なにやら拍子抜けの気分さえ味わったという。 「……なんなんだ、今までのは。どうやら夢らしいが、しかしなんて仰々しい」  思い返すだけでも股間の辺りが縮み上がるような大破壊の中に立っていたような気がしている。  大切な人を失いつつあったようにも思う。  しかし今自分は、こうしてぼんやりと目覚めたのだからして、全ては大げさな夢の中の出来事だったに違いあるまい……。 「夢なもんですかい」 「わあ!」  にゅうと覗きこんできた角ある顔に跳び上がったが、なんのことはない、よくよく見ればあの渡し守の割れ般若の面である。 「なにがうわあだ。人の舟の屋根ぶち抜いておいて、あげく気持ちよう寝くさりよって」  どうにも渡し守は不機嫌で、ぶつぶつ口小言で築宮を睨みつけ、次いで視線を上げたのにつられて築宮も見上げれば、胴の間の屋根はまあ見事な大穴が開いて、風通しよく、明けかかった夜空を覗かせていた。 「これは一体……なにか、大きなものが落ちてきたような」  落ちてきた、と自ら呟いて、築宮の心が急速に活動し始める。  落ちてきた? 落ちたのはなんだ? どうして落ちた? 夢が現実と繋がりはじめて、そこに渡し守がとどめをさした。 「なにか、もなにも。旦那が落っこってきたんでさ」 「たまには洞穴の水路も回っておくかと、暗い中わざわざ出かけてみりゃ、どかんばりばり、でけつかる」 「舟ごとひっくり返るところでしたよ。  全く……なにをやってんですかあんたは」  ではあれは、あの死霊達との対決は、そして髑髏の奥津城の崩壊は、全て現実で―――内陣のそのまた地下は、あの鍾乳洞に続いていて、そこにたまさか―――なんたる偶然か! 渡し守の小舟が通りかかったとしたなら。……この時以降、青年の中では「偶然」という言葉が一種神聖な意味合いを帯びていくようになるのだがそれはさておき、自分はこうして偶然にも渡し守の小舟のお陰で墜死を免れた。  だったら。だというのなら!  布団をはね除けて飛び起き築宮は、その勢いの頭で屋根をぶちぬき、もう一つ孔を開けるところだった。  ほとんど胸ぐら締めあげんばかりに渡し守に詰め寄って、 「じゃああの人は!? 一緒に墜ちた筈なんだ。俺だけだったのか!?  教えてくれ頼む―――っ」 「ああ、お嬢さんだったら」  こともなげに言い放ち、胴の間の障子戸の表へ顎をしゃくった。 「とっくに目を覚まして、手拭いをしぼってまさあ」  ぎゅん、と筋を違えそうな勢いで振り向けばそこに、障子の戸がするする開いて、 「あ……あの。目を、覚まされたんですね。  よかった……大事はないって、彼女が請け負ってはくれたんですが」  そう告げたときのなにか、曰《いわ》く言い難い照れくさそうな貌は、心中の男女がみっともなく死に損ねて再び顔をあわせた時と同じで。 「あ……あ……生きて……君も、俺も」  その段になってようやく築宮は、身体のあちこちに走る激痛に顔をしかめた。無理もない、令嬢を抱えこんで落ちたのだ、どうやら全身に打ち身・擦り傷を負っているらしい、らしいがしかし、それがなんだという、二人とも生きている、その事実の前には多少の怪我など! 「はい……運がよかった……」 「ああ……ああ……」  引き寄せて、抱きしめて、口づけの一つもかわそうと乗りだした築宮の鼻面を、令嬢の頬をぐいと押し止めた手がある。右と左の手でそれぞれ押さえて渡し守の、 「はいはいそこまで。  なにがあったか知んねえし、突っ込む野暮をする気もない」 「とにかく、愁嘆場は揚がってからやっておくれな」 「あたしの舟は渡し船。逢い引きの、連れ込み宿なんかじゃありませんよ」 「……たく、こっちゃこれから屋根の修繕だってのに、旦那達ゃ、しっぽり仲良くお濡れになるって寸法だ」 「ちぇ……やってらんねえや」  ぶつくさ垂れながら、艫《とも》へ出て櫂を遣う。  令嬢と青年は、船着き場へと舟を漕ぎ寄せる間、流石に船頭の小言を大人に聞いて、抱擁まではなかったけれど、それでも手だけは握り合った。  それくらいは、生きている喜びを噛みしめたっていい―――  そして旅籠には、一人の住人が増えた。  流れ着き、一時は留まったとしてもやがて旅立っていく客ではなく、旅籠に根差し、そこで日々を暮らし、生きていく住人としての。  築宮は―――今も旅籠にいる。  そしてこれからも、在り続ける。  彼はあの時令嬢にこう問いかけた。 「君には、この先も旅籠を護っていく責任というものがあるだろう……!?」  けれど、それを言うならば、築宮にだって責任はあるのだ。彼女と共に生きながらえたとき、生じたのだ。  自らの運命にけりをつけようとした令嬢ともに、生きる者の世界に舞い戻った事によって、彼にも責任は生じたのだ。  令嬢の命を見守るという責任が。  誰かの為に生命を投げ出すというのは、そういうことであるが故に。  故に築宮は、令嬢に寄り添うことに決め、この旅籠に残ることにしたのだった。  それは旅する自由を放棄することかも知れないけれど、どこか一つところに根を下ろした生き方だって、同じくらい尊い。それに気づいた築宮は、自らの意志でその生き方を選んだ。令嬢もそばにいる。  それでいいではないか。それより他に、なにを望むことがある。  もうすっかり旅籠での暮らしに〈馴染〉《なじ》み、仕事にも慣れた。  そう、仕事だ。旅籠の管理人としての、令嬢と同じ役を担《にな》う者としての。  今日は帳場の番台で、事務仕事に追われている。普段はどちらかというと、旅籠のあちこちを歩き回るような、体を使う仕事が多いのだけれど、ここ数日というもの令嬢の体の調子がなにやら思わしくなく、彼女を休ませてその代わりを買ってでている。  慣れぬ手で、それでも懸命にあれこれ帳簿をつけたりしていると、お手伝いさんがやってきて、新たな客があった事を告げる。  令嬢の代になってからは、旅籠に客があることは珍しいことになっているのだが、それでも客足は細いながらも途切れない。  令嬢と青年の、旅籠を維持し、守っていくという仕事は終わらない。築宮はお手伝いさんが持ってきた宿帳を改め、新たな客を迎え、挨拶を述べる。 「ようこそ、いらっしゃいませ。  自分たちは、貴方をお客さまに迎える事ができて、心より嬉しく思います―――」 「それで、お客さまのお部屋ですが、  なにかご希望などは、おありでしょうか」  歓迎の辞も部屋割りの諸事もいまだ堅く、如才ないとは言えなかったが、それでもしっかり客の部屋を決め、お手伝いさんに案内させ、その背中を見送った。  かつては自分もあの客の様だったのだろう。  この不思議の旅籠に戸惑い、迷い、それでも逗留することに決めて。  この宿帳の過去の頁には、まだ自分が書きこんだ名前が残っている事だろう。  かつての自分を思う時、雨の前の古い傷痕のように疼くのは、無くしたままの記憶の事だ。  築宮は、部分部分細切れに思い出すことはあるものの、結局その記憶の大半を失ったままである。  だが青年は、もはやそれを積極的に取り戻そうとはしていない。人は過去の自分があってこその人だという。過去の記憶という土台無しには、その生は歪《いびつ》なものになってしまうのだ、と。それは一面の真実なのだろう。  しかし人は過去のみに生きるに非ず。記憶を失ってから積み重ねた人生だって、それはそれで間違いのない事実なのだ。その事実が、過去に劣っているはずはない。  そんな風なことを考えていると、ふと喉の渇きを覚えて茶が欲しくなって、汲んでこようと腰を浮かせかけたところへ、脇から差し出されたのがちょうどそのご所望のお茶の。  お手伝いさんが気をきかせてくれたのかと振り返れば、お盆を抱いて立て膝をついていたところの人は令嬢、青年の、ただ一人の、連れ合い。 「ああ、すまない、有難う。  ちょうど一杯飲み物が欲しかったところだったんだ」 「でも、大丈夫なのか、ここに顔を出して。  体の調子は、どう?」  このところというもの、令嬢の体調が優れない。彼女の性分からして、それを押しても帳場に立とうとするのを戒《いまし》め、床に就いていることを命じたのは築宮だ。  具合の方は平気なのかと案ずる築宮の耳元に、令嬢が唇を寄せる。  そして囁いた声音には、幾らかの〈含羞〉《はじらい》と、僅かな不安と、それに勝る喜びとが見え、かつ、隠れしていた。 「調子が悪い理由が判ったの」 「それは……まさか大病とかじゃ、ないだろうな……?」  いいえ、と首を振り、じっと視線を真っ直ぐに合わせてきた時、青年には次の言葉が、もう予想がついていたように思う。 「……私、赤ちゃんができたみたい……」  しばしの沈黙、やにわ、築宮は令嬢をかき抱いた。どう言えばいいのかすぐには言葉がまとまらず、うん、うんと何度も何度も頷く。  令嬢は、築宮に抱かれてそっと涙を零す。  言葉はなくとも、抱きしめる築宮の腕から歓喜がしっかりと伝わってきたから。  青年が、自分との子の誕生を言祝ぎ、そして愛してくれていると、なまじな言葉よりも雄弁に感じられたから、涙は嬉しい時にも零れるものだと、初めて知った令嬢の、頬を伝い流れる雫はどんな貴石にも優って、美しい。  かつての令嬢は、怒りを糧にして、己の身を削るようにして生きてきた。けれど、彼女は築宮と出会って知ったのだ。怒り以外にも、己を生かす力があるのだ、と。  そして胎内に宿った新たな命もまた、己を生かしてくれる―――  そして、大河の上。  小舟の艫《とも》に立ち、櫂を使う手を止め、渡し守が旅籠を眺めている。  彼女の脳裏に浮かぶのは、築宮のこと。  旅籠に残り、令嬢と寄り添って生きていくことを選んだ彼のことを、想っている。  やがて渡し守の唇に揺らめいた、ほろ苦い笑みはいったいなにを意味していたのか。 「ま、元気でおやんなさいよ、旦那。  ―――いやさ、清修」  と言い直した、その呼び方、築宮の名を呼びつけにしたそれは、ある種の間柄の人間同士にしか通わない情愛が、こめられていた。  いや、それはもっとはっきり言ってしまえば、肉親同士にしか生じえない、愛憎入り乱れた深く濃い情だったろう。  やがて渡し守は、櫂を操って大河の彼方へ消えていく。  霞《かすみ》にまぎれ、見えなくなっていく―――  そうして築宮は、いまだ想いを残すものの、旅籠から離れる決意を固め、大河に漕ぎ出す渡し守の小舟に身を委ねた。  記憶はいまだに戻らないという不安はあるにせよ、あのまま旅籠にいてはいけないのだという、どこか強迫観念に近い気持ちが働いている。 「まあ、なんにしたって旦那が決めたこと。  あたしは、それをとやかく言うつもりは、  ござんせんよ」 「ああ……」  渡し守は口数少なく櫂を操っていたが、今の築宮にはあれこれ話しかけられるより、その方が有り難かった。この先どうすればいいのだろうという不安が重くのしかかってくる。大河の岸に着いたら、まず街中を目指して、そこから……なにをしよう。  なにを頼ろう……なにも、判らない。  医者を探してその扉を叩くか、それともお巡りさんか……。  思考はぐるぐる回るばかりで、いっかなまとまってくれない。まるで親にはぐれた小さな男の子のように膝を抱えて唇を噛む築宮を、さすがに見かねたのか渡し守が一声掛けて〈瓢箪〉《ひさご》を放ってきた。 「旦那、色々不安でしょうが、  あまり思いつめると、  また河に飛びこみたくなっちまいますぜ」 「とりあえずはそれをおやんなさい。  今度は水じゃない。  ちゃんと詰め直しておきましたよ」  酒か……酒に逃げたって、なんにも状況は好転しないだろうが、この先行き見えない心細さを一時なりともまぎらわせてくれるのならと築宮は、栓を引き抜いて一息に煽《あお》った。  喉を滑り降りていく液体は、しかし酒ではなかった。  築宮が、この旅籠に案内される前、渡し守の舟に引きあげられたとき呑まされた、あの得体の知れない飲み物だった。  酒の酔いとは異質の〈酩酊〉《めいてい》感が、〈臓腑〉《ぞうふ》の底からたちどころにこみあげ、全身を巡り、意識が水底に引きずりこまれるように昏《くら》く、遠くなっていく。  青年が目を覚ました時、清潔だがそれ以上でも以下でもない、無味乾燥な天井を目にしていた。〈鼻腔〉《びこう》に忍びこむ特有の匂いは、そこが病院であることを告げている。  身を起こしてみれば、腕に走る〈鈍痛〉《どんつう》の、点滴のチューブが繋がれていた。起きた弾みで点滴の針が動いたのだ。  ぼんやりと、なんで自分はこんな病室のベッドに押しこめられているのかを考えていると、ちょうど看護士が巡回にやってくる。  彼女は築宮が意識を取り戻しているのを見ると顔を引き締め、一声二声かけてから簡単な検査を施す。そして、病室を出て医師を連れてくる。  そして医師から受けた説明によれば―――  どうやら自分は、一昨日の夜に泥酔して近所の川に落ちたらしい。幸い溺れるより先に岸に流れ着いたせいで生命に別状はなかったけれど、まる一日眠っていたとの事。  言われてみれば体のあちこちがぎしぎし軋むように痛み、後頭部から延髄にかけては、ひどい〈宿酔〉《ふつかよ》い特有の痛みが軽い〈残滓〉《ざんし》となってへばりついている。  水に浸かったせいで携帯電話は壊れてしまったが、幸い免許証を所持していたので、家族に連絡しておいた。  今日も午前中まで病室に付き添っていたらしいが、今はいったん帰宅しているようだ。  今度は、自分で連絡を取るよう医師に伝えられ、築宮は一気に〈暗澹〉《あんたん》たる想いに突き落とされた。  家族に連絡……あの人に連絡か。  できるならば御免こうむりたいけれど、どちらにせよ既に病院から連絡はいっているのだ、逃げられやしない。  いったいなにを言われるやら、どんな説教を受けるやらを考えると、もう一度川に身投げしたくなる。多分泥酔していた自分は、その感情のままに行動したのだろう。  ベッド脇のキャスターに収められた所持品の中から、電話のための小銭を漁《あさ》る。携帯電話はお釈迦になったが、その他の財布の類は運良く落としもせずに済んだらしい。  だが、これは、なんだ? この〈瓢箪〉《ひょうたん》は?  どこかの民芸品か? 手にとって眺めた時、築宮の脳裏を不思議な女の姿がかすめたが、それは目覚めてすぐの夢のように記憶から零れたと思うと、もう戻ってこなかった。  首をひねりつつ、公衆電話で家に連絡する。  ―――電話の向こうの声は、こんな時だというのに常と変わらず権高で厳めしく、聞いているだけで築宮の気が滅入ってくる。  とにかくもう退院できる旨、迎えに来てほしい旨を伝えて、電話を切る。  今のところはあまり厳しいことは言われなかったが、それは公衆電話だったからだ。  公衆が使うものを、個人の都合で長く占領するなというのがあの人の教えの一つだ。  その手の厳格かつ公序良俗のための教えを、いったい自分はどれだけ叩きこまれて育ったことだろう。その教えが、一体どれだけ自分をがんじがらめにしただろう……。  あの人の言うことは、倫理的には全て正しいし、厳しいのも自分のためだと言うことは判っている。判っているがしかし―――あの人がこれから迎えに来ると思っただけで、空気の密度が増して、呼吸が困難になるかの錯覚に囚われる築宮だった。  それから幾ばくか経って、築宮を女性が迎えに来る。立った姿勢がすらりと伸びて美しく、顔の造作も端正な麗貌なのだが、雰囲気に険があり、女性特有の潤いや華が一切かけている。  男女問わずに、彼女と進んで近づきたがる者はそうそういないだろう。  その女性こそが、築宮の唯一の家族、青年の姉であり、彼が愛憎複雑極まりない感情を抱き、そして誰よりも懼《おそ》れている相手だった。  両親は、二人が幼い頃にみまかっていて、天地間にただ二人だけの家族なのだった。  姉なる人は築宮に厳しい〈一瞥〉《いちべつ》をくれ、 「準備は、できているね?」  退院の用意が整っているかを短く切り詰めた言葉で質し、青年を伴いてきぱきと手続きを済ませ、さっさと病院を後にする。  帰りの車中でハンドルを繰りながら、築宮の姉は言い渡す。まるで裁判の実刑判決を告げるような口調だ。 「お前も病み上がりだし、  今日は帰ったらゆっくり休んでいい」 「だけど、明日は色々と話し合おう。  判ってるだろうけどね」 「はい……」  と小さく受け答えるしかできなかった。それ以上の言葉を吐けば、声の震えが隠せなかったろう。情けなさで涙さえ零れそうだ。  この人と口論し、家を飛び出して痛飲したのが今回の事故の原因なのだ。  口論に至った理由というのは―――ただこの人から、逃げ出したかったからという。  だが結局、自分は愚か極まりない暴挙に走った挙げ句、生命を危険に晒し、逃げ出すどころかこの人の車に乗って、家に戻る途中だ。  いや、戻るしかないのだ。  自分には他に暮らす場所もなければ、そこを見つけるための甲斐性もない。無力感が痛すぎる。  また、明日からこの姉との暮らしが続くのだと思うと、息が詰まって吐き気さえ催されてくる。そしてそんな風に圧迫感に悩むのも、結局は自分の甘えなのだということもよくよく自覚し抜いている。  それゆえ、築宮は絶望さえ覚えた。  自分はこのまま、この人の〈庇護〉《ひご》という檻の中で、一生囚われたままに違いないとまで思いつめている。  所詮自分はこの人には逆らえないのだという〈諦念〉《ていねん》を抱いて、顔色を窺うように謝罪の言葉を、許しを乞うように。 「―――ごめんなさい―――姉さん」  いつから自分は、この姉のご機嫌ばかりを気にするようになってしまったのかと、築宮は自嘲する。この謝る声だって、我ながらなんて卑屈に聞こえることか! 「だから、今日はもう良いって言ってるじゃないか」  ぴしゃりと遮った声の、金剛石のように硬質で、弱音を許すような隙などまるでない。 「お前だって色々悩んでたんだものね。  就活のこととかさ」 「……別にそういう訳じゃ……」 「隠さなくっていいよ。  でも、その辺のことは、  明日にしようって言ってる。  私だって、いろいろ考えたいしさ」  そう、この姉は、きっと色々考えてくれるだろう。自分の事をちゃんと考えてくれるだろう。けれどもこの人は、きっと気がついていない。  そうして俺の事を考え、俺のために色々としてくれることが、この首を真綿のようにじわじわと絞め上げていくのだって事を、判っていないと、築宮の絶望はただ深く絶対的なものとなりゆくばかり。 (―――俺は、一生この人から―――) (―――逃れられないんだな―――)  今まで、何度もその事実から逃げ出そうとしたけど無駄だった。げっそりと〈消沈〉《しょうちん》して項垂れた築宮をさすがに哀れと思ったのか、彼の姉はふと話題を変えた。 「そういえばお前、あんなのどこから引っぱり出してきたの?」 「……?」 「あの瓢箪のこと。  あれは、うちの蔵に、長いことしまってあった奴だと思うんだけど」 「……ごめん。  俺にも、よく判らないよ……」 「ふぅん……」  姉もそれ以上は追求しなかった。青年の心をほぐすような無駄話もしなかった。  車中を砂のような沈黙で満たしたままで、車は一路築宮の家へと走っていく。  車窓には、流れ過ぎ去っていく夜の街の景色と、そして築宮の〈憔悴〉《しょうすい》しきった顔が、朧気に映って―――青年はその己の顔が、最早なんの意味も持たぬ、死者の顔としか思えなかったのだった。  ―――〈文車妖妃〉《ふぐるまようひ》―――    淵の深みも瀬の速さも映して、瓶は水面に揺れて、流れて、時にたゆたい、行き着く先はいずこにか。  そもそも瓶は、何処かの〈岸縁〉《きしべ》に流れ着く事を、望んでいるのであろうか。  漂泊の身、とはどこかしら哀感と無頼の印象がつきまとう言葉なれど、あてどなく流れていく気楽というのもあるかも知れずの、たとえば『ナガレガニ』という蟹の類がある。  蟹と言えば横歩き、つむじ曲がりなのは縦歩き、と、いずれにしても一方にしか歩けない不自由で知られた生き物だが、このナガレ殿はそもそも歩けない。左右にも前後にも。  加えてこやつ、泳げない。  つまり彼にできるのは、なんぞ流木なり〈盲亀〉《もうき》の背なりにしがみついて漂流していくのみなので―――  と聞けば不自由極まりない生のように見えるけれど、逆に言えば歩くも泳ぐも放棄させるくらいの魅力が漂泊の暮らしにあるやも知れず、それはナガレガニ当人ならぬ身には、誰知ろう。  それによく浮つき者の賢《さか》しら口では、結婚をば人生の墓場などとも喩《たと》え、ひとり女、ひとつ処へ縛りつけられる暮らしを、棺桶に這いずりこむようなものだと〈揶揄〉《やゆ》する事すら。  しかし翻《ひるがえ》ってみれば、棺桶の寝心地だって、身を横たえてみれば案外快適なのかも知れないし、漂泊する事、一つ処に居場所を定める事、どちらが優るものでもあるまい、という事か。  ……と、そんな風に、流れる瓶から棺桶と、あちらこちらと筋道を立てず、連想から連想に築宮が漂うてあるのは、彼が半睡半覚の〈狭間〉《はざま》にあって、思考に手綱がかかっていなかった故である。  夢の淡いにて水路のせせらぎに耳を洗われたように思った、ために流水から始まった随想の、断片をふるい落とすように、築宮は目をすがめたり見開いたりで、焦点を心象風景から目前の現《うつつ》に合わせ直す。  片手は椅子の肘掛けに乗せられ、片手は滑り落ちて椅子の脇、無防備に弛緩しきっていたのを大きく伸びすれば、胸の上でかさり。  かそけき音を鳴らしたのは一葉の紙片の、幾筋もの折りしろが付いたのを繰り開いたものである。 (そう……か……。  俺は、これを読んでみよう……と。  した……ところ、だったっけか……?) (う……む。  図書……室……?)  と胸の上に広げられた、手紙と思しき紙片から、周りの様子に視線が流れて、自分が図書室の書架を取り巻きにして目覚めたのを知った築宮であるが、自分がどういう順序で図書室にいたのか、今ひとつピントがぼけている。  なんとも〈暢気〉《のんき》かつ緩みきった話であるが、あるいはそれも無理はなし。  頃はどうやら昼下がり、とろとろととろけるような、緩んだ気配が午後の幅一杯に広がって、そしてまた身を埋めた椅子の、なんとも素敵な座り心地よ、これでうたた寝せぬ輩というのは、〈砂男〉《サンドマン》に絶縁状を叩きつけられたに違いあるまいの。  とりたてて贅を凝らした造りとは見えないが、背もたれや肘掛けの曲線がどことなくなよやかで官能的で、ワニスの飴色を帯びたのだって艶めいて優《しお》らしい。  これは人に安らかな〈午睡〉《うまい》を馳走したいと〈発願〉《ほつがん》した女が、願いの果てについにその身を変じた椅子なのだとかいう猟奇的な由来を説かれたとしても、うっかり信じてしまいかねない。  この椅子あらばこそ、築宮はこうも造作なく眠り呆けてしまったのだろうし、もっと座り心地の堅いのだったら、夢に水音を聴いても、きっとたゆたうようにはいかなかった。  せいぜいが樽詰めにされて川流れか、さもなくば強い尿意催して、はばかりに引きずられていくような目覚めであった事だろう。 (しかし……相変わらず、  誰も、いないな……)  物音といっては築宮が身じろぎで椅子の脚が床にこすれる軋みくらい、さなきだに書架の背表紙の列が音を吸う、図書室は沈黙の結界に鎖《さ》されているかのよう。とはいえ独り目覚めの心細さもないのも、また書架に見守られているせいか。  だが図書室に、例の鬼女だという司書女史の姿が見えないのも珍しい。普段は司書室にひっこみなにやらの作業に没頭していても、訪れる客があれば、人懐こく顔を見せる彼女である。ましてや女史の(なぜか)気に入りである築宮が来ているのなら、たとえ眠り呆けた青年の平穏を邪魔せぬよう声は掛けずにいても、寝顔を〈莞爾〉《にこにこ》と眺め傍らに侍っているくらいはありそうだ。  それどころか添い寝の一つでもと、身を隣に滑りこませてくるのもいかにもありそうな、いやいや、もしかしたらこの座り心地の佳い椅子こそが彼女の変化なのかも知れず……。 「まさか、なあ……?」  勝手に不穏当な想像を逞《たくま》しうさせておきながら、築宮はつい腰を浮かせて椅子を改めようとまでしたのだが、さすがに椅子は椅子のままだった。  とその身を起こしたので、胸の上の紙片がまたかさり、臍《へそ》のあたりに滑り落ちたのにはっとなって、まだぼんやり眠りを引きずっていた築宮の目はいっぺんに覚めた。  そもそも築宮は、借りていた小説を返しに来たのである。その道すがら、ふと水路を妙なものが、小泡の尾を曳いて浮かび流されているのを目にした。〈硝子〉《ガラス》の小瓶で、沈まずにいるのはコルクの栓のため、中空に何かが封じこまれているらしいのに好奇をそそられた。  水に濡れるを厭《いと》うほどの気取りは持ち合わせぬ青年だったが、これから赴くのが図書室の、床を濡れ靴の跡を捺《お》すのは憚《はばか》られ、側に都合よく落ちていた布団叩き(どうやらお手伝いさんが置き忘れたものらしい)で引き寄せ、掬《すく》いあげたところ、瓶は中に紙片を封じこめていた。  〈硝子〉《ガラス》瓶の中の紙片とくればこれは手紙というのがお定まりである。こういう瓶中の手紙というのは、秘密めかした空気と一緒に封じこめられているもので、放置するなどもっての他。大体尾長の蛇に誑かされて知恵の実を盗み喰いして以来、好奇心を業としてきたのが人間という生き物で、築宮もその例に漏れず手紙入りの瓶を見過ごしにはできず、図書室まで持ってきたのである。司書女史との話の種になるかとも考えて。  ところが女史は留守のよう、かといって本だけ置いて戻るのも味気ない、では瓶中の手紙でも眺めていようかと、口を逆さに振り出したまでは覚えているのだが―――  そのまま、午後の静けさにとろけるように眠りこんでしまったものらしい。  一体どれだけ眠っていたのやら。  銀の懐中を確かめようと、手紙を傍らの卓に置いた時だ。その手紙が独りでに浮いて、音楽記号のような軌跡を描いて舞い戻ったが築宮の膝元へ。  といって、なにも、紙葉に載せられていた想い故に、その一瞬だけ生ける者の世界に足を踏み入れたなどの叙情的な事態ではない。  築宮の鼻先を、幽かに埃と古い紙の匂いがくすぐった。図書室では馴染みの匂いだが、空気が動けば鼻につく。どこからか吹き寄せてきた風が、手紙を青年の膝に置き戻したと言うだけのこと。  しかしどこの窓も扉も開いている様子はないのに、一体どこから吹きこんできたものやらと、首を傾げた築宮へ、 「読んで、しまいましたね?」  独りだと思いこんでいたところへの呼びかけは、物静かで穏やかな声であっても青年の度肝を抜くに十分で、電極でも押し当てられたように体が跳ねて、で、椅子もがたり、傍らの女性の出現は全くもって唐突だった。 「あら……驚かせてしまいましたか?」 「や、あの、そんな。  ……ただ、自分だけだと思っていたので」  正直に驚いたと白状するのは、この女性の、淑やかで落ち着いた姿に対していささか礼を欠いているような気がして、築宮はたどたどしげな言い訳を吐いてしまう。  上品な雰囲気の熟女で、司書女史とどこやら似通った気配を感じさせるが、この人には司書なら鬼女と言われても納得させるような、あの底知れない妖しさはない……比較の問題だが。  ともかく、手紙の事だ。宛名でもない自分が読んでしまった事を咎められたような疚《やま》しさに駆られ、 「いや、まだ読んじゃいませんよ。  恥ずかしげな話だが、  目を通す前に、うたた寝してしまって」  よく考えずとも、その言い訳は読むつもりがあった事を問わず語りに明かしているようなものなのだが、築宮の答えがどうあれ女性は首を振って指摘した。 「でもあなた、これは、 『大事な手紙だから、届けないといけない』  って、そうおっしゃったじゃないですか」 「読まないことには、  大事な手紙かどうか、  わかりませんよねえ」 「そう……でしたっけ……?」  責める鋭さはなくまろやかな、叱る厳しさもなく大人しげな、耳に柔らかく響いた声だったからか、築宮は、二人を取り巻く空気があやふやに緩んだような錯覚を受けた。   『大事な手紙だから、届けないといけない』    自分はそんな事を言っただろうか? でも言われてみると、なるほどその手紙にはとても大事な事が書かれていたような気が……しないでも……ない?  いや、確かにそうだった筈と、醸《かも》し出された空気のあやふやさにぼやかされるように、手紙に関する築宮の記憶が更に薄くなり、残ったのは恐縮の気持ちばかり。  人の手紙を、勝手に読んでしまったという。  だから、 「申し訳ない、好奇心に負けて、ついうっかり読んでしまいました」  と恐縮しながら謝罪したが、女性はあくまで優しかった。 「別に責めている訳じゃありませんわ」 「そこの、瓶の中に、入ってらしたのでしょう?」 「瓶詰めの手紙なんて、  もともと誰に読まれるのか、  定かではないんですもの」  女性は頬に物わかりのよい微笑を留め、築宮を〈剣突〉《けんつく》と責める様子はなかった。  築宮の胸にだらしなく広げられたままの手紙を取り上げ、綺麗に伸ばしてまた手渡したのが、美しい千代紙を扱う丁寧な手の遣い方。  衣装の袖がたわむと、布に焚いた香か、肌に振った白粉か、深く沈んだ〈丁子〉《ちょうじ》の薫りが〈馥郁〉《ふくいく》として、幽かに通って、夕闇に映える花の匂いが芬《ぷん》と漂う。  女性というのは、皆こんなに佳い匂いを着るものなのかと、床《ゆか》しく憧れつつ、築宮は手渡された手紙をなんとなくズボンのポケットにしまいこんだ。 「……届けて差し上げたら、  いかがですか?」  女性はそう奨《すす》めると、別れの挨拶して築宮からついと離れたが、去り際、 「けれど、手紙の事は、  ここの主に告げない方が良いですよ?  きっと、取り上げられてしまいます」  と不可解な警告を残したが、それより築宮が不審に思ったのは、彼女が図書室から出ていくのではなく奥の司書室へ入っていった事である。  あそこは司書女史がほとんど私室のように使っている部屋だったからだ。  もしかして女史の知り合いなのかと司書室を眺めやった時、また一撫での風、今度は扉が開いて空気が通った、戻ってきたのがその女史なので。 「あなたのように、自分から返しに来てくれるお客さまも、なかなかいなくてね」 「……〈延滞〉《えんたい》については、あんまり細かいことは、言ってないけれど」 「まあそれでも、ここが図書室だって言う、その体裁くらいは、採っておかないと、ね」  茶の革手袋の手が抱え上げたる書物の数冊、あちこちの書架に戻していく司書女史の台詞三つは、一度に三方から届いたように思えたし、彼女の豊かな髪を波打たせた背中も、すぐ手前の書架にしゃがみこんでいるの、数列を隔てた向こうで背伸びしているの、はたまた中二階の高い棚へと、取り外した例の義手の先に持たせて押しこんでいるのと、異なる三箇所に別れて同時に作業しているように見えて、築宮は我が目を疑い、軽い〈目眩〉《めまい》に瞼を下ろした。  で、次に目を開けた時には女史は一仕事終えて、青年の前で、肩口に乱れた髪を後ろに流して〈嫣然〉《えんぜん》と。  もちろんその女史は一人一つの体。〈立川文庫〉《たつかわぶんこ》の忍術使いであるまいし、分身の術なんどとは目の迷いだといわんばかりのしっとり落ち着いた立ち姿で―――築宮は、深く考えこまない方が得策だと悟った。  この女相手に一々仰天していては、天の仰ぎすぎで首が深刻な神経痛に見舞われてしまうだろう。 「だから、有難うございます。  ちゃんと本を返しに来てくださって」  皓《しろ》いブラウスの、ふっくらした胸元に落ち葉の形の飾りのように掌を留まらせ、〈一揖〉《いちゆう》もしなやかに、 「でも、本の事は分けたって、  貴方がいらしてくれるのは、  とっても嬉しいわ」  伏し目にした眦《まなじり》に引いたは、まるで待ち人来たりし女の風情か、まさか書物の返却をそんな情味で迎えられようとは予想もせず、築宮はどきまぎしながら礼を返す。  図書室の古びた書物の群が〈醸成〉《じょうせい》する森閑とした雰囲気を、築宮はそれだけでも愛好する者であるが、そこにこの司書女史の姿を見ると〈点睛〉《てんせい》を加えるどころでない。  過去の記憶を失った筈の自分なのに、見覚えのある本を見つけたのがここであり、それも手伝ってこの図書室にはなにかしら引きつけられるものを感じているのだが、それだけでない。  築宮は、彼女に会いたくて足を運んだのだと、今さらながらに気づいた次第である。 「なのに、待たせてしまって、ごめんなさい。せめてもお詫びに、お茶でも差し上げたいの……いかが」  と女史は、彼女の司書室へと目で指してみせたのだが、築宮はそこで先程の女性の事を思い出した。 「お誘い、有り難く受けます。  ……だが、そっちには先客がいるようだ」 「……先客?」 「ああ。ついさっき、女の人が入っていきました。貴女の知り合いだろうか」  築宮にしてみれば、目の当たりにした事実を素のままに、なんの虚飾も交えず告げただけのつもりだったのが、司書の反応は意外だった。彼女は不審げに眉を潜めたのである。 「それは、妙なこと」 「妙って、なにがです。  上品そうな女性で、少なくとも物盗りの類とは思えなかったが」 「女を見た目で信用しないこと。  なんて、ありきたりの警句はともかく」  その警句を、まず真っ先に目の前の女性に採用して今後はもっと注意深く接するべきではないかと、築宮は要らぬところで警戒心を喚起されたが、さすがにそれは顔には出さずにいるだけの分別はあった。 「それにね、司書室は、司書不在……私が留守の間は、特に許された人の他は、入れないようにしてあるのよ」 「特に鍵などは、掛かっているようには見えなかったが?」 「鍵なんて野暮なもの、  誰が信用しますか」 「とにかく、そのように取り計らってあるの。だから、外から誰かが入っていったなんてこと、有り得ない筈なんだけど……」  ……古の術者は、己の聖域と区切った場処には結界を張って、不心得者の侵入を遠ざけたという。おそらくは司書が言っているのはそういう事柄なのだろうが、〈陰陽〉《おんみょう》だろうと〈呪禁〉《じゅごん》だろうと〈厭勝〉《まじない》の理など知らぬ築宮には縁の遠い話で、そういうものかと納得するしかない。なんにせよこの司書が言うのならその通り、不在時に許可無き者は立ち入れぬ仕組みなのだろう。  それでも、青年が女性の入室を見たのは、たとえ寸前までは眠っていたとしても目覚めた後で、あれに見間違えはない。  そう築宮が主張すると、女史は女史で青年の言葉を疑う法はなく、外から押し問答していても始まらない、というもっともな結論に落ち着いた。  で、二人連れ立ち、司書室に入ってみたのだが――― 「だぁれも、いないわね……」 「あ、ああ……貴女の言う通り、だが……」  あれこれ見回したところで、先程の女性は気配も残さず残り香も置かず、室内は築宮がいつか訪《おと》のうた時に見たのと同じの、色々の品々で満たされているばかり。詰め込まれていながらむさ苦しさはなく、二人が通り抜けた他には扉を隠しているような余地も、女性が潜んでいられるような隙間もない。  やはりあれは夢の続きかなにかで、見たと思ったのは勘違いだったのだろうかと、自分の認識力を怪しみだした築宮のズボンのポケットで、がさついたのが例の手紙である。  その感触に、いや、あれは現実だったと思い直す。  それがポケットに収まっているのは、女性に手渡されたなればこそ。  しかし女性がいないのも現実であり、いかさま、思わぬところで探偵小説の消失トリックじみた状況に遭遇し、困惑する築宮をよそに、司書はざっと室内を改め、特に荒らされた様子がない事を確認して、それで良しとしたようだ。  二人分の湯呑みと急須を取り出し、アルコールランプに火を入れ、茶の用意を進めつつ、 「焙《ほう》じ茶で、いいかしら?  またお徳用の物なの。ご容赦を」 「いやそんな、容赦もなにも、ご馳走していただくだけで光栄です」 「ま、お上手だこと」  と目を細くして淑やかな笑みの手の下で、湯が煮えて、急須で茶葉が開いて、湯呑みに汲まれたのが薫り高かった。  女史はいつでも徳用だの普段遣いだのと差し出すが、それは本当はお茶を専門に扱う店でも軒先には敢えて並べず、奥にしまいこんで心得た客にしか勧めない最上物であるのを敢えて〈謙遜〉《けんそん》して言っているのではないかと勘ぐってしまうほど、彼女が淹《い》れるお茶は素晴らしい。  いま啜《すす》ったのだって、焙《ほう》じたてのところを煎じたように薫りも味も冴えて、夕立に濡れて際立つ松の葉や、山霧の間に間に〈初茸〉《はつたけ》が香っているような、そんな〈清冽〉《せいれつ》な味わいで、茶と言うより気体の精髄を口に含んでいるかのよう。  一口で、築宮の中でいまだ腑に落ちないでいる、あの女性の消失への疑念などどうでもいいことなのだと浄められていく―――せっかくのところだったのに、司書がわざわざ訊ねてきたのである。 「まあ、貴方が言ったことを疑うつもりはないけれど。  ……どういう人だったのかしら?」 「と、訊かれても……二言三言口をきいたばっかりで。  確か、こんな感じの―――」  と、青年は女性の容貌を伝えようとした今になって、彼女の顔の印象がひどく曖昧であることに気がついた。今さらながら。  むしろ印象に残っているのは服の模様の方で、そういえばこんな模様の服を着ていたと答えると、女史は黙考しばし、なにごとかを了解したように頷いて、 「そう……その人から、なにか文、手紙のようなものを受けとらなかったかしら」  受け取ったのではなくこれは自分が拾った瓶に……と素直に吐きそうになって、築宮の脳裏に先程の警告が蘇った。 『ここの主に話したら、きっと取り上げられてしまう』―――との。  その時は聞き流したのだが、司書女史は何故か手紙のことを、築宮が語る先から心得ている風なのだ。  それが、あの女性の言葉を裏打ちしているような気がして、築宮は口ごもり、嘘をついてしまったのは、どうしてなのだろうと、後から彼自身不審に感じた事なのであるが。 「いや……なにも心当たりはないです」 「それならそれで、別に構わないのだけど」  女史はそれ以上は深く追及はせなんだが、自分を見つめる眼差しに不審が潜んでいるように思われてならなかったのは、築宮の後ろめたさの故だろう。  もうどれだけ美味しいお茶であっても、隠し事をしてしまうとどうにも味わいに没入できず落ち着かない。  結局築宮は、司書女史との折角の一時だというのに早々に席を立つ事にして、図書室を辞したのである。  図書室から離れた段になって、読み終えた小説の替わりになるような本を借りてこなかったのを思い出したわけだが、それでも引き返す気にはなれなかった。  さて、部屋に戻った青年がまずしたのは、戸から廊下に顔突き出しての左右の確認、茶々を入れてくるようなお手伝いさんなどが近くにいない事を確かめたのだ。  〈文机〉《ふづくえ》に手紙を広げたのはその後の事、司書女史に黙っていたところで別に悪いという事もない筈なのに、彼女の意に背いたという意識は拭い去りがたかったが、しかし興味が勝ったのも事実。 (まあ、本来の宛先に届けるにしたって、誰に宛てたのか、まず確かめないとな……)  女性に勧められた通りにするにしても、まずは誰に宛てられたものなのか判らないのではにっちもさっちもいかぬ。  と、わざわざくどいほど自分に言い聞かせたのは、まるで他人の秘事を盗み見るような疚《やま》しさが募りはじめたからだった。  そういった行為に少なからぬ抵抗を覚える築宮青年をして、敢えて戒めに目を瞑《つむ》らせた事からして、瓶詰めの手紙というのは侮れない魔力を有しているらしい。  手紙の文面を追いかけ始めた青年の、いかがわしげな〈猥本〉《わいぼん》をめくるような後ろめたさは、しかしあっさりと萎《な》え萎《しぼ》んだ。  というか、途方に暮れた。  なんとなれば手紙は毛筆書き、それもすこぶるつきの達筆で、〈水茎麗〉《みづくきうるわ》しいと言うやつなのだが、上手に過ぎてちょっとすぐには解読できそうにもないくらいだったのだ。  これでこの築宮青年、図書室の漢字の濃い本なども割合すらすら読めるくらいの〈識字者〉《ものよみ》だし、宿帳に名を書きこんだ際も、記憶を失ったままに毛筆を取った。字にも、筆書きにも、それなりの心得があるようなのだが、その彼にしても歯が立たない。  手紙と言うより〈玉章〉《たまずさ》と言ったが適当な、古文書と対決しているような塩梅である。  筆致を辿る、眼力だけでも紙の地をへこませかねない睨めっこで、判別できそうな文字を拾い上げようとしても、そもそもどこからどこまで一区切りの語句なのか文字なのかさえ、見当がつかない始末なのである。これはせいぜい女の手になる筆致であろうと思ったのだって、直感が告げたからで、文章から判断したわけではない。  目をすがめ、鼻先を突きつけ、文字の流れを凝視するうち、無駄な神経を使いすぎたか、なんだか頭痛さえ催してきた心地に、築宮、とうとういったん諦める事にした。  じきに日も暮れる、〈夕餉〉《ゆうげ》の時間もやってくる。そんな時まで解読不能の文に引きずられていては、きっと消化に差し支える。  引き出しにしまいこみ、天井を仰いで目を閉じれば、瞼の裡側がじんわり熱っぽかった。  この文、どうにも青年一人の手に負える代物ではないようで、となれば誰を頼る―――?  こういう文書に〈造詣〉《ぞうけい》深そうな司書女史に黙って持ってきた以上、彼女を頼るというのがそもそも論外で、また築宮の頭痛の種となるのだった。  〈紅殻格子〉《べんがらごうし》窓の朱も差せば、剥げかかってはいるが〈襖絵〉《ふすまえ》に貼り込まれた金銀の箔が往時の彩りを残し、と、それなりに色味を散らした通廊の展望に慣れた目には、お帳場は色彩に乏しく、古い時代の写真であるまいに、陰翳の濃淡だけで構成された、渋味は、この大なる旅籠の事務方の集積部としてはむしろ似つかわしい。  〈算盤〉《そろばん》を弾く音、束ねた帳簿を机にとんとんして端を揃える音、箪笥の引き出しを使う音、それぞれは細かながらも小気味よく歯切れよい、忙しさを音にしたようなざわめきから少し外れて、令嬢は〈帳場格子〉《ちょうばごうし》からの明かりを文に当てた。 「ああこれは―――」  読めますかと勢い込んで前に乗り出した築宮こそ性急というもの、 「佳いお手ですねえ」  〈墨跡〉《ぼくせき》はすっかり乾いて掠《かす》れるおそれはないけれど、〈水茎〉《みづくき》なよやかなを愛でるようにそっと指でなぞった、令嬢の手は〈雪花石膏〉《せっかせっこう》の作り物めいた白で、むしろ重ねた和紙の方が人肌の柔らかさ。 「それで、読めそうですか……?」  と築宮は上から覗きこんだが、令嬢の、肩口の左右に流れた黒髪のあわいの首筋で、霞《かす》むような産毛にはっと気後れを覚え、慌てて姿勢を直した。 「ええ、どうにか。  ―――しばし、お待ちあれ」  築宮青年は、読めぬ文のもどかしさ、あれこれと思案を巡らせた挙げ句に、お帳場に持ちこむ事を思いついたのである。  旅籠に到着したその日(今となっては随分日を隔てた昔のようだ)、青年が自分の名を記した宿帳、この宿の歴史も一緒に綴じ込んできたようなあの宿帳には、千差万別、様々の筆跡で書きこまれてあった。中には筆書きのものもあり、といって青年が、その名の連なりの中から手紙と同一の筆跡を探し出せると短絡したのではない。  そういった多様な筆致に書きこまれた宿帳を改める立場の者ならば、この難解な文を読み解けるのではないかと、そう思い至った故である。  ただ築宮は、お帳場に来るまでは〈漠然〉《ばくぜん》と、お手伝いさんの誰かしらに頼めばよいかと考えていたところ、戸口に立った彼を迎えたのが令嬢だった。  彼女はいつも通り、〈小取廻〉《ことりまわ》しに指示を出しつつ自らも帳簿仕事の最中なのであったが、築宮を認めると手を止め、わざわざ立ち上がって青年を迎え入れた。  表情は相変わらず愛想というか潤いに欠けるが、それで邪険な風でない。思うに令嬢は顔から読み取りづらいだけで、無愛想で冷たい人間というわけではないのだろう。  なにしろ、令嬢の硬質な佇《たたず》まいに気圧され、下らない用件を持ちこんでしまったかと、途端に要領を得なくなった築宮の説明を呑みこむや、自ら役を買って出たのである。 「そういうお話なら、  私が読んでみましょう」  と。よもや旅籠の女主人の手づからこんなよしなし事を引き受けてもらえるとはさすがに予想外だった青年を、片隅の窓際に導いての手紙の読み解き。 「築宮様のご依頼とあれば、造作もない事、  ……と言いたいのですが、私とてそこまで書に堪能なわけではないんです」 「もし読めなかったら、  ごめんなさいね……」  青年には〈謙遜〉《けんそん》だろうと思われた、断りを述べて、読み始めたのがつい先程の、 「本当にこれは、いいお手です。  ええと、はい、どうにか読めます……ね。  ええと―――」  声がどこか上の空だったのは、文字の流れに自分の心を添わせるように追いかけているからで、そこへせっかちに呼びかけなどしては、令嬢の〈専心〉《せんしん》の障りになると〈固唾〉《かたず》を呑んで待ち構える築宮に、ようやく顔を上げたのだが――― 「あの、これ……今さら言うのも遅いんでしょうが……。  私などが読んでしまって、よろしかったのでしょうか」  表情に乏しい彼女の面なのに、戸惑いの色が浮いているのが築宮にも見てとれた。 「いや、先程も言ったがこの手紙は、  瓶詰めにされて水路を流れていたんです」 「つまり、誰が拾い上げて栓を抜いたものだか、元々定かじゃない。  だからきっと、誰が読んだって差し支えはない……」  と繰り返し説明しても令嬢の困惑の相は消えず、そこで築宮も俄《にわ》かに不安に駆られた。  もしや、自分の如き好奇心のみの手合いが、戯れに読み解くのが憚《はばか》られるほどのなにか重大事が記されていたのか、と。  かといってそんな重大事といってどんな事柄が当てはまるのか、築宮には見当もつかないのだが、令嬢は戸惑いを目に溜めたまま首を振った。  その戸惑いの中には、気恥ずかしさも混ざっていたのだと気がついたのは令嬢の言葉を聞いた後なのが、やはり築宮、察しが悪いというか、鈍い、この手の事柄に、疎《うと》い。 「これは多分、恋文です」  言葉少なに告げて、令嬢は俯《うつむ》いてしまった、他人の恋文を覗き見て囃《はやし》したてるようなのよりは、よほど好ましい床《ゆか》しさ慎ましさだが、そうさせてしまったのが自分だと思うと、築宮も後ろめたさが首の後ろにずんと響いて俯《うつむ》いた。  障子戸の薄白に男女が二人、向かい合っていずれも俯《うつむ》いて、帳場の〈喧噪〉《けんそう》を遠く隔てたように聞いているというこの構図、ややもすれば〈煩雑〉《はんざつ》な仕事の隙間をどうにか縫うて、時間を繰り合わせ、〈気忙〉《きぜわ》な〈逢瀬〉《おうせ》と見《まみ》えたのに、いざお互いの顔を前にすると言葉につまった、の、〈情趣纏綿〉《じょうしゅてんめん》の〈気色〉《けしき》がある。  いや、いや、と築宮は気を取り直した。  たとえ文がどうなとあろうと、全く見も知らぬ者の色恋にこちらまで染められるにはあたらないし、ここまできて尻込みしてしまうのも虚しい。  こういう話は、いたづらに照れたりするから進まなくなる、〈野面〉《のづら》でやっつけた方が早いのだと、務めて厚かましいを装って、令嬢に問いかけた。 「恋文だとしても、  水路なんかに流した時点で、もう隠してはおけない」 「俺たちが気に病むこともないでしょう。  で、なんと書いてあったので?」  令嬢も築宮に説かれて納得したように、普段通りの無機的な表情を取り戻すと、一つ頷いてざっと要約をばしてみせた。 「なるほど、築宮様のおっしゃったのも道理です。こちらが恥ずかしがるのも、おかしいお話」 「野暮と承知で、どんな文面なのかをかいつまんでみますとね、この文は―――」  令嬢曰《いわ》く――― ―――この文をしたためたのは、これは築宮の予想どおり女性であるようだ――― ―――手紙の相手は、旅籠に最近やってきた旅人であるらしい事――― ―――親切で、礼儀も正しくて、けれどどこか世間知らずのあなたの事を想うと、夜も眠られません――― ―――あなたを想いつつ、独り寝《ぬ》る間の明くる夜は、いかに久しきものかとぞ知る―――  といったことが切々と、書き手の気持ちが行間から、墨をぼやかさんばかりに綴られてあるそうで。黒々とした筆致なのに、そう聞くと妙なる情けの色味が滲み出てくるかのようだった。  築宮は、それで誰がどんな相手に宛てたものか読み取れそうかを問うたのだが、宛名は見えず、名前を特定できるようなくだりもなくて、この文面からは書き手から相手への思慕の念くらいしか読みとれないとの由。  それでは埒《らち》が明かないと顎に手を当てた築宮だったが、ふと気づいた。 「でも、最近来た客だ、  と書いてあるんでは?」  令嬢は、旅籠に到着した客と一通り面通しをする。その彼女なら、ここ暫《しばら》くのうちどのような客が来て、そのいずれが書き手の〈懸想〉《けそう》相手なのか、見当がつかないかと、築宮はそう考えたのである。  しかし令嬢は、青年をまじまじと見つめ直す事で答えとした。その視線の意味を測りかねて、不審に眉を潜めた築宮に、 「ここしばらくは、お客さまの訪れもとぎれとぎれで、最近いらした殿方と言っては」 「築宮さま、あなたぐらいしか、いらっしゃらないのですが―――」 「ないない、それはありません」  彼にしては珍しい、打てば響くような即応を、鼻面の前で掌を振りながらで、多少なりとも自意識のある若い男なら、己を好いた者がいるらしいのを即座に否定する事に空しさを覚えようものだが、築宮にとってはそれこそ毒にも薬にもしたくない〈自惚〉《うぬぼ》れなので。  大体、この宿に着いてそんな風に想いを寄せられるような女性など心当たりもないし、そもそも、文面の描写と自分とでは隔たりがありすぎる。  令嬢から聞かされただけでも、文の相手は一体どこの貴公子かという目覚ましさ、そんな素晴らしい人間が、こんなもっさり風采の上がらぬ自分である筈がないと、己に対して過信を抱かないのは美徳なれど、そこまで言いきってしまえるのも、それはそれで物哀しいのではないか……とまれ、 「絶対に別の誰かだ。  他に、俺以外に当てはまりそうな男性客というのは、最近、いないんですか?」 「お客さまが少ないのは、  自慢にもなりませんが、  このところは築宮さま、ただお一人」  こう言うときだけ、力強く自信に満ちた言葉は否定の文句の築宮に、令嬢は珍しく幽かな苦笑に唇をたわめて、こちらも言いきった。  手紙を取り上げ、〈左見右見〉《とみこうみ》して、鼻先に翳して〈香合〉《こうあわ》せの鑑定のように紙と墨の匂いを吸いこんだりなどしながら、 「書かれている紙は……、  それなりに古びていますね」 「墨の匂いも……少し褪せているように思えます」  名探偵なら、現場に残された煙草の吸い殻だけでも犯人の社会階層や人となりを探り当てもしようが、探偵ならぬ旅籠の女主人なるのが令嬢の、さすがに文だけでは掌《たなごころ》を指すように書き手の風貌を描き出す、とまではいかなかったけれど、それでも築宮が見落としていた観点をもたらした。 「もしかすると、この手紙自体は、  前に書かれていたものかも知れません」 「あ……そうか。  俺はまた、拾ったのがつい昨日だから、  手紙自体も近いうちに書かれたものだとばっかり」  文字の難解さばかりに目が向いて、古さや匂いにまでは気が回らなかったけれど、なるほど、二人の側の壁に〈鋲〉《びょう》で留められた半紙の、   『今週の標語 お腹が空いても         つまみ食い厳禁    』    という、どうやらお手伝いさんの手になる標語は書かれて間もないようで、墨は匂いからして鮮やかで真新しい。  比べるに手紙のは、書かれてから随分と日を置いているようだ。 「ええ、だから、そうすると、文の中で『最近やってきた旅人』と記されてはいても、時期としては以前になるかも」 「けれども、そうなると、もう余計に誰のことなのか、わかりませんよ。  文には日付も書かれていませんし―――」  そこで令嬢は言葉を切って、もう一度文面を改めてから、こう告げた。 「それに、この手紙は、  どうやら完全ではない様子です」  文章の切れかたから察するに、この後にも続きがあるらしいとのこと。  そうは言っても、拾い上げた瓶の中に入っていたのはこれだけだった。  つまりはこの文一枚だけでは、正しい宛先に届けることなど到底できそうにないと、築宮は、落胆したような気が抜けたような心地に陥る。だがそれは同時に安心感も伴っていたかも知れない。  図書室で出会った女性は、如何なる意図で青年に文を届けるよう勧めたのかは知らねど、いつしか強迫観念とまではいかずとも、青年にそれに近いような気持ちを抱かせしめるようになっていたのである。 (なにも判らずじまいだったのは、  まあ残念といえば残念だが……。  もう気にしないですむな)  こう独りごちて頷いたのを、令嬢は築宮がなお考えこんでいると勘違いしたのか、一つ頭を下げた。 「……ごめんなさいね。  わざわざいらして下さったのに、  たいした力にも、なれませんで」 「いや、こっちの方こそ。  忙しいところを飛んだ用事で押しかけてしまって、申し訳ない」  表情も声の調子もやはり〈抑揚〉《よくよう》が薄いのだけれど、令嬢が力至らぬ己を詫びているのは感じられて、築宮は慌ててとりなした。  気がつけば、書き物の手を止めこちらの様子を窺っているお手伝いさんもある。別段咎めだてするようなのではなく、女主人と一人の客がなにを話しこんでいるのか好奇をそそられた眼差しなのであるが、彼女達の仕事に要らぬ茶々を入れてしまったことには変わりなく、築宮、据わりの悪さを覚え始めた。  これ以上お邪魔してはと恐縮しきりで、手間を取らせた詫びの言葉を並べて、築宮はお帳場からお暇《いとま》する。  ―――が、水路流れる通廊まで降りてきた築宮は、後ろから呼びとめられた。 「あの築宮さま……」  振り返り、何事かと問うでもなく築宮は、自分の〈迂闊〉《うかつ》が怨めしくなった。  令嬢の手には件の手紙、どうやらお帳場を出たはいいが、肝心の手紙を置き忘れてきてしまって、わざわざ令嬢が追いかけて届けてくれたと言うことらしい。  平謝りに謝って、手紙を受け取った時の、いやはや決まりの悪さといったら。  置き忘れた手紙を取り戻してから改めてポケットにしまいこみ、己の〈粗忽〉《そこつ》さに額に滲んだ汗を拭みながら築宮は、帳場に戻っていく令嬢の背中に頭を下げた。  さて、と水路の面が貴石の切り子面のように光を弾いているのに目を落としながら、考えこむ。  手紙に書かれている事はおおよそ判ったが、宛先についての手がかりはないに等しく、想い人であるらしい男性の特徴だってずいぶんと〈漠然〉《ばくぜん》としたものだ。  これでは届けるなど雲を掴むような話で、大体旅籠にはどれだけの男の客がいるのだ、という。  片っ端から虱《しらみ》潰しにしていくのはおよそ現実的な手段とは言い難く、どこぞの強制収容所で囚人に課される、穴を掘ってはまた埋めての繰り返し作業とどちらか増しかと問われてすぐには答えづらい大仕事になるのは間違いなしの。  だいたい、こんな海のものとも山のものとも知れぬ手紙の断片にかまけるなどは〈夢野久作〉《ゆめのきゅうさく》もいいところ、それより自分にはもっとやらねばならない事があるだろうと、青年はほろ苦く自嘲する。  たとえば失った記憶の回復に務めるとか、自分の過去を思い出すよう努力するとか、〈出処進退〉《しゅっしょしんたい》明らかならぬ己の来し方行く末を見定めてみるとか、などなど、などなど。  と言い方を換えてもこれは皆同じ事なので、そんな風に言葉遊びに興じるのは現実逃避の一つの形である。 (逃避か、俺は逃避しているのか?)  気づけば情けなさが背筋を這い上がり肩口から厭味たらしく囁きかけてくるかのようで、青年は苛立ちをついつい足元に落ちていた瀬戸物の〈欠片〉《かけら》にぶつけて、蹴り飛ばせばぽちゃり、水路へ飛んで水面を乱した。 「なんにしても、この手紙のことは忘れた方がいいって事だな……」  いちいち自分に言い聞かせるように口に出したのは、言葉と裏腹に、手紙に妙なくらい想いが残ってしまっていたからである。  喉に小骨をひっかけたようにもやもやが消えず、そもそもこんな水路が瓶を自分のもとへ運んできたのがいけないと、全くもって埒《らち》の明かない逆恨みで流れを睨んだ時だった。  水路の先、折れ曲がって入り組んだ辺りに小舟の〈舳先〉《へさき》が覗いたのだ。  どうやら渡し守が、今日も旅籠のあちこちを漕いで回っているところらしい。  ふと心に浮かんだのは、渡し守に訊ねてみてはどうだろうかという閃きで、水路は彼女の領域である事だし、それにあの割れ般若の面の不思議な女は、どうやら旅籠のあれこれに通じている節が見受けられる。  彼女の知恵を借りられればあるいは、と、築宮は足を留めて小舟を待ち構えようとして。  ぎし、と櫂の軋みが鳴って、ぎい、と通廊の床を蹴った軋みが重なって、小舟を待っていた筈の築宮は、近くの座敷に身を押しこんでいた。  なんとなれば小舟の〈舳先〉《へさき》に座して、女神の船首像じみた容《かんばせ》の、水路渡る微風に髪をなぶらせていたのが図書室の司書女史だったからである。  司書女史には敬意と僅かな畏れとその豊麗な肢体への情欲とが綯《な》い交《ま》ぜになった、微妙な陰翳の憧れとも好意ともつかぬ気持ちこそ抱きはすれ、こんな風に身を隠さなければならないような罪悪感は、本来持ち合わせぬ築宮なれど、今回に限ってはポケットに〈嵩張〉《かさば》る手紙が彼を女史から遠ざける。  始めに素直に打ち明けず、手紙の事を隠してしまったという負い目が青年に、女史と正面から向き合う事を躊躇わせるのである。  それにしても、と障子戸に自分の影を落とさぬよう注意しながら、築宮は細く開けた隙間から小舟の様子を窺う。  司書女史を、図書室以外の場処で眺めるのはいささかの違和感を覚える。たしか女史は、昨日延滞の書物を回収してきたばかりで、他にそうそう図書室というヤドカリの殻から出張るような用事は考えづらい。  如何なる用向きがあるのやらと青年が勘ぐる間にも、小舟は彼が潜んだ座敷のすぐ前まで差しかかる。築宮はより一層の用心で息を殺し、なにか会話の端々から聴き取れないかと耳を澄ませたのだが、司書は典雅に座して無言、渡し守は渡し守で、悠然と櫂を使いつつも無言、三人寄れば姦しいけれど一人欠けては成り立たぬとばかりに、二人に行き交う言葉はない。  とりたて険悪というのではなさそうだったが、どちらも、成熟した猫族を思わせる孤高で小舟の〈舳先〉《へさき》と艫《とも》に別れているばかり、思うにこう言うアクが強い女というのは、お互いの磁場が反撥し合うのではないだろうか。  そういえば司書女史は鬼女だと言うし、それは築宮も薄々真実と気づいている、かつまた渡し守の被る割れ面は般若であるが、細かいことを考えなければ鬼の顔、つまりこちらも鬼女だ。二人が一つ処にあると個性が重なるとかで、敢えてお互い距離を置いているのでは、と青年がやくたいもない考えを転がしていると、 「……あら……?」  と、なにやら耳を澄ますような、匂いを嗅ぐような、目をすがめるような、そんな顔を隠れた座敷に向けてきたものだから、居場所を知られたとも思えないのに築宮は縮み上がった。いや、薄い障子戸一枚ではあっさり気配を悟られそうだ。  なにしろ相手は鬼女である。  早く、早く行き過ぎてしまえと、身じろぎは愚か呼吸もままならない築宮にとって、小舟の脚は〈蝸牛〉《まいまいつぶり》よりも鈍く感じられたが、それでもとうとう、座敷の前を横切って、艫《とも》も遠ざかった。  安堵の息を盛大に噴き上げたいところを堪えてそろそろと、押し出した築宮の耳に、 「このあたりがようございますな。  こっから上がっていくのが、  お帳場には近い」 「ありがとう。  助かったわ」  初めて聞こえてきた、二人のやりとりがこれである。  見つかるかも、という危惧も忘れて障子に耳を押し当てたが、二人は言葉は最小限に留めて、聞こえてきたのは小舟の軋みと床を踏む音だけ、どうやら司書が降りたらしい。  後は小舟も遠ざかって、耳に届くのはせせらぎの響きばかりとなったが、築宮は疑念に囚われていた。  どうやら司書はお帳場に向かうところだったようだが、一体彼女がわざわざ出向く用事とは何事だ? と。  司書と令嬢が親しく交わっているという話はついぞ聞いた事もない。  もしや、自分を追いかけて―――? と築宮は、障子戸の桟《さん》を爪でぼんやり削りながら思い浮かべた考えを、すぐさま打ち消そうとしたのだが、拭い去りがたく残った。  もしや司書は、手紙の件で自分を追いかけ、頼って行きそうな処《ところ》を捜しているのではないか、と――― (なにをやっているんだ俺は……)  ……吹き抜けの廻廊の底部は、旅籠を流れる水路の一大合流点であり、水は渦を巻き、たゆたい、そしてそれぞれの分岐にまた流れていく。  〈孫楚〉《そんそ》なる古人が、〈俗塵〉《ぞくじん》を離れた境地を、石を枕にし、流れで口を漱《すす》いで、と賢《さか》しらに謳《うた》おうとしたところを、身につかない言葉とあって、流れを枕、石で口漱《すす》ぐと言い違えた。水の流れに頭を横たえたら溺死かさもなくても風邪を引くのが関の山だが、俗事ばかりを聴いて詰まった耳を洗うのだと強がったところが、いかにも大陸の人間らしい負けん気で、なんにしても流水というのは洗い、流し浄めるものである。  しかしそんな流水を〈俯瞰〉《ふかん》していても、築宮の目はしょぼついて、水面で跳ねる光は眩《まぶ》しいだけ、瞼を閉じれば残光がじんわりと沁みるようだ。  目の下にはうっすら隈がこずみ、ここ数日彼の眠りが安らかならぬ事を示している。  というのも、床についても例の手紙の事が気になってならず、引き出しの奥にしまいこんで忘れようと務めても、その忘れようと足掻く事がかえって神経を悪く冴えさせて、心地よい筈の布団が寝苦しくなるという悪循環。  これでは自分という存在は何処から来て何処に行くのか、などと思い患《わずら》う思春期の子供のようではないかと、そんな情けなさが、廻廊の手摺りに凭《もた》れて水路に呟いた、先程の独り言に集約されていた。  こうなったら納得のいくまで調べ尽くした方が、精神衛生上よろしいと言うことは、築宮にもいい加減了解されてきた事なのだが、そうするにしてもどこから手をつければ皆目見当がつかないのだ。 (あの人もまあ、よくも簡単に、 『届けて差し上げてはいかが』  などと勧めてくれたもんだ……)  こうなると図書室で出会ったあの女性の〈言霊〉《ことだま》に呪いをかけられたようなもので、たかだか一葉の紙片が〈千鈞〉《せんきん》の鉄塊の重さで築宮の心にのしかかる。 (恋文……などと中途半端に判ってしまったのも、いけないんだろうな)  築宮青年にとって、恋は未知のものである。  過去にはどうあったとしても今は記憶が失われており、恋なる心境がいかなるものか、想像するくらいしかできない。  それでも―――  書き手が、一体どういう想いを墨とともに筆に含ませ、一葉の手紙の中にしたためたのか、とか―――  相手には、やはりあんな瓶詰めにせず、しっかりと届けたかったのだろうか、とか―――  それとも本当は、しまいこんでしまいたかったのに、想いを秘め置くことに耐えられず水の流れに委ねたのであろうか、とか―――  ぐるぐると、それこそ淵で渦巻く水にも似て、思考は堂々巡りの繰り返しなのだった。  とはいえ、どちらにしても手紙は築宮が持つ分だけでは断片に過ぎず、それ以上の手の施しようがないのが現実か、否、一つ手があると、青年はせいぜい〈酷薄〉《こくはく》な笑みに唇を釣り上げようとした。  自分が拾った時のように、瓶詰めにして水路に逆戻りさせてやればいい。たとえばこの廻廊から、これまでの厄介と一緒に打ち捨ててやるのはさぞかし佳い気分だろう……とシニカルな笑みはそこまでで立ち消えた。  そんなのは、この青年の性分ではないのだ。  大体にしたところ、笑んで見せたつもりだろうが唇と頬が変に歪んでいるばかりで、全然似合っていない。  おそらく青年にできるのは、引き出しの奥の手紙の存在を忘却しきれず〈悶々〉《もんもん》としたまま、自然消滅的に〈沙汰止〉《さたや》みになるのを待つだけだろう……。  ……とどうにも煮え切らぬ気持ちのまま、自室に戻った築宮だったが。  窓を開け放ってみたのは、ふと座敷に風を通したくなったせいもあろうが、無意識のうちに予感していたのかも知れない。  なんの気なしに水路を見下ろした時―――  窓の外に設えられた、水路に降りる梯子段の根元に引っかかっていた〈硝子〉《ガラス》瓶を見つけてしまって、見なかったことにしてしまいたかったがもう遅い、それに彼は、自分に都合の悪い学説や証拠は見なかったことにするのが得意の〈水勝田〉《ミナカッタ》教授でもない。  予感は瓶を見た時からはっきり〈顕在化〉《けんざいか》し、手はほとんど引き寄せられるように瓶を拾い上げた。  中にはまた一葉の紙片。  案の定前の手紙と同じ筆跡。  そして拾い上げたはいいものの、やはり読めないのも同じ。  前の手紙と共通する文字の形を拾い上げてみても、飛び飛びで全然意味が掴めない。  もう一度令嬢を頼るかとも考えたのだが、いつも旅籠の仕事に追われている彼女をこれ以上煩《うるさ》がらせるのも申し訳ないし、内容が恋文とあってはそれをこれ以上他人の目に触れさせる事も、なんとなく憚られる。  築宮は考えあぐねた挙げ句――― 「いらっしゃい。元気にしていた?」  音楽的な声音を、耳元すぐ傍《かた》えに聞いたのが、さながら肩口を、情け知る〈迦陵頻伽〉《かりょうびんが》の柔和な羽で抱きすくめられたかのような。  なのに当人の姿は視界の中どこにも見えず、築宮には四囲の背表紙の列が悪戯して、司書女史の声音を真似たのではないかと妖しく思われた。  きょろきょろ見回せば、また声のみが、図書室の暗がりの中に届く。  古紙は強い光を厭《いと》うからと、図書室では電燈の光量は抑え目にして、陽が落ちると薄暗いのである。 「ちょっと今、手が離せなくってね」  今度は己の在処を報せることを意識したのか、声は図書室の奥から聞こえてくるようで、築宮は導かれるように立ち並ぶ書架の間に足を踏み入れる。  だが古紙が音を吸うのか、追っているつもりの司書の声の出所が、すぐそばにあるようにも、あるいは遙か遠くにあるようにも。普段ならばこんな風な迷子じみた気分になるのが、いっそ心地よく感じられる書架の谷間なのに、今日の築宮の気分はいささか微妙なのだった。  日頃なら、書架の谷間の優しい暗がりで、司書と出会うだけで、築宮の心は秘やかな歓びに満たされるというのに、今日に限っては〈臈長〉《ろうた》けて匂びやかな姿も見たいような見たくないような。 「こっちよ……」  一つの書架の角を折れた時呼びかけられたのが、軽やかな〈更紗〉《さらさ》で、頬をさらさら撫でられたようで、灯りがほんのりと――― 「高いところから、ごめんなさいね」  暗がりに慣れた目を労《いたわ》るように柔らかな、書架の谷間に溜まる翳りをそっと手で除けるような、艶めかしい灯りだった。  司書は、懐中電灯を書棚の段に置き、高い脚立の天辺に座して、書物を扱っているところなのだった。  振り仰いだ築宮に司書が〈一揖〉《いちゆう》すれば、ブラウスのたわみが流れて、図書室の静寂に衣擦れのさざ波を彩りとして添える。 「なにか、お探しの本でもあって?」 「ああいや、特にこれといって目当ての本があるんじゃない。  なんとなく、探しに来たんです」  脚立の上に見上ぐる司書は、懐中電灯の灯りを受けて暈《かさ》かけた月のよう、輪郭を滲ませ、書架の薄暗がりにあって、築宮は〈八幡〉《やわた》の〈薮知〉《やぶし》らずに迷うた者が樹上に憩《いこ》う〈魑魅〉《すだま》の女を見た心地したという。 「そうお?  それなら、こんなご本はいかが」  と捲《めく》れ加減のタイトスカートの裾を摘んで直した、それがやはり脚立の上、すらりと伸びる脹《ふく》ら脛《はぎ》は腿へ腰へと豊麗な曲線に連なり、艶々と、脚が暗がりに艶《なま》めいて、築宮はしげしげと魅入ってしまっている自分に気づいて疚《やま》しさに目を逸《そ》らした。  その目の前に差し出されたのが、手擦れの単行本だったが、それがまた、右手に持った義手の指先に挟まれているとくる。この女はこうして欠けたる部分を補う大事のものを、また平然と便利遣いの道具にする。  左腕は義手を取り外されて、ブラウスの袖を頼りなげに垂らしていたのにはなかば呆気に取られた。 「ほらなんと言ったかしら、  あの火を吐く大怪獣の映画……」  本邦が海外にも誇る特撮映画の怪獣王の名を口にして、 「その原作者のものした、秘境冒険小説よ。  〈内容〉《なかみ》は、荒唐無稽そのものだけれど」 「けばけばしい原色の夢と、  はかなげな淡色の夢とが、〈渾然一体〉《こんぜんいったい》。  めくるめく幻想の物語を、どうぞ」  義手をまた元の腕に取りつけながら、物柔らかに笑った司書女史こそが、その小説中の登場人物じみていた。  単行本の表紙を飾るイラストも、安化粧の娼婦のように悪趣味だが、それ故に招魂社の見世物小屋と同質のいかがわしげな魅力を放っており、少なからず興味を惹かれた築宮ではあったが。 「あ……っと、その、これはこれとして、  有り難く貸してもらいます、  だが今は他にも気になるのが……」 「あら? ついさっき、 『特に目当ての本』は、ないって」 「う、いや、今、途中の書架でちょっと気になるのを見かけたって事です」  と司書がよこした単行本を受け取るだけ受け取ったものの、これ以上彼女と話しこんでいてはと、青年は灯りの輪から後じさった。  この〈迂闊〉《うかつ》な舌は主を裏切って心中をつるり滑らせるというのがいかにもありそうな事、実際もう既にいきなり矛盾の〈言質〉《げんち》を吐いてしまったではないか。  この旅籠にやってきてから、身を養い舌にも滋味なる食事時が迫っていても、図書室にずるずる居残りがちになる自分を見いだしていた青年だったが、なにも突き抜けて書痴というわけでなく、この司書女史がいるからと言うのが大きい。  それであるのに築宮が、今夜に限っては、何故〈斯様〉《かよう》に口を憚《はばか》ったのかというと、やはり例の手紙の一件あるが故に。  瓶詰めの手紙の事を考えあぐねた挙げ句に築宮は、しまいに図書室を頼る事にしたのである。図書室の書物を、であり、女史ではないところが肝のところなので、築宮は書棚のどこかで崩し字のお手本を目にした事があったのを思い出したのである。  旅籠の図書室の書棚の分布は、そのほとんどが時代遅れの小説、物語本で占められていることは以前にも述べたが、これだけ分母が大きいと、専門書人文書学術書の類も、それなりには収められているという事で。  さておき、何事にも先達はあらまほしき事を綴ったのは同じ法師は法師でも旅籠の琵琶の彼女と異なり、水気も色気もない兼好法師なるが、自分の知識と手が届かないなら、先人の遺した知恵を頼ればいい。先人の業績の上澄みを掠《かす》め取る、というては人聞き悪いが、限りがあるのが人の一生、楽できる部分は楽してなにが悪い……とまで開き直らずとも、これだって解法としては霞《かすみ》を掴む部類なのである。  なにしろ一番確実かつ迅速に思われるのが、司書女史に頼ることなのだと、築宮とてそれは重々承知の助。  彼女が眸に湛《たた》えた得体の知れぬ深い淵には、きっと築宮には思いもつかないような知識だって蔵されている。その彼女なら、この難解な手紙だろうが〈蚯蚓〉《みみず》が這った古文書だろうがたやすく読み解けるはずと言う確信はある。  しかしいまだに築宮の心を、女史にあの手紙を見せるべきではないと言う奇妙な拘《こだわ》りが、抜き去りがたい針のようにちくちくと刺していて、それはおそらくあの時出会った女性の、『鬼女には見せない方がいい』という言葉に縛られているせいだろう。  だから今夜図書室を訪れた際も、心中では女史の不在を願っており、無断にはなるがこっそりと崩し字の手本を借り受けてしまおうと目論んでいたのに、いない隙を狙う、あざとい罪科も敢えて被るつもりでいたのに、やはり彼女は書架の合間で夜を番した。  確かに仮にも司書を名乗る者が、そう〈頻繁〉《ひんぱん》に図書室を空けていてはお話にならないとはいえ。 「貴女のお邪魔はしない。  そっちの作業を続けて下さい」 「邪魔な事なんて、なんにもないけれど。  お客さまのお相手だって、  図書室係の仕事でしょう」 「や、それには及ばない……ッ」  女史の申し出を手で払いながら後じさりなのが、いかにも挙動不審とは自覚しつつも、青年は懐中電燈の光の輪から暗がりに身を遠ざけた、と思いきや光はついてくる。  なぜ、と灯りの源を探れば青年は手の内に懐中電燈掴んであり、顎を下から照らして〈鬼魅〉《きみ》の悪い陰翳を彼の顔に投げ、子供が怪談にする悪戯じみているではないか。  つい今の今まで女史の傍えにあったこれが、いつの間にか手に握らされていて、合図もなく手品師の〈業前〉《わざまえ》に供された見物客でもあるまいに。 「持っておいきなさい。  目を悪くするといけないわ。  本を探すには暗いから」 「……貴女はなくって平気なのか」 「整頓も、あらかた済ませたし。  ……ごゆっくりどうぞ」  この司書女史のやる事なす事一々驚いていては、肝が幾つもあっても足らぬといい加減悟りつつあった築宮は、どうやって懐中電燈を持たせたと訊ねる無駄手間を省いて、目当ての書物を探し始める。  それに注意を向けていたから、背後で司書女史が、空気の揺らぎで鼻先に届いた青年の匂い、あくまで微細で常人なら古紙の匂いにまぎれ嗅ぎ分ける事もできなかったであろう匂いに、ふと怪訝そうな顔をしたのを見落としたのだった。  ……書架の谷間の薄暗さは、歩くには差し支えない程度とはいえ背表紙の文字を追うには光が足らず、やはり懐中電燈の助けがない事には〈難渋〉《なんじゅう》しただろう。  そうでなくとも築宮が見たと朧気に覚えているだけで、崩し字のお手本の位置は定かならず、書棚の列をあちらからこちらと渡り歩いて懐中電燈の光に目当てを照らし出した時彼は、〈払暁〉《ふつぎょう》に角雄壮なかぶと虫を幹に見いだした子供と同じ歓声を漏らしそうになったものである。  で彼が手にしていた書物は、崩し字のお手本の薄いのに加え、和綴じの奴をもう一冊の、これもあの手紙と同じで題名すらよく読めない毛筆書き、おそらくは少なくとも半世紀は書棚で無情にも忘却せられていたであろうそれを、築宮がわざわざ引っぱり出したのは、なにも突然古い時代の書物に親しもうなどと殊勝に〈発心〉《ほっしん》したからでない。  探し出した書物を書見台に並べる。  こちらの一画は夜の来客のため、文字を辿れる程度の灯りで照らされてあり、築宮が懐中電燈のスイッチを切った時、足元に落ちた影が、青年のに寄り添うようにもう一つ。 「ふうん……。  この本を読みたいのに、  崩し字が判らないから」 「こっちの教本をお手本にするのね?」  板張りの床に軋みも立てない足取りも、柔らかな身のこなしも、まさしく影から影を渡る猫さながらで、その小さくしなやかな生き物の声と同じく、呟いた声も〈天鵞絨〉《ビロウド》の耳当たりであったから、唐突な呼びかけだったにせよ、築宮を驚かすことはなかった。  それでも、やはりこの司書の追求は逃れられぬかと観念する必要はありそうで。  築宮が一件無関係に見える和綴じ本まで持ってきたのも、その為だった。これまで普通の小説、物語本くらいしか読まなかった自分が、いきなり崩し字の教本などに興味を持つというのは妙な話で、勘の鋭いこの司書ならば、きっと隠し事を悟られるだろうと考えた、それ故のいわば偽装だったのである。  内心を気取られぬよう、声も表情も平然を心がけ、 「まあ、そんなところです。  今日はこの本を借りていきたいんだが」  話に聞けば女史は勝手にこの図書室に住み着いて図書室係を買って出ているそうであり、なにも彼女に許可を求めずとも持ち出しは自由な筈なのであるが、いつの間にか旅籠には図書室の本のことは彼女に任せるべしという暗黙の了解が生じているようなので、築宮もそれに従わざるを得ない由《よし》。  しかし――― 「はい、承りました。  でも貴方、そういう事なら、私が読んで差し上げてもいいのよ?」 「ね、一緒に読みましょう?」 「……え?」  と、これは築宮の思惑の斜め上をいった申し出で、青年は一瞬答えにまごつく。  司書は青年が〈目論〉《もくろ》んだ通りに受け取ってくれたようだが、それも半分まで、願ったようにすぐには解放してくれずのこの申し出は、築宮を大いに戸惑わせた。  青年の手間を省いてやろうという〈心映〉《こころば》えも〈勿論〉《もちろん》あろうが、どうやら一仕事を終え、夜の残りに暇を持て余していた風もあり、言ってしまえば築宮には有り難迷惑というやつで。  心得た手つきで築宮を座らせると、彼女も椅子を引き寄せ隣に並べてさっそく和綴じ本を繰り開いた、それだけでも青年はなにやら流砂に片足取られた心地になったというのに、どうにもその、二人の距離が近しすぎる。  否、近すぎるを通り越し、司書は築宮に身を擦り寄せ腰に手を回しかねない勢いの。二人の影もまた、いつしか一つに寄り添った。 「し、しかし貴女にそこまでの手間を取らせるのは、気が退けるというかなんというか」 「だから、図書室係がお客さまの便宜を図るのが、なんで手間だと言うの。  ……それとも、私の読み聞かせでは、厭だとおっしゃる?」 「や、決してそのような」  ……青年は、失われた過去においても、きっと女性の勧誘には耐性がなかったに違いあるまいの、あっさりまるめこまれた。  まあ確かに、ここで女史を邪険にしてしまえば、書物を貸してもらえないという事はさすがになくとも、詮索の一つや二つは招くだろう。そして詮索は築宮の隠し事をあっさり綻《ほころ》ばせ、後はなし崩しの露見が待っているだけ。ここは女史の申し出を有り難く受けるのが得策だろう……築宮の頬がかすかにひくついたのは、きっと有り難みが過ぎたせい。  しかし築宮よ、いくらなんでも件の手紙は、そこまでして隠し通さなければならないものなのか? 秘密というのは〈露呈〉《ろてい》してみれば、笑えるくらいに他愛ないものだったりする事は往々にしてある。  それでなくとも築宮よ、その秘めておきたいという感情が、こうまで頑《かたく》なである事に不審は抱かないのか? なるほど女の言葉というのは男に対して、時に魔力のような効力を顕《あらわ》すにしても―――魔力? 「それじゃ、さすがに全部は無理だろうから、触りの部分だけでいい。  ……お願いします」  なんにしても築宮は、横身にしっとりと降りた女史の体温に、よからぬ気持ちが頭をもたげかけるのを抑えこむのに多大なる努力を強いられ、己の中の頑《かたく》なさを訝《いぶか》しく疑うどころではないのが現状だった。  自分が女史を遠ざけようとしたのは、手紙の事を隠しておきたい、それもあるが、下手に近くにありすぎると、どうしても彼女の女を意識してしまう、それを恐れたのではないかと思うくらいに。  そんな築宮の葛藤をよそに、女史は和綴じ本の外題に視線を落として、何故か忍び笑いの、微妙な振動が青年にも伝わって、肌に唇寄せて囁く愛撫のように響いた。 「あら、この本……ふふっ」 「なんです?」 「貴方、これ、判っていて手に取ったの?」 「いや、よくはわかりません。  ……なんとなく、古めかしい造作が気になって。〈装幀〉《そうてい》の格好とか。  この本が、なにか?」  頬に溜めた笑みは悪戯な、夜灯りを弾いた眼鏡越しの眼差しは優美なのに、築宮は何故か大きなしくじりをしでかした気持ちに襲われたのだが、女史の台詞がそれを裏づけた。 「これは、好色本の類よ。  いいえ、はっきりと〈春本〉《しゅんぽん》って言っていいでしょうね」 「い!? それはもしかして―――」 「挿し絵が入っていれば、明らかなのだけど……お生憎、見やすい挿し絵はない様子」 「でも読んでみれば、すぐ判る。  クライマックスの適当なところ、拾い読みしてみましょうか?」 「ちょったた、貴女そんな、  いい、要らない、結構ですっ」 「そんな、ご遠慮なさらずとも……」 「よ、よして下さい、そんな、  そんな恥ずかしい……っ」  〈春本〉《しゅんぽん》、要するに〈猥褻本〉《わいせつぼん》、花を花だというあからさまな言い方をしてしまえば、男女の(時にはそれ以外の)情交の有り様を綴った書物である。  手に取ったのはあくまで自分の意図を逸《そ》らす偽装の、もとより外題からして読めない築宮で、だと言うのによりにもよってなんという本を選んでしまったのか。  また司書が、そうと知っても憚《はばか》るどころかむしろ興がる風で、肱《ひじ》で慌てふためく築宮を遮るように、身を乗り出した、肩口から流れて書卓に落ちる髪もブラウスの衣擦れも、軽やかに淑やかにして、書物の〈尾籠〉《びろう》とは似つかわしくない。  似つかわしくないが故に、その〈隔絶〉《ギャップ》、優美な挙措の司書と猥本というヒヤシンスと泥亀ほどの隔絶が、どこかしら心騒がせらるる淫靡を演出した。まして舞台立てが、書棚の沈黙に秘やかな図書室の、それも秘め事に相応しい夜という時間帯。  実際築宮だって、司書の〈艶冶〉《えんや》な唇に卑猥な文章を、音にして乗せたらどれだけ優しい淫らを醸《かも》し出すだろうとか、思ってしまわないでもなかったがそれは一瞬だけ、次の瞬間にはそんな不埒な考えを生んだ自分のいやらしさを、そこらの分厚い辞書かなにかで後頭部をどやしつけて追い出したくなって、とにかくもと司書の手から和綴じ本を取り上げようとする。 「そういう事だったら、他のにします。  これは戻してくる……ッ」 「いいじゃない、恥ずかしがらなくっても。  私と貴方しかいないのだし」 「そういうことを言っているのではなく。  ああもう、なんだってこんな本が置いてあるんだ!?」  司書は青年をあやすように、あるいはじゃらすように和綴じ本を遠ざけたり、背中に隠したり、影が床に書棚に揺らぎ、椅子が軋み、波打つ髪が舞い、図書室の夜気に甘やかな匂いを散らして、ひとしきり。  不意に女史は、本に伸ばされる築宮の手をつかみとった、まがりなりにも古書を扱うとて革の手袋を嵌めたままの掌だったけれど、その質感は真綿よりも柔く優しい。なのに引き抜けない。  取りあげようと夢中になっていた青年は、それも司書の横車なのかと憤然と眼差しに載せた険は、しかしたちどころに危機感に立ち消えた。  女史は築宮の指先を、その秀麗な〈鼻梁〉《びりょう》に引き寄せて、すんすんと、匂いを確かめ、心得たように、 「やっぱり。  覚えのある匂いなのよね、この香りは。  これは、墨の匂い」  たちどころに青年の緊張に強張った背筋へ、湧いた汗、バツの悪い汗、〈迂闊〉《うかつ》を悔やむ汗。 「あなた、どこかで墨書きの―――  そうね、手紙かなにかを、  手に取ったでしょう」  図書室に来る前に手に取っただけの、二通目の手紙の匂いを、よもや嗅ぎ分けられるだろうなどとは予想もつかず、手を洗い清めてこなかった自分を殴りつけたくなったが、それは青年の不注意というよりこの司書の尋常ならざるを示しているだろう。  ずばり指摘されて、〈狼狽〉《うろた》えたものの、いやだからこそつい知らん振りをしてしまう築宮で、ここでもし素直に白状していたなら、違う展開もあったのかも知れないが――― 「いいや、覚えはないです。  ほら、こちらの本も墨書きだ。  それの匂いが移ったんじゃ……」 「お莫迦さん。それは版画本よ。  墨の匂いを残すような、実筆のものなんか、どこぞの大学の書庫にしかないわ」 「ほら、白状しなさい?  どこでなにを手に取ったの?  やっぱり―――手紙かしら?」  もうここに至っては、和綴じ本を取り上げるどころではなく、隠し事を肌伝えに司書に探り当てられてしまう前にと、振り解こうとした、のになおも離してくれず。  かつて〈本邦〉《このくに》の〈神代〉《かみよ》にて、海中でひらぶ貝というのに手を挟まれ、身動きも息もできなくなった男神があったものだが、この時の築宮も似たようなもの。ただし彼の場合は離してくれないのがなよやかな女の手、息苦しいのも間近な匂いが心融《と》かすように甘美に過ぎて。  まるで至妙の薫する、艶やかな葩《はなび》に、手から腕、肩背中そして腰、ついには体全体が包みこまれ、一瞬〈陶然〉《とうぜん》となった意識を、ぶれさせるような強い力でぐん、と、引かれたと思った途端に、築宮の背が硬い感触に押しつけられていた。  意識が逸《そ》れた隙をさらうように、司書が書卓に青年を引きずりあげた、しかも彼の腰を腿で押さえつけるように跨《またが》ったのがほとんど一つの動作。  見下ろす女史の頭の上に、図書室の天井を見て築宮は、自分がどんな体勢に持ちこまれたのかやっと気づいた次第で。 「吐かないつもりね?  いいのよ、それでも。  喋りたくなるようにしてあげるから」 「ちょ……なにを……!?」  司書が目を白黒させる築宮の、〈襯衣〉《シャツ》の喉元に乗せたのは人差し指、その一指が上から下に撫で下ろした、ただそれだけで合わせの釦《ボタン》が一列全て、綺麗に外されて、〈手練〉《しゅれん》とか〈早業〉《はやわざ》で済む手さばきではない。  今日はたまさか不精して肌着をつけていなかったから、それだけ青年の上半身が露わ、肌に触れた夜気が涼しいと感じたので築宮は、一瞬のうちに自分が抑えつけられたまま前を大きくはだけられたと判った。  判って恐慌に駆られそうになった。  なにしろ司書の貌だ。光の加減か、眼鏡の曲面が白く光って眼差しが見てとれなかったけれど、きっと〈潤々〉《じゅんじゅん》と濡れ、底光りしているのに違いない。  若い築宮の、贅肉なく引き締まった肌が、図書室の鬼女だという女史の司書の昂奮を煽《あお》りたてたのは想像に難くない。 「そういえば、この前貴方と寝た時から、  随分と間もあいた。  しばらくぶりにたぁくさん―――  呑ませてもらうわね?」  なにを、一体どの口で呑むつもりだと、築宮はなかば恐怖にも似た感情に囚われ、背筋を反らせるようにして抗《あらが》ったとしても、鬼女の力は、こうと本気になると大の男の彼より強い。長めのタイトスカートが、青年に跨《またが》った腿にぴんと張りつめ、浮き上がらせた曲線は艶美そのもの、抑えつけるような剛力には見えないのに、ずっとずっと強い。 「待って、待ってくれっ、  駄目だってば、こんなのは」 「貴方、こういうのは、駄目って疚《やま》しく思うくらいの方が、味わいを深くするのよ」 「ああ、ああ、もう我慢できない。  もう―――いただくわね、貴方を―――」  そこから後、築宮が覚えているのは。  錐《きり》のように鋭いくせに、どこか優しい歯が、肌の一面にくいこむ痛みとか。  熱くとろけるような唇の柔さと同時に、裏腹な眼鏡のつるの冷たさとか。 「そうね……この肌、佳いお肌、  張りつめていて、美味しそうで、  ぷちぷち噛みしめたくなる―――」  どうにか押さえようとした腕が、しっかり義手と生身の両方の手で押さえつけられたにもかかわらず、何故か胸板を這い、内腿をまさぐり、耳をくすぐってくる愛撫の手がある不思議とか。  〈豪奢〉《ごうしゃ》な髪が筆のように責め、ブラウスを裡《うち》から押し上げる豊麗な乳房は二人の胸の間で歪み、太腿は青年の腰を弾力の中に捉えて離さず、書物読むという堅い目的の為の机が鬼女にとっては築宮を〈賞翫〉《しょうがん》する為の蝶の〈展翅〉《てんし》標本の台となり――― 「そろそろ……貴方のおとこ、もらいます。  愉しみましょう、夜は長いのだし」 「うあ、あ……こんなの、  やめ……うぅ……!?」  記憶を失う以前の事は知らぬ。自分が女の味を知っていたのかどうかもさえ。しかしそんな築宮にとってもこの司書の、体のしなやかさ柔らかさ、甘い匂いは抗いがたい。奔流に呑みこまれるように、いつしか硬く鈍くいきりたった青年の雄の器官に、大きくずり上がった鬼女のタイトスカートの奥、太腿の間の柔肉が男女の〈凹凸〉《おうとつ》を合わせるように隙間なく密着し、誘い、迎え入れ、かつ貪るように蠢く、そのほとんど〈疼痛〉《とうつう》にも近いほどの心地好さ。  ズボンと鬼女の下着の布越しでもこれであるのに、直に触れ合わせたら、そして触れるばかりでなく、彼女の中に埋めたらどれだけの快絶が待ち受けるのかと、なかば〈慄然〉《りつぜん》と想像した、だけだったのに。 「はぁ―――あ!」 「う、あ!」  二人の喉が鳴らしたのは、快楽と戸惑いの声。タイトスカートの中で弾けたのは、〈稠密〉《ちゅうみつ》な蜜の響き。  そして感触は、布地どころか、熱く湿って吸いついてくるかの粘膜のそれ。  青年は、一体いつ脱ぎさったのかと、司書の足首にしどけなく絡んでいる下着をぼんやり見つめた。ズボンだっていつ下ろされたものか不思議なくらいだったが、そんな事などどうでもよくなる、尖端と彼女の入口が重なって、呑みこまれようとするこの瞬間の、途方もない期待の前では。  司書が、底無しの情欲にぬめ光るような眼差しで青年を見下ろし、幽かに唇を開け、歯列の中に赤い舌をそよがせ、ゆっくり、しかし確実に青年を胎内に呑みこんでいく――― かに思われた、その寸前で。 『今晩は、すいませぇん。  失礼しますね』  ノックと〈不躾〉《ぶしつけ》な声に、二人は物言わぬ彫像と化した。  許可も待たず、図書室の中に踏みこんでくるお手伝いさんに、青年の頭の中から欲情が、気配も残さず〈放逐〉《ほうちく》される。他人の前に情事の様を晒して〈傲然〉《ごうぜん》としていられるような帝王の〈倨傲〉《きょごう》もないし露出趣味もない青年である。 「よろしいですか。  こちらでご所望の、〈深山和紙〉《みやまわし》の一巻き」 「倉庫から出てきましたので、  お運びしましたが―――  取り込み中でした?」  なにやら巻紙を抱えたお手伝いさんは、机の上で重なり合う二人に、さして悪びれた様子も見せず。  ……お手伝いさん達は、みな同じように見えて実は少しずつ個性があり、礼儀正しく引っ込み思案なのもいれば、わりと不作法でざっくばらんなのもおり、今回の彼女はそういうお手伝いさんだったらしい。  いずれにしても扉に鍵も立てずにこんな事をしていれば、誰かに踏みこまれたっておかしくはなかった訳で。  築宮は全身を、百と八万本はある羞恥の針で貫かれ、毛穴から血を噴き出しそうなほどいたたまれなくなったが、鬼女は人目など気にした風もなく、またがったままで、秘処を触れ合わせたままで、 「あら、ご苦労様。  その紙は、そうね……。  そこに置いておいて〈頂戴〉《ちょうだい》」  と首だけ向けてそう指示した。まだ司書女史が上に乗ったままであったが、築宮にはお手伝いさんの〈闖入〉《ちんにゅう》が〈僥倖〉《ぎょうこう》であり、一瞬の隙をついて彼女の太腿の下から這いずり出す。  つい先刻までの情欲など夢幻であったかのように、とるものとりあえず、書の教本だけは忘れずにひっ掴み、 「お借りします、貸出帳は申し訳ない、そちらでつけておいて下さいっ」  それで図書室から逃げ出した勢いが〈脱兎〉《だっと》の、それも着衣が乱れて肌をあちこち露わにしたままであるから皮を赤剥けにされた〈因幡〉《いなば》の〈白兎〉《しろうさぎ》のようなものだ。  青年としては、寸前までは、流されるままに鬼女と致《いた》してしまうのも吝《やぶさ》かでなくなっていたのだが、さすがにその現場を誰かに見られるのはごめんである。  飛び出した後、図書室からは、 『……せっかくだったのに。  私、体に火が入ったのに。  この際、若い男なんて贅沢言わない』 『貴女でいいわ。  貴女、水を差した責任を取りなさい』 『申し訳ありませんが、  あたしは同性愛の趣味はなく―――』 『いいから。彼の代わりに。  せめて可愛らしく啼《な》いて〈頂戴〉《ちょうだい》』 『あ。あ。そんな。それはちょっと。  あ。あ……っあ? あ〜〜っ!?』  とかいう末期的なやりとりと、服が引き裂かれる音が追いかけてきたので、築宮耳をば両手で塞いで逃げ出した。  この後この不運なお手伝いさんは心身共に消耗しきった、かさかさに絞られた海綿の如き態に成り果て、虚ろな眼差し、緩みきって唇の端に涎《よだれ》さえ引いて、お仕着せの衣装も適当に肩に引っかけただけの、乳房も脚も丸出しな、狂女のような有り様で廊下を哀れ〈徘徊〉《はいかい》しているのを発見され、同僚が軽く触れただけでもあられもない嬌声をあげては秘部から〈随喜〉《ずいき》の〈潮迸〉《うしおほとばし》らせ、悶絶、痙攣するというまこと過敏に仕立てあげられた体が、まともに仕事に戻れるまで回復するのに、二ヶ月を要する羽目となったのであるが、そんなのは築宮青年の預かり知らぬところである。  図書室から青年の、こけつまろびつ逃げ出す様、童女の手から逸《そ》れた〈手鞠〉《てまり》が廊下に跳ねるのと異ならず、行き先を己で定められないのもまた似たようなもので、ただひたすら司書なる鬼女の領域から遠ざかりたい一心のみを推進力として、手当たり次第に階段を駆け下り上がり、廊下の分岐はろくに確かめもせず折れて走ってまた曲がった。これでよく草書の教本を落としたり無くしたりせずに済んだものである。  途中幾人かのお手伝いさんを追い越しすれ違ったりもして、中には疾走が巻き起こす風に捲かれ、くるくると回転して壁に取りすがった者もあったが構っていられない。  だが逃げ出したとは言い乍《ながら》、築宮が司書女史を嫌悪し厭《いと》うていたのかというのと、さに非ずさに非ず、さ。  それどころか司書は青年にとっては万巻の絵巻物のように興味を惹き、〈半端〉《はんぱ》な酒よりも絢《あや》なる酔い心地をもたらしてくれる、汲んで尽きざる物語の井戸のような存在である。  ただ―――ただ彼女の行動様式というのが、優雅の中に佇《たたず》んでいたのが、軽く身じろぎしたかと思った次の瞬間には〈燎原〉《りょうげん》の火の如き激しさに燃焼し、午後のお茶のように仄かに香る、優しい言葉を乗せていた同じ唇で、気がつくと蜜のように濃密な情炎の〈睦言〉《むつごと》を〈耳朶〉《じだ》に滴らせてくるという、どうに極端から極端に走るきらいがあり、相手するにも心構えの暇すらとらせてくれない状況がまた多い。  そうでなくとも築宮には、女史のおんなという属性に触れるだけでも、軽く当てられた心地、を通り越した強い〈酩酊〉《めいてい》感に囚われてしまいそうになるのに、今日のような気がつくと組み敷かれ聳《そそ》り立たされ、情痴の〈泥濘〉《でいねい》にもつれこむというのは、刺激が強すぎ酔い心地としてもきつすぎる。  もしあのまま溺れてしまえば、きっと二三日は足腰も立たぬ仕儀に成り果てた事だろう。  それもまた一興なのではなかったのかと、後ろ髪に絡みかかった未練がましいのを振り切るように、どれだけの常夜灯の下を通り抜けたのか、足元に〈追随〉《ついずい》する影は、電燈の角度によって時に鼠のように縮まったかと思えば鯨のように膨れあがる。  かく意識の手綱を手放して、勢い任せの無目的な疾走だったからこそ、体が欲したものを自然に目指していたのかも知れない。  スタッカートの〈跫音〉《あしおと》を刻み続ける駆け足に、いい加減肺も喉も不平不満たらたらに喘いで、脚も膝やら踵にがたついている。  なにより肌に粘膜のようにまとわりつく汗の酷さ、心地悪さ。  これは断じて女史の肌の薫り高い膏《あぶらけ》がうつったせいでなく、自分の汗がぬらついているのが悪い、とにかく風呂なり水浴びなりで浄めたい洗いたいという一念が、青年の脚を知らずのうちに導いていたのだろう、砂漠で手綱を放棄した旅人を、〈駱駝〉《らくだ》が塩泉に導くが如く。  せせらぎを、聴いただけでも耳が〈清冽〉《せいれつ》に洗われるようだった。  青年は夜の旅籠を駆けずり回った挙げ句、水路の際にへたりこんでおり、水面に映る自分の顔と向かい合っていたのである。遠い夜灯りを宿し、仄光る水面に揺れる貌は、なんとも虚脱して、魂を引き抜かれたかの有り様。  せめて水路に頭を逆さに漬けこめば、少しは引き締まりもしようかと、身を乗り出した築宮を押し止めたのは、それまで澄んで流れていたのが突如薄く白く濁ったからである。  流れを濁す白は、女の生暖かな乳とも、あるいは先刻の図書室の痴態を中断し、どうにか情欲を振り払ったと思ったのは誤りで、男を衝き動かす精の滾《たぎ》りは、司書の体に注がれる代わりに、単にこうして水路に流し棄てられただけなのだ、それを都合よく忘れ去っていたのだと突きつけられた想いして、〈愕然〉《がくぜん》と上げた築宮が顔、を、きょとんと見つめ返していたのが、対岸にしゃがみこんだ琵琶法師の〈直垂〉《ひたたれ》姿。  やや上手にて、手にしていたのは米をしらげる笊《ざる》の一枚。水路に浸して、白々と磨《と》ぎ水を流していた。 「あの、ごめんね? わたし、お米磨いじゃってて……水、飲もうってしてた?」  見ればそこは法師の庵《いおり》の裏手、築宮は意識せぬままに、旅籠の中でも見知った処へ辿り着いていたのだった。  夜目にも薄暗い屋内は、旅籠の座敷の連なりからはちょっと浮いたような小さな一つ屋。いかにも庵《いおり》という呼び名が似つかわしく、佇《たたず》まいは侘《わ》びている。  法師が起き臥《ふ》ししているというその庵《いおり》は、元々が打ち捨てられてお手伝いさんの維持の手も入っていなかったと見え、あちこち傷みが目立つけれど、破《や》れた障子にも毀《こぼ》たれた板間にもちゃんと繕いの手が入ってあり、荒廃の印象は薄い。彼女のまめやかな性格がよく現れている。  板間の隅に横たえられた琵琶を眺めつつ築宮は、法師が貸してくれた濡れ手拭いで顔を拭っていた。走り回ってぬらついた汗を浄めるためばかりでない。  というのも、さきほど法師が築宮の顔をまじまじ眺め、水路の対岸から問うた言葉がこれである。 「あんた……生焼けの鳥でも囓《かじ》ったの?」 「……なんだって?」 「だって、口の回り、真っ赤だよ」  ぎょっと拭えば手の甲にぬるりと滑った、常夜灯に翳し見れば、なるほど赤い筋が延びていて、法師が言ったように生血を啜《すす》った覚えこそないものの、なんぞ気づかぬうちに怪我でもしたかと一瞬焦って、すぐさま思い当たった。思い当たって、その赤に負けないほど顔を赤らめた。  なにしろ口の周りの赤は要するに、司書女史の口紅が移ったものだったからで、これほど判りやすい痴《し》れ合いの証拠もあるまい。というか自分はこれを晒したまま走り回っていたのかと思うと青年は〈愧死〉《きし》しそうになる。行き会ったお手伝いさんの中にはぎょっとした顔を向けた者もあったのも当然のこと、築宮は〈面伏〉《おもふ》せして法師の前から逃げ出したくなったものだが――― 「ああ、血、じゃあないのかな。  でも、口の他にもあっちこっちついてる。  ……拭いてったら?  おしぼりくらいは、貸してあげるよ」  ……このまま水路に飛びこんで情痴の名残を洗い落としたいくらいの築宮には、体を拭うものを提供してくれるという申し出は、羞恥心を黙らせるくらいに魅力的だったわけで、法師が置いたという飛び石を渡って彼女の住まいにお邪魔とあいなった。 「変なかんちがいしちゃったね、わたし。  誰かと仲良くしてきたんだ?」 「まあ、その。そういう事ではあるんだが」  築宮の方はひたすらに恥じ入り、穴があったら潜りこんで中から蓋を閉めたいくらいの戯れ合いの跡ではあったが、法師にしてみれば、『仲良し』の目盛り程度のものでしかないようで、青年の気分は随分と軽くなった。  考えてみれば情を通わせた男女であれば、肌を重ねる事は別段悪事というわけではない。大っぴらに〈吹聴〉《ふいちょう》して回るのも恥知らずではあるが、築宮の場合は肌に紅を残していたと気づいていなかっただけで、単に〈迂闊〉《うかつ》なだけである。 「……どうだろう? 綺麗になったかな?」  法師が貸してくれたのは、元の模様も〈色褪〉《いろあ》せて、擦り切れ加減の和手拭いだったが、〈水甕〉《みずがめ》で濡らして絞り、手渡してくれた彼女の志で美しい。美しいのだが、女の住まいというのに手鏡の一つもなく、青年は目見当で拭うしかなく、ちゃんと拭いきれたかどうかは法師の目で確かめてもらうしかない。  庵《いおり》には電気の線など通っておらず、〈蔀戸〉《しとみど》からの夜灯りに築宮をつくづくと透かし見た、法師の眼差しの真っ直ぐに、またぞろ羞《は》じらいが戻りかけたが、彼女が〈左見右見〉《とみこうみ》して、背後にまで回りこんだのには面食らった。 「ううん。なんかね、顔だけじゃないよ。  首の後ろとかにもついてる」 「そんなところにもか……。  ああもう……」  愚痴り愚痴り後ろ手に、拭おうとした築宮に、申し出た声音が気やすかった。 「そんなところ、自分じゃあ、やりづらいでしょ。貸して。わたしがしてあげる」 「それから、もうシャツも脱いじゃいな。  汗が背中に抜けてるよ。  ついでに汗も拭いたげるから、さ」 「や、さすがにそれは……」  そこまで法師の手を煩《わず》わせるのも気が引けたし、未遂とは言え情交の痕跡を他の女性に晒すというのはいかにも恥知らずに思えたけれど、確かに布地の下でべたつく肌の悪心地、彼女の申し出は今の築宮にはなんとも魅力だった。  口ごもりながらも結局―――〈襯衣〉《シャツ》の釦《ボタン》に手をかけたのが、〈潔癖〉《けっぺき》なきらいのある築宮らしからぬところであったが、不思議と彼女に対しては肌を晒す事に抵抗が薄い。  この法師は服を脱ぐとか肌を見せるとか言って、生身の肉のいやらしさが〈希薄〉《きはく》なのだ。  琵琶という古い時代の楽器を能《よ》くすることといい、その身なりといい寂《さび》れて侘《わ》びた住まいといい、どうにも浮世離れしている。  ともあれ、脱いで見せた青年の背中に、法師が漏らしたのは大なる〈嘆息〉《たんそく》だった。 「わあ、これ……」  と絶句したのに、築宮は俄かに不安になる。  自分では見えないところなのも心細さを強めた。 「……そんなにひどいのですか?」 「うん……蛭《ヒル》の池かなんかに、〈天辺〉《てっぺん》まで浸かったんじゃないかって思うくらい」 「唇の跡もそうだし、歯の跡もあるし、爪の跡だってついてる。これ、喧嘩した……ってわけじゃないよね?」 「喧嘩はない、それはない」  ―――〈天竺〉《インド》に〈愛経〉《カーマスートラ》という古書があり、なにかというて〈閨房〉《けいぼう》の技巧の教本なので、愛撫についても〈愛咬〉《あいこう》だの爪を遣う技だのと多岐に記されている。今の築宮の体はさながらその〈愛経〉《カーマスートラ》の技の見本市と化したかの有り様で、背中といわず胸も一面、風変わりな化粧か刺青を彫られたように司書の爪の跡やら甘噛みの跡やらが散っていた。  力加減を間違えば、肌がずる剥けになるのではないかと恐れるように、法師は慎重な手つきで手拭いを青年の背中に下ろす。 「う……」 「あ……っ。痛かった?」 「違う、逆だ。ひんやりとして、それが気持ちよかったから……」  火傷をしたわけでもないのに、背中に通う法師の息まで涼しいのは、青年の肌が〈火照〉《ほて》っていたせいなのだろう。それが羞恥によるものなのか、あるいは司書の愛撫に揺さぶり起こされた情炎が、時間を置いてなお燻《くすぶ》っていたからなのかは定かならず。 「なら、続けるね。  くすぐったかったり、痛かったりしたら、  言うんだよ?」  言いながら拭う、法師の手はあまりに無心でかつ繊細だった。さらさらと、質の佳く柔らかな水を流しかけられているような心地好さ、築宮はなかば〈恍惚〉《こうこつ》と溜息を漏らす。  それであるから、法師の問いかけに警戒心もなく、ついさらりと答えてしまったのだ。 「これ、図書室のあの人がしたんでしょう?」 「ああそうだ―――って。  いやその、そんな、なんというかこれは」  おそらく法師は、傍らに置かれた崩し字の教本やらの数冊の書物から推し量ったのだろうが、うっかり答えてしまってから、築宮は司書に対して口の軽さを申し訳なく悔やんだが、もう遅い。だが、法師はそれ以上深くは詮索する事もなく、ただ口調をやや物想わしげにして呟いた。 「……あの人、このお宿に、ずいぶん長いこといるみたいよ」 「そうなのか?」 「わたしも、結構長いんだけどね。  でもわたしが、ここに着くずっと前から、  あの人、図書室にいたみたい」 「わたしは、ちょっと探し物があって、  だからここにいるんだけど―――」 「あの人は、なんで、ここにいるんだろうね……あ、いちゃいけないとか、そんな事じゃなくって……」 「…………」  法師はうっかり失言したように言い繕ったけれど、築宮には彼女がなにを言いたいのか判るような気がした。  ―――あの図書室の鬼女は、一体なんの目的があって旅籠に留まり続けているのだろう。  これまで考えてみた事もなかったけれど、思えば司書も奇妙な立場にある。旅籠の客なのか、従業員なのか。長い事住み着いているのは法師の言から窺えたが。  法師はなんの気なしに口にした事なのだろうが、その疑問は築宮の胸中にも根づいて、時折心の水面に浮かんで波紋を置き広げるようになるのだった。  図書室で司書に押し倒された記憶は鮮烈だが、それでも時間は数日の間隔を見た。  その間築宮がなにをしていたのかと、問うまでもなく件の手紙の解読作業にこれ務めていたのである。  図書室から借りてきた、崩し字の教本があるからと言って、全ての文字や崩し方の作法が網羅されているわけではない薄い冊子で、鎖国時代の人間が洋書に取り組むのとほとんど変わりはなく、すらすら読み解くには〈到底〉《とうてい》至らない。  教本だけでなく、辞書、古語辞典、これらはお帳場から借り出してきたもので(さすがに暫《しば》くは図書室を頼る気にはなれなかった)、などとも首っ引きになり、眼精疲労と肩こりに悩まされつつ、なぜ自分がこんなにもムキになっているのかと自問も繰り返しつつ、それでも青年はどうにか手紙を読み解いた。  で、戦慄した。  読み終えた頃にはすっかり〈深更〉《しんこう》となり、旅籠の中は夜の帳《とばり》に鎮まり、窓の下を流れるせせらぎが清《さや》かではあったが、築宮は〈愕然〉《がくぜん》となって辺りを見回した。  肌が微かに粟立っていたのは、恐怖の故に。  なんとなれば二通目の文面は――― ―――本当に本当に、あなたのことを考えただけで血が騒ぐのです。 ―――あの書架の〈峪間〉《たにま》で、あなたに抉られたお腹の中が、今でもじんじんと疼《うず》くのです。何度も何度も抉られた痕が、ずくずくと熱いのです。 ―――この疼《うず》きは、あなたの生温かな血潮、柔らかいお肉、甘い甘い生き肝でなければ贖《あがな》えないものです。  きっと、奪いに行きます云々―――  といった、いきなり〈血腥〉《ちなまぐさ》いものになっていたからで、これで恋文などとはよくいった。いや、相手に対する切ない想いの表出であるところは恋文と変わらないのだが、いかんせん内容がこれでは、花畑と刑場ほどにも意味合いに差がありすぎる。 (これじゃまるで―――  復讐の宣言文じゃないか……)  ふとそんな考えを思い浮かべてしまってから、仰天した。根拠無しの考えだが、いかにもこの手紙にはそれが相応しく当てはまるではないか。  そして更に〈慄然〉《ぞっ》となった。  文中から読み取れるのは、惨劇の舞台となったのがどうやら図書室であるらしいという事で、そして図書室とくれば、どうしたって想起されるのが司書女史である。 (この手紙は、まさかあの人が……?)  連想が連想を呼び覚ますうちに、築宮の中で一つの推測がまとまっていく。  もしかしてこの手紙を書いたのは、図書室の司書その人なのではないか、と。  文面に並べられた単語とその言葉の使い方、漂わせるイメージは、 『図書室の鬼女は、若い男の肉をことのほか好む』  という風評にぴったり重なってしまう。  もし自分の推測通りだとしたなら大変な事である。司書にまつわる噂を聞いていなかったなら、妙な手紙だと、せいぜい不安定な気持ちになっただけで終わったろう。  しかし最早、この手紙は築宮にとって、鬼女が誰やらに復讐心を抱いている事を告げているものだとしか思えず、もう無視も座視もできそうにない。  この手紙の相手というのは、まだこの旅籠に留まっているのか、それとももう出立したあとなのか。  既に旅籠から旅立っていいるのならばよし、最悪なのは、この手紙を知らないまま鬼女の爪と牙にかかってしまっている事だ。  築宮、こんな手紙など関わり合いにならなければよかったと心底後悔するも、もう遅い。  事は突如として猟奇的な相を呈し始め、座敷の空気が急に冷えこんできたような、そんな薄ら寒ささえ覚えて青年は、〈丹前〉《たんぜん》の前をかき合わせた。  こうなると、自分一人の手には負えないと、手紙を引き出しにしまいこんで、文字通り布団を頭から引っ被る。  明日は誰か……そう、令嬢がいい。この旅籠の女主人である彼女に告げて、どうするべきか相談しようと心に決めたが、気持ちは一向に軽くならない。  瞼を閉じたものの、眠気など当然訪れるはずもなく、築宮の寝床の周りは、かっと開かれた鮫の顎《あぎと》だとか鈍く光る刃物だとか、生き血と肉の感触や匂いに繋がるイメージばかりに取り巻かれ、〈黎明〉《れいめい》近くになってようやくうとうとできたのだったが―――  腰から下はまだ暖かな布団の中に残したままだったが、半身を起こして、寝乱れた髪と起きがけで据わらぬ目つきのままに右に左に視線を巡らすのは、どうにも余人に見せられた姿ではない築宮の、 「……あれ……俺は……なんで?」  〈放吟〉《ほうぎん》するような、張り合いのない、寝起きでしゃがれた声、一見不動心で状況を見定めようとしている沈着な様ととれなくもないが、心の輪郭が定まっていくにつれ―――掛け布団を蹴立てて跳ね起きて、慌てふためいたのが、やっぱり彼には相応しかった。 「うわ……うわわぁぁっ!?」  むしろそれこそが当然の反応と言うべきか。  〈正覚〉《しょうがく》を得て〈大自在〉《だいじざい》の境地に達した〈聖僧〉《ひじり》ならぬ、迷いに迷う小人の築宮である。  いや、築宮ならずとも、目を覚ましたのが、眠りについた自分の座敷とは全く異なる机の上とあっては、動揺しないほうがおかしい。  ぼんやり覚えているのは、結局明け方近くまで〈輾転反側〉《てんてんはんそく》として、明るくなり染めた頃にようやくふっと眠気が訪れたという事、起きたら件の手紙に関して令嬢に相談に行こうと心に決めた事。  だがそれとて寝床の中で決めた事であり、築宮には夢遊病癖も、脳内に別人格とやらが住まっていて彼の意識がない隙に好き勝手をするといった事もない……筈である。  ―――その昔、旅の途にある人が、〈上野〉《こうづけ》の国(群馬)の荒野で行き暮れ困り果てたところで野中に寺を見いだした。荒れ果てて住職も欠いたような破《や》れ寺ではあったがどうにか屋根壁は残っていて、これで野露はしのげるわいと本堂に身を横たえて寝入ってしまったのがたちまちのうち。ところが夜半妖しの物音で目を覚ますと、一つ目やら三ッ目、一本角二本角、青いのやら赤いのやらの鬼どもが〈堂宇〉《どうう》にわらわらと入りこんでくるところで、最早逃げる暇もない。旅人は観念して、〈結跏趺坐〉《けっかふざ》して習い覚えたお不動様の〈真言〉《しんごん》をば一心不乱に念じた。  その姿を見た鬼どもは、考える事しばし、 『〈今宵〉《こよい》我らの座に、  真新しき不動さまが〈御座〉《ござ》る』 『げに憚《はばか》りながら、〈今宵〉《こよい》ばかりは、  席を外してもらわねばなるまい』  と旅人の髷《まげ》の〈元結〉《もっと》いを引っ掴んで本堂の外にひょいと追い出した。その瞬間旅人は気が遠くなり、次に目を覚ましたのが昨夜歩いておった荒野とは様子が異なる青田の中。一夜の宿りとした筈の荒れ寺など影も形も見えず、困惑しきりのところに通りかかったお百姓に〈此処〉《ここ》は〈何処〉《いずこ》と尋ねたところ、なんと驚くまいてや、〈上野〉《こうづけ》の国どころか〈筑後〉《ちくご》の国(福岡)だとかで。  ―――旅人は、鬼どもに掴み出されて一瞬間のうちに山河と海峡を飛び越え、本州から九州まで至っていたのである。  しかしよもやと言って、なぜ自分がそんな怪異譚中の人物にも擬せられる状況に陥っているのだと、巣穴から摘み出された鼠のようにぎろぎろ見回す目に、まず映るものが、書棚であると徐々に認識されてきて、どうやら自分は図書室の、それも机の上に布団を延べて寝ていたらしい。  次に視界に立ち現れた姿に、築宮は仰天して固く目を閉じた。こんなのは夢、それも浅い眠りのうちに自分を悩ませる悪性の夢の続きなのであり、去れ、目の前からいなくなれ、そして再び目を開けた時には何事もなかったかのように座敷で目覚めているのだと、必死で祈って怖々と――― 「おはよう……でもないわね。  もうお昼近い」 「うおああああっ!?」  ……築宮だって、さすがに途中から全て現実なのだと認識してあり、自分が逃避しているだけなのだと承知するようになっていたのだが、やはり面と向かって突きつけられたとなると呑みこむには事実の角が尖りすぎている。  大体傍らに座して青年の見苦しい態を見守っていたのがこの司書、鬼女と噂される彼女とあっては、話中の荒れ寺の百鬼夜行の鬼に囲まれたのと大差ないではないか。  そうでなくとも築宮は、昨夜読み解いた手紙の文面のせいで女史に対し凄惨な印象を覚えるを否めなくなってしまっている。  またそうでなくともこの女性の唇の紅さときたら、目覚めしなの眼には鮮烈に過ぎて。  〈気易〉《きやす》な挨拶で笑み綻《ほころ》ばせただけなのに、青年にはそれがまたたらたらと血潮を噛んでぬめ光るように目に迫って、手足をみっともなくばたつかせて女史から身を遠ざけようとしたのが図書室の長机の上、長いと言ったところで踊りの舞台でもなし、後ろについたと思った手が呆気なく宙を掻いた。 「たたっ、お、落ち……っ」 「……はい、気をつける」  机の端から引きつった間抜け面晒して転げ落ちそうになった、のを女史は造作なく掴みとめたのだけれど、生身の手だけでは届かなかったから、また取り外した義手を持って間合いを伸ばしている。  築宮の寝間着の襟元を木質の爪の先にひっかけて、手繰りよせて、弟をたしなめるようにちょっと眉根を潜めた。 「起きたときから元気がいいのは、  それはそれで、素敵だけれど、  少し落ち着きなさい」  それで優しく鼻先などをつつかれたので、築宮はもうなかば諦めて、いい加減机から降りて椅子に座り直した、顔がなんとも〈憮然〉《ぶぜん》とした。改めて見ても、図書室の卓に自分の部屋の布団が延べられているというのは、どうにも常軌を逸した光景である。 「朝、貴方を呼びに行ったのだけれど。  なかなか目を覚ましてくれないし、  かといって無理に起こすのも、忍びなし」 「だから、そのまま連れてきたのよ。  可愛い寝顔だったわ。  ……食べてしまいたいくらい」  最後の一言がまた余計で、青年は座ったまま〈泰然〉《たいぜん》と腰を抜かしそうになったが、どうにか受け流した。  それにしても、連れてきたと平然と言い放ったが、布団ごとか。どうやって、と問うたところで自分の理解の及ぶものではないだろうと追求を諦めた。  この女性のやる事はどうしてこういつもいつも、人を驚かせて已《や》むことなしなのだと、これ見よがしに溜め息をついてみせた。もうこうなったら騒いだところで無駄というものだと、なかば〈自棄〉《やけ》になって開き直り、 「……それで、そんなにまでして俺をわざわざ引っぱってきて、なんの用ですか」  声音がつい〈口迅〉《くちど》に咎めだてするようになってしまうのも、致し方なしと言えるだろう。ただこの司書相手にするには、いささか恐れ知らずとは言え。ただ女史の方も、その程度ではさして腹を立てた風もなく、 「ここ何日か、貴方の様子、  おかしかったから。  私のことを、妙に煙たがるし」 「だから、どうしてなのか、  訊ねてみたくなってね」  とそこでふっと目線を築宮から逸《そ》らしたのが、この女性にしてはいつにない気弱な風情の、背にした高い書棚の前に肩の線も頼りなげに見えた。目元にも憂いの翳りを載せて、俯《うつむ》き気味に、 「……それともやっぱり、こんなかび臭いところに住んでいる女なんて、相手にしたくないのかしらね……」  とこれにはそぞろ〈惻隠〉《そくいん》の情が差して、胸になにやら迫るような気持ちを築宮、敢えて替えようとこちらも彼女から目線を外し、机の木目を睨みつけた。  そんな風に彼女を傷つけていたのかと思えば己の無神経が情けなくなるが、大体相手にしたところで眠っている間に布団ごとさらってくるような手合いである。お人好しなのはけして悪徳ではないだろうが、程々にしたがいいと自分をどやしつけ、警戒心を蘇らせた。  それに、どうせならこの機会に手紙の一件もはっきりさせておいた方がいい。  こうもやもやと謎めいた手紙に〈翻弄〉《ほんろう》されているから、司書への接し方だって及び腰になってしまう。それではお互い精神衛生上非常によろしくない。  さて、どう問い質したものか―――とざっと宙を仰いだが、穏当に済ませられるような切り出し方などさっぱり見当もつかない。  今さらながらに青年は、自分の口は〈修辞的〉《しゅうじてき》なやりとりを能《よ》くするほど器用ではない事を思い知らされ、臍《ほぞ》を噛んだ。  結局〈不躾〉《ぶしつけ》にむきつけに訊ねる他ないのだ自分は、ほら司書だって青年の言葉を待ってちらちらと視線で促《うなが》している。 「……無礼を承知で訊くんですが、  貴女はその……以前にこの図書室で、  誰かにその……刺された……抉られた、  とかいった事が、あっただろうか……?」  事柄が事柄だけに、どうしても口調が歯切れ悪くなる。しかしそういう物騒な話題なのにも関わらず、司書はさして動揺した様子も見せず、 「いやあねえ、女にそんな風に、  前のことを訊ねるなんて、野暮よ」  こんな風にはぐらかす言葉で、築宮はいよいよ訳がわからなくなる。  刺された刺されないなど言う話は、訊ねる事自体が不穏なのであって、そこに女、男の別はない。築宮の〈怪訝〉《けげん》な顔は、女史の次の台詞を聞いてたちまち色めきたった。 「強いて言えば、貴方に」 「ちょっと待て、いつ俺が、貴女にそんな非道な真似をしたって言う―――!」 「〈非道〉《ひど》い事なんて、なんにもない。  貴方、とっても素敵だったじゃない。  あの晩のことは、思い出すだけでも。  ―――もう一度って、欲しくなる」 「……は?」  腹を抉った抉られたの話の筈なのに、女史が舌に蘇らせているのは苦痛の味どころか、好みの美酒であるかのようにほんのり〈陶然〉《とうぜん》とたゆたう色合いに頬を緩ませて、その女を感じさせる華やぎに、青年もようやく悟りはじめた。さっきからどうにも話が食い違っているような気がしていたが、もしかして彼女が言っているのはその―――と、築宮、とうとう思い至り、そして狼狽える。  彼女が言っているのは、あの夜の、嵐に揉みくちゃにされたような交わりの事なのではないか―――?  あの時の司書の乱れ咲いた髪の匂い、タイトスカートの衣擦れ、甘噛みの疼くような痛み、そして自分を呑みこみざわめいた胎内の感触、そんなものがいっぺんに身の裡に再来して、築宮が額に浮かばせた動揺の汗で、司書は彼の心中の想いを読み取ったらしい。 「そう、その事よ?  たくさんたくさん抉られたわ。  お腹の中、何度もねぇ」  恥ずかしがる風もなく、それどころかどこかしら愉《たの》しげに目を細める司書に、まだ年若な築宮は頬が紅潮してしまうのを抑えきれず、図書室に他の客がいないのが今は幸いの、人前であからさまにするような話でない。  これ以上女史に喋らせてはどんな〈尾籠〉《びろう》な向きに話が逸れたものだか危ういと、遮るように声張り上げた。 「大体あの時は、むしろ貴女の方が、  積極的だったのであって―――!」 「ああもう、俺が訊きたかったのはそんなんじゃないんですってば!  貴女がここで、誰かに怪我を負わされたりしたことがあったのかっていう……っ」 「まあまあ。  そんなに目、三角にしなくっても」 「でも―――貴方の様子がおかしかった理由、なんとなくわかったわ」  〈気色〉《けしき》ばむ青年を身振り一つで容易に抑えて、司書は義手を嵌め直してから、身を乗り出し囁いた。 「読んだのね、私の文《ふみ》を」 「……はい。いや、貴女の手紙と知って読んだ訳じゃない……というと言い訳めくが、それは本当です。読んでみて見当がついたって言う次第で」  今さら本人を前にして、この状況で隠しても詮なき事なので、築宮は仕方なく首肯した。  白状したついでに、気懸かりであった事も追求してしまえと、 「では貴女は、あの手紙の相手を、  本気で文面の通りにしてやろうと、  そう考えているんですか」  ……この時に至っても、築宮は手紙の相手が誰なのか、いかなる男なのか、見当もつかずにいたのだ。  司書の言葉も、手紙の文面も、たった一人の相手を掌《たなごころ》を指すように判然と示していたというのに。 「喰ってやろうとか、  血を啜《すす》ってやろうとか、  そんな風に……」  口ごもったのは、あの〈水茎〉《みづくき》が麗《うるわ》しいだけにより際立つような〈血腥〉《ちなまぐさ》さを思いだした為ばかりでない。  司書が築宮の眼前に差しだしてきた手は、小うるさい口を塞いでやろうとしたに非ず、掌《てのひら》に澄んだ色を乗せていた。〈硝子〉《ガラス》瓶が、茶の革手袋の上で光を弾いていた。  予め定められていた事のように、中に一葉の手紙を封じこめて。  三通目、なのだった。 「貴方を連れてくる前にね、  部屋の窓の下に流れ着いていたのを見つけたの」 「私はまだ開けていないわ。  ここまで来たら、  貴方が開けるのが筋だと思ったから。  ほら、どうぞ?」  促《うなが》されて開けると、三通目の文面は至ってシンプルに、二行。  例の如くの難解な崩し字で、読めないはずなのに、築宮にはなんとなく見当が付いた。なんとなればそれは自分の名に様を付けた五文字と、図書室係の四文字であったからだ。  宛先が自分、そして署名が司書だ。 「本当は、それが一枚目よ。  貴方のもとに着く順番、  ばらばらになったみたい」  司書の声が、薄い〈紗幕〉《ヴェール》を隔てたようにどこか遠い。青年の視線が、文面と司書の顔を何度も往復する。その混乱を面白そうに眺める女史に訊ねた築宮の声、恐る恐ると上擦って、なにしろこの宛名が示すところを信じれば、自分が生き肝を抜かれて〈膏血〉《こうけつ》を呑まれてしまいかねないと、その恐れよりも。それより築宮を困惑させたのは。 「ちょ、ちょっと待って、待って下さい。  ではその、貴女が、この手紙の中で、やたら素敵に描写している人物というのは?」 「もちろん、貴方のことに決まっているでしょうに」  ―――築宮の年頃の若者というのは、誰しも多少の〈自惚〉《うぬぼ》れというものがあって、己を特別に思いたがる。それゆえ容姿の美醜、能力の優劣は〈容易〉《たやす》く〈劣等感〉《コムプレックス》に結びつき、そんなのは醒めた大人の目から見れば、それこそ自意識過剰の表れでしかないのだが、兎《と》にも角《かく》にも、その手の〈自惚〉《うぬぼ》れを遙かに越えた己への描写に、築宮はその場から駆け出して手洗い所でざぶざぶ顔を洗って脂汗を流したくなる、それくらいに焦った、焦りに焦った。 「それは過大評価だ……っ。  俺はこんな大した男じゃ―――」  絶叫に跳ね上がった声を静かに、しかし有無を言わせずに抑えた司書の、眼差しも静けさを湛《たた》えてあったが、静かな故に青年はなにも言えなくなる。 「卑下た物言いはお止めなさい。  良いのよ、私がそう思っているのだから」 「それを疑うのは、私に対する挑戦と見なすけれど、いかが?」  静かな眼差しなのに射すくめられるよう、全く褒められた気になれない青年で。 「とにかく……っ。  そう貴女に言ってもらえるのはまだ光栄として、二通目……いや三通目?  ああもうややこしい」 「ではあの文面の、やたらと〈血腥〉《ちなまぐさ》いのは?」 「女の胸のうちを、そうやたらに覗くもんじゃありません」 「でも―――誰だって、  誰かに本気になったとしたなら」 「その人の血肉全て、一欠片までも。  自分のものにしたくなったって、  おかしくないと―――」 「そう、思わない?」  そんな極端な論をさも一般論のように語られても困るが、と反論しようとして、築宮は今さらながらに目の前の女が何者なのか、思い知らされた気分になったという。    ―――図書室の鬼女。    そうさんざん聴かされてきたとおり、間違いなく彼女はそういうモノなのだ。  〈人外〉《じんがい》の〈化生〉《かせい》というのは、人間なぞよりよほど純粋なのだ、とか。そして純粋さという資質は、時に危うい鋭さと恐ろしさを孕《はら》むもの。たとえば金剛石は刃物に使えば堅い〈硝子〉《ガラス》だって切り分けるのである。  やっぱりこの女はほとほと〈人外〉《じんがい》なのだと、そうと再認識しつつも、築宮はたまりかねて〈憤懣〉《ふんまん》の声音をぶつけてしまう。 「ああもう! なんだか知らないが、  とにかく貴女が書いた手紙だったんなら、  どうしてこんな、ややっこしい―――」 「いったい誰が拾うんだか判らない瓶詰め流しの、それも順番もばらばらなんて言う、ややこしい真似を、なんでしてくれた!?」 「私だって知らないわ、そんなの」  女史が一言の下に切り捨てたによって、二人の頭上に線香立ての灰のように白けた空気が緩やかに周遊した。  築宮は深い森の中に連れてこられたはいいが、そこでいきなり案内役に見放されたような不安定な気分に陥った。しかも森の中には人を誑かしてほくそ笑む狐だの狸だの〈鼬〉《イタチ》だのがあちこち潜んでいるのだ。  もぐもぐと口はなにかを呟こうとして、果たせず。  築宮の虚けた面は哀れを催す程で、司書はつい苦笑して漏らした台詞が、余計に青年の困惑を深めてしまう。 「大体、私はこんなの、  誰にも見せるつもりなんてなかった」 「だが貴女は『文《ふみ》』、と……。  文《ふみ》というのは、俺が知る限りは誰かに宛てた文章で」 「そう言ったのは、方便。  手紙として出すなら出すで、  私はこんな不作法なこと、致しません」  ―――確かにそう言われてみれば、手紙と信じこんだのも奇妙だった。  そもそも自分はこれを、なぜ大事な手紙などと思いこんだのだろうと、不審に思う築宮の脳裏をよぎった姿がある。それは、いつか図書室で出会ったあの女性で――― 「こんな、作法もなにもなっていない雑書きを、手紙なんて言ったら、笑われる」 「これ、ね。本当はね。  夜中の暇を持て余した、手慰み。  書くだけ書いたら、後はしまいこんでそれっきりにして」 「それだけのつもりだった。  私、そんなのを手紙として出すつもりも、  出した覚えもさらさらないのよ?」  それなら誰が瓶詰めなどにして、水路に流しやったのかと腕組みした築宮だったが、どうにも脳裏にあの女性の面影がへばりついて離れようとしないのだった。  そう言えば彼女には、その後全く会っていない。なにぶん広い旅籠の事であり、どこで過ごしているのか知れたものではないけれど、今思えば、彼女にもどこかしら妙な点があったように思われる。 「それで、貴方に、もう一度確かめたいことがあるのだけれど」  司書がなにを問うてくるのか、築宮にも自ずと察しはついた。考えてみればこの手紙の一件は、あの女性から始まっていたのである。  ただ壁一枚、扉一枚を隔てているだけなのに、その部屋、司書室に招じ入れられて何時も青年の喉に通うのは、秘密めかした舞台裏を覗く事を許されたような喜びとも昂奮ともつかぬ感慨で、図書室とは地続きであるはずなのに、隠れ里にでも踏みこんだような。  そこには多分、猫達の集会場に同席する機会に浴した異種族の者が感ずる光栄もあろう。  しかしあの日、自分が図書室の椅子で〈午睡〉《うまい》から目覚めた午後に出会った女性は、間違いなくこの部屋、司書以外の者は迎え入れられない限りは中を覗くことも適《かな》わぬ司書室に入ってそして姿を消したのだ。  築宮は再三その事を告げたところ、司書女史も何か思うところがあるらしかったが、まず彼女が示したのは書き物机の隅に据えてあった、小箱だった。 「その人のことなんだけど」  と取り上げて、築宮の前に滑らせてきたのが、〈小体〉《こてい》ながらも〈黒漆〉《くろうろし》の塗りも厚く、〈螺鈿細工〉《らでんざいく》が美々しい小箱で、世が世なら大名の息女の〈輿入〉《こしい》れ道具の一つとして、庶民にはまず手を触れる事さえ〈勿体〉《もったい》ないような代物で。 「これは私の普段使いの文箱。  古い言葉なら、〈文車〉《ふぐるま》とも、言うわね」 「この中には、私がつれづれに書いた戯れ言、よしなしごとの〈反古〉《ほご》がいろいろと詰めてある」  しかしどれだけ床《ゆか》しげで、深い由緒を秘めていそうな女の道具であっても、あの女性の事を訪ねて、なぜ司書の文具を紹介されると、築宮には今ひとつしっくりこない。  が、そんな彼に、司書は今一度蓋をよくごらんなさいと指し示した。  たしかに綺麗な箱だが、それがどうかしたのかと問い返そうとして、築宮、あることに気がついた。  そうして子細に眺めてみたのが、これが初めてである筈なのに、何故か見覚えがあるのだ。  すわ、と言って残念ながら青年の失われた過去と関わりがある、というわけではなく、正確には、蓋を飾る〈螺鈿細工〉《らでんざいく》、その紋様に見覚えがあったのである。 「いや待て、おかしいぞそれは。  俺はこうやってこの文箱、つくづく眺めたのはこれが初めての筈」 「なのになんでこの模様に、見覚えが……」  司書が持つ以外に、そうそう同じ物があちこちにあろうとは思われない美事の品で、築宮の思い出せそうで届かないもどかしさ、を、一押ししてくれたのが司書だった。 「模様ばかりじゃなく、  この薫りにも、覚えはなくって?」  と蓋を開けて、築宮に中の匂いを吸いこませた、その薫り。  ―――深く沈んだ〈丁子〉《ちょうじ》の薫りが〈馥郁〉《ふくいく》として、幽かに通って、夕闇に映える花の匂いが芬《ぷん》と漂って―――  ああこの薫りも、あの時嗅いだのだ、と築宮は匂いのみに集中しようと目を細める。  あの時、あの女性の衣擦れと一緒に、布地の裡《うち》から薫ってきた匂いだった。  布地―――? と首を傾げた青年の脳裏で、鍵が錠前に嵌りこんだ響きが鳴って、そして彼はようやく合点がいったのであった。  布、そう、自分が見たのは服の布地に描かれた模様だ。あの女性だ、彼女がまとうていた衣装にこれと同じ模様がと、つかみとった閃きに顔を上げれば、司書の眼鏡越しの眸にも築宮と同様の確信を得た光が宿ってある。 「そう。そういうことよ。  ……古い器物というのは、〈付喪神〉《つくもがみ》というモノになるとか言うわね」  朧気ながら、なんとなく了解されてくる。  しかしその結論は朧気な輪郭に留まって、啓蒙的な論理ばかりでは最後まで解き明かすことのできない、そうだからそうであるのだと納得するしかない、いわば物語、お伽話の中にのみ許される経緯だったろう。  いつも中に〈反古〉《ほご》がしまいこまれるばかりの文箱。その中に、艶めいた文言が書き連ねられた紙葉を見て、宛名もあるのを見て、その相手に届けてやりたくなったとしても、まあ不思議はない―――文箱自らが、女の姿に〈変生〉《へんしょう》して。 「これは、そういうお話」  夕闇に薄《すすき》の穂に頬を撫でられれば、死に別れた知己に呼びかけられたような心地する。  長く〈丹精〉《たんせい》された椿の花が、その家の主に〈懸想〉《けそう》して人の形を取り、添い遂げたりもする。  これはそういうことなのだと繰り返す司書からして、人外の鬼女なのであり、言葉にはかの妖怪博士〈井上円了〉《いのうええんりょう》でさえ黙らせる、論理を越えた説得力があったけれど、それでも築宮には納得いきかねる部分が残った。  確かに人の言語で会話を交わしたあの女性を、文箱の化身と受け入れつつあるにしては細かい部分を気に病むとは築宮自身自覚しつつも、神は細部に宿りたもうとも言う。その細かい部分の食い違いが理に落ちない。 「でもしかし、だ。  お嬢さんは、この紙も墨も随分古いものだと、そう教えてくれたんです」 「そうなるとおかしくないだろうか。  俺と会ってから書いたのなら、  そんなに日は経っていないことになる」 「なのになんで、そんなに古びているのか」  その古びようがあった為、青年は手紙が昔の文と信じこんだのだ。  しかし司書は、青年の疑問などこともなげに呑みこんだ。 「貴方を想いつつ、過ごす夜が明けるまで、  なんて長いんでしょう、  って書いてあったじゃない」 「それだけ長いこと経てば、  紙だって墨だって古びます」  築宮、どう考えてもそれは納得がいきかねたが、さりとて反論したところで無駄なような気がして押し黙る。  そんな彼を女史は好もしげに眺めたが、ふっと真顔になった。眼差しにも、どこか苛酷な光が宿った。  文箱に掌を置いて、 「なんにしても、私の書いたものを、  勝手に外に出すなんて。  お仕置きしてやらないと―――」  その、軽く添えただけにしか見えない掌の下で、箱が軋み歪《ひず》んでいく―――のを見て、青年は慌てて司書の腕を掴み、制止する。  こういう女のこういう断罪を邪魔すると、こっちにまで怒りが飛び火して思わぬ傷を呼ぶ可能性だってあるのに、築宮はそうせずにいられなかったのだ。  案の定、司書は答え如何によっては、青年にも後でお仕置きすると言わんばかりのかぎろいを眸に溜めて、無言で問いかけて。 「箱の軋みが、女の悲鳴みたいに聴こえた。好きじゃないんですよ、目の前でそういう声を聴くのは」 「……ま、貴方がそう言うなら。  あまりむきになるのも、みっともないし」  心底腹を立てていたわけではないようで、女史は眼差しに普段の〈諧謔〉《かいぎゃく》と余裕を取り戻し、あっさり引っこめた、掌の下で文箱がほっと安堵したように、青年には思えた。  が、それはそれとして、築宮にはもう一つ確かめておきたい司書の存念のある。 「文箱のことはさておくにしても、貴女だ。  貴女はそのぅ……俺の事を、本当に?」  本当にあの文に書いてあったとおりに思っているのか、と訊ねようとして、築宮はなんとも頼りない、崩れやすい氷の端に乗っているような感覚に押し包まれる。  司書が自分の事を、礼儀正しくて人好きがする男に描写してくれた、それでない、もう一通の方、あの、生き血やら肉やらはらわただのと、なんの無惨絵の引き写しかという文章の方だ。  もし本当なら本当で、この司書女史は、自分の血肉や生き肝をつけ狙っている事になるのだ。それを考えると、彼女と向かいあっていて、どうにも落ち着かない、今にも脇腹あたりを一口囓られそうな恐ろしさが、じわ、じわと。  結局言い出せないままでいる築宮に、司書が浮かべてみせた笑みの、なんとも妖しくて、それでいて蠱惑的で、まさに心引き攫《さら》われるようなとはその顔で。  だから彼女が手を取った時も、はっと息が一つ跳ね上がった他は身じろぎもならず、その息遣いだって、窓越しに慕《した》う〈上臈〉《じょうろう》を〈垣間見〉《かいま》た若衆の切ない吐息と何の差があった。  司書が築宮の手、指先を一つ引き寄せる、唇が開けた隙間は〈弦月〉《ゆみはりつき》の冴えた弧、美しいのと危うげなのが共に備わり、覗いた糸切り歯だって鋭いではないか。  なのに青年は、それを心のどこかで観念していたように思う。それどころか、待ち望んでいたようにさえ。  ―――唇に含まれて、痛みはほんの一瞬。  余韻の方が長かった。  長く、甘く、体の芯が蕩《とろ》けるような、意識も曖昧になって、このままこの鬼女に―――  全て。体も。心も。  呑みつくされるのは、なんと素敵な事なのだろうと。  築宮は微笑みさえ浮かべてそれを覚悟したのに、女史は気がつくと離れて、一雫、唇へ青年の血潮を乗せた、彼女はそのほんの一雫を、最高のクラレットよりも貴《たか》い味わいのようにうっとりと―――舐めて、それきり。  その〈恍惚〉《こうこつ》の表情に、築宮はしばし呆然となったほどだが、その間にも浅く噛み破られた指先の血は止まっていた。 「今回は、それで勘弁してあげる」 「か、かんべんって、俺はどちらかというと巻きこまれただけだと思いますが」 「でも貴方、  お嬢様にこの文、見せたのでしょう?  女の秘密を、別の女に見せたのよ?」 「ひどい ひと―――」 「あ」  絶句したが、それ以上は司書も責めたてはせず、含み笑いをするばかり。  ―――夢の淡いにて水路のせせらぎに耳を洗われたように思った、その時には青年はゆっくりと目覚めつつあった。夢の〈残滓〉《ざんし》を瞬《まばた》きで払いながら、目を開ければ、 (う……む。  図書室か……?)  自分が図書室の書架に見守られて目覚めたのを知った築宮であるが、自分がどういう順序で図書室にいたのか、なにやら眠りの前後がぶれている。  なんとも〈暢気〉《のんき》かつ緩みきった話であるが、あるいはそれも無理はなし。  頃はどうやら昼下がり、とろとろ流れるような、緩んだ気配が午後に豊かに広がって、そしてまた身を埋めた椅子の、なんとも柔らかな座り心地よ―――だがそれも、胸の上に広げられた、手紙と思しきこの紙片がなければ、の話である。  この状況には覚えがある。  となれば、二度もひっかけられるのは、間抜けな話ではないか。  そして背後から掛けられた声だって、あの時と同じ耳当たりで、ちっと芸がないのではないかと、築宮は内心で苦笑した。 「読んで、しまいましたね―――?」 「いいえ。俺はこれっぽっちも、読んじゃいません」  築宮、今度はきっぱりそう切り捨てると、胸の上の紙片をくしゃくしゃと丸め、背後にぽいと投げ捨てた事である。 「それに、あまりいたずらが過ぎると、今度こそあの人に、壊されるか捨てられちまうか、されるかもしれませんよ?」  は、と怯《おび》えるような、失望するような溜め息が聞こえたが、さすがに二度も相手してやるのは骨折りだ。  それよりはせっかくのこの心地よい午後、うたた寝していたほうがずっとましだと、瞼を下ろす築宮だった。  司書女史は、書き物仕事があると青年に詫びて司書室に籠もっている。時間はかからないからとの言葉に、適当な小説をめくるうちに眠気に負けてしまったのだ。やがて女史も出てくるだろう。    ―――〈文車妖妃〉《ふぐるまようひ》―――  ―――終幕―――  ―――縊《くび》れ鬼―――    ―――頃はどうやら昼下がり、とろとろととろけるような、緩んだ気怠さが午後の幅一杯に広がって、そしてまた築宮が身を埋めた椅子の、うっとりするよう座り心地で、これでうたた寝せぬ者というのは、なにか神罰でも喰らって眠りの恩恵を取り上げられた哀れな輩に違いあるまいの。  と、これでは青年があの文箱の化身に誑かされた時を繰り返しているだけのようだが、状況というのは繰り返しを繰り返す事によって次の段階に移行するというのはままある話。要は全く同じように見えてどこかしら異なる部分があったりするという事なのだが、それが良い方向に推移しているとは限らないのが現実の厳しさで、この午後の築宮の目覚めはあの時の、〈木漏〉《こも》れ日に頬を撫でられるように安らかに、とはいかなかった。  それどころかはっきりとみじめな目覚めといってよい。かといって目覚めの悪心地に眠りの窖《あなぐら》に逃げ戻るのも〈御免蒙〉《ごめんこうむ》りたい気分の、もしかすると寝ている間からして魘《うな》されていたのかも知れない。  不快そうに目を細め、漏らした〈生欠伸〉《なまあくび》が彼自身にも生臭いようで、〈安穏〉《あんのん》とした午後なのに無性に惨めになってくる。  なんなのだろう、この情けなさは。  無理な姿勢が祟って体のあちこちが軋みを上げて痛い……のではない。ならば中途半端な睡眠時間に〈頭痛〉《あたまや》みがしているとでも……言うわけでもなく、ただひたすらに気分が低迷しているのだ。頭上を公害都市の〈煤煙〉《ばいえん》よりも濃く濁った〈気鬱〉《きうつ》の雲が蓋をして、のしかかってくるようだ。  まさかこの図書室でここまで陰にして滅、憂にして鬱な目覚めを迎える羽目になるとは築宮想像だにせず、この最低の気分が一体なにに由来するものなのか、さっぱり見当もつかない。なにか己を悩ましむるような心配事か不安の種でもあったかと心中探ってみようとしても、さっぱり集中できない。  それどころか自分がこれだけ憂鬱に全身蝕まれているというのに、旅籠は極めて〈安閑〉《あんかん》と午後を貪っている様子なのが腹立たしい。椅子の曲線が優美なのも、書棚の本の下端から栞《しおり》の紐が茶目っ気めかして覗いているのも、書見台の〈鼈甲〉《べっこう》を融《と》かしたようなワニスが、生ぬるい午後の空気にほんのり香りを立てているのもなにもかも、空気の塵一つに至る微細な部分までもが築宮の神経を不快の固まりを砕いて造った鑢《やすり》で逆撫でしてくるようなのだ。  こうまで周囲が不快でもって迫ってくると、腹立たしいを通り越して情けない、いっそ哀しくなってくるほどで、築宮は息をしているのすら厭になりそうな。  いったん憂鬱を意識してしまうと、自分に誂《あつら》えたように素晴らしかった椅子の座り心地までもが違和感を覚えさせ、乱暴に蹴って立ち上がりたくなる。そういえば腰を据えた尻の辺りもなにやらがそごそと妙な感触があるようだが、ポケットになにか突っ込んでいただろうか―――と確かめようとした築宮の耳が、ごとごとと重たげな物音を捉えた。  司書室の扉の向こうからで、なにか大きな品物を動かしている気配である。  どうやら司書女史が作業中と見えたが、男手がいるだろうかとも推し量られる。 「あの……なにか運び出すんなら、手伝いますが?」  築宮は自分にまとわりつく〈気鬱〉《きうつ》から目を逸らしたい一心で、扉の奥に声を張り上げた。体を動かして、しゃんと目を覚ましたのなら、この最悪の気分も少しは紛れるのではないかと期待したのである。 『お心遣い、有難う。  でも大丈夫。私一人で、平気だから』  しかし返事はすげなく……否、そもそもすげないとかつれないというのではなく、実際に築宮の手を患わせるまでもなかっただけなのだろうが、それでも築宮はおやつを取り上げられた子供のような、悔しさと切なさが綯《な》い交《ま》ぜの気持ちに襲われた。  大体にして、自分を招いたのは彼女なのである。今朝青年が座敷で目を醒ますと、何時置いていったものやら〈文机〉《ふづくえ》には〈瀟洒〉《しょうしゃ》なメッセージカードの、図書室の会員証と同じ草模様が縁を飾っているのから推理するまでもなく、『図書室係』の署名で誰が遺していったものか知れた。  文面は、   『面白い物が入ったので、  ご来駕下されば、幸いに存知ます』    と簡潔ながら気を惹く文句で、取り立てて急ぐ用事もないのが旅籠における日常な築宮の、司書女史が暇潰しの具を供してくれるのならこれ幸いと参じた。ところが司書は嬉しげに迎えてはくれたものの、挨拶を二言三言で後は準備があるからと司書室に引っこんでそれっきりの、待つうちにうたた寝してしまったのである。  待たせるだけ待たせて、その上手伝わせてもくれないのかと、浮かせかけた腰をがっくりと椅子に落とした。するとまた尻のポケットの辺りでがさがさと、これがまた青年の居心地の悪さを助長する。  一体なにをしまいこんだと引っぱり出そうとした築宮だったが、それよりも司書室の扉が開いたのに目が奪われた。  ぬう、と現れいでたのが黒い。棺にでも被せるのがぴったりな色だと、第一印象からして辛気くさくなってしまうのも今の陰惨な気分故にだが、実際にはそれは棺というには薄手な、大なる板状の物体の、中身は黒布に覆い隠され窺えない。高さは司書室の扉を潜るのがぎりぎりで、長さだって二間を越えようかという代物の、するすると扉から繰り出される一番最後に司書女史がくっついてきたのにはさしもの築宮も恐れ入った。  目方は見ただけでは定かならぬが、嵩からしてちょっと大人の男の手にだって余るだろうという代物なのに、運び出す女史の、ブラウスの肩の線は撓《しな》いもせず優美なまま。風雪をものともせずに立ち続ける神殿の白亜の柱を思わせたが―――同時に、蟻《あり》が己に数倍する木の葉を運び出すにも通ずる感があったのは否めない。  女史は図書室の開けた場所まで黒布に覆われた板を持ってくると、いったん降ろしたが、その時の床の軋みからしてやはり重量も相当のものだったらしい。倒れないよう器用に片手支えでバランスを取りながら、三つほどスタンドを並べてまた持ち上げ、嵌めこんで固定して、一仕事終えた風に手を払ったのが、いかにも造作なさげの。 「これは……なんなんです?」 「さあ、なにかしらねえ。  ちょっと反対側に回ってごらんなさい」  好奇心が鬱の重さに僅かに勝り、訊ねた築宮に、司書は板の反対側に来るように指示したけれど、まだ黒布をかぶせたまま。  言われたままに回りこむと、女史は黒布を取り払ったのがこれも無造作、特に〈勿体〉《もったい》をつけた様子もないのがむしろ物足りないくらい。  築宮は〈漠然〉《ばくぜん》と、司書好みの絵画でも見せつけられるのだろうと予想していた。さもなくば〈九相図〉《きゅうそうず》だ。死美人の肉体の〈盛衰〉《せいすい》を、一枚目はまだ生前と変わりない豊麗な姿、しかし枚を重ねていくにつれ腐敗し〈靡爛〉《びらん》していく様を仏教的無常観に則った啓蒙目的に描いたとは言えどうしたって悪趣味の誹《そし》りを免れない、あの〈九相図〉《きゅうそうず》でも突きつけられるに違いない……などと、そんな風に鬱陶しく穿《うが》った予想を立ててしまった後で、築宮にはなぜ自分がそこまで不穏な考えを抱くのかますます訳がわからなくなったのだが―――  そこには、なにも、描かれていなかった。  というより透き通っていた。  指紋も脂の曇りも一片もなく、黒布に隠されていたのは大きな〈硝子〉《ガラス》板であったので。  澄みきった硝子板の向こうで、司書女史が衣服の乱れなどを直している。  良く磨きこまれて、ひんやりした冷たさを放っていそうで、綺麗な事は綺麗なのだが、これが女史が告げていたような『面白いもの』なのか?   築宮にはどうにもそれほど大したものとは思えず、綺麗に透き通っているだけなら、女史の眼鏡だってそうなのであり、むしろそちらの方が形としても美しい。  きっとなにかの子細と、その説明があるだろうと、ガラスの前で待つこと暫時―――女史は築宮が焦れるのを気にした様子もなく、眼鏡を外して息吹きかけ、埃を払ったりなぞしているばかりであるのに、いい加減しびれが切れてきた。 「……どういう趣向なのか、そろそろ教えてほしいんだが」 「磨くのを手伝えといわれれば吝《やぶさ》かじゃないが、見たところこの硝子板、これっぽっちも汚れちゃいないようだし」  青年の〈逆捩〉《さかね》じ気味の抗議に気を悪くした風もなく、司書は手招きする。 「そろそろいいでしょう。  こっちにいらっしゃいな」  今度はそちらに廻れとは、肉でもって引きずり回す犬じゃあるまいし、もしかして人を馬鹿にしているのか、からかいの種にするつもりなのかと、声を荒げたくなったのが日頃は温順な築宮にしては珍しく、彼自身もそんな自分には最前から戸惑っているのであり、腹立ちを抑えながら女史の側に廻りこむ。  と、司書は軽くうち頷きながら、得心したように〈硝子〉《ガラス》板を覗きこんでおり、の、青年にはどちら側から覗こうが〈硝子〉《ガラス》は〈硝子〉《ガラス》、それ以下でも以上でもない――― 「あ……れ……?  なんだ、こりゃあ……」  確かに〈硝子〉《ガラス》板は〈硝子〉《ガラス》板に違いなく、向こうの情景を透かしているだけなのだが、そこには青年の姿も映っていたのだ。といって覗きこむ彼の姿が映りこんだとか言う、下らない〈修辞〉《レトリック》を弄《ろう》したわけではなく、最前まで〈硝子〉《ガラス》板の向こうで立ちつくしていた築宮の姿である。  驚愕に見いるうちにも、〈硝子〉《ガラス》の向こうの青年が動き出したのも、数瞬前までの彼の動作を寸分違えずなぞり直して、廻りこむように端に達して、そして消えた。  なにやら不安定な心持ちになって、 「これは、さっきまでの俺か……?」 「そう。今のは、数十秒前の貴方の動いた映像ね。これは『スローガラス』って言うの」  ……見せるだけ見せてから、ようやく説明する司書女史だった。  彼女が言うに曰《いわ》く、これは光を非常に時間をかけて透過させる〈硝子〉《ガラス》であり、細かい技術的な事は用語解説が面倒だから置くとして、要するにこれに映ったものは、その本体がいなくなってもしばらく映像として映し出されている、という事らしい。 「はあ……それは、また滅多なものを持ちだしてきましたね……」  ところが築宮は、感心の溜め息を一応漏らしたは漏らしたのだが、なんとなくあまり興味が持てないでいたのだった。  面白い代物なのだろうし、もしかしたら大層な貴重品なのかも知れないが、さしあたって自分にとってあまり意味のある品ではない。 (意味……意味か)  と築宮の胸中に、唐突に湧いた感慨の、その苦さ。果たして自分にとって意味がある事というのは、一体なんなのだろうと、不意にひどく虚しくなる。このスローガラスは自分にとって意味がないとは思ったが、なら他に意味がある事など、あるのだろうか。  一時動いた好奇心は、陽差しの下の〈蚯蚓〉《みみず》のようにたちまち干からび、また湧き起こってきたのは、あのもやもやした憂鬱心だった。  それは多分、このスローガラスが数瞬前の築宮を映しだした事により、彼が『過去の自分』を意識させられてしまったせいだろう。  今は失われている、自分の過去。  それは、いかなるものだったのだろうか。  ……きっと、思い出したってろくなものではあるまい。  ―――とにかく、あそこにはいたくなかったのだ―――  ―――今いるここではないどこかに、行きたかった―――  旅籠での暮らしに馴染《なじ》み、忘れがちになっていてもその想いは胸の底に澱《おり》のように沈み、ふとした拍子で舌に苦く蘇る事がある。この今のように―――と、そうやって物思いに沈みこんでいる築宮の横顔を眺めていた司書は、なにやら物思わしげに唇を軽くすぼめた。折角の、と驕《おご》り高ぶるつもりはないけれど、自分が青年の目を楽しませればと思って披露してみせたスローガラスは、彼のお眼鏡に適うどころか憂鬱の澱《よど》みに落としてしまったようだと気づいたらしい。  鬱の尻尾にかじりついたような築宮へ、 「どうしたの、貴方。  随分と、思いつめた目、  しているんじゃなくって?」 「この見世物が、そんなに気に入らなかったのかしら?」  全くもって女史の指摘したとおり、今の築宮の目は、酒の盃をこれが最期と覗きこむ自殺志願者のそれと異ならず。 「そういうわけでも、ないけれど」  と短く受け答えしたものの、それだって見え透いたごまかしで、どうしたって青年の心は晴れない。  ―――不意に、誰かがそばにいるというこの状況が、たまらなく鬱陶しくなった。それは相手が誰だって、たとえこの司書だって同じ事なのだった。いつもは築宮の心を柔らかく解きほぐすようにくつろがせてくれるようなこの図書室の古びた本の匂いも、今はひどく自分を落ち着かなくさせる。このままここにいたら、きっと失礼な言葉を吐いてしまうに違いない。そんな危機感に囚われた築宮は、挨拶もそこそこに図書室を辞す事にする。  女史はなにやらもう少し引き留めたそうな様子だったが、青年はそれをも振り切って図書室を出る。  その背中をスローガラス越しに眺めながら、 「そう……なら無理には、引き止めない。  でも貴方、あまりその憂鬱に、近づかない方がいいわよ」  差し出した忠告、青年の心中を見透かして懸念に満ちていたのだが、築宮にとってはそれさえもこうるさい、老婆の繰り言めいて響いて、無言で別れた。立ち去っていく姿がスローガラスに残され繰り返されるのを、司書はもう無言で眺めるばかりだったけれど。  一方築宮は築宮で、自分を気遣ってくれた司書に、そんな態度を取ってしまった事で、鬱々とした気分がいよいよ胸中に濃く広がっていくという悪循環の、青年はなにが原因でこんな憂鬱の泥沼に嵌りこんだのかと訝《いぶか》しい、訝《いぶか》しんだところで見当もつかないのがまた自分を不甲斐なく思わせて、思考の堂々巡りは果てしなく―――  図書室でスローガラスを見せられてからの数日ほど、気分が最底辺に沈みこんだ日々は、青年にとってこれまでなかった事である。  もともと性格からしてそこまで〈極楽蜻蛉〉《ごくらくとんぼ》な〈楽観者〉《オプティミスト》ではないとはいえ、だからといって極端な〈悲観論者〉《ペシミスト》でも破滅的性向を持ち合わせているわけでもない。  まあ人並みに〈暢気〉《のんき》な部分もあり、人並みに憂いも悩みも持ち合わせた人間である。記憶がなく、それが為にこれから先どうなるのかわからないと言う不安はあるにしても、体自体は健康で丈夫であり、まだ年が若いせいも手伝い、絶望、とまでは至らなかったのだが。  それがこの数日は駄目だ。全然駄目だ。  なんだかわからないが、自分はとにかく駄目な人間であり、このまま生きていたって良いことなどなに一つなく、それどころか前途には暗い運命が待ち受けているに違いないと確信さえしてしまっている築宮である。 (―――なんの理由もないのに、なんで俺はこんなに気が滅入ってしまっているんだ?)  掛け布団を肩に掛けたままあぐらを組み、独り侘《わ》びしく考える。他人が見たら今の築宮は、さぞ〈落魄〉《らくはく》して見えた事だろう。図書室から戻って以来歩き回る気力さえなくして、ろくに食事も摂らず風呂も使わず鬚《ひげ》もあたらずなので、髪はぼさぼさ体は全体的に脂も浮いて、鬚《ひげ》は口の回りで〈胡麻塩〉《ごましお》と、見た目からして鬱陶しいことこの上なし。もちろんお手伝いさんはそんな彼を〈危惧〉《きぐ》して、はじめは何くれとなく声をかけ面倒を看《み》てくれていたのだが、しまいには諦めたように座敷への訪れも〈間遠〉《まどお》になり、昨日あたりから布団の上げ下げと食事を定型化されたやり方でこなすばかりとなって口をきく事もなくなった。もしかしたら、青年の絶望が空気感染するものと恐れて、同じ一間にいる時間を極力減らそうとしたのかも知れない。充分にあり得る。 「まずいなこれは……」  このままでは、部屋の中に引き籠もりきりになってしまうのではないか。元気と名がつくならば空元気だっていい、あるいは一時の憂さ晴らしとかそんなものが必要だというのは判る。しかしろくな遊びは知らず、賭け事もこれまで無縁であり、女といっては図書室の司書の肌くらいしか知らない(記憶を失う以前のことは定かではないが)。  ただその肉にのめりこもうにも、彼女が相手では〈剣呑〉《けんのん》に過ぎる。図書室係を務めていても彼女の本質は鬼女、憂さ晴らしどころか色々大事なものを失いかねない、情事に溺れる、という比喩を通り越して本気で溺死しかねないし、なにより、たとえ相手が誰であろうと、滅入った気分をまぎらわせる為に体を重ねる、というのは青年の倫理観にそぐわない事なのである。  ……その倫理観が生来の性格なのか、誰かに厳しくしつけられた為なのかはいまだ定かではないけれど。  とにかく、となれば残りは酒くらいしか思いつかないが、こういう精神状態の時に酒を入れるというのは危険であり、滅滅とした気持ちを余計ひどくするだけかもしれない。  この旅籠での日々の発端からして、なにごとかに思い悩み悩み抜いた果てに、酒に逃れようとして暴走したのが始まりなのである。  そうとは知りつつも、それ以外に頼る術を知らない築宮で、まあ意識がなくなるくらいまで呑めば、少なくとも不眠の心配はない。  築宮、実は一昨日くらいからろくに眠れず、自分が〈不眠症〉《インソムニア》の様相さえ呈しつつあるのを感じとっていたのだ。  ざわめきは寄せ波めいて、届くか届かないかの間境に築宮は独り座していたけれど、それでも時折人声は耳につく。それが脂ぎってべとつく指で肌をまさぐってくるかのようで、もっと隅の方に引っこむべきかと思案もの、しかし今さらカウンターから席を移すさえ〈億劫〉《おっくう》な、青年は〈喧噪〉《けんそう》を振り払うように大きく盃をあおった、その酒の悪く舌を刺してくること、血でも混ざっているのではないかというくらい。  ―――もちろん独りの酒が悪いというのではない。夜来の雨を聴きながら、独り噛みしめる〈玉箒〉《たまはばき》の味わいは、孤高を知る者のみに許された妙味である。大勢で〈放吟〉《ほうぎん》しながらがばがば喉に投げこむような呑み方では、酒造りが精魂傾けて醸《かも》し上げた精妙の味わいを見逃す事だってあろう。  とはいえ―――今の青年のような呑み方はけして褒められたものどころか、そんなしかめ面をしたいが為に呑むのであれば、そこら辺の雑草を煎じ詰めた汁でも流し込めと、背中をどやしつけたくもなる。それくらい築宮の顔つきは不景気そのもの、天が太陽を失い、裂けた地から湧きだした〈泥濘〉《でいねい》に呑みこまれた、人の世の終末を幻視した悲観的予言者でもこれほどはないだろうと思われた。  そんな顔をわざわざ大勢の前に持ち出して晒すのもある意味〈傍迷惑〉《はためいわく》な話で、酒が不味くなる、人目につかないところでのたうっていやがれと怒鳴りつけられて文句は言えない。  築宮にしてもそれくらいは考えが及ばないでもなかったのだが、さりとて今から部屋に戻り〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》を一人で傾けるというのも、それはそれで侘びしくてたまらないと言うアンビヴァレンツな、どうにも困った状態である。  その上また運が悪い事に頼んだ酒が煮えており、これが築宮の〈陰々滅々〉《いんいんめつめつ》たる気分に追い討ちをかけた。酒にまで見放されたかの腹立たしさ情けなさであり、こうなったらやはり座敷に帰って、敷かれた畳の目を全て数え尽くす事にするか……なに、何日かかったって構いやしない、侘《わ》びしさを空しさをとことん突きつめてみるのも今の自分には相応しいだろうと非建設的極まりない〈妄案〉《もうあん》に、自嘲のつもりか頬を歪めた青年へ、 『こんばんはぁ』  アーチ様の梁《はり》にぶら下がる〈角燈〉《カンテラ》の火灯りは煙草の煙りで暈《かさ》がかかったような、時に酒の〈飛沫〉《しぶき》は散るし空気だって人いきれでむんむんとした、〈猥雑〉《わいざつ》な地下酒場にはちっとばかり健やかに過ぎる、陽性の声音。空気の澱《よど》みの中に陽を浴びた牧草のような、いや南国の花めいた甘い匂いがふわりと鼻先をかすめた。  琵琶法師だった。 「やあ……」 「隣、お邪魔するね」  法師の〈直垂〉《ひたたれ》姿は袂《たもと》や袴《はかま》がかさばって少々場所塞ぎであるが、見やればカウンターには青年の両隣は愚か向こうの端まで誰もおらずの、止まり木と言うなら仲間にはぐれた渡り鳥がぽつんと留まっている有り様。これは築宮は自覚しておらなんだのだが、他の客は彼の辛気くささが匂ってくるような横顔に閉口して皆席替えしていたのである。  ただ法師ばかりが屈託なくすとんと青年の隣に腰を落ち着けた。同じ年頃の、それなりに気を許した異性が酒の座の隣に留まってくれるというのは、さしもの築宮にも心弾む状況であるし、大っぴらには誘いかけずとも禁欲を装って追い払ったりできるほど〈木仏金仏〉《きぼとけかなぼとけ》ではない。  なのに今夜に限っては、正直誰とも話したくない気分なのだったが、かといってそれで邪険にできないのが築宮である。 「……また弾き語りにでも来たのか?」  社交辞令以上の含みを持たせたつもりのない問いかけだったが、法師はあくまで人懐こく笑みで返した、がその眼差しの中には築宮を気遣う色が浮いてある。 「まあ、そんなとこだったんだけどさ。  でもあんたがいて―――」 「なんか、元気ないみたいに見えたから、  どうしたのかって思ったんだよ」 「別に……そんな事もないが」  言葉短く答えたが、偽りなのは見え見えの、声音からして曇天に漂う鴎《かもめ》めいて物憂げだった。空元気を吹かすだけの心の余裕さえないのだ。  といって自分の今の精神状態は言葉にしづらいし、言葉にするのは再確認してしまうのと同じ事、ますます惨めになるばかりだろう。  こうまであからさまな築宮の〈気鬱〉《きうつ》が伝わらなかった筈もなかったろうに、法師は弾き語りの定位置に着こうとはせず、青年の隣に居座る事に決めたようで、無国籍な情緒溢れる地下酒場のカウンターにシンプルな〈襯衣〉《シャツ》とズボンの青年とくたびれた〈直垂〉《ひひたれ》姿の女が並ぶという、いささか混沌とした趣の組み合わせが出来上がる。 「お手伝いさん、お冷や、お願い」  あるいは彼女も人恋しかったのかも知れないが、酒も頼まず酒場で〈素面〉《しらふ》を通すような塩梅では、鬱の黒い帳《とばり》をかきわけて築宮の心を震わせるには〈到底〉《とうてい》至らない。それで会話の〈気勢〉《メートル》が上がるわけはなく、甚《はなは》だ景気の悪いやりとりが、ぽつんぽつんと雨だれのように交わされるばかりだ。 「あのね、こないだ船着き場の方で、  紙飛行機っていうの?  そんなのを拾ったんだ」 「河の水に浸かって、  しなしなになってたけど。  ……誰が飛ばしたんだろうね」 「さあ……見当も、つかないな」 「……そっか……」 「ああそうだ、それから……、  おとといだったかな、  お帳場から北のほうに……」 「〈四半刻〉《しはんとき》くらいも歩いたあたりの、  渡り廊下の真ん中に、そこだけ色が違う、  〈鬱金〉《うこん》に塗られた柱があってさ」 「それの根元が、くりぬかれてて、  ちょっと隠し場所になってた。  中にはあれは……」 「まるめろのお酒かなぁ……。  瓶がしまってあったんだよ。  なんのつもりで、隠したんだろ」 「ふぅん……。  そういう事も、あるんだな……」 「……うん」  常の青年なら、そぞろ好奇の芽が出て、あるいは法師が案内でその隠し酒の柱まで赴《おもむ》いてみる事だって厭《いと》わなかったのだろうが、この時は心の動きは陰鬱の〈泥炭〉《でいたん》の中深くに埋まってなかば死んだ状態であり、返事だって鈍く冴えないこと夥《おびただ》しい。  法師もいったんは話やめて、カウンターに垂れたお冷やの露を、指の先で木目に沿うて伸ばしてみたりと、少々品のない手悪戯したりなどして、どうやら琵琶に合わせて謡《うた》わせれば天にも通ずる音《ね》を紡ぐ唇も、こういう浮き世話の種には乏しいと見える。  築宮の横顔から視線をカウンターに落とし、天井の梁《はり》あたりにたゆたう紫煙の渦を見上げ、それからまた視線を落としたのが、青年の手元の〈酒肴〉《さかな》の小皿。〈山葵〉《わさび》の葉の漬け物の突き出しと、他には鰍《かじか》の素揚げの、からりと油も落ちて香ばしいのに、青年は憂いに箸まで重く、ろくに手をつけていない。それでは針で痛い思いして空気に溺れ死にし、火にまで炙《あぶ》られた、〈小雑魚〉《こざこ》の魂にも立つ瀬浮く瀬がなかろうの、法師は酒肴をちらりと眺め、 「それ、美味しい?」  吐いた台詞がこれであり、人の肴のあれこれまで始めるというのはいよいよ話題に窮した証拠である。そこまで気を砕かずともこんな鬱の虫など放っておけばよかろうに、法師はよほど築宮の鬱《ふさ》ぎこんでいるのを懸念したものらしい。 「ああ……まあ……」  頷いてはみせたものの、ろくに箸もつけておらぬでは味など知れるはずもない。 「一口、味見してみるか?」  曖昧な返事で濁しておいて、法師の方に小皿を押しやって勧めてみた。彼女が口寂しいのかと思ったのもあるけれど、なにかを口にしている間は黙っていてくれるだろうとの〈目論見〉《もくろみ》もあった。ざわめかしい子供に飴《あめ》を宛うのと同じで、無下に追い払う事もできず、かといって自分が席を立つのも面倒くさく、築宮はそれくらいしか思いつかなかった。  なのに法師は手を振って遠慮の構え。 「あ、別に食べてみたいとかじゃないんだ。  あんたは、どんな物が好きなのかなって、  ちょっと気になったから」 「と、言われてもな……。  ここに来る以前の事は、覚えていないし」 「じゃあさ、このお宿で出されたご飯は、  どんなのが好きだった?」  いつの間にか話は青年がどんな食べ物が好きなのか、に移っており、なんで自分が一々答えてやらなくてはならないのかと〈辟易〉《へきえき》とするばかりで、さっさと会話を打ちきってしまいたくてたまらない。  そんな鬱陶しさが勝るばかりで築宮は、なぜこうまで〈執拗〉《しつよう》に法師が食い下がってくるのか、その理由を推し量ろうともせず、というより法師の問いに答えるうちにも彼の心は更に余計に〈只管〉《ひたすら》に沈潜していくのみで、他人の事など気にしていられる余裕がなくなっていたのだった。  あの〈昼餉〉《ひるげ》に食べたあれは、あの〈深更〉《しんこう》にお手伝いさんに無理を押して作ってもらった何それは、あの遠出の時出会った奇妙な客に分けてもらった何々はと、旅籠で口にした者の記憶を辿るうち、膨れあがっていく自分への情けなさ不甲斐なさ。  自分にはどんな家族がいたのか、好きだった人はいたのか、職に就いていたのか学生だったのか、そういう〈肝腎〉《かんじん》の記憶はどう足掻いても戻ってこないくせして、食い物の好みばかりをしっかり舌が覚えているのはどういう事か、意地汚く浅ましいにも程がある。  それとも、そんなにこの自分は、過去の自分を嫌いで忘れてしまいたかったのか。先程から酒杯に口をつける事さえほとんどしなくなっているというのに、酔いが急速に回っていくような気がする。こめかみがどくりとどくりと脈打ち、止まり木が不安定に揺らいできたような危うさにカウンターの端を掴んだが、なんの事はない揺れているのは築宮自身の体で、琵琶法師が気遣わしげになにか呼びかけてきたようだが、耳の中では酔いの〈旋音〉《せんおん》がやかましくてよく聴き取れない。  えづくように大きく息を吐き出しながら、一体自分は何をやっているのか、なぜこんなところにいるのかを自問する。  渡し守がこの旅籠に案内したから、というのはあくまで物の成り行きで、そもそも自分がそれまで暮らしていたところから、おさらばしたいという願望があったからのようだ。 (ああそうか―――)  つまり自分は逃亡者なのだ―――  と歯を食いしばるように自覚したのが、ほとんど物理的な痛みまで伴っていた。  どれだけ美味、美酒を味わおうと異郷の食い物と酒、〈馴染〉《なず》んだ座敷に寝床も本来の物に非《あら》ずして、自分の根幹は届かない過去に置き去りにしてきている。 (結局、俺は)  それまでの現実に耐えられず無様に逃げ出してきた敗北者なのだ。人生の〈落伍者〉《らくごしゃ》なのだ。負け犬なのだ。両生類の糞《くそ》をかき集めたほどの値打ちもない生き物なのだ。無意味無価値なのだ。今はかろうじて生きてはいるが、この先長らえるような値打ちもない汚物なのだ。駄目なのだ。最低なのだ。屑《くず》以下の塵《ちり》なのだ。 「ちょっと、あんた……っ。  いけない、そんな目してちゃ、  だめだってばぁ……っ」  隣で法師がほとんど半泣きで、懸命に呼びかけて腕に掴んできた力に懸念が見え隠れして、築宮の心が自己嫌悪に壊れそうなのを繋ぎとめるかのようだったが、青年はその手を押しのけた、目が、覗きこんだ者が顔を背けたくなるくらい陰惨に荒んで血走っていた。  随分と心配そうな顔をしているが、そんな顔をしないで欲しい、自分なんて、心配されるような値打ちなどこれっぽっちもない屑《くず》なのだから。こんな自分など生きていたって仕方がない。死んだ方が良いのだ。生きていたって他人に迷惑を掛けるだけなのだ。  ……こうまで思いつめるくらい、築宮の思考は完全に負の堂々巡りに陥っていおり、思考ばかりか視界もぐるぐると、酒瓶を並べた棚も酔客達の影も油煙で煤《すす》けた柱も何もかも、霧がかかったようにぼやけて旋回し、まるで遊園地のからくり屋敷のようでこんなのは困る、悪酔いして〈反吐〉《へど》どころか腸《はらわた》全てを吐き戻してしまいそうにぐるぐる、ぐらぐら―――それほど呑んだとは思われないのに、この酔い様はなんだ、自分は酒を呑む価値もないのか。いや、あるはずがないではないか。 「築宮さん、ねえ駄目だよ、  今日はもう帰ろ、  あんたの座敷まで、送ってくから……」 「いや……ちょっと気分が悪くなった、だけだから……外の空気を吸ってくる……」  止まり木から降りるだけでも、底の見えない深淵に踏みこむよりも危うげで、築宮は尻から滑り落ちるようによろけた。踏んだ足元の床がこうぐらついては、波に揉まれる小舟に立っているのと変わりない……揺れているのは青年の体の方なのではあったが。  きっと煙草の煙りに息が詰まっただけだからとかなんだとか、気休めにもならない言い訳を、縺《もつ》れ気味の舌でそれでも押し出すくらいの理性を、まだその時は残していたのだ。  階段を上がって外に出て(といったってそこだって廊下なのではあるが)、夜気を吸って少し頭を冷やそう……そういう分別もあったのだ。  ―――そいつを、目にするまでは。  ただ〈酒精〉《アルコール》の作用というには不自然なほど〈歪曲〉《わいきょく》した視界で、酒場の情景も酔客達の輪郭も〈奇矯〉《ききょう》にディフォルメされ、黄昏に乱舞する妖《あやかし》じみて膨れあがったり縮んだりしている、そんな中で、そいつだけが鮮明だった。  重なり合う地下酒場の柱や卓の隙間を縫って狙撃するように、そいつの姿だけに、ぴたりと〈焦点〉《ピント》が座る。そしてある哲学者が残した、深淵を覗きこむ者は、同時に見られている事を忘れてはならないという〈箴言〉《しんげん》の通りに、そいつの視線もまた築宮に据えられて、彼の核を刺し貫いた。  思うにそいつはずっと、その片隅の暗がりに、得物を待ち続ける毒虫の辛抱強さに座して、築宮を見つめ続けていたのに違いない。  その―――みじめったらしい薄笑いで。  世の卑屈という卑屈を集め、束《つか》ねあげたほくそ笑みで。  〈矮小〉《わいしょう》で、見苦しい、それを目にする事によって逆説的に己の中の醜い部分を直視させられるような、唇と頬と目元の歪みで造り上げられた微笑で。  ―――これほど恐ろしい事はない―――  なんとなれば、築宮はそいつを知っていたからである。これ以上はないというくらい知り抜いていたのも当然の、そいつは、そいつの顔は―――築宮自身のものだったから。  目線を重ねたのはほんの一刹那の間だったのだが、それでも充分だった、充分に過ぎた。その短い時間の中で築宮が得た直観は、そいつは過去の、自分であるという事。逃げ出してきた、無くしてしまったというのは都合の良い思いこみにしか過ぎず、こうして厳然と存在し、追跡してきたのだ。  旅籠での〈安寧〉《あんねい》の日々に浸りきって、ふやけきった自分を追跡してきたのだ。  この恐怖に築宮は、自分がこの場でショック死しなかったのが不思議な程で、事実彼は自分が生存していられる事が信じられず、しばし〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》して立ちつくすのみ。  傍らの法師は、青年が一体何を見つけてそこまで恐怖しているのか訳がわからない、といった態で築宮の視線の先を辿ったが、彼女は酒場の混雑以外は何も見いだせなかったようで、眉根に皺寄せて問いかける、 「ねえどうしたの、あんた。  お化けでも見たような顔して―――?」  その声で自失していた青年の、心と神経が繋がったのだが正常には機能せずどこかが短絡していて、彼の喉が漏らしたのは絶命する蛙のようなくぐもった呻き、その呻きだけを置いて、築宮の体は酒場の入口にと跳ねた。  入口と彼の体がゴムで繋がっていたかに突発的な動きで、手足の均衡をまるで欠いており、進路にあった物にぶちあたり、手で掻き分け脚で蹴り飛ばし、後に他の客達の罵声が弾けたが、当の青年の耳には全く届いていなかっただろう。  何しろ築宮の全身全細胞全精神は逃げ出す事その目的のみに白熱し、焼きつくようで、どの様に階段を駆け上がったのかも定かならず、ただそうやって酒場から飛び出してみたところで、青年には判っていたのだ。  最大最強の追跡者というのは、自己の外の世界にあるのではなく、裡《うち》からやってくるものだと言うことを。猟犬の鋭敏な嗅覚もハイエナの骨噛み砕く貪欲も、これにはかないはしない。  追いかけてくるのは、自分自身。  それも逃げ出したいとひたすら願っていた過去からの―――  気がつくと築宮は、酒場を飛び出して廊下の物陰にうずくまり、激しく〈嘔吐〉《おうと》している自分を見いだしていた。日頃お手伝いさん達が〈丹精〉《たんせい》して磨き上げている床一面に、〈小間物屋〉《こまものや》が店先の棚全てを引き倒したようにぶちまけたのがありったけ、胃の中身だけでなく〈吐瀉物〉《としゃぶつ》には点々と赤い染みさえ混じっていたのは、胃壁か喉のどこかをえづき戻す弾みに傷つけてしまったのだろう。  悲鳴くらい上げていたかも知れないが、意識は〈反吐〉《へど》の苦しさと先程の相対した恐怖とで一杯であり、額と言わず全身に滲んだ脂汗、恐怖の余りに肌から溶解していくのではないかと言うほど。  〈泥酔〉《でいすい》と〈恐慌〉《パニック》とで、過去の自分が追いかけてきて〈嘲笑〉《あざわら》うなんていう事はありえない、といった〈弁別〉《べんべつ》能力など働きはしない。それに色々の不思議を蔵するこの旅籠なら、築宮如きの認識の枠を遙かに越えた事だって平然と起こりうるのだからして。 「うぇ……ええ……げぇお……っっ、  うぶぅあああ……っっ!」  とにかくひたすら苦しくて、胃の中身を全部吐き出しても空えづきは続き、こんなに苦しいのなら死んだ方が遙かに楽なのではないかという極限の逃避が〈容易〉《たやす》く思い浮かんだ。  いや、極論どころか、それは青年にとっては至極当然の帰結だった。  なにしろ自分は死んだ方がましな人間である。おめおめと生きているのは、世の中にとって大迷惑である……と、法師と会話するうちにも散々自分に言い聞かせたはずだ。何を今さらというものだ。 「うぅ……うぅぅ……」  〈腸捻転〉《ちょうねんてん》を起こした豚だってここまで悲惨ではあるまいの苦鳴でぼんやり上げた双眸には〈目脂〉《めやに》と死への願望がへばりつき、故に他の何よりそれが真っ先に目に着いたのだろう。  ゆらゆらと、すぐ側の、座敷の〈欄間〉《らんま》のあたりで揺れていた。  その僅かな振幅は、築宮の唇の端から細く垂れた涎の筋と同期しているようなのが、凄まじい〈滑稽味〉《こっけいみ》さえ漂わせていた。  〈欄間〉《らんま》の透かし彫りから垂れ下がり、端の方は円く輪に結われた、なんの事はない荒縄で、飾り気無く至って単純な荒縄で、目的ときたら一つしか考えられない。その目的が、築宮を完璧に魅了して留まらず、彼にあっさりと決心させる、させてしまう。  首を、縊《くく》るのだ―――  それ以外には考えられないではないか。  そんな事をしては死んでしまうと、心の一部が警告したけれど、それもほんの〈芥子粒〉《けしつぶ》ほどの一部で、押し止める声だって弱々しく、死への〈渇望〉《かつぼう》の前にはたちまち押し流される。  幸い近くには、誂《あつら》えたように空の木箱が転がっていて、事はこれ以上はないくらい容易に見えた。  簡単極まりない、その木箱を積み上げ、足がかりにして首に縄を掛け、一歩踏み出せばそれで〈一切合切〉《いっさいがっさい》綺麗に片がつく。  一桁の足し算よりも単純で、そうだ、そうしよう。それ以外のやり方などないではないか。  しかし待てよ築宮よ、お前はそう都合よく首吊りの縄や木箱があるという異常になんら不審を抱かないか、まるで全て予めこの時のために用意されていたかの不思議に、なにも思うところはないのか―――?  もちろん築宮は思った。  ああ、これで全ての苦しみから解き放たれ楽になれると。  柱にすがって立ち上がり、木箱を積み上げ上に登って荒縄に手をかけるという、〈泥酔〉《でいすい》した人間には相当な困難事を、築宮の体はやけに順序よくやり遂げたのだが、その足取り手つきは、傍目にはあちこちの関節に見えない糸が懸かって引っぱられているように、奇妙な〈均衡〉《きんこう》に成り立っていた。  だが築宮が意識していたのは、掴んだ荒縄の手触りの良さで、掌をちくちくと刺してくるのが彼には実に心地よく感じられる。この刺激を首一杯に感じて、しかも自分の体重に後押しされて締めつけられて逝けるのは、間違いなく最高の幸せに違いない。  ほら―――縄の輪に首を通そう。  ああ、なんて素晴らしい。  ほら、ほら―――足元の木箱を蹴ろう。  ああ、ああ、なんて自分は幸せだ。  築宮は、ほとんど性的絶頂にも近い陶酔の中で、恐ろしいほど簡単に、自分の命を手放したのである。                    と。  寸前で。  本当にぎりぎりの寸前で。  築宮が切望した死の安らぎは、横からさらわれて彼の手から遠ざかったのだった。 『またずいぶんと、  めでたい呑み方、しているものだこと』 「っあ……?」  どうしてこの機この最高潮の一瞬に、横車を入れられるのか築宮には全くもって理解しがたく、脂汗と〈吐瀉物〉《としゃぶつ》の跳ね返りでぬらつく顔に怒りを滾《たぎ》らせ振り返れば、琵琶法師とそして、図書室の司書だった。  法師は泡を食って今にも築宮の脚にすがりつきそう、しかしそんなことをすれば木箱の段を崩して文字通りの台無しにしてしまいかねない、のを司書がやんわりと抑えている。  ブラウスの皓《しろ》が、廊下の暗がりに〈大水青〉《おおみずあお》という美しい夜の虫の翅《はね》のように青らんで、冴えていた。  だがそんな美しさなど今の築宮には厭味たらしいものでしかなく、唇歪めて吐き捨てる。 「なんの用ですか。  俺はこれから死ぬんです。  死ぬにはとても良い夜なんだから」 「だ、だめぇ……っ!」  小さく叫んで飛び出そうとする法師を制止して、司書はあれこれと指摘した、声は差し迫った風はなく、かといって茶化すようもなく、ただ真面目くさっていて、 「そんなのじゃ、うまく首なんか、  くくれやしないわよ?」 「……なんだって?」 「なんてことを……!?」  縄懸けたまま首を傾げる青年と、こちらは目を剥いて仰天する法師を尻目に、司書はすらすら進み出る、足取りはいかにも無造作ながら正中線が美事に通って、手を出して留めようにも全く隙というのがない。呀《あ》っと喚《わめ》く間は愚か、動画の途中のコマを抜いたように間境を越えて司書は木箱の傍らに立って築宮を見上げてあり、義手を取り外して片手に持つや、それでおもむろに青年の手から首縊《く》りの縄を引ったくったって、くん、と。  どう見ても軽く引いたとしか見えず、そんなでは木の葉の一枚だってちぎれはしないだろうに、軋んだ音が耳障《ざわ》りの、埃も舞って、縄を掛けていた〈欄間〉《らんま》は壊れた、いやその脆いのなんの。  ―――ぎざぎざの破片を見せて壊れた〈欄間〉《らんま》と、司書の手に残った荒縄を交互に見やる築宮の目つきの虚けた様、頭には舞い散った埃を乗せてどこかしら間抜けて、微笑みを誘うほどであったが無理もない。築宮だけでなく法師だって同じようなものだ。 「ごらんなさい、こんなやわな〈欄間〉《らんま》じゃあ、  貴方がぶら下がった途端に、  壊れるに決まってる」  ついでに縄の端を朱唇に軽く噛んで、襷《たすき》にしごきを掛けるように顎《おとがい》を反らした、とこちらもそれだけで脆く千切れた。 「縄だって、こんなに弱い。  これじゃあ、貴方を支えきれないで〈千切〉《ちぎ》れるわね」  築宮は、これを見て、まず木箱からもそもそ降りて、それからがっくりと膝をついた。見た目にはいかにも首を吊るのにもってこいの道具立てだったのに、これでは子供でも死にきれまい。 「なんて……ことだ……っ。  こんなのって、あるか……」 「きっと、古くなっていたのよ」  青年の慟哭は、青年の身を案ずる法師の胸を、秋の〈時雨〉《しぐれ》に降り籠められたように侘《わ》びしく冷やしたけれど、一方司書は項垂れる築宮に手を貸して立ち上がらせるのが、随分と平然としたものだった。時に超然とした佇《たたずま》まいを見せる彼女にとっては、ことさら騒ぎたてるような大事ではないのかも知れず、冷酷というよりこの場合はむしろ頼もしい。だが頼もしいにも程があって、女史が次に吐いた言葉に法師は呆気に取られる。 「さ、呑み直しましょう。  まだお酒が足りないのよ、貴方には」  と酒場の方に手を引きながらの女史に、青年は最前であった恐怖を思い出しはしたが、どうなとなれと投げやりに、〈唯々諾々〉《いいだくだく》と従った事である。  どうせ自分は満足に首もくくれない駄目な男なのだから、他人が言う事には大人しく従っておいた方がいいのだ。  そんな二人を呆然と見送りながら、法師は今しがた壊れた〈鴨居〉《かもい》を見上げる。夜目にも固く黒々として、大人がまとめてぶら下がっても壊れそうには見えなかった。縄だって、法師が拾い上げて引っぱってみても、手が痛くなりそうなくらいにしっかりしている。  司書が軽々やってのけたためいかにも脆そうに見えたけれど―――なにやら襲うてきた寒気は、築宮の自殺未遂の故でなく、司書の腕《かいな》に秘められた力を思ったからで―――寒々とした心地に肩をすぼめた法師へ、呼びかける声。 「貴女もいらっしゃいなさいな。  せっかくだから、付き合いなさい」  なにがせっかくなのやら法師には知れたものではないけれど、どうやら最悪の事態を免れたのに変わりなく、〈目出度〉《めでた》い事は〈目出度〉《めでた》い。  厄落としという事もあり、付き合った方がいいのだろうと法師も後に従う。  ―――この、関わる当人達が凄まじく真剣なあまり、はたから見ればいっそ喜劇の域に達してしまった一幕の顛末は。法師が司書と往き会った事から始まっている。  築宮が酒場から飛び出していったのを、その時はつい見送ってしまった法師だったけれど、後から怖くなった。それくらい青年の目の色は常軌を逸していたのである。  追いかけて酒場を出てみたのだが彼の姿はもう見えなくなっていた。なにやらひどく悪い予感がしたところに、珍しく夜歩きしていた司書と行き逢ったので、青年を見なかったと訪ねてみたのだ。ひどく悪い酔い方をしたようなので、不安なのだと言い添えると、女史はさもありなんと言った顔をして、薄暗い片隅を指差した。そこで今まさに築宮が首を吊りかけていた、というのが二人が声を掛けるまでの顛末である。  一体全体、司書が居合わせてくれなければどんな物哀しい事になっていたやら知れたものではない。  さて酒場に戻って呑み直しはじめたものの。  青年は早々に潰れて、卓に前のめりに崩れて寝息を立てはじめた。司書はそれを見届けてから、築宮を抱え上げたのが、あの可愛らしい、お姫さま抱きという形である。 「最後まで酔わせ潰してしまえば、  あんな不了見は起こさないわ。  付き合ってくれて、ありがとうね」 「……その人、大丈夫? ほんとうに?」  法師が心配そうに覗きこんだ築宮の顔は、目元に涙と憂いの小皺を残しており、放っておくのも不安であったが、司書は安心させるように頷いた。 「まあ少なくとも今夜は、  ぐっすり眠ることでしょう。  ただ、起きたときに―――」  とやや声を潜めたのに法師の心中に新たな不安が湧いたが、 「どんなにひどい〈宿酔〉《ふつかよ》いになっているかまでは、知れた事じゃないけれど」  と他愛ない戯れ言で締めて、こちらも案ずるような目線を寄こしていたお手伝いさんに、今夜はこれでお開きの旨を伝える。  こんな三人に、他の酔客達は好奇心の目を向けてこないでもなかったけれど、それでも遠巻きに眺めるに留まり、話しかけてくる者はなく、図書室の司書は鬼女なのだという風聞は、酔客達にも二の足を踏ませると窺えた。  足をぷらんぷらんと司書の足取りに合わせて揺らし、抱かれていく築宮を見送る法師は、どうしたって不安な気持ちを拭いきれないのだった。  ―――もう耐えられそうになかった。あの酒場での夜以来、寝ても覚めても『過去の自分』につきまとわれているのだ。気分は陰々滅々と最低最悪で、もうろくに食事も喉を通らないし睡眠だってまともに取れなくなった。  目を閉じれば、酒場の片隅で見かけたあの過去の自分の、卑小で下劣な含み笑いが瞼の裏一杯に浮かんできて、自分を〈脅〉《おびや》かすのだ。そうでなくとも四六時中悪想念に悩まされているのである。とにかく自分は最低の人間で、過去から逃げ出しのうのうと価値のない人生にしがみついている……という、そんな想いから離れられない。自分が一体過去になにをしでかしたのだ、とどれだけ〈煩悶〉《はんもん》しようとも、記憶はいっかな蘇りはしない。それにたとえ思い出したところで、どれだけ最悪な過去が待ちかまえているかわかりはしないので、記憶が蘇ろうが蘇るまいが、築宮にとっては恐怖であるのには変わりない。  ひどいものだった。鏡を覗きこめば、自分の顔がひどいことになっているのに〈慄然〉《りつぜん》とした。頬は痩《こ》け目は落ちくぼみ唇は粗《あら》び、まるで幽鬼もかくやのありさまだ。それだけならばまだ良い。ある時を境に築宮は鏡を覗きこむのをやめた。鏡に映った背景の片隅に酒場で見かけたあの自分がいたのを発見してしまったのである。  物陰から窺うようにして、卑屈な笑いで自分を責めていた。  なんで生きていられるのだ、と。  即座に振り返り、調度ばかりがなに食わぬ顔で澄まして誰の気配もなかったが、築宮は確かに見たのだ。きっとどこかの物陰に素早く隠れたのだろうの、そこにはそいつ、過去の自分が確かにいたのだ。  それ以来築宮の心が安らぐ時は一切なくなった。部屋に一人いれば、暗い想いが自分を責め苛《さいな》む。部屋から出たところで、物陰から過去の自分が監視しているのだ。いつまで生きているつもりか、これ以上どこまでも生き恥をさらすというのなら、最期までそれを見届けてやる、と。  築宮はついに悟る。  背後に潜むそいつは、もはや自分が死ぬときまで離れはしないのだと。  どうやらその過去の自分は、他人には見えないようだったけれど、築宮にとってはまぎれもない実在であり、どこに行ってもつきまとってきた。こうして築宮にとって周囲の世界は日に日に色を失い灰色となり、生はひたすら苦痛に満ちたものになっていくばかり。  部屋にいても気持ちは安らがず、外を出歩いたところで過去の自分につきまとわれる。それでも築宮は居ても立ってもいられず、旅籠の中を〈蹌踉〉《そうろう》と〈徘徊〉《はいかい》するようになった。  話を聞きつけた令嬢が見舞いに訪れたこともあるのだが、ろくに話もせずに引き取ってもらった。どうせ語ったところで自分のこの苦しみは理解してもらえるはずもない。生の苦痛は次第に虚無感と変じていき―――今築宮は、旅籠の中央部の、吹き抜けの多層回廊、その最上層の回廊に立ち、手摺りに凭《もた》れ眼下を眺めている。  いちいち頭を巡らさなくても、そいつが回廊の隅から自分を窺《うかが》っているのはわかっている。過去の自分は、どんな時だって離れることはないのだ。その自分が声なき声で囁きかけてくる。  ほら、後一歩だ。後一歩踏みだしてしまえば、それだけでこの最低最悪の生にけりがつく、と。  確かに眼下の、吹き抜けの一番下までの高さは、自分のこの命を断ちきってくれるのに充分だろう。最下層は水路の合流点だが、見たところそこまで深くはない。  酒場でのあの時は、道具立てが柔《やわ》でうまくいかなかったが、今度こそは大丈夫だと築宮はほくそ笑んだ。こうなる前の彼を知っている者が見たら、たじろぎそうなほど暗く〈凄惨〉《せいさん》な笑みだった。  築宮は手摺りの上に立つ。恐怖はない。それどころか解放の喜びさえ感じている。後一歩踏みだしてしまえば、この責め苦から解き放たれる。もう躊躇いはない。手摺りに立つ築宮と、回廊の隅から彼を窺う、同じ顔をしたそいつが、同時に笑んだ。ただ、今まさに人生を自ら断とうとしている築宮が、どちらかといえば晴れ晴れと清浄な笑顔を浮かべていたのと引き換え、回廊の奥から窺っているそいつが見せたのは、ひどく〈生臭〉《なまぐさ》な、ようやく腐肉にありついた獣のようにさもしい笑みだったが。  とん、と手摺りを蹴る。そして足元が消失する。体重も失せる。頭を下にして、一直線に墜落していく。  自分の体の周囲をくすぐっていく空気、〈失墜感〉《しっついかん》はたまらないほど〈爽快〉《そうかい》で、築宮は笑みを浮かべたまま水路に叩きつけられて、あっけなくその人生に幕を引いた―――かに思われたのだが。  築宮の笑顔がぶれた。がくんと、凄まじい急制動が足首から走り、股関節から片足が引っこ抜かれそうになる。その衝撃で、幸福に拡散していた意識がたちまち体の形にと〈収斂〉《しゅうれん》した。落ちるばかりだった体が、ゆっくりと引きあげられる。  目の前には、司書の顔。  例の、取り外したる義手でもってリーチを伸ばして、落下してくる築宮を掴まえたのだった。 「こーら。そんなことをしたら、  水路が汚れてしまうでしょう?」 「もし渡し守が見たら、顔が、面の方だけじゃなく、全部般若になってしまうかっていうくらい、〈激昂〉《げっこう》するんじゃないかしら」  司書は普段と同じ、のんびりと優雅で〈怠惰〉《たいだ》な声音だったのに比べ、逆さまの築宮の顔こそ見物だった。晴れやかな笑みが張りついていたのも束の間、たちまちひきつった顔はくしゃりとさも悔しそうに歪み、そして啜《すす》り泣きはじめたのである。 「どうして……なんで、貴女は俺を、  潔《いさぎよ》く死なせてくれないんだ」 「もう生きているのは苦しいだけ。  なのになんで貴女は、邪魔をする」 「大体いつもは図書室に引き籠もっているくせに、司書っていうより〈紙魚〉《しみ》のお化けみたいなくせに、なんだって今回はあちこち出歩いているんやら……〈縄張〉《なわば》り違いも甚《はなは》だしい」 「〈紙魚〉《しみ》のお化け―――ちょっと否定できないわね、それは」  逆さに吊り下げられて頭に血がのぼり、しまいには鼻血さえ滲ませながら、築宮は司書に〈憤懣〉《ふんまん》をぶちまける。  女史は好き放題な言葉をぶつけてくる青年を、さながらただをこねる幼子を寛容に見守る母親のような顔で見つめて、軽く義手を返し、宙から放り投げたが後ろの通廊へ。  廊下に背中から打ちつけられ、空気が肺から絞り出されて悶える築宮を、上から覗きこむ。 「一人で死ぬのなんて、  思ってるより面白いものじゃ、  なくってよ?」  勝手なことを言う。誰にも迷惑を掛けたくないから、一人で死ぬことを選んだのにと、苦しい息で睨みつける築宮に、司書は穏やかに持ちかけた。  まるで、一緒にお花でも摘みに行きましょうと誘う貴婦人のように、持ちかけた。 「そんなに死にたいのなら、  私がご一緒して差し上げるけれど、  ―――いかが?」  言葉の意味が築宮のおつむに染み通るまで、しばらくかかった。てっきり『死んでなんの花実が咲くものか』式なお説教を予想していたところに、これは予想外の提案である。予想を超えた司書の言葉で、それまで死に向かう一念で凝り固まっていた築宮の思考に動揺が生じた。もう死ぬしかないと思い定めていた心が、この時初めて揺らいだのである。  ただその動揺も、たちまち鎮まった。再び湧き起こった、死への強い強い〈牽引力〉《けんいんりょく》が、築宮の心を自殺一点に定めた。  なんとなれば―――築宮を見下ろしていた司書の肩越しに、あの過去の自分が、それはそれは不満足そうに覗きこんでいるのを目にしてしまったからだ。二人の立ち位置的にどう考えてもその角度から覗きこんでくることは有り得ないはずなのに、そいつは確かにそこにいたのだ―――一瞬でその姿、宙に薄らぎいなくなったけれど、確かに。  そいつから解放されるには、やはり死ぬしかないようだった。  黄昏の残照が事物の輪郭を曖昧にする図書室で、築宮は司書に抱かれ、虚ろな眼差しを浮かべていた。上等で座り心地の佳い椅子に座した司書に抱かれ、彼女の胸の中にすっぽりとおさまった形である。  司書の手が、背後から艶めかしく築宮を愛撫する。彼の体の形を確かめるように、ゆっくりと指先が滑る。その様子は細やかな情感に満ち、築宮も静かに愛撫に身を任せ、とてもこれから―――死に逝く二人だとは思われなかった。築宮の、底無しの孔のような虚ろな眸以外は。  そんな二人を、本棚の影から〈窃視〉《せっし》しているモノがある。浅ましく、卑《いや》しく、貪《むさぼ》るように死の気配に吸い寄せられているそいつは、築宮と同じ顔をしていた。築宮はそいつを過去の自分と名づけ、その視線にずっと悩まされてきたものだ。  司書が、背後から築宮の〈耳朶〉《じだ》を柔らかく噛みながら、囁く。 「―――そろそろ死にましょうか―――?」 「―――うん」  ことりと頷く築宮の、感情をどこかに置き去りにしてしまったのか、人形のように精気がない。自分の居場所をこの世界になくしてしまった〈煩悶〉《はんもん》の果て、体より先に心が死んでしまったように見える。  ともあれ青年が〈首肯〉《しゅこう》したのに合わせて、司書の生身のほうの手に、短刀が出現したのが魔法のようだった。研ぎ澄まされた刃が黄昏の光を弾いて、切なくなるほどに美しい。 『過去の築宮』の眼差しが、その硬質の刃を書棚の影から眺めるうちに浮かべ始めたかぎろいは、卑猥なこと限りなし。たまりかねたように吐き出した息だって、饐《す》えて生臭く、図書室の空気を汚していくかのようだ。  そればかりか『過去の築宮』の股間は、ズボンを裡側から引き裂かんばかりに勃起しているではないか。そいつがたまりかねたように腰を無様にひくつかせるたびに、汚らわしい粘液を先走らせているようで、布地に濡れ染みが広がっていく。 「じゃあ、ゆっくり味わって。  硬い刃、綺麗な刃、  貴方を死なせて―――私も殺すの」  刃が、ゆっくりと築宮の胸に近づき、〈襯衣〉《シャツ》の布地に切っ先が降りる。ゆっくりゆっくり布地を穿《うが》ち、肌を裂いていく。血潮が滲み出すのに合わせて、『過去の築宮』の股間の染みも広がっていく。どこかしら崇高な雰囲気さえ漂わせた、築宮の死の有り様に比べ、『過去の築宮』の高ぶる劣情は、あまりに生臭く〈汚濁〉《おだく》に満ちているではないか。  いかに築宮の過去と現在は、記憶の喪失に分断されているとはいえ、この二者の隔たりは深すぎて、とても同一人物の昔と今とは思えない。 「―――はぁ―――っ」  短刀が緩慢な速度で築宮の肉を割り、ついには心臓を抉る。  築宮は苦鳴一つ吐かなかったけれど、心臓を貫かれた時に溜め息をついた。ようやく解放されたような、安堵の溜め息のようにさえ思えた。  その吐息に合わせて、う、と短く濁りきった呻きを漏らしたのが『過去の築宮』で、眼差しは醜く白目に裏返り、腰を震わせ膝わななかせ、書棚に爪を立ててようやく立っている有り様の、全身がびくんびくんと脈打った、それは快絶に精を噴き零す雄の〈痙攣〉《けいれん》に他ならない。ズボンの前に大きく広がった濡れ染みからは、濃い青臭さがたちこめて、その臭気に周囲の空気が〈歪曲〉《わいきょく》するかのよう。  浅ましく凝視する『過去の築宮』の昂奮は、築宮が絶命の息を漏らした時に既に頂点に達していたのだが、眼前のスペクタクルは彼の予想を超えた、うっとりするくらいに素晴らしい展開を見せつつあった。 「逝ったのね、貴方。  でも、一人で死ぬのは、  つまらないでしょう」 「寂しいでしょう?  切ないでしょう?  だから、私が、一緒に逝ってあげる」  築宮の胸を抉った短刀は、それだけに留まらなかった。柄を握る手に更に力が籠もって築宮の肉を割き骨を断ち割る、冷たく鍛えられた鋼がほんのり温もり、青年の体を貫いて、出会ったのは〈凝脂〉《ぎょうし》の肌、柔らかく甘やかな膨らみ、司書の乳房の。  そして司書は、築宮の体を貫き通して、なおその手を留めず、自分の乳房のあわいまでも、抉り抜いたのだった。  二人の体が情交の果てを極めたかのように〈痙攣〉《けいれん》し、まるで機を計ったかのように、垂れて流れた赤の筋、血潮の雫、司書の典雅な唇から、築宮の物言わぬ唇から、短刀を通して二人の血の管が通い合ったかのような。 『過去の築宮』の昂奮は、この美しい死の情景に〈奔流〉《ほんりゅう》となって溢れ、彼は腰をかくかくと前後させた。触れもしないのにびくびくと二度目の精を噴き零していたのである。 『過去の築宮』がそうやって最高の絶頂を迎えたまさにその刹那、司書の左腕が閃いた。  あまりの迅《はや》さに輪郭を霞ませ、左腕を振るったのだ、絶命したはずの司書が。  すっぽ抜けた義手が、宙を走るのが褐色の閃きで、ありえない弧を描いてそれは、書棚を回りこんで空を裂き、不快な音を立て深々と突きたてられたが『過去の築宮』の胸!  絶頂直後の虚脱感に見舞われていたため、反応もままならなかったのである。  その胸を貫いた義手の勢い、なおも留まらず『過去の築宮』の足元をさらうと、その背後の壁にまるで甲虫の〈展翅標本〉《てんしひょうほん》のように縫いとめた。  その時になってようやく、『過去の築宮』の顔に〈驚愕〉《きょうがく》の表情が浮かぶ。   『お、が、がぁぁぁぁぁっっっっっ!?』    そして図書室を揺るがすような、聞き苦しい絶叫が濁った〈唾液〉《だえき》と〈血泡〉《けっぽう》と共に噴き上がる。ばたばたともがいて義手を引き抜こうとするも、鬼女の力で放たれたそれはびくともしなかった。  司書は醜い絶叫をそよ風ほどにも感じた様子も見せず、二つの体を貫いた短刀を造作もなく抜くと、築宮の体をどけて立ち上がる。いまだ叫び続ける『過去の築宮』など綺麗に無視して司書室の扉を開けると、中から両手両足を縛られ猿ぐつわまで噛まされた築宮が芋虫のように転がりでて、床でもがいた。  そう、築宮青年だ。椅子に座し、胸の致命傷から鮮血を零しているのが彼なら、こちらで縛り上げられているのも間違いなく彼の、これはいかなることか―――ちなみに縄目は『縛り師』が見ても、溜息を漏らしそうなほど巧みに打たれていたがそれは置くとして、司書は築宮の拘束を片手で器用に解いて猿ぐつわも取り去る。 「はい、お待たせ」  築宮はこの理不尽な仕打ちに目を血走らせていたが、図書室の中の様子にぎょっと息を呑んだ。 「あ、貴女それは……っ!?」 「ええ、あらかた、かたはついたわ。  貴方をつけ回していた愚か者は、  これご覧の通り」 「そういうことではなく!」  築宮は司書の肩に手を掛け、焦った様子で彼女の乳房の間を覗きこむ。彼女の胸に穿《うが》たれた傷口からは、まだ〈膏血〉《こうけつ》の脈打ちながら噴き出して、女の命を一瞬ごとに零していって、それが築宮に、我が胸を抉られたような痛みをもたらすのである。 「こんな、こんな……っ。  なにもこんな事までしなくてもっ」  血が流れる様があまりに痛ましくて、築宮はおろおろと司書の顔と傷口を交互に見つめる。これまでの、自分の過去とその憂鬱の尻尾にしがみついて、周りのことなど全く顧《かえり》みずにいた男とは思えないくらいだ。  いや、どちらかというとこれが築宮の本来の性格なのだろう。司書も、はじめは築宮の狼狽えぶりを呆れたように見ていたが、やがてそれをとても好もしいものと見たように微笑むと、 「そんなに痛がらないで。  私よりも貴方のほうが苦しいみたいじゃない」 「なにをそんなに悠長なっ!」  たまりかねてついに叫んだ築宮の前で、司書は己の胸をさらりと撫で下ろす。そうしただけで、胸に咲いていた血の華は拭《ぬぐ》われたように消え去って、痕も残さず。幻覚などではなかった証拠は、築宮の鼻孔の奥に煙るような濃密な血の匂いのみ。 「これで見苦しくはないでしょう?  さて、そんなことよりも」  司書は呆気にとられて言葉を失った築宮の手を引き、書棚の向こうへ導く。そこでは、絶叫こそ弱まったものの、『過去の築宮』が壁に磔《はりつけ》にされたままだった。  いや、築宮が更に〈愕然〉《がくぜん》としたことに、そいつは築宮の顔などしていなかったのだ。間違いなく自分と同じ顔だと思いこんでいたそいつは、いまや痩せさらばえて醜怪な、人とも獣ともつかぬ相を露わにしていたのだ。  憎々しげに司書と築宮を睨みつけているが、眼差しにはもはや脅《おびや》かすほどの威力は失せていた。 「これは……こいつは、一体……?」 「そうねえ……なにかと問われれば。  たとえばある人が、  川原のそばを通りかかったとします」 「するとその人は、それまでは特に人生に絶望もしていなかったのに、不意に訳もなく死にたくなる」 「そしてついには、呆気なく、本当に呆気なく、首くくって死んでしまうのよ」 「……そんな不可解なことがあるのか?」 「ついさっきまでの貴方が、  そうだったくせに」  あ、と絶句する築宮の、言われてみればその通りで、自分は間違いなく死を激しく〈渇望〉《かつぼう》していたのだ。 「それは、大概この慮外モノの仕業。  人はこれのことを、 『縊《くび》れ鬼』なんて名づけていたっけ」  それまで二人を睨め付けていたモノが、ごぽりと血を吐いて憎々しげに吐き出した。 「そうだ、俺はそういうモノだ。  だがお前……。  いや、貴女はなぜ俺の邪魔をするのか」 「貴女だって、俺と同じく、  鬼と呼ばれるモノだろうが……」 『縊《くび》れ鬼』の言葉に築宮は、自分を救い出してくれた女性がなんと呼ばれているのか、改めて意識する。  ―――図書室の鬼女。  けれど築宮には、二者は〈深泥〉《みどろ》と清水ほどにも隔たっているように思えてならなかった。 「お前の問いこそ、  その答えになっているわね。  『何故自分の邪魔をする』―――って」 「お前は私の邪魔をしたの。  この人は―――」  と築宮の腰に腕を回し、さも愛しそうに抱き寄せて、擦り寄せてきた肢体の柔らかさ、しなやかさ、そして佳い匂い、こんな時なのに青年の心を蠱惑的なざわめきで満たすよう。 「この私が、お前なんかより先に、  目をつけていたんだから」 「ゆっくりと楽しんでいるところなのに、  それを邪魔する愚か者は、  どうされたって文句は言えない。  そうでしょう?」 「な……」  とまたも言葉を失う築宮で、『縊《くび》れ鬼』にしてみれば、あるいはそれなりに納得がいく理由だったのかも知れないが、青年にとってはどうにも心穏やかではいられぬ司書の言である。  司書はそんな築宮を、優雅でありつつもどこか怖い笑みで愛でて、 「大体、やり方が優雅じゃない」 「人の心の隙につけこむ妖は、  ろくな目に遭わないって言う事よ。  ……いつかの、私みたいにね」  司書は、無事な方の手で、失われた〈隻腕〉《せきわん》を掴んだ。築宮にはその眼差しは、ふっと遠い過去に想いを馳せているように思われた。 「さて、もうお前の顔を眺めているのにも飽きた。見苦しいし息が臭いのよ。  随分としぶといようだけれど……」  と、いきなり築宮の体をあちこちまさぐり始めて、腰まで撫で下ろしてきたのには困惑した。 「なんです、いきなり……っ」  その唐突なくすぐったさに築宮は訳がわからず〈身悶〉《みもだ》えするが、司書はやがてズボンの尻ポケットからなにかを取り出した。  それを見て『縊《くび》れ鬼』の顔色が更に白くなる。  それは、縄と布切れと和紙を捩《よ》り合わせたようなヒトガタだった。素朴な作りなくせに奇妙な禍々しさを漂わせている。 「あ……そ、それ!」  築宮、事ここにいたってようやく思い出す。先だってスローガラスを見せられた日、図書室に来る途中の道すがらで拾ったものだったのだ。なにかの民具だろうかとなんの気なしに拾い上げて、司書ならその由来など知っているかもしれないと、ポケットに収めたのだった。  司書はそれを鼻先まで近づけると、いかにも臭そうに鼻梁に皺《しわ》を寄せ、 「やめてくれえっっ!」 『縊《くび》れ鬼』の絶叫など聞き入れもせずに、ふっと息を吹きかける。  と、次の瞬間ヒトガタから噴き出したのは火、小さな火だったのが乾燥した餌食を得て、喜ばしげに炎にと燃え上がった。  ―――年経た狐はこうして息を吹いて、それに含まれる燐《リン》で鬼火を点すとか。狐風情にもできることが、鬼女にできて不思議はあるまい。 「あぁーー……あ……、  あーーーーっっ!」  同時に、壁に縫いつけられた『縊《くび》れ鬼』も炎に包まれる。ヒトガタが燃えつきていくとともに、『縊《くび》れ鬼』も炎の中に消えていった、〈末期〉《まつご》の絶叫は哀れなくらいか細かったけれど、築宮には同情を寄せるつもりなど一切なく、〈酷薄〉《こくはく》というなかれ、当然である。  後に残ったのは、それ自体には焦げあと一つ残さずに壁に突き立つ、司書の義手のみ。 「あんなモノをずっと身につけていれば、  どこに行ったって、  あいつから逃れられないっていうこと」 「これに懲《こ》りたら、  今度からはあんまり変なモノは、  〈迂闊〉《うかつ》に拾わないように」 「はあ……気をつけます……」  と気の抜けたような返事しかできないでいる築宮だったが、気分は悪くない、否悪くないどころか、目の前に被さっていた覆いが消え去ったかの〈爽快〉《そうかい》感を得ていた。 『縊《くび》れ鬼』が消滅した途端に、体に蜘蛛の糸にまとわりついていた憂鬱が、嘘のように離れていったことを知ったからだ。ただ、憂鬱は散じてもここ数日の間に消耗した体力はすぐに戻ってくるものではなく、急激な疲労とひどい眠気が襲いかかってくる。  けれど、まだ確かめておきたい事があった。  先程司書が『心中』を演じてみせた、『もう一人の築宮』の事で、その骸《むくろ》はまだ椅子にもたせかけられたままであり、自分と同じ顔した骸《むくろ》を目の当たりにするのはひどく不穏な気持ちにさせられる。  あれは、一体なんだ? まさかそっくりの別人というわけではあるまいなと、築宮はたちどころに不安にする。そうであれば、司書は人を殺めてしまった事になるからだ。人食いの司書、とは聞いていても、彼女がいざ自分の前で誰かを殺めてしまったとすれば、きっと自分は許しておけないだろう。そんな気持ちで司書に詰め寄り、 「多分、あの隠れることと逃げ足に長けたあのモノを油断させるには、真に迫った死んだふりをする必要があったんだろうが……」 「あれは、あそこで転がっているのは、一体なんなんです?  もしかして誰かを俺の替え玉に仕立てあげたというのなら、俺は貴女を―――」  生命を救われた事には心底から感謝するし、まして彼女はその肌、女の肌まで自分のために傷つけてくれた。が、それで〈有耶無耶〉《うやむや》にはできないことがあると、目つきが険しくなるのを抑えきれずの問いかけに、司書が打ち振った手が〈屈託〉《くったく》なくて。 「やあねえ。そんなに怖い顔、しないのよ。  あれは、誰でもない、貴方の『影』」 「は? またそんな、人を煙に巻くような」 「こないだ、スローガラスを見せたでしょう? 覚えているわね?  そこに、貴方の影……残像が映っていた」 「貴方が帰った後、それを使って、  ちょっとお人形さんをね、  こしらえてみました」 「だから、とっても真に迫って見えたかも知れないけど、  あれは生きてもいないし死んでもいない」 「生きてはいない、ただのモノよ」  ……説明されてもさっぱりわからないが、無理矢理解釈するにその骸《むくろ》……に見える物は、等身大の人形と思って差し支えはないようだった。しかし、と築宮はその自分と同じ顔のモノを眺めて考える。どうにも落ち着かない。 「ちょっと訊きたいんだが。  俺に無断であんなモノを作って貴女、  いったいなにをしていたんだ?」 「訊きたい?  どうしてもそれ、訊きたい?」  問いに問いで返した司書の顔、悪戯な、照れたような、それでいて興がるような、深く掘り下げたところでろくでもない答えしか出てこないのだと、築宮に知らしめる。  ……にわかにこみあげてくる疲労感というか脱力感に、膝ががくがく笑い始めていた。というか、訊かなければよかった。 「いや、もういい……。  というか、申し訳ないがもう帰ります。  疲れきって、立ってられそうにない」 「この件の礼は、いずれさせてもらいます。  けど、申し訳ないが今晩は―――」 「あら……ここでゆっくりと、  休んでいけばいいでしょうに。  寝床くらいはお貸しします」  きっとそれは無理だと、今度は築宮が即座に手を打ち振る番だった。  司書と一緒にいたら、休むどころではないだろう。大体その寝床というのが二つあるとは限らない。そして今夜は鬼女と一つ褥《しとね》に過ごせるほど体力気力は残されていない。  せっかく助けてもらったのに邪険にするようで気が引けるが、それでも今はただゆっくりと休みたい。  ただ普通に生きているということが、なんと有り難いものなのかという喜びを噛みしめつつ、今夜はぐっすり眠りたい。  築宮、司書に深々と頭を下げると、よろめきながらも自分の足で図書室を出て行って、後にはやや不満そうな司書女史の腕組み姿の、が、女史が去りゆく青年の背に頬を緩め、腕を差しのばし、情愛に根差した仕草をしてみせたのだった。  今はそばにない愛しい者を愛でるように、己の胸を〈抱擁〉《ほうよう》するという。  それは、時に危うい、鬼の女の情愛だったけれども。  築宮は、道すがらふっと振り返った。  別れてきたはずの司書に、見えない腕《かいな》で抱きとめられたような想いしたのである。彼女の髪の、淑やかな匂いさえ確かに聴こえたと思った。  離れてなお、司書に抱かれている心地の、それは時に危うい鬼の女の情が常に傍にあると言うことで、いささか微妙な心境になったわけだけれども。  ―――さて、一人残された司書である。  つまらなそうに唇を尖らせ、なんのつもりか彼女の部屋に運びこまれた築宮の『影』の傍らに、すっとしゃがみこむ。〈心中紛〉《しんぢゅうまが》いに用いたあの短刀を取り出し、優雅に一閃。 『影』の右腕が見事に断ち切られて、司書の手に移る。しばしそれをうっとり眺めてから、おもむろに―――  一囓り。  なんのつもりで運びこんだのかと、これで明らかになろう。どうしたって凄惨の薬味が利きすぎた理由なるが。  行儀よく〈咀嚼〉《そしゃく》してから飲み下したが、伏せた眦《まなじり》には、あからさまな不満の色が浮き上がった。口元を〈手巾〉《ハンケチ》で上品に拭《ぬぐ》ったものの。 「……やっぱり、影なんかじゃ、  全然美味しくない……」  彼女らしからぬ、稚気を漂わせた不満げな素振りで、それでももう一口、腕に囓った唇は紅い、あくまで紅いのだが、司書が切に切に願ったのは、これが本物の青年の腕であったならという、人喰いの鬼女の希《のぞ》みで―――    ―――縊《くび》れ鬼―――  ―――終幕―――  ―――貘《ばく》―――    とろとろととろけるような、緩んだ気配が一杯に広がった午後に、ゆっくりと穏やかな目覚めを迎えた築宮の、頬は陽を浴びてやや赤らみ、瞼の裏にもほんのり陽差しが紅く透けるような眠りだった。  そう、陽差しだ。旅籠の中にいては、なかなかに嗅ぐことのできない陽の匂いを吸いこみながら、目を覚ましたのである。  これまで語られてきた物語は、図書室での曖昧な〈微睡〉《まどろ》みを〈発端〉《ほったん》としていたが、この度はいつもとは異なる、陽差しの下での目覚めで、寝起きで乱れた髪を風がくすぐっていく。  その風だって旅籠の中の静まりかえった空気とは違い、新鮮な外気の流れだ。  微妙に勝手が違うのに少々戸惑いながら周りを見回せば、視界がいつになく開けている。帆船時代の巨艦を裏返したような広大な屋根が、まるで海のように、遙か彼方まで広がっている。  してみるとここは、旅籠の屋根の上らしいなと、天に腕を振り上げ大きく〈欠伸〉《あくび》するうちにも眠りの〈残滓〉《ざんし》は抜け落ちていって、少しずつ事情を思い出してきた築宮だ。  確か―――図書室の司書に、頼まれごとを言いつかったのだ。長いこと延滞されている書物があるので、回収してきて欲しいと頼まれたのである。  普段なら女史本人が出向くところだが、今日はたまっている書物の整理を片づけたいので、どうかお願いしたいとの由《よし》。 『貴方が、図書館法に則《のっとっ》った、  分類法を知っているのであれば、  整理の方をお願いする、というのも……』  との選択肢も差し出されたが、生憎そんなものなど知らぬ仏の青年であり、回収の方を承ったという次第だ。もとより、前回の『縊《くび》れ鬼』の一件もあって、あの妖から救い出してもらった礼がしたい、なにか彼女の役に立ちたいと願っていたところである。  で、回収先までの地図をもらって、図書室を出発した、出発したはいいが築宮、まさかたかだか書物の回収にあれだけ手間取るとは予想外であり、ようやく済ませたもののぐったりと疲労して、ついつい寝入ってしまったという次第で。  大体、誰が考えるのだ。一冊の書物を巡って、図書室から出発した道行きが、旅籠の最上階のそのまた上、広大な屋根裏空間に潜む『〈散月会〉《さんがつかい》』とか名乗る怪しげな秘密結社との追跡劇に発展し、それが双方の〈些細〉《ささい》な誤解が原因であることが判明するまで延々と屋根裏の薄暗い中を駆けずり回る羽目になろうなどと、どこの誰が予想できるのだ、という。  いや蜘蛛の巣は被るは鼠の糞の塚を蹴り壊すは、〈蝙蝠〉《こうもり》の塒《ねぐら》に入りこんでしまって大騒ぎになるは、で。  中でも屋根裏の片隅にひっそりと住まっていた二人連れに出くわした時には面食らった。なにしろ片方がいかにも厳格そうな〈濃褐色〉《ブルネット》の髪の、まだ年若い〈女家庭教師〉《ガヴァネス》、もう一方は少々気弱げだが礼儀正しく身なりもよろしい〈金髪〉《ブロンド》の少年の、貴公子然とした振る舞いで、築宮もその二人の住処に入りこんだ時ばかりは、〈闖入〉《ちんにゅう》の無礼を丁重に詫びた。  どうやって人知れず運びこんだものやら、円卓と寝台、そして衣装箪笥に書棚という、数は少ないがいずれも趣味のよろしい調度が、屋根裏の暗がりの中にこぢんまりとまとめられて隠し部屋の如き一画を構成し、照らし出すのは〈洋燈〉《ランプ》の風雅な灯りで、最初は二人も築宮の侵入を大いに警戒していたのだが、自分達を追跡してきたのではないと知ると、薫り高い紅茶などを淹《い》れてくれて一時の休憩を提供した。  別れ際、女家庭教師の方が、〈此処〉《ここ》に自分たちがいる事を他に漏らしたりなどしたら、貴方を地の果てまでも追いつめて償わせますなどと錐《きり》の如き視線で警告してきたのには閉口したが、でも貴方は信用に足るお方のように見えますから、実は不安はないのですが、とふっと微笑んだ、その貌には少年への深い愛情、それも教師としてでなく年下の主への、年上の女としての〈慕情〉《ぼじょう》が窺《うかが》えて、築宮をなにやら暖かな気持ちにさせたものである。 (あれは……おそらく、どこかからの亡命貴族とか、その類の人々なんだろうな……) (この先も、あそこで静かに暮らし続けるつもりか、祖国に戻るつもりか―――ま、それは俺が〈斟酌〉《しんしゃく》する事じゃないが)  と二人の行く末に想いを馳せつつ、築宮は、とまれ、書物の回収も無事成功した事の達成感に満足の吐息をついた。  その上、こうして旅籠の中でも最も見晴らしが良い場所を知る事もできた(屋根裏空間から上がってきたのである)。半日の仕事にしては悪くないと、若さ故の気楽さから微笑んで、さて図書室に戻るかと立ち上がる。  枕代わりにしていた、回収済みの書物を詰め込んだ鞄を、肩に掛けた青年の目に入ったものがある。広大な屋根の上の世界の片隅に、まるで巨船の操舵室のようにぽつんと突き出た小屋だった。 「……誰がこんなところに、なんのつもりで造った小部屋だ……」  一仕事終えたし興味深いものとも沢山出会った、密度の濃い半日を過ごしてなお築宮の好奇心は収まるところを知らず、どういう意図でもって造られた小屋だろうと、青年はそちらに近づこうと瓦屋根に踏み出した。  その小屋は、白塗りの板壁造り、多角形のそれぞれの壁面に窓が切られ、小さくはあったが〈瀟洒〉《しょうしゃ》で心地好さげな、なにかの観測所という印象をもたらしたけれど、立地のせいもあり秘密の隠れ家という趣も強い。  中は一体どうなっているのかと、なんとなく〈跫音〉《あしおと》忍ばせて覗きこんだ清修の、顔が〈驚愕〉《きょうがく》にのけぞり、思わずたじろいで後じさった。  なんとなれば中にいたのは―――  旅籠の小女主人、令嬢の、それだけならば、この思いがけない場所での奇遇をとっかかりにして、出来れば中に招き入れてもらうとか、あるいはこういう〈場処〉《ばしょ》に一人いる、その意志を尊重してそっと離れて彼女の孤独を乱すまいとか、いずれにしても事を穏やかに済ませられたろう。  しかし、だ―――  令嬢が部屋のほとんどを占める、大なる机の上にちょこんと座している、それはいささかのお行儀の悪さはあるが、まだいい、まだ微笑ましい。  だが、机上にお座りした令嬢の、〈手慰〉《てなぐさ》みにしているモノとなると微笑ましいどころの騒ぎではなく、気の弱い者なら腰を抜かして瓦の上にころころ転がり、そのまま屋根の端から転落しかねない。  築宮が机の上に見たモノ、それは一つの〈髑髏〉《しゃれこうべ》。次に築宮が見たモノ、それはずらりと並べられた、もっと沢山の〈髑髏〉《しゃれこうべ》。黄ばんだ〈天頂〉《てっぺん》と虚ろな〈眼窩〉《がんか》を晒して隊列組んで、〈髑髏〉《どくろ》の行軍でもやらかしそうに整然としていたが、その前に端座する令嬢との死者と生者の隔たりが激しすぎて、築宮は己が幻覚でも見ているのではないかと耳たぶを抓《つね》ったが、そうと試行して眼前の情景が霧消した験《ため》しなど実際には珍しい事だし、幻と疑った段階で逆説的にほぼ現《うつつ》と証明されている。  つまり、だ。  まごうかたなき〈真個〉《ほんとう》なのである。〈髑髏〉《どくろ》の一山も、ついでに令嬢が、その丸い形を磨き始めたという強烈な光景も。 (な、なにをしてるんだこの人は……っ)  されこうべは大きいのやら小さいの、古いのやら新しいのやら様々で、磨きようだってはじめは布切れでこしこしと擦《こす》っているのが頬に笑みを溜め楽しそうなのが、あの表情に乏しいのが常の令嬢にしては珍しく、骨を相手にしているのは別として、可愛らしいと言っていい。  しかし、布で磨いているうちはまだともかく、だんだん興が乗ってきたのか布切れは脇に捨ておき、〈髑髏〉《どくろ》を眼前に抱え上げて来たのには、築宮、不穏な予感に襲われた。  見つめる眼差しも〈恍惚〉《うっとり》して、伝奇本にでもありそうな山奥の岩屋に骸《むくろ》を溜めこむ鬼姫さまの趣を匂わせてきたかと思えば、唇だって花の蜜より血を啜《すす》っているのが似つかわしい妖しさを帯びる。  だから、軽く唇開けて、ちろと伸ばした薄い舌は、やっぱり魔物の紅で、それを〈髑髏〉《どくろ》の乾いた肌に降ろして―――ぺろり、ぺろりと。  愛しげに楽しげに舐め、舌で磨きだしたのにはさしもの築宮も肝を潰す他はなかった。  見慣れていたはずの令嬢が繰り広げる、妖異に満ちた光景は、何時までも眺めていいものではないという不穏を見やすく漂わせ、築宮は声を掛けるは愚かできる限り気配を殺して、小屋から離れようとした、の、だが。  またそういう状況に限って、要領の悪いことに瓦を蹴って物音を立ててしまう始末の、物音に令嬢の反応は過敏かつ劇的だった。 「見―――ましたねぇっ!?」  令嬢は正座の姿勢のまま四寸は跳びあがると、宙で襲いかかる姿勢に替えて窓〈硝子〉《ガラス》に飛びつき、叩き割りかねない勢いで押し開けて飛び出してきた、その凄まじさ。築宮が呀《あ》っとも叫ぶもない。  〈猿臂〉《えんぴ》を伸ばして青年の襟首をとらまえ、恐怖の小部屋の中に引きずりこむのがたちまちのうち、地に掘った坑に潜んで獲物を捕らえるという、〈地蜘蛛〉《ジグモ》と同じくらい迅速だった。  中は、とにかく万事〈大仰〉《おおぎょう》で空間認識がおかしくなるような旅籠の部屋部屋にあっては珍しく狭い、しかし居心地の良さを感じさせる小さな部屋で、まさしく隠れ家というに相応しいのに、せっかく入ったところで居心地の良さを愛でるどころでない。  なんにしても覗き見していたのには違いなく、ばつの悪さとそして薄気味悪さで硬直している築宮を、椅子に叩きつけるように座らせ、令嬢は彼の胸板を拳で叩いてとんとんとん、机の〈髑髏〉《どくろ》がなかったなら、これはこれで情痴の修羅場めいた景色ではある。 「ひどいです、あんまりです……!  しゃれこうべを磨いているところを見られるなんて―――」 「女の子にとっては、  いやらしい一人遊びを、  覗き見されるのと同じくらい、  情けなくって、恥ずかしいことなのだと」 「貴方には、わからないのですか!」  令嬢は悔しさと〈羞恥〉《はじらい》のあまりか、はらはら落涙さえしながら叱り飛ばしたものだが、振り零される涙は貴石をまいたように綺麗で、泣き顔も男の〈数寄心〉《すきごころ》を誘う哀れがあって、と、のんびり鑑賞しているどころではない。  令嬢のあまりの〈剣幕〉《けんまく》に気圧された築宮が、ついつるりと舌に滑らせてしまった台詞が、またろくでもなくて。 「いやらしい一人遊びって……。  君でもそういうこと、  したりするんですか!?」 「それは時々……その。  月のモノの前あたりは、  どうしようもなく、体が疼《うず》いて―――」  と拗《す》ねたような、高ぶった口調も一時低まって目元には朱が刷《は》かれていたけれど、その色味が彼女が秘やかな性の愉《たの》しみに耽《ふけ》る時の、快楽の紅潮を連想させたのは当然で、築宮はなにやらとてもいけない言葉遊びをしている心地に、喉の奥がむずついた。 「って、ちがう!  貴方、また!」  令嬢は自分がなにを口走ったのか今さらながらに気づいた風情で、頬を紅潮させたのが可憐と言えば言えるのだが、これまでの台詞が台詞である。  負けないくらいに顔を真っ赤にしていた築宮に、逆上の程を示して飛びかかった、両手は鉤《かぎ》のようになって青年を捉え、机の上に押し倒した。 「やめ……、そんないきなり乱暴な!?」  その勢いで〈髑髏〉《どくろ》がからからと散らかり、築宮は生なき〈眼窩〉《がんか》に囲まれて総毛立つ。令嬢は築宮に馬乗りになって胸ぐらを掴み、がたがたと揺すりたてればまた骸骨がカラカラ鳴って、スカートの裾がはしたなく乱れ、捲《まく》れあがって白く華奢な〈太腿〉《ふともも》まで露わにしたのも構うものかの激情の。 「もう、もう……っ。  女の子に、どれだけ恥ずかしい想いをさせれば、気が済むの!  もう許しません、許しませんからね」  睨《ね》めつけてきた双眸が、これがあの普段は落ち着き払った彼女なのかと疑わしくなるくらいの強い情動に底光りし、青年を一瞬だけ魅入らせるほどだったが。 「貴方に―――  詰み〈髑髏〉《どくろ》での決闘を、申し込みます」  ―――築宮は、夜中に野原で手ぬぐいをかぶって踊り狂う〈猫又〉《ねこまた》の一団を目の当たりにしたかのような、なんとも澱《よど》んだ目つきになったという―――  おずおずと、これ以上令嬢の〈激憤〉《げきふん》を刺激せぬよう、馬乗りになられたままで問いかける。 「……その、詰み〈髑髏〉《どくろ》というのは?」 「最近の殿方ときたら……。  そんなことも知らないくせに、  女の子の秘密、覗き見することばかり、  お上手なんですねえ?」 「いや、そんなに自信満々に誰もが知っている常識のように語られても……」  と弱々しく抗議しつつも、築宮は自分の常識や定見といったものの方が頼りなく思えてくる。それとももしやその詰みなんとかやらは、自分が記憶を失っているだけで、世の中ではよくやるような〈遊戯〉《ゲーム》なのだろうか……。 「そこまで言うのなら、  説明して差し上げます。  しゃれこうべを、こうやってですね……」  令嬢はなおもぷりぷりしながら、散らかった〈髑髏〉《どくろ》の中から大きさが同じものを選り出すと、それをば並べて積み上げて、〈四角錐〉《ピラミッド》と為した。実に手慣れた手つきで、青年は彼女はよくよくこうやって〈髑髏〉《どくろ》を積み上げることを繰り返してきたんだろうなとか、ろくでもない感心をしているうちにも、令嬢は錐の頂点に仕上げの〈髑髏〉《どくろ》を一つ置いたところだった。  積み上げられた〈髑髏〉《どくろ》の一つ一つが、無の〈眼窩〉《がんか》で青年を〈虚仮〉《こけ》にしているかに見えた。 「これを代わりばんこに、  下から一つずつ抜いていくのです」  つまり、山将棋(将棋崩し)のようなものらしいが――― 「そして、音を立てたら負けです」 「ちょっと待てぇ!  それはいくらなんでも無理があるだろう。  この山を、音も鳴らさずに崩していくなんて……」  どう考えても不可能だと抗議の築宮の、将棋の角張った駒ならともかく、こんな円で構成された〈髑髏〉《どくろ》を崩さずに抜き取っていくなんて、できるはずがない。  しかし令嬢はその抗議を、いかにも冷ややかな眼差しで切り捨てた。 「勝負の前から敗北宣言ですか?」 「貴方の負けと見なして、  罰を受けてもらいますよ?」 「な、そんな、罰って一体どんなのだ」 「この〈髑髏〉《どくろ》たちが、  すべて擦り切れて塵となるまで、  ずっとずっと、磨いていただきます」 「いやだぁぁぁっ!」  絶叫は聞き苦しかったけれど、まあ誰だってそんな、〈髑髏〉《どくろ》を磨き続ける事に一生を費やすような人生は御免だろう。 「なら勝負に勝つほかありません。  大体無理だ無理だと口を動かす前に、  まずは手を動かしなさい、という……」  言いながら令嬢は、さっそくすっと〈髑髏〉《どくろ》を一つ抜き取った。いかにも無造作な手さばきだったのに、〈髑髏〉《どくろ》の山はぴくりとも揺るがず、当然音だってこれっぽっちも鳴っていない。  そのあんまりにも簡単そうな一手は、それを見た築宮に、不可能だというのは、自分一人の硬直した思いこみなのではないかと考えこませてしまったのであるが。 「まあ貴方は初心者のようなので、  音を鳴らすのは、三回まで許しましょう」 「けれど三回鳴らしたら、  敗北としますからね」  となし崩し的にこの不気味な勝負に付き合わされることになり、築宮、泣く泣く令嬢と順番を決める。  先攻は令嬢。先程と同じく鮮やかな手さばきで一つ〈髑髏〉《どくろ》を抜き取った。築宮、躊躇いながらも、彼女と同じようにこうと決めたなら迷わず引き抜くのが正解なのだ、下手な〈逡巡〉《しゅんじゅん》は手先を鈍らせるだけだと信じて、〈髑髏〉《どくろ》に手を伸ばす。  と、触れただけなのに―――いきなりかたんと、鳴らしてしまったばかりか。  かたんという音はから、からと崩れる音に連なって、がらがらと高まり、〈四角錐〉《ピラミッド》は見るも無残に一気に崩壊したのだった。 「まずは一回目、貴方の負けです。  さあ、勝負を続けましょう。  なお、崩れた〈髑髏〉《どくろ》は、  貴方が積み直してくださいね」  令嬢は冷酷に言い放ち、築宮は〈暗澹〉《あんたん》たる思いで〈髑髏〉《どくろ》を積み上げる……。  結局、勝負は令嬢の圧勝だった。奇跡などそうそう都合よく起こるものではない。  それどころか、三回目に山を崩してしまった時なぞ、〈髑髏〉《どくろ》は一斉に宙に舞い上がり、ふわふわと築宮の周りを飛び回って、かたかたかたかたかたっと剥き出しの歯を打ち鳴らしたのが嘲り笑うかのような。 「勝負ありました。  言うまでもなく、貴方の負けです」  築宮の敗北が示すものそれは。 「これから貴方は、  ここで〈髑髏〉《どくろ》を磨くことに、  その一生を費やすのよ!」  宙を舞い狂う〈髑髏〉《どくろ》の中で、令嬢が鳴らした笑い声の、陶器を打ち合わせるような澄んで冴え渡ったことと言ったら! というより青年は、こんな風に高らかに朗《ほが》らかに笑う令嬢は初めてで、元々からして綺麗な女の子の、明るい笑顔はどれだけ素敵だろうと想像した事もある彼にとっては、またとない機会に恵まれたと言ってよかった筈、なのに。  築宮は、勝ち誇る令嬢と裏腹に絶望に駆られて机に突っ伏した事である。  とその肩を優しく叩いた手がある。淑やかな、聴き覚えのある匂いと一緒に。 「全く、貴方と来たら。  女性の機嫌を損ねるのが、  ほんとに上手だこと」  ―――司書、だった。  登場はごく自然でさり気なかったが、この、人二人が入ればそれで満員になりそうな令嬢の隠れ家に、一体いつ現れたものなのか、全く気配を感じさせなかったけれど、あるいは彼女にはこういう出現がよく似合っているとも思われた。  とにかく、口ではそうは築宮を咎めたが、その目は優しく穏やかで、飛び回る〈髑髏〉《どくろ》を一つ上手に掴むと、 「これが全部塵になればよろしいのね?」  言いざま、掴んだ〈髑髏〉《どくろ》を他のに投げつける。  投げつけた方の〈髑髏〉《どくろ》はあっさり崩れて塵となり、弾かれた〈髑髏〉《どくろ》は他のに当たって、また塵となった。  そしてそれが連鎖する。  〈撞球〉《ビリヤード》台の玉よろしく跳弾に跳弾を重ね、ぶつかり音が幾重にも打ち鳴らされるそのやかましさ、止んだと見えた時には、全ての〈髑髏〉《どくろ》は幾ばくもない間に塵と化し、机の上に粒の細かな〈塵芥〉《じんかい》の山を為した。  令嬢はその一部始終を〈憤懣〉《ふんまん》やるかたないといった様子で唇を食いしばって見つめていたが、築宮に手を伸ばした。 「こんなのは、嘘っこです。  やり直しを要求します!」 「だぁめ」  司書女史は、令嬢の手を優しく叩いて払いのけると、築宮を立ち上がらせてさっさと小屋から連れ出した。  追いかけてくる令嬢を振り切って、屋根裏に潜りこむ。  薄闇の中で、自分を導いてくれる司書の手が、築宮にとってはどれだけ有り難かったことか……。  ところがである。運悪くなにかに〈蹴躓〉《けつまず》いてしまった拍子に、築宮は司書の手を離してしまったのだ。  薄闇といって、視界が利かないほどの暗さではない。なのに築宮は取り返しがつかない災難に見舞われたかのように絶叫し―――  築宮、とろとろととろけるような、緩んだ気配が一杯に広がった午後の陽差しの中、思わず叫んで飛び起きた。  感覚としては、夢の中で崖を踏み外したと思って飛び起きて見たら、布団の端から足が飛び出していたのと近い。  ……夢? そうだ、夢だと築宮は〈盗汗〉《ねあせ》にまみれた首筋を拭《ぬぐ》った。旅籠の屋根の上は見晴らしも良く、風通しが良くて素敵なところだが、やはり慣れない瓦を寝床にするというのは夢見に触ったのだろう。それにしても令嬢が〈髑髏〉《どくろ》と大暴れしていたあれは、とにかくひどい夢だった、と背後の小屋を眺めて苦笑する。あそこに小屋があることは、屋根に上がった時に見てとっていた。中をちらりと覗いたが、誰もおらず、大きな机の上に紙片が散らばっているばかり。居心地の良さそうな小部屋ではあったけれど、なんとなく無断で入るのも失礼なような気がして、あえては踏みこまなかったのだ。  ……吹き抜けた風が汗を冷やす。築宮は、そろそろ旅籠の中に戻ろうと立ち上がる。司書から頼まれていた書物の回収も済んでいる。しかしたかだか延滞図書の回収で、こんな屋根裏を駆けずり回った挙げ句屋根の上まで上がってくることになるとは思わなかった……と、築宮はそこで首を傾げた。妙な既視感がある。自分はこれと同じ思考を、この屋根の上で繰り返さなかったか? しばし考えこんだのだが、どうにもすっきりしない。すっきりしないまま、まあわからずとも大して害のあることではなし、そろそろ図書室に戻ろうと歩き出す。  ところが、数歩歩いたと見るや、足元がずぼり潜った。脆くなっていた瓦を踏み抜いてしまったのだ。掴むものもなく、〈失墜感〉《しっついかん》のままたまらず落ちていく築宮、屋根に孔ぶち抜き、瓦やら天井板やらの破片を撒《ま》き散らしつつ。  全身を叩いた激しい衝撃に、青年はたまらず肺の空気を全て絞り出す羽目になった。ばらばらと破片が降りかかってくる。仰向けになったままの視界には、天井を派手に穿《うが》った穴。なんと屋根瓦どころか、その下の屋根裏の天井板までぶち抜いて旅籠の中に墜落したらしい。  もぞもぞと四肢を動かして深呼吸を繰り返す。あちこち少々痛むが、重大な障害は生じていないようだ。  体だけは丈夫で良かった……と、半身を起こして築宮は、そこが見覚えのある部屋であることに気がついた。なんとなれば、琵琶法師の庵《いおり》だった。  ぎょっとして周りを見回せば、やや離れたところに庵《いおり》の主すなわち法師が、額を畳に擦りつけ突っ伏し、高々と袴《はかま》のお尻を掲《かか》げた珍妙な姿勢で弾き飛ばされているではないか。彼女に怪我はなかったか、直らないような傷でもつけてしまってはどうやって償えばいいのかと、はらはらしながら見守るうちにも、法師はむっくり起きあがる。嬉しいことに、見たところ彼女もほとんど無傷らしい。  さすがに法師も、突然の事態に呆けた顔で、いきなり庵《いおり》の中に出現した築宮を見つめていたが―――その顔が、引きつった。 「あぁ〜〜〜っっ!?」  まるで、魂の弱いところをがりがりと爪で抉られたような悲鳴が、伸び上がる。日頃謡で佳い声を披露している彼女とは思えないくらい、気の抜けて、それでいて哀しい悲鳴だ。なにごとかと仰天する築宮に、ばたばたと膝詰め寄る。 「うう、びわ、びわァァァ……っ」  舌がもつれた様子で、必死に築宮の腰の下を指さし、彼を払いのけようとする。  ……築宮にもなにごとが生じたのか、徐々に了解されてきた。しかしそれを確認するのが恐ろしくてたまらない。かといって恐ろしいと逃避しているだけで済むわけはなく、怖々と腰を浮かせた、その下に。  もうぐちゃぐちゃ、これ以上はないというくらい、〈完膚〉《かんぷ》無きまでに破壊された琵琶、というかその残骸があった。琵琶、財産など無一物の法師にとって、たった一つだけなによりも大切な、琵琶。墜落してきた築宮が叩き壊したのは、それだった。  法師は粉々になった琵琶を見て、へたりこむ。もう見ているこっちも痛ましくてたまらなくなるほど、虚《うつ》けて生命の張りを失った顔だった。その顔が〈嗚咽〉《おえつ》にくしゃりと歪む。 「うぇ……うぐぅぅ……」 「ウアあん……、ひぐぅ、うあぁっっ」 「こんなの、こんなのってないよう……」 「わたしが南洋周りの、  〈御法度〉《ごはっと》のお船に忍びこんだとき、  それがばれて船の男さん達に、  港に着くまで休むも間もなく―――」 「次から次へと犯されたときだって、  わたしは平気だったよう」 「でも琵琶、この琵琶ぁぁ……。  こんなにばらばらになっちゃった、  こんなに粉々になっちゃったぁぁ……っ」 「南洋周りの船でなんだとて!?」  築宮は彼女の知られざる凄惨な過去に、それはもう心臓が止まらんばかりのショックを受けていたのだが、法師にしてみればそんなのは〈些末事〉《どうでもよい》、問題は琵琶のこと。故意ではなかったとはいえ、自分のせいで起こった悲劇には相違なく、築宮はいたたまれなくなった。だから築宮は、どうにか彼女に償いたいとひたすらに願った。 「すまない……なんて詫びたらいいのか。  君の琵琶、同じものを差し出すのは無理だけど、代わりに俺にできることだったら」 「なんだって、するから―――」 「ほんとに?」 「うん。だって、俺のせいなんだから……」  しゃくりあげながら問い返す。この時、築宮は心根からそう言ったのであり、誠心誠意彼女のために尽くすつもりだった―――が。 「そう。そんならいいよっ」  途端にけろりとした顔になり、じゃあさっそくと法師が着物の裡から取りだしたモノを見て、今度は築宮の顔がひきつる番だった。それは〈鎧通〉《よろいどお》し、分厚い刃の短刀。年代物らしい刃が硬質に光を弾き返す。 「ちょ……待……っ、な……そ!?」  法師がその短刀を逆手にぶいぶいと迫ってくるのに築宮は、尻をぺたんと着いたまま後じさった。 「なんで逃げるかなあ」 「そんな、不思議そうに言われてもっ」 「だってあんた、言ったよ。  なんでもするって」 「ああそうだった……っけ?」  あまりに無邪気な顔で法師が言うので、つい釣り込まれてこくんと頷いたのが隙になった。築宮の脳天を衝撃が貫く。法師が短刀の柄を築宮の頭頂に叩きつけたのである。痛みより衝撃が先で、がんと響いた音で意識が頭蓋骨の外に蹴り出された。意識は〈魂の緒〉《たまのお》でかろうじて肉体に繋がっている有り様である。そして築宮の意識が体の外にあるうちに、法師は解体を始めた。そう、解体だった。  くるくると目を回している築宮の肉体の、まず衣服と皮を綺麗に剥ぐ。次いで巧みな手さばきで肉を穿《うが》ってモツを取り出すと、これこれ、と心得たように骨びきをして、全身の骨を引っぱり出す。これら全てよどみなく遅滞ない作業で、築宮の意識が体に戻るより先にあっと言う間にやっつけた。 (待て、待てぇぇぇぇーーーーーっっ!?)  叫んだところで幽体と成り果てた築宮の声は音の振動とも鳴らず虚空に吸いこまれて、空しいばかり。法師は築宮の骨を器用に組み直すと、それでたちまち琵琶の形を作った。脊髄が〈糸倉〉《ネック》、共鳴胴は肩甲骨と骨盤の組み合わせ、弦は文字通りの〈腸線〉《ガット》だ。築宮は自分の肉体が見る間に楽器となり果てていく様を、なにもできずに見守ることしかできなかった。  法師はできたできたとほくほく顔で、さっそく撥を当てて音を見ようとしたのだが、〈爪弾〉《つまび》き出された音がなんとも景気が悪い。どうやら普段からぱっとしない築宮で作った琵琶は、音まで冴えない、ということか。 「あれえ、なんか、ちゃんと音がしないな。  あれえ……どこの具合、おかしいんだろ」  と何度も首をひねりながら、どうにかまともな音に調律しようとするのだが果たし得ず、だんだん法師も苛立ってくる。 「ああんもう!」 「こんなじゃあ、せっかく今晩、  あそこの温室で開かれる、  全国琵琶法師決起集会に、  混ざることもできやぁしないっ!」  一体どういう目的の集会なのかは知らず、とにかく法師にとっては重大事のようで、ままならない状況に床板をぱんぱん叩いて悔しがる。しまいには焦《じ》れた余りに、築宮の体で造った楽器を大上段に振りかぶり、柱に叩きつけてばらばらにしてからもう一度組み直そうとして―――その脳天に、ごんと来たものがある。司書の義手だった。  法師の背後に唐突に出現して、取り外した義手を鈍器代わりに殴打したのである。気づかれるような気配も匂わせぬ不意打ちであり、法師は綺麗に白目を剥いて「はふーん」と前のめりに突っ伏して気絶した。 「この人、音楽の方の素養があるようには、見えないから。あれこれいじるだけ、無駄だと思うけれど?」  音楽に疎い築宮、そんなので琵琶を造ったとて出来上がるのはなまくらモノが精々のところと、築宮自身もつい納得しかけ、いや、よけいな事は言わないでよろしいとは思ったが、助けてくれたことには変わりないので言葉を呑みこむ。司書は元築宮であった楽器を手に取り、 「さすがにこうなると、  元の形に組み上げるのは一手間ねぇ」  溜息ついて、宙に浮いた築宮の霊体を〈一瞥〉《いちべつ》してから庵《いおり》の隅に取り分けられている肉や〈臓腑〉《ぞうふ》に目を移す。  まだ瑞々しいそれらを眺めるうちに、司書の顔に〈陶然〉《とうぜん》とした艶が浮かんでいく。 「……いっそのこと貴方、  この先楽器で、余生を送ることにして」 「このお肉は、  私が美味しくいただくというのは―――」 (却下だぁぁぁーーーーーっっ)  たまらず絶叫した、冗談事ではないの一念が凝り固まって音の波となり、庵《いおり》をびりびりと振動させたほどである。司書はちょっと肩をすくめ、 「そぅお? だったら仕方ないわね……」  と、法師の解体とは全く逆の手順で、築宮の体の再組み立て作業に入る。ただ途中で手が滑ったのか、頭蓋骨をごとんと取り落としてしまい、霊体にまでその振動が響いてきた。  築宮、そこの中には、質の善し悪しはともかく自分には大切なおみそが詰まっているのだから、もっと丁寧に取り扱ってくれと司書に叫んで―――  築宮、とろとろととろけるような、緩んだ気配が一杯に広がった午後の陽差しの中、思わず叫んで飛び起きた。また夢か。  一体なんなんだと頭を抱えた築宮に、ふっと影が差した。見上げると、旅籠のお手伝いさんだった。それも何人も。数えあげれば五人もいた。 「こんなところで寝ていると、  大変なことになります」  もう充分大変なことになっている。ひどい悪夢にうなされて全身これ〈盗汗〉《ねあせ》でべったりだ。自分をぐるりと取り囲んだお手伝いさん達に苦笑する。そうやってお愛想したはいいものの、彼女たちはなぜだか築宮を囲む輪を崩そうとしない。 「あの……?」 「下手に寝返りでもうって、  ころころ転がって、  屋根の端から墜落したら、  どうするおつもりですか」 「あとは大河まで〈真っ逆様〉《まっさかさま》。  お魚の餌になり果てる、  そんな末路を、お望みですか?」  このだだっ広い屋根の上で、どれだけ寝相が悪ければ端まで転がり落ちるものやら築宮には見当もつかない、傾斜角も浅い。大丈夫ですよと空笑いしたものの、お手伝いさん達はなおも包囲を解かず、そればかりかじりじりとその輪を狭めてきているような気配さえある。  もしかして自分は、お手伝いさんたちに責められているのか? 勝手に屋根の上に上がったから? それにしたって彼女たちの様子は妙だ。つい顔色を窺うように問いかける。 「ああその、図書室の用事を済ませているうちに、つい上がってきてしまったんです。  ここに上がっちゃ、まずかったろうか」 「というか、あなた達も、  一体なぜここに?」  まさか自分を注意するためだけにこの人数で出てきたわけでもあるまいと、築宮としてはなんの気なしの軽い気持ちで問いかけただけなのだ。  それなのに、ただでさえ妙な塩梅であったお手伝いさん達の様子があからさまに変化した。みな表情を無くし、澱《よど》んだ眼差しになる。それでなお築宮への包囲を解いてくれないのだから、相当に不気味な雰囲気が漂い始める。 「お客さまは、  何故ここに私たちがいるのかと、  そう問うのですね?」 「つまりここに私たちがいるのは、  貴方にとっては奇妙なのですね?」 「いやそういうつもりで、  言ったのではなく―――」 「いいのですよ、隠さずとも。  しょせん私たちは女中でございます。  卑しい卑しい女中風情でございます」 「ちょ、な……、なんでいきなりそんな!?  別に俺は卑しいだなんて、  これっぽっちも思っちゃいない……」  なんで彼女たちが突然そんなに卑屈に自分達を貶《おとし》める言を吐きだしたのか訳がわからず、混乱する築宮に、お手伝いさん達は続けて浴びせかけた台詞がなんとも滅滅として。 「いいのですよ。  お気遣いなど。  しょせん私たちは、  卑《いや》しい女中でございますから」 「お客さまに蔑《さげす》まれて、  お客さまに罵《ののし》られて、  お客さまに嬲《なぶら》られる」 「それでもお給金さえ、  もらったことのない―――」 「そんな卑《いや》しくみじめな、  女中なのでございます」 「給料ゼロとな!?」  彼女たちはただ働きだったのかと仰天した築宮だったが、その理不尽に〈義憤〉《ぎふん》を抱いていられる心の余裕などなかった。お手伝いさん達は全員肩口からもわもわと負の威圧感をば陽炎のようにたちのぼらせ、もう築宮にのしかからんばかり迫ってきていたのである。その上吐き出されるのは呪詛めいた言葉ばかり。  はっきり言って、怖い。相当に恐ろしい。 「でも良いのです。  どうぞお気になさらずに」 「私どものことは豚と」 「いいえ『卑《いや》しい雌豚』とお思い下さい」 「何故一々ひどく言い直すのかね!?」 「私たちは卑《いや》しい女中ですから。  暗くて狭くて湿気った、  不潔な場所がお似合いでございます」 「どす黒く濁った闇の中で、たとえば布団部屋あたりで」 「ぬらぬらと汗と涎《よだれ》にまみれ、お互いを慰め、時に罵《ののし》り、そして絡み合い、芋虫のように蠢《うごめ》いているのがお似合いなのでございます」 「誰もそんなことなど、  言ってないって言うのに!」 「でもお客さまは、  さっき〈仰有〉《おっしゃ》ったじゃないですか」 「『何故お前たちはここにいるのだ』と」 「お前たちには、  陽差しなど不釣り合いだ、と」 「言ってないいい!」 「いいのです。私どもは、  お客さまに罵《ののし》られて罵《ののし》られて、  それでも御奉仕させていただくのが、  お仕事なのですから」 「というわけで御奉仕させていただきます」 「とりあえず歌でもお歌いしましょうか。 『暗い日曜日』でよろしいですね?」 「それは人死に、って言うか自殺者が出る歌なんで、真剣に勘弁して下さい」  どうしてこういう流れになるのか全く理解不能であり、日頃は色々とお世話になっているお手伝いさん達が恐ろしくてたまらない。  だが四方を囲まれていては、逃げ出すことも適《かな》わず、ひたすら身を縮めるしかない築宮の前で、今度はお手伝いさん達、全員揃って脱衣し始めた。 「なな、なぁっ!?  何故、脱ぐ……っ」  絶句する築宮の前後左右に立ち並ぶ裸体しめて五人分。微妙な差異はあれどほとんど同じ顔をした体が五人分も露天にあからさまになっている様は、壮観を通り越して一種の圧迫感さえ漂わせており、とてもではないが色を愛でていられる余裕などない。  気圧されて唇を意味なく開け閉めするばかりとなった築宮に、五人のお手伝いさんが一斉に〈雪崩〉《なだれ》かかっていった、肌と肉体でもって。 「うわああ、やめて、やめてくれぇっ」 「御奉仕します御奉仕します、  この体の全てを使って。  手でも胸でも、お口もあそこも、  お望みでしたらおしりでも」 「その手の趣味がお有りなら、  脇に挟んで、擦って差し上げますし、  足の裏でもしごきます」 「それともひかがみが、  よろしうございますか?  おでこに浴びせかけたいですか?  お鼻の穴に流しこみたいですか?」 「よろしいのですよ、  お望みのままに私どもをお使い下さい。  髪の毛を巻きつけてしごきたいのなら、  それもようございます」 「いかようにでも、  お好きになさいませ―――!」 「たとえばわたくしは、お口でお慰めするのが得意です。一日中ずっと、おしゃぶりしてても平気です」  ぬらりと開けて見せた唇の中で舌が、ひらひらと躍ってはうねうねと波打ち、花の形を作ったかと思うと無数の軟体動物のようにのたうって、その淫湿な動きといったら、見ているだけでも築宮の性器を強制的に屹立させたほど。  確かにあの粘膜にくるまれたなら、それこそ立て続けに射精してしまうこと間違いなしの。 「喉まで突かれても大丈夫。何回だって飲み干せます」  と自分の指先を唇に呑んで、からめて舐め上げた舌の、涎《よだれ》が糸と伝って滴り落ちて、その粘質な音と蠢《うごめ》きは、アレに思いきり剛直を突きこんで喉まで犯してしまえ、と抗いがたいほどの誘惑で。 「それから私は、殿方のモノが生えています。もちろん女の子のほうだって、ちゃんと使えます」  と股間に手をやってしごきたてたは、築宮のモノよりずっと滑らかな形で、色合いも明るかったがまごうかたなき男性器。  隠秘哲学にてはこういう〈両性具有〉《ふたなり》は『完全な人間』の証とされたものだが、このお手伝いさんの様相は、完全云々よりただ背徳的な、淫靡な雰囲気を放つだけ。 「試した方のお話では、女の子と殿方のほう、同時に責めたときに、女の子のほう、中が凄く凄くぞよぞよしてきゅうきゅうして、うねってすいつきまとわりついて、たまらない心地だそうです」 「それともそちらがお望みでしたら、私の殿方のモノで、そちらのお尻を責めさせていただきます」  囁きながら、前に突きだしては蠢《うごめ》かせ、宙を女性には本来ありえない肉の槍で犯して見せた様が、築宮のような男ががつがつと性急に責めるよりずっと柔らかな腰の遣いようで、いかにも女らしかった。ぬるり、ぬらりとしたあんな動きなら、体の中をまさぐられたとしても痛みより、きっと別の感覚が勝るだろう。違いない……。 「お尻を責めながら男性のモノをしごくと、お種、トコロテンみたいにびゅうびゅう区切りなく出るんですよ」  それは、いかなる心地なのだろうか。本来は貫くのが役割の筈の男が貫かれ、腹の中に精を吐き出されながら、また自分も射精するというのは。外に吐き出せば吐き出した分だけ、中に満たされる、とあっては確かに限りなく絶頂の脈動は続くのかも知れないが、と想像しそうになって築宮は慌てて妄想を振り払う。  その妄想は、取り憑かれたが最後、実際に味わってみないことには収まりがつかなくなりそうで、おぞましい。  そんな快感を知ったが最後、精が枯れて血が混じっても射精し続けてしまうに違いあるまい。 「そしてアタシはと言えば、この右目、義眼です。どうぞ義眼を抜いて、空っぽの目の中をお楽しみ下さい」  ぽこり、と、仕草も音も軽やかなのに、片目に開いた孔は底無しの虚ろ。  実際には大して深くもないだろうにその眼窩からは、別の空間から漂いだしているが如きの冒涜的な空気が漏れだしているようにさえ。 「〈眼窩〉《がんか》をしゃぶるのが好きな方もいらっしゃいますし、もちろんおち○ちんの先っぽを突っ込んで愉《たの》しまれる方もいらっしゃいます」  すっと額に添えた手を、静かに滑らせ眼窩の縁をなぞりゆく、指先はおんなの秘肉を、そしておとこの尖端や後孔を愛でるかに優しくて、眼窩は虚ろを、というより喩えようもない快楽を潜ませているようにさえ見えた。 「ただその時は、アタシ、脳に直接刺激がいきますから、『めぴょれぽれぇっ』とか奇声を上げてもお許し下さいましね」 「それから〈眼窩〉《がんか》の中に射精された場合、ちょっと逆流して、お鼻の方から白いの、垂れてしまう時もありますが、そちらもご容赦を」  それは、どれだけ身勝手な射精感覚なのか。相手にはなんの喜びもなく、ただ己の快感のためだけに片目の孔を用いて、好き放題に吐き出す感覚は、自慰などよりも遙かに忌まわしい……が、男の射精など結局身勝手なものでしかないのではないか? この隻眼のお手伝いさんの空ろな眼窩を犯すのは、その身勝手を極めること、ならばその快感はどれだけ強烈なものになるだろう。  そんな射精を体験してしまったら人としておしまいで、狂って、自分の心の臓が止まってしまうまで腰を揺すりたててしまうに間違いない。 「で、ちなみにアタシ達の得意技、なんだと思います?」 「みんなの、それぞれの床《とこ》あしらい、全部同時にして差し上げることです」 「そんなのまとめてこられたら、  俺は死ぬ、極めてリアルにシリアスに、  間違いなく確実に悶《もだ》え死ぬぅぅっ!」 「……きっと、満足していただけるかと存じます……それではみんな?」 「ええ、一緒に」 「はい、全員で」 「いのち捧げて、ご奉仕を―――」 「っアーーーっっ」  御奉仕御奉仕といいながら、実質築宮が輪姦されているのと変わりなく、どれだけもがいても押さえつけられ、どれだけ悲鳴を上げても聞いてもらえず、しまいには本泣きで許しを乞うたが無視された。  力ずくで汚されるとはこういうことなのかと、築宮、女体に、粘膜に溺れ喘《あえ》ぎながら啜《すす》り泣く。  雄の器官に絡みついているのは舌なのか、膣の粘膜なのか、それともあのぽっかりした眼窩なのか、快楽の責めは間断なくて区別できない、できないままについこらえきれず、射精した、その第一回目が引き金となって、乳首を強《したた》かに吸われて二回目を、ひ、と悲鳴した三射目は後孔に、それまでさんざ揉みほぐされて無防備となった臀の孔にぬぅるりと、先が通ったかと思えば遮りようもなくぬるぬると身体の底まであのふたなりの彼女の肉槍が侵入してきたからの、妖しい違和感と圧迫感に押し出されての三回目、その射精から後はもう、区切りがなかった。後ろを犯され、前を絶え間なくくねりぞよめく粘膜に呑みこまれ、剛直と後孔ばかりでない。足と言わず指先と言わず唇と言わず、全身の肌全てが、この時性器と化して、それも過敏な、責められ貪られるばかりの。  もう、何度放ったろう。どれだけ漏らしたことだろう。数えきれないほど噴き零して、零した分だけお手伝いさんの膣内に、口に、後孔に、全ての孔に、肌に塗り広げられ吸い取られた。お手伝いさん達は、胎内だろうと肌の上だろうと、放たれる青年の精を喜んで呑み干しては浴びて、一層深く絡みついてくるばかり。  もう、わからない。どこからどこまでが自分の身体なのか。ぬらぬらと粘つく体液にくまなく包まれ、どこを掴んでも滑る、ぬめる、その度に嬉しそうなよがり声が伸びあがる。そうやって少し体を動かすだけで、過剰なまでの快感が即座に反応してきて、築宮は全身を痙攣させ、その一つの震えの度にまた射精して―――  ああ、ああ―――何度も何度も精を搾《しぼ》りとられ、何度も何度もそそり立たされ、心臓は危険なほどに動悸し呼吸は細く苦しくなる。これはもう性的な凌辱を通り越して生命の危機であり、助けて下さい、後生ですから、と蠢《うごめ》く肉の隙間から天に向けて差しのべられた手が、びくくっと〈痙攣〉《けいれん》して動かなくなった。  一体、世には複数の女を一度に侍らせ、乱交の愉悦を妄想する男もあるものだが、そういう向きも、まずはこの絵図を見ておかれるがいい。  この屋根の上にて、青年を突如押し流して呑み尽くした、堕地獄色情酸鼻惨憺絵巻物を。  築宮をくまなくおしつつんで凌辱していたお手伝いさん達は、体の下から伝わる断末魔の哀しい〈痙攣〉《けいれん》を感じとると、それぞれ〈嗜虐〉《しぎゃく》の快楽に赤らんだ顔で満足げな吐息をつき、もうどこからどこまで誰のどの手で足でお尻で乳房なのか、判らないくらい絡まり合った肢体を解く。解いて、全員ぎょっとたじろいだ。 「あなた達、少しおいたが、  過ぎるんじゃなくって?」  優雅で怠惰で、しかしどこか残酷さを漂わせた声音が、お手伝いさん達の輪の中心から。築宮が埋もれていたと思っていた位置からゆらりと立ち上がったのは、司書の姿だった。  一体何時の間に、どのようにして入れ替わったものやら定かではないが、司書の出現にお手伝いさん達に動揺が走る。 「そんなに遊びたいのなら、  私がお相手して差し上げます。  これだけ人数が揃っていれば、  きっと楽しいわよ?」  ブラウスの襟元を解きながら、司書が一人のお手伝いさんの腕をとる。指先で微妙にその肌を撫でながら。 「え……なに、なんなの。  これ、こんなの―――あ。  あ、はぁぁ……んぅぅ……っ」  お手伝いさんはその指先の愛撫だけで体の芯を融かされてしまったかの悲鳴とも嬌声とも着かぬ声を〈爪弾〉《つまび》きだし、膝からくたりと崩れて司書の胸に抱きとめられる。他のお手伝いさん達はじりじりと後じさっていたものの、司書の〈一瞥〉《いちべつ》それだけで視線に射すくめられて動けなくなった。 「ほら、あなた達もおいでなさいな。  大丈夫、退屈なんてさせないから。  全員、一緒にお相手してあげる―――」  司書が片手を述べて指先で差し招けば、見えない糸で繋がれているかのようにお手伝いさん達はふらふらと引き寄せられる。  かくして、反撃、を通り越した無残な〈落花狼藉〉《らっかろうぜき》が、展開されるのであった。  淫風が眺めのよい屋根の上に吹き荒ぶ。  一対多にもかかわらず、お手伝いさん達がいともたやすく、そして容赦なく撃破されていく有り様を、屋根の上のあの小屋に隠れて窺っている目があった。  築宮である。  窓際に身を潜め、恐れおののきながら見やるうちにも感極まった、それでいて物哀しげな喘《あえ》ぎが一つ、最後に長く後を引いて虚空に吸いこまれ、余韻が消える前にも司書がむくりと立ち上がった。  全身色々の体液に濡れて光り、淫猥この上ない風情だがその表情は実に平然としたもの。いや、幽かに楽しげな色が唇の端にたまっている。裏腹にお手伝いさん達は全員倒れ伏し、みなも息絶え絶え、ひくひくと〈痙攣〉《けいれん》している者はまだましな方、中には白目を剥いて動かなくなってしまった者さえある。  司書は乱れ髪をざっと後に払い、〈手巾〉《ハンケチ》で体を丁寧に拭ってから衣服を身につけ、築宮が隠れる小屋まで歩み寄ってくる。  窓越しに呼びかけた。 「はい、お待たせ。  もう大丈夫。  あの子達が貴方に迫るようなことは、  もうありません」  声が優しく、とてもつい先程五人のお手伝いさん達をまとめて平らげた女とは思えず、築宮もようやく安堵の息をついたという。見ようによってはお手伝いさん達も幸せな顔をして〈喪神〉《そうしん》していると見えないこともない。ともあれ、またしても築宮は司書に助けられたことになる。  お手伝いさん達にのしかかられたと思って目を閉じた次の瞬間に、いつの間にかこの部屋にいる自分を発見したのだ。机の上の残されていたのは、『大人しく待っていること』の走り書きされた紙片、司書の筆跡で。 「さあ、いつまでも、  こんなところにいるものじゃあないわ。  そろそろ帰りましょう……あらぁ?」  と司書は、下を覗きこんで興がる声を上げた。築宮、その視線を追って、慌てて股間を押さえる。こちらまで漂ってくる淫気に当てられたのか、反応し、彼の股間は隆々と盛り上がってしまっていて。  どれだけ理性で抑えようとしても、いっかな鎮まってくれる気配がないのには築宮自身大いに閉口した。もごもごと言い訳しながらあとじさる築宮を、司書はそっと抱き寄せる。 「ふふ。そんなじゃあ、  歩きづらいでしょうに。  おいで。鎮めてあげるから」  そう言われても、先程までの情景が情景だ。司書がその気になったら自分などたやすく搾《しぼ》りとられて干からびるだろうと思うと、二の足踏まずにはいられない。そんな築宮の〈逡巡〉《しゅんじゅん》を、寛容に微笑んで司書は彼の手を取って引き寄せた。 「心配しないで。  優しくしてあげます。  貴方はゆったりと愉《たの》しんで、  自分のしたいように私を抱いて……ね?」  嘘を言っている顔ではない。  築宮、司書に引かれるままに、窓枠を乗り越えて小屋の外へ。 「こちらの小部屋は、お嬢様の隠れ家なの。  私たちが勝手に使っては失礼だから、ね。  こっちで……」  そのあたりはとりたてて鳥の糞で白汚れているだの雑草がそよいでいるだのはなかったけれど、やはり屋根の上は瓦の地面。  日に、雨風に晒された瓦に、女の身体を横たえるのは、発情しきった青年でさえ憚《はばか》られ、築宮は立ったままで司書の体を求めた。  令嬢の隠れ家の、白板の壁に押しつけるように司書の体に身を預ければ、彼女も胸を反らすようにして、築宮の〈抱擁〉《ほうよう》に答える。  築宮の情欲に汗ばんだ胸板の上で歪む乳房、その弾力の中で頂が自己主張している。  自分もまた貴方を求めているのだと告げるように、築宮の胸をつついている。 「あの……貴女は……」 「いいのよ、そのまま、来て。  今はね、私を悦《よろこ》ばせようなんて考えなくていいから、貴方の、男のしたいように、ね」  前戯もなにもない、ただ繋がるだけの、いっそ交尾と言ったほうが相応しい交わりでいいのだと、許した司書の言葉を信じた。  衝動のままにスカートをむしり取れば、この時を予期していたのか下着は着けず、〈和毛〉《にこげ》は淫蜜に濡れていた。膝裏から抱え上げて、司書の太腿の柔らかさに築宮は驚いた。  ただ瑞々しいだけではなく、中にはしっかり筋肉や腱があるだろうに、乳房と同じくらい、内腿は柔軟な。  指で摘んで引けば、肉がすぃと引きちぎれてしまうのではと不安になるほど。  その白く薄く静脈を浮かせた内腿の奥に、一番奥に―――たっぷりと水気を含んで、司書の秘部が、ほころびきって息づいて、先程までの淫香の名残を匂わせて。 「私も、もうこんなですもの……だから、大丈夫……私も、今は貴方の……男の人のが、欲しい……」 「…………っ」  喉がひりつくように乾いて、司書の水気を求めるように腰を押し進める。  自分の中心をつつく築宮を感じ、司書の視線がぶれる。 「あ……熱ぅ……い」 「貴女……だって。  俺のが溶けそうなくらい、熱い―――!」  そう言って、ゆっくりと尖端を粘膜の海に押し当て、押し進める。  粘膜をかきわける音を尖端に感じつつ、司書のぬかるみに呑みこまれていく。 「ふぁぁ……っ、は、ひらく……私の身体、くぷって、貴方の、私を広げて―――ひぅ、ひふぅ……っ」  司書の胎内の〈凹凸〉《おうとつ》に合わせて〈強張〉《こわば》りの角度が変わる。やがて―――ぐりゅ、と行き止まりに突き当たる。 「は……ふう―――届いた―――おくまで」  築宮の男性を体内に感じて、一瞬〈陶然〉《とうぜん》とした眼差しを見せたけれど。  築宮は彼女の突き当たりで止まらなかった。  慣れない形ではあったが、下から伸び上がるように、二人の繋がりをいっそう深くする。  尖端が彼女の胎内を押しこむ感触――― 「……ひぁ!?」  目が見開かれ、焦点が霞《かす》む。  築宮の〈鼠径部〉《そけいぶ》が司書のそことぴたりと重なり、〈強張〉《こわば》りの根本には彼女の襞が密着し、尖端は。 「か……ふぅ……?」  司書の奥の奥、子を宿す、女だけの器官の入り口に深々と食いこんでいた。  自分の体内の異物感を確かめるように、司書は二度・三度瞬《まばた》きをして息をつく。 「はぁぁ……すぅぅ……」  呼吸を繰り返すうち、息づかいにうっとりした色が滲み出す。  こんな風に串刺しにされているのに、自分が感じているものは快楽なのだと知って、〈陶然〉《とうぜん》と悦《よろこ》んでいた。 「……貴方のが、こんなに私の深くに」 「……貴方、このかたちだと、慣れないなら、ほら、もっと私にもたれるみたいに。  体重をかけていいのよ……?」  築宮にしては珍しく、女の柔肉への飢えを素直に表して、司書の体を差し出されるがままに貪っている。  そして司書もまた、男の肉を好むという鬼女との風評通りに、普段なら逆に男の精を奪うくらいの貪欲な情交を好むというのに、この時はただただ優しかった。  盛りがついて精ばかりを持て余し、けれど男女の営みには疎《うと》い若者を優しくあやすように、熟れて〈抱擁力〉《ほうようりょく》に満ち満ちた乳房の中に、築宮を迎え入れて受け止める。 「これなら、動きやすい?  そう―――なら、続けましょう」  うっとりと囁き、築宮に抱かれたまま軽く腰をひねった司書の、膣内がよじれて、 「うあ、ぅ……っ」 「ふぅ、ぅ〜〜っっ」  築宮は歯を食いしばった。歯列の隙間から漏れる、声ならぬ声。 「あ……やっぱり、きつい?」  不安そうに築宮の様子を窺う彼女に、歯を食いしばりながら首を振るのがかろうじて。  挿入したばかりなのに、尖端を熱く充血した襞がくるみこむ刺激それだけで、あっけなく達してしまいそうになったのだ。 「ちが……そうじゃない……中、気持ちよすぎて……」 「どうして女の人の中というのは、こんなに、いい……」 「ふふ、だって、男の人を迎えるためのところだもの。だからね、身体も、精一杯、気持ちよくしてあげようとする……」 「貴女の方は……?」 「ン……お腹の中、一杯な感じ」 「もうこのあたりまで―――」  手を二人の間に差し入れ、確かめるように臍《へそ》のくぼみあたりを撫でる。 「お腹の上から、手で触れそうなところに、貴方がいるわ」 「―――これで貴方が動きはじめたら、きっと、とっても、すごく―――」  はあ―――と溜息を漏らした弾みに、彼女の胎内に〈蠕動〉《ぜんどう》が走る。  波打つ。ざらついた粘膜に性器が噛みつかれているような刺激。  快感が、強すぎる――― 「素敵な事になるわね……」 「うあ……そんな、締めつけたら……保たない……」 「そう? ……まだ、私はゆるゆる、身体のままに任せているだけ」  軽く首を振った、それだけの仕草でも彼女の膣内がねじれ、少し収まりかけていた快楽の波を強くかきたてる。 「けれど、貴女の中が、動いて、俺を」 「それは、貴方のコレが、とっても辛そうだから……」 「どうしてなのかしら。  ―――貴方に抱かれると、私の身体、欲張りになる……ん、あ」 「抑えられない……感じ。  こんなの、長いこと、なかった……」 「ん…………」  壁に押さえつけられた姿勢に少し強張ったのか、背中をずらそうとした、それだけでも。  内股の筋肉が絞られて、膣内が奥へと引きこむようにさざ波を打つ。 「あ、また……っ」  身体を動かした弾みに、深々と突き刺さった尖端を、胎内の出っぱりが引っかかり、通り抜けた。  肉の〈狭隘〉《きょうあい》の奥、子宮のまだ向こうの襞が寄り集まっている辺り。 「ん、そ、そこ……! いま、ごりん、て」 「私、そこ……弱い……すぐに良くなって、良すぎるみたい……でもああ、いいの、貴方のしたいように……」 「ああ……判るよ。少し、こりこりって、こすれるの、気持いいよ……」 「あ、ふぁ……痺れ……る……」 「ちょっと動いただけでも、こんな。  あ……もし、もっと奥、抉られたら……」  どうなるのか。思い浮かべただけで胸の内側が快楽の予感にむず痒くなるほど。  築宮のを根元まで呑みこんだ司書の入り口が、助走をつけるみたいに軽く収縮する。 「ね、貴方―――好きにして良いって言っておいて、ごめんなさいね―――でも」 「動いて……ん……欲しい」  おずおずと腰をうねらせれば、ぷつ、ぷつ、と微細な襞や突起が尖端を擦っていくのがはっきりとわかる。 「あ…は…っ、これ……貴方ので―――お腹の中が、こすれ、て……っ」 「わかるよ……貴女の中が……俺のに引っかかるのが……くぅ……」  これでは築宮が司書を貫いたのか、司書が築宮を呑みこんだのか――― 「……わた……あっ、私―――いい……」 「腰……お尻が、ふ、ふぅっ、勝手に―――動いて。貴方も……来て、たくさん」  築宮も、司書に負けじと動きはじめる。  彼女の中に〈強張〉《こわば》りを深く収め、引き抜く動きを不思議な感動と共に。  女性の身体には、こんな浅ましく膨れ上がったものを収める器官があるのかとなかば信じられない気持ちになる。 「ふ、くっ……あぁ……うそ……やだ……もっと深いところまで、くる―――」 「私の中、自分じゃ届かないところまで、  ―――押されて……」 「うく……ン、私の中の、ここ、深いところ、気持ちいい……はぁぁ」 「とどくのよ……あは……っ。  ……貴方のだからかな―――」 「貴方のこれと、私の中、きっと、相性がいいのね……だから、こんなに奥まで、すぐ届いて、馴染んでる―――」  ゆっくりとした動きが加速していく。  熱せられた息が、肩口から零れた髪の毛と共に築宮の頬をくすぐる。 「中―――熱く濡れて、しゃぶられてるみたいだ……っ」  呑みこまれては現れる〈強張〉《こわば》りがぬるぬるとした粘液にまみれて、抽送の度に茎にまとわりつく蜜が濃くなっていく。  彼女の蜜と、築宮の先走りが混ざり合って、いよいよ濃くなっていく。 「そうよ……。貴方ので、私の中……熱くて……ひア……熱いから……溶け、るぅ……」 「溶けてるの……だから濡れるの、止まらないの……」  築宮一人ではけして得られない、粘液にまみれたこの快感。  少し進入の角度を変えて、尖端が司書の腹側の天井にこすれるようにする―――と、他より少しざらついて固めの質感と出逢った。 「―――ひう!?」  短く息が詰まる。  快楽の中に違和感を感じたみたいに呆然と、築宮を眺めて。 「ん……もう……私の、弱いところ、また見つけたわねえ……?」 「奥とは違う、別の、気持いいところ」 「ここ……?」 「ふくぅ―――!」 「あはっ……や、そこ、そこだけど―――そこだけいじめるなんて―――んぅぅ」  築宮に答えていた腰の動かし方を見失ったように、司書は口を切なげにわななかせる。 「ここ、そんなにいいんだ―――?」 「――あ! ――あ、あ、あ、あぁ――っ」  その一点を尖端が抉る度に、司書の顔が切羽詰まっていく。  築宮の二の腕を掴んだ指にきゅう、と力がこもって、〈執拗〉《しつよう》な攻撃を逸《そ》らそうとするのだけど、そこを強く擦り上げるだけでたちまち力が抜けていく。 「そんな、そこばかり、ごりごり……責められたら」 「身体、ほどけてしまいそう……ひ、ふぅぅ」 「なら、少し、休む……?」 「いいの、続けて、でも、できれば、少しゆっくり……ん」  尖端の先を逸《そ》らして、ゆっくりと膣の浅いところで遊ばせるようにすると、司書は攻めから解放されたみたいに荒い息をついた。  息づかいにあわせて内部もゆったりと収縮を繰り返す。  はあはあと息を整えようとする彼女を見つめるうちに、つい築宮の中に悪戯心がわいて。なんの前触れもなしに、彼女を動ける限りの力で突き上げた――― 「――――!?」 「はう、あぅ、ぅぅぅ……っっっ」  不意打ち気味の突き上げに、司書の腰が跳ね、衝撃を逸《そ》らしそこねたように、るるとした震えが、肩口から伝わってはだけられた乳房まで。 「―――あぁ―――うあ、ぁ……」 「目の中―――白い火花―――ちったわ」  もう腰を遣うもままならないように、司書は内腿を震わせて歯を食いしばった。 「そんな風にされたら、わたし―――」  糸が切れたみたいに築宮の胸にもたせかけ、頬を寄せる。  築宮の腕の中で身体をくねらせて、二人の間で乳房をたわませながら、目を潤《うる》ませた。 「自分のほうが、好き勝手にしたくなる」 「え?」 「そんなにされたら私―――さっきのあの子達みたいに、貴方の事、襲ってしまいそう」 「なぁんて……嘘よ。  でも、少しだけ、本気―――駄目ね、私」 「――――」  築宮の胸に頬を埋めての囁きは、肌の上から弱い振動となって染みこんで、少し、ほんの少しばかりぞっとさせる。  それが、饐《す》えてなお甘い香りを漂わせる〈睦言〉《むつごと》だったから。 「―――」  どう答えても不粋な言葉しかでないように思われて、口ごもる築宮に、 「ふふ……続けて……」  ふっと笑みとともに身体の力を抜いて、彼女の方から奥まで収め直す。  根本まで密着すると、尖端が押し返されるような、司書の膣の底の弾力が。 「襲ったりなんかしない。ただ、貴方に良くなってもらいたいだけ。こんな、風に……ン」  身を起こして、うんと息んだ司書の、下腹部が締まって膣内もきつく絞られる。 「ようやく少し落ち着いたから。  ここ、こういう風に使うと、どう……?」  深く呑みこまれた根元を、膣孔が歯のない口で噛むような締めつけ。  首筋に滲んだ汗に後れ毛がはりついて、築宮はそれを底知れぬ、不安なほどの淫らであると同時に美しいと思った。 「本当に凄く……俺のにまとわりついてきて……貴女の中――」 「頬や首は……風で少し涼しいくらいだ。でも貴女の体が―――熱い」 「あの子達と遊んで、私のおんなに、火が入っちゃったから―――でも、だからこうして、貴方と抱き合える」  そして二人は、より深く快楽を貪ろうと激しく動きはじめる。  貫かれるばかりではなく、司書もまた腰をうごめかし、乳房を揺すり上げ、身体全部を使って築宮を貪っている。  彼女と紡ぎ上げる快楽に築宮の意識が持っていかれそうになる。 「はぁ……あ、あぅぅ……っ」  快楽に首を打ち振る、艶めかしい艶を帯びて波打つ髪が、軌跡を描く。  もう、止まらない。 「ふぁ……ああ……ん……」 「ん……っ……ふ……」 「ひぁ……っ、あー……」  瞼を下ろし、快楽を求める表情はいっそ安らかで、嬉しそうで、だからこそ、自分が彼女にそんな表情を浮かばせているのだと、築宮の心の裡《うち》に愉悦が湧く。  お互いがお互いから快感を得ようと、築宮が衝き入れ穿《うが》つ、司書が胎内の粘膜を剛直に絡ませる、他のなにものにも代え難い快絶が高まる。 「あはああ―――体が、お腹の中から、溶けていきそう―――やっぱり貴方の、私と合うのよぅ……くぅ……っ」 「いい……私……くふ、貴方、は……?」 「あ……うう……俺も―――」  築宮だって、もはやこの心地よい肉体を貪る以外はなにも考えられない。  動きづらいこの体勢でできる限り、彼女の中を貪ろうとする。 「そん……なに……ンくぅ……嬉しい、  ひあ、あ……」  蜜の弾ける音が、絶え間なく鳴って、弾けて、はしたないほどなのに、この行為にのめりこむ二人にはその淫らがましささえより昂奮を深める刺激となる。  茎や尖端にまとわりつく肉襞に高められて、築宮は臨界をすぐそばに感じつつあった。 「俺―――出そうだ……っ」 「うぁ……は? ええ、いいのよ。  貴方、来て、どうか―――」 「また、私の〈膣内〉《なか》に、思うままに―――」  射精感の高まりと共に、雄の器官にひくつきが走る。その脈動を少しでも奥で感じようとしたのか、司書はぐいと腰を合わせる。  お腹の肉を通して恥骨の硬い感触まで感じ取れそうなほど、きつく深く密着する、築宮の尖端を司書の子宮口が弾く。 「注ぎこんで―――ほしい……っ」 「っでも、いつも中ばかりで……っ」  なけなしの理性で腰を外そうとしても、司書がしっかりと築宮を抱きしめ、片脚でつかまえてきていた。  隙間なく締めつける粘膜に押し出され、蜜が二人の茂みを濡らす。 「なにもかんがえないでいまは―――」 「貴方の気持いいままにぜんぶまかせて」 「私の一番深い、大事なところに、貴方を、〈頂戴〉《ちょうだい》。感じ、させて―――」  風変わりな歌のような〈抑揚〉《よくよう》で、求めてきたのはやはり彼女のほうだった。そして築宮は、そんな求めを拒めるくらい、彼が自分で思っているような〈道心堅固〉《どうしんけんご》な男ではなかった。 「出しちまう―――ほんとに―――くぅっ」 「あぁ――――」  築宮の精を求めてざわめく粘膜が最後の刺激となって、青年の理性を突き崩した。 「お……んくぅ……ッッ」  こみ上げる、高密度の粘塊。  ―――射精した。したたかに吐き出した。 「出てるわ、ね、いま、中、じんわり熱くなって……っ」 「あ、は、すごい、とろけて、しみこんでいくの―――」  尖端から迸る、白濁の粘液。  築宮の肩を愛おしげに、切なげに抱いて息を殺す、彼女の肉の管が波打ち、縮み上がり、呑み干していくかのよう。 「う、う……っ」  築宮のものと彼女の粘膜の境が判らなくなるくらい、熱くとろけた膣の奥深くに、異なる熱が広がっていく、しみていく。  尖端の周りがぬかるむ―――築宮の吐き出した粘液が溜まって。  茎の根元がぬらつく―――収まりきらず、溢れ出した精の戻りが伝わって。 「はぁぁ……ふふ、うふっ、嬉し―――  ―――中に出してくれたの、幸せ……」 「だって、ほんとうに―――貴方と抱き合えたって気持ちに、なれる―――」 「俺も……なんだか、貴女の中でイくと、なにか―――自分でも呆れるくらいたくさん出てしまって―――」  まだ繋がったままの股間に司書の体重が応える。  もちろん彼女が重たいとかそういうことではなく、その重さが、とても生々しくて、現実を感じさせるのに―――  なのに身体は腰から力を抜かれてしまったみたいに頼りない。  これは夢かなにかで、結合を解いた途端に一人目覚めている自分を見出すのではと、築宮はそんな心細さに囚われた。  そんな彼の心中を察してか、司書は〈抱擁〉《ほうよう》を解かず、繋がったままで、築宮の髪を心細《こまや》かに指で梳《くしけず》る。  司書の腕がそっと自分をかき抱き、ゆっくり髪を梳《す》いてくるのに深い安らぎを覚えつつ、乳房の優しい柔らかさの中、急速に眠りに落ちていく―――  は、と目を醒ました築宮の頬に差した光は、既に黄昏の残照となっていた。随分と長いこと眠りこんでしまっていたらしい。司書の依頼で延滞本の回収に出向き、それは果たしたものの色々あって、この屋根の上まで上がる事になったのだ。それで少し疲れてしまって、一眠りしようと鞄を枕に横になった時にはまだ日も高かった。それが目を覚ませば黄昏時で、太陽が大河の果てを〈縁取〉《ふちど》る雲の中に沈んでいこうとしている。 「起きたわね。  よく、眠れた?」  そして隣には、横座りになって築宮を見守っている、司書の姿―――  ぼんやりとした意識が、次第にはっきりしてくる。奇妙な目覚め方だと思った。夢の中で眠くてたまらず、眠りこんでしまったと思ったらこちらで目を覚ましたのだ。  そう、この、自分の隣に座す司書と交わった心地好さの中で眠りに落ちたと思ったら……と、築宮はここでようやく司書がすぐそばにいることを認識したように、はっと顔を赤らめた。  たとえ夢の中であったとしても、淫らな秘め事に耽《ふけ》った相手だと思うと〈面映〉《おもは》ゆい。 「なぁに?」 「いや、なんでも。  きっと起きがけで、頭がはっきりしてないだけです」  と小首を傾げて覗きこんでくる彼女に曖昧な笑みで誤魔化して、大きく伸びをした。それにしても奇妙で、そこはかと暗い淫靡をたたえた夢だったと思う。よく覚えていないが、確か令嬢と出会ったところから始まって、法師の庵《いおり》に落ちて、そして屋根の上でお手伝いさん達に襲われ、最後にこの司書と――― (ええい、なにやらあのユダヤの精神分析医の薄ら笑いが聞こえそうな心持ちだ……) 「素敵だったわ、貴方。  でも私は、夢の中だけでなくて、  こっち、現《うつつ》でも、  何時でもお相手して差し上げてよ?」  かくん、と落ちた築宮の下顎の、曰《いわ》く言い難い、呆気に取られたさまといったら。 (ちょっと待て、今なんと言ったんだこの女は?) (なんで人の夢の中味まで知っている!?)  呆然となった築宮を、司書は呆れたように見やりながらも、乱れた前髪を整えてやったりと、甲斐甲斐しい。 「夢でも何度も一緒になったでしょうに。  なのに貴方と来たら、その〈都度〉《つど》はぐれて、  またすぐ別の夢に迷いこんで」  ……どうやら司書は築宮の夢の中にまで〈這入〉《はい》りこんできたと、そういう訳らしかった。  いや、〈這入〉《はい》りこんできたなどといっては言葉が悪い。自分を何度となく悪夢から助けてくれたのだから。 「そうか……いや、間違いなくそうでした。  有難う……何度も助けてもらった」  まだ羞恥はあったが、それでもその事については礼を述べられるくらいの分別はあって、 「まあ、お使いを頼んだのは私だったしね。  思ったより帰りが遅いので、  捜しに来たの」  すると自分が、屋根の上で魘《うな》されているのを発見したのだとか。どうやってこんなところにいる築宮を探し当てたのかは、この際深くは考えるまい。 「しかし、なんだってあんな夢見をしたんだろう……」  と築宮は眉を潜める。下が瓦でごつごつしていたのがまずかったのか、それとも外の風が思ったより体に障《さわ》ったのか。せっかく見晴らしの良い場所を見つけたと思ったのにと、築宮が溜め息をついていると、司書は築宮に預けた鞄をごそごそあざいて、回収してきた書物を引っぱり出した。  それを逆さに振ると、頁の間から一葉の紙がはらりと舞い落ちる。 「なんでと問うなら、  はっきり言ってこれのせい」  司書が示した紙片には、奇妙な動物とも妖《あやかし》ともつかぬモノが描かれていた。  ―――貘《ばく》、だった。  悪夢を喰らう霊獣といわれている、アレである。その伝承から、〈枕屏風〉《まくらびょうぶ》に描いたり、紙に描いたものを枕の下に敷いて悪夢除けとしてきた。築宮が回収してきた本の間にまぎれていたのも、その悪夢除けの一つであるらしく見えた。ただ有り難い悪夢除けと言うにしては、司書が指先で摘《つま》んでいる紙片に書かれたそいつは、妙にひねくれたというか、油断のならない顔つきに描かれているのが奇妙だ。  こんなのを枕の下に敷いて寝たならば、かえって夢見を悪くしそうな。 「『貘《ばく》』は悪夢を食べてくれる、  とは言うけれど」 「逆に自分で食べたいが為に、  進んで人に悪夢をもたらす、  悪性のものも、あるようね」 「つまりはなにか?  俺はそういう性格の悪い貘《ばく》が、封じこまれていた紙を、〈迂闊〉《うかつ》にも枕に敷いて眠ってしまったからあんな悪夢に悩まされたと?」 「貴方、よくよく物の怪に、  好かれやすい質のよう」  感心されたように言われても、ちっとも嬉しくない。紙片の貘《ばく》を睨みつける。どうしてくれようかと考えていると、司書は躊躇いもなく貘《ばく》絵を引き裂こうとした。 「ちょ、ちょっと待ってくれ」 「どうして?  これは貴方を、  さんざか悪夢で悩ませたのよ?」 「それはそうなんだが……」  と口ごもる築宮の、実は引き裂かれる寸前で、絵の貘《ばく》がそれはそれは情けなさそうな、哀れに許しを乞うような顔になったように思われたからである。司書の手から貘《ばく》絵を受け取り、一睨みしてから苦笑した。 「まあ、あの夢はあの夢で、  あとから思えば新奇な体験だった、  と言えなくもない」 「あら。大人物な事を〈仰有〉《おっしゃ》る」 「強がりかも知れませんがね。  でも、なんでかこいつを引き破くのは、  ちょっと忍びないんだ」 「かといって、このまま無罪放免ってのも、なんなので―――」  築宮、貘《ばく》絵を二つ折りにして、更にあれこれ山折り谷折りの、紙飛行機に折り上げた。  立ち上がって風の具合を聴き、すっと投げ放った。あまり飛行機折りに適した硬めの紙ではなかったが、それでもどうにか風に乗って運ばれ、屋根の縁を越えて大河へと飛ばされていく。 「大河に落ちても、運がよけりゃあどこかに流れ着くでしょう。それまでは悪夢を蒔《ま》くといって、魚相手が関の山だ」 「〈鷹揚〉《おうよう》なこと。  どうしてそう、人が好いのやら」 「けれど、そういう貴方だからこそ、  私たちのようなモノが、  惹かれるのかも知れないわねえ」  それは誇っていいことなのかどうか、どうにも判別つきがたく、築宮は微妙な笑みで、貘《ばく》の紙飛行機の行き先を目で追っていた司書に手を貸し、立ち上がらせる。いい加減中に戻りましょうかと、二人、並んで歩き出す。  図書室まで司書に付き合って、別れ際。 「それじゃあ、お疲れさま。  貴方がよく眠れるといいけれど。  じゃあ、今日はこれでさようなら……」 「……ああ、それとも、  こう言った方が粋かしら」 「『夢で、逢いましょう―――』って」  彼女の挨拶というのがこれであり、つい言葉にまごついた築宮の唇を素早く奪うと、悪戯な微笑みを彼の視界に残像に置いて、司書は司書室へ戻っていった。  その夜、築宮は夜半ふと目を覚ました。悪夢に悩まされて、ではなく、枕元の気配にごく穏やかに自然に目が醒めたのである。枕元に端座して、穏やかに築宮を見下ろしていたのは司書だった。 「―――ああ。  やっぱり来てくれたのか―――」  なんとなくこうなるような予感していた築宮は、いそいそと身を起こした。夢の中なら、この司書と情を交わすのも素敵な事だと、素直にそう思えて、築宮にしては大胆に、心の赴《おもむ》くままに彼女を胸元に抱き寄せる。 「……旦那、  気が急いていらっしゃるところ、  申し訳ないんですが、  あの方ではないんで……」  しかし声は、司書の優雅な声ではなく、不釣り合いに野太かった。ぎょっと見れば、胸の中の司書の顔がたちまちぐにゃりと歪み、変形する。  あの、貘《ばく》の顔へとたちまちに。  ケダモノの顔が、司書の体の上に乗っかっていたのである。 「旦那、あんたをあんな夢に遭わせて、  燃やされたって仕方ないところを、  あたしは逃がしていただいた」 「あたしはそのぅ……旦那の寛大なお心に、  ほとほと感服いたしやした。  というか、ずっきり言います」 「惚れました。お慕い申し上げやす」  と、なんと貘《ばく》めはケダモノの顔を、ぽっと器用に赤らめたのである。その顔でずいとにじり寄られたものだから、築宮、たまげる思いで後ろ手に後じさった。 「そんで、最後の力を振り絞って、  こうしてあの方のお姿を借りて、  罷《まか》り越しました。  この一夜、心を籠めて〈夜伽〉《よとぎ》いたします」 「〈夜伽〉《よとぎ》ってお前……」 「なんだって、どんなコトだって、  旦那のお望みの通りに従いますぜ」 「お前ね、雄雌どっちなのか……。  いや、いい。  確かめたくない」  確かめて、もし雌だったら、心が萎《な》えてしまいそうだ。萎《な》えると困る。たといどんな相手だろうと、それが女とあってはを邪険に乱暴に蹴り出す脚を持たないのが、築宮という青年なのである。 「旦那ぁ……」  さあさあさあ、とずいずいしなだれかかってくる貘を強引に振り解き、有無を言わせず部屋の外に追い出した。 「あ、ちょっとそんな、つれないったら」  文句を垂れてくるのを無視して、扉を背中で塞いで、頭を抱えこむ。なんだってこう自分は―――ろくでもないモノばっかりを引き寄せるのだ!?    ―――人徳、っていうものかしらね―――    司書の声が、どこからか聞こえたような、そんな気がした。    ―――貘《ばく》―――  ―――終幕―――  ―――幕間――― 「寄り道、しないように。  ……と、までは言わないけれど」 「あんまり変なものは、  拾ったりしないのよ?」 「はは……注意します」  〈抱擁〉《ほうよう》は解きがたく、しっとりと情愛含んで密だったけれど、それでも男と女は二つに分かれて、図書室の扉を境に外と内へ。  〈花冠〉《はなかんむり》のように司書の輪郭を飾った、波打つ髪の豊かを愛でつつ、築宮が照れ笑いしたのも心当たりがありすぎたからで。これまで色々と曰くありげな代物を、無防備に手にとっては奇妙な事に巻きこまれた。その〈都度〉《つど》この司書女史に救われてはいるのだが、そうそう何度も彼女の手を煩《わずら》わせるわけにもいくまい。  ……と言っても司書の方は、それを大した面倒事とも捉えてはいないようではあるが。あるいは彼女にとっては、情を交わしたこの青年が持ちこんでくるのなら、〈普通人〉《ふつうじん》の手に余るような難事でさえも、日々の〈徒然〉《つれづれ》の慰みに替えてしまうのかも知れず。 「じゃあ、また、いらしてね」 「ええ、きっと」  と請け合うまでもなく、青年は自分が日を置かず、この図書室を訪《おと》のうだろうと自覚していた。ここのところほとんど毎日のように、図書室に通い詰めているのだから。  整理作業を付き合う時もあり、彼女がどこからか探してきた珍《めずら》かな書物や品を一緒に眺めたりする時もあり、あるいは、それがさも当然のように、ごく自然に肌を重ねる時もあったりする。今日はまだ四囲が明るいうちに別れたが、何度も交わっては情雨にお互いを濡らし、日が替わってから自分の座敷に戻るような夜もあった――― 「……明日も、逢えるといい……」  築宮が去った後の図書室、一人佇《たたず》む司書は、彼の〈抱擁〉《ほうよう》の名残を惜しむように、我が肩をかき抱いて深く息を吸いこんだ。  逢瀬の時が甘ければ甘い分だけ、一人の侘《わ》びしさが肌に冷え冷えと迫るけれど、その寂しささえも次の訪れを待つ間の香味とする術を心得ているのが司書であった。  ―――これまでは、そうだった。  ふっさり降ろした瞼の裏に、離れていった青年の面影を蘇らせた途端に司書の胸が激しく脈打った。  喉に突きあげてきたのは形容しがたい〈渇望〉《かつぼう》の一撃、兜なら真っ二つに断ち割られ、〈金剛不壊〉《こんごうふえ》の盾であろうと微塵に砕かれてしまうほどの、ほとんど物理的なまでの鋭さと重さを伴った〈渇望〉《かつぼう》の。  よろめいたのだ、この女が。あらゆる妖《あやかし》、いかなる危機をも〈泰然〉《たいぜん》と身をかわし、さばいてきた筈のこの鬼女が、よろめいたのだ。  ―――己の中に不意に生じた餓《かつ》えによって。 「は―――ぁぁ―――っ」  吐きだした呻《うめ》きは、〈随喜〉《ずいき》の媚声のように細く震えていたけれど、それよりもっと切迫して、司書の動揺を物語る。  かっと見開かれた眼差しにはただならぬかぎろいが、常ならあの優雅と深い〈叡智〉《えいち》を秘めて、底知れぬまでの深味を帯びている眸が、いまはしるけき飢えにぬめ光り、ただ一念に欲していた。  なにを―――?             愛しい、青年を。  彼のなにを―――?        生温かな血潮と、甘い肉を。 「うぅ……ぅっ」  漏らす息は、青年と別れるまでは紅の香を含んで甘かったのに、今は熱く濁《にご》り、血を求めて乾き―――〈戦慄〉《わなな》く唇から伸びたのは、これは鋭く尖った牙なのではないか。  〈呻吟〉《しんぎん》しつつ、左腕、義手の腕を扉へと差し延べたのが、去っていった青年を呼び戻すような仕草。 (事実この時築宮は、ふっと図書室へと踵を返して引き返したくなるような想いに囚われたのだ。彼はそれを、司書ともっと一緒の時間を過ごしたいが為の心の迷いとしか想わなかったのだが)  ……左腕を、押し止めるように右手で掴もうとする、それが彼女に内在する激しい争闘を示すようにわなわなと震えて、それでも少しずつ、少しずつ近づき、やっと掴んで、ぐいと引き戻した―――呪縛から解かれたように、左腕はだらりと体の脇に垂れた。  それだけの行為にどれだけの力を費やしたのか、肩が荒い息に上下した、額には滲んだ汗で前髪がへばりついた。 「あぁ……は……こんな……。  まだ……はや、い……」  声だけ聴けば、啜《すす》り泣いているのではないかと思われるくらい哀切な呟きを切れ切れに漏らす、司書の右の掌の中に、熱くぬるりときたのは、掴んだ左腕から滲んだ鮮血の、ブラウスの袖を染めてじくじくと、皓《しろ》と深紅で凄まじいコントラストを為して、それは義手と腕の継ぎ目から。  とうに塞がったはずの傷が、彼女の飢えに呼応するように開いて、新たな血を滲ませていたのだった―――  己が後にしてきた図書室で、凄絶な〈葛藤劇〉《かっとうげき》が生じているなど露知らぬ築宮である。  なにやらすっかり〈通い婚〉《かよいこん》のようになってしまっているなと、苦笑したつもりだが他人が見ればすっかり頬が緩んだふやけ笑いになっているかも知らんと、確かめるためその笑顔に固定したまま傍らの水路に、顔を映し見ようとした。と水面に影じたその顔が、なにかを聞きつけたように視点の焦点ぼやかして、横様に向き替わる。  青年の耳へ、ここ暫《しばら》く聞きつけていなかった音が届いていたのである。  〈舳先〉《へさき》が水面を分ける響き、櫂が軸受けに軋む音、築宮が見やった方に、渡し守の小舟がゆっくりと滑ってくるところなのだった。 「やあ旦那。  暫《しばら》くでした。  ご息災……のようですな」 「あなたも。  お変わりないようだ」  そういえば渡し守の姿と最後に見《まみ》えてから随分と間があいたような気もするが、狭い水路へ水銀の珠のように滑らかに小舟を通す櫂捌《さば》きに淀《よど》みなく、立ち姿も別れた時そのままに〈飄々〉《ひょうひょう》とした風格も相変わらず。  ……ただ築宮は、彼女の面差しになにやら物想わしげな陰が漂うてあるのを、ふっと感じ取っていた。 「お部屋に、お戻りのところですかい?  だったら、送っていきやしょう。  さ、お乗りなさい」 「確かにその途中ですが。  と言っても、なんとなく真っ直ぐ戻る気分じゃない」 「お心遣いは有り難いが、  今日はいいですよ」  築宮にとってこの小舟に揺られるのも風情で愛好するものであり、渡し守の、糸車から繰り出すように滑らかな語り口を聴くのだってけして吝《やぶさ》かではない。ただそれでも今日は、この後も旅籠の中をそぞろ歩きしたい心境で、さすがにそれにまで渡し守を付き合わせるというのも気が引ける。  ところが彼女は、そんな築宮の心中を見透かしたのか、さも心得顔で頷いて、 「でしょうな。旦那ァあんよが、  まるで地面に着いちゃいませんもの」 「そんなんで、まっつぐヤサまで帰れるはずもござんせんわ。  ふらふらと、まるで糸切れ凧みたいだ」 「凧って……。  そんなに浮ついて見えますか、俺が」  青年の傍まで漕ぎ寄せようと水面に棹差した、渡し守が言い草が、なにやら大上段から乗っかってくるように遠慮なく聞こえて、いささかむっときて抗議したものの、しかし心当たりはありすぎた。  なにしろ司書との逢瀬のすぐ後である。〈抱擁〉《ほうよう》の名残りはまだ腕に〈柔媚〉《にゅうび》で、わずか移った衣服の香りで、離れてなお彼女の心と一緒に歩いている想いもしている。情を交わし合った相手を身近に想う時、心も足取りも浮き立つのはありうべき事だろう。 「まぁね、旦那の心ここにあらずなのは、  見ればわかりまさ」 「ま、どうせまっすぐ帰るつもりがないのなら、ちぃとあたしに付き合いなさい、ね?」  ……どうやら青年を舟で送ろうというのは口実で、渡し守ははじめから彼と話がしたいようなのだった。  散策を邪魔されたような、と全く心ない言い草が登ってこないでもなかったけれど、この割れ般若の面の女にも〈漠然〉《ばくぜん》とした好感情を抱いている築宮で、彼女の誘いを〈無下〉《むげ》にするのも忍びない。  もともと当てもなくぶらつく時間を、彼女と一緒の一時に替えたってなんの不都合がある、と青年は、あっさり思い直して、渡し守に従う事にした。 「まぁ……確かにこの後、特に用事もない。  付き合わせてもらいますよ、あなたに」 「こりゃ、〈重畳〉《ちょうじょう》の至り。  嬉しいですなあ」 「また、大げさな……」  と小舟の縁を跨《また》ぎ越したのが危うげ無い足つきの、さすがに何度もやって慣れてきて、二人分の体重に傾《かし》ぐ揺れも無心にいなして艫《とも》の方に、築宮は腰を落ち着けた。  さて、青年の時間を一時借りると言って、どの座敷どの通廊に漕ぎ寄せるでもなく、小舟は〈弦月〉《げんげつ》をひっくり返した幻のように水路を抜けて、船頭が結局碇を投げこんだのは旅籠の大なるを外から眺むる大河の上にであった。風も通えば水気も立って、旅籠の中ではこればかりは無縁な広大な大気を、胸深々と吸いこむ築宮を待たせ、渡し守が舟底から取りだしたものは、すらりと長かった。と言って、危うげな光り物、刃物にて、足元危うい船上で危なかしく斬り結ぼうなどと言うのではない。  竹を接《つ》いで漆《うるし》を掛けた、和竿である。 「はいよ、こっちのが旦那のだ。  銘のあるような名品じゃありませんがね、  しなりの素直な佳い竿だ」  と手早く継ぎ延ばして手渡されても、青年にはちょっと戸惑われるばかりである。 「いや俺は、  あんまり、釣りの心得ってのは……。  ない、と思うんだが」  そこは例の記憶喪失、旅籠に着いてからだって、水の流れはどこにでもあるが、竿を垂れる風雅には思い至らず、こうして気軽に竿を渡されても、どうしたらいいのやら見当がつかない。  なるほどと、頷いて竿を引っこめたけれど、止めにしたのではない様子で、くるくると〈天蚕糸〉《テグス》や針や〈浮子〉《うき》やらを、職人の七つ道具のように繰り出して、渡し守は手早く仕掛けを作って二人分。実に小気味よい女の手仕事ぶりだが、たいがい魚釣りといっては男衆の〈暢気〉《のんき》を示す〈手慰〉《てなぐさ》みであり、ちょっと女性がするにはちぐはぐの、それでも渡し守は実に手慣れたものだった。 「それから、こっちが餌だ」  なんだか言いくるめられるように再び竿を押しつけられて、次が小箱で、築宮はいささかぞっとした。小箱の中にぎっしり詰まっているのは、ぞわぞわと玉ほどにも絡み合った〈み〃寸〉《みみず》か、さもなくば釣り餌としては珍重するという、草の茎の中に巣くって瘤《こぶ》を作ると言うなんとか虫か、いずれにしても慣れない者が針に掛けるには、刺激がきつい代物だったらどうしよう。  もたつく築宮に、 「大丈夫ですよ。  不慣れな衆にキヂだのサシだの、  指でつまめたぁ、申しません」 「練り餌でさ。  だから旦那も、おやんなさい」  で、蓋を開ければ確かに練り物がちょっと見団子のようではあったが、それでも素人には得体の知れない臭いを放っている。まあ生き餌よりはましかと、築宮も観念して見様見真似で針に着ける間にも、渡し守は先達の手さばきで早、釣り糸を垂れていた。 「まあ釣れても釣れなくっても、  こういうのは待っている間が一番楽しい」  といかにも訳知り顔に吐いたのが、釣りなんて、あんな河ッ原やら舟やらで、のんべんだらりと何時掛かるとも知れない魚を受け身一辺倒で待つなんて、と鼻で笑う手合いの誰しもが一度は二度は聴く〈箴言〉《しんげん》であったが、それを言い終わるか否やで河面に漂う〈丸浮子〉《まるうき》がぷくん、水下に沈んだのには築宮恐れ入った。  だが渡し守は得たりの顔もなく、もしかして気づいていないのではないかと疑わしくなるくらいの、竿を垂れたままの二呼吸、むしろ見ていた築宮の方が焦って声を立てようとした頃合いで、手首のばねを働かせた。 「っお……!」 「やあ、ついてるね、  さっそく一匹目だ……が」  ほとんど一合目の針合わせの竿遣いだけで、引きあげられて水面を割ったのは、せいぜい三寸ばかりなる〈泥鰌〉《どじょう》で、ぴちぴち暴れたのが鉛筆が生きたみたいで可愛らしい。 「こりゃあ息継ぎに上がって来たところで、  餌に釣られたんだな。  まあなりはちびでも、魚は魚だ。  髯《ひげ》だって、鯉の大将より多い……」  舟底に据えてあったバケツに水を汲んで放りこめば〈泥鰌〉《どじょう》は、ぷくりと文句を垂れるように小さな泡を吐く。始めたばかりで、見ている前で釣果を上げられたとなると、あまり興味のなかった青年にも俄然やる気が湧いてくる。この女のように無造作に、とまではいかなくとも、自分にも脈があるのではないか、なにしろ仕掛けも餌も彼女の仕事だ、と築宮が水面の〈浮子〉《うき》を睨んだ目、先程までとはうって変わって、真剣味を帯びている。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  …………と、魚を待つだけの受け身技に見えても、やっぱりこういうのは年季がものを言うのか、勢い込んで築宮が身構える間に、水はどれだけ流れたか判らぬが、風のない空の雲が随分と形を替えたし西から東へと大きくよぎっていった。気組みに余計な力が籠もった分、待っているだけでも神経が疲れる。  あんまりにも水面を睨んで瞬《まばた》きも少なくいたものだから、築宮の眼は乾いてしばしばと痛み、ふっと目を閉じれば瞼の裏に川面に踊る光が残って――― 「……引いてますぜ、旦那」 「え、あ……ッ!?」  呼びかけに、目を見開くのと手首を返すのがほとんど一つの動作、確かに〈浮子〉《うき》は水下へ引きこまれてあり、竿を握る手にもブルブルと生きた脈動が伝わったのに焦って竿を上げた、が、焦ったのがよくなかった。  手応えは虚しく軽く、雫を滴らせていたのは、空の針ばかり。 「焦りすぎですよ、もうちっとゆっくり、  餌を食わせてからで、遅くはない」 「そうは言うが、あなた。  これはなかなか難しいな……」  と築宮は、何度目かの〈糠喜〉《ぬかよろこ》びに溜息を漏らした。そう、彼に中《あた》りがあったのはなにもこれが初めてではなかったのだが、全て取り逃がした、竿をたぐる最中に逃げられたというのでなく、針にも掛からなんだ。  引き換え渡し守のバケツには、鮒《ふな》だのギギだの〈小雑魚〉《こざこ》が何匹かと、目覚ましいのは〈鮎掛〉《あゆか》けの大きなので、これは鰍《かじか》の親分みたいななりをしているが、そのまま飲めるくらいに綺麗で、堰《せき》のない水にしか棲めない魚で、この得体の知れない大河の様相の一端を物語っていた。  まあ、〈鮎掛〉《あゆか》けだろうがたとい鱶《フカ》を揚《あ》げようが、自分の物ではない釣果には俄《にわ》か釣り人の築宮には妬《ねた》ましいばかりで、ちっとも面白くない。  真剣に待った分だけ大いに気疲れして、青年は空に大きく手を差しながら鯨の潮のようにまた溜め息を吐いた。釣れないのにいい加減飽きてきて、自分はさっさと竿を畳《たた》んで渡し守の竿捌《さば》きを見物していた方がまだましだと、次の餌を付けずにもいた青年へ、 「時に旦那、最近どうなんです?」 「どうって―――」  どうやら声の調子と、半面、生身の方の眼差しからして、ただ青年の機嫌とか体調を訪ねているのではない様子、どうやら渡し守は、築宮が無くした記憶の事を言外に問うているようなのだった。  ただ、訊ねられた時に築宮はつい動揺する。自分が、大事なことをなおざりにして怠惰に日々を過ごしてはいなかったかと、意識の薄皮をすぱりと斬りこまれた気がしたので。 「いや……あまりはかばかしくない、です」  大河は〈淙々〉《そうそう》と流れて淀《よど》みなく、小舟の軋むのだって眠気を誘いそうなほど〈長閑〉《のどか》なのに、築宮の舌はつかえ気味で、なにがなし言い訳がましかった。渡し守がうむ、と頷いただけでも、厳しく推《お》し量《はか》られているように築宮には思えてならず、黒髪のしなやかなのも今日は彼女の姿をいつになく引き締めているようにさえ見ゆる。  なにを論じているのか詳《つまび》らかにしたわけではないが、二人の間に意は通って、築宮は渡し守から大河の果ての霞《かすみ》へと目線を逸《そ》らし気味に言葉を継いだ。 「時折ふっと、思い出しかけたりもするんだが、すぐにすり抜けてしまう」 「嘘ですな」  晴天のおおらかな〈天水間〉《てんすいかん》を〈峻厳〉《しゅんげん》に引き締めるような、切り詰められた一言に青年の鼓動は跳ね上がり、裏腹に動きは止まって、身体が小舟の揺れのみを映して揺れたのが、彼の心中の動揺を差し示しているかの如く。  ―――渡し守の指摘は、青年の痛いところをずばり〈射貫〉《いつらぬ》いていたのであった。  確かに以前は折に触れ、何事かを思い出すような感触があったのだが、ここ暫《しばら》くはそれも絶えてない。  いつ頃からだろうかと、ざっと旅籠に来てからの記憶を探れば、記憶の情景のあちこちには図書室とその司書が大半を占めていて、それで思い当たる。 (そうか……)  自分が過去の記憶の残響を聴かなくなったのは、司書と親しく交わるようになったからで、それは彼女と共に巡り会ってきた事柄が多種多様の、過去を振り返る余裕などないくらいに濃密だっただからなのだ。  視線を合わせずにはいたが、渡し守の両の眸、般若の割れ面の方も生身の方も共に築宮に注がれて、どれだけ素知らぬ振りをしたところでこの女には、自分の心中など〈硝子〉《ガラス》を透かすよりも容易に見抜かれているだろうと観念して、築宮は正直に白状するしかない。 「ああ。あなたの言う通りだ。  図書室に繁《しげ》く出入りするようになってから、昔のことがあまり気にならなくなった」 「そりゃあそうでしょうとも。  旦那は恋をしておいでなんだ。  だから毎日が楽しい」 「毎日が楽しければ、  昔のことを思いわずらう気持ちだって、  薄れてくるってなもんでしょう」 「俺が、ですか―――?」  自分が司書に抱いている想いというのが、詩人が主題にし画家がモティーフに選び、そして地上に生まれたあらゆる男女が繰り返してなお尽きることも止むことも知らぬ、不可解な謎にして単純明白な生命の営みであるところの、あの―――恋なのだというのか?  思わず動揺とも困惑とも恐慌とも羞恥ともなんとも言い難い心の大揺れに見舞われて築宮は、すがるように〈船縁〉《ふなべり》を掴んだけれど、同時にすとんと腑《ふ》に落ちた心持ちもあった。  言われてみればそれ以外にはなく、その短く簡潔な言葉を使わず説明しようとすれば、無駄に〈厖大〉《ぼうだい》な〈文言〉《もんげん》をこねくり回す事になろう。  なるほどさもありなんと渡し守の言葉を受け入れるだけの分別は、築宮にもあった。 「たしかにそうかも知れない。  あの人といると、あまり昔のことは気にならないんです」  それに、司書は自分が記憶を失っている事など承知の上で、それにはあまりこだわらず、現在の自分と真っ直ぐに向かいあってくれているような気がする。  そういった事を、言葉を選び選び語る築宮に、渡し守はまた言いきった、声音は淡々としていたのに、青年には〈逆棘〉《さかとげ》の植わった鉾《ほこ》のように食いこんだ。 「あの『人』じゃあありませんよ、旦那。  あれは『鬼』です。人外の化生ですわ」  ……旅籠の中で、散々に噂されているのは築宮だって幾度となく耳にしたし、また彼自身も司書との〈交誼〉《こうぎ》の中で事あるごとに思い知らされていたのに、何故なのだろう。  この渡し守から改めて告げられると、司書を、と言うより自分の中の譲ってはならない聖域を、予想外の人物に土足で踏まれたかの裏切りの苛立たしさに囚われるのは。  きっとそれは、もはや築宮の心の核を為す部分の多くが、司書に寄せられるようになっていたせいであろうし、そしてこの渡し守にも大きな信頼を寄せていた故だろう。  自分が恋する者を、自分が信を寄せていた者に悪《あ》し様《ざま》に言われるというのは、思えば手ひどい痛手である。  というか今日はこの渡し守、やけに築宮に絡むでないか? いつもはもっと〈恬淡〉《てんたん》と〈飄々〉《ひょうひょう》としているのが彼女だ。それが何故か今日に限っては、出会った時から築宮に〈執拗〉《しつよう》といっていいくらい拘《こだわ》っているのが、今さらながらに不思議な。 「……一体なにが言いたいんです。  今日はなにか随分と、  俺に含むところがあるようだが」  どうせもう釣りなんかにはなりやしないし、渡し守だって始めからそっちが目的で誘ったのではないだろうと竿を継ぎ目から外し、舟底に横たえて、築宮は今度はしっかりと渡し守に視線を置き定めた。それが少々険を孕《はら》んで睨む目つきだったとしても致し方ないことだろう。 「『鬼』だ『鬼』だというなら、  あなたの方がよっぽどそれらしい」  と渡し守の割れ面へ、失礼とは知りつつも軽く顎をしゃくって、 「たしかに彼女は、なるほど、  人が言う鬼女なのかも知れないが」 「俺は何度も彼女に救われた。  そういう相手を、悪《あ》し様《ざま》に思うことは、  ―――できない」 「それともあなたは、彼女が俺を助けてくれたのだって、なにかの企みがあってのことだとでも言うつもりですか」  築宮が向きつけな言葉を並べていくと、渡し守も竿を畳んで、墨染めの衣の片膝を引き寄せ、膝頭に〈頬杖〉《ほおづえ》ついた、裾が割れて覗いた白い脹《ふく》ら脛《はぎ》が漂わせる、艶めかしい風情を翳らせるくらいの、どこか悩ましげな困惑を眼差しに宿して、 「そういう事なら、逆にあたしは、  なんにも心配しないんですがね」 「あれはなにか企んで、旦那を骨抜きにしようとしている、悪い鬼なんだ―――って、あげつらってやれたんだが」 「あいにく彼女に二心はないでしょうよ。  あれは、ただただ、旦那のことを気に入っておられる」  他人にもそう見えるのかと、築宮、渡し守と言い合っている最中にも関わらず、心がほんのり暖かな情愛で濡れてくる。好意を抱いている相手が、自分と同じ気持ちだと知るのは嬉しいものだ。  しかし渡し守のほうは、ますます憂鬱そうに肩をすぼめて、〈舳先〉《へさき》に降りきたった黒い迷い鳥のようにすら。 「だから、始末に負えないんだ」 「なんでいけない……」 「言ったでしょう、あれは鬼だと。  人喰いの鬼なんですよ。  そんなんと深い仲になって、  どうするって言うんだ」 「旦那、あんたにゃあ、どうにも危機感ってものが足りない」 「あたしはね、そりゃあ言いましたさ。  旦那のお気の済むまで、ここに逗留なさるといいって」 「それで旦那が、昔の事を思い出せればよし、たといそれがかなわずとも、骨休みにゃなる。旦那は大層お疲れでしたしな」 「いつか発つ気になったら、  いつでも岸までお渡しする気でいたし、  よしんばこの旅籠に骨を埋める気になったとしても」 「まあそれはそれで、旦那の人生だって」 「そう思っていたんだが、  よりにもよってあの女に捕まるたぁ……」  いつになく多弁な渡し守に、築宮、呆気に取られ、胸の中を心地悪く噛んでいた、彼女への反感はまだ残していたものの、同時に申し訳ないものさえ感じたという。  渡し守がこれだけの事を言うというのは、自分の身を真に案じてくれているからなのだと悟ったからで、築宮はそれが判るくらいには〈聡明〉《そうめい》で、他人を思いやる心もあった。  しかし―――だからといって素直に肯《うべなう》う事ができない事というのはあるのだ。  渡し守は更に続ける。今はただ楽しいだけだろうし、司書も築宮を本気で喰ってやろうという素振りは見せていないかも知れない。  しかし、と。 「でも、それだって今のうちだわ。  あの女史……いな鬼の女にとって、  心から誰かを愛するってな、  その誰かを食い尽くすことと同じ―――」 「旦那、あんた―――。  アレが、あんたのことを、  本気で喰おうとかかってきたら、  どうなさるおつもりなんで?」 「アレが旦那を愛しく想えば想うだけ、  その時は間違いなく近づいてくる。  その時に旦那は―――」 「どうするおつもりですか?」  ―――そういえばこの渡し守は、築宮が顔を合わせずにいる時だって、彼の芯に真っ直ぐの視線を置くようにして語りかけてきていたのだ。否、もしかすると彼女が一人、築宮の来し方行く末を案ずる時は、たとえ彼が旅籠のどこにあろうとも、その般若と冴えた黒瞳はどれだけ座敷の壁や通廊、階段に隔てられようとも、ぴたりと青年の位置を捉えて外れることなかったのかも知れない。築宮が気づかずにいただけで。  今だって、渡し守の〈眸子〉《ひとみ》は築宮を案ずる気持ちの強さ濃さを示して深々と冴えていたけれど、それだけに青年にはなにやら空恐ろしかった。その情の深さは図書室の鬼女とはどこか異なる、築宮とのなにか根源的かつ一方的な絆めいたものさえ匂わせて、生命を救った青年に抱く関心の域を遙かに通り越してはいないだろうか。  いずれにしても築宮は、真っ向から問いかけられて、しかし答える言葉を持たなかった。  大河の果て、靄《もや》に霞《かす》む水平線を背景に、滲むように黒い墨染めの姿をじっと眺めて、ぽつぽつと言葉を選ぶ。 「正直、わからないんです。  確かにあなたの言う通り、俺は今までその事から目を逸《そ》らしていたのかも知れない」 「でも、だからと言って、今ここで彼女と距離を置いて、離れてしまうのは、それはそれで間違っているような気もしている」 「俺はもう……彼女を抱いてしまった」  よもや自分が、異性と性的交渉を持ったなどと臆面もなく口に上せようとはこれまで考えだにせなんだ築宮ではあったが、司書との情交は、ひた隠すべき淫らな秘め事には非ずして、二人の気持ちを、情を交わしあった事なのだと、なにが恥じることがあるのだと、そう言い切れた。もちろん声高に触れて廻る事ではないけれど、渡し守に対しては、自分をこうもひたむきに気遣ってくれる相手に隠すこそ、むしろ愚かで卑《いや》しい心根というもの。 「そこまで通じた相手を、  自分の身惜しさに振り捨てるというのは、  これは人としてどうか、と思う」 「だから最後まで彼女に付き合って、  その時どうするか、決めようと思う」  嘘偽りもなく、真剣に考え抜いた事ではあっても、結局のところそれは、巨大な〈山嶽〉《さんがく》を前にして自分は退かぬという決意を表明したがまだ昇り始めてもいない、答えを先延ばしにしているだけで、それを見逃す渡し守ではなかった。  片膝の姿勢を解いて、築宮へ大きく身を乗り出した、その姿がまるで嵐の前の黒雲よりも巨大な圧を秘め、膨れあがってのしかかってくるように。 「―――その時に、選ぶこともできず、  アレに喰われてしまったとしても?  失礼ですが、あんたァやっぱり彼女を」 「甘く見てるわ。  覚悟ってのが、全然足りてない」 「今ちっとでも、ご自分の指、囓ってごらんなさい……痛うございましょう?  痛いに決まってるんだ」  かわす暇もなく築宮の手を取り、その指先を彼の口元へと突きつける、その重く深い気配が渡し守の輪郭を越えて膨れあがり、危機を告げる黒々とした雲に取り巻かれたかの心地して築宮は、怯えるように顔を逸《そ》らした。  まるで墨染の衣より濃い陰が渡し守の全身に広がり、生身の白い顔まで呑みこまれ、影の中に般若の割れ面ばかりが浮いて問いを突きつけてきているようではないか。 「それが体まるごと囓られたとして、  んな殊勝な台詞を吐けますかねぇ?」  そう言って、それで彼女は身を退いたのだが、その時に築宮は、彼女の情念でざわざわと撫でられたような戦慄さえ感じた事である。渡し守はいかにも怪しいものだと言わんばかりに苦々しい笑みを浮かべたが、それでも築宮は、ここで逃げ出す事はできないと、そう必死に踏みとどまろうとした。 「答えなんて、今すぐには出せない、  でも―――」  と何事か言い募《つの》ろうとした青年の言葉を上から押しひしぐように、 「アレだって、耐えているのかも知れない。  食べたい、食べたいと飢えているのを、  旦那が拒むからずっと我慢しているのかも知れない」 「ずいぶんと酷な仕打ちをなさっておいでですな?」 「それでも!」  たまりかねて、ついに築宮は絶叫をほとばしらせた。渡し守に対してそんな声を放りつけるかと思うと、裂けたように喉の奥が傷んだけれど。 「俺は、いやだ!  今、彼女と離れるなんて―――  いや、だ……っ!!」  どうすればいいのかなんてわからない。わからないけれど、司書に向かう気持ちはもう止められない。言葉にならない思いに唇を噛みしめ、渡し守を睨みつける。  その視線を受け止めて、渡し守は、ふっと頬を和《やわ》らげた、懐かし味のある、優しく、それでいて僅かに哀しい笑顔で。 「旦那は、ほんとに恋に不慣れだ。  〈火傷〉《やけど》する前に身を引くのだって、  一つの道でござんすよ」 「けれども、それはいやだと〈仰有〉《おっしゃ》るんでしょうな……この、〈駄々〉《だだ》っ子が」  言葉こそきかん気の幼児を叱りつけるようであったが、渡し守は築宮を気遣う眼差しは変えなかった。その容《かんばせ》が、ふっと築宮から外れた時になってようやく、彼は今がまだ日の差す頃合いであり、場所だって展望開けた大河の上であることを思い出した始末で、それほどに今日の渡し守が青年に示して見せた懸念は、密で濃く重く、周囲を暗く感じさせるほどだったのだ。  けれども何故渡し守が、こと図書室の鬼女ともなるとこうも〈頑迷〉《がんめい》にこだわりを見せるのか、それがどうにも築宮には腑《ふ》に落ちない。  なんだか数日にも及ぶ休み無しの尋問にさらされたような気がして、大きく喘《あえ》ぎながら、 「だいたいだ、  なんで貴女は、ことあの人の話となると、  そんなにもムキになる」 「……あたしとあの女の間には、ちょっと因縁がありましてね……」 「それはどういう―――」 「ちょっとね、色々とさ……」  目を逸《そ》らし言葉を濁し、それ以上は語らず、青年に追求も許さぬ風情で、渡し守は肩を撓《しな》らせるようにして碇を引きあげにかかった。  女性にそんな重たいものを引かせてはと腰を浮かせかけた築宮だったが、渡し守の横顔はそれを望んでいなかった。  結局のところ、この舟の船頭は彼女なのだ。 「……今日あたしが言ったことは、  さぞや旦那の耳には痛かったでしょう。  でもまあ、あたしの言ったこと、  忘れないで下さいましよ……」  話というのはそれだけですと、渡し守は櫂を取った。  後は何事もなく小舟を船着き場に漕ぎ入れて、もう青年を責める言葉もなく、 「長々と引き留めちまったお詫びだ。  こいつを、持っていかれるといい。  お女中に渡せば、巧く〈料理〉《りょうり》てくれますぜ」  とかバケツの魚を土産に渡そうともしたのだが、築宮はそれをば断った。彼女に対する反感からとか、そんな〈狭量〉《きょうりょう》な気持ちではなく、さすがに人の〈釣果〉《ちょうか》を掠《かす》めとるような真似は気が退けたのである。  それになんとなく、今日はもう、喉がつかえて食物などろくに通るまいという気もしていた。自分の、そして自分と司書のこれからに対する不安が、重苦しく胸の中に満ちていたので。  ―――〈羅生門〉《らしょうもん》の鬼―――    渡し守と別れた築宮の脚は、ほとんど意識せぬままに彼を酒場へと運んでいた。真っ直ぐ部屋に戻って、夜の長さに渡し守の言葉から顔を背《そむ》けずしっかり噛みしめるべきだったのかも知れないが、一人で物想う重さには耐えられそうになかったのである―――彼女の声が耳に木霊しているような、今はまだ、心がたじろぐばかりで、腰を据えて考えられそうにもない。  といって酒の酔いで誤魔化してしまうのも度し難く思われて、築宮は場違いと知りつつもお手伝いさんに頼んだ、冷やした麦湯などをひっそり啜《すす》っている。  琵琶法師の楽の音などを聞きながら。  築宮が止まり木に腰降ろすのよりも法師が先客、青年がやってくるより先に、地下の酒場に古い楽器の音は〈嫋々〉《じょうじょう》と流れていた。  今日はまだ時間が早いこともあってか、客も大人し目なのがちらほらと散っているばかりであり、酔いに任せて法師を野次ったりする者もなく、琵琶の音と法師の声はよく聴き取れた、が――― (なんだってこう、間が悪いというか、  いやこれは、ぴったりと言うべきなのか)  聴くともなしに聴きいった物語は、途中からとて始めはその文脈が掴めなかったものの、徐々に輪郭を掴めるようになって、   ―――その頃京《みやこ》の――― ―――〈羅生門〉《らしょうもん》なる大門のそばに――― ―――夜な夜な鬼が現れいでて――― ―――巷を悪事で騒がして―――    すなわち、かの『〈羅生門〉《らしょうもん》の鬼』である。     ―――〈源三位〉《げんさんみ》の四天王が筆頭――― ―――綱《つな》殿、勇《いさ》みてかの門に赴《おもむ》けば――― ―――柱の陰に、若き〈市目笠女〉《いちめがさめ》の――― ―――夜に一人立ちたる―――   ―――若き娘の夜歩きを、案じた綱《つな》殿――― ―――手を差し延べれば、〈市目笠女〉《いちめがさめ》の――― ―――たちまち変じて〈鬼形〉《きぎょう》を為したり――― ―――綱《つな》殿を、針の毛、剛力の腕にて――― ―――恐ろしく、おぞましく、襲う―――   ―――されど綱《つな》殿は剛勇の――― ―――鬼めの恐ろしきにも退かず――― ―――振るった刃の、いと鋭く――― ―――鬼めの腕をば――― ―――見ン事、断ち切ったり―――    もとより琵琶の曲目として数えられた調べではあるのだが、それが本来の曲調なのか、あるいは法師が己の着想で手を加えたのかは、門外漢である築宮には判別がつかず、ただ琵琶の音と語りは陰鬱でおどろおどろしく、柱や梁にまとわりついて、酒場が中世の闇深くに陥《おちい》っていくかの錯覚に囚われる。  築宮はなんとも微妙な、ほろ苦い気持ちで法師の〈業前〉《わざまえ》の冴えを、麦湯のグラスをそっと掲《かが》げて〈称揚〉《しょうよう》した。  とりあえず今日は、逃避と誹《そし》られようとも渡し守の言葉を深くは思うまいとて、この酒場に駆けこんだのにこれである。  どうしたって法師の謡は、あの司書、図書室の鬼女、片腕を喪《うしな》った彼女を連想させるではないか。  あるいはこれは、〈託宣〉《たくせん》なのかも知れない。  〈辻占〉《つじうら》、と言っては今では夜の盛り場の角などに行灯点《とも》して客を待つのを〈生計〉《たつき》とする、あのどこか裏侘《わ》びしい占い師達の事を差したものだが、本来はもっと〈玄妙〉《げんみょう》な、異界からの〈言霊〉《ことだま》を意味していた。  たとえば夕まぐれの四つ辻に立ち、行き交う人々のざわめきに耳を傾ける、その声の連なりの中に、異界からの〈言霊〉《ことだま》が混じるのだという。その言葉を頼りに、先行きを占ったのだという。  夕まぐれは昼と夜との境の時間、古くは〈彼は誰〉《かはたれ》時とも呼び慣わし、誰と誰の輪郭が昼の残照と夜の先触れの〈狭間〉《はざま》で曖昧になり、色々の不思議が〈顕現〉《けんげん》する時間帯であったが故に。  そう言えば今がまさにその彼は誰時、四つ辻ではないが人々の囁き交わす声に満ちた酒場で、そこにどんな神託が混じろうとも不思議ではないのかも知れない。  そう思うと、法師を照らすカンテラの灯りもどこか妖しく、築宮には陰の具合か彼女の顔が一瞬図書室の司書の顔に見えて、はっと〈固唾〉《かたず》を呑んだ。  抱いているのは琵琶でなく、斬り落とされた彼女自身の右手、唇に噛むのは歌の言葉でなく、愛しいと想った相手の生温かな血潮の。  がそれも刹那の幻視、グラスの中の氷が鳴ったので我に返れば、法師はあくまで法師で、築宮は幻を払うように首をそっと打ち振った。  けれども、想いはどうしたって司書へと向かわずにいられない。 (彼女は、一体いつから、  ああしていたんだろう)  愛しいと想い定めた相手の血肉を啜《すす》り尽くさずには終わらせられない、そんな恋に、どれだけの歳月を生きてきたのだろう。  旅籠はそれ自体からして忘れ去られた時を溜めているような空間であり、歳月の観念はどうにも曖昧なのだが、その中でもあの鬼女は最古参に属しているらしい。  よもや彼女が羅生門の鬼、茨木童子そのものだとは言えないにしろ……いや、どうなのだろう。渡辺綱に追い払われた後の、茨木童子の行く末は定かになっていないのだ。  ともかく、今の旅籠の女主人、令嬢を遡《さかのぼ》ること数代前の管理人の頃に既に、もう旅籠にいたとの伝説さえ残されているとか。  その代から今まで、鬼女はどのような歳月を生きてきたのだろう。その中で、想う相手を喰らい尽くして、恋の成就を見た事があったのか。それを果たして成就と呼べるのか。  ―――恋は、一人ではできないもの故に。 (渡し守にはああ見得を切ったものの、  俺は―――)  築宮は、思い悩む。  己の過去よりも、彼女のことに重きを置いている事を不思議とは思わず、司書を想う。 (俺は、最後まで彼女と) (一緒にいられるのか?)  恋という字は一つだけれど―――  人の恋。  人外の恋。  果たして二つが本当に交わることが、有り得ないのであれば―――  その時青年は、一体どう鬼女に向かい合うのだろう。  いまだ答えは導き出されず、また導き出される時が来るとも思えず、〈悩乱〉《のうらん》する築宮の〈憂愁〉《ゆうしゅう》は、法師の琵琶の音に呼応するかのように、大きく膨れあがったり、置き火のように小さく燻《くすぶ》ったり、それでもけして鎮まる事なく、黄昏が夜に呑みこまれて深まっていっても、青年の〈身裡〉《みのうち》はざわめき続けて―――  ………………。  …………。  ……。  そして太陽が旅籠の〈天蓋〉《てんがい》を温めて転がりゆき月に座を明け渡し、時には雨が瓦の合間を時ならぬせせらぎのあみだくじと為し、水路の嵩《かさ》も上がり大河から流れこんだ木片や迷い魚が行き過ぎ、朝の忙しなさにお手伝いさんが早手回しに通廊を行き交い午後の〈長閑〉《のどか》に穀物蔵の猫の〈宗右衛門〉《そうえもん》は腹を出して眠り呆け黄昏に濃くなりまさる夕闇に酒好きな客が浮き浮きと地下酒場を目指し夜更けの静けさに帳場に残った令嬢が走らせる硬筆がきしきしと軋み、また訪れた朝の光に昨夜締められる予定だったのを運良く逃げおおせて無人区域に隠れた雄鶏が勝利の〈凱歌〉《がいか》のように高らかに鳴いて―――  そして一日一日の出来事は数えきれぬ。緩んだ板壁が高い処からひっそり落下する、埃に濁《にご》った窓〈硝子〉《ガラス》のすぐ側を鼠が巣の仔供達への餌に頬を風船にして走り抜ける、琵琶法師が切れてしまった弦の代わりが無くてその一弦だけ緋色の絃を張り直す。  そしてそんな日々の中、青年と鬼女の恋は緩やかに、けれど留めようもなく、決定的な岐路へと押し流されていく。  ―――情痴の乱れを残してもつれた髪を、梳《くしけず》る司書の指先のしなやかをぼんやり眺めているうちに築宮は、自分が目覚めていた事を知った。いつもブラウスの胸元に艶めかしい谷間を覗かせているのを、さらに〈放恣〉《ほうし》に大きくくつろげられ、乳房の〈柔麗〉《にゅうれい》な円《まる》みが零れていて、青年は本能的にその柔らかなのに頬を寄せたくなって、寝床の中に半身をもたげた。 「おはよう―――  起こしてしまったみたいね」 「いや……もう目を覚ますところだった。  貴女こそ、ずいぶん早くに起きていたみたいだ」  声音が寝覚めの痰《たん》が絡まったようにざらついたので空咳をする築宮に、女史は傍《かた》えに用意の湯呑みに湯冷ましの茶を汲みまめまめしく差し出す。有り難く喉を潤す青年にも、そして髪をざっと後ろに流す司書にも、垂れこめた朝の光は、旅籠の通廊や窓を幾つも潜り抜けたお陰で和らげられ、柔らかい。  色々な品々で一杯な司書室の床の、あれこれと脇に除けた隙間にやっとこしらえたような寝床だったが、司書と二人で迎えた朝はその狭苦しさが、かえって穏やかな親密さを醸《かも》し出していた。  彼女と夜更けまで過ごす事はあっても、それでも朝まで共寝するような事はあまりない築宮の、なのに昨夜はついつい溺れすぎた。二人の情交は、幾度となく満ち潮を迎え、それでも足らずに築宮から挑みもしたし、女史の方から求めもして、情雨〈瀟瀟〉《はげしく》時に〈綿綿〉《こまやかに》、結局明け方まで溶け合っていたように思う。  傍らの身じろぐ気配がなかったなら築宮はいつまで寝こけていたものやら。長い情事の後で手足は、薄い糊《のり》を流しこまれたようにもとらない。 「もう少し、眠っていたっていいのよ」 「それは……貴女一人が起きている脇で、  俺だけ〈暢気〉《のんき》に寝こけているというのも、  何やらいぎたない」 「気にしなくたっていいのに。  それはそれで、  貴方の寝顔を、眺めていられるから」 「……まさかずっと、見ていたのか?」  ええ、と目を細めた司書に、一体どれだけ無防備でだらしない面を晒していたのかと、やや〈憮然〉《ぶぜん》となる築宮で、昨夜は彼女だって自分と一緒の事をしていたのに、どうして自分より早く起きられたのかと納得がいかない気持ちになる。  大体、青年の方は情交に体力を費やして、手足がふわふわした心地なのに、司書は何時もと変わらずゆったり落ち着いた様子。  さらにこれを指摘するのはちと〈尾籠〉《びろう》だが、昨夜は彼女の肌、首筋や背中、腹や乳房どこ問わずに、その〈凝脂〉《ぎょうし》を唇で吸い、一面に葩《はなびら》を散らしたような跡を捺《お》したのを薄明かりに見たはずなのに、朝の光に透かし見ても、その痕跡らしいのはない。女史の肌は滑らかに染み一つない。引き換えこっちは、と青年は自分の肌を見下ろしてますます不審になった。  築宮の腕や胸元には、唇の、甘噛みの、爪を立てたらしいの、そんな後が点々散って、彼が受けた愛撫の様を何より雄弁な紋章として物語っていた。 「起こすのが忍びないような、  なのに悪戯したくなるような、  そんなお顔でした」  ご馳走様とでも言いたげに綻《ほころ》ばせた、その唇に子供扱いされたようで青年のきかん気が頭をもたげかけたけれど、でも同じ唇なのだ、ときかん気の頭を抑えて疼《うず》くように、情欲がきざしたのを覚えた。  眠りに落ちる前、自分の上で下で、性の快美に艶めかしく喘いだのも、自分の雄の器官を含み、熱く濡れた舌でそそり立ててきたのも、今〈優艶〉《ゆうえん》に笑んでいるその唇なのだと、眺めいるうちに築宮の〈身裡〉《みうち》に、ひたひたと情欲が満ちてきたのである。あるいはまだ、昨夜の快楽の〈昂揚〉《こうよう》が、肌のすぐ下で燻《くすぶ》っていたのかも知れない。  築宮は、身を起こし様、 「あ。こら、ちょっと―――」  司書の柔らかな、しかし弛《たる》みない脇腹に腕を回して身を擦り寄せ、肩口に頬を押しつけたのだった。起きるなりにするには、いささか馴れ馴れしさが勝り、朝の明かるい中に晒すには、肉欲が生々しかった。たとえ幾度も肌を許しあった間とはいえ、少しばかり身勝手な求め方ではないかと、築宮も内心では危ぶまないでもなかったが―――彼女ならば、甘えてもいいような、許してくれるような、そんな確信があったのである。  ―――案の定。  女史を身を竦《すく》めるようにしたのは、ほんの僅かな間だった。 「……起きたばかりなのに。  ……欲しくなった?」 「―――かもしれない」  脇腹に被さる青年の手に、掌を重ね、爪で柔らかくくすぐってきたのが、拒むどころか迎え入れるような優しいやり方で。 「いいのかしら、私がその気になっても?」 「ああ―――」  二人の下半身に申し訳程度に被せた上掛けの下で、触れ合った脹《ふく》ら脛《はぎ》と脹《ふく》ら脛《はぎ》、どちらが先に擦り寄せたものか、もう判らず、やがてはお互い割りこませあった太腿は、ただ寝覚めの暖かさを通り越し、官能の火を点《とも》して、熱くなりつつあった。  いつしか二人、向かい合ってお互いが腕の中、重ね合わせる胸と胸と。  築宮は、司書の肩に顎を乗せ、いくら味わってもなお飽きぬ、肌から薫る女の匂いを深く吸いこみ―――  司書は、築宮の首筋に鼻先を寄せ、自分が印した愛撫の跡に、昨夜の官能を想い、そして新たな情炎をかきたて―――眸が潤《うるお》う。  濡れて深く、女の焔《ほのお》が司書の眸をぶれさせる、彼女の理性を溶かす。  溶けて流れるような眸の中に、兆《きざ》したかぎろいは、築宮には見えず、しかし少しずつその光を強くしていくのだ。  ただ情火というには、あまりにも強く貪欲な、いっそ飢餓といっていいほどのかぎろいは、あの日築宮と別れた後、司書がどうにか振り払った飢えの徴《しるし》と同じなのではないか。 「また……たくさん……呑ませて。  食べさせて―――」  築宮は司書の囁きを、快楽を共にしようという女の〈睦言〉《むつごと》と受け取り、〈抱擁〉《ほうよう》の力を強くした、が、彼女の眸に揺らめく炎を目の当たりにしたならば、〈愕然〉《がくぜん》と我に返ったかも知れない、それほどの、血肉に飢えた人外の。  司書の、築宮の首筋に残る情交の跡をより濃くしてやると言わんばかりに吸いついてきた唇が、かすかに震えた。  青年は司書のわななきを、昂《たか》まりゆく官能の目盛りのように、体全体で聴きとろうと意識を傾けた、その首筋の肌に。    ―――ぷち―――          と。             食いこんだ。    いつの間にか、尖った歯、いや最早はっきりとした牙が、青年の首筋の肌を噛み、破ったのだ。 「…………っあ……っ?」  青年がまず感じたのは、肌があっさりと裂ける音、その後は、痛みなのか、熱さなのか、硬さなのか、ただ首筋にかかる吐息がひどく湿っていて、温くて、戸惑うばかり。  司書の〈抱擁〉《ほうよう》の力が強くなりゆき、それとともに首筋に点《とも》った熱さが全身に広がり、体の裡《うち》側の肉が溶けていくかのような、不安とも困惑ともつかぬ感覚に囚われる。 「ず……じゅ……っ」  いったい何事かと混乱した、築宮の耳元で、なにか液体を啜《すす》りあげるような音、ぴちゃぴちゃと舌でなめずる響きが、露骨だった。  それで築宮はようやく悟った。  ―――司書が、図書室の鬼女が―――  ―――自分の首を噛み裂き―――  ―――生き血を啜《すす》っているのだと―――             深い           坑の底に           叩き落とされるような    恐怖が。  築宮を。  貫いた。   「…………ぅ……」  〈迂闊〉《うかつ》に声を立てれば、危うい均衡が崩れてしまうのを恐れるように、築宮はそっと息を吐き出す。  それくらい恐ろしかった。  そう、恐ろしかったのだ。  生き血を呑まれるのが、苦痛ではなく。  むしろとてつもない快楽である事が、  青年には、これ以上ないほど―――  恐ろしかったのだ。  肌を破られた苦痛はほんの刹那であり、それどころかその痛みは後に続いた陶酔をより深くして、築宮を蜜の中に絡めとるかのよう。  築宮は、その時、確かに。  もうこのまま鬼女に吸い尽くされたって構いやしないと、微笑みさえ浮かべたのだ。 (このまま、ぜんぶ、おれが、  このおんなに―――)  このまま自分の全てがこの鬼女に喰われ、呑みこまれ、そして彼女の血肉に溶けていく、それくらい幸せな事はあるまいと、青年は自ら鬼女の唇に、自分の首を差し出すように押しつけさえしたのだ。  ―――瞬、転。  築宮が全てを喜びとともに観念した、まさにその瞬間に、どん、と強い衝撃が胸元で弾け、何事かと訝《いぶか》しむ間もなく青年は、司書室の端まで突き飛ばされていた。  鬼女と青年の間の寝床に、血の雫が点々と散っていた。落ちた血潮は布地に染みて、突き飛ばされたなりに呆然と尻餅をついた築宮と、がっくりと手をついて〈項垂〉《うなだ》れる鬼女とを飛び石のように結んでいたけれど。  血の雫の飛び石の間には、通い合う心も情愛もなかった。抱き合っていた時、そして司書が青年の血を舐めていた時には、あれほど〈稠密〉《ちゅうみつ》に溶け合うようだった感覚は既に消え去って、どこか間抜けた空々しさばかりが、二人の距離を実際以上に隔てていた。  波打つ髪が横顔に被さり、司書の表情は見てとれない。ただ激しく上下する肩と、髪の隙間から漏れ聞こえる、〈喘息〉《ぜんそく》患者の〈末期〉《まつご》の〈喘鳴〉《ぜんめい》じみた荒い吐息が、この僅か数瞬で司書がどれだけ消耗したのかを窺わせ、築宮を動揺させる。  青年の生き血を啜《すす》る快美を、無理矢理断ち切るのにどれだけ意志の力を費やしたのか。  〈豊麗〉《ほうれい》だった体の肉が、一瞬にして疲労に一回りも削《そ》げ落ち、司書は今にも頽《くずお》れんばかり。  無意識のうちに首筋に被せた掌が己の血潮でぬるりと滑ったが、築宮はそれにも構わず司書を案じて差し延べた、その手は。 「触らないで―――!」  一声、弾き出されたただ一声のみで、築宮の手は途中で止まった。  触れる事を躊躇わせる、強く激しく、それでいて哀しい声音だった。  司書は、扉の方を指差した。のろのろと、そうするだけでもどれだけ〈大儀〉《たいぎ》なのか見てとれるくらい重たげな手つきで、築宮と目を合わせないままで。  そして、告げたのだ。 「出て、いって」 「なんだって……?」 「出て行って。  そして、もう来ないで」 「貴方はここに、  もう来ないほうが、いい」  つい数瞬前まで、分かちがたく抱き合っていたのは幻だったと言わんばかりの、司書の豹変の様に築宮は言うまでもなく戸惑ったのだが、抗うことを許さない、まさに鬼気迫るような、それは絶望の宣告だった。  その後築宮は、自分がどのように衣服を身につけ、どのように立ち上がり、どのように司書室を出たのかはっきりと覚えていない。  ただあったのは、深い深い喪失感の、司書室の扉が閉じた音で一気に押し寄せたのだ。  こんな言葉を聞いたような気がする。 『もう、来ては駄目』  また、こんな言葉も聞いたような気がする。 『このまま二人、一緒にいたら、  お互いに哀しいことにしか、ならない』 『だから、もう、来ないで―――』  そんな言葉が、虚《うつろ》と化した築宮の頭蓋骨の中で反響していたが、実のところ彼にはその意味などろくに呑みこめていなかったのだ。  感じていたのは、司書室の扉が、司書の領域と旅籠を隔てるその扉が、もう自分には開かれることはないだろうという、途方もない絶望のみ。  朝の明るさの中から始まった、〈情趣纏綿〉《じょうしゅてんめん》たる想い人との睦《むつ》み事が、なぜこんな結末を迎えたのか見当もつかず、築宮、扉の前で立ちつくしていたのだが―――  やはり、どれだけ待ったところで再びその扉が開かれる事は、無かったのである。  ………………。  …………。  ……。  その後、司書は築宮青年を遠ざけるようになった。図書室まで行っても、固く閉ざして入れてくれないのである。呼びかけても返事はない。いるのかどうかもわからない。仕方なく築宮青年は、途方に暮れて自室に戻るが、ここまで来ると寝ても覚めても思うのは、司書のことばかりである。  顔を見せてはくれないだろうと思いつつも、青年は図書室に日参するのをやめられないでいる。今日も司書室の前まで来て、そこに座りこむ。どうすれば会ってもらえるのか。考えたところで判らない。帰ろうとした時、ふと扉の下から紙片が覗いていることに気がつく。さっきまでは間違いなくなかった物だ。司書からの手紙かと喜び勇んで中を改めて、そして築宮青年は困惑した。   『貴方がもしどうしても、私と逢いたいというのなら、この失われた右腕を捜してきてほしいのです―――』    との旨がしたためられていたのだ。そんなことを急に言われたとて、心当たりも手がかりもあるはずがない。これは要するに、遠回しな別れの言葉なのではないかと考え、築宮青年は項垂れる角度をこれまでよりも深くして、〈悄然〉《しょうぜん》と自室に帰る。  座敷に戻って思案したところで、司書の願いを叶えてやれる当てなど思いもつかず、築宮は頭を掻きむしった、悩めるあまり妙案よ天から下れと、柱に頭を思いきり撃ちつけようと、した寸前で。  思い出したのである。司書と渡し守の間に因縁があるという話を。あるいはあの女ならば、なにか知っていることもあろうかと、と希望は芽生える前に空しく萎《しぼ》んだ。訊ねていったところで、まともに相談に応じてくれるかどうにも怪しい。  彼女は司書のことになると、妙に意固地になるところがある。  それでは他に、旅籠のそういった秘話に通じていそうな者は誰かいないかと、青年は出力の限りを尽くして脳髄を酷使して、やっと思いついた……といえば〈大袈裟〉《おおげさ》な、そもそも築宮は旅籠の中に知己は少なく、それまで考えつかなかったのがむしろ頼りないくらいで―――  とまれ、彼の脳裏に浮かんだのは、華奢で小柄ながらも、犯しがたく凛《》とした〈佇〉《たたず》まい。  ―――令嬢、だった。  彼が他に知る、旅籠の消息に詳しい筋と言ったら、この旅籠に根を下ろしたあの女主人しかいない―――と、藁にもすがる想いで令嬢を訪ねる事を決意する。 「また、厄介ななりゆきに、脚を踏みこんでおいでのようですね……」  ため息まじりに令嬢は、青年から事の〈経緯〉《いきさつ》を聞き終え卓に視線を落とした。 「……そこまで懸命なお顔では、耳を塞ぐわけにもいきますまい……知っていることは、お話しします」 「ただし、私だって多くは存じません。何代も何代も前の、ご先祖さまの頃の話だそうですから」  と視線が遠くへ向けられたのは、父母、あるいは祖父母から聞き知った事柄を思い出す、というより、彼女自身は直接に聞いたことのない伝説めいた話を、その身に流るる古い血筋に眠る、彼女が生まれるより先の過去の中から掘りおこそうとしているかのように、築宮には思われたことである。 「あの人は、いつの間にか図書室にいたそうです。あるいは、あの人が図書室を造ったとも言います」 「どちらが先かの詮議は、今は関係ないことでしょう」 「ただあの人は、そうやっていつの間にか旅籠に現れて、図書室係を自ら任ずるようになりました」 「あの人が鬼女だと噂が立つようになったのは、それからしばらく経ってのこと」 「ほら、あの通り美しい女です。ここのお客の殿方で、ねんごろになりたいと願う方は多かった」 「男女のお作法を心得た殿方には優しかったようです……ただ、一夜を共にしても、大抵はその後が続かない」 「いったいどんな夜を過ごしたのか、皆一様に〈面窶〉《おもやつ》れして、口を閉ざすばかりで」  他人の情事を語る時、たとえそれが遠い過去の事であったとしても、令嬢くらいの年頃の娘なら、幾らかでも羞《は》じらいに声音に色つけて当たり前のところを、水のように流したあたりが、築宮には自分よりも彼女の方がずっと大人なのだと、そんな気持ちにさせる。が、そんな事より話の先が気にかかる。 「そんな中、不心得者が現れた、といいます。〈無体〉《むたい》な真似さえしなければ、あの人はいくらだって応える、なのに」 「力ずくで犯そうとしたのだと―――遺憾なことですが、ここのお客さまの中には、時折そういう輩も混じってくるんです」 「さておき、その不心得者ですが、末路が知れたのは偶然のお陰でした」 「屋根の上のほうに、いくつか時計台があるんですが、その一番高いところは、なまなか人では登ることもできません」 「時計台係の、専門のお手伝いさんがいるんですが、彼女が気づかなかったら、その慮外者は、ひょっとしたら今でも……」 「そこに、骨をさらしていたかも知れません。時計台の尖塔、てっぺんに突き刺さっていたそうです」 「悪い仲間に、今晩手籠めにすると息巻いて、図書室に向かってから、二日目の朝のことだったそうで」 「慮外者は、たった一昼夜の間に骨と皮ばかりに痩せさらばえ、身体のあちこち、食いちぎられていた、とも伝わっています」 「その骸にせよ、骸を晒すやり方にせよ、いずれ尋常の人間の仕業とは思われません」 「それで、人外の鬼女、と―――」 「はい。人の噂は口さがないもので、たちまちのうちに彼女は鬼女だと、旅籠中に広がって―――怖い女だと」  淡々とした声音からも、さながら怪談本の中に集められている中でも特に凄惨な部類に属する物語の、肌に迫るような鬼気が伝わって、築宮青年は令嬢と目線を交わせば、二人に共通の理解が通った。  彼女が語るモノは、伝説でも怪談でもなく、二人とも知る世界に現存しているのである。改めてその畏《こわ》さが語られたのである。 「なのに、殿方というのはおかしなものなんですね。むしろそういう女こそ、籠絡のしがいがあるとかで」 「一時は図書室に通う男性が、絶えなかったとかなんだとか」 「ただ、それでもあの人は、図書室係であろうとしたようです」 「図書室は本を読む、求める人のためのところだと、諭そうとしていたのだと」 「なんの、それで平伏するようなら、そもそもそんな不埒な目的では通いません」 「相手をするに倦《う》んでしまえば、やはり、人外の鬼女なのですねえ……容赦がない」 「旅籠の霊安室が、その時期二つほど増やされたそうですよ……」 「なんともはや、凄まじい話だ……」  令嬢は活写を交えず、散文的な結果を告げたのみだが、それだけに事実の重みが籠もって、青年を呆然と呟かせた。 「ええ、全く。ただ、こうして後から〈俯瞰〉《ふかん》すれば、非はどちらにあるか明らかですが、そんな慮外者でもお客はお客」 「当時のご先祖さまが、諫《いさ》めに行ったらしいのです」 「それで、どうなりました」  ずい、と好奇に膝を進めて、 「……その方は、男性だったのですが。七日あまりも、戻らなかったと―――」 「まさか……」 「その、まさかです。さすがに不安に思ったお手伝いさんが、徒党で乗りこんでいったところ……」 「……これから先は、〈尾籠〉《びろう》な話です。私といたしましても憚《はばか》られる……早足でやっつけましょう」 「ご先祖さまは、まさに彼女に組み敷かれていたところでした。息はあったのですが、その後正気は戻らなかったそうで」  ……青年の脳裏に、見たこともない男の顔なのにまざまざと場景が浮かんだのは、当時の当主がどんな〈快楽〉《けらく》に、恐怖に包まれていたのか、幾らかなりとも想像がついたからの、築宮自身その片鱗は味わった。  あの、朝まだきの司書室で、青年がその直後に司書から突き放されることになったあの時、彼は彼女に喰われる、それがどれほどの恐怖なのか、そしてその恐怖は快楽と等分に結びついている事を悟ったのだから。  きっとその当主は、幸せに―――狂ったのだろう。  その男を思っても、不思議と青年は嫉妬を覚えなかった。司書に対しても、〈悋気〉《りんき》するところは殆どなかった。  話に聞けばなるほど司書は多情多淫極まりないし、青年以外の男の味など数えきれないほど知っているのだろう。  けれどそれも全ては過去のお話として記号化されており、築宮にとっては現在が全て。そしてこの今は、司書が自分を愛してくれていることを知っているから。  ……妖《あやかし》というのは、むろん人より恐ろしいモノだけれど、人より純粋で〈一途〉《いちず》な心を持つモノなのだ。良きにつけ、悪しきにつけ。 「あの人は告げたそうです。 『私はただ図書室に来る者に、それなりの礼儀を説いただけ』」 「『それでも聞き入れない者にはお灸《きゅう》を据えましたが、それをなんで咎めだてする』」 「『咎められるべきは無体なお客のほう。ここは図書室です。道理があべこべだ』と。いやはや、もっともな話です。後から思えば」 「けれど、さすがにこちらとしても困りますよねえ。いくらお行儀よくしていれば〈安泰〉《あんたい》とはいえ、旅籠の中にそんな〈剣呑〉《けんのん》なのがあったら、お客さまにも色々と御不都合が、その」 「またあの人のほうも、旅籠の主人たるものがそんな及び腰だったのが、腹に据えかねたんでしょう」 「当てつけみたいに、男漁《あさ》りするようになった……当然、〈生贄〉《いけにえ》も増えた。図書室からも〈頻繁〉《ひんぱん》に出てくるようになった」 「そんな時、あの人と出会ったのが渡し守だった……いいえ、その時になにがあったのか、詳しくは伝わっておりません」 「ただ、図書室の鬼女も怖い女ですが、渡し守は、場合にもよりますが、もっと怖い方です」  ああ知っている、知っているともと、青年は思わず深く深く頷いた、そのやりようが余りに強い実感を込めて〈大仰〉《おおぎょう》だったせいか、令嬢はやや不審そうに言葉を置いたが、やがて、 「二人が別れた後、鬼女は片腕を無くしていました」  ここが、核心か―――と身構えたものの、青年は拍子抜けの落胆知ることとなった。令嬢も、それ以上の詳しいことは知らず、ただ前後の事実を知るのみだったのである。  歯がゆさに正座の膝も乱れる築宮だったが、さりとて令嬢を責めるわけにもいかぬ。 「その後だそうです、鬼女が以前より、大人しくなったのは」 「〈爾来〉《じらい》、殿方があの人に喰われてしまう事はふつりと絶えた、わけではありません。世に不埒者が絶えないのと同じ道理です。ただ、数はめっきり減りました」 「中には、幸福の中にみまかった殿方もいらっしゃるようですが、そういう時の鬼女は、ただただ寂しそうだった、と言いますよ」 「そうしてあの鬼女は、今でも図書室にいるんです―――築宮さま」  顔を、過去を語る人から現在を見る、そして憂う人の真剣さに替えて、じっと見据えてきたのに築宮、少しく〈鼻白〉《はなじら》む。 「な、なにか?」 「男女の間のことがらに、宿の者としては口を挟みづらいです。それでも、どうかご自愛なさって下さい」 「さんざんお話ししましたとおり、あの人は人外。人食いの鬼女なのですよ―――」  長い昔語りを、旅籠の女主人である令嬢は、かく結んですっかり空になった湯呑みに新たな茶を注いだ。  築宮は昔語りの間に渇いた喉に、有り難く薫り高いのをいただいたが、茶を干すようには令嬢の訓戒を飲み干せなかった。  いまだこだわりがあった。  消せない思慕があった。  逢いたい、せめてもう一度だけでも、あの鬼女に。  けれどその為には、喪《な》くした腕が要るのだという。捜し出さなければならないという。  令嬢を頼って、昔語りを聞けたとはいえ、結局のところ手がかりといっては無きに等しく―――やはりこれはどうあっても、渡し守に、司書の腕を断ち切ったその人本人に、直接問い質《ただ》すより他はあるまい。  それまで我を押し通してまで誰かに頼みこむという事の少なかった築宮にとっては稀《まれ》な、そして切なる願いを、しかし渡し守はすげなく首を、横に振った。 「……話せませんや」 「確かにあの女の腕を斬り落としたのは、  あたしです」 「この旅籠では、あまり大それた悪さをしないようにと、その約束の証として、ね」 「で、その腕はその後、どうしたのか!?」 「言えません。  たとい旦那のお頼みでも、  そいつばかりは、教えられねえ」  ―――築宮が令嬢から聞き出した通り、司書の片腕を断ち落としたのはこの割れ般若の面の、墨染の衣の女だった。  しかし、司書のためにどうかその子細を教えてほしいと、切り出した途端にこれである。言い訳も、青年の意に添《そ》うてやれない事を申し訳なく詫びる言葉も一切なく、非常に見やすい拒否の宣告それあるのみ。 「何故です……!?」  何時だって青年の理解者であり、ざっくばらんで伝法な物言いの裡《うち》にも、暖かな配慮を宿らせていた女の、うってかわって凍りついた絶壁よりもとりつく島のない、きっぱりとした拒絶に、青年はまず呆然と目をしばたかせた、それから色めき立った。  膝で立ち、畳に爪を立てるように詰め寄れば、小舟は築宮を咎めるように軋み、渡し守もますます心根〈頑陋〉《がんろう》にして、口を閉ざし首を振る。  この女がこうと決めて噤《つぐ》んだ口をこじあけるというのは、雌虎から仔をさらう方がまだ容易であろうと思われたが、かといって築宮もそれで引き下がれぬ。  ほとんど膝頭を触れ合わせんばかりにして、渡し守に食い下がった。 「訳を、せめて訳を聞かせてほしい」 「無理な頼みなのかも知れないが、  それでも理由くらいは―――」 「そいつも、言えませんね」 「……な……っ!?」  甲羅に頭を引きこんだ亀、閉じた貝、そんなものよりまだ硬く拒絶してきたのには、築宮も〈愕然〉《がくぜん》とならざるをえず、絶句した彼の前で渡し守は立ち上がる。 「旦那のご用件がそれだけなら、  もう話すことはありません。  さ、お引き取りを」  ここまですげなくされては、築宮悔しいとも情けないとも言いようのない気持ちに襲われて、渡し守を見やる。  胴の間の障子戸を繰り開き、顎を外へしゃくってみせた横顔は、生身の方なのに割れ面よりも無機的に硬かった。  なにか体の芯が萎《しな》びてしまったかの脱力感に襲われ築宮は、思わずがっくり〈項垂〉《うなだ》れそうになって、なにより渡し守がそんな、〈路傍〉《ろぼう》の小石にくれるよりまだ無情な貌を見せたのに、底知れない虚しさを覚えたのである。  それでも、萎《な》え萎《しお》れそうになる気力をかき集めて奮い起こし、腰を浮かせたのは渡し守に言われるがまま大人しく引き下がるためではなかった。 「……こっちだって、それではいそうですかと、大人しく引っこめないんだ……」  とにかく会話を繋げれば、なにかしらの糸口が見えるのではとあえかな望みを掛けて青年は、苛立ちに跳ね上がりそうな声音を辛うじて抑えて問いかけ続ける、が渡し守は〈依然〉《いぜん》冷然としたままで、 「旦那もわからんお人だね。  話すことなどなんにもないと、  そう言っていますのサ」  やや片頬を歪めて放ったのは、笑みというにはあまりに冷たく、築宮は喉元に剥き身の刃を押し当てられたような〈怖気〉《おぞけ》に見舞われた。心なしか空の色まで褪せて、川面を渡る微風も〈悽愴〉《せいそう》の気色を帯びる。 「だいたい、腕はどうしたとひつこいが、  もうその腕なんて―――」 「ないって、そう言ったなら……?」 「え―――?」 「んな昔にぶったぎった腕なんぞ、後生大事にとっておくような、ンな悪趣味は無えてぇ、そう言ったら?」 「あっはっはっは〜〜〜だ。  ご苦労様ですねえ旦那。  無いもの探してあっちをひょこ、こっちにぴょこりと、蟻のお使いみてえな」  青年が見つめるうちにも、渡し守の姿に亀裂が走るようだった。  これまでだってこの鬼面の女は、時に〈辛辣〉《しんらつ》な言を吐かなかったでもない、時に〈揶揄〉《やゆ》するような言葉で青年を玩具まがいにしなかったでもない、けれどそれだって、彼女の好意という砂糖衣にくるまれたじゃれあいだったのだと築宮に知らしめるような変貌を遂げつつあった。  ぱらぱらとかさぶたが〈剥離〉《はくり》するように、渡し守の貌から、築宮への好意が破片となって落ちていく―――冷えきった笑みのままで。 「ま、あるのかないのか、それだって教えてやる気なんぞ、旦那の鼻くそほどもねえが」 「……な……んで、そこまで底意地の、悪い、言い草、を……」 「……ろくな覚悟もないくせ、  旦那があの鬼女に入れ揚《あ》げるのが、  見てて〈業腹〉《ごうはら》だから、  教えたくない……ってそう言ったなら?」 『教えたくない』という音に乗せられたのが、築宮の神経を判りやすく逆撫でするような〈抑揚〉《よくよう》で、青年は、まさかこの女に抱くようになるとはついぞ考えだにしなかった感情が生じつつあるのを知ったという。  頭蓋の裏側をちりちり焦がすような、喉骨をごつごつと軋ませるような、尖って、重苦しい、それは、怒り―――  それ以上、何も言わないでくれと築宮は縋《すが》るように手を翳した。  なのに渡し守は、青年の身の裡《うち》に点《とも》った火を知りつつ、ことさら煽《あお》りたてるようなやり方で、胴の間の外を示し、 「もう、これで充分でしょうが。  さ、判ったら、とっとと出て行っとくれ」 「あたしも、何時までも旦那みたいな、  言うこと聞かねぇ餓鬼を相手してられるほど、暇じゃあねェんでね」  すい、と追い払うように宙をよぎらせた手つきが淑女めかして、それだけに怒りへ余計に油を注ぐ。  築宮は己の内圧が危険なまでに高まりゆくのを必死で抑えようとしたのだけれど。 「なんです、その顔は。  はは、怒りましたかい。怒ったねぇ」 「……ご立派なもんだ。  頼み事を聞いてもらえねえとなると、  今度ァ怖い顔で脅そうってかい」 「やめてくれ、そんな言い方……」  ―――後にして思えば、始めから渡し守の態度は奇妙だったのだ。  その表情、言葉、何もかもが築宮をひたすらに挑発し、嘲笑し、彼の怒りを誘い出そうとするようではなかったか。  けれども、なんのために、如何なる意図でもってと、慮《おもんぱか》るような余裕は、この時の築宮には皆無だった。心は隙間まで、怒りの火で舐め尽くされていた。 「いいえ、やめませんよ。  女に惚れたはれた……は結構ですがね。  まずご自分の事、  振り返っちゃいかがです」 「俺の事なんて、関係ないだろう……?」 「ない訳ゃないやな。  てめェの面倒も、満足に見らんねえような甲斐性なしが、一人前面して―――」 「う……っ」  喉の奥にこみあげてきたのは、煮え滾《たぎ》るほど熱くて、張り裂けそうな圧力に満ちていて、これを解き放ってはいけないと築宮の理性が警告していた。だから彼は、必死で、奥歯が軋むくらいに歯を食いしばり、呑みこもうとしたのだ。  それなのに渡し守は―――  懐手になって―――  青年に見せつけるように嘲笑って――― 「挙げ句、鬼の腕のありかを教えろときたもんだ。誰かの心配より先に、あんたにゃする事があるでしょうがよ」 「いっそのこと、このまま、船漕ぎだしちまいましょうかねぇ」 「旦那を乗っけたまま、  もうあんな女ンことなんざ、一々考えんですむように、向こう岸に送ってやりゃあしょうか?」  身を返して櫂に手を伸ばし、今にも大河へ漕ぎ出さんとするかのように―――  小舟も拍子を合わせるようにぐらりと危うく傾《かし》いだりしたものだから―――  ……あるいは、渡し守がそうやって焦らせるような真似さえしなければ、築宮はもしかしたら怒りを抑えられたかも知れない。今日の渡し守は、虫の居所が悪かったりしたのだろうと出直しを考えつくくらいの落ち着きは取り戻せたかも知れない。元が我慢強く辛抱強い性質の青年である。  けれども。  けれども愛しい女の、探してほしいと依頼された腕を、そこまで悪意滴るやり方であしらわれては、さしもの築宮にも己の怒りをあやして冷静を保つどころではなかった。  渡し守の真意はいずれにせよ、築宮には彼女が間違いなく、自分の意志など無視して旅籠から遠ざけてしまおうとしているようにしか見えなかったのだ。 「よせ―――っ!?」  中腰の姿勢から撃ち出された体が、弩《いしゆみ》の矢のような驚愕すべき鋭さと迅《はや》さだったのも、殆《ほとん》ど築宮自身の意識になかった。  あったのはただ、櫂を弾き飛ばして、旅籠に戻らなくては、渡し守の暴挙から逃れなくては、という一念のみ。  ざっと畳が鳴って、  どん、と二つの体がぶつかって、  怒声が迸って、  青年の〈襯衣〉《シャツ》と墨の衣の袖と袖が絡んで、  小舟が大きく傾いで、  そして―――  幸いにして、渡し守が漕ぎ出すことはなく、櫂は軸受けに嵌ったままだった。  だがそんな事などなんの慰めになろうの、渡し守は、ぐったりと体の芯をなくして横たわり、黒髪が影を束ねた蛇《くちなわ》と畳にうねり、ああそして、その黒い筋は重たく濡れていたのだった。  溢れ出した血潮で。  今も刻々と畳の面に奇怪な地図めいて広がっていく鮮血で。  ―――爆《は》ぜ割れた、渡し守の頭の傷から流れ出した、生温かな液体で。  黒に深紅が絡みつくような色彩は、周りの色調を奪って浮き上がり、いっそ非現実感さえ漂わせていたけれど、長火鉢の角にこびりついた、にちゃにちゃとした〈粘塊〉《ねんかい》が酸味とともにこれが現実である事を強調していた。  付着したのは、破れた皮膚と肉と髪の混ざりものなのだろう、長火鉢の角が渡し守の頭のいずこかを穿《うが》ったのだろう。  おそらくは相当に深く。  ……築宮は、いったい何故それが起こってしまったのか、よく覚えていない。  大体にして彼は、敵《かな》わぬまでも、と渡し守に飛びかかっていったつもりで、上背でこそ彼女には勝るが、取っ組み合いではこの女に押し負かされるだろうという予感があったのである。渡し守の腕はしなやかながらも、日頃から重い櫂を操り慣れて、一方青年は自分が〈安逸〉《あんいつ》な旅籠暮らしで鈍《なま》りきっていると心得ており、〈膂力〉《りょりょく》には歴然とした差があるだろうと思いこんでいた。  だからこそ〈遮二無二〉《しゃにむに》彼女に組み付いたのだし、櫂を奪おうと夢中で腕を振り回しもした、体ごとぶつかった。  けれどもこの女が、しなやかな見た目からは想像もつかない威を秘めている筈の渡し守が、こうもあっさりと突き飛ばされ転がされるとは思いもせなんだ。  考えもせず予想もつかなかったとはいえ、起こってしまえばそれが現実というものなのである。  築宮の足元に、苦痛の呻き声も立てず、身動きもせず、力なく渡し守が斃《たお》れ伏しているのが、まぎれもない現実なのである。  故意でなかったとはいえ、築宮が渡し守を惨《むご》たらしく害してしまったという現実が、彼の身裡に得体の知れない圧力で浸透していく。 「待て……嘘だろ、こんなの……」  頭部を強打した者を下手に動かすのは禁物だという判断など働かず、築宮はそろそろと渡し守を抱き起こす。 おお、痛てて、だの顔をしかめるとか。  何をするんだこの考えなし! としたたかな反撃で〈横面〉《よこっつら》〈頬骨〉《ほおぼね》軋むくらい張り飛ばされる、とか。  なんでもいい、とにかく渡し守が反応してくれたなら、築宮はきっとそれで狼狽えるとか大騒ぎするとか人並みの精神状態を取り戻したのであろうが―――。  抱き起こしたなり、渡し守の腕は力なく垂れて指先が畳を擦った。  生身の頬は白いを通り越して透けるような蒼味を帯び、割れ面の造作の方がよほど生き物めいていた。  重心を失った体は、水を詰め込んだ革袋のようにぐにゃぐにゃと頼りなく、それが青年の腕の中で徐々に冷たくなっていくのが、恐ろしく、また厭《いと》わしく。 「おい……おい……っ。  返事してくれ、なにか言ってくれ……っ」  無理と知りつつ、また確信もしていたのだ。  もし彼女の乳房に耳押し当てて聴きとろうとしても、息遣いも鼓動もなにも伝わってこないのだ、という事は。  せめても、と言えたのは、渡し守の瞼はひっそりと憩《いこ》うが如く下ろされてあり、あの死者特有の濁《にご》って〈硝子玉〉《ガラスだま》めいた瞳には直面せずに済んだ事なのであるが、しかしそれだって築宮には救いにもなりはしない。  築宮の中に言いようのない恐怖と後悔が広がっていく、膨れあがっていく、満ちていく。  ああ、ああ、と震えおののく唇で、無意味な呻《うめ》きを漏らすばかりで動けない築宮、何もできない築宮、不甲斐ない築宮。  どれだけ後悔しても、また嘆いても小舟は主を見舞った悲劇など知らぬげに揺れるばかりで、濃い血臭がたちこめはじめた胴の間で〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》する彼を正気づかせるには至らない。  信じられなかった、また信じたくもなかった、つい先程までは無情なやりとりではあったにせよ生きて会話していた相手が、もう動かないのだ、そしてそうしてしまったのは他ならぬ自分なのだ、などという事を、築宮どうしても受け入れ難く、〈愕然〉《がくぜん》と首を振る、何度も打ち振る……。  ……そうやって周囲を拒絶して、都合よく自分の世界に逃避していたものだから、築宮は気づかなかったのである。  船着き場にしかと舫《もや》われていた筈の索がいつの間にか解け、小舟は何時しか大河に漂い出していたという異常に、操る主もなく、ただ流れのままに川面の果てへ押し遣《や》られ始めていたという事態に、外界を顧《かえり》みる落ち着きなど〈欠片〉《かけら》もなくしていた築宮は、気づく由《よし》もなかったのである―――  さて―――どれだけ築宮は苦悩した事だろう。罪の意識に責め抜かれた事だろう。  故意であろうと無かろうと、彼が渡し守を、大恩ある女を死に至らしめてしまった事実はなにをどうしたって替えようがない。  窓に縋《すが》って啜《すす》り泣き、困惑極まった挙げ句に障子紙を滅茶苦茶に引き裂いていたり、畳に突っ伏し爪を立て歯を立て、身も世もなく〈慟哭〉《どうこく》していたり、さもなければ罪悪感が攻撃衝動に反転し、〈長火鉢〉《ながひばち》や〈行燈〉《あんどん》を蹴り壊したりの無様な大立ち回りを演じていたり、していただろうか?  実状はさに非《あら》ず、さ。  築宮は渡し守の死骸の傍らに膝を抱えて座したままであった。  心の中も渦巻き乱れるというより、ある意味で凪《な》いでいると言っても差し支えなかったろう。といって築宮が人非人にも良心の〈呵責〉《かしゃく》を抱かなかったというのではない。  彼の心中はただ悔恨と罪の意識で黒く塗り潰され、困惑も悩乱も付け入る隙がなかったというだけの事。そもそもこういう場合に混乱したり見苦しく状況を受け入れられないでいるというのは、事態が自分の責に非ずと、どこかに罪を認められない気持ちを残しているからなのである。  この場合であったら、渡し守が勝手に〈蹴躓〉《けつまず》いて転倒した結果、哀しい結末を迎えてしまったのだとか、そもそもからして彼女がああも意地悪く、司書の腕にまつわる物語を明かす事を拒まなければよかったのだとか、そう言った身勝手な論理を働かせる事で、彼女の死は必ずしも自分の責任ではないと逃避しようとする意識が生まれ、それ故に惑乱したり大騒ぎしたりもするのだろう。  だが築宮は既に罪を自覚していた。これ以上ないほど、全て自分が悪いのだというのが、彼の認識で、そこから逃れようという意識は微塵もない。  元の性格からして自己処罰型の人間なのだ。  だから築宮は、罪の意識に叩きのめされ長い間動くことは愚か、畳を濡らす血溜まりの、光を吸いこむような昏い紅から魅入られたように視線を外す事さえできずにいたのだ。  渡し守の死に顔と直面する事ほど恐ろしいものはなく、ただ血溜まりばかりを光の失せた眼で見つめ続けた。  それでも、いつまでもこうしている訳にもいくまいと、築宮がのろのろ立ち上がれば肩には絶望が〈千貫〉《せんかん》の岩より重くのしかかり、身体の節々がぱきぱき爆《は》ぜて耳障りな。  まずはとにかく、旅籠に戻って告白しなければなるまい。誰にといっては、旅籠の女主人の令嬢に告げるのが適当だろう。あの、人を寄せつけないくらい際立って整った美貌の少女が、己のしでかした罪をどういう顔で聴くのか、またどういう処断を採るのかを思えばそれだけで逃げ出したくなりそうになるが、それでも、行かなければ。  外界と旅籠を隔てる大河に客を渡す、唯一の渡し守を喪って旅籠はこれから先どうするのだろうとか、青年を苛む材料は次から次と押し寄せるが、それでも犯してしまった罪は償わなければならない。  血溜まりを踏まないように跨《また》ぎ越え、胴の間から〈舳先〉《へさき》に踏み出した時に青年は、自分が〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》している間に何が起こっていたのかをようやく知ったのだった。  旅籠が―――どこにも見えなかった。  始めはいったい何事が生じたのか見当もつかず、虚《ウロ》を来したように大河を右に左と眺め渡したのだが、あの巨大な建築物の輪郭がどこにも見当たらず、視線は大河の果てをぼやかす霞《かすみ》に呑まれた。  索具から水に沈んだ舫《もや》い縄を引き揚《あ》げれば、縄の端に結んだ輪から掌に滴る雫の冷たさ、朧気ながら築宮は事態を把握する。  艫《とも》に廻れば碇も引き揚げられたまま、船着き場に舫《もや》われたはずの縄が何故かは知らねどこうして水中に虚しく漂うてある。  つまり小舟は。  青年が気づかぬうちに大河に押し出され。  今やあてどもなく流されていくばかり。  ―――そういう事なのだ―――  それが渡し守の死骸と共に、水上に幽閉されたも同然の事なのだと築宮が悟ったのは、ややあっての事である。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……自分が思った以上にのっぴきならぬ事態に放りこまれたと築宮が自覚した時には、残念ながら既に遅きに過ぎた。  築宮が渡し守の遺骸の傍で自失していたのは、銀の懐中時計で確かめたところ、どうやらおよそ一時間から一時間半と思しいが、あながちそれを〈迂闊〉《うかつ》とは責められないにしても、その間に小舟がどれだけ流されていたのか見当もつかない。  あの旅籠という目印を失ってしまうと大河の風景というのは右も左も変わり映えせず、あるのは距離感覚に失調を来しそうに広大な水面ばかり、吹き抜ける風が潮の香を含んでいたなら外海と言って差し支えはないほどの。 「どれだけ流されたんだ、俺は……」  渡し守を殺めてしまったという一事にしても青年の思考能力を著しく低下させるのに、加えてこの非常事態、掌《てのひら》で〈目庇〉《まびさし》して旅籠は、さもなくば河岸はと探し求めながらの呟きが、困惑に満ち満ちて啜《すす》り泣かんばかりだったのも無理はない。  広大な〈天水〉《てんすい》の間なのに、穴蔵の隅に追いつめられた鼠のように四囲を見回した青年は、どうにか落ち着きを取り戻そうとする。  河というのはやがては海に流れこむものだとしても、幸いにして此処はまだそこまでは至っていない様子。海なら海流がどう綾目を為しているか知れたものではないが、河であれば少なくとも水の流れは一定している。流れ下って旅籠を見失ったのであれば、遡《さかのぼ》るしかなかろうと、青年はともすれば萎《な》えてしまいそうな心をどうにか奮い起こした。  艫《とも》に廻って櫂を拾い上げ―――さいわい櫂は舷側に引き揚げられていた―――おぼつかない手つきで櫂受けに嵌めこむ。  もちろん舟の操り方の心得など持ち合わせぬ築宮で、あの人はどのように漕いでいたのだったかと、瞼の裏に蘇らせた姿の見様見真似で、櫂を遣い始める、いかにも頼りない、もとらぬ手つきで……築宮は、不意に押し寄せてきた〈寂寥〉《せきりょう》に、堪《こら》えきれず噎《むせ》び泣いた。  脳裏にその姿を思い浮かべてしまった事で、途方もない喪失感に改めて押し包まれたのである。  その姿、かつて艫《とも》に立ち、小舟を〈悠然〉《ゆうぜん》と操っていたその人、渡し守が、櫂を取る事は、もう二度とないのだ。  ―――自分が、殺したのだから―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  がらん、と櫂が舟板を打った響きはなんとも寒々しく、努力を嘲笑うようで、築宮は自分の見通しがどれだけ甘かったのか、苦々しくも認めざるを得なかった。  掌に巻いた〈手巾〉《ハンケチ》に、滲みだした血の赤を、見れば余計に痛みが増さる。情けなく眉を八の字にして、青年は舟板に座りこんだ、それだけで腕足背中、全身の筋肉が悲鳴を上げる。  漕いだのだ、それこそ何時間も、体力が続く限り、気力が保つ限り。  なのに旅籠どころか船を漕ぎ寄せられるような河岸も見えず、川面の果ての靄《もや》もいっかな晴れず、もう遡《さかのぼ》っているのか下っているのか、それさえ判然としなくなった。そもそも櫂の遣い方からして素人の生兵法なので、こう目印がないところでは、舟が真っ直ぐ進んでいるのかどうかも怪しいものだ。遡《さかのぼ》るどころか、緩やかな円弧を描きながら流れ下っていた、というのもいかにもありそうな結末の、掌《てのひら》だって慣れない力仕事にたちまち〈肉刺〉《まめ》をこさえ、それでも歯を食いしばるように櫂を持ち続けるうちについに破けて木肌に血を吸わせた。  その痛みだって裂いた〈手巾〉《ハンケチ》を包帯代わりに懸命にこらえ、漕ぎ続けたがいかんせん体力には限界がある。  なにより進んでいるのかいないのかはっきりしないと言うのが、精神的にも築宮を強く痛めつけ、彼の気力を大きく奪う。 (このままじゃ、どうにもならない)  こうして座りこんでいる間にも小舟は刻一刻と流されているとは承知している。  しかしがむしゃらに漕いだところで無駄な体力の消耗を招くだけだと築宮は、とりあえずいったん気を落ち着ける為に碇を降ろして舟を停めようと考えた。漕ぎ続けるにせよ、ひとまず体力の回復をはからない事にはどうにもならないと、碇を結んだ縄を手繰れば掌の痛みが蘇り、脳天まで貫くかのよう。  ―――それで注意が逸《そ》れてしまったのかも知れない。  投げ入れた碇が沈んでいくにつれ、舟底に束ねてあった縄がするする繰り出されて水面に呑まれていくのだが、一体どれだけの深さがあるのか底まで届かず張りつめて船縁を擦った。碇というのは川底を噛まずとも、舟を留めてくれるものなのだろうかと、張りつめて震える縄を眺めた築宮は、別に悠長に構えたつもりはなかったのだけれど。  張りつめていた筈の縄が、ずる、と滑って、また繰り出されたのを、一瞬〈暢気〉《のんき》に見送ってしまったのだが、慌てて飛びついた。  縄の余分は既に無く、それでなお水中に引きこまれたというのは、結びつけていた索具からあろう事か解けてしまっていたからで。  完全に水に呑みこまれる寸前で、縄の端をどうにか掴んで食いとめた、と〈安堵〉《あんど》はほんの束の間の、縄からかかる碇の重みが青年の掌の傷に仇《あだ》となった。  ずくんと衝《つ》きあげた激痛で掴む力が一瞬だけ緩んでしまう、そのほんの一瞬で。  すり抜けた。  小舟を引き留めてくれるはずの碇もろとも。  反射的に縄の端にと手が走った。  しかし手は虚しく宙を掴んだのみで、碇は大河に沈んでそれきりの、もしかしたらその時水中に飛びこんで追いかければ間にあったのかも知れないが、築宮はショックで硬直していたのである。  訳がわからなかった。  船乗りというのは縄あしらいに長けている筈で、あの渡し守だって小舟の重要事である碇の〈結索〉《けっさく》を疎《おろそ》かにしていたとは考えられない。  だと言うのに縄は索具から解け、小舟は碇を失う羽目となった。  そしてそれが意味するところに、築宮は、ただただ〈唖然〉《あぜん》とする他はなく。  ―――もはや漕ぎ続けない限りは、舟は流されてゆくばかりなのである、旅籠から遠ざかっていくばかりなのである。  そして青年は、まともに船を漕ぐ術など持ち合わせていないのだった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  暫《しばら》くは半狂乱で櫂を遣ったし、恐慌は築宮の掌の痛みを麻痺させ、疲労した体にも活を注ぎこんだ、が、そんなのは一時しか続かない力で、しまいには肺と心臓が口から飛び出さんばかりになり、視界も眩《くら》んで膝も笑って止まらなくなった。  だが構うものかと大きく漕いだ弾みに、手は櫂を取りこぼし、体は大きくのめって舟板に投げ出され、それで築宮、とうとう立ち上がることさえできなくなる。  乱調子極めた漕ぎ様では、船をどれだけ進められたものだかおぼつかない。  激情がもたらした気力も枯れ果てて、浮かんできたのは、代わりにもならない切な涙で、築宮は顔を覆って啜《すす》り泣くことしばし。  渡し守を殺めた時から、物事の流れに狂いが生じたような気がしてならない。小舟は流され、舟をまともに操るもならず、そして碇まで大河に奪われて、この身はきっと呪われているに違いないと、築宮の啜《すす》り泣く顔はひどく見苦しかったが、それをあざ笑う者すらない孤独が、身を切るようで。  なにもかもが厭《いと》わしかった。  涼やかに広がる大河も〈天蓋〉《てんがい》も、のんびりとした小舟の軋みも、そしてなによりこの無力な自分が、築宮には情けなく不甲斐なく、いっそあの碇の後を追って身投げしてしまおうかとさえ思いつめた。  が結局築宮は、水の流れに我が身を投げ入れこの下らぬ事態にけりをつけてしまう事もできず、のろのろと立ち上がる。  とにかく今は、大河の景色と相対するのに耐えられそうになかった。どれだけ雄大な風景であろうが、むしろその広がりが神経を痛めつけて、絶望を一際深くするようにしか見えなかったのだ。  胴の間には渡し守の骸《むくろ》という、築宮の罪の証が横たえられてあり、それと向かい合う事だって苦しいけれど、為す術もなく小舟が流れゆく様を眺めるよりはいい。  〈天水〉《てんすい》の〈狭間〉《はざま》で全くの孤独というのは、並みの人間には耐えがたい責め苦となるもので、それだったらたとえ死骸であろうが、それが己が殺めたものであろうが、人の形したものが傍にあった方がましだと築宮は胴の間に潜りこむ。それは独房の囚人が鼠に話しかけるようになるのと同じ心理であった訳だけれど。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  碇を失った事で築宮は我が身がなんの呪いを受けているのかと嘆いたものだが、彼はまだ絶望のとば口に立ったばかりだったのだ。  彼がそれに気づくのは、障子戸に力なくもたれ、渡し守の遺骸を見つめていた時の事。  少し悩んだが、結局そのままにはしておかれず血溜まりは拭き取った。畳も座布団も数少ない調度も〈草臥〉《くたぶ》れた胴の間だったけれど、渡し守の心映えか、何時も清潔に浄められていたから、いつまでも血で汚していては申し訳ないとそう思ったからで。  彼女の死に顔に苦痛の色はなく、ともすればただ眠りに憩うてあるようにも見えるが、その胸に通う息はなく、間違いなく―――息絶えている。  死人なら白の〈経帷子〉《きょうかたびら》に装うところを、渡し守の衣装は墨染の黒、その夜の色は室内の光を褪《あ》せさせ、哀しみの帳で閉ざすようにさえ見ゆる。  見ているだけでも築宮の悔恨を深く揺り動かすのだが、狭い胴の間のこと、どうしたって視界に入ってしまうし、なにより彼女から目を逸《そ》らすのは、自分の罪に背を向けようとする、いかにも卑怯に思えて青年は敢えて見つめ続けた。それで想い出すのは、彼女と出会ってからの事ばかり。  この胴の間で始めて目覚めたあの夜、自分を死の際から呼び戻してくれたのは彼女の肌の温もりの、それももう通わない。  銀の時計を預けて、去っていた背中の、あの〈飄々〉《ひょうひょう》とした風格、そんな彼女が小舟に誰かを乗せる事は、もう二度とない。  想えば想うだけ、渡し守が自分に寄せてくれた厚意が身につまされて、それを最悪の形で返してしまった自分が呪わしくて、築宮はまだ〈嗚咽〉《おえつ》で喉を詰まらせるのだが、情けない涙の下から、鳴った音がなんとも間抜けで哀しかった。  腹が、鳴ったのである。  ここ数日というもの司書を思う心痛に食事は摂ったり摂らなかったりで、今日だって朝からなにも口に入れていない。空腹は体ばかりは健やかな青年にとっては当たり前ではあったが、渡し守は死んでしまったというのに自分は生きているという事を、浅ましく意地汚く強調するようで、築宮はこんな時なのにさもしく鳴りたてる腹を疎《うと》ましく思ったのだが。  ややあって、思い当たった事実は、不気味で不吉な色合いを帯びていた。  小舟は流され、櫂をまともに操る事もできず、その上河面に留め置く碇も無くした。  よしどこかに漂着するにしても、それまでどのくらいの時間がかかるのだ?  あるいは―――どこかに流れ着くどころか、このまま漂流するばかりであったなら?  まさか、とは不吉な予感を打ち消そうとした、それでも青年の顔は青ざめた、渡し守を殺めてしまった罪の意識とは異なる絶望が心を暗く侵していく。  まず渡し守の骸に手を合わせて詫びてから、早くも乳酸で鈍くなりだした体に鞭打ちつつ、胴の間をあれこれとあざき始める築宮の、人の命を奪っておきながら自分のそれを繋ぐ事に汲々とする浅ましさ、苦々しく唇を噛みながら。  で結局、腹を満たすような物などなにもなかったのである。渡し守がどこで食事を摂っていたものか知らず、いずれにしても胴の間はもとより、小舟の底まであれこれ鼻先を突っ込んで探してみたのだが、食糧と呼べる物は〈欠片〉《かけら》もなかった。  築宮、俄かに身震いしたのは、河面を渡る風が汗を冷やしたせいというよりも、自分が置かれた状況に潜む不穏な気配を徐々に認識しつつあったからである。 「まさか、な……。  大丈夫、だよな……?」  と呟いたものの、声は四囲を満たした〈茫漠〉《ぼうばく》の水面に虚しく散って、額には汗も滲む。櫂を必死で漕いでいた時とは別の、冷たい汗。  せめてもの救い、といっていいものかどうか、生命を養うために最低限必要不可欠の、水ばかりはいくらでもある。河の水に直接口をつけるのは憚られる、などと気取っていられるのは今のうちだけだと、築宮も悟りつつあった。  胴の間の中を見舞った凶事はどうあろうと、雄大かつのどけき景色で小舟を取り巻いていた筈の大河が、不意に無限の檻と化して迫ってくるような寒気を覚え、築宮は己の体をかき抱いて空を仰いだ。  ……思えばその空にだって、異常を察して然《しか》るべきだったのを、これからの事に思い悩む築宮には気づく余地もなかったのだ。  彼がその時考えていたのは、碇が失われた以上ひたすらに漕ぎ続け、僅かなりとも小舟を進ませるべきか、あるいは幾ばくか休憩して体力と気力の回復を計った上で今後の行動の指針を立てるべきか、どちらにするかということ。  どちらの考えにもそれぞれの理があるように思われ、築宮は葛藤したが、結局は体を休める方を選んだ。なにしろ慣れない運動で足も腕も血管に鉛を詰め込まれたようになっているし、渡し守を殺めてしまった悔恨が思考をひどく曇らせており、こんな体と頭ではなにをしたところで全て裏目に出そうな気がしたのである。  少しでも疲労を癒すべく、築宮は再び胴の間に戻る。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  人間、どれだけ絶望と後悔で心が張り裂けそうでも、体がひどく消耗していると、ふと神経が緩んでしまう瞬間があるらしい。  眠気というのはそうした気の緩みに忍びこんでくるもので、がくん、と膝の間に頭を落としそうになって築宮は目を覚ました。  休憩といっても眠り呆けるつもりはなかったのだが、障子戸に背を預け、渡し守の骸《むくろ》に悲嘆に暮れるうちに、いくらかうとうとしてしまったものらしい。胴の間に垂れこめるのは黄昏の残照となっていて、目を擦った、手の甲にも血の管が刻む影が濃くなっていた。  どれだけ眠ってしまっていたのか、確かめようと銀の懐中時計を引っぱり出した際も、まだぼんやりして、そう言えば確か機械式時計の短針の位置と太陽の向きから、方角を割り出す方法があった筈、それはこのあてどもない漂流の中で、行く手を定める役には立ちはしないかなどと、今ひとつ〈焦点〉《ピント》のずれた知識を思い出したりしていたのだが、蓋を弾いた時になってようやく、築宮は自分を取り巻く異常を察知した。  時間が、おかしいのだ。  時計が指し示す時刻に従うならば、外はもっと〈燦々〉《さんさん》とした光に照らされているか、逆にとっぷりと夜闇に包まれている筈なのだ。  なのに胴の間は、黄昏とも〈払暁〉《ふつぎょう》ともつかぬ、間境の光に満たされてあり、築宮は〈怪訝〉《けげん》そうに窓を繰り開いたのだが、そうやって覗き見るだけでは状況はしかと確かめられぬ。  なにやらひどい胸騒ぎと違和感を抱いて、胴の間から〈舳先〉《へさき》に立った築宮の戸惑いを、一体どう表現したものか―――  〈天蓋〉《てんがい》を一面に染め抜いた幻妖な色合いは、なるほど黄昏の〈寂光〉《じゃっこう》に近いものがあった。静まりかえった水面も、空の複雑な色を映すには相応しかった。  だがなんだ、この違和感は、と築宮は静寂と弱い光の風景中に、ひどく異様な、人の心を狂わせてしまいそうなくらいの異様を感じ取る。目を凝らし、耳を澄ませ、肌感覚を研いで風景から受ける違和感を突き止めようと集中するうちに築宮は、ぎょっと河面に目を落とし、見つめて、見つめ続けて、ついに。  船縁にしがみついた。  信じられなかった。  河面が、停止していたのだ。  微風が置いたさざ波の紋を、糊《のり》を流しこんで乾かしたかのように固着させ、一切の動きを無くしていた。  最前から体感が訴えていた違和感の源にも思い当たる。いかに穏やかに流されていたとはいえ、小舟は水のうねりを伝えて緩く揺れていたのだが、それが完全に止んでいたのだ。  この静止した水にあっては、小舟も流れゆくもならず留まるしかあるまい。 「なにが起こってる、これは……」  凪《な》いで静止した水面を指す古い言葉に、〈止水〉《しすい》というのがある。その言葉の更に古きを辿れば、元々は〈死水〉《しすい》という。本邦の感性に於いては、流水こそが活《い》きた水なのであり、止まって動かぬ水は死んでいるとされた。  だが築宮が目の当たりにしているのは、〈死水〉《しすい》などいう言葉ですら〈生易〉《なまやさ》しい、時の流れさえ封じこめて停止させたかのような〈水界〉《すいかい》の。  時の流れを封じた―――?  そして彼は、心に浮かび上がったその形容に、空からの違和感の故にも思い当たった。  そう、水が停止しているなら空も、また。  地上は全くの無風であっても、〈気圏〉《きけん》にては渦巻く風がゆく、雲も少しずつ流される。だと言うのに見上げる空の雲、染め抜いた精妙な色合いは美しさを湛《たた》えていると言えば言えたが、全く形も変えず、同じ位置同じ姿で留まったままとあっては。  ひどい〈目眩〉《めまい》に襲われて築宮は、舟板に惨《みじ》めたらしく腰を落とした。  時計は弛《たゆ》まず針を刻み続けていたけれど、つまるところそれは内部に時を宿しているからではなく、単に機械の動作に過ぎない。  時は築宮と小舟を取り巻いた世界の中で、完全に停止していたのだった。青年ただ一人を残して。  空の色も黄昏の残照などという優しげな詩趣に満ちたものではなく、上方世界を二分する神々が最終戦争を引き起こした挙げ句に互い全てを〈殲滅〉《せんめつ》し尽くし、時空全て一切〈有情非情悉〉《うじょうひじょうことごと》くの活動が失われた果ての色調というのが相応しい。 「こんな、まさか……?」  おそらくこの〈天水間〉《てんすいかん》にあって動く者、音を立てる者といっては彼しかあるまいの、無音の中の呟きの孤独さといったらなかったが、それでも彼は船縁から身を乗り出し、河面に手を浸そうとした。  なぜ自分がそんな事を試みたのか、築宮自身にもはっきりしていなかったのだが、それは無意識の中で生存本能が働いた為だと、すぐに判った。  巻かれた手巾の下で疼く、傷の熱を水は、冷ましてはくれなかった。  というより、手は水に浸りもせず、の、彼が押した形に窪《くぼ》んで、窪《くぼ》んだだけ。手を除ければ水面には指の形が残って、流れもしない。  ―――時が停止した世界の中では、水の流れもまたそれに従うのだと言わんばかりに固形化して。 「待てよ……待て、まさか、  ってことは―――!?」  水が氷にもならずに固形化する、それだけならばただ不気味とも興味深い現象とも言えようが、それが〈示唆〉《しさ》するところは恐ろしい、意味が脳に浸透するにつれ底無しに恐ろしい。  築宮は舟底に転がっていた手桶を拾い上げるや、手で試みたと同じように水面に浸そうと試みた、が、結果は似たようなもの。手の時より大きなたわみを残したが、桶の中に一滴の水さえ、掬《すく》い取る事はできなかったのだ。  つまり―――  それだけは無限にあるとたかをくくっていた筈の水、飲む為の水、生命を繋いでくれる筈の水が、もはや一滴も青年の喉を通る事は無くなったという事であり、絶望の果てから更なる、そしてより大なる絶望が訪れたという事でもあり。  築宮は、頭を抱え呻《うめ》き声を迸《ほとばし》らせた。  完全停止の世界の中でただ一人生ある者の、故に惨《むご》たらしく、惨《みじ》めで、痛切極まりない〈慟哭〉《どうこく》は、しかし大河の水面に虚しく拡散し、波紋一つ置く事はなかった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  それでも築宮は、自分の力が及ぶ限りは諦めず、事態を打開しようと〈足掻〉《あが》いたのだ。  水が停止したという事は、少なくとも舟がこれ以上は流されないという事だと、今一度櫂を取ってみたりもしたのだが、それは彼に失意をもう〈一匙〉《ひとさじ》と、より深い疲労をもたらしただけに終わった。櫂は水面に突き立つだけで、どれだけ漕いだところで抵抗もなく、舟は停止した位置から微動だにしなかったのである。  次に彼は、再度小舟の中の捜索を試みた。どこか見落としているところ、あるいはあの〈諧謔〉《かいぎゃく》に満ちていた渡し守なら、酒瓶などを収めた隠し場所の一つや二つ、舟のどこかに設《もう》けている事も有り得ると望みを懸けて。  が、やはりそんな都合の良い願望など実現するものではなく、小舟の狭さはそんな場所など空けておく余地などないと再確認させるに終わって、築宮は〈長嘆息〉《ちょうたんそく》した。  青年の眼は、渡し守の帯に結わえられた〈瓢箪〉《ひさご》にも向けられたが、それは捜索の最後の、あくまで死者の物には手をつけまいとしようとしたのは、こんな時でも彼の倫理に拠ったところ。  それでも背に腹は替えられぬと、冷えきった体にはなるべく触れないように取り外した、瓢《ひさご》の軽さ、空しくて。  逆さに振っても一滴だに落ちず、渡し守が詰め替える前だったらしい。未練がましく瓢の口に鼻先寄せて、酒の匂いでも残っていないかと吸いこめば、微かに薫ったのは酒どころか。女の紅の脂《あぶら》の匂い、渡し守の残り香で、築宮は新たに打ちのめされた思いに膝をついた。その仄《ほの》かな匂いが、まだ生きていた頃の彼女の姿を、不意打ちのように築宮に想起させて、今は死して動く事ないのだという冷酷な現実でもって彼の胸を貫いたのである。それは何度刺し貫いても鈍る事のない、尖りきった針だった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  どうしたって納得がいかないのは、やはり小舟を〈囲繞〉《いにょう》する世界の変化の、なにが原因なのか、そもそも果たしてこれは現実なのか、悪夢か幻覚の類なのか、いずれとも判別はつきがたく受け入れがたかったとしても、築宮が逃れる術を持たないという事には変わりなかった。  築宮は思う。旅籠もまた、この停止した河面と同じように、凍りついた時の中に全ての活動を停止させているのだろうかと。皆はどうしているのか。お手伝いさん達は、令嬢は、琵琶法師は、そして、彼が想いを寄せる鬼女は、それぞれの領域でどうなっているのだろう。築宮のようにこの異常事に戸惑って右往左往しているのか、それとも彼女達さえも〈塑像〉《そぞう》と化して停止しているのか。  もしかしたら、渡し守ならこの現象の原因を説いてくれたのかも知れないと、彼女の物言わぬ骸を眺めては、青年はまた悲嘆を深くする。彼女の遺骸に向き合えば、罪の意識が己を深く苛むと自覚しつつも、かといって胴の間の外に出るのも恐ろしい。  一切無音、停止した風景の〈茫漠〉《ぼうばく》に身を置き続ければ、やがては狂気に囚われるのではないかという不安があったから。  しかしそうして物思いに耽り続けるのも、つまりは逃避なのだった。  じわじわと押し寄せるのは、精神の危機ばかりではなく、もっと現実的かつ即物的な生命の危機、築宮は早くも飢えと渇きの〈跫音〉《あしおと》を間近に聴きとりつつあった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  不安と絶望の時間は長く(いや、もうそもそも時という言葉は意味を持たない状況なのではあったが)、築宮は気がつくと時計のぜんまいをまき直すようになっていたから、彼の主観に過ぎないとしても、一日という単位はまだ数えられた。  短針が二巡するごとに障子戸の桟に一本、爪で彫《え》りつけていた傷が三本目になった頃には、築宮は猛烈な飢餓と渇きに意識は朦朧と半狂乱を繰り返すようになっていた。  飢えに苛まれ、築宮はとにかく口に入る大きさの物、たとえば障子紙を破いて丸めたのや畳の〈毛羽〉《けば》だったのをむしったのなど、手当たり次第に口に放りこみ、必死に〈咀嚼〉《そしゃく》し飲み下そうとしたのだ。  それがかえって青年の体力を海綿を絞るように浪費させた。減量に減量を重ねた拳闘選手が、唾液の最後の一滴まで絞りだそうとするのと同じ塩梅である。  もう舟を動かそうとする体力も気力もとうに失せ、渡し守の骸《むくろ》の傍らにしゃがみこんだなり、立ち上がる事もできなくなって、乾いて粗びた唇でとりとめのない〈譫言〉《うわごと》を時折漏らし、澱《よど》みきった眼差しを〈彷徨〉《さませ》わせるのさえ、辛うじてという有り様。  他の全ては停止しているというのに、懐中時計と自分の体内時計だけは動いて、刻一刻と飢餓の目盛りを刻んでいくというのはいかにも理不尽な事であったが、かといってその理不尽をどこに訴えればいいのやら。 「腹だけは……減るのか……。  こんな、状況、でも……」  掠《かす》れた声、押し出すだけで喉の内側を鑢《やすり》で削られるような痛みを伴い、舌は干からびて靴べらと大差ない。  飢餓は無論それ自体で凄まじい責め苦ではあったが、己の体が生きのびようとする〈足掻〉《あが》きの、それが青年には呪わしいのだ。渡し守の骸が今や霞《かす》んだ視界に入るにつけても。  彼女を死に至らしめてしまった自分、殺人者の自分がどうにか生にしがみつこうとしている、飢餓はその浅ましさの証明に思えて、青年はどうしようもなく切なく情けなかった。 「ぉ……ふ……ぅっ」  埒《らち》もない呟きを漏らしてしまったのが仇《あだ》となり、空えづきまで突きあげた、胃が〈蠕動〉《ぜんどう》するだけでも激しい苦痛が苛んで、青年は力なく悶える。喉の奥に登ってきた苦く酸《す》い〈胆汁〉《たんじゅう》をどうにか飲み下す。  頬は痩《こ》け、目の周りを縁取った隈は死を思わせて色濃く、時折痙攣するような身じろぎがなければ青年はもはや餓死死体と見まごうほどにやつれ果てており、一方裏腹な姿がある。  渡し守の死骸だ。  流した血潮でやや青ざめてはいたが、むしろその頬に刷《は》かれた蒼味を帯びた翳りは、渡し守の容《かんばせ》に幽愁の美を添えてさえあるかのよう。己を損なった傷の痛みに気づかぬまま逝ったのか、渡し守はひっそり瞼を閉ざして、とても、そうとても綺麗な死に顔をしていた。 (生きているような死に顔というのは、  本当にあるんだな……)  連続する不可解の中に放りこまれて、感性もなかば鈍麻した築宮にあっても、渡し守の死骸については大きな不思議を感じていた。  敢えて触れて確かめてはいないのだけれど、墨染の衣に浮き上がる体の曲線は生前と変わらず柔らかそうに見える。それだって死後の硬直の後には続くという〈弛緩〉《しかん》とは異なる様相としか思われず、そもそも硬直が彼女の遺骸に訪れた様子がないのだ。  遺骸を取り巻く状況によっても変化はあるにせよ、通常死亡後二時間程で硬直は始まり、三〇から四〇時間程度で解け始め、九〇時間後には完全に弛緩する……などといった法医学的な時間単位の知識を持ち合わせぬ築宮にしても、渡し守の骸の様子は奇態に過ぎた。  傷口はおそらくはぼんのくぼあたりで無惨に爆《は》ぜ割れている筈だが、築宮は彼自身が刻んだも同然の傷痕を目にするのが恐ろしく、確認してはいない。その傷痕だって、まだ乾いてもいないのではないだろうか。 (ただそれだって―――)  と築宮は物憂く考える。こうして停止した時間の中では、渡し守の遺骸もまた死亡直後のままで留まるというのはいかにもありそうなことだ。  いずれにしても、なんと皮肉な対比だったろう。生者である築宮こそ半死人の有り様で、死したる渡し守の方が生きた者と変わらぬ〈瑞々〉《みずみず》しさを保っているというのは。  腐敗しない死骸というのは、吸血鬼伝承の起源の一つではなかったかと、全く関係ない連想に心が漂っていくのは、飢餓に思考能力が消耗しているからで、その連想だってとりとめもなく次から次と生じては流されゆく。  そして思考の迷走が途切れた谷間で、築宮を締めつけるのは胃の痛み。  飢えて収縮しきった胃の痛み。  もう体の中は空っぽで、胃だけが痛みを凝縮した革袋のようにぶら下がっている、そんな状態だった。  しまいには逃避できるような連想の種も尽きはて、築宮は胃の痛みから逃れるように目を閉じる。少なくともその間だけは、なにもかも忘れていられるだろうと念じての眠りにも、意味不明の悪夢が蠢《うごめ》きのさばりかえっていたのだけれど。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。 『大体旦那は、ちょっとでも優しくしてくれる女、よくしてくれる女は、手前ェを好いているのだと、そういう風に勘違いしちゃあいませんかい?』 「……痛いところを衝《つ》く。でも判らない。  たしかにそういう風に接してもらって、  簡単に舞い上がっているのかもしれない」 「……女性には、あまり慣れていないから」 『でしょうな。  ……もしあの鬼女が、始めっから、  あんたなんぞ、洟《はな》もひっかけなんだら。  それでも好きになりましたかね?』 「―――綺麗な人だ、とは思った事だろうが。なんとも言えません、それは」 『ほぉら、ね。  向こうからつついてきたから、  旦那の心も動いた。  ―――受け身なんです、あんたは』 『自分からは、踏み出そうとはしない。  今だって―――』 「今だって、なんです……?」 『――――――』 「俺が、なんだって―――」 『―――』  教えてくれと問いかける、その自分の声で築宮は目を覚ました。あの伝法な物言いを〈耳朶〉《じだ》に残して、渡し守は一体どこに行ってしまったのだろうと見回せば、ついさっきまで対面して言葉を交わしていたはずの彼女の、冷えた骸《むくろ》が横たわっているのみ。  それで築宮は、彼女と会話していたのは夢に過ぎなかったのだとぼんやり悟り、強い〈寂寥〉《せきりょう》に包まれた。  そうなのだ、もう彼女と話なんかできないに決まっているではないか。どれだけ生きた姿さながらであろうと、その体は命は無くした、文字通りの〈形骸〉《けいがい》でしかない。夢で逢いましょう、の文句は叙情的に聞こえるけれど、その相手は既に死して、もう夢でしか逢えないのなら、なんと残酷な事か。  ―――どうにも、肌寒い。  己の肩を抱こうと回した腕が重く鈍い、それだけの僅かな動きでもこきこきと節が軋む。  飢えが築宮の体温を奪い、体力の消耗が四肢を硬直させている。  飢餓のもたらす猛烈な胃の痛みはやや治まっていたが、消えたわけではなくしこりのように凝固して腹の底に〈沈殿〉《ちんでん》しただけ。この頃になると築宮は、終日けだるい倦怠感にうつらうつらしているばかりとなっていた。睡眠と覚醒の境も曖昧になり、外界からの刺激が殆《ほとん》ど皆無であるせいで、感情も〈著〉《いちじる》しく〈鈍麻〉《どんま》していた。むしろ夢の中の方が彼にとっては生々しく感じられ、目覚めとともに夢が去りゆくのがひどく寂しく、侘《わ》びしい。  そして、日も数えられなくなっている。飢えが注意力を奪い、時計の事を失念してしまっていた間に、ぜんまいが緩みきってしまっていたのだ。巻き戻そうとはしたのだけれど、もう正確な時刻が失われた以上、窓枠に日を刻むのも空しくて、ついそのままに。 (どちらにしても……。  日数など判らなくても……。  もう……じきだろうさ……)  青年は、いまや朦朧とした視界の隅が暗く翳るのを感じはじめていた。その翳り、暗い陰、死神の衣と同じ色の影。  こうして動かずに極力体力の消耗を防ごうとしたって限度がある。傍らに横たわる渡し守の骸《むくろ》のように、自分の生命が尽きはてるのもそう遠からぬ事だろうと、築宮は己の死を漫然と悟った。恐怖を感じるような心は既に麻痺し、無念と嘆きもせずに、緩慢に迫る死をどこか他人事のように思った(メメント・モリ)。 (―――すまない―――)  舌も満足に動かせず、心の中に辛うじてまとめ上げた言の葉を、彼女にと送る。  図書室の司書へ、旅籠で過ごした日々の中で愛するようになった女へ詫びる時、〈乾涸〉《ひか》らびていた感情が僅かに立ち戻る。  凍結した時の中で〈獄舎〉《ひとや》と変じた小舟に閉じこめられて以来、どちらかと言えば考えないようにしてきた。  思い浮かべてしまえば物思いは彼女にばかり向かうようになってしまう、もうここから動くもならない身では、思いが募《つの》れば募《つの》るだけ、切なく、苦しい。  彼女の顔、声、肌の感触、全てが狂おしいほどの〈渇望〉《かつぼう》をもたらし、殆《ほとん》ど肉体的な飢えと同じくらい築宮を苛んで、果てしなく。  もう逢えないのだろうか―――思えば駆け出したくなる。  今彼女はどうしているのか―――想えば鼻の奥がちりちりと、懐かしさに痛む。  けれども自分が、そんな風に彼女を求めるなど、もう許されない事だろう。  司書の願い、無くした片腕を取り戻してやる事もできない、力なく不甲斐ない自分。  そればかりか、人を殺めてしまった、〈咎人〉《とがびと》である自分。  どの面さげておめおめと彼女と会えたろう。  それでも逢いたいと、たとえ一目でもと、願いは涸《か》れたはずの涙に凝《こご》って、黒ずんで脂じみた眦《まなじり》に一雫と結ばれる。  たとえ人ならぬ鬼の女だろうが、愛する心はいささかも揺るぐところなく、その想いだけが築宮の霞《かすみ》がかかったような意識の中で鮮烈だった。 『逢いたいですか、〈彼女〉《あれ》と』 「逢いたいさ……答えるまでも……ない」  〈萎縮〉《いしゅく》した喉から押し出すように呻《うめ》いた時にはなんの疑問も感じなかったけれど、築宮はやがて〈怪訝〉《けげん》そうに渡し守の骸《むくろ》を眺めた。  ―――今のは?  間違いなく声を聞いた。  渡し守は死んでしまったのだから、口など聞けるわけはないのに、それでも築宮は彼女の問いかけに返事したのだ。  夢の中ならまだともかく、飢えで鬆《す》が入ったような頭とはいえ今は目覚めている。なのに声は聞こえた、確かに聞いたと思った。  まさか―――本当は渡し守は生命を取り留めていて、息を吹き返しつつあるのか!?  もしそうならば、自分はどれだけ救われるだろうと逸《はや》る気持ちで、横たわる骸《むくろ》へと身を乗り出して築宮、息を潜めて、揺らぐ視界を定めようとして、彼女の様子を窺う時間に、緊迫感が満ちる。  なにも、起こりはしなかった。  渡し守は死の眠りから蘇ることなどなく、冷たいまま。  がっくりと失望にくずおれた築宮は、自分は一体なにを期待したのかと自嘲する。  死者の蘇りなど、有り得ないではないか。  先程聞いた声だって、青年以外にそれが現実だと保証してくれる者はなく、 (これは……あれだ……) (幻聴……という……わけか)  いよいよ自分も危うくなってきたのだと、のろのろと身を起こし、これまでと同じ位置に座り直す。座りつづけて床擦れした、尻の痛みが多少の判断力を呼び覚まし、築宮はそう結論づけた。  もはやまともに考える事すら困難になっている自分だ。現実と夢、幻との境が溶けだしてきたのだろう。  遭難した登山者も、死の間際に幻覚、幻聴に見舞われると聞く。それと同じなのであり、つまり自分も――― 『そいつは、どうですかね』  ああまた、聞こえてくる。  答えていいものかどうか、迷う築宮である。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  飢えと渇きが―――戻ってきて。  麻痺していた以前に数倍する激しさで、築宮を苦悶の地獄に叩き落とした。  浅い眠りからやすやすと叩き出し、じっと座ったままでいる事も許さず、食物と水をと衰えきった青年を追い立てるのが、〈獄卒〉《ごくそつ》の鞭よりも〈酷薄〉《こくはく》な。  たまらず築宮は、のたくるように胴の間から這い出し、船縁から河面を覗きこんだのが必死なれば、水を掻いたのも狂乱の態、しかしいくら掻けども掻けども停止した水は無慈悲に指先を濡らすことほんの一雫だに無く、転げ落ちても構うものかと身を乗り出して、直に犬飲みに口をつけようとしたのだが、それもまた空しく、どれだけ吸いあげたところで唇を湿してもくれなかった。 「―――っ! ―――っ!」  どう叫ぼうとしたのか、築宮にも判らなかったが、声にもならずひゅうひゅうとか細い風が喉を鳴らすだけ、黄昏じみた空と凝着した水面が視界の中でぐるぐる〈翻展〉《ほんてん》し、築宮は危うく船縁から転落し損ねたが、いっそその方が彼にとっては速やかな死を、苦痛を断ち切る死をもたらして幸せだったかも知れない。  絶望になかば気が触れて、また胴の間に這い戻る、立ちあがる力はとうに失せて久しく、爪を立て膝でにじり、哀れな這い虫の如く。  けれど戻ったところで、なにか口に入れる物もあろう筈もなく、飢えて悶《もだ》えて畳にもがけば爪先に血が滲む、のたうち回ればあちこちに体を打ちつける、盲目的な怒りの発作に襲われ築宮は、がつがつとところ構わず額を打ちつけもした、その様は、古寺の絵巻にある餓鬼の哀れと異ならずして、青年は生きながらに餓鬼道に陥《おちい》りつつあったのだろう。 『……生きて、いたいですかい?』 「あたり……まえ、だ……っ」  幻聴であろうがなんであろうが、判りきったことを訊ねられれば怒りが湧き起こり、怒鳴り返した築宮に、更に問いかけの、 『それは、なんのために?』 『もう諦めましょうや。  旦那、前のことも忘れたまんま、  自分がなんなのか、判らないまんま』 『諦めて、いっそ、楽になっちまいなよゥ』 「いや、だ……っ」 「生きたい……生きて、  彼女と、もう一度―――!」  迫る死から逃れようと転がり回りながら、喚《わめ》く、叫ぶ、築宮の願いはただ一つ、向かう先は鬼女のもとへ、その想いがなかったなら青年は、とっくにこんな苦痛にまみれた生など手放してしまっていただろう。  畳に身を投げ出して〈煩悶〉《はんもん》するあまりに、どんと渡し守の骸《むくろ》に背を打ちつけてしまった時だった。重ねて問われたのは。 『―――欲しいかね。  なにか、飲むものが。  なにか、食うものが』  これは差し出す何かがあってこそ許される問いかけであり、築宮は一筋の蜘蛛糸に群がる亡者の一人のように、その声にすがりつく、がくがくと頷く。  飲むもの、と聞いただけで喉が水分を求めて脈打ち、食べるものという言葉だけで顎の付け根、唾液の線がきゅうと疼《うず》いた。 『……〈火鉢〉《ひばち》の引き出しを、  開けて、ごらん』  そんなところはとっくにあざいた、中には渡し守の小物が幾つか仕舞われていたきりで、口に入れる物の類など一切無かったのは築宮もよくよく知り抜いていたのに、飢えに悩乱して判断力が失われていた彼は、一片の肉に飛びかかる〈豚犬〉《ハイエナ》の目で、〈長火鉢〉《ながひばち》にしがみつく。震える指先で引き出した、どこ、どんな食べ物、さもなくば水の瓶と中味を掻き回すけれど、やはりありはしない、食物も飲み物も、どこにも。  失望のあまり絶叫しそうになった築宮の目が、不思議と引きつけられたのは、〈藤蔓〉《ふじづる》で鞘を巻いた短刀の、同時にまた声が。 『その、短刀で』 『あたしの胸を』  ―――築宮は、多分そのとき既に。  渡し守の声が何を告げるのか、悟っていたように思うのだ。  この時飢えの大波が、奇妙な事にすうと引いていって、心も一時の平静を取り戻した。  そこに響いた声が、静かに、穏やかに、 『切り開いて。  血を、啜《すす》るといい。  肉を、喰うがいい』  道に迷った少年を、優しく導く声。  思春期の青い悩みを、穏やかに諭《さと》す声。  母親の、姉の、幼馴染みの、隣の小母の、教師の、ありとあらゆる年上の女の知を宿した声だった。  とても判りやすい言葉なのに、見知らぬ異国の言語で囁かれたような戸惑いに、ゆっくりと青年が振り返る、そこには変わらず渡し守の骸《むくろ》が横たわり、横顔は午後の〈睡蓮〉《すいれん》のように白く、静謐を湛《たた》えてあった。  言葉の意味が染み通り、築宮はぺたんと腰を落とした、張りつめていた気がまるで抜けてしまっていたのだが、後ろ手にした指がいつの間にか短刀を握っていたのに気づく。  凄まじい衝撃があって、毒虫でも掴んだように投げ捨てようとしたのに、指は強張って離れず、それどころか振り回した勢いで鞘が払われて、剥き出しになった刃、冴え冴えと。  首を、振る、がくがくと築宮は、今聞いた言葉を頭から追い出そうと首を振り続ける。 「冗談だろう!?  そんな、あなたの体を、  そんなこと―――!?」 「そんなの、  人間のやる事じゃない!  いやだ、できるわけあるか!」  子供が〈頑是〉《がんぜ》なく駄々をこねるように拒む。  ―――死者の血を啜《すす》り、        その肉を、啖《くら》う―――  真実死者が語りかけてきているのか、一人空しく幻聴に反論しているのかもう築宮にとって定かではなく、どちらにしても、強烈な恐怖をかきたてる誘《いざな》いだった。  そう、誘惑、だったのだ。 『ならば、じきにくたばるだけでござんす』 『今は、いったんその空きっ腹も、  おさまっているやもしれねえが』  言う通り、凄惨な申し出が叩きこんだ衝撃のせいでか、青年の飢餓はひとまず収まっている。しかし癒されたのではない。麻痺しているだけで、胃の奥に凝固している飢えは、いつ目覚めて再び築宮に襲いかかってくるのか知れず、いずれにしたところでそれはそう遠くはない、そんな気配があった。  ただでさえ今しがたの水と食物を求めた狂乱で、なけなしの生命力はほぼ空費し尽くされて、背筋にへばりつき手ぐすねを引いている死が、築宮には実感として意識されてある。 『すぐに……来ますよ』  何が訪れるのか明らかに言われずとも築宮だって判りきっていて、それを予感しただけでも絶叫しそうになる。  ―――厭だった。  腹が空いてきりきりと痛いのも、喉が渇きにひりつくのも、頭痛と〈目眩〉《めまい》で頭がどうにかなりそうなのも、全て、厭だった。  ―――恐ろしかった。  このままなにも飲めず食えず、司書と一目相《あ》い逢《お》うこともかなわず死んでしまうのが、なによりも恐ろしかった。  そしてその時は秒一秒と、指の間からこぼれ落ちて失われていくのだ。  恐怖の満ち潮の前に逃げるもならず、波は早《はや》ひたひたと迫って顎先まで、ひたすら怯え、たじろぎ、弱々しく首を打ち振る築宮へ、 『今度はもう。  動くことも、できなくなる』 『それが最期、さ』  ふっと。  飢えも恐怖も消えて、肉の重みが失せたように、唐突に体が軽くなった。  渡し守の無情な宣告に、とんと背中を押されたように。  踏み出した築宮の眼差しは、渡し守の遺骸のみを見つめていて。  握る力も失われていたはずの手は、錆も曇りもなく澄んだ短刀をしっかりと掴んでいて。  ―――その時の築宮を責める者は、  カルネアデスの舟板にしがみついた水夫を、  カンビュセスの〈籤〉《くじ》を引いた兵士たちを、  漂流する良栄丸の船員達を、  等しく責めなければならない。  極限の飢えに苛まれ、死の闇淵の縁に追いこまれた者達を責められるものなら。          ぴちゃぴちゃと、湿った音。          くちゃくちゃと、粘つく音。          こり、こり、と、硬めの音。       ―――築宮が我を取り戻したのは。    大きくはだけられ、横たわってなおふっくらと円《まろ》い渡し守の乳房、墨染の衣と肌の白の織りなす鮮やかな陰翳、を、目の当たりにした時だったろうか?  それとも―――もう振り上げる力もなく衰えていた筈の腕が、鋼の白刃を軽々と振り翳した時だったのか?  違う、違うのだ。  築宮が人心地を―――それを『人心地』と言っていいものなのか、どうか―――取り戻したのは。  他に例えようもないほどの、歓喜と悦楽に包まれて、だった。  乾ききって張りつめ、破れる寸前の喉に潤《うるお》いを行き渡らせ、存分に飲み下す、言いようもないほど喜びの中で。           ぴちゃぴちゃと、湿った音。    縮み、いったん緩んだけれど、前にも増した飢餓にまた収縮して、よじれ強張った革袋と化した胃を満たす、この上ない幸せの中で。          くちゃくちゃと、粘つく音。    噛み千切り、噛みしめ、舌で舐めずって、味わい尽くしてなお飽きたらぬ、かつて味わった事のない程の甘美の中で。          こり、こり、と、硬めの音。    我を取り戻した築宮の。  漏らした満足の吐息は腥《なまぐさ》く、  口元を拭った手は脂にぬめり、  〈襯衣〉《シャツ》の襟元は斑に染め抜かれ、赤い―――  つい先刻まで、死にそうなほど渇いていて、餓えていて、苦しかったのは、本当は幻でしかなかったのかと疑わしくなるくらい、満たされきった築宮の、なにげなく見下ろした眼差しは子供のようにあどけなく、無垢な光を湛《たた》えていたけれど、そこに。  墨衣の黒と肌の白の簡素に加え、沢山の色が散らばっていた、ぶちまけられていた、〈氾濫〉《はんらん》していた。  それは。  血潮の赤であり、  肉の桃色であり、  脂《あぶら》の薄黄色であり、  骨の黄白色であり―――  爆ぜ割れた柘榴?  〈調色板〉《パレット》に捻《ひね》り出され捏《こ》ね合わされた沢山の絵の具?  否、否、それは単に、      斬り裂かれ        斬り分けられた   渡し守の肉体なのだった。 「あれ……?」  何故渡し守がそんな有り様を晒しているのか、訳がわからなくて築宮は、鼻から抜けるような間抜けた声を漏らした。  そして血に濡れ、爪の間が肉の脂で粘つく、自分の手を不思議そうに握ったり開いたりした。  臭いは後から追いかけてきて、鼻腔を満たし口腔に漂った。  この腥《なまぐさ》いのが、血の匂いなのだと、生の肉の味なのだとゆっくり意識が定まっていった時、喉の奥にこみあげたのは、濃く酸い、得体の知れない固まり。  ……得体の知れぬもの、などであるものか。  渡し守の血ではないか。肉ではないか、細かな骨片ではないか。 「ぅ……ぶ……ぇ……っ……」  我を見失い、貪り喰らっている間はあれほど甘美だった血潮と肉は、一体なんの物だったのか、誰の物だったかを知れば、耐えられないほどの腥《なまぐさ》さと粘ついた舌触りで口の中に蘇り、たちどころに恐慌の暴嵐にさらわれて、えずきとともにぶちまけそうになったのをぴしり抑えた声、〈厳然〉《げんぜん》としてたしなめる声。 『おやめなさい、〈勿体〉《もったい》ない』 「っぐ、あ、あああ……っ。  俺は……俺が?  あなたをこんなにしたのは、俺―――」 『旦那の他に、誰がありますかってェの』  吐き戻しそうになった喉元は、機を逸《そ》らされて意地汚く飲み下してしまい、奇妙にくぐもった音を鳴らす。  それでもぐるぐると腹鳴りする、腸《はらわた》の中味がなんなのかと思い知らされた今、築宮は〈煩悶〉《はんもん》し頭をかきむしったところへ、かかった追い討ちが容赦ない。 『大体こんなにたいらげといて、今さら腐った魚《うお》でも食ったように、吐き出そうなんて、あんまりじゃないか』 『食い散らかされたあたしが、  可哀相ってもんでござんしょ?』 「う、ああ……ああ……」  溜息は絶望に濁《にご》り、押し出された呻《うめ》きは小石を転がしたように頼りない。  畳は新たな血にまみれ、胴の間には濃密な血臭でむせ返るくらいの、膝元には剥き出しの短刀、血と脂に鋼は濁《にご》り、そして築宮に貪り喰われ、虚《うつ》ろに損なわれた渡し守の骸《むくろ》が無惨の相を晒している。 「俺は―――  ―――喰ったんだな」 「人の、肉を」  腹は満たされ、飢えと渇きも癒された、これで暫くは生を繋ぐこともできるのだろう。  だが築宮の〈裡側〉《うちがわ》には、満たされたどころか途方もない喪失感と、暗く深い絶望が広がっていた。  かつて救ってくれた人を殺めたのみならず、その血肉を啖《くら》ってまで生にしがみつこうとする自分は、最大の禁忌を重ねて犯した自分は、いったい何者なのだろう。少なくとも人間を名乗る事は、もう許されまい。  人としての在りようを自ら投げ棄てた、築宮の絶望と嘆きに呼応してか、障子の外で黄昏めいた光が翳り、暗さが増して、胴の間の中も輪郭が曖昧に溶けていく―――  中に、一人、ただ一人、築宮、血肉にまみれた貌もまた、暗がりに沈んでいくのだった。 『ええ、喰いました、喰ったとも。  ……あの女と、同じようにね……』  ざぶざぶと水を濯《すす》ぎ、絞って、ぱんと雫を振り切った響きが障子戸の向こうで小気味よい。  障子に影が差したかと見えればするすると繰り開かれて、上枠にひょいと腰を屈めながら、渡し守が割れ般若の面貌を覗かせて青年に差し出してきた。絞ったのを広げて畳んだらしい、皺《しわ》が寄って湿気った〈襯衣〉《シャツ》なので。 「干しもせず、絞っただけですから。  湿気っぽいが、まあ着てりゃ、乾くでしょう」  ハイと手渡され、築宮はやや迷ったけれど肌着姿を人目に晒すのも気恥ずかしく、水気を残した〈襯衣〉《シャツ》に袖を通した。  その冷たさが、なんだか気持ちにしゃんと活を入れるようで、築宮ははて自分はうたた寝でもしていたかと訝しくなる。  〈午睡〉《うまい》に誘い出されても仕方ないくらい、小舟の揺れは〈長閑〉《のどか》で、大河の上には〈明礬水〉《どうさ》で〈肌理〉《きめ》を積んだような高曇りの空が広がってはいたが、うかうかと居眠りこいている場合ではない。  築宮は、渡し守と直談判するために小舟に乗りこんだのだから。  図書室の司書、鬼女の喪《うしな》われた片腕は、如何なる子細があってかは知らず、ただ渡し守がそれを斬り落としたと聞き及んだ。  鬼女の願いでそれを求め、旅籠の中をやつれるほどに探しあぐねた築宮は、手がかりを聞きつけたはいいものの、果たして渡し守が肯《うべの》うて教えてくれたものかどうか、大いに危ぶんだという。  なにしろ渡し守は、築宮と鬼女が深く交わる事をはっきりと否《いな》み、苦々しげな〈諫言〉《かんげん》までよこしてくる始末なのだ。  それでもどうにかして聞き出してこなければならぬと、そう心に堅く念じて面会を請い、小舟の胴の間にて向かい合ったのが、つい先程のこと―――とそう思われたのだが、築宮は奇妙な違和感に苦しんでいた。  なにか、記憶が脱落しているかのような。  なにか、時間の経過に乱れが生じたような。  大体にして、面と向かいあっていた筈の渡し守が、何故洗い物などをしているのだろう。  築宮の内心の疑念を見透かしたか、 「平気ですよ。この河の水は綺麗でね。  お女中連も、洗濯物に使ってまさあ」 「いや……俺が思ってるのはそんな事じゃなく……なんであなたは、俺の〈襯衣〉《シャツ》、洗濯なんかしてるんです?」 「そりゃあ、ひどく汚れちまったからに決まってる。まあ、綺麗に落ちましたが」  確かに彼女の言う通り、あちこち引っぱって確かめてみても、生乾きの布地に汚れ染みは見えない。  しかしこの〈襯衣〉《シャツ》は、つい昨日お手伝いさんが洗って干した物を届けてくれたばかりあり、それを改めて濯《すす》がなければならないほど汚した覚えといってはない築宮は、どうにも腑《ふ》に落ちない現実感のモアレを内心に感じつつ、改めて正座の膝を正した。  今はそんな些末事を云々している場合ではないのだ。  気を取り直し、どう伝えれば話を聞かせてくれるのか、言葉を練り始めた築宮へ、 「……旦那がなにを言いに見えたのか、  察してるつもりだが」 「その前に、一つ訊いておきたい。  あんたが好きになった、あの女が、  ―――何者、なのか」 「旦那はそれを、本当に知り抜いた上で、  あたしンとこに参られたので?」 「―――え?」 「旦那が好きになったのは、  鬼の女だと、そう言っている」  ……沈黙に言葉が締め出された、そのしばしの間に渡し守は銀煙管に刻みを詰めて、〈長火鉢〉《ながひばち》の炉の埋もれ火で火を点《とも》す。  紅い唇が吸って、緩く押し出した紫煙が、二人の間の沈黙にふわりと渦を巻くのを眺めるともなしに眺めて築宮は口火を切る。 「それはもう聞いた。何度も、あなたから……それ以外の口からも」 「なら、そういう女を好きになっといて、  旦那はてめえ一人だけ―――  人間のまんまで、いるおつもりなんで?」 「――――――!」  あくまで静かな声音での問い、なのに築宮は研ぎ澄まされた刃を宛われたように、胸元が冷える心地したのだった。  今まで、考えてもみなかった事だったから。  司書、鬼女が青年に寄せる風変わりな愛情が、彼が人間であるなしに左右されるものかどうか、そんな観点から考えた事もなかったのは無理からぬ話、しかし果たしてそれでよかったのだろうか。  築宮の心が揺らぎ出す。  愛する者の心を理解したいと真に願うのなら、その者と同じ領域に立とうとする事も必要なのではなかろうか。  これまで築宮は、彼女と共に過ごしてきた時間の中で様々な怪異譚を経験してきた。  ただそれだって、受け身に巻きこまれるのが常であり、青年が自ら求めた事でない。  そうして人ならぬモノ達と向き合う機会多かったくせに、自分からは妖しの世界に踏み出そうとはしなかった青年を、もしや鬼女は歯がゆく思っていたのだとしたなら?  顧《ふりかえり》みれば己の勝手さ加減に、身につまされるような気持ちになる。  が、だからといって、あくまで〈人間〉《じんかん》に生きる築宮が、そうたやすく人外の世界の住人に成り変われるものでもあるまい。  そう、人が人である事をやめるといったところで容易ではなく、いかなるやりようがあるというのだろう。  自分はどこまでいったって、人間でしかないのだから―――と胸の裡で呟いて築宮は、ぎくりと肩を震わせた。  ―――人間でしか、ない?―――  その通りだ、自分はそれ以上でも以下でもない、ただの人間だ。 なのに、なんだ?  心にそう念じた時の、口に〈苦蓬〉《にがよもぎ》の汁を流しこまれたような、この罪悪感は。  罪を犯したと知り抜きつつも、潔白を主張するにも似た、この息苦しいほどの疚《やま》しさは、なんだ?  果たして自分は、自分が人だなどと、人がましいことを吐けた身体なのだろうか―――  この由来不明の罪悪感をよそに、口は勝手に何事か賢《さか》しげな事を言い返そうとしたのだろうが、向かい合う渡し守の姿に、二重に露光された印画紙の映像じみて、もう一つの姿が重なった。 「鬼の女を好いておいて、てめえは人がましい口をほざくおつもりなのか、ねえ旦那?」  そう、伝法な言葉で、けれど〈真摯〉《しんし》に問いかける渡し守と重なって、死して横たわる姿が、〈瞑目〉《めいもく》したままのかんばせが、 『その、短刀で』 『あたしの胸を』 『切り開いて。  血を、啜《すす》るといい。  肉を、喰うがいい』  と、そう囁きかけて―――  口中に、濃密な匂いと舌触りが、一気に蘇って、その味に築宮青年は己の喉が不気味に〈蠕動〉《ぜんどう》するのを聴いた。 (そんな……あれは……幻……、だってこの人は今こうして、俺の前にいて―――) (でも、それならこの味は。感触は……!)  ―――そうですよ―――  と、時に異様に冴えたり朧気に霞《かす》んだりと、不気味にぶれ始めた視界の中で、二重写しの渡し守の、そのいずれもが声なき声でひっそりと頷いたようにさえ思われた。 「美味しかったですか、あたしは」  その〈示唆〉《しさ》するところを悟った築宮の、総身の血が一気に引いていく。  今、口をきいたのはどちらだ……幻のほうか、それとも現の彼女か、いや、幻とは、現《うつつ》とは、その境とはどこにある―――  蘇る記憶、溢れ出す飢餓の物語。 「まさか、あなたは……いや、俺は、あなたを……あなたをォ!?」 「……喚《わめ》くない、みっともねえたら」 「はっは、どんな心地でやすかね? 人の倫《みち》に外れた気分てぇのは」 「でもあれは幻……本当に起こったはずがない。だってあなたはこうして生きている……」 「ウツツだろうがマボロシだろうが、そうすることを選んだなぁ旦那だ。そいつに間違いはねえ」 「それに―――旦那の服を洗ったなぁ、あたしの返り血に汚れていたからだ、と言ったなら……?」 「うあ……うあああああああっっっっ!!」 「―――うろたえるんじゃない!」  ぴしりと。化け物のような恐ろしい貌で。 「それが、あの女のやってきたことだ。  そしてそれが、お前のしたことだ」 「もうお前も、あの女と同じなんだよ」 「さてどういう気分かな……?  人食いの……築宮 清修―――」 「俺が……俺は……あの人と同じ……」 「もう、踏み出しちまった一歩。  そいつをこのまんま進むか、引き返すかァは、旦那が決めることですわい」  口調が戻って。 「ま、これで少しゃあ身に沁みたでしょうよ、あの女と好き合うってのが、どんな事か、さ」 「…………っ、あなたは、ひどい、人だ」 「なんとでも」  築宮、もう耐えきれず、胴の間を出て小舟を降りる。  ふらふらと桟橋を歩き出すその背中に、投げられた言葉のある、いや、たとえなにを言われようと今の築宮には届くまい、の、それほどまでの衝撃に包まれているはずが。  ―――その言葉だけは、耳に明《あ》けく響いたのだった。 「……時計、ですよ」 「旦那に預けた、その〈銀側〉《ぎんがわ》の懐中。それな、もともと部品が足んなかったんです。時間のほう、短い針の方がなくなってた」 「あたしは、あの女の片腕を、その無くなってた針の代わりにしてやった」 「だから腕は、旦那があんだけひつっこく尋ね回ってた鬼女の片腕は―――」 「ずっと旦那が、持ってたんですよ」 「……性の佳い白銀は、鬼の目さえ欺《あざむ》く。  あの女にゃ、わかンなかったようだが」 「!?」  振り返ったが、小舟は〈舫綱〉《もやいづな》を解かれ、大河に漂いだしたところだった。  時針が司書の右腕だとわかったとたんに、懐中時計は重さが増したように思われて、ただでさえ疲れ果てていた築宮青年の体力を著しく削いだが、それでも〈奮起〉《ふんき》して運んでいく。  〈藁屑〉《わらくず》のようになった脚と心とはそれとして、それでも司書の願いを叶えてやれたことが嬉しくて、〈意気揚々〉《いきようよう》と扉をノックし、腕を見つけた旨《むね》を告げると、待つことしばし、そのしばしが青年にとってはどれだけ長く感じられたか―――それでも司書は、遂に迎え入れてくれたのだった。  ……司書が酒を勧めてきたのは、青年が瞳ばかりを達成感にかぎろわせ、けれど目元をここ数日の疲労で薄蒼くこずませていたのを気遣ったのであろう。 「まずは一口、お呑みなさい。  〈回生〉《きつけ》がわりに、ね」  司書が勧める、アール・ヌーヴォー調と思しき花形杯を手にし、書物と東西諸々の奇品・珍品満載の部屋の主は、二人の間に机に置かれた、〈銀側〉《ぎんがわ》の懐中時計と、次いで青年に視線を置いた。  女の色の深い眼差しを誇らしく見つめ返し、するうち、築宮は含んだ酒のせいだけではない深い感慨が体の底から満ちてきて、その圧力に軽い〈目眩〉《めまい》を覚えて目を伏せる。 「まさかね……本当に、探してきてくれるなんて。おまけにそれが―――」 「貴方がいつもぶら下げていた、その懐中の中にあったなんて」 「あの人の〈諧謔〉《かいぎゃく》には、時々私でさえ、担がれる、毒気に当てられる……」  優雅な怠惰とも見える〈挙措〉《きょそ》の端々に、長の歳月と様々な出来事を見尽くして深い眼差しに、完熟した女が潜んでいる。  これは、この女は―――やはり魔物だ。  この女が身に帯びているのは、出来事に漉《こ》され、多くの人血を呑み干し、異域に棲む魔性の〈玲瓏〉《れいろう》に他ならん。  けれども自分が、あの渡し守の小舟での、幻とも現《うつつ》ともつかぬ飢えと〈破戒破倫〉《はかいはりん》に身を墜としても、秘められた真実を持ち来たったのは、この鬼の女に再び相まみえるためだったのだ、と築宮青年は銀の懐中時計を彼女へと押しやった。 「俺は……正直あの人が、よく判らない。  鬼女だという、貴女よりも畏《こわ》い女性だとも想う」 「それなのに、時に他の誰よりも優しい。  あるいは……貴女とあの人は、似通っているところがあるのかも知れない」 「そう、かも知れない。  だからお互い、なるべく近寄らないようにしているのよ」  司書は僅かに溜めた苦笑を、見ようによっては憂えているとさえ思えるくらい真剣な眼差しに替えて、懐中時計を受け取り、蓋を弾いて〈風防〉《ベゼル》の〈硝子〉《ガラス》局面をまさぐれば、ぱちんと。  力を入れた様子もないのに〈風防〉《ベゼル》が外れて針が露わになる。  脆い花の蕊《しべ》を摘《つま》むように時針を外し―――司書は、義手を外して針と切断面を合わせた。  すれば、見よ―――  どう考えても太さ、長さが合っていないのに、司書が触れたと見るや針は大きく膨らみいき、金属の質感は女の肌の絖《ぬめ》へと変じ、時を示す針の先端は指先を揃えた手へと。  羽化したての〈蜉蝣〉《カゲロウ》の〈翅脈〉《しみゃく》が展開される情景の時を縮めたように、相応しい長さ、太さに収まる、もう、継ぎ目も見えない。  司書はしばらく右腕を軽く押さえていたものの、じきに完全に繋がったらしい。軽く掌を握ったり開いたり、の。  青年に振る舞われたのは、良く熟《な》れた葡萄酒で、舌の上で滑らかに溶けるように〈酒精〉《アルコール》は優しかったが、目の前の情景に急に酔いが呼び覚まされる心地した、という。 「ああ……ああ……私の腕。本当の腕。  あの人が返してくれることなんて、考えられなかった」 「……この義手も、ご苦労様だったわね。  長いこと、役にたってくれたもの……」  と外した義手をやさしく撫でて、そして戻ってきた左腕をかき抱いた。築宮にしても初めて聞いたほどの、深い情感に満ちた声音で。 「嬉しいのよ、本当よ。  ありがとう、貴方。  心根からの感謝を、貴方に捧げます」 「けれど、どうしよう。  ……ああ、どうしたら」  戻ってきたばかりの腕を確かめるように杯を取る仕草に、長らく生身の手を使っていなかった危うげはない。  杯に光が反射し、透過し、曲折して生き物のように燦《さんざ》めいた。白い手の中で〈硝子〉《ガラス》の冷たさと葡萄酒の赤が微妙な階調に揺らめき、静まったかと思えばまた、甘やかな旋律を奏しはじめる。  だが杯を眺める司書の顔に去来していたものは、左腕の喪《うしな》われていた日々と、還ってきた今日との、切なさやるせなさ、喜びと充足感だけでない、もっと物想わしげな、いや、いっそ狂おしいと言っていい。 「なにをそんなに、悩ましげな貌を……」  築宮青年にしても、司書の歓喜は自分のものと同じに喜ばしい。これで自分が、また司書と一緒にいられるようになるのだから。人外ではあれど、約を違えるような女とは思われなかった。  しかし、司書は〈懊悩〉《おうのう》も露わに椅子を引き、築宮青年から距離を置いたのだった。 「腕が戻ってきて、もとの私に戻って」 「戻ってきた腕の分だけ、そして貴方への気持ちが膨らんだ分だけ」 「私ねえ―――その分、余計に貴方のことを食べたくなったみたい」 「本当に取り戻してくれるなんて、思わなかったのに―――」 「ねえ―――食べさせて。  ほしい。貴方が。  もう気持ちが抑えられない―――」  炎が。瞳に灯った。  魔の異域の中に身の裡《うち》を馴らして御《ぎょ》してきた女の、魔性が、不意に瞬時に目覚めて彼女の全てを支配していた。  女が、飢えきって、想い人を求めるように、青年を見つめている。  魔が、愛おしく、獲物を舐めるように、青年を凝視している。  さてもこの魔の中にあっては想い人と獲物に差違ははなく一つものなのだと、築宮青年は完全に悟った。  もしや渡し守は、こういう事態を予想して自分に司書の片腕を託したのだろうかと邪推するが、今さらそれをどうこう言い立てても始まらない。  この女と共に在りたいと願うならば、文字通り我が血肉を捧げるほかになく、それができないのなら彼女への思いを断ち切り離れるしかないのだろう。  青年は最後の選択を突きつけられて――― select  ああ―――  ああ―――  なんてことだろう。  冗談じゃない。  本気なのだ。  一切の混じりけなく心の底のさらに深く奥底から。  俺は―――  こんな女に。人間でもないこの鬼に。  喰われてしまうというのか。 「――――――」  青年の沈黙は長く、司書は、垂れこめた無言の果てに、そっと頷いた。  限りない優しさと、心からの愛情をこめて。 「お行きなさい」 「なんだったら、その一杯を呑むまでは、待っていてあげる」 「けれど、その後は、ここから出て自分のところに戻るのよ」 「まだ私が、我慢していられるうちに、ね。  今だったらまだ、貴方のことを愛したまま、見送ることができる」 「―――楽しかった。幸せだった。  今まで貴方と過ごせて」 「その記憶だけでも、充分すぎるのは判っているの。でもね、貴方」 「私は、鬼だから。人食いの、魔物だから。  好きになった人を食べてしまわずには、いられない」 「ひもじくって、お腹が減って、渇いて、たまらなくなってしまう」 「そして貴方は、人だから」 「人にとって魔物というのは、どうしたって、離れているか、向かい合って退治するしかないものだもの」 「それが古くからのならい、〈約定〉《やくじょう》。  お互い、その取り決めに従っておきましょう―――ね?」  告げて杯の残りを口に含んだのが顎《おとがい》をほとんど反《そ》らしもせず、喉の肌も見せない淑やかさで、諭す司書は弟を見守るような、年下の恋人を慈《いつく》しむような、大いなる慈愛に満たされていたけれど。  築宮青年には、彼女の愛は深ければ深い分だけ、飢餓と分かちがたく結びついていると、判ったから、判ってしまったから。 「それでも―――俺は、ここにいる」 「貴女の言葉を全て聞いた上で、それでもこうして、ここにいる」  言い終えた時、築宮青年の口元には微かな、けれどきっぱりした微笑が浮かび、束の間姿を留めて消えた。  ああ。  ああ。  なんてことだろう。  俺は、この女に。  冗談ではなく。心の底から―――      ―――喰われてやってもいい。  青年は、立ち上がり、机を回って司書の肩を抱きしめた、想いの限りに、何時までと我が裡《うち》に問いかけながら。  何時までなのだろう。  司書の中で目覚めた魔性が、自分を食い尽くして何時まで満たされているか、それは判らない。  差し出された愛しい贄《にえ》を、そこからもう一雫の生気すら汲み出せぬまで貪りつくした時鬼女は満たされよう。司書室は血の匂いを帯び、愛の喘《あえ》ぎと快楽の〈歔欷〉《きょき》と情の涙のうちに過ぎていく。  濃密な香りが部屋に籠もり、淫靡な時間がたゆたい、濃く煮詰まって壁に収蔵品にしみこんでいく。  そして司書の飢えは一時眠りに就く事だろう。次なる愛を見つけるまで。  それが何時になるのか。己の血肉で司書を何時まで満たしてやれるのか。  飢えは司書の本性であり永遠に満たしてやれる事などできないと知りつつも、それでも築宮は、今この時彼女になら、良いと心が凪《な》いで据わった。  この女になら、喰われてやっても良い、と。 「貴方は―――そうなの?  信じてしまっても、いいのね?」  この女にしては珍しい、望外の贈り物にむしろ怯《ひる》んだような、無防備な戸惑いの相を浮かべる司書に、築宮は皆まで言わせず微笑みで頷きかけて、肩を抱いたまま机の酒瓶に手を伸ばす。 「改めて、乾杯したいな」 「このワインはとても美味しかった。  貴女と一緒にもう一度、呑んでおきたい」  最後の杯になるのは判りきっていたけれど、敢えて口に出さずにおいたのは、この不器用な青年にしては上出来な作法だったろう。  二つの〈硝子〉《ガラス》が触れ合って透き通る硬質の響きを生じさせる。  杯越しにお互いの眼差しの中に揺らめきを見てとり、二人は同じ言葉を想っていたのだ。 「あなたを愛している」―――と。 「もしかしたら貴方は、やっぱりどこかで後悔しているかもしれないけれど」  青年が横たわる白い裸身に覆いかぶさっていく時、司書はぽつりと呟いた。 「でも私は、今までで一番、嬉しい」  心の底深くから浮かんできた泡のような言葉に、青年は思わず彼女の瞳を覗きこむ。 「これから食べられてしまう貴方に、そんな事を言ってはいけないのでしょうね、本当は」 「でも私は―――」 「いいんだ」  深く〈瑞々〉《みずみず》しく、宝石をとろかしたように瞳を潤《うる》ませる司書に、そっと口づけした。 「……んっ」  いたわるように、司書の思いを包んでやるように、優しく唇を重ねる。 「それに俺は、貴女の飢えが、少しは判るような気がする」  あの渡し守の小舟での漂流は、たとえそれが現実に起こったことであろうがなかろうが、味わった飢餓は青年にとってはまぎれもない実感、記憶として残り、思い返せば司書の腕に抱かれていても〈慄然〉《りつぜん》となる。  司書が青年と向き合うとき、常にあの飢えと同じ責め苦に苛まれていたとしたならば。  築宮は、いたわしさに胸が塞がれた。 「うまく説明できないが……俺は、貴女にあんな辛い気持ちをさせていたんだな」 「……貴女には、ずいぶんとたくさんのことをしてもらった。  だから俺は、貴女になら」 「―――ずるいわね、貴方は」 「そんなに優しいのって、時々残酷よ?」 「そう言われても……」 「甘えたくなる。  そして、ますます欲しくなる」  今度は司書の方が顔を浮かすように口づけを求めてくる。 「―――構わない。俺の気持ちは、もう決まっているんだから」 「ただ、俺みたいな、自分の事さえ……過去もよく判らない男が、貴女みたいな女性にそこまで想われている、ってのはなんだか気恥ずかしいな」 「ばか……卑下た物言いはおやめなさい」 「私にとっては、貴方が、今一番欲しい男の人なんだから」 「それにね、貴方は自分で思っているよりずっと……素敵な人よ……ん……」  頼りなげな物言いを塞ぐように唇を降ろしてくるのに築宮も応えて、触れ合わせるばかりだった口づけは、やがて舌を絡め合わせて深いものとなる。  息を通わせる口が、言葉をつむぐ舌が、今はただお互いを求める器官となる。 「ちゅ――む、じゅ……」 「ふ……ぅ」  ―――もう、雑然とした司書室の景色も、喰うの喰われるのの〈経緯〉《いきさつ》も、全てがなにもわからなくなりそうだった。  ただ味覚を感じる器官でしかないのに、舌と、口内の粘膜に触れ合わせるだけで、二人はたかまっていく。 「ん、んぅ……っ」 「あむ……ふぅぅ」  自分のものではない、舌先のざらつき、唾液のとろみ。  通う息の甘やかな匂い。  愛した女の、と思うだけで、天井知らずに心の内圧が高まっていく。 「んく……んっく……」 「は……ん……こく――」  司書の舌を引き寄せ、唾液を吸いあげる。  唾液の交換という、普段なら眉を潜めてしまいそうな行為にも全然抵抗がない。  舌先でお互いの唾をすくいあい、呑みこむ。  抵抗どころか、積極的に体液を混ぜ合わせながら、彼女に溺れていく。 「貴方―――こんなキス―――」 「私―――もう、おかしくなりそう―――」 「俺もだ―――いい?」  剛直は脚の間で重く張りつめ、滴らせるほどに腺液を分泌させている。  司書も吐息を荒げ、築宮の下で切なげに時折身をよじらせる。  確かめ合うまでもなく、お互いがお互いの肉を求めているのがわかったが、築宮はそれでも司書が頷くのを待った。 「……はい。私も、欲しい」 「……ああ」  もどかしく司書の脚の間に身を割りこませ、剛直を押し当てて入り口を探った。  尖端の動きに合わせて舌肉が左右によじれる。その僅かな動きだけで蜜音が立つ。 「あ……っ、いやらしい音、してる……」  既に熱く潤《うる》んでいたそこは、尖端に掻きだされ、ますます濃く蜜を滲ませていく。  見つめ合うのが気恥ずかしくなったか、伏し目がちにふと顔を、下のほう、繋がろうとしている部分に向けたが、唇がかすかにわなないた。  何度となく肌を重ねた青年の、雄の器官なのに、まるで初めて目にしたモノのように。 「貴方の……前の時より、大きくなってるみたい……?」 「……昂奮してるんだ、俺だって」 「これから貴女にその……食べられてしまうんだろうが」  青年、やや言い淀んで、 「それでも、また貴女と抱き合えるってことには変わりないんだから……」  自分でもこれほど浅ましくいきりたっているのが気恥ずかしく、それを隠すように司書の頭をかきいだいてもう一度、唇を奪った。 「あむ……っ? ん、ん、んぅ……っっ」  がむしゃらに舌を暴れさせてひとしきり、最後に長く吸いこんでから、ようやく解放すれば司書の喉がかすかに風の音を立てた。 「は……ふぅ……ぅ」  見開かれたままの瞳がぶれている。  息と一緒に心まで吸いだされたように。  その瞬間を逃さず、司書の入り口に尖端を押し付け、腰に力をこめた。 「は―――う―――?」  押しつけられた尖端の熱にとまどったように、司書の体が弱く痙攣する。  けれど男というのは、もうそれで止められる生き物ではない。  司書の肩口に顔を埋めて―――貫いた。  くぷり、と尖端の前で熱く柔らかな肉の輪が開く感触―――浅く潜らせる。 「あ、あ―――っ」  司書が言葉にならない呻きを、吐く。  言葉を為していないのに、心の大事な芯を奪われるように切なく、そして―――美しい音色。築宮の理性を溶かしていく声音。  幾重にも重なった柔肉が、築宮の形に合わせ、きつくくるみこんでいる。  その甘美、軽く尖端を突き入れて、じっとしているだけなのにたまらない。おそらくこうしているだけでも、程なく絶頂を迎えてしまうのではないかと危ぶまれるほど。  なら、じっとしていたくない、思いきりねじこみたい。 「……最後まで……入れるよ」  答えも待てなくて、一息に押しこんだ。 「あ……あ……か……ふ……」  築宮が押し入っていけば、白い喉を反《そ》らして身を硬くする。  その、陰翳をたたえた肌は、血と肉が通っているというのが信じられないほどに、なにか超越したような美しさ。  繋がっているところは、こんなにも熱いのに―――  ふっと吐息とともに司書の体がゆるんだ。 「……少し……痛いくらい……」 「もう……貴方のがあんなにおおきいから」  咎めると言うより、冗談めかし笑みさえ浮かべ司書は青年の首をゆるくかき抱く。  青年の逸《はや》る心をあやすような、深味のある優しい〈抱擁〉《ほうよう》だったのに。  それなのに築宮は、司書が少し顔をもたげてみせた、その体の動きに連動して収縮した膣内に凄まじい快感を覚えてしまっていた。 「だめだ……止まらない……っ」  言うより先に腰が動き出す。  抑えられず、快感を求めて、ほとんど勝手に律動し始めてしまう。 「いいの……く、ふ……貴方がしたいように、ふぁっ、あく……」 「強すぎたらすまない……でも、気持ちよすぎる、から……っ」 「あぁ……嬉しい―――  貴方が喜んでくれるなら、んぅ、あっ、  好きなだけ、好きなように―――」 「私も……はぁぁ……気持ち、いいから」 「そうか……なら、もっと……んんぅっ」  あまりの快感に、呻《うめ》く声に理不尽な怒りさえ混じってしまう。  もっと司書と高め合いながら繋がりたい。  そう気遣う思いもあったけれど、快楽を求める雄の性の猛《たけ》りの前には無力だった。  抑えようと思いながらも、腰が勝手に動く。  少しでも強い快感が欲しくて、きつく〈蠕動〉《ぜんどう》する膣をむさぼり、突いて、責めたててしまうのだ。  深くつながったままの部分が、抽送の度によじれて形を変える。 「んうぅ……っ」  切なげな声を聞きながら、腰を動かす。  きついくせにどこか優しいともいえる甘美な締めつけがぬるぬると剛直にからむ、吸いついてくる。その快楽に夢中になる。  ざわめく膣内も、築宮の激しい律動に怯《ひる》むどころか、青年の形を味わい、胎内深くに吸い寄せようとしているかに思えた。 「あぁ……貴方の形が……わかる……ん、んぁ……私の中で、わかる……あぁ……っ」 「私も―――いい――なんでこんな――っ」 「貴方に抱かれると……私もおかしくなりそう……ひぅ、ああ……はぁ」  くちゅくちゃと、蜜を弾けさせ、硬く傲慢な剛直が柔らかな粘膜を穿《うが》ち続ける。 「溶ける、みたい……っ」  やがて司書の表情も快楽に溶けていく、流されていく、熟していく――― 「ああ、もう―――もう、本当に」 「我慢、できない。  もう待てない。  自分を、止められない―――!」  青年はその喘《あえ》ぎを、快楽に悶《もだ》えるものと聴いたのだけれど。  司書の声は性の快楽を遙かに越えて切迫していたのだった。  彼女の根源的な欲望に根差す声。  男の肉を、欲しがる本能の。  するうちに―――  司書の喘《あえ》ぎ、わななく唇の中で―――  白水晶の滑らかさと、刃物の切っ先の鋭さに、尖ったのは、牙、だ。  赤く生々しく濡れて、舌も躍って。  すい、と羽が舞うように、波打つ髪がさんざめき、水の中を渡るような滑らかさで、司書の首がもたげられ、築宮青年の首筋へ。  青年の肌に吸い寄せられるように。  赤い唇が。  硬く尖った牙が。  ―――噛み、破った。 「…………う?」  はじめ青年が覚えたのは、ただ軽やかな衝撃だった。かつまた、ぷつり、と小さく裂ける音も聞こえたとも思った。  けれどどんな感覚よりも築宮を鮮やかに貫いたのは、痛み。  たとえようもなく甘美で、途方もなく鮮烈で、彼がかつて味わった怪我や病いの痛みなど、同じ言葉を使うのもおこがましいほどの。 「う? あ? あは……?」  点じられたのは首筋だけなのに、そこから刹那のうちに全身に浸み透り、そのえもいわれず快なる痛みに全ての感覚が支配され、築宮は、濁《にご》った呻《うめ》きを聴いていた。  くぐもった音が自分の喉から漏れていると覚るより先に、次の瞬間、腰の底から溢れ出していた。 「うぁ、は……ぁ……っっ」 「ふぅ……ぅ、む……」  築宮の首筋に密着した唇の隙間から、熱い吐息が漏れる。蕩けきった司書の膣内を、粥《かゆ》ほどにも濃い白濁の液が夥《おびただ》しく充満していた。  撃ち出す、と言うより、押し出されて零れるような射精の、むしろあの、死の間際に種を残そうとする雄がしばしばやらかす、〈遺精〉《いせい》というのに近いだろう。 「じゅ……ぅ……る……」 「あ。あ。あ―――」  牙のあわいで舐め上げて、吸いあげる、舌のぞよめきだけで築宮の精がまた零れる。  膣孔が茎の根元を隈無く喰《は》んで、精の一雫も逃すまいと包みこみ、首筋から吸われ、繋がった部分からも呑み干され、青年の生命の露が余さず司書に流れこんでいくかのよう。 「くぁぁは!」  あまりの快楽感覚に遠ざかりそうになる意識が、また引き戻される。  首筋に降りた唇がまた吸いあげられ、最奥まで呑みこまれた剛直が膣粘膜に艶めかしく揉みほぐされ、意識を手放すことも許されないほどの快楽が青年の心を繋ぎとめる。  これは、こんなのが―――そうなのか?  これが、この鬼の女に喰われる、ということなのか?  だとしたら、あんまりというものだった。  己の体が生きたまま喰われるというのはどれだけの苦痛なのか、司書への愛に満たされてなおそれを思えば恐ろしく、その時が来れば自分は見苦しく泣き叫ぶかも知れない。  それでも司書の気持ちを削《そ》がないよう、できる限り〈従容〉《しょうよう》と耐えようではないか、と思い定めていた築宮だ。  なのに青年の覚悟も恐れもなにもかも台無しにするほどの、これは快楽。  純粋な、そのもの。 「んく……ぅ……」  穿《うが》った傷を一つ舐めて、息を継ぐために司書が顔を上げる、のが寂しい。  雄の器官だって、あれだけ放ったというのにまだ強欲に快楽を求めて硬く硬く張りつめたまま、腰を蠢《うごめ》かせて司書の肉の奥を求めてしまっている。 「まだ……もっと……」  〈呂律〉《ろれつ》さえも怪しく、ただ心からせがんだ青年へ、司書が向けたのは、なぜか硬い表情の。  青年の血を吸って染めた唇は、常になく精気に満ちて艶やかなのに、どこか裏腹な面差しを築宮は不可解に眺めた。  なぜ彼女は、そんなこらえているような貌をする? 今さらになって? 「……気持ち良かったでしょう……吸われて。私の中、こんなに一杯にして」 「これが、そうよ。  これが私に食べられるっていうこと」 「こんなのだって思ってなかった……貴方、そういう貌をしてる」 「こうやって、私の中に全部溶かされて、そして貴方はいなくなる」 「どう? 最後まで続ける?  ここでお預けにされたら、それはまあ私としては生殺しだけれども」 「そうやって焦らされて終わる……っていうの? それはそれで趣き深いから」  彼女一流の〈諧謔〉《かいぎゃく》を含ませ、司書は普段の、どこか得体の知れない彼女に立ち返りそうになる、それが築宮には悔しかった。  つい今の今まで、同じ快楽に溺れて生《なま》の姿を晒し合っていた女が、一人だけ理性に従おうとしているのが、情けなかった。 「〈莫迦〉《ばか》……〈莫迦〉《ばか》……そんな余裕めかしたのなんて、俺はもう見たくないよ……っ」 「ちょ……んんぅ……っ」  だから築宮は、彼女の背中に回した手で、より一層強く抱き寄せ、雄の器官をめりこませ、唇を追うように首を押しつけた。  柔らかな髪に指絡ませて、囁きかける。 「……俺は、もともと死んでいたかも知れないんだ。川に落ちて」 「溺れるところを、あの渡し守にすくいあげられた……だから本当だったら、俺は一度は死んだ身の上で」 「死んで拾った命なんだ。だったらそれを、自分の望むように使い尽くしたって、なんの悔いもない」 「それどころか、貴女のものになるのなら、悔やむどころか幸せだよ」  むしろ一口だけ味見されては返品されたようなのが腹立たしくて、青年は止めていた律動を再開させた。それも先ほどにも増して性急に、荒々しく。 「始めからそう言ってるじゃないか……っ」 「っ!?  ……ちょ、あ、そんな急に……っ」  その動きがいきなりで、司書は悲鳴じみた喘ぎ《あえ》を絞り出したが、築宮は構わず動きはじめる。 「なのになんで、途中でためらったようなことを口にする……っ」 「ひぃう……っ」 「俺は、こうしているのが……貴女とこうしていられて、嬉しくて、幸せで」 「よけいなことなんか、いらないだろう、今は……っ」 「……ッあ、あ、あぁ、強……すぎて……あぁは……っ」 「俺は貴女を、好きなようにしたい。  だから貴女にも、そうして欲しいよ……」  抉られる、引き抜かれる、焦れたような築宮に体の内側をかき回され、〈強張〉《こわば》りかかっていた司書の心が揺すぶられる。 「だから、続ける……っ」 「あぁ……あぁ……」  確かに青年にとっては、その果てには喰われてしまう、儀式めいた交わりかも知れない。  けれど、こうして体の一番深いところでお互い繋がり合っているのも、また確かなこと。  ―――いいの?  と築宮の必死な眼差しに、やはり〈切羽詰〉《せっぱつ》まった眼差しで司書が問いかける。  ―――いいんだ。  と築宮はただ短く頷いて答える。 「―――続けて、貴方」 「抱いて、そのまま私を、抱いて」 「そして、私に食べさせて―――」  だから今は―――司書は、自分を中から揺さぶってくる築宮の力強い生命のリズムに、身を委ねることにした――― 「ああ……! 今さらやめられるか」  力強く答えて、司書の優しい下腹部に手を滑らせた。  肌を通して、自分が出入りしている様子を感じ取ろうとしたのだ。  もちろん、柔らかくもしなやかな肌と肉に阻まれて抽送の様子など判りはしないのだけれど、触れようと手を伸ばした拍子に腰の角度が変わった。  尖端が司書の胎内の天井をこすりあげたとたんに、感じやすい部分を抉ったのだろう。 「ひう……ぅんっ!?」  声のオクターヴが跳ね上がったのに勢いを得て、腰を持ち上げるようにして同じ部分をこそぐようにすれば、司書の反応に、 「ふァ……あん!」  聞き違えようのない、甘い艶が混じった。 「いい……それ、素敵……」 「して、もっと、私も、するからぁ……っ」  艶を帯びた声を流して、目を潤《うる》ませて、司書は再び―――築宮の喉に吸いついた。 「――――――あぁ!」  またあの至妙の痛覚快楽を味わえると、期待に満ちた声を弾ませる築宮をしかし焦《じ》らすように、司書は今度は牙を与えず舌だけで傷を〈玩弄〉《がんろう》する。  児戯のからかいにも似た刺激は〈生贄〉《いけにえ》を不安定な高みに押し上げ、もどかしげな呻《うめ》きを絞りだしたかと思うと、血潮を吸いあげる。 「ふう……むっ、あぁ……」 「ちゅ……呑ませてね……たくさん……」 「貴方のいのち。美味しい―――」  胎内からこみ上がってくる感覚を持てあましたように、切れ切れの言葉が喉に熱い。  吸われている肌には視線が届かず、見えない部分への刺激は、いつでも人間を不安にさせる。それを〈知悉〉《ちしつ》しているかのように司書は、築宮の〈身悶〉《みもだ》えを巧みに御《ぎょ》しながら、吸いあげ、なめずり、若い男の熱き血潮を呑み干しての、喉の鳴る音がたまらなく淫靡だ。  はじめに喉を裂いた、あの素晴らしい牙の痛みは、築宮がどれだけ〈強請〉《ねだ》ろうとも〈間遠〉《まどお》で、それはただ焦らしていると言うより、欲望に任せて囓りついてしまえば、あれほど待ち望んでいた熱く滾《たぎ》る肉体をあっさりと食い尽くしてしまうだろうと、どうやら司書自身それを恐れているらしかった。 「どうして、さっきみたいに、噛んでくれない……? 俺は構わない、のに」 「だって、そんなにすぐ、お肉の方を食べては、貴方がすぐになくなってしまう」 「もっとゆっくり、時間をかけましょう?  それに私も、もっともっと、貴方の血潮に酔っていたいの……だから、ね」 「うん……うん、それでもいい。  呑んでほしい。無くなるまで。  貴女が、満たされるまで」  己の一部が鬼女の口を潤《うるお》し、喉を滑り降りて彼女の中に溶けて、その一部となっていく、その至福の境地といったら。  これほどの悦楽をもたらしてくれる女は、〈人間〉《ただひと》のなかにはあるまいと、築宮はもはや望んで司書へ喉を差し出すようになっていた。  だが築宮の心を満たしていたのは、ただ己のみの快楽だけでない。  自分が血肉をもって司書の、飢えを、渇きを癒してやれているのだという、これ以上はないほどの文字通りの献身が、青年の心を誇らしく満たしていた。  築宮は知っている―――骨を喰《は》むような飢えを、心を壊してしまいそうな渇きを、渡し守の小舟の中で味わった。  きっと司書は自分と共に過ごす時、あの飢えを、いやことによったらそれより激烈な飢餓に苛まれていたに違いない。  彼が差し出すことのない限り、満たされることのない飢え、癒されることのない渇き。  魔性のモノであろうと、鬼の女であろうと、愛した相手を満たしてやれるというのは、こんなにも幸せなのだと、築宮は喜びに打ち震えた。  これに勝る喜びと幸いはあるまいと、想いを視線に替えて、司書を見つめる。 「こんなに嬉しいことはないよ、俺は」 「旅籠の図書室係は鬼女だという」 「ええ―――私は、人食いの、鬼女。  若い男の肉がお好みの。  貴方はそんなのに、捕まってしまった」 「奇《く》しき巡り合わせ、なんでしょうよ……」 「いいや。貴女が鬼女で……良かった」 「貴女でなければ、自分を捧げても良いってくらいに、誰かを愛せなかったと思う、俺は」  それが、築宮が記憶を喪《うしな》い、旅路の果てに見出した真実の、青年はその真の中に自分を捧げることでしか、充《み》たされることはなかったのだろうとぼんやり、血潮が飲み尽くされていく中で思う。  このまま、血を呑まれて。  このまま、体を重ね、繋がったまま。  この女の中に―――溶けていく。  ああ、それで良いじゃないか。  それになんの不足がある。  そう念じて、瞼を閉ざし後はただ悦楽の混沌に心を沈めようとした、青年の目に。  映ったもの。  信じられない、もの。     ―――飢え、だった―――  この世の最期の眺めとして、愛した女の貌があればいいと見つめた、司書の双瞳の中に、それはあった。それはいた。  飢えていた。渇《かつ》えていた。 「なん……で?」 「貴方……?」  〈愕然〉《がくぜん》と司書の瞳の中を覗きこめば、それが、飢えたものが見返してくる。  司書の人に映りこんだ、築宮自身の貌が。  魔性の、貌で。  青年を喰わせて欲しいと希《こいねが》ってきた、鬼女と同じ飢えを貌に貼りつけていた。 「なんで―――俺は、こんなにも充《み》たされているのに―――これ以上ないってくらい、幸せなのに」 「貴方―――いいのよ」 「なんでこんな、さもしい貌をしている」 「いいの。それで、いい―――」  喪《うしな》われた血潮に、声は掠《かす》れていたのに、青年の呟きは物狂おしささえ漂わせていたけれど、司書は愛おしげに想い人の頬を撫でて、 「呑まれれば、渇くわ。  貴方が渇いたまま逝くのは、切ない。  少し待っていて……」  〈太腿〉《ふともも》で青年の腰を捉えたままで、胎内深くに収めたままの剛直を抜くこともなく、司書が軽く机へと手を差し延べる。  と、届く距離でもないのに、いつの間にか葡萄酒の瓶が掌に収まっているのが、いかにも魔性の女の〈手練〉《しゅれん》らしい。  それを一口含み、青年へと口移しに、〈末期〉《まつご》の滋味を飲ませようとして、その唇が掌に塞がれる。 「ん……む……?」  不思議そうに目を瞠《みは》る司書の、どれだけ青年に美しく見えたろう。  青年の血を得て仄《ほの》かに朱を帯びた彼女の喉の肌、なんと―――美味を予感させたろう。  判る。築宮には、自分の喉を眺めて司書が、どれほどの飢えを感じていたのか。  なぜなら築宮もまた、一度はその美味を味わったことのある身なのだから。  ―――渡し守の血潮を、血肉を、啖《くら》い酔い痴《し》れたものなのだから―――  司書に与えるだけではなく、自分にも、与えてほしい。  愛は惜しみなく与え、貪欲に奪う、その繰り返しだという。  青年は、鬼女の飢えを満たしてやりたいと願うと同じくらいの強さで、彼女を欲した。  人の身である者には許されないやり方で。  司書と同じ愛し様で。 「あ、ぅ……」  のしかかって、唇を塞いだまま反《そ》らせた、女の喉が白い、肌に結ばれた細かな汗の粒が煌《きら》めいて飾って、誘って、柔らかな、たとえようもなく愛しく―――甘《うま》そう、と、もう青年には他のなにも見えない、考えられない。  ……喉が、鳴った。唾がこみあげた。  青年は舌先で無意識に糸切り歯を探って、その尖った感触に心が―――遠のいた。 「―――は、あぁぁ!」  ―――青年の腰をくわえこんでいた両腿が、くっと硬直し筋でも引きつけたように痙攣した。蹠《あしうら》も指を硬く丸めたわみ、ひくり、ひくりと。  司書の瞳、完全に焦点を飛ばして、なのに豊かな腰は本能だけで注意深く丁寧に、おそろしく淫らに蠢いている、青年の体の下から擦り上げるように、吸い寄せるように。  溶け切った肉の入口が、白濁した濃厚な蜜をまとわりつかせ、しっかり青年の雄のモノを収めている。もはや青年の先端の形にぴったりと張り付いてしまったような膣奥で、生硬い子宮の入り口が驚くほどはっきりと迫っている。  味わっている―――体の芯で、限界まで硬直した青年の性器を。  貪っている。突然の、津波のような絶頂を。  今のこの瞬間誰かが部屋に入ってきたら、たとえ目が見えなくても、どれほど彼女が歓喜しているかわかっただろう。体中の毛穴をぞくぞくと鳥肌立てた司書は、発情の頂点に達した女の放つ甘く密な香りを、全身から漂わせていた。  そして築宮は―――  司書の首筋に深々と歯を埋め、肌を噛み破り、湧きだす血潮で、口を満たしていた。 「あ、ふ……、ぁ、ぁ、ぁ……っ」  瞳をぶれさせて、司書が熱病に犯された夢のような息をつく、その喉に青年の歯が食いこむたび、あるいは舌で傷孔をまさぐられ吸いあげられては、司書は浮かされたような声を漏らす。  融《と》けて熱く、生の精髄そのものの〈稠密〉《ちゅうみつ》さで舌に絡み喉を滑り、乾いた海綿に染みこむように身の裡《うち》を満たし、吸いあげれば女のいのちが脳の中で脈打つ、呑み下すと女のこころが細胞の一片一片にまで浸透して混ざり合う。 「は……あは……あは……っ」  青年の喉がごく、ごくと鳴るのに合わせて司書は意味を為さぬ、ただ純粋な歓喜に染められた媚声をほとばしらせた。  ―――これまで味わった、およそ全ての美酒、全ての快感を遙かに、及びもつかないほどに〈凌駕〉《りょうが》する歓喜に、築宮青年はただ押し流され、〈翻弄〉《ほんろう》され、夢中で呑み下してはまた吸い上げ、司書の首筋に口を下ろしたまま全て吸い尽くすまで止む事なしに思われたところを、意識を引きずり戻す熱が、燃えた。  ―――熱い―――!?  火の棒のようだった青年の雄の器官よりもまだ熱い熱。彼を捉えて離さない、司書の女の泉が〈坩堝〉《るつぼ》のように煮え滾《たぎ》ったのだ。  滾《たぎ》り、青年の精を奪いはじめたのだ。 「熱……い……っ!?」  また築宮は、司書の胎内の最奥で精を噴き零していた。噴き上げるはしから、女の中がぞよめき呑み干し、射精は留まるところを知らなかった。  同時に雄の器官を呑みこんだ膣孔からは、どろどろに溶けた甘蜜がひっきりなしに流れては床を濡らす。  青年の体から、男の精気が迸《ほとば》り、  鬼女の体から、女の蜜が溢れる。 「熱い……灼けつく……あ……」  ようやく物を言えるくらいまで意識の輪郭が定まった青年だったが、司書の喉に穿《うが》たれた傷痕と、筋を引く血潮に絶句した。 「お……俺、は……なぜ……こんな……」  また、繰り返してしまったのか?  渡し守の骸《むくろ》を貪り啖《くら》った時と同じ、けして許されざる行為を、また。  言いしれぬ昏《くら》い絶望に絶叫を、絶叫とともに正気をも吐き出してしまおうとした青年を、呼び戻したのは、〈抱擁〉《ほうよう》だった。  限りなく愛おしげな、充《み》たされきった、司書の限りなく優しい〈抱擁〉《ほうよう》で。 「こんなことを言ったら、私はその罪で、体を千々に引き裂かれ、永遠の苦しみの闇に〈彷徨〉《さまよ》うかも知れないけれど」 「しあわせよ―――」  焦点を取り戻した司書の眼差しには、真実の、心からの幸福が溢れ、築宮へと注がれていたのだった。  その眼差しで、壊れかけていた築宮青年の心に暖かさが満ちて、ほぐれて、溶けた。 「わかるでしょう、貴方も」 「ああ……わかる……」  わかる。  交わす眼差しと眼差しだけではない。  今、司書の中には青年が溶けて、在り。  今、青年の中には司書が溶けて、在り。  互いの中に、互いの血肉が、全てが。 「貴方の中には、私が」 「貴女の中には、俺が」  相手が何を言わんとしているのか、己の心を覗くような理解があった。  言葉にせずとも心は通って、それでも囁きかわすそれさえも、無上の喜びとなっていた。 「このまま俺達は」 「ええ、私たちは、生きていかれる」 「貴女が俺を喰らって、俺が貴女を吸って」 「私たちは、混ざり合って」  交わす言葉は時の始まりから約束されていたように淀《よど》みなく、〈相聞〉《そうもん》の歌のように愛し合う心に満ちて、聖句のように祈りのように、清《さや》かに響き渡った。 「そう。ともに、生きていかれる―――」  そう、なのだろう。司書の血を飲んでしまって築宮は、人としての許されざる〈倫〉《のり》を破り、踏み外してならない道から脱落してしまったのだろう。確かに青年は、人間であることをやめてしまったのかも知れない。  けれどもそれは、青年が、ただ鬼女に喰われる人間というものから、彼女と同じ領域に踏み出した、とも言えるのではないか。 「かたわれ……ね。  そうなったのね、貴方は」  と鬼は、愛しい半身を見つめる。 「貴方は、私の、私だけのかたわれ」  そう秘めやかに囁いて、喜びに満ちて司書は誓いの口づけのように、青年の喉からまた血を啜《すす》った。 「……やっぱりあの葡萄酒が、貴方の、人としての最後のお酒になったみたい」 「いいさ。酒よりもこちらの方が」  応えて青年も、女の喉を噛む。 「いや……貴女の血肉は、酒にも何にもまして、素晴らしい」  血を飲み合い、絡み合い、繋がり合い、図書室の奥、書架の谷間の向こうの司書室、奇妙な蒐集物に囲まれた鬼女の栖《すみか》に、新たに迎えられた連れ合いとの交歓の声が喘ぎが広がり、細波のように重なり合う。  ―――こうして、それまでは喰らい尽くす愛しか知らなかった鬼の女は、喰らわれる愛を喜びを得たのだった。  二人分のいのちは交歓(交換)しあっては果てしなく蘇り、二人はもう、滅びることさえできないのかもしれない。  裸形のままで横たわり、快楽の刻を〈反芻〉《はんすう》する二人。  満ちていく。深まっていく。昇りつめていく。二重の螺旋が、どこまでも続いていく。  ―――広い、広い書物の〈住処〉《すみか》。書架は幾列にも連なり、延びて、だが数ある書物の表題に心惹かれ、棚から引き出す者はずっと昔から数少なく。それでも書物達はひっそりと待ち続け、静寂をただ物柔らかにして、乱すような不満の声も挙げず、ひっそりと書架に収まってある。  訪《おと》のう者は稀なのに、通う風もないのに、背表紙が埃にくすむ事もないのは、果樹園の樹々を〈丹精〉《たんせい》する農夫のように、羊達の群を世話する牧人のように、書物の面倒を看るモノがあったからだが、そうして書架の〈峪間〉《たにま》を歩き回っていた影は、一つだけ。  そのモノは、長い孤独の時間に、この古びて広い図書室を司ってきていたのだ。  ―――これまでは。  それでは、今は?  今も彼女は一人きりなのか? たった一人で、書物の並びを整え、旅籠のあちこちに散らばっていった書物を集めては棚に戻し、目録を整理し続けているのか?  その誰か、優美な首をやや傾けて、淑やかに腕を伸ばして、書架に本を戻そうとしている、その誰かの―――  傍《かた》えに、寄り添って、手を添えて、書物への世話を共にする者が、今はもう一人。  ならばそのモノは、もう一人きりではない。  ただ一人の相手ではあったが、その一人だけで充分、二人も要らない、そんなかたわれが、今や図書室係の傍に寄り添っていた。  その名、築宮清修と呼ばれていた、あの青年だった――― 「時々、不思議に思うんだ」 「え、なぁに……?」  問い返す声が、どこか夢見る人の〈茫洋〉《ぼうよう》を漂わせていたのは、ただ整理作業に没我していたからでない。  喜びを、どれだけ味わおうとも尽きざる喜びに、心が幸せに拡散していたからの、すなわちかたわれがいつだって共にあるという、彼女がこれまで知ることのなかった喜びに充たされていたからである。  ……築宮青年の、住まう〈場処〉《ばしょ》は、かつて〈馴染〉《なじ》み親しんでいた、あの座敷ではなくなっていた。彼の栖《すみか》は今や、この図書室と、その奥の司書室とに移り、それと共に旅籠からは一人の逗留客が居なくなった。  そして引き換えに、図書室係が、二人になっていた。  だがこの新たな図書室係は、まだ成り立てで、知らぬ事不明な事が多くあって、不思議がる事、惑う事も多い。そう、判らない事はたくさんある。けれど不安はない。  教え、導いてくれるかたわれが傍にある故に。彼女は、いつだって優しく答えを示してくれる故に。だから青年は、よく彼女に訊ねる。  彼女の住まう世界(それは既に青年の世界でもあるのだが)をもっと深く知りたく思うのは、愛する者を慕う心として当然の働きであろう? 「ここの蔵書というのは、旅籠に逗留していた客達が、もう読まなくなった本を置いていったものがほとんどだと、そう聞いた」 「そうよ。だからここの本は、難しい論文だのは少なくって、誰もが読むような、雑誌だとか」 「小説、活劇、恋物語、綺譚もの、そんな本ばかり。でも私は、そういう書物だって、好きよ」 「うん。それは俺も同じだけど。  でも不思議というのは、そういうことじゃなく……」  書架を打ち眺める青年の、唇が物言うまでもなく、司書には伝わった。こういう事はよくあった。相手の想い、感覚が、なかば共有されているような。 「ここの本が、時に増えたり、減ったり、今までになかったものと入れ替わったり―――そういう事かしら?」 「やはりご存じか。ここはその……言っちゃなんだが、相変わらず客は来ない」 「かといって、貴女がどこかから、本を持ってきているばかりでもない」 「なのに、どうして入れ替わるのか―――?  貴方は、それが気になっている」 「……まあ、ね」 「貴方には、こういう経験は、なくって?」  語りだしたが整理の手を留めてだけれど、仕事を中断される不満など毛ほどもなく、あるのは教える事への喜びばかりの、そうやって語れる相手を持つ事がどれだけ幸せか、嬉しいか、心を全て許した相手がいる者だけの充足を、司書は覚えていた。 「たとえば自分の部屋で。ここにあったはずの本が、いつの間にか見えなくなっている」 「捨てた覚えも、誰かが持っていった様子も、まして売った覚えもない。なのに、どうしても探せない、どこに行ったのか、わからない」 「そのくせ、そういうのとは逆に、思いもかけないとき、思いもよらないところから、何時かに無くしたと思った本が、ひょこりと出てくる」 「……すまない。やっぱり、ここに来る前のことは、まだ朧気なんだ」 「あ……こっちこそ、ごめんなさいね。うっかりと昔の事なんて、訊ねてしまって」 「いい。気にしなくても。俺自身、昔のことは、もう思い出せなくっても構わないかっていう気になってるんだから」  そう、なのだった。  結局、いまだ築宮の記憶は蘇っていない。おそらくはこの先もそういうことはあるまいと予感、否、なかば確信している。  だがいまや青年は、無くした記憶を思う時であっても、焦り、不安に悩まされることはなくなっていたのだ。  確かにかつての自分を思う時、抜き損ねた歯根のように心のどこかが疼《うず》かないでもない。  築宮は、部分部分細切れに思い出すことはあるものの、結局その記憶の大半を失ったままである。  だが青年は、もはやそれを積極的に取り戻そうとはしていない。人は過去の自分があってこその人だという。過去の記憶という土台無しには、その生は歪《いびつ》なものになってしまうのだ、と。それは一面の真実なのだろう。  しかし人は過去のみに生きるに非ず。記憶を失ってから積み重ねた人生だって、それはそれで間違いのない事実なのだ。その事実が、過去に劣っているはずはない。  そんな風なことを考えるようになったのは、彼が今では、二つで一つ、司書と分かちがたく結ばれたからだろう。  比喩や譬えでなく、お互いの血でもって繋がれた絆があるからだろう。  そういえば血《チ》という言葉は、〈生命〉《イノチ》という言葉にも通じているのではなかったか。 「それに、さっきの貴女の話も、どことなくその手触りは覚えがあるような気がします」 「……きっと、世の中にはそういうことがあるんだろう」 「ええ。たぶん本が好きな人なら、誰もが覚えのあることだと思うの」 「それで、その、見えなくってしまった本って、一体その間、どこに行っていると思う?」 「あ―――もしや、ここに来ていると?」 「全部が全部、そうって訳でもないけれど」 「でもそんな、非常識な―――いや、ありえるのか、そういうことは……」 「貴方も、少しは判ってきているみたいねえ。世の中には、目に見えないくらい幽かな、〈蜉蝣〉《カゲロウ》の羽みたいな幽かな隙間があって」 「その隙間を、色々のものが行き来しているのよ。本だけじゃない。色々なものが」 「そして私たちは、そういう隙間に生きている―――人の世の中と隣り合って、時には重なって、でもやっぱり、人の世の中とは、別のところに」 「だからこその、人外、か―――」  青年の口から人外という言葉を聞いた時、司書はふっと軽く目を伏せた。 「ねえ、貴方。これまで私を好きになって、血肉をくれた人は、確かにあったけれど」 「私と同じようなものになって、共に生きようとしてくれた人は、いなかった」 「貴方が初めてだった。  ただ私に食べられるだけでなく、その先の、人外の場所まで、踏み出してくれた人は」 「ううん、もう、人ではないわね。  貴方は、鬼のかたわれ。  そういうモノになってしまった……」 「―――後悔、してる?」 「私と同じような身の上に、なってしまったことを……」  自分をかき抱き、寄り添う身体が、ふっと消え去ってしまうかの心細さ、そして後悔、人間をその住む世界から切り離し、己の領域に引きこんでしまった憂慮、それらは確かに訊ねる声の中に見え隠れしてはいた。  けれどそれだけではなかった。  かつての彼女を知る者がいたとしたなら、仰天したに違いない。ただ憂うだけでなく、甘えを含んでいたのだ。心重ねた者への、気取りも構えもなく、甘えられる相手。  司書にとって築宮は、そういうものになっていた。  彼女は、判っていて問いかけている。青年が、どう答えるのか判りきっているのに訊くのである。  そうやって問いを繰り返し、繰り返される答えが、彼女の幸福をより深めていくから、飽きることない儀式のように、繰り返す。 「その話は、さんざんしたよ。  後悔はない。それこそ〈蜉蝣〉《カゲロウ》の羽の薄さほども、ない」 「俺は望んで、ここにいる。  貴女の場所に、いる。  それは貴女だって、わかってるはずじゃないか」 「ただまだ俺は―――」 「なぁに……?」 「貴方の生きるところのこと、色々と知らないことばかりだ。さっきの話だって、さ。  だから、色々と教えて欲しい」 「教えてもらう時間、学ぶ時間。それなら、これからいくらでもあるんだから」 「……そうね。  貴方は、私のかたわれなのだもの」 「ああ。貴女と一緒にいるよ……」 「一緒に。ここで。  霞の外、大河の上のこの旅籠に」 「二人で、籠もって、ずっと一緒に―――」  ―――旅籠の図書室の司書は、鬼女だという。それは旅籠の者達が皆知るところの、まぎれもない事実だった。  ただこれからは、それらに付随するいくつかの風聞を書き換え、そしていくつかの事実を付け加えるべきだろう。  鬼女は若い男の肉を〈滅法〉《めっぽう》好むが、もう新たに求めることはない、と。彼女が求める肉は、常に傍らにあるのだから。  ……いや、もっと〈単純〉《シンプル》な言い様があるか。  すなわち―――  鬼女は、連れ合いを得たのだ―――と。  そして、大河の上。渡し守が小舟を漕ぎながら、旅籠を眺めている。彼女の脳裏に浮かぶのは、青年のこと。旅籠に残り、鬼女と寄り添って生きていくことを選んだ彼のことを、思っている。  やがて渡し守の唇に揺らめいた、ほろ苦い笑みはいったいなにを意味していたのか。 「ま、元気でおやんなさいよ、旦那―――いやさ、清修」  と言い直した、その呼び方、青年の名を呼びつけにした。ある種の間柄の人間同士にしか通わない情愛が、こめられていた。  やがて渡し守は、櫂を操って大河の彼方へ、消えていく。  問いかけの後に垂れた沈黙の中に許された時間の限り、考えに考え抜いて、それでも。結局築宮青年には、決められなかった。急に決めていいことではなかった。 「その……ちょっと考えさせて欲しい」 「ああでも、厭だとかそういんじゃなく、すぐに答えてしまうのは、軽率に過ぎるように思うから、だから……」  けして厭だと言っているのではないと、続けた台詞こそがいかにも陳腐で、臆病な繰り言としか聞こえないのが青年自身にも情けないとは思える。  だからといって即答していい事でもなかろう。  司書のことは間違いなく愛していると思う。それでもここで喰われてしまったら、二人の仲はおしまいではないか。もっと他にやりようはないのか。  口ごもった築宮青年を見て、司書はいかにも心得たように微笑んだ、という。 「……いいのよ。たしかに、そうすぐには決められることでもないんだもの」 「何日か、時間をおきましょう。  その間、よく考えて決めて」 「だから今日は、もう自分の部屋に戻るといいわ」 「せっかく私のために骨折ってくれたところを、すげない話だけれど」 「私、久方ぶりに腕が還ってきて、身体の勝手が違うみたい」 「少し、休みたい。  それに、今貴方と一緒にいたなら―――食べたくなるの、我慢できなくなりそう……」 「そういうことなら……。  今日はいったん戻ります」 「でも、できるだけ早く決めて、答えはどうあれ、貴女へ伝えに戻ってくるから」 「ええ、待っているわ―――」  築宮青年が部屋を去り際、送り出した司書が扉の影で目を閉じて深くついた溜め息は、しかし彼には届かなかった。  一晩考えたものの、結局結論は出なかった。それでも足が司書のもとへ向かってしまう築宮青年だったが、何かが変で、妙で、据わりが悪い―――司書室の様子がおかしい。 「……あの、いませんか?」 「留守、なのか―――いや、まさか!?」  返事がないし鍵もかかっていない。なにより気配が―――ない。  主を失った部屋というのは、その瞬間から荒廃し出す。司書室には既にその荒廃の気配が忍び寄り始めていたのだ。  部屋の中を探し回ってみると―――見つけだしたものに、築宮はへなへなと膝をついた。  義手、だった。義手だけ、だった。残されていたのは義手だけの、書き置きもなにもなかったけれど、築宮は直観したのである。  既に司書がこの旅籠を去ってしまった事を、司書の身体を離れてしまっては、その腕についていた時のような色艶を失ってしまった義手に、哀しく確信したのである。  答えは、相応しい時機に答えねばならない。その瞬間を逃してしまうと、たとえ正しい答えだったとしても、問題を解いた事にはならない。  司書への答えは、そういうものだったのだ。たとえどう告げようとあの時に答えられなかった時点で、築宮は彼女と二度と見《まみ》える資格を失っていたのだ。  苦く、重く、冷たく、苦しく、己の不甲斐なさがたまらない、失意の中で青年は、自分もこの旅籠から出立することを、決心した。  彼女のいない旅籠に残り続けるのは、辛い。過去の自分は一体なにが辛いと想って、もといた場所から逃げ出そうとしたのか、それはいまだ思い出せない。けれど、この破れた恋よりも辛い事だろうとは考えられない。  帰ろう、司書の想い出を残した旅籠から、自分がもといたところへと。  渡し守が、自分を運んでくれるだろう。  過去からの逃避のように居着いたこの旅籠から、また逃げるのかと嗤《わら》わば嗤《わら》え。少なくとも自分は恋を知った。それを失う苦しみも覚えた。もうこれで充分、これ以上は〈身裡〉《みうち》に収めきれる隙間はない。  それくらい、司書と過ごした時間は、青年にとってかけがえのないものとなっていたのに、もう二度とは、還ってこない。 「……承りました。渡しましょう」  日を置かず舞い戻ってきた青年を、その失意に沈んだ面持ちを見て、渡し守はおおよそを悟ったらしい。  渡しを望む青年に、子細は訊かず、ただその望みを容《い》れた。 「なんにしたって、それがあたしの仕事なわけだしね」 「けれど旦那……いや、今は何も、訊きますまい」 「すまない……」  渡し守は口数少なく櫂を操っていたが、今の築宮にはあれこれ話しかけられるより、その方が有り難かった。この先どうすればいいのだろうという不安が重くのしかかってくる。大河の岸に着いたら、まず街中を目指して、そこから……なにをしよう。  なにを頼ろう……なにも、判らない。  そもそも自分には帰る家があるのだろうか。それはどうすれば見つかるのか。  思考はぐるぐる回るばかりで、いっかなまとまってくれない。まるで親にはぐれた小さな男の子のように膝を抱えて唇を噛む築宮を、さすがに見かねたのか渡し守が一声掛けて〈瓢箪〉《ひさご》を放ってきた。 「旦那、色々不安でしょうが、  あまり思いつめると、  また河に飛びこみたくなっちまいますぜ」 「とりあえずはそれをおやんなさい。  今度は水じゃない。  ちゃんと詰め直しておきましたよ」  酒か……酒に逃げたって、なんにも状況は好転しないだろうが、この先行き見えない心細さを一時なりともまぎらわせてくれるのならなんだって歓迎すると築宮は、栓を引き抜いて一息に煽《あお》った。  喉を滑り降りていく液体は、しかし酒ではなかった。  築宮が、この旅籠に案内される前、渡し守の舟に引きあげられたとき呑まされた、あの得体の知れない飲み物だった。  酒の酔いとは異質の〈酩酊感〉《めいていかん》が、〈臓腑〉《ぞうふ》の底からたちどころにこみあげ、全身を巡り、意識が水底に引きずりこまれるように昏《くら》く、遠くなっていく。  だから渡し守が、それからどれくらい船を漕ぎ、どのようにして築宮を向こう岸に降ろしたのか、それは青年にはもう窺いしれないことであり、彼が意識を取り戻した時には、あの不思議の旅籠のことは―――その頭の中から、消え去っていた。  それこそ、霞《かすみ》を吹き消したように。  青年を降ろした後、再び大河に漕ぎ戻った小舟の上で―――  胴の間の障子戸に映った影がある。  顔を覗かせた者こそなんと―――あの司書だった。築宮青年が運ばれていく間も、いかにして胴の間に潜んでいたものかだが、少なくともその意図は察せられよう。彼の旅立ちを、ひっそりと見守る〈心算〉《こころづもり》で、小舟に隠れ潜んでいたのだろう。 「……彼は、〈恙無〉《つつがな》く旅立って……?」 「ええ……これから先、色々と大変でしょうが、旦那ならきっとうまいことやっていくでしょう……さて次は、あんたの番だ」 「どこへお渡しいたしやしょう?」 「どこへなりと、いずこなりとも」 「もともと私は人外の女。異域に棲むモノ。  それがなんの弾みか、この旅籠に流れ着いていただけだもの」 「それが、別のところへ流れていくだけ」 「……でもね、渡し守、貴女。  時々考えることがある」  ひた、と据えた鬼女の眼差しを、渡し守は割れ般若の面で迎え、無言のうちに続く言葉を待ち受けた。いや、待ち受ける、というほども構えてはいなかったろう。  渡し守にとっては乗せてしまえば鬼女だろうが客は客、その客の独り言を聞き流す程度の心地に過ぎなかったのだろう。 「貴女は渡し守で、旅籠へお客や、色々のものを渡す。  貴女だけが、旅籠と外を繋いでいる」 「でも本当はそれだけじゃない。  貴女の役目は、そんな事じゃない」 「ほほう。と、申しますと?」  お〈追従〉《ついしょう》のように、気のあるのだか無いのだかの〈相槌〉《あいづち》うった渡し守へ、とりたて気分を害した様子もなく、司書もどこか淡々と続けた。 「貴女は、多分―――彼のためだけに存在している」 「いいえ、貴女だけでなくって、この旅籠という一つの世界それ自体が、彼のために作られているんじゃないか」 「私には、そう思える」 「また、大層なことを言い出したもんですな……そんなら、一体誰が、なんのためにこんな大層なお宿をこしらえて、そしてあたしを置いたって言うんです」 「さぁ、ね。  物語の登場人物が、それを書いた者の顔を見るなんて、かなわない事なのだし」  ……それは、語るためだけにある言葉、答えられることを望むでもなく、ただ台本を最後まで読み終えるように紡がれた言葉で、司書も渡し守にはそれ以上の解釈も肯定も反論も期待した様子はなく、自分一人が納得したように頷いて、障子の向こうの大河へ、眼差しを投げて、それでも最後の言葉には、やはり倦《う》み疲れたような色が漂っていたのは、否《いな》めないことだった。 「どちらにしても、私には、もうどうでもいいことよ……さ、舟を出して」 「おおせの、ままに―――」  ゆらゆらと、小舟はゆらゆらと漂っていき、やがて靄《もや》の中に霞《かす》んで、見えなくなる。  青年が目を覚ました時、清潔だがそれ以上でも以下でもない、無味乾燥な天井を目にしていた。〈鼻腔〉《びこう》に忍びこむ特有の匂いは、そこが病院であることを告げている。  身を起こしてみれば、腕に走る〈鈍痛〉《どんつう》の、点滴のチューブが繋がれていた。起きた弾みで点滴の針が動いたのだ。  ぼんやりと、なんで自分はこんな病室のベッドに押しこめられているのかを考えていると、ちょうど看護士が巡回にやってくる。  彼女は築宮が意識を取り戻しているのを見ると顔を引き締め、一声二声かけてから簡単な検査を施す。そして、病室を出て医師を連れてくる。  そして医師から受けた説明によれば―――  どうやら自分は、一昨日の夜に泥酔して近所の川に落ちたらしい。幸い溺れるより先に岸に流れ着いたせいで生命に別状はなかったけれど、まる一日眠っていたとの事。  言われてみれば体のあちこちがぎしぎし軋むように痛み、後頭部から延髄にかけては、ひどい〈宿酔〉《ふつかよ》い特有の痛みが軽い〈残滓〉《ざんし》となってへばりついている。  水に浸かったせいで携帯電話は壊れてしまったが、幸い免許証を所持していたので、家族に連絡しておいた。  今日も午前中まで病室に付き添っていたらしいが、今はいったん帰宅しているようだ。  今度は、自分で連絡を取るよう医師に伝えられ、築宮は一気に〈暗澹〉《あんたん》たる想いに突き落とされた。  家族に連絡……あの人に連絡か。  できるならば御免こうむりたいけれど、どちらにせよ既に病院から連絡はいっているのだ、逃げられやしない。  いったいなにを言われるやら、どんな説教を受けるやらを考えると、もう一度川に身投げしたくなる。多分泥酔していた自分は、その感情のままに行動したのだろう。  ベッド脇のキャスターに収められた所持品の中から、電話のための小銭を漁《あさ》る。携帯電話はお釈迦になったが、その他の財布の類は運良く落としもせずに済んだらしい。  だが、これは、なんだ? この〈瓢箪〉《ひょうたん》は?  どこかの民芸品か? 手にとって眺めた時、築宮の脳裏を不思議な女の姿がかすめたが、それは目覚めてすぐの夢のように記憶から零れたと思うと、もう戻ってこなかった。  首をひねりつつ、公衆電話で家に連絡する。  ―――電話の向こうの声は、こんな時だというのに常と変わらず権高で厳めしく、聞いているだけで築宮の気が滅入ってくる。  とにかくもう退院できる旨、迎えに来てほしい旨を伝えて、電話を切る。  今のところはあまり厳しいことは言われなかったが、それは公衆電話だったからだ。  公衆が使うものを、個人の都合で長く占領するなというのがあの人の教えの一つだ。  その手の厳格かつ公序良俗のための教えを、いったい自分はどれだけ叩きこまれて育ったことだろう。その教えが、一体どれだけ自分をがんじがらめにしただろう……。  あの人の言うことは、倫理的には全て正しいし、厳しいのも自分のためだと言うことは判っている。判っているがしかし―――あの人がこれから迎えに来ると思っただけで、空気の密度が増して、呼吸が困難になるかの錯覚に囚われる築宮だった。  それから幾ばくか経って、築宮を女性が迎えに来る。立った姿勢がすらりと伸びて美しく、顔の造作も端正な麗貌なのだが、雰囲気に険があり、女性特有の潤いや華が一切かけている。  男女問わずに、彼女と進んで近づきたがる者はそうそういないだろう。  その女性こそが、築宮の唯一の家族、青年の姉であり、彼が愛憎複雑極まりない感情を抱き、そして誰よりも懼《おそ》れている相手だった。  両親は、二人が幼い頃にみまかっていて、天地間にただ二人だけの家族なのだった。  姉なる人は築宮に厳しい〈一瞥〉《いちべつ》をくれ、 「準備は、できているね?」  退院の用意が整っているかを短く切り詰めた言葉で質し、青年を伴いてきぱきと手続きを済ませ、さっさと病院を後にする。  帰りの車中でハンドルを繰りながら、築宮の姉は言い渡す。まるで裁判の実刑判決を告げるような口調だ。 「お前も病み上がりだし、  今日は帰ったらゆっくり休んでいい」 「だけど、明日は色々と話し合おう。  判ってるだろうけどね」 「はい……」  と小さく受け答えるしかできなかった。それ以上の言葉を吐けば、声の震えが隠せなかったろう。情けなさで涙さえ零れそうだ。  この人と口論し、家を飛び出して痛飲したのが今回の事故の原因なのだ。  口論に至った理由というのは―――ただこの人から、逃げ出したかったからという。  だが結局、自分は愚か極まりない暴挙に走った挙げ句、生命を危険に晒し、逃げ出すどころかこの人の車に乗って、家に戻る途中だ。  いや、戻るしかないのだ。  自分には他に暮らす場所もなければ、そこを見つけるための甲斐性もない。無力感が痛すぎる。  また、明日からこの姉との暮らしが続くのだと思うと、息が詰まって吐き気さえ催されてくる。そしてそんな風に圧迫感に悩むのも、結局は自分の甘えなのだということもよくよく自覚し抜いている。  それゆえ、築宮は絶望さえ覚えた。  自分はこのまま、この人の〈庇護〉《ひご》という檻の中で、一生囚われたままに違いないとまで思いつめている。  所詮自分はこの人には逆らえないのだという〈諦念〉《ていねん》を抱いて、顔色を窺うように謝罪の言葉を、許しを乞うように。 「―――ごめんなさい―――姉さん」  いつから自分は、この姉のご機嫌ばかりを気にするようになってしまったのかと、築宮は自嘲する。この謝る声だって、我ながらなんて卑屈に聞こえることか! 「だから、今日はもう良いって言ってるじゃないか」  ぴしゃりと遮った声の、金剛石のように硬質で、弱音を許すような隙などまるでない。 「お前だって色々悩んでたんだものね。  就活のこととかさ」 「……別にそういう訳じゃ……」 「隠さなくっていいよ。  でも、その辺のことは、  明日にしようって言ってる。  私だって、いろいろ考えたいしさ」  そう、この姉は、きっと色々考えてくれるだろう。自分の事をちゃんと考えてくれるだろう。けれどもこの人は、きっと気がついていない。  そうして俺の事を考え、俺のために色々としてくれることが、この首を真綿のようにじわじわと絞め上げていくのだって事を、判っていないと、築宮の絶望はただ深く絶対的なものとなりゆくばかり。 (―――俺は、一生この人から―――) (―――逃れられないんだな―――)  今まで、何度もその事実から逃げ出そうとしたけど無駄だった。げっそりと〈消沈〉《しょうちん》して項垂れた築宮をさすがに哀れと思ったのか、彼の姉はふと話題を変えた。 「そういえばお前、あんなのどこから引っぱり出してきたの?」 「……?」 「あの瓢箪のこと。  あれは、うちの蔵に、長いことしまってあった奴だと思うんだけど」 「……ごめん。  俺にも、よく判らないよ……」 「ふぅん……」  姉もそれ以上は追求しなかった。青年の心をほぐすような無駄話もしなかった。  車中を砂のような沈黙で満たしたままで、車は一路築宮の家へと走っていく。  車窓には、流れ過ぎ去っていく夜の街の景色と、そして築宮の〈憔悴〉《しょうすい》しきった顔が、朧気に映って―――青年はその己の顔が、最早なんの意味も持たぬ、死者の顔としか思えなかったのだった。  築宮青年が、御膳を部屋に運んでもらって戴くばかりでなく、たまには外で、いつもと違った〈場処〉《ばしょ》でご飯を食べてみてはどうだろうと思いついたのは、昨夜寝しなの事である。  流れに浮かぶ木の葉がひらりと翻《ひるがえ》ったような、脈絡のない思いつきではあったが、その考えは青年の心を無邪気な期待で弾ませた。  今のところ大きな変化のない旅籠での日々の中で暇を持て余し気味の自分にしては、上出来の妙案ではないか。  肌に温まった枕に頭の位置を直しつつ、どんな処《ところ》で食べればいいかと想像するうちにも、心は座敷の傍を流れるせせらぎにさらわれ、眠りに落ちていく。  それで、朝食を運んできたお手伝いさんに頼んで用意してもらった弁当を携えて、座敷を発ったのがお昼前のこと。  どうせだったら日頃慣れた道筋から外れた、これまで足を踏み入れた事のない区域、できればなにかしら変わった面白い部屋か場所が望ましいと、あちこちを覗き廊下をとんび渡りに歩いてきた築宮だが、どうにも心の〈琴線〉《きんせん》を高く弾く〈場処〉《ばしょ》に行き当たらない。それなりにめぼしいところはあったとはいえ、目移りして行き過ぎたのである。  そうこうあてどなくふらつくうちに、いささか足も疲れてきて、廊下の隅に置かれた〈草臥〉《くたぶ》れたソファで休憩ついでに銀の懐中時計を引き出せば、頃はもうお昼時を過ぎている。 (こう、と思い立った時に限って、  ぴんとくるような処《ところ》は、  なかなか見当たらないものだな)  微苦笑したものの、そろそろ空腹も無視し難くなってきた腹具合で、妥協できそうな〈場処〉《ばしょ》をばざっと候補に挙げる。  あの、誰が来るとも思えないのに、床の間に色とりどりの山野の草花を見事に活けてあった座敷がいいだろうか。  それともあの、腰を屈めないと通れないくらい天井が低い廊下を潜った先にあった小さな蔵はどうだろう。昼間から暗く、吊された裸電球が照らし出した調度の中に、古い雑誌が積み上げられているのが気になった。あの図書室の蒐集から漏れた物と思しきが、ちょっと秘密基地めいた狭い蔵で古雑誌を繰りながら箸を遣うのも悪くない。  あるいはいっそのこと、少々離れてしまったけれど、船着き場まで戻って大河の畔《ほとり》まで出て、あの雄大な眺めに目を遊ばせつつというのも悪くない。もしかしたら渡し守に会えるかも知れない。  いずれにしても行き越してきた道であり、引き返すかと腰を上げて、歩き出した足元が、幾らも行かないうちに廊下を軋ませ止まる。  来る途中では見落としていた、座敷と座敷の隙間に降りていく段が、視線の角度が変わったせいか目に飛びこんできたのである。  この廊下を通り慣れた者なら知らず、築宮にはいかにも秘密めかした抜け道に見えて、気をそそられて―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  で、階段を降りて、突き当たりの扉を抜けて青年は、開け放ったドアノブに手を掛けたなり言葉を失いの、ちょっと虚をつかれたかたちの。 「あれ……あんた、築宮……さんだ。  どうしたの、こんなところで」  この人気のない一画の、それも見落としそうな階段の先の部屋、よもやそんなところで人声を聞こうとは、しかも聞き覚えた声は美しいあの、琵琶の弾き語りで青年を詠嘆せしめた声音で。  琵琶法師が、しゃがみこんだところから、築宮を見上げていたのだった。〈直垂〉《ひたたれ》姿の小脇に抱えこんでいるのは、竹の笊《ざる》。 「……あ、ああ、こんにちは。  いや俺は、特になにか用って訳じゃないんだが……」 「君こそ、ここでなにを……。  っていうより、ここは……?」  これっぽっちも予想もせなんだ出会いで、後から来た自分が相手のなにをか訊ねる、〈不躾〉《ぶしつけ》気味な問いを築宮が吐いてしまったのもやむ無しの、部屋の様子はいささか……いや随分風変わりといっていいだろう。  そもそも部屋というより、〈内庭坪庭〉《うちにわつぼにわ》と表すのが適当な、いやそれよりもっと野趣が利いているか。  室内の広さは四間四方ほど、四方を板壁でざっと区切ったような室内は、どこかの山野をそのまま切り取ってきたような有り様で、視界の下側を装飾し尽くそうとしているかのように、種種様々な野草が繁茂して、一画には背の低めな雑木の二・三本まで伸びている始末。旅籠の中でも最外郭に位置していると思しく、突き当たりの壁の窓からは大河の景色が〈垣間見〉《かいまみ》られた。  その水を導き入れているのだろう、下生えを弧を描いて小川が横切り、壁に穿《うが》たれた穴からまた外に流れだしている。  かつまた室内の角には、小体な〈四阿〉《あずまや》とも茶室ともつかぬ建て屋が作りつけられ、部屋の中に屋と入れ子を見せていた。  琵琶法師はこのミニチュアの原野の中、小さな〈四阿〉《あずまや》から小川に掛けられた桟台にしゃがみこみ、笊《ざる》になにやら濯いでいた途中らしい。  旅籠に着いて以来絶えて嗅ぐ機会のなかった〈清冽〉《せいれつ》な草々の香りを吸えば胸が洗われるような、先客に一礼して入れば脹《ふく》ら脛《はぎ》を草の葉先がくすぐり、足元も土を踏んで弾む。 「ちょっと失礼しても……いいだろうか?」 「もちろん。  そんなに遠慮しなくたっていいのよ。  わたしだけの部屋じゃあないのだし」 「こんな部屋……と言っていいのか、  滅多にお目にかからないが、  君はここでなにを?」  と声を掛け様、弁当の重箱を押さえて小川を飛び越え、法師の傍らに。見《まみ》えたのが見知らぬ相手ならこうやって打ち解けた口をきく築宮ではない。  けれど、この琵琶弾く女とは、先だって落とした撥を届けた一件来、いささかの〈友誼〉《ゆうぎ》を感じている。  ―――とはいえあの夜、水路の際で行水の雫に夜灯りを弾かせていた、彼女のあからさまな裸身を思い出せば、気後れとも気恥ずかしさともつかぬ想いに頬が赤らまないでもなかったけれど。  けれど、この琵琶弾く女とは初見ではなく、温室で声を掛けられたし酒場ではその神懸かりの弾奏も耳にした。なので〈漠然〉《ばくぜん》とした親しみを感じていたのである。  傍らに立って笊《ざる》の中を覗きこめば、捲《まく》りあげた二の腕の肌がまた〈瑞々〉《みずみず》しくて、水雫を乗せて匂びやかで、築宮は不意打ちを受けたようについ身を引いてしまう。  いい加減初《うぶ》にも程があるというものだけれど、そんな青年の気まずさなど意に介した様子もなく、法師が示した笊《ざる》の中には、野の草々が一杯、洗われて色鮮やかな。 「わたしはね、ご飯の菜《さい》をとってたんだ。  これはたんぽぽ、こっちはせり、  それからわさびの葉っぱにわらび……」 「ふきのとう、つくしんぼ。かたくりの花。  みんなみんな、食べられるよ」  ずらずらと挙げていった名前くらいは築宮にも聞き分けがつくけれど、笊《ざる》の中にはまだ他にも彼には見分けもつかない野草で一杯で、それらが全て食用とあっては……と築宮は呆れたように室内の草々を見回す。雑草と一括《くく》りにされるものが多いのだろうが、築宮が料理を心得ていないだけで、ほとんどが口に入れられるのではないだろうか。  と、法師が屈託なく笑ったのでつい聞き流したけれど、築宮はふと気づいて首を傾げた。 「いや待て、みんな食べられる……、  それは結構なことだろうが、微妙に季節がずれてないか?」 「たとえば春の中でも早いのと晩いのと」  というより旅籠の中はいつも暑からず寒からず、季節の別がどうにも曖昧なのだがそれはさて置くとしても、法師が採ったという草花には、それこそ雪解け水の頃にしか見られないものから、初夏くらいまで生えているようなのが入り乱れてはいないか? (というよりは俺も、なんだってそんなことは覚えてるのか……)  より自分にとっては意味の深い、出自や過去にまつわる諸々の記憶はいまだ忘却の淵に沈んだまま、だと言うのに野草の時季にはこうして不審を唱えられるというのは、どうにも浮かない皮肉が利いてはいないか。  つい塩辛い表情を浮かべた青年をよそに、法師もふと考えた風ではあったが、宙を眺め顎に指を当てて、 「わたしにもよくわかんないけど。  ここ、水も良くて陽も入って、温度もいいから。みんな好き勝手に生えるんじゃないかな……」 「で、築宮さんはどうしたの?  わたしみたいに、菜っぱを採りにきた、  ……っていうんでもないみたいだけど」 「ああ俺は、ちょっと遠出を……」  言い差して、胃が空腹に不平を鳴らしてきたので、築宮は改めて室内を眺める。  そう言えば目に新鮮な景色で昼食をと願って出かけたのであり、そもそもの目的からするとこの部屋は、丁度お似合いではないか?  そればかりか、親しくなった女までいる。  言いかけて台詞を中途にしたままの築宮に、少し不思議そうな法師と周りを窺えば、彼女が自分の食べ物を持参した様子はない。笊《ざる》の中の野草だって今そのまま生かじりするというのでもないだろう。  せっかくの機会だ、誰かと食事を共にするのも悪くないと築宮の、いつになく積極的だったのは、風変わりな情景に心が浮き立っていたからで、弁当の重箱を掲《かか》げてみせて――― 「そうだ、君。  もし良かったらなんだが、  昼ご飯、一緒に食べないか?」 「え、わたし―――と?」  と、別の相手と間違ったのではないかという風情で四囲を見回した法師だが、もとより他に誰のあろう筈もない。  なにか大いにものに驚いたような、意外そうな貌で何度も築宮と重箱を見直して、法師はそれでも頷いた。  戸惑いつつも、とても人懐こい微笑みで。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……弁当を詰めたお手伝いさんは、量を見誤ったのかそれとも大の男の築宮ならこれくらいは平らげるだろうと踏んだのか、重箱は二段重ねで中味も色味豊かなで、嵩《かさ》もたっぷりと、確かめもせず出発した築宮は蓋を開けてみて少々面食らったほどである。そう言えば道中持ち余りのする重みに何度も持ち替えた覚えがある。  法師はいったん〈四阿〉《あずまや》に入ったものの、狭苦しげな中にわざわざ二人で引っこもうというつもりではなく、抱え出してきた〈茣蓙〉《ござ》を野面に延べれば、それで二人の食卓には事足りる。  重ねの段を二つの膝の間に並べて、箸は一膳しかなかったけれど、法師は小枝を切ってきて手鎌で器用に削って自分のを危うげなしに作った。  準備に手がかからない気軽な弁当、いただきます、と二人で合わせたものの――― 「……? どうぞ。  好きなのから、食べてほしい」 「……うん、ありがと。  でもこういうのは、ご馳走してくれた、  築宮さんから先に……」  といささか遠慮がちで、築宮から箸をつけないことには始まらない塩梅の、それならばと、もともと空腹だったのも手伝い、青年は元気で箸を進めはじめる。  弁当の中味はといって、普段食べ慣れたおかずを小分けに詰め込んだのが多かったが、室内なのに野外に身を置いたような趣もあるし、それに同じ料理でも弁当となると風味が違って感じられる、常より築宮は健啖を見せて平らげていっていたのだが。  法師の箸使いはどうも控え目で、築宮と目を合わせるとはにかんだように伏し目をする。  誘ったのは有り難迷惑だったろうか、場を繋ぐような話でもあった方がいいかと、口の中のものを呑みこんだ築宮へ。 「きれいな、食べかただね。  わたしなんか、お行儀知らないから……。  気ぃ悪くしたら、ごめんなさい」 「なんだ、そんなことか。  そんなのは、なにも気にしなくっていいですよ。誘ったのは俺なのだし」  築宮は無意識にいつもと同じように食べていたつもりでも、人から見ればいやに畏まった作法に見えたらしくて、青年は内心苦笑しつつ法師をとりなした。  記憶はなくとも、身に染みついた躾というのはなかなか消えないものと見える。 「うん、ご飯誘ってくれたのは、  ほんとに嬉しいよ。  わたし、いつも一人で食べてるから」 「築宮さんみたく、誘ってくれる人って珍しいんだ」  法師は何気なく呟いただけなのだろうが、その言葉で、菜は飲み下したはずなのに、〈惻隠〉《そくいん》の情で喉がつかえたような心地して、築宮はそっと視線を逸《そ》らした。 「だからわたし、  お話、上手にできないけど……。  べつに、怒ってるとかじゃ、ないから」  どういえば上手く気持ちを伝えられるのか、言葉が見つからない様子でぽつぽつと、法師の口数少なく、人付き合いの機微に聡いとは言えない築宮にもようやく察せられてきた。  この琵琶法師、酒場での他の客からのあしらわれ方などを見るに、その琵琶の〈業前〉《わざまえ》も理解されることなく、はっきり軽んじられているといっていい。というよりこの女と進んで付き合いを持とうという者は余りいないのではないか。  法師自身はその事に対してどう感じているかまでは築宮にも定かならず、ただ言えるのは、青年のように気取りも構えもなく接してくる人間は滅多になくて、それで彼女は戸惑っているのだろうと。  照れくさいのか気恥ずかしいのか、傍に伸びている草の葉を千切って、指の間で捻り回している法師に、築宮もまた、〈面映〉《おもはゆ》ゆいような気持ちが胸の中がしんみり湧いた。 (そんな、俺だってなにもそんな大した人間でなし、それどころかどこから来たのかも判らない根無し草なんだがな……)  ほろ苦く自嘲しつつも、少なくとも法師がこうして席を共にするのを嫌がっているのではないことは判って、築宮は多少ほっと安堵して、改めて惣菜に手をつけた。  焦らずとも良い。食事を急かすような邪魔があるわけでなし、ゆるゆると食し、話せばいいだけだ。  そう思って継いだ言葉は、いかにも場つなぎの話題替えではあったけれど、他愛ない代わりに害意もなく、法師にも答えやすかった。 「ところで君は、この野草、  こんなに沢山……自分で料理するのか」 「うん? そうよ。  でもたくさんでもない。  煮たり揚げたりすると、目減りするし」 「……って、君はその、食事はその、  そうやって、自炊で?  宿の御膳を戴いたり、しないのか?」 「あんまり、しないかな。  だって、なんかもったいなくって」 「青菜なんかは、こうして採れるし、  魚は時々網にかかるし、  他にもお手伝いさん、差し入れ下さるときあるし」 「お米と、お味噌に醤油なんかはもらってるから、それで充分だもの」  とこう来たのにはさしもの築宮も、自分がとてつもない贅沢者に思えて恐れ入った。こうやって、清貧という言葉が似合う女というのも珍しい。  ともかく、そうやって会話の糸口が解れれば気も緩んで、法師も少しずつ重箱に手をつけるようになり、始めの堅苦しさもいつしか薄れて、彼女からも話すようになった。  といって法師が話すのは、害がない代わりに刺激もない、昨日の天気はよくって何を食べました式の日々の〈徒然〉《つれづれ》ばかりだったけれど、それでも誰かと一緒の食事というのは築宮の心を愉しませたし、室内の草の匂いもせせらぎの清《さや》かなるも心地よい。  やがて重箱は空になったが、もし二人でなければ、話ながら楽しみながらでなかったなら、築宮一人では持て余した事だろう。  一通り食べ終えて(といっても法師は青年に比べれば小食ではあったが)、小川の水を汲んで濯《すす》いだ口元を拭う、法師の表情も食事の前と後とではぐっと気易《きやす》げに和らいでいたのが、築宮には快かった。 「ご馳走してくれた、お礼がしたいな。  今度わたしんとこにも、ご飯食べにきて」 「こういう葉っぱの、お浸しとか天ぷらばっかで、築宮さんのおべんとみたく、ご馳走はないけど」 「そっちも、きっと美味しいよ」  野に咲く百合は荘園の〈薔薇〉《そうび》に劣るもではない。法師から振る舞われる料理なら、たとい質素な皿だろうと、その心の在りようが味を美しくするだろうと青年にも察せられ、近いうちに彼女の庵《いおり》を訪れる事を約束した。 「お浸し、ごま和え、天ぷらに―――  ……あ」  青年を迎え入れる時を想像して心が弾んだものか、小気味よく口ずさみながら、振る舞いを受けた者の礼として重箱を小川に洗っていた法師の声と手が、しくじりをしでかしたようにぴたり止まってしまう。 「どうかしたんですか」 「油、切らしてたんだったよ……。  もらってこないと」  法師の方は情けなさげに眉をしならせたつもりだったのだろうが、本人は真面目なだけに微妙な〈滑稽〉《こっけい》味を帯びていて、築宮はつい噴き出しそうになったのをどうにか噛み殺したのだった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  法師と別れて、遠出と弁当にも満足して、自分の座敷に戻る道すがら、築宮は通りすがりのお手伝いさんと出くわした。  目礼を交わしてすれ違ったものの、はっと心づいて振り返り、呼びとめる。 「はい、なんでしょう。  なんなりと御用の向きを、どうぞ」  運良く彼女が、はきはきと歯切れの良い、いかにも客慣れしたお手伝いさんで、これならば頼みやすいと築宮は言づけた。 「ああ、貴女、温室の琵琶法師はご存じですか……知っている? なら良かった。  彼女の庵《いおり》まで……そう、温室の下の階にある……そこまで、油を届けてやってくれませんか? いいや、行燈のじゃない。食用のやつです。切らしているそうだから。  お手数だが、どうかよろしく」 「承りました」  といやな顔一つせず、早速に踵を返し台所方まで小走りに去っていたお手伝いさんの勤勉さ、客あしらいの良さに深々と頭を下げた築宮だったが、後から、どうせだったら自分が届けてやった方が、彼女の庵《いおり》を訪れる口実になったのではないかと、自分の至らなさ加減に物哀しさを覚えたとか―――  次に築宮青年が琵琶法師を見かけたのは、弁当を一緒にした午後から数日経った夕暮れ時の事である。  食事を共にと誘われて心は動いたものの、延ばし延ばしにしていたのは、そう気軽に押しかけていくのも図々しいかと憚《はばか》られたからである。何日か間を空けた後の方が、彼女との一時もより味わい深く〈醸成〉《じょうせい》されるだろう。  と、そんな風に築宮が自分を焦らしていたのも昨日までの事、そろそろ頃合いも良しと見て、例の地下酒場で詰めてもらった酒の〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》を手みやげ代わりに提げて、法師の庵《いおり》までふらふらと廊下をさらっていた途中だ。  まさにその法師が、なにやら通廊の片隅に佇《たたず》んでいるのを見かけたのは。  日中は閑散とした通廊も、晩方ともなれば〈夕餉〉《ゆうげ》や諸々の支度でやはり忙しなく、お手伝いさん達もいそいそと行き交う中、法師はぼんやりと、なにごとかに耳を澄ましている風情なのだった。  たまさかここで見かけなければ庵《いおり》を訪れてもすれ違いを喰うところだったと、偶然に感謝して歩み寄る。 「やあ……どうしたんです、こんな処《ところ》で」 「ああ、築宮さん。  そのね……ええと……」  と築宮に目を向けたものの、視線は彼に焦点を結ばず、またも遠くに聴き入る体で。  青年にはとりたて気を惹くような物音は耳に届かなかったけれど、音にかけてはこの女の方が鋭敏であろうと、彼女の注意を乱さないよう声を控える―――と。 「なんか、どこかから……変な声が。  苦しそうな……? 呻《うめ》いてるみたいな?」  彼女にあっても聴き分けにくいほど遠く幽かな声のようで、ましてや築宮には到底捉えられる筈もない。気のせいではないかとやや〈胡散臭〉《うさんくさ》く見まもるうちにも、耳ばかりか鼻先でも捉えようとするかのように瞼を下ろし、あちらこちらと頭を巡らせて、やがて。 「……こっちだ。  なんだろう、どこかで誰か、  具合悪くしてるんじゃないかな……」  で歩き出した先が、通廊の本筋から外れて薄暗い、座敷と座敷の間の狭間で、法師の確信したような足取りに築宮もつい追いかけていったものの案の定袋小路で突き当たった。 「なにもないようだけど……」 「ううん、下、だよ。  ……よいしょお……っ」  はてと訊きかえすより先に法師は屈みこんで、一見床板が緩んだとしか見えない隙間に指先を差し入れて、小さな掛け声一つ、引き開ければ、人一人がようやく潜れるくらいの階段が、一つ。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  これまで旅籠の中を暇にあかせて方々歩き回り、さすがに隈《くま》無く〈踏破〉《とうは》したとは言わないにしても、かなりの区域を見て回ったとそれなりに自負する築宮である。もちろんこの規格外れの巨大建築物のこと、まだ見知らぬ部屋々々、目を剥くような奇妙な情景をあちこちに蔵しているだろうとは予想しつつも、それでも法師と二人で入りこんだ処《ところ》は意表を衝かれた。  ―――地下道なのだった。  水路の流れる下層、通廊や階段が立体的に入り組む中程の階、屋根に程近くあちこちから陽差しも入りこむ上部(ちなみに例の温室が位置するのもこの階層だ)と、下から上に伸び上がるという〈漠然〉《ばくぜん》としたイメージは抱きつつも、下層のそのまた下に空間があるというのはちょっと念頭から抜けていた。  地下の通廊は、そのほとんどが木造の長廊下であるところの旅籠の他とは大いに様相を異にして、一面は〈煉瓦〉《レンガ》で鎧《よろ》われ薄暗い、〈隧道〉《トンネル》のような造りで、踏みしめる足元も〈煉瓦〉《レンガ》敷き、板張りの廊下独特の微妙な弾力とは隔たって硬い。〈跫音〉《あしおと》だって硬く長く響いて、暗がりの薄気味悪さを際立たせる。  他の逗留客はおろか、お手伝いさんの姿の一つも見えず、まさしく人通りが絶えた区画なのだろう。  間隔は間遠ながら一応灯りは点っているものの、築宮としては一人なら少々遠慮したいほどの、地下特有の無形の重圧に満ちた煉瓦造りの通廊を、それでも歩を進めていくのは先を行く法師がある故にだ。  青年の耳に聴こゆる音といっては、二人の〈跫音〉《あしおと》とその残響ばかり、他は暗がりの中に内臓に響くような重低音が潜んでいるように思われるのだが、これは地下の圧迫感がもたらす耳鳴り、幻聴の類だろう。  しかし法師の聡い耳は不明の人声を聞きつけて逃さないようで、築宮の不安をよそにすたすたと、探るような歩度なれど澱《よど》みはない。  なにやら苦しんでいるような声だという、法師の言葉を今さら疑うでもないけれど、この人跡稀で森閑とした中なのに、築宮にはいまだ聞こえず気配も感じられないと言うのは、声の主はよほど遠くにいるのに違いない。  一体どこまで歩く事になるのやらと、成り行きでついてきたのに青年がいささかの後悔を覚えはじめた時、法師は足を停めて凝視したのが、〈隧道〉《ずいどう》の横壁に設けられた扉の、鋲が打たれて堅牢そうな。 「ここ、だ。  この中から、聞こえてくるみたい」  法師は得心顔で頷いた、けれど築宮には、ここまで来てもやっぱり、聞こえなかった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  幸いにして扉に錠は掛かっておらず、年月に錆びた〈蝶番〉《ちょうつがい》の抵抗は、築宮が体ごと踏んばってこじ開けた、中は独房を思わす小部屋。  扉から差しこむ薄明かりの中に浮かんだ〈角燈〉《カンテラ》には油が残されていて、灯りはそれで事足りた。  部屋の中央には〈汽罐〉《ボイラー》なのか焼却炉なのか定かではないが、人が二人余裕で潜り込めそうなほどの大きな炉が一つ、往時には赤熱していたのだろうが今は沈黙の裡《うち》に冷えきり、〈角燈〉《カンテラ》の灯りの中に、うずくまった巨獣の化石のよう。  ただ室内はその炉の大なるが鎮座するばかりで、法師が言うような声を出す者の姿は見えない。 「あれ? じゃあこっちの中かな?」  錆の浮いた炉の扉をこじ開けて潜れば、火を入れられていたのは遠い過去だったと見えて灰は内壁にこびりついているばかり、か、中には鉄製の寝台が置いてあるのが目についた他、〈角燈〉《カンテラ》を翳せば頭上にあいた煙突に通ずると思しき穴の開口が煌《きら》めいた、鏡が据えてあるので。 「なんだ、これは……」  ……二人があずかり知らぬところだが、この炉から伸びた煙突は旅籠を垂直に貫き延々と屋根の煙り出しまで続いており、上端は歳月のうちに滑落してきて遠い昔に茶褐色の苔に封じこめられ柔らかく覆われたスレート板によって外光から遮断され、黒い闇の井戸の底にも似たこの炉は忘れ去られて永きを閲《けみ》していた。そればかりか煙突の内壁には、頭上を上へ上へと鏡がある角度と間隔でもって配置されており、筒状の闇を覗き上げれば句読点のように煌《きら》めいていたのが窺えたろう。  どれほどの労力の結晶か呆れるばかりの、築宮達が目にした鏡はその終端の一枚だったのである。 「しぃ……っ」  一体何の為の空間かと首を傾げて法師に意見を求めようとした、築宮の唇はそっと塞がれた。彼女の人差し指で。琵琶の絃と撥を遣えば自炊もする、彼女の指はどちらかというと鞣《なめ》し革の質感にも近かったのだが、暗がりの中で唇に触れてきた指先は、なにやら淡い胸騒ぎを呼んで、何事かと言葉に詰まった築宮の耳に、 『ゃ……ん、ぁぁ……』  遠く聞こえてきたのが声、まさしく法師の言っていった、呻《うめ》くような啜《すす》り泣くような声。  はっとなって見交わしあった目線で、無言の中に頷き交わす。  ……聞こえた?  ……ああ、でもどこから?  ……きっと、このあなぐらの、上の方から。  で、見上げても煙突は闇が埋めて、ただ曇り夜の疎《まば》らな星の様に鏡が光っているばかり。  ただ声が――― 『あ、く……だめ……です、だ、め……』 『ぅぅ……ふっ、ゃ……』  水晶板の振動のようにかそけく響いて、こんな微細な物音をあの離れた位置から聴き分けた法師の耳にはただただ〈愕然〉《がくぜん》とする他ないが、ここからではなにが起こっているかまでは知りようもない。  と、思われたのだが。 「うん……? なにか、映っている……?」  煙突の開口部の鏡の真下、寝台の黴《かび》臭いシーツの上に、〈角燈〉《カンテラ》の灯りからやや外れて、二人の影以外の動く像があったので、築宮は鼻先を近づけた。けれど〈角燈〉《カンテラ》の灯りに掻き消されるようで画が薄い。銀幕に映し出された映像は、光が強いとかえって見えないのと同じ原理らしく、〈角燈〉《カンテラ》を遠ざけるとその方がはっきりして見えた。  で、もう一度まじまじと凝視すると。 『だめ、そんなにしちゃ、だめぇ……』  ―――その時声が、ややはっきりした映像と重なって、築宮が〈唖然〉《あぜん》の形に口ぽかんと開けたのも無理はない。  敷布に映し出されたのは、どこか階上の洋室と思しき一間。  動いているのは、その洋室のマントルピースにもたれかかっているお手伝いさんと、中年の男性客。 『はぁ、ぁ……お客さま、深すぎて、私ぃ』 『奥……抉れ……ふぁぁ……っ』  声は、男性客が動くたびに。大きく捲《まく》りあげて剥き出しにした、お手伝いさんの白い臀《しり》に後から覆い被せた腰を、逞しく突き入れ、引き出す、その律動のたびに、声は煙突を伝声管のようにして響いてくるのだった。  ……これもまた築宮達二人には知りようもないことだが、お手伝いさんと男性客のいる洋室には一枚の風景画が掛かっている。  どこか異国の城が描かれた画の、その城の塔の窓が巧妙に刳《く》り抜かれ、室内の情景を部屋の外側を貫く煙突内の鏡に映し出すという方式なので。  つまり。  法師が聞きつけた声というのは、急病や怪我に苦しむ声などではなく、どころかもっと艶やかで、快美な感覚が絞り出したものに違いなく――― 『も……ぅ、許し……、  もうお夕飯なのに……、  こんな、何度、もぉ……っ』 『あ……っ?  あっ……ぁっ……ぁっ……!  嘘、また出て……んぅぅ……っっ』  と男性客は、抱えこんだ臀《しり》を引きつけるようにして硬直しばし、設置された鏡の角度がまた良く……というのかなんというのか……繋がっているその部分まで映し出され、二人がどういう行為に耽《ふけ》っているのか明らかだ。  お手伝いさんはお手伝いさんで、声はああだが体を逃そうとするどころか、むしろ嬉しげに腰を緩やかに揺すり、男のその瞬間を望んで受け入れている節が見てとれる。  やがて二人は身を離したが、それで情交は終わるどころか、男はマントルピースに背を預け、今度はお手伝いさんの体を返して前から立ったまま。お手伝いさんはさすがに戸惑ったようだが、男がぐい、と腰を押しこんだ途端に白い喉が喜ばしげに反《そ》らされた。大きく捲《まく》りあげられたスカートから伸びた裸の片脚もまた、男の体を逃すまいとするかのようにその腰に絡みつく。日頃は慎み深くまとめられた髪が解け、背に流れ、揺れているのが淫らに生々しい。 『ちょ……また……ぁ、  あはぁ……すご……お客さまぁ……』 『どうしてまだこんな……硬ぁい……。  私の中、いっぱいですよぅ、あ、はぁ…』 (これは……また、その、なんというか……)  鏡伝いに映し出された、二人の秘め事はいつやむとも知れず、築宮はひりつきだした喉に思わず唾を呑みこんだ事である。  ―――実のところこれは、青年も〈仄聞〉《そくぶん》したところなのだが、旅籠のお手伝いさん達の中には、客と懇《ねんご》ろになって体まで許すのがあるらしい。全てが全てそうだというのではなく、中にはそういう〈奔放〉《ほんぽう》なのもあるという事だそうな。初めてそれを聞いた築宮は、なにをそんな都合の良い妄想がと笑い飛ばそうとしたものの、彼自身その手のお手伝いさんに覚えがないでもない事に思い当たって〈憮然〉《ぶぜん》としたものだ。  しかしよもやこんな地下の、なんのものとも知れない炉の中でその現場を〈垣間見〉《かいまみ》することになろうとは……と、なかば酒に酔ったような心地でそろそろ息をつこうとした、彼より先に。 「はぁ……ぁ」  今度の吐息は煙突の上からではなくすぐ間近で漏らされたのにまたぎょっとして、そこで築宮は今の今まで法師の存在を失念していたことに気づく。階上からの映像に圧倒されて、というか魅入ってしまっていて、彼女の事をすっかり忘れていたのだ。  まるで〈猥褻〉《わいせつ》な雑誌をこっそり見ていたところを取り押さえられた少年の様な、疚《やま》しさ後ろめたさ情けなさでたちまち頬がかっとなり、怖々と彼女の方を見やれば。  法師は、寝台の上にぺたんと膝を突き、放心の体で映像に夢中なのだった。最前までの築宮と同じに。それが青年の視線に気づいて顔を上げたがぼんやりと、眼差しから焦点が失われ、それが築宮を見て半泣きに顔を歪ませたのには大いに焦った。 「……なんかわたし……、  見たことないの、見ちゃったよう……」  戸惑った声、困惑に涙さえ浮かべた表情、しかし築宮とて他人の情事を見たのは記憶の限りこれが初めてである。  しかも向こうは気づく由《よし》もないとはいえ浅ましい覗き見、出歯亀、ありとあらゆる助平根性にまみれた盗み見で、まさか自分がそんな〈破廉恥〉《はれんち》行為に手を染めようとは考えてもいなかった築宮なのに、知らず知らずに夢中になってしまっていた。  階上の情事はなお続くようだが、視線を引きはがして立ち上がる。  法師だって、どこか一目の届かない〈場処〉《ばしょ》で苦しんでいる誰かがいるのではと〈懸念〉《けねん》しただろうに、それが思わぬ〈瑕瑾〉《きず》となった。予想外の艶事を見せつけられた衝撃に〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》、このままでは泣き出しかねない勢いの、築宮よりも〈初々〉《ういうい》しい反応で、放ってはおかれない。 「もうこれ、見ない方がいい。  さ、出よう……」 「あ……、う、うん……っ」  促《うなが》したのだが、彼女は困惑のまま瞼を瞬かせるばかりで、立ち上がろうと手をつがえてもままならない様子、どうやら腰から力が抜けてしまったらしい。  止む無しと築宮は、法師に手を差し延べれば、彼女はしばし躊躇ったものの結局青年の手を借りた。  握り返された手、熱っぽくて。  汗を帯びていて。それでも迷子の子供のようなその手を不快などとは思えず、法師の手を引いて地下の一室をようやく後にする、築宮の足取りもどこか雲を踏むようなのであったという―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。 「……凄かったね」  庵《いおり》の板間の縁に並んで腰下ろして、二人がようやくついた一息は、とっぷり暮れた夜闇に熱っぽい。どこをどう歩いてきたものやら築宮にはうろ覚えだが、なし崩しに法師の庵《いおり》まで押しかけてしまったようだ。  もとより今夜は法師の許を訪れるつもりの築宮だったが、〈暢気〉《のんき》に〈夕餉〉《ゆうげ》を共に、といった雰囲気ではなくなってしまっている。  歩き止むまでまともな言葉を発せずにいた法師が、やっと短かな言葉を漏らして立ち上がり、土間に据えてあった〈水甕〉《みずがめ》から、〈柄杓〉《ひしゃく》で喉を潤《うるお》す。促《うなが》されて築宮も〈頂戴〉《ちょうだい》する事にした汲み置きの水は、どちらかといえば生温かったが、渇いた喉にはむしろ優しく美味だった。 「確かに……。  とんでもないモノを見ることになった」  火を入れたばかりの〈行燈〉《あんどん》の明かりを受け、法師の横顔の輪郭が柔らかく〈縁取〉《ふちど》られて、産毛も浮いて。  頬がやや上気しているのは長く歩いてきたからか、覗き見した情景の衝撃がいまだに尾を曳《ひ》いているからか。眺めるともなしに眺めつつ、築宮、言継いで、 「なんというか……今日はもともと、  君のところにお邪魔しようと、  そのつもりで歩いてたんだが……」 「あ……そうだったんだ。  嬉しいよ、こないだの話、  覚えててくれて……でも、その」  申し訳なさそうに面伏せして、 「あれのおかげで、晩ご飯の準備の時間、  なくなっちゃって―――  今から作ると、遅くなっちゃう」 「ああいいよ、無理もない。  なにも今晩でなくともいいです。  また日を改めることにして」  と、とりなしたものの築宮は、思い立った時に限って珍事が邪魔をするものだと内心で苦笑した。  さればとて、すぐさま立って別れを告げるのも、それはそれで味気ない気がして場つなぎの言葉を探す築宮の、ぶら下げていた〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》を認めてか、 「あ、お酒、持ってきたの?」 「うん? あ、ああ。  手ぶらで来るのもなんだから、  君に土産にと思って。  呑めない口なら、申し訳ないんだが」 「ううん、たくさんは駄目だけど、呑むよ。  あんがとう。おみやげまでくれて」 「でもせっかくのお酒なら、  なんか欲しいよね、塩気のもの。  ……待ってて。  お香《こう》ことかなら、すぐに出せるよ」  いやお構いなくとの築宮の遠慮を聞かず、いそいそと並べてきたのが、香の物やら佃煮やら、日保ちがする惣菜と、盃が一つ、だけ。  簡素な肴《さかな》ではあるにせよ、法師の心尽くしを押し返すのも無情と、しばし腰を落ち着けて摘んでいくことにした築宮だったが、一つだけの盃では、どちらが使えばいいのやら。  目問いした築宮へ、法師はまたもすまなそうに、気弱げに視線を落とした。 「……うち、誰かが寄ってって、お酒呑んでく事とか、なくってさ」 「お椀とかも少しで、  お猪口も、そんだけ……。  あの、だから、築宮さんが使ってね」  貧乏暮らしを、というより、人訪をもてなす道具が足りないことを恥じ入るようで健気な、ただ築宮はなにやら物の哀れに胸打たれる心地して、彼も俯《うつむ》いた。  障子も破け、板間だってあちこちこぼたれた跡がある。これで夜更けの野原で出くわそうものなら、なんの鬼婆の栖《すみか》かという侘《わ》び住まいなのだが、荒れた部分にはきちんと繕《つくろ》いの手が入れてあって、荒廃の感はなく、掃き清められた土間などは夜目にも清々しい。  むしろ「白露の、さびしき味を忘るるな」との戒めの言葉に風流の心を籠めた〈俳諧〉《はいかい》の古人あたりなら、喜んで〈終の栖〉《ついのすみか》に選びそうな侘《わ》び屋で、しかしやはり好んで訪れるような旅籠の客もないのだろう。それ以前に法師は他の者からどうにも軽んぜられ、相手にされていない節がある。  築宮も、彼女が誰かと親しく交わっている様子など見た覚えがない。  ただ法師自身はいたって〈恬淡〉《てんたん》としたもので、孤独を僻《ひが》まず、分不相応な欲で身を飾ろうともせず、築宮のごとき珍《めずら》かな客の訪れがあれば素直に喜び、侘《わ》び住まいを徒に卑下するよりあたう限りでもてなそうとする心が、青年には好もしくかつ〈惻隠〉《そくいん》の情を催された。  彼とて過去の記憶を失い、行く末も定かならずの不甲斐なき身であるくせして、法師の暮らしぶりに何時になくしんみりしている築宮をよそに、彼女は早速〈徳利〉《とっくり》の栓を抜いて、盃に注ぐ。のだが。 「……あ〜……」  慣れない手つきの事、注ぎ余してしまい溢れさせた、板間を濡らした酒に、なんとも情けない顔になる。 「……ごめんね、せっかくのお酒、零しちまって……」  慌てて拭き取る琵琶法師、琵琶以外のことに関してはてんで不器用な琵琶法師、酒を溢れさせた事は勿体ない傷としても、責めるつもりには更々なれず築宮は、零れんばかりに盛り上がった盃を慎重に唇に寄せて一口流しこみ、はいと法師に差し出した、返す手で。 「まあ、大したことじゃあない。  それより、君もどうぞ」 「え、わたし、も?」 「せっかくの酒と言ったのは、  君の方だったろう?  土産に持ってきたのを、  俺だけ呑んでいるのは気が退けます」 「そうお?  そんならありがたく、もらっちゃおう」  両手に押し頂いたのが変に恭《うやうや》しくて、それが微笑ましい。ちうと袂《たもと》の影で喉も晒さず一口啜《すす》って、美味なるに満悦の溜息を漏らして法師は、また盃を築宮へ。  女の唇がついた盃なら、縁を口紅で染めているのがありがちなところ、ただ法師は紅など嗜《たしな》む余裕もないらしく、盃に色は見えぬ。 「ああ、美味しいね。  久しぶりのお酒だよゥ」  なのに〈莞爾〉《にっこり》と笑んだ唇は、紅など差した様子もないのに、艶を帯び、色づいて、築宮もまた、含んだ酒がその色を映して薄紅を帯びているような、不思議なときめきを覚えたものである。  土産といっても酒場に無理を言う図々しさのない築宮、持ち来たったのは安酒なれど、法師の喜ぶ顔で、どんな〈吟撰〉《ぎんせん》よりも薫り高く感じられた。  僅かばかりの塩気を肴《さかな》に一つ盃で回し呑み、といっては品がないけれど、〈貧乏徳利〉《びんぼうどっくり》に直に口をつけて遣るのだって褒められたものではない。  それに築宮は、同じ盃が行ったり来たりするのも、この欲の無い女が相手となるとなんだか楽しくて、ようやく心も落ち着いてささやかな酒宴を楽しんだのだが。 「……でもわたし、まさか、あれの声だなんて、思わなくってさ」  青年が知る法師なら、なにかお話をせびってくるところを、今夜はせがむ言葉もなく、あの弁当を使った午後のあとはなにをしただの、昨夜は温室の〈硝子〉《ガラス》の〈天蓋〉《てんがい》からのお月様が綺麗だっただの、起伏に乏しい話題を継いでいた法師が、不意に声音を低めに、漏らしたのがそれである。  なにを差しているのか言うまでもなく、築宮もつい頷いた。 「それは、俺だって同じだ。  ……というか、誰がなんの為にあんな仕掛け、わざわざ拵えたものやら……ごほんっ」  つい頷いてつい受け答えしてから、空咳で流そうとしたのは、法師の台詞であの鏡から映し出された情景を、うっかり思い浮かべてしまったからで。他人の秘め事の、匂うような淫靡が蘇り、喉につかえそうな気がして、咳払いで追い出したのだ。  築宮としては、酒で舌を湿しているとは言えまだ酔いもろくに回っていないうちからする話ではなく、否たとえ酔っていたとしても、女性を相手に艶談に耽《ふけ》る性分ではない。  築宮がそうしてこの話題を煙たく思っていたのだが、裏腹に法師はどうにも未練ありげなのが、青年を戸惑わせた。 「いつもは、まじめに働いてるとこっか見ないけど、お手伝いさんも、ああいうコトするんだ……はぁ……」 「まあその、俺も話には聞いたこと、あります。客とその……事に及んでしまうのも、中にはいるとか」 「とはいえ、それも個人の問題だろう。  俺たちが、あんまり立ち入る事でもない」  努めて平静を装って、一般的な倫理でもってこの話はこれきりと、築宮は打ち切ろうとした。大体夜の一つ屋で、女性と差し向かいの野面でやるような話ではない。  ところが法師と来たら。 「だけど、見ちゃったもん、気になるよ、  ね、ね? 築宮さんは……?」  〈含羞〉《はにかみ》み草が頬へ朱を差して、声は内緒話の囁き声、目だって視線が泳ぎがちだというのに、どうにも不謹慎な好奇心を振り払えないでいるらしいのは、典雅な〈装幀〉《そうてい》に惹かれ、うっかりアポリネールあたりの著書を読みふけってしまった子女と異ならず、ましてや法師の場合、映像であるとはいえ生中継である。  日頃人交わりする機会の少ない彼女が、その刺激にたやすく〈逆上〉《とりのぼ》せてしまうのは、築宮にも判らないでもないが――― 「それはその……気にならない、  って言えば嘘になるがさ。  けれど俺はこの手の話は……」 「女の人と面と向かってするのは、  どうにも苦手なんです。  だから話を振られてもその……困る」  別に気取ったわけでなく、真実そういうお堅い性分の青年なのであり、なにも性にまつわる事柄に嫌悪を抱いている訳ではけしてないのだが、大っぴらにするのはどうしても憚《はばか》られる。このあたり、彼の失われた過去になんらかの要因があるのかも知れないが、今は知りようもないこと。  築宮がやや渋い顔つきになったのを見てとって、法師はちょっと俯《うつむ》いて香の物に箸を延ばした、気まずげな沈黙が垂れて〈行燈〉《あんどん》の火灯りに影が揺れる、庵《いおり》の裏では水路が呟く。  ややあって法師は中腰を浮かせ、〈酒肴〉《しゅこう》の盆を周り、袴の膝でにじったのが築宮の隣へ。  と青年の〈襯衣〉《シャツ》の肘をちょいと摘んで、じっと上目づかいのおねだり顔。  酒の席での女のこういう仕草は、どうしたって娼妓の〈手管〉《てくだ》に似通うのだが、この法師がやると、媚びというより遊びを中断された不満で袖《そで》に絡む仔犬を思わせて、築宮にもどうにも振り払いがたい。 「わたしだって、こんなお話、他の誰かとしたことないよ。でもだって、あんたとはアレ、一緒に見ちゃったしさァ……」 「わたしと、こんなお話しすんの、  築宮さんは、いや……?」  ……このどこか浮世離れした女は、なにも自ら進んで人交わりを〈厭世的〉《えんせいてき》に遠ざけているのではなく、単に疎《うと》いだけ、機会に恵まれなかっただけで、それがはからずも覗き見してしまった人間臭い営みに、〈俄然〉《がぜん》興味を催したらしい。  おずおずと遠慮がちながら、それでもこの青年なら、人が相手にもしない自分に話しかけてくれた築宮なら、人の寄りつかない庵《いおり》に訪れようという彼なら、今まで知らずに過ごした物事を、内緒話のように囁き交わしてくれるだろうかと、期待をこめた眼差しで身を乗り出してきて、衣に焚《た》きしめられた香が鼻先に届くし、しなやかな首筋がはねのけられたらの不安にわなないているのさえ目に映る。 (まずいな、これは……)  築宮は心中の動揺を息遣いで気取られぬよう、そろそろと鼻に呼気を抜いた。  そう動揺していたのだ。  逢えば何時だって無防備なこの法師、人を疑う事知らず、年頃の女の思わせぶりもないのが微笑ましく好もしかったのが、今はそのあけすけなのにつけこみたくなってしまう。 「……厭じゃ、ない。  だがきっと、話しているだけでは―――  収まらなくなる」 「……えっ?」  法師は唇を幽かに震わせて、驚いた風情なら、築宮もまた同じ、いやもっと驚いていたのだ。見え透く意味をこめた台詞を吐いてしまった自分に、その情景を想像してしまった自分に。  あのお手伝いさんと男性客のように、この法師と睦《むつ》み合う自分の姿を、思い浮かべてしまってたじろいだのだ。  これでもし法師が怯えて身を引くようならどうなっただろう。この夜は気まずい思いにまみれて終わったとしても、これまでのようにつかず離れずの距離感での付き合いを続けていかれたかも知れない。  だが法師は―――迷ったように視線をたゆたわせながらも、むしろ更に前に、寄り添うまでに膝を進めて――― 「あンね……わたしも、見たのは初めてだったけれど。  男の人と女の人が、二人でなにをするのかってコトくらいは、知ってんだよ……?」  そろそろと、目隠しの手探りのように探っていたお互いの間境を、重ねてそして踏み越えたのは、築宮が先だった。  震えを帯びさせた睫毛で、一つ一つに濃まやかにものを言いつ、ふと伏し目にして見回した後先、二人の他に誰もいないと判ってなお、庵《いおり》を覗き見する輩のない事を確かめるような法師の仕草に、首筋ではらはら後れ毛が揺れたのさえ誘われるようなのに、築宮の心の針が振り切れた。  〈襯衣〉《シャツ》の肘を摘んだ法師の手を取って築宮、引き寄せたのが己の胸に。  静かな夜に、誰も咎める野暮助などいない二人きり、おまけに相手は妙に自分に懐いているとくる、そんな状況が、築宮を何時になく〈奔放〉《ほんぽう》にさせていたのかも知れない。  あるいは、女の一人くらい、自分の意志で抱けるのだという男の〈矜持〉《きょうじ》、埒《らち》もない自尊心が働いたのかも知れない。  いずれにしても法師は青年の腕に身を任せ、胸の中で囁いた、声は寝言のようにか細かったけれど。 「わたしと築宮さんでも、  ……できるのかな……。  あの人達みたいな、コト―――」  かき抱いた青年の腕の中で、擦り寄せた頬と吐息がまた、熱かったことと言ったら。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  法師がいそいそと延べた布団は、綿がすっかりへこんで平らになったいわゆる〈煎餅〉《せんべい》布団、ただちゃんと風に当ててあると見えて、よく乾いていやな湿り気もない。  その薄い布団の上で築宮はなんというのか、解放感を味わっていた。  解放感という朗《ほが》らかな字面だけからすればなにも拒むところはなくて良さそうなもの、しかしこの時築宮は解放されると同時に非常な居心地の悪さに、それはもういたたまれなかったという。  なんとなればその解放感は、ズボンの前開き下着をずらし、普段なら服の裡《うち》に収められた器官を外気に当てていた故に。いたたまれなさは、その器官、要は性器を、法師の、異性の目に晒していた故に。 「な、なんでだ……っ!?」 「その、君とその、男女のことに及ぶと言って、もう俺はそのなんだ、やぶさかじゃないがしかし、しかしこれは……っ」 「なんでこんな……っっ」  築宮は後じさろうと腰を引こうとした、が裏腹の、後ろに手をついたはずみに、法師の眼前に大きく〈強張〉《こわば》りを突きだす形となった。 「ひや……」  いつもは女の品とか無縁で、見やすい色気に欠ける法師の、そんな羞恥の小さな悲鳴は滅多に聞かれない、考えようによってはある意味感慨を呼ぶ類の声ではあったが。  今の築宮には、感慨を味わう余裕もなく、これまでにない羞恥に、彼はどう身を処したものだか見当さえつきかねたとか。 「もう、しまっていいだろう……っ?」 「……ええー……?」 「またそんな、不満そうな……」  悲鳴をあげておきながらも法師は、築宮の『そこ』から目を奪われて離せない様子。  それでは布団を被りながらも怖いモノ見たさで怪談に興ずる女学生と大差ない。 「だってこんなにすごいの、初めてだし。  もっとよく見たいよ。  ……男さんって、こんな、なんだ……?」 「男だったら、誰だってこうだぞ……」 「そうかもしれない……けどさ」  法師の声、他に聞く者もあるまいに、人耳を憚《はばか》るような秘やかな声で、それがいかにも築宮に『いけないことをしています』という疚《やま》しさを強くさせる。  疚《やま》しさが勝るなら築宮の性器ももう少し〈項垂〉《うなだ》れてもよさそうなものなのだが、そこは彼自身〈唖然〉《あぜん》とするほど隆々といきりたっていたのだった。  もちろん始めからこうなっていたわけではなく、どうしても見せてほしいという法師の懇願がまずあった。  どうやら乗り気になったのは彼女ながらも、明らかにこの手のことに慣れていない様子で、好奇心が勝ったらしい。  根負けして、ズボンの前をくつろげた築宮ではあったが、その時はまだ彼の器官は鎮まっていたのである。  それが――― 「はぁ……こんな風に、なってるんだね」  覗きこむ法師の息遣いが〈項垂〉《うなだ》れていた性器を撫でただけで。 「……あ……動いた。え。動い……て」  彼女の息遣い、さらりと一筋、そうほんの一筋が性器を掠《かす》めただけ、まるで羽が降りかかった程の幽かな感触だった。  それなのに、その感触だけで。 「え。え。あ……っ」 「ふくらんで……大きく……、  むくむくって……」  いや、僅かな感触だったからこそ。  それまで色事の世界とは無縁のところにあると思っていた法師に、〈執拗〉《しつよう》に観察されていると言う事が巨大に意識され、それが築宮の本能を刺激したのだ。  反応はあっという間だった。  血流がそこに集まり始めている事を感じて意識を逸《そ》らそうとしたのだが、逆にますますそこを、法師に見られていることを意識してしまう事になり。 「なんか、別の生きもんみたいだよゥ」 「こんな……こんなに、大っきくて、硬そうになんの……?」 「そういうものだとしか、  俺には言えないよ」 「こんなのが……わたしに……」 「わたしの……中……に」 「……!」 「……入って……きちゃうの?」 「…………!!」  築宮がただでさえ異様な高ぶりを持て余していたところにこの囁きである。  どんな妄想よりも、その一言が築宮の性感中枢を直撃し、彼の剛直を震わせた。  震わせて、尿道にはやこみあげてきていた腺液を絞り出した。 (まずい……っ)  と思えど遅く、ぽつりと鈴口に滲んだのは涙に似ていたけれど、涙よりもっと〈粘稠〉《ねんちゅう》な液。 「あ、え……築宮さん……?」  法師のやや咎めるような声は、性に動揺するのとはいささか異なっていて、築宮には不審に思われた。  鈴口を濡らしたのは築宮の〈昂奮〉《こうふん》の表れであり、それはむしろ法師に築宮の昂《たか》ぶりを見やすく伝えさせこそすれ、咎めだてさせるようなものではない筈。  訝《いぶか》しく感じた築宮へ、 「……用足しに行きたいの、  我慢してた?」 「用足し……って、  いや別にそういう訳じゃ……」 「だって、少し、漏れそうだよ」  ああ、とそれで築宮は得心がいった。  得心がいってなお不審にかられた。  知らないのか、法師は。男も昂《たか》ぶった時には濡らすのだと言うことを。 「……男だって、〈昂奮〉《こうふん》すると、こういうの、  出てくるものなんだけど。  ええと、女性と同じように」 「……知らなかったのか?」  これを聞いて法師は、放心したように首を振った。 「知らなかった……」  もともと紅潮していた頬に更に朱が重ねられ、声は窮屈なところから押し出されるかのよう。  更に好奇に駆られたように、怖々と差し伸べられていた手の動きで、袂《たもと》が滑ってほんの僅かに風を動かした。  その通りすぎる、僅かな空気の動きだけで、 「ちょ……そ……っ」  思わず声を漏らしてしまう、それだけで剛直がひくついてしまうくらいに、今の築宮は過敏になっていた。 「……ど、どうしたの?  苦しいの? こんなになってるから?」 「そういうんじゃなく……っ」  まさか今の有るか無しかの刺激だけで心地よかったのだと白状もできず、腹立ちまぎれに語調が強くなる。 「君は『男女のことくらい、知ってる』と言わなかったか?  なのにそうやって、根掘り葉掘り訊かないでくれ……っ」 「ごめん……そんなにはっきりとは知らないんだ……。  だってわたし、自分が男さんとこういうことになんの、初めてで―――」  あ……と築宮はそこでようやく腑《ふ》に落ちた。  つまり法師は、聞きかじり、あるいは今日の夕暮れの一幕で知識としては男女の秘め事を知ってはいても、実際に体験したわけではないと言うこと、で、それはつまり。 (初めて、なのか……!)  なにか、奇妙な感動があった。築宮は自分は〈潔癖〉《けっぺき》なところはあれ、気を許した相手の女性の処女性を云々するような狭い了見は持ち合わせぬ男ではある。しかし、常は女を意識させない法師であっても、初めてと聞かされると、改めて実感が深かったし、そう告げる彼女も素敵に〈初々〉《ういうい》しかったのである。 「……もの知らずで、ごめんなさい」  築宮が口を噤《つぐ》んだのを、機嫌を損ねたと勘違いしたのか、不安げに見上げた法師、だがそれが青年の股ぐらからなのが、妙に淫猥だった。  なにも築宮とて、自分がこの手の事柄に〈百戦錬磨〉《ひゃくせんれんま》ではないのは感じている。記憶を失う以前も、自分が〈漁色〉《ぎょしょく》に生きてきたとは到底思えない。けれどだからといって、この期に及んで布団の上でお見合いに終始するのも馬鹿馬鹿しい。なにをしたいのか、どうすればいいのかなど、賢《さか》しい知識よりも心がちゃんと知っている。 「そんなの、気にしなくっていい。  それより、そんなところから……、  いつまでも睨めっこじゃ、始まらない」 「そ、そうだね……。  でも、わたし、どうしたらいいかな……」 「じゃあ今度は……俺の番だよ」  経験が有ろうが無かろうが、なにも大上段に身構える事もなく、心の動くまま、肌が求めるままに任せればいいのだと、築宮は気づいたのである。  ただ法師と、この一時にひたればいいと、身を起こし、その気持ちで彼女を引き寄せた。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  築宮の手に逆らわず、彼の腕に身を預けた法師の張りに満ちた肌が、観察の一時のうちに熱を帯びていたようで、しっとりと艶を含んでいた。  仄《ほの》暗く侘《わ》びた庵《いおり》の、粗末な布団に身を寄せ合っているのに、どこか遠い雲の上で二人でたゆたっているような、築宮はそんな幻想に囚われる。 「はぁぁ……ん」  観念しているような期待しているような、どっちつかずの風情で下ろされた法師の瞼は、すぐに見開かれる事になった。 「あ――あ……っ」  法師の衣装はざっと畳まれ布団の脇に、身に残したのは羅《うすもの》一枚の、築宮はおもむろにその〈前身頃〉《まえみごろ》をくつろげた、薄い布地は滑らかでほとんど抵抗はない。  法師の肌を撫でたのは、衣擦れの風と築宮の視線の圧力。  その肌がたちまちに〈火照〉《ほて》っていく。普段は衣の裡《うち》側で白い肌だから、紅が映えて凄い。 「びっくりさせたか?」 「ううん、軽く触られただけでも、  なんかすごく、ざわざわってきて。  それに……恥ずかしいよう」  鎖骨のあたりの肌に視線を走らせれば、その〈真珠母〉《しんじゅも》の光沢に、どうしたって築宮の鼓動が高鳴る。 「わたし、水浴びしてる時とか、べつに誰に見られたって気にならないのに、どうしてなんだろ……」 「今、あんたに見られるの、  顔から、火が出そう」  日頃は無造作に晒しても怖じる事のなかった肌も、秘め事を予感して、視線に敏感になっているのであろう。  性に疎《うと》かった法師が羞恥に目覚めつつあるのがまた築宮の情欲に響いて、見られるだけでも肌の裡《うち》側に火が灯るようなら、それよりも一歩先に進んだらどうなるのかと試みに、手を伸ばしたのだ。  法師の見やすく女を示す部分へ、はだけられた〈前身頃〉《まえみごろ》のあわいで息遣いに幽かに揺れる、乳房の膨らみへ。 「……あ、っあ!?  さわる……? 胸になんて、そんな……」  築宮の手に今さら気づいたみたいに、身を逸《そ》らそうとしたけれどもう遅い。 「あ……ふぅぅ……」  彼女の〈乳暈〉《にゅううん》は色素が薄く、乳房の肌との境目が曖昧なほど。そこへ手を被せたのはあくまで軽いやり方だったのに、法師は胸から押し出されるように息を吐いた。 「ふわりって……ちょっと触られているだけなの……ぁ……熱いよ、あんたの手ぇ……」 「……強かったかな……?」 「そんなこと、ないって、思う。  ん……でも、なんか……変だ、わたし」 「くすぐったいのとも……違う……。  胸、中から……あったかく、なって……」  築宮の手がまず感じたのは、庵《いおり》の夜気にすこし冷えた法師の乳房の、柔らかいがややひんやりとした肌触り。  けれどそれもすぐに肌に血が通い合い、温度がなじむ。  馴染《なじ》んでみれば、法師の肌は築宮の手よりずっと、熱かった。  粗食に慣れた暮らし向きだと聞く、法師の裸身は、確かに肋《あばら》はうっすら浮いてはいるのだけれど、痩せさらばえて痛々しいというのではなく、乳房は形良く張りつめ、腰や〈太腿〉《ふともも》は滑らかな曲線を描いて美しい。無駄なたるみなく引き締まり、それでいて要所要所には女らしい曲線が置かれているという体つきなのである。  普段は〈嵩張〉《かさば》る衣の下に隠された裸身は清流に跳ねる〈山女〉《やまめ》とか、原野に躍動する牝鹿を思わせて美事で、築宮は法師の乳房に掌をかぶせたまましばし言葉も忘れ、見とれてしまう。 「……どうしたの?  わたしン体、どっかおかしい……?」 「まさか……。そうじゃない。  こうしてじっくりと見るのは、  初めてだから」 「やぁ……そんなにじろじろ……んぅ…!」  築宮の無言を不安そうに問いかけてきたのに、素直に『綺麗だったから〈見惚〉《みと》れたのだ』と打ち明けるのがどこか気恥ずかしく、誤魔化すようにそっと乳房へ指を沈めた、途端に身を震わせて声も跳ね上がる。 「あ……っ、わたし、ヘンな声ぇ……」  自らの声に戸惑う風情がいかにも初なら、乳房だってどこか〈生硬〉《せいこう》な感触を残していた。  まだ誰も触れた事のない肌、乳房をまさぐっていくのは、新雪へ跡を印すような〈昂奮〉《こうふん》で築宮を強く酔わせる。 「君の肌、暖かいな……。  声は……我慢なんかしなくっていい」 「そう……?  ん……でもこんなの、わたし、知らなかったから……これ―――気持ちいいのかな」 「あぁ……気持いいから、  声、出ちゃうんだ、わたし―――」  自分の中に生じ始めた未知の感覚を、戸惑いながらも確かめていくような声音に、だんだんと築宮の手は性急になっていくけれど、その無遠慮な手つきさえ許すように法師は肌を熱くしていく。 「ん……いいよ、築宮さんのしたいようで。  あんた、優しい人だから」 「わたしに、かまってくれる人だから」 「…………あっ?」  築宮の愛撫にお返しのつもりか、腕差し延べてさらりと頬を撫でてきた指先に、青年は首筋へ鳥肌を粟立たせる。  気色悪いどころか、その一撫でだけで〈強張〉《こわば》りまで快感が響いてひくついたのだ。  ズボンも下着も脱いで、〈襯衣〉《シャツ》一枚になった青年の股間で雄の器官が自己主張激しく、びくびくと脈打って、自分はここまで過敏だっただろうかと、腰を引き気味にして怪しむ。  法師はそんな築宮の驚きを知らぬげに、細く息を漏らした、それが熱い。 「あァ……息が……息も、熱ぅ……い」  その熱さ、法師の肌の、指先の、息の、求めて高ぶる熱さ。  なにを求めて―――問うのは愚かしい。  望んで抱かれる、築宮以外のなにを求めるというのか。 「ふぅぅ……っ」  法師の声音、甘い色合いを次第に強くして築宮の〈耳朶〉《じだ》にまとわりつく。自分の手が彼女に快美を教えていっているのだと、青年の心を雄の喜びで満たして、より深く濃い刺激を擦りこんでやりたくて、乳房の頂を摘む。 「っあ? あ、あ、うそ……なに、  それ、なにしてんのぉ……」  と、指の中で柔らかだったのが、僅かな指遣いでたちどころに硬くしこり、より強い未知の感覚を〈爪弾〉《つまび》きだされて、法師の声が震えを帯びてオクターヴを高くする。  普段は他愛ない世間話で屈託ない声、時には酒場の弾き語りで雅な物語を紡いで美しい声、そのどれとも異なる、淫らを帯びて艶めく音は、愛撫しているのは築宮だというのに声だけで快感に青年の背筋を震わせた。 「これ……わかる……ぅ。  ああ……とぅ……ても、気持ちいい……」 「抱かれるって……、  男のひとにしてもらうって、  こんなに―――いいの―――?」  もはや法師は声を抑えようともせず、彼女が乳房の愛撫に歓びを感じはじめているのなら、できればもう少しそれを続けてやりたかったけれども。  築宮は彼女の乳房を愛撫するだけでは収まりがつかなくなりつつあった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  法師が〈肌襦袢〉《はだじゅばん》を前に掻き合わせて身を縮めているのは、しっとり帯びた汗が夜気に冷えたからではあるまい。  築宮は法師の肩をそっと押して、布団に仰向けに横たえたのだが、彼女はころりと身を横ざまに丸くなった。 (やっぱり、恥ずかしいのか……?)  目線を合わせないようにしているし、前に回した手で乳房は隠しているし、いかにもそれらしく思われたのだが、その割りには、肝心の―――両脚の付け根の秘裂が、築宮の位置からはまるわかりである。 (あれ……?)  初めてだと打ち明けた彼女の言葉通りに、そこは未発達な華奢で繊細な造りの、本当にまだ誰の他人の手も触れた事のないらしいとと眺めて築宮は、「それ」に気づいてつい唾《つば》を飲みこんだ。  法師の女の部分は、剥きたての茹で卵のようにつるりと、叢《くさむら》の一筋も見えなかったのだ。  わざわざ手入れしたものとも見えず、生来そういう体質なのだろう。ただその伸びやかに発達した肢体と裏腹な、幼い性器の有り様は、築宮になにやら背徳的な後ろめたさを及ぼした。  まだ女にもなりきっていない、幼い体を相手にしているように心地に囚われたのだが、それでいて目が離せない。茂みに飾られていない分、どういう有り様になっているのかが剥き出しで、それ故にとても淫靡で。  いざ、と布団に横たえておきながら、ただ見つめるばかりでなにも手を出してこないのに不安に駆られたか、法師は少し首をもたげ、 「……あの、築宮さん?」 「あ、え?」 「いいんだよ、その……。  もう、抱いてくれて」 「一番さいしょは、痛いって聞いたことあるけど、わたし、あんたならへえきだからさ」  どうやら法師は、横たえられた時点で築宮がすぐ挿入してくるものだと、交わりとはそういうものなのだと思いこんでいるのらしい。  つまり彼女は、恥ずかしさに身を丸めていたわけではなく、不安をこらえていたわけで。  もちろん築宮―――男としては、交わりと言って膣内に挿入すればそれで快感が得られるわけであり、法師の言うようにしてもよかったのだが。  それではいそうですかとそのまま致してしまう事を肯《がえ》んじない程度には、築宮は思いやりというものを持ち合わせていた。  法師の背後に身を寄せ、〈内腿〉《うちもも》を撫でざまに、指先を秘裂へと滑りこませる。  指先が肉のうすい裂け目をかきわければ、僅かな滑りと蜜の弾ける音、法師の体は、少しずつ築宮の施した快楽に準備を整え始めているらしい。 「……ぁっ?」 「なに……して……?」  意外な刺激に、法師は静電気に打たれたように声を弾かせ、目も不安そうに〈彷徨〉《さまよ》わせる。 「もう少し、ゆっくり慣らしてからのほうが、いいから……」 「そ、そう……?  でも、そうしてくれれば、  きっとあんたの、あんなおっきなのでも、  だいじょぶだよね……ふぁぁ……っ」  自分のモノを、大きいと言われるとかえって気恥ずかしい、それを流すように築宮は、舌肉の内側に滲み始めたで蜜をすくいとり、秘裂の核にまぶすようにして、法師の言葉を封じることにする。  優しく、けれど容赦なく、〈執拗〉《しつよう》に。 「ああっ……んああっ、ふあ……」 「だ……めぇっ……あ……ああっ」  縮めたままの体をよじらせるのが、胎内に点《とも》りだした、乳房とは別なる快感の火に戸惑っているような、声も先ほどより艶やかで。 「く、ふぅぅ……ふあ……鳴ってる……音、  ……わたしの……? ……はぅ、く……」  築宮は淫核をいじりながら、薄い舌肉の中をかきわけるように動かしはじめた。  秘め事に耐えられるほどに熟しているとは到底見えない秘裂でも、それでも充血して蜜を滲ませるようになってきている。  膣口のまわりを刺激すれば、まだそこは狭い狭い入り口でしかないのに、生き物の口のように指を呑みこもうと収縮する。 「ひぃ、う……っ」  つぷ、と築宮の指先が肉の〈狭隘〉《きょうあい》に潜った。  指を膣の入り口あたりで遊ばせれば、痛いくらいに締めつけてくる粘膜、熱く潤ってきている。  もっとほぐしてやるべきなのに、その熱い締めつけをはやく味わいたいという、性急な欲望で築宮は一杯になりつつあった。  先ほどから〈強張〉《こわば》りは、触れてもいないのにびくびくと先走りの腺液を多量に滲ませてきているのだ。 「……ごめん、ゆっくりするなんて言っておきながら、俺の方がたまらなくなってきた」 「……いいよぉ、いいんだよ、  ……あんたの、思うように……、  して、いいよ―――」  〈破瓜〉《はか》の痛みを覚悟して、それでもなお築宮を求めてる、そのひたむきさが、彼の躊躇いを溶岩に垂らした雫のように蒸発させた。 「……わかった……」  大体築宮にしたところで、日頃禁欲的に過ごしているつもりでも、肉の快楽への疼《うず》くような飢餓を滅却しさった聖者というわけではけしてない。若く健康な体に相応に、女体への〈渇望〉《かつぼう》に身を焦がす夜だってある。  指先で確かめたばかりの、法師のきつい粘膜の締めつけを、もし〈強張〉《こわば》りで味わったとしたなら―――また、雄の器官がひくついた。 「痛いのは、がまんするから、  気にしないで、ね」 「ああ……できるだけ、ゆっくりする。  でも、きつかったり苦しかったりしたら、  すぐやめるから……」 「いいんだ、そんなのは。  ……ね。だから……」  なにもかも許し、待ち受けるその一言でもう我慢もならず、築宮は背後から腰を押し進めた。たぶん自分の目は卑《いや》しく血走っているはず、なら顔を見られないこの形でよかったと思いながら。 「は……ぁぁ―――」  法師の腰のくびれに手を乗せ、〈瑞々〉《みずみず》しい〈太腿〉《ふともも》の底から押しつけるようにして―――  位置を確かめるのももどかしく、華奢な性器へ、対照的に凶悪に張りつめた雄の器官を押しつけて、そのまま―――  蜜の潤いが充分かどうか怪しかったが、もう築宮には止められない。  観念したような、待ち望むような、法師の横顔の線を見下ろすようにして―――腰を押しこんだ。 「う、あっ! つ―――っ」  痛みに漏らしかけた苦鳴を、指の節を噛んで唇のうちに押し戻す、その戦慄が健気で、痛々しい、けれどこれは法師の望みでもあるのだと腰にさらに力を籠めた。  築宮自身も、中途半端では収めることなど到底できそうにない衝動が背を蹴りつけられていたのだ。  ―――尖端に感じる、きつい肉の輪を押し広げて感触、まだほんの少し埋めただけなのに吸いつくような粘膜は、さらなる快楽を予感させて、一息に――― 「―――ふ、ぅ……」  横位での初めての侵入にもかかわらず、角度がうまく合わさっていたのか、彼女がそれだけ未知の体験への期待と青年の愛撫とでとろとろに蕩かしたように潤わせていたせいか、肉の輪は拒まず開いて尖端を呑みこんでいき――― 「―――い―――ぁ―――」 「あ、あ―――っ」  法師が言葉にならない呻《うめ》きを、吐く。  意味はとれずとも、儚《はかな》くて、とても綺麗な声音だと築宮は思った、思ってしまった。  処女を散らす時の痛みなど、男の築宮には永遠に判る筈がない。その耐え難さなど知りようもない。  けれど一つになりたいと法師が望み、築宮もまた同じ望みに身を灼いた。  だったら、気づかいなどとおためごかした躊躇など邪魔なだけと、築宮は剛直を押しこんだ、ぐいと、一気に、男の力で。  その肉の狭間のきつさ。  築宮を全力で押し返すような粘膜を、みりみりとこそぎとるようにして進んでいく。  これほどのきつい中、どこからどこまでが処女の抵抗かなど築宮には判らない。  判らないが、膣内のぞよめきと粘膜の熱さの余りの心地よさに、彼は歯を食いしばった。  すぐさま、達してしまいそうになったから。  ただこの侵入は、築宮にとってはこの上ない快感だったとしても、法師にとってはまぎれもない痛みだったろう。 「……っ、……っく、はぁ、くふ……っん」  築宮が押し入っていった分だけ、肺から押し出されたようなか弱い咳をする。 「っふ、く……あ、は、  入った……の?」 「そうだよ……君の中に、俺の……入った」 「うぅ……我慢しても、  やっぱり……痛い……」 「―――でも、築宮さんのおっきなのが。  わたしン中に……、  ちゃんと入ったからだもんね」  貫いて、包まれて。  貫かれて、包みこんで。  築宮と琵琶の法師、男と女の二人でしかできないやり方で、一番奥深くで、繋がりあっていた――― 「けれど、ああ……わたし、  抱かれてるよ、あんたに。  おとこの、ひとに―――」  大きく息を吐いた法師の体に、汗の雫が細かく結ばれ、肌の熱で温められてか、仄《ほの》かにたちこめたのは、香りだ。  ただ不思議な事にその香りというのは、官能に沸き立つ女の肌の匂いと言うよりも、古めかしく床しい、香を焚《た》いたような薫香で。  衣の香りが移ったでもあるまいにと、だがそれを不審に思う気持ちは、この女の初めての男となったのは自分なのだという、くすぐったいような感動で流された。  痛みを耐えるように潜めた息遣いと、それに合わせて緩やかに波打つ乳房も、体内に埋められた感触で、不安げにたゆたう眼差し、なにもかもが、もうこれまでの男女の秘め事を知らずにいた法師ではないのだ。  そう意識すれば、青年の劣情は更に燃え上がり、深々と埋めこんだ膣内で、剛直がより膨れあがる。  ―――熱い。粘膜が火のように熱い。  そしてこの体内の熱さと快楽は、等分に結ばれていて、築宮はより強い刺激を求めてこのままがむしゃらに動き出したくなってしまうのを、自分の下で体を強ばらせる法師の表情に、どうにか堪える。 「どう、かな……」 「どうって―――……どう、なんだろ」 「大丈夫か……?」  訊ねた後でその愚かしさに気づいたが、訊かずにはいられないのが男というもの。 「痛いんだと、思う、けど……、  ……ん……あ、く……」  汗の珠で全身を光らせ、法師は体の中に耳をすませる仕草をした。 「うん……痛いは痛い。  でもぉ―――」  囁いて、吐いた息をそろそろと吸う。  と、熱い内部粘膜が、四方から吸いついてくるように築宮を締め付けてくる。  繋がった部分を通して、彼女の内側のわななきが築宮に伝わっていく。 「でも……?」 「ただ痛いのとも、違う、みたい。  すごく、熱いよぅ……」  背を丸め、硬直させたその体が少しずつゆるんでくる。 「俺は……きつくて、君の中……」 「あう―――」  法師を気遣いながら(締めつけを味見する気持ちがあったのは否めない)、ずる……と静かに引きだせば、〈強張〉《こわば》りにはかすかに蜜がまとわりついていた。  そのぬめ光る中に、二筋三筋細い糸の様に混じっている朱色こそ、法師の〈破瓜〉《はか》の証の。  痛々しいのに、彼女の初めての徴《しるし》を見て築宮は、いよいよじっとしていられなくなる。 「そろそろ……動いて、いいか?」 「あ―――」 「いい、よ。―――わたしも、たぶん、  平気だと……はぁ、う……」  また押しこめば、じんわりと熱い蜜と粘膜が〈強張〉《こわば》りに絡みついてくる。  そのきつく素晴らしく滑る感触をゆっくり味わいつつ、法師の粘膜に自分の形を馴染《なじ》ませるように、ゆっくりと律動をはじめる。 「は……っ、あ……ん、く……」 「中に―――いる、  あんたが―――いる、動いてる、ふ、く」  処女の締めつけの中に、〈強張〉《こわば》りは滲みはじめた蜜を塗り広げ、内部を滑らかにしながら前後する。  尖端が肉の輪の連なりをくぐる心地好さはあまりに甘美で、目が眩みそうになるくらい。 「ん……あ……あぁ―――動いている……わたし―――」 「少しずつ……苦しく……なくなって……わたしのからだ……ふしぎ……」 「……我慢できないようなら、  やめるから―――」  この心地好さを中途で投げ出すことなんて出来やしないだろうと知りつつ、そんな慰めを口にせずにはいられない。それもある意味男の勝手なのだろう。 「辛いことなんて、ない。  はぁぁ……だってこんな―――いっぱい。  わたしが、あんたで、いっぱい」 「こんなに嬉しいこと……あ、ふぁ……。  ないからさ……」  法師の体から〈強張〉《こわば》りが抜けつつあるのは、痛みが退いて別の感覚に取って代わりつつあると言うこと。その感覚こそ情事の快楽の目覚めなのだと法師に知ってほしくて、築宮は腰遣いをより細やかなものにする。 「……あ……なに、今の……ぇ、ぁ……」  声音から、挿入直後の不安な響きが消えて、痛みに硬かった眼差しも、胎内に生じはじめた未知の感覚にぶれる。  半身を起こして布団に手をついて、握りこんだ指の中で布地がよじれるのが、奇妙に卑猥だった。 「あ……っ!? なんか、違う、  あ、あう、さっきまでと、違って」 「もう少しゆっくり目のほうがいいか?」 「わかんな……ぃぁっ……あっ?」  また短い喘《あえ》ぎ、その中に確かに甘い響きが感じとれた。  法師の内部はより潤いを増して、きつさはそのままなのに、はじめのざらつきが、様子を窺うように絡みつく感触へ変わっていく。  雄の器官の出入りも徐々に滑らかに。 「わたしの―――お腹……。  お腹の奥、からぁ……」 「ね、築宮さん……わたし、すこぅし……怖い……体の奥から……ひぅ……なんかが、ぅぅ……くるの」 「怖がらないでいい……。  そのまま、感じていて」 「いいのね、わたし、このままで―――?」  答える代わりに、律動を深くする。  掴んだ法師の腰のしなやかな肉付き、息づかいに波うつ形良い乳房、恥じらいつつも愉悦にかすれる喘《あえ》ぎ、そして繋がった部分の熱さと締めつけ。  なにもかもが築宮を押し流していく。  その中で鮮やかになっていくのは喜び。  自分だけでなく、彼女もまた、情交に快楽を見いだしつつあるという、一方通行の快感に遙かに勝る喜びだった。  ――そんな喜びが、彼女が快感の徴《しるし》を見せるたびに築宮の中に湧き起こり、彼を満たしていく。  その嬉しさが、緊張に強ばっていた築宮の相をいくらか和らげ、それが法師にも伝わったらしい。 「ふふ……わたし、嬉しいなぁ……。  あんたに抱かれて、  ちゃんと、気持ちよくなれそうで」 「ね、築宮さんも、いい?  わたしの体で、よくなれそうかな……」 「いいに……決まってる……。  さっきから、ずっとだ……っ」 「ああ、なら、抱いて―――もっときつく、  強く……してぇ……んぅっ」 「ああ―――するよ―――!」  ただ前後させるばかりだった律動を、中を探るように、法師の具合を気にしつつ角度を変えて――― 「ふぁ、ああ、あ……っ」  奥まで突きこめば、尖端には法師の子を宿す器官の入口の、硬めの質感。  それを尖端で法師の体の奥深くに押し戻していくことに、どこか暴力的な喜びを味わう。 「……俺も……君とこうしてて……、  凄い、気持ちいい―――」  喜びと快楽の中、肉の茎の根元からぞわぞわとこみ上げてくるものがある。  それは、快楽の果ての果て、最後のほとばしりの兆し。その最後を目指して、築宮は律動を深く激しくする。 「うぁ……はぁぁぁっ……深い……っ」 「あ――――――――っ」  ―――膣内が強く強く収縮し、  ぞわぞわと吸い寄せるように蠢《うごめ》いて――― 「く、ぁ……っ!?」  胎内の蠢《うごめ》きが、築宮の奥底にどろどろととぐろを巻いてうねる快楽の渦に、出口を示す。  迫り上がってくる、巨大な快楽。 「―――出そうだ―――もう―――!」  歯を食いしばって告げるのがかろうじて、射精感をこらえられそうになかった。  ほとんど快感それのみで占められた意識の中、それでも剛直を引き抜こうとしたのは築宮の、最後の理性だったのだろう。 「いやぁ……、だめ、  いてほしいよ、あんたに、  おしまいまで、わたしン中、にぃ……っ」  法師だって声も意識も切れ切れだったのに、築宮の動きを察して下から腰を押しつけるようにしてきたのは、それだけ彼女が青年に集中していたから。  情を重ねた男に、交わりの最後まで自分の中にいてほしい、胎内へ注いでほしいと、体で、心で望んだのだろう。それ以外の情交のおしまいなど、法師には考えられなかったのだろう。  青年を逃すまいと腰で追いかけ、脚の付け根をすぼめ、絡めとろうとしたのだ。 「ちょ、それは―――うくぅ―――っっ」  引き抜こうと思えばまだ間に合った、なのにそうはしなかったのは、法師の〈真摯〉《しんし》な願いに押し流されたからもあったが、築宮自身望んでいたのだろう。  自分がこれほどの快楽の極みにあるのだと、その証を生のまま、法師の胎内に浴びせかけ、彼女に教えてやることを。 「っく―――っ」 「あ、あ、ぁは――――っ」  大きく反《そ》らされた法師の喉が奏でた声、切羽詰まった声、築宮の放出を促《うなが》すような、とろけた声。  彼女の快楽が高まるにつれ、築宮が先程不審に思った妙なる香りが、いよいよはっきりとその肌からたちのぼり、二人の汗に混じりあうのだが、絶頂を寸前にした青年が、それに気づく由《よし》もない。  再び最奥まで貫いて、尖端で法師の膣内の底を、へこみがつくくらいに押しこんで、その瞬間―――  放っていた。噴きこぼしていた。流しこんでいた。弾けていた。脈動していた。撃ち放っていた。  迸《ほとばし》りが、茎の中を恐ろしいまでの勢いで駆け抜けていく。  雄の本能のままに、腰を、性器を法師に深々と埋めて―――極限の快楽が弾ける。 「あ、あ、あ……っ……出てる……熱いのが……わたしの中で……熱い―――っ」  植えつけていく。  法師の体の底に、塊のように濃く熱い精液を流しこむことが止められない。快楽に支配されている。 「これが―――はぁぁ……築宮さんの。  精……たね……」 「お腹の中で、あったかいのが、  溜まってくよぅ―――」  自分の体温と異なる熱さが染みこんでいく感覚に、〈陶然〉《とうぜん》と囁いた、法師の声が遠い。  目は眩み、耳の中には海鳴りのような音が押し寄せてきている、それほどに深い絶頂の中で、辛うじて法師の声だけが届いた。  全身の神経が弾けたような脱力感に、築宮はがくりと法師にもたれこむ。  奥底に打ちつけられる、青年の熱い精の感触を、体全体で味わうが如く息を止めた法師の体へ、倒れこむ。 「あ……っ。まだ、きてる―――」  法師の胎内は、初めて受けた男の精の迸りなのに、本能的にそうすることが充足の快感に繋がると知っているのか、締めつけては緩め、呑み干すような蠢きを、長いこと続けていた―――  夜半―――  眠りの深い淵から、時に浅瀬に浮かんだ、その頃合いに築宮の瞼は自然に開き、見慣れぬ荒れ天井を見つめているのに気づいた。  目覚めの〈胡乱〉《うろん》な心では、自分がいるのはどこなのか、なぜこんな薄い布団を使っているのか〈怪訝〉《けげん》に思うばかりで、きょろきょろりと部屋を見回すうち、次第に思い出されてくる。  〈煎餅〉《せんべい》、と言うのも〈烏滸〉《おこ》がましい薄く擦り切れ加減の床だが移っているのはまぎれもない、忍ぶような甘い匂い、若い娘の肌の匂い。  むくつけき、男くさい、汗じみた体のままで宵闇の〈白粉花〉《おしろいばな》の庭を突っ切るように築宮には憚《はばか》られたが、今さら気に病んだところで、というもので。  そう築宮青年は、この侘《わ》び住まいの主、琵琶の娘の寝床をただ借りるばかりでなく、既に彼女と肌を重ねた後だもの、それで今さら女の匂いがどうのではあるまい。姉や妹の鏡台の〈白粉〉《おしろい》くささに、居心地悪く覚える坊やでもなかろう。  ともかく、ここは法師の庵《いおり》で、どうやら情事の後の四肢に溜まった、気だるさの錘《おもり》に引きこまれてそのまま眠ってしまったようだが、その法師はどこだ。  行灯は油が切れたか、庵《いおり》は闇が柔らかくふさいでいたが、なずんだ目にはどうという暗がりではない。  見回したところで、捜しどころに迷うような大したお屋敷でないのに彼女の輪郭は土間にも板間にも見えず、そういえば青年が目を覚ましたのだって、寝返りの拍子に腕が、空しく一人の寝床を薙いだの、その違和感に気づいたせいではなかったか。  眠る時には、たしかに傍らに、柔らかな感触が寄り添っていたのに―――と、夜半に一人、闇の中に目覚めた幼子のような心細さで半身を起こしたとき、築宮は聴いた。       ほろん          ほろん    ―――さながら、黄昏の窓の内から、ゆっくり過ぎゆく旅人の足取りを聴くような、途切れ途切れの、けれど冴えた〈業前〉《わざまえ》の、〈爪弾〉《つまび》きの音は法師を旅券の写真よりも鮮やかに示す。  これが庵《いおり》の外からで、ただ築宮に直ぐさま呼びかけることを躊躇わせたのは、板壁越しながらもなにやら尋常ならざる気配が伝わってきていた為だった。  それも法師の一つではなく、なにやらざわざわと群れ集う気配の、怪しい不明な。  眠りが中途半端だったせいか、腕は重い、脚は頼りないのをのろのろ押し出すようにして、庵《いおり》の裏木戸から覗きこんで築宮は。  鳴《あ》っと、こらえ性なく叫んで琵琶の響きを乱すのだけは、どうにか耐えた。  が、それでも肩で大きく息を吸いこんで、そのまま凝結してしまう。  ―――青年は、自分がまだ〈夢寐〉《むび》にあって、夢魔に魘《うな》されているのではないかと思えたほどだった。  庵《いおり》の裏手、法師がよく行水をしている水路の脇の板敷きで、築宮も浸かったことのある〈大盥〉《おおだらい》を裏返しに〈胡座〉《あぐら》して、琵琶を奏でる法師、の、それだけならばまだよし。  彼女だって夜半に目が冴えてしまい、眠れない〈徒然〉《つれづれ》に一人琵琶を吟ずる事だってあろう。  寝静まった旅籠の片隅に、法師の姿だけを置くのならばそれはそれで興趣にとんだ眺めと言える。  がしかし―――  この夜半の水路の際に繰り広げられたる情景の、なんと異様であったことか。  ……美という観念に絶対の基準はない。ならば人が対象になにをもって美を見出すかとすればそれは、総体の中、どれだけの調和に満たされているかだろう。感じる調和、全体として整っているかそうでないか。  琵琶を抱えた法師と森閑とした旅籠の夜景色だけならば、確かに調和して、互いが互いを引き立てあい補い合い、額に納めて愛好すべき絵であるのに、情景を濁《にご》らせる混じりものがあった。  混じって、蠢《うごめ》いて、覆いつくそうとして、調和を奇怪に乱していた。 (あれは……なんだ?) (生き物……いやまさか)  青年は、自分がいまだ知らざる水棲のモノが這い出したかと思おうとして即座に打ち消した。どれだけ旅籠が広大で彼が知らざるモノを隠している可能性があろうとも、アレは、あんな奇怪なモノが生きて呼吸するモノと同じ理《ことわり》のうちに存在していようはずがない。  水路から―――  ざわり、ざわりと頭をもたげ、伸びて、這い寄ろうとしているのは闇よりも濃い、墨を煮詰めて垂らしたかと見まがうほどに黒い、粘質のなにか。  なにか、としか言いようのない、名づけられざるなにか。  確かに夜ともなれば旅籠の水路は、日中の澄んだ水面を闇の帷《とばり》で染めて暗い。  けれどソレは、水路に映った夜よりもまだ黒く、凝《こご》った色合いのモノだった。  水路からぞわりと伸び、板敷きの床にてろりと広がって、形も定まらず、輪郭も曖昧な。  あたりは水路の流れさえ停止したかの如き妖しい静けさで、築宮青年の耳の中では己の呼気と鼓動がやかましいほど。  そんな静けさの中だから、ひときわ琵琶の音が冴える、法師の〈吟声〉《ぎんせい》が澄みわたる、聞こえる音声といってはそれだけの、なのに築宮はソレがたてる物音に怖気《おぞけ》を催した。  否、実際にそれは一切物音を発していない。けれど、そのうごめきが、その〈蠕動〉《ぜんどう》が、見ているだけでも醜怪な音を視覚から伝えてくるかのよう。  泥を捏《こ》ねるように卑猥で、舌なめずりするようにいやらしい、粘ついた音を感じさせる動きで、法師へと、墨色の触手ともなんともつかぬ、ふるふると震える先端をもたげて這い寄りつつあった。  さらに見よや、粘塊のあちこちが盛り上がったと見るや、黒々とした表の上に、小さな人の形が現れたではないか。  黒に塗りこめられ目鼻立ちと言っては無い、鉛筆ほどの背丈とそれに見合う手足をぶら下げたのが、粘塊のあちこちに一つ、二つ三つ、後は数え果たさず無数に形を為す。  そんなのが、腕をもたげ頭を打ち振り、墨色の流れの上で這いまわりつつ、法師へと迫っていく。  彼女はそれを気づいているのかいないのか。  ただ無心に絃を弾き、低く細く、呟くように歌うのみ。  築宮が一歩を踏み出しかねたのは、異界異妖の眺めに四肢が麻痺したようになっていたのもあるが、それだけでなく、こんな時だというのに法師の〈業前〉《わざまえ》と地声の見事さに心奪われていたせいもある。  けれど、墨色の粘塊が、法師の足首寸前まで迫って、ぶわりと膨らみ不定形の先端を脅《おびや》かすように差し延べた時に、さしもの呪縛も破られ、放たれる犬の勢いで駆け寄ろうとした、その呼吸をさらうように。       ―――嫋―――    強く鳴った絃の、残った余韻も長く、夜気を甘やかな戦慄で染めて、一音、ただ一音がいかにしてこれほどふくらみのある響きを持てるのか不可解なほどの一音。  それが、築宮の気勢を削いでたたらを踏ませたが、戸惑う様子を見せたのは彼だけではなかった。  今まさになん法師の踝《くるぶし》へ絡みつこうとしていた墨色の粘塊、黒い小人もまた、琵琶の一音に遮られたように、動き止んでいたのだ。  嫋《じょう》、嫋《じょう》―――とかき鳴らされる琵琶の音澄んで、歌う声音も見事にして、築宮はつい駆け寄ることも忘れ、耳を傾け、そして瞬、また数瞬、法師の危機も忘れて。  ああいけない、と首を打ち振り音曲の魅惑を振り払ったものの、割りこむ機を逸《いっ》した青年が目の当たりにしたものは―――  法師に触れる寸前で静止していた粘塊の。  ひくり、ひくりと脈打つのが、琵琶の妙なる音に合わせるかのようで、それ以上は法師へ迫ることを忘れたかのようだった。 (あれは―――もしや) (聞き惚れて、いるのか?)  およそ音を聞き分ける耳など持たぬとしか思えぬ墨色の粘塊と小人達ではあったが、青年がそう感じたのはあながち飛躍ではない。  歌い続ける法師を取り巻いて、粘塊と小人達はその面を時折波打たせ、まさしく聞き惚れている風情なのだった。  歌が流れ、音が連なり、法師は〈瞑目〉《めいもく》して無心に吟ずるばかりの、己がいかに奇怪な聴衆に取り巻かれているかなど意識さえしていない様子の、また幾ばくかの時が調べと共に過ぎていき―――  危うし、と緊張するべきか、墨色の妖異に見習い謹聴するべきなのか、なんとも微妙な釣り合いは、再び粘塊が動き出したによって破られた。  は、とまた身構えた築宮だったが、彼の危惧をよそに粘塊達は、退いていったのである。  ずるり、と法師から遠のき、後は這いずりだした来た時を逆回しにしたように水路へと吸いこまれ、流れの底に沈んで闇にまぎれて、上へ遡ったのか下へ流されていったのか、もうわからない。  退いてみればあっけなく、先程までの異様な気配もはや失せて、後に聞こえるのはさらさらと水路のせせらぎばかりの。  物音が、戻ってきていた。そして法師は、琵琶に吟ずるのを止めていた。 「あれ……きいてたんだ、築宮さんも。  ……起こしちゃったかな、わたし。  なんだか悪いこと、したかなあ……?」  と、琵琶を脇に置いて、見上げて、ばつの悪いようなはにかんだような、胸元で両の人差し指をちょいちょいと触れ合わせながら。  ……なにやらいかがわしげな酒に酔った心地で、ようやく法師のもとに歩み寄ってみると、彼女は先程までのどこか神さびた気配など露とも匂わせていない。  もちろん墨色の粘塊などあたりにその〈欠片〉《かけら》一片もなく、築宮はつい寸前までの情景を夜の幻かと怪しくなって、問いかけた。 「いや、君に起こされたとか、そういうのはない。なんとなく、ふっと目が覚めてしまって……それでこっちを覗いてみたんだが」 「今のは、一体?」 「ああ、見ちゃったんだね。  なんだろうね、あれ」 「なんだろうって……君も、知らないのか」 「うん。それにわたし、弾いてるときはそっちに夢中になって、まわりのこと、あんま気にならなくなるから」 「でも、はっきりしたことは知んないけど、話に聞いたことはあるよ」 「それはどんな」 「ほら、お化けとか、モノノケとかそういうの、築宮さんも聞いたことあるよね。  さっきの、多分そういうのだ」 「あるにはある。でもそれは説明になっているようでなっていないような」  あの異様なモノを妖怪、物の怪の類だというのは、あまりに腑《ふ》に落ちすぎてかえってなんの説明にもなっていない、が、法師もそれ以上の言葉は持たないようだった。 「このお宿には、ああいう変なのが、時々出てくるらしいよ。わたしも何度か出くわしたことあるもの」 「……さっきみたいなのは、初めてだけど」  なるほど法師の言の通り、この旅籠は古く広く、あの手の妖の潜む隙間などそれこそ幾らでもあろう。思えば築宮青年も、旅籠に到着そうそうそれらしき惑わしに逢うた事があったでないか。 「まあ、うすきびわるいけどさ、でもおっかないだけで、人にはそんな、悪いことをしないっていうから……」 「出くわしちゃっても、そのうち勝手にいなくなるって話だし、あんまり気にしなくっていいんじゃないかな」 「そう言われると、そういうものかと納得するしかないけれど……」  頷きつつも言葉の歯切れ悪かったのは、法師の話を疑ったわけではない。  確かに先刻の墨色の粘塊と黒の小人達は、不気味で異様ではあったが法師に危害を為すことはなかった。  けれど築宮青年には、あれらが自然に消え失せたのではなく、法師の琵琶の音に聞き惚れ、その〈業前〉《わざまえ》に打たれて退いていったようにしか思えなかったのである。  ―――この夜の一幕は、不可解で不気味ではあったが日々を過ごすうちに築宮の記憶の襞《ひだ》に折りたたまれて、衝撃もやがて薄れていったのだが、後にとある事件を契機に再び青年の心の面に浮かび上がることになる。  ……薄暗がりの奥、支柱の傍に、小振りのタイプライターが載せられた小さな円卓と無人の椅子を見つけて、物珍しさ……というか不審さについ立ち止まった、築宮の手を促《うなが》すように引いたのが、繋いだ法師の手である。 「どうしたの? ……こっちだよ」 「いや今、あちらの隅、柱の陰にタイプライターを乗っけた机を見たような気がして」 「ああ、あれ。なんかあれ、ずぅっと前から置いてあるみたいなんだけど、誰かが使ってんのは、わたしも見たことない」  築宮としては、そのタイプライター、アームがピアノの弦のように密に並んだ手動式、革張りの品の佳いトランクと一対のポータブルタイプという奴の、実用品というより工芸品の趣が強い一品に好奇心を惹かれないでもないのだったが、法師の目的地はまだ先のようで、差しこむ明かりを頼りに彼女は歩度を緩めず。諦めて見送ることにする。  ……時にこのタイプライター、アルファベットの使用頻度の違いから、YとZのキーの配置が英文式のものとは逆の〈独逸〉《ドイツ》製のだったりする。ろくな照明もないこの〈場処〉《ばしょ》では、打鍵はブラインドタッチに頼る事になろうし、英文式の配列に慣れた人間ならY・Zを打ち間違う事も多かろう。  だからなんだと言ってしまえばそれまでの、ただ旅籠では一昔前、逗留客の間に読んだだけで〈離魂病〉《りこんびょう》が発症するという奇怪な詩が〈流布〉《るふ》した事がある。  数枚の紙葉にタイプ打ちされたローマ字文のその詩篇は、何故か文章中のYとZが逆に打たれていたという奇妙な点があって、これらの事実を合わせ鑑《かんが》みるに、件の詩の執筆の現場というのは―――さて、さて、事実はまさしく薄闇の中に、である。  ともあれ、 「それにしても……よく知ってたな、こんなところ」 「へへぇ。わたしもたまさか、めっけたんだけどさ。でも初めて入ったときは、やっぱりびっくりしちゃったなあ」  得意気な法師へ呆れと感心を半々に、見回したのももう何度目か、旅籠の中の桁外れのスケール感覚にはいい加減慣れたつもりの築宮をして、どうにも見当識を怪しくさせるこの薄暗い空間は、旅籠の屋根裏なのであった。  屋根裏と言えばどうしたって狭苦しく息が詰まるような印象がつきまとうが、旅籠のそれに関しては、その言葉から通常想起されるイメージからは遠く隔たった、奇妙な世界が広がっていた。  屋根裏といっても、完全な闇ではない。天井板の隙間から階下の灯りは漏れてくるし、屋根の空気抜きの窓からは光が差してくる。  中には屋根が破れたまま放置されている場所もあり、大きな光の孔を切り抜いている。  広さも、大人が悠々立って歩けるどころではなく、天井裏から屋根までが高い。剥き出しの柱は古代樹の化石じみて太く堅牢で、それがそこらここら無秩序に乱立している。  建て増し着け増しを繰り返した旅籠の本体に相応しく、屋根裏は足元の高さもばらばらで、かつては物置として利用されていたと思しき箇所もあるかと思えば、明らかにごく最近まで人が起き臥ししていたらしい痕跡を残す箇所もある。そういえば酒場で耳にした与太話だが、屋根裏を〈根城〉《ねじろ》とする正体不明のコミュニテイというのがあるそうで、聞いた時は酔っ払いの戯言と聞き流したけれど、こうして実際に目の当たりにしてみるとあながち根拠のない流言卑語とは思われないほどだ。中にはあのお手伝いさんさえ、この屋根裏空間に特化したタイプがあると噂されている。  旅籠上層部の、行き止まって天井にぶつかった、一見無用のトマソン地帯としか見えない階段のどん詰まりの羽目板を押し上げて、法師の案内でこの薄暗い空間に潜りこんだのが先程のこと。  この異様な屋根裏に潜りこむ事になった、そもそもの経緯というのがごく他愛ない天気の挨拶に始まったと思えば、いささか話は皮肉めく。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  今日築宮が法師と会ったのは、温室のいつも〈茣蓙〉《ござ》に座しているところで、曲を調べるともなく手すさびで琵琶を〈爪弾〉《つまび》いていた彼女へ、声を掛けようとして、はたとそこで言葉に詰まった。  法師の顔を見た途端に一夜を共にした記憶が蘇り、たちまち〈面映〉《おもはゆ》ゆくなったのだ。対して法師はといえば、こちらは青年の〈音連〉《おとづ》れをあどけなく喜ぶばかりの、素直な笑みで築宮へ隣を進めた。  それで腰を下ろしたものの、いったん意識されてしまうと傍らの女の、肌の感触や肉のしなやかさばかりが思い出され、どうにも心中平静でいられない。  さりとて沈黙の味も舌触り悪く、築宮、なにか言わなくてはと焦るほどに思考は空回り、いたたまれなさに宙を振り仰げば、温室の〈硝子〉《ガラス》の〈天蓋〉《てんがい》を通して差しこむ午後の陽差しが、熱帯の樹々の梢の隙間から六角結晶なりに連なって零れ、目に眩い。温室は旅籠の中でも最上階に位置しており、光を導き入れる〈硝子〉《ガラス》で空を望めるのだった。  つい呟いたのは、ほとんど反射的だったが。 「ああ、良い天気だ。  陽差しが眩しい。空も高いな……」  全くもって毒にも薬にもならない一言で、芸が無いと言う他ないのだが、これに法師が散歩に呼ばれた飼い犬の様に敏感に反応した。  聞いた途端に築宮に振り向けた顔の中に輝かんばかりの眸、片膝を立てて身を乗り出し、彼の腕を掴んだ力は、心中の〈昂奮〉《こうふん》を示して強かった。 「あ! だよねえ。  わたしも今日は良いお天気って思ってた。  じゃあさ、せっかくだから―――」 「もっと良いところで、  空を見ようよ、ねえ」  築宮としては、ほとんど場繋ぎのように漏らした一言にこれほどの食いつきがあるとは予想外の、面食らっているうちに手を引かれ、温室から引っぱり出され連れこまれた先が、先に語ったとおりの大屋根裏。  握りしめたのをもし離しでもしたら、〈迂闊〉《うかつ》な築宮などはたちどころに、陰に潜むという伝説の掃除好きな亡霊の一団に引きずりこまれるに違いないと恐れるように、法師の手の力は強く、ひたむきに引いて痛いくらい。  それでも屋根裏を引きずり回されるうちに、彼女がどこへ案内しようと言うつもりなのか、察しの悪い築宮も薄々予想がつくようにはなっていたのだが―――  視界の転換は、予想を超えて劇的だった。  屋根に〈矩形〉《くけい》に切り取られたのはもとは風通しの窓だったのだろう。だが屋根裏の薄暗がりに馴染《なじ》んだ目には光を満たした長方形としか見えず、法師が先に立って身を潜らせた時、築宮には彼女が異界の扉を通り抜けていくかに思われ一瞬尻込みしたのだが、繋いだままの手が彼を光の中に引きこんだ。  ―――と思った時にはもう、青年は午後の光の湖の中に全身を浸していた。  光は洪水の如く、ほとんど物理的な痛みを伴って目を焼いたが、徐々に慣れていくに従って一つの巨人界のパノラマが、旅籠の屋根景色が、高所の霞《かすみ》を綿帽子のように被った瓦や〈脊梁〉《せきりょう》の〈勾配〉《こうばい》が、長大に連続し消失点を遙か彼方に霞《かす》ませて広がっているという桁外れの風景が視界を埋めつくし、築宮を圧倒した。  この途方もない景色に青年は一瞬重力を見失い、視界の彼方目がけて墜落していくかの錯覚と恐怖に囚われ、絶壁の縁でバランスを崩した者の様に、足元の地面に身を投げ出して転落を防ごうとしたのだが、傍らで法師が大きく伸びをした気配で天地の向きが直った。 「ふぅ……あぁーあ……っ」  天に大きく掲《かか》げ、綺麗に伸ばした指の先から陽差しが零れるような、法師の目も眩しさに細められてはいたが、陰から日向に出てくつろぐ猫と同じで危うげはない。  あたりには雲とも霞《かすみ》ともつかぬ白々とした気塊が散らばっているのからして、危険なほどの高所にあるのが窺えたけれど、足元は殆ど傾斜もなく、むきになって踏んばらずとも、そうそう滑落する恐れはないようだった。  だとしても、股ぐらの底から冷風で撫でられるような心細ささえ感じさせる、己という生き物の小ささを剥き出しにさせられるかのような、雄大という形容さえ追いつかないほどの景色ではないか。  まるで巨峰の頂に立って山塊を眺め下ろすか、遮るものとてない大平原のただ中にでも身を置いたと同質の、大自然の驚異を目の当たりにしたような感動をもたらす風景だが、実にこれが一つの建築物の屋根の上。  その中で過ごす日々の間に、多少は慣れて感覚が麻痺しつつあったものの、改めてこの旅籠の出鱈目な規模を思い知らされた心地で築宮は、屋根の連なりを打ち眺める。どこまでも、長い。 「これは……なんというのか……。  凄いっていう言葉しか出てこないな……」 「でしょう。わたしも初めてここにあがってきた時は、おなじだったもん」  圧倒されたあまり気の抜けたような声の築宮へ、我が意を得たりと頷き返して、法師はざっと埃を払って瓦の上に腰を下ろした。背に負うていた琵琶の包みを解き膝に抱え直す。  それから青年へ隣を勧めたのだが、座ってと言いかけた瓦が雨晒しの煤《すす》けたるを見て、法師は慌てて琵琶の包み布を敷いた。布地の内側を上にして。  彼の腰を汚すまいとの気づかいに、築宮はこれではあべこべだときまりが悪くなる。こういう時、さっと〈手巾〉《ハンケチ》など敷くなりして、女性に心配りするべきはむしろ男の自分の方なのではないかと、後から気がつく鈍さが怨めしい。 「いいって、いいって。  君の方こそ敷くといい」 「あの……そんなら、一緒に、ね?」  どうぞ、と勧める手、いや君の方こそと遠慮して押し返す手、手と手がひらひらと包み布の上で踊って、結局二人並んで座るという当たり前の折り合いを付けたのが、いい歳をした男と女で微笑ましい。広げてみれば布地は二人が座れるだけの幅は充分あったけれど、それでも肩を触れ合わせんばかりなのが、築宮には何やらくすぐったかった。  抱えた琵琶は法師の膝には大振りの、はみ出した〈糸倉〉《いとぐら》を自分の腿で小突かないよう注意しつつ、築宮が見上げた大空はそれこそ無窮の青、二人だけで身を寄せ合っていると、ことさらに迫ってくるようなで、青年は天に落ちていくかの心地になる。  それにしても、地下の穴蔵めいた部屋に籠もったのがつい先日で、それが今日はこうして拓けた天《あめ》が下、目にする景色の狭さから広さへの変わり振りの激しさと言ったらなく、築宮は正反対の風景を共に擁《よう》する旅籠の驚異を、今再び思った。 「しかし、この前は地下に潜ったかと思えば、今度はこうして空の下だ」 「あんな地下道があったのにも充分驚いたけれど、今日の眺めはそれ以上」 「気にいったかなぁ……」  と築宮の横顔を覗きこんだ法師の眼差しは、自分が案内して見せた風景を、他愛ないものとして一蹴されたらとの〈懸念〉《けねん》におずおずしていたけれど、そんな不安など全く無用の介。  青年は息を吸いこむだけで空の無限の青に、体の内側を〈清冽〉《せいれつ》に洗われるようで、法師の問いに力強く頷いた。肯定の力強さで。 「気に入るも入らないも。  俺の方こそ、こんな凄い景色を見せてくれた君に、どんなお礼をしたものやら見当もつかないくらいです」  その通り、礼を言うべきは築宮の方なのに、法師はぱっと〈愁眉〉《しゅうび》を開いてにっこりした顔が、青年を喜ばせてやれたのが、嬉しくてたまらない様子の、無邪気な、見ている方が気恥ずかしくなるくらいのあけすけな。  光を張り渡した空ばかりでなく、法師の笑顔も築宮の目には眩しかった。 「ほんとに? ほんとにそんな?  ……よかったぁ。  わたしもここの眺め、好きだからさ」 「誰かに教えてあげて。  誰かと一緒で眺めたら、  きっともっと、いいんだろうなって」 「それが築宮さんで、嬉しいよ」 「おいおい……」  大げさな、と反射的に浮かんだ言葉で返すのは、法師の真心に対して侮辱なのだとすぐに気づいて築宮は、奥歯に噛み殺した。  琵琶以外は無一物なるこの法師が贈り物は、どんな高価な贈り物よりも得がたいものだと、さすがの築宮も心にしみたのである。  心にしみいって、端からにわかに照れくさくてたまらなくなる。  先だっての一夜では、なるほど肌を重ねもした。なれどこのやりとりは、性急な肉の交わりより心がほのぼのするようで、このざわめく心をどう御せばいいものやら、築宮は大いに持て余したのだ。まるで思春期の子供ではないか。  これまでの人生経験をごそりと取り零しているせいで、こういう状況への心構えも忘れたという以前の問題のような気がしてならず、青年はもしや自分は、今までまともな『恋愛』というものをしてこなかったのではないかと考える。  情けない事この上ないが、誰かに恋をしたりされたりできるほど、意気地のある自分でない事は薄々自覚されつつあり、それが今。  恋愛めいた、というよりそれそのものと言っていい渦中に放りこまれているのではなかろうか。  と、むず痒いような心地よいような驚きと困惑に、頬を緩めたり、かと思えば難しい顔になったりと築宮、一人芝居、法師は心配そうに覗きこんできたのもやむなしか。 「……お腹でも、痛いの?」 「いや……その。  そういうことじゃない……」 「確かに、天気の良い時に、ここからの眺めは最高だって感心していただけだから」  この苦しい誤魔化しようを、特に怪しみもしない、法師はさまでに〈純朴〉《じゅんぼく》で、また頷いた。 「今日みたいな、お天気の日じゃなくっても」 「雨降りン時も、いいんだよ。  頭に笠して、上がってきたこともある」 「笠のうちから見てるとね、  雨水が瓦に、小さな流れを作る、  薄もやであたりが霞《かす》んで、  雨だれの音ばっかで、  他は眠ったみたいに静かで」 「……わたしだけの夢の中に、いるみたいだった」  築宮の歓心がよほど嬉しかったのか、矢継ぎ早に語るうちにも法師の、回想に遠くを見やるようになった眼差しが、青年にもその時の情景を心伝えにしたのか、彼は頭上の晴天の青の中に、雨雲の輪郭の柔らかなるを幻視し、耳に振りそぼつ雨粒の優しい響きを聴いたばかりか、水を吸った瓦の匂いさえ嗅いだかと、そう思ったのである―――  雨と聴けば、降り籠められる憂鬱ばかりを思うけれど、法師の語る雨景色の幻想に、築宮はつい次の雨の到来が望ましくなったほど。  ただ雨が美しいのは、法師の目に映るからこそで、自分にそこまで情け濃まやかに景色を愛でる心があるかどうか、怪しいものだと築宮は微風の中前髪をかき上げつつ、 「俺は……この旅籠に来てから、もう何日にもなるつもりだったけれど、まさかこんな景色を見られる〈場処〉《ばしょ》があるとは、考えても見なかった」 「ふふっ。わたしだって。  築宮さんよっか、ここにいるのは長いけど、まだまだ見たこともないところ、きっとあるはずだもん」 「今だって、お散歩に出て迷子になるときがある。  そうすると、ぜんぜん知らない〈場処〉《ばしょ》に迷いこむ……」  よく迷うという点においては、どうやら自分も彼女も同じらしいと築宮は勝手な共感を、一瞬抱いて、否同じであるものかと我が考えに恥じ入った。  古びた廊下と座敷の連なりの中に行き暮れる姿を置いたとして、この浮世離れした法師なら風変わりな物語の挿画のような情趣を見せるだろうが、図体ばかりは立派な男が半泣きで右往左往しているのでは絵にもならない。  と、蒼穹を眺めてそんな〈益体〉《やくたい》もない考えを弄《もてあそ》ぶうちに、ふと気になった事がある。法師のこれまでの事だ。  人を深く詮索するのは品が無い事と、立ち入った事情を訊ねる事珍しい築宮なるが、それでも法師のこれまでの経緯に興味を催した。  一度肌を重ねた相手(と一夜の事を思い出し、ひっそりと赤面して)を、より深く知りたくなるのは自然な事だろうと誰知らず言い訳して、法師に尋ねる。 「今、君は、この旅籠で過ごして長いと言ったが……君はどうしてここに?」 「ああ、そのこと……」  と過ぎ来し方に想いを馳せるように声音が細くなって、膝を立てて琵琶の〈鶴首〉《つるくび》を肩に担ぎ直して、 「わたしはずっと昔、ある人に、ここに連れてこられたんだ」 「ううん、どういう人だったか、  もうそれは覚えてない。  わたしもまだ、周りのこと、  よくわかってなかったし」  やや奇妙な物言いに築宮は不審を抱かぬでもなかったが、青年と年頃の変わらぬ法師がずっと昔というのなら、それはきっとまだ幼き日の、人の顔の見分けもつかないような頃の事、記憶が曖昧とて無理からぬ話だろう。 「その人がどうなったのか、  それもわからない。  早くにいなくなったんじゃないかなって。  ずっと会ってないしね」 「それでもわたしが、  このお宿にいるのは―――あ」  間を置いたのを、打ち明けていいものかどうか迷っているものとみなして、やはりいきなり触れては不味いことだったかと築宮は臍《ほぞ》を噛んだのだけれど、実のところはさに非ずして、話ながら何事か思いついた、それで言葉を切ったらしかった。  築宮が動揺するくらいぐいと間近に顔迫らせ、 「築宮さんだったら、知ってるかなあ?」 「な、なにをだろう」  流れというものに〈拘泥〉《こうでい》せず、過去の話からいきなり現在の問いに置き換えた、その唐突さに面食らう築宮をよそに、法師がぶつけてきた問いかけは更に奇妙なものだった。 「琵琶のね、秘密の曲ってゆうの、  築宮さん、わかる?」 「――――――は?」  空は高く日は明るく、風は高所の清澄を孕《はら》んでそよぎ、天が下には幅一杯に平穏が充満しているのに、築宮は絶海の無人島に一人取り残されたかの心許なさを味わった、という。  それでもようやく法師の問いを把握して、首を振った。  たとえば世には、時の為政者が禁じたとか内容が余りにも人倫にもとるとか、あるいは要求される〈技倆〉《ぎりょう》が高度に過ぎて余人に継承しえなかった、はたまた単に誰かに伝承する前に死亡してしまった、等々の理由で、表向きには伝わっていない技芸というのが存在する。  法師の言っているのは、大方その類の、琵琶の曲の中でも秘曲と呼ばれるものなのだろうが、当然築宮がそんなものに、心当たりのあろう筈もない。大体にして旅籠に来る以前の記憶を失っている彼である。  法師の期待に満ちた眼差しはまさしく心得違いというものだが、それでも首を横に振るのがなんとなく心苦しかった。 「いや……済まないけれど、俺には心当たりはないな……。  君と初めて会った時にも言ったと思うけど、俺には、この旅籠に来る以前の記憶がないんだ」 「あ……そうだったね。ごめんなさい……」  青年の記憶喪失の原因が、まるで己にあるかのように〈項垂〉《うなだ》れて、物寂しくほっそりさせた〈直垂〉《ひたたれ》の肩山は、布地も薄切れていたが清らかではあった。  確かに記憶はなくしたが五体は満足に揃い、日々の暮らしを営むに不自由ない程度の物の分別は残されている。出物腫れ物に触れるように扱われてはかえって気詰まりだが、悪意ないのを責める築宮でない。それより、最前の法師の言葉が興味を惹いた。  気にしていないと慰めに手を振って、 「で、話の続きだが。  君がここに逗留している、その訳は、さっきの……琵琶の秘曲というのに関係が?」 「うん。  このお宿だったら、その秘密の曲か、  それか手がかりって言うのかな?  が、見つかるかもって。だから」 「なるほど―――」  ついさっきの〈悄気〉《しょげ》た様子などどこへやら、秘曲を語る時の法師は、空の彼方に〈兜率天〉《とそつてん》を見いだそうとする修行者の、望み高くくじけぬ眼差しで。 「たとえばこの曲は、 『〈啄木〉《たくぼく》』って言うんだけど―――」  おもむろに、琵琶を調弦し直し、撥で二度・三度音を確かめて、奏で始める。  〈茫洋〉《ぼうよう》たる景色の中に紡ぎ出される音の連なりは、のんびりと酒杯を舐めて〈悠揚〉《ゆうよう》迫らぬ詩仙の典雅を帯び、時にまさしく〈啄木鳥〉《きつつき》が幹を叩く響きが、彩りのように添えられた。  その〈業前〉《わざまえ》の冴えは知っていたつもりでも、幾度聴いても情趣は薄れる事なく聞き惚れる、しめやかな調子の独奏にうっとり浸っていた築宮は、その〈啄木鳥〉《きつつき》の、明らかに撥が絃から弾き出す音とは異なる響きにはっと法師の手許を見やれば、撥は絃でなく琵琶の腹板の、月という穴の辺りを叩いていたのだった。  琵琶の音といえば、もっぱら絃の鳴音ばかりが作法と思いこんでいた築宮には未知の奏法で、このような音を曲に取り入れた古人の感性に脱帽の思いである。 「……この曲も、三秘曲、って言われてたものの一つだよ」 「でも、わたしだってこうして知ってるんだもの、そんなに秘密ってわけじゃあ、ないよね?」  声を潜めたのは、禁忌を語る恐れというより琵琶の響きを掻き消すまいとの配慮で、語りながらも弾く手は止まらず、秘曲と呼ばれた調べを惜しげもなく奏で続ける。  しかし法師よ、世が世ならその曲を求めて、三年もの間隠者の庵《いおり》に通い詰めた貴人もあったという、それどころか衆目の前でこれらの秘曲を弾いたというその咎で伊勢まで流された歌人もあるのだぞ……。  ……やがて独奏の撥も止まり、余韻は空に吸いこまれ、幹を啄《ついば》む〈啄木鳥〉《きつつき》も〈何処〉《いずこ》かに飛び去って、この天に近い位置の屋根の上に、今や雲間を〈遊弋〉《ゆうよく》する天人が降り立ったが如き風格を備えた法師の姿が残された。全くもってこの法師、日頃はどこか〈螺子〉《ねじ》の緩んだような振る舞いを見せながら、琵琶を奏でる時ばかりは侮れない。  が、演奏の首尾を訊ねるように小首を傾げた様はやっぱりあどけなく、たちまちもとの法師に戻ったのに、築宮はややほっとしつつも素直に〈称揚〉《しょうよう》した。 「何度聴いても……君の演奏は、見事と言うほか無いです」 「俺はほら、別に批評家でもなんでもないから、ただ感動したっていう、ありきたりな言葉しか出てこないんで、聴かせ甲斐がないかも知れないが」 「ううん、そんな事ないよ。  築宮さんがわたしの弾くの、  ちゃんと聴いててくれたってのは、  顔を見てればわかるし」  改まった口調になる築宮へ、照れた笑いでぺこりと頭を下げて法師は、〈転手〉《てんしゅ》(絃巻き)を緩めた。どうやら先程の調弦はこの曲のためにのみあるらしい。 「まあ、そんなこんなで。  わたしがまだ知らない、秘密の曲がある。  そう聞いた。  そう聞いて、知りたく思って」 「だからわたしは、ここにいる。  ……もうずいぶん長くになるよ」 「まだなんも、わかっちゃないんだけどさ」 「そうか―――」  言葉は飾らずとも、法師の声音に滲む歳月に、築宮はただ頷くしかなく。  旅籠の客には軽んぜられ、人交わりする相手とておらず、住まう庵《いおり》は清らかなれども物侘《わ》びしいのは否めず、そこに一人で、訪れる〈知己〉《ちかづき》とてない一人で、どれだけの歳月を過ごしてきたのか。  しかし築宮の胸に迫ったのは、法師の孤独を哀しく思う、同情の心などではなく、むしろ尊敬と羨望と言ってよかった。  この法師にも、琵琶のみを巧みとするこの女にも、一念を懸けて追い求める曲があったのだという事実は、築宮には何やら眩しい。  引き換え自分はどうだ?  ただ状況に流されるままに、旅籠で無為の日々を送り、記憶がない事に焦りはあっても、身を損なっても取り戻したいと願う、そんな覚悟はあるかどうか。 「君は、凄いな……」 「え、そんなこと、ないってば」  自慢も〈謙遜〉《けんそん》もなく、面食らったように瞼をしばたかせたのは、彼女はその目的を、他人に見せるような気負いもなくただ自分の物としている証拠。慌てたように否定する法師に首を振って、言葉を継ぐ。 「君の故郷がどこなのか、俺は知らない」 「……ん、わたしが生まれたのは、  ずっとずっと遠い国だよ。  山と海とを隔てた―――」  それは初めて法師と出会った時にも薄々感じていた事なのだが、今は彼女の血脈が物語る距離の隔たりが、いっそう築宮を遙かなる感慨に誘う。  故郷を離れて一人という〈境涯〉《きょうがい》は、あるいは築宮とて同じなのかも知れないが、青年のように記憶とともに望郷の念すらどこかに落としてきてしまったのとは自ずと異なるだろう。 「故郷を遠く離れて一人、  寂しく思ったりはしなかったのか?」 「ああ、そのこと……」  法師はほろりと微苦笑したのが、彼女には珍かな陰翳を宿した表情の。  築宮は感慨に任せて心ない問いを吐いたかと一瞬後悔したのだが、法師はすぐに屈託なげな素の顔を取り戻し、 「わたしはもともと、仲間内でも、  ちょっと浮いていたから……」 「だから生まれたとこが遠くなっても、  そんなには寂しいと思わなかったよ」 「――――――」  この法師が過去にいかなる生を送っていたのか、仲間といってどんな者達だったのか、そこまで根掘り葉掘りしようとはせず、築宮はそれぞれにそれぞれの事情と人生ありという言葉を噛みしめるのみである。 「でも、今あんたが、いきなりいなくなったら、きっとわたしはさみしいよ。つまんないよ……だから」 「このお屋根から、  転げ落ちたりしないでね」  彼女の背なに遙かな景色と想いを〈垣間見〉《かいまみ》たからといって、今さら向かう気持ちにいささかも減ずるところはない築宮、大体こう、こんな〈頓狂〉《とんきょう》な心配を本気で寄せてくる相手を、煙たく思うことなどできるものでもあるまい。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  その後も、法師が琵琶を弾いたり、築宮が図書室で読んだ小説を語ってやったりの、微笑ましいやりとりの間にも時は流れ、空は暮れ始めた。  暮れ初めの風に、築宮は〈襯衣〉《シャツ》の襟元の釦《ボタン》を締め直し、そろそろ戻ろうと法師を促《うなが》す。 「そうだね、そろそろ戻らないとね。  でも、夕焼け見てからじゃ、だめ?」  けれど法師は何やらひどく名残惜しいらしく、すぐには立ち去ろうとしない。  また来ればいいじゃないかとなだめる築宮へ、法師は言葉が足らない様子で口ごもる。  彼女自身、なぜそんな風に感じているのか判らないらしい。 「あのね、この眺めとお別れするのも、  もちろん惜しいんだけど」 「わたし、それよりも、もうあんたとお別れかと思うと、それが寂しいみたい」  ゆっくりゆっくり、築宮の耳の温度を昇らせる、〈糖蜜〉《とうみつ》の甘さと花畑の色彩に満ち満ちた台詞を、法師の方は極めてリアルにシリアスに心の底から大真面目、衒《てら》いも思わせぶりもなく〈真摯〉《しんし》な眼差しで〈辿々〉《たどたど》しく呟いた、指が青年の〈襯衣〉《シャツ》の裾をちょんと摘んだのも、健気に殊勝に心に響く。  ……この法師もまた恋というものに疎《うと》いようだと、どう心を表せばいいのか慣れていないのだと、見るからにわかりやすい。 「そ、そうか。  なら……この後、夜も付き合うから、  とりあえずはそろそろ降りよう―――」  言ってしまってから、今度は急激に耳が熱くなって火が点くよう、二人の逢瀬をこれでお開きにするのを惜しく思っていたのは築宮も同様なのだが、かといって今の台詞は。  夜も、夜闇が柔らかく包み、二人の距離を〈稠密〉《ちゅうみつ》に近づける夜を、共に過ごすというのがどういう意味を孕《はら》むのか、さしもの築宮にも理解できてしまう。 「そお!? 夜も一緒にいてくれる?  いいなあ、嬉しいなあ―――」  翳り始めた陽差しの中に、築宮の頬が紅潮しているのは、なにも午後一杯たっぷり陽を浴びたからというに留まらず。ただ法師はそれに気づいてか気づかずか、野の〈素朴〉《そぼく》な花のような笑みを咲かせて、余りにあどけないので、青年はそれこそ花を手折るような疚《やま》しささえ覚えたのだった。  間が、保たないであろうと築宮はなかば覚悟していたのだ。  法師の方は二人で夜を過ごすといって、ささやかな〈酒肴〉《しゅこう》でもてなしたり、やっぱり琵琶を奏でたりお話をしたりされたりの、穏やかな情趣に満ちた夜、けれど年若な男女には刺激にいささか欠ける夜、くらいしか思い浮かべていなかったのだろう。  足元が危うくなるとて、日が落ちきる前に屋根裏を抜けた時も、温室の裏手から直通の長い階段をだらだら下っていく時も、法師はまた築宮の手を繋いで離さなかったのだが、かといってことさら思わせぶりに腕を絡めるわけでなく体をすり寄せるでもなく、仲の良い幼い兄妹が近所の駄菓子屋にでも出かけるのと大差ない。  築宮ばかりが妄想を先走らせ、腹の底にもやもやと期待とも情欲ともつかぬ感情をとぐろと溜めて持て余し、ともすれば法師が立ち止まるたびぶつかった振りをして、彼女の体を感触を得ようとする自分を必死に戒めた。  ―――これでは、盛りのついた犬猫と変わりない―――  と、自らを苦々しく恥じたものの。  築宮青年の胸苦しいような情欲の疼《うず》きは、それでも彼の年頃にある男としてはまだ控え目な方なのだろうし、気の置けない間柄となった異性とこうも身近になってそれで〈寸毫〉《すんごう》もその肉体を意識しないのなら、それはそれで彼が幼少時なんらかの深刻な心的外傷を負っていないかどうかを危惧した方がいい。  なんにしても、法師は青年の葛藤をよそに手を繋いだまま階段を下り、時に朗《ほが》らかに笑い、あるいはまた何事かの物音に耳を澄ます仕草し、その度無邪気な振る舞いで築宮を微妙に悩ませたものだから、庵《いおり》に着いた時彼は、実際に歩いた以上の気疲れに、こっそり大きな溜息を漏らした事である。  それでもようやく彼女が手を解いた時、ほっとすると同時に、膝の上で寝こけていた猫が離れていってしまったような味気なさを感じていたのも、また事実なのだった。  さて庵《いおり》に着いて、築宮は板間の縁に腰を下ろし、法師は〈行燈〉《あんどん》に〈燐寸〉《マッチ》で火を入れる。  燃える燐と軸木の独特の匂いは懐かしく、庵《いおり》を照らした灯りも古めかしい、法師は火灯りの中で、土間の隅からなにやら引き出したのが、大きな盥《たらい》なので。  立てれば彼女の〈胸乳〉《むなぢ》のあたりまで届いて、それを脇に転がしていく姿は、揺れる灯りの中で築宮の目に、その昔人心を惑わし童児をさらったと伝えられる片輪車という妖《あやかし》めいて映り、心を化け物草紙の世界に誘うようだったが、振り向いて呼びかける法師は口元に牙を並べているでもなく鬼火を吐くでもなく、軽い疲労と手持ち無沙汰でやや〈恍惚〉《こうこつ》としていた青年の意識を引き戻した。 「水浴び、するよ」 「なに……なんだって?」  唐突なとつい訊き返し、我に返ってみれば法師の〈大盥〉《おおだらい》、もちろん彼女はこれを衣装を洗うのにも用いるが、庵《いおり》の裏手に据えて行水のために水を張る事もまた多い。 「今日はずいぶんと歩いたし、  お陽さんも、たくさん浴びたし、  体、冷まさないと」 「ああ……なるほど」  と納得というよりなかば放心の生返事で、裏口から盥《たらい》を押し出していくのを見送って、自分も水で絞った〈手巾〉《ハンケチ》で、せめて額やら首筋くらいは拭《ぬぐ》っておくかと、汗臭さを確かめるように鼻をうごめかせた青年へ、戸口越しに、 「どうしたのお。あんたもおいでな。  流したげるからさ、いっしょに浴びよう」  呼ばわってきた声に、青年は一瞬冗談だろうと笑って流そうとしたのだが、なんの、法師が洒落など飛ばすはずもなく―――  だから築宮が、法師と差し向かいの夜に間が保たないという事はなかったのだけれど、こうなってみればみたで、また別の緊張感で〈動悸〉《どうき》を抑えるのに一苦労、いや大なる苦労の。  こうなって、というのは。  盥《たらい》の水に腰を落とした、築宮の脚の間に法師が顔を突っ込んでぱしゃぱしゃと軽やかな水音を鳴らしているという状況であり、  築宮は〈赤裸〉《あかはだか》、せいぜい腰元を手拭いで覆い隠しているばかり、法師は〈肌襦袢〉《はだじゅばん》こそ着けているものの、大きくはだけられ布地だって水に濡れて肌を透かした、隠す用には到底役立たず、というのが二人の格好であり。  築宮は上半身脱ぐだけに留めようとしたのだが、水を浴びるのになんで服を残すのかという法師のもっともな(それ故に残酷な)問いかけの眼差しには降参するしかなく、法師は法師ではじめから躊躇う彼女でない。むしろ衣装を取った時の涼しさに、ひゃあと気楽な歓声を上げたほど。  それでも築宮は、まだ交替に盥《たらい》を使うものと思いこんでいたのだが、法師はさっそく水を張った中に飛びこんで、まずしたのが手招きの、確かに盥《たらい》は大きくて二人が一緒に腰を下ろせるくらいの余裕はあったが、いやしかしと築宮は追いつめられたように後じさった。  後じさって、けれど法師の不思議そうに寂しそうに小首を傾げたのには、勝てなかった。  だからといっても――― 「ああ、少し張っちゃってるねえ」  と見上げてきた、法師の顔の真ん中を見ることはできようものでない。二人ともほぼ全裸で、まして法師は築宮の脚の間に跪き、細やかな指遣い、息も〈内腿〉《うちもも》を撫でてくる。  ただでさえ、こんな風に奉仕されるのは慣れていない築宮なのである。  こんな風に、貴人が〈奴僕〉《ぬぼく》にかしずかれるように、足を揉みほぐしてもらうなどというのは、築宮にとってはかえって気が退けるばかりだった。 「……もしかして、歩くの、疲れた?」 「いや、歩くのはそんなに苦手じゃない。  散歩は好きな方だし。  でも、そんなにしてもらうのは、悪い」  屋根の上からこの庵《いおり》まで、旅籠の上から下まで引き回してしまった事を詫びるように気遣わしげな声音を、それは考えすぎだと慰めたものの、かといって法師に足揉みまでさせてふんぞり返っていられる尊大さなど、〈欠片〉《かけら》も持ち合わせぬ築宮は、もう充分と止めさせようとしたのだが。 「いいからいいから。  それともわたし、下手くそ?  痛いかったり、する?」 「いやそんなことは―――うっ?」  声が短く詰まって、泳がせた手が水に波紋を置いた。  ただでさえ。  法師の指先は、琵琶を弾けば水仕事もするから、皮も相応に厚いけれど、築宮を思いやる心で白魚に勝って美しい。  ただでさえ、脹《ふく》ら脛《はぎ》を滑り、解す力は優しく情味も篤く、一日の足疲れが柔く溶けだしていくような、まぎれもない心地よさに、ともすれば流され身を任せてしまいたくなる。のを身に過ぎる快楽と自制して、惰弱に溺れまいとしている築宮なのに、つるりと潜りこんできた指先は、足の指の又に。  急所を掴まれたような音を鳴らしたのも無理はない。  築宮はまめに湯を遣う質で、あたう限り体を清潔に保つ事を苦にしないが、それでも一日の終わりともなれば汗を帯びるし脂《あぶら》も浮く。  ましてや足の指、歩いて踏みしめるうちにも埃と汚れを溜めようの、人目に晒すのも憚《はばか》られる部位に、法師は厭《いと》いもせず指を潜らせてきたのだ。 「なにを……そこまでは、そんな……っ」 「でも、ここもちゃんと綺麗にすると、  気持いいよ」  法師は築宮の羞恥を知らぬげに、無心に指を働かせ、水に浸し、流し、また揉みほぐす。  自分の指さえよく触れないような部分を、他人の指が行き来するのはなんとも気恥ずかしく、それでいて心細さの下から心地好さが見え隠れ、築宮は法師の指から足先を引き抜こうとして、なのについ任せてしまう自分の気の弱さが情けない。  法師の庵《いおり》の辺りはもともと人通り少なく、夜ともなれば屋内にありながら深山の閑寂の気漂う。が、たとい人目の気遣いないとはいえ、盥《たらい》に乗ったまま二人きりで絶海に流されたとしても、築宮の居心地の悪さには変わりなかったろう。 「ところで築宮さんは、  なんでずっと、そっぽ向いてるんだろう」 「なんでって言われてもな……っ」  この女はそれを本気で問うのかと、〈逆捩〉《さかね》じ気味に睨んでやろうとしたものだから、今まで敢えて目を背けていたのが視界を直撃する、築宮の愚か者。  問いかけるながらも熱心に動かしやめぬ手に合わせ、微かに揺れているのが法師の乳房、〈肌襦袢〉《はだじゅばん》などは肩口から二の腕まで滑り落ちて隠す役にも立ちはしない。  〈瑞々〉《みずみず》しく実って張りつめた膨らみが、屈みこむ姿勢だから余計に強調されて、色づいた頂まで覗かせて、雫を乗せて。  〈道心堅固〉《どうしんけんご》であろうとしても、自分はそこまで意志の強い人間でないと自覚している築宮だからこそ、敢えて直視しないようにしていたのが、一度視線を合わせるともう外せなくなってしまう。  法師との情交の記憶は折に触れては蘇り、築宮を悩ませるのに、目の前にその抱いた体が、肩から腕への水を弾く肌も、盥《たらい》の水にぺたんと膝をついた〈太腿〉《ふともも》の、指で押せば同じ強さで返ってくるくらい弾力に満ちたのも、あっけらかんと無防備に惜しげもなく見せつけてある。  もし彼が、法師の体をいまだ知らずにいたのなら、どうにか抑えられたのかも知れない。けれど一度でも抱いた後では、知らないふりで流すなど到底できない相談の、それくらい情交の悦楽は甘美だった。  彼女の体に己の男を埋めて、思うがままに貪るあの快楽を、ちらとでも思い出しただけで、築宮の雄の器官に情欲が流れこむ、浅く張られていた水などそれを冷ます役にも立ちはしない。 「あの、もしか、私と行水すんの……、  やだった……?」  重ねての問いかけが不安そうなのは、法師が築宮の葛藤に気づいていないからだろうが、その上目遣いが一夜を共にした時の、青年の下で切なげな吐息を漏らした顔と重なって、とうとう彼の理性に亀裂が走った。  ままよ―――と思いきる。  拒まれたらそれまで、法師が否やとはねつけたなら、今夜は諦めて自分の部屋に引き下がろう。大体彼女だって、若い女が二人きりで若い男の前に肌を晒すことの意味を、いい加減知るべきである、と開き直った。 「……厭とかじゃ、ないんだ。  ただ、俺もほら、君の裸を見ていると、  冷静ではいられなくって―――」  一つ走ったひびから、亀裂はどんどん広がって、もう抑えようもない女の体への〈渇望〉《かつぼう》が溢れ出す、満ちていく、張りつめる。  腰に巻きつけた手拭いの布地を、内側から押し上げて青年の雄の器官がいきりたっていく。今さら腰を引いて隠したところで空々しいばかりだから、築宮は敢えて法師に見せつけるように示した。 「君を抱きたくなる。この前みたいに。  ……わかるだろ?」 「俺が、どうなってるか」 「あ……っ」  築宮が目線を下ろしたのに合わせ、法師も俯《うつむ》けた、顔の下から小さな驚きの吐息、ややあって再び見上げてきた顔に、ちらとでも嫌悪の色が浮いていたなら、彼としても大いに恥じ入ったところだろう。  けれど法師の眼差し、落ち着きをなくしてたゆたうようではあったけれど、厭《いと》うどころか潤いが増していた。  眸に宿った潤いを信じて築宮は、まだ足の指に絡んだままだった法師の手を取り、引き寄せる――― 「いい、かな……?」  敢えて何をと明らかにせず、ただ声音に籠めて、胸に抱きとめて、女の顔を覗きこめば。 「……うん……」  か細い答え、けれど頷く仕草、声も、これから何が始まろうとしているのか、しっかり感じ取った上で、青年の情欲を受け入れるように濡れていた。  するり、と法師が青年の胸に押し当てられていた手を滑らせる。下へと。 「ごめんね……。  あんたが、こんなになるまで―――  きづかなくってさ」 「わたし、こういうの、  まだ全然、慣れてないから」 「う……」  予想以上の反応というのはこれで、おずおずと、怖々と、それでも確かに、法師は青年の腰の手拭いを捲《まく》り、触れてきたのだ。  彼の、隆々と鎌首をもたげたそこへ、男の部分へ。 「いい……よ。わたしもね。  わたしも、あんたに抱かれるの、  好きみたいだもん」  自分ばかりが餓えていると、まだ躊躇いを残しているところへこの法師の答えは、実に青年を歓ばせたのである。  小さく水が跳ねて、法師が雄の部分に触れながら、もう一方の腕を青年の背中にそっと回して―――また水が鳴って。  水の音、二人の吐息、傍らを流れる水路のせせらぎ、盥《たらい》の軋み、けれど他には、青年と法師の営みを遮るような音は、無し。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。 (まさか、この人の方から―――  してくれるなんて)  水路の眠気を催すような響きや盥《たらい》の水を跳ねかす音を締め出して、築宮の耳の中で鼓動が轟《とどろ》いていた。  いまだ信じられず、自分の勝手に勘違いなのではないかと疑う築宮の心を引き戻すように、声が囁く。 「もうこんなに―――糸、引いちゃってる」  耳もとを優しく撫でるような、それでいてぞくぞくするくらい淫らが香る、声。  ついと離した朱唇と尖端の間に、滲み出した先走りが雫を連ねた橋を架けていた。  ―――法師が築宮の脚の間にひざまずき、彼の雄の器官を口に含んでいるのだった。 「その、君、やっぱりその……」  意識が引き戻されれば、穏やかな快感が腰の奥にわだかまっている。  それに身を任せてしまいたかったけれど、異性に性器を『舐められている』という事実は築宮に大きな気後れを覚えさせる。  情欲に逸《はや》る築宮が無理強いの、なにも知らぬ彼女をそそのかせてさせた事ではない。  ひとしきりの〈抱擁〉《ほうよう》の後、彼女の方から築宮の股ぐらを覗きこんできたのだ。  目には、男だけにしかないモノへの好奇心と、そして青年を悦ばせてやりたいと願うひたむきな心と。 『こないだは、築宮さんは、  わたしの……あそこ、いじってくれて、  ……あれ、気持ちよかったから』 『だから今度はわたしが……おかえしね』  と彼女にしてみれば、青年を想う心を行為で示したかったのだろう。  それだって築宮は、触れてくるくらいだろう、それくらいなら彼女の好きなようにさせてみようと、ある意味たかをくくっていたところへ、法師の顔が強張りについと下がり、唇を降ろしてきたのは予想を超えていた。 「そんな事までしてくれなくても、  いいんだ……っ」  もちろん築宮だって、口で施す愛撫というのを知らなかったわけではない。  でもそれを、青年に抱かれるまで男を知らずにいた法師の方から、頼まれもせず試してくるなど考えてもおらず、とめる機を逸《いっ》した。  ついでに、いくら人も通わない夜の暗がりの中だからといって、こんなところで睦《むつ》み合うのではなく庵《いおり》に戻ってからにしようととめる機会も逃した。  ただ肉の悦楽に耽《ふけ》ってしまうには、築宮はいくらか〈潔癖〉《けっぺき》でありすぎたのかも知れない。  なのに法師は――― 「こんな風にされるの、きらい?」 「そういう事じゃなく―――ぅっ?」 「これ、おしっこじゃないって、  言ってたよね」 「ン……ちゅ……く」  また〈強張〉《こわば》りに口づけし、滲みだした腺液を厭《いと》いもせず舐めとったのが、築宮には信じられないほど大胆な。  法師にとっては、心を寄せた青年の昂《たか》ぶりの証として、不潔と吐き出す事など露とも考えなかったのだろう。  ゆっくりした舌遣いは躊躇いがちというより、やり方を少しずつ確かめているような、そんな気配があった。 「……う……っ」  濡れて生温かな温度と、尖端を啜《すす》られる刺激が、目を逸《そ》らそうとしていた快感に道をつけるようだ。 「いやじゃない?  ちょっとは、気持ち、いい?」 「ちょっとどころか、でも、  君に、こんな、事―――っ」 「よかったァ……。  あんたが気持いいなら、  このまま、させて」 「―――してあげたいんだ、築宮さんに」  囁きかける法師の上目遣いに浮かんでいるのは、まぎれもない献身、ただ築宮に気持ちよくなってほしいと願う心の。  普段は人の肉の生臭さを感じさせず、それ故に女という性の色香にはどうしたって欠けているのがこの法師だ。  そんな法師に、こんなに淫らな行為をさせてるのだと、意識すればするほど背徳感が増してくる。  しかしその疚《やま》しさは、築宮に快感をはねつけるほどの意志の強さを与えるどころか、意識すればひゅくり、と〈強張〉《こわば》りが跳ねて、また鈴口に粘ついた雫が盛りあがる。  凄まじいほどの〈昂奮〉《こうふん》があった。 「溢れてくるよ……あん」  鈴口を、指で一すくい。 「……くぅ」  法師にしてみれば、溶けた飴が垂れそうなところを、なんの気なしにすくいとったようなものだったのかも知れない。  けどいきりたつだけいきりたった〈強張〉《こわば》りは、そのわずかな刺激だけで快楽のさざ波が走り、ひゅくひゅくと脈打ってしまう。 「これ……築宮さんの……濃いね……」  すくいとったものの、指先に粘つく腺液をどうしようかと少し迷った風情なのが、直情的な愛撫と裏腹に〈初々〉《ういうい》しい。  盥《たらい》の水で洗えばよさそうなものを、何を憚《はばか》るのかちょっと法師は思案顔でまごつく。 「いいから、適当に洗えばいいから……」 「うん……でも……」  少しまごついて、結局法師は、指先を濡れた唇に持っていって、ぴちゅ、と。 「ン……く」  軽く閉じ合わされた唇の間で、舌が指先を舐めとってうごめいているのがうかがえる。  法師はそれと意識もしているのかいないのか、凄まじく―――卑猥な光景だった。 「そんな、きたな…」  汚いと止めようとして、その馬鹿馬鹿しさに気がつく。既に強張りを彼女の口に含ませておいて、今さらなにをというものだ。 「ふしぎな、味ね」 「―――平気よ、わたしはぜんぜん平気」  わずかにほころばせた唇の朱が、暗がりの中に妙なくらいに生々しく、鮮烈で、視界に残像として浮かぶくらいだった。 「それとも築宮さんは、  わたしなんかにこうして口でされるの、  ……いや?」  その、問いかけてきた顔。  夢見る人のようにうっとりしていたけれど、ただ築宮にはねのけられたら、という不安が一筋のかげりを落としていた。  この法師以外には見たことのない、無防備で自分の心をさらけ出した表情に、築宮はと胸がつかれる思いがしたという。 「いやじゃない……。  いやなものか……っ」 「ただ、君にその、  こんなコトまでしてもらうってのは……。 その、気が引ける」 「あら……そんなの」  ふっと淡くほころばせた笑みが優しく、築宮のためらいを溶かすようだ。 「わたしがしてあげたいんだよ―――」  額に流れた髪をかきあげる。  まるで、今から本腰を入れるのだと、臨戦態勢を整えるように。 「あんたを、気持ちよくさせてあげたい」  言いながら、顔を沈みこませる。  尖端と法師の唇の距離が零に詰まるまでの時間が、ほんの僅かな間なのに、築宮にはなにか星々の時間にも匹敵するくらいに長く感じられた。  それぐらい、焦れて飢えて待ち遠しくなっていた自分に気がつき、築宮は一瞬、内心で苦笑したが、そんな感慨は―――たちまち流された。 「ちゅ……」 「あう……っ!?」  ちゃぷり、と茎に降りた舌のぬるみ、軽く当たった歯の感触に、思わず腰と声が跳ね上ってしまうのを抑えられない。 「あ……っ?  ごめん、痛かった?」  法師が慌てたように顔をあげれば、ぬめやかな熱が去っていってしまって、築宮も焦って首を振る。 「違……っ―――なんかそれ、凄くて……だから声、出て……」 「そお……?  軽く舐めてみただけなんだけど……」 「嘘だろう……?」 「え……っと?」 「すごく気持ちよかったんだ……。  アレでほんのちょっと舐めてもらっただけっていうんなら―――」 「そのまま続けられたら、俺、ほんとうに収まりがつかなくなりそうで」 「どこでこんなやり方、覚えてきたのか、  それが少し、不思議ではある……」 「……あんね、わたしだってこういうの、  ぜんぜん知ってないわけじゃないし」 「それに、あんたはわたしの……、  大事な人だもん」 「そういう人なら、わたし、なんだってしてあげたい……ッて、そう思うの、変?」  ……まだ異性に性器を口にされるという事に、僅か残っていた躊躇いは、この飾り気のない好意の言葉にはやくも崩れつつあった。  築宮とて木石でできているわけでもなく、それくらい快感は甘美だったし、なにより法師の〈真摯〉《しんし》な気持ちが心に響いたのだ。  だから築宮は首を横に振り、もうはっきりとした期待をこめて法師を見つめる。  その眼差しに法師の〈懸念〉《けねん》もたちまちに溶けていく。 「なら、もっとしていいね……」  尖端に、法師の唇が軽く触れる――それだけで唇のひだの〈凹凸〉《おうとつ》まで感じ取れるくらい、築宮の神経はそこに集中していた。 「あ……っ。う……っ」  また、声が漏れる。 「―――ちゅ」 「ちゅ……む、ちゅ……」  優しく啄《ついば》むような、軽い口づけを重ねる法師の唇の感触が、むず痒いような、焦れったいような快感で。 「……すごい、築宮さんのが、後からどんどん、とろとろって……溢れてくる」 「少し、嬉しいかも」 「……なんでだ……」 「……それだけ、わたしに感じてくれているってことだよね、これ……」 「しかたないだろう……君の舐めかた、気持いいんだからさ……」 「あ……そう、そんなに……」  快感を素直に打ち明けられ、剛直を見つめる法師の視線が、〈陶然〉《とうぜん》と溶けはじめていく。  唾液に濡れて、てかてかと醜悪な光さえ放っているのに、嫌悪感どころか〈恍惚〉《うっとり》とした眼差しで、〈内腿〉《うちもも》を撫でる吐息も悩ましい。 「そうね、こんなに固くなってるし……」 「だから……その、もっと……」  中断されていた口淫を今度は築宮からせがんだ。ここまで来てしまえば、さすがの青年にも拒む理由はどこにもない。 「あ……そうだね……」  法師ははっとぶれかかっていた瞳の焦点を取り戻した。 「くむ……ン」  なおざりになっていた任務を思い出したという感じで、今度は茎に唇を押し当てる。 「―――ん、ちゅ……」  再び唇の粘膜の感触の温かさ。  やがて唇を割って、熱く湿って柔らかな感触が、茎に這う。 「んっ……はふぅぅ」  感触を確かめるように、濡れた息を漏らしながら、剛直に舌先を這いまわらせる。  〈内腿〉《うちもも》にこもる吐息、うごめく舌先が、かっとなった築宮の体温よりまだ熱い。  その熱が、えもいわれず心地よい。 「熱いな……君の口、熱い……。  ぅ……くぅ……っ」  粘膜の熱さが、築宮に呻《うめ》き声をこらえられないものとする。  こうやって舐め回してもらうだけでも、その心地よさは腰がひけてしまうくらい。  ただ茎を舐めてもらうだけでは飽きたらず、口の中に強張りを埋めたくなってくる。 「えぅ……れる……ぅ……ぴちゃ……」 「もっと―――できれば口の中、に……」 「ん……むぅ……?」  水気を帯びた法師の髪が、顔を動かすたびにさらさらと流れ零れて〈内腿〉《うちもも》をくすぐる。  その毛先の微妙な刺激さえも快楽の味付けで、髪の流れを浮かされたように見つめつつ、築宮は彼女の頭にそっと手を添えた。 「そのまま―――」 「む……ぷ……っ……んんくぅ……」  柔らかな髪の感触を楽しみつつ、無理矢理にではなく、あくまでお願いするように、法師の頭を動かして、尖端と唇を重ねるようにしてみると――― 「れ……るぅ…ん……っ」  口を犯す器官を、むしろ待ち望んでいたかの幸せそうな喘《あえ》ぎで、唇を開いて受け入れた。  とはいえ、大口で頬ばるというのではなく、慎ましやかに軽く開けた隙間に潜りこませていく。  狭い肉の隙間に雄の器官を挿しこんでいく。  ―――それは否応なしに『セックス』を連想させて、築宮の背筋を戦慄が這い上がる。 「んぅ……ず……ちゅ……」 「ふぅ……ん……ふぅぅ……」 「すごい……いい……っ」  法師の吐息が築宮の茂みをそよがせる、口の中、上顎の内側の〈凹凸〉《おうとつ》が尖端を滑っていく、舌が雁首の裏側でたわんでいる。  それらが入り乱れたこの快楽。  もう築宮は浮かされたように、快楽を繰り返し口にするしかできなくなりつつあった。 「ふうく……ちゅ、くちゅぅ……っ」  股間を見下ろせば、法師の頬がかすかに膨らんだりくぼんだりしていて、口内に含まれた〈強張〉《こわば》りの存在が、見えないくせにやけに鮮烈だ。  いつもは琵琶に合わせて綺麗な声で謡い、他愛のない物語に夢中になっている口の中に、自分の性器を押しこんでいる―――  その光景に、腰の底に快楽のとぐろが深く強くうねり出す。 「もっと―――口の中で、舐めて……」 「ん……れる……んく……くむぅ……っ」 「ぴちゅ……あ……むぅ……ん」  熱く柔らかな口内粘膜に包まれているだけでも素敵なのに、自由にうごめく舌まで茎をくるくると這いまわって、体がそこから溶けだしてしまいそう。 「あ……っ?」 「んむ……」  少し顎を引いて、尖端近くまで吐き戻す。  法師の口から剛直が生えているような卑猥な眺めに、目を奪われていると、尖端にぬるりときた。 「ちゅ……む……」  鈴口を二度・三度つつくみたいにしてから、雁首回りの下をこそぐように舌を這わせるという、築宮の快楽のありかを知り抜いているかの技巧で。  どこで聞いてきたものか、それとも女という生き物には、心を許した相手を悦ばせてやる技巧が本能的に備わっているのか。  いずれにしても、青年は己の手で性急にしごき出すのとは全く異なる快楽に、腰が跳ね上がるのを抑えられそうにない。 「ひぅ……っ」  女のような声だと思いつつも、こらえられなかった。腰の中心で軽く火花が爆ぜたみたいだった。 「あ……あっ……。  ええと―――いまの、痛かったりした?」  慌てたように訊ねてくる法師に、言葉もなく首を振る。  痛い? まさか。  正反対だった。  雁首を法師の舌が滑っていく感触だけで、達してしまいそうなほどの快感だったのだ。 「今の……それだけで俺、  出してしまいそうになって……」  深く息をつき、射精感を辛うじて抑制する。 「よかった……わたし、強かったかなって」 「でも―――気持ちよくなってくれたみたい。だってあんたの……」  言葉を切って雄の器官を見つめる。  打ち上げられた深海の生物のようにぬらぬら濡れて光り、湯から引きあげられたようにかすかな湯気さえ立ちのぼらせている、それ。 「こんなになって、  なんだか、おっかないくらいだ……。  でも、不思議だね」 「あんたの、おっきくなったの……。  なんか、好きみたい……」 「君が、こんなにしたんだぜ……」 「ふあ……」  顔を離されるとたちまちのうちに熱が逃げていく。熱とともに快感も遠ざかるようで、築宮はまた促《うなが》すように法師の頭に手を添えた。 「ン……くぷ」  逆らいもせず、位置を合わせるように首をすこしもぞつかせて、法師は〈強張〉《こわば》りを大きく口に含む。 「……君の口の中、ほんとに熱い……。  熱くて、気持いいんだ」 「ん……くむ……」  始めはただ熱ばかりを感じていた〈強張〉《こわば》りに、粘膜の感触がなじんでいき、再びあのぞくぞくするような快感が股間を中心に築宮を絡めとっていく。 「ぴちゅ……く、む、んんっ」  唇の間の舌遣いはどちらかというと慎ましい。なのに、法師にここまでしてもらっているということだけで、腰から体全体が、弱火で炙られてるみたいに〈火照〉《ほて》っていく。  もうすっかり温くなった水に、肌が溶けだしていくかのようだ。 「えう……れる、うふ、ぴちゃ……」 「むぷ……こんな感じで、いい?」 「―――ああ」  股間にそよぐ法師の息、熱い。  吹きかけられる息にさえ、快感を高められながら、築宮は体内の熱を逃すように息をつく。けれど体の中に、着実に射精欲求は高まっていく。  それまでは尖端ばかりを舌でくるんでいたのを、もっと深く貪ろうとするかのように、法師の顔が築宮の股間にほとんど密着する。  ぬるぬると潜りこんでいく剛直に、口内の〈凹凸〉《おうとつ》が軽く当たるのが、柔らかな唇と舌の中の新鮮な快感のアクセントになる。 「ン……ふ、くちゅ……むふぅ……」  だんだんと啜《すす》りあげる音が水っぽく、〈執拗〉《しつよう》になっていく。  その粘つく水音の源は、法師の唾液なのか築宮の先走りなのか、もうわかりやしない。  〈内腿〉《うちもも》に押し当てられる髪もまた、濡れた熱をはらんで、築宮の快楽を煽《あお》りたてる。 「あ……むぅ……」  剛直をしっとりくるみこむ、素敵に気持いい唇と舌と口内の粘膜。  剛直ばかりか爪先から頭のてっぺんまで暖かな快楽に包みこまれたかの感覚に、築宮はもうすぐそこまで最後の時が迫っていることを知る。 「く……む……れ、るぅ……っ」  つる、と鈴口に舌先を差しこまれ、  ざわり―――ときた。  軽い痛みさえ伴う快感、その痛みも熱烈な舌の動きで溶かされていく。 「ちょ……もう……まず、い……」 「俺、限界で、出そうだから……っ」  切ないくらいの愉悦が背筋を走り、精の噴出の予兆に〈強張〉《こわば》りがひくついた。  このままでは彼女の口内に噴きこぼしてしまうと、築宮は彼女の頭を押しのけようとしたのだが。 「んぅ……んぅぅ〜……っ」  法師はいやいやと首を振り立てながら、くぷりと喉元深くまで飲み込み、頬をへこませて強烈に吸いあげてきたのだ。  彼女とて、感極まった男の体がどうなるのか判っているだろう。一度は体の奥深くで、その噴出を受け止めもしたのだ。  それでも望んだのだ。  青年に、快楽の絶頂を自分の口の中で、このまま迎えて欲しいと、そう願ったのだ。 「ふぅ……む、づ……ちゅぅ……っ」  濡れた音、もうこらえられない、築宮は腰を突き上げてしまう。  精を吸い出されるくらいの快絶が、鮮烈に強張りの中を突っ走った。 「だめ、だ、本当に……い……く……っ!」  水が跳ね、背もたれにしていた盥《たらい》の縁が大きく軋み―――  こらえにこらえていただけに、その反動としての快絶たるや、得も言われぬ心地好さで。  法師の熱く滑る舌と口内にくるまれ、愛おしげに吸われながら築宮は。  白濁の快楽の塊を撃ち放った。  脈動の一回一回に凄まじい快楽が詰め込まれていて、それが何度も何度も、青年自身〈唖然〉《あぜん》とするほどの回数で、精を放った。  全て法師の口の中に。 「はああ……っ……く……ぅんんっ!」  快感の爆発に暴れ回る築宮の腰を法師はしっかりと抱きとめる。  口淫の快感で、たっぷりと体内に〈醸成〉《じょうせい》されていた精液を受け止めた衝撃に、彼女は喉の奥でえづくような音を立てたが、それも一瞬のこと。  絶頂に占められたはずの築宮の意識を襲った、更なる衝撃は、法師の喉がこくん、と。  呑み下したから。  口の中に射精を迎え入れたばかりか、流しこまれる精を拒みもせず呑みこんだのだ。  ―――このひとが おれのだしたものを のんでいる おなかのなかに ながしこんでいる―――  まさかとの〈驚愕〉《きょうがく》は、そのまま絶頂を長く強く後押しする力になって、射精の脈動は築宮自身も呆然とするくらい何度も何度も続いた。 「……んっ、んん、んぐぅ……っ」  法師は必死に呑み下していくのだが、脈動の激しさ吐き出される精の夥《おびただ》しさ、すぐに間に合わなくなり、強く築宮を包んだ唇から、ぶぴゅっと余りが溢れ出してしまう。 「えぅ……っ、あ、か……はっ」 「こんな―――こんなに―――?」 「呑みきれ、ないよぅ」  なおも射精は続き、法師の顔に精のしずくが降りそそぐ。  粘りついて垂れていかないほどに濃い精が、法師の可憐な顔に濁《にご》った〈版図〉《はんと》を広げていく。  同じ白なのに、精の濁《にご》った白さと法師の肌の水に洗われた白さでは、なんと隔たりがあったことか。  そしてその隔たりの、どれだけ淫猥であったことか――― 「はあ……はあ、はあ……っ……」  肺の奥から空気を吐き出し吸いこんだ。余韻に震える青年の腰に、法師はまだすがりついたまま。口の中の粘液をすべて飲み込んでようやく顔を離し、頬のしずくを指ですくい取って鼻に近づけた。  吐き出されたものをまじまじと確かめるような仕草はあどけなく、なのに淫靡な、快楽の名残に〈強張〉《こわば》りが脈打つようだった。 「いっぱい……出してくれたよ……」 「わたしの口で―――  築宮さんが出してくれちゃった」  汚されたことをなじるどころか、満たされたように優しい声だった。 「――――――」  築宮は声一つ出せずに脱力している。  腿の毛穴が開いて、汗の玉が浮き出していた。そんな築宮に、鼻を押しつけるように腿に顔を滑らせて、子犬を気遣う母犬のように法師は汗の匂いを吸いこむ。 「気持ち―――よかった?」 「よくなかったら……こんなに、  馬鹿みたいに出やしない……」 「でも、吐き出してくれてよかったんだ。  なにも……飲んでくれなくとも」 「え……なんで?」 「だって、築宮さんの〈子種〉《おたね》だもん。  あんたの、一番大切なお汁だよ」 「こんなにたくさんもらえたのに、  吐いちゃうなんて、悪くって、  できっこない」 「――――――」  放出するだけして、後は忌まわしいもののように避けるのは、むしろ男という性の身勝手であり、求めて受けた女にしてみれば、一滴たりとも零したくない愛しいものなのだろうかと、ぼんやり放心する築宮の視界に、法師の顔が現れた。 「あの、おいしいとか、まずいとかじゃなかった……」  なにを言い出したのか、一拍遅れて意味がしみてきて、築宮は喉にごつい芯を詰め込まれたかの衝撃を味わった。  精液は、口の中に消えてしまって見えずとも、間違いなく彼女の体の中に入っていったのだという実感が、とてつもない圧力で押し寄せる。 「はじめは味、なかったのに、  あとから喉にからまって、  とっても濃くって、熱くって……」 「男の人の、築宮さんのいのちが、  そのまんま、出てきたみたい。  こんなの、出しちゃうなんて―――  すごいんだ、男さんって……」  と今になって軽い咳払いと、喉に凝《こご》ったのをまた呑みこむ仕草が生々しすぎる。  上気した額に髪が数本張り付き、瞳はいよいよ濡れて深く、〈凄艶〉《せいえん》といっていいほどの。  ぞくりと戦慄が築宮の胸に走った。  あれだけ激しく射精したのに、その時は魂まで引き抜かれるかと思うくらいの快楽だったのに。  法師の潤みきった眼差しに、築宮はまた情欲が満ちていくのを感じていた。  そして〈強張〉《こわば》りは、満足するどころかいまだ萎《な》えておらず―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。 「え……なに、なにすんのぅ……っ?」 「なにって、さっき君がしてくれた事と、  同じ事だけど―――?」 「え、わたしにも―――ひぃうぅ……っ」  舌先をまた這わせれば、いったんは逸《そ》らすように浮き上がりかけた腰が、でもすぐに降りてしまう。  ……築宮は、さっきまでの体勢を法師とそっくり入れ替えるようにして、彼女の股間に顔を埋めていた。  情欲の滾《たぎ》りは一度くらいの吐精で鎮まるどころか、築宮の雄の器官は法師を求める矢印のように更に硬くいきりたち、そのまま組み敷いて貫いてしまいたいという焦りもあるにはあったけれど、あそこまで自分に尽くしてくれた、彼女への愛しさが勝った。  法師にも、同じ行為で彼女と等分の気持ちを伝えてやりたいという―――  だから築宮は、彼女がしてくれたように口で愛してやろうと、やや窮屈なのを押し殺して長身を折り屈め、秘裂に口づける。 「んぁ……あ……っ、  なに、これ……変な、感じでぇ……」  心を寄せた相手なら、己の秘部を晒すのだって頑《かたく》なに羞じらうものではないのが法師の感性の、それでも普段は風にも当てない部分に生温い舌が触れてくる感覚は、法師を大いに混乱させたらしい。  けれど声には、混乱の中にも甘美に上擦る響きがあった。  よく判らない、でも気持いい、男の人に秘すべきところを舐められてこんな、なのにやめてほしくないもっとしてほしい―――混乱と不思議な心地好さで、頭の中が煮え立つようなのだろう。 「ちゅ……ぅ、れる、ん……ん……っ」 「君のも―――濡れて……熱くなってる」 「だって、わたしだって……ぁぁ、  むね、どきどきして、ぅぁ!?  あ、あっ」  しとどに蜜を帯びて、よく形容されるように花びらとも見えたし、もっと生々しい、何かの口ともとれる、襞と柔肉の複雑な結ばれ。  法師の無毛のそこは、築宮の唾液と、より濃い蜜で濡れてとろけて、男を、雄を狂わせる淫らがましい匂いを漂わせる―――築宮の理性を、融《と》かして夢中にさせる。 「舐めるよ―――?」 「んぅ―――っ」  答えも待たずに、吸いついた。  汚いなんてこれっぽっちも考えなかったのは、彼女が同じように自分を愛してくれたからだろう。  わずかな酸味を帯びた濃い淫蜜を、こそぎ取るように舐め、吸いあげれば、耳を覆いたくなるくらい淫らがましい水音がたちこめる。  舌先がつぷりと、肉のあわいに沈みこんで、法師の体が魚のように跳ね上がる。  誰か通りかからないとも限らない、という危惧はあったけれど、自分の精を呑み下すまでしてくれた、法師の献身が築宮をいつになく〈奔放〉《ほんぽう》にさせていた。  もし見られたなら見られたまでのこと、情を通わせ合った男と女が睦《むつ》み合うのになんの憚《はばか》りがあるだろう、彼女と自分はそういう間柄なのだと知られるのだけのこと、と開き直るように、舌を蠢《うごめ》かせる。  もう、庵《いおり》に戻るその僅かな中断さえも、煩《わずら》わしくなっていたのだ。 「べろ……入ってくる……うぅ、ふぅぅっ」  ひくひくと収縮する、幾重もの襞肉のすぼまり、男を迎え入れるための、入り口。 「吸ったら……そんなに吸ったら……。  めくれちゃうよ、わたしの、あそこ……」 「えぅ……る、ちゅる……っ」  唇をべっとり濡らした蜜を、時折指先でぬぐいながら、口淫を続ける。  自分が感じたのと同じくらい、法師を喜ばせてやりたい。その一心で、舌先を秘裂へ潜らせ、舐めあげ、優しくほじる。 「あぁ……あったかい……」 「……ん―――くふ、あぁぁぁ」 「なに……どうしてぇ……どうして……、わたし、こんな、気持いい……あ、溶けちゃいそう……あそこ」  快楽が強すぎるのか、腰を逃そうとするけれど、築宮はしっかり〈太腿〉《ふともも》を抱えこんでそれを許さない。  秘裂の中にこもっているのは甘く脳をとろけさせるような、女の匂い、普段は浮世離れして、性の情欲とは縁遠そうに見える法師の、法師なのにしっかりと女の匂い。  彼女の蜜の味を感じつつ、強く、弱く舌をつかう。 「ひ、ひぃう……あう……なに、  これ……なんなの……」 「やだぁ……もうやだよう……築宮さん、  おかしくなるぅ…わたしの体、  おかしくなっちゃうから……」 「ふくぅっっ!?」  舌肉の上の方、こりこりと結ばれてる部分に舌を乗せたとたん、法師の声が生々しい艶を帯びて跳ね上がった。  女の体の、快楽の芯をつかまえられて。 「や、や、やぁぁ……だめ、そこだめ、  よすぎ……気持ち、よすぎちゃうからっ」 「許して、あ、あ、あああっ、  ひう、ぅ……っ」  まだ情事に不慣れな法師の体には、淫核への刺激はむしろ強すぎるのだろう。  築宮の腰を強く掴み、〈太腿〉《ふともも》をすぼめて押し返そうと―――いや、引き寄せようとしているのか?  どちらにしても、築宮はやめてやる気などさらさらなかった。 「ん……ん……れる、んぅぅ……っ」  舌先を尖らせ、吸い立てた、  強く強く吸い立てた。  築宮の髪の中に潜らせ、狼狽えたように地肌に爪を立て、はっとすまなそうに手を離したものの、なにかに縋らずにはいられないように、盥《たらい》の縁を掴む。  灸《きゅう》を据えられた子供のように、いや、いやと打ち振られる首、なのに青年の責めは止まらない。 「あ、あぁ……っ、  なにこれ、なんか、くる―――っ、  体ン中から、なんかが―――」  張られた水に、法師の腰から波が立ち、背が逆なりに反《そ》ってはたわめられ、肌には浮いた粟粒は、けれど怖気《おぞけ》からではなくその逆の。  盥《たらい》もまた、体二人分の重みがなければひっくり返ってしまいそうなくらい、箍《たが》が外れたっておかしくないくらいがたついたのに、それでも青年の責めは〈執拗〉《しつよう》を極め、法師を追い立てる。 「え……わかんない、  わたし、わかんないよ、  こんなの―――知らな―――ふぁぁっ」  瞼は固く閉じられ眦《まなじり》に皺《しわ》、歪む眉根は〈苦悶〉《くもん》の相と異ならず、そうなのだ、快楽に喘《あえ》ぐ顔と苦しさにひきつる顔はほとんど同じなのだ。  歪む顔はいよいよ切迫の度合いを増して、唇も切なさに引き結ばれる、それでも青年の唇は秘部から離れようとせず、法師を追い上げる、責めたてる、未知の感覚の極みへと引きずり落とす。  腰の底で何かが蠢《うごめ》いている、  どんどん強くなる、  這い上がってこようとしている、  怖い、判らない、でももっと深く、欲しい。  混乱する感覚、法師は自分の中が、物を考える頭どころか、うねる快感を受け止める神経だけしかなくなったかの不安に、いやこれは不安なのか、期待しているのではないか、ああ、溶ける、崩れる、流れる――― 「ひゅ……はぁぁ……っ」  突き上げてくる感覚を堪えきれず、まるで末期の人のように細い息を吐いて、唇と舌が震えて。 「〜〜〜〜〜っっっ」  声もなく。 ぎゅと、〈太腿〉《ふともも》で築宮の頭を締めつけて―――  強ばる、体。  止まる、息。 「あ〜〜〜っっ」  魂がそのまま息となって体から抜けていったかのような切な声、これまで法師が歌ったどんな声よりも美しい音に、築宮の舌もとうとう動き止んで、彼は法師が絶頂を迎えたのだと気づいたのだった。  ……築宮が法師の脚の付け根から顔を上げたのは、彼女の体ががっくりと弛緩してからで、顔を覗きこんだはいいが、罪悪感に襲われたのが今さらの。  法師は、長い距離を全速で走り抜いた後のように脱力しきっていて、指で軽くついただけでも全身がくずおれてしまうのではないかと危ぶまれるくらい。  うっすら開いた眼差しには、思いがけず蘇生を果たした半死人のような困惑と深い疲労があった。 「いまの、なにぃ……」 「からだが、どっかに流されるみたいで。  鼻の奥で火花がとんで」 「こわかった……。  あんたがそこにいるのかどうかも、  わかんなくなりそうで……」  と、そんな台詞を縺《もつ》れるような舌で呟いて、のろのろと築宮に手を差し延べる、それさえ大儀そうなのを、青年はなんとも微妙な気持ちで握ってやって、盥《たらい》の中に〈胡座〉《あぐら》をかいた。  ……なんと言ってやればよいものやら、だ。 「それは多分……。  俺がその、一番気持ちよくなった時に、  あれが、出るだろう?」 「それと同じ事を、君も味わったんだと思う。もちろん男と女は、体が違うから、全部同じかどうかは、俺には言えないが……」 「そう……でも、すごかった……。  あんなの、今まで、なかったから……」  すると法師は、青年の口愛で初めての絶頂を知ったという事になろうか。  そうと聞かされた時築宮の胸中に湧いたのは、奇妙な誇らしさと達成感だった。  今まで男を知らずにいた体に、こちらもろくに女を知らずにいた自分が、情交の極みに導いてやれたのだ、という。 「すごいんだね……二人でするのって。  こんな、素敵で、よくって」 「あのお手伝いさんが、あんな風になってたのも、なんか、わかるよ……」  ようやく体の自由が戻ってきたのか、法師はのろのろと身を起こし、背を向けると、預けてきたのが青年の〈胡座〉《あぐら》の中、胸の上に。  身も心もすっかり許して、甘えてくる重みが愛おしく、築宮は背後から彼女の胸に腕を回す―――まだ、鼓動は強く脈打っていた。  青年が法師を抱きしめて、しばし垂れた沈黙は、中に深く濃い情味と、そして、更なる〈渇望〉《かつぼう》を潜ませていた。お互いの体への餓え、より激しい快楽を望む心。  二人それぞれが一度ずつ絶頂を味わったけれど、それはそれぞれ一人ずつ。もちろん相手を絶頂に導いた、その喜びはあったけれど、二人の快感を一つに重ねたなら?  そして自分達は、そのやり方を知っているではないか。 「……わたしのお尻に当たってるの、  築宮さんの、だよね……?」 「……ああ」 「まだおっきくて、硬くて、熱いよ……」  これだけ密着していれば隠しようもないし、青年も今さら隠すつもりもない。  法師に口淫を施している間も、そして彼女が絶頂を迎えた後も、彼の男は萎《な》えるどころか、今か今かと待ち侘《わ》びて、軽い鈍痛さえ覚えるくらい。  そして、夜は、まだ長い――― 「ね、しよう、もっと。  今度は、二人でさ」 「わたしもね、たぶんまだ、足りないから」 「俺もだ……」  もう、短く頷き返すだけで後は言葉もない、必要ない。互いの意は通じ合っている。  法師を後から〈抱擁〉《ほうよう》した姿勢のまま、彼女に腰を浮かせてもらって、下から潜りこませるように―――尖端を秘部に押し当てる。  熱く湿った、粘膜の柔らかさは頼りなさを覚えるほど。  こんな繊細な器官を、こんな醜怪なまでに節くれ立った雄の性器で貫き、抉るのだと思う罪悪感と、それに勝る期待と。  尖端が肉のあわいで滑る。  襞肉は感触がないくらいに蜜を帯びて、これならきっと大丈夫だと築宮は喉が焼けつくほどの〈昂奮〉《こうふん》の中で、尖端と法師の入り口の位置を合わせた。  剛直の先に、熱くぬめる粘膜のあてがっただけで、築宮はたまらない〈昂奮〉《こうふん》と快楽の予感を得ている。  腰を押し出し―――ゆっくり。  ゆっくり―――そうっと。 「は、ふ……入って、くるぅ、  ゆっくり……入って……」  まだ法師は挿入には不慣れな体の筈。  なのに一度で位置が合って、なんというのか、こういう行為にも相性というのがあるのだろうかと、築宮はいささか複雑な喜びに囚われた。 「あ……あ……広がるぅ……」  細かく折りたたまれ、きつく絞られた肉の輪を、粘液に助けられて押し広げ、尖端が潜っていく。尖端をざらついた粘膜が擦り、包みこんでいく。  まるで噛みつかれるようなきつい収縮。  ぬるぬる、ずぶずぶと、剛直がかきわけ、秘裂が呑みこみ……。 「くふぅ……ぅ……ぅ」  法師の首筋がこらえるように紅潮していて、汗を帯びた背中にもふるふると細かな震えも走っていて。  なまじゆっくりな挿入では、まだこなれていない法師の苦痛を長引かせるだけかもしれないと、身勝手にそう判断して、一息に、抱えた腰を押し下げ、突き進めた。 「あは……ぅぅっ」  ぬるん、と膣内の角度に合わせて剛直が潜りこんで、法師の背が、びくりと逆弓にのけ反《ぞ》って。  そして築宮は―――全て、法師の中に納まっていた。 「くぅ……熱くて……凄い―――ッ」 「〜〜〜っっ」  法師から、声にならない呻《うめ》き。 「―――もう、あんなに大っきいの、  一息で、入れられちゃったよぅ……」  法師から、なんと受け答えしていいものやら困惑するような、喘《あえ》ぎ声。 「ごめん―――でも君の中、凄い気持ちよくって、途中でとめられなかった……」  とりあえず、正直に白状した。  だってそうなのだ。  剛直全体を包みこむ、ざらついてきつい粘膜が、熱い。  繋がっているのはそこだけなのに、熱い蜜にとっぷり浸かった快感が全身に伝わる。  法師が息をつくたび、内部が収縮し、差しこんでいるだけなのに、なんで女の体の中というのはここまで気持ちいいものなのかと、築宮は舌を巻く思いだった。 「ほんとうに?  ねえ築宮さん、ほんとうに?」 「はあー……はあー……はっ……」  俯《うつむ》けた顔の下から、浅く荒い息づかいが聞こえる。  それで、気後れが蘇る。 「あの、痛いようなら、  やっぱりその、いったん休んで―――」 「あのね……ここでやめようかとか言ったら、わたし、きっと泣いちゃう。  ……さびしくて」 「最後まで、ちゃんとしよう?」 「二人で一緒に、気持ちよくなろう?」 「わたしはその方が、  ずっとずっと嬉しいよ」 「どうしてそんな、君は優しい」  法師の言葉に勇気づけられ、少し引き出せば、茎全体にぬらぬらとまとわりつく、蜜。  そういう、ことなのだ。  たとえどれだけ経験は浅くとも、こうして秘裂は蜜を滲ませ、剛直は貫こうと勃起する。  ある意味貪欲な―――貪欲で、そして、気持いい。こんなに気持ちいいことを、なんで途中で止めようなどと考えたのか、自分の小賢しさが馬鹿馬鹿しくなる。 「築宮さん―――動いて?」 「大丈夫そうかな……?」 「へえき……わたしも―――ふぅぅ―――もっと感じたい」 「この、お腹の中にいっぱいで、熱いのを、もっと」 「ああ……っ」  本当は築宮とて、さっきから動きたくてたまらなかった。  じっとしているだけこれなのに、動いてみればどれだけの心地好さを得られるのかと。  みっしり張りつめた、法師の臀《しり》を手で支えながら、ずるりぬるりと、腰を遣いはじめる。 「くふうっ……あっ、  ……き、つい、よッ……」 「きついの、いいから……して……ッ」 「ああ、もう、やめたりなんか、  俺だってできない。  君の中が……凄くて―――」  突き入れたばかりでは、肉茎に法師の淫蜜がまだ〈馴染〉《なじ》まず、ざらつくようだった律動も、少しずつ滑らかになっていく。  根元寸前まで引き抜いて、突き入れるときの膣孔のきつさ。  法師の膣内壁にそって、剛直が角度を変えるのさえ、根本にぞくぞくする快感となって伝わる。  抽送の内にも、法師の背中やしっとりと濡れて、首筋には後れ毛が絡み、朱を帯びてくねり、目に焼きつくよう。  突きこむたびに、法師は背を逸《そ》らせ、丸めて、髪を振り乱すのが、全て青年の腕の中、もう逃すまいときつく巻きついた腕の中。 「ああん……ああ、は―――してるよぅ」 「築宮さんと……しちゃってるよぅ」  この行為を言葉で何度も確認する。  言葉が快感の彩りとなり、築宮と法師を共に夢中にさせる。 「あんまり、ぁ、ぁくっ、  考えたこと、なかった、けど……」 「わたし、よかった……自分が、女で。  あふ、あぁ……ぁっ」  〈恍惚〉《うっとり》と肩越しに振り返る、その動きが胎内に伝わり、膣道がねじれて剛直を締めつけて、快楽を叩きこむ。 「こうして、あんたと抱き合える、  女でいて、よかったよぉ……っ」  潤ませた目、幸せそうな。  そうだ、女だ、と築宮は法師の言葉に酔ったように、律動を激しくさせる。  こんなに気持ちのいい肉の孔を具《そな》えた、女なんだと築宮は、もう夢中で剛直に絡みつき、まとわりつく快感それだけを貪り続ける。 「はッ……ん、なんか、築宮さんの動くの、  がんがんって、頭まで、響く……」 「いいの、それ、いいからもっと……ッ」 「ふあ……う、ふぅ……っ」 (……え……なんだ、これ……?)  二人が情交にすっかりのめりこんでいて、ここがどこなのか、今がいつなのか、それすら忘れかけていた時だった。  法師の肌から―――  はじめは築宮も錯覚かと思ったのだ。 「……君の……肌から……?」 「ん……どうしたの……?  ……ぅ、く、ぁぁ……」  気づいていないのか、法師自身は?  自分の肌が、得も言われぬ芳香を漂わせはじめた事に。  思えば初めての夜も同じだった。あの時は、衣に焚《た》きしめた香の匂いが肌に残っているのかと、深くは考えなかったのだが、こうしてみると明らかに違う。  そもそも二人は始めに水を浴び、汗も匂いも流した後ではないか。  なのに築宮に貫かれ、薄く汗を帯び、覚え始めた快楽に喘《あえ》ぎながら法師は、肌を香らせているのだった。 「いや……いい。ただ――――」  庵《いおり》から漏れてくる〈行燈〉《あんどん》の明かり、あちこちの座敷に点された遠い灯りで、水滴を帯びた裸身は銀に煌《きら》めき、それ自身が天の川のように光の粒をまとい輝く。 「ん、あっ、……なぁに?  ふ、くぅ、……わたし、なんか……変?」  築宮は放心したように法師の肌の匂いを吸いこんだ。奇妙と言えば奇妙なのに、築宮はこの時不気味とはまったく感じなかったばかりか、香りと、法師の体を貪る快に酔いしれていたのだ。 「ただ―――良い匂いがするんだ、  君の身体は」  心からそう思った。  男に貫かれ、高ぶって、濡れて、法師の肌は香気を孕《はら》む。  それは女の匂い、肉の匂いというのではなく、古く〈絶佳〉《ぜっか》の香木の、海を越え遙かな隊商路を思わせる、そんな香気であり、何故法師から立ちのぼるのか不思議ではあったけれど、だからといって彼女の体を突き放すつもりになるはずもない。  法師の体が、快楽に乱れた、その事を証立てるかのようで、築宮はますますその香りが欲しくなる。  肌の内側に潜ませた彼女の生気を、彼女と自分の熱と二人の快感でもって、昇華させたもののようで――― 「ああ、そうなんだ……。  わたしの体、やっぱり―――  匂い、たつんだね……」  情事の〈睦言〉《むつごと》にしては、あまりに放心した築宮の賛嘆の言葉に、法師は我に返って自分の乳房を確かめるように見下ろして、少し不安そうに訊ねた。 「こんなの、いや?  匂いが鼻について、  抱くの、いや?」 「まさか……いい匂いだって、  言ってるだろう……?」  言葉に偽りなく、築宮にはただ美しい香りとしか感じられなかった。  香の匂いを枕にして褥を共にするといって、なんの古典文学の世界かというところだが、だからといって彼女との交わりを妨げるものではない。  だから、こんな時にはいっそそぐわないくらいの真剣な声で、そう繰り返した。  繰り返して、抽送を再開する。  前にも増した激しさと、深さと〈執拗〉《しつよう》さで。 「いい匂いで、かえってとまらなくなりそうなんだから……ほら……っ」 「う、くぅ……っ、  ……ちょ、あ、そんな急に……っ」  その動きがいきなりで、法師は悲鳴じみた喘《あえ》ぎを〈爪弾〉《つまび》きだしたが、築宮は構わず穿《うが》ち続けた。 「だめだ、これ、もう、とめられない…っ」  腰が動きが加速していく。なかば自動的に。  吸いこまれるみたいに、法師の子宮口目がけて、何度も、何度も突き入れる、引きだす、また突き入れる。  ぽたぽたと、法師の背中に築宮から汗が滴り落ちて、点々と濡らす。 「あん―――築宮さんの汗、落ちてきてる。  ……ん、く……混ぜて、  わたしの匂いと混ぜて―――っ」  熱い、体中が熱い。 「はあっ、あっ……あんッ……!」 「好き―――好きだよう、  あんたが好きぃ……っ」  築宮の熱が伝わったみたいに、法師の声音が熱かった。  熱くて、濡れた、女の声だった。  法師の快感に呼応してか、肌にまとう香りが先ほどより強くなっている、二人が繋がる暗がりの密度を甘く濃くして、香っている。 「ふぁぁ……んん…」  こんなに、蹂躙するような激しい動きなのに、法師の腰もいつしか築宮に応えてうねりだしていた。  そうすると、築宮の予想外の角度で肉襞が尖端を擦りあげ、それがまた新たな快楽の波となって押し寄せる。  ぬちゅぬちゅと立ちのぼる、蜜と築宮の先走りの絡み合う音が、粘ついて―――淫らに弾ける。  法師の臀《しり》の円《まる》みと、築宮の〈鼠径部〉《そけいぶ》が当たるたび、押し出された蜜が、お互いの〈内腿〉《うちもも》まで濡らし、波打つ水に洗われ、溶けていく。 「はッ……ぅ……っ」  法師の背筋が撓《たわ》み、引き延ばされるのが艶めかしい。  くなくなと動く腰は、内部の動きもさりながら、そのうごめきだけで築宮の〈昂奮〉《こうふん》を深めていく、快感を高めていく。  押しこむに腰に力が入る。  法師の中の剛直が――― 「きゃぁッ……んッ……!!」 「いま、みりって―――なかで」  築宮は自分でも、剛直の容量が増したような気がした。  今でもぎちぎちにきつい法師の膣内をさらに、押し広げて。男にとっては、きつくなればなるほど快楽が増すものとはいえ、法師にはいかばかりな衝撃か。 「……ッ」  快感に、目の後ろ側がばちばちと火花が散る、しかしまだ、と青年は歯を食いしばって、耐える。 「いっぱい……いっぱいだねぇ……」  か細い声で、それでも合わせてくれる法師の腰の動きに、青年の意識はたやすく持っていかれそう。 「わたしの奥、抉って、もっと―――」  尖端にこつりこつりと、固めの感触で応える子宮口。  法師の体、女の体の本能が、精を求めて子宮口の位置を浅くしているのか。  こりこりとした弾力を突くたびに、法師は頭を打ち振り、それを追って髪の緒が軌跡を描き、膣内も築宮を吸いこむように貪欲に〈蠕動〉《ぜんどう》して―――  もう、たまらなかった。  腰の奥から尖端に向かって、こみあげてくる快楽の塊。 「また俺……限界が……っ」 「なら、中―――ね。  わたしの中でないと、やだよ……ぅ…っ」 「いいのか、本当に……っ」 「だって中じゃないと、  感じられない、あんたに抱かれたって、  その気になれない、だからぁ……」  〈真摯〉《しんし》な声音。法師は本気だった。 「こ、この……っ、  そんな事言われたら……っ」  凶暴な衝動が、築宮の喉を突き上げる。  法師の腰を思いきり引き寄せる。  もうどうにでもなれと思った。  これは、もともとが女の胎内に精を植えつける行為、それを今さらどうごまかしても、しかたない事だろう。 「―――っくぅぅっっ」  ぎりぎりまで我慢して、息まで止めて。  視界がふぅっと霞《かす》んで、法師の背中しか見えなくなる。  その体の中で―――  ―――噴き上がる、熱い迸《ほとばし》り。 「う、あ―――!」 「びゅくびゅく……って―――  出してる―――出してくれてる―――  わたしの中に―――」  体の中身が濃い液体と化し、全て撃ち出されていくような、そんな射精感。 「あ、あ、わたし、また……っ?  出してもらって、わたし、また―――」 「さっきみたいに……なるぅ……っ」  どく、と最初の放出と同時に、法師の襞が暴れ出し、締めつけ、精液を吸い寄せようと蠢《うごめ》きはじめる。  精をしたたかに浴びて、法師もまた絶頂に押し上げられていた。  膝の裏ががくがく〈痙攣〉《けいれん》するくらいの強烈なぞよめきに、射精は果てしなかった。  法師の髪が、絶頂の〈痙攣〉《けいれん》にざわりとそよぐ。  全身が帯電したように反応していた。  香りもぱっと弾け、二人を包む。  その香りで、彼女に精を流しこむ快楽が際限なしに強まるような。  魂まで精とともに法師の最奥に注がれていくような、想像を超えた快楽。  エロスとタナトスは表裏一体とも言う。  築宮はこの時、自分の分身を女の胎内に撃ちだしながら、あまりに深い快感に、死の水面とも向き合っていたのだろう。 「はぁ……あったかいよ……、  なか、ぬるぬるがひろがって、  あったかい……」  香りに包まれて法師は、性の絶頂に酔いしれながら、肉の腥《なまぐさ》さなど微塵も感じさせない、どこか清浄な表情をたたえていた。  まるで古いステンドグラスの聖女、あるいは古い神社の扁額《へんがく》の女神のようで、築宮が感じていた絶頂の愉悦は、宗教的な法悦にも通じていたかもしれない―――  幸いにしてというのか、二人が睦《むつ》み合っている間には通りすぎる者もなく、脅かすような〈蝙蝠〉《こうもり》の羽ばたきもなく、事が終わってやや冷静を取り戻した築宮は、慌てて自分と法師の身繕いをしようとした。  が、二人の肌は汗まみれ、ばかりか夢中で這わせた舌で唾《つばき》にもぬめるし、法師の秘裂からはとめどもなく白濁の戻りが滴り落ちる。  これで庵《いおり》に戻ったなら、情事の名残をあの侘《わ》びた住まいに持ち帰るだけ、それではまた不穏な気分を催す事にもなりかねないと、盥《たらい》に水を張り直して行水再度。  情交に体力を使い果たしたお陰で、水を汲んだ手桶が、また重たかった事。  それでも心地よい疲労とはこれで、庵《いおり》に戻ってから二人に行き交う言葉は少なかったが、満たされた気持ちで築宮は、ぽふぽふと、法師の肩を〈白粉〉《おしろい》はたきで軽くはたけば、細かな粒子が〈行燈〉《あんどん》の明かりの中に舞って、甘い香りも漂って。  一昔前の湯上がりのくつろぎの情景を脳裏に懐かしく描きだすような(といっても青年の記憶が蘇ったわけではないのだが)、この細かな粉は、〈天花粉〉《てんかふん》というやつなのだった。 「あっは、さらさらって、気持いいなァ」  粉が床に散らないように風呂敷の色褪《あ》せたのを敷いた上で、裸の肩をさも快さげな吐息で下ろした心地は、青年も味わったばかりだからよく判る。  先ほど法師に背中、肩と言わず、汗を残した肌一面にまぶしてもらったばかりで、今度は替わり番で築宮がはたいてやっているというわけだった。 「しかし……物が少ないのに、こういうのは置いてあるのか……少し不思議な気持ちがしないでもない、かな」  白い粉を詰めたのはブリキ造りの懐かしげな缶だが、脱衣場に置いてあるならまだしも庵《いおり》にはいささか場違いで、咎めるというより不思議そうに問うたのに、法師は思い出すように目を細め、 「それねえ、もらったんだよ。  何時かの日、お手伝いさんのお用事、  替わったげた事があって」 「そのお礼って、さ。  汗かいた後、水浴びた後、いつもじゃないけど、大事に使ってるんだ」  なるほど、得心がいったのは、築宮もまた同様に彼女達の用事を肩代わりした事があったからである。  彼の時と法師の時のお手伝いさんが同じ者かどうかは定かならず、それでも彼女達の中には適当にさぼりかつ息抜きしつつ、この巨大な旅籠での仕事をこなしているちゃっかり屋がいるらしいと窺われた。 「俺も彼女達の用足しを替わってやった事があったっけ……」 「ああそういや、その途中で初めて君と会ったんだ。あの、温室で」 「そうなんだ……ひや……っ」  しまいに耳の後、項《うなじ》に薄く刷《は》いて、余ったのを息で飛ばせば法師はくすぐったげに身じろぎの、粉と一緒に香りも散ったが、中にはあの法師の肌そのものの匂いも入り交じる。  情交の熱もひとまず鎮まって、香気も薄れたが、それでもまだ物の弾みで匂いが立つ。  この床《ゆか》しい匂いが、香炉や匂い袋に残されているのであれば築宮もさまで不審を抱くものではなかったが、人の肌から生ずるとあれば、それにはなんらかの由来もあろうと訝《いぶか》しむのも無理はない。  思うに築宮が、彼女の〈直垂〉《ひたたれ》の衣に時折聴いていたのと同じ匂いで、彼は布に焚《た》き籠めているのだろう深く詮索しなかったのだけれど、考えてみれば燻ずる香を持ち合わせるような法師の暮らし向きではない。  差し支えなければだが、と前置きして、築宮がその子細を訊ねると、法師は風呂敷を土間にはたきながら、思案げに首を傾げたから、言いづらい事に触れたかと悔やんだけれど、そうではないのらしい。  彼女にとっては、魚が何故鱗を生やしているのか、猫に何故肉の掌《てのひら》があるのか問うのと同じだったようで、かえって言葉を探しあぐねた風だった。 「なんで……って言われても。  この匂いね、わたし達の仲間には、  時々そういうの、出すのがあるの」 「わたしも、そうみたい」  ……たとえばとある砂漠の国では、女児が生まれると〈薔薇香〉《ばらこう》を削って拵《こしら》えた珠を、はじめはおしゃぶり代わりに含ませ、長ずるに従い頭髪以外の体毛を剃り、舌下に留まらず〈腋下〉《えきか》に果ては膣の中に常時収め、その息その肌に香りを養うという伝統があるという。  ただこれにしたところで後天的な訓育であり、法師の言も実際の彼女の肌も、その香りは自ずと生ずるものである事を示している。  ただ世界には様々の人種のあり、旧〈阿蘭陀〉《オランダ》領東印度(今の地図ならインドネシアと記される)はスマトラなる島にては、オラン・ペンデクなる矮人種族があって、彼らは皆一様に額に〈薔薇〉《ばら》型の痣《あざ》を帯びるとか。  花の形を肌に乗せる種族のあるなら、香気をまとう民族だってあるのではないかと、築宮はなんとのう、〈弦月〉《ゆみはりづき》を乗せた砂丘の稜線と、腹の両脇に異国の特産を積み上げ進む、〈駱駝〉《らくだ》の隊列を瞼に描きつ、法師の語るところを聞いたのだった。  そういえば彼女は、異国の産だというではないか。  それ以上つぶさな描写もなく、また築宮も根も葉も掘らずにいたから、この話題はこれきりと思っていると、法師は青年の隣にちょんと収まって、〈羅衣〉《うすもの》を肩に通し直して、 「そういや、この匂いがいいって、  仲間を連れてく人たちも、あったっけ。  わざわざ、海の向こうまで、さ」 「……なんだって?」  と異国情緒の話がなにやら人身売買めいた穏やかならざる気配を帯び始め、築宮は半信半疑で訊き返した。 「らんなんとか……ってあだ名つけられて、  とってもとっても大事にされたって、  そんな仲間の話も聞いたことある」 「……なんか、おもしろいよね」 「それは、面白いで片づけていい話なのか?」  どちらかといえば〈同胞〉《はらから》の苦難の歴史だろうに、法師は洋行談でも聞いたような口ぶりだったから、築宮もそれ以上は敢えて詳《つまび》らかにしようとはせず。  それらを悲哀か〈滑稽〉《こっけい》なのか判ずるより先に、腕に降りた重みに、柔らかで暖かなのに、築宮の心は傾いた。  法師が甘えて、腕に寄り添って、安んじた微笑みに頬を寄せて。  情事でとろとろに溶け合った後では、いじましいほど慎ましやかな触れ合いなのに、心が安らぐことなんら劣るところはない。  じっと見上げる顎《おとがい》に火灯りが揺れて、静かな満ち潮のように情愛が通う。 「なんか、食べる……?」 「いや……腹は、それほど減ってないかな。  それより、少し横になりたい気分です」  柔らかな繭の中にくるまれたような安らぎに、激しい交わりした後の倦怠が心地よい眠気をもたらして、青年はそのまま身を任せたくなったのである。 「わたしも、ちょっと眠たいよ。  まだそんなに晩くないけど、  すこぅし眠る?」 「ああ……そうしたい」 「なら築宮さん、  今晩は……泊まってって欲しいな……」  彼女の願いを断る由《よし》もなく、勧められるままに頷けば、また見ている方が、闇夜の果てに暖かな人家の灯りに出会ったかの豊穣な笑みを満面に。  いそいそと引き出した、布団は例の薄い〈煎餅〉《せんべい》まがいの粗末なのだったけれど、築宮にはどんな豪奢な寝具よりも素晴らしい寝心地になるのは判っていた。 「もし、夜中に目がさめて、  お腹が減ってたら、  ご飯は、その時にしよ」 「……なんか、とっても楽しいな。  築宮さんといっしょ。  いっしょに眠って、食べて―――」  身を横たえる、築宮が薄い布団の片側に寄ったのも既に暗黙の了解が出来上がっていたから、同居人を慕う猫の身のこなしでするりと潜りこんできて、法師は青年の肩口に鼻先を埋めた、その満たされて、幸せそうな、溜め息が消えないうちにも眠気は足早に訪れる。 「……こら」  しかし眠りに落ちいる前、築宮がたしなめたのは、眠気に仄《ほの》かな温みを孕《はら》んだ、彼の股ぐらに差しこまれた、そろそろと探るようなくせして欲張りな手があったから。  法師は青年の肩に目頭を押し当てたままだったけれど、ぴくりと腕が脈打って、鼻先に微かに弾む息が通って、けれど指は、お気に入りを逃すまいとするかのように青年のモノに被さって離れようとしない。 「……俺は、逃げないから」  窘《たしな》めるというより苦笑いで約束するように言い聞かせたものの、法師の手をそのままにしたのは、眠気がどうしても抑えがたくなってきたのもあるし、聞こえるか聞こえないかの幽かな呟きが、暖かな息とともに耳元へ届いたからだった。 「ありがと―――  わたしといっしょに、いてくれて」  二人が屋根に上がった午後と、日を違えたが負けず劣らず好天の、〈木漏れ陽〉《こもれび》に顔へ斑《ふ》を置いて、天窓を仰ぐ形で座す法師である。  熱帯、とまではいかずとも、温度を封じこめる閉め切りの、広い室内の底には温気と草のいきれと花の香が、薄い粥《かゆ》のように溜まっている。慣れない者ならうっかりすると、〈酒精〉《しゅせい》に軽く酔ったのにも似た〈酩酊感〉《めいていかん》を覚えるだろう。  しかしここで日を過ごす事多い法師は、温室の生温く濃い空気にも馴染《なじ》みきって、天窓から空を眺めたまま、それこそ樹々の〈葉群〉《はむら》が気孔を開くように、小鼻を軽く膨らませ深呼吸した。  と、目を閉じて、何かを聴き分けようと耳を澄ませてしばし、遠くで幽かに、本当に幽かに、針が落ちたほどの音を聴きとることができたのは、温室を沈黙が満たしていたせいもあろうし、なにより法師が待ち侘《わ》びていたからだろう。  つと立ち上がって小鳥のように小走りに入口まで、廊下に首を突き出せば、外の空気は頬にひんやり、けれど法師の期待に逸《はや》る胸を冷ましたのは、温度差ではなく落胆の、こちらに向かってくる人影のせい。  廊下の向こうから通りかかったのは、用足しの途中らしい、いかにもありふれた(と言っては彼女には失礼だろうが)お手伝いさんだったので。  といってこのお手伝いさんが実はお手伝いさんでなく、某国は貴族お抱えの鷹匠の娘なのだが、国元は革命の血風吹き荒れている真っ最中の、〈断頭台〉《ギロチン》の露と消えるところを危うく逃れ、世継ぎの若君と二人きりで旅籠に身分を隠して潜伏中、今も年若な主のために変装し、台所方から〈麺麭〉《パン》と〈葡萄酒〉《ワイン》をくすねてきたところ……などという秘められたドラマがもしあったとしても、法師の関心を惹いたかどうか。  もう言うまでもない事だが、法師が待ち侘《わ》びているのは築宮青年である。  温室に上がってきたものの、何するでもなく耳をそばだて、廊下に〈跫音〉《あしおと》が聞こえる度にいそいそと覗きに行ってはその都度がっかりすること、一度や二度でない。  三度目の正直とも言う、二度ある事は三度あるとも言う、しかしこうして法師が廊下の物音に〈茣蓙〉《ござ》から立ち上がったのは、もう四回目に及ぶ。  女にこれだけ待ち侘《わ》びをさせていまだ〈跫音〉《あしおと》させ聴かせぬとは、築宮青年も随分と焦らす〈手管〉《てくだ》を身につけたものだ、と詰《なじ》るものでない。そもそも今日ここで逢おうと約束を交わしたわけではないのだ。  ただ法師が一人気を揉み、座ったり立ったりで青年の来訪を期待しているだけの、可愛らしいと言えば言えるが、どうにも現実的とは言い難い。  法師は決まり悪げに会釈し、お手伝いさんは不思議そうに礼を返して通りすぎる。見送る法師のなんとも詰まらなさそうな。  温室に戻る背中の〈項垂〉《うなだ》れて、袴の裾を捌《さば》くのだって景気悪く、〈茣蓙〉《ござ》に座って膝を抱えこんだのが、待てを言われたまま主がどこかに出かけてしまった犬のような。  が、長くはいじけず、気を取り直すのが早かった。  これまでは、築宮と出会う前は、例の「お話を聞かせて下さい」の板書きのみをお供として、来る日も来る日も一人座っていた法師。  温室は暖かな空気は人工の、〈佐保〉《さほ》の姫が春を告げに〈音連〉《おとづ》れる事はなく、〈竜田〉《たった》の姫が秋をもたらす事もなかったけれど、それでも花はほころび実は結ばれるので、過ぎゆく時の長さは計られる。  そして言葉をかけるような来訪者もなく過ぎゆく時を淡々と受け止めるしか知らず、いつしか一人を当たり前と思い為すようになっていた法師は、だから築宮がやってきたあの時は、本当に―――そう、心の底から嬉しかったのだ。  そんな青年と話ができて、そればかりか何度も逢えて、ついには肌を重ねて情も通い合わせた。  待つ時間は彼を知る以前よりずっと長く、心がざわめくけれど、それでも待つ人があるというのは、どれくらい幸せな事だろう。 (築宮さんは、いろんなことを、  わたしに教えてくれたね……) (……もっと、もっと。  あんたのことが知りたいし、  たくさん抱き合いたいな……)  望みは秘やかな喜びに満ちて、そして想う相手がいるという幸せに、法師は童女のような微笑みを唇に乗せて、琵琶を膝に抱える。  これまで誰かを想って奏ずる事は知らず、ただ無心に旋律を連ねていた自分だけれど、築宮青年の面影を胸に抱いて弾く琵琶は、さてどんな音色を鳴らし出すものかと心ときめかせて、撥を当てた。  ―――温室に満ちた花の匂いの空気に、〈嫋々〉《じょうじょう》とした音が溶けていく―――  と、幾つかの節を奏でるうちに、撥を遣う手が鈍りがちになり、やがて一音を弾いて止まってしまったのだが、その音がどうにも冴えずに間延びして。  もともと緩慢な曲調だったのかと思われなくもないのだが、膝の中の琵琶を見下ろした、法師の眉が不審げに潜められているところを見ると、彼女自身納得のいかない調子だったらしい。  実際、批評家の音感を持った者が聴いていたなら、かなりの辛口な評価を下すであろうの、そんな演奏だったのだ。  ―――こと、琵琶を奏ずる事にかけては、神がかった〈業前〉《わざまえ》を有する法師が、である。  彼女もまた、絃の調律が甘かったのかと締め直してみたり、琵琶の胴に耳押し当てて歪みがないかを確かめてみたりしてから、また改めて弾き出してみたのだけれど。  調べは長く続かず、撥持つ手は膝の横に垂れて、首を傾げた、何度も傾げた。  唇が呟いたのも、曲に会わせた詞ではなく、 「なんか……変だ……」 「聴こえなく、なってる……?」  という、いささか奇妙な困惑の言葉。  だが何が聴こえないというのだろう。  己の演奏を不満に思うくらいだから、琵琶の音が聞こえないという筈はなく、今だって温室のどこかで、風船状の蕾が弾けた微かな音も、幹から染み出す樹液を争う二匹の甲虫が、硬い〈鞘翅〉《さやばね》を軋らせるのも、法師の耳には届いている。  なのに法師は聴こえないともう一度呟いて、曇らせた眼差しは不安の色。  結局この午後温室に、それ以上琵琶の音が奏でられる事はなく、法師は一人、いつになく物想わしげな風情で座りつづけるのみ。  この二日ばかりというもの、築宮青年は法師の庵《いおり》にも温室にも無沙汰をしていたのだが、別段彼女に飽きたとか鬱陶しくなったとかいう情け知らずな心境の変化を迎えたわけでなく、少々病みついて、床で養生を厳命されたと、そういう事情によっている。  もちろんこの旅籠に着いてからたえて無かった不調であり、築宮自身は以前の記憶は知らぬながらも、体だけは病知らずの元気者のように自分を見なしていたから、その朝起きた時も、肩口がうそ寒いようなそのくせ額は熱いような、そして目の前に薄い〈紗幕〉《ヴェール》でも掛けられたように頭がぼんやりしているのがなんとも奇妙で不安定な心地で、一体我が身に何が起こっているのかと〈怪訝〉《けげん》に思ったくらいなのだ。  そこへ布団を下げに来たお手伝いさんが、彼の顔を見るなり「わあ大変」の〈頓狂〉《とんきょう》な悲鳴を弾けさせてからが騒々しかった。 「お客さん、具合が悪いんじゃないですかううんきっと悪いんだだってこんなにっ」  まるで畳一面に築宮の健康を害した病の虫が潜みおり、それを踏み散らかすかの勢いでずかずかと座敷を横切るや、半身を起こした青年の額に額を押し当てた。  と面食らううちにもひんやりきたのは、ただ寝起きの熱が残っているだろうと築宮には思われたのだが、やにわお手伝いさんの顔色が変わる。 「ほらやっぱり熱があるっ。  お湯だって沸かせそうなくらいですよ!」  決まり文句に噴き出す間もなく肩を押されて枕にねじ伏せられ、じっと大人しくしているようにの厳命一下、走って風を巻いて同僚を引き連れ戻ってきた時にはまだ、築宮の耳にさっきの彼女の声が谺《こだま》していたくらいで。  さて連れてこられたのは医術の心得のあるお手伝いさんらしく(ここまでくるとお手伝いさんといっていいものか怪しいが)、築宮の寝間着をはだけて聴診器の冷たいのを押し当てるわ、瞼を引ン剥いて白目を見るわ舌に圧子を差しこむわの一通り、青年がまだ状況についていけないでいるうちに、下した見立てというのが、 「特にどこが悪いっていうのじゃないが。  ……疲労が溜まっているみたいだな」 「体がずいぶんと消耗している。  ここ何日かの間、そんなに疲れるような事でも、したのかね?」  〈鹿爪〉《しかつめ》らしい口調でそんな事を告げてきたのには、築宮つい噴き出しそうになったが、お医者役のお手伝いさんは真剣そのもの問いかけで、はて自分はそこまで体を酷使するような事などしたか知らんと、ざっと思い返した途端に赤面してしまった。  もとから顔は熱ばんで赤らみ、気づかれずに済んだものの。  なにかといえばなにかで、法師の庵《いおり》に泊まった一夜の事くらいしか思い浮かばない。  あの夜はいったん眠りについたはいいが、まだ宵のうちに寝入ってしまったせいで二人とも夜半に目覚め、〈行燈〉《あんどん》の灯心が燃えつきていたのを暗闇に手探りに差し直す、法師の四つ這いの後ろ腰の円みに誘われるともなく誘われた、つい手が伸びて、触れたのに法師は一度身をわななかせたが拒むのでない、声は甘くて見返した眸も濡れていて、身を擦り寄せたのはどちらが先が判らない。  そのまま夜が白むまで幾たびも、情の潮は満ちては退いてまた満ちた。  いくらなんでも盛り過ぎだと自省に頭をかきむしったけれど、青年の傍らで満たされきった寝顔の法師の、あどけない寝息を聴けば自然に頬がほころぶ、今だって思い出せば口元が緩む―――のを慌てて引き締めて、白ばっくれてみたのも、まあ無理はないだろう。 「いや……特に心当たりは、ありません」 「そうか? でも、暫《しばら》くは安静にして、部屋から出ずに養生する事」 「さもないと、どんな大病を呼びこむか知れたものではないからね」  かく言いつけられたのには、なにを大仰なと反論しそうになった、その言葉の枕を抑えるように、聴診器を首にぶら下げたお手伝いさんは、築宮の胸の一点をつつく。 「いいから。大人しくしていなさい。  君が病気になったと聞いたら、哀しむ相手もいるんだろう?」  見透かしたようなと、ぎくりと見下ろせばお手伝いさんが示した指の先、青年の肌えにぽつんと虫に喰われたような赤い痕。一つだけではなく点々と散って、なにが虫喰われどころか、法師の唇の痕なので。  気づくにしても遅まきで、唇の印どころか爪を立てた跡さえも入り交じり、肌の上はなんの市場の足跡か、と言う有り様の。  どうやらお医者役の彼女は気づいていながら見ぬふりの、それくらいの思い遣りはあったのだろう。  ただこれで築宮は、疚《やま》しさにそれ以上言い返せなくなり、結局言いつけに従いこの日と翌日を床で過ごす事になったのだった―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……大体、いくら夢中になって耽《ふけ》ってしまったからといって、一夜の交わりでここまで消耗するものかと、訝《いぶか》しみはしたものの。  体の衰えたのにはよく食べて眠る事が肝要との〈診立〉《みた》てには従うしかない。  しかし床の中で無為に過ごす時間は退屈極まりなく、座敷の調度に刻まれた傷の由来を想像するのも、天井の木目を地図に見立てて空想の国を旅するのもすぐに飽きた。  心のどこかで、法師が見舞いに来てくれたならと願わないでもなかったけれど、もとより彼女が青年が床に伏している事を知る由《よし》もないだろうし、それに、大した病でもないのに大いに不安がり、今にも棺桶に移されるのではないかと慌てふためき、半泣きを通り越して本泣きになるのではないかと察せられ、ならばいっそ知られずにいた方がいいと思い直した。 (ちなみに同時刻の法師は、温室で立ったり座ったりして築宮の来訪を待ち望んでいた頃であった訳だが)  後は本当に眠る他はないにしても、それだって限度があり、仕方なく築宮は、お医者役の彼女が置いていった眠り薬に手を出した。  薬が回って、心の活動が急速に低下していくような不自然な眠気を、退屈を忘れさせてくれるならと受け入れて意識を手放した、その眠りの中で築宮は。  ……。  …………。  ………………。 『私は、お前にその意志があるのなら、  続けてもかまわないと、  そう言っているつもりなのだけど』 『清修、その道理が判らないお前では、ないはずよ』  違う―――! いや、違ってはいないんだろう、きっとあなたの言う事は正しいんです。  そうだ、あなたはいつだって正しい。  でもそれが、俺には―――!  ―――言い争う、声が聞こえている。  いや、言い争いにもなりはしない。一方が一方に、母親の正論に噛みつく聞き分けのない子供よろしく、筋道の立たない不満をぶつけているだけだ。  そして一方は、容易には突き崩されない城塞のような辛抱強さでだだを受け止め、また言い聞かせる。 『声を荒立てるのは止めなさい。  でもそれで、お前の気持ちが判る。  お前は本心から望んで、  あそこに通っているわけじゃない』 『だったらそれは、お前の為にはならない』  それでも―――と、窘《たしな》められてなお声を張り上げたのは、ああ自分なのだ。  激した感情を持て余し、正座の膝に拳を震わせていたのだ。 『大体、あそこに通うよう奨めてくれたのは、あなたじゃないか。  なのに何故今になって急に!』 『それは、清修が、放課後の時間を持て余していたようだったから』 『でも今、清修、お前は私と一緒の家にいたくないって言う一心で、お寺に通っている』 『お前が私を疎《うと》ましく思うのは、それは仕方ないけれど』 『でもその為に通うのは、お前に教えてくれているご住職に申し訳ないと、そう思わなくって?』 『……そんな事は……っ』  ないと言い返そうとして最後まで言葉にならず、ただ〈憤懣〉《ふんまん》ばかりが膨れあがったのは、まさしく図星を衝かれたからに他ならない。  それでもその時の築宮は、彼なりに真剣な気持ちで寺での手習いに、墨と筆とで書き記す道、書道に打ちこんでいると思ったのだ。  老境の住職の指導は口数少なく、けれどその落ち着きが彼にはかえって好ましく、教室代わりの〈閑寂〉《かんじゃく》な〈宿坊〉《しゅくぼう》の〈文机〉《ふづくえ》で墨を磨り、真白な半紙に筆を下ろす緊張感は身を浄められるようだった。  一筆は一期一会で書き直しはきかず、築宮自身恥じ入り、半紙をくしゃくしゃに丸めて呑みこんでしまいたいくらいの書き上がりを、しかし住職はくだくだしい批評は入れず、ただ倦《う》まず弛《たゆ》まず励むようにと促《うなが》した、その穏やかな仏相があったからこそ、続けてこられたのだろう。  それなのに、やがて住職は首を横に振るようになった。  築宮自身がようやく満足に整った字画を表せるようになったと納得できるようになった頃で、その理由を問うても始めは住職の口は貝と開かず、〈執拗〉《しつよう》に食い下がって得られたのが、  ―――満足しないように―――  との一言、それのみ。  かくして築宮の手探りの日々がまた始まったのだが、それでも彼は寺に通い宿坊に籠もり続けた。  彼自身はその日々を、ただ書道に〈真摯〉《しんし》に打ちこんでいるものと信じようとしたけれど、そこに反撥はなかったと言い切れるだろうか。逃避ではなかったと胸を張れるだろうか。  こうして言い争っている相手と一緒にいたくない、逃れたいという心はなかったのか。 『あの方は、穏和で寛容な方だけれど、だからといって、それに甘えっぱなしになっていいという法はないわ』  それに、そもそも住職は、なるほど筆の達者の人ではあったが、表立って教室を開いているわけではなく、この人が知己であった故に築宮の指導を引き受けてくれていたのだ。 『もう一度、よく考えなさい。  お前自身が続けたいのかどうか』 『その事は置くとしても、受験が近い。  今のところ、成績は保っているようだけれど……』 『もし下がった時、言い訳にされては、ご住職だって面目が立たないでしょう』 『あ……あなたは……っ。  いつだって正しいんだ。  けれど―――!』  唇は悔しさに震え、鼻の奥がきな臭くなり、なのに言い返せない築宮、なにからなにまでが正論で固められ、殆どドグマと、反論する隙のない教条と化した、諭す言葉に俯《うつむ》くのみの築宮。  気づいてしまった、思い出してしまったのだ、自分は。  痛烈なまでの苦さを噛みしめる。たとえ逃避であろうと、ひたすらに打ちこめるたならまだ続けられたろう。  けれどそもそもは、その寺に通うよう奨めてきたのは、誰だったのか。  逃げ出したいと疎《うと》むその人ではないか、他ならぬその人ではないか。  どれだけ〈足掻〉《あがい》いてみせたところで、終わりにはその人の指先が檻のように降りていて築宮を囲い込む。逃避しているつもりが、その逃げ道さえも用意されたものであり―――  築宮は、そうして絶望した。それが初めてではなかった。  絶望の苦さ、挫折の情けなさをどれだけこうして味わった事だろう。自分は結局、何一つこの人の思惑から逃れられないでいる。 『―――さん! 待ってくれ―――』  それでも呼びかけずにはいられず、言葉など無駄とわかっていたから、せめてその人の袖《そで》に絡もうと伸ばした手は―――  ………………。  …………。  ……。 「―――さん!」  差し延べた手を受け止められた瞬間、築宮は断崖絶壁から飛び降りたかの恐怖に絶叫し損ねた。  布団の端からはみ出た足が僅かな段差で床に落ちたのが、夢現《ゆめうつつ》では途方もない高さから落ちたように感じられるのと同じ式である。 「どうした、悪夢でも見たか」  ぎょっと布団をはね除け身を起こせば、枕元で投げ出した手を受け止めていたのは、例のお医者役のお手伝いさんの、どうやら築宮の具合を看に往診に訪れてきたらしい。 「いや……悪夢ってほどじゃ……ないです。  ただ昔の―――」  傍にいたのが夢で〈口迅〉《くちど》に言い争った相手ではなかったのに安心かつ失望した途端、寝汗が悪くぬらついて、額を拭《ぬぐ》った。  そこで築宮は、自分がいったい誰の夢を視ていたのか、どんな名前で呼びかけようとしていたのか、脳内からすとんと脱落している事に気がついて唖然となった。 「駄目だ……なんて事だ。  ……思い出せない。  ついさっきまで視ていた筈の夢なのに、  もう判らなくなってる……」 「まあ夢というのは、そうしたものだから。  深く追及しようとすれば、  精神的に疲労するだけだよ。  それより具合は……と」  ほんのつい寸前まで、まざまざとその顔が傍にあったのに、声だって聴いていたのに、と焦れば焦るだけ、夢の中の人は遠ざかりそして、二度とは還ってこなかったのである。  あの夢こそが現実で、今こうしているのが夢に思えるくらい生々しかったのに―――とがっくり体を倒したが、お手伝いさんはそんな築宮を、やや〈怪訝〉《けげん》そうに、しかし冷静に検診して、初めて口元に微笑みを浮かべた。 「うん、もう大丈夫だ。  体力も回復しているようだし、体の中に悪い音も聞かれない。貴方自身では、どこか悪いと思うところは?」 「ない……と思います。  ただ、さっきの夢で、かえってぐったり疲れたような」 「そっちの方は、起き出して食事を取れば、  すぐにしゃっきりとなるよ。  はい、もう部屋から出ても問題ない」  と彼女はそうお墨付きを出したものの。  築宮は自分の中に、寝て起きる前よりも、昏《くら》く濁《にご》った澱が沈んでいるような気がしてならず、羽を生やした凧のように心軽く座敷を飛び出していく気には、どうにもなれずにいたのだった。  酒場の喧噪に入り交じらずに、窓の内から雨だれを聴くように背に受けて、築宮は彼の定位置となりつつあるカウンターの隅に座して、一人。  夕宵に酒場は早くも賑わいを見せて、などと表現してはチーズを薄く削るようで余りにけちくさい。地下の酒場は、日中の眠りから目覚め、温もり、酒の匂いや一風呂浴びてきた客達の石鹸の匂い、煙草の煙に高低様々な話し声等々が、食うか食われるかの争闘を繰り広げ、挙げ句にある種の生命に溢れた空気が〈醸成〉《じょうせい》されるに至っていた。  まる二日もの間床に就いていたせいで、体は汗と脂を帯び、座敷を出ること許された青年の脚がまず向かったのは旅籠の湯屋だったのであり、熱い湯を肌に打たせるうちにも喉が渇いて、湯上がりの冷たい酒を欲した。  だからこの酒場の事が思い浮かんだせいもあるのだが、洗髪に目を閉じている間、胸中にはひっきりなしにあの夢のことがよぎって、少々ゆっくり考えてみたくなったのである。  考え事の腰かけに、騒がしい場所というのは相応しくないのではないかと訝《いぶか》しむ向きもあろうが、多少の音声を遠くに聴く方が物想いに集中できる時もあり、今の築宮がそういう心境だったのである。 (あれが……昔の俺なんだな。  俺が逃げ出したいと願っていたのは、  あの人からなのか……) (だが―――一体誰なんだ、あの人は。  俺にとって、どういう人なんだ?)  夢はそれ以上の記憶を引き出してくれる事はなく、ただあのやりとりばかりが古い映画のスチールのように切り取られてある。  夢の中でも重く鈍く胸を抉った、愛憎入り乱れた想いは久しく忘れていた気がするけれど、それは旅籠に着いてからも片時たりとも消え去る事はなく、今だって心に疼《うず》いて沁みてくるのが、かさぶたを剥がした傷のよう。  自分の過去はどうやら痛みに満ちているようだが、人は記憶の積み重ねにより人と為りうるのであれば、やはり取り戻さなくてはならないのだろうかと、自問して築宮、水割りにした洋酒を含む。  酒を薄く割ったのは深酔いを恐れた用心からだったが、香りはむしろかえって芳しくなって、築宮は〈徒然〉《つれづれ》に法師の姿を思った。  思考の流れに脈絡無いようでいて、芳香という語感が法師の肌に宿る薫りへ繋がったのだろう。 (俺が、ここ暫《しばら》く昔のことを考えずにいたのはきっと、彼女のせいだろうな……)  もちろん過去を探そうとする事から遠ざかっていた〈怠惰〉《たいだ》の責を法師に負わせるというつもりはない。ただ冷静に顧《かえり》みれば、どうかするとあてどもない過去の記憶の糸口を求め自己に沈潜しがちであった築宮が、法師の情愛に触れたお陰で、人と人とが交わる喜びを改めて見いだしたのは確かな事だ。  今日も本当なら風呂で身綺麗にした後は、彼女の庵《いおり》に顔を出す事だって考えたのだ。座敷でじっと養生している間は無沙汰を決めこんでしまった事でもあるし。  ただやはり、胸中にわだかまるこの想いに整理がつくか、さもなければもう少し沈静化するかしないと、せっかくの彼女との逢瀬にも、浮かない顔を見せる事にもなりかねないと自制した。  が、そうしたつもりでも後ろ髪引かれるような恋しさは否めず、今だって気づけば酒場の入口に泳いだ視線は彼女の姿を求め、体も庵《いおり》、温室の方へと傾きがちに、瞼に視るのも過去の夢ではなく法師の面影になりがちに。  そうして入口を見やってもう何度目かの時に、築宮はぎょっと腰を浮かせかけ、弾みで酒のグラスをがちゃつかせてしまった騒がしさ、慌ててなに食わぬ顔を装ったものの、つい頬がひくついたのは、驚きと喜ばしさが半々に心を満たしたから。 「ああ、いらっしゃいまし。  しばらくですねえ」 「うん、お邪魔するね」  と〈気易〉《きやす》な出迎えにこちらも至って〈気易〉《きやす》く応じたのが、他ならぬ琵琶法師だったのである。  別段約束を交わしていたわけでもないのに、偶然の妙という、そこはそれ。  お手伝いさんの言葉から、彼女がここ暫く酒場には姿を見せていない事が窺えたが(その幾晩かは、青年が共に過ごした夜だ)、何故またよりにもよって、一人で自分を見つめようと決めたこの晩にと、築宮はどう声をかけたものだか言葉に迷った。  しかし言葉は浮かばずとも視線は通う。  酒場の至る所に手足と体が頭があって、顔があって、前景の顔、中距離の顔、隔てた向こうの顔、顔、顔の隙間にはまた顔の断片や半分や四半分がそれこそあらゆる角度で見え隠れしていたが、それらの隙間を光の箭《や》のように二人の視線が真っ直ぐに交差して、お互いを見まごうことなく認め合う、なんで見間違えることなどあるだろう。  法師にとって築宮は、築宮にとって法師は、千変万化の顔の中であろうと、それぞれ額に不可視ながら絶対の光輝を放つ紋章を頂いているも同じ事。  物思いの内に彼女の姿を描いたものの、よもや今夜ここで現《うつつ》に出会おうとは思いもせなんだ築宮は、腰を浮かせた形でまごついたけれど、法師は彼の顔を認めるなり咲かせた笑みがまた、手品師が宙から花を掴み出すにも似て鮮やかな。  約束もなく逢えた偶然は、彼女にはただ素直に喜ばしいものだったのだろう。 「あ……っ。築宮さんだ―――!」  風に向かって間切る小舟のように、混雑した酒場の卓と卓、椅子と椅子、客の背と背を肩口でかきわけて、向かってきたのが築宮がなにか言うより早かった。  止まり木に手をついて、築宮を見上げて、 「こんばんは。  その……元気だった?  おとついきのうと、顔みなかったからさ」 「ああ……まあ、ちょっと色々あったから。  君は……また、ここで琵琶を?」  病みついて、床から離れられなかったなどと〈迂闊〉《うかつ》に吐いては彼女を不安にさせるだけだと嘘も方便の、曖昧に濁《にご》して問い返せば頷いて、背に担いだ琵琶を一揺すり、 「うん、ちょっと確かめたい事、あるから。  でもあんたがいんなら、長くはひかない」 「だから、待ってて。  後でいっしょに……、わたしにも、すこぅしでいいから、お酒、呑ませてね」  言い置いて席を離れ、いつも琵琶弾く片隅へいそいそと、長く待たせては築宮が退屈して逃げてしまうのではと恐れるように、何度か振り返りながら。 「お客さん、いつの間に、あの方と仲良くなられたんです?」 「いやまあその、なんだか顔を合わせる機会が多くて。そのせいです」 「はあ。左様で。  ともかくあの方、こないだ撥を忘れていかれた時から、こちらにはいらしてなかったんです」 「今日はちょっと久しぶり。  なにか、心境の変化でもあったんでしょうかね?」 「さあ……俺には、なんとも」  確かに築宮が幾晩か共に過ごしたせいで、酒場に降りてくる暇がなかった夜もあろうがそればかりとは思われない。  ただ夜といって、月が顔を覗かせ星が瞬《またた》く空ばかりでもなかろう。  いずれにしても築宮にお手伝いさんの問いへの答えの持ち合わせはなく、法師がいつもの一画に収まり、絃の調子を改め、奏で始めるのを見守った。  ……彼以外の客の殆どは、気ままに毛繕いを始める猫に送るのと同じ程度の気のない視線で眺めたきり、後はろくに関心を示しもしなかったけれど。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  法師が奏で、謡う調べはこれまでと変わらず、典雅ではあるにせよやはり酔客の関心を惹くにはいたらずの、だいたい平曲式の渋い曲か、さもなければ彼女が聞き覚えた物語に独自の旋律を添えたものでは、前者は酔った声音の談笑に掻き消され、後者はどうにも他愛ないお〈伽噺〉《とぎばなし》が多くてこれまた酔客を喜ばせるには刺激が足らない。  だが彼女の弾奏は、傾ける耳さえ持てば至妙の音であると、音曲に心得のない築宮であっても心に響くほどのもの。  なるほどこの酒場に場違いなのかも知れないけれど、だからといって潮の中に育まれた〈血赤珊瑚〉《ちさんご》の枝を砂漠の沙《すな》に置いたところでその美しさがいささかも減ずるところのないと同じで、法師の楽の音それ自体はどこにあっても素晴らしい。  築宮は、彼女との〈情誼〉《よしみ》という〈贔屓目〉《ひいきめ》を抜きにしても、酒場のざわめきから琵琶の楽の音のみを選り分けるようにして聞き惚れる。  絃と声が紡ぎ出す音は、時に紅葉を映して朱に染まった水を音に換えたような艶を帯び、時に薄の穂を揺らす風のように〈恬淡〉《てんたん》として、築宮の心を遙かな景色の中に運んでいくかのようであったが――― (……うん? なにかが……違うぞ)  初めて聴いた時法師の琵琶は、音だけで築宮の五感に訴えるような世界を描き出し、演奏が終わって後でも彼をしばし別天地に留めたままにするほどの、今夜の調べもそれと同じの筈なのだが、撥を遣う手の合間合間に、ふと酒場の〈夾雑音〉《きょうざつおん》が耳に届く瞬間がある。  これは法師の琵琶をしばしば聴く事のあった築宮には実に異な事で、一度弾奏に専心はじめた彼女の手が、そんな隙を見せた事などこれまでになかったのだ。  いったんそうと気づいてしまうと、調べが心から離れていってしまう瞬間というのは幾度があって、その時絃の響きから、天与の霊感が失われているのである。  伸びやかなはずの響きは、ただ緩んで間が抜けて、〈身裡〉《みうち》を清く濯《すす》ぐべき短音も、切れ味鈍く締まりが悪い。  完璧とさえ言えたはずの法師の演奏に、これまでなかった、音のぶれとも言うべきものが生じているのだ。  こはいかに、と築宮は音のぶれを感じ取って首を傾げたものの、次にはその歪みを掻き消してしまうくらい澄明な音がすぐ還ってきて、その時の演奏の巧みさは常を遙かに上回るほどに冴えた。  今までは始めから終わりまで隙を見せなかった法師の演奏に、巧拙の幅が窺えるようになってきている。  時には拙《つたな》く、時には巧《たく》みに。  だが築宮はそれを、単に彼女の〈業前〉《わざまえ》が衰えたと評するより、変化、と見た。  これまでの彼女が弾奏する姿というのは、琵琶を持たせた途端、水晶を更に純化させ、人の肉の眼には視えないまでに清浄な管が〈月魄〉《つきしろ》から降りてきて、それを通じて天の楽が宿ったかの、いわば超俗の気配を帯びていたのだが、今夜の彼女はどこかしら人間味というのを漂わせている。  その変化の善し悪しを断ずるほどの見識は築宮にはなく、ただこの変化を、法師自身は気づいているのかどうか。 「―――はい、おしまいだよ」  青年が見まもるうちにも法師は弾奏を終え、撥を止めて余韻を送った。  酒場の話し声は、音曲が続く間も途絶える事はなかったのだが、琵琶の余韻が薄れるとともに音量を増して戻ってきたように築宮の耳には感じられ、現実に引き戻す。  法師の琵琶など端から合ってもなくても同じの酔客達には、彼女の演奏の変化など、なんで聞き分けられただろう。だから今夜の反応もいつもと変わらず、拍手も感嘆の声もなく、かといってそんなしみったれた音楽など酒を不味くすると蹴り出すほどの乱暴もなく、つまりは体のいい無関心。  普段の法師なら、代銭など始めから乞う頭は毛ほどもなくとも、ひとしきりの演奏の後には、新しい曲の養いになるような、なにかの「お話」を客にせがむ(そして無視される)のだけれど、今日はそれもなく、挨拶を覚えたばかりの子供のようなお辞儀をぺこりと一つ、琵琶をしまうと築宮に向いて、席を共にしようと歩み寄る。  が、懐く顔は青年の隣に座る前に遮られた。  薄切れかかったのも貧を清しとするような、衣の袂《たもと》へ、横から絡んだ、人をまともに人扱いもせぬ傲慢さが爪の間から煙草の脂と共に滲むかの男の手があって、築宮は〈宵待草〉《よいまちぐさ》の花に、鯰《なまず》が泳いで鰭《ひれ》をはためかせてまとわりついたかと見まごうほどだった。  築宮の座るカウンターから男とは間を隔てているにもかかわらず、熟柿がぷんと鼻をつくような。 「おいよ、姉さん」 「え……なんだろう?」  さしもの人疑いせぬ法師もいくらか警戒した様子で肩をすぼめ、手から身を離そうとしたのだが男の腕は河童のように伸びて、袖《そで》から離れない。  ……あの酔漢だった。築宮が初めて法師の琵琶をここで聴いた夜、下品にけたたましく騒ぎ、そればかりか法師に底意地の悪い悪戯をしかけたあの男だ。  築宮がカウンターに腰を据えた時には姿が見えなかったが、琵琶の音に聴き入るうちに酒場に現れ、陣取ったらしい。  またあの質の悪そうなのが法師に悪心起こしたかと、築宮が身構えたのに気づかなかったかそれとも知って無視したのか、彼には一顧だにくれず、ぐいと〈直垂〉《ひたたれ》の腕を引き寄せた。 「せっかく酒場に来てんだからさ、  琵琶ばっか弾いてねえでよ、  一緒に酒でも呑まんか」 「でもわたし、待ってもらってる人が」 「あ、なんだって?」  口ごもる法師に、聴きとろうという風に顔を突き出してみせたのが明らかに聞こえない振りの、不安げな白い頬へ無礼なまでに近寄せた、油を浮かせた口、無精髯をすぼめて、唇を壺の型に、もう〈田螺〉《たにし》さながらに見苦しい。どうせ頭に詰まっているのも欲の泥々だろう。  酔いは人を大胆にするにしても許される限度があり、この傍若無人、法師も嫌悪に逃れようとした、が、酔漢は賢《さか》しくも魔法の呪文を心得ていた。 「まあいいからいいから。  ちっとよ、あんたの話が聞きてえのさ。  その、琵琶のこととかよ」 「いっつも聴いてたんだぜ。  そんで感心してたんだ。  うめぇもんだってな」 「……ほんとに?」 「ああほんとうだ」  ……始めから疑ってかかっている築宮ならずとも、酔漢の底意など明らかで、琵琶に興味など針の先程もなく、世辞に疎《うと》い女を気まぐれに弄《もてあそ》んでやろうと言うだけの事と、たやすく見え透く、男の目つきの意地汚さ。  けれど日頃他の客達からは、無視されるかよくてせいぜいからかうような野次をもらうばかりで、まともに褒めてもらった事のない法師には、酔漢の空世辞なれど実にあらたかな効き目を顕《あらわ》した。  今にも柱の陰にでも逃げこんで、影の中に溶けてしまいたげだった及び腰をやや踏み留めて、築宮に物問いたげな視線を送る。少しだけ、この人達に付き合ってもいいかの、どこまでも人が好いのも程があると、呆れかかった築宮だが、やにわ〈憤然〉《ふんぜん》と目に火を点した。  法師に身を乗り出していた酔漢が、ふと不審げに、それまで濁《にご》らせていた酔眼に疑うだけの分別を取り戻した、そこまでは許そう。  しかしいきなり、法師の襟元に鼻先をぐいと近づけたとあっては。  それで人憚《はばか》りもなく、小鼻を膨らませ、女の匂いを吸いこんだとあっては。 「……なんか良い匂いさせてんなおまえ。  こりゃあ香の……、  それもえらく上等な奴だ。  なんでおまえがそんな匂いさせてんだ?」  酔漢の疑いはあるいはもっともの、実際法師の身なりはみすぼらしく、上等な香など使えるような身分には見えない。  が、築宮はその薫りが真実である事を知っているのだ。  お香なんてつかうような暮らしはしてないと、薫るというならそれはきっと自分自身の匂いだと、それだけを答えた法師へ、 「馬鹿言え。俺はこれでも鼻がいいんだ。  こんな匂いを出す人間があるか」  〈馬喰〉《ばくろう》を〈生計〉《たつき》とする、つまり生き物の身を周旋して飯に替える者たちでさえ、〈媛祀〉《ひめまつ》る社の前を横切る時は己の息を憚《はばか》り、口元を手拭いで覆うて行くという。  素性がどうあれ弁《わきま》えるべきを弁《わきま》えるのが人間の善性であろうにこの男は、法師の薫りをもっと確かめようと、首筋の肌に口を押し当てんばかりに〈執拗〉《しつよう》に食い下がったのだ。  ―――蛭が吸ったなら赤い痕が残る、しかしこ奴の唇が触ったなら、そこから爛《ただ》れるわ。  いかに穏和な築宮とても限度があって、止まり木から弾みをつけて跳んで、隔てる床を二度しか踏まなかった、酒の雫と喰いこぼしをものとせず、滑りもしなかった。  酔漢の酒焼けの鼻先は、餌をさらわれた犬のように空しく宙にひくつき、もう法師はそこにいない。  法師の体は築宮の胸に、不意の力に一瞬呆然となった彼女の顔だが、抱きとめたのが青年だと知って安堵に和《やわ》らぐ。 「……この人とは、俺が先に約束している。  構わないでほしい」  〈長広舌〉《ちょうこうぜつ》は、せっかく衝いた相手の虚を正気づかせてしまうだけだと、言葉短く言い捨てて、連れ合いを羽の裡《うち》にかくまう〈鴛鴦〉《おしどり》のように築宮は法師を抱きとめたまま酒場の出口へ一目散、後ろから罵声が追いすがってきたような気もするが、なに、構うものか。  階段を駆け上がりながら、法師に吐いたのがつい口小言めいた台詞になってしまうのも、この際致し方なかろう。 「素直なのが、君のいいところだと思うが。  それでも、あんな手合いを相手することはない……ろくな目に遭わないぞ」 「……ごめんなさい。わたし、あんま褒められたりとか、なくって。そんで、ちょっと嬉しくなっちゃったから……」 「怒ってるわけじゃないよ。  用心してほしいだけで。  世の中には、たちが悪い人間というのもいたりする。だから」 「うん。気ぃつける……」  法師に〈狼藉〉《ろうぜき》働いた相手に口争いも仕掛けず、拳も振り翳さず、逃げるだけの築宮、そんな我が身を意気地なしとは自覚しつつ、意気地なしでいい、逃げるのでいい、と階段を抜けて廊下に遠ざかる。  男の意地だのなんだのと言えば立派の、しかし相手は酔っ払い、理性を逸《いっ》した者は人以下の、そんな相手に喧嘩を仕掛けて怪我でも負うのは阿呆である、短慮である。  我を通すべき時というのは確かにあろうが、こだわりすぎれば身を損なう人を殺す、その勢いで法師にまで累《るい》が及んでは、本末転倒の間抜けを晒す。  もう当分は酒場には近寄らないにしよう、酒が欲しいならお手伝いさんに無心しようと軽口を、二人で叩き合う落ち着きを取り戻したのは、酒場を遠く離れて息も切れた頃。  がむしゃらに走ったため道筋も覚えず、旅籠のどの辺りなのかも判らず、板敷きの廊下は夜灯りで濡れたように光る、二人の荒い吐息は、やがて難を逃れた安堵の笑いに変わる。 「あの……今晩は、これからどうしよう。  築宮さんは、なんかご用事とかあった?」 「そんなのはないよ。  ちょっとあそこで呑んではいたが、  その後で君のところにお邪魔しようかと、  そんな事を考えてた……君は?」 「わたし……?  わたしは、あんたに逢えたらなって。  でも待ってるのも、寂しかったから」 「だから、今晩酒場に降りてったのは、  当たりだったねえ……あんたに逢えたよ」  その酒場でつい先程、どんな目に遭い損なったのか忘れたわけではなかろうに、出会えた喜びの方が法師には大いに勝るのだろう。  聴き入る青年がちょっと言葉を無くしたのは、走った後の〈動悸〉《どうき》のせいだけであるまい。  なんにしても二人の想いは一つで、築宮はちょっと廊下の後先を見回した。が、通りかかる客もお手伝いさんもなく、道を訊けるような者はいない。  まあいいか、と楽観したのは、きっと法師が傍らにあったからだろう。 「そうだな……君の庵《いおり》に向かったっていいが、まずはどこかの部屋で一休みしていこう。空いてる部屋なら、そら、いくらでもあるだろうし」 「わたしは、あんたと一緒なら、どこだっていいよ……」  たとえもし、旅籠が意地悪して、中で憩《いこ》うことを許さずと全ての座敷の戸が膠《にかわ》付けされると言った怪事に出くわしたりで、入り組んだ廊下のただ中で夜を過ごす憂き目を見たとしても、この二人、寄り添っていられるなら、どこがどこでも同じ安らぎに身を置いたことだろう―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  青年と法師が逃げ去った後の酒場である。  先程の酔漢は、他の客の好奇の眼(中には騒動を起こした事への非難の顔つきもあった)を、無言の〈威嚇〉《いかく》で黙らせて、仲間達と話しこんでいる。  仲間はなんだってあんなうすのろ女にコナをかけたかと莫迦にする、こういう手合いはたとい連れであろうと嘲笑う隙は見逃さない。  が、男はなにごとか考えついた様子である。 「お前らな、そうやって莫迦にしてるがよ、  ありゃあほんとに上物の香の匂いだぜ?」 「俺ゃ昔、船に乗ってた事があるんだが、  積み荷で見たときがあるんだ」 「大層な箱で、綿まで詰められてさ、  ……香木、って奴だ。  ヤニ被った木っ端にしか見えなかったが」 「……えらく莫迦高い値がついてた。  〈一身上〉《ひとしんしょ》になりそうなくらいの」  仲間達の顔色が変わった、酔いよりももっとぎらついたかぎろいが眼に宿った。  浅ましく下劣なだけに、金の匂いには人より聡い嗅覚を持ち合わせているのである。 「そういう上物を、あんな琵琶しか能がねぇバカ女が持ってたって無駄だって、そう思わねえか? え?」 「……あんた、なんかえらく悪い顔になってるぞ」  そう指摘してきたのに、上出来の冗談のようにけたたましい笑いを皆で一くさり、けれど酔漢も仲間達も笑顔というにはあまりにどす黒い、悪事に怯《ひる》むどころか愉しむ〈破落戸〉《ごろつき》特有の、荒《すさ》んで卑《いや》しい陰をへばりつかせていたのだった。  ……あの後二人は法師の庵《いおり》に戻るかどうか思案したものの、走り疲れが足にこたえて、結局適当な部屋を選んで休む事にした。  二人が入りこんだのは、泊まり客も殆どいないような一画の、辺りは洋式と和式が混在している区画だったが、中で築宮が選んだのは一室の洋間、水路が近い。人が滞在した名残は感じられなかったけれど、埃がほとんど積もっていないところを見ると、お手伝いさんが手入れしてからあまり日が経っていないのだろう。  幾つか部屋を選り好みしてから築宮がこの洋室を選んだのは、日頃自分が起き臥《ふ》ししているのが和様の座敷であり、物珍しさが手伝ったから、という少々子供っぽい理由がある。  室内それ自体は、築宮が過日お手伝いさんの用事を押しつけられた際に訪問した、老婦人が滞在していた部屋と似たような造りで、初めて見たように新鮮というのではなかったけれど、こぢんまりとして目立たぬながらも細かな処《ところ》まで配慮の行き届いた造作をしており、潜りこんでみれば居心地がよかった。  しばし扉を開け放しに、廊下からの薄明かりを頼りに室内を改めれば、暖炉に残った薪というのが本物を模した電灯の、幸い電気はまだ生きていて、スイッチを入れて部屋を閉じ切ると、山荘の奥の隠れ部屋にでも引き籠もったかの秘密めかした静けさが、渋い琥珀の光とともに満ちる。  この手の部屋には慣れていなかったと見え、あちこちを物珍しげに覗きこむ法師の古来の衣装が、洋風の室内に古い絵巻物の一部分を切り取って置いたようで、その不釣り合いが築宮には風変わりな面白味を感じさせた。 「へえ……あんま覗いたこととか、なかったけれど。お宿の洋間って、こんな風になってんだね……」 「俺も、普段いるのが座敷だから、あまり〈馴染〉《なじ》みはないけれど」 「たまにはお嬢さんに頼んで、こういう洋間に部屋を替えてもらうのも、気分が変わっていいかもしれない」  などとお大尽のような口を聞いてはみても、実際にはそんな大それた贅沢などできないのがこの青年なのだが、ともかく、ソファへ腰を埋め、その柔らかな弾力に溜め息をつく。  暖炉に屈みこみ、薪の形の電灯を物珍しげに覗きこんだりしている法師の姿を見やるうち、不意に兆《きざ》した眠気に欠伸を一つ。その気配が伝わったか、法師はつと振り返って、 「眠いの?」 「いや、別に……、  ああ、やっぱり少し眠い、かな」  この二日をずっと床で過ごし、しまいには薬の力を借りてまでたっぷりと睡眠を摂った筈だが、湯上がりの酒、酒場では酔漢どもとの諍《いさか》いで神経を遣い、そして散々走りもした。  それがこうして柔らかなソファに腰を下ろして緊張が緩んだ途端に、一気に反動が来たらしい。 「そお。だったら少し眠るといいよ。  でも、ちゃんとお布団に入ってからね」 「君は……?」 「ん、わたしは起きてる。  このお部屋ン中、色々あるから、  それ、見てるよ」  彼女一人を起こさせておいて、自分だけが寝こけるのはやや気が退けないでもなかったけれど、いったん眠気が訪れてしまうとなかなか抗いがたく、築宮はまた〈欠伸〉《あくび》を噛み殺す。  そんな彼へ、気にしないでという風に頷きかけて、法師は円卓と対の椅子に腰を下ろす。  ソファの程良い柔らかさと眠気で、何やら雲中にでも漂う心地になって築宮は、ついそのまま瞼を下ろしかけたが、法師に「お布団で、だよ」と念を推されてしまい、聞き分けよろしくベッドに這い上がった。  さすがに乾いた陽の匂いとはいかず、幾らかの埃の匂いが寝具に籠もっていたけれど、それさえどこか安らぎを誘い、築宮は安心しきって眠りに就こうとして、 「ああ……一応、鍵は掛けておくように」  と用心させて、法師が扉にぎこちなく施錠するのを見届けてから枕に頭を埋める。  途端に重たくなる瞼、何度か瞬きを繰り返しながら築宮が眺めたのは、法師が小物入れから引き出してきたチェス盤に〈僧正〉《ビショプ》だの〈騎士〉《ナイト》だの駒を並べ始めた手慰みの、〈辿々〉《たどたど》しい手つきで駒の運び方を心得ているとも思えず、彼女には異国趣味の人形遊びのつもりなのかも知れなかった。  洋間に直垂姿の女がチェスを捻り回している姿というのはいささかちぐはぐに過ぎるけれども、スタンドが投げかける琥珀色の光の中で、不思議と郷愁誘う情趣を漂わせてある。  枕の中から眺めつつ、ふと問いかけた、疑問は言った端から眠気に溶けて、築宮は自分で口にしておきながら、何を言ったのか実のところよく理解しておらず、声も縺《もつ》れ気味のもぞもぞもぞ。 「そう……いや、君、  今夜、琵琶を弾くまえ、  なにか、確かめたいことって……?」 「ああ、あれ? ううんとね……。  なんか、琵琶弾くときの感じが、  前とは、違ってきたような気がして。  みんなの前で弾いたら、わかるかなって」 「そ、う……」  受け答えはほとんど寝言に近く、築宮は法師が何を言っているのか理解する前に、眠りの淵に沈んでいくのだった。  その寸前で、また過去の夢でも視るのではないかという危惧がよぎったけれど、きっと大丈夫だろうという確信に溶かされる。  法師に見守られてなら、安らかなうちに眠りの時間は過ぎていくだろう、と。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……丸一夜をたっぷり眠ったような爽快感の中で、瞼は自然に開いて、築宮はぼんやりと法師の姿を眼で追いかけている自分に気がついた。  法師は眠る前と同じように円卓に屈みこみ、手すさびの具を今度はバックギャモンの駒に替えてはいたが、本式のルールなど知らぬげに、おはじきのように一人遊びに弾いている最中。普段の彼女なら、琵琶を抱えて曲の一つでも〈爪弾〉《つまび》いているところなのだろうが、眠る青年に遠慮してか愛器は包みのままソファに横たえられてある。  どれだけ眠り呆けていたのか、どれだけ彼女を一人に放っておいたのかと、満たされた目覚めとは裏腹の申し訳なさで、枕元に出しておいた銀の懐中時計で確かめると、思ったよりは長くない。それでも二時間近くを過ごしていた。  懐中をいじった衣擦れに、法師も青年が目覚めているのに気がついて、椅子から枕元へと腰を移す。 「……目ぇ覚めた?  わたし、うるさかった?」 「いや、よく眠れました。  君の方こそ、退屈しなかったか」 「平気だよ。ここ、なんか遊ぶもの、  いろいろ置いてあってさ」  真実それで暇を潰せたのかどうか、それ以上訊ねるのもかえって気がきかないように思われたので、重ねては触れず、ベッドの上にもそりと正座した。 「それに、あんたの寝息は静かで、  ああよく寝てる、わたしと一緒の部屋で、  安心して眠ってくれてる、ていうのが、  なんか、胸がほかほかして」 「……なんていうのか、少し照れるな……」  もしかしたら無防備晒した寝顔をしげしげと観察されていたのかも知れないが、相手が法師だと思うと腹も立たず、むしろ〈面映〉《おもは》ゆい。  照れ隠しに前髪をかきあげれば、指の間で髪は汗を含み、地肌もややべたついていた。憂いのない眠りにあっても寝汗は湧くし、この洋間に転がりこむ前に散々走った。  夕方風呂を使ったばかりなのだが、とやや〈憮然〉《ぶぜん》となって額を拭《ぬぐ》うと、 「あ、寝汗かいちゃった?  体、気持ち悪いみたいなら、  わたしンとこまで戻って、水浴びする?」  二人とも足は休めたのだし、それも悪くはないかと築宮は頷きかけたのだが、ふとよぎった考えがある。  法師はいつでも身綺麗にしてはいるのだが、築宮は彼女が例の〈大盥〉《おおだらい》で水を浴びている姿しか見た覚えがない。水の清《すが》しさは、真夏の午後に冷えた梨の歯ごたえ佳いのを噛むにも似た心地好さがあるけれど、湯の熱いのを肌に浴びる時のあの、頭の〈天辺〉《てっぺん》の蓋が開いて体内の毒気が抜けていくような解放感だって勝るとも劣らない。  彼女も水ばかりではなく、たまには湯の温かいのに身を浸してみてはどうだろうと思いついて、築宮は誘ってみる事にした。先ほど確かめた時間だと、大浴場は男女交代制の時間も終わり、混浴の時間に差しかかっている。 「行水もいいが―――  たまには、広い湯の中で、  のんびり手足を伸ばしてみるというのは、  君、どうだろう」 「お湯……お風呂ッてやつ?  お風呂かぁ……へえ……」  と、やや奇妙だったのは法師の返事に切れがなかった事で、それは嫌がるというより風呂というものの印象が彼女にとってはぴんと響いてこないで、慣れない事柄へ戸惑っているかのように築宮には思われた。  それでもすぐに試してみようという風な純朴の笑顔、もとより綺麗好きの女なのである。  築宮の体が完全に目覚めて手足がしゃんとするのを待って、法師はその間円卓にあれこれ繰り広げたる遊戯盤など―――旅籠の洋室というのは、皆こんな風に様々な遊具が備え付きになっているのかとなかば呆れるくらいの種類の―――を片づけて、二人は湯屋を目指して部屋を出る。  湯の中へ、伸ばした女の手足はすらりと長く美しく、揺らぐ水面を透して眺めるうちにも、薄く繊細な鰭《ひれ》を生やして、滑らかな身のこなしで湯気の奥に泳ぎ去っていくのではないかと、ついそんな幻想を抱いてしまった自分に苦笑しつつ築宮は額から流れてきた汗を拭《ぬぐ》った。  法師はと言えば、湯に温まった体の、中の熱を逃がすように暖かな吐息を湯気の中にゆっくり押し出して、両の指を組み合わせて伸びをする、肌に滑らかな湯水がまとわりつき、零れ落ちる。  湯の雫に湯気、立ちのぼる湯気、漂う湯気、どこもかしこも水気と温気が充満し、じっとしているだけでも体内に澱《よど》んだ毒素が活発に排出されていくような、大浴場の空気は浄化の特効薬のようであった。 「ああ……はぁぁ……。  あったかいねぇ……いいねぇ……」  湯の中で身を〈翻転〉《ほんてん》させ、湯船の縁に腕と顎《おとがい》乗せれば、浮力にぷかりと、白いお尻が湯を分けて桃のような、その絶妙な曲線についつい目が釘付けになってしまうのを、そっと引きはがして頭の上に畳《たた》んだ手拭いでまた汗を押さえた。 「ふあ……こんなのが、お風呂なんだ。  気持いいんだ……」  といかにもくつろぎきった呟きにうっとり目を閉じている法師だけれど、築宮はやや苦笑混じりの、なにしろつい先程までは、湯の水面を爪先で怖々つついて、火傷したりはしないかと真顔で問うてきたのも同じ法師なのである。  ……あれだけ行水好きで、ちょっとでも気が濁《にご》れば〈大盥〉《おおだらい》を引っぱり出し、肌に水打つ彼女であるのに、築宮が湯に誘った時は今ひとつ反応が鈍かった。  もちろん青年の誘いであり、拒まずに大浴場に降りては来たのだが、湯屋に入ってからも借りてきた猫よろしく一挙一動遠慮がちな、桶に湯を汲むのも洗い場の蛇口を捻るのも恐る恐ると、その警戒ぶりは突如蒸気船の機関室に放りこまれた未開の民族と変わりない。  訝《いぶか》しさを抑えきれず、築宮は冗談交じりに、 「一体なんで、そんなに落ち着かないのか。  まさか風呂が初めてっていうわけでもないだろうに……」  問いかけてみたのだが、これが冗談では済まなかった。困ったような〈含羞〉《はにか》んだような薄笑いで、 「うん、わたし、お風呂……っていうのか、  お湯に浸かるのなんて、初めてなんだ」  こう来たのには築宮、さすがに恐れ入った。  聞けば法師は生まれてこのかた物心ついて来、体を清潔にするのにはもっぱら水ばかりを使い、湯に触れた事がないとまでは言わないにしても、煮炊きに用いるのが精々のところだったとかで、この女は一体どこの乾燥地帯の出か、さもなくば湯に触れて溶けて、契りを交わした夫を嘆き悲しませた雪女か〈氷柱女〉《つららおんな》の類かと、築宮を大いに困惑させた。  この邦に住んで湯を使った事がない人間というのが信じがたく、かつまたこの大浴場から彼女の庵《いおり》までだいぶ離れているとはいえ旅籠に湯の沸く〈場処〉《ばしょ》は他にもいくらでもある。それで肌に湯の温度を知らないと打ち明けられても、笑い話にもならないし冗談にしても気が利かない。  半信半疑ではあったが、そういう下らない作り話をひねり出して築宮を煙にまけるほど、この法師は〈頓知〉《とんち》を心得た女ではないのだ。  ならば彼女の言葉は真実なのだろう。  築宮はよもや自分が誰かに入浴の手解きをする事になろうとは思いもよらず、これは責任重大かと気負いこんだが、考えてみれば湯に浸かるのに一々〈煩瑣〉《はんさ》な手続きは要らぬ。  洋間で一眠りした後の事とて、夜も晩《おそ》く、男女交代制の時間は過ぎて大浴場は混浴御免の、その上幸い人気も少なく、誰咎める目があるわけでない。  適当に体を流して、なおも二の足を踏む法師を励まし促《うなが》し、それでもいったん湯船に入らせてしまえば、後は造作もない事だった。  温かい湯が体内の代謝作用を活発にさせ、毒素の排出を促《うなが》すとか、滞りがちな部位の血行を促進させるとか、そんな医学書に載っているような薬効を一々並べ挙げていかずとも、程良い温度の湯に体を浸せば快を得られるよう人間の体はできている。  法師も浸かったはじめこそ、湯が肌に噛みついてくるのではないかと首をすくめ身を小さくしていたが、たちまち伸びた、陽に当たった猫のように大きく伸びをして目を細めた。  同じ猫の喩《たと》えと言って、風呂にぶちこまれた野良猫の如く絞め殺されるような悲鳴とか爪で強かに引っかいてくるかの抵抗も予想しないでもなかっただけに、築宮はやや拍子抜けの感を味わったが、まあ暴れられるよりはずっといいと、湯気の細かな粒子を深く吸いこんだ。  槇《まき》の湯船や壁が温もって、芬《ぷん》と木の香りが通って、胸の中に山林の景色も浮かぶ塩梅である。そういえば木造りの風呂というては檜《ひのき》が代表選手だが、実は槇《まき》で造った方が格式高いのだと聞いた。そんな材でこの広大な湯屋を〈造作〉《ぞうさく》しているあたりやはりこの旅籠、底が知れない……。 「お風呂って、こんなにいいんだ……。  なんか、体がふわふわして、  ぽーってなって……。  わたし、お風呂、好きかも」  俯《うつむ》けに浮かせた、足先を軽く振って湯に波蹴立てて〈恍惚〉《うっとり》と、目元には湯の温もりが薄紅を差して、彼女が初めて味わう暖かいという快に身を委ねきっているのが窺える。  それはどんな感覚なのだろう。  初めて口にした美味が、舌に沁みていくような感覚なのだろうか。  初めて花の芳《かぐわ》しきを胸一杯に吸いこんだ時の心地好さなのだろうか。  否、他に例えを求めたところで、今法師の体全体を浸している快感は、湯を初めて知った彼女以外には味わえないものであろう。  築宮は埒《らち》もない事と知りつつも、ほんの少しだけ法師が妬ましくなったという。 「これからも、ちょくちょく入りにくるといい。ただ時間には気をつけるように。  時間によっては、男の番と女の番とが別れていたりするから」 「……なんで分けンの?」 「なんで……って言われても。  世の中には、君のように物事にこだわらない人間ばかりでもないんだよ」  湯気で睫毛に露結んだ、法師の無邪気な、その眼差しを叱るというではないが、男女の弁《わきま》えるべき処《ところ》は弁《わきま》えるべきと、教えながらも築宮は、説得力が欠けるのは感じていた。  大体、こうして裸の肩を並べて仲良く浸かっている自分達だって男と女でないか。  思えば自分も、随分と余裕ではないかと築宮は、横目で湯から見え隠れする法師の裸身を眺める。  ちょっと前の青年なら、こうして女性と並んで湯に浸かるという状況に置かれたなら、それこそ地蔵でも引っぱってきたのかと疑わしいくらいに硬直していただろう。それが今ではどうだ? 説教めかした言葉を吐いて余裕ではないか。  確かに法師とは一つ盥《たらい》で行水もしたし、それどころか肌も重ねた〈情誼〉《よしみ》の、一緒に風呂に浸かるくらいなぞ何を今さらの感があるにせよ、二人裸でいて狼狽えもしなくなってきたというのは、自分も随分砕けてきたではないか―――  これは堕落というのか、それとも男女の仲を知って一皮剥けたというのか、と、一々考えこむ辺りは築宮青年まだまだ青くて堅い。 「…………」 「わ、お湯の中だと、  胸、ぷかぷか浮くんだ。へぇ……」  ……とつい築宮は考えこんだものの。  湯の面に浮かんだ形良い乳房の色合いは、薄い透明の膜を幾重にも重ねたかの精妙な白、それがほんのり染まって、雫と汗を網目のように滴らせているのは男の目を否応なしに奪う眺めだが、しかし法師は浮力に感心したように、己が乳を脇から掬《すく》いあげてぱしゃぱしゃと波を打たせているとあっては、色香も何も。  一気に脱力感というか、馬鹿馬鹿しさというかがこみあげて、堪《こら》えきれず噴き出した。  築宮の情欲をそそり、交わりたいと心を燃え立たせるのも法師なら、幼子を相手にした時のように微笑ましい気持ちを誘うのも同じ法師の、何も難しいことはない、魅せられているのに、変わりはない。  失笑して湯から立ち上がった築宮は、もしかしてはしゃぎすぎたのかとやや不安そうに首を傾げた法師へ、手を差し延べた。 「余り長いこと浸かっていたら、湯当たりしてしまう。ちょっと揚がって体を洗おう」  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……湯屋の床は水に洗われ、清しい雨の後に月が差したように濡れ光る、そこをまた、新たな湯が流していく、築宮が法師の背中に流し掛けた湯が、零れて広がっていく。  手桶が床に置かれた響きが、湯気に満ちた湯屋独特の〈長閑〉《のどか》に間延びした余韻で籠もって、築宮は鼻歌の一つでも唸りたくなる。  項《うなじ》の後れ毛に残った泡へ、更に湯を掛けるついでに軽く揉みほぐしてやれば、法師はふああと緩みきった溜め息を細く長く、心地好さの余り魂までもが口から抜け出していくのではないかと危ぶまれるくらいに無防備な。 「なんか、お姫さまにでもなったみたいだよ、わたし。あわあわで、ふわふわで、お湯が温かくて」 「なんか、悪いな……築宮さんに、こんなことまでしてもらってさ」  手拭いに〈石鹸〉《せっけん》を、たっぷりきめ細かく泡立てたので法師の体を洗ってやったのは、築宮にとってごく自然な流れであって、何もそこまで畏《かしこ》まってもらうほどでもない。  自分の体を洗うより、ついつい念入りに隅々まで洗ってやってしまったのは、彼女への好意はもちろんのこと、出来の佳い工芸品を前にした時の、敬うような気持ちも手伝ったのは否めない。  それくらい法師の肢体は美しかったけれど、それでもその隠しどころを扱う時は僅かに疚《やま》しさも蘇って洗う手つきが〈気忙〉《きぜわ》になったのは、まあむべなるところか。 「そんなに恐縮しなくってもいい。  ……どこか、洗い残したところはないか。  それか、痒《かゆ》いところとかはないか」 「んーん。もう体中、ぴっかぴかだ。  剥き立ての煮玉子みたいにさ。  それに、痒《かゆ》いところだってないし……」  んん、と顎に指して考えこんで、 「あ、でも、山芋の磨ったのが顎とかにつくと、後で、ちょっと痒《かゆ》くなる」 「いや、そういう事を訊いてるんじゃないんだが……」  どこまでが本気なのやらと苦笑した築宮へ、不思議そうに首を肩越しに捻った法師の背筋で、ぴしゃりと跳ねた雫がある。途端に、 「わひゃああっ!?」  腰掛けから跳ね上がり、築宮へ身を翻《ひるがえ》してぺたりと尻餅ついての絶叫、渦巻く湯気をつんざいて谺《こだま》し、青年も一瞬のけぞりそうになったが、なんのことはない。  湯気が天井で飽和して、雫になったのがたまさか滴り落ちてきただけで。風呂場に入るとつい誰しもの口をついて出る、あの歌の通りになっただけである。 「ご、ごめんなさいっ。  でもなんか、背筋につべたいのが、  びしゃってきたから……」 「ああ、雫が落ちてきたんだな。  湯気が天井からぽたりとなんとやらで。  ……ごほん」  頷いたものの、空々しい空咳で法師から視線を外したのは、悲鳴に向き直った彼女が、尻餅をついた弾みで盛大に両脚を広げ、童女のように無毛の隠し処《どころ》を大っぴらに晒す姿勢になっていたからで。  卓上に一つだけ転がされた茹で玉子の、白身が艶々なのよりもっとずっと、露骨であり間の抜けた空気が間に流れて湯気と混じる。  なのに法師は青年が何をそんなに気まずげにしているのか、きょとんと気づかぬ顔つきで大きく脚、広げたまま。  それを築宮が、隠してやろうという心づもりだったのだろうが、彼女の脚の付け根の前に手桶を滑らせて置いてやったのは、もし見ている者がいたなら堪《こら》えきれずに大爆笑したこと間違いなしというほど、どうにも〈焦点〉《ピント》のずれた気遣いで。  ……と、そんな〈暢気〉《のんき》で色艶のあるのだかないのだか今ひとつぼやけた寸劇を差し挟みつつ、交替で法師も築宮の背中を流してやって、また湯船に浸かり直して、後は何事もなく大浴場を出た時には、二人は体の全部品を分解洗浄したかの清々とした快さで満たされて、ふわりふわりと〈水母〉《くらげ》が漂うがごとき足取りだった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  だから。  一風呂浴びて、体も心も、余りにも心地よい気だるさに弛緩しきっていたから。  後日思い返せば、法師は初めての風呂の素晴らしさを何度も話題の種にしたろうし、築宮はそんな彼女を微笑み混じりにからかいもするだろうと、二人はそれぞれに一つの幸せを分かち合って余韻に浸っていたから。  ―――その後に襲いかかってきた現実を、二人とも避ける事もできず、刃物のように鋭く尖った角で、〈大槌〉《おおづち》のように重い衝撃で、斬り刻まれ撃ちのめされたのだった―――  それは、大浴場を出て、二人が手近な空き座敷に潜りこみ、汗を乾《ほ》す爽快感に〈陶然〉《とうぜん》としていた時のこと。  慣れない入浴で、少々湯当たり気味ではあったが、初めての「あったかい」に法師はいたく満悦し、多幸症との診断が下されても仕方ないくらいのうっとりした笑みを絶やさず、座布団を折った枕にもたれ、なかば閉じた眼差し、口には幸せそうな、意味を為さない囁き声。  ふと身を起こして琵琶の包みを解いた。  築宮はそれを、さしずめ湯の感動を即興で琵琶の調べにして紡ぐのかしらんと、のんびりと見守ったのだが―――しかし。  ―――しかし法師は。  撥を絃に当てて、傾げた首の、何事か音を捉えようとするかの風情で固まって、しばし。  しばしが、長く引き伸ばされた。  聴きとろうにも聴こえないのか、〈怪訝〉《けげん》そうな表情は焦りへと引きつっていって―――  法師は――― 「きこえ……ないよ……?」  なにが、と問い返そうして、言葉にならずの築宮、そもそも彼の耳にはこの座敷の物音といって、二人の吐息か声、衣擦れの他には届いておらず、法師が何故そんなにも、困惑かつ不安の態なのか、見当もつかないのだ。  無言、築宮には見当もつかないが、この沈黙の底に潜んだ、とてつもない危うさがひしひし迫ってくるのは感じ取れた。  つい今の今まで、肌を〈火照〉《ほてら》らせるほどだった湯の名残が、たちまちのうちに退いて、粟粒に取って代わられる。  一体なにが―――なにを言えばいい?  〈逡巡〉《しゅんじゅん》するうちにも、法師の唇からころんと小石のように、いや、もっと切実な魂の〈欠片〉《かけら》が零れたように転がり出た言葉は。 「琵琶の音が、聞こえない」  法師の唇が絶叫の形へと歪んでいく。  悲鳴が座敷の空気を狂気で満たすに違いない、と築宮は思った。  むしろそうして絶叫してくれた方が、その意味は判らずとも自分も共に泣き叫んで、法師の絶望を共有できるだろうと、自分一人が取り残されるよりまだましだと、皮肉な覚悟を決めさえした。 「……きこえなく、なっちゃった……」  それなのに法師は―――  口は絶叫寸前で力なくすぼまって、きゅうと狭まって白目を狂気の相に強調しようとしていた眸も、辛うじて和らいだ。  けれどその落ち着きは、狂乱よりも遙かに哀しく。 「うぅ……」  張り裂けそうな程に開かれた口は、一つ風の音を鳴らして、それきりで収まって―――力ない〈嗚咽〉《おえつ》に取って代わられた。まだ激情のままにおらび叫んだ方が救われるくらいに、痛切な涙を伴って。 「一体……一体、  なにがどうしたって言うんだ……?」  問いかけても法師は答えず、琵琶を力なく投げ出し、床に突っ伏し肩を震わせるばかり、〈縷々〉《るる》とわななく肩の下からは、啜《すす》り泣き。  悲哀に長く尾を曳《ひ》く啜《すす》り泣きは、凍夜に軋む霜柱より青年の心に冷たく、月と星を覆い隠す嵐雲よりも黒々と不気味に迫って―――  主の手から離れた琵琶は、今や死骸のような荒廃を身に宿し、夜灯りの下にうらぶれて、目を背けたくなるほどに粗《あら》びて見えていた。  ……人通りも少なく、築宮が踏む床の軋みばかりが静けさの中に規則正しい句読点を置いていたのが、法師の庵《いおり》に近づくにつれ、薬物中毒に陥った〈油蝉〉《アブラゼミ》が〈放吟〉《ほうぎん》するにも似た雑音が混ざるようになって、聞いているだけでも足取りが乱され、ふらつきかけてしまう。  世界中の多くの人間の耳には虫の音など雑音としか聴こえぬと言う、そんな虫の声にさえそこに音律を聴きとるのがこの〈邦〉《くに》(〈乃至〉《ないし》は〈希臘〉《ギリシャ》国)の人間の聴覚なのだが、そんな耳でも鼻先に酢を塗られた犬の如く、顔の両脇からぽんと弾け飛んで逃げ出したくもなろうという。まさしく雑音で、台所用具だけを寄せ集めて全自動交響楽演奏装置を開発しようとしては失敗を繰り返している、狂った科学者でもどこか近くに隠れ潜んでいるのではないかという、築宮はそんないかがわしげな妄想に囚われた。  これに比べたら、酔っ払った狸たちが勢いまかせに打ち鳴らす〈腹鼓〉《はらつづみ》などはよほど上等の雅楽であり、この雑音というか怪音波のあおりを受けて、半径百米以内のか弱い麹《こうじ》菌あたりは死に絶えたとしてもおかしくはない。  微弱な音波が酒の熟成を促進させるという例があり、ならばその逆である種の波長が菌類の活動に悪影響を与えても不思議はない。音痴は酒をも腐らせる、の譬えである。  と好き放題な文句を並べ立てたが、その怪音の源が、どうやら法師の庵《いおり》にあるらしい事が近づくにつれ明らかになり、築宮は不安の蒼黒い指に囚われたという―――  そして法師は。  清《せい》(高音)濁《だく》(低音)はおろか呂《りょ》(長調)も律《りつ》(短調)もあったものかの音を、幻覚剤に中毒した蜘蛛が〈模様〉《パターン》も揃わぬ巣を織りなすように、出鱈目に掻き鳴らしつつ、虚ろな眼差しで座していたのだった。  音だけで五感に訴える情景を奏でていた琵琶なのに、今伝わってくるのはただ焦りばかりの、築宮はまさか法師が精神に突然の変調を来しでもしたのかと、敷居を跨《また》ぎかけてたたらを踏んだ。 「あの……お邪魔しても、いいか……?」  怖々と、だが乱調子の琵琶の音に掻き消されないよう強めの声音で呼びかけたにもかかわらず、法師の目は築宮に焦点を結ばない。  ことりと撥が床板に落ちて琵琶の狂い弾きが止んだのだって、彼の声が届いたからというより、たまさかそこで力尽きただけと思しく、手が弱々しい。  築宮がやってきたのにようやく気づいたように、首を彼へ巡らせたのだけれど、油が切れて止まる寸前の〈轆轤〉《ろくろ》のようにぎこちなく、青年の肝を冷やすほどに生気がない。  確かに昨夜別れる直前、彼女は突如として琵琶が弾けなくなった様子ではあったが、そんなのは一時の不調で、朝の陽の明るさにたちまち復活するのではないかと築宮は希望を抱いていたのだが、どうやら空しい願いでしかなかったのだと思い知らされた心地の、法師の目元にこずんだ隈《くま》、哀切な翳りは、おそらく彼女が庵《いおり》に戻ってからも一晩中琵琶と格闘していた事を示していた。 「あ……築……宮さん……?」 「……もしかして、昨夜ここに戻ってから、  ずっと弾き通しだったのか……。  少しは眠らないと、体に毒だ……」  彼女の身を案じつつ庵《いおり》の戸口を潜れば、日中の明るさを浴びてもなお屋内の調度はさながら死骸のように寒々しく、日頃は粗末ながらも清らかな庵《いおり》が死に絶えたかのよう。雰囲気までもが主の悲哀に呼応している。  日頃築宮が訪《おと》のうたなら、それこそ遊び相手に恵まれた仔犬のように体全体に喜びを満たして飛びついてくる法師なのに、今日ばかりはどうにも反応に乏しかった。  ゆっくりと、遅回しのフィルムのように緩慢な動きで首を振り、 「やっぱり、駄目だよぅ……」 「琵琶の声、どうしても、聞こえないんだ」  と昨夜も聞いた台詞を、壊れたレコードのように繰り返すばかりで、招き入れも拒みもせぬ法師に、しばし戸口でどうしたものかと佇《たたず》んだが、結局板間の縁に腰かけて、一体何事なのかを問いかける。  これまで琵琶の、というよりは音楽や芸術一般には縁遠く、法師らが使うような芸事にまつわる〈語彙〉《ごい》にも疎《うと》くて、果たして訊いたところで理解できるかどうか危ぶんだ故、昨夜は深く問わなかったものの、さすがの築宮も聞き流してはいられなくなったのだ。 「俺が聞いたところで、理解できないかもしれないが……その、『琵琶の声が聞こえなくなった』というのは、一体……?」  いつもなら、貧しいなりに青年にあり合わせの茶菓などを喜び勇んで振る舞おうとする志さえ失ったか、法師は琵琶を胸に〈項垂〉《うなだ》れるばかりで、答えが返ってくるまでの沈黙のいたたまれなさ、築宮がやはり訊ねたのは間違いだったかと後悔し始めた段になってやっと、ぽつぽつと、死ぬ寸前の〈蟋蟀〉《コオロギ》の〈喘鳴〉《ぜんめい》のような〈間遠〉《まどお》な間隔で、言葉を押し出す。 「こういう琵琶とかの弾き方って、  他の人は、どうやって覚えるのか、  わたし、知んないけど―――」 「わたしはずっと、  琵琶の声を聴きながら、弾いてきたんだ」 「その声が、どんななのか、  口じゃ、うまく言えない。  でもわたしにとっては、ほんとうで」 「その声がないと、わたし、うまく弾けなくなる……ううん、うまくとかじゃない。  ぜんぜん、弾けなくなる……」  ……もちろん青年は、笑い飛ばしも余計な合いの手を入れたりもせず、真剣に法師の言葉に耳を傾けたのだ。  しまいには、膝の間に顔を埋めて、我が身を甲斐なく思うあまりの涙声、啜《すす》り泣きの涙の雫に己を溶かして流してしまおうとでも言うかのように、切ない湿り気に満ちた法師の言葉を、一字一句逃すまいと身を乗り出して聞き取ろうとしたのだ。  しかしそれでも築宮には、象徴派の詩の類を朗読されたのと同じの、単語の意味は判っても全体の流れとしては理解できない説明で。  これでもし青年が、感覚と叙情の世界に生きる住人ならば、さも心得顔で〈首肯〉《しゅこう》して、詩歌のように韻律踏んだ言葉で慰めてやれたのかもしれないが、生憎彼は法師と同じ音楽の徒ではなく、詩人でも作家でもなく、胸の裡《うち》を埋めつくした疑問符が、顔に出ないようにするので精一杯。  ただ理解する事はできなくとも、法師がこれまで見た事もないほど〈懊悩〉《おうのう》し、打ちひしがれている事だけは感じ取れたし、到底そのままに見捨ててはおくべきではないと悟った。  立て膝の間に〈項垂〉《うなだ》れた、法師の頭にそっと触れて、焦りの汗に湿った髪を撫でる。  母からはぐれ、人の手に怯《おび》える仔猫のように、項《うなじ》を縮めたのを落ち着かせるいたわりと優しさで柔《やわ》く撫でながら、 「すまない……俺には、君の言うことの全部が全部、きちんと判っているかどうか。  でも、君がとても……そう、とても苦しそうなのは、判る」 「もしかしたら、俺にはどうしてやる事もできないのかもしれないが……。  でも、なんて言ったらいいのか―――とにかく、放ってはおけない」 「なんの解決にもならないかもしれないけれど、ちょっと気分を変えてみないか?  ここでじっとしていると、きっと琵琶のことばかり考えてしまうだろう?」 「……ちょっと二人で、歩いてみないか?」  この庵《いおり》、法師の住処、いつもは彼女の優しい巣であり寝床である侘《わ》び屋も、今日は焦りと苦悩しか育まないように思える。  法師の問題というのは、芸事に没頭するもの特有の障害で、ありていに言ってしまえば築宮の理解の埒外にあり、賢《さか》しげな助言などは便所紙のように丸めて投げ捨ててしまった方がまだ増しの、それでも言葉は足らずとも、傍にいてやる事くらいはできる。  傍にいて、彼女を連れ出して、この哀しみに沈んだ庵《いおり》以外の空気を吸わせてやるくらいなら、自分にもできる。それはただお節介な、無用のお世話なのかもしれないが、それでもできる限りのことはしてやりたいと、そう築宮は心根から念じ、法師の髪を指で梳《す》き、地肌をなぞった。想いと願いを籠めて。  法師は築宮に撫でられながら、無言で考えこむ風情ではあったが、やがて幽かに、触れていなかったら判らないほど幽かに頷いて、顔を挙げる。  眦《まなじり》に涙の雫を哀しく置いて、余り気乗りしない風ではあったけれど――― 「ん……そうだね。  ここでめそめそしてたって、琵琶の声、戻ってくるわけじゃないだろうし……」 「築宮さんとお散歩、すれば、  ちょっとは忘れられる、かも……。  良いよ、連れてって……?」  ―――こうして二人は庵《いおり》を離れる。  法師は築宮の〈襯衣〉《シャツ》の裾をちょんと摘んで、とぼとぼと物哀しげに、それでも琵琶を背に負って、後をついていく。  築宮は法師の、重く鈍りがちな足取りを引き離さぬよう、ゆっくり先立って歩いていく。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……二人が出ていった後で。  庵《いおり》からやや離れた物陰から、にゅうと突き出された鼻先の浅ましきは、野犬の物欲しげな面か、あるいは猫の隙を窺う〈地鼠〉《じねずみ》の〈狡っ辛〉《こすっから》くひくつくものか、否、そのいずれでもなかったが、二つを合わせた以上に、浅ましい。  ……酒場で築宮と法師に絡んだ、あの無頼の酔漢なので。今日は酒は抜けていると見えたが、替わりに欲得で目をぎらつかせ、法師の庵《いおり》から琵琶の乱音が止んだのに溜め息をついたのは、築宮のように法師を案じた心ではなくただ騒音と見なして、清々したといわんばかりに憎さげな。  二人が出て行ってから、戻ってくる恐れがないまで離れるのを待ちかねていたように、物陰から物陰を拾って庵《いおり》に入りこむのがいかにも人目を憚《はばか》る悪賢いすばしこさ、この男の心根が知れよう。  やがて庵《いおり》から、主が離れた隙をさらってあれこれ物色する気配が伝わってくる。もとより掛ける錠とてなく、開け放したままの侘《わ》び住まいなれど、好き放題していいという法はない。しかしそんな理《ことわり》など知ったものかの〈悪辣〉《あくらつ》な、この男は一体なにを、無一物なる法師の住処に求めているというのだろう――― ―――その頃のわたしは―――    と法師が、ぽつぽつと語り始めると、鈍りがちだった口もやや滑らかになって、いまだ知らざる彼女の過去の輪郭を、少しずつ浮き上がらせていったのだが、語りのうちに青年の脳裏に浮かんだのは、始源の暗がり孕《はら》んだ大密林の、〈驟雨〉《しゅうう》に煙る遙けき遠景だった。   ―――まだ、世の中のこととか、ぜんぜん知ってなくって(もちろん、今だって知ってるってわけじゃないけどさ)。 ―――お天道さまは、樹の上のほうで葉っぱの中に見え隠れ、いつもあたりは薄暗くって、物凄く雨が降る頃もあったし、うだるくらいに暑くなる頃もあったし、過ごしやすくて寒いくらいの頃もあったっけ。 ―――でもわたしは、そういう風に移り変わるのを、葉っぱの下でぼんやり見てるだけだったよ―――    二人が座るのが例の温室の、立ち並ぶ熱帯の樹々が想像を喚起したし、空気は草のいきれと花の薫りで〈糖蜜〉《シロップ》の濃さだから尚更の、匂いというより感覚の奥底に訴える刺激も手伝って、築宮は法師の語る過去の情景にそのまま我が身を置いているかの心地に囚われる。  ……少しでも法師の苦悩を忘れさせてやりたくて、庵《いおり》から連れ出したものの、さてどこに連れて行こうという当てもなかったのが、青年らしいと言えば言えたが、要は気が利かないだけ、それで足が赴くままにやってきたのがこの温室だったわけであるが―――  会話など当然弾むはずもなく、室内の樹々をぼんやりと眺めたりする、二人の間に手詰まりな沈黙が垂れがちに、こういう時にもっと上手に他人を慰めてやれればいいのだが、と不甲斐ない自分に築宮、内心臍《ほぞ》を噛んだ。  それでもどうにか法師の気を紛らわせようとあれこれ話題に心砕いて、なるべく彼女の苦悩の源である琵琶については触れないようにしていたのだが、何時しか話題はどうして法師が琵琶を弾くようになったのか、その〈経緯〉《いきさつ》へと流れて、そして過去の物語が糸車から端を繰り出すように少しずつ姿を現していったのだった。   ―――わたしのあったところは森の奥も奥、鳥が喋ったり猿が喚いたり、たまに虎なんかがのしのし歩いたり。人なんて、見たことなかった、その時までは。   ―――ある日ある時、木の枝を打って、下草を払って、その人たちはやってきたっけ。 初めて見たから、さいしょはなんだろうって思ったよ。列になって、ぞろぞろってさ。 お猿なんかも列になるけど、枝の上を渡っていくばかりだし、鹿は地面を歩くけど、二本足で立ったりしない。 だから、ああ、これが人間なんだなって。前に、仲間から少しだけ、話で聞いてた。   ―――その人たちは、わたしがあったところから、少し離れたところに天幕……っていうのかな、あれ。うん、天幕を張って、そしていろんな事を始めたよ。 羽のきれいな鳥だの、〈猩々〉《しょうじょう》だのをつかまえたり、木を伐《か》ったり、いろんな事だ。わたしは最初、その人たちがなにしてるのかわかんなくって、樹の陰からみてるだけだった。 でもある日、わたしのあったところのすぐそばまで、その人たちの一人がやってきてから、きこうとしたの。 『あんたたちは、なにをしてるんだろう?』 って。   ―――したらその人は、わたしを見てとってもびっくりして、逃げてっちゃった。 その頃のわたしは、いまと違ってそんなに喋れなかったから、言葉がうまく通じなかったのかも。 でも変な話だよね。その人と、そんなにかっこうは違わないはずなのにさ。わたしなんて、おっかなそうには見えないだろうにさ。 とにかく、どうしても気になったから、こっそりその人たちの天幕のそばまで行って、聞き耳たててみた。そしたら、こういうことだったみたい。 『ここで珍しい鳥や獣をつかまえて、別の国の商人に売る』 『鳥や獣だけじゃない。薬になる草や木、お香のもとになる樹、なんでも売れる』 ……その時は売ったり買ったりって言うのは、よくわかんなかったけど。    おそらくその一隊は、〈奔放〉《ほんぽう》な探検商人の一行だったのだろう。異国の特産を求めて奥地の危難をものともせず分け入り、そして高値をつけて売りつける。それらの品々の中には、海を越えて遙か遠く、この邦《くに》へともたらされたものもあるだろう。  時代が下れば鎖国ばかりが知られるようになったが、本邦の人間、特に商人の中には、〈波濤〉《はとう》を乗り越え、異国を駆け巡った勇敢なのが、確かにあったのだ。  だが話に聞きいるうちに築宮は、ディティールに奇妙な違和感を覚え始めていた。  もちろん、法師がそんな人跡未踏の地で生を受けたというのも凄まじい話だが、人は生まれる〈場処〉《ばしょ》を選べないものだし、確率としては低いが有り得ない話でもないだろう。  それより築宮の心に微細な引っかき傷を残したのは、商人たちを語る法師は、どこか自分を人間という生き物の埒外に置いているような、そんな語調だった事。まあ元々からして浮世離れした女であり、それは昔から同じだった、という事なのだろうが。  頷いて一人納得した築宮を、話に引きこまれていると受け取ったのか、法師は傍らの〈花邑〉《はなむら》を目線で撫でながら、言葉を継ぐ。   ―――そうやって、その人たちが天幕を張ってから何日かたった、ある晩のこと。 天幕のほうから、なんかが聴こえたの。 わたしが、それまでに一度も聞いたことなかった、音。 音と音とがつながって、川の流れみたいだったけれどそうじゃない。いちばん近いのは、鳥のさえずりだったけれど、それよりもっと不思議で、きれいで、わたしはそれがなんなのか、どうしても知りたくなってさ。 またそっと、天幕のそばまで、抜き足差し足忍び足、いったいなにがそんな音を出してるのか、確かめにいったのね。 そしたら―――   ―――わたしを見て、逃げてった人だっけ。 その人が、みんなが火ィたいてるとっからちょっと離れて、なにかを抱えてたんだ。それから音が出てたんだ。 うん、その時のわたしは知んなかったけど、築宮さんなら、見当がつくよね。 そう、楽器―――琵琶、だったのよ。 わたしが今持ってるのとは、形が少し違ってたけれど。    それが、法師が音楽というものに触れた、実に初めての機会だったのだ。  どうやら彼は、隊商の中でも酔狂な者だったようで、わざわざ密林の奥まで琵琶を持ちこんで、密林での苛酷な一日の終わりに、生き物が水を求めるように、音楽での癒しを求めたのだろう。  法師はたちまち魅せられたのだという。  それまでの自然の森の中にはない、人工の音の連なり、音と音を繋げて旋律と為し曲に編み上げる、人間の芸技を一度聴いて、忘れる事ができなくなった、夢中になったそうな。  つい用心も忘れて、法師はその弾き手の前に再び姿を見せたようだ。   ―――今度はその人、逃げたりしなかった。 やっぱりわたしの言葉はうまく通じなかったし、まだちょっと怖がってみたいだったけど、その人が弾いてたのを指さしして、にっこりしたら、安心してくれたみたい。 『これの音色が、気に入ったか』 ってきいてきたから、また頷いた。したら、ようやくその人も笑ってくれたんだよ。 ……他の人がその人を呼んだから、その晩はそれでおしまいになったけど。   ―――それからわたしは、その人が弾くの、聴かせてもらえるようになった。 でもなんか、天幕の人たちン中でも、いちばん偉そうな人は、琵琶を弾いて音を出すの、あんま好きじゃなかったみたいで。 だからその人は、琵琶を弾くときは天幕から離れて、わたしと初めて会ったところまでくるようになったっけ。お喋りとかは、あんましなかった。その人が弾いて、わたしが聴いて、夜が晩《おそ》くなったら、また戻っていって。   ―――わたしがそれを初めて聞かされたのも、その人の口からだった。 いつか築宮さんにも話したよね? 琵琶の秘密の曲のこと。うん、その人が教《おせ》えてくれたんだよ。お話しすることはほっとんどなかったけど、それでも、曲の合間合間とか、終わった後とか、その人が少し喋ったりすること、あったから。 それできいたんだ。琵琶には秘密の曲っていうのがあって、自分は一度でいいから、それを耳にしたいものだ……って。 今までわたしに聞かせてやった曲なんかより、きっとずっと素晴らしいものに違いないって。   ―――わたしには、その人が弾いてくれたやつだけでも、とってもとっても素敵にきこえてたから、そんな秘密のすごい曲なんて、もう想像もできなかった。でもその人は、秘密の曲のことを言ったとき、ほんとにうっとりした、夢でも見てるみたいな顔、してたなぁ……。    思うにその弾き手というのは、商人たちの間でもよほどの変わり種だったと見える。利を求めるのが習いの商人の中でもその弾き手は、その正体さえ判然とせぬ秘曲などを追い求めていたのだから。  ともあれ、〈浪漫〉《ロマン》と〈銭勘定〉《ぜにかんじょう》が〈相容〉《あいい》れないものであるかどうかには様々な論もあろうがその詮議はさておき、それから数日は弾き手が法師の住処を訪れ、琵琶を聴かせては戻っていくという、言葉少ない交流が何事もなく続いていたようなのだが。   ―――ある晩、その人が来ない日があってね。それまでは、〈毎日〉《まいんち》来てくれてたから、どうしたのかなって気になって、また天幕まで覗きに行ったんだ。 したら、なんか、天幕の人たちン中で、口げんかみたいなのが始まってて。 あ、ちょっと言い忘れてたんだけど、天幕の人たちは二通りあったみたいなのね。 わたしに琵琶を弾いてくれた人は、築宮さんのお国の人で、お仲間も同じだったけど、他に、わたしの国の人もいてさ。 見たかんじ、琵琶の人とそのお仲間のほうが、えらいみたいだった。他の人たちは、重い荷物はこんだりとか、森に道、切り開いたりとか、他にも色々させられてたみたい。 えらいほうの人と、わたしのお国の人たちとで、なんか言い合いっこしてたんだ。    法師の話はやや要領を得なかったが、おそらく探検商人たちと、彼らが雇った現地人の〈荷役〉《ポーター》や〈案内人〉《ガイド》の間で諍《いさか》いが生じていたようだ。なにが原因だったのか、金払いに不満があったのか、苛烈な使役ばかりを強いたのか、両者の了解に〈齟齬〉《そご》が生じたのか、いずれにしても苛酷な環境下、高い湿度と温度は人の体力をただでさえ削り取るし、水には〈悪疫〉《あくえき》を運ぶ虫がたかり、食物だって容易に傷む、そんな密林の中では人間の感情などたやすく険悪になる。  その夜は諍《いさか》いもいったん止んだかに見えたのだが、対立の根は商人達が思っていた以上に深かったのだろう……。  しかしそれに気づくのは、往々にして臨界点を超えた後。   ―――わたしには、なんでみんなが怒っているのか、怒鳴っているのかわからなかった。ただ、琵琶の人が端っこで、哀しそうな顔をしてたのに、胸の奥が痛いようなつかえるような、変な気持ちになったっけ。 きっと今晩は、もうわたしのところには来てくれない、琵琶を弾いてくれることもないだろうって、あきらめて帰ったよ。   ―――その、次の夜のことだった――― 今日は来てくれるかな、今日はきかせてくれるかなって、待ってるうちにも、天幕のほうが騒がしくなって。今まで聞いたこともない、すごい声とかがそっちから流れてきて。 わたし、びっくりして覗きにいった。 ―――そしたら―――    その情景を、築宮は想像しようとする。  天幕の中央に燃えている、夜過ごしの為の焚《た》き火。その焚《た》き火の周囲で、おめき、猛《たけ》り狂う人間の一群。  密林の夜は様々な物音に満ちていただろうが、それらを圧して響き渡る怒号と悲鳴。襲撃者も犠牲者も、いずれの顔も火灯りに照らし出されて引きつり歪み、まるで狂喜乱舞する魔物さながらだ。夜闇に閃くのは分厚く重い山刀の、肉に食いこみ骨を断ち割るくぐもった音と共に、〈血飛沫〉《ちしぶき》は噴き上がり刃を濡らし、羊歯の地面に吸いこまれ、濃密な血臭をあたりに撒き散らす。  駆けつける夜警も兵もいない密林の奥、商人達は彼らなりに勇猛で、武器を帯びていたものもあったろうが、現地の〈剽悍〉《ひょうかん》な男達の凶猛な怒りには抗しきれず、一人が斃《たお》され二人と続き、後は総崩れの、闇にまぎれて逃げ延びた者もあったかも知れないが、森の夜にはまた別の自然の脅威が待ち受けている。  やがては殺戮の旋風も吹きやみ、いまや天幕に残ったのは、商人達を始末し終えた現地の荒ぶれ者たち、だけ。彼らがそれでも死骸を坑に埋めたのは、死者への畏れからなどではなくして、死肉に惹かれて猛獣たちが寄ってくるのを避けただけだ。一通りの後始末を終えると、今度は残酷な勝利を祝した宴の、備蓄の酒が全て開けられ、いまだ残る血の臭いの中乱痴気騒ぎは夜明けまで―――  そんな一部始終を、この法師は目の当たりにしていたのだとか。   ―――今だったらどうにかして助けてあげたかったとか、そんなことも考えられたけど、あの時わたしは、一体何が起こってたのかも、よくわかんなくて。 森のお猿の中には、共食いするのもあったし、そういう事かなって。 それでも、琵琶の人がどうなっちゃったのか、それだけは気になって、ずっと天幕を眺めてたんだけど、その人の姿は見えなかった。逃げたんだろうか、それとも天幕のどっか、わたしの見えないところで倒れてるんだろうか。   ―――気になったんだけど、お酒呑んで騒いでる人たちが、あんまりにもうるさくって、きいてるだけでも耳がどうかなりそうだったから。しかたなくって、戻ったんだ。 そしたらね、いたんだ、琵琶の人が。 ―――いつもわたしと会ってたとこに、倒れてた。お腹と首から、血ぃ出して。わたしが戻ったときには、もうほとんど、息してなかったよ。きっとすれ違いになったんだね。   ―――抱き起こしたら、体の下には琵琶。体のほうはあんなになってたのに、琵琶だけは離さなかったんだ、その人は。 もう、顔もほとんど見えてないみたいだったけど、わたしってことはわかったみたい。 『匂いが、する……〈沈水香〉《じんすいこう》の……お前の匂いだ。お前は、なんにもされなかったか?』 ―――変なことをきくよねえ。わたしはもともと、その人たちとはなんのかかわりも、なかったんだから。だいじょうぶって言っても、通じるかわかんなかったから、手ぇだけ握ってあげた。   ―――したらね、その人は。 泣いたんだ――― 唇の端っこ、血の泡ぶくぶくさせながら。    くやしい―――くやしい―――と。  琵琶の秘曲の一手、聴く事も能《かな》わず、異境の地に果つるは無念、このままでは死んでも死にきれぬと、商人にして楽人は、文字通り血を吐くような未練と無念に歯軋りし、けれど流れる血の量彼の人の命を留める事叶わず、末期の息をがっと吐いて、法師の腕の中で事切れたのだと。   ―――ああ、これでこの人も死んじゃったんだ……なんか、すごくあっけなくて、でもくやしい気持ちだけは、喉にふとい棒つっこまれたみたいに流れてきたよ。 あと、うん、その人が冷たくなっても、わたし、まだちゃんと感じてなかったんだけど、琵琶を弾いてもらえることはもうないんだって、それを考えたら、たちまち哀しくなったっけ。 あのきれいな音は、もうきけない。 あの素敵な音楽は、もうきけない。 この琵琶は、もう鳴らない―――    楽人の死そのものより、音楽が失われた事を実感した途端に、法師は哀しみを意識したようだ。薄情だろうとか、情緒が欠落しているなどと誹《そし》るのは酷だろう。法師はそれまで人の死というものに立ち会ったことがなかったようだし、幼子が肉親の死をはっきりと理解できないのと同じ感覚だったろう。  ともかく、法師は楽人の遺骸を苦労して運び、川の流れに委ね、その時琵琶も一緒に腕に抱かせてやろうとしたらしいが。   ―――ふっと思ったんだ。 これ、わたしでも弾けないかなって。 もしわたしにもできれば、またあの音がきける。また音楽ができる。 だからわたしは、琵琶だけとっておいて、その人がしてたみたいにしようとしたの。   ―――あの人は、琵琶を弾くときは、どうしてたろう。 たしか、まずこうやって、琵琶に耳をあてて、なんかきくみたいにして―――    楽人は琵琶を奏ずる際、その胴や〈糸倉〉《いとぐら》に耳を押し当て、なにかに聴き入る仕草をしていたそうな。築宮からすればそれはおそらく、絃の調律とか、琵琶の板に歪みが生じていないかどうかを確かめるための行為だったと思われるのだが、法師にとってはそれが始まりとなった。  ―――琵琶の声が、聴こえたのだという。  それがどういうものなのか、彼女自身上手く言葉にできないようだったが、とにかく法師には琵琶の声が聞こえたのだ、と。  その導きがあれば、いままで琵琶に触れた事もなかった自分でも、あの楽人の手のようにかき鳴らし、奏でる事が可能になったのだ、と。その後楽人の遺品の琵琶は、異国の気候に耐えきれずに壊れてしまい、やがて法師は今の相棒を手に入れることになるのだが、それはまた別の物語―――  そうして、長い長い話は終わり、時間の流れは二人が腰を据えた温室に戻ってきて、築宮は〈詠嘆〉《えいたん》の思いに大きく呼吸したが、甘い花の薫りの中に血潮の生臭いのが混ざっているような気がしたのにはぎょっとした。が、あくまで気のせいだったようで、話に引きこまれた余りに感覚に狂いが生じたらしい。  それくらい、法師の語りに引きこまれ、慰めるつもりが一方的に話させる結果に終わって、いささか〈忸怩〉《じくじ》の気持ちがよぎらないでもなかったけれど、それで彼女が蔵していた過去への驚異と感嘆が減じる訳ではなかった。 「しかし、驚いた―――  つまり君は、その琵琶の腕前、どこかで師匠の誰かについて、しっかり学んだって訳じゃないのか……」 「だと言うのに、あんな美事な〈業前〉《わざまえ》で……」  始めて彼女の弾奏を聴いた時の驚きがまた新たに、築宮はまじまじと法師を見つめ直したのだが、背後の、蜜を浮かべて甘そうな〈花群〉《はなむれ》と裏腹に、その横顔は物憂げに沈んでいた。 「でもわたしは、その、琵琶の声がなかったら、ちゃんと弾けないんだよ……」  顔ばかりか、声まで暗く澱《よど》んでいて。  当然だろうと、築宮はただただ痛ましい。  ただひたすらに打ちこんできた芸事の技が、ある日突如として、蛤《はまぐり》が吐いた息の中に現れるという幻の如く消え去ってしまったその喪失感と〈寂寥〉《せきりょう》、衝撃は、いかばかりのものかと察するだに余りある。 「なのに、今は琵琶の声、きこえなくなっちゃった……わたし、もう、弾けなくなるのかな……」  ……過去の追想という長い長い回り道を経て、その妖しくも残酷な、そして哀しい情景に、途中で法師の苦悩は置き去りにされたようではあったがけして解消されたわけでなく、結局こうして始まりに戻ってしまって、築宮も改めて考えこんでしまう。  そもそもが彼女が、琵琶を弾くのがままならなくなった、その原因というのがどうにも感性と感覚の、築宮が知る物理の則《のり》から外れた文脈で語られており、彼の知識や経験で解決できる問題には思われない。 (判らないが、しかし、考える手助けくらいなら……)  原因そのものは解き明かせずとも、状況を整理することによって、今まで見えてこなかった観点も現れるのではないか……築宮は温室の〈硝子〉《ガラス》の〈天蓋〉《てんがい》を透して差してくる雲の影が、官能的な弾力に満ちた緑の苔の〈絨毯〉《じゅうたん》をゆっくり横切っていくのを見つめつつ考えて、ややあって。 「なにか、その、『声が聞こえなくなった』時の前後の事で、心当たりはないか?  普段とは違う、変わった事があったとか」 「君がそういう風になったのは、  確か昨夜、風呂を使った後で……あ!」  そういえば法師は、風呂、温かい湯に全身浸かったのは昨夜が初めてだと言っていなかったか。築宮には日々の習慣となっている入浴でも、法師にとっては大層新奇な経験であったに違いない。  風呂と音感の喪失がどう結びつくのか、風が吹けば桶屋が儲かったり、大陸で蝶々が飛べば海を隔てた国の経済市場が乱れたりといった式の、解き明かすには複雑怪奇な因果関係が介在していそうだが、築宮はとりあえずその着想にしがみついた。 「温かいお湯に浸かった、そのショックというかなにかが影響しているのでは……」 「……ごめん。でも、たぶん違うよ」  しがみつこうとした蜘蛛の糸がふいと手の届かぬ高みまで引き揚げられたかの脱力感。  糸の端を握っていたのがお〈釈迦〉《しゃか》様ならぬ底意地の悪い妖精で、法師を見やる築宮の眼差しが、まるでその妖精を前にしたかの怨みがましいものになる。どうにか捻り出した推量の、芽をたちまち摘まれてしまって。  まあ、冷静に考えれば当て推量にも程があり、築宮は己の間抜けさ加減にほとほと厭気が差して押し黙ったものの、それでも法師がなぜ即座に否定したのか、腑《ふ》に落ちない思いは残った。 「ほんとはね、昨夜が初めてじゃないんだ、  琵琶がなにも言ってくんなくなったのは」 「ちょっと前から、そういう時があってさ。  ……その時は、すぐに元に戻ったから、  あんまし気にしてなかったけど」 「それは、いつ頃から?」  ……答えが返ってくるまで、ためらいに満ちた間があった。敷いた〈茣蓙〉《ござ》の、毛羽だったのを爪の先でむしりつつ、顔をちらちら窺うような法師に、築宮は〈漠然〉《ばくぜん》とした不安を抱く。  居心地の悪い予感は、法師が継いだ言葉に的中した、してしまった。 「―――いつ頃からって言うと、築宮さんと仲良くなってからだと思う―――」 「――――!」  もちろん法師の声音に、非難の棘《とげ》など一筋もなかったし、彼に訊ねられなければ口にもしなかったに違いない。今だって、言葉にするのがいかにも苦しげな、申し訳なさそうな、けれどそれ以外の答えは見つからないから、仕方なしに押し出したといった風情で。  それでも築宮は、深い地の底に引きずりこまれて地圧に骨まですり潰されるような、黒く濁《にご》った衝撃に押し包まれる。耳元で血が引いていく、視界の中で色が薄れて、緑豊かな筈の温室の景色が枯れ果てた死の陳列室に化したかのよう。  知らず、法師から身を遠ざけるように、〈茣蓙〉《ござ》の上に後ろ手をついた築宮だったが、口にした彼女自身も罪悪感に耐えかねてか、抱えこんだ膝頭に額を撃ちつけていた。 「わたし、ひどい事言ってるよぅ……っ。  でも、だって、こんなのってない」 「あんたを好きになって、  いろいろ楽しいこと、気持いいこと、  たくさん教えてもらって」 「なのに、その楽しいのがいけないっていうみたいに、琵琶はなんにも言ってくれなくなった」 「琵琶を弾くのは、わたしにとって一番だけど、あんたの事だってそうなのに……っ」 「ねえ築宮さん、わたし、なんにも知らないで、琵琶ばっか弾いてないと駄目だったのかな……あんたが好きとか考えないで、楽しいこととか、全部なしで―――」 「うぅ……あっ、ふ、くぅぅ……っ」  〈嗚咽〉《おえつ》にくぐもる声音、目頭を押し当てた袴に広がっていく濡れ染みは涙、なにより痛切な、法師の心の現れとしての。  そして築宮も、法師の涙に合わせるように、なりふり構わぬ〈慟哭〉《どうこく》の発作に襲われ、突き上げる感情の奔流に喉が痛いほど。  どうしてこんな、樹木の翠は滴らんばかりに鮮やかなのに、花の薫りは息苦しいほど甘いのに、〈木漏れ陽〉《こもれび》は辺りを水底に沈めたかのように物柔らかなのに、どうして法師は、そして自分は、こんなにも恵深い世界から隔絶され、哀しみの淵に叩き落とされてしまっているのだ―――  芸事に身命を捧げた者には、他者との関係を絶ち、孤独の無明に我が身を置いて、ひたすらに〈研鑽〉《けんさん》を深め感性を研ぎ澄ますような、想像するだけで身震いするほど険しい道を選ぶ人種もあるという。  法師自身は自覚していなくても、そういった人種だったのだろうか。  ならば自分が、法師と情を通わせてしまったのは、彼女が琵琶の道を行く妨げになってしまったのだろうかと思いつめる築宮の、胸の中に虚ろな孔が開いてしまったかのような、その孔から感情が〈揮発〉《きはつ》していくかのような。  哀しみに打ちひしがれる二人の頭上から、はらりと木の葉が零れ落ちる。一枚と数えればもう一枚、二枚三枚と連なって、後は幾枚も幾枚もはらはらと、儚《はかな》く、物哀しく落ち葉が〈木漏れ陽〉《こもれび》の斜線と影の中に舞う。  不変の温帯に保たれた温室の中でこの唐突な落葉は、目を疑って然《しか》るべき異変だったのだろうが、樹々が二人の悲哀に感応し、〈惻隠〉《そくいん》の涙を送る代わりに葉を落としたと思えば似つかわしい。  それから、どれだけの時間を悲嘆に暮れて過ごしたのか、どちらか先に立って温室を出たのかはっきりせず、それくらい二人は憂愁の触手に絡めとられていたのだ。  手も繋がず、腕も絡めず、並べた肩を、〈悄然〉《しょうぜん》と落として二人は庵《いおり》に戻る。  足取りは、行きよりも遙かに重く、なにかを口にしたところでまともな会話が成り立つとも思えなかったが、かといって無言のままでいたら押し潰されそうで、問いかけてはみたものの、築宮の声音は本人でさえぞっとするくらい、平板で情動を欠いていた、抑えつけられていた。 「……そういえば君が、秘曲を探しているというのは、件の弾き手の影響で……?」 「うん……死んじゃう間際まで、あの人はその事だけを考えてた……」 「それくらい、聴きたがってた曲を、わたしもどんなのか、知りたくなってさ……」 「もし聴くことができて、そして弾けたなら、あの人へのたむけ……っていうの?  それになるんじゃないか……って」  過去の楽人が、その死の間際に残した言葉が、法師にとって道標になったのか、呪いとなったのか、それはいまだ明らかにならず。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  さて、他に行くような処《ところ》もなく、とぼとぼと戻った庵《いおり》は、出る前と比べてなにかが妙だった。どこがどう、とはいえないのだが、屋内になにか違和感がある。  ……痕跡は一応消されているようだが、中が物色されたような気配があったのだ。  すわ空き巣かと築宮は〈気色〉《けしき》ばんだのだが、法師はただ苦笑しただけだった。 「わたしンとこに物盗りに来たって、  なんもないのにねえ」 「持ってかれて困るようなのは、この琵琶くらいだけど……これだって、そんなに大したもんじゃあないんだよ」  と大して気に病んだ様子もなく、今の彼女に、盗人に慌てるような心の余裕もないのだろう。  なるほど法師の言うとおりなのかも知れないが、築宮はなにやら言いしれぬ不吉な兆しを、庵《いおり》に残る盗人の気配に感じ取っていた。  この物好きな盗人の侵入は、なにかの前触れ、それも〈端倪〉《たんげい》すべからざる事態の始まりであるかのように、青年には感じられてならなかったのである。  ……築宮と法師の交情に昏《くら》い翳りが被さるようになってきたのと時期を同じくして、旅籠に〈頻発〉《ひんぱつ》するようになった怪異がある。  客やお手伝いさん達の口から語られるその怪異は、奇怪な小人達の一群という姿をとっていた。  たとえば〈深更〉《しんこう》、とある客が異夢に魘《うな》され、寝汗が心地悪く、夜具がひどく重く感じられて跳ね起きようとする。と、あろうことか掛け布団が膠《にかわ》で固められたように身動きならず、そればかりか室内に無数の気配が充満し、耳元には囁き交わす声が近く遠く響く。声といっても、紙の上を針の尖端で引っかくように微細で、なにを言っているのかよく聴き取れない。まるで小虫ほどの大きさのモノが、そのちっぽけな喉一杯の声量で喚き散らしあっている、といった塩梅だ。  何事かと、辛うじて自由になる頭を枕の中で巡らせれば、常夜灯や障子戸からの遠灯りの中に小指ほどの大きさの形の、なにやら人の姿した輪郭が浮かび上がるのだが細かな顔つき、格好までは見わけられない。ただでさえ室内の灯りを落としているのに、そのモノときたら全身墨を被ったように黒々として、黒い〈隠元豆〉《いんげんまめ》の莢《さや》に細い手足を着けたような有り様の、一つでも〈薄鬼魅〉《うすきみ》悪いのが部屋の調度や座布の上、ところ構わず一面を埋めつくして数えきれないほど湧いているとあっては。  それら異様の小人の群が、卓に登って転がり落ちるわ畳の縁にけつまずいてつんのめるわ、灰皿の中で灰まみれになっているわの好き放題の限りを、それでいて床には影の一筋も落としていないのが、いよいよ妖しの相を際立たせる。  そうやって室内をてんでに〈跳梁跋扈〉《ちょうりょうばっこ》しているだけで十二分に人の心の〈平衡〉《へいこう》を奪う異景であるのに、やがて小人達の動きの中に一つの意志が生じるとあっては、部屋の客が封じこまれた布団の周りに輪となり、じりじりとその包囲を狭めてくるとあっては。  逃れようにも布団が重く手足は麻痺したよう、なのに小人共の流れは今やはっきりと客の顔を目指し、列を作り、蟻の一軍が敵性勢力の巣穴に突入するかの如く、着実に、客の顔へ、口へ。  体の中に入りこもうとしている―――!?  仰天して口を閉じたところで、鼻の孔は開いたままなのが人の体の造りというもの。口が駄目だと知るや、小人達の行軍の鉾先は鼻孔へと転じ、鼻の孔の縁にその黒い腕を掛け、目鼻立ちも定かならぬ頭を逆さにねじこもうとして―――  大概の客は、ここで堪えきれずに絶叫の、恐怖故の凄まじさは、障子紙を振動させ、電灯の傘の裏に溜まった埃まで舞い上がらせ、鼻孔から侵入せんと〈目論〉《もくろ》んでいた小人も列を為して待機していたのも吹き飛ばし、しまいにはその一画の他の客まで叩き起こす。  眠りを破られた他の客達が駆けつけてみると、怪異は痕跡も残さず失せてそれきりの、ただ部屋の隅で胎児の姿勢に丸くなり、がたがた震える客の姿を見いだすのみ。  はじめはそれこそ夢でも視たのだろう、人騒がせなと苦り切るか、さもなくば笑い飛ばすというのが話を聞いた客の大半の反応だったのだが、哀れな犠牲者の数が徐々に増えていき、昨日笑い飛ばしていた者がその夜に同じ怪異に見舞われたりして、更に一夜のうちにあちこちで発生したりする事も多くなり、〈迂闊〉《うかつ》に軽んじることもできなくなった。  中には気丈な客もあって、取り乱すどころか恐怖を胆力でねじ伏せて、臍下丹田からの気合い一声で金縛りを振り払い、枕元まで寄ってきていた小人の一体へ、まとわりつく蚊を撃つように掌を叩きつけた。なんとも〈豪毅〉《ごうき》の人もあったものだが、後先のことを考えていたとは思われない。  間違いなく叩き潰したものの、手応えが無く、不審に掌を確かめれば、ぬるりと滑った。夜目にも黒々と濡れて、叩きつけたこちらの手の皮が裂けたかとぎょっとなったがそうではない。痛みはなく、掌にこびりついていたのは、墨汁だったという。  畳の上にも墨の染み、なんのまやかしだと首を傾げた次の瞬間に―――   ―――ばしゃっ―――    と濡れ雑巾を叩きつけたような音が座敷一杯に鳴って、走り回っていた他の小人達が一斉に、形を失い崩れ去り、後に残されたのは染み、染み、染み、真っ黒なのが畳一面。  ……いやはや、洗い流すのが一大難事で、結局その座敷は畳の総入れ替えを敢行する羽目になったとか。  だが、眠りを乱されたり部屋が墨の染みだらけになったりしているうちは、それはそれで大いなる迷惑ではあるが、まだましだったようだ。  というのは、かの小人の一群がそもそも眠る人間になにをしようとしていたかを思い出していただきたい。左様、眠りの隙をついて口や鼻などから体に入りこもうとしていたわけだが、ほとんどが途中で気づかれ、彼らの〈目論見〉《もくろみ》は不首尾に終わっていた。  それが、ついに取り憑かれてしまった客が現れたのである。犠牲となったのは、姉妹で一つの部屋を取っていた女二人連れの客の、その姉の方―――なお彼女達が取っていた部屋というのが、元々いた部屋からつい先日気分を替えたいと部屋換えしたらしいのだが、それが何時か築宮青年と琵琶法師が、地下酒場の〈破落戸〉《ごろつき》から逃れだした後に潜りこんだあの洋間だったりしたのは、なにかの暗号であったろうか。  ともかく、夜半妹が寝苦しさに目を覚ましたのは、布団を並べていた姉が妙な呻《うめ》き声を漏らしたからで、眠気に濁《にご》る目を擦り擦り枕元のベッドスタンドのスイッチを捻ると、半開きの姉の唇の間に、黒い小人が潜りこんでいくまさにその瞬間の、見ている間にも輪郭のはっきりしない足をばたつかせ、口の中に完全に没した。妹はこの夜半の怪異の噂を聞いており、小人達は大群で現れる筈だが部屋には残りのモノの姿が見えない―――まさか、自分の目覚めが遅くて、既にほとんどが姉の体の中に? と〈慄然〉《りつぜん》となる妹の前で、ごくんと姉の喉元が〈嚥下〉《えんか》の動きに鳴ったのがなんとも忌まわしく、妹は耐えきれず〈喪神〉《きぜつ》した。  翌朝目覚めると、姉は既に起き出しており、たちどころに妹は夜半の光景を思い出して取りすがったのだが、姉はといえば至って平静で眠る前と変わりなく、恐る恐る昨夜の出来事を告げてみたのだが〈欠片〉《かけら》も覚えていない様子。妹は姉に異状がないのにひとまず安堵して、きっと夢かさもなければ幻覚の類だったのだろうと自分に言い聞かせ、話はそれでおしまいに―――なる筈がなかった。  といって、墨色の小人達に由来して、体中が黒く染まったり口から墨汁をとめどもなく吐きだし周りを墨の池にしたとか、そういう見やすい妖異変化には非《あら》ず。  その日の午後を過ぎた頃から、姉の振る舞いの〈奇矯〉《ききょう》な部分が目立ち始めた。  この女性、女学生時分にピアノを学んでいた事があって、といって大層な先生について身を削るような厳しい修業を積んでいたという程でない。学校帰りの手習いの、それなりに苦労もあったろうが、おおよそ気楽な取り組みで、長くは続かなかった。光り輝く才能もなければ、本人にさして情熱もなく、習いたいと思い立ったのだって〈麻疹〉《はしか》のような一過性の衝動で、辞めた後もこだわりの尾を曳《ひ》かず、せいせいとしたものだった。  それが、突如としてピアノ熱が再発したのである。昼食の後もやけにそわそわしていると妹が不審に思ったのが始まりで、ピアノを弾きたい、いや弾かなくてはと旅籠の中を駆けずり回り、打ち棄てられた区画にアップライト式のピアノを備えた遊戯室を発見した時には既に息も絶え絶え、這うようにピアノに取りついて、白黒の鍵盤を叩き始めたはいいが長いこと忘れられていたピアノは調律が狂い、こちらも長いこと顧《かえり》みられなかった姉のピアノの腕前は、運指もままならないまでに衰え錆びついて、音階も旋律もあったものかで、味噌を腐らすような演奏に、後から追いついた妹は耳に指栓して床を転がり回った。  それからが大騒ぎで、どれだけなだめすかしても姉はピアノから離れようとせず、それどころか止めに入った妹の手に囓りつくわ髪振り乱して頭突きをくれるわの大立ち回り、寝食も忘れ、外界を締めだし、ピアノから離れてからの時間を埋め合わせようとするかの如く一心不乱、を通り越した狂気の様相を漂わせ、ぶっ通しで滅茶苦茶な独奏を続けること丸三昼夜に及び、ついには消耗しきって、白目を剥き泡を吹いて後ろ様にぶっ倒れた。  ……その後、お医者役のお手伝いさんが手を尽くし、妹も献身的な看護を続けてようやく姉は意識を取り戻したのだが、その時にはピアノの〈狂乱熱〉《デリリウム》は嘘のように消え去っていて、彼女自身も〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》、ただ、 『その時は、どうしてもピアノを再開したい、続けたいって思って。昔辞めたのだって、本当はあんな中途半端はいやで、できれば一生打ちこんでいたかった……そんな気持ちが湧いてきて。今はぜんぜんそんな狂ったような衝動はこれっぽっちもないけれど』  とそんな〈述懐〉《じゅっかい》を漏らして、それでぐったり疲労して枕に頭を埋めた。  彼女がそんな風に狂乱した原因を、噂好きなお手伝いさんなどは、あの遊戯室のピアノには、志なかばにして〈夭折〉《ようせつ》したピアニストの無念が取り憑いていて、その意志を継がせるべく人を誑《たぶら》かすのだ、などともっともらしい縁起を説いたが、妹は薄々勘づいていた。  あの夜眠れる姉の体に入りこんで取り憑いた、黒い小人の一群が姉に狂気を植えつけたのだ、と―――  そしてこの姉妹を皮切りに、同様の狂熱に襲われる者がちらほらと現れ始めた。  取り憑かれる者は老若男女問わなかったが、その行動は共通して、かつて僅かな期間なりとも手に染めた、芸事ないしは競技の類があれば、それへの情熱と未練とが再燃し、他の一切事を排して狂気の没入を見せるというものだった。  で、数日間、つまりは取り憑かれた者の体力の限界がくるまで没頭した挙げ句に昏倒する、その後はなんでそんな狂気に駆られたのか本人達にもよく判らないという事まで同じだったが、一番の謎は、この狂疾をもたらす黒い小人どもがいったい何故現れて、なんのために人に取り憑くのか、という事だったのである……。  黒い小人共の〈跳梁〉《ちょうりょう》はその後も続き、客達を悩ましせしめて了《おわ》るところを知らず、やがては旅籠の管理側、令嬢とお手伝いさん達に苦情がそれこそ礫《つぶて》の如く浴びせかけられる流れとなった。  旅籠は昔から様々な怪異が言い伝えられていたし、今でもそれらに遭遇するのも珍しい事ではない。ただそれらは他愛ない怪がほとんどで、出会った者も後から思えばいい話の種ができたくらいに受け止めて、それで客と怪異はどうにか共存してきたのだ。  それがこの小人共に関しては、旅籠の様々な記録にも口伝にもかつてなかった事であり、被害も相当に深刻で、なにしろ狂疾に囚われた者は正気を取り戻した後も消耗しきって長く床で養生を強いられる羽目となる。  さすがに静観もしておられず、令嬢達はあれこれと小人共を鎮め、祓う為の手を尽くしたのだが、伝えられた限りの〈追儺〉《ついな》の儀も〈魔除〉《まよ》けの札も、その〈霊験〉《れいけん》は無きに等しく、なにしろそもそも一体如何なる因縁によって彼らが湧いて出るのかも不明なのだ。  旅籠の方としても、〈荏苒〉《じんぜん》手をこまねいているのではなかったが、取りうる対策としては、客達の部屋を移すぐらいの消極的なのが精々なのだった。  というのは、被害が多発してから判ったことなのだが、小人共が出現するのは水路沿いの部屋部屋に限られているようで、水路から離れたところか階上の部屋では、それらを見たという客がいなかったからである。  〈却説〉《さて》―――  黒い小人の怪異が話題の〈俎上〉《そじょう》に登らぬ席は遊戯室の〈四方山〉《よまやま》話にも、廊下で足を止めての無駄話にもないのが常態となりつつある日々の中で、何故か怪と同列に並べて語られるようになった人物というのがある。  ―――琵琶法師、だった―――  彼女の庵《いおり》もまた水路沿いにあるわけだが、庵《いおり》とその周囲に限っては、小人共が現れたという話が聞かれないそうで。  もともと彼女を訪《おと》のう者など滅多になく、泊まり客も人通りも疎《まば》らなその一画の事情なのに、なにを見てきたようなという感があるのだが、噂は敷石の隙間を這う〈百足〉《ムカデ》の如く秘かに広がり、梁に辛抱強く隠れ潜む毒蜘蛛の如く陰険に人々の心に沈潜した。  その噂というのは、何故法師の庵《いおり》に限って怪異が現れないかにまつわる話なのだが。  噂の常とてあれこれと〈尾鰭〉《おひれ》がついたものが、つまりは彼女が、名香を隠し持っているからだという一事に集約された。  もとより薫り高い香というのは、心身を浄め鎮めるものとされるが、薬効はそれに留まらず、魔を祓い除けたり逆に引き寄せたりの〈霊験〉《れいけん》まで秘めているという。  世を忍ぶ悪魔学の徒が、五芒の星の魔法陣を描き召喚術を執り行う際にも香の薫煙は欠かせないというが、これは魔物への供儀であると同時に護身の為の結界であるそうな。  また、大陸は漢の時代の武帝が先だった妻の面影を忘れがたく、〈反魂香〉《はんごんこう》なる名香を焚《た》くと薫煙の中に彼女の姿が立ち現れいでたという故事もあるし、かの西行法師が山中に隠棲していた折り孤独に耐えかねて、野晒しの骨をば蘇らせて友にしようと術を執り行った時にもその〈反魂香〉《はんごんこう》。  と、いささか博物学的な例証が並んだが、要は香の〈霊験〉《れいけん》の話で、魔を斬り祓うような利剣でもなく、嚇《おど》し追い払うような威容ではないが、ただ鼻に芳《かぐわ》しいだけの薫りと侮るなかれと、多少は証左になったろう。  更に香というのには、動物由来のものと植物由来のものがあって云々云々……いや、〈蘊蓄〉《うんちく》の羅列から旅籠を舞台とした物語の流れに戻すとして―――  兎《と》にも角《かく》にも、琵琶法師が水路沿いに住まいしていながら、黒い小人達の害を被らずに済んでいるのは〈霊験〉《れいけん》あらたかな名香を秘かに隠しているから、というまことしやかな噂が、いつしか人の口の端に上るようになっていた。  それでも始めは、あんな貧乏暮らしで持ち物らしい持ち物といったら古ぼけて薄汚い琵琶だけ、食べ物だってそこらの草を毟《むし》って菜《おかず》にしているような女が、なんでそんな稀少な物を持っているのだ、と冷静に疑いを挟む口もあった。  大体あの女と来たら、琵琶を弾くかさもなければお話をせがむくらいで、〈高邁〉《こうまい》な知恵も見識も持ち合わせぬ愚か者、そんなのに有り難いお香など似つかわしくないと〈揶揄〉《やゆ》する者もあった。  だが、怪異の害が無視できないところまで〈頻発〉《ひんぱつ》するとなると、窮状は分別を曇らせる、人々の考えは、ひょとしたら持っているかも知れないいやきっと持っているに違いないと移り変わり、それだけならまだしも、そういう魔除けがあるのなら、何故一人だけ恩恵にあやかっているのだ、と責める色合いさえ帯びるに至った。  持っているかどうかも判らない物をあるに違いないと確信するだけならまだともかく、それを法師が独り占めしていると疑心暗鬼におちいるのは、いささか不自然な流れで、訝《いぶか》しむ口はないでもなかったけれど大勢には流される。  ……だがもしここに、口碑伝承を研究する学徒あたりが居合わせて、噂の流れを〈鳥瞰〉《ちょうかん》し、分析したとしたなら、流れの源と、人々が見落としているある事実に気づいたろう。  法師が香を隠しもっているというその噂、誰から聞いたと、織物の綾糸を追うように丁寧に遡《さかのぼ》っていけば、そもそもの出処はあの地下酒場に辿り着き、下卑た言葉と身振り手振りで語る男に行き当たったはずだ。  あの行いよろしからぬ酔漢に、法師を嘲笑し弄《もてあそ》ぼうとして、築宮を〈憤慨〉《ふんがい》せしめた男に。  そして、被害に遭った者たちと同じ水路際の座敷に部屋を取りながら、黒い小人共の怪異など見た事もなければ聞いた事もない者がもう一人いるのを人々が見落としている事も判明しただろう。  その客とは、過去の記憶を失っているという触れ込みの若い男の―――そう、築宮清修その人だった。  ―――そして物語の表面に、人の悪意と欲とが、沼地の〈泥濘〉《でいねい》に膜を張る油のように浮かび上がっていく―――    ……築宮は、法師の苦悩の訳を知ってなお、彼女のもとに通うのを止めずにいたのだ。  鳥の雄だって、抱卵の間に樹の虚《うろ》の中へ閉じこもりきりになった連れ合いのもとへ、労を厭《いと》わず飛んでいっては餌を届ける。たとえ気の立った雌に強《したた》かに啄《ついばま》れたとしてもだ。  鳥頭、と〈揮発〉《きはつ》性の記憶の悪し様な喩《たと》えに用いられる羽毛の生き物でさえ、それくらいの辛抱強さとまめまめしさを持ち合わせているのに、一応は霊長の親玉とされる人間の自分が、相手から多少心に痛い言葉を聞かされたからとて足が遠のいてしまっては、いささか不人情に過ぎようと築宮は日を置かずに法師の庵《いおり》へ。  お互いの頭を冷やし、気持ちをしっかりと確かめるための冷却期間というのもなるほど必要なのかも知れないが、熱してひとたび冷めきってしまうと元に戻らないものだってあるだろう。  ともかく、そうして法師の庵《いおり》に日参していた築宮だったが、やはり彼女の具合は〈捗捗〉《はかばか》しくなく、琵琶の〈業前〉《わざまえ》も不調が続いたまま。あの神技の冴えは永遠に失われてしまったかの如くで、法師がどれだけかき口説き、なだめすかし、果ては哀願しても琵琶は答えてくれず、絃は歌わず、猫の欠伸のように間延びしきった音を漏らすだけ。  ただ築宮には、あの至妙の弾奏が失われてしまった悲劇もさりながら、法師が悲嘆に泣き暮らしているのが何より辛く、哀しかった。  肌の色艶も悪く、顔も窶《やつ》れて面変わりしてしまったのが哀れで仕方ない。  築宮に対してもよそよそしいというのではないが、口数少なくなり、戸口から呼びかけてもぼんやり気の抜けた顔を向けるばかり、その眦《まなじり》には涙の跡、食事さえおろそかにしているのが明らかな、唇が粗《あら》びて頬も痩《こ》けて。  慰めの言葉など空しいばかりだし、気持ちを奮い立たせてやろうにもろくな手だても思い浮かばず、庵《いおり》を訪れたはいいが、法師と二言三言実のない会話を交わしてはお互い黙りこくり、重苦しい沈黙に時を過ごして、砂を噛むような無力感を新たにして立ち去るしかない、というのを築宮はこのところ何度繰り返したろうか。そういえば二人は、もう何日もの間、触れ合う手もなく、抱き合ってもいなかったのだった。  そんな風にただ法師の事ばかりを考えて明け暮れしていたものだから、築宮は最近旅籠を騒がせている黒い小人の一群の怪異を知らずにいたのだが―――それらがよく現れるという水路沿いに位置していながら、庵《いおり》にも築宮の座敷にも何故か怪異は寄りつかなかったせいもある―――ある日否応なしに怪異を巡る一連の騒動に巻きこまれる羽目になったのである。  それは、庵《いおり》に法師の姿が見えず、かといって今の彼女が遠出するとも思えず、いるとしたならあすこだろうとあたりをつけて、温室まで上がっていった日の事だった。  入口を潜る前に既に、日頃は見物に訪れる者もなく、樹々の濃い匂いを孕《はら》んだ沈黙に物音が吸い取られるばかりの温室から、騒々しい気配が伝わってくるのを聴きとって、築宮は不穏な予感、というより確信で、喉が冷たく締めつけられるのを感じた。  気のせいであってくれればとの望みは、彼にしても白々しいもので、温室に踏みこんだ足は不安に急き立てられて駆け足の、それが〈愕然〉《がくぜん》と立ちすくんだ。あまりに非道な光景に。  予想していなくもなかったが、現実に直面するとなると衝撃に予想などたやすく叩きのめされ、言葉を失う築宮へ、 「あっ? 築宮、さん―――?  助けて、わたし、こんなの嫌いだよぅっ」  ぎくりと怯えたように目を見張ったのは、狼藉者に新たな加勢がやってきたのと勘違いしたかららしく、それが青年だと認めるやいなや、縋《すが》るように叫んだ声の哀しさといったら、痛々しさといったら!  背後から羽交い締めされた、兇悪な腕の中から、叫んだ法師の、男手の容赦ない力任せに苦しげな、髪は乱れ顔は青ざめ。 「う、ううん、違う、やっぱ来ちゃだめっ、  逃げて、あんたは来ないで―――っ!」 「……な……っ!?」  首を打ち振り、いったんは築宮に助けを求めたのと同じ口をすぐさま翻《ひるがえ》して、来るなと言う、逃げろと言う。  どちらも彼女の切なる願いだろう。  ただ、法師はまず助けを求めた。苦痛と恐怖から逃れようとする当たり前の本能で、まず青年に助けを求めた。  その後すぐに、築宮へ逃げてとうながした。  生き物としての本能を、築宮だけでも無事でいてほしいと願う気持ちで抑えつける、我が身よりも想い人の身を案じた、そういう順番の言葉だった。  惨たらしい光景に、〈愕然〉《がくぜん》とぶれていた意識が、法師の悲鳴でたちどころに収束して、築宮はさっと状況を見てとった。  男達が―――四人、五人、いずれも無頼、荒んで野良犬じみた浅ましげな目つき顔つきばかりなのが温室に陣取り、うちの一人が法師を羽交い締めに戒めて、残る者があちこちを物色して回っている。  なんのつもりか、などと怪しむ前に、築宮はどん、と衝撃を聴いていた。己の足が、地の分厚い苔に深く痕を残すほど強く、地を蹴った音だ。  その勢い、弩《いしゆみ》から撃ち出される礫《つぶて》もかくやの、限界まで押しこめられて弾けた〈発條〉《バネ》ならこうもあろうかの、意識が命令を下すのも待たず手足の力が勝手に迸《ほとばし》っていた。  理性や恐れなど、一瞬にして沸騰した怒りに呑み尽くされた。いや青年は、自分が怒っていることさえ意識していなかった。  戒められた法師と築宮の中程に立っていた男が、青年の剣幕に一拍遅れて反応し、脅かすように手を伸ばして遮ろうと、したけれど遅い、大口開けて怒鳴りつけようとしたのだって、余分な動きを付け足しただけになる。 「……っ!?」  なんだ、と喚こうとしたのか、やめろ、と叫ぼうとしたのか、どうであれ言葉の枕を発する隙さえなく、弾け飛んだ、男は体をくの字にして弾き飛ばされた、歯くそのこびりついた大口を開けたままに、唇の端から粘つく涎の糸引いて。  築宮の爪先が跳ね罠の顎《あぎと》の迅《はや》さで地から跳んで、男の胃の腑《ふ》の辺りに深々と突き刺さったのだ。  ろくに身構えもしていないところへ渾身の蹴り、おまけに猛進の勢いが加わっているからたまったものでない、〈撞球〉《どうきゅう》の的球よろしく弾かれて、男の足元地面を離れ、法師と戒めていた男の脇すれすれを掠《かす》めて苔の緑の上に撃ち倒され、どん、どんと弾んで二度・三度、伸びたかと思うとのたうち回った、〈痙攣〉《けいれん》しながら、〈反吐〉《へど》を撒き散らしながら。  〈花邑〉《はなむら》の中にまで転がって、茎を引き倒しては蕊《しべ》と葩《はなびら》を、眠りを乱され飛び狂う蝶のように舞い散らせる。  撃ち出した足先が肉にめりこみ、小枝のような硬いなにかを蹴り折った感触が不気味に伝わったが、築宮意に介さず、突進の勢いのままに法師に取りつき、戒めていた腕を引き剥がそうともう夢中の、爪が賊の肌を抉ったが知ったことか、こんなのは〈百日紅〉《さるすべり》の滑らかな肌に絡む寄生蔦にも劣ると、怒り任せの力を振るうに躊躇はない。 「な、んだ、こいつぅっ!?  糞餓鬼ぃっ!!」 「なにしやがんだよ、いきなりようっ」  仲間の痛めつけられたのに、温室のあちこちに散っていた同輩どもが駆けつけて、法師を解き放とうとする築宮の背に打ちかかった。  築宮も法師を羽交い締めにしていたのも、揉み合って互いに体をもがかせていたから、殴りかかった男の狙いは逸《そ》れて拳は青年の肩に降りかかる。  痛みは鈍く重いが築宮の動きを止めるどころか、怒りの焔を煽《あお》りたてるふいごとなった。 「ふ、ん……っ」  振り返った青年のすぐ目の前に、目を血走らせた別の顔、怒鳴り返すのももどかしく、拳で殴り返そうとするよりも、もっと賊めに近いのは―――築宮は身を二つ折りに、叩きつけた、額を渾身の力で、殴りかかった男の鼻面に―――ぐしゃ、と。  目の中に散った赤は、怒りに逆上してきた自分の血か、男の鼻から迸《ほとばし》った汚らしいのの返り血か。  拳を存分に振るうには相手が近すぎたとか、殴るより頭突きの方が〈大槌〉《おおづち》のように重い威力あるとか、一々そんな判断などなくただただ相手が憎かったのだ。 「ぎぃ!? う、あ、あ〜〜っっ」  男がのけぞった、軌跡なりに〈飛沫〉《しぶ》いた血潮が、温室の生温く甘い香りに鉄錆びじみた腥《なまぐさ》さを混ぜこんで。 「おっ、おい……!?」  さらにもう一人の男が寄ってきて、打ちかかろうとしたのだが、青年の強烈な一撃を受けて、鼻先を潰された犬のように顔を覆い、くぐもった苦鳴でうずくまった仲間の無惨にたたらを踏んだ。数を頼みに思っていた仲間が、息を幾つもつかないうちに脆く叩きのめされたのに、にわかに不安を覚えたらしい。  大勢を頼りにする者にありがちな恐れだったのだが、相手が萎縮したからといって汲んでやる余裕などこの時の築宮には一切無し、連れ合いを攻撃された狼に理性を求めるのと同じ無駄なのである。 「お前も……お前もか……ッ」 「っひィ!?」  溶けた鉄のような吐息で迫る築宮だったが、こんな下衆の言葉など欲しかったわけでなく、応えをすり潰すように肉迫し、身を沈めざまに男の腹に体ごと肩口をぶちこんだ。  もう引け腰になっていた男が、築宮の体重と怒りを支えきれるはずもなく、嘘のように呆気なく地に突き倒された、ところにどんと腹にのしかかる重み、男には千貫の巌が落ちてきたほどにも感じられたろう。 「……この……ッ」  仰向けになった腹にのしかかり、睨《ね》めつけた男の顔は醜く引き歪んでいたが、哀れみを催すどころかその醜悪さに怒りはいよいよ黒く熱くごつごつ尖り、体が裡《うち》から喰い破られそう、潰してしまえばこの賊の醜いのなど見ずにすむのだと、両拳を骨が白く浮くほど強くきつく握り合わせ、高々と振り上げた。〈天蓋〉《てんがい》を衝いた両拳は、処刑剣の丸く潰された切っ先と似通っていた。 「あ……っ、だめ、いけないよ築宮さん、  ねえ築宮さんてばぁっ」  ―――法師がなにか叫んでいる。  彼女を抑えこんでいた男は、伝説の狂戦士じみた築宮の〈激憤〉《げきふん》に肝を潰した体で、眼には怯えも露わにしていたのだが、法師を離したら最期、青年の怒りの鉾先がこちらに向かうだろうと盾にして羽交い締めにしたまま。  ―――待っていろ、と築宮の荒れ狂う心の中から浚《さら》えば、その一念が辛うじて言葉になる。助けようと法師に向けたものか、撃ちのめしてやろうと賊に向けたものか、それは判然とならない。それくらい彼の心は暴力の狂乱に混沌と化していた。  元々が暴力沙汰を好む性質ではない。普段喧嘩慣れした相手に凄まれたなら、かっと逆上するどころか、後じさって相手の怒りをどう収めるか考えこんでしまう質《たち》だろう。ただ普段がそうである人間ほど、我を忘れた時が恐ろしいというのは、よく言われている事だ。  築宮もその例に漏れず、喧嘩などはできれば避けたいと日頃は思っていたし、今日この時にしても、法師に害が及んでいなければ、臆病者だの男の腐ったようなだの罵られたところで悔しさを呑みこんで、二人で逃げる道を選んだだろう。  僅かな間に三人もの男を叩きのめしたのだって、相手が不意を衝かれたからであったし、築宮の六尺に及ぶ体格も利した。こういう泥臭い立ち回りにあっては、長身というのはそれだけで単純に有利をもたらすのだ。  築宮自身、相手の男達がこうまで脆く自分の前に伏したのに拍子抜けの感を覚えないでもない―――と訝《いぶか》しむ冷静さはこの時失われていて、だから法師が何故今さら制止するのか、腹立たしく思えてくるほどで、膝の下に組み敷いた男をさっさと始末するべく、両拳を振り下ろそうと。  するより先に、がつりと。  頭の後ろに。  容赦なく、重く、迅《はや》く。  撃ち抜かれて、まず襲ってきたのは衝撃の。 「……が……っ!?」  ごんと視界がぶれて、青年の頭が前に弾けた。灼けつく温度が一拍遅れて築宮に噛みついてきて、それが痛みなのだと認識した途端にもう一撃。 「やめ……やめてぇぇーっっ」  一撃ならば、暴力の〈昂奮〉《こうふん》が体に分泌する麻薬で、青年は痛みを無視してまだ抵抗もできたかもしれない。しかしそれが二撃三撃と続いては。たまらず組み敷いていた男の腹から横ざまに地に伏して、心臓が、しかも破裂寸前の〈動悸〉《どうき》に脈打つ心臓が後頭部に移ってきたかの苦痛に、いったい何事が生じたのかと呆然と見上げれば、衝撃に霞《かす》む視界の中に、殺意にぎらつく男の顔。そしてそいつが握りしめていた、樹の重たそうな太枝。  どうやら拳を叩きつけようと力を溜めた、その一瞬の隙に、背後に忍び寄っていた別の男に殴りつけられたのだと、法師は青年を制止しようとしていたのではなく、その凶行を止めようとしていたのだと、ようやく把握されてきたのだがもう遅い。  小説などでよくあるように、築宮はあっさり昏絶などしなかったのは当たり処《ところ》が良かったのか悪かったのか、いや、この絶後の苦痛を味わうよりは意識を失う方がましだったと悶《もだ》え苦しむ青年へ、太枝を握った男は忌々しげに唾《つば》を吐き棄てる。 「……なに好き放題やってくれてんだよ、  ああ、この糞餓鬼がっ」 「なんも判ってねえ餓鬼がっ」  昏絶こそしなかったものの、痛みで完全に無力化された築宮は、法師に非道な真似を仕掛けていた男達が、地下酒場で出くわしたあの無礼で下劣な酔漢達なのだと、そして自分を殴り倒したのは中でも法師に悪質な振る舞いに及んでいた親分格の男なのだと、この時になってようやく判別がついていたのだった。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……築宮は、痛手からどうにか立ち直った男達に二人がかりで、今度は自分がねじ伏せられて、地に押さえつけられた顔には、屈辱をいくらかでも晴らしてやろうとしたのか、苔の中に何度か鼻面を撃ちつけられた、その名残で緑の破片がこびりついている。  形としては悪童どもが豚殺しごっこに興じているかの有り様だが、打ちのめされた男達はごっこ遊びですませるつもりはない恨み骨髄の、親分格の男がなだめなかったら、手に手に鈍器を取って築宮の頭を叩き潰しかねない勢いがあった。  親分格にしたところで、なにも築宮に慈悲の〈欠片〉《かけら》を示したわけではなく、 「お前たちみたいのには、こういう風のが効き目あんだよな……おい餓鬼」 「おめえがちっとでも暴れンなら、おめえじゃなくてあっちの女のほう―――」  と法師に―――結局、いまだ戒められたままの―――顎をしゃくり、 「あれを傷めつけっからな。お?  テキトーにこづき回してから、みんなでぶちこむわ。  あいにく俺の好みじゃねえが……」 「ま、あんなんでも女は女だからよ」 「なにを……待て、一体なにを考えて!?」 「……うるせえな。  なんだぁその口のききかたぁ!!  さっそく始めちまうか……なあ?」 「いやあ、俺ァこんながりっがりなのは、  ちょっと、どうよ……?」 「だけどよ、こういう頭ンねじが緩そう女も、たまには目先変わって、いいかもんしんねえぜ」 「お前、前っからすこぅしゲテ好きのとこ、  あったもんなあ」  炎天下の魚屋の軒先に並べられた切り身から滲み出る臭みにも似た、たまらない低劣さに満ち満ちた品評が声高に言い交わされる。  法師を犯すのに二の足を踏んだような口ぶりをわざと遣うことで、逆に法師を蔑《さげす》んでいるのがありありと感じられて、築宮は怒りに奥歯を軋らせたが、もしここで自分が逆上のあまりに男達を振り解こうとしたなら、それこそ彼女がどうなるか判らない。  親分格の外道な思いつきに、男達は酒でも呑み干したように喜々として酔いしれ、賛成しているのが窺えたのだ。 「やだ……やだよ、わたしは。  なにするつもりか知ンないけど、  あんた達みたいな人は、きらいだよう」  法師の苦しげなのなぞ鼻にもかけぬ力任せの羽交い締め、なよやかな水鳥に虎狼が後ろ脚で立って爪をかけているかに見ゆる―――  男達が自分に対してどのような凌辱を企んでいるのか、今ひとつ理解が及ばぬ様子ながらも、下卑た仄《ほの》めかしは通じたらしく、法師は羽交い締めから逃れようとして、男の戒めの中で必死の〈身悶〉《みもだ》え、こつこつと肘や肩口がぶつかってくるのに、男は鬱陶しげに口を歪めて怒鳴りつけようとでもしたのだろうか、それは親分格の男が〈鷹揚〉《おうよう》に手を挙げたので遮られた。  女の五月蝿いのを脅しつけようとしたのを何故止めると、男が納得いかぬげに眉を潜めたのも束の間の、親分格は軽く足を引き、蹴り抜いた、築宮のこめかみを、物も言わずに。 「くあ……っ!?」 「な、なに、なんで蹴んの、  どうして築宮さんを蹴ったの!?」  自分が暴れたのだから、どやされるにしても小突かれるにしても自分だろうと、そこまでは考えていなかったのかも知れないが、それでも鉾先が青年に向けられたのが理解できない顔つきの、法師には西に落ちた雷で、東の人が撃たれた程に合点がいかなかったろう。  だが親分格は、くつろいだ顔つきで、完全に優位をとった者の傲慢な余裕で、 「当たり前だろうが。  俺はこの餓鬼が暴れたら、お前を痛めつけるって言ったんだぜ」 「だったら、お前が大人しくしてねえんなら、かわりにこの餓鬼を痛めつけてやンのが、物の道理ってもんじゃねえか」 「―――どうして―――?」  などと問うた、法師の声がどんなに哀しく辛そうでも、男には馬耳東風の、道理という立派な言葉を、唾《つば》が臭う口で平然と吐いて恥じぬ輩が相手である。  築宮のこめかみがずきずきと脈打つのは、蹴られたからではない、女をいたぶって愉しむ畜生共の足など兎に影を踏まれたほどにも堪《こた》えない、ただ屈辱と〈憤怒〉《ふんぬ》が撃たれたこめかみに疼《うず》くので、それでも彼はこらえて法師に首を振った。  どれだけ理不尽な暴虐であろうとも、今はただお互い耐えるしかない、と。  こうして、親分格は法師と築宮、互いを人質にして、非情ながら極めて効果的に二人の抵抗を抑えつけたわけだが、そもそもこの狼藉者共は、一体なぜ法師に惨たらしい行いに及んだのか、その目的が判らない。  判ったところで許すつもりは毛頭ないが、築宮は怒りをひとまず腹の底に沈めて、男達がなにをしようとしているのか、様子を窺う事にした。  法師に声を掛けて力づけてやりたいのは山々だったが、それもこらえて押し黙る。  雌伏、とも言うし、怒りを力に替えて蓄えるうちに、反撃の隙も見えてくるだろう。  髪の毛一筋ほどの望みなのかも知れないが、今はその機を待つ他ない。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……勝ち誇って語るは〈三下奴〉《さんしたやっこ》の安っぽい口の軽さだが、親分格本人は〈意気揚々〉《いきようよう》と、手の空いたもう一人と手分けして温室内を漁りながら、築宮に語った。嘲笑混じりに。  それで築宮は、ここ最近の旅籠を黒く不気味な小人の怪異が騒がせている事を知って、それはそれで不思議の念を抱いたし、害を被った客達についても同情の念を禁じ得なかったのだが。 (その黒い小人というのは、  俺がいつか彼女の庵《いおり》で見た、  あれの事なんじゃないのか……?)  法師と初めて肌を重ねた夜、情事の後で庵《いおり》の裏手の水路から這い上がってきていた、あの奇妙な黒い小さな影ともなんともつかない一群の、その時はなにも悪さじみた事はせず、大人しく引き下がっていった。  とにかく、法師は魔を祓うほどの名香を〈隠匿〉《いんとく》しているのだろう、いやしているに違いない、だったら皆のためにそれを差し出すべきで、自分達はその為にこんな骨折りをしているのだという小賢しげな主張には、築宮、腸《はらわた》が煮えそうなくらいの不快を覚えた。  この狼藉者共は、それがさも皆の総意であるかのように大っぴらに振る舞っているけれど、誰に頼まれた様子もない。  築宮だって、法師が精妙な微薫をまとっているそのこと自体には異を唱える者ではないにしても、だからといって彼女の庵《いおり》に怪異が現れないのと香の間の相関関係というのがそもそも判然としていない。 「だったら……なんで、俺の処《ところ》にもその黒い小人とやらが出てきてないんだ?  あんた達に言われるまで、俺はそんなモノのことなぞ聞いたこともなかったぞ」 「聞いた風な口を叩いてんなよ、坊主。  語るに落ちたたぁそのことじゃねえか」 「そりゃおめえが、その女とつるんでるからだろうが。おめえにも、香の効き目が移ってるってこったろうよ」 「坊主もけっこうなご趣味なことですよ。  他にも女はいんだろうに、よりにもよってその琵琶狂いに手ぇ出すたぁな!」  とこともなげに指摘し返してきたのには築宮恐れ入った(その後の侮蔑には、よけいなお世話だと内心で舌を出した)。  そこだけ見れば一応筋道が通っていて、それくらいの論理を組み立てられる頭はあるらしい……頭蓋の骨相からして酒と博打と女と荒事くらいしか詰まっていなさそうなのに。 「あんたの言う通りだとしても、俺は彼女の住まいで、そんな香の類なんか見た事がない。彼女も、香なんて焚《た》きしめた事はないと言っていたが……」 「…………」  本当は、築宮自身他人の家探ししてまで香木の有る無しを確かめたわけでもないのだが、いつか法師の口から聞いた、自分達は肌に薫りをまとう者がいるという話がある。わざわざ香を焚《た》いているのではないという事だ。  少なくともこの法師は、他人に嘘を告げるような女ではない。それはけして付き合いが長いわけではない築宮にも感じ取れる。  ―――なのに法師は、親分格の、香木を隠していると詰る言葉に、なぜか眉根を曇らせて面伏せした、なにやら申し訳なさそうな仕草に、築宮はおやと不審に思ったが、 「そうだなあ、そいつのボロ屋のどこにもねえよな、香木なんてよ。  だから俺たちはご苦労さんでよ、こんな蒸し暑ぃトコをわざわざ探してんだ」  男が口元を歪めて言い放ったのに、ふっと思い出されたことがあって法師への疑念は掻き消された。  何日か前、彼女の庵《いおり》に荒らされた形跡が残されていたが、それはもしかして―――  思い当たった様子で非難の目を向けた築宮に、親分格は動ぜずまた揶揄の薄笑いを向けたものの、それ以上はお喋りを止めて物漁りに没頭した。 「ここが、匂うなぁ……」  結局築宮は反撃の隙を見出せず、法師は不安そうに〈項垂〉《うなだ》れたまま、親分格の捜索は続いて、それこそ犬のように嗅ぎ回り―――  法師がいつも座っているあたり、あの薄切れた〈茣蓙〉《ござ》のあたりを〈執拗〉《しつよう》に、屈みこんで探っていたかと見るや、歓声一つ、手が奔って〈茣蓙〉《ござ》が翻《ひるがえ》って宙に舞った。 (まさか―――?) 「あ……っ、だ、だめ……っ」  青年がよもやと男の手許に目を奪われ、法師は悲痛な声を漏らしたが戒めは解かれずいっそうきつくなり、手も足も出ずにいる二人の視線の先で、親分格の男は地面を掘り返し始める。  地を厚く覆っていても、柔らかな苔など遮る役には立たない、その下の土だって〈鋤鍬〉《すきくわ》なくても指先がたやすく潜る、苔の切れ端、土くれを股の間にたちまち小山を積み重ねていく親分格の姿がまた、隠されてあった骨を嗅ぎ当て歓喜する野犬と重なって、犬、犬、犬の畜生仕事は、ついに――― 「あったぞォォ……ッ!!」  〈頓狂〉《とんきょう》な歓声とともに高々と差し上げた物は、築宮には土くれにまみれた、ただの朽ち木の塊にしか見えなかった。  しかし、黄金のように鈍い輝きもなく、宝玉のような滑らかな円《まる》みもないごつごつとして一見みすぼらしいその朽ち木の塊を、男はなにより得難い至宝のように両手に掲《かか》げて仲間に見せびらかし、顔にしてやったりの自慢が溢れんばかり。  仲間達はそんな親分格の狂態にやや呆気に取られたように反応が薄く、築宮でさえさもありなんと男達の心が判るような気が、なにしろその黒ずんで脂を浮かせた古木の塊は、親分格の言う『有り難いお香』とは到底思われなかったからで。  が、親分格の邪な歓喜に満ちた狂態とは真逆だが、敏感に反応した者がいま一人、それは法師、木の塊が掘り出されたのに叫んだ悲鳴は不安と絶望に縁取られ、それまでは耐えていたのにまたもがきだした。 「あ、あ、あ、あ〜〜〜っっ、  よしてよ、出さないでよォッ、  だめ、それ、だめぇぇ!」  釣り上げられた魚のように身をくねらせ、逃れようとする彼女に、戒めていた男は法師と築宮への脅しを思い出させようと怒鳴りつけて、親分格へ指図を求めて目をやったが、 「ああ? いいよいいよ、  今さらちょっとぐらい暴れたってな。  もうめっけた後じゃ、邪魔にもならねえ」 「でもよ、それがその……香木、とやらなのか、ほんとにさあ。なんか俺にゃ、薄汚ぇ〈木っ端〉《こっぱ》にしか見えねえんだが……」 「けっ、モノ知んねぇ奴ぁ、これだから困るってんだ。香木なんてな、もとの見てくれはみんなこんなモンよ」 「ほんとかよ……そんなのが、本当に金になんのか? 高値の代物にゃ見えねえって」 「馬鹿っ!  今は金の話なんかしてんなって」 (! やっぱりか―――!)  仲間の口の軽いのを叱りつけた言葉で、築宮は男達の意図を悟った。土台この手の男達が、皆のため、などと親切めかした動機で動く筈もないと怪しんでいたのだが、やはりその疑いは的を射ていた。  香木というのは、優れて名高い品は信じられないほどの値が付くものだという。中には値が付けられないほどの物さえある。  収められた寺の名を、その字画の中に隠した〈蘭奢待〉《らんじゃたい》という巨大な香木があるが、これなどは皇家の〈御物〉《ぎょぶつ》となって、下々の者にはそも目にする事さえかなわないという、畏れ多いものだ。 (……? 〈蘭奢待〉《らんじゃたい》……? らんじゃ……?)  ―――らんなんとか……って―――  ―――あだ名つけられて―――  ―――大事にされたって―――  ―――そんな仲間の話も―――  ―――この匂いがいいって―――  ―――仲間を連れてく人たちも―――  ―――わざわざ、海の向こうまで―――  連想がかつて法師から聞かされた言葉を掘り起こし、築宮の中に更なる疑問を投げかけたが、それはまだもやもやとして、もどかしくも形定まらない。  今はそれを掘り下げていられるような場合ではないと心の脇に追いやった―――けれど、築宮の中に一つの奇妙な疑いが根づいたのは、実にこの瞬間だったのである。  なるほど法師は、香など焚《た》きしめたことはなかったかも知れない。けれどそれは、わざわざ焚《た》かずとも自らが―――  ともかく、この男達の如き手合いが、香木などいう高雅な代物に、一体こうも〈遮二無二〉《しゃにむに》になって、目を血走らせているのは、いかに魔除けというお題目があるにしても妙だとは思っていたのだが―――金のため。  あまりに〈見易〉《みやす》いところへ落ち着いて、築宮は不謹慎にも納得してしまったという。納得したところで許せるものではないが。 「そこまで疑うンなら、試してみっか?  ちょっと火ィつけてみりゃ、匂いでわからぁね」 「うそ……やだ、やめて……っ」  強張った顔つきさっと蒼ざめた肌、震える声音は生命の危機に直面したように深刻で、築宮にはなぜそこまで彼女が怯えるのか判らなかったし、男達の言った通りに香木を隠しもっていたのも納得いかなかった。  琵琶以外は、物にこだわらない法師、財貨になど執着しない女との印象は、自分の思いこみに過ぎなかったのか?  胸を渦巻く疑問符で占められ、青年は一瞬法師を助けようとすることも忘れ、いまや半狂乱に怯え悶《もだ》える彼女と、喜々として木塊を捻り回す親分格を呆然と見守った。  と親分格は、取りだした小刀を木塊の端に寄せ、しみったれにもほんの一〈欠片〉《かけら》、小指の爪ほどのを欠き採った、途端。 「痛いぃぃ〜〜っ」  魂消えるような悲鳴が、温室の〈天蓋〉《てんがい》まで金管楽器の音のように伸び上がった。  澄んで、そして痛々しい声音は、男達も築宮も親分格の手許に集中していた瞬間に迸《ほとばし》ったものだから、皆心を引き攫《さら》われたようにぽかんとなって、悲鳴の源へ、法師へと虚けたように頭を巡らせる。と。  つつ、と伸びたのは、深紅の筋。  血の細い流れ。  法師の衣の袖《そで》の裡《うち》から手首に絡んでいた。  ぽつりと滴って、緑の苔の中に赤の斑《まだら》を散らして、後からまた滴り落ちる。  どこかしら間延びした、それでいて不気味な沈黙を破ったのは親分格だったが、その声は流血沙汰には慣れている彼にしても虚を衝かれたか、痰《たん》が絡んだようにくぐもっていた。 「おい……痛めつけるなと言わなかったけどよ、お前、またいきなりやったもんだな?」 「知ったもんかっ。  俺ゃ押さえてただけだぜ!?  なのにこいつ、いきなり喚いて……。  なんなんだいってぇ……」  羽交い締めにしていた手を滑らせ、苦痛に瞼をわななかせる法師の衣の袖《そで》をまくれば、二の腕の中程から、流れ出した血潮の。  手が汚れるのを今さら厭《いと》うたか、男は法師の衣の端で血を拭《ぬぐ》って改めて、そして不審そうに顔をしかめた。 「なんでだ……? こりゃ、切り傷だぞ。  俺ゃほんとになにもしてねえんだ。  それが、あんたがその〈木っ端〉《こっぱ》にナイフを入れた途端に―――」  ―――男達には理解の外のこの傷に、しかし築宮は一つの想念を結晶させつつあった。  法師が肌に自ずとまとう芳香。  その香を尊ばれたという彼女の同胞。  そして、木塊を傷つけると同時に、裂けた彼女の肌―――  ―――もしや、この琵琶法師というのは。  あの香木の。  化身とか、精とか、そういったモノなのではないか―――  この世を歩くモノと言って、鳥獣に蟲《むし》、そして人間ばかりでない。百年を経た器物には心が生じて自ら動き出すという、〈山川草木〉《さんせんそうもく》にはそれぞれの精霊が宿るという―――  〈本邦〉《このくに》には元々そういう崇拝、信仰の風土があって、ならば香木の一塊にも精が宿ったところでなんの不思議があろうと、築宮もまたぼんやりとそう感じていた。  築宮は、そんな〈領解〉《りょうげ》に到達しつつあった。 「痛いよ……だから、言ったのに。  わたし、やめてってお願いしたよ。  なのにどうして? ねえどうして?」 「わたし、なんか、どうして、ってばっか言ってる。でも、ほんとに、わかんないから」 「ねえ、築宮さん、  どうしてこの人たち、  いやなことばっかするの―――?」  他人の悪意という棘《とげ》は、無垢で無害で優しい女だからといって放っておいてはくれやしないのだという事を、どう伝えればいいものか考えあぐねるうちにも、血の雫はぽたり、ぽたりと、それが築宮には法師の〈慟哭〉《どうこく》の涙のように思えた途端に、胸の中で形に得かけていた、彼女の正体などどうでもよくなった。  法師の哀しみをとめてやりたい、寄り添ってやりたいという一念のみが膨れあがり、凶暴なまでの力に高まっていく。  しかし自分が暴れたら、彼女を傷つけるという脅しが、やはり築宮を躊躇わせた。自分一人が傷つくならば一向に構わないが、自分のせいで彼女まで、と思うと気力が萎《な》える。  己の無力に絶望し、このままだと自分は〈悶死〉《もんし》するのではないかと、臨界を迎えつつある内圧を持て余す築宮をよそに、親分格は〈憮然〉《ぶぜん》とした顔つきで〈燐寸〉《マッチ》を引っぱり出した。  法師の傷は依然意味不明だが、捨ておいたからといって木塊が腐るわけでもなし、それよりも真に香木なのかどうか、火にふすべて確かめようとしたのだろう。  〈燐寸〉《マッチ》を擦ろうとした手が、また止まった。 『あー、揉め事はそこまでにして下さいー』 『あー、乱暴も、そこまでにして下さいー』  木立の陰から発せられた、くぐもった声によって。これまで法師と築宮と、男達以外には誰の姿も見えなかった樹々の間からの前触れもない制止には、助けられた筈の築宮だって〈唖然〉《あぜん》となったし、次から次へと入る横車、誰より腹を立てたのは親分格だったろう。  誰だと怒鳴りつけたが返事はなく、渋る同輩をけしかけて確かめに行かせたところ、彼が見いだした物は、樹液を浮かせた幹の肌に、添え木のように取りつけられた〈真鍮〉《しんちゅう》の管、端が〈喇叭〉《ラッパ》のようにやや開いた。  これは電話以前の古い道具の、伝声管、なのであった。  日頃は慣れきってあまり気に留める者もいないが、旅籠の内線電話が届かぬ区画には、この伝声管があちこちに据えつけられている。  それが温室にも備わっていたという事なのだが、そんな物の存在など失念していたのを今さら思い出させるような声、に、皆大いにまごついたところへ、 「―――そこまでです。  一体、どうされたのですか」  大人と子供の端境の、しかし凛として犯しがたい、硬質の水晶の杯を弾いたような声音が温室の入口から。  磁石のように皆の視線を吸い寄せて、踏んだ苔の〈絨毯〉《じゅうたん》を〈清冽〉《せいれつ》に結晶化させるような足取りで、悪党共と築宮、法師の間の〈膠着〉《こうちゃく》した状況に〈硝子〉《ガラス》のメスで刃を入れたような―――  この旅籠を護って営んできた一族の、最後の一人であるという、ほっそりとして気高く、精緻な造り物のように美しい姿。  ―――令嬢、だった。  後に、二人ばかりのお手伝いさんを従えて。  ―――おそらくはたまさか通りかかって、中の騒ぎを通廊の〈硝子〉《ガラス》窓越しに聞きつけた誰かがあったのだろう。  悪党達の中に踏みこんでいって制止するような勇気(あるいは蛮勇なのかも知れない)は備えずとも、見過ごしにはしておかれぬ良心と、旅籠を管理する者に告げるくらいの分別は持ち合わせていて、令嬢の下に温室での乱暴狼藉を報せたのだろう。  ……築宮は、その見知らぬ誰かの前に身を投げ出し、地に額を撃ちつけながら礼を言うべきだと、出来うる限り恩に報いるべきだと、心底から感謝したという。  法師を相手なら、野の花を手荒に踏みしだくように乱暴できた男達でも、透き通って美しい、金剛石の〈不壊〉《ふえ》の静謐をまとう令嬢には爪も歯も立てようもないと見え、決まり悪そうに視線を逸《そ》らした。  だがいまだ法師と築宮を捕らえたままで、素直に怖じ気づいたものか虚勢を張ったものか、苛立たしげな親分格と令嬢の静かだが〈昂然〉《こうぜん》とした眼差しの間で板挟みなのだろう。  緊迫感の真ん中へ、更に一歩踏みだして、 「なにをなさっているんです、意地の悪い。  その人たちをお離しなさい」  言葉は丁寧で、物腰も静かで、なのに抗しがたい威というのが具《そな》わっていて、大の男達は自分の嵩《かさ》の半分もないような娘の言うがままに、法師と築宮を解放した。それでも親分格の苛立ちと後の怒りを気にしてか、彼へと投げかけたへつらうような視線が、言い訳じみて見苦しい。 「うぅ……くるしかったよ……」 「まったく……とんだ目に遭った……。  ……っつぅ!」  ようやく立ち上がった築宮の、服には苔の水気が染みていたし、手足を伸ばすとずきんと後頭部にひどく響いて、呻《うめ》き声を漏らす。  そっと頭の後ろを手で探ると、大きな瘤《こぶ》になって、やや皮膚が裂けた様子だったが、流れた血は既に凝り始めている。あれだけひどく殴られたと思ったが、親分格は痛めつけるだけで殺めるつもりまではなかったらしい。といっても慈悲を示したとは到底考えられず、殺せば後が面倒だ、くらいに考えただけだろう。 「だいじょぶ……?   ねえ平気? 築宮さんは、平気……っ?」  男の手から逃れるなり駆け寄って、縋《すが》りついたのが体ごとぶつけるようで、築宮は受け止めかねてよろめいた。  涙で眦《まなじり》を赤くし、頬も色を失って、けれど胸の中から見上げてきた顔が今にも泣き出さんばかりだったのは、青年に安否をひたすらに案ずる心根によって。 「俺は、大丈夫だ。……多少、瘤《こぶ》にはなったみたいだけれど。  君の方は―――」 「ごめんね、ごめんねぇ……っ。  あんたがぶたれたの、わたしのせいだ。  わたしを助けようって、してくれたから」 「ごめん―――」  築宮に皆まで言わせず、非はどう考えても男達にあろうにただ自分を責めて、築宮に詫びて、哀しく歪んだ唇から漏れたのは〈嗚咽〉《おえつ》の、たちまち涙が溢れて、青年の〈襯衣〉《シャツ》の胸元に顔を埋めておんおんと泣き出した。  本当は、羽交い締めにされている時からずっと我慢していたのだろう、だが自分が騒ぎたてれば築宮に害が及ぶと、涙は必死に押しこんでいたのだろう。  それが救いの手を見た今、堰を切って溢れ出した築宮の胸を濡らして、涙は温かなのに、心は霙《みぞれ》混じりの雪に晒されたように冷たくなった。男達への怒りでだ。  だが我が傷、痛みそして憤《いきどお》りより、啜《すす》り泣きながら小さく咳こんでは、喉に息を通らせる法師が、まずは無事だったのが築宮にはなにより有り難く、救い出してくれた令嬢に深く頭を下げた。痛みをこらえて。 「助かりました……。  君が来てくれなかったら、どんな事になっていたか知れたものじゃない」 「いえ……それより。  いったい何事なのです、これは」  離したら、このまま青年がどこかに行ってしまうと恐れてか、〈襯衣〉《シャツ》の胸元をきつく握りしめてくる法師の髪を撫でてやりながら、おおよその〈経緯〉《いきさつ》を令嬢に説明する。  築宮もまだ怒りと屈辱とで思考が暴走しそうだったから、言葉は要領を得ていたとは言いづらいが令嬢は眸に了解の光で頷いた。  というより温室の修羅場に踏みこんだ時からほとんどの状況を把握していたのだろう。  築宮と法師に、日頃感情の色をあからさまにはしない彼女にしては珍しくくっきりと、同情の暖かな眼差しで〈相槌〉《あいづち》を打ってから、男達へと視線を置いたが、こちらは氷の硬さと冷たさだった。 「……おおよその事情は把握いたしました。  私どもは、本来はお客さま同士の揉め事を、深く詮索するものではありませんし、また立ち入ったことも申しません。けれど」 「まずはあなた。  そのお香の原木……を、  こちらにお渡し願います」  といまだ土まみれの香木を欲深くかいこんだままの親分格に求めた、言葉遣いはあくまで〈慇懃〉《いんぎん》ながらも、その中年がらみの男にとっては娘くらいの年頃と言っても過言はないほどの令嬢なのに、冒し難い威が備わって、要請ではなく命令に等しかった。  ただでさえ整って秀麗な彼女の貌は、こういう時になると人間離れして空恐ろしいくらいなのに、その美の性質を理解しようとせず、頭を下げぬ愚か者というのも世にはある。  琥珀の牢に閉じこめられ、美しさの中に醜怪な屍を残す虫もある。  この親分格がまさしくそれで、令嬢の静かな物言いや秀抜な麗貌から、血を凍らせる冷風が吹き寄せたかのように微かに身を震わせたものの、まだ仲間達が後ろにあるという、数に頼った傲《おご》りが勝ったらしい。  弁えて、香木を差し出すどころかより深く小脇にかいこんで、わざわざふんと鼻を鳴らして顎を反《そ》らしたが、築宮には同じ鼻をひくつかせる生き物でも、土竜《もぐらもち》の方がよっぽど分別がありそうに思えた。 「なんだかな……俺たちにたいそうな事を言ってくれる前によ、まずここしばらくの騒ぎをどうにかしてくださいよ」 「なんのことです?」 「まさか嬢ちゃんが知らねぇわきゃねえとは思うが、例の小人のお化けのことだぁね」 「俺らはよ、宿のみんなが迷惑してっから、そいつをどうにかしようと考えて、このお香を探したんだぜ、わざわざさ」 「言ってみりゃあみんなのためだ。  なのになんだよ、そこの餓鬼はつっかかってくるわ、嬢ちゃんは茶々をいれるわ」 「俺らに文句垂れる前に、あんた達お宿の人間がよ、まず例の騒ぎをどうにかすんのが先じゃあねえかなぁ……?」  男にしてみればしてやったりの、筋を通したつもりの言い分なのかも知れないが、築宮など端で聞いているだけで鼻先に糞便を押しつけられたよりも気分が悪くなったほど、向かい合う令嬢はいかばかりか、男の息、唾《つば》の〈飛沫〉《しぶき》だけでも彼女を汚染するのではないかと危ぶまれる。法師もまた、令嬢が言い負かされるのではないかと不安げに見守って、男の厚顔無恥に〈反吐〉《へど》が出そうなのをこらえて令嬢に加勢しようと言葉を探した。  が、無用の心配というもので、 「お話のすり替えは、  やめにしていただきましょう」  ぴしゃりと言い置いた、その一言だけで場の空気から男達の妄念など完全に消毒された。  彼女に救われた築宮達でさえ、襟元を正し直立不動で拝聴した方がいいかと、背筋を伸ばして見交わしたほどである。 「なに、なんのすり替えだって―――」 「いいから聞きなさい。  いい大人が、わざわざ言われないと判りませんか?」 「大の男が寄ってたかって。数に任せて。  可哀相に、この人達を抑えつけて、乱暴して……見苦しいにも程がある」 「見苦しいだけに留まらず、なんですか、  今の聞いた風な言葉は。  そういうのをね、  〈盗人猛々〉《ぬすっとたけだけ》しいと言うんです」 「待てよおい、言わせておきゃあ〈盗人〉《ぬすっと》あつかいかよっ。  大体乱暴ってんなら、そこの餓鬼だってひでぇぜ、なぁ?」  同意を求めるように仲間に顎をしゃくれば、てんでに顔をしかめて痛みを哀れっぽく訴えたのがいかにもとってつけたような。  確かに中には鼻ッ柱を青黒くしたのはいるし口元に〈反吐〉《へど》をこびりつかせたのもある。しかしそれらの傷は築宮に〈寸毫〉《すんごう》も良心の〈呵責〉《かしゃく》を抱かせるものでない(ただ彼に、暴力への自己嫌悪の苦さを教えはしたが)。  だが令嬢は、男達の訴えに聞く耳など持たぬと切り捨てた。 「先に手を出したほうがいけないのです。  子供にだって判る道理です。  物を言うなら、自分達の顔を、まず鏡に映してからにするように」 「今のあなた達を見て、誰がその言うことなぞ、信ずるものですか」  令嬢の声音は蒼ずむ月の光と冴えて、蒼といえば冷たく澄んだ色に聞こえるけれど、炎だって赤いのより蒼い方が熱は強いのである。  そっと窺った令嬢の横顔に、築宮は思わず息を呑んだし、法師などは喉の奥で悲鳴をくぐもらせて青年の腕を爪が立つ程強く掴んだ。  令嬢の秀麗な貌は仮面のように無表情の、なのに触れただけで切れそうな、肌が焦げそうくらいの〈激憤〉《げきふん》が張りつめていたのだ。  やれ愛想がないだの、綺麗は綺麗だが人形のようだの、口さがない言葉で形容されるこの令嬢だが、それでも日頃は彼女なりに柔和な相で人々に接していたのだと思い知らされるような、それくらい底知れぬ怒りを満たした顔だった。  一体この少女は、どれだけの内圧を秘めているのかと空恐ろしくなる。  男達の面の皮の厚さがいかなものであろうと、令嬢の〈憤炎〉《ふんえん》を遮る役にも立ちはしない。 「この人達とあなた達、他の十人に訊いたって、十人が十人とも、非があるのはあなた達だと断ずるに違いない」 「んだよそりゃあっ! 宿の人間が、客をえこひいきすんのかよ、ああっ?  なんでその餓鬼達ばっか―――」  声を張り上げ口角に歯を剥いた、その顔だけで気の弱い者ならすくみあがりそうな〈剣幕〉《けんまく》だったが、真に優位にある猛獣は吼えたりなどはしない。  そして令嬢には、虚勢など通用しない。 「当たり前でしょう。  私はこの旅籠の管理人であって、  官憲などではありません。  たちの悪いお客には、手を焼くんです」 「だいたい、客だ客だというのなら」 「もう少し、それらしい振る舞いをなさったらいかが」 「あなた達の素行は、あちこちで悪評を買っています。ご自身でお気づきかどうかは存じませんが」 「怪異が皆の迷惑だというのなら、あなた達だって同じ事。往々にして、お化けなんかより人間の方が厄介なものですよ。  特にあなた達のような人たちは」 「さて、もう一度言いましょうか?  その香木を渡して、ここからさっさと出て行くように」  いきりたった男と比べ、令嬢の語調は静かなものであったが、口を挟めるような隙はなく、立て板に水どころか油を流したように滑らかで淀《よど》みなく、最後と突きつけて命じた。  親分格の男のこめかみに、〈蚯蚓〉《みみず》が這ったように血の管が浮いて張り裂けそうに、今にも脳溢血でも引き起こすのではないかと築宮に悪い期待を抱かせたが、そこまでは至らず、血圧は〈癇声〉《かんごえ》となって爆発した。 「ふざけんなっ! こりゃあお俺らがみっけたんだっ。拾ったモンを取り上げんなら、そっちだって〈盗人〉《ぬすっと》じゃねえのかよ!」 「と、この人たちは言っているけれど、  どうなのですか、貴女」 「違うよ、それわたし、わたしの―――」 「なら、こちらの琵琶法師さまのものです」 「な……っ!?」  男達への木で鼻を括《くく》ったような対応と引き替え、疑念など露ほども挟まず法師の言を信じたのは、さすがに扱いに差がありすぎるだろうと、築宮もこんな状況なのについ内心で苦笑した。しかしながら彼にも男達に同情する心などは針の先ほども浮かばず、当然の判断と頷く。 「よしんば本当に、誰のものでもない物だったとしても、この温室、旅籠の中で拾ったのなら、まずは私どもに届けるのが、物事の筋というものでしょう?」  聞いているのは同じ言葉であるのに、男にはとどめとなって〈肺腑〉《はいふ》を抉って言葉を失なわせ、法師と築宮には、胸を、〈薄荷油〉《ハッカゆ》で漬けたような〈揮発〉《きはつ》性の爽快感で洗ったことである。  令嬢を、法師と築宮を、睨みつけたぎらつく目のうちに、凶暴なかぎろいも混ざり、多少邪魔が増えたところで相手は見た目か弱い、小柄な令嬢とお手伝いさんたち、〈膂力〉《りょりょく》ならまだ勝っていよう、ならばいっそ暴力に物を言わせてしまうかと、浅ましい計算を巡らせているのが、判りやすい。  これは、と築宮は〈咄嗟〉《とっさ》に法師を背後に庇《かば》って身構えたが、令嬢には男の貪欲な〈足掻〉《あが》きなど我が掌《たなごころ》を見るより見え透いていたのだろう。  ふう、と呆れ果てたような、見下げ果てたような溜め息で目を閉じて腕組みの、男にはそれが隙に見えたらしく撃ちかかろうと足をたわめたが、築宮はその瞬間に周囲に無数の気配を感じた。  見れば、樹々の間に間に目、目、目、いつの間に温室に配されていたのやら、一〇どころか二〇を数えるくらいのお手伝いさんが、令嬢の侮蔑の溜め息を合図として、男達を取り囲んでいたのだった。  もちろん彼女達にしても荒事を本分とはしていないだろうが、なにしろ数が数、そのうえ令嬢の威が感応したのか、乱暴者共を相手にして誰も怯える風もなく、一触即発をも辞さじとする果敢な眼差しを注いでいた。 「な、あ、くそ……っ!」  暴力を頼む輩はより上回る力には弱い、の訓えを証明立てて、男達の勢いはたちまちのうちに青菜へ塩、親分格は追いつめられたようにたたらを踏んだが、次の瞬間、さっと香木を掲《かか》げるや、投げつけたが令嬢へ一直線、あわや、と築宮が飛び出すより、彼女の背後に控えていたお手伝いさんが前に歩度を運んだのが迅《はや》かった。  どこに携えていたものやら、魚でも掬《すく》うような網を振り回したと見るや、香木はなに損なわれる事もなく網目の内へ受け止められる。  呆気に取られた築宮の脇を、風が巻いたと思った時にはもう、親分格の男は苔を蹴立てて〈遁走〉《とんそう》した後で、通廊を傷めんばかりの乱暴な〈跫音〉《あしおと》が遠ざかるのが、心臓が十脈打つか打たないかのうち。 「それで、あなたがたはどうなされるので?」  取り残された男達は、どこかしら間の抜けた、それでいて哀れ漂う目つきで互いを見交わしていたが、令嬢の冷たさを声にしたような問いかけに、親分格の後を追いかけることにしたようで、ぞろぞろと。  焦って走り出さないのは、せいぜい空意地を張っているつもりだったのだろうが、築宮は打ちひしがれてのろのろとした足取りとしか、見えなかった―――  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  さて暴風一過―――といっても後半は、嵐というより身も心も凍らせる凍気が降りたかの恐ろしい静けさのうちに過ぎたわけだが、ともあれ難を逃れて、築宮と法師は改めて令嬢に深く頭を下げた。 「そんなに畏《かしこ》まらないで下さいね。  私だって、築宮さまや法師さまに、大事があっては哀しいもの」 「それより、築宮さま、頭を殴られたと窺いました。  後から障《さわ》ってはいけません」 「念のため、後でお手伝いさんに看てもらって、今日は静養なさって下さい。  それから―――」 「こちらは、お返しします。  ……大切な物なら、ちゃんと大事に持っていないと駄目ですよ?」 「あ、あい……、  あの、ありがとうね、お嬢さん……」  と、手渡された香木を、法師は胸の裡《うち》にそっと押し頂いたものの、なにか考えこむ風情で俯《うつむ》いた。  築宮は築宮で、緊張の糸が切れた途端にまた悪疼《うず》きしだしたたんこぶに閉口しながら、法師に相談を持ちかける。  彼は香木と法師の間に、どうやら並々ならぬ繋がりをある事を朧気ながらに感じ取っており、自分でも不思議なくらいにその推測をすんなり受け容れて、ために一際危機感を抱いていたのだ。 「なあ君……その香の原木に、もしやがあっては、君にその……危険が及ぶ……。  そういう事なんだな?」 「うん……ごめんね、隠してて」  口ごもりながらも肯《うべな》ったのは、もう今さら隠し立てするのは築宮に対して他人行儀に過ぎると悟ったからか。  それでもなお俯《うつむ》きがちな法師へ、 「それはいいんだ、今は。  ……後でゆっくり聞かせてほしいところだけれど。  俺が言いたいのは―――」 「この原木、どこか安全な場所で保管しておかないといけないだろう、って言うことで」 「うん……でも、わたしンとこは、こないだ、たぶん今の人たちに家探しされたし、  ここに埋めといたって、めっけられちゃったし……」 「それに、〈迂闊〉《うかつ》なところに隠しても、誰が見つけるか判ったものじゃない。  となると、だ……」  別に令嬢を信用していないというわけではないが、事が事だけに低目になりがちな声で囁き交わし、相談する。  そんな二人に気を悪くした風もなく、令嬢は見守っていたが、やがて遠慮がちに提案したのだった。 「あの……細かな事情は深く問いませんが、  そのお香の木、安全に保管しておきたいというのなら、私どもが預かって差し上げてもよろしいのですが……」  それこそ築宮が考えていた事だが、最後に決めるのはやはり法師と、彼女の答えを待つ。 「あの、お嬢さんが預かってくれたら、  さっきみたいな人たちに、  いやなことされない?」 「私どもしか開けられない蔵というのが、  幾つかありますから、そこならば安心できると思います」 「もし不心得な誰かが手を出そうとしても、  その時には―――哀しいことになります」  そう仄《ほの》めかして薄く笑んだ唇の弧は、研ぎ澄まされた日本刀の〈反り身〉《そりみ》にも似て、笑みと言うより人の〈身裡〉《みうち》を〈慄然〉《ぞっ》とさせる迫力を漂わせていたが、それだけに令嬢がそう請け合うのなら、まず間違いはないだろうと窺えた。  法師も令嬢が匂わせた惨事に身震いしてちょっと後じさったものの、それでもかき抱いた香木をまた旅籠の小さな女主人の腕に託し、きゅ、と手を握って眼差しで願いも籠めて。 「あんね、あと……お嬢さんは、さっきの人たちが言ってたこと、ほんとだって思う?」 「近頃の事件の、〈魔除〉《まよ》けになるというお話ですか?」 「さあ……私からは、事の真偽は、なんとも申せません。  匂いというのは、臭きも芳しきも、魔除けになると、昔から言われていますから」 「ほら、〈柊鰯〉《ひいらぎいわし》の鬼やらいなどは、葉の棘《とげ》と燻《いぶ》し魚の強い匂いで、鬼を遠ざけるとか」  どこか、あの狼藉者共の言葉を認めるかの口ぶりで、法師は額に曇りを帯びたが、すぐに令嬢は首を横に振り、言下に打ち消した。  お姉さんは法師の方なのに、令嬢の落ち着いた佇《たたず》まいは背丈の差を逆にして、妹を慰めるかの風情ある。 「けれど、たとえあの人たちの言葉がどうであれ、私はしませんから。  法師さまのお大事を、徒《いたづら》に損ねたりはしません。誓います」  約束は、けして違えられることはなかろう。  懐疑主義を人生の指針とする者でも、定められた書式に則《のっと》った〈念書〉《ねんしょ》より、血で捺した〈拇印〉《ぼいん》より、信じられる誓約で、立ち会ったのは自分とお手伝いさんたち、熱帯の木々も聞き届けたはずで、皆が立ち去った後でもこの温室には、今日の誓いの情景が幻のように立ち現れることもあろう。  これでようやく、一つの荷を下ろしたと、安堵で胸を撫で下ろして、それで気を緩めてしまったからだろうか。築宮が、香木の安否よりも根深く重く、法師と自分の肩にのしかかった重荷の事を失念してしまったのは。  お手伝いさんがまたどこかから取りだした、綺麗な風呂敷で香木をおくるみにしているのを横目に、 「俺は……あいつらの言っていたことは、欲得ずくのこじつけだとしか思えない」 「近頃はびこっているという、その小人の怪異、俺も一度だけ見たことがある。  君だってあるだろう? 何時かの夜、君の庵《いおり》の裏で、水路から揚《あ》がってきていた」 「あの時、その怪はすぐ退散していったけれど、あれは君の琵琶を聴いたからじゃないのか?」  ―――なんの気なしに踏み替えた、足の下に落ち枝の、ぽきりと折れた軽い響きは築宮にはただ、枝を踏みしだいた音に過ぎなかったろう。だが、法師にとっては?  自分の心に走っていた亀裂が、より深く大きくひび割れた音に聞こえなかったろうか。  問い返した令嬢に咎はない、法師が一瞬表情を失って、眸を命なき〈硝子〉《ガラス》玉にしたとしても、それは話を続けた令嬢のせいでなく、話題を与えてしまった築宮に責がある。 「法師さまの、演奏で? 〈妖異〉《あやかし》が?  それがもし本当なら、私どもにお力添え、お願いできませんか?」 「あの慮外者達の、言葉の後を追うようで、  今口にするのは、品がないのだけれど。  実際皆が、〈難渋〉《なんじゅう》しているのは本当です」 「法師さまの音曲で、〈妖異〉《あやかし》どもが鎮まるかも知れないのなら……どうかご一手、弾いていただきたく思います……」  それは法師の演奏そのものでなく、音楽の持つ呪力を当てこんだものかもしれないが、それでも彼女がここまで丁重に、弾奏を請われたことがあったろうかと、築宮は状況の変化を皮肉を感じたが、そんな風に余裕めかしていられたものではなかったのだ。 「あ……あ……っ。  そんなこと、言われても」  人から琵琶の演奏を求められれば、無邪気に喜んで、その〈神業〉《かみわざ》の冴えを惜しげもなく披露したことだろう。常の彼女なら。  しかし今の法師は。  こわい男達もいなくなって、大事の香木も頼れる人に預けて、ようやくほっとしていた貌に立ち戻ったのは―――恐怖。  だが先ほどまでの恐ろしさは外から来たったものであり、もしかすると逃げ道もあったのかも知れず、令嬢という救い手も現れた。  ところが今度の恐怖は、自分の中に深く沈潜していた絶望に由来していて、逃げようも防ぎようもなかったのだ。  誰も、自分からは逃れられない。 「わたし、弾けない―――  もう琵琶、弾けなくなっちゃったぁ……」 (しまった―――!!)  築宮が、どれだけ己の〈迂闊〉《うかつ》を呪ったところでもう遅い。己の頭に間抜けと大書した三角帽子を載せて胸には馬鹿と染め抜いた札ぶら下げて、廊下の辻《つじ》に晒し者にされても仕方なし、そしてそうしたところで失言がなかったことに出来るはずもなし。  法師の目に、再び盛り上がった涙、やっと消えかけていた涙、これまでで、最大の絶望に満ち満ちた涙。  その涙が、宙に舞った。 「ごめんなさい―――  ほんとに、ごめんなさい―――!  わたし、どうしてこんなに―――  だめなんだろう……っ」  考えるより先に奔《はし》って、築宮の手が掴んだ。  ―――なにもない虚空を。  つい寸前まで、法師が立っていた隣を。  そして既になにもいなくなった隣を。  人魚の涙は真珠になったというが、法師の涙はただ儚《はかな》く散ったばかりで築宮の手には形も残さず、しかし重く苦しい悔恨の種となって彼の胸底に深く沈んだ。  突如として逃げ出した法師を、令嬢もお手伝いさん達も〈怪訝〉《けげん》な顔つきで見送ったが、彼女達をなんで責められよう。  責められるべきは自分なのだと、築宮は舌を噛み切りたくなったという。  かくて法師は己の不甲斐なさを恥じて走り去り、築宮は自分の不明に身を灼かれる思いで立ちつくす。  すぐさま令嬢に、追いかけていってあげるべきですと諭されたけれど、〈慚愧〉《ざんき》と自己嫌悪が築宮の足に重い重い鎖を絡めていて、どうしても踏み出すことが、できなかった―――  ―――呻《うめ》き声は、錆びた滑車よりも重く軋んで〈悲憤〉《ひふん》の色を帯び、屋根瓦に叩きつけられた小さな握り拳は、節の一つ一つにまで絶望と〈焦燥〉《しょうそう》が詰め込まれていた。  しかしどれだけ痛ましい〈慟哭〉《どうこく》であろうとも、耳にして同情を寄せる者や、まして迷いを払う道を示してくれる者など誰もいない、女は、法師は屋根の上で孤独に一人、膝をついて啜《すす》り泣きつづける、涙と声は風に千切られ切れ切れに。  いや、たとえ誰か見届ける者があったとしても、何人たりとも彼女の絶望を理解し、癒してやれる術を持つ者など、いる筈もないのだった。  ひたすらに没入し続け、なかば存在の一部と化した技、道が失われた事への絶望の深さを、その当人以外に誰が判ろう。  屋根瓦に身を投げ出し、涙の雫を点々と跡残す法師の傍らには琵琶、古ぼけて磨り減り、色も褪《あ》せたこの琵琶は、ひとたび法師の膝に抱かれると、天界の楽人が降ったかと思われるほどの楽の音を奏でだしていたのに、それ数日前までのこと。  今は―――今は。  全身全霊の想いと願いを籠めて一心に、切ない震えを抑えて懸命に撥を遣えども、果ては〈懊悩〉《おうのう》の果てに屋根瓦にのたうち、爪を立てるように願っても、霊感は戻らず旋律は還らず、法師の琵琶は墓石の如くに黙したままだった、彼女に語りかけてくる声もなかった。  絃も撥も慄《おのの》くばかりで音を為さない――― 「弾きたいよ、また、前みたいに。  だから、お願い、ねえ……!」  全身の肉、流れる血潮の全てを絞り出すように、祈り、願い、〈身悶〉《みもだ》えして、もう目も涙が沁みてしかとは見えない、それなのにただ空は蒼く突き抜けて、霞《かすみ》はただ白くして、広大なる屋根の上では法師の苦悩の様はひどく、そうひどくちっぽけなばかりで。  法師は、胸の扉が大きく開いて風を涼しく通らせるような、この屋根の上にて試せば、あるいは琵琶の声を僅かなりとも取り戻せるかとすがるように期待したのだけれど、願いは空しくて、なにも変わりはしなかった。  空を渡る風の中、どんなにか必死に琵琶そのものに、あるいは彼女が旅路の最中で詣《もふ》でてきた、様々な神仏、精霊の似姿を瞼に描いて祈念もした。  けれども、願いを聞き届けるような験《しるし》は現れず、澄んだレンズのような気圏の底で、琵琶の旋律から切り離されてしまったのだという孤独がいよいよ募り、法師はついには琵琶を取るや高々と振り上げた、頬が追いつめられた心で危うくひくつく。  あれほど大切にしてきた生涯の伴《とも》を、激情に任せて屋根瓦に叩きつけるか、というぎりぎりの鼓動が、胸の裡《うち》で奇妙にも規則正しい。  天を衝いた琵琶の先が、一分のぶれなくぴたりと据わる。  瞬、一瞬、また一瞬。  張りつめた瞬間が引き伸ばされ、そして法師は―――琵琶を―――  のろのろと、静かに下ろした。  通り神に取り憑かれたような激情をかろうじてやり過ごし、自らの身体の一部とも言える琵琶を打ち砕く寸前で踏みとどまって、煤《すす》けた瓦に下ろした途端に、心臓が、それまでは不気味なくらいに穏やかだった鼓動が爆発したのである。 「あ、く……っ」  体の中で別の生き物、凶暴な獣が荒れ狂うような〈動悸〉《どうき》は、琵琶を壊すのを思いとどまった後になってから法師を襲い、彼女を再び狂乱の発作に叩き落とした。  よろよろと屋根を下りていく。  茫漠として、高原のように広い屋根の上であっても縁はある、踏み越えれば鳥ならぬ身は一直線に堕ちていくのみだろう。  後は運が良ければ大河に呑まれるか、さもなくば旅籠の構造物に激突して血と肉と骨の染みになり果てよう。  その瞬間彼女は、むしろそれこそを本気で望んだのだ。  こんな、琵琶も弾けない情けない自分など、一切合切墜落に委ねて後はどうにでもなれという、自暴自棄な衝動に背中を蹴り出されたのだ。 「だめ―――そんなの、いやだぁ……っ」  狂気にかぎろう眼差しは、屋根の縁が近づくにつれ、その下に眩《くら》むように広がる情景を捉えるにつれ、徐々に正気の色を取り戻し、生存本能が〈膀胱〉《ぼうこう》を直撃して失禁させんばかりであったが、傾斜を下りるうちに加速がついて小走りになって、今や法師自身にも抑えきれないほど。 「ひ……ひゃわあ―――っ」  怖い、恐ろしい、死にたくない、痛いのは厭、なのに脈打つ心臓に裡《うち》側から引きずられるかの如く、足は止まらず、法師は〈頓狂〉《とんきょう》で、それ故に無惨な悲鳴を迸《ほとばし》らせて、歯の根を打ち鳴らして、全身の力を振り絞った。  振り絞って、横様に倒れた。  もう走り止める事など自力でできなかったから、最期の賭けとして自ら転倒する事で、死への疾走から自分を逸《そ》らしたのだった。  果たして―――瓦が上から下に鳴って、痩せた体が二度・三度跳ねて、止まった、それが屋根の縁から僅かの、まさに寸前、ぎりぎりの際の。  ぱら、ぱらと、乾いた泥や瓦の〈欠片〉《かけら》が、屋根の縁からこぼれ落ちていく。 「……はぁぁぁ……」  撃ちつけた横身が、擦りむいた肘や膝がずきずきと痛む、けれど痛みは生の証であり、法師が吐いた安堵の息、それがすぐさま〈嗚咽〉《おえつ》に変わった。  ―――何をしているのだ、自分は。  どんなに苦しいからとて、琵琶を壊して何になるのか八つ当たりの、見苦しい。  どんなに情けないからといって、身投げというのは無意味にも程がある。  袴の腰を瓦で擦りながら、へたりこんだまま、縁から遠ざかる。寸前までの自暴自棄な衝動は消え失せて、墜死への恐怖で心臓が破裂しそうだ。  ……とにかく墜ちる不安のないところまで自分を引き揚《あ》げて、法師は瓦に額押し当て、泣き崩れての、ひとしきり。  埃と涙でだんだらの、顔を挙げたが眼差しは魂が麻痺したかに虚ろで、身を起こしたのだって強い風が吹けばあっさりと吹き飛ばされそうなほどに弱々しい。 「わたしは、ばかだ……。  琵琶は、もう弾けない。  死んじまうことも怖い」  撲《う》ち身に青黒くこずむ爪の色を思わせる、痛々しい声音で呟いて法師は、一人涙を拭《ぬぐ》う。  歌を忘れた〈金糸雀〉《カナリア》を、あの手この手で責めるか、さもなくば慰めて思い出させようと言う歌もあるが、歌を無くしてなにより侘《わ》びしいのは当の小鳥自身の、法師も同じ、彼女の苦悩は余人には、たとえ築宮青年とて測り得ないもの。  どれだけ焦燥と絶望にのたうち回ろうとも琵琶の声は戻らず、死にきることもできず、誰も見ていないところで無様を晒して、一体この身になんの甲斐があると、法師は深く嘆いた。 「わたし……、  なんで、ここにいるんだろ……」  眦《まなじり》に塩差したかに沁みる、涙を拭《ぬぐ》ってみたけれど、手の甲も汚れていて余計にひりつかせるばかり。みじめさ加減は底無しで、法師は一体なぜ自分がこうまでして琵琶にしがみつこうとしているのか、そのそもそも原点を思い出そうとしていた。 「そっか……。  わたし、まだなんも、  めっけられてないんだ」 「あの人―――  いちばんはじめに、わたしに琵琶を聴かせてくれた人」 「あの人、最期の最期まで、願ってた。  一度で良いから、『秘中の曲』をって」 「悔しがってた。その曲に巡り逢えないまま、死んじゃうのが悔しいって」  虚ろな眼差しに、少しずつ光が戻り始めるが、向かい風に決然と挑んでいくといった力でなく、死病に取り憑かれた者がやり残した仕事にどうにかしてかたをつけようとするような、そんな哀しい決意に満ちていた。 「わたしだって、ぜんぜん見つけられてないよ……。  琵琶もだめ、死ぬのも怖い。  それなら、せめて」 「あの人が想いをのこした、調べ。  それだけは、みつけたい―――」  風に言葉を流して立ち上がり、歩き出したが、彼女自身の決意が再び立ち上がる力を与えたと言うより、死者の妄執に絡めとられた人形じみた、そんな足取りで、法師は屋根の上から旅籠へと戻っていった。    その後彼女がどうなったのか。  もともと好んで人交わりをするような女ではない。旅籠の大方の人間から言わせれば取るに足らない女であり、取り柄の琵琶だって〈数寄者〉《すきもの》以外は進んで傾けられる耳もない。  ましてや彼女の苦悩に心砕く者など余計におらず、その消息を一々気に掛けるのは皆無といっていい。  だから、琵琶法師に心配る数少ない人間である築宮の他、この屋根の上での一幕の後に、彼女の姿が見えなくなっていることに気がついた人間は、いなかった。  水路の眺めの中に行き交う旅籠の客だのお手伝いさんだのは、高みの廻廊から見下ろせば皆豆粒ほどの大きさで、誰が誰やらの目鼻立ちも見てとれない。  それでも築宮は、馬屋一杯に散り敷かれた〈藁屑〉《わらくず》の中に一本だけ混じった金の針を掴むよりあえかな望みと知りつつも、彼女の姿を求めずにはいられなかった。 「一体どこに行ったんだ……」  呟く声には〈焦燥〉《しょうそう》と疲れが、傷つけられた樹の幹から滲む露のように見え隠れしている。  無理もあるまい。この広大でまともな地図もない旅籠を、手の及ぶ限り訊ねあぐね、脚が届く限り捜し回れば誰でもそうなる。  ばかりか、捜索を始めてから二度ほど人気のない区画から抜け出せなくなりかけた。  けれど築宮は、我が身をなげうってでも捜し求めずにはいられなかった。  ―――青年が琵琶法師の姿が見えないのに気づいたのは事自体は思いのほかすぐで、彼女が屋根の上から身を投げ損なったその日の夕である。  〈頓馬〉《とんま》な自分の〈迂闊〉《うかつ》な言葉が法師を追いつめてしまったそうに違いないそれ以外は考えられないと、築宮は今度は自分を追いつめた。  他人はそれは考えすぎだと宥《なだ》めるかも知れないが、こと我のしでかした過失に関しては、失敗を挽回してやると前に向いて立ち上がるより、ひたすら陰に籠もって自分を責め続けるのがならいの築宮である。  過失を過失と気づかず繰り返し続けるよりはご立派な姿勢であるが、自分一人で背負いこむにも限度があろう。  だのに、築宮は、法師の失意と苦悩を全て自分の至らなさに帰した。  もう少し、自分が彼女に気を配ってやれたら。もう少しだけ巧く、立ち回れたなら。  とかなんとか梅雨時の長靴の中よりも湿気ッぽく気に病み、苦にして、法師には少し頭を冷やす間が必要だろうという冷静な観点には到底至るどころでない。  あの温室での暴力沙汰の後、法師を追いかけてやれなかった事も、青年の自責の種の一つで、別れて自室に戻ってからも後悔の尻尾に囓りつきつづけた。  まんじりともせず一晩明かして、彼女に会いに行ってやるべきだ、いや、言ったところでこの不器用かつ間抜けな舌でどんな慰めを吐くつもりだ、余計に傷つけるだけ、行くべきでない、の、心の天秤があちらに揺れこちらに揺れして、ようやく部屋を出る気になった時には、午後も遅い。  恐る恐る訊ねてみた法師の庵《いおり》に、彼女の姿が見えなかった時は、まだそれほどは焦っていなかった。温室、さもなければ酒場と、彼女の行きそうな場所は他にもある。  ところが順繰りに辿ってみても見つからず、次の心当たりの屋根の上、それから大浴場と回ってみてもいっかな会えず、その頃には既に日も暮れ、最後にまた庵《いおり》に戻って、けれど待てど暮らせど法師が戻る気配がない。  主がなくしてはただただ荒廃の色ばかりが強調された侘《わ》び屋で、一人火を焚《た》いて待つ虚しさと言ったらなく、わずかな物音を彼女の〈跫音〉《あしおと》と勘違いしては一喜一憂の、結局その日は法師は帰ってこなかった。  その日も、次の日も、また明くる日も。  日が経つにつれて築宮の〈焦燥〉《しょうそう》と疲労はいや増しに、こうして廻廊の〈欄干〉《らんかん》に凭《もた》れているだけでも気を抜けば意識が遠くなりそうだ。  あたる余裕もなく口の周りに〈無精髯〉《ぶしょうひげ》、じゃりじゃり伸びたのを手の甲で拭《ぬぐ》っては溜め息をつく。  思いつく限りの場所は捜した。  それでも琵琶法師の痕跡を見出せず、築宮はもう疲労と不安とで〈血反吐〉《ちへど》を吐きかねないほどに消耗していた。  姿が見えないだけではない。 『さあ……お役に立てずあいすみませんが、あたしも見てないですねえ』 『ただねえ……法師さまご自身の消息、というのじゃないのですが』  と台所方のお手伝いさんは、築宮に話しかけられたのを一息入れる口実のつもりにして、面倒を見ていた〈糠樽〉《ぬかだる》の糠《ぬか》をざっと洗い流し、甘酸っぱい匂いをさせてひそひそ話に顔近づけた。 『あんまり、いい話を聞かないんです。  ほら、法師さま、酒場で根性悪いのに絡まれてたでしょう』  あたり憚《はばか》る小声の中の不穏な気配に、築宮の不安がかきたてられる。  絡まれる、どころではない。どうやらこのお手伝いさんは聞き知った様子だが、温室ではその根性悪い(とは随分大人しい評価だ)輩に危うく凌辱されかねないところだった。  あの時は令嬢の威力ある一喝で退散したものの、またぞろあのろくでなしどもが話に噛みこんでくる気配である。 『温室でも、〈一悶着〉《ひともんちゃく》あったそうで。  その時はどうやらうちの女将さんが追っ払ったようですが、そいつら、今度は法師さまを逆恨みして、捜し回ってるって話です』  どこまでも性根が歪み腐れた者というのはいるもので、それを聞いて築宮はいよいよ危機感を募《つの》らせた。  今度もし法師があの馬鹿者どもに捕まったとして、またそこに令嬢が居あわせてくれるの幸運も、二度は続くまい。  かてて加えてあの手の輩の逆恨みというのはどう控えめに見てもおぞましい形を取ることが容易に予想され―――  これはどうあっても連中より先に法師を見つけださなければならないと、築宮はほとんど発狂せんばかりに焦った。  焦ったところで、もう彼一人では打つべき方策も思いつかず、こんなところで途方に暮れていても時間を浪費するだけの。 (心当たりの場所は、もう全部当たったが、  それ以前にここは広すぎる) (人も通わないようなところに潜りこまれたら、もう捜しようもない)  ところが、築宮には見つけられなかったからといって、無頼者どもにも見つけられないという保証はどこにもないのが忌々しい。 (さすがに俺一人では限界か……。  自分の不始末のかたを、自分一人でつけられらないのは情けないが)  安易に人を頼るべきではないと自覚しつつも、害が及ぶのは築宮自身ではなく琵琶法師であり、となれば自分一人でどうこうと悠長に構えていられたものではない。  不甲斐なさを晒してでも、その力を頼るべきは、とこの時築宮の脳裏に浮かんだのは一人、いやもう一人。  一人は言うまでもなく令嬢で、彼女なら事の経緯にもいくらか関わっている。なにより旅籠の管理の手を担っている。  そしてもう一人だが、割れた般若の面を着けた女だった。あの渡し守だった。  風変わりな女であり、得体の知れないところはあるが、それでも何故か築宮には情めいたものを抱いている節がある。それに令嬢とは別の意味で、この旅籠の深い部分に関わっているようにも見受けられる。  相談だけでも、持ちかけてはどうだろうか。  ―――結局築宮は、令嬢と渡し守を交互に考えて、割れ般若の面の女の方を訊ねてみることにした。  それに、可能性としては低いだろうが、これだけ探し回っても見当たらないのなら、ひょっとすると琵琶法師は旅籠から旅立ってしまった可能性もある。  もしそうであるのなら、その消息は渡し守が知っていよう。  そう考えて、渡し守が小舟をつけていそうな辺りに足を向ける築宮であったが、自分の思いつきながら外れてくれる事を祈っていた。  もし法師が旅籠から旅立ってしまっていたのなら。  彼女は、自分に別れも告げてくれなかったことになるのだから。  ……と、吹き抜けの多層廻廊を後にした時には、誰かを頼るにしろとりあえず一つ目的ができたことで、築宮の疲れ切った足にも活が入った。  が、所詮一時の勢いで長くはつつかず、船着き場に運良く渡し守の小舟が留まっているのを見て、安堵で疲労が立ち戻った。  胴の間の障子戸を叩こうとして、脚がもつれて、前につんのめって体が泳ぎ、水路に逆落としになる、すんでのところで胴の間の屋根縁を掴んでこらえる。  こらえたが、小船がぐらつき、足元も桟橋から滑り落ちそう、あわやずぶ潜りかというところで、 「……なにをやってなさるんです。  人の舟、ぐらぐらさせて遊ぶような悪ガキは、あたしゃ嫌いですぜ」  覗かせたのが〈憮然〉《ぶぜん》顔、口小言をよこしたのに慌てて謝って、なんで謝らないといけないのか内心首を捻って、それでようやく体を引き起こした。ここ暫《しばら》くこき使われ続けた心臓の〈動悸〉《どうき》も夥しい。  〈火照〉《ほて》った肌にもたてきった胴の間の空気は温かったが、色褪《あ》せた畳に座して、ようやく築宮は文字通りの一息をついていた。  水路の水で絞った〈手巾〉《ハンケチ》で額を拭《ぬぐ》うくらいの落ち着きも、やっと取り戻した。  が、〈無精炉〉《ぶしょうろ》に半身を持たせかけた渡し守から投げられたのが、 「はぁ……あたしンとこに来るのに、  そんな息せき切らしてなのは、  よっぽど焦がれてくれたようで嬉しいが」 「そんな、口中〈胡麻〉《ごま》の〈無精髯〉《ぶしょうひげ》じゃ、  色気てぇよりむさ苦しいばかりだ」 「そのじょりじょりするので、くすぐってもらうのが良いてェ女もありますが、あたしはご免ですよ」  とこれが、〈秋波〉《ながしめ》まじりの〈口舌〉《こうぜつ》で、築宮は渋い顔になった。  廓《くるわ》に駆けこむ野暮天でも迎えるつもりで渡し守はからかったのかも知れないが、築宮が持ち込むつもりの相談というのがありていに言って女がらみで、ちょっと頭を冷やせばばつが悪い。  けれどそんな事で躊躇っていられる状況ではないのだと思い直して、まずは訊ねて口火を切る。 「いや、ここしばらく鏡を見る余裕もなかったんです。あれこれあって。  それでその、いきなりなんだが、貴女、ここ何日かのうちに、あの、琵琶法師を河の向こうに渡したりは、しなかったろうか」 「琵琶法師ですか。  いいえ、ありませんね。  というよりここ暫《しばら》くは、発つ客も迎える客もない」  きっぱり答えたのに嘘のあろうとも思えず、また彼女がわざわざ偽る理由も見当たらず、それを確かめてから築宮は、おもむろに事の〈顛末〉《てんまつ》を語り出す。  琵琶法師のこと、彼女に手出しする乱暴者共のこと、法師の姿が見えなくなってしまったこと―――  語るうちにも築宮の心の中で、色々整理がついてきて、それで少しく申し訳なく思った。  渡し守が法師の行く手に心当たりのあるはずもないではないか、と。そんな事を訊ねては彼女を患《わずら》わせるばかりではないか、と。  ひとしきり語り終えた時には築宮は、余計ないざこざを持ち込んだ事を詫びて、さっさと小舟を退出するつもりになっていたのだが。  渡し守は早腰を浮かせかけた築宮を留め、銀の〈延煙管〉《のべぎせる》に煙草を詰めて火を点じ、薫煙を肺に落として沈思の、ひとまづ間を置き、 「あーあ。〈折角〉《せっかく》通《かよ》って下すったと思いきゃ、別の女の相談とくる。  もちっとこう、あたしだけを目当てにしてくれても、よさそうなもんだが」  煙と一緒に漏らしたのが〈愁句〉《しゅうく》じみていて、この手のやりとりを上手にさばける築宮ではなく、恐縮するしかない。  けれど渡し守はそれ以上は築宮をいじめたりはせず、障子越しに旅籠へ顎を反《そ》らして、思い起こす風情で、 「ともかく、その馬鹿共には心当たりがある。旦那も法師も、よくよく下らないのに目をつけられた」 「まあ、後付けで嘆ェたって仕方ねえ。  あたしとしちゃあ、どうにか助け船を出してやりたいところですが、あの琵琶弾きの隠れそうなところは、ちょっと判りかねる」 「なんしろ、隠れっところだきゃあ、  山ほどあンのがこの旅籠だもの。  ……役にも立てず、面目ない」 「いや、こっちが変な相談を持ちこんだんだ。でも聞いてもらえて良かった。  少し心も落ち着いた。  また、捜してみます。さすがに捨ておくというわけにもいかない」  今度こそお暇《いとま》をと、頭を下げた築宮へ、〈無精炉〉《ぶしょうろ》の縁を撫でつつ、どこか物思わしげな眼差しを注いで、 「時に、あの琵琶弾きは、まだ『秘中の曲』とやらを探しているんで?」  築宮、立ち上がりかけて、中腰で止まった。  渡し守が何故それを知っているのか。  不審に思って、 「貴女が、何故それを?  ああ、法師から聞いたのか?」 「まあ、話するなら、も一度座りなさいよ。  旦那みてえに長いのに立っていられちゃ、  おっ被さってくるみたいでおっかない」  腰を浮かせたり下ろしたりと、水車の杵《きね》のような忙しなさだが築宮は結局腰を据えることにした。  意味もなくこういう話の継ぎ方をする女ではない。築宮をまごつかせるような口説き文句も上手だが、〈含蓄〉《がんちく》のある言葉も多い。 「昔、そう、ずいぶんと昔だ。  一人の客を渡したことがある。  坊主みたいな、学者みたいな男でしたっけ」 「その人を、渡す間の世間話、というには浮世離れしていましたよ。  ―――なんしろ、琵琶の秘密の曲を探しているてぇ言うんだから、さ」 「――――――!」  息を呑んだ、畳に爪を立てて前に乗りだした、道ばたに無造作に捨てられていた小箱の中に、龍の秘中の玉《ぎょく》でも見たかの〈驚愕〉《きょうがく》で。 「まあ、あたしは聞き流していたんだが、  いろいろ言ってたっけね。  まだ調べそのものは聴いてないが、  手がかりはある、と」 「ちょ、それ、は―――!」  なおも膝でにじる築宮を、手で制して煙管に新しい煙草を詰める、煙管煙草はゆったり味わうのが作法と言うが、この時の渡し守も心憎いばかりに気を持たせる持たせる、青年がじりじりするのも知らぬげに、のんびりとまた火を点じて、一服して、やっと。 「なんでもその曲ってのは、  一人で弾くのにも関わらず、男と女、二人いないとだめだ、とか」 「琵琶の方も、なんとか言う、香の木から作ったものでないといけないとか」 「『まだ琵琶にはしてないが、基になる香木は見つけた』って―――綺麗な〈袱紗〉《ふくさ》包みでしたよ。そん中にしまいこんであったようで」  ぐらぐらと、四方が揺れだしたかの悪心地して、築宮は想わず障子戸の桟《さん》を掴んだ。小舟に急の大波が押し寄せたのではない。  予想もせなんだところから、よもや琵琶法師の願いに連なる言葉、しかも秘密の鍵ともなりそうなのが飛び出してきて、全くの不意打ちとなって築宮を揺るがしたのである。  秘中の曲はいまだ切りの中にあって正体は判然としないが、その為に用いられる琵琶というのは、なんだ? なにを基にして造ると? (香木から造るって、まさか―――!?)  琵琶法師の本性は、一体なんであったか?  あの時温室で、香木を傷つけられたと同時に彼女の肌も裂けた。してみると二つの間になんらかの繋がりがある、むしろ香木というのが法師の本体とだと推測するのは突飛だろうか。  人が聴けば半信半疑で眉を潜めるばかりだろう。けれど築宮は、それが真実であると考え始めている。  それを抵抗無く受け入れられるのは、法師と肌を重ね、その暖かさ柔らかさを知っているから。  香の精といって、ふわふわと霞《かすみ》のように実体のないものではなく、触れ合う事のできる女だというのが、逆説的に彼のその事実を受け入れやすくしているのだ。 「それで、その人はその後どうなったのか!?  秘曲を見つけられたのか?  その香木も、どうなった!?」 「いっぺんに捲《まく》したてられてもね。  見つけられたかどうか、そんなとこまでは知りませんよ。どうやらこの宿に骨を埋めたって話だが」 「お香のほうも、どうなったのか。  ただ、なんでもその人は、旅籠の温室が好きで、よく通っていたって噂だ」 「……おや、そういや、その人が亡くなったのと同じくらいですな。琵琶弾きが旅籠に出てきたのは」 「あたしは、あの娘を渡した覚えはないんですがねえ」  これがまたなんとも空々しい。  が築宮はそれを詰《なじ》るどころではなく、居ても立ってもいられず、心が逸《はや》った。  なにかを掴んだような、そんな焦りがある。  少なくとも、この渡し守の元に足を運んだのは無駄ではなかったらしい。  渡し守の昔話はそれまでのようで、後は意味ありげな含み笑いで、築宮は今度こそ小舟を辞すことにした。  逸《はや》る手つきでいささか乱暴に繰り開く障子戸、口の中で詫びて飛び出せば、船着き場の入口から吹きこんできた大河からの風が奇妙なほど涼しい、それくらい首に汗している。  艫縁を蹴って桟橋に飛んだ築宮に、障子戸の向こうから。紙に透ける影が、角生やして、託宣を告げる魔神めいて。 「―――旦那。  芸事は魔物、ともいいます。  そこに深く踏みこむものの、また、魔に囚われる」 「あの法師だってそうだが、あんまり深く首を突っ込みすぎると、旦那まで抜け出せなくなりますぜ?」  忠告は、いつだって耳に苦い。  正しければ正しいほど、然《しか》りだ。  渡し守の言葉が築宮には耳障りに聞こえたのも、きっと彼女が正しいからなのだろう。  それでも築宮は、今駆けていく足を止められないのと同じく、法師へ向かう気持ちを抑えられそうにないのであった。  ―――酒というのは日々の悲喜こもごもの受け皿にして、諸々の零れ話に秘密めかした話を、舌を解れさせて語らせる。  となれば、あの例の、旅籠の地下の酒場には、色々の噂話、風聞が集まるのはこれは当然のなりゆきだろう。  とは言ってもいずれも〈揣摩憶測〉《しまおくそく》の域を出ず、一時の座興にはなっても皆聞いた端から耳から零して忘れ去る。  そうでなくとも酒を呑むのに忙しい。  そんな酒場の四方山話で囁かれた中に、かつてこんなのがある。  ―――旅籠には様々な不思議の場所がある。  そもそもが迷路のような造りなのだから、なにがあってもおかしくはないのだが。  しかし中でも屈指なのは、地下だ。旅籠の地面の下だ。  大河の中に浮かぶこの旅籠、どういう土台に立っているのか定かではないが、それでも地下は厳然としてある……いや、あるという噂だ。  噂ではない。  俺は聞いた。俺の呑み友達の知り合いが(とこの時点であやふやな伝聞なのだが)、間違いなく迷いこんだという話だ。  なんでも旅籠の地下には、底知れぬ洞窟が広がっているそうな。  奥深く伸びて、呑みこんだ闇に相応しく、様々な秘密を隠しているそうな。  というより地下の洞窟は、旅籠に噂される秘密や伝説の源なのだという。  旅籠に囁かれる全ての伝説や謎は、全てその地下洞窟に端を発しているのだという。  ―――殆どの者は、そこまで聞いて一笑に付す。そんな都合の良い秘密の源などあってたまるかと。  むしろ笑い飛ばす者の方が、まだ分別も理性も残していると思われるのだが、地下を語る者は躍起となって反論する。  嘘ではないし作り話でもない。  その証拠に、以前自分は、地下へと通ずる、それらしい入口に行き当たった事がある。  その時は奥まで覗かず引き返してきたのだが、それはちょうどあの娘が、と酔客は酒場の戸口を振り返る。噂をすればなんとやらの伝で、彼女がそこに現れるのではないかと危惧して……幸い戸口に影は差さず、酔客はほっと話を続ける。  あの、人形みたいな娘、旅籠の女主人である令嬢が現れて、それ以上進むことを固く禁じたのだ、と。  詳しい理由は告げず、ただあの氷みたいな貌で止められると逆らえなかった。  小娘一人に臆病だと笑うなら笑え。ならお前は、あの娘に面と向かって禁じられて、敢えて逆らえるのか?  ……話をしていたのも聞いていたのも、そこで亡霊でも通ったように黙りこくった。  全くもって、あの令嬢を相手にして逆らえるはずもないと想像に易かったのである。  ―――〈却説〉《さておき》―――  その時、酔客達の話を耳にしていたのは、その当人だけでなかった。  時折酒場に降りてきては、客達にていの良い無関心であしらわれていた一人の女もまた、その話を聞くともなしに耳にしていたのである……琵琶の弾奏の合間に。  その話を彼女が心から信じたかどうかは定かならず、ただ忘れ去られることはなく、記憶の中にしまいこまれたのだった。  そして、やがて――― 「あっ、こんなところにいた。  なにやってんですあんた、こんなところで油売って」 「……うるせえな。別にどうもしちゃいないやな。  ……それよりなんだ? そんな泡食ったていでさ」 「なんだ、もなにもないよ。  いたんだよあの女が。  ここ暫《しばら》く見えねえと思ったら、さっきふらふらと歩いてやがった」  あの女、では曖昧だが、悪党同士通い合う息がある。すぐに意を通じて、それまで気怠げに水路を見つめていた親分格はやにわ目を見張った。 「……あの琵琶法師か?」 「うう、そ、そう。  さっき、向こうの廊下に、いた」 「……早く言えよそれをよ。  で、どっちだ?」 「あっちのほうだ。なにやってんだろうなあんな所で」 「いいから案内しろよ。  あの女にはまだまだ言いたいこと聞きたいことがある。先だってはあの小娘の邪魔が入ったが」  言いさして、不愉快そうに口を噤《つぐ》んだのは、温室での令嬢との屈辱的な一幕が頭に蘇ったせいだろう。  苦いモノを吐き捨てるように口を歪め、子分を急かした。  ……どうやらこの慮外者共、令嬢にさんざ煮え湯を飲まされたにもかかわらず、いやむしろかえってそのせいでか、琵琶法師への執着を捨てきれずにいたらしい。  それが今、という好機を得た。  子分達を先に立て、走り出す前に一応まわりを見回したのは、それでもお手伝いさんの目が無いことを、引いては令嬢の手が届かないことを確かめたのだろう。  ………………。  …………。  ……。  振り返らず必死に走ったところで足音が脅かす、その恐怖に負けて肩越しに背後を見遣れば、なお悪い、影が幾重にも重なって覆い被さってくる――― 「っ、はぁ……っ!  なんで……追っかけてくんのぉっ」 「アホかお前、んなこともわからねえのか。  そりゃお前が逃げるからだぁ」  法師はそれは可哀相になるほど懸命に、岩床を二つ跳び、三つ越え、巌も闇も〈遮二無二〉《しゃにむに》踏んで、もう一息、更に一息と苦しい呼吸を切れ切れに押し出して。なのに降りかかる、下卑た笑いが、灯りの輪の中で一層醜く歪む。 「だって、いやだもん……あんた達、いやだもの……っ。  私にいやなこと、ばっかするからぁっ」 「いいから、とまれ……逃げるな」 「だって、だってぇ……つかまったら、  またひどいこと、される―――!」 「……お前、次第だよ。  お前さんが大人しく、〈寄越〉《よこ》すモノを〈寄越〉《よこ》しゃぁ、それ以上のことはしないさ」 「だって、それって、アレ……だよね?」  馬鹿正直に問い返すのが走りながら。  距離は縮まらないが、かといって開きもしない。悪党共は嬲っているのだ。  その歪みきった性根に相応しく、わざとじりじりと追跡の時を引き伸ばして、法師の心と体を消耗させようとしている。 「わかってるじゃねえか。  そうだ、あの香木のことさぁね」 「ありゃお前さんなんぞにゃ、不釣り合いな代物だ。だから、な。ちゃあんと俺達がいいようにしてやるって言ってる」 「……もちろんお前にだって、分け前は渡す。俺達ゃ物盗りなんぞじゃないんだ」  親分格が革靴の軋みと共に岩畳を踏む。物わかりよさげな言葉、しかしなんと傲慢で、他者への思い遣りなど嘲り飛ばすような言葉で――― 「そうそう。そうだともよ。  その分け前がありゃあ、お前だってもうちっとは贅沢な暮らしができるって」 「あんなあばら家より、もっと良い部屋にだって移れるぜ?」  小太りな子分が、だらしなく履きつぶしたどた靴で、小石を蹴り飛ばす。説得口を叩くは叩くが、それも親分格がそうしているからこそで、この男にとって法師など今蹴り飛ばした小石よりも、優しい声を掛ける値打ちもない相手というのがありありとした、適当な舌だ。 「わたし、あそこでいい……っ。  そんな、良いお部屋なんて、わたし、泊まらなくっていい……っ」 「……おかしい、女だ。  金はたくさんあった方が、いい」  大柄、のっぽな子分が踏み出せば、その足の嵩《かさ》にふさわしい地響きの、愚鈍な声音と共に法師の背なに降りかかる。  三悪の声と〈嘲罵〉《ちょうば》が暗闇をどよもし雪崩かかり、狂犬の如く法師の首筋を噛み、逃げる背中へ〈蝦蟇〉《がま》のようにへばりついて蟠《わだかま》り、巨牛の重圧でのしかかりして。  周囲は闇に岩、法師の救い手が現れるような気配などなし、空しいばかりに黒い。 「そんなの、いらないっ。  わたしはただ琵琶弾いて、それで―――」 「それであの餓鬼と乳繰りあってりゃ、それで良いってか? はん、そんなみっともねえナリしてて、よく色気づいたもんだ……」  逃げる、走り下る法師。  どうしてこんな事になったのか。  彼女はただ、いつか地下酒場で聞いた噂話を頼りに、旅籠の地下を探そうとしただけ。  旅籠の地下には秘密の源が隠されている。  そこになら、きっと自分が求める秘中の曲の手がかりも、あるに違いない。  ……およそ雲を掴むような話だけれど、今の法師にはそれくらいしか当てがなかった。  それで地下に通じる通路を探し、あちらを〈彷徨〉《さまよ》いこちらに迷いしているうちに、どうにかそれらしき入口は見出せたものの―――  余計な、というのを通り越して、危険な道連れまでもついてきた。  懸命に振りきろうにも、鍾乳洞の道は一本道の、逃げこめるような横道もない。 「いや……そんなでも、こいつは女だ。  ……なあ、なんでさっさとつかまえて、やっちまわないのか?」 「馬鹿、お前なぁ……こっちがせっかく筋を通して話つけようってのに、どうしてンな乱暴な事ばっか言うかよぉ」  と一方はたしなめたが、それだって唇に嘲笑を貼りつけたままで、紳士的には程遠い。  たとえ今は手を出さずとも、ひとたび情勢が変わればどんな狼藉を企てることか、想像にたやすい悪畜生。  ただ、親分格の手前、自分が好き勝手に出るのが憚《はばか》られただけなのが、彼へ振り向く、おもねる顔にありありと出ていた。  ところがその親分格から――― 「ああ……なるほど。  そういう手もあったか」 「え?」 「……それって、それは?」 「こちらが下手に出てるのに、いつまでもこれじゃあ埒《らち》が開かないよなあ……。  なあお姉さん、俺だってそんなえげつない真似はごめんだが」 「あんたがそんな調子だと、いつまでもこいつらを抑えておけるかどうか。  なにしろ見ての通りの、乱暴者なんでね」  言外に匂わせた凌辱の臭気に、ただでさえ色を失っていた法師の頬が一気にそばだった。 「ひ……!?  嘘……だよね、しないよね、そんなひどいこと……っ」  それまでは―――築宮青年と肌を重ねるまでは、男女の事柄に疎《うと》く、自分の体が女であること、その意味さえろくに知らずにいた法師ではあるけれど。  今は、女というものに、どのような悪意が向けられることがあるのか、それがどんな行為を生むのか、法師には判ってしまった。  好きな人になら、進んで許す肌もある、しかし―――恐れる相手に、暴力でもって辱められる、鉄のように硬く火のように熱い、男の槍が自分の身体をこじ開けて、最後に吐き出すどろどろの……それがどれだけおぞましいことであるのか、思うだけで法師の脚は縺れる。 「さあて?  俺は避けたいところだが、こいつ達はどう考えてるのやら……なにしろほら、気性の荒い連中なんでね」  悠然と嘯《うそぶ》きながらも、手下への目配せは有無を言わせぬ色を漂わせていた。  それを悪党同士の呼吸で敏感に感じ取って呼吸を合わせるあたり、やはり親分子分なのだろう。 「ひでぇなあ……でもま、そういうこった」 「そっちのほうが、てっとりばやい」 「ひ、ぁ……やめてぇ……っっ」 「だったらほら、さっさと渡しちまいなよ、んん? さもないと―――」 「おおら……っ」 「わ……ああ……っっ」  のっぽの方が大またに駆け下りれば、たちまち間がつまる、長い腕が伸びる。  節くれ立った指先が、法師のほつれた袂《たもと》にかかり、つかみ―――引かれて彼女の体がのめった、が、すんでのところで衣の端が破れ、どうにか逃れたけれど。  か、かっと爪先が巌を踏んで、爪が剥がれるのは辛うじて免れたけれど、激痛が走る。  痛みに顔をひきつらせ、腕を振り回して必死に釣り合いを取り戻し、前にも増して必死の勢いで走る法師の、それでも女のか弱い脚、疲れた脚、引き離すは愚か、悪党との距離は徐々に、しかも向こうの匙加減で狭まりゆくのだ。 「やめてぇ……もうわたしにかまわないで」 「ねえどうして……どうして、こんな、ひどいコトするの、わたし、あんた達に、なんもしてないよぅ……っ」 「だから、アレを渡せと。  そうすれば、お前さんにはもう構わないでいてやるって、そう言ってるんだが」  嘘だ。  それまでは、偽りと判っていても、どうにか物わかりの言い風を装っていた男の顔も、いつしか加虐の色に染まり、目を血走らせ、唇の端に獰猛な犬歯を覗かせている。  ―――凌辱の予感に喜悦している。 「……今なら、まだ許してやる」 「そうだぜえ? こいつがこう言っているうちにな、降参しちまえって」 「こいつはほら、この〈図ゥ体〉《ずうてえ》のとおり、アッチも馬並だ。あんたみてえな痩せっぽちァ、保たないよ」 「股ぐらから血ぃ出して、泣き喚くことになる前に、な……?」 「うあああっ!? 怖い、怖いよおっ。  やだよわたし、でもだって、アレだけは渡せない」 「だってあの木、わたしなんだもの……っ」 「おかしな事を言うが……その口も、いつまで続くか、だな……ほぅら、そろそろ追いつかれるぞぅ……」  手下の、小太りの方が一足飛びに追いついて、法師の背を、つかむ、のではなくとんと押した。 「あっ? あああ……ッ!?」  つかまれる、と思って体を前に逃そうとしていたところだから溜まったものでない。そもそも逃げ去ろうとする者を捕まえるのは、これはなかなかに困難なのだが、追いすがってその背を押したなら、たやすくバランスは崩れるものなのだ。  あわ、あわと哀れに両手で宙を掻いたが空しく、たちどころに叩きつけられたのが石畳の上、骨身に応える苦痛に悶《もだ》え、絶息する法師の背を、どんと、圧《お》した足は無体に大きく、踏み抜くかに容赦がなかった。 「手間、かけさせやがって……。  もう逃げらんねえ。観念しろ」  のっぽの方の愚鈍な声音が、この時鈍器のように法師を殴りつけて法師を恐怖と絶望の淵に叩き落とした。背丈のある方が、法師を踏みつけにしたままぐいと、肩に手を掛け衣装を引きずり降ろし―――明かりの中に浮かび上がった肌は汗にぬめって、男達の狂気を煽《あお》りたてた。 「へえ……これは存外に……」 「なんだ、こうしてみりゃあ、良い体してるじゃねえか、姉さんよお。  とんだ役得ってヤツかこれは」 「あ〜〜〜っっ、ああ〜〜〜っっっっ!」 「離してぇっ、もうやだぁっ!  行ってよぉ、どっか行って、  あんた達なんか、嫌いだよぅっ!」 「嫌いで結構。  聞き分けのない自分を怨むんだな」 「全くだ……ま、大人しくしてりゃ、すぐに済む……わきゃあないか。三人も相手するんだ。壊れねえといいな、お前よ」 「あんた達となんか、しない、わたし、  築宮さんとだけぇ……っ」 「こねえよ、あの餓鬼なんか。  あの餓鬼だけじゃない。  こんなところには、誰も来ない」  力ずくの男、それも三人がかりで、どうして法師が手向かいできようの、闇の中に響くは絶望の悲鳴と欲情に濁《にご》る男達の嘲笑、肌の白と乳房の丸味が、呵責のない無骨な指の中で歪み、据えた体臭がのしかかり―――  強引に割り開かれた脚の間に、醜い尻が、狙いを定めてついに穿《うが》つ―――              寸前で。 「おお厭だ」 「……う?」  岩を踏む、足音さえも聞こえなかったというのに、その影は凌辱の場の傍らにいつの間にか佇《たたず》んで、淑やかにして、威を具《そな》え。 「心通わす相手との逢瀬なら、たとえ岩畳でも、そこは夢心地の褥《しとね》」 「けれど、貴方達じゃあね。  その子には、たとえ贅を尽くしたベッドの上だって、茨のむしろよりも厭《いと》わしいでしょうよ」 「お前、は……!?」 「なんでここにいるッ」 「おお厭だ。厭だ、厭だ。  野暮はどんな時でも、野暮な口しか聞かないものね―――だから、野暮か」  男達の生臭い息を、悠然と手で払って、ざっとかきあげた髪は鍾乳洞の闇の中にさえ、細かな光の粒を散らすかに見えた。  司書が―――図書室の鬼女が、鮮烈に場の流れをさらっていた。 「……違うわね。  野暮なんかじゃない。貴方達みたいなのは、野暮を通り越した、下らないの一言」 「なあに? この見苦しいのは。  女を抱きたい? はん。  枕を相手に腰を振っているのが、お似合いなくらいなのにね」 「……おい。あんたの話は、聞いたことがないでもないが。だが、口を挟まないでもらおうか?」 「こりゃあ、そこの女と俺達の問題だ。  邪魔するあんたこそ、野暮の極みってものじゃないのか、あ?」 「寄せないで、臭いのよ、口が。  業病やみの犬みたい」  革の手袋で鼻先覆うのが、男達の下卑た遣り口に比してなんとも優雅で、それでいて痛烈な皮肉と嫌悪ををあからさまに物語った。 「それにね、私は邪魔しに来たんじゃないの……私が先に、ここにいたのよ」 「なんだと……?」 「標本の、採集にね。  割りこんできたのは貴方達の方。  邪魔するつもりはないけれど」 「おお、それだったら、さっさと済ませてどこなりと行ってくれ。邪魔がどうのと、今は……ま、いいよそれは。だから、な」 「邪魔するつもりはないけれど―――」 「な、なんだよっ。凄んだってな、人数が違うよ人数が。いくらあんただって―――」 「ここのこと、よく知りもしないで入りこんだ、貴方達はじきに」 「なにが、言いたい……?」 「ひ……? な、なに、この人っ」  それまで呆気にとられて言葉を失っていた法師の、引きつけたような悲鳴の、あまりに度を失っていて、親分格と小太りの子分はまたぎょっと振り返る―――と、そこで。 「……う……お……ぅ?」  法師に覆い被さっていた、のっぽの子分の声音がくぐもって、濁《にご》った。  どこか―――彼の姿がおかしかった。  どこか歪で、輪郭が―――  人の形から、外れつつあった。  ……人間は、胎内で進化の系統を再現しながらヒトの形を整えていくという。原始の生物から人間までの形をなぞる、すなわちヒトの肉体にはそれ以前の生物の諸相が潜在していると言うこと。  ―――人間は、心だけでない、その肉体にも獣を秘めている。  だから、それが〈顕在〉《けんざい》化するのはあるいはありえることかも知れないが、その忌まわしさ、おぞましさは目の当たりにするだけで精神が蝕《むしば》まれるてしまうくらい、奇怪な情景だった。  ああ、男の肌の下で蠢《うごめ》いているのは、あれは獣毛の発芽、見る間に皮膚を食い破り、ぞろりと伸びて〈漿液〉《しょうえき》に濡れ光り。  ああ、ああ、鼻筋が軋みを立てて盛り上がり、獣毛絡みつかせながら獣の鼻面となり。  そして、嗚呼―――背骨がごつごつと狂気に満ちた音に引き歪み、二足で立つ事も不可能なまでに湾曲し、さらにズボンの尻の辺りが脱糞したかに盛り上がって、遂に布地を裂いて生えて出たモノそれは―――尾、ではないか。  〈異形〉《いぎょう》する勢い留まるを知らず、男の仲間は耐えきれずに目を背けたが、たとえ目を塞いだとしてもそれで恐怖から逃れられるものでない。  変形を続ける男から響いたのは、声、もう言葉も為さないそれは、獣の〈咆哮〉《ほうこう》の、なによりおぞましいのはまだ人間の名残を感じさせたこと、それよりも忌まわしかったのは、その名残さえ獣性に塗り替えられ、消えていったこと。  絶望と恐怖の叫びは、やがて純粋な獣の吼え声、混乱した鳴き声と化して、なにを血迷ったのか走り出したが胎内洞の奥へ、いや、血迷うもなにもない、既に彼、否アレには血迷うような理性は残っていないのだろう。  獣の音、遠ざかって、〈慄然〉《ぞっ》とさせる谺《こだま》を残し、そして人の世界から、地の底の〈何処〉《いずく》かへ、去っていって、もう戻ってこなかった。 「ちょ、なんだ、なんなんだこりゃあっ!?」  絶叫はひたすらにけたたましい、そうすることで必死に正気を保とうとしているのだろうが、そいつの顔も、形も、ほら……どこかもう、歪《いびつ》でないか?  この妖異極まりない状況にも、司書はあくまでも平然と、冷たく冴えていた。 「ほうら、始まった」 「知らなかったのなら、教えてあげる。  ここは―――胎内洞」 「〈善男善女〉《ぜんなんぜんにょ》は出られるが、悪人悪女は犬になる―――そういう〈魔処〉《ましょ》よ」  ―――令嬢が、旅籠を守り続けてきた者達の末裔が、顔を怖くして立ちいるを禁ずと唱えたのは、故無きことでない――― 「まあ、ただでさえ貴方達は、犬みたいにこの子を追い回して。犬みたいに見苦しく腰を振り立てて」 「それで、なにを人がましい。  犬の姿がお似合いよ、貴方達なんか」 「うあ……あ、ああああ!?  お、俺も、俺もぉぉ!?」 「やめてくれ、手が、俺の手がぁっ。  姐さん、悪かった、謝る、だからこんなの、止めぇぇ!?」 「私がやってるんじゃないんだけど。  言ったでしょうに。  ここは胎内洞。旅籠の禁足地」 「ほうら、貴方も、じきに―――」  顎でついと指し示されて、親分格はそれでもさすがに気丈なもので、見苦しく狼狽えたりはせずに司書を睨み返したが、彼の手下二人はもはや―――人の形を、留めていなかった。悲鳴も人の声ではなく、哀れに鼻鳴きする、犬のそれとなっていた。  事ここに至っては法師も香木もあったものかで、踵を返して上へと逃げ戻ろうとして、がくんとその背が崩れる。  呆然と親分格は、司書を見上げたけれど、彼女はもはや愚者にくれる視線など一筋もなく、法師を助け起こしていた。  なにかを言いかけて、口を噤《つぐ》んだのは、己の舌が言葉を為さずに犬鳴きするのではないかと恐れたせいの、しかし、既に遅い。  よろばいながらまた走り出そうとして、彼は自分の足が既に人の走り方を忘れていることを知った。  足は、靴も脱げて、晒していた。  既に獣毛を生やした、犬の足を。  遂に、闇の中にこらえきれぬ絶叫が迸《ほとばし》った。  凝視していた書物の活字から意味が失われ、字画が溶けて流れ出したのに築宮は、自分が眠りの淵に半身を浸していた事に気がついて、強く首を打ち振った。  短い間ではあったけれど、睡魔に囚われていたらしい。あるいはそれも無理からぬところの、若さに任せて旅籠を駆けずり回り続けるにも限度がある。  眠気に〈火照〉《ほて》った青年の体は、慣れ親しんだ自室の、お手伝いさんが日を置かず替えてくれる寝床の柔らかさと乾いた匂いを欲したが、青年が休息を自らに許すのがいつになるのか、いまだ見通しは立っていない。  渡し守との会見の後築宮は、ひょっとしたら法師が姿を消したのは、彼女の言う『琵琶の秘曲』を求めての事なのではないかと考えたのだ。おそらく彼女からは、いまだ天与の琵琶の奏腕は失われたままであろうが、だからとて秘曲を探し求める妨げにはなるまい。  むしろ、琵琶が以前のように弾けなくなった今こそ、法師はもう秘曲を求めるしかないだろうと、築宮はそう〈演繹〉《えんえき》したのである。  後から思えば、彼の論理の道筋は、大筋においては間違っていなかったのだが、さすがに法師の思考の枝葉まで〈類推〉《るいすい》する事はできず、よって彼女が今頃旅籠のどこを〈彷徨〉《さまよ》っているのか、そこまでは判らない。  判らないがしかし―――琵琶の秘曲とやらを探していけば、きっと法師の軌跡と交わる時があろう。 (と、ここまでは、いいんだが……)  築宮は、眠気を追い払うべく目頭と凝り固まった首筋を交互に揉みほぐしてから、両腕を大きく宙に振り上げ〈長嘆息〉《ちょうたんそく》した、視線は書架の一個軍と背表紙の旅団に迎え撃たれる。  人目のあるならいささか〈不躾〉《ぶしつけ》な溜め息だが、相変わらず来客のない図書室で、たとえ書見台に寝そべって本を開いたところで文句を飛ばすような筋もない。もっとも今の築宮をそんな事をすれば、たちどころに本を海図に眠りの海へよき航海を、だが。  ともあれ、視線はあてどもなく背表紙の列を巡ってはまた手元の書物に落ちた。  秘曲の手がかりを求めるといって、なにか確たる目当てがあろう筈もなく、渡し守と別れた後でしまったもっと詳しく訊いておくべきだったと後悔の臍《ほぞ》を噛んだところで遅い。  まあ彼女をあれ以上煩《わずら》わせたところで、他の手がかりを引き出せたかと言えばそれも怪しく、それで調査の畑を定めた先が図書室だったというのが、過去は失われていてもこの築宮なる青年が、以前どんな人間であったかの一つの標《しるべ》となろう。  だが、と築宮は、もう一度己の思考の道筋を辿り直す。なぜ自分がこの図書室に足を運ぶつもりになったのか、判っているようで判っていない気がするのだ、どうにも手応えのない資料漁りに幾らかの時を費やした後となっては。  なるほど過去の事を調べるなら先達の遺した資料に当たるというのも一つの方法だろう。  しかしこの図書室には、今築宮が求めているような歴史的資料や琵琶に関しての研究書といった、いわゆる象牙の塔から流出したような学術書は少なく、書架の大半を占めているのは小説本や物語、古い雑誌の〈合綴〉《がってつ》などだ。  つまりがお堅い研究調査向けの図書室ではないのである。  渡し守が言うには、法師とは別に、秘曲を探していたという件の人物は、『坊主みたいな学者みたいな男』だったそうで、その手の人物なら手記の一つも遺しているかもしらんが、遺さぬままに没したことだって充分有り得る。  あれこれ考えれば考えるほど、この図書室に秘曲の手がかりを求めるのは見当違いのような、書物ではなく訪ねるべきは旅籠の過去に詳しい消息通ではないだろうかと、ここならばと、始めに抱いていた確信めいていた意気が萎《しぼ》んでいく。 「……なんで、俺は、ここに来る気になったんだ?」  とうとう独りごちてしまってから、築宮は無意識に耳を澄ませた。なぜだか非を的確に示すような応えのあることを期待してしまっているらしい。  が、むろん人気のない図書室、築宮のぼやきを聴くのは書物と紙魚くらいなもので、呟きは無音に埋没していく―――のが、当たり前なのになぜだか違和感がある。  なんとなく抱いた不満な気持ちをぶつけたくて、書架が織りなすその影、中二階の柱が投げかけるあの暗がりと目を走らせたが、やはり誰の姿もない。  誰の姿を探しているのだ自分は、こんな誰もいない図書室でと自嘲して、そこで築宮の脳裏でようやく回路が繋がった。  そうだ。  この図書室、誰もいないわけではないのだ。  築宮がこうして訪れると、たとえ始めは姿が見えずとも、いつの間にか傍に立って、抑え目の灯りの中に〈優艶〉《ゆうえん》な笑みを綻《ほころ》ばせる人があったではないか。  いや正確には人ではない。人外の鬼女だという、あの司書がいたはずではないか。  書物ばかりに囚われて、〈肝腎〉《かんじん》の目当てを失念していた己の近視眼を築宮は殴りつけたくなった。  あの司書もまた、渡し守と並んで旅籠の曰《いわ》くや不思議を語らせるのに格好な人物だ。  というより、貴重な利用者として、築宮の訪れをいつでも歓迎するあの司書が、今日に限っては姿を見せないのは何故だ?  それが先程からの違和感の正体と気づいて、築宮は留守なのかと危惧した。  ともかく、司書室に声をかけてみようと築宮は、書見台に積んだ書物を取り上げる。  疲れきってはいるが、ノックは忘れずに、礼儀も綺麗にして、後は司書の在室に期待しよう―――  ―――鼻孔に隠微に潜りこんできた匂いを、脳が識別するより先に、股ぐらが反応した。 「ら、らめぇ……っ、  なかで……おなかの……なか、  こすっちゃ……やああ……」  声の元を聞き分けるより先に、〈耳朶〉《じだ》を舐め上げるように濡れた声音が、性欲を直撃した。  体が疲れきっていると、本人の意思を無視して生殖器が暴走するという、築宮を見舞ったのはまさにそれで、雄の器官がほとんど瞬時にズボンの中で尖りきって、あまりの窮屈に腰が退けてしまう。  前を押さえずに済んだのは、彼の自制の賜物というより、先に書物を抱えこんでいた為、両腕が塞がっていたからというだけの事。  だからといって築宮を嗤《わら》うにはあたらない。  これが耐性のない童貞ならば、居あわせただけで精を噴きこぼしてしまいそうな、司書室にはそれほどの淫気が満ちて、官能を孕《はら》んでいた。 「くく……っ。男の味は知っているようだけど、貴女の中は、まだ浅いのね。  指が、すぐに奥へ、届く」 「ひ、う……。う……ふ。  押さないで……おなかの……中ぁ……」  司書が深く腰かけた、愛用の椅子は、ワニスの艶に彼女から流れ出す淫気を重ねられ、肘当ても背もたれも、生き物めいた柔らかささえ帯びているようだった。  司書が腹の上に抱きかかえている娘こそ、築宮がこの数日血肉と神経をすり減らす思いで捜し求めていた女であったが、やっと見いだした喜びは、衝撃に完膚無きまで叩きのめされ自失に塗り潰された。  司書に抱きかかえられ、両脚が淫らという修辞さえ赤面するほどのあからさまな角度に開かれ、〈内腿〉《うちもも》の肌それ自体は質の佳い〈雁皮紙〉《がんぴし》の〈肌理〉《きめ》と光沢を孕《はら》んでいたが、これ以上はない程剥き出しにされた秘裂が、情欲に訴えるというより解剖図めいた有り様を晒していた。  その秘裂へ、司書の繊指が根元まで潜りこみ、小泡交えた粘液にまみれ、不作法人が人目憚《はばか》らず羮《あつもの》を食い散らかすにも似た、一種人間の尊厳にかかわるくらい下品な音を鳴らしたて、指遣いに合わせて法師の下腹が、絶命寸前の小動物のように〈痙攣〉《けいれん》しては波打つ。 「私はねえ、もちろん若い殿方の体が、いちばん好きなの」 「でも、ここの―――」 「くふぅ……ぅ……ぅ、  苦し……ぃ……よぅ。  そこ……されると……、  なか……いっぱいに……なって」 「ここの感触も、とっても、好き。  ここばっかりは、あそこの奥の、赤ちゃんの寝床ばかりは、女にしかないものね」  何時かの夜、覚え始めた愉悦の味にうねり蠢《うごめ》き、築宮の雄の器官の尖端へ愛おしげに吸いついてきていたあの、法師の子を宿す器官の入口が嬲られる様が、粗食に肉の薄い下腹を透かして見えてきそうな、そんな淫語を紡ぎながら、司書は唇を背後から法師の耳の裏に吸いつけた。  朝に石鹸で磨き上げてさえ、夕には脂を浮かせて生々しい匂いを乗せる部位の、匂いばかりか味さえ愉しむように、なめずって、ぬるぬると紅い舌が銀に光る痕をひく。 「こっちも良い匂い―――  貴女の香りは、人のというより、  古い香木の、これは〈白檀〉《びゃくだん》……、  いいえ、〈沈香〉《じんこう》の中でも芳しい、  〈伽羅〉《きゃら》―――いっそ〈蘭奢待〉《らんじゃたい》の」 「……昔を思い出させるわねえ。  ああ、そうなの。  貴女も、私と同じで、  人の世の中にあって、人ではないモノ」 「かがないで……匂い、かぎながら、  耳……食べられ……いやぁぁ……」  首筋に顔を埋め、里の花のように無造作にして愛敬のある法師の髪に、自分の〈豪奢〉《ごうしゃ》な髪を溶け合わせながら、深々と吸いこんで、〈恍惚〉《こうこつ》と舐めあげ、甘く喰《は》み、唾液でべとつかせては憚《はばか》ることもしない。  大蛇が兎を丸飲みにするように絡みつき、裸の乳房に被せた掌は、硬い義手なのに液体を思わせる滑らかさで揉みしだいては、尖りきった頂《いただき》を摘み上げ、法師からか細い声を引き出した。  法師の眼差しは、神経を灼ききる刺激に虚脱してしまいたいのに、司書の狂気じみた愛撫によって無理矢理に繋ぎとめられて、力なく疲れきっているのがなんとも哀れな、それ故に喩《たと》えようもなく淫猥な。  肉壺の底をまさぐられては、体内に満ちる圧迫感に、えづくように息を押し出されて。  細部を構成する要素を一々あげつらえば、どれもが官能の枠を飛び越えて、生臭ささえ漂わせるくらいに卑《いや》しいのに、総体になるといかに〈道心堅固〉《どうしんけんご》な修行僧だろうが〈貞淑〉《ていしゅく》を謳《うた》われる聖女だろうがまとめて淫欲の堕地獄に叩き落としかねないほどの、色情大気に満ちて飽和点を超えてほたほたと滴り落ちそうな情景が、心の準備などあろう筈もない築宮に、怒濤の如く叩きつけられたのだった。  なにしろどういう意図があるのか司書以外には語り得ないだろうが、二人の椅子は扉の真正面になるよう引き出されていたのである。  観客を割り振られたのは築宮だけでない。  絡まり合う女達ばかりが視界を占めるが、二人の椅子のすぐそばに、一頭の、どうにも卑《いや》しい顔つきの犬が繋がれている。  巨象どころか龍さえも発情させそうな淫気の渦動の中で、その犬ばかりが耳を伏せ、尾を股の間に挟みこみ、〈項垂〉《うなだ》れて、すぐさま逃げ出したいのを無理矢理命じられてこの場に釘付けにされたかのような、そんな哀れを漂わせていた。 「こ、れ……は……?」  人はただ恐怖によってのみ腰を抜かすのに非ず、質は異なっても衝撃が限界を越えると、強打を誇る拳闘士の狙い澄まされた拳で頭部を直撃されたように、膝から崩れ落ちそうになるもの。  築宮もその例に漏れずへたりこみそうになったのだが――― 「ああ、まだこれは、試してなかった。  指をね、中で、こうすると」 「き、ひ、それ、や、やらぁ〜〜っ」  潜りこませた指が、肉の〈狭隘〉《きょうあい》の中でどのように蠢《うごめ》いたのかは見えず、それでも法師の喉が引きつって、黒目が上擦って血走った白を多くしただけでも、彼女を貫いた感覚がいかばかり激烈なものか窺えたのだが、そこへ差してさらに、過剰な修飾を持って鳴る画家の最後の一筆のごとき、法師の反応が加わった。  築宮が聴いたのは、ぷしっと甲高い、〈瑞々〉《みずみず》しい果実の汁気が弾けるような音。  築宮が受けたのは、頬にかかった熱い〈飛沫〉《しぶき》。  司書の運指は、法師の急所を確実に捉え、押し込んで、ついに迸《ほとばし》らせたのである。  どれだけ法師がこらえたところで胎内の回路を抑えられたようなものだもの、抗えるはずもない。  涙と洟《はな》と涎《よだれ》で顔をべとべとにして、みじめに啜《すす》り泣きながら、二度、三度と秘裂から〈飛沫〉《しぶか》せ、放物線の果ての築宮に浴びせかけた。  〈尾籠〉《びろう》といえばあまりに〈尾籠〉《びろう》な景気づけの、だがこのお陰で築宮はへたりこまずに済んだようなもので、慌てて〈手巾〉《ハンケチ》を引っぱり出したが、頬を濡らす潮は手の甲で拭《ぬぐ》った。  〈手巾〉《ハンケチ》は自分で使わず、駆け寄って、法師のどろどろの顔を拭《ぬぐ》ってやろうとしたのである。 「一体なにをしてるんだ貴女はぁ!」  少なくとも怒鳴り散らすくらいの元気は戻って、司書から法師を引きはがそうとしたのだが、見た目は優しい腕なのに、鬼女の万力という奴で、離そうともしない。  睨みつけたが司書は面白がる風を浮かべるのみで、埒《らち》があかず、仕方なく法師の顔だけを拭《ぬぐ》った。 「見ない…でぇ……。  わら、し……ぐちゃぐちゃらか、らぁ…」  もとらぬ舌の法師こそ無惨、無惨にしてどこかしら強烈な負の引力の美を見せているように築宮には感じられ、なんと言ったかあの、 『無惨やな 冑の下の きりぎりす』  という句もあるがさしずめこちらは、 『無惨なる 司書が絡まる 琵琶法師』  といった風情の、いやいやいや、一瞬でもそんな美を見出した自分を誤魔化すように、司書にさらに喚き散らした。 「貴女がここまで見境のない女とは思わなかった!  佳い趣味というにもほどがある。  犬を見届け人にして、同性を嬲って、どこまで頽廃を気取るつもりだっ」  指差す築宮の剣幕に圧されたか、犬は哀しく一声漏らして、青年から退こうとした。  どういう訳か、犬は青年に対して見せているのは、恥じ入っているともなんともつかぬ哀れな表情の。元が卑《いや》しげな顔つきだけに、余計に惨めたらしい。 (……うん? なんだ、この犬?)  この犬の様子に築宮は見覚えがあるような、そんな気がして内心首を傾げる。旅籠に来てから犬と〈知己〉《ちかづき》になった覚えはないが、なのにこの犬、どことなく知っているように思われてならぬ。 「ああその犬。  それねえ、あなたも知ってる、あの男の成れの果てよ」  愛撫の手こそ緩めたものの、いまだ法師を離さず、司書はこともなげに言い放った。  あまりに平然とした口調だったので、築宮はつい聞き流しかけてから、〈怪訝〉《けげん》と司書に振り返る。 「ほらあの、あんなのの名前なんかどうでもいいけれど、酒場で薄汚れたとぐろをまいていた、あの男達」 「その中の、お猿の大将の末路が、これという訳」  この女はなにを言い出すのだと、笑い飛ばそうとして、犬を見て、さらに見て、笑いは退いていった。  見れば見るほど、犬の貌はあの無頼漢共の中の親分格を思わせる。人間の面立ちをこね直して犬に仕立てあげたかのようだ。  なによりその目。どこかしら、かつての荒《すさ》んだ〈倨傲〉《きょごう》の名残を漂わせてはいないか。 「旅籠の下の、人も通わぬ奥底に、  深く暗く伸びる坑《あなぐら》がある。 『胎内洞』とか、呼ばれてる」 「ほら、貴方はご存じない? 『〈善男善女〉《ぜんなんぜんにょ》は 出られるが  〈悪人悪女〉《あくにんあくにょ》は 犬になる』  ―――こんな、〈御詠歌〉《ごえいか》」  歌うようなシラブルをつけて、 「それが、胎内洞。  この娘とこの男たち、どこでどう迷いこんだのか、そんなところで追いかけっこしていたのよ」 「男のほうは、早かった。  いくらも経たないうちに、  そら、そこの通り」 「耳も伸びて、尻尾も生えた。  残りの二人……いえ、二匹がどうなったかまでは、知りません」  と顎を逸《そ》らして犬を見遣る目つきに、興味の色はほとんど無い。司書にとって、興を催すにも至らない相手だった、ということか。  だが築宮は、この旅籠がそんな〈魔処〉《ましょ》を蔵している事に、言い様のない戦慄を覚えていた。  人がこうまでたやすく獣形に転ずるとは俄かには信じがたいが、少なくとも司書は嘘を弄《もてあそ》ぶ女ではない。人外は、その意味では人間よりよっぽど正直なのだ。  不意に悪寒が差した。  男達が犬になったなら、法師もまた同じ末路を辿るのか?  たしかに築宮の好意に、いちいち仔犬のように喜ぶ無邪気な法師ではあったが、犬の耳が生え尻尾も生えるとなると、可愛らしいでは済まない―――想像して青年はたじろいだ。  もしかしたら、そんな異形も場合によっては可憐なのではないかと、一瞬だけ思ったような思わなかったような、とかくこれは冗談ごとなのではないのだ。  男達などどうなってもいい。  相応しい末路を迎えただけだと、もはや犬などに目もくれず、 「じゃあ、彼女は?  この人も、犬になるって言うのか?」 「この娘は、今のところ大丈夫でしょう。  元が無邪気な可愛い娘。  姿を損なうような邪気がない」 「と、いうよりね。  胎内洞は、そこでうかうかと過ごしてしまった者の、本性にふさわしい姿か、さもなくば心の底に秘めていた、望みの形を引き出すだけ」 「彼らはほら、  人の足跡を嗅ぎ回っては、  どこにでも鼻先を突っ込んだから、  犬になったわ」 「この娘は、そうねえ―――  いいえ、言わないでおきましょうか」  曖昧にした言葉を、それ以上追求する気もなかったけれど、その時法師の眸が一瞬だけ物問いたげに司書を見つめたことを、築宮は見逃すべきではなかったのだ。 「ともあれ、私が〈月夜茸〉《つきよだけ》を取りに行かなかったなら、この娘、まだ出られなかったかも知れないのだけど?」  尖った目ばかりを突きつける築宮だったが、司書の言葉にいくらか冷静さを取り戻した。  確かに司書が気まぐれを起こさなんだら、法師はいまだに地下の闇の中、築宮と再会することもなかったろう。  それを思えば感謝に額《ぬか》ずきたくもなるが、いかんせんその後がいけない。  助けたからとて、その体を好きなように弄《もてあそ》んでいいという法はない。  口を開けば、まだ感謝の礼より詰《なじ》る文句ばかりが噴き出しそうだったから、唇を強く噛んで、それでも司書に一度だけ頷いて、法師の腕を取る。  今度は司書も、築宮に逆らいはしなかった。  あるいは築宮が、数少ない図書室の利用者で、礼儀も正しい青年であるところに免じてくれたのかも知れない。  〈抱擁〉《ほうよう》を解いた時に、司書と法師の間には粘液の糸さえ引いたような気がした。  法師は自分の脚で立っていられる筈もなく、抱き寄せた築宮の胸の中で、ずるずると地に落ちそうになる。青年が強く抱きとめれば、それだけで法師は悦楽の余韻を掘り起こされたようで、か細く震えて〈内腿〉《うちもも》擦り合わせたのが、痛々しくも淫らがましい。  彼女独特の香の匂いに淫蕩そのものの性臭入り交じり、築宮はあらぬ気持ちが持ち上がるのを抑えなければならなかった。 「まだ足腰も立たないみたいじゃない。  貴方もお疲れの様子だし、どうせだったら、休んでいったらいかが?  それで、三人で……ね?」 「お心遣いは嬉しいが、辞退する」  法師の足腰から、〈水母〉《くらげ》のように芯を抜いたのは貴女ではないのかという言葉を呑みこんで、築宮は重心の失せた法師の体に、それでもどうにか衣服を羽織らせた。  肩を貸して立ち上がらせ、 「この人が世話になったことには感謝するが、その……ちょっと言葉が出てこない。  とにかく、今日は失礼させてもらう」  形ばかりの、それでも礼を述べるだけ述べて、法師を引きずりいく、足がなんとも重かった事。疲労に加えて、司書と法師が繰り広げていた色情地獄絵巻物の毒に当てられた心地である。  ごつごつと不器用に、司書室の収蔵物に体のあちこち打ちつけながら、振り返らず出て行く青年と琵琶法師を、司書は。  心からの暖かな眼差しで、愛すべき若者達を微笑ましげに見守っていたのが、なんともこの鬼女らしかった。  あちこち亀裂や破れ目だらけの板間の片隅に、夜だというのに舞いこんできたのは薄くひらひらと翻《ひるがえ》る。  〈浮游〉《ふゆう》する二つ折りの手紙のごとき白い蝶の、旅籠のどこかで育ったものか大河を渡ってきたものかは知らず、〈囲炉裏〉《いろり》に燃える炎に引き寄せられたのかと思いきや、緩慢に差し延べられた手の指先に降りる。温室の花の薫りでも肌に移っていたものか。  白い蝶が法師の指先に羽を憩《いこ》わせるさまを、築宮青年は心労にふやけた頭で見守っていたが、彼女がいっかな飛び立とうともせぬ蝶を口元に運び、口内に収めようとしたのには肝を潰して駆け寄って、指先から追い払う。  ―――蝶は、なおも未練がましげに二人の頭上を舞っていたが、やがて諦めたように、〈蔀戸〉《しとみど》から庵《いおり》の外へ飛び去っていった。 「いけないよ、あんなものを口にしては」 「あう……」  声高に叱りつけるのは控えて、幼子にするように説き聞かせる築宮が、目に映っているのだかいないのだか、法師は曖昧な呻《うめ》きとも吐息ともつかぬ音を漏らして、かくりと〈項垂〉《うなだ》れた、生気の失せて、人形のような有り様で。  法師の虚ろな姿に、心に走った鈍い痛みをこらえつつ、青年は務めて優しい笑みを浮かべようとする。 (もしかしたら、この人はずっとこのままなのではあるまいか)  だが不安は、何度打ち消したところで折にふれ立ち戻ってきて、築宮の心をつついては〈暗澹〉《あんたん》とさせる。  古来蝶は人から〈剥落〉《はくらく》した魂の化身だともいう。もしや先ほどの白い蝶は、迷い出た法師の魂が、己の体を恋い慕って戻ってきたものではあるまいか、ならばああ邪険にするのではなかった、などと夢ごとのような妄想につい耽ってしまうくらい、築宮は消沈しきっていた。  なにしろ法師は、あの淫靡と粘蜜に満ち満ちた司書の腕から連れ戻して以来すっかり正体をなくし、身も心もお話にならないくらい頼りない有り様になり果てていたのだ。  立ち居振る舞いからして虚けきって、庵《いおり》の中を〈蹌踉〉《そうろう》と歩き回っていたかと思えば宙を仰いだまま何時間でも座りこんで動かなくなる。  食事など作るは愚か、青年が口元に運んでやればもぐもぐと鈍《のろ》く〈咀嚼〉《そしゃく》するのが辛うじて。  下の方も、催せばもぞもぞと厠《かわや》へ向かおうとするのだが、用を足すだけで、築宮が手を貸さないと浄める事もできない。ややもすると、栓自体が緩んでしまったのか、間に合わない事もしばしばあり、その都度青年は床の汚れを浄めては彼女の下袴を洗う仕儀となって、それが哀しいやらいたわしいやら。  当然まともな会話など望むべくもない。  一体『胎内洞』でなにを見たのか経験したのか、問い質したところでいっかな要領を得ず、言葉も整わず、ふっと水底から浮かぶように呟くのが、 『よく晴れた日に かまどを眺めていたら  急にお屋根を 雨がたたく音がした』  だの、 『近頃よく 白いからすが  飛んでくるのだけれど  そうすると お手伝いさんが  水路に 落ちるの』  だのと、とりとめもない中に矛盾だらけの、それがまたなんとも〈鬼魅〉《きみ》の悪い〈譫言〉《うわごと》めいた言葉ばかりを泡のように吐いては、また黙りこくる。  いかに他愛ない身になり果てようとも、肌に脂が沁みては心地悪かろうと、日の終わりに築宮は〈大盥〉《おおだらい》を引き出し、行水させてやるのだが、司書の荒淫に精気を根こぎに枯らされたのか、法師の肢体はあれ以来めっきりやつれ、肩の肉は落ち、肋も透けて、なのにそれでいて儚《はかな》い美しさが立ち現れたようにさえ見える。ただそれは、生き物として大切ななにかを振り落とした果ての、人形めいた美であるのが、築宮にとっては泣きたいくらいに哀しく辛い。  そんな風に窶《やつ》れながらも、司書の多淫の毒がまだ〈身裡〉《みうち》に残っているのか、体を拭《ぬぐ》われるうちにも築宮の胸へ、物欲しげに頬を擦り寄せることがある。  全てが脱落したような眼差しの中で、稀に感情が現れると思えばそれで、いくらなんでもそんな法師と交わることは青年にはできず、いたわしく、〈嗚咽〉《おえつ》を喉奥に押し返して抱きしめるのみ。  なにより――― 『びわはね もう弾けないよ』  庵《いおり》の隅に投げ出され、顧《かえり》みられることすらなくなった琵琶が、哀しかった、切なかった、情けなかった。  一体なんでこんな事になってしまったのか。  法師と再会を果たしてなお、築宮は彼女と遠く隔たっていて、本復を信じて世話し、つくす日々を、もうどれだけ数えたのか。  そんな日々の中で、築宮の心の海岸線をじわじわと黒く浸食していくのは、もう以前のような時間は帰ってこないのではないかという不安。物知らずではあったけれど、健やかで情愛に満ちていた彼女とは、もう二度と出逢えないのではないかという恐怖。  そんな恐怖と不安に囚われる、我が心を叱責して希望を保ち続けようとするのだけれど、築宮はいつか自分が折れてしまうのではないかと危ぶみ、近頃はそれも新たな絶望の種子となりつつある。  そして法師は、築宮の憂鬱をよそに、変わらず虚ろで、曖昧に呟き、徘徊し、魂の〈薄暮〉《はくぼ》に迷いこんだまま。  ところで、築宮がこうして法師との危うげな日々を送る間にも、件の墨色の小人の精怪の〈跳梁〉《ちょうりょう》は留まるところを知らず、それどころかますます〈頻繁〉《ひんぱん》かつ数を増やし、実のところ旅籠の中は近年稀に見るほどの混迷の相を呈していたのである。  しかし築宮の世界は、今となっては法師の小さな庵《いおり》に集約されており、旅籠の混乱などは彼の耳に届いてこなかったし、また聞こえたとしても無視していた事であろう。  大局を憂うを知らぬ小人の性《さが》と誹《そし》るなら誹《そし》れ。  ありていに言って、彼にとってはそれどころではなかったのである。  なぜ築宮は、またも法師の姿が見えなくなったことに気づかなかったのだろうか。  身も心も〈疲弊〉《ひへい》しきって、ふっとうたた寝に落ちこんでしまった間に、夜闇は〈払暁〉《ふつぎょう》に払われて、いつしか辺りに聞こえるのは水路のせせらぎのみの、明け方の〈静寂〉《しじま》。  悪夢に魘《うな》されて飛び起これば、夢の中でのたくり回っていた、目も鼻も無くして肉塊となり果てた法師は瞼の裏から消えたけれど、現実の法師の姿も失せていた、狭い庵《いおり》のこと、捜すまでもなく、間違いなく彼女がいない。  どれだけ築宮が狼狽したか、想像に難くない。粗末な戸へ人型の穴をぶち開ける勢いで飛び出し、庵《いおり》の四囲を三周走り回り、そして旅籠の中に駆け出した。  けれど法師の姿は見当たらず、築宮は一体自分はどれだけ愚かな過ちを繰り返せば済むのか、前世からの業や呪いでも受けているのかと、自分を果てしなく責めて罵って、〈焦慮〉《しょうりょ》のあまり追いかけることも忘れ、激情のままに曲がり角の柱に頭を渾身の力で撃ちつけ、脳髄とともに自分の下らない命をぶちまけるところだった。  すんでのところでお手伝いさんが通りかかったから、未遂に終わったものの。  そして、どうやら青年と法師の縁の糸は、千切れる寸前で繋がったようだった。  そのお手伝いさんが、旅籠の地下に降り行く法師の後ろ姿を見かけていたのである。  何故止めてくれなかったと責めるより、法師を追うべきだと自制の弁が辛うじて働かなんだら、お手伝いさんは築宮の激情の顎《あぎと》に文字通り引き裂かれていた事だろう。  法師が地下に消えた辺りの地理と方角を聞き出して、駆け出そうとする青年を、お手伝いさんが呼びとめる。 「でもできれば、女将さんに伝えて、待った方が得策です」 「あそこは、旅籠の中でも〈禁足〉《きんそく》の場所で、女将さんのご一統以外の人が入ると、大変なことになります」 「法師さまも、そう呼びとめようとしたんですが、聞かずに進んでしまわれて―――」 「―――ひぃ!?」  どうやらこのお手伝いさんは、同類の中でも消息通のようではあったが、いかんせん思慮が足りていない。そういう〈魔処〉《ましょ》なら法師の入るをなんとしてでも留めるか、さもなければ見送ってしまったとしても直ぐさま令嬢に報せるべきであったろうにと、築宮の自制もそこまでであった。  足元に〈擦過煙〉《さっかえん》を蹴立てて振り返った築宮だったが、けれどそれ以上は彼女を損なわずに終わった。  というより築宮がなにか言う、するに先んじて、お手伝いさんは恐怖の悲鳴にへたりこみ、躊躇いなく気絶することを選んで、ついでに失禁したのか、水音でスカートの股間を濡らしてしょろしょろと、濡れた〈版図〉《はんと》を通路に広げた。  おそらくこの時の築宮は、生き物の恐怖を〈咀嚼〉《そしゃく》して生きる魔王のごとき凶相に変じていたのに違いない。  築宮、もう構わず、捨ておいて、走り出す。  かく身も心も〈焦慮〉《しょうりょ》に焼かれひた走る築宮だったが、彼の行く手の廊下、その壁に設えられてあった、〈真鍮〉《しんちゅう》の蓋のしてある管、例の伝声管の、蓋がいきなりぱんと開いた。自分の駆けるのがそんなにもやかましく管に響いたでもあるまいにと、築宮つい覗きこむ、と、声が伝わった。  令嬢の声だった。 「……様! 築宮さま!?  そちらにいらっしゃいますね!?」 「築宮様―――!」 「あ……ああ、いる。います、ここに。  しかしなんだって貴女が、いきなり」  令嬢の声は切迫し、つい立ち止まって受け答えたものの、電話とは全く違う使い勝手で、築宮がはてちゃんと向こうに通じているのかしらんと、声のボリュウムを上げてやり直そうとした時、響いてきた応答は、思ったよりはっきり聞こえた。  というより、令嬢が伝えようとしていた事が事、法師に関したものだったから、青年には聞き違えようがなかったと言うべきか。 『申し訳ありません!  こちらの不手際でした―――』 「だから一体なんだと……」 『こちらで保管してあった、香の木の塊。  ええ、先だって温室で法師さまよりお預かりしたものです。それが―――』  築宮の胸中に、なんとも不気味な予感が去来した。そしてその予感は、あいにく裏切りはしなかった。 『先ほど、法師さまがいらして、引き出していかれたらしいんです』 「……なんだって? 彼女は今、その、正気じゃない。なんでそんなあの人に!?」 『私もそれは伝え聞いておりましたが、番をしていたお手伝いさんには、連絡不行き届きだったみたい』 『あの方に、もしやなにかあってはと、  こうして連絡したのですが―――築宮様?  築宮様―――!』  けれど令嬢の呼びかけに答える声はなく。  青年はもうそれ以上は立ち止まって聞いてなどいられないと、さらに焦りの気持ちを強くして駆け出したからである。  あの香木は、法師の本性に深く関わっている。そんな物を持ち出して一体なにをしようというのだ―――!?  築宮が駆けこんだ先は、そのほとんどが木造の長廊下であるところの旅籠の他とは大いに様相を異にして、一面を〈煉瓦〉《レンガ》で鎧《よろ》って薄暗い、〈隧道〉《トンネル》のような、というよりまさしく〈隧道〉《トンネル》で、ここは地下なのである。  疾走する築宮の足元が〈煉瓦〉《レンガ》敷きを踏む音は、硬く長く響いて暗がりに吸いこまれ、青年の孤影を強調する。  お手伝いさんさえも、この通路にはほとんど立ち入った事はなく、暗に囁き交わすのみ。  築宮はそんな無人の地下を駆け抜け―――  疾走の途中、どこで掴み取ったものだかそれさえ定かでない〈角燈〉《カンテラ》が、闇をおずおずと照らし出した、滑やかに濡れた質感は、生き物の内臓の粘膜のそれであり、ならば築宮は旧約聖書のヨナなる預言者の如く、巨獣の腹に呑みこまれてしまったとでもいうのか。  が、〈跫音〉《あしおと》は先程の〈隧道〉《ずいどう》と同じく硬く響いて石か岩、つまりここは鍾乳洞なのだった。  築宮の疾駆に合わせ移動する光源の中に展開されていく内壁は、無機質の岩塊というより、指先で軽く突いただけで生命の息遣いを取り戻し、秘やかにうねりだしそうな、そんな危うさを秘めた均衡の中に停止した、生き物の胎内と言った方がよほど適当だろう。  ―――胎内洞。生物と無機物、双方の意味を併せ持つ呼び名が相応しい情景だった。  時の停止したような胎内洞は、より地下深くへと傾斜していき、地軸まで通じているのではないかと疑わしいほどの規模であり、洞内を構成する岩塊の質量は、閉所に弱い者なら一歩踏みこんだだけでも気死せしめてしまいそうに圧倒的な。  走り下るにつれ、胎内洞の威容に築宮の狂騒もやや冷め、司書の言葉が脳裏に去来する。  なんと言っていたか―――  ―――長く過ごすと、そのものの本性に相応しい姿か、さもなくば秘め置かれた望みの形に変えてしまう〈魔処〉《ましょ》―――  真実なのだろう。司書室で哀れと卑屈を晒していた犬には、まぎれもなくあの無頼漢の面影が残されていた。  ならば自分はと、築宮の胸にわずかな〈逡巡〉《しゅんじゅん》が湧き起こる。  自分もまた、あの無頼漢のように無様な姿に〈変形〉《へんぎょう》してしまうのか?  しかし恐怖は危機感の大嵐の前には敵わず吹き散らかされた。  自分などどうなろうと構わない、この姿形は、法師を見つけだすまで保てばいい。  けれども、法師は?  法師もまた、異形の姿に変じてしまうのだろうか。  だとすればどんな姿に?  司書に変わって青年の胸に蘇ったのは、渡し守の懐手の貌。  ―――秘曲は独奏曲ながら、二人の男女で奏さなければならない―――  ―――秘曲に用いる琵琶は、香木から造られる―――  その意味するところはいまだ〈漠然〉《ばくぜん》としているというのに、何故だろう、巨大な恐怖を呼び覚ますのは。  圧倒的な岩塊と闇が醸し出す威圧力の中、築宮は運命の〈泥濘〉《でいねい》の中を転《ま》ろぶように駆けて、駆けて。  ただ己の影と〈跫音〉《あしおと》のみを道連れにして、降りゆく地底深くへ、一人で、たった一人で。  そしてついに―――足が停まった。  闇を凝視し続けた瞳には、褪《あ》せた色合いも鮮烈に映った。  色褪せ、擦り切れかかった〈直垂〉《ひたたれ》と袴、が、天に還った仙女の衣のように、岩畳の上に散り敷かれて、そればかりで―――中味が、失われていた。  逸《はや》る焦りで心臓を破裂させんばかりに駆け寄って、手に取れば、後ろにのめってしまいそうなほど軽く、虚ろで。  こんなところで服を脱ぎ捨て、一体なにをしようというのかと怪しむ心は、まだ築宮が親しい、秩序だった世界の理法のうちに収まっていたのだ。  けれどこの胎内洞は、そんな築宮の想像の埒外にある〈魔処〉《ましょ》であり、法師は衣を捨てたわけではなかったのである。  彼女が捨てたのは―――  法師の裸形を求めて闇の奥を見透かそうとする、築宮の視線が、下に落ちた。  生まれたばかりのような。  真新しい木目も清《さや》かに。  天上の音を秘めて。    横たわっていたそれが、何故ここにあるのか、築宮には〈咄嗟〉《とっさ》に判じかねたけれど。  じわじわと身の裡《うち》にその意味が浸透していくにつれ、青年の貌は崩れて歪み、唇は魂に生じた穴のように押し開かれ―――  それは、琵琶。  出来上がったばかりの。  〈馥郁〉《ふくいく》と匂い立つ、妙なる香り。  その香りが、琵琶の正体を恐ろしくも歴然と示していた。  真新しい琵琶が放つ香りは、法師がまとっていたものと、彼女の本体なるあの香木と同じであり、そしてここは胎内洞、迷いこんだ者の本性あるいはその深奥の望みに応じて相応しい形をもたらすという〈魔処〉《ましょ》。  築宮の魂消える絶叫は闇の中に幾重も谺《こだま》し、〈殷々〉《いんいん》と響いて、鼓膜に痛みを覚えるほどの、いつまでも、止むことのなく―――  築宮が胎内洞の奥深くにて、法師の変じた琵琶を抱き上げ、〈悩乱〉《のうらん》と絶望の悲鳴を放ち続けていた時―――  旅籠にも、大なる混乱が降《くだ》りつつあった。  災いの最初の一雫は、旅籠の水路の要衝なる、吹き抜けの多層廻廊の水面にぽつんと点じられた、微細な黒の色。  始めは針の先程の点であったのだが、黒点を芯にして波紋が生じ、幾重にも連ねて、水面を揺らすうちに、黒色は拡大しつつあった。  始めそれを発見したお手伝いさんは、廻廊の底部に差し掛けられた桟橋で、旅籠に〈流連〉《いつづけ》の客の中でも粋人の集まりと名高い「宵待会」なる倶楽部が次に催す、〈蘭鋳〉《らんちゅう》金魚の品評会に供される、結構な〈玻璃鉢〉《はりばち》の山を、一人で額に汗しながらこまめに洗っていた最中の、ふと見れば前の水面に黒い点が浮いている。 「はて、どなたか墨でも垂らされたか」  と腕まくりの手を〈目庇〉《まびさ》しに上を仰いだが、天井は遠近法の見本のように遙か高く遮るものなく、わざわざ宙づりになって墨を零そうなど言う物好きの姿など見えよう筈もない。  首を傾げて目を下ろして、ぎょっとした。  水面の黒点は、今では針の頭から親指の先くらいにまで太くなり、それが一つと見る間に波紋を置きながら次々にと数を増し、水面は柿の種をぶちまけたかごとき黒の点だらけ、点点点点々々々。  水に滲んで薄れることもなく、数だけ一層に増して、水面が三で黒点の群が七という割合を占めるに至って、お手伝いさんはさすがに薄ら〈鬼魅〉《きみ》悪さに水路から後じさろうとした、が既に遅かった。  ざっと〈俄雨〉《にわかあめ》の到来じみた水音鳴らし、黒点は一気にお手伝いさんの桟橋へと押し寄せて、汀《みぎわ》を越えて縁を這い上がり、旅籠へと上陸を果たしたのである。  それは、件の墨色の小人の精怪、その大群であった。  お手伝いさんなど逃げ延びられたものかで、泡を食って水路から後じさる彼女より、墨色の流れの方がはるかに速く、サンダルの足元を捉えられたがもう最後。  ざわざわと這い上がり脚の肌を蹂躙しスカートの奥に進攻しお仕着せの裏から表から頭の天辺に向けて侵略し、無数の〈泥鰌〉《ドジョウ》の群に漬けこまれたとも大量の〈油虫〉《ゴキブリ》の群に投げこまれたともつかぬ、全身這いずり回る得も言われぬ汚怪な感触にお手伝いさんが悶《もだ》えてはのたうち回るうちにも彼女の体は衣服と言わず素肌と言わず、隈《くま》無く墨色一色に染められて、ついに迸《ほとばし》った悲鳴は哀れに細く長く長く伸びたが、それさえ墨色の中に塗り潰された。  助けを求めて必死に伸ばされた手も、爪の先まで黒々濡れて、ふるふると〈戦慄〉《わなな》いていたが、それもしまいにはぱたりと、落ちてそれきりの。  この時点に至って、多層廻廊に居あわせていた他の客、お手伝いさん達もさすがに異状に気がついたのだが、こちらも時既に遅しの、対応の機会などとうに逸《いっ》している。  いや、対応などなにができただろう。  最初の犠牲者であるお手伝いさんなど、体が墨一色に染められていたなら、彼女が倒れ伏した桟橋も同じ色に塗り潰されており、小柄な体は黒の中の黒い盛り上がりにしか見えず、びくりびくりと食虫植物の粘蜜に捕らえられた芋虫のように〈痙攣〉《けいれん》しているのが、どこか淫らがましい。この昏倒の様を突きつけられ、居あわせた者達は例外なく怖気《おぞけ》を催し、皆して揃って水路に背を向けて、若いの老いたの、女のしなやかな、男の力強い、太いの細いの様々な脚で逃げの一手、たちまち廻廊は悲鳴の〈坩堝〉《るつぼ》と化した。  墨色の小人の精怪の大侵攻は、かくて始まったのである。  それまでは夜の闇の中に蠢《うごめ》いていたのが、ついに陽の時間まで犯し始めたのだ。  皆が逃げ出したのに勢いを得たか、墨色の小人の流れは速さを増し密度を濃くし、それが後から後から途切れず水路から浮かびあがっては桟橋に、そして通廊に、さらに旅籠の座敷と部屋部屋にと、雪崩れ込んでいって、その進軍は〈飛蝗〉《ひこう》の群など可愛らしく思えるほど迅速で、〈軍隊蟻〉《マラブンタ》の赤黒い〈絨毯〉《じゅうたん》よりも容赦がない。  床や畳どころか柱や板壁、障子戸、襖《ふすま》、窓〈硝子〉《ガラス》にも這い上がり、天井も、要するに旅籠の全ての調度、景色一緒くたに染め潰した。  後に残されるのは、墨一色に汚染された景色と、濃い影絵のように塗り潰されてはのたうち蠢《うごめ》く者達の群れ。  黒に染まった全身というのは、奇妙なほどに個性を失い、誰が誰で女で男で、客なのかお手伝いさんなのかの見分けもつかず、黒の景色の中で多くの目も鼻もない黒い肉塊が転がり回り、のたうつ有り様は、針の山に滴る血潮や、煮えたぎる血の池でもがく亡者の群と同じ、地獄の言葉が相応しい、忌まわしい眺めで、大気に満つる絶叫と悲鳴が凄まじさに拍車を掛けている。  ある客は、お手伝いさんを伽に微笑ましく談笑しながらの食事の最中、膳と座敷諸共に墨に呑まれた。  またあるひっそりとした区画に位置する洋室では、旅籠で知り合った同士の、若い女性と年下の少年が、〈交誼〉《よしみ》を深めるうちにお互いを求め合うようになり、初めての情交を迎え、〈初々〉《ういうい》しい喜悦の中に果てた瞬間に、繋がったままで墨の奔流に瞬時に沈んだ。  旅籠の交流と憩いの場である湯屋も例外でなく、この時間は女たちの時間の、桃色、褐色、乳白、色々な肌色が伸びやかな吐息と嬌声で女だけの砕けた空気の中言葉を交わし、湯気やお湯のあちこちに乳房が揺れて双臀が浮きかつ沈みしている、〈賑々〉《にぎにぎ》しい人数と情景が、まとめて全部墨色に上塗りされた。  もはや、旅籠のどこであろうとも―――  墨の奔流から逃れ得るところはなく―――  旅籠の全てが、墨の一色に統一されるのも、時間の問題かと思われた。  そして築宮青年が、地上に帰還したのは、旅籠が黒の大波に染め抜かれつつある、まさにその時だった。  廊下の角や板塀の連なり、階段の陰などによって巧妙に目隠しされた地下通路への入口から抜け出した時の築宮の気分たるや〈暗澹〉《あんたん》に暗を重ねてこの世の終わりに立ち会うたが如き滅々としたもので、これまで彼を支えていた心の全ての張りが失われ、地上に戻ったはいいがこれから先の身の振り方など、到底考えられそうにない。  胸にはあの香木の琵琶を抱えているけれど、かつて法師の肢体よりも情けないほど軽々として、切ないほど小さくなって、さながら横死を遂げた情人の骸《むくろ》を運ぶように、腕に辛く堪《こた》えた。  己の無力がこれほど厭《いと》わしく、呪わしかった事はない。  好いた女一人、こちら側に繋ぎとめられなかったのがこの腕だ、無力な腕だ。 (これから俺は、一体どうしたものだろうな……)  いっそのことここらが潮時と、香木の琵琶を担いで旅籠を旅立つか。  渡し守に舟を頼んで、と、肩にのしかかる疲労と無力感に〈項垂〉《うなだ》れていた目を旅籠の通廊の連なりへと向けたそこで、ようやくに見てとったのである。  旅籠がなにやら異常な事態を迎えつつある。  展望の向こうが、巨大なインク壺でもぶちまけたように黒く染まり、それが見る間に領域を広げてこちらに迫り来る。 「なんだこれは―――」 「―――まさか、あれが!?」  この数日法師の介添えに掛かりきりになっていた故築宮は気にも留めていなかったが、旅籠を悩ませる墨の小人の精怪の噂位は聞き及んでいたし彼自身も一度は目にした事がある。  だがそれは、夜半に客の座敷に上がりこんで悪さをするのが精々で、こう旅籠を覆いつくさんばかりの天災じみて巨大なものとは聞いていない。  が、それ以外には考えられそうになかった。  鼻先には微かな墨の匂いも届いた。  とはいえ、墨を浴びせかけられてどこもかしこも黒くされたから程度では、後で洗い流すのに困るくらいだろうに、どうやら旅籠を見舞っている災禍は、そんな生易しいものではなさそうな、彼方から伝わってくる轟《とどろ》きは、人々の阿鼻叫喚の重なりではないのか。  幸い築宮が立つこの一画までは、まだ墨の奔流は届いていないようだったがそれとて何時まで保つものか。  ……いや、墨色の侵攻は築宮が目算したよりずっと速いようだった。  彼が寸刻立ちつくして通廊の連なりの果てを見守るうちにも、悲鳴は音量のつまみを捻ったように大になり、蹠《あしうら》は地鳴りを感じ取る。人々が逃げ惑い、通廊を蹴るのが、床板を通して、はや築宮が立つところまで響いてきたのだ。  このまま無為に立ちつくしていたなら、青年も間を置かずして災禍に呑みこまれるであろうの、そんな圧迫感がひしひしと迫る。 (どうする……!?  逃げないと……だがどこへ?)  寸前までは悲嘆にかき暮れ、旅籠を発つかとまで思いつめていた築宮ではあるが、かといって目前に押し寄せる厄災にむざむざ身を任せるつもりもない。それとこれでは話が違う。野火に追われた鹿の目で、あちらこちらと逃げ道を求め、駆け出そうとして方向に迷った……どちらに行けばいいのか?  この辺りの地理には疎《うと》く、当て推量に廊下を選ぼうものなら、分かれ道、曲がり角を右に左に適当に折れた挙げ句にまたもとの所に戻っていた、だけならまだしも、気がつくと墨色の奔流の真正面に駆けこんでいた、という事にもなりかねない。  どれだけ〈落魄〉《らくはく》にまみれていようとそんな旅路の終わりはさすがに御免蒙《こうむ》ると、焦れば焦るほどに心が乱れて浮き足立って、なのにどちらに駆ければ逃れ得るのか、迷いが増さり二の足ばかり踏んでしまう。  そうこう躊躇う間にも災いの轟《とどろ》きは迫る。  迷いの自縛で膝裏から力が抜けてしまいそうになった時に―――                    こっちだよ    ―――と、静かな声を聴いたと思った。  阿鼻叫喚に乱れた旅籠の空気の中、そんな小さな声が聞こえる筈もないのに、確かに聴いたと思った、呼びかけは聞き覚えた声音で、はっと心づいて、四囲を見渡したのに人影はない。  それになによりその声は。  青年は胸に抱いた香木の琵琶をまじまじと見つめる。  よもや、とは思うた。  けれど信じる他はなかった。  そして築宮は駆け出した。  今度は迷わずに、数多ある通廊の一つを選んでその奥に。琵琶から聴こえたと思った、ただ一つの声を信じて―――  築宮が走り去った後、程なくして彼が立ちつくしていたその辺りも、墨に塗り潰された。  駆け上がってきた階段の、背後を肩越しに見下ろせば濡れ雑巾を叩きつけたが如き音が鳴って、黒い波頭が〈飛沫〉《しぶ》いて階下は墨色に呑まれた。  煤《すす》を煮融かしたような粘液質の溜まりは、しばし押し寄せては退いてを繰り返していたが、すぐに次なる獲物を求めて、階段のきざはしに触手をもたげかかる。  いずれこの階層も墨単色の領土となろう。  愚図愚図していたら、青年もまた土壁に練り混まれてしまった羽虫のように墨色の中に囚われるのは明らかで、〈暢気〉《のんき》に様子を見物しているより走り出すべきだ。が、とりあえず上の階層に逃れたものの、これより先はどの道筋を辿ればいいと、行く手を目探る青年の耳にまた―――                  今度は、こっち            ……響いた声は、もはや聞き違えようもなく、青年の胸の中、香木の琵琶からで、彼の心の中にだけ届くような声音で伝えてきていたのだった。  導かれ走り出しながら、呼びかける。  声にも出したし、心の中でも強く念じた。 『君なのか―――!?』  だが、〈鶴首〉《つるくび》は震えも見せず〈撥面〉《ばちめん》も黙《もだ》したままで、築宮はやはり声など自分の妄念が狂の域まで至って生みだした、哀しい幻なのではないかと疑い出した。  そんな頃合いになってようやく。                     ごめんね            と、答えが返ってきた事には安堵した。  間違いない。琵琶法師の声だ。だとすれば彼女は、こんな姿になっても、きっとまだ彼女という自我を遺している―――!  青年の心はやや安んじたけれど、聴こえてきたのは詫びる言葉の、胸を昏《くら》く閉ざす類の。  何故詫びる、なにをそんなに済まないと思うのか、そんな言葉を聴いたところで築宮の心は慰められやしない。  今は声だけでなく、かつての彼女の姿が恋しい。姿形など物事の表層に過ぎず、大事なのは本質だ、などという説法など摺り潰して〈驢馬〉《ろば》にでも喰わせてしまうがいい。  愛しい人の面影さえ心に刻まれていれば、それで満ち足りるような清浄な境地に程遠い築宮は、ただ法師の姿が恋しくて、懸命に呼びかけた。  それでも琵琶は黙して語らず、築宮が道に迷った時だけ、言葉少なくして先を示すのみ。  逃げ延び、駆け上がってきたのが旅籠の上階層、もう天井の上はあの広大な屋根裏空間と屋根の上ばかりを残す時になって、築宮はようやく〈懸念〉《けねん》を覚えた。  ここまで駆けてきたはいいが、この先どこへ向かえばいい。墨の奔流は相変わらず留まるところを知らず、遠からずこの階層もまた漆黒一色に沈むと見て間違いない。だと言うのに香木の、法師が変じた琵琶は一体どこへ築宮青年を導こうというのか。  考えたところで判るはずもなく、呼びかけても道筋以外は答えず、青年はただ琵琶の示すままに走り続けて、通廊を駆け抜け、階段を昇り、幾つもの戸と扉を潜り抜けた。  普段ならいささか不作法の誹《そし》りも免れないところを、そんなお行儀など構っていられぬ非常時とて、座敷から座敷を畳の縁を踏みながら走り抜けて、もう幾つ目になるのか判らない、似たり寄ったりな座敷なのに、ふっと琵琶の重みが腕に響いて、築宮の足を留めた。  見たところ、客に普通に供される、贅沢でもなければ慎ましやかでもない、旅籠では有り触れた座敷なのに、何故ここで琵琶が築宮の気を惹こうとしたのか。  眺め渡しても柱も調度も〈襖戸〉《ふすまと》も、別段奇異なところはなく、気のせいだと流して通り抜けようとした青年の心に届いた声が、初めて道筋以外のものを示したのである。                少しだけ止まって          そして あれを見て   「何、なにがなんだとてこの忙しい時に……」  琵琶が示したのは、座敷の片隅に据えられた〈文机〉《ふづくえ》の、その上の書き物道具一式。文箱と半紙と、そして墨と硯《すずり》と。  青年の目はその上を何事もなかったように通りすぎて、また戻って、そして留まった。何かが、彼の心の奥底の結ばれに引っかかる。  ―――墨と、硯《すずり》と?  もちろんこの今旅籠を襲っている災いの渦を連想するのは当然の心の流れであったけれど、それよりも根深い何かが、青年の心に疑問となって湧きあがる。                   想い出さない?       あれが あんたの               のこしてきたものの          その一つだよ―――  墨と硯《すずり》と、いずれもとりわけ由緒もなさげな、日常の用に弁ずる品と見えて、旅籠のどこにでも転がっている。築宮に縁の品では有り得ない。  そう思って、無視しようとして、できない、不安にも似た疑念の網が胸の中に拡散し、やがて一つの場景を網の目に捉えた。  その時の築宮は―――  真剣な気持ちで寺での手習いに、墨と筆とで書き記す道、書道に打ちこんでいて―――    老境の住職の指導は口数少なく、けれどその落ち着きが彼にはかえって好ましく―――  教室代わりの〈閑寂〉《かんじゃく》な〈宿坊〉《しゅくぼう》の〈文机〉《ふづくえ》で墨を磨り、真白な半紙に筆を下ろす緊張感は身を浄められるようで―――    それは、いつの日か、法師と初めて体を重ねた頃か(ああ、〈随分〉《ずいぶん》と昔のように思える)、疲労から熱に浮かされた青年が〈夢寐〉《むび》に〈垣間見〉《かいまみ》た、失われた彼の過去の一端に連なる場景ではなかったか。  その夢を思い出した途端に、築宮の中に言い様のない動揺が走った。          この時、旅籠を染めていた        墨色の海の、至るところで。        同時にぞわりと、        さざ波が走った。       青年の心の乱れに呼応するように。  法師が伝えたかったのは、きっとその夢にまつわる諸々の、けれど何故彼女がそれを知るのか。築宮自身、過去の記憶の扉はいまだ閉ざさされたままであり、あの夢だって辛うじて扉の隙間からにじみ出てきたようなもの。  それに何故このような危急に際して青年の足を留めてまで、それを告げようとしたのか。  得体の知れない不安が闇に育つ菌類の群塊のように築宮の中に育ち膨れあがりゆき、急な〈眩暈〉《めまい》を伴って、耐えきれず目頭を押さえ、傍らの柱に縋《すが》って喘《あえ》いだ。  胎内洞に駆け下りたのに続いて墨色の奔流から逃れようと走り続けた、その疲労も一気に押し寄せて、周囲がぐるぐると回りだしたかの不快感だ。  琵琶の声だけが、青年の視界が閉ざされたによってこれまでに増して澄明に心に響いた。           わたしのこの形         これは わたしの願い         わたしの気持ちが         形になったものだけれど           この姿になって         見えてきたものが あるよ         ねえ あんた         今お宿に降りかかっている          この墨の色の大流れ           これはきっと―――         あんたの―――         あんたのなくしてしまった         昔の 想い出から    〈滔々〉《とうとう》と紡がれる法師の澄んだ声に、濁《にご》り曇った記憶が洗われて、泥塊の中の小石の形が明らかになるように、少し、ほんの少しではあったけれど確かに、過去と今の場景の因果が築宮の中で繋がりつつあった。  墨色の怪流に見舞われた旅籠の叫喚も余所事のように遠く、座敷は薄らぼやけた静寂が降りて、ただ文机の墨と硯《すずり》の一対だけが、奇妙なくらい青年の目に冴えて際立って、他から浮かび上がるくらいに鮮やかな、それこそが、この災禍の遠い因なのだと―――  法師の声が。  告げた。           あんたの想い出から         引きずられてきたんだよ  ―――崩れ落ちそうになって掴んだ、硬い柱の冷たさが築宮の揺れに揺れる心を僅かに正気づかせたが、それでも大きく喘《あえ》がずにはいられない。 「どういう事だそれは……っ。  まるでこの災難、俺が引き起こしたみたいじゃないかッ」  なかば悲鳴に近い〈甲声〉《かんごえ》を、迎えた声はどこか哀しげですらあったという。           ……もう 今は         それ 言わないでおこうよ         それよりも         ここも じきに         追いつかれる           その前に 走って―――!   「……だがもし、事の真実がそうであるなら、俺がどこに逃げたって無駄じゃないか……」  法師の言葉が真を指しているのなら、墨の奔流なるこの災禍は自分の過去から追いかけてきたもの。たとえ青年自身がいまだ忘れているとしても、逃れ得るとは思われない、のに、いいから! と声が初めて強い調子で青年の心の面に弾けた。切羽詰まった語調に逆らえず、築宮は衝撃になかば痺れたような頭を打ち振り、また走り出す。  ほとんどやけになって繰り開いた座敷の襖《ふすま》戸が、柱に当たって拍子木じみた音を鳴らす、その余韻消えやらぬ中であったし、彼の腕の中の琵琶の呟きは、あまりにも小さなものだったから、築宮にはしかと聴き取れなかったのだけれど―――            この 騒ぎ―――          おしまいにしよう          わたしと あんたの          二人でさ……    法師は、彼女が変じた琵琶は、確かにそう囁いたのだった。  吹き抜ける風は〈火照〉《ほて》った頬に涼しく焼けつく喉に冷たく、遙かに拓ける景色は血走る眼を癒してくれるかのよう。  旅籠の屋根の上の眺めはまこと雄大の言葉に相応しく、築宮をして己はいかに矮小な存在である事を教え諭すもので―――などて、余裕めかして空の中に忘我もしていられない。それどころではないのだと、潜り抜けてきた屋根裏からの開口部を見返せば、じわり、と。  遁走の勢いに築宮を見失い、墨色の怪流が侵攻の手を緩めていたのも一時の事だったと見えて、墨の触手は屋根裏から出来たての練り菓子じみた震えを帯びて持ち上がり、這い出してずるり、その奇怪に青年が息を呑む気配を嗅ぎあてたか、方向を定めたと見るや勢いづいてずるりずるり。  その流れ、影から這い出してなお影より濃く、陽光の下で褪《あ》せるどころか見つめるだけでも目がおかしくなりそうなほど黒く、粘菌の成長を速回しにしたかの凄まじさでたちまち屋根の瓦を覆い、広がり、伸びては一色の中に塗りこめて、築宮の元へ迫り来る。  溶岩に追われる野の生き物の恐怖に築宮はまた走る、駆け上がる、否溶けた岩よりも手に負えない。墨の流れは高低に従わず、低きから高きへ平然と這い上がってくるのだから。  高台に上がってそこで追いつめられた築宮は、絶望に瞳曇らせて四囲を見回して、せめて翼でもあったならと願うも、そのせめてもという望みは、囚人が牢の隙間を潜り抜けられるほど小さな鼠に変化できたならと願うのと同じ事で、つまりはかなうはずもない。  どうにか必死で逃れてきたもののそれもここまでのようだし、まして屋根瓦を犯していく墨の色の侵攻を留める手だてなど持ち合わせるはずもない築宮は、一体法師が如何なる意図で導いてきたのか、改めて琵琶を見つめる眼差しに責めるような色が浮いていたとしても無理はあるまい。  どうするつもりなのか、と、問いかけるより先に、腕の中の琵琶の重心が変化した。  それまでは青年の腕に恋人が身を預けるが如くしっくり収まっていたのが、下ろしてといわんばかりに身じろぎしたような。  つられて、すとんと築宮の腰が落ちた。  既に墨色の奔流に四囲を奪われてしまった以上、立っていようが座っていようが大差はないはずだが築宮は大軍に取り囲まれてなお座禅を行し続けた和尚でない、泰然としていられたものではない、のに、足は〈胡座〉《あぐら》を組む。  墨色の怪異への恐怖に固まるより、体の方が先に、かつて愛した女が変じた琵琶を、一番しっくり収められる姿勢を取ったと見えた。  ―――じわりと、琵琶から熱が伝わる。  まるで人肌の温もりが〈馴染〉《なじ》むようだ、と築宮が思った時には、左手は〈鶴首〉《つるくび》を支え、右手は、これは何時の間に取りだしたものか、撥を握って〈撥面〉《ばちめん》に押し当てており。  築宮青年は、琵琶を奏する人の形を取っていたのである。  あくまで〈自然〉《じねん》に、意識もせぬうちに、墨色の脅威のただ中で。  一瞬事の推移に置き去りにされて、呆けたように左右を見回した、右では飛びかかる寸前の巨牛が気勢を溜めるように墨の大塊が膨れあがり、左では蛇の群の一斉攻撃のように黒い触手が無数に並んで鎌首をもたげ、そのひしひしと迫る圧力に神経が恐慌を来たし、撥を投げつけようとした、そんな事をしたところで〈蟷螂〉《カマキリ》の斧よりまだ無駄な抗いだと、分別していられる余裕などとてもとても。  ばたつく青年の手を押さえたのは、    ―――だめだよ  ―――撥をなくしたら  ―――琵琶 弾けなくなるよ  と留める声の、またしても琵琶から。  今度は今までに増して明瞭に届いた。  が、言葉は明らかだとて、仰せのままに、とは受け入れがたい。  今彼女はなんと言った?  琵琶がどうで、なんだとて?  困惑が喉をついて出る。 「琵琶を弾くって……誰が!?」  ―――あんただよ 築宮さん     あんたがだよ    青年の困惑、推して量るべし。  たとえ記憶を失う以前であっても、我が手に音曲を嗜《たしな》む志があろうとは思えず、まして楽器の中でも奏法を知る者は少ない古の、琵琶である。  法師と懇《ねんご》ろになったからといって、彼女に弟子入りしたわけでなく、彼女自身人に教え伝えられるやりかたで琵琶を弾いていたわけではないのだ。 「無理だ……どう考えてもそうだろう!?  俺は君と知り合ってからだって、  一度も撥なんて握ったことはない。  それでどうやって、しかも何を弾けと!」  ―――だいじょうぶ―――  ―――わたしと一緒なら―――  ―――わたしが 一緒だから――― 「何がどう大丈夫だと―――うわあ!」  語尾が上擦り見開かれた眼が恐怖に血走る。  ついに墨色の触手やら塊やらが、臨界を越え堰を切ったように築宮に殺到したのだ。  その凄まじさたるやそれまで静止していた時間が瞬時に動きを取り戻したかというほどで、辛うじて青年の周囲に残されていた屋根瓦の色もたちどころに塗りこめられ、築宮もまたここでしまいのこれきりの、儚《はかな》く敢え無く旅籠の人々の後を追う―――  かに見えて、座した青年の周りにほんの少しだけ隙間が残されていた。  墨色は壁を為して青年を〈囲繞〉《いにょう》し、鼻先に触れんばかりに迫っていたのに、そのほんの〈寸毫〉《すんごう》の端境を超えられずにいた。  触手の先端は内在する圧力の程を示して微震動を帯びていたが、青年の周りに不可視の壁が出現したが如く、阻まれていた。               音が。              一音の。             弦鳴りが。           黒一色の中に。          冴えて。         響いた―――  ここまで透き通った音色を、かつて青年は耳にした覚えすらない。  音に牽《ひ》かれて意識が己の枠を超え、宇宙にまで拡大し、その隅々にまで浸透していくかの覚《さと》りとなるような、それくらいの澄み透って美しい音、は、一体どこから、そしていかなる手が奏でだしたのだと〈驚愕〉《きょうがく》する築宮の、彼自身の手こそが、撥を握りしめていた。弦を弾いていた。長く響いた余韻に重ねて、一音、また一音、音が続いて旋律へ、そして旋律が曲へと連なって、湧き出ずる霊泉の如く、流れゆく大河の如く。  その調べの霊妙至極な事といったら、音の連なりに誘われて、今まで想像だにしなかった遙けき景色や、古の風雅に満ちた事物が、心象の中におのずと形を取るばかりか心の中から溢れ出し、青年の四囲に幻灯のように投影されていくほど。  そして漆黒のただ中に独りと一器取り残されているはずなのに、青年と琵琶は、この世の外の金色の靄の中に座し、音曲でもって世界を編み上げる楽神のような風格さえまとうかに思われた。  青年は始めの一音を耳にしただけで魂そのものを魅了されたかの放心に陥っていたけれど、その度合いはますます夢心地を深め、しまいに彼は、〈滔々〉《とうとう》と流れゆく黄金と白銀の清流が、途切れることなく全身を浸し、包んでいくかのような入神の域に達するに至っていたのだった。築宮が音の流れの綾や模様を見分けようにも、あまりに千変万化して果たせず、彼の周りを為す世界そのものが音曲と化して取り巻いているかのような―――    この音楽は、なんだ? と青年は夢心地の中に問いかける。  これが、あれだよ、と法師が答える。  あの、わたしが、そしてわたしに音楽というものを教えてくれた、古い昔のあの人が探し求めていた、琵琶の秘中の曲なのだと、答える法師を、築宮は確かに感じていた。  法師の気配は今や琵琶に通うに留まらず、奏で出す器物から膨らみ、青年を優しくかき抱いていた。背なから首に絡み、頬を撫でるように胸をくすぐるように、身を寄せてくる彼女を、確かに感じていた。  琵琶を抱き、法師に抱かれ、築宮が、奏でていたのだった。  悠久の中に失われ、見いだす者とて絶えていた秘中の秘、謎めいた琵琶の曲を、築宮が奏でていたのだった。  否、築宮だけでは奏でるは愚か、ただ一つの律さえ満足に〈爪弾〉《つまび》くを得なかったろう。  青年の手に、琵琶に触れ、法師の気配に包まれた青年の手に、不思議な熱が通っている。  その熱が彼を導き、彼だけではけして為しえない運指と調律を行い、曲に命を与えているのだ。  およそこれが―――  独奏曲でありながら、一対の男女がなければ奏し得ない秘曲の正体なのであった。  旋律が、うねる。  すると青年を取り囲んでいた墨色の壁が、たじろいだようにうねり波うつ。  旋律が、膨らむ。  すると青年を今にも呑みこまんばかりであった漆黒の巨塊が萎《しお》たれ、その威圧力を減じていく。    ―――この曲はね。  ―――人の心の哀しさを綴った曲だよ。    人の妄念の哀しさを。  人の未練の切なさを。  人の執着の儚《はかな》さを。  音の流れに託して、束《つか》ねて、織り上げた。  そんな曲なんだよ。  法師の気配が青年の肩に頬を寄せ、囁きかけるうちにも、彼は涙している自分を見出していた。  琵琶の調べが、縺《もつ》れに縺《もつ》れ絡みに絡み、その糸目を見分ける事すらかなわなかった青年の失われた記憶の中の、ある場景を蘇らせる。  それはかつての日、どこかの寺の寂《さ》びた〈宿坊〉《しゅくぼう》の中で、一心に墨を下ろしていた自分だ。  静けさに墨を下ろす微かな響きとその匂いを、自分はどれだけ愛していただろう。  真白な半紙に専心して、書を書き下ろしていくのは、時には身を削るほどの精神の集中を強いられたけれど、その時間がどれだけ充実していたのか、後になって初めて判った。  後になって―――そう、もうあの宿坊に通う事はないのだと、諦めた時になってだ。  勧められて始めた書道ではあったけれど、それがやがて築宮にとって、どれだけ大切なものになっていたことか。  それか判ったのも、全ては、中途半端に投げ出してしまった、後になってのことだ。  悔しい。切ない。辛い。情けない。不甲斐ない。なんで続けられなかった。どうして止めてしまった。そんなにも好きだったなら、誰にどう言われようと止められようと、続けるべきだったのだ。  ちくしょう、ちくしょう、畜生畜生畜生!  〈歯軋〉《はぎしり》りし悶《もだ》え胸掻きむしる、築宮の中にごつりと膨れあがったのは、一つの修羅だ。満たされず、無念の思いで生やした角と、悔しさに鉤《かぎ》と尖らせた爪で、青年の裡《うち》側から肉を喰み、骨を削り、悶《もだ》え狂う。  ぎり、と噛みしめた唇を、ぷつりと歯が破り血の珠を浮かせる―――途端に、一時力を失っていた墨色の渦に暴威が戻り、再び頭をもたげ立ち上がり、青年へと押し寄せてくる。  そうか、そうなのだと、築宮は後悔と悔しさの涙で視界の中に滲む墨色の精怪の渦に悟る。この怪異は、自分が置き忘れてきた過去からの追跡の波なのだ、と。  旅籠での日々の中で、結局築宮は過去を全て取り戻す事はなかったけれど、過去の方は青年を忘れず、追いかけてきたのだろう。  青年自身にも制御できない無念の思いが、墨色の精怪という形を取り、旅籠に押し寄せたのだ。  青年が怪異の源であるとして、ならばなぜ彼自身の許に現れなかったのか―――それはおそらく、青年が過去を喪っていた故に。  主からはぐれた犬が、本来在るべきところを訪ね、うろつき回っていたのが、墨色の怪の〈跳梁〉《ちょうりょう》の、その原因ではなかったのか。  ならば、このままこの漆黒の、墨の流れに身を任せてしまうべきではないのか、と、青年の中になかば自暴自棄な衝動が生まれ、彼を取り巻く墨色の渦も、それを悟ってかまた勢いを取り戻す―――  だが、青年の手はいまだに琵琶を弾き続けていた。修羅を抱えたままで、曲を奏で続けていた。  修羅に喘《あえ》いでいても、青年は決して独りだけではなかったから。    ―――いいんだよ。  ―――悔しかったよね。辛かったよね。  ―――でも、いいんだ、それで。    法師の声が、修羅に狂いかけた築宮の心に、清水を注いで妄執の濁《にご》りを散らしていく。  ―――あんたの悔しい気持ち、  ―――あんたの切ないこころ、  ―――みんな、全部―――  ―――わたしが、持っていくから―――    琵琶の音が、変化した。  それまで黄昏時のせせらぎのように、哀しく、けれど浄化された哀調でもって綴られていた旋律が、緩慢な調子となり、音も低いところに沈み、籠もる。  低い、陰にくぐもるような音が、築宮の内部に深く沈潜していって、のたうつ修羅に絡まり、引きずりだしていく。音律に絡めとられ、彼の裡《うち》側から伸び上がる、昏《くら》い呻《うめ》き、肉体の奥の〈闇淵〉《やみわだ》の底に押しこめられていたもの―――妄念、悔しさ、切なさ、それらが、意識のどぶ泥の澱《よど》みをまとわりつかせながら、ぬう、と頭を持ち上げ、琵琶の音を追うように浮上してくる。  ―――この曲は。  ―――人の妄執の哀しさを歌い。  ―――そして―――  ―――許す、歌だから―――    暗い闇の霧の中で脈打つような音の連なりの中に、ゆったりとうねり、たゆたいながら芽吹いていく、新たな音律があった。  始めは弱い響きで、けれど沈潜する他の音韻の中に溶かしこまれてしまうこともなく、育ちゆき、それまで築宮の修羅と共に躍っていた旋律に被さるように強まり―――とても一つの琵琶が奏で得るとは思えない、波から波と被さるような音の数々、が、青年の耳を打つたび、肌を撫でるたび、背筋の産毛を一本ずつ丁寧にそば立たせていく。この新たな旋律が繰り返されるたびに、不思議な甘みが築宮の凝り固まった妄執を和《やわ》らげ、融かしていくかのようだった。  力を取り戻しつつあった墨色の群塊も、この新たな旋律の前にまごついて、蠢《うごめ》き止み、何かを待ち構えているように息を潜める。だが新たな旋律は、まるで機を窺うようにある一定以上の高みには登らず、築宮や墨色の逸《はや》る心をかわすように、時には消え入りそうに弱まり、それでいて途切れることなくたゆたい、うねり続けて―――そうやって旋律は、どれだけうねり続けていただろうか。  青年の意識を離れ、琵琶を奏で続ける手は、この新たな旋律を一気に解き放ってしまおうとして打ち震えたが、それを背後の法師の気配が押し止めていた。  まだ、まだだよと、抑え、あやして、さながら最後の絶頂を無理矢理引き延ばすようなもので、このままでは自分は内圧に裡《うち》側から弾け飛ぶ、さもなければ墨の精怪どもが待ちきれずに襲いかかってくるだろう、の、そのぎりぎりの際で。    法師がふわりと身をかわし、  全てを、  解放した。    ―――音が、弾けた。  脊髄の中に〈煮凝〉《にこご》っていた、たまらない〈痛痒〉《いたがゆ》さの芯を一気に引きずりだすような。  抑えに抑えていた飢えを解き放ち、思う存分供物に食らいつくような。  百年もの間押しこめていた歓喜の声を、暁《あかつき》の涼風の中に解き放つような。  そんな音の奔流の中に、築宮は己を迸《ほとばし》らせていた。性の絶頂に近い、否それよりも強い歓喜の極みに押し流され、築宮は〈轟々〉《ごうごう》と猛《たけ》っていた。声を上げているのかいないのか、それさえも意識の外にあり、感じているのはただ熱さ、燃え盛る火山の内部の、もつれあう溶岩のような情念の、その熱さ。  それほどの熱量を孕《はら》んだ、これは歓喜なのだった。  置き忘れてしまっていた、青年の未練。  思い出してしまった、青年の執着。  遣り場のない悔しさ、哀しさ、全て。  楽の音はそれら全てを皆―――    ―――肯《うべ》なるかな―――    と、許していた。    止めたかったのなら、止めたっていい。  続けたかったのなら、続けたっていい。  取り戻したいのならそうすればいいのだし、  忘れたままにしておきたいのなら、  それでも構わない。  好きにしていい。それでいい。  なにもかも、ただ想いのままに。    築宮青年が歓喜に満たされる中、彼に押し寄せていた墨色の怪異は、一瞬水を打ったように静まり返ってそして、屋根を陥没させんばかりに爆発的に膨れあがる。  瞬―――一瞬、また一瞬―――            かん。     と、拍子木を打ち鳴らしたような。     硬質の陶器を打ち合わせたような。  澄んだ響きを宙に放って、一気に。        ―――霧散―――  それこそ、墨の一雫だに残さぬほどのあっけなさで、宙に弾けて大気の中に掻き消えて、後はもう、匂いの一筋もない。  旅籠の至るところもこれに同じ、均質に塗りこめ閉ざしていた漆黒は、一時の白昼夢よりも速やかに〈雲散霧消〉《うんさんむしょう》して、後には平然と平素の色合いを取り戻した景色と、墨色の呪縛からの解放があまりにも突然で、いまだ事態を飲みこめていない顔つきの人々と。  ―――そして、青年と法師の弾奏も、終局を迎えつつあった。  それまでは歓喜の中に無心で撥を使い続けていた築宮であったが、曲の終わりを感じ取るとともに、一つの疑問を覚え始めていた。  あの墨色の精怪共は立ち去った。それはいい。けれど、法師は―――?  徐々に弱まっていく旋律の中の疑念は、新たな恐れを青年にもたらした。  なるほどこれは、この弾奏は一つの究極なのかも知れない。  確かにここまで踏みこむ事は、常人にはできたものではないだろう。  だから法師は己の願いのままに琵琶に姿を変えてしまったのだけれど―――彼女は、このままなのか?  ふ、と遠ざかりゆく気配がある。  それまで彼に寄り添い、琵琶の弾き手を導いていた法師の気配が薄れつつあった。  おそらくはこのまま、この秘曲を奏し終えてしまえば、彼女はもう二度とは、こちら側には還ってこないのに違いない。  渡し守は、あの割れ般若の面の不思議の女はなんと言っていた? 『芸事は魔物、ともいいます。  そこに深く踏みこむものの、また、魔に囚われる』  彼女はそう築宮に諭したのではなかったか?  般若、といえば恐ろしい、怨みを噛んだ鬼女のようにもっぱら言われているが、本来は〈正覚〉《しょうがく》の境地得た者の大なる〈智慧〉《ちえ》を指した言葉で、ならば渡し守の言葉は青年が思っていた以上の真理を秘めていたのではないか―――  見よや、この今を。琵琶を愛し、音曲を好んだ娘は人ならぬ香木の化生、そんな人外の娘でさえも秘中の曲は惑乱させ、踏み越えてはならない領域にまで引きずりこみ、その姿を琵琶そのものへと変じさせてしまった。  そして知れよかし、築宮青年の心の揺れを。これまで一度として琵琶など手に取ったことのない青年をして、たった一度、その一度の弾奏だけで彼は魅せられてしまっていたのだ。  これほどの旋律、これほどの境地にして深み、この〈三昧境〉《ざんまいきょう》に身を置いては、他の一切事など無意味に感じられてしまうのだ。  強烈な、誘惑がある。  このまま―――琵琶に変じてしまった女と共に、音曲の観念世界へ身を沈めてしまえ、と。  法師の変形に、築宮は深く深く嘆いたけれども、同時に強い誘惑にも囚われつつあった。  このまま演奏を止めず、このまま琵琶と一体となり、奏で続けるだけの琵琶の鬼じみた存在に成り果てるのも、また一つの結末ではないのだろうか。  その誘惑は、底無しの深淵を覗きこんだときのように、築宮を捉えた。 select  演奏に身を委ねていることは、得も言われぬ快があった。底知れぬ喜悦があった。  同時に深い哀しみがあった。旅立ち、過ぎゆく人を見送る者の、言い様のない哀しみがあった。  けれどその哀しみは、哀しむことによって人間が本性として宿す、諸々の宿業が浄化されていくようでもあり、哀しみもまた、今の築宮を甘く切なくくるみこんでいた。  このまま弾き終えてしまえ―――  この調べを、完成させてしまえ―――  それは抗いがたい誘惑であり、どれだけ断ち切りがたく築宮を捉えたことか。  けれど青年にとって、秘曲の誘いよりも、忘れてはいけない人があった。無くしてはならない想いがあった。  その人は、その想いは。  まだ辛うじて青年の傍らに寄り添っていたけれど、それも曲の終局に向けて薄れつつある、去ろうとしている―――  たまらなかった。こらえきれなかった。見送るままにはできなかった。許せるものではなかった。どれだけ甘美な快であろうと哀であろうと、身を委ねてはいられなかった。  だから青年は。  自分の知らざる詞を吟《ぎん》ずる唇に歯を立て。  自分が弾けるはずもない調べを奏でる、撥持つ手を強く握り、掌に爪を立て。  ぷつり、と唇を、肌を、歯が爪が破る。  溢れ、つうと滴る血潮と共に痛みによって、築宮青年は僅かに自我を取り戻す。  立ち戻った自我に縋《すが》り、曲を、謡を休めると、去りゆこうとしていた気配が僅かに揺らぎ、迷ったように振り返り――― 『……どうして?』  宙空に、薄れかかっていた輪郭が、また焦点を結ぶ。 『いいんだよ、そのまま、弾き終えて』  どこか困ったように、琵琶法師が見下ろしていた。その姿は人の輪郭を辛うじて保っているものの、青年が意識の集中を欠くとたちどころに薄れ、また秘曲に引きずられそうになる、のを必死で心をつなぎとめる。  語りかける。 「……いいのか、君は、それで」 「確かにこれが、君が探し求めていた、琵琶の秘中の秘、いまだ知られざる、そして紡がれることのなかった曲なんだろう」 『うん……見つけたんだよ、わたしは。  ううん、もともと、わたしがその一部だったんだ』  〈蒼穹〉《そうきゅう》の、幾重にも重ねてけして人間には現し得ない底無しの蒼を背後に、そして高処の霞《かすみ》まとうて〈茫漠〉《ぼうばく》と広がる瓦の大海に身を置けば、どこかこの世の果てなる地にあるような、身も心も希薄になる心地して、法師の姿も消えゆく寸前の者のように薄らいで、語る声も築宮青年にしか届かない、声なき声の、全てが去りゆく前に、僅かな時間がかろうじて残された、そんな気配が漂う。 『わたしが、わたしというモノが、この曲のための、琵琶だったんだねえ』 『それが、今までニンゲンみたいに、時を過ごしてた―――でも』 『もう、わたしは秘曲の一部になったから。  探してたものが、自分だってわかった。  だからわたしは―――』 『もう、これでいいんじゃないかな、って』 『ずいぶんと長いこと、生きてきたように思う……ううん、わたしみたいなモノは、生きてたとか、そういう風に言えないかもしれないけれど、さ』  ふっと頬に溜めた笑みは翳りを帯びて、自嘲を匂わせて、青年には法師がそんな笑い方を知ってしまった事が痛々しい。知識は、経験は、人に善き事を与えるばかりでない。  辛さ、哀しみ、怒り、憎しみの味をも刻みこむ。  あの無邪気だった琵琶法師がその喜怒哀楽の情を知ってしまった事が、果たして彼女にとって幸いだったのか―――  それはもちろん―――  それで、良かったのだと築宮はじんわりと悟った。法師の微苦笑は痛々しい、けれど、哀しみを痛みを〈渇望〉《かつぼう》を知った彼女は、それまでに増して築宮には、本物の生を得たように思えたのである。  だというのに彼女は、自ら去りゆこうとしている。それが哀しい、痛々しい。 『それも、そろそろお終いってコトなんだろうね、きっと』 『わたしは、琵琶になる―――』 『今まで弾いてきたのはわたしだったけど、今度はわたしが弾かれるようになるって、そういうことなんだ……』  禁断の曲の為、欠かすことのできぬ琵琶と変じた、香木の精であった娘。  それが本来の役目を見出した今、この世に留まる理由はないと、法師はそう告げていた。  確かにそれが道理なのかも知れない、物の流れなのかも知れない。  だがしかし築宮にとって法師は―――  まぎれもなく、愛した女だった。  情を通わせ合ったと、信じた相手だった。  だからこそ、本来琵琶の奏法の端さえ知らぬ青年が、彼女の導きに感応してあれだけの音の冴え、見事な演奏を見せたのではないか。 「俺は―――」 「俺は、厭だ」  道理も理屈も踏みつけにして、青年は、きっぱりと、短い、けれども強い言葉で言いきったのである。 「俺は、君に、琵琶になんて、なって欲しくない」 「いなくなって、ほしくない。  君がもともとなんであったとしても、俺が知っているのは、その君だ」 「この旅籠で、俺と出会って、話をして、一緒にいて、いろんな事を一緒にした、君なんだ」 『でも、わたしは……やっぱり、ニンゲンじゃなかったから』 『そんな自分が、ヒト並みに生きようなんて、ヒト並みに誰かを好きになろうなんて、ちゃんちゃらおかしかったんだ』  強く背けた容《かんばせ》の、未練を振りきるように、胸元にきつく握りしめた拳の、憧れを握り潰してしまおうとするように、それでも築宮は聞いた。彼女の迷いを、その〈屹然〉《きっぱり》とした仕草の裡に震える、哀しみを間違いなく感じ取ったと想った。  法師が琵琶の声を喪ったのは、音曲に匹敵するほどの喜びを知ったからであるのなら、その去りゆこうとする果てが音曲の世界であっても彼女は、きっと、心を鏡のように澄ましていられるはずはないと覚ったから、築宮は今一度、問う。 「……もう一度訊こうか。  君は、それでいいのか?」 「君は確かに探し求めていた曲を見つけた。  けれどそれで君は、もう、自分で琵琶を弾くことはできなくなる」 「俺は、そんなのは、厭だよ。  俺はまだ、君が弾く琵琶を聴いていたいって思う」 「君は、どうなんだ?  俺に、もう聴かせてくれないのか……?」 『わたしは、あんたに……でも、もう……』 「よけいな事は考えるな。  感じるままに、お願いだ、聞かせてくれ。  君の、君自身の言葉を」 『わかんないよう……わたし、莫迦だもん』  ……宙空に浮かび、上方世界からの寄り人のように見下ろす位置にありながら、青年には法師が道を無くしてしまい、途方に暮れているようにしか。到底彼女が〈人間〉《じんかん》の世界から去ることを潔《いさぎよ》しと覚悟しているとは思われず、迷うくらいならいっそこちらへ在るがいいと差し延べる手は、琵琶からの強い牽引力に引き戻されそうになるけれど、それでも腕にあらんかぎりの力を籠めて、招く、君が愛おしいと呼びかける。 「違う。人はそういうかも知れないが、君は決してそうじゃない。俺は知ってる。  だって君は―――」 「君には、歌があるじゃないか、琵琶を弾けたじゃないか」 「そして、弾けなくなったって、悩んで、苦しむ心があったはずだ」 「馬鹿っていうのは、愚かっていうのは、そういう心を無かったことにして、君を大切にしていた奴を、置いていこうとすることなんじゃないのか?」 「そんなのって、あるかよ―――!」 「どうだったんだ、君は、まだ聞かせてもらってないぞ!」  徐々に激しく、青年の語気が熱を帯びて激していく。 「俺と出会った事、どう思ってるんだ君は!」 『わたし―――あんたと出会えて、一緒にお酒も呑めて、琵琶を聞いてもらえて。  きっと―――』 『幸せだった……ってそう思う。  でも今はもう―――その幸せさえも』 『わたしは、前みたいに、自分じゃ琵琶を弾けなくなるんだね……』  真実満ちて足りて、もうこれ以上は要らないと諦めきれるのならば、なぜに法師よ、愛し、愛されることを知った香の精よ、なぜお前はそこまでそんなにも、幸せだった、と、呟いた唇が哀しそうで、肩を落として、薄れかかったその姿を惑うように濃くしては、また霞《かす》ませるのか。 『もう他にはなにも欲しがらないで、琵琶になる。それ以外はいらない。欲しがっちゃいけない……』 『だから、さようなら』 『わたしが好きだった、あんた。  わたしを抱いてくれた、あんた』  断ち斬るように、面伏せした眼差しを挙げて、虚空から築宮へと手を差し延べてから、下ろして、だが断ち斬るというのなら。  断ち斬ると、そこまでの強い行為が必要なくらいの想いを抱えているのなら。  なぜその心で、同じくらいに強く想ってやれない。  法師よ、法師よ、お前の前にいるのは誰だ。彼を為しているのはなるほど、彼女が求めてやまなかった音楽ではなく肉の体なのだろう。でも彼女を抱きしめ、情愛を教えた体、青年という生きた存在、その腕は、果たして法師にとって琵琶の音よりも劣るものだとでも?  潔く別れを告げてしまえるものだとでも?  ……もし葛藤しているのなら法師よ、その心の惑い、哀しみこそが、生を生きるものだと知るがいい。  知って、そして、それでもなお法師が去るというのなら、最早青年であっても留められるものでないだろう。  だが、留められようがどうだろうが、呼びかけ続けるしかない青年の、声はいよいよ悲痛を帯びた。 「……どうしても、なのか……?」 『そして、あんたを好きだったわたしにも、 さようならだ―――』  垂れこめる沈黙が、二人の別れを確かなものとして、青年の胸に刻みこもうとしているようで。  それが築宮には、なにより情けなくて、不甲斐なくて。  もう自分の声は届かないと言うのか。 「駄目だ、そんなの―――」 「だって君はまだ何も弾いちゃいない、本当の君の音楽を、俺はまだ聴いていない……っ」 「今までの君の琵琶は、確かに凄かった、素晴らしかった、けれどそれは……」 「君に聴こえたって言う、琵琶の声に引きずられてただけじゃないか!」 「君はまだ、君自身の腕で、弾いちゃいないじゃないか―――」 「なのにそんな、全てをやり遂げたみたいな顔、するんじゃない……!!」 「それなのに君は……行ってしまうのか……」  もしかしたら。築宮の糾弾は。琵琶法師をより底無しの魔道、芸事の混沌へ叩きこもうとする〈大槌〉《おおつち》だったのかも知れない。  哀しくはあるけれど、一つの極みを得た法師に、そんなのはまやかしだと、〈修証〉《しゅうしょう》至らぬ禅坊主がおちいる魔境でしかないのだと〈喝破〉《かっぱ》して、なお苦難の道を往かせようという叱咤だったのかも知れない。  けれど築宮は、法師の潔《いさぎよ》さなど手前勝手な逃げだとしか取れず、ならば逃げて欲しくない、と、その想う心だって、一人の女に傍にいて欲しいとの傲慢さが形を替えた想いと言えたろう。  傲慢? 言わば言え、詰《なじ》るなら詰《なじ》れ、今までは我慢を美徳に、自制を倫理にしてきた自分だが、それでも法師を愛する心を抑えこむ事こそ、自分への最大の裏切りに思えたから。  築宮の呼びかけに背を向け、去ろうとして、  法師の貌が。  くしゃりと歪んだ。  そして―――溢れた。弾けた。  堰きとめていた気持ちが。 『―――やだ―――』  零れた。 「……え?」 『やだよう……っ』 『やっぱり、いやだ、そんなの―――っ』  張りつめていた水面が遂に破れるように、溢れて零れた、法師の心は。その心は、溢れ出したかと見ればもうとめどもなく。 『築宮さん、わたしにいろんなもの、くれた。嬉しいこと、楽しいこと、気持いいこと、全部』 『なくしたくないよう……』 『あんたに、もっと聴いてほしい。  いままでみたいに弾けるかどうかわかんないけど、わたしの琵琶、もっと聴いてほしいよう……っ』 『もっとわたしと、お話しして。  もっとわたしを抱きしめて』  差し延べる手、応えて伸ばす手、触れ合おうとして、けれど一つは香木の精としての肉体ならざる手、一つは現界に根差して生の哀楽の狭間に揺れつづける肉体の手、両者は触れ得ない、どれだけ重ねようとしても、握りしめることはできない。  それでも、築宮は抱きしめようとした。法師は彼の胸に飛びこもうとした。何度も。何度も、繰り返し。 『私はあんたみたいな、ニンゲンじゃない。  けれども……できるンなら、もっと、ずっと一緒にあんたと』 『あんたといたい。いっしょにいてほしい』 『ああわたし、どうして言えなかったのかな……こんな、最後の最後まで』  激情が涙となって零れた、その雫も彼女の姿と同じく薄く、宙に舞っては地に届くことなく消えていく、もう遅い、もうこうなっては引き返す事適《かな》わずと示すように、浮かぶ端から消えていく。 『でももう、おしまいだもの……』 『一度弾きはじめたその曲は、最後まで弾き手を引きずっていく』 『そういう風に作られてる。  逆らう事なんてできないんだよ』 『でも―――ありがとう。  最後に、わたしの気持ち、きいてくれて』 『あんたに聞いてもらえて、嬉しかった』 『ねえ築宮さん、お願いがあるよ』  願い、という言葉がこれほどの哀しい響きを持つのなら、青年は二度と誰からも願われることを望まない、それくらいの、迷いの果てに振り零された哀しい願い、なのだった。 『その琵琶、わたしのこと―――』 『あんたに、持っててほしいんだ。  そしていつか―――弾いてね、わたしのことを、さ』 『そうしたら、あんたと一緒にいられるような気がするから』 「……厭、だよ」  築宮の声音は、不思議なほど静かだった。その静けさは、大暴風が全てを打ち壊していった後の、虚脱したような穏やかさ?  否。  力を、破壊的な力を秘めて張りつめた、予兆のような静けさの、青年の身の裡に押し寄せてきたのは―――  歓喜。共にありたいと願う心を、自分だけでなく法師も消し去りがたく残していた事への。  そして反撥。なるほどこの新しい琵琶は佳い薫りして、音も澄明で、弾く手を得たなら神器ともなろう。が。こんなもので―――身代わりになど、なるか! 『……そっか。ごめんね。  さいごなのに、わがままばっか言って』 「そうじゃない。  そうじゃないんだ。  俺が一緒にいたいのは、琵琶になった君なんかじゃなく、今の君なんだから」  身体の底から〈滾々〉《こんこん》と湧出する、感情の圧力は遂に、秘曲の魔力さえも断ち斬るまでに高まり、弦とほとんど一つに溶け合うばかりであった撥を、己の意に強引に添わせて持ち上げる、振り翳す。  絃を操るもう一方の腕へ向けて。 『築宮さん……なにを!?』 「この曲は、中断できない?  なら、こんなのは、どうだ―――!」  その瞬間に、築宮青年の胸によぎったものはなんだったろう。  無くしたはずの記憶の情景が、さっと脳裏に浮かんで消えて流れてまた浮かんで。  忘れてしまったはずの人々の声が、耳の中で語りかけ笑みかけ、あるいは叱責しかつ哀しんで。  それらの中、どれ世も誰よりも強く鮮やかに、閃光に照らし出されるように青年が観たのは、一人の女性の面影。  すまない―――と、詫びた言葉は、けれど一言だけ。なぜ自分が詫びたのか、それさえ明らかにならぬがこの今は、想うべき女は彼女ではない。想い、見つめるべき女は、眼前の、去りゆこうとしている法師だけ、だから。築宮青年は。一言を最後に、全てを断ち斬るように。そして全ての想いを法師にだけ繋げるように―――  撥を、武器のように鋭く尖った角を、絃を操る手首に擬して、〈乾坤一擲〉《けんこんいってき》、迷う隙間など自分に許さず。 『や、やめ……っ』  振り下ろした。  痛みはいかなる苛酷な懲罰に勝《まさ》って築宮を劈《つんざ》いた。  蒼らみ渡った天の中に紅く飛沫《しぶ》いた。  青年の内圧を示して高く、激しく。  そして曲が―――  止んでいた。  操る手は、腱まで裂かれて、絃を遣う精妙は、指先から喪《うしな》われ、これよりは最早、調べること適《かな》わず。  そして秘なる曲は、またこの世の外に失せて、それなりけり。 「く……うむ……」  秘曲、いや魔曲から解放され、築宮青年は傷口から脈打ちながら溢れ出す血潮を抑え、一声だけ自分に苦悶の呻きを許した。許したのは一声だけで、後は法師に苦痛の顔を見せるなど許さず、歯を食いしばり脂汗に鼻梁を滑らせ、それでも笑んでみせたは、この青年には上出来だったろう。たとえそれが強がりだったとしても――― 「あ、あの曲は、確かに素晴らしかった」 「あそこまで踏みこむことは、常人にはできたもんじゃないんだろう。  芸事は、魔物か……よく言ったものだな」 「そこに踏みこむ者は、また自分も魔とならなければならないってことなんだろうな」 「けれども―――人は人のままであるのがいいよ」 「君は香木の化身かもしれない。  でも、喜ぶ心、好きになる心があって、戸惑い、悩む」 「それは人と、なにも変わらない」  人のままであがき続けること、それこそが生きていく、ということではないだろうか。  だから築宮は、己の身を傷つけてでも、心の底から希ったのだ。  ―――法師に還ってきて欲しいと。 「たとえ君が琵琶になんかならなくっても、いつか二人で、調べを奏でることができる日だって、来るかもしれない」 「君と、一緒にいたなら―――」 「だから―――」  戻ってきてくれと、願う言葉は手首の傷の痛みにくぐもって消えてしまったけれど、法師は琵琶を見つめ、そして青年を見つめ、まっすぐに見つめて、想いの限りに見つめて、琵琶ごと彼を、抱きしめるような仕草をして。  そして―――かき消えた。  屋根の上に残されたのは、ただ一人。  築宮青年、彼のみ。  そして、時が流れた。  大河の流れのように。  法師の庵《いおり》は、今でもそこにある。  時折通りかかる者もあり、中から琵琶の音が聞こえてくることもあるが、その音の拙さに首を捻り、どんな下手くそが住んでいるやらと〈怪訝〉《けげん》に思うが、深くは追及せず、そのまま立ち去っていくことがほとんどだ。  そして、庵《いおり》の中では、一人の青年がつかえつかえ琵琶の絃を弾いては、試行錯誤を繰り返している――― 「……なかなか、聴いたようには音を出せないもんだな、この琵琶っていうのは」  あの日、屋根の上で墨の精怪を祈伏し、その後青年は、己の手首を掻き切った。  その傷は深くして、完全には癒えず、普段遣いには差し支えないのだが、こうして琵琶を弾くなどの精妙な動作を要求された際には、やはり思うようには動いてくれない。  その傷は傷として―――築宮青年は、もとらぬ手で琵琶を試しながら、物思う。  いまだ抜き損ねた歯根のように疼《うず》くのは、無くしたままの記憶のことだ。  結局彼は、部分部分細切れに思い出すことはあるものの、その記憶の大半を失ったままである。  だが築宮青年は、もはやそれを積極的に取り戻そうとはしていなかった。  ……人は過去の自分があってこその人だという。過去の記憶という土台無しには、その生は歪なものになってしまうのだ、と。それは一面の真実なのだろう。しかし人は過去のみに生きるに非ず。記憶を失ってから法師と積み重ねた人生だって、それはそれで間違いのない事実なのだ。その事実が、過去に劣っているはずはない。  そう、失われた過去は過去として、彼にはこれからの先の生がある。  彼自身が、選び取った生が。  再び撥を使おうとして、手首の傷が疼《うず》いて、つい取り落とした。  が、青年は別段落胆もせず、撥を拾い上げてから、琵琶をしまいこむ。  琵琶を片づけてから、次に、硯と筆一式を取りだし、墨を下ろしはじめる。  とそこへ。 「あ、駄目だよぅ……そんなに根つめちゃ、傷によくないってば」  我が儘な子を咎めるような声が、板間の奥から鳴って、青年は苦笑気味に手を引っこめた。 「大丈夫だよ。そんなに無茶はしてないさ。  それにここ暫くは、天気がいいせいか、傷の具合もいいみたいだし」 「それでも、無理しちゃ、だめ……」  気を揉むような、案ずるような声音で進み出て、そっと青年の手を握ったのは―――  琵琶法師、だった。  在りし日の姿そのままの。 「そんなに心配そうな貌をしない。  本当に、君が思っているより、ずっといいんだ」 「始めはろくに握れなかった指が、今ではこんなに動く。だから、そのうち、もっとよくなるよ」 「そんなら、いいけど」 「こうやって字を書くんだって、手を動かすようにする練習なんだ。  まあ、ほどほどでやめにするから……」  だが練習とはいいながら、築宮にとって書は、思い出せないとしても、忘れてはいけない過去への絆の一つであり、それが為に青年は今日も墨を擦り、筆に含ませる。 「だから、あんまり不安そうにしてないで。  それに、君だって―――一人でこっそりしてるの、知ってるんだぞ俺は」 「な、なにをかなぁ……?」 「琵琶の、練習。  まったく……あんな風に、隠れてやらなくってもいいって」 「ほら、俺はこっちで習字してるから、君はそこで弾いてみるといい」 「あ……え〜と……。  うん。でも、わたし、まだ前みたいに弾けないけど、いいかな?」 「お互い下手くそ同士、なにを気兼ねすることがある」 「それに、君ならきっと、もっと巧く弾けるようになる。俺にはそう思う」 「……ほんとに?」 「ああ、本当だ」  優しく笑みかけるのに、法師もようやく〈愁眉〉《しゅうび》を開いて、どういう貌をしていいのかわからない様子でしばし戸惑っていたが、それでもやがて……笑った。  築宮青年が愛する、彼女らしい、屈託のない、幸せそうな笑顔で。  そして一人は墨を擦り、いま一人は琵琶の弦の調子を整え、やがて庵《いおり》の中には墨の香と琵琶の音が流れ出す。  交わされる言葉は少なかったけれど、それよりも通い合う心があった。  暖かに、通じ合っていた。  青年は場合によって、想うことがある。自分は芸事の異域に去ろうとする琵琶法師を、彼の立つ世界に引き戻したつもりだったけれど、むしろかえって、彼女を新たな迷い道に押し出してしまっただけではないのかと。  彼女は、あの後も琵琶を弾くことをやめていない。琵琶の声はいまだ戻らず、その神技は喪《うしな》われ、それでも法師は試行錯誤して、弾き続けては、どうすれば以前の域に達しえるかと迷い続けている。  その、迷い続ける事こそが、芸事の本質、いや、人としての在りようなのだと、築宮自身はそう思いつつも、不安がよぎる瞬間がある。  この今も。と、青年の心細さを感じ取ったか、語りかけてきた法師の顔は、柔和に、彼を肯定するように。 「ねえあんた―――わたしねえ。  ほんとは、前みたいに弾けなくっても、いいかなって想ってる」 「へえ……それは、なんでまた」 「だって、わたしは知ってるから。  わたしが一番聴いてもらいたい人は、もちろんあんただけど」 「あんたは、わたしがどんな風に弾いても、ちゃんと聴いてくれるって、知ってるから」 「……ああ。君の弾く曲なら、たとえどんなのだって、俺は、最後まで付き合うよ」 「えへへ……最後まで?」 「まあ、ね」 「じゃあ、わたしが琵琶を弾いてる限り、  ずっと一緒だねえ―――」 「……ああ。ずっと、一緒だ」  そう、過去を封じ籠めよう。封じ籠めて、この旅籠で共に生きていこう。  青年は誓う。何度も繰り返してきた誓いを、また新たにする。  法師を生きる者の世界に呼び戻した、その責任で? まさか。  共にあることがこんなにも幸せだからこそ、青年は法師を選んだ。ただそれだけだ。  ……それが、青年の辿り着いた、旅路の果てだった。 「うん―――うん。  嬉しいよ。  わたし、こんなに、幸せだよ」 「ねえ、ありがとうねえ」 「わたしと、このお宿で出会ってくれて、  本当に、ありがとう―――」  ―――そして法師が弾きはじめた琵琶は、かつての〈業前〉《わざまえ》からすればたどたどしい音ではあったけれど―――  築宮青年にとっては、それはあの秘中の曲よりも、素晴らしく甘い調べに聴こえたことである―――  そして、大河の上。渡し守が小舟を漕ぎながら、旅籠を眺めている。彼女の脳裏に浮かぶのは、青年のこと。旅籠に残り、琵琶法師と寄り添って生きていくことを選んだ彼のことを、思っている。  やがて渡し守の唇に揺らめいた、ほろ苦い笑みはいったいなにを意味していたのか。 「ま、元気でおやんなさいよ、旦那―――いやさ、清修」  と言い直した、その呼び方、青年の名を呼びつけにした。ある種の間柄の人間同士にしか通わない情愛が、こめられていた。  やがて渡し守は、櫂を操って大河の彼方へ、消えていく。  そういえば渡し守も忠告していた、と忘我の中に青年は思い出す。芸事は魔物であると。その異域に深く踏みこんだ者もまた魔物となり果てる。  けれど―――なんで、それがいけないのだ?  それでいいではないか。  愛した女と共にそうなれるのなら―――  ……既に青年は、もう踏みこんでしまっていたのだ。引き返すことのできない深みにまで、身を沈めてしまっていたのだ。  覚悟、というには〈悲壮〉《ひそう》の色もない、むしろ微笑みさえ浮かべ、築宮青年はひたすらに琵琶を奏で続けた。琵琶の調べの中に、身も心も溶け出す心地で。  全ての過去、愛憎、なにもかもが流れ出して、薄れて、消滅していく。  全て、なにもかも。  ただ、最後に青年は。 「―――すまない―――」  と、一言だけ詫びた。  一体誰に向けた言葉だったのか。  最早明らかにはならず、声は旋律の中に呑みこまれていった。  そして青年と琵琶法師は―――旅籠から、姿を消した。  ………………。  …………。  ……。  ただ時折―――無人となったはずの法師の部屋から、琵琶の音が漏れ聞こえてくることがあるという。  そしてその音に不審を覚えた者が庵《いおり》を訪ねてみれば、障子には琵琶をかき鳴らす人影の一つ、何事か琵琶に語りかけている風情や、愛おしい相手をかき口説くように頬ずりする姿が、哀れにも物狂おしくも、影となって揺れている様と見《まみ》ゆるのだが―――  勇を鼓して障子戸を繰り開けてみれば部屋の中に誰の姿もなく、一つ―――  琵琶の一つばかりが、物語の〈残滓〉《ざんし》のように転がっているだけだったと、そのように伝わっている―――  ―――一体―――  ―――何時から―――  ―――こうして―――  ―――歩き続けていたのだろう―――  ―――一人で―――  ―――ただ、一人だけで―――    ―――物語の、     始まりと終わりの重なる場所で。     女たちと、青年の、     運命の螺旋のねじれの上で―――    繰り返される幻灯劇にも似た物語は、けれど時に綻《ほころ》びて、不気味な深淵さえ覗かせる。    立ち尽くすは墨色の、割れ般若の面の彫像。  浮かび上がるのは、過去からの呼び声。    ―――霞外籠逗留記。  ――――――これより先は、        踏みいることならじの、        心おりひしぐ物語。  ……空気が張りを失い、音を伝える力を減じたか、〈静寂〉《しじま》に軋むはずの〈跫音〉《あしおと》さえ、耳に真綿の栓を詰め込んだように薄ぼけて、築宮には自分の歩度さえ頼りなく感じられた。  それでもなかば機械的に歩み続けるのは、自分はどこかへ行かなくてはならないのだという脅迫的な観念と、そして人恋しさに取り憑かれていたからで、それらの〈焦燥〉《しょうそう》は黄昏の光に染められた通廊の片隅に立つ己を見いだしてからというもの、まだ他の誰の姿も見ていないという心細さに募《つの》るばかりの。  だがどこに行けばいいというのだろう。  そして誰に逢いたいというのだろう。  〈焦燥〉《しょうそう》は高まるばかりで彼に行き先を告げはせず、寂しさは深まりゆけど、それを埋めるための面影を示してくれなかった。  それでも築宮は、ともすれば萎《な》えてしまいそうになる足を前に運び続けるしかなかったのだ。〈寂寥〉《せきりょう》の重圧に押し潰されてしまわないようにと、音の希薄な世界の中で、情動が麻痺してしまわないようにと。  確たる行き先が思い浮かばないまま、旅籠で長く過ごして体に染みこんだ土地勘任せに歩き続ける―――  そんな彼の足取りは、彼自身が一個の夢の産物であるかのように、頼りなく重心を欠いているかに見えた。  ……〈算盤〉《そろばん》を弾き、帳面の頁を繰る音の名残を障子越しに聞いたような気がして、麻痺しかけていた心が躍ったのに、いざ覗きこんでみればお帳場には、交わされる人声もなく、立ち働きに畳を擦る足元もなく、時代物の格子結界や番台が、無言無音で枯山水の置き石のように配されているだけだ。  入る前には感じたはずの人の気配は、築宮の期待が生んだ幻に過ぎなかったと言わんばかりに畳や座布は冷えきって、ただ寒々しい。  帳場の仕事道具は、今にもこれから人々が立ち戻って、いつ忙しくなっても構わないように準備よろしく整え、待ち構えているように見えて、築宮は敷居を跨《また》いだまま随分長いこと立ちつくしていたのだが、駆けこんでくる者も帳簿を抱えてくる者もいっかな現れず。  しまいに築宮は、「お前がそこにいるから、この部屋の本来の住人が出てこられないのだ」と帳場の調度たちが無言の非難を浴びせかけてくるかのいたたまれなさに囚われて、やむなくその場を後にした。  ……もとより訪れる者も滅多におらず、多量の古い書物が収められた空間独特の、過去の記憶が幾重にも重なり合って〈微睡〉《まどろ》んでいるかの気配ばかりが満たした図書室である。  築宮はかつてその古紙の匂いと手擦れした背表紙の壁面を、懐かしく愛好したものだったが、しかしこの今は地下の納骨所に入りこんだような不気味な無音ばかりが強調され、身震いを禁じえなかった。  あるいは近くの書架から、適当な書物の二・三冊も抜いて書見台に腰を据えれば、図書室を管理する誰かが声を掛けてくれるのではないかと、そんな期待を抱かないでもなかったけれど、実際に試みる気にはなれなかった。  ここに収められた書物の著者はもしかするとまだ存命の者もあろうが、死去した者も多いはず。それら死者の遺した書物に囲まれて過ごすのは、死者そのものに見張られているのと変わりないように思われたのだ。  それでも、もしかしたらと、築宮は書架の〈峪間〉《たにま》を〈跫音〉《あしおと》忍ばせて抜けて、司書室の扉を目指したが―――  ……あるいは、鍵が掛かって入れなかった方が幸いだったのかも知れない。中を見ずにいた方がよかったのかも知れない。  そう後悔するくらいに、司書室には他者の侵入を拒むような雰囲気があった。  種種雑多な標本や収集品で一杯の小部屋の狭さに、忘れ去られた玩具箱を見いだしたかの喜びで身を置いた日など勘違いだったと言わんばかりに、今はただ大量の物品がもたらす圧力が、よそよそしく重苦しい。  部屋というのはその主があってこそ、人をくつろがせ落ち着かせるものだというのは、判りきった事実なのに、自分で噛みしめるとなると吸いつけない煙草のように喉に沁みて、築宮は〈憮然〉《ぶぜん》と扉を閉めた。  樹々の緑は人間の心身を癒し、安らぎを与えるなどと、一体どこの誰がしたり顔にのたもうたのだと、築宮は丈高い梢にのしかかられるかの無形の圧力に喘《あえ》いだ。  濃密な匂いが鼻と口をひんやりと塞いでくる。熱帯を擬して生温かった空気は、旅籠を押し包んだ黄昏の侘《わ》びしさに冷やされたか、水底に沈められたように冷めて、不安を煽《あお》りたてる。  足元の苔の弾力さえ死肉を踏んでいるかにおぞましいが、それをこらえて一歩一歩探るように木立の中に人影を求めたが、どこを覗いても〈葉群〉《はむれ》、〈花群〉《はなむれ》ばかりで温かい血の通った生き物の姿を見いだすことは出来なかった。  誰もいないという失望は不安とおぞましさの触手と化して、築宮のズボンの裾から潜りこみ、内腿を伝い、腹や喉元まで這い上がってくるかのよう。  なぜこんな温室など覗きこんでしまったのか。樹々の樹液沁みだした幹は〈漿液〉《しょうえき》の絡む骨、葉の連なりは彼らの口であり目であり、花などは剥き出しの性器だし、脚の下にだって、根という微細で貪欲な指が縦横無尽と張り巡らされている。  このままここにいたら、自ら歩き回る生き物が地上に発生した太古から、植物が根深く抱えこんできた動物への怨みによって窒息させられ、肉の一粒骨の一かけまでも消化されてしまうとの恐怖に駆られ、築宮は緑の沈黙の中から逃げ出した。あちこちに意地悪く張りだした根に足を取られ、こけつまろびつしながら。  ―――もうどこを〈彷徨〉《さまよ》っても同じ事で、築宮が聴く〈跫音〉《あしおと》は、時に止まりがちに、時に焦って速まる自分のものばかり、見いだす人影は黄昏の光の中に薄く長く伸びる自分のものばかり。  どこを覗きこんでも迎えるものは、不気味な空虚と得体の知れぬ〈排斥〉《はいせき》の沈黙のみで、途中から青年は自分がなぜ歩き続けているのか、誰かを求めてなのか、それともこの巨大な建築物の〈薄暮〉《はくぼ》の中に〈蔓延〉《まんえん》した正体不明の圧力から逃れようとしてなのか、判別がつかなくなっていた。  無人の、そして不可解な敵意に満ちた見知らぬ街を迷い続けるというのは、重度の〈酒精〉《アルコール》中毒者がよく陥《おちい》る幻覚であるという。  築宮はいっそのこと自分が、酒毒に冒された廃人なのだと思いこんだ方が幸せなのではないかと、極めて不健全で陰湿な妄想さえ抱き始めた。  幻覚ならばいずれ醒める瞬間がやってくるだろう―――と。  と、いつしか水の面から見返していた顔に震え上がった。  なにより恐ろしかったのは、その理性崩壊寸前に虚《うつ》ろな眼差しでもなければ、涎《よだれ》を垂れ流さんばかりに緩みきった口元に漂う狂気でもない。その貌が自分の貌であったことだ。  〈焦燥〉《しょうそう》と脅迫観念は歩き続けねばと背中を押すのに、足の方が疲れ果てていつの間にか水路の際に座りこんでいたようだが、自分はこんな貌で旅籠をさまよい歩いていたのかと思うとぞっとする。  水路の水を掬《すく》い、顔に打ちつけて〈回生〉《きつけ》にしようと手を流れに差し入れれば、それがまた温かくも冷たくもない、体温とほとんど等しい温度だったのに閉口したが、不快を立ち上がるための〈発条〉《ばね》にする。  歩く気力さえ失った時が最期のような気がしているが、まだ自分の中からは誰かに会いたいという焦りと〈渇望〉《かつぼう》は失われていない。  自分に活を入れるように大きく手を振って水気を切って、築宮は、また歩き出す。  そして築宮は、〈焦燥〉《しょうそう》と人恋しさを薪《まき》にして心を奮《ふる》い立たせ、旅籠の中を捜し求め続けたのだが、ついに誰の姿も見いだす事はできなかった。  まるで自分が誰に会いたいのかはっきりさせないせいで、誰もが自分の前から姿を隠そうとしているしているかのようだ。  実際、築宮を〈憤然〉《ふんぜん》とさせしまいに絶望させたのは、ほんの目と鼻の先に人の動きを感じる機会が幾度かあったにもかかわらず、彼が喜び勇んで近づいた途端に陰も匂いも残さず消えてしまうという事だった。  たとえば、彼が廊下の角を曲がるその寸前まで、角の向こうから人が立てる音聞こえていたというのに、曲がってみると誰もいない。  たとえば、どこかの部屋に入ろうとするその直前まで、その部屋の中からは人声さえしていたのに、入ってみると誰もいない。  こういうことが幾度か繰り返されるに至り、どうにか冷静でいようとしたのもかなぐり捨てて、築宮はほとんど半狂乱で旅籠の中を駆けずり回ったのだが、なに報われることはなく、疲労が溜まりゆくばかりで、足は棒でもぶら下げていた方がましなくらいに重くなり、喘《あえ》ぎ続けた喉の奥には血の臭いさえ漂うようになった。  一体どれだけ走り回ったのか―――  何時間? いや何日?  あるいは時間の流れなどはとうに喪《うしな》われ、旅籠は永遠の停滞に封じこまれてしまったのだ、と考えるべきなのかも知れなかった。  手足の隅々、節々に〈煮凝〉《にこご》った疲労は、相当時間体を〈酷使〉《こくし》した事を示しているが、周囲はいまだ〈払暁〉《ふつぎょう》とも夕暮ともつかぬ仄《ほの》明かり、薄暗がりが垂れこめたまま。  時間の水位は曖昧な中で、溜まった疲労の重さに築宮はもう背を丸め、足を引きずり引きずりして、それでも懸命に歩き続けていたのだがついに限界を迎える。  絡みつく〈泥濘〉《でいねい》から引き抜くように一歩、持ち上げた足は鉛の錘《おもり》がぶら下がっているかに重く、踏み出した途端に体が前に流れた。  こらえようにも膝が抜けて力が入らず、たまらずに土下座のように手をついて、もうそれで立ち上がれなくなった。  こうやって地にくずおれて哀れな疲れ姿を晒したところで、差し延べられる手など有り得ないと判っていても、板床の木目が催眠の紋章であるかのように目を離せない頭を上げられない。  ―――もうこのまま横になってしまえ、休んでしまえ。休息をとらないことは、歩く事だってままならないだろう―――  ―――立ち上がるのだ。どれだけ辛くても、諦めてはならない。こうして無為にうずくまっているのなら、その時間で誰かを捜すべきなのだ―――  いっそどちらかの声だけになれば、大人しくその勧めに従って立つなり横たわるなり決められようものを、自分の中の声は交互に相反する言葉を言いたてて、どちらももっともらしく聞こえるからたまらない。  立ち上がるもならず、横たわるのも躊躇われ、うずくまったまま〈逡巡〉《しゅんじゅん》する築宮の、その頭上から。     ―――ンンン―――ンンンン―――    重い車輪を転がすような旋音が。  〈臓腑〉《ぞうふ》を震わすような重く深い余韻を。  頭と言わず肩口、背中に落ちかかって、  耳孔に長く残って、くぐもって。    ―――ォ―――ォ―――ンンン―――     ―――ンンン―――ンンンン―――  立ち上がろうとあがく心を、麻酔にかけたように重低音でぼやけさせ―――    ―――ンンン―――ンンンン…………       ……ンン……ンンン……………    また、どこかで時計台の鐘が鳴っているのだと、認識する端から意識は暗くなり、一体幾つの時を撃つのだと、数えたつもりが曖昧になって―――  どことも知れぬ遠くの時鐘なのに、機構が巻き戻る音まで聴き取られるくらい、旅籠は静まりかえっているのに自分は一人きりなのだと、孤独が改めて〈惻々〉《そくそく》と迫り来る中で、時鐘の輪唱が遠ざかるとともに、築宮の意識も薄れていった。  ―――ただ意識が完全に途切れる寸前に、    ―――どうして、彼女たちとの道を選んで、それで満足なさらなかったんですかい―――    と問いかけてくる言葉を確かに聴いたと思った、その声は。  その声は、小舟に佇《たたず》む黒い衣のあの人の。 ―――胎児よ 胎児よ なぜ躍る        母親の心がわかって     恐ろしいのか―――    ―――読了すれば、多かれ少なかれ一度は精神に異常を来《きた》すとの不穏な評を冠された奇書の、巻頭歌である。  もちろんそれは、物語の怪奇趣味を強調し、刺激に慣れて手強い読書子の食指をそそらんがための〈惹句〉《じゃっく》に過ぎない部分もあるだろうが、それでも、一般には安穏とされる胎児の時代を、実は恐怖に彩られているのだとする着想は、幾つかの興味深い連想を引き出す。  たとえば、人間が本能的に闇を恐れるのは、暗がりに捕食者が潜んでいた太古を細胞が記憶しているからだと尤《もっと》もらしく語られるが、母の胎内が無明の闇に閉ざされていたせいもあるのではないか。  十月十日もの間の、身動きもならず、あるのは血流と鼓動の轟音ばかりの闇の中に封じこまれる、壮絶な恐怖はいかばかりなものか。  思うに胎児が身を丸めているのは、ただ手足を伸ばす隙間がないというだけでなく、恐怖から身を守る為なのだ―――  だから築宮が目覚めた時、手足を胸に抱き寄せた胎児の形だったのは、眠りの間に闇を感じ取った体が、無意識裡に防御の姿勢を取っていたからだろう。  そう、闇―――  四囲は、闇。  築宮ははじめ自分が目覚めたのかどうかも判然とせず、二度・三度と瞬《まばた》きしたものの、視ている闇は瞼の裏ではないと知るに至って、不安と恐怖の余り絶叫して足元も確かめず走り出したくなるような衝動に駆られた。  実際には座りこんだままだったのは、目覚めた直後で体に意識が行き渡っていなかったせいに過ぎないが、それは幸いだったろう。  彼が疲労のあまり意識を喪《うしな》ったのは水路の際であり、〈迂闊〉《うかつ》に走り出したら流れに足を踏み外していたかも知れぬ。  もし人類の始祖というものがあったとして、おそらくその者が自我に目覚めた時も、今の築宮と同じような心細さに周囲を見回した事だろう。  自分はなぜここにいるのか、ここは一体どこなのか。  築宮がまだ恵まれていたのは、記憶の前後の脈絡を一応保っていたことだが、それでも情景の暗変には、樹海に〈彷徨〉《さまよ》っていた者が、次の瞬間には暗い海に投げ出されている自分を見いだしていたのに等しいくらいの困惑に苦しんでいた。  築宮が覚えているのは黄昏めいて〈褪色〉《たいしょく》した光に包まれた人気のない旅籠の、琥珀の中に封じこまれたにも似て、薄暮の端境の時間は永遠に続くかと思われたのに、目覚めてみれば情景には闇が濃度高い液体のように充溢している。  黄昏が夜闇に移ろうのは当然かも知れないが、あくまで築宮を押し包む闇が尋常の夜の暗さであるとすればの話である。  しかしこの暗さは、ただ時間が夜に移ろったからと言うよりは、何者かの手が〈刷毛〉《はけ》でもって塗り替えたかの奇妙な、そして背筋を死霊の指先で撫で上げられるかの忌まわしさがつきまとっていた。  相変わらず空気が音を伝える力に乏しくて、築宮自身の身じろぎさえ遠く籠もって聴こえるのも手伝っているだろう。まるで止(死)水の底深くに沈められたような。  それでいて、耳の中には、耳の中で遠ざかるような、近づいてくるような重低音が絶えず鳴っていて、内臓を出来たての生菓子のように振動させているのも気色悪い、悪心地だ。  まさか、意識を失う前に鳴り響いた、時鐘の余韻が寄生虫の如く胎内に巣くっているのでもあるまいと、自分で浮かべた想念ながら〈慄然〉《りつぜん》として、築宮がぞっと辺りを見回せば、目が慣れてきたのか、少しずつ事物の輪郭を見分けられるようになってきていた。  いや、夜目が利き始めたというだけでなく、幽かな灯りがあるのだ。  灯り、と思えば僅かに勇気づけられて、源を求めて視線で追って、結局青年は不気味な感触を強くするだけに終わった。  灯りといって、山中で囲む焚き火や冬の夜に湯気を立てる食卓を照らすような心温める灯火でなく、陰に籠もって滅に冷たい、深海の生物が宿すような燐光が、傍らの水路から。  水路の水それ自体が、まるで無数の人魂を溶かしこんで流したように、冷たい光をうっすらとまとい、放っているのだった。 (寒いな……)  格別温度が下がったというのではない。  だがこの異様な空間にただ一人置き去りにされているという事実が、青年の肌というより心を冷やして、彼を寒々とした心細さに落としこんだのだ。 「だれか―――」  呟いた、声は唇から抜けた端から闇が呑み干して、その貪欲なことと言ったら、青年の口に侵入してまだ喉の奥にある言葉まで不気味な静寂の餌食にしようとしているかのよう。  それでも築宮は、返ってくる音などないとはなかば悟りつつも、呟かずにはいられなかった。音を発することによって、自分という自我が闇に溶解されずに残っていることを確かめたかった。 「誰か―――誰かいないのか―――」  これから自分はどうすればいいのか、どこに行けばいいのか、この闇と重低音と燐光の世界では自分一人という寄る辺の無さは耐えきれないと、築宮は寄り添う相手を求めて呼びかけ続けた。闇の果てに。  そばにいて欲しい誰かの名を呼ぼうとして。 「―――?」  築宮は。  気づいてしまったのだ。  自分が、この今になってさえ、その人の名前すら知らなかったことに。 「――――――!」  呼ぼうとした。  帳場で〈深更〉《しんこう》まで一人黙然と帳簿仕事を続けていた彼女の名を。  旅籠を管理してきた一族の、最後の裔《すえ》だという令嬢の名を。 「――――――!」  縋《すが》ろうとした。  人気のない図書室で、森閑とした書物の谷間に、〈嫣然〉《えんぜん》と佇《たたず》んでいた司書に。  若い男の肉を喰らうという、あの優しい鬼女の名に、縋《すが》ろうとした。 「――――――!」  呼び寄せようとした。  草のいきれと花の蜜にむせ返るような温室で、琵琶を供に無防備な笑みで座していた法師を。  愚かで、けれど一途で無垢な琵琶法師の名を呼んで、傍に招こうとした。                   ―――けれども。  築宮の唇は、わなないて、声なき呻《うめ》きをのぼせるばかりで。  彼女達の名前は、どれだけ記憶を濡れ布巾のように捻り絞ろうとも一雫の文字さえ浮かびはせず、築宮は無明を〈凝然〉《ぎょうぜん》と見つめ、しまいに弛緩した。  旅籠で積み上げてきた物語が、根底から崩壊していくような、底無しの闇淵が足元に開いたような、強烈な〈失墜感〉《しっついかん》に思考が停止する。  心惹かれた、肌まで重ねた、そして一度は生涯を共に生きていこうとまで思いつめた筈の女性達の、名前さえ知らなかった自分は一体、なにを見てきたのだ、なにを聞いてきたのだ。  君だの貴女だの彼女だの、ただ代名詞か、さもなくば令嬢だの司書だの琵琶法師だのと、属性を示す言葉でしか彼女達を知らずに、よくそれで平気でいられたものだ。  いや、築宮だけでない。  知らずにいたのはただ彼の咎に非《あら》ず、旅籠の客達、そしてお手伝いさん達(ああ彼女達だって名前がない!)も、誰もその名を呼ぶことがなかった。  今にして気づいた青年に、じわじわと、押し寄せてくるこの不安定な感覚は、彼がこの旅籠という一つの世界を、どれだけ脆く危ういものか認識してしまった為ではないか。  この今の異様な闇に呑まれる前から、時間の流れはどこか曖昧で、日々をしっかりした数字で数えられずに過ごしていた、旅籠。  出会った人々の本来の名前も知らず、役割や代名詞のみで呼んでいた、旅籠。  そういえば、と築宮青年は物想う。  今の旅籠はある一つの舞台と、公演を終了し、照明を落として森閑としたその様相と似通ってはいないか、と。  人声が絶えたのだって、演じ終えて役者が去ったのに通じていないか。  あるいはそれ故に、かも知れない。  演者達は、舞台を終えれば本来の姿に立ち戻る、役柄からそれぞれの名前に立ち返る。  築宮が彼女達を呼び戻せないのは、司書と令嬢と法師と、台本の役中名しか知らず、本当の名を知らずにいたからではないか―――  ―――ならば、誰だ?  この巨大な舞台を組み上げ、役中人物達を配置し、物語の筋を用意したのは、一体誰だ。  その舞台の中に、自分を放りこんだのは一体、誰だ―――  〈情誼〉《よしみ》を交わし合った女性達の名前を知らずにいたという衝撃が、築宮の中に途方もない観念をもたらした。  青年はその思考の迷路に囚われ、どれだけの時間を闇のただ中に立ちつくしていたのだろうか。  闇の中に体の輪郭を超えて拡散しかかっていた彼の意識を引き戻したのは、遠く、水路の上手で鳴ったかそけき。         ―――ぱしゃん、と。    築宮以外の人間がいる事を報せる〈跫音〉《あしおと》でも声でもなく、ただ水が鳴った音。  どこかの板が緩んで水に落ちただけかも知れない、水路に入りこんできた魚が跳ねたのかも知れない―――などとは露とも疑わず、築宮の顔は音の向きへと跳ね上がる。  たとえ青年の耳がどれだけ鈍く、その記憶もどれだけ〈胡乱〉《うろん》で穴だらけだろうとも、耳から入ったその音と、記憶の中の誰がどのように発していたかの情景は、一直線に繋がった。  なんでその音を聞き違えられたものか。  あれは―――櫂の音だ。  櫂が水を打つ響きだ。  渡し守が、櫂を使っている音だ!  そう認識された途端、築宮はまるで母猫の鳴き声を聴きつけた迷子の仔猫のひたむきさで、音がした方向へと床板を蹴って走り出していた。  といって、彼自身は走っているつもりでも、疲れきった体では足を引きずり引きずりの、重荷を背負わされた殉教者が、実在さえ定かではない浄土を一念に希求し目指すような足取りであったわけだが。  ……築宮は、気づいていただろうか。  櫂の音を訊ねて歩き出した彼の背後で、闇そのものの密度が増し、景色に〈瀝青〉《タール》のように被さって、漆黒の中に塗り潰していったことを……いや、振り返りもせず一歩一歩と進んでいく彼は、気づくまい。  重い液体の中を泳ぎ渡るように、足取り鈍く息も喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ、それでも青年が必死に体を前に押し出していくにつれ、旅籠の景色が消える、〈磨墨〉《するすみ》の〈濃闇〉《のうあん》に溶かしこまれていく。  まるで築宮の背中に、彼が気づかぬ内に闇色の引き幕の綱が結びつけられて、歩きながら旅籠という舞台に終演の帷《とばり》を下ろして廻っているかのようだ。  彼の歩み行く先にだけ景色を残し、旅籠は闇の中に埋没していく。  そして築宮は、燐光を湛《たた》えた水面を闇の中の道案内とし、沿うて離れずに歩いていたのだが、次第にその水路の様子が変化していった。  はじめ築宮は、それを蛇行しながら伸びゆく水路の遠くに認めた時、水路が山の端か建物の中に潜っていく、その台形の入口なのかと〈漠然〉《ばくぜん》と受け止めた。  近づいていくにつれ、入口と見ていたものが具体的な形を取り始め、水路を跨《また》ぐ二本の柱と、その上端に架け渡された貫《ぬき》と〈笠木〉《かさぎ》があるのを知った。  赤い―――朱塗りの鳥居だったので。  水面の朧《おぼろ》な光を柱の足元にまとい、かつ柱に〈脇侍〉《わきじ》のように控えた〈燈籠〉《とうろう》が宿した火灯りで、その一画だけ闇の中に光球のように浮游している有り様の、築宮ははてこの先は拝殿にでも通じているのかと訝しんだ。  鳥居というのは神域と俗世を分ける境である故に。  長らく旅籠で過ごしてきたが、このように水路に懸かる鳥居など見たことがあったかと、疲労に霞《かす》む頭でぼんやり考える。  闇に浮かび上がる鳥居は深秘で妖しい印象で佇《たたず》んでいたけれど、いずれにしても自分が探していたのはこれではないと、築宮はそれでも一礼して通りすぎた。どれだけ疲れていようとも、神威への敬意は忘れてはならじとの心がけで。  こういう神さびた物を蔑《ないがし》ろにした者に、笠木の上から降ってきて懲《こ》らしめるという怪《あやかし》も在ったはず。  との築宮の殊勝な畏敬も、あまり長続きはしなかった。  なにしろ一つの鳥居を越えて暫《しばら》く歩くと、また前方に同じような鳥居が現れて、それにも頭を低くして、通りすぎてなんとなくほっとして上げた視線の向こうに、また鳥居。  二つや三つならいい。四つが五つになっても、頭を下げ、脇を抜けること許されよと心中に誦《じゅ》すくらいは道行きの障《さわ》りにはならない。  しかしそれが、一〇や二〇、いや百とも千とも、数え果たせないほどに延々と続いているとあっては―――これに一々頭を下げ続けていては、あの水銀仕掛けでお辞儀を繰り返す、水飲み鳥の玩具になって、ちっとも道が捗《はかど》らなくなってしまう。  そう、鳥居は一つ、また一つと現れるごとに間隔を短くして、しまいにはほとんど隙間もないほど密に立ち並び、水路に被さり、赤い〈隧道〉《ずいどう》のように連なっていたのだった。  夜に見る伏見の大社の鳥居の列の如き景色だが、そちらよりも更に長く果てなく続いているのではと、どこか気が遠くなるほどの長大な列。  やや築宮の足取りを楽にしたのは、鳥居の両脇に配された〈燈籠〉《とうろう》で足元が少しは明るくなったためだが、この火灯りが奇妙なのか〈囲繞〉《いにょう》する闇がやはり尋常ならざるものなのか、〈燈明〉《とうみょう》の数にかかわらず、水路の傍より遠くは照らし出さず、灯火の隧道の更に外側を煤色の壁が取り巻いて、延々と、延々と、先へ先へ。  ……。  …………。  ………………。  ………………。  …………。  ……。  ……変わり映えせず続く鳥居を横目に行くのは汽車の窓に展開される遠景を眺め続けた時に似て、そして疲労とで、築宮は何時しか歩きながらも瞼の上と下とがくっつきそうになっていて、かくんと船を漕いでは膝から崩れそうになっては慌てて気を引き締める、を繰り返していたのだが、その何度目かで見開いた目に飛びこんできた姿が、彼の倦怠をいっぺんに吹き払った。  水路の燐光と鳥居の〈燈明〉《とうみょう》に照らされて、夜光虫を全体に被ったように薄く光をまとった、それは小舟―――それこそが。  築宮がその櫂の音を聴いた、渡し守の小舟だった。  行けども行けども見出せず、間違いなく聴いたと思った確信も揺らぎ、途中からは空耳でなかったかとの疑念に鈍りがちだった足にたちまち力が戻った。長距離走の最後の一山を駆け抜ける時よりも足の感覚は失われ、床を蹴る衝撃が脳天まで響いたが、安堵が力を与えて、築宮はついに。  人気が絶え、異様な変容を遂げた旅籠で、やっと出逢えた知己である、いや知己どころか〈三世〉《さんぜ》に渡る仇敵だったとしても、彼は躊躇わずすがりついたことだろう。 「―――っはっ! はぁ……っ、は……っ」  だがすぐに呼びかけようにも息が切れて声も出ない、鳥居にしがみついて呼吸を整えるうちに、漠《ばく》とした恐れが芽吹いた。  小舟の艫《とも》にも〈舳先〉《へさき》にも立つ人はなく、胴の間は暗く、もしや船を空にして、渡し守さえいなくなってしまったのではと。  高まる不安に、柱を抱いたままへたりこみそうになった時、胴の間に火が灯って、影を障子におんもらと、渡し守の割れ般若の面の角と衣の形に染め抜いたのに、それでも腰から力が抜けそうに、今度は嬉しさのあまりに、だったけれど。 「ああ……ああ……あなたは、  あなただけは、いてくれた……!」  安堵のあまりに心の弱い部分全てを、恥も外聞もなくぶちまけて、障子に浮いた影に呼ばわり、許しも待たず小舟に乗り移る。  乗り移ろうとして、その足が。  かたりと止まった。  障子の裡《うち》から、返ってきた声で。 「―――旦那は―――」  毒の茨《いばら》を張り巡らせたより、足元に〈千尋〉《せんじん》の谷底が裂けて広がるより、なお硬く深く二者を遮る壁があるとすれば、まさにこの渡し守のたった一声がそれだった。  その一言だけで築宮の足が、心が命ずるより体の方が拒んで止まってしまったというのに、障子の陰から声は更に続いたのである。 「どうして、彼女たちとの道を選んで」 「それで、  満足なさらなかったんですかい……?」  小舟に移ろうとして、止まった足元は、次にがたがたと震えだした。背にはじっとり脂汗も伝う、耳から恐怖がしみこむ。  それくらい、沈鬱で、滅々として、暗く籠もって、墓場の土のように冷えて、奈落の底から吹きあげてくる風のように陰気で、鬱症の気がある人間なら聞いただけで衝動的に自殺しかねないほどの陰惨味を帯びており、あの渡し守がこんな忌まわしい声音で物を言うとは到底信じられずに、総身の肌に粟粒立ててたじろぐばかり。  あれだけ自分以外の誰かを、人間の温もりを捜し求めていたのに、闇の中に逃げこんでこの場からとにかく離れたいという衝動にかられ、後じさった築宮を、〈死人〉《しびと》に生える忌まわしい葛《かずら》のように絡みとめる、昏《くら》い声が、また続く。 「どうして、またこの旅籠の物語を、  繰り返そうとなさったのか―――」  このまま聞き続ければ、身に染みいった声が肌に不吉な呪紋として黒々と浮かびさえしそうで、築宮は耐えきれずに耳を塞いだ、なのに、言葉は掌《てのひら》を透過して耳孔に忍びこんでくるのだ。  そして、脳を直接震わせるような問いかけに、ぼんやりと霧を透かしたように蘇る記憶が、あった。 「お嬢さんと、添い遂げましたね?」 (ああ……そうだ。  そうだったのだ―――)  なぜ今まで思い出さなかったのか。  そうなのだ、青年は渡し守の言う通り、確かにこの旅籠で出会った女たちと寄り添う道を選んだのではなかったのか。  自分は令嬢と結ばれ、旅籠に残り、彼女と一緒に旅籠を守っていく道を選んだはずだと、渡し守の問いかけが呼び水となって、築宮の心に情景が蘇る。 「図書室の鬼女と、共にあろうと決めなすった筈じゃ、ありませんでしたかい……?」  それも、あったはずだ。  図書室の司書、鬼女と番《つが》うことは人外の異域に踏み出す道と知りつつも築宮は、それも良しとして彼女とともに書物の守人として生きていくことを、選んだ筈だ。 「琵琶法師と一緒に生きていこうと、そうなすったんじゃありませんでしたか?」  それも、間違ってはいない。  芸事という魔物に取り憑かれた琵琶法師を、共に生きていこうと、敢えて〈此世〉《ひせ》に引き戻したのも青年だった。  ―――そして築宮は、渡し守の言葉を呼び水として、それらの記憶を同時に知覚して、混乱した。  なぜ自分は、複数の結末を知っているのだ?  そしてそれらの終わりを迎えてなお、なぜ今ひとたび旅籠の物語を繰り返そうとしたのだと、築宮は混乱し、〈悩惑〉《のうわく》し、耳を塞いでいた手を脇にだらりと垂らしてよろめいた、それくらい記憶の噴出と混乱は圧倒的だった。  いまだ障子越しで顔も合わせていないと言うのに、築宮の動揺を感じ取ったか、渡し守がなおも継いだ言葉が、追い討ちとなり〈惑乱〉《わくらん》に〈拍車〉《はくしゃ》を当てる。 「女たちと、そんだけの終わりを選んで。  ……なぜ旦那はまた繰り返すんです」 「そうまでして決めらんねェてんなら、  たとい他の誰と出会っても、  その人と生きることを、選んだとしても」 「きっと旦那は、  満足なんかできねぇんでしょうよ……」  障子にへばりついた影法師は、主その人は身じろぎもしていないというのに、火灯りの加減で〈海月〉《くらげ》の笠のように広がったり、猫の眸のようにすぼまったりと留まるところを知らず、見つめるうちにも築宮の体までも頼りなく揺れ始める。  頼りなく、あてにならないのは己の心と記憶も同じだが、それでも築宮は感じていることが一つ、その想いを障子の陰なる渡し守へ伝えようとした。 「あなたの言っていることを、ちゃんと理解できているかどうか、俺には判らない」 「……けれども言えること、思っていることがあります」 「ここが、こんな風になってもまだ俺が残っているのは―――」 「俺が、まだ全てを見たわけじゃないから、  ……ではないのか」 「この旅籠に来て、彼女たちと出会って。  それでも俺は、結局自分のことが判っていない」 「そうである限り、俺はどうしたってここに来てしまったんじゃないか……そんな気がします」  胴の間に籠もったままの彼女にそう告げると、障子の影の肩がふっと沈み、溜息を漏らした気配が伝わって、小舟も微かに揺らいで、青年の立つ水路の際まで寄ってくる。  渡し守の陰々滅々とした声音がもたらす恐怖はまだ築宮を脅かしていたけれど、ゆらゆら小舟、ゆらゆら火灯りに魅入られたように立ちつくしてしばしの沈黙の谷間、は、やがて渡し守のひっそりとした声で破られた。 「旦那が思い出してしまうのは、  きっとお前さんにとって、  辛うございますよ……」 「旦那だけじゃない。  あたしにとっても―――  辛い、哀しいことになろうさ……」  なぜ自分の過去が、渡し守をも苦しめるというのか、何事か肚《はら》の底深くに呑みこんだ〈気色〉《けしき》の渡し守に、築宮が問い返そうとはっと上げた鼻先に、押し被さってきた声音。  秘やかなのに、臨界寸前の爆発物を思わせる、昏《くら》く不気味な内圧に満ち満ちた――― 「それでもきっと旦那は。  ―――いや、清修、お前は―――」  それまでの陰鬱で沈んだ物言いは、溢れ出さんとする内圧に蓋する為に、敢えて抑えていたと言わんばかりに熱く滾《たぎ》る、溶岩のような声だった。  がらりと変化したのは、声の質だけでない。  それまでは青年を名前で呼んだ事などなかった彼女が、突如として、名で呼び捨てに、まるで刃で斬りこむように。 「え……? え、いま……?」  だが築宮の戸惑いは、呼びつけにされたその事自体ではなく、その呼び方にいまだ分厚く封じられたままの過去の記憶の扉が軋み、隙間を開けたからだった。  ―――そう、青年は知っていたのだ、確かに知っていたのだ自分をそうやって呼ぶ人を。  その人は、築宮にとって畏《おそ》ろしく、厳《いか》めしく、それでいて遠ざけることも憎みきることもできず―――  だが瞼に浮かびかかったその面影を、完全に明らかにするような暇を与えず、障子に映る影が動いた。  影が横切る、あまりに滑らかに、関節という構造が欠落した粘体が形を変えるかの動きで、障子戸の格子を影が滑る。  ぬう、と。  胴の間からまず突き出されたのが陰に籠もって悪く揺らめく、鬼火かと見まごう、〈角燈〉《ランタン》の、提げ持つ片手が陰火を浴びて指の節を不気味に浮かせて。  次いで、ああ、ああ―――  胴の間の戸口の線に切り取られ、覗かせた貌は半分ばかり、割れ面に覆われていない、渡し守の生身の貌なのに、それが何故これほどにも―――恐ろしい。 「……っひ……!」  かちかちかちと、築宮は幼くして死んだ子供の霊が小石を打ち合わせるような音をすぐそばに聴いた。歯の根が合わずにぶつかり合う音だった。  一端は収まっていた筈の震えが体の底から湧き出し、恐怖も前に倍して押し寄せる。  怖い―――そしてとてつもなく忌まわしい。  ただ渡し守が、胴の間から貌半分だけ覗かせて見つめてきただけだというのに、人の顔した巨大な蛇と対峙した方がまだ耐えられるというくらい、築宮は脅えきっていた、恐怖で発狂しかねなかった。  禍々しくそして呪わしく、かつては青年に親身で、なにくれとなく世話を焼き助言もしてくれた女の貌は、今や青年にとっては化け物以上の化け物としか見えず、の。  しかし心ひしがれそうな恐怖の中で、同時に蠢く記憶があった。先ほど名で呼びかけられた時と同じ感覚で、記憶の欠片、情景の破片が心の〈奥処〉《おくが》に明滅する。 (知って……いる……?  俺はこの貌を、この目を―――  知って、いる―――!?)  この戸口に真中で断ち割られたような貌に、眼差しに、こうして覗き見られていたのは、今が初めてではないという確信が芽生える。  たとえば日常のふとした折り、背後からそうやって自分を見つめていた視線があった。  たとえば誰かと談笑していた時だって、物陰に隠れるようにして自分をうかがっていた視線があった。  そして自分は、その視線が厭で厭でたまらなかったのだと、戦慄のうちにその感覚だけを思い出した築宮へ、半分のままの貌が、うっそりと呟いた。 「清修、お前は、これから先を見ることを、  望んでいるのだね」  ―――ずぅるりと、まるで黒い液体が流れるように墨染の衣が胴の間から抜け出して、〈舳先〉《へさき》にわだかまったと見るや、ぬるりと伸びて立ち上がったのが、不吉な菌糸植物の生育の早回しを見たかの奇怪な情景だった。  立ち上がって全身が見えれば、先程までの、胴の間の戸口に貌半分を隠していたときのおぞましさは消えただろうか。  否。恐怖は去りはしない。なんとなれば渡し守は、そうやってただ立っているだけでも貌半分は覆い隠されているからだ。割れ般若の面によって、貌の半分が。  そして築宮は、自分にとっては貌半分だけの視線というのがなによりもおぞましく疎ましさを掻き立てるものだったという事を、今さらながらに思い知ったのである。  奥歯が鳴る、背筋に不快な汗が湧きだす、膀胱が痛いくらい締まって失禁しそうになる。 「けれど、私は許さないよ、清修。  私は許さない。  お前にはもうこれ以上、  なにも見せたくない」  足を運んだとも見えぬ、どこかぬめぬめとした挙動で渡し守が小舟を降り、片手の〈角燈〉《ランタン》を揺らしながら、ずいと迫った。  迫られた分だけ後ろに退こうとしたのに、体は恐怖に強ばって、築宮は必死に動け動け、自分の足よ動いて逃げろと懸命に念ずる他はなにも考えられなくなる。  このままでは自分はこの恐怖とおぞましさに喰われて気死してしまうのではないか。  滲み出した築宮の絶望の涙を、視線で舐めただけでも〈満腔〉《まんこう》の妙味を得たように、薄く開いた唇の奥で赤い舌をそよめかせ、そうしておいてから現実でも味わおうと、伸ばした手、渡し守の手、墨染めの衣の袖の奥にはなにもなく、二の腕だけが宙に浮いているように薄白い手、手、迫って、近づいて、青年の目と鼻の先に、視界を覆いつくして巨大に膨れあがり――― 「げ、ぅぅ〜……ッッ!!」  喉の奥から迸《ほとばし》った悲鳴は、握り潰される蛙よりもまだ無様で聞き苦しかったけれど、臨界を越えた恐怖に喉が鳴ったのをきっかけに、青年の呪縛が解かれた。  激しい震えは喉から全身に伝って、直接電極を打ちこまれたように足が跳ねた、体までもが浮き上がる、しかし宙に浮いている間にも築宮は自由を取り戻し、地に踵が落ちるか落ちないかのうちに身を捻った。 「うぁっ!  うあああーーっっ!」  濁《にご》った悲鳴を墜落する飛行機の噴煙のように後ろに長く曳《ひ》いて、駆け出す築宮、物の輪郭も定かならぬ闇の中へ、一目散のたとえ通りに、脇目も振らず振り返りもせず。  ただただ恐ろしかった、怖かった、忌まわしかった、渡し守から逃げたかった。  その一心のみに衝き動かされ背中を蹴り出され、走る走る築宮の、もう感覚もなくなるくらいに〈疲弊〉《ひへい》しきっていた足は、それでもまだ動いてくれたのだった。  ……闇の奥にと遠ざかり、まぎれていく青年の背中へ、差し延べた掌《てのひら》を彼の心臓を掴むが如くきゅ、と握りしめながら、渡し守が囁いたのが、愛しくて愛しくてたまらない若者を、愛しさのあまりに頭から呑みこんでしまう大蛇の〈深情〉《ふかなさ》けで。 「逃がしは、しないよ」  築宮の逃げ去った方を眺めるその眼差しは、旅籠に充満した闇よりも、なお深く濃くそして昏《くら》く―――  どれだけ走ったのだろうか。  足元さえ定かではない闇の中、何度もこけつまろびつして、築宮は今やあちこち擦り傷と打ち身だらけとなっていた。服のあちこちに鉤裂きまでこしらえ、喉はひりつくようだし、心臓などは今にも口から飛び出して破裂しそう。  もうこれ以上走れそうにないというのに、しかし築宮は足を止められなかった。  すぐ背後まで、渡し守が迫ってきているのではないか、いやそれどころか、こうして走っているのは感覚だけで、自分はとっくに彼女に捉えられて、あの黒い衣のうちに呑みこまれているのを、闇の中を逃げ続けていると思いこんでいるだけではないか……。  想像だけでも絶望が、〈胸郭〉《きょうかく》を内側から噛み破って自分を殺しそうになるが、かといって立ち止まって確かめるのは恐ろしい。  振り向いて、もしも物陰から、貌半分にしてこちらを暗く見つめるあの視線を見つけでもしたなら、自分は間違いなくそのまま昏倒するだろう。  ひたすら戦慄しつつ、棒、それも鉛でできた棒のようになった足を必死に前に押し出してはまた押し出して、よろばうように進む。  このままでは、後いくらも進まないうちに前のめりにぶっ倒れるだろうと、そんな終わりなど受け入れたくはなかったが、覚悟する他なくなりつつあった築宮の、前に、まだずっと先だったし、闇を厭《いと》う心が見せた幻という可能性も否定しきれず、疑いの眼を二度・三度瞬きさせたが―――  それは〈依然〉《いぜん》として、ふっと消えたりせず彼の行く手に浮かんでいた、灯っていた。  灯って―――そう、明かりだったのだ。 (もういい、この際幻だって構うものか)  幻だとしても、視えている間は希望にすがっていられると、足を引きずるというより手で泳ぐようにして、細胞の隅に残った体力を絞り出して進んでいく、と。  明かりは彼を裏切らず、鈍い足取りでも進んだ分だけ着実に近づいて、少しずつ闇の中に浮かび上がったその輪郭を、築宮は見分けた、覚えがあった。  潔《いさぎよ》いくらいに簡素で、余計な調度を排したその座敷は、旅籠の女主人の、あの令嬢の私室だったのだ。  そして、事物が溶けて流れて判然としなくったかの闇の中で、明かりに照らし出されているだけでも築宮にとっては有り難かったのに、座敷の片隅に据えられた、〈文机〉《ふづくえ》に向かい合う姿を認めた時には、へたりこんで落涙さえしそうになった。  ただ涙という字は同じなれども、渡し守の忌まわしさに滲みだしたのとは真逆の、嬉しさと安堵のあまりの涙だ。  〈文机〉《ふづくえ》に向かい端座するその姿、すっと背筋が美しく伸び、か細く小柄なのに凛《りん》として、肩口に降りた電燈の明かりだって月影を浴びたようで、気高くて、犯しがたくて、見ているだけでこみあげる想いに胸が詰まって、呼びかけようにも声は舌先でくぐもった呻《うめ》きとなるばかり。  上がり框《がまち》にかかった青年の気配を聴いて、ふと振り向いた容《かんば》せも過ぎし日と変わりなく、築宮は恥も外聞もかなぐり捨てて令嬢を抱きしめようと、座敷に踏み入った、ら、疲れきった爪先が畳の縁の僅かな段差につまずいて、みっともなくも思いきり転がってしまって、したたかに額を撃ったが、そんな痛みなどなにするものかに、ただひたすら嬉しかった。  再び出逢えたのが幸せだった。 「どうなさったのです一体―――  そんなに疲れて、汗みどろで」 「うあ、ああ……」  築宮の形相に腰を浮かせ、やや驚いた風ではあったけれど、それでも彼をいたわり、案ずる気持ちが声に現れて、優しくて、だから青年の〈嗚咽〉《おえつ》は令嬢の心根にうたれてであり、畳に額をぶつけたばかりかどうやら足首まで捻ったからとかいう即物的な理由によるものではない、けして、そんなのではない。  手をつけば、〈畳表〉《たみおもて》は質が佳く硬く、そして冷え冷えとして、恐慌で熱を帯びた肌には清々しい、来し方を顧《かえり》みられるくらいには落ち着かせてくれて、戸口の柱を盾にして怖々覗きこめば、あの渡し守の半分の貌が現れる恐れはないようだった。少なくとも今すぐには。  雌虎からでも逃げてきたかの築宮の面相に、令嬢が〈怪訝〉《けげん》そうに問いかける。 「なにか……とっても怖いものでも、  ご覧になったようなお顔ですね?」 「いや、その……。  まあ、そうと言えばその通りなんだが」  渡し守が、と言い差して口淀《よど》む。築宮にとってはまぎれもない実感としてあったけれど、いざ伝えてみようとすると、恐怖はたちまち〈陳腐〉《ちんぷ》な言葉の羅列と化して力を失う。  仕方なく曖昧に言葉を濁《にご》すしかないのが、なんとももどかしかった。  へたりこんだ青年の前まで、すっと畳を滑って覗きこんだ膝立ちの、令嬢は物問いたげな風情だったが、あれこれ訊きたいのはむしろ築宮の方で、また戸口から表を覗きこむ。  本当に、一体旅籠はどうなってしまったというのだろう。  この座敷の灯りの手が届く辺りはまだ事物の輪郭が見分けられているが、それより奥は闇の中に溶暗し、まるでこの一画だけが、〈中有〉《ちゅうう》という、死者が次なる生に旅立つまで漂う無明の世界に取り残されてあるかのようだ。  これほどの闇と無音に押し包まれた旅籠に築宮はかつて身を置いたことがなく、たとえ夜の帷《とばり》が降りた頃でも、夜遊びに興ずる人声はあちこちに聞こえ、通廊や部屋部屋の夜灯りで歩くにも不便はなかった。  ただ夜というには闇の濃度は異常だったし、皆既日蝕などは古い史書では世の終わりと叫ばれたものだが、ここまで完全な暗黒は有り得ず長続きもしない。  この闇と静けさには、たとえば恒星が冷えきって生命が全て死に絶えた惑星を包んだ死衣のような、〈終焉〉《しゅうえん》という言葉さえ相応しい。  令嬢なら、旅籠を延々と守り続けてきた一族に連なる者として、あるいはこの現象を解き明かしてくれるのではないか。 「……この闇はなんなのですか。  そしてみんなは……他の人たちは、一体どこへ行ってしまったんだろう……?」  口に出して、築宮が凍原の冷気を防ごうとする人のようにひっそり己の胸を抱いたのは、沈黙と寂しさが寒々と肌に降りたからで、〈遁走〉《とんそう》にいまだ鎮まりきらずにいる〈動悸〉《どうき》を聴くうちに、人恋しさが募《つの》った。  温血の生き物は寒さを厭《いと》い身を寄せ合う。築宮もまた、静まりかえった巨大な闇に迷走した果てにやっと見いだした人の、令嬢の、肌の温もりを欲したのである。  この少女の佇《たたず》まいは端正で整いすぎて、〈星霜〉《せいそう》の雫を束ねて造ったように、冷たく硬い工芸品のようですらあるけれど、それでもその身の裡《うち》には熱く燃える血潮が通っている、築宮はそれを知っている、いつかは肌を重ねた事だってある。  それを想い出したからといって、なにも極限状況に追いつめられた男女にままあるように、捨て鉢な情交に溺れようとしたいうのではない。  築宮の中に湧き起こった、少女の華奢にほっそりした体を抱きしめたくてたまらないという激しい衝動は、唐突ではあったけれどむしろ自然な心の動きだったろう。  彼も知らずのうちに、胸の中に抱き寄せようと令嬢に差し延べられた腕、を、しかし躊躇わせたのは少女がふと逸らした、眼差しに憂愁が深く翳っていたゆえに。 「ここが、今、どうなっているのか。  そして他の方達が、どこに行ってしまったのか―――それは」  いつしか膝も堅く揃えて、背筋に芯を通して、愁《うれ》いに沈んだ色で、けれど〈屹然〉《きっぱり》と、告げた声、転がりこんできた青年を迎え入れた優しさを自ら断ちきるような言葉。 「それは、今さらあなたが憂いても、  きっと、詮なきことでありましょう」 「え……?」 「皆、与えられた役を、  それぞれに果たしたけれども。  それでも―――あなたはまだここにいる」 「誰も、たぶん私も。  あなたのお心、満たす事はできなかった。  だからもう、去っていったのですよ」 「この旅籠から、消えていくんですよ……」  ……時代が移り変わる時、夜更けの裏道を徒歩で、夕暮れの河面を小舟で、〈粛々〉《しゅくしゅく》と彼方へ去りゆく者達があるという。往ってしまって還らぬ者達があるという。  すぐ傍《かた》えにあるというのに、過去に消えゆく者達の物哀しさを令嬢の佇《たたず》まいに見た想いして、築宮は息を呑んだ。  彼女がなにを伝えようとしているのか、それだって築宮には理解しきれたとは言えず、ただ霧雨の夜に道を失ったような心細さが身に迫った。  大体彼女の言葉をそのままに受け取るなら、旅籠で出会った人々は、まるで青年のためだけに配置された役者のようではないか。  そんなのは、考えるだけでもあまりに大それた事と俯《うつむ》いた、築宮の肩に、 「まだわからなくっても―――  今に判ります。  きっと、わかります、あなたには」  嘯《うそぶ》いた、令嬢が、謎かけばかり、惑わせるようで苛立たしく、屹《きつ》と顔を上げた青年が見たのは、彼女の背中。  なんのつもりか令嬢は立ち上がって背中を向けていて、青年を拒絶するつもりかもうここからは無視するつもりなのか、築宮はそれでもなお呼びとめようとしたのだけれど。  二人の距離が無限間に拡大されたように、細い背中が遠くに見えて、築宮は言葉を失ったばかりか、座したまま腰が抜けそうに、立ち上がっても見上ぐるに及ばない令嬢の小柄な姿が、すらすらと丈を増したのである。  といってさすがに天井を破る程には伸びず、大人の女の背になって、腰や脚にも成熟の肉を置いて、少女の生長を早回しにしたような、などと〈暢気〉《のんき》に〈驚愕〉《きょうがく》していられたものか。  影が―――  足下に置いた影を吸いあげるように、令嬢の衣装が翳って、黒ずんで、濃さを増して、それとともに身にまとう気配も変貌して。  ああ何時の間に取って替わっていたのか。  それとも始めからそれだったのを、築宮を優しく狡猾に欺《あざむ》いていただけだったのか。  令嬢と信じていた姿は今や変じ、衣は墨染めに黒くなり、青年に背を向けていたのは。 「逃がしは―――しないんだ」  築宮は、ばたばたと畳を撃つ音を聴いた。立ち上がって逃げ出そうと、彼の手が見苦しくもがいていた。  ゆるりと肩越しに巡らせた生身の貌、半分の貌、赤い唇、触れもせず目線を合わせただけで青年の血潮を啜《すす》り上げる魔力でも秘めているかに赤い、ぬめぬめと蠢《うごめ》いて、囁いた。  それだけで本当に血を吸われたかのように、築宮の体が冷えていく、力が抜けていく。 「さあ、捕まえたよ、清修……」 「……っぁ、……ぁぁ……っ」  もう、渡し守が身を乗り出してくるのに動けない、手を伸ばしてくるのに声も出せない。  舌は〈上顎〉《うわあご》に貼りついて、かろうじて、厭、厭と首を振るのがせめてもの抵抗の、それさえ猫が獲物を嬲る舌なめずりで、黒衣の女は築宮の肩を掴んだ。  鋼のような冷たさと、彼女の黒衣そのままの闇が掴まれた肩から流れこみ、身の裡《うち》に充満していって、築宮は塗り潰されるように意識を喪《うしな》った―――  ―――かつて〈陸奥〉《みちのく》と呼ばれた国々の背骨と通った山脈の、古譚伝説のメッカと目される遠野という地に程近い山中に。  〈骨幌〉《ほねほろ》なる〈聚落〉《しゅうらく》があって、村人達は山の木を〈杣入〉《そまい》れし、あるいは土を捏《こ》ねてはひっそりと暮らしていたのだが、その陶業の方に奇異な特徴が見受けられるという。  彼らは日常の用の〈什器〉《じゅうき》の他に、なぜか鬼瓦を焼く事を好んだのだが、それだけでも不思議なのに加えて〈骨幌〉《ほねほろ》の鬼瓦には、西洋の〈魔除け像〉《ガーゴイル》の様式が混在しているというのだ。  のみならず、通常の鬼瓦の域を大きく逸脱し、屋根にも載せぬ、ただ陶像として焼成される物さえあったとか。  ちなみにこの〈骨幌〉《ほねほろ》は、明治の末頃に地滑りによって一端滅び、昭和の初期に復興されるまで無人の谷間となっていたのだが、これ以降の陶業にはかつての特徴は喪《うしな》われ、件の和風〈魔除像〉《ガーゴイル》は前期と後期を分けるなら前期〈骨幌窯〉《ほねほろがま》のみの作風となっている。  ……などといった、興味を持つ者も中にはあろうが、大抵には退屈の解説を聴かされていたからであろうか、築宮の意識がふっと遠くにはぐれてあったのは。 「それで、ここの中庭には、変なガーゴイルがあったのですが、それが『前期〈骨幌窯〉《ほねほろがま》』逸品中の逸品―――」 「『油すまし〈巡礼道中見返り之像〉《じゅんれいどうちゅうみかえりのぞう》』だと判明したのは、私から遡《さかのぼ》ること、五代前のご先祖様の頃でして」 「けれども、そんな由来より、  その像、かつては口から水を流していたのが、それが時折お酒に変わっているっていう言い伝えが―――あなた?」 「どうか、したんですか?」 「う、うわ……っ!?」  遊離した意識で、遠くから他人事のように聞いていた声に、すぐ隣から呼びかけられて築宮は、弾かれたように体を震わせた。  だがただ退屈な話にぼうっとしていたにしては悲鳴が大袈裟だったのは、我に返るのが、心臓を〈鷲掴〉《わしづか》みにする氷の恐怖からぎりぎりの境で逃れてきたかの衝撃を伴っていたからである。  実際、心臓は危険なくらいに〈動悸〉《どうき》が激しかったし、顎先から滴り落ちそうなほどに夥《おびただ》しい汗を帯びていた。  隣に座る令嬢が、そんな青年を不審そうに小首を傾げながらそれでも〈手巾〉《ハンケチ》を引き出して、彼の額の汗を拭《ぬぐ》ってやって甲斐甲斐しい。  まめまめしい手つきと汗を取っていく布地にようやく人心地ついた思いして、築宮は大きく溜息を漏らした。 「なにか……とてつもなく恐ろしいなにかから、ずっと必死で逃げていて、けれど最後に捕まってしまう―――」 「そんな感触っていうのか……夢だったのか? 白昼……夢……?」 「つまり。居眠りしてたんですか?  私がお話ししていた、すぐ横で?」  〈手巾〉《ハンケチ》を畳み直してそう問うた、眼差しが冷たいまでに透明で、髪に一筋の乱れもなく、頬を指で弾けば硬質に澄んだ音色を鳴らすのではないかというほど冴えた姿は、別に構えたわけでない。これで彼女の普段の佇《たたず》まいなのだが、それでも話を疎《おろそ》かにしていたの負い目あって、責められているかの心苦しさを覚える築宮である。  屋根の上なる令嬢の隠れ家にて、彼女の秘蔵である旅籠の地図を広げていたところだったと、前後の脈絡はそうであるのに一体どの途中から築宮は恐怖の幻影に囚われていたものであろうか。 「……一息、入れますか?  お茶でも淹れて、休憩しますか?」 「いや……ちょっとぼんやりしてしまっただけで。申し訳ない。続けてくれ」  付き合いのない者にはそのあまりに整いすぎた秀貌ゆえに、一見して冷たい、とりつく島もないような印象を与えがちな少女であるが、築宮は彼女の裡《うち》に息づく激烈なまでの情動を知っている。  彼女を呪縛していた、遠い過去から連なる一族の妄執―――それは『ニゴリ』という影となって旅籠の懐深くにわだかまっていたのだが―――と、共に対峙し、これを退け、そしてこの旅籠に残る道を選んだ築宮は、令嬢がその見かけ通りに冷たい人形などではない事を、よく判っている―――  そうであるからこそ、彼女に寄り添い、一緒に旅籠を守っていこうと決意したのだ。外界に戻るという選択肢を打ち棄てて。  その為に、旅籠の中の地理にもっとよく通じておくべきだと、令嬢が蔵していた地図、出処不明ながらもこの巨大建築の造作をもっとも正確に表しているとされる地図を繰り広げていたわけだが。  それにしても―――と目頭を揉んで心を落ち着けながら、築宮は幾度となく抱いた疑問をまた繰り返す。  この手書きの大地図の最大の謎は、なぜ築宮自身の筆跡で記されているのかという点に集約される。  どう考えても、青年の喪《うしな》われたままいまだ判然とならぬ過去に、その謎の答えがあるとしか思われず、築宮は〈凝然〉《ぎょうぜん》と地図を睨みつけたが、自分の文字はなにも語らず、蘇る記憶もなかった。  もっとも可能性が高そうなのは、令嬢は否定したけれど、かつて青年は旅籠を訪れた事があり、その際にこの地図を拵《こしら》えたという事。  その折りにこんなに詳しく地図を書けるほど、旅籠の奥地まで探検して廻ったという事なのだろうか。 「……やっぱり、気になりますか、  この地図の、あなたの字が」 「気にならないと言えば、それは嘘になる。  もう無理に思い出すつもりはないけれど、  過去の記憶が殆どないというのは……」 「やっぱり、頼りないものだから」  どこか沈んだ声音で、地図の書きこみへ目を落とす令嬢に、築宮も微妙な笑みで答えた。  窓から地図に落ちた、雲の影が朧《おぼろ》な船団のようにゆっくりと横切っていくのを眺めて築宮は、いまだ知らざる過去の自分は、どのように旅籠を歩いて書きこんでいったのかと想いを巡らせる。  地図の書きこみは、記憶を失ってからの青年が、実際に足を運んだ場処にも為されていたけれど、覚えのない区画にも及んで、細々と、大判の紙葉を呪いの紋様のように埋めつくしていた。  雲が流れて、風は穏やかに窓硝子を小さく揺すって、陽は明るいというのに二人の言葉は沈んで、令嬢の鼻梁に翳りが降りて、隣の情人が地図の中に吸いこまれて消えてしまうのではないかと不安にでも囚われたか、そっと体を傾けて、肩口を触れ合わせた。それでも築宮の物想いを乱さぬようにと、触れるか触れないかの幽かな力で。 「……時々、想うんです。  あなたは、私の為に、昔のことを封じこめているのじゃないか……って」 「そんな風に考えるのは、  傲慢なのかも知れないけれど」 「君が、そんな気に病まなくたっていい。  忘れて思い出さないのは、  きっと俺自身が思い出したくないからだ」  気まぐれな猫が逃げ出してしまいやせぬかと恐れるようにおずおずと寄り添う、少女の薄い肩の感触が切なくて、愛おしくて、どうしてこうも自分は過去に縛られると、我が未練に臍《ほぞ》を噛んだが、それでも疑問は拭《ぬぐ》いきれずにまだ残る。  地図に残された、もう一つの筆跡の事だ。一つは自分の物だとしても、このもう一つ、どうやら女の子の手になるらしい筆跡はいったいどんな誰によるものか。  令嬢に、彼女が書き加えたものかと問うた事もあったが答えは否。 (一体、俺以外の誰が書いたものか……)  もう一人の書き手こそ、築宮の過去に繋がる誰かであることはまず疑いはなく、今また同じ問いを、ただ声にしてしまえば令嬢のやるせなさを更に深めるだけだろうと、胸の中だけで囁いた、その問いに――― 『それは、私よ……』  人気の絶えた草原に、録音機だけを回しておくと、誰もいない筈なのに人の声を拾っている事があるという、その声は哀しく儚く、忘れ去られていく者の嘆きを語るという。  草は無数の瓦に替えられているが、人のあるような〈場処〉《ばしょ》といっては築宮と令嬢が座すこの隠れ家くらいしかない屋根の上、なのに声、か細くあえかに、けれど確かに聞こえて、青年の無言の問いに答えていて、〈愕然〉《がくぜん》と顔を上げた築宮の隣でも、はっと身じろぎの気配。  令嬢も築宮と同じに突然の声に視線を走らせたまま凝結していた、二人とも同じ反応をとったなれば、声は空耳ではない、築宮だけの幻の声でない。  窓を見つめた、二人の時が凍結した。  もしこの小部屋に近づく者があったとしても、瓦を踏む気配でそれと知れようものを、二人に全く気取らせず、一体いつから覗きこんでいたのか、窓の向こうには小さな女の子の姿。  どんな貌をしていたのか、もう判らない、二人が振り仰いだ時にはもう、窓から離れ、遠ざかりゆく背中だけ見せていたから。 「あ……っ!」  だが築宮は呼びとめようとした、その名を知っていた、否、確かに知っていたと思ったのに口にしようとした途端に揮発した、そして言葉にできないもどかしさは、痛みすら伴って身を切った。  それは。  かつてないほどの、懐かしさであり―――  懐かしいのに、哀しくて、切なくて。  青年を、腹の底に重たい石を腹に沈めたような衝撃で打ちのめして。  追わなければと、それ以外はなにもかも忘れた、遠ざかる後ろ姿と見えない糸で繋がっているかのように体が曳《ひ》かれて腰が浮き上がった、机を踏み台にして窓をぶち破って飛び出していく―――寸前で、築宮を留めた手があった。  屋根の連なりの果てに消えていく背中が、過去からの哀感で青年を抗いがたく引き寄せるならば、こちらは青年の現在に根差した切なさで、彼を呼びとめようとしていた。  薄い掌《てのひら》で、もし拒まれたらと脅えるように抑えた力で、それでも精一杯の愛情で。  机の端を爪が喰いこまんばかりに強く握った築宮の手に、ひたりと掌《てのひら》を被せて令嬢は、青年が愛して添い遂げんと誓った少女は、首を振っていた。行かないで、と。  弱々しく、舌の根は強張って上手く言葉を作ってくれないから、眸で、必死の涙さえ滲ませた眼差しで懸命に訴えていた。  これがあの、犯しがたく凛《りん》とした気品まとい、旅籠を守りづけていくという重圧に耐えて平然としていた少女かと目を疑いたくなる痛々しさで、唇は血の気を失い、水晶のような歯並びだって震えているでないか。 「行か……行かないで……!」  たった一言、けれど短いその一言に、どれだけの切なる願いが籠められていた事だろう。  これほどまでに自分を求めてくれるこの娘になら、たとえ暗い水の滴り落ちる地下の獄舎に鎖打たれて封じこめられても仕方ない、とそう観念させてしまうほどのひたむきな、純粋な心根に築宮は、被さる彼女の手を取って、二度と離れはしないと固い抱擁で答えたくなる。  けれども―――  令嬢への愛おしさが、けして色褪《あ》せたというのではない、それでも窓の外、あの女の子が去っていった方へと向かう眼差しを、心を抑えようとして〈煩悶〉《はんもん》して、また〈煩悶〉《はんもん》して、かつ〈煩悶〉《はんもん》して、それでも―――  できなかったのだ。  築宮は、自分の手が、令嬢の掌《てのひら》を、優しい、それだけに残酷なやり方で解いていくだろうと、苦い罪悪感と哀しい虚しさで判っていたのだ。 「やだ……。  厭です。  どうして、ねえどうして―――」  令嬢の哀しい声を聞いたのは背中。  留めようとする手を振り解いて、立ち上がって走り出した、背中で聞いていた。  情けなさの涙で視界が滲むが、自分には涙を流す資格などないと唇を噛む。  逃げたのだ、築宮は自分をあんなにも愛して求めてくれた令嬢を振り切って、顔さえ判然としない女の子を追うために、逃げた。  あの女の子を追わなければならないと、それは築宮の他の全てをかき消すほどの、存在の根底からの命令に等しかった。  もう、令嬢の声は聞こえない。  追いすがる眼差しも届かない。  否、聞こえないのではなく、届かないのでもなく、断ち切ったのだ。青年が自ら。  一人残された令嬢は、駆け出していく築宮に差し延べた、手を空しく宙にさまよわせて、どれだけ伸ばしても届かないと悟って、〈悄然〉《しょうぜん》と〈項垂〉《うなだ》れる。  やがて〈蹌踉〉《そうろう》と、重心のない人形のようにゆっくりと立ち上がり、築宮が潜り抜けていった扉の際に寄って、青年の去りにし方を見つめた、けれども。  ああ、その見つめる貌は。  戸口に身を潜めて、貌の半分だけで覗きこむという姿は。  貌は令嬢のものでいて、眼差しが、違う女のものとなっていたのだ。  それはあの、墨染の衣の、割れ般若の面の女の昏《くら》い、果てしなく深い眸の―――  うっそりと、唇をほとんど動かさずに囁いた、その声音もまた、令嬢のものではなくなっていた。 「私はね、もうお前に、なにも。  なにも、見せたくないんだ、清修―――」  どろどろと、煮えて熱く、黒々と重く。  令嬢の唇で、渡し守の声が、そう囁いた。 ―――ねえセイちゃん。 ―――ならわたしと、地図を作ろうよ。   ―――ううん、どこかの、ほんとの地図を写し書きするんじゃなくって。 ―――あたらしく、考えるの。 ―――わたしとセイちゃんで、考えた地図。    ……それは幽かに、くすぐるような声音で。  窓辺で囁いた、あの女の子の声で。  耳の中では疾走に膝裏から脳天へ突き抜ける衝撃音と、こめかみで激しく脈動する鼓動との乱調子。その隙間に忍びこんできたような幽かな声を、耳がしかと選《え》り分けられたとは考えられず、築宮ははじめ気のせいかと聞き過ごしにした。  風から匂いを嗅ぎ分けようとする犬のように、鼻先を挙げて左右に巡らせたがそれも走りながらの、立ち止まろうともしない。  いや、立ち止まってしまうのが、築宮には恐ろしかったのだ。  いったん立ち止まってしまえば、再び走り出せなくなりそうで。それどころか、廻れ右して引き返してしまいそうで。  築宮の、令嬢への想いの糸はいまだ断ち切りきれず、走る四肢に絡みついては足取りを重くする、彼女の視線が追いすがった背中は、治りきらぬ〈瘡蓋〉《かさぶた》を引き剥がしたように痛む、それでも。  それでも築宮は、走り止めることが、できなかった。  〈愛惜〉《あいせき》の念は偽りならざるものであり、すがる彼女を振り切った無情さは、返す刃で築宮自身の心にも大きな傷を穿《うが》った。いまだ血を流し続けている。けれど、そんなのは都合良く甘ったれた〈自己憐憫〉《じこれんびん》でしかない。  ただあったのは、心から愛していた令嬢を置き去りにしてまで、窓際から消えていったあの女の子を追わなければ、という一念のみ。  それは、熱砂の中に汗を搾り尽くした喉が、冷たい清水を願うよりも強く。  それは、〈嬰児〉《みどりご》が母の乳房を求めるよりも切実で。  なぜそこまで、狂おしいほどの願いに衝き動かされるのか、築宮自身にも定かでない。  定かではないけれど、もし見失ってしまったなら、もしその子ともう二度と会えなかったなら、おそらく築宮はその生の終わりまで後悔の炎に炙《あぶ》られ続けるだろう。  ―――築宮が目にしたのはその子の背中だけで、顔さえ知らないというのに―――  もし追いつけなかったら―――想像するだけで、掌《てのひら》にじっとり厭な汗が沸く、喉には恐慌の悲鳴が迫り上がる、それを消え去りそうな理性で抑えつけて女の子を追いかけたのだけれど、令嬢の隠れ家を飛び出した段階で既に小さな背中は遠かった。  スカートは翻《ひるがえ》り屋根の勾配に隠れて、屋根裏に潜りこんでは縦横に走る梁の間に紛れた、暗がりに溶けこみ、物陰から僅かばかりに覗かせる、髪の緒や服の端を掴み留めようと手を伸ばしたって指は届きやせぬ、女の子の後ろ姿は風にさらわれた百合の花のようにひらひらと小さくなる、青年は追いかける、不確かな足元にこけつまろびつひたすらに、そして女の子もまたひた走る、振り向きもせず足を緩めることもなく。 「待って、君、待って、くれ―――っ!」  息継ぎに寸断された声で呼ばわっても、彼女の耳には届いていないのか、聴こえているのに耳塞ぎしているのか、いつしか二者は暗く広大な屋根裏から旅籠の通廊へと降りての追いつ追われつ築宮は転《まろ》び道女の子は水切り石より軽やかに、曲がり角や廊下の分岐が目立ってきたのに築宮の焦りは高まった。  大人と子供で歩幅の差もあろうに、距離はこれ以上離れもしないが近づくこともないという不条理、築宮は自分が目覚めたまま異夢の中に迷いこんだかと不安に襲われる、それを振り切るように、走る、走る、ひた走る。  しかし―――  女の子が吸いこまれていった座敷と座敷の隙間に潜りこみ、角を回りこみ、やっとの事で彼女の後ろ姿に〈追随〉《ついずい》していたのだけれど、するうちに、とうとう――― 「おい……嘘だろ……」  呆然と発した声が、長く延びる廊下の奥へと力なく漂っていったが、聞きつける耳も応ずる口もなく空しく〈寂寞〉《じゃくまく》のうちに呑みこまれ、築宮は立ちつくした、独り、前にも後ろにも右にも左にも求める姿を失って、〈隧道〉《トンネル》のように前に後ろに広がる廊下のただ中に、独り。  ……自分独りしかいなくなった、ついに追いつけなかったという事実が染みいるにつれ、膝は朽《く》ち藁《わら》となって力が抜けて、がっくり崩れかかった築宮の耳に。   ―――おっきな建物の地図、描いて。 ―――そこに、セイちゃんが好きなお話みたいのを、いろいろ入れてってみようよ。 ―――こっちには、こんな風な部屋があって、こういうふしぎな話があって、って。 「……え……っ?」  ……昼下がりの静まりかえった竹林の小径を歩く時、誰もいないはずの〈竹薮〉《たけやぶ》の奥から懐かしげな音楽が聴こえる事がある。それと同じくらい秘やかで捉えどころのない声だったけれど、確かに耳元に流れてきたのだ。  一度なら空耳と聞き流せても、二度続いてとなっては無視もできない。  萎《な》えかけていた膝を叩きつけてしゃんとさせ、声の源を求めて耳澄ませる―――と。   ―――あなた、中が迷路みたくなってる建物とか、お化けとかがたくさん住んでる、古い昔のお屋敷のお話とか、大好きじゃない。 ―――そういう風な、おっきな建物の地図。  遠くからだが、気を張っていないと聞き逃してしまいそうだが、それでも声は続いて、どうやら廊下の奥から流れてくるらしかった。  女の子の姿を見失ってしまった以上、よすがとなるのはこの途切れ途切れの囁きだけで、築宮は声の源を求めて再び歩き始める……。  ただ声を辿るのに集中するあまり、一体彼女が誰に語りかけているのか、なんのことを語っているのかに思い巡らす、心の余裕はなかったのであった。  地図と、青年にとって重大な意味を持っているはずの言葉を、幾度となく繰り返していたのにもかかわらず。   ―――わたしも考える。 ―――ここにはこういう誰かが住んでて、こういう秘密のしかけがあって、っていろいろね。 ―――わたしとセイちゃんで、かわりばんこに描いていこうよ。 ―――きっと、楽しいよ。 ―――それだったら、わたしとあなたの二人だけでできるじゃない。   ―――おじさんたち? ―――いいのよ、あの人たちのいう事なんて。   ―――セイちゃんが出たくないんなら、わたしだっておそとなんか出なくっていい。 ―――あの人たちがうるさいなら、どっかにかくれちゃえばいい。   ―――ね。だから、二人で……ね?   「ここからか……?」  追い始めたときは切れ切れで、聴こえなくなる瞬間もあって肝を冷やしたが、辛抱強く辿るうちに声は少しずつしっかりと、そして大きくなって、どうやら正しい方角に当たっていたらしい。  廊下に沿うて延びる白壁に、観音開きの窓が連なって、一つだけが開いている。  女の子の声はそこから漏れだしていて、盗み聞き覗き見は、もとより築宮の慎むところだが今は場合が場合だと、がっしり嵌った鉄の格子越しに、そっと中を窺う、と。  目が慣れるまで暫くかかったが、見えないほどの闇でない、仄《ほの》明るさが中を満たして、焦点が合ってみれば、多くの〈葛籠〉《つづら》、沢山の〈長持〉《ながもち》、幾つもの箱、箱、そしてあれやこれやのがらくたで一杯で。  外から覗くという視点の違いがあって直ちには判じかねたのだが、徐々に築宮は、それらの調度と中の様子に覚えがある事を思い出しつつあった。  ここは、この中は、いつか自分が押しこめられたこともあった、蔵―――『一番小さくて、一番たくさんの蔵』とそう呼ばれる事もある隠し蔵ではないか。  ひとたびそうと認めれば、観音開きの窓に頑丈な鉄格子も、辺りの白壁の造作にも見覚えがあるではないか。  そしてなおも視線で探れば、蔵を埋めつくした〈葛籠〉《つづら》や〈長持〉《ながもち》の中に、僅かばかりの空間を設けて座している女の子を見分けた―――あの、女の子だった。 「……いた……」  鉄格子を隔てて、蔵の中に重なり合うがらくたや長持を透かしてであったが、実にこの時初めて築宮は女の子の相貌を目の当たりにしたのである。  まだ幼いのに〈清明〉《せいめい》な眼差し、すっと整った鼻梁には確固たる自我が通って、背筋も〈峻厳〉《しゅんげん》と伸びて隙がない。  由緒正しい血に連なる胤《たね》を、厳しい礼法と躾《しつけ》にて磨いていけば、こういう少女が出来上がるだろうか。  いかにも良家の子女然として、しかし築宮が、女の子の横顔に、顎先を撃ち抜かれたように脳髄を揺すぶられて足元を危うくし、思わず鉄格子にしがみついたのは、彼女の可憐な容貌に心うたれたにしても、いささか大げさに過ぎやしないか。  違うのだ、そうではないのだ、それだけではないのだ、築宮が〈眩暈〉《めまい》するほどの衝撃を受けたのは、初めて目の当たりにした筈なのに、少女の容貌が青年の根幹を為す部分、喪《うしな》われたままの記憶と激しく反応したからなのだ。  築宮はその女の子を、確かに知っていたのだった――― 「あれは……あの子は……あの人は……!」  舌の根が震えて、跡がつきそうなくらい強く鉄格子に額を押しつけて目を凝らせば、見るほどに懐かしい、体の中で想いが暴れて身悶《もだ》える、なのに。  名前が。  覚えていたはずの、その子の名前が、その子との想い出が。  ―――蘇らない。  記憶は、山ほどもある巨岩で蓋されて、〈不壊〉《ふえ》の鋼で堰きとめられて、そのもどかしさ、狂おしさ、築宮は内圧に耐えかねて我が身がばらばらに弾け飛ぶのではないかと危ぶんだけれど、募《つの》る思いを抑えられない。 「なあ君……っ! 聞いてくれ、  君は、一体誰なのか、  俺にとって、どういう人なのか、  教えてくれ―――!」  懸命に呼びかけたが女の子は築宮に気づいた風はなく、視線一つよこさない。どれだけ声を懸命に張り上げても届かないのか、いよいよ青年は焦れて鉄格子をがむしゃらに揺すりたてるのが座敷牢に封じられた狂人の如く、さながら格子窓を境に内と外が逆転したかの構図の―――と女の子の唇が言葉を紡いだ。 『うん、そう、そこに秘密の扉をつくるんだね? それで、その先には……?』 『へえ……小川が流れてて、野原になってるんだ……お部屋の中に?』 『ううん、おかしくない。  変わってるけれど、面白いよ』 『なら、さ。そのお部屋にはさ、  きっと食べられる植物とかも、  生えてるんじゃないかな?』 『そのお部屋に入って、草を摘んで、小川で洗って、後でお浸しにしたり、あげたり…』  あどけない、まさしくお〈伽噺〉《とぎばなし》を組み立てるような言葉は、大人びて美しい唇に乗せるには少し不釣り合いではあったけれど、語りかける時だけは印象が柔らかくなって、年相応の稚気を覗かせた。  ただその言葉にしても、残念ながら鉄格子を握りしめて呼びかける築宮に向けて発っせられたものでない。 『うん……いいよ、それで。  でね、あとこっちは……』  答える幼い声に、築宮は蔵の中にもう一人別な誰かがいると知ったのである。  足を踏み替え視線の角度を変えて、女の子の向かい合う先を探れば―――彼女より幾つか年下の男の子の、まだ育ちきらぬ膝で同じように端座していて、無心になにか書きこんでいたのだった。 (こっちの子も……知っているぞ、俺は!)  髪の中が〈驚愕〉《きょうがく》の熱でかっと沸きたって、額に汗が滲んで築宮は、少年も女の子と同じく、顔を知るばかりで素性も自分との関わりも思い出せないのではないかと危ぶんだのだが、こちらについては予想外にも記憶は解れてすんなりと、浮かび上がった、その名前は。 「嘘だろ……?」 「あの子は……俺じゃないか……」  築宮が起き抜けに口を濯ぐ時、あるいは無精髭をあたる時、鏡の中から見返していた貌から年齢を削ぎ落としていけば浮かび上がる、それが蔵の中で女の子と対座している少年の貌なのだった。  過去の、まだ幼い頃の築宮の。 『こっちには、おおきい物置があるんだ。  物置のこと……ほかに、なんか言いかたがあったっけ?』 『そうね、物置だったら、  〈納戸〉《なんど》……とかかしら?』 『じゃあ、それで。  この〈納戸〉《なんど》には、いろんな昔のものがしまってあって』 『そのしまってあるのが、しゃべるんだ』 『喋る……?  どんな、風に?』 『うーん……と、しまってあるのを、むかし大事にしていた人たちが、言ったことかな。  それを覚えてて、しゃべる』 『しまってあるモノが、ね……』 『おかしい、かな?』 『いいえ。おかしくなんか、ない。  けれども、すこし哀しいかなって』 『…………』  女の子の言葉の意味するところを考えこむ風に俯《うつむ》いて、男の子は、幼き日の築宮は、なおも書きこみを続けた。二人の間に繰り広げられているらしい、紙葉へ。  女の子の貌を見覚えていたのも道理、かつての自分は、このようにして彼女と共に過ごした時間があったのだ。  してみるとこれは、今築宮が〈垣間見〉《かいまみ》している情景というのは、きっと過去彼が体験してきた事柄の再現なのだ。  それはあの二人だけで完結した世界であり、だからこそ声を張り上げても二人には届かず、今の築宮には〈垣間見〉《かいまみ》する以上は干渉も許されない。  閉め切れば暗いはずの蔵の中、満たしているあえかな光は、過去からの光なのだろう。  呼びかけることは諦めて、それでも背伸びして二人の手許を覗くと、なにやら大きな紙葉にかわるがわる書きこみの手を入れているところ。  それが地図なのだと、手書きの地図なのだと見てとった時、築宮の思考が閃いてある一つの答えに繋がった。  あれは、あれこそは。          地図なのではないか。       この、旅籠の。  令嬢が唯一の宝物として、余人には触らせず目にも触れさせず、秘め隠していた―――  だとすれば。  この旅籠は。  旅籠という一つの宇宙は。 『なら、私はこっちのお部屋を……』 『ここらへんの階段は、  屋根裏まで続いてて……』  向かいあって、一枚の、大きな大きな地図を書き続けていく二人、それは楽しそうにあれこれと意見を交わしながら。  なのになぜ―――  彼女が一体誰なのか、それだけが思い出せないのだろう―――  彼女と過ごす一時は、幼き日の自分にとっては、どんな高級な玩具よりどんな美味しいお菓子より素晴らしい、夢のような時間に値していた事が、今こうして蔵の中で向かい合う様子を眺めていてもよく判る。  それくらい蔵の中の男の子は、かつての自分は、雨上がりの朝の青葉に煌《きら》めく露のように眸を輝かせ、少女の仕草や言葉の一々に精密機器の計器の細い針よりも過敏に反応していた。仔犬の尻尾を生やしていたなら千切れんばかりに振り立てていたことだろう。  覗いているだけでも男の子の喜びに感応して、築宮の鼻の奥につんとしみるほどの感情が香りたつ、それは、古い鏡台に残る〈白粉〉《おしろい》の匂いと同じの懐かしさと、部屋で孤独を持て余していた曇りの午後に、窓の外から誘う友の声を聞いた嬉しさとが入り交じった想いだ。  蔵の中の狭苦しい一画にもかかわらず、浄福の隠れ里に遊ぶように幸せそうに、築宮少年が地図を描き綴れば、替わり番に女の子も手を入れる。  二人の手によって、次第次第に拡張されていく物語の〈版図〉《はんと》の中には、築宮青年の見覚えた名前もあった。 『ダンマリの〈納戸〉《なんど》』――― 『旅籠のお帳場』――― 『屋根の上の隠れ家』―――  他にも、沢山、沢山、それは旅籠のあちこちの、青年がこれまで出会い、歩み、過ごしてきたこの巨大な建築物の。  二人が間に敷いた地図は、今はまだ下ろして間もない白〈襯衣〉《シャツ》と同じでくすみもなく、四隅だって硬い襟のように角立ってぴんと伸びている。  けれど、築宮が見守るうちにも刻々と出来上がっていくその絵地図が古びて手擦れした姿こそ、令嬢が他にないお大事としてしまいこむ、あの地図なのに違いない。 「だと、言うのなら」  ぼんやり呟く築宮の、これまでの認識が裏返りつつあった。  地図は旅籠を測《はか》って製作されたのではなく、旅籠こそが、絵地図を元に造り上げられたのではないか。  むしろその地図があったからこそ、『旅籠』という世界が―――? 「ええ、きっと。  あなたが考えているとおり……」  転がり始めた想いを乱さず寄りそうように、静かな声が、築宮の腕にそっと被せられた掌《てのひら》と共に。  ―――令嬢、だった。  跳弾するビー玉よりもまだ無軌道な、築宮の跡をどうやって辿ったものか、蔵の窓から覗き込む青年の傍らへ、いつの間にか。  哀しく呼びとめる手を振り切ってきた罪の意識も手伝って、正視できずにいる築宮だったが、咎めだてする様子はなく、一緒に中を覗きこむ、踵が浮き気味の、令嬢の小柄な背丈に、肉の薄い肩口に、青年は愛おしいような逃げ出したいような、そんな息苦しさに襲われる。 「地図は、この旅籠の後にできたのではなく、地図のほうが、先にあったのよ」  蔵の中の二人、女の子と少年の築宮、楽しそうに、ひたむきに、物語の夢想を紙葉へ落としこんでいく二人に物想わしげな視線を撓《た》めたまま、潜めた声の令嬢に、築宮ははっと振り向いた。 「それは……ここが、この旅籠が、  あの地図を基に作られたということか?」 「そういうことになるんでしょうね……」 「ちょっと待ってくれ。  確かに地図が描かれたのは、  ずっと前のことかも知れない」 「けれど、だとしてもここは、  どう考えてもあの地図よりもずっと古いだろう?」  そう、地図が過去のものといったところで、築宮の少年時代の、せいぜいが一〇数年より前には遡《さかのぼ》るまい。  一方この旅籠は、その齢はどう控え目に見積もったとしても世紀の単位を数える筈。  なのにあの地図を基に形作られたとするのはどうしたって受け入れがたい時間的矛盾が生じるではないか。  築宮のもっともな問いかけを、しかし令嬢はそれ以上明らかにせず、そっと白壁に手を這わせ、伏し目に口を噤んだ。  手が、白壁の〈漆喰〉《しっくい》に溶けこんでしまいそうに、儚く白かった。 「大体、それだとこの旅籠は、実際に建築したのは別としても、俺が作ったって事になるじゃないか……?」  なお食い下がる築宮で、確かに到底やすやすと受け入れられた説明ではない。それでも、築宮の肌は、厳格な論理に鎧《よろわ》われた理性より原初的で敏感な感覚は、理屈を超えた真実を掴みつつあった。  青年が、旅籠に初めて足跡を印した時、そしてその後も中のあちこちを〈彷徨〉《さまよ》う時、ふと目にした物、景色をきっかけとして、強い強い既視感を伴った、懐かしさに押し包まれて立ちつくしたのが何度あった事か。  そんな感覚を抱いたのは、これまで足を踏み入れた事はなくとも、築宮青年が旅籠を知っていたからではないか。自分が想像した一つの世界として。    ならば、本当に。     この、旅籠は―――?  朧《おぼろ》に浮かび上がり始めた真実の、空恐ろしいような重さに築宮は、目が眩《くら》むような気がして鉄格子に額を押し当てた。  すると、〈鍛鉄〉《たんてつ》の硬く冷たい感触より〈耳朶〉《じだ》にひやりと降りる、令嬢の言葉が。 「―――あなただけじゃ、ないんです」 「……えっ?」 「あなただけだったら、ここは、なかった」 「あの子がいたから。  あなたと一緒に地図を描いていた、  あの子がいたから―――」 「ここは、生まれてきたんです」  令嬢の言葉に顔を上げれば、蔵の中からは、いつしか少年築宮の姿は消えて、女の子だけが残されて独り。  二人一緒の時は、心ない外界から守護する障壁のように頼もしかった蔵の中の〈葛籠〉《つづら》や〈行李〉《こうり》、諸々の調度も、女の子独りだけになると彼女を封じこめる障害の重苦しさで取り囲んでいた。  幼い頃の自分はどこに、いつの間に消えた、あれほど楽しげに熱中していた地図と、女の子を置き去りにしてと、訝《いぶか》しむ築宮へ、 「……小さい頃のあなたの遊び相手は、  はじめはあの子しか、いなかった。  それでもやがて、外に友達もできてきて」 「少しずつ、他のことにも、  関心を持つようになってきて」  それでも女の子は―――蔵の中で一人、絵地図に書き足すことを、止めなかった、一人でも続けたのだ。  ―――それは築宮との交歓の証だったから。 「あの子は、ずっと続けていた。  だからこの場所は」 「あなたとあの子が、  一緒になって創造した場所なのよ」 「二人の想いを受けて生まれた『ここではないどこか』……。  地図の中の世界。  旅籠は、そういう場所なんです」 「――――――!」  令嬢の言葉に激しく動揺しつつも、築宮は一人孤独に絵地図を拡張し続ける女の子から目が離せずにいた。  きっと幼き日の築宮は、新しい友達の登場に、彼らと味わう楽しみの新鮮な味に、絵地図からは遠ざかっていったに違いない。  それでも女の子にとって絵地図は、築宮少年との絆であり続け、それ故に一人でも描きこみ続けたのだろう。  だから旅籠は、築宮の知らぬ〈場処〉《ばしょ》、部屋部屋を数多く擁《よう》していたのだろうが―――  絵地図を孤独に書き続けていた女の子の健気と情の深さが胸に迫って、築宮は泣きたくなるような切なさに、唇を噛んで鉄格子を強く握った、その肩を令嬢は静かに、しかし有無を言わせぬ威厳で、窓から遠ざけた。 「もう、見ないでいてあげて下さい」 「何故だ……俺はこの今になるまで、  地図の事を思い出せなかった。  あの子の事だってだ」 「いいや、きっと大事な人なのに、  あの子が誰なのか、俺のなんなのか、  まだ判らない―――!」  そう、ここまで来ておきながら。  あの女の子の顔も見分け、自分が思っていたのを遙かに超えて近しい間柄であった事を、窓越しに確かめた。  それなのに築宮は―――  いまだ彼女の名前も、自分にとってどういう繋がりのある存在なのかも、そこだけが記憶が頑なに解放を拒んで、教えてくれなかったのだ。  そのたとえようもないもどかしさ、焦れったさに歯噛みする築宮へ、令嬢が投げた視線はどこか硬く、冷たかった。 「いいんです、思い出さなくっても。  いいえ、思い出させや、しない」 「あの子が、どんなことを想っていたのか。  それは、あなたには、知って欲しくない」  低く秘やかな、しかしそれは無理矢理抑えつけての声音のようで、およそ穏やかとは程遠い激情が、令嬢の見上げる眼差しに、揺れていた、溢れ出していた、築宮をたじろがせるほどの圧力で、表面張力を超えて。 「なんでそんなことを、君が……」  と口では抗議しながらも、青年の足は知らずのうちに退いていたのは、肌が令嬢の雰囲気が変質しつつあるのを嗅ぎとっていたからである。  もとよりただ綺麗なだけの少女でない。一見すると生きた表情に乏しい、人形のような佇《たたず》まいの内側には、白熱の〈業怒〉《ごうど》が渦を巻いていることを築宮は知っている。  しかし今の令嬢から流れ出す気配はそういう憤怒とは別の、黒々と深く、底無しの深淵を思わせて、これは、これは―――築宮の歯の根が震え始める。恐ろしくてたまらないのに、目が逸らせない。  令嬢の気配は築宮の根源的な恐怖と直結しており、彼はそれを知っていた。 「追いかけないで、と言ったはずだよ……」  物言いさえ変わって、令嬢は体の裡《うち》側にうねる内圧を持て余すように、黒髪の中に手を潜らせ、ずるりと―――引きずりだして、顔の半面に被せたのは。  どこにそんな物を隠していたとも思われないのに、それは、般若の面、割れて半分の、あの渡し守の。 「ひ……っ!?」  青年の目前で、令嬢は、否、令嬢だったモノの背が夜に伸びる茸のように丈を増して、楚々とした衣装も闇の色に染まる。  いかにして化けていたのかなどと、問うたところで今さらというもの、前に立っていたのは渡し守、築宮にとって今や純然たる恐怖の象徴なる黒衣の女で。  では結局自分は、この女から逃げ延びてなどいなかったのだ、令嬢と思いこんであの悪夢のような恐怖を忘れていたけれど、ずっと傍に潜んでいたのだ。 「うわ、うわあああっ!?」  上擦った悲鳴、矢も盾もなく逃げ出そうとしたのに、恐怖の余りに手足がそれぞれ勝手にばたついて、重心も見苦しく均衡を欠き、情けなく腰から崩れそうになった、築宮の体はぐいと引き留められた。  渡し守の手が得物を噛む蛇の速さで伸びて、築宮の腕を掴み、その〈虎挟〉《とらばさ》みの如き剛力に更なる悲鳴を上げる隙もなく、引き寄せられたのだ。渡し守の胸の中に。  恐れに恐れていた女に掴まえられて、頂点を踏み越えた恐怖に築宮の針は振り切れて、もはや逃げるも〈藻掻〉《もが》くもならず、渡し守の胸の中で硬直する。 「もう……離しや、しない」  抵抗さえ忘れさせる、妄執に塗りこめられた声だった。  なにより恐ろしかったのは、罠のように捉えた渡し守の体がごつごつと硬かったり氷のように冷たいのではなく、妙に生暖かく、甘い女の匂いを漂わせ、青年の眠気を誘うようですらあったこと。  しかしそれがますます青年の恐怖を高める。この女の胸に抱かれて眠ってしまうと、自分は二度と目を覚まさないのではないか。 「そう。お前はこのまま、あたしの中で眠ってしまえばいい」 「眠って、ずっと、ずっと、とこしえに。  私に抱かれているといい―――」  その言葉が意味するところの恐ろしさに、最後の気力を奮《ふる》い起こし抵抗しようとする。しかし既に遅く、腕に力が入らない。睡魔に陥落する寸前で、渡し守の体がびくりと震え、突然青年は床に投げ出された。  衝撃で眠気が吹き飛び、見あげれば、渡し守と対峙しているのは―――短刀を逆手に構えた、令嬢だった。  一度、二度と渡し守に誑《たぶら》かされ、渡し守に〈凛然〉《りんぜん》とした眼差しを据える令嬢が本物なのかどうかわからないでいる青年に、切迫した声が投げつけられる。 「なにを、呆《ほう》けているんですかっ。  立って、あなた!」 「逃げて下さい、早く!」 「え……あ、君は……?」 「私のことなど案じるより先に、  まずここから離れて!」 「あなたは私を助けてくれました。  だから今度は、私が。  あなたに報いる番だから―――!」  本物の令嬢の、今度こそ……間違いない。しかし立ち上がったはいいものの、築宮にはただ困惑して立ちつくすしか。 「なんでお前が邪魔だてする、小娘ぇ……行かせるものか、私の清修を、お前なんかに!」 「ほら、まごついている場合じゃありませんよ!?」  逃げろと言われても、令嬢を捨ておいて自分だけというわけにもいくまい。そうやってまごつく青年を、令嬢が叱咤の、声が叩きつける。 「なにを躊躇うことがあるのです。  あなたはあの子のこと、追わなければならないのでしょう!?  本懐を忘れてどうするの―――!」  言われて少女のことを思い出す。するとまるでタイミングを計っていたかのように、対峙する三者の脇をすり抜けるようにして、あの少女が廊下の奥へと走り去っていく。一体いつ隠し蔵から出ていたものか。 「あ……待て、待ってくれ、君!」 「追いなさい、今すぐに!」 「やらせないって言っているだろうが!」  とにかく、令嬢の切羽詰まった声に背中を蹴りつけられるようにして、青年もその場から駆け出す。  そうなのだ。自分はあの少女を追わないといけない。まだ少女が誰なのか、思い出せてもいない。令嬢に強く強く未練を残しながらも、追いかける青年。その背後で、渡し守と令嬢の気配がもつれる。 「……お前など、結局清修の心を、つかまえておけなかったくせに……っ」 「かも知れない。けれど私のことなんてどうでもいいの。……貴女こそ、自分の心に従うべきなのに!」  後にした廊下の奥で、言い争い、もつれ合う二人の気配を振り切るように駆ける青年の周囲の旅籠の情景が、またどんどんと暗くなっていき、しまいにはあの森閑とした闇に包まれる―――  闇はどれだけ長いこと身を浸しても、一向に〈馴染〉《なじ》むことのなく、不安と恐怖と後悔で充満し、築宮の四肢を濁《にご》った糊《のり》のような疲労で搦《から》めとった。それでも脚を止めてしまえば最期の、四囲を〈囲繞〉《いにょう》するこの恐怖の闇に心が押し潰されることが判っていたから、青年は喘《あえ》ぎ、まろび、なかばよつ這うように脚を押し出し続け、前へ、前へ、水路沿いの〈燈明〉《とうみょう》だけを頼りに。  面影の少女の背中などとうに闇の中に溶けて見失い、彼女を追いかけているのか、あの割れ般若の面の女から逃げているのか、それさえも思考の混沌の中に霞《かす》んでしまっている。  やがて疲労に朦朧となり、恐怖に心は萎《な》えしぼみ、後悔は胸に充満し、築宮はほとんど投げやりな、ふてくされたような、虚《うつ》ろな心持ちに囚われはじめた。  こうやってよろばいながら進んでいるのは、いったい何の為なのだ、と。ひたすらに前を目指しているけれど、それでどこに行くつもりなのだと。  あてなどない。少女の行き先も知れず、この闇に閉ざされた旅籠の中で、ただ惑うているばかりではないか。 (逃げたんだ、俺は。  それも、彼女を見捨ててまで……っ)  どれだけ卑怯で、弱くて、不甲斐ない自分なのか。一度は生涯を共にしよう、根は別であっても、幹を一つに絡ませあう、〈連理〉《れんり》の木立のように連れ添おうと誓ったはずの令嬢を残して〈逃散〉《ちょうさん》した人でなしが、自分なのだと築宮は頭をかきむしる。 (駄目だ、やっぱり見捨てることなんてできやしない。  戻ろう……俺なんかじゃ、なにもできないかも知れないが……)  そう決めた、心を奮《ふる》い立たせた、真冬の朝に孤翔する〈百舌鳥〉《モズ》のように、己を敢えて厳しい辛苦に置こうと決意した。  しようとした、したのだ、したのだが。  来し方に振り向きかけた、足は途中で動かなくなった。奮《ふる》い立たせたつもりの気力は、たちまちに萎《な》え饐《す》えた。  渡し守が、すぐ背後に迫っているように思われてならず、あの凝視をちらとでも心に浮かべただけで、もう、膝が震える、心臓は〈動悸〉《どうき》に苦しく喉元まで迫り上がる、脂汗が掌《てのひら》を冷たくする。   厭だ。厭だ厭だ厭だ。厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ――――――  なぜこれほどまでに恐ろしいのか。  理屈のつけられない恐怖。  思っただけで思考が停止し、体が心の制御を離れて全力で拒否する恐怖。  どれだけの意志を振り絞ったとしても、これに逆らえるとは到底思われず、それどころかこの状態で渡し守と、あの鬼面の女と対峙したならば、いやその角先が旅籠の通廊の角にちらと覗いたのを目にしただけでも、築宮の精神は岩に叩きつけた鏡のように砕け散るに違いない。 「うぅ……ぅ……っ」  胸元をかきむしる、周りの空気が突如消失したかのような苦しさ、舌が口蓋に貼りつき、目の中には酸欠に現れる白く小さな無数の星が乱舞する、息が、頭が、苦しい辛い耐えがたい、全身が重度の熱病に罹《かか》ったようにがたがたと震える―――がくりと。  膝を、ついた。  気死寸前の痩せ犬のように、舌を突き出して喘《あえ》いだ。舌先に伝う涎《よだれ》は苦く粘つき、ついには青年は恐怖のあまりに嘔吐した。  一つのえずきが引き金となって何度も何度も、背中を振るわせ苦鳴で喉を濁《にご》らせ、暗い床を反吐でびしゃびしゃ濡らし、異臭で汚し、何度も、胃袋さえひり出してしまいそうに吐き戻し続けても、それでも。  練り歯磨き粉を無理矢理に絞り出すように、体の中味全てが空になるくらいぶちまけたのに、それでも。  それでもなお、恐怖は腹の底に溜まり、凝《こご》り、青年を呪縛し続けていたのだった。  眦《まなじり》は切な涙が塩を擦りこんでひりひりと痛み、情けなさ不甲斐なさが針となり築宮を責め苛む。  それでも彼は動けそうにない。これまで青年を歩ませ続けていたのは、ほとんど逃げ出した勢いとそれによる慣性によるものであったのだが、ついに限界が来たのである。  渡し守との対峙を想像したそれだけで、ただそれだけで恐怖が膨れあがり、築宮を打ち倒したのである。〈爆煙〉《ばくえん》の威力と無情でもって。  そしてひとたび張りつめていた弦が切れてしまえばあとはもう、心と体に残っているのは空虚だけ。重心までも失われたか、四肢に力は戻らず立ち上がることもできず、築宮は〈反吐〉《へど》の〈残滓〉《ざんし》の涎《よだれ》が暗闇の中に〈鈍色〉《にびいろ》の細糸となって垂れるのを、呆けたなりで見つめることしかできなかった。  一体どれだけくずおれたままでいたのか、青年がぼんやりと顔をあげたのは、視界の端でなにかが動いたのを捕らえたような気がしたからである。  はじめは勘違いかとも思うた。ただ水路に沿って伸びる〈燈明〉《とうみょう》の芯が揺らいだだけだろうと、打ち続く恐怖と衝撃と悔恨にほとんど麻痺した心持ちで、深くは考えられずにいた。  が、しかし。  〈跫音〉《あしおと》。  幽かに、遠く、だが青年が発する音以外は生きた者の痕跡といって皆無な、旅籠を閉ざした暗中にあっては、古龍の喉鳴りめいて深々と、夢魔の囁きの如く昏《くら》い意味を孕《はら》んで、青年の緩み、綻《ほころ》びきった神経をかき乱した。  ましてや、〈跫音〉《あしおと》は灯りを伴連れにしていたとあっては。  はじめは彼方で〈燈明〉《とうみょう》の炎が揺らいでいるだけに見えたのだが、灯りは明らかに人為の律動で揺れ、遅々たる速力ではあったにしろ此方へと、築宮青年へと近づいてくる。  ならばあれは〈燈明〉《とうみょう》の火ではない。 「ひ……っ!?」  青年の心が、壊れかかった歯車を無理矢理回したような軋みで、記憶と接続した。  人めいた歩みで揺れて接近してくる灯り。  あれは、あれは―――渡し守の携えていた〈角燈〉《カンテラ》の陰火ではないのか!?  地下牢獄に長く捕らえられていた者が拷問吏の革靴の響きを聞いただけで引きつけるように、築宮の体が跳ね上がった、が、こんどはその勢いでついた尻餅のなんとも無様な。手足は火を押しつけられた蜘蛛より激しく〈痙攣〉《けいれん》したのだが、まさに闇雲に床板を掻くばかりで、青年が切望するようには、走るはおろか這いずるもならぬ。 「逃……っ、逃げ……逃げな、いと……っ」  なのに体は言うことを聞かず、ならばせめて身を隠すところをと、築宮は狂を発した獣のように周囲に視線を投げたが、こうかたかたと歯の根が激しく鳴るのでは、どこに潜んでも気取られよう。心臓の鼓動だって聴きとられてしまうのではないか。 (いや、どこに隠れたってきっと―――!)  だいたい渡し守はきっとどこに隠れたって自分を見つけだすのに違いない。  そう観念させてしまうほどの凶気と鬼気と陰気があの女にはまとわりついている。  〈藻掻〉《もが》き、焦り、恐怖し、築宮は思った。  否、思うのを止めた。あの女に捕らえられた自分がどうなるか、想像するのを必死で停止しようとしたのだ。  思考を押さえつける事だけがもはや築宮に残された最後の抵抗、正気を保つよすがであり、今にも噴出しそうな恐怖に蓋をして、灯りの接近を見守る。  ただその眼差しは、青年自身がどう考えていようと、絞首台に上った死刑囚が縄の輪を凝視するそれと〈寸毫〉《すんごう》も異ならず。  やがて近づく、灯りが〈芥子粒〉《けしつぶ》から爪の先の大きさくらいに迫り、それとともに築宮の内圧も高まり、あとほんの数瞬で弾ける、それで最期と言うぎりぎりの際で―――築宮は聴いた。 「あ……? は……ははっ。  なんだ……あれは……ははは……」  よもやこの局面で聴こうとは細毛一筋ほども考えていなかった、安堵の笑いだった。  まして、なんでそんな笑いが自分の喉から漏れるなどと予想できよう。  灯りは―――電気に頼らぬ火灯りの、前時代的なのは〈角燈〉《カンテラ》に共通していたのだが、金具と〈硝子〉《ガラス》から漏れてくるよりもっと柔らかい。障子紙と竹細工の、〈提灯〉《ちょうちん》の灯りなので。それも障子紙はあちこち破れ、ちょっと強い風でも吹けば中の蝋燭がたちまちかき消されそうな、危うげな、貧しげな。  だが貧しいとはいえそこに卑《いや》しさはない。むしろ持たざる者の清さに灯りは優しくて、だからこそ築宮は安堵したのである。  貧しく、慎ましく、そして優しく、そんな灯りを使うのは、旅籠の中で彼女くらいだと築宮は知っていた。愛《かな》しい女だと知っていた。 「こっちよ……こっちだよ……築宮さん」  判別できるくらい近づいてみれば〈提灯〉《ちょうちん》の灯りは、彼岸へと導くかに沈んだ趣の水路の〈燈明〉《とうみょう》とはまるで異なる、胸に暖かく届く、温もりが通っている。  そして火灯りに浮かんだ琵琶法師の顔だ。  地獄に仏、などとは言ったものだが、仏の有り難みや〈悟性〉《ごせい》はなくとも見も知らぬ相手より、彼女の方が築宮にはよほど嬉しく、懐かしい。  安堵と懐かしさが、敢えて麻痺させていた心を解きほぐし、感情が流れ出したはいいが、せめぎあう想いは複雑かつ強烈にすぎて、築宮には扱いかねた。凍傷の肉が温められたところに一気に血流が通ったようなもので、安心したあまりに全身むず痒くなったほど。  へたりこんでいた尻をどうにか持ち上げ、法師の元へ駆け寄ろうとして、足が縺《もつ》れた。駆けるどころか歩むもならず、体は前に流れてまたもへたりこむ。前に後ろにまた前にと、くずおれては倒れてと忙しい限りだが、今度はとうとう意識までもふっと遠ざかった。  いや、むしろ安心して、意識を手放した。 「あ……っ。  だ、大丈夫っ?」 「ああ……ああ……。  こんなに疲れて。  こんな、ボロみたいになっちゃって」 「大変、だったんだね、築宮さん……。  でも、もう平気だよ」  ……水路の際に倒れこんだ築宮に、いかにも心配そうに法師が小走りに駆け寄る。青年の顔を〈提灯〉《ちょうちん》で照らし、息があることを確かめてほっとした顔を浮かべた―――              のも、束の間。 「わたしが、いるからね。  あんたのそばには、いつだって私がいるからさ……ね、清修?」  ―――法師は仄《ほの》暗い笑みを浮かべた。  それだけで〈提灯〉《ちょうちん》の火灯りが翳った。  眸は漆《うるし》を置いたように黒く、光を吸いこみ、そして青年を捉えて離さず、笑みに歪んだ唇は、おぞましく、暗く、鈍く重く―――  その笑みは、顔の造作こそ違え、感情の本質において渡し守と同じだった。  ならば。  ならばこの、疲労困憊の極みにある青年を見出し、抱き起こした女は果たして真実、あの優しい琵琶法師なのか、否か。  ―――  ――――――  ―――ぱきん、と。    竈《かまど》にくべた薪の上で、軽やかに〈燦々〉《さんざ》めき、弾けては金の緒を曳《ひ》く火の粉の耳に小気味よい響きに、築宮は鼻先で魔法使いに指を弾かれたように、はっ、と目を見開いた。浅い〈微睡〉《まどろ》みから覚めた心地に目をしばたかせれば、竈《かまど》には炎がゆったりと躍り、掛けられた鍋の中では米の潰し汁がとろりと煮えて、ふつふつと滾《たぎ》って、湯気も甘い。  竈《かまど》の中に慣らされた炎には、猛々しさも鳴りを潜めて鎮心を誘う作用がある。どうやら火熾《おこ》しの竹筒を片手に番つくうちに、心が桃源郷にさ迷い出ていたらしい。 「どお、築宮さぁん……?  お糊《のり》は、煮えたかなあ……?」  開け放たれた、というより障子戸がらみ取り外されて、風通しの良いことこの上のない戸口からの声、築宮は考査期間中の学生でもあるまいが、居眠りにばつの悪い顔になったけれども、鍋が焦げつくほど長くは〈陶然〉《とうぜん》となっていたわけでない。米を糊《のり》にと煮つめた汁を、菜箸で試しにかきまぜてみれば、程良い塩梅で。 「ああ、ちょうど良いみたいだ。  もう火から下ろして良いと思う。  そっちは?」 「ありがとう。こっちも、いいよ。  古い障子紙、ぜんぶ剥がしたし」 「桟《さん》の拭き掃除も終わって、陰干しもしたよ」  剥き出しの戸口から覗きこんだ顔、仔犬がお使いを首尾よくこなしてきたならちょうどこんな具合かという、無邪気で得意気に輝いている。が、手仕事の合間に浮いた汗を拭《ぬぐ》った濡れ布巾が、どうやら障子戸の桟《さん》を拭いていたものらしく、〈煤埃〉《すすぼこり》で黒ずんでいたものだから、額に薄く煤けた筋が引かれたのには、築宮ちょっと苦笑した。  きょとんと首を傾げた法師の額を、自分の〈手巾〉《ハンケチ》で浄めてやれば、撫でられた猫のようにくすぐったげに嬉しげに目を細める。柔らかそうな髪の合間から汗の香が立つが、むさくるしいというより健やかに実った果実のよう。  湯気の立つ糊《のり》の鍋を抱えて庵《いおり》を出れば、桟《さん》ばかりとなった障子戸が、毛を刈られた羊のように頼りなげな有り様で干されている。 「なら後は、障子紙を新しいのに張り替えるだけか。  ああ、〈刷毛〉《はけ》とかそのあたりの道具は?」 「ちゃあんと揃ってます。  借りてきたもんね。  貼り替える紙だって、こんなに……」  と、得意満面に示した一式、その殆どが旅籠の人間、令嬢やお手伝いさん達の厚意によっている。もとより物も欲も持たない琵琶法師の庵《いおり》には、普段これだけの道具はない。だが暮らし向きの貧しさと心根の貧しさは必ずしも等しからず、この法師を軽んじる人はなるほど多いが、暖かな眼差しを寄せる者も決していないわけではない、ということだ。  貼り替える障子紙も、糊《のり》にする屑米も、頭を下げる築宮と法師にお手伝いさん達が快く渡してくれたものである。 「じゃあ、さっそく張り替えていこうか。  ……といっても俺は、こういう仕事、やったことがないから、上手に手伝えるかどうかはわからないよ」 「そんなの。わたしだって。  わたしなんか、あんたよりずっとぶきっちょだもの」 「前に張り替えしたときなんか、  どうしても紙、まっすぐにぴんと伸びない。せっかく張り替えたのに、よけいむさ苦しくなっちゃった」 「……そうか……。  まあ、二人でやれば、どうにかなるさ、きっと」 「うん! じゃあ、貼ってこっか。  築宮さんは、紙のそっちのはしっこ、  ピンってのばして持っててね」  かく新しい障子紙の引き伸ばしたのだが、さてそれからが大騒ぎ。  力を入れすぎて紙が桟《さん》からずれるわ、〈刷毛〉《はけ》に取りすぎて糊《のり》が零れるわ折角貼ったはいいものの桟の裏表を間違えて貼り直しだわで、たとい米の糊《のり》をせせるという例の雀(そして捕まり舌を切られる浅はか雀)が飛んできたとしても、二人の拙《つたな》い手つきには、悪戯するどころか見かねて手伝おうとするに違いないと言うほどの。 「待て待て待てッ。  なんでそこで手を離す、  せっかく貼ったのがずれる……っ」 「ごめんなさい……でもあんたも、  さっきから貼りそこなってあっちこっちに穴開けてー……」 「いやそれは……だいたい君、琵琶弾くときはあんな達者なのに、なんでこういう手仕事になると、とたんに不器用に」 「だって、こっちのほうが、  ずっとずっとむつかしいもの。  他のみんなは、どうやってこれ、  いつも張り替えてるのかな……?」  軽口を叩き叩き、それでも二人とも触れない。青年の〈襯衣〉《シャツ》の袖口に隠された、手首の傷には。薄白く引きつれて残った傷痕を、二人とも知りつつも、それは口にしない。  青年の手さばきはこの傷が刻まれて以来、どうしたって完全なしなやかさは戻らず、障子一つ貼り替えるにしてもたどたどしい動きが〈垣間見〉《かいまみ》える。  この傷痕、あの時、法師が芸事の魔道に陥《おちい》りかけた時、築宮が自ら刻みこんだ傷。  二人とも、それには触れない。  もちろん法師に負い目はあるだろう。築宮には彼女をそんな気持ちにさせてしまう己への不甲斐なさもあろう。  だが二人がそれを口にしないのは、おたがいがその傷を、在るがままに受け入れるべきだという暗黙の了解に達したからである。  傷もそのまま築宮の一部。そして築宮のモノであれば、法師もまた負い目や引け目を抜きにして、受け入れる、と。  だから二人は、法師の不調法な手つきは築宮が庇《かば》い、築宮の後遺症は法師が補うことを学んで、それで大抵のことは差し支えなくこなせると知った。  そんな在り方が、存外面白い。  それでいい、と築宮は気負いも掛け値もなく、淡々と想っている。 「あ、これ。危ない。  刃物は俺によこしなさい。  君に刃物なんて、危なっかしいったら」 「できるよ、これっくらい。  できるってば。できるから……。  ……やっぱあんたにまかせる……」  こんな式で悲鳴絶叫絶えずして、しまいには築宮も法師も糊《のり》まみれ障子紙の切れ端まみれ、古巣を潜って全身に枯れ草と〈木っ端〉《こっぱ》をまぶした穴熊におさおさ引けを取らぬ有り様に。  それでも、糊《のり》によれた前髪を指で弾いて築宮が浮かべたのは、〈憮然〉《ぶぜん》の仏頂面かと思えばそうではない。一仕事終えて晴れ晴れとした、農夫が綺麗に耕された畝《うね》を、商人がきちんと精算された帳面を、それぞれ見やるような満足の笑顔で、法師と顔を見合わせればより幸せの色を深くする。  ……この愛おしさは、なんだ?  庵《いおり》の脇を流れる水路のせせらぎはもう空気のように聞き慣れて、まわりの通廊の入り組んだ様子も〈馴染〉《なじ》みの景色となり新鮮味は乏しく、二人以外には合いの手を入れるような声もない。  単調といえばこれ以上ないくらいの単調な景色。たまさかこの日は障子の張り替えなどに挑んでみて大いに困惑しかつおかしくてたまらない喜劇になったけれど、それとて日常の延長に過ぎず、心が浮き立つような冒険でも〈身裡〉《みのうち》が震えるような波乱でもない。  それなのに―――と青年は、改めて眺めた旅籠の景色、どこまでも〈錯綜〉《さくそう》する通廊や座敷の連なり、貧しく慎ましい法師の庵《いおり》、二人の嬌声のみをアクセントとした静けさが、不意に、とてつもなく、愛おしく、好もしく、喉の奥に〈痛痒〉《つうよう》を覚えるくらいに懐かしく感じられてならず、我慢できたものではなかった。  たまらなかった。だから。 「はぁー……。  すごい。終わったよ。  始めたときは、日が暮れるまで終わるか、  わかんなかったのに」 「あは、紙の角、ちゃんと揃ってる。  きれいだねえ。  それに、お米の糊《のり》は、良い匂いだねえ」 「何日か、この良い匂いの中で、  寝起きできるんだ。  なんか、嬉しいな。  ありがと、築宮さ……んっ?」  だから築宮は、仕事の出来栄えに満悦の体の法師を、抱きしめた。ためらわず、想いのままに、まるで法師だけでなく、彼女ごとこの愛しい世界を腕の中に繋ぎとめようとするかのように。  唐突な〈抱擁〉《ほうよう》に戸惑って〈生硬〉《せいこう》だった肩も、築宮の胸の上でたちまちに解れた。  胸に擦り寄せた頬は、どんな美味を含んだ時よりも甘やかにとろけて、安心しきって、幸せそうで。  築宮がただ優しい〈抱擁〉《ほうよう》のうちに込めた言葉は、肌を通ったか、法師の〈恍惚〉《うっとり》した囁きが、全て代弁していた。 「うん……うん。  いいよね。大好きだよ。  嬉しいな。楽しいな」 「あんたといられて。  わたし、こんなにも、幸せだ」  幸せの総量など、人それぞれに秤《はかり》が違う。  至上の贅を味わい尽くした者には、水晶の杯にて呑み干す火酒の刺激に慣れきった者には、築宮と法師がおたがいの温もりのうちに通わせ合っている幸福など、刺激にもなりはしないのかも知れない。  それでもこの今青年と法師が噛みしめている幸福は、他の何ものにも替え難く、築宮は胸に懐かれた娘の形した幸せを、より近く引き寄せようと彼女の髪に頬を埋めた。  ……ざり、とひっかかった。  頬で乾いた糊《のり》の粒で。ぱりぱりと。 「やだ、ひっかかってちょっと痛いね。  これ、二人とも体流さないと、ダメだ」  そう照れ笑いの法師の鼻の先にも、糊《のり》が白く乾いている。  琵琶法師。  〈字名〉《あざな》の通り琵琶を業とする娘。  遙かな〈異国〉《とつくに》の、香樹の化身である娘。  そして築宮が、その生の全てを懸けて、共にあろうと誓った娘。  けれども。  ああ、いかにも幸せに酔った風情に面伏せし、離れがたしの心に青年の胸元に指先をたゆたわせる、その法師の貌、ああその貌は。  たとえ目は柔らかく細められていようとて、唇は優しく吐息を漏らしていたとても。  眼孔から漏れる光に、築宮が知っていた法師の無知の知はなく、唇から漂う息にあの〈蘭闍〉《らんじゃ》の香は郁《かお》らず、あるのはどす黒く陰惨な気配の、なぜ青年は気づかない。  たった今まで最愛のと抱きしめていた娘の変貌に、なぜ気づかない。  否それは、変貌というより正体が文字通り顔を覗かせたのではないだろうか。  青年は、知らず、気づかず、考えだにせず、ただ腕の中に抱きつづけるのみ。  常なら体を流すといって、庵《いおり》の裏手に〈大盥〉《おおだらい》を転がし据えて、水路の水を汲んでの行水のところ、今夜は法師は湯に浸かることを求めた。  久方ぶりにあの、温かな水というのに体を浸す快を欲したようだ。  だからとりあえずは一日の汗とこびりついて乾いた糊《のり》は、水を絞った手拭《ぬぐ》いで拭くに留めて、二人は大浴場が男女の別問わずの〈頃刻〉《きょうこく》を迎えるまで待ち、さてと繰り出して、いざ浸かった温かなのが、湯に入ってみるという行為を思いついた、何処かの生き物の始祖に思わず〈快哉〉《かいさい》を贈りたくなるほど快味で、素敵で、素晴らしくて。  それまでは、手拭《ぬぐ》いを使ったといってもやはりどこかに粘ついたものを残していた、いわば自分達にお預けを喰わしていたのも快をいよいよ増している。 「あァァ……やっぱりこれ、何度しても、  気持良いよぅ……。  ね、築宮さん、お風呂思いついた人って、  いったい誰なんだろう  すごいよね、偉いよ、ホントに」 「それは……さあ、誰なんだろうな。  でも人間だけじゃなく、動物だって湯に入るのはいる。温泉とかね」 「冬山の温泉に浸かる猿というのも、あると聞いた」  どうしたって官能的に見えてしまう。法師の、湯気を噛んで艶めく唇や首筋の後《おく》れ毛そしてとろける声に、築宮は顔に汗し、湯を打ちつけて流した。〈春機〉《しゅんき》の起こりを意識しなくもなかったのである。  何度情を重ねても、いや、数を重ねるだけ、築宮によって拓《ひら》かれた法師の肢体は、青年の輪郭に沿うように甘美になりまさり、また彼女も〈奔放〉《ほんぽう》に応えた。  しかし体を重ねて得られるのは、ただ肉の愉悦だけでなく、心に深い充足をももたらして、築宮をさらにさらに法師から離れがたくさせる。  法師は芸事の深淵をあまりに深く覗きこみ、ついには己が芸の道具そのものに、琵琶という器物に変じかけた。  それを〈人間〉《じんかん》の世界に引き戻したのが築宮だ。だがその責任を取る、というのではない。  法師とともに在ろうと思い定めて旅籠に残ったのも、彼女への愛慕ゆえに。  法師は追い求めていた秘曲を奏でる機会を永遠に失い、築宮は旅籠から旅立つことはなくなったけれど、それでも二人は幸せだった。共にいられるのが幸いだった。  自分にとってこれほどまでに愛おしい存在ができるとは、と築宮は、傍らの湯の中にゆったり手足を遊ばせる娘を眺める、眼差しで愛でる。  湯屋は人気の絶えた〈頃刻〉《きょうこく》でも温もりは薄れず、湯気も濃く、大なる梁や柱は濡れて黒く瑞々しい、滴り落ちる水音も森閑の趣により深みを添えている。檜《ひのき》よりも芳《かんば》しいという槇《まき》の匂いが清々しい。温かな湯に体を浸しても、なお〈惻々〉《そくそく》と忍び寄る気配は、これは旅情なのだ。  どれだけここの暮らしに慣れたとしても、旅籠はこうして折にふれ、旅愁の味を築宮に思い出させる。いまだ旅籠はどことも知れぬ異郷であるということなのだが、それでも傍には好きになった女がいる。彼女も自分を好きでいてくれる。  至福、というものだった。 「俺は、ちょっと髪を洗ってくるよ」  瞼を閉じて湯の味を満喫する風の、睫毛に細かな雫宿した法師に一声呼び掛けて、湯船を上がる。  そのまま法師を〈賞翫〉《しょうがん》し続けると、情欲いよいよ疼《うず》いて抑えきれず、湯船の中で絡み合うことにもなりかねなかったので。  二人で裸形を露わにしていることへの気後れは、あの金仏木石だった築宮青年をして薄れてきている近頃で、この湯屋ならずとも二人が行水を使う庵《いおり》の裏手は人通りが少ないが、それでも時折誰かが通りかかる事もあり、裸のところを見られたりする事もある、が、法師はもとより築宮も最近は〈頓着〉《とんぢゃく》しなくなっている。  好きあって一緒にいる二人だ。進んで見せるというのでもないが、かといって裸で睦《むつ》み合っているところを見られて疚《やま》しいという気持ちはない。  ただまあその、あの大盥の中ならまだともかく、公共の湯船で事に及ぶというのは、他の客にも色々と、その。  そんな自制もあって、法師からいったん離れたというのに。 「じゃあわたし、手伝ったげる。  泡、流したりとかするね」  紅血薄く透かせた肌一面に、湯の雫を桜に注ぐ〈驟雨〉《しゅうう》のように転がして、〈律儀〉《りちぎ》についてきたのには築宮、苦笑まじりに呻《うめ》くしかなく。  とは言ってもその呻《うめ》き声に華やいだ色が混ざっていたのも事実だが。  ―――法師が甲斐甲斐しく手桶で髪を流す、湯の音の合間も語らいは途切れない。 「築宮さん、髪、すこぅし伸びてきたね。  またわたしが、刈ってあげようか」 「なに、なんだって?  君に散髪を頼む?  ……いや、いい。遠慮しておく」 「えぇー、どうしてよ。  わたしだって、ちっとは上手になったと思うんだ」 「この前もそう言いはったから、俺は折れたんだが。  そしたらなんだい、あのザマは」 「前髪が不揃いなのは、まだいい。  後ろや横がところどころ虎刈りだったのも、まあ許すよ……けれども」 「耳をああざくざく切られちゃ、俺の耳は鶏《とり》のとさかみたいになってしまう」 「あれはその……今度は大丈夫。  ね、本当に、さ」 「そうは言っても、な……」  こうした他愛のない会話と同じで、毎日が緩慢に、穏やかに過ぎていく。  なおも不満げな法師に振り返り、湯桶に組んだお湯に両手を浸して水鉄砲。まるで風呂場と遊び場の別もつかぬ子供の戯れだが、築宮の手から放たれた水流は、狙いよろしく法師の健やかな乳房の、色づいた頂を撃った。 「ひゃんっ。  もう、わたしはマジメにお話ししてるのに、そうやって遊んで」 「……でも、今の、なに?  手の中からお湯、ぴゅうって。  どうやって飛ばしたんだろ?」 「水鉄砲、知らないのか?  別に玩具がなくっても、掌《てのひら》の中に水を貯めて―――」  ……猫なら〈蜜柑〉《みかん》の皮の絞り汁を嗅いだように口を半開きにし、烏なら、かあと鳴く前に一音「ば」と付け加えてその場から飛んで去りそうな、砂糖の甘みと蜜のとろみをたっぷりまぶした若い恋人同士のやりとり、だが。  瞬間、築宮は、〈凝結〉《ぎょうけつ》した。  洗い場の二人の背後、湯船に。  柔らかな〈濛気〉《もうき》を揺らめかせる、湯の。  その水面。その上で。 「そのひとが、セイちゃんの。  好きになったひと―――」  靴の先が、幽かな波紋を置き連ねて。  湯の面に沈みもせず、立つ、いや浮かんでいるのは―――あの、少女の儚い姿の。  法師の裸の肩越しに。 「―――! ――――――!!」  真に動揺した時に人が絞り出せる言葉など僅かなものだ。言葉が足りないのではない。溢れすぎて、口という狭い通路では詰まってしまうのだ。その上築宮が少女に抱く想いは、言葉にしようとすればどれだけの言を連ねたところで、的確に切り出せそうにないくらいに混沌として、〈輻輳〉《ふくそう》を極めていた。  だから築宮ができたのは、声以前の〈呻吟〉《しんぎん》をかろうじて押し出すことくらい。  そもそも少女のなんの前ぶれもない出現、それも理を無視して湯の上に浮かぶ姿に動揺を憶えずいられる者などあろうか。  あえかな湯煙もまた、少女の姿に神秘の霧と化してまとわりつく。 「でもね。セイちゃんがだれを好きになったとしても」  少女の眼差しは、一切のぶれと迷いなく、青年の芯を、芯だけに向けられて、咎めているのではない。むろん憤っているのでもない。  幼くも気高い双眸に宿る想いは、深い、彼女のような年代の少女が担いきれるとは思えないほど濃い、青年への、まぎれもない愛、愛という言葉がこれほどまでに巨大なものなのかと、〈瞠目〉《どうもく》させるほどの情。  少女の姿を目の当たりにし、声を耳にした時、築宮は申し訳なさと情けなさで縮み上がったのだった。  法師を抱いて、男になったと思った。  法師とともに芸事の魔道から帰還し、自分は少し成長できたと思った。  そして今、そんな思いこみはまだ嘴《くちばし》の黄色い小僧の錯覚だったのだと思い知らされた。  少女が示した感情に、その質量に、築宮は現在ある青年時代という自分から、一気に時を〈遡行〉《そこう》して、物心ついたばかりの幼子に立ち戻ってしまったかのそんな心細さと、この少女に限ってはいかなる自分でも許されるのだという盲信を同時に抱いていたのである。 「だれよりも、なによりも、  この世のすべてのものよりも、  わたしにとってセイちゃんが、  いちばん大切なのは、かわらないからね」  その、ことのは。  シンプルで、他に意味を違えようのない強い強い言葉。  旅籠で出会った誰とも異なる、圧倒的な内圧と質量を秘めたその言葉。  ―――築宮の中に呼応する〈蠢動〉《しゅんどう》があった。  月に呼ばれる潮と同じ、〈天則〉《てんののり》とも言うべき逆らうことなど到底不可能な心のうねり。  いまだ閉じこめられたままの、青年の過去の記憶に連なっている。  少女のそばに行きたい。  彼女と一緒にいたい。  他にはなにもいらない。  そう希《ねが》っているのは、今の自分か過去の自分か。否、両方だ。  だが現在の自分が引き留める。  自分がそうありたいと願う他人は、少女ではなくこの法師なのではないか。  つい今の今まで、彼女と生涯を共にすることを浄福とまで心定めていたのではないか。  不実にも程がある、と築宮の中に引き裂かれた感情が悲鳴を挙げている、軋んでいる。  待て、その法師は―――?  法師は、動かなかった。  たとえ少女の声が築宮にのみ届く心の結ばれであったとしても、青年の突然の反応に気づかぬはずはない。  なのに法師は、築宮の前で膝立ちのまま、ひっそりと顔を伏せ、青年が凝視する先を確かめようともしていないのだ。  築宮が異常の事態の中の異常に気づいた時、少女は淡やかに笑んで、穏やかに頷いて、 「セイちゃんがしあわせなら、  わたしはそれでいいのよ」 「よかった―――あなたが、幸せになってくれて」  湯の面に乱すこともなく、振り向いて、振り向いてしまって、スカートの裾が優しく哀しく翻《ひるがえ》って―――また行ってしまう!  広大な湯船の上を軽やかに一歩、二歩と遠ざかる、少女の姿が小さくなるにつれ、湯屋の灯りが薄れ、闇が満ちていく。  今度も、今度こそいなくなってしまう!  眉根のあたりを焦がしそうなほどの焦りが、青年をバネ細工のように立ち上がらせた。  よし自分には少女のように軽やかに水面を駆け抜ける足はなくとも、湯の海を泳いで渡ろう、湯が血泥に変わったとしてもなにを躊躇うものか、と、築宮はなにもかも振り捨てていくつもりになっていたのだ。  しかし、容易に振り捨てる事のできないものがあることを知れ、今一度思い出すがいい築宮よ、また繰り返すつもりなのか。 「行っちゃうんだ……?」  ゆっくりと、胸元から喉をなぞり、最後に双眸へと据えられる視線が、築宮には切なかった、厭《いと》わしかった、情けなかった、苦しかった。屋根の上の隠れ家で別れた時の、あの令嬢の眼差しと同じだったから。  できるなら視線を交えぬまま行ってしまいたい。それをしてしまえば自分がどれだけの屑に落ちぶれるかわかっている。  だが、屑よりもっとひどい、〈唾棄〉《だき》にも値しないおぞましい行為が一つある。法師の双眸を、心を見据えて、そして言葉を交わしてから行く事だ。  この優柔不断な青年らしくおずおずとした仕草ながら、築宮は選んだ。むろん後者を。  屑以下に成り下がる道を。 「……駄目なんだ、俺は。  あの子と、あの人と会わないと。  会って、確かめないと」 「自分のことを。俺の記憶を」  もっともらしい言葉を重ねることが、ここまで卑《いや》しいとは知らなかったと築宮は、飾ることをやめた。卑《いや》しい笑みで。 「違うな、そんなのじゃない。  どうしてかわからない。  でもそうしないといられない」 「このままあの子を見送ったら、  俺は自分がどうなるかわからない。  それが怖い。怖くてたまらない。  だから、追いかけたい」 「どうしたって行くつもりなんだね。  わたしだってあんたのこと、  なにより大事で、大好きだ。  なのに築宮さんは、わたしより―――」  暗く、沈んだ声。  恋人の不実を知ってなお、岬に立ち、待ち続けた女は石になった。すり減って人の形から遠く離れても、石は今でも伝説を秘めて待ち続けている。  恋人が戻らないことなど理解しつつも、別れた瀧のたもとにて待ち侘《わ》び続けた女の姿はいつしか見えなくなったけれど、瀧の瀬音の中に彼女の嘆きが残響しているという。  全ての、置いていかれた女の声が、法師の喉を通して、築宮に呼びかけていた。 「あの子に会いたいの?  誰なのかもわからない、あの子に」  ……築宮はまだ法師との人生に、卑《いや》しく未練を残していたのだけれど。  少女が誰なのか、わからないこそ。 「……あの子ともう一度会えたなら、  きっとまた戻ってくるから……」  最低の嘘。だから言わないといけない。今の自分が法師に言葉をかけるなら、悪臭漂う卑劣な嘘以外は許されない。  ―――こんな時でもこんな男が相手でも、法師は最後まで優しかった。  そっと、築宮に、彼に置いていた眼差しを逸《そ》らしてやったのである。  自分がそんな優しさに値するような人間ではないことなど知り抜きつつも築宮は、洗い場から立ち上がり、法師の脇を抜ける、抜けて駆け出す。  少女が去っていた方へ。  と、築宮が法師の脇を抜けたのが合図であったかのように湯屋の灯りが一斉に落ち、あたりを湿った暗がりに閉ざした―――が、まったき闇でない。  燐光が湯屋を縁取っている。湯船を満たした湯が、石畳の床を濡らした水気が、柱や梁に伝う雫が、陰々とした燐光を放っていたのである。  それは、渡し守が下げていた〈角燈〉《カンテラ》と同じ陰火。冷たく暗く、見る者の心を明るくするどころか闇に落としこむような昏《くら》い灯り。  と、法師は体の冷えゆくままに哀しく〈項垂〉《うなだれ》れていたのだが、やがて築宮が立ち去っていった方へ顔を上げる。  ざわりと、額に張りつく濡れ髪をかきあげた、片手で、片目を塞いだ。  と、見よ、その貌、その眼差し。  その―――凶気。  一つ目だけで見つめる貌は。  貌は法師のものでありながら、眼差しが、違う女のものとなっていたのだ。  それはあの、墨染の衣の、割れ般若の面の女の昏《くら》い、果てしなく深い眸の―――  うっそりと、唇をほとんど動かさずに囁いた、その声音もまた、法師のものではなくなっていた。 「どうあっても、お前に会わせるわけにはいかないんだよ、あの子はさ。  そうさ、見られてなるものか」 「―――わたしの本当の心は、  清修、お前には見せられない。  見せちゃ、いけない」  どろどろと、滾《たぎ》って熱く、黒々と深く。  法師の唇で、渡し守の声が、そう囁いた。  たとえば、紅葉が隙間なく散り落ちた水面というのは見た目に水なのか地の面なのか判別がつきがたい。〈迂闊〉《うかつ》に足踏み出せば膝まで浸かることになる。  築宮青年がこれまでそのように続いてきたと、そしてこれからもかくある筈と認じていた琵琶法師との日々も、紅葉の水面と同じ、皮相一枚の脆い世界だったのだろう。  そら、判りやすいその証左として、腰に一枚巻いただけの裸で走り出した青年が、いつか覚えぬうちにも常の服を身につけている、湯屋の奥の暗がりへと飛びこんだつもりが、これも気づくと―――あの鳥居と〈燈明〉《とうみょう》連なる水路の縁をまた駆けているでないか。  あの愛おしく穏やかな暮らしなど、法師の庵《いおり》の竈の火が爆ぜる瞬間、青年が我に返ったと思いこんだ瞬間に始まった、偽りの日々だったのだと言わんばかりの。  が、青年にはそれらの情景と己の有り様の転変を怪しんでいられる余裕はない。  体内のあらゆる隙間を満たすのは、焦りと〈渇望〉《かつぼう》だ。雑踏の中で、信頼し委ねきって、握っていた温かな柔らかな手からはぐれた幼子の焦り。心地よかった午睡から目覚めてみれば、暮れ染めて薄暗い部屋に自分独りしか見えず、冷え冷えとして、孤独と心細さで、添い寝してくれていたはずの優しい姿を求めるときの、あの〈渇望〉《かつぼう》。  いったい逆らうことなど、できる者があるだろうか。  だから走った。築宮はひた走った。  水路の分かれに突き当たったときなどは、飢えた犬がするように鼻先を突き出し、少女の残り香を求めるように右に左と目まぐるしく頭を巡らせた。  ―――と、右手の奥にやや灯りの、少女のスカートの裾の端の翻《ひるがえ》ったのが、闇の中に宵待草の白い花めいて浮かんだような気がして、築宮はすがるように走り出す。  この闇は夢か現か、いずれにしたところで灯りがあるならば、惹かれずにはいられない。  おそらくそれは、夜虫が〈誘蛾灯〉《ゆうがとう》に引かれる様と同じなのだろうが。  こんな闇の中だ。  聞こえてきた声が、寝込みの自分の胸に肉切り包丁を突き立て、どうやって生き血を搾《しぼ》りとるか、いかにして肉をさばいて料理するかと、剣呑極まりない相談ぶつ食屍鬼どもの声だったとしても、いっそ飛びこんでいってしまいたくもなろう。闇と孤独は容易に人から分別を奪う。  なのに築宮が、声を聞いて踏みとどまったのは、声を聞いてしまったなればこそ。  旅籠の闇の奥に薄白く、浮かび上がったのは仄《ほの》灯り、座敷から漏れだして、そこへさして人の声とあっては、矢も盾もなく助けを求めるのが見えやすい筋道なのに、築宮の中には、これまでのがむしゃらな〈渇望〉《かつぼう》を抑えて不安が兆したのだ。  声には、覚えがあったから。 「……ごめんなさい。  もう、こんなことはしません。  だから、どうか……」  己を悔い、赦《ゆる》しをこいねがう声。  ひたすらに〈恐懼〉《きょうく》し、〈萎縮〉《いしゅく》した、情けない声。  ようやく声変わりを終えたばかりの少年期に特有の、青臭い声。 「言い訳は、ないです……。  はい……少し、興味があって。  けれど、もう、しません、絶対に」  誰かが懸命に詫び、許しを求める声というのは、脇から聞いているだけでもいたたまれなくなるもので、その人間の弱さ醜さを内臓をぶちまけられたように見せつけられるに等しい。ましてその誰かというのが、他人ではなく、他ならぬ自分だとあっては―――  そう、このみじめな謝罪の声音は、築宮青年の声に他ならなかった。  ただ彼がもう少し年若だった頃、おそらくは思春期の頃の。  そんな自分の声を他人の視点で聞くのは、みじめで、情けなく、まるで自慰の現場をあからさまに目撃されたように耐えがたい。 (なんで……おれだ? 俺の、声だ?  この部屋の中で、いったいどうして。  それよりも俺は……誰と話している?)  耳を塞いで逃げ出してしまいたい。誰しも自分の恥からは目を背けずにはいられない。  なのに築宮が、敢えてその座敷をそっと覗きこんでみたのは、すなわちそこに、彼の失われた過去があるのだと覚りつつあったから。  ……それでも、柱の陰に身を潜め、息を殺して中を窺った時には、毒のある棘《とげ》の薮《やぶ》を潜ったかのように、全身の肌に痛みさえ走って、築宮は歯を食いしばり、首筋を震わせた。  そして戦慄は、座敷の中で向かいあう二人を目の当たりにしてさらに激しく青年を苛み、重度の熱病患者を襲う震えじみた悪寒さえもたらした。悪寒? 否。それは存在の根底から青年を〈震撼〉《しんかん》させる衝撃といっていい。  座敷の中にはやはり――― 「はい……あなたの、言う通りにします。  もう二度と、繰り返さないようにする。  だから、許して下さい……」  肩を落とし、〈項垂〉《うなだれ》れて、もう何度目かの繰り返しになるか判らないほどの詫びる言葉、だがそれ以外は、言うべき言葉も知らず、言い訳などもってのほか、反論などは考えただけで畏れで失禁さえしかねない、だから詫びるしかない。  長じた築宮青年にとっては、夜尿の布団を展示物にされたように、頬が猿の尻よりも紅くなってしまうほど屈辱的な、そしてなにより厭《いと》わしいことに、その時の心境が痛いほど判る、判ってしまう姿、まだ少年の頃の自分の姿と、そして。 「違うよ、清修。  私が許すとか、許さないの話とは違う。  これはお前の問題なの」  そして、ああそして―――!  〈峻険〉《しゅんけん》の上に一際高く聳《そび》え、永久の氷に凍った〈絶鋒〉《ぜっぽう》は一切の〈有情〉《うじょう》を寄せつけずに恐ろしい、しかしまた、星の光に地上のどこよりも近く、隔絶しているが故に気高く美しい。  築宮にとって、少年時代と青年時代、あらゆる時代を通して、畏ろしく、美しく、気高い、傍にいるだけでも自分の卑小さが寸刻みに露呈させられる、そんな存在。かつ畏《おそ》れるべきである故に、絶対の〈庇護〉《ひご》の壁ともなってくれていた、そんな、ひと。  少年の自分と向かいあっていたのは、そういう、女性であった。 「これから先、お前が生きていく上で。  後ろ暗いこと、人には明かせないこと。  そういった事は、いくらでもできる」 「それは、生きていく上で、仕方のないことだもの。  でもね、清修」 「そういった、心の暗い部分。  たくさん、抱えこんでいるのは、  辛いものよ?」 「それに耐えるには、  お前は、もっと強くならないといけない。  私は、お前にもっと強くなって欲しいと」 「そう言っているだけなんだけれど。  だから、私に謝るのは、筋が違うと、  そう言っているの」 「私の前で〈項垂〉《うなだれ》れてしまうのは、  お前の心が、恥じている証拠なのだし。  けれども―――」  一筋のぶれもなく、築宮少年に注がれていた〈権高〉《けんだか》な眼差しが、ふっと緩む。 「お前が、恥を知る人間だっていう事が、  私には、嬉しい」  ……緩んだといってそれは、硬い大理石の像が、遠い炎の照り返しを受けて、わずかに人肌めいた風情を得たと言うだけに過ぎず、彼女と誰よりも近しい築宮少年以外には、到底感じ得ない、幽かな幽かな兆しでしかなく。  けれどもそれが、築宮少年にはなによりも、そうなによりも嬉しかったのだ、誇らしかったのだ、有り難かったのだ。  日々の暮らしの中で女性が、少年にそんな心情を覗かせる事は希有で、滅多にない事だっただけに。 (ああ……判るよ、そう、俺には判る。  あの時、どんな気持ちだったか。  それはきっと、俺にしか判らない)  確かに、築宮少年の気持ちは、後の彼である築宮青年にしか理解できなかった事だろう。  築宮にとって、女性の訓じた事、日々の言葉、仕草一々が、彼を呪縛し、一喜一憂させ、自分を造り上げていったのだから。  そう、全て。築宮にとってのその女性は、全ての規範であり、犯すべからざる法であり、外れることなど思いもよらぬ道そのもので。  どれだけかつての築宮は、彼女に支配されていただろう。  違う、支配などではなかった、と即座に否定の鞭が座敷の光景に再び過去の重扉を開かれつつある築宮を撃ちつける。  女性が〈癇癖〉《かんぺき》に任せて築宮少年を叱咤した事などはなく、たとえ築宮少年に明らかに非がある場合であっても、まずじっと見つめて、ただ見つめて、長いこと見つめて、そして静かに諭すのみ。言い聞かせる言葉は透き通った道理と美しく磨かれた礼儀で〈篆刻〉《てんこく》され、はじめは感情が〈反撥〉《はんぱつ》しようとも、しまいには首を垂れ、恥じて悔い、聴き入るしかなくなるのが常だった。  そうやって女性は、築宮を教え、諭し、導き、彼の人となりを造り上げていったのである。この築宮青年の、同じ年代の若者の基準からすればどうにも堅物に過ぎ、乱れることを厭《いと》う性情が、一体どこに由来しているのかといえば、この座敷の中の光景に詳《つまび》らかだ。  つまりは―――坑道に住まうという無骨な妖精が巨大な岩塊を削る時、その節くれ立った手からは信じられないほど慎重に、かつ根気よく、たったの一欠片を砕くのにも気が遠くなるほど時間をかけるのと、同じ事。  女性が築宮に対して、〈迂遠〉《うえん》で、悠長で、それでいて逃れようのないやりかたで、少年築宮の自由を奪い、〈鋳型〉《いがた》に押しこめるように彼を造り上げていったのだ。  自由の味。  裸足で〈奔放〉《ほんぽ》に草原を駆ける蹠《あしうら》には、心地好さと同時に時に石を踏む痛みも伝わったろう。でもそれが自由の代価。  はしゃぐあまりに教室の〈硝子〉《ガラス》窓を叩き割ってしまった時の、一瞬にして額を青ざめさせる後悔は、胸のすくような解放感も一緒くたになっていなかったか? たとえ後で教師から喰らう拳骨は骨まで響いたとしても。それが自由の代償。  その一雫。自由の味の一雫だに、築宮少年は知らずに育ったのだ。 (確か、この時だって俺がしたのは、  こんなにも恐縮しなくちゃいけないようなことでもなかった筈で)  これまではどれだけ築宮青年が〈切歯扼腕〉《せっしやくわん》し、己の肉を噛み千切ってでも思い出したいと念じて、なのにかなわなかった過去が、座敷の光景に誘われ、陽光の前の氷のように溶けだしていく。  こうして女性から、静かに、けれど重く巨大に意見されるに至った原因だって、ほんの些細なことだったと、築宮は『思い出す』。  ―――夏の長い休みが明けて、長く退屈な学期の最中のアクセントとなる、あの、文化祭だの学園祭だの呼ばれる催し。  築宮少年の級《クラス》も他に漏れず、生徒達はそれなりに盛り上がり、それなりに出し物して、子供じみてはいるが混じりけのない充実感に皆満足して後は、お楽しみの時間。  祭りの後の打ち上げ、とは言ってもまだ少年少女の年の者達のこと、羽目を外すと言ってもたかが知れている。  さばけた級友の家に集まっての宴会とか、街に繰り出すと言っても精々が喫茶店どまりの、様々な悪徳に慣れ親しむ大人達からすれば頭を撫でてやりたくなる可愛げがある。  もちろん大人びた振りして酒を舐めてみるのもあろうし、慣れない仕草で煙草に火を点けるくらいのやんちゃはあろう。中には〈昂揚〉《こうよう》のままに、異性と〈不埒〉《ふらち》な触れ合いに及ぶ手合いだって、間違いなくいるだろうそういうものだろう。  でも皆そうやって、背伸びして、時には道を踏み外し損なって若い幹に年輪を重ねていくものだし、その中で得たのは傷も喜びも等しい宝となる。それが成長なのだ。  なのに築宮少年には、そうしたむきつけの生を生きることが、遠かった。  もとより女性の〈薫陶〉《くんとう》は少年の身に深く刻まれ、普段から感情を剥き出しに笑ったり喜んだりする子供ではない。これだけでも子供が子供足りうる要素を大幅に欠いているのだが、ともかく、そんな彼でもその学校の催しの後には級友達の騒ぎに混ざってみたのが、これからして少年自身驚くくらいの冒険だったのが、今の築宮青年にしてみればいじましく、哀しく愛おしい。 (ああ、俺は、その時少しばかり浮かれてたんだ……無理もない)  浮かれていたと言っても、たかが知れているのが築宮少年の、なるほど彼にして羽目を外した。けれど外した羽目板だって、〈鍛鉄〉《たんてつ》でできていて、重く押さえつけていたのを少しばかりずらしたと言ったくらい。ずらした隙間から、外の世界を怖々覗いた程度で、級友達の昂奮に引きずられて、少しばかり帰るのが夜遅くなったというばかり。日が替わるほどでもない。  その、世間では少しばかりが築宮少年と女性の二人の世界では、〈禁忌〉《タブー》を破るほどにも重い背徳行為だった。  女性は用意の食事に手をつけず待っており、二人には珍しいほど遅い夜の〈夕餉〉《ゆうげ》が終わるまで、口数が少なかった。もとより口に食べ物してもの喋る女性ではないけれど、その夜の沈黙は明らかに毛色が違って、針で身を鎧《よろ》う生き物が毛を逆立てたような時間の中少年は、法廷で有罪判決下される咎人の心地していたという。  やがて片づけも済んでの開口一番。 「……楽しんできた様子ね。  清修、お前が楽しかったのは、それは素敵なことだし、それで少しくらい遅くなったって、私は構わない」 「お前はしっかりしている子だから、  そんなに歯止めが利かなくなることも、  ないだろうし―――」  食事の後のくつろぎなどもはや望外に過ぎて、少年はこの一言で背筋に鉄芯でも差しこまれたように身を硬くした。  女性は築宮少年を信じている。信じているからこそのその言葉。それがなにより少年にとっては、〈磔台〉《はりつけだい》に手足を縫いとめる楔となって容赦なく。  女性は少年を信じているけれど、果たして少年自身は、彼女が言うように行い正しくいられるか、全く自信がなかったから。  自信がないどころでない。今日はなるほど楽しかった。級友達とこんな時間が過ごせるとは思いもよらず、できればまたいつか、と願ってしまっていたではないか。  今日の騒ぎは今日だけの特別なこと。そうと分別を付けることもできずに、またいつかと思ってしまったなら、そのいつかでもきっと次を願ってしまう。次から、次。際限なく願いは螺旋を描き、甘い飴を四六時中口にしていれば舌は慣れ、より強い刺激を求めるようになってしまうだろう。その果てはどうなる? 自分に誘惑をはね除けるだけの強固な意志は具わっていると言い切れるか?  道の角の向こうから差し招く白い手に道筋を外れてしまってから、そこが致命的な分岐だったと気がつくのは、いつだって後の後、後の祭り。 「でも、これだけは忘れないで。  誰かの迷惑になるようなことだけは、  してはいけないよ、清修」 「……こんな事は、今更言わなくっても、  お前には、判っているだろうけれど」 「はい……気をつけるよ。  これからは、絶対にこんな事、  しないって―――」 「……私は、そういう事を言っているんじゃないんだけどね……」  女性がなんと言おうと、築宮少年に判っているのは、自分が心の弱い子だという事、女性の言うように、しっかりした子などではない事。そんな自分が、なんで女性の信頼に値しよう。今日だってきりのいい頃合いで引きあげる事だってできたのではないか?  楽しかったら、もう少し一時の快楽に浸っていたかったから。  そんな意志薄弱な自分など、はじめから他の皆と同じようにしてはいけない。  その時の築宮少年は、そう本気で思いこんだものだし、その後々の彼の行動基準にも、新たなる教条が付け加えられることになる。  たとえ一時でも、快楽に流されてしまうことは、自分以外の誰かにとって罪悪なのだと。  ―――ぎし、と背後で床板が軋んだ音は幽かな響きでも、気配を殺して陰に潜む築宮には聞き逃しようもなかったが、それで飛び上がりもせずに済んだのは、彼が深く切ない追憶に囚われていたせいもあるし、その〈跫音〉《あしおと》より先に届いていた匂いが、〈馴染〉《なじ》み深いものだったからである。  床しく、そして深みのある、芳しい香り。  その本性が香の古木に由来する、琵琶法師の香りに他ならず。 (追いかけて、きたのか……)  一度は終生までと選んでおきながら、振り捨ててきた娘にいったいどんな言葉をかければいいのか、なにも有りはしないと、目前の座敷の情景、背後の気配に板挟みの築宮青年の、頭に掌《てのひら》、不実な男の髪の毛を〈鷲掴〉《わしづか》みにして引き回す、などでなく、優しく愛おしげだったのが、かえって青年の悔恨の心を深くした。髪に潜って、さらさらと撫でてきたのが、詰《なじ》る言葉よりも青年を責めた。 「……厳しい、むつかしい人だったんだねえ……」  築宮に気を遣わせまいとしてなのか、法師は青年とことさらに向かいあおうとはせず、二人の間の事にも触れず、ただ彼の肩越しに覗きこんで、座敷の光景にのみ、感想めいた呟きを漏らす。  過去の追体験で、胸の裡《うち》の許容ぎりぎりだった築宮は、法師が心の底でどれだけの〈苦渋〉《くじゅう》を舐めているだろう、自分に対してどんな〈怨嗟〉《えんさ》の羅列をぶつけたいことだろうと思いはかってたじろがないでもなかったのだが、敢えてそれからは目を背けて、頷いて、小声で、そして自嘲を交えて、 「それでも俺は、あの人を、心から嫌ったりすることはなかった」 「そりゃあ煙たく思ったことはないとは言わないけれど、あの人は俺以上に厳しく自分を律して生きていたから、さ……」 「俺は、あの人がだらしなくしてる姿なぞ、見たことがないと思う」 「それであんたは、  あんなに生真面目だったんかねえ」 「若い男なんてのは、もっとこう……、  いい加減っていうか、  自由なもんじゃないかなぁ」  眼前で展開されている光景が、果たして実体があるものかどうか、築宮の記憶が空間に投影されているものか判別つきがたかったが、それでも座敷の中の二人に憚《はばか》るように、法師と築宮は小声で囁き交わす。 「ひとはひと、  自分は自分と教えられた―――。  他人がだらしなくしているからといって、  自分が同じ風に染まることはない、と」 「しごくもっともな事だっては思うけどさ。  人は清い水だけを呑んでは、  生きていかれないだろうに」 「それでも、そうしようと、  努力することはできる。  あの人は常にそうあろうとしていた」  苦いものを噛みしめるように眉根に皺《しわ》を寄せる築宮を、慰めるように法師は彼の頭を撫で続ける。  その穏やかな手に触れる資格など、自ら打ち捨ててきたのは知り抜いているのに、築宮は法師の慰めを退けることもできなくて、彼女のなすがままに任せた。  座敷に目を吸いつけたまま、背後の法師に振り返りもせずに。 「俺もそれを見習おうとしていた―――  でも、どうしても。  同じようにはできなかったけどな」 「……それで、あんたは、  あのひとが誰なのか、思い出せた?」 「え……? あ、あれ?  どうしてだ? こんなに良く知っているのに、あの人を呼ぶ言葉だけが―――」  自分の中に蓄えられているはずの〈語彙〉《ごい》を総ざらえにする。様々な名前、呼び方を舌の根に転がしてみる。  なのにそれなのに、その年上の女性をどう呼べばいいのか―――  間違いなく知っているはずなのに、既に答えは得ているはずなのに、いざ口にしようとするとそのいずれでもないような気がしてならず、築宮は〈愕然〉《がくぜん》とした。 「―――出てこない―――」  それまではよくよく見知ったはずの、家までへの帰り道を歩んでいたつもりが、気がつくと何の目印もない荒野に放り出されている自分を見出した―――そんな羽目に陥《おちい》ったとしても、築宮はここまで〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》はしなかったろう。それまでは順調に手繰っていた糸が唐突に張りを失い途切れて、築宮は軽い頭痛さえともなった困惑に見舞われ、だから気づかなかった。  背後の法師の気配が、変質しつつある事に。 「ふう―――あんたは、そんななのに。  ここまで来たって、思い出すこと、  できないくせに」  首筋に降りた〈長嘆息〉《ちょうたんそく》まじりの言葉の意味を問うより先に、築宮は戸惑った。というより毒を孕《はら》んだ鉤爪で〈鷲掴〉《わしづか》みされるかの戦慄がひたひたと押し寄せる。  法師の声なのに、なぜこんなに黒々とした、闇の香りを帯びているのか?  いや何故青年は、いまだ振り返って確かめたわけでもないのに、背後に寄り添う誰かを法師と思いこんだのか?            ざわざわ、と。  背なに聞く、数の蛇が絡み合うもつれあうかの異音、擦過音が恐怖を掘り起こし、掻き立てて、振り返ってしまえばきっとそれまで、自分は容易く発狂するのではと硬直する、築宮の背後で。  〈直衣〉《のうし》の襞《ひだ》に溜まっていた翳が蠢《うごめ》き、ざわざわと伸びて、身を覆いつくしていく、墨の色一色に塗り潰していく。あの、恐ろしい割れ般若の面の女の衣の色へと。  膨れあがっていく凶《まが》つ気配の圧力に押され、〈怯懦〉《きょうだ》に固まった姿勢で前のめりになって気死する、その寸前に。 「しつこいよ、お前は!」  安楽に失神することなど許されなかった。  潜んでいた坑《あなぐら》から獲物に襲いかかる海蛇さえたじろがせる疾《はや》さで、築宮の首筋に走り、つかんだ手の剛力、爪の鋭さ、青年の首など〈藁屑〉《わらくず》よりも脆く粉砕しかねない。 「ぐ……ぎっ!?」  頸《くび》の根が肩の間から引き抜かれないで済んだのは単なる幸運か、それとも背後のモノが青年には計り知れない心算から手心加えたものかは知れず、築宮は背後から襲われ、座敷へと引きずりだされてたちまちのうちに。  瞬転の最中に辛うじて視界の端に捉えた貌は、やはりあの割れ般若の面の、琵琶法師の健気な姿に擬態していたのも今やかなぐり捨てて、ざわざわと全身の表皮を〈蠢動〉《しゅんどう》させながら本性をあらわにする―――渡し守。  ああ、やはりと、逆らいようのない剛力に押し流されながら、築宮は鷹に掴まれる小鳥の諦念に覚った。  竈《かまど》の火を眺めて我に返ったあの時からずっと、自分はこの渡し守の掌中に落ちこんでいたのだと。  あの優しく穏やかな日々は、この恐ろしい女の作りだした幻像に過ぎなかったのだと。 「なんにも知らず、わかろうとせず!  ただ流されて!  でも、流されるだけなら、まだいい」 「中途半端に、流れから外れようとして!  そうだ、中途半端だお前は!  なにもかも!」  声音は煮えた泥のように滾《たぎ》り、鋭剣の鋭さで刻み、鉄槌の重圧で打ちのめす。けれども築宮は、抵抗もできず、六尺の背丈と長い手足は物の役にも立たず、綿を詰めた人形のように女の手に良いようにされ、片手掴みに引きずりこまれた、畳の目が擦れて火の筵《むしろ》に転がされたような痛みに包まれた。  叫ぶ隙もあらばこそのあっと言う間に、座敷に引きずりだされ、どんと背を卓に叩きつけられて息が詰まって―――先程まで語らっていたはずの女性と築宮少年の姿なぞ、渡し守の剣幕に吹き散らかされて、もう影もない。  やはりあれは過去の投影だったのかと、築宮が苦しい息で納得する間もなく、ずいと迫った、顔のすぐ上、割れ般若の面と、地の底で燃える火のような瞳。  唇の端が耳まで裂けてまくれあがった歯の鋭さは、下手をすれば築宮を失禁させそうなほどに肝を凍りつかせたし、〈轟々〉《ごうごう》と降り注ぐ息遣いは旧世界の火龍じみて、青年を灼き尽くしかねないほど熱い。 「なにを……あなたが言って、いるのかっ。  それも告げないで、こんな風に俺を…っ」  ―――これの前にも一度渡し守は、令嬢の姿をとって築宮を惑わしたことがあった。  恐怖の質量はその時と変わらず〈厖大〉《ぼうだい》ではあったけれど、押し潰される前に問う事だけはできて、卓に背中を押しつけられ、ぐいぐいと胸元に膝でのしかかるかの渡し守に、辛うじて言い差した、言葉は。 「―――黙れ」  一言、たった一言のもとにはねのけられた。  その声だけで築宮の抵抗の意志など嵐の前の花一輪より脆く摘まれたのに、渡し守は責め手を緩めず、彼女がまとう僧衣の闇の色が、いっそう兇悪さを増して黒ずんだかに見えた瞬間、衣の端が〈瀝青〉《タール》のようにぞわりとほつれ、触手のように伸びて青年の四肢に絡みつき、卓のそれぞれの脚に縛りつけたのだ。  〈展翅台〉《てんしだい》に磔《はりつけ》にされた〈胡蝶〉《こちょう》ならば無惨美も見えようが、四肢を卓に戒められたのが脅えきった男とあれば、ただただ惨め、の。 「だが俺は……ぐぅっ!?」  せめて渡し守に一体どんな心積もりのあってここまで自分を追いつめるのか、それだけは知りたいと、身動きを封じられた恐怖と屈辱の中もがこうとした、その筋肉の緊張を読み取ったのか、たちどころに渡し守の闇の触手は締めつけて、四肢から全身に炎の熱さが走り、心臓には氷の冷たさが無数の針となって刺さる。  なにより渡し守の眼、眼、無限に煮え滾《たぎ》る情炎の迸《ほとばし》りが築宮の気力を根こそぎに、奪い、犯し、蹂躙し尽くす。 「黙れ……黙れ……黙れ……」 「お前は、あの子を追いかける―――」  溶けた鉛のように熱い〈言霊〉《ことだま》だけで、戒められた築宮のすぐ脇を、あの少女の姿が走り抜けていく幻像が現れる。現れては消える。 「あの娘を見て、疎《うとま》しく思う」  次に青年の傍らに浮かび上がったのは、つい先程まで少年時代の築宮と共に座敷に投影されていた、あの女性の姿だ。こちらもすぐにかき消える。さながら、渡し守の中に渦巻く炎の激しい揺らめきを映したかのように。 「あの二人を見ても、  なにもわからないくせに」 「あの二人が―――おんなじだと」  それまでは、馬乗りの女の形を取った、鬼気の固まりから放たれる言葉は、断頭の刃を叩きつけられるようで、ろくに意味など測るどころでなく、築宮の意識を麻痺させ朦朧とさせるだけであったのが、その台詞が彼の心を引き戻した。  今、渡し守は、なんと言った? 「待ってくれ……!  あの子と、あの人が?  まさか、同じ人間だと―――?」 「あの子と、あの娘だけじゃないさ。  この私だって!」 「でも、そんな事はもういい……っ!」  あの少女と、あの女性が同じ人間、それだけでも築宮に予想外の混乱をもたらす。  けれど、そう告げられてみれば、どこかしら面差しに似通ったところが―――いや待て、渡し守は今、彼女自身もまた、そうなのだと言いかけなかったか。  少女―――女性―――渡し守。  〈三位一体〉《さんみいったい》と言われても俄《にわか》に受け入れがたい、歪《いびつ》な連なりの真意を質そうとして、懸命にもたげかけた頭は、どん、とまたしても卓の天板に押しつけられる。  渡し守の生身の相貌は、着けた割れ般若の面よりも恐ろしく、おぞましいなにかに変貌を遂げていた。 「お前がこれ以上あの子を追い、  そしてあの娘の姿に、過去を求めようなんて、もうあたしは許さない」 「お前の旅路なんて、  もうおしまいにしてやる」  ……築宮の上で、渡し守の輪郭が揺らめき、蠢《うごめ》き、影が流れ、闇が渦巻き、まるで噴き上げる内圧に人の姿を保つことが困難になったかのように、溶けては〈蝟集〉《いしゅう》し、また溶ける。  どろどろとした鬼気の流れの中、その凶相だけがひたりと青年に吸いつき、だから築宮には、渡し守がいつ、どこからそれを取りだしたのかはっきり見えず、鼻先に突きつけられても、一瞬なんなのか判りかねた。  〈瓢箪〉《ひさご》、だった。渡し守が常に腰に提げ、酒だの水だのを汲んでいたあの。  そんな場合でなければ、〈鼈甲〉《べっこう》めいた艶はいっそ優美であったろうが、この今はなにかとてつもない危険を孕《はら》んだ、万魔殿の魔鏡の脅威をもって、築宮の顔を歪めてその磨きこまれた面に映しだしていた。 「……お前、覚えているかい?  お前が、死にかけて目覚めたあの時、  最初に口に含んだものを」  死にかけて目覚めた時、すなわち、築宮青年が前後不覚の泥酔で溺死しかけ、この渡し守の河船に引き揚げられた時。  その時、死の淵に凍りつきかけていた、築宮の舌を優しくとろかしたのは。  なんで忘れられようか。  あの、酒とも薬とも不死の果実の汁ともつかぬ、芳《かぐわ》しく甘い液体を。  渡し守が〈瓢箪〉《ひさご》を揺らせば、中で小さな波の音の、ただの水より密で重たげに鳴って、築宮に即座に思い起こさせた。 「今これには、あの時の飲み物が入れてある。あの時お前には、〈回生剤〉《きつけ》と言ったし、それには嘘はない」 「ただし」  渡し守の顔が、対峙しているだけで心が浸食されそうな凶相から、かつて青年を頼もしく導いていた頃の、穏当な相を取り戻す。  ただし、顔だけで。 「〈一度〉《ひとたび》これを呑んだなら、  引き換えに、お前のいちばん大切な、  思い出が―――消えちまうんだけどね」  ―――砕けた。  告げられた言葉は、築宮がこの期に及んでもどこかで信じていた、渡し守への情が、微塵に、砕ける音、の、どこか果てしない遠くから、あるいはこれ以上ないほどすぐ近く、体の裡《うち》側から。 「それ……じゃあ……俺の、記憶は」  今でこそ、築宮には計り知れない成り行きで、渡し守は彼を追いつめる魔と化した。  それは、今でこそ。  旅籠が変貌を遂げるまでは、時に優しく、時に〈辛辣〉《しんらつ》な皮肉まじりに、それでも自分にとって、文字通り、あるいはそれ以上の重みを持つ、水先案内人として頼り、その厚情にすがっていた女なのだ。  彼女もまた、築宮青年に、どこか得体の知れないところはあるにしても、見やる眼差しの底に流れている気持ちは、温かなものだった筈。  その彼女が       そもそもの            はじまりであったと  旅籠に辿り着いてから、どれだけ日を数えたかはもう築宮にも判らない。  その日々の間、日毎夜毎に彼を苦悩に導き、通廊を彷徨させる事になった、過去の欠落。  そもそもその記憶を奪いさったのが、この渡し守だというのか――― 「まさか、あなたが……?」  信じたくないのに、彼女の言葉は事実なのだと、それが隠されていた真実なのだと、全身の細胞が訴えている。  築宮が知る限りでも、この女は様々な不思議を造作もなく操ってみせていたではないか。  なにより優艶にほころんだ渡し守の唇が、全てを肯《うべな》っていて、笑みなのにむしろあの凶相よりも恐ろしく、哀しい。 「……きっとお前は、  なぜ? だの、どうして?  くらいしか言えないんだろうよ」 「そんなの、なんであたしが一々教えてやるもんか。  ああでも、これだけは言っておいてやろうね。あたしが何をする気なのか、さ」 「……お前に、またこれを、  呑ませてやるんだ」 「一度呑めば、大切な思い出をなくす。  そしてもう一度、呑んだなら―――」 「止め―――  ―――くふぅ―――っ!?」  恐怖の舌の音必死に鳴らして、渡し守の得体の知れぬ悪意を留めようとした口は、全て言い終えるまでもなく塞がれた。  彼女の影からまた闇色の触手が伸びて、築宮の口に開口器のように嵌りこんだのだ。  強制的に唇こじ開けられては言葉はくぐもる、いや物が言えないどころか、無理矢理口を開けられて、閉じられないとなれば。  渡し守が、〈瓢箪〉《ひさご》の栓を引き抜く。  軽やかな、どこか間の抜けて、そして築宮から奪い去る音。奪われるものは、なに。 「二度、呑んだなら。  お前は全て、なにもかも忘れるよ」 「自分の名前。  これまで養ってきた、心の動き。  全部なくしちまう」 「あとは、生き人形になって、  ずっとこの旅籠の中、  暗闇の中に閉じこめられる」 「それがお前の、旅路の果てってわけだ」 「―――ハッ」  身動きも、口も封じられ、戦きもがく築宮の、視界の中で渡し守の顔が急に歪んだのはいつしか滲んだ涙のせいでない。  こらえきれないように。  歓喜の極みに、弾けるように。 「アハハハハハハハハッッ!!」  天井を塗り潰すような闇に、垂直に喉を突き立て、両腕を喜びに震わせ、周りの闇を共鳴させ、脆い〈硝子〉《ガラス》なら打ち割ってしまいそうなほどに激しく、狂おしく、顔のなかばまでを〈禍々〉《まがまが》しい口にして、笑ったのだった。 「もうずっと、ここにいるんだよ清修。  この中に、どこにも行けず、  なにもわからず―――  お前と、あたしだけで」 「なんて、ああなんて嬉しいんだろ。  やっとお前がつかまった。  どれだけあたしが、こうしたかったか」 「お前には、わかるまいねえ……」  指先を伸ばして、青年の頬をなぞる。  〈恍惚〉《うっとり》と目を潤《うる》ませ、乙女の息の熱さと香りで呼びかける。  深い想いに満ち満ちた、愛しき者への恋句にしか聞こえないのに。  何故これほどまでに、おぞましい。  どうしてこんなにも、呪わしい。  この旅籠は、あの少女と幼き日の自分の願いを受けて、造り出された世界の筈。  それを渡し守は、築宮と彼女のためだけの、暗黒の〈囚獄〉《ひとや》にしようという。  どこで、ねじ曲がってしまったのだ―――  などて物哀しく状況を〈俯瞰〉《ふかん》していられた場合か!  築宮青年は、こじ開けられた口の中に〈瓢箪〉《ひさご》の先が徐々に押しこまれていくのをどうにか阻もうと、身悶《もだ》えし、叫んで、首を打ち振った。  電気椅子にかけられた死刑囚は、その衝撃と苦痛のあまりに革の拘束具を引きちぎると言うが、今の築宮でも同じ真似はやってのけたろう。  築宮の奮闘を描写すれば、生にしがみつく人間の苦闘の縮図となる。全ての記憶を奪われる事は、その人間にとって死と同意である。  築宮は〈足掻〉《あが》いて〈足掻〉《あが》いて、無駄だった。 「たんと、呑むがいい」  渡し守の呪縛は築宮の全霊の抵抗にもわずかも緩まず、もう後は、舌を口蓋の奥にできるだけ引っこめるだけ、結局はそれも空しく乾いた舌先に、霊液、いや魔の雫が滴り落ち……。 「……なんでお前、いる?」  視界を占める〈瓢箪〉《ひさご》がごとんと重く揺れたのは、渡し守がいっそう力んだためだと築宮には感じられたのだが。  意想外のなにかが、場の流れを乱したらしかった。不意に、のしかかる渡し守の重みが失せる。  千丈の岩の下からようやく逃れ出たかの解放感だが、まだ四肢の戒めはしぶとく残り、首しか動かせない、もたげて見れば、 「うわああ! うあ、あああんっっ!」  鼻先を高速で車が走り抜けた時の、一拍遅れて頬を風の固まりが叩くように撃ちつけてきたのは、泣き声、を通り越して号泣、常の涙まじりの声音より切実で痛ましい。  そんな痛々しい声に横面を叩かれながらも、青年はなにか、繰り返しを繰り返すことで〈滑稽味〉《こっけいみ》を誘うような寸劇を見せつけられたような印象を覚えたという。  なにしろ、渡し守の胸元にしがみつき、その豊麗な乳房をどむどむ拳で打ちつけ、たわませながら、わあわあ泣き喚いているのが琵琶法師とあっては。 (え……? なんだこれ?  彼女には、渡し守が化けていたんだよな?  なのになんで、またいるんだ?)  しかし青年は、この土壇場で〈暢気〉《のんき》に困惑するなど、なにを贅沢を貪っているのだと、それでもどうにか状況を看てとった。  はじめ青年の背後に寄り添った琵琶法師が、彼女のように思えてその実渡し守であったなら、後から現れた法師が―――簡単な引き算ではないか―――本物だ。  ただそこまでは納得できても、なぜ法師が、 「ふぐ、う、う、う、ぁ〜〜〜っっ!」  こんなにも痛切な声を絞り出し、泣いているのか。  〈咄嗟〉《とっさ》に判じかねたのは、築宮ばかりかあろうことか渡し守さえ同じらしかった。 「離れろ……離れるんだ。  なんで泣く。  お前がどれだけ泣いたって、  お前の役は、もう終わってる」 「この今出てきたって、清修は、もうお前と添い遂げるつもりなど、ないよ。  なのに今更、お前は―――」 「――――――それは―――」  やはり渡し守に、当たり前の情など期待するだけ空しいと言うべきか、法師にも青年にも錐より鋭い言葉の針で一穿《うが》ちくれて、〈酷薄〉《こくはく》に法師を突き飛ばそうとしたのに、築宮は息を呑んだ。  あの異妖の女の〈膂力〉《りょりょく》だ。突き飛ばされては畳によろばうどころでは納まらず、障子戸をぶち抜いて闇の彼方に放逐されるか、さもなくば瞳に燃える〈瞋恚〉《しんい》の炎に全身包まれ火柱と化すか。惨劇が及ぶのが我が身だけなら、築宮も最期は観念したかも知れないが、それが他人にまで及ぶとあっては。  それが、一度は情を通わせあった、女にまで及ぶとあっては。  萎《な》えかけていた気力を最後の意志力で燃え上がらせ、四肢の戒めを破ろうとした、なのに、なぜこの呪縛はこんなにも強固だ!?  こめかみに血管を切れんばかりに浮き立たせ、肌が裂けても構いはしないと振り絞った力も、戒めを退けることは適わず―――  それが、不意に緩んだ。  が、築宮の苦闘が実を結んだためではない。 「ふぐ、うええ……なんで、泣くか、って。  そんなの、あんたが、  かあいそうだからだよう……っ」  〈嗚咽〉《おえつ》に〈細切〉《こまぎ》れで、台詞は聞き苦しい、けれども法師の切れ切れの言葉が、渡し守をたじろがせたのだ、信じがたいことに。 「あたしが、哀れだと?  お前は、そう言っているのかい……?」 「だってかあいそうだっ。  ばか、あんたのばかっ。  どうして築宮さんに、こんな事するの」 「そんな事したら、築宮さんは、  もうなにもわかんなくなる。  あんたのことだって!」 「築宮さんのこと、大事なくせに。  大事で、自分のにしたくて、  それでもわかってくれない……」 「悔しいよね、哀しいよね。  わたしだって、この人がわたしのこと、  なんにもわかんなくなったら、  きっと哀しい。泣いちゃうよ」 「でも、だからって、築宮さんからぜんぶ取って、なしにしちゃうなんて、どうしてそんな事、考えられるの……?」 「そんなの、自分のことを忘れられるより、  ずっとずっと、哀しい。  だからわたしは、こんなに、泣く」 「渡し守さん、あんたが哀しくてかあいそうで、こんなに泣いてるんじゃないかぁ……っ」  〈憂愁惻々〉《ゆうしゅうそくそく》と、法師の〈悲憤〉《ひふん》、晩秋の夕暮れの霙《みぞれ》よりも胸に沁み、故郷を逐《お》われただ独り国境を越えねばならない旅人の〈跫音〉《あしおと》よりも心を拍《う》つ、涙の雫は流れとなって、すがる渡し守の衣を濡らす。  天に挑まんとする魔王でさえ、この涙の前には軍勢の脚を一時なりとも停めたろう。  その証拠に見るがいい、築宮を縛りつけていた影の触手が力を失い、渡し守の衣の裡《うち》へと戻っていったではないか。 「お前……いいのかい?」  なおもぐずぐずと泣きべその、法師の顔はけして可愛らしいどころではなく、歪んで、引きつけ、それだけに築宮と渡し守を想う、真実の感情むき出しで、問いかけにも新たな涙の珠を盛りあげる。  渡し守は、そんな法師の頭を掌《てのひら》乗せて、あやすように、〈胸乳〉《むなぢ》の中に抱き寄せる。  その時だけは、築宮青年がまだ信じていた頃の、あの心優しい女に立ち返ったように。  女の涙は男の心を突き動かす秘鍵だとは言われていることだが、法師の涙は珠より無垢で、渡し守の心さえ動かしたのだろうかと、築宮は身を起こし、戒められていた手足をさすって、声もない、そもそも二人には割りこめるような余地もない。 「今、お前があたしをとめたなら、  清修はまた行ってしまうよ?  あの子を追いかけ、あの娘を見るために」  あの懐かしい少女の姿。厳格で、畏怖の対象ですらある、あの年上の女性の姿。  渡し守にここまで恐ろしく迫られても、確かに築宮の心はまだその二つの姿へと向かっている。 「お前からも離れて、行ってしまう。  それでもいいって、言うんだね?」 「うん……。ぐす……っ」  抱き合う二人の姿に似通うところはまるでないのに、この時築宮は、法師と渡し守が、姉妹よりも近しい者のように思えたのである。  築宮には見せまいとして、渡し守の闇の衣に涙を吸わせて向き直ったのだけれど、彼と見つめあえばまた新たな雫が盛り上がる。 「あんたはわたしのこと、  好きになってくれた。  それがどんなにか―――嬉しかったろう」 「だからわたしは、あんたの為になること、  してあげたい」 「追いかけて。あの小さな女の子のこと。  そして、厳しいけれど、あんたのこと想ってる、あの女の人のこと。  追いかけてあげて―――!」 「でもそれは……。  また俺は、君を、君たちを、  見捨てるのか……?」  白々と光を溜めた雫は、築宮の心を重くしたが、それでも彼は、自分がここに留まることはなかろうと悟っていた。  既に令嬢は、もう彼の歩みの航跡のずっと後ろに置き去りにされている―――  ―――そう言えば渡し守は、あの後結局令嬢をどうしたのか―――とりあえず渡し守の態度は今のところ和らいでいても、ここで訊ねるのは、極めて危険な結末を引き出しそうな気がした。  そして令嬢に続き、今度は琵琶法師までも?  一体自分は女たちを何度見捨てればいい?  一体どれだけ自分は浅ましくなれば気が済むのだと、呪うことさえ〈自己憐憫〉《じこれんびん》に過ぎず、それでも青年は〈慚愧〉《ざんき》する他ないので。  〈愚図〉《ぐず》る築宮を、法師は小さく怒鳴りつける。 「まだなんにもわかっていないのに、  諦めてしまうつもりなの!?」  渡し守もまた、法師には静かな眸を向けていたのを、不穏に底光りさせて、築宮に問いかける。 「さて、お前はどうするね?  今回は、彼女の言葉を聞いて、お前を逃したって、いいって気分になってる」 「けれども、お前に行く気が失せたなら、  あたしはお前をつかまえるよ。  そして今度こそ……ね?」 「だから、築宮さん、行って。  これ以上あんたを見てたら、  わたしだって心が鈍る。  やっぱり行かせたくない―――  そう思っちゃうよ……」 「…………」  言葉にしなかった、己の卑怯と〈怯懦〉《きょうだ》を、築宮はきっとこの先何度も何度も呪う事だろう。  言わなければ、自分が決めた事でなく、彼女達の想いに後押しされたからと、〈欺瞞〉《ぎまん》の術を弄《もてあそ》んでいたことに気がついたからだ。 「……行くがいいよ……」  しかし渡し守、彼女がついと伸ばして築宮の頬に触れてきた手は、そんな心の裡《うち》さえも赦《ゆる》すように優しく、真摯で、触れたと見るやすぐに離れ、青年の胸に降りてついと押した。 「うあ……っ?」  墨染の袂に衣擦れの、音一つ鳴らないくらいに緩やかな力だったのに、築宮の体がふわりと後ろ様に流れた、踵も浮いた。  花弁がかかったほどにも感じられなかったのに、押しやられた築宮の体に見る見る勢いがつき、一息に座敷の敷居を飛び越え、旅籠の闇の中に流れ、あの鳥居と〈燈明〉《とうみょう》の水路へ。  座敷の灯りが遠くなり、法師と渡し守の姿も遠ざかる。  そして築宮は見た―――  渡し守が、たとえようもなく邪悪な笑みを浮かべるのを。  浮游する速度は加速度的に増して、声さえも届かず、座敷の様子も闇の奥に消えそうなのに、なぜだか残された二人の声と、有り様だけははっきりと脳裏に映し出された。 『……ありがと。  築宮さんを、行かせてくれて』 『ここは行かせはしたが、また追いかけないとは言ってないさね、これっぽっちも』 『え……っ?  だってあんた、わたしの話、  わかってくれたんじゃ……』 『わかったとも。お前が、あたしの邪魔をしてくれたって事が』 『そしてあたしは、そういう愚か者を、許さない女だよ』  ―――築宮はどうにかして、渡し守を思い留まらせようと手を振り回した。けれど闇の中で掴める物などなにもなく、法師へと差しのべた手は届きはせず――― 『お前が、声を出している間だけは、  清修を追いかけるの、やめてあげよう』  遠ざかったはずの情景が、築宮の脳裏に鮮明に投影されて、それは青年にとって拷問より苛酷な責めとなった。消えろ、と念じても消えてはくれなかった。  渡し守の衣から、また闇の触手が伸びて、戸惑う法師を戒め、宙に吊り上げた情景も、さらに触手が閃いて、彼女の擦り切れた衣を鋭利に斬り裂き、痩せてはいるが女の円《まる》みを健気に具《そな》えた裸身を剥き出しにした情景も、鮮やかに一部の曇りもなく再現され続けた。  不安に言葉失い、血の気を失った法師の〈太腿〉《ふともも》に、渡し守がさっと指を這わせたそれだけで、指の後なりに肌が裂けて、紅い珠が連なって、たちまち盛り上がって筋を為し、滴って、ぽたぽた落ちて。 『これが、清修に抱かれた肌だね……。  お前は、そうやって肌を重ねたってのに、  清修を繋ぎとめる事、できなかった……』 『え……血? わたしの皮、破れて?  え……あ……痛い? 痛い、よぅ……っ』 『もっと、痛くなる。  そして、せいぜい泣くんだ。  お前の声が聞こえる限り、  あたしはお前に構ってあげよう……』  指先を、さらに滑らす渡し守の、法師の肌を裂くことになんのためらいも持たず、それどころか喜悦の笑みでうっとりと、娘の悲鳴を困惑からまぎれもない苦痛へと奏でたてる。  〈太腿〉《ふともも》から下腹へ撫で上げて、子を宿す辺り、女の最も大切な器官の真上で氷上を滑る舞い手のように、爪で螺旋を描いて、とたん、法師の悲鳴もまた螺旋に伸びた。 『き、きひぃぃぃっ!?  おな、お腹の中、ちぎれ……っ。  あ、あ、あーーーーーーっっ』 『ここに、清修の男を呑みこんで、  それでも引き留められなかったお前が、  あたしに行かせてやれ、と?』 『くく、よくも言ってくれた。  お前たちが清修の心をものにしてれば、  あたしは出てこなくて、すんだのに』 『か……は……。  ぁ……ぁ……っ』 『そら、声が細くなってきたよ。  もう声も出ないなら、お前なんてうっちゃって、清修を追いかけることにするけれど』  体の面を裂かれるばかりか、裡《うち》側まで掻き回されるのはどれだけの痛苦となるのか、築宮は想像するだけで〈怖気〉《おぞけ》が走り、その分だけ法師への後悔が膨らんでいき、渡し守への恐怖が濃くなりまさる。  せめて法師の悲鳴だけでも遮断したいと耳覆っても、声は彼の心へ直接響くのだった。 『痛い……痛い……いた、いぃぃ……。  ちぎ、らないで、切らないで、  剥がさ、ないでぇ……』 『ああ、いいね。その調子だよ。  琵琶の語りより、お前の声はこっちが似合う。さあ、もう一声?  その分だけ、清修が逃げられるんだから』 『い、ひぃぃー…………っ』  法師は悲鳴を軋り上げ、絶鳴を漏らし続け、〈呻吟〉《しんぎん》し咽《むせ》び泣き続けた。  それはもちろん苦痛に苛まれたためであったろうが、渡し守の魔が言を信じ、己の耐える心が続く限り、築宮との距離を遠ざけようとする心根から、声を出し続けたのだ。  悲鳴が続く限り、責めも続くと知りつつも。  築宮が〈喪神〉《きぜつ》を願ったのはこれが最初ではないが、この度ほどその〈恩寵〉《おんちょう》を待ち望んだことはなかった。  けれどそんな恩寵など、与えられるべくもなく、法師は渡し守の手によって体を抉られ続け、同じだけ築宮は法師の悲鳴で、心を抉られ続けたのだった。  ……築宮は、法師の苦悶の呻《うめ》きと渡し守の加虐に喜悦する声が渦を巻く中に、加えてもう一すじ、己の絶叫が混ざり、混迷の三重奏を編み出すに至っていたことに、彼自身気づかぬままに声を張り上げていた。  しかしどれだけ肉声で対抗しようにも、渡し守の魔力か、脳内に直接木霊する声なき声を遮断することなど不可能というもので、しまいには声も枯れ果て、疲れ果てた。  そして続くは〈胡乱〉《うろん》な意識、闇の中で目覚めているとも溶けているとも曖昧な意識状況に置かれた挙げ句、とうとう本当に気を失い、再び目覚めるまで殆どなにも知らずに過ごした。  だから喪神にある間、もしたとえ彼の周りで闇が産み落とした夢魔の〈幼生〉《ラルヴァ》が輪舞に興じていたとしても、そいつらが築宮を〈嘲弄〉《ちょうろう》するための悪ふざけとして、渡し守を猿真似し、揃って割れ般若の面を被っていたとしても、築宮には気づく由もない。  横様に倒れ、燐光放つ水路の二叉に、半身浸した形で、水の冷たさに夜尿症の子供じみた、というにはいささか〈尾籠〉《びろう》な夢に悩まされ、全身これ水で出来た水妖の女が絡みついてくるのをもぎ離そうと〈夢現〉《ゆめうつつ》で振り回した手が、やんわり抱きとめられた。  その弾みに目覚めてみれば、豊かで、けれど弛《たる》みなく実った柔肉を押し潰す感触で、築宮は薄笑いしたという。  彼にしてはいささかぞんざいで、投げやりな笑みだった。 「……ああ、今度は貴女の顔なのか。  もういい加減、誰かに化けるのは、やめたらどうだろう」  割れ般若の面の女に化かされること二度に渡れば、どれだけ純朴な青年であっても疑いという防衛本能を呼び覚まして当然だろう。  築宮の傍らに膝をついていたのは、〈艶冶〉《えんや》の曲線を描くタイトスカートの腰、〈豪奢〉《ごうしゃ》な髪は肩に流れて、小首を傾げるの合わせて波打つ。  眼鏡越しの眼差しが、青年の皮肉に合わせて〈諧謔〉《かいぎゃく》を湛《たた》えた。 「そんなところで、  わざわざ水に浸かってうたた寝の様子。  風邪を召すのも馬鹿らしいでしょうと、  声をかけてはみたけれど」 「私が誰で、どこの女ですって?  目当てのご婦人でなかったのなら、  ご期待に添えずあいにく様」 「……腰だけじゃなくって、  もう少し、頭まで浸かれば夢も醒めるかしらね?」 「え……と。  ほんとに、貴女、なのか……?」  目覚めたばかりのぼやけた意識が焦点を結び直すにつれて、自分がとてつもない過ちを犯しているような、そんな危機感に襲われる。  それくらい、築宮を覗きこむ女史は、図書室の鬼女なる司書は、彼女そのものに見えた。  旅籠の中でももとより不穏な噂が付き物なのがこの司書だが、その妖しさは青年が恐れる渡し守とは質を異にしている。  渡し守を構成する闇は、人間の女の昏《くら》い情念の、底に溜まった澱をさらに煮詰め冷ました果てに〈析出〉《せきしゅつ》される純黒の粘体じみており、対して司書は、人外の妖気をまとう。はじめから〈人間〉《じんかん》とは隔たる魔性の者とわかっているだけに、こちらの方が陽性だ。 「貴方が、こんなところで行き暮れているようだから、声をかけたのだけれど」 「まあ、無理にとは言わないわ。  それじゃあね」  タイトスカートの褄《つま》を直しながらすと立った、〈挙措〉《きょそ》がさばけていて、必要以上の干渉は避けましょうの気韻が優雅に漂う。  これには築宮、泡を食った。  令嬢を、そして琵琶法師を、二人の女を後にしてなお、この闇の旅籠では誰かに縋《すが》らずにはいられないと慌てるのは、まぎれもなく彼の弱さなのだが、誰がそれを責められよう。 「……人の眼に、この闇の足元、暗いわよ。  お気をつけなさい」  そのまま踵を返して闇の奥に去ろうとする、司書のあっけなさに築宮、雫を跳ねかして立ち上がろうとして、水に足を取られた、前にのめった。  で、倒れこんだがまた柔《やわ》く、暖かい。  青年の焦りに焦った気配など、彼女には背中越しでも充分届いていたのだろう。  胸の中に抱きとめていた。 「すいません……謝ります。  俺が疑いすぎだった。  だからどうか、行かないで……」  いじましいを通り越して哀れに抱きつく、どれだけ厭《いと》うても弱さもまた、築宮の抜き去りがたい一部分であり、それが今、卵黄じみた脆さで剥き出しになった。  そして司書は、人外の女は、そんな青年を突き離すでもなく、あやすように肩を貸す。  思えば荒野の一つ家に潜んで旅人の生き肝を盗むのも鬼女であれば、深山に棄てられた子供を匿《かくま》い、養う事をするのも鬼女なので。 「はじめから、そう言ってくれればいいのに。おいでなさい。司書室なら、乾いた寝床の、具えもあったから」  ……つい先程までの喪神、どれだけ意識をなくしていたか時間は定かならぬが、築宮の体力はろくに回復していなかったようで、膝が笑ってまた目の前が霞《かす》んだ。  温かな体に触れた安堵も手伝っただろう。  築宮はしばしまともに司書と顔をあわせることも出来なかったのは、疑心暗鬼も恥じたせいもあるが、ようやく頼れる相手と再会できたという気の緩みが、涙腺に直結したからの、男の涙など見苦しいと隠そうとして、それで涙を隠そうと額を押し当てた先が司書のブラウスの肩口では元も子もない。  築宮の涙は薄物の布地を通して司書の肌にしみ、人外の女は慰めるように彼の肩を叩いた、笑みも浮かべて。 「ふふ。大きな子供みたいね。  ……そうよ、清修。  お前はこうやって、あたしに抱かれていればいいんだ。あたし、だけにね……」  けれど、その笑顔。  情にほだされて? 否。  青年の心痛を感じ取って? 否。  そんな優しげなものでない、黒々とした、炎の揺らぎのような、あの割れ般若の面の女と同じの。  では、やはりこの司書と見えた女も、  やはり、青年の疑い通りに―――  ……書架に戻す予定の書物は版型がばらばらで、数が揃うと持ち手に余る。  築宮はいったん書見台に下ろして、近くの書架の数冊だけを取り分けた。  書架の連なりの奥では、司書女史の白いブラウス姿が暗がりに優美に映えて、それが風に流される〈手巾〉《ハンケチ》のように、あちらに見えていたかと思えば別の列にひらり、かつまた3つは隔てた向こうの列にふわり、あるいは築宮のすぐ手前にゆらり、と、我が城を散策する貴族の無造作で図書室を周遊している。  築宮などはどれだけ体重を殺すようにして歩いても、板張りの床が軋むのに、司書の足取りには奇妙なくらいに音がない。お陰で二人で一緒に整理作業をしているはずなのに、青年は実体なき幽霊を伴にしているように思われて、時折無意識のうちに彼女の姿を目で追ってしまうのであった。 「一休み? なんだったら、お茶でも淹《い》れてくるけれど?」  と、声はすぐそばから、手前の書架の角から顔だけ覗かせて、笑みかけられて、築宮はやや〈鼻白〉《はなじら》んだ―――ついさっきまでは、中二階に張り巡らされた通廊を渡っていたはずなのに。だがこの司書は、その手の不思議など着け慣れた装身具よりも自然にまとっている。  さすがに築宮も〈馴染〉《なじ》んできており、深くは構えず辞退した。 「ああいや、それには及ばず。  ただちょっと、どのあたりから整理を着けていこうかと考えていただけで」 「そう? でも棚と段が合っていれば、あまり細かい順序は気にしなくっていいのよ」 「ここ、見た目はこう、大層だけど。  入っている本は肩の凝らないものばかり。  だから、あまりかっちり並べると、  変に畏《かしこ》まって見えてしまう」 「ああ、わかっている。  俺も少しは慣れてきました」  なるほどこの図書室は、造作はどこぞの由緒ある修道院の文書館かあるいは古い大学の図書館めいているけれど、収められている本は中途半端に古い(それ故に時代に忘れ去れた)小説本や物語本がほとんどで、研究者の目を惹くような一次資料や学術書はまばら。研究者の、というより趣味の読書人の本棚を拡大したかの趣がある。  書架の並びもさほど厳密でなく、築宮の目からすれば、この本はあちらの書棚に移した方が適当なのではと考えこんでしまうような配置もないでもなかったけれど、近頃は見逃せる寛容さも身についてきた。それを図書室係の〈怠惰〉《たいだ》と言うまい。  平易な収蔵本、ある程度乱雑な収蔵が、一見すれば重苦しいだけの本の〈厖大〉《ぼうだい》な集積に、近寄りやすい砕けた印象を与えている。 「そうね。実際貴方はよく手伝ってくれているもの。  ……もっとも、私の部屋に籠もりきりだと、ただ退屈なのかもしれないけれど」  と、本棚の向こうからするりと体も出して、親しげに歩み寄って、図書室の奥の司書室に軽く顎を挙げて見せたのが、なにやら意味ありげで。  目元に幽かに艶めいた笑みも浮かんだ。その意味するところに築宮青年は、少しばかり粘ついた情味を催しかけて、苦笑まじりにまた首を振る。 「退屈、だなんてことはない。  俺も本は好きな方なのだし。  貴女といるのだって、俺にはなにより幸せなんだから」 「わかっているわ。  ……私だって、同じだもの」  近頃の築宮は、司書とともに司書室で過ごす事が多い。それもむべなるかな、旅籠での日々を終《つい》の栖《すみか》と定め、旅路の果てに彼女と共にあることを選んだのは築宮だ。  若い男の肉をことのほか好むという図書室の鬼女は、築宮との交わりの中で、精気を一つに溶け合わせ、自ら与え、彼から与えられる至純の境地に、青年の肉を喰らう以上の喜びを見いだした。  そうなっては、青年を手放すような鬼女ではない。それに鬼女、人間の枠を超えておとこ、おんなの情も通えば愛も鼓動とともに脈打つ。  〈爾来〉《じらい》築宮が図書室、司書室に籠もることが多く、人交わりを避けるというのではないが、そもそもここを訪のう客は少ない。自然出不精になりがちではあるが、それは退屈な暮らしではなく、司書と青年にとってはお互い以外には求めるものもない、純化された日々なのであった。  ……ただ性に貪欲な司書は、ふと目が合っただけ、目が合わずとも青年の本読む後ろ姿の肩の線を見ただけ、香り高いお茶に満足の吐息を漏らすのを見るだけで、彼女の情火の琴線に触れてしまうらしく、たちまちのうちに春機発動、時に荒々しく、時に飢《かつ》えたように乳房をはだけ、スカートを脱ぎ去る暇も惜しげに押し倒す、のしかかる、豊かで艶やかな肉をうねらせる。  もちろん青年とて、女史が相手なのだ、淫らに耽《ふけ》るのに否やはなく、一度、二度と果てるだけでは足らず、寝床も整えず司書室の雑多な収蔵物の中で一つの肉に縺《もつ》れ合ったまま、迎えた朝の光は、もう幾たびだろうか。  そうして、書物と、奇妙で不思議な収蔵物と、そして司書との睦《むつ》み合いに織りなされた日々が青年の常態となった。  これまでもそうだったし、これからもそうだろう。  それになにも不足はないのだが、時折物思いの襞《ひだ》の中に、頭をもたげる疑問、というか違和感がある。  この今も、司書と言葉交わすうちにまた芽生えた。  築宮が積んでいた、整理途中の本を幾冊か仕分け、相応の書棚へと運んでいこうとする司書女史へ声をかける。 「……まだどうにも腑《ふ》に落ちないのだけど。  なあ、結局渡し守は、どうなったんだ?」  築宮の中に抜き去りがたく残っているのは、あの割れ般若の面の女の事。  彼女がひたすらに恐ろしくて、必死に逃げていたような、旅籠もこの穏やかな相をかなぐり捨て、異常な闇の帷《とばり》に沈めて、終末という言葉を思わせる無人界に変わっていたような、そんな混沌としたイメージが、いまだに青年につきまとっている。  と足を停めて、振り向いて、首筋に流れ落ちた髪を払って、〈嫣然〉《えんぜん》として、年上の女の頼もしさで、 「まだそのこと?  私は近頃あの人には会っていないから、  よくわからないけれど」 「それでもあの人は普段通りじゃない。  櫂を漕いで、水路を渡って、時にはお客さまを運んでくる」 「あの面はたしかに風変わりだけど、それでもあの人はいい人よ。  ……私とは、少しばかり反りが合わないけれどね」 「そう……だよな。そうなんだよなあ。  なのに俺は、どうしてこうも引っかかる」 「……悪夢、異夢、良夢。  夢には色々あるもの」 「夢……?  じゃああれは、夢だったと?」 「そう言ったのは貴方よ。  寝汗でびっしょりになって、目を覚まして、ごくごく喉を鳴らして水を呑みながら」 「きっと根性の悪い夢魔でも、  どこかで拾ってきたんでしょうよ」 「まったく……よくよくあなたは、  妖につきまとわれるたちだこと」  判りきっているはずの道理を根気強く説き聞かせながら、築宮の傍らの卓に横座りにしたのはお行儀に外れるが、この女がやると男心をそそって艶めかしい。  そして築宮も、そうと言われるとはっきりとは言い返せず、むしろ何度も繰り返されることで安心して、それもそうだなと頷いた。  もとより、司書の言う通り、この旅籠に来てからどうにも妖《あやかし》と行き遭うことが多い。  妖《あやかし》といって、大抵は害もなく、化かされても悪戯程度で笑い飛ばせるのがほとんどの、ただ時には洒落にならないのもあって、のっぴきならない羽目に陥《おちい》りかける時もあるにはあるが、見透かしたように司書女史が現れて、埃でも払うようにたやすく〈調伏〉《ちょうふく》する。  そんな覚えも手伝って築宮は、そういうモノかと安堵し納得することにした。不安になったらまた司書に話せばいい。そうすれば司書はまたかと苦笑まじりで、それでも何度だって言い聞かせてくれる。  それでいい、なにも案ずることはない。 「自分ではそんなつもりもないんだが。  というより、貴女といるとそういう不思議がよく起こる」 「俺が、ではなく、貴女が引き寄せているのでないか」 「おや、言うようになったこと。  そんなことばかり言ってると、  いつかたっぷり、いじめてさしあげるんだから」 「そいつは勘弁……貴女がその気になったら、俺など簡単に壊れちまいますよ。  どれ、〈迂闊〉《うかつ》な口はこれくらいにして、この本だけ片づけてしまおう」  なかば冗談めかして、でも本気の畏《おそ》れも幽かに覗かせて、首をすくめながら先ほど取り分けた本を手に、ざっと書架を視線で撫でる。 「その本だったら、四列向こうの棚ね。  確か、一番高い段に入ってたから、  無理なようだったら、私が」 「いや、それにも及ばず。  大丈夫です、このくらい。  脚立もあるし」 「そう? それなら貴方のいいように」  ……二人の会話が一時の句読点となったけれど、途切れてみれば図書室は千年前からそうであったように静かで、舞いあがった埃が、程良く宥《なだ》められた光の中でゆっくりと遊泳している。がたごとと脚立を引き出し、書架に差し掛けて、体を押し上げて、ふと見下ろせば、脚立の足を抑える、というにはいささか〈放恣〉《ほうし》ななりでもたれて司書が、築宮の仕事ぶりに満足そうに目を細めている。 「その……なにか?」 「いえね、貴方の書物の扱いも、だんだんと堂に入ってきたみたい、って」 「そりゃまあ、こうやっていつもあなたに付き合っていれば。  門前の小僧、習わぬ経をなんとやら、ともいう」 「それに、人が来ない図書館の、  司書というのもなかなかに悪くない」 「……まだ司書と言うより、  せいぜいその見習いというところ」  喉の奥の忍び笑い、といって築宮を嗤《わら》ったのではなく、共にあることを選んでくれた男への〈惚気〉《のろけ》であることは青年にも通じていて、けれど、だから青年の書物を扱う手が少しばかり乱雑になった。  司書との交わりで少しは練れてきたものの、やはり男女の戯れ合いには気恥ずかしさが先に立つのが本性の青年である。  これ以上司書の目を覗きこんでいたら、仕事にならなくなりそうだし、なにより向こうが妙な気持ちを催さないとも限らない。それはそれで歓迎したいところだが、まずは済ませるべきを済ませようと、築宮は手を速めた。  と、最後の一冊は続き物の末巻で、収めるべき空隙は書架の一番高いところの一番端にある。手足の長い青年でも、うん、と伸ばして届くかどうか。  えい、一々降りて脚立を据え直すのも面倒くさいと、短絡して、足場の上で踏み替えて、踵を浮かせた。 「こら、貴方、〈横着〉《おうちゃく》しない。  危ない……っ」  短音で言われるまでもなく、築宮の体は案の定均衡を逸《いっ》した。やはり見やすく無理が祟って、築宮はどうにか体を持ち直そうとしたのだけれど、狭い足場の上では踏んばる余地もない。  捧げた書物の先が何度か空しく宙を掻き、さっと反射的に空いた手も伸ばしたものの寸前で届かず、あっけなく、たちどころに踏み外して、あっとも喚く暇もない。  視界が流れて床が迫った。  頭だけはと咄嗟に両手で庇《かば》って、転落の衝撃に身を硬くした、築宮が落ちたのは、しなやかで、柔らかい。  固いところに叩きつけられると、必死で首を竦《すく》めていたのに訳がわからず、怖々と瞼を上げれば、頬を〈豪奢〉《ごうしゃ》な髪がくすぐって、綺麗に磨かれたレンズに自分が映りこんで、鼻先に良い香りが薫って、芳《かぐわ》しい中にも古紙の匂いが混ざって。  上背のある築宮の体は、床にではなく司書の胸の中に受けとめられて。  それもあの、両腕を背中と脚に下から回す、お姫さま抱きという形である。  けして痩せているわけでもなく、骨も肉も隆とした、大の男を落下の荷重もろとも軽々抱きとめるのが、この図書室の鬼女ならでは。 「ああもう。  いったん降りて、  脚立を動かせばいいでしょうに。  〈横着〉《おうちゃく》をするから、こうなるのよ」 「す、すまない」 「そう言えば、貴方と初めて逢った時にも、  こんな風だったっけ」 「そう言えば、そうのような。  ……あの、それで。  そろそろ降ろしてほしいのだけど」  また同じ事の繰り返し、けれどあの時と今では二人に通う情の濃さが違う。  照れもあったし要らぬ迷惑をかけたの心苦しさも、それから体に押しつけられた豊美な肉の柔味が、築宮をあの時よりもっと落ち着かない気分にさせた。  あの時はこの鬼女と今のような縁を結ぼうとは考えだにせなんだのに、もう自分は彼女のこの美事な体の、服の上からだけでない、弾力も味も知っていると、こんな状況なのに想ってしまって、たちまちに血が上る心地したのである。  重ねて詫びながら、無礼にはならない程度に力を入れて、司書の胸から降りようとした、のに、彼女の腕《かいな》はより深く青年を抱き寄せた。  〈怪訝〉《けげん》に見れば、司書の眼差しの、〈諧謔〉《かいぎゃく》を上塗りしていく濡れ濡れとした光のある――― 「……ん。なんだか、貴方を下ろすのも、  ちょっともったいなくなってきたわね」  くん、と築宮を移動感覚が包んだ。  抱かれたままで、姫抱きのままで、司書が歩き出したのに面喰らいはしたけれど、彼女がなにを思い立ったのか、築宮には感じ取れるので、なにしろ鼻先に漂う匂いが密になり、女の素肌をあからさまに想わせる。  既にお互いの肌味を知る同士の者のこと、必要以上に身を近づければ情火も灯ろうし、勢いというのに流されもしよう。  しかし、と築宮は狼狽えた。 「待ってくれ、まだ整理は済んでないし、  なんでその、いきなり急に」 「私、ふとした弾みでその気になるなんて、  よくある事じゃない。  貴方だってご存じでしょうに」 「それに、整理なんていつだってできる。  時間はたくさんあるものね、私たちには」 「それに、午後は長いわ。  休憩を入れたって罰は当たらない」 「休憩というのは、  普通体を休めることであって……」  などて受けるあたり、築宮青年、奥に連れこまれてこれから、書物の整理などよりある意味もっと苛酷に(同時に甘美に)肉体をいじめ抜くことになるのを、既に予想している。  花の蜜に溺れる虫というのは、はじめもがくか知れないが、途中からは進んで濃く甘い蜜に悶えるのではないか。と青年はまた司書の胸元を押しやろうとしたけれど、その手あがきもなにか〈睦言〉《むつごと》めいていた。なし崩しの了解が成りつつある。 「いいのよ、貴方はじっとしていて。  私がぜんぶしてあげます」 「だって今から、その、したら、  貴女は午後が夜になったって、  朝になったって……。  それはいくらなんでも、だらしないじゃないか、俺も貴女も」 「あら、朝まで付き合って下さるつもり。  それをだらしないというのなら、  喜んでだらしなくなりたいものね」  性にためらいのない人外の鬼女だ。ひとたびその気になったら収まるものでない。  そら、大人一人抱えているとは思えない、軽々として淑やかな足取りながらも、書架の合間をすらすら進んで、司書室の扉はもうすぐそこに。  青年の抗議に茶々をいれて、余裕めかしたが、その実司書の息遣いに乱れが窺える。  といってけして青年が重いからではなく、快楽への期待に胸が弾んでるのは、築宮の顔を愛でる眼差しと、ちらりと唇を舐めて紅い、舌のそよぎで判るではないか。  顔つきどころか足取りの中、内腿を摺《す》り合わせるようにしていて、どうやら司書の女は、気早にも潤《うるお》いだしているらしい。  築宮を抱えたままでどう開けたのかは知らぬが、司書室への扉を抜けた時には、もうはっきりそれと判るくらい焦れた様子になっていたし、スカートの裡《うち》側からは猫が乳を啜《すす》るような音さえ。  事こうなっては、築宮にも、彼女の性癖から逃れようと言うつもりは失せていた。  彼だって当てられて引きずられて、情欲の滾《たぎ》りを覚えはじめていたのだ。  喰われるか、どうかの〈端境〉《はざかい》を越えて、司書と共に旅籠に残ることに決めた築宮である。  人外の風変わりな愛し様も、彼にとっては親しく、愛おしいものとなっていた。  ああやっと、と扉が閉じられ、さあすぐに、と卓に下ろすのももどかしく、服を取る間さえ我慢できないと、獲物を前の捕食者じみた勢いで、司書が築宮青年にのしかかる―――                 寸前で。 『……セイちゃんは、この図書室に、いることにしたの?』  幼い声、まだ声変わりも迎えていないような、なのにどこか大人びた、呼びかけは二人の痴情を窘《たしな》めるというより、青年の意志を優しく確かめているようで、空耳と間違えてしまいそうなくらい細かったのに、けして空耳などでない。  司書さえ動きを止めて、青年が跳ね起きて、閉じる寸前の扉の隙間に飛びついた、高まりつつあった情欲は氷のように冷却され、叩きつける勢いで扉開ければ、もう、見えない、いや見えた、書架と書架の隙間に、かろうじて、ひらりと翻《ひるがえ》り、ふわりと空気を孕《はら》んで、幻じみて白い、スカートの裾。幼く細い脚。 『図書室係になったのね。  それがセイちゃんの選んだ、おしごと。  だったら私は―――  それでいいって、思うよ―――』  ―――青年が追い足の一歩を踏み出すより先に、少女の背中は書架の並びと背表紙の大海の中に消えて、元から幽かだった〈跫音〉《あしおと》も、図書室の静寂の中にもう溶けて、どんなに耳を澄ませても拾えやしない。  そして築宮青年は―――  途方に暮れたのだ、心の底から。  少女の背中が見えなくなって青年が味わったのは、途方もない喪失感。  それまで目標としていた物に突き放され、自分のあるべき位置を見失ったような、そんな頼りなさ。  言葉を失い立ちつくしていると、鬼女がそっと腕を絡めてくる。身を寄せてきた体は変わらず暖かなのに、言葉は哀調を帯びていた。  人間を見送ることに慣れてしまった、人外の声だった。  その声で青年は、自分の中に渦巻く衝動がなんなのか、認識したという。 「追いかけるつもりね、あなた」 「そんなことは……」  言い差して、上辺だけの言葉など押し潰すほどの願いが喉を詰まらせる。  そう、なのだ。  追いかけたい、追いかけてあって話をして、それからどうするのか、そんなことを考えあぐねるより先に、ただただひたすら心の底から追いかけたい追いかけたい―――! 「いや、貴女相手に嘘はつけない。  すまない、俺はそうするしか―――  思いつかない」  己を殺してやりたいほどの憎しみと、それを超えて少女を求める心で引き裂かれながら、呟いて、唇を噛みしめて、血の潮を舌に、涙の情けなさを眦《まなじ》に、それでも、呟いて、告げた。言いきった。  それしか、言えなかった。 「私がもし、行かないでと願っても、  聞いてはくれないの?」  絡めた腕を解かず、ただ憂愁を眼差しの色を深くして、司書は青年に訴える。  が、訴える言葉の中に、諦念が入り交じっていなかったか。築宮の耳が自分勝手な解釈しただけでない、事実として、諦めと哀しみを秘めた声でなかったか。 「……すまない……」  これ以上問答を続けていては、別れが辛くなるだけだと、築宮は無言で苦渋の表情を浮かべ、絡んだ司書の手から、そっと、そして残酷に、身を離した。  もしその心あれば、築宮青年など捕まえて離さぬは愚か、紙よりもたやすく引き裂く威を秘めた鬼女の手は、けれど青年にまた触れることはなく、少し、ほんの少しだけ震えを帯びて、それでも―――青年から、離れた。  ―――そうして、司書は青年が走り去っていった方へ、〈悄然〉《しょうぜん》とした風情で肩を落とし、いつまでも俯《うつむ》いて立ちつくす様子であったけれど、やがてその背中に幽かな戦慄が走った。  戦慄はさざ波となって彼女の肩を震わせて、顎の先には涙の雫も伝わろう、の、まさしく〈愁嘆〉《しゅうたん》の悲哀が相応しいのに。        笑って、いたのだ。  司書は、笑っていたのだ。  否、司書と言うべきなのだろうかその貌は。  その目は、その気配は。  磨きこまれた眼鏡の鏡面が、煤《すす》を塗りこめたかにくすむ。  瞳は漆《うるし》を置いたように黒く、光を吸いこみ、笑みに歪んだ唇は、おぞましく、暗く、鈍く重く―――  その笑みは、顔の造作こそ違え、存在の本質において渡し守と同じだった。 『俺が聞きたいのは、  そんな事なんかじゃ、ない―――!!』  たとえば目前に不可視の壁があって、それを砕かんばかりの勢いで撃ち出された怒声であり、築宮は思わず耳を塞ぎたくなったものだが、無理な相談であった。  怒りに唇震わせ、なりふり構わずに怒鳴り散らしているのは築宮青年本人なのであったから。  しかし怒り心頭に発し、荒れ狂う感情の波に任せて抑えようともしない青年と、それをどこか、覚めたような困惑したような眼差しで眺めている青年がある。  一つ体に、二つの〈乖離〉《かいり》した意識がある。  〈乖離〉《かいり》していながら、根底は一つである二者がある。  一人は、端座して向かい合う女性に〈憤怒〉《ふんぬ》の声音をぶつけてなお足りぬ、築宮清修という名の青年。  もう一人は、怒鳴りつける青年の中に在って、異なる記憶の流れを有している、こちらも同じ、築宮清修だ。怒り猛る青年の中で、裏腹に戸惑いながら築宮は、自分は一体何故こうしているのか、記憶の流れを辿ろうとする。 (そうだ俺は、確かあの女の子を追いかけていて……)  図書室での別れが氷の針のように鋭く、炭火の固まりのように鈍く哀しく築宮の心を不甲斐なさに苛む。それでも少女を追わずにいたならば、その〈渇望〉《かつぼう》に焼かれて狂死しかねない、それほどまでの感情の質量であり、図書室から、なにより司書女史から逃げ出し、走り出した。  そんな築宮の周りで、一歩、また一歩と走るにつれて旅籠から人めいた明かりは失われ、闇が濃くなりまさり、気づけば世界はまた無音の闇に押し包まれていた。  確かなものは己の鼓動と、蹠《あしうら》から突き抜ける疾走の衝撃とそして、闇の果てに消え、かつまた現れてはまた消える、少女の後ろ姿のそれのみ。 (令嬢……琵琶法師……そして図書室の鬼女……俺は何人の女性を裏切った?)  図書室での古書と収蔵物と鬼女の柔肌と体液にまみれた日々、蛇の交わりのようにぬめつき、風変わりではあるけれど、それでいて確かな愛情に満ちた時間は、結局のところ一時の〈眩暈〉《めまい》のようなものに過ぎず、判っているのは築宮の真実はいまだ闇の中に隠されているということ。  追い求めるには代償を、旅籠で出会った女たちとの日々というあまりにも大きな代償を払わねばならず、それでも築宮は、衝き動かされて走り続けた。それしかできなかった。 (追って、追いかけて、  今度こそ近づいたと思った。  手を伸ばして、その背中に触れさえした。  なのに俺は、何故こうやって、怒っている? 喚いている? こんなにも見苦しく)  築宮の願いが、それまでは近づけば遠ざかり、遠ざかったと見れば〈陽炎〉《かげろう》のように目の前で揺れている、そんなもどかしい夢のようだった距離を貫いてついに届いたか、追いかけた果てに彼はとうとう少女の肩に手をかけられるまでに至ったのだ、と、思ったのだ、その時は。  ところが少女の薄く軽やかな服の布地を、掌《てのひら》に感じたと見るや、築宮の意識は上下左右前後、全ての方向に同時に引きずり回されたかの激しい衝撃に見舞われ、その後は―――  目の前の女性に対して、怒りのまま猛り狂う自分を見出したと、そのように築宮の意識は知覚し、認識した。怒声のあまりの勢いに、それまで〈胡乱〉《うろん》だった意識の回路が繋がったような、そんな塩梅であるらしい。  ただ己を己と認識する心は在っても、今の彼の肉体を支配しているのは、女性に怒鳴り散らしている築宮の方であって、少女を追いかけていた築宮の方は、自分の蛮声を留めることもできず、業火に身をちぢこめるようにして、体の片隅に身を潜めているくらいしかできない。 (どういう事だ、これは。  俺は、俺という体が、この俺という意識を片隅に残して、異なる時間に放りこまれたとでも?)  無理矢理に説明するなら、そういうことなのだろうが、その原理を解く理屈などは到底付けられず、築宮は自分の蛮声を聞き続けるくらいしかできそうにない。 『どうして貴女はそうなのか―――  その、涼しい顔で、俺を見て、  正しい言葉で俺を諭す。  けれどそれが、どんなにか俺にとって、  重かったか、苦しかったか……!』  一つの心の中で二つに分離した一方の、旅籠での日々を経てきた築宮は、自分がそんなに怒りをあからさまにして声を荒げる事があったとは、なかば信じられず、それでいてやはり心は共鳴していた。  それくらい、対峙する女性の存在は、彼にとって圧倒的だったのだ。  女性―――琵琶法師から逃げ出した先の座敷で〈垣間見〉《かいまみ》た、あの年上の女性。あの時は諭され窘められ、〈項垂〉《うなだれ》れるばかりであった自分が、この時はついに堰が破れたのだ、破れたと見れば後は留められるものではなく、奔流となって荒れ狂ったのだ。  築宮の口調は〈憤激〉《ふんげき》に尖って、浴びせかけられる者の頬に虎の爪痕のような傷さえ刻みそうであったけれど、それでも対峙する女性はひるみもせず、〈毅然〉《きぜん》と端座していた。  むしろ、激して口角泡を飛ばす青年の方こそが、静かに追いつめられているかのような、そんな雰囲気さえあった。 『もう厭だ!  貴女の言うことはいつだって正しい。  でも俺は―――』 『その正しさには、もう耐えきれない。  貴女を見ていると、  貴方の言うことを聞いていると俺は!』 『自分がひどく惨めで、卑《いや》しくて、情けなくて、能無しの、生きている価値もない、そんな生き物にしか思えなくなる……』  激し、怒り狂っていたとしてもそれは、壁際に追いつめられた鼠の狂乱であり、青年の心には怒りの〈昂揚〉《こうよう》どころか惨めな敗北感の苦味が、言葉を吐き連ねるたびに充満していくのだった。  対して女性は、端座を崩さず、膝頭に置いた手に揺らぎも見せず、〈波濤〉《はとう》の中に〈厳然〉《げんぜん》と〈佇立〉《ちょりつ》する偉大なる古の神像のように、築宮の怒りを受けとめ続けていた。透き通って、〈怜悧〉《れいり》な眼差しのままで。 『自分を卑下するのはやめなさい、清修。  私は、自分をそんな風に卑《いや》しめる物言いは、好まない』 『清修、お前がどう思おうと、  お前の値打ちは私が知っている。  お前は、私にとって、なにより大切な』 『やめてくれええっっ!!』  怒声と言うには魂千切れんばかりの恐怖に満ち満ちた、底無し沼に呑みこまれる鼬《イタチ》顔負けの、それはまぎれもなく悲鳴で、青年はこの時心底から恐れおののいて、甘く濁った腐臭の塊の中に押しこめられるよりももっと、ずっと、恐れおののいていたのである。  青年にだって、己の掌《たなごころ》を指すよりまだ平易に理解できている。  女性が、彼をなにより大切に想っていることなど、判りきっている。  そしてその事実が青年にはなにより―――  重い。苦しい。切ない。  無制限の愛情、代償など一切求めず、ただひたすらに青年の為、女性にとっては青年が全て、そんな愛に抱かれ、包まれて青年は、むろん幸福であったろうとも。  ただその幸せは、真綿で限りなく優しく首を絞める行為と相通じていたし、そのままでは青年をして狂を発するしかないくらいに追い詰める、そんな底知れない深みを秘めた、幸せという名の緩やかな死といって過言ではなかったのだけれども。  ……悲鳴の終わりを畳表に叩きつけた拳で締めて、後は言葉にも出来ない感情のマグマで満面濁《にご》った赤にして、脂汗で滑らせている青年に、女性はどこまでも冷静だった。 『お前が荒れているのも、それは当然でしょう。いいのよ、清修、私に全部、ぶつけてしまうといい』 『違……そうじゃ、ない……』 『この家には、私とお前の二人きり。  誰憚《はばか》ることもない。  ねえ清修、悔しい、情けない、歯がゆい。  お前のそんな気持ち、  今、ここで全部、吐き出して』 『そういう想いは、自分の中に溜めこんでしまうと、身に害にしかならない』 『俺が言いたいのは……、  そういう事じゃなく……』  自分が軋り上げた悲鳴に気力を持っていかれたか、制止の言葉に先程までの怒気は薄れ、女性を留めるまでの力はなく、そして彼女も築宮が虚《うつ》けた状態に落ちこむまで呼吸を測っていたのか、落ち着いて、そして逆らいがたい威厳の籠もった言葉を、〈滔々〉《とうとう》と切らさず、反論も許さず。  その、静かな言葉が、〈蠱物〉《まじもの》のように青年に絡みつき、呪縛し、箱詰めにされるよりまだ苦しい心持ちにと、また彼を追いこんでいく。  四方八方から、無形の檻となって青年を囲い込んでいく―――  やがて、鋼の罠の顎《あぎと》が獲物を捉えるにも似て、言葉が、女性の心が、築宮をがっきりと、逃げることなど到底不可能な強さで、 『それに、お前の面倒を見ることは、私にとって苦にはならない。  仕事が決まらなかったって死ぬ訳じゃないのだし。こう言うときに、焦りは禁物なんだから―――』  捉えた。捉えてしまった。  だから築宮は、また、悲鳴を挙げた。  今度は言葉の形すら為さぬ、どこか大切な部分が、優しくこわされてしまったような、そんな悲鳴だった。 『あーーーーーっっっ!  あああーーーーーーーっっっ!!』  悲鳴と共に正気までもがずるずると口から滑り出し、ついには魂の全てまでもが失われていく、そんな悲鳴を息の続く限り、いや息が切れても、唇の端が切れそうなほど押し開き、鳴らし続けて築宮は、どうして自分がこんなにも怒り狂ったのか、そしてこの後自分がどうなったのか、『思い出した』。  ひどくみじめな敗北感の泥にまみれて。  ―――学生時代の終わりを迎え、周りがそれぞれの進路を決める中、築宮は自分の身の振り方がいまだ見いだせないでいたのだ。  ありていに言えば、就職活動に失敗したのである。これ以上ないくらい無残な敗北を見たのである。かといって築宮が〈怠惰〉《たいだ》に学生生活を過ごしていたからではない。  むしろ彼は、その年頃の若者としては希有なほど真剣に己の未来を見据え、進路を定めるべく〈奔走〉《ほんそう》していたのだ。  しかしその努力も不発に終わった。彼だけが悪かったわけではなく、時勢も厳しかったのだろう。  とはいえ、それで社会的には相当物哀しい立場である就職浪人と成り果てた事実の前ではご時世がどうこうなぞ慰めにもならず、築宮は荒れたのだ。無様と自覚しつつも、心が荒んでいくのを留められなかったのだ。  そこに、女性の言葉がとどめを刺した。  女性としては、ただ失意にある青年を慰めたかっただけなのかも知れない。  今は雌伏の時であり、力を蓄えておくべきだと、そう言いたかっただけなのかも知れない。しかしそれが、築宮の逆鱗に触れた。  ―――面倒なんて、もうこれ以上見てもらいたくない。大体、『面倒』ってのはなんだ。自分と暮らすのがそんなに面倒だったのか。  ―――決まらなかったからって死ぬ訳じゃない?  ―――じゃあ死にさえしなければ、俺などどうなってもいいと言うのか。  ……すべて、女性への劣等感の噴出だった。  その時女性は既に職を持っており、誰がどう見ても立派な一人前の人間だった。引き換え自分はどうだ。女性にぬくぬくと養われ、自分一人では社会的に自立も遂げられない半端者。思えば自分が学生時代、あれほど必死になって自立の道を探していたのも、この女性の〈庇護〉《ひご》の下から逃れたい一心でだった。  確かに彼女の愛情のもとにあれば、生きていくだけなら生きていかれる。けれどそれでは駄目なのだ。自分という一個の人間がどこにもないではないか。  そんな、早く大人になりたいという哀しい焦りが、青年を苛立たせ、心ない言葉を吐かせた。喚いている最中にも、彼の胸の中で後悔がとめられなかった。  違う―――本当はこんなことが言いたいんじゃない。  貴女にこれ以上苦労を掛けるわけにはいかないのだ。  貴女の人生を、俺のために食いつぶして欲しくはないのだ。  本当は、そう詫びたかったのに―――  また女性が、青年が理不尽にも当たり散らしているというのにも関わらず、始終冷静なのがまずかった。慰める言葉も理路整然と筋が通っており、こんな風に〈激昂〉《げっこう》したところで状況はなにも好転しないと諭し、落ち着かせようとした。  それさえ築宮の怒りに火を注いだ。この女性にとっては、自分など感情を爆発させるほどの値もない人間なのだと、言外にそう告げられたような気がして。 (それから俺は、家を飛び出して、そして)  そして青年は、ついに家を飛び出したのである。女性の〈薫陶〉《くんとう》で、酒は呑んでも乱れることのないように己を御してきた彼が、この夜初めて意識が溶けるまでに泥酔した。  安酒場に飛びこんで破滅的な飲酒にずぶはまりとなり、酒精にとろけた思考で決意したのである。  もう自分はあそこにはいられない。  行きたい―――どこかに。  どこか遠いところに。  あの女性がいない、どこか遠くに。  さもなくば、いっそ死んでしまうか―――  そんなことを、酒場からふらふらとまろび出て、当てもなく〈彷徨〉《さまよ》った挙げ句に行きついた橋の上で、流れ渦巻く暗い川面を見つめながら、どこか、彼女がいないどこかへと、そればかりを念じ続けたのだ。  暗い水の流れは青年を引きこむようであり、酔いが回った体は平衡感覚などとうに失っており、川面へと身を乗り出していた彼はついに―――  橋の手摺りを支点にして一回転し、そのまま落水したのだった。  運悪く川は前日からの雨で増水しており、酔い腐れた青年は泳ぐもままならず〈濁流〉《だくりゅう》に呑まれた。後は渡し守が語った通り。  そんな、ありふれて、俗っぽく、かつ下らない一部始終が、築宮が旅籠に辿り着くに至った、事の〈顛末〉《てんまつ》の。  正気の栓が抜けて、悲鳴をだだ漏らしにするばかりの肉の袋となり果てた青年の中で、築宮もまた〈慚愧〉《ざんき》のあまり声なき声、意識の絶叫を噴き上げていた。  こんな情景など目にもしたくもないというのに、彼の体はもう一人の自分にいまだ支配されてあり、そちらの築宮と来たら、喚くばかりで目を閉じることさえ忘れている始末。  だから見続けるしかなかった。  自分にどこまでも理解に満ちた眼差しを注ぎ続ける女性を、その容《かんばせ》を。  その目、その鼻梁、唇、なにもかも。  築宮のみを想い、案じ、見守り続ける。  どこまでも深い想いに裏打ちされたその顔が、築宮の中である顔と、重なる――― (―――!) (この、人は―――!)  閃雷の如く心に走った理解があった。  この女性は、この女性こそは、あの少女、築宮の前に現れては〈渇望〉《かつぼう》と憧憬と懐かしさで彼の中から他の感情を全て追い出したあの少女が、長じた姿に他ならないのだ、と。  〈愕然〉《がくぜん》となったのも無理からぬところの、あの少女とこの女性の間になんの共通点がある、と疑う気持ちは、女性を見れば見るほどに薄れ、確信に塗り潰されていく。  その面差し。  少女の頃の未熟な柔らかさは、成熟して端正に美しく整えられ、そして無邪気さは失われて、替わりにまとったものは築宮を縛りつけるあの、冷静で厳格な態度。  けれどもいったん認識してしまえば、もう見間違えようはない。  女性は後の少女の姿であり、そしてもう一つの――― (あの子とこの人が、同じってだけじゃない。俺は、知ってる……もう一人、いる)  兆した疑念を質すため、築宮は寸前まで目を逸《そ》らしたいと切望していた女性の顔へ、再び注意を向け直した。  途端。 「はい、そこまで。  これ以上昔の自分に流されていたら、  戻れなくなるわよ、貴方」  不意に視界が塞がって、声で、というより鼻先に届いた、よく着け慣れた革の匂いで築宮は、それが誰かを覚った。  目は塞がれても匂いで色が判るような、品の良い茶色の革手袋の、旅籠でそんなのを着けている女性とあれば。 「貴女……なのか?」 「ええ。他に誰があって?  ……さ、もう、大丈夫」  芝居の幕間の帷《とばり》を巻きあげるやりかたで、ゆるゆると築宮の目を塞いだ掌《てのひら》も除けられ、見遣れば傍らには白いブラウスとタイトスカートの艶麗な姿、次に視線を返して卓の向こうに、女性が座っていた辺りを眺めれば。  誰も、いないのであった。  畳表が濡れたように光って、障子戸が素知らぬ顔して白けているばかり。 「じゃあ今のは……」 「貴方の『昔』が、幻燈みたいに映し出されていただけのこと。  この今、起こったことでなく、過去にあったこと」 「でも、見なかった方がよかった……。  そんな貌をしていてよ、貴方」  ああ、と頷いた、喉の奥にはねばねばしたものが絡んで悪心地、心中の濁《にご》りも一緒に吐き出すように築宮は咳をする。  司書がなぜここに、と訝《いぶか》しむ気持ちともに、いてくれてよかったとの安堵を抱いて、すぐに自分の身勝手さにまた嫌気を催す。  自分の事を追いかけてきてくれたのだろうが、彼女にそこまで想われる資格などないのはよくよく知り抜いている。  あるとすれば、人外に不実を為した引き換えに、脇腹あたりからじわじわと、全身囓られるの刑くらいで。  が、司書は牙も剥かず爪を尖らせもせず、眼鏡の眼差しを伏せ気味に、青年を案じる顔さえ浮かべてみせたという。  人外というのは、ある意味人より優しく健気なのだと今更に思い知って、その心根は、しかし今の築宮には針でこしらえた衣よりも痛く辛い。  そんな風に心配りを受けるほどの自分ではないのだと、既に思い知らされていたから。  つい吐き捨てた、自嘲の笑みで、卑屈に歪んだ唇で。 「あんなのが俺が川に流されて、そしてここに辿り着いた、その経緯だったってのか……」  なんて情けない自分。なんて情けない半生。こんな事であったのなら、川に流されたときにくたばっていた方がましだった。 「一体なにを、自分はおめおめと生きながらえてしまったんだ……」  惨《みじ》めたらしく肩を落とした青年に、常は優しい〈諧謔〉《かいぎゃく》の色湛《たた》えた眸を同情で一杯にして、司書はそっと青年の肩をかき抱いた。 「そんなことを、言うものじゃあないわね。  あなたのいけないところは、なにもかも上手くやろうとしてしまうことよ。  ……真面目なのは結構だけどね」  穏やかな声が、重ねた肌から猫の喉鳴りのように細かで優しい震えとなって、心にしみていくかの、青年は泣き出しそうになったほど。どうにかこらえたのは、ふと疑問を覚えたせいの、司書はおそらく青年のみが見たことを、どうして心得口で語るのだろうと。 「人間というのは、失敗に失敗を重ね、見苦しくあがいてもがいて生きていくものじゃない? 私はだから、そういう人間達が好きよ」 「お話の中みたいに綺麗な人生なんて、  どこにもありはしないの」  どう慰められたところで、築宮の心の澱《よど》みはいっかな晴れようとはしないし、それにこの状況の流れに、彼のうすらぼけた警戒本能が、ようやく鐘を鳴らし始めていた。  令嬢の時は、どうだった?  そして琵琶法師の時は?  いずれも築宮が、過去の情景に見入った後に現れて、そして安心させてから、落とす。  今回もそうではないのか?  だから。 「……ところで、いい加減に諦めない?  ここまできても思い出せてないくせに」  だから築宮は、かき抱く司書の口ぶりが変わった時も、もう驚きはしなかった。それどころか、この度は物哀しささえ感じたほど。  今度こそは本物の鬼女であって欲しいと、恥知らずとは想いつつも念じて、問い返した、 「俺が、なにを思い出せていないと……?」  問い返して、やはりこういう結末なのだと受け入れる他なさそうな、頬寄せた乳房から顔をあげて、見つめた司書の、その顔が、その形が。ざわ、ざわと。既に。 「決まっているだろう。  あの子がなんなのか。  あの娘が、お前のなんなのかって事さ。  ねえ清修ぅ……?」  司書の形を取っていたのもそこまで。  青年の眼前で形が変わり、色も黒く染まって、ずるりと髪の間から滑り出た割れ般若の面が半面に被さり―――  渡し守が、ここでも築宮を捉えていた。 「やっぱり、貴女か。  どうあっても俺は、逃げられはしないと、  そういうことなのか……」  物哀しくもあり、軽い嫌気も差し、そして全ての気持ちの底には変わらない、根深い恐れが流れていて、ほとんど諦めにさえ変じつつある。  それまでは見苦しく足掻き、往生際悪く逃れようとしていた青年なのに、とうとう心も体も〈疲弊〉《ひへい》しきったか、渡し守の前でぺたんと尻を落としたきりの様子に、さすがに哀れおぼしめしたのか。  渡し守が言い出したことに、築宮は呆気に取られたという。 「ずいぶんしおらしくなったものだこと。  その心根だけは、汲んであげよう」 「もう、永遠に眠っていてもらうだの、なにも判らない痴愚にしてしまうのだのは、言わないでおこうね。その代わりに」 「もう一度、最初からやり直しなさい、お前」 「……なにを、言っているんだ?」 「お前が旅籠に着くところから、さ。  川を遡《さかのぼ》るみたいに、時を巻き戻して。  旅籠で女たちと出会って、  そして今度こそ―――」 「昔の事なんて、すっぱり諦めて。  女たちの誰かを選んで。  一生、旅籠で暮らすんだ、清修」 「―――やり直すんだよ」  渡し守がなにを言い出すのか、始めは興味さえ覚えて腰を浮かせたものの、聴き入るうちに築宮の中にむらむらとこみあげて、それがこの女へのかつてないほどの反感なのだと気づいた時にはもう、堪える間もなく口を割って出た。渡し守へ、この恐ろしい女への憤《いきどお》りだった。 「冗談じゃないっ。  時をさかのぼる、ときた。  きっと貴女なら、それくらいやってのけるだろうが、そんなの誰が呑めたものか!」 「たいがいにしてほしい。  やり直しのきく人生など死んでも御免こうむる。もう一度彼女達との物語を繰り返す?  ……ふざけるなっ」  築宮の憤《いきどお》りは、もしかしたら令嬢の為の、琵琶法師の為の、司書の為の〈義憤〉《ぎふん》に繋がっていたのかも知れず、青年はただ自分の身を案じていたならば、これほどまでに〈激昂〉《げっこう》することはなかったろう。  彼女達との物語を、繰り返す。  それは、糞便をなすりつけるよりまだひどい、彼女達への侮辱に他ならない。 「じゃあなにか?  彼女達は、俺のためにお膳立てされた、  役者かなにかか?  あってたまるか、そんなこと!」 「言うまでもなくお断りだ、貴女の提案など聞こうとした俺が馬鹿だった!」  息を荒くして言い切って、渡し守の顔色窺って、怒りに後押しされた勢いもそこまでしか保たなかった。  渡し守からはもはや、わずかに見せた哀れみなど〈寸毫〉《すんごう》残さずかき消えて、後は冷たいまでに高まった敵意ばかりで瞳が光り、〈傲然〉《ごうぜん》として、腕は築宮を〈容易〉《たやす》く解体しそうなほどの気配が漲《みなぎ》った。 「……いいんだね?  お前はそれで、良いんだね?  今あたしは、お前を少しでも哀れと思ったあたしを、吾の手で縊《くび》り殺してやりたい心持ちになってる―――でも、その前に」 「まずは、お前だよぉ……」  今度こそ最期なのだろう。  もう手足が動かない。心も痺れて働かない。  倍加した恐怖が、渡し守の手より先に自分の心臓を止めるのではないか。  ほら、事実胸のあたりがひどく冷たい。  こうして心の臓が冷えて、鼓動が停まって、それでおしまい、魂絶えた骸《むくろ》を、渡し守がどう扱うつもりかおぞましやかな想像が生まれるが、すぐさま死後を思い患《わずら》う愚を悟る。  ままよ、と目を閉じようとして、心臓の上の冷たさが突如熱に変じた。 「つ、熱ぅッ!?」  錯覚や思いこみなどでない。  焦がしそうなほどの熱に築宮は耐えきれず、火の粉でも払うように胸を叩いて、すると弾みで、シャツのポケットから飛び出したものは何。 「え、これは、図書室の……?」  上品な茶の地を金が縁取り、典雅な〈花文字〉《カリグラフ》で自分の名前が書きこまれた、それはカード。  図書室の会員証。あの鬼女が手づから彼の名を書きこんだ。  放り出した青年のみならず、渡し守まで釣りこまれるように、一緒になってカードを見守るうちに、〈花文字〉《カリグラフ》の線がそれ自体生有るものであるかのように輝滅して、 『はい、二人ともそこまで』  響いた声、遠く幽かな、けれど聞き間違えようのない声音、これは、しかしまさか、と、疑うより見るがいい。  声の消えない間に、カードの〈花文字〉《カリグラフ》の線のうちの一筋が、震えだした。  震える線の先端、微細な先から、膨らんだかに見えると、 「な……まさか、  そんな、そんなところから!?」 「……うっ?」  線の先から、一本の指が――生えたのだ。  それは確かに細くしなやかで、女の指と知れたけれど、書き文字の線一筋よりはずっと太い、つまりはそんなところから生えてくるのはあからさまに異様であり、しかし、一指が生えたと思ったら、続いてもう一指と、見る間に五指全部が揃って一つの手になった。  手が宙を掻いて、 「よい、しょ……と」  場違いなまでの、軽やかな掛け声だった。  手が出てきたと思ったら、後は早い早い。針の穴に〈駱駝〉《らくだ》を通すのたとえがあるが、線一筋の先端から――身をもたげだしたのは、女の、いやさ、ただの女に非《あら》ずして鬼女。 「やれやれ、狭いったらない。  胸とお尻がつかえるところで……ともかく」  大きくのびのびと、伸びをしたのはいいのだが。なるほど、いかにも狭いところを無理矢理潜り抜けてきたらしくブラウスの前がよじれて西瓜も顔負けの双乳の形を盛大に浮き彫りにしていて―――  あまりと言えばあまりの非常識な出現に、曰《いわ》く言い難い味に変じた場の空気の中で、渡し守は〈流石〉《さすが》に我を取り戻すのが早かった。  もとより妖異は彼女の本性で、それは人外の鬼女にも勝るとも劣らない。むしろ怖さだけなら渡し守の方が上か。  ともかく、突然の〈闖入〉《ちんにゅう》を果たした司書を、渡し守はあっさりと敵と定めた。そもそも彼女にとって己と築宮以外の者は漏れなく邪魔の〈範疇〉《はんちゅう》に押しこめているのだろう。  さっと腕を奔《はし》らせたのが、〈威嚇〉《いかく》も脅し文句も無しなのがかえって恐ろしい。  毒牙を突き立てる蛇の速さで伸びた渡し守の腕、より、司書が左腕を振る方が速かった。  ひゅんと鳴って、木の色が宙を焦がし、迫る渡し守を迎え撃ったと見るや後ろに弾き飛ばし、だん、と壁に縫いつける。  掌《てのひら》を喉輪の形にした義手が、渡し守の首根を抑え、壁に押さえこんでいた。衝撃も物凄くすごく、びぃんと義手に震えが残って、それまで包んでいたブラウスの袖がふわりと垂れたのが一拍置いてからのこと。  が、それで意を削《そ》がれる渡し守でなく、 「お前ぇ……っ!」  壁に抑えつけられたまま、気の弱い者ならあえなく気死してしまいそうな憎悪の眼差しを注いで、義手をもぎ離さんともがき始めたし、 「ちょっとそこで、黙っていて。  それで貴方、急いで、あの懐中を出す」  司書の方も、それで完全に制圧しえたなどとは毛ほども考えていない様子で、築宮に呼びかけたのが、彼女には珍しい、緊迫した声音、眼差しで。  言われて初めて思い出したかのように、築宮がまさぐったズボンのポケットの中に、持ちごたえのする、確かな重み。鎖を引いて取り出せば、銀色は褪《あ》せず、清《さや》かな輝きで座敷の灯りに冴えた。 「それはこの渡し守の持ち物。  そんなのを持っているから、  どこまでも追いかけられる。  ……さ、こっちによこして」  命じられるままに差し出せば、残った片手で受け取って、蓋を弾いて、文字板を覆う〈風防〉《ベゼル》の〈硝子〉《ガラス》も器用に取って除ける。 「貴方、覚えているかしら。  この懐中の針、時針の方。  ……元々は、私の腕だったって事」  覚えている、とは手放しに言い切れず、言われて築宮はそれをようやく思い出したのである。鬼女の失われた左腕。それを巡っての物語。心の中で蘇って、その時の哀しみも恐れも喜びも、瞬時に。  だが司書は追憶に耽《ふけ》るでなく、露わになった文字板に唇寄せて、水晶の歯並びの間に挟んで、針、時針を抜き取った。  すると、どうだ。  唇の間でか細い針が、たちどころに形を替えて、輪郭が膨らみ、移形したのが片腕の、すなわち鬼女の左腕の。  朱唇に横ぐわえにされたるを、首を傾け、右手で捲りあげたブラウスの袖の裡《うち》、斬り口に押し当てる、と、血の雫が着けた線に沿うて盛り上がり、滴り落ちて、けれど畳に届く前にかき消えて、するともう、軽く掌《てのひら》を握っては開いて、取り戻した左手の具合を確かめている鬼女があった。 「両腕が揃って、それで、なんだと言う。  あたしには、驚く芸でない。  お前―――出てくるだけ無駄なのに」 「そう、ね。  誰も貴女を、とめる事なんてできないでしょうよ。ま、私にだって、ちょっと茶々を入れるのが、精一杯」 「でもね、それでこの人を、逃がしてあげられる。それで充分」  青年に振り向いた鬼女は、彼をどこまでも追跡し、心おりひしぐ割れ般若の面の女より、ずっとずっと人めいて、気高く、築宮の心に迫った。つい差し延べて、抱き寄せたくなった腕を、ぴしりと。  穏やかに、けれど有無を言わせぬ迫力を持って、遮ったのが司書の声。 「行きなさい、貴方。  私でも、この人をとめたままになんて、しておけない」 「捕まりたい、というのなら、どうぞ。  そんなのは厭だというのなら、  さあ、急いで―――!」 「けれども、そうしたら貴女が……」  戸惑って、躊躇って、視線を司書と渡し守に交互にした、と、渡し守の方は憎悪が更なる力を与えたか、身動きも許さぬほどに食いこんでいた義手を早、もぎとったところ。  憎々しげに投げ捨てて、ずいと進んで、それが築宮の方へ、司書よりもまずは先にと定めたのか、睾丸が縮み上がるほどの恐怖が割れ般若の面から放射されている、のを、司書が間に進み出て、その背中で恐ろしい姿を隠した。また呼びかける。今度は叱りつけるように強かった。 「もう私ではなく、あの子を、あの人を選んだのでしょう貴方は!」 「それに恨み言なんて言わない。  女の意気地ってものが、あるのだしね。  泣き言もない。けれども」 「貴方がぐずぐずしているのは、  どうにもだらしなくって、厭よ。  そんなだから、この人につけ込まれる」  迫る渡し守に、〈昂然〉《こうぜん》と顎《おとがい》を反らした立ち姿、押し寄せる黒と対照的な白のその姿、築宮は落涙さえしそうになったが、歯を食いしばり、踵を返そうとして、でも、その前に一言、せめて一言だけ。  呼びかけようとして、虚を衝かれたように口ごもった。 「なんて、事だ。  今、気がついた。今になって、やっと。  俺は貴女の―――」  司書の。いや司書だけでない。  令嬢の。琵琶法師の。 「貴女の、名前を知らない。  あんなに、一緒にいたのに」  混乱する築宮に、肩越しに振り向いた司書は、名前のない鬼女は、わずかに笑んでいたようにも見える。〈諧謔〉《かいぎゃく》と、哀しみとが入り交じって、どこか疲れたような笑み。 「……ええ。  私たちには、名前がないの。  まだ小さい頃の貴方やあの子が、  私たちの、名前までは考えなかったから」 「いつか、素敵な名前を付けてくれると嬉しいけれどね」 「要るものか、お前たちに名前など!  ただ司書だの法師だので充分」  渡し守がたばしらせた怒気、その〈剣幕〉《けんまく》に一歩圧されて、押されたのがむしろ勢いとなって、築宮は二人に背を向け―――駆け出した。呼びかける名前すら知らず、そして二度までも見捨てようとする女に、何が言えたろう。何もありはしない。 「……それでいい、貴方。  でも、気をつけて。  もう三枚のお札も使いきった。  今度捕まったら、きっと最期。  その前に、全てを取り戻して―――」 「もう言うな。もう喋るな、何も。  お前がこの旅籠に置かれたその意味、  それも忘れて、なにが図書室係」 「お前は自分から、この話から降りたんだ。なにをいつまでも出しゃばってる。  消えろ。いいや私が消す」  ……走る背中を叩いたのは、およそ女の形したものが発するとは思えないほどの〈轟音〉《ごうおん》で、鉱山を〈発破〉《はっぱ》で崩すとか、高速で正面衝突する二両の機関車とか、それくらいのエネルギーがぶつかり合っていると思しく、一拍遅れて降り注いだ余波それだけで、築宮はなぎ倒されて二転三転したほどの。  転倒した弾みにどこか擦りむいたようだが、それくらいでたじろいでいるような贅沢は、もはや築宮には許されなかった。  とうとう、出会った女たちを三人とも、己の望みの犠牲とした、今になっては。  ―――闇の中を貫いて、巨大な〈地蛍〉《つちぼたる》めいた燐光を発して伸びる水路と〈燈明〉《とうみょう》は、青年の心を〈鈍磨〉《どんま》させ、正常な判断力を奪いそうなほどに、どこまでも果てしなく連なり、長い。  闇そのものが静寂の巨大な顎と化して音を奪いさるのか、〈燈明〉《とうみょう》の蝋燭の芯が燃える音や、水路の流れの響きさえここでは雄弁な音となりそうなのに、まったき無音が世界を満たして、生きて動く音と言っては築宮の〈跫音〉《あしおと》のみ、それさえ残響を残さず、床板が軋む端から闇に呑みこまれる。  そんな静けさの中、築宮は耳元を秘めやかに愛撫するような、囁く声を聴いたと思った。 『銀の懐中時計。  私と渡し守の、約束の証。  でも、それもおしまい』 『時計に閉じこめられていた、  あの人の過去が、溢れだす。  ね、貴方』 『目を逸《そ》らさず、耳を塞がずに。  見届けてあげて。  誰よりも貴方を大切に想う、  一人のおんなの姿を』 『―――見届けてあげて―――』  沙漠を〈彷徨〉《さまよ》う者は、渇ききった喉が求めるあまりに水場の蜃気楼を見るという。ただ一人、夜の森を往く旅人の深い孤独は、木立の枝振りに人の形を見出して、つい呼びかけてしまうともいう。  築宮も始めその囁きに、いったんは立ち止まったものの、〈寂寥〉《せきりょう》に耐えかねた脳髄が勝手に描き出した幻聴だろうと、固く目を閉じ幾度か首を打ち振り、想いを断ち切るように歩み続けようとしたのだ。  聞こえる筈がないではないか、司書の声など。  よし聞こえたとしてもそれは、彼の不実と意気地の無さを詰《なじ》る声であるべきで、自分にはそれこそが相応しい。  けれども司書は別れの際にきっぱり告げなかったか。恨み言も泣き言もないと。  そして築宮よ。お前が棄《す》ててきたと思いこんでいる女達は、本当は誰一人としてお前を責めてなどいなかったのではないか?  令嬢も、琵琶法師、司書も。  最後はこう願って、お前を逃し、送り出したのではなかったか?  ―――あのこをおいかけてあげて―――  幻は、いつだって儚くて、〈憧憬〉《あこがれ》を誘う。  そんな幻のようなあの少女。  そして築宮を限りない愛情でもって呪縛し続けたあの女性。  二人が同じ人間だと言うことは薄々築宮も覚りつつある。  きっと誰よりも青年に近しくて、何時だって彼に寄り添い、見守り続けていた。 (だのに俺は、ここまできても、  あの子が、あの人の名を思い出せない)  司書が築宮を逃し、その追跡の足を停めるため、渡し守と激しくぶつかり合った、あの座敷からはもうずいぶんと離れたように思う。司書に急き立てられて駆け出してはみたけれど、闇に塗りこめられて輪郭も定かならぬ旅籠の景色の中のどこにも、少女の後ろ姿も女性の〈怜悧〉《れいり》な面差しも見えず、築宮は一体どちらに向かえばいいのか、四方暗中にあって青年を導くモノなど何一つだにない。  ただ築宮は、朧気に諒解しつつある。  行くあてが有ろうが無かろうが、ただひたすらに歩み続けること、進み続けることが、自分に課せられた定めなのではないか。  これまでもこけつまろびつ、時に惑い時に立ち止まり、旅籠で出会った女たちと別れ、それでも闇の中をじりじりと歩んできたからこそ、取り戻せたものがある。  過去の記憶。  旅籠で過ごした日々の中で、もう一度取り戻したいと切に希求してきた己の過去。  徐々に浮き上がり始めたそれは、けして晴れやかなものでなく、どころかみじめで不格好で果てしなく情けなく、知らずにいた方が幸いではなかったかと自分を呪いたくなる。  旅籠に辿り着くに至った経緯だって、あんな、蝿がたかる腐肉よりも下らなくて見苦しい一幕の挙げ句に、だ。 (職に就くのに失敗して、  それにふてくされて怒鳴り散らして、  しまいは家を飛び出し泥酔、それで)  最悪の酒の呑み方の果てに落水し、死にかけた、など。自分が高尚な人間である、などとは口が裂けても言えない程度の羞恥心の持ち合わせはある築宮だが、それでももうちょっとくらいは深刻な悲劇を抱えていた方が、体裁がつくというものでないか。  だが、そういう苦い想いを何度も何度も〈反芻〉《はんすう》し、女たちにしでかした不実を悔いながら歩き続けること、それがきっと築宮青年に唯一許された道行きなのだろう。  青年は〈漠然〉《ばくぜん》と想うようになっている。  この道行きは、どこか巡礼じみている、と。  これまで往き逢ってきた過去の情景は、けして聖蹟とは言い難い、生々しく卑俗なものであったけれど、それらを一つ一つ目の当たりにすることで、自分がどこかに導かれていくような、そんな気がしてならない。  導かれていく先は、この旅路の果てに迎える情景はいかなるものであるのか。  それがどれだけみじめで下らない結末を迎える事になったとしても、押して受け入れようと、築宮は思う。  だから、歩け。疲れ果て、もう一歩を踏み出す力が足から失せたなら、四つ這いになってでも前へ。地に突き立てる爪も剥がれて、手も言う事を聞かなくなったなら、口を、歯を使ってでも先へ。それさえ出来なくなったなら、一心に前を睨め。眼差しにあらんかぎりの己を籠めて、心で進め。  今度渡し守に追いつかれたとしても、都合よく観念など絶対にしてやるものかと、築宮はそう決めた。見苦しく浅ましく醜く抗って、旅路の果てを見るまでは逃げ続けてやると、それが闇に彷徨し続けた中、青年がやっとにして掴み取った、彼だけの決意だった。  また二叉に分かたれた水路の際で、方向を見定めようとしている築宮である。進むことだけは止めまいと覚悟しても、道が分かれれば心も揺れる。  もとより指標も持たず、どちらに進んだところで同じなのかも知れないが―――と青年は、適当な棒きれでも拾ってきて、倒れた方にでも進んでやるかと実に後ろ向きな〈諧謔〉《かいぎゃく》精神を弄《もてあそ》んだのだが、その時、ズボンのポケットが突然重くなった。  まるで幼子がなにか物言いたげにすがりついてきたかの重さで、〈怪訝〉《けげん》に思って、ポケットをまさぐれば小さな鎖の音が鳴る。  引き出せば銀の懐中時計が。  あの揉み合いの中いつの間にか、司書が青年のポケットに落としこんでいたものらしい。  風防のガラスと針は司書が取り去った。時間はもう計れない。それでもこうして引っぱり出しても時計は素知らぬ顔で時計のままで、別段目方が増したようには思えないのだが、と築宮は、小首を傾げつ鼻先に銀の細工を揺らした、途端に、ぐん、と。  一度だけであったけれど、その瞬間だけ時計は生有るものの領域に踏みこんだかの如く、自ら大きく強く揺れたのだ。  二叉の水路の右の方へ。 (つまり、こっちってことか……)  右の彼方へ、目をすがめてみれば、〈燈明〉《とうみょう》のものとは異なる灯りがおんもらと闇に点じられていて、築宮は左の方にも視線を走らせたけれど、結局は時計の導きに従うことにする。  ―――こうして築宮は、歩んでいった先に繰り広げられる、過去の情景にまた身を投ずることになる。  歩み続けること、見届け続けること。  その為に。青年の意識はまた、過去の自分の中に滑り落ちていく。  ―――若い声音が、小鳥となって卓の向こうとこちらにと飛び交い、軽快に、活発に。卓上に広げられた教科書に各種資料、ノートと、文具の他には菓子の盆が若々しい印象を強めている。  しきりに言葉を交わし、時には黙し、書きこみ、頁を捲りしているのは、制服姿の築宮とそして、級友らしい男の子、女の子達。  窓越しに和らげられた午後の陽差しの垂れる中、室内は時ならぬ大人数を迎えて、戸惑っているような、落ち着きの無さがある。  落ち着かないのは部屋の主である築宮も同じ。あるいは彼の気持ちが部屋の雰囲気に感染しているのかも知れない。 『……だからさ、なにもンなとこまで、  いちいち細かく調べなくってもいいじゃんか』 『でもそれだと、レポート埋まんないよ。  いいから、あんたはあんたの分、  きっちりやってよね』 『そのあたりの事は、年表まる写しでいいって思うよ。  それより面倒なのは、築宮くんの調べてるあたりだってば』 『だってそっちは、どうしたって図書館の本、読まないとダメなんだもの』 『それもそうなんだけどな。  いいよ築宮、テキトーで。  お前ンとこだけあんまガチでやられると、  こっちのアラがめだっちまう』 『だーっ、あんたは適当すぎだっつーのっ。  でも築宮くん、ほんと、あんまムキになんなくっていいよ、こんなの』  会話の運びは若者特有の性急さに目まぐるしく、築宮は一体誰に受け答えしていいものか戸惑って、曖昧に頷き資料に目を落とした。  彼としては別に必要以上に細かくレポートを組み立てているつもりはないのだが、それでももとの性格が几帳面というか手を抜くべきところで抜くような要領の良さに欠けているというか、やや真面目に過ぎて、周りに比べていささか浮いてしまっている。  ―――あの、教科の課題を〈学級〉《クラス》の斑でレポートにまとめるというやつなのだ。  だから放課後になっても、皆してこうやって額突き合わせ、授業以外では開きたくもない教科書を広げることを余儀なくされている。  それだけならば教室に居残りでもして進めればいいところを、どういう〈契機〉《きっかけ》だったか。  築宮の家は広くてあまり人もいないから、皆で集まって勉強するにはちょうど良いとか。  学校だと他の斑も居残っていて気が散るとか。  そんな尤もらしい理由が並んだような気もするが、要するに斑の連中は、陰気、というのではないが口数少なく、行儀の良さがかえって打ち解けた人交わりを遠ざけてしまっている、築宮清修という級友の私を覗いてみたかっただけなのだろう。  その証拠に、築宮の他のもう一人の男子など、作業の手を留めては室内をあちこち眺め、古い造りの〈欄間〉《らんま》や柱に珍奇の視線を注いでいる。二人の女の子は彼よりは熱心だけれど、それでも言葉の端々に築宮への好奇心を覗かせている。  いわば築宮は、本人には全くその意識はないのだが、クラスに一人くらい混じる、あまりプライヴェートを現さない神秘の存在だった、といえば大げさだが、その手の生徒として認識されていたのである。 『しかし広ぇ家だよな。  ……初めて上がったけど』 『ねえ築宮くん。  今更だけど、私たち、ほんとにお邪魔じゃなかった? ……お菓子まで、出していただいて』 『あ……いや、大丈夫だよ』  と気遣う様子の女の子は、一座の中でもいくらか大人びていて、物珍しさに任せて築宮の家をじろじろ覗く無礼は控えているらしい。  それでも、皆が家に上がった時、出迎えて、挨拶を物堅くして、後は余計に構いつけたりなどして皆を煩《うるさ》がらせることもなく引いていったきりの、築宮と暮らす、保護者のあの女性のことを気にしている様子がある。今日はたまさか仕事が早く退けたらしく、築宮達より先に帰宅していたようだ。  大人しやかな彼女からしてそれであり、男子の方などあからさまだ。襖《ふすま》の向こうへ、届きもしない気配を嗅ぐように鼻先を反らして、 『すげえ美人だったな、築宮。  お前、あんな人とこの家に二人暮らしか。  なんかすげえなぁ、お前って』 『そう、なのかな?  俺にとってはほら、  それが当たり前だから……』 『ちょっと、やめなってば。  築宮くんのご家族なんだから。  そんなことばっか言って、  あんまりぐだぐだ長居してないで、  さっさと終わらせちゃおうよ』  築宮がやや口ごもったのは、男子の〈不躾〉《ぶしつけ》な問いをどういなしたものか〈咄嗟〉《とっさ》には判じかねたのもあるが―――  その人を美しいと賛嘆する、二人きりの暮らしを珍《めず》らかなものと様子を知りたがる言葉に、自分でも気づいていなかった後ろ暗い部分を抉り出されたような気恥ずかしさに襲われていたからなのだった。  確かに男子の言うように(そして女子も言外の〈羨望〉《せんぼう》に匂わせるように)、あの人は美しい人なのだろう。  だが築宮には、それを改めて意識してしまうことは、忌まわしい淫行の証ですらあるように思えたのだ。  女子に窘《たしな》められたから、というより築宮が言葉を濁《にご》したのに、男子はこれは要らぬ詮索だったかと決まり悪げに苦笑して、作業に戻る、詫びを強調するように書き取りの手を速める。  と、そんな一幕はあったけれど、築宮は級友達との一時がけして不快ではなかった。  不慣れが手伝って戸惑うところは大きかったが、皆とあれこれ他愛ない冗談を交えながら一つ作業に立ち向かう、というのは健やかな満足をもたらした。  教室の中で目立たないと言って、人嫌いというわけではない。級友達も、単に礼儀正しいの域を超えて堅苦しい築宮を、忌避して虐げる、そこまではいかずともどう接したものか扱いかねていたのは事実で、級友達の来訪は多少強引のきらいはあれど、お互い触れ合う良い機会ともなったろう。  築宮も、そう度々では気疲れしてしまうだろうから、たまになら級友を招くのも悪くはない、と実に微笑ましい、ほのぼのした想像を膨らませながら、作業に立ち戻る。  ―――それでそのまま終われたなら、築宮の潤《うるお》い少ない学校生活の中で、この日は金色の〈付箋〉《ふせん》を着けて記憶の中に大切にしまい込むべき日となったろう。  そのままで終わったのなら。  きっかけは、男子が修正液を切らしたとかで、一人中座して買い物に出かけたことに始まる。  残されたのは女子二人築宮一人、いきなり女の子に囲まれて息苦しい思いを持てあましたが、意識しすぎだと自分を宥めて、レポートのまとめに取りかかっていたあたりで、築宮は卓の飲み物が空になっている事に気がついた。共に暮らす女性の手を患わせるには及ばず、自分の客は自分で面倒を見るつもりで、お代わりを注ぎに中座した。来訪に戸惑ったのも唐突な話であったからで、日頃から彼の自室は簡素に整頓されてあり、部屋に客だけを残しても見られて疚《やま》しいものはない(思春期の少年としては、かえって不健全な気もするが)。  二人にすぐに戻るからと告げて、部屋を出て築宮は―――深く深く後悔する事になった。  飲み物などと気を遣わなければ、見ずに済んだのだ、あの目、あの貌を、女性の。  築宮の〈跫音〉《あしおと》に、廊下の角の柱から、影のように瞬時に消えた。  それでもその刹那、一刹那で充分の、むしろ一瞬間であった故に築宮に巨大な衝撃を残した貌、廊下の向こうに潜んで、築宮の部屋を凝視していたのに違いない。  何時から? きっと、皆と部屋に入ってからずっとだ。  昏《くら》い瞳の底に築宮を〈慄然〉《ぞっ》とさせるかぎろいを〈煮凝〉《にこご》らせ、柱の角から半面だけを覗かせて。  なんの為にと問うまでもなく、監視する以外のなにがある。  楽しげに語らう、築宮と級友達を、女性は黙然と監視し続けていたのだ。  女性の貌は今見たものが嘘のように消えていたけれど、築宮の鼓動は喉元まで跳ね上がり、重度の〈喘息〉《ぜんそく》を発症したかのように呼吸が詰まり、粘つく汗が顔と言わず背中といわず体一面、かたかたと捧げた盆と〈什器〉《じゅうき》が鳴って、落とさずに済んだのが彼自身信じられなかった。それくらい―――怖かった。  底知れぬ、深く黒い闇を秘めた眼差しが、築宮がそれまで体験してきたいかなる恐怖に勝って、忌まわしく恐ろしかった。  なにより最悪な想像は、女性がそうして築宮を監視していたのは、なにも今日が初めてではないのではないかと言うこと。  自分が気づいていなかっただけで、何時も何時もあの視線が注がれていたとしたなら。  ―――結局その日は、作業も完了していないのに級友達を無理に誤魔化し、出来るだけ速やかに帰らせた。女性が見送りに出てきた時も、級友達を性急に追い出したのは彼らが疎《うと》ましかったからでなく、彼女から隠したかったからだ。  もう少し級友達とも交流してみようか、といった築宮の淡い気持ちはそれ以降封印されてそれきりの、親しい交わりは持たず、持とうとする事さえせず―――  そして築宮は、一つの癖を持つことになる。  自宅にあろうが外にいようが、つい物陰や背後をそっと窺わずにはいられない、というどうにも挙動不審な癖だ。  それも無理からぬ話ではあったが―――  つまりそれが、築宮が渡し守に抱く異常なまでの、〈恐怖症〉《フォビア》にも近い恐れの遠因なのだろう。  彼の『顔半分で見つめる視線』への恐怖は、あの日あの時の女性の視線に、由来しているのだろう。  過去の情景から、旅籠の闇の中へとまた立ち返り、築宮はしばし立ちつくして、怒るべきか哀しむべきの別も着けられぬ、曰《いわ》く言い難い複雑な感慨を持て余した。  あの女性は何時からそうなったのだろう。  それとも始めからなのか?  なんにしても物心ついた築宮に対して、〈偏執〉《へんしゅう》的なまでの執着を示すようになっていたのには間違いない。 『あの人は、貴方を見つめるしかなかった。  ―――でもね、それだけじゃないです』  また耳元に、秘め事を持ちかけるようなあえかな囁きの、今度は令嬢の、姿は見せずただ声だけで築宮を促《うなが》す。  だから築宮は、過去を、過去を映し出す座敷をまた覗きこんだがその様は、覗きからくりの暗がりへ恐る恐る頭を差し入れる少年のようでいて、同時に、神聖なものと相対しようと言う信仰の徒のようにも、見えたのだった。  ―――この忌まわしい、地獄のような心は、一体いつから私を支配して、見境をつかなくさせ、そしてあの子を苦しめる事になったのだろう―――  ―――今日、清修が友達を家に連れてきた。  これまでにない事だった。  どの子もみんな行儀が良くて、中には騒がしい子もいたけれどあんなのはまだまだ大人しい。校風なのだろう。やっぱり清修をあの学校に通わせてよかった。  授業の課題、とかで、斑全員で一つのレポートをまとめるという話だ。  なぜ私と清修の家に集まることになったのかは知らないけれど、それはいい、それは構わない。  あの子は人付き合いに疎《うと》いところがある。  それはきっと私のせい。  私が何時もやかましく言うせい。  でもだから、清修は学校が終わると何時もすぐに帰ってきて家にいてくれる、私の戻るのを待っていてくれる。  多分、いえきっと私は、清修の気持ちを私だけに向けておきたいんだろう。  私は、卑《いや》しい女だ―――  この家の廊下は古くて他の誰かが歩いたならすぐに軋むけれど、足音を忍ばせるのは私には造作もない。  そっと近寄って、清修の部屋を覗きこむ。  さっき男の子が出て行ったばかり。ちょっとの中座らしいけれど、だったらすぐに戻って来てほしい。  清修を、私の知らないような女の子と一緒にいさせたくは、ない。  話している、清修と女の子たち。  もちろんあの子は異性に慣れていないから、私がそう躾《しつけ》てきたから、ちょっと見には居心地悪そうだし表情も堅い。  でも私には判るのよ、清修。  お前、楽しそうだね―――  普段より四分の一オクターヴも声を高くして、女の子たちに答える清修、生き生きとした顔が、ああなんて。    こんなにも        たまらなく            愛おしい  でも清修が微笑んでいるのは、私にじゃない。あの子が私にあんな顔を向けることは、有り得ない。  ―――女の子が、卓に大きく身を乗りだす。図面を差して清修になにか言っている。清修も乗りだして覗きこむ。  その一瞬、ほんの一瞬、あの子が間合いを取り損ねて、女の子の首筋すぐ近くまで、唇を寄せてしまう。  二人とも、意識するどころか気づいてもいないだろう。すぐに離れてしまったから。  けれど私は、それだけで正気ではいられなくなりそう。  最低だ、私は。  あの女の子に対しては、意識しないで欲しい。けれど私の事、感じて欲しい、なんて。  もし、もしも。  あの女の子でなく、私であったとしたなら。  清修の唇が近づいたあの首筋が、私のものであったなら。  ぞくり、ときた。  体中が熱くなる。お腹の底が一番熱い。  駄目―――駄目―――  私は絶対に、あの子に触れてはいけない。  あの子に触れられてはいけない。  いけなければいけない分だけ、  触れたい。  触れられたい。  めちゃくちゃに  どろどろに  ぐちゃぐちゃに    ―――私は、どこまでも卑《いや》しい―――  衣擦れさえたてず、築宮の部屋を離れる途中、まさか彼が部屋を出てくるとは思ってもおらず、未練がましく廊下の角から振り返った時に、一瞬だけ目が合ってしまった女性は己の〈迂闊〉《うかつ》を深く悔いた。悔やむと同時に、歪《いびつ》な満足も味わった。これで築宮は、女性が見ていたことを知るだろう。秘密は破れる時に、他に例えようもない破滅的な喜びを伴う。  部屋に戻って女性は、しばらく虚脱したように宙に眼差し〈彷徨〉《さまよ》わせ、そして。  泣いた。  声は立てず、涙のみを双眸に溢れさせ、頬に伝わせ、熱く煮えるような雫を顎先から振り零し、泣いて、泣いて、静かに泣き続けた。  それは、初めてではない涙。  女性が築宮を深く激しく想う時、決まって溢れ出す涙。  彼女がそれを築宮に見せたり気取らせることは、いまだかつてなかったけれど。 「まさか、そんな―――あの人が!?」  こうして女性の涙を知っても築宮は、どうしても信じられなかった。  信じられるものか―――!  なにしろあの彼女なのだ。  築宮にとっては、倫理や道徳の規準そのものであり、全てにおいての〈庇護者〉《ひごしゃ》であり、そして重苦しい呪縛であり檻であり壁であり枷《かせ》でありありとあらゆる柵《しがらみ》であり、共に暮らしていながらもなかば神格化され、自分のように意志薄弱で優柔不断な部分は一切排して、厳格に気高く自己を律していると思いこんでいた女性である。  築宮は不出来な被保護者である自分が、彼女にとってどれだけ負担であるのか知り抜いていた、そのつもりであった、のに、これは、この、彼女が自分に寄せていた想いは。  人は、人間の内部をさらけ出されるのに耐えられるようには出来ていない。人間という生き物の醜い部分、弱い部分に日頃は目をつぶっているからこそ、過ちの多い生を生きていかれるものだ。  それは自分の内面に留まらず、他人の内面とて同じ事。他者の醜い部分というのは己にとって少なからず鏡のようなもので、他の誰かの中味に人は、自分のそれをも見出していたたまれなくなる、心が苦しくなる。  だから人の中味、奥底など容易に覗くものではない――― (俺は、確かに、見続けると決心した。  けれど、これは、こんなのとは―――  思って、いなかった)  過ちと卑《いや》しさにまみれた己の過去を、どぶ泥の底を浚《さら》うように見せつけられるのは辛く苦しい行ではあったけれど、それならまだ築宮にも耐えられた。  けれども、青年が絶対のものと信じていた女性の暗部を見せつけられるとあっては。  のしかかるような衝撃に俯《うつむ》きつつ歩み続けるうちに、気づけば水路はまた分かれ道に差しかかっている。  まだ進み続けるというのなら、きっとさらに女性のさもしい部分、卑《いや》しい奥底を覗きこむ事になるのだろう。  ―――もう終わりにしてしまいたい―――  この分岐点で立ち止まったままでいいではないか。  それまでは〈泥濘〉《でいねい》に絡めとられるように遅々として、それでもじりじりと進み続けていた足取りが新たな分岐を前にして、とうとう止まる、止まってしまう、一度止まればもう一歩も踏み出せなくなるだろう。  ―――それで、いいではないか。  意気地が錆びついて、軋みながら過去への巡礼の道行きもここで途切れそうになった時、青年のポケットの中で身じろぎの気配が生まれて、ぐいと彼を引っぱった。  懐中時計だった。  気弱な〈逡巡〉《しゅんじゅん》を叱咤し、引きずってでも進ませると〈頑固〉《がんこ》に主張し、時計が方向を示す。 (……拒む事なんて、  今更出来ないってわけだ)  そう、今更、なのだ。  築宮がどんなに拒もうとも躊躇おうとも、旅籠で出会った女たちを振りきってきた時に既に、帰還限界点など超えていたのだ。  もう築宮には、見続けて、見届ける事しか許されていない。  それがどんなにか、醜く厭《いと》わしい情景であろうとも。 『いい、清修?  今後金輪際、こういうことはなしにしてほしい』  最低限の調度しか並べず、簡素で冴えた部屋は、いかにも女性の人となりに相応しく、入るだけで禅匠がまっすぐ引いた線のように背筋が伸びそうなのに、この時の築宮は〈悄然〉《しょうぜん》と肩を落とし、〈項垂〉《うなだれ》れて、恥じ入るのみ。  なにより女性が、日頃築宮を叱責する時だって整然と話の筋道を組み、声を荒げる事のない彼女なのに、この時は目を尖らせ語調を激しいものにしていた。 『それは私とお前は家族だけれど、  親しい間にこそ、礼儀は大切でしょう?  なのにお前ときたら―――!』  築宮は、女性が声の調子を高ぶらせるたびに、神経に直接鍼《はり》を打たれたかに震え、掃き清められて塵一つない畳の目を見つめる事くらいしかできない、目を、合わせられない。  もし今彼女を見たなら、間違いなく先ほどの光景を思い出してしまうだろうの、それが恐ろしい。  恐ろしく、顔から湯気の柱を立てそうなほどに、恥ずかしい。  先ほどの光景―――  湯上がりの、雫を珠と留まらせた、上気の朱色も艶やかな、女性の裸身、一糸もまとっていなかった。  いけない、いけない、絶対にいけない。  つい反射的に脳裏に浮かびかかった肢体を、禁断の聖遺物に覆いを掛けるように記憶の底深くに押しこめて、やっと押し出した言葉は、彼自身言い訳じみているとは思ったが。 『俺だって、わざとやったわけじゃない、です。まさか入っているとは、思わなくて、だからその……』  諍《いさか》いの始まりは、築宮が誤って深夜、彼女と脱衣所で鉢合わせしてしまったという、実に他愛ない事故からなのだ。  そんなことなど、一つ屋根の下に暮らしていればままあっておかしくない、むしろ微笑ましいと言えるほどの事故である。  まして女性は、なんのつもりか浴室の灯りを消して、ろくに物音も立てず、ひっそりと上がってきたところだったのだから、およそ築宮には非がないことは見やすい。  女性だってそのくらい納得できるだろうに、この時の〈舌鋒〉《ぜっぽう》は鋭く、容赦がなかった。 『またそんなことを!  気配くらいは聞こえたでしょうに。  声を掛けるくらいは、したっていいはず。  なのにお前は、お前ときたら』  彼女は築宮の抗弁など容《い》れず、許してもくれず、きつい叱責を浴びせ続けていた。  はじめこそ浴室での一件の事だったが、そこから拡大して築宮の生活態度の事、学校での成績の事など、事細かに叱りつけたのだ。  理不尽の味を苦く舐めつつも、築宮はその説教を、ひたすら〈恐懼〉《きょうく》して聞き続けることしかできない。彼女の言葉はいずれも正論ばかりで、築宮に反論の余地はなかったから。  なにより、彼女の裸身は瞼の裏に焼きついてしまって、どれだけ心頭滅却しようとしても、こうして向かい合っていると心の隙をついて蘇ってしまう。  今はぴしりと隙なく服を着けていても、その下に隠されている線が、どれだけ女らしく柔らかで、艶めかしいものか、もう知ってしまった、そして一度知ってしまうと、どうしたって想像してしまう。  それが、築宮に疚《やま》しさを抱かせ、その後ろめたさが彼の視線をいよいよ戸惑いと困惑に満ちたものにさせる。  そして女性は、築宮の眼差しに浮かぶ混乱を見逃さず、捕らえては刃のごとき言葉で斬りつけて、止むことのない。 『そんな目で、私を見ないでと言っているのよ清修! お前がそんな風に見るのなら、もう一緒には暮らせなくなる―――わかっているの!?』 『それとも、やっぱり無理なのかしらね。  お前も年頃なのだし、どうしたってそういう事、考えてしまうのかもしれない』 『お、俺はそんなこと……考えてなんて』 『さて、どうなのかしら。  だいたいお前、違うって言うけれど、  この前だってあんな本、隠していた癖に』 『その話はやめて……っ!  あれは本当にたまたまで、  もう持ってないんだってば……!』  それまで以上に激しく、築宮をまごつかせたのは、話が彼の性的な部分に触れた為に。  ……思春期に至って精通を迎えた築宮は、時折夢精してしまうことがあったが、それは致し方ないことだろう。  今日だってこんな夜更けに風呂場まで行ったのは、実は夢精で汚してしまった下着を洗いに行ったからなので。  〈頻繁〉《ひんぱん》ではないけれど、築宮が夢精してしまうのは、自慰行為が疚《やま》しくてできなかったからである。かつては築宮も必死の思いでその類の本を手に入れたことがあるのだが、それが運悪く女性に見つかってしまった。  ―――厳しくきつくお説教を喰らったのは言うまでもあるまい。  それ以来築宮は、思春期にある少年としては可哀相になるくらい禁欲的な生活態度を求められ、若い精を発散する機会を持てずにあり、その為に夢精を繰り返しては罰の悪い想いに苛まれた。  今夜だって、築宮が女性の裸身をついまじまじと眺めてしまったのは、抑えに抑えていた性欲の発露と言えて、これは致し方ないこととはいえ、彼の中に雄の滾《たぎ》りを認めてしまった、それがことさら女性の癇《かん》に触れたのである。 『……もう、いい。  たとえお前の話がどうであれ、  清修、これだけは言っておくから。  もう絶対にしないで、こんな事』 『こんな事が続くようなら、  私も考えないといけなくなる。  よく覚えておくことね』  ……結局女性は最後まで築宮の言葉を受け入れようともせず、最後の通告を突きつけるだけ突きつけると、彼を部屋から追い出して、有無を言わせず襖《ふすま》をぴしり、引き返しての言い訳や文句する気なぞ根こそぎ奪う〈峻烈〉《しゅんれつ》さで、拒絶の意志もありありと。  築宮は、ひどくひどくみじめな気分で、自室へ引き返すしかなく、夜気に心地よく冷えた廊下の足元も、いっかな彼を慰めてはくれなかった。  自分に非はほとんどなく、女性の怒りが理不尽に〈狂騒的〉《ヒステリック》なものだったことは、築宮にも薄々と感じられつつある。  それなのに、彼女に対して強くは出られなかったのは―――  あれだけ叱りつけられていながらも、女性のいまだ湿り気を残して艶帯びた髪は、本当に綺麗だったとか―――  激して朱を上らせた、首筋の肌の色がなんて鮮やかだったのだろうとか―――  自分が、そんな有らぬ気持ちを抱いてしまったこともまた確かで、それを深く深く恥じ入った為なのだ。  築宮は、ひたすらに自分を責める。  どうして自分は、彼女の言うように正しく生きていかれないのだろうと。自分はどうしてこんなにいやらしいんだろう、と。  以来ますます築宮は、自分の中の性欲を忌まわしいものと見なすようになり、本来年頃の男子ならば不純でも不潔でもなく、むしろ健康的に成長した証として受け入れるべき性への関心を、頑《かたく》なに拒み続けるようになった。  自分がそんなものを抱えこんでいたなら、女性との暮らしが根底から消失する、彼はなによりそれを恐れた。  生き物としての本能を遠ざけてまで護りたいもの、それが女性との日々だった故に。                   ―――けれども。  築宮にとって、己を卑《いや》しいもの浅ましいものと〈慚愧〉《ざんき》し、〈唾棄〉《だき》すべきものとして見なすに至ったこの一幕の裏側では。  ……気づかれ、なかったと思う。  大丈夫だと思う。  私が本当は何を考えていたのかあの子に知られたなら、私はすぐさま自分の喉を刃物で抉って自分を殺さないといけなかったけれども大丈夫の筈。    厭らしいことを考えていたのは、あの子じゃなくって私だなんて。  知られたなら、私は死んでしまう他ない。    ごめんね清修―――  けれどこうやって、全部お前が悪い事にしておかないと、私は多分認めてしまうだろう。  お前に私を、なにも着けていない私を見られてしまったのが、嬉しくてたまらないと言うことを、受け入れてしまうだろう。  それだけは、認めてはいけないのだ。  お前がどうしてあんな晩《おそ》くに、お風呂場に来たのか、なにをしに来たのか、私には判っているつもり。  もちろんお前の言う通り、覗きに来たのではないことなんて、判りきっている。  お前は慌てて後ろに隠したけれど、それでも強い匂いがしていたから。  お前の下着から立ちのぼっていた、あの青臭い、強く濃く生々しい匂い。あれが、男の子の、種の匂いなんだろう。  他の男性のそれなんて、嗅いだことも見たこともないけれど、それでも判ってしまうのは、私が女だからなんだろう。  その匂いがなにか知った瞬間、私が気が狂いそうになった事を、お前は知らないだろう。  狂って、お前を抱きしめて、押し倒して、貪り尽くして、お前と一つになって―――  狂ってしまえばよかった。そうなったなら、どんなにか幸せだったことか。    でもいけない。  私は一人気が狂うのは構わないけれど、清修、あの子を、私のこの最悪で最低の、卑《いや》しく汚らしい心の生贄にしてはいけない。    本当なら、あの子にはどこか別の住居を宛って、離れて暮らすべきなのかも知れない。  ……なんて、そんな考えは、所詮実行なんかできやしない。  あの子と離れての暮らしなんて、ちょっとでも考えただけで私はやっぱり、気が狂いそうになる。  だいたい、そんな事ができるのなら、そもそも禁じたりはしない。  あの子が書道を習いに、お寺に通うことも止めたりしていない。  始めは平気だ、と思った。  たかが放課後の数時間、あの子がよそで過ごす事くらい、なんともないって思っていた。  けれどそんなのは最初だけ。  あの子が書道に熱心になればなるだけ、向こうにいる時間が長くなって、しまいには私が仕事から戻ってくるよりも、帰りが遅くなるようになった時に、私は耐えられない事を知った。  独りの家。私以外には誰もいない家。  空間は冷たく切なく虚《うつ》ろに広がり、なのに壁だけが私を押し潰すように迫ってくる。  なにより耐えられないのは、本当はあの子が過ごしているのは、お寺なんかじゃなくって、どこかよその、私の知らない女の子の隣なんじゃないかって考えてしまったこと。  判っている。清修はそんな事なんかしない。  そうできないように躾けたのは私だもの。  けれど私のことすら信じられない私だもの、考え始めたら止まらなくなる。  清修が笑いかける。  私に、ではなくどこかの女の子に。  清修が手を差し延べる。  私に、ではなくどこかのろくでもない女のために―――  そしてそしてああ、お前の綺麗な体が、どこかの淫らな女のために開かれて、あの濃く青臭い精を噴き零す―――!    殺して、やりたい。    その誰とも知れない女を。  そんな女に気を許してしまう清修を。  こんな事をどろどろと腐り果てた汚臭に満ちた気持ちで考えてしまう自分を。  たぶん、あの住職は気づいている。  口数は少なく、静かな人となりのお年寄りではあったけれど、伊達に年輪ばかり重ねてきた老人じゃない。  物事を見つめ続けてその裏を見抜いてしまうような目をしていた。  あの子を通わせるとなった時に面会しただけど、きっとそれだけで悟られている。  私が清修に抱いている邪念など、見透かされてしまっているのに違いない。  だからそれもあって、私はあの子に通う事を止めさせた。  エゴだ。全て私の、臭くて汚くて下劣で醜いエゴの犠牲なのだ。  清修、清修、清修―――  想えば想うだけ、私とお前の間に流れる河は、死界の黒河のように深くなり、私を苦しめる。  想えば想うだけ、お前が欲しくなる。    お前のなにもかも。  心も体も。  その優しい笑みも、澄んだ瞳も、涼しい頬も、健やかな肌も、しなやかな手も、足も、引き締まった腰も、そして愛おしい精を漏らす、お前の男そのものを。  味わって、味わい尽くして、呑み尽くして、貪り尽くしてしまいたいしまいたいそれ以外はなにもいらないけれどそれだけは他のなによりも欲しい欲しい欲しいのよ清修―――!  ここに―――と、築宮を、彼だけを想い、欲し、女性が己の唇に手を伸ばす。  ここにも、と、思いの丈を示すようにわななく手つきで、乳房へと滑らせる。下着の裡《うち》側では乳房の頂が、尖りきって、飢えきって、待ち望んでいる―――自分の浅ましい手などでなく、本物の彼の愛撫を。  そしてなによりもここに、と、乳房からさらに滑って、熱に浮かれたような指先で、両脚の付け根に、女の秘めやかな部分に。 『あ……は……』  服の布地越しだというのに、裡《うち》側で滑《ぬめ》っているのがはっきりと感じ取れる。  きっとさっき築宮を叱責していた時から、こうなのだろう。  まだ誰も他人が触れたことなく、受け入れたこともない彼女の女は、ぬるついて、熱く、とろけて、待ち焦がれている。  彼女がなにより大事に想い、慈しみ、育んできた築宮なのに、壊してはいけないものなのに、女の性はそんな気持ちを超えて、彼を欲している、飢えている、焦がれている。 『もっと、こんなのじゃ……、  足りない、よぅ……』  最初は無意識のうちに始めて、すぐにでも中断するつもりの行為だったのに、もうすっかり、戻れなくなってしまっている。より深い快楽を味わいたくて、つい脳裏に築宮の姿を思い浮かべそうになって、それだけはいけないと首を打ち振る。  ―――それでも、自ら慰める指先を、とめられない、とめたくない。  思い浮かべるたびに、彼の姿が裸体に変わって、その指が、舌が、いま自分に送りこまれている快感の主であるかのように錯覚してしまう。それを慌てて追い払う、の繰り返し。  けれど、どうやっても築宮の面影が瞼の裏に現れて、追い出しても現れる。 『ふ……くぅ……』  飢えもしるけき指先が、ズボンの前を開けて直接肌を辿り、そしてついに―――膣孔に潜りこむ―――まだ浅くだけれど、確実に彼女の中に埋められていって―――  そこで、抵抗に出会った。 『あ……? どうして……』  妄念とほとんど自分の意志を離れた指先がなかば強制的に刷りこむ快感に、処女の秘洞は少し麻痺しかけていて、女性にはその抵抗の正体がなんなのか、〈咄嗟〉《とっさ》にわからなかった。  こんなに自分は欲しがっているのに、体の方がわがままに拒む。  いや、そんなのはいやだ。  本能的に深い吐息で体を〈弛緩〉《しかん》させながら、一息に抵抗を押し剥がそうとして――― 『―――か……は……?』  びくんと背筋が弓なりに反《そ》った。  反《そ》った形でそのまま固まって、ひくり、ひくり、と天井をついた喉に、震えるゼリーのようなさざ波が走った。  痛みが、一拍遅れて彼女に襲いかかった。  〈破瓜〉《はか》寸前の痛みが、彼女を我に返らせる。  一瞬だけ戻った正気の中で、〈坩堝〉《るつぼ》にでも触れてしまったかの勢いで、指先を引き抜き、 『はぁ……はぁぁ……っ』  しばらく肩で苦痛をなだめる息をついて、蜜にまみれた指先を憎々しげに睨んだ。 『わたし……なんてこと……してるの』  唇の端が、〈箍〉《たが》が外れた笑みに歪む。体はいまだ火照り、汗にぬめって、鼓動は追いつめられた獣のようにひどく脈打つ。  そしてなにより彼女の心を惨めにさせたのは、体が、成熟した女の体のその芯、下腹部の底が、愛しい彼の雄の器官に埋められる事を欲して、たまらなく願って、〈檸檬〉《レモン》を見た時顎の下が収縮するよりも切なく、きゅうきゅうと疼《うず》いていること、それにこの指先で滑り、脚の付け根でぬるついている粘液……油でもぶちまけたみたいでないか。  築宮を想うあまりの心がさせたとはいえこれは、こんなのは、発情した獣よりもまだひどい。 『……ふっ』 『ふふ、あは……あはははっ』  あんまりに滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、そして哀しくって、みじめで、忌まわしくて、女性は笑うしかなかった。  笑いながら涙を零した。  歯車が狂ったような笑いをひとしきり、それが収まった頃にもそもそと気だるい体を起こして、性器を確かめる。 『血は―――出てないみたいね』 『……んっ―――いた……っ』  今度は淫らな意図などなく、探る手つきでそっと指先を差し入れれば、純潔の証が抵抗と苦痛と共に応えた。すんでのところで無事なようだった。 『私、いったいなんてこと……、  しようとしてた……?』  再び涙がこみあげる。  今度はさっきみたいな狂騒的な笑いをともなったものではなく、ただただ切なくて哀しい涙だった。  その後女性は、荷造り用の麻縄を引き出し、歯と口を使って己の両手首を縛った。  そうしていないと、彼女の手は自分を裏切ってなにをしでかすものか、知れたものではなかったから。  床に入ったものの、眠る事などできず、己の戒めを見るたびに〈自涜〉《じとく》の記憶の忌まわしさに涙を新たにして、女性の後悔の炎は、夜が白んだところで消えず、この後ずっと彼女を裡《うち》側から炙《あぶ》り続けることになる―――  ―――炎夏がもたらす渇きなら、天の慈雨によって潤されるだろう。  厳冬が凍てつかせた氷の河面も、春の陽差しに溶かされ流れ出す。  けれども、青年が孕《はら》んだ〈懊悩〉《おうのう》と〈惑乱〉《わくらん》は、たとえいかなる天の恵みが降ろうとも流される事はなく、どろどろとうねり、渦巻き、煮え滾《たぎ》り、彼を〈翻弄〉《ほんろう》して、留まるところを知らず。  繙《ひもと》かれた過去に、見せつけられた女性の業に、築宮は惑乱しきって、自分が再び歩き出した事にも気づいていない有り様で。  厳格に、一部の隙もなく、行状清浄に、自分を見守り、保護し、導いてきた女性。  それは間違いのない真実なのだろう。  その裏側で、紅蓮の炎より激しく、底無しの〈暗渠〉《あんきょ》のよりもひたすら深い肉欲で青年を求め続けてきた女性。  そしてそれもまた、変えようのない真実で。  計り知れぬ程重い、果てしなく強い。  女性の愛に築宮はがんじがらめにされ、心は千々に乱れて砕け、砕けたその〈欠片〉《かけら》全てが彼女の面影で占められていて。 「ああ……あ……っ」  築宮は〈慟哭〉《どうこく》する。自分がなにも知らなかったことに。  ただあの女性を自分を縛りつけ、抑圧する全ての象徴と見なして、尊敬はしていても、彼女の愛慕の念には毛頭気づかないでいた自分が、情けなく、厭《いと》わしい―――  厭《いと》わしい?  厭《いと》わしいのは、あの女性の愛情ではないか?  何故かは知らねど、ああして共に暮らしながらも、男と女の愛の〈沃野〉《よくや》に踏みこむことだけは、天が墜ち地が裂けようとも許されてはならない事なのだと、青年の心の深部から響く忌避の声がある。  その声を聴きながらも、心のより奥深くから、ぞわぞわと立ち上がってくる塊がある。  どろどろと濡れて、溶岩よりも熱く重く、惑星よりも巨大なその塊、その感情の塊をなんと呼べばいいのか、築宮には判っていた。           ―――歓喜、なのだ。  歓喜と認めてしまうことで、自分の全存在が地獄の最深部に墜ち、無限の炎に焼かれ永久の氷に責められ、久遠の懲罰の中に封じこめられる事になろうとも、築宮は押し寄せる至福の激浪に酔いしれ、息をするだけでも体が弾け飛びそうになる。  けして、清浄な恋ではない。  けして、祝福される愛ではない。  愛してはいけないひとなのだと、結ばれてはいけないのだと、築宮は悟りつつある。  それでもあの女性が、一人の男として自分を愛してくれていた事は、全ての禁忌を超えた幸福で築宮を満たしたのだった。 (きっと、あの人は俺の―――) (けれど、あの人はいつからああなった?  いつから俺を?  なによりあの人は、昔はああいう、全てを裡《うち》に秘める人じゃなかった)  築宮は少女の面影を想う。  少女の長じた姿があの女性なのだと知ってはいたけれど、築宮の中で二者の姿には隔たりがありすぎて、どうしたって繋がらない。  ということは―――  まだ見終えていないという事なのだろう。  築宮と女性と少女にまつわる過去の幻影の中に、まだ見届けるべき情景が残っているということなのだろう。  それを見届けるために、築宮はもう立ち止まることも振り向くこともなく、歩き続ける。  するうちに、果てしなく続くかに見えた水路と鳥居の連なりは、彼の行く手で終端を迎えつつあった。  闇の奥でうずくまる、巨大な岩塊で、水路は終わっていた―――いや、そこから始まっていたのだろう。  歩みゆけば岩塊には一筋の大なる裂け目の開いて、水路はそこから流れ出ていると思しく、築宮は中にもう躊躇わず迷わず踏みこんでいく。  なんとなしに、岩塊に開いた裂け目を、女陰のようだと、全てが生まれる源のようだと想いながら。  岩塊の中に深く入りこむにつれ、それまでは熱くもなく寒くもなく、それでいて淫靡にまとわりつく、どこかしら羊水を想わせた闇の温度に変化が生じつつあった。  冷えていく、というより、肌を引き締め心を清くする禊《みそ》ぎ水のごとき〈清澄〉《せいちょう》な風合いに、闇が変質していく。  天井からは無数の鍾乳石が垂れ、足元には水路の源流なす清水が流れ、あちらには岩畳が、こちらには〈石筍〉《せきじゅん》の林が、どれ一つ取っても、柔らかいものが瞬時に停止したような静謐を湛《たた》えていた。  こうして築宮が行き着いた場所は、かつて旅籠がまだ闇に閉ざされる以前の物語で、あのニゴリ達が令嬢を苛んでいた胎内洞だった。  しかし雰囲気が全く異なっている。澱みや陰惨な気配はまるでなく、浄化された哀しみといった雰囲気に満たされ、清らかな聖堂のようですらあった。洞窟の奥に溜まる地下水もまた澄みきって。  不意に激しい喉の渇きを思い出し、青年の目が地下の泉へ吸いつけられる。  そういえば、もうどれだけ長いこと、口に一欠けのものも一雫の水も口にしていないような気がする。  あの不気味な燐光湛《たた》えた水路と同じ水の筈なのに、この胎内洞に湧く水はいかなる美酒にも勝って甘美に見えて、築宮は存分に喉を潤すべく跪き、口をつけようとして―――  見た、のだった。  過去の最後の空隙を埋める、その情景を、水の面に。記憶の鏡として。  深夜の窓〈硝子〉《ガラス》のように黒い鏡となって青年の顔を映しだしていた泉の面が、不意に奥行きを持ったかと思うと、動きのある映像に揺らめき、〈徐々〉《じょじょ》に輪郭を定めて、映しだしたは青年の過去の一つ、彼の意識がいまだはっきりと認識していない記憶の、投影として。 (そうだ俺は) (父さんと、母さんを、  早くに亡くしていて―――)  朝《あした》に出て行った者が、夕べには冷たく硬い骸《むくろ》と成り果て無言の帰宅を果たす、というのは世の無常、〈会者定離〉《えしゃじょうり》の理《ことわり》をあらわす譬《たと》えだけれど、幼き日の築宮と少女を見舞ったのはまさにそれ。まだ分別も付かない年頃ながらも、普段は見たこともなかった大人達が次々にと集まってきて家中は騒然と(後からその人々は、縁戚であったのだと聞かされた)、そして皆一様に沈痛な面持ちしているとあれば、ただ事ならぬ雰囲気くらいは嗅ぎ取れる。  大人たちは誰も彼も〈憐憫〉《れんびん》と同情の眼差しで首を振るばかりで詳しいことは教えてくれず、ただ女の子が後ろからきつく抱きしめた力に、幼い築宮も全てを悟った。  肩を抱く腕の力は苦しいくらいで、そしてなにかをこらえるように震えていて、恐る恐る窺えば、横顔がなにかを無理矢理断ち切ったように〈決然〉《きっぱり》とした。  覚えている。その時の彼女の熱い体温も、髪の匂いも、わななく睫毛も、なにもかも。 『大丈夫。大丈夫よセイちゃん。  あなたは、私が、ぜったいに守る―――』  同年代では、少年より少女の方が物事の機微に聡く、裏までも見通す目を持つ。  少女は勘づいていたのだ。  大人達が、身寄りのなくなった自分達を、養育という名目の下に引き離し、離ればなれにするだろうと、予知していたのだ。  築宮少年と少女へ注がれる哀れみの眼差しはそれはそれとして、二人の頭越しに交わされる会話は、両親が残した遺産の分配を巡って欲望にぎらつき、それ以上に孤児二人の扱いを持て余していた。  そして少女が、大人達の極めて現世的なやりとりを目の当たりにし、一つの決意を持ったのは当然の成り行きと言えたろう。   ―――このひとたちは、私とセイちゃんのことなんか、見てない――― ―――セイちゃんのことを見てるのは、私だけ、私一人しか、いない――― ―――なのにこのひとたちは、私からセイちゃんを取ってしまおうとしている――― ―――父さまや母さまがいなくなってしまった私に、たった一人のこされた、セイちゃんを取ってしまおうとしている―――   ―――そんなのは ぜったいに―――   ―――ゆるさない―――  その夜、少女は築宮少年の手を引いて、誰にも知られず家を出た。  葬儀の手配と遺産の分配と孤児二人の今後の扱いに紛糾し、声を荒げ浅ましく言い交わすのに夢中な大人達は、二人の失踪に誰一人気づくものすらなく、明くる日の朝になっても知らずのままに終わった。  大人達が見出したのは、ちゃんと寝床に入って眠りに憩う二人の姿。  二人が昨夜ひっそりと姿を消して、そして明け方に戻ってきていたことなど知らぬ大人達は、お互いの、幼い手と手を取り合って眠る姿のいとけなさに、その時だけはさしもの彼らも、己の欲を恥てか、涙ぐみそうになったという。  ―――けれどこの時、すでに二人は、大人達が住む現世とは異なる世界に飛翔していたのだ―――  二人が家を空けていた間に交わされた言葉を記憶したのは、夜半二人を迎えた、小さな橋と川面のみ。  少女は眠気に曖昧な目の築宮少年の手を引いて、大人達の足ならばすぐそばの、しかし幼い足取りでは小旅行ほどもある道のりをこなして、二人が住んでいた街を流れる川の、その橋のたもとへ。  川と言って大河などでなく、夏の日には子供達が水〈飛沫〉《しぶき》〈蹴立〉《けたて》てて魚を追ったり水を掛けあったりの、小川に毛が生えた程度の川。  けれどまだ小さい二人にとっては悠久の大河に匹敵するスケールでもって、夜の中を暗く流れている。  橋の上から川面を覗きこみ、少女は築宮少年へ振り返った、その手には、細長い筒、在りし日の、二人で書きこんだあの架空の場所の地図。 『これはもう、流しちゃうからね』  二人の想い出を橋の〈欄干〉《らんかん》から投げ入れようとする少女に、これまでの優しさとは異なる気高く、どこか人を寄せつけないような意志を感じ取り、少し怖くなって、それでも問いかけずにはいられなかった。何より築宮少年には、彼女がなぜこんな時間、普段なら用足しに立つ時は別としても起きているのを見咎められただけで、翌朝にお説教されお楽しみのおやつを削られる事間違いなしの禁断の真夜中に、自分を起こしたばかりか外へと連れ出した、その意図が判らずじわじわ不安の波に包まれつつもあったのだし。 『どうして……?  それ、とっても大切にしてたじゃない』  築宮少年は、自分がそれに興味を薄くしても、少女が大事に持ち続け、熱心に書きこみの手を入れ続けていたことを知っていて、それ故に地図を流しやろうとする彼女が、自分の知る者と別の誰かに見えたのである。夜更けに河から這い上がり、人間を化かして夜通し迷子にさせるというお化けの話を聞かせてくれたのだって、この少女ではなかったか。  ……〈深更〉《しんこう》の、夜闇に川の流れは見慣れた昼よりも、ずっと瀬音がどよもして低く轟く、欄干から見下ろしても水面は黒深くして底が見えず、全く別の世界、見知らぬ大河の辺《ほとり》に立たされた心地して、築宮少年の心細さをかきたてた。 『とっても大切だから、よ。  これを持ってると私は、きっとセイちゃんに甘えてしまう』 『でも、もう、二人だけの大切なものだからって、甘えてはいられないから』 『ねえセイちゃん。  父さま、母さまがなくなって、  おとなの人たちは、私とあなたを、  離ればなれにしようとしてる』 『……どうして?  そんなの、いやだよ。  一緒にいたいよ』  築宮少年にとって、父母を亡くした実感はまだ薄く、哀しいと云うより自分の世界からどれだけの部分が喪《うしな》われたのか、それさえ見当がつきかねている、けれど。  もし少女が傍からいなくなってしまったら―――家でも、どこであっても一人、自分一人だけしかいない、それは思うだけでも胸のあたりに〈胡桃〉《くるみ》のようなしこりが生じて、裡《うち》側から削られるような痛みをもたらした。  かつてない心細さに築宮少年の声は涙を交えたが、少女にしてもそれは同じ、いや少年以上に彼女は成り行きを憂いていたのだ。  だからこそ彼女は、一つの決意を持った。 『私だっておんなじよ。  でも、そんなのはあの人たちには通じない。あの人たちは、私とセイちゃんがまだ子供だからって、ひきはなそうとする』 『だから私たちは、二人だけでも、ちゃんと生きていかれるってことを、示さないといけないの』  少女は自分と同じように川面を見つめているけれど、この夜の彼女は築宮少年が知るどんな誰よりも、気高く、大好きなのに触れてはいけないくらい遠い人のような近づき難さをまとい、川の水気に柔らかな首筋の後れ毛も、横顔の頬の線も大人びて見えたという。 『子供のままでは、だめ。  子供みたいにしてはいけない。  他の大人が文句のつけられない、ちゃんとした人間にならないといけない』 『だからこの地図は、流してしまわないといけないのよ―――  子供の私といっしょに、流して、しまわないと―――』  歌うような節回しで囁く少女の眼差しに、涙が滲んでいたことを、築宮少年は気づいていたけれど、それを口にしてしまえば彼女への侮辱となるような気がして、何も言えなかった。まだ幼い築宮少年には、自分の哀しみが巧く言葉にできない。ただ感じ取ったのは、子供時代とともに、想い出の地図を流しやろうとしている少女の、〈果敢〉《かかん》に自ら我が身の一部を断ち切ろうとする、その痛みのみ。深く強く哀しい少女の痛みを分かち合うだけで胸が詰まって、言ってやれる言葉など、なにがあったろう。  少女が、地図の筒へそっと頬を寄せる―――子供のみに許される、甘え、喜びを地図へ吸わせ、映すように。  ゆっくりと投げ入れられる、その瞬間に築宮少年でさえ、生身の肌を引き剥がされるような痛みを確かに感じていたくらいの、少女はどれだけの喪失の痛みに貫かれていたことだろう。  けれど、もう取り戻すことはできない。暗い川面に浮かび、ゆらゆらと揺られ、静かにゆっくりと、それでも着実に流されて、地図はもう手の届きようのないところまで行ってしまって、築宮少年は、あれは一体どこに流されていくのか、流された先で誰か拾ってくれる人はいるのか、そんな事をぼんやり考えていたように思う。  幼い物思いは、凛《りん》として、張りつめた声で破られた。  築宮少年がこれまでに聞いた事のない声音。  そして少女が、これから築宮少年には、この〈凛然〉《りんぜん》とした音でのみ語りかける事を誓った声。これまでの幼い日々の中で優しく呼びかけた声は、もう地図と一緒に流しやった。 『これからは、私がセイちゃんを育てて、守って、あなたを立派な人にする』 『父さまと母さまだったら、きっとそうしたように。私はもう、今までみたいにセイちゃんに優しくはできないかもしれない』 『私のこと、嫌ってもいい。  憎んだっていい。  でも私は、セイちゃんと、あなたと一緒にいたいから』 『嫌うだなんて、そんな。俺だって、みづはといっしょにいたいもの―――』 『だめよ、清修』 『……えっ?』  そうぴしりと遮った少女は、〈蜻蛉〉《かげろう》が幼生の皮を脱ぎ捨て翅を広げるように、すでにそれまでの彼女を捨て去っていた。  そこに立っていたのは、後年築宮の全てを規定することになった、厳しく、気高い眼差しのあの女性の―――        みづは。    それが少女の、そして女性の名前。  みづは。その名前は親から与えられたものかも知れないけれど。  みづはは、〈罔象〉《みづは》とも字を当て、水のそばに立つ女の意だともいう。  少女は、水の際にて己で宣言し、己を規定したのだった。 『私のことは、もう呼び捨てにしたらいけないの』 『私は、清修の姉さんなのだから。  ちゃんと、そのように呼びなさい』 『私たちは、そこからはじめて、誰にも二人のことに口を挟めないように、生きていかないといけないのだから―――』 『わかったよ……みづは……姉さん』  心無い大人なら失笑するだろう、ままごとのような幼い出発なのに、そこに甘さは皆無で、築宮少年にも彼女の本気が伝わって、同時にこれを破っては二人が引き裂かれるという強迫観念をも植えつけた。             この 誓いが    二人の 姉と弟の     全ての         始まり  ―――  ――――――  ―――――――――むろん、大人達は与り知らぬ事。  たとえ知ったとしても、一笑に付したことだろう。健気とは思ったとしても、まるで実を伴わない、子供じみた言葉遊びだと、誰も本気にしなかったろう。  けれども。  大人達が〈目論〉《もくろ》んだように、二人が離ればなれになる事はなかった。  親族会議はその後数日も欲の脂に滑って空転し、誰もが権利ばかりを声高に言い募《つの》って辞めようともしなかった中で、それは起こった。  築宮少年とみづはを引き取る、というか押しつけられるのがほぼ本決まりになっていた親族の家屋敷が、どういう巡り合わせか二つながらに不審火を出し全焼し、二人のことなど構いつける余地がなくなったのである。  こうして姉と弟の進退は不明になったものの、それとて一時のものだろう、次に誰かに盥《たらい》回しにされるだけであろうとの、親族一同のごく当然の見込みはまたも裏切られることになった。  一族の中でも割合善良で、両親の生前から姉弟に対して比較的好意的だったとある初老の男が、孤児二人の後見人になることを申し出て、それで皆の度肝を抜いた隙に、水際だった手運びの、法的な措置を全て完了させていたのである。  かくして姉と弟は、社会的な後見人を得て生き別れの憂き目から逃れ、両親の遺した屋敷で暮らすことになった。後見人たる男は奇妙なことに二人には最小限の干渉しか行わず、幼い時には手伝い女をつけたものの、それもわずか二・三年でみづはが家事の一切を仕切るようになって暇を出された。後見人自身も、みづはが成人を迎えた時に、あっさりとその座を退き父母からの遺産を彼女に戻した(相当分目減りしていたらしいが詳《つまび》らかにはされず、みづはもそれについては何故か深く追及はしなかったという)。  親族の口さがない噂話では、男が後見人を申し出る前夜、彼と秘やかに言葉を交わす少女を見たとも、始めは半信半疑の薄笑いだった彼が、次第に青ざめ少女に平伏せんばかりになったのを〈垣間見〉《かいまみ》したとも言うが、全ては〈仄聞〉《そくぶん》の域を出ず、それに誰もが言ったものだ。  だとしても、あんな子供になにができるのか、と―――  ―――これが、過去の残りの、一雫。  青年とその姉の、二人きりの世界が構築されるに至る経緯を物語る、過去の残りの一雫。  ぽつんと滴り落ちて、水面は乱れてたちまち影像は掻き消えて、築宮は涙をこぼしている自分を見出していた。  確かに自分は抑圧され、彼女という枠の中に〈鋳造〉《ちゅうぞう》されてきたのだろう。  けれどそれは、あの少女が、あの女性が、全て自分のために為したこと。  子供が子供であるべき時代を棄てて、その後の時間も、全て築宮の為にのみ捧げて。  渦巻く思いは圧倒的に過ぎて、形にならず、それでも想えば想うほど募《つの》りゆく。 「なのに俺という奴は、このろくでなしは、いつからかあの人のことを、重荷とばかり厭《いと》うようになっていて。  ―――そればかりじゃない」  今の今まで忘れていた名前、そして彼女が自分の何にあたるのかという事実。  彼女こそ築宮の血の血、肉の肉、組み上げている骨の全て。  そんな人を、どうして今まで忘れてしまっていたのか。  後悔が肩に惑星よりも重くのしかかり、耐えきれず前にのめって、水の中に手をついた、〈清冽〉《せいれつ》な水に冷やされても自責の念は消えるどころかより深まり、築宮は慟哭にしゃくりあげ、水底に突き立てた、爪の先に。  触れたものがある。 「……なんだ、これは……」  引き揚《あ》げれば、どれだけ水の中にあったものかは知れず、冷たく濡れて、それは、瞑目する女性の顔の左半分だった。  出来損ないの〈死面〉《デスマスク》のようにも見えるが、それに特有の暗い死の雰囲気はなく、ただ清い眠りの中に憩《いこ》うてあるようだ。 「これは、姉さんの―――?」  最早見間違えようのないかんばせ、それは築宮の姉なる人の半面にして、彼が見続けてきた過去の情景の、最後を示す句点のように、青年の手の中に納まっていた。  ―――築宮は、思う。あの時流されていった、地図の行く末を。何時しか流れに呑まれた地図は、深く深く沈んで、現実の区切りを超えた大河の果てへ。姉が封じこめた心とともに。  割れた面の意味するところが、次第次第に明らかになって、築宮の胸の裡《うち》に去来して、冷たい面に詫びるように胸の中にかき抱いた時に、背後に岩を踏む音の。〈角燈〉《カンテラ》の灯りに揺らめく影も伴って。  〈跫音〉《あしおと》で、もう誰かはわかっていた。  もう、恐れる気持ちも、消え失せていた。  〈慚愧〉《ざんき》の涙だけれど、拭《ぬぐ》おうとは思えず、目に溜めたままで振り返るとそこに。 「……とうとう、お前はここに行き着いてしまったね」 「そしてとうとう、そいつを見つけてしまったねぇ、清修……」  もはや彼女はそれまで漂わせていた恐怖の気配は欠片もなく、ただ諦念と自嘲の念ばかりを微苦笑の中に滲ませるばかりだった。  築宮は、渡し守の顔の右半面、生身の顔をぼんやりと見つめ、そして手の中の左半面の顔に視線を落とし、〈豁然〉《かつぜん》と、禅僧が悟りを得るように〈自然〉《じねん》に、その言葉を口にしていたのだった。 「―――姉さん―――?  みづは、姉さん―――  あなた、なのか」  なにかに操られるように立ち上がって渡し守へと歩み寄り、掌《てのひら》の中の姉の半面と見比べた時に、築宮の心で二つの面影が合わさり、重なり、一つのものになっていた。  渡し守―――  旅籠と大河を渡し、築宮を導き、そして追いつめてきた妖しの女。  みづは―――  築宮を見守り、育み、彼の枷《かせ》ともなっていた姉なる人。  どうして相似に気づかなかったのだろう。  全てを思い出さずとも、過去の中に現れた女性と渡し守は同じ貌をしていることなど、見ただけでわかりそうなものなのに。  渡し守こそ、築宮が旅籠の女たちと別れ、ここまで追い求めてきた少女であり、あの女性なのだった。  そして彼女こそが、築宮の姉であり、かつて一緒に旅籠を想像し、両親の死後彼を厳しく守り育て、そして厳格な態度が築宮の心を抑圧するに至った人だった。  全てを築宮が思い出した今、最早彼を損なう意味もなく、渡し守はほろ苦い笑みを浮かべて、一つ溜息の、肩の線が落ちて、一回りも痩せてしまったようで、これまで青年を追いつめていたあの恐怖の闇の衣は、今〈角燈〉《カンテラ》の中で見れば、疲れたように色褪《あ》せて、墨の色も何度となく水に晒されたように薄い。  この人が、何故あんなにも恐ろしかったのだろう―――  〈角燈〉《カンテラ》を揺らし、油の残り具合を確かめる仕草だって、どこか虚脱したような、とってつけたかのような。それでも沈黙を破ったのは、渡し守からだった。 「ああ……そういう事になるんでしょうよ」 「あたしは、旦那がみづはと言い、姉さんと呼ぶ、あの人だって事に……なるんでしょうねえ」 「どうしてそれを、始めに言ってくれなかった。そうすれば俺は、こんなに迷わず、苦しまず、迷わずに済んだ」 「この旅籠は、始め俺と姉さんが二人で作った、想い出の中の世界だと思っていた。  けれど姉さんの思いは、俺のなんかより何倍も強くて、深くて」 「俺は、姉さんの心の中を〈彷徨〉《さまよ》っていた。  そういうこと、なのか?」  なればこそ、旅籠の中に青年の記憶を喚起するような〈場処〉《ばしょ》、眺めがあったのだろう。令嬢の簡素な部屋や青年の座敷、あちこちの部屋部屋と、築宮が現界にて住まう屋敷の部屋との相似も、また。 「旦那は川に落ちたあの時、間違いなく死ぬところでした。けれどもあの人の想いが、そうはさせなかった」  目を伏せて、淡々と言葉を紡ぐ渡し守の肩の後ろに、大河の流れが幻影と結ばれ、流れの音も通って。 「どれだけ離れていたって、あの人の心はいつだって旦那と共にあるんです。それが、旦那を救い、そして―――  この旅籠に、送りとどけた」  渡し守の口ぶりも、青年を追いつめるようになる以前の、伝法でいながら彼への思いやりを覗かせていた、あの語調に戻っていた。 「旦那は、本当に疲れて、厭になって、  あの人から逃げ出したいと、そう思っていましたからね」 「そんな旦那の前に、なんであの人があの人のままで、顔を出せたものかい」 「それであんたを見守りたい、そばにいたい。そんな女の、切ない気持ちが生みだしたのが、このあたしだ」 「旅籠の渡し守だ」 「けして実ることない恋。けれども、あんたを見守っていたい、共にありたいと願う心」 「そんな想いのありたけを、束ねて、こね上げ、できあがったのがあたしです。  ……言えるわけ、ないじゃありませんか」 「それだって、わからないことだらけだ。  どうして姉さんは、俺をあんな風に……」  と築宮がやや口淀《よど》ませたのは、彼への滾《たぎ》る思いを鎮めかねて、哀しく空しく自分を慰める姉の姿を思い出したからで、さすがに本人というか、それなる人の分け身を前にしては、あからさまには言いかねたのである。 「あんな風にまで、俺の事を思いつめておきながら―――そう言わせてほしい。もしかしたら、俺の自意識過剰なのかも知れないが、俺はいろいろと見てしまったから―――思いつめていたのに、なぜ俺が」 「旅籠で出会った女性達に恋をして、一生伴にいたいとまで願うようになったのを、見すごしにした?」 「そりゃあ時には忠告めいたことも言っていたけれど、それだって俺の恋を、とめたりはしなかった……」 「旦那、あんたは、全てを見てきたってのにやっぱりどっかが抜けてらっしゃる」 「あの人はね、そしてあたしはね、旦那が自分で考えて、そして選んで、望んだ相手なら、たといそれがあたしじゃなくっても、その助けになりたいと、そう願う女なんでさ」  その願いは、無償無私の愛のように聞こえて、だが果たしてそう言いきってしまっていいものなのだろうかと、青年の心へ兆《きざ》した疑念があった。 「だのに、やっぱりいけなかった。  旦那は、彼女達との物語を捨ててまで、  過去を取り戻す道行きを選んだ」  渡し守、自嘲の色をますます深くして、 「やっぱり、あの人が、あたしが、用意したお膳立てじゃァ、旦那の心を満たすことなんか、出来なかったってことだ……」 「だから、あたしはもう、どうしたらいいのかわからなくなっちまったのサ」 「あたしの気持ちは、気取られちゃいけない。あんたには、誰かいい人と、幸せになってほしい」 「それがあのお嬢さんだって、法師だって、図書室の鬼女だって構いやしなかったのに」  それは確かに、徹底的な、無償無私の愛だと言えるのかも知れない。けれど築宮には、その想いが清浄の心だとは言い切れず。  なるほど全ての事実が明らかになった今、渡し守は倦《う》み疲れ果て、妖威を喪《うしな》い、悲哀を漂わせる、許されない愛の悲嘆にくれる女の。  だが―――令嬢も、司書も、琵琶法師も、つまるところは築宮青年と姉の心が地図の上に生み出した、〈仮初〉《かりそ》めの、物語の女たちなのであり、全ては姉の裡《うち》側に在ったことと言えないだろうか。  それどころか、旅籠の女たちは全て、姉の心が仮託された、彼女の〈仮面〉《ペルソナ》のそれぞれ異なる顕《あらわ》れだとも言えよう。  ならば今、渡し守が語ったように、旅籠の女たちは真に築宮青年が選び取った相手だと、言えるのだろうか。  それでも。  それでも青年は、姉を、渡し守を憎み、怨む気持ちは抱けなかったのである。  そうまでして青年を愛したいと願う情の、深さ、途方も知れない巨大な質量にただ、胸塞がれる想いがこみあげて。  胸に迫る、疼くような痛み伴うそれは、けして不愉快の念ではない。どころかむしろ、ここまで深く愛される事への、目も眩《くら》むような喜びだと言えたかも知れない。  そもそも青年が姉へ抱いていた畏敬の気持ち、疎ましさ、やるせなさは全て、慕い、共にありたいと求める心に始まっていたのだから。 「そう仕向けたのに、旦那はそれを振りきって、追いかけてきたりなんかして、さ」  ふうと溜め息で肩を落として、そんな弱さを厭《いと》うように口元を袂《たもと》で隠して、それでも袂《たもと》越しにじぃと投げてきた眼差しへ、怨む色が滲《にじ》み出て。 「ひどい話じゃないですか。  隠したいと願う女の心を、一体なんだと思っていなさるんで?」  詰るように、怨むように言われて築宮は、軽く混乱する。  渡し守は、見てほしくはなかったという。  過去の情景の中で目の当たりにした姉だって、築宮に、弟にはこの心、絶対に知られてはいけないとひた隠しにしていた。  なのに何故、少女は築宮の前に現れて、彼の憧憬をかきたてて、旅籠の奥へと追わせるように振る舞った? 「それは俺の方が知りたい。  あなたが用意した、彼女達との暮らしは、あれは俺にとってどんなにか幸せだったろう。そのままで過ごせたなら、それが幻だって構わないって感じられてしまうくらいに」 「けれど、それを破ったのは、あなたじゃないか。  まだ小さい頃のみづはが、その都度現れては、俺がなにかを忘れていることを、思い出させた。  だから俺は追いかけたのに―――」 「それだって、ほんとの気持ちです」 「見られたくないと願う心。  別の誰かが相手だって良い。  幸せに暮らしてくれればって、願う心」 「でも……それと同じくらいあたしは、あんたに見つけてほしかった」  きっと、その全てが掛け値のない真実にして本当の心なのだろう。  自分を見つけてほしいと願う少女のみづは。  隠したいと願う、大人になったみづは。  そして渡し守に化身して、どうすればと迷い悩んだ果てに築宮青年を残酷に追跡したのも、全て真実なのだろう。  たとえ一つ心でも、斬り口を変えれば別の形になる。  それでも全ては一つ、築宮を想う心に根差している。  これが、もしみづはと築宮がただの女と男なら、二人、なにも苦しむ事はなく、障害もなく、祝福されて結ばれる、そんな日もあったかもしれない。  けれど、二人は。  そう、二人は。 「なんだって、こうなんでしょうね……。  どうして二人は、姉と、弟になんて、生まれついてしまったのか―――」  姉と弟の恋。  禁忌の、禁断の、許されざる恋。  二人を隔てる理は、あまりに重く、そして乗り越えがたい。  かたわれへ向かう心を恋だと覚ったのはみづはが先の、熱に爛れどこまでも狂態を強くして、昏《くら》い情炎をひたすら燃やしても、眼でもって見届ける、それも人前にはけして明かせないから陰から見守ることしかできぬ愛に、姉はどれだけの歳月を〈懊悩〉《おうのう》し続けていたのか。 「ねえ旦那。  もういっそのこと、あたしなんかいらないって、消えっちまえって、そう突っぱねて下さいまし」  激情が、渡し守の肉の身体の輪郭から、遂に弾けた。長く長く封じこめられていた心が、とうとう堰を切って溢れ出したその凄まじさは、胎内洞の空気に感応し、染め上げ、築宮青年を隈《くま》無く押し包む。 「そう言ってくれれば、あたしはこのままいなくなりましょう。  ええ、そうですとも!  言っておくれな!」 「辛いんです。  抱きしめたい男がそこにいるのに、許されないってのは」 「苦しいんです。  抱かれたい人がそばにいるのに、触れてもくれないってのは」 「だから旦那、いいえ清修。  もう、いっそのことあたしを、いなかったことにして、お願い―――!!」  真正面から轟々と、岩を砕く波浪に勝る勢いで吹き寄せる想いに、築宮は、けれどもう退くつもりはなかった。  たとえその答えがどうであれ、告げてやるより他になかったし、彼自身、女の激情に誘われるように、強い気持ちが体の奥底から湧いてきた事を、認めないわけにはいかなかった。  彼もまた、深く姉を愛していたのだ。姉に認められたい、相応しい男になりたいと願っていたからこそ、その思いが裏返って強烈な劣等感となり自分を縛鎖し続けた。  その鎖が、姉の激情の奔流に撃たれ、千切れて――― 「言えるか、そんな―――あなたに消えてなくなれなんて―――」 「言えるわけがあるか、姉さんに、俺の姉さんなんだ、その人にいなくなれなんて……!」 「俺があれだけ苦しんだのも、逃げ出したいとまで願うようになったのも、きっとあなたを、俺なんかの事で苦しめたくなかったから」 「俺なんかに縛りつけられていないで、幸せになってほしいって―――でも、想像もできなかった」 「姉さんがいなくなる日の事なんて、考えられなかった。やっぱり俺には、あなたなんだ」 「俺をこんな風にしたのはあなたなんだって、それは判っている。それでも俺の世界は、あなたがいるからこそ、在るんだって」 「やっと気づいたよ、やっと判ったよ」 「そんな俺の口から、消えろ、いなくなれと言えなんて、あるか、そんなの、そんなのってあるかよ……っ!!」  重く握り固めた拳で殴るように、お互いの想いをぶちまけ合い、叩きつけ合い、その果てに視線が絡み合う、どちらからともなく。  視線の中に、想いが交錯する。  お互いが、お互いを求めている。  もっとそばにいてほしい。  もっとそばに感じていたい。  強く強く、抱きしめたい。  ―――それでも築宮の中で、問いかけてくる声がある。このまま渡し守を、姉を、抱きしめてしまっていいのか、と。 select  ―――女は、〈憔悴〉《しょうすい》し、疲れきって、崩れるように噴水の縁に座りこんだ。  こんなところで休んでなどいられない、立ち上がって、捜さなければならない。  心の方はそう鞭打つのに、体力に劣る女の身の哀しさ、体がもう、言うことを聞いてくれない。  足だって靴の内側で擦れて、血を滲ませてずきずきとおき火のように疼《うず》く。  不意に、だん、と強く足を踏み鳴らした。 「こんな、こんな……っ。  動け、動かせ、私の足、  こんなの、どうなったって構うものか!」  だん、だんと、心のままにならぬ足を責め、痛めつけるように狂おしく、地団駄を踏み続ける。 「こんな、ちょっと痛いくらいでどうして動かないッ」 「清修がいないんだ、いなくなっちゃったんだ……っ」 「なのに私は、なぜこんなところでぐずぐずしているの……っ」  深夜の公園とて人影はなかったが、もし通りすがる者がいたならば、藁《わら》の人形で〈厭魅〉《えんみ》する呪者を見たよりも、ぞっと恐怖して慌てて目を背《そむ》けたことだろう。  それくらい女からは、夜気さえ歪ませるくらいの濃く密な、情念の〈陽炎〉《かげろう》がたちこめていた。 「私しかいないのに。あの子のこと、捜せるのは私しか―――」  汗ばんでなお艶めく髪なのに、地肌を破りかねないほどの勢いで掻きむしる、呻く、歯軋りした奥歯が鳴る。  我が身のことより、いやなによりも彼女の心を占めるのはただ一つ、弟のこと。  愛して止まない、ただ一人の彼女の半身。  自分一人では、捜すと言って限りがあるかも知れないが、だが他人の、増して司直の手などに任せておけるものか。  そもそも他人は、大の男が飛び出していったきり一晩戻らないくらいでは、真剣にはなるまい。  じきに帰ってくる、と空々しい慰めを口にするのが関の山だろう。  ……だがそんな慰めなど今の彼女の前で吐いたら最後、後悔してもしきれないほどの憂き目を見ることだろう。  それくらい焦り、切迫し、動揺していたのだ。彼女は、姉なる人は――― 「どこにいるの、清修……。  お前がこんなに遠く感じられることなんて、今までなかった」  彼女の弟に向かう想いは余りに深く、たとえ彼がどこにいようとも、朧気に、時にははっきりと、その居所を感じられるほどだった。  それなのに今は―――弟の心が、ひどく、遠い。それが、彼女の心をここまで追いつめ、苦しめている。何か、二人を決定的に、そう例えば死と生の世界のそれぞれ両岸に隔てかねないほどの何かが、生じつつあると、彼女にはそう感じられてならなかったのである。 「お前を見つけるためなら、なんだってするよ。このいのちを投げ出したっていい」 「だから応えて、清修―――!」  切なる想い。いっそ呪詛といっていいまでに高圧の、溶けた鉄のような願い。  ―――遂にその心が感応したのか―――             ―――姉さん    その声は、余人ならば空耳で片づけるか、あるいは想うあまりの己の心が囁いた、幻として聞き流す類の声だった。現実に響いたとは思われなかった。  だがしかし女は、 「清修!?」  弾かれたように顔を上げ、迷わず背後に向き直る。彼女にとって弟の声を聞き逃すことなど空を泳ぐ鯨よりもありえず、ならば現実に聞こえたとしか思われない。そして位置を誤ることもない。  向き直り、覗きこんだ噴水の水面。  夜半のこととて噴水は切られ、静まって、ただ夜ばかりを映して暗い。  覗きこんだところでそこには何も見えず、遠い常夜灯の明かりに彼女の顔が映りこんでいるだけ―――に思えたのだが。 「ああ、ああ……清修……。  お前、どこにいるの、そこはどこなの?」  女の目には、水の面に青年の姿が結ばれていた。何処とも知れぬ暗い洞窟の底に佇《たたず》む、何より愛しい半身の姿を、彼女が見誤るはずもなかった。  弟の姿に、女は、日頃彼女の姿を知る者が〈愕然〉《がくぜん》とするほどの、愛おしげな優しげな顔で、全身の骨が溶けたのではないかと危ぶまれるほどの安堵の表情を浮かべたのだが――― 「清修……お前、誰と、話している?」  次の瞬間に空気が軋むほどの鬼気、周囲の木立に休んでいた鳥たちがけたたましく絶叫して飛散するほどの鬼気をたばしらせ、水面を食らいつかんばかりに睨みつける、その顔の恐ろしさ、凄惨なことと言ったら。  彼女には、感じ取れたのだ。  弟が誰かと共にいる、と。  その誰かは女なのだ、と。  そしてそれが女には―――地獄の炎よりも黒く滾《たぎ》った憎炎をかきたてた。 「待っていなさい……清修……。  今そこに行くわ……行ってその女を……」  もし弟に、淫らな、いやたとえ情欲無くとも指の一筋でも触れたなら、その一度につき一瞬間が無限にも引き伸ばされるくらいの業苦を負わせてやる、と言葉にできないくらいの嫉妬の憎悪が女を充たし、吐く息が夜気の中で白く濁《にご》った蒸気となるほどの、それが唐突に―――  戸惑って、〈業怒〉《ごうど》の炎が薄らぐ。  女は、聴いたのである。  水鏡の向こうから、差し延べられた手を見たのである。  姉さん―――と、弟は呼びかけていた。  差し延べられた手は、自分を抱きしめるための手だった。 「ああ、ああ……!  行くわ、すぐに。  待っていて、お前―――」  憎炎は同じだけの高圧高温の求める心に瞬転して、女は水面に手を差し延べる。  不条理とか、物の理《ことわり》とか、そんな当たり前のことは女の念頭に一切無かった。  弟だけが全てだった。  〈欠片〉《かけら》の疑問もなく、女は水面に、その向こうの弟の手を取ろうと身を屈め―――  そして、微風が吹いて、後はもう、女はいなくなっていた。  女を呑みこんだ筈の噴水の中には、彼女の存在を示すような痕跡は、何も残っていなかった―――  ―――河が流れて、大海へと注ぐように。氷が溶けて流れるように。全ての出来事がこの今のための布石だったかのように、ごく自然に築宮青年の片手は、墨染の衣の女の背に廻されて、引き寄せて、二つの影の、一つに重なって。  〈角燈〉《カンテラ》の灯りの輪は胎内洞の〈厖大〉《ぼうだい》な闇の中には哀しいまでに小さく、けれどそれだけに二人の、二人以外の〈夾雑物〉《まじりもの》を閉めだした世界のように、重なる体と体、抱き合う腕の中に通った温もりはお互いの心の、漏らした吐息が混じりあう。  近親の、姉弟姦の禁忌を犯すことになるのかも知れない。だがそんな禁忌など知ったことか!  積年の想いの前にはいかなる禁忌、人の倫《のり》だろうが無力だった。 「あんたの姉さんは―――そりゃあつまりあたし自身のことなんですが―――」 「きっとほんとは、こうなりたかったから、  あたしをつくったのかもしれませんね」  本当はこうしたかったから、姉さんは私を産み出したのかも知れないね、と渡し守が泣き笑いの、その時に―――  青年がいまだ片手に握っていた、女の顔の半面が、ふわりと浮かび上がり、渡し守の割れ般若の面に被さった。  と、般若の面がすうと溶けるように消えて、渡し守の貌が、何一つ隠すものなく露わになる。  もちろん青年には、その貌を知っていた。  何より近しくあった女性だった。  本来の貌を取り戻し、しばし瞼を下ろし、初めて息を通わせるように、ゆっくりと肩を上下させるその人は、築宮青年にとって渡し守である、という以上の深い意味を有するに至っていた。確かめるように、語りかける。 「みづは……姉さん……なのか?」 「あ……っ?  私―――お前を捜していて、  それで、お前に呼ばれて―――?」 「ここは……そしてこの恰好は……」  渡し守は―――否、今や青年の姉として〈顕現〉《けんげん》した女は、一瞬戸惑ったように瞬《まばた》きを繰り返したが、直ぐさま眸が築宮に据えられた、その焦点に狂いがないのは、ただひたすらに弟を見つめ続けてきた彼女にとっては当然の。  見つめ返して、直ぐさまに旅籠で積み上げられてきた、物語の経緯を了解したように頷いた。  渡し守として旅籠に化身し、ずっと青年を見守っていた女こそこのみづは、くだくだしい言葉は無用だったのだろう。  あるいは少しくらいは彼女も混乱していたのかも知れない。  けれど何よりも、青年に抱きしめられていることが、全ての戸惑いに勝った。 「これは夢とか、幻とか、そういうことなのかしらね……でも、いい、そんなのは」 「わかるよ……お前がここでなにを見てきたのか、私の何を知ってしまったのか」 「それでも清修、お前は抱きしめてくれるんだね……」 「そうだよ、姉さん。  それが、最後の最後に残った、俺の本当の気持ちだから―――」 「好きだ。  あなたのことが、好きだよ、姉さん」  告げる言葉、愛の言葉、かつて青年は令嬢に、司書に、琵琶法師に同じ心を伝えた、同じの筈なのに、ここまで、鋭い痛みが伴うのは、やはり禁じられてなお踏み越えた故か―――否、きっと。  きっと旅籠の女たちを打ち捨ててまでここへ辿り着いた、その旅路の重み、意味に裏打ちされていたからこそ、ここまで痛い。痛いほどの喜びに満ちているのだ。 「……ああ……」 「どうして―――これが、この今が、私たちにとっては、本当のことだってわかる」 「なのに、私が今聴いた言葉。  お前の言葉。  せっかく聴いたのに―――」 「気持ちが大きすぎて、心が追いつかないみたい……なんで、せっかく好きって、お前が私のこと、好きって」  青年に抱かれ、みづはは何度も繰り返し、彼の胸に頬をすり寄せる、涙は布地に吸われてなお尽きることなく、後から湧きだし、零れて、それでも想いは彼女の胸には収まりきらずに溢れては、溢れ。 「私、本当に聞いたよね。  嘘じゃない、本当に……?」 「こんな事、貴女に何度も言うなんて、  俺だって胸の中が破裂しそうなんだけど」 「でも、何度だって言うよ。  みづは姉さん、俺は、貴女が好きだ」 「この旅籠で、色々な女性と出会って、  それでも最後に残ったのは、  貴女のことを愛してる―――」 「その心なんだ」 「清修―――  清修、清修、清修、清修―――っ!」 「気持ち、溢れて、言葉、うまく、私、言えない……っ」 「でて、こない、お前の名前しか、  清修、ああ清修、私の、お前―――!」 「抱きしめてくれてる、でも、もっと。  呼んで、私のこと」 「抱いて、もっと、抱きしめるだけじゃなく、もっと、して欲しいよ―――清修」  言葉にすることでしか、伝わらない心はある。けれども言葉の網目は密に見えても零してしまう気持ちがある。そしてみづはの愛は言葉では十万分の一しか届かない、いや数の単位では表せないくらいに巨大で、ならば二人が知るやりようといっては、肌と肌を、体と体を繋げる事しかなく、きっとその為に二人の体は違うのだろう。男の部分、女の部分、それがあるなら二人は繋がりあえる。  姉と弟として許されるのか?  そんな法《のり》など、二人にとって有ろうが無かろうが、最早同じ事。 「―――姉さん? 震えてる?」  築宮の手を握りしめる、意外なほどに強い力は、裏腹に不安を示してかすかに震えて、覗きこんだ築宮は、姉の端正な横顔の紅潮に気付く。  ただ不安に慄《おのの》くばかりでない、風を大きく受けて飛翔する寸前の、鳥の風切り羽根のそよぎにも似た、期待も同時に孕《はら》んだわななきだった。 「そうみたい。でも違うのよ。  たしかに怖いけれど、それが、たまらなく嬉しいの。  お前にはわかるかしら」  あえて不安を殺そうとはせずに、素直な眼差しで築宮を見つめる、その貌は、たとえば法師の無邪気とは異なる気品と、司書の成熟した美しさとは別質の、それでもまぎれもない華やぎをたたえた、美しすぎる面差しで。  雪の花のような顔に、紅玉の輝きのような熱情で艶めかせ、みづはは弟に尋ねる。  築宮にも、姉の気持ちは伝わっていた。  踏み越えてはいけない一線であり、越えてしまうことは今だって恐ろしい。けれど、一人ではない。  墜ちていくのは二人。その二人であるということが、言いしれぬ強い喜びをかきたてて、築宮自身脳髄が沸騰する心地だったのだ。 「わかるよ……俺も、おんなじだから」 「なら、抱いて。  このまま、続けて」 「みづは姉さん―――」  築宮は姉に手を伸ばした。墨染の衣の前をくつろげて胸骨に触れ、少し浮いた肋骨の狭間から縦長のへそにまで指を滑らせ、さらにその下へと、一息に飛び越しそうになって、けれど手は途中で躊躇いを見せる。 「……? いいのよ?  私はもう、お前にならどうされたって、  いいんだから……」 「いやその、姉さんって、こんなに綺麗だったかなって。……なにか気が引ける」 「それこそ、なにを今さらの話。  私の身体は全部、お前の為に磨いてきた。  ……綺麗って言ってくれたのは、  泣きそうなくらい嬉しいけどね」  そう、自分は、自分だけは、この誇り高い姉を抱くことができる。世界に存在する全ての他者への優越感といって過言ではない喜びに震えながら、築宮はみづはを抱きしめた。一片の贅肉も、ひと掃きの汚れもない最上質の肢体へ、築宮は触れる、確かめる、愛でていく。 「全部、見てね。  私の全部、ちゃんと見てほしい、清修」  石畳の上に組み敷かれ、墨染の衣一つでは褥《しとね》にもならないけれど、みづはは固い感触も苦にした風はなく、伸びやかな手足を投げ出して力を抜く。  自分のなすがままに任せる、ということなのかと、一瞬築宮は思いかける。 「……ぁっ、ふぁ……ふ……っ」 「んぅ……は、ああ……」  だが違っていた。築宮が欲しがるところを、みづははきめ細かく察して差し出す。腕を吸えば腕を差し上げ、脚を取れば膝を曲げ、前身頃をかきわけて乳房を吸えば、そっと頭を抱きしめる。どの仕草にも深い献身と、青年の情火に応えんとする細やかな情に溢れている。それでいて露骨ではない。あくまで誇り高く、貴重な供物として自分の体を捧げている。  指先まで築宮のためと誓って生きてきた、この姉以外にはできない抱かれ方だった。 「すごいな……姉さん……」  みづはのそんな反応は、まさに弟である自分しか味わえない。築宮は瞬《またた》く間に、その極上の美味に酔いしれていく。 「……私が、お前とこうなる時のこと、どんなにか願っていたか、知ってるでしょうに。  お前とこうして―――」  と手を伸ばし、築宮のズボンの前を分けた手つきはぎこちなかったものの、弟の男の器官をまさぐるのに否やはなかった。張り詰めた表面に触れたところで、一瞬だけ動きを止めた。 「……あ、そ、その、無理しなくても」  姉のなめらかな乳房の感触を、指先や舌だけでなく敏感な肌でも感じたくて、瞼を押し当てていた築宮は、いざ触れられてみると、覚悟を遙かに上回る、得も言われぬ気恥ずかしさを覚えて顔を上げた。 「無理なんて、どこにもないのよ。  私だって、お前に触れたいんだもの」 「なにか俺、姉さん相手にまずいくらい〈昂奮〉《こうふん》してるけれど……いいよね、姉さんなんだから」 「……本当に、ね。  お前がこんなになってるなんて。  私とこうしてるから?」 「俺の事、いやらしいって思う?」  こと性に関しては厳格を極めた姉、何時の日か、そう言った本を隠しおいていた築宮に激怒した姉、けれどもその怒りは、彼女の、弟への遣り場のない情火の裏返しだったと知れば、愛おしささえこみあげる。  みづはもまた、その時を思い出したか詫びる気配で目を逸《そ》らしたものの、すぐにそれでいいと認めた、相手が青年ならばこそ。認めて、自分も情欲に身を任せた。今なら、解き放ってもいい。今しか、弟に対して女として欲情していたのだと、明かす時は他にない。 「いやらしいこと、してるんだもの。  なにを今さら……」  そう開き直り気味にみづはは築宮のものをやわやわと揉み始めたけれど、強気な言葉の嘘を、泳ぐ視線が示して、それでもやがて、愛が羞じらいを上塗りして隠し、弟の剛直をしっかり見つめるようになって、瞳にもとろけた色が浮いてくる。  次第に丁寧に、茎を引き、先端を包むようになる、指遣いが慣れてくる。 「それ……気持ち、良いよ……」 「そ、そう……?  私はこう言うの、知らないけれど。  でもお前が喜んでくれるなら、  もっと……したい……かなって」  築宮が漏らした、快感の呻《うめ》きに、みづはは一瞬手を留めたものの、彼を見上げてはまた淑やかな愛撫を、前に増していっそう熱心に。  築宮もまた、姉の積極的な手に戸惑った後で、感興を覚え、それから楽しむ事にした。  みづはの平然を装った顔にわずかに浮かぶ、その表情の変化に、築宮は意外な可愛らしさを見つけたのである。  そうだ、平気なように見えても、この姉は初めてなのだ。自分は、旅籠の女たちと、それなりに肉の交わりを重ねてきたけれど。 「みづは、ねえさん……」  悪戯心を起こして体を動かし、築宮は雄の器官を姉の太腿の瑞々しい弾力へ押しつけてみた。 「あ」  と驚いてから、すぐにみづはは何事もなかったような顔をした。けれど築宮にはわかる。  動揺している―――それがたまらなく、愛おしい。  築宮は大胆に、僧衣の上から姉の秘所に強く押しつけてしまえば途端に、反応が敏感で、震えが伝わる。  密着させたまま腰を動かして、雄の器官がどれだけいきりたっているのか、姉を、みづはだけを示す矢印のように尖りきっているのか、伝えようとする。  まだ繋がってはいない。けれどもうじきこれが、この不作法なくらいに硬くそそり立ったものが、あなたの裡《うち》側に入っていくのだと、無言の、そして淫らな腰遣いで、姉へ押しつける。 「あ、あ、あ」  と、か弱げな声を漏らし、それでも彼女は、築宮のむきつけで直接的な動きから、身を反らそうとはしなかった。それどころか迎え入れるように、筋肉から力を抜くことさえして見せた。 「俺のが、当たってるの、わかる?  こんな風にされるのは、いや?」 「……いやだなんてこと、ないよ……」  首を振るが、それでも声が震えている。  おびえと快感、両方のせいだ。今までさんざん築宮に愛撫されたのだから。  それは、築宮のものが当たっている部分の感触で、わかる。衣越しなのに熱く、彼の腰のうごめきに合わせて、時折蜜が弾けるような音さえ鳴っているのだから。  なのにみづはは、崩れそうな自分を、年上なのだから、姉なのだからという〈矜持〉《きょうじ》で必死に保っているのだ。  たまらない愉悦を築宮は感じる。  それが彼の理性を奪い、姉の女を貫くそのことし考えられなくさせる。 「いいよね、抱くよ」 「……あの、ちょっとだけ、待って……」 「もう少しだけ……その……心の準備……」  初めて姉が見せた躊躇いに、築宮の加虐、とまではいかずとも、悪戯心が湧き起こる。  こんなにしおらしげな姉など今まで見たことなどないのだから、ある意味当然の気持ちの流れなのであったが、次にそんな事を姉に口にした自分の強欲に、彼自身内心では増長しすぎだとは思ったのである。 「だったら、その、口でしてみて」 「口でって、私ので、お前のそれを?」  鼻先に当て身を喰らったように目を見張る、みづはのその手は、半脱ぎに乱れた〈放恣〉《ほうし》な肢体の脇に投げ出され、握ったり、開いたりと、動揺を映してわかりやすい。 「……だめなら、諦めるけど」  〈黒漆〉《くろうるし》を溶いたような髪を、上気した肌に張りつかせた姉の肩に、甘えるように頬を寄せ、囁いて、 「どうかな……」  躊躇いを含んだ、みづはの切れ長の瞼に口づけしながら、築宮には姉が拒まないだろうと、判っていたように思う。  姉が築宮のために厳格な仮面を被るようになる以前の、まだ幼い頃、こうやって縋《すが》れば、みづはは彼の〈我が儘〉《わがまま》には逆らえないのだった。  それを思い出していたのである。 「もう……そういうことばっかり、覚えてきて……。あの子達にも、そうやってしてもらったの?」 「いや、その、それは……」  ところが思わぬ反撃に、視線を泳がせた築宮に、けれど姉は責めるでなく、ふっと口の端に笑みを浮かべた。 「ふふ。あんまり野暮なことは、訊かないでおこうね。  でも清修、上手に出来るかどうか、わからないよ」  そう喉の奥でいかにも姉めかしての忍び笑いで、みづはは体を丸め、築宮の股間に貌を下ろす。額に垂れる髪をかきあげて、弟の雄のものを、口に含む。 「それでも、お前が望むことは、  なんだって、かなえてあげたい」  その献身ゆえに、みづはは禁忌も道徳も捨てて弟の性器に口づけした。  中途半端では意味がないとばかりに、処女の羞じらいを捨てて、根元まで飲みこみ、舌全体で包みぬいた。 「うあ……」  築宮は口でする愛撫を受けるのは、これが初めてではない。これまでにも旅籠で出会った女たちの口の中で快美に打ち震えたことがある。  姉の口淫は、その誰とも違った。卑猥なものを口に収めているのに、彼女は毛の一筋ほども、媚びるような目をしない。  愛撫は施しても、青年の剛直を下品に欲しがらない。ただ献身のみを見せるだけで、彼女自身の立場を下げようとはしない。  無理に築宮が腰を動かして、みづはの気品を崩そうとすると、さすがに睨まれた。  眸の中に築宮をたじろがせる、しなやかな強《こわ》さが一時立ち戻るが、すぐに駄々っ子を許すような、そんな甘さに和らぐ。  ぬるり、と唇で強くしごきながら剛直を引き抜いて、 「もう、清修ってば……。  そんなに私をいじめて楽しい?  まあ……わかるんだけどさ。  お前だって、男なんだし」 「でも、これで―――」 「……ぅっ」  ちょっとだけ唇を降ろして、尖端に口づけして、その微妙な刺激だけでまた築宮に快感を叩きこんで、 「もう少ししたら、これで、  きっと、私のこと、泣かせるんだから。  今は、もうちょっと、その、加減して」  この台詞を、他の誰から聴いたところで、これほどまでに築宮を昂ぶらせはしないだろう。後ろ頭を殴りつけられたような衝撃に、築宮の情火が、飢えた獣の息遣いに増して燃え上がる。  こんな時まで、みづはは姉めかして! 年上の余裕という鎧を、まとおうとして!  だが、その鎧は完璧ではないのだ。  ついさっきも、みづははそれを脱ぎかけた。なんとしてでももう一度、彼女の素顔を暴きたい暴いてやりたいたまらない。 「姉さん、そっち、後ろを向いて。  向くんだ……っ」 「え……ちょっとそれ、  お前にお尻を向けろってこと……?」 「いいから!」  強く言った後で躊躇の間を持たせてしまえば、姉の中に考える隙が生まれてしまうかもと、築宮は答えを待たずにみづはの肩をつかんで、石畳に押しつけるようにする。 「清修、これ、なにをするつもり―――」 「大丈夫だから!」  前にのめって、築宮に大きく双臀を突き出す形となった、姉が羞恥に体勢を立て直すより速く、流れるような太腿と腰を、後ろから抱きすくめた。  大理石の像のように線の硬い、だが触れると果肉のようにみずみずしい肌に、唇を押し当てる。 「やぁ……後ろからなんて、  だめ、許して清修―――!」  弟に、全て許すと決意していても、長年の間に体に染みこませた慎みは消し去りがたい。獣の交接を思わせる姿勢を取らされたことにみづはは本気の抗いをこめて、脚をばたつかせ腰を揺する、築宮は腕に力をこめてそれをおさえ、尻の間に後ろから見える閉じられた襞《ひだ》に、顔を突きいれる、押し当てる、鼻先でかきわける。 「……ひぅッ」  もがきは収まらなかったが、みづはの叫びが短く詰まった。嫌悪だけでない、官能への疼《うず》きも確かにあって、築宮は手応えを感じ、太ももの奥の薄桃の襞《ひだ》へ、舌を伸ばし、一心に舐め上げた。 「なに、なにしてる、のぅ……!?  あ、は、や……そんな、舐めてる、  私の、舐めて……ふく、ぅぅ……っ」 「や……め……」  溺れる人が水際から這い上がろうとするかのように、両手でもがき、みづははずるずると石畳の上を逃がれようとする、それを弟は渾身の力をこめて抱きしめ、秘所に刺激を与えつづけた。  激しい動きのせいで性器だけではなく後ろのつぼみにまで舌がすべる。だが構っていられない。どのみちみづはの体全てが築宮の嗜好を完璧に満たし、厭《いと》わしいと思うところなど毛穴一つも有り得ない。  ばたり、ばたりと手あがきしていたのが、ほと、ほとと緩やかに鎮まって、しまいにみづはの抵抗は収まっていく。 「あ……あ……当たってる、よぅ。  舌……清修の……あったか、ぃ……あっ」  収まるどころか、いつしか築宮の舌遣いに合わせてみづはの腰は風に押される柳のように揺れて、未知の快感を汲み上げようとして、声も艶を帯び、背中も反《そ》らしたり撓《たわ》めたり、殻は固くとも、中に瑞々しい肉を隠した果実を思わせた。 「姉さん、気持いいかな……?」 「そんなの、訊かないで……って、  ちょ、あ、く、あはぁ……っ」  舌を停めては不意打ちのようにまた這わせ、を繰り返す築宮には、みづはは拗《す》ねた眼差しを肩越しに投げ、言葉を濁《にご》したのだって、というよりは弟の口淫に邪魔されて、はっきりとは口に出せなかっただけで。  けれどみづはの秘裂が、雄弁に語っていた。  肉の〈狭隘〉《きょうあい》をぬめ光らせ、とろとろと止めどなく溢れる〈稠密〉《ちゅうみつ》で濃い液は、けして築宮の舌先から滲み出したたものばかりではない。 「でも、こんなになってるよ。  音、聞こえるだろ?」 「……だって、どうしたってそうなるわよ。  お前にそんなにしてもらって、私、感じないでいられないもの……」  か細い声で必死に抗うが、それは築宮を留めるどころか、ますます滾《たぎ》らせるばかりで。 「感じちゃいけないなんて、これっぽっちも言ってないじゃないか。  姉さんが良いのなら、俺だって嬉しいよ」 「だからもっと、気持ちよくなってほしい」 「あぁ―――は、ぁ―――!」  築宮は姉の中に指を軽く差し込み、ぬかるみの中を柔らかくえぐった。息を漏らしかけて、みづはは慌てて口を押さえる。 「それ……なに……?  なに、入れてるの、私の中に……うぅ」 「これは、まだ指だけ。  でも今から、俺ので―――  いいよね、姉さん」  後ろから、覆い被さる獣の姿勢で、いきり立つ剛直をぬかるみに押し当てる。  姉の首が軽く落ちたのは、築宮に押された弾みなだけだったのかも知れないが、青年にはそれが、頷いて、受け入れてくれるようにしか見えなくて―――腰を、押し進めた。 「く……ふ……っ」  腰の底から体中に走る破瓜の痛みを、けれど打ち消すほどの快感を、もうみづはは身の内に育てていた。十分に潤《うるお》った熱を帯びた胎内を、築宮の異なる熱が埋めていく。  みづはの神経を焼くのは、痛みとそして心地よさ、これは危険だと、このまま受け入れてしまっては自分が自分でなくなると、心のどこかが警鐘を慣らすが、流されてもいいと、これこそが待ち望んでいた全てなのだと、背中に被さる弟の熱が、力強い動きが告げている。 「姉さん……俺、もう全部、  姉さんに、入ったよ……」 「はぁぁ……あ、  いきなり、全部、奥までなんて……。  壊れるかって、思った……くふ……ぅ」  みづはの体が前に流れかけたが、それでも築宮の侵入をしっかりと受け止めて、姉は深々と貫かれたままで、弟は根元まで包まれたままで、二人は最奥で繋がっていた。 「ん……でも、平気よ。  ふぅ……ぅ……ね、やっとだね。  本当にお前と、してるんだね」 「ああ……ほんとに、やっとだ」  姉は感極まった声を漏らし、弟も〈昂奮〉《こうふん》に上擦った声で受ける。  繋がること、一つになること、望んで焦がれていたこと。  でも、もっと、もっと急かす。  熱く滑《ぬめ》り、蠢《うごめ》く肉の管が。硬くいきり立ち、根深く突き立てられた肉の槍が。お互いの熱っぽい粘膜を求めて逸《はや》り、訴えている。もっと、もっと。続けたい、止まりたくない。 「動くよ、姉さん。  少しずつだから、体の力を抜いて」 「できるかな……でも、私のことは、気にしなくていいから、お前の好きなようにして」  築宮は美しくくびれた姉の腰を抱き寄せ、彼女の両脚をやや開き、律動しやすい高さに合わせる。  目くるめくような角度でみづはの股間が開き、繋がった部分が空気にさらされる。  これだけむきつけな態勢にされて崩れない女など、そうはいない。  それでもまだ、みづはは整っていた。下腹に築宮の突きこみを受けながら、片ひじでこらえ、唇の間に指の節を噛み、それでも彼女の〈毅然〉《きぜん》とした麗貌はいまだ、崩れるところを知らない。  けれどその目はうつろに潤《うる》んでいる。  かみ締めた指の肌に薄く血が滲み、無理を隠しきれていない。  しかし、築宮を拒んでいるのではない。自分を抑えてしまっているのだ。  築宮との情交に、狂わんばかりの歓喜を感じそうなのに、やはり長く身に染みつかせてしまった道徳だの倫理だの現世の檻が、彼女の本当の心を封じこめてしまっている。  築宮は、その檻全て、姉の躊躇いもろともに叩き壊してやろうと、抽送を始め、少しずつ激しいものにしていく。 「姉さん、声、我慢しないで。  痛い、でもいい。  なんでもいい。俺に、聞かせて」 「う……あ……だって、  私、きっと、すごく、変な声で……っ、  だから、みっともないの、やぁぁ……」 「みっともなくっていい。  こんなになってるのに、どうして今更、  隠す……っ」  すべらかな〈太腿〉《ふともも》を背後から押し潰すように突き込みながら、築宮はみづはの乳房に手をやる。  後ろからすくいこんで先端をつまむ。途端にみづはの声が楽器の高音の弦を弾いたように跳ね上がる。 「ひぃ、あ〜〜……っ」  そんな声は快楽を得ていなければ出る筈もない。すでに築宮には、姉の抵抗そのものが愛しい。  もう、みづはが懇願の言葉を口にしなくてもよかった。そんなものがなくても、鏡の肌に浮いた汗の玉が、熱病のように火照った肉が、伸びやかな手足がわななく様が、とろけきった秘所のひくつきが、体のすべてが築宮への〈渇望〉《かつぼう》を表していた。  そして〈渇望〉《かつぼう》していながらも、どこまでもみづはは、築宮の姉は、崩れることのない気品を保ち続けていた。  築宮は最早姉に畏敬すら覚える。乱れるだけならどんな娘にもできる。  だが、この上なく精緻な美しさと気品を備えたままで、この姉は絶頂を迎えられるのか?  ある意味で、生き物の行為の中で最も猥雑でむきつけの体臭と体液にまみれた肉交という行為の中では、どんな女の美しさであろうと肉の生々しさに剥ぎ取られる。  けれどこの女なら、天が生み出した芸術のような、華麗な奇跡として、肉の交わりの中に汚されない美を、体現できるかもしれない。  見てみたい、と築宮は欲する。芸術の域に達した絶頂というものを。 「みづは姉さん、いいんだ、そのまま、  そのまま、いいのに任せて!」 「う、あ、はぁ……私、より、お前は……。  清修、私で、よくなってる……?  あ、くぅ、あぁ……」 「俺だっていいよ!  姉さんの体に溶かされそうだよ!  だから姉さんも……っ」  姉を気遣う嘘などではない。築宮もまた共演者だ。みづはの最高を引き出そうと、感じ、高まりつつある自分を思いきり激白する。 「姉さん、あなたは、いつだって綺麗で、俺はそれが好きで―――今こうして抱いてるのだって、信じられない、信じられないくらい良いんだ、良すぎる、こんなの、ありかよ、止まらない、俺、もう、もう―――っ」  限りない愛しさをこめて、築宮はみづはの肉体をきつく抱きしめ、女神を崇拝する信者のように体を押しつけ、猛り狂う男を打ちこんだ。 「出すよ、姉さんの中に、  絶対に、中に、外なんて、いや、だ」  築宮には姉の胎内に撃ち放つこと絶頂以外は考えつかなかったし、みづはもまた、自分の体が弟を絶頂まで導いてやれるのなら、全てをその引き換えにして悔やまないほどに、求めていた。  築宮を絶頂させる、その達成感の前には、弟の種の詰まった白濁の前に、自分の子を宿す器官を差し出す事に、なんの禁忌があろう、むしろ望んで、果てしない喜悦の中に受けよう、流しこまれよう、植えつけられよう。 「はぁ……あ……ん、ん、ぁぁっ……、  あ、あたりまえ、でしょ、  欲しい、私だって欲しい」 「お前のものだったら、全部欲しい。  あぁ、はぁ……ちょうだい、  私に、ちょうだい―――!」  みづはは、初めての交わりで自分の体の中をどう扱って良いものか戸惑いながらも、あたう限りの努力でもって、女の秘肉で築宮の雄の器官を絞り上げ、絡みつかせ、精を迸らせようとした。  そして、そんな事をせずとも、体の方が弟の望みをよろしく心得ていた。  最奥へと衝きこまれた瞬間、肉襞は隙間なく吸いつき、奥へと吸い寄せる動きを示し、子宮の入り口も弟を求める心のままに浅く降りて、尖端の鈴口を、体の中でも深く口づけするようにきゅぷりととらえて――― 「出して―――いい、そのまま―――  外にこぼすなんて―――いや―――」 「みづは―――ねえさん―――!」  築宮は姉の胎内に撃ち放った。それが許されるのは自分だけなのだと、心と体全てで歓喜絶頂していた。姉に流しこんで、満たすのは自分だけ。  極限の快絶の中でそれを悟り、みづはの無垢の子宮に向けて、情欲の塊を何度も注ぎ込んだ。何度も、何度も。 「ああ……あーーーー……っ!」  みづははざっと髪をなびかせ、手の甲を強く口元に押し当てながら、石畳に顔を伏せる。築宮の精を迎える喜びに下腹をびくびくと波打たせ、強く体をひきつらせながら。  その姿勢に野放図なだらしなさはかけらもなく、静止した手足は彫刻のような均整を現していた。それほどまでに全身を律しているにも関わらず、肌は震えて光り、体内で爆発した絶頂を言葉より雄弁に叫んでいた。  ―――どれだけの量を流しこみ、流しこまれたのか―――  築宮は全身が全て体液と化して姉の中に流れこんでいったかの疲労と、裏腹に深い満足に包まれていたし、みづはは弟が流しこんでくれたもので、彼そのものを孕《はら》んでしまったかのような重さを胎内に感じ、かつてないほどの充足感を味わっていた。  二人、極限の緊張の後の至福の弛緩の中で身じろぎもままならない様子であったが、それでもやがて、みづはは琴の高い弦を爪弾くような、細く澄んだ声音で呟いた。 「私、初めてで、  これ、きっと、いってる……」  ああ、確かに見た、と築宮は姉の体に沈みこみながら満足した。  築宮の姉は、弟だけに、危ういほど鮮烈で、美しい最高の絶頂を見せてくれたのだ。 「清修だったからだね。  私の大切な、お前だったから……」 「ありがとう―――私を、お前のおんなにしてくれて」 「幸せよ―――お前が、私のおとこになってくれて」  ―――けれども。  幸福な時間も永遠には、続かない。  やがて一つに溶け合っていた体を解き、みづはは、やはり築宮より先に正気を取り戻し、手探りに僧衣をかき寄せて体に巻きつけ、青年が気付いた時にはもう、冴えて美しい横顔を取り戻し、じっと闇の彼方を凝視していた。 「その……姉さん、大丈夫……?」 「こぉら、そんな、頼りない顔をしない。  私は、ただ噛みしめていただけ」 「私の中の、お前の名残りをね……」  解いてみせた微笑みの築宮が憧れていた美しさは変わらず、それでももう男を知った女の笑みなのだと、その初めての相手は自分なのだと改めて思えば、青年の中にとてつもない感慨がこみあげる。  この姉の胎《はら》に、初めて男の精を流しこんだのは自分なのだ。 「お前が私の中に、まだいてくれてるみたい。嬉しいよ―――言いようのないくらい、幸せなの」 「だから、ちょっとだけ、考えてしまったわ……ずっと、いつまでも、お前とつながっていられたら……って」 「でも、男と女の体は、つながるようにはできてたって、やっぱり別の体だものね」 「いつまでも、一つのままではいられない」  待ち望んでいた情交の後だからこそ、自分を埋めていた弟の肉の器官が引き抜かれてしまった事が、かえってみづはに、一抹の寂しさをもたらしているのだろうか。下腹部を、青年の精が溜まっている辺りへ掌《てのひら》を被せる仕草が、少しだけ切なそう。  そうかも知れないと青年は思う。確かにどれだけ愛した相手であろうと、何時までも性器と性器で繋がっているわけにもいくまい。けれどだからこそ、本気で男を愛した女は、胎内への射精を望むのだろう。男の一部を体の中に留めておきたくて。 「そんなの、俺はいつだって、姉さんを抱きしめる。今だけじゃなくって、何時だって」 「ふふ……やっぱりお前は優しいよ、清修」  優しいのだろうか、と築宮はやや頼りなく自問する。姉の身体は一度味わってしまえば最後の麻薬にも似て素晴らしく、ただ一度の交わりで終えられるとは考えられない。  何時だって抱きたい、何時だって姉と快楽の海に溺れていたい。そして、何時だってそうするつもりだ。今だって欲望の脈動が、雄の器官に立ち戻りつつあるくらいなのだ。 「―――けれども―――  私達、これから、どうなるのかしらね」 「俺達は……」  築宮はやや口淀《よど》んだものの、答えは既に決まっていた。 「いや、もう―――二人だけで、良いじゃないか。ここから還らずに。  二人で籠もったままで」 「姉さんは、俺と二人で、厭かい?」  現世にて結ばれないのが定めなら、なぜ還る必要があるのだ。  この旅籠は、姉と自分とで作りあげたもの。  引き籠もりと言わば言え。  旅籠という言葉は、旅の果てに籠もるともとれるではないか。  あなたとともに、二人だけの子宮のような、この旅籠に残りたい―――  それが築宮が見出した、旅路の果てだった。  みづはは、姉は、築宮の問いを受けて、ゆっくりと微笑んで、そして―――  その、答え。  伝えられるべき姉の答え。  全てを、禁忌を踏み破り、求め続けた人の、愛しい答え。  その答え、魂は通いあっても、言葉として聴きたかった築宮は、姉がそれを告げた時に―――天と地の別、闇と灯りの濃淡、己の身体の裡《うち》と外との境界が一気に崩れ、なにもかも判らなくなった、という。 「……いいえ」 「……え?」  目を瞠《みは》り、耳を疑い、聴いた意識も怪しくなって問い返した、みづはは僧衣の褄《つま》をかき寄せて横座りに、〈角燈〉《カンテラ》の中に脚が、〈白白〉《しらしら》照り映えて、綺麗で、優しくて、それでも影が深かったのだ。  ……青年の想いもよらぬほどに、彼女がまとうた翳りは濃く、言葉は否、と。  続いた声だって静かで、青年が長じてから聴いたことのない情味に満ちていたのに、言葉はけして―――彼が望んでいたものではなかった。 「お前は、戻りなさい。あの家に。お前の現実に」 「なに、を……姉さん、じゃあ、貴女は、それでどうなるって言うんだ……」  答える自分の声が遠い。なにか脳が反射的に喋っているような不安定な感覚に、青年はよろめきながら、姉の前に膝をついて覗きこんだ、〈容貌〉《かんばせ》が鎮まっていた。彼女の心の裡《うち》を告げているとは信じがたいくらいの静謐で。 「―――私は、もう全部、お前からもらったから」 「ここで、私の望んでいたものは、全て。  お前に、もらったのよ」 「だから、今度は私がお前に返さないとね」  さらさらと―――青年の頬に降りた指先の、慈しみ限りなく深く、触れ合いは心の柔襞まで届くような、それでも青年が振り払った力は、受け入れられるものかと荒々しく強かったし、声も激した。 「姉さん、一体今さら……待てよ、待てってば! 俺が現実に還る……ああ、それはそれでいいさ」 「でも貴女は、姉さんはどうするつもりなんだ……まさか……?」  姉の―――つい先刻、身体だけでなく心までも溶け合った筈のみづはだから、その先に続く言葉は、前に何度も読み返した小説の台詞のように、判りきっていたようにも思う、が、判りきっていたところで、それでどうして受け止めることができよう、の。 「私はね―――」 「残るよ、ここに」 「ここに、一人で、残る」 「どうしてそんな……勝手なことばかり!  貴女の気持ちは、俺に言ってくれた言葉は、あれは皆嘘か!?」 「いいや、そうは思えない。  今さら隠したって無駄じゃないか。  全て見てきたじゃないか俺は―――!」 「なのにどうして、今さら突き放す?  ここに貴女が残ったとして、向こうでの貴女は一体どうなる!?」  肩を掴み、揺すぶり立てる青年の、声は乱れに乱れたし、姉の黒髪も額に流れて眼差しを覆う。二人の間を遮るような薄膜のように思えて、手荒にかきわけようとした、築宮青年の手を取って、そっと握って、口づけて、痛みで落ち着かせようと軽く噛んだ、朱唇と硬い歯。  強く心に響いて、築宮が言葉に詰まった、沈黙が続いた。 「――――――」  その沈黙が告げていた。  よし青年が現実に立ち戻ったとしても、彼の家には姉は、愛した人はいないのだ、と。  虚《うつ》ろで空しい広さが広がっているばかりなのだ、と。 「今まで俺を見守ってきて、なのに今さら放り出す、投げ捨てるつもりなのか……」  〈慟哭〉《どうこく》する青年と。 「……違うよ、清修。  お前を捨てるつもりなんか、これっぽっちもない」  彼へ言い聞かせる姉もまた、〈慟哭〉《どうこく》していたのだ。涙を流さないだけで、あるいは胸中では青年よりも激しく泣き叫び、のたうち回っていたのかも知れない。  ただ姉は、激情を封ずることに慣れてていた。弟のためにこれまでもずっとそうしてきた。そしてこれからもそうするつもりなのだと、一つ噛みしめた唇に、思いが籠もる。 「ならどうして!」 「聞いて―――聞きなさい清修!  捨てるんじゃないの。  お前を、解き放つのよ、私から」 「私とお前は、ここで結ばれて。  もうそれは、変えようのない、消しようのない事実で」 「もちろん私には、それは他の一切全てを合わせたよりも、ずっとずっと幸せな事だけれども」 「けれどね、このまま戻ったら私は―――  もう、お前から離れられなくなる」 「……それに、なんのいけないことがある」 「私は、お前の全てを自分のものにしないと、きっと生きていかれないよ、もう」 「お前の時間、お前の人生。  お前がこれから出会うでしょう、様々なこと、人たち―――」  みづはの語りに合わせ、二人の周囲の闇に投影されたは、ぼんやりとした影像。姉の心によって旅籠の全てが生まれたのなら、旅籠の空気が彼女の想いをこうして映し出す幕となっても不思議はなく、築宮はぼんやりと周囲に浮かんでは流れていく幻影を眺めた。  ―――様々な、出来事があった。多くの、人があった。  嬉しき事もあり、哀しき事もあり、愛したい人がいて、憎みたい者もあって、それら全てが予言というわけではないだろうが、築宮青年のこれからの生が含む、遙かな可能性の象徴として転変し、幻影は青年の心を未開の原野の端に立ったかの、期待と不安の綯《な》い交《ま》ぜになった感情で埋めつくす。  このごたまぜの感情には覚えがある。大河から旅籠を初めて目にした時のあの、胸がすくような衝撃と同じ―――否、違うと青年は気がついた。  旅籠に抱いた感情は、裡へと籠もる旅愁や郷愁であるならば、みづはが映しだした幻影は、世界を己が脚で切り拓いていく者だけが味わえる、未知への挑戦と喜びなのだ。 「そういうものからお前を切り離して、私だけのものにしないと、もう私は生きていけそうにない」  築宮が幻影に対し、息苦しいほどの胸騒ぎを覚えた直後、幻影の輪郭はぼやけ、渦を巻いてみづはへと呑みこまれ、後には闇、全てを塗り潰すよう悩みばかりが残ったのが、まこと象徴的と言えたろう。  闇の中に座すみづは、青年をその闇に繋ぎとめる錘のよう。 「いつもいつもお前と一緒にいて。いつも、どんな時もお前に抱いてもらって」 「お前の声、お前の笑顔、全て独り占めにするしかない―――私というのは、そういうモノみたい」 「そんなのは、姉とか、まして恋人なんかじゃない。そういうのはね、清修」 「呪い―――というのよ」 「違う……そんな……俺は、みづは姉さんがそう望むなら、全てを貴女に捧げたって……」 「……そう、ね。そうだよね。  お前は、そういう男の子だ。  誰かに一生を捧げて、けして悔いないような、強い男の子―――」 「でも私は、そんな愛しい人でさえ、地獄の底に引きずりこむような、重しにしかなれない」 「お前のこと、好きよ。愛しているわ。  けれども清修、だからなの」 「闇の底に沈んでいくのは、  私だけでいい―――お前に抱かれて、どれだけ私が幸せだったか―――」 「その幸福があるから、私はもう、充分」  すらりと立ち上がる姉の、墨染の衣のほつれた端が青年の視界を塞いで、頭をかき抱いた力のなんと愛おしげな、けれど一度だけ、最後にその、一度だけ。  姉の甘い香りに一瞬霞《かす》んだ意識はすぐにまた定まって、目にしたのは、胎内洞の底へ、二人の情交を見守っていた泉へと歩みを進めていく、姉の姿だった。 「―――本当に、ありがとう―――  こんないびつな女を、愛してくれて」  遠ざかる、みづは。  胎内洞への泉までは、幾らも隔てていないのに、青年には姉の歩度一つ一つが無限遠に拡大され、手をこまねく、息を一つついた分だけ、遠ざかる、手が届かなくなる決定的に。 「でもお前は、私なんかに食い尽くされる前に、お前の人生を生きて欲しい―――」 「待てよ、なんだよその理屈は、独りよがりで勝手で無茶苦茶で、とにかく、そんなのって無いだろうっ!!」  憤然と立って、呼び戻そうと声張り上げれば、姉は振り向いて、くれたものの笑顔のそれ、築宮にはただやるせなく切なく辛い。  みづはが、泉へ踏み出す。  一歩踏み入れれば、踝《くるぶし》まで、二歩と三歩で脚が水面に消え、歩みを進めるごとに沈みゆく身体の。  なにより大切な、姉の、沈みゆく姿。 「ふふ……っ。そう。私は勝手で、汚い女だ。だから最後まで、それを通すわね」     ざあ……        ざあ……       ざあぁ……    遠い響きが築宮青年の〈耳朶〉《じだ》へと届く、違う、姉が沈みゆくのではない、泉の水嵩が増している、その水音だった。  身裡を昏《くら》くするほどに深い響きは、同時に安らかにさえ聞こえたのは、水音が胎内を満たす羊水に響く、母の血の流れとも似通っていたからだろうか。  築宮青年が水音を聞き分けたのに合わせたかのように強まったのが、一斉に。  たちまちに胎内洞の底の泉が深さを増して、現れ出たそれは、きっと原初の水面。  生命を孕《はら》み、そして女の体内にも満ちる、この世の〈彼方〉《かなた》と〈此方〉《こなた》を結ぶ、水の。  盈《み》つる、水気。  静止していた胎内洞を潤し、増していく、水気。  みづはが―――それを招く。おいで、と泉の水面に指の先を浸して、手招きするのに応じて、あたかもこの広大な胎内洞を一つの子宮として、羊水のように満たしていく水が、泉から湧き上がり、〈滾々〉《こんこん》として。  立ちつくす青年へと押し寄せ、魅せられた者のようにただ見つめていた彼の意識を、沈みゆく姉へと引き戻す。  爪先を濡らした水は、冷たくなければ温かくもなかった。体温と同じで、肌を濡らしているのかどうかあやふやになる水の流れは、それでもたちまちに勢いと圧を増して、青年の脚を攫《さら》った。  脚が、下がる、このままでは押し流されると、はっと心づいて青年は、もう既に水へ半身浸した姉へ、懸命に呼びかける。 「やめろよ、やめてくれよ姉さん―――っ」  けれど差し延べた手、宙で哀しくぶれる。がくんと青年の身体が流れて後ろへ、一度溢れ出れば、それがどれだけ柔らかな感触と温度であろうと水は恐ろしい。なにより、恐ろしい。  青年と姉を引き離す流れは、怖く哀しく、辛く強い――― 「みづは―――姉さん―――!」 「……それじゃあね」 「私のこと、忘れても、覚えていても、もうお前を縛る呪いは、ここに沈むよ―――」 「あ、うあ、あああー…………っ」  水流に引きさらわれて、腰を落としてしまったが後はもう、爪は岩床に滑るばかり、足は水を蹴るばかり、抗いようもなく押し流されるが胎内洞の入口へ、鍾乳石の景色が流れ、〈瀑布〉《ばくふ》の如き響きが耳を圧して、離れる離れてしまう流される、押し流していく水の感触は姉のように優しいのに、やはり姉のように逆らうことはできず。  ……青年が最後に目にした情景は、暗い水面に黒髪を漂わせ、沈む寸前で、笑みかけた、優しい、懐かしい、麗しい姉の眼差しで、どんな時でも彼を想い、彼だけを愛していた女の、別れを告げる姿だった。  みづは―――    水《みづ》の際《きは》にて築宮少年の全てを護ると誓った少女―――    みづは―――    そして、水の女は、全ての想いを闇底へと沈めて、水に還りゆく―――  水路から。闇に沈んでいた旅籠の水路から。溢れ出した水の、その量はたちどころに増して深さなど計り知れぬほど。  見る間に一切を水に沈めて、一面の水、水、水界に覆い、閉ざしゆく。  きっと。水の底でみづはは微笑んでいる。  愛しい男を解き放ってやれた、その喜びに微笑み、そして泣いている。その涙はきっと。旅籠を水没させていく水にも、流れている。  築宮の周りで吹き流れ、渦を巻き、天地が判然としなくなるほどに、水が舞う、舞い踊る、舞い狂う。  その水は築宮の頬や唇にも押し寄せて濡らし、時に水面の下に引き攫《さら》うのだけれど、しかし彼の呼吸を奪うことだけはしない。  あくまでただ、青年を彼の本来の世界へと還し、そして旅籠を、二人の彷徨いの〈揺籃〉《ゆりかご》であった閉じた世界を水没させるためだけに溢れ、流れ出した水なのだった。  旅籠の外、大河というものがまだ存在しているのかどうかは定かならぬところの、いずれにせよ胎内洞から溢れ出した水に、旅籠の全ての階層、全ての通廊、全ての部屋部屋は呑みこまれゆき―――    そして旅籠は。  水の底に。  深く。深く沈んで。  この世の彼方に。  誰にも手の届かぬ、この世の外に。  俺は―――  水を、かきわける。  暗く、見通すことを拒むような水だけれど、俺には判る。感じられる。  あの人が、水を通して伝わってくる。夜の果ての灯し火のように。だから。  だから、泳ぎ、水の中を進み、もがき、潜っていく。  俺の周りには、かつて時を過ごした旅籠の景色、見覚えのある風景があちこちに、それらは今、水の中で死者の〈廟堂〉《びょうどう》のように影を濃くし、形も曖昧だ。  その景色の中、腕振るい、足を蹴り、進んでいく。  苦しくは、ない。  俺は既に息をしておらず、死者の列に連なっている―――そういうことではないのだろう。この水はあの人の水。あの人が俺の生を閉ざすことはないのだから。  泳ぎ、足掻き、水底を目指すうちにも、抵抗に遭う。身体の前で水の密度が増し、黒く半透明の壁に突き当たったかのよう。  その抵抗に、屈してなどやらない。もう諦めることなど、したくない。  逆らい、戦い、力を籠めて掻くたびに、水中だというのに髪の毛の間から火花が散るようだ。  体中を貫く火花の衝撃に意識を集中し、なおも身体をくねらせれば―――  抵抗が、消える。不可視の壁は現れたときと同じく出し抜けに消え、ふっと手足も軽くなり、そうして俺は、一部を獲得する。  あの人と、俺との一部を。  けれどもまだ一部だけ。依然として水は暗く、底は計り知れない深みにあり、あの人の気配は幽かに伝わってくるばかりで、ずっと先。遙かな先、行き着けるかどうか判らないほどの深みに。  それでも俺は―――深く、潜り、沈み続ける。  それしかやりようは知らず、あの人を忘れることもできないのだから。  また、抵抗。さっきよりずっと強い。水は膠《にかわ》のように手足を留め、力を振り絞ろうとするだけでも頭がずきずきと痛み、心臓はまるでひびが入る寸前のエンジンのよう。  くじけそうになる―――心に浮かべる、あの人の姿。  その姿が爆発的な力となって、俺に進む意志を与えてくれる。  水圧の抵抗―――俺の抵抗―――拮抗し、そして俺は。  また、潜り抜けている。  こうして、進んでは抵抗に出会い、それに挑戦し、苦痛の脂汗を水に吸わせ、ひたすらに、前へ、底へ。  どれだけ経つのか―――どうでもいい。  後どれだけこうしていなければならないのか―――知ったことか!  姉さん―――!  あなたを感じる限り、俺の〈足掻〉《あが》きが止むことはない。    ―――抵抗。絶対的な。  潜り抜けることなど到底できそうにないほどの。  締め出す。  心の中から、体の中から。  他のあらゆる事、あの人以外の事は締め出して、向き合う。取っ組み合う。  何時かこんな事があったかな?  まだ子供の頃。  皺になるあの人のワンピース。暑い日。炭酸水の刺激。強い目が睨みつける。折れたクレヨンから甘い匂い。白い腕が抑えつけて。俺は必死で押し返して。棚から落ちる玩具箱。引っかき傷。あの人の歯並び。熱い肌。でも腕。何時だって最後には抱きしめてくれる腕。頬と頬が触れ合う。柔らかい。唇には、あの人が好きだったハッカ飴の匂い。水。何時だって水。あの旅行は何時だった? 湖の傍。二人であんな風に歩いたのは、何時だった。綺麗に磨かれた爪の先。握りしめたかった。視線。あの人の。何時も陰から。あなたも。俺に。触れたかったのかな? 水の流れる音。肩に指先が食いこむ。叩かれた痛さ。抱きしめる強さ。ああ。ああ。全て。  俺は愛する。  俺は忘れない。  みづは―――あなたを。  忘れない。  水の中、出せる限りの大声を振り絞り、全ての力を解き放った時に。俺を取り囲む水界が動揺し、打ち震え……。抵抗が、消えた。全て。                それでも、抱きとめる力があった。  涙が出そうな力。  俺がそれだけを求め続けていた腕の。  ―――青年には、おそらく確信があったのだろう。それ以外はなにも持たなくても、その確信だけはあったのだろう。  旅籠の様々な物語を旅してきてなお、姉の真実を見出したのは誰だ? 他でもない彼だ。  なら、こんな水など、何するものか、と。 「どうして、戻ってきてしまうの……」  最後の力を使い果たしたのか、ゆらゆらと、身体の重みのみを錘として沈んでくる青年を受けとめた腕、姉の腕、受け止めて抱き寄せて、乳房の中へ、畏れるように、歓喜に戸惑うように―――  姉と弟の再会は、水底にて。他の誰も窺い知れない深み、手の届かない深い世界で。 「ああ―――こうなることが、怖かった」 (恐れてたんじゃなくて、本当は、望んでたんだろう?)  求めていたかたわれに、遂に行き着いて青年は、その胸の中に安らいで、目を閉じたまま、腕に姉を抱きしめてそのまま―――全てを委ねた。  通い合うのは、声なき声、触れ合った肌から伝わる心のそのものの。  もう、二人が離れることは、あるまい。 「ああ―――こうなってしまうと、わかっていたわ、私は―――」 (俺もだよ……) (たぶん、この旅籠に着いた時から。いいや、その前、酔いしれて水に落ちた時から?) (違うな、きっと、貴女の弟として、生まれ落ちたその日から―――きっと、こうなることに、決まっていたんだ―――) 「清修―――お前が私の弟に生まれついてしまったことが、なにより悔しい」 「けれど、お前が弟に生まれついてくれたことが、なによりも、嬉しい」 「お前が弟じゃなかったら、こんな罪を背負うこともなかったろうに―――」 「でもね。この罪は、重ければ重い分だけ、苛まれれば同じ分だけ、私を、幸せにしてくれる……」  罪の罪、それはそのまま反転して、彼女の幸福になるのだと伝わり、青年は、想う。  姉は彼女自身を青年を縛る呪いだと告げた。ならば結局自分は、どこまで行っても姉の呪縛から逃れていないのだろうと築宮は、姉の柔らかな体に抱かれ、ぼんやり。  けれどそれでもいいではないか、と姉へ、みづはへ身体を預ける。呪《じゅ》も、祝《しゅう》も、強く動く心があってこそ。ここまで自分を強く想う心は、姉の他にはない。  自分は姉から逃れることだけが、一人の人間として立つ道だと思いこんでいた。  けれど、それならばなぜこれが、姉とともに、彼女の〈胞衣〉《えな》にくるまれるように、このまま永遠に水底に沈む事が、どうしてこれほどまでに幸せなのか。  やはり自分は―――この姉なる人が無くては、生まれてこなかった存在なのだろう。かく物思いに耽る築宮の胸に、姉が頬を寄せる。そっと囁く。二人だけの、柔らかで〈永遠〉《とこしえ》の時が、包みゆく。 「―――どう想ったとしても、お前は私という一人の女を幸せにしてくれたんだ―――」 「それは確かなこと。  それだけは、忘れないで」  水底に沈む、姉、弟。  水底に沈む、不思議の旅籠。    幸せ―――? と声なき声が、水底に通う。  幸せだよと、想いが小さな気泡となって、漂いだしていく。    この世の彼方の。  霞の外の。  不思議の旅籠の水底に。  ただ二人で憩う―――  〈永久〉《とわに》に〈永遠〉《とこしえ》に。    これは あねとおとうとの ものがたり     ふたりのためだけの ものがたり       もう ふたりを へだてるものは                         なにも           ない                         『巻末歌』   『闇わだを 流れる河に身を任せ』   『彼岸無き日の 輪廻 我が渇愛(あい)』        ―――霞外籠逗留記―――                                              劇終  築宮は、最後の最後で踏みとどまり、渡し守に差し延べた手を……無情に見えるだろう。残酷な男と誹《そし》られるだろう。それでも……下ろした。 「……俺が今どんなにか、貴女を抱きしめたいことだろう」 「けれど、だからこそ、そうしちゃいけないって思う」 「やっぱり……だめか……だよねえ  こんな形でも、あたしはお前の姉さんなんだしさ……」  築宮へ、やっぱり自分の気持ちは受け入れられないのかと、諦念混じりの微笑を浮かべる渡し守の、最後の最後で望みに敗れた女の貌の哀しさよ。  しかし築宮が告げた言葉は、そうではないのだと。 「違う、そうじゃないんだ。  俺が生きていく場所は、  やはり現実の世界だ」 「現実の、姉さんがいる世界だ。  姉さんを抱くのなら、  俺は向こうで、現実の世界で」 「あなたを愛したい。  あなたを抱きたい。  この気持ちを、ちゃんと言葉にして、  現実のあなたに告げて―――」 「……清修……あんた……。  本当にそう、言ってくれるんだね」 「ほんとに、あたしのこと、想ってくれてるから……ええ、判りますよ」 「今は抱き合えなくっても、  向こうで、いつかきっと―――」 「ただね清修、向こうのあたしは、あんたの姉さんは、こっちの事、なにも判りませんよ」 「このお宿で何があったのか、それは旦那の胸の中にしか残らない。  でも、ま、それだって構いやしませんが」 「……そういう、ものなんだろうな。  でも、俺が覚えているなら、ここでのことは消えやしない。  姉さんへのこの気持ちだって、消えずに残る。だから―――」 「ええ、あたしは、こっちでも向こうでも、待ちましょう。  その時が来るのを、今はただ、待つことにしますよ」 「今までだって、ずっと待ってきたんだ。  そして、あんたの言葉があるんだ。  待ちますよ、清修……」  そして築宮は、渡し守に別れを告げたのだった。旅籠へ導き、自分と姉の過去をひた隠し、そして最後にはそれを物語った、幻影のような女へ。 「さようなら。  そして向こうで、また逢おう。  また、一緒に暮らしていこう。  ―――姉さん―――」 「――――――」  渡し守はしばし深みのある無言を置いて、やがては、それでも、どれほどの想いを秘めてかは彼女自身以外には触れることは適わず、それでも遂に、頷いた。  きっとそれが、二人にとって一番良いのだろうと、そう受け入れる彼女の、けれど真意は本当は、どうだったのか。  それは、もう問うてはいけないこと。思っても、胸の底に沈めるが彼女へのせめてもの礼となろう。  渡し守に再び水先案内よろしくの、大河へ漕ぎ出して、けれど〈此度〉《こたび》は旅籠へ向かうでない。ゆらゆら小舟、ゆらゆら運ばれ霞《かすみ》の〈境界〉《きょうがい》を潜り抜け、築宮は彼が知る世界へ帰還を果たしていた。  途方もない大河と思っていた川を、岸に着いて振り返り見れば近所の川だったという呆気なさが、かえって青年の現実感を取り戻す助けとなった。  降りた時は早朝で、川原にわだかまる朝まだきの靄《もや》が、大河の霞《かすみ》の名残のように漂って、それも黎明に薄らいでいく。 「―――ま、うまくおやんなさいよ―――」 「―――そっちのあたしとも、ね―――」  背なにかけられた別れの言葉に思わず振り返れば、渡し守の小舟と見ていたものは、川原にもやわれたきりになっている、朽ちかけた廃船で、どこからどこまでが夢の続きか現実の復活か、その境さえも曖昧に。  ことり、となにか舟底で鳴ったような気がして覗きこめば、朽ちかけの板の上に転がっているのは、般若の割れ面の。渡し守の想い出の、唯一のよすがとして。  こちらの、現実の姉は、彼の身に起こったことなど、見当もつかないだろう。なのに築宮青年にはその面と共に旅籠の記憶が残されている―――それが青年と姉をこの先の人生、どう導いていくのか判らない事。今はまだ。  青年が面を拾い上げた時、川原に茂った葦を凄まじい勢いでかきわけて来る者がある。葦をかきわけ飛び出してきたのが誰か、貌を見るより先に青年には感じられていた。  むろん―――築宮青年の姉に他ならぬ。  が……なんともはやすごい有り様の、服は埃だらけでかぎ裂きさえ出来ていて、顔や髪はぐしゃぐしゃだ。目の下の濃い隈からして、一晩中駆けずり回っていたように思われる。  いったいなぜ? と問うのも愚かだろう。  築宮を捜して、以外になにがある。  弟の姿を認めるや姉はだっと地を蹴って、河原の〈粘土〉《ねばつち》が巻きあげられた、葦も千切れてけし飛んだ。 「なにをやっているのお前はっ!!」  がん、ときた。  怒声と共に〈頬桁〉《ほおげた》をしたたかに張り倒された。それも拳で、だ。  奥歯がぐらつき眼前に星が散ったが、築宮は必死にこらえ、頭を下げた……容赦のない硬い握り拳だったのが、いかにもこの人らしいなどと青年が詠嘆していたのを姉がもし知ったなら、一発では収まらずに彼を馬乗りに押し倒して乱打の嵐となっただろう。 「すいません、姉さん。  心配かけて―――俺が、悪かった」  素直に謝った。姉がどれだけ心配していたのか、痛いほど感じられたから。いや、この朝だけではない。この姉は、いつだって自分のことを気遣い、心配してきたのだ。厳格な上辺が厭《いと》わしいばかりで、今まで気づけなかった、いや気づいてはいたけれど、素直に認めることができなかっただけで。 「心配した、心配したんだからっ!」 「私がなに言ったって、それでもお前は聞いちゃくれないのは判ってる。  でもこれだけは言わせて」 「よかった―――よかったよう……っ。  ちゃんと生きてた。見つかった」 「このままお前を見つけられなかったら、  私は、私は―――」  ―――そうして築宮は、記憶も幽かな子供の時以来、ほとんど初めての姉の涙を目の当たりにすることになったのだった。    ……連れだって家まで帰る。  その道すがら、拾い上げた般若の割れ面を、姉の顔に被せてみる。  彼女は一瞬だけきょとんとして、そしてすぐに拳を固く握りしめた。 「……なんのつもり?  私が鬼みたいな女って、  そう言いたいわけかしら……?」 「そうじゃないよ、姉さん。  これは、そうだな……、  姉さんの優しさの証だと、そう思う」 「き、気持ち悪いね。  なに言ってるのお前は……」 「いつか、話すよ。  でも、今は家に帰ろう」 「帰って、貴女に色々と話したいことがあるんだ。みづは姉さん……」 「……いいのよ、暫くは。  お前にも考えたいことはあるだろうし、  焦ることはないんだから」 「焦っているわけじゃない。  でも大切なことだから。  俺と姉さんにとって、大切な事だ」  その時に、姉に自分の気持ちを告げようと思う。拒絶されたって構わない。その時が、真にこの人と正面から向かい合える時なのだと思うから。 「そう……わかったわ。  とにかく、帰りましょう。  後は、それから」 「でもね、清修。  これだけは知っていて」 「お前は大切なこと、って言った。  でも私にとって、お前は、お前とのことは、全部、全て、大切なの」 「私にとって、それ以外大切なものなんて、ない」 「お前は、私のただ一人の、他にはいない、  弟なんだから―――」 「それだけは、覚えておいて」 (ああ……今は、今なら、わかるよ。  俺の―――姉さん)  ―――深く耳を澄ませば、彼方で朝一番の列車が駆け抜けて、街は俄《にわ》かにざわめいて活動し始める、雑多な響き、乱雑な眺めが築宮青年には、ひどく新鮮に、そして広大なものと感じられた。  是《よし》―――と青年は独りごちる。自分が生きていくのはあちら、霞《かすみ》の外なる旅籠の世界ではない。  こちら、憂き事、辛い出来事多々あろうがこちらの、姉と共の世界こそが、自分の生きる場所なのだと、それが旅籠の物語をひたすらに歩み抜いてきた青年の、最後に行き着いた旅路の果ての。  彼は確かに願っていた。  ここではない、どこかを。  そして青年は、今にして想う。  もしたとえ何処に往き着いたにせよ、結局は自分の渇望は癒されなかったであろう。  この、姉、無い限り。  姉に向かう青年の、そして青年に向かう姉の〈真個〉《しんじつ》の心を知る事の無い限り、何処にいたとしても、それはみな、同じ。  けれども、青年は、今や知っている。全てに勝る愛を、知っている―――  やがて、築宮青年と姉の姿が、動き始めた早朝の町に消えていく―――